銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ (ドラケン)
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第一章 銀雪の都市
白兎 ―Белый кролик―


拙作を開いていただき、誠にありがとうございます。ドラケンと申します。

暫く執筆を離れていましたが、スチパンシリーズの最新作が出るとの事で執筆致しました。

拙い作品ですが、少しでもお楽しみいただければ幸いです。


 

 

──悲鳴が木霊している。絶叫が木霊している。赤い、紅い。ああ、此処はなんと紅いのだ。

 

 

 硝子越しに見下ろす眼下には、深紅が満ち溢れている。誰もが悲鳴を、誰もが絶叫を。耳を(つんざ)く程、喉が張り裂ける程、口々に。紅蓮の炎に焼かれ、血に塗れた銃と剣を持つ殺戮者達に怯え、無力にも神に縋りながら一人、また一人と。

 国と言う枠組みの崩壊の只中では、良くある事だ。処刑場(ロブノエ・メスト)に引き出された者達は、憎悪と怨嗟と共に、ただの血飛沫と肉塊に変わって。

 

 

 誰一人、逃げられはしない。この城壁(クレムリ)の中からは。我が生け贄達よ、我が救済を受け入れた者達よ。君も、君も、君も。誰一人、そう、誰一人。

 君達は(すべから)く、我が『蠱毒』を為す要素であるのだから。

 

 

「……滑稽かな、滑稽かな」

 

 

 思わず、笑いが零れる。熱の無い室内に解き放たれた吐息は白く霞み、やがて消えていく。寒い、此処はなんと寒いのだ。だが、ああ、しかし──心は今までに無いほどに昂っている。

 まるで煉獄(カルタグラ)の讃美歌のようではないか。これを東洋の宗教では、仏教ではそう、阿鼻叫喚地獄(アビーシ)と言うのだったか。

 

 

「では、始めようか」

 

 

──偉大なる実験と、深遠なる認識の開始を。

 

 

 充分だ。駒はこれで揃った。後は、仕上がりを待つのみ。見ているがいい、《黄金王》よ。見ているがいい、《時間人間》よ。見ているがいい、《黒の王》よ。見ているがいい、《白い男》よ。

 あと一人、あと一人だ。()()()()()を門の灯火に()べた時、我が悲願は成就する。

 

 

 白い息を氷点下の室内に撒き散らす。その有り様に、沸き立っていた心が冷えきる。乖離していた室温が帰ってきたかのように、血流すら滞りそうな旭北の大気の冷たさを思い出して。背後の扉の向こう、迫り来る複数の足音。獰猛な獣を思わせる乱雑な足音すら、遠く聞いて。

 そうか、私は笑っているのか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「見つけたぞ、道化師(クルーン)め──妖術師(カルドゥン)め!」

「殺してやる、殺してやる、《黒い悪魔(チェルノボグ)》め!」

 

 

 そんな呆れた意地汚さに辟易と、両腕を広げて。蹴破られたドアの向こうから現れた赤い軍服の男達に。小銃を構え、憎悪と狂騒に吼える獣のように。爛々と、昆虫の複眼じみた万華鏡の眼を血走らせた男達に、まるで託宣者の如く鷹揚に。

 

 

「────此処に、モスクワ実験の開始を告げよう」

 

 

────────────血が流れている。ぽたり、ぽたり。血が溢れている。ごう、ごう。

 

 

 逆上した銃口から一斉に放たれ、身を貫く鉛の欠片すら愛おしむように抱き締める。身を割く苦痛すら、慈しむように受け入れる。零れる端から血も凍るような、この北の果てで。

 

 

──どうした、早く殺して見せろ。早く、私を()してくれ。

 銃で撃って死なぬなら殴れ。殴って死なぬなら剣で刺せ。刺して死なぬなら毒を盛れ。盛って死なぬなら凍った川にでも投げ込むがいい。そして────

 

 

「そして私に、《夢の都(アイラ)》を見せてみろ────」

 

 

 口々に罵詈雑言を吐き、刃を引き抜く兵士達。そうだ、それでいい。さあ、殺すが良い。私もまた、我が『蠱毒』を為す要素の一つであるのだから。

 嗚呼、これこそが真なる我が夢、我が愛。黄金螺旋階段など要らぬ。その始源にして終焉の果てである────────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

──ゆめを、みていた。だいすきな■■■■と、■■■■と、■■■■たちと、■■■■■■が、わらっているゆめ────

 

 

「ニャ……ア……ってば…………」

 

 

──ああ、なんて幸せなんだろう。ああ、なんて目映いのだろう。分かっているから。あれは、もう、二度と────…………

 

 

「ア…………ニャってば…………ああ、もう!」

 

 

──ああ、耳元で声がする。耳元で、誰かが嗤っている。誰だか、よく分からない。なのに、よく聞いて、よく知った声が──────

 

 

『────こんにちは、アナスタシア』

 

 

────目覚める時だ。そして、

 

 

 ああ。視界の端で、道化師(クルーン)が────

 

 

「────アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァ! 講義の最中に居眠りとは何事か!」

「ひゃ────ひゃい、先生! 寝てまふぇん、祈りを捧げていただけでふ!」

 

 

 耳元で弾けた強い声に、思わず直立不動する。はしたないなんて言ってられない、袖で口許の涎を拭う。不味い、居眠りした。教科書、何ページ?!

 ボヤける眼を限界まで凝らし、見詰めた目の前には──同じく直立不動で、銀色の長い髪の、血のように(あか)い瞳の、幼いとすら言える少女。それが、此方を睨み付けるように立っていて…………って。

 

 

「あれ…………私が、居る?」

 

 

 我ながら間の抜けた声でそう呟けば、目の前の少女も眉尻を下げて困惑している。と言うか、当たり前だ。だって、それは鏡台に映った私の姿なんだから。

 

 

「ぷっ…………お早うございまーす、寝坊助のアーニャさん?」

「…………ええ、どうもお早うございます、意地悪のリュダさん」

 

 

 そんな私──アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァのすぐ横で。忍び笑いを漏らしていた彼女と目が合う。リョドミラ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコ。私の親友。私のルームメイト。綺麗な娘、優しい娘、スタイルのいい娘。

 

 

「まったく、器用よね、アーニャってば。朝の支度をしながら二度寝なんて」

「だ、だからって、あんな起こし方しなくてもいいじゃない。心臓が止まるかと思ったわ」

「はいはい。怖がりだもんねー、仔兎ちゃん(ザイシャ)は?」

「……リュダ、何度も言うけど仔兎ちゃん(ザイシャ)って呼ばないで」

「だったら、一人で朝の支度くらいしなさいな。文句はそれから聞いてあげるわ、仔・兎・ちゃん(ザ・イ・シャ)?」

 

 

 むくれて見せても、何処吹く風。言うだけ言って、すっかり支度を終えていたリュダが、同居しているアパルトメントの軋む扉を開いてリビングに歩いていく。綺麗な娘、優しい娘、スタイルのいい娘。暗い金髪と緑の瞳が色っぽい娘。そしてやっぱり、意地悪な娘。普段は大好きだけど、こう言うところはやっぱり苦手。貴女は私のお母さん(マーマ)か。

 とは言え、真実には違いないのだけれど。壁掛けの時計を見れば、碩学院の授業までは二時間を切っている。早く支度しないと、朝御飯を食べている時間が無くなっちゃう。

 

 

 急いで髪を梳いて、結う。腰まで伸ばした、密かに自慢の私の銀髪。それを二房に分けて、それぞれの根本で結う。そんな自分を鏡で見れば、嫌でも思う。

 二房に分けた銀髪に、赫い瞳。兎そのもの。リュダから『仔兎ちゃん(ザイシャ)』なんて呼ばれる理由。『子供っぽい』と良く言われるけど、私は好きだから止めない。

 

 

 ええ、意地になってるだけだけれど。

 

 

「アーニャ、コーヒー入ったよー! また寝てるんじゃないでしょうねー!」

「寝てません、今行くわー!」

 

 

 いけない、一人百面相なんてしてる場合じゃないんだった。慌てて鞄を掴み、リビングに向かう。

 がちゃりと、立て付けが悪くて軋む扉を開ければぷんと薫るコーヒーの薫り。そして乳蕎麦粥(カーシャ)とサーモンのブリヌイ、カトレータとビーツのサラダ、キノコのピクルスが乗せられた皿。食卓に着きながら、相変わらず朝から手が込んでるな、と感心してしまう。

 

 

「さぁ、食べた食べた。まさか、リュダさん特製の朝御飯を残したりしないわよね?」

「はいはい、残しませんとも。私に朝御飯の習慣を付けさせた張本人のリュダさん?」

 

 

 正直、まだ慣れないけど。リュダを悲しませたくはないもの。食べ物も無駄にしたくないし。

 

 

「「頂きます」」

 

 

 食事の前に祈りを。後、一時間半。碩学院まではモスクワ地下鉄(メトロ)で二十分掛からない。うん、間に合う。間に合うわ。大丈夫。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 寮に程近い電気工場駅(エレクトロザヴォーツカヤ)から二つ先。革命広場駅(プローシャディ・レヴォリューツィイ)で、私達は地下鉄を降りる。

 切符も兼ねる機関カードにして学生証で支払いを済ませれば、目の前にはソヴィエト革命の成功を記念する様々な銅像が壁龕に並ぶ、この駅。その中で私は、軍用犬と共にオスマン機関帝国を睨み据える国境警備兵の銅像の前に立って。

 

 

「今日の試験にも受かりますように。お願いね、ジェミー」

 

 

 右手を伸ばして、その銅像の犬の鼻を優しく撫でる。つるつると磨耗したそこ。『学生がここを撫でると、試験に受かる』との噂がある場所。きっと今日も私だけじゃなく、大勢が撫でたはずの場所を。

 

 

「そういうのは自分の努力で頑張るワン、仔兎ちゃん(ザイシャ)

「……なによ、リュダ。私の勝手でしょ」

「勝手すぎるわよ。第一、何勝手に公共物に名前なんてつけてるのよ」

「い、いいでしょ、別に!」

 

 

 そんな私を叱咤するように、こう言う縁起担ぎを嫌うリュダが呆れた声を出す。暖房機関(ウォームエンジン)で暖められてはいるが、外界に接する駅構内には冷たい風が吹く。毛皮の帽子を被り、碩学院合格のお祝いに貰った紅いコートの襟を上まで閉じてマフラーを巻き直しながら、私は先を歩く彼女を追う。

 

 

「情けないって言ってるの、アーニャ。碩学院の学生ともあろう者が、機関文明華やかなりしこの二十世紀で、迷信に縋るなんて」

「はいはい、悪うございました、エイダ主義の急先鋒であらせられるリュダさん」

「なによ!」

「なによー!」

 

 

 カダスに端を発し、新大陸や欧州で声高に叫ばれている女性の社会進出を尊ぶ思想、エイダ主義。

……別にそれが悪い事だとは思わないのだけれど。私には私の考えがあるのだから、押し付けないで欲しいわ。

 

 

 そして長い階段を上り、歩き出たモスクワ市街。永遠の灰色曇と機関排煙に覆われた薄暗い市街、極北の凍てつく風が、機関煤に塗れた銀色の雪を孕んで吹き付ける町並みに。

 言い合っていた私達は揃って白い息を吐きながら、マフラーを更に持ち上げて鼻先まで覆う。寒さだけではない。機関排煙と、この銀色の雪を吸い込まないように。

 

 

「今日はまだ良いけど……明日あたり《黒い雪(チェルノボグ)》が降りそうね」

「そうね……」

 

 

 隣を歩くリュダが、ぽつりと溢す。《黒い雪(チェルノボグ)》、則ち、高濃度の機関排煙に汚染された黒い雪。触れただけでも肌が炎症を起こし、目に入れば失明の恐れすらある。吸い込めば肺を腐らせ、遠くない未来、蒸気病で命を落とす事になる。

 火の落ちる事の無いチェルノブイリ皇帝機関群が全力稼働した翌日に、空から降りて来る悪魔。モスクワの人々はそれを恐れ、または憎々しげに《黒い雪(チェルノボグ)》と呼ぶ。

 

 

 それも結局は自分達のより良い暮らしのためなのだと、色濃い諦めと疲れを瞳に宿しながら。

 

 

 誰もが、空を見ることを最早忘れてしまった。黒い悪魔が降りて来るだけだから。誰もが、空を見ることを最早忘れてしまった。黒い悪魔に足元を掬われるだけだから。誰もが俯くように、足早に、仕事先や学校に向かうだけ。

 『働かない者に、学ばない者に。ソヴィエトに従わぬ者に、生存の権利はない』。そう、人民議会(ソヴィエト)が決めた。その死の都市法に乗っ取って、昨日の夜も。私が安息に微睡んでいる最中にも、何人が『死の扉叩き(スターリン・ノック)』を受けたのだろうか。

 

 

 物思いに耽る中でも、歩き慣れた道を間違える事はない。開けた場所、モスクワ中心部である『赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)』。

 南西にクレムリンの城壁と大統領官邸、レーニン廟、北東にグム百貨店。北西に国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東に聖ワシリイ大聖堂を望むこの広場まで来れば────国営碩学院までは、あと一分。いいえ、二分。

 

 

 最後に一度、町並みを見る。遠く、チェルノブイリ皇帝機関(ツァーリ・エンジン)群が吐き出す排煙の柱。そして、晴れる事の無い灰色曇から煤に塗れた銀色の雪が降る城壁(クレムリン)の町並みを見る。

 暖房機関に暖められた室内との気温差は、優に摂氏三十度を上回る。前世紀から、機関文明の発達と共に春の来なくなったこの国。かのナポレオン・ボナパルト皇帝すら逃げ帰った、苛烈なる冬将軍(ジェド・マロース)閣下のお膝元。

 

 

 その寒さから蒸気変換効率が悪く、『機関(エンジン)の恵みから見放された土地』と揶揄される我が祖国。

 西享最北の軍事大国、世界初の社会主義国家。その財産はおろか、個人の生き死にすらも政府(ソヴィエト)に管理、支配された共産主義の国。偉大なる指導者ヨシフ・ヴィッサリオヴィノチ・スターリン同志の率いる、溶ける事の無い永久凍土のシベリアに閉ざされた、この──────ソヴィエト機関連邦(フィディラニヤ・シヅラニャ)首都、モスクワの町並みを。



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黒狼 ―Черный волк―

 

 

──見上げた灰色の空は、故国と変わらない。だが、肌を裂くような寒さはいつまで経っても慣れない。嗚呼、随分と遠くまで来たものだ。寒い、此処はなんと寒いのか。

 

 

 男が、黒い男が、シベリアの空を見上げながら煙管を吹かしている。城壁(クレムリ)に背中を預けたまま、赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)どん詰まりの袋小路(ブラインド・アレイ)で。隙間なく永遠の灰色曇に閉ざされた、北国特有の頭がつかえそうな程に低く立ち込めた光の射さぬ天球(ブラインド・アレイ)の下、紫煙を燻らせている。

 精悍な男だ。狼のような男だ。後方で纏めた黒髪の総髪を銀雪を孕んだ風に靡かせ、禍禍しいまでの(あか)い瞳を虚空に彷徨わせながら。黒い狼の毛革のコートを羽織り、腰に佩いた三本の日本刀を懐かしむように撫でる。

 

 

「失礼します、隊長」

「何だ、中尉」

 

 

 その隣に、男が立った。かちゃり、と担いだ得物の音を立てながら。若い男だ。だが、やはり精悍な男だ。軍装に黒いコートを羽織り、肩には機関を仕込んだ小銃を担いだ、黒髪に海色の瞳の背の高い男だ。

 

 

「全兵、出立の準備完了です。パレードは時間通りに始められます」

「そうか……全く、煩わしい仕事を押し付けてくれるな、《鋼鉄の男》め。己の戦力を誇示したいのなら自ら行えば良いものを」

「はは、それも仕事の内ですよ、隊長」

「《狼》のやる仕事じゃない。首輪をつけられた、飼い犬の仕事だ」

 

 

 煙管から灰を捨てながら呆れたような声を溢した黒い男に、若い男は屈託の無い笑顔を向ける。それに毒気を抜かれたか、或いは面倒になっただけか。

 狼のように静かに歩き出す。腰の刀は、物音一つ出さない。背後を歩く若い男も、肩の小銃を携えたまま、かちゃり、と。

 

 

「行くぞ、中尉」

「了解。人民議会万歳(ウラー・ソヴィエト)! 鋼鉄同志万歳(ウラー・スターリン)!」

 

 

 凛と、寒空の下に響き渡った声と銃声。答えたのは、背後を歩く彼だけではない。『万歳(ウラー)!』、『万歳(ウラー)!』と万雷の如く。

 いつの間にか彼らの背後に現れた、全身を戦闘服に包む黒い兵士の群れ。手に手に機関銃を握り、顔までもをガスマスクとヘルメットで完全に包んだ、さながら群狼が。

 

 

「────《機関化歩兵聯隊(ヴォルキィ・クラースニィ)》全軍、出陣する」

 

 

 その王の咆哮に応えるように数千もの声が群れ集い、木霊して────…………。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

『────いい、アンナ。貴女にはね、もう一つの名前があるの』

 

 

──夢を、見ている。数年前の夢。豪雪のウラル山脈の麓、エリノの町で。

 

 

『それはね、誰にも教えちゃ駄目。親友でも、先生でも。それがお兄ちゃんでも、絶対に。そうしないと、貴女に不幸が訪れるから』

 

 

──お母さん(マーマ)。優しい、温かな、大好きな。私のお母さん(マーマ)

 

 

『教えて良いのは、一人だけ。貴女に生涯、添い遂げてくれる人だけ』

 

 

──昔ながらの暖炉の側で、編み物をしながら。私を膝に抱いて、樫の木の安楽椅子、キイキイ鳴らしながら。

 

 

『ん? そうねぇ……貴女を、心から愛してくれる一人にだけ。欧州風に言えば────』

 

 

──分からないわ、どんな人? そう問いかけた、今より幼い私に、微笑みながら。

 

 

『貴女の、騎士(ナイト)様だけね』

 

 

──夢見る少女のように………………。

 

 

「まーた寝てる……確かにテストは終わったけどさぁ」

「────ほぇ……あ、リュダ……」

 

 

 肩を揺すられ、瞬間、夢から覚める。顔を上げれば、今朝と同じ。呆れた顔をしたリュダの顔があって。目の前で、ひらひら。リュダの白くて細い綺麗な指、揺れていて。

 ああ、そうか。試験が終わって、そのまま机で寝ちゃったんだ、私。うわ、恥ずかしい…………。

 

 

「……あのねぇ、アーニャ。可愛い可愛い仔兎ちゃん(ザイシャ)? そんなに無防備を晒してると、悪ーい狼さんにパクリと食べられちゃうわよ? そうでなくてもあんた、一部の特殊な性癖の男子には密かに人気なんだから。赤ちゃんが出来たら、学院生活も終わりですよー」

「なっ……なななっ……!」

 

 

──ちょっ、出し抜けに何て事を言うのよ、この人は! 赤ちゃんだなんて、そんな、まだ、恋人どころか恋もしてすらいないのに!

──綺麗なリュダ、スタイルの良いリュダ。お母さん(マーマ)みたいなリュダ、今日は一段と意地悪なリュダ!

 

 

 思わず火照った頬を誤魔化すように、にやにやと小憎たらしい笑顔のリュダから目を離して周りを見渡す。気送管からもたらされる熱に暖められ、導力管からのエネルギーによる機関灯の明かりに満たされた室内。その壁の時計、もう昼過ぎを指していて。

昼食には遅すぎて、夕食には早すぎる時間。もう、私とリュダしかいない。そもそも、昼までの試験日だし。皆、雪が強くなる前に帰ったか、或いは。

 

 

「あはは、慌てちゃって、本当に可愛いんだから。で、どうするの、アーニャ? 今日は『部活動』、出る?」

「うう……!」

 

 

 そう、『部活動』。本来ならただ、碩学を養成するための授業しか行わないこの国営碩学院。帝政ロシア時代から数えて、約六十年の歴史を誇る、我等が学舎。

 それがここ数年、学生からの嘆願によって授業終了後の数時間、『碩学としての向上に関連する事項なら』と学生の自主的な『部活動』を認めて。恐らくは厳しい授業の瓦斯抜きのために。しかし自主性を認めすぎた結果、今や、部活動は百にも及ぶ。私も全ては把握してない。無理。

 

 

「ふんだ、顔くらいは出しておくわよ。最近は試験勉強で忙しくて行ってなかったし」

「了解。じゃ、ミュールとメリリズは後回しね」

 

 

──ミュールとメリリズ。赤の広場の直ぐ側に在る、グム百貨店の前身の名称。今でも、モスクワの人々はこの名を使う。ソヴィエト機関連邦の、富の象徴。なんでも揃う素敵な場所、とても楽しい大好きな場所。

 

 

「うん、新しいレンズも欲しいし」

 

 

 鞄から取り出す、正方形の鉄の箱。英国、ロンドンで開発された機関式篆刻描画装置の携帯型。壊れてて中古で、そして旧式で。格安で叩き売られていたものを幸運にも手に入れられて。なんとか修理して使えるようにした、私の碩学としての最初の成果。

 ……まあ、お陰で貯金は底をついて、兄さんからまでお金を借りて。その上、先生がたからは『だから?』って感じで酷評されたけど。そもそも、この碩学院では『兵器研究』が第一だから。もし、ある『教授』が目に留めてくださらなかったら、今頃はウラル山脈に帰されていたところだったけど。

 

 

「携帯型篆刻(てんこく)写真機の? あんたも好きよね、写真機……あんな金食いの成金趣味」

「もう、人の趣味に文句つけないでよ」

「誉めてんのよ。アーニャくらいでしょ、『篆刻写真を携帯型電信通信機(エンジン・フォン)に付けられるくらい小さくしよう』なーんて理論に真面目に取り組んでるのなんて」

 

 

──それって、本当に誉められてるの? 馬鹿にされてるんじゃないの?

 

 

 くすくすと忍び笑うリュダに、今日何度目だかの睨み。背の高いミラには、駄々っ子の上目遣いにしか見えないそうだけど。

 

 

「────いいえ、はい。目の付け所は面白い研究ですよ」

「「えっ?!」」

 

 

 そこに、突然。私達の背後から、抑揚の無い声が生まれた。私だけじゃなくて、リュダさえも驚いて振り返る。

 黒い服。修道服。ロシア正教の、無表情のシスター。間違いようもない、こんな服を着て此処に居る人物なんて、学生一万人を擁するこの碩学院でもただ一人。

 

 

「「こ、こんにちはです、ブラヴァツキー夫人(ミシス・ヴラヴァツキー)!」」

 

 

──ブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)。本名、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー。碩学院の教授の一人、ソヴィエトにおけるメスメル学……精神学の第一人者。

 

 

「……かつて地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは、望遠鏡による天体の観測でその理論に辿り着きました。道は一つに見えて、意外な場所と通じている事もあるのです。写真機、現実を有りのままに、有るがままに映し出す機械。それを広く人口に膾炙すれば、何に通じるか。私はザイツェヴァさんの理論にそんな可能性を感じた。それだけの事です」

「は、はい……ありがとうございます」

 

 

──そして、私の篆刻写真機能付電信通信機(エンジンフォン・キャメラ)理論に興味を示してくださった、ただ一人の大恩人。以来、夫人は私の目標となる碩学だ。

 

 

 ええ、専攻は全く違うのが珠に傷だけれど。

 

 

「それより、午後は用がないのですか? こんな時間まで、教室で。今回の試験はそんなに簡単でしたか?」

「あ、いいえ、いいえ。今から部活動に顔をだそうかと」

 

 

 いけない、訝しまれちゃった。確かに普通なら明日の試験対策に勉強するか、息抜きに部活動するかだものね。

 ん? あれ? だとしたら、おかしい。だって、ブラヴァツキー夫人は────

 

 

「今日は部活動は休みだぜ、ザイツェヴァ」

「悪いが、そうなった」

 

 

 その疑問に答えるかのように、教室に入ってきた男子生徒二人。どちらも背の高い、男の子達。金髪の彼と茶髪の彼。

 

 

「え、そうなの、オジモフ君?」

「何かあったわけ、イサアーク?」

「ああ、ザイツェヴァ、パヴリチェンコ。ユーリィの奴が、この莫迦が。赤点スレスレだから勉強を教えてくれ、と泣きついてきたんだ」

「そうそう、俺が莫迦だから……て、おい、イサアーク! バラしてんじゃねぇよ!」

 

 

 底抜けに明るい金髪の彼。『夢は灰色曇の向こう、宇宙に行くこと』と豪語して『飛空艇』の技術と操縦を研究している彼、ユーリィ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン君。

 そして、どこまでも真面目な茶髪の彼。碩学院の首席学生、私と同い年でありながらカダスの『人工筋肉理論』と『数秘機関(クラックエンジン)』に基づいた『機関人間(エンジンヒューマン)』研究で成果を出しつつあると言われる彼、『機関(エンジン)で完全な人間を作る』と豪語する彼、イサアーク・ユードヴィチ・オジモフ君。

 

 

「まあ、ガガーリン君らしいかな」

「だねぇ、ユーリィらしいわ」

「ハッハッハ、そう誉めるなよ、アンナ、リュドミラ。照れるだろーが」

「……ガガーリンさん、教師の前でそういう態度はいただけませんね。減点」

「ちょっ、夫人(ミシス)!?」

「……この、底無しの阿呆めが」

 

 

 私とリュダも属している、『最新機関技術同好会』のメンバー。そして、ブラヴァツキー夫人はその顧問。そうか、だから夫人はここに来たんだ。

 

 

「じゃあ、そう言うわけだ。活動は試験明け、晴れてユーリィが除籍されてからだな」

「おうよ、乞うご期待! ……じゃねーだろ、イサアーク! ちょっと待った、お前に教えてもらわねーとマジでヤベェんだって!」

 

 

 クールに告げて出ていったオジモフ君を、ニカリと笑って。思い出したように慌てて追い掛けて、ガガーリン君が出ていく。

 嵐のような男子生徒二人の後に残された私たち三人は、暫く沈黙した後。

 

 

「では、私は試験の採点がありますので。さようなら、ザイツェヴァさん、パヴリチェンコさん」

「「あ、はい。さようなら、夫人(ミシス)」」

 

 

 またもやの唐突な言葉に、またもや声を重ねて。

 

 

「……じゃ、ミュールとメリリズ、行く?」

「……うん、行く」

 

 

 私達は、帰り支度を始めたのだった。



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邂逅 ―Случайное знакомство―

 

 

 いつも通り、銀色の雪が降るモスクワ市街、赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)。国営碩学院からグム百貨店──ミュールとメリリズまではたった数百メートルとは言え、防寒具なしでは着く頃には芯まで凍えている。雲に覆われて太陽の光の射す事の無い、常に氷点下のこの国。

 厚い革の外套(ドゥブリョンカ)と、耳当て付帽(ウシャンカ)普段着(ルバシカ)。鼻先まで覆う防塵マフラー、手袋にブーツ。ソヴィエトに生きる人々の必需品。後は三弦洋琴(バラライカ)と……私は飲めないけど、ウォッカ。お父さん(パーパ)はよく仕事帰りに、『命の水だ』ってがぶがぶと。獲物の毛皮を剥ぐ前に飲んで。指を怪我しては、お母さん(マーマ)に怒られていたっけ。

 

 

「なぁに、いきなり笑って?」

「いいえ、別に?」

 

 

 不意に思い出した懐かしさに、マフラーの下でクスリと笑う。たったそれだけでも、白い息は外気に散らされて消えていく。それで分かったんだろう。

 鋭いリュダ、頭の良いリュダ。スタイルの良いリュダ、大人っぽいリュダ。今だってそう、同じような服装でも、私と違って人目を惹く。深緑のコート、纏っていたって分かるもの。

 

 

 良くも、悪くも。未だに封建的気風の強い、この国では。エイダ主義に傾倒する女性は、反体制派のレッテルを張られかねない。

 

 

「変なアーニャ……って、いつも通りか」

「なによ、それ。子供扱いして失礼なリュダ……って、いつも通りね」

「ほっほー、言うじゃないのさ。小生意気な仔兎ちゃん(ザイシャ)だこと」

 

 

 なんて、取り留めもない事で笑い合いながら。あと少しでミュールとメリリズ、アーケードの百貨店。あと少しでその軒先と言うところで、辺りに歓声が巻き起こる。

 

 

「うわ」

 

 

 瞬間、リュダが嫌そうな声を漏らした。その視線の先、人だかり。その先には────

 

 

「あれ、って」

 

 

 思わず、身の毛がよだつ。黒い、獣の群れ。深紅の御旗をはためかせながら行進する、黒い装備と深紅のゴーグル付きガスマスク。黒い狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)を纏い、その背嚢(はいのう)から濛々(もうもう)と黒い機関排煙を立ち上らせる異形の兵士達。

 誰が見間違えられよう、あれこそは我等が祖国の軍事力の象徴。《鋼鉄の男》スターリン同志の率いる《政府赤軍》の、鋼の猟犬三千体。全身をカダスの異常発達した機関技術(インガノック・テクノロジー)である『数秘機関(クラックエンジン)』の義肢に置き換えた、人間を越えた三千もの機甲兵士による、ソヴィエト機関連邦最強の聯隊(れんたい)

 

 

「《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》…………」

 

 

 他の赤軍兵士とは違い、彼等は赤い軍服を着る必要はない。何故なら、わざわざ赤い服を着ずとも、返り血に染まる人狼達(ヴォルキィ・クラースニィ)なのだから。

 

 

「……何が、政府赤軍(クラースナヤ・アールミヤ)よ。ただの人殺しどもよ、あんな奴ら」

「────────」

 

 

──前指導者ウラディーミル・レーニン氏の急逝により、内部分裂を起こしたボリシェヴィキ。レフ・トロツキー氏の後継者争いを制した我等が同志スターリン氏が、最初に取り組んだ構造改革。『五ヵ年計画』と呼ばれるその計画による軍拡、その成果。未だ脅威であり続けるオスマン機関帝国の機動要塞群(スルタン・マシーン)に対抗する為、一人でも並みの兵士百人分以上の戦闘能力を有する機関人間を量産、ソヴィエトの得意戦術である人海戦術にて運用する事を目的とした部隊。西亨において、これに勝る陸上戦力なんて何処にあるだろう。事実、バスマチ蜂起に呼応してスターリン氏に反旗を翻した旧帝政派の八万人は、彼等三千人に一人残らず鏖殺された。

──だけど。その財源の為に敷かれた、苛烈なまでの強制収奪税制。それによりソヴィエトの人口の0.1%に当たる十五万人が餓死、あるいは凍死したと言われている。だから、人々は彼等を誇ると共に憎むのだ。《忌まわしき鉄と死の兵団》と。人民局の父君と英語教師の母君、その両親を失ったリュダのように。

 

 

 低い声。感情を押し殺すような。憎しみの籠った眼差しで、ミラは彼等を見据えている。今までも何度か。こうして、パレードに行き当たった時に。毎回。

 優しいリュダ、綺麗なリュダ。駄目、止めて。お願いよ、そんな目をしないで。

 

 

「リュダ、行きましょ」

「────アーニャ……」

 

 

 思わず、引いたリュダの腕。知らず、すがり付くかのように。それで漸く、彼女は私を思い出してくれたようで。

 

 

「……ゴメン、アーニャのお兄さん、赤軍兵士だったわね。ああ、ヤメヤメ。少し早いけど、夕食でも食べていきましょ」

 

 

 ばつが悪そうに微笑んで、いつもみたいに。いつもみたいに、優しい笑顔。暖炉のように、温かな。

 

 

──ああ、良かった。優しいリュダ、綺麗なリュダ。いつものリュダだ。

 

 

 ほっと、胸を撫で下ろす。大丈夫、またいつも通りの日々。ミュールとメリリズで買い物をして、いつものようにつまらないお喋りをして、ブリヌイでも食べて。寮に帰って、寝て、起きて、碩学院に通う日々。

 そうだわ、今日は私が食事番だった。丁度ミュールとメリリズに寄るんだし、得意料理のボルシチにしよう。うん、大丈夫、大丈夫────

 

 

「──おい、お前達」

「──待て、そこの二人」

 

 

 びくり、と肩が震える。ばくばく、と心臓が震える。背後から掛かった、野太い男性の声が二つ。リュダと共に振り返れば、目にも鮮やかな深紅の軍服。小銃と軍刀を身に付けた、灰色帽子の男達が。

 赤ら顔でニタニタと、厭らしい笑顔を。獲物を見付けた、野良犬のような顔で私達を見ていて。

 

 

──止めて。お願いよ、止めて。いつものように過ごさせて。いつものように暮らさせて。

 

 

「「人民議会万歳(ウラー・ソヴィエト)! 鋼鉄同志万歳(ウラー・スターリン)!」」

 

 

 息もピッタリ、私達は敬礼と共に賛辞を述べる。それを嘲笑うように、肥満体の男と病的な痩躯の男は、値踏みするように私達を睨め回した後で。

 

 

「んん~? おかしいなぁ、そんなに熱心な同志なら、パレードに背を向けたりする訳がないよなぁ?」

「全くだ。さては貴様ら、()()()()()()じゃあるまいな?」

 

 

 その下卑た笑顔から溢れた、酒臭い言葉に、ばくばく、ばくばく、心臓が早鐘のように。『反体制主義者』、つまり『ソヴィエトの敵』と言うこと。

 つまり────()()()()()()()()()()()()()と言うこと。

 

 

──駄目、駄目、駄目。止めて。お願いよ、止めて! 怖い、恐い、コワイ。お願いだから、私達をいつものように!

