真剣で私に恋しなさい!S 〜春霞の月、秋露の花〜 (霜焼雪)
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第一部
第一帖 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の――――


――――朧月夜にしくものぞなき


大江千里


 

 人という存在には限界がある。

 

 それは誰であろうと例外ではなく、高みを追い求めるにあたり必ず立ちはだかる、限界を示す壁。通行禁止の場に敷かれるバリケードテープのように、上限値を示唆してくる一線。

 人間としての身体能力の向上、拳の強さも然り、足の速さも然り。何事も上を目指すにおいて、壁にぶつからないことは人間である以上有り得ないのだ。それは勿論身体の性能だけに言えた事ではなく、頭脳や性格にもしっかりと限界が設定されているのであるが、限界点が異なるためにそれは置いておく事にしよう。

 その限界を越えんと欲し、その壁を越えんと望み、人はたゆまぬ努力と事故研鑽を怠ることなく、遥かなる強さを手に入れんとする。

 しかし、その人間の限界である壁を突破するということは、まず並の修行や努力では不可能。網目の細かい(ふるい)にかけられ、さらにその中から選ばれた一握りの人間に、その壁を越える権利とも呼べる才能、“天賦の才”が与えられる。

 天賦の才として与えられた権利は正に至高の財。金で手に入れるような無粋な真似は出来ず、後天的なものではなく先天的なものであるために、権利がない者は容赦なく切り捨てられる。その極上の才能を腐らせず磨きあげることにより、超越者、マスタークラス、“壁を越えた者”として扱われるようになる。世界最強の一角として認められる存在へと昇華するのだ。

 その壁を越えた者となった人物は世界に十数人しかいない。まだ壁の上に立ち一線を越えていない原石や、僅かに力足らずに壁の前で立ち往生してしまっている者もいる。そして中には、果てしない研磨の結果に体の一部だけがその領域に到達するといわれている者がいる。

 武道家はその壁を越えた者の強さを目指し、日々苦行に堪えているのだ。

 

 

 

 ――――では、その限界を造ったのは誰なのか。

 ――――では、その壁を設置したのは何なのか。

 

 

 

 これは、その限界という高き壁を人間に賦与した存在と、そこから入り乱れる人間関係の奇譚。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 真剣で私に恋しなさい!S 〜春霞の月、秋露の花〜

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 川神院。それは高尾山、成田山と共に関東三山に数えられ、その名が市の名前に使われるほどに強大であり、その寺院の力は無敵と讃えられる景勝の寺院。

 多くの武人がより高みを目指すためにそこへ入り修行僧となる。そこの師範代ともなれば世界有数の実力者、さらには壁を越えた者として昇華できる者もいる。

 そして、そこの総代を務める者も壁を越えた者。さらにその中でも最高級の強さを備え、武の総本山の頂点として世界に畏敬の対象とされている。

 

 

 その名は、川神鉄心。

 

 

 彼は現代で間違いなく最強クラスの武人、そして至高の指導者である。

 しかし、そんな彼ももう老体、日清戦争を目の当たりにした生きた化石。普段は茶を啜りながら自室に鎮座していたり、散歩を兼ね修行僧に武人としての志を教えたり、学園の学長として教育に精を出したりと、緩やかに生きつつも強さを維持することにしていた。

 そんな鉄心にとっていつも通りの日常、もう桜が散り切った時期から物語は動き出す。

 

 

「やあ御老体」

 

 

 鉄心が修行場に足を運ぼうと自室から出た時、鉄心の右側から揶揄するような声が聞こえた。鉄心がそんな安い挑発のようなものに乗る訳もなく、移動速度を速めることも遅らせることもせず、ゆっくりと首だけで右を向いた。

 そこには鉄心の想像とは違う人影があった。鉄心の予想は年老いた翁、自分と変わらないような老人が声をかけたと考えていた。しかし現実は違う。そこにいたのは、まだ十歳に満たないような外見をした中性的な少年。純白と漆黒が八対二で混ざりあったような綺麗な灰白色の髪を、踝までいい加減に伸ばしており、服装はどこかで見たことがあるようなスタンダードな紅白の巫女服で、異質なほどに輝く金目銀目(ヘテロクロミア)で鉄心の全てを射抜くように凝視していた。

 姿を見るまでの鉄心も僅かに警戒はしていたが、その両目を見た途端に鉄心の本能が警告信号を全力で響かせた。この存在は危険であると。

 

 

「お、まだ僕は見ていただけなのに、よく警戒できたね。流石“壁を越えた者”。重畳重畳」

 

 

 鉄心の威圧をアダで感じ取った少年は、莞爾(かんじ)として笑いながら鉄心を褒め称えた。目上の者が目下の者に褒美を与えるように拍手を加えて。その容姿とは真逆の行為が二人の間で行われていた。

 

 

「何者じゃ」

「んん? そう身構えるなよ。ぼくは戦えないし、戦わない。いきなり襲う蛮族のような愚行は犯さないよ。ただぼくは、鉄心とやらと腹を割って話したいだけさ。近現代ではぶっちゃけるというのかな? まあ、その気になれば無理矢理に吐かせることもできるけど、壁を越えた者に対しては中々に疲れる。特に目がね。携帯電話を四時間見続ける位に疲れるのさ」

「何者じゃと、聞いておる」

「おいおい、そんなにビリビリと殺気を向けるなよ。思わず手を出しちゃうじゃないか。立ち話もなんだし、お茶でも出してくれよ、お茶請けつきで。今は“(おぼろ)”とだけ名乗っておくよ」

 

 

 自らを朧と名乗った少年は笑顔を絶やさなかった。その笑顔から読み取れる明白な事実はなく、鉄心はこの得体の知れない存在に従うしかなかった。しかし決して警戒心は解くことはなく、鉄心は川神院の奥の一室に朧を招き入れた。その際に修行僧の一人にそれなりの茶と茶菓子を持ってくるように命じた。修行僧は朧が異質に思えていたが、総代の命である以上従順に、何も聞かずに茶と茶菓子を持ってきた。

 朧は巫女服姿でありながら正座をする訳でもなく、ドカッと大きく胡座をかく訳でもなく、まるで仏のような結跏趺坐(けっかふざ)で座布団の上に座していた。

 朧は茶を手に取り、一度匂いを鼻孔へ招き入れてから啜る。

 

 

「……京の上質な玉露、いいものを持ってる」

「まあ無下に追い払うことができんのじゃから豪勢に。どうせ追い払ってもまた来そうな気がしての」

 

 

 正直に自分が今自棄であることを宣った鉄心に、朧は目を屡叩かせてから大きく息を吐き出し笑い出し、自分の膝をバシバシと強く叩き出した。

 

 

「わっははははは、正鵠! 確かに、幾度となく現れるつもりだったよ。まあ流石に時間帯は慮るつもりでいたけど。それで、何が聞きたい? 壁を越えた者、川神鉄心くん」

「壁を越えた者壁を越えた者と喧しいのぅ。そこまで壁を越えた者に拘るか、朧とやら」

「くくっ、ああ拘るさ、固執するとも。何せぼくの目的は目下それ、壁を越えた者に感想を聞き たくてね」

 

 

 朧はまだ笑いが抜けきっておらず、腹を押さえながらもお茶請けに差し出された蕎麦饅頭を乱雑に貪り出した。品性の欠片もないような食べ方であるはずなのに、それに鉄心はそのような感情を一切感じない。朧の所作、仕草、一挙手一投足が流れるように美しかったがためか、むしろ気品や優雅さが滲みだしてくる、そんな奇妙な空間がそこに発生していた。

 外から聞こえてくる修行僧たちの気合の入った掛け声が幽かに聞こえてくるが、朧はその声をまるで夏の風物詩である蝉を嫌うように顔を顰めていた。しかし、蕎麦饅頭が旨かったのかそんな小さなことを気にすることをやめたようだった。

 蕎麦饅頭をしっかりと味わい、ズズズと音を立てて緑茶を啜り、朧は本題へ移った。

 

 

「ぼくが作った冗談みたいな遊びを攻略した感想さ」

「何じゃと」

「だからさ、壁だよ壁。人間の限界として敷いておいた壁を越えた感想」

 

 

 突拍子もないことに鉄心は半分呆れていたが、強ちそれが嘘に思えない空間がここにある。目の前の朧という少年の正体が未だに掴みきれない鉄心は、朧がそういう存在だと言われても完全に否定ができないのだ。もし朧が神だったとしても、鉄心は驚きもせず朧と会話を続けることができるだろう。それ程までに朧という存在は異質なのだ。鉄心が生を受けてから百年以上の間、このような類の存在に鉄心は出会ったことがなかったほどに異常なのだ。今こうして会話が成立していることを、鉄心は驚愕し慄くほどに。

 しかし、そのように戦慄することは川神院の総代として、太古の神々を具現化し自らの攻撃として使用している鉄心として、怯え萎縮することはあってはならないと自身に喝を入れてから朧に問い返す。

 

 

「自分は神だと、そんな世迷い言を口にするのか」

「うーん、若干の差異があるね。齟齬をきたしている。ぼくは残骸だよ。君らがご自由に崇拝している神様のね。まあ化身とは言い過ぎ、かといって仏門の坊主はお門違い。曖昧模糊で説明のしようがない」

 

 

 朧は二つ目の蕎麦饅頭に手をつけた。先程の食らい付くような食べ方とは違い、今度はまるで供え物の団子を食べるように丸ごと口に投下した。その饅頭を口に一杯にして頬張る様子は、冬に向けて食糧を蓄える野栗鼠のようであった。

 口の中が餡で満たされた朧は、水分摂取と口の渇きを癒すために茶を含み、口の中に残っていたもの全てを飲み込んだ。

 

 

「ぷはぁ、信仰され尊敬され崇拝され毀誉(きよ)され褒貶(ほうへん)され畏怖され排斥され忌避された結果、意思を持った虚。欲望と切望と野望と希望と絶望と羨望と渇望と熱望が入り交じってできた、奇々怪々な何か。要するに、ぼくは人間の醜悪さの寄せ集め、捌け口の終着点。言うなれば、野良猫に近い」

「野良猫に近いは冗談じゃろ」

 

 

 初めて冗談らしい冗談が出て鉄心にも軽い笑みが零れるが、どうやら朧は至って真面目だったようで、そんな茶化しに対しても真剣に返す。

 

 

「いや? これが言い得て妙でさ。野良猫程に個々によって見方が変わる物はないし、野良猫程に人間が羨む物はないのさ。何千何万年と君ら人間を見てきた、天地開闢から今に至るまで生きてきたぼくの保証付きだ」

「ふむ、その自称野良猫擬きが、神と呼ばれるに相応しい存在じゃと?」

 

 

 鉄心も乾きを潤すために茶を喉へ流し込んだ。以外にも緊迫していた雰囲気が一度崩れたことにより、鉄心に若干の余裕ができたのだ。

 それを見た朧はつられて茶を啜った後、口の端についた餡を指先で拭い取り、卑猥な舌使いでそれを綺麗に舐めとった。指先と口を繋ぐように唾液が糸を引いている光景は実に艶かしい。

 

 

「神様とは似て非なる、これもまた的を射ているのさ。日本には八百万の神がいると、帝紀だの旧辞だのに書いてあるだろう? あれらの欠片の詰め合わせがぼく。天地開闢から始まりアニミズムを渡り、今の多種多様な宗教の坩堝と化した日本国に至るまで、神として見なされた物の集合体さ。ぼく自身が神なんじゃない、神とされた物たちがぼくなのさ」

「今一つ、要領を得んのう」

 

 

 鉄心は長々と伸ばした自慢の髭を優しく右手で触りながら首を傾げた。そして、それは当たり前だと云わんばかりに朧は頷いていた。

 

 

「無理もないさ。初めから理解してもらおう、などというご都合主義な考えは抱いちゃいない。だから話が通じそうな君から訪ねている訳さ」

「他に誰が壁を越えたのか、お主は全てを知っておるのか?」

「? そりゃそうさ。ぼくが作ったルールに基づいたゲームだ。製作者であるぼくが参加者を管理していなかったら無意味じゃないか」

 

 

 何を言っているんだ、そう逆に責められた鉄心は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。目の前にいる少年は、世界全ての人間の強さを把握していると、そんな夢物語なことを平然と口にしたのだから無理もない。

 そして、この人生がゲームと仄めかした朧が少し気に入らなかった鉄心であったが、ここは暫く堪えようと黙っていることにした。得体の知れない存在に無暗に勝負を吹っ掛けるほど、鉄心は落ちぶれていないし早計でもない。

 そんな鉄心の考えにに気づいていないのか、気づいていながらも気付いていない振りをしているのか、からから笑いながら朧は構わずに話を続ける。

 

 

「ヒューム・ヘルシングとやらは強いな。あとは川神百代、ここも間違いなく最強の部類だけど、この二人は自信家と戦闘狂過ぎて会話の成立が難しい。口よりも拳が先になるのが目に見えてしまう。そこでキミさ、川神鉄心くん。恐らく、いや間違いなく現存する武道家で真っ先に壁を越えた者となった強者、時代が二十世紀となる前から生きていた老練家。会話なら老獪な奴に限る」

「なるほど、確かにその二人よりはワシの方が話しやすいのも頷けるわい」

「解って頂けたようで何より。それで、感想を聞かせてくれるかい?」

「――――お主、まさか今の話だけで信じろと申すか? そりゃ些か無理というもんじゃ。何かやってみせい、神の残骸よ」

 

 

 鉄心が朧に食らいついた。反撃の場を窺っていた鉄心からすればようやくといったところだろうが、話の流れを掴むには十分な抵抗だった。

 反撃を食らったとは考えていないが、朧は一筋縄ではいかないなと、頭を軽く掻き茶をまた一度啜り一息ついた。そして朧は何かを思いついたように微笑を浮かべた。

 

 

「ふむ、やはりそうくるか。しかしね、ぼくは戦えないし、戦わない。何を見せればキミの得心いく所となるのかな」

「そうじゃな……ならば、ワシの背後を取ってみよ。戦えぬと言っても、それぐらいは雑作もなかろう」

「何だ、そのくらいでいいのか」

 

 

 意外と容易いな、朧はそう付け足して残った茶を全て飲みきり、その外見に見合わない親父臭い息を吐き出し、空になった湯呑み茶碗を手のひらで踊らしていた。

 

 

 

 

 

 

「そんな児戯、立つまでもないさ。座ったままできる」

 

 

 

 

 

 

 朧が不敵な笑みを浮かべた刹那、瞬き一回にも満たない時間で“それ”は終了した。鉄心の目の前から朧が消えたのだ。しかもそれだけではない。朧が気に入っていた蕎麦饅頭、ころころと玩具のように遊ばれていた湯呑、二人の間に挟まれていた卓袱台、その全てが鉄心の目の前から霧のごとく消失していた。鉄心は数瞬完全に硬直してしまったが、即座に自分の背後を振り返った。そこには消えたと思われた朧や家具の数々がしっかりと存在していた。それに気付いた鉄心の体が再び硬直した。部屋に入ってくる風だけが鉄心の髭や衣服を揺らす。鉄心は身動き一つとれなかった。

 

 

「おい茶が切れた。お代わりを所望しよう」

「何をした、今」

「おおっ、そう闘気を剥き出しにしないでくれ。何、大したことはない。君の体を百八十度回しただけだ。これで背後だろう? 背後を取れと言われて自ら動く奴は時代遅れさ」

 

 

 鉄心はその言葉でハッと気づいたように周囲を確認した。自分の背後だと思っていた風景が、先程まで自分が見ていた光景と全く一緒だったのだ。つまり、朧が視界から消えたのではなく、鉄心が視界から消したのだ。何らかの方法で鉄心の体が簡単に動かされたしまった。

 鉄心は今何をされたか解らないこの状況に恐怖しながらも、再び朧という奇っ怪な少年と向き合った。

 

 

「ほら茶だ。もう一杯」

 

 

 鉄心に空となっ湯呑み茶碗をズイッと差し出し、朧はまた一つ蕎麦饅頭を口へ放り込んだ。これは茶だけでなく、茶菓子の補充もいるかもしれないと思い、鉄心は久方ぶりに覚えた恐怖に飲み込まれる寸前で立ち上がり、再び修行僧に持ってくるように命じた。

 即座にやってきた修行僧にそう命じた後、若干ふらつきながらも自分が座していた位置へ戻った鉄心は朧を凝視する。

 朧という存在を、少しでも把握しようと、少しでも記憶に留めようと。

 

 

「さて、茶が来たらキミの話を聞かせてもらうけど、まだ質問があるようなら、ぼくは誠心誠意を以て応えるよ」

「……ならば、お主の作った壁、何のために作ったのかを聞かせてはくれぬか」

「だから、冗談みたいな遊び。いや、遊びみたいな冗談かな? そこまで深く考えちゃいない。ただ、ぼくから見たら葦のようにか弱い存在の人間が、成長する様をまじまじと眺めていたいために、敢えて壁をつくって上を目指すようにしたのさ。まあ、限界を決めておかないと世界が崩壊してしまうっていう危惧もあったから、限界値である壁を作ることは必然的だった。結果論だけどさ」

 

 

 朧が笑いながら話した内容はそれなりに的を射ており、鉄心はそれに対する反論を発することはできなかった。

 暫くの間沈黙が流れていたが、修行僧が茶と茶菓子を持ってその場に現れ静寂を切り裂いた。修行僧は気まずい空気に飛び込んでしまったのかと焦ったが、鉄心はこの静けさを消してくれたことに寧ろ感謝していた。

 修行僧が退いた後、朧は湯呑み茶碗に素早く手を伸ばし、新しいお茶請けである久寿餅を頬張った。その顔は外見通りの幼い笑顔であったが、鉄心はそれを見て癒されることはなかった。

 

 

「さあ聞かせてもらうよ。壁を越えた者、人からはみ出した強さを得た所感をさ」

 

 

 もう逃げられないぞ、朧は目で鉄心にそう訴えかけた。元々鉄心は逃げるつもりは微塵もなかったのだが、その視線を受けたことにより、鉄心の心の奥に何か恐怖心の種のようなものが植え付けられた。

 

 

「…………もの足りず、物寂しい。これに尽きるのう」

「ほうほう、何故そう思うのかな?」

「ワシは長命、長々と生きておる。そんなワシの強さについてこれる奴なぞそうそうおらんかった」

「まあそう簡単に壁を越えてもらっちゃ困るんだけど」

「ヒュームと逢うまでは孤独じゃったのう……。他にも優れた奴等はおったが、如何せん強くなりすぎた。じゃからワシは身を退き、武を教える側に就いたのじゃ。これ以上苦しまぬようにな。まあ、歳も歳だということもあるがのう。そのために精神をより高尚かつ潔白なものにし、今に至る。時代が進むにつれ、より武を極めた者たちが突出してくることもあったからのう。この判断は正解じゃった。まあ、孫ほど戦闘衝動は酷くはなかったわい。あやつは今、ワシ以上に苦しんだ現役生活じゃろうて」

「ふーむ、やはり孤独が付き物か。孤高となるのは避けられない、まあ予想の範疇、かつ君らの自業自得だ」

「解っとるわい。ワシはもう現役ではない。老い耄れたジジイじゃ」

「ぼくからすればまだまだ若いよ。気の持ち様で年齢は幾らでも誤魔化しが効く」

「若いと言われるのはやはり嬉しいもんじゃ。ところで、これを聞いた後、お主はどうするつもりじゃ」

 

 

 次はお主の番じゃぞと、鉄心は朧に威圧をかけた。その眼光に朧は怯むかと思いきや、何故か体を捩らせて恍惚の表情を浮かべていた。しかしそれも一瞬のことで、直ぐに先程のような達観した態度に戻る。

 

 

「ふぅ……いや何、ぼくのゲームをクリアしたってのはまだいいんだ。むしろ誇ってくれないと困る。ただこの時期になって、大体半世紀ぶりに数えてみたんだよ、壁を越えた者の人数をさ。昔は武士の中にも化け物がいたさ。半世紀くらい前は大収穫だった。島津の戦闘狂に、尾張の山猿、加賀の神童、豊後の雷神、越後の鍾馗(しょうき)、有名どころからあまり知られていない武将まで、そりゃあもう素晴らしいくらいにね。あ、今の五人はぼくのお気に入りだっただけだから。こいつらより強い奴らは何人もいた。数えるのが面倒な程だった。体の一部だけでも限界を超えた連中もわんさかいた。ちょっとしたバーゲンセールだったよ。ところがどうだい。現代じゃ二十人もいない。とてもとても嘆かわしい。ちょっとそれはいただけないね――――。だからさ、ちょっと喝と粛清を入れようかなと思って、さ」

 

 

 

 

 その刹那、朧の気配が豹変した。先程までは鉄心でさえまともに読み取れなかった気配が、今にも鉄心を殺しにかかりそうな殺人者の気配になった。

 

 

 

 

 即座に鉄心は飛び退いて臨戦態勢に入った。勝てるか解らない殺し合いが始まると、鉄心は素早く拳を朧に向けて構えた。

 しかし、当の朧は動こうとはしなかった。

 

 

「落ち着けよ川神鉄心くん。まあ座って茶でも飲めよ。ぼくはさっき言ったろ? 戦えないし、戦わないって。ぼくから手を下すのは御法度なのさ。人の死に関わることだと尚更だ。だから君を殺せないし、殺さない。まあ信じてくれよ」

 

 

 久寿餅でも食べようじゃないか、そう呼び掛けた朧は鉄心を茶会の席に戻そうと、今まで以上の笑顔を見せた。殺気も嘘のようにその場から消え失せている。殺人鬼としての気配を保持していた朧は雲散霧消した。鉄心はより一層の警戒体制に突入し、再び座布団へと腰を下ろし茶を啜った。

 

 

「まだ話は終わってないよ。そのお仕置きが少し前の考えだったけど、少ないなら増やせばいいかと、まあ心変わりをしたのさ。それで、どうせなら壁の向こう側をより混沌に、天地開闢が行われる前の紛錯した状況みたいにしようかな、なんて考えた。この突発的発想がちょいと面白そうだったからね、二年程前に川神に住む男女合わせて六人、ちょいと体の中を弄くらせてもらったのさ。本人は気づいてないけどね」

 

 

 久寿餅を一口で食らう朧の発言は鉄心に深く関係していることだった。二年前、彼の知りうる範囲だけでも四つ、彼と関わっている事件があったからだ。それと何か関係しているのかと、鉄心の朧の話を聞く態度が更に真剣なものになった。

 話を振って正解だったなと、朧は茶を啜り久寿餅の欠片を胃に流し込みながらそう思い、心の中で静かに密かに幽かに笑っていた。

 

 

「何でも今は九鬼とやらがこの川神を、仏門の厭離穢土を体現するかの如く、汚点を洗い出し排除しているそうな。その影響でこの川神が、化物共の集積地と化しているらしいじゃないか。そうなれば、ぼくの行いも意外と先見の明があっての行為だったという訳だ。無意識のうちに先を見越すとは、流石は神の残物と自負するだけはある。これぞ自画自賛自己礼賛。そんな訳で、その六人は体の一部分を壁を越えた者と同等の力が発揮できるようにしてやった。もし今頃必死に修行をしていたら、全体的に壁を越えた者と張り合える強さになっているだろうさ。まあ、それに気づいているかは知ったこっちゃないけど。どうだい武の神、川神の古強者、少しばかり興味が沸いたんじゃないか?」

 

 

 朧の鉄心を見る目が変わった。他人を見下すような、他人を推し量るような、他人を値踏みするかのような、他人を軽蔑するような、他人を敬うかのような、見る人によって変わる朧の眼差し。それこそ野良猫のように、何を考えているのか読み取れない。

 

 

「確かに、盛り上がりはするじゃろうが、ワシは何分もう歳じゃ。ヒュームとまともにやって勝てるか確信が持てん。しかし――――」

 

 

 その瞬間、鉄心の表情が一変した。先程まで見せていた優しい翁の笑い顔や悩み顔は消え去り、獣のような血に飢えた顔になった。

 朧はその闘気を浴びただけで、体の表面が震え焼けるような、肌が粟立つような感覚に陥った。まさかここまでとはと、朧は目の前に居る翁を再確認し、認識を改めた。やはりこの男はただ者ではなく、朽ちかけている老体ではない。今でも充分な暴威を身に隠した立派な武道家であると。

 

 

「血湧き肉踊る、年甲斐もなく滾ってしまうわい」

「なんだ、やっぱり衰えてないんじゃないか。口だけは恥だよ、鉄心くん」

「謙虚は美徳とされる時代じゃ」

「牙を剥き出しにした獣が言うことじゃないな」

 

 

 朧が笑い、鉄心もつられて笑う。二人で初めて和やかに笑い合える空間が発生した。端から見れば、仲睦まじく語らう孫と爺に見えるほどであった。

 

 

「さて、まあ孤独が付き物だという予測は当たったし、今日はお暇するかな」

「おや。もういいのか」

「何、気になることができたらまた訪客として、この部屋に顕現しよう」

 

 

 またいい茶菓子を頼む、朧はそう付け加えて茶を全て飲み干し、湯呑み茶碗を卓袱台の上に置いて、首の凝りを解消するようにグルッと回した。

 

 

 

 

「荒れるだろうよ、この川神は」

 

 

 

 

 その言葉を朧が発した瞬間、朧の姿はそこにはなかった。突如として消え失せた。何事もなかったかのように居なくなった。

 それを確認した鉄心の背中から、今まで溜まっていた分の冷や汗が溢れ出た。その体から分泌された液体で、服の部分部分が水分を含んで色を変えた。その事実に一番驚いていたのは当の本人であった。これほどまでに精神的に疲労していたのかと、鉄心は激しく鳴り響きだした鼓動を抑えながら痛感した。

 鉄心は気持ちの悪いベタついた体を乾かすため、腰に力を入れて立ち上がり襖を開けた。修行僧の修行に打ち込む熱気と、締め切っていた部屋に入り込む冷気を同時に感じた鉄心は驚愕した。先程の会話だけで部屋の中の空気が淀んでいたことに全く気づかなかった自分に、修行僧の修行がもう終わったと勘違いしていたほどに修行僧の声が耳に入っていなかったことに驚いていたのだ。

 鉄心はその時切に願った。あの異質な朧という不可解な存在が、自分の生徒に、孫に、何の被害も与えないでくれることを。

 

 





 初めに言葉があった、言葉が世界を創造した

 ヨハネ

 ◆◆◆◆◆◆

 こちらでは初投稿になります、霜焼雪といいます。

 あらすじ文には記載しましたが、以前は小説家になろうというところで小説を書かせていただいていました。つまりは移転というもので、大波に乗ることなくマイペースに、ゆったりこちらに移ろうと画策しておりました。混雑するのはあまり好きではないのです。人混み鮨詰め過密状態もそこまで好みではないのです。鮨詰めという表現自体は好きです。

 閑話休題。ここから先は私の書く物語と先人の格言について、正直長ったらしいので悪しからず。

 さて、朧という正体不明な存在が現れました。正体不明と冠しましたが、吸血鬼とか雪男の方が正体不明でしょう。朧は自分が残骸だと明言しています。野良猫とも断言しました。もうこれが全てです。彼はそれであることに満足しながらも不安定でいます。その不安定さに振り回されることになった川神の住人、幾らかオリジナルキャラクターは紛れ込んでいますが。これからどうなることやら。私の脳内にいる彼らを上手く文章上に表現できるかどうか、私の物書きの手腕に命運がかかっているのです。そんな次回更新は二月頭を予定しております。

 ここでヨハネの格言ですが、考えや考察は行動に移さなければいけないのです。
 実は有意義な授業を受けながら、窓際でコツコツと仕事をしながら、鼻歌を奏でて料理をしながら、電車に揺られて眠気を誘われながら、物語を頭に思い浮かべます。その場で記録する媒体がない場合、あなたならどうしますか?
 私は手元に大体メモがあるのですが、二十四時間四六時中ずっとという訳ではありません。例えばトイレに行ってる時、紙は常備してありますが、生憎ペンは私の家のトイレには常駐していません。そういう時は大まかに文章を構成し、記録するときにさらに考えるのです。深く深く思考を重ねて文章を推敲するべく、ここで初めて長考に入ります。トイレで思い描いた文章を“そのまま”文面に起こす、それはいけません。思い描いたストーリーを、如何に練り直して文章に起こすか。物書きはそれが問われます。

 結論。優秀な物書きはトイレで真価が問われる。


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第二帖 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば――――

――――忍ぶることの弱りもぞする


式子内親王


 

 川神市の北端に流れる巨大な川、江戸時代から栄えていた川神には武士の館が多かったこともあり馬が多く、そこからこの川には多馬川という名前がつけられた。その多馬川の土手は背の低い草が繁りかつ広いため、遊ぶにも昼寝をするにもトレーニングをするのにも適した広場のようになっていた。

 その馬の名を付けられた川をなぞるように、ポニーテールのブルマ姿の少女が日課の走り込みに精を出していた。文字通り馬の尻尾の様な髪の束を揺らし、滴る汗を煌めかせてひたすらに走り込んでいた。少々異質なのは、腰にタイヤがついたロープを腰に巻き付けている点だろうか。追加事項として言うのであれば、少女の小さな体の中にあるとは思えないほどの体力を使い駆けていることか。

 そして本日も少女は走り込み。装備しているタイヤは二つ、同じブルマ姿で今日も元気よく走り抜けていた。その顔は決して嫌々やっているような必死なものではなく、やりたいからやっているような気持ちのよい明るい顔であった。重りを付けての長時間長距離の走り込みは過酷なものには違いないはずなのだが、少女にとってはそれを苦に感じてはいないようだ。正確には、その苦があってこその鍛錬だと、本質を十分に理解し楽しみながら走っているのだ。

 ただひたすらに、真っ直ぐに川の上流を目指して駆けていく。その途中で多馬大橋と呼ばれる大きな橋――何故か変態が大人数かつ高確率で出没することから“変態の橋”という二つ名で愛されているある種の名所――に差し掛かるのだが、そこで少女の走りにブレーキがかかる。少女の視線の先には一つの人影があった。橋の歩行者用の手摺に片手をついていて、何を考えているのか読み取れないような物憂げな表情をしていて、思わず魅せられ吸い込まれそうな美しい容姿をしていた。

 少女はこの人物を美形な男性だと推測していたが、この人物の性別は自信を持って判別出来るような生易しいものではない。自信を持って判別できないというのは過言だと思われるかもしれないが、確かにこの人物は男性にも女性にも取れるような中世的な風貌をしていたのだ。

 黒いシャツに赤と黒のチェックの上着を腰に袖で縛りつけ、これまた黒いジーンズに真っ黒なブーツ。服装だけ見れば男らしく見えるが、その着こなしから男勝りな姉御の風格があるようにも見受けられてしまう。

 少女はついトレーニングを中断してしまい、その人物の元に吸い寄せられるように近寄って行った。互いの顔が視認できるようになった距離になったところで、物思いに耽っていた()の人が橋の上から少女の方へ視線を落とした。

 

 

「何か用かな?」

「あ、えと……」

 

 

 見惚れてつい凝視してした、そう言うのが小っ恥ずかしく思えた少女は言い淀んでしまった。それを見た彼の人は静かに笑い、橋の上から颯爽と飛び降りて体の正面を少女へと向けた。その時、橋の上からいとも簡単に飛び降りたことよりも驚愕な事実が、少女の心臓を大きく叩き鼓動を強めた。

 その震えるほどに美しい容貌に、左腕というパーツが欠けてしまっていたからだ。しかし、それでいて少女が戦慄を覚えたのは、彼の人に左腕がないということではない。その不完全である体を認識しても何らその美しさは衰えることはなく、むしろ先程よりもその美しさは磨きがかかり、見る者全てを引き込む魅力を強化したものだったからだ。未完成故の美、まるで半身がミロのヴィーナスのような美しさを体現しているようだった。究極の黄金比の半身再現により、見る人が彼の人を想像力でそれが特殊ではなく普遍であると、認識を半強制的に改変させられてしまうだろう。

 

 

「……タイヤ? トレーニング中だったのかな?」

「あ、はい!」

「ふふ、元気な女の子だね。この辺りで修行熱心と言えば、キミはひょっとして川神学園の生徒かな?」

 

 

 彼の人の透き通るような声を使用した発言に、少女はぎこちない頷きを返事とした。すると、彼の人は深く何かを考え込んでいるように顎に手を当て、手摺に背中を当てて体を委ねた。

 

 

「武術、か……懐かしいな。実は私も武術の心得程度ならあるんだ。といっても昔の話だけどね」

「な、何か武道をやっていたんですか?」

「軽い護身術をね。自分から攻撃することには消極的な武術なのだけれど。何分大衆的に知られていた流派ではなかったから他の使い手を私は知らないね」

 

 

 彼の人は右腕を軽く握って少女の前に突き出した。その単純なワンアクションすらも滑らかな動作で僅かな乱れも感じられない。まさか武術すらも流麗で美しいのかと、少女は再び畏敬の念を抱いた。少女の姉である川神の武神も確かに美しいが、彼の人が持つものはそれとは違う美。少女の姉が持つ美は女性としての美、彼の人が持つ美は芸術としての美。同じように取れるかも知れないが全く違うものだ。

 

 

「実践となると解らないけど、模擬的な組手なら何とかなるってところかな」

「片手、でも?」

「片手、だから」

 

 

 少女は途端に興味の矛先が変わった。先程までは彼の人の美しさに見惚れていたために会話を続けていたということがあったのだが、今はその隻腕の状態で使用される護身術というものが純粋に気になり始めたのだ。好奇心という人間の、武道家としての性が少女を突き動かす。

 

 

「あ、あの! 手合わせって、お願い出来ますか!?」

「――――え? 私と?」

 

 

 彼の人はいきなりの申し出に驚いたのか、鳩が豆鉄砲を食ったようなきょとんとした表情になっていた。しかし、少女の顔は決して冗談半分のものではなく、期待の籠った真剣な表情であった。それを見た彼の人は、一度右腕をグルンと回し、自分の体の稼働具合を確認していく。鈍ったと感じる体の関節をほぐしつつ、現時点における自分の体のスペックを点検していく。彼の人にとってこのような申し出は久々であり、彼の人自身もその少女に興味を持ち始めたからだ。

 つまり、応えられることならば応えようと、自分の体がまだ戦えるような体なのかの確認を行っていたのだ。

 

 

「……そうだね、三分時間を頂戴。ちょっとウォームアップしたいんだ」

「え、それじゃあ……!」

「過度な期待はしないでよ? 手合わせが出来ると言っても久方ぶりなことには変わりがないんだから」

「あ……ありがとうございます!」

 

 

 少女は素直に歓喜していた。過度な期待は持つなと言われても、まるで一つの芸術品のような存在である彼の人に期待せずにいられないのだ。その未知の領域である片腕の護身術を待ち焦がれているのだ。少女はその喜びの気持ちをまずは準備に当てた。走り込みに柔軟もしっかり終えてきていたとは言え、走り込みの距離が相当であったこともあって疲労感はあった。それを和らげることに少女は三分間を費やすことにした。

 一方の彼の人は、喜びを隠しきれていない少女を見て、過剰も過剰な期待を持たれて困っている様子だったが、出来る限りのことは努めようと準備を始めた。軽い柔軟体操、組手自体が久方ぶりな体に火をつける。そして右腕を地面につけて、勢いよく逆立ちをする。片腕で体重を支えながらもぶれない芯、強固な体幹と驚異的なバランス感覚があってなせる技。勿論筋力も必要不可欠なのだが、彼の人は日常的鍛錬を放棄したことがないことを当たり前に思っており、これくらいはやれなくては困るという心持ちであるのだ。

 それを見た少女は思わず準備を止めてしまった。その光景は少女をさらに奮い立たせるものであり、少女は今から始まる組手に心を踊らせていた。

 

 

「よし、三分経ったね」

 

 

 おおよその判断ではあるだろうが、彼の人は準備のために用意してもらった三分間を充分に使い果たした。すると、彼の人は逆立ちの状態のまま唯一の支えである右腕を曲げて、思いっきり伸ばして地面に掌を押し出し、片腕だけで体を宙に浮かせて跳ね起きた。

 その技芸は少女の期待を更に高めてしまった。人一人の体重を片手で支えながらも、その状態での恐ろしい芸当を見せつけてしまったのだ。少女が興奮してしまうのも致し方ないことだ。それに気づいた彼の人は僅かに後悔したが直ぐに切り替える。過ぎ去ったことを悔やんでも意味はない、

 どうあがいても過去の改変なんてことは出来ない、そのことを彼の人は酷く痛感しているからだ。

 

 

「こっちも準備完了です!」

 

 

 彼の人は頭の中に浮かんでしまった過去を振り払うように頭を軽く振り、今にも戦いたくてうずうずしている可愛らしい少女へと意識を集中した。この純粋な子の期待に可能な限り応えてあげる、その理念はぶれないままだった。

 

 

「じゃあ、やろうか」

 

 

 彼の人はゆっくりと呼吸を開始する。その呼吸の拍に合わせるように滑らかな動作が行われていく。足を開き右足を前に出し、現存する右腕の拳を額の前に置き、空虚な左腕の袖は河原の雑草と共に風に靡いている。左腕がないために型が制限されるからだろうか、無駄な動作はこれと言って見当たらず、むしろ極められた動作のように見えてしまう。その気迫は力強く雄々しく、その端麗な容姿から発せられているとは思えないほどの圧迫感。それらが少女の闘争心を沸き立たせる、血を湧かせ肉を踊らせる。

 

 

 少女はその圧迫感を直に受けて思う。彼の人は謙虚なんてものじゃない、自分の強さを知らない無知の状態にいるのではないか、と。

 

 

 自分自身でその強さを理解していないほどに恐いものはない。手加減が手加減でなかったり、強さという概念が崩壊してしまったりするのだ。例えるなら、凶器を持たされた無垢な赤ん坊のようなもの。知らず知らずのうちに周囲の人を、更には自分自身をも傷つけてしまうかもしれない。

 ならば、少女は尚更、彼の人と戦わねばならない。最早少女の中でこの手合わせは、単なる興味の行動から義務へと昇華してしまっている。それほどまでに彼の人は強い、少女は構えと気迫だけでそれを感じ取ってしまった。

 気づくと、少女の心臓が早鐘を打っていた。どうやら彼の人の気迫に当てられ鼓動が激しくなってしまったようだ。少女は一度口の中の唾を呑み込み、彼の人を見習うかのように大きく深呼吸をした。少女は自分の拳を確認、汗が滲んでいるのを厭わず拳を握った。足場を確認、これといった障害はなく存分に足を活かせる。

 

 

 最終確認、自信の心に問い掛けた――――闘えるか。答えは言わずもがな、応である。

 

 

「川神学園二年F組、川神一子! 参ります!!」

 

 

 少女、川神一子の名乗りが橋の鉄材を共鳴させ辺りに響き渡る。その名乗りの潔さ、気迫。これに当てられた彼の人も名乗りを上げずに闘うのは無礼だと判断した。

 

 

「川神学園中退、天野(あまの)(けい)。いざ参らん」

 

 

 その名乗りが一子の心を揺さぶってしまった。川神学園の中退、一子にとっては聞き流せない話題であったが、互いに名乗りを上げ精神的にも最高潮へ向かおうとしているこの状況で言及することは、一子の士気も慶の気迫も急速に下がっていってしまうことが明白だった。

 ならば詳しいことは組手の後だと、一子は目の前に全神経を集中させる。一子は心を確りと切り替え、再び大きく深呼吸をし、ただ目の前にいる慶を凝視した。

 互いに見つめ合うが、慶から先に動く気配は一切しない。そこで一子は先程の慶の発言を思い出した。それは“攻撃することには消極的”という、防御主体の闘い方を慶が好み愛用しているということ、そしてそれが事実と相違ないことが解った。

 ならばこの不毛な睨み合いに区切りをつけ、先に仕掛けるべきだと一子は判断し、一歩を大きく踏み出し、覚悟を決め、素早く慶の顔目掛け右の拳を放った。

 ここで一子は一つ重大なことを見誤っていた。慶が自分の強さを理解していないためにあれ程までに謙虚な発言をしたのだと思っていたが、それは事実とは異なったものだった。

 

 

 慶は強さを知らないから謙虚なのではない。自分がどれ程の強者なのかを理解していないからではない。真の理由とは、慶は自分の強さと表裏一体に存在している弱さを、身に染みるほど充分に知っているからこそ、自分が弱者である自覚が強すぎるからこそ謙虚であるのだ。

 

 

 その自称弱者の慶は、それを待っていましたと言わんばかりに行動を開始した。

 その瞬間、一子は訳も解らぬまま進行方向とは反対に吹き飛ばされた。何が起きたか、あまりにも咄嗟のことで理解が出来なかった。頭が、思考が追いつかなかった。少女は直ぐに立ち上がって状況を整理する。河原に吹くまだ涼しい風が一子の頭を冷やし冷静にさせる。

 まず、一子の右正拳が放たれた、それは疑いようがないだろう。その後の慶の動き、ここからがほとんど一瞬の出来事だったのだ。隻腕の慶は両手が使えないが、それを補うような行動を極めていた。まず、慶は飛んできた拳を右腕でいなした。その際に慶は一子の右腕の外側に自分の右腕の外側を(こす)り合わせ、時計回りに腕を回転させて拳を脇下に抜けさせ、自分の拳を少女の鳩尾に押し込んだ。その際に慶はゆっくりとした呼吸法を爆発的な呼吸法へ切り替えて、丹田でじっくりと練り上げていた気を一気に放出し、中で回転させた自分の気を拳から打ち込んだ。

 その僅か瞬き一回にも満たない間に行われた攻防で、一子はあっけなく吹き飛ばされた、のだが、一子に深いダメージは全く残っていなかった。吹き飛ばされはしたものの、重心やバランスを崩すようなことに特化した技の類いだったのであろうか、少女に骨が折れただの血管が裂けただのの痛みは一切なかった。

 

 

「いきなり顔面は勘弁してほしいな。思わず突き飛ばしてしまったよ」

 

 

 思わず、詰まる所の反射と同系統の意味合いを持つ言葉に一子は驚かされた。先程の高度な技術を無意識で行使するとは、一子の記憶にはないほど稀な使い手のやることだ。

 一子は相手が相当の使い手であることを再認識した。相手の力を利用する合気道にも感じられるし、絡み付き勁を打ち込んでくる中国拳法のようにも感じられる慶の動き。一子の心を幸福感で満たし、焦燥感に駆らせ、危機感を覚えさせた。手合わせなんて範疇を容易く越えたものになりそうで、一子は心の中で少し苦笑した。

 現在状況の確認を終えたところで、一子は慶に拳を向けて構えを取り直す。カウンター狙いの相手ならカウンターを食らわないように、若しくはカウンターをさせないように、はたまたカウンターをカウンターでかえすように。一子の少し弱い頭でも策はいくらか思い浮かぶが、慶の先程の動きを考慮すると大分絞られてしまう。

 その厳選された少ない作戦の中から一つを選択し、一子はそれを実行すべく慶へと突撃した。

 まず一手、先程と同じ右拳を同じパターンで繰り出した。今度はしっかりと相手の動きを瞬きせずに見続けるためだ。持ち前の集中力を最大限にいかしての戦略だった。

 慶の行動は一子の読みが当たり、先程と同じように右腕の外側を擦り弾くような行動に出た。よほど体にその技が染み付いている証拠だろう。一子にとっては好都合なことこの上なかった。先程の二の舞にならないように、一子は右正拳を捨て、別の行動へと意識を切り換える。慶の右拳が自分の体に接触する直前に慶の右手首を左手で掴み、そのまま腕を引いて体と体を引き寄せ、巻き込むように弾かれたことにより慶の腹部にと潜り込んだ右腕を曲げ、慶の右脇腹へと肘撃ちを試みた。慶の不意をついた一子の反撃、カウンターに対するカウンター。見事に決まったかと思われた。

 

 

 しかし、慶の動き一子の想像の範疇を容易く越えた。

 

 

 一子の肘が当たる寸前、慶は掴まれた右手首に先ほど打ち込んだような回転エネルギーを持たせ、一子の左手首を捻り込むように掴み返し、またしても爆発的な呼吸と左足からの捻るようなエネルギーを用いて、一子の体をまるで空のペットボトルを持ち上げるかのように軽く跳ね上げた。勿論一子に痛みはないが、気持ちの悪い浮遊感が一子の全身に襲い掛かっていた。

 一子は何が起こったか解らぬまま、空中でも暫く肘撃ちの体制を保ち続けていた。慶はそれを見てニッコリと笑い、一子と握りあっている手首を振り払い、掌打を一子の顔面にクリーンヒットさせた。

 不意をつかれた上に空中で自由に動けない一子は、その掌打を回避することは叶わず、無防備のまま直撃してしまい吹き飛ばされた。だが、またしてもその打撃自体には皆無と言っても過言でないほどの極小のダメージ、触られたという感覚だけが一子の頬に残る。

 一子は確信した。慶の武術が人を傷付けるものではなく、かといって身を守るものでもなく、互いの仲を取り持つ和平を目指した武であると。一子も頭がよくないとは言われていても、武術に対するまっすぐに打ち込む精神による武の研究、川神院という武の最高峰でもある名所の師範代から手解きを受けていれば、流石に残念な頭だと罵倒されていてもその頭にはそれなりの知識と教養が備わる。その中には当然のごとく過去の武人の成し遂げた功績や、受け継がれるべき教訓や名言が組み込まれている。そして、ある有名な一節が慶の武に当てはまる。

 

 

 “自分を殺しに来た相手と友達になること”

 

 

 決して相手の体に後遺症の残るような攻撃はせず、ただ相手の動きを利用しバランスや重心を崩し、円のような動きを要所要所に組み込み、自分も相手も深手を負うことがない武術。合気道の亜種、慶の武術は例えるならそうであろう。

 しかし、合気道と慶の武では決定的な相違点が存在する。

 

 

「それじゃあ、珍しく攻めようか!」

 

 

 相違点、それは後の先を得意とするだけでなく、慶からの攻めも驚異的な武術に相当するというところ。友達になるだけでなく、殺しあう仲間ともなれる表裏一体の武であるということだ。この一点を見ただけでも、一子の確信は決定的に違っていたと言える。

 すると、慶は空虚な左腕の“袖”を回し始めた。実に奇妙な光景であった。いや、不思議や不可解と言った方が的確なのかもしれない。慶は左腕がない。先に述べたように、半身がミロのヴィーナスのような腕の欠落なのだ。つまり、肩から先が無いというのに、どうやって袖を回しているのか。

 その答えを一子は理解していた。一子にはあの肩から発せられている気と、先程から体を突き抜けている気が同一のもの、回転エネルギーを兼ね備えた慶の武器であり技芸であると本能で理解していた。回転エネルギーを上げた気を左腕の袖に通すことで袖を回しているのだ。その回転は、まるで手で握ったタオルを回しているように見えるほどに速く、大きい正確な円を空中に描く。一子のポニーテールでさえも束のまま弾き飛ばすような突風が吹いても、その正円の奇跡は一切の歪みを許しはしなかった。

 一子は警戒心を一層強くする。無論、袖にだけ注目を行かせても危険なのは承知している。しっかりと右腕にも、さらには僅かながらも下半身にも。警戒は怠っていなかった。しかし、一子の経験と知識と教養だけでは、慶の武の半分も理解できていなかった。慶が隻腕であるということにより生じるメリットとデメリット、欠陥の有効活用、不利を逆転させ利点に変える、アドバンテージを無理矢理に産み出す。それを一子はまだ頭でも体でも経験していなかったのだ。

 そう、隻腕である慶のための武には、基本の型に足と手以外の技が組み込まれている。

 

 

 それは、頭。

 

 

 慶は瞬間的に一子との距離を縮めた。体の中で練り込んだ回転エネルギーを足から地面に叩きつけ、爆発的な速度で一子へと詰め寄ったのだ。その速度のまま右腕を振るうような体制を見せられた少女は防御体制を取った。それを確認した慶は頭突きをその腕のガードに正面から撃ち込んだ。右腕が来るよりも早く、そして大きく硬い頭の突撃は一子の予想を遥かに越えていた。慶からの初めてと言っていい強力な攻撃だった。

 

 

「う、わっ……!?」

 

 

 一子は思わず呻き声を上げてしまった。吹っ飛びはしなかったものの、その頭突きの威力で地面を滑るように押し出されてしまった。

 しかし、それだけでは一子は倒れないし終われない。即座に猛威的な反撃を開始した。自分の足を活かして慶へ数回のフェイントを与えつつ後ろへ回り込み、先程のお返しにと言わんばかりに掌打を撃ち込んだ。

 しかし、その背後が死角ではなかった。慶の隻腕の為に作られた武、左腕が無い欠陥を補うために使えるものは何でも使う。それが左腕の袖であれ、頭であれ――――背中であれ。つまり、背中は慶の使う武器の一つということ。一子の掌打が慶の背中に触れた瞬間、それを押して弾き返すように慶は背中から気を発した。一子はまるで強靭なゴムの束に手を押し込んだ反動を受けたかのように押し戻された。

 しかし、一子は諦めない。動物のように直ぐに体制を立て直して再び突進。次は左の腕の無い袖を掴んで引き寄せようとする。今度は回転エネルギーを直に食らって持ち上げられないように手に気を集中、さらに踏ん張りを効かせるために足腰にも気を巡らせ、その掴んだ左袖を思いっきり引き寄せた。その勢いを利用し脇腹に拳を打ち込もうとする。

 それよりも先に、その勢いのまま引き寄せられた慶は飛び上がって一子の頭上を飛び越えた。先程は腕をしっかりと握られていたために出来なかった芸当だが、今は関節や芯などがない袖を掴まれただけであったが故に容易に出来てしまったのだ。そして慶と一子の背中が密着する。そこで一子の背中に悪寒が走るが時すでに遅し、先程と同様に慶の背中から衝撃波が発生して一子を弾き飛ばした。その際に袖を離してしまった一子と慶に再び距離が空いてしまったが、一子がまたしても慶へと獣のように襲い掛かった。最早組手には見えない光景であった。

 一子の下段蹴りが鋭く繰り出される。初めての下半身への攻撃であったが慶は油断をしていなかった。足払いのような蹴りを逢えて食らい、その勢いで体ごと回転をして右腕一本で体を支えた。その状態から繰り出されるのはカポエイラのような回転した足技。回転エネルギーの気を右腕から地面に擦るように発生させたことにより、片腕でも回転することが出来るようだ。そのプロペラのような両足の蹴りをしゃがんで回避した一子は再び下段蹴りを繰り出した。狙いはその回転の基軸となっている右腕。それを予測していた慶は右腕に蹴りが当たる直前に回転エネルギーの出力を上げ、同時に腕を押し出すように地面にぶつけて跳躍して蹴りをかわした。

 慶は回転エネルギーの放出を抑えて両足でしっかりと直立し、一子の次々と連続する攻撃に備えた。一子の怒濤の蹴りが高速で打ち出されていき、慶はそれを紙一重で受け流しかわしていった。時には蹴りを腕で止めて捻り上げてバランスを崩したり、時には蹴りを敢えて食らいそれを弾き返したりと、多彩で多様な方法で一子を翻弄していく。

 そして暫くの間、二人の攻防――その内の九割強が一子が先に仕掛けている――が数分間続けられた。そこで一子はあることを再び思い知らされる。慶の実力は恐れるべきものであり、尊敬するに値するものであり、自分とは一回りか二回りか解らないほどに差があるということだ。

 感心している一子だったが、肩で呼吸をし汗を額から流し、ランニングでも大きく乱さなかった呼吸も疎らになっており、その衰弱しかけた体を疲労感が襲っていた。慶の驚異的な後の先、驚異的な反射速度に彼女の集中力は相当削がれてしまっていた。

 一方の慶は汗一つかいてはいない、とまでは言わないが、流した汗の量など一子に比べれば可愛いものだ。しかもその顔に疲れは一切見られないし呼吸に乱れはない。実力の違い、たった数分間の手合わせでここまではっきりしてしまった。

 実際にそうであっても、圧倒的な力の差を叩きつけられても、その意見偏見を論駁して尚且つ挑むのが一子である。歯を食い縛り、拳を強く握り締め、せめて一矢を報いようと残りの力を全て注ぎ込んで、慶へ突撃した。

 渾身の一撃、全力の右正拳、慶はそれを目で見て確りと把握していた。しかし、それを受け流すのは無粋であると、久々の手合わせを回避行動で終えるのは興醒めだと、慶は確実な勝利よりも己の価値観を優先したのだ。慶は自分の右腕に力を込めた。全力に応えることが今求められていることだと悟ったが故の行動だった。そして、一子の拳と慶の拳が交差し、互いの腹部へと叩き込まれた。

 

 

「――――うあっ」

 

 

 先に声を上げ、意識が途絶えたのは一子の方だった。一子は慶に向かって倒れ込んでしまったが、慶はそれを優しく抱擁するように支えた。踏み込みが僅かに慶の方が速かったのだ。その僅かな違い、刹那と言っても過言でないほどの瞬間的な差であっても、慶が気を打ち込むのには充分な時間であった。

 

 

「いけない子だ」

 

 

 一子が気を失って声が聞こえていないと理解しながらも、一子に語りかけるように慶は呟いた。

 

 

「もう、静かに生きると決めたのに。君の真っ直ぐな闘志はこれほどまでに、私の心を駆り立てる。闘いの愉悦を呼び起こさせる。いけない子だ。私をここまで揺さぶるなんて」

 

 

 慶は抱えていた一子を右腕で持ち上げて背中に乗せた。片腕が無い状態で人一人背負うことは難しいものだが、慶は左腕の袖を使い少女の下半身を固定してそれを為し遂げた。確りと一子を背負い上げて慶は歩き出した。慶の足が目指すのは一子の家、川神院――――

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 慶は一子を背負ってひたすらに歩き続けていた。何度も落ちそうになる一子をその度に背負い直す慶の様は、外出で疲れた子供を背負う親のように見える。そのせいか、周囲の人たちからの視線が妙に暖かく、特に咎められることもなく歩みを進めることが出来た。それ以外にも、慶のような美しい顔の人物が学園でも人気の高い可愛い一子を背負っているのだから、決して何か(やま)しいことがあるはずがないと疑ってかからないのだ。

 暫くゆっくりと歩いていると、目的地の川神院が荘厳と(そび)え立っているのを視認できた。歴史を感じさせ壮大さから来る畏敬の念が慶を襲う。慶が川神院に訪れるのは今回が初めてではないのだが、何度この地を訪れてもこの感覚は払拭出来なかった。

 そうこう考えている内に門の前に到着してしまった。慶はそこで、この状況をどう説明しようか初めて迷った。面識のある人物に出くわすのなら問題はないのだが、川神院の門下生がすんなりと通してくれるかどうかが怪しいのだ。何分慶は隻腕の上、一子を袖で縛り付けているのだ。この状況を何か勘違いされそうで少々困っていた。

 勘違いされたらその時はその時か、慶はそう割りきって川神院の門を堂々と潜った。ところが慶の目につくのは修行僧ばかりではなく、幾らか一般人が紛れ込んでいるのが見えた。どうやら観光か何かで来ているらしい。意外と閉鎖的な空間でなかったことに感謝しながら奥へと進んでいった。

 

 

「懐かしい顔じゃ」

 

 

 すぐ後ろから掛けられた声に慶は少し驚いたが、その声の持ち主がすぐに解り、振り返らずにその声に返答した。

 

 

「お久し振りです、学長」

「全くじゃ。急にいなくなりおって。どこで何をしとったんじゃ」

「実家に帰って、のんびりと土いじりしてたんですよ」

「定年後のサラリーマンがやるようなことをしおって」

 

 

 長く伸びた髭を触りながら優しく笑う翁、川神学園学長にして川神院の現総代、川神鉄心。慶はようやく振り返って鉄心と対面した。相変わらずのようで慶は少し安心したようだ。

 

 

「それはそうと、何故一子を背負っておるのじゃ?」

「ああ、そうでした。久々に手合わせをしたら気絶させちゃいまして。引き取ってくださいな」

 

 

 慶は思い出したかのように一子を背負い直した。慶はそのままゆっくりと腰を落とし、一子の下半身を縛り付けてあった袖をほどいた。自由になった一子を鉄心が代わりにおぶったところで、慶は僅かの開放感に浸りながら体を伸ばした。

 

 

「努力の賜物ですかね、まさか本当に一撃を貰うとは……私も鈍っていたとはいえ、こんなに綺麗に当たるのは予想外でした」

 

 

 慶は自分の腹部をさすった。その腹部には僅かに紫に染まった肌、内出血を示す痣が出来ていた。最後の拳の一撃、慶の拳が一子の力を失わさせる寸前、一子の拳は慶に確りと当たっていた。それも壮絶な威力、最後の力を出し尽くした全霊の一撃。慶にとっては驚異的な威力であった。

 

 

「自分の体が予想以上に動いたこともそうですが、この子の動きは末恐ろしい。私にとっては羨ましい」

「武の才が無くてもかの?」

「貴殿方の世界で生き抜く為には、必ず武の力が必要でしょう。でも、私が欲する力はそうではない。それをこの子は持っている。妬ましく、羨ましい。この浮世で生きることの出来る力、それを身に付けていることが」

「お主は持っておらんのか? 五体満足に戻れなくなったその体で生き抜いて尚、力が足りぬと申すのか」

「ええ、ここまで必死になることが私には出来ない。どうしても制限がかかってしまうのです。隻腕になってから、やはり感情が少し欠落しているようで」

「腕だけでなく、心まで置き忘れたか」

「もう十年も昔の話です。生まれつきこうであったと言われても、何ら不思議は感じません」

 

 

 慶の表情は崩れない。それこそまさに一つの作品のように、画家によって描かれた不変の絵画のように。見る人の心持ち、彼の人の語り口調、その場の空気に左右されるもの。

 

 

「さて、そろそろ百代さんも帰ってきそうですし、退散します」

「上がって行けばよかろう。茶ぐらい持てなすぞい。話したいことは山程ある」

「いえ、もう川神院とは縁なく生きていくと決めたのに、また未練がましくなってしまいます

「そこまで気に病む必要は無かろう。嵌められただけじゃ」

「信じて下さるのは大変有難いです。それでも、罪は消えません。それが冤罪でも、私に貼られたレッテルは剥がれません。世を忍んで生きる。出家した先人ではないですが、それもまた良いではないですか。隠れて生きよと唱えた古代の哲学者がいましたが、何か新しい道が開けてもおかしくはないでしょう?」

 

 

 慶は振り返り門へと向かう。何かを振り払うように、何かを捨て去るように。慶は自ら孤独の道を選ぶ。

 

 

「それならば、何故一子と手合わせなぞ行ったのじゃ」

 

 

 唐突な問いかけ。その鉄心の一言が、深く突き刺さる言葉が、慶を地に縛り付けて離さなかった。

 

 

「武から離れると誓い、人と関わることを避けると決意し、孤独に生きる道を選んだお主が、どうしてそのようなことをしたのじゃ? ワシとしては嬉しいのじゃがな」

「……………………」

 

 

 慶はゆっくりと振り返る。その顔はどこか物憂げで、何かに迷っているようで、全ての理の狭間で苦しんでいるようで、とてもこんなに若く美しく見える人物が抱えているとは思えない業が垣間見える。

 

 

「……さて、何ででしょうね。また暫く、この街を放浪しましょう。答えが見つかるまで……ね。ああ、そうそう。くれぐれも百代さんにはご内密に。殴りかかられちゃ堪らないので」

 

 

 今度こそ慶は川神院の門を潜って帰っていった。その足取りは確りとしたものではなく、今にも消え行きそうで覚束無く、静かに失われていくような感覚を与えられるものだった。

 





 もうけしてさびしくはない
 なんべんさびしくないと云つたとこで
 またさびしくなるのはきまつてゐる
 けれどもここはこれでいいのだ
 すべてさびしさと悲傷とを焚いて
 ひとは透明な軌道をすすむ

 宮沢賢治

 ◆◆◆◆◆◆

 慶は随分前から考えていたキャラクターでありますが、話を考えていくうちにどんどんと業深き人物になっていきます。それはそれでいいのかな、なんて思いつつ構想を練っていきます。自分はどうしても憎むべき典型的悪役や辛い過去を持つ人物を描くのが苦手なようで、慶に関してはいくら時間を使っても完成形にもっていけるかどうか不明です。しかし、未完成であるからこその美しさが以下省略。

 さて、今回は宮沢賢治です。今回はと言っても二回目ですが。ヨハネから宮沢賢治へ、キラーパス感が否めませんが続行します。
 引用させてもらった文は「春と修羅」の「小岩井農場」の一節であります。実は私恥ずかしながらこの本文完全に理解できておりません。正確には納得のいく解釈に至っていないといいますか。何回か読み直して考察を深めていくのですが、その中でこの一節だけ脳裏に焼きついて離れません。この他にも様々な文章があるのですが、それから推測できるのは彼が激しい葛藤に悩まされ続けていた、ということでしょうか。これは私の講師と話した内容なのですが、宮沢賢治はこの葛藤こそが自身を「修羅」と判断した要因なのでしょう。非常に切なくなります。もしこの話を詳しく読みたい方は是非調べてみてください。
 それにしても、今回のあとがき乱雑ですね。しかしこれがいい味を出してくれると信じましょう。

 結論。未完成の美しさは頼れらがち。
 


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第三帖 心にもあらでうき世にながらへば――――

――――恋しかるべき夜半の月かな


三条院


 

 川神を縦に大きく流れる多馬川を跨ぐ多馬大橋の上、キャスケット帽を深く被り中性的な顔を隠し佇んでいる天野慶の姿があった。慶は昨日とは違い、物思いに耽っているという感じではなく、自分が何処にいるのかを模索しているようであった。どちらも注目を引くという点では似通っているため、慶は右手で帽子を上から押さえ付けるように被る。

 慶は手摺に背中から体重を預け、落ちそうになる程に体を手摺を軸にして反らし、上下が逆転した川を眺め始めた。陽光を反射して不規則に輝く水面、垣間見える様々な大きさの魚影、川に隣接した土手に生えた雑草が風で靡く。観光客と工場で自然が失われつつあるこの付近では珍しい、自然を五感全てで感じることができるスポットであった。

 すると、陽射しで体を暖めていた慶の空虚な左腕が突然疼いた。顔を歪ませ、反らしていた状態を起こし、左肩を右手で力強く握り疼きを抑えようとした。力を込めすぎて爪が肩に食い込むが、それを厭わずに慶は左肩を握り締めながら踞った。

 原因は慶の知るところであった。

 その原因は、昨日の活発な少女との模擬戦、いや、模擬という範疇を越えた実践形式の組手だった。相手をも焦がしそうな少女の情熱、倒れても防がれても折れない不撓不屈の闘志、決して諦めることを知らない強固な根性。慶はそれに“当てられた”のだ。

 少女、川神院の娘、武神たる川神百代の妹、川神一子。彼女の精神の強さは慶を圧倒した。腕力や技術では慶の方が数段上であったことは間違いない。しかし、その精神力に負けた慶は一子から一撃をもらってしまった。

 その時、一子の拳から“火”が伝わってしまった。戦いたいという欲求、上を目指したいという本能。一度慶が廃棄した物を再び植え付けられてしまった。

 そのせいで慶の失った“力”が戻りつつあった。その反動で左肩の古傷が疼いていたのだ。力といっても、誰かを傷つけたり治したり、何かを強くしたり弱くしたり、対象を呪ったり癒したり、人智を越えたり退化したり、そんな少年漫画にありそうなご大層な能力ではないのだが。

 慶の能力は、慶が十年以上前のある事故で覚醒してしまった能力であり、二年前に起きたある事件で自ら放棄した能力であった。慶の心は綱渡りのような危ない状態で揺らいでいる。この力をまた捨てるべきか、それともまだ持ち続けるべきか。

 それを決めるまではこの浮世を離れられないと慶は判断し、顔見知りの多い川神で姿を極力隠すために帽子を被ることにした。無駄に人を魅せつけてしまうと物心ついた頃からそう考えていた顔が、友好関係を気付く際には非常に便利なものであったのだが、こういう人目を忍ばなくてはいけない場合には足枷にしかならず、慶は自分の体の一部でありながら厄介だと感じていた。

 その忍んでいるべき慶であるが、橋の上で自然を感じることを慶は好んでいるために、こればかりは人目どうこうは関係なしに楽しんでいた。一子と手合わせをした時に気に入ってしまったのだ。

 すると、慶は橋の上を駆けていこうとする人影を一つ視認した。向かう方向は川神学園、学生なんだろうなと慶は予測していた。それと同時に、その学生である人影を羨んでいた。

 人影が慶の前を通りすぎようとした。人影は学生服を着ていたたので、人影は学生であるという慶の予測は的中したようだ。慶は顔をあまり見られないようにキャスケット帽を深く被り直そうとしたが、

 

 

「うわー! 美人さん! ねぇ美人さん!」

 

 

 慶は学生に顔を見られてしまったらしく、目の前で立ち止まった学生に興味津々に話しかけられてしまった。慶は声をかけられると思っていなかったために、危うくすっとんきょうな声を出しかけてしまったが、何とかしてそれを飲み込んだ。

 

 

「…………何か、ご用ですか?」

 

 

 昨日の一子と出逢った時、慶はもう会うことはないだろうと思い堂々としていたが、今はこの川神を巡るために人を忍ぶようになった身。そうそう易々と名や顔を知られてはいけない。

 そこで慶は隠し持っていた眼鏡をつけ、キャスケット帽のかぶりを浅くした。眼鏡という遮蔽物を挟めば、慶の顔の印象も少しは薄れると考えての行動だった。

 

 

「わーお、見れば見る程美人さん!」

 

 

 慶の目の前で明るく跳び跳ねている女子を見た慶は、この女子が自分のことを美人さんというが、本人が美人であることを忘れていないかと僅かに疑問に思った。

慶も確かに美しい。黄金比を満たしている半身に加え整った顔立ち、慶は誰が見ても認める美しさを持っているが、この活発な女子もまた美人であった。慶とはこれまた違う、今時のアイドルのような可愛らしさを秘めた女性であった。川神の武神の美しさともまた違う。

 その学生を完全に認識し終わった慶の左肩に、傷口から杭を打ち込まれるような激痛が迸った。

 

 

「っ――――――キミも、か」

「え?」

 

 

 慶の言葉に学生は頭に疑問符を浮かべた。それに気づいた慶は、しまったと咄嗟にキャスケット帽を深く被り目を背けた。

 慶の目は確かに学生を捕捉し、学生の“力”を見た。一子の時と同様に、慶が求める力の片鱗を垣間見た。

しかし、慶は暫くこの街で動くために不審者扱いは避けたいところ。多少目立つにしても、不審者と有名人、慶は拘束に縛られない後者を選択した。

 

 

「何でもない。それより、いいのかい? 遅刻してしまうよ?」

「あ、私は明日からの登校ですから大丈夫!」

「おや、転入生。何年生かな?」

「川神学園の三年生でっす!」

 

 

 その発言に慶は僅かに動揺した。古傷に襲いくる痛覚が何倍にも増したような気がした。本来ならば自分がいるはずの場所に、目の前の同い年の少女が通うという事実が慶には重かったのだ。

 二年前、あんな事件さえなければ、慶は何度も何度もそう悔やみ、何度も何度も諦めてきた。過去をやり直すことはできない。どれだけ強く願っても、どれだけ必死に望んでも、起こってしまった事は無かったことにはできない。この世の摂理を体と頭でしっかりと理解していると慶は思っていたのに、未練がましく川神学園を想う自分が恨めしかった。

 

 

「あのー……大丈夫ですか?」

 

 

 キャスケット帽を深く被り俯いている慶の切迫した顔を、女子生徒が心配そうに覗き込んでいた。

 不味いところを見られてしまったなと、慶は帽子を掌で押さえながら青空を仰ぎ、肺に溜まっていた空気を悪い気分と供に全て吐き出した。

 その反動で新鮮な空気を体中に取り入れた慶は、帽子を取って眼鏡を取って、女子生徒と何の遮蔽物もなくしっかりと対面した。

 

 

「うわー……改めて見てもべっぴんさん……」

「キミも綺麗だよ」

「いやー、あなたに言われても……自信無くすなぁ…………ところで、あなたは女の子?」

「私は私、性別なんてあってないようなものだよ。ご想像に任せるよ」

 

 

 慶は性別をよく問われる容姿をしてしまっているために、そういう質問に対しては慣れてしまっていた。そのため、はぐらかすような答え方、相手に希望を持たすような返答をすることが当たり前になっていた。

 

 

「私、松永燕!」

「松永さんだね。私は…………申し訳無いけど、今はあまり名乗る程の余裕がないんだ」

「ふーん……? あ、じゃあアダ名はないんですか?」

 

 

 慶は少し驚いた。アダ名という燕の発想ではなく、アダ名があったというその事実を今まで忘れていたということだ。

 あれほど帰りたいと思っていた日常をたった二年で消し去る程に、自分は追い込まれていたんだと、慶は少し怖くなった。簡単に記憶を忘却してしまう本能と、それを容易く受け入れてしまう自我が怖くなったのだ。

 また慶は空を仰いだ。その行動が理由でつけてもらったアダ名だというのに、まさか忘れるとは思ってもみなかったのだろう。慶は先程よりも深く溜め息をついた。

 

 

「…………“ソラ”」

「ソラ?」

「ほら、さっきから私は、よく空を見上げているだろう? それに左腕は空虚、何もない、空っぽだ。そして私の名字には“天”という漢字があってね」

「おお! ソラさんにピッタリじゃないで…………あ、ゴメンナサイ。その……」

 

 

 ソラというアダ名の理由を聞いて納得していた燕だったが、直ぐに冷静になりピッタリだと言ったことを後悔した。

 何故ならそれは、慶という個人が抱える身体的問題を侮辱しているように取れたからだ。親しい間柄ならまだしも、燕と慶は出逢ってまだ十分と経っていない。

 燕は流石に無礼であったと恥じ、申し訳なく感じて謝罪したのだが、慶自身は全く気にしている様子はなかった。寧ろ、慶の顔には若干の綻びが見られた。慶には決して不機嫌な様子は見受けられなかった。

 

 

「いい子だね。それに気にしなくていいよ。これは私の戒めだ。泥にまみれても尚、這いつくばって生きると決めた証なんだ。何も気に障ったりはしてないよ。あと、君と私は同い年だ。敬語は不要だよ」

「あ、はい…………って、えぇ!?」

 

 

 燕は申し訳ない気持ちで一杯だったが、目の前の美人と同い年だという衝撃の事実に度肝を抜かれ、後悔よりも驚愕の方が勝ってしまった。

 

 

「年上かと思った?」

「う、うん」

「ははは、よく言われるんだ。中学校の時に新任教師に間違えられたこともあるよ」

 

 

 慶から軽い笑い話を降ってくるとは思ってもみなかった燕だったが、空気が和んだので二人で笑い合うことができた。

 

 

「大人びているって自覚してるんだね」

「子供の頃から言われ続けてきたからね。美人とも言われてきたけど、もうそうじゃないと反論するのにも疲れてしまったからね。甘んじて受け入れることにしたんだ」

 

 

 燕はまたしても驚かされた。この目の前にいる芸術みたいな美しさを秘めた人物が、まさか自分で自分を美しくないと思っていることが信じられなかったからだ。

 テレビなどによく出る芸能人やモデル、例えば西の天神館が誇る西方十勇士の一人、エグゾエルの龍造寺などは慶の美しさに全く及ばない。

 燕は自分を納豆小町として松永納豆を宣伝しているため、多少なりにも可愛さには自信があった。しかし、慶の前ではそれを胸を張って言えなくなる程、慶は美しかったのだ。

 

 

「? どうしたの松永さん?」

「ちょっと自信がなくなっただけ……ねぇ、松永ってのもいいんだけど、ソラさんには燕って呼んでほしいな」

「そうかい? じゃあ燕さんと――――」

 

 

呼ばせてもらおうかな、そう慶が言おうとした瞬間、燕は人差し指を慶の顔に向けて突き出した。

 

 

「同い年に敬語は不要だよ? 敬称も不要!」

「おっと、そうだったね。自分で言ったことなのに、すっかり忘れていたよ。でも私は知人を呼び捨てにすることに抵抗が……」

「じゃあじゃあ、私が特別ってことにならない?」

「うーん………………あ」

 

 

 慶はあることを閃いたのだが、正直気が引けてしまう内容であったために、口から出る前に急いでその言葉を飲み込んだ。

 しかし、それを松永燕が見逃すはずはなかった。

 

 

「何かな?」

「あ、ああ。その……お願いを二つ程聞いて欲しかったんだけど、ちょっとばかり失礼な内容だから。君にも、あの人にも」

「私だけなら全然いいんだけど……その、誰かに何かを伝えて欲しかったとか?」

「いや、気にしなくてもいいよ。お願いを一つだけ聞いてくれないか?」

 

 

 慶は頭の中に思い浮かんだお願いを一つ、川神百代の現状調査の依頼をきれいさっぱりと消去した。

 そして残った一つを燕に優しくお願いする。

 

 

「私のことをあまり言いふらさないで欲しい」

「え? それだけ?」

「うん。訳あって今は忍んでいる身でね。知り合いに会いたくはないんだ。と言っても、そんな状況になったのはつい最近だけど」

「事情は解らないけど……それだけで燕と呼んでくれるなら喜んで!」

 

 

 燕は抵抗することなく慶の願いを聞き入れた。慶はただただ燕に感謝をするだけだった。

 

 

「じゃあ、燕」

「何かな? ソラさん?」

「君も敬称をはずしてくれないかな?」

 

 

 それぐらい簡単だろう、そう慶は付け足したのだが、燕は意外にも難色を示した。慶は僅かに不思議に思ったが、その理由は直ぐに燕の口から語られた。

 

 

「だって、“ちゃん”なのか“くん”なのか解らないんだもん」

「ああ、性別の問題か」

「ねぇ、ソラさんは女の子? それとも男の子?」

 

 

 燕の素朴な疑問に慶は笑った。慶も初めは性別についての質問は嫌っていたが、十数年間何度も尋ねられれば諦めがやって来て、しまいにはそれが当たり前になっていったのだ。

 慶は燕の瞳の奥を見つめて、笑顔で逆に問い返した。

 

 

「一目見て、どっちだと思った?」

「え? うーんと、女の子?」

 

 

 燕が疑問慶で答え、慶は軽く吹き出して、こう答えた。

 

 

「なら私は、女の子だよ」

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

「やあご老体」

「…………まだ一週間と経っておらんぞ、朧」

 

 

 同時刻、川神院。鉄心が自室へ入って真っ先に目にしたのは、紅白の巫女服姿で畳に寝そべっていた朧の姿だった。

 その気の抜けた朧の右手にはくず餅が突き刺さった竹串、左手には墨を吸い取った筆が握られていた。

 

 

「松永、まさか彼女が川神に来るとは」

「予想外か?」

「想定の範疇だよ。時期は早い気もするがね」

 

 

 朧は鉄心と向き合うために座り直し、対面に座るように鉄心に指示した。

 前回の遭遇時に体を勝手に動かされた鉄心は、朧に逆らっても無駄だと判断したのか、素直に対面に座り服を整えた。

 

 

「こちらもね、全員川神入りしたよ」

「こちら……?」

「例の六人さ。壁を越えた者になりうる六人。昨日一人が西から帰還して、本日最後の一人が都心から帰郷してきた。六人全員が、川神を住処としている。内一人は少々問題があってね。下手をすると川神から逃げてしまうかもしれないが、まあそこは何とかしておこう」

 

 

 鉄心の左胸が爆ぜるように跳ねた。神に近いと自称する朧が用意した六人の武人、いや、ひょっとすると武人ではないかもしれないし、下手をすれば折角手に入れた宝を腐らせているかもしれない。それでも、朧が手を加えた人間が川神に集っていることは事実。鉄心の精神は慄き、昂った。

 それを見た朧はニヤリと笑う。不気味な程に、見る者に心的外傷を与えかねない狂った笑顔。朧はそのまま会話を続行する。

 

 

「六人には共通点がない。だから親切なぼくは君にヒントをあげよう」

 

 

 朧は左手に持っていた筆を空中に走らせた。するとどうだろうか、その軌跡はしっかりと実体を保ちその場に停滞していた。また奇妙な芸当を見せつけると、鉄心は感心を通り越して呆れてしまっていた。朧は鉄心が興味を示しているかどうかは一切考慮せず、空中に六つの字を書きあげた。

 

 

「一人目“恭”、たった一人の弟を護ってきた志操堅固の放浪者。二人目“影”、誰にも気づかれなかった真夜中の影法師。三人目“序”、年功序列を重視する豪放磊落な隠者。四人目“空”、人生において価値を見出だせずにいた虚脱な放浪者。五人目“律”、新たな自分との調和を図る活発溌地の覚醒者。六人目“怨”、この世の自分の不幸を清算すべく彷徨する怨憎。どいつもこいつも一癖二癖ある、厄介者だよ」

「…………幾らか心当たりがあるのう」

「そうだろうね。何せ川神にいた人物を抜擢した上、そいつらは社会に適合していると言い難い、扱うに難儀する奴等ばかりにした」

 

 

 朧はからからと、外見とは裏腹の妙に貫禄のある笑いを溢した。鉄心よりも修羅場を潜ってきたような威圧感を発していた。

 対面している鉄心はというと、目の前の少年の本質を未だに見抜けないでいた。一体この少年は今どのような感情を抱いて、今この場に顕現しているのだろうか。

 すると突然、出逢ってから先程まで、変化はしたものの一度も崩さなかった笑顔が、急に真剣な顔つきになり、目を見開き硬直した。

 

 

「……槿(あさがお)の奴、何を考えて……」

「………………どうしたのじゃ?」

「未来が変わった。本来なら辿る筈だった道筋を脱線した」

 

 

 朧の顔は真剣そのものだった。決して茶化していいような内容ではないと、鉄心は朧の目から読み取れた。しかし、意味が解らない以上、鉄心が尋ねないわけにはいかないため、恐る恐る朧に問い掛ける。

 

 

「未来……?」

「何度も言うようだけど、ぼくは神の残骸だ。この世界の行く末を見るくらいは、人間が二足歩行で横断歩道を渡るくらい容易い」

「じゃから、なしてお主はそう例えが半端なのじゃ」

「いいから聞きなよ。その未来を見る限り、この先はある三大企業の一つの内部分裂により、川神院が陥落され、日本が崩壊しかけるんだよ。まあ助かる未来なんだけどさ。おっと、そう怒るな。川神院が陥落する未来はもう“なくなった”。次に見えた未来はそれより厄介で対処しきれるかが解らない。世界を滅ぼすような内容なら、その未来を捻じ曲げるのもぼくの役目、だったんだけど。些か難しくなった」

「……つまり?」

「ぼくと同じ様な存在がもう一つあるんだ。ぼくが神の人を愛する側面だとすると、あいつは人を気嫌う感情で満たされた存在でさ。そいつが何か良からぬことを考えている。ぼくよりも質が悪い。ぼくは人間を弄るけど壊さない信条を掲げている。けどあいつは、槿は人間がどうなろうが構いやしない。つまり、何が言いたいかというと、戦争が起きるかもしれないってことかな」

 

 

 朧の顔が元の笑顔に戻ったが、今朧が話したことが事実だとすると、鉄心は聞き逃すことができない内容であった。

 

 

「戦争……?」

「槿の奴、ぼくの遊びを戦争と勘違いしているみたいだ。向こうからしたら便乗しているつもりなんだろうけど、勘違いで日本が崩壊されちゃたまったもんじゃない。止めなきゃまずいよ」

「止められるのか」

「解らない、けど、やるしかない。本当はもっと川神で直に見てたかったんだけどな、ぼくの玩具たち。あーもう、槿め。面倒なことを……」

 

 

 苛立ち、今の朧の様子から直ぐに解る朧の感情。鉄心は朧の意外な一面を目の当たりにした。

 

 

「まだ修正は効きそうか……鉄心くん。悪いけど六人の管理は暫く頼んだよ」

「…………何じゃと?」

「頼むよ。こちとら世界を救うために孤軍奮闘しようとしているんだ。ちょっとばかり手伝ってくれよ」

「何を言うておるのか。お主の悪行に加担しろと?」

 

 

 鉄心が僅かに怒気の孕んだ声で朧を威嚇した。しかし、対する朧は真剣な表情を崩し、いつも通りの笑顔に戻っていた。

 

 

「悪行? 何を的外れなことを。ぼくの目的は日本の再興だ。武士に匹敵する人間を増やし、純度を上げようとしているだけ。クローン人間を承諾しておいて何を今さら。どちらが悪行かな?」

 

 

 鉄心の心に鋭い銛が突き刺さった。痛いところを疲れたと、鉄心は顔をしかめた。

 朧は何でも見通しているような、全てを知っているような余裕綽々とした態度で笑っていた。しかし、最も恐るべきは、鉄心がクローン人間を許容するかどうかを、やはり道徳的観点から考え悩んでいたことを知っていることだ。

 川神学園の学長である彼としては、クローン人間により学生たちの士気と競争意識が高まることを期待していた。しかし、人間としての抵抗はやはり幾分かあったことは間違いない。

 その極僅かな罪悪感を、朧は的確に掘り返したのだ。

 

 

「何、その六人に気づいたら報告してくれればいい。ぼくの気配を少し強くしておくから、本当のぼくと合間見えた君なら、何ら問題なく見極められるだろうさ」

「しかし……」

「頼むよ。借りを一つ作ったということでさ」

「上から目線じゃのう……解ったわい」

 

 

 渋々承諾したように見える鉄心だが、実際のところそれ程気が進まないという訳ではない。

 朧が選出した六人を見つけやすくなったというだけで、鉄心にとっては既に有益な事象となっている。その上、神に近い存在に貸を作れるなら儲け物、そう考えていた。

 そう鉄心が承諾してくれるだろうと、朧が推測していたのは言うまでもないが。

 

 

「じゃあ頼んだよ。見つけたら蕎麦饅頭と一緒に書き置きを添えておいてくれ。蕎麦饅頭が減っていたら、ぼくが確認した合図ということで一つ」

「ふむ、まあ承ったわい」

 

 

 鉄心の了承を確認した朧は立ち上がった。その顔は少しばかり気が晴れたようだった。

 

 

「任せなよ。みすみす世界を壊させやしないからね」

「あまり信じたくない内容ではあるが、致し方無い」

「じゃあ、仕方無くやってくれ」

 

 

 乗り気なくせに、そう朧は口にすることなく、前回同様姿を一瞬にして消した。

 やれやれと、鉄心は肩の力を抜いてから部屋を出て、川神院に献上された上質な茶葉を使い、喉を潤すために茶を淹れることにした。

 湯を沸かし、急須に茶葉を入れて蒸らし、暖めておいた茶碗に緑茶を注いだ。その淹れたての茶を啜り、鉄心は溜め息をついた。前回の朧の訪問から鉄心の溜め息は増えた。それはもう、溜め息一つにつき幸せが一つ逃げるという迷信を気にしていられなくなる程に。

 

 

「さて、鍛え直すかい」

 

 

 鉄心は前回の朧の訪問から、自身の体を一から鍛え直すことにした。その朧が用意した六人とやらにも期待はしているものの、朧という存在を半ば認めてしまったがために、少なくとも朧以下の存在がいると鉄心は認めざるを得なくなった。つまり、自身の与り知らない強さを持った化け物が、まだ世界にいるという可能性が浮上したのだ。

 朧を認知する。つまり、鉄心の中における強さの、異常さの上限値が跳ね上がったことを意味する。

 朧がそれらの最大値を示すと、当然の如くそれ以下の数値があることは否定できなくなる。要は、まだまだ強い武人がいるかもしれないという仄かな期待が、年老いた鉄心の心の奥に芽生えたのだ。

 鉄心は茶を飲み終わると体を軽く伸ばし、修行場へと陽気に足を伸ばした。

 

 

 





 明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう

 エピクロス

 ◆◆◆◆◆◆

 三話現在、原作登場キャラが三人のみ。一話一人のペースでお送りしております。次回は予定としては二人ほど新しく登場させますので。自分の作品の信条は「仲間外れを作らないSS」でありまして、原作で立ち絵があるキャラクターは例外なく物語へ参入させるつもりです。立ち絵がなくても登場させるキャラももちろんいますが、流石にそこまでは私の実力ではカバーしきれません。参加できないキャラにはひっそりと過ごしていただきましょう。

 本文でも使用しました快楽主義、快楽といっても実に閉鎖的で非即物的ではありますが。恐怖や苦痛から逃れること、一般社会から完全に隔絶されてようやく成り立つ思想であります。私は始め、この考え禁欲的だなと思っていたのですが、これで快楽なのかと知ったときは少々混乱しました。その後、禁欲主義の自制心の尊重を学びようやく得心がいった訳ですが、そう考えると古代の人間は随分と戒めが多かったのですね。
 友人が「深夜でも黄色信号に気を付け無理せず停止、これぞ禁欲」と言っていましたが、自制心の観点から述べれば確かにそうではあるけども、じゃあ快楽は? という質問に「黄色信号という概念がない人物の思考が快楽主義」とのご返答が。その後、自分は快楽よりだなと実感。

 結論。黄色信号は利己か利他の判断基準。


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第四帖 わが庵は都のたつみしかぞすむ――――

――――世をうぢ山と人はいふなり


喜撰法師


 

「おいバンダナ、今日は上がっていいぞ」

「オス! あーっしたぁ!」

 

 

 川神の金柳街にある商店街、この川神で生活するなら必ず一度は訪れる場所に少年の声が木霊する。金柳街の商店街は活気立つ商人が競っている店や、自身の趣味で営業しているほのぼのとした店もあれば、サラリーマンが昼休憩時に訪れるような食事処もある。学生から主婦、子供からお年寄りまで幅広い客足があり愛されている商いの場である。

 そんな商店街で本を趣味で売っている店があり、そこで少年、風間翔一はバイトをしている。

午前中に働いた彼は午後を休暇に当てていた。何か新しいバイトがないかと商店街を回ったり、土手で陽射しを体中に浴びて昼寝をしたり、彼の仲間たちの集会場である秘密基地に行ったりと、やりたいことは山程あった。

 普通の学生であれば、どれか一つに専念したり、何かを繰り越したり切り捨てることが多いが、風間翔一という男は思い立ったら即行動という解りやすい性格をしていた。選択肢から排除するのではなく、選択してから放棄するのだ。

 翔一は商店街を練り歩くことにした。スピードキングと称された彼にしては珍しいスローペースだった。大した風の抵抗を受けることなく翔一は歩みを進める。

 

 

「いらっしゃいお兄ちゃん! 何か欲しいものでもある?」

 

 

 ふらふらと歩くこと数分、ふと立ち寄ったプラモデルの店で翔一は店員に声をかけられた。

 その店員は模型を専門に扱う店にしては珍しい、目も覚めるような美人な女の人だった。真っ赤な髪の毛を後頭部でまとめあげ散らしている、俗に言うパイナップルヘアーが印象的な女性だった。

しかし、翔一にとっては“綺麗な人”という認識だけで終わってしまう。翔一は異性に対する興味というものが恐ろしい程に欠落しており、恋などという異性間に発生することには全く理解知識がない。仲間内からは精神が子供とからかわれるほどだ。

男子の中でも美形であるため、川神学園のイケメン四天王(エレガンテ・クワットロ)の一人として認定されてはいるものの、他の三人と比べて大きく人気がないのはそこから来ているのかもしれない。尤も、残りの三人もツンデレ、バイセクシャル、言霊使いと、個性に関してだけ言えばどれも他の追随を許さないのだが。

 

 

「何が欲しい? 新しいの? 古いの?」

「うーん……ちょいと考え中」

「そう? じゃあ決まったら言ってね。在庫確認も気軽にね」

「ども!」

 

 

 ただ、現在の翔一はそういう外見的な観点よりも、特徴的な内面に惹かれる傾向にあるようだ。現に今、この女店員の対応はフレンドリーなもので翔一の気に入るところであった。

 

 

「あー、どーすっかな……百式でも作るか……」

「百式? 今なら塗装用品安くしといたげるよ?」

真剣(マジ)で!? じゃあ買いだ! へへっ、明日学園で組み立てっか!」

 

 

 更に気前のいい性分ときた、もう翔一が気に入らない訳がなかった。

 翔一は塗装用品とプラモデルを買ってお釣りをもらってから、赤い髪の女性店員に軽く話し掛ける。

 

 

「お姉さんバイト? 気前いいじゃん!」

「バイトだよー。いやー、ここそんなに売れ行き良くないからさー。これ位しないとって店長に提案したの。そしたら君みたいな子が買ってくれるでしょ? お買い上げありがと!」

「おっと、釣られちまった訳か。わははは、まあ気分がいいからいいや!」

「毎度ありー! また来てねー!」

 

 

 女性店員と軽い会話を交わしてから翔一は店を後にした。

 その後、翔一はスピードキングという二つ名に恥じない速度で無駄に素早く帰宅し、寮の自室に買ったプラモデルを置いてから再び外出。せわしない行動の末、多馬川の土手で昼寝をすることにしたようだ。まだ六月だというのに、太陽の発熱は初夏に匹敵する程であった。それでも風はまだ多少の涼しさを伴っており、昼寝をする分には問題のない気候であった。

翔一がさあ寝ようと土手に大の字で倒れ込んだその時、変態の橋を駆け抜ける自転車が目についた。自転車の速度は異様に速かったが、翔一が驚いたのはその速度ではなく、それに乗っていた人物であった。

 その人は、先程までプラモデルの店でバイトをしていた女性店員だった。ただ、先程と違う点がある。それは服装、プラモデル屋の服装はホットパンツにTシャツというラフな格好であったが、自転車を漕ぐその格好はピザ屋の制服であった。

 一体何故ピザ屋のバイトなのにバイクを使わずに自転車なのか、確かにそれも気になった翔一であったが、何故こんなにも早くバイトを入れ換えたのかが気になっていた。翔一と女性店員が別れてからまだ十分と立っていない。

 呼び止めようと思い立ち上がったはいいものの、赤い髪の女性はバイト中。同じくバイトをしている身として、しかもピザ屋のバイトをしている最中に邪魔をするのは躊躇われ、立ち上がっただけで終わってしまった。

 しかし、その起き上がるという行為が女性の目に留まったようだった。

 橋を渡りきった自転車が方向を変えて土手へ入り、砂埃を激しく撒き散らしながら翔一へ向かって進撃してきた。

 

 

「うおっ……!?」

「やっほー! また会ったねバンダナくん!」

「ど、ども」

 

 

 恐ろしい速度の自転車が急ブレーキをかけ、翔一の目の前でハンドルをきって止まったので、翔一の口から気の抜けたような声が無意識に漏れてしまった。

 

 

「あはは、ビックリした?」

「正直、死ぬかと」

「ゴメンゴメン! ピザは時間との戦いだからね、速度は出しすぎて丁度いいの」

「あ、そうだよ。配達はいいのかよ?」

「今終わったところ。ただスピード出してたのはトレーニングでさ。時間は余ったから余裕余裕!」

「自転車でバイクより速く走るトレーニングって」

 

 

 規格外のトレーニングに翔一は驚いていたが、それより驚くことは、この女性が汗一つかかずに平然としていること。それに加え、十分足らずでバイト先へ向かい一つの注文をすでに届け終えているという事実だった。

 

 

「えと……あー……」

「名前? 私は南浦(なんぽ)(あずさ)!」

「あ、俺は風間翔一!」

 

 

 本当に、本当に軽い自己紹介のつもりで翔一は名乗ったのだが、梓と名乗った女性は目を見開いて驚いていた。

 

 

「君が風間くんか! 話は聞いてたよ!」

「話? 誰から?」

「川神百代ちゃん」

 

 

 翔一にとっては予想外な名前が飛び出した。また女を誑かしているのかと呆れ気味の翔一だったが、別の可能性があると信じて問いを投げかける。

 

 

「モモ先輩? 何でまた?」

「私、元川神学園生だったからさ。百代ちゃんとはクラスメイトだったのだ。と言っても、家庭の事情で三ヶ月経たずに中退しちゃったけどね」

 

 

 君の方が付き合いは長いよと、苦笑いをしながら梓は付け足した。

 翔一はどう返答したらいいか迷い、迷った挙げ句、全くデリカシーのない発言をしてしまう。

 

 

「家庭の事情って?」

「うわお、それ聞いちゃうか。なかなか大胆だね?」

 

 

 梓は聞かれると思ってなかった質問に驚かされたが、直ぐに笑うくらいの余裕を取り戻した。

 

 

「お父さんが事故で死んじゃってね。ちょっと家計の余裕がなくなったから、学費を払い戻してもらってバイトに専念することにしたんだ。弟はまだ若いからさ、私が働かなきゃー! って感じで、必死だったんだよね」

 

 

 梓は笑いながら話していた。それを見ていた翔一は後悔し、居た堪らない気持ちに陥った。辛い身の上話というものは旅先でも幾らか聞いてきた翔一だったが、妙に近しい人物だと変な返事を返すわけには行かず少し考え込んだ。

 こんな時、軍師だったらすらすらと言葉が出るんだろうなと心の中で苦笑した。

 

 

「ちょっと、何か言ってよね。感想はないのかい?」

「あっと、その、お疲れ様です?」

「えー? 労いの言葉だけー?」

 

 

 翔一の苦し紛れの言葉は敬語になっていたが、決してこのような場合で正しいと思われるような発言ではなかった。

 しかし、今回は梓が相手であったこともあり、間違った発言ではなかったのだ。

 

 

「みんなさ、無駄な同情とか余計な気遣いとか、そんなことばっかりしてくるからさ。もう私の世の中イージーモード? たかが学校中退したくらいで悲劇のヒロイン扱い? そんなの真っ平御免だったのよ。だから君のその遠慮のない感じが心地好かった。ただね? 私だからよかったけど、他の人にそんなこといっちゃダメだよ?」

 

 

 梓はお姉さんのように翔一に注意をしたが、翔一がこれだけ動揺しているのは非常に珍しいことで、その原因は全て梓にあった。

 さっきまで平然とバイトをこなしていた明るい梓が、こんなにもアッサリと父の死を話したことに驚いたのが一番の原因だったのだろう。

 翔一自身、こんなにも動揺をしてしまうのは自分らしくないと感じ、いつも通り振る舞おうと気をしっかりと保とうとした。

 

 

「それで、どれだけバイトしてるんスか?」

「無駄な敬意いらない! さっきみたいに普段通り喋りなさい! 私を年上だとか思って接するんじゃないの!」

 

 

 自分よりも梓の方が年上だということと、先程の失礼な発言への礼を含めて敬語を使った翔一だったが、梓はそれが気に入らなかったらしい。

 それなら、接し方はモモ先輩よりも砕けた感じでいいかと、翔一は話し方を改めて設定して話を再開する。

 

「バイト、幾つ掛け持ちしてんの?」

「今は大分楽だよ。今日はプラモデル屋、ピザ屋、松屋。一日の掛け持ちは最高三つ、全体だと五種類かな」

「フリーターかよ」

「フリーターよりフリーよ。今はお母さんが収入が大分入るようになったから、仕事も多少楽なのを選べてるから」

 

 

 気軽に話しているが、三種のアルバイトで一日全てを費やすようなことは学生のやることではない。梓は学生ではないが、本来ならば学園に通っているはずの女の子なのだ。これは厳しいだろうと、翔一は自分もアルバイトをしている身なので、その辛さを少しは理解しているつもりでいた。

 

 

「辛くないのか? って顔してる」

「そりゃあな。こっちもバイトしてるからさ」

「百代ちゃんから聞いてるよ? 将来のための資金稼ぎだったよね? 確かに将来のための仕事なら幾分か楽だよね。でも私の場合、生きるためにやってるから重さが違うのかもね。でも、私にとってはこれが苦じゃないの」

 

 

 そう笑顔で言った梓の真意を翔一は掴めなかったが、それは梓が取り出した一枚の写真で全てを理解できた。

 そこに写っていたのは、もうすぐ中学生になりそうな歳の男の子だった。

 

 

「弟のためなら、この程度は容易いことよ」

「――――ブラコン?」

「私は弟が大好きだ。それを恥ずかしいとは思わない」

 

 

 どことなく、優等生クラスのハゲ頭と九鬼家の胡散臭い男が同時に思い浮かんだ翔一であった。

 翔一は少し呆けていたが、梓は構わずに話を続ける。

 

 

「姉弟、いい関係だと思うのよ。百代ちゃんだって舎弟、つまりは弟を作っちゃうでしょ? 血が繋がってないのに。それ程弟ってのは魅力的な存在なの。それに不良たちは男だろうが女だろうがお構いなしに舎弟にする。つまり、舎妹(しゃまい)は存在せずに射程が優位に立ってる。弟の方が妹よりも重宝されているのよ。弟は宝、弟は愛でるものよ。決して気嫌うものじゃないわ。弟は愛することでさらに可愛くなるの」

 

 

 どうやらあのハゲたちを思い浮かべたのは間違いでないと、翔一は強く確信を持った。

 これ以上話が長引いて収拾がつかなくなる前に話題を切り替えよう、翔一はそう思い立ち直ぐに行動に移す。話し出すと長く語る知り合いが仲間内に二人もいる翔一は、経験上、こういうことになったら直ぐに話題を変えることが正しいと理解していた。

 

 

「な、なるほどな。それにしても、何で自転車なんだ? トレーニングとか言ってたっけ」

「ん? そうそう。自分で言うことじゃないけど、私は元々足ばっかり鍛えててさ。川神学園でもトップクラスの速さだったと自負してるよ。それでバイトを始めてどれくらい経った頃かな、いつの間にか重労働のし過ぎで足が発達しすぎちゃって。折角だから足を活かしたバイトにして、ついでに足のトレーニングが出来る仕事にしようとしたの」

 

 

 その話を聞いてから、翔一は改めて梓の足を確認する。翔一は注目するのが遅かったが、ホットパンツを履いた美人の足を確認しないのは失礼だと、仲間に怒られてしまうのは後の話。

 よく梓の足を見ると、ムキムキの筋肉質という訳ではなく、どちらかというと柔らかそうでいてハリのある美脚だった。

 しかし、それだけではない。ただ綺麗なだけなら女性のモデル雑誌でも見れば嫌と言う程載っているが、そんなモデルの足などとは比べ物にならないようなものを梓は備えていた。

 しなやかそうでいて、弾力を保ちながらも鍛えている足。武道をやっているようにも見えるし、美しさを保つための努力をしているようにも見える。恐らく、梓はどちらもこなしているのだろうが。

 今まで見たことのない足、いや、この足に近いものを持っている人物を翔一は二人知っている。

 一人は梓の元クラスメイトらしい川神百代。彼女の場合頭の天辺から足の爪先まで武道のための体をしていて、それでいて学園中の注目を浴びる程の抜群のスタイルをしているために、足もまた美しいものだった。

 もう一人は、榊原小雪。彼女の足は友達を守るために鍛えられた驚異の足。百代に匹敵できる程に美しく強い足を、ただの学生が持っている特異な例である。

 そんな稀にしか見られない足を、偶然知り合ったにしては意外と繋がりがある女性が持っていた。翔一は今日一日中驚かされっぱなしだった。

 

 

「スゲェ、綺麗」

 

 

 そう、思わず翔一が口から漏らしてしまうぐらい、梓の足は綺麗なのだ。咄嗟に出てしまった言葉に口を両手で塞ぐが、時既に遅し。梓は解りやすくニヤニヤと翔一を細目で見つめていた。

 

 

「ふーん? 話で聞く限り、風間くんは異性に興味がないってことらしいけど?」

「あ、それは否定しない」

 

 

 翔一のストレートな言い種に、ズコッと、梓が解りやすく雛壇芸人のように転ぶ真似をして見せた。意外とユニークな一面があるんだなと、翔一は梓に対する認識を改めた。

 

 

「たださ、綺麗なものには惹かれちゃうじゃん」

「おろ。嬉しいこと言ってくれるね。鍛えた甲斐があったもんだよ」

 

 

 梓は少しばかり照れながら自分の腿を軽く叩いた。その振動で足が全体的に揺れるが、その揺れは全て均一がとれたものであった。無駄のない鍛え方とはこの事を言うんだなと、翔一は直感的にそう感じた。

 

 

「おっと、もうそろそろ次の配達。帰らなきゃ」

「おう。頑張れよ!」

「まっかせなさい!」

 

 

 別れの言葉よりも励ます言葉を優先する、人のいい二人の間だからこそ生まれる状態だった。

 梓は自転車に乗ってペダルを勢いよく踏みつけて、再び砂埃を巻き上げながらバイト先へと戻り、翔一は本来の目的の昼寝へ専念することにした。

 運がよければまた会えるだろう、翔一は別れを惜しまず期待を込めて眠りについた。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「おいジジイ」

「何じゃい騒々しい。そこの蕎麦饅頭は供え物じゃから手を出すでないぞ」

 

 

 時は流れ夕刻、川神院の自室で雑誌を読んでいた鉄心の元に、黒い髪を携えた胴着姿の美少女が乗り込んできた。美少女と表現はしたものの、その顔は美少女に似つかわしくない怒りの籠った形相であった。

 鉄心は少女が乗り込んでくる前からこうなると予想はしていた。突然であったが、余りにも気の乱れが酷くなりすぎた自分の孫の行動が読めないほど、鉄心はまだ呆けてはいないと自負していた。

 そして少女は予想通り乗り込んできた。そして座している鉄心の目の前に立ち、震える声を発する。

 

 

「一子が、慶に会った、らしい」

「うむ、そのようじゃな」

 

 

 少女は驚いた。鉄心の度肝を抜こうと思っていた事実を伝えたのにも関わらず、当の鉄心はそれがどうしたと言わんばかりに、大した関心を持たずに雑誌をめくったことに逆に驚かされたのだ。

 その驚愕が収まると、少女の精神に怒りが沸々と沸き上がってきた。その怒りは大きな爆弾を抱えながら静かに膨張していく。

 

 

「……知ってたな?」

「うむ、知っておったわい。百代、それがどうした」

「ふざけるなよ――――」

 

 

 少女、川神百代は実の祖父である鉄心の胸ぐらを掴み、自分の顔との距離が十センチにも満たない程まで引き寄せた。

 鉄心は顔色一つ変えない。対する百代の顔は怒りに染まっていた。

 

 

「何で教えなかった」

「教えたらお前は慶に突っかかるじゃろう?」

「当たり前だ!」

 

 

 鉄心の胸ぐらを掴む力を強くして百代は言い放った。元クラスメイトに殴りかかると明言した。その顔は真剣そのもの、冗談など一ミリたりとも混ざっていない本音である。

 鉄心は百代の真剣な顔つき、本気で発した言葉、そして抑えきれていない怒りと闘気に触れて、溜め息をついた。

 

 

「慶を信じてやらんのか」

「目の前であいつの狂暴さを見た。もう穏便なあいつは信じられない」

「やれやれ、二年も前のことじゃぞ?」

「たった二年経っただけで、華月のトラウマが消えるはずがないだろうが!!」

 

 

 怒号、咆哮、百代の口から力任せに発せられた叫び声は、抑えきれていなかった闘気を爆発させ、鉄心さえも地震かと思わせる程に大地を震わせた。

 鉄心の喝は地面を揺らし地震測定器を動かす程だと言われており、孫と自分がより親密になった気がした鉄心は内心喜ばしかった。

 しかし、その喜びを決して表情に出すことはなく、鉄心はただ百代の叫びを受け止め続ける。

 

 

「今は落ち着いたけどな、慶の名前を出すだけであいつは何も喋れなくなる!! ちょっと前なんか体中が震えて止まらなかったんだぞ!? 華月をそこまでにした慶を、元クラスメイトだからって許す訳がないだろう!!」

「華月ちゃんはもう普通に学園生活が送れているじゃろうが」

「だからって、あいつに何の制裁もしないって言うのか!? それだけじゃない、あいつは他の学園生も重傷に追い込んだんだぞ!!」

「少し落ち着かんかい。退学になった上に、罪の意識かは知らんが、慶は川神から姿を消しておった。それこそ、人との関わりを完全に絶つほどに。孤独の二年じゃったはずじゃ」

 

 

 鉄心は激昂する百代を宥めようとする。二年、その期間で取り戻せるものを取り戻している被害者と、持つべきものを手放してきた加害者、既に均衡は保たれていると鉄心は諭した。

 そのお陰で百代は少しだけ冷静を取り戻し、鉄心の胸ぐらを離して机の対面に座った。

 

 

「相変わらずの美形ではあったが、髪の毛は荒れ放題じゃったぞ。白髪三千丈、恐らく一回も切ってないんじゃろうな。家族もおらん、実家に帰ったと言っておったが、両祖父母も既に他界しておられる。山籠りみたいなことをしておったのじゃろう。恐らく西の方で」

「何で西だと解る」

「松永燕、彼女の転向と帰省のタイミングがほぼ同じ。しかも西の方で見たこともない美人がいると、鍋島からも連絡があったからのう。それに最近は見かけぬとも聞いておった」

 

 

 正確には、朧の話を聞いた後、もしやと思い鉄心から連絡をとったのだが、朧の存在を知られる訳にはいかないので、鉄心は誤魔化し事実を黙っておく。

 

 

「西方十勇士の龍造寺が塞ぎこみかけたそうじゃよ。あんなに自分が好きな奴が自信をなくしかけるくらいじゃ。もう心当たりも限られる」

「やけに慶の肩を持つんだな。まだあいつが許される訳にはいかないだろうが」

 

 

 百代は未だに怒りを抑えられないままに、慶の罪を訴えていた。

 その孫の訴えを聞いた鉄心は、加害者とされる慶のことを、被害者とされる華月のことを少しばかり思い出していた。

 

 

 

 

『華月の心が完全に癒えてから、百代さんに真実を話してください。もし学長が、私のこの言い分を信じてくれるなら、ですが。それまで私はこの苦しみを甘んじて受け入れましょう。私の未熟さが招いた結果、ですから。私は機会を待ちますよ。何年でも……』

 

 

『が、がく、学長、あ、う、ごめ、ん、違う、の……わ、わたし、けい、ちゃん、に…………ううっ……酷い、こと、を…………』

 

 

 

 

 この鉄心が思い出した台詞だけを繋げれば、被害と加害の立場が逆転しているようにも思える。鉄心は誰が被害者で誰が加害者なのか、それを心得ているのかもしれない。

 

 

「そこまで気になるのじゃったら、自分で探せばよかろう」

「ああ、そうさせてもらう」

 

 

 百代は鉄心の部屋から飛び出そうと立ち上がったが、完全に立ち上がる前に鉄心に両肩を掴まれ、立ち上がることを許されず再び座らされた。

 

 

「阿呆、もう夕飯時じゃ。日も落ちとる。明日からにせい。一子やワシをお前が帰るまで待たせておくきか?」

「……解った。ただなジジイ、今度川神院に慶が来たら知らせろよ」

「嫌じゃ。自分で探し出せ。いっそのこと、もうこれは試練扱いにした方がいいのかもしれん。ワシからの協力は無いと思え。こっちはこっちで少々忙しいことができてのう…………。川神院にいる時間が少なくなるやもしれん」

「…………まあ、忙しいなら仕方がないか」

 

 

 百代はようやく漏れっぱなしだった闘気を抑え、高揚していた精神を鎮めて鉄心の部屋から出ていった。

 暫く百代の闘気に当てられ続けていた鉄心は精神的に疲労し、溜め息と供に肺の中の空気を全て吐き出し、新しい空気を呼吸器官へ取り込んだ。

 

 

「やれやれ、本当に厄介なタイミングじゃよ、慶」

 

8





 前進するためには、行動するだけでは十分ではない。
 まず、どの方向に行動すべきかを、理解している必要がある。

 ギュスターヴ・ル・ボン 

 ◆◆◆◆◆◆

 三人目のオリジナルキャラクター、あずにゃんこと梓です。自称野良猫、性別不詳と崩壊気味なキャラの後にようやくまともなキャラクター、かと思いきやブラコンでした。どうしてこうなったのかは自分でもよくわかりません。
 あれ、でもこれ辻堂さんと被るんじゃない? と思われる方がいらしたら申し訳ありません。発売前からこれをにじファン様の方で投稿していまして、今更変更することなどできないほど愛着がわいてしまっています。なのでこのままで行かせていただきますのでご了承頂きたく。

 それとお知らせ。ここ一週間ほど遠出をしてしまうのでこちらで投稿することが難しくなってしまうかもしれません。頑張って一週間以内には時間を見つけて投稿したいと思っておりますので、悪しからず。

 さて、そろそろ冒頭の和歌についての解説を始めようかなと思ったんですが、どうせなら溜めに溜めてからでもいいかと思い立ったのでまた次の機会に。適当に有名どころを選んでいるわけではないのでご安心を。
 それでは、群集心理について。ルボンは群集心理で有名になりましたね。個人的な意識人格の消失、批判賛同などの判断全てが社会に動かされてしまうという、自律性の崩壊を示唆しました。現代はそんな感じですね。某知恵をお借りする袋や教えて! 系統の回答全てに振り回されたりするのが身近な例でしょうか。嘆かわしいことです
 本当はオルテガでも持ってこようかと思ったんですが、Aをプレイしたらもう引用されていたので自重しました。自重することが大事だって知恵を袋からお借りしましたからね。

 結論。知恵の詰まった袋が人間の操縦者。


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第五帖 春風の音にし出なばありさりて――――

――――今ならずとも君がまにまに


大伴家持


 

 暗い夜道、闇の世界。観光地としても有名な川神の裏の顔は、夜に姿を現す。

 無法地帯の如く荒くれ者が集うような警備の甘い街ではないが、川神の有名なものの一つに風俗があげられる。それに伴い、川神に夜が訪れると、ようやく俺たちの時間がやって来たと言わんばかりに、柄の悪い連中が街に姿を現し始める。

 しかし、やはり川神は無法地帯という訳ではないので、当然巡回する警察官はそれなりの人数を動員している。若者への帰宅の推奨、未成年の非行取り締まり、やることは山程ある。

 しかし、そんな権力を持った警察官でも、迂闊に立ち入れば逆に制裁を食らうような、川神中の負の集合地とも言える場所がある。

 それは親不孝通り。その名の通り、あまり善行とされる行いをしてこなかった者たちが集う場。警察など殴ればいい、権力に屈する奴は弱者のみ、法律を守ることは愚行であると考える輩が多々見られる。

 そんなアウトローな連中の中でも階級は存在する。無論それは貧富の差などによる社会的な物ではなく、強者や恐怖の対象に向けられる野性動物のような上下関係だ。

 男なら拳で語れ、そんな綺麗な話ではなく、拳で捩じ伏せて我を通すといった、力が全ての原始的な世界の話であった。今時、このご時世、そのような野蛮なことが起きるはずもないと思ってそこに足を踏み入れた者こそが、その裏世界で抹殺されてしまうのだ。

 そして、その弱肉強食を体現した世界でもトップクラスの存在、板垣家と呼ばれる四人の猛者がいた。

 三人は女、一人は男。全員がこの親不孝通りで恐れられている存在であった。

 長女はあるSMクラブの女王として君臨している。財界の大物や政界の重役までもが彼女の虜に、いや、家畜扱いをされている。しかもそれを好んで受け入れていることこそ、彼女の調教の手腕が窺える事実であった。

 次女はよく寝ることで有名であるが、親不孝通りの強者を決める闘技場で王者となった程の強者である。普段は大人しいために無害ではあるものの、やはり育ちが親不孝通りのせいか、社会に適合する可能性は低い。気に入ったものは手に入れたくなるという、若干性格が子供染みているところも社会不適合の理由かもしれない。

 三女は欲望に忠実なフリーター。よくゲームセンターで腕っぷしを披露していたりと、表の世界でもやっていけるのかと思われがちだが、闇の世界ではゴルフクラブを振り回し、人の頭をかち割って暴れまわるという危険人物に他ならないために、そんな淡い期待は抱いても意味がないと教えられる。薬を使い強くなる戦闘スタイルであったが、今は真面目に薬なしで鍛練を積んでいる。

 そして長男、板垣家次女とは双子である。川神随一の無頼漢、孤高の狼。気に入らないものはワンパンチで服従させる。アウトローが何なのかと疑問に思ったのならば、彼を見ればそれが何たるかをすぐに理解できるであろう。やりたいことをやる、欲望に忠実なのは最早血筋。武器も何も使わずに、鍛え上げたバランスのいい美しい筋肉を誇りとしており、ワンパンチで相手の戦意を消失させる喧嘩屋。彼の喧嘩では殺気がずば抜けており、その威圧感とパワーは親不孝通りで名を轟かせている。

 彼の名前は板垣竜兵、ワンパンの竜兵とも呼ばれる、親不孝通り切っての荒くれ者である。

 ただ、そんな男らしい彼には若干の、異常な性癖がある。

 

 

それは、男好き。

 

 

 本人もそれを公言しており、いい男を見つけたら即座に襲いにかかるという、ある意味厄介な部類にいる男であった。

 そんな彼が親不孝通りと表の通りの境界線を彷徨いていると、一人の少年が竜兵の目に留まった。この付近で一番大きな学園である川神学園の制服を着ており、耳には大きな黄色のヘッドフォンをつけており、視線を落としながら歩いていた。特に気落ちしているような気配ではないが、何故か下を向きながら歩いていた。

 その少年を見た時、竜兵の本能が激しく疼き始めた。

 男同士なら立ち技も寝技も百戦錬磨の竜兵は、いい男を見極める力を稀に発揮することがある。その竜兵の本能が、この少年の引き締まった肉体と僅かながら童顔であることを考慮に含めて、襲い掛かるべきだと肉体に信号を送っていた。そして竜兵は、その少年を今日の獲物として定めた。

 この時、とある寮の男子生徒の背中と肛門に悪寒が走ったが、それは言うまでもない。

竜兵は一歩下がり、獣のように飛び掛かる体制を整えた。

 まずは少年の足をとり、裏の世界(こちら側)へと引きずり込もうと、竜兵は簡潔に策を考えた。策と呼べる程凝ったものではないが、竜兵にしてはしっかりとした策なのだ。

そして少年が最も竜兵に近づいた瞬間、竜兵はハイエナのように襲い掛かった。

 捕った、少年に触れる直前で竜兵はそう確信した。

 

 

 しかし、竜兵の逞しい両腕がその少年を捕らえることはなかった。

 

 

 竜兵は何が起きたか解らなかった。手が届くまであと十センチもなかったところまでは少年を捕捉できていた。竜兵は自信を持って言える。問題はそこからだった。

 竜兵は全く瞬きをしていなかったのにも関わらず、少年の姿を見失ってしまったのだ。

竜兵は思わず辺りを見回した。すると、竜兵の右前方十メートル程の場所を少年が歩いていた。少年の様子は先程と全く変わっておらず、依然として下を向いたまま歩き続けていた。竜兵のことなど気に求めないで。

 いい度胸だと、竜兵はこめかみの血管を浮かび上がらせて怒りを露にしていた。挑発されているものだと思った竜兵は再び少年に対して突進した。今度は背後から押し倒すように飛び付こうとした。

 しかし、それすらも少年は回避した。しかも今度の回避は並大抵のものではない。竜兵の追撃は完全に少年の死角からのものであり、ヘッドフォンで外界からの音を遮断している少年は、竜兵の突進に気づくことはできなかった筈だ。

 その筈なのに、少年は竜兵の体が接触する直前に高く跳躍し、竜兵の肩を中間地点として更に高く跳び、竜兵の後ろに回り込むことで回避した。

それなのに、少年の意識は依然として竜兵に向けられない。どこかへふらふらと歩き始めた。

 竜兵は舐められていると思い、怒りを込めて右拳を少年の後頭部に向けて放った。追撃も考えて左拳も強く握っていた。その右拳は少年の後頭部を的確に捕らえた、筈だった。

 竜兵ご自慢のワンパンチは既のところで少年の右手に捕らえられ、その勢いを殺されず活かされ、まるで石ころを投げるかのように竜兵は投げられた。

 竜兵は驚愕した。体格は一回りも二回りも違う少年に自慢の拳を止められた上、いとも容易く放り投げられてしまったことが信じられなかったのだ。

しかし、もっと竜兵が驚いたのは別のことであった。

 

 

 竜兵を投げた本人が、自分は今何をしたんだと、竜兵と自分の手を交互に見て戸惑っていたのだ。

 

 

 竜兵は少年がいけ好かなかった。あれだけ凄い芸当を見せつけておきながら、自分自身が信じられないと思っている態度が気に食わなかった。

 その苛立ちを竜兵は余していた左拳に込めて、少年の顔面を陥没させる勢いで打ち込んだ。

 その拳が当たる直前、竜兵は信じられないものを目撃した。

 

 

 ヘッドフォンを外した少年の目が、顔が、明らかにさっきの戸惑っていた時のものとは変わっていた。有象無象を射抜く眼光、全てを見通すような澄んだ瞳、何もかもを掌握しようとする深い眼をしていた。

 

 

 一瞬、その目に引き込まれそうになった竜兵は、気づけば空高くに打ち上げられていた。先程の要領で真上に放り投げられていたのだ。

 約二メートルほどからの落下ならば竜兵はものともしない、それも初速度が零の放物線的落下であったので着地も容易だった。

 竜兵が見事に着地に成功をすると、投げた張本人である少年は解りやすいくらいに動揺していた。まるで、初めて自分が人を投げた、いや、人を投げることができる能力が自分が中に“居る”ことに驚いているようだった。

 自身を知った少年。少年の力を自覚させた竜兵は、後にこの少年と腐れ縁となるのだが、それはまた後の話。

 今はまだ、獲物と狩人の関係。正確には、強大過ぎた自身を自覚した獲物と、それを自覚させた狩人としての失格者の関係である。

 

 

「お前、何者だ」

 

 

 竜兵はまともなコミュニケーションを図ろうとした。襲い掛かろうとすることが無駄だと思い始めたのだろう。握り拳も緩めていた。

 少年は今この状況がどういうことなのかを全く把握できていない様子であったが、一応聞かれたことには答える真面目な生き方をしてきたようだ。いや、見ず知らずの人に襲われて混乱した状態で、生き方も糞もあったものではないのだが。

 

 

「……(しずか)伊那(いな)(しずか)。川神学園二年生」

 

 

 少年、伊那渕は驚きながらも、怖がりながらも、怯えながらも、今度は竜兵に質問を投げ掛けた。

 

 

「その、あんた、何で僕に気付いたんだ?」

 

 

 竜兵にとって、その質問は実に妙なものであった。気付いたというか、普通に視界に入ったんだから当然気づくと、竜兵は疑問符を浮かべながら言い放った。

 すると、渕は更に驚いたのか、解りやすく目を見開き動揺を隠しきれずにいた。その時の渕の顔は、僅かにほころびを見せていた。

 

 

「そっか、意識しないで見える人もいるのか」

 

 

 一人だけ何かを納得して頷いて笑っている渕に、竜兵は解りやすく苛立ちを舌打ちにして響かせた。それに反応した渕も解りやすく怯えていた。

 

 

「あ、じゃあ僕はこの辺で」

「待てやコラ」

 

 

 渕は何やらスッキリとした顔のまま踵を返したが、竜兵はドスの効いた声だけで渕の歩みを制した。いつもの竜兵ならこの時に腕くらいは掴んでいるものだが、先程からの渕の回避能力を目の当たりにしているので迂闊に行動ができないでいた。

 

 

「このまま逃がすと思ってんのか?」

「そうしてくれると実に助かるんだよ」

「…………いいぜ、行きな」

 

 

 渕が最も予想していなかった言葉が竜兵の口から発せられた。その言葉に解りやすく驚いている渕を見て、竜兵も解りやすく溜め息をついていた。

 

 

「まだ捕まえられるか解んねぇからよ。今日のところは俺の目測の誤りってことで見逃してやる。けどな、またこの辺りで見かけたら次は容赦なく、やらせてもらうぜ」

 

 

 竜兵は拳をバキバキと鳴らして威嚇する。渕は次に見つかったら死ぬまで殴られると思っていたが、実際に危ないのは命でなく貞操であることを、彼はまだ知らない。

 しかし、渕はそれを聞いても、何故かこの辺りをぶらつく行為をやめようとは思わなかった。寧ろ、更に続行したい気持ちで溢れ返っていた。

 

 

「また僕を、見つけてくれるのか?」

「? 見つけたら襲うぞ?」

「――――そっか。じゃあまた来るから、気軽に声をかけて。あなたのこと、興味が出てきた」

 

 

 勿論、渕の言う興味と言うのは、ある事情により他人から認識されなかった彼のことを、しっかりと認識してくれる竜兵の気持ちに対してであって、決して竜兵の男らしさに興味が出たわけではない。しかし、竜兵が今出逢ったばかり、しかも獲物としか見ていなかった少年の内情など知る由もない。

 つまり、竜兵はこの少年に気に入られたと思い、勘違いが竜兵の中で生まれてしまった。

この少年を襲うのは合意で、ゲーム感覚で襲えるのだという甚だしい勘違いが。

 

 

「そうかそうか! また来い! いつでも相手してやる!」

「? そ、そう? じゃあまたいつか……」

 

 

 やけにテンションとモチベーションが上がっていた竜兵を不思議に思いながら、渕はゆっくりと帰路へとついた。

 その際、尻を中心とする寒気が彼に襲い掛かったのは言うまでもない。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「あ! 天野さん!」

「ん……おや、また会ったね」

 

 

 変態の橋こと多馬大橋の上、まるで日課のように手摺にもたれ掛かって黄昏ていた慶に、トレーニング中の一子が偶然遭遇した。忍ぶ気があるのかどうか解らない慶であったために、出会ってしまうのは致し方無いことである。

 しかし、一応慶は帽子に眼鏡と変装をしており、髪の毛も無駄に伸ばして気配を殺しているので、古い知り合いには気づかれないようにはなっている。

 知り合ったばかりの一子に気づかれるのは仕方がないが、それにしても一子の反応は敏感だった。

 

 

「一応、変装しているのだけれど」

「匂いで解ります!」

「………………喜ばしいことなのかな、それは」

 

 

 苦笑いをしながら慶は頬を掻いた。少し肌寒い風が慶と一子に襲い掛かる。橋の上ということもあって、風は強く荒れていた。一子はトレーニング直後の体が急速に冷やされ少し身を震わせたが、慶は突風を疎ましく思うだけで行動には表さなかった。

 

 

「あ、そう言えば天野さん。お姉様とクラスメイトだったんですか?」

 

 

 ピクッと、突風に対して微塵の反応も示さなかった慶の体が僅かに反応して硬直した。それを見た一子は、言ってはいけないことを言ってしまったのかと不安になった。

 慶はそんな不安そうな一子を見て、一子の姉である百代に見つかるかもしれないという焦燥感を振り払い、今できるだけの笑顔を一子に向けた。

 

 

「うん。友達だったよ、二年前まで」

「…………何か、あったんですか?」

「私からは詳しくは話せないけどね。百代さんから聞いてないかな?」

「あ、はい。天野さんと会ったことをお姉様に伝えたら、お姉様は血相を変えて何処かに行っちゃったから……」

 

 

 これは不味いと、慶は心の中で現状を気がかりに思っていた。極力昔の知り合い、特に慶の元クラスメイトや慶の事件に関して情報を持った人物に出会ってしまうと、慶はこの川神で自由に行動ができなくなってしまう。

 そして、百代は慶が出会いたくない人物の典型的例であった。元クラスメイトであり、事件の現場を目の当たりにした証人として、慶にとっては最も危険な人物であった。

 慶は今の自分の置かれている状況を再確認したところで、こんな見晴らしのいいところにいるのはやはり危険だと判断した。しかし、慶がこの橋の上で物思いに耽るのは最早日課、慶にとっては日常的儀礼となっている。

 慶にとっては苦渋の決断ではあったが、橋の上に居続ける時間を制限することにした。

 

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

 

 暫く黙って自分のことを考えていたせいで、一子が今にも泣き出しそうな顔で慶を覗き込んでいた。そんな申し訳なさそうな顔を見せつけられたため、慶の中に罪悪感が芽生えてしまった。

 慶は僅かながらの罪滅ぼし、になると思ってやった行為ではないのだが、一子の頭をくしゃくしゃと軽く撫でた。

 

 

「大丈夫だよ」

「はふー」

「あはは、犬みたいだね。可愛いよ」

 

 

 そんな慶の何気ない一言に、一子は少しドキッとしてしまった。一子は慶を美男子、つまりは性別を男と認識しているために、そのような言葉を面と向かって言われることに耐性がないのだ。

 

 

「一子ちゃん。もう百代さんに私の話はしないでやってくれないか?」

「え?」

「色々あってね。まだ百代さんと会うには早いんだ」

「喧嘩してるんですか? だったら早く会った方が……」

 

 

 仲直りはすぐにしなきゃ、一子はそう言おうとしたが、慶に指一つで唇を押さえられて何も言えなかった。

 

