消えていく程度の話 (ほりぃー)
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消えていく程度の話

まだ、博麗大結界の作られる少し前。天狗の少女が一人の武士と出会った程度の話


注意

※オリキャラは一人もいません。戦闘もありません。方便は注意。一話完結です。
※いろいろと独自の解釈が入っています。寛大な目で見ていただければ幸いです。
※明確に時代を設定していますが説明していません。歴史上の人物が出てきます。


 射命丸文は雨を見ていた。

 

 見上げた空は厚い雲がかかり、降りしきる雨粒は大きい。地面を叩く音が耳に響くほどだ。人間は雨を涙に例えることがあるが、そう表現するには大泣きといっていいだろう。彼女はそうやってどうでもいいことを考えている。

 文がいるのはとある商家の軒下である。別に知り合いでもなんでもない、単に雨が降ってきたから雨宿りをしているのだ。手には赤い和傘を折りたたんで持っているが、これだけ雨足が強いと傘が傷んでしまう。

 

 着ているのは黒の着物。飾り気のないそれは白い帯が巻かれている。

 髪はしっとりと濡れているかのように艶やかである。それでも女性には珍しく肩までしかない。白い肌は透き通るようで、ただ空を見上げているだけなのに麗しい。

 射命丸がいるのは千年王城と言われる人間の都である。遠い神代の時代から続く血縁を中心に続く、時代の中心地であった。ただ、鴉天狗たる文がここに来たのは単なる気まぐれに過ぎない。

 

 文が見回すと防火用に黒い壁をした商家の軒が連なっている。都は火事に厳しい。

 彼女の前にある通りには人がまばらである。都の中心に近い商家の立ち並ぶ通りとはいえ、この強い雨では外に出ることはあまりしないだろう。道はぬかるんでいる上に今の都で目立った行動はできないからだ。このような人の出歩かない日に外にいれば「志士」として斬られるかもしれない。

 

「失敗しましたかね……はたてになにか変な物を買って行ってあげようと思ったのですが」

 

 雨はやまない。これでは飛んで帰ることもできないだろう。朝は晴れていたはずなのにと文は空を恨めしく見つめている。それに自分の気まぐれも恨めしい。

 

 そう思いながら文はただ立っている。やることがない、それはとても退屈なことなのだ。だから何かないかと彼女は通りを見回す。期待など、していない。

 遠くからやってくるのは一人の武士だった。地味な色をした着物を羽織、腰には大小(刀のこと) を付けている。どことなく早足で雨にぬかるんだ地面を急いでいる。顔は笠を付けているのでわからない。

 武士など珍しくもない。文は普段なら気にも留めないが今日はこの雨の通りに二人しかいない。武士は急ぎ足で文のいる方向に向かってくる。彼女は商家の壁に背を預けたまま、それを眺めている。武士は近づいてくる。

 

 彼は文の横にきて軒下に入った。文は雨宿りにきたのだろうとくらいにしか思っていない。だが、武士はそのまま文の眼の前に立って。

 

 彼女を抱き寄せた。

 

「!?」

 

 圧迫感を感じる。文の手から和傘が落ちて、地面に落ちた。細い体を抱き寄せる力は強い、腕が太いことが分かる。文は眼を見開いて、柄にもなく混乱してしまった。全く想定していなかったが、そもそも想定している方がおかしい。

 それでも文は武士の顔を見る。くりっとした彼女の瞳が動いた。人間の都で騒ぎを起こす訳にはいかないが、人を一人「殺す」程度はうまくやれる。文の小さな手に力がこもる。

 

 武士、いや目の前の男は文を見ていなかった。文が見上げた「彼」は目線を通りに向けている。眉は太く、精悍な顔つきをした人間だった。文も思わず彼の見ている方向を見る。

 歩いてくるのは数人の男達だった。青と白の「だんだら」の羽織をつけ、下に着こんでいるのは鎖帷子だろう。そして腰には全員が刀を帯びている。先頭の男は総髪、長身で鷹のような鋭い目をしている。傍には少年の様に柔和な目をした男がいる。対照的だった。

 

 文の眼が自分を抱いている男を見る。

 

(ああ、この男は)

 

 歩いてくる集団は都で壬生浪(みぶろ) と恐れられている剣客達である。そして文を抱き寄せた男は彼らの敵である「志士」なのだろう。おそらく文は一つの芝居に巻き込まれたのである。あいびきとでも間違えてほしいのだろう。

 だんだらをなびかせながら男達は歩いていく。抱き合っている男女をちらりと見て「破廉恥な」と吐き捨てる者もいた。文を抱き寄せた男が、冷たい表情をしているとは気が付かない。

 

 だが、先頭を行く総髪の男が文達を怪しんだ。そして横の柔和な目をした男に言う。見てこいというのだろう。

 

「総司」

「はいはい」

 

 軽く返しながら「総司」と言われた男が文達に近づいてくる。それで集団も止まっている。それぞれが目くばせをしながら、刀の鯉口を切る音がする。確信的に疑っているのではないが、いつでも斬り込めるように訓練されているのだろう。

 

 雨は降り続いている。

 

「ちょっとちょっと。お姉さん、お兄さん。こんな往来でいけませんよ」

 

 「総司」は笑みを浮かべながら近づいてくる。左手は刀に添えているのは自然な動作なのだろう。文は戦慄するわけでもなく、ちらりと目の前の男を見る。怯えの色が全くない。静かな目だった。直ぐにでも死に向かえるような、不思議な表情をしている。

 

「あやや! これはすみません。この人はどこでも、こんな」

 

 文は男の腹を殴る。男はいきなりのことに驚いて、文を離した。それなりに強く殴ったが歯を食いしばって耐えている。まさか女子にここまで力があるとは思っていなかっただろう。腹を抑えているがうずくまりはしない、意地だろう。

 だが、明らかに文は男をかばっている。

 

「いきなりこんなことをするんで、本当に困ったものです」

 

 総司はきょとんとして、それからくすくすと少年のような笑みを浮かべる。

 

「やだなぁ。最近の女性は強いや。ともかく早く帰らないといけませんよ」

「はい、どうも有難うございます。お侍さん」

 

 もう一度にっこりとして総司は集団に帰っていく。だが一瞬だけ、ちらりと振り返った眼光は冷えたものだった。それに文はにこりと返したから、流石に総司も毒気を抜かれたらしい。にこりと返す。

 

 男達は去っていく。雨の音だけを残して。

 文はふうと息を吐いて、目の前でお腹を押さえている男を見た。脂汗を流しているがうめき声ひとつ洩らさなかったことには感心した。もう少し強く殴ればよかったかもしれない。

 

「大丈夫ですか?」

 

 文は聞く。男は眼を瞬かせてから彼女を見た。

 

「助けてもらい。面目ない」

 

 彼は背筋を伸ばして、お辞儀する。そして「いそいじょるきに。御免」と訛った言葉を捨てて、歩き去ろうとした。その彼の羽織を文は掴んだ。男は振り返る。

 

「ふふ。ただでどこかに行こうなんてむしが良すぎますよ?」

 

 男に向けて文は笑みを浮かべる。美しいのだが、どことなく黒さを感じさせるものだった。

 

 

 ★☆★

 

「ぷはー」

 

 文は盃になみなみ注いだ清酒を飲み干して、かつんと置いた。人間の酒は時代を経るごとに味がよくなっている気がする。

 彼女と男は近くの料亭に来ていた。二階建てになっており、男は窓のある個室をとった。畳は二畳敷の狭い場所であるが、通りに面していて往来を眺めながら食事のできる場所である。

 文は窓の外で降り続ける雨を見ながら思う。部屋の中は暗い。ガス灯が出てくるのも電気が出てくるのも、数十年は必要なのだ。

 

(まあ、それだけじゃないでしょうけどね)

 

 男は往来を「見張れる」からこの場所に来たのだろう。元々文に「お返し」をする気などなかったから、目の前の男は盃を取っては嘗める様に飲んでいる。何もしゃべらない。だが、文は遠慮などしない。

 彼女の周りにあるのは大量の徳利。全部空である。払いはもちろん男だった。

 

「よく、のむのう」

 

 男は興味深げに文を見てくる。声が明るく響きがよい。これは天性のものだろう。

 

「まあ。それほどでもそれよりもお兄さん。お名前は?」

「石川誠之助と申す」

「本当は?」

「本名じゃき」

「それで? 本当はどうなんです?」

「こりゃ。てにあわんおなごじゃな。それよりおまさんの名前はなんていう?」

「……文。ま、好きに呼んでください」

 

 人間に何と呼ばれようがあまり気にしない。射命丸と言わなかったのは苗字をつけて自己紹介すると面倒ごとがあるかもしれないからだ。それにどうせ目の前の男の名前も偽名である。軽々に本名を語る志士などいない。

 石川は文と聞いて「おあや」と「お」をつけて呼んでみたが、どうにもしっくりこないようで言い直した。

 

「それじゃあ、おふみ、と呼ぼう」

「あや、ですよ? 読み方が違います」

「どうせ儂も本名じゃないきに」

 

 くっくと石川は笑う。笑顔になると白い歯を見せて、溶けるような表情をする。それにつられて文もくすりとしてしまった。少し不覚だろう。ただ、簡単に自分は偽名だと認めた石川に文も興を覚えた。

 

「ほら、今日は石川さんのおごりですから」

 

 文が徳利を両手で持って、石川に酌をする。彼は「お、おう」と言わざるをえない。自分のおごりだからと言われて、自分が飲む経験などなかった。文の可愛らしい手が徳利を傾けると、石川の盃にとくとくと酒が満ちる。

 その間、数秒だけお互いに無言だった。雨の音だけが室内に響く。対面した二人の距離自体は近い。

 

「ほら。いっきです!」

「このおなごは……」

 

 苦笑しつつ石川はぐいっと盃を干す。文はぱちぱちとわざとらしくは拍手をして「さあさ、もう一献」と徳利を近づける。表情に黒さがある。酔い潰そうとしているのかもしれない。だが石川は手で制した。

 

「今日は大事な用事があるから、酔うてはおられん」

 

 それだけ言って石川は盃を置いて、目の前にある膳にある魚を箸でとり、頭から齧る。ばりばりと骨も気にせず食べる姿は豪快だが、文はいたずらが出来なくてつまらない。仕方なく自分の盃に酒を満たして、飲む。酔いはしない。

 文が酒を飲むとき。その桃色の唇に盃をあてて、くいっと飲む。白い首筋が見える。中岡は一瞬見とれて、邪念を払う様に頭を振る。

 

「おふみ」

「……あ。それ、私のことでしたね。なんですか?」

「いや。肝の据わったおなごじゃとおもってな」

「そりゃあ伊達に、永い事生きてませんから」

「ほうか」

 

 冗談だと思ったらしい石川は魚を齧りながら笑う。彼が箸を取って腕をあげると刀傷がちらりと見える。すでに古傷だった。文は酒を飲みながらからかうように言う。

 

「いやあ、大変ですね。そんのーじょうい、でしたっけ?」

「……からかうもんじゃなかぞ。おなごとて容赦せん輩はおる」

「へえ。それはそれは」

 

 嘲るような文の口調に流石に石川はむっとする。それでも何も言わずに無言で飯をかきこみ始めた。文も半分わかっていて挑発したので気にしない。酒を干していく。たまに階下にいる店員に注文するくらいしか喋らない。

 石川が箸をおいた。自分の膳を平らげたからだ。そして文を見る。眼の力が強い。

 

「おふみ。どうであれ、日ノ本は変わる。西洋の異人共に負けん国になる。おなごの生活もかわるじゃろうな」

「…………私には関係ありませんねぇ」

「ほんに……おまさんと話しておるとあやかしとでも話とる気になる」

「あら、御明察」

 

 石川は顔をあげる。そこには彼をまっすぐ見る赤い瞳があった。文の瞳はいつの間にか暗い赤色に染まっている。彼女の顔を見るだけで背筋が凍りそうな冷たさがある。石川は眼を見開いて、驚く。

 

「おまさん……その眼」

「ふっ」

 

 突風。文が息をはくと同時に石川の顔へ風がたたきつけるようにふく。再度彼は驚愕する。まさか目の前にいる少女が本当に「あやかし」とは思わなかった。藪をつついて天狗を出す、天下は広いといっても彼だけの体験だろう。

 文は怪しげに笑う。足をたててだらしなく座っているから、その白い足が見える。

 

「わかりましたか? 私には関係ありません。いや、私たちにはあなた方人間の事情なんてそう意味はないんですよ」

「ぬしは……天狗か?」

「おお、再度明察! なかなかやりますねぇ。まあ、誰に話しても信じてはくれないだろうですけど、ね。ふふ。短い生を生きる人間は頑迷ですから」

「…………」

 

 石川は眼をすっと閉じた。それから開く。ただそれだけの動作。

 

「ほうか。天狗がおるとはげにおどろいたがぜよ」

「人間の見ている物だけがすべてというわけではない、ということです」

「いや、それはおんしらも一緒じゃ」

「は?」

「天狗の料簡は狭いというとるがぜ」

 

 部屋の温度が下がる。文から迸る妖気が紫色に立ち上る。人間ごときに天狗全体を貶められた発言を許すほど、彼女は甘くはない。だが石川は涼しい顔をしている。傍らにある刀を引き寄せもしない。

 石川は口を開く。

 

「日ノ本は危機に瀕しちょる。既に亜細亜の殆どが洋夷の手に落ち、清国すらも死に体の中で味方もおらん」

「それが?」

「ぬしは上海をしっちょるか?」

「遠くの都市の名前でしたっけ……」

「そう。清国の都市……今は清国人が肩をすぼめ、エゲレス人が大手を振って歩ておるそうじゃき。高杉君……いや。とある者からまた聞きではあるが。日ノ本がそうならん保証は誰にもできん」

 

 文は怪訝な顔をしている。それは人間の話である。だが、石川は続ける。

 

「日ノ本が洋夷に侵されて、天狗も無事な保証はだれにもできんぜよ」

「侮辱ですかね? 人間ごときに私たちが負けるとでも?」

「……」

 

 石川は刀を手に取る。そして窓の外に眼をやった。雨が強さを増している。彼のその横顔がどことなく寂しそうである。彼はぽつりぽつりと話す。文に言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのかはわからない。

 

「みにえーという銃がある。扱いがしよい(簡単) で火縄銃よりも連射できる。西洋ではこれを農民に持たせて兵としてつかっとるという。その銃をこの前長崎へ数万丁届くのを見た」

 

 石川は文に向きなおる。

 

「わかるか天狗。そのあたりにおる民に銃を持たせれば兵になる。数万か。数十万か。数百万かは知らん。じゃが、必ず武士は消えていく。おんしらはどうじゃ? もうこれからは武士はいらん。天狗もいらん。いうなれば鬼も恐るるにたらん」

「……」

「それでも儂は洋夷が恐ろしい。世界を牛耳る大国に対する日ノ本がどうなるか、夜も寝れん」

「……ああ」

 

 そこで文は悟った。既に人間の恐怖は現実に向いている。妖怪よりも同じ人間を恐れている。石川は人間の見方を言い。文は天狗として石川の話を聞く。共感はない。石川には彼の想念があり、文には彼女の感性がある。

 石川は武士として己が現実的に消えると確信している。文は天狗として恐怖が人間から消えて、自分たちも幻想の中へ消えていくと予感する。この狭い座敷でも時は流れていく、対面する聡明な二人は己自身の先を、この雨音の中に見る。

 

 沈黙が続く。

 

 石川が立ち上がった。文を見る。

 ニコリと石川は笑う。白い歯を見せて、彼女に屈託ない笑顔を向ける。文はほんの少しだけどきりとするが、気の迷いだろう。

 

「それじゃあ、世話になったのう。今から喧嘩しちょる吉之助と小五郎を仲直りさせんといかんち……なに、案ずるな儂らが天狗ごと日ノ本を守っちゃる」

「そうですか」

 

 文はそっけない。ぷいと横を向く。ちょっと大人気ないし、そもそも日ノ本がどうなるかなど興味もない。人間に天狗が負けるとは思わないからそこは変わらない。心配なのはただ、忘れられていくことだった。

 

「おふみ。とりあえずひと段落ついたら、また会いに来るぜよ。おまんのことはしっかりと覚えておくきに」

「そ、そうですね。ワタシも一応覚えておきましょう」

 

 心を読んだかのような石川の言葉に文は軽く、動揺する。石川は「よう降っちょる」と外を見ている。それが恨めしくて文は少し舌を出す。見せない。

 

『石川ぁ―おまん、なんばしゅちゅー』

 

 窓から石川の姿が見えたのだろう。通りから誰かが彼を呼んでいる。石川は慌てて窓辺に駆け寄った。そして通りで無防備に手を振る大男に叫ぶ。

 

「さ、さかも」

 

 チラリと文を見る。彼女はあわてて舌を隠す。

 

「才谷! ほたえるな(叫ぶな)!!」

 

 石川はそう叫ぶとあわてて座敷を出ていこうとした。天狗の前ですらも冷静だった彼を慌てさせる「才谷」は妙な人物なのだろう。彼はふと思い出して、文を振り返った。腰につけた巾着を取って投げる。

 

「おふみ。お代じゃ。全部使え」

 

 投げた赤色の巾着。文は胸元でキャッチする。重い。おつりがくるだろう。

 

「どーもどーも」

 

 にっこり軽く返した文に石川は「げんきんじゃ」と捨て台詞。そのままどたどたと座敷を出ていった。

 

 文は一人座敷に残された。小さなさびしさを覚えたような、別にそんなことはないような。不思議な気持ちを持て余しつつ。徳利にのこった酒を盃に注ぐ。そうしていると外から何かをわめく声がする。石川であろう、相手は「才谷」である。石川は自分で叫んでいる。

 

「ああーばかですね。ばかです」

 

 文はぐいっと酒を飲む。いつしか石川の声も雨の音に消えていった。文はもう一回「ばかです」と口にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




石川誠之助の笑顔はこの時代一。ありがとうございました。


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昔々程度の話

ただ釣りをしてる男と赤髪の少女がであった話

※オリキャラは一人もいません。戦闘もありません。方便は注意。一話完結です。
※いろいろと独自の解釈が入っています。寛大な目で見ていただければ幸いです。
※明確に時代を設定していますが説明していません。歴史上の人物が出てきます。


 深い、深い霧の立ち込める朝。霧の向こうにある山々はうっすらとかすんでみえている。冷たさと静寂に包まれたここには、ざあと滝の落ちる音がする。そんな湖のほとりのことであった。

 

 一つの大きな岩があった。上に一人の男が座っている。

 男は少し長い黒髪を後ろでまとめ、白い長衣を着ていた。手には一本の釣り竿、ともいえぬ木の枝に太い糸を垂らしたものを持っている。糸の先は岩の下、湖の中に入ってゆらゆらと波に揺られている。

 彼はあぐらをかいて面白くなさそうにしている。仏頂面でじっと動かない。だが、頬はやけ精悍な顔つきをした男だった。それもそうだろう、彼は「ズボン」をはいている。そのような物を付けるのは中原の民から「野蛮人」と言われるものだけだった。

 

「釣れるの?」

 

 ふと、男の後ろから声がした。可愛らしい女の子の声だ。

 男が振り返るとそこ居たのは、小柄な少女。真っ赤な髪を三つ編みにしているのが特徴的であった。彼女は大きな瞳で男を見ている。着ているのは粗末な深い緑の服だった。ただ、やはり髪が美しい。

 

「釣れナいね」

 

 男はつまらなげにいった。少し言葉に訛りがある。

 釣竿を引いて糸を手元に手繰り寄せる。その先端を見て少女は笑った。糸の付いている「針」は真っ直ぐなもので、返しもついていない。

 

「こんなので釣れるはずないわ」

 

 くすくす笑う。暇なのかと男は呆れたが、そこは真面目に返してやった。

 

「試しているのさ」

「試す?」

「そう。なんでもやってみないと分からないだろう」

「そうかしら」

 

 魚をひっかけることのできない針で釣れるか、釣れないかやらなくてもわかりそうだが、男はそうは思わないらしい。そこにこの少女はちょっと興味を持った。実際暇なのである。久々に人間に会ったのだから「どうする」にしてもゆっくりやればいい。

 少女は妖怪である。それもまだ幼い。危険なのは変わりない。

 