 

 

「ち、違います! 私達は反体制主義者なんかじゃありません!」

「そうです、私達は国営碩学院の学生です! ソヴィエトの為に生きています!」

「口で言うのは簡単だが、証拠があるまい? そら、証拠を見せてみろ」

 

 

──その通りだ。『無い事は証明できない』、実に簡単な、『悪魔の証明』の問題だ。だから、私達は…………この濡れ衣を晴らせない。

──それを知って、この兵士達は私達を。

 

 

「証明できない、か……ふぅむ、これは『尋問』だ。久しぶりに、なぁ」

「いやはや、嘆かわしいことですな。今晩は長い夜になりそうだ」

 

 

──ああ、そうか。この人達は、ヒトじゃない。()()()()なんだ。

 

 

「待って! 私が、私だけで大丈夫ですから、アーニャは、アーニャだけは!」

「ああ、ああ。仲良く連れていってやるとも。さぁ、来るんだ」

 

 

 白くて綺麗な右腕腕を翳して、私を庇ったリュダ。それを組み伏せて、男達が揃って浮かべた好色と残虐の笑み。凄惨な、穢らわしい、野犬のような笑顔。伸ばされた右手が迫る。

 

 

『────こんにちは、アナスタシア』

 

 

──ああ、見える。視界の端に、躍り嗤う、道化師(クルーン)が。

 

 

 辺りの人々は、見て見ぬふりを。誰も助けてはくれない。当たり前だ、相手は絶対の権力を笠に着た赤軍兵士。そんな事をすれば、同じように、無実の罪を被せられる。誰が、それを攻められよう。

 

 

────では、目を覆う?

 

 

──いいえ。視界の端で、躍り狂う貴方。

 

 

────では、瞼を閉じる?

 

 

──いいえ、いいえ。視界の端で、嘲り嗤う道化師(クルーン)

 

 

────じゃあ、どうする?

 

 

──ええ、背後の貴方。だから、私はこう言うわ。

 

 

『ぼくは、みているよ』

 

 

「……最っ低…………最低よ、貴方達は!」

 

 

『アンナ、アナスタシア。きみを、みている』

 

 

 現実と幻覚と、二つの嘲笑う声に晒される中で。でも、その声は確かに。私の背中を押すように、力強く。ある種の実感が、確かに。

 

 

「強いものの影から、こそこそと────権力を笠に着て、ぬけぬけと! 大の男が、恥を知りなさい!」

 

 

──私は絶望的な恐怖からも、理不尽な暴力からも。絶対に瞳を逸らさない────!

 

 

「お? 本性を表したな、反体制主義者め!」

 

 

 でも、兵士は変わらず嘲笑うだけ。伸ばされた右腕が、私の左手を掴む。服の上からでも気持ち悪い、まるで芋虫が五匹、のたうつような感触。

 

 

遅いわ(ニーズカャ)────」

「何────貴様、逆らう気か!? 赤軍兵士に楯突くと────」

「────喚かないで(チーハ)!」

 

 

──それを力任せに振り払う。勢い余って脱げた手袋、落ちた帽子。冷たい風、でも、今は気にならない。今は、ただ。頼りなくてなよっちい、私の生白い────()()()()()

 

 

「私は、貴方達なんて────何一つ怖くないわ!」

「こっ、この……!」

 

 

 最後になしなけの勇気を振り絞った睨みと、ありったけの力を込めた左手の平手打ちを見舞う。何処かで、『くっ』、と息が漏れた。静かに、だが確かに。さざ波のように、失笑が伝播していく。それに、肥満体の兵士の顔色が深紅に染まった。

 当たり前だ。大の男が、仮にも赤軍の名を頂いた兵士が。小娘の平手打ち一つ、躱せないなんて。しかも、公衆の面前で。

 

 

「この────餓鬼が!!」

 

 

 だが、それも男達の逆上を招いただけ。市民たちは、ただ、遠巻きに成り行きを見ているだけ。そして私にももう、出来る事はない。情けなさに、恐怖に、悔しさに、視界が滲む。

 そんな思考の間にも握り困れた大きな拳、もうすんでのところまで。もう、目の前まで迫っていた赤い野犬の右腕が────

 

 

「────────随分と可愛らしい『遠吠え』が聞こえたと思って来てみれば…………」

 

 

 目にも留まらぬ速さで疾走った、紫煙を纏う黒い風に────

 

 

「馬脚を現したのは貴様らだ、莫迦め。度し難い程の莫迦どもめが」

 

 

 喉元に金属板の縫い付けられたボロボロのマフラー、銀色の雪風に靡かせて。三本の刀を腰に帯びた、黒い狼の右腕に握り止められて────

 



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開幕 ―Открытие―

 

 

「ぐあっ……! て、テメェ!」

 

 

──腕をひしがれた肥満体の男が無様に、銀色の雪が積もる石畳に膝を突いた。嘘、有り得ない。腕をひしいで、どうして、膝が崩れるのか。

──人工筋肉理論を暗記してるオジモフ君なら分かるのかな、なんて、取り留めの無い事を思って。

 

 

「アーニャ! ああもうこの子ったら、怖がりの癖に!」

「リュダ! 何よ、私なんか庇って……子供扱いして、失礼なリュダ!」

「何よ、言ってくれちゃって……本当に小生意気な仔兎ちゃん(ザイシャ)なんだから……」

 

 

 走り寄ってきたリュダに抱きすくめられる。見れば、リュダを組み伏せていた痩躯の男は、変な方向に曲がった鼻から血を流して呻いている。

 あの男の人に。黒い、狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)の人。あの人に痩躯の兵士、殴り飛ばされた後で。

 

 

「お、俺達を誰だと思ってやがる、このチビめ! 極東人(ヤポンスキー)め!」

 

 

 それでも目を血走らせた肥満体の男が、泡を飛ばしながら吠える。その悍ましさたるや、正しく狂犬病に冒された野犬のよう。

 でも、でも。黒い男の人。私と比べれば、背の高い。でも、兵士達と比べれば頭一つ分小さい、墨を流したような艶やかな黒髪の。真っ直ぐに敵意を向けられて、それでも、眉ひとつ動かさずに。

 

 

「……(ヒトツ)、士道ニ背キ間敷事(マジキコト)(ヒトツ)、私ノ闘争ヲ不許可(ユルサズ)。守るべき人民、しかも無辜の婦女子を籠絡し、手篭にしようとは何事か。最後の情けだ、潔く────腹ァ切れ」

 

 

 凛と、言い放つ。鮮烈なまでに耳に滑り込む、狼の咆哮のような低い声で。小躯の怯みなんてまるで感じられない、傲岸不遜なまでの声色で。

 直接、視線を向けられている訳でもないのに。その煌めく赫い瞳の圧力に、私の息が止まりそうなくらい。

 

 

「わ────訳の分からねぇ事を言ってんじゃねぇ────!」

 

 

 危ない、と思った時には、もう遅い。肥満体の男が、左手で抜いた軍刀。ぎらりと、底冷えのする輝きを伴って、刃先は男の人の腹部に。

 

 

「真に殺したくば刀は右手で、相手の鳩尾のやや左を、刃を倒して穿つべし。肋をすり抜け、心の臓を抉るは平刺突(ヒラヅキ)の基本────その程度の事も分からんとは」

 

 

 それを、左手の親指と人差し指の側面で、易々と止めて。まるで、剣の指導をするみたいに。

 

 

「心無く、才無く。刀刃を玩ぶな、愚物が」

「な────あぎぃ?!!」

 

 

──パキン、と澄んだ音を立てて。嘘、有り得ない。兵士の軍刀がへし折れた────ううん、へし折ったんだ、あの男の人が。

──同時にべきり、と。鈍く、有機的なものが潰れる音。ああ、うん、そうよね。金属をへし折るような握力で握られた兵士の右腕、耐えられるわけ無いもの。

 

 

「こ、殺してやる────殺してやる!」

 

 

 突然の声に、忘れていたもう一人の方を男の人が眇に見遣る。右腕を抱えて蹲り、呻くだけとなった肥満体の男と入れ替わるように、さっきまで折れた鼻を押さえていた痩躯の兵士が小銃を構えていて。

 機関(エンジン)を仕込んだ、最新式の『モシン・ナガン』。直撃すれば五ミリ厚のクローム鋼でも貫徹するという、その銃弾。その暴力を、真っ直ぐに放つ────よりも早く。引き金を絞ろうとしていた兵士の人差し指、引き金ごと吹き飛んで。

 

 

「ぎっ────いぃあぁぁぁっ!!?」

 

 

 兵士の悲鳴が木霊してから、そんな神業を成した銃声は届いた。

 

 

「────隊長。お怪我は有りませんか?」

 

 

──それを成した、その人と共に。長身のロシア人。癖の強い黒髪に海色の瞳の、さっきの男の人と同じく、黒い狼の毛皮のコートを着た男性。

──懐かしい、声の人が。

 

 

「……余計な真似をしなくとも、この距離から撃たれたところで当たりはしない。狙撃手が貴様でもない限りはな」

「でしたね。失敬しました」

 

 

 男の人達二人、まるで当たり前のように会話して。そして────いつの間にか、周りを取り囲むように。

 

 

『……万歳(ウラー)

『……万歳(ウラー)

 

 

 《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》の、返り血に染まる人狼達(ヴォルキィ・クラースニィ)が、観衆を外に押し出していて。

 

 

「す、《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》……まさか!」

「ま、待ってくれ……いや、待って下さい! ほんの出来心で、俺達は、同じ赤軍でしょう!」

 

 

 その中央では、彼等が。赤軍兵士二人を拘束している。ここに来て、兵士たちは何かを悟ったのだろうか。今まで敵意を向けていた極東の男の人に、憐れみを乞うように。

 

 

「黙れ。喚くな、赤軍の面汚しが────我々には《鋼鉄の男》より、全ソヴィエト人民に対する無裁判処刑権が与えられている。無論、兵士とて例外ではない」

 

 

 だが、そんな命乞いなど歯牙にも掛けずに。シベリアの永久凍土よりも冷たい赫い瞳で見下ろしたまま、黒い男の人は吐き捨てた。

 

 

「因って────貴様らは、ここで終わりだ。

残 念 だ っ た な

万歳(ウラー)!』

万歳(ウラー)!』

 

 

 首元で、彼が平手を横に払う。万国共通の、処刑のサイン。一気に血の気を喪い、蒼白となった兵士達は、そのまま人狼達に処刑台(ロブノエ・メスト)へと引き摺られていく。

 

 

「そ、そんな……そんなぁ!」

「助けて……助けて下さい、大佐! 大佐ぁぁぁ!」

 

 

 その間もずっと、悲鳴を撒き散らして。でも、人を越えた機関人間(エンジンヒューマン)の膂力に抗う術など無い。やがてそれも、銀色の雪の彼方に響いた二発の銃声で聞こえなくなった。

 

 

「さて……申し訳ない、大事無いか?」

「──え、あ……」

 

 

──その右手が、私に差し出されている。兵士達の命の行く先をいとも容易く閉ざした、右手が。武骨な右手。

──節張った、傷だらけの、剣術胼胝(タコ)のある……お父さん(パーパ)によく似た、男性らしい右手。

 

 

 その右手から、もう一度。私を庇う白い右手がある。リュダ、優しいリュダ。リュダが、また、

 

 

「アンタ……ふざけてんの! 何が『大事無いか』よ、アンタ達のせいでしょ! いつもいつも、私達みたいな弱いものから奪うだけの癖に!」

 

 

 烈火のように怒って。綺麗で色っぽい緑色の瞳、憎しみに濁らせて────

 

 

──心臓、ばくばく、ばくばく、ばくばく。破裂しそうなくらい。忘れるように努めていた恐怖が、怯えが、纏めてやって来て。

 

 

「あ────はぁ、はっ、はっ…………!」

 

 

──呼吸も、思うように出来ない。胸が痛い。心臓が、破裂しそうで、怖い、恐い、こわい、コワイ────!

 

 

「帰るわよ! こんな奴等、放って────…………? ちょっと、どうしたの!?」

 

 

 リュダの背後でへたりこんだまま、胸を押さえて。それでも駄目、駄目。息が出来ない。私、わたし────!

 

 

「……落ち着け。俺の言葉をよく聞いて、心の中で復唱しろ。いいな?」

「はっ────は、はぁっ──!」

 

 

 その私の顎を持ち上げるように、右手が触れている。赫い瞳、三白眼の鋭い眼差し、目の前でじっと。あと少しで、唇が触れそうなくらいで。

 

 

「恐れなくていい。怖い事もない。お前の命は続く」

 

 

──恐れなくていい。怖いことはない。私の命は続く。

 

 

「息を吸え。息を吐け。呼吸を続けろ」

 

 

──息を吸う。息を吐く。呼吸を続ける。

 

 

「そうすれば。今からはまた、いつも通りだ────」

 

 

──そうすれば。今からはまた、いつも通り…………

 

 

 不思議な声、ゆっくりとした声。恐慌の坩堝にある私の耳にも、するりと滑り込んでくる声。低くて、落ち着いていて、自信に満ち溢れた男の人の声。

 その調子に合わせるように、心臓が落ち着きを取り戻す。血流に乱されていた呼吸も、だんだん、だんだん。

 

 

──ああ、そうだ。これ…………精神学(メスメル)だ。

 

 

 『軍隊の指揮官等の集団の導き手となる人には、生まれながらに心理(メスメル)作用を有する声の人が相当数いる』と、ブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)が授業で仰ってた。それが分かるくらいには、回復していた。

 

 

「落ち着いたか?」

「はっ……はい……あふっ」

「よし、いい子だ」

 

 

 答えれば、彼は笑って私の頭を撫でる。さらりと、優しく。金属や人の腕を折るような握力なんて、微塵も感じさせない優しさで。帽子、さっき、落としていたから。

 それは、人のような笑顔だったけど。口端を吊り上げた、人間らしさを廃した……狼みたいな笑顔だった。

 

 

「あの……えっと、こ、困ります」

「何がだ?」

「だから、その……」

 

 

 そして、そうなれば。今度は、今置かれている状態に気が回り出す。小さく『万歳(ウラー)』と呟きながら待機している《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》の人狼達の真ん中で、その指揮官の人に頭を撫でられている。ちょっと前の私なら、考えもできない状況。

 

 

「隊長、隊長。極東ではそれで良いのかもしれませんけどね……天下の往来で婦女子の頭を撫でるとか、封建的なソヴィエトじゃあ結婚して責任とるレベルですよ」

「《狼》しか見ちゃいない、何の問題がある?」

「あるでしょうが。隊長が小児趣味だなんて、俺達の肩身が狭くなる」

 

 

──て言うか……これ、すごく失礼よね? すごい子供扱いよね? 一応私、結婚もできる齢なんですけど。淑女(レディ)なんですけど。

 

 

 小銃を担いだ彼が苦笑いしながら告げれば、隊長さんは決まりが悪そうに手を離して立ち上がる。そう、背は高くない男の人。勿論、私と比べたら頭二つ分くらい高いけれど。

 その間に、帽子を拾い上げて被り直す。うう……恥ずかしい。顔から火が出そう……。

 

 

「さて、兎に角問題はこれからですよ、隊長。パレードを中断して《鋼鉄の男》閣下の面子を潰した言い訳を考えないと」

「チ────煩わしい事を思い出させてくれる」

 

 

 小銃を担いだ彼が、呆れ顔で隊長さんに語り掛ける。隊長さんは、咥えていた煙管を一吹きして灰を飛ばすと、新しい刻煙草を先に摘める。

 すかさず、差し出されたライターの火。副官の彼が差し出した火で煙管を炙った隊長さんは、面倒くさげに髪を掻きながら紫煙を燻らせていて。

 

 

──あー、なんだろ。だんだん頭に来た。

 

 

「そんな事より、こんな状況で私の事に気付かないんですか? 副官さん」

「え、何かな、? お嬢さ────…………」

 

 

 遂に、私の方から声を掛ける。そうして、副官の『彼』は漸く私を見た。見て、呆れ顔を驚きに染めて。多分、私は逆に恥じらい顔を呆れに染めて。

 

 

「アンナ…………アンナか?!!」

「ええ、はい。アンナですよ。小児で悪かったわね、ヴァシリ兄さん」

 

 

 憮然と、私は『彼』を見上げる。背の高いロシア人。癖の強い黒髪に海色の瞳の、懐かしい人。私の兄さん────ヴァシリ・グリゴーリエヴィチ・ザイツェフを。

 

 

「知り合いか、ヴァシリ?」

「いえ、あの……妹、です」

「何?」

 

 

 目に見えてしどろもどろになった兄さんの言葉に、隊長さん、気怠げな目を丸くして。やがて、呆れたように紫煙混じりの溜め息をこぼす。

 

 

「……ヴァーシャ。五百メートル先から小銃の引き金を撃ち抜くような鷹の目が、妹の顔の見分けもつかんのか?」

「それとこれとは、話が違うじゃありませんか。第一、ロシアの娘は厚着してて分かりにくいったら……」

 

 

──隊長さんの気持ちは凄く分かる。私も、溜め息を吐きたいくらい呆れているもの。兄さん、見た目は格好いいヴァシリ兄さん。後は、中身があれば、完璧だったのに。

 

 

「……今日はもういい。《鋼鉄の男(スターリン)》には俺が報告しておく。いつも通りに粛清を行った、とな」

「いえ、しかし────」

 

 

 そのしどろもどろのまま、隊長さんに言葉を返そうとした兄さん。そんな、兄さんに。

 

 

「中尉────指示を復唱しろ」

 

 

 煙管から灰を吹き飛ばして、反抗を赦さない赫い瞳。血の色の、狼の瞳。切れ長の三白眼が、言外の威圧を叩き付けて。

 

 

万歳(ウラー)! ヴァシリ・ザイツェフ中尉、本日は帰投致します! 御気遣いありがとうございます、大佐!」

()()まで口に出すな、莫迦が────」

 

 

 兄さんの敬礼を受けて、隊長さんは踵を返す。狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)、銀色の雪混じりの風に靡かせて。三本の刀と人狼たち、伴って。

 

 

──行ってしまう。黒い極東の男の人。まだ、お礼すら言えてないのに。

──だから、私。お願い、もう一度だけ。もう一度だけ。

 

 

「────あ、あの!」

「……何だ、少女」

 

 

──もう一度だけ、勇気を。

 

 

「あの、御名前、を……!」

 

 

 自然と震える体と声。竦み上がって、ああもう、我ながら情けないったら────

 

 

「……ソヴィエト機関連邦、《赤衛軍(クラースナヤ・アールミヤ)》客員大佐、内藤隼人義豊(ナイトウ・ハヤト・ヨシトヨ)

「────」

 

 

 でも、確かに。振り返りすら、してくれなかったけど。その声は確かに降りしきる銀雪の帳を越えて、私の鼓膜を揺らして。

 

 

「……ハヤト、さん」

 

 

『貴女の、騎士(ナイト)様だけね。アナスタシア』

 

 

 甦るのは、お母さん(マーマ)の声。暖炉の前で、夢見るように私に聞かせてくれたあの声に、つられるように。

 

 

「《騎士(ナイト)》……ハヤト・ヨシトヨ」

 

 

 私は、ばくばくと、再び脈を早めた心臓を胸の上から押さえて。火照った頬に風の冷たさを感じながら、その名前を口遊んでいた────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた皇帝(ツァーリ)の城だ。誰もが知りながら、誰もが知り得ない。漆黒と排煙に閉ざされた、この世の地獄だ。

 そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、八大地獄(カルタグラ)だ。そこは死して尚、魂を苛む八寒地獄(コキュートス)だ。

 

 

 ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。

 

 

「喝采せよ、喝采せよ! おお、素晴らしきかな!」

 

 

 声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。

 

 

「我が《最愛の子》が第一の階段を上った! 物語の始まりの時が来たのだ! 現在時刻を記録せよ、ラスプーチン! 貴様の望んだその時だ────《鋼鉄の男》よ、震えるがいい!」

 

 

 その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の皇帝(ツァーリ)が一人。盲目に、白痴に狂ったままに。従う事の無い従者に向けて叫ぶのだ。

 

 

「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。時計など、持ち合わせてはいませんがね」

 

 

 答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

 

「くっ──はは。物語、物語だと? ああ、最初で最後の《奇械》を無駄にして────悪い子だ、アナスタシア」

 

 

 堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。

 

 

「ええ、ええ。本当に」

「そうね、そうね。本当に」

「全くだわ、全くだわ。本当に」

「「「本当に本当に悪い子ね、アナスタシア」」」

 

 

 傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共にロシア舞踊(ベレツカ)を躍り、嘲りながら。

 まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる道化師(クルーン)が。

 

 

「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛の形あり!」

 

 

──それが、物語の始まり。お伽話か活動写真(フィクション)のような、男女の出逢い。

──路地の侍士(ストリート・ナイト)と、白い皇女殿下(ベールィ・インピェーラリスサ)の。

 

 

皇 帝 陛 下 万 歳(ウラー・インピェーリヤ)──────────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 

 その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けるのだ────



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回転悲劇/黒雪 ―Трагедия вращения/Черный снег―

 

 

 遠い、遠い。果てしなく遠い。暗く、長い長い隧道(トンネル)、或いは天蓋付きのアーケード。その彼方に揺れるもの。いつからだろうか、多分、ずっと。目指して歩いている、あの『光』は。

 届かないものを思う。見た事はないけど、水鏡に煌めく満月であるとか、蒼穹に輝く太陽であるとか。

 

 

 そして、ふと、足元に目を向けた。

 

 

 隧道の天井から漏れる、僅かばかりの『光』を湛えた石畳に。そこに芽を出した、ほんの些細な命を。雑草と、一括りにされるもの達だ。だが、確かに命の輝きだ。

 一休みしよう、この命を眺めて。背後から吹く風に揺れる、小さな彼等を眺めて。

 

 

 辺りに佇む、セピア色の、皆と共に。

 

 

『──オブジェクト記録を参照:鋼鉄都市モスクワ』

 

 

 その時、声が。声、声? いいや、違う。心を震わせる『思い』が、流れ込んできた。

 

 

『西亨北部に位置する軍事国家ソヴィエト機関連邦の首都。二十世紀の訪れと共に崩壊したロシア帝国の旧副都。急速な発展と共に公害が深刻化し、時には高濃度に汚染された黒い雪の降る、鋼鉄の都市。鉄のカーテンと呼ばれる秘密主義に基づき、他の国家との交流は無いに等しい。故に、市民達は知らない。彼等を苛む鉄の掟がもたらすもの。既に各地の都市では、隙間と呼ばれる青空が見られる事。そして────黒い雪に潜み、迷い混む哀れな生け贄を食らう、《凍える怪物(イタクァ)》の正体。何も、何も』

 

 

 見上げても、暗く霞んだ天井から吊り下げられた、仮面が口走る言葉。その全てを囁いて、色を失った仮面は霧のように消える。

 

 

『──《奇械》とは』

 

 

 次に、吊り下げられた左腕。鋼鉄の、機関義肢(エンジン・アーム)

 

 

『人々の背後に佇む影。人々に《うつくしきもの》をもたらすという、カダスのある都市にて語られる、最も新しいお伽噺。その正体は────』

 

 

 そして、消えていく。やはり、霧か霞のように。

 

 

「私の、夢──」

 

 

 色を得て、語り出したのは少女。白く、輝くような銀色の髪の。携帯型篆刻写真機を抱く、白い兎のような。

 

 

「夢、篆刻写真家とか。誰もが諦めて、疲れているこの都市で。諦めとか疲れ以外で、人々が溜め息を溢すような。そんな美しいものを見たい。見せたい。それは、永遠なんかにはほど遠いものだろうけど────それでも、誰かに。ううん、皆に。だから私は、うん、やっぱり写真家になりたい」

 

 

 煌めくように、そう口にして。色を失って、代わりに。

 

 

「俺の、夢──」

 

 

 色を得て、語り出したのは男。黒く、静かに燃える埋め火のような瞳の男だ。咥えた煙管から紫煙を燻らせる、黒い狼のような。

 

 

「夢、今でも焼き付いている。何処も同じだ。何処であろうと、人は争い、殺し、殺される。人類史の開闢以来、ずっと。二百年続いた我が祖国の泰平も、諸外国の資源の貪り合いに巻き込まれて崩れた。大勢が死んだ。大勢を殺した。敵も、友も────皆、死んだ。皆、俺を────置いていった」

 

 

 陰るように、そう口にして。色を失った彼の代わりに。再び色を得て、少女が口を開く。

 

 

「でも────でも。そんな美しいものは、一体何処にあるのだろう。全てがくすんで、黒い雪に塗り潰された、このモスクワの…………何処に、あるのだろう」

 

 

 彼の陰りに釣られたように、俯いて。全てを語り終えて色を失い、霧か霞か、或いは雪のように消えていくのだ。

 

 

「何処も、変わりゃしない。此処も、このモスクワも同じだ。殺し、殺されて。最後には全てが無くなるだけだと言うのに。美しいものなんて、輝きなんて、この世の何処にもありゃしないんだ。我が友よ、我が敵よ。地を払う水爆(ストリボーグ)よ、空を走る幻影(ペルクナス)よ。こんな事なら、こんな地獄を生きるくらいなら、あの時────俺も、蝦夷(エゾ)の雪に埋もれて消えてしまえば良かった」

 

 

 彼も、また。全てを語り終えて、得たはずの色を失って。霧か霞か、或いは雪か────若しくは紫煙のように、消えてしまった。

 

 

 後に残されたのは、ただ、この日溜まりだけ。ああ、もう十分に休んだ。さあ、歩き出そう。最後に、僅かな名残を残して。

 風に揺れる草を、華を。有りもしない瞳に焼き付けて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 寝ぼけ眼を擦りながら、欠伸を溢す。リュダに見られたら、『まぁ、はしたない仔兎ちゃん(ザイシャ)ね』とからかわれるだろう仕草。

 でも、今は大丈夫。まだ、午前六時を回ったところ。ミラに起こされるよりも早く起きたから。

 

 

──でも、やっぱり低血圧に早起きは辛い。暖房機関(ジャラー・ドヴィーガチリ)が点いていない部屋って、凍えそうなくらい寒いんだもの。

 

 

 手早く暖房機関を起動させて、コーヒーを作るためにその上に水を入れた薬缶(ケトル)を置いて、寝台に逃げ帰って毛布にくるまる。だって、寒いんだもの。そう自分に言い訳しながら、寝台の脇の机、そこに並べてある本を手に取る。部屋が暖まるまでの、暇つぶしに。

 それは、絵本。1907年頃に英国首都倫敦(ロンドン)で出版されたとの記述がある、なんの変鉄もない絵本。どんな経路かは分からないが、ドーバー海峡の向こうからこんな極北まで旅してきた絵本。

 

 

──私のお気に入り。モスクワに持ってきた、数少ない私物の一つ。黒く変貌したロンドンの町を駆け抜けて、黒い王様を助け出した女の子の話。

──どこが良いって、黒い町って言うところ。ソヴィエトのようで、親近感。王様はもう、ソヴィエトには居ないけれど。

 

 

 ぺらり、とページを捲る。二十分とかからず、直ぐに読み終えてしまうくらい読み込んだ本。最後には、作者さんの名前が。

 

 

「……メアリ・クラリッサ・クリスティさん」

 

 

──素敵な名前、綺麗な名前。まるで、鈴が転がるように可愛いお名前。まるで、体験したみたいに丁寧に綴られた文体がとても素敵な人。この本以外は見付けられないけど、同じ女流作家で著名なメアリ・シェリーさんの影に隠れがちだけど。私は、うん、大ファン。

──一度、ファンレターを出してみようかとも思ったけれど。きっと迷惑よね、縁も所縁もない私が、いきなりそんな事をしたら。第一、検閲の時に恥ずかしいし。

 

 

 閉じた本を抱き締めて、白い溜め息を。疲れとか諦めじゃない、感嘆の溜め息、溢して。

 

 

──きっと、この本を正しく読めば、皆こうして感動できる。凄いと思う、心から。目で見るだけで、心が動く文章なんて。

──私も、いつか……そんな凄い事ができる大人になりたい。

 

 

 そこで、部屋に響く湯気の音。気付けば、部屋の中はもう、暖かくて。慌てて取ろうとした薬缶の取手、思ったより熱くて。

 ヒリヒリする手を、窓ガラスに押し付ける。外気の冷たさ、そして────

 

 

「…………《黒い雪(チェルノボグ)》」

 

 

 窓の外、漆黒に包まれたモスクワの町並みを見て、浮わついた気持ちはすべて消えて。朝だと言うのに、真夜中のような。空も、大地も。全てが黒一色に塗り潰された、闇の世界。

 

 

──これが、モスクワの日常。一週間の最後、安息日に訪れる憂鬱の日。休日を前に全力で稼働したチェルノブイリ皇帝機関(ツァーリ・ドヴィーガチリ)群から吐き出された大量の機関排煙により、真っ黒に染められた、猛毒の災いを運ぶ雪。スラヴ神話の不幸の神に例えられた雪。

──だから、休みの日でも外に出る人は少ない。よっぽど、大事な用がある人くらい。ごく稀に、機関街灯の下を歩く人影が居るくらい。だから、誰かが囁いた。『《黒い雪(チェルノボグ)》が降る日には、本当は誰も外を出歩いてなんかいない。そう見えるのは、そうした姿を見た誰かが出てくるのを燃え上がる瞳で待ち構えている《怪物(イタクァ)》なのだ』…………と。

 

 

 それは、何処にでもある戒めの民話。女性や子供が簡単に外を出歩かないように戒める、例え話だ。リュダはそう、真っ向から笑っていたけれど。

 私は、怖い。そう言われると、そんな気がしてくる。時折、現れては消えていく人影。それらが、今か今かと鎌首をもたげている《怪物》のように見えてきて。

 

 

 こちらを見るような視線を感じて、思わず身を竦ませる。心臓、ばくばくと速まって。必要以上に冷えた手を、胸元に抱き寄せて。

 

 

──大丈夫、気のせいよ。そんなもの、居ない。怪物なんて、居ないのよ、アンナ。

 

 

 自分に言い聞かせるように、そう念じる。昨日、あの男の人がしたように、精神学(メスメル)の真似事を。

 男の人。極東の。刀を三本携えた、狼のような男性。ハヤトさん。昨日、兄さんの蒸気自動車(ガーニー)で送ってもらっている最中、聞いてみた。

 

 

──曰く、《鋼鉄の男》閣下……ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン同志閣下の腹心である。曰く、《狼神憑き(ヴォルク・プロクリャティヤ)》である。曰く、《大武芸者(システマ・グル)》である。

──極東の《剣術》を修めた達人で、ソヴィエトでも右に出るような者は居ない。何時からソヴィエトに居るのかは不明。でも、少なくとも前指導者ウラディーミル・イワイチ・レーニン閣下の治世の頃には、既に居たと噂されているとか。

 

 

 兄さんも、そのくらいしか知らないらしい。黒髪の人、赫い瞳の人。力強い、男らしい人。

 その瞳の色、私の間近に迫った赫を。その握力、私の顎を持ち上げた掌を。整った顔立ち、思い出してしまって。

 

 

──うあ、あ、駄目駄目! 顔、熱い! 心臓、ばくばく、ばくばく!