 

「急いては事を仕損じる、だよ。百代さんのことは嫌いになりたくないんだ。今はまだ、和解の時じゃあない。だから一子ちゃんも協力してね」

 

 

 頼んだよと、慶はいつもの笑顔から真剣な表情になって一子に頼み込んだ。忍ぶべき身である筈の慶が帽子をとり、頭を下げるほど真剣に。

 一子は慶と百代の間に一体何があったのか、当然の如く知る由もない。しかし、これほどまでに真剣なお願いを断ることはできない、一子は元よりそういう性分なのだ。

 

 

「解りました!」

「感謝するよ。ありがとう一子ちゃん。ついでと言っては何なのだけど、お願いをもう一つ聞いてくれないかな? 勿論断ってくれて構わない」

「やります! って、言いたいところなんですが……内容に依るところが……」

 

 

 一子は自分の幼馴染みであるある少年から教育という大義名分の下、犬のような躾を日々施されている。その中に、以前安請け合いしたバイトが新薬の実験であったこともあり、内容を聞いてから物事を引き受けるようにと言われていた。

 

 

「そうだね。まずは内容を教えないとね。簡単なことなんだけど、これを学長に渡して欲しいんだ」

 

 

 慶はそう言うと、ズボンの右ポケットから白い封筒を取り出して一子に差し出した。

一子は裏表に何か書いていないかと確認してみたが、本当にまっさらで純白な封筒であった。

 

 

「川神院に直接渡しに行ければよかったのだけれど、今は会いたくない人が沢山いてね。だからどうやって渡そうかと迷っていたんだ」

「そこでアタシ?」

「ごめんね。本当にいいタイミングだったから」

「任せてください! 天野さんの頼みですから!」

 

 

 人に頼み事をすることに抵抗があるのか、慶は少しバツの悪そうな顔をしていたが、一子は一切気にすることなく慶の依頼を引き受けてくれた。

 まだ二回目の接触だというのに、ここまでも自分のことを信じてくれる一子に、今自分が罪の疑いをかけられている身として、慶は感謝してもしきれなかった。

 

 

「そのお礼と言っては何だけど、何か私も一子ちゃんのためになりたいな」

「じゃあ組み手! 手合わせをお願いします!」

「あはは、血気盛んなのはいいことだ。じゃあまた明日、この橋の下で落ち合おう。時間は……そうだね、午後三時にしよう」

 

 

 その日は組み手をすることなく、次の待ち合わせの時刻を定めただけで二人は別れた。一子は家に帰り、慶はまだ暫く橋の上から川を眺めていた。一子の姿が見えなくなり、感知できる気配が薄くなってくたところで慶は呟き始める。

 

 

「あは、は。元気なものだよ。本当に、羨ましい……くそっ、畜生……!」

 

 

 慶は無意識に空虚な左腕を掴もうとして、当然の如く握れなかった。代わりに肩を強く握り締め、奥歯が割れる勢いで噛み締めた。

 そんな時、一子を捉える度に慶の頭に激しく訴えてくる慶の力が、慶の瞳が、何者かの干渉を体現するように言葉を紡ぎ頭に響き渡らせる。

 

 

 

 

“恨め、怨め、憎め、悪め、羨め、妬め、嫉め。汚い自分に目を向けろ。悪意を抱け、遺恨を抱け。怨憎、嫉妬、怨嗟、嫌悪、唾棄、厭忌、結構なことじゃないか”

 

 

 

 

 負の感情が慶の心のダムを決壊させ、慶の精神を無重力下へ突き落とす。吐き気が慶を襲う。段々と昂ってくる気持ちに身体の支配権を奪われそうになる。

 しかし慶は踏ん張る。一時の感情に身を委ねたりはしない。その確固たる意思をもってしても、慶の苦しみは未だに収まらない。一子という心温かき人物、鉄心という未だに自分を信じてくれる恩師、燕という新しくできた同年代の友人、それらを想起し慶は踏みとどまる。負の感情のみで構成される“あちら側”へ落ちないように。

 しかし、頭の奥底から囁きかける声は慶の黒い部分を抉りだそうと、収束される負の感情を表した言葉を止めない。

 

 

 

 

“羨ましいんだ、自分の欠落した感情を持っていることが。怨めしいんだ、自分を孤独の道に追いやり、のうのうと学園生活を送っている奴等が”

 

 

 

 

 慶は頭を激しく振るい、ついには唇を噛んで痛みで声を無視しようとした。

 

 

 

 

“憎いんだ、川神で自分を棄てた奴等が”

 

 

 

 

「止めろぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

 

 慶は叫び、橋の手摺に飛び乗って、ドス黒い何かを振り払うように、橋から身を投げた。

 

 

 





 吟味のない生活というものは、人間の生きる生活ではない

 ソクラテス

 ◆◆◆◆◆◆

 四人目のオリキャラ、渕くんです。私のPCでは「しずか」ではなく「ふち」と入力しないと出てこないのですが、一応これでちゃんと「しずか」と読めます。名付けで使用されるようですね。恐らく、一番まともではないかと思われるキャラクターです。竜兵に目をつけられたのが運の尽き、という奴ですが。

 今回はソクラテスです。なぜこれを選んだのか、今回は若干ネタに走っています。特に深い意味もなく言葉は選びましたが、今回は人選に一番重きを置きました。ソクラテスは竜兵同様、同性愛者だったので。それも重度な。生殖行為のない男色を高次元とみなし、それを道徳的に捉えていらしました。いやはや、自分には到達できない次元です。

結論。野獣と天才は紙一重。


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第六帖 鏡山いざたちよりて見てゆかむ――――

――――年へぬる身は老いやしぬると


大伴黒主


 

 武士道プラン。

 それは過去の偉人たちを現代にクローン人間として蘇らせ、現代の若者と交流を深めることにより、若者の意欲と競争力を高め、“飢え”と“渇き”を与える九鬼グループの計画である。

 その受け皿となった川神学園に、四人の偉人のクローンが編入することになった。

 源平合戦において源氏を勝利へと導いたが、兄との不仲が生じた結果自刃した、薄幸薄命の英雄、源義経。

 忠義を掲げ豪腕を振るい、義経と死ぬまで共に戦った、鬼の名をかつて持っていた豪傑の英雄、武蔵坊弁慶

 自身の兄弟を全て敵に回し、唯一人源氏についた、挑発する平家の意欲を扇とともに射た弓兵の英雄、那須与一。

そして、未だに正体は謎に包まれた英雄。彼ら四人が川神学園に生徒としてやって来たのだ。

しかし、彼らの容姿も性格も史実とは異なるものばかり。義経は非常に真面目で策を不要とする女子へ、弁慶は義経を可愛がるような飲んだくれの女子へ、与一は若干残念な精神の持ち主へと育ってしまった。

 それでも、彼らの強さは折り紙つき。過去の逸話伝説に恥じない力を持っている。やはりそこは九鬼のクローン技術が優れていたことがあるだろう。

 そして、その武士道プランが全国にほぼ全てのメディアにより報道され、日本中、いや、世界中がどよめきたった。あの義経が、弁慶が、与一が、現世に蘇生されたと。

 その影響で世界中の猛者が川神に集い始めた。目的は英雄との決闘、英雄に勝ったという成績が残されればそれは素晴らしい誇りとなる。皆が過去の英雄と戦いたくてうずうずしているのだ。

 しかし、そんなにも多い人数を捌ききれる筈がない。英雄と言えども体は一つ、しかも決闘を真面目に受けるのは義経だけときた。捌くなどという効率のいいことはまず行えないだろう。

 そこで九鬼家は効率のいい選手の選抜方法を考えた。それは通り抜けることが困難な関門を用意することだった。その関門とは、川神百代。彼女と戦い挑戦権を認めてもらうことだった。並大抵の武人では弾かれてしまう関門を設置したことにより、質の高い決闘のみが行われるようになった。

 川神百代の欲求不満解消、義経との決闘志願者の選抜、濃密な決闘による見学生徒の意欲向上など、一石二鳥よりもお得なシステムが出来上がった。

 義経の体が疲労で倒れるやもしれないが、そこは英雄の力の見せ場、義経は弱音を吐かずに精一杯の力を尽くしていた。

 その関門にある男が挑んだのは、そのシステムが開始されて数日後のことだった。

 

 

「さあ! 次はどいつだ!?」

 

 

 多馬川の河川敷で川神百代が心からの笑顔でそう叫んだ。川神百代の周り正しく死屍累々、力の及ばなかった挑戦者が苦しみ悔しみうち臥していた。

 今のところ義経への挑戦権を獲たのは僅か九人。百代が満足できた相手は一人もいないが、流石に全員倒しては不味いと採点は甘めにしていた。そうでもしないと、義経への挑戦権を手に入れられるのは、百代や義経と同ランクの壁を越えた者に限られてしまう。

 百代は欲求不満を全て解消できないでいたが、九鬼家の執事との取り決めの一つとして、対戦申し込みの人数が落ち着き許可が出せる状況になれば、義経との決闘を認めるというものがあった。それを支えに百代は与えられた責務を全うしていた。

 そして辺りに立っている挑戦者がほとんどいなくなった時、土手を降りてくる一つの人影があった。

 

 

「儂も参加して構わぬか?」

 

 

 百代はその声の主を確認しようと顔を向けた。

 そこにいたのは、翁。実の祖父である鉄心よりは若いが、元川神院の門下生であり元四天王の総理や鍋島正よりは老けて見える、白髪を角刈りにした浴衣姿の男であった。履いている靴は雪駄という、古いイメージばかりを突き付けてくる容姿をしていた。

 

 

「ちょっとおじいさん、危ないですよ?」

 

 

 百代はそう注意するような声をかけながらも、その顔は非常に綻んだ笑顔であった。

 今までの挑戦者は基本的に若い武人ばかり、年を食っていたとしても五十を越えている老人はいなかった。しかし、目の前にいる老人は六十を裕に越えている。ひょっとすると七十さえも超えているかもしれない。

 年齢が上がるごとに強さも増すという法則はこの世には存在しないが、彼女の祖父や九鬼家の執事など、あれほど年を取っていても強さを維持し更に磨きをかけている武人を目の当たりにしてきた百代は、肉体が引き締まった老人というものに期待をせずにいられなかった。

 

 

「舐めるなよ小娘、貴様の数倍は生きとる儂に向かって無礼極まりないわ。して、可か不可か。疾く答えよ」

 

 その百代のからかう様な態度に、老人の温和そうな笑顔は一瞬にして失せ、苛立ちを顕にしながら覇気をむき出しにする。

 老人は首をゴキッと鳴らし百代を睨み付ける。たったそれだけの行為、凝視しただけで百代の右腕の袖が斬れた。

 

 

「!?」

「ふーむ、狙いが定まらん。胸元を狙ったのじゃが、何せ気の量を維持するだけで一苦労じゃわ。どうじゃ、選考前の一芸披露というところじゃ」

「…………これは、舐めてちゃ不味そうだな……!!」

 

 

 百代も男の剣気に誘発されたように闘気をむき出しにする。ビリビリと、周囲にいた人間に激しい波のような衝撃を与えた。

 無論、百代の目の前にいる男もねその波動を感じている筈なのだが、寧ろ心地よく感じているような様子を見せた。

 

 

「良か。良き覇気じゃ。やはり武の神と称される器、生半可な若造が敵う道理は無か。一応言うておくが、儂の本職は鍔迫り合い、刀を持った者に対してしか真価を発揮できん。それを踏まえ、勝負を受けてもらおうぞ」

 

 

 決して言い訳ではないがな、そう付け足した老人は背中に抱えていた日本の長い袋を土手に投げ置き、その内の一本を手に取り封を開けた。その中から現れたのは、約三尺の日本刀。

 

 

「二刀流じゃないのか」

「あちらは“義経用”じゃ。もう一度言うが、儂は刀を持った相手にこそ本気の本気というものが出せる。それを使うにはあちらでなくては、のう。じゃが気兼ねはいらぬ。こちらの刀は貴様の為に持ってきたようなもんじゃ。本来二本も持ち歩く程、儂の手は浮気性でなか。しかし、壊されたら堪ったもんでないのでのう。帯刀許可はある故、その辺りの気兼ねもいらぬぞ」

 

 

 壊される、ということには些か心外であった百代だが、それ程今回の義経との決闘を大事にしているという現れだと、百代はそれを本能で理解した。

 老人は刀を鞘から抜き、鞘をもう一本の刀が入っているであろう袋とともに地面に置いた。

その鞘から抜かれた刀の刃を見た瞬間、百代の体に電撃のような鋭い何かが迸った。

 刀の刃が、一瞬だけ淡い螢火のような輝きを発したように見えたのだ。実に神々しい輝きであったので、百代は一瞬のことだが見逃さなかった。

 

 

「ほう、こいつの気に触れたか。良か、そうでなくては面白くなか」

「何だ、その刀」

「銘を言うたところで解らんじゃろう。それでも知りたいか?」

「ああ」

 

 

 馬鹿にされていることを我慢して百代は頷いた。聞いていたよりも素直な行動を取った百代に驚いた老人であったが、それはそれで面白いと感じて刀の切っ先を百代に向けて突き出した。

 

 

「蛍丸、約三尺三寸の大太刀じゃ。太平洋戦争を期に紛失とされた、国宝指定の日本刀じゃ」

「国宝……? 何だってそんなもんを一般人が?」

「戯け、日本刀の個人所蔵なぞ“ざら”じゃわい。金に目が眩んだ輩が美術館なんぞに寄与するんじゃ。その刀を愛しておれば、重要文化財だの国宝指定だの、どうでもよくなる。大事なのは価値ではなか」

 

 

 百代は突きつけられた刀の穂先から刃文を伝い、なぞるように柄から腕へと移り、老人の目の奥を凝視した。それだけで、百代は老人の強さを垣間見た気がした。その強さは、ただの腕っぷしの強さではく、心の強さ。確固たる強固な意志。

 

 

「それでは、行ってみようかのう」

 

 

 老人は百代に突きつけていた刀を降り下げ、二度空を斬るように振り回した。そして刀を左手に持ち換え、右腕を袖から外して右胸と右腕を露にした後、左腕を吊り上げて右手に刀を持たせ、右肩で担ぐように刀の峰を右肩に乗せた。

 

 

「大道寺銑治郎、罷り通る」

「川神百代、お相手しよう!」

 

 

 互いの名乗りを切っ掛けとして、選抜のための模擬戦の火蓋が切られた。

 銑治郎は左肩を前に出し、右足を限界まで後ろに引き下げ体勢を極限まで低くして、百代に鉄砲のように突撃した。

 それを迎撃するように百代は右拳を下から抉り込むように打ち込んだ。そこで百代は驚愕的な技術を魅せつけられる。

 銑治郎は担ぎ上げていた刀を拳に向かって降り下ろした。互いの速度は目に追えるような生半可なものではない。そんな高速の世界において、銑治郎は降り下ろした刃を百代の拳に当て、それの勢いを全く殺すことなくいなした。

そのいなした方向は百代から見て左側、大振りではないのに大振りをしたように右脇が空いた。そこに銑治郎は潜り込んだ。

銑治郎は腕を思いっきり横に薙いだ。しかし、百代の体に当たったのは刀の刃ではなく、峰でもない。攻撃に使う場所ではない柄を使い、百代の肋骨と肋骨の間に抜き手を通すように、百代の内臓を強打した。

 百代は思わず口から息を漏らした。肝臓に激しい激痛が走った百代は、まるで体が焼けるような錯覚に陥った。瞬間的な回復が取り柄とは言え、人体の構造上の痛みは回避しきれない。それを知ってかどうか、銑治郎の狙い目は実によかった。

 銑治郎は深追いをせずにその場から二歩で離脱し、互いに余裕を持たせる間合いへと移行した。そして銑治郎は再び刀を担ぎ上げた。

 百代は思わず右の脇腹を左手で押さえた。回復は効いているものの、やはり痛みがあったという結果は消せない。肝臓を打たれた鈍い痛みは後を引きやすい。

 しかし、百代は苦痛に顔を歪める訳ではなく、寧ろ盛大な笑顔を見せていた。

 銑治郎に寒気が襲いかかってきた。目の前にいる女子学生から発せられた気の密が変わったのだ。銑治郎は虫酸が走るような思いだった。こんなにも若い学生がこんなにも禍々しい闘気を放っている、銑治郎が忌嫌するような事象だった。

 だからといって手を抜く銑治郎ではない。寧ろ感覚をより研ぎ澄ませる。より鋭利に、より銛利(せんり)に、自身を一本の刀と見立てるように。

 二度目の仕掛けは百代からだった。勢いよく飛び出して拳を銑治郎の腹部に目掛けて打ち込んだ。

 銑治郎はそれを先程と同じように受け流すが、攻撃には転じなかった。百代が同じ攻撃をして自分が同じ回避方法を取ったのだから、きっと何かがあると銑治郎は予測を立てていた。

 そしてその予測は的中した。

 百代は受け流された拳は捨て、そのまま右足を軸に反時計回りに回転して、銑治郎の顔面目掛けて回し蹴りを繰り出した。あらゆる物を突き刺す銛のように、百代の左足の踵が銑治郎のこめかみを襲う。

 それに対し銑治郎は、迫り来る足の裏の踵を丸い鍔で受け止め、刀を手放し自身の左肩も鍔に当て、刀を歯車とするように回転させて回し蹴りを不発にさせた。

 大道芸に近い技法に驚く百代だが、驚きに浸っている暇はなかった。銑治郎は空中で激しく回転する刀を手に取り、回し蹴りの不発により背中を向けた百代の背中を斬りつけようと、刀を大きく振り上げた。

 ゾクッと、百代の背中に悪寒が走った。直ぐ様百代は体を銑治郎の正面へと向けて、降り下ろされた刀の刃に拳をぶつけた。

 その衝撃で周りで生い茂っていた雑草が地面に張り付けにされた。球状に広がる衝撃波は相当な物であった。

 しかし、それでも二人の攻撃は終わらない。百代は体勢を整えて拳を連続で放つ。その一撃一撃が爆弾のように重い破壊力を秘めているが、銑治郎はそれを的確に正確に精密に対処していく。

 百代の左拳を外に流すようにいなし、追撃の右拳を刃で受け止めた銑治郎に、百代は受け流された左腕をフックのように大きく曲げて左拳を放った。それを予測していたのか、銑治郎は刀を逆手に持ち換え地面に突き刺し、百代の側面からの攻撃を耐えた。

 しかし、百代の右腕はまだ死んでいない。刀を突き刺した瞬間に、百代は隙ができたと右拳をこめかみに向かって打ち込んだ。

 銑治郎の対処はまたしても異常なものだった。地面に突き刺さった刀をまるで支柱のように扱い、銑治郎は刀を掴んだ状態で逆立った。そして刀をまるで足のように使い、剣先に集中させた気を爆発させて跳躍した。その跳躍はあり得ないことに二メートルは裕に越えていた。そのせいで百代の両腕は空を切り互いに交差した。

 銑治郎は体を回転させ、着地する寸前に交差した百代の両腕を斬り裂いた。百代の腕から鮮血が噴き出すが、反則的な能力である瞬間回復によって傷を塞いだ。

 互いに再び距離をおいた。百代は心のどこかで銑治郎を舐めていたのだろう。気で防いでいれば斬れることはないと高を括っていたのだろう。百代は心の中で銑治郎に謝罪し、感謝した。ここまで百代を昂らせた挑戦者はいなかった。百代は強者との決闘をただただ感謝していた。

 

 

「して小娘、これの合否はいつ解る。まさか雌雄が決するまでとは言うまいな」

 

 

 ようやく百代のギアが最高潮に達しようというところで、銑治郎の鋭い剣気が次第に緩んでいった。それに百代は失望したが、銑治郎の目的はあくまでも義経であることを思い出して、少しばかり義経に嫉妬していた。

 しかし、選抜は選抜。嘘をつく訳にもいかないし、騙すことはしてはいけない。今見た銑治郎の力だけでも、既に義経と決闘する権利はあった。

 百代に二撃も与え、且つ自身は無傷という好成績。認めざるを得なかった。

 

 

「合格だ。義経と戦っていい。それと、私は川神百代だ。小娘じゃない」

「長幼の序を弁えよ。敬語を使わぬ限り、貴様は小娘のままじゃ」

「うっ…………わ、解りました」

「良か! 百代よ、拳の使い手にしては楽しかったわい。当たっとらん筈だのに、体の所々が軋んどるわ。恐ろしい小娘じゃよ、貴様」

 

 

 まだ小娘と言われたことには些か腹がたった百代だったが、自分より遥かに年を取っていることに加えあの強さを持つ銑治郎に、敬語を使わないのは確かにおかしな話だと思い堪えることにした。

 

 

「さて、義経に挑戦ができるのはいつぞ?」

「私からご説明させていただきます」

 

 

 銑治郎の素朴な疑問に答えたのは、突如として空から現れた銀髪の執事だった。銑治郎は物珍しいものを見たかのように目を見開いていた。

 

 

「クラウディオ、まさか貴様と相見えようとは」

「おや、私のことをご存知で?」

「九鬼のヒュームにクラウディオと言えば、儂らのような朽ちかけの人間からすれば、憧れの存在じゃ」

「光栄ですな。それではご説明させていただきましょう。今義経様は学園生との決闘を処理しております。そのため、本日の決闘は少々難しいでしょう」

 

 

 武士道プランの本来の目的は若者の競争力を高めること。そのために義経は学園生とも決闘を行っている。勿論決闘と言っても、ただ拳の強さを競うもの以外にも、スポーツや遊戯の面でも競っているので、義経は引っ張りだこ状態であった。

 

 

「うむ。して、明日はどうであろうか?」

「明日の午後四時以降は義経様との決闘はございません」

「ならば、明日の午後六時、義経との決闘を申し込みたい。場所はここでよいのか?」

「はい、問題ありません。それでは決闘を正式に受理させて頂きます」

「感謝する」

 

 

 銑治郎は刀の鞘を拾い刀をしまい、袋へと収納してからクラウディオへ頭を下げた。

 それに対するクラウディオの反応は非常に優しい穏和な笑顔を向けることだった。

 

 

「いえいえ、これが私のお仕事でございますから」

「おーい。なんか私が空気になりかけてるぞー」

 

 

 クラウディオと銑治郎が互いに笑いあっていると、痺れを切らした百代が二人の間に割り込んできた。百代の顔は蚊帳の外にされていたこともあって、実に不服そうであった。

 それを見たクラウディオは暫く考え込んで、一つの提案を百代に出してみることにした。

 

 

「百代様。それでは明日、決闘の勝者、義経様と銑治郎様のどちらかと戦ってみてはいかがでしょう?」

「何? いいのか?」

「ええ。そろそろ頃合いかと思いまして」

 

 

 銑治郎と義経を抜きに話を進めるクラウディオであったが、銑治郎はそれに対しては何も思うところは無いようだった。

 戦うならば戦う、義経との決闘さえ行えれば後はどうでもいいようであった。そんな銑治郎を見ていたクラウディオは、心底楽しそうな笑顔を浮かべて笑っていた。

 

 

「しかし、面白いですな、銑治郎様」

「何が面白いのかは知らぬが、何故儂を様付けで呼ぶ」

「見たところ、貴方様の実力は既に私を越えておられる。それなのにまだ私を憧れているということが不思議でして」

 

 

 クラウディオの言葉に百代は得心のいくところがあった。実際に立ち会ってみれば解ることではあるが、銑治郎の戦い方は恐ろしい程の修羅場を数々乗り越えてこそ極められたような、死と生の境目を見極めているような動きだった。

 どこで押せばいいのか、いつ引けばいいのか、そんな判断を感覚的且つ反射的に行っている銑治郎は最早常軌を逸している。怖い怖くないという感情がないとできない芸当だ。つまり、死なないのであれば問題ないという、痛みと恐怖を視野に入れない戦い方をしていたのだ。

 それを端から見て気づいたクラウディオも、やはり九鬼家従者部隊の序列で三位を誇っているだけはあるということか。

 

 

「仮にもし、儂の力が貴方を上回っておったとしても、憧れであることには変わりはありませぬ。クラウディオ、いえ、クラウディオ殿やヒューム殿、鉄心殿は儂ら老い耄れには輝いて見えまする」

 

 

 銑治郎は急に口調が丁寧になった。百代に対して使っていたものに比べれば圧倒的に敬意を払ったものだった。

 

 

「嬉しいものですな。憧れになれるというのは」

「おーい。また私を無視するのかー?」

「黙っとれ小娘。こちとら尊敬すべき相手と貴重な会話をしとるんじゃ。邪魔立てするでないわ」

「また小娘と……!」

「まだまだ若いですな、銑治郎様」

「そちらも、クラウディオ殿」

「何だよこのジジイ共」

 

 

 結局、この日は百代も銑治郎も大きな深手を残すことなく決闘を終わらせた。

 銑治郎は自宅に帰る途中、本日は使わなかった刀を抱くようにして撫でた。源義経と立ち会えると聞いて、実践では一度も使わなかった刀を使えると思うと、心臓が早鐘を打って止まらなかった。老いた体には厳しいものではあったが、銑治郎はそれを心地よく感じていた。

 一方の百代は、本日の決闘で発散できた欲求は六割といったところだった。日々の決闘で積もっていた戦闘欲求は徐々に消化されているとはいえ、真の強者、百代と同ランクである壁を越えた者とは戦っていない。そのために、心の奥から再び戦いたいという新たな欲求が湧き出てきたのだ。それを消化するために、明日は義経か銑治郎のどちらかとやれる。百代は歓喜しながら明日に備えた。

 

 

 その心待にしていた決闘を、自ら放棄する運命(さだめ)とは知らないで。

 

 

「本当に、あの娘は愚直だよ」

 

 

 唯一、その未来を知っている人外は、多馬大橋の上で呆れたように欠伸をしていた。

 

 





 悠々として急げ

 開高健

 ◆◆◆◆◆◆

 オリキャラ五人目、銑治郎お爺さんです。一話につき一人とまではいきませんが、それに近いペースでのオリキャラ出現は少々躊躇われるところもございます。しかしここからはこの無駄に増殖しきったオリキャラと原作キャラを絡ませることに力を注ぎたい所存であります。次回投稿はもう少し間隔を狭くしたいところではありますが、何分バイトが週五七時間拘束という社畜状態でして。それが脱したら余裕のある安定した投稿間隔になると思いますので。

 「ベトナム戦記」「輝ける闇」などを読んだことのある方が、これを見てくださっている方の中にいらっしゃるでしょうか。開高健、私がこう、なんとも表現し難いのだが……先程まで頑丈な作りだった足場が、風船が弾けたように粉砕されて泥沼に落下し沈んでいくような……そんな気持ちにさせた作家でした。泥や火薬や死の匂いが鼻腔を潰し、虫のようにあっさりと死んでいく兵士たちの姿に心臓を麻縄で縛られ、ねっとりと喉に粘ついて離れようとしない文章に窒息させられるような気分に陥ったあの時は忘れません。開高健の作品で釣りの話しか知らないという方は損をしているに違いありません。是非読んで欲しい、そう心から思います。
 それにしても、本を読んでいて戦場に投げ入れられた気分になるのは実に不思議なことです。文章というものは実に不可思議なものです。

 結論。文章は人格破壊の兵器。



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第七帖 埋もれ木の花咲くことも無かりしに――――

――――みのなる果てぞ悲しかりける


源頼政


 

「やあ」

「あれ、天野さん?」

 

 

 川神院の門前、今から日課のランニングをしようとジャージ姿で意気揚々と自宅から出てきた一子は、キャスケット帽子に眼鏡をつけて変装を完璧に施していた慶に遭遇した。その気合の入った変装も、一子の嗅覚の前では一瞬にして破られてしまったのだが。

 

 

「今日の手合わせだけどね、ちょっと場所を変えたいな」

 

 

 どうやら慶は偶然一子に出会った訳ではなく、一子が出てくるのを待っていたようだ。忍ぶべき身の慶が知り合いに会う危険を省みずに伝えたいこと。一子が真剣な面持ちになるのは至極当然なことであった。

 

 

「昨日知り合った九鬼家の執事さんに聞いたのだけれど、どうやら今日の夕方は河川敷で決闘があって、百代さんが立会人になっているらしいんだ。非常に困った状況でさ。場所をもっと上流にしよう。私の知り合いもいるから大丈夫だよ」

「九鬼家の執事? 九鬼くんのところの執事さんと知り合いなんですか?」

 

 

 一子の素朴な疑問にどう答えるか迷った慶は、落とし物を拾って届けてあげたところから知り合ったという軽い嘘をついて誤魔化した。

 馬鹿正直に昨日起きた出来事を一子に伝えると、慶が一子のことをどう思っているかが知られてしまうために躊躇われたのだ。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「止めろぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

 

 それは昨日のこと、慶は左腕の空虚な痛みに耐えきれず、襲い来る汚い負の感情に押し潰されそうになった。足場がなくなり自身の輪郭さえもなくなってしまった感覚は慶の五感全てを狂わせ、落下しながらも浮上するような真逆の感覚を同時に身に浴びる。

 それから逃れるために橋から飛び降り、多馬川の緩やかな流れに身を投げた。いっそのこと体を打ち付けられて体中に痛みが襲ってくれば、左腕にだけに意識が集中しなくて済むからだ。

 目を瞑り、水面に叩きつけられる覚悟を決めて、慶は叫ぶことをやめた。いや、叫びが限界を超えて声にならなくなったという方が正しいのか。

 着水すると思われたその時、慶の体に暖かい何かが触れ、一瞬落ちている感覚が浮き上がる感覚へと変わった。しかも体に痛みはない。慶は強く塞いでいた瞼をゆっくりと開けた。 そこで慶は、青い髪の執事姿の男に抱き抱えられていることに気付いた。

 

 

「危ないですよ? 幾ら潜水できる深さがあるとはいえ、あの高さからでは着水時に深手を負ってしまいます。折角美しい容姿をしているというのに、危うく傷物になってしまいそうでした。まあ、私の母の方が美しかったですが」

 

 

 急に自分の母の自慢を始めた執事姿の男は慶を優しく降ろして、川に落ちかけた帽子を優しく慶の頭に被せた。

 少し冷静になった慶は今どうしてこうなったのかを考えた。

 恐らく、慶が橋から飛び降りて川に落ちる前に、この執事姿の男は土手から飛び出し慶を受け止め、対岸の岸に着地したのだろう。それを可能にするためには驚異的な脚力が必要であるが、今はただ助けてもらったと理解しておくことにした慶。冷静に現状を理解しようとしたお陰で、慶の左肩の疼きは消え去っていた。

 左肩の疼きは燻っていたが退屈そうに消えた、慶はまるでこの古傷の痛みが自我を持っているような錯覚に襲われた。

 

 

「あの、貴方は?」

「九鬼家従者部隊序列四十二番、桐山鯉と申します。そう言う自殺志願者の貴女は、天野慶さんで間違いありませんか?」

 

 

 慶は初対面である筈の人に、橋からの飛び降りを助けられた上、フルネームで呼ばれたことが非常に驚き呆気に取られてしまう。桐山鯉と名乗った執事は素早く慶を立ち上がらせ、慶の服についた土や草を手で払ってくれた。紳士的な行動に、慶は鯉を敵と見なすことをやめた。

 

 

「何故私のことを?」

「二年前の事件の当事者に、あの事件の真相を聞きに参りました」

 

 

 二年前、慶はその単語だけで体が硬直してしまった。しかも当事者とまで言われてしまっては逃げるわけにも行かず、覚悟を決めて鯉の話を聞き、答えられるだけ答えることにした。

 しかし、はぐらかせることができればそれでいいと、慶は始めは白を切って様子を窺うことにした。

 

 

「真相? 学長にでも聞けば、ほぼ全てのことが解りますよ?」

「貴女が全治三ヶ月に追いやったという生徒、明らかに貴女がやったとは思えないんです。貴女の拳や足、小さいですよね? 被害者の傷と一致しませんでした」

 

 

 そこまで解りきっているのかと、慶は心底呆れていた。この人生において一番大きいと思う程の溜め息をついてしまった。鯉は慶が諦めたことを確認してより笑顔になり、更に深く追求する。

 

 

「貴女は被害者ですね?」

「私は加害者ですよ。それはもう、許されざる」

「私が聞いているのは、“全治三ヶ月の重症になった生徒と貴女の関係”です。改めてお聞きします。貴女は、被害者ですか?」

「――――――被害者、です」

 

 

 鯉は二年前の事件の全貌を知っているのかもしれないと慶は疑った。慶が加害者であるということを否定することなく、被害者であることを再確認してきた鯉は、慶の心の傷を正確に見極めているようだった。

 慶は加害者であり、被害者である。傷つけて、傷つけられていた。

 慶は許されざる加害者であるとともに、許しはしない被害者であった。

 

 

「一体、桐山さんは、どれ程知っているのですか?」

 

 

 慶は震える声で鯉に尋ね返した。心の傷を抉られながらも、気骨が折られることなく鯉に問い返した。

 そんな慶の必死の問い掛けに対して、鯉は飄々と笑って答えた。

 

 

「貴女が苦しんでいて、もうすぐ真実が明るみに出る。貴女自身がこれまで積み重ねてきたことにより。それまでに、百代さんに知られてはいけないのでしょう? 警戒されてしまいますからね」

「…………もう全部知っているのですね。恐ろしいですね、九鬼家の情報網は」

「世界の九鬼ですから」

 

 

 先程この人生で一番呆れたと思う程の溜め息をついた慶であったが、たった今より呆れた溜め息をついて記録を更新した。

 慶はようやく諦めて鯉に全てを話した。慶の口から発せられる内容に、鯉は度々頷いたり相槌を打っていた。慶は今まで誰にも話さずに自分の内に溜め込んでいたこともあり、一切の滞りもなくスラスラと流れるように口から溢れていった。鯉はそれを全て掬い取って記憶していっていた。

 そして数十分後、慶の懺悔のような言葉が打ち止めとなった。慶は全てを吐き出して、呆然として脱力していた。

 

 

「ありがとうございました。辛かったでしょう、いや、まだ辛いのですね」

「あはは、確かに、まだまだ辛いですよ。でも、吐き出すと意外と楽になれるものですね」

 

 

 鯉と慶は互いに笑いあった。鯉は慶の心の内に触れたような気がして、少しだけ慶のことが理解できたような気がした。慶は慶で鯉の懐の広さを感じることができたような気がしていた。意外とこの二人は気が合うのかもしれない。相容れるかどうかは解らないが。

 

 

「それでは、これは記録としては保存しておきますが、やはり我々が手を下すような内容ではないのですね」

「はい。私が自分で決着をつけなくてはなりません」

 

 

 そうでなくてはいけないと、慶は自身の決意を鯉に伝えた。それに鯉は目を閉じてゆっくり深く頷いた。

 そこで、慶は素朴な疑問を鯉にぶつけた。

 

 

「ところで、何故今更になってこのことを?」

「いえ、今回の武士道計画(プラン)のため、九鬼家は街の汚点を排除するというクリーンな活動を展開していまして。その行程の中に過去の犯罪者の洗い出しのようなものがありまして。個人的に気になったというのもありますが」

「なるほど、危険人物の調査も含めているのですね」

 

 

 自分が危険人物の類いとして見られていたことに全く不愉快に思っていない慶を見て、鯉は不覚にも吹き出しそうになってしまった。あまりにも物事を容易く受け入れてしまう慶が滑稽であったからだ。無論、慶も自分が滑稽な存在であることは重々承知している。

 武士道計画なるものがどういうものかは慶は深くは知らないが、クローンを用いて偉人を現世に復活させるということだけ知っていればいいかと、慶は自分に言い聞かせて聞くことをやめた。尤も、話し疲れて聞く余裕がないということもあるのだが。

 

 

「それともう一つ。貴女はホームレスとお聞きしましたが?」

「心外ですね。侵害です。自宅はありますよ? ただ、テント暮らしの方が拠点を移すのに便利なんですよ」

 

 

 慶は川神で放浪すると決めた日にテントを購入し、多馬川の上流にある堤防でテント暮らしをしている。その方が百代や知り合いに会った際に、即座に拠点を換えることができるためにそうすることにしたのだ。

 そんな慶の事情を知らない他人が、慶のような美人がテント暮らしをしているところ見てしまうと、何か大変なことがあったのかと思われるような光景ではあった。

 

 

「そのホームレス、もといテント暮らしを共にしているあのお方は……」

「テント暮らし初日に知り合い意気投合しました」

「あの女性ですが、常に九鬼の監視を受けているのはご存知ですか?」

「ええ。そのようなことを本人から聞いております。特に気にはしていません」

「それならばよいのです」

 

 

 鯉は聞きたいことや知りたいことを全て把握できて満足したようであった。慶も自分の冤罪を理解してくれる人が増えて気が楽になったようだった。

 

 

「それでは私は街の警邏に戻ります。自殺に疑われる行為は慎んで下さい」

「以後、気を付けます」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 などと、慶が実際にあったことを言うと、一子がどんなことを言うかが解ったものではなかったので、慶は細々と慣れない嘘をついていくことにした。嘘を吐く度に間延びしたり口篭ったりする様子は実に覚束なかった。

 そんな付け焼き刃の嘘ではやはりボロが出かけるものだが、その虚構の話を聞く者が難しい話に滅法弱い一子であったのが幸いして事なきを得た。慶は心の中で何度も一子に謝罪していた。

 そんな危うい橋を渡りながらも、慶は一子をつれて多馬川の上流にある堤防に到着した。そこにはポツポツとテントが張ってあるが、人気は下流に比べれば閑散としたものだった。

 

 

「ここでやろう。立会人を私の知り合いに頼もう。知り合いと言っても、もう同居人みたいなものだけど」

 

 

 そう言って慶は幾つかあるテントの内の一つの中に入っていった。随分と手慣れたような動きであった。

 まさか慶がホームレスばりのテント暮らしをしているとは思ってもいない上、慶の今置かれている状況を何も知らない一子は、これは別の人のテントで慶にとっては休憩所のようなところであると勘違いをしていた。実際は慶の現在の拠点であり、二人暮らしなのだが。

 などと、一子が盛大に勘違いをしていると、テントから帽子と眼鏡をとった慶と、一子の予想だにしない人物が現れた。

 

 

「えぇ!?」

「む……お前は確か……」

 

 

 どうやらテントから出てきたその人も一子のことを覚えていたようで、多少なりにも驚いていたが一子のように大声をあげる程ではなかったようだ。

 

 

「あれ、お知り合いなのですか?」

「私としては、お前とあの子が顔見知りであることが驚きだ。忍ばなければならない身だと言っておいて、よくもまあ短時間に知人を増やす奴だ」

 

 

 慶の質問に対し、その人物は半ば呆れるように溜め息をついていた。纏め上げていた銀色の髪の毛を軽く揺らし、黄色い瞳から放たれる鋭い眼光は、未だにその人物が衰えていないことを示していた。

 

 

「橘、天衣、さん……!? な、何で!?」

 

 

 一子は驚愕していた。一子の目の前にいるのは、元武道四天王の一角であったからだ。

 橘天衣。西の方ではその圧倒的な速度を活かし、その脅威的な速度で猛威を振るっていたことから、スピードクイーンという二つ名を欲しいままにしていた女性である。

 かつて天衣は百代に破れてしまい、その後自分を鍛え直そうと修行の旅に出るも、北の地において黛十一段の娘である黛由紀江に敗れ、掟に従って四天王の称号を由紀江に強奪されてしまった。

 その後、武道家としての道から自衛隊への道へと移り、国のために尽くそうと決めていたが、その国に捨て駒扱いにされて解りやすくやさぐれてしまった。しかもそのやさぐれ方が極端で、一種のテロに近いものを引き起こそうとしていた。しかし、それはある学生たちの奮起により未然に引き留められた。

 そして彼女は九鬼に身柄を引き取られることとなり、社会復帰のためのリハビリに勤しむことになった。

 一子はその辺りの経緯を半分程知っていた、と言うよりも、その天衣のテロを未然に防いだのは一子たちの仲間たちである。その関係者と言っても過言でない一子は、天衣からこの川神で過ごすことになった経緯を聞き情報を補完したのはよかったのだが、どうして九鬼に引き取られて尚、こんなホームレスと変わらない生活を送っているのかが解らなかった。

 そこに疑問を感じていた一子を見た天衣と慶は顔を見合せ、二人が出逢った時の話をすることにした。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 それは数日前、慶が手合わせで気絶させてしまった一子を背負って川神院に送っていった帰りの出来事であった。

 慶は多馬川の堤防を更に越えた奥の上流で、拠点を川神に移すにはどうしたらいいかを石を川に投げ込みながら考えていた。

 なるべく値は張らない方がよく、すぐに寝泊まりができて、自由度の高い拠点を第一として考えていた。百代などに見つかった際に、直ぐ様撤去して場所を移すことが出きることが理想であった。

 どうしたものかと、何度か石を投げ入れて悩んでいた慶は、遠くの方で何か妙な声を聞き取った。叫び、とは違い、奇声、と言うのも語弊がある。何と言えばいいのか慶はよく解らなかったが、兎に角悲壮感の漂う酷い声であったことは直ぐに解った。もうこの時点で慶は自分が忍ぶべき身であることを忘れ、その声の主が一体だれで、その声の主に一体何があったのかを確かめに行くことにしたのだ。

 声は慶がいる場所よりも下流側、場所的には堤防がある場所が発信源であった。慶は早足でその場に駆けつけた。するとそこには、両膝と両手をつき、解りやすく沈んで落ち込んでいる女性の姿があった。泣いている訳ではないのに、それ以上に悲しいイメージが慶の心に与えられた。

 それはもう酷いほどに暗い印象を擦り付けてくるもので、事情をそこまで知らない筈の慶に同情させるような力を持っていた。そんな無理矢理に同情をさせてくるような人を放置することはできず、慶はがっくりと項垂れている女性に声をかけた。

 

 

「……なんだろうか、私が惨めだったのか?」

 

 

 一切の事情を知らない慶の目の前で自虐的な発言をした女性は、体中から暗いイメージのオーラを発していた。それはもう物凄い勢いでモヤモヤと漂っていた。

 しかし慶はそれに対して怯んだり竦んだりすることなく、めげずにその女性の肩に手を乗せて明るく話し掛けた。

 するとその女性は、自分の身に何があったのかを徐々に話してくれるようになった。

 

 

「家が、テントが……流された……」

 

 

 なるほどと、慶はこれほどまで落ち込んでいる理由をようやく聞き出せて若干満足していた。目の前で不幸に打ちひしがれて落ち込んでいる人の前で失礼だとは思ったが、それでも満足は満足であって誤魔化しようがなかった。

 それにしても気の毒だと、慶は声には出さず心の中でこの不幸な女性を憐れんだ。この女性の落ち込みようを見れば、恐らく人生の大半が不幸に見回れていたということが予測できる。落ち込み方や沈み方があまりにも板についていたからだ。本の些細な幸福で至福の時を味わっているような、そんな健気な人生を送ってきたのだと推測できる。

 

 

「テントの中の荷物は無事でしたか?」

「缶詰と乾パンは無事だったが…………衣類はびしょ濡れだ。またコインランドリーに行って洗わなきゃな、は、ははは…………」

 

 

 女の人は唯一生き残っていた非常食たちを抱き抱えながら負のオーラを撒き散らして笑っていた。テント暮らしの恐ろしさを垣間見た気がした慶であった。

 しかし、慶はここで妙案を思い付いた。テント暮らし、今自分が求めている拠点の条件を全て満たしているではないかと。

 

 

「テント、そうか」

「……? 私の見るも無惨なテントに何か?」

「いや、そこまで卑屈にならないで下さい。私もテント暮らしをしようと思いまして」

 

 

 と、慶が自分の決意をその女性に告げたのだが、女性の反応は芳しいものではなかった。 それもそうだ。今目の前でテントが悲惨なことになっているのにテント暮らしを始めると言い出すなど、あまり誉められたことではないし何を考えているのかと注意されるレベルだ。

 しかも慶はその上、忍ぶはずの身とは思えない、とんでもないことを口にした。

 

 

「どうですか? 一緒のテントにでも?」

「……………………え?」

 

 

 その女性は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、すっとんきょうな声を上げてポカンとしていた。慶の発言が全くもって理解できなかったからだ。それに、慶が何故そのようなことを真剣な顔つきで言えるのかが解らなかったのだ。

 

 

「どうですか? 悪い話ではないでしょう?」

「いや、少し待ってくれ。色々と言いたいことはあるのだが、まず第一に、何故見ず知らずの私にそんな提案をするんだ?」

「不幸な出来事に見回れている人を、見過ごしていい理由などありません」

 

 

 聖人君子のような発言をした慶、女性が呆れるのも仕方がないことであった。

 

 

「それに、私はもう独りがそろそろ辛くなってきてしまいまして。ルームメイトがいてくれると助かるんです」

 

 

 慶は自分の助けにもなると、如何にも要求を飲み込みやすくする発言をした。互いの利益になるのなら問題はないと、非常に甘い蜜のような提案を提供した。勿論、独りが辛くなっているということも嘘ではない。一子や燕の人格に触れ、人の温かみが恋しくなったというのは事実なのだ。

 しかし、それに対する女性の反応は決していいものではなかった。救いの手が差し出されているのに、それを見ようともせずに諦めているような感じであった。

 

 

「私と一緒にいると、君にも迷惑がかかってしまう。不幸が移ってしまう」

 

 

 まるで感染病のように自分の不幸体質を気嫌っている節が女性に見られた。

 しかし、慶はそのようなことを気にするそぶりも見せずに、恐らく慶のできる全力の笑顔でこういった。

 

 

「いいですよ。その不幸、私にも分けてください」

「………………え?」

「元より私も不幸体質です。左腕を失って、家族を失って、友達も失って、もう何があっても怖くはありません。そんな感情は既に欠落していますがね。私の不幸体質と貴女の不幸体質、それが合わさればどんな不幸も恐れをなして逃げていきますよ?」

 

 

 慶が笑顔で自分の不幸体質を話すことができていることに、女性は目を見開く程に驚いていたが、直ぐに我に帰って現実を直視した。

 

 

「そんな都合のいいこと……」

「不幸体質って、人に甘えることができなくて辛いですよね?」

 

 

 図星、その単語が今の女性の表情にピッタリのものであった。私もそうなんですよと、慶は自分の身の上話と共に会話を続けていく。

 

 

「不幸が移ってしまう、その危惧はよく解ります。それはもう、嫌というほどに。それならば、不幸体質は不幸体質同士、不幸を舐め合って不運に生きていきましょう。ひょっとすると、不幸と不幸がぶつかり合って相殺できるかもしれませんよ?」

 

 

 慶の話は実に現実味のないものであった。不幸が逃げていくだの、不幸同士で相殺するだの、まるで夢物語であった。しかし、そんな雲を掴むような話に、魅せられた。

 

 

「いいのか、知らないぞ?」

 

 

 最後通告のような、慶を拒絶するような言葉を発しながらも、女性は差し伸べられている救いの手を掴みとろうと、弱々しい腕を恐る恐る伸ばした。

 

 

「望むところです」

 

 

 救いの手が、女性の手を先に掴みとった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「おお! 何だかいい話!」

「そのあと二人でテントを選びに行ったんだよ」

「本当に人目を逃れる気があるのかと問い質したくなったな」

 

 

 十数分かけて語られた慶と天衣の出逢い。しかし、慶はそのような例の如く多少の編集を施した内容を語った。慶が友人と家族を失っていることを、一子はまだ知らない。天衣も話を合わせていた。

 

 

「それで、その不幸はどうなったんですか?」

「見事に不発だよ。いい意味でね」

「まさかこうまでうまく行くとは思わなかったな。雨が降ってもテントは流されないし、食べ物も腐っていない」

「……橘さん、今までどんな人生だったんですか……?」

「ね? この人、刺身を食べると食中りするって警戒していたんだよ?」

「悪いか? 今までまともな刺身を食べたことがない」

 

 

暫し天衣の不幸トークに花を咲かせ、三人で他愛もない話を交わすのだった。

 

 

 





 孤独はすぐれた精神の持ち主の運命である

 アルトゥル・ショーペンハウアー

 ◆◆◆◆◆◆

 目的達成、とも言える今回のお話。物語に橘さんを参加させることが第一目標でした。正直Aの橘さんを見たらまた書き直したくなるのでしょうが、そこはグッとこらえて先んじらせてもらいました。
 清楚ちゃんもしっかりとA-2を見てから書きたいのですが、発売予定が延期して初夏になったため予定が若干狂いました。それでも平常運転できるように精進します。

 不幸か幸福か、そう感じるのはは気の持ちようだと私は思います。逆説と順接を使い分けるだけで変わるものです。これはスポーツ界のコーチもよく選手に投げかけるそうです。投げた球は完璧だった“のに”打たれてしまった、のではなく、完璧だった“から”打たれてしまった。そう思うだけで変わるものです。ポジティブかネガティブか、これもそういった関係ではないかと。

 結論。性格の両極端は繋がっている。


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第八帖 見しおりのつゆわすられぬ朝顔の――――

――――花のさかりは過ぎやしぬらん


光源氏


 

「やあ、(ぼく)

「やあ、槿(わたし)

「何用かな? こちとら準備で忙しいのだ。こんなに楽しいこと、止められないし、止まらないよ」

「人の遊戯(計画)に茶々を入れるんじゃあない。余計なことを。その中毒性を止めに来た。止めるべきなんだ」

「何を言いに来たのかと思えば、滑稽だ。戯言だ。荒唐無稽だ。元はと言えば、(ぼく)が始めたことじゃあないか」

「確かにその基盤はぼくだ。海のものとも山のものともしれないけれど、ぼくはそんな設計図を描いた覚えはないな」

「ははは、それこそ滑稽だ。設計図なんてあってないようなものだ。完全に作れないものの設計図をご丁寧に書き記したところで、それを完璧に再現できると本気で思っているのかい? こんな宙ぶらりんで不確定なものを用意したところでどうするって言うのさ」

「思っちゃいないよ、思っちゃいけない。その設計図はあくまで枠組み、制限だ。それをはみ出さないようにと敷いておいた限界値。けど、槿(わたし)のそれは逸脱している。目的を履き違えている。例えるなら、ぼくが病院を建てようとしているのに、槿(わたし)は拘置所を建てようとしている」

「どちらも人を閉じ込めるよ」

「そこに収容する理由が違う」

「隔離することには変わりない」

「そう見えていても待遇が違う」

「ふーん。何でさ、そんなにも人間をこよなく愛しているの?」

「それじゃあ逆に問うよ、何でそんなにも人間が嫌いなんだ?」

「答えてあげるよ、見ていて吐き気がするからだ」

「ならぼくも答える、見ていて胸が高まるからだ」

「おかしいね、(ぼく)はわたしなのに、こうも意見が食い違って一致しないなんてさ」

「ぼくと槿(わたし)は鏡写し。似ていながらも、決して同じじゃない。全てが真逆なんだ」

「対極する存在、か。わたしが負の感情の集まりとでも?」

「なんだ。槿(わたし)がちゃんと自覚していたなんて意外だったよ」

(ぼく)の真逆を言ったまでさ。特にそう感じたこともない」

「なるほど。しかし、何故こんなことを考えたのさ?」

「わたしは人が殺したい。先人の言うところの殺人愛という奴さ」

「隣人愛のような言い方を。殺人愛など十戒でも説かれていない」

「そこは新興宗教の御神体、若しくは十戒でも解かれていない裏の戒めなのさ」

「裏の戒めなど、根も葉もないことをよくもまあ平然と。無根拠、事実無根だ」

「そうさ。わたしらは事実無根の存在だ。曖昧模糊で不安定な存在だ」

「それは事実だが、下らない会話は仕舞いにして、早く本題に入ろう」

「そうそう、それで? 何をしに来たのか? こんな山奥まで物好きな(ぼく)だね」

槿(わたし)がやろうとしていることは、決してやってはいけないことだと教えに来た」

「誰がそんな規律を定めたのさ? こんな穢れきった世界に裁きの手を加えて何がいけないのさ」

「裁きの手を加えて、世界を無に帰そうと言うのか? それこそ、裁かれるべき行為じゃないか」

「天罰だって災厄だって、神が引き起こす事だってあるだろう?」

「天罰だろうが災厄だろうが、槿(わたし)のやることとは全く違うものだ」

「大同小異万古不易」

「堅白同異異端邪説」

「はあ、解り合えないね。逸脱した水掛け論という奴だ。無意味で無価値で不必要だ」

「仕方がないさ、ここまで平行線だと。ぼくらは鏡写しだ。決して触れ合えないのさ」

「わたしはね、(ぼく)のことは嫌いじゃないんだよ? 寧ろ愛しているくらいに憎らしい」

「矛盾してるね。だけど、ぼくも槿(わたし)のことは嫌じゃない、吐き気がするほど恋しい」

「人間の世界じゃ、これを相思相愛と理解するのか、それとも」

「気の触れた仲間だと思われるのが関の山だろう。やれやれだ」

「気の置けない仲間とは紙一重だ」

「全くだ。その考えは一致してる」

「さて、どうするんだい? (ぼく)。どうやら話し合いは無駄みたいだけど」

「そうだね。それでも、しっかりと(わたし)の暴挙を食い止めさせてもらおう」

「どうするのさ、武力勝負なんかできないだろう? わたしらは戦えないし、戦わない」

「じゃあ、カバラでもしようか? 久しくトランプは触っていない」

「わたしはポーカーがいいな。あの五枚全て揃った時の感覚がいい」

「じゃあそれら含めて幾つかやろうか。世界の命運を掛けたお遊戯だ」

「イカサマは止してくれよ? ただでさえわたしらは強運なんだから」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 普段は風の音や水流の音ばかりが響き渡る多馬川の河川敷だが、今日ばかりはそのような自然な音が掻き消される程の野次馬が集っていた。共に来た友人と繰り広げる会話、電話で状況を知らせている電子音、今か今かと待ち望んで堪えきれず漏れる奇声、人工的音源で多馬川は満たされていた。

 彼ら野次馬の目的は至極簡単、というか、野次馬が集まる理由など一つしかない。見物客として達観しに、第三者として楽観しに、無責任且つ無関係に見物しに来ているのだ。

 そして、その見物の晒しものとなるものは、類い稀な決闘。川神が誇る武神の審査に無傷で合格した老剣士と、壇ノ浦の英雄の蘇りである女剣士による、剣舞。互いの誇りを一閃に込めている、剣豪同士の決闘。

 野次馬としてやって来た一般人は、その胸を熱くさせてくれるであろう決闘に心を踊らせ、期待感に突き動かされて今ここに集まってきている。それはもう、飴に群がる働き蟻のように。

 そして、その決闘の役者が現れた。一人は橋の上から、一人は下流から。橋の上から飛び降りたのは、金色の柄を持つ所在が不明とされていた刀、かつては膝丸と称されていた伝説の刀、薄緑を携えた女剣士。

 下流から剣気を放ちながら歩いてきたのは、年老いたことを現す白い顎髭に白い角刈り、通気性は良さそうだが運動しにくい浴衣姿で、刀を一本だけ袋にいれたままの老剣士。

 今、二人が歩みより対峙する。観客の盛り上がりは上昇しているはずなのに、その歓声は段々と収まり私語は消え失せていく。唾を飲み込む音も諸方から聞こえてくる。

 

 

「お相手頂き、感謝する」

 

 

 先に口を開いたのは老剣士だった。重々しくも開かれたその口から発せられた言葉は、目の前にいる一回りも二回りも若い女子に向けたものであるのに、籠められている敬意は最上級のものであった。

 

 

「こちらこそ、剣を交えることを楽しみにしておりました」

 

 

 それに答えた女剣士は爽やかな笑顔をしていた。それにも関わらず、迫力はより一層増していた。老剣士の剣気に当てられて身が震えたのか、刀と鞘がぶつかり合う音が一瞬だけ聞こえた。

 互いの闘気と剣気が交差する。何も関係のない野次馬が、無関係にいた見物客の筈なのに、その気迫に当てられて後ずさる。その見物人の体からは冷や汗が滲み出ていた。

 

 

「それでは、お披露目といきまする。解りますかな、この刀」

 

 

 老剣士は抱えていた袋から一本の刀を取り出した。その刀は一見何の変鉄もない刀――素人から見ればどんな日本刀も刀でしかないのだが――であったのだが、女剣士がそれを直視した時、女剣士の心臓が爆発するかと思う程に大きく震動した。

 

 

「――――何と、こんなところで、“あの子”の気を感じるなんて……」

「お気に召したじゃろうか」

「ええ――――それはもう、有り難い程に」

「それは重畳、態々持って来た甲斐があったというものじゃ」

 

 

 老剣士は鞘から刀を抜き、鞘と袋を土手に投げ置いた。その際に袋で鞘が傷つかぬようにしたのは、手慣れたかのようなものであった。一見乱暴に扱っているようだが、その際に老剣士は細心の注意を払っている。

 

 

「それでは、始めようぞ」

「ああ!」

 

 

 老剣士と女剣士は互いに構えをとった。女剣士は刀を両手で持ち後ろへ流すような構え、近接の速度重視な刀法の構えであった。対する老剣士の構えは、昨日武神と戦った際に見せた、片手で担ぎ上げた突撃型の構え。

 

 

「こらこら、立会人が来てから始めろ」

 

 

 今にも決闘が始まろうというところで、若い女の声が天から響き渡ったかと思うと、空から黒髪の美少女が登場した。

 その現れた人物と、華麗な登場の仕方に観客の止んでいた歓声がドッ! と溢れ出した。

 

 

「川神、百代か。遅かったのう」

「時刻二分前だ。じいさんたちが早すぎるんだ」

「百代さん、早く来て損はない」

 

 

 時間に間に合えばいいという百代の短絡的な考え方と、二人の剣士の余裕をもった行動を優先する考え方は噛み合わなかった。

 

 

「では、互いに名乗りをあげろ!」

 

 

 百代が叫んだ。その叫び声に圧倒されて観客は強制的に黙らされた。いや、百代がそうしなくとも、より強くより濃く闘気を放つ二人の剣士の前で、何か無駄な話をしようとは誰も考えない。いや、考えている余裕すらないのだ。

 二人は構えを一切崩すことなく百代に対処しきり、再び目の前の対戦相手を凝視し、相手の喉元をかっ切るような剣気を放ち続ける。そこで女剣士が多馬大橋を反響させて揺らすような声をあげる。

 

 

「源義経、いざ参る!!」

「大道寺銑治郎、罷り通る」

 

 

女剣士、源義経の名乗りに対し、老剣士、大道寺銑治郎の名乗りは抑え目だった。しかし、その気迫は義経のそれに勝るとも劣らない。

 

 

「それでは、時間制限無し、一本勝負――――始めぇっ!!!」

 

 

 百代の開始の合図によって観客たちが歓声を蘇らせる――――

 

 

 

――――それよりも早く、二人の剣士は動いていた。

 

 

 

 観客の声が上がる直前に、二人の刀は激突した。一合目から鍔迫り合いの始まりに、観客たちの声は一度驚愕で静まり、あまりの速業に感動してより盛り上がりを見せた。

 

 

「流石源義経、この速さに対応できる剣士は、日本を巡っても二桁はおらん」

「そちらこそ、こんな速度の剣撃は滅多にお目にかかれない!」

 

 

 鍔迫り合いで刀がぶつかる鈍い音がしたまま、二人は互いの剣術を称賛する。それは戦いが激化してしまえば、もう終わった後にしか言えなくなってしまうのだから。

 

 

「では、本格的に戦おう!」

「うむ、行くぞ英雄」

 

 

 鍔迫り合いを互いに押しやり距離を取り、次の攻撃に移った。

 先に仕掛けたのは義経だった。驚異的な脚力を用いて飛び込み、鋭い斬撃を銑治郎の無防備な左脇を狙って放った。銑治郎は左腕を固定しているため、左手に刀を持ち換えることはできなかった。

しかし、銑治郎の対処は恐ろしい程に速かった。まるで左脇は右脇よりも感度が高いのか、まだ義経が斬りかかるかどうか解らない寸前のところで、既に銑治郎は左側の攻撃に対処するように刀を構えていた。そして、義経の斬撃を上方へいなし、今度は銑治郎が上から斬りつけた。ここまでの工程を、銑治郎は義経の太刀筋を一切見ずに行った。

 義経に完全に当たると思われていた銑治郎の斬撃、しかし、義経もまたそれを予測していた。先程の鍔迫り合いで互いの力量が測られ、警戒心は最高点に到達していたのだ。義経はいなされた勢いを寧ろ上げ、超速で一回転をしてその銑治郎の斬撃を受け止めた。銑治郎がいなした方向が上方であったため、銑治郎の構えもまた大降りであったがためにできた芸当であった。

 

 

「ほう……」

 

 

 思わず感嘆の声を漏らす銑治郎と、額に汗をにじませる義経を見れば、どちらが現在優位に立っているかが分かる。勿論、それは技術的な意味ではなく、精神的な意味である。

 再び刀同士が弾かれ距離が空いたが、互いに飛び出し距離を即座に埋めた。銑治郎が打ち上げ降り下ろしという二段攻撃で、義経の刀を弾こうとするも、義経は冷静に打ち上げの斬撃を銑治郎のようにいなし、戻ってくる降り下ろしを下に弾いた。

 その弾かれた勢いで銑治郎の刀が地面に刺さった。好機だと見いだした義経は小降りながらも銑治郎の胸元を斬りつけた。

 しかし、次の銑治郎の対処は義経の予測を上回った。

 一度刀を手放し、逆手に持ち換えて引き抜くように持ち上げた銑治郎の行動は、義経の降り下ろしの攻撃を防ぐことができた。

 義経も驚いたが、驚いてばかりもいられないので、攻めの手は休めずに連続で斬りかかる。義経が売りとする高速七連続斬撃が火を噴いた。

 

 

「ぬぅっ……!!」

 

 

 その高速斬撃に、初見では対処しきれなかった銑治郎に、防げなかった二斬が左腕と左脇腹を襲った。

 距離を置こうと後退しようとしていたために、多少のダメージは軽減できたものの、銑治郎の体に確かな傷が刻まれた。

 さらに義経は攻めの手番を譲らない。そのまま押しきろうと追撃を試みた。

 

 

「……天国(あまくに)式、小鴉(こがらす)

 

 

 そこで銑治郎の“対剣士用剣術”が遂に真価を見せた。

 即座に刀を担ぎ上げ左肩を突き出し、突撃してきた義経にタックルするように突っ込んだ銑治郎は、義経の一発目の斬撃をいなすと同時に、義経の脇をすり抜けた。

 義経は体制を崩されながらも転ぶことなく踏みとどまり、直ぐに銑治郎が走り去った方向へ振り返った。

 

 

 そこに、銑治郎の姿はなかった。

 

 

 拙い、義経は直感でそう感じて刀を構え、全方位に神経を集中させて銑治郎に備えた。時々勢いよく振り返り、背後の隙を限り無くゼロにする。

 しかし、二十秒程経っても銑治郎からの攻撃は全くなかった。義経は気味が悪くなって警戒心がより強くなった。その瞬間、義経の背後と右前方と左脇から、雪駄が雑草を踏み分ける音がほぼ同時に聞こえた。

 あまりにも奇妙なことに、義経は軽く十メートルは転がりながら前進した。そこで、振り返った義経の目に銑治郎が映った。映ったのだが、実に奇妙な光景だった。

 

 

 ほぼ上半身が動くことなく、まるで幽霊のように滑らかに移動していた。それは不気味でありながらも優麗であった。

 

 

 義経は理解した。銑治郎の剣術は錯乱主体であると。こうまで掻き乱されると、剣士が戦うにおいて必須の集中力を根刮ぎ持っていかれてしまう。義経は精神をより集中し、銑治郎の動きに対処しようとする。

 そこで銑治郎が新しい動きを見せた。先程まで滑らかにゆっくりと動いていた銑治郎が、まるで鉄砲から発射されたような加速度で義経に襲い掛かった。その踏み込みはほぼゼロ、最低速度から最高速度へ爆発的な加速を見せた。

 

 

「ッ――――!」

 

 

 思わず息を漏らした義経だったが、速度は義経も得意とするところ。この対決を逃げる訳にはいかなかった。

 しかし、義経は逃げなくても、銑治郎は義経から勢いよく逃げた。

 突進していた銑治郎は再び爆発的加速を用いて、途中で方向を変え義経の右側へと姿を消した。義経はそれを迎撃しようとするも、またしても銑治郎の姿はなかった。翻弄され狼狽する、義経は狩り場に追い込まれた獲物の感覚に苛まれたが、直ぐに狩人としての気持ちへと切り替えた。小賢しく素早い獲物を、自信と共に抉り取る精神で臨んだ。

 そこで義経は音に錯乱されていると判断し、目を閉じて銑治郎の気配を全力で追い掛けた。真っ暗な世界、瞼によって光が遮断された義経の視界に、輪郭がはっきりしない何かが侵入してきた。義経はそれを全力で、斬った。

 義経の刀が何かに触れた。直ぐ様瞼を抉じ開けた義経はその何かに突撃した。

そこにいたのは、刀を右肩に担ぎ上げている銑治郎。ただ、先程と違う点が一つあった。

 それは、銑治郎が左腕を解放し、上半身を剥き出しにしていることだった。その顕になった左腕はボロボロになった包帯で雁字搦めにされており、異様な威圧感を発していた。

 どうして片手で持つことを止めたのか、それが解らないまま義経は銑治郎に斬りかかる。先程の七連続斬撃よりも速い、九連続の斬撃。

 それを見た直後、後手を取った銑治郎の動きは凄まじかった。驚愕、その一言に尽きた。銑治郎は担ぎ上げていた刀の柄を両手持ちに変え、刀を全力で叩き下ろした。

 

 

「ぬあっ――――!!」

 

 

 銑治郎は体が軋むのを自分で感じ取った。それ程までに全力を尽くした一斬が、義経の左肩目掛けて降り下ろされる。

 義経はその九連続の斬撃を二撃で中断し、その脅威の対象となった斬撃に備えた。

 二撃与えた、のに――――

 備えた、のに――――

 

 

「なっ――――」

 

 

 銑治郎の刀と義経の刀がぶつかった瞬間、その刀同士の接点を中心とした球が広がるように衝撃波が発生した。観客の大半が吹き飛ばされてしまうほどの波動。それをフォローする九鬼家の従者部隊も唖然とする威力。

 義経はそのあまりにも鋭い剣撃に怯んだ。怯んでしまった。ただ速いだけの太刀筋が、こうまで奥義クラスとしての技になるとは思ってもみなかったからだ。

 

 

(この速度は、阿頼耶…………いや、それ以上…………!! 速さの黛と同等以上の速度とは……!!)

 

 

 義経の顔に一瞬の笑みが現れ、直ぐに真剣な面持ちへ戻った。

 義経は現状的に銑治郎の刀法を分析する。一つ、片手で刀を握っている場合はトリッキーな動きを主とする。一つ、両手で握っている場合は全力で捩じ伏せる技を主とする。一つ、恐らくは摺り足の昇華型と思われる銑治郎の移動方法は、義経が体験したことのない未知なるものであるということ。

 これだけ解れば充分だと、義経は勝負を決めることにした。

 刀を握り直し、銑治郎を見据え、意識を集中し、闘気を高めていく。銑治郎はそれを見て、刀の持ち方を変える。決闘開始時と同じ右手のみの握り方。

 

 

(この一合で、決める――――!)

(この一合で、そう考えとるのが見え見えじゃ…………。それでも、儂は儂らしく、いつも通り)

 

 

 勝ちにいく、互いの決意が固まった。ここから始まる怒濤の剣舞を完全に見切った者は、この場に五人といなかった。

 再び二人が間合いを詰めた。義経が繰り出した高速十二斬、銑治郎はそれを全て見切りいなし、反撃として瞬間的な斬撃を三閃放った。

 

 

「ふっ!!」

 

 

 すると義経は、今までの意趣返しと言わんばかりに、その三つの斬撃をいなしきった。大振りをした後のように硬直し、銑治郎にできた一瞬のついて、義経は銑治郎の左脇へ斬りかかった。

 

 

「天国式、柳生(やぎゅう)

 

 

 銑治郎は口の端をひくつかせ、その斬り込みに体を預けた。義経はその感覚に鳥肌がたった。まるで沼のような斬る対象がはっきりとしないものに刀を突っ込んだような、気味の悪い感覚。

 銑治郎は刀が左脇に当たった瞬間、下半身を跳ね上げて刀の上を転がった。その大道芸のような技に義経は僅かに怯み、その隙をつかれて銑治郎に右肩を斬り裂かれた。

 しかし、銑治郎も回転していたこともあり狙いがうまくつけれなかったのか、傷は浅くダメージはそれほど酷いものではなかった。

 義経は一歩下がり、銑治郎から離れて力を溜めて再び突撃した。

 銑治郎は華麗に着地し、刀を両手に持ち換えた。その行動は銑治郎に突撃してくる義経を警戒させ、義経は片手を剣の峰に添え、剣を縦に構えていた先程の銑治郎の剛剣に備えた。しかし、それこそが銑治郎の狙いだった。義経が構えたことを確認した銑治郎は即座に握り手を右手だけに変更し、義経の刀を擦りながら義経の肩目掛けて槍のように刀を突き出した。

 

 

(しまっ――――)

 

 

 義経はそれを刀の腹で外側に押し出しながら前に屈み肩を回避させるが、速度が異様に速く判断が遅れたこともあり、義経の右頬に切り傷が入った。あと一瞬、判断が遅かったら確実に肩をやられていたと、動揺する義経の心臓が早鐘を打つ。しかし、その頬の傷が義経の警戒心を引き上げる。

 銑治郎は一歩下がり、刀を担ぎ直して義経に特効した。

 一方の義経はその傷を受けて怯んでいた気が引き締まり、義経の持てる力を振り絞って銑治郎に迎え撃とうと構えを取った。

 そして両者が互いの間合いに入ると、恐ろしく速い斬撃同士がぶつかり合い火花を散らし、時々衝撃波を発しながらも斬り合い続けた。

 十回、二十回、三十回と斬り合いは続けられていったが、所要時間は二十秒にも到達していない。更にその速度は衰えることなく寧ろ加速していた。

 戻ってきた見物人が震え出す。体から沸き上がってくる“何か”を押さえることができずに、腕を動かし、声をあげる。真剣同士、既に怪我を負っている二人の武士が、間違えれば致命傷を負う闘いに、雑多な大衆は当てられる。

 

 

 己の小ささを自覚し、巨大なものに憧れる。この世の摂理の縮尺がこの河川敷に体現した。

 

 

 そして、三十秒以上にも渡る高速の剣舞に幕切れが訪れる。

 義経は最後の一撃に全霊をかけ、銑治郎は両手で刀を握り腰を入れた。そして互いの刀が互いを、斬り裂いた。

 

 

「………………くっ……!」

 

 

 先に膝をついたのは銑治郎だった。浴衣に所々滲む血が、観客の体を震撼させた。

 

 

「……うっ…………あっ……!」

 

 

 しかし、義経もまた限界だった。刀を支えとし、膝立ちの状態で荒い息を整えていた。

 

 

「そこまで! 引き分け!!」

 

 

 立会人の百代の判決を下す声が響いた。これ以上は決闘の続行は不可能だという判断の下、百代は二人の決闘の仲裁に入ったのだ。しかも片方はご老体だ。血を流しすぎるのは些か危険だった。

 しかし、その結果でも観客は満足だった。その決闘を見れただけで満足だった。そして、見物人はその剣舞を見て、闘志と意欲に火が灯ったのだ。

 二人を称え、感謝するように、観客は盛大な拍手と歓声を上げた。

 

 

「……はぁ、はっ、ふぅ…………見事、感服いたした……流石は壇ノ浦の英雄じゃ」

「……いや、大道寺さんこそ、恐れ入った……! はぁ……ふぅ…………。こんなに楽しく疲れたのは、久しぶりだ……!」

「かっかっかっ、楽しいときたか……! 儂はヘトヘトじゃわい……。もう暫くは自宅でのんびりとしたいところじゃ……」

「もう息が整ってますね、流石です。傷の具合は?」

「お前さんが言えたことか。骨は問題ないじゃろう、ただの刀傷じゃ。川神院が手当てしてくれるはずじゃしのう……。あいたた、お前さんはどうじゃ?」

「私も、骨は無事ですね、肩が少し危ないですが……」

 

 

 じりじりと近寄って互いの体を気遣う二人、決闘を通じて二人の間に絆が芽生えたようだ。

 

 

「お互いに怪我人じゃのう……。満足したわい。痛み入る、義経殿」

「や、止めてください敬称なんて!」

 

 

 銑治郎が頭を下げ感謝の意を示すと、義経は慌ててそれを制した。歳上に頭を下げさせることが申し訳なかったのだ。

 しかも、自分と同じ、若しくはそれ以上の剣士でもある銑治郎に下手に出て欲しくはなかったのだ。

 

 

「……そうか? では改めて、感謝するぞい、義経」

「うん! こちらこそだ、銑治郎さん!」

 

 

 二人は固い握手を交わし、互いを称えあった。

 

 

「あれ……これ引き分けってしちゃったけど……誰が私とやるんだ……?」

 

 

 そして、自身の判断で決闘の相手を逃してしまった百代は、一人寂しく後悔するのであった。

 

 

 





 私は隣人に対する愛を諸君に勧めない。私が諸君に勧めるのは、いと遠きものに対する愛である

 ニーチェ

 ◆◆◆◆◆◆

 また一人、正体不明な人物が出てきましたが、しばらくは燻っていてもらいたい槿です。漢字読みは「むくげ」で読まれる事が多いですが、今回の読みは「あさがお」になります。数話前に名前だけ出ていた槿、今回ようやく登場ですが一切容姿は書いてません。まだ人に見られるわけにはいかないと、槿もいろいろと考えています。企んでいます。

 隣人愛を書いておきながらそれを否定するようなものを引っ張ってきて申し訳ないです。しかしこれはいい言葉です。特にこの「いと遠きもの」というところでしょうか。和訳で「いと」を持ってくるところも私好みであります。この愛を向ける対象が明確に設定されていないあたりも、仄めかすとかインプライとか問いかけるかたちが大好きな私にはたまらないのです。考え方は人それぞれ、隣人愛こそ至高という人もいれば、ニーチェのように考える人もいるわけです。
 その考えの中で複数に派生していって、この世は思考の坩堝になるわけですね。サラダボウルと坩堝、この文献読んだことある人いるのでしょうか……。

 結論。思考は混ざり膨れる。独立し共存する。



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第九帖 嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は――――

――――いかに久しきものとかは知る


右大将道綱母


 

 川神市のある日の夜、親不孝通りの入り口付近で、まるで幽霊のようにひっそりと歩いている少年の姿があった。こんな時間に彼のような若々しく童顔な男の子が、こんなにも不良の溜まり場となっている場を彷徨いていれば、取り締まりのために巡回している教師や警官に捕らえられ補導されているはずだ。

 しかし、少年は警官とすれ違っても何の注意もされず、教師とばったりあっても話しかけられず、誰とも関わることなく放浪できた。少年も気づかれようと思っていないのか、ヘッドフォンを耳につけて外界からの音を遮断し、下を向いて人を見ることなく歩いていた。

 誰にも見られず、誰にも気づかれず、ただただ独りで闇に浸っていた。

 伊那渕、川神学園二年S組。一部の学園生は彼のことを“影”と呼ぶ。無論影が薄いから、等という在り来たりなものではない。彼は影だから、影と呼ばれる。そして、影と呼んだ者はその読んだという事実さえ忘れてしまう。

 クラスメイトで渕に気づくのは一人か二人、気づいたとしても「あ、いたんだ」と思い出したように気付き、直ぐに意識から外して記憶の隅に追いやられる。担任でさえも、出席簿の名前を見てようやく思い出す。元々他人を蹴落とすことが乱発しているクラスなので、他人を何とも思わない連中が多いのだが。

 人の影に紛れ込む天才、渕は一度もそう呼ばれたこともないが、自分のことをそうだと認識している。そうでも思わないと、自分が何であるかが解らないから。

 川神学園に入学し、彼は希望を失った。学園に入りさえすれば、自分をしっかりと見てくれる人が現れる、そう信じていた渕だったが、結局誰にも気づかれることなく二年目に突入した。

 自暴自棄に陥ったという訳ではない、この世に嫌気が差して死にたくなったという訳でもない。渕だって死ぬのは怖い。痛いのも嫌う。一般的な普通の人間だ。渕は、“死んだらそれだけ、天国地獄は夢物語、来世も前世もありはしない、人は無くなる”を持論に掲げ、死ぬことを忌み嫌っている。以前読んだとある物理学者の本にそう記されており、非常に感銘を受けたからだ。

 人は死んだところで何も残らない、渕はもう誰からも気づかれていないが、いなくなることだけは避けたかった。

 渕は武道も嗜んでいないし、特に部活にはいっている訳でもない。強いて得意な競技をあげるなら、ドッジボールと反復横飛びが彼の自慢であった。ドッジボールは生まれてこの方一度もボールに触れたことがない。反復横飛びはクラスで一番を取り続けている。そのどちらも、誰にも気づかれていないのだが。

 このように、意義が見いだせないような人生を歩く宿命であっても、渕は川神でも有数の危険地帯の深夜を徘徊している。死にたがり、とは言えない。渕は誰にも気づかれないことをもう得意技としている。だから襲われることはないと自負している。

 理由は簡単、闇が、夜が、好きなのだ。

 輪郭がなくなり、スゥッと体が溶け込んでいく感覚。そこに浸ることができれば、自分と同じような人間に出会えるかもしれないと思っていたから。

 

 

 そして先日、渕は劇的な出逢いを果たした。渕に襲い掛かり、渕のことをしっかりと捕捉し、渕のことを気に入った男が現れた。

 

 

 板垣竜兵、親不孝通り有数の喧嘩屋である。

 渕は彼に会いに来たようなものである。渕は竜兵と話せたことが非常に新鮮なことで、たった一回のことであったのに竜兵が忘れられなかった。

 誤解無きよう注釈すると、渕は女の子が人並みに好きである。決して、ホモセクシャルであるとかバイセクシャルであるとか、そんな異常で奇特な性格ではない。竜兵とはそういう性的な観点から興味を持っている訳ではないことを先に述べておく。竜兵にはその気があるやも知れないが。

 

 

「お」

「あ」

 

 

 そんな彼らが今夜、二度目の出逢いを果たした。

 渕は心なしか嬉しそうな表情であったが、竜兵の顔は何やら良からぬことを企んでいそうな表情であった。その何か不穏な空気を孕んだ表情に、渕は僅かに戦慄する。

 

 

「よぉ、伊那とか言ったな」

「ど、どうも」

「早々で悪いが、覚悟しろや」

「え?」

 

 

 渕が気の抜けた声を上げたのと同時に、竜兵は許可を取ることなく獣のように襲い掛かった。狙いは下半身、動きが驚異的に素早い獲物を狩り捕ろうとする猛獣のようだった。

 しかし、不意をついた筈のその突進ですら空を切った。竜兵は目標にぶつからなかったためにバランスを崩し、渕は竜兵のタックルを紙一重でかわしていた。勿論、渕本人は前回と同様に驚いているだけであった。

 

 

「ヘッ、やるじゃねぇか」

「んな、なななんななな何だいきなりぃ!?」

「何だよって、鬼ごっこだ。俺が鬼、お前が逃げる」

「何ソレ!? つーか何で始まったのさ!?」

「そりゃあ、アレだ。お前が――――いい男だからだ」

 

 

 ゾクッと、渕は分かりやすいくらいに身震いした。体中を舐め尽くすように百足(むかで)が纏わりついているような、不気味な感覚に見舞われた。振り払っても振り払っても這いずり上がってくる、歯の根を合わせようとしない悪寒に体を支配されてしまった。

 渕の本能が警告していた。この男は危険であると、この男に捕まると拙いと、この男に大事な何かを持っていかれると。

 渕は後退り、竜兵は一歩進む。距離は開かず縮まらない。竜兵の方が一歩の歩幅が大きいことは体型の差から明らかなのだが、竜兵は敢えて歩幅を小さくしていた。ジリジリと首輪を締めるように、ゆっくりと嬲り舐るために。

 渕はただ、竜兵と親しげに会話が交わせればなと思っていただけだった。それなのにいきなり貞操の危機に陥ってしまった。この時が、淵が初めて竜兵と出逢って後悔した瞬間だった。

 

 

「行くぜオラァ!」

真剣(マジ)で!?」

 

 

 再びタックルをしかける竜兵。技術も作戦も眼中にない彼はそれの一点張り、それで今まで男を食ってきた彼にしてはそれが全てなのだ。それが故に、その技法は恐ろしく鋭く極められている。

 それをよく見てかわそうとする渕だったが、竜兵のタックルが速くてぶれて見え、見えたとしても自慢の反復横飛びを使えない速さであった。

 しかし、渕の体が勝手に動いた。脳は動けという命令を信号に変えて体に発信していない。それどころか、いつ来るかも解らないタックルを脳が判断できる筈がない。それでも、渕はタックルをかわした。今度は竜兵の肩に手をついて、鞍馬で逆立ちをする体操選手のように華麗に回避して見せた。それは全くもって無意識なことであった。

 

 

「うおっと……。ヘッ! そうこなくちゃ面白くねぇ……。じっくりと味わってやるぜ」

 

 

 ゾゾゾッと、渕は体に這っていた百足の数が増えたように感じた。それ程までに竜兵の舌舐りは気持ちの悪い気配をしていた。

 渕の学園にも男が食える頭のよい顔の整った人間が一人いるが、彼と少し近いものを感じた。竜兵の方が野生的、学園生の方が理性的ではあるのだが、近いものであることには変わりがなかった。違う点を挙げるのであれば、学園生は人外も受け付けているということか。

 渕はその気色の悪い感覚を振り払い、現状を確認して作戦を立てる。

 まず、何故こうも自分が相手の攻撃を回避できるのか、その理解が必要だった。ほとんどまともに見えていない攻撃を、まるで闘牛士のように軽くヒラリとかわしたり、銃弾を避ける少年漫画の登場人物のような離れ技をやってのけたりと、明らかに渕のスペックを上回ったものを、渕の肉体は相手にも自分にも見せつけていた。

 ここで確認した。渕はこんなことができた記憶がないことを。反復横飛びが得意という地味且つ役に立ちそうもないことしか胸を張れない男が、いきなり特撮のヒーローのような仰天な技を披露することなどまず不可能。

 しかし、もう既に何回もできてしまっていることについては疑いようがない。一番それを信じたくないのは渕自身であるが、一番それを見て体験しているのも渕自身である。

 もう諦めて受け入れてしまおう、渕はあっさりと考えることを放棄した。諦めの域に達するまで要した時間は五秒とかからなかった。これ以上考えても仕方がないことではある。考えても答えが見つからないことを考えても意味がないと、目の前の問題を無かったことにしようとしていた。

 そうなると、どのようにして竜兵から逃れるかが決め手となる。今まではその渕の得体の知れない高等技術で回避できていたものの、今後もそれができるとは限らない。どうせそれができなければ捕まってしまう、そう考えた渕はがむしゃらに竜兵をかわすことにした。

 そこまではよかった。覚悟を決めた男らしかった。しかし、構えたはいいものの、ここからどうすればいいのかがさっぱり解らない。こんなところで反復横飛びは活かせないと痛感した渕。こんな武道家たちがあつまる川神に住んでいるのだから、もう少し何かしらの技でも学んでおくんだったと、渕は人生で初めてそんな後悔をした。

 

 

 ――――兎に角、やるしかない。

 

 

 改めて決意した渕は素人ながらも構えらしきものを取った。足を広げ、腰を落とし、腕は前にぶら下げておく構え。その時の表情は、一瞬だけ瞳からハイライトが奪われたように見えるほど絶望的だった。悲しんでいるとか哀しんでいるとか、そんな類の感情では表現できない。

 

 

 死の淵に、死の“(ふち)”に触れたような死の体現。

 

 

 渕はこの構えを取ったが、渕にとってこれほど得意な構えはなかったと言える。竜兵が知らないのも無理はないほどの彼固有の構えなのだ。そう、体力測定における反復横飛び百戦錬磨の渕が好む、反復横飛びの構え――――ようはハッタリである。

 それでも多少の意味はあった。まず一つ、渕の気持ちに若干の余裕ができた。慣れ親しんだその構えは、渕が体育館(ホームグラウンド)にいる時の感覚を呼び起こし、渕をリラックスさせる効果を持っていた。そしてもう一つ、竜兵がその構えを警戒したのだ。全く見たことのない構え、そして何よりあの人間離れした回避能力、野性的な竜兵を警戒させるにはことが足りた。

 そして何より、渕の黒い表情が竜兵に死のイメージを塗りつけた。

 しかし、何せ全く未知なる構えに竜兵は僅かに動揺したのも一瞬のこと。敵を自慢の拳で殴る、彼はいつだってそうしてきたのだから。後者の効果はそれ程なかったように思われた。

 しかし、渕にとっては僅かな隙穴で充分だった。その油断を逃さず、渕は全力で人混みの多い方へ走って行った。覚悟を決めた男の敵前逃亡である。

 

 

「あ! 待てコラ!!」

 

 

 その気持ちいいほどの撤退に美学を感じなかった竜兵は、鬼のような形相で渕を全力で追い掛けた。その速度は歴然の違い、竜兵が自動車とすれば、渕の速度は三輪車である。渕は人混みに紛れる前にあっさりと回り込まれてしまった。

 

 

「どこ行こうとしてんだ、おい」

「ぅお、鬼ごっこなんだから逃げるさ」

「警察かなんかに逃げ込みそうな勢いだったろ?」

 

 

 ジリジリと竜兵に詰め寄られていく渕、さっきのが唯一のチャンスだったと思っていたので、もう既に諦め気味な状況に陥ってしまっていた。もう竜兵が近寄ってきても先程までの逃げたい気持ちは失せてしまっていた。

 竜兵と渕との距離が五メートルを切った。もう完全に竜兵の射程内に入ってしまった渕は僅かに後ずさるが、もう逃げようがなくなってしまっていた。

 そして距離が三メートルに差し掛かった辺りで、竜兵は覆い被さるように飛び込んできた。

 嗚呼、捕られた、渕は見えないタックルに抵抗することもできず、目を閉じて諦めた――――

 

 

――――諦めた、筈だった。

 

 

「――――あれ?」

 

 

 一番驚いたのはやはり渕だった。それもそのはず、竜兵の姿がいつの間にか見えなくなっていたからだ。

 竜兵が隙をついて襲うために移動したんだと考えた渕は、竜兵の姿を探して辺りを見渡す。そこでようやく竜兵の姿を見つけることができた。

 

 

 竜兵の位置は渕の後方十メートル先。移動したのは竜兵ではなく、渕だった。

 

 

 どうやら竜兵も状況が理解できていないらしく、辺りをキョロキョロと見回していた。そこで、二人の目線が合致した。

 そこで竜兵が追いかけてくる前に、渕は素早く人混みの中に紛れ込むことに成功した。それを見た竜兵は解りやすく舌打ちをし、近くの壁を殴って苛立ちを露にしていた。

 しかし、その苛立ちが段々と収まると、竜兵は渕という男に興味を持っていった。いい男、そんなことよりも、彼がどんな人間なのかを知りたくなっていった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 一方、辛くも竜兵から逃れることができた渕は、今になって両手が震えだした。この震えが来るところはどこからなのか、渕はそれを頭で必死に考える。

 ――――竜兵への恐怖、それもある。

 ――――貞操の危機、それもある。

 しかし、一番の理由は何と言っても、渕が使えたあの高等技術の底が知れない現実、そんな力が一般人の渕に眠っていたという事実に他ならない。渕は震えを抑えるために、疲労回復の休憩と夜食も兼ねてファミレスで落ち着くことにした。手早く好物のチーズケーキとミルクティーを頼んで一息つく渕。そこでようやく疲れがドッと溢れだしてきた。急に瞼が重くなるほどに疲労感が込み上げてきた。それほどまでに体はが酷使されていたのだろう。

 渕は腕を回して体の調子を確認する。どこにも悪いところは見られない、それが不思議でならなかった。

 渕にもそれなりの一般教養があるつもりである。だからこそ、自分の体に何らかの変化がないと説明がつかない状況にいるのだ。

 そう、あんな超スピードで動き回ったにも関わらず、体のどこにも痛みが感じられず、寧ろ今までよりも楽に体が動くようになっていたのだ。運動の第一法則から第三法則にかけて、渕を縛るものはなかったという奇怪な事実が存在していた。

 渕の疑問は少しも紐解かれない。いくら考えても理由など浮かばない。原因など思い当たる節もない。渕の疑問はよりごちゃごちゃになっていき、頭の中が酷く淀んだ状態になってしまっていた。

 渕が頭を抱えていると、店員が恐る恐る注文された品を運んできた。渕は怪しい姿を見られてしまったと恥ずかしがったが、どうせ一時の事だと開き直ってチーズケーキを食すことにした。渕が溜め息をついてケーキにフォークを突き立てた、その時だった。

 

 

「美味しそうだね」

 

 

 突然対面から聞こえた声に渕の手が止まった。渕はテーブル席に座ってはいるが、当然対面には誰にもいないしテーブル席は確りと区切られている。その半個室の状況で渕に声をかけることができた人物はいなかった筈だ。

 渕はケーキに向けていた視線をゆっくりと上げ、いる筈のない声の主へ向けた。

 そこにいたのは、まだ十歳に満たないような外見をした男の子。白色と灰色が混ざりあった綺麗な灰白色の髪をツインテールにしており、どこかで見たことがあるようなスタンダードな紅白の巫女服を適当に着ており、異質な程に輝く金目銀目(ヘテロクロミア)で渕を見詰めていた。

 ゾクッと、渕の体に気持ちの悪い感覚が襲い掛かった。しかし、竜兵から感じた百足が這うような感覚ではなく、大きな手で潰される限界まで握られ、力を抜かれ、また握られるといった感覚だった。生殺しにされている、という表現が正しいかもしれない。

 

 

「美味しいかい?」

「あ、うん」

 

 

 素朴な質問についつい答えてしまった渕だったが、不思議とそのやり取りに違和感は感じられなかった。まるで、この男の子と渕が初対面ではないかのようだった。

 

 

「よければ一口くれないかな?」

「な……お、うん…………あーん……」

 

 

 断りきれなかった、渕はチーズケーキを一欠片フォークに突き刺し、男の子に向けて突き出した。渕はその行動に、何の抵抗もなかったことに吐き気を催しそうだった。

 

 

「あー、ん!」

 

 

 男の子はケーキをパクッと加えた。そしてそれを、まるで栗鼠のように口を膨らませてじっくりと咀嚼していた。決して多い量ではなかったのに、実に大袈裟に可愛らしく食していた。

 

 

「むぐむぐ、やはり洋菓子も美味いなぁ。今度はあのご老体に蕎麦饅頭だけじゃなくて、タルトケーキでも用意してもらおうかな」

「え、っとぉ…………。あんた誰?」

「むん? ああそうか、覚えてないよね。ぼくは朧、しがない野良猫の擬人だ」

 

 

 胸を張って意味不明な自己紹介をした朧に、渕はまたしても何の疑問も抱かなかった。体が宙に浮いたような気味の悪い感覚が渕にドッと押し寄せてきた。何故これ程までにこの朧という少年に疑問を抱かないのか、という疑問に渕は悩まされていく。

 それを見た朧は渕からフォークを奪い取り、ケーキに突き刺して渕に向けて突き出した。

 

 

「まあまずは糖分でも摂取するといい。脳の働きが活性化するかもしれないぜ? 人体の構造は人間もよく解っちゃいないようだし、気休めに過ぎないけどさ」

 

 

 さあ食べろ、朧はそう言って更にケーキを突き出してきた。渕は仕方なくそのケーキを加えゆっくりと噛み締めた。気休め、そう言った朧の言葉がよく解るようだった。“噛む”という単調な行動は精神を整える作用がある、好物ならば尚更だ。渕はそのお陰で少しだけ落ち着くことができた。

 

 

「それにしても、遅いよ渕くん。君が二年目にしてようやく最後だ」

 

 

 すると突然、朧は腕を組んで解りやすく可愛く子供らしく怒っていた。そこまで怒っているようではなかったが、多少は渕に対して文句を言いたかったようだ。

 一方の渕はというと、初対面な筈の奇妙な少年にいきなり叱りつけられ、もう何が何だかよく解らなくなってきていた。

 

 

「他の五人は一年以内に気づいたよ? それに引き換え、君と来たら…………男に掘られそうになって気づくってのは何だい。気づかないよりはましだけどさ」

「…………気づくってのは、この体の変化のことか?」

 

 

 プンスカと声に出して茶目っ気溢れる怒り方をしていた朧に、渕は恐る恐る自分の疑問を叩きつけた。竜兵から逃れる際に使用できた驚異的な回避能力、人間離れの脅威的な運動能力、どれもこれもが渕のスペックを越えているものだった。

 この目の前の不思議で不可思議な少年なら、その変化について何か知っているかもしれない、そう考えた渕は思い切って尋ねてみることにしたのだ。僅かに手が震えたが、拳を強く握ってそれを押し潰した。

 その渕に対する朧の応えは、実に簡潔で単純明快なものであった。

 

 

「そうそれ。ぼくがあげた力」

「…………………………………………は?」

「いやだから、ぼくが君にあげた人並み外れたスキルみたいな奴。まあ実際、それに耐えられるような体に弄くってあるけど」

 

 

 何を言ってるんだ、そう朧に突っ掛かりたかった渕だったが、何故かそうする気が起きなくなってしまった。体が拒否反応を示していたのだ。そんなことをしても意味はないと、このやり取りは無駄であると、まるで既に経験してきたかのような反応を体が示していた。

 

 

「その体は覚えているみたいだね。君の頭の記憶の方にはぼくに関する記憶はないだろうけど、体は正直って奴だね」

 

 

 朧は渕の頭を撫でた。それだけで、渕の脳内に莫大な情報が送り込まれ、引きずり出され、一瞬で靄を払うように整頓された。

 突然の不快感の解消に、渕はただただ戸惑うばかりだった。

 

 

「じゃあ簡潔に改めて、君に知識として植え付けておいて上げた。どうせぼくのことは“忘れる”。それじゃあ話すからね。君の体のある機能を、“壁を越えた者”って呼ばれる驚異的な強さを持つ武人たちと同じレベルまで引き上げてある。ぼくの気まぐれでね。戻すつもりはないから充分楽しんでよ。君の他にもあと五人、同じ境遇にしてやった奴等がいるから仲良くしてやってね。それと、その機能が何なのかは自分で見つけて鍛えていきなよ? そうしなきゃ意味がないからね。まあ簡単に言えばこれくらいかな。ああ、無理して覚えようとしなくていいよ。種は確り海馬に打ち込んであげたから、忘れようにも忘れられないだろうさ。まあ、ぼくのことは忘れちゃうだろうけど。さて、伝えることは伝えたし、ちょっと今日色々ありすぎて疲れたのかな、顔が死んでるよ? 仕方無いな、ぼくが家まで運んでいって上げるよ。会計も、まあ勝手に財布から拝借するから。それじゃあお休み、いい日が来るといいね」

 

 

 渕の意識は朧の慈愛の愛撫により、瞬間的に闇に蹴落とされた。

 

 





 壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人の架空のおとぎ話だ

 スティーヴン・ホーキング

 ◆◆◆◆◆◆

 竜兵と渕の貞操と自尊心をかけた闘争を繰り広げる逃走劇、書いていながら何故自分はこんなにホモを中心的に書いているのかと苦慮しております。この時点で渕の“才能”に気づける人はいるのでしょうか、実はもう出てるんですけども。

 一週間近く空いてしまって申し訳ありませんでした。バイト先のリーダーに“暇なら入ってよ、稼ぎ時だよ?”と言われ、週六という謎の社畜状態でして、手が空きませんでした。次回更新も社畜状態での更新ですので、一週間は気長にお待ち頂けると幸いでございます。

 自分の死生感を決定づけた一言です。闇を恐る人の架空のおとぎ話ときました。まさしくその通りかとおもいます。この現在日本では宗教の坩堝となるほど他宗教化、宗教思想の自由があるために私のこの発言は受け流してくれて構いません。
 しかし、やっぱり死ぬってこわいと思うんです。死んでもやり直しが効くなんて幼稚な考えを持っている幼児から中年までいるようですが、死んだらそれまでです。動くことも食べることも話すことも聞くことも触ることも見ることも、考えることもできないんです。これと似た持論を掲げた恩師がいました。もう定年退職してられますが……。その人がこう言いました。


「死ぬことがこわくなくなったら、その時君は一種の光が見えるようになるよ」


 先生、私にはまだその光が見えません……。

 結論。命はくれぐれも、光が見える日が来るまでお大事に……。


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第十帖 桜花ちりかひかすむ春の夜の――――

――――おぼろ月夜のかもの川風


源実朝


 

 激しい剣技による決闘から数日後、源義経は川神山の麓にある小さな館に三人を伴って訪れていた。義経はその館の主に招待されていた。

 一人は彼女の従者として名高い、武蔵坊弁慶のクローンとなった女子。名前もオリジナル通りの武蔵坊弁慶。今回は護衛という形ではなく、ただ一緒についてきてくれと主に頼まれたために、ちょっとした休暇気分でここにやって来ている。それでも、主に何かあってはオリジナルの名に泥を塗ることになる。お気楽に振る舞っていても、多少の警戒心は残したままでいる。

 一人は義経と同じ女剣士、黛十一段の娘である黛由紀江。義経が館に訪れる際につれてきて欲しいと、館の主からの唯一の頼み事であった。剣士としての憧れの英雄であり、学園では一つ年上の先輩に誘われたということもあり、由紀江はガチガチに緊張して刀の入った袋を力強く握りしめていた。

 そしてそれを宥めているのが最後の一人、前回の決闘の立会人である武神、川神百代である。百代は由紀江を見守る保護者のような立場を含め、義経を呼んだ館の主ともう一度じっくりと話したいためにここにやってきていた。無論、しっかりと許可は得ている。

 義経ら四人が館の門の前に到着する。館は高い塀に囲まれていて中の様子は全く解らない。しかし、その外観が全て見えなくても、義経や由紀江はここから滲み出る和やかな雰囲気を感じ取っていた。自然との調和に成功した人工物、山麓と折り合いをつけた山荘。

 そこで弁慶があるものを発見する。この和風の屋敷には全くもって似つかわしくない、機械仕掛けのインターホンであった。数秒程俊巡した結果、弁慶はインターホンを独断で押した。

 

 

 ピンポーン! と、自然溢れる川神山の中に電子音が響き渡った。

 

 

 突然の高音に義経は身体をビクッと揺らす。心の準備ができていなかったために、義経が慌てふためきながら弁慶を叱るも、弁慶は飄々としたまま聞き流して反省の素振りを見せなかった。弁慶があまりに言うことを聞かないので、義経がしゅんとして落ち込み始めると、弁慶は愛らしいペットを愛でるように義経の頭を撫でていた。伝承と立場が逆転しているが、これでも主従関係は保てている。

 

 

『ようやく来たのう。ささ、上がりなさい』

 

 

 義経が落ち込むタイミングを見計らったかどうかは定かではないが、ちょうどその時にインターホンを介して館の主の音が聞こえてきた。

 その声に義経はすぐに気を引き締めた。何せ義経は招待された側である。客人として相応の振る舞いをしなければ無礼というものである、そう堅く考えていた義経を暖かい眼差しで見ていた弁慶は、義経の生真面目さに呆れたように溜め息をついた。

 館への立ち入りが許可されたため、百代が館の門を両手で全開にした。いきなりの行動に由紀江と義経は慌てたが、百代と弁慶は特に気にする様子もなかった。

 門を開けるとそこには、小さな池と枯山水が作ってあり、縁側には赤い布が敷いてある、まるで茶屋のような造りの家が建っていた。

そしてその縁側に座っているのは、年老いたことを印象づける白い角刈り頭と白い顎髭で着物姿の老人がいた。

 

 

「お邪魔します、銑治郎さん」

「よく来たのう。まあここに座りなさい。今から茶菓子と茶を出すからのう」

「おじいさん。私はおつまみが欲しいな。川神水にぴったりの奴」

「こ、こら弁慶!」

「かっかっか! 良か良か! ちくわでいいかい?」

 

 

 全く遠慮のなかった弁慶の申し出を義経が叱りつけるが、銑治郎はそれを気にした様子はなく、寧ろ心地いいのか豪快に笑っていた。銑治郎はそのまま笑いながら奥へと姿を消した。

 茶菓子の用意をしてくれているなら待っていた方がよいだろう思った四人は、先に中へ入って靴を脱いで縁側に座った。

 百代と弁慶は銑治郎が持ってくる飲食物が目当てでウズウズしていたが、義経と由紀江は縁側感じられるだけの自然を感じ取っていた。

 隣接する川神山の木々がさわさわと音を立てて葉を揺らし、山鳥が囀ずったり木の枝の上で毛繕いをしていたり、段々と熱くなってきた気候から来るとは思えない清涼な風が吹いていた。池はどうやら山から涌き出る天然水で出来た川に繋がっているようで、山の中で生きる小さな魚や蟹が住んでいる。木々の間を縫って僅かに差し込む日光が池の水面を不規則に輝かせ、小魚の体を宝石のように照らす。山紫水明、それを感じ取れるこの館に二人は趣を感じていた。

 

 

「待たせたのう」

 

 

 暫くして、銑治郎が盆の上に人数分の茶碗と茶菓子、それに弁慶が所望したおつまみを乗せて姿を現した。

 

 

「すいません」

「気にすることはなか。剣聖のご息女殿。客人は客人らしく、堂々と構えておれば良か」

 

 

 由紀江は申し訳なさそうに頭を下げた。手伝いもせずにのんびりとしていたことが由紀江にとっては滅多にないことだったのだろう。しかし、銑治郎はそんなことは全く気にせずに弁慶につまみを渡し、残りの三人には抹茶と柚子饅頭を渡した。

 

 

「おー! このちくわ美味しいな。竹ちくわだね」

「うむ。何と言ったかのう……。上半身剥き出しの偉丈夫が四国のアピールだの何だので、駅前で四国の名産店を開いておったのでな。徳島の竹ちくわを買ってみたのじゃが、気に入ってくれて何よりじゃ。すだちもある、よければ絞ってみなさい」

「遠慮なーく」

「四国の大男と言えば……天神館の火達磨になった奴だな。まだこっちにいたのか」

 

 

 三人がお抹茶という上品なものを飲んでいる傍らで、弁慶は川神水を飲みながら差し出されたちくわを口に放り込んでいた。どうやら弁慶のお気に召すところだったようで、銑治郎もつられて嬉しくなった。

 

 

「美味しい、この抹茶……! どこの抹茶ですか? 京都とか静岡とか……」

「京都でも静岡でもないわい。愛知県じゃ」

「え……愛知……?」

「抹茶の生産量全国一位、抹茶の食品加工に先駆けて手を出したのがこの西尾茶じゃ。抹茶と言えば儂は西尾茶なんじゃが、如何せん知名度が低い。まあ良ければ覚えておいてくれ」

 

 

 由紀江はほとんど知らなかった知識を披露されて感嘆の声を漏らした。亀の甲より年の功、その格言通りのことを今実感したのであった。

 そんな知的な会話があったにも関わらず、百代は『苦い……』と呟いて直ぐに飲み干し、口直しとして甘い餡で口を満たして満足そうな顔をしていた。

 弁慶はもう大分出来上がってきたようで、顔が紅潮して上半身がふらふらとしていた。いつの間にか差し出された竹ちくわも完食していて、残されていたのはまっさらな皿だけだった。

 

 

「これが弁慶かい。源平の軍記とはかけ離れておるのう。クローンとは言え、やはり完全再現ではないのじゃな。性別も変わっておるし。それはクローンと言うのかどうなのか、実に怪しい所を彷徨いている訳じゃな。日本がこれを大々的に許可しているというか黙認しているのもそれが所以なのかもしれんのう。九鬼が圧力をかければ何とかなるかもしれん、という風潮も捨てがたいのじゃが」

「も、申し訳ない。主である義経が弁慶を制さなくてはいけないのに」

 

 

 銑治郎が弁慶と義経を見て所感を述べていると、義経が実に申し訳なさそうに落ち込んでいた。しかし、銑治郎はやはりそのことは気にしないで、義経の頭を優しく撫でた。

 

「せ、銑治郎さん?」

「うーむ、一気に孫が増えたようじゃ。何せ七十年以上一人身な訳じゃ。伴侶なぞおらんかった故、子の顔も親に見せれず仕舞い、孫なんてできぬと思っておった。じゃが、こうして若い者を我が家に招き、語り合うだけでこれ程の喜びが得られようとは。寧ろ儂は感謝しておるのじゃよ、義経や」

「あ、はい……」

 

 

 豪放磊落な老人の姿に隠れていた銑治郎の本音。今まで静寂に包まれて生きてきたのだと思わせる、弱々しくも今までで一番優しい顔。よほど今まで人との関わりが無かったのか、義経たちとの会話を心から楽しんでいるようだった。

 

 

「良ければまた来てくれ。これくらいのもてなしならばいつでもできる故」

「い、いいのですか?」

「拒絶する理由に皆目見当がつかん。好きな時に来なさい」

「遠慮なーく尋ねるとするよ、銑治郎のおじーちゃん。ここはダラけるにはうってつけだ」

「こ、こら弁慶! しかもいきなりおじーちゃんだなんて……」

「おじーちゃんか、良か良か! 本当に孫が出来たようじゃ。またつまみも用意しておこう」

 

 

 他愛もない会話で和みを分かち合う。端から見ればみんなは家族のように見えただろう。内三人は刀を装備しているので、ひょっとすると師弟の関係に見えていたかもしれない。

 そんな和やかな空気を、一人の女子が叩き崩した。

 

 

「それで、義経ちゃんと銑治郎さんはどっちが私と戦ってくれるんですか?」

 

 

「疾れ者狂いか、小娘。昨日は引き分けじゃったろうが。どちらも満身創痍の決着じゃ。クローンである義経は若いからまだよいが、儂は戦前から生きとるんじゃぞ? いい加減に体がもたんわい。見てみい、まだ右手が震えおるわ。それに、儂は刀同士の決闘にこそ滾ぎる。同じ“ケン”を発する物でも、儂は輝く刃にしか惹かれぬ」

「義経も、まだまだ決闘の申し込みが山積みで……」

「何だよー。結局どっちも戦えないんじゃないかー」

 

 

 実のところ、百代は銑治郎と戦うことは初めから諦めていた。その理由は今銑治郎が述べたように、銑治郎の本気を見ることができないということが大きかった。本気を出さなくても銑治郎は強い、それもあの九鬼家のクラウディオが戦いもせずに敗けを認めたほどの使い手である。実際の戦闘となれば、銑治郎のやる気も加味され勝敗は予測できないが、全力同士でぶつかれば確かに銑治郎が僅かに上だ。それは解っているが、百代は手加減されるなどということに堪えられないのだ。

 今まで来る敵来る敵全て薙ぎ払ってきた百代。そういった下に見られるということに耐性がない。最強などと周りからちやほやされてきたこともあってか、その耐久性の無さは車に轢かれれば地面と一体化してしまう蛙のようなもの。舐められる、見くびられる、軽んじられる、百代に長く根付いていた自尊心がそれを許さなかったのだ。

それも含めて、英雄である義経と戦いたいという気持ちは高まっていた。“英雄である義経に勝った”という名声に百代は興味はないが、“義経の言い伝え通りの強さ”というものに興味があったため、銑治郎よりも義経と戦いたい気持ちが強かった。

 そんなプライドの高い百代に、思わぬ提案が発せられる。

 

 

「条件を飲んでくれるというのであれば、儂とて本気を出すことは吝かではないぞ? 百代」

「え?」

 

 

 戦っても良いと、銑治郎から予想外の提案がされたのだ。まさか銑治郎そんなことを口にするとは思ってもみなかった百代は、暫く目を見開いて呆けていた。

 

 

「川神鉄心殿にお会いしたい。許可をとってくれぬか?」

「え? それだけでいいんですか?」

「ようやく敬語が“らしく”なってきおったのう。良か良か。で、その条件についてじゃが、取り決めもなしで訪ねる程、儂は鉄心殿に対して大きく出ることはできん。前もって約束もしておらんのに会いに行くという愚行は犯せん。そこで、お前さんから頼んでくれたら、儂も全力を以てお前さんと戦おう」

「それだけでいいのならよろこんで!」

「日はこちらで決めさせて欲しいとも伝えておいてはくれぬか。何せまだ傷が癒えておらん。数日後じゃな」

 

 

 百代が銑治郎の提案に勢いよく飛び付いた。まるで呑気に雑草を貪っていて群れから外れた獲物に襲い掛かった肉食獣のような行動だった。それ故に、プライドはここでは霞んでしまう。百代にとっての飢えは“戦い”、獣にとっての飢えは“餌”。どちらもなければ餓死してしまうもの、自尊心はここには入り込めない。

 百代はそんな極上の“決闘(えさ)”を逃すことのないように、銑治郎の気が変わらない内に約束を取り決め、決闘の予定を組み込んだ。そこで百代の顔から最高の笑みが溢れる。

 

 

「いやー、楽しみだなぁ!」

「あまり期待するでないぞ? スタミナは若い者には敵わぬ故にな。おおそうじゃ、忘れておった。由紀江殿」

「はいっ!?」

 

 

 興奮して止まない百代を放置して、銑治郎は何かを思い出したように和んでいた由紀江に声をかけた。突然の呼び掛けに驚いた由紀江は危うく茶碗を落としそうになったが、ぎりぎり落とすことなく確りと茶碗を握って事なきを得た。

 

 

「な、何でしょうか?」

「堅苦しいのう。それで剣聖よりも強いと言うのじゃから驚きじゃ」

「え…………父をご存知なのですか?」

「うむ。二十年近く前、儂は黛大成殿に挑んで、負けた」

 

 

 ドクンと、由紀江は胸の奥の方が弾けたのを感じた。この胸の高まりは父親の名前を出されて起こったものなのか、それとも、由紀江の闘争本能に火が点いたものだったのか。

 

 

「儂が直に還暦を迎えようという歳、近年では“阿羅漢”と言うのか」

「おいじーちゃん。“アラ環”だからよ」

「こ、こら松風! 失礼ですよ!」

 

 

 由紀江の持っている刀の入った袋に着いている馬のストラップが言葉を発した。

 これは勿論このストラップが自我を持って話している訳ではない。簡潔に言えば、これは由紀江による腹話術であり一人芝居である。由紀江がこうなったことには様々な要因があるのだが、今は深くは追求しないでおく。

 それを見聞きした銑治郎は目を丸くして松風に視線を向けた。

 

 

「んん? その馬は人語を解しておるのか? 摩訶不思議なこともあるもんじゃ」

「あ、はい! 九十九神の松風です。松風、御挨拶を」

「オッス、おら松風。シクヨロだぜじーちゃん」

「かっかっか! 愉快愉快! 汎霊説(アニミズム)の精霊崇拝なぞ当世の若者にしては奇天烈じゃ!」

 

 

 銑治郎は膝をバシバシと叩きながら豪快に笑っていた。松風は九十九神という設定をあっさりと見抜き、銑治郎は本気でそのようなことをしている由紀江が珍しくて仕方が無かったのだ。それは銑治郎ばかりに言える事ではなく、至極当然の感情であるのだが。

 

 

「おっと、横道に逸れてしもうた。まあ何じゃ、ようは大成殿に完膚なきまでに叩きのめされた後、自分の不足している技術と心意気を身につけるため修行に出たのじゃが……。ここまでの強さを手に入れたのはここ最近じゃ。その前までは、もう衰えていくしかないと思っておったからのう。いつ死ぬか、戒名でも作ろうかなどと実に弱気であった。じゃが、今は違う。溢れんばかりのこの力、試したくて仕方が無い。そこでじゃ、由紀江殿。風の噂で、お前さんは既に師である父の力を超えていると聞いた。なれば、一人の剣士として申し込もう。手合わせをしてくれぬか?」

 

 

 銑治郎は両拳を地面につけて深々と頭を下げた。その迷い無く頭を垂れた潔さに由紀江は言葉が詰まってしまう。

 そして、こうまでして戦いたいという銑治郎の思い。そして、父が一度手合わせをしたという使い手。由紀江の奥底に僅かにある闘争意識が昂ぶられ、由紀江はそれを声にして銑治郎に伝える。

 

 

「…………は、はい。私でよろしければ……」

「真か! 忝い!」

 

 

 銑治郎は由紀江の返事を聞いた途端に顔を上げ、由紀江の茶碗を握っている両手を上から力強く握って感謝の意を伝えた。由紀江はいきなり手を握られたので慌ててしまい、握っていた茶碗を割ってしまいそうな程力が入ってしまった。

 

 

「あうあういえその私などがそんなに大したお相手ができるかどうかはまったくもって自信が無いのですが銑治郎さんのお気持ちに答えなくてはと思い返事をしてしまいましたが一体全体私なんかがどれほど銑治郎さんを満足させられるかが皆目見当がつかないのですけれどああしかしやるといったからにはやらなくてはいけないのがこの世の摂理と言うか現代におけるマナーと言うか人間的な常識と言うかとにかく言ったことには責任を持たなくてはいけないのですよねそれなら私もこの身を刀として鋭利にさせて全力でお相手して差し上げるのが至極当然なのでしょうがやはり私なんかが――――」

「落ち着けまゆまゆ!」

 

 

 ほぼ初対面に近い人物に頭を下げられ、歳が離れているとは言え異性に手を握られ、その人物が自分と同じ剣士で、かつて父親と刀を交えた強者であり、かの剣豪として名高い源義経と引き分けにまで持ち込んだ偉大な人物であるという、由紀江の緊張して焦っている頭では処理しきれない出来事が一気に襲い掛かったせいで、由紀江の発せられた言葉は息継ぎ無しで暴走したものになってしまった。

 それを抑えるために先輩である百代が由紀江の頭に軽いチョップを入れて意識をはっきりとさせた。そこでようやく由紀江も我に帰り落ち着いたようで、呼吸を大きくして心拍数を調整して銑治郎と再び向き合った。

 

 

「す、スイマセン! 緊張しちゃって……」

「良か良か。面白いものが見れたわい。日程はこちらで決めても構わぬか?」

「あ、はい!」

「そこのお二人さん。決闘をするなら立会人がいるんじゃないですか?」

「百代、今回は立会人に対する褒美は存在せぬぞ」

 

 

 由紀江と銑治郎の決闘、そのどちらかの勝者と戦えることを百代は期待していたが、その願望は銑治郎にばっさりと切り捨てられた。

 

 

「なんだ、じゃあ率先してやる必要はないな」

「欲望に忠実な奴め。まあ、立会人候補ならこちらにもいる。今日ももうすぐ来るじゃろう」

「来る?」

 

 

 銑治郎の言葉に百代は興味を持った。立会人、それも由紀江と銑治郎という剣の道の達人同士の戦いの立会人。それなりの実力者でなければ決闘の経過が確認できない筈だ、そう百代は考えていた。

 

 

「こんにちわー! 新聞持ってきましたよー!」

 

 

 百代が立会人について本格的に気になり始めたその時、門の外側から元気のよい声が聞こえてきた。

 

 

「おお、噂をすればじゃな。入りなさい」

「お邪魔しまーす!」

 

 

 銑治郎の許可が降りたのと同時に、木製の門が軋みながらも開かれた。

 そこから現れた人物に、百代は驚愕せざるを得なかった。

 

 

「…………あ、梓……!?」

 

 

 そこから現れたのは、百代が川神学園に入学したての頃、まず真っ先に仲良くなったと言っても過言ではない元クラスメイト、南浦梓だった。

 百代は勿論のこと、その百代を視認した梓も当然のように驚いていた。

 

 

「あれ……? モモちゃんがいる……? 銑治郎さん、モモちゃんと知り合いだったんですか?」

「そちこそ、百代と知り合いじゃったのか」

 

 

 今度は銑治郎と梓が顔を合わせて驚いていた。二人の知り合いが一致しただけでなく、それが川神百代であるということが驚きだったのだろう。

 

 

「な、何だよ梓。何でここに……」

「梅屋のアルバイト帰りの新聞配達のアルバイト、というか銑治郎さん直属なんだけど。バイト先の人誰もここに行きたがらないんだもん。ここってば道が険しいからさ、バイクなんかじゃそうそう簡単には来られないし。舗装したらって銑治郎さんには言ってるんだけど……」

「折角の自然を壊してなるものか」

「という感じに断られております」

「そ、そうか……。う…………うう………………」

 

 

 梓の話が終わると、百代が少し顔を伏せて何やら唸り始めた。由紀江や義経は何事かと焦っていたが、元クラスメイトである梓はそれに慌てることなく、むしろ溜め息をついていた。

 そして次の瞬間――――

 

 

「――――ぅ梓ぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

 百代は梓に飛び込んだ、抱きついた。所謂ハグというものであった。梓はそれを予測していたのか、全く動じることなく百代を受け止めて後頭部を優しく撫でていた。

 

 

「はいはい。久し振り」

「んもー! 少しくらい連絡くれたっていいじゃないかー! ああ、この豊満なおっぱいが懐かしい……」

「私はモモちゃんのお母さんかいな……。まあ、確かに連絡しなかったのは悪かったね。ごめんごめん」

「暫く抱き締めさせてくれたら許す」

「ん、いいよ」

 

 

 許可が降りると同時に、百代は梓の胸に顔を埋めて快楽に浸っていた。そのセクハラ紛いなことをされている梓はというと、もうこの行為に慣れてしまっているのか、殆ど動揺することはなく百代の頭を撫で回していた。この流れが非常にスムーズすぎたせいか、その場に居合わせた者たちの顔の驚き様は実に滑稽であった。

 するとそこへ、川神水の飲み過ぎで出来上がってしまっていた弁慶がゆっくりと起き上がり、覚束無い足取りで梓に近寄っていった。

 

 

「…………失敬」

 

 

 梓の目の前――正確にはその間に百代が挟まっているのだが――に弁慶は立ち、一度両手を合わせて梓にお辞儀をした。

 

 

 そして徐に、梓の胸を揉みしだいた。

 

 

「あんっ」

 

 

 梓は思わず声を漏らしてしまったが、全く嫌そうな顔をしていなかった。

 同姓の元同級生に顔を胸に埋められ、初対面の同姓の人物に胸を揉まれている梓。自分よりも身長の小さい梓に温もりを求める同姓の百代。何の躊躇いもなく見ず知らずの同姓の胸をたっぷりと揉んでいる弁慶。

 取り残された銑治郎と義経と由紀江は、目の前の奇妙な光景に呆気をとられていた。

 

 

「…………勝った」

「んっ……! 私のは、形重視だから」

「母性も強いよ……はぁ……安らぐ……」

「気持ち良さそうだ……次、私もいい?」

「初めての人は安くしとくよ?」

「あらら有料か」

「私の胸はそんな安売りできるものじゃないのさ」

「弁慶……頼むから自重してくれ……」

「お盛んなメス立ちだぜ……」

「松風、お口が悪いですよ!」

「うーむ、一気に騒がしくなりすぎたかのう……。まあ、これはこれで」

 

 





 芸術も人生と同じで、深く分け入るほどにいっそう広くなる

 ゲーテ

 ◆◆◆◆◆◆

 現時点で最強のハーレムを築き上げているのが還暦など遥か昔に通り過ぎたお爺さんというのは……。これはこれで斬新ということで評価されませんか? されませんね。
 それにしても、書いていて全然登場しないキャラが多すぎて泣きそうです。特に風間ファミリーですら全員登場していない状態で大変申し訳ありません。実はこちらに移転する前もクリス完全に空気でした。今度はもう少し早く出してあげようかなと思っております。

 今回は少し、タイトルの和歌に触れようかなと思います。全てにちゃんと意味があるのですが、今回はかなり迷いました。これは知っている人なら知っている、鴨川の石碑に刻んである和歌です。鴨川といえば、風景描写の題材にされ、山紫水明と評価されました。京都でも有名な河川ですね。今回の話の題材は“山麓の隠居生活”でして、山紫水明と地の文で使ってしまいましたが、つまりは自然の多い和をイメージして欲しかったのです。
 あと、石碑には四つの和歌があるのですが、もうすぐ春だということで春の鴨川を描いた和歌にいたしました。あと、朧と書いてあったので。

 結論。朧の汎用性の高さは異常。


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第十一帖 逢ふことの絶えてしなくばなかなかに――――

――――人をも身をも恨みざらまし


中納言朝忠


 

「準備はいい?」

「はい!」

「それじゃあ始めようか。今日の組み手」

 

 

 百代たちが銑治郎宅で茶をもてなされている時、多馬川の上流では若者同士の模擬戦が行われようとしていた。それは、一子と慶の手合わせ。その手合わせの立会人は天衣。この実戦形式の修行は、最早一子の日課の修行の一環となってしまっていた。一子が毎日のように慶に組み手の申し込みに行き、慶はそれを断ることなく受け入れている。いつの間にかそれは互いの同意云々ではなく、顔を会わせればまず手合わせという流れが習慣付けられていた。

 一子は若干迷惑をかけていると思いつつも、毎日慶の拠点(テント)を訪ねている。それ程までに慶との修行は一子にとっては止められない物となってしまっていた。中毒性のある極上に甘い蜜のように、一子は手を止めることができないでいた。

 しかし、慶は一子との手合わせを全く渋ってはいない。寧ろ好意的に一子の申し出を受け入れていた。慶の目的、慶が求める力を見つける慶の“力”を捨てるべきか否か、それを決めるためには、慶が求めるその力を持つ一子との手合わせが効果的であった。その求める力が本当に必要であるかどうか、それを見極めるために、一子との決闘が最も効率がよいと判断していたのだ。

 それに加え、一子と共にいることで発生する慶の利益も別にあるのだが。

 一子の“力”に当てられる度に慶の古傷が疼くが、ここ最近になって慶はそれを僅かだが抑えられるようになっていた。早速効果が出ていると、心の中で嬉々としている慶であった。

 そんなことを慶が考えているとは露も知らず、一子は慶との修行が沢山できることに喜び意気揚々としていた。

 

 

「よし、それでは……始め!」

 

 

 天衣から開始の合図がかけられた。

 先手は一子、これは今までの手合わせで統一されていたことだった。何故なら、慶が手合わせ開始時から自発的に攻撃をしようとするまでには相当の時間がかかるからだ。乗り気でない、という訳ではないが、自分は防御主体であると明言していることは伊達ではなく、あまり獣のように攻撃的になることを好んでいないと、一子に予め伝えてあったのだ。

 それを信じきっている一子は開始の合図と同時に慶に攻め込むようにしていた。

 一子が信じきっている慶のそれは嘘ではないが、真実でもない。正確には、“今は”攻撃的になることを好んでいないのだ。慶が孤独に過ごしてきた二年という歳月は、慶の戦闘スタイルを抑え目にしてしまった。

 二年前の、二年以上前の慶の戦闘スタイルを知っているものが今の慶を見れば、容姿を含めて別人だと言い切ることだろう。

 

 

「やぁ!!」

 

 

 一子の握っている薙刀が地を這うような低さから、慶の顎を打ち上げるために跳ね上げられた。

 慶はそれを完全に見切ってギリギリのところで回避し、一歩下がって薙刀の間合いから逃げ出した。慶にとって薙刀を使っての手合わせは、一子に限ってではなく、人生においても今回が始めてであった、そのため、慶はまずは回避に専念し、薙刀というものの使用方法などを解析していくことにした。

 跳ね上げられた薙刀はその高さを維持して、一子は突進しながら薙刀を振り下ろした。慶もまたこれを紙一重で回避する。“薙”という漢字が武器に入っていることもあり、槍よりも“突く”という印象は薄れて感じ取っている慶であった。正確に言えば、槍との対処の違いを慶は感覚的に掴もうとしていた。

 

 

 元来、槍というものは“突き”を基本とする中距離の武器。戦国時代に武士でない者を戦場に駆り出すのであれば、剣よりもまず槍を持たせていたという。将棋の歩兵のように安価な代わりの効く捨て駒、という意もあったのだろうが。

 国一揆や一向一揆で蜂起した農民たちは槍を手に取り、たかが刀よりも間合いが広いという理由だけで武士を圧倒した。恐怖心を消し、がむしゃらに突いても相手は息絶える。

 それ程強力な一転突破の武器、対処は極めてシンプルで、それでいて難度は高い。槍の回避に反復横飛びなどの回避はあってはならない。槍には突く以外にも、薙ぐ、絡める、叩く、払うといった動作も多々見られるため、前後の回避こそが槍に対する効果的な避け方だったと言える。

 加えて、反復横飛びの際には必ず“静止”した時間が存在する。それも槍との距離は変わらないままでだ。槍を極めた者であれば、突いて払うという二段攻撃ができるという。横への回避は武士の死を意味した。