「嬢ちゃん。名は?」

「私? メイリン」

「そうかいい名前ダな。俺は……名前はいくつかあるんだが……ナ」

「へー? 変なの。名前なんて一つでいいじゃない」

「色々とあるもんさ。 尚(しょう)  子牙(しが)……一番気に入っているのは望(ぼう) だな」

「ふーん。じゃあ望って呼んでいいの?」

「好きにしタらいい」

 

 ふっと釣竿を望が降り。また「真っ直ぐな針」が湖に吸い込まれていく。だが、釣れないのには変わりがない。彼はまたつまらなさそうに動かなくなる。横でメイリンがふああと欠伸をしている。

 

「望っていつも釣りをしているの?」

「腹が減った時にはナ。でも俺が好きなのはやっぱり羊の肉さ」

「贅沢ね」

「ま。仲間にも言われた」

「あーあ。私もなにか食べたいなぁ」

「干し肉ならあるゾ」

 

 望は腰に付けていたから肉の一切れを出す。乾燥して色が黒くなっている。彼は器用に釣り竿を両足で挟んで両手で作業する。肉と一緒に別の袋から赤い「粉」を出して振りかける。

 

「何それ? 塩?」

「そんな貴重なもんをお前にやるわけないダロ。これはな、香辛料っていうんだ」

「こーしん、りょー?」

「そうサ。山を一つ二つ超えたところでとれる魔法の粉だ」

「近いところなのね」

「そうだな。俺の故郷から歩いて二季節くらいか」

 

 メイリンは男が何を言っているのかよくわからなかったが、もらった干し肉に大きく口を開いて、ガブっと噛みついた。ぴりりと辛さが舌を焼く。

 

「ふ、ふぁあ」

 

 ひっくり返るメイリン。なんだこれはとぺっぺと吐き出す。刺激的な味でびっくりした。望はそんな彼女をにやにやしながら見ている。彼女は抗議するように睨みつけたが。男は飄々としている。

 

「くはは。初めて食わせるとそんな反応だよナ。その辛さがいいんだロウ。それにこれを振りかけておくと肉が腐らないんだ」

「か、からい? 辛いって何?」

「もう一口食ってみればわかるだろ。癖になるゾ」

 

 メイリンは唇がひりひりし始めたのにはびっくりした。こんな物を食べたことはない。だが、これも経験である。どうせ長い妖怪の生の中であるから、試しても損はない。彼女はちょっと泣きながら干し肉をはみはみと食べる。

 少しずつ口に入れていくのが可愛らしいのか望はくっくと笑った。

 

「そレナ。俺たちは東から買いに行くんだが。他にも遠い、遠い国の奴まで買いに来るらしいゼ。たしか……ばびーろんとかいうな。眼が蒼くて、背が高い。ありゃ、なんていうかへんなやつらさ」

「いたい、でもおいひい」

「泣きながら言うと説得力があるナ。けけ。それでそのばびーろんにいる奴らはこの世界の西の果てにいるらしイ」

「西のはへ?」

 

 泣き虫メイリンは口元を抑えて聞く。男は話すのが楽しいのか、にやりとする。望はメイリンに向き直って、身振り手振りまるで見てきたかのように物語を始めた。

 広い広い砂漠のこと。

 長い長い川のこと。

 崑崙山という高い山のこと。

 

 彼の話はだんだん「世界」の西に行く。まだこの世界の誰も「地球」という言葉は知らない。

 

 ぎるがめしゅなどという英雄の話。

 スフィンクスという化け物の話。

 でっかいお墓がその向こうにある事。

 そしてばびーろんで暮らす人々のこと。

 

 最初は興味なさげに聞いていたメイリンだったが、望の話に引っ張られて相槌をうったり。拍手したり。笑ったり、驚いたりころころと表情を変えた。聞いたことのないことばかりだったのだ。ただ「海」なる巨大な湖に関しては「うそだー」と取り合わなかった。

 

 

 滝の音の中に響く笑声。望の話は深く、広く。おもしろい。彼は物語の終わりにちょっといたずらを思いついた。だから、こう切り出したのだ。

 

「この広い土地を西に西にいけばな数十万の人やら羊やらラクダやらが住んでいるっていうんダ。そこにはでっかい宮殿があって山のような」

 

 にやりと望。

 

「黄金が!!!!」

 

 びくっと後ろに下がるメイリン。望は少女がしっかりと「からかわれて」くれて嬉しい。彼は急に落ち着いてうる。

 

「あるそうダ」

「び、びっくりしたわ。ぼ、望は行った事があるの?」

「ないヨ。聞いた話さ」

「行きたいの?」

「いーや。西は砂漠がいっぱいであきた。だから俺は東の果てを見に行くのさ。東の果てを見てから、考えるヨ。少なくとも東にいくぶんには飯に困ることも少ないしナ」

 

 後年、この男は「東の果て」に帝国を築く。だが、この時は望もそんなことは考えていなし、興味もなかった。それに後年彼がこの「中華」世界に打ち立てた兵法もまだ、片鱗しかない。

 ただ、妖怪であるメイリンを惹きつけている彼の在り方は、これから大勢の人々を彼の下に呼ぶ力になる。メイリンはふと、言った。興味が出た、彼女も「東の果て」が見たい。

 

「ついてっていい?」

「いいヨ。次はそうだな商(しょう) ってところにいくつもりだからナ。ま、イケスカナイ国だから長居はしないけド」

 

 あっけらかんに承諾する。ただ、望は言う。

 

「まあ、正体のばれないようなクフウは自分でシロヨ」

「え、ばればれだったの?」

「こんな綺麗な髪をした人間は見たことが無いからナ。山で修行している仙人様よりは話安くていいけれどナ」

「せんにん? 望は見たことがあるの!?」

「そうそう。妙なダシンベーンとかいう棒を羊10頭と交換だっていうかラ。その棒でひっぱたいて退治してやったゼ」

「せ、せんにんを退治したの?」

「う、ああ。いろいろとあっテ。故郷に入れらなくなったけどナ」

 

 望は少し寂しそうに言う。ざあ、と滝が落ちる音がする。それはめいりんも少し彼に感情をくみ取ってあげた証。彼女はそれから励ますようににっこり笑い、白い歯を見せる。すっと立って、両手を腰のあたりで構える。数千年後には「ガッツポーズ」と言われるものだ。

 

「それじゃあ私は準備してくるわ。望!」

「ああ、俺はつりをしてのんびりしているヨ。早く来いヨ」

「のんびりしてるの? 早くこいってどっち?」

 

 ふふふとメイリンは笑っていた。もう遠慮はない。彼女はそれからその場で高く飛び上がる。人間には無理な跳躍に、望は「おお」といいものをみた顔で答える。メイリンは空中でくるりくるりと回転して、しゅたと岩の下に飛び降りた。

 

「約束! 再見!!」

「さいちぇーん」

 

 望の適当に返事にメイリンは手を振って霧の中に帰っていく。また、静寂が戻って来る望は晴れない白い霧の中で一人、釣りをする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、数人の足音がする。望は気にしない。

 霧の向こうからやってきたのは、どこかの領主だろうか。落ち着いた印象の髪も髭も白い男だった。彼はゆったりと望のいる岩の下にやって来る。そして彼を見上げながら言った。

 

「釣れますか?」

 

 望は答える。

 

「魚は釣れないケド。人が釣れた」

 

 

 

 

 



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少年の日が終わる程度の話










※オリキャラは一人もいません。戦闘があります。


※いろいろと独自の解釈が入っています。寛大な目で見ていただければ幸いです。
※明確に時代を設定していますが説明していません。歴史上の人物が出てきます。


 鞍馬山には天狗が住む。古来より都で言い伝えられていることである。

 事実、人々は鞍馬山の奥には足を踏み入れることはない。特に夜に入ることは古来より絶無であろう。いや、いたのかもしれないが生きて帰ってはいない。

 

 その禁忌の地に少年がひょいひょいと入っていく。手には燃え滾る松明を持ち、涼しげな顔を照らしている。腰には何も帯びてはいない、少なくとも身をも守るための武具は持ち合わせてはいないのだった。

 少年は美しかった。

 流れるような黒髪を紐で結び、白い水干を帯びている。足取りは軽い。彼は奥へ奥へと入っていく。その表情は心なしか微笑んでいる。

 

 彼がここに来たのは単に入りたかったからだった。周りの大人たちが怯えて話すこの鞍馬山の奥地を自らの眼で見てこようと思ったのであろう。子供として純粋な好奇心と言えばいいのか、それとも人並み外れた勇気といえばいいのか難しい。

 少年がしばらく歩くと、森の奥に明かりが見えた。こんな奥地に火があるとは、人のものではない。天狗のものであろう。少年は「あっ」と一声叫び、頬を緩ませる。怖くないのだろうか。

 

 たたっと飛ぶように少年は走っていた。いつの間に走り出したのかは彼にも分からない。

 木々の間を抜けて、ばさっと茂みをはじいていく。浮かぶ火の近くに来るとそれが何かわかった。灯篭が並んでいる。

 

 無数に山の奥へ向かって並ぶ赤灯篭と石畳。

 

 それが天狗の作った物と思うと少年は妙に感心してしまった。彼はさらに近づいていく、石畳に乗ってみる。足元にしっかりした感触があった。幻ではないらしい。この先に行けば何があるのか、彼はしばし考えてから、見に行くのが早いと思った。

 

 灯篭には火がともっている。ほのかな橙の火が石畳を照らしている。遠くまで続くそれが、少年の好奇心には堪らない。左右に木々が並び、赤々と紅葉している。そこで少年は秋であることをふと思い出した。

 

 夜を照らす灯篭。騒めく紅葉。少年の軽い足取り。それを見る者は一枚の絵画のように感じるかもしれない。だが彼を「見ている」者はそんな風流を解するような相手ではなかった。

 

「そこにいくもの。まて」

 

 声がする。少年は振り返った。

 石畳の先に佇む人影、白い髪をした少女だった。手には一振りの刀を持っている。

 頭には山伏風の六角形の帽子をかぶり、動きやすい為か白い狩衣を着こんでいる。ぎらぎらとした両目は真っ直ぐ少年を見ている。敵意と殺意の感じられるだけの冷たい目だった。

 少年は涼しい表情を崩さない。いや、好奇心で目が輝いている。

 

「ああ、これが天狗かぁ。我(おれ) 初めて見た」

 

 それだけ言った。そう、この少女は天狗である。名を犬走椛といい、白狼天狗である。彼女はこの山に不用意に入って来る侵入者を排除する役目を持っている。この場合、少年を斬らねばならない。だが、椛がわざわざ声を掛けたのには理由があった。

 

「人の子。幼いからといってここは軽々に入っていい場所ではない。早く立ち去れ」

 

 厳とした口調で椛は言う。言葉に温度はない。本来であれば問答など無用である。

 すでに「情け」はかけた。少年の「幼さ」が彼女のそれを引き出したのである。ただ、もうかけ終わったからには少年が抗えば斬る必要がある。

 少年はなんとも不思議そうな顔で椛を見ていた。きょとんとした瞳、まさに少年である。彼はくすりとして言う。石畳の先を指さしながら。

 

「この先には何があるの?」

「……去れ。貴様のような者が知る必要はない」

 

 天狗はすうと息を肺に込める。手に持った刀に力を籠める。刀身が、炎を映す。

 夜の闇と灯篭の炎、そして椛の影。それは一匹の狼の影。少年は向き合ってもう一度くすりとする。

 

「へえ、じゃあ見に行くか」

 

 だっと地面を蹴った椛は一直線に少年に向かう。履いた下駄が石畳を鳴らし、斬撃が飛ぶ。銀の閃光が刹那に光り、少年を襲った。一瞬のことである。椛はその紅い瞳で少年の首を落とすつもりだった。役目なのである。

 しかし見てしまった。惹きこまれたと言っていい。

 

 少年の瞳。只々椛を見ている。

 

 それが彼女の斬撃を多少狂わせた。何かを切った感触。

 

 からんからんと両断された松明が落ちる。少年の持っていたものだ。

 椛は石畳に着地して、ちっと舌打ちをする。仕留めきれなかったことを悔やんでいる。腰を捻り反転する。次の手で両断する――

 

 草履が飛んできた。

 

「わ」

 

 驚いて椛が横に飛ぶ。小さな少年用の草履が地面に落ちる。彼のささやかな反抗である。少なくとも、これ以上の武器を彼は持っていないのだ。彼は残った草履も脱ぎ捨てて、はだしになる。

 

「ふふふ、あはあは」

 

 椛は笑い声にはっとした。みれば腹を抱えた少年が笑っている。彼は今死にかけたというのに、楽しそうに声を上げていた。椛が草履ごときに本気で避けたのがおもしろかったのだろう。狂っているのかもしれない。

 

 椛の心がさらに冷えていく。刀を握り直して。ざくりと草履を斬る。そして真っ直ぐ少年を睨んでもう一度飛ぶ。

 少年の目の前に立つ彼女。少年は笑いながら見ている。

 刀が空から落ちてくる。少年から見ればそうだろう。上段からの切り下げである。少年の影がゆらめく。刀が空を切った。少年の着物にかすらない。

 椛は手首を返して、横に薙ぐ。するり、そういいたくなるようなほど少年は椛の脇を通り抜ける。いとも簡単に。

 

「なっ!」

 

 たたらを踏む椛。信じられない、少なくとも手加減をしているわけではない。それをことごとく少年は躱す

 少年は石畳の上で体を回す。水干の長い袖がゆらゆらと揺れる。優雅に、踊るかのように。

 まるで遊んでいるかの様に。

 

「もっと遊ぼう。天狗」

 にっこり笑い。少年はその場でくるりと回る。その長い袖が揺れる。

 

「調子に乗るな!」

 

 身を沈める椛、ここから一気に――踏み込む。肩に担いだ刀を斜めに振り下ろす。袈裟切りである。手ごたえがない。椛は再度驚愕する。気が付いた時には少年は目の前にいなかった。

 

「どこだ!」

 

 椛は叫んだ。焦燥の滲んだ表情であたりを見回す。ぐるると牙を出しているが、強がりもある。

 

「こっちだ」

 

 少年は灯篭の上に「座っていた」。いたずらっぽく笑いながら、椛を見下ろしている。

 どっちが天狗かわからない。椛は少年からばっと飛びのいた。それから気が付く。たかが人間の「少年」から、逃げた。数歩程度でも椛は後ろに下がった。それがひどく彼女の自尊心を傷つけた。

 

 椛の眼が殺気に満ちていく。握った刀を寝かせるように構える。その刀身が紫の光が包む。

 一閃。灯篭を切った。石造りのそれがさくりと両断される。人間では難しいだろう。

 少年は「おお」と感心した顔で崩れ落ちる灯篭から飛び降りる。椛を見ながら綺麗な目だと思った。地面にふわりと着地する。

 

 それを読んでいた椛が振り向きざまに怪刀を振るう――

 

 ★☆

 

 椛の顔が恐怖に歪んでいた。彼女は刀を正眼に構えている。いや、その格好から凍り付いたように動けなくなっている。額から滲む汗。震える体。

 

「すごい! すごいなぁ。我死んだかと思った。清盛のじじいのとこのやつらよりすごいや!」

 

 少年はぱちぱち柏手を打つ。

 椛の刀の上で「しゃがんだまま」である。細い刀身に両足を器用に載せている。椛はそれが信じられない。今目の前にいるのは人間ではないと思った。では、なんだろう。

 

「よっと」

 

 可愛い声を出して少年が降りる。椛はそれで気が抜けたのかその場にへたり込む。少なくともこのようなことができる少年に勝てる気が彼女にはもうない。相手が丸腰であることも忘れている。

 へたりこんだ椛をきょとんとした顔で少年は見る。周りの灯篭の炎がぱちぱちと鳴っている。少年は椛の表情を見て素直に思った「悪い」と。しかし、なんで椛が怯えたような表情をしているのかまでは分からない。

 あ、と思い当たった。無断で侵入したから椛は怒っているのだろう。ずれている。少年は「人」として抜きんでた才能があったが、この先の生涯においても「ずれて」いた。

 

「我、帰るよ。ああでも。うーん」

 

 裸足になった足を見ながら少年は唸った。このまま帰ったのではどろだらけになってしまうだろう。それは椛に草履を斬られたからである。少年は呆けている椛をちょっと見て、言う。

 

「おんぶ」

 

 ★☆★

 

 

 何でこんなことをしているのだろうか。椛は自問自答を繰り返していた。

 彼女の背中には少年がしがみついている。草履を斬った罪で椛は少年を山のふもとまで送ることになった。なんでそうなったかは彼女が一番聞きたい。さっきまで振り回していた刀は腰に佩いた鞘の中。

 

 当の少年は彼女の白い髪を珍しげに見ながら、たまに触って来るので心底うっとおしい。今ひっぱった。

 

「い、いでで。や、やめろ!」

「へえぇ。きれい、つやつやしてる。天狗ってみんな白いのか」

「違う。私たちだけだ……、おい、触るな」

 

 少年は好奇心の塊だった。しかも話を聞かない。天狗装束を見たいのか背中でもぞもぞしている。おんぶをするには最悪の部類である。刀の鞘に触れようとして、間違っておしりを触ってきた時には、

 

「きゃ! ふざけるな!」

 

 一度下ろしてゲンコツをお見舞いした。あとで考えるとあれだけ斬り込んでもかすりもしなったのにそれは当たった。少年は怒られたことすらも楽しそうにしている。頭をさすりながら苦虫をかみつぶしたような顔をしている椛の腰にしがみついてよじ登る。

 

 椛はもう一度少年を背負ってふかぶかとため息をついた。一緒にいると疲れる。毒気も抜かれてしまう気がする。とっと山のふもとに放りしてしまおうと思った。ただ、やられっぱなしは腹が立つ。

 椛はにやりと笑う。

 

「おい。しがみついていろ」

「……うん!」

 

 意味わからず元気の良い返事をする少年。椛は口角を吊り上げてだんだんと足を速めていく。灯篭の並ぶ石畳をかつかつと下駄を踏みならしながら降りていく。

 

 まわりの景色がすこしずつ速くなっていく。

 少年は顔に当たる風が強くなるのを感じる。

 

 灯篭の立ち並ぶ景色が流れていく。少年は椛に必死に椛にしがみついている。これが天狗の脚力である。椛は飛ぶように走る。風すらも遅い。

 椛はさらに速く走る。少年が悲鳴でも上げてくれれば面白い。面目も少しは立つ。しかし、そんな思惑は外れた。

 

「う、うわああ!」

 

 きらきらと光る眼で楽しげに笑う。初めて見る「天狗の世界」に彼は胸躍らせた。空を見れば星々が光っている。椛はち、と舌打ちした。ならばと足に力を込めて。跳躍する。

 

 

 上にあがる感覚。少年は初めて味わった。椛の首を絞めるくらい強くしがみついて、眼をぎゅっと閉じる。数秒前の前が真っ暗。それを破ったのは彼女の声。

 

「く、くるじいから離せ」

 

 少年はあっと力を緩める。体は浮遊感に満ちている。

 目を開けて、少年は世界を見た。

 

 空の真ん中。木々よりも高い場所。星と月に囲まれた夜の中天に彼はいた。

 見下ろせば京の灯が見える。少年は思ったことをそのまま口に出した。

 

「綺麗だな……」

 

 急に大人びた声。椛は少しびくりとした。だが、背中に張り付いているのは紛れもなく子供である。それにこれからが本番である。

 

「おい。落ちるぞ」

 

 椛は楽しげに言う。びびれ。思う。

 落下し始める。体が冷えていき感覚が少年を襲う。

 

「お、おぉお!」

 

 近づいてくる地面に歓声を上げて喜ぶ。椛は悔しそうである。

 

 ★☆★

 

「本当にここでいいのか」

 

 山のふもとに近い場所で椛は言った。少年は大きな木に体を預けて胡坐をかいている。だらしないというよりも、足の裏を地面に付けたくないのだろう。

 

「うん、どうせ探しているから」

「親か」

「いや、おっかあはしばらく会っていない」

「そうか。だが父はいるだろう」

「戦で死んだらしい」

 

 なんでもないように言う少年。珍しい話ではない。

 

「子供のころ会ったことがあるだけで父の顔は知らない。覚えていないや」

「……今も子供だろうが」

「まあ、うん。一応そう」

 

 かくっと肩が下がる椛。やはり少年は「ずれて」いる。少年はそれでも少し寂しげに言う。

 

「兄ちゃんならいっぱいいる」

 

 椛はびくりと体を震わせた。こんな少年が大量にいたら堪らない。いてたまるかと思う。少年は流石に椛が何を思っているのかは分からないから、自分のことで続ける。

 