──違うから! 男の人からあんな事されたの、初めてなだけだから!

 

 

 一層速まった心拍と、風邪でも引いたみたいに赤くなった私の顔。リュダが居なくて良かった、絶対からかわれるから!

 ばたばたと、寝台の上で手足をばたつかせながら暴れて。暴れて。暴れて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「……で、うっかり二度寝したと」

「うん……あのね、予想以上にその、ベッドが温かくて……ね?」

 

 

 食卓の上に、リュダが大きな溜め息を吐く。午前八時、朝の食事当番をすっぽかした上に『安息日の日課』にも遅れそうになった私を起こした時と同じ、呆れた目付きで見ながら。

 うう……恥ずかしいったらもう。

 

 

「…………あのねぇ、アーニャ。アンナ・ザイツェヴァ? ああいう手合いはね、どんな女の子にも同じ事を言えるの。どんな女の子にも同じ事をできるの」

 

 

──名前。私の名前、フルネームで呼ばれた。こういう時のリュダは、真面目な話をしてる時。笑ってるし、口調もさっきまでと変わらないけど、迂闊な事を言うと本気で怒る。

──本気で、怖い時のリュダ。

 

 

「分かる? あんたが特別な訳じゃないのよ。ちょっと優しくされたからっていちいち本気にしてたら、それこそあんた、本当に碩学院を寿退学よ?」

「ち、ちが……そういうのじゃ、ない、から!」

「何が違うのよ? んー? まだまだ初恋すら未経験の仔・兎・ちゃん(ザ・イ・シャ)?」

 

 

 ボルシチを口にしながら、リュダは小憎たらしい笑顔を見せた。それに私は、頬を膨らませて。昨日の夕飯の残り、私の作ったボルシチ。昨日は一口しか食べてくれなかったそれを、温め直した朝食を食べながら。

 兄さんの蒸気自動車(ガーニー)で送ってもらっている間、一言も発さなくて。散々話題を振っても全てを黙殺されて『俺、嫌われたのかな……』って、兄さんを落ち込ませていたリュダ。

 

 

──良かった、元気、出たんだ。

 

 

 だから、ちょっとだけ嬉しくなる。ええ、勿論、それ以上に腹立たしいけれど。

 

 

「なーにニヤニヤしてんのよ、変なアーニャ」

「なんでもありませんよーだ、嫌味なリュダ」

 

 

 あの人が言った通り、いつも通りの朝を過ごした────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 しん、と静まり返った室内。声一つ、物音一つ立てるのを憚られるような、荘厳な雰囲気。冷たい空気と雰囲気がそうさせるんだと思う。

 それも、仕方ない。ここはロシア正教会の大聖堂、赤の広場の『聖ワシリィ大聖堂(サボール・ヴァシリヤ・ブレジェンナゴ)』。正式には『ポクロフスキー大聖堂(ポクロフスキー・サボール)』。1550年頃、イヴァン雷帝陛下がカザン・ハン国に勝利した事を記念して建立された寺院。八つの『玉葱頭の搭』を持つ、色彩豊かな煉瓦作りの聖堂。

 

 

「……………………」

 

 

 その内壁を覆い尽くすかのような様々な宗教画(イコン)を眺めながら、私は床の掃き掃除を終えて箒を片付ける。勿論、修道女(シストラ)の衣装で。これが、私の毎週末の日課。

 

 

──だって、素敵な場所だから。ここは、好きな場所。私が今まで篆刻写真に納められた、数少ない《うつくしいもの》の一つ。

──修道服も好き。神聖な気持ちになれるから。リュダは『あんな野暮ったいもの』って、嫌がるけど。

 

 

 その時の交換条件として、安息日の朝はこうして教会の雑用を。私からお願いして、務めさせていただいてて。

 ……なのに、リュダに起こしてもらえなかったら遅れて迷惑を掛けてしまっていたかもしれない。うう、反省しないと…………。

 

 

「おはようございます、修道女(シストラ)アンナ」

「あ────おはようございます、ブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)

「今朝も来られたのですね、感心です」

「あ、あはは…………」

 

 

 そんな私の内心も知らず、現在、この大聖堂を管理していらっしゃるブラヴァツキー夫人は無表情に挨拶を。うん……やっぱり、反省しないと。

 そう、ここの管理者は夫人。かつての総主教ティーホン氏が前指導者レーニン閣下を、『無神論』を掲げるボリシェヴィキを批判した事でロシア正教会は弾圧を受けて、名のある修道士と修道女はほぼ処刑台(ロブノエ・メスト)に消えた。以来、各地の聖堂は閉鎖や破壊の憂き目にあっている。

 この大聖堂は辛くも難を逃れたけれど────以来、無人と化して朽ちるのみだった。それを数年前、夫人が管理されるようになったのだとか。

 

 

──しかも、嘘か真か、あのスターリン同志閣下の承諾を取り付けて。レーニン閣下と代わらず『無神論』を標榜している筈の、スターリン同志閣下の。

──……本当に、夫人(ミシス)って何者なのかしら。噂ではただのメスメル学に長けた碩学と言うだけでなく、秘密警察『反革命委員会(ヴェチェーカー)』の影の一員であるとか、次にソヴィエトが領土と狙う『宇宙』を知る占星術士であるとか。果ては、スターリン閣下の……じょ、情婦……だとか言う根も葉もないものまで、多岐に渡る。どれも全て、憶測に過ぎないけれど。

 

 

「如何なさいましたか、修道女(シストラ)?」

「ぅひゃい! い、いひえっ?! にゃんでもっ!!」

「そうですか。ならば、良いのですが」

 

 

 突然問われ、あらぬ事を考えていたせいで思いっきり噛んでしまう。でも夫人は、特に気にした様子もなくて。ほっと、動悸を速めた胸を撫で下ろす。

 その時、一陣の風。黒い雪を乗せた風が、大聖堂の中に吹き込んだ。

 

 

「──失礼するよ、夫人(ミシス)

 

 

 一瞬、幻覚を見た。まるで目の前に機動鎧が、いいえ、軍艦が立った幻。開け放たれた正門、そこに立つ偉丈夫。背の高い人。一目で最高級なものと分かる、並の人なら逆に着られてしまいそうなスーツを難なく着こなした、大柄な男性。

 同じくスーツの、綺麗な、輝くような金髪と碧眼の女性を伴って現れた、色素の薄い灰色の髪と、青い瞳と────。

 

 

「……お久し振りですね、イオセブ」

「ああ、全くだ。二年振りと言ったところかな? 逢いたかったよ、美しい君、エレナ」

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()、金属の軋むような声の男性が立っていて。

 

 

「……おや? これは」

「っ…………!」

 

 

 その色違いの双眸が、こちらを見る。強い視線、まるで銃口を……いいえ、戦艦の主砲を向けられているかのよう。

 知らず、震えが走る。怖い、この人は。立っているだけでも分かる、この人はハヤトさんとは違う。見られただけで分かる。本当に……本当に恐い人。

 

 

「……これは、これは。また、随分と可愛らしい修道女(シストラ)を迎えたものだな、夫人(ミシス)

「彼女はただの手伝いです、我等が碩学院の学生にすぎません」

「そうか。まぁ、私には関わり無いがな」

 

 

 でも、すぐに興味を喪って。視線、再び夫人に向かって。

 

 

「何の御用でしょう、イオセブ。まさか、今になって大聖堂を?」

「おいおい、私でも、たまにはこういう史跡を訪ねたくなる祖国愛はあるさ」

「どの口がそのような事を言えるのでしょうね。相変わらずの()()()ですこと」

「はは……敵わんね、貴女には。私にしてみれば、貴女の方が余程の皮肉屋だよ」

 

 

──そしてそのまま、夫人と会話を。もう、私なんて眼中にもない。何故だろうか、それに心の底からの安堵を感じるのは。

──……って、いけない。夫人のお知り合い、なのよね。だとしたら、私がここに長居するのは駄目。駄目よ、アンナ。

 

 

「──修道女(シストラ)

「えっ────あ、はいっ!」

 

 

 立ち去ろうと踵を返した、まさにその瞬間だ、声を掛けられたのは。余りに突然の事に、心臓が口から飛び出しそうになるくらい、驚いて。

 

 

「君の両親は優れた人物のようだ。よく、教育が行き届いているね。気遣いの出来る女性は、実に好ましい。ああ、好ましい」

「は、はあ……ありがとうございます」

 

 

『あぶない、アンナ。アナスタシア』

 

 

 それがばれないように、必死に呼吸を落ち着ける。心臓、ばくばく。速まり続けて。背後からの『声』すら、遠くて。

 

 

「私はイオセブ。イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ。君の名は?」

「わ、私は……アンナと申します。アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァです」

修道女(シストラ)アンナ、か。覚えておくよ、淑女(リーディ)

 

 

『このひとは、きみを、きずつける』

 

 

 にこりと、正確な笑み。まるで機械のように。それは、人のようではあったけれど────鮫のように、冷酷な笑顔だった。

 心臓、ばくばく、ばくばく。痛いくらい。ハヤトさんの時とは違う、これは────純粋な、死への恐怖だ。

 

 

「し────失礼します!」

 

 

 駄目、耐えられない。もう、一秒だって。

 

 

 ほとんど逃げ出す勢いで、私は大聖堂を後にする。背中には、あの視線、まだ。そして出入口で、男性──イオセブさんの連れていた女性と擦れ違う、その一瞬。

 

 

「────今日は、《黒い雪(チェルノボグ)》の日。帰り道には、《凍える怪物(イタクァ)》に十分注意しなさい」

 

 

 女性の声、怜悧に。するりと耳に忍び込む、金髪の人の。それすら、振り切るように。

 

 

 だから────聞き逃す。

 

 

「……哀れな、哀れな、《最後の一人》よ」

 

 

 その、哀れんだ呟きを聞き逃して。私は一人、《黒い雪(チェルノボグ)》の降りしきるモスクワ市街に飛び出した。



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怪物 ―Монстр―

 

 

 走る。走る。黒い雪に塗れた石畳に、革靴の音を響かせて。空から降り来る黒い雪を、修道服の袖で防ぎながら。黒い、黒い。ああ、ここは、なんて黒いの。

 擦れ違う人も居ない。誰も。今朝、地下鉄に乗った時も、見掛けはしなかった。駅員すら。本当に、誰も、誰も。

 

 

──居ない。まるで、このモスクワの町に、私しか居ないような。そんな、漠然とした恐怖が。

──ただでさえ『彼』への恐怖に満たされた私の心を、私の足を絡めとる。漆黒の荊棘(イバラ)の蔓ように。

 

 

 だから。

 

 

Найденный(ミ ツ ケ タ)────』

 

 

──追い縋るように、聞こえてくるこの声。それも、全部幻聴よ。そうよ、そうに決まってるじゃない、アンナ!

 

 

 必死に、破裂しそうなほどに動悸を速めている心臓を誤魔化すように、言い聞かせて────

 

 

「あっ────!」

 

 

 瞬間、足が、もつれた。強酸性の煤を孕む雪が覆う、赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)の石畳の上に倒れ込む。幸いというべきか、修道服の厚みのお陰で擦り傷の類いはできなかったけれど。

 

 

 けれど。

 

 

「痛────」

 

 

 立ち上がろうとした左の足首、鈍く痛む。じくじくと、熱を伴う痛み。酷くはないと信じたい。だって、駅はまだまだ、ずっと遠いから。手を貸してくれる人なんて、居ないから。

 薄い機関外灯の灯りを便りに、近くの建物の軒先に入り、腰を下ろす。黒い雪を避けて、目を細めて見た黒雲の天蓋。

 

 

 遠く、スパスカヤ搭、トロイツカヤ搭、ニコリスカヤ搭、ホロヴィツカヤ搭、ヴォドヴズヴォドナヤ搭、各搭の先端に輝く《クレムリンの赤い星》と、大統領官邸の天頂に雄々しく翻る深紅の御旗と、鈍く輝く《鋼鉄の星》が見える。

 

 

──今日も、スターリン閣下は、執務に励んでいらっしゃるのね。

 

 

 《鋼鉄の男》閣下、鋼鉄の指導者様、ソヴィエト議会第一書記長殿。私如きの一般市民が、姿を拝見したことなんて無いけれど。そんな事を、意味もなく考える。

 でも、何だか。それが、このモスクワに私が一人じゃないことの証のようで。心に、僅かに、安堵が生まれる。

 

 

『────Последний человек(サ イ ゴ ノ  ヒ ト リ)

 

 

 だから、その隙を縫うように。黒い雪、風と共に。私の瞳に、舞い込んで────

 

 

「────こんな場所で、こんな時間に。一体何をしている、尼?」

「────あっ…………」

 

 

──その雪を、握り潰した右の掌。力強い、傷だらけの、男の人の右手。

──掛けられた声、揺るぎない自信に溢れた男の人の。低く唸る、狼のような。

 

 

 一体、いつの間にと驚くくらい。その人は私の目の前に。黒い髪の人、黒い狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)を纏う男性。

 三本の刀を携えて、古めかしい煙管から紫煙を燻らせる、極東の……確か、サムライとか言う、職業軍人の。

 

 

「ハヤト、さん……?」

「ん…………?」

 

 

 その名前を呟けば、一瞬、訝しんだあと。私の顔を、睨むように眺めて。

 

 

「ああ────君か。昨日の、ヴァーシャの妹御前」

 

 

 ようやく納得してくれたみたいで、鋭い視線が和らいだ。それに、ホッと胸を撫で下ろす。覚えていてもらえた、嬉しさからも。

 

 

 ……兄さんの妹って覚え方は、ひどいと思うけれど。うん、ひどい。

 

 

 それが、少し不満だったけど。

 

 

「まぁ、それは良しとして。質問を繰り返すぞ、こんな場所で、こんな時間に何をしている? 感心しないな。婦女子が(みだ)りに、一人で、暗がりを歩くのは」

「あっ、あの……それは」

 

 

 直ぐに軍人、官権の顔を取り戻したハヤトさんは、腕を組んで質問を繰り返す。まるで、と言うか正に、怒られている気分。

 素直に事の成り行きを話す。嘘なんて言えないし、そもそも、つく必要もないし。

 

 

「……成る程な。教会の保全の手伝いをした帰りか」

「はい……ごめんなさい、余計なお仕事を増やしてしまって……」

「構わん、市中の警邏も俺の仕事だ。昨日、報告の後に《鋼鉄の男》に押し付けられたからな」

 

 

 それって、やっぱり昨日の、あのせい……なのかしら。ううん、きっとそう。やっぱり、私のせい。

 何でもなさそうに煙管の灰を捨てたハヤトさん。でも、内心怒ってるんじゃないかと身が竦んで。

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

 もう一度、頭を下げる。今度は修道帽(クロブーク)を脱いで、さっきよりも深く。二房の私の髪、左右に流れて。

 まじまじと、彼の視線を感じる。私の頭、つむじの辺りに。

 

 

「……ふむ。確かに、仔兎(ザイシャ)、か」

「えっ?」

 

 

 と、唐突に、聞きなれた言葉がハヤトさんの口から。余りに突然の事に、思わず頭を上げてみれば。

 

 

「いや、なに。普段からヴァーシャには君の事を聞かされていてな。聞いてもいないのに、耳に胼胝が出来そうなくらい。自分の妹は、まるで白い仔兎のようだ、とな」

「なっ、えっ!」

「小さくて、色白で、銀色の髪で、赤い瞳で。まるで、可愛らしい雪兎の仔(ザイシャ)の様なんだ、と。身内贔屓の上に誇張が過ぎると思っていたが、いやはや、何とも。然もありなん」

 

 

 幅の広い肩を揺らし、思い出し笑いのように口角を釣り上げるハヤトさんの姿が目に入る。

 

 

──に、兄さんったら……! ああもう、恥ずかしい恥ずかしい! 恥ずかしいったらもう!

 

 

 一気に、顔が熱くなる。多分、いいえ、きっと耳まで。真っ赤になってると思う。ううん、きっとなってる。

 駄目、まともに顔、見れない。見られたくない。恥ずかしすぎて。

 

 

「し、失礼しますっ…………!」

 

 

 また、逃げ出す。脱兎のように。走り去る、つもりだったけのだけれど。今回は、そうはいかなかった。

 鈍く、痛んだ左の足首。そのせいで、立ち上がることもできなかったから。

 

 

「左の足首か……見せてみろ」

「いえ、あの、大丈夫です、から」

「痩せ我慢をするな。そう言うのは、美徳じゃあない」

 

 

 一目でそれを看破されて。彼、(ひざまづ)くように、私の前に屈み込む。まるで西洋画の、お姫様に傅く騎士のように。手早く、編みブーツに包まれた私の左足、捕まえて。

 心臓、どきりと跳ねる。まるで、女性の手の甲に口付けるような、その仕草に。

 

 

『……万歳(ウラー)

『……万歳(ウラー)

 

 

 恐らく最初から彼の背後に待機していた、人狼(スペツナズ)二人。機関を内蔵する背嚢、私の左右に。更に、畏れ多くも。掲げていたソヴィエトの旗、星を戴く深紅の旗の左右を持って、雪避けの幌布に。

 

 

──あ、暖かい。こういう使い方もできるんだ、この背嚢。

 

 

 その背嚢からの排熱が、寒さを和らげてくれる。そう調節できるのか、吹き出す排煙はごく少ない。

 

 

「ふむ……軽い捻挫だな。骨には異常はない、が、関節が少し炎症を起こしている」

 

 

 その声に、ようやく気付く。私の左足首を見詰めるハヤトさんの右目、そこに灯った────薄緑色の光に。

 

 

現象数式(クラッキング)────」

「ほう、流石は碩学院生だな。良く知っている」

 

 

 現物は、初めて見た。カダスの都市、語るもの無き異形都市の技術。その内の、医療に特化した現象数式は、対象の体内まで見抜くとか。ガガーリン君が、飛空艇の整備のために是非とも習得したいと言っていた技術。でも、習得するためには、大脳が特殊でないといけないと聞いて落胆していた技術。

 私の左右の、金属の背嚢にも反射することのない光。クラッキング光。そして。

 

 

「気を落ち着けろ。この程度なら、直ぐに良くなる」

 

 

 翳された右掌、そこから、同じ色の光。同時に、足首の痛みが消える。嘘のように、魔法のように。

 

 

──数式医(クラッキング・ドク)。魔法使いとも形容される、その技術。その技。

──そう言いたくなるのも、分かる。救われた人からすれば、正に、魔法のようだもの。

 

 

 体内の他の組織を、他の組織に組み換える。狂った数字を書き換えるように。口にすれば簡単だけれど、正に神の御技。この技術の前では、癌ですら恐れるものではないとか。

 治療を終え、私の足をゆっくりと石畳に置いて。ハヤトさんが、すくりと立ち上がる。真っ直ぐ、背骨に芯鉄でも入っているのではないかとすら思える程に。

 

 

 それに合わせて、ばさりと。深紅の旗が、彼の黒い外套が翻る。纏わり付く黒い雪を、振り払うように。

 

 

「立てるか?」

 

 

 そして、差し出された右手。武骨で、筋張っていて、剣術胼胝のある、力強い、お父さん(パーパ)と同じ男性の掌。まだ、薄く、淡く、クラッキング光が残留している。その、右目にも。

 それを私が認識するのと、ハヤトさんが私から視線を外したのは全く同時で。

 

 

「……すまん」

 

 

──なぜだか、謝られた。全く、意味はわからないけれど。謝られるのはおかしいわ、だって、それなら私がお礼を言うのが筋だもの。

 

 

「いえ、こちらこそ────ありがとうございます」

 

 

 今度こそ、立ち上がる。足首の痛みは、もうどこにも。これなら、問題なく歩いて帰れる。駅までどころか、寮までだって。

 

 

「……いや、非礼は非礼だ。詫びと言う訳ではないが、送っていこう」

 

 

 それなのに、なぜか気に病んだまま。ハヤトさんは、こちらをやはり見ずに。

 

 

──なぜだろう、どんな非礼を犯したって言うの? そう、考えて。ハヤトさんの右目に残留するクラッキング光、見て。

──ふと、思う。靴の上から、私の足首の異常を見通した現象数式(クラッキング)。つまり、それは、私の靴を透過したと言うことで。

 

 

「────────!?」

 

 

 気付くと同時に、私は体を庇う。きっと意味はないだろうし、そもそもハヤトさんは見てもいないけれど。それでも、これでも、一応は乙女として。

 

 

「……すまん」

「い、いえ……こちらこそ、ごめんなさい」

 

 

──もう一度、謝罪の声。ううん、ハヤトさんは悪くない。悪いのは、私だもの。

──そうよ、そうだわ、アンナ。

 

 

 だから、お互いに謝り合って。次に出たのは、お互いに軽い息。

 

 

「ハハ……道の真ん中で、何をやっているんだろうな、俺達は」

「ふふ……そうですね」

 

 

 この、漆黒の不幸(チェルノボグ)に染められたモスクワの町中で。誰かに出会えた純白の幸運(ベロボーグ)を喜ぶように。

 

 

 だから。

 

 

Найденный(ミ ツ ケ タ)────』

 

 

──だから、黒い雪(チェルノボグ)は運んでくる。自慢の商品を携えた、悪魔が。

 

 

「「────!」」

 

 

 辺りに満ちる、異様な臭気。腐り落ちた果実のような、甘く不愉快な、鼻につく腐敗臭。濃密な闇と、肌を裂くような冷気────いいえ、これはきっと、殺意と呼ばれるもの。

 瞬間、腰を落としたハヤトさんが刀に手を掛ける。同時に、人狼二人が機関銃を構えて。三人が私を背後に、庇うように立って。

 

 

──その、ハヤトさんの背中の。その向こうから、悪魔の自慢の商品がやって来る。幸福よ、白い雪(ベロボーグ)よ、消えてしまえと。

 

 

『──И есть жизнь(イ ノ チ  ク ワ セ ロ)──』

 

 

 黒い雪と、黒い雲に包まれて────

 

 

『────Последний человек(サ イ ゴ ノ  ヒ ト リ)!』

 

 

 紅く燃え上がる、瞳が二つ────!

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「────コーバ。我が親友」

 

 

 問いかけた声は、怜悧な女の声。輝くような金髪を、薄暗がりに溶かした、碧眼の女。

 

 

「────何だ、モロトシヴィリ、モロトシュティン?」

 

 

 答えた声は、冷徹な男の声。色素の薄い灰色の髪を、薄暗がりに溶かした、青い左の瞳と黄金の右の瞳の男。

 

 

数式領域(クラッキング・フィールド)の展開を確認。彼らの悲願は成し遂げられる」

「そうか。よくよく飽きもせず、私に楯突くものだ、ラスプーチンめ」

 

 

 薄暗がりの、大聖堂の中で。神の如く振る舞う、その男。無数の歴史ある宗教画(イコン)をも稚児の絵のように省みず、傍若無人に最新式の機関パイプを燻らせる、その男。

 

 

「《凍える怪物(イタクア)》。カナダの民話に歌われる怪物。人を拐い、食らい、或いは自らと同じものとする。寒さの擬人化たる怪物」

 

 

 口を挟んだのは、女だ。無表情に二人を眺めていた、修道服の女。そこにはやはり、感情はない。在るのは、ただ。

 

 

「これは、これは。サンクトペテルブルクでは恐怖そのものでしかなかった君が、生徒の心配とは……随分と、変わったものだね、《雌獅子》?」

 

 

 男。紫煙を燻らせる、鉄面皮。その顔が、嘲笑に。正確に、嘲笑を浮かべる。面白いものを見た時の為に、予め用意していたかのように。

 

 

「人は変わるものですよ。変わらない方がおかしいのです、《鋼鉄》」

 

 

 それを、心底から見下して。修道服の女は、祈るように手を組んだ。

 

 

「────アンナ。修道女(シストラ)アンナ。アナスタシア」

 

 

 それをも、気にも留めず。男は、紫煙を燻らせながら、嗤う。誰かの名前、此処には居ない、少女の名前を弄びながら。

 

 

「君の恐怖を見せておくれ。君の輝きを見せておくれ。幾百万の恐怖も、幾百万の輝きも、このモスクワでは────この《鋼鉄》には、何の意味も、ないのだから」

 

 

 ただ、ただ、嗤うのだ────…………



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黄金瞳 ―Золотой глаз―

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)展開──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)構築──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)顕現──

 

 

 黒い塊が蠢いている。まるで、蛆虫が蠕動するかのように。黒い塊が爆ぜている。まるで、原形生物(アメーバ)が流動するように。

 黒い雪と、黒い雲。その塊。酷く戯画化された人間のような、異様に長い腕と脚の、数十フィートはあろうかと言う現実離れした大きさの……でも、確かにそこに在る、悪意の塊。首筋にギリギリと、錆び付いた音を立てて回る、()()()()()()()()()()()()()()()()()()発条螺旋(ゼンマイネジ)を備えた────殺意の実存。

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)の維持を開始。しかし、我が領域に時計はない──

 

 

『──И есть жизнь(イ ノ チ  ク ワ セ ロ)──』

 

 

──さあ、願いを果たす時だ。我が救済を受け入れたものよ──

 

 

『────Последний человек(サ イ ゴ ノ  ヒ ト リ)!』

 

 

──踊れ、踊れ、その魂が朽ち果てるまで死の舞踊(ベレツカ)を。我が救済を受け入れた玩具(もの)よ──

 

 

 知らず、体が震える。寒さ、ではない。それもあるけれど、そんなものは些細な話。

 

 

──肺を腐らせるかのように爛れた、凍てついた空気。肌を切り裂くかのように収斂した、渦を巻く雪雲の中から、燃え上がる二つの視線(さつい)

──私に、私だけに向けて。なに、あれは? あれは、なに────!