 前後の回避、後ろに下がることこそが槍との戦いにおける基本動作であり、必須の動きであった。槍との距離を一定に保ち、(すんで)のところで回避し続ける。しかしそれでは防戦一方、避け続けるだけでは負けも同然。

 では、槍に対する攻撃とは? それは前後運動の前、突撃の姿勢である。

 懐に潜り込めば持っている刀であろうが何であろうが、まず敵の首をかっ斬ることができる。それくらいか、そう思えるかもしれないが、襲い来る槍の切っ先を見極め、横移動は最小限にして、槍に向かって突撃することが、果たして簡単であろうか。

 この戦法に必要不可欠なもの、それは動体視力でもなく、脚力腕力の類いでもない。それは確固たる意志、揺るがない勇気。槍の穂先を真っ直ぐに見据え、その鋭利な先端に敢えて突っ込む行動力。それらを備えてこそ槍を攻略できるのだ。

 槍を相手にした際、自身が丸腰か刀のみを所持していた場合、相手を数段格上の相手と認識しろ、それが慶の師匠の教えであった。

 しかし、ここで慶の状況を再確認する。相手は薙刀、長刀だ。“薙ぐ刀”、“長い刀”だ。つまりは“突く”以外にも“斬る”動作が含まれる。というよりも、斬る動作に特化した結果、振り回すことができるようになったのが薙刀であり、戦国の動乱においてそれが槍へと転換したのだ。女性の多くは戦国期に薙刀を使用したと言われるが、男の多かった武士は槍を扱っていたとされる。

 

 

 斬る動作が含まれる以上、前後運動に拘泥していては薙刀を攻略することはできないだろう。慶は僅か一分でここまでの推測に辿り着いた。

 ここから薙刀の攻略が始まる。

 刀同様の上下からくる二連撃は脅威、基本動作がそれであるのだから困ったものである。蟹の鋏のように、獣の顎のように、挟むような攻撃こそがまず薙刀で叩き込まれることだという。

 しかし、それは言い換えるならば、基本的な攻撃はほぼ直線的なものに限られるということだ。多少のブレは生じる可能性はあるが、連続して繰り出される場合は確実に一本の軌跡を描く。それが速ければ速い程に。

 一子の今までの攻撃は確かに回避しやすいものだった。慶はそれを念頭に置きながら一子の動きに集中する。

 

 

「はぁッ!」

 

 

 ようやく基本対処に至った慶に、基本から僅かに逸れた技が襲いかかった。薙刀を降り下ろす軌道が解りやすく曲がった。上段攻撃と見せ掛けた下段攻撃、そんな生易しいものではなかった。

 一子の放った薙刀の切っ先がうねり、慶の脛と面の両方に同時に襲い掛かってきた。慶は咄嗟に片腕で頭を守ったが、実際に痛みが襲ってきたのは脛だけであった。

 

 

「うぐっ……!?」

 

 

 慶は脛にダメージを受けながらも即座に距離を取った。分析を主としていたせいで得意のカウンターができなかったのだ。

 

 

「わお、びっくり」

「えへへ。奥義、牙を向く! 頭と足に同時攻撃と見せかけて本命は一本! ルー師範代との特訓で身につけました!」

「錯覚も織り混ぜれるのか、薙刀も応用範囲が広い武器なんだなぁ…………。よし、いいよ。おいで」

 

 

 慶は一子の技を誉めながらも、心の中では機械的に薙刀を分析していた。槍よりも厄介なのは攻撃範囲が広いことであると慶は判断した。たったそれだけのことで、慶は薙刀に対する攻略を感覚で把握できた。

 慶は一呼吸おいて頭の中を整理し、一子に攻撃するように手招きした。その余裕ぶりに、一子は何故か苛立ちを覚えなかった。それはやはり、慶という人物を一武人として尊敬しているからだろう。

 

 

「チェストぉ!!」

 

 

 次の一子の攻撃は薙刀の長さを活かした斬撃ではなく、槍のように扱った高速の連続突きであった。高速と言っても、得物が大きいために速さはレイピアには遥かに及ばない。

 それを見た慶の動きは全てを避けきる訳ではなく、一度目を横に避けてから薙刀を空虚な左腕の袖で巻き取った。

 

 

「うわっ!?」

「武器ばっかに頼っちゃダメだよ!」

 

 

 袖で巻き取られた槍を引き戻そうにも固すぎてほどけずに一子は苦戦していた。そこで慶は、一子が再び槍を引き戻そうとした力に乗じて前に飛び、右肘を一子の腹部へ押し込み貯めていた気を撃ち込んだ。

 

 

「ぐうっ!! …………まだ、まだぁ!!」

 

 

 一子は薙刀を使えないものと判断して切り捨て、慶の右腕を確りと掴んで高く跳び、慶のこめかみに向けて蹴りを放った。

 慶はそれを体を逸らして何とか回避し、右腕から回転エネルギーを爆発させて一子の両手を弾き飛ばし拘束を解いた。

 

 

「はっははは、いいよ! もっと食らいついてみて!」

「はい!!」

 

 

 一子の必死の攻撃、元気のいい返事は、慶の顔を清々しい笑顔に変えた。

 一子は更に攻撃を続ける。回し蹴りの要領で慶の顎を狙うが、慶は右腕で一子の足を掴み、それを引き寄せながら一子の足を払った。勢いを止める足場がなくなった一子はそのまま回転して地面に転倒するが、直ぐに体を捻らせ慶の右腕を払い跳ね起きた。

 体勢を整えた一子が見たものは、慶の左腕の袖がまるで喫茶店の天井にあるプロペラのように回っている奇妙な光景だった。

 

 

「いいもの見せてもらったお礼に、こっちも面白い技を見せてあげよう」

 

 

 もう既に面白い、そんなこと思いながらも口には出さなかった一子は警戒心を強めた。

 そこで慶が動いた。右肩を前に突き出しての突進、左袖を回しながらの奇妙な移動方法であった。その動きのまま慶は一子に手を伸ばせば届く距離まで近づいた。

 その距離が縮まった途端、慶の左袖の回転が急激に加速した。濡れたタオルを思いっきり振り回すような速度、速すぎて袖が千切れてしまうのではないかと思わせるような光景に、一子は一瞬恐怖を覚えた。こんな奇妙な行動の後、何もないはずがないと警戒したのだ。

 一子は咄嗟に両腕を使いガードを固めた。それは本能的に危険を察知して取った行動であり、それは正しい判断であった。

 慶が右手の甲を一子のガードに軽く押し当てた。

 

 

「――――つあッ!!」

 

 

 慶が吠えた。その外見に似つかわしくない、気高く荒々しい獅子のような咆哮。

 その叫び声が発せられたのと同時に、まるで声の波動に弾かれたように一子が吹き飛ばされた。その弾き飛ばされ様もまた異様で、体勢は全く変化することなく全身が均一の力で押し出されたために、一子は転びもせず倒れもしなかった。

 しかし、体の芯に衝撃波が伝わったように、一子の体がガクガクと急に震え出し、その振動と衝撃に耐えきれなかった一子は膝をついた。吹き飛ばされてから数秒後の異変だった。まるで三半規管を蹴り抜かれたような気持ちの悪さが一子を襲っていた。

 慶は一子が耐え切れないことを予想していたのか、一子が倒れる直前に駆け寄った慶は一子を抱きかかえていた。まるで子供をあやす様に一子を包容している慶は、天衣も驚くような身の翻し様で優しく暖かい様子であった。

 

 

「うっ……かはっ…………。お、ああ……あ…………?」

「一分くらいで元に戻るよ。平衡感覚がなくなってちょっと気持ち悪いだろうけど、ちゃんと手加減してあるから」

「えげつないな……。今の技、一体何だ?」

 

 

 地面から起き上がれずに苦しんでいる一子の背中をさすっている慶に天衣が問い掛けた。

 

 

「私の流派の攻撃技ですよ。体の中で練り上げた気を相手に撃ち込む、中国拳法では勁を撃ち込むというのかな……? その辺りの知識はあやふやではあるんですけど、私のこれは中国のそれに負けない自信がありますよ」

「お前の流派は防御主体なんだろう? それなのにそんな攻撃的な技があるのか?」

「あるんです。いや、この回転エネルギーが附随している気を撃ち込むことしかないんですよ」

 

 

 慶はニッコリと笑い天衣と話しながらも一子を優しく手当てしていた。。

 先程の鬼のような叫びに悪魔のような攻撃、そして今の看護士のように優しく怪我人を手厚く介抱している慶の姿に、天衣は不思議な気持ちに陥った。

 

 

「私は時々お前がどんな奴なのか解らないよ。性別だってはっきりと教えてくれやしない」

「天衣さんは私を女だと思うのなら、私は女ですよ」

「何だかなぁ。お前も難儀な奴だ」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「あの、ソラさん」

「うん? どうしたんだい?」

 

 

 一子の体力が回復した後、慶は一子の攻撃と動きの細かな指導を天衣と一緒に行った。天衣も一子も速さを得意とする所があり、川神院を除けばこれ以上ないくらいの環境で一子は修行ができた。

 その修行が終わり、一息つこうと川を沿って散歩をしていた慶を一子は追いかけてきた。その呼称は“天野”ではなく“ソラ”になっていた。外で慶を呼ぶ際にこう呼ぶようにと、燕に要求したように一子にも頼んだのだ。

 

 

「まだ休憩してていいよ?」

「……その、聞きたいことが……」

「? 何だろうか?」

「……どうして、アタシにこんなにも修行をつけてくれるんですか?」

 

 

 素朴且つ純粋な質問を真っ直ぐな瞳で与えられた慶は戸惑った。自分の利益になるからということもあるし、ただ単に一子を応援したいという気持ちもあったため、どうやって答えればいいかが解らなかったのだ。

 仮にもし、応援したいという良い印象を与える返答をすると、それが何故かという疑問に繋がってしまう。かと言って、自分の利益を答えてしまったらそれこそ本末転倒、一子に嫌われてしまうかもしれない。

 

 

「うーん……。そうだね、一子ちゃんが好きだからってことにしておこうかな?」

「ふぇっ!?」

 

 

 慶の最上級の笑顔で発せられた口説き言葉に、一子は解りやすく顔を茹でたように真っ赤にした。その口はパクパクと何度もはっきりとした言葉を出せずに動いていた。

 

 

「あはは、じゃあそういうことにしておいてよ」

「で、でででででも! ソラさんが男の人か解らないし!」

「一子ちゃんが私を男だと思ったのなら、私は男だよ」

 

 

 いつものように笑いながら性別を誤魔化し、一子をからかって可愛がる慶であった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 時は流れ夕刻、鉄心は多馬大橋の真下にいた。川面を眺めて時間の経過をあまり考えないようにしているところを見ると、人と待ち合わせをしているようだった。

 鉄心が何度目か解らない溜め息をついて、水面から茜色に染まった空へと視線を変えた時、待ち人は土手を降りて鉄心の下へとやってきた。

 

 

「お待たせしました」

「うむ、五分前じゃ。相変わらず時間に余裕を持って動いておるのう」

 

 

 鉄心が待っていたのは、忍ぶべき身であるのに堂々と待ち合わせを申し込んできた奇人、天野慶であった。一子との修行を終え、百代の監視に一子を抜擢し、鉄心との接触を図ろうとしていたのだ。

 慶の表情は笑っているように見えたが、あくまで微笑みという範疇での笑みであり、決して明るく元気なイメージを擦り付けるような笑顔ではなかった。その微笑みの裏に隠された感情は、多くの修羅場を潜り抜けてきた鉄心にも読めなかった。

 

 

「して、何用じゃ天野よ。一子から手紙を預かった時は相当驚いたわい」

 

 

 あはは、そう口に出して笑う慶であったが、反省の色は一切見られなかった。また何度もこういうことがあるのかと、鉄心は呆れて溜め息を吐いて自慢の髭をそっと撫でた。

 

 

「――――頼みごとがあるんです」

「頼み事、とは?」

「頼み事、というか、尋ね事です」

「ふむ、尋ね事」

 

 

 

 

「アイツらは、能天気に学園に来ているのか」

 

 

 

 

 慶の表情が変わり、気配が一変した。笑いなど一切ない真剣な表情、慶の温和な印象など一切なくなるような冷え切った眼光、一回りどころか十回りは年の離れていそうな学生に対し、鉄心は不確かな恐怖を覚えてしまった。

 そして、慶が言わんとしている“アイツら”に、鉄心は当然の如く心当たりがあった。慶がこのように口を汚くして“アイツら”と呼びつける人物を、鉄心は確信を持って知っていると言えた。慶の言うところの“アイツら”と、予想している人物たちが外れたら、鉄心は自害できるほどの自信があった。

 それほどまでに、慶の殺意は明確であった。

 

 

「――――うむ、来ておる」

「何も変わらず、いつも通り?」

 

 

 慶は無表情で鉄心に質問を投げ返す。鉄心はそれに動じないよう、心をしっかりと保ってそれに応える。

 

 

「――――うむ、変わらずじゃ」

「そうか。では、罪の意識は幾ばくもないと」

 

 

 慶の質問は終わったが、鉄心にぶつけられる冷たく黒い殺意は収まっていなかった。それどころか、鉄心との問答を繰り返している間に、それは収まるところを知らず増幅してるようだった。一体これは誰の気の増幅なのか、目の前にいる鉄心ですら“天野慶”という人物に疑問を持ち始めてしまうほどだった。

 

 

「天野」

「――――よくものうのうと生きていけるものだな」

 

 

 ゾクッと、鉄心は背中に走った鋭い悪寒に目を見開いてしまう。その目に映るのは、慶の体からじわじわと滲みだしてくる、漆黒の闘気。破壊を快楽とするような廃人が発する、邪悪な暴威。それを鉄心は知っている、確かにその気配を知っていた。

 鉄心自身が日本の南から引き連れてきた、化物と忌み嫌われ両親からも捨てられた異端児、釈迦堂刑部。彼が川神院を破門される前に自身の体に宿していた禍々しい闘気と慶のそれが酷似していたのだ。それも色まで全く同じ、慶は落ちる寸前どころか、既に落ちていたのかもしれない。

 二年前、慶を救えなかったことを今更になって激しく後悔する鉄心。今更だとは思いながらも、鉄心は心の中で謝罪するしかできなかった。

 ただ、この時点で鉄心は勘違いをしている。

 

 

「――――ですが」

 

 

 慶の闘気が急に膨張することを止め、次第に空気に溶け込むように消え入った。その後に残ったのは、いつも通り感情の読めない微笑みを浮かべている天野慶という一個人だった。鉄心もそれをはっきりと認識できた。何故いきなり元に戻ったのか、鉄心はそれを次のけいの台詞で理解することになる。

 

 

「私が人を殺めたら、華月は悲しむでしょうね……。それも大きな声で咽び泣いて、私は嫌われちゃいますね」

 

 

 慶が暗黒面に陥りそうになっている原因は二年前の事件であったが、慶をつなぎ止めているのもまた二年前の事件であったのだ。慶は被害者であり加害者である。その奇妙な二面性が、慶の精神の天秤の釣り合いを取らせていた。

 慶が暗黒面に落ちきっていないのは確かだが、片足を突っ込んでいるのもまた事実。慶は今非常に危うい状態に立たされていたのだ。

 それでも、慶をつなぎとめようとする絆という鎖は多く存在する。慶を信じている鉄心やかつての同級生たち、慶が隠れるようになってからできた一子や燕との絆、慶の見方多く存在していた。

 

 

「実は今回の相談、さっきの答えを聞いた後、お礼参りに行こうと思っていたんです。総勢三十四名、全員半殺しにするつもりで。あ、首謀者は七割殺しで」

 

 

 慶の微笑みが清々しい笑顔に変わる。決して、その内容と表情は一致しているとは言えない。傍から見れば狂人にしか見えない言動であった。

 

 

「けど、止めておきます。やはり私の復讐は、計画通りに行きましょう。学長、準備はどうですか?」

「……進んでおるわい。二ヵ年計画、というやつじゃからな。それをお主、いきなり現れて掻き乱しおって」

「我慢できなくて、つい」

「つい、じゃないわい…………。まあよい。九鬼との連携も進んでおる、華月の回復も順調じゃ。一週間以内には決着がつくじゃろう」

「楽しみにしています。アイツらに正しき裁きと鉄槌を、私たちの手で下しましょう。自分の教え子を罠に嵌めるのは気が進まないとは思いますが」

「正しき道に教えるために必要なことなら、ワシは喜んで奇策を弄そう」

 

 

 その会話を最後として、鉄心と慶は別れた。

 

 

「一週間以内だからといって、二日三日と勘違いして生き急ぐなよ? ぼくの可愛い怨憎(おもちゃ)。まだまだ、君には苦しんでもらう運命だ」

 

 

 その会話を一部始終眺めていた人外が、不敵な笑みを浮かべているとは知らずに。

 

 

 





 孤独を味わうことで、人は自分に厳しく、他人に優しくなれる。
 いずれにせよ、人格が磨かれる。

 ニーチェ

 ◆◆◆◆◆◆

 慶の口調が変わりました。特に二重人格というわけではありませんが、以前に書いたとおり、慶もまた業深き人間であります。裏と表を使い分けなければいけないと、慶が恨みを表層に表した時にこのようになります。その時、慶は釈迦堂さんに近くなるようです。鉄心が戦慄するほどです。あれ、これってチート臭いのでしょうか……? それでも慶は一介の学生であります。百代と張り合える、と付けると異常ですが。

 今回も和歌について、百人一首や万葉集などは有名なので、この歌を知っている方も多いかと思われます。知らないという方はグーグル先生に頼れば色々教えてくれるでしょう。慶の心情に近かったので引用させていただきました。一人でいれば、自分も誰も恨むことはないのに、ということですね。この二年間、慶は孤独であるが故に平穏を保てていたということを汲み取って頂ければこれ幸いでございます。

 結論。和歌の説明ないとダメかもしれない。


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第十二帖 うらめしの我身の様や苔の袖――――

 ――――かりそめにだに思ひたえぬは


 作者不詳


 

「目標捕捉」

 

 

 ギリリリ……。

 銑治郎宅に少女たちが招かれていた時刻、川神学園の制服をだらしなく着ている少年が、自分の身長の二倍近くある巨大な弓を構えて意識を集中させていた。

 弓と結びつける弦の月輪と日輪が(はず)と擦れる音と、握り手の革が左手を巻き込むように唸る少し湿り気のある音が、川神学園屋上の貯水タンクの上から静かに響く。殆ど木霊せずに周囲五メートルにいなければ聞こえないような音に加え、弦を引っ掛けている黒い弓懸けからも小さく、キリキリと今にも弦が外れてしまうのではないかと錯覚してしまう危うい音も混じっている。

 しかし、それこそが最上の状態であり、弓兵が目指すべき一種の究極型であった。

 傍から見ればどこかのゲームや漫画に出てきそうな異形の弓だが、それの所持している人物の出生や、その異形ながらも基礎(ベース)になっている形を鑑みれば、それは和弓の亜種と判断することができる。菖蒲色や紅紫といった濃い紫の混ざり合った独特の光沢を放つその弓も、しっかりと和弓の基本形に基づいた(そり)や比率を保持している。

 しかし、その弓に取り付けられている矢の形は明らかに変わり種で、遠距離で使用しようとするには常軌を逸している。拳一つ分はあるかと思われる鏃の先端は尖っていない。普通の鏃と比べると平らなため、銃弾で例えるならホローポイント弾のようにも見えるかもしれない。この鏃もホローポイント弾同様、先端が凹んでいる仕様であった。その殺傷能力は恐ろしく、手加減されていたとは言え、鉱石を切り裂く斬撃で切り裂けなかった超硬の装甲バイクを一撃で貫通するほど。

 その驚異的な破壊力を有した矢を、少年は一人の人間に向けていた。

 

 

「組織の暗殺者(アサシン)がこの学園の生徒とは、盲点だった」

 

 

 少年は悔やんでも悔やみきれないような、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。超重量の弓を引きながらでは、言葉を漏らしたり表情を変えたりする余裕はないはずなのだが、少年はそれに対する苦労は一切感じていないようだった。

 少年、那須与一は再び目標に意識を集中する。後悔することは後でもできると、今すべきことに切り替えたのだ。

 猛禽類のような鋭い眼光で射止めるべき対象を視界に固定する与一。対象の特徴を与一が報告として特筆するとするならば、大きな黄色いヘッドフォンをしていたということだけだろう。それ以外の外見は他の学生と何ら変わらない。身長も高い訳でもなく低い訳でもなく、測ってみれば与一とさほど変わらないだろう。身のこなしも気配も一般人のそれと大差ない。寧ろ劣って見えるほどだった。

 

 

 ――――それなのに、何故狙いが定まらない?

 

 

 与一の思考回路は電波妨害された通信機器のように煩瑣(はんさ)していた。対象は視認できる。横顔も体格も歩幅も呼吸もしっかりと記憶に焼き付けた。それなのに、与一の狙いは少年の中心を捉えることなく、少年の輪郭付近をフラフラとふらついていた。

 記憶した情報が、害虫に蝕まれている葉のように穴だらけになっていく。

 信じられない、与一は焦燥感を露わにし額に汗を滲ませていた。次第に弓を握っている左手にも汗が滲み始め、弓に巻かれた革が湿り気を多く帯び始めていた。

 これでは拙いと、与一は一呼吸置くために弓を引く動作を中断し、弓と矢を取り外してそれを右手だけに持ち替え、対象を視界から外すことなく深呼吸を繰り返す。

 

 

「脳内に直接ジャミングだと……? クソッ、高位古代魔術(ハイエンシェント)が使えるとは、幹部クラスの実力者だったか……! 道理で風が哭く訳だ……」

 

 

 与一は今まで以上に気を引き締め、手のひらに吹き出していたじっとりとした汗をズボンで拭いながら弓の調整をする。

 与一が現在手に握っている矢は一本、九鬼家従者部隊序列一位のメイドに手渡されたのが一本だけであったが故、泣いても笑っても与一が射ることができる矢はこれっきりであった。本来ならば、与一の矢を管理しているのは序列三位の執事であった。しかし、現在は川神学園の一年生に編入してきた九鬼財閥トップの子供の三人の内、末っ子である少女に付きっきりであるため、与一が呼んでも反応はない。それを分かっているからこそ、与一はいつにも増して慎重なのだ。

 一撃で仕留める、その心意気と覚悟が与一の全力を引き出そうと奮闘する。

 与一は再び弓と矢を構える。その動作は流れるようにスムーズで、先程の体制に戻るまでに五秒とかからなかった。弓道としてはあまり褒められたものではないが、こと戦闘においては評価は高い。

 与一の狙いは先程より定まっていた。腕のブレも少なくなり、少年の輪郭内に収まるまでにはなっていたが、与一はそれをよしとしなかった。

 

 

 ――――この程度の距離、あの程度の大きさを仕留めることができなくて、何が弓の英雄か。何が源氏の三与一か。

 

 

「我放つ雷神の一撃に慈悲は無く」

 

 

 与一は囁くように詠唱を始める。かつての与一、つまりはこの与一のオリジナルである過去の偉人である那須与一は、ここぞという時には神に祈ることで、精神を安定させ矢を放ったと言われている。

 しかし、今の与一、クローンとして現代に蘇ったこの与一はそれを好まない。彼を支えるのは詠唱、自身の力を呼び起こし奥義へと繋ぐ言霊の儀。

 

 

「汝を貫く光とならん」

 

 

 与一の目が更に大きく見開かれ、同じ姿勢を保っていた右手が解放される。

 

 

「奥義! 竜神王咆吼波(ドラゴニックブレス)!」

 

 

 与一の巨大な弓、通称ソドムの弓から放たれた一矢は激しい閃光のように発射され、一秒足らずで目標の少年への狙撃を完了した――――筈だった。

 

 

 

 

 少年は与一のいる方向へ振り向くどころか、迫り来る矢を見もせずにそれを半身で避け、目にも止まらぬ速さで振り上げ振り下ろされた足によって踏み潰された。

 

 

 

 

 その矢の軸は激しい衝撃で真っ二つに裂けており、その中心部分は爆発したように粉微塵になっていた。先程まで異形と言わしめていた鏃は地面にめり込んでいて役に立っていなかった。与一の矢は、圧倒的な力で捩じ伏せられてしまった。

 与一は絶句していた。先刻の狙撃には少なからず、いや、大きな自信があった。確実に臓器の密集する胴体に鋭い矢を撃ち当てた筈だった。しかし、僅か一秒足らずの時間で、少年は与一の自身と懇親の一撃を文字通り粉砕したのだ。

 そして何より驚くべきは、少年は矢が襲ってきたこともそれを対処したこともどうでもいいのか、まるで“気づいていない”かのように意に介さずそのまま下校していった。

 一方、奥義を止められた与一はあまりのショックに膝をつき、左手で顔面を多い蹲っていた。

 

 

「馬鹿な……!? あれを迎撃できるレベルの強さを有しているだと……!? 奴の使える術は高位古代魔術(ハイエンシェント)のみならず、精霊魔術(エレメント)の術式を己の肉体に武装できるのか……! 確認できただけで俺の奥義を相殺した雷の属性と、底知れぬ闇……。まさか、奴は俺や直江大和と同じ、“特異点”……!」

 

 

 与一は膝に手を置き、ググッと時間をかけて再び立ち上がる。しかし、与一は学園内に少年の姿を確認することはできなかった。既に学園内から立ち去ったのか。

 

 

「くっ、またしてもジャミングか。俺が敵を逃すとは……。いや、どちらにしろもう矢はねぇ。悠々と立ち去るアイツを見れなくてよかった、というところか」

 

 

 与一は奥歯を噛み締めて悔しがっていたが、どちらにしろやれることはなくなったと、弓を担ぎ屋上を後にしようと屋上の出入り口に手をかけた。

 

 

「“特異点”が三人もいる学園……。ここが混沌(カオス)に飲まれる前に、俺は――――」

 

 

 そう言い残して与一は屋上を後にした。

 以上、与一の妄想半分、事実半分で構成された“特異点”同士の衝突であった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「――――与一の一撃を、ああもあっさり、か」

 

 

 川神学園グラウンド、垣根の中に潜んでいたメイド服姿の女性が驚愕の声を漏らした。彼女は手元にとある人物について調べさせたありったけの資料にそっと目をやった。そこには“九鬼”と大きく判が打たれていた。

 彼女の名は忍足あずみ。九鬼家の次期財閥当主である九鬼英雄直属のメイドであり、九鬼家の従者部隊の中で序列一位という、九鬼家従者部隊を統括する位置に付いている優秀なメイドであった。

 序列一位と銘打たれているが、本人はその称号を嫌いながらも重く受け取っている。本来の彼女の序列位置は一番とは世辞でも言えなかった。戦闘能力だけで言えば、彼女よりも強靭な執事は複数人おり、仮に事務処理や知識だけを考慮しても、星の図書館と呼ばれる老婆がいる限り、どう足掻いても頂点に立つことはできない。

 彼女は九鬼家の若手育成方針の代表例とも言えるもので、若者に指揮をとらせるという名目で従者部隊の一位を任されている。当人からすればそれは非常に心労を与えられることで、日々仕事終わりに「あー疲れたぜー」と言いながらベッドに倒れ込んでいるのだが。

 そんな彼女が今回目をつけたのは、とある少年についてであった。

 切っ掛けは至極簡単、あずみが少年と教室でぶつかったことだった。たったそれだけであった。たったそれだけのことで、彼女は戦慄したのだ。

 

 

 ――――こいつ、誰だ?

 

 

 あずみはその瞬間に思考回路を全力で稼働させ、脳内に保管されているありとあらゆる記憶を呼び覚ました。特に学園生活の記憶は洗いざらい思い起こし、当時の報告書なども全て目を通した。

 その中に、少年に関する記憶は一切なかった。それほど大したことのないように思われるかもしれないが、あずみは学園に保管されている少年の資料を見て愕然とした。

 

 

 ――――アタイたちと、一年から、同じクラスだと!?

 

 

 少年の学園生活は非常に優秀であった。特にその学力に関しては非の打ち所がなかった。川神学園の入学試験を六位で合格し、エリート集団であるS組になんなく入り、その後も学園一桁代の順位を獲得してきたという。更に、一年の期末試験では不動の学年トップと言われている葵冬馬、あずみの主であり将来有望な九鬼英雄、異様に調子が良かった不死川心に次ぐ四位であった。

 その順位をキープしているのならば、当然の如く二年生になってもS組に入っていることは間違いなかった。

 あずみはその事実を知る前、この調査をしようと思い立った時の感覚はこうであった。

 

 

 ――――今日初めて会った奴だが、一応調べておくか。

 ――――同じ学年の人間の顔くらい、覚えていたはずだけどよ。

 

 

 ところが、蓋を開けてみればどうだろうか。初めて会ったどころか、一年間同じS組で切磋琢磨した同級生、更には現在同級生、加えてあずみの“隣の席の学生”ときた。ここまでの事実が発覚してあずみは慚愧に堪えられず頭を抱えてしまった。今まで一体自分は護衛として何をしてきたんだと、酷い自責の念に駆られていたのだ。

 あずみは昼休み、少年を除いた同級生に聞いて回った。「この少年の名に聞き覚えはあるか」と。その結果、秀才葵冬馬、主である九鬼英雄、交友関係の広い井上準ですら知らぬ存ぜぬといった対応であった。

 ここであずみは一つの仮説を打ち出す。

 少年は、何か特殊な訓練を受けてきたのではないか?

 誰にも気づかれずに潜入し、上層部からの命令に従順に従い任務をこなす。その仕事に対して真摯かつ生真面目でありながら同様の内容を受け持つ職業を、忍足あずみは嫌というほど痛感している。短期であっても報酬さえあれば何でも請け負うよろず屋のような場合もあれば、長期ならば永久的に従属する場合もある、とある技法を学んだものにしか就けない特殊な職業。

 

 

 ――――アイツ、まさか忍か?

 

 

 そんなふざけた考えを直ぐにあずみは払拭したかったが、目の前でおきた光景と調べに調べた特筆事項の少ない少年の履歴を考慮に入れてしまうと、どうしても簡単には否定できなくなってしまう。寧ろ信憑性が増してしまっている。

 殆ど足音を立てようとしない足運び、誰にも気づかれずに一年間隠れ過ごした隠密性、学年の中でも五指に入る学力を持つ頭脳、身体測定において明らかに秀でている反復横とびから測ることができる瞬発性。それらを兼ね備えた一般学生など早々いない。

 そして、時速二百キロ近いバイクを一秒足らずで狙撃した与一の矢を身もせず対処した身体能力。それが示すことは、少年の戦闘能力は見ただけで推し量ることのできないということ。

 忍者として充分な能力、異常なまでに恐ろしい戦闘力、それらを考慮に入れてあずみの仮説は次なる仮説へ昇華する。

 

 

 ――――暗殺、専門……。

 

 

 与一のような組織の資格だとかそういった空想の類ではなく、忍が忍たる所以とも言える隠密行動、その代表例である暗殺を専門職とする忍も確かにいる。傭兵として駆り出される忍もいるのだ。忍者の代表格とも言える職が残っていれも何ら不思議はないだろう。

 となると、この少年が忍であると仮定して次のステップへ進むのならば、当然“標的は誰であるのか”ということに尽きる。

 ただでさえ学力が高いということで目立つS組に入るということは、それだけのリスクを犯してでも、標的に近い場所で活動したいということの現れだろう。他クラスからS組に何度も行っていては怪しまれる、ということもあるのだろう。

 S組で標的となりそうな人物をリストアップしていくあずみ。

 かの巨大病院――不祥事が発覚し、九鬼が秘密裏に処理したが――で有名な葵紋病院の御曹司である、葵冬馬か?

 その右腕とも言える葵紋病院副院長の息子かつ、葵冬馬の補佐である、井上準か?

 かの綾小路家と並んで三大名家として名高い不死川家の一人娘である、不死川心か?

 九鬼家が発動した武士道プランの体現とも言える三人のクローン、源義経か、武蔵坊弁慶か、那須与一か?

 

 

 それとも、九鬼家次期財閥当主であり、あずみの主である――――九鬼英雄か?

 

 

「――――っ」

 

 

 思わず身震いしたあずみ。何を不抜けて、こんなにも不用意に危険人物を自分の主に近づけていたのかと激しく悔やんだ。後悔の気持ちがグルグルと体の中を動いて膨れ上がり、収まりがつかなくなってしまったのか、あずみは半分分解されかかっている落ち葉の積もった腐葉土に拳を叩きつける。その中に木の枝や石が混じっていて、あずみの手の甲から地が滴るが、それがどうしたとあずみは何度も自身を痛めつける。

 

 

 ――――こんなんじゃ、駄目だ。

 

 

 あずみは数分間拳を傷つけ、一つの結論に至った。

 

 

 ――――危険人物、伊那渕を、“警戒レベル4”の対象に指定する。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「何だろうか、不穏な空気を感じる」

 

 

 そう呟いた少年、伊那渕は瞬間的に顔を真っ赤にして、慌てて口を塞いで周囲の目を気にするようにキョロキョロとしていた。普段の彼ならば独り言を呟こうが対して周囲の目を気にすることはなかったのだが、ここ最近になって周囲に“気づかれるようになった”ためか、少しばかり言動を慎もうと考えを改めているが故であった。

 加えて、渕は中二病という黒歴史を生み出す病気を早期発見し克服しているため、こう言ったクサい台詞は妙に小っ恥ずかしいのだ。

自身の行動を顧みて恥ずかしがっている内に、渕は自宅の門の前に到着していた。その門は単なる門ではなく、中世の古城に付いていそうな古ぼけた門。この仰々しい門はどうにかならないものかと、渕は見飽きて呆れた自身の家の外見に溜め息を吐いた。

 門を潜って窮屈な皐月躑躅(さつきつつじ)の生け垣のアーチを抜けて漸く見える二階建ての家。どうしてこんな無駄なものを作ったのかと、渕が何の言い回しもせず愚直に両親に問い詰めたところ、「爺さんの代からの血統書付きセンスだから、お前が理解できないのは残念だが仕方がない」だとか、「お義父さんとパパの感性は普通じゃないの。私は無関係よ。お願いだから私に聞かないで」だとか、挙げ句の果てには「今度噴水でも作ろうかと思うんだ。小便ダビデ」だとか、何故この家の息子になったのかと頭を抱えて一週間ほど反抗期になったことがあった。

 加えてたちが悪いのは、十一月から既にクリスマスモードに入るのか、花の散ってしまった生け垣がイルミネーションの生贄になることだった。その配色もまた逸脱したセンスの元装着される。渕は自分の家以外でブラウンに輝く――輝くと言いづらく、どちらかというと濁って見える――電飾を見たことがなかった。

 そんな渕がある種忌み嫌う自宅のアーチを潜り抜け、二重の意味で異色な小便少年少女を模した噴水増設予定――噴水ダビデ計画は渕の母親の説得(暴力)により白紙となった――の庭を通って玄関に至る。

 玄関の扉にも何故か使いもしないドアノッカーが取り付けられている。その形は通常なら獅子の頭部を模したものが多いが、目の前にあるドアノッカーは何故か鉄鍋の形をしていた。ただの円形と間違えられないようにか、鉄鍋の中央にはナイフで荒々しく切るように“Ottoman”と刻まれていた。

 

 

 ――――動物ですらないのかよ。

 ――――何だよ“おっとまん”って。

 

 

 幾度となく疑問を投げかけたこのドアノッカーにも、何故か愛着がわいている渕。“Ottoman”の読みは“おっとまん”ではないのだが、渕は“おっとまん”と読んでいる。勿論読み方も知っているし、そう刻んだ意図も理解できる。できるからこそ反発しているのだ。

 しかし、玄関前のアーチだけはどうにも好きになれなかった。親父の棺桶には“あれ”をつっこんで一緒に燃えてもらおうと、密かに母親と計画していたりする渕であった。

 

 

「ただいまー」

 

 

 返答はない。ここ最近、渕の両親の帰りは遅い。両親が何をしているかを、渕は詳しく知らない。唯一分かっていることは、渕の両親は九鬼の極東本部に出入りしているということだった。それを把握するまでに、渕は自分を認識できる人間である両親を数回備考した。理解者とも言える両親に隠し事をされるのは少し嫌だったのだ。

 それでも、渕はそれ以降の尾行は行っていない。理由は簡単、他人に気づかれなかった人生を歩んできたせいか、他人に気づかれない境界線というものも把握できるようになっていた。以前竜兵に襲われた時はそれを無視していたから気づかれたが、普段はその程度では気づかれはしない。現に一年間、S組に“影”として気づかれずに混じりきったのだから。

 尾行をやめたのは、明らかに覚知範囲が広い人間がそこに何人もいたからだ。極東本部が見える位置で気づかれなかったのは僥倖と言えるレベルだったと、渕は当時の緊迫感を思い出していた。

 それが一体、幸運や僥倖などでは言い表せない偉業を成し遂げていたことを、その時の極東本部に壁を越えた者が複数人いたことを、渕はまだ知らない。

 

 

「少しだけでも、話してくれたっていいのにな」

 

 

 その呟きにも返答はない。少し肩を落としながら渕は靴を脱いで自室に戻ろうとした。渕が靴に手をかけたその時、やけに焦げ臭い匂いが鼻についた。火事かと思い込みかけた渕だったが、その匂いの元が自分であることにすぐ気づいた。

 自分が持っている右足靴、その靴底を見ると、ベルトサンダーにでも引っ掛けたのかと疑うくらいに滑り止めが削り取られていた。左足の靴と比べると、数ミリほど焦げきって磨り減ってしまっていることに気づいた。片方は新品同様、もう片方はわんぱく小僧が使い込んだような有様だった。

 

 

「……また、何かに襲われたのかな」

 

 

 次第に自分の異変を受け止めつつあった渕は溜め息を吐いて、“今週四足目”の靴をゴミ箱に捨てて自室に入った。

 

 

 ――――自分みたいな“凡俗”に、よくまあ、物好きだよ。

 

 

 渕は自身の異変に気づいていながらも、それを全て受け入れていない。今の自分の強さ、異常な身体能力はあくまでも一時期的なもので、見せかけのハリボテであると自己認識していた。それも、酷く自嘲的に。自分を虚仮と言い放てるほどに。

 自分の両親がどれほどの武の才があるかも知らない上、血統とやらにも興味はこれっぽっちもない渕。自分に武道の才能があるなどと、今の今まで考えてこなかったほどだ。人から

気づかれない才能は仕方がなく認めてきたが。

 そんな渕からすれば、自分は鍍金(めっき)の存在であると考える。自身の月並み陳腐な才能にただただ呆れ、第三者を装い憐れみ、哀しむ。

 

 

「……さあて、と。今日も楽しく深夜徘徊」

 

 

 そのためには昼寝が必要だ、そう自分に言い聞かせて渕はベッドに潜り込んだ。

 

 

 





 大理石でできた二本の美しい腕が失われたかわりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、ふしぎに心象的な表現が、思いがけなくもたらされたのである。


 清岡卓行

◆◆◆◆◆◆

 渕くん大人気回です。本人の預かり知らぬところでいつの間にか天衣さんと同じ扱い、いや、それ以上になっております。同性愛者と中二病患者と壁を超えた者クラスの従者たちの対象に。これはなんという死亡フラグなのでしょうか。

 突然ですが、ここでクエスチョンです。

 松永燕・C
 川神百代・B
 葉桜清楚・A
 椎名京・S

 これは一体なんでしょうか? これはですね、私が慶の身体のバランスを調べ確定させるために独自調査した結果の副産物なのですが……。


“マジこい女性キャラ33名、ナイススタイルコンテスト”における評価であります。


 ナイススタイルと銘打ったのは、決して“ナイスボディ”ではないということの意です。これは“ゴールデンカノン”と呼ばれる、その人の身長にあった理想のスタイル、つまりは現代女性に理想の黄金比があるのですが、それに基づいた結果、上記のようになりました。百代さんBクラスでした。カップはFでした。

 参加者は現在スリーサイズが公式発表されている三十三名、残念ながら沙也佳ちゃんはまだ公式発表がないので今回はお休みです。それでも羽黒は参加しています。

 もちろん、中には“巨乳は資産価値”とか、“貧乳は希少価値”だとか、人それぞれ嗜好はあると思われます。なのでこれはあくまで“バランス美”を競う評価であります。

 慶の身体は黄金比を用いて算出しようとしていたので、そのついでですかね。白銀比など他にもいろいろな比率があったので、色々頑張れば男性キャラのスリーサイズも評価できます。

 あと、慶の肉体を黄金比で算出しようとしたからといって、慶が女性とは限りませんので悪しからず……。


 こんな統計作って、需要あるのでしょうか……? もし知りたいという方いたら、教えてください。一応カップも算出しましたけど……。本当、寝る時間削って何していたのでしょう、あの頃の私……。



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第十三帖 春日野の若紫のすり衣――――

――――しのぶの乱れ限り知られず


作者不詳


 

「あ」

「お」

 

 

 深夜の親不孝通り付近、筋肉質の粗暴そうな男と影の薄そうな少年が再び出会った。

 その瞬間、少年の方は素早く身を翻して来た道を逆走しようとしたが、無意識下における爆発的な身体能力を発揮できなかったせいか、一瞬にして回り込まれてしまった。

 

 

「こらこら逃げんな渕」

「な、何だよ板垣。また鬼ごっこか?」

 

 

 少年、伊那渕は素人感丸出しの構えを取って警戒心を強めた。

男、板垣竜兵には前科に近いものがある。そう、竜兵は先日、渕を犯そうとしていたのだ。男同士で、この現代ではあまり需要のない――次元が一つ少なく、人物が美化されているなら需要はもう少し高まる――組み合わせであった。

 しかし、竜兵は至って真面目、本気も本気、真剣そのものであった。そこから辛くも逃げ出した渕にとって、竜兵は今でも下半身を中心とした寒気を起こす原因であった。

 そんな竜兵と貞操を掛けた――掛けるのは渕のみ――鬼ごっこを、渕はもう二度とやりたくなかった。常時舐められるような感覚に襲われる視線に支配される逃走劇、何を好き好んでこのようなことをするのか、渕には理解できなかった。

 

 

「バーカ、今日はしねぇよ。ただ話をしに来ただけだ」

「嘘は良くない。さっきから視線が僕の下半分にしか行ってないだろ」

「そりゃ本能的な問題だから解決使用がねぇわな。つーか、立ち話もなんだ。そこいらのファミレス入ろうぜ?」

「襲い掛かるなよ?」

「わーったよ」

 

 

 竜兵は渕の疑いを解消することはできなかったが、渕をファミレスに連れていけただけ上出来だと考えていた。逃げられてしまったら竜兵の力技では渕を捕まえることができないと、竜兵の本能がそう告げていたのだ。

 竜兵の本能は、この川神において一二を争う鋭さを秘めた嗅覚をしているという事実が、渕という“影”を明確に捉えたことにより証明された。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「俺はカレーでも食うか」

「夜中なのにハードだね……僕はチーズケーキ」

「甘いもん食ってるお前も大して変わんねーよ」

 

 

 テーブル席の対面で互いのセレクトを批判する竜兵と渕。二人を端から見ると、大人しそうな文系少年にカツアゲをしている不良という絵面に見えなくもない。念のために、渕は店員にそんな危険なことはないと耳打ちをしているあたり、渕は竜兵を完全な危険人物だと認識をしていないようだ。

 良くも悪くも、渕は人付き合いの経験が少ないのだから仕方がない。

 

 

「それで、話って?」

「おおそうだった。お前のその回避能力、ただ者じゃねぇだろ? 一回見たこともない構えを見せやがったし。今日のは素人感が溢れてたけどな」

「ああ……。そう言えばそんなこともやったっけ……」

 

 

 渕は以前の自分がとった行動を思い出す。

 竜兵に対し攻撃の体勢でいるように見せるハッタリを、惜しげもなく披露して何とか逃げ切ることに成功したという、あまり誇らしくない成績であった先日の衝突。渕からすれば、当時死に物狂いで危険から回避したいという一心でとった行動であったため、渕はこれを恥じようとしない。

 実際、“ワンパンの竜兵”から逃げ切ったという事実だけで、親不孝通りの不良に対し自慢できるのだが、不良どころか同級生とも関わりのない渕がそんなことを知る由もなかった。

 そう言えば、あの時は気づいたら竜兵から逃げ切れたんだよな、そう思い出した渕。決して意識的に行えて行動ではなかったと、声に出して竜兵に告げようとした。

 

 

 そこで渕の声が詰まった。

 

 

 自分のあの動きが何なのか、それを説明しようとしただけなのに、急に喉が絞まった。物理的に絞められている訳ではないのだが、喉の奥にフィルターが存在しているかのように、そこから特定の言葉が出ることを拒絶しているようであった。

 いや、それだけではないと渕は感じ取った。段々と説明しようと思っていた内容が“霞んできた”のだ。一体何を話そうとしていたのか、一体何を伝えようとしていたのか、渕の記憶のノートに消しゴムがかけられていく。

 

 

「あ……? うっ…………!」

「……おい、どうした」

 

 

 竜兵が急に息すら詰まり始めた渕を訝しげに見ていた。段々とそれがただ事じゃないと思い始めた竜兵の顔も不安に満ちていた。いや、不安というよりも、不可解の方が正しいかもしれない。

 竜兵に気を遣われる――実際はただ不思議に思われていただけなのだが――とは思ってもみなかった渕は、何とか少しだけ捻り出して伝えようとした。乾燥し終わる寸前の雑巾から、記憶という水分を絞り出すように。

 

 

「…………む、いっ、しき……」

「ん?」

「む、無意識、なんだよ」

 

 

 必死に絞り出したものは、絞り出さずに言えるような単語であった。しかし渕は、これが“鍵”何だと心の奥でそう思えた。

 

 

「無意識に、攻撃をかわせるし、アクロバティックな動きができるんだ」

「……そりゃ生まれつきか?」

「いや、そんなことはないはずだけど……。だってさ、この間板垣に襲われた時に初めてこのことに気づいたし……」

 

 

 そこで竜兵は何となく合点がいった。

 初めて渕に合った(渕を襲った)時、その動きに誰よりも驚いていたのは渕本人。本来ならそこで一番に驚くべきなのな竜兵であるはずなのだから。

 自分の力を自覚させた竜兵、させられた渕、この二人の間にはもう既に消し去ることのできないと歴史が刻まれていたのだ。その事実を改めて理解した竜兵は、ほんの少しだけ優越感に浸っていた。

 

 

「それにしてもおかしいだろ。生まれつきにしろ何にしろ、俺が初めての忠告者ってのが。他にも注意する人間はいただろ?」

 

 

 それは竜兵にとっては素朴な疑問だった。いや、恐らくこの話を聞いた人間の殆どが抱く疑問であろう。

 しかしそれは、渕にとっての触れてほしくはないことであった。いや、触れてほしかったのかもしれないが、渕にとっての心的外傷であることは変わりなかった。

 

 

 

 

 

 

「――――僕さ、影が薄いんだ。それはもう、幽霊みたいに」

 

 

 

 

「そうか? こんなに肉感的な幽霊いねーだろ」

 

 

 

 

 

 

 渕の自嘲的な言葉を、竜兵は無頓着に言い返した。

 

 

「板垣が特別なんだよ。僕は学年でも成績は十番以内なんだ」

「自慢かおい」

「聞いてよ。それで名前が学園に張り出されるんだけど、誰も僕のことを知らないんだ。多分、クラスメイトに僕の名前を聞いてもすぐには出てこないよ」

 

 

 笑っちゃうよねと、渕はどこか虚ろな目をして笑顔を浮かべていた。竜兵はこれと似た表情をどこかで見たことがあった。そしてそれはすぐに思い出された。この表情は、親不孝通りで野垂れ死にそうな男たちがよく浮かべている“希望を見ることのできない表情”だったと。

 

 

「しかもそれは川神学園に限られたことじゃなくて、僕の生涯で友達と呼べるほど僕のことを知っている人はいなかったよ。経験したことあるかな、肩がぶつかったのに見向きもされないんだよ? 「あれ? 今何かにぶつかった?」ってさ、透明人間みたいな扱いだよ。まあ見えてないみたいだし、仕方がないかな」

 

 

 渕が今まで溜まっていた何かを吐露し続けた。竜兵に八つ当たりするようにただただ吐き出し続けた。一切の遠慮も躊躇もなく黒い何かを、豪快にぶちまけていた。非常に醜悪で、退廃的な行為だった。

 そんな渕を見ながら、初めは竜兵も大人しく聞いていた。こんなに饒舌に喋る渕から、何か彼の強さの秘密を暴き出せればと、竜兵にしては珍しく考えがあっての行動だった。

 しかし、渕の声が沈んでいくにつれて段々と苛立ちを露にしていた。こめかみの血管をヒクヒクさせて、遂には聞くことを放棄して渕の胸ぐらに掴みかかった。

 

 

「オイ」

「っ!?」

「あんまり女々しいことばっか言ってっと、カレーの前にお前を食うぞ」

 

 

 竜兵は渕を力強く引き寄せて、突き立てた人差し指を渕の目の前に突き出した。決して綺麗に整えられたとは言い難いが、鋭く肌を容易に切り裂けるような爪が渕の目先に迫っていた。

 今に限ってこの竜兵の腕と指に何も反応できなかった渕、何も人体には影響がないと本能的に察したからだろうか。そんな感覚的なことは渕本人も解っていないが、何よりも今意識を向けるのは竜兵だろうと、渕は感じ取っていた。

 

 

「他人から見られていないだか何だか知らんがな。孤独だろうが何だろうが知らんがな。お前が生きてることには変わりねぇだろうが。これで「死にたい」とか口にしてみろ。食うだけじゃなく殺してやるよ」

 

 

 竜兵の言葉は単なる脅しではなく“宣言”であった。お前を確実に殺すという、明確な殺意を渕に向けたまま殺害予告を宣ったのだ。

 渕はそれに対して目を見開いた。こと戦闘に関しては素人な自分でさえ、肌が粟立つような殺気をヒシヒシと感じ取れていたからだ。

 渕の体は勝手に動こうとしない。渕の無意識下の状況でも竜兵に抗おうとしない。この状況が渕の人生にとって重要であると、渕を動かす傀儡師のような本能が理解しているようだった。

 渕が逃げないことを確認し、竜兵はさらに詰め寄り言葉を叩きつける。

 

 

「俺らみたいな社会不適合者みたく、我関せずとかで無視されたり疎まれたりするより、誰に見向きもされないとか誰からも気づいてもらえないってのは、比べりゃ確かに生きてる意味なんかないかもしれねぇ」

 

 

 竜兵は突き立てていた指を戻して、その手で渕の頭をガッチリと握り、言葉を発する。

 

 

 

 

 

 

「それの何が悪い」

 

 

 

 

 

 

 竜兵は力強く、渕の心を潰すような圧迫感を伴った言葉をぶつけた。

 それに渕は心臓が締め付けられるのを感じた。両手でレモンを絞るように握られていたようだった。同時に、自分が認識されている、理解されていると感じ、歓喜に打ち震える。

 そんな渕の感情の機微など特に意識はせず、渕の瞳に希望が戻ったことだけ確信し、竜兵は持論を紡ぐ。

 

 

「「死にたい」なんて思ったことがあったかもしれねぇがよ。腹は空くし喉は渇く。性欲は際限がねぇし眠くなるのは当たり前だ。身体は「生きたい」んだよ。至極当たり前のように命が尽きるまで稼働しやがる。解るか? お前がそんなにウダウダと女々しく生きてたらよ、折角生きようと気張ってやがる身体が不憫だろうが。自分だけの身体じゃねぇって言うが、身体にだって思うところはあるんだぜ。こっちが丹精込めて育ててやればすくすく育つし、それに応えるように身体は俺を助けてくれる。身体を自分が好き勝手できると思うんじゃねぇぞ」

 

 

 竜兵は言いたいことを言い終わると、渕の胸ぐらを少し上に持ち上げて椅子に座るように強く押した。全く抵抗ができなかった渕はそのまま椅子に座らされた。

 竜兵もドカッと自分の席について肘をついて溜め息を吐くと、少しばかり上を向いて悩んだように見えたと思いきや、片手で頭を抱えてまた溜め息を吐いた。

 

 

「…………ハァ、何だからしくねぇこと言った気がすんな。まあ、俺は本能に忠実だからよ。飢えや渇きは欲望で満たす男だからな。俺は自分の価値観で無頼であるのを選択したぐらいだ。お前と俺は逆なんだろうな。俺は無頼を好んでるが、お前は無頼であることを疎んでる」

「……あはは、そうかもね。うん、少しすっきりしたよ」

 

 

 竜兵の言葉は渕の身に染み渡った。それはもう全身の奥の奥まで。渕の全てがひっくり返ってしまうような、そんな印象が与えられた。

 渕がじっくりと竜兵の言葉を噛み締めていると、店員が注文されたカレーライスとチーズケーキを持ってきた。竜兵と渕との揉め事のように見える説教が終わって直ぐだったので、店員はタイミングを見計らっていたのかもしれない。

 竜兵は待ってましたと言わんばかりにスプーンを手に取ったが、渕は少し躊躇って先に言葉を発した。

 

 

「ありがとう、板垣のお陰で元気でた」

「――――へっ、こんくらいで礼を言われるほどじゃねぇさ。それより、腹へって仕方ねぇ」

「まずは食べようか……っと、食べる前に一つ」

 

 

 カレーライスを豪快に掬い取ったスプーンを口に入れようとした竜兵を渕が制した。竜兵は手を止めて渕に向き合った。

 

 

「板垣さ……? 僕とこれからも、たまにこうして話してくれる?」

 

 

 渕の弱気な発言、それを聞いた竜兵は呆れたような溜め息をついてスプーンを置き、渕の額に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

「アホか」

 

 

 

 

 

 

 ビシッ! と、竜兵の中指が渕の額に当てられた。所謂デコピンである。

 

 

「あ痛っ!?」

「俺にこんなにも似合わねぇ説教臭いことやらせといて、今更他人とか言うと思ってんのか? もう立派な知人だろうが。それに、案外お前人と馴染める才能があんのかもな。なまじ他人と接してこなかったせいか、分け隔てって奴が微塵もねぇ。普通俺みたいな柄の悪い奴を見たら逃げるもんだぜ?」

「あたた……。そ、そんなもんなの?」

「そんなもんだ。人付き合いが上手い奴の条件みたいなもんか。俺は分け隔てって言うか、配慮も遠慮も分別も無さすぎるから疎遠されてんだがよ。お前のはあれだ、上手く人の懐に入り込める。最近辰姉に気に入られてる直江って奴もそんな感じだな。ナチュラルに溶け込めるって言うかよ」

 

 

 知らない名前が二人ほど出てきたためにちょっと首を傾げた渕だったが、竜兵の知り合いなら何でもいいかと適当に纏めておくことにした。

 

 

「もっと影が薄くなかったらお前、クラスの人気者だったかもな」

「そ、そんなに?」

「おう。あんまり対等に話すダチみてぇな奴がいない俺がお前に何の嫌悪感も感じねぇんだ。間違いねぇよ」

 

 

 渕が照れるくらいに褒め殺したところで、竜兵はようやくスプーンにこれでもかと乗せられたカレーライスを貪った。少し冷めてしまっていたカレーライスであったが、竜兵はどこか満足そうな表情をしていた。

 

 

「俺にとっちゃお前は気に入ったってレベルだ。その遠慮のなさもいい度胸だしな。これが友達(ダチ)って言うのかね」

「と、友達? 僕と、板垣が? いいの?」

「友達ってのは言い過ぎな気がすっけどよ。まあそこそこ親しくなったんじゃねぇか?」

 

 

 無頼な俺が言うのもなんだがよ、そう言いながら竜兵はカレーライスをかき込んでいた。そんな竜兵とは対照的に、渕はチーズケーキを小さく切って細々と食べていた。

 

 

「まあこれから色々とあんだろうから、多少は気にかけてやるよ。感謝しやがれ」

「うん。ありがとうね、板垣」

 

 

 二人は面と向き合って初めて笑い合った。

 無頼を貫き通してきた男、板垣竜兵。無頼を強いられてきた少年、伊那渕。

 狩人と獲物の関係から捻れ曲がった奇妙な交友関係がここに誕生した瞬間だった。

 

 

「いつか掘ってやるから覚悟しやがれ」

「あのさ、本人の前でそんな宣言しないでくれる?」

「なんだ、お前掘る専門か?」

「俺はノーマルだ!」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「さて。これでぼくの刺客の内四人が物語に絡み始めた。四人とも新しい絆を築いて世界と視野を拡大している。これこそがぼくの遊戯(計画)の大前提であり終着点だ。孤独だの孤高だの孤立だの孤絶だの何だのと、あたかも自分が悲劇の主役気取りでいやがったり、最強だの最凶だの最恐だの最狂だの何だのと、まるで自分がこの世界におけるヒーロー気分で生きていく“壁を越えた者”たちが辿り着けない位置さ」

 

 

「そうですかな。私にはヒュームや百代様は人間関係に重きを置いて言えば、一般人とさして変わらないかそれ以上のように見受けられます」

 

 

「そう、周囲からはそう見える。でもね、こいつらは心の中で、他人を“自分よりも下の奴”と見なして付き合っている節が必ずある。天地開闢から今に至るまで生き続けてきたぼくが言うんだから間違いない。考えてもみなよ。赤子赤子と人を罵り貶す奴がまともと言えるか? 自尊心の塊に他ならないだろう? 自分よりも強い奴を探したい、そんなことを日々考えながら生きている奴が他人を見下し蔑んでないと言えるか? 少なくとも、自分が上だと思ってないと言えないだろう?」

 

 

「ふむ…………」

「けどさ朧。あの二人がそうだとしても、他の人がそうだと限らないだろう? ルー先生なんて人当たりが良いし……」

「そうだな。ルーの奴は結構懐かれ易いし、面倒見もいいよな。天然だからってのもあるんだろうけど」

 

 

「彼はかつて釈迦堂と対峙し己を貫いた。しかしそれでも彼は釈迦堂との絆、強敵(とも)としての関係は継続している。それに、武の才のない者を簡単に切り捨てない情の深さがある。確かに彼は先に上げたヒュームたちとは別物だよ。けどね、それには別の理由がある」

 

 

「へぇ、何だいそりゃ」

 

 

「“天賦の才能を持っていなかったから”だ。人並みの才能を極限まで高めた結果、たまたま壁を越えたってだけ。たまにいるんだよ、“天賦の才能”を与えていないのに“権利”を持つ人材が。実際のところ、壁を越えた者は壁を越えた者でしか倒せないものなんだけど、多分壁を前にした奴等に三人ほど囲まれちゃ危ういんじゃないかな。それは一対多で話には関係ないというかもしれないけど、ヒュームや鉄心くん、それに時折暴威をちらつかせる彼女ならば問題なく倒しきれるだろうよ」

 

 

「天賦の才能があるかないかでそこまで変わるもんかねぇ」

「ルー先生はかなりの強者だよね」

 

 

「これが間違いなく変わるものだよ。天地開闢から今に至るまで生き続けてきたぼくが言うんだから間違いない。まあ、松永は確実に勝てると確信しないと戦わないってのはどちらにも取れるがね」

 

 

「どっちにも……?」

「自分が弱いから無駄な勝負はしないということ、確実に勝つことができると相手を下に見る、二面性ということですかな?」

 

 

 

「うん。そんな感じ。まあ彼女は性格面でも二面性がありそうだよね」

 

 

「けどよ。別に天賦の才能があろうがなかろうが、さっき言ってた自分を若干美化してるってのはそいつら以外にもたくさんいるだろ?」

「そうだよ。ナルシスト何か腐る程いるぜ?」

「オジサン、お前が言うことじゃないと思うな」

 

 

「そうだね。人間の九分九厘が表層的な意識では謙虚に振る舞っていようが、深層意識では他人と自分を間違いなく比較している。集合的無意識というものもあって、これが人間のデフォルトなのさ。二千年程前に処刑された崇拝対象や、春秋戦国時代の聖人君子みたいに誰も彼もが平等にしか見えない連中を、君たちはこれがデフォルトだと受け取れるかい? まあ無理だろう。これまた天地開闢から今に至るまで生き続けてきたぼくが言うんだから間違いない。まず間違いなく、特殊な人間だと思うだろうさ。倫理や歴史の教科書でも開いてごらんよ。人類皆兄弟だの平等な愛を与えるだの、そんな世迷い言を解いている奴等が載っているだろうさ」

 

 

「それで? 何が言いたいんだ?」

 

 

「言わんとしたい事は、何で乗っているのか、だ。これまた簡単、“酔狂だから”、“一風変わっているから”、“遊離しているから”だよ。自分とは違う奴等をピックアップしているのさ。この史上で現れたそういう特殊な輩の人数を集めても、間違いなく日本の屋久島に全員収容してもまだ余るだろうよ。それだけ極小の人間たちだけが、人を見下さず自分を上に置かない。何かが欠落しているのさ」

 

 

「だったらそこまで壁を越えた者を批判しなくてもいいんじゃないか?」

「オジサンだって欠陥だらけだぜ? もうこれ以上ないってくらいダメ人間極めてるからな」

 

 

「“だったら”じゃないよ。“だからこそ”なんだ」

 

 

「そうなのですか?」

「先生のことは置いておいて、壁を越えた連中以外にも欠陥だらけの人間がいるんだから、そこまで固執する必要ないだろ?」

 

 

「いいや。その九分九厘の当たり前の感情意識、人と比べてしまう本能的欲求、それがずば抜けているのが“壁を越えた者”なのさ。つまりは、強さの壁を越えたと同時に、人としての当たり前の感情も突出して醜くなるのさ。解るかな? 生まれながらにして“天賦の才能”を持っているというアドバンテージ、そしてその強さの壁を越えまわりから壁を越えた者と呼ばれ天狗となる。これが壁を越えた者の上層部に必ず共通する“汚点”、他人を侮辱するという人間として“最悪の欠陥”なのだよ。希にその汚点が変な方向に働いて、自分が上か下かは問わず“他人と自分は違う”と自身を特別視する場合もある。ぼくは嫌いじゃないけど。子供の内に神格化され、女ながら武神と呼ばれ、年老いて尚無敵と扱われ、まともに生きていけという方が無理なのかもしれないけどさ」

 

 

「随分とまあ批判をするもんだ」

 

 

「アイロニックな言い方をしているのに大した意味はないよ。批判や揶揄するように聞こえてしまうのは仕方のないことなのさ。ぼくは今、小学生男子が好きな女子に接する際の態度でいるからね。初々しい感情を露にしているのさ。天地開闢から今に至るまで生きて続けてきたぼくも、多少は若作りというか、幼くいたいのだ。ぼくは人間が大好きだ。等しく均しく卑しく賤しく愛しいキミたち、ぼくが愛情を注いで見守ってきた存在に、ぼくが(いたずら)に悪戯をしてしまうのは必然なのさ。嗚呼、なんて可愛らしいんだろうね、人間というのは」

 

 

「…………で? 何で俺たちを呼んだんだ? というか、どうして俺たちなんだ?」

「どう見ても共通点が男、以外ありませんね」

「年齢層も違う、職業も戦闘力も知力も違う。こりゃ酷いもんだ」

 

 

「いい質問だね。この話の流れから言えば、壁を越えた者としての接点がある聡明な君たち、と言いたいのだけれど、三人の内一人だけ全く違う意図で呼び出しているよ」

 

 

「まあ、オジサンのことだろうな」

「なんでまた」

「オジサン、この二人に勝てる自信ないからさ。特に将棋とか」

「今度一局指しましょうか?」

 

 

「違うよ、キミは教職員として川神鉄心やルー・イーと少なからず縁があるだろう? 恐らく、いや間違いなく、キミはもう少しで壁を越えられただろう。あの日、キミがあの仕事に嫌気が差さなかったらキミは喧嘩屋という立場のまま強者揃いのステージへ登り詰めていたことだろう」

 

 

「買い被りすぎだっての。オジサンそこまで強くねぇし」

 

 

「ぼくはね、川神学園の中ではキミをかなり気に入っているのさ。その飄々として強さを隠し、やるからにはえげつないことも躊躇わない。その精神にぼくは酷く感激したんだ。謙虚とは違う、その態度は素晴らしい」

 

 

「高評価ですな」

「だから過大評価し過ぎだっての」

 

 

「そういう訳で、ぼくが壁を越えた者とは関係なしに呼び寄せたのは……キミだよ。直江大和くん」

 

 

「ほう」

「え、俺……? 何で……?」

 

 

「キミはね。ぼくが用意した“五人”と、そしてこの世界の純粋な壁を越えた者とも接点がある。キミや風間ファミリーの面々は顔が広いし縁を広げることに手慣れている。その中でキミを選んだ理由は、キミがあの九人の中で最も賢いことが一つ。加えて、ぼくの計画の一端を担うに相応しいと判断した。もう一つの理由は、キミは約束を守ることに関して信用できるからさ」

 

 

「クリスやまゆっちも約束はしっかり守ると思うけどな」

 

 

「“義”の独逸人に“礼”の神童だね。確かに彼女たちはそう言った決まりごとには誰よりも厳格な姿勢を見せるだろう。だけどね、彼女らは度が過ぎているんだよ。義理の(しがらみ)、と言ってね、そういったことに義理堅く拘りすぎれば自由が失われるということだ。彼女はまだまだ伸びる。異人にして日本を厚く尊ぶ彼女はポテンシャルの塊だ。何かしらのきっかけで彼女は化ける。それと北陸の女剣士、彼女も似たり寄ったりだ。礼も過ぎれば無礼となる、聞いたことはあるんじゃないかな? 確かに彼女は最近落ち着いてきてはいるけれど、まだまだ抜けきっていないよ、下手に出るという哀れな行為がさ。この子もまだ成長する。剣技の鬼となるに違いない。なればこそ、ぼくの無駄な注文で無駄に気を揉んで欲しくない」

 

 

「それで俺」

 

 

「そういうことさ。キミにはあとでちょっと苦しい注文を聞いてもらうから、今からのお話は残り二名。クラウディオ・ネエロくん、宇佐美巨人くん。キミたちへのお願いだ」

 

 

「自分の十分の一くらいの年齢に見える少年に“くん”付けされるのは、やはり慣れませんね」

「なーんで、こんな厄介な奴に目をつけられちゃったかな」

 

 

「諦めが肝心なのさ、壁を前にした者たちよ。それでお願いだけど、まだ物語に組み込まれていない二人を、キミらに一人ずつ監視してもらいたいんだ」

 

 

「私は構いませんよ。元より旧知の仲ですし」

「オジサンも、普通に話すし」

 

 

「頼んだよ、ぼくの玩具たち。嗚呼、ぼくの本願成就まで、あと僅かだ――――イレギュラーがなければいいのだけど、ね」

 

 





 人間が他の動物と異なる点は、人間は最も模倣的な動物であって、 人間の最初の知識は模倣を通じてなされるという所にある。

 アリストテレス

 ◆◆◆◆◆◆

 竜兵懐柔と朧暗躍の回でしたが、竜兵のトリミングされ具合が異常に見られるかもしれませんが、竜兵は未だに渕を標的とみなしているのでご安心? ください。
 朧、大和、巨人、クラウの四人の密会。不穏で不安な会話ですが、朧は人間を愛しているので悪い方向へ行かないはずです。それこそ、イレギュラーがない限りは。

 今回はナイススタイルコンテストの一部紹介。
 評価基準は、対象の身長からはじき出された理想のスリーサイズと実際のスリーサイズの誤差、バストとウェスト、ヒップとウェストのバランス。計五つの項目で審査しております。
 まずはダントツの成績で究極とも言えるスタイルを保持している、椎名京。ゴールデンカノンに基づく理想のスリーサイズと、全て誤差一センチ以内に収めるどころか、唯一バストをオーバーした化物っぷり。ウェストとヒップの差が少し開いたためか、ヒップとウェストのバランスのみA評価。その他S評価のため、文句なしのSランク獲得であります。

 続いて、リクエストにありました我がオリキャラ、南浦梓。
 身長は母性を出したいため百代より大きくしたいなと思っていたのですが、流石に辰子、弁慶、百代と一七〇センチの長身たちに囲まれている大和たちが不憫に思えたので身長を抑え、一六八センチとしました。
 その結果、上から88・59・89とし、理想のそれらとの誤差により、S・B・Sの評価。ウェストが細すぎたためか、バランス評価は伸びませんでしたが、総評はSBSBCのA評価でした。A評価少なかったのでちょうど良かったかなと自己満足です。

 予告。次回は羽黒のコンテスト結果。



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第十四帖 これやこの行くも帰るも別れては――――

――――知るも知らぬも逢坂の関


蝉丸


 

 一人の少女の話をしよう。

 

 少女は極普通の一般家庭に生まれた。父親は某企業の営業課課長、母親は専業主婦。年収は五百万前後という、実に平均的なもの。

 その誕生日は昭和の日といった国民の祝日や、クリスマスやバレンタインデーといった特別な日とは全く無縁の六月二日。極めて平均的な胎児で、平均的な体重で生まれ平均的な成長を遂げてきた。

 学力は平均的。よく本を読むこともあり国語や社会の評価は高かったが、その分理科や数学は若干苦手である、典型的かつ平均的な文系少女としての判断を下されている。

 体力も平均的にある。強いて言えば走るのがそこそこ速いが、持久力はないため評価は平均的なものである。球技全般をそつなくこなすように見えるが、かと言って特筆して素晴らしい動きを見せることは決してなかった。

 身長も体重も座高も視力も聴力もスリーサイズも平均的。

 少女はまるで全国の日本人女子を足して人口で割ったような、ある種異常なまでに平均的な育ち方で小学生まで進学した。

 

 

 しかし、努力という努力は怠らなかった。平均では満足できなかった彼女は自身の改造を行うことにした。

 

 

 改造と言っても、右腕を全て機械仕掛けにするとか、右の眼球をカメラに取り替えるとかそういった機械的な改造ではなく、自分に磨きをかけるという実に女子らしいものである。いや、磨きをかけたいというのは女の子限定ではないので、人間らしい行為だと言い換えておこう。

 まずは顔を必死に整えた。勿論整形などという、人工的に知っちゃかめっちゃかメスやシリコンを入れるものではなく。手入れを常人の何倍も気にした。化粧水をただ使うだけでなく、使用するコットンから吟味し、化粧水をつける際にも顔を掬いあげるように、エステティシャン顔負けの知識で改造した。それが実ったのか、今では同級生の中でも化粧なしで可愛いと言われるまで鍛え上げた。

 次に彼女は走り込んで身体を引き締めた。無論これは過度のものではなく、健康面でも気を使った適度なものであった。ランニングとウォーキングを効率的に行い、その際の呼吸法にも着眼した。それが実ったのか、今では持久力もそこそこついた上に、プロポーションも胸以外では理想と言ってもいい綺麗なものを手にいれた。

 実はそれほど酷い顔ではなく平均的であったため、磨けば光ったのだから努力の賜物であるのだ。というか、努力をすれば大抵の人間は個人差はあれど輝けるのだが、彼女ほど努力をしないものがいなかったために、彼女は同年代でも上位の魅力を手に入れたのだ。

 ここで、彼女の身体が以外と恵まれていたことが発覚する。そしてここで疑問が浮上する。

 これほどまでに平均的に生き育ってきた人間が、ここにきて恵まれているなどという平均を逸脱するようなことが起きようか?

 そう、彼女はしっかりと平均を維持していたのだ。

 

 

 身体が強い分、精神が弱かったのだ。

 

 

 その弱いというのは頭が残念だということではないのは、先に学力が平均だといったことで除かれるだろう。その平均的と言われてきた学力も努力により底上げされている。

 それでは性格なのか? それも違う。彼女は分け隔てなく人当たりもよく、クラスメイトで彼女のことを羨んだ者はいても、憎んだり嫌ったりする者は誰もいなかった。それこそ、彼女は努力の塊であるから。むしろ希望を与えることに一役買っているのだ。

 それでは、弱い精神とは?

 

 

 ショックに弱く、トラウマを作りやすいことにあった。

 

 

 少女は車に轢かれてしまった猫の死体を見ただけで、数日間猫を見るだけで嘔吐感に襲われ、その死体があった道路へ近寄れなかった程だ。

 つまり、血や傷といったバイオレンスかつショッキングなものに耐性が全くないのだ。

 では、そんな少女が、目の前で血塗れになり、骨が折れ肉から突き出し、口から大量に吐血している倒れているクラスメイトに囲まれたらどうだろうか。

 精神に傷を負うのはまず間違いない。問題なのはその程度、傷の深さだ。

 さらにその状況に加え、自分の親友がその光景を産み出したという事実があればどうなるか。

 

 

 少女は一年間、声を失った。

 

 

 その少女の親友は退学、少女は親友に傷つけられたということで一年間の学園生活を失った。

 少女はかつては武神の同級生、今はその舎弟の同級生として過ごしている。

 この事件の真の姿を知る者は少ない。そう、少女さえもこの事件の真相を知らない――――

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「華月さん。ここの問題を教えて欲しいんだけど……。これ明らかに二年の範囲じゃないですよね?」

「む、隣接三項間の漸化式。二年の内はまだできなくてもいいと思う。それでも、できることに越したことはないかな。これは、この“n”、“n+1”、“n+2”をそれぞれ置き換えて――――」

 

 

 ある日の放課後。川神学園二年F組、このクラスの参謀とも言える男子生徒が、黒く短い髪の毛を月の形をした髪止めを使って纏めている糸目の女子に、少々難解な数学の問題の解法を尋ねていた。

 前回の授業の中、数学の教師が解けるようなら解いてみろと遊び心で出した問題なのだが、少年はそれが解けなくてどうにも頭に靄が掛かっていたようで、最後の手段として少女に尋ねたのだ。

 

 

「最後に、こっちの数列を二つに分けて、互いに解いて出た解を照らし合わせれば終わり」

「なるほど……。あそこで特性方程式を二次式にするのか……」

「初見でこれに気付くのは難しい。次出たときに解ければいいと思う」

「ありがとう華月さん」

「やまちゃん、クラスメイトにさん付けはいらないよ?」

「もう慣れちゃって」

 

 

 少年、直江大和は笑っていたが、少女、日野宮(ひのみや)華月(かづき)は如何にも不服だと言いたげな表情をしていた。

 華月と大和はもう何年もの付き合いになる。それは恋人といったものではなく、あくまでも知人としての関係である。

 大和の姉貴分である川神百代と華月は古くからの付き合いであり、百代の仲間たちとも顔見知りであった。

 

 

「歳上は歳上らしく、ドンと構えていてくださいよ」

「一年留年した時点でもう歳上なんて関係ないんだけど。やまちゃん、タメみたいに話してよ」

「同級生でも俺らの憧れには変わりないんで」

 

 

 揶揄するような言葉を笑顔で放つ大和を見て、華月は不機嫌そうに膨れっ面になった。

 

 

「俺“ら”って、君たちにはももちゃんがいるじゃない」

「姉さんは尊敬の対象とはちょっと違うような――――」

 

 

 

 

 

「ほう? 舎弟の癖にいい度胸じゃないか、んん?」

 

 

 

 

 

 いつの間にか大和の背後に少女が立っていた。彼女は大和の首を絞めるように両腕をまわし、大和の耳元で「捕まえた」と囁いた。

 大和はその端から見れば最高に至福の光景の当事者になりながら、肌は全力で総立ちし、汗腺という汗腺から汗が滲み出してきていた。

 筋肉はついていても均整のとれたハリのある美しい彼女の腕を、大和は死神の持つ処刑鎌のように感じ取っていた。

 

 

「あ、ももちゃん」

「会いに来たぞ華月、結婚しよう」

「わたしかももちゃんが男だったら即断なんだけどな」

「うぬぬ、揺るがない同性愛否定……。寂しいよな弟ぉ?」

「し、絞まって、る……決まってるぅ……! や、やば、おぉ…………ぐ、ギブ、ギブゥッ!!」

 

 

 大和は百代の腕を何度も叩いてギブアップを宣言するも、大和の首に回された百代の両腕は一向にほどけようとはしなかった。

 

 

「それで? わたしに会いに来ただけじゃないよね? 何か用事があったんじゃないの?」

「ん? ああそうだった。ちょっと屋上に――――は無理か。じゃあ中庭にでも」

 

 

 百代は一度屋上を提案しようとしてそれを自分で却下したが、その提案を華月は肯定的に受け取っていた。それだけではなく、華月は百代に対して僅かに苛立っているようだった。

 

 

「気を使い過ぎ。屋上にしよう」

「いや、でもな……」

「わたしのことは気にしなくていいって。それじゃあ行くよ」

 

 

 少しだけ怒っているような雰囲気で教室を出ていった華月を、百代は大和を放り捨てて慌てて追い掛けていった。

 そして、教室にはあと一歩のところで絞め落とされそうだった大和が残された。大和は酸素が足りないのか呼吸を荒くして空気を取り入れていた。

 そんな大和に近付く人影が幾つかあった。

 

 

「大和大丈夫? 人工呼吸いる? 私のベーゼはいつでも準備オーケーだよ」

「……接吻じゃあ、息が止まるだろうが」

 

 

 大和の唇をロックオンしていた少女、椎名京は軽く舌打ちをして大和から若干離れた。

 椎名京、彼女はとある事情により大和を溺愛している。その文字通り、彼に溺れているのだ。自分を助けてくれた人物はよく美化されるというが、京のその美化は他人のそれを遥かに上回っている。運命の人と決めつけてしまう程だ。

 そんな彼女からのお誘いを大和は幾度となく拒んでいる、と言うか、回避している。大和は京のことを大切に思っている。それ故に、簡単には返事をしたくないのだ。彼女の人生に関わることであるが故に、大和は慎重になって京と友人として付き合っているのだ。

 

 

「京ってば本当に攻めるなぁ」

「なっさけねぇな大和。あれぐらいで酸欠になるなんてよ」

「モロ、ガクト、見てたんなら助けろ……!」

 

 

 続いて大和に声をかけたのは細く華奢な身体の少年、師岡卓也と、それに対比したかのように筋肉質で大きな身体の少年、島津岳人だった。

 彼らは古い付き合いであり、凸凹コンビとしては知られた方である。その知名度は仲が良いというだけではなく、少し変わった嗜好の持ち主が腐った目で見た場合にいい組み合わせだという。勿論本人たちは否定している。ただし、卓也が女装をした時に限って岳人の目付きはおかしくなるが、それには深く触れないでおこう。

 

 

「華月さんとイチャイチャしようとした天罰だ!」

「ガクトってば見境ないよね……。この間も華月さんにアタックしてたし」

「ガクト、お前はもう少し欲望を押さえ付けられんのか?」

「無理だな。女を求めて何が悪い! モモ先輩のせいであまりアタックできなかったが、今年からは同じクラスなんだぜ? ちょっと言い方悪ぃけどよ、俺様は華月さんが同じクラスになってくれて嬉しいもんだ」

 

 

 岳人は華月が留年したことを残念に思っていても、欲望的には嬉しいようだ。

 

 

「バカ、そんなこと思っても言うんじゃねぇよ」

 

 

 岳人の言葉に若干不愉快になった大和は苦言を呈した。岳人も多少何かを言われることは覚悟していたようで、何も言い返さずにそれを噛み締めていた。

 華月の留年、その理由である入院、その原因である二年前の事件。その事件の終息時にその場にいた百代を通じて、百代の最も親しい仲間たちのチーム、風間ファミリーのメンバーである大和たちは、その事件の内容を他の部外者よりも知っていた。何度も華月のお見舞いに行った風間ファミリーたちは、華月の心の傷の深さを僅かながらも垣間見ている。それを知ったことで、華月の不安定さを理解することができたため、大和は不愉快になったのだ。

 ただ、大和だけは風間ファミリーの他のメンバーとは違う感情を抱いている。

 大和を除く他のメンバーはその事件の犯人を知らない。しかし、大和はそれを知っている。それも、犯人とされている本人からそれを聞かされたのだ。それを聞いたことで、百代のような怒りとも違う感情が芽生えていた。

 

 

 

 

 

 

『大和くん。君には真実を知っておいて欲しい。それを信じるかどうかは別として、この話を記憶に残しておいて欲しい――――助けてほしいんだ』

 

 

 

 

 

 

 大和はその人と対峙した時の状況を思い出す。

 髪は黒く、長さは肩を若干越す程度。目を真っ赤に泣き腫らして、少しだけ頬が痩けようとしていた。それでも、大和はその人の美しさというものを感じ取っていた。

 

 

「大和?」

 

 

 暫く無言で顔を伏せて考えごとをしていた大和の顔を、京は下から覗き込んで唇を近づけてきた。

大和は素早く自分の手で京の顎を掴み接近を阻止した。全力で押し返された京は服装の乱れを叩いて直す。

 

 

「気持ちが、先走りすぎてないか?」

「今のうちにアピールしておかないとね。西方十勇士の大友もなんか怪しいし、クローンの弁慶だって油断できない」

 

 

 京の表情は真剣そのものだった。彼女がここ最近最も危惧していること、それは彼女が心酔している大和に彼女ができてしまうことだろう。

 大和の顔は広い。人脈を広げることを趣味のように行ってきた彼だ、どこかの誰かに迫られる可能性は否定できない。さらには、ここ最近大和の周りに女子としてはレベルの高い人物が現れるようになった。先に京が挙げた西方十勇士の大友焔も然り、武士道プランにおいて生まれた武蔵坊弁慶も然り、転入してきた松永燕という先輩も然りだ。

 大和の伴侶となってしまう女が現れるのではないかと、京は気が気でないのだ。

 大和にとって京の行き過ぎた愛情は、嬉しくもあり困るところでもある。

 自分に好意を寄せてくれる異性がいるということは幸せなことだ。大和もそれを理解している。それと同時に、自分の軽い言動一つで目の前の大事な少女の人生が狂ってしまうことも心得ている。

 大和は真剣に京のことを考えながら、自分の恋人はどんな人になるのかと模索中であった。

 その答えは、意外な人物であることに、大和はまだ気づいていない――――

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 華月と百代は屋上へやって来た。華月の足取りは普段と変わりがなかったが、百代の足取りは重く、空気は非常に気まずく重苦しいものであった。

 屋上にはパンダなどの動物を模した機械仕掛けの遊具が立ち並んでいたり、数種類の草木や花が屋上を彩っていたりと、デパートの屋上を思い起こさせるような空間であった。学校の屋上という固定概念を粉砕する光景が二人の目の前に広がっていたが、入学当初から変わらないため違和感は全くなくなっていた。

 そこに立っているのは二人だが、ベンチに寝ている学生が他に一人いた。その熟睡具合を見るに、数時間前から居座っているであろう先客だった。

 

 

「おいキャップ、起きろ」

「ん、ふあ……れ? モモ先輩じゃん。どしたの?」

 

 

 午前中の授業と昼休みを使って日光浴を兼ねた昼寝に精を出していたのは、風間ファミリーの創始者、キャップこと風間翔一だった。バンダナの結び目が地面と接しないように、仰向けではなく横向けで爆睡していた。

 傍から見れば昼寝を通り越した睡眠のように見えたが、百代の呼び掛けにも意外に素早く反応した。眠りが浅かったのか、起こされてから数分としないうちに翔一の意識は完全にクリアになっていた。

 

 

「おはよう、しょうちゃん」

「うん? 華月さんも一緒なのか。何か大事な話?」

「ああ。悪いが外してくれないか?」

「解ったよ。華月さんに言われちゃ断れないもんな」

「あはは……わたしじゃないんだけどね」

「お前も舎弟ももう少し上級生に対する扱いって奴を学ばせないといかんらしい」

 

 

 華月にしか敬意を払っていない翔一に対し、百代は怒りを込めて指をバキバキと鳴らして威嚇し出した。その光景は日常茶飯事とは言え、やはり痛みには恐怖というものが刷り込まれるため、翔一の肩がビクッと大きく跳ねた。

 

 

「うわっと! 退散するに限るなこりゃ……。じゃあなお二人さん! 梓がよろしくだってよ!」

「え……?」

「ああ、解ったよ」

 

 

 翔一は頼まれていた伝言を伝えると即座に屋上から退場した。その退場の方法もまた自由なもので、扉を使わず屋上から飛び降りるように木に飛び移って消えていった。よほどそこから早く退散したかったのだろう。

 その伝言を受け取った二人の反応は違った。華月は久し振りに聞いた名前に驚き、思わず何も言えないまま呆然としてしまった。一方百代は、その伝言があることを知っていたのか、はたまたその本人とそこまで久し振りでないのか、どちらにせよあまり驚いてはいなかった。

 

 

「も、ももちゃん? あずちゃんのこと、知ってたの?」

 

 

 その百代が嫌に落ち着いていたことに華月は疑問を持った。

 梓はバイト三昧の日々を送っていたために、如何にクラスメイトと言えど、梓に気楽に会えるような状況ではなかったのだ。連絡も気軽にとれないということもまた然り。それ故に華月は、梓が退学してから今に至るまで一度も再会をしていなかった。

 

 

「ああ、ちょっと前に会った。バイトの配達先に私がいたもんだからな」

 

 

 そんな華月とは違い、百代は梓とここ最近再会を果たしていた。それは全くの偶然で、百代も梓も予想だにしていなかった出来事であった。もっとも、それを予想できていた存在がいない訳ではないのだが。

 

 

「……ずるい。私もあずちゃんに会いたかった」

「悪いな。こればっかりは成り行きだったから。梓のおっぱいは気持ちよかったぞ?」

「あ! おっぱいに顔を埋めたんだ! ずるい!」

 

 

 女子同士の会話とは思えないであろうが、これは百代の代で梓と同級生だった女子ならば誰もが頷いてしまう話なのだ。

 詳しくは語らないが、梓は母性の塊を用いてクラスの人気者になっていたことを記しておく。

 そんな人気者の豊満な女子の胸を独り占めした百代が羨ましかったのか、華月は頬を解りやすく膨らませて百代をじっと見つめていた。その下から覗き込んでくる瞑らな瞳に、百代は不意打ちとは言え膝を折りそうだった。守ってやりたくなるような雰囲気を自然に作り上げる努力系少女、それが日野宮華月なのだ。

 

 

「ま、まあ、またそのバイトの配達先に案内するから、な? そんなに不機嫌になるな」

「……約束だよ?」

 

 

 百代は華月の頭を撫でながら華月と約束を交わした。

 この時、百代は華月のあまりの可愛さに抱き締めたいと体が疼いていたが、一度欲望に任せて華月を抱き締めた時に酷く冷たい態度を取られたことがあるために、百代は欲望を打ち払って頭を撫でるだけに押し止めた。

 

 

「ところで、本当は何の用だったの?」

 

 

 華月の表情が真剣なものになった。この屋上、華月にとってはあまり近寄りたくない場所にまで来ての話、華月はそれを聞きに来たことを思い出したのだ。

 

 

「あー、そうだったな。話をしに来たんだった…………。できればこのまま、他愛もない会話で終わればいいんだけどな」

「それはダメ、わたしがここに来た意味がなくなる」

 

 

 華月の意志は固かった。百代が話をしてくれるまでここを動かないと、どう動かそうとしても動かしようのないような雰囲気だった。物理的に動かすことは容易いだろう。華月は武力に関しては百代には絶対に敵わない。護身術程度の合気が使える程度で、自分から攻撃することを知らない少女だ。百代が片手で首根っこを掴めば簡単に持ち上がってしまうし、少し足を払えば容易に転ばせることができる。

 それでも華月は動かない。物質的問題ではないのだ。その確固たる決意と覚悟は揺るがないという、愚直で強固な意志だった。

 

 

「……だよな。それじゃあお前の勇気がなかったことになっちゃうもんな」

 

 

 華月が頑固なのは今に始まったことではなく、百代はそれをよく知っている。百代は観念したように一度大きく深呼吸をしてから、華月と真剣に話そうと、自分の頬を二回叩き気を引き絞めた。

 華月の精神面が弱いことを知っていて尚、忘れたい過去を掘り起こすことに百代は抵抗があったのだが、言い出してしまったのは百代自身だ。覚悟を決めねばならないのは、双方同じ。

 

 

「………………慶が、川神に帰ってきた」

 

 

 百代の声は震えていた。木々が風に靡いて葉を鳴らしていたために解りにくかったが、確かに百代の声は喉を不規則に揺らし震わせていた。

 

 

 

 

 

 

 

「――――うん。知ってる」

 

 

 

 

 

 

 

 華月はハッキリと答えた。百代が最も戸惑うであろう答えを述べた。

 

 

「な――――に?」

「けいちゃんでしょ、うん。知ってるよ」

「ど、どうして!?」

「どうもこうもないよ。会ったんだもん」

 

 

 一瞬、百代の頭が真っ白になった。

 今、華月が何を言っているのかが解らなくなってしまったのだ。百代は思考回路を修復し、意識を再び掴みとり、華月に詰め寄る。

 

 

「アイツは、何をしに、来たんだ……! 教えろ華月!!」

「……それは、言えない。いや、言いたくても、言えない」

「“また”何かされたのか!?」

「違う。後遺症、まだ、“あの時”のことは、声、に、出っ…………な…………っ……!」

 

 

 すると突然、華月は喉を押さえて膝をつき蹲り、必死に声を出そうと口を動かすが、その喉から発せられるのは呻き声に近いかすれた声だった。

 

 

「華月!!」

「――――――――」

 

 

 結局、華月の声が出なくなってしまったせいで話は中断されてしまった。

 華月を家まで送り届けた百代は学園から出てぶらぶらと学園の外を回り気を落ちつけた後、再び学園の屋上に戻ってきていた。

 百代は目を閉じて、“あの日”のことを思い出す。華月が声を失うこととなった、あの事件のことを追想する。

 

 

 

 

 

 

『ち、違う! 私じゃあない! 信じてくれ!!』

 

 

『ふざけんなよ手前!! この傷を負わせられる奴が他にいるってのかよ!?』

 

 

『い、いてぇ…………ううっ、いてぇよぉ……死んじまうよぉ……!!』

 

 

『あ、あう、ああ――――』

 

 

『華月――――』

 

 

『――――けい、け、い……お前ぇぇぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!』

 

 

 

 

 

 

 百代は拳を強く握りしめた。それはあの日、二年前、華月や同級生を救えなかった自分に苛立ちを見せていることの現れだった。

 今度こそ、守り抜く。百代の決意は固い――――

 

 





 私は勘違いしていたようだ。
 真の強さとは恐怖や苦しみに抗う心を言うのではなく、闇すらも包み込み、打ち消す安らかな心を言うのだな。

 ゲーテ

◆◆◆◆◆◆

 四話と十一話に名前だけ出ていました華月、ようやく登場です。十話も待たせて何やってんだとお叱りを受けました。取り敢えず出せて一安心ですが、まだ書きたいところまで書けていないので、執筆しながらフラストレーションが溜まりに溜まっておりまして、「早く慶と百代出逢っちまえよ」と自分自身の進行具合に苛立ちを覚えております。

 お待たせ? いたしました。エントリーナンバー24、羽黒のスタイルコンテストのお時間です。彼女のスリーサイズは82・63・83。ただ唯一、まじこいキャラの中で理想のウェストから3センチオーバーの肉付きの良さが目に付きました。因みに次点は小笠原千花ちゃんのコンマ3センチオーバーです。羽黒ェ……、という状態でありました。
 そして驚きなのが、バストとヒップの評価がSという、百代よりも理想的であるという事実でした。ウェストがオーバーのため評価は下がりますが、S・A・S・C・Bの総評A。百代はBです。


羽黒「アタイってばマジセクシー!」ドヤァ
百代「」イラッ


という具合でしょうか。正直百代の敗因は細すぎるウェストとFカップという、私にとっては好物の一つなのですが。今回は辛酸を舐めていただきましょう。

 予告。大和田伊予から考察するサブキャラの台頭。


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第十五帖 わがこころ焼くもわれなり愛しきやし――――

――――君に恋ふるもわがこころから


作者不詳


 

「さて、おいで」

「お願いしますっ!」

 

 

 初夏というには時期的には早いが、温度的にはそれも適さない熱さを誇るある日のこと。多馬川上流の水流調節設備があるテント群集地帯で、自慢のポニーテールを揺する少女、川神一子と、同様に何も物質的なものが通っていない左腕の袖を靡かせる人物、天野慶が対峙していた。

 そこから少し離れた位置、多馬川を背にして腕を組んで二人を見つめている女性、橘天衣が欠伸をしていた。立会人という役割を請け負ったものの、慶が暴走することなどほとんどないため、天衣からすれば基本的に退屈であった。

 今日も今日とて、一子と慶は修行に精を出していた。

 

 

「今日の目標は私の一撃を耐えて倒れないこと、いいね?」

「う、またあの技ですか……」

 

 

 慶の技を思い出して青ざめる一子。それも無理もない。以前一子は慶の技をまともに喰らい、起こしたこともない脳震盪を起こしたんじゃないかと自分で錯覚するほどの目眩に襲われ、数秒後に遅れてやってきた吐き気に体を支配されて意識を手放してしまったのだ。

 その際に胃の中の戻さずに唾液だけ吐いていたのは僥倖だったと、意識を取り戻した後の一子は強く思った。一子を倒した張本人であり介抱した人物でもある慶や、立会人としてその場に居合わせた天衣に無様な姿――気絶してしまったのも一子にとって無様ではあったのだが――を晒したくはなかったので、慶の技は軽い心的外傷になっていたのだ。

 

 

「大丈夫、基礎は教えてある。本気で私も打たないから安心してくれていい」

「お、押っ忍!」

「あはは」

「おいソラ、あんまりからかうんじゃない」

「失敬、だって一子ちゃんが可愛くて」

「かわっ!?」

「こら」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「そこまで! もういいだろう」

「ぶ、ぶはぁ!! ぜぇっ、はぁっ!!」

「はい、お疲れ様。調子に乗って三回ぐらい打ち込んでみたけど、全部いなすなり回避するなりで逃れ切ったね。おめでとう」

「鬼だなお前……。心の傷を抉って塩漬けにしてどうする」

「いやぁ。一回目に上手く相殺されちゃったので。ちょっと意地悪したくなっちゃいました」

 

 

 ごめんねと、慶は一子の頭を軽く撫でながら笑顔を見せた。一子は褒められていると受け取って深呼吸を二回ほどしてからにんまりと笑った。

 

 

「しかし、こうも短期間でソラの技の一端が使えるようになるとはな」

「まだ防御限定なのが痛いところですがね。一子ちゃん、これを攻撃に移すまでには根気がいるよ? 勿論、そこまで進歩したいならとことん付き合うけど、今まで以上に私は本気で接するから」

「ううっ……。ソラさん、見た目に反して厳しいわぁ……」

 

 

 一子は撫でられている頭からじわじわと慶の恐ろしさを痛感していた。これは撫でられているのではなく、逃げないように押さえ付けられているのではないかと錯覚するほどに、慶の手は妙に力強かった。

 

 

「まあ、今日のところはこれくらいで。やっぱり実戦形式の修行はいい。短期間且つ効果的、ドロッドロの半固形になった背脂くらい濃密な修行が、ね」

 

 

 一子の頭と慶の手が触れているところから途端に熱が奪われ、一子の背筋に鋭い悪寒が走った。ひょっとして、慶の本性はサディスティックなのではないかと、同様に自分を躾と銘打って調教してくる――勿論、本人は不満に思っていない――幼馴染の同級生の顔が浮かんだ。

 慶の手が離れたのを確認した一子は、まだ残る戦慄を抑えながら草の茂る地面に大の字で倒れこんだ。その際見上げた慶の笑顔の裏に、般若面の彫りを深くしたような形相が見えたという。

 

 

「それにしても、回転エネルギーか」

 

 

 一子が倒れ込んだのを確認してから、天衣は慶の下に歩み寄っていった。今日の修行は本格的に中断されたようだった。

 

 

「ええ。これがないと私の武は成り立たない。攻撃、防御、反撃、回避、それら全ての根幹を作っているのはこの力ですね」

「どういう原理か知らんが、お前のそれは異常だぞ? 人差し指だけでコンクリート

破壊するとか、私の戦闘強化股肱となんら変わらん」

「呼吸ですよ。体の中でこう、グルグルっとしたイメージが。ね、一子ちゃん?」

「あ、はい」

「なるほど、感覚の問題なんだな……ふむ――――」

 

 

 腕をくるくると回しながら回転エネルギーというものを理解しようと試みている天衣、それが微笑ましく思えたのか、慶は目を細めて優雅な笑みを浮かべた。

 この笑顔に加えて着ている服装が高級な着物、若しくは一国の王女が着ているようなドレスであったなら、それは絵画のような美しさを生み出すだろう。はたまた、九鬼の従者部隊が着ている執事服を着用していれば、十人のうち十人全てが一目惚れしてしまいそうな男性へ豹変することだろう。

 

 

「それにしても、早い成長具合だ。無駄な動きも多い、動作にも粗が目立つ、まだ大雑把で決して綺麗とは世辞でも言えないが。まあ、普段とは違う枷をつけての修行だから当たり前と言えば当たり前なんだが。それでも、やはり目を見張るものがあるな。飲み込みの速さは異常値を叩き出している。基礎訓練を毎日怠らなかった結果だな」

「それに関しては同意見ですね。私がこの回転技法を、その中の防御だけでも会得するのに数ヶ月は要したというのに、一子ちゃんは一週間とかけていない。これなら早い内にステップを移行して攻撃に移し、得意と聞く薙刀と組み合わせて行けるかもしれませんね。基礎体力は流石川神院の娘、と言ったところでしょうか。あそこのハードな根性論鍛錬に加えて自主トレーニングも欠かさないとは天晴れです」

 

 

 二人は妹のように思えてやまない可愛い弟子に関しての意見を、当人がしっかりと聞こえるような声量で話し合っていた。当然一子からしたらこそばゆい状態なのだが、慶の笑顔を見ていると、そんなことは瑣末なことにしか思えなくなってしまう。

 一子はここ最近、慶の笑顔の奥を感じるようになってきた。それは、人間の基本感情である単純な喜怒哀楽では示しきれない、複雑怪奇な深層意識。慶は一体何を思ってそのような淡い笑顔をいつも浮かべているのか、そう言った疑問を感じるようになっていた。そのような疑問を一度感じてしまうと、慶の笑顔の脆弱性を認識できるようになってしまう。慶の本心に触れてしまいそうになるのだ。

 そこまで踏み込んで、一子は逆に自問自答する。本心に触れてしまうと、慶はおろか、自分も容易く崩壊してしまうのではないかという不可思議な謎を自分自身に問いかける。ここ数日間、一子は自分の新しい可能性を見つけると同時に、限界というものを強く感じてしまっていた。一段一段ゆっくりと長い階段を登っていくようだと比喩できる努力の先に、飛び越えることのできない“壁”が立ちはだかっているように見えてしまったのだ。

 慶の笑顔からどうしてこのような考察に至ったのかは一子も分かっていない。自分が無意識に実感していたことが意識の支配下に浮上してきたのか、それも分からない。しかし、その鍵は慶の美しすぎる笑顔の中に隠されていると、奇妙な確信が一子にはあった。

 

 

「……一子ちゃん、ちょっと買出しに行ってきてくれるかな?」

 

 

 そんな魅惑の微笑に心を奪われかけていた一子に対し、慶は唐突にお遣いを頼み込んだ。その笑顔が一切絶えないままであったため、一子がそれを断り切ることは不可能と言っても過言ではなかった。

 

 

「は、はい。えっと、何ですか?」

「基礎訓練兼ねて、ちょっとね。私と同じ呼吸法を維持したまま、仲見世通りにある自販機で飲み物を三つお願いしたいんだ。お金は出すよ。お釣りはそのまま仲見世通りでおやつでも食べてくるといい」

「いいんですか!?」

「勿論」

 

 

 甘味処へ行けるということで一子の目がキラキラと輝きだした。本当に表情で何を考えているか分かってしまうなと、一子の単純さと純粋さを少し危うく思いながら微笑ましく思っている慶であった。

 

 

「でもソラさん。アタシだけっていうのもちょっと気が引けるんですけど……」

「ははは、そんなに多く渡さないよ。帰ってきたら私が作ったお菓子をみんなで食べよう。そのためのお遣い、頼んだよ」

「なるほど、了解でっす!」

 

 

 一子は自分の任務の本質を理解したところで仲見世通りの方へ全力で、駆け出してはいかなかった。一子の動きは走るというよりも競歩に近い。それは慶に教わった呼吸法が関係していた。

 慶の呼吸法は日常生活で続けるには非常に辛いものだった。普段から深呼吸のような深く大量の息を普通の呼吸間隔で行うというある種激しいものだった。その上戦闘時以外は大きな音を立ててはいけないという制限もあるため、即座に真似しろということはできない代物だった。

 一子と慶が本格的な師弟関係となってすぐに、慶は一子に呼吸のコツを教えた。腹部、へそ下の位置に力を込めることは忘れないよう、両肺の間で渦を作るイメージを修行の最初に叩き込んだのだ。呼吸が武も精神も強くする、それが慶の師匠の教えであった。慶がこれを他人に教えることになった際、初めに必ず呼吸を徹底させろというのが慶の武の流派の方針であった。

 理屈ではなく感覚的なものであったこともあり、体で覚えるタイプの一子にはぴったりのものだったようで、一子が呼吸の仕方を覚えるまでに十分とかからなかった。しかし、それを継続するとなると話は変わっていった。普段からこの呼吸法を行えるようにと、慶は一子の日常生活において呼吸を第一とさせた。勿論、川神院の修行をしながらできる段階ではないので、食事や移動の際にしか強制はしなかった。

 その結果、走ることはまだできないが、早歩きをしながら独特な呼吸をできるようになった。その早歩きしていく一子の背中が小さくなるまで、慶はじっと一子を愛でるような目で見つめていた。

 一子の背中がほとんど見えなくなったところで、天衣が溜め息をついてから話を切り出した。

 

 

「休憩をさせないスパルタっぷりは置いておいて、一子についてか」

「おっと、お見通しでしたか」

「切り出し方が露骨すぎる。それにやけに遠回りさせるような言い回しだったしな。あの子の前じゃ話しにくいことなんだろう?」

「天衣さんだって分かっているくせに」

 

 

 一子が完全に視界から消えた二人の表情から笑顔は消えた。

 

 

「これ以上の成長を望んでいるならば、必ず覚悟がいる。壁を越えるという覚悟がな。だが、覚悟だけでは足りない。壁を越えるために必要な条件は三つある。一つは覚悟、一つは努力、一つは才能だ。この中で一子がどう足掻いても手に入らない条件がある」

「…………才能、ですよね。学長もそう言っていました」

「ああ。決定的に足りない武の才能だ。集中力や持続力だけで見たら群を抜いて才能を持っているだろう。しかし、武の才能とそれらは似ているようで別物だ。一子は決定的に“天賦の才能”が欠落している」

「天賦……。運否天賦の天賦ですか?」

「人の運不運とは、予め神が定めた決定事項である。それが私の持論でな。こうでも思わないと私の今までの不運を納得できなかったんだ……」

「た、天衣さん。落ち着いてください」

 

 

 話していながら段々と沈んでいった天衣を宥める慶。慶以外にも天衣を慰める年下は多いため、天衣が自分より若い人物に慰められるというのは珍しいことではなかった。

 

 

「それで、だ。あいつの武の才能は、この一週間近く一緒に修行と銘打って観察させてもらったが、決定的に凡庸な人間だと判断した」

 

 

 自分の不幸な過去を思い出し軽く鬱な状態になってしまっていた天衣だったが、普段通りに戻った彼女が放った言葉は酷く現実的なものだった。この場に一子がいたら、恐らく一子の精神の足場は瞬間的に軟化し落下していったことだろう。流砂に飲み込まれるように絶望に沈んでいっただろう。

 その言葉を聞いても、慶は一切の反論を見せることはなく、ただ静かにゆっくりと頷いた。それは誰が見ても分かる、肯定の意思。

 

 

「否定しないんだな。私はお前があの子を評価していると思っていた」

「勘違いしないでください。私はしっかりと一子ちゃんを評価しています。その評価の観点が違うだけです。貴女たち武道家はどうしても才能という観点からものを見すぎです。さきほど提唱されましたが、壁を越えるための条件の二つ目、努力こそが人間の本質なんです」

「その点においてはあの子は最高の逸材だ。恐らく、この時代における究極の精神の持ち主だ」

 

 

 

 

 

 

「私はそれが――――憎らしい」

 

 

 

 

 

 

 慶の無表情と一段低いトーンに、天衣の背筋に悪寒を走らせた。先程の評価をしているという発言から一転して、慶が一子に対する負の感情をぶちまけた。

 

 

「それが、お前の本心なのか?」

「一子ちゃんには憎しみだけではなく、当然の如く愛情もありますよ? ただ、どちらが多いかと聞かれれば、憎悪の方が勝っているでしょうね」

「……カタストロフィー理論、とは違うな。何せ愛と憎しみが共存しているのだから」

「ええ。それにこれは恋愛ではなく親愛です。当人が確証もなく言う事ではないのですが、一子ちゃんは私を兄のように慕っていますし、私自身も一子ちゃんを妹のように思っています」

 

 

 慶の声質と表情が和らいだ。慕情と怨恨の比率が逆転したのだろう、慶が一子を思う気持ちが愛に満ちていたと、その場にいた天衣は確信できた。

 

 

「私は感情が欠落しているとよく表現していますが、覚えていますか?」

「ああ。確か事故に遭ってからだと聞くが……」

「ええ。あの忌まわしき交通事故、両親も弟も無残に命を落とし、私だけが生き残ってしまった悔やまれる不運、あの時に私は左腕を失いました」

 

 

 慶が何も通していない左腕の袖をギュッと掴み、奥歯を噛み締めた。その時の慶の表情は心労しているように思われた。それほどまでに、慶が腕を失った交通事故は痛烈で悲惨なものであったのだろう。思い出すだけでじっとりとした汗が額に滲むほど。

 慶は袖を伝い肩にまで手を伸ばした。天衣は慶が服を剥いだところを、左肩の傷を見たことがない。着替えの際も「私が男だといけないし、女だとしても他人に裸を見られたくない」と着替えは別々に行っていたからだ。

 その過剰なまでの反応のせいか、天衣は慶の傷がそれだけとは思えなかった。他にも傷はあるだろうが、そこにしか意識を向けようとしないのは、傷の大きさ以前に何かの思いがあるのではないかと考えていた。

 

 

「その時に欠落したのは、喜怒哀楽といった人間当たり前の感情――――ではありません」

「ああ、それは私も思っていた。お前は人並みに笑うし、今みたいに憎んでいるとはっきり理解できているじゃないか。本当は何が残って、何が失われたんだ。無傷の感情は何で、刻まれた後遺症は何なんだ?」

 

 

 天衣が慶の内側に踏み込んだ。今まで誰も踏み込んだこともないであろう領域に一歩踏み出した。感覚的には無垢な赤ん坊の肌に爪を食い込ませるようで、緊張感と罪悪感という苛む砲撃を一心に受けるようであった。

 しかし、慶の表情は決して怒り悲しむようなことはなかった。なかったが、それよりも恐ろしい何かを天衣は感じた。その踏み込んだ領域は、慶の暗黒(ブラック)に近づくための道筋ではなく、暗黒(ブラック)そのものであったのだ。

 

 

「ある感情以外、自分で認識できないんです」

「……?」

「簡単なことですよ。自分が今嬉しいのか悲しいのか、それが本能では分からないんです。家族が死んだと改めて聞かされた時、私は涙を流していたそうです。それに対して「そうですか」という答えを私は口にして、医者と看護婦に冷たい目で見られました。多分、「なんて可愛そうな子なのだろう」とか言われていたのでしょう。気が狂ったと思われたのでしょうね…………。天衣さん、私は今、どんな表情をしていますか?」

 

 

 そう聞かれ、天衣は慶の表情をよく見て、相応しい言葉を模索しようとする。慶の表情は笑っているが非常に弱々しく、壊れかけという言葉が似合ってしまう。それは微笑んでいるのではなく、自嘲している笑顔だった。

 

 

「哀しんでいるだろうな。それも、自分自身を貶しているような」

「そうなんでしょうね。いや、地の文に起こせばそれも簡単に理解はできます。何も知らないで生きてきた訳ではないので。どういう場面で人が笑うのか、どういう言動で人は怒るのか、そういう空気や雰囲気は何とか理解できるようになりましたけどね。私が今感じるのは、僅かに口角が上がったな、という肉体的感覚のみです」

 

 

 天衣はその発言を素直に受け入れ信じることはできなかった、というよりは、それを信じたくはなかったのだ。あの時、自分に手を差し伸ばしてくれたのはなんとなくという感覚で起こったものなのかと、悲しみに塗れながら問い詰めたくなったのだ。

 しかし、慶はさらに言葉を紡いだ。

 

 

「流石に今は自分が喜んでいるんだ、哀しんでいるんだ、悲しんでいるんだ、怒っているんだ、ということも判断できるようになってきました。長い経験の末に感情をようやく理解しました。それも日常的に全く問題がないくらいに。ただ、どう足掻いても感じるというのではなく、理解するという段階になってしまいます。本能的に笑っているんだと感じることはできません。人より感情を表すのが数瞬遅れてしまうくらいで、本当に話したり一緒に暮らしていても何の不快も与えないようにできますし、私自身人とコミュニケーションをとることが興味深いという段階から楽しいと思えるようになりました」

「……少し難しいが、お前が今抱いている感情は人間的というより、機械的ということか?」

「そうでしょうね。その表現が一番正しいと思われます。たった一つの感情を除いて」

「たった一つの……? まさかそれが、憎しみか?」

 

 

 確信のない一言に、慶は笑った。それも非常に邪悪で、人を殺すことなど虫を殺すことと何ら変わりのない殺人“機”のような冷徹な表情。そして慶はそれを“理解ではなく”、“感じている”。

 

 

「私が唯一の生き残りというように聞こえたかもしれないが、正確にはもう一人生きている。私たちの乗用車に突っ込んできたトラックの運転手。あいつは飲酒していた上で居眠り運転を掛け合わせて私らに突っ込んだ」

 

 

 慶の口調が温和なものではなくなっていった。これが憎しみを抑えきれない慶かと、天衣はその豹変ぶりに戦慄した。

 

 

「そいつは今も留置所だが、私はあいつを許しはしない。殺意しか沸かないが、それも人として当たり前だと私は思う。家族を殺したあいつを、この手で轢殺してやりたい。ぐしゃぐしゃにして、誰か分からなくなるまで真っ平らにしてやりたい。不思議と、そう考えるだけでゾクゾクとなるのは感じることができるんだ、ははははは――――」

「慶、お前――――」

「――――分かっていますよ、狂ってるんです。どうしようもなく、もう戻ることはできないほどに、私は壊れてしまっているんです」

 

 

 天衣が慶の肩を掴んで引き戻してやろうとしたが、慶はそれを拒絶し涙を流した。慶は恐らく、この泣いている原因である悲しみを“理解しかしていない”のだろう。

 

 

「私はもう、憎悪の塊でしかない。怨恨の体現でしかない。人間としてはもう終わってるんです。私を哀れまないでください、同情も情けもいりません。それくらいなら、私を人殺しにしてください。私に人を殺させてください」

 

 

 慶の表情が変化する。これで本能的な感情を感じることができず、機械的に理解することしかできないとは信じられなかった。だが、ここで天衣は慶の新たな異常性を目にした。

 その左腕が通っていない筈の袖が、まるで“袖が通っているかのように形をなしていた”。それは慶が恨みを意識し表現する度に、それに呼応するように膨れ上がり成形されていた。

 現に今、慶はそれを本当の左腕のように無意識扱っていた。袖口は完全に閉じられ、そこから五本の指のような形に服が伸びていた。肩よりも大きく広がるその左手は、人の手よりは想像された妖怪や悪魔の手に近かった。そのないはずの異形の左腕を使い、慶は天衣の腕を掴んで懇願する。

 

 

「殺させてくれ、私に一言も謝罪をしない天涯孤独にしたあの野郎を……。殺させてくれ、詐術を弄し奇策を用いて私を陥穽に貶めたあの屑共を……。私の恨みをこれ以上膨らませないでくれ、復讐でそれをなかったことにしてくれ、どうか、どうかぁあああ……」

 

 

 美しさというものはどこにでも存在する。気丈に振舞っている訳でもない普段の慶からは、ありえないほど美しさしか感じなかった。大衆を魅了し誘惑し、自分が特別ではないと普遍を再認識させて自信を根こそぎ奪っていった美しさがあった。自然界にだけ存在し、人の手では再現が困難とされる究極の美の比を備えていた。

 そして、今の情けなく人殺しの許容を一友人に迫るその姿には、迫真の演技という素晴らしさに近い美しさを感じる。その縋りつき嘆願する体勢にも極まった比率が見られた。しかし、目の前にいる天衣はその美しさを感じることができない。目の前にいる泣きじゃくった友人が、感動を通り越すほどに哀れで仕方がなかったから。

 その復讐に焦がれる様は、まるで少し前の自分のようで――――

 

 

 

 

 

 

「駄目だ、ソラ。お前はそうなっちゃいけない。私みたいに、復讐に身を委ねちゃいけないんだ」

 

 

 

 

 

 

 天衣は覚悟を決め、慶の頭を両手で鷲掴みにして至近距離でその目を見据える。その目の奥に光という光はなかった。あるのは絶望と復讐に燃える黒い炎だけ。こんなにも酷い目をしていたのかと、天衣は見ていて胸が締め付けられていった。

 

 

「私になっちゃいけない。考え直せ、殺しちゃいけない。命を奪ってそいつらと同じにならないでくれ」

 

 

 慶の頭を自分の胸に沈めるように抱きしめる天衣。その抱擁はあまりにも暖かく力強く、慶の復讐心に燃える覚めた感情からくる力では引き剥がすことはできなかった。

 

 

「そうしなきゃ自分が人間にならないなんて悲しいことを言わないでくれ。私はお前を一人の人間として、恩人として、親友としてみている。だから、だから……」

 

 

 天衣は自分が復讐に燃えていた頃を思い出した。抑えきれない怒りと悲しみを暴力という手段に訴えかけ日本を襲った。今にして思えば、なんという愚かなことをしたのだろうと自分を責めたくなるほどだった。復習が生むのは後に遺る虚しい感情だけ、達成感や優越感など一切ない。

 また、復讐から生まれるものも壊れるものもある。かつて仲間や戦友とも呼べた人物を傷つけ、また新しい復讐心を生んでしまう。そして、今まで築いてきた人間関係や立場は一瞬にして壊れてしまう。そんな崩壊していく人生を、慶にはどうしても辿って欲しくなかったのだ。自分が半分までその道に進み、今落ち着くことで復讐に対する批判的感情が生まれた天衣。

 半分まで実行しただけで、強い後悔が残ったままやる気もなく人生を過ごしてきた彼女にとって友人がそうなることだけは避けたかったのだ。

 

 

「――――た、天衣さん……?」

「……あれ?」

 

 

 天衣の頬を慶がそっと触る。そこには目からこぼれ落ちた涙の雫が乗っていた。天衣は慶をそっと開放し自分の目尻を拭った。そこには確かな水分があり、それは留まることを知らなかった。手首で何度擦っても、その雫は絶え間なく落ちていった。

 

 

「お、おかしいな。泣く予定なんてなかったのに……くそっ……」

「………………ごめん、なさい。天衣さん。私、どうかしてて……」

「……気にするな。私がしたいことをしたんだ。お前のようなどうしようもないお人好しを殺人者になんかしたくないんだ。だから甘えてはくれないか……。ああくそ、こんな泣き顔で言っても説得力がだな……」

 

 

 天衣は頬を朱に染めながら目を隠してなんとか照れを隠そうとしたが、その言動があまりに可愛かったのか、先程まで情緒不安定であった慶がお腹を押さえて笑い出した。

 

 

「あは、あははっ、天衣さん可愛すぎますって」

「なっ、か、かっかかかからかうんじゃあないっ!」

「あはっ、あはははは。でも、ありがとうございます。少しばかり、憑き物が落ちたかもしれません」

 

 

 そう言って慶は最高の笑顔を天衣に向けた。しかし、天衣はそれを見て納得はできなかった。憑き物は落ちきっていないと天衣は自信を持って言えた。

 その笑顔の裏にまだ、殺人者になりたがって膝を抱えて泣き腫らしている小さな慶が見えてしまっていたから。

 

 

「――――なあ慶、お前――――」

 

 

 天衣が慶に呼びかけようとしたその時、天衣は莫大な闘気を全身で感じた。押し潰されそうな重圧と刃物を首筋に当てられるような明らかな殺意が天衣を襲った。そしてそれは比喩ではなく、明らかな物質的重量で慶と天衣は上方から捩じ伏せられるような圧力に圧迫される。立っていることもままならず、ついには二人共膝をついてしまう。

 そして、その殺意を感じているのは天衣だけでなく慶も同様であったが、慶の方が明らかに恐怖していた。慶と天衣に向けられた明確な殺意が慶の左肩の古傷を疼かせる。慶は無いはずの左腕を細かく寸断されていくような錯覚に襲われる。

 

 

 空虚な空洞を持つ左袖が、慶の不安定さを表現するように重力に逆らい、天へ昇っていく龍のように逆立った。

 そして数秒後、左袖が慶の後方に勢いよく伸びた。その袖が指す方向へ天衣と慶が顔を向ける。

 

 

 そこには、大地を揺らすほどの黒い殺意を身に纏った、気高くも美しい武神が腕を組んで立っていた。

 

 





 人生は全て次の二つから成り立っている。したいけど、できない。できるけど、したくない。

 ゲーテ

◆◆◆◆◆◆

 慶の欠落を明確に表記いたしました。書いていてこれって伝わるのかなと心配になりましたが、それこそこれは感覚の問題でありますので、表現できないけどなんとなく分かった、ということが好ましいです。
 ところで、これ本当は次話の分も今回で書きたかったんですが、流石に一話に二万字使うのは忍びなかったので分割いたしました。まだ次話は加筆修正どころか見直しもしていないので未完成ですので、連投ではありません。悪しからず。

 大和田伊予。今回のまじナイススタイルコンテスト、長いのでMNSコンテストとしますが、今回の成績。

 一位タイです。

 点数は一位タイですが、細かな採点を見ると二位です。それでも目を疑いました。これじゃあ軍師が野球帰りに始球式しても仕方のないことです。
 今回は、無印でサブヒロインですらなく、Sでも短すぎる√しかなかった彼女が、何故このような順位に食い込めたのか、という考察であります。

 結論から言ってしまえば、“メインでないから”、これにつきます。

 百代の90超バスト、由紀江の桃尻、クリスの貧乳と、メインキャラには必ず“性格的個性”に加え“身体的個性”が身体に現れます。

「私、みんなと比べて胸小さいから……見ないで」
「お尻が大きいの、気にしてるんだから……」
「どうだ、この大きさには自信があるんだぞ?」ドタプーン

 これらの一文があるだけで相当映えるんです。まあ、メインキャラ全員巨乳とか個性もへったくれもないゲームもありますが……それはそれでカップを測ったりウェスト換算なり別要素があるのですが、置いておきましょう。
 ここで個性の話に。大和田伊予、彼女の立ち位置は“地味でおとなしめではあるが、熱狂的野球好き、時折小動物”という、ゲームをやったことのある方ならわかる“サブキャラにしては妙に濃い個性”ですね。それだけで“野球=伊予”という、まじこい内での方程式が出来上がる程です。
 つまり、“身体的個性”を求める必要がほとんどないため、“バストとヒップに差がいらない”のです。しかし、それが“ゴールデンカノンの条件”と一致しているのです。加えて“おとなしめで地味で、メインより目立たない”がモb、サブキャラの前提のようなものです。つまり、身長は高くもなく低くもない。そのためゴールデンカノンの実現が容易になるのです。
 京より身長は高いのですが、ウェストは細め。バストとヒップのバランスは最強のボン・キュ・ボン。

伊予「これでもDカップあるんですよ」
クリス「」

 伊予ちゃん大奮闘、でした。

 予告。一子、史進、クリスの大敗。


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第十六帖 東の野に炎の立つ見えて――――

――――かへり見すれば月傾きぬ


柿本人麻呂


 

 野鳥や魚が興奮して暴れていた。鳥は遥か上空で編隊を組み、グルグルとその場を旋回しているが落ち着きがないように見られた。魚はある一定のラインを越えようとせず、本来川にしか生息しない魚が海に逃げようとするほど。

 今の多馬川は、本能が行くことを拒絶するような危険区域になっていた。

 

 

「元気そうじゃないか。少し安心した。私が制裁する前に死にかけていては、やり甲斐もあったもんじゃあないだろう?」

「……久しぶりだね。この状況で私が活気に満ちて見えるようなら、一度眼科か精神科に行くことをお勧めしよう。私は膝をついているのだからね」

「私まで巻き添えか……。話に聞いていた通り、今のお前は見境がないようだな、百代」

 

 

 ギシギシと、慶と天衣の体が軋んでいく。天から圧迫されるような、抵抗不能な気の圧力が猛威を振るっていた。慶も天衣も膝をつき、せめて倒れはしないようにと必死に堪えていた。

 その強大無比な力を行使している化物の口元は笑っているように見えるが、その眼光は明らかな殺意を孕んだ冷たいもの。目の前で跪いている標的を人としてみていないような、家畜や畜生を遠目で眺めているような冷酷なもの。

 

 

「我慢してくださいね、橘さん。こいつをここに近寄らせないようにしたら、すぐに開放してあげますよ」

「…………具体的に、何をするつもりか言ってもらおうか」

 

 

 百代のいつもとは違う表情に呼応するように、天衣の目つきが変わった。何かを決意したような、覚悟の炎を奥に宿した瞳へと変化した。

 

 

「簡単なことですよ。もうこの川神に入ろうとすると古傷が疼き出すような、生殺しみたいなことです」

「――――そうか、そうなんだな」

 

 

 天衣は一度瞳を閉じて深呼吸し、現状を憂いだ。どうして傷つくべきでない人間たちが、互いに傷つけ傷つけられ、心の中で泣いて生きていかねばならないのかと、この運命を決めた神とやらに文句を言いたくなった。

 天衣は閉じていた瞼を全力でこじ開け、奥歯同士を噛み砕かん程の力を込めて足腰に全力を注ぎ込む。百代の圧力を弾き飛ばすほどの爆発的な気を纏い、声にならないような声を上げて天衣は立ち上がり、百代の前に立ち塞がる。その後ろには、天衣の爆発力と行動に瞠目している慶がいた。

 

 

「怪力乱神とはっ……! よく言ったものだよ!」

「……何のつもりですか、橘さん」

「分からんか? 私が、こんな明らかな、勝ち目の薄い状況にっ、自ら身を投げた愚かさが?」

 

 

 百代は実に怪訝そうな表情をしていた。天衣が一体何故、百代が憎んでいる対象を庇おうとしているのかが理解できなかった。天衣にこれ以上危害は加えないと明言しているのにも関わらず、天衣は百代に敵対するような立ち位置に移動した。

 慶を守る城壁となり、百代の攻撃を止めようとしていた天衣は、百代が理解できないことに苦笑し、叫ぶ。

 

 

 

 

 

 

「友達を護る為に決まっているだろう!!」

 

 

 

 

 

 

「気でも狂れましたか、堕ちましたね。そんな悪鬼に手を貸すだなんて」

「悪鬼はどちらかな? 化物(武神)と呼ばれて畏怖されているお前にお似合いじゃあないか」

 

 

 百代は天衣の安っぽい挑発に乗ろうとはしない。百代の標的はあくまで天野慶ただ一人だ。天衣を“障害にもなりえない敗残兵”としか見なしていない百代の精神は、人としての道徳も尊厳も何もかも意識していない、人ならざる狂戦士のもの。百代は慶を目の前にしたことで箍が外れてしまっている。

 対する天衣は、百代が怒りや恨みといった負の感情のみで満たされた表情でいることを、嘲笑っていた。武神と呼ばれ、瞬間回復などという人外に近い技を使い、圧倒的戦闘力で畏敬の念を抱かれている百代を、天衣はちゃんとした人間だと思っていた。しかし、それは誤りであった。こんなに他人を見下すような精神が、人間のものであるはずがない。

 “壁を越えた者”の醜さを、天衣は確りと理解した。それと同時に、自身が“壁を越えた者”としての醜さを保持していることにも気づいた。

 

 

 ――――私は、不幸を長所とした構ってちゃんか。

 ――――こんなに人を妬み羨み嫉むとは、我ながら醜悪なものだ。

 

 

 百代の圧倒的な強さに憧れ、妬んだ自分を嘲笑する。橘天衣という人間は、“壁を越えた者”の中で一種の超越を果たす。朧の求めている“壁を越えた者”が、朧が手を下さずに完成した。

 

 

 

 

 

 

「私は、“ヒーロー”を名乗らせてもらおう。ちっぽけな価値観と小さい器の、出来損ないのヒーローを」

 

 

 

 

 

 

「……何を言っているんですか? 悪を救っていては正義の味方にはなれやしませんよ?」

「私より取るに足らない価値観と、狭量な心をお持ちのようだな、武神」

 

 

 ピクリと、百代の眉が釣り上がる。天衣が余裕綽々と百代に持論を述べていることは百代にもとって苛立ちを覚えることではあるが、何より百代の怒りを支配しているのは、ヒーローを名乗る人物が、自分の敵を護っていることだった。

 

 

「絆されましたか。ダークヒーローの肩書きすら似合わない」

「そういうお前は駄々を捏ねる餓鬼でしかないぞ?」

 

 

 天衣は挑発を休めることはない。それと並行して自身の武器である機械化された四肢の動作を確認する。

 戦闘強化股肱。それは世界の九鬼が開発した戦闘用の義手であり兵器である。元々、戦争や災害で負傷した兵や国民の生活を助けるために開発されていたものであったが、その破壊力は九鬼家のお墨付きであるため、ただの補助具ではなく立派な武装兵器になってしまった。

 かつて軍に所属していた橘天衣が、軍の実験用の素体として扱われた際に試用されたものであったが、その際の相性は群を抜いていた。その力を用いて脱走、その後反乱に失敗し九鬼の監視下に置かれるが、強化股肱はそのままに、上から人工皮膚を貼り付けただけで現在に至る。

 現在の天衣は相棒とも呼べる女性のサポートがないため、以前よりも戦闘力は落ちていると判断できる。しかし、彼女も元四天王、スピードクイーンとしての実力は依然変わらない。天衣は百代にとって、明らかな難敵として位置していることは事実であった。

 しかし、百代はそんな天衣を障害と見なしていない。視野が狭まっているのもあるが、天衣に止められるような本能なら、百代の理性は身体をとうの昔に拳をしまい帰宅させている。

 

 

「いいですよ。お望みならば先に潰してあげます」

「天衣、さん! 逃げてください! 私のことは捨て置いてくれていいですから!」

 

 

 百代が拳を握り直したのを確認した慶は叫んだ。あの化物とぶつかってしまっては、無傷で済まないことは明確であった。天衣は恐らく、それを承知で慶のための囮になっている。自己犠牲のヒーローへとなりきっていた。

 

 

「ここで逃げたら、私はただの浮浪者だ。お前を、友を護れず、何がヒーローか」

 

 

 しかし、天衣はそれに耳を貸さない。その忠告が示すことは天衣もしっかりと理解していた。下手をすれば、未だ生身である胴体部分に後遺症が残るような、一方的な殺戮になってしまう可能性も否めなかった。まともな戦闘など、天衣は初めから臨めるものと思っていなかった。

 

 

 ――――自分はただの生贄でいい。足掻くだけの木偶でいい。

 

 

 天衣は覚悟を決めていた。不動の意志を宿していた。

 

 

「や、めてください……!」

「悪いな。決めたことなんだ」

「止めろ! 逃げてくれ! 天衣ぇ!!」

 

 

 慶が吠えた。今まで丁寧な口調と敬語を滅多に崩さなかった慶が、年上である天衣を乱雑に呼び捨て、命令形で言い放った。それに天衣は目をキョトンとさせて、慶が立ち上がっているのを目にした。

 

 

「頼む……! 傷つくのは、私だけで十分だ!」

 

 

 慶の瞳からは涙が溢れていた。それほどまでに必死の懇願だった。残っている絆が、これ以上血で染まることを避けたかったのだ。

 しかし、その願いも届かず、天衣はただただ笑っていた。

 

 

「ようやく、呼び捨てで呼んでくれたな。お前とは対等だと言っていたのに、頑固だったお前は言う事を聞かなかった」

「……天衣?」

「これで、おあいこだ。対等だ。ようやくお前と胸を張って友人だと言えるようになった」

 

 

 天衣の笑顔は最高のものだった。慶よりも付き合いの長い百代でさえも、その笑顔は今までに見たことのないほどに明るいものだった。慶が共に歩むことで改善した、不幸体質の少女の無垢な笑顔だった。

 ここで百代は初めて慶と天衣の関係を考察する。あの負のオーラを漂わせてばかりいた橘天衣が、こうまで明るい向日葵のような笑みを浮かべるとは、何が原因なのか。やはりそれは、天衣が友人だと言い張る慶のおかげであろうか。

 

 

 ――――あの人でなしに、そんなことができるのか?