「都にもいるけど、仲良くない。遠くの、遠くのあずまえびすが住んでいるところにも見たことない兄ちゃんがいるらしいから会ってみたいなぁ……」

「関東か」

「なにそれ?」

 

 椛は「あずまえびす」を解釈してやったのに肝心の少年が分からない。だが、彼の人生は「兄」との因縁を最後まで断ち切れずに、燃え尽きる。もちろんそんなことは少年は知らないし、椛も知らない。

 

「まあ、なんでもいい。それじゃあ私は行くぞ。……二度と来るなよ」

 

 そうやって踵を返そうとして、ぐいと引っ張られた。少年だろう。足を汚したくなかったはずなのに椛と離れる段になってあわてて立ち上がったのだろう。

 

「なんだ……」

「刀を教えてくれ」

「はあ?」

 

 椛は皮肉かと思った。剣術を教えろということなのだろうが、ばかにしているのかと思いう。散々翻弄されたのだから、少年に教えるなぞ恥ずかしいし天狗が人間に教えるなんておかしい。

 

「いいかげんに」

 

 そう思いながら後ろを振り向くと。椛はどきりとした。

 泣きそうな顔で少年が立っている。今まで何があっても笑っていたのに。椛はふと思った。刀を教えるなどということは単なる嘘で、本当は自分に去ってもらいたくないだけなのだろう。 

 両親の愛を受けていない。兄ともうまくいっていない。少年は寂しいのだろう。

 

「……うー」

 

 犬の様に唸ってしまう椛。彼女は腕を組んでそわそわする。とっとと戻ればよかった。

 

「口述で教えてやる。座れ」

「うん!!」

 

 さっとその場に座り込む少年。椛は苦々しげな顔をして座る。何を話そうかと迷う。

 

 

 ★☆★

 

「御曹司―! 御曹司」

 

 遠くで野太い声がした。椛はいらっとしたが、すぐに少年を迎えに来たものだろうと思った。「御曹司」とはぴったりである。

 

 椛の膝枕で少年が寝ている。彼女が遠くの声にいらついたのは少年が起きないか無意識に心配してしまったのだろう。だがそんなことをする義理などないと直ぐに気が付いた。椛はそれでも優しい手つきで少年を抱えると、大きな木の幹に寝かせる。

 

 すうすうと寝息を立てる少年。それをみて苦笑する白狼天狗。

 

「それではな。牛若」

 

 椛はさっき教えてもらった名を呼びながら頭を撫でると身を翻す。わざと声のする方に石を投げておいた。気が付くだろう。

 

 ★☆★

 

「う、ん。もみじ」

 

 牛若は大きな背中に揺られていた。彼は男臭い匂いにはっとして飛び起きた。背負っていた男はびっくりして、落とさないように慌てる。彼が牛若を探しに来た男なのだろう。

 

「椛は!?」

「夢を見られておられたのですかな?」

 

 男は日焼けした顔をほころばせる。恰好は僧形。頭は白い布で覆っている。僧であるのだが大柄で腕が恐ろしく太い。まるで鬼の様である。要するに僧兵である。

 

「俊にい」

 

 男は俊章という。牛若はこのような僧兵に囲まれて戦い続けることになる。後世彼らの伝説がまとめられたのかどうか、武蔵坊 弁慶という物語が作られた。

 牛若は悲しげに顔をゆがめてああ、と嘆息した。寝ている間に椛は山に帰ったのだろう。落胆した様子で彼はぽつりと言った。ともすれば泣きそうな声だった。

 

「我は天狗に刀を習ったよ」

「ほう! それはそれは」

 

 俊章はたわいのない冗談だと笑った。鞍馬山に入り込んだと思って必死に探したが、見つけてみれば麓の林の中で寝ていたのだ。夢でも見たのだろう。

 俊章はそんな子供のたわごとよりも大切なことを言った。もう彼にとっては天狗などどうでもいい。

 

「ささ、急いで帰りましょう。御曹司にお会いしたいという方が明朝にいらっしゃるそうですよ」

「我に? おれになんかあってどうするんだろう?」

「なんでも陸奥の大商人だとか、仲良くしておけば宜しいかと」

「商人……? 我そんな知り合いいないけどなぁ」

「お父上の御威光でしょうな」

「はあ……?」

 

 牛若は首を傾げる。俊章はそれでも続ける。

 

「なんでも名を金売りの吉次とか」

 

 牛若の少年としての時間は、数日後「鏡の宿」で終わる。

 



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剣で問う程度の話

戦闘描写があります。今回の主人公及び東方キャラの容姿は個人解釈が入っています。


 塚原がそれを聞いたのは数日前のことであった。

 彼は遠く常陸の国より馬も使わずに弟子たちと京に来ていた。目的とすれば各地の剣豪と剣を交えて楽しみ。将軍への拝謁を行う為にやってきた。少し足を延ばして和泉まで来た時のことである。

 

 塚原は齢六十を超えている。と説明しなければ分からないほどに若々しい。黒々とした総髪を無造作にまとめ、着ているものと言えば麻でできた地味な色の着物である。その腰に佩いた刀も無駄な装飾はなく、漆塗りの鞘はともかくぼろぼろの柄巻をしている。

 顔は柔和で微笑しているかのようだが、良く日に焼けており頬についた刀傷も馴染んでいる。

 

 そんな塚原は夜、山中を歩いていた。彼は編み笠一つに刀を大小ぶっ刺しただけの恰好だ。異常といっていい。周りには白い雪が深々と降りつもっている。寒風が吹き荒れ、彼の体にたたきつけるかの様だった。

 

「今日は涼しい」

 

 塚原は諧謔なのか本当にそう思っているのか。言葉に出す。

 昇っているのは石段。この先にあるお寺を訪ねようとしているのだ。あたりはうっそうと茂った森である。たまに見る灯篭には火もついていない。唯一道を照らしてくれるのは皮肉にも雪の白さだけだった。

 冬に桜が咲くという。それが塚原の聞いた噂だった。なんと面妖なと驚く人々がいたが、塚原はよい土産話になるとやってきたのだ。常陸に帰れば可愛い孫もいる。彼は領地を持つ武士だったが今は子に譲っている。好々爺として人生を楽しめるのである。

 

「おお、山門はあれか」

 

 お寺の山門があった。立派な門構えに見えるが、よくよく見えれば瓦は崩れ、白壁にひびが入っている。戦乱も深まりつつあり、直す金が無いのであろう。だが塚原は飄々と思う。

 

「はいりやすいわい」

 

 ニコニコしながら一人呟く。寺に入れてもらえなければどうしようと思っていたのだが、山門は既に崩れており、侵入は容易である。この男の前にはどんなことも大したことはないのだろう。

 雪を踏みしめて彼は行く。降り積もった雪に足を取られることはない、それが彼の人生をそのまま表している。彼は寺の中に入った。

 

 

 淡く輝く桜の花。雪降る日に咲くそれが寺に境内に広がっている。

 舞い落ちる桜の花びらがゆるゆると塚原に飛ぶ。彼はそれを指でつまんで、そっと離す。まるで出迎えてくれたかの様である。彼は境内に足を踏み入れた。

 歩くたび塚原は眼を奪われてしまった。彼の眼の先には本堂らしき建物がある。そしてその左右には桃色の花を枝一杯に付けた桜の木々がある。雪は降り、桜は舞う。このような場所を見ることが出来ようとはと塚原は膝を打って、楽しげに笑う。

 彼はいかんいかん。と頭を振る。このような面妖な場所に警戒した、わけではない。常陸の国に土産として桜の枝くらい持って帰りたいのである。それくらいしなければ信じる者もいまい。

 

 子供のように楽しげにあたりを見回す。どうせならば大きい枝を一振り欲しい。

 彼はさらに奥へと踏み入っていく。ざっざっと雪を蹴る。しばらく探して彼は「よい」ものを見つけた。本堂から少し離れた場所によく育った大きな桜がある。

 

 大きい。塚原がその木の根元に言って見上げれば空が「桜」に覆いつくされる。それにほのかに光っているかの様で魅惑的なそれに彼はしばし見とれた。彼は腰の脇差に手を掛ける。枝を拝借するつもりだった。

 

「まて」

 

 声がする。塚原は少し驚いて振り向いた。気配が殆ど感じられなかった。

 桜と雪を背に立っている男がいる。髪は真っ白であるが、精悍な顔つきをした青年だった。緑色の羽織を付け、異常に長い長刀ともう一本の刀を腰にさしている。暗く青みがかった眼がぎらぎらと光っている。

 塚原は鼻息一つ。

 

「なんじゃい」

 

 無造作に返事した。それを受けて白髪の若者は言う。

 

「桜は傷をつけるな。見て、帰れ」

「ほ、それでは孫にみせられんではないか断る」

 

 若者は一度目を閉じる。すうっと彼の体から白い靄のようなものが現れる。それが形となって周りを飛ぶ。半霊と言われるものだが塚原はもちろん知らない。だがこの若者に彼は惹かれた。構えているわけではない。それなのに隙が無い。

 

 塚原はああ、と武者震いした。嬉しくてたまらないらしい。これだけの若者がこの世にいることを鹿島神宮の神に感謝した。どうせ人間ではないだろうが塚原にはどうだっていいことである。

 

「なぜ、桜を持って帰ってはならぬ」

「…………」

 

 若者は眼を開く。蒼い眼光が身震いするほど冷たい。彼は長刀に手を掛けてすらりと引き抜く。その技量の見事さに塚原は感嘆した。長い刀を扱うことほど難しいことはない。彼は自らの刀の鯉口を切る。光る刀身が少しだけ見える。

 

「ぬし。名は?」

「……妖忌」

「わしは」

「不要。斬ればわかる」

「そうか」

 

 短い会話を塚原は楽しむ。なんで斬り合いになるかさっぱりわからないが、楽しければそれでいい。彼の息が白く空に立ち上っていく。妖忌のそれは全く上がらない。そこも人間ではないのだろう。斬ればわかるという理屈も観念的で塚原好みであった。

 妖忌が長刀を構える。雪が刀身にのり、とけて、落ちる。塚原も正眼に構えている。お互いに気負いがない。桜の花びらが舞っている。

 

 妖忌が

 塚原が

 

 すれ違う。彼らの間に両断された桜の花がひらりと落ちる。お互いに「斬った」のだろう。その動作も何もかもが意味をなさず、そこに「切れた花」のみを残している。二人は同時に振り返る。

 目線を合わせるのは一瞬。塚原が気合と共に打ち込む。上段に構えて、落とす。妖忌は半身になって躱す。塚原の剣が音を鳴らし、雪を舞わせる。剛剣である。ただ剣圧のみで彼はそれをなした。

 妖忌は長刀を腰に回して、横に薙ぐ。一本の線をなぞるような剣線。無駄が一切ない動き。塚原は刀を振り上げて辛うじて払う。

 刀のぶつかる音、両者が飛び下がり雪を踏む音。ぽたり、と塚原の腕から血が落ちる。軽傷であろう。楽しくて仕方ない。

 

 塚原の剣は無骨そのものであった。刀身は広く。刃紋は整っていない。

 妖忌の剣は静かなものである。長く、細い。そして美しい。

 

 二人は緩やかに動いている。目線は敵。足は踏み込む位置を探す。雪が強くなる。

 塚原は妖忌の佇む姿を見て、思う。桜を背負う剣士。良く似合う。斬るのは惜しいと思ってしまうくらいである。彼は刀身を下げ、雪につくくらいの下段に構えを取る。一瞬さくり、と雪に刃をいれて持ち上げる。

 刀に乗った白い粉が舞い、視界を濁す。瞬間踏み込んだ。妖忌は迎え撃つ。

 二つの剣が、二つの閃光になり。夜を斬る。塚原が突き、妖忌は躱す。刀身は合わせない。折れれば負けである。二人は斬り合いながら、境内を走る。

 妖忌が寺の灯篭を斬る。すらりと石のそれが落ちる。塚原はその技量に「見事」と一声、切り殺しにかかる。彼の剣が妖忌の影を斬る。届かない。それは塚原の体勢が崩れたといことである。

 

 妖忌は腰を落とす。瞬、刀を振――塚原の眼を見た。この老武者は笑っている。眼を爛々と光らせて妖忌を見ている。それが隙である。塚原は雪を蹴り、妖忌の懐に飛び込む。長刀は使えない。

 半霊の若者は慌てない。たっと後ろに飛ぶ。躊躇の無い動きである。まるで蝶が舞うかのようであった。だが、

 

 背が本堂の壁に当たる。妖忌は眼を動かして、予想外のそれを頭に入れる。塚原に集中しすぎて周りが見えていなかった。目の前には迫る、古老。彼は上段に構えたまま寺に響く気合を放つ。

 

「―――ぇ!!」

 

 猿叫である。既に言葉を通り越した、ただの「気合」である。山の空気が震える。

 その瞬間に妖忌は塚原の刀がうっすらと紫煙を出すのを見た。魔力の形、彼は舌打ちをして横に飛ぶ。塚原が刀を振り下ろす。

 

 ―― 一の太刀

 

 ザンっと何かを斬る音がした。

一瞬遅れてがらがらと瓦が落ちる。壁が崩れ、寺が崩れていく。

 本堂が斬れていた。間合いを取った妖忌はそれを見る。つまりあの男は刀で巨大な建造物を斬ったのだ。塚原の持っている刀はなんら霊的なものではないし、魔術も施されてはいない。それなのに彼の刀から妖忌は「魔力」を感じた。

 考えられるとすれば、塚原は単純に鍛錬を積んで非常識の壁を超えている。いったいどれだけ刀を振れば人のみでそこまで届くのだろう。妖忌は口元が緩むのを抑えられず、片手で隠した。

 

 崩れ落ちるそれを背中に塚原はゆっくりと振り返る。熱で蒸気を出す彼。赤い眼光は見間違えであろうか。古の鬼のようなものだと妖忌は思った。彼はここに至ってもう一本の剣を抜く。二刀流。妖忌は構え直す。

 彼の背に浮かぶ白い気。今度は半霊ではない。彼の体からあふれる魔力の流れである。

 この男を斬ってみたい。それだけを彼は念じていた。斬れば何かが分かるかもしれない。

 

 

 だが、塚原の刀はその場で「折れた」。彼は「あー」と半分になった刀身を眺めて、深々とため息をつく。彼の剣術に付いてこられなかったのであろう。刀が折れては勝負も何もない。

 

「やめじゃやめじゃ。せっかく楽しいところだというのにのう。なあ妖忌よ」

「……」

「そう怖い顔をするでない。仕方ないことは仕方ない」

 

 妖忌は冷たい顔のまま両刀を収める。内心落胆している自分に驚いているが、顔には出さない。ただ一言言った。

 

「桜を見たのならば、山を下りろ。この木々は人が近づくものではない、それにまだ完全ではない……時期に枯れる」

 

 塚原ははあと大きく息を吐く。巨大な白い塊が空へ向かう。彼の「息」であろう。

 

「まあ。よい。のう妖忌よ」

「……」

「つれないのう」

 

 

 塚原は踵を返す。これ以上は妖忌に話しかけても無駄と思ったのだろう。彼は背を向けて山門に向かっていく。

だが、その彼に妖忌が言った。ふと、問いたくなった。この男にである。

 

「斬るとは、なんだ」

 

 塚原が振り返る。

 

「知らん」

「……」

 

 妖忌は眼を閉じる。それで終わりだとでも言うのだろう。だが古武者はにやりと笑って言った。

 

「なんじゃそれは、禅問答か? 斬る、ワシらのようなものは一生に剣を振り続けておるがついぞそれの答えを見た者は知らん。ワシも知らん」

「……」

「物を両断すれば斬ったか。それは斬れたということなのか。そう考えたこともあった」

「……」

「少しは話をしてもよいであろう。斬り合った仲ではないか」

「……」

 

 塚原は苦笑する。話しかけてきたくせに勝手な男だと面白く思ってしまう。相手は勝手ならば彼も勝手にしてよい。

 

「どうせそんなことを一人で考えておってもつまらんぞ、妖忌よ。人間には、まあお主は違うかもしれんが……主君がおり、家族がおり、友がおり様々な相手がおる。己だけで出した答えなど己以上の物はでやせん」

 

 桜が舞う。

 

「刀を問いたいのであれば、存分に問う相手を見つけよ。ワシと貴様では剣の質が違い過ぎるゆえ、おぬしの求めるものは分からぬ」

「……」

「仏頂面しおって。お主は弟子でも取ると良いわ」

「……馬鹿な」

「おう。やっと返事をしおったか難儀な奴よ。じゃが冗談ではない。そんなに剣の答えを知りたければ、斬るということを知りたければ。己の全霊を持って人を育てよ。自ずと答えは」

 

 彼は楽しそうに笑う。

 

「育ってくるじゃろう」

 

 答えを育てる。妖忌は聞く価値もないと鼻で笑った。感情が少し外に出たと言ってもいい。斬るということを求め、自ら道を歩いていくことが自分の求道である。他人の介在する余地などない。

 塚原はまた、苦笑しつつ。

 

「納得がいかん様じゃの。どうじゃ、どうせならお主にもこの一人や二人おろう。それに教えよ。いや、孫でもよい。弟子と言っても他人である必要はない」

「おらん」

「わびしいやつよ。孫の可愛さが分からぬうちは損をしておるぞ……」

 

 妖忌は煩わしく感じる。少し心が乱れていることもある。彼はふうぅと静かに息を吐く。

 

「……」

 

 今度は彼が踵を返した。塚原も山門に向かう。互いに背を向け合い、後に残っているのは只々、咲き誇る桜と、舞い落ちる雪だけだった。

 

 

 

 

★☆★

 

 暖かな日であった。冬を超えてやっと春を迎えた今日のころ。少し探せば蝶すらも遊んでいる。そんな白玉楼の庭でのことだった。

 そこにいるのは白髪の老人であった。刻み込まれた皺と刀傷が彼の経歴を語らずとも描いている。彼はじっと庭先で刀を振る少女を見ていた。その女の子は小柄で髪は彼同様に白い。

 体つきは細いが刀は長い。既に何度振ったのか、彼女の顔には汗がびっしょりと張り付いている。老人は彼女から眼を離すことはない。それで緊張していることもあるのであろう。

 

「大変ねぇ……」

 

 そう他人事のように呟きながら縁側に座るのは桃色の髪をした女性であった。おっとりした顔つきだが、肌は透けるかの様に白い。せんべいをぼりぼり食べているのが玉にきずである。老人は彼女をちらりと見てから、弟子を眺める。

 

 己の剣筋を一生懸命にまねようとする少女。足さばきが甘い、力の入れ具合も何もかもが甘い。それなのに老人はある種満足の様な物を感じていた。

 日々、この少女は少しずつ成長していく。そして老人には彼女のどこがよくなっているのか、手に取るようにわかる。それは自分を鏡で見ているかのようだった。

 自らが何かを為す訳でもなく。己の技量を追い越そうとする者を眺める。それが老人には柄にもなく楽しい。

 

 ――孫の可愛さが分からぬうちは損しておるぞ

 

 ふと、いつぞやの者の声が聞こえた気がした。遠い、遠い昔の話である。

 だがふっと老人は微笑んだ。それを刀を振っている「弟子」が目ざとく見つけて、びくーんと硬直する。笑ったところを見たのは初めてである。何かおかしいことをしたのだろうかと彼女は眼で問う。

 だから老人は返す。

 

「よい、続けよ」

「は、はいぃ」

 

 少女は実はへろへろの体にむち打ち、刀を振る。

 数日後老人は頓悟し、何処かへ去ることになるが、今は三人桜の花舞うここで。

 

 



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遊ぶ程度の話

 とある神社でのことである。

 その日はいつものように数人の子供達と宗次郎は遊んでいた。

 

「だーるーまさーんがー」

 

 大きな楠の前で両手で顔を隠している青年は宗次郎である。彼は袴と粗末な着物を付けている。その後ろからじりじり近づいているのは、彼とよく遊ぶ子供達であった。それぞれ歳は十前後だろう。

 宗次郎はゆっくりと「こーろん」と言う。それでも子供達が一気に近づかないのは宗次郎の手を知っているからである。

 

「転んだ!」

 

 一気に早口になって宗次郎は振り返る。そこには動きを止めた少年少女が笑いをこらえた姿で「止まっている」誰も引っかからない。なんど遊んだことか分からないのである。手の内は知り尽くしている。