 

 

「────ヒョードル、シャーニナ。彼女を護れ、掠り傷一つ負わせるな」

『『聯隊長殿万歳(ウラー・ダージェストラージ)!!』』

 

 

 短く言い残して、ハヤトさんが走り出る。黒い雪雲の怪物に向けて、燃え上がりながら睨み付ける紅い双眸に向けて。黒い雪に覆われた石畳、蹴って。

 そして応えた人狼二人は、私の前で最新型の自動式軽機関銃を構えて────

 

 

──掃射する。耳をつんざくような銃声の連続、背嚢から連結弾帯で、銃弾の雨霰。黒い雪雲へと、ハヤトさんをも巻き込みながら。

──それに、悲鳴、上げるけれど。機関銃の銃声に、狼の咆哮に掻き消されて。

 

 

 迎え撃つように振るわれた長腕、まるでゴムでできた鞭みたいに。先端に備わった鋭利な爪が五本、腕に纏わり付く黒い雪と雲、爪にこびりついた血肉から据えた空気を撒き散らしながら────

 

 

『────Гья ах ах ах(G Y A A A A A)!!』

 

 

 でも、ハヤトさんに横っ飛びに躱されて。人狼二人が放った全弾、吸い込まれるように黒い雪雲に襲い掛かる。

 その衝撃か、痛みか。狼の咆哮よりも更に大きな咆哮が、怪物の見えない口腔から放たれて。切断されていた異形の腕、ぐちゃりと黒い汚濁を撒きながら石畳に落ちる。

 

 

「行くぞ、我が牙────《和泉守 兼定(イズミノカミ カネサダ)》」

 

 

 その時には既に、怪物の胴体。人間で言うなら心臓のある位置に、ハヤトさんが抜き放った刀────柄に仕込まれた機関(エンジン)が唸りを上げながら排煙を吹く、緩やかな曲線を描く美しい刃が突き入れられていて。

 

 

──目にも留まらない速業。時間にすれば、二秒も懸からずに。普通なら、もう、あの怪物は死んでいると思う。

──噂。噂で、聞いたことがある。確か、オジモフ君とガガーリン君が話し合っていた。『機関刀(エンジンブレード)』と言う武器の事。曰く、『達人が振るえば鋼鉄すら断ち切る』。曰く、『この世ならざる幽明すらも斬り捨てる』と。

 

 

 そう、死んでいるはず。なのに、なぜ。なぜ。

 

 

「────ハヤトさん!」

 

 

 こんなに、不安なんだろう。まるで、致命的な罠に掛かってしまったかのようで。

 

 

『────Не получить в пути(ジ ャ マ ヲ  ス ル ナ)!』

「チッ────!」

 

 

 振り払われる、もう一つの腕。速い、並みの人間には躱せない。全身を機関に置き換えた重機関人間の兵士か、或いは鋭い反射神経を備えた狗狼の兵士でなければ。

 

 

「────遅い!」

 

 

 だから、彼は無事だ。人間離れした神経伝達速度を持つ、数式(クラッキング)使いの彼は。素早く刀を引き抜き、あろうことか、返す刃でその腕すらも切り落とす。

 暫く宙を舞い、腕、やっぱり石畳に叩き付けられて。ぐちゃりと、聞くに堪えない音と共に。

 

 

『────Гья ах ах ах(G Y A A A A A)!!』

「黙れ────成る程、今のが恐慌の声か。だが、俺には効かない」

 

 

 再び、放たれた咆哮。心が凍りつきそうなくらいの、脳が破壊されそうなくらいの。それでも、彼は揺るがずに。

 その右目に、数式(クラッキング)の光。あらゆるものを見通す、薄緑色が灯って。

 

 

「…………全ての《凍える怪物(イタクア)》は不滅。物理的な破壊は不可能。唯一の破壊方法は────太陽光、或いは……その首の《死の螺旋》を落とすこと。成る程、確かに。人は、お前に何も出来ないだろう」

 

 

 呟いた言葉、『太陽光』。それは、無理だ。だって、太陽は────もう、機関文明が奪ってしまったから。

 だとすれば、残るは『《死の螺旋》を落とすこと』。それも、無理だ。人間の武器で、あの怪物は傷つかない。

 

 

「だが、俺は狼だ────()()()()()

 

 

 だから、彼には倒せる。『この世ならざる幽明を斬る』と言う機関刀(エンジンブレード)を担う、彼になら。

 

 

「一、士道ニ背キ間敷事────死して尚、化けて出るとは何事だ。()()()には、誉れたる切腹などくれてはやらん」

 

 

 一歩、距離を取る。軽やかに、狼が噛み付くために力をためるように、姿勢を低くして。ハヤトさんは右手を大きく引いて、左手を刀の先に添える。

 

 

『『────────Черт желтые(イ マ イ マ シ イ) обезьяны!(キ イ ロ イ サ ル ガ)!』』

 

 

 耳を覆いたくなるような酷い雑言と共に、怪物は猛烈な黒い雪と雲、果ては汚濁を撒き散らしながら。目を覆いたくなるような、お伽噺の邪竜(ジラント)じみた乱杭歯の並ぶ口腔を開いて襲い掛かる。

 

 

「悪、即、斬────!」

 

 

 だが、そんなもの。虚仮威しにも、ならなくて。

 

 

『『Гья(G Y)────────!!』』

 

 

 貫通。粉砕。両断。

 

 

 真っ向から、突き込まれた白刃。乱杭歯を貫通して、口腔を粉砕して、黒い雪雲の頭部を《死の螺旋》ごと両断して。

 

 

『『ах ах ах(A A A ア ア ア)…………』』

「手向けだ。せめて、次は迷わずに地獄で待っていろ」

 

 

 ハヤトさんが刀を鞘に納めて背を向けるのと同時に、霧散していく怪物。その黒い雪と雲、撒き散らして────

 

 

──消える。こんなに、簡単に。

 

 

『いけない。アンナ、アナスタシア』

 

 

──消える? こんなに、怖いのに?

 

 

 その姿を、消していくと言うのに。なぜだろう、こんなにも怖いのは。なぜだろう、こんなにも────

 

 

『あいつらは』

 

 

『『ах ах(ア ア ア)────────────………………Ура(ウ ラ ー)』』

「何────」

 

 

 黒い雪と、雲が消えて────

 

 

──なに、あれは。なぜ、どうして……()()()()()()()()()

 

 

『あいつらは、パラディグムをはたした』

「コイツら────拡大変容(パラディグム)を!」

 

 

 まるでマトリョーシカ人形のように、怪物の中から。黒い、影のみの。四本の足と、四本の腕。その腕の内、右の()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()────

 

 

『『────Ура Империя(ウ ラ ー  イ ン ピ ェ ー リ ヤ)!』』

 

 

 虚空に燃え上がる四つの瞳を持った、非現実的な、立ち上る陽炎のような()()()()が────

 

 

「う────っ!」

 

 

 嘔吐しそうになるのを、辛うじて堪えきった。だって、鮮明に聞こえた怪物の声、それは────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 涙が溢れる。熱い、熱い涙。まるで、血潮のような。そう、間違いない。肥満体と痩躯の赤軍兵、耳にこびりついたあの声と。

 

 

万歳(ウラー)……!』

万歳(ウラー)……!』

 

 

 二人の人狼、全身を機関に置き換えた重機関人間の兵士ですらも、恐れの声を上げて震えている。私も、心臓、止まりそうなくらい。

 怖くて、恐くて、こわくて、コワクテ────

 

 

「チッ────呑まれるな、阿呆どもが! 良いな、その娘を置いて逃げろような無様をしてみろ…………俺が、斬る!」

 

 

 それでも、彼は揺るがない。まるで、魂まで鋼鉄で塗り固めているかのように。鼓舞する声、頼もしいはずの声。だけど、だけど。

 

 

『『────Ура Империя(ウ ラ ー  イ ン ピ ェ ー リ ヤ)!』』

「クッ────!?」

 

 

──速い、目では追えない。さっきまでとなんて、比べ物にならない。人間には躱せない。鋭い反射神経を備えた狗狼の兵士や、人間離れした神経伝達速度を持つ数式(クラッキング)使いの彼でさえも。刀を抜いて、打撃に備えるだけで精一杯。

──あの雪、あの雲、やっぱり。あれは、やっぱり、あの怪物を拘束していたんだ。

 

 

『それは、何の為に?』

 

 

──決まってる。わざと、勝ち目を見せて。より、絶望を色濃く、強くするために。

──何より、あの瞳。あの、()()()()()()()()()に成り代わった瞳を封じるために。

 

 

『素晴らしい解答だ、正解だよ、アンナ。アナスタシア』

 

 

『『слабый,(ヨ ワ イ  ヨ ワ イ)!  Или такая вещь(コ ン ナ モ ノ カ), желтый обезьяна меня(キ イ ロ イ  サ ル メ)!』』

「グッ────がぁぁぁっ!?!」

 

 

──壁に叩きつけられて、血を吐いて、彼が崩れ落ちる。それを、怪物は、虫をくびり殺す子供のように眺めている。赤く燃え上がる四つの瞳を、嗜虐に染めて。その真紅の瞳に晒された彼、燃え上がるようにカタチを揺らがせていて。

──さっきまで笑い合っていた人が、今、目の前で殺されそうに。駄目、駄目。逃げて、お願い。お願いだから、ハヤトさん。

 

 

『────さあ、アナスタシア。諦める時だ』

 

 

──ああ、見える。視界の端に、躍り嗤う、道化師(クルーン)が。

 

 

 私は、見ているだけ。人狼の二人も助けにいけない。当たり前だ、相手は絶対の力を誇示する怪物。そんな事をすれば、同じように、あの腕の一振りで殺される。誰が、それを攻められよう。

 

 

────では、目を覆う?

 

 

──いいえ。視界の端で、躍り狂う貴方。

 

 

────では、瞼を閉じる?

 

 

──いいえ、いいえ。視界の端で、嘲り嗤う道化師(クルーン)

 

 

『じゃあ、どうするの?』

 

 

──ええ、背後の貴方。だから、私はこう言うわ。

 

 

『ぼくは、みているよ』

 

 

「何度でも言ってあげるわ……最っ低…………最低よ、貴方達は!」

 

 

『アンナ、アナスタシア。きみを、みている』

 

 

 現実と幻覚と、二つの嘲笑う声に晒される中で。でも、その声は確かに。私の背中を押すように、力強く。ある種の実感が、確かに。

 

 

 

 

──背後に立つ、その影。立ち上る、陽炎のような。それは──

 

 

 

 

 進み出た、人狼二人の前。驚き、固まったままの二人の前に。足、不様なくらいに震えているけど。それでも。

 

 

 

 

──なんだ──

 

 

 

 

「…………仔兎(ザイシャ)

 

 

 

 

──それは、影。それは、鋼。鋼鉄の兜に包まれて──

 

 

 

 

『『Диссиденты(ハ ン タ イ セ イ シ ャ)……!』』

 

 

 

 

──青く輝く、瞳が一つ──

 

 

 

 

 私を見る、ハヤトさんに微笑んで。

 私を睨み付ける、怪物を睨み返して。

 

 

 

 

──少女の瞳──

 

 

 

 

「強いものの影から、こそこそと────権力を笠に着て、ぬけぬけと! 大の男が、恥を知りなさい!」

 

 

──私は絶望的な恐怖からも、理不尽な暴力からも。絶対に瞳を逸らさない!

 

 

 

 

──血の海原に揺蕩(たゆた)う望月のように、黄金色に煌めいて──

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた皇帝(ツァーリ)の城だ。誰もが知りながら、誰もが知り得ない。漆黒と排煙に閉ざされた、この世の地獄だ。

 そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、八大地獄(カルタグラ)だ。そこは死して尚、魂を苛む八寒地獄(コキュートス)だ。

 

 

 ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。

 

 

「喝采せよ、喝采せよ! おお、素晴らしきかな!」

 

 

 声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。

 

 

「我が《最愛の子》が第二の階段を上った! 物語の第二幕だ! 現在時刻を記録せよ、ラスプーチン! 貴様の望んだその時だ────《鋼鉄の男》よ、震えるがいい!」

 

 

 その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の皇帝(ツァーリ)が一人。盲目に、白痴に狂ったままに。従う事の無い従者に向けて叫ぶのだ。

 

 

「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。時計など、持ち合わせてはいませんがね」

 

 

 答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

 

「くっ──はは。物語、物語だと? ああ、偽りの《黄金瞳》を無駄にして────悪い子だ、アナスタシア」

 

 

 堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。

 

 

「ええ、ええ。本当に」

「そうね、そうね。本当に」

「全くだわ、全くだわ。本当に」

「「「本当に本当に悪い子ね、アナスタシア」」」

 

 

 傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共にロシア舞踊(ベレツカ)を躍り、嘲りながら。

 まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる道化師(クルーン)が。

 

 

「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛の形あり!」

 

 

──それが、物語の第二幕。お伽話か活動写真(フィクション)のような、男女の出逢い。

──路地の侍士(ストリート・ナイト)と、白い皇女殿下(ベールィ・インピェーラリスサ)の。

 

 

皇 帝 陛 下 万 歳(ウラー・インピェーリヤ)──────────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 

 その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けるのだ────

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

『『────Заткнись, это отродье(ダ マ レ  コ ノ ガ キ ガ)!!!』』

 

 

 逆上した怪物の腕、四本が振るわれる。上下左右から、襲い来る。

 速い、目では追えない。鋭い反射神経を備えた狗狼の兵士でも、人間離れした神経伝達速度を持つ数式(クラッキング)使いでも。

 

 

遅いわ(ニーズカヤ)────」

『『Что(ナ ニ ィ)────!』』

 

 

 それでも、生きている。アンナは、傷一つ無く立っている。

 

 

『『Глупый(バ カ ナ)! Пользователь не должен избегать(カ ワ セ ル ハ ズ ガ ナ イ)!』』

「────喚かないで(チーハ)!」

 

 

 襲い来る死の視線、自己破壊(アポトーシス)をもたらす真紅の眼差し。それすらも届かない。背後の影が、鋼の彼が、アンナを護っている。

 

 

「背後のあなた。名前も知らない、あなた。あなたは……優しいのね」

 

 

 その彼と共に、アンナは手を伸ばす。その左腕を、白い左腕を、前に。

 白く繊細なアンナの左手に重なるように伸ばされた、鋼の左腕。それは三弦洋琴(バラライカ)を掻き鳴らすように動き、金属の擦れる音を。

 

 

「全ての《凍える怪物(イタクァ)》は不滅。物理的な破壊は不可能。唯一の破壊方法は────太陽光、或いは…………首の《死の螺旋》の破壊。ええ、そうね、確かに。人は、既に死を喪ってしまったあなたに、なにもできないでしょう」

 

 

 機関文明が奪ってしまった太陽の光は、決して射さない。そして、既に破壊されている《死の螺旋》はもう、壊す事は出来ない。

 故に、誰にも。人には決して、《凍える怪物(イタクァ)》は殺せない。既に死を終えたものを、殺す術はない。

 

 

「だけど、この子は────背後のこの子は、人じゃない」

 

 

──だから、背後の彼には出来る。その実感が、私の左手にはある!

 

 

 白く輝く、鋼の左腕ならば。輝くものを思う、失われた白い雪を思う、この、白き善神(ベロボーグ)の恐るべき《善なる左手》ならば。

 

 

「背後のあなた。名前も知らない、あなた。私は、あなたにこう言うわ」

 

 

 左目が見ている! アンナの、血の色の黄金に連動するように!

 

 

 

 

「────光のごとく、埋め尽くして」

 

 

 

 

────────────────────────!

 

 

 

 

 白い左腕が奔る。光のように、空間を貫いて────

 

 

『『Гья ах ах ах(ギ ャ ア ア ア ア ア ア)────────!!』』

 

 

 光に触れられた影の怪物が、断末魔を。狂乱と共に、絶叫する。

 

 

──私は殺さない。私は奪わない。いいえ、私が、与えてあげるわ。

──あなた達が、喪ってしまった、死を。過去から再生して、現在に無限増殖させる。

 

 

『『И нет, нет(チ ガ ウ  チ ガ ウ)!  Разве мы не хотели(コ ン ナ  ス ガ タ ニ) быть в такой фигуры(ナ リ タ ク ナ カ ッ タ)!』』

 

 

 過去に存在した死を、呼び起こされて。呼び起こされた死を、無限に増殖させられて。自らの末路を、その先の悪夢を、思い知らされて。

 

 

『『Это отвратительно(イ ヤ ダ), это отвратительно(イ ヤ ダ)! помогите мне, мама(タ ス ケ テ  マ ー マ)…………』』

 

 

 その姿が、余りにも憐れで。

 

 

──ええ、救ってあげるわ。この《左手》で。だから。

 

 

「だから────もうお休みなさい、坊や(マルチィク)

『『ах ах ах(ア ア ア ア)……アアア、あぁ………………」」

 

 

 私の左手が触れた刹那、崩壊していく。自壊していく。自らの殺意の現象数式(アポトーシス)に耐えきれずに。

 跡形もなく、塵すら残さず、まるで最初から何もなかったかのように────淡雪のように。

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)集束──

 

──願いは果たされなかった──

 

──不出来な玩具め、出来損ないめ。貴様など消えてしまえ──

 

 

 そして、後に残るものは、四人。立ち尽くす人狼二人と、そんな彼らを見て、安心したように。血の涙を流す黄金の瞳を閉じて────

 

 

──あぁ、これ、痛いやつだ。うん、絶対。

 

 

 ぐらりと、揺れた銀色の髪。黒い雪に覆われた石畳に、顔から倒れ込んで────

 

 

「全く────大した仔兎(ザイシャ)だよ、君は。アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァ」

 

 

──名前。私の、名前…………覚えてて、くれたんだ…………

 

 

 まるでシベリアの雪原を駆ける銀狼のような黄金の瞳の少女を抱き留めた、赫い瞳の黒い狼の四人だけで────…………



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記憶 ―Память―

 

 

──暖かい、温かい。それはまるで、姉妹皆で寝台にくるまるような。それはまるで、両親に祝福されて産湯に浸かるような。そんな、幸福な感情を想起する。

──暖かい、温かい。まるでそれは、在りし日の残照のようで。胸を擦る、優しさがある。胸を苛む、痛みがある。ああ、だから。

 

 

『『アナスタシア』』

 

 

 影。鋼。私の背後に佇む、白い騎士のあなた。

 影。混沌。私の視界の端で躍る、黒い道化師。

 

 

 あなたは────

 

 

『わすれないで』

『もう、忘れてる』

 

 

 あなたは、一体────

 

 

『ぼくの、なまえは』

『この子の、名前は』

 

 

 誰、なの────?

 

 

『『■■■■■(イクトゥス)────ぼく(この子)は、きみ()■■■■(奇械)■■■■■(イクトゥス)』』

 

 

 ああ、彼の声に重なるように、道化師(クルーン)の嘲笑が────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 ぱちり、と。瞼を開いた。低血圧の私にしては、随分と目覚めのいい朝。暖房機関も絶賛稼働中、部屋の中は常春のよう。

 おまけに、脇にはぬるめの水が入った水差し。リュダが用意してくれたのかしら。綺麗なリュダ、素敵なリュダ。今日は一段と優しいリュダ。

 

 

──なんだか、今日はいい感じ。きっといい日になるわ、うん、きっとそう。今日の学食、もしかして、デザートにチョコレート(ショコラッド)とか出るかも。

 

 

 そんな風に、微笑みながら。時計を見た私は、微笑んだままで。月曜、安息日明け。黒い雪も銀色の雪に塗り潰されているであろう事を祈りながら。

 

 

「…………十時半、かぁ」

 

 

 取り敢えず、口に出してみる。因みに、碩学院の一時限目は九時からで一コマ九十分。今頃、皆は二限目のための準備をしているんだろうな、とか思いながら。水差しから一口、水を口に含んで。こくり、と飲み干してから。

 

 

「────どっ、どどどっ、どうしようどうしようどうしよう!」

 

 

──一気に現実に、引き戻されて。一気に視界、ぐるぐる回り出す。遅刻、うわ、遅刻だ! 嘘、うそうそ! 確かに低血圧だし寝起きは悪いけど、そんなことだけにはならないように今まで頑張ってきたのに!

──お、落ち着いてアンナ、アンナ・ザイツェヴァ! リュダ、そう、リュダは? 実はそう、リュダが時計の針を進めて私が飛び起きるのを待ってるとか、そうよ、それよ! きっとこれはミラの悪戯よ、そうですよねそうであってください神様(ボーグ)

 

 

 そして、見付けたもの。水差しの脇の、一枚の紙。『お先に、仔兎ちゃん(ザイシャ)?』と、見慣れたミラの字が書かれた紙切れ。

 それを見たとき、私は、この二年間守り続けていた無遅刻無欠席の表彰を諦めた。

 

 

「あ……」

 

 

 見詰めた鏡台、そこに映る、いつも通りの寝起き姿の私。銀髪に紅い瞳の私、その後ろ。部屋の隅。それで、初めて気付いた。部屋の隅、換気のために開け放たれた窓際、寒いだろうに。

 背もたれに外套を掛けた一脚の椅子に座って、なにかを書いていたのだろう手帳を広げたまま。篆刻写真に残したくなるくらい、まるで絵画か彫刻のように均整のとれた肢体と容姿。遅い朝の、アンニュイな気配の。灰色にくすんだ光と風を浴びて、黒髪を靡かせて。眠っている、黒い軍服のハヤトさんが居て。

 

 

──綺麗。素敵。ああ、写真に残したい。

──記憶だけじゃなくて、記録に残したい。

 

 

 だから、つい、失礼だとは分かっていても。いつも鞄に入れている篆刻写真機、取り出して。ファインダーを覗き、前身が収まるように調整して。

 シャッターを押した。その時、漸く、赫い瞳が此方を見ていることに気付いた。

 

 

「許可なく写真を撮るのは、あまり誉められたことじゃないな、アンナ・ザイツェヴァ」

「あ────ご、ごめんなさい、つい」

「……まぁ、構わない。人前で気を抜いた俺の責任だ」

 

 

 怒られる。以前にも、この写真機の修理が終わって浮かれてミラを撮ったときと同じことを。

 って、あれ? 冷静に考えたら、なんでハヤトさんがここにいるの? と言うより、私、昨日────

 

 

「取り敢えず、心配はするな。碩学院には俺が連絡しておいた。今日は休みでよいとさ、物分かりの良い教師で助かったよ」

「────────」

 

 

 ふっ、とニヒルに笑う彼に。今度こそ、声にもならない。そんな悲鳴を、生まれて初めて出したと思う。うん、きっとそう。

 

 

──だって、私、寝間着姿だもの! だって、私、まだ朝の支度すらできていない姿だもの! こ、こんな姿、家族以外の男の人に見られるなんて…………!

──お父さん(パーパ)お母さん(マーマ)。ごめんなさい、こんな不躾な娘で……。今日、女としてのアンナは死にました。私は、正教会の神に嫁ぎます。

 

 

 そう、私自身の将来に覚悟を決めた瞬間のこと。手帳を懐に収めたハヤトさんが立ち上がる。悠然と出窓に置いていたコーヒーを口に含んで。ぎしりとも椅子を鳴らさず、床も鳴らさずに。

 軍装のまま、でも刀は壁に立て掛けていて。あれだけの傷を負っていたはずなのに、今はもう、傷一つ無くて。

 

 

 狼のように、足音一つ無く歩み来る。寝台に寝そべっているままの私、流されるままにどうしようもなくて。武骨な右手で、驚くほど優しく、前髪を掻き上げられて。

 

 

「────熱は、無いな。何処か具合の悪いところはないか、左腕とか、目とか」

「いっ、いいえ、いいえっ! あ、ありません、ありませんからっ!」

 

 

 多分、いいえ、きっと。耳まで赤く染めてしまった私は、慌てて額に当てられたその掌をかわす。宙に浮いたその手を暫く漂わせて、ハヤトさんは怖い顔で思案して。

 

 

「…………そうか。自覚はないか、邪悪なる狼(グルジエフ)の末裔」

 

 

 グルジエフ、邪悪なる狼(グルジエフ)、ゲオルギィ・グルジエフ。邪視の男、祖国の裏切者。極東で悪名を馳せたその名字、そう、吐き捨てるように口にして。

 初めて、怖いと感じる。彼の視線、その目を。まるで、いいえ、正に()()の敵を目の前にしたかのように。

 

 

「……失礼した、アンナ。君は、君だな」

「え────あ、は、はい」

 

 

 思わず、そんな胡乱な返事を。でも、それでも、彼は満足したように微笑んで。

 

 

「────例え、貴女が《奇械》を顕現しようとも。例え、貴女が邪なる黄金瞳(グルジエフ・ゾルート)を煌めかせようとも。黒い道化師(ラスプーチン)は必ず、貴女を諦めず、認めないのだから」

 

 

──私の《奇械》? 私の《邪なる黄金瞳(グルジエフ・ゾルート)》?

────────黒い道化師(ラスプーチン)

 

 

 その解離は、決定的で。私とハヤトさんの距離、確かに。

 

 

「……さて、婦女子の部屋に長居するのは失礼に値する。そろそろ、帰らせてもらおう」

「あ……はい、あの、お構いもできずに……」

「構わない、勝手に立ち入ったのは俺だ」

 

 

 すっと、彼は物理的な距離を取る。背中、見せて。刀を腰に戻して、外套を羽織る。そして古めかしい煙管を咥えて、扉まで歩いて。

 

 

「ああ、そうだ。誤解の無いように言っておくが、君を着替えさせたのは君の同室の彼女だ。あの鼻っ柱の強い、パヴリチェンコ、だったか? だから、安心しろ。俺は見ていただけだ」

「────────」

 

 

 最後にそんな言葉、残して。『着替えているところを見ていた』と言う意味じゃないと、信じたくなる言葉を残して。

 私をもう一度、乙女の貞操的な意味で打ちのめして。立て付けの悪い扉の軋む音と共に、彼は姿を消したのだった。



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第二章 我はロボット
結束 ―Конец―


 

 

────例題です。これは、例題です。過去にあった事かどうかなんて些細なことです。だから、例題です。

 

 

 一人の少年が居ました。聡明な男の子です。小さい頃から科学、語学、聖書のあらゆる分野に於いて神童と褒め称えられている少年です。

 生家は裕福ではありませんでしたが、それでも、溢れる才能と弛まぬ努力を惜しまずに。遂に、国内最難関の大学校に入学、首席の座を維持し続けています。

 

 

 何故、そこまで頑張れるのか? それはある日、若かりし彼の生まれ故郷に訪れた旅芸人の一座を観劇しに行った時の事です。

 彼が目を奪われていたのは、機械。機械の、人間。全身を機関に置き換えた、軽業師の芸です。普通なら出来よう筈もない技の数々、その精密さ。それに、彼は────言いようもない失望を覚えました。

 

 

『なんだ、あんなものか。あんなもの、エンジンをつけただけの、にんげんのしっぱいさくじゃないか』

『だったら、ぼくならもっと、すごいものをつくってみせるのに』

 

 

 それが、最初の動機でした。それから彼は、没頭します。ただ、一つの目的に向けて。終生の命題として。

 

 

『ぼくが、きかんといういのちをもつ、ほんものをつくるんだ』

 

 

 それは、神に挑む行為です。女以外は許されていない、命の創造です。それを彼は何度も何度も、幾度も幾度も、失敗しながら。

 それでも、彼は神童です。無数の失敗は、それでも実を結び、やがて一つの集大成へと。

 

 

『目が覚めたかい?』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

唯々諾々と従う、自らの集大成。

 

 

『君に、最初に教えることは、三つある』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

誰もが、彼を褒め称えます。『正に神童だ、銃器公の再来だ』と。

 

 

『第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

 しかし、当の彼は、難しい顔をしたままで。幾ら尊敬するカラシニコフ氏に並べて称えられたところで。

 

 

『第二条、ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

 その瞳には、色濃い疲れ。まるで、目の前の『我が子』を、心底憎しんでいるようでもあって。

 

 

『第三条、ロボットは前掲第一条および第二条に反する恐れのない限り、自己を守らなければならない』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

 でも、それも仕方ありません。だって、彼が作りたかったものはこんなものではなかったのですから。

 それは────もっと、崇高なもののはずだったのに。こんな、失敗作になるはずではなかったのに。

 

 

 少年は一体、どうするべきですか?

 己の人生の命題を諦める?

 己の集大成を破壊する?

 それとも────この失敗作を愛する?