 

 

 百代は僅かに混乱し、一瞬だけ平衡感覚を失ったように視界が歪んだ。

 

 

 ――――忘れるな。アイツのせいで華月が――――

 

 

 「っ――――!」

 

 

 百代は歯を食いしばり、今起きた歪みも何もかもなかったことのように振る舞い、慶と天衣をただの標的と再認識する。

 

 

「――――くだらない茶番は終わりですか?」

「っはは。耄碌したな百代。これを茶番だということはだな――――」

 

 

 

 

 

 

 ――――家族(ファミリー)を護る為戦った自分を否定しているんだぞ?

 

 

 

 

 

 

「……なんです?」

「いや、これは自分で気づいて然るべき、か。叱るべきかもしれんが、今のお前の耳には届いても、心には届かないな。さあ慶、早く逃げろ。私の心配はいらん。その泣き腫らしそうな顔を整えて逃亡しろ」

「っ――――ご武運を、天衣!」

 

 

 天衣の笑顔と友人宣言、それは頑固な慶を動かすのには十分な材料であった。慶は即座に振り返り脱兎の如く逃げ出した。

 

 

「逃がすかっ――――」

「行かせん!!」

 

 

 百代が慶に向かって飛び出そうとした瞬間、百代の腹部に掌を押し当て、“今までとは違う呼吸”を表層に出現させた。

 

 

慧紋(けいもん)十法(じっぽう)初雪(はつゆき)!」

 

 

 ズドン! と、百代の腹部を激しい衝撃が貫いた。その音に思わず慶は足を止めてしまい振り返った。そこには、百代を蹲らせていた天衣の腕の人工皮膚が捩れるように裂け、それに付随している回転エネルギーの残滓を確認できた。

 

 

「立ち止まるな。私に背中を任せてはくれないのか?」

 

 

 天衣は振り返ることなく慶に言葉を投げかけた。慶は天衣のことを心配して立ち止まったのもあるが、天衣が足を止めたのは天衣の身が心配になったからではない。一番の理由は、現時点で一子にしか基礎を教えていない筈の技、“慧紋の十法”を天衣が行使したことだった。

 

 

 ――――なるほど、感覚の問題なのか……ふむ――――

 

 

 慶は天衣が先程腕を回して回転エネルギーについて考察していたことを思い出した。あの時点で、天衣はまだ回転エネルギーの真髄に辿り着いていない筈だった。確かに、慶は自分の流派の技、“慧紋の十法”の一部を実演してみせた。

 

 

 ――――これが攻撃の初歩、慧紋の十法・初雪(はつゆき)

 ――――これが防御の正眼、慧紋の十法・花菱(はなびし)

 ――――これが反撃の動作、慧紋の十法・杜若(かきつばた)

 ――――これが回避の身構、慧紋の十法・源氏車(げんじぐるま)

 

 

 それは一子に対する実演であって、天衣に対するものではなかった。

 しかし、天衣はそれをやってみせた。慶が行使する回転エネルギーの攻撃技、初雪を完全にやってのけたのだ。

 その技の号を叫んだ天衣の体には、確かに慶が習得した武術特有の気の流れが通っていた。それは一朝一夕で把握し行使できるものではない。つまり、天衣は一子と共に密かに修行を続け、一子よりも先に回転エネルギーの応用に気づき、たった今次の境地へ歩を進めたのだ。

 慶を支配する焦燥、驚愕、動揺。それを吹き飛ばしたのは、立ち上がった百代の殺気立った邪悪な形相だった。

 

 

「やってくれますね……。橘さん」

「行け! 二度と振り返るな!!」

 

 

 慶が百代の全てを飲み込んでしまうようなドス黒い殺気に足がすくむ寸前、天衣は叫び声を上げて慶に喝を入れる。慶はその一瞬で意識をしっかりと握り締め、決して手放すことはないように大事に抱えて走り出した。その速度は常人よりは速いが、百代から見ればその他一般と大差はない。追いつくのに全力を出すまでもないほどだ。

 しかし、百代は追いかけようとしない。ようやく障害として認識した橘天衣を排除することを優先と考え、スイッチをしっかりと入れ替えた。

 

 

「強化股肱の強さとは別、慶が得意としていた技の一つですね。あいつがそう簡単に教えるとは思いませんでしたが」

「見稽古だ。盗ませてもらったが、この技も強化股肱同様、私との相性はいいらしい」

 

 

 百代の体に異変は見られなかった。一子を一撃でダウンさせたものと同系統の技でも、百代は瞬時に回復してしまう。まだ天衣の回転技法は未熟とは言え、それなりの威力と自信があったため、天衣は軽く舌打ちをする。そこで天衣は意識を次手に切り替える。

 ガチャリと、天衣の左腕が変形した。何かを握り、何かを掴み、何かを掬う(救う)掌は跡形もなくなり、何かを貫き、何かを砕き、何かを破戒(破壊)する銃火器へと姿を変えた。

 それと同時に、今まで人としての表面を作り上げていた人工皮膚が全て吹き飛び、機械仕掛けで冷たい鈍色の四肢が姿を現した。

 

 

「九鬼の技術は恐ろしいな。殆ど肉体と変わらない精密動作も可能な義手など、精製できるのはあの財閥だけだろう。水分が若干不足しているが、その靭やかさはほぼ再現できているのだからな」

 

 

 ドンッ! と、天衣の足から爆発したような音とが聞こえたと思った瞬間、百代の懐に転移が潜り込んでいた。完全な予測準備動作なし(ノーモーション)の移動に、百代は虚を突かれた。回転技法の爆発移動と、強化股肱の噴射機能の重ね掛けであった。

 

 

「実弾は取り上げられたが、模擬用の特殊な弾を用意してもらった。ちょっとハンマーで殴られたように痛いかもしれんが、喰らっておけ」

 

 

 百代は即座に腕で天衣を弾き飛ばそうとするも時既に遅し。天衣の左腕に装備されているガトリング銃が火を噴いた。銃弾が発射されながら回転する銃身は、決して片手で扱えるような代物ではない。そこから分かるのは、九鬼印の兵器の圧倒的科学力と、天衣が如何にこの強化股肱を我がものにしているかだろう。

 その毎秒数十発単位で発射される弾幕に、百代はなすすべもなく吹き飛ばされてしまう。それでも、以前百代が喰らった実弾とは違うため、百代は瞬間回復を使う前に天衣に突撃してくる。

 それを天衣は躱そうとしない。それに対して迎撃しようともしない。天衣の足元に境界線があるかのように、天衣は門番のようにそこから動こうとはしない。自分を越えようとしているものだけを排除しようとする、百代に勝つための戦闘ではなく、守るための戦い方をしていた。

 

 

「私はお前を倒そうとは思わん。お前は私を越えねばならない。故の差だ」

 

 

 百代の全てを打ち砕く正拳が天衣の腹部目掛けて放たれる。それを天衣は避けようとしない。

 元より、百代に対する足止めという関門は、天衣にとっては“力不足”であった。

 

 

「足掻きはしよう。しかし、やはり虚勢を張っても、敵わないことには変わりがないな――――」

 

 

 ドズッと、鈍い音が天衣の腹部から聞こえ、それに続いて骨が折れるような音が数回続き、天衣は口から濁った血を吐き出した。

 天衣は膝を付くどころか、両手も地面につけることはできず、自らが吐き出した血でできた血溜りに体を沈めてしまった。その体勢のまま、天衣は二度三度と咳き込みながら吐血し続ける。

 ただ、ここで天衣を倒したはずの百代にも異変が起きる。

 

 

「――――ちっ、腕が……!」

 

 

 百代の腕が捩れるように折れていた。骨は外に突き出してはいないものの、明らかに捻れてしまった皮膚と肉が内出血を起こし、真っ赤に染まっている部分もあれば紫の痣になっている部位もあった。

 天衣を見下ろす百代は、その痛々しい腕を抑えることなく、瞬間回復で治してしまう。それを見た天衣は、治されたという事実は関係ないのか、ダメージを与えたということに満足していた。危険な状態である天衣が浮かべている表情は喜びが多く、全快に戻った百代が浮かべている表情は勝者のものと言い難かった。

 

 

「ははっ……くはっ! はぁ……ぐふっ!」

「――――何をしたのかは聞きません。二年前、似た技を見たことがありますから。それより問題は……。“最初からそんな重傷”で。よく私に歯向いましたね」

「はぁっ…………いつ、気づい、た……?」

「初めの踏み込みの時です。あの距離なら、貴女は小細工なんか使わず私の懐に入ることぐらい出来た。確かに予測動作がないっていうのは驚異ですが、それでも普段の橘さんならそれをもっと有効に使えた筈です。補助技に頼らざるを得ないほど、体がボロボロだったんでしょう?」

 

 

 それでも全力で殴りましたけど、百代はそう付け足して天衣の返答を待つ。決して天衣を介抱しようとはしない。正直、天衣の返答を待つだけでも時間が勿体無いのだ。しかし、百代の索敵範囲にはまだ慶の気配があった。まだ追いつけると判断して百代は天衣との会話を続けていた。

 

 

「………………お前、の……川神、バス、タ……。ひ、ヒュームとの……実戦……。七割も、回復、できる、わけが……!」

「ヒュームさんとやったんですか? それに私との傷が治っていないって、長すぎでしょう?」

「…………正確、には……“治せなかった”……。あの後、“あの男”に…………勝負を挑んだ、のは……間違い、だった……。嗚呼……やはり、私は……不幸だ――――」

 

 

 自分の不幸さを嘆き、天衣は気を失った。その表情は、全てをやり遂げたように清々しい笑顔であった。

 気絶しているだけと確認した百代は再び索敵を開始する。天衣が手負いであったのと同様に、慶も何かを抱えているのか、逃亡の速度は決して褒められたものではなかった。

 まだ追いつける、そう確信した百代は全力で動くために体を軽く動かし、準備を整える。

 百代の現在の精神は非常に荒んでおり、冷酷なものである。かつての仲間である天衣を血の海に放置し、自身の使命と思い込むことにしか意識を向けていない。

 そんな百代であったからこそ、天衣を追い詰めた“あの男”の話に興味を示すこともなかったし、“上空から迫る二人の強者”に気づけなかったのだ。

 

 

「…………っ!?」

 

 

 百代は咄嗟に上を見上げ、ここまで油断していた自分に苛立ちを覚えた。折角天衣を倒して発散された僅かなストレスも、自身の失態で無駄になってしまった。

 百代の索敵によれば、その二人は驚異的な速度で垂直落下していた。その真下にいるのは、現在索敵中の百代本人。百代はその二人の襲撃から避けるために大きく後ろへ飛び後退した。

 百代が元いた位置、現在の天衣と百代の間に、その二人は着弾した。

 

 

「悪いけど、行かせないよ。モモちゃん、少し落ち着きなよ」

「再会してまだ一週間と経ってなくて悪いんだけど、ゴメンネ」

 

 

 その強者は二人共女性であった。

 一人は制服姿の黒髪の女性。腰に巻きつけた複数のホルダーに目が行きがちだが、その相貌は実に可愛らしいものであった。川神学園の男子生徒のみならず、女子生徒も彼女のことを美人と認めるほど。しかし、今は目を細め笑顔を浮かべていないでいるために、可愛らしいというよりも先に少女の気迫を感じ取ることだろう。

 一人はデニムホットパンツに白いTシャツというラフな格好をした赤髪の女性。身長は隣の少女より少し高いくらいだが、彼女から感じ取れる雰囲気は非常に大人びたもので、隣の少女とは幾つか年上にも感じられる。

 その二人を視認した百代は、その正体に驚愕と憤懣(ふんまん)を顕にする。

 

 

 

 

 

 

「そうか、そうか……。お前らも慶の味方か……。なあ、燕ぇ!! 梓ぁ!!」

 

 

 

 

 

 

 百代の怒号が無意識に闘気を爆発させ、同時に球状の衝撃波が発生して二人に襲いかかった。

 しかし、その衝撃波の対処に動いたのは一人だけだった。赤髪の少女、南浦梓は衝撃波に対して背を向け、衝撃波と接触する寸前に左足を軸として体を回転させ、高密度の気を纏った右足で衝撃波を“上方に打ち上げた”。

 一方、衝撃波に対して退くように動いた黒髪の少女、松永燕は倒れている天衣の元に駆け寄っていた。天衣を抱え上げた燕は、万が一梓が失敗した時のことを考え、天衣を少し離れた木陰に移動させておいたのだ。ついでに止血を試みようとおもったが、目立った外傷はなく、天衣は体の内側に大きな損傷があるのだと燕は瞬時に判断した。燕は自身の気を送り込みながら身体のツボを刺激し、少しでも回復を早められるようにしてから梓の元へと戻った。

 

 

「忘れた? 私にそういう波動系の技は通じないよ!」

「む、無茶苦茶だね……。ああいう技は相殺がセオリーだと思っていたのに」

「お前らまで、私の敵になるのか」

 

 

 百代の怒りは最高潮に達していた。その証拠に、制御できていない気が乱れ、百代を中心として小さな嵐を巻き起こし始めていた。百代の憤怒の問いに対し、燕と梓は首を横に振った。

 

 

「モモちゃんの敵じゃない。ソラの味方になったんだよ。この二つはイコールで結べない」

「ふざけるな……!」

「……ソラさんは、モモちゃんを友達だと思ってるよ、絶対に。あの人は誰よりも絆を大事にする人なんだ」

「黙れ……! 黙れ黙れぇ!!」

 

 

 こいつらも私の敵になってしまった、百代の今の精神状態からはそうとしか判断できなかった。泰然自若など言っていられない。復讐の黒い炎に操られている百代に、二人の説得は届かない。

 そんな百代を見て、二人は酷く心を痛めた。

 

 

「ごめんね燕ちゃん。初めての出会いがこんな……辛い仕事でさ」

「お仕事っていうのは、そういうものだよ。九鬼の依頼でもあり、友人の依頼でもあって…………可愛い後輩の頼みだから、私は心を鬼にするよ。梓ちゃん」

 

 

 二人は今日が初対面だった。招集を受けたのもほんの数十分前。せいぜい知っていることは互いの名前と、ここに来ている理由だけ。知人とすら呼べない悲しい関係だった。

 そんな二人の間を取り持つことも忘れ、ただ仕事を押し付けた少年も、今回の仕事を苦痛に思いながらこなしているのかと思うと、二人はさらに胸が締め付けられるような思いになった。

 そこで、梓が辛気臭さを振り払おうと、一つの提案をする。

 

 

「ソラとモモちゃんが和解できたら、お疲れパーティーでも開こうか。美味しい料理が出てくる行きつけのお爺さんがいるんだ」

「お爺さんが行きつけって……。でも、それもいいね」

「川神水で乾杯してさ。みんなでわいわい騒ぐんだ。そこにソラもモモちゃんも、ヒコッチーもユーミンも、タイガーもカヅっちゃんもいるんだ。川神学園三年仲良し同窓会だ」

「新しく入った清楚ちゃんもお忘れなく、ね?」

 

 

 二人はようやく笑いあった。作り上げた笑顔どうしではなく、心から笑いあった。

 

 

「それじゃあ、やろう――――“川神百代鎮圧作戦”」

「うん」

 

 

 しかし、その笑顔も一瞬のこと。二人の表情から一切の戯れは消え、仕事を忠実に完遂させる感情の読み取れない機械のような表情を浮かべた。

 その瞬間、百代は二人が臨戦態勢に突入したことを悟った。そして同時に、二人を友人として見ることをやめ、天衣同様障害と認識を改め、排除しようと拳を握り突撃した。

 それに対応したのは燕だった。百代の拳をギリギリで回避しつつ、掴まれたり反撃されないような姑息な攻撃を繰り出す。避けきれないものは弾きいなし、百代の攻撃を最小限のダメージで受け流していく。怒りに支配されている百代の攻撃力は一撃で半分以上の体力を削り取るが、そのため大振りが多く予測はしやすかった。回避に専念さえすれば、燕でも時間稼ぎは出来た。

 

 

 その時間稼ぎの間に、今回の作戦の要である梓のウォームアップが終わり、始動する。

 

 

 梓は百代の背後に回り込んだ。目の前のことしか目に入っていない百代の背後に回り込むことは、武道を全く習っていない梓でも容易だった。

 梓が素人であることは百代の記憶にもあった通りだった。つまり、百代にとって梓は“障害であるが容易に振り払えるもの”として、燕よりも弱いと侮られているために、背後に回り込まれても対処はされなかった。

 その対応に、梓は言葉で反論する形から否定を開始する。

 

 

「私の武術の素人っぷりは覚えているんだね、モモちゃん。ここまで予測通り。でもね――――」

 

 

 梓は体を全力で回転させ、百代の背中に左足を押し当て首根っこを引っ張り、同時に体を沈めて百代の体を浮かせる。

 

 

「っ!?」

「素人だからって舐めんじゃねーよ」

 

 

 百代にとっては予想外の現象だった。その体を浮かされている感覚を表現するのであれば、水面に仰向けで浮いているような感覚。絶息状態にしなければ絶対に沈むことはできない、人間であれば逃れられないような事象を体験しているようだった。

 その浮遊感を打ち払ったのは、またしても梓の脚であった。百代の背中を接地面として押し上げていた梓の左脚が伸びきった時、既に百代の脚は地から離れていた。梓はそれを確認し、百代の背中から脚を離し、瞬間的に体を屈めて体を逆さにした。体勢的には、ネックスプリングのようだが、その姿勢から行われる動作が違った。

 

 

 梓は浮遊している百代の背中を、跳ね上がった反動と驚異的脚力を持つ脚で蹴り上げた。その威力は、百代の体を一瞬で数十メートル上空まで弾き飛ばすほど。

 

 

 そして梓は百代の位置を確認すると、屈伸と伸脚を数回行い、ちょっと手の届かない高さにある本を取るかのような気楽さで垂直に跳んだ。その気楽さとは裏腹に、未だ重力に逆らい浮上している百代よりも高い位置まで飛び上がった。それこそ、百メートル以上の高さはあるビルの屋上に簡単に到達できる高さだった。都市部の摩天楼の高層建築物よりも高い位置で、百代と梓の目が合った。

 

 

「――――梓」

「ちょっと痛いよ。私の踵落としは――――」

 

 

 踵落としの宣言、その筈なのに、梓の身体は百代に対して背を向けた。それに対し百代は反撃に出ようとするも、梓を捉えることができなかった。この足場のない空中で、梓はまるで歩いているかのように位置を調整していた。二年前の梓にはできなかった芸当だと、百代は驚きを隠せなかった。まるで梓だけに足場があるような、実に奇妙な光景だった。

 そして、梓は空中で更に一度跳ねたように上昇し、空中で何度も後方に回転していく。その勢いは留まることを知らず、更には体を横にも捻るように回し始める。さながらそれは、体操技の最高難易度のリ・ジョンソンをさらに難化させた、足の伸びた超高速回転宙技。

 

 

倶利迦羅刀落(くりからとお)とし!!」

 

 

 最終的に、百代の腹部に遠心力が収束された超重量の蹴りが打ち込まれた。メキメキと音を立て、体の中の臓器と骨肉が引き裂かれ砕かれていくのを、百代は体感だけでなく聴覚や味覚といった五感全てで感じ取ってしまった。

 百代と梓はそのままの勢い、まるで流星の如く落下速度で多馬川の河原に着弾してしまう。轟音と地鳴り、襲いかかる衝撃と土煙に、待機していた燕は目を閉じてしまうが、すぐに行動を開始する。

 百代の瞬間回復が発動するその前に、動きを封じるために百代に接近する。

 百代は今の衝撃でできたクレーターの中央に大の字で倒れていた。しかし、気を失ってはいない。意識があれば瞬間回復が発動してしまう。それを阻止するために、燕は百代の腕と首を取り、意識を奪うと同時に拘束しようと百代の体をうつ伏せにした。

 

 

「ぐっ……! この程度で……私が動けないとでも――――ぐあっ!?」

 

 

 百代が背中に跨るように絞め技を続行していた燕を弾き飛ばそうとした瞬間、百代の背中が恐竜に踏まれたように地面に押さえつけられてしまう。百代がどう力を加えようと、百代の体が起き上がることはなかった。

 百代が絞められながらも何とか首を曲げ目を移動させ、背中に襲い掛かっている圧力の正体を確かめようとした。 

 百代が目にしたのは、片足を腰に乗せているだけの梓だった。梓は百代が見ていることに気づきながらも、百代と目を合わせようとしない。罪悪感があるのか、梓の唇には噛んだ痕も見られた。

 

 

「動かさないよ。ソラが完全に気配を消せるまで」

「っ――――」

 

 

 梓の言葉にハッとした百代は即座に索敵を開始した。その索敵によれば、慶の気配は非常に希薄なものとなっており、もう追いつくことはできないような距離であった。

 それを確認した百代の頭の中で、ブチッと、何かが千切れる様な音がしたと思った途端、梓の足と燕の腕に衝撃が走った。

 

 

「いづっ!?」

「うわっ!?」

 

 

 思わず拘束を緩めそうになってしまった燕と梓だったが、僅か一瞬のことだったのですぐに意識を戻した。しかし、その一瞬意識から百代の拘束が外れたその時、百代は全力で闘気を収束させる。

 

 

「川神流、人間爆弾!!」

 

 

 眩い閃光が百代を包んだその瞬間、梓は足を離して回避しようとしたが、目の前にいる燕は自分よりも反応が遅かったことに気づいてしまった。燕が絞め技を解いて腕を離した瞬間、梓は咄嗟に燕を蹴り飛ばした。

 

 

「うっ!?」

 

 

 燕は後方からの思わぬ衝撃に苦痛の表情を浮かべたが、その苦痛も激しい轟音と熱風に掻き消された。

 

 

「あ、梓ちゃん!?」

 

 

 梓の一撃で燕はクレーターの外まで弾き飛ばされていたため、百代の必殺である自爆の被害は受けなかった。しかし、クレーターの中に残された梓の安否は土煙に阻まれて確認できなかった。

 クレーターの端でしゃがみこみ、身を乗り出して状況を確認しようとした燕だったが、その視界が土煙から飛び出してきた何者かの攻撃により遮られる。そして同時に襲いかかるこめかみへの鋭い圧力。片手で頭を握られていると気づくのはそう難しいことではなかった。

 

 

「うああっ…………!?」

「梓は戦闘不能だ。次は、お前だな、燕ぇ……!!」

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

 片手で百代の手を握り潰そうとしても気で遮られ、反撃しようと脚で百代に蹴りを数発入れるも、それを意にも介さず百代は握力を強める。万力のような圧迫に、燕の両こめかみから血が流れる。

 

 

「お前らのせいだ、お前らのせいだ……っ!!」

「も、モ……ちゃんっ……!」

「お前らのせいでぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」

 

 

 百代の慟哭、嘆きの咆吼。燕は目の前にいる百代を、憐れまずにはいられなかった。

 

 

 ――――どうして、ソラさんを、信じてあげないの……?

 

 

 燕は涙を流す。涙と頭部から流れる血液が混ざり合い、まるで血の涙を流しているように見えたが、心の中では確りと血涙を絞っている。

 ああ、もう駄目だ、そう燕が感じて意識を手放そうとした瞬間、ドサッと、何かが落ちる音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

「何、してるの……? お姉様……」

 

 

 

 

 

 

 





 真の美というものは、真の知恵と同じく、大変簡明で誰にも分かりやすいものだ。

 ゴーリキー

◆◆◆◆◆◆

 次話で終わると言っておきながら三話構成になってしまい申し訳ありません。つい筆が載ってしまい30000字になってしまいました……。
 天衣、燕、梓を相手に優勢に立てるのは武神故ですが、メンタルまではどうでしょう、ということで今作ですが、作者が橘天衣支援の小説でもあります。今回血を吐いてやられてしまいましたが、朧曰く完成型に一番近いのは天衣さんです。

 MNSコンテスト、今回はバスト評価について考察していきます。つまり、理想サイズとどれだけかけ離れているか、であります。今回の統計では理想よりオーバーしているのが京しかいなかったので、残りはもれなく理想より小さいのです。
 それではワースト3、下から発表すると、一子、クリス、史進となります。

 一子:胸が小さいから徒競走で負けだと言われる(公式ドラマCD)
 クリス:小さい胸が悩みだとMs.キシドーを名乗り相談(公式ドラマCD)
 史進:貧乳を気にしており、胸にパッドを入れている(公式設定より引用)

 正直吹き出してしまいました。ここまで、ここまで的確だとは……。因みにワースト4は不死川心。貧乳キャラが連続しております。やはり理想とかけ離れているんだなと思いながらワースト5をチェック。


 ワースト5:板垣辰子(バストは89、純粋なバストランキング2位タイ)


 …………こ、これが、今回のMNSコンテストの醍醐味です(小声)。辰子は身長が高いことが裏目に出ました。身長が高ければ高いほど胸は大きくなければいけない、というのがゴールデンカノンの前提のようなものですから仕方ないですね。
 因みにゴールデンカノンでは96が理想らしいです。確かに178センチもあるんですから、それくらいは求められてしまうのでしょうか……。いやはや、見ていて面白いものです。

 辰子「総合評価Cだったよー」
 一子、クリス、史進「「「総合評価Bなのに……」」」

 予告、お尻キャラのお尻は大きいのか?



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第十七帖 うらなくも思ひけるかな契りしを――――

――――松より浪は越えじものぞと


紫の上


 

 「ふっふ……ふーはー……ふっはっふっは」

 

 

 川神一子は言いつけを守る良い子である。修行が終わったあとの買出しに課された条件に文句一つ言わず、それを実行し続けるお利口さんであった。この忠実さは本人が元から兼ね備えている集中力と持続力に加えて、友人に躾という名目で調教され続けてきたが故の賜物であった。

 一子は独特な呼吸法を続けながら仲見世通りまでやってくる。その際に川神院の近くを通ったのだが、特に知り合いに会うこともなかったのを少し寂しく思ったが、今は修行中であると気を引き締めた。

 仲見世通りまで来たものの、一子は何を買えばいいのかと必死に考えながら歩いていた。

 

 

 ――――お茶を買うべきか、スポーツドリンクを買うべきか、ジュースを買うべきか、迷うわ……。

 

 

 一子の思考回路は三つの大きな選択肢を提示した。お茶という選択肢が浮かんだのは、最も無難であり特に否定される理由が見つからなかったからだ。慶がお菓子を用意しているということは、お茶はまず外さない安全な選択といえよう。

 しかし、修行後ということを加味すれば、スポーツドリンクという選択肢も忘れる訳にはいかなかった。大量の発汗と失われたエネルギーの補給を考えるのであれば、スポーツドリンクは自販機の中で最良の選択と言えよう。

 最後にジュース。もしお菓子というのがケーキやシュークリームといった洋菓子であった場合、紅茶などの方がいいと思われるかもしれない。

 一子は必死に考える。こんな時、誰かと相談できたらなぁと一子は考えた。

 

 

「あれ? ワン子じゃん」

 

 

 そんな時、一子の聞きなれた声が背後から聞こえた。そこには、衿巾(えりはば)に“老舗小笠原”、“川神院”と刺繍された法被を身に纏った茶髪の女性が手を振っていた。

 一子が改めて景色を確認すると、そこは仲見世通りの中で級友の実家が経営している和菓子屋の前だった。色々と考えながら歩いていたせいか、変わりゆく景色が頭の中に入ってこなかったようだ。

 

 

「チカリン! グッタイミン!」

「何々? 困り事?」

 

 

 小笠原千花。川神学園で一子と同じクラスで学園生活を送る女子学生だ。一子たち武士娘と比べれば戦闘力は低く、お洒落に噂好きと一般女子学生に近い人物である。

 実家は仲見世通りでも有名な和菓子屋で、九鬼家の長女である九鬼揚羽にも味を認められている老舗であった。和菓子のみならず、赤飯や海苔巻きも揃えているあたり、様々な客層のニーズに答えられるようにしているのだろう。

 今日は休日なので、千花は和菓子屋の制服である法被を羽織っている。その着こなしもまた様になっており、休日や休み限定ではあるが、しっかりと看板娘として頑張っている辺りは真面目な少女である。

 

 

「実はね、お遣いを頼まれたんだけど、何を買えばいいか分からなくて……」

「? 川神院のお遣いじゃないの?」

「えーっとね、ちょっと大きな声じゃ言えないんだけど、最近川神に戻ってきた人で、アタシに稽古つけてくれてるの! その人がこれで飲み物とお菓子買っていいよって!」

「うわっ、新渡戸! 今日一日で二回も拝むことになるなんて……。ん? 最近川神に……?」

 

 

 何かを思い出したように頭を捻る千花。あれでもないし、これでもないと逡巡する。その様子を見ている一子は疑問符を頭に浮かべている。そんなに難しいことを聞いてしまったのかと若干焦ってしまったが、それはお門違いというものである。

 そこで、何か閃いたように千花が顔を上げた。

 

 

「ねぇ、ひょっとしてその人……片腕がない?」

「えっ!?」

「ビンゴ! いやー、世間は狭いわー」

 

 

 世間は広いようで狭い、イッツ・ア・スモールワールドという言葉が如何に的を得ているかを思い知らされたのか、千花は一人でうんうんと頷いて何かを納得していた。

 

 

「人に話すなって言っておきながら自分で知り合い作っていくんだから、ほとほと呆れてたのよ。ワン子にまで手を出してるんだから……」

「チカリン、ソラさんのこと知ってるの?」

「知ってるも何も。あの人、何年も前からウチの常連さんだもん」

「え?」

 

 

 一子は開いた口が塞がらなかった。あれだけ変装に拘って――どう足掻いても一子には匂いでばれた――、名前を出されることも好ましく思っていなかった世捨て人が、こんな人が集まる観光名所である仲見世通りに通っている新事実が発覚した。

 

 

 ――――どうして人気の多いところに行きたがるのかしら……。

 

 

 一子は呆れて溜め息を吐いて、遠い目をしながら笑うしかなかった。

 

 

「昔からの付き合いだけど、ここ一年……二年くらい? 全然顔を出してくれなかったから、県外の学校に進学したんだと思ってたら、髪の毛真っ白にしてひょっこり戻ってきたわね。それも開店直後の朝早く。結構多めの和菓子買っていったけど……一人分なんて量じゃないわね」

「チカリンナイス! この際もうあの人が見つかってもいいって思えてしまうくらいチカリンはいい働きをしたわ!」

「え? アタシ何かした?」

「これ以上ないってくらい!」

 

 

 流石チカリン! そう褒められながらサムズアップされてしまうと、特に何もしていないのに胸を張れてしまうくらい喜ばしくなった千花であった。

 慶が用意しているお菓子というのが和菓子だと判明し、一子は数ある選択肢の中から緑茶を選択することができた。それだけ買って帰ればよかったのだが、やはりお金が多く余ってしまう。

 

 

 ――――今思えば、五千円って大金よね。

 

 

 多くは渡さないと言いながら、迷わず五千円札を取り出した慶の金銭感覚を疑いながら、一子は残った四千円以上の残金の使い道を考える。そこで、千花に慶が何を買ったかを尋ねてみた。

 

 

「あの人なら……えーっと、蕎麦饅頭と柚子饅頭と薯蕷(じょうよ)饅頭を買っていったわ」

「これと、これと、これ?」

「それを二個ずつね」

 

 

 一子はショーケースに入っている和菓子の中から三つの和菓子を指差した。手作りとは思えない均等なサイズを見ると、職人の腕が如何に素晴らしいかが窺える。それを見た一子は目を凝らしその違いを見比べ、一つの結論を出した。

 

 

「……ゴメン、色以外一緒に見えるわ」

「製法殆ど一緒だからね」

 

 

 一子は千花に頭を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべていた。蕎麦饅頭も柚子饅頭も薯蕷饅頭も手のひらサイズで、この三種類の形の違いはほとんど見られなかった。更には、柚子饅頭と薯蕷饅頭の製法の違いを聞かれれば、柚子が入っているかいないかという回答でほぼ正解なのだ。

 一子が色以外見分けがつかないと言うのも強ち間違っていなかったため、千花は正直に誤った一子を微笑ましく思った。

 

 

「じゃあ、久寿餅でも……? あれ、ない」

「あー、ゴメン。今日の分完売しちゃって……」

 

 

 ショーケースをよく見ると、品物の数が普段より少ないように見られた。内いくつかの商品は完売しているようで、残念ながら饅頭ばかりが多く残っていた。

 

 

「実はさ、九鬼財閥の揚羽さんところから多く注文が来て……。今日手が回ってないんだよね」

「そうなの?」

「ようやく落ち着いてきたところ。足りない分必死に補ってたけど、今日はこれが限界ね」

 

 

 両手を顔の横に並べてお手上げと体で示した千花。一子は何か買おうと思ったが、目当ての久寿餅がないので少し肩を落としていた。

 それを見兼ねたのか、千花は「ちょっと待ってて」と言って店の中に戻っていった。暫く待っていると、千花は小さな手のひらサイズの巾着袋を持ってきて、それを一子に渡した。

 

 

「本当は真与にお礼であげようと思ってたんだけど、今日の夜また作るから……これ、あの人とのお知り合いってことでサービス」

 

 

 一子は首を傾げて中を覗いてみると、そこには光を反射してキラキラと輝く宝石のような飴が沢山入っていた。それを見た一子の目もまたキラキラと輝いているように見えた。

 

 

「え、いいの?」

「うん。正直この状態のお店で満足してもらえるとは思ってないし、これで少しでも緩和されたらなって」

「そんなことないわ! ありがとう!」

 

 

 一子にもし尻尾が生えていたならば、間違いなく千切れんばかりにフリフリと振っていた頃だろう。それをみて千花も心が温かくなり、非常に満足気であった。

 

 

「どういたしまして。あの美人さんにもよろしくね?」

「美人さん……? ソラさんって女性なの?」

「え!? あれで男なの!?」

「い、いや、アタシも分からないんだけど……」

「しまった、完全に盲点だった……! 何で女って決めつけちゃったかな!? あれ男だったらチョーイケメンじゃん!」

 

 

 両手で頭を掴みながら首をブンブン振り回し、いい男を逃したと悔やんでいる千花。そう言えばアタシも全然知らないなと、一子は秘密主義の慶に少し寂しさを覚えた。

 いつか話してくれると嬉しいなと思ったが、もし女だったらと思うと、少しだけ複雑な気分になった一子であった。

 

 

「分かったら教えてね? 特に男だったらすぐに!」

「う、うん。分かったわ。それじゃあねチカリン。ありがとう!」

 

 

 そういって千花と一子は別れた。一子の腕には久寿餅も饅頭もなかったが、代わりに友人からもらった巾着が、お宝のように大事に抱えられていた。

 次はお茶を買おうと、一子は自動販売機を探す。できれば和菓子向けの緑茶を探しているのだが、中々緑茶に巡り会えず東奔西走。遂には仲見世通りを超え、駅前まで来てしまった。いつも移動や集合場所として使っている川神駅ではなく、川神院最寄りの川神大師えきであるが、やはり観光名所付近ともあって人も多く賑わっていた。

 しかしそこで、明らかに異質な露店が立っていた。

 

 

「“絶賛布教中・四国の名産店”……?」

 

 

 一子は視界に入った幟旗に書かれている文句を口に出していた。意外と繁盛しているようで、買っていく客も多く、ただの冷やかしという訳でもなさそうだった。これが商法のサクラなのかを判断できない――元よりあまりサクラというものがよく分かっていないのだが――が、一子はその店に近づいていった。普通の祭りに出ている露店の二倍ほどの敷地を利用した大きな店で、置いてある商品も豊富だった。

 そこで働いているのは三人。一人は会計、一人は包装、もう一人は商品紹介の接客であった。その三人に加え、現在先頭に並んでいる二人の人物を含めた五人に、一子は見覚えがあった。

 

 

「すいません。予約していた椎名ですけど」

「どうも、また来ちゃいました」

「お、これはクマちゃんご贔屓に。椎名は久しぶりだな。どうだった、みまからの味わいは?」

「なかなか、輸入品でないのにこの辛さは評価が高い。赤唐辛子ばかりだったから、この青唐辛子がクセに……」

「実はな、それよりも辛い商品を今日は持ってきたんだ」

「っ!? く、詳しく聞かせてもらいたい」

「僕は普通のみまからで満足だね」

 

 

 筋肉質で上半身裸の色黒の男に青い髪の少女が詰め寄っていたところに、一子が声をかける。

 

 

「何やってるの? 京にクマちゃん」

「あれ、ワン子?」

「川神さんも匂いに釣られたかな?」

「む、お前は確か島を倒した……」

「天神館の、長宗我部くんよね? これなに?」

 

 

 客側としてきていたのは二人、一人は一子とは幼馴染でもあり級友でもある椎名京。もう一人も一子の旧友。食に関しては川神学園で、いや、川神市内で一番のスペシャリストと言っても過言でない食通、熊谷満だった。

 そして接客に精を出していたのは、天神館の西方十勇士とも名高い生徒。以前行われた川神学園と天神館の生徒間の戦である東西交流戦で、盛り上がりの一役買った――名勝負を繰り広げたのではなく、火達磨になって打ち上げられ海に落とされた笑いどころであるが――長宗我部宗男であった。

 

 

「見ての通り物産展だ。四国の良さを広めるため、ちょくちょくここと川神駅に店を開いていてな」

「電車代も馬鹿にならないのに」

「スポンサーがいるから問題はない。売れ行きもいいしな。それよりどうだ、お前もちょっと見ていけ」

 

 

 そう言われて一子も並べられている名産物に目をやった。正直なところ、一子は“物産展”という言葉に非常に弱い。試食はできるし新しい食の発見もある。そこは満と来ている理由が一緒である。

 

 

「おい長宗我部、もっとしっかり客を捌け。混み合ってきた」

「しっかり頼むでー。しっかし、客寄せ麗しの美少女として来とるはずやのに、何でウチはレジ打ちなんや」

 

 

 そこで残り二人の従業員、と言うか、天神館の二人の生徒が根を上げてしまいそうで文句を垂れていた。

 

 

「うわ、あの二人も十勇士……」

「利益の一割献上、加えてただで関東に行けるという餌にかかった二人だ。鉢屋は正式に頼んだんだが、それを聞きつけた宇喜多は自主的に申し込んできた」

 

 

 素早い手先で商品を袋詰めしているのは、忍者として名を広げようとしている鉢屋壱助。その素早さもだが、一つ一つ丁寧に包装する技術は学生とは思えなかった。

 会計係を務めているのは、十勇士の中でも守銭奴として扱われている宇喜多秀美。会計をほとんど頭の中で済ませているため、レジにおける代金の受け渡しは非常に円滑であった。

 そこらのスーパーの二人体制のレジよりも素早く、それでいて丁寧な作業。見る人が見れば、熟練の腕だと絶賛することだろう。

 

 

「結果論だが、あいつらに任せて正解だったな。クレームも全くと言っていいほどないし、ミスはゼロときた」

「それより、例の辛味調味料を」

「おお、スマン。これが、みまからⅡだ。もしこれを完食できたのならば、次なるステップを用意しておこう。まあ、そう易易と突破できると思わないことだ」

「挑戦状? 私が満足できる辛さかな?」

 

 

 京は宗男から瓶詰めにされた調味料と挑発を受け取り、滅多に他人に心を開こうとしない京が笑顔を浮かべていた。笑顔といっても、家族や恋人に見せるような明るいものではなく、何かを含んだような不敵な笑みだった。

 

 

「僕は何事も、ほどほどがいいと思うな。あ、長宗我部さん」

「おう、熊ちゃんには四国の良さを伝えてもらってるから安くしよう。約束のすだちだ」

「ありがとう。やっぱりすだちは徳島だよね」

 

 

 一子が見ている内に、京と満の二人は買うものを決めてしまったようだ。そこで長宗我部が気を利かせてくれたのか、一子に話しかける。

 

 

「何がいい?」

「あ、緑茶に合う和菓子が欲しいと思って……。あ、饅頭以外で!」

「ほう、和菓子か。それなら……今日が初お披露目、まるごと愛媛特産のみかんが入った大福だ。その名も、まるごとみかん大福。饅頭に近いが味わいも食感も違うし問題ないだろう。食べてみるか?」

「食べる!」

 

 

 一子の元気のいい返事に長宗我部は大らかに笑い、大福を四分の一にカットして爪楊枝にさして数子に手渡した。切れ目から見えるみかんが大きなインパクトを与える。

 

 

「いちご大福みたい」

「ぶっちゃけ、中身が違うだけで製法は変わらないからな」

「いただきます! ……まぐまぐ…………美味しい!」

「ぬははは! そうだろうそうだろう! ついこの間テレビにとりあげられた、ある意味新鮮な和菓子よ! もっとも、この商品自体は冷凍なのだが」

「甘いわ……このみかん甘々よ! これにするわ!」

「気に入ってもらえてようで何よりだ。六個入りからだがいいか?」

「えーっと…………三で割れるわね。問題ないわ!」

 

 

 一子は結局未だに崩せていない旧五千円札を長宗我部に手渡した。

 

 

「ぬおっ、新渡戸……。あのつまみ爺さんは伊藤博文を渡してくるし、最近は旧札ブームなのか?」

「キューサツ?」

「こちらの話だ。おい宇喜多、勘定だ」

「まいどー!!」

 

 

 そのまま流されるようにレジまで移動した一子は、袋詰めをしていた壱助と目があった。以前一子が会った時、壱助はニット帽の上からフード、加えてマフラーを鼻まで巻きつけ目しか見せていなかったため、素顔を晒している壱助は一子にとって新鮮だった。

 そんなことを考えながら壱助をボーッと見つめていると、壱助が先に口を開いた。

 

 

「こちら何時間かかるご予定で?」

「え? えーっと、三十分もかからないかな?」

「ではドライアイスは不要に到す」

 

 

 同い年の学生に、しかも少し前まで敵であった壱助に、妙に業務的な会話を振られたことに違和感を感じたのか、一子は顔をヒクヒクと引きつらせていた。

 

 

「鉢屋の広告もご一緒させていただく」

 

 

 レジに運ばれる前に袋詰めが一瞬で終わり、ついでに壱助が自身を売り込むためのチラシを同封させていた。段々忍者というものの概念が崩れていく一子であった。

 壱助の袋詰めが一瞬で終わり、宗男から受け取った代金を預かった秀美が会計を始めた。

 

 

「はいこちら二千七百円、五千円お預かりや! ってうお! 新渡戸やんこれ! なあなあ長宗我部! これってあとでウチの樋口と変えてくれへん?」

「いいから早くレジ回せ! 混んでるんだから」

「言ったからな、約束取り付けたからな? あ、こちらお返しが二千三百円」

「あ、ありがと……」

「また来てやー!」

 

 

 若干西方十勇士の勢い、と言うか、学生とは思えない奇人ぶりに圧倒されつつも、一子は露店の人ごみから脱出できた。そこで一子は、自動販売機の前で本を読んでいた京を見つけた。一子は京に話しかけようと小走りで近づいていった。

 一子を待っていたのだろう、京は一子を確認するとすぐに本を閉じ、一子がこちらに寄ってくるのを待っていた。

 

 

「京とこんなところで会うなんてね」

「ワン子はこれからどうするの?」

「アタシは……そこの自販機で緑茶を買っていくわ!」

 

 

 一子はビシッ! っと京の背後にある自動販売機を指差した。そこには探し求めていた緑茶のペットボトル。一子は先程のお釣りである千円札を挿入し、緑茶を買っては取り出し、買っては取り出しを繰り返し、計五本の緑茶のペットボトルを購入し、あることに気づく。

 

 

「はっ……どう運ぼう」

 

 

 よくよく考えてみると、五本のペットボトルに加え、大福に巾着袋と持つ者は多かった。抱えて持っていくのもいいが、もし一度落としたら大変なことになる。ペットボトルはまだしも、折角の飴や大福が地面に落ちてしまうのは避けたかった。

 一子があわあわと口に出しながら慌てているのを見かねたのか、京は溜め息を吐いて先程も買ったばかりの瓶詰め調味料を取り出し、空っぽになった袋を一子に渡した。

 

 

「これあげる。私は手で持って行くから」

「いいの?」

「止めなかった私にも問題はあると思うので」

「ありがとう京! 今日はいろんな人にいいことしてもらえるいい日だわ!」

「今度同じことしたら見捨てるけどね」

「は、はい。すみません……」

 

 

 京はそのまま島津寮に帰り、買ったばかりの辛い調味料をすぐに試したいとのことでここで別れた。一子は両手に袋を携え、呼吸法を再開して河原に向かった。一子が再び仲見世通りを通り、川神院を通り過ぎようとした、その時だった。

 

 

 

 

 強大な気の膨れ上がりを感じ、周囲を見渡していると、多馬川の方角の上空へ、人が打ち上げられていた。

 

 

 

 

 その方角は間違いなく一子のスタート地点でありゴールでもある多馬川上流。しかもそこには、百代に見つかってはいけない慶がいる筈であった。まさか見つかった? そう考える一子を焦燥感が支配し始める。

 一子は呼吸法のことなど忘れ、全速力で多馬川の河原を目指した。もしこれが慶の悪戯で、呼吸法を忘れていないかのチェックだとしても、一子はそちらの方がよかった。百代に見つかってしまうよりはマシだと、本気でそう思っていた。

 

 

 ――――だって今日は、みんなが優しい、いい日だから!

 

 

 一子はそう信じて走り続け、多馬川の上流に到達した。

 

 

「何、してるの……? お姉様……」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 燕の聞き覚えのある声、その声が聞こえた瞬間に、百代の握力が確かに弱まった。弱まったどころか、百代の気が抜けのか、燕は頭を解放されて地面に落とされる。

 頭を押さえ止血しながら、その声の主を確かめる。

 

 

 

 

 そこには、両手で持ってきたであろうお茶のペットボトルが沢山入った袋と、ちょっと高そうな和菓子が入っているであろう包と巾着が無残にも散らばっていた。そして、それを持ってきた張本人、川神一子が目を皿のようにしていた。

 

 

 

 

 木陰で血に染まって倒れている一子の修行の立会人である天衣。先程までなかった巨大なクレーター。その中央で泥塗れになって蹲っている見覚えのある女性。先程まで殺されん勢いで持ち上げられていた燕。そして、その現況と予測できる、一子の姉、川神百代。

 しかし、一子が最も気にかけていたのは、この場に一子が最も慕っていた心優しき人物、慶がその場にいないこと。これが嘘だと、夢だと信じたい状況。

 

 

「何、これ…………。ソラさん、天野さんは……?」

 

 

 ソラ、天野、この二つのワードを口にした一子。そこで百代の目が見開かれる。

 

 

「ワン子、お前まで慶に毒されて……」

 

 

 その一言に、一子はなんとなくこの惨状の原因を理解した。百代が慶を危険視していたことは前から知っていた。しかし、慶が百代と仲直りしたいことも知っていた。慶はこうなることを予測していたのだろう。慶と百代が一度出逢えば、話し合いなどなく、拳しか振るわれない争いになると。

 そして、慶はそれを望まなかった。平穏に事を済ませたかったと、一子の脳みそでも簡単に理解できる。

 それを放棄したのは、慶を一片も信じていない、目の前の武神。

 

 

「ワン子は、私の味方だよな?」

 

 

 百代は一子に問いかける。しかし、その目に普段の強い光はなかった。自分が正しいと思い込まなければ、精神が壊れてしまうように思えるほどに。

 しかし、一子は冷静にこの状況を見て、百代を正しいと言えなかった。

 

 

「お姉様は、一体何に拘っているの……?」

「何って、それは――――」

「お姉様、今やっていることは、味方とか敵とか関係ないわ」

「え――――」

「お姉様、“友達”を傷つけて、何にも思わないの? “仲間”を壊して、敵味方に拘っていられるの?」

 

 

 一子は良くも悪くも純粋だった。はっきりと間違っていると判断できてしまうのならば、それを一子は見過ごせなかった。義を重んじるドイツ人、クリスティアーネ・フリードリヒも、一子と同様に過ちを正そうとするに違いない。

 

 

「敵も味方も関係ない。友達とか他人とかも、この際関係ない。お姉様は話を聞かずに、ただ人を傷つけているだけ。そんなの、イケないことよ!」

「わ、ワン子……?」

「お姉様いつも言ってるじゃない! 暴力を使って人を傷つけるのは、相手が道に反した行為をした時だけだって! でも、今のお姉様は話を聞かずにただ倒しにかかる――――道に反してるのは、今のお姉様よ!!」

 

 

 

 

 

 

 ――――今日は、皆が、優しいはずだったのに――――

 

 

 

 

 

 

「お姉さまが、全てを、壊しちゃったのよぉ……」

 

 

 

 

 

 

 一子が泣きながら百代を責めていた。その言葉を言い終わると同時に、一子は手で顔を覆い膝をつき、その場に泣き崩れてしまった。

 百代はそんな一子の姿を見て、自分の中にあった復讐の炎が鎮火し、徐々に体の熱が奪われていったのを感じ取った。

 

 

 体が冷え切った瞬間、自分がやってしまったことの愚かさに気づいた。

 

 

 自分を慕ってくれていた友や仲間を血塗れにし、下手をすれば命を落としかねない状況まで貶めていた。百代は冷めた体が更に凍えていくのを感じ取り、最も安否を確認できない梓の元へ駆け寄ろうとした。

 その時、百代の肩が掴まれ、クレーターの中に行くことを止められてしまった。

 

 

「……今、モモちゃんが行く資格はないよ」

 

 

 右目だけを開けている燕が、血を滴らせながら百代の進行を阻んだ。左目は目に血が入ってしまったのか、はたまた左目を開ける筋肉に傷を負ったのか、一向に左目だけ開く気配はなかった。

 

 

「今のモモちゃんがすべき事は、頭を冷やすこと。橘さんの介抱も梓ちゃんの回収も、一子ちゃんを宥めるのも、モモちゃんはやっちゃいけない」

「つ、燕……。わ、わた、私……!」

「ちょっと反省しなさい。私はこうなるって分かって請け負ったからいい。梓ちゃんもその覚悟だったけど、梓ちゃんは私を護って怪我をした。梓ちゃんは私が診る。モモちゃんは暫く考えるといいよ。自分がしたことを省みて、これからすべきことをね」

 

 

 そう言い残して、燕はクレーターの中へ飛び込んだ。そのあとを思わず追ってしまった百代だったが、クレーターの中には入らず様子だけ窺っていた。

 燕が梓を抱え上げるのを確認した百代は、梓の怪我の具合を確認しようと目を細めた。梓の上半身は殆ど傷がなかったが、右足があらぬ方向へ曲がっているのが見えてしまった。血が滴るような擦過傷も多く見られた。大きな火傷のような跡も見られた。梓の脚は重傷だと判断せざるを得なかった。

 未だに目を覚まさない天衣と、傷だらけの梓を見て、良心の呵責に苛まれる百代。

 

 

「私は……何てことを……!」

 

 

 百代は頭を掻き毟るように自分を責めた。何より、自分の感情が制御できずに仲間を傷つけたことを改めて実感し、自分の未熟さを思い知らされたのだ。

 今の私は、なんて愚かなことだろう、百代は何度も何度も後悔し、自分に対して怒りを覚えていった。友を傷つけ、仲間を壊し、妹を泣かせた。

 

 

 百代は重く伸し掛る自責の念に耐えられなくなり、意識を手放した。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「どうだい。計画通りだろう? 不敵に笑えばいいじゃないか」

「…………ふざけるな。笑ってなんか、いられる訳ないだろうが!」

 

 

 場所は移り島津寮。畳が敷かれた和室には、浜などに生息している生物を買っていると思われる水槽や、“愛”という大きな文字があしらわれている兜が配置されていた。その和むべき空間に似つかわしくない、非常にピリピリとした空気が充満していた。

 部屋の主、直江大和は巫女姿の少年、朧に怒りを顕にしていた。朧は叱られようがいつもと変わらず、ただそれを聴き流すが如く涼しい顔をしていた。

 

 

「笑えばいいじゃないか。傲岸不遜に、大胆不敵に、厚顔無恥な政治家みたいに腹を抱えてのたうち回って笑い死ねばいいじゃないか。抱腹絶倒して窒息してしまえよ」

「……今回の作戦は、姉さんを来る日まで再起不能にする作戦だ。姉貴分を罠に嵌めて、どうして笑うことができるんだ……!」

 

 

 大和は今回の作戦が成功したことに、胸を抉られるような錯覚に陥っていた。頭を抱えて俯き、決して朧を見ようとはしなかった。

 大和がヤドカリの水槽の前で俯いて胡座をかいていたのに対し、朧は座布団を五枚重ねてその上に寝転んでいた。

 

 

「確かにキミはぼくの計画の末端に相応しいが、その後悔の仕方にぼくは若干の苛立ちを覚えるよ。今回の作戦にぼくは協力的だったはずだよ。何せ、あの場に川神鉄心やヒューム・ヘルシングと言った壁を越えた者を立ち入らせないようにしてやったのは、他でもないこのぼくなんだから」

「そうだ。これは俺の独断で、お前の目論見じゃなくて、九鬼の総意だ。利害一致だ、ミスなんか、一つもない」

「想定の範囲内の、最悪のケースで終わったがね」

 

 

 大和が自分に言い訳をするように弁明したが、朧はそんな言い訳をしっかりと受け取った上で、大和という個人の弱所を貫く。

 

 

「一子くんと百代くんの接触。これが一番危惧していたことだろう? しかも、一子が見たくない百代が、百代が見せたくない自分が世界を壊す深刻的終末(バッドエンド)。今回の被害は、橘天衣、松永燕、南浦梓の身体的損傷と、川神姉妹の精神的外傷。ぼくとしては死人が出なかっただけ良かったと思うよ」

「……姉さんが人を殺すわけ、ないだろう」

「歯切れが悪い、もっとしっかりと喋るといいよ。簡単に心が読まれるからね」

「何が言いたい」

「今回、下手をすれば誰かが死ぬと思っていただろう?」

 

 

 大和の身体がビクッと揺れた。瞳孔は開き切り、握りしめている拳が小刻みに震え、奥歯からはギリギリと噛み締める音も聞こえてきた。動揺をこうまで表面に表す人間だったかなと、朧は大和という個人の評価を改める。こいつは意外と人間臭い、そう朧は大和を慈愛の目で見つめていた。しかし、言葉は辛く苦しくなるものばかりを選択する。

 

 

「川神百代の内に眠る“狂戦士”。キミはそれを何度も耳と目から知識として刷り込まれていたはずだ。いつか人を傷つけることに躊躇しなくなる獣になると、キミは不安事項として心の片隅にいつも残しておいただろう?」

「そ、れは……」

「いい加減認めろよ。キミは川神百代を恐怖の対象として見なしていたんだ。その恐怖は死の恐怖。本能として“生きたい”と思う人間が誰しも抱える感情だ」

「………………」

「そのことに対し責める気はない。けどね、ぼくが人間のする行為であまり好きじゃないのが言い訳なんだ。それも“自分に対する言い訳”だ。ぼくは隠すことも公にすることも認めている。けど、現実から目を背けることは美徳とは言えない。隠すことも公にすることも汚点の自覚であるが、言い訳は汚点の否定である。汚点と向き合ってこそ、人間は“飛翔”できるんだ。宇佐美巨人は自分の強さを隠していたが、それは一種の戦略だ。他の自分の汚点は堂々と晒し、恥じながらもそれを受け止め汚く生きている。それが本来の人間のあるべき姿なんだ」

 

 

 朧が座布団の上から飛び降り、中指を突き立てて大和の顎に添え、くいっと大和の顔を正面に向けて向き合った。大和は至近距離で見開かれている朧の金目銀目(ヘテロクロミア)に吸い込まれそうになる。

 

 

「ぼくの価値観じゃない。これは天地開闢から今に至るまで生き続けてきたぼくの“統計”だ。絶対的な決定事項だ。だが、それを強要しようとは思わない。三者三様十人十色百人百様千差万別、だからこそ人間観察はやめられないんだから。おっと、話が逸れてしまったね。それじゃあ本題に戻ろう。直江大和くん。キミはこの計画を完遂させ堂々と笑いもしないが、その後、何を選ぶつもりだい?」

「何を、選ぶか?」

「選択肢は多いよ。例えば、今からここを飛び出して天野慶を探しに行くのもいい。松永燕と共に負傷者二人を介抱するのもいい。この後相談しに来る川神一子を慰めるのもいい。ああ、川神一子が相談を持ちかけるのは決定事項だから腹を決めておけよ? さて、何を選び、どんな未来を創るんだ?」

「…………なあ、朧。何で――――」

 

 

 

 

「「何で姉さんのことを真っ先に挙げなかったんだ?」、だろう?」

 

 

 

 

 次に紡ごうとしていた言葉すべてを奪われ、大和は言葉を詰まらせ黙り込んでしまう。せめてそれが正しいという意思だけでも伝えようと、大和は首を縦に降った。

 

 

「そんなの、キミの携帯電話を見れば選択肢として挙げるまでもないじゃないか」

 

 

 朧は苦笑いを浮かべながら携帯電話を指差した。その携帯電話は何度も何度も振動を繰り返し、震えていない時間の方が少ない位であった。普段から携帯電話を多く利用している大和であったが、先程から携帯電話の振動は間隔が異様に短すぎた。ライトも無駄にチカチカと点滅していた。

 画面には、着信件数も受信メール数も三桁を超えているのが見られた。画面に件数が表示されているのだから、当然大和はそれに手をつけていないことが分かる。

 

 

 

 

 

 

「キミは川神百代の味方になる選択肢を放棄したくせに」

 

 





 過去は、どんな強い人の手によっても決して戻ってはこない。

 セネカ

◆◆◆◆◆◆

 以前にじファン様で執筆させていただいた時、前二話と今回の話は一話にまとまっていました。それなのに、何を血迷ったのか三話構成に。長々と百代精神攻撃回、ありがとうございました。
 さて、まだまだ勢いづけていきます。まだ書きたいこと(心さんとマルさん)があるので全速力です。と、思った矢先に先日の大規模アクセス混雑……。文頭でありませんが謝罪させていただきます。更新遅れて申し訳ありませんでした。

 一体何人のヒロインが、草薙の剣を下半身に携える軍師によってア○ルキングダムに誘われたことか……。正直、そこを触られていないヒロインの方が少ないのでは……?
 そこで、軍師を誘惑するお尻について。理想値に近い原作キャラは一体誰なのか発表いたします。


 一位、源義経(誤差0.2センチ)


 総合一位の京を抜いて部門最優秀に輝きました。ええ、これはこれで素晴らしい結果と思われます。順当な人物が上位でした。上位から義経、京、天使、(羽黒)、梓(オリジナル)、小雪と続きます。天使は軍師が定期的に弄っていますので問題ないでしょう。小雪も下半身が自慢ですから順当でしょう。(羽黒インパクト再来)
 さてここで正ヒロインの公式お尻キャラをチェック。なんと由紀江が十三位という不甲斐ない結果、評価もAでした。同じ一年の伊予(七位)、紋様(十位)、小杉(十一位)に負け、一年では最下位です。
 もう一人公式お尻弄られ、お尻が叩かれるシーンが無駄に動いた不死川さんの順位なのですが……


 最下位(ただ一人マイナス10センチオーバー)でございます。


 その評価たるやD、最低評価でございます。何と言うことでしょう……あんなにいい音を立てて叩かれていた心さんのお尻が、そこまで理想とかけ離れていたなんて……


 小雪「心って、胸だけじゃなく全体的に貧相なんだー」
 心「高貴なる此方に向かって貧相とか言うなー!!」


 予告。林冲、ヒロイン降板の危機。


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第十八帖 涙のみ塞きとめがたきに清水にて――――

――――行き逢う道ははやく絶えにき


朧月夜


 

「ご足労感謝するぞい、銑治郎殿」

「お止めくだされ。儂のような若輩者にそのような敬称なぞ。思い切り、使い走りの丁稚に呼びかけるよう、銑治郎と呼びつけてくだされ」

「それでよいならこちらとしてはそちらの方が呼びやすい。銑治郎、孫と生徒が世話になったようじゃのう」

「この程度、大したことではありませぬ。それに、百代と義経との決闘は儂の血を煮え立たせ、年甲斐もなく張り切ってしまい、寧ろこちらが感謝しているくらいであります」

 

 

 川神院の最奥、総代である川神鉄心の自室に銑治郎は招かれていた。鉄心が銑治郎を招いた大きな建前としては、孫である百代との決闘における所感を述べ合うことを発端とし、互の親睦を深め合うといったものだった。親睦を深め合う、という提案は鉄心からではなく、銑治郎が前から願っていたことだった。以前百代が銑治郎の自宅に訪れた際、百代に確認を取らせていたことであった。

 鉄心としてもそれは大歓迎であったが、鉄心の目的は他に複数存在した。

 

 

「それにしても、剣聖意外にもこのような剣技の使い手がおったとは驚きじゃわい。見たところ、“壁”を越えているようじゃしのう」

「……見ただけで、分かると?」

「伊達に川神院総代を名乗っとりゃせんわい。触ればもっと確実なんじゃがのう」

「ははあ、恐れ入りまする」

 

 

 そう言いながらも、そうそう戦闘力を瞬時に判断できるものではないと、鉄心は心の中で自身の発言を否定していた。戦闘中や常時闘気が漏れている状態ならば、鉄心にとってその相手の力量を読み取ることは造作もない。しかし、今の銑治郎のような臨戦態勢に入っていない状態では読み取れることは難しい。鉄心に対しての敵対心が一切ないのだ。

 では何故、鉄心が銑治郎の力量を推し量ることができたか。それは至極簡単なことである。鉄心にだけ読み取れる、人外の気配が銑治郎に混じっていたからだ。

 鉄心はそれを決して言葉にも表情にも表すことなく、銑治郎との対談を続けていく。そこで、銑治郎が恐る恐るといった具合で鉄心に問いかける。

 

 

「ところで、剣聖に会ったことがあるように聞こえましたが……」

「うむ、何度か会ったことがあるわい。黛大成、何せ帯刀許可が出るほどの実力者じゃし。あやつの剣技はワシが知る限り、剣士で最も素早く鋭かった」

「やはり……。それではまだ届きそうにありませぬな」

 

 

 鉄心が剣聖、黛大成についての記憶を呼び起こし話している最中に、銑治郎の表情に一瞬の翳りが現れたのを、鉄心は見逃さなかった。

 

 

「何か、剣聖に対して思うところがあるようじゃのう」

「……隠せませぬな、鉄心殿には」

 

 

 銑治郎は諦めたように苦笑し、ゆっくりと深呼吸をした。次に紡がれるであろう言葉を、鉄心は一言も発する事無く待ち続ける。

 

 

「儂は一度、黛大成に大敗を期しております」

 

 

 鉄心は何も言わない、いや、言えないのだ。銑治郎が必死に過去の辛い記憶を呼び起こして話している最中に、余計な言葉を発してそれを遮るなどは愚の骨頂であると、鉄心は一切の無礼なしに銑治郎の言葉に耳を傾けていた。その言葉一つ一つを噛み締めるように、鉄心は聞くことに徹していた。

 

 

「一度百代や由紀江には話し申したが、儂は本当に酷い負け方をした。それこそ、剣の道を諦めようかと心を砕いたほど。今の今まで握ってきた刀を突然奪われへし折られた様な、怒りよりも先に虚脱感が儂を襲ったことは今でもはっきりと思い出せてしまう。胸にぽっかりと穴があいたような虚しさに支配された儂は、完全に外界から逃げるために山へ。何か新しい道が開けると思って選んだその行為が、まさか再び儂を剣の道へ引き戻すとは思わなんだ。頭を空っぽにして真っ先にとった行動が、まさか素振りとは……。呆れたもので、儂にはやはり剣しかなかったようでして。それで二十年近く山に篭もり続け、今に至るのです。この、奇妙な力を手に入れて――――」

 

 

 銑治郎が自分の右の掌を見つめた。その掌は何かに恐怖しているように小刻みに震えており、その痙攣のような震えは鉄心からも視認することができた。ここが挟みどころかと、鉄心は口を開いた。

 

 

「二年前、何かあったと聞く」

「ああ、そういえば百代には話していたか……。二年前、儂の体に異変が訪れた」

 

 

 銑治郎は徐に浴衣の上半身をはだけさせ、鉄心に“異変”を晒す。それを見た鉄心は思わず目を見開いてしまう。

 銑治郎の上半身にあった傷は異常だった。切り傷だとか銃創だとか縫い目だとか、そういった類のものではない。包帯から解かれた左肩にあった傷は、一度捻れてしまったものを治す際に、あえて一回転させてから治療するという、傷を悪化させたような跡。胸部にはスコップで思いっきり抉られた様な二度と塞がることのないであろう十字傷。そして決定的だったのは、背骨が異様に発達しすぎた結果に生じた布との擦り傷。背中には血が出なくなるほどに擦り切られた傷跡が十から二十は存在していた。

 その光景に、鉄心は思わず吐き気を催してしまうほど。

 

 

「普通の武道家ならば、傷は恥ではなく誇りであると、積み重ねた己の道筋であると言う。剣士は背中の切傷については恥とされるが、他の傷ではとりたてて何も言われぬ。しかし、このような奇っ怪な傷はどうであろうか。まるで餓鬼に飽きるまで弄られ続けた玩具の末路ではないか……。そして何より、儂が一番恐れていることは、この傷の痛みや理由、その全てが儂の記憶にはないんじゃ……!」

 

 

 銑治郎が顔を覆い、頭を掻き毟って震える体を止めようとする。憧れの武道家の一人である鉄心が目の前にいることすら忘れてしまうほどに、銑治郎は恐怖に塗れ我を忘れてしまう醜態を晒す。次第に瞳孔が開き切り、動悸も激しくなってきた。銑治郎は何かに操られている感覚を拭いきれていなかった。その得体の知れない何かを、銑治郎は理解しているようだった。

 

 

「儂の頭の中で囁く、あの声。幻聴や勘違いではなか。明らかに儂以外の意思を持った存在の実感。二年前、儂の体を捏ね繰り回した時から確かにあるこれは……」

「……もうよい」

「何よりも恐るべきは、その何かの正体を明らかにしたいと願いながら、“儂がそれをはっきりと理解している”という矛盾が存在する……! 本能で理解している故、理性はそれを求めない。心の奥底で理解していてもそれをはっきりと理解できない、この辻褄の合わない行為考察が、儂を苦しませる……!」

「もうよい! よさんか馬鹿者!!」

 

 

 銑治郎の瞳がついに何も捕えなくなった瞬間、鉄心は覇気の籠った爆発のような叱責を入れた。その声という振動の波紋は鉄心を中心に球場に広がるのではなく、鉄心の前方に大砲のように圧縮され発射された。メガホンや拡声器といった物に頼らず、鉄心はまっすぐ遠くに貫くような爆音を銑治郎の体にぶつけた。その声は一本の銛となり銑治郎の胴体に打ち込まれ、銑治郎を心の深淵という深海から引き上げる命綱となった。その衝撃は体が爆ぜたようで、銑治郎をこちらに引き戻すには十分な威力だった。

 銑治郎はハッと意識を取り戻す。その激しい衝撃は無防備だったとはいえ、壁を越えた者である銑治郎の体の内側ですら、大きな支障をきたしかねないダメージを齎した。三半規管は振り回されたように揺らぎ、腸は正しくあるべき位置を見失い、血液は飛びのき思わず来た道を逆走しそうになった。その身体の影響に銑治郎は思わず蹲るが、先ほどの銑治郎を襲っていた気味の悪い感覚、繰糸に節々と脳髄を縫い付けられ操作されていた感触は消え去っていた。

 暫くして銑治郎の鼓膜が正しい働きを再開し、外で修行する修行僧たちの活気あふれる声や、意気揚々と土から姿を現した蝉の喧しい鳴き声が銑治郎の世界に戻ってきた。それと同時に、今まで感じる余裕を失っていた五感の全ての感覚を取り戻した。

 それを確認した鉄心は安堵の息を漏らして銑治郎の肩に手を置き、その存在の不確かさが失われたことを実感してから銑治郎に声をかける。

 

 

「自信を持て、という訳ではないが、個を確立せよ。己を再認識せよと、ワシは苦言を呈そう。確かにその傷の原因や痛覚の記憶がないということは辛いであろう。じゃが、それを確認できないことに囚われるでない。数年前のことを思い出せないということは中年でもよくあることじゃ。ましてやワシら老い耄れがそう確かな記憶力を保持することは難しかろう。いっそのこと、仕方がないと割り切ってしまえ」

「し、しかし鉄心殿。そんな軽い考えで生きるなど……」

「軽く生きんでどうするんじゃ戯け。人生絞めっ放しでは早死にする。お主にはゆとりが足りん。山奥でのんびり暮らしておるようじゃが、それ以前に精神的に張り詰めた結果の考えすぎ、というやつじゃ。もう少し妥協というか、緩めどころを見つけよ。上っ面だけ緩んだような生活を送っていても、その深層意識までは緩めきれておれんことが最大の失態じゃ。自分のことに対して厳しくなりすぎじゃ。もっと楽に生きよ」

 

 

 銑治郎がこれで納得しきるとは鉄心も思っていない。ほんの少し、僅かでもその苦しみを緩和できればと思い発した「楽を生きよ」という言葉。勿論、銑治郎の生活を聞くに、何不自由のない悠々自適な生活を謳歌していることは事実なのであろう。しかし、鉄心はもっと気楽に生きろと助言した。“人に頼れ”という意味を暗に伝えようとしていた。

 その言葉をかけられた銑治郎は眉を顰めていた。楽にしようとして力が入る典型的パターンに陥っているのか、若干唸り声も聞こえてくる。

 それを見かねた鉄心は更に言葉をかけようと頭をひねる。

 

 

「あー、なんじゃ。まずは何も考えないで一日を過ごしてみるといい。修行も抜きに何をするでもなく歩き回ってみるといい。一日くらい休んで休暇を与えてやれ」

「……はぁ。しかしですな、逆に何もしないというのは聊か抵抗が……」

「ふむ、では仕事を頼もう。これを優先し明日を過ごすといい」

「仕事……? それをせよと申せられるなら」

 

 

 気楽に何も考えず休めと言いながら仕事を与えるとは、我ながら矛盾した行動をとっていると自身に呆れる鉄心。更に何の抵抗も見せずにそれに応じてしまう銑治郎にも溜め息が出てしまう。年上に従順すぎるのも考え物であるなと、銑治郎の性格に僅かな欠点を見つけた鉄心であった。

 

 

「人探しじゃ。ただ、自分から探し出そうとするでない」

「何とも、奇妙な案件で」

「こやつは忍ばないくせに、見つけようとすると何故か見つからない奇人でな。顔写真だけは渡しておくが、決して意識するな。記憶の片隅に留めておくだけでよい。それで明日を乗り切れ」

 

 

 鉄心は懐から幾つか写真を取り出し、その内の二枚を銑治郎に手渡した。その他の女子の際どい写真は一体何なのか問い詰めたい銑治郎であったが、ここはグッと堪えて渡された写真を見る。

 一枚は、真っ黒な髪の毛を肩まで届く長さを綺麗に整えた人物の写真。着ている服は川神学園の制服だが、正しく着ている義経や由紀江、男子制服と併用している百代や弁慶が身につけていたものとは違う。どこかで見たことのある他校の制服の上から川神学園の冬服を羽織り、下は男子同様の紺色のズボン。周囲に写っている学生が夏服を着用していることもあってか、一目見ただけで異質と思われる。

 もう一枚は、さきほどの少女の髪の毛が真っ白になり、整えるという行為を放棄した結果の暴れ髪を携えた写真。来ている服はまたしても夏には合いそうもない真っ黒なTシャツと、腰に巻きつけた赤と黒のチェックのシャツ。見ているだけで汗が出そうな着込みっぷりであった。

 この二枚の違いは、大きく見れば髪型と服装と分かりやすいが、銑治郎はそれ以外にも相違点を見つけていた。

 それは、表情。前者は少々大人びて見えるものの、普通の学生らしく可愛らしい笑顔を振りまいていた。

 しかし、後者は学生らしさを一切排除したものに見られた。何かを諦めたような、何かに捨てられたような、“自分に近い”と銑治郎に感じさせる危うさを秘めた憂い顔だった。

 

 

「ふむ、興味深い女子(おなご)じゃ。美形、という部類に当てはまる」

「そやつなぁ、ワシも女子と思っとった」

「なんと、かような男子(おのこ)がおるとは」

「じゃろ? ワシもそう思っとった」

「…………? とどのつまり、どちらで?」

「ワシも分からん。何せこやつ、無戸籍者じゃし。就籍届を出そうとせんからのう」

「……出生届も就籍届も出しておらん者がこのような身近にいようとは」

 

 

 銑治郎はその事実に驚き、その無戸籍者の写真を再び見つめる。

 無戸籍者になる者は極めて珍しいが決して有り得ないという訳ではない。基本的には無戸籍者が保護された場合、両親の消息や身元が不明でも戸籍を作ることができる。しかし、希に無戸籍者になる条件を備えた者がいる。今回、鉄心が語るのは出生届を出せない状況下で二週間が過ぎ、戸籍を獲得するための就籍届を出さない事由である。

 

 

「本人に聞けばはぐらかされてしまうし、こやつ天涯孤独じゃしのう」

「無理矢理剥いだりしようとする輩、百代などはやりそうであるが……」

「それも無駄じゃろうな。あやつの生まれたままの姿というものは既になくなっておるからのう。これ以上追求してやるな。あやつの深く深く刻まれた傷を抉り返してしまう」

「承った。この、ええっと、名を何と言うのか」

「慶。天野慶じゃ」

「この天野とやらを、見かけたらご報告するということで」

「うむ、頼むぞ。“国宝の番人”」

 

 

 国宝の番人。その単語に銑治郎の目が見開かれ、思わず刀を手に取りその場から飛び退き、刀をいつでも一息で抜けるような臨戦態勢を取っていた。

 それを見た鉄心は非常に落ち着いたものだった。ここで鉄心を満たしていた感情は、ある人外と自分が体験した構図が再び現れたという懐旧の思い。以前の自分はこのように焦っているように見えたのかと、心の中で苦笑していた。

 

 

「慌てなくてもよい。別に言いふらそうとも思っとらんし、言いふらしたところでどうということもあるまい」

「――――いや、申し訳ない。つい条件反射で。その肩書きは大成に負けてから放棄したと思い込んでおりましたが、いやはやどうも捨てきれなかったようで」

 

 

 銑治郎は鉄心に促されるまま再び自分が座っていた場所に座した。座るまでは従順であったが、刀を置くまでに数分もかかった。

 

 

「しかし、儂の家のことを知っておるとは」

「国宝の番人、大道寺。日本国で生まれた国宝を全て把握し、失われた国宝を採集するようにと、国家が秘密裏に任命した名家。ワシくらい長生きしとったらそれくらいは、のう」

「三大名家の阿呆共と九鬼には知られておっても嬉しくなかったが、鉄心殿に知られているというのは中々誇らしい」

「もっと自信を持たんかい。国宝の番人の名を継いだだけでも偉業じゃというのに」

「儂はもう引退しておりまする。今代で大道寺の分家にでも番人の役割は移行される次第。何せ儂には孫どころか愚息と呼べる者もおらぬもので」

 

 

 銑治郎の表情が今にも消え入りそうな虚しさの漂うものになった。何かを思い出しているのだと、傍から見た鉄心でさえそれを読み取ることができた。その内容は恐らく、恋。それも叶わなかった、儚く散った失恋であると理解できてしまう。

 

 

「似合わぬことで夢想してしまうとは、情けない」

「若い若い、若いのう」

「む、弄らないでいただきたい。これでも悲しんでおるのです」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 銑治郎と暫く武に関することのみならず、近況や生徒たちの様子を談義すること小一時間。銑治郎は「そことなく、気を抜いてみるといたしましょう」と、まだまだ堅苦しい様子で川神院を後にした。残された鉄心は残った茶を全て飲み干し、修行僧に用意させた蕎麦饅頭を用意させて縁側で座っていた。

 

 

「これで三人目じゃよ。朧」

 

 

 月見団子でも載せるような台座である三宝の上に、一つだけポツンと置かれた蕎麦饅頭が哀愁を誘う。

 その饅頭から視線を外し、修行僧が修行に励む声を聞いて鉄心は目を閉じて沈思黙考する。

 先程出会った大道寺銑治郎の傷跡や目を見て、銑治郎が己の苦しみを吐露するのを聞いて、鉄心は一つの確信を持った。

 

 

 大道寺銑治郎は朧の玩具である、と。

 

 

 鉄心が銑治郎を初めて見た時、鉄心の背中には嫌な汗がぶわっと吹き出ていた。その理由は至極簡単。銑治郎の目から、足から、背中から、決して見慣れたくのない気配がこれでもかと溢れ出ていたからだ。

 朧は「自分の気配を強くしておいた」と言った。それを実感するのが今回で三回目とはいえ、その人外の威圧感は鉄心の精神面をゴリゴリと音を立てて削っていった。

 ここで鉄心は三回の経験と、神出鬼没する朧との複数回の遭遇を加味して仮説を打ち立てていく。

 

 

 一つ目の仮説は、朧が付与した才能というものは代償が大きいということ。

 

 

 この仮説を裏付けるものが先程の銑治郎の告白に当たる。自分が強くなったという事実があって、そこに至るまでの経緯を知りたいという意識があって、その意識を無理矢理ねじ伏せる何らかの力が存在する。その強引さは人体から精神面へと幅広く影響を与え、結果、銑治郎のように苦しでしまう。鉄心はそう考えていた。

 あそこまで悪趣味なことを朧がすると考えたくなかった鉄心だったが、目の前でああも不安定な状態を見せられてしまっては認めざるを得なかった。

 

 

 二つ目の仮説は、その才能というものはじわじわと体に溶け込んでいくということ。

 

 

 これは銑治郎のみならず、先に会った二人の玩具にも言えることだった。その二人は元学生であり、鉄心の教え子だった。

 

 

 一人は南浦梓、その両脚から発せられる気配の密度は、三人の中でも群を抜いて異常だったと、鉄心は自信を持って言えた。

 

 

 彼女の脚は元から才能の塊であったと鉄心は記憶していた。鉄心の記憶では、彼女は全力で走る百代と併走できたという記録を残していたとある。そんな才能に溢れた両脚に付けられた朧の才能は、段々と上半身にまで侵食していったのが見られた。これは銑治郎の最も気配の濃かった両目から伝わるように、背骨と足おぼろの気配に侵食されていったのと同様だった。

 

 

 もう一人は天野慶、失われた左肩から形をなすように発せられる朧の気配は、三人の中で最も怪奇で別次元なものだった。

 

 

 慶の才能は川上学園在籍時から鉄心が目をつけていたほどであった。その程度を測り示す際によく用いられた言葉が、“武神の鎮静剤”であった。精神面においても戦闘面においても、天野慶という存在は川神百代にとってとても大きなものだった。川神学園入学時から既に壁を越えていた実力者でありながら成長途中。そして何より、百代より圧倒的に精神的に勝っていたこと。以上の二点から見ても慶は百代にとって、そして川神院にとって欠かせない存在であったと言える。

 そんな慶に授けられた“才能”、それは鉄心でも計り知れないのもだった。何故なら、朧の気配が最も濃く見られた部分は、既に慶の体からは喪失してしまっていたからだ。

 

 

「二年、か。長いようで短い期間じゃったな」

 

 

 鉄心は二年前のことを回顧する。

 

 

 

 

『あはは、はは、学長ぉ…………。私、どうしよぉ……! やめだぐっ、ないよぉ……!!』

 

 

『必ず、華月だけでも救ってみせる。それが私の、贖罪なんです。私がどうなろうと、復讐は成し遂げる』

 

 

『ジジィ、何であの人が、こんな目に遭わなくちゃ、ならないんだ……? 教えてくれよ、理不尽すぎるだろ……?』

 

 

 

 

「二年、か」

 

 

 反芻するように再び二年という言葉を口にした。この二年という歳月は、川神において平穏に過ぎていった訳ではない。二年前に起きた事件で人生が変わってしまった者たちが、ゆっくりと傷を修復していく治療期間であったのだ。

 

 

 二年前、同級生を殺しかけるという罪を被せられたと明言する学生が行方不明となった――――二年後、学生は自分のことを省みずに復讐に心を染めた。

 二年前、どう足掻いても学園生としての自分と家族を取り戻せなかった学生が退学した――――二年後、学生は残された家族と共に強く逞しく生きてきた。

 二年前、目の前で(むご)い惨劇を目にした学生が声を失い、一年の青春と友を同時に失った――――二年後、学生は学園に復帰して失われたものを取り戻そうと努力している。

 二年前、親友と信じてきた友人が狂人に一変した様を目撃しそれを撃退した学生がいた――――二年後、学生は被害者の回復を願って小まめに動いている。

 二年前、人助けを生き甲斐としていた執事が死にかけていた人を助け昏睡状態に陥った――――そして二年後、彼はまだ眠ったままだった。

 

 

「いい加減起きぬと説教じゃぞ?」

 

 

 鉄心はここにいない青年の顔を思いだし、思い立ったように立ち上がって外へ行く準備を始めた。簡単な貴重品を身に付けるだけの準備だったが、非常に悠然とした行動だった。

 先に川神学園の花畑に向かうと、最近転入してきたばかりの文学少女が植物に水を上げていた。そこで鉄心は彼女と協力して見舞い用の花束を作り上げた。自分には何の関係もないはずの少女の真剣振りに、鉄心は心の中で感涙した。

 鉄心が向かうは病院、勇気と覚悟はあるが起きる様子がない若者へ喝を入れに行った。

 

 

 朧の描いた物語に必要な“彼”が起きるのは、もう少し先のお話――――

 

 





 死は人生の終末ではない 生涯の完成である。

 マルティン・ルター

◆◆◆◆◆◆

 銑治郎、梓、慶が朧の用意した玩具であると明言いたしました。これで渕と朧の対談を加えると、六人のうち四人が確定いたしました。あと二人、その内一人は鉄心の知人ということで、近いうち登場するかもしれませんが、その前に銑治郎さんの日常と、渕の秘密について少し触れたいので二話は開きます。

 ここでついでに告知ですが、暫くレポートに追われます。今回遅れてしまったのもそれが原因であります。次回更新は一週間後、ということにさせていただきます。今話も急ピッチで仕上げたので、いつも以上に拙い文章で支離滅裂やもしれません。次回と今回の件を合わせて謝罪いたします。申し訳ありませんでした。

 さて、MNSコンテスト。切り替えていきましょう。
 林冲さん、A‐4において、焔ちゃんと共にヒロイン昇格おめでとうございます。流石女性人気投票の激戦を制してトップ10に入っただけはあります。壁を越えている上に様々な萌え要素を兼ね備えている、発表直後から大人気だっただけはあります。


 今回の順位、最下位ですけど。


 最下位です。最下位一人だけです。総評価Cは他にもいますが、点数評価に変更すると10点(25点中)で、最下位です。因みにブービーは不死川さんちの心さんと板垣さんちの辰子さんです(11点)です。
 なぜこのように人気の高いキャラが低いのか。京は人気も高く初期ヒロインで一番、対するSで爆発した新キャラ林冲は人気は高いが最下位。その違いとは。それはこのMNSコンテストのある一点が原因です。以前もお話しましたが、やはり身長が高いとこのMNSコンテストは不利になってしまうのです。
 ただ、これを覆す公式の一言が。


 “スレンダー”という、公式でグラマーではないと明言していました。


 つまり、林冲さんはMNSコンテストで負けてしまうことは自明の理だったのです。長身スレンダーはMNSコンテストで最も不利な条件ですからね。
 勿論、これはあくまでスタイルの美を競う戦い。スレンダー好みの人にとっては嬉しい情報でしょう。工○静香と細○ふみえのどちらが好きか、スレンダー体型とグラマー体型、どちらが好みかは人次第なのです。今一度、MNSコンテストの本質をと思い記述いたしました。


林冲「私はみんなの順位を守っただけ……ぐすっ」


 予告。Fカップの三人組。
 注意。今回のあとがきと四月馬鹿は一切関係ありません(友人に“中学時代の担任が倒れたと嘘の電話をいただきエイプリルフールと気づく逸民っぷり”)。


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第十九帖 冬川の上は凍れる我なれや――――

――――下に流れて恋ひ渡るらむ


宗岳大頼


 

 大道寺銑治郎の趣味は散歩である。

 かの有名な英雄の生まれ変わりとも言えるクローン、源義経に引き分けにまで持ち込んだ驚異的な剣士である彼も、剣を腰から外してしまえば七十を過ぎたただの老人。老後の楽しみとして将棋を、健康のための日課として散歩を。ごくごく平凡な趣味をほどよく習慣づけているありふれた老体であった。しかし、そのような事実は言われずとも本人が誰よりも理解していた。

 銑治郎は太陽よりも早く起床し、山道を歩いて山頂から日の出の陽光を体に浴びせることでようやく一日を始められる。その後は川神山の麓にひっそりと存在している隠れ家に戻って軽い朝食を済ませる。食事の内容は大体が山菜か山の小川で釣れる山女魚などの魚だった。時折、専属新聞配達係である南浦梓に梅屋の残り物の差し入れを受け取ることもあり、栄養バランスはそこらの学生よりもしっかりしていた。

 朝食を済ませると昼寝か将棋か散歩のどれかを行う。ここは銑治郎の気分次第だが、その後の鍛錬は必ず決まって昼食前の二時間である。朝食と似たような内容の朝食を済ませ、遠出の散歩に乗り出す。川神山を降り多馬川を沿って進み、川神院の門前を通って仲見世通りへ。その後金柳街を折り返し地点として帰宅する。この道筋を銑治郎はこよなく愛しており、かれこれこの散歩は十年以上続けていた。

 家に帰ると食料の調達をしに山へ。魚を採って山菜を毟り、とってきた食材を抱えながら庭の植物の水やりを済ませる。そして夕食の準備に取り掛かる。

 夕食後は軽い鍛錬で済ませる。日中に体を動かしたため夜は頭脳を鍛える。将棋を一人でさしながら思考力と閃きを磨き、文献を読みあさってイメージトレーニング。それが終わったら、食材と一緒に集めてきた木材を燃料として風呂を沸かして入浴。手作りの露天風呂と自然光しかない山ならではの風情が溢れる空間は、銑治郎にとっては最高の癒しの場だった。

 風呂から上がると牛乳を飲みながら軽くストレッチをし、日を跨ぐ前に布団へ潜り込んで就寝し一日を終える。実に平和で穏やかな一日を銑治郎は過ごし始めていた。こんな生活になったのも、銑治郎が自分の剣技に変化が見られた二年前からだった。銑治郎はどうして急に自分が強くなったのかは理解していないが、理解する必要がないと本能的に察しているのか、深く考えることはできなかった。

 そんな生活が銑治郎の体に染み付いてきたある日、午後の散歩の途中に多馬川の土手で寝こけている知り合いを発見した。

 

 

「何をしとるんじゃ弁慶」

「あたっ、んん……? ああ、おじいちゃん」

 

 

 銑治郎は袖に入れていた手を出し、呑気に土手で寝転んでいる少女の額をパシッと叩いて眠気を覚まさせてやった。額を抑えながら目を開けた少女の名は武蔵坊弁慶。銑治郎が引き分けに持ち込んだ義経の家臣である。勿論この少女もクローンであり、銑治郎とは知己の仲だった。

 

 

「こんなところで豪傑の英雄が昼寝なんぞしとるんじゃなか。いや、英雄云々以前に、うら若き乙女が無防備にしよって……」

「なぁに、無防備じゃあないさ。ほら」

 

 

銑治郎の説教を軽く受け流しながら、弁慶は自分が持っている錫杖を体で挟むようにしてみせた。

 

 

「これで下着はまず見られないよ? それに、私に危害を加えようとしているかどうかは寝ていても分かる」

「……ふむ、お主ならそれぐらい出来ても良さそうじゃな。しかし、やはり放置できんわい。どうじゃ弁慶、儂の家を提供しよう。そこでのんびりと昼寝なりなんなりすれば良か」

 

 

 銑治郎は譲歩の案を提示する交渉人のように弁慶に問いかけた。その提案は弁慶にとっては非常に魅力的なものだった。一度だけ銑治郎の隠れ家、川神山の麓の山荘に訪れた弁慶であったが、何度も行きたくなるような引力のようなものがあった。

 しかし、弁慶がそこに行こうとすると、主である義経に幾度となく引き止められてしまう。義経曰く、「あんなに聡明で剽悍(ひょうかん)な人物に迷惑をかけてはいけない」とのこと。弁慶はその命令に近いものがあったため、少しばかり躊躇いというものがあった。

 

 

「いやー、ちょっと主に注意されててね……」

「なんじゃ、そんなことか。それならば問題は無か。義経には儂から言うておこう。儂は人との触れ合いが近頃の楽しみでのう。義経も弁慶も由紀江も来てくれぬので退屈しておったし寂しくて敵わん。時折梓が来るがそれも結構間が空くのでな。どうじゃ、良ければ」

「うーん。折角のご招待とあっては行かないわけには行かないね」

 

 

 嫌々そうな弁慶の言い方ではあったが、どう聞いてもそれが建前であり、自分が行きたいという思いがダダ漏れであった。勿論、そうなると見越しての銑治郎の発言であったのだが。

 

 

「それでは行くかいの。今日は特に暇そうじゃが、他に予定はないのか? 義経はおらんようじゃし」

「義経闘争、私逃走」

「…………不忠勤な……。これならクラウディオ殿に差し出したほうがよかったか?」

「ごめんそれは勘弁して」

冗句(joke)じゃよ」

「……お茶目な言葉使うんだね、おじーちゃん」

「まだまだ現役で行きたいからのう」

 

 

 銑治郎と弁慶の間にどこからともなく笑い声が漏れた。その笑いは親愛の間から生じるものに近似していた。銑治郎と弁慶はただの知人という関係を超え、孫と祖父のような親しき仲になっていた。その関係は長く銑治郎が夢見たもので、銑治郎の心の内は非常に満たされていた。

 さあ行こうかと、銑治郎が弁慶に手を差し出して起き上がらせようとした。その手を掴んだ弁慶はそれを支えとして起き上がろうとしたが、そこで弁慶が思い出したように起き上がるのを途中でやめた。体制的には、弁慶が銑治郎の腕に捕まったまま宙ぶらりんになっている。

 

 

「おじーちゃん。あれも連れて行っていい?」

「……? まあ一人や二人構わんが」

 

 

 弁慶が銑治郎の腕を軸にぶらぶらとしながら少し離れたところにある木陰で寝ている青色の髪の毛の少女を指差した。その少女は、いや、少女と呼ぶには身体の発育が異常であった。遠目で見ただけだが、身長は一八〇センチ近く有り、スタイルも弁慶や武神である百代に負けず劣らず、それこそテレビに出ていてもおかしくないような体型であった。俗世間から一時期離れていた銑治郎でさえ、この女性は所謂“美少女”に位置すると思わせるほどだ。

 それに加え、弁慶は今その少女のことを「あれ」と言った。つまり、そこまで年の差がないと銑治郎は推測した。長幼の序を持論と掲げる彼は年上を、少なくとも五つや六つ離れた人物に対して「あれ」呼ばわりすることは考えられなかったのだ。

 しかし、銑治郎は知らないが、年の差どころか生まれた違いは半年ほどしかないという驚愕の事実があるが、それを知らされるのはもう少し後の話。

 その後、少女、板垣辰子が弁慶やとある少年と共に銑治郎の家に居座るようになったのも、またまた後の話。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「むにゃ……」

「ここに来るまで寝たままとは……。ある種の才能を感じるのう」

「気づいたら隣で寝てたとか、最近の河原じゃ日常茶飯事だよ」

 

 

 銑治郎の家がある川神山の麓に着くまで、弁慶は辰子を背負って、銑治郎は両手が不三がっている弁慶の錫杖を代わりに持っていた。

 家に着いて縁側まで来ると、弁慶は放り投げるように辰子を背中から引き剥がし、自身も縁側にドサッと倒れ込んでしまった。

 

 

「しんどくはないけど面倒だったね」

「うぅぅ、痛いよぉ……」

「おい、辰子が呻いておるが大丈夫か……?」

「大丈夫だよ、ほら」

「うーん、くかー…………」

「睡眠の才能……じゃな。かのアインシュタインも長眠者だったようじゃが、こやつは何か眠れる才能を持っておるのかのう……。そうは見えんが」

 

 

 銑治郎が後頭部を激しく打ち付けたにもかかわらず、少し痛そうにしただけで直ぐに睡眠に戻ってしまった辰子を見て呆れていた。しかし、それを聞いた弁慶が銑治郎に苦言を呈する。

 

 

「おじーちゃん、辰子を甘く見ないほうがいいよ。私だってただの力比べじゃ必ず勝てるとは言えないから」

「――――なんと、これは失礼なことを言ったようじゃな。弁慶との力比べができる女子(おなご)は武神くらいじゃと思っておったが、こんな身近にかような逸材が。小石しかないと思っておった河原に原石が転がっていようとは」

 

 

 銑治郎が両手を合わせて寝ている辰子に軽く頭を下げた。失礼だと思わせる態度をとったりい、無礼だと感じさせる言葉を発したり、自分に非があると認識した場合、銑治郎は例え年下であろうだ年上であろうが頭を下げて非を詫びる。それが大道寺という家で習った当たり前の行動なのだ。

 

 

「この体制から見るとさ、辰子のお尻を「ありがたや、眼福じゃ」って言ってるようにしか見え――――」

「黙っとれ阿呆」

 

 

 弁慶の揶揄するような言葉だったが、改めて辰子を視界に捉えた銑治郎が真っ先に目にしたのは辰子の見事に大きく発達した尻であった。その尻大きさたるや十台とは思えぬもの、色気なぞ感じる前に性欲が湧き上がってしまいそうな魅惑な脂肪の塊。豊満な胸に勝るとも劣らない魅力的な果実のようなヒップに対し、合掌して拝するのは確かに奇妙に映ると、自身を客観的に見て銑治郎は反省した。

 辰子が起きるのを待とうと思ったが、辰子からは一切起きる気配が感じられなかったので、銑治郎は立ち上がって茶の用意を始めた。それを見た弁慶は瞬時に「おつまみ!」と宣ったので、銑治郎は前々から用意してあった簡単な料理を出し、ついでに買ったばかりの肴も盆に乗せて縁側に戻ってきた。それと同時に、銑治郎は縁側に面する部屋の一角から将棋盤と駒、そして駒台を取り出した。

 

 

「将棋は指せるか?」

「人並み程度に強いよー」

「まあ、S組なる秀才揃いの学園生活らしいしの。そこそこはできるじゃろうと思っておったが勘が当たったわい」

「指すのはいいけどその前に、川神水とおつまみをチャージ……」

 

 

 将棋に駒を並べていた銑治郎が顔を上げて弁慶を見ると、弁慶の顔は既に朱に染まっていた。一体何本の川神水を開けたんだと問い詰めたくなったが、今更かと諦めて銑治郎は溜め息を吐いた。

 

 

「飲兵衛じゃな……。酒ではないんじゃがもう酒浸りのようじゃ。ほれ、じゃこ天じゃ」

「文面に起こせば“じゃ”がゲシュタルト崩壊しそうだったね。それにしても、また長宗我部の四国物産展やってたのか……」

「愛媛宇和島の名産じゃからのう、あやつには世話になっておる」

 

 

 将棋の駒を弁慶の分も並べ終えた銑治郎。目上の者に全て並ばせた弁慶はじゃこ天に舌鼓を打ってご満悦であった。

 将棋の王将を使用するのは銑治郎、玉将は弁慶となった。理由は至極簡潔、銑治郎が年上だからである。オリジナルの武蔵坊弁慶まで加味すれば弁慶に王将が渡されるが、「私は弁慶のクローンだけど記憶もないし、戦闘スタイルも若干違う。昔のことは考えないでいいよ。私はクローン以前に、一人の女子なんだから」と、同一視されるのを忌避しているようだった。

 自己を牢として確立している弁慶に感心していた銑治郎は、自陣の歩を五枚手に取り、カラカラと手の中で振り混ぜる。数回振ったところで、銑治郎は将棋盤の中央へ五枚の歩を散らばらせた。表面である“歩”を表示している駒は四枚、裏面である“と”は一枚。

 

 

「先手じゃ。かたじけなか」

「後手だね。それじゃあ……んぐっ、どうぞ」

「盃から口を話しきってから話せ。酒仙め」

 

 

 若干苛立ちを顕にしながら、銑治郎は歩を進めようと歩を掴み一つ前のマスに宛てがった。

 バチィィイン!! と、山麓の静けさを切り裂くような乾いた音が響き渡った。その音の鋭さたるや、数百メートル先にいる人物まで一直線に澄んだ音を届けると思われるほど。

 しかし、その駒音は騒音と感じ取れない奇妙な感覚があった。事実、それほど大きな音が発生したのにも関わらず、未だ睡眠中の辰子の寝顔に不快感は浮かんでいなかった。一度目をギュッと閉じたが、その後の表情は非常に快楽的であった。

 その音を心地よく感じ取っていたのは辰子のみならず、対局者である弁慶もまたその音に心を動かされたようで、目を閉じて駒音の余韻に浸っていた。

 

 

「………………ふぅ。いいね、それじゃあこっちも……?」

 

 

 弁慶が駒音をじっくりと堪能した後、自分も歩を進めようと駒を手に取ったところで動きが止まった。弁慶は手に取った駒を自分の眼前にまで運び、それをまじまじと眺め、何かに気づいたように盤上に目を凝らし、駒台にも目をやった。

 駒は綺麗な虎斑を浮かび上がらせており、角度を変える度にその虎の横縞のような模様が姿を変えていた。将棋盤は木目がまっすぐ平行に走っており歪みはほとんど確認できない美しいもの。駒台は将棋盤より濃い焦げた茶色のような色をしており、駒置きを支える一本足の滑らかさは至高といっても過言ではないだろう。

 

 

「…………おじーちゃん。これ、黄楊(つげ)の駒だよね? それに将棋盤はかなり質のいい(かや)みたいだし、駒台も桂か桑か……。何百万かけたの?」

「ほう、流石は偉人のクローン、九鬼の教育の下で育ったこともあるのじゃろうが、これを見抜けるとは天晴れ。如何にも、黄楊で作製された盛上駒じゃ。将棋盤は榧、駒台は桑。かなりの資金を投じた一品じゃ。合計三百万は固い」

 

 

 腕を組んで胸を張る銑治郎に値段を聞かされ、弁慶は改めて将棋に使われている道具に視線を落とす。将棋の駒は盛上駒、木目の平行線が流麗である榧の将棋盤、将棋盤よりも黒く別の素材である桑の一本足。将棋指しならば一度はこのセットで指してみたいと思わせる魅惑の最高級品に、弁慶は開いた口が塞がらなかった。

 

 

「私、こんな綺麗な駒を使っている素人なんか初めて見たよ。一般人なら飾っておくもんじゃあないの?」

「戯け。使ってやらねば駒が気の毒じゃろう。使ってもらい本望と悟り、磨り減り満悦に浸り、使い切って本懐を遂げる。それが駒として生まれた樹々への最大限の謝辞であろう」

 

 

 弁慶を苛む言葉は、国宝を武器として使用する銑治郎独自の世界観であった。

 動物だろうが植物だろうが鉱物だろうが、鉛筆だろうが手帳だろうが付箋だろうが、剣だろうが槍だろうが銃だろうが、目的を持って生まれたからには、何もせず何もされない観賞用に留まるべきではないと銑治郎は考える。絵画や石像と言った当初から見てもらうことを目的として造られたものは、銑治郎も見てもらうべきだと考える。しかし、恩師からもらったという理由で削ってもいない鉛筆や、たかが国宝に認定されたという理由で博物館に展示しておる日本刀は、壊れるまで使い切って然るべきなのだと考える。

 

 

「“本来の使い方で壊される”、即ち“本懐”こそ全ての存在の正しく進むべき末路。故にこやつらは代々使われて受け継がれてきた。まさか、こやつらで不服ではあるまい?」

「不服なんて、寧ろ恐縮してるよ。私らは武士として質素倹約を重んじられて今まで生きてきたからね。ちょっとした豪遊気分だ」

「そうじゃ。その程度の認識で問題なか。さりとて、畏敬の念は忘れず、豪快に使い壊そうぞ」

「そうだね……遠慮なく!」

 

 

 弁慶はむんずと歩を盤上から掴み上げ、一歩敵陣へ接近させた。その際の駒音もまた、銑治郎に負けず劣らずの大音量。しかし、枕元で大きな音を立てられた辰子は眉を顰めることなく、心地の良さそうな表情を浮かべていた。その寝息もまた安らかで、そよ風と相まって流れるように山の空気に溶けていった。

 弁慶と銑治郎の手が数十手ずつ続いた頃、銑治郎が顎を右手で擦って弁慶を睨みつける。

 

 

「…………おい弁慶」

「なんだいおじーちゃん」

「早う攻めんかい」

「え、私はもっと時間をかけて堅い城壁を組み立てたくて」

「三十分は経っとるわ! 受けは金、攻めは銀という格言があるというのに、なして主は金銀財宝全てを盾に回しとるんじゃ! プロや奨励会でもあるまいて!」

「受動形将棋也」

「だらけの真髄、ここに見たり。見とうなかったが……致し方なか。付き合おうぞ」

 

 

 銑治郎は半ば呆れたように溜め息をつき、首を曲げてゴキゴキと大きな音を鳴らし、攻め手に向けていた駒を自陣に引き戻し始めた。どうやら根比べの持久戦を引き受けたようだ。

 

 

「付き合いいいね、流石人生の大先輩様。大人な対応」

「嘲りおってからに。長幼の序を弁えんか。今回は折れてやったが、次は容赦なく居玉急戦に持ち込む。覚悟せい」

「今回だけだよ、こんな分かりやすい受け将棋は。ちょっとお話したくてさ」

 

 

 そう言って弁慶は玉の護りを堅固なものとした。これ以上固くしてまで長話したいのかと、銑治郎は弁慶の真意を探ろうとした。しかし、弁慶は探られるまでもなく、会話を少しでも長く続けたい理由を自ら吐露した。

 

 

「本当はさ、何度かおじーちゃんちにお邪魔しようとしたんだ。行けなかったけど」

「無礼もなにも考えずに訪ねてくればよかろう」

「いやぁ。私は良かったんだけど、義経がね……」

 

 

 義経という言葉を出しただけで、銑治郎は瞬時に弁慶が言わんとしていることを理解した。ここに来る前にも弁慶が愚痴のように零していたため、その先に言いたいことはすぐに分かった。

 弁慶の主である義経は、二、三度しかあっていない銑治郎にさえも“遠慮がちな性格”と思わせる人物。義経が銑治郎に尊敬の念を分かりやすく抱いているため、その銑治郎の家に単身で訪問しようとしている弁慶を、義経が咎めるように許可しなかったのも容易に想像できてしまう。

 

 

「先程も言うておったのう。頑固な主の命令を遵守しておったところは賞賛に値する」

「ありがと。けど、私も少し言い返したんだ。「おじーちゃんはそんな狭量な人じゃないってこと、義経も知ってるでしょ?」ってさ」

「現に儂はこうして主を招いておる。あやつは過剰に頓着しよる。もう少し周囲の目を見て気を弛緩し――――」

 

 

 義経が心配性であることに同意しようとした銑治郎だったが、その言葉が突然喉から吐き出されることを拒絶し、昨日の鉄心の言葉がフラッシュバックのように銑治郎の脳内で何度も再生され始める。

 

 

 ――――もう少し妥協というか、緩めどころを見つけよ。

 

 

 義経の頑固な態度と、指摘された自身の厳格さが重なり合い、己の愚かさが肺腑に染み、銑治郎は心の中で自嘲する。

 

 

 ――――儂は、狸じゃのう。義経のことなど笑えん。剣においても性格においても、同じ穴の(むじな)、か。

 

 

「……片腹痛か」

「え?」

「暇があれば、義経をここへ招致しよう。互いに反省すべき点は多そうじゃ。全く、孫に近い若造を見て我がふりを直そうと試みるとは……。儂は成長せん。あの頃と、何が変わったのか。失ってばかりじゃ」

 

 

 銑治郎は自陣の守りをさらに堅めたところで、縁側から熱さを凌いでくれる木々へ視線を移した。ざわざわと涼風で枝葉が揺れる度に光の量と角度を調節し、決して同じ木漏れ日を感じさせない自然の豊かさを体に浴びながら、銑治郎は目を細めていた。

 ゾッと、弁慶の背中に悪寒が走った。背中を急速に凍結させられ固まったように骨は軋みをあげ、空恐ろしい感覚に支配された。堪らなくなった弁慶は思わず拳を握りしめ、縁側の床を殴りつけた。しかしそれは壊すための行為ではなく、自身に痛覚を持たせることで自己を確認する荒療治だった。

 

 

「……どうした弁慶。まだ一度も儂らは交戦しておらぬぞ?」

「そんな、茶地なことじゃないよ。自分が今、どんな表情して、どんな気配でいたか、ちゃんと自覚してる?」

 

 

 銑治郎を問責するような声をかけた弁慶は、銑治郎の危うさというものを直感的に感じ取ってしまった。自然に浸ることを、弁慶は当然のように否定はしない。だらけ部部員や昼寝愛好家としての立場からも、日光を浴びて体を温めることを責めはしない。

 弁慶が苛んだのは、銑治郎が自然の中に溶け入りそうな危うさを秘めた表情を浮かべ、気配を大気と同化させるように希薄にしていたことだった。そして何より、目の前にいる自分のことなど初めからいなかったことのように忘れていた事を、銑治郎自身が自覚していなかったことだった。

 

 

「今の感覚を私は知ってるよ。オリジナルの記憶はないけど、それは分かる。“死を覚悟してる敗残兵”の目だ。まさか死にたいなんて、思ってないよね?」

 

 

 その言葉に銑治郎は目を見開いた。驚きのあまり体を萎縮させたせいか、銑治郎の気配も瞳も普段通りのそれに戻っていた。

 そして、銑治郎は弁慶の言葉を噛み締めるように目蓋を閉じて片手で額を抑え、しばらくの間そのままの体制で硬直していた。その間およそ数分、銑治郎は顔を上げると額に当てていた手を後頭部に回し、ガシガシと勢いよく頭を掻き毟った。

 

 

「忸怩たらざるを得ん。まだ二十にも満たぬ小童に、こうまで見透かされるとは」

 

 

 銑治郎は核心を突かれ苦笑いする。

 

 

「死にたい、か。正確には、“死を受け入れていた老兵”の目じゃ」

「……何か、あったの?」

「未来ある若者に話すような内容ではない。それでは納得いかんじゃろうが、儂は一度殺された人間。詳しく語らずとも、これだけで理解はできようぞ」

「…………死者を生き返らせる方法は一つとしてない。つまり、おじーちゃんは一度精神的に、死んでしまったって言いたいの?」

「残念なことに、のう。しかし、儂は後悔しておらん。今こうして、第二の人生の余生をこうまで楽しく過ごせるとは思わなんだ。一度死んだことを、儂は幸運と受け入れておるんじゃよ」

 

 

 

 

 

 

『大道寺。お前の刀には志がない。崇高な理念も高尚な大義もない。軽く薄い、価値のない剣だ。守るべきものも誇るべきものもない剣に、私の剣が負けるはずがない。この勝敗は予見されていた。まだ学園の剣道部の方が重い剣を振れたであろう。分かるか? 自身の愚かさというものが』

 

 

 

 

 

 

「全てを否定され、あるべき姿を見失った」

 

 

 

 

 

 

『…………こうなることは分かっていましたし、貴方も理解していてくれました。本当に、素晴らしい夢を見れました。期間限定とは言え、此方に一人の少女としての喜びを与えてくれて、ありがとうございます。本当に、言葉で表せないくらいに…………。さようなら、です。銑治郎さん』

 

 

 

 

 

 

「求めたものを失ったが故の、大敗だったのかもしれん」

 

 

 

 

 

 

『生きる意味なんて見つけようとするものじゃあないよ、可愛い隠者。生きる意味というのは後付けなんだ。キミが今これからすべきことを、ぼくは見守り尊重しよう。願わくば、キミにぼくを受け入れてほしい。この世界に変革をもたらす、豪放磊落な玩具となって欲しい』

 

 

 

 

 

 

「愛と力を否定され、儂は死んだ。そして、第二の人生を歩み始めた。あの時、くだらない幼稚な白昼夢を真に受けて」

 

 

 銑治郎は茶を啜って一息つき、弁慶にしっかりと向き合った。その瞳は眩い輝きを宿しており、死人だと銑治郎を責めることのできる要因は一つもなくなっていた。

 

 

「儂は生きとるよ。死のうなど思っておらん。ただ、死が怖くないだけじゃ。安心せい。儂は死にゃあせん。お主や義経、百代に由紀江、それにそこの寝腐れも。儂の人生は主らで満たされておる。それを無碍に捨てるなどという愚行は犯さん。それを今、誓おう」

 

 

 銑治郎は弁慶をじっと見つめて、自信を持って己を確立した。自身の汚点とも言える不甲斐のない過去と向き合い、弁慶の苦言で覚醒した。銑治郎は完成型にまた一歩、自らの意思で進んだのだ。

 そして、その確固たる誓約を受けた弁慶は、口に手を当てて少し悩んでいる様子でいた。

 

 

「……ねえ、おじーちゃん」

 

 

 弁慶は悩みに区切りをつけたのか、銑治郎に負けない力強い視線で銑治郎の目を射抜き、将棋盤を倒さん勢いで身を乗り出した。

 

 

 

 

 

 

「おじーちゃんの初恋って、どんなのだったの?」

 

 

 

 

 

 

 ドサッと、銑治郎は胡座をかいたまま後ろへ倒れこんでしまった。数秒間倒れ込んだままだった銑治郎は、顔をひくつかせ拳を握り締め、身体をわなわなと震わせていた。そして勢いよく上半身を起こし、指を突き立て弁慶の額を何度も小突き始める。

 

 

「っ――――! あれだけ! 儂の死について心を砕いておるような態度を見せおって! 実質考えておったのは! 儂の失恋だけか戯けぇ!!」

「あたっ、ちょっ、ごめっ、まっ、あうっ!」

 

 

 総回数五回の刺突を受けた弁慶の額は真っ赤になり、弁慶はそれを冷ますように手でパタパタと額を扇いで風を送っていた。

 

 

「義経の心配性から始まり、儂が鉄心殿に指摘された自身の過ちをようやく理解し、儂からすれば青二才の主に醜態を晒し、過去を恥じておったところに、なんちゅう下らぬ問いを投げかけるんじゃ!」

「だって、お年寄りの恋バナなんて貴重でしょ?」

「よか、教えてやろう。人の恥ずべき過去を掘り下げる愚かさを」

 

 

 そう言って銑治郎は拳を握り締め勢いよく振り下ろし――――盤上に駒を叩きつけた。

 

 

「――――おいおじーちゃん。私言ったよね、長話をしたいって」

「言ったのう。この耳で然と聞き取ったわ」

「だよね。なのに、こんな混戦に持ち込む様な歩を打ち込んでさ。こっちに集中しなきゃ負けちゃうじゃないか」

「能動形将棋也。しばし儂の流れに乗ってもらうぞ」

 

 

 銑治郎は両手を袖入れてにやりと笑い、弁慶が少しでも困った顔を見せたら腹を抱えて笑ってやる準備をしていた。大の大人にあるまじき言動、鉄心が否定した“お堅い銑治郎”とは対照的な行動だった。

 しかし、銑治郎の思惑は外れ、弁慶は笑いをこらえるように手を口に当てていた。

 

 

「だいたい聞きたいこと聞けたし、今日は仕方なく諦めるよ。妥協も弛緩も大事だからね」

「なんじゃ、珍しく気を遣いおって。容赦はせんぞ?」

「おつまみ分はおじーちゃんに応えるよ。誠心誠意をもって、ね」

 

 

 弁慶の言葉に、銑治郎はカッカッカ! と、大きな笑い声を上げて嬉々としていた。その笑顔に、先程のような危うさは見られなかった。

 銑治郎が弁慶に対し挑んだ混戦を、より混沌な物にしようと企み駒を手にとろうとしたが、右手を袖から出した拍子に、袖の奥から一枚の写真がこぼれ落ちてしまった。その写真に銑治郎も弁慶も気づかなかったが、それが床を滑り顔に張り付いた少女は気づかざるを得なかった。

 

 

「むぅぅ……? あ、ソラちゃんだ」

「え、何その写真……わお、美少年」

「む? ああ、そやつは天野慶と言ってな。何でも行方不明らしい」

「へぇ。こんなイケメンだったら目立つと思うけどね」

「隠れることは得意らしくてのう。今もどこで何をしているか見当も――――待て、辰子」

 

 

 辰子の先程の発言に不審な点を見つけた銑治郎は話を中断した。

 

 

「ソラというのは、こやつの渾名じゃろう?」

「そうだよー。そう呼んでねって言われたんだぁ」

「そ、そのソラとやらが、今どこにおるか知っておるのか?」

 

 

 

 

 

 

「私たちの家で居候してるよー?」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「……へっくち!」

「おや、どうしたんだい?」

「風邪か? 可愛いくしゃみだなオイ」

「あはは、誰かが私を恨んでるんですよ、きっと」

「……そ、そこはフツー噂じゃねーの?」

「アンタを恨むやつなんて、私には想像できないけどねぇ」

「少なくとも好かれるタイプなんじゃねえか? アミ姉がこんなにも親しく話してるなんて珍しいしよ」

「それより飯! 腹減った!」

「天、落ち着きな。一応これでも私の友人なんだ」

「それにしても……分からんな。お前男じゃなさそうだな」

「リュウが反応しないし、ソラは女なんじゃねー?」

「それはどうだろうねぇ。ソラは色々と規格外だよ?」

「あはは、性別はお任せします。リュウが私を男と思えば私は男、女と思えば女になりますから」

「掴みどころのない奴だ」

「なぁー、飯まだー?」

「もうすぐ出来ますよー」

 

 

 天野慶。元川神学園所属、現板垣家使用人。

 

 





 恋愛は幸福を殺し、幸福は恋愛を殺す。

 ミゲル・デ・ウナムノ

◆◆◆◆◆◆

 大変、申し訳ございませんでした。一週間と言っておきながら二週間も間を開けてしまいました。新年度ということで身の回りが異常に忙しく、どうしても執筆に時間を割くことが叶いませんでした。そして今後もやはり更新が若干遅れそうです。一週間以内には更新する予定ですが、何分働き先のリーダーが変わって色々と混乱していまして……申し訳ありません。

 銑治郎さんの一日、書きたいことを書きました。これに関して後悔しておりません。反省はしております。お尻を拝むシーン、銑治郎さんごめんなさい。

 MNSコンテスト副産物、各キャラの推定バストカップの最高値はFでした。某ゲームではQとかSカップとか出ているんで感覚が麻痺していますが、現実的には魔乳だとか超乳だとか鬼乳だとか呼ばれるサイズだそうで。それではその規格外な胸の保持者三名をリストアップ。


 川神百代(圧巻の爆乳91センチ。作中最大?)
 黛由紀江(軍師を尻から胸に惹きつけた魔の乳)
 ステイシー(ボンキュボン、米国は格が違った)


 武神は胸も強い。あの黒いビキニで一体何人の舎弟が生まれたことでしょうか。あれはピーチじゃなくメロンですよ。メロン乳なんて通称が付けられた女子アナがいるそうですが……。
 由紀江はあの白い水着はいいものですが露出が足りませんね。アニメ、真剣で私に恋しなさい!! の円盤のパッケージイラストはハートが散りばめられた際どい水着だというのに……。
 ステイシーの水着は刺激が強すぎましたね。どうしても思い出せないという方は小十郎と一緒に興奮するため、イベントモードでタッグマッチトーナメント予選をご覧になってください。あれじゃあ星条旗もはためく事ができませんね。張りっぱなしです。
 それではこの方々のバスト評価。全員揃ってオールSです。京以外は理想より小さいのですが、この方々は余裕でしたね。

 もっとも、その他の評価は悲惨でしたが。


 百代・由紀江・ステイシー(((総評Bか)))
 焔「何? 大友がS評価だと!」
 百代・由紀江・ステイシー「「「!?」」」


 予告。そんなほむほむの解説。
 報告。誕生日一覧製作中。


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第二十帖 ささがにのふるまひしるき夕暮れに――――

――――ひるま過ぐせと言ふがあやなさ


藤式部の丞


 

「よく躱した。素直に賛辞を送ってやる」

 

 

 ドッドッドッドッドッ! と、一人の少年の心臓が素早く大きく鼓動する。緊張、焦燥、少年の心は自分が危険だと認識する余裕がないほど、明確な死を相手に立っていた。瞳孔は開き切り、呼吸も正しく行えていない。循環器官が痙攣を起こしているのではないかと思うほど、体の芯から震え恐怖していた。

 

 

「一撃目は一割、今のは三割の速度だ。素人にはもったいない速さだと思ったが、流石は警戒レベル4の対象、と言ったところか?」

 

 

 少年と対峙している金髪の老執事は首元のクラバットのような赤いネッククロスを調整し、くっくっくと、気分よくこみ上げてくる笑いを鎮めていた。その不敵な笑みも、対象を睨みつける鋭い眼光も、相対する少年の恐怖心を駆り立てる。

 しかし、少年はそれどころでなかった。絶望的な攻撃力を誇る執事が妙に上機嫌であることも、この真っ白な立方体の中のような部屋がどういう意図で作られ利用されているのかも、自分が何故ここに連れてこられたのかも、全てどうでもよかった。

 

 

 少年は生き延びるため戦っていた。

 

 

 少年は他に何も考えていなかった。考えられる余裕がなかった。考える機能が停止していた。考えることを放棄した少年は、今までにないほどに本能に頼り、一種の覚醒を成し遂げていた。

 少年の頬には鋭い刀で斬られたような傷跡があった。履いているジーンズの裾も擦れ切ったように摩耗し脱色され、熱を帯びはためいていた。着ているTシャツは無残にも引き裂かれ、少年の右腕は完全に露出していた。

 そんな状況下で、少年は疲れも痛みも暑さも涼しさも感じ取らず、目の前にいる老執事から発せられる殺気にのみアンテナを立てていた。

 

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」

 

 

 言葉を発するという簡単なことも忘れていた。ただただ短い呼吸を繰り返し、次なる攻撃に備えていた。そんな少年を見て、老執事は少年にではなく、ここを監視している者に向けて声をかける。

 

 

「おいクラウディオ。こいつをどうやって連れてきた」

『貴方みたいに正面から挑むなんて愚直なことをしなかっただけですよ、ヒューム』

「罠でも張ったのか。ふん、姑息な手を。だからお前はいつまで経っても俺に近接戦闘で勝てんのだ」

『何も考えない貴方よりはマシでしょう?』

 

 

 金髪の老執事、ヒューム・ヘルシングは分かりやすく監視者を挑発した。そんな挑発など日常茶飯事なのか、監視者、クラウディオ・ネエロはさらりと受け流し、反撃のように苦言を呈した。

 今のやりとりを見聞きしていたはずの少年は、ヒュームに対して攻撃しようとも逃げようともしなかった。普通の人間であれば、会話に気を取られるなり隙を突こうとするなり、何らかの形で行動する筈だ。しかし、少年はそういった行動を一切取らす、浅い呼吸ばかりを繰り返していた。息を整えるのではなく、緊張感をより高めるような呼吸だった。

 それを監視カメラの映像を移すモニター越しに観察していたクラウディオは、この少年を捉えた時のことを思い出していた。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「伊那渕様」

 

 

 それは約一時間前のこと、黄色いヘッドフォンを首にかけていた少年は、聞き慣れない声でフルネームを呼ばれたために、珍しい日中の散歩途中の足を止めた。珍しくヘッドフォンをしていない時に限って声をかけられるとはついていない、そう思いながら声をかけた人物の顔を確認した。その人物は眼鏡にチェーンをつけており、燕尾服を身に纏っている銀髪の老執事であった。

 少年の記憶の中にこのような風貌の知り合いはいなかったが、どこかで見たことがあるなと、少し頭を悩ませた。そこで最近の出来事を思い出していくと、あっさりとその老執事のことを思い出すことができた。

 

 

 ――――あの喧しい委員長のところの完璧執事さんか。

 

 

 それは半月ほど前のこと、武士道プランの受け皿として宛てがわれた川神学園に、武士道プランの申し子たちと九鬼の関係者が、朝礼を盛大にかき乱して転入してきた。その時に一緒にいた執事だと、渕は確信に至る。

 その九鬼の執事が自分に何用かは知らないが、はっきりと名前を呼ばれることが滅多にない渕は、喜んで会話を続けることにした。

 

 

「何ですか? クラウディオさん」

「おや、私の名をご存知で?」

「あれだけ目立つ登場したら、あの時名乗った人くらい嫌でも覚えてますよ」

 

 

 その言葉に驚いたように目を一瞬見開いたクラウディオ。何故驚いたのかは渕は分からなかったが、ほぼ初対面の人物を覚えていることは少し気味が悪かったかなと、少しだけ自分の中で反省していた。

 実際のところ、クラウディオが驚いたのは、渕がクラウディオを覚えているということではなく、クラウディオが渕のことを覚えていないということだった。クラウディオは川神学園の人間をほぼ全て把握し、朝礼の時に全員の顔を見渡した筈だった。しかし、朝礼の時に目にした覚えはないどころか、朝礼前にも渕のことだけは顔も知らないという事実を改めて突きつけられ、クラウディオは驚きを表情に出してしまったのだ。

 

 

 ――――アイツの隠密性はアタイ以上だ。

 

 

 そこでクラウディオは、今回の作戦の発端とも言える、要注意人物のリストの更新の申し出に来たメイドの言葉を思い出していた。

 

 

 ――――報告通りですね。非常に希薄な気配、どうしても見抜けない本質……。全力で意識を集中させてやっと、というところでしょうか。

 

 

 

 

 ――――元より、あの野良猫から聞いてはいましたが。

 

 

 

 

「……失礼いたしました。それでは早速、本題に移ります。渕様、貴方を捕えよとのオーダーです」

「へっ――――」

 

 

 渕が素っ頓狂な声を上げた瞬間、クラウディオが即座に間合いを詰めて背後に回り込み、渕を一撃で気絶させようと右手を首筋へ叩き込んだ。同時に気も送り込み、最小限の痛覚で意識を奪おうとした。

 

 

「む?」

 

 

 クラウディオの手に感触はなかった。首筋に当てたと確信を持った瞬間、標的が瞬間的にその場から消失したのだ。気配も雲散霧消するという奇妙な現象、クラウディオは渕の気配の残滓を手で払っただけに過ぎなかった。

 クラウディオが標的の渕に逃げられたかと思っていると、渕が数メートル先で何もせずに立っているのを確認できた。恐らく、攻撃されたということに本人はまだ気づいていないのだろう。

 

 

「……やれやれ、板垣の次は九鬼か。騒がしくなったね、俺の平穏」

 

 

 しかし、渕はクラウディオを見失い周囲を見渡しながら、現状を瞬時に把握していた。逃げないのは、自分の意識下にある行動では逃げきれないと理解しているが故。無意識下にある行動力に全てを委ねるというのも危険ではあるが、どちらにしろ、それに頼らねば渕は逃げ切ることなどできないのだから。

 

 

 

 

 

 

 ――――その騒がしさが、キミを次の段階に“飛翔”させるんだ。

 

 

 

 

 

 

「うん――――」

 

 

 その幻聴を最後の記憶とし、渕は意識を集中して全身の力を抜いていた。いつどのような衝撃が渕に襲ってこようが、できる限り被害を最小限に抑えようとした結果の行動だった。

 一方、クラウディオは感心していた。

 

 

 ――――あれが、最後に開花した玩具ですか。

 

 

 クラウディオは渕をこれでもかと観察する。かつて、自分が自称野良猫の人外にされたように、渕という人物を明確に把握しようとする。

 

 

 ――――それでは、あの野良猫のお気に入りの隠された力を暴きましょう。

 

 

 ヒュンッ……と、周囲の空気を見えない何かが切り裂く音が聞こえた。その音は次第に数を増やし、その正体も段々と視認できるようになり、渕もそれを肉眼で一瞬だけ捉えることができた。

 僅かに陽光を反射し、クラウディオの周りを繭のように取り囲む極細の結界。その正体を渕は見ただけで、それが何なのかは理解できなかった。元より武と掛け離れた人間である渕が、一瞬見えただけの武器を把握できる筈がないのだが。

 しかし渕は動かない。自分からは決して動こうとしない。自分の体を動かすのを、本能という“もう一人の自分”に全てを任せた状態で待機する。

 

 

「――――」

 

 

 クラウディオは一言も発することなく、自身の切り札とも言える武器、糸を渕に向けて放った。放たれた糸はまるで生きているようにうねり、渕の両手に絡みつき拘束しようと輪を作る。同時に足、更には胴体にも蜘蛛の巣のような網を仕掛け、動けばすぐに雁字搦めになるような罠を仕掛けた。

 

 

 ――――さて、どう切り抜けますか?