 宗次郎はそれでもニコニコしながら見回す。子供達は四人。男の子が三人と女の子が一人である。彼はじっくりと見回してから、もう一度楠に視線を戻そうとして、振り返る。子供達は止まったままである、そんな「誘い」に乗って動いてしまったことはいくらでもある。

 いまさら引っかかるものはいないだろう。仕方なく宗次郎はまた口上を言う。

 

「だーるーまーさんが」

 

 子供達が近づく。

 

「転んだ!」

 

 足音で間合いを測る宗次郎はすばやく振り返る。だが彼に「鍛えられている」子供達は止まっていた。男の子が一人、一番手前にいる。その後ろに他の少年。一番後ろに女の子が二人。一人は青い髪に髪飾りをしている。

 

「おや?」

 

 宗次郎は一人増えている気がした。一番後ろにいる少女。

 青い髪が風に揺れて、何故かわからないが顔をぷくっと膨らませている。息を止めているのであろう。体だけ動かさなければこの遊びは成立するのに、可愛らしいことである。

 宗次郎は気にしない。くすくすと微笑んで。また、後ろを向く。

 

「だーる」

 

 ダダダダダダダダダダダダダダ

 勢いよく迫る足音。宗次郎はギラリと眼を開ける。

 

「まさんがころんだ!」

 

 早口で良いきり、くるっと振り返る宗次郎。迫りくる青髪の少女、それにつられて一番前にいた男の子も走って来る。そこを宗次郎に見つかってしまっているから、彼らは負けているのだが、止まらない。

 

「あたいのかちだぁ!」

「なんだおまえぇ」

 

 少年と少女が張り合いながら宗次郎に迫る。彼は眼をぱちくりさせて、避けたら子供が楠にぶつかるととっさに分かった。その場で腰を落として構える。その胸に二人の子供が突進した。がつん、と宗次郎のお腹を小さな二つの頭が打つ。

 宗次郎は辛うじて二人を抱え込むことができた。

 

 ★☆★

 

「やだなぁ。だるまさんがころんだで捕まる覚悟で走って来る人は初めてみたよ」

 

 宗次郎達は神社の社殿、その傍で車座になっていた。彼の傍には竹の皮で包まれた何かが置いてある。子供達はその中身が何なのかいつものことで知っているのだが、意地汚いので自分からは言わない。

 それとは別にさっき突っ込んできた少年と少女が何か分からないが言い争いをし始める。

 

「だってこいつがあたいを押そうとするから!」

「お、お前だろ!」

「こらこら」

 

 喧嘩を仲裁しながら宗次郎はにこにこしている。元気のいいことは、とても素晴らしいことである。彼は二人の頭をちょっと撫でて、言い聞かせるように言う。

 

「喧嘩をしているとおまんじゅうをあげませんよ」

「「!?」」

 

 ちらちと少年と少女が目で合図し合う。こくりと頷いて青髪の彼女が言う。

 

「休戦ね馬鹿」

「なにっ! 男に向かって言ったな!」

 

 目の合図は何の意味があったのか、またぎゃーぎゃーと言い争いを始めた。宗次郎は苦笑しつつ竹包を取る。開ければ小さなおまんじゅうは数個入っている。彼は喧嘩している二人を無視して手前にいた緑の髪の少女に渡す。

 おとなしそうな印象の少女で髪を側頭部でまとめている。小さなお礼をいい、彼女はおまんじゅうをもらう。宗次郎はこんなこいたかな、と思ったが気にしない。頭を撫でて「良い子ですね」と優しくささやいてあげる。

 他の子にもおまんじゅうを渡す。すると残りは一個になってしまった。もちろん喧嘩している二人には渡していない。人数分用意したはずであるが何故か計算が合わない。ちなみに宗次郎も食べられそうにない。

 

 それでもいう。

 

「二人が喧嘩していると私がたべますよー」

「あっずるい。それあたいの!」

「そ、宗次郎兄ちゃん!」

 

 男の子はぼろぼろの顔と涙声で言う、劣勢だったらしい。いつの間にかつかみ合いになっている。

 

「男子たるものが泣いてはいけませんよ?」

「だっでじるのが!」

「じるの?」

 

 どうやらこの少女は「じるの」と言うらしい。妙な名である。その青髪の少女は「あたいがさいきょーよ」と謎の言葉を言っている。

 

「仕方ないなぁ」

 

 のんびり宗次郎は言いながらおまんじゅうを二つに割る。中の餡子が見えて、もちっとした生地が裂ける。彼はそれを二人に片方ずつ渡す。

 

「さ、仲直りのしるしに食べましょうか」

「あ、あたいの方が小さい! そっちが……」

 

 まだ何か言い募ろうとする少女に宗次郎は微笑む、にっこり。ただ、何故か少女はびくっと体を強張らせた。何故かわからないがとても怖い。他の子どもたちはこの「宗次郎」が怒れば手が付けられないことを知っているので戦々恐々としている。

 緑の髪彼女はおろおろするばかりだ。

 

「食べましょう?」

「う、うん」

 

 一件落着。

 

 ★☆★

 

 神社の近くにある竹藪の中で鬼ごっこ。鬼は青い髪の少女である。

 

「よっしゃー! つかまえたー」

 

 遠くから誰かが捕まった声が聞こえる。宗次郎はくすりとして、しゃがみこむ。ちょっとした岩の影に身を隠している。近くには緑の髪の少女が付いてきている。何故か彼が気に入っているのであろう。

 

「それじゃあ少し隠れていようか?」

 

 こくりこくりと緑の髪の少女は頷く。その後ろには金髪でまるで栗みたいな口をした少女が増えている。宗次郎は異人の子供かな、と驚いたがまあ遊ぶだけだと思い直した。

 

「ここまで来れば平気かしら」

 

 栗のような口の少女が言う。髪を左右でねじっている。縦ロールなどという言葉を宗次郎は知らない。

 

「し~」

 

 代わりに彼は指を彼女の唇に持ってくる。ぴたりとつけて、自分の顔の前でも人差し指をたてる。静かにという事であろう。金髪の彼女も頷く。

 

 

 竹のざわめき。

 響く子供の声。

 宗次郎はたまらく好きな物を楽しんでいる。

 

 ふと、彼の裾を引っ張るものがいる。「緑か金か」と彼は諧謔を込めて思い、振り向くとそこには黒髪で前髪をパッツンにきった少女が一人。

 

「あいつがちかづいてくるわ」

『どこだー。あたいがみつけてやるぞ!』

 

 黒髪の彼女は真剣な表情である。おもわず宗次郎は吹き出してしまう。真剣に遊ぶことが彼にはとても愛らしく見えた。さっきまでいなかったなど、どうでもいい。

 

『そこか!!』

 

 ダダダダダダダダダダダダダダ。勢いだけのダッシュ音が聞こえる。宗次郎はそっと岩陰から覗くと青髪の少女が後ろに男の子三人を連れて向かってきている。ガキ大将だな、と彼は笑う。近藤の様だ。

 

「こっち! こっち」

 

 宗次郎は立ち上がって竹藪を走り始める。その前に岩陰の二人には動かないよう言っておいた。囮である。

 

「いたっ!」

 

 青髪の少女は一直線に宗次郎へと向かう。

 

 ★☆★

 

「増えたなぁ」

 

 竹藪を小一時間走り回り宗次郎は神社の境内に戻った。両脇に青髪の少女と新たに増えた赤いリボンで左右の髪を結んでいる少女を抱え込んでいる。二人は足をじたばたとさせている。

 鬼が捕まっているので彼女達が何か「悪い事」をしたのかもしれない。宗次郎の後ろにはぞろぞろぞろぞろと子供達が続く。楽し気な雰囲気につられてきたのだろう。宗次郎はおかしさで口元がにやける。

 最近の子供はとても元気がいい。彼は「捕獲した二人」を下ろして、次は何をしようかと考えていた。空を見れば青い蒼穹に入道雲。蝉の声が聞こえてくる。さっきまで夢中で気にしていなかった。

 

 疲れたのか、あたりの音がよくわかる。

 だから宗次郎には境内の鳥居をくぐった男が見えた。まるで現実が呼びに来たかの様に彼には感じられた。それを見た宗次郎は子供達を先に遊ぶようにただして、境内の広場に向かわせる。わぁーと走っていく子供達の中で緑の髪の少女は一度宗次郎を振り返る、何故か寂し気な顔をしている。

 

 宗次郎は手を振って「すぐ行く」と伝える。

 男は黒い服装をしている。陣笠を深くかぶり、羽織を着ている。刀を差していることから武士である。いや、宗次郎の知り合いなのだった。その男は彼を見つけるとゆっくりと歩いてくる。たまに見える表情は固く、瞳は暗い。

 

「ああ、山崎さん」

 

 あえて明るく手を振る宗次郎。彼はにこりともせず、近づくと単刀直入に言う。

 

「古高が情報を吐きました」

「そうですか」

 

 なんでもよさげに宗次郎は返す、山崎はさらに言う。

 

「屯所へお戻りを」

「……わかりました」

 

 宗次郎はうっすらと笑ったままだった。

 

「もうすぐ祇園祭なのに、公務ですね」

「……連中は京を火の海にしようとしています」

「ああ……それは」

 

 宗次郎は山崎の顔を見る。静かな瞳。見る者を身震いさせるような冷たい顔。彼のもう一つの顔だった。本当に冷たいのではない。何かを為すためにそんな顔をせざるを得なくなったのである。

 

「斬らないといけませんね」

 

 温度の無い声で言う。宗次郎は一度子供達を振り返った。

 広場で遊ぶ四人の少年少女。それだけが見えた。さっきまでいた少女達はどこに行ったのだろうか。まるで幻想の中に消えたかのようにいなくなっていた。それを今いる子供達も気が付いていないようだった。

 突然現れた彼女達はもう、いない。

 不意に宗次郎は悲しそうな顔をする。

 

「どうされましたか」

「いえ、寂しいなぁ。と思って」

「は?」

「なんでもありません。さあ、いきましょう、か。ごほ」

 

 宗次郎は片手で口を押える。山崎は「風邪ですか?」と聞く。

 

「そんなところですね」

 

 短く答えて宗次郎はもう一度子供達を見る。

 最初からいた、少女が一人こちらを見ていた。彼女は彼にむかって手を振っている。こっちにおいでと言っているかの様に。

 

「ごめんね」

 

 宗次郎は踵を返す。

 




数十年後とある老人が宗次郎のことを「司馬」という作家に残した。

彼は神社で良く子供達と遊んでいたという。自分もそこにいたのだと、彼女は言った。

記憶のかなた、彼女は自らも子供の時、多くの子供達とあそんだのだろう。

大人になった彼らがどこにいったのかは、彼女にもわからない。


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土産を作る程度の話

※語り口調です


 からころ、下駄の音。高らかに狸一匹、歩いていく。

 舗装された道路に馬車が奔る。周りを見れば散切り頭に西洋服。少し前とはちょっと違う。そんな中で狸一匹、キセルをふかす。ぷかぷか浮かぶ白い煙。風に流れるのは栗色の髪もおんなじ。

 人は多い。両側に煉瓦造りの建物がずらり、ずらずら。がたんがたんと音がする。どこから聞こえてくるか分からない。狸は少し止まって首をひねる、緑の着物の袖に片手を入れて考える。

 

 狸一匹名前がある。まみぞうという。なかなかの美人だ。

 この狸、田舎者である。いつもは遠い北国のさらに北の孤島に住んでいる。いい場所であるのだが、今日は何故だがこの南に人間の都にやってきたくなった。最近様変わりしたと聞いて、そこに暇もお手伝い。のこのこやってきたという訳である。

 見れば草々。人々が行き交う、江戸の町。おっとと狸は思う。いやとまみぞうは思う。江戸はない。東京という。街灯が立ち並ぶ奇妙な日本の街がそこにある。この狸、どこにいってもほうほう、ほうほうと感心しきりの眼を輝かせっきりで、とてもとても歳相応には見えやしない。

 

 狸。むしゃむしゃパンを食べる。初めて食べるそれに戸惑いもあるが、食べてみれば中から餡子が出てくるではないか。ほっとしつつ、狸はぺろり。指を嘗めて、次はなにかのう、と葉っぱをお金に変えてみる。その点、狸はずるい。

 狸。石造りの橋を渡る。これには眼をぱちくり、ちょっとジャンプ。しっかり着地したもんだから、狸と来たらほうほうと頷く頷く。下には大きな川が流れて、遠くを見れば黒い蒸気をだしている大きな船。まみぞうは片手をおでこにあてて遠くを見る。

 狸。立派な時計塔を見上げる。それは時を静かに刻んでいる、できればこの狸飛んででも近くで見たいか、そりゃにゃあ人が多い。ここで狸とばれたら大変、一大事。まみぞうは仕方なくしょんぼりとがっかり。

 直ぐに顔を上げて、にこにことどこかへふらふらと歩いていく。落ち込んでいたら楽しい散策が短くなるってもんだ。

 

 ふと、狸。道が分からなくなる。とはいっても永い永い狸生、迷うことくらいはしていないと退屈で死んでしまう。ただこの狸と来たら、よっこらしょと道の端に腰を下ろしてキセルを吹かしながら人間様の観察ときた。

 大勢の人でにぎわう天下御免の大通り。馬車も走れば人も走る。後ろにあるは赤煉瓦の棟。銀行だという、金のありそうな名前は狸の興味をそそっている。

 ふと、奇妙な男が一人。

 歩いている、いんやいや。なにやら奇妙な乗り物にまたがっている。車輪が二つついた、ああいわゆる自転車ってやつだ。狸はがばりと立ち上がり、向かってくるそれに興味津々。

 自転車は前輪だけが妙にでかい。後ろは後ろは小さくて可愛らしい。男は西洋服をはおり、頭に丸帽子。男は皺の刻まれた年寄りでそれなのに首元の蝶ネクタイは皺もない・

 狸はすっすっと近づいては、ちょいとそこ行く人と声を掛けたもんだから、男は自転車を止めて器用に止まる。この狸、見た目は麗しい。話しかけてくれりゃあ嬉しいってもんだ。だが男は意外と響きの良い声で、何かなと上品に答える。

 まみぞうはそりゃあなにかの、と聞いてみると男はにやり、乗ると分かるといいやがる。見た目若い女性をからかいたいって気もちもあるだろうが、そこは狸ほーうとにやりと笑う。わしをなめるなよと顔が物を行っている。

 

 狸はぎーこぎーこと自転車をこぐ、わわわと焦りながらも辛うじて前に進む。後ろで男はにこにこ、歳を喰っているのは男とて変わらない。人の慌てる姿はけっこうおもしろいって顔である。これにゃあ狸もむむって顔をする。

 まみぞうは自転車のハンドルを切ると、よろよろと建物の陰に入っていく。男がちょっと慌てて追ってみれば、路地裏にはだれもいやしない。あ、と驚いた男はきょろきょろ探してみれば、ばあと真後ろに狸の顔。

 おおう、と驚く男。狸も男もいい歳だってのに何をしているのか。それでもなんでか笑いあっちまったんだから仕方ない。狸はちょいと妖怪として消えてみて、ちょいといたずらを仕掛けみたってことだ。

 狸はすまぬすまぬと笑いながら自転車を押して返す。これは少し持って帰れそうにはない。男は笑いながら受け取る。そんでやっとこれは自転車というと教えてくれたってんだ。狸はほうほうと記憶している、楽しい思い出が一つ増えたからごきげんだ。

 

 まみぞうは男に世間話。江戸も変わったのう、としみじみしながら言ってみる。男は、そうでしょうという。並んで大通りを見ればやはり人は多い。江戸の町が東京に変わってから以前よりも多くの人がやってきたという、誇らしげで悲し気な不思議な声音でだ。

 男はもう少し言う。いろいろとありましたと、年寄りの私にはこうやって街を眺めているのが一番いい。そんな風にしんみりしているもんだから狸は吹き出した、爺さん手前の男が自転車なんて珍妙な物を乗り回しているのだ。柄じゃあない。

 まみぞうはころころ笑い。いやいや、まだまだおぬし殿は長生きできそうじゃと、どれ極楽へ行く前に山ほど土産を買いこんでいくとよい。とちょっと自分の見た目の若さを考えていない。

 男はにこりと笑って、それはいいと言うもんだが、なんでか遠くを見ながらこう言った。だが、私は地獄行でしょう、と。狸はぴくりと眉を動かしながらそりゃあなんでじゃ。と言う。男は狸を見ながら優しく語りかける。

 今のこの国は多くのいなくなった者たちが残してくれたものです。

 そして私は彼らの多くを裏切った。

 先に逝った全ての者が私を待っているのです。

 

 狸は笑いを納めて、こう言う。少々考えることもあるが、それよりも言いたいことがある。

 ごたごたが続いたからの。いろいろと合ったのじゃろう。なに、地獄とていいところかもしれん。儂も多くの人やようか……いやいや、いろんな死を見てきたが、あやつらの多くが居る場所ならきっと楽しいじゃろう。意外と地獄に都でもできておるかもしれん。なーに地獄に落ちるようなものは一筋縄ではいかぬ、鬼どもも手を焼いておろうて。

 男は狸と並んで答える。

 ああ、それは素敵だ。住めば都と言いますが、地獄も都に変わっているのなら早く行きたいものです。もしも、まだ変わっていないのなら私も努力しましょう。こんどはうまくできるかもしれません。

 狸はいつのまにやらキセルをふかしている。

 そうそう、そうじゃのう。それならうんとこの世で土産を買いこんでおかねば損というやつよ。土産話はいくら積み込んでも軽い物。もっと世を楽しんでいくが良い事よ。この世を楽しみつくしながら、あの世を楽しむ方法をじっくりと練り上げながらのう。時間はあるのじゃから。

 

 馬車が彼らの前を通っていく。土煙が殆ど上がらない舗装の道路はやはり便利。文明開化の石畳の上に二人の影が並んでいる。

 男はゆっくりと眼を閉じてから懐に手を入れる。取り出したのは印籠一つ。時代遅れもいいところの「三つ葉葵」紋が入っているから、狸はちょいと驚いた。男はそれをぱかりと開けて中からころころ取り出したのは黒い小さな板のようなもの。

 これはチョコです、男はまみぞうに差し出し、土産話にどうですかと渡してみる。狸はチョコなんぞ知りもしないが、にやりと笑って受け取るとカリっと噛んだ。口の中に広がる甘味にびきき、と肩を突っ張らせてほっぺたが落ちそうになってるから、可愛らしい。

 

 不覚不覚。と狸。印籠にチョコをいれるのもこの妙な男だけだろう。

 印籠と来たら薬をいれるか水戸の黄門が全国行脚で使う脅しの道具と相場が決まっているってのに、時代は変わったものだとまみぞうは唸る。横では男がチョコを噛みながら、黄門様のようになりたかったですね、などと言っている。

 

 そんなこんなで妙な土産話を一緒に作った二人。

 まみぞうはもう少しこの場で人を見たい、だから男は会釈をしてまたお会いしましょうと礼儀正しく言ったもんだから、狸もぺこりと頭をさげる。

 

 ぎこぎこ音を立てながら男は人ごみに消えていった。

 狸はそれを見送ったってだけの話さ。

 

 

 

 

 



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他愛のない程度の話

 三途の川は緩やかに流れている。

 深い霧と遥かな昔から変わらない優しいさざなみ。この世とあの世の狭間で流れていく緩やかな時間。

 そこに船が一艘。

ぎこぎこと船頭が櫂(かい) を器用に操りながら進んでいく。意外にもその船頭は可愛らしい少女である。紅い髪を二つ結びにして、蒼い着物を着ている。ただ袖が短い、それは動きやすいようしているのだろう。そんな彼女は死神であった。今はただ、静かに死者をあの世に連れていく途中なのだ。最近は死神も忙しく、彼女の様な別の地域の彼岸の担当もこうやって応援に来なければならないほどに此岸は忙しい。

 

「それで、おまえさんはなんていうんだい?」

 

 ぎこぎこ漕ぎながら死神が聞く。見れば船に男が一人。着流し姿でだらしなく座っている。体つきは細く、髪はざんばら。抱えた三味線を手で撫でながらうっすらと笑っている 

彼は死神を見る。

 きらりと光る眼光と穏やかな笑み。激しさと諧謔の入り混じった表情は彼の人生そのものだった。ただ、もはや昔のことである。

 

「僕の名前かい?」

「……僕? ああ、最近はやりのあれ」

 