 

 

────例題です。これは、例題です。過去にあった事かどうかなんて些細なことです。だから、例題です。

────例題です。これは、例題です。ただし、《世界の敵》なんて助けに来てくれない、黒い雪に包まれた地獄の釜の底の、光も届かない奈落の例題(蜘蛛の糸)です。

 

 

────ええ、例題ですとも。つまり、既に結末の決まった、例題なのですよ。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 鐘が鳴る。本日、土曜日。毎週の最後の試験日の、最後の試験が終わった証拠が鳴り響いている。

 答案を回収した先生が教室を後にした直後、室内に広がった弛緩した空気。大きく背を伸ばす男子生徒に、溜め息を溢した女子生徒。私も思わず、欠伸を漏らしそうになって。慌てて、噛み殺す。

 

 

「あらまぁ、はしたない仔兎ちゃん(ザイシャ)ですこと」

「うっ」

 

 

──でも、リュダには見られてて。いつものように、からかわれてしまう。回りにいる他の生徒達も、釣られて笑っている。

──綺麗なリュダ、素敵なリュダ、スタイルの良いリュダ。やっぱり、意地悪なリュダ。うう、恥ずかしいったらもう。

 

 

「さて、それじゃあ今日はどうしようかしら? クラブ? それとも、ミュールとメリリズ?」

 

 

 その意地悪な笑顔のまま、リュダが二択を。暗い金髪、掻き上げて。緑色の瞳、艶やかに潤ませて。

 

 

「そう言えば、ユーリィのスプートニク号(飛空艇モドキ)が行き詰まってるらしいわね。イサアークですらお手上げなんだし、仕方ないと言えば仕方ないけどさ」

「ああ、あの三人乗りの?」

 

 

──スプートニク号。ガガーリン君が二年半を掛けて作ってる飛空艇……みたいな? 確か、英国の碩学兄弟ライト兄弟氏(ブラディヤ・ライト)の著作に触発されて、廃車になった蒸気自動車(ガーニー)に翼を取り付けているもの。

──最近は、翼よりも蒸気機関の出力の方に熱をいれてるみたい。たしか、《圧縮蒸気噴進機能(スチーム・ガスト)》を取り入れるんだ、とか。

 

 

「イサアークの方も《機関人間》の研究で行き詰まってるみたいね。よくは分からないけど、『予想以下の仕上がりだ、我が事ながら不甲斐ない』とか愚痴を溢してるんだってさ、あの真面目メガネ君がさ」

「へえ……」

 

 

──オジモフ君の《機関人間理論》。噂では既に一線級の完成度で、一年時には既に《機関化歩兵聨隊(スペツナズ)》の整備を請け負う《トゥーラ造兵廠》の、あの《銃器公》ミハイル・チモフェエヴィチ・カラシニコフ氏が直々にスカウトしに来られたとか。

──凄いことだと思うのだけれど。完璧主義のオジモフ君は、『結果を出すまでは青二才だから』と、それを断ったとか。それで更にカラシニコフ氏に気に入られて、『結果を出した際には是非』と、改めて頼まれたのだとか。

 

 

「まぁ、ただ学歴に箔を付けたくて入学した私には分かんない悩みね」

 

 

 噂好きのリュダ、お話好きのリュダ。輝くような笑顔のリュダ。その情報収集能力には、本当に驚き。私なんて、二年経った今でも、リュダとガガーリン君、オジモフ君以外とはあまり話すこともないのに。

 ……ただ単に、私が引っ込み思案なだけかもしれないけど。そう言うのも、やっぱり才能なんだと思う。あの屈託のない笑顔を見ていたら、誰もがリュダを好きになると思うもの。きっとリュダは、教師とか、そういう仕事に向いていると思う。

 

 

「ん、なによニヤニヤしちゃって、変なアーニャ」

「なんでもありませんよーっだ、意地悪なリュダ」

 

 

 そんな風に、私達はいつも通りの会話を交わして。

 

 

「人の困り事で随分と楽しそうだな、パヴリチェンコ、ザイツェヴァ」

「だな。流石に良い気しねーぞ?」

「あ────」

 

 

 いつからか、すぐ側に居た男子生徒が二人。オジモフ君とガガーリン君、不愉快そうに立っていて。

 

 

「あ、あの、ごめんなさい、その」

 

 

 思わず、口が縺れる。だって、二人とも怒っている風で、怖くて。

 

 

「うわっ、何よアンタ達。乙女の会話を盗み聞きなんて、それでも紳士?」

 

 

 だから、何故か逆に怒ってそんな風に返せるリュダは、凄いとしか言えなくて。うん、もう、少しは反省とかそういうのを。

 

 

「はぁー……これだからなぁ」

「……呆れて怒りすら湧かん」

 

 

 ……結果的に、こうなるところとかも。うん、やっぱり凄い。

 

 

「パヴリチェンコ、少しはザイツェヴァの淑やかさを見習うべきだな。全く、君のそういうところは悪徳だ」

「そうそう、少しはアンナみたいに可愛いところがありゃあ、ぞっこん惚れてるところだってのによ」

「あっはは、冗談キツいわね、アンタら。これはアンナだから可愛いのよ、私がこんなでも可愛いわけないでしょ? 第一、このエイダ主義の申し子のリュダさんよ、アンタらなんてこっちから願い下げよ」

 

 

 男の子二人に、真っ向から自分の意見を言えて、決して変えない。やっぱり、リュダは格好良い。格好良いけど……心臓に悪いからやめてほしい。

 あと、私を当て擦りみたいに使うのもやめてほしい。うん、切実に。

 

 

「さて、話を戻すぜ。お前ら、今日これからどうすんだ? 俺達は赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)に行こうと思ってんだけどよ」

 

 

 と、明るい彼。ガガーリン君の言葉。それに、リュダが眉を潜めて。悪戯を思い付いた、子猫みたいに。

 

 

「……うわっ、もしかしてアンタ達、男二人で篆刻写真でも?」

「ハッハッハ、バレちまったな、親愛なる親愛なるイサアーク君?」

「違うわ莫迦め、気持ち悪い! 気晴らしにボルショイ劇場に行くだけだ!」

「いや……男二人でバレエってのも十分……」

 

 

 ミラとガガーリン君の悪のりに、真面目な彼。オジモフ君が眼鏡の奥の瞳、本気で怖気に光らせて。

 

 

──珍しい。うん、本当に珍しい。オジモフ君が、研究以外で外出するなんて。知り合ってから、初めてかも。

──にしても、ボルショイかぁ……赤の広場の脇の、旧王都サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場に次ぐ、ロシア第二の劇場施設。そこでは毎日、オペラやバレエが催されている。白鳥の湖(リビディノーヤ・オゼラ)胡桃割り人形(シェルクンチック)眠れる森の美女(スペアシヤ・クラッサビサ)……確かに、気晴らしにはもってこいかも。もしかして、意外と観劇好きなのかな、オジモフ君って。

 

 

 そんなことを思う。だって、本当に珍しい。確かにガガーリン君とはよく一緒にいるオジモフ君だけど、他の人と一緒のところなんて見たことないし、私生活とか完全に謎だし。

 

 

「だから、君達もどうかと思ってな。気晴らしなんだ、人数は多いほど良いだろう」

「と、ガリ勉眼鏡が今後の人生で二度と言わねぇようなこと言ったからさ。そんなら、俺としては麗しいお姫様がたと一緒の方が楽しいって寸法さ!」

「感心だな、ユーリィ。これからは独力でテストを乗りきるとは……成長したものだ」

「と、偉大なる未来の《蒸気王》候補様が仰られたんでな、俺としてはなんとしても花を添えたいと言う所存なのさ!」

「何て言うか、ほんと、あんたら良いコンビだわ」

「あはは、うん……ほんとに」

 

 

 くるくると表情を変えるガガーリン君、皮肉げに笑うオジモフ君、呆れたように笑うリュダ。私は、それを眺めながら、忍び笑い。

 薄い灰色の日射しと雪が降る、機関排煙と零下の凍気に煙るモスクワの町で。ここは、ここだけは、前世紀に失われた春のよう。

 

 

──暖かい。うん、きっと、今はとても幸福な時間。こんな暖かさの中にいられるのは、間違いなく、幸運。

──楽しい。こんなに賑やかで、楽しい時間が、いつまでも続けば良いのに。

 

 

 そう、思って。私は、取り出した篆刻写真機を撮って良いか、尋ねようとして────

 

 

「って、いっけね! 確か、ボルショイの開演時間、もうすぐだよな?」

「ふむ……確かに。あと、二十分と言ったところか。いかんな、チケットが無駄になる」

 

 

 そんな雰囲気じゃなくなったから、大人しく鞄に戻して。そう言って、オジモフ君が鞄から取り出したチケット。金色の、いかにも高そうな────えっ、うそ、あれって!

 

 

「オジモフ君、それ、ボルショイのチケット……まさか、貴賓席!?」

「ああ、トゥーラ造兵廠から貰ったものだ。永年使用できるものだが、どうせ持ち腐れと言うやつだ。四人まで連れていけるが、僕の名前が記載されていて、他人に譲ることもできない」

「うひゃー、さっすがイサアークだわ……その顔の広さと資金力、ヤバい惚れそう」

 

 

──凄いわ(ハラショー)凄いわ(ハラショー)! 貴賓席の指定券なんて、普通に買ったら何万ルーブルするか……!

──私たち一般学生の支給金が毎月160ルーブルだから、少なく見積もっても碩学院に百年は在籍しなきゃ手に入らないようなものなのに!

 

 

「しかも、確か今、講演してるのって────あのパヴロワ劇団じゃない! こうしちゃいられないわ、急ぎましょ!」

「あ、うん!」

「今から急げば、十分間に合うだろう。慌てずに制服を整えていけ、一応ドレスコードはあるらしいからな」

 

 

 私とリュダ、完全に浮き足だって。お互いのタイが歪んでいないか、とか。制服にシワがないか、とか。確認しあいながら。

 

 

「男として、こう……凄い負けた気分になるんだよなぁ……こう言うの」

 

 

 そんなガガーリン君の拗ねたような声なんて、全く耳に入らなくて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 厚い蒸気曇を抜けて地表に届く灰色の日射しには、暖かさなんてもうなくて。肌を切るようなシベリアの冷気と風、銀色の雪を孕んで人々の体温を奪うだけ。

 いつもは、そう。活気を奪われて消沈してしまいそうなモスクワの街並み。でも、今日は。今だけは、それすらも私達の熱気、冷ませない。

 

 

「えーっと、午後一の演目は……白鳥の湖(リビディノーヤ・オゼラ)ね。演者は……タマーラ・カルサヴィナさん! ロシアのエイダ主義の花! おお、麗しき火の鳥(ラ・カルサヴィナ)!」

「ちょ、リュダ、声が大きいってば」

「何よ、いいでしょ、ファンなんだから!」

 

 

 中でも、リュダったら。あんなにはしゃいで、まるで子供みたいに。コートをバレエのチュチュみたいに翻らせて。くるくる、踊るみたいに。

 珍しい、可愛いリュダ。うん、写真、撮っておきたいけど……勝手に撮ったら、また怒られるものね。

 

 

 写真機の代わりに取り出した、手帳。私のアルバム。手袋をしたままだから、捲りにくいけれど。

 

 

 一枚目には、髪を梳かしながら驚いた顔でこっちを見ているリュダ。二枚目には、聖ワシリィ大聖堂で祈りを捧げているブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)。三枚目は、仔猫。白くて、ふわふわの。青い目が綺麗な、とっても可愛い。でも、一枚撮ったら居なくなってて。消えてしまったみたいに。

 そして、四枚目。一番新しい、六日前の朝の。椅子に腰掛けて微睡む、黒衣の極東のサムライさんの。

 

 

──ハヤトさんの、写真。素敵な、綺麗な。男の人にこんなこと言ったら、嫌な顔されるかもだけど。

 

 

 思わず、呼気が漏れる。マフラーから白い息、ふわりと溢れて消えていく。それに、慌てて口許をマフラーの上から押さえる。リュダなら、今のでも気づいてしまうから。

 そう思ったけど、肝心のリュダは随分と前ではしゃいでいる。よっぽどバレエ、楽しみみたい。

 

 

「────おっ、なんだよアンナ、角に置けねぇなあ。男のブロマイドなんて持ち歩きやがって」

「ひゃわ────!」

 

 

 代わりに後ろ、頭の上から延びてきた腕。二世代前の軍用防塵防雪装備に身を包む、背の高い、ガガーリン君の手が、私のアルバムを取り上げて。

 

 

「どれどれ────ほー、なかなか良い男だな……ん? ひょっとして、こいつ極東人(ヤポンスキー)か?」

「あ、だ、駄目! 返して、ガガーリン君!」

 

 

 ただの写真、なのに。それを見られてしまったことに物凄く恥ずかしくなる。取り替えそうにも、私の頭三つ分は背が高いガガーリン君が掲げ持つようにしてるんだから、跳び跳ねてみても無理。

 

 

「おーおー、俺達モスクワ大碩学院二年のマスコット、アンナ・“仔兎(ザイシャ)”・ザイツェヴァが男、しかも極東人に懸想とはなぁ……こりゃあ、一部の特殊な性癖の学生が泣くぜ」

「ち、ちがっ、ちが────違う、からっ!」

 

 

 ははは、と憎たらしいくらい爽やかに笑うガガーリン君。そのからかいに、耳まで熱くなるのを感じながら。

 全力で、跳び跳ねて取り返そうと、踏ん張った────

 

 

『────万歳(ウラー)

「うぎっ────イダダダダダ!」

 

 

 そのガガーリン君の腕をひしいだ、大きな影。最新式の軍用装甲服に身を包み、背嚢から機関排煙を。ガスマスクに覆われた顔から狼が唸るような声を漏らす、その人影は。

 

 

万歳(ウラー)……』

「す────」

 

 

 『機関化歩兵聨隊(スペツナズ)の人狼』。その言葉を、ガガーリン君、飲み込んだ。ソヴィエト軍人ならば誰もが習うコサック由来の軍隊格闘技『サンボ』とは違う、スターリン閣下の近衛のみが修得を許される軍隊武術『システマ』により彼の腕を捻る一人と、カラシニコフ氏の傑作と名高い突撃銃を突き付けるもう一人のために。

 

 

『一、士道ニ背キ間敷事────婦女子ニ暴力ヲ振ルウハ、男児ニ非ズ』

『我々ニハ、全ソヴィエト人民ニ対スル無裁判処刑権ガ《鋼鉄ノ男(スターリン)》閣下ヨリ与エラレテイル……』

「ちょ、ちょっと待った、違うんだよ、これは同級生同士のじゃれあいで!」

 

 

 いいえ、二人だけじゃない。路地の影から、広場の向こうから。城壁(クレムリ)の上から、続々、続々と。あっという間に、二十を越える人狼が犇めいて。

 

 

『我々ハ、閣下ノ御意思ヲ速ヤカニ体現スル為ノ機械』

『ヨッテ、コレヨリ。即刻、処刑ヲ執リ行ウ』

「なっ────まっ、待ってくれよ…!」

 

 

 『宣告から執行完了まで十分』、それがモスクワでの────スターリン閣下の名の下に行われる処刑に要する平均時間。

 鈍く光る銃口、引き金を引けばそこから飛び出す銃弾が、ガガーリン君の頭蓋骨を砕くことになり。鈍く光る、鋭利な銃剣。あと少し、それを突き出すだけで、ガガーリン君の頸動脈は断ち切られることとなり────

 

 

「────待って、ヒョードルさん、シャーニナさん! 違うの、ガガーリン君は私の友達なの! 本当に、少し遊んでただけなんです! ちょっと悪ふざけが過ぎただけなんです!」

 

 

──その二人に、私は叫ぶ。誰もが成り行きを見守るしかない中で。

──だって、私は……少なくともこの二人は、怖くなんて感じないもの。

 

 

 二人分の赤い視線。ゴーグルの双眸が、ゆっくりとこっちを見る。酷く驚いたような、そんな雰囲気で。

 

 

「……少女。仔兎ノ少女ヨ。何故、我々ノ名ヲ喚ベル?」

「我々ハ、完全ナル均一個性。ドウシテ、見分ケガツク?」

「どうして、って……」

 

 

──いかにも、不思議そうに。そんな、不思議なことを。

──そんなの、私の方が不思議に思う。だって、あなたたちは。

 

 

「筋肉が凄いヒョードルさん、セクシーなシャーニナさん……どちらもとっても優しい二人なのに、こんなに特徴的なのに、見分けがつかないわけがないじゃないですか」

『『……………………』』

 

 

──あなた達は、機械なんかじゃない。あなた達は、人間だもの。当たり前よ。

──そう、当たり前のことを言った筈なのに。何故、二人はそんなに驚いているの? どうして、周りの人達と目を見合わせて、確認を取るような風にしているの?

 

 

『……ヒョードル、シャーニナ。コノ少女ハ、我々ノ《鋼鉄狼ノ結束(オブリガットシィ・プシュキィ・スターリ)》ヲ崩シウル』

『当事者デアル、オ前達ガ裁ケ。処刑カ、否カ』

 

 

──どうして、あなた達の名前を呼ぶことが、あなた達の結束を崩すと言うの?

 

 

 辺りの人狼達が、私を見る。じっと、ヒョードルさんとシャーニナさんの言葉を、処刑宣告を待ちわびるかのように。突撃銃に手を掛けて、今か今かと。

 

 

『……被害者ガ居ナケレバ犯罪ハナイ。ヨッテ、コノ場ニ処刑スベキ犯罪者モ居ナイ』

『コレニテ、コノ場ハ解散トスル』

 

 

 そして、ヒョードルさんがガガーリン君を解放して。シャーニナさんが銃剣を下ろす。

 

 

『『ヒョードル、シャーニナ』』

『《鋼鉄狼ノ結束(オブリガットシィ・プシュキィ・スターリ)》ノ名ノ下ニ、当事者デアル我等ハ路地裁判ノ終結ヲ宣言スル!!』』

 

 

 それでも、何かを言い募ろうとした人狼達を威嚇するように。あの黒い雪の日のように、ガガーリン君と私を庇うように立った二人、声高にそう叫んで。

 

 

『……万歳(ウラー)

『……万歳(ウラー)

 

 

 自らが引き合いに出した言葉、返されて。私達を取り囲む人狼達、低く唸るように賛辞を口にして。現れたときのように、風のように消えて。

 最後に、振り返りもせずにヒョードルさんとシャーニナさんが歩いていく。一連の出来事で集まった観衆、追い散らすように。

 

 

「……ありがとう(スパシーバ)、ヒョードルさん、シャーニナさん」

 

 

 私、その背中に向けて。お礼を、口だけじゃなくて頭も下げて。

 

 

『『…………貴婦人殿万歳(ウラー・ガスパジャー)』』

 

 

 やっぱり、振り返りはしなかったけれど。その言葉、確かに二人は呟いて。

 

 

「大丈夫、ガガーリン君?」

 

 

 その背中を見送って、へたりこんでいるガガーリン君に声を掛けた。

 

 

「こ、殺されるかと思った……」

「ユーリィ……このバカ! アンタ、本気でバカね! 見てるこっちの寿命が縮んだわよ!」

「わ、悪かったって、リュドミラ。反省したよ、今回ばっかりは…………」

「ミラ、私が悪いの。手帳なんて見てたから……」

「んなわけないでしょうが! どう考えても、子供みたいな事したユーリィが悪いに決まってるでしょ!」

 

 

 と、同時にリュダが、烈火のごとく怒って。私が言うこと、もう無くなってて。

 

 

「……ザイツェヴァ。これは、君のものだろう」

「あ、ありがとう、オジモフ君」

 

 

 オジモフ君が拾ってくれた手帳、受け取って。雪をはたいて、鞄に戻す。良かった、傷とか汚れとかはないみたい。

 そして、上げた顔が。

 

 

「……ザイツェヴァ────」

「えっ? なに、オジモフ君?」

 

 

 何か、凄く考え込んでいる様子のオジモフ君の瞳と交わって。まるで、何か、凄く悩んでいたことに解決策を見出だしたみたいに。

 

 

「……いや、何でもない。ただ、時間切れのようだと思っただけだ」

「え?」

「えっ?」

 

 

 言われて、リュダと一緒に見た時計。時刻は既に、バレエの開演時間を過ぎていて。つまり、時間切れ。もう、ボルショイ劇場の門は閉まっている。開くのは、バレエが終わった後だけ。

 

 

「…………ユーリィ、アンタ」

「ま、待てリュドミラ! 話せば」

「分かるかぁぁぁっ!」

 

 

 激怒して、噴火して。赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)全体に響いたんじゃないかってくらいの雄叫びを上げたリュダが、ガガーリン君を閉幕時間まで叱り続けたのは、また後の話で────…………。



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紅星 ―Красная звезда―

 

 

 リリ、リリ、と。機関式の目覚まし時計がけたたましい音を立てている。大量生産品らしく、安っぽい鐘を打ち鳴らす鎚の音色。それを止めて、私はむくりと寝台から身を起こす。

 

 

「……ふわ……うゅう、あふ」

 

 

 はしたないとは分かっているけど、欠伸を一つ。いいえ、二つ、三つ。白い息、眠気と一緒にたくさん吐いて。目覚まし時計を止めた後、目を擦った左手をそのまま下ろして、暖房機関を起動。その上に、昨夜から用意していた薬缶を置いて、眠気の残る頭を回して窓を覗く。

 

 

──午前六時。安息日の。窓の外は、もう真っ黒。夜半には降り始めた《黒い雪(チェルノボグ)》が、モスクワを覆い尽くしていて。

──不吉なものを思う。邪なものを思う。まるで貪欲な悪魔が、『誰一人さえも逃がさない』とでも言うかのような。

 

 

『こんにちは、アナスタシア』

 

 

 ああ、視界の端の道化師(クルーン)が嗤っている。薔薇の意匠の石仮面の下、悪意に歪めて。黒い僧衣の巨漢の幻が、嘲笑っている。

 

 

────決して、決して。今日は、家の外に出てはいけないよ。不幸の悪魔(チェルノボグ)が、《凍える悪魔(イタクァ)》が。路地の武侍(ストリート・ナイト)、《黒い人狼(ウルヴァリン)》が。人民の敵(ヴィラン・オブ・ヴィラン)、《紅鉄の星(マグニートー)》が。君を、待っている

 

 

 くるくると、するすると。床を滑るように、ロシア舞踊(ベレツカ)を躍り狂いながら。黒い僧衣の巨漢の幻は勿論、床なんて軋ませずに。

 

 

『しんぱいしないで。アンナ、アナスタシア』

 

 

 そして、背後に立つ、白い左腕の鋼。影、確かな存在感を持っていて。

 

 

『ぼくが、きみを、まもるから』

 

 

 鋼の鎧に身を包む、優しい彼。その姿を見なくても分かる、彼の強い《左手》に守られて。幻の道化師(クルーン)、雪が溶けて消えるみたいに居なくなった。

 その時、ピイイ、と薬缶が湯気を吹きながら音を立てる。その音色に、低血圧故に微睡んでいた私は、現実に引き戻されて。

 

 

「……コーヒー、飲みたいなぁ」

 

 

 誰に言うでもなく、譫言のように、そんな事を呟いた。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 朝食を終えて外出着を着て、私は鞄を肩に掛ける。中には修道服と携帯型篆刻写真機、アルバム。あとは、ちょっとした裁縫道具とか化粧品、救急用品。そんな物が詰まった、いつもは碩学院の教書が入っている、お気に入りの。

 

 

「大丈夫~? 忘れ物はない~? ハンカチーフは持った~?」

 

 

 そんな声をリュダに掛けられるのも、もう慣れっこ。ええ、慣れっこですとも。子供扱いして、失礼なリュダ。

 

 

「……気を付けてね、アーニャ。また先週みたいなことにならないように」

 

 

 でも、そこは本気で。本心から、心配した顔で。口調は変わらないけど、これは、怖い時のリュダ。怖いけど、変わらず優しいリュダ。

 

 

「大丈夫です。じゃあ、リュダ」

 

 

──だから、心配させたくなくて。安心させたくて。私は、精一杯、元気に笑って。手を振りながら、扉を開いて駆け出した。

 

 

「行ってきま──っはぷ?!」

 

 

 瞬間、何かにぶつかった。リュダの方を向いていたから見えないけれど、堅いものに。まるで、大きな木にでもぶつかったように。

 でも、痛くはなくて。代わりに、左右から伸びたものに抱きすくめられたようになって。

 

 

──紫煙の香気。お父さん(パーパ)が吸っていた葉巻のものとも、兄さんが吸っている紙煙草のものとも違う、独特なその香り。

──知ってる、私。この香りを纏う人を、一人だけ。たった、一人だけ。

 

 

「ちょっと、どうしたのよアーニャ────」

 

 

 送り出してくれたリュダ、怪訝な顔をしていて。でも直ぐにそれは、強張って。

 

 

──そこに在るのは、敵意。激しく燃え盛る炎のような、そんな。

──駄目、やめて。リュダ、そんな目をしないで。

 

 

「……感心しないな。前を見ずに歩くのは、あまり」

「え────あ」

 

 

 頭の上から落ちてきた、低く、痺れるようにお腹の底に響く声。そんな声に、意識と目線が上に向けば。

 

 

「また、()うたな────《仔兎(ザイシャ)》」

「あ────え」

 

 

 黒い雪の降り続くモスクワで、黒い衣装の青年と出逢う。青年は、こびり着いた紫煙の香りがした。

 交錯する、三白眼の赫い瞳の視線。煙管を噴かす黒髪の、精悍で端整な顔立ちの、その男性。極東の民族衣装であるキモノと、黒い狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)を纏う、三本の刀を携えた────

 

 

「は────ハヤト、さん!?」

 

 

 呆れたように、金属板の嵌められた襟巻きを口許に引き上げた、ハヤトさんが居て。その腕の中に、すっぽり。私、収まっていて。

 心臓、ばくばく。心拍、一気に高まって。

 

 

「ふむ……積極的な女は嫌いじゃないが、出会い頭では少し風情に欠けるな」

「ひゃ、えぁ、ふぇ?!」

 

 

 口角、釣り上げるように。皮肉的な笑顔で、ハヤトさんは私の顎に右手を添える。上向かされたまま固定されたその姿勢、まるでそう、オペラの一幕みたいに。

 これから────場面が暗転して翌朝になるような。前にミラと見に行って赤面してしまった、意味深なシーンみたいに。

 

 

「────っと」

 

 

 その瞬間、ハヤトさんは首を捻って。私の顎に触れていた右手、いつの間にかその頭が在った場所に動いていて。

 

 

「……危ないな、刺さったらどうする」

 

 

 本当に、いつの間にか。四本歯のフォークを、掴んでいて。

 

 

「刺す気で投げたのよ、このスケコマシ! 赤衛軍大佐ならなんでも出来るなんて思わないことね!」

「初対面の時から、相も変わらず失礼な娘だ。言っておくが、極東男児の沽券に懸けて力や権力で女を手籠めにしたことはない。すべて合意の上だ」

「知ったこっちゃないわよ!」

 

 

 まるで、投球を終えた野球の投手みたいな姿勢で、息巻いているリュダが居て。怖い顔で、本気で怒ってる顔で。

 でも、ハヤトさんは、全く素知らぬ、何処吹く風と言った具合で。

 

 

「さて、このままでは埒が空かんな。本題だ、今日も聖ワシリィ大聖堂に行くのだろう?」

「え、あ、はい、その、約束、ですから」

「よし、良い娘だ。さて、では行くとするか」

「えっ?」

 

 

 問われて、答えた。それだけで、とんとん拍子に話が進む。当事者の私すら、置き去りに。

 

 

「ちょっと、アーニャから離れなさいよ!」

 

 

 それに食って掛かったリュダ、だけど、だけど。既に黒い雪の降るモスクワ市街に出ていた私とハヤトさんを目の前に、立ち止まる。、

 リュダは、安息日は────《黒い雪(チェルノボグ)》の降る日には、絶対に外に出ないから。

 

 

「────アーニャ!」

 

 

 本気で、心配した顔で。本気で、私の事を案じてくれている顔で。リュダが、私の名前を叫ぶ。

 

 

「だ、大丈夫だから、リュダ!」

 

 

 だから、本気で叫び返す。だって、ハヤトさんだもの。大丈夫、この人は、大丈夫だから。リュダにも、それを分かって欲しくて。

 

 

「────大丈夫」

 

 

 でも、そのくらいしか口に出せない。自分の口下手さが、嫌になる。だから、精一杯の笑顔、向けて。リュダに、微笑みかけて。

 

 

「…………うん」

 

 

 その声を聞いた、気がして。でももう、リュダの姿、閉ざされた扉に見えなくて。代わりに、滲み出るような黒色。煙管を噴かす黒い男の人の、姿。

 

 

「乗れ。送っていく────モスクワには、獣が多いからな」

 

 

 大型の二つの車輪の蒸気自動車(ガーニー)────それの機関(エンジン)に火を入れて、操舵(ハンドル)を回して嘶かせるハヤトさんの姿が、目に入った。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 グルル、と唸りを上げる双輪蒸気自動車(バイサイクル)。まるで、野を駆ける狼のよう。漆黒の機体は辺りを染める黒い雪よりも尚、艶めくように。黒曜石のように、美しくて。

 その動きが止まる、そんな事が、耐えきれないくらい切ない。それくらい、私は。

 

 

「……着いたぞ、そろそろ腕の力を緩めてくれると有難い」

「うう、あう、ご、ごめんなさい……」

 

 

 二輪という不安定さに怯えて、しがみついてしまっていた両腕を、何とか緩める。西側諸国、ロンドンでは二輪車なる物があるとは、ガガーリン君から聞いていたけれど。乗ったのはおろか、見たことすらなかったから。

 ふう、と息を吐いて。彼は、双輪蒸気自動車の機関を落とす。最後に一度、断末魔のように嘶いて、二輪車は完全に沈黙した。

 

 

「あの、ありがとうございます。わざわざ、送っていただいてしまって」

「気にする必要はない。わざわざ、危険な安息日に外を出歩いているような女性を、しかも部下の妹を放っておくわけにもいかない」

「うう……」

 

 

──また、怒られた。分かってはいるけど、うん、でも、私が一度約束したことだもの。

──だから、私の勝手で止めるわけにはいかないから。

 

 

「それに、先に言った通りモスクワには────獣が多いからな」

 

 

 頭を上げれば、懐から取り出した煙管、噴かしながら。頭の先に、冷ややかな気配を感じる。それは、何故?