 

 

 クラウディオは本気で拘束しようとしていながら、同時に渕を推し量っていた。楽しみながら任務をこなすのは若干気が引けたが、対象が人ならざる者の一端に触れているのであれば、クラウディオの興味が惹かれてしまうのも仕方のないことであった。

 

 

「――――はっ」

 

 

 クラウディオの糸が触れる寸前、渕の大きな息遣いがクラウディオの耳に届き――――

 

 

「むっ――――?」

 

 

 

 

 

 

 クラウディオの目の前に突如現れた渕が、クラウディオの顎を掌底で打ち抜いていた。

 

 

 

 

 

 

「ば――――」

 

 

 馬鹿な、そう口に出す前にクラウディオに強烈な目眩と吐き気が襲いかかり、クラウディオの声は遮断されて行き場を失い、意味を持たない呻きに変わった。

 クラウディオは無様にも膝をついた。一瞬のこととは言え、僅かに気を抜いたが故の結果。その一瞬の油断は、文字通り瞬き一回の間の出来事であったのだが、渕はその百分の一秒単位の世界を支配したように動いていた。

 そして何より驚くべきことは、渕が驚異的速度で移動し罠を掻い潜ったことではなく、今現在の渕の状況であった。

 

 

「ふっ、ふっ、ふっ!」

 

 

 渕の行動そのものが野生じみていたことだった。完全に無駄な力を抜き切り、標的にしか意識を向けておらず、言語を発することなく荒い息遣いでクラウディオを威圧していた。

 

 

 ――――まだ未完成だった筈……。朧、貴方の予想より早く、“飛翔”を遂げようとしていますよ、この“影法師”は。

 

 

 クラウディオは眼鏡の位置を直し、僅かに残っていた遊び心も切り離し、“壁を越えた者”を対処するように全ての動きを封じようと再び糸を張り巡らせた。その糸は先ほどより網目が細かく、人が抜けられるような穴はどこにもなかった。

 その非常に細かな網目を持ったドームのような糸の包囲網を見ても、渕は一切呼吸や姿勢を崩そうとしなかった。まるで“その罠が見えていないように”、渕はクラウディオだけを見つめていた。

 渕の世界にいるのはクラウディオと自分だけ。彼の世界には音もなく陰りもなく、ただただ真っ白な空間に二人だけが立っていた。

 

 

「ふっ――――!」

「っ――――」

 

 

 渕が動いたのと同時にクラウディオが糸の結界の形を変える。真正面から突進してくるように動いた渕を絡め取るように、独楽に糸を巻きつけるように糸を拗らせる。

 その糸の動きを見たのか見ていないのか、渕は突然動きを止めた。

 

 

「ぬっ?」

 

 

 クラウディオの糸が獲物を失い空回る。その瞬間に束になった糸を掴んだ渕は、それを思い切り引っ張って一つの大きな穴を作る。ギリギリ人が一人通れるくらいの脱出口。渕はそこに向かって走り出し、身を限界まで狭めて穴から抜け出すことに成功した。

 しかし、クラウディオはそう易々と逃がすような間抜けではない。渕の着地予想地点にも罠を仕掛ける。着地と同時に足を縛り付ける、狩猟用のトラップのようなものであった。

 その罠が仕掛けられた場所に渕が着地し、渕の右足が巻き取られ引き上げられた、筈だった。

 

 

 一度だけ浮いた渕はくるりと一回転し、罠があった場所に着地した。

 

 

 クラウディオは目を疑ったのと同時に、その疑いを晴らすような感覚をその手に感じた。確かに罠にかかったと、糸を出している手に確かな負荷がかかった。しかし、その重みが一瞬にして消え、“千切れた糸がクラウディオの下に戻ってきた”のだ。

 

 

 ――――切ったというのですか、私の糸を。

 

 

 クラウディオは驚愕を表情には出さないまま次の作戦に移る。それは糸を直に巻きつけるための近接戦闘。遠隔操作の糸も、クラウディオほどの使い手となればまず回避できないものだが、それが近距離となれば精度も上がり確実に獲物を仕留めることができる。

 クラウディオは瞬間的に渕に詰め寄り、糸を仕込んだ拳の連打を浴びせる。その全てを、渕は紙一重で躱しながらクラウディオに反撃を入れていく。全てを対処しきっているように見えるが、確かに渕はクラウディオの糸に絡め取られていく。背中を一瞬でも見せれば束縛されてしまうと本能的に察知しているのか、クラウディオの目の前で逃走することなく相対していた。彼の人生で初めての殴り合いだった。

 渕を拘束しようと糸を放つクラウディオだったが、彼自身もまた渕の攻撃により身体を蝕まれていた。クラウディオは全身に気を纏い強化し、余すところなく防御力を強化していた。しかし、渕の鋭い拳がクラウディオを苦しめていた。内臓は棍で突かれたように内側に鈍痛を残し、横隔膜は押し上げられ空気を排出されて絶息状態に陥っていた。手加減をしているとは言え、九鬼家従者部隊序列三位を純粋な近接戦闘で圧倒している渕。

 渕は無意識下における攻撃手段を極め始めていた。

 

 

「ぐっ……!」

 

 

 クラウディオが遂に苦痛の声を上げた。執拗に内部破壊を目的とした攻撃ばかりを繰り出す渕は手を休めず、クラウディオの無意識下を狙う。

 一方、従者部隊三番の完璧執事を圧倒しようとしていた渕はクラウディオを見ているようで、クラウディオを見ていなかった。クラウディオの周りに漂う、常人には見えない“何か”を捉えているようだった。

 

 

 ――――朧の言った通り、この少年の本質は回避ではないっ……!

 

 

 クラウディオは渕を拘束しつつそう感じ取る。回避と攻撃を同時にできないという、渕の露呈した弱点を見抜いたクラウディオ。渕に仕掛けている拘束術もあと僅かで終わる。

 

 

 

 

 

 

 ――――無意識下における絶対的支配者、人間が克服することのできない虚を突く武術家、瞬間回復が可愛く思える“多面的異能使い”の、未完成。

 

 

 

 

 

 

 ギリッと、クラウディオの糸が完全に決まった音が渕の“意識”に届いた。

 

 

「――――あ、捕まった……か」

 

 

 両手両足を縛られ、まともに動かすことのできる部位が頭しかない当事者は疲弊しきっていたが、まともにクラウディオとやり合った実感はないようだった。顎を打ち抜いたことも、糸を断ち切ったことも、乱打戦をしたことも、渕の記憶の中には一切残っていない。

 残っているのは、確かな疲労と、身体にかかった負担だけ。クラウディオとの短い戦闘は彼の記憶には残らなかった。

 

 

 ――――これは危険ですね。恐らく、玩具の中で一番性質が悪い。もしこれが彼の“意識下”で可能となれば、武神をも圧倒できるやもしれません。

 

 

「ええ。捕まえました。肉を切らせ、骨を断たれ、内臓を掻き乱されて、ようやくです」

「えっと……? ごめんなさい?」

 

 

 一方的に交戦をおふっかけられ拘束され、渕には非など何もないのに、小首を傾げながら疑問符を浮かべ謝る様がおかしかったのか、クラウディオは痛みを忘れて明るい笑顔を浮かべた。

 

 

「それでは、極東本部までお連れします」

「その前に、親に連絡させてください。九鬼財閥直々の召喚ですから、父さんはもう知ってるかも――――」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「ジェノサイド・チェーンソー!!」

 

 

 クラウディオの追想を断ち切るように、ヒュームの一撃必殺の弧を描くような蹴りが渕目掛けて放たれた。その威力にほとんど加減は感じられない、正真正銘、意識を狩りとる従者部隊零番の一撃。

 それを渕は、上体を逸らし限りなく蹴りの衝突面積を抑えた。それでも渕のTシャツは再び切り裂かれ、左鎖骨にヒュームの蹴りが掠った。その僅かな接触、埃でも払うような最小限の接触で、渕の鎖骨は砕かれた。その勢いは鎖骨だけに収まらず、下半身は残されたまま上半身が吹き飛ばされたため、何度も後転しながら渕は壁に叩きつけられた。

 それを確認したヒュームはネッククロスのズレを修正し、観察者であるクラウディオへ呼びかけた。

 

 

「……おいクラウディオ。何分持った」

『現在、三分と十三秒。なかなかの好成績ですね』

「ふん。赤子の中では持ちこたえた方か。回避だけだが、目を見張るものがあるな」

『…………ヒューム。構えなさい』

 

 

 ヒュームが普段通り、敗北者に自身の評価を擦り付けて、後始末をクラウディオに任せて訓練場を去ろうとしたところを、クラウディオがいつになく真剣な声色でヒュームを制した。何故呼び止められたのか分からないまま、ヒュームは帰ろうとする足を止めて渕が倒れているはずの方向へ体を向ける。

 すると、そこには倒れているでもなく座っているでもなく、両腕をだらんと垂らして中腰で立っている渕の姿があった。その瞳に光は点っておらず、一見気絶しているようにも見えたが、渕の異常な呼吸がそれを否定する。

 

 

「はっ、ふっ、はっ、ふっ、はっ」

 

 

 獣が獲物を狙いを定めた緊迫状態を再現した浅い呼吸を確認したヒュームは、驚きつつも口角を上げ、靴の位置を調整するように爪先を地面で二度トントンと叩く。

 

 

「活きがいい。まだ楽しめるか」

「はっ、ふっ――――」

『……ヒューム、来ますよ』

 

 

 クラウディオの忠告を聞きながらも、ヒュームは余裕の態度を崩さない。自身が確実に格上であるという確固たる自信は揺るぐことなく、異常性に満ち溢れた渕に対して油断を露呈させる。

 

 

 ――――その“油断”、もう見えるだろう? 影法師。彼は溺れているからね。自尊、倨傲、不遜の沼に。

 

 

 その“油断”を晒さないようにと、クラウディオは苦言を呈した。少しでも“慢心”するなと、ヒュームを扱き下ろしたのだ。その“隙”こそ、渕の野生が求める極上の獲物だと、クラウディオは理解していたから。

 

 

 ――――それが活路だ。キミが支配する万物の弱点だ。

 

 

 しかし、ヒュームはその忠告をただの戯言としか捉えない。目の前にいる少年を、単なる回避力の高いだけの素人としか見れなかった。自分が見て感じ、体験したことしか判断材料としていなかったから。

 

 

 ――――もうすぐで完成だ。キミは壁を越える者を凌駕しうる存在に、飛翔するんだ。

 

 

「さあ足掻け。もっと俺を昂ぶらせて――――」

 

 

 

 

 

 

 その言葉が締めくくられる寸前、渕はヒュームの背後に回り込んでいた。

 

 

 

 

 

 

「――――なに?」

「うらぁあああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

 ヒュームが対応できなかった速度で移動した渕に再び異変が起きる。今まで生気が宿っているかさえ危うかった瞳に光が戻り、渕が無意識下から脱して自身の意識の下で体を動かしていた。その証拠に、今まで荒い呼吸しか繰り返していなかった渕の口から、単純な雄叫びが発せられていた。

 ドズッと、ヒュームの背中に鈍く熱い痛みが走る。それと同時に襲いかかる背骨を駆け上がるように脳まで響いた鋭い痛みが、ヒュームの表情を歪めた。

 

 

「ぐぬっ……!?」

 

 

 その歪んだ顔は悲痛に依るものではなく、歓喜に依るものであったようだ。ヒュームの吊り上がっていた口角はさらに上がり、完全なる臨戦態勢に入ったことを意味した。渕の一撃、背骨を穿つ一撃がヒュームの油断を失わせたかのように思えた。緩み、欠如、怠り、ヒュームは自省せずに本気で背後の敵を駆逐せんと意識を集中させる。

 しかし、一度噛み付いた獲物を易々と逃がすほど、今の渕は満ち足りていない。

 

 

「うぁああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

 加えてヒュームに二撃、位置的には肺がある高さを背後から拳で射抜いた渕。ヒュームが振り返りざまに蹴りを打ち込もうと足を上げる寸前、再び背後に回り込み、背骨を沿うように二撃打ち込んだ。その拳は人差し指の関節が飛び出た一本拳に近いもの。渕はそれを“無意識”で行っていた。

 一度打ち込んでは離れ、再び近づき拳を打ち込んでまた離れる。ヒットアンドアウェイではあるが、その速度と距離さが尋常ではなかった。傍から見ればヒュームの周りに半球のドームが渕の残像で描かれ、最長距離は十メートル以上にも達していた。

 一方、渕の決死の連撃を食らっているヒュームのダメージは少ない。瞬間回復はないものの、常人とは掛け離れた回復力と耐久力の持ち主。壁を越えた者のトップクラスに位置しているヒュームが体験したことのある痛みでも、渕の拳の威力は下級だと判断された。しかし、ヒュームは明らかに渕を獲物と見なしている。これは渕がヒュームの中で上級の赤子と認識されたことを意味する。

 それを象徴するかのように、ヒュームは声高々と笑う。

 

 

「はっはっはっはっは! いいぞ小僧! 俺も本気の速度を出そう……着いてこい!!」

 

 

 ヒュームの周囲にパリッと電流の軌跡が青白く光り、鋭い眼光からも雷が迸るように渕の心臓を射抜く。ヒュームの本気の威圧と気合で、渕は無意識に危険を察知し壁まで瞬時に撤退する。

 ヒュームは一歩も動いていない。ただ、本気を出すと宣言しただけ。それだけで渕の精神力は根こそぎ持っていかれてしまった。頼りにしていた無意識下の自分が喪失していくのを実感してしまうほどに、渕の中を虚空が満たしていく。

 

 

「――――うん……! いい感じ……!」

 

 

 その虚空に満ちた状況は渕を表面に引きずり出したが、普段と様子が違った。まるで、“先程までのヒュームとの戦闘全てを意識している”ようだった。クラウディオとの対戦時とは明らかに違う様子。無意識下の行動である筈の渕の攻撃は、意識下によってしっかりと認識されていた。

 渕はこの短い期間で、尋常ではない成長を遂げてしまった。

 しかし、渕が意識無意識のスイッチによって戦闘や回避行動をとることができると知らないヒュームは、この異変にも理解できずただの燃料切れと見なし、“油断”に塗れ鼻で笑う。

 

 

「フン。もう終いか? やはり赤子は赤子か」

「いやぁ、やっぱりやられる時は自分の意識にないと納得いかないのかな。それに、貴方のお陰でレベルアップできたよ。ありがとう金髪のじいさん。どうやらこれは俺の想像以上に、武術家にとっては危険みたいだね」

 

 

 渕がヒュームに感謝の意を表明する。その表情は屈託のない笑顔で眩い輝きを放っていた。心に一片でも曇があれば、それを直視することは叶わないほど。

 

 

「“二回殺す分の精神力”しか残ってないみたいだから、あと一撃……。それで正真正銘燃料切れ。ちょっと欲張って殺しすぎちゃった。それにしても、よくもまあ凡才とか自虐してもんだ。こんな異質な存在で、鍍金だなんて二度と思えない」

「何を言っている」

「自分の無知さに呆れていたんですよ。自分の力量も知らずに一般人だなんて言っていたことが恥ずかしくなったんですよ。けど、無知は克服した」

 

 

 渕は腰を低く落とし、両の力を抜いて前にだらりと垂らす。以前の渕ならばこれをただの威嚇としてしか使わなかっただろう。しかし、今の渕はこれを単なる威嚇として使っていない。威嚇の構えから、戦闘態勢へと昇華していたのだ。

 

 

「これからは放棄することも慢心することなく、全力で相対します」

「能書きはいい。どうやるかは知らんが、さっさと殺してみろ」

「勘違いしないでください。俺が殺すのは人じゃないんですから」

 

 

 渕はさらに体勢を低くし、ヒュームをじっと見据える。

 

 

 

 

 

 

「俺が殺すのは――――」

 

 

 

 

 

 

 ――――それ以上キミの能力について喋る前に、さっさと逝けよ。

 

 

 

 

 

 

 自身の技の本質を口にしようとしたところで、どこからか渕を抑制する不可思議な力が発生した。呼吸は出来るのに、声だけでない。緊張に支配され声を一時的に失ってしまうような症状だったが、渕はそうなってしまったことに大きく驚きはしなかった。

 この力をくれた存在からの命令に近いものだと、渕は戒めのように抑止力を体で受け止めていた。

 声が失われ、遥か高みから逝けよと命令された以上、渕は行動を移さずにはいられなかった。

 肺に溜まりに溜まった汚い空気を大きく吐きだし、その天上の存在に感謝しつつヒュームを見据え、“能力を発動した。”

 

 

「なっ――――」

 

 

 渕の姿がヒュームの視界から消えた。それも忽然と、ヒュームが追いきれない速度で渕は姿を消し――――

 

 

「殺したよ」

 

 

 ヒュームの背後で拳を握りしめ、殺害完遂を宣った。

 

 

「小僧――――っ!」

「そして、も一回!」

 

 

 ズドン!! と、ヒュームの体を突破し空気が貫かれるような音が発生し、ヒュームは思わず胸を抑え苦しみの声を上げる。

 

 

「ぐ、ぬぅ……くくっ」

 

 

 しかし、ヒュームは倒れない、。ダメージもすぐに取り除かれ、いつしかヒュームを満たしているのは苦痛ではなく快楽に変わり、渕がいる方へとゆっくり体を向けた。

 

 

「手を抜いていたとは言え、よく俺に五撃以上の打撃を打ち込んだ。しかし、それだけだったな。まだまだ赤子よ。俺を倒すには、威力の底上げをした上で千撃は必要だろう。さあどうする小僧。まだ続け…………」

 

 

 ヒュームの説教と自画自賛が入り混じった評価が突然停止される。停止した理由は明白。目の前にいる評価対象が、立ったまま気絶していたのだ。

 

 

「…………まあいい。全力を出して燃え尽きるのも若者の特権か。ふん、打たれっぱなしで終わるのは癪だが……逸材を見つけたということで今回は不問にしてやろう」

『攻撃が当たらず拗ねるのはそれくらいにして、渕様をこちらに引き上げてください』

「拗ねてなどいない……ふっ!」

 

 

 ヒュームは気絶した渕の腹部に軽く拳を当てて体を強制的に曲げ、それを肩に担ぎ上げてその場から消えるように退場した。

 その誰もいなくなった空間に、電子機器を介したクラウディオの声が虚しく響き渡る。

 

 

『…………朧。貴方から見て、彼の成長具合はどうですか?』

「予想の範囲内で最高の出来、とだけ言っておくよ」

『そうですか。それにしてもよいのですか? 槿とのお遊戯は』

「よくはないね。今から戻るところだ」

『そうですか。幸運を祈ります』

「祈願対象の残物がぼくだってこと、忘れるなよ?」

 

 

 そう言い残した朧の気配が消えたのをクラウディオは確認し、ヒュームが渕を運び込んだ医務室へ駆け出した。

 

 





 ミネルヴァの梟は暮れ染める黄昏とともに飛翔する。

 ヘーゲル

◆◆◆◆◆◆

 二週間の遅れ、申し訳ありませんでした。
 なんとかまとまった時間を取ろうと東奔西走したのですが……
 ・バイト先の人手不足。
 ・節約のための自炊。
 ・同好会における友人とのオリジナル小説共同作業。
 ・資格試験までの勉強。
 など、やらねばならないことが山積みでして……。GWは少しばかり休みが取れそうなので、そこでコツコツと書きだめることができれば、そう思いながらこのあとがきを書かせていただいております。次回も一週間から二週間以内、ということでご容赦ください。

 渕はもう少し後でヒュームと戦わせる手はずでしたが、予定変更で繰り上げさせてもらいました。そのせいで渕くんが若干強キャラになってしまいました。それでも決定力には欠けるのですが。

 MNSコンテスト。今回は大友焔ちゃん大解剖の巻、でございます。
 身長153センチ、スリーサイズは81・56・80のDカップ。高身長が目立つまじこいではやはり低い印象がありますが、実際女子というものはこれくらいでしょう。
 ここでほむほむの特筆すべき事項を探したのですが、バランスがいいという以外見当たらないものでして……。理想のサイズとの差を比較しましたが、どれもトップ3には入ることができなかったのです。
 ここまでくればお分かりでしょうが、ほむほむが上位に食い込めた理由もまた、低身長であるからなのです。しかし、トップ3の中で最も低身長なのに、頂点に立つことができませんでした。二次元において、低身長であればあるほど、このコンテストは有利に働くのです。
 この敗因は恐らく、鍛えすぎてしまったのでしょうね。ウェストの締まり具合がロリ組みと貧乳組みを除けば一番なので、努力が仇となったパターンです。つまり、ポン・キュキュッ・ポンといった具合でしょう。


焔「武士娘たるもの、常に鍛えなければな!」
京「…………油断できない。めらめら」


 予告。ようやく見つけた湘南の花屋の娘のスリーサイズ。


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第二十一帖 恋しさや思ひ弱るとながむれば――――

――――いとど心をくだく月影


西行


 

「むー……」

 

 

 川神学園二年S組、真っ白で長い髪を整えることもせず、机に突っ伏して唸っている少女がいた。少女の浮き沈みが激しいのは周知の事実であったのだが、特に動くこともせず席についたまま、頭だけをぐらぐらと動かし悩んでいるのは、彼女をよく知る者たちでも何かあったのかと疑ってしまう。そんな周りの目を気にすることなく、少女はただただ唸り続けていた。

 

 

「トーマよ。ユキはどうしたのだ」

 

 

 それを見るに見かねてか、学園内でも異様に目立つ金色のベストを身に纏った、額についたバツ印がトレードマークの少年が、トーマと呼ばれた色黒で眼鏡をかけた少年に問い掛けた。その問いに、色黒の少年は肩を竦め目を瞑った。欧米流と言われるジェスチャーだが、お手上げと言うニュアンスは十分に伝わる。

 

 

「私も聞いてみたんですけどね。どうにも答えてくれません」

「「もう少し待って」とは言われたから、話してくれるのを待つことにしてるんだが……気にするなというのも無理なものでな」

「ジュン」

 

 

 心配性、気配りのできる男性の会話にまた一人少年が参入する。彼はスキンヘッドで手を縦にして体の前で構えていることが多く、初対面では仏門関係の家柄と思われがちだが、実際は色黒の少年同様、医者の息子である。

 

 

「昨日は何ともなかったと思ったんだけどな。今日ちょっと目を離したらこうなってた」

「てっきりお手洗いかと思ったんですが、何かあったようですね。英雄には何か心当たりありませんか?」

「我には何もないな。あずみ!」

「はい!」

 

 

 額についたバツ印がトレードマークの少年、九鬼英雄が腕を組んだまま名を声にあげると、どこからともなく学園には似つかわしくないメイドが音もなく現れた。色黒の少年、葵冬馬や、スキンヘッドの少年、井上準が全く驚いていない辺り、この光景は日常茶飯事のようだ。

 

 

「あずみよ。何かユキのことについて知らないか?」

「申し訳ありません。つい先程まで例の連絡を取っておりまして」

「ああ、あのことか。あまりことを荒立てるなよ? ただの一般人かもしれん。もし本当に我を狙うようなら、酌量の余地はないがな!」

「何? お前狙われてんの? 暗殺?」

「あくまで可能性の話だ。危険人物のことなど大声で話すことではないのだがな!」

 

 

 英雄が秘匿するべきだと宣言しておきながら、明らかに声高々と公言している姿を見て、冬馬はやれやれといった具合に苦笑し、準は大きく溜め息を吐いて呆れていた。

 一方、英雄の側近であるメイド、忍足あずみは目を光らせ教室内を観察していた。英雄が公言していた危険人物を探していたのだ。姿が見えないため、まだ登校していないと考えるが、今回の案件は例外だった。ひょっとすると、教室にいるのに気配を完全に消しているのかもしれない、そう考えられるほど隠密性の高い学生なのだ。

 しかし、どうやら本当にこの教室にはいないようで、あずみは胸を撫で下ろす。注意しない限りいつの間にか教室に居座っていたりするため、あずみは気が抜けないのだ。

 あずみが最大限の警戒で教室を、従者部隊二桁台の上位数人が学園内を調査した結果、対象は未だ登校していないと分かったためか、あずみは僅かに気を緩ませて井上に近寄り耳打ちする。その際の言葉遣いは、英雄には決して見せようとしない彼女の本性が現れたものだった。

 

 

「……おいハゲ。本当にユキはどうしちまったんだ」

「それが本当にわからんのですよ。ほんの十分前まで元気にはしゃいでたってのに。一応ほかの連中にも聞いてみたんだが、自分のことばっかで知らぬ存ぜぬとさ」

「なるほど、このクラスの連中は大抵そうだもんな。まあ、お前らやお節介猟犬とかなら話は別だろうけどよ」

「誰がお節介ですって?」

 

 

 あずみと準がひそひそと英雄に聞こえないように会話をしていると、音もなく背後から現れた眼帯の軍人があずみの肩を掴み、準の後頭部に自身の得物であるトンファーの先端をグリグリと押し付けていた。

 

 

「ちょっ、俺じゃないってマルギッテ! 尋問するみたいに押し付けるのヤメて!!」

「おう猟犬。丁度いいや。お前、ユキがどうしてああなってるか知らねぇか?」

「榊原小雪? ……ふむ、確かに活力がありませんね。普段は有り余っているというのに」

「んで、原因を色々聞きまわってんだと。何か知ってる事ねぇか?」

「残念ながら、つい先程までお嬢様にラブレターを渡そうとしていた身の程知らずの兎を狩ってきたばかりだ。本日榊原小雪に会ったのはたった今だと知りなさい」

「つまり、知らねぇってことだな」

 

 

 軍人、マルギッテはその無配慮な一言に僅かに腹を立てたのか、突き立てていたトンファーを離し、何度も何度も準の頭に振り落としていた。

 

 

「痛っ、痛い! 俺木魚じゃねぇって! やめっ!」

「何やら愉快な光景だな。どうしたあずみ!」

「ロリコンが制裁されているだけでございます!」

「おいこら! どうして俺が老けた巨乳軍人と二×歳メイドに囲まれながらロリコンが理由で裁きを喰らわなきゃドゥエッ!?」

 

 

 その一言はあずみの逆鱗に触れたのか、準は鳩尾にあずみの爪先を立てた鋭い蹴りを喰らい意識を奪われた。加えてマルギッテもトンファーを構え直して準の身体を嬲るように滅多打ちにしていく。

 

 

「フハハハハ! あずみはやんちゃだ!」

「あれをやんちゃで済ませるあたり、英雄は寛大ですね」

 

 

 英雄が声高々に笑い、冬馬が傍観者の立ち位置で悦に浸っており、あずみとマルギッテが準へ制裁し、準は悲鳴を上げていた。

 

 

「…………」

 

 

 そして、そんなコントのような日常に気づきもしなかったように、五人の話題の中心であった少女、榊原小雪は黙って席を立って教室から出て行ってしまった。

 

 

 

 

「「「「「………………」」」」」

 

 

 

 

 その後に訪れた沈黙は、彼らの胸を強く締め付けた。

 

 

「いかんな。どうにも寂寥感を拭えん」

「いつもならここで明るい声が飛んでくるのですがね」

「確かに、少し物足りませんね」

「当たり前と思っていたものがなくなると、こうもポッカリと穴が現れるのか」

「ぐふっ……」

 

 

 五人が虚しさに心を痛めて――約一名、同時に全身の打撲に悶えて――いると、小雪が出て行った扉がガラッと勢いよく開け放たれた。ひょっとして、元気のないのも小雪の演技だったのかと呆れた者もいれば、先程の元気のなさもよくある気まぐれだったのかと安堵した者もいた。

 そして、扉を開けた人物は大きな声を上げる。

 

 

 

 

 

 

「にょっほっほっほ! やはり此方がいないと寂しいじゃろう!?」

 

 

 

 

 

 

「「「「「………………」」」」」

 

 

 五人が待ち望んでいた光景とは何一つ噛み合っていない現状、それを生み出した着物姿の少女の登場に沈黙が生まれた。

 

 

「名家も落ちたものだ」

「ここまで空気が読めないとは、残念です」

「窓から突き落としましょうか☆」

「一度痛い目を見せたほうがいいようですね」

「ロリ特有の無邪気さだったら許せたが……」

「此方が何をしたと言うのじゃー!! 言いたい放題罵りおってぇ!!」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「なるほど……。小雪の様子がのう……。すれ違ったときは無視されただけかと思うたが……」

「眼中になかったみたいですね☆」

 

 

 五人から精神的に人を殺せるような冷酷な視線を一斉に浴び、尚且つ約数分に渡る罵詈雑言の数々に泣き出してしまった不着物姿の少女、不死川心。しかし、小雪の不安定さを聞き無視された理由を理解、加えて自身の多大な自尊心を用いて精神面を普段とほぼ変わらない状態まで持ち直した。まだ煉瓦を積んだだけで接着剤が機能していない精神状態なため、見せかけ虚勢の精神状態なのだが、組み立てただけでも評価に値する。

 

 

「不死川は……今来たばかりだから知らないよな」

「うむ。お前らの方が知っていることが多いじゃろうな」

「じゃあ不死川さんは用無しですね☆」

「仲間外れにするでないわー!!」

 

 

 見せかけの煉瓦塀は一瞬で崩落した。

 いつもならばここで小雪の慰めに思える追い打ちがくるのだが、今日に限ってはそれがなかった。それを実感した不死川はすぐに泣き止み、現状の気持ちの悪さを理解した。

 

 

「確かにこれは、何とも言えぬ……」

「あの無邪気さが、いつのまにか私たちの大事な一部になっていたのですね。編入して半年と経っていないのに、ここまで狂わされるとは……」

「しかし、我らよりも長く一緒にいるトーマや準はその比ではないだろう」

「ええ。もうおかしくなりそうです」

「経を唱えてても落ち着かねえし……ユキィ……」

「僧侶に見えるからその朗唱をやめんか!」

 

 

 小雪一人の話題でSクラスの代表的存在とも言える生徒たちが持ちきりになっていた。それほど、小雪はSクラスのマスコット的存在であり、皆に愛されているのだ。

 

 

「さっきも聞かれたが、榊原がどうしたって? なんかアイツが暗いとこっちも沈んじゃうんだよ」

「任せようにも気になるわね。あの騒がしさ、嫌いじゃなかったのに」

 

 

 すると、我関せずといった立場をとっていたSクラスのメンツが、普段からは想像もできないほど落ち込んだ小雪の様子訝しんでか、一人二人と徐々に口を開いていった。その心痛が伝播していったように、当初は片手で数えられる人数しか参加していなかった会話に、今やクラスの半数以上が参入している。

 数人は自分のことしか見ておらず、普段通り会話などせず勉学に勤しんでいる。しかし、自己本位の体現とも言えるエリート集団の八割以上が、一人の少女の不安定さを、少なからず気がかりに思っている。彼女の保護者的立場についている冬馬や準もこれには驚きながらも、笑顔を浮かべて彼女の人に好かれる明るさを誇らしく思っていた。

 あの時、彼女の心が見捨てられることなく救われたことに、彼らは救いの手を差し伸べた少年に一言では述べ切らない謝辞があった。

 

 

「みんなおはよう!」

 

 

 そんなある種の喧騒の中、遅れて三人の生徒が入室した。

 

 

「んー? 珍しく集会なんか開いてるの?」

「…………暗殺者はいないようだな」

「クローン三人衆のお出ましか。しかし今登校じゃあ、天使と肉塊の境の上に立つ泣き虫少女同様、残念ながら役には立ちそうに……」

「ひぅっ!? み、妙な視線を向けながら気味の悪い形容をするでない!」

 

 

 準の言葉に身を震わせている心は普段通りであったが、入室したばかりのクローン三人衆、源義経、武蔵坊弁慶、那須与一は騒がしさで満ち溢れているSクラスに違和感を覚えた。異常に騒ぎ立て、団結力の欠乏が特徴と言っても過言でないSクラスが一つの議題で協力し合っている。Sクラスの全てがそうではないが、五割参加でも驚き、八割参加で腰を抜かすほど驚愕する。そんな彼らの九割強が、たった一人の少女のために頭を働かせ情報を募り原因を探り、彼女を元気な姿に戻したいと願っているのだ。

 それを見たクローン三人衆は三者三様の反応を見せる。義経は欣喜雀躍して喜び、弁慶はこの光景を川神水の肴とし、与一は呆れて笑いながら集団の会話をただ傍聴していた。表層の態度は違えど、Sクラスの協調性の表れを良しとしていた。

 

 

「井上、マシュマロじゃあダメだったのか?」

「ダメだったな。食べたがあのままだ」

「有効手が早速一つ消えたわね」

 

 

 準の周りに集っている生徒たちは小雪の好物であるマシュマロから切り口を探していた。しかし、彼女の好物を持ってしても、あの沈んだ雰囲気を打ち払うことは叶わなかったと、準はその時のことを思い出して肩を落としていた。

 そのすぐ横では、葵を中心として小雪の趣味から原因を探ろうとしていた。

 

 

「いつもの紙芝居も放置か?」

「ですね。私に預けたままで……ほら、これです」

「葵の手元か……。紙芝居スランプってのは考えられないのか?」

「それはありませんね。その「どじょう成れの果て」は昨日、英雄様に見せてきたばかりの新作ですから」

「うむ。中々に現代日本政治に対する風刺が効いていて愉快だったわ」

「……どんな皮肉が篭っているのか、若干気になるわ」

 

 

 葵が机から取り出した紙芝居の表紙は、「どじょう成れの果て」と泥臭いような配色で大きく書かれており、札束の上で太った土壌が息絶えていた。実にシュールな表紙にSクラスの数人は渋っ面を浮かべていたが、その中身を見たという英雄は内容を回想して笑っていた。

 

 

「予想もつかない新しい要因でしょうか?」

「たった十分弱で何があったのだろう?」

「此方やマルギッテは小雪が沈んだ後しか知らんからのう……。誰か知っている奴はおらんか?」

 

 

 マルギッテと心は、朝早くから学園に来ていた数人を集めて情報をまとめあげようとしていた。義経もそこに参加はしていたが、遅く登校したために小雪の姿すら見ていない義経は力になれないことを悔やんでか、俯いてしゅんとしていた。それを見た弁慶が頬を紅潮させ――川神水で既に出来上がっていたのだが――義経を愛で始める。

 

 

「葵ファミリーで登校した時はいつも通りだったよ」

「そうね。「ウェーイ!」とか、「ハゲー!」とか、普段通りの言動だったわ」

「それがちょっと目を離したら……」

「静かになった、とか思ってたら予想以上に、ね」

 

 

 情報を集めれば集めるほど、教室にいなかった時に何かあったとしか思えなかった。しかもそれはSクラスの人間の仕業ではなく、他クラスの生徒、若しくは教員との接触。現在Sクラスの話し合いに参加している生徒はその直接的原因に関して情報なし。勉強に励む四、五人の生徒はずっと教室にいたと証言があり除外。故に残るのはSクラス外部の出来事であった。

 ある程度の情報が収束され、外部の要因だと確定的になったところで弁慶が口を挟んだ。

 

 

「ねえ葵、小雪が席を外したのって何時頃?」

「そうですね……八時二十分頃でしょうか。今から約二十分前ですので」

「与一、お前その時何か見ただろ」

 

 

 弁慶が与一に問いかける。学園に到着すらしていない者が何かを見たと宣ったところで、そんな証言は有力な情報になりはしないのは至極当然のことだ。しかし、その証人が那須与一であるというだけで信憑性はひっくり返って最高値に到達する。

 

 

「知らねえな」

「お前、それくらいの時間に学園の方角を見て、「あれは……?」とか言ってただろう?」

「例の暗殺者かと思ってな。だが見間違いだった」

 

 

 普段のSクラスならばその話をいつもの妄想癖だと切り捨てるだろうが、今回に限って言えばこの話は二つの理由から注目を浴びていた。一つは、小雪が消えた時間と一致して確認されたことを情報として取り入れようとしているため。これはSクラスの大半の理由であった。

 しかし、約二名だけは別の理由からもその話を無視することはできなかった。それが二つ目の理由、暗殺者の容疑にかけられている生徒の存在にある。現在この学園にその人物はいないと判断されているが、忍者を出し抜く隠密性を侮ることはできない。暗殺未遂容疑者の標的候補とその従者、九鬼英雄と忍足あずみはここにいる誰よりもその話を真剣に捉えていた。

 

 

「見間違えて、本当は何だったんだ」

「学生二人が屋上で会談してたようだった。流石に内容までは分からないがな」

「その二人の容姿くらい、言えるだろ?」

「一人は丁度壁に隠れていて見えなかった。角度的に見えたのは一人だけだが、それは榊原じゃあないぞ」

「その見えた一人ってのは誰?」

 

 

 

 

「直江大和」

 

 

 

 

「直江……? あのずる賢い山猿のことか?」

 

 

 与一の証言に心が食らいつく。元より直江が、というより、基本的に問題児ぞろいのFクラスが嫌いな心にとって、屋上で見たとされる大和の名前が出たということは、心がその証言に抱いていた興味を放棄するには十分な理由だった。

 

 

「どうせそこいらの山猿どもの集会じゃろう。注目するに値せんのう」

「いえ、そうでもありませんよ」

 

 

 心が大和の目撃情報を関係のないことだと切り捨てようとしたのを、冬馬はいつになく真剣な表情で制した。

 

 

「何せ小雪は大和くんに懐いていますしね」

「会ったら飛びかかるレベルだからな。懐かれていると言うか好かれてると言うか」

「直江大和と言えば……近頃調子が良くないようですね」

 

 

 心に対する冬馬の反論を準が裏打ちするように支えたところを補強するように、マルギッテが記憶の中にある大和の近況を口にする。

 

 

「お嬢様曰く、ここ最近上の空で仲間付きあいも良くないらしい。本音を明かすべきファミリーであるはずなのに、直江大和は一人で抱え込んで思い悩んでいるようです。もしそれに小雪が充てられてしまったのならば、あの沈み様も納得できる」

「ふ、ふん。その情報の信憑性は如何程じゃ?」

 

 

 自分の意見が通らず少しばかり反論したくなった心。「一学生の主観では証拠としては弱すぎるわ」とでも言葉を紡いで責め立てようとしたが、黒く染まった耐熱耐久度に定評のある軍御用達の可塑性プラスチックと合成樹脂で固められたトンファーの先端が心の顎にそっと添えられた。静かに音もなく、しかしそのトンファーが向けられるまでの動きを確認できなかった心は恐怖に支配される。

 

 

「く、クリスが言うのじゃから間違いないのう!!」

「それでいい。お嬢様の発言には事実しかないと知りなさい」

「とは言え、これしか有力な情報がないのですから、私がFクラスに行きましょう」

 

 

 心に対して向けられていたトンファーが仕舞われたことを確認した冬馬は、自らFクラスを訪問すると打って出た。

 

 

「他の皆さんはFクラスに行くくらいなら自分のことに時間を使いたいでしょうし、私は他にもFクラスに用事があるので丁度いいです」

「それじゃあ葵くんに任せてもいいかい?」

「頭が腐ってる連中に極力接触したくないわ」

「ですよね」

 

 

 口ではSクラスの選民思想に同意していながらも、冬馬はFクラスのことを高く評価していた。次点であるAクラス、それに次ぐBクラスですらFクラスのもつ底力と魅力には勝てないと一目置いている。

 Sクラスの武道自慢ですら勝てない川神学園トップクラスの数人の武士娘。個性豊かで我が強い面があるがその反面秀でた能力のある才能人。Sクラスも個性が飛び抜けている面があるが、それを打ち消すようなFクラスのイメージ。極めつけは、自身を本気で惚れ込ませた頭脳労働少年の存在。これだけの逸材がいて、冬馬が価値を認めないはずがなかった。

 

 

「若が行くなら俺も行くのが必然だな」

「それでは二人で――――」

「待ていトーマよ! 我も行こう!」

 

 

 冬馬と準が扉に向かおうとしたところで、大きな声で英雄が二人を制止した。

 

 

「英雄よぉ。お前さんこのクラスのボスだろ? 大将はドンと構えて待ってろよ」

「そうもいかぬ! Fクラスには一子殿もいる! 今週の挨拶がまだだからな!」

「今日は月曜日なんだからそう焦らなくてもいいだろ……」

「無理だな! 会いたいと言う心が燃え盛ってしまっている!」

「……止められそうにねえな、こりゃ」

「仕方ありませんね。それでは三人で行くとしましょうか」

 

 

 渋々承諾したといった具合の冬馬と準。それに気づかずただ高笑いしている英雄。この三人でFクラスに向かうため教室の扉を開けようとした寸前、外から先に扉が開けられた。

 扉を開けようとしていた準が目にしたのは、どこの病院から抜け出してきたのかと疑いたくなるような、体中包帯だらけで左腕を三角巾で吊るしていた少年だった。

 

 

「うおっ!?」

「…………ふご」

「な、何だお前!?」

「ふご、ふがふご」

 

 

 必死に答えようとしているのだろうが、口にまで巻かれた包帯のせいでまともに言葉を発せていなかった。それを見た準は驚き、冬馬は好奇な視線を送り、英雄は笑うことをやめた。

 英雄は先頭にいた準を退かし、渕の目の前で腕を組んで威圧をかける。

 

 

「…………?」

「伊那渕だな。何故そのような怪我を負っている」

「それは私がご説明いたします」

 

 

 英雄が渕への尋問を始めようとしたところで、渕の背後から英雄を制する声が聞こえた。

 

 

「クラウディオ? どうした、呼んではおらぬが」

「既に渕様は我々の監視下に置かれました。この包帯も、渕様を見つけ易くするためのものでして」

「なっ――――」

 

 

 あずみは驚きの声を上げた。それは暗殺者と疑われた少年が簡単に捉えられてしまった、ということではなく、クラウディオが従者部隊に何の連絡もなしに独断で動いたということにあった。あずみは腑に落ちなかった。確かに若者重視の方針の今の従者部隊で、若者とそれ以外の従者の中で一種の確執が生まれていることは確かだった。

 加えて最も納得がいかなかったのは、英雄に最も危険性があった話であったのに、英雄に何の連絡も言っていなかったことだった。あずみは不信感と苛立ちを同時に覚える。忠義の塊とも言えるクラウディオが独断専行をとることが、あまりにも異常であったから。

 

 

「何だ、もう解決したのか?」

「はい。昨日ヒュームが仕留めまして」

「ふごっ! ふごっ!」

「あー、なんだ。俺たち席を外したほうがいいか?」

 

 

 状況の掴めない準が提案すると、あずみが準に近寄り耳打ちする。

 

 

「……あの包帯男の目的を洗い出す必要がある。クラウディオが取り調べしてないとも思えないが、多分英雄様は早退するだろう。悪ぃけど、あたいも英雄様について帰る。だからよ……ユキのこと、頼んだぜ」

「……言われなくとも、任せとけ」

 

 

 伝えられるだけの事情を伝え、保護者から聞きたい言葉を聞けたあずみはニカッと笑い、準の肩を軽くポンと叩いた。それだけで多少の意思疎通が取れる。この二人は力関係がはっきりと見える上下の関係だけではなく、本音を互いにぶちまけることのできる意外に仲の良い関係であった。

 準から素早く離れたあずみは口調を戻し、キラキラと目を輝かせ英雄の半歩後ろへ戻った。小雪のことは保護者的立場の葵ファミリーに託し、自身の業務に全霊で打ち込むことのできる心持ちに切り替えたのだ。

 

 

「英雄様、本日の学務ですが……」

「構わん。我に関係する可能性が一マイクロ単位でも存在するのであれば、我が出向かずにいられようかいや! 我が行かずに誰が行く! 行くぞあずみ、人力車の用意をしろ!」

「畏まりました英雄様ぁああああああああああああああああああああああああああ!!」

「ジュン! 一子殿には明日ご挨拶に出向くと伝えておいてくれ! トーマよ! ユキのことは頼んだぞ!」

「あいよ」

「任せてください」

 

 

 英雄は準と冬馬の肩をバシッと勢いよく叩き、恐るべき速度で人力車を昇降口まで引きずり出してきたあずみに向かって颯爽と駆け出していった。それを確認したクラウディオは「お騒がせいたしました」と一言だけ残し、お辞儀をして英雄の後を追いかけていった。

 

 

「それじゃあ、Fクラスに行くか。俺も委員長に今週の挨拶を済ませてないし」

「準はぶれませんね」

 

 

 二人はSクラスを後にし、五人も欠けているSクラスに一人の男が訪れる。

 

 

「集団ボイコット? 悲しいもんだ」

 

 

 Sクラスの担任教師、宇佐美巨人は胃を痛めるのを覚悟した。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「直江ちゃんなら早退しましたよ?」

 

 

 Fクラスに着いて早々、目的の人物は学園からも姿を消していた。Fクラスに小雪がきたという情報も得られなかったため、完全な骨折り損のくたびれもうけ――準は甘粕真与委員長と会話が長続きしているので幸福値上昇――であった。

 

 

「……というか、あまりFクラスに活気が見られませんね」

「それなんですが……。直江ちゃんだけでなく、ワン子ちゃんも今日はお休みなのです」

「英雄がいなくてよかったな。あいつのことだから家に押しかけたりとかしそう」

「明るいワン子ちゃんと抑え役の直江ちゃんがいないので、いつもより寂しく見えてしまうかもしれませんね。ワン子ちゃんも直江ちゃんも、ここ最近悩んでいるようでしたけど……原因も分からず……」

 

 

 しょんぼりと肩を落とし俯いて哀しんでいる真与に、準が跪いて顔を上げてくれと優しく声をかけた。

 

 

「ご安心ください委員長。委員長の笑顔を取り戻すために、不肖、この井上準が東奔西走して原因を突きとめてみせましょう」

「準。ユキのことを忘れてはダメですよ?」

「勿論、ユキのことも並行してすすめるぜ!」

「そういう訳なので、互いに情報を交換したいと思いまして。また何か分かったらご連絡ください。私たちでも何か分かったらお伝え致します」

「……ありがとうございます!」

 

 

 沈んでいたのは自分が何もできないことに悔しがっていたこともあったのだろう。協力者が得られたことに、真与は喜びを体で表現して眩しい笑顔を二人に向けた。

 

 

「ああ…………浄化される…………」

「ほら準、行きますよ――――おや?」

 

 

 真与の純真無垢な笑顔に全身が現れるような気分に陥って動かなくなってしまった準と、その首根っこを掴んでSクラスに戻ろうとした冬馬だったが、冬馬たちにむかって走ってくる一つの人影があった。

 その人物は真っ白な髪を腰まで伸ばし、スカートが捲れても下着が見えないような立ち振る舞いを熟達――時折抜けていることもあり、足を振り上げるとどうしても見えてしまうが――している一人の少女だった。その瞳は先天性の白化により真っ赤に染まっていたが、それよりも熱く赤く、少女の意思が燃え盛っているのが確認できる。

 

 

「ユキ、どこにいたんです?」

「…………屋上だよ……」

「そういえば、屋上に戻っているという選択肢を放棄していましたね」

「おお……心も洗われて…………ん? うおっ!? ユキ、おまっ!」

「準、反応が遅いですよ」

「…………トーマ。僕、早退する!」

「おやおや」

「どうした? やっぱりどこか調子悪いのか?」

 

 

 

 

 

「大和を堕落させてる女を暴くための素行調査なのだ!!」

 

 

 

 





 文学は、人間が堕落するにつれて堕落する。

 ゲーテ

◆◆◆◆◆◆

 お嬢様より先に出演マルギッテさん。クリス本当にごめん、ファミリー女子で唯一スポットライト当てることができなくて。申し訳程度の謝罪終了。
 
 人手不足も次第に解消されてきましたが、なんだかんだで色々と忙しいです。今週来週と土曜日は朝から学務に励んできますので、少し寝る時間とアイマスの時間を割いて執筆いたします。それにしてもA-2の声優、小山力也に千葉繁ってどういうことなのでしょうか。興奮してしまいました。

 MNSコンテスト。恐らくあと二、三回で私の書きたいことが終わってしまいますが、またご要望などあればお気軽にお申し付けください。
 さて、今回は湘南の花屋の娘、鵠沼さくらちゃんでございます。このこのスリーサイズを移し忘れてショックを受けていた頃、某ブログにその詳細の画像が残されていたために続行することができました。ありがとうございます。
 それでは続きをば。なんとさくらちゃん、バストの理想値との差がキャラ中三位にランクイン。二位の義経との差は僅かコンマ一センチ。恐るべし生しらす丼の生み出すボディ……。
 因みに上から85・57・84というスリーサイズで、ウエストが引き締まりすぎていることもあってかバランスは秀でることもなく、25点中20点という評価でA判定でありました。
 原因は前述したとおり、引き締まりすぎていることが挙げられます。ほむほむとおなじ理由です。生しらす丼ってすごい。因みにEカップ。顔を埋めたい。
 さらに無駄知識ですが、ほとんど同じ体型の女性声優さんがおられます。とある落語アニメのお尻役をやられていた方です。私は始め花澤さんと比較していたのですが、何故か全く違う人物とリンク。花澤さんは残念ながら壁……おっと、誰か来たようだ。


 予告。完全に一致。
 


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第二十二帖 我が恋は行方も知らず果ても無し――――

――――逢ふを限りと思ふばかりぞ


凡河内躬恒


 

 平日の午前九時三十分。定時など特殊でない通常の教育機関ならば、現在は一時限目の授業がすでに中間地点を過ぎた時刻。

 そんな時間に三人の生徒が川神駅の前で私服に着替えて打ち合わせをしていた。学生がこの辺をうろうろとしていれば警官の要注意対象なのだが、堂々としていることもあってか声をかけられることはなかった。

 俗に言うところの朝ラッシュの時間帯の終わりを迎えようとしている川神駅だが、休日でもないのになかなかの賑わいを見せていた。観光地付近の巨大な駅ともなると平日でもこうも混雑するものかと、地元のことながら感心している色黒の少年が感嘆の声を漏らす。

 

 

「人生初の大規模サボタージュですね」

 

 

 サボるという何かしらの怠慢を表現する言葉の語源を口にし、改めて自分が学生の一種の憧れのような行動をとっているのだと噛み締めていた。

 

 

「フランス語では、“破壊活動”とも訳せるようですね。本来の起源では」

 

 

 そんな無駄な知識を目を閉じて声に出した少年。その光を遮断した真っ暗な世界に映し出される映像は、自身が行ってきた学生とは思えない行動ばかり。

 真夜中の路地裏で屯している不良たちを話術で掌握し、歯向かおうとする者は友人二名が始末し、この川神の裏に深く遍く広がるネットワークを構築し、その頂点に建つまでの経緯全てが、少年の瞼の裏に浮かび上がる。

 今思えば愚かなことをしたと、憑き物が落ちたように少年は過去の自分を否定する。その否定は自身の否定であり、育ちの否定でもあった。

 親が作り出す汚れた社会に従順に振る舞い、その裏では裏も表もなくす完全な社会破壊を行う。社会の汚さが横行することが世の常と理解できるが、それをただ見過ごしてはいけないと考えてしまうのも当然。その板挟みにあった少年は今までの自分と社会を全て敵に回す、悪のエリートを目指した。いっそのこと、全てを壊してしまえばいいのだと。

 しかし、全ての元凶とも言える親が粛清され、少年は手を汚すことなく自由になった。

 今までの行為全てがなかったことにされるわけではない。契約を交わした者との関係は続き、未だに自身を信仰する不良は存在する。ネットワークは半壊しても、消滅はしなかった。少年のカリスマはあまりにも強大で、性格から性癖まで歪めてしまうほど。

 それを少年は全て受け止め、前に進む。学生らしい自分を取り戻そうと試行錯誤する。

 その結果が破壊活動(サボタージュ)というのは、なんとも皮肉な話である。

 

 

「いざ学生らしく過ごそうとしても、やはり戸惑いますね」

 

 

 普段通りでいいと言われたこともありますが、少年はそう付け加えて自分の掌を見つめる。トレーニングと称された悪事、大きな罪に問われてもおかしくない犯罪にも手を染めた。それでも、「たかが十年そこそこしか生きていない赤子が余計な心配をするな」と言われたことを思い出す。

 

 

「九鬼財閥は呆れるほど愚直で、呆れるほど寛大で、呆れるほど厳しいものですよ」

 

 

 自身を解き放ちつつ粛清しに来た九鬼の従者部隊の実質のトップが、少年の悪事をすべて考慮に入れた上でそう一喝した。九鬼に弱みを握られたということでもなく、やりなおせるやりなおせないということでもなく、何もなかったとされているのとほぼ同義だった。

 恩を感じずにはいられなかった少年は深く感謝し、同じように悪事に手を染めてさせてしまった二人に謝罪し、自身を見つめ直したところで、彼らに出会う。

 

 

 

 

 ――――裏と表、この世はそんな単純じゃあない。キミの父君もまた、所詮小悪党に過ぎなかった。たかが世界の汚点を見つめて絶望したくらいでやり直せないなんて、甘えたことを決して考えるな。この世は汚点なしでは存命できない。汚点を見つめ飛翔する、それが人間に課せられた宿命なのだよ、葵冬馬くん。キミは普段通りでいい。キミは既に、武ではなく知という範疇において、飛翔の一歩手前まで来ているのだから、あとは身を委ねきれるかどうかだ。キミの目に映る世界は、一瞬にして金襴緞子(きんらんどんす)のように輝き、爆ぜる。

 

 

 ――――汚い人間というものは絶対にある。私が“それ”で、アイツらが“それ”だ。この世の普遍的心理として、汚い所業を好む者もいれば押し付ける者もいる。冬馬くんは押し付けられた者だ。好む者ではない。その事実さえ理性でも本能でも分かっていれば、何とかなるものだよ。冬馬くんは九鬼に救われ、自身を見つめ直した。それだけで準備万端だよ。あとは、ほんのちょっとの勇気と曝け出せる心があれば、君が言うところの学生らしくなれるんじゃないかな。

 

 

 

 

 

「言いたいことだけ言って、どこかへ消えてしまいましたが」

 

 

 心の新しい柱には充分な言葉でした、そう冬馬は心の中で呟いて、一緒にサボりを働いた二人に意識を戻した。

 

 

「素行調査は弊社にお任せ!」

「あのロリアニメ実際にやって欲しかったもんだ。似たようなアニメはやっていたがあれは四人組だし」

「準は見てたの?」

「勿論ですとも! 眼鏡が本体じゃないか? と思わせるアニメと一緒に見てた」

「目的は?」

「妹キャラのデレ具合を楽しんでいました!」

 

 

 ――――本当に、こんな日常が普段通りになってくれてよかったです。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「んで、具体的にどうするんだ?」

 

 

 午前九時五十五分。一時限と二時限の間の休憩時間の折り返し時刻。

 川神駅前から移動し地下商店街の喫茶店、準は新規メニューと書いてあった抹茶ケーキに舌鼓を打ちながら計画を立てようとする。小雪は計画も考えもなしに飛び出したのだと確信を持っており、それを放っておけない準と冬馬が追随した形になっているため、今後の行動を決めておくことは重要だと準は考えていた。

 

 

「多馬川上流にいるタチバナっていう人に会いにいくのだ!」

 

 

 そんな保護者的観点から見ていた準からすれば、小雪がメモ帳に何かしらの情報をまとめて行動を計算しているということに喫驚(きっきょう)せざるを得なかった。その驚き具合は、準が加えていたフォークを口からも手からも話して皿の上に落としてしまったことから、信じられないものを見るかの如く驚愕していたのだと窺える。

 

 

「橘…………。元武道四天王の一角ですね。最近調水設備付近に住み着いたと風の噂に聞きましたが」

「わ、若。そんなことより、ユキが計画性を持って行動してるぞ!」

「ええ。喜ばしいことですね」

 

 

 準は小雪の順序立てに驚くことしかできなかったが、冬馬はそれを驚くのではなく微笑ましく思っているのか、自身の子供を見つめる母のように安らかな表情で珈琲を啜っていた。立場からすれば、娘の成長具合にどう対処していいか分からず慌てふためく父親が準で、優しく見守ってあげることが正解だと分かっている母が冬馬。そして、両親を振り回すように成長していく娘が小雪という、幸福な家族の有り様だった。

 

 

「今日は川神中を歩き回るよ!」

「戦線離脱も考えておきましょうかね」

「若ももう少し体力付けようぜ」

「体力はありますよ? 足が弱いんです。腰には自信があるんですが」

「日中から下に走るのは勘弁してくれ」

 

 

 ふふふと、妙に艶やかに笑う冬馬を見て呆れながら、準はくだらないことばかりで塗れた人生を謳歌していた。

 彼もまた、汚い世界に身を投じることとなった人物であり、それを冬馬以上に従順に受け入れざるを得なかった自己犠牲の体現。彼は自分よりも先に友人のことを考えて行動していた補佐役に徹していたこともあり、彼の優秀さは表立つことはなかった。それが幸いしてか、学園でも特に目立つことは――あくまで有能さの話であり、奇人変人といった類では突出して目立っている――なく、警戒もされず――あくまでも危険思想の話であり、男子たちからは人畜無害な少女愛好家と見られているが、女子からは近づくと変態が映ると警戒されている――学生として過ごしてきた。

 彼は腕っ節も強く頭も働き、とある条件下においては能力値が数倍に膨れ上がるという特殊効果を保持していながらも、彼は友人と共に悪事に染まる。

 見捨てることはできなかった、かと言って引き止めるということもできなかった。“友達ならばどこまでも共に行く”。それが彼の中での友というあり方だった。

 そんな生活もある日を境に一変する。九鬼の粛清で親の悪事が秘密裏に処理され、準と冬馬はくだらない親の柵から解放されることとなった。

 

 

 ――――複雑な気分だ。

 

 

 本来ならばお前が止めるべきだったと、九鬼の従者から説教をくらい狼狽したことは昨日のことのように思い出された。罰を受けずに今までどおり学生として過ごせと言われたこともそうだったが、自身が抱いていた友達のあり方を打ち砕かれ、新しい発想を埋め込まれたことに面食らったのだ。

 喜んでいいのかも分からぬ程当惑し彷徨っていた準に、一人の女性が声をかけた。

 

 

 ――――何沈んでるのかな変態さん。いつもみたいにあの子供たちを真剣に見守らないの?

 

 

 変態の橋で小学生の集団下校を眺めていた準に呼びかけた女性もまた、小学生の集団下校を見守っていたという。始めは不審者と思い準を危険視していたが、同族の匂いを感じ取ったと女性は後に語る。

 そんな女性に対し、準はいつもとは何だと問いかけた。一学生が見知らぬ女性に問いかけるような質問ではないことは準も重々承知していた。しかし、自棄に近い状態の準はそうせずにはいられなかったのだ。

 その問いに対し、女性は準に近寄り微笑みかける。

 

 

 ――――私さ、ブラコンに加えてショタコンだったんだよね。

 

 

 などと、女性は準の問いかけに対する答えとは程遠い、自身の趣味嗜好を暴露しだしたのだ。その言葉に準は呆気にとられてしまうが、そんなことはお構いなしにと女性は話を続けていく。

 

 

 ――――こうやって小学生がわいわい騒ぎながら集団で帰宅していく様子なんか堪らないよね。こう、守りたくなるんだよ。あの純真無垢で肌に不純物がないのなんて、天使のようじゃない?

 ――――いや、その理屈はおかしい。

 

 

 その思考に異論があったのか、思わず準は反論を口にしてしまう。

 

 

 ――――天使とは幼女のことだ。決して男の娘や未成熟純情少年のことなどではない。俺はそんな間違った正太郎少年愛好性癖は持たないね。

 ――――あら知らないの? 天使はかの創世記でも八割近く男で描かれることが多いのよ? 幼女なんかが天使に近づこうというのがおこがましいわね。

 ――――分かっていないな。かの徳川家康もロリコンだったんだ。もし家康公がご存命ならば神奈川県を分離させてロリコニアを作ってくれただろうよ。

 ――――ショタカディアの存在を知らないなんて愚かにも程があるわね。プラトンにソクラテス、彼らがショタコンである以上、ショタは哲学。

 

 

 このような自身の嗜好に対する論争が約二時間続き、日が傾き小学生の集団などとうにいなくなってしまった頃、互いに息を切らし喉を枯らし、気づけば握手をしていたという。

 

 

「お前さんの嗜好は理解できないけど、同士だということは分かったぜ」

「あなたの趣味は性的に無理だけど、やはり語り合える仲間のようね」

 

 

 この時偶然通りがかったバイト帰りの風間翔一は、「あれほど清々しい顔をしたスポーツマンのような二人は初めて見た」と語ったという。

 ここで女性は準の顔をじっと見つめて、一言述べる。

 

 

 ――――どう? これでもいつも通りじゃないっていうの?

 

 

 そこで準は、今まで自分が悩んでいたことが頭から完全に忘れられていたことに気づいた。いままで考えていたことが取るに足らないくだらないことだったかのように、脳はそれを無用と判断し記憶の片隅に追いやった。

 理性ではそれを無理やり悩むものとし、本能ではその考察が既に無駄であると判断していた。既に結論は準の中で出ているのだと、いや、考えなくても普遍的な答えが人間としてすでに存在しいたことを、回りくどく女性は仄めかしたのだ。

 

 

 ――――それじゃあ今度会うときには、“いつも”みたいな変態さんでいてね。

 

 

「なあ若、俺っていつも変態か?」

「唐突ですね。普遍的変態ですよ?」

 

 

 数分間黙りこくっていた準が開口一番、自身の変態度を冬馬に問うた。その質問がやけに奇妙だったこともあり冬馬は目を丸くしたが、直ぐに笑顔に戻してその質問に応える。

 

 

「それなら問題ない。堂々と“いつも通り”と胸を張れる」

「……お互い、苦労しましたね。苦労をかけました」

「なぁに、俺は若に着いて行くさ。いつまでもどこまでも。けど、時々道案内をさせてくれ」

「頼りにしていますよ」

 

 

 冬馬と準は笑い合う。冬馬は口を開かず口角を釣り上げるだけであったが、その爽やかさは一般人では表現できない煌びやかなものだった。一方の準はにかっという擬態語が似合いそうな、歯を見せる笑顔で冬馬に向かい合っていた。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「それで私のところへ来た訳か」

 

 

 午前十時十七分。今日の二時限目は人間学だったと思い出し、ヒゲがトレードマークの担任教師の授業をすっぽかしながらも何故か罪悪感の浮かばない三人組が担任のことを忘れきる時刻。

 多馬川の上流にある堤防の手すりに寄りかかっている銀髪の女性に小雪が食いかかる。

 

 

「タチバナ! 大和とどういう関係なのだ!」

「協力関係、というのが一番的を射ている。元より、直江とは敵同士であったしな。今は特に遺恨はないが、そこから恋仲に発展するほど私は盛っていない」

 

 

 銀髪の女性、橘天衣が大和に対し何かしらの感情を抱いているのではないかと危惧していた葵ファミリーだが、どうやらそれは杞憂だったようだ。橘との関係性が負のものでないと分かり、参謀役の冬馬は一つの懸念事項を取り除くことができた。

 そして、二つ目の懸念事項を取り除こうとする。

 

 

「そう言いつつも大和くんの調教を受け……なるほど、フラグですね?」

「ち、調教だかフラグだか知らないが、私は恋愛ごとに向かない体質なんだ。相手を不幸にしてしまうからな。あいつがいなくなってからまた酷く…………。いや、今はいいか。それより、これに関しては私はこれ以上の情報提供はしない」

 

 

 ここまで訪ねに来た葵ファミリーの目的と大和の容態、一子の欠席を聞いた天衣が彼らに突きつけたのは、言葉よりも目で訴えかけてくる明確な拒絶だった。

 

 

「何故ですか?」

「直江の心は壊れかけている。恐らく、私が思っている要因とは別にもう一つ何かを一人で抱え込んでいる。後者に関しては私はどうすることもできないが、前者に関しては私は手助けができる。“だから”、何も語らない」

「おいおい、何言ってんだアンタ。言ってることとやってることが噛み合ってないぜ?」

「これが最善の手段なんだ。直接的理由を話すと真実には到達できない。そういう奴だ、あいつは。百代も同じ手段であいつに到達した」

「…………難しくてよく分からない」

「私も今回ばかりは協力したくても協力できない。騙されたと思って、私の言う通りにしてくれないか?」

 

 

 準と小雪は天衣が言いたいこともやりたいことも何も分かっていない。何故こうまで回りくどく伝わりにくい方法で道を示そうとするのか、単純明快な伝達方法がもっと他にあるだろうと苛立ちを覚えるほどだ。

 しかし、冬馬だけはいつになく真剣な表情で天衣が云わんとしていることを理解しようと頭を働かせていた。こうすることも本来は間違いなのだろうと冬馬は曖昧ながらも理解していた。しかし、天衣から煮え切らない言葉を聞かされるより自分が伝えたほうがいいのだと、先を見据えた行動をとっていた。

 加えて、冬馬はこの気味の悪い会話を理解しようと試みる、本人も無意識に理解している理由があった。それは、その真実というものに一度触れているということと、その真実を弄った存在にも接触しているということだった。

 そのため、小雪や準と違い、冬馬はこの話を信じることができたのだ。

 

 

「一つ、お尋ねしても?」

「何だ?」

「後者の理由に関して一番詳しい人物は?」

「それは…………複数いるが、全員を教えることができない」

 

 

 簡単な質問にも歯切れの悪くなる天衣に、冬馬は逆に気持ちのいい共通点を発見していた。しかし、これを突き止めてしまうことは天衣の意に反してしまう。恐らく天衣は真実しか口にしていない、人心掌握に長けたかつての裏の王はそう判断した。ならば、今回の作戦で自身が捨て駒になる必要があると、冬馬は結論を出す。

 

 

「分かりました。では、大和くんが沈んでしまう前に会っていた人物を教えてください」

「……それならば、問題ないな。むしろそれが正しい道筋だ」

「ん? んん? なあ若、何がどうなっているんだ?」

「これは理解してはいけませんよ。私はもう理解してしまったので、今回の作戦はここで脱落ですね」

「トーマ、帰っちゃうの?」

「いえ。まだ着いて行きますよ。ただ、今回の作戦の最後は……ユキ、貴女一人で迎えることになるはずです。気を引き締めてくださいね」

 

 

 冬馬の言葉もまた、天衣のように不可解な言葉に置き換わってしまった。しかし、参謀である彼の考えには準も小雪も従いやすくなった。冬馬は自身を犠牲にし、小雪と天衣を繋ぐパイプとなることで、作戦を円滑に進めようとしたのだ。

 

 

「潔く自己犠牲を決めたか。男らしいな」

「貴女へのアプローチも上手に決めたいところなのですが」

「なっ――――」

「トーマ、見境無さすぎだよ」

「こればっかりは死んでも治らないだろうから諦めるしかないな」

 

 

 何の躊躇いも恥じらいもなく好意を曝け出した冬馬に戦慄を覚えた天衣。それを見ていつものことだと天衣に説明する準と小雪だったが、積極的すぎる言葉に思わず肌を総立ちさせてしまった天衣に襲い来る気持ちの悪さは払拭されなかった。

 

 

「若。俺たちはこの橘さんが何を言いたいのか理解できそうもないけどよ。若が道を標してくれるんだろ?」

「ええ。私がユキのための道標になります。では橘さん。できるだけ真実に遠い人物を教えてください」

「あ、ああ……。この時間なら……まずは正午に梅屋に行ってみるといい。あの子は驚異的速度で圧迫と衝撃による粉砕骨折を九割回復させ、包帯まみれの体でバイトに行く筈だから」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「へいお待ち! ただのお冷だけどね」

 

 

 午前十二時四十五分。規則的な生活を営んでいるものならば腹の虫が鳴り始めるか、満たされた食欲に代わって睡眠欲が台頭してくる魔性の時刻。

 サラリーマンが八割以上の席を埋め尽くしている梅屋の中に、この時間にいるべきでない若い顔が店員を含め四人も存在していた。そのうちの一人は店員だが、頬には四角く白い湿布に、帽子では隠しきれない包帯。腕にも足にも巻かれた包帯の数が見る人の表情を歪めようとする。しかし、そんなことは大したことのないことのように明るく振舞う店員の笑顔に、客は不思議と癒されながら食事をとることができている。

 そんな店員が私服姿の学生三人にお冷を差し出し、注文を聞こうと笑顔を崩さず待機していた。

 

 

「貴女が、南浦梓さんですね」

 

 

 三人の内の一人、葵冬馬が口を開いた。その内容は注文でも苦情でもなく、店員である筈の梓個人に対する直接的質問だった。その質問に、梓はほんの少し不機嫌になる。

 

 

「……そういう君は誰かな? 業務中の私的会話は余程のことがないと禁止されてるから手短にね」

「直江大和くんについて、お尋ねしたいことが」

「! …………二時まで食事と雑談で時間潰しててくれる? 一時間休憩取れるから、その時にまた、いい?」

「ええ。では後ほど」

「ありがとうね――――ご注文はいかがいたしますか?」

 

 

 大和の話題が出た瞬間に事情を察したのか、貴重な休憩時間を割くと約束し、すぐに労働モードへと梓は切り替わった。これから先の話は一時間以上後と決定されたので、三人は先に食事を摂ることを優先した。

 

 

「では、カレギュウを一つ。並盛りで」

「俺は旨辛ネギたま牛めしつゆだくねぎだく特盛で」

「僕はビビン丼大盛りなのだー」

「畏まりました! 少々お待ちくださいね!」

 

 

 梓は注文を聞くと即座に厨房へ戻る。常人では動けないような速度、粉砕骨折が完治していない足ならば尚更だが、ただのバイトとは思えない機敏さであったのに準と冬馬は感心する。その感心を向ける対象に、小雪は寒心を覚える。

 同属嫌悪に近い拒絶、蛇蝎の如く忌避しなければならないと、小雪の本能が察する。それに呼応してか、家族と友を守るために鍛え上げたしなやかで強靭な脚が疼き振え萎縮してしまう。

 

 

「ユキ?」

 

 

 それに気づいた準が小雪に声をかけた。その呼びかけに小雪は我に返り、何でもないよと返し作り笑いを浮かべる。当然、作り笑顔かどうかを見抜けない準と冬馬ではなく、体調が悪いのかと追求した。

 それでも小雪は何でもないよと言い返す。小雪が抱いていた感情はあまりにも黒く醜い、嫉妬にも近いものであり、殺意にも近い悪意であったから。

 

 

「へい、カレギュウお待ち!」

「ああ、ありがとうござ――――」

 

 

 カレギュウを注文していた冬馬が小雪から店員に意識を戻した瞬間、冬馬は思考を強制的に数秒間停止させられた。

 

 

「ようお前ら。学生らしくおサボりか?」

「どうしたんだ若――――って、んん!?」

「おー、釈迦堂さんだー!」

「な、何をしてるんですか、釈迦堂さん」

 

 

 冬馬たち三人を三者三様の形で驚かせたのは、梅屋の制服がこれっぽっちも似合っていないはずなのに、そこに強引にねじ込まれつつ馴染んでしまっている釈迦堂刑部の真面目な勤務姿勢であった。

 

 

「何って、真面目に働いてるに決まってんだろ。お前ら知らなかったのか?」

「天職を見つけたと言われただけで梅屋と推測できませんよ。それにもう探すなと言ったのは貴方自身でしょう」

「そうだったそうだった。まあ見つかっちまったもんはしょうがねぇ。誰一人として豚丼の良さに気づかなかったみたいだが、まあゆっくり食っていけや。ちょっとばかし、話したいこともあるから――――」

 

 

 釈迦堂が何故か置いてあった折りたたみの椅子を広げ、カウンターを挟んで文字通り腰を据えて冬馬たちと語らおうとした瞬間、スパァーン! と乾いた音が店内に響き渡った。

 

 

「サボってないで味噌汁出しなさい! 何で私より年上とは言え新人が腰を下ろして堂々とサボるの!」

「いってぇ……。そう無闇矢鱈にハリセン使うなよ。怒ると皺が増えるぜ?」

「殴られ足りないんですか……?」

「はいはい。おうお前らちょっと待ってろ。梓と同じ時間に休憩取るからよ」

「どこが真面目なのか疑いたくなるな……」

 

 

 味噌汁を三杯お椀になみなみと満たしたことで再び頭を叩かれた刑部は、梓の目を盗みかつての雇い主であった冬馬たちとの会話を始めたが、ものの十秒で見つかり頭を三度叩かれ話は中断させられてしまった。

 全ては午後二時、新人社員と熟年アルバイターの休憩時間まで持ち越されることとなった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 真っ暗な部屋。布団の中で一人の少女が目を瞑って身を縮こまらせていた。決して、ただ働かず引き籠もり、惰眠を貪って微睡みの中に身を投じている訳ではない。今日と明日を跨ぐ時刻に決行されるある計画のため、体を休め睡眠を取ろうと努力していたのだった。

 少女は極めて健康体であり、深夜二時や三時といった時刻には既に深い深い夢の中に沈んでいるのが少女の“いつも通り”であった。過剰だと思われる程のトレーニングの披露を癒すため、加えて早朝からの新聞配達のアルバイトのために早寝し、学生とは思えない程の時刻に少女は起床する。そのために睡眠を今のうちに取っておこうと考えた結果の行動だった。

 少女は欠席という扱いだったが、その内訳が仮病などの単なるずる休みでもなく、病気で欠席したなどの体調に関するものでもなかった。その内容は公休扱い、学園という教育機関が認可した休みで、学長の許可もある正当なものだった。

 

 

 何を隠そう、休めと指示を出した人物が、少女の通う学園の学長であり祖父であったからだ。

 

 

 学長は少女の担任教師にも連絡を入れ、表面上は体調不良による欠席にし、記録上は出席日数にも含めない休みだと認可した。少女は休みを取る必要があったのだ。小雪たちが至ろうとしている真実に、少女は行き着く必要があったのだ。少女の祖父が権力を乱用してまで少女を向かわせる程に。

 現在時刻は十二時五十五分。本来ならば少女が昼食を摂り終わり、授業が始まることに気が滅入っている時刻。少女は必死に睡眠を取ろうと努力し、苦しみながら布団の中で蹲っていた。

 

 

 少女はまだ昼食を食べていなかった。

 

 

 「お腹減ったよぉ……」

 

 

 すぐ寝るから大丈夫と思い、少女は昼食を断ったのだが、それが見事に仇となった状態だった。けたたましく少女のお腹はぐぅぐぅ鳴り、胃や腸が消化するものをよこせと本体である少女に催促していた。そのせいで胃は妙に熱く、空腹であることが増長させられてしまう。あまりの空腹に少女は思わず涙目になっていた。その少女の様子は、周囲にいる人間が自分の弁当を差し出したいと思ってしまうほど哀れだった。

 

 

 

 

 

 ――――情けないねぇ。

 

 

 

 

 

 ついに幻聴まで聞こえ始めたか、そう少女が思ったその時、ドサドサッ! と、自分の枕元に何やら複数の塊が落下する音が聞こえた。その音に驚いた少女は飛び起き、枕元の落下音の正体を確かめた。少女の枕元に落ちてきたもの、それは一つ一つ丁寧に包まれた饅頭、それも一つや二つではなく大量にあった。文字通り山になる程の饅頭の量に、口を開けたまま閉じることもせず唖然としている少女。加えて、ペットボトルのお茶も三本横に添えられていた。

 

 

「……サンタクロース?」

 

 

 南半球ならばその発言に何ら問題はなかったが、北半球の夏ではサンタは準備期間であり、少女の答えは見当違い甚だしい。しかし、そう思って自身を誤魔化さなければ納得のしようのない現象が起きてしまったのだ。混乱するのも無理はない。

 

 

「……食べよう。きっと川神院の誰かの悪戯よ、そうに違いないわ」

 

 

 少女はそう自身を無理やり得心行かせ、数十個はあるであろう饅頭の山に感謝の意を込めて手を合わせ、包を開こうとした――――その手がピタリと止まる。よくその饅頭たちを見ると、蕎麦饅頭と柚子饅頭と薯蕷(じょうよ)饅頭の三種類しかなかった。この饅頭たちは、少女の新しい師匠が買ってくれた、一緒に食べるはずだったものと同じだった。

 

 

 ――――そう言えば、一緒に食べられなかったわ。

 

 

 ――――饅頭も、グシャグシャになっちゃったし。

 

 

 甘ったるいはずの餡子が少ししょっぱい、そう感じた少女が涙を流していると気づくまで

十秒以上の時間を要した。

 

 

 

 

 

 ――――川神百代と天野慶の仲違いは、やはり聞くのと見るのでは衝撃が違ったか。

 

 

 ――――純真故に、姉の人を傷つける姿は少々辛いものだったようだね。

 

 

 ――――頑張れ川神一子くん。ぼくの玩具を失望させるなよ?

 

 

 





 単純であることは、究極の洗練である。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ

 ◆◆◆◆◆◆

 この小説は、救われなかった者が救われた世界のお話です。それは小雪に限らず、冬馬も準も、原作がこんな心情かどうかは分かりませんが、ただ何もなく解放されたということに喜々となるほど、彼らは単純じゃないと思うのです。だからこそ思い悩むというか、無駄に考え込んでしまうのではないかと、そう思い書いた今回でございます。当然の如く、書かれていないということは補完するべき点なので、そこは様々な考察があるでしょう。一人の未熟者の粗末な妄想と思ってください。

 MNSコンテストいよいよ大詰め。そろそろ明確に比較してしまえばいいのではないかと思い立った今回でございます。ここでようやくまともな比較を行います。比較は完全なるスリーサイズの一致、でございます。理想体型だと単に身長が同じ、ということなので、今回はただのデータ比較ですので、別にMNSコンテストの表を用いる必要はないのですが、番外編ということで。
 流石に一緒はいないだろう。そう思っていた時期が私にもありました。

 いました。

 綺麗に同じ数字が並んでいたので、打ち間違いかと疑い再び公式サイトに向かいチェックし、ビジュアルファンブックを二度見しました。
 それでも完全に一致していました。それではその完全に一致のお二人、この方々です。



 葉桜清楚&楊志(158センチ、82・57・81)


 身長まで一緒とは、正直驚きました。こういうのは絶対にかぶらないものだと思っていたものですから、驚きです。流石にこんなに美少女がいればかぶるのも仕方がないのかもしれません。評価も20点と高評価でしたし。
 他にも色々一致があって面白かったです。小島先生身長が高い分バストが大きかったですが、そのほかは清楚ちゃん達と一緒でしたし。
 これに際して度数分布表とか標準偏差とか出し忘れていたので、またこのMNSコンテストの新しい幅が見つかりました、画像が載せられると嬉しいのですが。


 予告。辻堂さんのコンテストロード(仮)。
 報告。今後も一週間から二週間で更新させていただきます。


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第二十三帖 独り寝のわびしきままに起きゐつつ――――

――――月をあはれと忌みぞかねつる


作者不詳


 

「なるほど、橘さんが……。ふわぁ、豚丼ウマー」

「元四天王の嬢ちゃんかい。あいつも苦労性だ。いやぁ、働いた後の豚丼はサイッコーだねぇ」

 

 

 午後二時。食欲に代わった睡眠欲が真昼の陽気によって増長させられる時刻。

 約束通り、梓は冬馬たちのために休憩時間兼昼食時間という貴重な休息時間を割いて三人の話を聞いていた。更には、しばらく連絡を取り合っていなかったということもあってか、刑部もその四人の話し合いに参加していた。その際、梓と刑部は豚丼にとろろをかけたオリジナル丼を豪快に食らっていた。あまりにも美味しそうに賄いを食べる二人の姿を見て、先程食事を終えたばかりの三人の胃袋が勢いよく消化を始め、俗に言うところの別腹を作り出そうと精勤する。

 その魅惑の食べ方で丼を半分程度食べ終わったところで、聞きに徹していた梓が自身の考えと情報を提供する。

 

 

「モモちゃんが私たちに辿り着いたのと同じ方法で、か。それなら何とかなるかもね。それにしても、モモちゃんってば手加減してくれないんだから! お陰で全治一週間だよ!?」

「三センチ分の骨がさらっさらの粉末になったっつーのに、一生治らねえレベルだぜ?」

「え、骨折って自然治癒するもんじゃないんですか?」

「程度によるだろ。まあ、この川神にゃ程度を無視した例外が複数いるから、そこんトコ麻痺しててもしゃーねーか」

 

 

 恐るべき速度で脱線した話は人外的な会話へと発展し、冬馬たち三人を引き離し突き落としてしまった。特にその三人のうち二人は医者の息子であり、一般学生よりは遥かに医学に通暁しているため、その話が如何に奇妙奇天烈なものかが分かってしまう。

 ふと、三人がついて行けていないのを察した梓は我に返り、ゴホンと一つ咳払いして話を無理やり戻そうとする。

 

 

「ごめんごめん。私の脚の話なんかどうだっていいよね。えーっとそれで、大和くんのことだったね。私が教えられるのはどこまでなんだろう……。そうだね……大和くんは私とまっつんの仲介者だったんだ」

「まっつん?」

「ああごめん。松永燕ちゃんね。こないだニックネームつけたばかりなんだ。ほんとはスワローから取ってローちゃんだとか、松永だからダンジョーだとか考えたんだけど、どれもこれもあんまり印象が良くないからまっつんに――――あー、ごめんよ、また話が逸れてしまって……。それでだね、君たちが辿り着こうとしている真実は、行方不明なんだ」

 

 

 行方不明、その単語は小雪に疑問を持たせ、準に驚愕を与え、冬馬に納得を送った。その様子を肴とするかのように、刑部は勢いよく食事を再開する。

 

 

「だからね。その真実に至るためには、それを求めようとしちゃいけない。そこにしか至れないとなるまで、我慢が必要なんだよ」

「……よく分からない。はっきり言って」

 

 

 決して真実の具体性を口にしようとせず、天衣と同じように持って回った言い方しかしない梓に、小雪は苛立ちを覚えそれをぶつけた。初対面の人物相手には非常に無礼な行為だったが、小雪は躊躇う様子を見せなかった。

 その失礼な態度を正そうと保護者的立場である準は宥めようとしたが、表面に出さないだけで準も同様に気を揉んでいたためか、声に出して強く注意することはなかった。

 そんな二人とは対照的に、一切の憤りを感じていない冬馬は梓へ質問を投げかける。

 

 

「次に向かえばいいのは松永先輩の下ですか?」

「そう……だね。難しい話は苦手なんだけども……多分大丈夫。モモちゃんと違って私たちは協力できるからね。結構早く真実に届くんじゃあ――――」

 

 

 

 

 

「――――いい加減にしろ!!」

 

 

 

 

 

 その言葉が締めくくられる前に、机を叩き身を乗り出して梓に向けて蹴りを放とうとした小雪――――を手で無理やり抑え、毛髪が見えないほど剃り落とされたまっさらな頭に血管を浮かびあげた準が梓の胸倉を掴み上げた。

 

 

「……何がかな?」

「分かってんだろ……自分が矛盾したことしかしてねぇ上に、俺らを惑わせるようなことばかりしやがって……なあ梓、ふざけんのも大概にしろよ!!」

 

 

 準は梓の胸倉をさらに高く持ち上げ、座っていた梓の体を強制的に立たせ、五センチもないほど近く顔を寄せた。その光景と準の怒号のせいで梅屋は静まり返り、何人かの客が気まずそうにこちらを眺めてきていたが、準はお構いなしにと梓を睨みつける。

 

 

「おいおいやめてくれよ店内で……。どうせ怒られんの俺だしよぉ……」

「「釈迦堂さんは黙ってて!(くれ!)」」

「あいよー。あー、お客さん。気にせず食事続けてー」

 

 

 黙っていろと二人に怒鳴られてしまったからか、元より本気で止めるつもりがなかったのか、刑部は客に軽い謝罪をしただけであっさりと引き下がってしまった。

 

 

「何とか言えよ梓。温厚な俺が怒るとどうなるか、知らないとは言わせないぜ……?」

「ロリが危機に瀕したときくらいでしょ、アンタが怒るのって」

「悪いな。家族が真剣に悩んでるんだ。下手したらそれ以上に怒るつもりだ」

「……はぁあああ…………。うざったいわね。男ならそこの色黒イケメンみたいに黙っていうこと聞いて実行に移しなさいよ」

「納得できる理由をよこせって言ってんだよ」

「納得ねぇ……。そこの色黒イケメンは納得しちゃってるよ。それは本当はダメなんだけど」

 

 

 どうあっても話す気はないのか、梓の態度は一向に変わる気配を見せない。その憮然とした態度に準はさらに怒りを積もらせ、梓の胸倉を掴む手により力を込める。

 

 

「それで暴力に訴える? いいわよ、遠慮なく叩きのめしてあげようじゃない」

「……失望したぜ梓。そこまでして足止めしたいってのか」

 

 

 準が顔を伏せて言った言葉に、梓の態度が豹変する。

 

 

「……? ――――あがっ!?」

 

 

 梓の胸倉を掴んでいた準の手が梓の右手によって握られ、余っていた梓の左手は準の胸倉を掴み返した。そして、親の敵でも見るような目で準を睨みつける梓は頭を後ろへ振りかぶり、近距離にあった準の額へ全力で頭突きを叩き込んだ。

 

 

「何も知らないくせに、みんなが苦しんでいる理由を何も知らないくせに、勝手に見切り付けやがって。いいよ、教えてあげる。真実も私が知る限りのこと全て。その代わり、アンタは絶対後悔するよ。二度と真実へ到達できなくなるんだからね」

 

 

 梓の気迫と、光を失った瞳。

 準の背筋に悪寒が走った。梓の触れてはいけない何かに触れてしまったかと危惧したが時既に遅し。梓の形相からは怒りという感情しか読み取れず、梓に掴まれている手も段々と痺れてくるほどに力強かった。

 梓の突然の圧力に怒りが収まってしまった準は、完全に梓の威圧に飲まれてしまっていた。そんな怖気づいた準を、梓が外へ連れ出そうと胸倉を引っ張って出入口へ向かおうとしたが、その進行を阻止しようと立ちはだかる人物が二名現れる。

 

 

「まあ待ってやれよ梓。ある一点を超えると口調が汚くなるのはお前の悪いところだぜ?」

「非はこちらで詫びます。ですから、落ち着いていただけませんか?」

 

 

 刑部は扉を片手で抑えつつ、冬馬は机に片手を載せるようにして梓が出口へ向かう道を塞いでいた。やけに二人共格好をつけて通せんぼしていたためか、梓のこめかみに血管が浮かび上がるのが確認できた。よほど二人のポーズが気に入らなかったのだろう。

 

 

「――――どちらにしろ、ここで納得できなきゃ先に進めないんだよ。準には悪いけど、ここでそこの白髪の女の子以外は脱落だよ」

「……やれやれ。一度こうと決めちまったら曲げない質だったな、お前。諦めろや大将。このハゲは真実とやらには到達できないぜ」

「正直、遅かれ早かれ準は脱落すると思っていましたし、ユキさえ至ることができればそれでいいんですよ」

「じゃあ退いてくれるかしら。ここで喋っちゃいけないでしょ?」

 

 

 梓はそう言うと二人をやや力づくで跳ね除け、より力強く準を引っ張って店内から飛び出していった。出入口付近で足止めをしようとしていた刑部は、梓の速度と向かった方向を確認し、呆れたように溜め息を吐く。

 

 

「そこの嬢ちゃんには聞かせちゃダメってのは分かるけどよ、やけに遠くまで行ったな。川神駅ぐらいまで行ったんじゃねえか?」

「そんなに遠くまで、そんなに早くですか?」

「高速道路を走る車よりかは早いんじゃねえかな」

 

 

 準、死なないでくださいね。そう祈ることしかできなかった冬馬だった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「準、生きてる?」

「後悔からくる自責の念で心は潰れそうだし、引きずられて擦過傷だらけの体はヒリヒリするぜ……」

 

 

 午後二時十五分。午後からの職務に励んでいる者たちが一息つけるためのスパートをかけ始める時刻。

 梅屋のカウンターテーブルで突っ伏している準は服がぼろぼろで泥だらけだったが、それよりも準の暗く沈んだ雰囲気のせいで目も当てられなかった。小雪はそれをお構いなしに箸を逆に持ち替えてツンツンと準をつついていたが、準は止めろとも言わず抵抗もせず、丸まったダンゴムシが生きているか死んでいるかを木の枝で確認されるように弄られていた。

 

 

「やれやれ、やはりこうなりましたか」

 

 

 準の姿を見て、冬馬は大きく息を吐きだした。こうなることは分かっていたかのような物言いに、僅か十数分で十数キロのランニングと五分以上の話し合いを終わらせ、汗をまったくかかず息切れ一つしていない梓と、賄いで許されるはずのない三杯目の豚丼を前に手を合わせていた刑部が問いかける。

 

 

「そこまで予測しておいて、諦めたのかい?」

「もっと引き止められるもんだと思ってたよ。正直拍子抜けかな?」

「遅かれ早かれ、小雪が爆発する前に過保護な準が代弁するだろうとは思っていたんです。世話好きなお父さんですからね」

 

 

 一歩下がって全ての状況を把握し、ことがうまく進むように成り行きを見守りつつ道標となる。慈愛の表情を浮かべる母のような冬馬は娘のための犠牲として父をリタイアさせた。

 そのリタイアさせられた父親、準はと言うと、未だに小雪のなすがままにされていたが、暫くすると顔を伏せて何の反応もしなくなり、何かを考えているように時折頭を揺らしていた。

 その態度を見た梓は、少しやりすぎたかと視線を準から逸らし頬をポリポリと掻いていた。そして、自分にも少しばかり非があったこと渋々認め、大きく息を吐きだして準の傍による。

 

「……今度ご飯奢りなさいよ、準。それで今日の無礼は許してあげる」

「……ああ」

「ちょっとやりすぎた。大怪我とか、してないわよね?」

「……ああ」

「それならいいんだけれど、これから自分がどうすればいいかは、分かるわね?」

「……ああ」

「……源氏物語二十三帖、巻名は?」

「……初音」

「ちゃんと聞いてたわね。それじゃあ、誠意を示しなさい。あなたの大事な大事な一人娘に、ね」

 

 

 少し上手に出つつも気遣いを忘れず、しっかりとやるべきことを理解させられたのかを確認し、話の内容を聞き流していないか鎌をかけ、梓は準の背中を軽くぽんと叩いた。

 それが準にとっては実に軽々しい転嫁で、それでいて重々しい責任が伸し掛るようになった。しかし、彼はそれを全て受け止めて、自分の大事な娘に向き合う。

 

 

「ユキ、絶対にお前を、真実に届けてやるからな」

「?」

「真実がなんなのか、分からなくてもいい、分かっちゃいけない。だから、俺と若が手をつないで案内してやる。真っ暗な上に複雑な迷路から脱出させてやる。だから文句は言わず、疑問も声に出さず、俺らについてきてくれないか?」

「……正直、納得いかないのだ」

 

 

 準の言葉に、小雪は得心行かず不貞腐れているようだった。家族家族と比喩されることはあっても、その実は同い年の友人なのだ。一人だけ仲間はずれにされている、そう考えてしまってもおかしくはない。壊れてはいないが、まだ幼い精神を持った少女には、この状況が少し息苦しかった。

 

 

「やはり、そう簡単にはイエスと言ってくれませんね」

「そりゃそうさ。無理を言ってるのは俺らなんだ」

 

 

 夫婦だけに通じる会話が繰り広げられる。それは小雪の機嫌を更に悪くしてしまう。大人の事情と切り捨てられ、会話に参加することも許されない子供のような心理状態。結局のところ、友人という観点から見ようが、家族という観点から見ようが、小雪が除け者のように見られてしまっていた。

 

 

「……でも」

 

 

 しかし、そんな一人だけの状況でも小雪ははっきりとした文句はぶつけない。今まで散々文句も愚痴もぶつけてしまった。無茶も聞いてもらい、家族として扱ってくれた大切な友人。そんな彼らが何かしらの思惑で、彼女のために動いてくれている。

 孤影悄然としてなすがままにされる現状に、文句も言わず我慢していこうと思ったのは、大切な彼らに対する恩返しか償いか。

 

 

「黙って着いて行くよ。そうしなきゃ、大和を元気にさせてあげられないんだ。トーマ、準。僕を導いて」

「――――ええ。誠心誠意、心を込めて」

「何も心配しなくていいぞ。任せとけ」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「それで? まっつんに会いに行けってことで話は決着したと思うんだけどね?」

 

 

 午後二時三十五分。業務で言えばコーヒーブレイクまでのラストスパート真っ只中にいる時刻。

 小雪は冬馬と準を先に店外に追いやり、梓と二人きりの場を作り出していた。実質、店員である刑部や客も店内にいるため、完全な二人きりとは言えないが、二人だけで話し合いがしたかった小雪にとってはこれで十分だった。刑部もなるべく話を聞かないようにと、関係者専用の扉から奥に入っていったため、小雪たちの関係者は他に誰もいないことになる。

 梓は何の話をされるか分かっていなかったが、絶対にされない話だけは理解できていた。

 

 

「流石に、真実についてなんて終わった話を持ち出す気はないよね?」

「うん。あれはトーマと準を信じることにした」

 

 

 それならよかった、梓はそう口にして分かりやす息を吐きだした。ここまで来てそんなことを聞かれたらたまったものじゃないと、梓はトーマと準の気苦労を少しだけ分けてもらった気分だった。

 

 

「じゃあ、何が聞きたいの?」

「……その脚」

 

 

 梓の問いかけに、小雪は指差しを以て答えた。その指先は揺れることなく梓の太もも付近を指しており、視線は梓の上半身などないもののように、腰から下の下半身を忌避されたものを見るように睨みつけていた。

 

 

「気持ちが悪い」

「酷い言われようね。確かに女の子にしちゃちょっとばかりゴツイかもしれないけど――――」

「とぼけるな。そんな話はしてないよ」

 

 

 自分の足を(さす)りながら苦笑いしていた梓に苛立ちを覚えた小雪は、さらに核心をつくような、梓の心の内を抉るような言葉をぶつけた。とぼけるな、その言葉通り、知っていることをすべて話せと強要しているのだ。

 その言葉が梓の中の何かに触れたのか、梓の態度が急変する。先程準に見せたような態度であり、少し違う。支配された感情は燃えるような怒りではなく、気だるそうな憤りに駆られたようなもので、目を細めて小雪をまじろぎもせず見ていた。その視線に、小雪が僅かに動揺する。

 

 

「何が言いたいのか、分からないわね。はっきりと言ってくれない?」

「っ……。お前の、脚。僕と近い。似ているけど、一緒じゃない。何か目的があって鍛えたんだろうけど、そんなの僕は認めない」

「アンタに認められなきゃいけないことはないでしょ」

「目的が、上を目指すだとか、誰かを守るだとか、人のためじゃない時点で許せないんだ」

 

 

 小雪の脚は友を守るために、決して怠けることなく弛まぬ自己研鑽に取り組み鍛えられた。自身が戦闘に臨むことで、友人と家族を守ろうと誓い、元からあった“天賦の才能”を腐らせることなく、その脚を“壁を越えた者”と同格の最高級品へと昇華させた逸品である。足技限定とするのであれば、武道四天王にも匹敵する脚力が備わっている。

 小雪はそれに自信を持っており、それを誇りとしている。己のアイデンティティーとも言えるまでに鍛え上げた脚に匹敵する脚を持つ者を、小雪が気にしないわけがなかった。

 加えて、目の前にある脚が鍛えられた理由が気に入らない。小雪はその理由を何故か把握できてしまっていた。全てを理解したわけではないが、“守る”や“一番になる”といった大まかなものは瞬間的に理解できた。

 

 

「“復讐”なんて、“痛めつける”なんて、そんな悲しい理由で僕の脚に及ぼうとしないでよ…………。越えようとしないでよ!」

「……うーん。やっぱり同族って奴なのかな。そうそう簡単に目的なんて読まれないと思ってたんだけど……。やっぱり、アレの言う通り。アンタと私はすごく密接な関係で、憎しみ合う関係みたいだね」

 

 

 梓は呆れたように頭を掻く。梓が言うところの“アレ”は何か分からないが、小雪もその説明に呆れるほど納得できてしまっていた。特に、憎しみ合う関係というのには何故かしっくりきていた。

 出会ったばかりの人物に、まるで生前からの恨みでも持ち越しているような、そんな気分に陥っていたのだ。

 

 

「そういうアンタの目的は、誰かを“守る”ってところだね。崇高で誇るべき目的だと思うよ。勿論、私はそれを憎むべきなんだろうけどね。目的には恨みはないよ。アンタのその幸せそうな顔に、何故か無性に腹が立つんだよ。初対面もいいところなのにね」

 

 

 どうやら梓も、小雪に対し表現できない恨みや憎しみを抱えているようだった。それも、小雪が梓に抱えているものと近く、近似していると言えるもの。

 

 

 

 

 

「同族嫌悪は、一方通行じゃないんだよ?」

 

 

 

 

 

 ゾクリと、小雪は下半身が氷漬けにされたように固まり、急速に血液が冷え切っていく感覚に襲われた。小雪に向けられた梓の殺気に近い嫌悪感は、小雪の両足を銛で乱雑で打ち付けたように固定し、筋肉を収縮させ硬直させた。

 

 

「アンタが私に嫌悪感を抱いているのは、合った瞬間に分かった。それこそ、アンタが私に出会った瞬間に嫌悪感を抱いたって事なんだろうけど。私たちは本当に似た者同士だね。出会った瞬間、一目惚れし合っちゃったようだ。真っ黒で真っ暗な、純悪な憎み合い()

「…………」

「だからって、取って食いはしないから安心してよ。こういう生前的憎しみってのは前世が関係しているのか、詳しいところは分からない。けど、アンタの性格とかはまだ知らない。これ以上マイナスになることはないだろうし、これからプラスを作っていきましょうよ、ね?」

 

 

 その言葉に嘘偽りはない、そう確信できた小雪だったが、先程の嫌悪感同様根拠は非常に曖昧なものだった。ただ、それを真実と分かっても、素直にその意見に賛同することはできなかった。言っていることは争いを産まず、実に和平的だということはわかる。平和的に話し合いと今後の付き合いを用いて、憎しみをうまく調和しようという算段も理解できる。それでも、小雪はそれに“YES”と答えられなかった。

 

 

「……前向きに、転倒する」

「――――確かに後ろに倒れ込むよりは、前のめりに倒れた方が良い印象を与えるわね。好印象のようで何より」

 

 

 ――――あれ、トーマの言いそうなことを言っただけなんだけど。

 

 

 実際は前向きに転倒ではなく、前向きに検討と言いたかったのだが、うろ覚えの言葉且つ普段から使用しない言葉、加えてこの緊迫した状況で頭が回らなかったのもありいい間違えてしまったのであった。しかし、意は汲み取ってくれたようで少しホッとした小雪であった。

 

 

「まぁ、気楽気のままに、憎しみをそこそこに消していこうよ」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「川神百代鎮圧計画――――。それが大和くんが苦しんでる理由なんだよ」

 

 

 午後三時。カステラ一番、電話は二番、三時のおやつで有名な、午後の間食、アフタヌーンティーが行われる時刻。

 変態の橋で、頭に包帯を巻いている黒髪の少女は、ついに核心に迫る話を切り出した。それを聞いた準と小雪は驚き動揺する。その内容にも驚いたが、その内容を聞いてしまった、喋ってしまったという事実に驚愕を禁じ得なかったのだ。

 

 

「お、おい先輩! それで大丈夫なんすか? 俺たち、それで直江の苦しむ理由に辿り着けるんですか?」

「間接的に、遠回り。けど、遠回りなだけで近づくことには変わらない。私は橘さんが言いたかったことの、前半くらいを喋ってもいいってだけ。何せ百代ちゃんの時と違って、この作戦に加担していた人物は片手で数えられちゃうからね。折り返しもいいところだ」

 

 

 少女は右手を広げて三人に掌を突き付ける。今まで冬馬たちが出会った関係者は、橘天衣、南浦梓、そして松永燕。この三人だけで既に前半を過ぎたと、折り返しという言葉を用いて燕は伝える。

 

 

「準が脱落したのは、妥当なタイミングだったようですね」

 

 

 ここで冬馬が自身の予定通りにことが運んでいたのだと再確認した。天衣と話していた時、既に準が脱落し小雪だけが残るビジョンを想像していた。そのタイミングは、ちょうど折り返し地点を過ぎた頃だという予測を打ち立てていた。

 しかし、準は冬馬が思うよりも早く、第二関門である梓の時点で爆発してしまったのだ。この時の冬馬の誤算は、準と梓が本音を言い合える関係にあったことだろう。これが天衣同様、初対面に近い人物であったら、準はもう二、三人は堪えることができただろう。だが、もう一つの誤算が冬馬の予測を正しいものにしてしまった。

 それは、関係者があまりにも少なかったことにある。冬馬の予測では十人弱、つまり、順の爆発予想である折り返し地点では、既に五人の人間と対話していると考えていたのだ。

 二つの誤算、悲しき誤算と嬉しき誤算が混じり合って、冬馬の予定より早くことが進んでいた。

 

 

「それより、その、鎮圧作戦って、大和が加担してるの!?」

「加担、だったらまだ幾分かマシだったろうね」

 

 

 大和が自身の姉貴分を陥れる作戦に参加しているという事実に、小雪はどうしても納得できず燕に詰め寄った。しかし、燕が浮かべた表情は誰かを憐れむようなもので、小雪の言い分に対する単なる否定ではなかった。それは、大和の立場がそれよりも悪い状況であると仄めかすようなものだった。

 

 

「大和くんはね、今回の作戦の首謀者なんだ」

「え――――」

「指導者、立案者。どう言い換えてもいいけど、モモちゃんの討伐を依頼したのは、他ならぬ大和くんだよ」

 

 

 燕が突きつけた事実は突拍子過ぎて、準や小雪だけでなく、頭脳労働担当の冬馬の思考回路すらも停止させてしまった。

 

 

「大和くんが、そんなことをするとは思えません」

「確かに……直江がそうまでして止める理由が分からん」

「大和はそんな友達にそんなことしないよ!」

 

 

 その停止された頭脳から絞り出された言葉は、大和の人格を考慮しての否定だった。直江大和という人間は、家族とも呼べる仲間を第一に考えた行動をとり、その行動の末に自身が犠牲になることも厭わない。卑怯で姑息な手段を用いることでも知られているが、それは自己犠牲と仲間を守るという意志から生まれた手段。自身にかかった責任は転嫁することはせず、逆に仲間が背負った責務を請け負う程。そんな人間が、仲間を、姉貴分を売るような真似をするはずがない。

 そう確信している葵ファミリー。冬馬はその人間性と覚悟を決めている姿に惚れ込み、準はクラスの垣根を越えてくだらない話ができる友と思い、小雪は彼の無自覚の優しさに助けられ恋心に近い恩義を感じている。

 

 

 

 

 

「罪悪感で潰されそうだって言ったら、どうする?」

 

 

 

 

 

 その確信が、揺らぐ。

 

 

 

 

 

「しかも、その罪を背負うことで、モモちゃんが幸せになれる未来が待っているとしたら、どうする?」

 

 

 

 

 

 その確信が、崩れる。

 

 

 

 

 

「責任を背負うタイプで、軍師なんて相性がある程頼れる存在ってのは、抱え込みやすいんだ。あの子、成功してから説明するタイプだし」

 

 

 締めの言葉が、三人の意志を逆転させてしまった。文字通りの絶句。声が喉に詰まり、表現しようにも言葉にならず外へ出ようとしない。その様が、正鵠を射る、言い得て妙といった言葉体現させていた。

 

 

「納得せざるを得ないでしょ? 特に、一度大和くんの姿を見た人ならさ。一昨日くらいから、かな。大和くんがファミリーの皆から責め立てられて、その時庇ってくれるはずの人物がいなかったんだから」

「庇ってくれる、人物?」

「今回の作戦に直接関わりはないけど、君たちが言うところの真実に近い子。それと、あそこのまとめ役、リーダー」

 

 

 真実に近い子というのは理解できなかったが、リーダーという言葉は三人が同じ人物を連想させるには十分すぎる言葉だった。

 風間翔一。大和が頭脳役として機能している幼馴染グループ、その名は彼の苗字を使用し風間ファミリーと呼ばれている。その翔一が、大和を庇う位置についているというのが意外、そう考える冬馬たち。しかし、考えればそれなりの予測はついた。

 

 

「輪を乱さず、収めようと努力したのですね。彼らは感情的になる人たちですからね」

「それに、あいつらが一番長い付き合いだろ。モモ先輩の妹もそうだが……あっ」

「うん。僕もそう思う。真実に近い子っていうのは、ワン子のことだね」

「……ここまで来たら、私が話す必要がなくなっちゃったねん」

 

 

 燕が呆れたように息を大きく吐き出した。友人のこととなると頭の回転が何十倍にも早くなる。そんな人材がゴロゴロ転がっているこの川神という土地に、川神学園という逸材の宝庫に、転校して二ヶ月弱の燕はまだまだ驚かされていた。

 口にしたとおり、これ以上燕が話すわけには行かなかった。次に向かうべき人物のことを早めに教えようとした、その時だった。

 その伝えようとしている人物が、燕の目の前、冬馬たち三人の背後から四人に向かって歩いてきていたのだ。その足取りは覚束なくフラフラとしており、まるで生気が感じられないようだった。

 背後に向けている燕の視線に、いち早く小雪が気づいた。いや、それよりも強く、背後から近づいてくる人物の気配を察知したのだ。小雪はその人物が誰か分かった途端、瞬時に振り返った。

 

 

 

 

「――――やま、と」

 

 

 





 自分と似たものを愛し求める人もいれば、自分と反対なものを愛し、これを追及する人もいる。

 ゲーテ

◆◆◆◆◆◆

 予定より二日も遅れてしまいました。申し訳ありません。全ては我が友人のせいです。責任転嫁です。貫徹なんて、そうそうするもんじゃあないですね。
 小雪が感情豊かになればなるほど、書きづらくなります。沈んで、はしゃぐ。そればかりだった子が人並みに照れたり、泣いたり、怒ったり、笑ったり。不思議ちゃんのような一面がありつつ、京よりも人間臭い。救われた小雪、純小雪とすると、彼女は表現が一番難しいキャラだと思います。一番簡単なのは……どう足掻いてもオリキャラ。至極当然ですね。

 MNSコンテスト番外編。辻堂さんのコンテストロード。今回は短くぶっ飛ばします。総勢14名のうちメインヒロインだけの結果を、漢字二文字で表すなら、凄惨でしょう。ワースト3の中に血塗れの恋奈と皆殺しのマキがいる時点で崩壊しているので……マキさんダントツ最下位おめでとうございます!
 すべてがズバ抜けているらしい喧嘩狼でさえ6位、これはひどいですね。

 さて、本編でリクエストがございましたので、一応リストアップしていこうと思います。
 それでは、33名+さくらちゃんの総勢34名のうち、下から順に行きましょう。下位14名です。
 追記:計算方法にミスが発覚したため、計算し直した結果を報告いたします。大した変動はありませんが。一位が単独になったりとしたので、気持ちの良い感じにはなりました。申し訳ございませんでした。


  林冲   CCCBD 総評C 10
 板垣辰子 CCCBC 総評C 11
 松永 燕  CCBCC 総評C 11
 不死川心 CCDSC 総評C 12
 板垣亜巳 BCBBC 総評B 13
 九鬼揚羽 BCSCD 総評B 13
 川神一子 CCCAB 総評B 13
 川神百代 SCBCD 総評B 13
 南條・M・虎子 CDBSD 総評B 14
 黛由紀江 SCACD 総評B 14
 マルギッテ BCABC 総評B 14
 小島梅子 BBCSC 総評B 15
 矢場弓子 BBABC 総評B 15
 甘粕真与 CBCAA 総評B 15
 
 となりました。5つのアルファベット評価ですが、左からバスト、ウェスト、ヒップ、ヒップウェスト比、バストウェスト比となります。
 無印メインヒロイン3名と、Sメインヒロインが4名、早くも脱落です。人気投票を逆さにしてシェイクしたようです。ちらほらSの値が見えますが、あくまでバランス、スタイル美を競っています。突出していては後半で下がりますし、かといってバランスだけ追求しても出るとこが出ていなければダメなのです。世知辛い審査です。我ながら。

 予告。引き続き発表。


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第二十四帖 こころとも知らぬ心をいつのまに――――

――――我が心とや思ひそめけん


作者不詳


 

 午後三時五分。一杯目の紅茶を飲み終えた婦人に、英国紳士が二杯目はどうかと気を利かせる時刻。

 直江大和は虚ろな目を浮かべていた。

 

 

「ユキに、葵と井上……。それに、燕先輩も。まだ授業中じゃないのか……?」

 

 

 早退していながらブラブラと外出している自分は棚に上げて、暗にサボリを働いている四人を咎めた大和。その言葉に全く覇気は感じられず、言って聞かせるために発せられた言葉とは到底思えなかった。

 その様子を見た冬馬と準は何も言えず、目を見開き息を飲んでしまう。ここまで酷く沈んでいるものとは思ってもみなかったのか、大和にかける言葉を探そうにも見つけることができなかった。

 しかし、一度この状態の大和に出会ったことがある小雪は大和の肩を掴んで、目を覚まさせるように呼びかける。

 

 

「大和! しっかりしてよ!」

「ユキ……? どうしたんだ? 俺は、“いつも通り”、だろ?」

「どこが“いつも通り”なもんか! 僕たちの方がまだ“いつも通り”だよ!」

 

 

 僕たちという言葉は、冬馬と準と小雪の三人を、悪事から手を洗い学生らしさを暗中模索する三人を意味していた。冬馬は戸惑いつつも学生らしさを今回のサボタージュで見出し、準は梓との嗜好の討論で自分らしさの表現を思い出した。勿論、小雪も苦しまなかったはずがない。

 友のために鍛えた脚が、血に染まる。人を守ろうと練り上げた脚が、人を傷つけていた。その矛盾してしまった目的と結果が、小雪を苦しめない筈がなかった。その矛盾という事実を見ないようにして明るく振る舞い、冬馬と準とともに堕ちようとしていた。

 その暗く果てしない下り道は、九鬼財閥の手によって作り替えられた。冬馬と準はそこで解放され、小雪も同様に悪の道を外れることになる。首謀者である冬馬、補佐的立場であった準は責任を強く感じていつも通りを取り戻すのに戸惑った。小雪はその間、何がどう変わったのかを理解することに戸惑い、何が正しくて何が正解なのかが分からなくなったため、足場もない無重力空間に投げ出されたように、不安定さの中を彷徨っていた。

 

 

 ――――戯け。

 

 

 そんな時、家族である二人にも感づかれなかったその不安定さを、一人の老人に見破られてしまった。

 

 

 ――――なまじ情があるせいでそう考える。甘っちょろい情けを敵にかけるでない。その脚は守るため、人のため、そう()かしたな小娘。その過程、その道筋、一切の血を浴びることなく、傷を負わせることなく済むと思うな。主が言いたいことはそうではない、そう言いたいことも至極当然。しかし、表裏一体の自称を矛盾と思い込み塞ぎ込むのは愚の骨頂。傷つけてこそ、守るのじゃ。他人も――――自分もじゃ。よし、儂に出会ったのも巡り合わせじゃ、ここで選べ。情け容赦なく人を傷つけ高みへのし上がるか、人を守るなどという大義名分を引っさげぬるま湯に浸るか……。さあ、決断せんかい!!