 死神はうんうんとゆっくり頷く。最近では「僕」という一人称が流行っているらしい。男もそれを使っているのだろうと思った。どうやら人間の世の中はかなり変わってきているらしい。そのせいで死神も忙しい。

 とはいってもこの赤毛の少女は別に構わない。死者と話すことは彼女のやりがいでもある。男は船から手を伸ばして、川の水に触れる。冷たい。だから一応死神は注意する。

 

「ああ、だめだめ。落ちたら命は……ってもうないね。どちらにせよ船の上でゆっくりしているのが一番さ。そろそろ名前くらいおしえてくれてもいいんじゃないかい?」

 

 男は手をぱっぱと振って水気を払い。少し考えてふっと笑う。

 

「春風」

 

 短く答える。嘘はついていない。死神ははあ、と感心したような呆れたような顔をする。

 

「そりゃあまた、風流な名前だね」

「そうだろう。父母には迷惑を掛けっぱなしだったが、多くの物を貰った。名も気に入っているよ。それで姉さん。あんたの名前はなんていうのかな?」

「あたいかい? 小町っていうんだ。いい名前だろう?」

「いい名だ」

 

 春風は静かに言って目を閉じる。小町は櫂を漕ぐ。ちゃぷちゃぷとゆったりと船は進んでいく。彼の生きた場所から離れていく。それが悲しいかどうかは彼にもわからない。ふと彼が「来た道」を振り向けば深い霧。その向こうに彼のいた「場所」はあるのだろうか。

 船の残した波。水面に浮かんで消えていく。

 そんな中で彼は三味線を鳴らす。

 春風は船に合わせるかのように軽快な音を奏でる。聞いているだけで楽しくなって来るかのような音である。小町も「おっ」と嬉し気な声を出す。三途の川を三味線を奏でながら行くのも悪くはない。

 どうせ急ぐことはない。現世とは違うのだ。

 

「お姉さん」

 

 男は弦をはじき、聞く。うっすらと笑っている。小町は軽く返す。

 

「なんだい?」

 

 春風はくすりとした。

 

「少し、聞いてくれ」

「ああ、聞いてあげよう」

 

 小町は死者の話を聞くことが好きだった。この男が何をして生きてきたのか、それも知りたい気もする。春風は三味線を緩やかに弾きながら、まるで唄うように小町に語り始める。低い声、それでいて耳に心地よい芯の籠った声だった。

 

「僕は今日やっとここに来ることができたいつも思っていた場所だったが、中々行き方が分からなかった。そのくせ周りは先に行きやがるから、実に困った。勝手に仕事を放り出して眠っていく連中のことが恨めしくて仕方がなかった。仕方ないから僕が代わりにやることになったよ。」

 

「ああ、あの義助の馬鹿め。この入江の馬鹿め。何故ここにいない。ちくしょうめ。俊輔ののろまを見習え。そんな感じで悪態はどれだけついたことか。よく覚えてないくらいだ。いや、口に出す暇もなかったかもしれない。とにかく忙しかったなぁ」

 

 春風はべべんと三味線を鳴らす。ただ喋っているだけのようでいて、何かの物語をしているようでもある。小町は口を挟まない。櫂を静かに動かしている。しかし、彼女に春風は問いかける。

 

「お姉さん」

「あいよ」

「この川は。三途の川はどれだけ昔から流れているんだろうか?」

「さぁね……あたいも分からないくらいずっと、ずっと昔じゃないか」

「この水はどこから流れてきているんだろう?」

「さぁね。ずっと、遠くからじゃないか」

 

 春風は他愛のない疑問を口にしては微笑む。過行く時間をなんとなく楽しむかのように。彼はもう急ぐことはない。あれだけ急いでいたのだから、少しくらいは昼寝でもしているか、三味線でも弾いていたい気分だった。

 ただ、少し気になることがある。

 

「お姉さん」

「はいはい」

「ここに子供のような人は来たかい?」

「子供? そりゃあ河原で石でも積んでいるんじゃない?」

「ちがう。子供の様なひとだよ」

 

 小町は首を傾げた。要するに大人気ない人が来たかと聞かれているとすぐにわからなかった。冗談かと思ったが目の前の春風は三味線を弾く手を止め、少し真剣な表情をしている。彼女はふと空を見上げて思い出そうとするが、よくわからない。だから隠すことなくいう。

 

「悪いね。よくわからないよ」

「そうか。……その人の話を少ししてもいいだろうか」

「いいよ」

 

 軽く許してくれた死神に苦笑しつつ、春風は何かを思い出すかのように眼を閉じる。そしてまた音を奏でる。

 

「その人は、まあ子供がそのまま大人になったような人だった。純粋で真っ直ぐでね。普通思っていても言わないことをすらりと言うから……ま、大変だったよ。そのくせ人のいいところを見つけるのがうまくてね。誰彼となく褒めるからそれも大変だった」

 

「だから、大勢がその人の周りに集まった。みんなその人が好きで堪らなかった。みんなの先生のくせにその人は、私は教えるなんてできない共に学ぼう。なんていうから、忘れることができないくらいにいろんなことを覚えてしまった」

 

「その人はある時から死にに行く道を歩き出した。不思議だった。分かる、ああこの人はいずれ死ぬだろうと。分かってしまったからと止めても止めきれない。誠実にあの人は死に向かって歩いて行った。その人はそのまま先に行ってしまったよ」

 

 春風はさざなみの音に耳を澄ませる。船の周りには白い霧が浮かんでいる。

 

「……この船が向こう岸についたら、あの人は待ってくれているだろうか? 僕はあの人に話すことはあるだろうか?」

 

 彼は小町を見る。この死神の少女はちょっと瞬きをしてから、にやっと笑う。

 

「あたいはね。こうして送ることを永い事続けてきたさ。だから今までいろんなやつの話を聞くことができたから言うけど、あんたは大丈夫なんじゃいかい? なーに死んでからも永いんだから、ゆっくりしていきな。こっから先は気張ることはないよ」

「てきとうなことだなぁ」

「仕方ないさ。あたいの性分だから」

 

 けらけらと小町は笑う。つられて春風もくっくと苦笑する。彼はしばらくしてから笑いをおさめてからすうと息を吸う。冷たい空気が肺に流れ込んでくる。そして彼は「あの世」の空気を吸っていることに気が付いてから皮肉の様でもう一度くっと噴き出した。 

 春風は頭を掻きながら、彼は目の前に広がる霧を見つめる。

 船は静かに進んでいく。急ぐことはなく、止まることもない。

 振り向けば「居た世界」。前には「行く世界」。死だとか生だとかは、実際に死んでみれば大したことはないのかもしれない。そう春風は思う。少なくとも死神と他愛のない会話をするくらいは「死」も楽しめる。

 

「すみなすものは……か」

 

 彼はこれからどこに向かうとしても、もうどうでもよかった。

 

「おもしろいのう」

 

 そう、どこからか流れてきた風に言葉を載せる。

 船はぎこぎこと進んでいく。二度と彼は戻らない。

 

 

 

 

 



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呪い殺される程度の話 前


※前後編です。主人公が誰で、どこにいるのか分かれば。後編の流れが分かると思います。



 

 

 夏のとある日。集落の見える丘の上である。

 耳に響く蝉の声。

 風が頬を撫でる感触。

 木々の騒めき。

 

 少年は切り株の上に腰掛けていた。武士の子供だろうか、平服ではあるが腰には大小の刀を差している。ただその小さな体には似合わない。眼は爛々と光り、虚空を睨むその表情にはどこか威厳の「種」のような物があった。

 遠くで鳥が鳴いている。ピィーと伸ばしたような声。

 信州の山奥であるから珍しくもない。少年は別にどうという反応もせずに動かない。

 彼の名は「四郎」という。その名のとおり四男である。父はこの国と隣国の国主であり、この世でもっとも名高い武将の一人である。それは四郎の一生を重圧の下に押しつぶすことになるが、彼はまだその苦難を知らない。

 考える余裕もなかった。そもそも彼は父のもとにはいれなかったのだ。理由はあるだろう。政治的にも家政的にも原因は求められる。だが、少年が感じたことは単純だった。親に愛されていない、どうしようもない淋しさだけが彼にはある。

 そして母も死んだ。つい最近のことである。彼女も四郎と同じく「父」から捨てられたも同然で遠ざけられた。つまりは親子で父親から離されてしまった。

 四郎は無表情で虚空を睨んでいる。泣くことはしない。理不尽なほどの寂しさと叫ぶ出したいほどの不遇があろうとも、聞いてくれるものなどいない。だから彼は一人ここに座っている。

 

「だーれだ」

 

 四郎は後ろから眼を抑えられた。子供らしくびっくりした彼は妙な悲鳴を上げて、後ろを向こうとする。しかし、後ろの「彼女」は四郎の頭を抱くようにして離れない。四郎の鼻を甘い匂いがくすぐる。

 

「ぶ、ぶれいもの!」

 

 かろうじてそう抗議する。実際無礼であろう。一応は国主の血縁者である。必死にふりほどくと勢い余って四郎は転げた。ごろりと草むらの上に転がるが、直ぐに膝をたてて刀を構えようとして、腰にないことに気が付く。

 転げた時にするりと抜けて鞘ごと地面に落ちたらしい。やはり体にあっていないのだ。

 四郎はバクバクとなる心臓を右手で掴み、前をきっと睨む。後ろに居た物を確かめようとしたのだ。彼女はいた。

 

 金の髪が陽光で光る。紅い紐で顔の両側で結わえている。それがゆれる。

 にっこりと四郎に微笑みかける彼女。頭に被った妙な目玉のような飾りをつけた市女笠の縁を掴んでいる。

 

「や! 四郎」

 

 そう軽快な挨拶を諏訪子はした。しかし当の少年には心当たりがない、ただこの世の者とは思えない姿に一時当惑したが、元来誰よりも真面目に武士の子たろうとしている彼であるから直ぐに立ち上がる。

 

「……何者であるか。俺を誰か分かったうえでの狼藉であろうな」

「うん」

「うん……貴様! お、おれを馬鹿にしているのか」

「いーや」

「く、く、くそ」

 

 四郎は顔を真っ赤にして怒る。まるで感情があふれてくるかのようだった。誰からも大切にされていない劣等感と無様に転げた情けなさ、それが剥き出しの怒りになった。

 ただそれを見ても諏訪子はくすりといたずらっぽく笑い、その瞳で彼をまっすぐみる。金色の瞳に四郎が真っ直ぐと映る。可愛らしい唇をにやりとさせた彼女は思いもよらぬことを言う。

 

「いろいろとたまっているようね。よーし、相撲とろうぜ!」

「あ!?」

「おんやぁ? 四郎はこんなか弱い女の子にも相撲で勝てないのかなぁ?」

 

 挑発するためだろう。諏訪子はわざと横を向いて馬鹿にしたようにくすっと笑う。それが四郎の感情のタガを完全に外した。

 

「な、なめるな!」

 

 とびかかる少年。眼は血走り、幼いながらに鍛えた両腕に力を籠める。このまま押し倒して殴りつけてやろうとした。しかし、諏訪子は向かってくる彼に構えて。タイミングよく張り手をくらわす。

 

「げっ!」

 

 妙な声を上げて四郎は転がる。少女とは信じられないくらいに力が強い。

 諏訪子は両手を腰に当ててあっはっはと高笑い。

 

「あはは。年季が違うぜー。こちとら神代からやってるんだから」

「……がああ!」

「おっいいね」

 

 それでもなお向かってくる四郎ににんまりする諏訪子。ぱんと両手を鳴らして腕を上げる。そうしてわざと隙をつくる。

 勢いよく腰に抱き付いてくる四郎。だが諏訪子はびくともしない。それどころか彼の腰を掴んで放り投げる。地面を転がる彼だが、直ぐに起き上がって突進する。それを律儀に諏訪子は受け止め。

 

「どっせーい!」

 

 容赦なく放り投げる。一瞬の宙に浮いた四郎の体。そして直ぐに地面に落ちる。

 ここまで来れば彼とてわかった。この少女は人間ではないし、尋常の力ではない。それでも彼は上着を脱ぎ、肌を出す。ぺっと唾を吐き。にやにやとしている諏訪子を恐ろしい目で睨む。

 男である。意地があるのだ。

 

「もう、手加減せぬぞ!」

「おおーう。のぞむところよ」

 

 諏訪子は途端にニコニコしながら四郎に答えてあげる。しかし、全力で突進してきた彼を情け容赦なく地面に転がす。四郎は四郎で諦めることなどない。力の続く限り彼は少女へ挑み続ける。

 それでも諏訪子はころころと四郎は転がしては「もう一丁」などという。

 

 ★☆★

 

 夕焼けに空が染まる。

 四郎は地面に転がったままぐったりしていた。指一本動かす力などない。ただ口では。

 

「まだ……まだ……」

 

 などとうそぶいている。ただ全身汗にまみれ、息が荒い。体中に重りでも括り付けているかのような疲労感を生まれて初めて味わった。しかし、諏訪子と来れば先ほどまで四郎の吸っていた切り株に腰掛けてにやにやしている。

 夕焼けに彼女の頬が光る。楽しいと顔に書いている。

 

「修行が足らないようね」

「……ばけ……ものめ」

「あら、ひどい言われよう。失礼しちゃうわ。これでも私は神様なんだけど」

「お前様な……神がいるもの」

 

 四郎は悪態を止めない。疲れ果てていても妙に真面目に強がる。両手を大きく広げて、大の字で寝ている。自分は強くあらねばならない、彼はもっと幼いころから誰に言われるでもなく思っていた。

 鴉が鳴いている。

 諏訪子は立ち上がりつかつかと彼に寄る。そして寝ころんでいる彼の真上で腰を折り、覗き込む。四郎の前に優しく微笑む彼女の顔。思わず少年は息を止めた。美しかったとは口が裂けても言えまい。 

 諏訪子はすっとしゃがんで正座する。四郎の頭のすぐ上に両膝をそろえた。そして彼の頭を両手で鷲掴み。ぐいっと引き上げる。妙な悲鳴を四郎が上げても気にせず、彼の頭をそろえた膝の上に載せる。

 そのまま優しい手つきで顔を撫でる諏訪子。

 と、思いきや直ぐに両頬を摘まんで横に伸ばす。

 

「ひゃ、ひゃなせ」

「あははは」

 

 透き通るような笑い声。彼女はさらにうりうりと少年をからかう。だが四郎は不思議と悪い気はしなかった。一日中暴れまわったからだろうか、少し眠い。膝の感触が心地よい。

 諏訪子はまた彼の顔を覗き込む。次はなんのいたずらを仕掛けようか、そんな顔だった。しかし、諏訪子は空を見た。

 夕焼けがオレンジに染めた空。黒い鴉が飛んでいく。

 上を見上げたまま、諏訪子は呟くように言う。

 

「一人にしないでってさ」

「は?」

「四郎のことを頼まれたんだよ。普段はあの女をたててやってるけど、御指名ならってことで」

「何を……言っているんだ」

 

 諏訪子は四郎の顔を両側から手で包んで、ぐいっと覗き込むように顔を近づける。彼の瞳に映る自分が見えるくらい近くに。静かな夕方に蝉の声。夜になるまでに鳴いてこうというのだろう。

 

「いいお母さんを持ったよ。死ぬ間際に私に聞こえるくらい強く、四郎のことを念じてくれたからさ、ここにきたんだ。まっ、血縁ってのもあるけどね」

「母上が……? お前を?」

「お前とは失礼だなー。年長者は敬うべきだぜ?」

「……い、いらぬ!」

「お?」

 

 四郎はもがく。

 諏訪子の言うことが本当であれば、彼の母親が死に際に残した「祈り」がこの自称神に通じたのだろうが。だが、四郎はそれに反発した。

 

「お、おれは武士の子だ。母上にも、そこまで心配されるようでは情けない。俺は一人でもやっていける!」

「わかっていないね」

「なんだと。何が、何が分かっていない」

 

 四郎は眼をいからせて諏訪子を睨む。既にこの少年の行動原理はこう、なっている。

 母親も死に。実家もなく。父親にも遠ざけられた彼には「強くあろう」とする心が強い。それは孤独に向かうもの。誰かの情けも祝福も受け取ることができず。自ら切り開いた物にしか信じることができない。哀れな心。

 諏訪子は彼をやさしく見下ろして、髪を撫でる。それを煩わしそうに払う四郎にくすりとする。可愛いものである。

 

「わかっていないよ。私は神さまは神様でも由緒正しき祟り神よ?」

「…………ぇ」

「おや。どうやら四郎は私がいい神さまと思ったのかしら。残念、今の私にできること言ったらそうね」

 

 にやぁと赤い口を開ける。

 

「呪うことくらいかしら」

 

 四郎は呆然とする。流石に言葉の意味が分かるが、実感が全く分かない。

 そもそも「母親」が死に際に頼んだものが「祟り神」で律儀にやってくることなぞ考えられない。しかも呪うなどと言っている。筋が通っているようで通っていない。しかし細かいことはどうでもいいのか、諏訪子はもう一度笑う。

 

「そういことで四郎、私がこれから面倒見てあげるよ。まー、今の私は本当にどの程度のことができるかわかんないけど……とりあえず、呪いがとけるまでは」

「…………ど、どうやったら解ける……?」

「死んだら」

「の、呪い殺す気か」

「まあ、今から死ぬまで呪うからそうとも言えるかも知れないわ。長生きすれば後々良い呪いだったって言えるんじゃないかしら? そんなに怯えなくても大丈夫よ。単純明快な呪いだから」

 

 呪い、そんなに明るいものでいいのか。四郎は困惑するしかできない。諏訪子はにやにやしながら彼の頭を撫でる。

 

「死ぬまで一人にはさせないわ。安心して呪われなさいな」

 

 四郎は見上げる。見下ろす諏訪子を。なんといっていいのか分からない。

 

「おっと、変な気は起こしても無駄よ…?」

「へんな、き」

「……わからない? わからないんだ。ぷーくすくす。初心ねー」

 

 からかいながら諏訪子はわしゃわしゃと四郎の髪を撫でる。それから目隠しするように袖で彼の顔を覆う。それに四郎は抗わない。妙な心地よさがある。力を抜いて、ただ神に抱かれて寝そべっている。ある意味天下人でも出来ぬ贅沢であろう。

 

「……ぃ」

「おや、どうしたの?」

 

 抑えている諏訪子の手を四郎が掴む。払おうとするのではなく、暖かさを感じたかったのかもしれない。張りつめていた心が、少しずつとけていく。漏れた「声」を諏訪子は聞き逃さないよう耳を近づける。

 祟り神は四郎を抱くようにその耳を近づける。

 少年は小さな、小さな声で泣くように言う。それは諏訪子と四郎だけの会話。

 

「なぜ、なぜ母上は先に逝かれた……、俺を、俺を一人にした」

「安心していいよ、頼まれたから」

「父上はなぜおれを遠くにやったんだ……。なぜ、誰も俺を見てくれないんだ」

「私がみてるから、いずれみんなが気が付くよ」

 

 夕日が沈んでいく。代わりに星が現れて、天空を彩る。

 天の川のよく見える夜に少年は祟り神へ言の葉を終わることなく、語る。諏訪子は全てを受け止めて優しく頷く。

 

 

 少年は呪い殺される日まで、祟り神とあること願う。

 

 

 

 






四郎はその時代で殆ど珍しく「家族での肖像画」を遺した子です。


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呪い殺される程度の話 後


遅くなって大変すみません。

この話は他の話と違って、血がでます。グロほどではないですが、苦手な方は気を付けていただくか。ここでおやめいただければ幸いです。


 

 一人の男が居た。

 強い男である。断固たる目的意識、合理的な思考。そしてなによりも彼を「強く」させたのは、氷のように冷たい心。

 その男は虎と呼ばれていた。強兵と呼ばれる山国の武士たちを掌握し、猛将を従え、智謀を煌めかせる幾多の人材を集めた。彼の周りには英雄と呼ばれる人々が星のように居た。それは虎の牙とでもいえばいいだろう。

 

 彼は、父を追放した。そして息子を殺した。

 彼は壮大な創造を行った。大河を支配し、金鉱を掌握し、城下町を繁栄させた。

 彼は残忍に戦争を行った。村々を焼き、神であれ仏であれ逆らう者を戮し、騙し、その両手で欲しいものを掴みとった。その果てに巨大な領国を築きあげることができたのだ。彼は最後の時ですら、甲冑を身にまとい。戦地で息を引きとった。

 