 簡単だ、ハヤトさんの睨み付けている先に、その人は居た。前と変わらず、私に死の印象を叩き付けながら。

 

 

「やあ────修道女(シストラ)アンナ」

 

 

──覚えている。一週間前、出会った人。一目で最上級のものと分かるスーツを着こなす、鋼鉄のような笑顔の人。背の高い、アジア系の顔立ちの人。薄い灰色の髪の、髭を蓄えた、猫のような黄金色の右瞳の。

──忘れもしない、その人。怖い人、本当に、本当に、怖い人。今度は、昆虫のような色眼鏡と禿げ上がった頭の男性、連れて。

 

 

「イオセブ・ジュガシヴィリ────」

 

 

 ハヤトさんが、苦虫でも噛み潰したようにその名前を口走る。黒塗りの装甲車から降りたばかりの、その人の名前を。まるで、長年の敵でも目の当たりにしたように。

 

 

「無礼な────黄色い猿風情が、この御方を何方と心得るか!」

 

 

 雪避けの傘を指しかけながら脇に控えていた、生理的な嫌悪感を呼び起こす男が、背の低く背骨の曲がった彼が癇癪を起こしてがなりたてた。でも、驚いたのは、ハヤトさんの影に隠れたのは私くらい。

 

 

「黙れ、ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ。胡麻擂り男め。貴様の言葉など誰も望んではいない、俺も、そいつも、この娘もな」

「黙っていろ、ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ。ハヤト君の言葉は真実だ。流石は我が友だ、君以上に私を理解できる存在はモロトシヴィリくらいしかいないと、今、再び実感したよ」

 

 

 ハヤトさんも、ジュガシヴィリさんも、悠然と。変わらぬままで。見詰め合ったままで。

 

 

「ハハッ────それがあなたさまの望みであれば」

 

 

 明確に小馬鹿にされても尚、慇懃無礼なまでに、へりくだる禿げ上がった彼。その眼差しが、ぎらつく瞳が、私を捉える。

 そして、ニタリと。ひどく残虐で好色な笑みが、昆虫のような瞳が、ジュガシヴィリさんにだけは見えないように、白く濁る息と共に漏らされて。

 

 

──それだけで、寒気が。女としての本能が、彼の危険さを叫ぶよう。

──駄目、この人は駄目。きっと、生まれて初めて。私は、初対面の人を嫌った。

 

 

「さて────済まないね、修道女(シストラ)アンナ。たまの休みに、君の顔を見ようと思ってきてみたのだが……気を悪くしてしまったかな?」

「い────いえ、そんなことは、ありません」

ありがとう(スパシーバ)。やはり、君は素敵な女性だね」

 

 

 にこりと、予め用意していたかのように寸分の狂いもなく柔和な笑顔。機械のように正確に、機械のように精密に。鋼鉄のように、人間味なく。

 それは、確かに人間のようではあったけれど。工業機関のように、作り物めいた笑顔で。

 

 

「さて、では、あまり馴染みはないが。参詣と洒落込むとしよう。ここで待っていろ、ベリヤ。何、一時間も掛けはしない」

「ハハッ! 承知いたしました!」

 

 

 直立不動で、答えた昆虫のような彼。このモスクワの屋外で一時間なんて、そんな、自殺志願者じゃあるまいに。それに見向きもせず、ジュガシヴィリさんは歩き出す。コツリ、コツリと、石畳に革靴の音を鳴らして。

 この世界の全てを踏みつけるように。それは、神や、それに連なるものすらも。

 

 

「さぁ、行こうか。修道女(シストラ)アンナ、我が友ハヤト。時間は────」

 

 

 何もかも、押し潰す。鋼鉄にて形作られた、紅く煮え滾る破滅の星のようで。

 

 

「────一秒たりとも、待ってはくれないのだから」

 

 

 私と、ハヤトさんはただ、誘われるままに。聖ワシリィ大聖堂に足を向けたのだった。



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雪 ―Снег―

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いしますm(_ _)m


 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた皇帝(ツァーリ)の城だ。誰もが知りながら、誰もが知り得ない。漆黒と排煙に閉ざされた、この世の地獄だ。

 そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、八大地獄(カルタグラ)だ。そこは死して尚、魂を苛む八寒地獄(コキュートス)だ。

 

 

 ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。

 

 

「あるじ。我があるじ。時が来た、唐突ですが、来てしまいました。お言葉を賜りたい」

 

 

 声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。

 

 

「────────」

 

 

 その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の皇帝(ツァーリ)が一人。盲目に、白痴に狂ったままに。従う事の無い従者にすら、目線を合わせることなく微睡んで。

 

 

「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。では、代わりに我輩めが謳い上げましょう」

 

 

 答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

 

「────祝福せよ、祝福せよ! 嗚呼、素晴らしきかな! 鋼鉄の生け贄が最後の階段に足を掛ける! 危なげもなく、あらゆる障害を踏み潰しながら!」

 

 

 堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。

 

 

「ええ、ええ。本当に」

「そうね、そうね。本当に」

「全くだわ、全くだわ。本当に」

「「「本当に本当に怖い人ね、イオセブ・ジュガシヴィリ」」」

 

 

 傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共にロシア舞踊(ベレツカ)を躍り、嘲りながら。

 まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる道化師(クルーン)が。

 

 

「僕の時計は動かない! 俺の鐘は鳴らない! 初めからそんなものは持ち合わせていないのだから────私の糧となり! 矮小なる身を知り! 永遠がなんたるかを知るがいい!」

 

 

──それが、物語の最終幕。出来の悪い悪漢小説かか恐怖劇(グランギニョル)のような、とある男の覇道の道程。

──人民の敵(ヴィラン・オブ・ヴィラン)紅鉄の星(マグニートー)の。

 

 

紅 鉄 の 星 万 歳(ウラー・マグニートー)──────────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 

 その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けて────

 

 

「────すべて。そう、すべて」

 

 

 その、軋むような音をたてる両腕────

 

 

「全ては、ただ。《愛しく遠き理想郷(アイラ)》の為に」

 

 

 深紅の右腕と蒼白の左腕、揺らめかせながら────

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 《鋼鉄の男》スターリン閣下の治める鋼鉄の都市モスクワ、その中枢たるクレムリン市街中央、ソヴィエトの象徴たる赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)近郊に、それは在る。聖ワシリィ大聖堂。またの名を『ポクロフスキー大聖堂』、或いは『堀の生女神庇護大聖堂』。この都市におけるロシア正教の総本山であった、色とりどりの可愛らしい、玉葱頭の大聖堂。

 聖なるものを思う。清廉なものが、全てを浄めるように思う。壁中に描かれた教会画(イコン)の聖母と御子の、そして、名だたる聖人達の眼差しに。

 

 

──普段は。うん、普段なら。そう思うのだけれど。

 

 

 だけど、今は違う。立ち込める紫煙の香り。壁に寄り掛かって古めかしい煙管を噴かしているハヤトさんと、長椅子に座って最新式の機関パイプを噴かしているジュガシヴィリさんの、あまりと言えばあまりに傍若無人な振る舞いに。

 何より。そんな風にしながら、二人ともが一言も発さずに。一言も発せずに掃除をしている私を、ただじっと見ているのが、居心地が悪いったらもう!

 

 

──そりゃあ、お二人ともソヴィエト共産党の関係者みたいだから、無神論(アテイズン)なんでしょうけど。それは仕方ないけど。

──だからって、修道女の格好をしてる私の前で。わざわざ大聖堂の中で、煙草なんて、吸わなくても良いのに。

 

 

 なんて、少しだけ。少しだけ、むかっとして。床を掃く手、休めて。そんな二人を避難がましく見やれば。

 

 

「おや、掃除はもうお仕舞いかな、修道女(シストラ)アンナ?」

「あっ────は、はい」

 

 

 目が合う。猫のような黄金色の右瞳と、青色の左瞳の男性と。狼のような赫い瞳の彼、煩わしげに瞼を閉じていたから。

 

 

「では、丁度良い。是非、この大聖堂の成り立ちについて拝聴したいのだが」

「な、成り立ち……ですか?」

 

 

 にこりと、機械のように正確に。予め用意していたかのように、機械のように精密に。私に微笑み掛けたジュガシヴィリさん。

 それは確かに人のような笑顔だったけれど。やっぱり、有り得ないものが笑ったようで。さながら、鮫が笑ったような笑顔だった。

 

 

「えっと、この聖ワシリィ大聖堂は、十七世紀の始めにイヴァン四世閣下……通称《イヴァン雷帝》閣下がカザン・ハン国との戦争の勝利を記念して建立された寺院です。以来、モスクワのロシア正教の総本山として────」

「ふむ、良く勉強しているね。それにしても、イヴァン雷帝か。ああ、それは良い。彼は、彼の行いは実に好ましい。君は、彼については勉強したかね?」

 

 

 この寺院の手伝いをするようになって、勉強した歴史を語る。それを誉められたのは、素直に嬉しいけど。

 《イヴァン雷帝(グローズヌイ・イヴァン)》。ロシア史上最大最悪の暴君。《雷のように恐ろしいイヴァン皇帝》。正直、良い印象なんて全く無い皇帝陛下だけれど。

 

 

「聞かせてほしい。君には、彼は殺人者か? それとも────他の何か、感想を抱くのか、ね」

 

 

 その名前を聞いた瞬間、機械のようだったジュガシヴィリさんが、少しだけ嬉しそうに見えた。僅かに、本当に、僅かにだけど。子供みたいに、瞳を輝かせて。

 私、口ごもってしまう。だって、その通りだから。その人となり、それ以外になんて。

 

 

「────下らん。何がイヴァン雷帝だ、自国民を徒に殺すことしか出来なかったただの暗君だろう。貴様の悪趣味は今に始まったことでもないが、やはり相容れぬと分かった」

 

 

 代わりに口を開いたのは、ハヤトさん。渋い顔のまま、カツンと窓枠に勢い良く煙管を打ち付けて、灰を捨てながら。

 

 

「もう用事は済んだのだろう、帰るぞ仔兎(ザイシャ)。この男に付き合ってやる必要はない、時間はもっと、有意義に使え」

「え、あ、あの」

 

 

 そのまま煙管を懐に仕舞って。狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)、翻らせて。音も立てずに歩み寄り、私の肩、抱いて。

 

 

「おや、手厳しいね。では、君は一体、どんな名君が好きなのかな?」

 

 

 それを受けて、笑顔のまま。パイプから濃密な紫煙を燻らせるジュガシヴィリさん、ハヤトさんに問い直して。

 

 

「決まってる。俺の大将は────(イサミ)さん一人だけだ。後にも、先にもな」

 

 

 吐き捨てるように、そう、口にして。大聖堂の扉、開いて。黒い雪の降るモスクワ市街、凍り付くような大気が皮膚に、肺に、忍び寄ってくる黒い町に。

 傍らで本当に立って待っていた、ラヴレンチー・パヴローヴィチ・ベリヤと呼ばれた昆虫のような彼、その視線を私から遮るように歩いて。

 

 

「では、また逢おう。修道女(シストラ)アンナ、ハヤト君。次は何か、土産でも持ってくるよ」

 

 

 最後に、そんなジュガシヴィリさんの声を聞いて、異色の双眸の視線を感じて。同時に嘶いたハヤトさんの双輪の蒸気自動車(ガーニー)の排気音に、全ての音が掻き消されたのだった。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 降り積もった黒い雪の道に轍のみを残し、重低音の車輪の音が曲がり角に消える。後には、どこかで唸るような機関の音が低く断続的に、くぐもった太鼓の単調な連打のように響くのみ。

 それを気にも留めず、イオセブ・ジュガシヴィリはモスクワ市街に立ち尽くす。この氷点下が平温の寒国で、外套を羽織ることなく、ただ、スーツに襟巻のみと言う軽装で。それでも、僅かたりとも震えず。

 

 

「あるじ、我があるじ。蒸気自動車(ガーニー)の機関は暖まっております」

 

 

 その男に、雪避けの傘を指しかけていた矮躯の男。丸レンズの色眼鏡を掛けた禿げ上がった頭の、背骨の曲がった昆虫のような男、ラヴレンチー・ベリヤ。

 その言葉にも、彼は何ら興味を示さない。ただ、去っていった二人の方を向いたままで。

 

 

「構わん────今の私は、機嫌が良い。拝謁を許すぞ」

 

 

 悠然と、傲然と。『不幸の神よ、悪魔(チェルノボグ)よ、消えてしまえ』とばかりに。誰に言うでもなく、そんな言葉を呟いた。

 

 

『────────────』

 

 

 瞬間、大気が腐る。吸い込めば肺腑が腐るような、絡み付くように濃密な殺意に満ちた猛毒の大気が周囲に満ちる。

 音はない。消え去った。有るのはただ、復讐に息巻くような。或いは死の恐怖に恐れ戦く呼吸を思わせる、鋼の駆動音のみ。

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)展開──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)構築──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)顕現──

 

 

 そして、それは来る。『深紅よ、星よ、消えてくれ』と怯えながら。

 

 

 黒い塊が蠢いている。まるで、蛆虫が蠕動するかのように。黒い塊が爆ぜている。まるで、原形生物(アメーバ)が流動するように。

 黒い雪と、黒い雲。その塊。酷く戯画化された人間のような、異様に長い腕と脚の、数十フィートはあろうかと言う現実離れした大きさの……でも、確かにそこに在る、悪意の塊。首筋にギリギリと、錆び付いた音を立てて回る、発条螺旋(ゼンマイネジ)を備えた────殺意の実存。

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)の維持を開始。しかし、我が領域に時計はない──

 

 

『────────』

 

 

──さあ、願いを果たす時だ。我が救済を受け入れたものよ──

 

 

 目の前の、ただ一人。その男に、怯えながら。

 

 

『────────!』

 

 

──踊れ、踊れ、その魂が朽ち果てるまで死の舞踊(ベレツカ)を。我が救済を受け入れた玩具(もの)よ──

 

 

 虚空に燃え上がる、深紅の瞳が二つ────

 

 

「いい。下がっていろ、ベリヤ」

「いいえ、ジュガシヴィリ様。あるじのお手を煩わせずとも、《凍える悪魔(イタクァ)》程度、このベリヤめで十分でございます」

 

 

 身構えたのは、傘を持つ彼のみ。色眼鏡の奥の瞳、俄に。これから存分に振るえる嗜虐に、ギラつかせて。

 空いている左手を、ぬるりと。卑猥さすら滲ませる手つきで、毛皮の外套の内側、懐に差し込んでいた。

 

 

「二度も同じことを言わせるなよ、ベリヤ────()()()()()()()()()?」

 

 

 その刹那、大気が潰れる。腐り果て、凍り付いた大気が。怪物に支配されていた空間が、何の抵抗すら見せずに、ぐしゃりと。

 

 

────数式領域(クラッキング・フィールド)集束────

 

──全く、やりづらいな、貴様は。ああ、本当に──

 

──私の救済を拒んだ、ただ一人の男よ──

 

──イオセブ・ジュガシヴィリ、《紅鉄の星(マグニートー)》よ──

 

 

 塗り潰し返される。イオセブ・ジュガシヴィリの差し出した右手。虚空を掴むように開かれた、何の変哲もない右手に。

 彼を称える世界へと。黒い雪、黒い雲、一瞬で蒸発して。黄昏を思わせる、深紅の世界へと────

 

 

「差し出がましい真似を────申し訳ございません」

 

 

 果たして、瞬時に引き下がったベリヤ。彼の後方に。巻き込まれぬだけの距離を、取って。

 色眼鏡の奥の瞳に、今度は、哀れみの色を湛えて。目の前の、黒い怪物を眺めた。

 

 

「────さて」

『────────!』

 

 

 一歩、彼が前に出る。《右手》を差し出したまま。それに合わせて、一歩、怪物が後ろに下がる。

 

 

「どうした、怪物(マトリョーシカ)? 私の前に立ったのだろう? 貴様の、貴様らの願い通りに。私に復讐するために、地獄から舞い戻ったのだろう? ラスプーチンの玩具にまで成り下がって────」

『────────────────』

 

 

 止まらない彼の一歩、やはり止まらない怪物の一歩。距離は、一歩たりとも近づかない。しかし、嗚呼、しかし。勝敗は、既に決している。

 

 

「どうした、玩具────卑しくも《凍える悪魔(イタクァ)》の名を冠するなら、人間を狂わせて見せろ。人の世の営みを嘲笑って見せろ」

 

 

 嘲笑う声は、高らかに。哄笑は、深紅の世界を揺らして。

 その《右手》────握り締めるように。

 

 

「所詮。《借り物の力》等は、その程度だと言うことだ、塵芥────」

『ギャ────────!?』

 

 

 ミシリ、と。怪物の動きが止まる。見えない力に、巨大な掌に握りしめられたかのように。暗黒の星の重力に絡め取られた、光のように。

 全身を軋ませて。あらゆる部位に、ヒビ割れを走らせながら。あらゆる部位を、灼熱に燃え上がらせながら。

 

 

「貴様には、もはや、シベリアすら生温い────」

『アア、アア────────!』

 

 

 虚空に燃え上がる、深紅の瞳二つ────絶望に染めながら。

 

 

「────────────失せろ、再び。この世から」

 

 

 握り潰される。ぐしゃりと、本当に呆気なく。一点に収束する、暗黒星のように。それで、全ては終わり。

 後に残ったのは、掌のサイズにまで圧縮された些細な金属塊のみ。それが、石畳に落ちて────踏み潰される。イオセブ・ジュガシヴィリの革靴に。

 

 

「…………では、戻るとしようか、ベリヤ。あまり仕事を疎かにしていては、モロトフの小言を貰ってしまうからね」

「はっ! 蒸気自動車(ガーニー)はいつでも出せます」

 

 

 その足が躙った後には、黒い染みだけしか残らず。蒸気自動車の機関音が消えた後、直ぐに、黒い雪に覆い隠されて。

 

 

 跡形も残さず、消え去った。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 ハヤトさんの蒸気二輪自動車で寮の前に戻ってきた時、私は再び、溜め息を溢す。二度目とはいえ、まだまだ、慣れないから。

 

 

──不安定だから、仕方ないとは分かってるんだけど。その、男の人に、抱き付く、とか。そういうの、うん…………慣れない、から。やっぱり。

 

 

 火照った頬に、この時ばかりはモスクワの冷たい空気がありがたく感じる。早く、早く、冷ましてほしい。ばれてしまう前に。

 

 

「さて、俺の役目もこれで終わりだな。これが本当の送り狼、か。全く、笑えん話だ」

「えっ、あ、はい…………ごめんなさい」

 

 

 そんな私の背後で、そんな風に。煙管を吹かしながら、自嘲するハヤトさん。

 

 

「…………ごめんなさい」

「……………………」

 

 

──『役目』。分かってるんだけど、うん、やっぱり……お仕事の一環、なのよね。ハヤトさんにとっては。うん、そうよね。

──うん。

 

 

「……ではな。また来週、逢おう」

「あの、でも────」

 

 

 あまりに申し訳なくて。断ろうと、開いた唇────そこに、彼の右手の人差指、当てられて。黙らせられて。

 

 

「どうせ暇な身だ。軍務に追われるだけの、な。それなら、お前のように見目良い女といる方が楽しい。お前は身の安全を、俺は目の保養を得られるわけだ。一挙両得というやつだな」

「────────」

 

 

──まるで、口説かれるような。そんな経験、ないけど。たぶん、こんな感じなのかな、とか。

──心臓、ばくばく、ばくばく。うあ、熱い。耳まで、燃えるみたい!

 

 

 多分、気づかれているとは思うのだけれど。ハヤトさん、僅かに微笑んだだけで。三白眼の赫い瞳、整った極東風の顔立ち、真っ直ぐに私を見詰めていて。

 顔を伏せたくなるけど、それもできない。人差指だけで、身体中の動き、支配されてるみたいに。

 

 

「…………そうだな、良いことを教えてやろう。呼吸を止めず、動きを止めず、姿勢を真っ直ぐに保ち、考え続ける。それがソヴィエトの近衛式格闘術『システマ』の基礎だ」

「────えっ?」

「覚えていて損はない。特に、お前のように危なっかしい奴はな」

 

 

 だから、何の脈絡もなく語られた言葉。結構、軍事機密なんじゃないかな、と思う台詞。それに、意識を奪われて。

 

 

「ではな、仔兎(ザイシャ)

 

 

 最後に、子供みたいに頭を撫でられて。髪、密かに自慢の、私の銀色の髪、武骨な手指で梳いて。再び蒸気二輪自動車に跨がった彼は、双輪の騎士は、鉄馬の嘶きと共に去っていった。

 

 

「……………………バッグ、また忘れちゃった」

 

 

 掌の暖かさだけを、残して。

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 その姿が見えなくなり、漸く、安堵したような息を彼は吐いた。万感の思いを込めた白い息は、直ぐに、後方に流れて消えていく。

 あの時、思い出したもの。見上げる瞳。遠い昔に捨ててきたはずの、思いを。故郷の片田舎、その道場で。あんな風に、見詰めてきた────

 

 

『────くすくす。悪い人、悪い人ね、ハヤト』

『────くすくす。ハヤト、悪い人、悪い人ね』

 

 

 瞬間、冷や水を浴びせかけられたように思考が冷たさを取り戻す。微かな笑い声だった。しかし、充分すぎるくらいの嘲りに満ちた、二人の女の笑い声だった。

 

 

『あんなに期待を持たせちゃって、悪い狼ね』

『悪い狼ね、あんなに期待を持たせちゃって』

「────黙れ」

 

 

 一言、低く恫喝を。視線、真っ直ぐに前を向いたまま。取り合う必要は無い、取り合うだけ損をすると、知っているからこそ。

 

 

『あら、酷いわ。あの極東の雪の中から、貴方達の血に染まった赤い雪の中から引き上げてあげたのは私達なのに』

『ええ、酷いわ。赤い雪の中で死に逝く貴方と、赤い雪の中で朽ちていく貴方を出会わせてあげたのは私達なのに』

 

 

 耳障りな嘲笑と、両方の視界の端で艶かしく身をくねらせ続ける────

 

 

『『本当に、貴方達は悪い人狼だわ────ハヤト、ヌギルトゥル』』

「黙れ────イスタシャ、リサリア。忌々しい《大いなる渦(ルー=クトゥ)の猫》どもめ」

 

 

 二柱の、猫の女神────無駄と知りつつも、振り払うように速度を速めた。



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機関 ―Учреждение―

 

 

 遠い、遠い。果てしなく遠い。暗く、長い長い隧道(トンネル)、或いは天蓋付きのアーケード。その彼方に揺れるもの。いつからだろうか、多分、ずっと。目指して歩いている、あの『光』は。

 届かないものを思う。見た事はないけど、水鏡に煌めく満月であるとか、蒼穹に輝く太陽であるとか。

 

 

 そして、ふと、足元に目を向けた。

 

 

 隧道の天井から漏れる、僅かばかりの『光』を湛えた石畳に。そこに芽を出した、ほんの些細な命を。雑草と、一括りにされるもの達だ。だが、確かに命の輝きだ。

 一休みしよう、この命を眺めて。背後から吹く風に揺れる、小さな彼等を眺めて。

 

 

 辺りに佇む、セピア色の、皆と共に。

 

 

『──オブジェクト記録を参照:機関人間(エンジン・ヒューマン)とは』

 

 

 その時、声が。声、声? いいや、違う。心を震わせる『思い』が、流れ込んできた。

 

 

『全身を数秘機関(クラック・エンジン)と呼ばれる義肢に置き換えた人間を指す言葉であり、またその置換技術を指す言葉でもある。無論、そのような技術を習得するには並外れた才能と努力を必要とし、加えて手術自体の成功率も極めて低い。だが、その見返りとして与えられる力は、その危険と較べても余りある。人倫に悖ると、各国では忌避される傾向にあるが────人の命など畑で採れるとされるような国では、都市では、大した問題ではない。

 尚、似て非なるものに自動人形と呼ばれるものがある。こちらは、完全なる機械を人間に似せたもの。無論、ただの。ただの機械に過ぎない。ごく稀に、物好きな者達が語る噂に────心を持つ機械の話があるが。世界最高の技術者にして偉大なる十碩学、初代《蒸気公》チャールズ・バベッジなら兎も角。そんな技術を有する者など、もう居はしない。()()西()()()()……()()()

 

 

 見上げても、暗く霞んだ天井から吊り下げられた、仮面が口走る言葉。その全てを囁いて、色を失った仮面は霧のように消える。

 

 

『────モスクワ地下鉄(メトロ)とは』

 

 

 次に、吊り下げられた左腕。鋼鉄の、機関義肢(エンジン・アーム)

 

 

『《とある碩学》の協力により、モスクワ市内に廻らされた地下交通機関の愛称。現在は第一書記長スターリンがコーヒーカップを置いて記したとされる、クレムリン市街外縁を巡る環状のレールと僅かな他の駅が敷かれるごく小規模なものであるが、計画では都市全域に張り巡らせる予定である。世界広しと言えど、1917年現在で地下鉄をこれ程の規模で実用化している都市はこのモスクワを除いて外にない。

…………そう、外には。崩壊した────()()()()()()()()()()()()()()()()()────合衆国の旧・重機関都市ニューヨークを除けば』

 

 

 そして、消えていく。やはり、霧か霞のように。

 

 

「私の、世界────」

 

 

 色を得て、語り出したのは少女。白く、輝くような銀色の髪の。携帯型篆刻写真機を抱く、白い兎のような。

 

 

「世界。煌めくもの。世界。《美しいもの》。私が、初めて写真を知ったのは、いつだったっけ。覚えていないけれど、でも、うん、きっと、ううん、絶対に。私は、その瞬間に、虜になったの」

 

 

 煌めくように、そう口にして。色を失って、代わりに。

 

 

 

 

 Q、夢とは?

 

 

 

 

「僕の、夢か────」

 

 

 色を得て、語り出したのは男。ブラウンの、硝子玉のような瞳の眼鏡の青年だ。携えた物理学の教書を捲る、機械仕掛けのような。

 

 

「完全なものが造りたかった。神など、この世にはいないから。ならば、人間の手で神なるものを。完全なるものを造り上げよう、そう願った。かつて見た、機関人間の姿に。ああ、その時、僕は魅入られた。虜になったんだ」

 

 

 陰るように、そう口にして。色を失った彼の代わりに。再び色を得て、少女が口を開く。

 

 

「綺麗なものを、素敵なものを。切り取って、保存して。外の、皆にも。私も、そんな素敵なことをしたい。そう、思えたから。だから、私は────うん、写真家に、なりたい」

 

 

 彼の陰りに釣られたように、俯いて。全てを語り終えて色を失い、霧か霞か、或いは雪のように消えていくのだ。

 

 

 

 

 Q、叶えるべき願いは?

 

 

 

 

「あんな、できの悪い紛い物じゃなくて。本物を造ると。僕は、そう────誓ったんだ。外の誰でもない、僕に……だから。ボクは────外の何を、犠牲にしても…………ぼくは、つくりあげなければ、ならないんだ」

 

 

 彼も、また。全てを語り終えて、得たはずの色を失って。霧か霞か、或いは雪か────若しくは紫煙のように、消えてしまった。

 

 

 後に残されたのは、ただ、この日溜まりだけ。ああ、もう十分に休んだ。さあ、歩き出そう。最後に、僅かな名残を残して。

 風に揺れる草を、華を。有りもしない瞳に焼き付けて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 安息日前日の今日、一番驚いたのは、放課後の事だった。

 

 

「ザイツェヴァ、付き合って欲しい」

「────ほぇ?」

 

 

 最後の時限が終わって。この後の事、リュダにミュールとメリリズに誘われるんだろうな、と思っていた矢先の事。

 隣の席のリュダより早く、そんな風に────別の学級の筈のオジモフ君に、いきなり、誰憚らずに言われた事だと思う。

 

 

「ザイツェヴァ、付き合って欲しい」

 

 

──聞き損ねたと思ったのだろうか、もう一度、オジモフ君は同じ言葉を口にした。周りの生徒達、先生すら、終礼と同時に入ってきたモスクワ大碩学院主席のオジモフ君に注目していた皆、呆気に取られた顔で見ている中で。

──誰憚らずに、うん、皆にも聞こえるくらいの声、明朗な声で、オジモフ君、そう言って。あ、リュダったら、あんなにあんぐり口を開けて……もう、はしたないのはどっちかしら。

 

 

「────え? え?」

 

 

 なんて、逃避もできずに。私は机に座ったまま、オジモフ君を見上げながら。思考、凍らせて。どうすれば良いのか、分からなくなって。多分、リュダと同じように。あんぐり口を開けて。

 

 

「────ちょちょっ、ちょーっと待ったーっ! 何、ギャグ? それは新手のギャグなの、イサアーク!? 笑えない、笑えないんだけど! ユーリィならともかく、あんただと本気で! リュドミラ・パヴリチェンコは糾弾するわよ! 助走付けて!」

「君は何を泡食っているんだ、パヴリチェンコ────いや、ああ、なるほど。確かに、言葉が足りなかったな」

 

 

 そこで漸く、学級の固まった空気を察して。オジモフ君、改まって。

 

 

「今日、今から、僕に付き合って欲しい。頼む、ザイツェヴァ」

 

 

 そんな風に、言い直して────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 モスクワ地下鉄(メトロ)の、革命広場駅(プローシャディ・レヴォリューツイィ)の先。アルバート駅(アルバーツカヤ)で、私とオジモフ君は地下鉄を降りる。肩から、鞄を掛けて。いつものように、携帯型篆刻写真機の入った鞄、肩に。

 その足で、駅のカフェへ。地下鉄公団の職員を対象としていたカフェへと、私は、オジモフ君に促されて入った。オジモフ君の、コネクションで。

 

 

「まず、先に聞いておきたい」

 

 

 席について、先に切り出したのはオジモフ君。合衆国の妙な飲み物、確か、コーク、とか言う、コーヒーみたいに真っ黒な炭酸飲料、飲んだ後で。

 

 

「君は────機関人間(エンジン・ヒューマン)の見分けが、付くんだよな?」

 

 

 ぱりぱりと喉を焼くような変な飲み物、飲んだ後で。私、咳き込みそうになるのを、堪えながら。

 

 

「えっと、あの、その。見分けがつく、と言うか、私としては、当たり前のような、そんな……」

「……要領を得ないが、間違いではない訳だな。それで良い、十分だ」

 

 

 コークの刺激に噎せて、慌てて答えた拙い言葉にも、オジモフ君は落胆を見せずに。少しだけ、私を見詰めただけで。

 心の中だけに、押し止めて。オジモフ君は、微笑んで見せて。

 

 

「紹介したい相手がいる。直ぐに、来るよ」

 

 

 その言葉と、全く同時にベルが鳴る。新たな客の入店を知らせる音色が。年代物のベル、きっと帝政ロシア時代からのベル、鳴らして。

 カフェに入ってきた、人影が一つ。

 

 

「────兄さま。私の兄さま」

 

 

 表れた《彼女》は、開口一番、そんな風に口にした。まるで、忠犬のように。まるで、そう刷り込まれているかのように。

 カチリ、と。機械のように正確に。機械のように、精密に。誰か、最近逢った人を思い出すような。そんな、精緻さで微笑んで見せた、《彼女》に。

 

 

「紹介しよう、僕の────妹、だ」

「初めまして、Ms(ガスパジャー),ザイツェヴァ。ワタシは、イサアークの妹で、ワシリーサと申します」

「────────」

 

 

 恭しく、頭を下げた金髪に碧の瞳の女性。誰もが振り返るか、見詰めてしまうような綺麗な女の人。童話の《賢いワシリーサ》そのもののような、素敵な女の人。綺麗な女の人。素敵な女の人。

 私は、それを見て────心の底から、凍り付いてしまって。

 

 

──妹。妹? 妹、なの? オジモフ君の、妹?