 

 

 出逢って数分と立たない老人に説教された小雪は面くらい、今まで小雪を苦しめていた気持ちの悪い塊が吹き飛ばされてしまった。

 そこから小雪は腹を括り、迷いなく今の自分と向き合いいつも通りに過ごそうとしている。今までやってきた行いが正しいとはとても言えない。聞く耳を持たない輩を力でねじ伏せ黙らせていた行動に賛辞は贈られない。それでも、その過去を受け止め、小雪はこれからを生きると誓った。

 いつも通りとは言えないが、いつも通りを振舞う冬馬、準、そして小雪。その三人をして、大和はいつも通りでないと言わしめるこの状況。明らかに異常であった。

 

 

「ねえ、僕を見てよ大和……。そんな死んじゃった魚みたいな目じゃなくて、いつもみたいな優しい目で僕を見てよ!」

「優しい、目……?」

「今の大和は、痛々しいよ……! 何か訳があるなら、教えてよ!」

 

 

 小雪が涙ながらにヤマトに訴えかけた。今朝は屋上で泣かなかったのに、そんなことを思いながら小雪の顔を見つめる大和。しかし、その小雪の必死の呼びかけも、大和の奥にある真実を引き出せない。

 

 

「…………俺は、何も、抱えてなんか――――」

「大和くん。そんなに、一人で背負わなきゃダメなのかな?」

 

 

 ここで、今まで傍観に徹していた燕が大和に声をかけた。

 

 

「私だって共犯者だよ? 橘さんだって、梓ちゃんだって、あの作戦に関わった人は等しく同罪だよ。なんで大和くんはそんなにも、一人で抱えようとするの?」

「それが、俺の役目です。責任なんです」

「橘さんは、真実を求めた百代ちゃんの最初の足止めになったよ」

「俺はそうなると分かって、見捨てました」

「梓ちゃんは、百代ちゃんに大技をお見舞いしたよ」

「そうでなくちゃ、あの人選はできません」

「私は、何もできなかったよ」

「時間稼ぎと姉さんの動揺、十分すぎる活躍です」

「――――一子ちゃんは何も知らなかったよ」

「――――ワン子には悪いことをしました」

 

 

 川神百代鎮圧作戦、その詳しい内容をほとんど知らない葵ファミリーは会話に参加できなかった。しかし、作戦の首謀者である大和が、どういう結果を求めてこの作戦を組み上げたのか、アウトラインは見えてきた。

 

 

 壁を越えた者を、まるで捨て駒のように使い、真実を求めて来襲した百代の精神を瓦解させることで、真実を守ろうとした作戦。

 

 

 ――――大和くんにしては、切羽詰った苦肉の策ですね……。

 

 

 葵ファミリーの頭脳、冬馬はそう判断を下した。仲間を第一に考えた作戦を講じることで“軍師”と呼ばれるようになったと言っても過言でない直江大和が、姉貴分である川神百代を潰すことでしか止められないとは考えられなかったのだ。

 そして何より、冬馬が解せなかった事は――――

 

 

 ――――大和くんが、罪悪感を背負うということ以外、何の代償も払っていない。

 

 

 時には身を挺して仲間を守り、時には体を張って犠牲となる作戦も練ることがある大和が、あまりにも無傷過ぎるのだ。加えて、今回の作戦で何も知らず被害者となった人物が、彼らの中でも最も仲の良いとされる最古参三人組の一人、川神一子であることも奇妙だった。

 

 

「大和くんは作戦を考えただけ。それを実際に行ったのは私たち。責任は半々、一人で抱え込むのは間違いだよ」

「違います……。作戦を立てた時点で、最高責任者は俺です。俺が全ての尻拭いをしなきゃ……。真実を遠ざけて、来る日まで耐えなきゃいけないんですっ……!」

 

 

 大和の目が、真っ黒なクレヨンでぐるぐると塗りつぶされたように光を失っていた。

 

 

「おい直江。お前危ないぜ? 今にも崩れそうな桟橋の中央で蹲ってる感じだ。お前、そんなんで大丈夫なのかよ?」

「……俺のことなんか、気にすんなよ井上。あと少しなんだ……。あと少し、我慢すれば、何もかも上手くいくんだ」

 

 

 大和がブツブツと「あと少し……あと少し……」と呟いている目を見て、準は小雪の手の上から大和の右肩を掴んで揺さぶった。しかし、大和はそんなことは意に介さないように自分一人で言葉を反芻し続けていた。

 その不安定さが気に入らなかった冬馬は、準同様小雪の手の上から大和の左肩を掴み、顔を今にも触れ合いそうな距離まで近づける。いつもならここに至るまでに大和は抵抗の一つも見せる筈なのだが、振り払うこともせずなすがままにされていた。それが冬馬にとっては張り合いがなく、実につまらなかった。

 

 

「大和くん。貴方らしくありませんよ? 不敵な笑みを浮かべて、自信で満たされた貴方はどこに行ってしまったんですか? 今の大和くんは、何かに怯えているようで、らしくありません」

「怯えてなんかいない……。恐れてもいないぜ……。やるべきことをやって、待っているだけだ……。あと少し……」

 

 

 「あと少し……あと少し……」と、俯きながら唱えている大和は、精神的に傷を負っている危うい人物にしか見えず、燕を含めた四人は酷く心を痛めてしまう。一体どうして、こんなことになってしまったのかと――――

 

 

 

 

 

 

 

「秘匿してくれと頼んだけれど、懐抱(かいほう)しろと命じた覚えはないよ。自分が、自分がと拘ることは、決して美徳ではないのだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 大和の後方、冬馬立ちからすれば前方から、この場にはいなかった人物の声が発せられた。その声に大和は顔を勢いよく上げて目を見開き、錆び付いた可動部分を強引に動かしたように、震えながらゆっくりと首を後ろに向けた。

 そしてそこには、古ボケて色あせた狐面を被った隻腕の人物が立っていた。顔は見えないが、大和は声と雰囲気だけで誰であるかを確信した。

 

 

「ソラ、さん……? な、なんで!?」

 

 

 大和がソラと呼んだ人物は、大和のやつれ細った姿を見て左肩を握り締めた。表情は見えないが、歯を食いしばって自責の念に駆られているようだと憶測できるほど、ソラは身体で感情を表現していた。

 

 

「私の失態だね。そこまで私との約束に固執してくれたことは嬉しい限りだけど、君を苦しめてしまうのは不本意極まりない……。済まなかった」

「そ、んな! 謝らないでください! 俺が好きで、犠牲になってるんです! ソラさんのせいじゃない!」

 

 

 ソラが大和に頭を下げた。それに対し、大和は全力で否定する。ソラの謝罪を拒絶する。責任は全て自分にあるのだと、今まで以上の責任を背負おうとしていた。逃げ道を自ら潰し、言い訳という言い訳を排除しようとしていた。

 

 

「……久しぶりだね。葵くん」

 

 

 そんな必死な大和を無視するように、ソラは呆気にとられていた冬馬に声をかけた。

 

 

「ええ、お久しぶりです。数週間ぶり、ですね」

「私に辿り着こうとしている誰かがいるから警戒していたけど、君たちだったとはね。一応正体を知られないようにと、貰い物の仮面をつけてきたけど……取り越し苦労だったようだ。君たちになら知られても問題はないからね」

 

 

 冬馬とソラの会話が円滑に進んでいくことに、当事者以外の四人は驚きを隠せなかった。特に、真実に至ろうと共にここまで来た準と小雪は、初めから知っていたなら紹介しろよと言いたげな表情を浮かべていた。

 文句を口に出さず顔で訴えかける二人に対し、ソラが仮面の下で笑って応える。

 

 

「私は隠れるのが得意でね。私の家の血筋は影を薄くすること、気配を消失させることに特化している。生まれつきこういう能力があって、それを成人するまでに制御できるようにするんだ。それも才能の一つで、弟の方がその能力に長けていたんだが、如何せん見境がなかったから、制御まで含めると私は稀代の飲み込みの良さだったらしい。私はもう既に体得しているから、私を意識した時点で私に合うことは不可能になるんだ。特に、今は隠れ忍ばなくてはいけない身の上でね」

「そ、それじゃあ、タチバナやあの女が回りくどかったのは……」

「天衣と梓だね。あの二人には前もってそういうことができると伝えてあった。だから、私に辿り着くためには、果てしなく遠い回り道をする必要があるんだ。つまり、偶然出会えるような状況を作り出す必要がある」

 

 

 小雪はそこでようやく合点がいった。聞き込むこと全てが直接的なことではなかったため、小雪は隔靴掻痒としていたのだが、そのもどかしさが今ようやく解消された。今目の前にいる真実を目指することで、冬馬や準が自分に対して何も言わず着いて来てくれと頼んだのかが理解できたのだ。

 その目指した真実は、輪郭線が曖昧ではっきりと人型と認識できない。ぼやっとした黒と白の塊の中、狐の仮面が浮かんでいるように見える。何とか存在だけを認識できる状態だった。それを目の当たりにしてしまったことで、常識の通用しない一種の怪物を認めざるを得なかった。

 武の怪物、壁を越えた者とは違った意味で常識を破壊する怪物。もはや妖怪物の怪の類と言われても不思議に思うことはない。

 

 

「今回は私が大和くんの安否を確認しに行く状況と、君たちが大和くんの下へ行くという状況が合致した偶然。だから私は今こうして君たちと会話しているんだ。難しくてややこしいだろうけど、私はそういう存在だ。私に辿り着くことは、まず不可能だよ」

「二年後の川神を見たいとか言って、隠れ忍ぶことを少し前までしなかった人が言う台詞じゃないでしょ?」

「そうだね。燕も久しぶりだ」

 

 

 小雪が納得したのを確認した燕が会話に参加した。燕との会話が心地いいのか、曖昧な認識しか出来ないソラの周りに優しい空気が漂った。ソラという人物をはっきりと認識することができない分、溢れる感情という抽象的なものが感じ取りやすくなっていた。それを本人が本能で支配できていないのであれば尚更だった。

 

 

「申し訳ない。色々と厄介事を任せてしまったようだ」

「気にするなんて野暮だよ。私たち友達でしょ?」

「そうだね。君のその明るさというか、能天気さを装った狡猾さというか。それでいて私を楽しませる朗らかさが心地いいよ。友人付き合いというものは、やはり麻薬のようだ」

 

 

 クスッと、ソラが狐の面の奥で短く小さく笑った音が聞こえた。狐面の彫りも色も絵も変わっていないが、不思議とその狐が微笑んでいるような錯覚に陥ってしまう。

 

 

「梓にも、天衣にも、燕にも重荷を背負わせてしまった。何せ相手は川神百代、武神だ。梓は自慢の脚を砕かれ、天衣は体の中をぐちゃぐちゃにかき乱され……」

「私は軽傷だよ」

 

 

 燕は自分の頭に巻かれた包帯を指差しニカッと笑う。これっぽっちの怪我なんだから心配することはないと言いたげな表情だったが、ソラの顔は若干下に向いていた。下といっても、脚まで下がるほどではない。見ているのは、胴の心臓がある高さ。外見は怪我をしていない。しかし、それをいたたまれない様に見つめていた。

 

 

「それでも、精神的なものは皆平等だろう。私なんかを擁護したが為に」

「それは覚悟の上だよ。尤も、覚悟もなく傷ついちゃった子がいるけどね」

「……一子ちゃんにも、本当に悪いことをした。今回の作戦が全て完遂されたその時には、百代さんも交えて楽しいお茶会がしたいな」

 

 

 ソラの頭の中に浮かぶ情景は、春の陽気を感じる花見の季節。川神院の中庭の一角に敷いた複数枚のござの上に広げられた雑多な和菓子を、十数名の人間が摘みながら緑茶を啜り、ソラたちが苦しんでいる今の状況を笑い話にしている。老人も、教師も、生徒も、年齢と性別の壁を取り払った集団が形成される中、ソラは自分を隠そうとしていない。今付けている面を剥ぎ取り、偽りを取り払った本当の自分をさらけ出している。そのソラの笑顔は、後ろめたさの欠片もない、心からくる微笑み。

 その理想を実現させるため、ソラたちは今を捨てていた。

 

 

「この話を聞いたからには、そこの三人には守秘義務が課せられるから」

「大和くんがそこまで苦しんでいることを大っぴらにするつもりはありませんからご安心を。それに、貴方の頼みでもありますし」

「流石葵くんだね。さて――――大和くん」

 

 

 ソラは念のためと思い、葵ファミリーに釘を刺してから大和に向き返った。

 

 

「これ以上抱え込むようなら、むしろ吐き出してくれ。君の苦しみ方は、見ていて辛い」

「俺が、好きで苦しんでるんです。恩を返せないまま貴女を失うなんて、考えられないんだ!」

「……君の相談相手になっていただけで、恩を与えたような記憶はないよ」

「それだけで、充分だったんです……! それに、姉さんと貴女が仲違いしてい事実は、一分一秒でも早く消し去るべきなんです! 二年前に失われた学園の笑顔を取り戻せるのは、貴女が戻ってくることだけなんです! 」

 

 

 大和は力説する。二年前に起きてしまった事件は学園から笑顔を奪い取った。その笑顔は一人の学生の無実を晴らすことで取り戻すことができると。

 しかし、それに対してソラは素直に肯定の意志を見せなかった。

 

 

「戻ったところで、全ては戻らない」

「そ、そんなこと――――」

 

 

 

 

「学園から害虫を駆除しない限り、私が戻っても意味がないんだ」

 

 

 

 

 

 害虫という単語が何を指しているのかを理解したのは、その単語を口にしたソラ以外では大和だけだった。それが分かってしまっただけに、大和は戦慄してしまう。その狐面の奥に隠された表情が、どれほどの恨みの色に染まっているのかと考えただけで身震いしてしまう。

 

 

「時間稼ぎ、残り一週間以内と宣告され数日が経過した。ひょっとしたら、今回の接触のせいで期間が伸びてしまったかもしれない。その間、私は全力で忍ぶ。学長からのGOサインが出るまで待機する。私の見立ててでは、四日後。私と、華月と、大和くんと、九鬼が総力を挙げて――――二年前の真相を明るみに出す。真実を、公のものにする。正しき裁きを下すんだ」

「…………そのために、俺は姉さんとの繋がりを一時的に切った。姉さんに邪魔されるわけにはいかないから」

「葵くんたち三人は、この四日間は私のことを誰にも話さないで欲しい。そうしてくれないと、私の二年間が全て水泡に帰してしまう。それどころか、数人の生徒が解放されることなく苦しみ続けられることになる。頼む。黙っていてくれ」

 

 

 ソラは狐面に手をかけ、それを外して冬馬たちに素顔を晒した。その素顔は非常に中性的で、確証を持って性別を言い当てることは不可能だが、性別など些細な問題に思える程、美しい。不純物一つない透き通った肌は、幼女嗜好の持ち主である準を唸らせる。

 美しいが、痛ましい。

 栄養失調で痩けた頬、疲労で生じた黒い隈。薄く開いた目には光が入らず、ソラの表情が相対的に暗く思えてしまう。これを隠す意味でも仮面をつけていたのだろうと、冬馬や燕、一度ソラに会ったことのあった者はそう思った。

 しかし不思議なのは、そうなっても失われないソラの美しさだ。比率からすれば既に崩壊しているはずなのに、その崩壊した数字が互いに寄り添い、新しい美しさを創造しようとしていた。その結果、健康優良体調万全の期に比べれば劣るが、美しさは見るものを惹きつけてしまう。

 明暗の激しい、ボローニャ派閥のレーニが描いた老婆の痩け具合でありつつ、悲劇の体現者ベアトリーチェを描いた絵の暗さが人々の心の奥底を揺さぶる。矛盾した美が創造されていた。

 

 

「頼む」

 

 

 そんな遺影的美を宿したソラはもう一度頼み込み、頭を下げた。その行為に、誰も言葉を発することができなかった。痛々しいだとか、いたたまれないだとか、そんな単純な理由ではなかった。もっと強大な、イデア的立場の不可思議な現象、触れられず見ることもかなわない存在から支配されたように動くことができなかった。

 美は人の心を鷲掴みにし、操り弄ぶ。

 

 

「……私は、再び姿を消す。時が来たらまた会おう。特にそこの白い髪の女の子。君とは何か、近いものを感じるよ。楽しく、苦しく、会話をしたい。いつか、私が心の底から笑えるようになったら――――」

 

 

 そう言い残し、ソラは霧のように姿を消した。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「まさか、葵たちに追いつかれるとは思ってもみなかった」

 

 

 午後三時三十分。学生たちは部活の挨拶が始まるのを今か今かと待ち受けつつ駄弁る時刻。

 幾分か元気を取り戻した大和が、冬馬たちをジト目で見ながらそう言った。燕はソラが消えたのと、大和が少しだけ心の中で張り詰めていた糸を緩めたことを確認し、「私にもできることがあるはずだから」と言い残して去っていったため、大和のジト目の対象は冬馬、準、小雪の三人になる。今この瞬間が漫画で描かれていたのであれば、“じとーっ”というオノマトペが大和の頭上に描かれていたことだろう。

 

 

「情けないところ、見せちまったな」

「僕たちに頼ってこない大和が悪いよ」

「そりゃ、そうか。ソラさんにも叱られた。少しくらい周りを頼ってもいいんだってな。と言われてもな……。これはソラさん云々関係なく、俺に課せられた仕事みたいなもんだし」

「守秘義務でもあんのかよ?」

「義務じゃない、権利だ。けど、話したところでっていうのが大きくてなぁ……。依頼人……いや、ありゃ人って言いたくないな、依頼主にしよう。遊びが過ぎるというか、ほとんど遊びというか……。俺が人に頼ると、その頼った人まで“玩具”にされてしまう。それが嫌だから、俺は一人で背負ってるってのが大きい。うまく説明できないんだが、とにかく、巻き込みたくないんだ」

 

 

 大和が真剣な表情で言っていることを、ほんの少しでも理解できたのは冬馬だけだった。その理由は至極簡単。

 

 

「なるほど。あの信じがたい現象に、大和くんも触れてしまったのですね」

 

 

 葵冬馬は一度その信じがたい存在に触れてしまった、大和に近しい立場にいたのだ。

 

 

「……? 冬馬?」

「ユキたちを巻き込みたくないという気持ちに関しては、激しく同意、というやつです。あんな奇妙奇天烈不可思議な存在に触れて、気でも狂れてしまわないかと切迫感に支配されてしまうのも無理はありませんね」

「なんだか、直江と若だけ別次元で話をしてるみたいだな」

「そりゃそうだ。別次元の話をしてるんだからな。井上、言い得て妙だったぜ?」

 

 

 準と小雪は全く理解できない話を、大和と冬馬は感覚で共有することができていた。理解できていない二人の心情を一言で表すのであれば――――

 

 

 ――――面白くない。

 

 

 これに尽きるだろう。

 

 

「それより大和。僕のことはいいから手伝わせてよ!」

 

 

 いい加減にしびれを切らした小雪が大和の肩を掴んで揺さぶり抗議した。がっくんがっくんと前後に、それも運動神経が基本的に高いSクラスの中でもトップクラスの女子である小雪の全力で揺さぶられた大和の脳みそは、バーテンダーの振るシェーカーの中に入れられた氷のようにかき混ぜられていた。ただし、中の氷は砕けないため大和の脳みそも何とか生き延びている。

 ぐわんぐわんと揺れる頭のせいで視界は歪み、五感はまともに機能していなかったが、大和はフラフラと頭を揺らしながら何とか小雪を見据える。

 

 

「や、やるべきことはもう終わったよ……。あとは待つだけなんだ……」

「じゃあ、僕たちができることはないの?」

「それは……」

「いや、手伝うことはあるぜ!」

「え?」

 

 

 大和がやるべきことは終わった、尽きたんだと伝えた直後、準はそれに反抗する態度を見せた。

 

 

「たった一つだけ、直江を手伝えることがある!」

「たった一つだけ……ですか?」

「ああ、とっておきのやつだ!」

「何か不安を掻き立てられるが……聞こう。それはなんだ?」

「直江には今、心の支えが不足していると見た。お前には安堵、休息、癒しが足りない!!」

「おー! 準が熱いのだ!」

 

 

 無駄に熱血漢を演じる準、それを煽てて盛り上げさせる小雪。それを遠めに見て微笑む冬馬と呆れ顔の大和。当事者がここまで他人ごとだと思いながら話を聞いていることは、そうそうあることではないだろう。

 

 

「だからよ直江。愚痴でもなんでもいい。辛くなったらユキに頭を撫でてもらいながら膝枕で寝ろ!」

「――――は?」

「なんだ? 膝枕より添い寝の方が良かったか? なかなか上級者ぶべらっ!?」

 

 

 準の発言に数瞬意識が飛んでいた大和が言葉を取り戻すよりも先に、小雪が高く振り上げた足を準の頭頂部に叩き込んでいた。所謂踵落としである。

 

 

「な、何言ってんだよ井上!?」

「く、ぐはっ……。痛え、痛えよユキィ……」

「馬鹿なこといったバツなのだ!」

「馬鹿なことじゃありません!」

 

 

 地面にめり込んでいた頭を力技で地面から抜いた準は、大和と小雪が引くようなレベルの形相で自身が真剣であるとアピールした。

 

 

「膝枕ってのはな、性的感情を与えないスキンシップの代表だ! 安心感と癒しを提供する最大の親愛表現だ! 知ってるか、膝枕ってのは母親が最も子供にしてあげる回数の多いスキンシップだということを! 想像してみろ、小さい子が自分より大きな彼氏に膝枕させてあげる情景を。俺は好まんが想像してみろ、お姉さんが正座をして手招きしてくる姿を。膝枕こそ“一般人が妄想するシチェーションランキング(葵紋病院調べ)”上位五%に食い込む! 心に支えが足りない、家族と離れている、癒しを求める、これらを一気に解決するのは膝枕に他ならん!」

「なるほど、一理あります」

「ねーよ! 何で厳粛に受け止めて真摯な応えを出してんだ葵! ユキ、お前も何か言ってやれ!」

「えーっと、僕は大和がしたいなら別に……」

「可愛く恥じらってらっしゃる!?」

 

 

 葵ファミリーの残り二人がが準の説得により篭絡させられる。四面楚歌、孤立無援、多勢に無勢。準の変態的力説は大和以外の人間をその気にさせてしまった。

 

 

「大和くん。私はいつでもウェルカムですよ?」

「お前に膝枕してもらうつもりは毛頭ねぇ」

「そうですか、大和くんは頭を乗せてあげる嗜好でしたか」

「なんだよその奇妙な曲解!」

「大和は僕の膝枕で、寝てみたい?」

「うっ、上目遣いは、卑怯だぞユキ……」

「委員長の膝枕とかいいなぁ……。足が痺れてきてキュッと目を瞑っているんだが、「大丈夫? 降りようか?」って気を遣おうとすると「だ、大丈夫です! 井上ちゃんは寝ててください!」ってさらに気を遣われるんだが、降りてあげたい慈愛心といじめたい悪戯心がせめぎ合って興奮する。そうだろ直江」

「その妄想の委員長をマルさんに替えてくたばれ」

「年増っ! 肉の塊っ! そんなムチムチしすぎた膝枕なら岩石の方がマシだっ!!」

 

 

 あまり納得がいかないが、くだらない会話で疲労を解消できた大和と、膝枕の約束を取り付けておいて満足気な小雪だった。

 準のくだらない膝枕の布教で、小雪の素行調査は一旦幕を閉じた。

 

 





 知らざるを知らずと為す是知るなり

 孔子

 ◆◆◆◆◆◆

 ギリギリ二週間以内の投稿になります。試験が被りこれ以上伸ばすとさらに一週間はかかってしまうため、見直しする暇もなく投稿してしまいました。拙い文章が拍車をかけて汚い文章になってしまたよな気がします。申し訳ありません。

 次回から、少し不安な回が始まります。以前書いたことなる内容と、いま頭にある内容を組み合わせて一つの文章にしようとすると、どうしても食い違いが生じてしまいそうでして……。不安なまま筆を執ります。アマチュアは勢いです。

 MNSコンテスト、引き続きリストアップしていきます。前回は下位十四名を発表させていただきました。今回は平均的位置、中央の十名をリストアップ。

  史進  CBCSA 総評B 16
 橘 天衣 BBBAB 総評B 16
 武蔵坊弁慶 SBABC 総評B 17
 ステイシー SBBAC 総評B 17
 李静初  BABAB 総評B 17
 クリス  CACAS 総評B 17
 忍足あずみ BSBCA 総評B 17
 板垣天使 SBSBC 総評A 18
 源 義経 SASBC 総評A 19
 葉桜清楚 AASBC 総評A 19

 まだ20点に到達する選手、元いキャラはいませんね。加えて、D評価なんて無様な判定を出したキャラもいません。これくらいのバランスが一般的なのかもう感覚が麻痺していますが、だいぶ評価Sが目立ってきました。
 無印ヒロインは残り一人、Sヒロインも一人。残りはサブと、攻略対象ですらないキャラ。
 不肖霜焼、最大の誤算はやはり羽黒の存在でした。

 予告。リストアップを、五名単位で詳しく。


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第二十五帖 黒髪の乱れも知らずうち臥せば――――

――――まづかきやりし人ぞ恋しき


和泉式部


 

「牛飯おまちどーさまでーす!」

「梓、三番さんにこれ頼むわ」

「はーい! ネギ塩豚カルビ丼お待ち―!」

 

 

 元重傷者、南浦梓は怪我を八割がた治しバイトに勤しんでいた。

 本日の梓のバイトは朝から夜まで梅屋。梅屋は定番な牛飯を売りとした全国的なチェーン店であり、ここ川神支店でも多くの人が訪れるという。一番人気は勿論牛飯、他にもカレーやその他丼物を扱ったりとメニューも豊富。ハンバーグなども定食として扱っており、育ちざかりの学生たちが好んでここで食事を摂るという。それ故、この牛丼店は昼と夕方に山場を二回迎える。

 一つ目の山場はある意味厄介な三人組をキリとして迎え、現在夜の山場を越えようとしていた。

 

 

「ふー、これで一段落ですかね」

「そうだなぁ、波も去ったし、そろそろ俺らの賄いの時間だ。へっへっへ……。豚丼単品とろろ、最高の組み合わせだよなぁ……」

「釈迦堂さんがそうやって刷り込むから、私もそれが楽しみになっちゃったじゃないですか。お客さんにも軽く刷り込んでるし……」

「新規のお客さんには効果抜群だぜ」

 

 

 梓と共に賄を食べようと、自ら豚丼と単品のとろろを装うエプロン姿が恐ろしく似合わない男、釈迦堂刑部は嬉々としていた。

 刑部は元川神師範代であり、暫く前までは無職でだらけた生活を送っていた。そんな折、九鬼家の執事であるヒューム・ヘルシングによる制裁が下る。ヒュームとの一騎打ちに負けた釈迦堂は、条件として掲げられていた“就職する”ということを飲んだ。その就職先のリストから選んだのが、この梅屋。刑部は梅屋のヘビーユーザーで、金があれば梅屋の豚丼(プラス単品とろろ)という本人の思考の組み合わせを食していた。その梅屋に就職すると、賄でそれが食べられるという。金も入って、自分の大好物が食べられる。刑部曰く、梅屋は天職であると語っていた。

 

 

「ここに納豆を入れてもおいしいらしいですよ?」

「あー、前に松永の嬢ちゃんが来た時にそれやってたわ。ま、俺はこのままでいいけどよ」

「生憎ここに松永納豆がないので試せませんが、今度一口食べてみます?」

「気が向いたらな」

 

 

 とろろの粘り具合が食を速くするのか、二人はささっと賄を食べ終わり、休憩時間を素早く終わらせて再び仕事場に戻る。と言っても、先程大量の人を捌ききって終えたばかりだったので、客足は相当少なくなっていた。カウンター席にポツポツと人がいる程度、新聞紙を読みながら牛飯を食べるサラリーマン、雑誌を読みながら注文した商品を待ちわびている老人、その程度しか目につかない。子連れの家族や持ち帰りの注文客は綺麗さっぱりいなくなっていた。

 そこに新たに客が入ってくる。

 

 

「らっしゃーい!」

「いらっしゃいませー!」

 

 

 梓と刑部は声を揃えて客の対応をした。その新しい客の顔を見て、刑部は分かりやすく口を歪めて不機嫌そうな態度をとる。

 

 

「んだよ冷やかしか? 冷やかしはお断りだぜ?」

「ふん。貴様の勤務態度を推し量りに来たに決まっているだろう。どうやらしっかりと働いているようだな」

 

 

 梅屋に入ってきたのは金髪の老執事だった。梓は武の素人ながらも、老執事から発せられている恐ろしい威圧感に体を委縮させてしまっていた。しかし、梓が体を委縮させてしまっている理由はそれだけではなく、梓の隣にいるエプロン姿の刑部からも驚異的な殺気が発せられていたからだ。執事と店員、二人から発せられている殺気に近い闘気は、店内の体感気温を一気に五度近く下げてしまった。

 

 

「……で? 本当にどうしたんだ、ヒュームさんよ。いつもは別の従者に任せているくせに」

「……ふん、監視ついでの夕食だ。今日はこいつに褒美と詫びを兼ねてここの飯を奢ってやることになっててな」

「ど、どうも……」

 

 

 おろおろと焦っていた梓が気になったのか、どちらも大人しく闘気をしまった。刑部はヒュームが闘気を簡単に収めたことが意外だったが――同様に、釈迦堂が簡単に闘気を静めたことも、ヒュームにとっては意外だった――ヒュームの後ろから顔をのぞかせている少年と、今のヒュームの説明でなんとなくの意図を理解した。

 

 

「そいつ、強いのかい?」

「弱い。そこそこ評価はできるが、壁を越えているどころか、壁すら見えていないだろう」

「あん? なら、なんだってそんなのに世話焼いてんだよ? もう一人の執事にでもやらせりゃいいだろうが」

 

 

 当てが外れた刑部は疑問符を頭に浮かべていた。ヒュームが他人に興味を持つということは滅多にない。彼がやる気と本気を出すのは、彼が仕える九鬼の為に身体を張る必要がある場合、若しくは、ヒュームの戦闘意欲が揺さぶられる程の強敵に相対した時だと、刑部はそう認識していた。幾分か自制の効く戦闘狂(バトルマニア)、刑部がヒュームに抱くイメージはこれに尽きた。

 しかし、目の前に――正確には、目の前にいるヒュームの背後に――いる少年は弱いと、ヒュームは断言した。さらに、それが嘘でないことも、刑部は少年の気配から読み取れていた。何かを隠している様子はなく、実に一般人と呼ぶにふさわしいような気配しか感じ取れなかった。正確には、一般人と認識せざるを得ないような空間がそこにはあった。

 だからこそ、刑部は疑問しか浮かばなかったのだ。こんな弱弱しい子供相手、しかも左腕を三角巾で吊るした怪我人に、かのヒューム・ヘルシングが褒美を与えることが、この自信家である男がお詫びを与えることが、刑部にとっては謎以外の何物でもなかったのだ。

 その刑部の訝しげな態度を見て、ヒュームは補足する。

 

 

「弱い、が、目を見張るものがある」

「へぇ。対してそんな風には見えないがね」

「侮らん方がいい。こいつはお前よりも長く俺と戦い続けられたんだからな」

「なに……?」

 

 

 ヒュームの挑発的な比較の仕方に、刑部のこめかみの血管が浮きあがった。僅かに血の気が増した、隣にいる梓もそれを感じ取っていた。

 

 

「十分は余裕で持っていたな。始めは三分以内で決めれると思ったが」

真剣(マジ)かよ……。俺でも五分が限度だったぜ……」

「ふん、五分も持っていたか?」

 

 

 ヒュームの更なる挑発的な言葉に、刑部もまた解りやすく殺気を顕にした、その時――――

 

 

「いい加減にしてください!」

 

 

 スパーン! と、乾いた気持ちのいい音が店の中を響き渡った。

 

 

「痛っ! 何だよ梓……」

「何だよじゃありませんよ! 今仕事中ですよ!? しっかりとした対応をしてください!」

「へいへい……。つーか、いつもどこからハリセンなんか取り出してんだよ……」

 

 

 刑部は叩かれた頭を摩りながら、渋々と厨房に戻っていった。これ以上ヒュームの前にいると何をしでかすか分からないと、自信を客観的に見ての行動だった。

 

 

 ――――いい飼い主が手綱を握っているようだな。

 

 

 刑部が背中を丸めて厨房へ戻っていく姿を見たヒュームは、刑部の危険性についての判断を少しばかり緩めることにした。環境によってか、因果によってか、刑部の抜身の刃物のようだった危うさは、少しづつ鞘に収まり消えていったと感じ取ったのだ。

 そのように頭の中で自己完結したヒュームは目を閉じて一度頷いた。そんなヒュームに対しハリセンを向けた梓が叫ぶ。

 

 

「お客さんも! 注文する気がないなら追い出しますよ!? 周りのお客さんにご迷惑です!」

「ふっ、まあいい。牛焼肉定食、ダブルで特盛だ。お前はどうする」

「じゃあ……。無難に牛飯特盛で。千キロカロリー超えてるけど大丈夫かな……」

「若いくせに何をほざいている。ガッツリ食ってもっと大きく成長しろ」

「かしこまりました。くれっぐれも! 喧嘩はしないように!」

 

 

 苛立っている梓はハリセンを担いだまま注文を受け、その料理を仕上げようとその場から退いた。

 そこに残されたのは先程注意されたばかりのいい大人と、何故こんなにもいきなり喧嘩腰のムードになってしまったのかついていけない少年が一人。少年の脳内は困惑する一方だった。

 誰でもいいから二人きりにしないで欲しい。そう頭の中で懇願する少年の下に、キムチを運んできたもう一人の元凶が現れる。

 

 

「悪いな坊主。ほれ、お詫びのキムチ」

「は、はは。ありがとうございます」

 

 

 笑うしかなかった少年は。ははははと笑いながらキムチをつまんだ。ただのキムチでなく、カクテキをチョイスした刑部に少年は親近感を覚えたという。

 

 

「おい坊主、名前は何つーんだい?」

「い、伊那渕です」

「確かに聞いたこともねえ名前だ……。で、お前さんがヒュームの攻撃から耐えたってのは本当なのかい?」

「まともに当たってないですけどね……。掠っただけだし」

「…………? おい、話が違うじゃねーか」

 

 

 渕が自分の左肩に視線を落とし、気分も僅かに下降させながらそう呟いた。襟から除く包帯と固定器具が、その左肩が損傷していることを示していた。その言葉と左肩の状態がさらに刑部を混乱させてしまう。掠っただけで骨に損傷を負い、大した気も扱えやしない一般人が、ヒュームの賛辞の対象になっていることが、不可思議で仕方がなかったのだ。

 その疑問を解消すべく、ヒュームは言葉を紡ぐ。

 

 

「言い方を変えれば、一撃もまともに入らなかった。この身体から生み出せるとは到底思えないような瞬発力でな。加えて、俺に入れた拳はいい刺激だったぞ」

 

 

 刑部は耳を疑った。自分が対峙した時よりも長い時間、一度もヒュームの攻撃を食らわず回避し続けるという芸当がいかに驚異的なことであるのか、一度ヒュームと戦ったことのある刑部は十分に理解していた。ヒュームが年老いてもなお現役と言えるその根本的理由の中に、強さが維持されているということに加え、その速度が衰えるどころか洗練されているということがある。実際にヒュームと戦った時の刑部の感想として、あの年齢からは考えもつかないような速度であったことは忘れられもしなかった。

 老い耄れだからと舐めてかかった刑部も刑部なのだが、それを差し引いてもヒュームの速度は異常であった。それを回避し続けたこの少年に、刑部は興味を惹かれた。

 

 

「で、伊那君よお。その回避の秘密ってのはあんのかい?」

「えっと、何でしょうね?」

「こいつは無意識で俺の攻撃を回避していたらしい。どうやって俺の攻撃をかわし続けていたのか、全く覚えていないらしい。攻撃に関しては記憶があるようだが、それを実行に移すことができなくなったようだ」

「あんだって?」

「興味が惹かれるだろう? 野生じみていて、貴様に近い」

 

 

 ヒュームの顔は実に不敵な笑みを浮かべており、刑部もそれに似かよった笑顔を浮かべていた。そんな二人の興味の惹かれる対象となった当人である渕はというと、これ以上ないくらいに怯えながらキムチを食べていたという。

 

 

 ――――神様、貴方はなんて残酷で冷酷で理不尽なんだ。

 

 

 渕は人生の中で最も全力で神様を呪っていた。

 

 

 ――――失礼な。感謝されこそすれ、呪われる謂れはないよ、この影法師め。

 

 

 呪った瞬間、何やら逆に叱られたような気分に陥った渕であったという。

 

 

 

「今度お手合わせ願いたいね」

「やってみろ、度肝を抜かれる」

「僕に拒否権はないの……?」

 

 

 渕は二匹の腹を空かした猛獣に目をつけられて、完全に泣きそうになるほど萎縮していた。そんな様子を見るに見かねてか、タイミングを見計らったかのように梓が割り込んでくる。

 

 

「はい、牛焼肉定食と牛飯お待ち! さっきも言いましたけどね。あまり好戦的な態度は控えてくださいな」

「おー、そうだ思い出した。梓、お前もそこそこ強いよな?」

 

 

 両手に注文された品々を抱えて戻ってきた梓を見て、何やら思い出したかのように刑部が梓に話し掛けた。

 

 

「何ですかいきなり」

「脚技に定評があるじゃねぇか。脚にだけ特化してるからよ、そこら辺は俺よりも強いんじゃねぇの? 治癒も異常そのものだしよ」

「ほう、それは興味深い」

「普通に飯が食えないものかね……。これならクラじいさんの方がよかったかなぁ。恨むぜ委員長……」

 

 

 またしても険悪なムードに突入しそうになっている三人を他所に、渕は静かに頼まれた牛飯をパクパクと食べ進めていた。牛飯の上には、気に入ったのか、残ったカクテキが投入されていた。

 渕が牛飯を食らう顔色は決していいものとは言えなかったのは、言うまでもない。

 

 

「どれ、一つ芸でも見せてみろ。どの程度の赤子か見定めてやる」

「――――いい加減に、もうホンットに! 解りましたよやってやろうじゃないですか!! 店長! 今日は体調と気分と機嫌が優れないので帰らせていただきます!!」

「あー、店長今いないから俺が代理で許可しとくよ。行ってきな」

「どんな赤子か……品定めでもしてや――――」

 

 

 ヒュームが自身の注文した品を瞬時に胃の中へ流し込み、箸を置いて席を立とうとした瞬間、ヒュームの表情が一変した。

 

 

「立ち上がりが遅いですよ? やっぱり年老いてるんじゃないですか?」

 

 

 梓はカウンターから姿を消し、ヒュームの背後に立っていた。以前、百代に自分がしたことをそっくりそのまま返されている気がして、ヒュームの心の奥にある何かに火が着いたらしい。

 

 

「先に外に出てますね」

 

 

 その言葉を残し、梓はまたしてもヒュームの背後から瞬間的に姿を眩ました。

 

 

「なるほど、ただの赤子ではないようだ……」

 

 

 同様にヒュームも姿を消し、ヒュームの座っていた席にはヒュームと渕の注文した分の代金だけが残されていた。

 そして、ヒュームが出ていったにも関わらず自分の牛飯を食べ続ける渕に、刑部が好奇心たっぷりの視線を送りながら話しかける。

 

 

「行かないのかい?」

「僕は晩飯を食べに来たんです。態々好き好んであんな化物に着いていきませんよ」

「ははは、そりゃ同感だ」

 

 

 そんな刑部との会話を食事を摂りながら行っていた渕だったが、渕も渕で、ここ最近の不幸なトラブルによって回りの視線に敏感になったようであった。

 

 

「……何が同感なんだか、さっきからこっちのことジロジロ見てきて」

「ありゃ、ばれちまったか」

「普段人に見られることが少ないもんで、他人から見られることに関しては敏感で。ヘッドフォンさえしてなければ」

「どうだい、俺ともやらねぇか?」

「ご遠慮させていただきます。僕はただ、平和に平凡に、穏やかな人生を送りたいんです。誰にも理解されず生きてきたせいか、人付き合いってのもよくわからないですし」

 

 

 そう言い放ち、渕は牛飯をかっこんだ。

 

 

「ご馳走さまでした。もし僕を襲おうってんなら、その時は容赦なく……逃げるからね」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 梓とヒュームは多馬川の土手まで足を伸ばしていた。誰にも邪魔をされたくないというのと、広い場所の方がやりやすいという点からここは選ばれた。因みに、梓がここに訪れるのは準に説教じみた説明をするために訪れたことを含めて二回目である。

 

 

「こんなことしたくないんですよ、私は。学園止めてまで仕事してるんですから邪魔はしないでくださいよ」

「たかが一日、それにバイトの給料だ。なんなら俺が慰謝料としてそれぐらい出してやろう」

「ホント、聞き分けのない爺さんだこと。そんな解決方法、私の神経逆撫でしてるだけだろうが」

 

 

 梓の苛立ちが顕になり、口調が汚くなってしまっている。それを見ているヒュームは実に楽しそうだった。挑発する側と言うのは共通して優位に立っていると思っていることが多い。そのため、顔が綻んでいたり、余裕綽々の態度を取ったりと、挑発をより有効にする行動をとりやすい。

 それは勿論、ヒュームにも言えないことではない。その上、ヒュームの場合は優位に立っていると思っているその自信が突き抜けており、その自信に見合った実力があるのだから手が付けられない。伊達に現役を名乗っている訳ではないと鉄心に言わせた程である。その思い上がり、慢心は、渕が大好物としているものであり、渕が呪った神様もどきが呆れるほどのものだった。

 しかし、梓はその挑発に乗らない。いや、乗る必要がないのだ。梓は先程の梅屋での一悶着で、既にヒュームに対する怒りは最高潮であったからだ。

 

 

「普通に戦っても面白くない。条件を付けよう。お前は俺に膝をつかせれば勝ちにしよう」

「どうでもいい。私は鬱憤を晴れせられればそれで充分」

 

 

 梓はほとんどヒュームの言葉をまともに聞こうとせず、右足で跳ねて左足で着地、左足で跳ねて右足で跳ねるという軽やかなステップでヒュームの出方を窺っていた。そのステップは川神百代鎮圧作戦の際にも決して見せなかった、本気の決闘態勢。

 

 

「先手はくれてやる」

「どこまでも人をおちょくって……!」

 

 

 梓のステップの感覚が短くなった。今にも飛び出しそうな気配が強まったのにも関わらず、ヒュームの余裕綽々な態度は依然として変わらない。

 

 

「そんじゃ、やってやる!!」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「南浦梓、彼女の成長具合は目を見張るものがある」

 

 

 蕎麦饅頭を人差し指の上で回している朧はそう言った。まるで食べ物をバスケットボールの様に扱っている朧に呆れる鉄心であったが、神出鬼没この上ない朧に呆れてももう意味がないということを思い知らされている。ここ最近は朧の奇行にも耐性が出来てきてしまっていた。

 

 

「彼女は元々素質のあった美しい脚に、ぼくは更なる力を加えることにした」

「何故じゃ? 素質、お主の言うところの“天賦の才”がその脚に与えられているのであれば、他の部分に力を与えるというのが道理ではないのか?」

「道理? それは君の物差しだ。天地開闢から今に至るまで生きてきたぼくの考えが、たかが百数年しか生きていない若造に理解しきれると思うな」

「解った解った。それで? ワシの道理では分かりきれないお主の考えは?」

 

 

 朧の高みから見下したような、年下を揶揄しているような言い方に、鉄心は年下を諭すような態度で流すことにした。それが朧にも悪い印象を与えず、鉄心自身も楽であったために、鉄心はいい方法を見つけたとほくそ笑む。

 

 

「うん? ああ、六人全員が同じような施術を施したとは言えないと言いたかったのさ。君が三人目として確認した大道寺銑治郎に与えた力は一番スタンダードで解りやすかっただろう?」

「“目”、か」

「そう。あれは全く才能の無かった部分に才能を与えたんだ。銑治郎は元々剣士を翻弄するような策士タイプではなく、一撃でねじ伏せる荒くれ者の剛剣タイプだったのだよ」

 

 

 銑治郎は朧の言葉に驚愕を隠しきれなかった。もし隠しきれていたとしても、朧がその感情を理解できない訳がなかったが。

 鉄心は銑治郎の戦いぶりを、立会人となっていた百代や、実際に戦った義経から、銑治郎の戦闘スタイルについての話は聞いていた。しかし、それがたった二年で上書きされたものだとすれば、鉄心の驚きも理解できる筈だ。一から体得した剣技が、伝説と拮抗したという事実は明らかに異常である。偉人、源義経の剣技と渡り合える程の剣技が二年で培われたものなどと、朧の存在を知らぬものがどうして理解できようか。存在を認識している鉄心でさえこれ程驚いているというのに。

 

 

「これがスタンダードなものだよ。突然与えられた才能に応えるよう、身体が驚異的な進化を遂げるのさ。それで、南浦梓はそれとはまったく違うのだよ」

「と言うと?」

「最初から与えられていた才能に加え、これでもかと力を与えてやったその脚は、本人の意思に応えるような動きをする。それがどれ程のものか、例えるなら――――」

「例えんでもええわい。お前さんの例えで通じることが少ない」

「失敬な。まあいいか、南浦梓の脚は、間違いなく人類最強だよ」

「それを例える必要があったのか――――待て、人類最強?」

「うん、人類最強」

 

 

 鉄心の度肝を抜かされた反応に、自らの策が巧く行ったことに満足する朧の笑顔は、近年で言うところのドヤ顔というものを浮かべる。したり顔とも言えるが、とにかく朧は得意満面。鉄心を驚愕させたことに一種の優越感を感じていた。

 

 

「ワシでも勝てんのか?」

「別に勝てないと言ってる訳じゃないよ。ただ、脚の能力だけ抽出して比べるのであれば、人類では敵なしだということさ。ちゃんとした戦いなら君でも勝てるさ。上半身にはそこまで力が回ってないから。ま、甘く見ない方がいいよ。彼女の脚から繰り出される技の数々は、それこそ常識を覆すものばかりだから。そうだね、あのヒューム・ヘルシングみたいに赤子赤子と舐めてかかったら、痛い目を見ることになることは、天地開闢から今に至るまで生きてきたぼくが保証しよう」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「ぐおっ……!?」

 

 

 僅か一瞬の出来事でヒュームは膝をついていた。それを見下ろしているのは、大手チェーン店のエプロンをはためかせている元女子高生、南浦梓だった。

 

 

「ぐっ……! いい蹴りだ……。俺が見えんとは……」

「まだ喋れるんですか。こめかみあたり蹴ったから三半規管グラグラなはずなのに。ん? 三半規管グラグラって日本語はおかしいのかな?」

 

 

 ヒュームが梓を挑発してから膝をつくまで三秒とかからなかった。

 先手を譲ってもらった梓は、全力で相手をすることを決意した。ヒュームには見えない速度で事を終わらせようと決断した。その意思に反応した梓の脚は神がかり的な動きを発揮した。

 まず初動、片足で交互にステップを刻んでいた梓は右足で踏み切り、ヒュームに背後を見せるような形で突撃した。狙いは空中での左足の後ろ回し蹴り。それはヒュームにも読めた。やれやれといった具合でヒュームはそれを回避しようと軽く右に避けた。

 その時、梓の動きは驚異、いや、ありえない動きを見せた。

 まるで梓を軸とした反転機がそこに存在していたかのように、空中で梓の回転が逆になった。つまり、梓の回し蹴りは左側ではなく、右側に襲い掛かるようなものに変貌した。

その動きは完全にヒュームの不意をついた。その梓の回し蹴りは反転した瞬間に速度をさらに上げたのだ。それも、ヒュームが見えない程速く。

 

 

「空中で全く逆のベクトルを発生させた……。常識外の動き、か」

「立ち上がらないでほしいですね。それに、私の勝ちですよ? もう襲わないでくださいね。あと、今後あの店でははしゃがないこと! 確約してください」

「敗け、俺が、か――――ふ、ふふふ……くっくく………………はっははははははは!!!」

 

 

 面倒くさそうに自身の勝ちを宣言した梓とは裏腹に、自身の敗北を自覚し高らかな笑い声をあげるヒューム。勝者と敗者、行動が全く逆と言う奇妙な空間がそこに発生していた。

 

 

「いいだろう。なら第二ラウンドだ。今度は容赦はせん」

「はあ? ちょっといい加減に――――」

「何が第二ラウンドですか、いい加減にしなさい」

 

 

 梓が苛立ちを最高潮に再び構えを取ろうとした瞬間、ヒュームの後頭部が勢いよくはたかれた。スパン! とよく乾いたいい音が多馬川の土手に響き渡り、ヒュームと梓は目を丸くしてしまう。

 

 

「私、九鬼従者部隊序列三番、クラウディオ・ネエロと申します。この度は身内がご迷惑をおかけいたしました、南浦梓様」

「は、はあ……」

「直ぐに引き取ります故、どうかご容赦を」

 

 

 突如現れたクラウディオと名乗る老執事がペコペコと頭を下げ謝罪をしてきたので、どちらかと言うと戦闘モードにスイッチを切り替えていた梓にとって、正直なところ拍子抜けであったという。もし梓が体内にエンジンを蓄えていれば、プシューッ! という音と共に蒸気を体中から発生させて沈静化していたことだろう。

 

 

「ほら帰りますよ。主を守るということを忘れて戦いに没頭しないでいただきたい」

「……解った。おい、お前は赤子から相当マシな赤子だと認識を改めてやる」

「いいからさっさと帰りますよ。大事な案件があります」

 

 

 梓の前から二人の老執事が姿を消した。多馬川には梓だけが取り残される。

 梓は二人がいなくなったのを確認し、多馬川の土手に大の字で倒れこんだ。腕が、脚が、体がぶるぶると急に震えだし、梓は身を屈めて縮こまってしまった。

 

 

「あー……怖かった。もう無茶な喧嘩なんかやんないからねっ!!」

 

 

 梓の叫びが多馬川に響き渡った。

 

 





 人間のことはなににてあれ、大いなる心労に値せず。

 プラトン

 ◆◆◆◆◆◆

 二週間周期が安定してまいりましたが、ここで残念かどうかはわかりませんので、私の不甲斐ないお話です。七月は試験とかぶるため、特に月末に関しては一切の執筆活動を停止します。とは言っても、完全停止ではありませんし、八月には呑気にキーボードを叩いていることが目に浮かびます。しかし、七月はなかなかハードなもので……申し訳ありません。七月の更新は恐らく一回できればいい方だと思われます。

 気を取り直してMNSコンテスト、上位10名の下位半分をご紹介。

  楊志   AABSB 総評A 19

 梁山泊からの刺客、青面獣の楊志さんです。こういった類のゲームに出てくる変態っていうのはイケメンか美女っていう相場が決まっています。モブは除く。絶妙な腰のラインがベネ。

 羽黒黒子 AABSB 総評A 19

 なんでコイツに関して褒めてやらねばいけないんだと、私の中の何かが訴えかけてきます。この不名誉なヒールレスラーの娘に、名誉ある「絶妙な腰のラインがベネ」なんて台詞を使わなくてはいけないことに私は苦しみます。この事件を、兵隊さんからいただきました「羽黒インパクト」と正式に命名させていただきます。

 榊原小雪 SASAC 総評A 20

 ようやく本命ゾーン、です。オッパイがでかすぎて損をした白兎こと小雪。ようやく20の大台です。ウエストがもう少し余裕を持たせていれば、具体的に言えばジーンズを履いてほんの少しだけ膨らみができるかできないかくらいのお肉があれば優勝確実でした。

 鵠沼さくら SASAC 総評A 20

 湘南の風来坊、さくらちゃん。どちらかというと風来坊は釈迦堂さんなので、異端児としておきましょう。それでも釈迦堂さんの方が異端児なので、無難に全年齢限定キャラとしておきましょう。生しらす丼はヘルシーすぎます。もっとお肉つけてください。手のひらでそっと支えるとフニッというオノマトペがぴったりなくらいに。

 九鬼紋白 AASAB 総評A 20

 惜しくもトップ5入りならず、新妻紋様です。まだまだ発育途中というポテンシャルの高さを秘めていながらこの美しさ。そりゃロリコンなんて性癖ができますしロリコニアなんて秘境が誕生しますよ。GAOー。少しお胸が慎ましかったかなー、Cカップですけど。
 

 予告。いよいよ大詰めMNSコンテスト。


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第二十六帖 世の中よ道こそなけれ思ひ入る――――

――――山の奥にも鹿ぞ鳴くなる


藤原俊成


 

「鎖骨って、上半身の恥骨って感じがするよね」

 

 

 葵ファミリーが仲睦まじい家族を彷彿とさせるような言動を用いつつ探偵の真似事をしていた頃。早退という形をとって九鬼家の極東本部にとんぼ返りしてきた九鬼英雄が出会ったのは、背中に付けられた医療用のバンドを羽交い絞めのように締め付けられ、強制的に胸を張らされながら低俗なことを口走る少年だった。

 九鬼財閥極東本部は大扇島に高く高くそびえ立っており、厳粛、高貴といった世界の違う印象を与えてくる建造物だ。その高貴な結果、好奇な目を向けられることも少なくない極東本部に、このような一般的怪我人が一室与えられることは例外中の例外である。

 個室といっても、少年が寝ているベッド。英雄が腰掛けている椅子とセットのテーブル。何がしまってあるか分からないクローゼット。ただそれだけの殺風景な部屋で、もてなしの心など一切感じられない質素なものだった。

 

 

「だってさ、グラビアとかモデルさんとか、デコルテ見える時が一番興奮するじゃん。あのスゥ……と膨らんだ丘がまたね」

「おい伊那よ。貴様、置かれている状況が分かっておらんのか」

「……まだ拷問じゃないよね。レベルは三って感じがする。尋問だ」

「そうだ。故に我の言いたいことが分かるな?」

「黙って聞かれたことにだけ答えろって? クラスメイトに酷い待遇だよ」

 

 

 怪我人、伊那渕が九鬼極東本部に半ば強制的に連行させられた待遇は、確かに病人や怪我人に施されるようなものではなかった。両手は見たこともない形をした手錠で繋がれ、両足はガッチリとベルトでベッドに固定されていた。ベッドということだけ見れば正しく病人や怪我人の扱いだが、拘束されているという事実がそれをあっさりとひっくり返し逆転させる。

 しかし、そんな状態でも渕は笑ってみせた。これぐらいどうってこともないと威嚇しているようにも見えるし、害がないと理解しているからこそ安心しているようにも見れた。

 実際は、英雄が考えている複数の理由のどれにも当てはまらない、渕はただ、一年以上一緒のクラスであった九鬼秀夫と、状況はどうあれ会話が成立していることに満足しているだけなのだが。

 しかし、それでも自身が無視されてきたという状況に納得しきっている訳ではなく、ほんの少しだけ悪戯心が芽生える渕は、言葉の節節に刺を生やす。

 

 

「まあいいや。今まで無視されてたんだから、気づいた時に構ってくれるだけましなのかな?」

「…………我には信じがたい。我やトーマたちだけでなく、あずみの目まで出し抜くという偉業がな」

「忍足さんか。どうせどっかから俺のこと見てるんだろうけど……。堂々と姿見せてくれたらいいと思わない?」

「我の希望だ。お前と一体一、腹を割って話したいとな」

「……へぇ」

 

 

 至って真剣な表情の英雄に、渕は目を細めて感心したように声を漏らした。一体どんな言い訳を述べてくれるのか、どんな弁解を供述してくれるのか、渕は心の底で楽しんでいた。

 

 

「危険人物とか言われてるんだよね、俺。よくもまあ、一人で相対しようと思ったもんだよ」

「俄かに信じ難いことである。一年、いや二年。同じ級友であったお前を覚えていられないなどという愚かな我を」

 

 

 そこで渕は首を傾げる。若干だが、渕が想像していたよりも話の矛先がずれ始めていると感じたのだ。もはや質問でも諮問でも尋問でも糾問でも拷問でもない。責め立てられている気は一切しないし、かと言って回りくどく誘導されている気配すら微塵も感じられなかった。

 この状況に最もふさわしい言葉はなんだろうかと考えつつ、英雄の話を聞いていく。

 

 

「我はこの学園の生徒全てを、熟知とまではいかないが、浅く知って覚えているつもりであった。勿論、名前と顔程度だ。趣味や特技などは興味を持ってから深く調べる。人材確保も含めて、だ」

「九鬼の御曹司ともなると、大変なことをさも当然のように言い張るね。でも――――」

「――――そうだ。我はそのさも当然のように言い張っていたことを、できていなかった。伊那渕、お前のことは何一つ記憶にない。昨年度の学年末試験において四位という実力、そんな優秀な人材を歯牙にもかけずに生きて来たということが、何よりの恥だ!」

 

 

 ダンッ! と、英雄が机を叩いた音が嫌に響いた。響いたといっても、室内を反響して増幅しただとか、そういう類ではない。渕がその光景を見て頭と心を響き揺らされてしまったのだ。感動や感心ではない、驚愕や仰天といったものだ。

 その心の振動、心動が渕の嗜虐態度を崩壊させる。

 

 

「ちょ、何なに!?」

「抑えられぬ悔しさが溢れ出た八つ当たりだ!」

「いや何で!? 悔やむほどじゃないでしょ!」

「王は民を護ってこそ王! その護るべき民を知らぬ存ぜぬで通すとはなんたる失態かぁ!!」

「お、落ち着いてよ委員長!」

 

 

 

 

 渕は漢泣き寸前の英雄を前にして、ようやくこの場を占める雰囲気を理解した。質問でも諮問でも尋問でも糾問でも拷問でもなく――――懺悔。

 

 

 英雄が渕にしようとしていたのは、ありとあらゆる痛めつけを駆使した責めではなく、誠心誠意必死の謝罪だった。先程自分に対する責めの気配が感じられなかったのは、責めの矛先が英雄自身に向かっているからだと渕は理解した。

 

 

「どこまですればよい! 何をもぎ取ればよい!」

「もぎ取る!? 何その発想! 果実じゃないんだからさ!」

「しかし! これでは示しがつかんではないか!」

「気にしすぎ! ちょっと初めに嫌味ったらしく接してごめんなさい! なんで俺謝ってるか分かんないから一旦落ち着こう!」

 

 

 英雄の示しのつけかたが渕の遥か斜め上を突っ切っていった。現代日本では切腹でさえ薄れてきているというのに、体の一部分を差し出すような行為はさらに時代錯誤である。一般人を自負していた渕にとっては見たくもない光景であろう。

 その豪快というか、振り切って余りある勢いに気圧された渕は思わず謝罪してしまう。こんなところでも簡単に鍍金は剥がれてしまうのか、などとくだらないことを渕が考えていると、英雄が漢泣き一歩寸前のところまで極まっていた。

 

 

「我はなんと情けない……。一人の級友すら己の記憶に焼き付けることができぬとはッ!!」

「あっつい、あっつい! いつも遠目で見てただけで熱かったのに、こっちにその熱源を向けるな! 暑苦しいわ!」

「王の愛を与えるには、勢いとッ!!」

「あだっ!?」

 

 

 渕の鎖骨が砕け散って治療を受けているにも関わらず、英雄は渕の肩をガシッ! と鷲掴みにし、渕の目元に涙を浮かべさせた。そしてほんの少しだけ後ろへ体を反らした英雄は――――

 

 

「抱擁だぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

 ――――上体を反らした反動を利用し、固定用のバンドごと渕を力いっぱい抱きしめた。

 

 

「いぎゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

「フハハハハ!! よいよい! よい肉付きだ! 背筋と胸筋が引き締まっているぞぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「紹介しよう! 妹の紋だ!」

「フハハハハ! 九鬼紋白である!」

 

 

 十数分後、激痛と暑苦しさに精神と体力を根こそぎ持って行かれた渕は、英雄が連れてきた渕よりも十数センチも小さい少女が、慎ましい胸を大きく張っている姿に癒されていた。英雄に似た暑苦しい笑い方をしているが、不思議と微笑ましく見えてしまう。

 

 

 ――――いや、俺はあのハゲとは違う。

 

 

 自分が少女に癒されている姿を客観的に見て、同じクラスの幼女嗜好の男子生徒を思いだして我に返る渕。今回癒されているのは、その前に触れた人物があまりに濃すぎることによる反動だと自身に言い聞かせる渕。しかし、どう弁明しようが傍から見れば変態そのものである。

 

 

「兄上! この者が例の暗殺者ですか?」

「否! こやつは伊那渕、我がクラスメイトにして新たな友だ!」

「おお! 兄上のご友人!」

 

 

 ――――この兄妹は常時喧しいのか?

 

 

 発言の一つ一つにエクスクラメーションマークがついているようなハキハキとした会話に、渕は僅かに目眩を感じてしまう。約十数年間を平穏かつ穏便、そして無関係に過ごしてきた渕にとって、九鬼兄妹の熱量は太陽のようで、輝かしさは額の十字傷が夜空に輝く一等星のように見えてしまう。

 それでも、渕は何とかコミュニケーションを取ろうとする。彼は近年患者が増加しているコミュニケーション障害という病にかかっているわけではなく、ただ経験不足なだけなのだ。

 

 

「は、はじめまして。伊那渕って言います」

「うむ! して、伊那殿!」

「ど、殿……?」

 

 

 ――――後輩からは先輩とかさん付けで呼ばれるもんだと思っていたけど、殿ってパターンがあるのか……。

 

 

 友人総数暫定二名――男色の無頼漢と目の前の熱血漢の二人――の渕は、ネットサーフィンや読書で得た知識と現実は違うということを思い知らされ、事実は小説よりも奇なりと心の中で反芻した。もっとも、この状況が極めて例外なだけで、渕の中にあった知識はほとんど間違ってはいなかった。

 

 

「伊那殿はヒュームの攻撃を回避し続け、ヒュームに拳を入れることができたと聞く。その理由は何故であるか、我に教えていただきたい!」

「え、説明するの……?」

 

 

 渕は紋白のキラキラと輝く瞳を前にして、しばらく考えた後に申し訳なさそうに(こうべ)を垂れて後頭部を掻いた。紋白の好奇心に答えを提示してあげたい気持ちはやまやまだった渕だが、それを事細かに説明し理解させる話術と語彙を持ち合わせていなかったのだ。

 

 

「実践して見せたら早いんだけど……。これじゃあ無理だね」

 

 

 渕は自身の両手に架せられた手錠をガシャガシャと鳴らし、行動できないことを大げさにアピールした。しかし、その程度のアピールで拘束が解かれるなどと、渕は微塵も思っていない。精々開放ではなく緩和だと、渕は自身の置かれている状況を達観し、諦観していた。ましてや、主を守る従者が一人もいない個室で、暗殺者容疑がかけられている人物が野放しにされるはずがなかった。

 

 

「ならば、外してやろうか?」

 

 

 などと、諦めの境地に達していた渕に、紋白は予想外の言葉を吹っかけた。その言葉に渕は目を白黒させてしまう。

 

 

「そうすれば、その才能を我に披露してくれるのだろう?」

「…………いや、いやいや。何でそうなるのさ? 俺は殺人未遂……? だか何だか分からないけど、危険人物ってことになってるんでしょ?」

「それは関係ない。兄上が友と言っている。それだけで信用に値する!」

 

 

 何を言っているのか渕には理解できなかった。友という関係性がそこまで重要視されるなどと、渕の知識には存在しなかった。仁や義と言った人との礼節を重んじ筋を通す重要性は渕も知っていた。哲学や古典の勉強をしていればその程度の教養は身につく。しかし、たかが肉親が友人だと紹介した程度で、危険人物というレッテルがいとも簡単に剥がれ落ちることは考えられなかった。そんなことが簡単に罷り通るのであれば、今の世の中はあっけなく崩壊し秩序を失う。

 それでも、この九鬼の血筋はそれが理屈として通っている。一般ではなく異常だと自身を再認識したばかりの渕が、更なる異常性を前に震え上がる。

 

 

「……手錠、外さなくていいよ」

 

 

 異常性と理解に及ばない絆というものに対し、混乱に混乱しきった渕はそう呟いた。

 

 

「何とか自分の言葉で、理屈だけでも説明する。うまく伝えられないかもしれないけど、それでもよかったらそれで」

「うむ! 伝えようとする意思は大事だぞ!」

「はは……。委員長、アンタの妹さんは肝が据わってるよ」

「自慢の妹だからな!」

 

 

 肉親を一切疑おうとせず、まるで無垢な少年少女のように互いを信じあう彼らが、渕はどうしても眩しく見えてしまった。

 自身の唯一の家族である両親でさえ信じることができず、挙げ句の果てに尾行までして反抗期を起こした自分自身が、渕はどうしても情けなかったのだ。何も話してくれない両親も両親だが、何も聞こうとしない自分も自分だと、渕は反省していた。しかし、渕が両親に対し、職業や何か隠していることについて聞きたい気持ちはあった。それでも、何か知ってはいけないことがあるのではないかという恐怖に押し潰されそうになり、渕は素直に両親に質問ができなかった。

 だからこそ、疑問も抱かず、質問すら不要とし、互いに分かり合えている目の前の兄妹が羨ましかったのだ。その羨望の対象に、渕は綱渡りのように言葉を繋ぎ、自身の才能について拙い文章を送る。

 

 

「……俺の才能は、胸を張れるようなものじゃあない」

「そうなのか? ヒュームを笑顔にさせたのだから、自信を持っていいと思うが?」

 

 

 

 

 

「誇れないよ。だって、俺の才能は殺す技術だから」

 

 

 

 

 

 

 

 シーン……と静まり返った個室。そうなることは明白だったのか、渕は構わず沈黙を破るように言葉を紡いでいく。

 

 

「人だとか、生物は殺せない。俺が殺すのは、この世に歴然として存在する、“油断”、“無意識”といった“隙”だよ」

「隙を、殺す?」

「俺だけに見えるんだろうけど、感覚的に感じることができるありとあらゆる隙が、俺の食料になる」

 

 

 そう告げる渕の視界には、英雄や紋白の周りにまとわりついている黒い穴のようなものが存在していた。渕からすればそれは不思議な存在でもあり、最も身近な存在だ。この二年間、無意識とはいえ、好んで殺し続けた愛しい存在であるからだ。

 

 

「渕よ。その、隙を殺してどうなるという?」

「正確には、隙を媒介にして回避したり攻撃したりするんだ。その際に、隙を殺すってだけ。難しいだろうけど、理屈はこれなんだ。例えば……そうだね、二人は呼吸を意識したことはある?」

 

 

 渕は自分の喉と胸の中間、渕が言うところの上半身の恥骨がふたこぶを作っているちょうど間、喉仏の僅かに下をトントンと人差し指でつついた。それを言われ、紋白と英雄は小首を傾げながらも自身の呼吸を確認する。

 最新設備により適温適湿に設定された室内の空気を吸い込み、体内で濁った空気を排出するその行為自体は、紋白も英雄も、話を振った渕でさえも当たり前のように行う生きるための一工程。それを意識したことがあるかと言われれば、誰しもがイエスであろう。

 肩で息をするという文章はごく一般的であるし、冬の寒い季節になれば白い息を見て風情を感じ、ラジオ体操では深呼吸を締めの動作として取り入れ、水泳では息継ぎを基本として習得する。無意識でも行える行為だが、それを意識したことがないことは九分九厘ありえない。意識することは通過儀礼である。

 

 

「そりゃあるさって顔をしてるね。でも、意識しなくてもいい。無意識に行える。それを俺が“支配”できるって言ったら、どうする?」

 

 

 渕は自身の首をぐっと握り締める。手中に収めることなど容易いと、不敵な笑顔で仄めかす。この時の渕の心情は、好奇な瞳で見つめられことに対する悦で満たされていた。

 

 

「呼吸の切り替わりは、無意識内にある最大の隙の一つなんだ。それを殺して、攻撃する。他の隙と言えば、瞬きで目を閉じた瞬間とか」

 

 

 一体何を言っているんだと、紋白と英雄は疑問符を浮かべてしまう。呼吸だの瞬きだの、そんな刹那的時間を見計らって行動するような技法は不可能であり、無意味であると二人は切り捨てる。仮にその瞬間に合わせた速度を伴う攻撃ができたとしても、相手が呼吸を切り替える瞬間を予測できるはずがないと突き放す。

 しかし、目の前にいる異常者はそれをさも当然のように語りかける。そのスタンスたるや、経済学の知識がないものに「新自由主義っていう思想があるんだけど」と、理解できることを話す学者のような立ち位置。つまり、渕にとってその世界は当たり前なのだ。

 

 

「俺が感じ取れる隙は大きく分けて四つ。一つは今言ったような、人間が生きていく上で停止できない反射的行動内の切り替え。一つは、A地点からB地点までの距離という空白。一つは、物質が構成する上でどうしても必要な接合部と溝。そして極めつけが、油断や慢心といった心の隙」

「…………この際、理屈は無理矢理、甚だ不本意ではあるが納得したことにしよう。隙と空間を同一視することも受け入れておこう。では、それでヒュームを打倒し得た謎は何であるか?」

「問いかけが形式張っててこそばゆいね。えっと、ヒュームって執事は目を沢山瞑っていた。癖だね、あれは。それに加えて、格下だと見下すその余裕な態度。これもまた俺の好物だ。普通の格闘家ならまともに戦えないだろうけど、俺ならまともじゃない手で戦える。勝てるとまではいけないけど」

 

 

 

 

 

 

 

 ――――ようやく本質を理解し、物にしたか。“生来”の影法師。

 

 

 

 

 

 

 

「しかし、ヒュームならば目を瞑っていようが気配を読み取れると思うが」

「無理じゃあないかな。気配を文字通り殺した状態だと、俺が背後に瞬間移動しているようなものだから。反応できるとしたら、俺と同じように無意識的な能力者か、単に影が薄い奴。あの執事、おっそろしいほど濃いでしょ?」

「フハハ! それは否定できんな。紋のクラスでも異彩を放っているようだからな!」

「いや、あの図体と年齢じゃ異彩どころか極彩色……」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「九鬼揚羽! 降臨である!」

 

 

 場所は変わり、極東本部内にある訓練場へと呼ばれた渕。そこにはまたしても額にバツ印を刻んだ、英雄よりもさらに貫禄のある女性が仁王立ちしていた。

 

 

「我、九鬼英雄と!」

「我、九鬼紋白の姉上である!」

「ああ、うん。説明不要な血筋だね。見なくても声と覇気で九割理解できた」

 

 

 九鬼揚羽、九鬼英雄、九鬼紋白。世界の九鬼の時代後継者を三人も前にした渕は最早満身創痍だった。その疲労は、彼の人生で全く経験してこなかった精神的困憊。強固な精神を持たない渕にとっては、常時紙やすりでガリガリとハートを削られている状態だ。

 

 

「お前が奇っ怪な妖術を使う暗殺に長けた忍か」

「まだ誤解が解けてない!?」

「うむ! まだ疑いは晴れ切った訳ではない。これは紋と姉上と相談して決めたことだ!」

「我と手合わせをし、お前の言葉の真を確かめる!」

 

 

 厄介なことになってると、渕は瞬時に自信が置かれている状況を把握した。明らかに興味本位の行動の中に巻き込まれつつあると感じ取った渕は、つい先日覚醒しきったばかりの能力を駆使して脱出口を探す。

 しかし、渕は脱出までの隙の道筋を見つけることはできなかった。

 出口は揚羽の背後に一つ、窓も扉も一切ない。壁を壊して逃げるという手も考えたが、完全な防音どころか耐久性も完璧に作られた部屋の分厚い壁を破ることは、渕の異能をもってしても一瞬とはいかない。揚羽を出し抜き入口を破壊し逃げることも考えたが、渕の油断を見切る目がそれを拒絶する。唯一の出口である扉の奥から、尋常ではないほどの“警戒”が見て取れたのだ。油断の対極にあるとも言える警戒を、渕は同様に感覚で感じ取れていた。

 

 

 ――――あの老執事二人のどっちかか、それくらいに強い人が配備されてるね。

 

 

 渕は脱出を潔く諦める。少し検討して直ぐに結論を下すのはどうかと疑われるが、渕としても長時間の能力使用は避けたかった。自覚し覚醒したといっても、それを効率よく運用できるかどうかはまた別の問題。渕は長時間意識下で能力を発動することができるのは、精神的に一分持てばいい方だと考えていた。こまめに能力を節約しつつ使うことで三分長引けば上等とも考えていた。暴走状態に陥る無意識下の能力行使ならば十分は持っても、その後の体力や安全は保証されない。だからこそ、渕は最小限の能力使用に抑えようとしていた。

 

 

「本来ならばヒュームたち従者部隊に任せるべきなのだろうが、我が興味を持ってしまった以上、やらねば気がすまぬのでな!」

「うわぁ超自己本位」

「して伊那よ。紋たちに言って聞かせた殺す技法、果たしてそれが本当に人殺しの技でないか見極めさせてもらおう! 英雄、手錠を外していいぞ」

 

 

 揚羽が拳を構えたことを確認した英雄が、真っ黒なカードを取り出して渕の手錠にかざした。すると、バキンッ! と大きな音を立てて手錠が四つに分裂し床に落ちた。

 

 

「……さっきから気になってたんだけど、この手錠何?」

「非常に強力な電磁力を利用した手錠だ。力技で破壊できるのは壁を越えた者くらいだろう」

「そんな高磁界を利用しないでよ……。人体に影響でないように設計されてはいるんだろうけど……。ところで委員長、壁をどうにかしちゃったなんちゃらってのは何なの?」

 

 

 自称異常者新入り、伊那渕は異常者の基準たる壁越えを知らなかった。

 

 

「壁を越えた者、それは自身を限界まで鍛え上げた末、強さの上限値を飛び越えた強者を指す言葉だ。この九鬼にも数名存在している。我が姉上も壁を越えた者だ」

「その、壁を越えた者ってのはどれくらいの割合でいるものなの?」

「この川神の武人だけ数えるのであれば、両手の指で事足りる」

 

 

 ふむ、そう口に出し一息入れてから渕は思案する。その“壁を越えた者”というものがいかに異常で異質なものかは、あくまで“なんとなく”理解できていた。一度、ヒューム・ヘルシングという壁を越えた者の中でもトップクラスの存在と手合わせをしたからだ。ヒュームが壁を越えた者であるならば、そう仮説を立てて渕は更に考察する。

 

 

「揚羽さん、でいいですか?」

「うむ、気に入らぬのなら揚羽様でも構わぬぞ!」

「揚羽さんにします」

 

 

 ――――この家系の性格の遺伝率はどうなってんだよ。

 

 

「勝負の方法を提案します」

「聞こう。申せ」

「揚羽さんは俺を気絶させたら、俺は揚羽さんに十撃与えたら勝ち。どうです?」

「……ハンデを要求するか?」

「さっきも言いましたけど、俺は人を殺すことができません。気絶くらいならなんとかなりそうですけど、ヒュームとかいう執事さんはダウンする気配もありませんでした。ので、こういった形に」

 

 

 ふむ、そう口にして揚羽も渕同様に思案する。ヒュームを気絶させるということがどれほどの偉業であるかを理解していないからこそ言える、そう考えた揚羽は、渕に与えるハンデが正当なものであるかを確かめる諮問へ移る。自身を敢えて低く見せながら相手の懐を弄ろうとする。

 

 

「ヒュームと比べられると、ちと痛いな。あれをまともに相手にした時点でお前は十分な異常者だぞ? 壁を越えていても問題のない異能者にハンデの権利はない」

「俺という鍍金(偽物)金塊(本物)と理解したばかりです。俺は十二分に異常者です。人を殺せないだけで、使う技は常軌を逸した外法みたいなもんです。このハンデは正確に言えば、満足に戦えない俺の体に対する労わりって意味合いが強いですよ」

 

 

 揚羽は目を丸くした。目の前にいる人外の技を使う少年が、自身を異常だと堂々と宣言した上でハンデを求めていたのだ。

 しかし、渕からすれば、まだ一般人と自認していた頃の癖が抜けていないというのもある。まだ鍍金から完全に脱したと納得しきれていないというのもあった。渕が提案しているこの組手は、壁を越えた者という基準がまだ不明瞭かつ、武に関してはドが付くほどの素人である渕にとっての、説明会である。

 

 

「これから俺は厄介事、戦闘に巻き込まれることが多くなるでしょう。そんな非日常な生活(ゲーム)を始めるにあたっての練習試合(チュートリアル)です。そんな殺し合いみたいな殺伐なものはやめましょうよ。俺だってこう見えていっぱいいっぱいなんです」

「ゲーム感覚で我との対戦を望む、か。フハハハハ! 片腹痛い、が、故に興味深い! その条件を受け入れようではないか!」

 

 

 九鬼揚羽は大いに笑う。目の前にいる生まれたばかりの化物に、ひょっとすれば自身を超えるかもしれない存在に稽古をつけようとしてるこの状況を、揚羽は滑稽だと大らかに嘲笑する。

 

 

「英雄、紋! 下がっていろ。怪我をしたくなければな。ゾズマ、中に入って二人を護っていろ!」

「畏まりました」

 

 

 揚羽の呼びかけに、一人の長身の黒人が扉を開けてゆっくりと入室してきた。その身長は渕よりも頭一つ分は大きく、ウェストがしまって見える燕尾服のせいもあってか、その肉体には非の打ち所がなかった。

 

 

 ――――さっきの見張りの役はこの人か。強いみたいだな……。

 

 

 隙を殺す少年、渕はゾズマ・ベルフェゴールの立ち振る舞いを見ただけで、言葉には出さないものの強さをヒシヒシと感じ取っていた。ヒュームとは違った自信家、しかしその隙はヒューム同様。渕からすれば“やりやすい”部類であった。勿論、好んで戦おうとはしないが。

 

 

「英雄様と紋様は確実にお守りいたします」

「任せたぞ……。さて、やるとするか、伊那渕」

「お手柔らかに……」

 

 

 英雄と紋白がゾズマの背後に回り、揚羽が拳を突き出し構えたことを確認してから、渕は力を抜いた両手をだらりと垂らし中腰になった。

 

 

「ゾズマ。合図も頼む」

「畏まりました」

 

 

 二人の構えが取れたことを、ゾズマは二度しっかりと確かめ、右手をすっと挙げた。

 

 

「それでは――――始めっ!」

 

 

 揚羽はまずは出方を伺おうと意識を渕に集中する。一度握った拳を更に強く握り、どこから攻撃が来てもいいように細心の注意を払う。

 

 

 

 

 

 

 

「それが既にダメなんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 どすっ、と揚羽の背中に拳がめり込んだ。

 

 

「――――かはっ……?」

「開始と同時に動くべきでしたね。直立不動は俺の好物です」

 

 

 背中、正確には背骨の内側にしなっている最も体重などの負荷がかかりやすい部分に衝撃が走ったと理解するまで、揚羽は三秒以上も要してしまった。

 それを見て驚いたのは揚羽だけではない。ゾズマの背後から見守る英雄と紋白、更には揚羽と同格かそれ以上の強さを持つゾズマでさえも、渕の動きを完璧に捉えることはできなかった。ゾズマが捉えることができたのは、揚羽の後方数メートル先にぶれて見えた残像のみ。従者部隊序列四番、それも能力の中でも武を考慮に入れられた人材であるゾズマに冷や汗をかかせた渕は拳を収め、試合開始時と同じ位置に瞬間的に移動した。

 

 

「俺みたいな“影”は人の背後に回り込むのが大得意でして。影法師はそうやって生きていくんですよ」

「……く、くく、フハハハハ! 侮っておった! あれほど自身に人外だ人外だと言い聞かせた結果がこれか! 謝罪しよう伊那渕、お前をまだ壁を越えた者の中でもまともだと思っていた!」

「強いか弱いかじゃなくて、まともか異常かって判断基準なんですね」

 

 

 揚羽の高笑いに渕は少しだけ頭を抱えた。その笑い方、自身が一本取られたような口ぶりであるのに、強敵との対峙に歓喜しているようにしか見えない態度が、戦ったばかりのヒューム・ヘルシングを彷彿とさせるからだ。

 

 

 ――――揃いも揃って戦闘狂、か。

 

 

 渕は戦闘狂と壁を越えた者が酷似していると判断する。ヒューム・ヘルシング、九鬼揚羽、ゾズマ・ベルフェゴールの三名しか壁を越えた者と認識していないが、それだけでも渕が壁を越えた者として見なすには十分だった。

 渕の通う川神学園には、壁を越えた者とされる人物がまだ複数人いるが、渕が覚醒してから出会っていないため、渕はその事実を知らない。

 

 

「さて、続きを始めよう」

「それじゃあ、今度は先手を譲ります。これでおあいこでしょう?」

 

 

 そう言って渕は再び両手を無気力に垂らした。挑発されているのか、はたまた意味もなく“先手を譲ったのか”、揚羽に渕の真意は読み取れない。

 

 

 ――――確か、こんな感じで言えば上手くいくはず。

 

 

 渕の考えは、漫画やアニメで培われた経験皆無な重みも深みもない希薄な言葉だということを、揚羽は知る由もなかった。

 

 

「ならば、行くぞ!」

 

 

 掛け声とともに急接近してきた揚羽に対し渕が少しだけ腕を挙げた。それを見た揚羽は急停止すると見せかけ、小刻みにステップを繰り返して渕の背後に回った。その速度はゾズマの目でようやく追えるレベル。英雄と紋白には急に消えた揚羽が渕の背後に突如現れたように見えたことだろう。

 揚羽の狙いは、意趣返しと言わんばかりの背中。それもほぼ同じ位置に拳を叩き込もうと拳を振りかざしていた。

 

 

 しかし、揚羽は渕という異能者を理解していても、その理解が渕の異能自体に及んでいなかった。

 

 

 揚羽の拳は空を切った。瞬きなどしていないはずなのに、目の前が強制的に遮断されたように渕の姿を隠し、消失させる。

 拙い、そう悟った揚羽は拳を収めることもせず即座に前方へ飛び出し、訓練場の中を全力で駆け回った。その際に生じる衝撃は凄まじいものだが、それをゾズマは得意な脚技で相殺させて英雄と紋白を保護する。ゾズマのその対応を信じきっているからこそ、揚羽は気兼ねなく渕との手合わせに集中できた。

 揚羽は天井、壁、床、全てを跳ねるように駆け巡っていた。いつどこから現れるか分からない、気配を文字通り殺し続ける渕を目指することはまず不可能だと察した揚羽は、不本意ながら渕のエネルギー切れを狙っていた。防戦に近い作戦に揚羽自身が納得していないが、初めて戦うタイプの人間に勝利するための苦渋の決断であったと言える。

 

 

 

 

 

 

 

「どーん」

 

 

 

 

 

 

 

 その苦渋の決断も、床を蹴ろうとしていた脚を払われたことで無意味となった。

 

 

「なっ!?」

「足払いはカウントなしだけど――――」

 

 

 脚を払われバランスを崩した揚羽は無様に背中を床に叩きつけられ、天井を見上げる姿勢を取らされ、二本の指を突き立てて振り下ろさんとする影法師が視界に入った。揚羽は防御のために気を濃く覆うが、それだけしかできなかった揚羽の胸に容赦なく貫手が襲いかかった。

 

 

「っ――――ぐっ?」

 

 

空気が肺から吐き出された瞬間を狙われ貫手を突き込まれ、悶絶するような激痛に、揚羽は思わず声にならない声を上げそうになり、突如不思議な感覚に陥る。

 

 

「手を、抜いたのか……? お前……!」

「違います。意外と全力ですよ。俺は気なんか扱えないんで、一点集中で攻撃しないと、幾等弱所を突いているからといっても通りません。所詮は弱攻撃ですので」

 

 

 決して瞬間的ではないが、肺を襲った痛みは気による自然治癒力の向上によりじわじわと回復していくのが揚羽にも分かった。一瞬だが痛みは相当なものだったが、その痛みは恐るべき速さで消えていったのだ。例えるならば、注射器をぐっと差し込まれ、直ぐに抜かれた様に近いであろうか。痛みの大小はあれど、触らない限り違和感しか残らないというのは双方同じである。

 その感覚、後になって痛覚がはっきりと残らない現象を、揚羽は手加減だと思い激昂しかけたが、それを渕は自身の単なる力不足と主張した。

 

 

「何度も言いますが、異常を自覚したばかりな上に、ド素人ですので」

 

 

 思わず揚羽は悪寒を感じ取った。目の前にいる人間が、自分と同種でありながら異質である、そんな奇妙な矛盾が手を伸ばせば届く位置にいることが何よりも気味が悪かったのだ。

 揚羽がそっと手を伸ばそうとした瞬間、馬乗りに近い体勢であった渕は文字通り消え、数メートルの距離を置き再び腕を垂らしていた。

 

 

「あと、八撃」





 失敗の最たるものは、失敗した事を自覚しない事である。

 カーライル

 ◆◆◆◆◆◆

 通常定期よりも一週間以上の遅延、申し訳ありませんでした。予め七月は一度の更新で終わってしまいそうだと宣言していましたが、どうやら本当にそうなりそうです。重ね重ね、申し訳ありません。
 渕が漫画で得た知識を元に自分らしさを組み立てようとしたせいで、若干の中二が組み込まれて言っています。自分のことを影法師っていう学生がいてたまるものですか。数年後、自分を振り返って悶々とする渕が、ざまぁ、というやつです。

 第一回MNSコンテスト、最終報告回。上位5名をご紹介。

 武蔵小杉  SASAB 総評A 21

 チュートリアルではしっかりと立ち絵が用意されているのにも関わらず、本編でのまともなCGといえばA‐2での紋様との焚き火くらいしかないという不憫なキャラがトップ5です。絶妙なかませ犬ポジションでありつつ、汎用性の高いキャラに許されたのは年中ブルマスタイルと、引き締まったウェストでした。

 小笠原千花 SSABS 総評A 22

 老舗小笠原の看板娘、ビッ○を振舞う処女という新しくもない一般的クラスメイトを任されたスイーツのスタイルは恐るべきものでした。全キャラ中二人しかいない理想のバスト/ウェスト比Sの理想ボディ。この美しさを表現するならば、「理想のボディすぎる老舗看板娘」とかいうビデオが某サイトで上半期売上1位になるレベル。因みにもう一人はクリス。貧乳と呼ばないであげてください。

 大友焔   SSSSB 総評S 23

 ついに最高評価ランクSに入りました。上位3位入り、これはヒロイン昇格も黙って頷くことができるレベルでしょう。西の勢力恐るべしと言ったところでしょうか。ウェスト引き締まってますがDカップあるので、大筒の肩掛け紐がぐいっと食い込んだ時に最高の光景が見られると思います。はぁ、はぁ、はやく攻略できないかなーと、息を荒くしているほむほむファンの皆様の鼻息が聞こえてまいります。お仲間ですね。

 大和田伊予 SSSSB 総評S 23

 相当初めの方にモブキャラがどうして台頭してくるのか、その実例として挙げさせてもらったベイ子、元い伊予ちゃんです。小動物見たいとまゆっちたちが評価していますが、その実隠れ巨乳、桃尻、程よいくびれという「クラスにいたら確実にモテるスタイル」を越えて「あまりにも美しすぎる高嶺の花スタイル」にまで至っております。それを帳消しにしてしまう野球熱の存在が、彼女を単なるモブから純ヒロインに押し上げたのでしょう。こんなこに応援されて優勝できない☆は断罪もの。

 椎名京   SSSSA 総評S 24

 愛の力で磨き上げた肢体は、型を取って削り取るだけでルーブル美術館に飾られるバランス。思わずミケランジェロが考える人のポーズをとってあの美しさの表現方法を悩んでしまう程の悩ましいスタイル。よほど奇っ怪な嗜好を持っていない限り性別を超えて美しいと憧れてしまう。モデルやっていたら専属とかできずに引っ張りだこになるような黄金体型。何が言いたいかというと、軍師はよく何年も誘惑に耐える事が出来たなということ。京は煩悩とかすっ飛ばして生物根源的に見惚れる羨望の対象なのだが、軍師はそれを拒否し続けている。嫉妬を通りこいて崇めるレベル。


 予告、ネタ尽き。



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第二十七帖 茜草指紫野行き標野行き――――

――――野守は見ずや君が袖ふる


額田王


 

「フハハハハ! どうした伊那よ! お前の勝利にはまだ五発足りないぞ!」

 

 

 渕が揚羽との組手を初めて僅かに一分、片膝を尽き体力の消耗により苦しめられていたのは渕の方だった。渕の目の前で堂々と笑う揚羽を見上げようとするも、渕が見続けているのは滴る汗が染み込む床だけ。首を上げることすらままならなくなっていた。

 その光景を見た紋白は、警護の任についていたゾズマに疑問を投げかけた。

 

 

「ゾズマ。何故伊那殿はあのように疲弊しきっているのだ?」

「単純な燃料切れ。そう考えるのが妥当でしょう」

 

 

 戦闘特化の執事、九鬼家従者部隊序列四番のゾズマ・ベルフェゴールは、やれやれといった具合に渕の情けないさまを見ながらそう答えた。

 ゾズマは紋白と英雄を守ることを第一としつつ、目の前で繰り広げられる光景に興味を持っていた。壁を越えた者たちを圧倒する奇妙奇天烈な能力者が、如何にして自分の主人である揚羽を圧倒しようとするのかを観察していたのだ。ゾズマは目の前で行われる二人の戦闘を間近で観察し、仮説を立てては打ち破られ、仮説を立てては打ち破られを繰り返すことにより、渕の能力の対策に誰よりも近づくことに成功した。

 

 

 ――――あの力、“殴られた瞬間にその手を掴むことができれば”反撃は容易だな。

 

 

 神出鬼没雲散霧消、突如現れふわっと消えるその不明瞭な気配を操作する渕を追いかけることや、瞬間移動の如く速度で出現と退避を繰り返す渕から逃げ切ることは至難の業。そこまで分かったゾズマは、反撃の緒をあっさりと見つけてしまう。

 たった二回の攻撃を見ただけでそこまでたどり着いたゾズマ。それならば、二回も実際に攻撃を食らった揚羽がそこに到達できないはずがなかった。

 そこで揚羽は敢えて直立不動することにより一撃をくらい、堪えた。渕はその行動に疑問を持ったが、好機と捉えてしまった渕は揚羽三回の攻撃を一気に打ち込もうとした。しかし、それが仇となった。

 一発目の貫手は揚羽の肝臓を貫き、二発目の手刀は肋骨と肋骨の間に差し込むように水平に打ち込まれた。いけると確信した渕が三発目を鳩尾に打ち込んだ瞬間、渕の異能が消し飛んだ。

 

 

 ――――げっ、配分ミスった。

 

 

 渕の体から、プシュウ……という擬音と共に今まで食い殺してきた隙の残骸が抜け出してしまった。渕の脳内計算におけるエネルギー運用は完璧だったが、それを実現できるかどうかは別の話であったということだ。渕の気配は殺し続けることができなくなった瞬間、それを見逃さなかった揚羽に掴まれてしまう。

 渕の異能がきれたことに揚羽は即座に気づいたが、気配を殺し続けている状態の渕から攻撃された瞬間に、渕の腕を掴むことは成功していた自信があった。渕からすれば自身のミス。揚羽からすれば自身の作戦勝ち。どちらの主張が正しかったのかは神のみぞ知るといったところだが、この瞬間に渕の体力が削られることが確定された。

 揚羽は掴んだ手を引き寄せ、渕の顎めがけてアッパーを繰り出した。回避能力や攻撃能力が向上したところで、耐久力は一般的人間よりもほんの少しだけ上という性能しか保持していない渕は、それを何とかして回避しようと全力を振り絞った。その結果、揚羽の視界を歪ませつつ限界まで上体を逸らすことで拳の直撃をまぬがれ、揚羽の拳に空を切らせた。

 しかし、それで渕のエネルギーに底が見えてしまった。ほとんど透けることのない牛乳の入ったコップの底が見えてしまうような、そんな少量の精神力しか残されなかった渕は、無様にも揚羽の前で膝をついてしまう。そして、揚羽は完全に優位に立ったとして高笑いをしたのがつい先程のことだった。

 

 

「降参するならば意識を奪うことはやめてやろう。怪我人に対し少し大人気なかったな」

「くっ……そ……!」

「まずは怪我を治すことを優先することだな。万全の状態でない上に、目覚めたばかりの化物では少し無理があったろう」

「揚羽様もお人が悪い。わざと攻撃を喰らうなどと」

「そうでもしない限り、こやつの攻撃に対して反撃はできなかった。ゾズマ、お前もそう考えていたであろう?」

「そうしていたか、若しくは爆破していたでしょうね」

「相変わらず危ういやつだ」

 

 

 揚羽とゾズマは笑いながら会話をしている。目の前にいる渕に対し、賞賛どころか批判すら行わずに、揚羽はゾズマとの会話に意識を切り替えた。

 決闘の最中に、もう自身の勝ちだと決め付け会話を始められる屈辱的状況。膝をついている渕は息を整えながら、いま自分が置かれているこの状況を理解できていなかった。

 

 

 ――――なんだこいつら。

 

 

 渕は床を凝視しながら、床につけていた手をぐっと握り締める。その握り締めた拳からは、無意識に爪で弱所を付いたことによりできた切り傷から溢れる血が滴っていた。

 

 

 ――――おい、何を談笑しているんだ。

 

 

 今、渕が抱いている感情は、渕が生まれて一度も抱いたことのない感情だった。人に無視され続け、感覚という感覚が麻痺しきっていた渕には体験する機会がなかったとも言える感情。ひょっとすると、普段から抱えてきたせいでその感情自体を無意識下に放りやっていたのかもしれない。

 渕は目を見開き、顔を横に向けてくだらない会話をしている揚羽を睨みつける。そこには殺意は存在しない。妬みも嫉みも存在しない。有るのは、理解しがたいという疑いのみ。

 

 

 ――――アンタら、人のこと下に見すぎだよ。

 

 

 圧倒的な自尊心の台頭。渕が今まで抱く必要がなく、気づく必要のなかった安っぽいプライド。自身の有能さを自慢しようにもする相手がおらず、プライドというものは静かに無意識の中に沈んでいった。しかし、今こうやって普通に接してもらえることが段々と当たり前になったせいで、渕の溜まりに溜まったゴミのようなプライドは山を成し、怒りとなって表層へ現れる。

 

 

 ――――刻んでやる、見せしめてやる。アンタらの油断ってものが、どれだけ愚かなのかを!

 

 

 

 

 その瞬間、渕の周りの空間が激しくぐにゃりと歪んだ。

 

 

 

 

「「!?」」

 

 

 ゾズマは咄嗟に揚羽の腰を抱きかかえ、紋白と英雄達と同様に自身の背後に回して警護に入れた。目の前にいる存在の異常行動、“警戒レベル4”の危険人物の不可解な行動は主の危険へ直結する。シンプルすぎる考えではあるが、それは従者としては素早く正しい行動だった。

 その危険人物、渕は揚羽とゾズマを睨みつけ、立ち上がる。

 

 

「おい非常識人。タイマン張った奴に対して、そんな簡単に意識逸らして許されると思ってるの?」

「伊那渕。それ以上奇妙な行動をとるのはやめろ。拘束されたくなければ――――」

「今はアンタに話しかけてないよ。黙っててよ執事さん」

 

 

 ゾズマの言葉に聞く耳を持たない渕。ゾズマと揚羽の二人を意識して凝視しているが、渕のプライドが傷つけられたことにより生じる怒りの矛先は揚羽に多分に向いている。

 

 

「いや、なに。勝負はついた。火を見るより明らかに――――」

「ルール、決めたろ。俺が気絶するまでって。何が降参すればだよ。仮にその提案が通っていたとしても、俺は降参してない。アンタの選択したくだらない会話という行動は、怪我を背負って拉致された上に勝負を申し込んだ一人の人間に対しての態度じゃあない。これは侮辱ってやつじゃあないの? 武人が挙って嫌う、正々堂々の欠片もない卑劣な行為だ」

「伊那渕。それ以上揚羽様に対する暴言は許されない」

「アンタに許されたところで俺のこの苛立ちは解消されないよ。頭の中がモヤモヤして、今にも叫びたくなるようなもどかしさを、アンタのお許し一つで解決できると思っているならお門違いも甚だしいもんだ」

 

 

 ゾズマに対し一切の怯えや恐怖心を見せない渕。それを上塗って余る程、渕の精神状態は怒りの黒で染まりきっていた。

 

 

「第二ラウンドを始めようとか言ったら怒るよ? 俺はまだ終わっていない。俺は気絶していないし、諦める気も毛頭ない。出てきてよ九鬼揚羽。今の俺の意見が全く理解できないというほど思い上がってるなら出てこなくていい。その執事さんの後ろで縮こまってるといい。もし、ほんの少しでも俺の意見に正しいところがあって、自身の非を感じたのならば前に出てきて俺を気絶させてみてよ。完膚無きまでに叩きのめしてよ」

 

 

 渕は右手のひらを天に向け指を二回曲げた。かかってこいよと、実力的にも年齢的にも経験的にも格上の揚羽に対し、怒りに任せた挑発をかます。それに対し揚羽は怯むことも怒ることもせず、ふてぶてしく笑う。

 

 

「悪かったな。心のどこかでお前をまだ見くびっていた、いや違うな。お前のことを侮辱していたとはよく言ったものだ。手加減をし情けをかけた時点で、我は武人として自身を見直す必要性が生まれたようだ。とても基本的で、単純な礼儀というものを改めて学ばなければな」

 

 

 ゾズマの背後からゆっくりと歩いて前に出てきた揚羽は、謝辞を述べながら拳を構えた。先程のような、戦いを楽しむという笑顔は消えていた。目の前の素人にしてやられたという、自嘲の笑い。

 揚羽は自身の他人を見下してしまうその欠点、“汚点”を見つめて受け止める。

 

 

 ――――今代の壁を越えた者は、そこそこに聡い人間もいるようだぞ、影法師。

 

 

 その揚羽の態度に満足していた渕の頭の中に、聞き覚えがある声が響き渡る。どこか懐かしくて、思い出したくても思い出せないような、記憶の奥底に沈殿した掘り起こしきれない声。

 

 

 

 

 

 

 ――――ぼくが手を加える必要もなかったようだ。さて、影法師。ほんの少しだけキミの制限を解除しよう。

 

 

 

 

 

 

 その声が響いた瞬間、渕の周りの時間が静止したかのように、揚羽やゾズマたちの動きが停止した。

 それに驚いた渕は思わず構えを解いてしまい、目を見開いて辺りを見回してしまった。壁にかかっている時計は秒針から動いておらず、目の前にいる四人の瞳は瞬き一つせず硬直してしまっていた。

 まるで、周りが灰色になったような錯覚を覚えた渕の目の前に、赤と白を基調として色彩された一つの人影が降り立った。モノクロの世界でも映える輝くような純白に、それを対比するように恋焦がれるような色である茜が印象深い。

 

 

 ――――六人の中では、こうして時間を止めたようにして話すのは二人目だ。お久しぶりだね影法師。ぼくのことは朧と呼んでくれ。それくらいは覚えているかもしれないが。

 

 

 朧と名乗った朱の巫女服姿の少年はニヤリと笑った。その笑い方に、渕は既視感を覚えた。以前、それもごく最近のこと。こんな感じのやり取りをした覚えがあったのだ。

 

 

 ――――さてと、君に与えた“天賦の才”は他の五人と比べてちょっと異質でね。

 

 

 前回の遭遇を思い出そうと悩んでいる渕に対し、そんな行為は今は必要ないと言わんばかりに話を切り出した朧。その説明は観衆を握る出だしからして渕には理解できなかった。まず第一に、朧という存在が極めて不確かであることが何よりの疑問点であり、そこが解決しない限り何もかもに納得がいかないというスタンスに渕はいた。

 

 

 ――――ファミレスで話しただろう。こう言えば思い起こせるだろう?

 

 

 その一言で渕のスタンスは崩壊する。

 頭の中で塞ぎ込まれていた記憶の塊が爆発し、脳から溢れんばかりに記憶が飽和状態に陥りかける。あの日、まだ板垣竜兵と伊那渕が明確に絆を結んでいなかった頃のファミレスでの遭遇、そして問答を、渕は瞬間的に思い出した。

 

 

「ああぁぁぁあああああああああぁ!! お前、あの時のケーキ泥棒!!」

 

 

 ――――おいおい、他に覚え方はなかったのかい? それに、あーんをしてくれたのは他ならぬキミ自身じゃないか。忘れたとは言わせないぜ?

 

 

 「うっ」

 

 

 ――――わははははは。まぁ、思い出してもらったところで話を本筋へ合わせようか。キミは自身が貸与された才能が何か、明確に理解しているのかな?

 

 

 渕の面食らった様子に腹を抱えて笑う朧は、笑いすぎで目尻に溜まった涙を軽く払って渕への問答を再開する。

 

 

「才能って……あの、隙を殺せる能力でしょ? あ、ということは……何で俺がこんな奇っ怪な力を持っているのかと思ったらお前が原因かよ!?」

 

 

 ――――残念ハズレ。

 

 

「へっ?」

 

 

 渕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。渕は数秒思考が停止してしまったが、直ぐにファミレスでの会話を想起する。

 渕は確かに、朧から“人並み外れたスキルみたいな奴”を与えられと教えられ、加えて“それに耐えられるような体に弄くってある”とまで宣言されたことを思い出していた。

 これと今までの自分の変化から考えられる事象が、“隙を殺す能力”だった。しかし、それは与えた能力でないと朧に否定される。

 

 

 つまり、この能力は渕自身が生まれながらにして秘めていた能力と断定されたことになる。

 

 

「お、俺は始めっから異常者だったの!?」

 

 

 ――――正確には、その資格があったってことだね。だからこそ、ぼくは“天賦の才”を与えたんだ。

 

 

「お、俺はまだ変な能力を持ってんの? これ以上俺は異常者になっちゃうの!?」

 

 

 ――――そんなに異常者異常者と口にするもんじゃあない。この世界、特にこの川神じゃ異常か異常じゃないかなんて括りは存在しない。あるのはどれだけ異常かという尺度だけ。みんながみんな、異常者だよ。

 

 

「…………そういや、揚羽さんもそんな感じで言ってたような……」

 

 

 ――――まあいいさ。さてここでクエスチョンだ。ぼくが君に与えた才能とは何でしょうか!

 

 

 朧は両手を挙げて天井を見上げて問を投げかけた。その遥か高みからの物言いは少しばかり釈然としなかった渕だが、渋々与えられた能力に関しての考察を始めようとした。

 

 

 

 

 

 

 ――――時間切れだ! 答えは“異常な成長速度”!

 

 

 

 

 

 

「えっ」

 

 

 まだ三秒も経ってないぞと反論する暇もなく、思考を中断させられた上に答えまで言われてしまう始末。渕は怒りを通り越して混乱する。元々怒りの感情を持つ理由はなかったが、こうも引っ掻き回されてしまうと怒りたくなるのも至極当然のことだった。その怒りたくなる当然の感情すら掻き回されているのだが。

 

 

「せ、成長速度……?」

 

 

 結果、復唱するようにしか聞き返せなかった渕を、実に上機嫌に朧は嘲笑う。

 

 

 ――――わっははははは! 六人の中じゃ一番弄りがいがあるよ影法師! ドが付くほどの真面目野郎が多すぎるもんだから、キミみたいな元普通というのが一番面白い!

 

 

「う、うるせぇ! いいからその、“成長速度”とやらについて説明しろよぉ!」

 

 

 ――――泣くない泣かない。えっとだね。キミのその“隙を殺す能力”……古くから“隙殺(げきさつ)”とよばれる技法なんだけどね。それは血筋で伝わる遺伝能力なんだ。それが薄く遺伝されると“影が薄くなる能力”っていう、隠密にしか適さない能力にしかならないんだけど、極希にそれが異常に濃く遺伝される場合がある。

 

 

「それが、俺?」

 

 

 ――――そう。“隙殺”が濃く出ると他人への干渉も有りとしてしまう異能になるんだ。空間をなかったことにしたり、弱所をついたりね。隙が見えるその目も遺伝だよ。

 

 

「け、けど。俺の両親はすっごい濃いんだけど……」

 

 

 ――――キミも、両親が隠し事をしていることに気づいているんだろう?

 

 

「っ」

 

 

 渕の心の奥の汚点を抉り出す朧。両親に対して抱いているのは親愛の情よりも、疑惑の念のほうが大きいという親不孝者の精神状態。両親が渕に隠している真実、それが一体何を意味しているのか渕は分からないが、朧はそれを理解しているようだった。だからこそ、今このタイミングで両親への不信感を煽ってきたのだろう。

 渕が覚醒した“隙殺”という技法と、渕の両親が隠している真実が何かしらの形で繋がっていると、朧は仄めかしているのだ。

 

 

 ――――今回の九鬼との一悶着が終わったあとにでも、誠意を込めて尋ねてみるといい。「本当のことを話してくれ」とね。そうすれば少しばかりでも近づけるだろう。人間の目指すべき“飛翔”の境地へ。

 

 

「…………分かった。考えてみる」

 

 

 ――――前向きに検討するとか善処するとかは、後ろ向きに考えている奴らの逃げ口上にすぎない。本当に分かっているよね?

 

 

「…………それもそうか。分かった、必ず聞くよ」

 

 

 ――――それでこそだ。じゃあ、目の前の壁を越えた者に対して、一回り大きくなったキミを見せつけてやるといい。荒削りでありながら目を見張る、表立ち隙を支配する影法師よ。今こそぼくの真の玩具として銘じ(命じ)よう。“九鬼の関係者を中心に、川神を引っ掻き回せ”!

 

 

 

 

 

 

「わかったよ朧。俺は俺らしく、目の前の人をまやかそう」

 

 

 前へ一歩、色が戻った世界を進む渕。怒りに身を任せて殺し捻じ曲げた空間を正し、何の歪みも汚れもほとんどない状態の揚羽を見据える。

 先ほどよりも凛々しく雄々しい揚羽の姿を見て、朧の真意に触れる渕。

 

 

 これが“飛翔”の一端であると理解する。

 

 

 まるで生まれたての人間のように、白々しく見せるその姿は実に美しい。人間が辿り着くべき真の境地。人でありながら人とは呼べない乖離的な存在に至る扉に、揚羽はようやくたどり着いた。まだその扉は開ききっておらず、人一人も通れない。しかし、それでも十分な成果である。

 

 

「あと五撃、掠めてやる」

「その前に今度こそ、意識を刈り取ろう」

 

 

 渕と揚羽は互いに勝利宣言を発し構えを取った。そこで揚羽は渕の異変に気づいた。渕の構えが変わっていた。両腕に力を入れずだらしなく放置していた構えは失われ、拳を作り両腕を曲げて腰に据える構えが生まれていた。気合は十分だと思わせる体勢、体育会系の男子が「押忍!」と口に出して取りそうな構えではあった。ただ、渕はその体の正面を斜めに向けていた。首だけが揚羽の方へ向いており、少しばかり不自然な構えではあった。

 目の前の人物が異常性の塊であることは先程の数合の打ち合いで理解している揚羽は、その構えに対して最大限の注意を払う。決して、油断などしない。

 

 

「隙殺――――お披露目だ」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「お目覚めですか?」

「………………ええ、これ以上ないくらいに、重々しい気分ですけど」

 

 

 渕が目を覚ますと、そこは九鬼極東本部で初めに連れてこられた一室だった。その待遇は以前と変わらず、手錠と下半身の拘束具は再び渕の体を縛っていた。

 自分の拘束具合を体を動かして確認する渕の様子を、笑顔を絶やすことなく見つめている老執事が一人。その視線はじっくりと渕の体を舐めるように見たあと、渕の瞳の奥を貫くように見据えていた。

 その視線に怖気付くことなく、渕は老執事に問いかける。

 

 

「……どれくらい時間が経ちましたか?」

「二時間と十二分です。秒単位は省かせてもらっております」

「大体でいいですよ。俺なんかに律儀にならなくても」

「そうはいきません。揚羽様から貴方のお目付け役を頼まれたという忠義心、加えて奇妙な少年の差金である貴方を見ていたい好奇心。この二つが相まっている以上、貴方に対しては細心の注意と観察眼を用います」

 

 

 銀髪の老執事は渕にニッコリと笑顔を向けた。しかし、渕はそれに対して笑える余裕などなかった。笑顔に笑顔を返す、そんな気楽なことができるほど彼の脳内は平穏で満ちていない。驚愕と戸惑いが大半を占め、残りの隙間には不安が敷き詰められている。

 

 

「クラウディオさん……。何であの食い逃げ野郎を知ってるの?」

「食い逃げ野郎とは、相変わらずあの少年の行動は読めませんね」

「答えてよ」

 

 

 ガシャンと、真っ黒な手錠で大きな音を鳴らし、今すぐにでも抜け出してやるぞと言わんばかりに手錠を突き出す渕。早く聞いていることに答えろと威圧していた。

 

 

「失礼、朧のことでしたか。彼と出会ったのは貴方よりも後ですよ。貴方は二年前、私はほんの一ヶ月前。彼からあなたとは別の人物の監視を頼まれておりまして」

「……え? 俺やクラウディオさん以外にもアイツに弄られた人がいるの?」

「朧が接触し、かつ改変させられた人間は全てで六人。その中には九鬼の人間もいますが、私ではありません。彼はまだ朧の描いたシナリオに参加していない」

「じゃあ、あの食い逃げ野郎は意味もなく人と触れ合ってるのか……?」

「意味はあるよ、目的も覚悟もちゃーんとある。外堀を埋めていき川神を戦場とし、何よりもまずぼくが楽しいことが大事。その結果もたらされた喜劇や悲劇を受け入れる覚悟はある。世界が根源から壊れないように管理する責任も放棄していない」

「戦場とするって、それ自体がどういう意味――――えっ」

「おや」

「やぁ、お二人さん」

 

 

 渕とクラウディオのすぐそばに、ふわふわと浮きながら胡座をかいている人外が突如その場に現れた。

 

 

「食い逃げ!」

「朧だって言ってるだろ?」

「神出鬼没なのはいつも通りですね」

 

 

 朧は渕に誇張された罪状を擦りつけられようが、神出鬼没という褒め言葉か悪たれ口か分からない物言いをぶつけられようが、普段通りの笑顔を浮かべていた。少なくとも、朧本人からすればそのつもりでいた。

 しかし、二人は朧の機微な変化に気づいてしまう。二年前から知り合っていた渕だけでなく、ほんの一ヶ月前に出会ったばかりのクラウディオでさえ、感覚でその変化が理解できてしまう。

 

 

「朧……?」

「何やら、嬉しいことでもありましたか?」

 

 

 その質問に、朧は笑うことをやめた。

 

 

「あー、うん。あったにはあった。けど何でかな。顔に出したつもりはなかったのに、ね。最近脆いや。元から脆かったんだけど」

「何やらナーバスな空気になってしまいましたね」

「珍しいような気がする。まだ数回しかあった記憶がないけど」

「奇遇ですね、私もです」

「あーもう。ぼくのことはどうだっていいんだよ。それよりも影法師、二撃残して負けるとは情けない」

 

 

 話全体の矛先が朧から渕の勝敗に向かう。急に振られた渕はうぐっ、とのどを詰まらせたような声を出し、目を見開いておどおどし始めた。少しでも自分に非があると思っていなければ現れない行動である。

 

 

「だ、だってさ。“飛翔”するとああまで変わると思ってなかったんだよ。九鬼揚羽、おっそろしいよ? あれ、本当に武神先輩に負けてから現役引退してたの? とてもそうは思えないよ。ヒュームさんの方がまだやりやすい」

「キミの意識下の戦闘経験回数は一桁で、その大半は壁に関係した人間との決闘だ。あまりその感覚で測るなと言いたいけど、確かにあの一時、九鬼揚羽はヒューム・ヘルシングなんかよりずっと気高い強さを発揮していた。キミの天敵は“飛翔した者”だとか、あとは同類だね。いやはや、ようやく本質を掴んでくれたようで助かったよ。流石に甲斐甲斐しくキミだけを見ていられるほど暇じゃないからね」

 

 

 “飛翔”という単語が何を意味するのか、クラウディオも渕もはっきりとは理解はしていない。“壁を越えた者”と“飛翔した者”の区別もつかないほどに曖昧である。しかし、何故か見る対象が飛翔しているかどうかを二人は理解できる。

 それほどまでに、飛翔とは美しいのだ。

 

 

「さてと、渕くん。ここから大変だよ? キミはこれからまず間違いなく、九鬼の中心で生活していくことだろう。九鬼英雄に良き級友として慕われ、九鬼揚羽に戦友として認められ、九鬼紋白に優秀な人材として目をつけられている。ヒューム・ヘルシングも、ゾズマ・ベルフェゴールも、そこにいるクラウディオくんにも、キミは観察対象にされている。分かるかい? 今まで以上に自由にできない、ストレスフルな生活に身を投じることになる。選択肢は用意されていない。聞くべきは覚悟の程と決意の質だ。問おう影法師」

 

 

 

 

 

 ――――キミは“いつも通り”、生きていくことができるか?

 

 

 

 

 

「出来るわけないでしょ」

 

 

 

 

 

 至極あっさりと、渕は朧の問を跳ね除けた。

 

 

「聞こう、その真意」

「俺の“いつも通り”ってのは、誰からも無視されて、誰にも気づいてもらえずに、孤独に嫌気が差していながらも死のうとも思えない臆病な俺だよ。けど、こうも賑やかになっちゃそれも無理でしょ? 俺がこれからすべきなのは、自分を見失わず、慢心せず、お前がやってほしいように振舞うこと。文字通り、引っ掻き回す。強者っていう括りを概念からぶっ壊す」

「その心意気や良し。それでこそぼくの玩具だ。不満はない。その言葉通り、目の前にいるクラウディオくんとよろしく仲良くなって、九鬼にうまく溶け込むといい」

 

 

 朧の満足げな表情は、クラウディオと渕を驚かせる。まるで、強請っていた玩具を祖父に買ってもらえた孫のような、幼く無垢な笑顔。天地開闢から生き続けてきたなどと豪語していた普段の朧からは考えられない、人間臭い表情だった。

 

 

「さて、ぼくはそろそろ行くよ。そろそろ“五人目”の世話をしなくちゃいけない。今物語に入っている四人はこのまま動き続けてくれればいい。正直、“恭”と“怨”に関してはまだまだ不安要素が多いけど、まあなんとかなるだろう」

「五人目、ですか。朧、決して乱暴には扱わないで下さいね」

「分かっているよ。彼はキミにとって、決して無関係な存在じゃないからね。そんなことを心配するより、目の前の“影”に九鬼を崩壊させられないよう、気を張っておくといい」

「そんなことしないって!」

「どうだか。無意識で戦闘してきたキミに説得力はないよ」

 

 

 渕は再びうぐっ、と喉を詰まらせる。図星と書かれた札を思いっきり顔に貼り付けられたような、そんな感覚に陥った渕だという。

 

 

「せいぜい頑張れよ? ぼくの可愛い玩具」

 

 

 





 あらゆるものが一個の全体を織り成している。ひとつひとつが互いに生きて働いている。

 ゲーテ

 ◆◆◆◆◆◆

 大変、大変申し訳ありませんでした。呑気に八月になればPCいじっている姿がうんぬんかんぬん抜かしていましたが、そんな暇なはずがありませんでした。私が感化しないところで何かしらの抑止力が働き、私の自由を鎖で縛り付け簀巻きにし欲望の宇宙へ放り投げたのです。


 何が言いたいかというと、コミックマーケット三日間連続始発組参加という苦行を成し遂げたが故の遅延でした。

 
 完全に、自分の都合です。全参加のために前へ後ろへバイトを詰め込んだが結果、PCなんていじっている余裕はありませんでした。
 遅れた理由が実にくだらないもので申し訳ないのですが、お土産に髪の毛が二mほど上に伸びたゴンさんのコスプレをなさっていたお方の写真でもお見せしたいのですが、何分この場では難しいです。申し訳ありません。

 加えて、来週は合宿があります。もうなんだよ八月忙しいわ! と叫びたい気分です。叫びましたけど。何とか、来月は二回は更新したいです。
 多忙かつ、MNSコンテストも出し切りましたので、今回のおまけはお休みということで……あしからず。

 またコミケの感想でも、書こうかと思います。楽しい隣人のお話とかねむっておりますので。

 結果。全参加は全身を痛める。


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第二十八帖 長き夜の遠の睡りの皆目醒め――――

――――波乗り船の音の良きかな


作者不詳


 

 ――――ここは、どこだろう。

 

 

 真っ暗な空間、闇と表現しても支障がない程の黒さに包まれた場所で、金髪の青年が立ち尽くしていた。

 いや、立ち尽くしていたというのには語弊がある。そのように見えるだけで、実際は身体を伸ばしてその空間に浮いているのだ。足場がない、天井もない、左右に壁などなく、ただただ闇が無限に広がっていた。

 青年は目覚めたばかりだ。何故今自分がここにいるのかは勿論のこと、自分のことさえも曖昧であった。まずここがどういう場所であるかを悩むより、自分についての初期知識を思い出そうと思案する。

 まずは自分の名前から思い出すことにしたのだが、自分の性も名も思い出せない状態に青年は陥っていた。しかし、自身の名前がどうしても思い浮かばないことや、現在自分がこんな空間に投げ出されていることは、青年はどう考察しても異常にしか思えなかった。

 

 

 ――――よし、常識は覚えてる。

 

 

 青年は自分の精神にも異常が来たしているのではないのかと不安になったが、そんなことはないと確信が持てたことが何より安心のできることだった。

 時間の制限など気にしたところでどうしようもないと理解している青年は、長い時間をかけてゆっくりと自分のことを思い出すことにした。この際、この空間が死後の世界であろうと構わなかったからだ。何よりも自己と言うものを確立する、それが精神を壊さないために必要なことだと知っていたから。

 手始めに生き様を回想する。一つ一つ、物心ついた頃と俗に言われる幼少期から思い起こす青年。その手探り感たるや、非常に慎重で、憶病と言っても差支えはないくらいであった。

 小学校に上がるまでの、いわゆる幼少期と言う時代において、青年は既に腕っぷしが強かった。同年代で自分より強い者は誰もいなかったと自負していた。もっとも、四、五歳の内から喧嘩が強いなどと考える子供も子供であるのだが。

 小学校に上がり、本格的に武道に手を出すことにした。幸いにも青年の家はそういう空手や柔道などの武を習っている人間が多い家であったため、練習相手には全く困らなかったし、寧ろ最高の環境で育てられたと言っても過言ではなかった。

 正義感の強い警察官で剣道三段の父親からは、竹刀の扱いを毎日付きっ切りで教わった。自称中学で一番喧嘩に強いと嘯いていた兄からは、身近にある凶器の代わりになるものの使い方を習った。男よりも強いと評判だった姉御肌の強い姉からは、護身術にもなるからと合気道を基礎から叩き込まれた。関東では敵なしと明言していた当時の新成人だった従兄から、実験台と言うことで体に直接柔道の技を染み込まされた。家族の中で最も権力のあった母親から、これくらいは覚えておきなさいと勉学というものが何たるかを頭に詰め込まれた。いつもニコニコと笑顔を絶やさなかった祖父から、年の功と言うもの見せつけるかのように経済学を説法の様に刷り込まれた。身内が集まると必ず料理を作ってくれていた叔母から、何にでも備える様にと家事を伝授させられた。

 

 

 ――――濃密だった。

 

 

 自分の過去を回想し、真っ先に思ったのがこの言葉だった。彼の小学校の六年間は彼の基礎を形成したと言っても過言ではない程に、今の彼の土台となって今も生きている。どくんどくんと脈を打ちつつ、彼の中で未だに鼓動を鳴らしている。肉親たちの中で最も年下で生まれた彼はとても可愛がられ、その愛情故に家族の教えが集中してしまったのだ。勿論、青年はそれを当時苦痛だと思ったことはなく、寧ろ感謝しているくらいだった。恵まれた環境を、青年はこの上なく最活用したのだ。

 青年がそれを最も実感したのは、中学校に上がって直ぐのこと、不良に絡まれた時だった。如何にも不良であるというような風貌の男三人に囲まれた時、それらを蠅でも払うかの如くあっさりと蹴散らしてしまった。それが青年の己の強さの自覚、自己認識であった。

 その後も青年は家内の修行を必死に受けた。それに加えて空手や弓道、さらにはフェンシングなど幅広いものに手を出していった。導入部だけでいいのであれば、日本国内で大衆的な武術やスポーツにはほぼ全て手を付け、さわりまで至った武術だけでも両手の指で数え切れない。

 肉体の方は勿論のこと、勉学に関しても母と言う最高の教師がいたので、学徒時代は常に上位の成績。所謂“非の打ち所のない人間”、青年はそんな風に評価されたことを思い出した。

 

 

 ――――恵まれてた。

 

 

 ありがとう、ありがとう。青年の心の奥底から、ただただ感謝の気持ちだけが溢れ出てきていた。今の自分があるのは間違いなくこれらの経験があってこそだと、青年は強く強く実感していた。

 その後、川神学園という川神市内随一の武術校に進学し、何事もなく過ごした――――訳はなかった。とは言っても、彼の家族や人生に大きな障害が発生した訳ではない。彼らの生涯はまず間違いなく幸せの部類である。

 彼は成績が良く腕っぷしが強い、それだけで学園のメンバーから目をつけられるのは至極当然のことであった。特に競争意識と自尊心の塊であるS組の面子からは敵対意識を燃やされていたと、青年は思い出して苦笑していた。

 

 

 ――――そう言えば。

 

 

 ふと、青年は学生時代の“敗北”を思い出す。とは言っても、敗北というのは彼の精神面上のことであり、勝負の結果だけ見れば彼の勝利であった。

 彼が負けたと感じたのは、自分か積み上げてきた自慢の拳に追いついている歳下がいたということであった。その年下は、まだ小学生後半、中学生にも進学していない小さな少女だった。少女は川原で修行をしていた青年に勝負を挑んできたのだ。

 練りに練り上げた拳は歳月が重なれば重なるほどに強くなっていく、そう実感していただけに、青年はその事実がショックだったのだ。この事実はつまり、青年の一年単位の努力が全力ではなかったという意味であると、彼はそう捉えてしまった。

 生まれながらの身体能力や得手不得手といった才能は存在しない、才能にうつつを抜かしている者や、生半可な努力しかしていないその他大勢に負けるはずがない、努力の量も質も自分が一番だ。そう認識している青年の精神を更正させた。

 自分の実力は揺るがないと自身を持っていた彼の心は、ある少女の拳によって叩き壊され、正しい形へと修正されることとなった。

 

 

 ――――俺は弱かったんだ。

 

 

 青年は自分の弱さを、自身の力に慢心していた汚点を見直し、さらなる研鑽と修行を積み重ね、見え始めていた油断という弱点は綺麗さっぱり洗い流されることとなった。

 この敗北をきっかけに、青年は自身の持っていた血統的才能と、環境的努力を組み合わせた強者へと開花し、“壁を越えた者”のステージへと足を踏み入れていた。

 三年間通してS組で在籍し、主席の卒業はならなかったがそこそこの順位で卒業することに成功した青年。卒業後は暫くは就職先を考えることにした。大学を目指すことも考えたが、家族から少し休んだらどうだという提案の元、受験は頭から追いやり見識を広めるべく放浪することにした。精神的起点ともなった敗北をきっかけに、青年は努力家ならぬ努力過、努力魔と言われるほど絶え間なく修行を続けてしまっていたため、家族にもいらぬ心労を与えたいたと気づく。そのため青年はその提案を受け入れることにしたのだ。

 

 

 その一人旅の中で、青年は親友とも呼べるような男と出会うことになる。

 

 

 川神からも比較的近い場所にある七浜、赤煉瓦やベイブリッジなどで有名な観光名所であり、更には川神からも視認できるラグナマークタワーや、巨大複合施設クイーンズスクエア七浜が建っているなど、如何にも都会と言える地に青年は足を延ばしていた。

 そこに、幅の広い緑の鉢巻きがやけに目立つ執事姿の男が倒れていた。

 その男は気絶している様子だったが、何故か表情は苦しんではいなかった。寧ろ、僅かに笑っているようにも見受けられたという。

 若干その男の容態に混乱し引きつつも、青年は彼が目を覚ますまで介抱することにした。特に深い意味はなく、言うなれば気紛れと言うものではあるのだが、青年はこれが運命だと思った。少しばかりロマンチストの青年の悪い癖であった。

 数分もしない内に男は目を覚ました。パチリと目を開けた瞬間、横になっていた体の上半身だけを起こし、突然立ち上がって辺りをキョロキョロと見回していた。

 青年は男に声をかけた。何と無しに呼びかけただけだったのだが、男は状況を理解したのか、青年に向かって急に土下座し謝罪と感謝の意を熱く述べたという。

 実に嵐のような男、青年の男に対する第一印象は正にそれだった。男は一礼すると、一切の迷いなく駆け出して行ってしまった。

 

 

 ――――運命だよね。

 

 

 青年はその後も何度も男と遭遇することになる。それもその遭遇の大半が男が路上で気絶するか倒れているか。挙句の果てには空から降ってくるなどと言うこともあったという。

 暫くそうやって顔を合わせる内に、青年と男は会話を交わすようになっていた。そこで青年は男の内情を聞き出すことに成功した。内情と言っても、まず青年が知りたかったのは、何故こんなにも頻繁に気絶しているのかということだった。

 男は巨大財閥の当主の娘の執事として仕えているらしい。男が自分の主について語っている時は常に全力、いつも以上に暑苦しい熱気が青年に襲い掛かることはしょっちゅうだった。その態度から見ても、青年は男の忠誠心と愚直さを感じ取っていた。

 彼が主に仕えている理由の一つとして、輸血要因としての使命があった。彼の主の血液型はとても稀なもので、それと同じ血液型を持つ彼は幼少の頃から主に仕えている。しかし、そんな輸血要因であるかれが主に逆に輸血されるという事件が起こった。それ以来、彼は全身全霊をかけて傍に仕えると誓ったという。その話に、青年はひどく感銘を受けた。

 それからだろう。彼と男は急速に親密度を高めていった。それがきっかけだった。青年は自分が本気でやりたいことを見つけたのだ。

 

 

 ――――俺も同じ道を行きたい。誰かの為になりたい。そう強く思った。

 

 

 彼は早速実家に戻り、その旨を両親に告げた。両親は二つ返事でそれを許可してくれた。誰かの為に身を粉にしたいということは素晴らしいことだと、父から頭を撫でられ褒められた。こんなに真っ直ぐな子に育ってくれて本当に良かったと、母は涙ぐんで感激していた。その両親の暖かい表情は鮮明に思い出された。

 両親の後押しも受け、七浜に向かった青年。そこで前もって男と話す機会を設けていたのだ。しかし、そこには男だけではなく、額にバツ印の切り傷の入った銀髪の少女がいた。学生服を着ていたが、発せられる貫禄に近いものは、隣にいた男よりも遥かに強く大きかった。

 その女性は名乗る前に、拳を青年に向けて突き出した。青年はその拳を完全に見切り、紙一重で回避してその腕を掴み、思わず放り投げてしまった。

 投げ飛ばされてしまった女性は華麗に着地し、何故か高らかに笑っていたという。青年の脳裏に焼き付いている印象深い光景で、大事な思い出だ。

 話によると、その少女は男の主であるらしい。男は青年が九鬼に仕えたいという話題を主に振ったらしく、その話に興味を持ったようで、自ら見定めてやるとここまで来たようだった。

 ここで、初めて自己紹介となった。男も青年も、互いに名を知らないままであったことに今ようやく気づく。

 

 

 ――――武田小十郎に、九鬼揚羽。

 

 

 九鬼揚羽のお墨付きということもあり、青年はすんなりと九鬼の従者部隊に入ることができた。しかし、青年の快進撃はそれだけに留まらなかった。

 大学に進学していないとは言え、その頭脳は驚異的なものであった。これも小さい頃から肉親たちの教授を真面目に享受していた賜物であった。その頭脳を買われ、始めは従者部隊から経営などの補佐に回ってみてはどうかと内部異動の進言があった。

し かし、その頭脳よりも際立っていたのが、腕っぷしの強さであった。基本何をやらせても失敗はしないし、力仕事は何でもこなす。その上、九鬼揚羽のスパーリングの相手として適任であったため、やはり従者部隊の中でも上位のランクを与えるべきだということで異動はなくなった。

 この辺りから、青年と小十郎の仲はより親密なものとなっていた。それこそ、親友とも呼べるような間柄であった。普段揚羽の執事としてほぼ同じ時間を過ごす小十郎、小十郎程長い時間ではないが揚羽に仕える様になった青年。血の繋がりを越えた兄弟、そう表現されることも少なくなかった。

 

 

 ――――有意義だった。

 

 

 揚羽とのスパーリングがより自分を磨き上げていっているのが理解できた。九鬼での仕事が自分の知識をより洗練しているのが解った。肉体的にも精神的にも、青年は自身の成長をその身で感じていた。

 今まで詰め込まれただけだった知識も、この九鬼という環境では嫌と言う程使う機会があったが故に、青年の中の荒れ放題だった引き出しが整理整頓された。使うことがなかった武の技も応用する方法が訓練で見つかり、より強力な戦士として飛躍していった。

 青年の最終的な九鬼家従者部隊の序列は十二まで上がった。小十郎と同い年でここまでの成績を収めたことは前例がなく偉業であった。小十郎はその頃九九九番、最下位であった。 勿論青年はそんなことで親友の小十郎を卑下したりはしない。寧ろ納得がいかなかったのだ。小十郎の実力ならばもっと上位の序列を手に入れることが可能であるのに、どうしてもそれは叶わなかった。

 理由は明白、ミスが目立ちすぎるのだ。もう少し落ち着けばいいものをと、青年は幾度となくため息をつき、それがアイツの味なんだろうなと、幾度となく苦笑していた。

 

 

 ――――それで、どうなったっけ。

 

 

 青年が思い出そうとしていることは、九鬼従者部隊として仕え始めた二年後に起こったある事件のことだった。

 九鬼家従者部隊の内数人が選抜され、川神院との三日間の合同訓練が川神山で行われることになった。そこに青年は選抜されたが、小十郎は揚羽に付きっ切りということもあり、今回は不参加に終わった。

 合同訓練と言っても、双方から選抜された人物同士で模擬戦を行ったり、山と意識を同化させようとする精神鍛錬などが主であった。その中でも青年は群を抜いていた。発展途上の若者ということで川神院に紹介されていたが、その実力は師範代にも劣らないもので、川神院総代を驚かせたらしい。元々川神学園生であった青年と総代は親しかったため、青年の更なる成長ぶりに驚きを隠せなかった。

 加えて、青年を一度打ち負かしている――当人としては結果的にも精神的にも大敗したと思っている――少女も参加しており、青年は出会い頭に襲われそうになった――少女からすれば歓喜のあまり飛びついただけのつもりだった――が、何やら人間離れした大技をくらい少女は吹き飛ばされ壁面に叩きつけられていた。青年が唖然としていると、かつての恩師でもある川神院の師範代に説明された。例の少女は川神院総代の孫らし

く、今回の修行では自身との折り合いを付け精神的に成長させることが目的らしい。

 既にそれができている青年からすれば、それに協力したいと思うことは彼にとって当然のことであり、率先して少女の相手をすることにした。勿論、ただただ先頭を繰り返すだけでは意味がない。兄貴分のような、道を示すような役目を担おうと考えた。

 

 

 ――――弟や妹がいなかったから新鮮だったな。

 

 

 余計な役目まで背負ってしまったが、初日、二日目共に何事もなく訓練を終わらせていた青年。川神院と九鬼の古株の双方から認められて何とか主に泥を塗らずに済んだと安堵していた青年に、悲劇が降りかかる。

 三日目の川神山は豪雨に見舞われていた。いや、最早雷雨と呼んでも差支えのない程に悪天候であった。そんな中でも訓練は行われた。今回の訓練を引き受けた川神院は“根性論”として有名であったため、恐らくこの天気でも訓練は行われるだろうと青年も予測していた。

 その後、山を登って降りるというただそれだけのランニングで全ては終わる筈だった。筈であったのに、運命とは残酷なものであった。

 青年の目の前で走っていた修行僧の一人が泥濘(ぬかるみ)に足を滑らせ、そのまま崖下へと落下してしまったのだ。その場に師範代クラスの人間もおらず、助けに行けるような力を持った人間がその場に見当たらなかった。

 青年は父親直伝の正義感に駆られて助けに行くと決意した。青年の後ろを走っていた修行僧にその旨を伝え、直ぐに師範代クラスの人間たちを呼ぶようにと指示を出し、青年も崖から飛び降りた。

 悪天候で視界が悪かっただけであったのか、崖は青年が思った程高くはなく、落ちてしまった修行僧も直ぐに発見できた。できたが、その場所が問題だった。風雨によって激しさを増していた川の流れの中に、修行僧が落ちてしまっていたのだ。

 青年は何も考えずにそこに飛び込んだ。修行僧が遠くに流される前にその手を掴んで引き寄せることに成功した。そこまでは良かった。

 問題は、どうやってここから脱出するかだった。川は青年の丈よりも深く、足場がつかないためにバランスが取れなかった。全力で気を放出して水を吹き飛ばすのも考えたが、そうすると修行僧の身に危険が及んでしまう。青年は考えた。どうやってこの場を乗り切るのか、その解決策を。

 

 

 ――――万事休すだった。

 

 

 そこで青年は思いついてしまった。自分を踏み台にするということを。

 青年は修行僧を両腕で持ち上げた。その比重のせいで青年の体は頭まで水の中に沈んでしまったが、青年はそのおかげで川の底につま先を付けることに成功した。さらに、水中に潜るまでの間に予め丘の位置と距離を確認していた。そして、青年は革底を僅かに蹴り上げ、修行僧を全力投げて水面から顔を出した。そこには修行僧が河原から少し離れたところで蹲っているのが見えた。少し苦しそうにしていたが、溺死するよりはマシだろうと前向きに考えていた。

 残るは青年の脱出だった。青年一人での脱出は簡単だった。簡単だった筈だった。

 濁流に流されたままの青年は修行僧の気を遣い過ぎたせいで、自身が流れていく先への注意を怠っていたのだ。後ろを向きながら流されていた青年の背後に有ったのは、巨大な倒木だった。

 ぐじゃり、青年の胴体から嫌な音が聞こえた。青年はゆっくりと自分の胴を触って確かめた。すると、そこから何やら尖ったものが突き出していた。水面から手を出すと、僅かに赤いものが付着していた。

 

 

 ――――ああそうか、俺、死んじゃったんだ。

 

 

 胃を貫かれたのか、肺をやられたのかさえ分からなかったが、口からは血が吐き出された。口の中に嫌でも広がる苦い鉄の味が今でも思い出される。

 青年はここで自分の人生の終末を確認した。こんな激流の中、こんなにも大きな傷からの出血は耐えられる筈がないと、まるで客観的に自分の死を確信していた。こんな時、ゲームや漫画のような回復魔法があればどれだけ便利かと、そんなくだらないことまで考えていた。

 しかし、青年に襲い来る自然の猛攻はそれだけに終わらなかった。

 青年は視線を前に上げると、目の前から巨大な流木が流れてきていた。その流木は真っ直ぐに青年に襲い掛かった。暴風で薙ぎ倒され、引きちぎられたような荒々しい切断面が、ビリヤードのキューのように迫り来る。

 

 

 ――――ああ、死んだ。

 

 

 二度目の死の確信。青年は流木と流木の間に挟まれ、意識を失った。

 

 

 ――――それで、ここは死後の世界なのかな。

 

 

 青年は自分の腹部を確認してみる。痛みはなかったが、やけに縫い傷が目立っていた。妙なところでリアリティが溢れているなと青年は感心していた。

 そうなると、夢半ばで潰えたことになるのかと、青年は僅かに肩を落とし溜息を吐いた。 しかし、青年の顔に絶望は見られなかった。まだ自分が死んだという実感が湧かなかったからだ。あの過去を鮮明に思い出した限り、青年の死はほぼ確定していた。しかし、青年の体はところどころ治療されてあった。青年も不思議に思わざるを得なかった。

 

 

 ――――ドクンッ。

 

 

 その時、青年の心臓が跳ねた。青年が顧みた過去の中で一度も感じられなかった程の大きな躍動。思わず青年は心臓を掴むように左胸に爪を立てた。

 ドクンドクンと、心臓の爆発的な活動は収まることを知らず、むしろその勢いと大きさは増しているようだった。青年はその心臓の動きに苦しみを覚える。今にも破裂してしまいそうな自身の重要な循環器官に張り裂けるような痛みが襲い掛かる。

 

 

 ――――起きろ、起きるんだ覚醒者。

 

 

 青年の頭に言葉が響き渡る。あまりの激痛でついに幻聴まで聞こえ出したかと青年は思ったが、どうやら幻聴などではないようだった。まるで自分の中心から語りかけてくるような、もう一人の自分が諭してくるような、そんな感覚が青年を襲った。

 

 

 ――――二年が経った。もうそろそろ起きてくれ。君がいなきゃ始まらない。努力の権化。君には働いてもらわなきゃ困るんだよ。いいから起きろ。

 

 

 青年のいる真っ暗な空間に、一筋の光が差し込んだ。その光は、まるで子供の手のような輪郭を形成し、青年の首を握り、勢いよく引き上げた。青年はあまりの眩しさと息ができない苦しさに悶える。

 

 

 ――――眩しい? 苦しい?