 人は時に化け物になる。

 一人が、数万を殺し。一人が数十万を生かす。

 彼はその「一人」であったろう。鬼も天狗も彼の所業の果てに、野望の果てから見れば歯牙に掛ける意味すらない偶像である。ただただ、現実を強烈に変えていく姿は妖怪の恐れる「英雄」と言える。

 

 彼の跡を継いだのは心優しく、真面目な青年だった。

 大名として後世に残る肖像画にただ一人、戦国の世で「家族」と共に描かれた人である。

 化け物ではない。ただ、ただ一人の人間として父親の偉大さに向き合うことをしたと言える。彼の人生は研鑽と練磨の日々である。そもそも彼は後継者として見られていなかった。単に兄たちが「いなくなった」為の「繋ぎ」である。

 それでも彼は運命と向き合った。

 父親の残した巨大な領国と領民。勇猛な家臣。強力な軍団。そして、巨大な「敵」。

 才能と言えるものは彼に合った。明晰な頭脳も個人的武勇も人よりも遥かに優れている。ただ、それだけであったが彼は懸命になって人間として堕ち行く何かに抗った。

 

 それは刀槍の日々。

 彼は受け継いだ全てで烈火のように戦った。英雄である父すらも超える勢いを世に示した。軍神と名乗る男の目を引き、魔王と呼ばれる男を翻弄し、のちに天下を取る男を圧倒した。

 皮肉にもそれが彼の人生を破滅へと導くことなる。恐れられるということ、力を示すという事は敵視されるというである。

 

 その報い、その青年の絶望は硝煙の匂いに包まれていた。

 彼は見た。自らの采配の下で死骸になっていく者たちを。銃弾の音と共に死を刻み付けられた設楽が原。東西を敵に囲まれた地獄の窯の中で、父の築いた物も自らに従った者たちもすべからく斃れた。

 

 それは殆ど決まっていたことではあった。彼の受け継いだ地盤では既に敵わない「何か」がそこにあった。ここで彼も死ねれば楽だったのかもしれない。

 だからこそ、その戦場でも死ねなかった青年はどう思っただろうか。少なくとも彼は諦めることはしなかった。

 たとえどんな卑屈と言われようとも長年の宿敵に頭を下げ、考えることは良く実行した。その狭間で彼は敵国から伴侶を得る。敵国の女性と仲睦まじい夫婦と成れたのは、青年の実直さに因るものでもあり、そして彼の前半生に家族の温かみがなかったからかもしれない。

 

 青年はもがいた。

 軍神の息子とも手を結び。四方へ外交の手を尽くした。だが名門としての誇り、そして、手に持ってしまっている「力」は彼の首を絞めることになる。青年はその人柄はどうであれ、世の人々からは強者として認識されていた。つまりそれは、殺すべき相手であるということだ。

 

 

 彼の人生の終わりは味方の裏切りから始まる。

 死力を尽くして自らの運命を支えようとしていた彼の末路としては、不似合いなほど惨めな最期である。広い彼の領国で彼の為に戦ったのは彼の弟のみである。父を支えた功臣も自らの親族も彼を見捨てた。

 それはどうしようもない、暗い闇の底に落ちていくかの様で。

 

 ★☆

 

 朝焼けに黒の騎馬武者が奔る。

 右手に持った長槍をぐるりと回せば、風を切る音が鳴る。左手には長刀を煌めかせる。手綱は持たず、ただ馬と共にある。黒塗りの鎧は重厚であり、鈍く輝いている。

 騎馬がうなる。山国を駆け抜けた駿馬は栗色の悍馬。ぎらぎらと光る両目と荒い鼻息は人すらも噛み殺しそうなほどである。蹄で地面を蹴れば、一足で自らの影すらも追い越すほどに速い。

 

 騎馬武者は吠える。彼の馬もそれに呼応するかのように強く地面を蹴る。

 騎馬武者の名を四郎という。天日を背に彼は敵陣に突撃する。彼の眼前に広がるのは槍を構えた兵の列。風にはためく旗頭は丸に竪木瓜、四郎は眼をいからせて馬上で長槍を振るう。鍛えこまれた腕としなる槍。

 眼前の敵兵の横面を斜め下から撃ちあげる。人が飛ぶ。その僅かな隙間に四郎は馬を入れて、疾風のように駆け抜ける。

 そこに四郎に遅れて数十騎の騎馬武者が敵陣に駆けこんできた。彼らは手に得物を持ち、各々縦横無尽に戦った。

 

 鮮やかな手並みだった。一瞬の出来事と言ってよい。

 四郎は逃げて行く敵をあえて追わずに自らに付き従っている騎馬武者の群れを見る。それぞれが煌びやかな軍装に身を包んでいる。赤備えとまではいかないが朱塗りの兜を好んでつけているものが多い。敵兵の血をその身に浴びている者もいる。

 だが、反面煌びやかな軍装であるということは殆ど闘争をしていない証拠でもある。今どれだけ勇敢にたたかったとしてもどうしようもないことは四郎たちにも分かっている。今のように油断している敵陣を切り裂くことはできても、衆寡は敵せない。

 

「はははは」

 

 それでも四郎は朗らかに笑った。それにつられて騎馬武者たちも笑った。絶望の中に似合わぬほど明るく彼らは笑っている。

 四郎は空を見る。冬空に似合わぬほど太陽の輝く日である。暖かな日差しを横切るように一羽の鳥が東へ飛んでいく。

 

「あれはなんの鳥だろうか」

 

 一瞬羨ましそうにつぶやいた四郎を周りの取り巻きが見る。その後にあれはなんだ、と不毛で柔らかい議論が起きた。四郎はうっすらと微笑み、手綱を引く。あぜ道を彼は馬と一緒に進む。もう一度空を見ながら。

 彼に、いや彼らに行くところはない。この世のどこにもありはしない。

 自らの城に匿うと言ってくれた家臣は旗をひるがえした。彼は四郎達を城の近くまでは来させたが敵に寝返り。鉄砲で四郎達を追い出した。それからの落伍の途中が今である。

 

 四郎の周りを固める騎馬武者は若いものが多い。それに続くのは女子供である。そこには四郎の妻子もいる。彼はたまに馬をおり、弱った子供などを載せてやったりした。それに倣うように他の武者たちも馬を降り、自らは徒歩になる。

 四郎はたまに遅れている者がいないかと声を掛け、時には冗談を言いながら歩いている。うららかな日であるから、のどかに遠くで鳴く鳥の声の響く中彼らは歩いていく。整然とした歩みは落ちていくというよりは、少しそこまで来たというかのようである。

 

 四郎は歩みをすすめながら思い出している。

 

 遠い子供のころのことである。神様からすれば昨日くらいのことかもしれない。そう、とある神様に何度も相撲を挑んで転がされた記憶である。金色の髪に市女笠を被った妙な神様である。

 

「まだまだねー。こんなにか弱い私に敵わないなんて男じゃないわ。へへん」

「……もう一度だ!!」

 

 何度挑んでも容赦なく泥の中に転がされた記憶を彼は微笑みながら思い出す。結局大人になってからは小柄な神様に相撲を挑む気は無くなり、一度も勝つことはなかった。

 

 

 四郎達はとある山のふもとまでたどり着くことができた。そこには古城があるが、今は使えるような物でもない。彼らは女子供の「疲れた」から、ここで良いと決めた。

 それからは早いてきぱきと若い男達が陣を張り、旗を立てた。それはここに彼らがいることを示しているかのようである。最後の意地なのだろう。

 四郎も手伝おうとしたら、数人がかりで床几(しょうぎ・小さな椅子) に座っているように押さえつけられた。彼は苦笑して、どしりと人の真ん中で座る。彼は木槌の音を聞きながら、

 

 ちょっとだけ遠い昔のことを思い出している。

 四郎が大人になり。見捨てたと思っていた父に呼び戻された時にその神様は一番喜んでくれた。

 

「ばんざーい。ばんざーい。しろうよかったねぇ」

「ば、ばんざい、とはなんだ?」

「え? 知らないの? ふふふ。勉強がたりませんなー」

「……わ、悪かったな!」

 

 今でのあの神様のにやけた顔が目に浮かぶ。まるで自分のことのように喜んでくれた反面、あの神様と来たら口に手を当てて「しらないんだぁ」などと言ってきた。後になって知ったが「万歳」とは唐の作法だという。

 

「知っているわけなかろう」

 

 床几の上で四郎は呟いた。周りの男達が一斉に彼を見ると、手を振ってなんでもないと答えた。少し恥ずかしい。彼は照れ隠しにむすっとして、眼を閉じる。そう、眼を閉じれば昨日のことのよう思い出すことは多い。

 

 父のもとに戻った四郎はなかなか「神様」に会えなくなった。それでも時間を見つけては馬を飛ばして会いに行った。することはたわいもない会話や遊びである。それでも四郎は神様の下へ何度も通った。

 

「父上」

 

 突然呼ばれてはっと四郎は我に返った。

 彼の前には一人の武者がいた。四郎は思わず顔をほころばせてしまう。今年元服する予定だった息子である。赤々と輝く伝来の大鎧を身にまとい、大振りの太刀を腰に佩いている。死ぬ前に急ぎ元服をさせたのである。

 その息子の後ろには、彼の妻の姿があった。黒髪を後ろに結び、優しい顔をした彼女に四郎は機嫌よく頷く。彼女は隣国から嫁いできた姫であり、この落伍にも付き合う必要はなかった。本家に帰ればいいだけなのである。

 それでもついてきてくれた彼女に四郎は申し訳なさと感謝を持っている。不覚にも目頭が滲んだが、息子の前で泣くわけにはいかなかった。

 

「父上。あの神様はいまごろ何をしているのでしょうか」

「…………さて」

 

 四郎は微笑みながら答える。息子が生まれた時には狂喜していつの間にか神様の所へ来ていたことがある。そのまま神様に抱き付いて高い高いをしたあたりで四郎はゲンコツを食らった。

 

「あれは痛かった」

「何がですか? 父上」

 

 それには答えない。その後には息子が生まれたと知った神様は四郎に負けずに嬉しがってくれた。顔をくしゃくしゃにして、高い高いではなく四郎を投げ飛ばした。

 成長した息子を連れていくと、何故か神様は四郎には姿を見せず。後でぼろぼろになった息子が「神様にやられました」などと言って帰ってきたので周りを困惑させたが、四郎だけは苦笑いをした。

 その彼も四郎の目の前で立派な武者姿になっている。思わず四郎も神様が悦んでくれることを、あの笑顔を思い浮かべた。彼が顔を上げると神様はいなかったが、微笑んでくれている妻の姿がある。

 

 一夜明けた。

 朝日が空を焦がしていく。ばたばたとはためく軍旗が四郎の小さな陣を何重にも取り囲んでいる。木瓜紋の記された黒い旗は、四郎が生涯をかけて戦い。敗れたもの。

 

 銃声がとどろく山際。天目山と称される山並みをみつつ四郎は朝の風に涼しさを覚えている。彼の手には小刀が握られている。血を丹念にふき取ったそれを彼は一度鞘に直す。

 

 妻子を苦しませることなく、終わらすことができた。

 

 四郎はどっと疲れたように感じたが、今少し。ほんの少しの間だけは気を張らなくてはいけない。彼が総大将であるうち、いやこの世にいる内は弱みを人に見せてはいけないのだ。

 あの父の死の後でも、

 あの設楽が原の後でも、四郎は毅然としていなければいけなかった。

 そのころには神様へ会いに行く余裕は殆どなかったが、一度だけ政務の合間に行った。

 いつもと変わらない神様が其処にて、四郎は不覚にもその日だけ弱くなってしまった。背を撫でる小さな手が彼には忘れることができない。

 

 それでも今は彼に最後まで付き従ってくれた者たちは今、敵を食い止めてくれている。僅か数十騎に過ぎない武者たちが天下の大軍を相手に戦っている。理由はただ一つである、死に名誉を添えるためだけ。

 

 遠くに雄たけびが聞こえる。四郎はそれに聞き覚えがある。

 

「土屋……逝ったか。苦労だった」

 

 消えていく勇者に労いの言葉を掛ける。四郎は鎧を脱ぎ、兜を置いた。白い装束を着た時、意外と心に波は立たなかった。彼は小姓の張ってくれた小さな囲いに向けて歩みを進める。

 

「あの時行くことはできなかったな。悪いことをした……」

 

 一歩、歩くごとに何かを思い出す。

 あの浅間山が噴火した時のこと。それから木曾が寝返った時のこと。

 あの日の夜。四郎は一人、庭に立っていた。まだ咲くはずもない桜を見つめ、呆然と時を過ごしていたのだ。そのころには神様と何年も会ってはいなかった。ただ、自らの終わりを確信することができた。

 

 ふと、桜の陰に少女が立っている。ぼんやりした姿で顔立ちはよくわからなかったが、小さな手を自分へ差し伸べてくれる彼女に四郎は微笑みかけた。会いに来てくれたのだろうと、直ぐにわかった。

 そしてその手を取れば、どこかに連れて行ってくれたのだろう。四郎はそれでも首を横に振った。彼に付き従ってくれた者たちを置いて、一人で行くことはできない。

 

「いけぬ」

 

 それから

 

「すまない」

 

 付け加えた。影は手を下ろして、肩を落として。消えていった。四郎は一人になった。

 

 

 三方へ置かれた鋭利な脇差を手に取ると、四郎は着物の腹部を広げる。鍛え上げた肉体がそこにある。

 終わらせる前に彼は介錯をするために残ってくれた若い小姓に暇を出した。最初は嫌がった彼を主命として無理やり下がらせた。口実なんてなんでもよい、このありさまを後世に残してくれとでもいった。

 

 遠い闘争の音を聞きながら、四郎は脇差を日に照らす。美しい刃紋を見ながら、思うのは申し訳ない気持ちである。父に、部下に、妻子に、祖先に彼は唇を噛みながら頭を下げた。

 

 血が飛んだ。突き立てた刃を横に引く。

 

 唇を噛み切る程に歯を食いしばり、声を殺す。

 何万の命を活かした父に、何十万の者の運命を零落させたことを詫びる。全ての痛みをこらえ、苦痛を押し殺す。自らは苦しまなければいけないと青年は思う。

 だからこそ倒れはしない。刃を抜いてから目の前に置く。紅く地面を染めた。

 朦朧としてくる意識の中で、音が遠くなっていく。だが、まだ行くことはできない。長い旅路である。

 

 四郎は見た。

 

 いつのまにか黒い影が其処にいた。

 彼の傍に誰かが立っている。力を振り絞って仰ぎ見れば、その顔は真っ黒である。口もなく、眼もない。小柄な姿ではあるが異形の姿だった。死そのものなのかもしれない。

 それは一人の祟り神。この青年を呪い殺しに来たのだろう。

 その神様は座り込み、両手で四郎を包み込む。触られたところが黒ずんでいく。それは呪い。この世にも恐ろしい死の呪い。

 

 四郎はだんだんと痛みが無くなっていく。神様に触られたところからはもう何も感じない。癒しているのではなく、ただただ呪い殺している。もう何も感じなくていいように。

 四郎の頬にぽたぽたと何かが落ちてくる。神様の顔は見えない。閉じていく世界の中で四郎は口を動かすが、声が出ない。ぽたぽたと水が落ちてくる。それは涙の様。

 

「がんば……た……えらい……う」

 

 何かが聞こえる。だがもう何も見えない。呪い殺してくれたのだから。

 

 

 

 

 

 



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関係ない程度の話

 

 まだ朝方だというのに城の中は騒がしかった。

 廊下を武者が、女中がと走り周り、かれらは必死の形相であくせくと何かをしている。それぞれが興奮していたり、青ざめた顔でわめいていたりと混乱しているようだった。

 いや、混乱したいのかもしれない。今立ち止まると何かにとらわれてしまいそうだとい悲壮感が彼らを動かしている。

 その中を一人の少女が歩いている。

 忙しく立ち回る人々の中をゆったりと歩いている。それどころか両手を頭の後ろに添えて、大きく欠伸をしているのだ。

 髪は短いが、黒く艶やかである。眼に涙を浮かべて、眠たそうにしている。ただ、見開いた瞳が深みのある紅色だった。人の身ではないのだろう。

 彼女の名前は封獣ぬえ。古来より人間に恐れられてきた妖怪である。しかし、彼女は少し不満げに廊下を歩いている。誰も彼女に見向きもしない。

 

「徳川が、徳川だ。なーんてつまんないなぁ。ちゃんと人間は私達を怖がってくれないと」

 

 恨み言を言うかのように吐き捨てるぬえ。少しお腹も減っている。彼女のような妖怪はちゃんと人間に「怖がってもらう」ことをされないと堪らないのだ。彼女は足を上げて歩いている。

 最近は昔ほど怖がってくれるものが少なくなっている。それに最近はめっきり「徳川だ」「豊臣だ」などと妖怪とは全く関係のないことで争っている。去年の冬ごろには戦があったが、また戦だという。

 

「人間は争い事がすきねー。そんなことをしている暇があるなら肝試しでもすればいいのに」

 

 そうしたらさんざん驚かしてやるのにとにやにやとするぬえ。

 彼女の背中から生えた青と赤の六本羽根がゆらゆら揺れている。不意にその羽根に走ってきた一人の男がぶつかった。彼は振り向いてから血走った目でぬえを睨みつける。

 

「いたーい」

 

 わざとらしく痛がるぬえ。男は叫ぶ。武人だろうドスの利いた声だった。

 

「こんなところで槍を背負って歩くな! 邪魔だ」

 

 それだけ言ってどこかに行ってしまう。彼はぬえの羽を「槍」といった。これが彼女の能力である。正体を判らなくする程度の能力、という。簡単に言えば相手が別の何かに「勘違いしてくれる」ような物である。

 この慌ただしい中で歩いている「羽根の生えた女の子」を先ほどの男は「槍を背負った何か」に間違えたのだろう。おそらくは足軽か何かに見えたのだろう。ぬえなど「いるはずがない」からだ。

ぬえは羽をさすりながら去っていった男にべーと舌を出す。

 正体不明であることが彼女なのである。

行き交う人々にはぬえが「何か」に見えているのだろう。だから誰にも気に留められずに歩いているのだ。

 

 ただ、今は正直つまらない。

 ぬえがよっと声を出して中庭に出る。見上げれば勇壮な天守がある。

 夏の朝日はまびしい。早起きな蝉の声を聞きながら煌めく五層の天守。

 黒塗りの瓦に金の飾りをあしらった古今無双で三国無双の大城郭。その最上部に去年砲撃を受けた後があるのが少し傷である。

これはかつて、一人の英雄の築いた浪速の夢の残り。

ぬえは「いつみてもおっきいなぁ」と単純に感心する。のんびりした様子で可愛らしく手を額にかざし、見上げるためにつま先立ち、小さなお尻を張って、ほえーと八重歯を光らせながら見上げる。

 

 ぬえはしばらくそうしてから、急に興味を失ったように踵を返す。

 ただ、その顔は不敵。にやりと笑い、瞳をきらきらと光らせる。いたずらを考えている子供の顔だった。

 

 

「おたからおたから」

 

 にししと笑いながらずかずかと城の中を歩くぬえ。

 正々堂々、逃げも隠れもせずに彼女はあたりを物色している。

 大きな座敷に来たら飾ってある太刀を手に取り、抜いて触って。いらないと捨てる。

 誰かの書斎の襖を開けた時には、本を指でつまんで団扇代わりに顔を扇ぐ。前髪が揺れる姿は愛らしいが、傍若無人だった。

 外ではやはり人々が騒いでいる。もちろんぬえには関係がない。彼女は書生の畳の上に寝ころんで天井を見上げた。そこには狩野派の絵師が書いたであろう天井画がある。龍に花にと絢爛なこの「時代」が描かれている。

 

「そうだわ」

 

 そんなものに興味を示さずに起き上がり、ぱんと両手を合わせてからにやっと笑うぬえ。どうせなら狸の友人でも連れてくればよかったと思っている。ぬえは鼻歌を歌いながらかららと襖を開けた。

 ぬえは廊下を歩いていく。ずだずだっと誰にも彼にも姿を現しながら。どうせこの城は数日で燃えて落ちるだろう、だったら可愛い打掛の1つや2つや10や20持って行ってもいいだろう。

 罰(バチ) など妖怪には当たらないのだ。

 そんなことを思って歩いていくぬえはとある広場に出た。ここを抜ければ天守に向かうことができるだろう。一番奥だからこそ、お宝があるはずである。いつか大泥棒が千鳥の置物を盗みに入ったことがあるらしい。

 ぬえはへんな物を盗もうとするなぁとしか思わない。ただ、打掛を求めるあたり彼女も女の子なのだろう。本人に自覚はないとしても。

 

「あ?」

 

 ぬえは立ち止まった。

 老人がいる。ぼんやりと大きな天守を眺めながら、どこから持ってきたのか床几に座った地味な老人だった。

 髪は薄く、白いものが混じっている。体は小さい。天守を見上げる横顔はくたびれているかのようだった。ただ、腰に刀を佩いている。武士なのだろう。よく見れば腰には短筒がしばりつけてある。その縛っている紐はぬえには見たことがないが、鮮やかな編み込みがされている。

 

「…………」

 

 老人は一人だった。ぬえはなぜだろうか、彼のことが気になっている。どうせ近寄ってもばれることはないのである。彼女は両手を後ろで組んで座っている老人に近寄った。着ている着物は質素だがなかなかの作りに見えた。

 そこそこ高位の武士なのかもしれないとぬえは思う。着物には六連銭が描かれている。

 

「お嬢さん、なにか御用かね?」

「え?」

 

 ぬえは眼を見開いた。老人が自分のことを「お嬢さん」と言ったのだ。まさか正体不明が売りの自分を「正確に認識」しているわけはないと胸に手をあてて、落ち着く仕草をした。

 

「妖かね?」

「……」

 

 老人は天守から眼を離さずに言う。ぬえは今度こそ狼狽した。それからすぐに思う。

 

(殺そうか?)