──だって、貴方は。人のようだけれど、だって。

 

 

 凍り付いてしまって。見詰めるだけで。《彼女》を、見詰めて────一言すら、発せなくて。

 

 

「……そうか、やはりか」

 

 

 それに、オジモフ君、目敏く。いいえ、初めからそうなること、知っていたみたいに溜め息を溢して。

 だから、申し訳なくて。頭、下げて。非礼、詫びるように。

 

 

「あ、あの────」

「いや、良い。気休めはいらない。君のその反応が、全てだ」

 

 

 何もかも、分かっていたように。オジモフ君、疲れたように微笑んで。傍らの《彼女》を、見遣ることすらしないで。

 

 

「……やはり、僕は────半端者だな」

 

 

 諦めるように、呟くのだ。傍らの────『作品』の《彼女》を、捨て置いたままで。

 

 

「紹介しよう、僕の()()────」

 

 

 何か、一つ────大事なものを諦めたかのように。

 

 

「ワシリーサだ────」

 

 

 自動人形を見詰めて、笑うのだ────



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真実 ―Правда―

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む、機関の揺籃だ。数多の実験器具と、数多の材料が所狭しと並ぶ、蠱毒の坩堝を思わせる場所だ。

 しかし、深遠ではない。薄い機関灯の明かりに照らされる、碩学の卵の実験室だ。安息日の、明けない夜の底に沈んだ、モスクワの片隅だ。

 

 

「僕は────────」

 

 

 その中心で、その部屋の主は机に突っ伏している。背後で佇む『もの』には、一切の悪意を向けずに。ただ、己の未熟を恥じて。

 

 

「────どうすれば」

 

 

 苦悩し、懊悩し続ける。意味がないことなど、知っていてもなお。どうすることも出来ずに、ただ、煩悶する。どうすることも出来ずに、ただ、自問して反問するのだ。

 

 

『────可哀想。あなた、そんなに悩んで』

「黙れ────」

 

 

 だから、それは来る。薄暗がりから這い出るように、扉からではなく。次元の角度から這い出るように、扉からではなく。空間すらねじ曲げて?

 いいや、初めから部屋の中に。雪が、黒い雪が降る場所ならどこにでも。

 

 

『可哀想な機関技士。才能に恵まれて、必死に勉強して、ここまで来たのに。それなのに、人とは違う目で見られたくらいで、見破られて────可哀想、可哀想』

「黙れ────黙れ!」

 

 

 人間め、蠱毒の生贄よと嘲笑いながら。

 人間め、悪質な機械だと嘲笑いながら。

 白いドレスを纏い、ロシア舞踊(ベレツカ)を躍りながら。

 

 

 それは、確かに女ではあったが。それは、彼の望むような女ではなかった。

 それは、ひどく鉄の匂いのする、金色の髪の────

 

 

『認められないなら、消してしまえば良いのよ。貴方を認めないものを、ほうら、こんな風に』

「止めろ────」

 

 

 目映いまでの光が、悪辣なまでの白い光が、部屋を包む。残酷なまでの白色が、一片の闇すら駆逐して。逃げ場なんて、どこにも。

 

 

『必要でしょう、神の幕引きが? あなた達人間じゃあ、解決なんてできないんだから────』

 

 

 そう、最初は────

 

 

『さあ、笑いなさいな、チク・タク、チク・タク!

 夢を、世界を捨てて、チク・タク、チク・タク!

 イア、イア、呼ぶの!』

 

 

 白い(ハイロゥ)だけ。ただそれだけが、そこに浮かんで。耐えきれない現実と共に、耐えきれない過去と共に、魂の懊悩を際立たせながら。

 

 

「嫌だ────止めて…………くれ…………」

 

 

 無惨なまでに、凄惨なまでに、暴きたてるのだ。

 

 

『あはははははははは………………!』

 

 

 そして、この西亨で。幾ばくかの若さと神秘が喪われた────────……………………。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

おっはよー(ドーブリョウートラ)! リュダ姉!」

「うひゃ!?」

 

 

 威勢の良い声と共に扉が開け放たれたのは、朝の支度をとうに終えて、朝食を食べ始めた頃のこと。私、椅子からお尻が浮くくらい、びっくりして。

 安息日、《黒い雪(チェルノボグ)》の降る暗い日。その、夜と間違う朝の静けさと平穏を打ち破ったのは────。

 

 

「あれ? なんだよ、アーニャしかいねーのかよ? リュダ姉は?」

「あ、あのねぇ、ヤーコフ! 毎回言ってるけど、もう少し静かに入ってきて! それとミラは今、席を外してます!」

「なんだ、トイレか。じゃ、ほらよ、アーニャ。これ、今朝の《プラウダ》と《イズベスチヤ》」

 

 

──少年。快活な、金髪に透き通った青い瞳の。可愛らしい男の子。私にソヴィエト共産党機関紙《真実(プラウダ)》と《報道(イズベスチヤ)》の朝刊を渡して。悪びれもせず、辺りをきょろきょろ見渡して。ミラの姿を探してる、小生意気なヤーコフ。ヤーコフ・スワニーゼ。

──近くの機関印刷工場で働いている、小さな体の子。インクの臭いが染み付いている、健気な男の子。

 

 

「うわ、今日はハズレだ。アーニャのボルシチじゃん」

「だったら食べないでちょうだい」

「うそうそ、無いよりはましってね」

 

 

 勝手知ったるなんとやらで、ボルシチをお皿によそってから椅子に腰を下ろすヤーコフ。早速、朝の残りのパンを頬張っていて。

 私、溜め息、溢して。かさりと、《プラウダ》を開く。今朝のニュース、読むために。

 

 

「しっかし、よくそんなもん読む気になるよな? みんな言ってるぜ、『《報道(イズベスチヤ)》に《真実(プラウダ)》なし、《真実(プラウダ)》に《報道(イズベスチヤ)》なし』ってよ」

「ヤーコフ……それ、外で言っちゃ駄目よ」

 

 

──大人達がそんな風刺的皮肉(アネクドート)を言っているのを、聞いているんだろう。訳知り顔で、そんな風に。

──もし、《反革命委員会(ヴェチェーカー)》に聞かれでもしたら、シベリア送りか処刑になるだろう言葉を口にしながら。

 

 

「騒がしくなったと思ったら、ヤーコフじゃない。来てたの?」

「あ、リュダ姉! 今日もリュダ姉のために《プラウダ》、持ってきたぜ!」

 

 

 その《プラウダ》をさらわれて、宙に浮いた私の両手と恨めしげな視線を意にも介さずに、ミラに甘えている。本当にもう、この子は。

 

 

「はいはい、頼んでもないのにありがとうねー。ところでアーニャ、そろそろじゃない?」

「そろそろ?」

 

 

 と、リュダが意地悪く笑い掛けてくる。意地悪な時のリュダ、小憎たらしい時のリュダの顔。

 

 

「貴方の、《騎士様》よ」

「なっ、にゃにいってるの!」

 

 

 そこまで言われて、思い当たって。心拍、速まったのがわかって。慌ててしまって、噛んでしまって。

 

 

「騎士様ぁ? えぇ? アーニャにぃ?」

「そーなのよ、ヤーコフ。アーニャったら、最近悪い男にころっと騙されちゃって」

「あー、耐性無さそうだもんなー。なんか、一回助けたらすぐ落ちそう」

「あ、あのねぇ────!」

 

 

──何て失礼な人達なんだろう。本当にもう、言うに事欠いて!

 

 

 その時だ、コン、コン、と扉がノックされたのは。私とミラ、揃って身を固くした。だって、このソヴィエトで()()()()()()()()のは、シベリア送りか処刑、そのどちらかを告げる《反革命委員会(ヴェチェーカー)》の……同志スターリン閣下の断罪(おことば)だから。

 だから────私達、指先すら動かせなくて。その扉が開くのを、見詰めていただけで。

 

 

「────御用改め方である。不逞浪士ども、大人しく縛につけ……か。フ、懐かしいな……」

 

 

 そんな風に、昔を懐かしむような表情で入ってきた、極東の民族衣装の男の人。年代物の煙管から紫煙を燻らせる、黒狼の毛皮の外套の、ハヤトさん。ただ、見詰めていただけで。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「…………」

「…………」

 

 

 つかつか、つかつかと。マフラーから白い息を溢しながら、私はモスクワの街並みを歩く。凍てつく風を肩で切りながら鞄を揺らして、つかつか、つかつか。

 隣を歩く彼は、やっぱり紫煙を燻らせていて。二輪の蒸気自動車(ガーニー)、押しながら。それでも、足の長さ(コンパス)の違いで隣から離れなくて。

 

 

「……悪かった、反省している。そろそろ機嫌を直してくれないか、仔兎(ザイシャ)

「…………別に。怒ってません」

「なら、その膨れっ面を止めてくれるか?」

 

 

──だって、悪戯ならなおの事、質が悪いから。

──モスクワであんなこと、本当に洒落にならないから。

 

 

 振り返らずにつかつか、つかつかと。コートの裾、蹴り飛ばすみたいに大股で。モスクワ地下鉄の電気工場駅(エレクトロザヴォーツカヤ)構内に入る階段、降りる。

 二輪の蒸気自動車(ガーニー)を押しているハヤトさん、着いてこれなくなる場所に。

 

 

「おい、仔兎(ザイシャ)……全く────ヌギルトゥル」

 

 

 はぁ、と溜め息を溢す声、聞こえて。次に、金属が複雑に擦れ合う音。何の音かと、少し後ろを振り向けば────

 

 

「────────」

『やれやれ。身から出た錆、だな。ハヤト』

「……煩い、黙れ」

 

 

 私の目線の、真ん前に────

 

 

「────────」

『……さて、そろそろ彼女に我の説明をした方が良いのではないか? 彼女が悲鳴をあげる前に』

 

 

 黒い、鋼鉄の四足獣。人より大きい、紅く燃えるような眼差しの。強壮な鋼の体躯に、機関排煙を吹く大きく裂けた顎門(アギト)、悪鬼めいた風貌の人語を話す狼が、目の前に居て────

 

 

「……機関精霊、というものを知っているか? カダスでは稀に見られるものらしい。機関に《ふるきもの》が宿るもの、とのことだ」

 

 

──機関精霊。機関工場から、ごくごく稀に生まれると言われているもの。話にだけは、少し。確か、オジモフ君が話してた気がする。

──発達した機関文明に行き場を失った、古き世界の神秘達。その行き先の一つが機関精霊なのかもしれない、って。

 

 

「こいつは俺の二輪蒸気自動車『サモセク』に宿る、ヌギルトゥル。“翼有る人狼ヌギルトゥル”。大いなる渦(ルー=クトゥ)より生まれた、《ふるきもの》の一柱だ」

『宜しく、美味そうな……失礼、可愛らしい仔兎(ザイシャ)

 

 

 まさか、実物を見ることになるなんて思ってもなくて。差し出された右手……右前足? を前に、反射的に右手を差し出していて。

 犬に仕込む芸、『お手』のように。クローム鋼の鋭利な爪と硬いタイヤ護謨(ゴム)の肉球を備える右前足、乗せられて。私、完全に固まってしまう。

 

 

『……ふむ、やはり驚かせてしまったらしいな。満面の笑顔で、紳士的に話し掛けたと言うのに…………何がいけなかったのやら』

「何もかも、だ。金属の塊の狼が獲物を前にしたときのように犬歯を剥きながら、いきなり流暢に話し掛けてきたら、誰でもそうなる」

『では、お前の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)を寄越せ。それを纏えば、我もただの狼だ。モフモフだぞ、婦女子にはウケるだろう』

「……機関排煙を吹き出す、獅子や虎よりでかい、が抜けているな。どちらにしろ驚かせるだけだ、その子は只でさえ怖がりだからな」

『ふぅむ…………』

 

 

──何だか失礼なことを言いながら呆れたように紫煙を燻らせるハヤトさんと、考え込むようにお座りして首をかしげながら。再度、短剣のように鋭い牙が並ぶ獰猛な顎門と腰の左右の排気筒から機関排煙を吹く狼さん──確か、ヌギルトゥルさん。

──揃っての、そんな仕草。本当に息が合ってて。うん、この二人……似た者同士なんだ。そう思うと、最初に感じた恐怖、和らいできて。うん、これなら、声、出せる。

 

 

「あ、あの、ごめんなさい。初めまして、アンナ・グリゴーリエヴィチ・ザイツェヴァと申します」

『いやいや、アンナ君は悪くないワン。この男の空気の読めなさの方が問題なのだからね……ワン』

「いきなり取って付けたような語尾を付けるな。そして、やるんなら徹底しろ」

『ほうら、この通りだ。全く、誰のせいで我が、悪くなった空気を解そうと心を砕いていると思っているんだろうね?』

 

 

 あまりに人間臭い話し方に、思わず口許、綻んでしまう。この人……ううん、狼さん、きっと良い狼さんだと分かって。

 

 

「────ザイツェヴァ、か?」

「え────?」

 

 

 背後から掛けられた声に、心拍をずらされるくらい驚かされて。振り向いた先、そこに────

 

 

「オジモフ、君?」

 

 

 そこに居た、外行きの外套姿のイサアーク・オジモフ君。そして、昨日見た時のままの姿の機械人形……ワシリーサさん。その二人を、見つけた。



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青空 ―Голубое небо―

 

 

 コツリ、コツリ。コツリ、コツリ。革靴の音、木霊する。広く、果てしない反響は何処までも。暗闇の中、誰かの足音がする。単調に、真っ直ぐ、長い間、ずっと。

 その足音が、止む。間を置かず、今度は、がちゃりと錠の外れる音。続き、酷く重厚な門扉が軋みながら開く音が、来客を歓待する魔物の歓声の如く響き渡って。

 

 

 薄い機関灯の明かりに照らされるのは、どこまで続くかも知れぬ膨大な書架。様々な装丁、様式。象形文字から記号文字。紙から板、果ては骨や合成樹脂の記録媒体まで。

 しかし、それは全て、ただ一冊。即ち、《過ぎ去りし年月の物語》に、他ならない。全て、総て。ここに在るものは、何もかも。

 

 

 長居してはいけない、正気が惜しければ。直ぐに取って返すべきだ、狂気に耐えられなければ。確かに、()()()()時間人間(チク・タク・マン)》の《アレキサンドリア大図書館》よりは安全だろうが。ここもまた、混沌の邸宅だ。黒い道化師の書斎だ。

 

 

 例え、遍く神秘家達が夢にまで追い求める《死霊秘法(ネクロノミコン)》が。

 例え、かの雷電王すらも疎み遠ざける《水神クタアト》が。

 例え、十字軍に参加した魔術師の記した《妖蛆の秘密》が。

 例え、盲目の教授がセラエノ大図書館から掠め取った叡智《セラエノ断章》が。

 例え、自らが著した《秘密教義(シークレット・ドクトリン)》が、密やかに並んでいようとも。

 

 

 この《原初年代記(ナーチャルニヤ・レートピシ)》の持ち主が、黒い道化師が、悠々と。()()()()()()()()()()()()()

 

 

 しかして、足音の主はすぐ脇の書架より二紙の新聞紙を取り出して。《真実(プラウダ)》と《報道(イズベスチヤ)》の二紙、ばさりとそれを広げて。記事の見出しを()めつ(すが)めつ。

 

 

『全ての人民は、偉大なる同志スターリンの元に集う』

 

 

──違う。これではない。

 

 

『反逆者レフ・トロツキー、メキシコの地にて誅殺される』

 

 

──違う。これでもない。

 

 

『ロマノフ王朝、悲劇の皇女達について』

 

 

────違う。これも違う。最後まで、見付からなかった。あの黒い男には既に、見つかっていると言うのに。

 

 

 ずしりと、重くなる頭。蒼白の諦めと真紅の絶望が、鉛のように重く、硬く、のし掛かって────

 

 

──違う。これだ。私が探していたのは、この記事だ。間違いない。

──黙っていろ、黒い道化師(ラスプーチン)め。自分すら信じていない私には精神学(メスメル)も、自分の思考と誤認する現象数式(クラッキング・エフェクト)の声は効かない。()()()()()()()()()()()()()()

 

 

────そうかい? それは残念だ。

 

────ああ、本当に。

 

────本 当 に 、 残 念 だ っ た よ。

 

 

 振り払う、蒼白の左腕と真紅の右腕。虚空に散っていく、黒い僧衣の巨躯。木霊する、反響することなく、鼓膜を揺らすこともなく、直接脳に響く嘲笑の声。

 

 

「これを記すあたって、私は、まず、読者諸君に中途にて記事を終了するやも知れぬと言う事について断っておきたい。私はしがない一介の記者であり、現ソヴィエト評議会とは何らパイプを持たぬゆえに、いつ、処断されてもおかしくないと言うことを。それを前提に、私は、一切の虚偽を記さぬことを、ロシア国民としての我が誠心に誓おう R・ゾルゲ」

 

 

 それを無視して、私は記事に目を戻して。

 

 

『ロシア革命の動乱に消えた、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世。その妻、アレクサンドラ皇后との間には、四人の皇女が存在した。美しく聡明な長姉オリガ皇女、可憐で慈悲深い次姉タチアナ皇女、愛らしく穏やかな三妹マリア皇女。

 そして、やんちゃでひょうきんもので、家族の誰からも愛された、末妹の■■■■■皇女────』

 

 

 暗い闇底の、道化師の庭。その深奥の書斎に、低く、低く。

 

 

────未 亡 人 殿 万 歳(ウラー・ミシス)

 

 

────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!

 

 

 此処にはない、このロシアでは観る事など叶わない、夜空の月の代わりのように、嘲笑が木霊して────………………

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。眠気を誘う、その一定のリズムと遠心力に押し付けられる背中。蒸気機関から供給される、暖かい空気。碩学院に向かう度に何度、このモスクワ地下鉄(メトロ)ので眠りの彼方に誘われた事だろう。

 それは、今でも。瞼、自然と重くなってきて。欠伸、漏れそうになるのを噛み殺す。だって、隣にミラ、居ないから。いつものように、目的地に着いたら起こしてくれる人、居ないから。

 

 

「……眠いのか、ザイツェヴァ?」

「え────あ、ううん、大丈夫」

 

 

──代わりに、目の前に座っている彼。対面する座席に座っているオジモフ君が、察したように口を開いた。

──いけないいけない、居眠りしたり欠伸してるところを見られたりしたら恥ずかしいもの。気を張らないと。

 

 

 と、思ったところで。視界の端にちらりと映った、黒い人影。私の座っている座席の端の手摺に背中を持たせかけて、長い袖の中で腕組みをして。目を瞑ったまま立っている、進行方向側のハヤトさんの姿。流石に、もう煙管は仕舞っていて。

 その足元には、あの機関精霊の狼さん。ヌギルトゥルさんが丸まって、暇そうに寝そべっていて。何だか、革命広場駅(プローシャディ・レヴォリューツィイ)の壁龕の、国境警備兵と軍用犬の銅像、思い出してしまう。

 

 

──というか、今更気付いたけれど。横から観るとキリル文字の『П(プェ)』の字型の木の履き物……靴下一枚だけで履いてるんだ。

──歩きにくくないのかしら? それ以前に、寒くないのかな? ふつう、あんな軽装をしてると凍傷で足の指を切断しなくちゃならなくなると思うんだけど…………。

 

 

 そんな、どうでも良くはないだろうことを思う。でも、この酷寒のロシアで、あの服装は。いくら毛皮の外套(ドゥブリョンカ)を纏ってはいても、寒いんじゃないかな、と。

 

 

「時に、ザイツェヴァ。あの極東人(ヤポンスキー)は、一体?」

「え、あ、えっと」

 

 

 そこで、思考は断ち切られる。だって、オジモフ君の疑問、最後まで聞かなくても理解できる。そう、明らかにおかしい組み合わせだもの。

 一介のソヴィエト人の小娘が、極東の……ユーラシア大陸の東の果ての太平洋に浮かぶ島国の男性と、連れ立っているなんて。

 

 

「──彼女の兄、ヴァシリ・ザイツェフの知り合いだ。軍関係の仕事をしている。今日は休日で観光をしようと思ったのだが、如何せん不案内でな。彼女には、モスクワの地理に疎い俺の為に道案内を頼んでいるところだ」

「そっ──そう、なの、オジモフ君」

 

 

 瞬間、用意していたみたいに滑らかな言葉を口にしたハヤトさんに救われて。きっと、私が弁解したら、支離滅裂なことになっていたと思うから。

 

 

「そう、でしたか。失礼、詮索などしてしまって」

「構わない。学友が得体の知れない男と共にいれば、疑問にくらい思うだろう」

「……感謝します」

 

 

──一瞬、二人は視線を交錯させて。それきり、静かになる車内。うう、気まずいったらもう。

 

 

 そうして、離した視線の先に。彼女は、じっと。オジモフ君の隣の席で、静かに座ったままで。

 

 

──さらさらの金色の髪の、見目麗しい緑の瞳の彼女。童話から抜け出てきたお姫様のような、オジモフ君の作り上げた機械人形ワシリーサさん。傍目からは人間にしか見えない、兄妹どころかお似合いの恋人同士にも思えるくらい。

──でも、その瞳、じっと。瞬きもなくじっと、私を見詰めていて。硝子玉のような瞳、ずっと。

 

 

『あぶない、アンナ。アナスタシア』

 

 

 そこに、籠る感情はない。空虚だけが、広がっている。吸い込まれてしまいそうな、虚ろさだけがあって。

 無い? いいえ、見える。奥底で揺れるような、()()()()、あれは────

 

 

『その()()は、きみをきずつける』

 

 

──ああ、視界の端で、道化師が踊っている。地下鉄の揺れなど知らないとばかりに、淀みなく。真っ黒な僧衣の仮面の道化師が、ブリキの木こりの玩具を、楽しげに操りながら。

──背後の『彼』の、怯えるような震えを。私の体の底からの怯えるような震えを、嘲笑いながら。

 

 

────こんにちは、アナスタシア。

 

 

────夢見るときだ、そして。

 

 

 耳元で感じた息吹、声。焦げ付いた機関のような、凍えた吹雪のような。生理的な嫌悪をもたらす『誰か』の声が、耳元で囁かれて。

 

 

「────ひゃ!?」

 

 

 身を固くした、その時。地下鉄が停止する。

 私、緩やかな筈のその勢いに堪えきれなくて。進行方向に、金属製の手摺に向けて倒れこみそうになって。

 

 

「────気を付けろ、こんな事でいちいち怪我をしていてはキリがないぞ」

「あ、あの、ごめんなさい……」

 

 

 その手摺に背中を持たせかけたまま、全く、ちっとも。小揺るぎさえもしていないハヤトさんに、肩を支えられて事なきを得る。

 慌ててお礼をして、案内表示を見れば。目的地の、革命広場駅(プローシャディ・レヴォリューツィイ)。私が降りる駅。

 

 

「あ、そう言えばオジモフ君は」

 

 

 立ち上がって、ハヤトさんとヌギルトゥルさんに続くように地下鉄から構内に。少し肌寒く感じて、マフラーを引き上げながら。二人の方を見れば。

 

 

「僕も此処で降りるつもりだ。これから、()()()調()()を行うつもりだからね」

 

 

 同じく、立ち上がっていたオジモフ君とワシリーサさんも連れだって階段を上る。一段、また一段と市街地に近付くにつれ、寒さは強くなる。

 

 

「そうなんだ。私は、これから聖ワシリィ大聖堂に行くの」

 

 

 何故だろうか、それが────()()()()()()()()()()()()()()()()()()のは。真夜中のようなモスクワの街並の底を、薄い機関灯の明かりに照らされながら。

 吹雪く黒い雪(チェルノボグ)、目に入らないように注意しながら。

 

 

「なるほど、確かに。あそこは現存する、数少ないロシア正教の寺院だ。見ておいて損はないだろうな」

 

 

 普段なら、昨日までなら。通学や通勤の為に人が溢れている構内と外界を繋ぐ階段、その先の道、赤の広場まで。だけど今日、安息日には誰も、誰も。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「ところで────最後の調整、って?」

 

 

 急に気に懸かって、辿り着いた赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)で。私は、オジモフ君に問い掛ける。

 モスクワの、五つの赤い星。その見下ろす、赤の広場の中で。今日も仕事をしていらっしゃる、同志スターリン閣下のお膝元で。

 

 

────()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 オジモフ君は、碩学院に。私は、大聖堂に。その分かれ道、だから。そうよ、()()()()()()()()()()()()()()()()じゃ、なくて。

 

 

「ああ────手に入れたんだ、()を」

「目、を?」

 

 

 にこり、と。あまり見たことのない、オジモフ君の笑顔。眼鏡、機関灯の光を照り返して光って。その目を隠して見せない。

 

 

「ああ、貰ったんだ。()()()()()()()()()()()()()()

 

 

──心臓が、速くなる。ばくばく、と。あれ? おかしいな……どうして、私、()()()()()()()()()()()()

──()()()()()()()()()()()()()……()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「────もういい、黙れ。やはり、貴様も魅入られた……否、()()()()()()か」

 

 

 その視線、遮るみたいに。ハヤトさんが私とオジモフ君の間に立つ。オジモフ君を睨みながら、腰の、三本の刀、かちゃりと揺らして。鉄板付きのマフラー、解いて。

 

 

「姿も、声も、無視しておけばいいものを。黒い道化師(ラスプーチン)に唆されて人間を捨てたか、この愚か者めが」

「貴方には言われたくないな、《路地の黒侍(ストリート・ナイト)》────人間であることはおろか、祖国すら捨て去った痩せ狼め」

「違いない。だが、それが貴様が愚かであることの否定にはならない」

 

 

 解いたマフラーを、細く絞って。額に巻いて──ああ、そうなんだ。あれ、額を守るための防具なんだ、なんて、ぼんやりと思って。

 

 

「だったらどうする────極東の黄色い猿(イポーネツ)!」

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)展開──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)構築──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)顕現──

 

 

 俯いて嗤いながら、眼鏡を外したオジモフ君の叫びと共に、世界が塗り変わる。暗がり、等ではない。漆黒の闇に。混沌に、塗り潰されて。

 

 

「────現在時刻を記録しろ、ワシリーサ」

『はい、いいえ。現在時刻を記録しました、あるじ。あなたの願いは果たされる』

 

 

 白い塊が蠢いている。まるで、蛆虫が蠕動するかのように。白い塊が爆ぜている。まるで、原形生物(アメーバ)が流動するように。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 白い光の塊。酷く戯画化された人間のような、異様に長い腕と脚の、数十フィートはあろうかと言う現実離れした大きさの……でも、確かにそこに在る、悪意の塊。ガチャリ、ギリギリ、そんな鈍い音。何かが組み換えられているような音を響かせる、目映いまでの白い(ハイロゥ)を備えた────殺意の実存。

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)の維持を開始。しかし、我が領域に時計はない──

 

 

「これが僕に与えられた異能(アート)……」

『──イ ノ チ  ク ワ セ ロ──』

 

 

──さあ、願いを果たす時だ。我が救済を受け入れたものよ──

 

 

「これが僕の異能(アート)! イサアーク・オジモフは────《構築》する!」

『────サ イ ゴ ノ  ヒ ト リ!』

 

 

──踊れ、踊れ、その魂が朽ち果てるまで死の舞踊(ベレツカ)を。我が救済を受け入れた玩具(もの)よ──

 

 

 知らず、体が震える。寒さ、ではない。それもあるけれど、そんなものは些細な話。

 

 

──肺を腐らせるかのように爛れた、凍てついた空気。肌を切り裂くかのように収斂した、渦を巻く雪雲の中から、燃え上がる二つの視線(さつい)

──私に、私だけに向けて。なに、あれは? あれは、なに────!

 

 

「……現象数式にて編まれた、現象数式体(クラッキング・ビーイング)。この世ならざる命か。だが、命であるのなら、俺の牙は防げない」

 

 

 それでも、目の前の男性は揺るぎもせず。狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)、暴風にはためかせながら。

 

 

「────“喩え身は 蝦夷(エゾ)の島根に朽ちるとも (タマ)は東の 君や護らん”」

 

 

 紡がれる言の葉を聞く。強い決意を滲ませる、その詩編。白く、降り積もるものを思う。赤く染め上げるものを思う。

 だけど、それ以上に────仰ぎ見るように青く、心奪われるくらいに青いものを、垣間見た。

 

 

「────新撰組局中法度。一、士道ニ背キ間敷事」

 

 

 彼の、姿────

 

 

「貴様は自らの定めを放り投げて、安易に悪徳に縋った」

 

 

 袖口を白く、山型に染め抜いた────

 

 

「潔く、腹ァ斬れ」

 

 

 極東の文字、象形文字。『誠』の一文字を赤く染め抜いた、前世紀に失われた青空(グルヴォイ・ニエーバ)の色を思わせる、浅葱色の羽織姿に変わっていて────



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心 ―сердце―

 

 

 薄暗い機関灯の灯る室内。視覚化される程に濃密な、鋼の如き圧迫感。そこは、このモスクワで最も重厚な威圧感に満ちた一室だ。そこは、このソヴィエトで最も鋼鉄の冷たさに満ちた一室だ。

 そのただ中で、男女が二人。革張の椅子に腰掛けて最新式の機関パイプから紫煙を燻らせながら、窓の外の漆黒のモスクワを眺めていた男と、その隣で直立不動の姿勢のまま、静かに目を閉じていた金髪の女が二人。

 

 

 見下ろす広場、赤く輝く、五つの塔の頂の星。その煌めきが揺らめいた刹那に。

 

 

「────コーバ。我が親友」

 

 

 女が口を開く。金髪に碧眼の、赤い軍装に身を包む美しい女が静かに、低く、鉄の強度を持って。

 もしこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも失神は免れ得ぬほどの威圧と共に。

 

 

「なんだい、モロトシヴィリ。モロトシュティン?」

 

 

 それほどの声を受けても尚、男は揺るがない。色素の薄い灰色の髪に猫めいた黄金の右瞳と、青い左瞳の怜悧な美貌の。同じく、真紅の軍装に身を包む男が。胸元に、()()()()()()を備えた軍装の男が。

 鉄の声を上回るほどの、鋼鉄の強度を持って。男は、小揺るぎもしないまま。もしもこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも落命してしまいそうな威圧と共に。

 

 

現象数式領域(クラッキング・フィールド)の構築を確認した。彼の願いは果たされる」

「だろうね。だが、それもここまでだ。あそこには────()()には、《白騎士》と《黒騎士》が居る」

 

 

 左手のカップから、輪切りにされたレモンの浮いた紅茶を啜る。愉しげに、実に愉快そうに。

 

 

「ドーブリョ・ウートラ。愚昧にして哀れなる《黒い道化師(ラスプーチン)》。《魔女(クローネ)ババ・ヤガー》に仕える、三体の騎士の内の二体。貴様の粗雑な繰り人形如きで、どうにかできると思っているのか」

 

 

 自らの視界の端で嘲り踊る、黒い道化師すらも。子供の悪戯でも見るかのように、嘲笑いながら。

 

 

「……では、()()()傍観に徹するのだな?」

()()()だ、モロトシヴィリ。モロトシュティン。私が出ずとも、あの程度の完成度しかない現象数式体(クラッキング・ビーイング)くらいは、自力でどうにかしてもらわねば」

「了解した、コーバ。我が親友」

 

 

 全てを話終えたとばかりに、女は口をつぐむ。同じく、男も。後には、音もなく降り続ける黒い雪と、時折、排煙を噴くパイプの音だけが残って。

 もう、そこには、踊る道化師の姿はなくて。

 

 

────ああ、本当に。本当に貴様はやりづらい────

 

 

────()()()()()()()()()よ────

 

 

────冷酷無慙なる、《赤騎士》よ────

 

 

 最後に、ポツリと。溜め息のような、そんな声が────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

『僕の夢────』

 

 

 思い出したのは、昨日の彼の姿。アルバート駅(アルバーツカヤ)の地下鉄職員用喫茶店での、あの会話の後。

 ぽつり、と。余程、時間が経ってから。オジモフ君は、口を開いた。懐かしむように、苦しむように。

 

 

『前にも言ったかな。僕は、『機関(エンジン)で完全な人間を作る』のが、夢なんだ』

 

 

──知ってる。だって、聞いたもの、わたし。モスクワ大碩学院に入学して、最初の日に。

──ガガーリン君の『現代機関技術研究倶楽部』の立ち上げの日に、皆で、夢を語ったから。

 

 

『幼い頃にサーカスで見た、軽業師の機関人間(エンジンヒューマン)……今にして思えば、本当にそうだったかは怪しいんだが。兎に角、それを見て。僕は、激しく失望した。酷くカクカクした動きに、非人間を隠そうともしない、無機質な表情。兎に角、失望したんだ』

 

 

 暖房機関の効いた室内で、氷の浮いたコークをストローで飲みながら。あの泡立つ、喉を刺すような刺激のある飲み物、慣れた風に。

 新しく紅茶を頼み直して、苺のジャムをたっぷりと含んで。口直しにしているわたしとは、全然違っていて。

 

 

『だから、僕が。本物の、機関による人間を造る。そう、子供心に思ったんだ』

 

 

 照れ隠しのように、俯きがちに笑って。飲み終えたコークのグラスをテーブルに置いたオジモフ君。その視線は、隣のワシリーサさんに。

 

 

『でも、駄目だった。結局、僕に出来たのは……あの時、失望したモノより……本の少しだけ、動きが滑らかなだけの失敗作だけだった。他人すら騙せないくらいに、歪な人形だ』

 

 

──心の底から、失望したように。ワシリーサさんに、ではなくて。

──自分の、無力さに。心底、失望したように。

 

 

 笑って────

 

 

『あぶない、アンナ。アナスタシア』

 

 

──だから。うそ、うそ。嘘よ、こんなの。

 

 

『このひとたちは、きみを、きずつける』

 

 

──だって、どうして。オジモフ君が。

 

 

 分からない。ううん、分かりたくない。目の前で起こっている、非現実的な現実。昨日まで、当たり前のように会話していた友達が、どうして。どうして。

 目を背けたくなるくらいに酷い、酷すぎる、世界────

 

 

 

 

Q、世界とは?