 

 

 ――――なんだ、俺は生きてるのか。

 

 

 青年は苦しさを喜びへと変えて、全てを光に委ねた――――

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 武田小十郎には、二年前から日課ができた。それは筋力トレーニングやランニングといった肉体的なものではなく、かといって日記やブログなどと言った日常の感想を綴るものでもない。

 それは、見舞いだった。

 二年前、彼の親友は天災に巻き込まれ、意識不明の重体になってしまった。所謂昏睡状態である。命を取り留めただけでも奇跡的と呼ばれるような状況だが、一向に意識が回復する様子は見受けられなかった。安定した脈拍に呼吸、規則正しく動く循環器官が、まるで彼の親友が機械の様になってしまったと感じさせる。

 しかし、小十郎は諦めなかった。いつか必ず、くだらない話で笑いあったり、拳を交えて競い合ったり、一緒に同じ主に仕えて使命を全うしたり、再びその機会が訪れることを夢見て何度も何度も面会している。

 時には、彼の主である九鬼揚羽と共に訪れ、気合を入れろだのと根性論で起こすように諭したこともあった。揚羽が如何に無理をしてここに訪れていたかがわかる。小十郎はそんな揚羽に何もできないことを悔やんだ。

 時には、川神院総代である川神鉄心と出くわすこともあった。まるで孫の寝顔を見ているかのような鉄心の表情に、思わず小十郎は涙を流しそうになった。

 時には、彼のことを兄として慕っていたと聞く川神百代とも出くわした。入院当初はほぼ毎日のように来ていたが、何かを振り切るようにしてある日突然来なくなってしまった。今、彼女は情緒不安定だと聞いていた。

 

 

 ――――みんな待ってるんだぞ、親友。

 

 

 設備は九鬼家が全力を尽くして整えたために、医療施設としては最新最高のものであった。始めはICUに収納されていた彼の親友も、今では個室に移っているが、やはり意識は戻らなかった。

 そして今日も、小十郎はその病室に入る。いつも通り、真っ白なベッドに真っ白な壁、真っ白な服を着て眠っている――――筈だった。

 

 

「――――」

 

 

 小十郎は先程買ったばかりの花を落としてしまった。目の前の光景が信じられず、呆然自失となってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 真っ白なベッドで寝ている筈の彼の親友が上半身を起こし、開け放たれた窓から入ってくる風を浴びていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、眠っている筈のその人物は、来客に気づいてそちらに顔を向ける。

 

 

「ダメだよ小十郎。見舞い用の花を落としちゃ」

「な、成実(なるみ)……?」

「おはよう。小十郎」

 

 

 青年の金髪が部屋に舞い込んできた風に靡き、小十郎の瞳を焼き尽くしてしまいそうなほどに煌く。生きていると実感した青年の命の輝きが、視覚を通して小十郎へ流れ込んだ。

 青年、三条(さんじょう)成実(なるみ)は満を持して、物語に参入する。

 

 

 





 人間は、みんなに愛されているうちに消えるのが一番だ

 川端康成

 ◆◆◆◆◆◆

 また登場人物増やすのかよいいかげんにしろよ、ごもっともです。一番初めに六人の玩具がいる、などと風呂敷を広げてしまいました。広げた風呂敷は、畳まなければ邪魔になりますし見栄えが良くありませんので、きっちりと最後まで貫き通させていただきます。その風呂敷の大きさが、まだ私自身掴みきれていないという欠落がありますが……。

 MNSコンテストが終わってしまい、何をしようかという次回のコンテスト的何かを脳内打診しつつ、その場凌ぎを考えつきました。
 今回のタイトル、和歌ですが、結構有名な和歌であります。ご存知の方も多いと思います。本来ならば平仮名で記載されることも多いですが、今回の話に則した深い眠りと目覚めがわかりやすくなるよう漢字にさせていただきました。

 こんな和歌知らねぇよ、というお方には是非、この和歌がどういう法則に、どういう条件に法って則しているのか、ぜひお考え下さい。



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第二十九帖 みな草の名は百と知れ薬なり――――

――――すぐれし徳は花の作並


麹屋勘左衛門


 

「成実!!」

 

 

 ドガン! と、おおよそ病院内で生じることのないような音と共に、病室の扉が破壊されるかと思うくらいの勢いで開け放たれた。その病室の主はこのことを予見していたかのように、特に驚いた反応を見せずにニコニコと笑っていた。

 

 

「おはようございます、揚羽様。病院ですのでお静かに」

「そんなことを言っている場合か馬鹿者!!」

 

 

 病室に入ってきた女性、九鬼揚羽は怒りを露にしていた。しかし、それは単なる怒りではなく、怒りはあくまでも芯にある感情の肉付けとして存在する併発的な感情。中核的感情はそれとは反対に近い、歓喜や感謝。感涙にむせび泣くと言うように、揚羽は涙を堪えつつ怒鳴り散らしていたのだ。

 それに対し、病室の主である成実は笑顔を絶やさずにいた。その笑顔は、揚羽と二年越しに会えたことに対するもの、などといった感動的なものでは決してない。成実は普段通り、揚羽と接するような自然な笑顔、日常的表情を浮かべているに過ぎなかった。臨死体験をしたところで、成実に空白の二年という概念は存在せず、昏睡状態に陥る前の記憶と今の記憶が繋げられているため、気分的には約一週間ぶりの再会、といったところだ。

 それ故、揚羽がそこまで涙を堪える理由も、理屈では分かっていても実感が湧いていなかった。成実は今、自分がこうして動いていることを不思議に思えない。彼には、ほんの少し長く寝ていたかな、という程度の感想しかない。

 その態度に、揚羽は困惑しつつ呆れていた。

 

 

「はぁ……。二年も眠っておいて、そんないけしゃあしゃあと……」

「そうは言われましても、気分的には睡眠にあてた休日明け程度でして。髪の毛は荒れ放題ですけど、気分的にはいつもの日常なんですよ」

 

 

 成実はそう言って自分の金髪の荒れ具合をアピールするように、頭を軽く左右に振ってみせた。肩を余裕で越える長さの髪が鬱陶しいのか、髪は全て後ろへ持っていき、全て纏めて輪ゴムで縛っていた。オールバックかつポニーテールな状態になっているため、頭を振るたびに馬の尻尾のような髪が追随して揺れる。

 その髪の荒れ放題よりも、揚羽は成実の体や顔つきの方が心配であった。二年前とは遥かに細った顔面、筋肉よりも骨が多く見られる身体。やはり入院患者なのだと思わせるような風貌であった。

 

 

「この馬鹿者……心配をかけさせおって……」

「小十郎と似たことを言いますね」

 

 

 笑顔を絶やさず会話を続ける成実の言葉に、ようやく思い出したかのように揚羽は問いかける。

 

 

「そうだ、小十郎はどうした? 我に連絡を寄越したのはあやつなのだが……」

「あー……。えと、騒ぎ過ぎだということで鎮静剤を打たれて……」

 

 

 成実は病室の入り口付近に有る椅子を指差した。その椅子の上には、安らかな寝顔を浮かべている小十郎の姿があった。口元が少しずつだが動いているようで、うっすらと「なるみ、なるみ」という掠れた声も聞こえてくる。安堵の表情を浮かべつつうなされているような声を出す、実に器用な寝相であった。

 それを見た揚羽は頭を抱え、成実は腹を押さえて笑っていた。

 

 

「小十郎に聞きました。俺はそんなにも長く眠っていたんですね」

 

 

 ふと、成実の顔から笑顔が消えた。悲壮感の漂う、実に弱々しい顔になっていた。揚羽は成実を準専属の執事として目をつけてきて数年、彼のことを観察するように見てきたつもりであったが、こんな自信のない表情を見たのは初めてであった。

 

 

「ああ、二年になるな」

「あの修行僧さん、高木さんは元気ですか?」

 

 

 あの修行僧というのは、二年前に行われた川神院修行僧と九鬼家従者部隊の合同訓練にて、成実が助けることに成功した修行僧のことだろうと、揚羽は瞬時に理解した。その修行僧と揚羽は面識がある。その修行僧は揚羽に対し、この病室で床に手と頭を付き、涙ながらに謝罪と謝恩を述べたことは未だに覚えていた。

 許すもなにも、全ては成実が決めることだと、揚羽はなにも咎めはしなかった。揚羽個人の感情としては、成実を昏睡状態に陥るきっかけを作った張本人に対する怒りもあり、成実がそうまでして人を救い出し感謝されているという誇りもあった。

 そのためか、揚羽は無感情に、鉄面皮を装い、修行僧にこう告げた。

 

 

 ――――その言葉は私に向けるものではない。成実が起きるその日まで、その言葉と気持ちを胸にしまい生き続けろ。それがお前の義務であり、役目だ。

 

 

「お前が身を呈して助けた奴か、あやつは今も熱心に修行しているとのことだ」

「そうですか。それは何より。高木さんは無茶しいなところがあるのは稽古中に分かってはいましたが、元気ならもう大丈夫そうですね。またご挨拶に行かなくては」

 

 

 ――――成実、お前は、あの修行僧に何の怒りも、恨みもないのか?

 

 

 そう尋ねようとした揚羽は直前で踏みとどまる。聞くだけ無駄だと理解しているからこそ、揚羽に自制が働いたのだ。三条成実という男は、どうしようもないほど人畜無害で、手がつけられないようなお人好しで、二進も三進もいかないくらい器の大きい男であると、揚羽は認識してしまっている。

 

 

「ところで、僕が起きたことを知ってるのは揚羽様と、小十郎だけですか?」

「今のところはな。お前との話が済んだら九鬼に連絡を入れるつもりだ。先程まで英雄と紋、ヒュームにクラウディオもいたのだがな。別件で帰った後にお前が起きたと連絡が来たものだからな」

「ヒュームさんにクラウさんもいたんですか。もう少し早く起きればよかった」

 

 

 そんなため息混じりの言葉とは裏腹に、成実の顔は僅かに嬉しそうだった。やはり日常的に感じられているとは言っても、実質二年も経っているのだ。身体は二年の静けさを振り払うように、騒がしさを求めている。療養すべき時に賑やかさを求めるのは成実らしさだと言えよう。

 

 

「小十郎は後で引き取ってくださいね」

「解っている。なんなら今ここで叩き起こしてやってもよいが……」

「まあまあ、落ち着いて下さい。揚羽様だって、扉を壊しかけたでしょう?」

 

 

 成実はニコニコと微笑みながら、子をを宥める母のような言葉を選び揚羽に投げかける。揚羽にとってはある意味先達(せんだつ)であった成実は、揚羽の従者となる一年前は兄のように接していたため、従者になった今でもこういった言葉を揚羽に与える。

 その効果は明々白々として見られ、揚羽は大きく息を吐きだし、小次郎の迷惑行為に対し怒りを覚えたために握り締めた拳をほどき、ゆっくりと腕を組んで小十郎を視界から外した。

 

 

「それより、揚羽様に話しておきたいことがあります。さっき、小十郎にはハグでばれちゃいましたが……」

 

 

 成実は揚羽が小十郎から意識をこちらに戻したことを確認し、中々に切り出せなかった話を持ち出した。その表情はまたしても暗いもので、揚羽にとって一種の不安と恐怖を覚えさせるものだった。

 成実は小十郎と顔を合わせた瞬間に、小十郎の熱烈なハグを受けた。そのハグは大変力強いもので、病み上がりというか、昏睡明けの成実には少々肉体的な刺激が強かった。

 その時に、成実も小十郎も気づいてしまった。

 

 

「……何だ、言ってみよ」

 

 

 しかし、成実の見慣れない表情を見せつけられて尚、揚羽は笑っていた。どんなことでも受け入れる自信があった。本の少し鈍っただとか、久し振りに起きたからお腹が空いただとか、そういう類いの話だと思っていたからだ。成実は自分のこととなると、あまり真剣に考えないでいいことを真剣に考えたり、どうでもいいことを申し訳なさそうに語る癖がある。それを理解しているからこそ、今回もくだらないことだろうと高を括っていた。

 しかし、成実の話はその余裕と自信を粉々に打ち砕く。

 

 

 

 

 

 

「執事を辞めていいですか?」

 

 

 

 

 

 

 突然のことに揚羽は絶句した。笑った顔のまま、彫刻のように動かなくなってしまった。開いた口はだらしなく開いたままで、瞬きという当然の行動すら行えず、揚羽の周りだけが

時間停止してしまっているようだった。

 

 

「揚羽様、手を出してください」

 

 

 成実のその声は揚羽をなんとか再起動させることに成功したが、揚羽の動きは錆び付いた機械のように滑らかさとは程遠い関節の可動だった。ギシギシというオノマトペが似つかわしいほどぎこちのない動作で、揚羽は言われるがまま右手を差し出した。そうすれば、成実の言っていることが理解できると思ったから。

 差し出された揚羽の手を掴もうと、成実は布団の中に沈めていた右手を伸ばそうとした。

その時既に、揚羽には成実の身体の異変が目に見えていた。

 ただ腕を伸ばそうとしているだけなのに、成実の右腕は明らかに震えていた。痙攣であればまだ良かっただろう。それよりも悲惨な、力が入りきっていない弱体化が目に見えてしまう虚弱な様。それも、成実の表情は痛みに耐えるかのよな悲痛なものでしかなかった。

 ようやく揚羽の右手に届いた成実の手が、揚羽の手をギュッと握ろうと手を取った。

 驚愕の顔つきのまま、揚羽は再び絶句した。握られたという初めの感覚から、全く成実の手から力が入ってこないのだ。成実の顔は真剣そのもの、一切ふざけている様子など感じなかった。

 

 

「っ……」

「な、成実……これは一体……」

「ね? 俺の今の、全力です。これが、限界なんです」

 

 

 揚羽の手を握る手だけでなく、声すらも震えていた。必死に作ろうとしていたその笑顔も、積み上げてきた自信と共に段々と崩れていた。悲愴な笑顔というものが、揚羽の目の前にあった。

 

 

「だから、執事を辞めると?」

「……はい……。暫くの間」

「そんな巫山戯たことを――――ん? 暫く?」

「え、はい。暫く」

 

 

 ――――何やら、空気と内容が噛み合っていない。

 

 

「それは、何だ。つまるところ、リハビリのための時間が欲しいと」

「はい」

 

 

 

 

 

 ――――ああ、そうだった。

 

 

 成実が本気で執事という職をきっぱり辞める気だ、そう思い込んでいた自分を揚羽は引っ叩きたくなった。つい先ほど、三条成実という男について思い返し、再認識したばかりだというのに、揚羽はあっさり騙された。

 

 

 ――――こいつは自分のことに関すると、大したことでもないのに大げさに振舞う悪癖があった。

 

 

 

 

 

「紛らわしいことを言うな!! 全く、執事を完全に辞めたいと言っているかと思ったぞ!」

「そんな訳ないじゃないですか! 執事は俺の天職です。辞めることなんか考えられませんよ!」

 

 

 成実は震える手をぐっと握り締めて、自分の意思を揚羽に伝えた。その意思は返しの付いた銛となって、揚羽の心に深く突き刺さる。

 そんな時だった。病室の入り口の方から、何やら苦しんでいる患者のような呻き声が聞こえてきた。この病室の主である成実は笑っているのに、全く別の人物の声が病室を反響する。

 

 

「な、成実ぃ……。なる、みぃ……」

 

 

 その声の主はずるずると体を地面につけて、成実と揚羽に這い寄ってきていた。這いよるその様はホラー映画よりもアクション映画でよく見られるような印象が強い。

 

 

「ほら小十郎、無理しちゃダメだよ」

「この阿呆め……。成実、我は一旦帰る。小十郎を連れてな。お前の主治医にこのことを伝えねばならないからな。ほら起きろ小十郎!」

 

 

 揚羽は地面に臥している小十郎の胸ぐらを掴んで持ち上げ、右拳を小十郎の頬に打ち込んだ。その一撃で小十郎の中に蔓延っていた鎮静剤は効力を失い、小十郎は勢いよく目覚め立ち上がる。

 

 

「おはようございます、揚羽様ァッ!!」

「相変わらずのスキンシップですね。見ていて気持ちがいいですよ」

「これでも回数は減らしているんだがな。帰るぞ小十郎」

「お、お待ちください揚羽様! 自分はまだ成実と熱い語らいをしたく!!」

「相手は病人だ! 少しは気を遣わんか!」

 

 

 揚羽の二度目の怒りの鉄槌が小十郎の左頬を打ち抜いた。“汝の右の頬を打つものあらば、左の頬も向けよ”を強制的に実行させる揚羽の傍若無人ぶりは、いつまで経っても昇格しない小十郎にのみ発揮される。

 

 

「ぐはぁっ!? 申し訳ありません、揚羽様ァッ!!」

 

 

 この病室の中だけでも既に二回の拳撃を食らっている小十郎を見て、中々気絶しなくなった小十郎の成長が少し嬉しくなった成実であった。

 

 

「じ、じゃあな成実。また見舞いに来るから」

「我も直ぐに訪れようぞ。九鬼にも一報を入れる故、何人か押し寄せてくることは覚悟しておくように」

「はい、肝に命じておきます」

 

 

 鬱憤を僅かながらに発散させた揚羽と、若干脳震盪に近い眩暈を即座に回復させた小十郎は成実の病室から退室していった。小十郎の足取りがほとんどふらつかないようにまで直ぐに回復ところを見て、やはり相当な時間が流れたのだなと、少しだけ寂しくなった成実であった。

 そんな成実の感慨深くしみじみとしていた笑顔が、突然消えた。

 

 

「人払いは終わったよ。早く姿を見せたらどうだい?」

 

 

 成実は開け放たれている窓に向かって声をかけた。窓から入ってくる風によって真っ白なカーテンが靡いているだけで、他には何の姿も見られなかった。しかし、成実にはそこにいる何かをしっかりと視認しているようだった。いや、ひょっとしたら見えていないのかもしれない。ただ、そこに何かがいると、自信を持って言えた。

 

 

 

 

 

 

 

「やれやれ。ようやく起きたかと思えば、そんなにはしゃぐなよ」

 

 

 

 

 

 

 

 その窓の縁に、小さな子供が座っていた。先程まで確かに視界には見られなかった場所に、その子供は座っていた。最下位とは言え九鬼従者部隊の小十郎も、壁を越えた者と称されるほどの強者である揚羽さえも、その子供の存在には気づくことができなかった。

 しかし、成実は子供がそこに座っていることを知っているようだった。誰も気づけなかったその存在を認識していたようであった。

 そんな成実に向けて、子供は堂々と語りかける。十年来の友人話しかけるように、実に馴れ馴れしく話しかける。

 

 

「覚醒した気分はどうだい?」

「悪くはないよ、朧。まだ体が慣れてないみたいだけど」

「無理もない。相当無茶な施術だったからね。あの出血状態から救うにはこれしかなかった」

「やっぱり、この手の震えはそのせいか」

 

 

 成実は朧に向けて握った拳をゆっくりと突き出した。その拳はブルブルと、一点すら定められないような、痙攣などという括りすら飛躍している震動を伴っていた。先ほど揚羽が驚きを隠せなかった、日常生活を送るには大きな足枷となる後遺症。

 しかし、朧はそれを見て驚きも焦りもしない。その瞳が宿しているものは、慈愛と詫言。

 

 

「あればかりは仕方がなかったんだよ。血が足りなかった君を救い、且つ君をぼくの玩具として扱うのであれば、そうする以外に手立てがなくてね」

 

 

 朧は立ち上がって震える成実の手を取り、優しく包み込むように両手で覆った。それだけ、たったそれだけのことで、成実の身体の激しい震えが緩和された。完全に震えが解消されたわけではないが、読める字を書く程度には回復したと言えよう。

 朧は成実の震動の回復と驚愕の表情を確認すると、成実からゆっくりと離れて再び窓の縁に腰を掛けた。そこで、朧は自分の袖からカップケーキを取り出して、豪快に一口で頬張った。

 

 

「甘い物好きってのは、本当みたいだね」

「んん? そうか、確かキミには教えてたね。と言うか、ぼくの影響力が強すぎて、ぼくのことを記憶しすぎだよ。忘れろよ全く」

「嫌だね。命の恩人のことを忘れる程、俺は陰惨な人でなしじゃないよ」

「やれやれ。あの時、瀕死の君を助けた時、死なないようにと君の精神と直に会話したことがこう出るとは。確率が低かったとは言え、やはり覚悟はしておくべきだったな」

「神様がそんなことでいいのかい?」

 

 

 成実は朧を揶揄するように指差した。しかし、朧は特に苛立った様子は見せなかった。

 それでも、自分が神様と呼ばれることだけは、どうしても耐え難いものだったのか、少しだけ成実を睨みつけ反駁する。

 

 

「勘違いも甚だしいよ、三条成実。ぼくは神様みたいだけど神様じゃない。崇拝されているような神格に位置しているような高位な存在でもないし、誰かが空想し創造した無茶苦茶な神擬きとも違う。死人を生き返らせることはできないし、人間を別の世界に飛ばすことも不可能であり、海を割ったり蛙や魚を空から降らせることは叶わない。ぼくは残骸だ。精々“残滓”を操る程度の、おめでたい人間たちの産みだしたもののデブリなんだよ」

「そう言えばそんなことも言ってたね。まあ、君がデブリだろうが型破りだろうが猫被りだろうが、恩人には変わりがないんだよ。感謝してる」

「よしてくれ。ぼくはぼくの気紛れで君を弄ったに過ぎない。感謝されるようなことは何もしていない。寧ろ怨んでもいいくらいだ。それこそ、あの彷徨う怨憎のように」

 

 

 実に面倒な言い回ししか好んで使わない朧だが、それを成実は感覚で把握できていた。成実本人は極めて不可解なまま納得という状況に達しており、心地よいとは言い切れなかった。

 

 

「君と俺は今、相当近接した関係となってしまっているみたいだね。それが誰なのか、知っていたみたいに。他の五人の玩具の情報も流れてくるよ」

 

 

 成実は目を閉じて、目蓋の裏に浮かんでくる漢字を確りと理解する。

 

 

 ――――“恭”、“影”、“序”、“空”、“律”、“怨”。

 

 

 朧の玩具として身体を弄られ、能力を賦与され、一般人からはかけ離れてしまうこととなってしまった哀れな六人のイメージが、明確に成実の知識として追加されていく。最初からそのことを知っていたかのように、成実の脳は改変されていく。

 朧の“計画(遊戯)”が断片的に成実の脳漿を這いずり回る。その計画の進行度が、朧の満足の行くところであることも解ってしまう。

 

 

「そうだ、足りない」

 

 

 朧は成実の考えていることに補足するように、小さく呟いた。その時の朧の表情は実に不敵な笑顔で、見た者を不信感と焦燥感に駆らせるようなものだった。どうやって使い壊そうかと、算段を立てる質の悪い悪童のような微笑。

 朧の計画は実に順調な進行具合であった。何事も問題がなく、寧ろ怖いくらいであった。

 しかし、朧はまだその先を欲する。満足しているからと言って、十分満ち足りてるからと言って、朧は現状を超えることを第一としていた。計画は十分な結果を出しているが、十二分な結果には行き届いていないのだから。

 

 

「後、一人。後一人の動きで全てが変わる」

 

 

 成実の中に、朧の執念に近い何かが流れ込んできた。未だ物語に参加しようとしない六人目に、朧は痺れを切らし介入しようかと悩んでいる状態だった。しかし、それは朧の求めるところではない。

 物語に参入するという行為は、玩具の意思に基づいていなければならない。これまでの五人は皆、自分から物語に飛び込んでいった。六人目だけ無理矢理引きずり込むわけにはいかなかった。

 

 

「それよりもさ。君の計画だと、あの西の奴等も計画の内みたいだけど、果たしてそう上手くいくかな? まだ西との接点があまりにも少な過ぎる」

「なあに、抜かりはないさ。何のためにこんなに九鬼と、川神鉄心と接点を持たせたと思っている。何のために、壁を越えた者を乱立させたと思っているんだ?」

 

 

 朧がニヤリと笑う。ただそれだけのことで、成実の体の中に朧の計画が流れ込んできて、成実の中を引っ掻き回した。

 

 

「――――ははあ。えげつないもんだよ。そこまで計算の内だってのかい? そんなことをしてみろ。西と東なんて境、闘争の彼方に巻き込まれてなくなるぞ?」

「計算の内だって? 違うよ。君ももう解っているだろう? これは“確定事項”だ」

「どこまでも、掌の上か」

 

 

 成実は朧の計画の周到さに呆れかえる。二年という歳月を十二分に活用した朧は、成実を含めたこの世界をトロッコの上に積み上げて、レールまできっちりと敷き終えていたのだ。

 

 

 

 

 

 

「――――掌から、こぼれ落ちているさ。もう既にね」

 

 

 

 

 

 

 しかし、そのレールは先を見て作っていただけで、振り返らずに作られたものだった。振り返ることを忘れた朧は、レールの中腹に作られた分岐器の存在に気づくことができなかったのだ。

 

 

「ここ最近、槿(あさがお)の行動がおかしい。ぼくなら、槿(わたし)のことが解る筈なのに。どうしてかな、悔しいな」

 

 

 単調に述べただけの筈であったのに、朧の感情に近い何かが成実を染めていく。それは、自分自身を傷つけ殺してしまいそうな悔しさであり、流した涙で川を作ってしまうような悲しさであり、声を越えた血だけを吐き出し続ける怒りでもある。多彩な感情が混合され、 筆舌に尽くし難い淀んだものが成実に伸し掛かってくる。

 

 

「人間らしいじゃない。嫌いじゃないよ」

 

 

 その言葉は朧という存在を、根本から否定するような一言だった。

 

 

「ぼくが、人間らしい――――ふむ。興味深い。天地開闢から今に至るまで生きてきたぼくが、人間に近くなっているのか。そんな段階は既に踏破したものと思っていたが、意外と盲点であったようだ。ぼくが人間臭いのか。それならば、槿(わたし)に嫌われても仕方無いのかな。槿(わたし)は極度の人間嫌いだからね」

 

 

 朧は悲しげな笑顔を浮かべ、成実の寝ているベッドに腰かけた。

 成実はその哀愁に近い雰囲気を醸し出している朧の頭を、そっと撫でてやろうとした。その時。

 

 

「やや、人が来るね。そろそろ撤退しなきゃ」

 

 

 人の気配を感じ取った朧は急に立ち上がった。そのせいで成実の撫でようとした手は無残にも空を切った。

 

 

「あ、あら。そう」

「しかも“壁を越えた者”クラスだ。とっととお暇するよ。それじゃあね、覚醒者」

「ちょっと、ちゃんと名前で呼んでよ」

 

 

 成実の言葉に、朧はニコニコと笑いながら、窓から飛び降りた。

 あの神様紛いの人外のことを心配するのは無駄だと解っている成実は、朧が飛び立った後の窓を優しい目で見つめていた。

 その時、成実の病室の扉がまたしても勢いよく開けられた。今日は病室の命日かな、などと、思い返すと成実自身も意味が解らないことを考えていた。

 

 

「成実!! 目を覚ましたのか!!」

「英雄様、もう少し音量を抑えてください」

「クラウディオが急用だというから飯を中断してきたが、正解だったようだな」

「だからって僕まで連れてこないでよ! 牛飯残ってたんだから!」

「ホントだ起きてやがる! ロックな野郎だぜお前はよ!」

「ステイシー、抑えてください」

「何じゃい何じゃい、人が多すぎて鮨詰め状態になりそうじゃの」

「これは日を改めた方がイイですかネ」

「皆さん、おはようございます」

 

 

 こんなにも沢山の人間が自分の為に病院まで足を運んでくれる、その事実は成実にとって、今こうして生きていることよりも嬉しいことだった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 直江大和は思い悩んでいた。先日、自身の姉貴分である川神百代の精神が酷く傷ついてしまった。その時、弟分である彼は傍に着こうとしなかった。着こうと思えば着けたのに、それを拒否した。

 直江大和は、百代の精神を傷つけた原因とも言える人物、天野慶を庇うようにした。当然のことながらファミリーに責め立てられた。何故傍で励まそうとしないのか、何故慰めの言葉をかけてやらないのか、大和は反論することはできなかった。それがあまりにも正当であったため。

 しかし、大和はファミリーと共に百代の傍にいることを投げ出した、その権利を放棄した。

 

 

 ――――今は言えないけど、姉さんの傍に行けない理由がある。頼む、これも最終的には姉さんの為なんだ。解ってくれ。

 

 

 みっともなく懇願した。対等な仲間内に対し、大和は頭を下げて今の自分の態度を許してくれるようにと(こいねが)った。

 大和と天野慶との強い約束が、大和の行動を制限する。しかし、抱え込んで心を砕こうとしている大和を見て、慶はをれを強制しようとはしなかった。今現在大和が苦しんでいるのは、大和が望んでしていることだ。

 それでも、親愛の情というものには抗いきれない。百代が元気をなくした姿を遠目に見て、大和は自分の下唇を噛み切った。何もしてやれない自分が悔しくて、何もしてやれなかった自分が憎らしくて。

 ファミリーの中で亀裂が生じる。軍師と嘯いている自分が原因となってしまっている、この現状が情けなく思える大和。大和のこの真意を理解している者はファミリーでさえ少ない。

 ファミリーのリーダーである風間翔一は、南浦梓から大和と慶の間にある約束を聞いている。そのため、大和の苦く辛い思いも理解しているつもりであった。

 百代の義妹である川神和子は、天野慶の内面とその脆さを僅かに知っており、百代にも大きな非があるとして大和に賛同している。慶に自分が着けない以上、大和にはその責を果たしてほしいと応援していた。

 大和のことを心の底から愛している椎名京は、一子や翔一の様に事情に詳しくない。しかし、大和が選んだ道のりを、彼女は否定しない。他の人が何と言おうと、京は大和を卑下しない。

 しかし、他のメンバーは大和に対して良い感情を抱いていない。彼らは事情があると言われて、はいそうですかとあっさり納得できるような人間ではない。勿論、何も話を聞かずに頭ごなしに否定しているわけではない。話を聞き、弁明を聞き、受け入れることができないだけだ。ファミリーのメンバー中には義や礼を重んじるような人間もいる。事情を説明されないままでは、納得したくてもできないのだ。

 しかし、大和は己に課した責務を全うする。苦しくても辛くても、自分が重圧に押し潰されようとも、百代と慶が最終的に幸せになれるならそれも構わないと、我が身を犠牲にするのである。

 今の彼の心の支えとなっているのは、部屋にいるといつも優しく接してくれる京と、いつも以上に気にかけてくれる源忠勝の存在。更には、クラスも違う葵ファミリーの三人の相談会。そして、ペットであるヤドカリを眺めている時である。

 

 

「やつれているね、身も心も」

 

 

 そんな大和の下に、いつもの如く神出鬼没で、大和もその登場に慣れてしまった存在、朧が大和の部屋に現れた。

 

 

「君は本当にいい仲間を持ってる。いや待て、この状況でこの言葉は語弊があるな。君は本当に、悪い絆を作らない。どんなに嫌悪感に振り回されそうが、どんなに罵詈雑言を浴びされられようが、決して切れない強固な絆だけを持っている君は、ぼくのお気に入りだ。利用するという薄汚い考えも含めてね」

「何しに来たんだ? 笑いに来たのか?」

「そう躍起になるなよ。ぼくは君の味方だぜ? 事情も知らずに君を支えてくれる連中がいる。君はそれをありがたく思っているだろう? 本当に羨ましいよ」

「――――どうした? そんなに悲しそうな顔して。声と表情の明暗があってないぞ」

「え――――」

 

 

 大和の表情の変化を楽しみにしていた朧は、思わぬ反言を食らい目を丸くさせてしまう。大和に自身の表情の変化を指摘された朧は、思わず驚愕の声を上げて自分の顔をペタペタと触りだした。朧の表情は大和にも解ってしまう程、まるで託児所に残された子供のような、寂寞とした悲しそうな顔。他の友達も帰ってしまった、一人だけ取り残された物寂しさを体現しているようだった。

 

 

「あれ、おかしいな。そんなに喜怒哀楽に振り回されるような顔にしたつもりはないんだけど」

「珍しい物を見た気分だ。それで、本当に何の用?」

 

 

 自分の表情の変化に考え込んでしまっている朧を見て、少しだけ微笑ましく感じた大和は、少しだけ元気が出た気がした。

 

 

「ああそうだった。少しね、励ましに来たのと、ご報告を思ったのさ」

「報告? お前の計画? 例の六人?」

「例の六人に関してはまた機会を設けよう。今から話すのは、天野慶の現状報告さ」

 

 

 大和の表情が変わった。目を見開き、頬の筋肉を強張らせ、朧の目の奥を見据えるような真剣なものになった。

 

 

「天野慶は今、とあるアウトロー集団の家で居候している。家事全般を任される代わりにね」

「アウトローって、そんな如何にも危険そうな奴らと!?」

「キミもよく知ってる人物だから案ずる必要はないよ」

「……知ってる?」

「板垣辰子という名前に聞き覚えがあるんじゃないか?」

 

 

 大和は慶がアウトローの家にいるということに慌てていたが、その家の主を聞いた途端にその不安は消し飛んだようだった。

 

 

「辰子さんか……。それならまだ、いいのか?」

「君は確か、板垣家と接点があったね」

「ああ。釈迦堂さんとは梅屋で顔を合わせたことがあったし、辰子さんとは昼寝仲間かな」

「君のコミュニティ作成能力には脱帽するよ。それに、西の天神館、西方十勇士とも何らかの関わり合いを持っている。東西交流戦だけで終わらせないというその心意気には恐れ入る。大友焔に龍造寺隆正。鉢屋壱助――――は違うか。あれは元から関係性を持とうとすればできる人間だからね。長宗我部宗男とも多少の接点があるだろう? くくく、君って奴は、相当に狡賢い」

 

 

 朧は腹を抱えて笑っていた。正確には、笑いを堪えようとしているが、それが叶わずに小刻みな笑い方になっていた。

 

 

「俺のことは別にいいだろ! それより――――」

「――――天野慶か。うむ。現在は川神百代にも発見されていないが、こちらの駒である大道寺銑治郎の進言により、南浦梓、川神鉄心は夜の親不孝通りに天野慶が出没するという情報を掴んでいる。いずれ見つかるのも時間の問題だが、鉄心も梓も慶の擁護派だ。百代との接触は少ないだろう。それに、現在の川神院の話題は、とある人物が昏睡状態から脱したということで持ち切りだからな。百代が塞ぎ込んで引き籠っていようが、相手をしている暇はない」

 

 

 昏睡状態の人物とだけ言われた大和だったが、一人だけその条件に当て嵌る人物を大和は知っている。しかし、知っているからこそ、昏睡状態から脱したなどという奇跡は信じ難かったのだ。その昏睡状態の人物が、自分の知っている人間ではないだろうと、客観的観測の元話を切り捨てる。

 

 

「それが誰か知らないけど、きっとお前のお気に入りなんだろうな。まあそれはいいや。情報提供助かる。俺も姉さんがそこに行かないように裏で動く」

「あ、そうそう。もう一つあるんだよ。君に言いたいこと」

 

 

 大和が自分の今後の動きについて思案していると、朧は何かを思い出したかのように、大和の部屋の扉を指差した。一体何事かと思った大和はそれにつられて後ろを振り向いた。

 

 

 

 

 

 

 

「この会話、筒抜けだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 朧の手が横に振られたと同時に、大和の部屋の扉が開かれた。そこには、今までの朧との会話を聞かれてしまったということで、大和の背中から嫌な汗をじっとりと噴出させてしまうような、そんな二人がいた。

 

 

「ゲン、さん――――? 京――――?」

 

 

 大和はまるで生気が抜けたかのように、力のない声でそう呟いた。

 名を呼ばれた二人、同じ寮生である源忠勝と椎名京は、何の気配もなしに開かれた扉に反応できず、その場で立ち尽くしていた。

 驚愕に我を忘れる大和、動揺を隠しきれない忠勝と京を同時に視界に捉えた朧は高らかに宣言する。

 

 

「おめでとう! これでキミたちもぼくの“計画(遊戯)”の仲間入りだ!」

 

 

 朧の描いた物語は、一つの局面を迎える。

 

 

 





 極度に激しい疾患には、極度に激しい治療が最も有効である

 ヒポクラテス

 ◆◆◆◆◆◆

 なんとか、今月度二回目の更新をすることができました。正直なところ、締め切り間際の焦燥感に駆られつつの執筆だったので、思わず興奮してしまいいつもよりも三千字近く多く書いてしまいました。ドMと言われることも少なくないです。

 成実、ややこしい性格。朧、子供のような変化。大和、日に日に憔悴。以上の三本でお送りしました。実際は成実と大和の二本立てのようなものですが、朧の変化はこの物語の根幹の一つなので、少しでも覚えていただけると幸いです。

 今回の和歌ですが、前回の和歌と同じように、ある法則性に基づいています。漢字でこの和歌を記載しておりますが、平仮名にして、逆から読んでみてください。
 私は言葉遊びが好きです。古典文学もちょくちょく読み、英語の言葉遊びもそこそこに楽しんでいます。だからこそ、この“回文”は私の好むところの一つであります。それでは最後に、今回の協力者友人Sから教えてもらった回文を締めの言葉とさせていただきます。

 結尾。イタリアでもホモで有りたい


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第三十帖 霍公鳥来鳴く五月の短夜も――――

――――ひとりし寝れば明かしかねつも


柿本人麻呂


 

 とある少年少女たちの秘密基地。秘密基地と前置いたが、少なくともそれは未成年の学生たちが有するような秘密基地という規模を遥かに超えている。それは会社が経営されていてもおかしくのないほど立派なビル、だったもの。立派だった頃の荘厳さは、ひび割れた外装から抜けきってしまっている。

 廃ビルや廃墟と銘打てるその建物は、電気は通っていないものの、鞭打たれつつ秘密基地として新しい役目を全うしている。電気が通っていないことでその建造物はより廃れた印象を擦り付けるため、事情を知らない不良が溜まり場にしようと画策するほどである。

 

 

 その廃ビルは今、厳重な監視下に置かれていた。

 

 

 監視を敢行している集団は、統一感と清潔感のあるメイド服や燕尾服を身に纏った十数名で構成されていた。しかし、その部隊の中に、統一性を破壊するような学生服と病人服という異色二名が、部隊の中に混じっていた。

 その集団は廃ビルの敷地から十数メートル離れた位置に配備されていた。皆の面持ちは真剣そのもの。中にはあまりの緊張で喉を乾かし枯らし過ぎ、苦しそうにむせている者までいた。廃ビルも普段とは違う空気に肩身が狭いのか、風化してしまっている外壁がガラリと少しだけ崩れてしまう。

 そんな彼らの指揮を執っているのは、ここに集った九鬼従者部隊の中で序列の最も高い男、クラウディオ・ネエロ。そして、従者部隊に属してはいないが、クラウディオら従者部隊と比類してそこに立っている異色の二名のうち一人、学生服こと松永燕だった。

 彼らは廃ビル内の情報を把握することが完全にはできない。あの廃ビルは一種の危険区域に指定されている。中にいる情緒不安定な化け物、起爆寸前の爆弾、それが今落ち着ける場所はあの廃ビルしかない状況だった。迂闊に突撃してしまえば、化け物が暴走してしまうことは必死だろう。その化け物が外に飛び出してしまうほど危険な状態になった時にしか彼らは動けない。そういう制約を課されている。

 内通者からの簡単な通達は常時メールで送られてくる。それでも、その現場の雰囲気や空気は文面では中々伝わる物ではない。箇条書きに近い文面ではなおさらだ。見守ることしかできない自分を、クラウディオはむずがゆく思っていた。

 もう一人の指揮監督、松永燕は現状の危うさに武者震いしていた。廃ビルという檻の中にいる猛獣が暴れて外に出た時、それを食い止め鎮圧させる役目を任されてしまった。その重圧と、僅かに感じる猛獣の高ぶる闘気のせいで、燕は身体を震わせてしまっていたのだ。

 以前その鎮圧という役目を全うできなかったこともあり、燕の身体はより萎縮してしまっている。

 

 

「いっつぅ……」

 

 

 

 ズキっと、頭部に走った痛覚に燕は顔を歪ませた。特に傷を負っている訳ではないし、病を患っていたりもしない。これは化け物に植え付けられた怪我の遺恨、痛覚の残滓、心的外傷が表層に現れているのだ。

 

 

 ――――梓ちゃんはいいなぁ、捜索部隊で……。こちとらあの一戦以来、百代ちゃんとはすっごい険悪なムードだっていうのにさ?

 

 

 愚痴を言葉には出さず、松永は自身の武器を確認する。腰に付けられた複数のホルダーに手を添え、それに視線を落とし深呼吸をする。

 自分の肉親が作ってくれた近代武器。様々な要因からそう簡単に使える代物ではないが、あると確認するだけで心の余裕ができた。

 いざとなれば、これを使うことも視野に入れなくてはならないと、燕は覚悟を決めてこの場に立っていた。

 

 

「クラウディオさーん。俺病み上がりなんですけど。退院直後の指令がきつすぎです」

 

 

 そんな折、緊迫していた空気の中で、平然としている男の声がクラウディオに向けて放たれた。その男は燕も心の片隅で注意していた異色の残り一人、病人服を着た男だった。

 燕は部外者ながら一度注意しようかと考えたが、その考えは瞬間的に消え去った。その男の纏っている闘気が、ただの従者部隊と思えない程濃い密度で、その闘気のぶれが一切感じ取れなかったからだ。異色と異常さが相まって、病人服の姿は空間から淘汰されたように独立して存在しているように見えてしまう。

 強い、病人服の姿を一目見ただけで、燕は病人服の力量を垣間見ていた。

 

 

「我慢しなさい。今の貴方でも“あれ”を止める役には立ちます」

「善処しますけど、なんでここに桐山くんと小十郎がいないんですか。戦闘できる筈なのに」

「鯉は捜索部隊です。小十郎は揚羽様のお供でシンガポールに」

「桐山くん捜索部隊なんですか? ずるいなぁ。九鬼の若者でも強者だっていうのに」

 

 

 ――――なんか、似た状況みたいね。

 

 

 何故自分の方が戦闘部隊に配属されているのか、その一点において少しばかり不満を覚えていることに、燕は病人服に同意できた。

 

 

「仕方ないですね、それじゃあ気張ります。今の自分がどれだけできるか、いいテストです。けど、そうならない方が良いんですよね?」

「無論です」

 

 

 病人服はクラウディオから離れて自分の持ち場に戻っていった。すると、その持ち場は燕の待機場所と隣接していたようで、声をかけようと思えばすぐにでもかけられる位置だった。距離は空いているものの、夜の静けさが声をよく通すために、話すぐらいでは全く問題にならない空間であった。

 

 

「退院直後なんですか?」

 

 

 気軽に話しかけやすい立ち位置にいる病人服に、好奇心旺盛な燕が声をかけない訳がなかった。その問いかけが自分に向けられたものだとすぐに気付いた病人服は、燕の方へ身体を向けた。

 

 

「ええ、ちょっとありましてね。先日退院したばかりなんですよ。急な出動要請に加えて執事服もサイズが合わなくて、こんな見窄らしい格好でここに来るはめに……。いやはや失礼、お目汚しをしてしまい」

 

 

 病人服は自身の服装を自嘲していた。それほど汚くも古くもない、一般的な病人服よりは小奇麗な服であるため、燕はその(へりくだ)った言い方に苦笑する。

 

 

「いえいえ、お気になさらず。どこか悪かった――――んですよね? 入院していたんですから」

「そうですね。二年間くらい昏睡状態でして。ここ一週間前に起きたばかりです」

 

 

 はははと苦笑している病人服に、燕は驚愕を禁じ得なかった。そんな状態の人物がこの場にいるということ、それを九鬼の従者部隊でも聡明なクラウディオが止めなかったこと。そして何より、目覚めたばかりの人間がこんなにも強い気配を纏っているということが、燕にはどうしても納得できなかった。

 そして同時に、病人服を着ていることにも納得していた。病人服の隙間からわずかに見えるその肉体は、洗練されきった従者のそれではなかった。ところどころ骨ばった体に、ほっそりとした四肢。腕の太さがそのまま強さに繋がるということは決してないが、その細さは虚弱からくるものだ。弱々しさではなく、痛々しさを覚える病人の身体だった。

 

 

 ――――大丈夫なのかな? 突風で吹き飛ばされちゃいそうだよ……。

 

 

 そんな燕の戸惑っている様子を見て、病人服はニッコリと笑った。

 

 

「大丈夫ですよ」

「え?」

 

 

 心の内が読まれたような錯覚に陥り、あまり表情を崩さない燕が目を見開き驚いた。

 

 

「俺はそんな軟じゃないですから。寧ろ強くなりましたよ。臨死体験が俺を強くしました。何も恐れるものはありません」

 

 

 その自信はどこから湧いてきているのか、燕は解らなかった。細々とした両腕、骨が浮き出ている両脚、肺や心臓まで透けて見えるのではないかと思わせる肋骨。自信など湧くはずのない弱体化した身体の持ち主は、これ以上ないくらい強気であった。

 はったりや虚勢を張っている、燕のその考えは一瞬にして吹き飛んでしまう。その言葉に嘘がないということだけは、燕も自信を持つことができた。

 しかし、その自信がどこから湧いてきているのかを理解できていないのは燕だけではない。

 

 

 病人服も、その自信の源が何なのかを明確に理解できている訳ではない。ただ、それが虚構でないことだけは確信が持てた。あの神様擬きの人間臭い少年姿の何かから、男は自信というものを勝ち得ていた。

 

 

 会話を交わしたことにより、二人は顔見知りより少し近しい仲になった。仄かな絆のようなものが芽生えたようで、次のステップに映るのは造作もないことだった。

 

 

「……お名前を聞いてもいいですか?」

「九鬼従者部隊序列元十二番、現在は番外。三条成実といいます。以後、お見知りおきを」

 

 

 

 病人服こと三条成実は、燕に向き合いしっかりと頭を下げる。そのあまりにも綺麗な動作に、燕も思わず「ま、松永燕、です!」と盛大に動揺しつつ頭を下げてしまう。その慌てた挙動は傍から見ているクラウディオを、何故かノスタルジックな思いに引き込むようなものだった。

 

 

 ――――成実は昔から引く手数多ですね。直ぐに女性と仲良くなるんですから。

 

 

 「さて、互いに自己紹介も済んだことですし、ほんの少し戦法を教えてください。少しでも動きやすい連携が組めればいいかなと思いまして」

「いいですけど、本当にやる気ですか?」

 

 

 さっさと本題に入ろうと言わんばかりに、成実は懐に入れていたメモ帳と万年筆を取り出して燕の言葉を待っていた。いきなり聞かれたこともあったが、燕は何より連携という言葉に納得がいかなかった。連携ということはつまり、燕が成実と協力して化け物と相対する、ということ。勿論、成実以外にも従者はいることも忘れてはいない。しかし、成実の言いぶりと雰囲気は明らかに当事者のものだった。

 

 

「やる気って聞かれれば、やる気ですよ」

「申し訳ないんですけど、戦えるんですか? その、二年寝ていたんですよね?」

「二回目の確認、ですか。答えは変わらずイエスです。戦えるはずですよ」

 

 

 ――――不安だなぁ。

 

 

「そう不安そうにしないでください。大丈夫、策はありますから」

「…………失礼ですけど、三条さん。エスパーか何かですか? 分かりやすく顔に出しているつもりはないんですけど……」

「十分に分かりやすいですよ。声の調子とか、ちょっとした仕草とか。嘘をついているかどうかはすぐ見抜けますし、動揺なんかは声だけで判断できます。八割がた勘ですけど」

「最後のセリフで全て台無しですよ」

 

 

 少しでも感心した自分が愚かだったと、燕は大きくため息を吐いて再び成実を見据える。その成実を見つめる瞳の奥に宿る感情は、好奇心から呆れに映った。疑問は未だに残り続けているが、意味合いが違う。“何故病人がこのような危険地帯にいるのか?”という疑問は、“何故このような病人が危険地帯にいるのか?”という疑問へすり替わっていた。前者は病人を案じているが、後者は病人を奇異なものとして扱っている。

 

 

「えっと、燕ちゃん。色々と話したいことはあるんだけど、まずは一番に聞いておきたいことを聞かせてもらうね」

 

 

 その燕の変化に気づいた成実は決して咎めることも責めることも、疑問を持つことすらせずにただ口調を変えた。事務的なものから日常的なものへ、警戒心を露骨に緩めた現れだ。唐突にフランクな対応になった成実にほんの少しだけ驚いた燕だったが、声を上げたり理由を尋ねたりせずに話を続ける。それどころか、対抗意識に近い何かを燃やし始め、

 

 

「何ですか? 成実さん」

 

 

 などと、下の名前で呼び返した。この数日後、何故急に自分もこんなにい親しげに名前を呼んだのかと、時間差で恥ずかしくなり枕に顔を押し付けて叫ぶ燕が見られるのは少し先の話。

 

 

「あの中にいる標的のことだけど……。どう、勝てそう?」

「――――私一人だと、足止めが限度かなって思います」

 

 

 自身の性能をあくまで客観視した結果、燕は自身の勝利の望みの薄さを吐露した。客観視したもの言いとは言え、その表情は暗いもの。地震の不甲斐なさを、非力さを悔やむもの。

 

 

「切り札がないことはないんです。でも、それも恐らく当たらない。今みたいな状況なら尚更、感覚が野生的になりすぎてると、私の切り札は通用しない」

「ふんふん、なるほど。今回の場合、“アイツ”の神経が研ぎ澄まされていて、それを使用しても意味がないと。その一撃必殺の切り札に相当の自信があるみたいだね」

 

 

 ――――えっ?

 

 

「「なんでそう思った?」って顔してる。少し落ち着きなよ。そんな言い分じゃあ、出会ってばっかりの俺に切り札を暴露してるようなもんだ。今は味方でも後先のことは誰にも分からない。言葉は選んだ方がいいよ」

 

 

 燕は成実が自身の切り札を一撃必殺の単発タイプだと言い当てた。正確に言えば、彼女の切り札、決戦武装“平蜘蛛”は単発の切り札ではなく、汎用性の高い近代武器。しかし、燕の脳裏に浮かんだ光景は成実の言う通り、一撃での決着だった。平蜘蛛に貯められたエネルギーを圧縮し放出した砲撃、それこそが彼女の思い描く化物に対する勝利であった。

 その光景を読み取ったかのような口ぶりの成実。燕は自身の口にした言葉を思い返そうとする前に、成実が講釈を垂れる。

 

 

「“当たらない”ことを危惧してるんだろ? じゃあ言い換えれば当たれば勝てるってことでしょ? しかも当たった後のことを考慮してないから、攻撃を繋げるような戦法じゃなさそうだ。俺の知識と経験じゃあ、そうそう連続攻撃を切り札としているのに当たるか当たらないかを気にしてる奴はいないよ」

「で、でも。初撃が当たるかどうかは重要でしょ?」

 

 

 燕は知らず知らずの内に敬語を解いていた。ほんの少しだけ自分の中身を覗かれたことによる反動が、意地を張るという行動になって体現している。これは子供で言うところの“ムキになる”ということと同義だ。

 

 

「違うよ。そんな必殺技にスピードがある奴は初撃を気にしない。重要なのは“どうやって相手に当てるか”だ。“当たらない”なんて選択肢は最初から頭にないんだよ。ひょっとしたら、大半の奴はそれすら考えないだろうね。何せスピード自慢だ。当たることは前提で考えているんだろうさ。それに比べ、当たるかどうかを気にしてるってことは、初速とか気にしちゃってる隙が大きな証拠。スピード自慢が絶対に気にしないであろう項目だろう?」

「っ――――」

「そうだよ。気づいただろうけど、君の切り札ってのはタメも動作も大振りだ。だからこそ、ヒットを気にするんだ」

 

 

 燕の切り札に関する情報を、事前に見聞きしていない成実が断言する口調を使用し始める。今までの自身の憶測からなされた懇切丁寧な説明は、全て正しいと燕めの目が物語っていた。

 

 

「逆に珍しいものさ。当たれば確実に勝てる自信があるんだから。そういう自信は嫌いじゃない。けど、ちょっと落ち着こうか。あの廃ビルの中で燻ってる闘気、殺気かな。あれが不気味なのはよく分かる。それでも動揺はしちゃダメだ。その腰についてるホルダーのどれがダミーで、どれが切り札か察せられてしまうその時点で、君は敗北の道まっしぐら。触るのはいいけど、ちゃんと考えてからにしようか?」

 

 

 言われて初めて気がついた自身の失態に、燕は背筋に悪寒が走るのを感じた。敵とは言い切れないが、少なくとも心を完全に許せるような人間がいないこのアウェーな空間において、あまりにも意識を武器に集中させすぎていた。思わず頭を抱えたくなったほど、燕は自分の愚かなに愕然としてしまう。

 

 

「――――たった、たった二、三回の会話で……」

「だけ? 違うよ。君が気づいてないだけで、俺は君のことをそれなりに観察していたし、目とか喉とか胴とか、五感から入る情報は全て利用させえてもらったよ。このあたりは祖母と母の教えの賜物かな。人の顔色を伺う最終奥義、“人の全身を舐め回す”って言ってたね、祖母は」

 

 

 成実は最後にニッコリと笑う。潜ってきた修羅場の数、積み重ねてきた努力や知識は、目の前の病人に決して叶わないと、たった数分の会話で実感させられてしまった燕。実際に拳は交えていないものの、完全に優位に立った成実はご満悦だった。

 

 

「さて、じゃあその切り札の存在も確認できたし、本題。その切り札、瞬間回復ってのには有効なの?」

「え? えっと……。切り札って言っても、それを使うまでに普通の武器としても使えて、その中にある能力の一つで瞬間回復を封じないと……」

「それは電撃系? 吸収系? 相殺系?」

「相殺系ってのは分からないですけど……。私のは一応電撃で」

「うーん。電気って嫌いなんだよね。如何にも甚振ってるって感じするから」

 

 

 自身の戦闘に対する流儀は打撃に限る、そう成実は大きく宣言し、電撃の使用を分かりやすく拒否した。

 

 

「まあ、それをヒュームさんに言ったら電撃の雨あられだったのは今から三年近く昔のこと……。おおう、あの時のことを思い出すと反射で腕が痺れる……っ!」

「えーっと、成実さん?」

「おっといけない。フラッシュバックしてる場合じゃなかった」

 

 

 両腕の痺れを払うように腕を振り、成実は思い起こされたヒュームとの特訓の記憶を頭を振って忘れようとした。

 

 

「閑話休題。その瞬間回復を潰す役は俺が担おう」

「へ?」

 

 

 ――――この人は一体何を言っているの?

 

 

「「何言ってんだこのクソ病人が」くらいは思っているだろうけど。まあ任せてみてよ。ここの最後の砦はクラウさんなんだけど、その砦が崩される前に俺がいるんだよ。“アイツ”がこんなに暴走したタイミングで目が覚めちゃったのは、きっと運命っていうやつなんだろうね。なりきれなかった兄貴分として、体を張らせてもらう」

「そ、そんな無茶な――――!?」

 

 

 成実を案ようと発せられた言葉は、成実から滲み出す不気味な闘気によって遮られた。燕の背中に先ほどのように悪寒が走ったが、周りの空気はやけに生ぬるく感じられた。この夏の夜に湿気の多い空気があることは当たり前なのだが、そのように生易しいものではなかった。

 強いて例えるのであれば、自身の体温が周りの空気に持って行かれているような、体温が下がり周りの気温が上がる、不可解な突発的現象。それを支配しているのは、まず間違いなく目の前の病人服を着た執事。

 成実は病人服の前の縛り紐を緩め、ジャケットを羽織っているかのように病人服をカジュアルに着こなす。その服の間から除く胴体は、二年間寝たきりという状況ではありえないほど引き締まった肉体美を見せつけ、中央に刻まれた十字の縫い傷が彼の病状を物語る。

 

 

 ――――その縫い傷は完全に塞がっているはずなのに、今にも張り裂けそうに赤く染まっていく。

 

 

「大丈夫だよ燕ちゃん。俺も化け物だから」

 

 

 

 

 

 ビーッ!! ビーッ!!

 

 

 

 

 

「「っ!?」」

 

 

 堂々と成実が化け物宣言をした直後、通達用の連絡機器が大きな音を立てて鳴り響きだした。全従者の通信機器も、成実や燕のもの同様けたたましく鳴り響いており、無機質な同音階の合唱が完成する。

 精神を不安定にさせ焦燥感に駆らせるその大音響の中、一通の音声伝達が入る。

 

 

 

 

 

 

『警戒レベル、イエローからオレンジへ。総員、戦闘態勢に突入せよ』

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

『――――ということですので、迅速な慶さんの保護をお願いします』

「こちらも全力で当たっておる。態々報告すまんのう、成実」

『仕事って理由だけで片付けられない状況みたいですしね。それでは俺も持ち場に戻ります。あの馬鹿は任せてください』

「頼んだぞ」

 

 

 電話の応答者、川神鉄心は相手が通話を終了したことを確認してから携帯電話を閉じた。

 鉄心は今回の九鬼との共同作戦において、捜索組の指揮を執っている。捜索組は茎従者部隊から複数人。そして中核をなしているのは、今回の作戦の提案者、川神鉄心。前回の川神百代鎮圧作戦において結果を残しきれなかった南浦梓、橘天衣。捜索対象の一番弟子、一子、今回の作戦の発端となった密告者、大道寺銑治郎。以上の五人と九鬼従者部隊により作戦は結構された。

 中核をなしているとは言っても、五人は別行動で対象を捜索していた。五人固まっていては非効率だということが分かりやすい理由である。また、対象は探そうと思うと見つけられない稀有で奇妙な能力を保持している。そのため、少しでも遭遇率を上げるためには散開する必要があった。

 先程の連絡は、廃ビルの化物が更に情緒不安定なったという通達で、鉄心にも焦りが見られてきた。

 明日、明日までもってくれと、鉄心は願うしかできない自分が悔しかった。

 しかし、いざという時のための備えならば鉄心にもできる。それは、対象の保護。廃ビルで燻っている猛獣の牙から逃れるために、対象を鳥籠の中へと収容しようという計画だった。

 対象の悲願の成就は、明日の放課後。川神学園で達成される。それまでの間、化け物から逃がしきれば鉄心たちの策略勝ちだった。しかし、現在鉄心たちが見つけられない以上、捜索する必要性はないと思われがちである。

 この計画は重要である理由は二つ。一つは、対象が明日に自分の目的が現れることを知らないということにある。対象は携帯電話を所持していない。連絡は天衣を通じて入れることもできたが、日時が決定したのが対象が逃走し行方を眩ませてからのことだった。故に、鉄心は対象にこのことを伝えなければならなかった。これは学長である鉄心の失態。悔恨の思いに鉄心は苛まれていた。

 そしてもう一つは、廃ビルの化け物の精神状態にあった。あのままでは、化け物の心は容易く崩壊してしまう。誰彼構わず襲ってしまう狂戦士になるか、誰の声にも見向きもしない抜け殻になってしまう恐れがあった。それを防ぐためにも、今回のチャンスを逃すことはできなかった。早い段階で、対象と化け物の内に生じている誤解を解消する必要があったのだ。

 

 

「鉄心様」

 

 

 そんな時、鉄心の背後から囁くような声が聞こえた。声の主は今回の捜索の協力者、九鬼の従者部隊を先導する役の担い手。

 

 

「桐山君か」

「九鬼従者部隊を数名出向かせていますが、板垣家の人間を一人も発見できていません。どうやら全員仕事に向かっているか、隠れているか……。自宅を捜索しましたが、(もぬけ)の殻でした」

「解った。それでは――――」

「ええ。我々も地道な捜索に転じます。見つけ次第ご連絡いたします」

「うむ」

 

 

 そう言うと、桐山鯉はその場から音も立てずに姿を消した。流石は“壁を越えた者”クラスの脚を持った実力者かと、こんな状況でも鉄心は素直に感心していた。

 今回の計画には九鬼の人間も複数参加している。勿論、九鬼の上層部である人間の許可は下りている。その重要な許可を下したのは、九鬼揚羽とクラウディオ・ネエロであった。

 九鬼揚羽は化け物の暴走を抑えるためならばと喜んで賛同してくれた。それは鉄心の読み通り、期待通りの結果であった。だが、鉄心はどうにも解せなかった。今回の作戦に最も協力的だったのが、執事の鑑であるクラウディオであったことだ。

 鉄心が揚羽に協力を申請するより以前から、クラウディオは今回の騒動に対する動きを取っていた。まるで今回の騒ぎを“誰か”から聞かされていたかのような、そんな一歩先を読んでいた動き。

 主の許可無く、この作戦に参加する意志を示すだけでなく、この作戦を自発的に企てることは、執事の鑑とは思えない行動だった。

 本人に問い質しても、「執事ですから」とはぐらかしてくるばかり。実に掴み所のない回答であった。

 

 

「あれ、学長?」

 

 

 そんなことを考えていた鉄心に向けて、思いもよらない人物の声がかけられた。鉄心は思わず振り返る。するとそこには、鉄心たちが必死になって探し求めている人物が、葱が二本突き出したスーパーの袋を肘の内側にかけて、まるでそこいらの専業主婦かのような姿をしていた。

 その光景に、鉄心は思わず開口したまま閉じることを忘れてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、天野……? 何をやっとるんじゃお主……?」

 

 

 

 

 

「何って、夜食用の買い物ですよ。私がこんな姿で修行でもしていると思いですか?」

 

 

 捜索対象、天野慶は葱を突き出して小首を傾げてみせた。

 よく見ると、慶の前面にはチェックのエプロンが装着されていた。これでは最早完全に主婦、主夫にしか見えなかった。

 

 

「皆仕事で頑張っていますからね。今日は鶏肉も安かったので、葱と鶏肉を炒めて疲労回復でも狙ってみようかなと思いまして」

「そ、その皆というのは、居候先の板垣家のことか?」

「え、ええ。よくご存知ですね。亜巳さん、辰子さん、天ちゃん、竜兵さん。それに時々竜兵さんの友達と、釈迦堂さん」

 

 

 聞き覚えのある名前ばかり、鉄心はその中でも釈迦堂が呼ばれたことに頭を抱えた。何故釈迦堂に聞き出すことを忘れていたのかと失念していた。前々から釈迦堂刑部と板垣家が一緒にいるところを目撃されていることを知っていながら、すっかり頭の中から抜け落ちていた鉄心は自責の念に囚われてしまう。

 

 

「それで、今日はどうしました? 百代さんがまたこちらに向かっているのですか?」

「いや、今日は伝えられることのできなかったことを早く伝えねばと、必死にお主を探し回っていったのじゃ」

「伝えたいこと、と言いますと?」

 

 

 いつも通りに――二年の空白があり、今日に至るまで会った回数もたかが知れているが、それでも鉄心は慶のことをよく見ていたと自負している――ふるまっている慶。しかし、そんな能面な表情も、鉄心の謂わんとするところの“伝えたいこと”によって壊される。

 

 

「お主の“復讐対象”、明日の放課後に体育館に現れるぞ。それも、全員じゃ」

 

 

 

 

 

 

 

 瞬間、慶の表情が鬼神の如き形相へと変貌した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それは、確かだな」

 

 

 その鬼気迫る声と気迫に、鉄心は思わず足を一歩下げてしまう。百戦錬磨の武人を一瞬とはいえ怯ませた慶は評価されて然るべきだが、そんな鉄心の同様や萎縮など眼中にない当人は、ただ鉄心の回答だけを待っていた。

 

 

「う、うむ。明日の放課後に、同窓会という名目で奴らを呼び寄せた」

「そう、ですか――――ははっ」

 

 

 慶は、笑う。それこそ、鬼が辺りを殲滅し、殺戮と暴虐の限りを尽くしている時の、快楽の破顔。

 極めて醜悪な顔の綻びに、鉄心は頭を悩ませ、悔やんだ。ここまで堕ちてしまった教え子を、どうして自分は堕ちる前に救うことができなかったのかと。

 

 

「あの時、二年前のあの時。華月を盾にされていたが故に、私は罪を被らざるを得なかった。しかし、今回は学長の手助けと、九鬼の監視の目がある。華月を縛る鎖が放たれたのを、私は既に確認している。あとはアイツらが揃う機会を待つだけだったが、こうも早く機会が訪れるとは。この廻り合わせを、神に、あるいは悪魔に万謝しましょう。遠慮なく、アイツらに制裁できる」

 

 

 慶は不敵に笑う。自分が今どんな表情を浮かべているのかも考えもせず、ただただ笑っていた――――

 





 すべての答えは出ている。どう生きるかということを除いて。

 サルバドール・ダリ

 ◆◆◆◆◆◆

 一週間ほどの投稿遅延申し訳ありません。なんとか時間を見つけては書いているのですが、どうにも月一の執筆ペースになりつつあります。私の書く稚拙な物語を、ありがたいことにお気に入り登録されている方には大変申し訳なく思っております。
 今月中にもう一話投稿したいところなのですが、実は今回の三十話目にして一種の節目を予定しておりました執筆当初の計画案通り、綺麗に三十話で予定のところまで収まりました。怖いものです。
 なので今回を切りとして、ほんの少し考察期間に入らせてもらいます。とは言っても、来月には再開できると思われますが、お待たせすることには変わりありません。申し訳ありません。ご了承ください。
 この後、一週間以内に新しい章へ移るための繋ぎとして通常の半分程度の文章を執筆したいと思っております。一週間以内に、なんとか……!

 だんだんと形式ばったあとがきの前半も、ふざけた後半のように崩れてきました。これが私の限界だったのでしょう。

 みなとそふとへの愚痴。

 私のメール返信してくださいお願いします。どのメールかは言いませんよ? そんな未練たらしくMNSコンテストの続きやりたいからって沙也佳ちゃんの慎ましいおっぱいとかクッキーたちのぴっちりスーツが張り付いたお尻とか局様のおそらく完璧であろうくびれとかが知りたいとかそんなゲスなことは一切書いておりませんけどね? そんな感じのメールに返信してみるといいのではないかと思った次第です。

 結論。コンテスト存続のために、手段は選ばない。


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追一帖 雲隠

 

「――――はい、はい……解りました。それでは明日、俺も約束を果たしに行きます。ご連絡、感謝いたします」

 

 

 電話の応答者は力強く握りしめていた携帯電話の通話が終わったことを確認し、今この場に座っている二人の人物へと視線を向けた。

 一人は座布団もなしにその場に正座し、とても暗い、焦燥感に見舞われているような表情をしている女子。もう一人は、目を閉じて大和が話を切り出すのを待っているような、寛容な心構えでその場に鎮座している男子。

 応答者は二人の表情を確認し終わった後、この場にいるもう一つの存在、空中に浮いて茶菓子を貪る人外を睨み付けた。

 

 

「朧、説明しろ」

「それは凄んでるつもりかい、大和くん? 威嚇にも脅迫にもならない疲弊しきった顔でそんなことをやろうとするなよ」

 

 

 その睨みに全く動じない朧は、ふわふわと浮かびながら大和を揶揄するように挑発した。大和は挑発に乗ろうとしないが、疲弊しきった顔ということは自覚しているようで、その顔はさらに悲痛に歪む。

 

 

「……何で二人が聞いていたことを黙っていた。俺は孤独でやっていくってのが――――」

「孤独が制限、そんな縛りを課した覚えはない。そんな縛りが課せられるほどに有能だと、つけあがるな青二才」

 

 

 大和の怒りの言葉に、朧は更に大きな憤りを込めた厳しい口調で言い返す。大和は朧と接触してから初めて、朧の喜怒哀楽の怒をその身で感じた。つい最近まで人間らしい感性に基づく感情を全く感じさせなかった朧だったが、ここ最近になって安売りされ始めている。

 朧の内面の変化から生じたその怒りの態度に、大和は思わず一歩引いてしまう。

 

 

「第一、その理由の一つが、ぼくが見境なしに人間を玩具にしているから、とかいう偏見すぎることだというのがさらに気に食わない。ぼくは自分がいいなと思った人間しか選抜しない。自分勝手に、どこぞの偉人よろしく選民だと思うのは愚かしい。ぼくは公正公平に、人間身溢れる人間を玩具にするんだ。そこを勘違いするんじゃあない」

「……そんなのは理由の一部だ。そんなこと抜きで、俺が自分自身で孤独って義務を課したんだよ。誰にも相談せずに、独りで考え抜いた結果だ」

 

 

 必死に決意したんだと訴えかけようと、自身の必死さを表情に表そうとしている大和に、朧は更なる苛立ちを覚えてしまう。そんな上っ面な覚悟など、最初から瓦解していると言わんばかりに鼻を鳴らす。

 

 

「孤独、ね。甘ったれだな直江大和くん。独りで何もかもやろうと考えるのは、餓鬼の発想だ。人は独りじゃ何もできないんだよ。君のような参謀タイプの人間ならば尚のこと、引き立て役の独壇場なんかありはしない――――甘えるなよ」

 

 

 大和の苦し紛れの言い分に、朧が一喝した。一体何を甘いことを口にしているのかと、分かりやすく叱咤していた。当然、それが逃げの言葉であるということは当人も解っていたのだろう。大和は唇を噛み締めていた。

 上っ面とは言え、覚悟と認識したものが崩壊するのはやはり悔しく、苦しい。

 

 

「――――分かってる、分かってるさ。独りよがりの行為だってのは。けどな、姉さんから、ファミリーから離れた俺には、こうするしか残されてない」

 

 

 大和は朧から視線を逸らし、自分の足元に視線を落として奥歯を強く噛み締める。歯を剥き出しにして、悔しそうに唸り出す寸前でなんとか堪えている様だった。

 しかし、その悔しさの中に別の感情が紛れていることも、朧からすればお見通しだったようだ。それは、大和自身が現在の自分の状況を受け入れてしまっているという、諦め。こうするしかないと、他の行動ができない自分に苛立ちを覚えつつ、その自分自身を受け入れ始めている。そうすることで生まれる、何か。

 

 

「その考えが甘ったれだと言っているんだ」

 

 

 その実に悔しそうな大和の表情と、その裏にある別の感情さえも、朧は踏みにじるように苦言を呈す。

 

 

「そうする以外に手があるから、こうやって二人も君のことを本気で心配しているんじゃないか。孤独は手段の一つであっても、決して最善ではない。次善の策とも言い難い」

 

 

 朧は大和から決して視線を外すことなく、大和をずっと視界に入れたまま、座ったまま動こうとしない二人の寮生を指差した。

 二人は大和を案じ、心を砕いていた。今のこの朧という人外がいる現状を理解しきれず、朧が大和をどれだけ貶めようとも、大和だけは決して見捨てることなくその場に居続けることだろう。支え続けることだろう。

 

 

「キミは自分の美化のために行動している節がある。深層意識が行動源泉だ。キミの中にある醜さが、孤独を求めている。普段のキミらしくないと思わないのか? 効率重視だったくせに、非効率的だ。もはやそれは呪いだよ。自分が犠牲になり、孤独であれば全てが丸く収まるという自己犠牲は、現実では通用しない」

 

 

 朧が一番怒りを向けていたのは、友人に支えられているという恵まれた状況と向き合おうとせず、悲劇にいる自分を演じる大和だ。哀れみを向けられている自分に酔い始めている大和だ。

 勿論、その悲劇の英雄を演じていただとか、主人公のような自分に恍惚としている自分の存在を、大和は自覚していない。それは大和の理性の及ばない、意識の及ばない出来事だ。

 そのデカルトの考えを踏襲したような朧の指摘、大和の自我の及ばない快楽を求めるナルシズムを、言及し糾弾している。

 その結果、大和は自分の行動が全て間違っているという事実に直面してしまう。しかし、全てが間違っている訳ではない。誰かを助けようと身を粉にする行為自体は、大衆的に美徳である。

 その焦りを感じだした大和に、朧は微笑みかけ優しい言葉をかける。

 

 

「もう少し、甘えろ。ふは、甘えるなだの甘えろだの、言っていることがやけに交錯してしまっているな。感情に身を任せる行為というのは、中々に上手くいかないようだ。勉強になったよ」

 

 

 朧は自分の言葉の矛盾しているような部分に苦笑し、ポリポリと頭を掻いた。

 

 

「後は三人の問題だ。ぼくは達観しているよ。君たちの絆って奴が、どれほど脆弱で強固なのか、見せてくれ」

 

 

 朧はこれ以上話す気がないのか、やれやれといった具合に大和に溜め息を吐き、また茶菓子を貪り始めた。

 大和は朧の言葉に自分の心を浸し、考えを改めようとする。自分が孤独に酔いしれているという表現は、客観的に見れば確かにそう見えなくもない。もしこれが小説の主人公だったり、ゲームの主要人物であれば美しく見えたことだろう。

 しかし、大和は現実の人間だ。そんなことをしても、運命は大和をいい方向へ導いてはくれない。秘匿と懐抱は違う。先日であったばかりの依頼人に言われた言葉を、大和はようやく理解できた。

 

 

 ――――確かに、ソラさんからすれば、俺の姿は醜く見えただろうな。

 

 

 秘密に対し固執していた愚かしい自分を恥じ、受け入れ、大和はほんの少し立ち直る。

 

 

「――――京、ゲンさん」

 

 

 そして、長い時間座らせてしまっている二人の前に座り、頭を下げた。

 

 

「迷惑かけて、ごめん!」

 

 

 素直な謝罪。今まで無駄に心配をかけてしまったということに加え、こんなにも自分勝手な行動をとっていたということに対しての謝罪だった。

 それに対し、女子、椎名京は暗い表情を僅かに正し、男子、源忠勝は頭を掻いた後に微笑を浮かべた。

 

 

「全くだ。無駄に痩せ扱けやがって」

「それでも好き……!」

 

 

 京は思わず大和に飛びつこうとしたが、大和が弱りきっているのを知っていたために踏みとどまった。しかし、そのせいで飛びつこうとする構えのまま止まっているので、レスリング選手のような体勢で威嚇しているように見えてしまう。

 忠勝はそれを見て呆れながら京に軽く手刀を入れた後に大和の前に座った。これ以上余計な心労をかけるなと言わんばかりに睨みを利かし、大和に釘を指す意味で強めの拳骨を入れた。

 

 

「あてっ! ……は、はははは……。 全く態度が変わらない、か……。ごめんな、二人共」

 

 

 大和の目尻に涙が浮き上がり、それを見て京と忠勝は思わずギョッとしてしまう。勝利の嬉し涙、敗北の悔し涙、それらから程遠い行動ばかりをとっていた大和が涙を晒すのは非常に珍しいことだった。

 普段から涙を滅多に見せない大和は目の違和感にすぐ気づき、目尻を勢いよく腕で擦り目をギュッと抑えた。数秒後、大和は恐る恐る顔を上げた。その顔は擦りすぎと恥ずかしさにより、ほんの少しだけ赤く染まっていた。

 

 

「わ、忘れろ」

「いいもの見たネ。これは脳内永久保存」

「竹の花拝んだ気分だが、悪かねぇな」

「忘れてくれぇ!」

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「改めまして、朧だ。面倒な自己紹介は省こう。ぼくは野良猫だ」

「重要な部分端折るな。いつも通り神様云々の解説しろよ」

「おっと失礼」

 

 

 朧と大和の間に先程のような居心地の悪い空気はなくなっていた。しかし、それでも両者の立場は朧の方が上のようだった。朧が大和を振り回し楽しんでいるというのは、朧の笑顔と大和の溜め息から予測できてしまう。

 

 

「再度改めまして、朧だ。キミ達が崇拝したり信仰したりしている対象、神様仏様八百万の不可思議な存在が残していった余韻が形を持ったものが、ぼくだ」

 

 

 大和に促され自己紹介を改めた朧だったが、京と忠勝の顔は未だ得心行っていないと訴えかけているようだった。普段の朧なら納得していようがいまいが自分の話を押し通そうとするのだが、今回は違った。

 朧は座ったままの二人にゆっくりと近づき、右手を忠勝の頭上に、左手を京の頭上にかざす。

 

 

 

 

 

 

 

「――――ぼくという存在を理解した者の残滓を集めた。受け取れ」

 

 

 

 

 

 

 

 瞬間、二人の目が見開かれ、力が抜けたように座ったまま前に倒れそうになる。それを見た大和は咄嗟に二人のもとに駆け寄る。しかし、二人は倒れ込んでしまいそうな勢いで体を曲げたのだが、大和が確認する限り意識はハッキリとしていた。ハッキリとしてはいたが、どこか目の焦点が合っていないようだった。

 

 

「少し強引に行かせてもらった。ちょっとばかり疲れただろうけど、我慢してくれ」

「……残滓って言ったな。お前、能力使ったな」

「まあいいじゃないか。ぼくが唯一自慢できる特技なんだから」

 

 

 朧は能力を行使したことを堂々と公表した。その能力の概要を、大和は身を以て知っている。今の二人同様に、頑なに人外の存在を否定しようとしていた大和に痺れを切らした朧は、大和に無理矢理知識を植え付けたのだ。その感覚は決して心地よいものではなく、目眩と虚脱感に見舞われるもので、大和からすれば二度と味わいたくはないもの。

 

 

「あれってすごい疲労感溜まるんだぞ? そんなことしなくても、俺が説明して納得させたって」

「ちょっと先走りすぎたかなぁとは思うが、いいじゃないか。今は感情に身を任せる楽しさを、我が身で実感しているところなんだ」

「お前みたいなのがやりたい放題やるとこっちが困るんだよ」

 

 

 先程まで溜め息を吐いていた大和だったが、ついには頭を抱えてふらついてしまう程に心労が溜まってしまったようだ。それを見ても朧は笑顔を崩さない。むしろより口角を上げて喜んでいるようだった。

 自分が人間らしく人間を困らせられることに満足気なのか、ほんの少し鼻歌交じりに空中で回転し始める朧。

 

 

 ――――こりゃ今まで以上に質が悪くなったな……。

 

 

「……つぅ……。おい、直江……」

「あ、ゲンさん大丈夫?」

「良いとは言えねぇ……。気分は悪い」

 

 

 そうこうしている内に、頭を抱えた忠勝が意識を二人に向けることができたようだ。その顔色は優れてはいなかったが、理解がいったという点においてはすっきりしていることだろう。

 忠勝に次いで、京も目を閉じたまま「うーうー」と唸りながら何とか会話に参加しようとする。普段から色白だというのに、それを通り越して青白くなっているのが少々痛々しかった。

 

 

「……大体分かった。その奇妙なガキについてはな。だが、俺らはまだ納得してねぇぞ直江」

「うん。私もまだだよ」

 

 

 二人の言い分に大和は目を丸くする。朧という存在の概要どころか、その本質までを強制的に理解させられたというのに、朧にまだ何か疑問を持っているということが不思議だったのだ。

 しかし、大和のその考えは見当外れもいいところ。二人が言いたいのは、朧という存在についてではなく、朧という存在と大和にある別のことだ。

 

 

「俺らが聞きたいのは、どうしてそうまでしてその朧との接点を持ちつつ、苦しみ続けようっていう馬鹿な選択を取ったのかってことだ」

 

 

 忠勝の目には苛立ちの感情が篭っているのか、その視線は酷く冷たく、同時に熱かった。その視線で貫かれてしまった大和は声を発することができず、押し黙ったままになってしまう。

 そこで助け舟が出されるが、その助け舟を出した本人は嫌に陽気そうで、この展開を待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。

 

 

「大和くんはね、大切だった二人の関係ってやつを、その二人以上に大事にしていたんだよ。自分のためにも、二人のためにも」

「その二人って、私と大和の夫婦のこと?」

「そうだとこの話成り立たないだろ。さらりと夫婦とか言うな。この空気割りと真剣味あふれるはずだったんだけどなぁ」

 

 

 ――――この二人は相変わらずだな。

 

 

 ――――全くだよねぇ。

 

 

 ――――脳内に話しかけんじゃねぇよ。気持ちわりぃ。

 

 

「仲良きは美しきことかな、と。話を戻そう。その二人というのは、大和くんの親愛が向けられている対象のこと。小学校時代からの付き合いである姉貴分の川神百代と、ファミリーには内緒で日野宮華月と密談を交わした恩人である天野慶。この二人の板挟みにあっていたんだ」

 

 

 大和への愛を全開に擦り寄る京と、その接近を必死に止める大和。加えて、脳内会話という初体験を「気持ちわりぃ」の一言で終わらせ不機嫌になった忠勝。この三人の意識を一気に朧は自身へ集中させる。

 

 

「俺は天野って奴は知らねぇが、直江がそこまで義理立てするような奴なのか?」

「私はどっちも知ってるけど、なんで大和がそこまで苦しんでるのかわからないよ」

「それは――――」

「――――よし、時間はある。折角だ、キミ達にあの日のことを話してあげよう。徹夜になるだろうけど」

 

 

 大和がどう説明していいか分からず言葉を模索し紡ごうとしていると、見兼ねた朧が自ら説明役を買って出た。

 

 

「あの日……?」

「二年前、川神学園を最悪の事件が襲った日のことだ。それを話すには、彼女たちの馴れ初めを話す必要がある」

 

 

 朧は巫女服の裾から二枚の写真を撮りだした。それはいつか、川神百代が風間ファミリーに見せびらかしてきたある七人の集合写真と、川神鉄心秘蔵のコレクションのうちの一枚だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――全ては、二年前の入学式の日に遡る。

 

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 



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第二部
第一帖 はるたつといふばかりにや三吉野の――――


――――山もかすみて今朝は見ゆらん


壬生忠岑


 

 ――――――

 

 

 

 春、それは出会いの季節。

 

 この一文は普遍的に使われており、半永久的に崩壊することのない確固たるこの世の摂理とも言える。別れの季節とも言われるが、出会いと別れは共存している。春が別れの季節と言われたとしても、同時に出会いの季節であることが仄めかされているのだ。

 出会いも別れも、同等な期待と不安を孕んだ試練である。

 

 春、騒々しい出会いの季節。

 

 とある学園のとある入学式にて、数百名の学生たちが必然的に名も知らぬ人物との交流を強いられる。それを好ましく思う者もいれば、それを厭わしく思う者もいる。それを進んで受け入れるもいれば、それを断固として拒絶しようとする者もいる。

 人とは個性的で、個性主義で、千差万別である。それ故に、出会いが必ずしも正しいとは言えないし、過ちとも言えない。

 

 春、創造される出会いの季節。

 

 学生は浮かれ、暴挙に出やすいのもまた普遍的心理の一つ。不変的真実の一つ。その浮かれの度合いにも依るが、大半の学生、特に新入生と銘打たれた学生は怠惰も付加され愚行を犯しやすい。それほどまでに浮わついてしまう魔の季節。

 この時期に何の行動も取らないものは、それ以上の愚か者であるのだが。

 

 春、即興的な出会いの季節。

 

 その新たな出会いに、一種の絶望に近いものを抱き始めている人物と、人との出会いをこの上ない至上の喜びと考えている人物が、初めて足を踏み入れた地にて交差する。強敵を求める者と友人を求める者が、桜並木の中で笑顔を掠め合わせる。

 拳と握手、互いに差し出そうとした手は目的も手段も違った。

 

 春、俗物的な出会いの季節。

 

 その出会いが成功しようが失敗しようが、生まれるのが心の隙である。袖振り合うのも多生の縁、合縁奇縁とはよくいったもので、気が合おうが合わなかろうが、人は出逢い崩れていく。それを埋め直そうと出逢い別れを繰り返す。

 その循環がこの世の理である。

 

 

 

 春、総じて出逢いの季節。

 

 

 

 

 

「うーん、危ない危ない。危うくお腹に一発もらっちゃうところだった」

「ははっ、よくかわしたな。私の直感も捨てたもんじゃないようだ。この川神にも、あの人やジジイ以外に私の拳を初見で回避できる人がいたというのは、実にラッキーだ」

 

 

 

 

 桜並木の中、握手を求めた手と戦いを欲した手は奇妙な形で絡み合っていた。握手を求めた手は相手の腕に巻き付き肘を捕らえており、戦いを欲した手は決して拳を開こうとせず反撃の機会を狙っている。

 誠意と戦意が正面から混じり合う。

 

 

「艶やかな黒髪、整った凛々しい顔立ち。それでいて中身は獰猛。美しい花には刺がある、なんて比喩じゃあ測りきれないね。けど、強さと美しさが兼ね備わっていることは美徳だ」

「私はお前ほど中性的という言葉が似合う人間を見たことがないな。半端なんて意味じゃない。女と見ても男と見ても美形にとれるその風貌、私と張り合えるくらい綺麗な黒髪、そそられる」

 

 

 称賛の投げ合い。たった一合の拳のぶつけ合いで、互いにその内面に触れて見惚れあったのだ。一目惚れならぬ、一合惚れ。

 握手を求めた手の持ち主である彼の人は拘束を解いて距離を開ける。戦いを欲した手の持ち主である少女は瞬間的に拳を振るうが空を切る。

 少女は追撃せず、距離を開けたまま彼の人の全貌を何度も何度も舐めるように見据える。

 

 

「加えて、片腕ときた」

「それは君の好評価の一因となりうるのかな?」

 

 

 彼の人は右手で左肩をぐっと握りしめた。その左肩から先は、通されるべき腕という芯を失い、風に身を委ねている布だけ。少女はずかずかと彼の人の心の闇に踏み込んでいくようだった。しかし、その踏み込み方は彼の人の好ましい方法であり、変に気を使われるより何倍もマシなもの。

 

 

「いいぞ。片腕の武道家は私の世界を広くしてくれる。そうに決まっている」

「あはは、そんなにお望みならば遠慮なんてしなくていいよ。私の片腕の護身術程度の武術が、君のような強者にどこまで通用するか、試してみるのもまた一興かな」

 

 

 彼の人は拳を額に添えて、目の色を変えた。それは比喩でも何でもなく、少女が見てはっきりとわかる純然たる事実。日本人によく見られるブラウンカラーの瞳は、瞳孔がぐわっと広がり黒に支配された。それで相手を認識できているのが実に奇妙である。

 それと同時に気迫も変わる。彼の人の飄々としながらも完璧であった足運びと、見惚れてしまいそうな滑らかな挙動に惹かれるように拳を放った少女は、彼の人の本質に触れる。

 気を抜いたら痛い目を見る、何が護身術程度の武術だ、牙を隠しきれていない獣もいいところだろう。少女の中では自分への戒めと彼の人への文句が渦巻き、その結果が少女の表情へと現れる。

 

 

「ふふっ、随分楽しそうな顔じゃあないか」

「そうだな、楽しみなんだろう。会ったばかりのお前との戦いがな」

 

 

 少女は拳を構え、足を広げて踏ん張りを聞かせるために足場を確保する。すると、ズドンッ! という炸裂音が少女の足元から聞こえた。

 気を抜いたらもう片方の腕もなくなりそうだ、強者というか恐者だね、最強よりも最凶とか言われる部類なんだろう。そのようなことを考えながら、もう一段階警戒心を高めて集中する彼の人。

 

 

「そういうお前も楽しそうだぞ?」

「そうだよ、楽しいんだ。この張り詰めた空気と緊張感がね」

 

 

 柔らかく和まされたこの空気、 一見すれば楽しく稽古をつけているだけの微笑ましく思われそうな光景である。

 しかし、勘違いしてはいけない。今から行われるのは、どちらが先に倒れるかを競う、殺し合いの数歩手前。喧嘩の数歩先へ進んだ決闘。どちらも本気でぶつかり合う、真剣勝負。

そのためには、この武の街川神において礼儀とも言える、名乗り口上が必要不可欠である。

 

 

 

 

 

 

 

「本日より川神学園一年生、川神百代! 行くぞ!」

「同じく、本日より川神学園一年生、天野慶。いざ参らん」

 

 

 

 

 

 

 

 

「顕現の三、毘沙門天!!」

 

 

 

 

 

 

 

 轟ッ!! と、妖怪の類いかと思わせるような巨大な半透明の拳が、目に見えないほど恐ろしい速度で二人を弾き飛ばした。

 慶は左側に、百代は右側に勢いよく身体を持っていかれ、そのまま校舎の外壁まで押し付けられる。

 

 

「がっ!?」

「ぐっ!?」

「お前らいい度胸じゃのう。入学式当日から学園をボロボロにする気か」

 

 

 三階の高さの壁面に叩き付けられた二人を屋上から見下ろす老人が声をかけた。老人は手をぷらぷらとさせて疲れていることをアピールしているが、呼吸も乱れておらずただただ笑っていた。

 壁にめり込んだ二人はなんとか首から上だけを動かせるようにし、声の主を見据える。

 

 

「じ、ジジイ! 決闘を邪魔するなよ! と言うか、今校舎壊れた原因はジジイだろ!」

「何を抜かすかアホ孫。あんな地震のような四股を踏みおって。新入生が入学した当日に怯え震えとるわ。加減せんかい」

 

 

 そう言って老人は校庭で足をすくませて立ち止まっている生徒を指差した。それも一人や二人ではない。化け物的な大技に興奮しているも少なからずいるだろうが、特に二、三人で集まり身を寄せあっている女子生徒はまず間違いなく怯えていた。

 

 

「お言葉ですが学長、本気の勝負に水を指すような真似は許されることでは……」

「ワシだって邪魔するよりは見物したかったわい。ワシが動いた原因は簡単じゃ。この川神学園に限らず、荒くれ者が揃った場にはルールは必要不可欠。じゃろ?」

 

 

 そう言って老人は生徒手帳を取り出し、ある項目を開いてから慶の眼前に持っていく。

 

 

 

 

 

 一、肉体を使用する決闘の場合、事前に決闘方を明記し教師に届け教員会での了承が必要。

 一、決闘に立会人を望む場合は、教師がそれを担当し公平な立場でジャッジする。

 一、肉体を使用する決闘の場合、必ず教師二人以上の立ち合いが必要。

 一、決闘による結果で、遺恨を残さない事。

 一、偽りの決闘、出来レースは提案したの者を制裁の上、退学処分。

 

 

 

 

 

「他は自由な校風じゃからのう。最低限この縛りは守ってもらわんと、この学校のモラルは完全崩壊してしまう」

「積極的にモラル崩してる本人が何を言ってんだか」

「そういうお前も人のこと言えんじゃろうが」

 

 

 壁にめり込んだまま老人を挑発する百代に対し、挑発を真実と受け止めつつもきっちりと言い返す老人。慶はそれを見て、なにやら不穏そうな空気を五感全てで感じ取ってしまう。

 

 

「スケベジジイめ」

「万年発情期が」

 

 

 慶の五感の感度は正常かつ優秀だったようだ。その予感は的中し、壁にめり込んでいた百代は周囲の外壁を気で弾き飛ばし、老人が待つ屋上へ飛び乗った。慶はその屋上での二人の対峙を眼前にすることはできていないが、明らかに戦闘直前の闘気の膨張を感じ取っていた。

 これは拙いと察した慶は身動きが取れるように身体の自由を確保しようとするが、百代のように思い切った行動ができないこともあり、なかなか脱出することができない。 

 

 

 ――――ごめんね。ちょっと痛いだろうけどっ――――!

 

 

 慶は今年度から自身の学び舎となる川神学園の校舎に前もって侘びを入れ、右腕を力づくで掘り起こし、手を合わせるように右手だけを縦に構えて目を閉じる。

 

 

 ――――慧紋の十法・初雪!

 

 

 ドンッ! と、何かが爆発したような音と共に、慶の体は壁から押し出されたように抜け出した。慶が脱出したあとの壁には、まるで蝸牛の殻皮のように中心が見えないほどの、さながら自然界に存在する対数螺旋のように美しい爪痕を残していた。

 慶はそのまま左腕があるはずの袖を勢いよく回し、袖を空中に叩きつける。すると、空中でもう一度跳躍をしたように上昇し、屋上へ着地する。

 その屋上では、慶の予想通り、百代と老人が今にも拳をぶつけ合いそうだった。

 

 

「入学祝いに引導を渡してやるよクソジジイ」

「抜かせ。まだまだ武道家を引退する気にはならん」

「じゃあ教職に専念できるように完膚無きまでに叩きのめしてやる」

「まだまだ精神の青い餓鬼に打ちのめされるほど鈍っとらんわ」

 

 

 ――――正しく一触即発、だね……。

 

 

 後にこの仲裁に入ろうとする行為が如何に危険であったか、慶は百代と老人の実力をその身で感じると同時に理解することになるのだが、それはもう少し先の話。今はその危険性を感じていない。

 慶は自身の腕っ節が強いということを自負していた。故にこの状況下では自身の危険性ではなく、相手を如何にしてクールダウンさせるかしか考えていなかったのだ。

 肌が粟立つような闘気を当てられても、老人の背後に見える神仏の幻影が見えても、百代の眼光にある戦闘狂の本質が垣間見られても、慶は決して怯まない。

 

 

「行くぞ! 川神流、無双正拳突き!」

「ふん! 川神流、無双正拳突き!」

 

 

 目の前で両者の拳が放たれようとも、慶は二人の間に割り込むことを恐れなかった。

 

 

「「!?」」

 

 

 既に放たれた拳は止めることはできず、軌道修正も間に合わないほど手遅れだった。百代も老人も何とか拳を逸らそうとするが、全力の正拳は無慈悲に慶の体に襲いかかる。拳と拳のサンドイッチだ。

 

 

 ――――慧紋の十法・花菱。

 

 

 百代の拳が腹部に、老人の拳が背中に食い込んだが、食い込ませた当人たちは奇妙な感覚に襲われていた。まるで柔らかい泥の塊に拳を当てたように、拳はゆっくりと沈んでいき威力が軽減される。

 

 

 ――――慧紋の十法・唐花(からはな)

 

 

 その軽減された攻撃を全身で受け止めつつ、慶は次の処理へとステップさせる。体の中心をずらすことなく、慎重に体を左へ回転させる。慶の意識下ではゆっくりという表現が似合うほど繊細に回転させた体を沿うように、両者の拳は慶の体の軸から次第に逸れ、最終的には大振りの攻撃が外れたように拳を振り下ろす様になってしまった。

 繊細や慎重にとは言うが、これらの工程が行われた速度は、常人が目で追うことができないほど速く、傍から見れば一秒もかかっていない瞬間的な攻防だった。

 全力の拳を当ててしまったと確信していた二人は、気がつけば慶を中心に先ほどと点対称の位置に移動していた。

 

 

「そこまで」

 

 

 完全に攻撃を流し切り、澄まし顔で二人へ仲裁の言葉をかけた慶。尤も、慶がそのような言葉をかける必要はどこにもなく、百代と老人は唖然とした様子で放けていた。

 

 

「はぁ……。学長、川神鉄心さん? なんで戦闘態勢に入ってるんですか? 私には止めろと言ったくせに」

 

 

 つい先程、久々に昂ぶった戦闘意欲を沈められた慶はご立腹気味であった。加えて、戦闘意欲を沈めた張本人、川神鉄心は五分としないうちに戦闘を開始しようとしていた。それは慶の苛立ちの勢いを強くさせた。

 慶が鉄心に求めるのは誠意のある謝罪。戦闘を止められたことによる苛立ちを少しでも解消できるよう、何かしらの妥協点が欲しかった。

 

 

「――――この場合、どうなる?」

「成功でいいんじゃないかのう?」

 

 

 すると、慶の目の前で鉄心と百代が何かについて話し始めた。何が成功したのか問いかけようとした慶を鉄心は右手で制し、頭を下げつつ先に口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「――――すまんな天野。別に儂らは本気で戦おうと思っとったわけじゃなくてのう」

 

 

 

 

 

 発せられた鉄心の返答は、慶が求めているものでも予想していたものでもなく、全く見当違いと言っていい謝罪だった。

 

 

「…………えっ?」

 

 

 今まで唖然としていた鉄心から発せられた言葉を伝い感染したように、慶も開いた口が塞がらなくなっていた。どういうことなのか理解できていない、取り残されているような気分に慶は陥っていたのだ。

 慶の理解を現状に及ばせるため、鉄心の言葉を補足しようと百代も口を開く。

 

 

「これはな、警告なんだよ。今年は私もいたから特別版でな」

「警告……? 二人で戦うことが?」

「正確には、二人が一発ずつ拳をぶつけ合うという行為がそれじゃ。例年通りならワシが全校生徒の前で喝を入れて終わりなんじゃが、今年は百代が入ってきたからのう」

 

 

 慶はまだ首を傾げていたが、次の鉄心の説明でようやく納得することとなる。

 この学園の教育基準は生徒の“飢え”を助長させることに有る。その基準を満たすための下準備として、生徒の入学時の意識改善が必要とされると鉄心は語る。

 

 

「入学当初なんかは浮かれた阿呆どもが多くてのう。そいつらに気合を入れてやるのがワシの恒例行事となっておる」

「まあそれはわかります。しかし、それがなんで百代さんとの拳戟になるのですか?」

「私の危険性の喚起だと」

 

 

 鉄心の代わりに、今年に限って当事者となってしまった百代が実に気怠そうに答えた。どうやら本人もこれには納得していないのか、僅かな苛立ちでさえ慶にも読み取れてしまう。

 

 

「この学園内の人間に対し、武神と呼ばれるモモの危険性を伝えておきたかったんじゃよ。生半可な気持ちで挑むな、ということをな」

「私はどんな奴が相手でも構わないんだが、できる限り質が高い戦いがいい。それに関しては納得できていたんだが、やっぱり自分で対戦相手を減らすっていうのは、どうもな……」

「名も上がるから全体で見れば増減無しとは言ってあるが、先行するのは間違いなく減少じゃ。だから不機嫌なんじゃよ」

「は、はあ。まあなんとなくは理解しました。だいぶ思い切った行動だったのですね。それはいいのですが、私が何故百代さんに絡まれたのかは教えてくれないのですか?」

 

 

 

 

 

「思わず、だ」

 

 

 

 

 

「は?」

「今回の筋書きはな、私とジジイが屋上で言い合いを始めて険悪なムードになり、グラウンドだとか駆け巡ってそこら中に私とジジイがどれくらい怒らせちゃいけないかを伝える寸劇だったんだ。だが、私はそれを遵守しなかった。あまりにも美しく洗練されたお前の身のこなしに――――嫉妬してしまったからな」

 

 

 慶は百代の視線に思わず身震いした。蛇に見込まれるとは言うが、そんな生易しいものではなかったと慶は感じた。既に捕食される寸前なのか、堅く冷たい鱗を生やした大蛇に締め付けられ長く舌を這わされているような、気味の悪い感覚。

 

 

「――――それって、嫉妬なの?」

「――――いや、歓喜じゃろうな」

 

 

 慶の本能が百代の快楽に浸り始めた瞳を見て、この女は狂人に近い何かだと認識する。戦闘狂ともとれる危険意思の持ち主だと、慶の中で百代はそう認識されてしまった。

 

 

「すまんかったのう、巻き込んだ形になってしまって。まあ、大分自然にことが運べたからよしとしてくれると助かる。当初の目的は果たせておる」

「え?」

「お主が巻き起こした妙な気の流れと、ワシらの拳に乗った気が相乗したのか、学園どころか川神全体にこの一合の衝撃は振動として伝わったようじゃ」

 

 

 鉄心の言葉を聞き、慶はようやく学園内の異変に気づいた。入学式という記念すべき日に似つかわしくない、動揺や困惑といった不安定さから発せられる大小様々な声から構成される喧騒が学園を支配しようしようとしていた。

 その原因は、三人の武道家の全力に近い攻防の際に生じた闘気の波。それは人間の本能に直接畏怖という概念を植え付けた。

 

 

「入学式、凄惨なものになりそうですけど」

「なに、心配はいらん。ワシが喝を直に入れた時よりはマシじゃ。どうせ直ぐに元に戻る」

「よく今まで潰れなかったな、この学園」

 

 

 

 ――――――

 

 

 

 鉄心の予言通り、学園内の空気は柔らかなものとなった。しかし、柔らかすぎず、適度に引き締まっており、理想の空間が出来ていた。図らずしもこの雰囲気を作る要因となった慶だったが、少しでも学園の空気の改善に繋がったのならよしとしようと前向きに捉えていた。

 結局、「これがないとやはりワシ自身、身が入らん」と、入学式の際に鉄心の喝もあったため、今年の入学生は揉まれに揉まれた根性のある学生に育つことだろう。しかし、そう考えているのは慶だけで、学生の大半は萎縮してしまっていたのだが。

 そんな萎縮から学生が徐々に立ち直り始めた頃、クラス分けに伴った教室移動が終了した。

 慶が所属することになったのは、学園内でも選りすぐりのエリートたちが集うと言われているトップ集団、Sクラスであった。元より勉強は予習復習さえしていれば何も問題はないということを地で行く慶にとって、Sクラス入りしたことは意外ではなかった。しかし、嬉しくもなかった。

 

 

 ――――協調性がないというのか、自主性しかないというのか、個性豊かというのか。

 

 

 入学式が終わり、担任教師が来るまで教室で待機と言われた生徒たち。その間に親交を深めようと画策していた慶であったが、そんなことができるような空気はこのクラスにはなかった。

 他人には無関心、自分の世界に入り込み、読書や勉学に没頭する者で占められようとしているこの集団は、学園の中で最も学長の喝に耐え忍び、受け入れることに成功した者で構成されている。ある意味では、受け流しきったとも言える。

 その生真面目さは優秀であることの証ではあるが、慶は全くもって面白みがなく、飽き飽きして廊下に出てきた始末だった。このSクラスの中にも誰かしら、自分のように不真面目な行動をとるような生徒がいるのではないかと期待をしているのだ。

 

 

 ――――流石にいないよね。

 

 

 その期待に応えられるSクラスの人間がいないことなど、慶自身が身を以て理解しているのだが。

 

 

 

 

 

「おや、同類か」

 

 

 

 

 

 その理解が甘いことを、身を以て知ることとなる。

 慶がS組での賑やかな学園生活の夢を諦めかけていたその時だった。協調性皆無の教室から一人の生徒が姿を現した。協調性は皆無、しかし個性豊かな教室から出てきたその生徒も、個性豊かであることは不思議ではない。

 その個性の豊かさは服装からも見て取れた。灰色の羽織を袴の上に着込んだ姿は、見た目だけでは学生には見られない。やけに落ち着いた口調も、纏っている静かな空気も、おおよそ学生が持つものとは言い難い。

 

 

「あの中は息が詰まりそうでな。どうにも落ち着かない」

「同感だね」

 

 

 しかし、慶は学生との会話を続ける。向こうからアプローチをかけてきた瞬間に、慶は学生に対して興味を持ってしまった。コミュニケーションを取ろうとしてくる彼に、コミュニケーションを取ろうと画策していた慶が、彼との会話を拒否しようとするはずがなかった。

 

 

「それにしても、意外だね。私はもうS組での楽しい生活を諦めかけていたところだったんだけど、貴方みたいに気さくな人間がいたなんてね」

「それはこちらも同じだ。あんな面白味のない教室の中に、唯一抜け出そうとしたイレギュラーがいたのだから」

 

 

 どうやら学生もまた、慶と同じようにS組の教室の居心地の悪さに嫌気がさした部類だったようだ。大きく溜め息を吐いて呆れ顔をする彼に、慶も苦笑いをしつつ同調する。二人の間に流れる空気は、不思議と十年来の友人のように落ち着いたもので、静けさと温かみの同居する穏やかなものだった。

 

 

「もう一つ、意外なことがあるのだけど」

「何だろうか」

「貴方、ええと……」

「自己紹介がまだだったな。私は京極、京極彦一だ」

「京極君。貴方はその、もっと真面目そうな印象だったからね。こんな廊下に出てきて駄弁るような柄じゃあないと思ったのさ」

 

 

 それを聞き、彦一はにっこりと優しい笑みを浮かべる。二人が笑い合ったそれだけで、その場の空気が一気に華やかになった。

 

 

「真面目かどうかで聞かれれば、Sに入れる程度には真面目だ。しかし、興味のない人間に付き合ってやるほど、私はお人好しじゃなくてね」

「なるほど、一理ある」

「そういう君こそ、言いつけを守っていないじゃないか」

「こんなことならFクラスにでも行くべきだったかなぁとか思ったりしてね。物思いに耽っていたんだよ、実に不真面目にね」

 

 

 再び二人が笑いあう。互いに真面目そうだと思い込んでいた者たちが、ほんの少しだけ不真面目な行動を取っていることが馬鹿馬鹿しくなったのだろう。

 

 

「ところで、君の名前をまだ聞いていないな」

「おっと、そうだったね。私は天野慶。よろしくね、彦一君」

 

 

 名を呼ぶのはまだ二回目だというのに、慶は早速彦一とファーストネームで呼び始めた。しかし不思議なことに、彦一はそれを嫌だと思わなかった。それこそ十年来の友人のように、そう呼ばれるのが当たり前かと思えるほどに違和感がなかった。

 

 

「よろしくな、天野」

「うん」

 

 

 二人はがっちりと握手を交わす。そこで、彦一の頭に疑問符が浮かんだ。

 

 

「どうかした?」

「いや、すまない。間違えていたら謝ろう」

 

 

 やけに前持った言い方だなぁと慶が不思議に思っていると、彦一が疑問に思ってしまったことを申し訳なさそうに切り出す。

 

 

 

 

 

 

「君は、男じゃなかったのか?」

 

 

 

 

 

 

 瞬間、その場の暖かで華やかだった空気が、氷河期に突入したかのように一瞬で冷えかえった。

 

 

「す、すまない。女だったのか」

 

 

 その言葉で、場の空気はさらに凍りつく。疑問を投げかけた彦一でさえ動揺してしまうような、絶対凍土のような極寒の空気。

 

 

 ――――お、男じゃない、しかし、女と言ってもこうなるのか?

 

 

 完全に動揺していた彦一。何がまずかったのかさえ分からないまま、ただただその場の冷たい空気に身を晒していた。人のデリケートな部分に対する接し方に疎い彼だが、今この場の自分の選択に間違いがあったということは分かっていた。

 

 

「さ、些細な問題だったな。すまない、忘れてくれ」

 

 

 彦一は考えに考え、必死に言葉を絞り出した。

 するとどうだろうか、先程までの冷たく凍りついてしまうような空気は一瞬で霧散し、先程のような温かく柔らかな空気が舞い戻ってきた。むしろ、冷たさを肌で感じてしまったので、今の空気は先程よりも陽気なものに感じられた。

 

 

「ごめんね、ちょっと神経質だった」

「あ、ああ」

「性別の話は嫌いなんだ。この学園に来て初めてだったから、少し準備できてなかった」

「なるほど、親しくない者にはあまり聞かれたくない話、か」

「親しかろうが親しくなかろうが、一貫してこの話は得意じゃないんだ。好んでこんな体や顔をしてるわけじゃなくてね。次回からは表に出さないようにするよ」

 

 

 彦一の目に驚愕の二文字が浮かんでいるように見えた。目の前の人物が、自身の魅力の一つとも言えるその中性的風貌を鼻に掛けず、それどころか批判している。

 彦一は自分の美しさと言うものを自慢し活用してきた人間を五万とみてきた。それこそ、飽きが来るほどに観察していた。自分に惚れて、自分を愛し、自分に欲情できる人間にも出会ってきた。逆に、自身を醜いと貶し、嫌って自傷行為にまで及んだ人間も見てきた。

 しかし、彦一が今まで見てきたどの人間にも慶は当てはまらなかった。彦一が見てきた人間の中でも断トツな美しさを持つ慶が、自身を憎んでいるようにも見えた。

 先程の握手で、彦一は慶の手の柔らかさを知った。まるで女のような柔肌、優しく我が子を包み込むことになるだろう暖かい手だった。

 彦一は外見から慶を男と判断し、触って女と実感する。しかし答えは分からず、慶はそれをひた隠しにしようとする。中性の体現こそ自分であると、暗にアピールしているようにも取れた。

 その人物像に、彦一は心の中で舌なめずりをする。

 

 

 ――――興味深い。

 

 

「わかった。この話はやめよう。いつか君がそれを笑い話として話せるようになったら、酒の肴として話してくれ」

「成人した後なら、そうさせてもらおうかな」

 

 

 ――――あわよくば、引き出してみるとしよう。長い付き合いになりそうだ。

 

 

 一人は頑なに自信を隠し、一人はそれを暴こうとする、駆け引きだらけの親友が誕生した。

 

 





 ――――――

 Collaboratiion Works start...

Stage is "DRIFTERS".

Which side is in the right?

 Which is in the wrong?

 Which will be right DRIFTERS or ENDs?

 Coming Soon...

――――――

 第二部回想編、開幕です。
 二〇〇九年時点で三年生の学生たちの過去を書き出し、慶と百代との間にある因縁の決着へと繋げようと思っております。そのため、まずは因縁を書き上げなければなりませんね。一部よりは短くなると思われます。時間は少々かかりますが、お待ちいただけるとこれ幸いでございます。
 明るめの慶を描きたかったのに、どうしてこうなった、というやつです。大体は京極のせいです。京極マジ好奇心の獣、決して野獣ではありません。

 コラボ企画、スタートしました。
 企画内容は、「ドリフターズ×まじこい!」という、先達の方のコラボに触発されたものとなっております。平野耕太氏の原作も「聖杯戦争を原作以上に血生臭いものにしてくれ」と頼まれて書き始めたという逸話があったりなかったりなので、私が聖杯戦争コラボを見てこの企画を思いついた(正確には私と友人の悪ふざけの副産物として誕生した)のも不思議ではありませんでした。
 一週間以内に参加者を記したプロローグを投稿し、遅筆ながらも更新していきたいと思っております。参加企画をハーメルン上で発表する前に参加者決めてんじゃねぇよ、というお怒りの声は確りと受け止めます。申し訳ありません、もう締め切らせていただいております。


 結論、それほどまでにこの企画、勢いだけでできているのです。



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第二帖 鳴く声はまだ聞かねども蝉の羽の――――

――――うすき衣は裁ちぞ着てける


大中臣能宣


 

 場所は移り、一年F組。S組とは若干状況が違うが、こちらはこちらで友人を作ろうとするような賑やかさを失っていた。その原因たる人物はふてくされた顔で足を小刻みに揺らし、明確な苛立ちのオーラを発している。

 

 

 ――――こうまで人が寄り付かなくなるか。

 

 

 武神、川神百代は今になって祖父の提案を引き受けたことを後悔していた。学園生たちの気を引き締めるための演技、自身の危険性を知らしめたことにより、落ちこぼれ集団と言われているF組は引き締まりすぎて縮こまっていたのだ。

 百代が声をかけようとすれば逃走し、百代が横を通ろうとすると全力で壁に張り付き、百代が睨むと失神してしまう者まで現れた。ここまで恐れられてしまうと、質の高い戦いどころか、戦いすらなくなってしまうことを百代は危惧していた。

 などと悩んでいても、この現状を打破する術を百代は知らない。考えても浮かんでこない。小学校中学校時代のクラスメイトは前もって百代のことを知っており、その上で付き合ってくれた連中ばかりだった。多少おっかなびっくりとしていた部分はあっても、いい友人たちだったと百代は想起する。川神学園のC組やB組にいけばそれなりに親しい人間もいないことはない。

 ただし、今回のクラスメイトたちに百代の昔からの知り合いはいない。生まれ育った市の外の高校へ入学したが、誰も中学の同級生がいない孤立状態。加えて必要以上に恐れられてしまうほどのレッテル付き。そのような完全に孤独な状態に百代は陥ってしまっている。

 

 

 ――――時間をかけてゆっくり誤解を解くか。

 

 

 はぁぁ、と深いため息を吐いた百代。それだけで周囲の人間は住処を荒らされている小動物のようにビクッと震え上がった。

 

 

 ――――半年はかかるかな。

 

 

 自分の新たな学園生活の記念すべき青春の一ページ目が、クラスメイトから嫌われるという不名誉なもので始まった。

 

 

 

 

 

「モモちゃんって呼んでいい?」

 

 

 

 

 

 百代が脳内日記をつらつらと書き連ねていたその時、百代の前の席に一人の少女が座り声をかけた。真っ赤な髪を後ろで一つに束ね、その髪の束を盛大に振り乱し着席したものだから、彼女の使っている洗髪料の香りが百代の鼻腔をさっとくすぐった。

 少女の話しかけた内容は、初対面にしてはいくつかのステップを盛大に省いた、簡潔に言えば実に馴れ馴れしい内容であった。自己紹介も済んでいないのに、実に気の早いことであった。

 そのせいか、百代は間抜けな顔でその少女を見つめてしまった。その二人を見る人間の大半も同様に間抜け面を晒し、崩れかけのジェンガを見守る観客のようにビクビクとしながら徐々に顔を青ざめさせていた。

 

 

「苗字呼びが好きじゃなくてね。私はできればあだ名をつけて会話をしたいんだ! だからモモちゃんで、どう?」

「べ、別にそれでいいが……」

「決まりね! 私は南浦梓! 梓とかあずにゃんとか呼んでほしいな?」

「じ、じゃあ、梓で……」

「うん! モモちゃん!」

 

 

 ――――おい、武神が押されてるぞ?

 ――――命知らずが功を奏したのかしら?

 ――――モモちゃんとか呼んでみたい。

 ――――あずにゃんの方が魅力的。

 ――――気を抜くなよ? 死んでも知らないぞ?