 

 ぬえは正体不明である。そうあらなければならない。もしかしたら、自らを見破ったかもしれないこの老人を生かしておくのは危険だし、何より気に食わない。ぬえは冷たく老人を見下ろした。

 

「菓子でも食うかね?」

 

 老人は眼も合わせずに腰から包みを解いた。中から白いまんじゅうが竹の皮に包まれて出てくる。ぬえはあっけにとられたたが、まあ殺すのは食べた後でもいいかと思ってもらうことにした。

 

 

 もちもちの饅頭をかみちぎりつつぬえは老人に聞いた。老人も黙って菓子を食べている。

 

「じじいは何でこんなところにいるの? みんな忙しそうにしているみたいだけど」

「急ぐことはないからな。どうせ奴はやってくる」

「奴って誰さ」

「狸だよ」

「へえ。私の友人にも狸がいるんだけど」

「はは、安心していい。会ったことはないがその狸じゃないよ」

 

 老人は温和な声で、ゆっくりと話す。風采はみすぼらしいが、声には力がある。ぬえはふと老人を若者みたいだなと思った。奇妙なことである。ぬえはまんじゅうの残りをぱくりと食べて指を嘗める。

 

「ところでお嬢さんはなんの妖怪かな?」

「私ぬえ、正体不明がウリの妖怪よ。正体不明は人間を怖がらせる事が出来る。というわけでおまえはここで終わりだがな! 恐怖に怯えて死ぬがいい!」

「もう一つたべるか」

「……あ、うん。怖がってくれないのね……」

 

 二人は並んで菓子を食べる。天守を見上げながらというのも中々に乙な物かもしれない。ぬえはもぐもぐ食べているが、少しひもじい。怖がってくれる人間が最近はめっきり減っていると思ったが、ここまで普通に接されると困る。

 

「儂は昔から忍びに囲まれて育ったからか、おぬしのような者もまあ、わかる」

「わかるって……こまるなぁ」

 

 のんびりと会話する。

 どこかでは誰かが怒鳴っている。銃声が聞こえることもあるが、ここだけは空気が違った。

 

「じじいは何者なの?」

「さて、儂にもよくわからない」

「おっと、正体不明は私の専売だよ」

 

 老人はぬえを見る。優しい目だった。ぬえは不意に思う、この男は意外にというか、本当に若いのかもしれない。

 

「儂は何者かになりたいのかもしれぬ」

 

 老人が言う。

 

「この歳まで儂はなにも為せなかった。わずかな武功はあれども、偉大な父にも兄にも及ばない。……ぬえよ。お主には儂は何に見える?」

「くたびれたじじい」

「はははは。だまれ小童」

 

 老人は笑う。大きな笑い声だった。ぬえは耳に指を入れて「うるさいなぁ」と思う。老人は天守をまた見上げた。天に届かない、無双の城。

 

「この城を初めて見た時は心が躍った。遠い昔のようだな……殿下もおられたのが夢のことだったと思えてしまう。そうだな、この城もなくなってしまうかもしれぬ」

 

 セミが鳴いている。朝日がだんだんと強くなっていく。

 

「だが、この城は幾年も語り継がれるのだろうな。羨ましいことだ。姿が消えても消えることはないのだからな。……だが儂はどうであろうか」

「私にはじじいの言っていることがよくわからないわ。正体不明でも人間達は恐怖されることができる」

「妖にいってもせん無き事かも知れぬな」

 

 老人はくっくと笑う。彼は床几から立ち上がった。

 

「さて、行くか」

「どこへ?」

「あの世。ま、駄賃はある」

 

 老人は懐から6連銭を取り出してぬえに見せる。固く縛った6枚を縛った紐は頑丈そうだった。彼は懐に銭をしまい込む。ぬえの顔をじっと見た。

 

「なんだよ」

「意外に別嬪だなと思ってな」

「は、はあ?」

 

 ぷいと顔をそむけるぬえ。老人に褒められてもうれしくはないが、照れくさい。

 

「おてんばを直せばいい嫁になるかもしれぬな。そら、これをやろう」

 

 老人はごそごそと何かを取りだす、ぬえは何かをくれるという事に反応したのか、ちらりと横目で見た。老人の手は意外に太い。擦り傷とたこで固くなった手のひらに柔らかく置かれているのは赤い紐だった。

 

「髪でも結べ。妖にいうのもなんだが達者でな」

「まあ、くれるんならもらうけど」

 

 変な遠慮がないぬえを老人は愉快そうに笑った。

 

「なかなか愉快だったよ。ありがとう……今度こそ達者でな」

「……あー。私がこんなことを言うのもなんだけどじじいもまあ、あれだね。死んでも元気でね」

 

 ぬえの変な言葉。彼女はちょっと恥ずかし気に髪を結んでみる。意外と似合う。老人は最後に柔和に笑い。何も言わずに広場を出て行った。最後まで名前は分からない。その意味ではぬえにも彼が正体不明なのである。

 

 

「へへへ」

 

 そうれはそうと、天守に忍び込んだ。

 彼女がは追っているのは赤い打掛、美しい華が刺繍されている。髪を結んだ彼女が着ているとどことなく子供が着てみた、という感じで愛らしい。ぬえはどうせ全部なくなるのなら適当に物色してもいいだろうとそのあたりを見て回っている。

 打掛をひらひらさせながら歩く。偶にすれちがう人間に「くるしゅうない」と適当なことを言う。

 

 誰も彼女の正体はわからない。

 ぬえは天守のからふと、外を見る。大坂の街が見える。在りし日の堀の姿はない。意外とのどかな光景。それでも城の外郭には兵が詰まっている。白い白煙が昇るのは兵糧でも作っているのだろう。

 

「あ」

 

 その中でひときわ目立つ一団があった。

 遠くからでも燦々と日に煌めく、赤い具足の集団。ぬえはその先頭にいる男を見た。

 見たと言っても流石に遠すぎるから顔は見えない。しかし、頭に鹿の角を模した兜被り。赤い羽織に手に持った十文字槍がきらきら光っている。

 

「じじいもあの中にいるのかな」

 

 窓枠にもたれかかってぬえは言ってみる。どうせ人の世のことなど妖怪にはかかわりのないことである。

 遠くから見える先頭の男。鹿の兜の男が馬に跨り、城を出ていく。

 その背中に刻まれた紋章は六連銭をぬえは見る。

 

「じじいと一緒か、流行ってんのかな」

 

 正体不明な彼女が、必死に何かになろうとしている彼らを見下ろしている。

 ぬえには関係のない話なのだ、彼女は踵を返す。ただ、一歩進んでからちょっと振り返る。それからもう興味なさげにどこかに行ってしまった。

 

 

 



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騙す程度の話


注意:流血があります。今回は他の話とは雰囲気が少し違います。


 

 大江山には恐ろしい鬼が住んでいる。

 迷い込んだものはまず生きては帰ってこれない。

 迷い込まないものもある日、山から下りてきた鬼に連れ去られる。

 どちらにせよ、喰われるのだろう。

 

 鬼は古来より人々を恐れさせた。その恐ろしい怪力。雄偉な体。

到底人の太刀打ちできるものではない。その中で大江山の鬼たちは都にでて、人をさらっては山に連れて帰る。誰も戻りはしない。

 

闇夜でも、白昼でも。誰もが恐れを抱きながら生きて居る。

人は恐れるべき。あやかしは恐れさせるべき。それがこの世の理だった、はずの時代。

 

 

 とある日のことである。

 数人の「客」が大江山に来た。鬼たちは物珍しそうに自らやってきた人間達を見ていた。

 見れば彼らの身なりはいい。都の貴族なのかもしれない。それぞれが特徴のある顔つきをしている。一人はずんぐりした大男でむすっとしている。他には涼し気な目元をした美男子などがいる。

 全員腰に刀を佩いているようであるが、鬼は人の武器などあまり気にはしない。言うならば、鳥に鋭いくちばしがあることを気にする人がいるだろうか。又は、カマキリの鎌を恐れる人がいるだろうか。

 鬼にとって「人」とはその程度なのである。

 その一団の棟梁なのだろうか、精悍な顔つきの男が朗々とした声で鬼たちに言った。

 

「我らは都に向かう途中で道に迷ってしまいました。どうか、一晩で結構ですので、宿をお貸しください」

 

 鬼たちは騒めいた。皮膚の赤い鬼たち。頭に大きな角をたて、恐ろしい顔つきの彼ら。

 そんな鬼に宿を貸してくれという男。鬼たちはどっと笑った。その笑声は山々を震わせ、空気を振動させるほどに豪快である。

 だが、それは気にいられたということだろう。鬼は剛毅であることをなによりも好む。

 鬼たちは快く男達を迎え入れることにした。それに男達はとある手土産を持っていたのだ。あの一団の長である男は深々と頭を下げていった。

 

「ありがとうございます。これはささやかですが都に届けるはずだった酒があります。どうでしょうか、お礼としてお納めいただけませんでしょうか」

 

 その申し出に鬼たちは狂喜した。全員が笑いながら口々に男達をほめたたえている。繰り返すが鬼たちは剛毅であることを何よりも好む。男達が鬼である自分たちを恐れずにいる、そして様々な物言いをする。痛快なのである。

 ちっぽけな人間ごときが、恐れもせずにいることが面白いのだろう。

 

「宴会だ! 客人を持てなせ!!!」

 

 鬼の棟梁がそう叫んだ。

 酒呑童子という名で恐れられた、鬼である。

 

 

 酒は毒。

 男達は偽装。

 気が付いた時には酒呑童子「だった」。首がぽろりと落ちている。

 強かに飲まされた鬼たちは地べたで蠢いている。彼らは怒りと悲しみに震え、涙を浮かべながら咆哮した。体に回り切った酒の毒が彼らをむしばんでいる。それは鬼にのみ効く毒である。

鬼たちは自らの棟梁をむざむざと殺されたのである。目の前で。

 鬼たちの声に木々が揺れる。ばらぁとあたりの葉が散る。それでも「人」の棟梁たる、あの「男」の顔色は変わらない。まるで退屈そうな、そんな不思議な顔をしている。彼は冷ややかに鬼たちの恨みを声を聞いている。

 そんな姿に鬼たちは激昂した。

 牙をむき、毒の回った体を無理やり起こす鬼たち。復讐の念で体を動かす。彼らから発される殺気があたりを包み込む。ぽとりぽとりと近くを飛んでいた小鳥さえ落ちてくる。

 

 それでも「人」の棟梁は冷静さを失わなかった。彼は袂をひるがえして鬼の住処から出ていく。 怒り狂う鬼たちを相手にせず。

とうていこの場で敵うわけではない。しかし、その男の顔には冷たい笑みすらあった。

 鬼たちはそれを叫びながら追いかける。

ばきばきと樹木をなぎ倒し。目の前の岩を手ではじき飛ばし、いつの間にか馬に乗って逃げている男達を追う。ここに来るまでに隠していたのだろう。

 

 男達は振り返りもしない。

 うっそうとした森の中、悍馬を巧みに扱い。焦ることもなく、怯えも見せない。武人としての練達が彼らの動きに見える。

 それでも逃げることが卑怯だと、鬼たちは思う。それは単なる彼らの価値観でしかないことを知ることができなかったことが彼らの哀れである。

 

 開けた場所に出た。

 遠い空の蒼さが見える、そんな広場。そんな墓場。

 

 馬を駆る男達を、巨大な鬼が追い続ける。毒が無ければすでに追いつき嬲り殺しているだろう。繰り返すが鬼にとって人など大したことはない存在なのである。

 

 旗が、並んでいる。

 白い旗に咲く竜胆(りんどう) の花。源氏の旗。

 その旗の下に無数の武者が並ぶ。それぞれが煌びやかな鎧に身を包み、かれらの郎党だろうか、雑兵は数え切れない。武者たちは鍛え上げられた体を目いっぱいにつかい、和弓を引く。向かってくる鬼たちにむけている。

 ひゅっと空に矢が一筋。

 その後を追うように無数の矢が空に浮かぶ。

 空が一瞬暗くなった。とある鬼が一人とまり、空を見る。

 天を陰らせたの矢の雨。それが鬼たちの上に降りそそぐのである。

 

 矢じりが鬼たちに突き刺さり、怒号と悲鳴のまじりあった地獄絵図。容赦などない。頭に眼に、首に、腹に、腕も足も分け隔てなく矢が突き刺さっていく。

 

 ――!!!

 

 それでも止まらない。鬼たちはもはや我を忘れて突進する。巨体が大地を揺らす。後から後から森を抜けだした鬼が続いていく。矢の雨だけでは鬼たちは止まらないのである。

白い旗のもとへ鬼たちが迫る。愚かな人間どもを皆殺しにする。それだけしかない。

 

「この綱に続け!!」

 

 そんな中で一人の若武者が馬を見事に駆り、飛び出した。

 見れば眉目麗しい。その手に持つ刀が陽光に光り、輝いている。彼の後ろから無数の騎馬武者が咆哮を上げて、鬼たちに突進する。怒り狂う鬼が一匹。「綱」とはせ違う。

 きらと「綱」の剣が光る。まるで髭でも薙ぐかのように鬼の首が落ちる。

鮮やかな手並みを血で彩る。

 

 鬼達の動きは遅い、それは飲まされた「酒」だけのせいではない。矢に何かが塗ってあるのだ。鬼たちがさらに人間の卑怯さに怒りを深めるが、どうしようもない。人は人と戦うのならば卑怯を嫌う。妖と戦うのであれば卑怯などない。全てが武略なのだ。

 それでも鬼たちは剛力を持って暴れまわった。

武者を引きちぎり、跳ね飛ばす。鬼の鉄のような腕に人の体など葉っぱ一枚と変わりない。

 

「死ねや!」

 

 戦場に叫ぶ一人の老武者。鬼に言っているのではない。彼は味方に死すらも恐れるなと言っているのである。老武者はさらに叫んだ。眼をいからせて、戦場を見回す。

 

「この碓井が眼は貴様らの武功を見逃さぬ! 存分に死ねや!」

 

 一匹の鬼に数十人でかかる人間達。無数の刀や薙刀が鬼の体を抉る。鬼に一太刀を入れてから、その巨体に吹き飛ばされる者もいる。だが、武者達は鬼に群がる。

 死などよりも、転がっている鬼(恩賞) の首が欲しい。自らが死んでも碓井が忘れなければ子孫に手当もあるだろう。なら、鬼など怖くなどない。死ねば恩賞。生きれば儲けものである。

 戦場には声が満ちている。

 鬼の声。人の声。その差があるのだろうか。互いに思っていることは一緒である。

 皆殺しだった。

 

 眼を見開いた星熊勇儀は体が思うように動かない。

昨日飲まされた酒には鬼を無力化させるなにかが入っていたのだろう。

 紫の着物を着崩して、駆ける。凛とした瞳に映るのは白い旗。竜胆の花。そのもとにいるであろう「あの男」。我らを騙し打ち、誑かした男。

 

――

 

 武者が迫る。勇儀は腰をかがめて体全体を使って殴り飛ばす。鎧をぶちくだき、武者だったものが飛ぶ。ぱらぱらと血が雨になり、直ぐに止む。

 ばらっと紫の着物の裾が浮かび上がる。ぎらぎらとした瞳、凛々しい顔つき。頭に生えた一角。美しいと、思わせてしまう勇儀の姿。ただ、その眼には怒りの炎が燃えている。 

 

 一足に飛ぶ。

駆け抜けて「あの男」の首を引き抜く。それだけはなんとしてもせねばならない。「酒呑童子」の仇をとってやらねばならない。尋常な勝負ならば彼女にも文句などない。許せないのは詐術を使った卑劣さである。

 酒はただの毒ではない。何かしらの呪術を使った特殊な毒であろう。その証拠にあの男達も飲んでいたのである。

 

 地面を蹴って進む彼女は、飛ぶが如し。

 

 降り注ぐのは矢の雨。彼女は使えない左手を腰を捻り、盾にする。矢が刺さろうがなんだろうか、もはや関係はない。血に濡れた衣が揺れる。

 

 眼前には武者の群れ。勇儀は蹴散らすために息をすう。胸に空気を貯めて、身体を一瞬、弓なりに反らす。そして叫んだ。

 

「邪魔だぁ!!!」

 

 数秒、間が空いた。

 次の瞬間に暴風のような「声」が武者たちを弾き飛ばす。彼ら自身も馬も、旗も吹き飛んでいく。勇儀は声だけで道を開けたのだ。悲鳴が遠くなっていく。吹き飛ばした武者が地面に転がり、ひき肉になる。

 勇儀の前に居た者たちはそれでほとんどが消えた。だがすべてではない。

そこに男が居た。大男である。紅い具足をつけている。

 片目をつぶり、勇儀を睨む。仁王立ちの男。

それなのに髪を一本にまとめた童子のような風貌。肌は赤い。

 

「ここから先はいかさねぇぞ、くそが!!」

 

 大男は叫ぶ。勇儀の「声」に負けぬほどにあたりを震わす。

勇儀は一瞬おどろいてから、全力で殴り飛ばしやろうと笑った。楽しそうにである。いい武者であることはすぐにわかる。だから容赦せず殺す。

 

 勇儀が飛ぶ。腰を捻り、一筋の矢のように一直線。大男に殴りかかる。

 大男は両手を広げた。腰を落として、溜める。鬼の力を真正面から受け止めようというのだろう。

 勇儀の拳が大男の胸板に突き刺さる。まるで岩を割った様な音。ばらばらと砕ける大男の具足。彼は血を吐きながら一歩も下がらない。

 ぎょろりと剥いた眼。大男が勇儀を見る。 

 勇儀は驚いている。毒が回っているとはいえ手加減なく殴った。それに耐えたこの男はなんだろう。一瞬ぽかんと口を開けてしまった。

 大男が血を吐きながら叫んだ。

 

「足柄山の坂田金太郎を……なめるんじゃねぇ!!」

 

 勇儀の顔を掴む坂田。そのまま地面に全力で投げつける。

 轟音と共に地面にたたきつけられる勇儀。だが、顔は笑っている。彼女は眼を煌めかせながら立ち上がる。衣が揺れる。歯を見せて笑う。

 

「人間にしちゃ、頑丈じゃないかっ!」

「上から見てんじゃねえぞ。畜生ごときがっ」

 

 坂田の両手は丸太のようである。筋肉が膨れ上がった、武人の腕。

 対する勇儀の腕はしなやかである。白く、美しい手である。勇儀は笑いながら言う。

 

「はは、言うじゃないか。それじゃあ相撲でもするかね?」

「望むところだ。俺に相撲で勝てると思うなよ!」

 

 二人は笑っている。何がおかしいのかそれは、彼らにもわからない。

 勇儀と坂田が同時に飛び出した。がごんと巨大な何かがぶつかりあった轟音があたりに響く。二人は歯を食いしばりながら、両手を合わせる。大男と美女が組んだその姿は異様である。

 互いに地面に足がめり込んで、それでも引かない。坂田の腕に筋が浮かび、彼の赤い顔がさらに真っ赤に上気する。勇儀は歯を食いしばっているのだが、嬉しそうである。

 

「……どうした? その程度かい?」

 

 勇儀が挑発する。気を抜けば坂田に押し切られると思っても言ってしまった。

 このような力比べを人とできるとは思ってもみなかった。もっと楽しみたいのだ。星熊勇儀は根っからの鬼なのだ。

 

「俺はガキのころから熊相手に鍛えてんだよ」

 

 歯を食いしばりすぎて口元から血が流れ出ている。坂田の眼は充血し、恐ろしい形相である。彼は渾身の力を振り絞る。それでも勇儀を一歩下げることができない。

 

「人にしておくには惜しい男だ」

 

 心の底から勇儀は称賛している。

 

「てめぇこそ、鬼畜生にしておくには惜しい女だっ!」

 

 負けず嫌いなのだろう坂田は無理して叫ぶ。それでも二人は譲らない。万力の力を込めた押し合いは立っている地面に亀裂を作る。二人を包む空気は熱い。

 勇儀は嬉しそうにしている。啖呵を切られたことすらも嬉しいのかもしれない。

 

「はは、いってくれるじゃな……ガッ?」

 

 勇儀の左胸に矢が突き刺さった。一瞬のすきに坂田が彼女を押しきって「しまう」。勇儀は数丈飛ばされて、地面に転がった。だがすぐに身を起こそうとする。

 

「う、ぁ」

 

 視界がゆがむ。立ち上がることができない。

 坂田は呆然とした顔で彼女を見ている。左胸の「矢」を彼は訳が分からないと言った顔である。

 勇儀はよろよろと立ち上がる。矢に貫かれたごときでこうはならない。ならば答えは一つである。

 

「また……毒か……」

 

 怒りに震える声。この勝負を邪魔されたことへの燃えるような感情が彼女を一歩進ませる。ぎらぎらと光る瞳は、ただただ純粋だった。鬼に策略などない。

赤い鬼の瞳は真っ直ぐである。そう勇儀は遠くを見る。

 

竜胆の花。その旗のもとに弓を構えた武者が一人。

その顔はあの「男」だった。酒呑童子と鬼たちを騙した「男」である。

冷たく深い黒の瞳が勇儀を見ている。まるで虫でも見ているかのようだった。坂田との闘いを好機と見たのだろう。卑怯そのものである、それでもその弓の手並みは鮮やかだった。

 

「ふざけるな。人間」

 

 揺らぎながら勇儀は言う。

 

「我らを騙し、今は戦いを汚そうとするのか!! 恥を知らないのかっ!!」

 

 血を吐きながらの叫びが戦場に木霊する。目の前の坂田は顔をしかめた。握った拳が震えている。恥じているのかもしれない。勇儀はやはり坂田はいい男だと思う。

 勇儀の視線の先にある「あの男」はゆっくりと弓に矢をつがえる。表情にさざなみ程度の変化も起こらない。勇儀の声など何ほども心を動かさないのだろう。

 日が、陰った。男が雲の影に黒く染まる。

 その冷たい瞳だけが黒い人影の中で光っている。

勇儀は呆然とそれを見ている。ただ、静かに「男」が自分を殺しに来る姿は吐き気のするほどに薄気味の悪い何かを感じさせた。あれが本当に人間なのかと勇儀は思った。

 

勇儀は胸を張った。空を見上げてみればよい天気である。

卑怯者に討たれるのは癪だった。彼女は目の前にいる坂田に話しかけた。

 

「ああ、あんた」

 

 雲の間から日が戻ってきた。明るい日差しがこの一匹の鬼を照らし出す。

 屈託ない笑顔で坂田に微笑みかける勇儀。血だらけでも、騙されても心から曇りのない顔で笑う。

 

「なかなか強かったよ。ま、私が本調子ならまけやしないけどね」

「…………」

 

 一筋の矢が空に舞う。それは正確に勇儀の額を射抜くだろう。彼女は眼を背けることなくそれを見ている。避けることはできるだろう。地面に無様に転がればである。勇儀はちょっとそんな自分を想像して子供のような顔でくすくすと笑う。

 逃げも隠れもしない。引きも下がりもしない。嘘も衒いもない。鬼はただ春の日差しの中でたたずんでいる。

 

「おぉおおおお!」

 

 坂田が奔った。巨体が勇儀の体に覆いかぶさるように重なり。ぶすりとその背に矢が立つ。 

 赤い鮮血が飛び、勇儀がぱちくりと眼を瞬かせる。目の前にある大男の顔はにやりと笑う。

 

「行け。もう、もどってくんじゃねぇ」

 

 勇儀は少し優し気に坂田を見た、いつのまにかあたりには霧が立ち込め始めている。

 晴天の下に霧とは、不可思議だった。もしくは鬼の誰かの能力なのかもしれない。

 霧が勇儀を包み込んでいく。彼女は両手を組んで鼻を鳴らす。

 

「口説くには1000年早い」

「そんなんじゃねえ! 調子に乗るな!」

 

 霧の中に消えていく勇儀の笑い声が響いて、消えた。

 

 

 男は舌打ちした。勇儀を討ち漏らしたことに多少不満であった。

だが、次に為すべきことを手近にいた部下に短く伝える。無駄のない言葉だった。

 男は都から派遣された武士である。令が下ったから鬼を討った、ただそれだけである。

おそらく鬼のため込んだ財宝や人質などもいるだろう。それを鹵獲すれば昇進の糧になるだろう。

 男はこの「鬼退治」が終わった後のことを考えている。朝廷に今を時めく一族の中心に取り入る必要もあるだろう。部下への恩賞も不満の出ない程度に「値切らなければ」いけない。

 現実に考えなければならないことが多い。男には感情的になっている暇はないのである。

 だがあの声を彼は思い出した。

 

「恥を知らないのかだと?」

 

 今はいない一匹の鬼に男は応える。

 

「正々堂々正面から戦えば、我らは一人残らず死ぬだろう。我らは弱いのだ……だから殺し方を工夫した、ただそれだけだ」

 

 男は吐き捨てる。彼の歩くたびに腰の刀が音を鳴らす。

 彼の眼は前を見ている。冷たく、そして遠くまで。

 



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嘘をつかない程度の話

 砂浜に足をつけた時、妹子は心から安堵のため息を漏らした。

 空を見上げれば海鳥が涼やかな風と共に飛び去って行く。

 

「ああ、今から行くのか。私は帰ってきたというのに」

 

 彼は薄い笑みを浮かべて、遠く旅立つ白い鳥に言った。妹子は砂浜を歩きながら、何度も大きく息を吸っては、ゆっくりとはく。

 

(ああ)

 

 永い旅だった。遠く波濤を超えて使いを果たした。万全とまではいかないが、朝廷に報告するには十分な成果はあった。

 

 妹子が振り返れば砂浜に船を引き上げている人夫たちがいた。彼は「やまと」の言葉でお互いに話をしている、ただそれを聞くだけで妹子は帰ってきたことを感じるのである。

 大陸の皇帝より使わされた使者もすでに休まれているはずである。明日には朝廷に参内して報告をする必要があるだろうが、このわずかな時間こそが妹子にとって訪れた安らかな時間だった。

 

 彼は懐に隠した巻物の感触を確かめる。「皇帝より授かった返書」が彼の懐にある。波に揺れる船の中で使命感と責任感により彼はその身から一切離すことはなかった。

 

(しかしこの返書……報告するべきか、否か)

 

 妹子は妙なことで悩んでいた。彼には同行してくれた使者がいる。親善の使いとすればそれで充分である。

 使命を考えれば返書はそのまま聖徳王に渡せばよい、妹子ほどの優秀な男からすれば特に悩むことではないはずなのである。

 

 そんな彼の近くを近隣の住人だろう、粗末な服を着た子供たちが走り去った。何をしているかはわからない。ただ、妹子はひげをなで、優しく微笑んだ。

 妙案とはいつも歩きながら浮かぶものだろう、妹子はゆったりと歩を進める。

 海岸から離れると、藤の花が咲いていた。

 

「おぉ」

 

 紫の小さな花がしだれ、山間美しく咲いている。

 少しあるくと、さらに鮮やかに藤の花をつけた木があった。妹子はゆるやかに微笑み、それに近づいた。

 

「これは、小野殿」

 

 風に揺れる藤の下、その少女は立っていた。

 帽子をつけ、白い着物を身に着けている。妹子はその姿を見た時に、ぞくりとした。

 

「これはこれは、物部殿。お久しぶりです。先ほど帰着いたしました」

 

 妹子は大陸で癖になったのか両手を組んで腰をかがめる挨拶をした。内心ではすでに様々なことを想い、考えた。これを偶然と思うほど彼は単純ではなかった。

 

「いやぁ。なんとなくお散歩をしていたら藤が見えたのでのう。それできてみれば、まさか小野どのと合うことができるとは」

 

 物部布都。それが彼女の名前だった。彼女はその小さな手のひらで撫でるように、愛でるように藤の花に障る。その横顔はただ、愛らしい少女の姿であった。

 

「これも神々のお導きでしょうか。ありがたいことです」

 

 妹子はそう言った。神「仏」とは彼は絶対に言うことはない。布都は「そうじゃのう。ありがたいことじゃ」と無邪気な笑顔を妹子に向けた。

 

 その優し気な笑みに妹子は一瞬気が緩んだ。だが、彼はごほんと咳ばらいをした。人の心の底などわかるものではない。それこそ豪族の一族に気を緩めることは危険であると彼の感覚が言っている。

 

「船もそろそろ岸に上がったことでしょう。明日は朝廷に参内し、此度の使いの報告をいたします。物部殿、その時に改めて話をいたしましょう」

「……」

 

 丁寧に礼を行い。妹子は踵を返した。

 その背に布都は言葉を言う。

 

「小野殿。頼みがあるのじゃ」

「なんでしょうか」

 

 緩やかに振り向き、それでいて警戒しながら妹子は言った。今度は逆に布都が丁寧に頭を下げ、涼やかな声で言った。

 

「此度のお使い。誠にご苦労様でございました。太子もお慶びされるでしょう」

「……これは、痛み入ります」

「そこで! な、の、じゃ、が!」

 

 いきなり顔をあげた布都の目はきらきら輝いている。本当にただ好奇心に動かされる少女としか見えない。妹子は思わずくすりとしてしまった。渡海前も彼女とは何度か話をしたが、鋭いようでいてどこか抜けている。ある意味親しみやすい。

 

「どうしても大陸の皇帝とやらが出した返書がみたくて仕方ないのじゃ……。のう、すこし、ほんのすこしでよいから、見せてはもらえないであろうか? の? の?」

 

 布都は目をぱちぱちさせながら妹子に言った。いうところ、重大である。返書を勝手に読もうというのであるから罪を得てもおかしくはない。

 

「ふむ。それは難しいでしょう」

 

 妹子は言いながら見せたい気持ちもあった。「返書」の内容は妙なものであった。それに彼も中は見ている。朝廷に報告するべきかどうかを悩んでいたところもあるから、誰かの意見は聞きたかった。

 

「このとーりじゃ。お、おっと」

 

 頭を下げた布都が帽子を落としそうになり、あわててなおした。妹子はふっと笑い。誘惑に負けてしまう自分を客観的に見ていた。

 

「物部殿のご意見もお聞きしたいところではございました。しからば、内緒でございますぞ」

 

 内緒、と少し砕けた言葉遣いをしてしまうことは妹子の心を布都が和らげたのかもしれない。

 

「かたじけない。太子様が書かれたことにどう返事を出されたのか、気になってしかないのじゃ」

 

 妹子は懐から「返書」をとりだして、両手で持ち、頭を下げる。丁寧なその扱いとは逆に今から勝手に布都に見せるのだから、ちぐはぐではある。布都も両手で受け取り、しゅるしゅると紐解いた。

 

「おお、やはり外来のものはすごいものじゃ」

 

 布都はふんふんと言いながら、目を動かす。それからだんだんとその好奇心に満ちた目を困惑に曇らせ、わなわなと肩を震わせた。

 

(それはそうであろうな)

 

 妹子にもその気持ちは分かった。最初は自らの国が貶められているのかと思ったのだ。その返書は

 

 ――日の昇る蓬莱にいるあなたのことを日がな思っております。

 夢の中に現れる青い髪の仙女に女の身でありながら宰相を務めるあなたのことを常々お聞きしております。此度の倭国よりの国書は快いものではありませんでしたが、貴女が私のもとに来てくれるのであれば末永く和を結べましょう。

 遣わせる使者には言い含めておきます。よい返事をお待ちしております

 

 そのようなことが延々と書き連ねてあるのである。

 妹子が困惑したのも無理からぬことだった。明らかに「国書」への返書というわけではなくこれでは私信のようなものである。

 妹子は何度考えてもどうしたものか結論が出ない。これをそのまま報告してよいものであろうかと思っているゆえんはここにあるのである。

 

「こ、これではまるで」

 

 布都はむむむとほっぺたを膨らませている。怒っているのであろうが、単純にかわいい顔をしていた。

 

「こ、恋文ではないかー!! というか、この青い髪の仙女ってあやつのことじゃないか!」

 

 ばりぃっと布都は巻物を破った。

 

「!!??」

「!!!?」

 

 妹子と布都は口を開けて、お互い目をあわせて、無言だった。遠くを鴉が鳴きながら飛んでいく。

 布都は巻物を両手で持ち、妹子にそっと手渡すと丁寧に礼をして、どこかに行こうとした。

 

「待て!!小娘」

「は、はなせぇ。わ、わざとではないのじゃぁ」

 

 わざとであろうとなかろうと妹子とすればここで逃がすわけにはいかない。妹子とて必死であり、布都も必死である。

 

「はなせぇぇ」

 

 いろいろと棚に上げて布都は言った。

 

 

「も、もうしわけないのじゃ」

 

 布都は地面に額をつけて謝った。妹子はその前に立っている。彼の身なりはぼろぼろでところどころ衣がほつれている。そのうえ肩で息をしている。

 

「も、ののべどの、な、なんという。はあ、ことを、してくれた」

 

 流石に情けないと妹子は思い、身なりを整えて、大きく息を吸った。

 

「私は使いとしての任を果たせずといわれるやもしれませんぞ」

「う、うぅ……」

 

 布都は情けない声を出している。妹子はあまりのことに逆に冷静になっていた。このことをどのように報告をするかということである。幸い返書は破れたとはいえ読めないことはない。

「じ、実は小野殿」

「……」

「我は太子の命を受けてここで待っていたのじゃ」

 

 なるほど。と妹子は不機嫌そうな表情の裏で思う。此度の使いでは相手の国に対し、相当踏み込んだ文書を持たされたことは妹子が一番よく知っている。場合によっては殺されていたかもしれない。

 その返書である。実際の内容はともかく、朝廷にそのまま報告されれば困る内容かどうかを確認しに来た、というところだろうと妹子は思った。

 

「それでは摂政殿にはこのことを伝えてくださるのですね?」

 

 妹子はそう念をおした。しかし「ここは知らぬふりをして驚いて見せるべきだったか」と内心は思う。

 

「も、もちろんじゃ。ううぅ、な、なんでこんなことにぃ」

 

 ぐすぐす泣き始めた布都に妹子は逆に憐みを覚えた。しかし、彼とて保身は図らなければならない。

 

「物部殿。疑うわけではございませんが……このこと神々と祖霊に誓ってくださらぬか」

「……」

 

 はっと布都は顔をあげる。偽りを行わない、ということを神々と自らの祖先に誓うということは絶対の約束をしろと露骨に求められているともいえる。無礼と言えばそうであるが、妹子とて裏切りを許すわけにはいかない。

 

「小野殿を我はこの身にかえてでも守ることを誓うのじゃ」

 

 布都は懐から何かをとりだす。それは美しい勾玉であった。紐が通されており。美しく光っている。

 

「お疑いであるならば小野殿。これは物部の宝じゃ。これを証としておぬしに預ける……うぅ。お気に入りなのに……」

「それでは」

 

 妹子はその勾玉を恭しく預かる。彼の目の前では小柄な少女がぐすぐすと鳴いている。その瞳からおちる大粒の涙は彼女の純粋さが現れているかのようだった。

 

★★

 

 妹子の流刑が決まったのは数日後である。

 返書の紛失がその罪状である。破れた返書はいつの間にか彼の手元からなくなっていた。

 

 妹子は物部布都を呼び出した。

 夕暮れの中彼女は妹子の邸に独りやってきた。彼女を奥に通し、妹子は剣を腰にして向かい合った。

 

「これはどういうことでしょうか? 物部殿?」

「……さて、なんのことでしょうか?」

 

 表情のない布都の顔。薄暗い部屋の中。揺らめくろうそくに照らされる。

 

「貴女はあの時に私にお約束をしてくださいましたなぁ!」

 

 語気が粗くなってしまった。妹子ははあはあと息を吐く。しかし怒りは収まらず懐にいれておいた勾玉を掴んで、布都に投げた。かつんと彼女の手前でそれがはねる。

 布都はただ、緩やかに平伏していった。

 

「我はあのお約束をお守りいたしました」

 

 雪のような声だと、妹子は思った。麗しい声音はひどく冷たい。

 

「で、では摂政殿の判断だと……?」

「さあ、どうでしょう」

「物部殿!! 私は貴女のやったことを訴えてもよいのですぞ」

 

 物部の一族からは恨まれるかもしれないが、ここまで侮辱されてはどうしようもない。

 

「……小野殿」

 

 長いまつ毛。布都はゆっくりと目を閉じてから、開く。

 

「我を訴えるのはいつでもどうぞ。ただ、貴方が無実ならば……物部の一族も蘇我の一族もそなたを許すわけにはいかなくなるでしょうな」

「そが……?」

 

 蘇我がなぜ出てくるのか。妹子は思った「物部」と「蘇我」は対立していることは彼も知っている。海を越えた後に手を組んだことも考えられるが、数日前の朝廷参内の折には相変わらずぎすぎすしていた。

 布都の大きな瞳に妹子は映っている。

 

「……太子様はいずれ小野殿を呼び戻し、要職に着けるとおおせです。それに臣下として類まれな大きな功績をあげられた、とも」

「……」

 

(俺は)

 

 妹子は思う。

 

(警戒されている)

 

 大陸への使いという命を懸けた功績。それを純粋に答えるならば様々な権利権限を与えられて「しかるべき」なのであろう。それはすなわち小野の一族の興隆に繋がるだろう。ゆえに物部も「蘇我」も快く思わないであろう。

 

 布都はちらと落ちている勾玉を見る。

 

――いつでもどうぞ。

 

 布都はそう言った。つまりいつでも物部布都の非をならす手が妹子にはある。彼はもう一度目の前に座っている少女を見た。すました顔でその大きな瞳を妹子に向ける少女。

 

 

「そうですか、摂政殿にはお礼を申し上げておいてください」

 

 妹子は言った。

 そう、わかったのである。

 自らの功績の大きさを豪族達は警戒するだろう。しかし、罪を得て配流される妹子はその点では安全である。仮に後々朝廷に呼び戻されたとしても警戒は弱まっているだろう。逆に「都合がよい」のである。

 

「必ず太子にはお伝えしましょう。それでは妹子殿、我はこれにて」

 

 丁寧に。ひどく丁寧に礼をして布都は立ち上がり、踵を返した。

 

「物部殿」

「はい。なんでしょう」

 

 振り返った布都の顔は部屋暗さから一瞬、表情が見えなかった。

 

「どこからが、本当なのですか?」

「どこからが、とは」

 

 ――こ、恋文ではないかー!!と喚いた少女。

 ――ただ泣いて懇願をする少女。

 ――今、目の前にいる少女。

 

 どこからが演技で、どこからが本当なのか。いや、それよりも布都の言動に明確な嘘はない。つまり、彼女は嘘をついて妹子を騙しているというわけですらない。そのうえ、自らの身を殺しかねない証拠も渡している。

 

(青い仙女……あれにもこの少女は心当たりがあるようなことを、ならば、ならば隋の皇帝すらも……?)

 

 布都は妖怪でも見るような妹子の顔にやさしく微笑みかける。

 

「……不思議なことをいうのじゃ」

 

 にこり、と少女らしく彼女は言った。彼女はそのまま部屋から出ていく。妹子はその後ろ姿をただ見ていた。

 

 

 外に出た布都は空を見上げた。

 空に敷かれた星々を見ながら、

 

「へくち。ううーさぶいのう」

 

 体をこすりながら帰路につく。いずれ滅ぼす、帰る場所への。

 

 



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