 

 

 周囲のざわつきが次第に大きくなり相乗し、百代の恐ろしさに怯え静まり返っていたある意味平穏だったF組の教室を騒擾させる。その中心である少女、南浦梓はそんなことなどお構いなしに百代との距離を詰める。具体的には、椅子の背もたれに自身の胸をドカンと乗せ、大きく股を開いて椅子の足に絡ませ、腕を百代の机の上に乗せた。豊満な胸を除けば、実に男らしい行動である。

 

 

「急接近、えへへ」

 

 

 ――――何だこのあざと可愛い生き物。身長が私と数センチしか変わらないのくらい高いのにキュートすぎる。

 

 

 腕を組んで頭を傾けて、言葉のとおりえへへと笑う梓に百代は不意にときめいてしまう。梓はこの行為の破壊力を知らない。先程まで怯えていた心を砕いていた男子の数割の心を一気に修復した後に叩き壊す、それほどの威力があることを知らない。

 

 

「モモちゃん可愛いねぇ。と言うか、綺麗? 衝撃走ったもんね。おっぱいでかいし、おしりおっきいし、ウェストキュッとしてるし、あーあー羨ましい――――怨疚しい」

「急に怨まれてもな。まあ私の美少女さが疚しいのは否定しないがな」

「それなら私は内面の清らかさを四方八方に押し出して行こうかな? 内面八方美人」

「それってどうしようもないダメな奴じゃないか?」

「面倒見がいいって言ってよ。批難としての流用が多いけど、あれって極一部じゃ褒め言葉なんだから」

「どうでもいい知識をありがとう」

 

 

 ――――おい、会話が続いてるぞ。

 ――――成立してるかは甚だ疑問だが。

 ――――しっかし可愛いのは事実なんだよな。

 ――――あずにゃんペロペロ。

 ――――けど怖いよな。誰だ今の。

 

 

 梓との会話を継続させつつも、周囲の反応に敏感なアンテナを立てておいた百代だったが、どうにも反応はいい方向へ向かっているようには思えなかった。どちらかと言うと、周囲の警戒心がそのまま固まってしまいそうな勢いであった。

 そこに、第二の爆弾が投下される。

 

 

 

 

 

「YEAR! ワタシモ混ゼロ!!」

 

 

 

 

 

 突如、両腕を上げてはしゃぎ回る褐色肌の少女が百代と梓の方へ飛び込んできた。その言動が若干、いや、相当激しいことが目立つが、少女の目立つ部分はそれだけではない。少女はインディアンの飾り、ウォーボネットのような帽子を、地に着くまで伸ばした髪を二本の三つ編みにまとめ上げた頭の上から被っていた。決して学生服に似合わないとは言わない――似合うとも言えない――が、標準の装備として配られることのないものであることは確かだ。

 煌びやかに異彩を放つ少女は百代と梓の間に割り込み、馬鹿笑いをして二人を困惑させる。

 

 

「HAHAHAHA!」

「な、なんだ?」

「どうしたのさタイガー? いきなりじゃない?」

「Because! 二人ダケ楽シソウ! ズルイヨ!」

 

 

 二人を指さし、タイガーと呼ばれたは「ブーブー!」と文句を垂れた。確かに、周囲は百代と梓の会話に見入って、怯えたり驚いたり惚れていたり、単なるオーディエンスとなっていた。出来立ての一クラスとしては、及第点すらもらえない崩壊状態とも言えよう。まだ誰も会話を成立させずに戦々恐々としていた方がクラスらしい。

 少女はそれが不服だったのだ。少女は積極的な性格で、楽しいことを第一としているような言動が見られる。大きな声で欧米風の笑い方をし、アイデンティティたる濃いキャラを表現する。その場を用意するのは勿論自分自身でもあるが、それを用意しようともせずクラスを壊しているのは納得がいかなかった。

 とどのつまり、少女が二人に主張したいのは――――

 

 

 

 

 

「Fクラス、ミンナ語ラウベキ! ソウスレバ、Happy&Exciting!」

 

 

 

 

 

 

「だってさ、モモちゃん」

「いや、私はどちらかと言えばみんなとわいわい騒ぎたかった部類なんだが」

 

 

 

 

 

 

「その発言は聞き逃せないで候」

 

 

 

 

 

 

 第三の爆弾、凛とした眼鏡の少女が百代に食い掛かった。

 

 

「その表情をぶら下げて、よくそんなことが言えるで候」

「なんだと?」

 

 

 挑発気味に百代に苦言を呈した眼鏡の少女は、手持ちのコンパクトを開けて百代に差し出した。これを見れば言いたいことが解ると言わんばかりに、実に自信たっぷりと突き出していた。

百代は若干苛立ちながらそれを覗き込んだ。先程から不機嫌なうえに、今更に苛立ちを募らせた。

 

 

 そんな心境ならば、眉間に皺がより、睨むように目を細め、決して口角を上げない、恐怖を植え付けるような表情になっていても、何ら不思議ではない。

 

 

「おいおい、何だこの無愛想な表情は」

「いやいやモモちゃん。自分の顔だからね?」

「そんな馬鹿な。この美少女がこんな顔をぶら下げているわけがないだろう?」

「現実を見るで候。どう見てもお前自身の顔で候」

 

 

 鏡を凝視し唖然とする百代。先程から誰も寄り付かないと思っていた原因は、実の祖父との拳のぶつけ合いなどではなく、そこから派生した百代自身の表情。

 この鬼神の如き表情に寄り着こうとする者など、そうそういるはずもなかったのだ。

 

 

「なるほど、自業自得とはこっちのことか」

「え?」

「いや、独り言だ。それよりお前たち、この恐ろしい顔によく近づく気になったな」

 

 

 フッ、と笑った百代笑みはどこか大人びていた。自省した人間と言うのは得てして一回り大きくなると言うが、百代の場合は美しさが増したと言える。いや、ここは取り戻したというべきなのか。

 その笑顔を見せられた三人は、各々の内情を述べる。

 

 

「折角の入学式、みんな笑顔で写真撮りたかったからね! 誰一人欠けることなく!」

「So am I! 仲良シFクラス、出ダシ肝心!」

「何やら内面と外面の不一致を感じたので、居ても立ってもいられなくなったで候」

「わお。いい奴らだな、お前ら!」

 

 

 川神百代、南浦梓、南條・M・虎子、矢場弓子。

 人望や美貌による人気により、川神学園Fクラスを支配することとなる四人組が誕生した瞬間であった。

 余談であるが、この後、百代の笑顔に骨抜きにされた生徒たちが仲良く集合写真を撮ったという。

 

 

 

 ――――――

 

 

 

「日野宮華月って言います! 趣味は美容関係の調べものとトレーニング、好きなものは卵料理! よろしくね!」

 

 

 再び場所は移り、川神学園一年C組。既に担任の教師が到着しており、生徒たちに自己紹介をするようにと急かしていた。五十音順からすると真ん中よりも後半に呼ばれた少女、日野宮華月だったが、彼女は全クラスメイトの中で一番印象深い生徒だったと言える。

 担任の生徒が来るまでに全てのクラスメイトに話しかけ終わり、率先して話しかけていたのは友人が誰もできていない出遅れた生徒たちばかり。男も女も関係なく、手当たり次第に自分の友愛を振りまいて行った。

 何よりも恐ろしかったのは、その風貌である。

 決して高くもなく低くもないはずの身長が、誰よりも高く目立っていた。

 決して絶世の美女と語り継がれることのない顔が、誰よりも輝いていた。

 決して豊満なスリーサイズと言えないはずの体系が、男どもの視線をかっさらっていった。

 決してパッチリとしていないその細い目が、全員の視線を吸い込んでいるようだった。

 決して長くもないショートボブの黒い髪が、女たちの愛玩欲を湧き立たせた。

 人工的であり、自然的でもあるその魅力、美しさ。努力で塗り固められていながら、その努力という弱みを見せようとしないその心意気に、男も女も魅惑に取り付かれていた。

 担任の教師が入ってきたことにも気づかずに、生徒たちは華月に目を奪われていたのだ。担任の教師も唖然とし、数分間その教室の時間が止まったかと思ったと教師は語った。

 教師の存在に気が付いた華月は先生に全クラスメイトの意識を集中させ、自己紹介に至る。正直なところ、ここまでクラスの視線独り占めにされてしまうと、自己紹介の時間と言うものが虚しく思えてしまう。

 

 

「嫌いなものはスプラッタとかホラー映画! あんまり怖いもの見せないでね? 時間も時間だし次の福山くんに譲ろうかな。気軽に話しかけてね? 体重からスリーサイズ、ダイエットから黄金比まで、質問は随時受け付けてるからねー!」

 

 

 さながら芸能人かアイドルかのような手慣れたしめくくり。一体どんな経験を越えればこのような学生が出来上がるのだろうか。生徒だけではなく担任の教師までが華月の存在に疑問を思い始めていた。

 

 

 こんなにも陽気で優しい女の子が、何故か危険に思えてしまうような――――

 

 

 全員分の自己紹介がスムーズに終わり、余った時間を華月の質問の時間に当てようと誰かが提案し、空気は一気に質問ムードになった。しかし、全く統率がとれていないため質問の内容は全く聞き取れない。

 しかたがないといった具合に華月が教壇に上がり、「質問者は挙手をすること! わたしの独断と偏見で指名していこうじゃないの!」と高らかに宣言し、クラス中を支配した。

 

 

 

「華月ってさ、化粧水何使ってるの? やっぱり高い奴?」

「大手メイカーよりは安いんだけど、百均とかよりはさすがに高いかな。よかったらこんど取り分けて貸してあげる!」

「スリーサイズいくつなの? 私よりおっぱい大きいよね?」

「上から84・58・84のDなんだ。そこそこいいブラ使ってるからそれよりかはちょっと大きく見えるね」

「下地とかは何使ってるの?」

「BBクリームと、化粧水出してる会社と同じところの下地を使ってます! 興味のある方は是非ご相談くださいな!」

「実は、意外と筋肉質なんじゃね?」

「あ、ばれちゃった? むふふ、意外にも筋肉育ってます。腹筋綺麗に割れてるんだ。我ながら惚れ惚れしてます。女の子にだけは見せてあげよう」

「卵料理好きだって言ってたけど、嫌いなものは何だよ?」

「ありません! 好き嫌いは小学生の時に克服しました! ちなみにその時まで嫌いだったのは果物の柿と野菜の玉ねぎです! 堂々と言うことじゃないけどね」

「インドア派? アウトドア派?」

「強いて言うならインドアかな……。読書大好きだし、走るの苦手だし」

「兄弟は?」

「いませんが、従兄のお兄ちゃん的存在がご近所さんなので上の兄弟の感覚は知ってます。下がほしいですが何分お父さんはもう還暦なので、叶わぬ夢です。故に子供大好きです!」

「ぶっちゃけ、彼氏いるの?」

「いませんし、まだ作る予定はありません! 大学出て就職して、二十代後半で結婚したいと思ってます! 堅実に行きたいと思います!」

「華月居る?」

「はいはい順番ね」

「ダイエット詳しいの?」

「詳しいですとも! 昔はやけになって暴飲暴食してたのでダイエットしました!」

「どんなダイエットがおすすめなの?」

「なんかリンゴだけだとかバナナだけだとか単品ダイエットみたいなものを聞くけど、それはダメだね! 野菜を多くとって、脂肪吸収抑制と脂肪燃焼促進を使い分けるのがコツ! 話すと三十分くらいになるからまたあとでね!」

「美容ドリンクって効果あるの?」

「お、美容関係の質問多いね! コラーゲン関連のドリンクはいろいろあるけど、二つに区分できるんだ。このあたりも長くなるからまたあとでね!」

「武術はやってるの?」

「さすが川神学園だね、そんな質問が平然と出てくる学校他にはないよ? えっと、護身術と言っていいか解らないけど、ちゃんと武器使えるよ!」

「どんな武器?」

「それは戦ってからのお楽しみ、と言いたいんだけど、わたしは戦うのが好きじゃないからね。ばらしちゃいます。鞄使います、鉄板仕込み!」

「か、鞄?」

「そう、防衛と反撃しかできないからこれで十分! あ、ちょっと待ってね」

 

 

 華月が質問の挙手が一向に収まらないのに静止をかけたのかと思うと、挙手している一人の生徒に向かって歩き始めた。そこには、何故か華月の見知った顔であり、このクラスにいるはずのない人間が二人、紛れ込んでいた。

 

 

「ももちゃん、けいちゃん。なにやってるのかな?」

「やあ華月! 相変わらず可愛いな!」

「ち、違うんだ華月。私は無理矢理だな……」

 

 

 そこには、椅子も机もないのに律儀に空気椅子をしてまで挙手に交じっていたF組の川神百代と、その後ろで縮こまって隠れていたS組の天野慶の姿があった。

 

 

「さっき質問に紛れて変な声がすると思ったらももちゃんたちか……。時間も切りだし丁度いいと言えばいいんだけど、廊下で待ってるって選択肢はなかったの?」

「一刻も早く華月に会いたくてな」

「私は待ってようって言ったじゃないか」

「ここまで来たら共犯者だ。腹を括れ」

「はぁ……。乗りかかった船と言う言葉は嫌いじゃないから否定しきれない自分が嫌だね……」

 

 

 他人のクラスに割り込んでまで華月に会うことに躊躇いがあった慶は少しばつの悪そうな顔をしており、その隣ではこのくらいいいじゃないかと余裕の表情を見せる百代がいた。その二人の対照的な態度に華月は大きく息を吐き出して呆れてしまう。

 チラリと腕時計をチェックする華月。華月への止まない質問タイムが始まってもうすぐ五分経つところ。

 

 

「先生。そろそろ五分なのでこれで切りにしましょう。質疑応答は五分と相場が決まっていますね?」

 

 

 教師は二つ返事で了承した。自主性がないというのか、生徒主体のクラスを作ろうとしているのか、どちらにしろ華月にとって今はありがたかった。

 

 

「それじゃあみんな、何か知りたかったらまたメールなり電話なりしてね? こう見えて夜更かししないタイプだから、てっぺんに電話しちゃうと寝起きで不機嫌なわたしが恨みのこもった声で電話に応答するから気を付けてね?」

 

 

 そう言い残すと、華月は百代と慶の手首をがっちりと掴み、教室から飛び出した。

 

 

 

 ――――――

 

 

 

 三度場所は移り、川神学園屋上。

 そこで今朝の生徒威嚇の大役を務めた武神と武闘家が正座させられていた。しかも、足の上には何故かコンクリートブロックが置かれていた。下に対となる拷問器具が置いていないのは優しさか、ただ単に手に入らなかっただけか、全ては華月の心の奥底に葬られている。

 

 

「あ、あのー、何故こんな仕打ちを受けているか教えてくれないか?」

「今日、わたしの楽しみだった質問タイムを中断させた罰です」

「何で私まで……」

「けいちゃんはさっき共犯者だと自白しました。よって同等の罰を受けてもらいます」

「うう……。怨むぞ百代さん……」

 

 

 慶は正座をしながらしくしくと泣いていた。本当に涙を流しているかどうかは分からなかったが、悲しい気持ちに囚われて沈んでいるのは確かなようだ。

 対照的に、一向に反省の色も悲しみの表情も浮かべない百代。むしろ華月と話せている現状にご満悦の様で、重しが追加されたところでこの態度は変わらないだろう。

 

 

「ももちゃん、反省してる?」

「してるしてる」

「どう聞いても嘘だな」

「何か言ったか天野」

「いいえ、何も」

 

 

 百代と反発しあうように慶はそっぽを向いた。まだ知己の仲というだけで、親しいとまで言えない関係なのだろう。出会ってから一日どころか半日も経っていないのだから無理もない。

 しかし、それを見た華月が首を傾げた。

 

 

「珍しいね。ももちゃんが苗字で呼ぶなんて」

「さっき分かったが、こいつには妙な真面目ちゃん精神がある。あの京極と同じ匂いがする」

「何度も言わせてもらうけど、彦一も私も割と不真面目だからね」

「じゃあさ。アダ名で呼べばいいんじゃないかな?」

「「は?」」

 

 

 険悪なムードになりかけているというのに、華月はひどくマイペースだった。それがいいのか悪いのかはさておいて。

 

 

「苗字呼びだとその人個人って感じがしないじゃない? だからさ、せめてアダ名で呼ぼうよ!」

「いやその理屈はおかしい」

「親しみのない呼び方から一足飛びで親友の呼び方になっているじゃないか……。華月、君は昔から発想がずれているね」

「そう? 割と平均的だと思うんだけどな?」

 

 

 何が恥ずかしいのか、少し照れたように頬を紅潮させて頭を掻いている華月。慶と百代の心情は決して彼女を褒めたりはしていない。

 

 

「じゃあアダ名考えないと」

「……はぁ、もうアダ名でいいよ。どうする天野」

「生まれてこのアダ名なんてもらったことがなかったような」

 

 

 慶が何かを思い出す様に空を仰ぎ、アダ名があったかどうか思い出している様を見て、華月がふと思いついたように言う。

 

 

「苗字呼びをしようとしてることだし、(ソラ)でいいんじゃないかな?」

「なるほど、いいじゃないか」

「え、いいの? そんなあっさりでいいの?」

 

 

 予想外の速さでアダ名を決定した華月に、それを苗字呼びで駄々をこねていた百代がそれを快諾してしまう。それについていけず一人慌てている慶。

 

 

「いいじゃない。折角なんだし、今後もアダ名を聞かれたらソラって言えばいいじゃない」

「……はぁ、わかったよ。じゃあ、百代さん。今後はソラでよろしく」

「そうさせてもらおうか、ソラ。ところで、なんでお前華月と知り合いなんだ?」

「そうそう、私も気になっていてね。何故華月と知り合いなんだい?」

 

 

 仲睦まじそうに笑いあったり話し合ったり疑問をぶつけあったりしているが、約二名は未だにコンクリートブロックを足に乗せたまま正座をしている。

 

 

「ももちゃんとは従兄のお兄さんと色々あってね。ももちゃんがストーカーみたいに付け回してた時期があって」

「こ、こら華月! それは秘密だって言ったじゃないか!」

「けいちゃんとは家が近くて幼馴染だったんだけど、わたしがストーカーしてた時期があって」

「懐かしいなぁ。あの時の華月は必死だったしなぁ」

 

 

 ストーカー前科のものが二名いる屋上が、さらに気まずくなった。

 

 

 

 




 コラボ企画執筆中……

 よろしければご覧ください……


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第三帖 夏衣まだひとへなるうたたねに――――

――――心して吹け秋の初風


安法


 

 

 入学式から数日経ったある日。例年通りならば、川神学園の体育教師でもあり川神院の師範代でもあるルー・イーの監視の下、一般的高等教育には存在しないような技術と機材を織り込んだ体育の授業を展開しているところだったが、その体育の授業が一回目にして体系を失っていた。

 特例を一回目に適用してしまえば、二回目以降の普段授業が特例に感じてしまうかもしれない恐れを考慮して尚、ルーはそれを敢行した。

 この川神学園の一年生の体育は合同授業ではあるが、全クラスが揃って授業をやることなど存在しない。そうなってしまえばただの体育祭だ。

 合同授業の本来の目的は、格上の人間と同じことをすることで刺激と飢えを与えようとする、川神学園の教育方針に則ったものだ。

 しかし、今日の体育だけは違う。

 きっちりと一年S組からF組までの全クラスが集結し、グラウンドを埋め尽くさんとしていた。

 

 

「みんな揃ったネ?」

 

 

 そして、監督者たるルーがこの場にいないという訳でもない。怪我をしてコンディションが万全という訳でもない。怪我らしい怪我は見る限り無い上に、片足を上げてポージングを何度も変えている。これが怪我人のやることだったら、地球全土は怪我人で埋め尽くされてしまう。

 

 

「最初の授業だけどちょっと変則的だヨ! 特別講師が来るからネ! もう少しだけ待っててヨ!」

 

 

 ルーの言う特別講師と言う言葉に生徒がざわめき始める。一学年のほとんどが動揺したのだ、そのざわつきも相当な声量の渦となる。騒音、喧噪と言っても過言ではないだろう。

 その喧しさの中、大きな声を出すことなく会話を試みる生徒の集団があった。

 

 

「モモちゃん、知ってる?」

「特別講師のことか? 私は知らないな。あまり強い気配は感じないから大丈夫じゃないか? 期待しないでも」

 

 

 百代は対して興味が無さそうに梓の質問に答えた。そっけない態度に梓は少し不満げだったが、その質問を左脇にいる別の人物に向ける。

 

 

「ねぇねぇ、ソラはどう思う?」

「そうだね。強そうな感じはしないけど、気味の悪い感じはするかな。その講師とやら、何かしらの強さを隠しているって所かな」

 

 

 梓の質問に応えつつ自分の意見も交えて回答した慶に、梓はとても満足気だった。

 梓の右脇で話を聞いていた百代は、慶の表情をじっと見つめてニヤニヤとしていた。それに気づいた慶が目を細め、俗にいうジト目で百代を見つめ返す。

 

 

「…………なんだい、百代さん?」

「いやぁ? なかなか気に入っているようじゃないか、そのアダ名」

「ぐっ……。ま、まあね。華月から賜ったものだから、それなりに大事にさせてもらうさ」

 

 

 痛いところを突かれたようで、慶は背中に若干の汗をかきつつも平静を装っていた。アダ名というものが初めてなこともあり、どうにもまだそこを突かれることに慣れていないようだ。もどかしくこそばゆい、初々しい反応であった。

 

 

「ほう、お前にはそんなアダ名があったか」

 

 

 その会話に興味を持った者がこっそりと慶の背後から声をかけた。その囁くような声に、何故か百代と梓がゾクッと悪寒を感じて身を震わせたが、実際に囁かれた慶は大した動揺も見せず、拙いところを聞かれたと言いたそうに顔を引き攣らせていた。

 

 

「ひ、彦一、いたのかい?」

「言っただろう? 興味のない人間に付き合う程お人好しじゃないと。言い換えれば、興味のある人間には確りと付き合わせてもらおうと思ってな」

 

 

 彦一の微笑みは恐らく本心から来ているものだろうが、慶はその本心を推し量れずにいた。その本心は純粋に慶との親交を深めたいと言う純粋さなのか、慶の一度だけ見せてしまった自分のコンプレックスに関する好奇心なのか、慶は彦一の奥底を見切れていなかった。

 慶は彦一との面識があったため、この神出鬼没ぶりにも慣れ始めていたが、ほぼ初対面とも言える百代と梓からすれば心臓に悪いことこの上ない。

 

 

「確りとした自己紹介は初めてになるな。S組、京極彦一だ」

「……F組、川神百代」

「お、同じく、南浦梓!」

 

 

 彦一が先に名乗ってしまったこともあり、百代も最低限の礼儀として名を教える。梓に至っては、百代が自己紹介をしたのでつられて名乗っただけである。

 その二人の行動を見て、彦一は慶に向けた微笑みとは若干意味合いの違った不敵な笑みを浮かべる。

 

 

「何がおかしい」

「なに、決して君たちを嘲笑している訳ではない。君たちを見ると、S組の連中に交じっている自分が滑稽でね」

「? どういうこと?」

「退屈なんだよ。私も、彦一も」

 

 

 慶は百代と梓にS組の状況を教える。協調性のなさ、一種の没個性集団、息苦しい競争意識、挑発に満ちた空間。S組の居心地の悪さに感じた慶と彦一の不満一切合財を、多分に脚色して伝えた。

 脚色したのは彦一だ。ほんの少しでも、“S組印象が悪くなるよう”に誇張しているように見受けられる。

 慶はそれを咎めたりせず黙認していた。一体どんな覚悟と奸計があっての大げさな物言いなのかは分からなかったが、それが彦一の不満を解消してくれるのなら大した問題にはならないだろうと楽観視していた。

 これが伝統的なF組とS組の対立にさらなる拍車をかけることになるのだが。

 

 

「言うなれば自嘲と、歓喜だ。君たちはそのままでいてくれればいい。実に愉快だ」

「F組、というかS組以外の生徒は積極的に絡んでくれるからね。積極的過ぎてこの間階段から落ちそうになったけど」

「待て待て、私が聞き逃しちゃいけない侮辱と、言った本人が受け流しちゃいけない事故が聞こえたぞ。京極って言ったなお前ちょっと屋上行こうか」

 

 

 かの武神である百代に胸倉を掴まれながらも彦一は笑ったままだった。寧ろこうして胸倉を掴まれて乱暴にされていることに奇妙な快楽を感じているようだった。その笑顔が気に食わなかったのか、百代はそのまま彦一の体を前後に揺さぶって鬱憤を晴らしていた。

 そんな気味の悪い光景を脇に、梓は梓で慶の両肩を持ってガクガクと慶を揺らしていた。百代に比べれば勢いはないが、それでも慶の首はぐわんぐわんと激しく揺れていた。

 

 

「ソラ、階段から落とされそうになったの!?」

「落ちそうになった、だからね? ワイワイはしゃいでいたら足が引っかかってバランスを崩したところに体当たりが来ただけだから」

「それ確信犯じゃんか!」

「無傷で着地できたし、その後ちゃんと謝ってくれたから故意じゃないさ。大丈夫大丈夫」

「う、うーん。謝ってくれたからって故意じゃないとは限らないんだけどなぁ……」

 

 

 彦一と慶の強制的ヘッドバンキングが終わったのを見計らってか、タイミングよくさらに生徒が集いだす。

 

 

「WAO! HARDCORE! HEAVYMETAL!」

「よくそんなことをされて笑っていられるで候」

「…………ちょっと顔を見せに来たら、何してるの?」

「おお、華月じゃないか!」

「おっと!」

 

 

 百代たちの近くに寄ってきた三人の内一人、華月に百代は勢いよく抱きついた。その際に胸倉を掴まれていた彦一は放り出されたため、バランスを崩してしまうが慶に支えられて事なきを得た。

 

 

「なぁ華月、結婚しよう」

「わたしかももちゃんが男だったらね」

「ちっ、揺るがない同性愛否定……!」

「百代は少しはその姿勢を崩すで候」

 

 

 華月に頬擦りしながら求婚する百代、頬擦りを拒まず求婚を拒む華月、この光景に見慣れてしまった自分に呆れたように溜め息を吐く弓子。

 その弓子を若干観察するように、彦一はそっと弓子に近づいて言葉を囁く。

 

 

「同性愛という時点で私の理解の範囲外だというのに、川神はどちらも“いける”そうじゃないか。実に観察のし甲斐がある。そうは思わないか?」

「そうだね――――んんっ! 確かに、特異な例で候……」

 

 

 普段ならスラスラと言葉を紡ぐはずの弓子だったが、彦一との対話は何故か円滑に進まない。それを不思議に思っているからこそ彦一はアプローチをかけるのだが、その真意には気づけないでいた。

 それを不思議に思っているのは何も彦一だけではなく、この場にいる生徒では約二名がそのつっかえつっかえ話す態度に違和感を感じていた。

 

 

(…………ねぇけいちゃん。ゆみちゃんはひこちゃんのことが好きなのかな?)

(…………そうとは限らないが、何か表立たせたくないことがあるのは確かだ)

(…………だからこそ、私はこうして話しかけているのだがね。実に興味深い)

 

 

 弓子が少し頬を赤らめながら何度もわざとらしく咳き込むその様を見ながら、彦一と慶と華月の三人は顔を寄せ合ってコソコソとか細い声で会話をする。

 

 

(…………好きって感じじゃないかな、あれは。隠しているって感じがピッタリだ)

(…………私もそう思っている。第一、私に好意を抱く連中はあんな態度をとらない)

(…………二人共さ、冷めすぎてない? 特にひこちゃん。少しは期待したりしないの?)

 

 

 華月が二人のあまりに冷静過ぎる客観的判断に若干引いてしまった。この年頃の学生ならば、男性だろうが女性だろうが関係なく、男女関係が話題の種となっている俗に言うところの恋バナ、というものには目をキラキラとさせて食いつき、落ち着きがなくなるほど興奮するものだと華月は認識していた。

 しかしどうだ。目の前にいる見学覚悟の着物少年と、性別を隠そうと肌の露出がほとんどないジャージ姿の生徒は、機械的にしか状況を把握しようとしていない。

 

 

(…………申し訳ないが、そういったことに対する興味は微塵もなくてね。親愛が限界だ)

(…………彦一は恥ずかしがりだからね)

(…………君ほどじゃない)

(…………いやいや、君は相当さ)

 

 

 君だ、いいや君だ、いやいや君だ、などとひたすらに肘で互いの脇腹を付き合って恥ずかしがり屋であることを押し付け合う彦一と慶。一体機械的なのか人情的なのか分かったものじゃない、と華月は呆れて苦笑する。

 一方、百代と梓は虎子のブルマ姿をじっと見て、一言述べる。

 

 

「タイガーは流石に体育じゃ頭の飾り外すんだね」

「動き辛そうだしな」

「NO! ワタシ、ホンイジャナイ! BAN! サレタ!」

 

 

 GAO! と叫び、両手を虎の爪でも表現するように曲げて、不満が溜まっていることをアピールする虎子。普段からつけているアクセサリーの数々がないこともあり、インパクトはいつもよりも半減してしまっている。

 百代も梓も大体予想していたのか、虎子のシンプルな飾り気のない姿を堪能する。

 

 

「やはり素材が良いな」

「他に言い方無かったかな」

 

 

 

 

 

「いやいや、かなりいいスタイルじゃないかな。もう少しヒップが大きい方が俺の好みなんだけどね」

 

 

 

 

 

 百代と梓の間にぬっと顔を出し、自身の理想の女性のスタイル像を曝け出した一人の男の出現に、百代も梓も固まってしまった。

 背後に立たれたどころか、肩に顎を乗せんばかりまで近づかれてようやく気配を察知できた。そのスタイルを褒められた虎子でさえ、褒められてから数秒してようやく違和感を感じたほどだ。

 その男を囲う様に、その場にいた百代、慶、華月、虎子、梓の五人が男を取り囲んだ。弓子は彦一を庇うように少し離れた位置を陣取っている。

 その異様な光景と雰囲気に、生徒のざわつきの色が変わる。

 

 

「あ、あら? ち、ちょっと待った! そんな本気にしないでよ!」

 

 

 その状況が如何に危ないものかを察したのか、男は慌てだして即座に謝罪する。

 その姿を見て、五人の内三人が臨戦態勢を解き、その男に素早く近寄った。

 

 

「成実さ――――」

「何やってんのさ成実(にい)ぃ!!」

「へぶぅあ!?」

 

 

 バッシーン!! と、小気味いい乾いた音が激しくグラウンドに響き渡った。首がぐりんと勢いよく回り、男の金髪がさながら洗髪料のコマーシャルで見られるように、サラサラ感をアピールするようにふわりと舞った。

 百代と慶が戦闘態勢に入り空気が重いものとなっていたのに、その痛快な音に全てが吹き飛んでしまう。傍観者と化し始めていた生徒群はポカーンと開口したまま、華月と男以外の人間は何も声を出せずにいた。

 男が勢いよく叩かれたのも強烈だったが、その音を出した原因が基本的に厭戦的である華月であるというのが大きな要因になっていた。

 

 

「い、痛いな華月、首折れるかと思った……。ひ、酷いじゃないか!」

「セクハラしている変態には当然の体罰!」

「せ、セクハラなんかしてないのに……。そうでしょ百代ちゃん?」

「え、あ、はい……」

 

 

 成実に同意を求められた百代だったが、あまりの急展開にその返事はおざなりなものとなってしまう。

 まず成実という人間がこの場にいることはまずありえないことであり、その成実に対して痛烈な張り手をしたのが普段は温厚な華月であるという二点で、既に百代の脳内は処理が追い付いていなかった。

 

 

「お、ようやく来たネ」

 

 

 その処理を補助するためという訳ではないだろうが、百代がショートする寸前でルーが成実の下へやってきた。

 

 

「る、ルー師範代。なんで成実さんがここに……?」

「何でと言われてモ。彼が今日の特別講師だからだヨ」

「「「えぇ!?」」」

 

 

 その事実に驚いたのは、成実に張り手を食らわせた華月と、成実に声をかけられた百代に加え、もう一人。

 

 

「あれ、なんでソラが驚いてるの?」

「い、いや、私は華月と幼馴染と言うこともあって、成実さんともそれなりに面識があってね」

「いや、それより私はそこの御仁と華月、百代の関係性が気になるところだ。その華月との関係性が分からない限り、お前のその言い分も理解できないものでな」

 

 

 慶に成実との関係性を問いただした梓に便乗するように、彦一もまた百代と華月の二人に質問を投げかける。

 

 

「ちょっとこれはどう言えばいいのか悩むところなんだけど――――」

「悩む必要無いでしょバカ兄、ただの従兄だよ!」

「私と成実さんは、その、一回殺し合った仲と言うか……」

「血縁関係と同列に並べちゃいけない単語出てきたよね!?」

「OH……。CRAZY……」

 

 

 華月と百代が照れながら成実との関係性を述べるが、百代が照れていることに梓は勢いよく突っ込んでしまう。その態度に思わず心の声を漏らしてしまった虎子に加え、この武神の生き様はもう手遅れだと言わんばかりに両手を上げる彦一の姿もあった。

 

 

「話はまとまってないようだけどいいかナ? 授業も進めたいからネ?」

 

 

 

 ――――――

 

 

 

「九鬼従者部隊十二番、三条成実と言います。皆さんよろしくお願いしますね」

 

 

 ニッコリと微笑む成実の顔には真っ赤な紅葉が浮かび上がっており、どうにも締まらなかった。

 

 

「今年の新入生は武術を習ってる人が多いって聞くからネ。折角だから実力を見ておきたいと思って、この学園のOBを連れてきたんだヨ」

「要は組手をしようってことですか?」

「そうだネ。だから武術をやっていない子は別のメニューをやってもらうヨ! と言っても親睦を深める意味合いでサッカーだけどネ」

 

 

 そう言うとどこから取り出したのか、ルーはサッカーボールを足で浮かび上がらせてリフティングを始める。予め打ち合わせをしていたのか、どこかのクラスの体育委員を思われる少年がルーからサッカーボールを譲り受けた。

 組手をする生徒とサッカーをする生徒に分かれるのにはそう時間はかからなかった。「無理して組手をしなくても構わないヨ」とルーが付け足したのだが、恐らくそれはほとんど関係していないだろう。

 武術の総本山のある川神の武人だ。九鬼従者部隊の十番台ともなれば腕試しをしようと血気盛んとなるに決まっている。腕試しできるような実力でなくとも、十分な見稽古となることは間違いないのだから。

 サッカーはサッカーで、よくて運動に自信がある程度の一般人で構成されたクラス混合チームでの対決だ。超人的な動きをする生徒がほとんどいないものだから、サッカーも平和に楽しむことができるだろう。

 そして、武術チームはサッカーから少し離れた野球ができる程度の広さのグラウンドに正方形の線を引き、児戯的かつ疑似的なリングを製作して準備が完了される。

 

 

「ルールは簡単です。制限時間三分、リングの外に出た方が負け。武器の使用有り、金的目潰しだとか、急所や危険なところを狙ったら反則負け。ギブアップ有効。堅苦しく言っちゃってるけど一応先輩という身の上なので、大体のことには厳しく言わないようにしようかと思ってます。先手は譲るよ」

「時間も少ないから始めるヨ! 誰が先陣を切るかナ?」

「俺が行くぜ!」

 

 

 ヒラヒラとてを振って余裕ぶっている成実に対し、意気揚々と四角形の敷地内に入り込んでいったのは、何故か眉間に皺を寄せてメンチを切っている男子だった。

 

 

「一年A組の村上だネ」

「おう」

「血気盛んだね。よろしく」

 

 

 成実が握手のつもりで差し出した手を、村上は舌打ちしながら、パァン! と弾いた。そのような挨拶も、欧米諸国の各地方にないこともない。Dap Greetingと総称されるものだ。

 しかし、彼の心内は違う。

 

 

 ――――いけすかねぇ。

 

 

 心の中にあるのは、黒い感情。

 

 

 ――――イケメンだからって調子に乗ってやがる。

 

 

 水泳部入部希望村上、彼は顔の整った男性を嫌う。

 

 

 ――――文字通り鼻を折ってやるよ。

 

 

 醜く汚い感情によって左右される村上だが、彼が得意としているのは水中戦だ。陸の上での攻撃は特筆するほどではない。

 しかし、彼は勝とうと考えていない。少しでも成実に傷をつけようとしているだけだ。

 

 

 ――――そのすかした顔を歪めてやるぜ。

 

 

「それじゃあ一人目、開始!」

「おりゃぁあああああああああああああああ!!」

 

 

 村上は開始と同時に突撃した。後先のことなど考えない愚直な特攻だ。一撃顔面に拳を入れるだけで勝利を狙っていない特攻男は、相手の評判を落とすことだけに今この一時を生きている。

 村上が握りしめた拳は、四角形の敷地の中央に立つ成実の顔面に、すんなりと突き刺さった。

 

 

「――――へっ?」

「まあ、悪くはないんじゃないかな」

 

 

 成実は村上の拳を避けることなく、むしろ自らその拳を迎えに行った。その結果、村上の拳は成実の鼻頭ではなく、成実の額に当たってしまった。

 成実は一切痛がるそぶりを見せず、極めて自然に村上の手を左手で握って引き寄せた。

 

 

「組手なのに呆けてちゃ駄目だぞ?」

 

 

 そう優しく諭しつつ、成実は村上の腹部に右手の甲を押し当てた。

 すると、村上の制服が背中で弾けたようにブワッと浮かび上がり、村上は堪らず嗚咽と涎を吐き散らし、絶叫を上げることなく意識を失った。

 

 

「そこまデ! 成実の勝ちだネ」

「ありがとうございました。次の人ー?」

 

 

 成実が村上を敷地の外へお姫様抱っこで運びつつ、次の挑戦者を敷地内に入る様に声をかける。

 しかし、今の不可解な光景を見せられて、率先して戦いたいと名乗り出る酔狂な人間はいないだろう。村上が倒れた理由が分からない状態で挑もうとする武人は、無謀というレッテルが張られることだろう。

 

 

 

 

 

「次はわたし」

 

 

 

 

 

 そんな無謀のレッテルが張られることに恐れることなく、一人の少女が名乗りを上げる。

 

 

「か、華月!?」

 

 

 華月が鞄を持ったまま準備体操を始めている様を見て、思わず慌ててしまう百代。華月がこのようにやる気になってしまうと、頑なに自己を通そうすることを知っている百代だが、それでも華月を何とか引き留めようとする。

 

 

「い、今の見てただろ? 危ないぞ!」

「ももちゃんは一番最後にやるんでしょ? ももちゃんがやらないって言うならわたしもやらないよ」

「うぐっ……! ひ、卑怯だぞ華月!」

「まあまあ百代さん落ち着いて」

「落ち着いていられるか! か、華月の可愛い顔に傷が付いちゃったらどうするんだ!」

「少しくらい手元から離してあげたらどうだい? 守られるばかりじゃ弱い人間になってしまうよ?」

 

 

 ほんの少し悪知恵を付けて親を困らせる娘。それに翻弄されつつも娘の申し出を許せないでいる父親。もう娘はいい年なんだから自分で行動させてあげなさいよと、少しきつく父親を宥める母親。この三人で構成された家族らしい構図が、同い年の女子生徒三人だけで描かれている。妙な寸劇に思えるが、百代たち当事者は至って真面目である。

 

 

「それじゃあ、行ってくるね」

「あ、ああああ、華月ぃ……!」

「確りと成長を見守るのも、親の務めだと思うよ?」

 

 

 若干一名、慶だけは劇団のような振る舞いをしているが、それは御愛嬌。

 両親から見送られ、戦場に足を踏み入れた華月。その手には、通学にも使っている茶色の革製鞄。ビジネスバッグにもみられるような、極めてシンプルな手提げ鞄だ。

 

 

「先手は譲る、と言いたいんだけど、それじゃあ三分何もせずに終わっちゃうね」

「流石成実兄。よく分かってるね」

「伊達にお兄ちゃんやらせてもらってないからね」

 

 

 そう言って成実はにっこりと笑い、村上の時には取らなかった構えを取る。その構えは実に奇妙で珍しく、それでいて何故か彼にしっくりくるものがあった。息を吸いつつ両腕を一度大きく開き、ゆっくりと息を吐きながらゆっくりと腕を落とし、ギュッと脇を締めて両手を首元に添えた。

 一方の華月の構えもまた独特だが、こちらもまた違和感はない。鞄の取っ手部分を持たず、鞄の上辺をグッと握って首から胸元にかけてを護っている。決して自分から攻撃はしないと堂々と主張しているようだった。

 双方の構えを確認し、ルーは右手を上げる。

 

 

「二人目、開始!」

 

 

 開始の合図と同時に、成実はゆっくりと動きだし、華月の隙を窺う。

 鞄が届いていない、視界的に悪いのはまず間違いなく下半身だが、成実はそこを攻めようとしない。

 

 

 ――――あれには一回痛い目見てるからな。早計は禁物禁物……。

 

 

 華月は成実の慎重さに対してより敏感になり、決して成実から目を逸らすことなく、鞄を成実の正面に対して垂直になる様に保っていた。

 三分と言う時間制限上、成実は一撃目までに時間を多く割く訳にはいかなかった。成実は防がれることを承知で拳を繰り出すため、華月に突撃する。

 

 

「ほっ!」

 

 

 成実は拳を握ることなく、かと言って開き切ることもなく、まるで力を抜き切っているような掌を華月の鞄目掛けて突きだした。

 

 

「むっ!」

 

 

 その一撃に対し、華月は鞄で防ごうとせずに一歩下がって距離を置く。そしてそれを詰めるように何度も成実の両手が襲いかかる。

 

 

「こらー!! 華月の胸を触ろうとしたら承知しないぞー!!」

「百代、少し静かにするで候」

「BEAUTIFUL LOVE? 華月モテモテ!」

「ただの親馬鹿だから、虎子さんも気にしないでくれ」

 

 

 ――――恥ずかしいヤジ飛ばさないでよ……!

 

 

 成実の攻撃を余裕を持ってかわしつつ、こんな時くらいまともに応援してくれ、と華月は心の中で百代に若干苛立ちを覚えていた。

 未だに鞄を使わない華月と、攻め手を変えない成実。そのまま一分が経過しようというところで、成実の動きに変化が生じる。

 

 

「っ!?」

 

 

 先程まで掌を見せていた成実の手が、完全に下を向けた状態で突き出されるようになった。華月から見れば、掌よりも爪の方がはっきりと見えるようになったことだろう。

 途端に伸びたリーチに反応できず、成実の指先は華月の鞄に衝突する。

 

 

 

 その瞬間、ボンッ! と華月の鞄から爆ぜるような音が聞こえた。

 

 

 

 華月はその爆音と衝撃に踏ん張ることができず、その勢いに押されて数歩後退してしまう。

 

 

「うーん、割といい手応えだと思ったんだけど、相変わらずその鞄凄いね」

「何十年何百年と受け継がれてきた由緒ある鞄だから」

「いつも思うんだけど、それじゃあ江戸明治からそんなカジュアルな鞄があったってことなのかな?」

「あくまで素材だけだから。形は時代に合わせて移り変わるのが世の常鞄の常」

「そんなこと聞いたことないけど」

 

 

 ――――それでも、耐え切れなかった……!

 

 

 華月の鞄に感心する成実だったが、その鞄の異常に華月は冷や汗を流す。体操服のせいで背中はぴったりと張り付き、お気に入りの空色の下着が透けて見えてしまっていることに気を配る余裕もなかった。

 華月の鞄の防御力は、華月が知る限り鉄板よりも硬く壊れない程強固なもの。その自慢の華月の鞄でさえも傷をつけられてしまっている。先程成実の中指の先端が振れたところは、まるで煙草でも押し当てられたように黒く焦げて凹んでしまっている。ただ、その凹みの直径は煙草の直径の三倍はあった。成実の中指で換算しても二倍はある。

 

 

 ――――革の張り替えしなきゃいけないな……。

 

 

 華月は鞄の傷をそっと撫でて、鞄に対して労いを送る。ありがとう、声には出さずに鞄に祈りを込めるように強く念じた。

 

 

「ほら、行くよ!」

 

 

 成実の攻撃が再開される。制限時間も折り返しだ。成実の攻撃速度は上昇し、リーチもさらに伸びる。華月はそれを受け流すことなく、必死に交わしていく。触れたらまたあの衝撃が来ることが分かっていたから。

 すると成実は、見えている華月の鞄を持つ右手のほんの少し右に狙いを定め、今日一番の速度で手を突き出した。鞄は再び炸裂音と共にその身を焦がす。

 

 

「うっ――――!?」

 

 

 先程と違うのは、その凹み具合が深く、華月が右手を離してしまったこと。

 

 

「鞄の裏に隠れた右手親指の節を狙ったから、そりゃ痺れるよね」

 

 

 諭すような言葉と共に、成実は華月の左手も同様に潰そうと右手を伸ばした。

 

 

「っ――――!」

 

 

 その瞬間、華月は思い切り身をかがめて成実の攻撃をかわし、今まで使ってこなかった取っ手に左手をかける。回避と同時に成実の足もとへ潜りこんだ華月は、体を捻じって左肩を成実に向ける。

 その溜まりに溜まった力を解放し、遠心力を乗せて鞄を全力で振り回し、右手を伸ばしきって左半身を開けている成実の顎を狙った。

 

 

「おっと!」

 

 

 しかし、その鞄の最後の攻撃も、成実の余していた左手に止められてしまう。見事に成実の顎の手前で、華月の鞄の角は捕えられてしまう。

 

 

 

 

 

「何度も同じ手に引っかかるね」

 

 

 

 

 

「――――あっ」

 

 

 何かに気付いたのか、成実は急いで鞄から手を離そうとするが時すでに遅し。

 最後の攻撃を止められて笑っていた華月は、成実が握っている鞄の角とは対角線上の角についている金属製のバッジ、桜のマークのピンズのようなものを勢いよく引き抜いた。

 

 

 その瞬間、ジジッ! という音と主に成実の体に激しい激痛が迸った。

 

 

「いづぅっ!?」

 

 

 成実は咄嗟に鞄を掴んでいた左手を離し、涙目になりながら華月を引き寄せて腹部に掌底を叩きこんだ。

 

 

「がふっ!」

 

 

 村上同様に掌底を入れられて気絶しそうになるが、その直前に華月は「してやったぞ」と百代たち観客に親指を立てた拳を突出し、俗にいうドヤ顔のまま意識を手放した。

 

 

 ――――開始直後の確認は何のためにしたんだ……! 俺の馬鹿野郎ぉ……!

 

 

「そこまデ! 成実、油断したネ? 仕込みスタンガンにやられるなんテ」

「痛い痛い痛い痛い痛いいいいぃぃ……!! バ華月め、それは外しておけといつも言ってるのに……!!」

「ホラ! 挨拶までキチンとやるんだヨ?」

「あ、ありがとう、ございました……!」

 

 

 挨拶が終わり華月を敷地の外に運び終わると、左手をブンブンと振って痛みを紛らわせようとする成実の姿があった。村上の時の額の痛みとは違い、スタンガンによる電流には余裕がほとんどなかったようだ。

 

 

「どうだい、私たちの娘は。一矢報いたじゃないか」

「流石だね。私たちも鼻高々だ。成実さんも、華月が悪戯好きなのは知っていたくせに、昔からよく引っかかる」

「成実さんも従者部隊として格好を付けていたかったろうに、憐れ憐れ」

「百代さん、もう少し何か言いようはなかったかな」

 

 

 華月の善戦、もとい悪戯に、百代と慶はご満悦だった。

 

 

 





 コラボ企画執筆中……

 ――――――

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。という月並みな定型文を文頭に置かせていただきます。
 気づけば一月も中旬に差し掛かりました。お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。お待たせして申し訳ありませんと謝罪したところであれなのですが、もうじき試験がやってまいります。そろそろ勉学に意識を向けたいので、少しばかり執筆の力を緩めますので、更新はまたすこし遅れが出ると思われますが、気長にお待ちいただけるとこれ幸いでございます。

 過去編ようやく三話です。一体いつになったら過去編は終わるのだろうかと、私自身も震え上がっている状態です。
 この組手と言う名のお遊びはまだ数話程続きます。加えて文字数増えてしまっています。筆が乗るとはよく言ったものです。楽しく書いていく所存であります。
 故に誤字脱字、誤用も見られるやもしれません。もしお暇であればそちらの報告もしていただけると有りがたいです。

 それでは締めにも一つ。これから一年弱、改めてよろしくお願いいたします。


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第四帖 あしひきの山かきくもりしぐるれど――――

――――紅葉はいとどてりまさりけり


紀貫之


 

 

「さあさあ、次々!」

 

 

 相撲部期待の新人と言われていた巨漢の女子生徒を場外へ片手で弾き飛ばした成実は、燕尾服の襟をビシッときれいに整え、爽やかな笑顔で挑戦者を待っていた。

 と言っても、既に学生の方は残り人数が片手で数えられるほどしか残っていなかった。

華月の奇策と言う名の悪戯に一本取られた成実だったが、それを帳消しにして尚お釣りがくるほどの戦績と実力を知らしめていた。

 全員が全員気絶して退場した訳ではないものの、華月以降の組手に関してはその対処は実に円滑で無駄がなかった。

 サッカーに夢中になっている一般生徒や見学に精を出している生徒より、武術を学んでいる生徒の数はは圧倒的に少ない。しかしそれでも、五十人以上の生徒が成実に対して牙を向いていた筈だった。

 

 

 しかし、今に至るまで成実がその中で苦戦したのは僅かに二人。その苦戦と言う表現が適しているかどうかも怪しいほど、彼には外傷も疲労もほとんどない。

 

 

 一人は成実のことを昔から熟知している、妹のような存在である日野宮華月。彼女は成実の性格を知っているからこそ、成実の攻撃が次第に強くなることを予見してひたすらに防御に徹していた。そして華月は、一矢を報いるためだけに三分間をじっくり使って反撃に成功した。

 一人は天真爛漫な性格で、成実がスタイルを診断した南条・M・虎子。骨法という成実にとって未経験に近い武術で挑み、成実の攻撃を軽やかに回避しながらペチペチと攻撃を当てて行った。しかし、勢いに乗りすぎたというか調子に乗りすぎた結果、鳩尾に一撃をもらって膝から崩れ落ちたが、成実に汗をかかせたのは華月に次いで二人目だ。

 

 

 そして残るは、僅かに三人。

 

 

 加えて残り時間は、五十分授業の内の三十分も残っている。

 

 

「じゃあ、次は私が行きます!」

 

 

 そしてその内の一人、真っ赤な髪を後頭部でまとめ上げた少女が死地に赴くと宣言する。

 少女は屈伸を繰り返し、下半身を重点的に解していく。その痛さが心地いいのか、少女は目をギュッと閉じて「んぅっ……!」と甘い声を漏らしていた。

 

 

「今思ったのだけど、梓は武術習っているのかい?」

「そう言えば、私もそこのところ聞いてないな」

 

 

 残った二人の少女が心配そうに訊ねた。当事者である梓はその問いに対して笑って答える。

 

 

「素人だよ」

「「えっ?」」

「なんちゃら流だとかホニャララ拳法だとか、そういうのは習ったことない」

 

 

 そんなところに通い詰めている余裕もなかったし、そう付け足して梓は準備運動を再開する。しかし、その事実は梓の勝利に対する期待値をガクッと落とすようなもの。梓に対する心配は増えるばかりだ。

 

 

「そ、それなのになんでこっちに残ったんだよ」

「何で? いやぁ、別にそう大層な理由はないよ?」

 

 

 梓は最後にピョンピョンと飛び跳ね体の力を抜いてぷらぷらと揺らす。その際に体操服と下着で抑えきれなかった平均以上の豊満な胸が、まるでばいんばいんと音でも立てているかのように大きく揺れる。見学者の男子はその胸に釘付けだった。

 

 

「さ、触ってもいいか?」

「百代さん、自重しようか」

 

 

 そして最も梓の胸に対する欲望を全開にさせていたのは、あろうことか同性の女子である百代だった。残りの生徒のうち最後の一人、慶は百代の首根っこを掴んで梓から勢いよく引き離す。

 梓はその光景を見て本当に楽しそうに笑い、真っ黒なスニーカーの靴の紐をギュッと結ぶ。その姿勢を見て、慶と百代はハッとする。

 

 

 梓の脚が、この世のものと思えない程に美しく見えたのだ。

 

 

 筋繊維が浮かび上がり織物のような柄を映し出しているようにも見え、白子のように柔らかそうな太腿に鋼のような硬さを感じる。モデルの頂に立つ女性よりも美しく、格闘技の頂点に君臨する女性よりも強かだ。

 この世にこれほど万民を魅了する羨望の天物があったかと、二人は梓の脚を見て思わず生唾を飲み込みかける。

 梓は自分の剥き出しになった太腿に、パンパン! と張り手を数回叩きつけて喝を入れる。叩けば叩くほど、磨けば磨くほど輝くを増す奇跡の両脚だ。

 百代はその脚に嫉妬する。「触ってもいいか?」なんて軽口を叩く暇もなく、梓の脚に見入り憧れ、妬んでしまった。自分以上の美しさに嫉妬する自分に、百代は醜さを覚えた。

 一方の慶は黄金を見つける。自分の左上半身と同じ黄金を、彼女の両脚に見たのだ。同族を見つけたように、慶は歓喜に打ち震える。今までいなかった同族に、天涯孤独の少女は破顔する。

 

 

「美しさは二人の特権じゃないかんね? 特にソラ!」

 

 

 慶は梓に心を読まれたようで思わず目を見開くが、梓の笑顔を見てすぐに顔を和らげる。梓の笑顔の温かみに、慶は既に虜になっているようだ。

 そんな慶に向け、梓は親指と人差し指を伸ばして右手で銃を模し、「BANG!」と片目を閉じた状態で慶の胸を打ち抜くふりをした。

 

 

「ぐはっ……!!」

「百代さん。今のは私に向けてだ」

 

 

 打ち抜かれていないはずの百代が慶の隣で膝を突き、胸をギュッと握りしめて息を荒げていた。

 そのいつもの日常を見て、梓は実に楽しそうに微笑んだ。

 

 

「えへへ、それじゃあ行ってきます!」

 

 

 ビシッ! と敬礼を決めてリングの中に梓は足を踏み入れた。

 

 

「正直な話、武術をしている振る舞いじゃないと言うのは、話を聞く前に既に分かっていたよ」

 

 

 そんな彼女たちのやり取りを全て見聞きしていたリングの主の成実は、梓に向けて怪訝そうな視線を彼女の両脚に向ける。

 

 

「けど、その脚はあのマザコンを見ているようでね。油断できなさそうで困っちゃうよ」

 

 

 にっこりと笑っているはずの成実のその声は至って真剣だった。真剣に対応しなければならないことなのに、思わず軽い口調になってしまうのは彼の悪い癖である。

 不安なことをはねのけるように軽口を放ち、どうでもいいようなことに真剣になって対応する、三条成実という人間の悪癖が滲み出た瞬間であった。

 

 

 

 

 

「……ちっ」

 

 

 

 

 

「………………な、なぁソラ。今の舌打ちって、まさかとは思うけど梓か……?」

「………………何も聞かなかったことにしよう。そうしたい。そうさせてくれ」

 

 

 梓は軽口を叩かれたと思い込み、僅かな苛立ちを表層に表してしまう。それを聞いた百代と慶は普段の梓との嬉しくないギャップに激しく動揺するが、何もなかったことにしようと梓の悪態から目を逸らすことにしたようだ。

 梓は苛立ちを沈め、軽いステップを刻み始める。トントンとリズムよく飛び跳ね、まるでテニスのフットワークのようにも見える。

 

 

「それじゃあ五十二人目、準備はいいネ?」

「ばっちりです!」

「それじゃあ、始メ!!」

 

 

 成実の姿勢は一撃目は受け手に回る、ということだった。それは最初の専守防衛の華月を除き、今までの五十人全てに共通している。今回も、成実は防御に専念していた。そういう条件で学生に挑んできたのだ。

 

 

 

 

 

 しかし、成実は綺麗に一撃をもらってしまった。

 

 

 

 

 

「んぅっ――――!?」

 

 

 成実は驚愕の表情をさらに苦痛で歪め、腹部にめり込んだ梓の蹴りにより弾き飛ばされた。しかし、成実はリングから出ないように両手を地面に叩きつけ、地面に指先を突き刺して場外を免れる。

 開始時、梓と成実の間には三メートルは距離があった。それほどの距離を詰められようものなら、例え反応できなくとも詰められたという視覚による記憶は残るはずだ。

 しかし、成実は見えなかった。その動きに対する反応はおろか、出だしすらまともに見ることができなかった。学生としての対応ならば慢心はなかったと言えるが、“壁を越えた者”との戦いでは虚を突かれてしまったと認めざるを得ない、愚かさを自覚する。

 “壁を越えた脚”のようであると認識したばかりなのに、すぐに気を緩めてしまった自分に成実は呆れてしまう。

 その蹴りを入れた梓はと言うと、元の位置でつま先を地面に叩きつけて靴の位置を修正している。余裕綽々かつ得意淡々、自分の戦場を作り上げていた。

 

 

「――――あはっ」

 

 

 成実の口から自嘲のような笑い声が漏れた。成実は立ち上がりながら梓の蹴りで貫かれた腹部を摩り、周囲の目を気にせず躊躇うことなく笑い出す。

 

 

「あっははははは。こりゃ参ったね。鯉以上じゃないか、ったく。最近の学生はすごいなぁ……」

 

 

 成実は腹部と同時に頭も抑え、恍惚の表情を浮かべて梓を視界に入れる。攻撃に成功した梓は大して笑うことなく、ひたすらにステップを続けている。彼女なりの構えなのだろう。

 

 

「学生相手に本気出したなんて知られたらヒュームさんに大目玉食らっちゃうかもしれないけど、そんなの別にいいや。めいっぱい楽しもう」

 

 

 彼が危惧しているヒュームという人物が二年後、目の前の梓に片膝をつかせられる事態が発生するのだが、それを成実は知ることはない。

 成実は従者の戦闘強化担当によるお仕置きを覚悟して――――

 

 

 

 

 

 ――――上半身を一気に剥き出しにした。

 

 

 

 

 

「ふぇっ!?」

「あー……。やっと脱いだか」

「脱ぐんだね。やっぱり」

 

 

 実に鮮やかに、実に爽やかにそれは行われた。

 燕尾服の下に着ていたシャツの首元に親指を突き刺し、タイとボタンを力づくで引き剥がし、余していた左手で左の胸襟をはだけさせる様に広げつつ回転。遠心力を用いて右側の胸襟を露出させて同時に両肩を顕にする。

 するとどうだろうか。服が落ちないように両肘に引っかけたまま、右腕を臍部に、左腕をそのまま背後に残し、首筋を見せるように首を傾け、まるでモデルのようなポーズをとっているではないか。

 従者として鍛え抜かれたその筋肉は主張しすぎず、ギュッと引き締まった肉体美を演出している。

 

 

「な、ななな、何してんのよアンタ!?」

「これからは本気で行かせてもらうと言う、俺の誠心誠意のアピール、戦闘服さ!!」

「服ってか脱いでんじゃんか!!」

「まあ落ち着いてください。今手袋も取ってしまうから」

「その露出を今すぐやめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 

 梓が顔を真っ赤にして成実の奇行に叫び声を上げるが、梓は興奮しているからか男の裸を見慣れていないからなのか、成実を直視できないでいた。両手を勢いよくブンブンと振って大声を上げている辺り、男の体と言うものにあまり体勢がないのが大きな理由かもしれない。

 

 

「あっはははははは。なぁソラ。梓があんな大声あげてるぞ」

「何も聞こえないよ。聞こえたら負けだ。ふふふふふふふふ」

 

 

 梓と知り合ってまだ一ヶ月と立っていない二人だが、梓とは十年来の親友のように感じ取ってきた。そんな梓が壊れていく様に、二人はただ笑うしかなかった。

 

 

「さぁて、準備完了!」

「ふっざけんな!! 何が準備完了よ!!」

「いやぁ、やはり戦闘は露出してこそだよ」

 

 

 成実は燕尾服だった残骸を丁寧に畳み、華月の鞄の中にしまっていた。何で華月の鞄にしまっているんだと突っ込む余裕が、梓や百代や慶、さらには見学者の野次馬にすらなかったようだ。

 成実がせっせと服を畳んでいる隙に、百代は助言を送ろうと梓に声をかける。

 

 

「お、おーい梓」

「なによ!?」

 

 

 百代の声にさえも顔を真っ赤にして大声で返してしまう梓。どうやら混乱しているせいでうまく自制が効いていないようだ。

 百代は大声で梓に怒鳴られたということで大きなショックを受けつつ、何とか伝えなければいけに事を必死に伝えようとする。声は震わせないように気張っていたが、百代の脚は生まれたての小鹿のように崩れ落ちる寸前まで震えていた。

 

 

 

「……あ、え、えっとな? 成実さん脱ぐとリミッター外れるから、気を付けろよ?」

「リミッター……? えっ!? これ以上変質者になるっての!? ふざけたこと言わないでよ!!」

「違うそうじゃない。変態度の話ではなく、成実さんの本気が出るぞ、ということだよ」

 

 

 百代が梓の大声にノックアウトさせられて崩れ落ちてしまいそうになるのを、慶が必死に右腕で抱え上げる。もう梓に声をかける勇気も気力もなくなってしまった百代の代わりに、慶が梓に助言を伝えきった。

 梓は百代と慶が一体何を言っているのか分からなかったが、混乱と憤怒で支配されていた脳内が一気にクリアになってしまうほど、成実の威圧感に充てられてしまった。

 さっきまでの飄々とした態度が嘘のように、成実が纏っている気の質が豹変していたのだ。まるで抜身の刀のように鋭い気迫。

 そんな気迫を放ちながら、成実は靴と靴下をせっせと脱いでリングの外に放り投げていた。

 

 

「ルー先生。この子には五分延長で。勝てるか分からないですし」

 

 

 そう提案すると返事も聞かず、成実は両腕に全く力を入れないで中腰の姿勢を取る。華月との対決の最後に見せた、本気の構えだ。

 

 

「行くよ」

 

 

 成実が思い切り右足を一歩大きく前に出し、左足の親指に力を入れた瞬間、左足の親指が真っ赤に染まる。

 

 

 

 

 

 その真っ赤に染まった左足が爆発したように、接地面である地面が大きな爆音と砂煙を起こし、成実は瞬間的に梓の懐まで飛び込んでいた。

 

 

 

 

 

 

「えっ――――」

「意趣返しだよ後輩!」

 

 

 成実はやられたようにやり返すため、右足の親指の付け根を梓の腹部に押し込んだ。先程の爆発的移動を目の当たりにしていた梓は直感で拙いと判断し、全力で後退しようと脚に力を入れる。

 しかし、成実の脚は既に真っ赤に染まっており、梓の逃走を許さない。

 

 

「そぉら!」

 

 

 ボン! と分かりやすく弾けた音と共に、梓の腹部に激しい衝撃が走った。梓は苦しそうな表情を浮かべながら吹き飛ばされたように後退するが、そうさせた成実の顔が少々浮かばれない。

 

 

「ちぇっ、入りきらなかったか」

「あっ、ぶなー……。もう少し遅かったらダウンしてたかも――――お?」

 

 

 そう言って梓は自分の腹部を摩るが、何か感触がおかしなことに気づいたようで疑問符を浮かべている。そっと梓は自分の腹部を見ると――――

 

 

 

 ――――見事に体操着が破け、いわゆるヘソ出しルックというスタイルにさせられていた。

 

 

 

 加えて、そのヘソ出しのためだけとは思えない程裾が短く持って行かれてしまったため、風に靡くと梓の黒い下着がチラリと見えてしまう。

 

 

「あっ、ごめんよ」

 

 

 ブチリ、と梓の中の何かが、成実のヘラヘラした軽い物言いによって引きちぎられた音がした。

 

 

 

 

 

「――――おいテメェ!!」

 

 

 

 

 

「えっ」

「えっ」

「テメェだこのドグサレセクハラ執事!! 首切らせてブタ箱ぶち込んでやる!!」

「それは勘弁願いたいなぁ。これ一応組手だし、服が破けてしまうのは不可抗力であってだね」

「うるっさい!!」

 

 

 怒りにまかせた梓の右足による上段蹴りが成実を襲うが、成実は対応を変えてそれを両手で確りと受け止めた。成実はその脚を掴み反撃しようとしたが、梓は成実に押し付けている右足を軸として飛び跳ね回転し、左足の踵を成実の脳天に叩き落とす。

 その踵落としを間一髪で避けた成実。その成実の代わりに踵落としを受けたリングは地面にタイヤ程のクレーターを作っていた。

 

 

「ちょ、なにその威力洒落になんないぅお!?」

 

 

 成実が踵落としの威力に思わず戦慄して声を漏らしてしまったことには何の関心も持たず、梓は地面に刺さった左足を軸に前転し、勢いをつけてさらに右足の踵落としを成実に差し向ける。

 一体どんな体の構造をしていたら左足を固定したまま前転できるのだと恐怖と困惑に支配されつつも、成実はようやく戦闘に集中し始める。

 梓の踵落としを両手で確りと止め、左手はそのまま足首を握り、右手は膝に人差し指をグッと押し付けた。その人差し指は先程の足の親指同様真っ赤に染まり、梓の膝で爆発する。

 

 

「いづっ!?」

 

 

 堪らず梓は思い切り足を引いて体勢を立て直す。引き剥がされた成実の両手からは煙も一切出ていないが、成実の両手の周りの大気が揺らめいて見える。

 梓は何が何だか分からないままだが、成実に掴まらないよう慎重になりつつも今度は胴体を狙って突進する。

 

 

 

 

 

手脚纏闘(しゅかくてんとう)。磨きがかかっているね」

 

 

 

 

 

 その様子を見て、慶がぼそりと呟いた。

 

 

「ああ。脱いだのは伊達じゃないな。手袋まで取ったんだ。本気で相手をしに来ているな」

「その、手脚纏闘とは一体何で候?」

 

 

 百代が慶の発言に賛同している様子を見てか、見学者の席からコソコソと解説を求めにやってきた弓子が質問を投げかけた。

 

 

「おおユミ。ユミはやらないのか?」

「更地且つ場外ありきの一対一での弓勝負など、負けが見えているで候」

 

 

 弓以外に戦える自信がないのか、それとも戦える何かを隠していても叶わないと諦めているのか、どちらにしろ弓子は成実との戦いに勝利を導く術を持ち合わせていないようだ。

 

 

「まあそこはやってみないと分からないものだけどね。あの人の技、基本受身だから」

「話が逸れてしまったで候。それで、その技と言うのは一体……?」

「あの人の技には威力の上限値があるが、接地面が小さければ小さい程、初動から時間が経てば経つほど威力が上がる、ある意味基本的な武術じゃ矛盾した技なんだよ」

「な、何だその奇天烈な武術は!?」

 

 

 思わず弓子が大声を上げて驚いてしまうが、それは無理もないことだろう。端的に言ってしまえば、殴るよりも撫でる方が破壊力が増すと言っているようなものだ。

 

 

「武って言っていいか怪しいレベル何だよなぁ。張り手を腕で止めたと思ったら本命は指先で、腕を握られて暫く手は動かなかった」

「あの人の拳を私はまともに見たことがないよ。じゃんけんで見た回数の方が多いと確信を以て言えるよ」

「デタラメで候……。それであの露出、梓が焦るのも頷けるで候」

 

 

 弓子がデタラメと呆れた武術を行使する男は、梓との決闘の最中笑顔を崩さない。一方の梓はひたすらに攻め手に回っているが、どうしても成実に一撃が届いていない。先程から受け止められて反撃を食らうばかりだった。

 梓が顔を真っ赤にして攻撃の手を止めないのは、成実の奇行のせいで梓の調子が崩されてしまっているからだと推測した弓子に、百代が解説を加える。

 

 

「ただ脱いだだけじゃないぞ? 成実さんの手脚纏闘は服を着ていると威力が落ちる。あの燕尾服は成実さんの爆発するような攻撃に耐えられるようにしてあるから、その分威力が制限されてしまうんだ」

「なるほど、一応理由はあったと」

「露出狂なのは昔からだけど」

「そういうことは先に言うで候!!」

 

 

 弓子が成実を指さして顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。弓子は成実がそのうち最後の城壁(パンツ)一つであの場に立とうとしているのではないかと考えただけで、ゾゾッと背筋に悪寒が走り体を身震いさせていた。

 

 

「成実さんの露出癖は知っていたからあれなのだけれど、正直なところ、注目すべきは梓だ」

 

 

 観衆の目が集約されてしまうのも無理はないんだけどね、そう付け足して慶は観察する見学人たちには聞こえないように苦言を漏らす。

 

 

「ああ。梓があそこまで闘えるとは思わなかったな」

「ごほん……。やはり梓は強いで候。脚を見てそれは何となくだが――――」

「それもそうなんだけどね、私が言いたいのはそういうことじゃないんだ」

 

 

 百代と弓子が梓の戦闘力にただ感心していたが、慶は論点はそこではないと言わんばかりに二人とは違う観点からの判断を口にする。

 

 

「あの脚を見るまで、あの脚が戦闘用の備えをするまで、それを感じ取れなかったんだよ? 私や弓子ならまだしも、武神と恐れられる百代さんまでもが、だ」

 

 

 そう言われて百代と弓子はハッとした。手を握ったり肩を組んだりと、コミュニケーションの大半をスキンシップで行う梓に触れる回数は何度もあった。それなのにも関わらず、武神ともあろう者が相手の力量を測り切れていなかったのだ。

 

 

「成実さんに服を脱がせたというのは、はっきり言って学生では名誉に相当する。あの人が本気になったということは、梓は成実さんから見て同等以上の武人とみなされたということだ。成実さんは“壁を越えた者”だからね」

「…………つ、つまり、梓は“マスタークラス”であるということで候?」

「それは分からない。けど、あの“脚”だけは間違いなく驚異だ。何も武を習っていなくてあそこまで磨き上げている。すごい――――筈なんだけどな」

 

 

 ふと、そこで慶の顔が沈んだように翳りを帯びた。弓子も百代もその慶の表情に思わず恐怖してしまう。

 何か、慶の心の奥にある黒い何かの果てしない深さを垣間見てしまったような気がしたから。

 

 

「せいやぁあああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

 その空気の重さを吹き飛ばしたのは、成実に対して低空で滑り込み足を払おうとする梓の絶叫だった。制限時間も残りわずか、成実も梓も勝負を決めにかかっていた。

 

 

「甘いよっ!」

 

 

 その滑り込みを成実は足の裏でがっちりと止め、再び爆発するような攻撃で梓を弾き飛ばす。

 しかし、梓はそれを待ってましたと言わんばかりに笑顔を浮かべて弾き飛ばされた。

 

 

「が、ぁ――――!?」

 

 

 爆発により悶絶しているのは成実の方だった。成実の足の裏を見ると、まるでナイフにでも切られたように一本の切り傷が刻まれており、そこから割と多めの出血が見られる。

 

 

「脚で私に勝てると思ったら大間違いよ?」

 

 

 汗を全身に滲ませ、それでも不敵に無骨に笑う梓は美しかった。最前列で見学していた観客の何割かが、思わず梓という芸術品に生唾を飲み込んで食い入ってしまう。

 一方、一矢報いられた成実の表情は少し崩れ始めていた。先程の余裕の笑みとは違い、戦いに対する愉悦から来る強烈な歓喜の破顔。加えて、痛みにより表情が歪んでしまうのを抑えつけようとする余計な力が、成実の笑顔をより猟奇的なものへと変貌させる。

 

 

「俺の技を真似るだけじゃなく、応用までしてくるなんてね……。正直恐れ入ったよ。戦る気じゃなくて殺る気で迎え撃つべきだったと、今更になって後悔しているよ……!」

「露出なんかしているからそういうことになるのよ?」

 

 

 一転攻勢、梓は成実の裸にも耐性をつけ、余裕の態度を取り戻して挑発する。

 

 

「つまり、初めから露出しておくべきだったということだろう?」

「違うわ!!」

「いやはや申し訳ない。時間もないし、ちょっと自分の愚かさに対しての怒りを糧にして――――八つ当たりさせてもらうことにするよ」

 

 

 梓が成実に再び翻弄された次の瞬間、成実の足もとが再び爆音とともに爆ぜたが、その爆ぜ方が妙だった。先程は梓に向かっての推進力を得るための爆発であったために、その爆風に乗った砂は梓から離れるように巻き上がっていた。しかし、今回の砂煙は成実全体を覆う様に、とにかく大きく高く舞い上がったのだ。

 

 

 梓は思わずその砂煙を見上げてしまい、しまった、と心の中で後悔した。

 

 

 梓の背後には既に、強烈な爆風を用いることなく素早く移動してきた成実が、掌と指先を梓の腰にグッと押し付けていた。

 

 

「手脚纏闘・竹丸(たけまる)

 

 

 ドンッ! と梓の腹部から強烈な音が響いた。

 

 

「ふ、うっ――――」

 

 

 梓は一度大きく目を見開いたが、その後体の全ての力が抜けきってしまったように目蓋を落とし崩れ落ちる。顔が地面に落ちそうになった梓を成実は素早く抱きかかえる。少しだけ息を整え、梓をお姫様抱っこで担ぎ、成実は百代たちの元へ近づいていく。

 

 

「はい。梓ちゃんです」

 

 

 そう言って成実は梓を百代に差し出した。百代はほんの少しだけ戸惑ったが、梓は気を失っているだけだと確認して安堵した後に、ゆっくりと梓を受け取った。

 成実は梓を渡し終わった後、予めリングの外に用意しておいた給水用のペットボトルを開封して口に運ぶ。本日一回目の補給がようやく行われた。

 ゴクゴクと音を立ててペットボトルの水を一気に飲みほした成実は、梓を見つめながら小さく呟く。

 

 

「化け物だね、その子」

「……どういうことかな、成実さん」

「貶している訳じゃない。ただ、俺は何度もその脚に攻撃したのに、全く意に介していなかった。どういうことかと思ってお姫様抱っこしたんだけどさ」

 

 

 そう言って成実は梓の脚を指さした。

 

 

 

 

 

「結局、俺は彼女の脚に傷一つ付けられなかったようだよ」

 

 

 

 

 

 そう言われて、百代たちは梓の脚を凝視する。痣や切り傷はおろか、ほんのちょっとしたかすり傷すらついていない梓の脚は、戦う前に準備体操をしていたまま、黄金を保ったままに百代たちの羨望を集約させていた。

 上半身は泥が付いたり擦り剝けたりと、あの爆発交じりの戦いでは当然の結果だろう。しかし、梓の脚に至っては泥一つ付着していない。

 

 

「原理は分からないし、その脚がどういう経緯で鍛え抜かれたのかも知らない。けど、生半可な努力と“天賦の才能”じゃ、その武器にはなりえないよ」

「……成実さんは戦ってみて、どうでした?」

 

 

 梓に対して奇妙な賞賛を送る成実に対して、百代は素直な感想を訊ねた。

 ほんの少しだけ成実は考え、答えを導き出す。

 

 

「俺が脚で手脚纏闘を使って梓ちゃんに攻撃した時、彼女はそれを切り裂く様に俺と同じ手脚纏闘を行使してきた。こと脚技に限定すれば、彼女にできないことはないと思うよ。それを含めて、この子は化け物だ」

 

 

 そう言い残して、成実はリングの中央へと戻っていった。

 

 

「さて、それじゃあ私の番だね」

 

 

 成実がリングの中央で瞑想しながら待機し始めたのを確認して、慶が梓の頭をそっと撫でてから立ち上がる。

 

 

「気を付けろよソラ。お前は“壁越え”だから、成実さんは今まで以上に本気で来るぞ?」

 

 

 梓を膝に乗せたまま百代は慶に激励を送り、徐に右手を挙げた。何事かと思った慶だったが、数瞬してようやく百代の意図を汲み取り、にっこりと笑って右手を振り上げ、互いに勢いよく右手を振るう。

 パァン! と乾いた音がグラウンドに響き渡る。梓はその音で起きはしなかったが、心地よさそうに頬を緩めていた。

 

 

「弓子もやる? ハイタッチ」

「過激にしないのであれば、喜んでさせてもらうで候」

 

 

 見ている方まで痛くなるようなハイタッチは御免だと断っておきながら、弓子は恐る恐る右手を挙げた。

 慶はその様子に思わず微笑み、少しだけ音が鳴る程度に加減して手を叩いた。パン、と小さな音しかならなかったが、弓子も慶もご満悦だ。

 

 

「それじゃあ、行ってきます」

「行って来い」

「行ってくるで候」

 

 

 痺れる右手をグッと握りしめ、隻腕の武人が戦場に赴く。

 

 





 コラボ企画執筆中……

 ――――――

 本当はこんなキャラにする予定ではなかったんです。
 男の裸に見慣れてなくて顔を真っ赤にするような初心な女の子や、脱ぐことで強くなるとかいう奇妙な法則を従えた執事になるとは、私も夢にも思っていませんでした。
 構想上では、性知識はあっても実物を見たことのない耳年増な女の子と、汗っかきな執事という設定だったのですが、何を血迷ったのか、執事だけ変態になってしまいました。執事は常識人で通したかったのですが、如何せん周囲の常識が崩壊しかけているので、非常識人に見えても仕方がありませんね。

 さて、久々に和歌のお話。
 「おいてめぇ! これ冬の和歌じゃん! 話の中身春じゃん! どういうことじゃん!?」というお怒りの言葉、いただけるかどうかは別にして、前回が秋の和歌でしたので怒られたのです、知人に。
 これは中身と言うよりも、この和歌の季節が冬で、今までの順番で行くとこの通り使う必要があったのです。一体何の順番化と言うと、ある和歌集の並び順であります。拾遺集というのですが、これの巻数順に一つずつ、和歌を投下させていただいております。

失態、拾遺集を調べると二部の話数がばれてしまう。

予告、MNS番外編。


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第五帖 よろつ世の始とけふをいのりおきて――――

――――今行末は神そしるらん


中納言朝忠


 

 

「慶くんとの手合せは何回目かな?」

 

 

 剥き出しになった上半身の肌にこびりついた砂を叩き落としながら、成実は問いかける。梓との試合の際に汗と共に張り付いてしまったのだろう。試合が始まる前に綺麗な体を維持しようとするその姿勢は、パーティー前に化粧室でネクタイを締め直す紳士のそれとほぼ同じだろう。

 

 

「三回目ですよ。大体ですが、二年ぶりの手合せです」

 

 

 大道芸人のように、右腕一本だけで逆立ちしながらバランスを取り続けつつ、慶は返答する。風により多少揺れることがあっても、基本的にはぐらぐらとすることなく綺麗な塔のように芯の通った姿を演出している。

 

 

「もう二年経ったのか。時間の流れってのは早いもんだよね」

 

 

 気づいたらもうすぐ三十路だ、と悲観的な物言いで憂いを表した成実だが、その顔は決して悲しんでいるようには見えなかった。時の流れの無情さを受け入れつつ、如何にも人生を謳歌しているような、明るい表情。

 

 

「成実さんみたいに九鬼でこき使われていたらより一層そう思うでしょうね」

 

 

 やり甲斐しかないんでしょう? と確信を持った疑問を成実にぶつけた慶もまた微笑みを浮かべている。その奇妙で美麗な逆立ちから弾きだされた表情とはとても思えない。実に綺麗で奇妙な笑顔に対し、成実も一層爽やかな笑顔をぶつけた。

 

 

「大変だよ? 自分の趣味に費やす時間が少なくて困っちゃうよ」

「映画鑑賞でしたっけ。昔みたいに手当たり次第に見ている時間が無くなったようで」

 

 

 まったくだ、と慶の同情の声に両手を上げ、やれやれと言った具合に成実は首を振った。仕方がないと分かっていてもやり切れないようだ。そのせいか、ほんの少しだけ成実の表情に曇りが生じる。

 

 

「だから最近は映画の元になった小説を漁るばかりさ。映像でも楽しみたいんだけどねぇ……。あの臨場感あふれる空間じゃないと映画って見る気にならないんだよ、俺」

「そういえば成実さん、映画館に行ってみるのが好きでしたね。それじゃあより時間は限られちゃいますね」

 

 

 成実の趣味を知っているからこそできる哀れみだろう。その慈悲の帯びた視線は、成実の心に深くに突き刺さる。

 しかし、そこから生じるのは痛みではない。深く徐にこみ上げてくる、感涙の熱だ。

 

 

「そう、そうなんだよ! 揚羽様にこき使われているからね、俺……。まあよっぽど見たい映画があった時は有給使ってるよ。この間使ったばかり!」

 

 

 同情で親友を傷つけることと、憐憫で他人を癒すことは紙一重である。慶は後者を的確に選び行使している。

 

 

「へぇ、どんな映画ですか?」

「ヒトラー率いるナチス軍が時を超えて蘇って戦争する近未来SFと、結構有名な俳優がふくよかな女性役をやってることで話題になったミュージカル系統の映画」

「後者は私も見に行きました。よかったですね、あれ」

「ねー。二回見直したくなっちゃうよねー」

 

 

 あはははは、と二人が声をそろえて笑う。内一人は引き締まった肉体を惜しげもなく大衆の前に曝け出し、もう一人はそろそろ頭に血が溜まってどこかの血管が裂けてしまうのではないか、そう不安に思うほど長時間逆立ちをしている。

 観衆たちは珍妙な光景を目の当たりにしていた。

 

 

「どうでもいいからさっさと始めろマイペース共!!」

 

 

 次に控えている百代が痺れを切らして大声で二人を叱責した。ただでさえ五十何人も待たされている上に、慶の前の梓の組手で十分少々取られている。前五十人近くの中には秒殺された人間もいるため、多少のゆとりがあるとはいえ時間が迫っているのもまた事実。

 百代は残り時間全てを使って、成実との決闘を楽しむつもりでいた。

 

 

「いやはや、急かされちゃった」

「急かされちゃいましたね」

「「あはははは」」

「だーかーらー! 早くしろって―!」

 

 

 そのため、二人が和やかに会話をしてしまったことにより決闘開始に遅れが出てしまうのは、百代にとっては由々しき問題なのだ。

 百代の堪忍袋もそろそろ限界だろうと察した慶は、支柱としている右腕をグッと曲げて力を貯め、思い切り腕を伸ばして飛び上がる。そのまま空中で回転して綺麗に着地する。その光景に野次馬生徒たちが「おおーっ!」と感嘆の声を漏らした。

 

 

「始めましょうか。成実さん、十分も時間をくださってありがとうございます」

「梓ちゃんは延長だったけど、慶くんは気を抜いたら負けそうだからね。この二年間で更に強くなっていることを想定して、初めからフルブーストだ。エンジンも絶好調だ」

 

 

 パァン! と成実は自分の胸を勢いよく両手で叩き、綺麗な紅葉を浮かび上がらせる。試合の初めから全力であることと、上半身がむき出しで試合を始めると言うことは彼にとって同義なのだろう。

 それを理解している者は、この場において数えるほどしかいないため、観客は若干引き気味だ。プロレスでも見に来たのかと、野次馬学生は錯覚を覚えてしまう。

 

 

「私も温まってますよ。梓の言動に色々と振り回されたので……」

 

 

 その錯覚から救い出してくれるのは、全身を真っ黒な服装で身を包んだ慶の美しさだ。体操着にも着替えず普段と変わらないような、指定の制服ではない私服に奇妙さを覚えるが、それは慶の美しさの前では些細なことだ。

 大衆の好奇な視線を集めつつ、グルグルと右腕を回して準備ができていることをアピールする慶。

 

 

「専守していていいですよ。私から攻めますから」

 

 

 慶はしばらく腕を回し続け、右手を自分の額に添える。成実はそれを見てにっこりと笑い、両腕の力を抜いた。互いに戦闘態勢に突入したと言う合図だ。

 ルーはそれを汲み、敢えて名乗りを上げさせることも準備の確認もせず、右腕をすっと挙げた。

 

 

「それでは、五十三人目、開始ィ!!」

 

 

 開始の合図とともに、慶はゆっくりと成実との距離を一歩詰める。攻撃してこないと分かっているからの行為、ではない。慶はこの上なく慎重に、呼吸を決して乱さず凛とした立ち振る舞いで成実に接近する。

 確実な一撃を成実に与えるため、慶は敢えてゆっくりと近寄る。

 初めから三メートル程しか空いていなかった距離だ。慶が成実を自身の攻撃範囲に入れることはさして困難ではなかった。

 その射程は、開始時点から三歩前に進めば充分。

 

 

「しっ!」

 

 

 額に添えていた右手を瞬時に左肩に乗せ、慶は体勢を低くしつつ左半身を突き出した。すると、芯のない布であった左袖がぐるぐると捻じれ、鋭利な棘となって成実に襲いかかる。

 慶の袖の長さが伸びたように見えた。左の袖だけ伸縮性の高い素材を使っているのか、細く長くその棘は瞬時に伸びる。お祭りの出店で配られるペーパーローリングのように、勢いをつけてググッと伸びる。

 その棘の腹を右手で掴んで命中を許さなかった成実。成実はこの棘という技にも、その手にある棘の感触にも驚愕を示す。

 まるで鉄のように固く、それでいて折れるイメージが全くない。グッと握りしめ叩き折ろうとしたが、その作用点がすっと柔らかくなるのを感じた。軟すぎる蝋燭のようだと、成実は比喩的表現を絞り出した。

 気を通しただけで物質的に変換された訳ではない、成実がそう判断できた時には、既に慶の第二の行動が開始されていた。

 慶は袖の伸縮性を利用、さながら両手で伸ばしたゴムの片手だけ離したように瞬時に移動し、成実との距離を一気に詰めた。

 

 

 ――――慧紋の十法。

 

 

「初雪!」

 

 

 右手を成実の頭に押し付け、かつて川神学園の校舎に蝸牛の殻の跡を付けたエネルギーをぶつけた。成実の頭部は思い切り仰け反り、成実の身体が後ろへ倒れていく。

 しかし、成実の意識は途絶えていない。

 ズン! という地鳴りと共に、成実の姿勢が固定された。膝を直角に曲げ、地面とは水平に膝から上の胴体を保つ奇妙な体勢だ。地鳴りの正体は、足の指を地面に突き刺した音。成実は踏ん張りを効かせるためだけに、足の指で地面に穴を空けたのだ。

 並大抵の筋力や努力ではなしえない芸当だ。

 

 

 ――――あっぶね。脱いでおいてよかった。

 

 

 ほっと一息ついた成実にダメージは見られない。確かに慶の攻撃が通ったはずだった。

 

 

「ぐっ……!」

 

 

 しかし、表情を歪めているのは慶だ。

 慶の右手を見ると、その掌がまるで火傷を負ったように赤く腫れあがり、所々に青紫の斑点ができている。内出血も酷いようだ。

 梓が成実の攻撃を食らったのと同じように、慶にも成実の攻撃の爪痕が残る。

 

 

「よっ」

 

 

 成実は力を抜いて体勢を崩し、空を見上げながら両手を着いて踏ん張りを効かせる。そのまま体を縮め、飛び起きる勢いで慶の腹部に蹴りを入れた。

 

 

 ――――爆発しちまえ!

 

 

 右足の裏がきっちりと胃に食い込んだ瞬間、今度は成実が顔を歪めてしまう。慶の腹部がミチミチと音を立てて慶の脚に噛みつき、成実の攻撃を弾き返していたのだ。

 

 

「あれっ……!?」

「お返し、ですよ……!」

 

 

 ――――杜若(かきつばた)の威力も軽減されてる。足一本持って行けると思ったのに。

 

 

 慶は腹部に貯めておいた回転エネルギーを全身に再び廻らせ、成実の脚を自分の腹部から弾き飛ばし放り投げた。

 

 

 ――――手脚纏闘(成実さん)慧紋の十法()は相性が悪い。互いに威力が上がらないね。

 

 

 慶は成実が立ち上がるまで右腕を振って痺れを取っていた。

 慶は気を流し込んでの攻撃、成実は気を爆発させる攻撃。どちらも体外に気を放出する系統の技であるため、相殺されやすい。現に、二人の負傷は派手に見えて体の奥まで届いていない。

 慶は右手の掌を、成実は右足首から下を、それぞれ内出血程度の痛みで凌いでいる。

 

 

 

 

 

「本来なら、どちらかがダウンしていてもおかしくない威力の技の応酬だろう」

「なるほど、これではいつ決着がつくか分からないで候」

「そうなる要因は、何も技同士が相殺されやすいってだけじゃない」

 

 

 観戦していた百代と弓子が慶の応援を兼ねて二人の戦闘を分析していた。弓子は慶の技も成実の技も初見であるために賛同や疑問が僅かに多いが、百代はどちらのスタイルも知っているため理解が早かった。慶とはそういう話も交えており、じゃれ合いつつたまに技を見せ合ったこともあった。

 今回の戦いを最も的確に判断できるのは、気絶している華月を除けば百代に決まりだろう。

 

 

 

「二人とも、攻撃を食らった瞬間に反撃するカウンター技が多い。だから、攻撃が通るってこと自体があまりない」

「あの執事の技はそうだと先程聞いたが、慶も受身の技が多いで候?」

「あいつの技の半分以上は攻撃技じゃない。あの初雪、回転エネルギーを押し当てる技で大抵賄えるってのもある」

 

 

 ――――切り札があるとか言ってたが、これは言わなくてもいいだろう。

 

 

「実力は拮抗、そう見るか?」

「成実さんが上手だ。間違いなく」

 

 

 弓子のちょっとした疑問に、百代は間髪入れず食い気味に返答した。少し睨みを利かせ、言葉と言う威嚇の刃を弓子に差し向けたようにも見えた。僅かだが、少し百代の覇気が籠っているように感じた弓子は思わず体を仰け反らせてしまう。

 それを自覚した百代は一度咳払いをし、慶と成実へ視線を戻した。互いが攻撃を出せば、攻撃を出した方が苦しむ攻防戦。しかしそれでも、次第に相手へのダメージが通り始めているのを百代は確認できた。

 

 

「さて、どうなる」

 

 

 百代がそう呟いた瞬間、慶の口が動いた。

 

 

 

 

 

 ――――攻め時だ、だと?

 

 

 

 

 

「慧紋の十法・源氏車(げんじぐるま)!」

 

 

 百代に伝わったと察した瞬間、慶は左の袖をぐるぐると回転させ始めた。プロペラのように回る慶の左袖を見て、成実は感嘆の声を漏らした。

 

 

「そこまで至ったか、慶くん」

 

 

 成実の笑みの籠った表情が一変して鋭いものとなり、成実が舌をベロリと出して口の周りを這わせた。その行為に百代の背中に悪寒が走る。

 そのルーティーンを見るのは、かつて相対した百代でさえ二度目だ。

 

 

 ――――成実さんが、受身を解いた……?

 

 

「それは食らいたくないけどね」

 

 

 成実は両腕を開き、拳の開閉を繰り返していく。慶はそれを見てさらに体勢を低くする。右肩を前に出し、右手を再び額に添える。

 あまりに常軌を逸した戦いに時間が早く過ぎたように感じた観客たちが、二人のにらみ合いでの時間消費にソワソワとし始めるが、制限時間はまだ半分も経過していない。

 そのタイミングで、成実がオフェンスに移る。

 

 

「手脚纏闘・竹丸!」

 

 

 熊手のように指を立てて腕を伸ばし、慶の右肩を狙った。反撃されることも分かっていながら成実は先に攻撃に移る。それほどまでに自信があり、恐れがある。

 慶の肩に成実の手が触れようとした瞬間、慶が回避に移った。

 慶は前に倒れ込む様に全身を屈ませ、回転する左袖に吸い寄せられるように――――後退した。

 

 

「っ!?」

 

 

 成実の手は大きく空を切り、慶に無防備を晒してしまう。慶はそれを見逃さなかった。

 慶は左袖の回転を緩め、全力で一歩を踏みこんで右手の掌底を成実の腹部に押し込んだ。慶も成実同様に、反撃を覚悟しての一撃を押し込んだ。

 

 

「慧紋の十法・捻方喰(ねじかたばみ)!!」

 

 

 慶の左袖の回転がピタリと止まり、慶の右腕がギチギチと唸りながら震えていた。まるで、慶の腕と言う回し車を、全身の回転エネルギーの塊と言う小動物が、休むことなく走り続けて回し車をグルグルと回し続けているように、慶の手は激しく乱雑に回っていた。

 その腕を押し当てられている成実の表情は、何かを吐き出すのをこらえているような痛苦の表情。余裕交じりの笑みも、快楽交じりの歪みも、何もかもを弾き飛ばされて苦しめられている。

 成実の背中がゆっくりと丸くなっていく。綺麗な姿勢を保つことが執事の基本であるはずなのに、今の成実の姿勢は猫背で背骨に癖がついた人間のそれだ。

 じんわりじんわり、成実の身体が慶の回転に蝕まれていく。

 その猫背のような上半身の歪みがある一点を超えた瞬間、成実の背中からボンッ! とはじけるような音が響き渡る。それと同時に成実はこらえきれなくなって口を大きく開け、盛大に胃液を撒き散らした。

 慶はそれを避けることなく、目も反らさずに成実の反応を窺っていた。胃液が頬に付着しようがお構いなし。ただその自慢の一撃が、成実を打ち取るに値したのかどうか、それだけが慶の頭の中を駆け巡っていたのだ。

 慶の拳が震えている間、成実は声にならない声で唸っていたが、慶の腕が大人しくなったと同時にがっくりとうなだれてしまった。

 

 

 ――――…………勝っ、た……。

 

 

 慶の背中や脇から大量の汗が滲み出る。それだけ一撃にすべてを込めたのだろう、慶の表情に疲労が現れる。脱力したまま成実から腕を引き抜こうと慶は一歩下がろうとした。

 その瞬間、がくん、と慶の身体が引っ張られた。

 

 

「…………!?」

 

 

 慶の腕が、成実から抜けなかった。力を入れれば入れる程、がっちりと固定されてしまった右腕は脱出できない。まるで万力にでも挟まれたように、慶の腕は締め付けられていく。

 

 

「……げぶっ、やっで、ぐれだ、ね……。がぁーっ、べっ!」

 

 

 成実の口から赤黒い粘膜の塊が飛び出し、ぼしっ、と音を立てて砂に絡みついていく。成実の喉につっかえていた何かを、成実は豪快に吐き出して慶を睨み付ける。

 慶の背筋に悪寒が走る。自身の最大の攻撃を受け止められ、なおかつ闘志の燃え滾った瞳を向けられたのだ。その野獣のような視線に、慶は戦慄してしまった。

 

 

「肉を切らせて、何とやら……!」

 

 

 成実は慶の腕を両腕でがっちりと掴み、自分の腹からずるりと引きずり出す。慶は成実の掌から来る爆発のような攻撃の脅威を知っているため、掴まれた瞬間にぎょっとしてしまった。慌てて成実の拘束から逃れようと力任せにもがき始める。

 その瞬間、成実は慶の腕を腹部から少し上に上げ、ふわっと自身の体を浮かせて慶の腕に巻きつく様に体を寄せた。左足は慶の首を刈る様に、右足は脇から下への退路を断つ様に絡め、がっちりと腕を固定する。飛びつく様に腕十字ひしぎに近い形を取った。蝙蝠のように宙ぶらりんになった成実を、回転エネルギーを放出してしまった慶はどうやっても引き剥がせなかった。

 通常の腕ひしぎと何が違うか。慶は本能でそれを察していた。これは腕を伸ばし固定したり、靭帯に損傷を負わせたりするような目的で放たれた技ではない。

 これは、“成実の肌が多く張り付くことを目的とした”絡み技だ。

 

 

「手脚纏闘・蔓丸(つるまる)

 

 

 ボボンッ! と慶の腕から複数の爆発音が響いた。

 

 

「あっ、ぎぃい!!」

 

 

 慶の表情が苦悶に歪む。全力を出し切った後に食らった攻撃、慶に反撃や防御を取る時間や余裕はなかった。

 しかし、脱出の時間を作ろうとすることはできる。慶は乱れてしまった呼吸を即座に整え、再び体中に出しきってしまった回転エネルギーを蓄え始めた。

 

 

「は、初雪っ!」

「おっと」

 

 

 慶の右腕が激しく震える寸前、成実は慶の腕を離して地面に両手を突き、新体操のように軽やかに跳ねて両足を地面につけた。それを確認することなく、慶は再び回転し始めた左袖を、先程動揺棘のように伸ばして連続で突き出していく。

 それを紙一重で回避していく成実。上半身は服を着ていないため、当たればその時点で出血だ。それほどまでに鋭い慶の左袖のラッシュを、棘の腹を弾きつつ成実は再び接近していく。

 速度が足りない、威力が足りない、焦燥感に支配されかけている慶は成実に対してさらに攻撃の手を早めていく。布の棘の突き出しから引き戻すまで時間を削り、より空気抵抗をなくすために回転で袖を絞っていく。硬く速く鋭い、アイスピックのような茨の(むしろ)が成実に襲いかかる。壁のような攻撃に、成実は眉間に皺を寄せた。

 成実はその棘を弾いたり叩き折ったりすることはなく、自身にその連撃が当たる瞬間に棘を掴み、爆発させた。

 

 

「っ!?」

 

 

 袖の棘はあっさりと瓦解した。最早袖とも言い難い、布の残骸となってしまった棘を成実は廃棄した。慶は成実の手脚纏闘によって破壊された袖に再び気を通して回転させようとしたが、袖は息絶えたようにピクリとも動かない。成実の気の残滓によって美しさを重視した慶の気が通おうとしないのだろう。

 慶は舌打ちをし、痺れて感覚が麻痺しかけている右腕を乱雑に扱って自身の袖をビリビリと引き千切り、最も気が伝わりやすい右の掌から直接気を送り込み、袖に気を全力で送り込み棘を作る。

 慶はそれを宙に離し、回転エネルギーの爆発力の籠った掌打で弾いて発射させた。古代ローマのジャベリンの如く、棘は成実に回転しながら突進する。その速度は空気を切り裂き音をも超えた。

 

 

 

 ブチブチッ! と慶の右腕から引きちぎれるような音を響かせた。

 

 

 

 成実の爆発により既に内部がズタズタに引き裂かれていた右腕にさらに負荷がかかった結果だ。この組手において、慶の右腕が自身の攻撃に耐えられる可能性は限りなくゼロとなった。もはやただ肩に張り付いた装飾品にしか過ぎない。

 

 

 ――――手脚纏闘・枝丸(えだまる)

 

 

 決死の覚悟で放たれた棘を、成実は気をため込んだ手刀であっさりと切り裂いた。

 切り裂かれた槍は空中で分解され、ボボン! と爆発しながら木端微塵となった。慶の気が通わず無理な速度で発射された布がそれに耐えられるはずもなく、もはや袖とも布とも言えない塵屑へと変換させられる。

 成実はもう中距離の攻撃が来ることはないと判断し、再び攻撃の姿勢へと転じた。

 素足となった右足の親指の付け根から気を爆発させ、慶の懐まで一気に飛び込んだ。それと同時に、熊手のように指を尖らせていた右手を慶の頭部に目掛けて押し出した。

 

 

「竹丸!」

 

 

 がっしりと標的を掴んだ成実の右手が爆発し、対象の神経や血管を引き裂いた。

 

 

 ――――まだ、終われない。

 

 

 その爆発の感覚に、最も驚愕しているのは成実だった。

 

 

 

 慶の頭部を確実に掴んだと思ったその右手には、既にボロボロで痛覚すらまともに残っていない慶の右腕があった。

 

 

 

 先程の槍の射出を最後に装飾品と化した右腕の、最後の意地、最後の役目。

 

 

 ――――全治、何週間かな……。

 

 

 慶は全く力の入らない右腕を握ったままの成実に向かい、上体を反らしながら勢いよく飛び込んだ。

 何が来るか分からなかった成実だが、攻撃の直後の硬直と不意を突かれたことによる動揺で瞬間的に空白が生まれてしまう。思わず、慶のその汗と血を散らす跳躍に見とれてしまっていた。

 

 

「づぁっ!!」

 

 

 呆けてしまった成実の頭に、我武者羅に吠えた慶の頭部が加速を付けて激突した。

 同時に、ヘッドバッドに込められていた回転エネルギーが成実の頭部を細かく激しく規則的に揺さぶった。頭部に打ち込まれた回転エネルギーは成実の脳漿をシェイクし、チカチカと成実の視界を点滅させる。

 

 

「う、ぉお――――」

 

 

 揺れ続けて嘔吐を誘発しようとする気持ちの悪さを抑えるべく頭部を手で押さえつつ、ふらふらとよろめきながら数歩後退していく成実に、満身創痍の慶が追撃を仕掛ける。

 成実の視界が成実自身の手で塞がったその瞬間に、成実の胸部に自身の左肩をグッと押さえつけた。

 

 

「は、つ、雪ぃっ!!」

 

 

 回転エネルギーをさらに成実に叩きこんだ。回転エネルギーは肋骨の隙間を蛇のように掻い潜り、体の中心で気まぐれに爆ぜていく。

 頭も胴体もかき乱され、まるで体中の臓器が溶けてしまったのではないかと思わせるほど熱く、苦しい嘔吐感に見舞われる成実。目もぐるぐると回り、視界が安定しないこともまた嘔吐感を助長させているのだろう。焦点が合わないという問題ではない、視界が固定できないのだ。

 蓄積されたダメージなどどうでもよくなってしまうほど、成実は精神的に苦しめられていた。

 好機、そう感じた慶はボロボロの身体で再び回転エネルギーを呼吸によって練り出していく。後一撃、打ち込むことができればこちらの勝ちだと見切った慶は成実に突撃した。左肩に溜め込んだ捻じ込むような回転を、成実の胸部に再び押し当てようとした。

 

 

 ――――回避の、必要、なし。

 

 

 その瞬間、成実はぐるりと瞬時に身を翻し、慶の右肩を自身の背中に充てさせ回転エネルギーを打ち込ませた。

 

 

「しまっ――――」

 

 

 その状況下、慶は絶望的な表情を浮かべた。誰しもが慶の勝ちを確信したその光景の中、勝者のようにふるまい始めたのは――――攻撃を食らって無様にも吐き気に苛まれていた成実だった。

 成実は今までの嘔吐しかけの行動はまるで演技だったかのように思わせる程軽やかに慶と向き合う様に振り返り、全てをやり切ったスポーツマンのよう爽やかな表情をその顔に張り付けていた。

 

 

「焦ったね?」

 

 

 成実は後退していく慶に対し、年上の威厳を見せるように苦言を呈した。

 

 

「右回転ばかり捻じ込んだらダメだと、お師さんが言っていなかったかい?」

「く、う……!」

「ヘッドバッドと追撃の初雪、どっちも右回転で確かに増長する。けど、正面から打ち込んだ右回転に対して背後から右回転のエネルギーを打ち込んだ場合、それが綺麗に衝突しちゃったら相殺されちゃうじゃないか。初歩中の初歩だったはずだ」

「はっ……あぅ……」

「あそこでのベストは、捻方喰か逆回転の初雪だろうね。真正面にぶつかることがなければ、不規則性の回転を生み出す。今回の敗因は、慶君の精神(メンタル)だ。まったく、君は昔から――――」

 

 

 慶にだけ聞こえるように、成実は掠れるほどか細い声でそう言い放った。慶はその講釈に対し、激しい“何か”を覚えた。

 

 

 

 

 

「言うな――――」

 

 

 

 

 

 慶の殺気が、黒い感情が、暴発した。

 成実の指摘したその弱所は、この学園に入学してからまだ誰にも話していないこと。ほんの僅かでも聞かれてしまえば、慶の考えていた学園生活は根本から崩壊してしまう。慶はそれを隠し通すことで、普通の友人たちを作っていた。

 しかし、目の前の旧知の男はそれを言い放った。慶が一点だけ感情的になるのも道理であった。

 ところが、成実本人には何の悪気も意図もなかった。ただ、焦燥感に駆られてしまったところを改めればいいと言いたかっただけだった。それなのに、慶はそれを深読みしてしまったのだ。

 成実の発言は偶発的に慶の感情を抉りだした。怨みと言う黒く重い感情を、掘り返してしまった。

 

 

「――――」

 

 

 疲労困憊の身体を突き動かし、感覚が遮断された右腕を稼働させる慶の黒い感情に、成実は思わず恐怖を覚えた。

 

 

 

 

 

 ――――勘違いって、恐ろしい。

 

 

 

 

 

 その恐怖はどこか見当違いな恐怖心であった。勘違いと言うこの現象が起きた原因に恐怖を覚え、目の前の獣に何の恐怖も抱いていない。

 その自身は、慶が感情的になってしまったことにある。

 

 

「そうなっちゃえば、慶君は弱くなっちゃうからなぁ」

 

 

 その言葉を引き金に、慶は鉄砲玉のように飛び出して成実に襲いかかった。その特殊な本能の獣に対する成実の対処は実に簡潔だった。

 成実は素早く腰のベルトを外し、慶に向けて投げつけた。慶はそれを乱暴に右腕で弾く。

 

 

 

 

 

 その直後に慶が目にしたのは、真っ赤なブーメランパンツ一丁で猿のように飛び掛かる成実の姿だった。

 

 

 

 

 

 成実は慶に抱き着き、両腕と両足で互いの体を密着させたまま固定し、ニヤリと笑う。

 

 

「手脚纏闘・蔓丸!」

 

 

 ボボボボンッ!! と成実の身体から生じた爆発が慶の全身を暴力的に襲った。

 

 

「がっ――――」

 

 

 全身に襲いかかった内部破壊に、慶の意識は途絶えてしまった。絶叫も上げられず、吐瀉物を吐き散らすこともなく、慶はふっと気を失ってしまった。

 

 

「いやぁ、危なかった!」

 

 

 清々しく汗を拭く成実のブーメランパンツは、汗を弾いて陽光をキラキラと反射させていた。

 

 

 





 わたしたちには今日も明日も困難が待ち受けているが、それでもわたしには夢がある。

 キング牧師

 ――――――

 いつまでも宣伝文句を書いているようでは駄目だと開けたので、いつも通りにしていこうと思います。
 こちら、よくお祝いの文章などで使われるそうですね。キング牧師のお言葉なので、お祝いの場以外でも耳にしたことがある方は多いように思われますが……。

 ヒャッホー!! スリーサイズ公開だぁ!!

 失礼いたしました。それでは気を取り直して、真剣(まじ)でナイススタイルコンテスト、MNSコンテストの延長戦の始まりです。今回からあとがきだけ英数字は半角で。
 公開順から言ってじっくりねっぷりたっぷりとろり、シェイラ・コロンボちゃんのスタイルを見ていきましょう。

 シェイラ・コロンボ
 163cm B85 W53 H84

 うーん、実に引き締まった肉体ですね、と世辞でも言いたくないくらいにはウェストが細すぎます。どれくらい細いかを、折角なので同じ身長の三人と比べてみましょう。

 南條・M・虎子 56
 李初静     58
 クリス     58

 うひゃあ、これは細いですね。というか作中ナンバー2のウェストの細さ(第1位は不死川さんの52)、という時点で如何に異常か分かっていただけたかと……。
 さあ、そのウェストの細さも相まってか、推定バストカップは堂々たるF。アイドルってすごいです。

 まあ、結果は作中最下位です本当にありがとうございました。

 バストとウェストの比率、これで過去最低評価を出したのが痛かったですね。(バスト)÷(ウェスト)≒1.37であるのが究極だと言われています。今までの審査では、そこから大体誤差は1.5~2.0cm以内に抑えている結果だったのですが、シェイラちゃんの値は1.60!
 たまげたなぁ、というやつであります。
 あ、そういえばシェイラちゃんといえば因縁のステ公との対決がありましたね。


 シェイラちゃんは五項目の内四項目(お尻は美しかった)負けているので、どうぞお帰りください。


ステイシー「いやまあ、私もそんなにいい評価じゃないけどよ」(17/25点)
シェイラ「ナイフで抉られなきゃ勝ってたに決まってる!!」(10/25点)


 予告、母よりすぐれた娘なぞ存在しねぇ!!


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第六帖 春霞たつあか月を見るからに――――

――――心そそらになりぬへらなる


作者不詳


 

 

 川神学園校舎の屋上、ベンチの上で膝抱え、顔を伏せたまま動かぬ一人の少女がいた。ただ暖かな陽気に当てられ睡魔に襲われているだけかもしれないが、少女の纏う空気はそのような温和なものではない。

 少女はピクリとも動かない。ずぶずぶと沈んでいくような感覚に身を委ね、溶けて消えいってしまうことを望んでいるかのようだ。生気も覇気もなく、ただただ自ら世界から隔絶する。

 校舎の下は騒がしい。校庭がその喧騒の中心、そこから渦となって学園全体を揺るがしていた。

 ある者は絶叫し、ある者は乱舞し、ある者は動揺していた。てんやわんやと言った具合に学園は混乱に巻き込まれていく。

 誰かが少女の名を呼んだ。喉を酷使し掠れた大きな声で叫んだ。

 誰かが少女の名を呼んだ。迷子の赤ん坊を探すように叫んだ。

 誰かが少女の名を呼んだ。一人ぼっちになってしまった孤独を振り払うように叫んだ。

 少女はそれらから乖離する。自ら望んでその声を遮断する。我関せずと言った具合に無反応を決め込んでいた。少女はピクリとも動かない。

 喧騒が時間経過とともに膨れ上がり、刺々しく痛々しい凶器へと変貌する。毀誉褒貶の竜巻は少女の身を切り裂く。そうはさせじと少女は殻を強くする。

 ギリギリと力のこもる両腕に、膝がギチギチと悲鳴をあげていく。

 放っておいてくれ、構わないでくれ、探しに来ないでくれ、そう言わんばかりに少女は自分を堅くする。気配を極限まで小さくし、雷様に怯える臆病な童のように、襲い来る恐怖を堅忍不抜の精神で耐え抜いていく。

 

 

「見つけたよ」

 

 

 少女の背後から、優しい声がかけられる。暖かく、優しく、心が安らぐ甘美な囁き。少女はこれに似た声を知っている。頭を撫でられながらよく褒められた、自分の敬愛する人物の声。

 

 

「……成実、さん……」

「顔は上げなくてもいいよ」

 

 

 必死に取り繕うとしていたことが筒抜けだったのか、少女は上げようとした顔を再び膝に沈ませた。

 少女の背後から聞こえる宥めるような声は、少女の殻ごとをゆっくりと包み込む。

 

 

「みんな探しているよ」

「知ってます」

「みんな待っているよ」

「知ってます」

「それなのに、動こうとしないね」

「……今更、ですよ」

 

 

 少女は自身を探している者たちに背を向ける。

 

 

「私は、逃げたんだ」

 

 

 少女が屋上に来る数分前、校庭で隻腕の戦士と露出狂執事の激闘が繰り広げられていた。一人は残された右腕が無残な姿になるまで、もう一人は下着以外の衣服をすべて脱ぎ捨てるまで戦った。互いが本気をぶつけ合った、訓練の範疇を超えた決闘だった。

 片や少女が見つけた好敵手となり得る可能性のあった選手権、片や少女が心身共に尊敬する兄貴分。その二人が互いに本気を出し、訓練を決闘にまで押し上げていた。

 ずぶずぶと、少女の視界の端が黒く滲んだ。

 半紙にこぼした墨汁が染み渡るように、少女の右目が黒く黒く滲み沈んでいく。少女の頭は混乱に支配され、なかった。

 少女の脳を埋め尽くしていたのは、無意識に生産された黒く汚い感情。

 気が付けば、少女の司会は暗黒に塗り潰されていた。

 それに耐えきれなくなり、少女は頭を押さえ吐き気を抑え、傍観席から姿を消してしまった。待ちに待った成実との組手を目の前にして、少女は脱兎した。

 噂好きの生徒は武神の敵前逃亡と叫び誇張する。学園中が授業も何もかもを放り出し、狂喜乱舞した。武神の初の敗北だと、学園中が混乱の渦に巻き込まれた。

 そして、その渦中の人物たる少女は見つかってしまった。

 

 

「何で逃げちゃったのかな」

「……」

「無理をして答えなくてもいいよ」

 

 

 顔を上げなくていい、見せなくていい、こちらを見なくてもいい。譲歩に譲歩を重ねた、あくまでも少女を配慮した物言い。

 

 

「――――分かってるんですよ。何で逃げたかなんて」

 

 

 その温和な空気に、少女の殻が割れずに解け始める。殻自体が薄く薄く、厚みを失い外界との壁を消し始めている。

 くぐもった声のまま、少女は言葉を紡ぐ。

 

 

「成実さんは、私を満足させてくれた最高の武人でした」

 

 

 少女は幼い頃、戦闘意欲に駆られやすい不安定な精神状態だった自分を支えてくれていた兄貴分の姿を思い出していた。

 出会って直ぐに強者だと分かり襲いかかり、当時まだ未熟だったために生じていた隙や油断を突かれて膝をついてしまった、苦い敗北の味。負けなしだった彼女の戦績に付いた、初めての黒星。純白だった彼女の道に付けられた穢れの色。

 初めて泣いた、初めて悔しがった、初めて地を見つめた。

 少女の過去を振り返れば、どこから見ても必ず目につく敗戦だ。

 

 

「辛酸を嘗めさせられた、ってのはあのことを言うんでしょうね」

 

 

 黒星、というのは少女の一生に着いて回る。それがたったの一つであればなおのことだろう。師と仰いできた自身の祖父とのまともな対決もなかったこともあり、真剣な勝負で敗北を味わったのは初めてだった。

 それを経験したことにより、少女の修行に対する姿勢が強固になった。固より真面目にこなしていた修行に対する心意気が、熱くなったのだ。師範代になり壮大を継ぐ、といった未来の話ではなく、現時点における明確な目的が見つかったと言えば分かりやすいだろう。

 リベンジマッチ。再戦を挑まれる側から挑む側へ移り、再戦を願いひたむきな姿勢を取り戻した人間は、強い。

 

 

「熱が入りましたよ、あれからの修行は」

 

 

 我ながらビックリです、と苦笑する。

 

 

「それなのに、川神からいなくなっちゃって、ずるいです」

 

 

 再戦を願った相手は、川神どころか日本を飛び、世界中を駆け巡っていた。大企業の従者部隊に所属したため、各地へ引きずり回されることとなっていたのだ。少女もよく知る際企業が誇る最強の従者が新しい玩具を見つけた子供の様に、少女の思い人は振り回されていたのだ。

 固より件の人物は見聞を広げることを望んでいた、望まれていたこともあり、喜んでボロ雑巾のようになっていた。そして帰ってきたのは、ある人物の従者となることが決まったからだというが、それをまだ少女は知らない。

 

 

「それでようやく、新しいライバルになってくれそうな人を見つけた」

 

 

 少女は記憶を進める。

 桜の花びらが散る学園内での運命的な邂逅。芯の通っていない片袖を春風に靡かせ、見る者を圧倒し震わせる美しさを備えた武人との出逢い。

 

 

「見惚れてしまいましたよ、恥ずかしながら」

 

 

 立ち振る舞いから所作に至るまで、彼の人の全てが美しいと思ってしまった。儚げな表情、おぼろげな輪郭、とても同い年とは思えないような雰囲気を纏った彼の人は、まるで絵画の世界からポンッ、と飛び出してきたかのような異常性を孕んでいた。

 思わず手を出してしまったところから、少女と彼の人の歯車は回り始めた。

 

 

「アイツの話を聞いてると、ワクワクしていた自分がいたんです」

 

 

 ギュッ、と少女の腕に更なる力がこもった。

 

 

「川神院に来て、師範代たちの立会いの下で決闘してくれるって、約束までした」

 

 

 華月の了承もしっかり得ました、震える声を絞り出した。

 

 

「それで今更帰って来た成実さんに目移りした、バチが当たったんですかね」

 

 

 少女は殻の奥深くに再び籠り始めた。

 

 

「…………逃げ出しました。あそこにいたら、どうなるか分からなかったから!」

 

 

 顔は決してあげないままに、少女は声を張り上げた。声は震えたままだが、その震えは大きな震動となって周囲の空気を揺らす。

 

 

「ソラと成実さんが戦っている姿を見て、私は気が狂いそうだった……!」

 

 

 膝を抱えていた両手で顔を覆い隠し、嘆く少女。

 

 

「“なんであそこにいるのが私じゃないんだ”って思った。すぐにでも自分の手番が回ってくるのが分かっていたのに、訳が分からなくなった。待ちきれなかったとか、そんなちゃちな話じゃない。今にでも殴りかかりそうだった!」

 

 

 遂には両手で頭を抱えてしまった少女。自分が一体どうなってしまったのか、全てが未経験のことで困惑しているのだろう。

 

 

「誰に殴りかかるかも分からなかった! 師範代だったかもしれない、ソラだったかもしれない、成実さんだったかもしれない、全く関係のない梓や華月だったかも――――」

 

 

 遂には体までも振るわせ始めた少女の頭を、ポンと声の主が叩いた。

 その温かみと軽い衝撃だけで、少女の震えが僅かに収まった。震えを押さえられていると言うわけではないのに、触れられているだけで何故か安堵してしまう。

 

 

 慰めてくれている、そう思っていた。

 

 

「…………二つ、聞かせてほしい」

 

 

 声の主が少女の頭をワシワシと撫でながら問いかける。

 

 

 

 

 

「一つ。そのドス黒い感情が一体何か、分かるか?」

 

 

 

 

 

 がしっ、と頭を掴まれたような錯覚が少女を襲った。声の主の手は一切動いていなかった。それなのに、頭に襲い来る圧迫感、心臓を締め付けるような閉塞感、極限まで圧縮されてしまいそうな息苦しさが少女に襲い来る。

 呼吸ができない、顔も上げられない、金縛りのような感覚と呼吸困難の併発。少女の身体が正しい機能を果たせなくなっていく。

 

 

「これは答えてほしい。分かるかどうかでいい」

 

 

 声の主の優しさの裏から、氷のように冷たい刃がずるりと這い出る。隠れていた凄烈な言及が鎌首もたげ、欲望と言う名の蛇となり少女の身体を束縛する。

 

 

「分かる、と言っていなかったかな? 確認にすぎないのだが」

 

 

 答えようとしても答えられない。答えたらそこで何かが終わってしまうような気がしてしまったから。

 

 

「二つ。どっちにその感情が向けられたのか、分かるか?」

 

 

 殻の内側から、少女の身体が傷つけられていく。どこから湧き出たか分からない百足のような言葉の主の言及の権化が、少女の身体を引き裂き、縛り、食い破る。

 少女の殻の中は少女自身の体液で満たされていく。束縛、耽溺、放濫、裁断、おおよそ生身に襲いかかっては人格すら崩壊しかねない麻薬のような痛覚だけが、少女の心身を蝕んでいく。

 

 

「はい、か、いいえだよ」

 

 

 少女の苦しみを理解しているはずの声の主は、その冷たい言葉による取り調べは終わらない。幻のような痛覚に苛まれ委縮してしまった少女に強要される返答。冷酷無比で用語の使用もない、性質の悪い虐めに過ぎない。

 少女の答えは、口から発せられない。

 

 

「“What(どれ)”や“Which(どっち)”では聞いていない。“Do(どうか)”と問いただしているよ?」

 

 

 答えは分かっている。しかし、答えられない。

 何かが終わってしまうような錯覚、それは間違いなくこの質問の主からの威圧、そう考えていた。

 

 

「こちらからは何もしていないよ。君が感じているそれら全ては、強者に振りかかる試練が体現化された怪物(きみ)に過ぎない」

 

 

 少女の思い込みを全て理解したように、君が育てたものだ、と声の主は語る。

 

 

「それら全てを受け入れることで、君はまた一つ強くなれるんだ」

「え――――」

「壁を越えたことは素晴らしい。けど、それだけじゃ高みには登れない。壁を壊し超えるんじゃない、飛び越えるんだ」

「な、に――――」

 

 

 何を言っているんだ、そう問い質そうとしても少女の心がそれを許さない。声の主の言う通りであれば、少女の心の中から這い出た怪物に抑制されてしまっている。

 

 

「分からないのならば、ヒントを提示しよう」

 

 

 声の主はぐっ、と少女の頭を強く押し込んだ。

 

 

「君がようやく気付いたそれはね、緑の目をした怪物なんだ。君の心を嬲りものにしてしまう、それはそれは恐ろしい怪物だ。それを手名づけてようやく、君は一つ目の質問を乗り越えられる」

 

 

 かいぐりかいぐり、少女の頭が遂に両手で弄られ始める。少女はされるがまま、怪物に犯されつつその言葉に耳を傾けるしかなかった。

 

 

「そして、君は痛感するだろう。他人の持つ花は得てして大輪に見えるということをね」

 

 

 最後に一つ、そう付け足して、

 

 

 

 

 

 

 

「さて、ここまで君を慰め苛めてきたぼくは一体誰でしょう」

 

 

 

 

 

 

 

 少女の頭から重みが消えた。少女は咄嗟に顔を上げる。

 そこには少女以外は誰もいない。

 

 

 残されたのは、少女から生まれた緑眼の怪物だけだった。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

「進展はどうだい?」

「それが、学園中探したはずなんですが、手掛かりすら……」

 

 

 てんやわんやの騒ぎとなってしまっている川神学園内部、川神百代の捜索にあたっていた慶と成実が途中の捜査報告をしていた。

 慶と成実の組手が終わった瞬間、何も言わず霧のように消えてしまった百代を探すべく成実は駆け出し、気絶していた慶、梓、華月、虎子の四人と、傍観していた弓子を加えた六人が学園中を駆け回っていた。

 時には授業中の教室に入り込んで掃除用具入れを開けたり、時にはさまざまな部活の更衣室に忍び込んだり、ありとあらゆるところまで捜索の手を伸ばしていた。

 学長からの許可は取ってあるものの、彼らの捜索はどこかぎこちない。遠慮や気恥ずかしさがあるのだろう。

 

 ――――そこまで心配することではない。ひょっこり戻ってくるじゃろうて。

 

 帰ってきたら仕置きじゃがのう、と楽観視していた学長は動こうとしなかった。学長だけでなく、今動いている六人以外は誰も捜索に精を出していない。

 武神のことだから問題はないだろうと、やはりどこか百代を別世界の人間と捉えている生徒が多すぎるのだ。

 

 

「それにしても薄情なもんだ。そういうことしてるから、百代ちゃんは寂しい思いをしているって言うのに」

「信頼しているんですよ、きっと」

「それでも、褒められたもんじゃないね。もっとも、学長が探さなくてもいいと言ってるのもあるか」

 

 

 僕なら注意されていても探しに言っちゃうけどね、そうおどけて見せる成実だが、その内心は穏やかではないだろう。額から滲む汗が彼の焦燥を示している。

 

 

「それにしても、どうしたんでしょうね……」

「うん、心配だね。急にいなくなっちゃうんだから」

「成実さん、心当たりはありますか?」

「こっちが聞きたいよ。こちとら百代ちゃんにあったのも久方ぶりだよ?」

 

 

 慶の疑問に対する答えは持ち合わせていないと言わんばかりに両手を挙げた成実。情報があまりにも不足している、それほど突然で不可解な失踪なのだ。

 

 

「そういう慶くんこそ、同じ学園生だよね? ここ最近は何もなかった?」

「私の方も特に何もありませんよ。ようやくあだ名で呼んでもらえるようになったと言う程度で変化はそれほど――――」

「ほう、あだ名」

 

 

 ギラリ、と成実の瞳が獲物を見つけた猛獣のそれのように光った。

 しまったと思い口を右手で塞ぐも時すでに遅し、成実の好奇心の矛先は慶と百代の関係性について向けられた。

 

 

「ニックネームってやつだね。どんなのなんだい?」

「……そ、ソラといいます」

「いやはや、ソラくんかぁ、ふむふむ……。いいんじゃない?」

「何をにやけているんですか、気持ちの悪い」

「ごめんよ。あだ名、なんて言葉自体が意外だったし、嬉し恥ずかしニックネームを赤裸々に語ってくれると思ってさ」

 

 

 ――――何故あだ名程度のことを赤裸々に語らねばならないんだ……?

 

 

「成実さんのところの華月の命令ですからね、このあだ名も」

「あはははは、妹分が迷惑をかけているようだね」

「楽しくやらせてもらってますのでご心配なく」

「そう言ってもらえると兄貴分としては何よりかな。いやぁ、うん、ははははは……」

 

 

 そこで慶がようやく成実の奇妙な態度に気づいた。何かをごまかす様に話題を無理やり変えているような違和感が、成実の作られた笑顔から滲みだしていた。

 

 

「どうかしたんですか?」

「う、うん? ああ、その、ね……」

 

 

 それを追求された成実は言葉を詰まらせてしまう。余程言いにくいことなのだろうか、言葉を選んでいると言うよりは、言うべきかを迷っているようだった。

 十数秒の間成実は唸る様に頭を捻らせ、慶の姿を見つめて覚悟を決める。

 

 

「慶君になら言っても大丈夫かな、口は堅そうだし」

「自慢じゃありませんが、自分のこと以外はそうそう洩らしませんよ?」

「誠実を絵に描いたような優等生だもんね、ご近所じゃ」

 

 

 余計なことは言わなくてもいいです、と呟いた慶は不愉快そうな表情を浮かべていた。

 

 

「…………ちょっとカッコ悪いこと言わせてもらうけど、今回の決闘、不戦勝でよかったと思ってるんだ」

 

 

 そして成実もまた、隠してきた感情を赤裸々に告白する。慶とは程度が違う、己の自尊心全てを擲っているような発言に、慶も思わず驚愕を顕にする。

 

 

 

「……今、なんと?」

「百代ちゃんが逃げてくれて助かったってことだよ」

 

 

 もう一度言おうか? と成実はおどけて見せる。一切表情を崩さず言ってのけた成実に対し、数瞬遅れて慶は成実の行動に恐怖を知覚した。

 慶の知る成実と言う人物は、それこそ誠実を絵に描いたような人物だった。口にするだけの正義よりも行う偽善、それを素でやってのける性善説の体現ともいえるべき人間が、戦わずして勝利したことを悔しがらず残念にも思わず、喜んでいたのだ。

 成実と言う人物像がガラガラと崩れていく。

 

 

「百代ちゃんはさ、俺のことを過大評価してるんだ。俺はこんなにも弱いのにね」

 

 

 戦った慶くんならわかるだろう? 成実は慶にそう問いかけた。

 

 

 ――――確かに、百代さん以上とは言い難い。

 

 

 慶は成実との決闘を振り返る。確かに一般人とはかけ離れた矛盾の武術、手脚纏闘を扱う成実は十分に壁越えと評価されることだろう。九鬼従者部隊の戦闘指南役、従者部隊零番の玩具と成り得る程度には異常人だ。

 しかし、川神百代は明らかに別格だ。それこそ、現段階で彼女は部の頂に差し掛かっている。実の祖父であり師である川神鉄心や、先述した従者部隊零番のヒューム・ヘルシングに追いつく勢いだ。そこに割り込める若者を慶は知らない。そこには成実すら至れない。

 だからこそ、武神に対する勝利と言う箔が付いたことに喜んでいるのだと、成実を批判的に判断していた。

 

 

「もう少し成熟した頃に俺を倒してもらわないと、精神が不安定になっちゃうだろうからね」

「……え?」

 

 

 その判断が誤りだと気付くのは、成実の真の赤裸々な告白を聞いてからだった。

 

 

「この時点で負けちゃったら、彼女には好敵手がいなくなる。由々しき問題だよ、狂戦士になりかねない。俺は多分これ以上は奇跡でも起きない限り強くなれそうにないし、好敵手として返り咲くのは不可能だ」

「……そんな、謙遜は」

「謙遜じゃないんだ、これがね。ヒュームさんにも言われたもんさ。自分でもよく分かってる」

 

 

 自身の弱さを語るのはこれが初めてなのか、清々しい顔で慶に悩みを打ち明ける成実。とても年上の兄貴分とは思えないような、弱弱しい発言だ。

 必死に体裁を取り繕うように誠実ぶっていたのはどれほど窮屈だっただろう。今まで必死に打ち立てて来たもの全てを否定する存在に、何度心が折れたことだろう。自覚はせずとも、体は苦痛だったはずだ。そう生きるべきだと心が思っていても、体は着いてこなかったことだろう。

 その事実が、初めて明るみに出た。

 

 

「百代ちゃんの精神安定役、なんて学長に言われた瞬間に決意したよ。いつか惨く負けなきゃいけないって」

 

 

 こんな弱い俺には荷が重かったけどね、と苦笑する。

 

 

「けど、負けるにはまだ早いんだ。今負けたら間違いなく、百代ちゃんは不安定になっちゃう」

「そんなに、責務を背負う必要はあるんですか?」

「あるよ。そうしたいし、そうしなきゃいけない」

 

 

 文句の一つも言わずに受け入れている成実に疑問を持った慶だったが、その疑問は一切解消されない。

 慶の理解の及ばない聖人君子のような考えを、成実は素で行うからだ。

 

 

「それで、いいんですか?」

「うん。あの子がまともな道を歩んでいけるなら、僕は喜んで犠牲になるさ」

 

 

 ――――死んでしまうかもしれない。

 

 

 そう口に出すことなく言葉を飲み込んだ慶だったが、それを感じ取った成実は爽やかな笑顔を浮かべる。

 

 

「僕は人のために死ぬために生まれてきたんだからね」

 

 

 成実は臆せず、誇らしくそう語った。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

「飛翔はせず。そう簡単にはいかないものだね」

「飛翔? (ぼく)はあっちで何をしているんだい?」

 

「くだらないことだよ、ほんのちょっとしたお遊びさ」

「お遊びなのか、ふむ、興味があるね。一体何かな?」

 

「興味を持つようなことじゃあない。槿(わたし)なら尚のことさ」

「どういうことかな。わたしなら尚のこと、というのは」

 

槿(わたし)は人間というものが心底嫌いだろう?」

「勿論、(ぼく)と違ってね。人間は大嫌いだよ」

 

「なんだ、昔のことをまだ気にしているのかい? もう千年近く経つと言うのに」

「気にしているなんてもんじゃあない、千年経ったところで収まるはずがないよ」

 

「嫌気がさしたまま、か」

「嫌気しか存在しないさ」

 

「いいところもあると思うのだけれど? 人間は欲望に忠実で」

「そんな考えは持てない。欲望に忠実なのが理想だと言うなよ」

 

「悪いね、千年前からこんな考えで」

「本当に、気味の悪い考えばかりだ」

 

 

 

 

「「そんな考えのせいで(あかし)は千年前、置いて行かれたんだ」」

 

 

 

 

「おいおい待ってくれ、ぼくが悪いみたいな言い振りはよしてくれ」

「いやいやそっちこそ、何故わたしが一番悪いとされているんだ?」

 

「よし、じゃあ弔いを兼ねて、この件に関してどちらが悪いか決めようじゃないか」

「上等だね。今日という今日は、この不毛な引き分け合戦に終止符を打ってやろう」

 

 

 





 それは緑色の目をした怪物で、ひとの心をなぶりものにして、餌食にするのです。

 シェイクスピア

 ―――――

 大変長らくお待たせいたしました。二か月近くの遅延をお許しください。
 二か月も空いてしまったこともあり、書き方や書きたかったことがポッカリと消えてしまっていたので、必死にプロットを拙い記憶を手繰り寄せ書き起こし、何とか投稿まで至った次第であります。
 百代が逃げ出した、という要約ができます今回ですが、別に百代アンチという訳ではありません。どちらかと言うと百代推しな作品にしたいと思っております。それなのにこの仕打ち、決して百代批判ではないので、悪しからず。

 MNSコンテスト延長二回。今回はボディーガード職に就くビジネスレディー、松永ミサゴさんです。

 松永ミサゴ
 B82 W57 H81

 ……どこかで見たことあるスリーサイズだな、という第一印象でした。そんな、スリーサイズに既視感が覚えるほどこんな変態的なことを繰り返してきたわけではないのですけどね。せいぜい200人くらいしか調べていないので。
 きっと見間違えでしょう。よくあるウェストです。56~58はメインヒロインの風格漂うサイズなのでデジャブなどではありませんよ。

 葉桜清楚
 B82 W57 H81
 楊志
 B82 W57 H81

 既視感以外の何物でもなかったです。それも二人もいるなら納得の既視感。
 なるほど、だからあまりはしゃげなかった訳ですな。真新しさを感じなかったので……。あ、辻堂さん一派のような化け物スタイルは帰ってください。
 総評はBBBSBの17点でBでした。うむむ、何とも言えない、当たり障りのない体型……。
 ああ、なるほど。この世界における普遍的体型を作り出すことで強さを隠し相手の油断を誘う、こす狡いぞボディーガード、汚い流石松永汚い(褒め言葉)。

 松永燕
 B83 W56 H85
CCBCC 11/25点

 それでもきっちり娘には勝っているので、流石と言わざるを得ないですね。

 燕(私のほうがおっぱい大きいもん)
 ミサゴ「聞こえてるわよ?」

 報告、延長戦終了。


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