 

 

 

 

「────ははははは! さぁ、最後の仕上げだ、ワシリーサ!」

 

 

 信じたくない程に凶悪な笑顔で哄笑したオジモフ君の、黄金色に輝く右瞳が私を見据える。その奥に、昏く澱んだ黒い()()

 そう、あれは疲れ。あれは絶望、あれは諦め。モスクワに生きる人々が、誰しもが、大なり小なり持ち合わせるもの。

 

 

「消してしまえ────消し去ってしまえ! 僕を認めないものを、全て!」

 

 

──この、過酷な北辺の国で生きる皆が。『社会主義』の名の下に、生きる意味、生きる価値、死ぬまで。人生全ての意味を定められた、ソヴィエトに生まれて、死ぬ、全ての人々が持つもの。

──あれに、負けてしまったの? オジモフ君、あなたは。モスクワ大碩学院始まって以来の秀才のあなたが、『機関(エンジン)で完全な人間を作る』と、素晴らしい夢を語ってくれた、あなたが?

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

『はい、いいえ。あるじ、我があるじ。機関出力安定、砲撃形態に移行します』

 

 

 だから、呆然と。オジモフ君を見詰める私は、白い怪物の言葉を聞き流して。向けられた、燃え上がる真紅の眼差し。その炸裂する真紅に、《背後の白い彼》の警告の声すら聞こえず、身構えることもしなくて。

 軋む音がする、白く輝くもの。全身を覆う重装甲が輝きを放つ、多砲塔の戦車のようなものを思う。去年のフィンランドとの、《冬戦争》の戦勝パレードで見たようなものを思う。或いは、正教会の宗教画(イコン)に描かれたものを思う。白い翼と、白い環を備えた神聖なものを思う。思う、けど────

 

 

──違う、違うわ。だって、あんなものが。祖国の栄光の姿を、模してなんてない。

──違う、違うわ。あんなにも醜いものが、天の遣いなんかのわけ、ない!

 

 

『形態・《T―35》────主砲、放ちます』

「何処を見ている────貴様の相手は俺だ」

 

 

 放たれた衝撃。その一撃を、ハヤトさんが日本刀一本で切り落とす。二つに裂かれた砲弾は、地面に着弾すると共に衝撃を二方向に撒き散らして砕く。

 遠く、彼方に見える七つの超高層建築(セブン・シスターズ)にさえ、届きそうなくらい。

 

 

『ふむ────仔兎(ザイシャ)、下がっていた方がいい。お前の背後の()()が居れば、傷付くことはあるまいが…………些か、邪魔だ』

 

 

 舞い上がる粉塵と黒い雪、でも、ハヤトさんが。機関精霊のヌギルトゥルさんが、そして《背後の白い彼》が、私を守ってくれて。傷も、痛む場所も、どこもない。

 

 

「天然理心流免許、内藤隼人義豊────参る」

 

 

 そして、目に映る。腰を落とし、突き出すように肩まで刀の柄を引き付けて、刃を内側に倒した構え。獰猛な狼が獲物に狙いを定めて、今にも飛び掛かろうとしているかのような、その構え。

 その次の一瞬で、もう白い怪物の目の前に飛び込んでいて。突き出した刀────

 

 

「無駄だ────幾ら機関刀(エンジンブレード)とはいえ、人間に、戦車(メルカバ)が! 神の遣いが斬れるものか!」

「確かにな……無駄に装甲が厚いのは()()譲りか」

 

 

 でも、傷ひとつなく。白い怪物は蠢いている。無限軌道を軋ませながら、地面を砕きながら。

 刃を弾かれて、ハヤトさん、面倒げに舌打ちしながら。オジモフ君の、《構築》の異能が一点に集約させた極厚の装甲、幻想的な模様の走る装甲を睨みながら。

 

 

『敵、至近距離。副砲、放ちます』

 

 

 でも、息つく暇もない。怪物の両手、その先端から、機関銃の速度で撒き散らされる弾幕。雨霰、まさにそれのように。

 速すぎる。何より、多すぎる。人間には躱せない。全身を機関化した重機関人間の兵士か、優れた身体能力を持つ猫虎(プセール)の兵士でなければ。

 

 

「成る程、確かに。人はお前には何も出来まい」

 

 

 例え、躱せたとしても。現象数式で編まれた装甲は現実の兵器では傷ひとつ付けられず、幻想の兵器を用いたところでその厚みを突破するのは不可能に近い。

 更に、例え、断ち切れたとしても、打ち砕けたとしても。《構築》の異能(アート)が破壊を阻み、次から次に遅い来る弾幕が確実にその命を撃ち砕くだろう。

 

 

「だが────俺は人じゃない」

「何────! クソッ、よくも!」

 

 

 その全てを、右目に展開した現象数式の瞳で見透かして。切り落とされていた怪物の両腕、地面に落ちて。

 

 

「ああ、忌ま忌ましい! 現象数式(クラッキング・エフェクト)使いの極東の猿(イポーネツ)め! 僕を認めない雑多め! 何より、この失敗作め! 僕の手を煩わせるな、僕の足を引っ張るな、木偶人形! お前、なんか────!」

 

 

 狂乱したオジモフ君は、《構築》の異能でその腕を繋げ直して。聞くに耐えないくらいの暴言を、わたしたちに。

 

 

「お 前 な ん か !  造 る ん じ ゃ な か っ た !!  ワ シ リ ー サ !!!」

 

 

 そして、()()()()()()()()()()()()にも、そんな暴言を吐いて。

 

 

『命令、受諾。機関出力最大────』

 

 

────ぽろぽろ。ぽろぽろ。水の音。何処かで。

 

 

 零れ落ちる音が聞こえる。何処かで、この、氷点下のモスクワで。

 

 

重圧縮蒸気砲(ヘスティア)────発射用意』

 

 

 白い怪物の、全身からの猛烈な駆動音を越えて。自壊しそうなくらいに蒸気を圧縮し始めた、怪物の燃え上がる深紅の眼差しよりも強く。確かに、聞こえた。

 

 

──どうして? どうして、オジモフ君?

──だって、貴方が、造りたかったのは。

 

 

「餓鬼の癇癪なんざ、聞くに堪えん。仕舞いとしよう」

『うむ、どうやら、()()()のようであるしな。ああ────あの装甲の模様。切子硝子のような、間違いない。憐れだな、《ディグラ》…………ラスプーチンの夢に呑み込まれた我が同胞よ。今、楽にしてやる』

 

 

 わたしの目の前に立っていた無傷のハヤトさんとヌギルトゥルさんは、呆れたように、憐れむように呟いて。構え直した刀に、静かに息吹を掛ける。

 

 

「《大いなる渦(ルー・クトゥ)》の言葉を借りて。来たれ、我が影、我がかたち」

 

 

──刹那、確かに見えた。蠢くように歪なもの。虚空に刻まれる、大きな、大きな────忌まわしい、渦を。

──膨れ上がり、揺らめく、不気味な渦を。

 

 

「氷すら揮発する灼熱の辺獄────」

 

 

──半透明に透き通ったアネモネ(アニモン)の花のような。

──或いは、この世ならざるもののような。または、捻れた音のような。

 

 

「炎すら揮発する焦熱の煉獄──」

 

 

──もし、背後に《白い彼》が居なければ。それだけで、精神が凍りついていただろう。

──きっと、あれは見てはいけないもの。見えては、いけないもの。

 

 

「そして、滅びをもたらす無限熱量の渦。我が声に応えて出でよ、我がかたち」

 

 

──そして、そこに潜むもの。あらゆるものを嘲笑する、二対四つの黄金の瞳を見て。『人間め、愚かな猿め。もっと惨めに、神の掌で踊って見せろ』と嘲笑う意思そのもの。

──()()()()()()()()()()。見たことなんてないけど、()()()()()()()()()()()()()()。わたしは、涙、流しながら見て────

 

 

「苛烈なる炎の神。《旧きもの》、ルートラ・ディオール!」

 

 

 閃光の速度で渦が歪む。

 瞬きの速度で炎が湧く。

 炎の怪物が、装甲の白を睨むのだ。

 

 

「汝の(かいな)は我が腕。汝の罪、あらゆる全ては我が罪。さあ、ルートラ・ディオール。お前の敵は、忌まわしく白き結晶の戦車(メルカバ)

 

 

 その機関刀(エンジンブレード)を炎が伝う。意思のある炎、のたうつ蛇のように。鋼を、炎の速度で、炎の熱が覆う。

 無限の熱量を纏って、辺りの黒い雪すらも揮発させながら。ハヤトさんは────

 

 

「……言っておくが、俺は。《雷電王(ペルクナス)》や《黄衣の王(ストリボーグ)》のようには甘くないぞ────仔兎(ザイシャ)

「っ────」

 

 

──わたしに、言葉を投げ掛ける。振り向くこともなく、ただ、それだけを。囁くように穏やかな声色で、でも、宣言するように冷酷な声色で。

──それだけで、分かる。ハヤトさんは、オジモフ君を()()()()()()()()()こと。このまま────あの白い怪物ごと、()()()()()()()()ことが。

 

 

『じゃあ、どうするの?』

 

 

────では、どうするんだい?

 

 

「────わたし、は」

 

 

 震える。怖い。あんな怪物の前に出るなんて。

 

 

『きみは、なにがしたい?』

 

 

────目を覆う?

 

 

「オジモフ君、を────」

 

 

 でも、それでも。

 

 

『ぼくは、きみをみているよ』

 

 

────瞼を閉じる?

 

 

『ぼくには、からだがないから』

 

 

────それとも

 

 

 わたしは────

 

 

「────助けるわ、絶対に。オジモフ君を」

 

 

『アンナ。アナスタシア。ぼくは、きみをみている』

 

 

 背後に立ち上がるもの。影、《背後の白い彼》。その存在をしっかりと感じながら。

 

 

 

 

──少女の瞳──

 

 

 

 

──わたしは、瞳を逸らさない!

 

 

 

 

──血の海原に揺蕩う、望月の黄金に煌めいて──

 

 

 

 

 視界の端で踊る、黒い道化師(クルーン)の言葉なんて聞こえない。聞こえていても、意味なんてない。わたしは、絶対に、瞳を逸らさない。

 

 

 だって。

 

 

──オジモフ君に、伝えないといけないことがあるもの!

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた皇帝(ツァーリ)の城だ。誰もが知りながら、誰もが知り得ない。漆黒と排煙に閉ざされた、この世の地獄だ。

 そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、八大地獄(カルタグラ)だ。そこは死して尚、魂を苛む八寒地獄(コキュートス)だ。

 

 

 ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。

 

 

「喝采せよ、喝采せよ! おお、素晴らしきかな!」

 

 

 声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。

 

 

「我が《最愛の子》が第三の階段を上った! 物語の第三幕だ! 現在時刻を記録せよ、ラスプーチン! 貴様の望んだその時だ────《鋼鉄の男》よ、震えるがいい!」

 

 

 その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の皇帝(ツァーリ)が一人。盲目に、白痴に狂ったままに。従う事の無い従者に向けて叫ぶのだ。

 

 

「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。時計など、持ち合わせてはいませんがね」

 

 

 答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

 

「くっ──はは。夢、夢だと? ああ、偽りの《黄金瞳》と、最初で最後の《奇械》を無駄にして────悪い子だ、アナスタシア」

 

 

 堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。

 

 

「ええ、ええ。本当に」

「そうね、そうね。本当に」

「全くだわ、全くだわ。本当に」

「「「本当に本当に悪い子ね、アナスタシア」」」

 

 

 傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共にロシア舞踊(ベレツカ)を躍り、嘲りながら。

 まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる道化師(クルーン)が。

 

 

「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛の形あり!」

 

 

──それが、物語の第三幕。お伽話か活動写真(フィクション)のような、男女の出逢い。

──路地の侍士(ストリート・ナイト)と、白い皇女殿下(ベールィ・インピェーラリスサ)の。

 

 

皇 帝 陛 下 万 歳(ウラー・インピェーリヤ)──────────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 

 その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けて────

 

 

「────すべて。そう、すべて」

 

 

 その、軋むような音をたてる両腕────

 

 

「全ては、ただ。《愛しく遠き理想郷(アイラ)》の為に」

 

 

 深紅の右腕と蒼白の左腕、揺らめかせながら────

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 震える足と、心臓を奮い立たせて。きっ、と。精一杯の意思を込めて、前を見て。一歩、前に出る。ハヤトさんの影から、前に。わたしの足で、わたしの意思で。涙、拭いながら。濡れた袖の()()、無視して。

 背後から、視線を感じる。ハヤトさんと、ヌギルトゥルさんの視線。受けて────

 

 

『よい覚悟だ。援護する』

「機会は一度限り。あのデカブツを、俺が斬った瞬間のみ。他では、間に合わない」

 

 

 ハヤトさんの言葉の意味、よく分かっている。あの怪物を産み出したのは、オジモフ君の心。あれが存在する限り、あれを壊さない限り、オジモフ君は囚われたまま。

 

 

────その通り。あのままにしていても、どうにかしようとしても、彼は死ぬ────

 

 

 そして、あれを壊せば、オジモフ君の心もまた、壊れてしまう。つまり、助けることができるのは、その一瞬のみ。

 

 

────命、ではなくて。心が、記憶が。(スターリ)になるのさ────

 

 

 嘲笑う道化師が煩わしい。今、忙しいの。何処かに、消えろと言葉を────

 

 

「────仔兎(ザイシャ)

「ひゃ────!?」

 

 

──吐こうとした瞬間、背中側から抱き寄せるように。それに、顎、持ち上げられて。強制的に、上を向かされた。そこには、黒髪の男性の顔。極東の彼の、その狼のような赫い瞳が、覆い被さるように見下ろしていて。

──後少しで、キス、が、できそうなくらい。それくらい、近くて。わたし、きっと真っ赤だと思う。

 

 

「道化師など放っておけ。今は、目の前に集中しろ」

「あ──は、はい」

 

 

──紫煙の残り香を漂わせながら。不思議、彼の持つ刀の炎の熱さ、感じられなくて。

──そう、一回きりの機会。失敗なんてできないんだから、あんな道化師のことなんて、気に留めてやらない。

 

 

 その事に気づいた瞬間────道化師は、肩を竦めながら。黒い雪に、景色に、融けるように消えて。

 

 

『だいじょうぶ────ぼくが、てつだうから』

 

 

 代わりに、《背後の白い彼》。その強い存在感を、確かに感じて。

 

 

「────“差し向かう 心は清き 水鏡”」

 

 

 また、極東の言葉で。多分、詩編を詠んで。

 

 

 金属の擦れ合う音、甲高く。わたしとハヤトさんの回り、飛び交う漆黒の刃金(ハガネ)。それが、ヌギルトゥルさん────二輪蒸気機関車『サモセク』の装甲であると悟ったときには、もう。

 

 

《────行くぞ》

 

 

 背後のハヤトさんの姿、全身を鎧に包まれた────カダス北央帝国のヒュブリス帝が作り上げたと言われる《駆動鎧(アーマード・トルーパー)》を思わせる、黒い騎士の姿に変わっていて。

 

 

「────はい!」

 

 

 答えた瞬間────怪物の重厚なものを引き裂くように響いた、つんざくように警戒な蒸気機関の稼働音。ハヤトさんの背中の、二輪蒸気機関車の機関が、激しく排煙を噴いて。

 

 

『敵性の攻撃の準備を観測。迎撃します』

 

 

 それに気付いた怪物が、両腕の機関銃を放つ。鉄の雨、鉄の風。わたしたちを飲み込もうと吹き荒れて。

 

 

《飛ぶ》

「はい────えっ?」

 

 

 聞こえた、不思議な台詞。今、え? 確かに、『飛ぶ』って────

 

 

「ひゃ────あぁぁぁ?!!」

 

 

──背中から、押されるように! わたし、大きな刃金の翼を広げたハヤトさんの左腕、黒い鋼鉄に包まれた左腕に抱かれるように!

──高く、高く! 黒い雪雲に届きそうなくらい、空高く!

 

 

 飛んで────!

 

 

「雲の中にでも隠れる気か! 無駄だよ、極東の猿(イポーネツ)! 重圧縮蒸気砲(ヘスティア)からは、そんなことじゃ逃げられない! そして、その虚仮威(こけおど)しの鎧も! ただの鉄塊も! すべて、すべて! あらゆるものは意味を持たない!」

 

 

 真下から、睨み付ける視線の圧力が増す。あらゆる無機物の構成を組み換える《構築》の異能(アート)を宿す黄金の瞳と、あらゆる全ての存在を自壊させる、燃え上がる深紅の眼差しが。

 わたしたちを打ち砕こうと、その眼差しを、真上に向けて────

 

 

《……恐いか?》

 

 

 風を切る音、その狭間に届いた、囁き声。耳にではなく、頭の中に響く、現象数式の声。ハヤトさんの声。

 

 

「いいえ。わたしにはまだ、やらなきゃいけない事がありますから」

《そうか……ならば、佳し。しっかり掴まっていろ────()()()

 

 

 微かに、笑ったような。そんな印象を受ける。でも、ハヤトさんの顔は、刃金の装甲に包まれていて見えない。

 

 

『蒸気充填率、100%────重圧縮蒸気砲(ヘスティア)、放ちます』

 

 

 代わりに、猛烈な勢いで。白い怪物が、大気を歪ませるほどの、超高圧縮蒸気の塊を放って────────!

 

 

《天然理心流────》

 

 

 でも、ハヤトさん、天の頂でくるりと頭を下に向けて。真下に向けて、更に、勢いよく。

 

 

 まるで、雹のように、最高速度で────!

 

 

《────電光剣(デンコウケン)!》

 

 

 圧縮蒸気の塊に、全てを灰燼に帰す劫火を纏った刀を真っ直ぐ、振り下ろす────!

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が眩むような閃光。意識を飛ばしそうな衝撃。普通なら、今頃、わたしの体なんて雪のように消えていると思う。

 

 

「馬鹿な……!」

 

 

 でも、生きている。わたしには、まだ────

 

 

「そんな、馬鹿な! なぜ生きている、重圧縮蒸気砲(ヘスティア)を食らって! なぜ!?」

 

 

──やらなきゃいけない事が、あるから!

 

 

「なぜだ、ザイツェヴァ!?」

 

 

 あと、五歩の距離で。異能で造り上げたんだろう圧縮蒸気銃をわたしに突き付けて、叫ぶオジモフ君。

 背後では、ハヤトさんに眉間から刀を突き立てられて。完全に動きを止めている白い怪物が、力なく項垂れている。

 

 

「なぜ、僕の邪魔をする────お前は、どうして!」

 

 

 後、四歩の距離で。引き絞られる銃の引鉄。放たれる圧縮蒸気。でも、でも。

 

 

遅いわ(ニズカャ)────」

「なんだよ、それ────なんなんだよ、お前は! その目と言い、その化物と言い!」

 

 

 後、三歩の距離で。《背後の白い彼》が、わたしを護ってくれる。白銀の左腕で、それを打ち払って。

 

 

「僕 か ら 、 夢 を 奪 う な !」

「────喚かないで(チーハ)!」

 

 

 後、二歩の距離で。叫びは響く。でも、それはただの人の声だ。構わず伸ばしたわたしの左腕、それに沿うように、白銀の左腕、重なって。

 

 

「わたしは決して破壊しない。わたしは決して奪わないわ。あなたに、夢を、取り戻してほしいだけ」

「僕の、夢、だと?」

「思い出させてあげる。わたしは、ううん、()()()()()は、()()()()()()()()()()()()()だから」

 

 

 わたしたちになら、できる。わたしたちの、この、《善なる左手》ならば。

 

 

「何を言っている! 僕の夢は、夢は!」

 

 

──思い出して、オジモフ君。あなたの夢を。

──あなたの夢は。()()()()()()()()()()()()()じゃないでしょう?

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

 後、一歩の距離で。わたしは、背後に囁く。

 

 

「背後のあなた。わたしの《奇械》イクトゥス────わたしは、あなたに、こう言うわ」

 

 

 心臓に圧縮蒸気銃を突き付けられた、後、零歩の距離で。決意と共に、白銀に煌めく左腕、彼に────

 

 

 

 

 

 

「────“薄氷の如く、溶かせ”」

 

 

 

 

 

 

 触れて────────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「あ、あ────」

 

 

 そして、思い出す。僕は、イサアーク・オジモフは。ザイツェヴァと、その背後に顕現した《白い影》の手が触れた瞬間、再生されたその過去を。まるで、活動写真のように。

 幼い頃、サーカスで見た機関人間。その、出来の悪さを。まだ、機関人間と機械人形の区別すらつかなかった、あの日。生まれた、夢を。増殖し続ける、その現在を。

 

 

「そうか、僕は────」

 

 

 そう、思い出した。僕の夢。僕の願いを。

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

 ぼくの、ゆめは────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「ああ────そう、だったな……」

 

 

 カラン、と。地面に落ちて、蒸気銃が砕け散る。ぽろぽろ。ぽろぽろ。目の前で零れ落ちた、オジモフ君の涙、右目からの涙と共に。

 

 

「ぼくの、ゆめは────」

 

 

 消えた黄金の輝きと共に、流れた黒い煤と共に、失われた《構築》の異能と共に。

 

 

『ある、じ────私の、ある、じ』

 

 

 崩れかけた、怪物が────いいえ。ワシリーサさんが、その右手を、彼に。オジモフ君に、伸ばして。

 

 

『なか、ないで。私は、失敗作、だったけれど』

 

 

 壊れた、体を。引き摺って。超高圧縮蒸気の塊を切り裂いたときにはもう、勢いを失っていて。躱そうと思えば、躱せたはずのハヤトさんの刀を。

 それでも躱せはしないだろうオジモフ君を庇って受けた、彼女が。

 

 

『あるじ……を、まもれ、て。あるじの、教えを……』

 

 

 右手を、重ねて。笑顔のままで。全身から、排煙を、煤を、溢しながら。

 笑顔のままで、ぽろぽろ。ぽろぽろ。零れ落ちるのは────

 

 

「ああ、ああ────お前は、僕の、三原則を、護ってくれた」

 

 

 雫、涙で────

 

 それは────

 

 

「僕の夢は────叶えられていたんだ……ワシリーサ。僕の、最高傑作の、きみに」

 

 

 燃え尽きた彼女と共に、風に吹かれる雪のように。

 

 

「きみの…………()()()に…………」

 

 

 モスクワの街並みに、消えていった────……………………



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夢 ―мечтать―

 

 

 それは、黒い雪の詩編。それは、黒い雪の物語。

 

 

 そこは鋼鉄の都市でした。大きな壁に囲まれた都市に、少女は居ました。大きな、大きな壁です。縁すら見えないくらいに、大きな壁に。鉄のカーテンに囲まれた都市です。大きな壁に囲まれているくせに、でんと構えた、大きなお城です。

 少女には、大好きな男の子が居ました。とても賢い男の子です。少女には、理解出来ないくらいに、頭の良い男の子です。いつも小難しいことを言っていて、だけど、大好きな男の子が。

 

 

 男の子は三つ、少女に教えてくれました。『人を傷つけてはいけない』、『人に言われたことは、人を傷つけない限り、守らなくてはいけない』、『それに背かない限り、自分を守らなくてはいけない』と。その、三つを。

 

 

 少女は、それを守りました。守って、壊れました。だって、少女は、ロボットだったから。

 守りました。守って、そして壊れました。ボロボロに、粉々に。塵屑になっても。壊れて、崩れて、もう動くこともできません。

 

 

 壊れて、崩れて、少女は嘆きます。だけど、誰も助けてくれはしません。だって、少女は、ロボットだったから。

 でも、少女は道化師と約束しました。だから、皇女さまがやって来ます。

 

 

 ほら、第三の皇女さまが来ました、黒い雪の合間にふわふわ浮いて。白い光、ゆらゆら。白い皇女さま、ゆらゆら。嘲り、笑いながら、ゆらゆら。

 皇女は少女に言いました、『時間だよ。イア・イア。思い出す時間だよ、イア・イア』。すると、少女はぽろぽろ、ぽろぽろ。壊れて、崩れて。

 

 

 少女は嘆きます。壊れるのは別にいい。ただ、あの子に伝えたかったと。言葉にしたいことがあったと、嘆きます。

 でも、皇女さまはなにもしてくれません。誰も助けてくれはしません。この鋼鉄の都市では、自分の事は、自分でしなくてはいけないから。

 

 

 

 

 

 

 

Q、世界とは?

 

 

 

 

 

 

 

 どうしますか? 誰も助けてくれはしません。少女は嘆くばかり。どうすれば良いですか?

 

 

 

 

 でも────

 

 

 

 

 もしも────

 

 

 

 

 あなたが────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 安息日明けの一週間初日、わたしとミラは揃って碩学院の門をくぐる。一週間の始まりの日、一日の始まりの朝。校門には、ブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)が立っていて。穏やかな視線で、登校する学生を見ていて。

 

 

「「おはようございます(ドーブリョ・ウートラ)夫人(ミシス)」」

おはようございます(ドーブリョ・ウートラ)Ms(ガスパジャー).ザイツェヴァ、Ms.パヴリチェンコ」

 

 

 揃って挨拶をすれば、穏やかに挨拶を返してくれる。穏やかに、淑女とは斯くあるべきというかのように。

 羨ましくなるくらい、たおやかに。微笑んで。

 

 

「ザイツェヴァ」

「え────?」

 

 

 一瞬、我を失って。すぐに取り戻して。背後の、彼を見る。見慣れた姿、きっちりと制服を着こなした模範生の彼。碩学院始まって以来の優等生の彼。

 

 

「やあ、ザイツェヴァ」

「お、おはよう、オジモフ君」

 

 

 イサアーク・オジモフ君を、見詰めて。見詰めて、時が止まったように。端から見たら、誤解されるんじゃないかってくらいに。事実、辺りの女生徒からヒソヒソと話されるくらい、じっと、見詰め合って────

 

 

「君に、言っておこうと思う。僕の、新しい夢を」

「新しい夢、を────?」

 

 

 はにかむように、そんな風に。彼は、穏やかに。昨日の事なんて、覚えていない……ううん、乗り越えたように。

 

 

「合衆国の、イェール大学(ユニバーシティ)…………そこに、行こうと思う。ソヴィエト初の、留学生として。そこで────」

 

 

 羨ましくなるくらい、満ち足りた顔で────

 

 

「僕は、夢を、追おうと思う────」

 

 

 眩しくなるような未来を、眩しくなるような笑顔で、口にして。

 だから、わたし────つい。

 

 

「うん────それ、とても、素敵」

「そう、かい? 君にそう言って貰えると、勇気が出るよ」

 

 

 そう、つい────鞄から、愛用の。サンクトペテルヴルクから流れてきたらしい。

 

 

「ええ。とても素敵だわ、オジモフ君」

 

 

 篆刻写真機を、取り出していて────

 

 

 

 

 

 シャッターを、切って────

 

 

 

 

 笑顔を────

 

 

 

 



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第三章 カラマーゾフの兄弟
兄弟 ―брат―


 

 

───黒い。黒い。ああ、ここはなんて黒いのだ。

 

 

 コツコツと、石畳に革靴の音を刻みながら。ふと思う。生まれ故郷であるサンクトペテルヴルクでも、雪は暗い灰色を帯びていたが。このモスクワの雪は、更に黒く淀んでいる。

 全ての元凶は、遠く排煙の柱を立ち上らせるチェルノブイリ皇帝機関(ツァーリ・ドヴィーガチリ)群。かつては、サンクトペテルヴルク近郊で実験稼働していた際は、複合機関群(スロージニエ・ドヴィーガチリ)とも呼ばれていたが。

 

 

──ああ、思い出すな。あの日々を。忌まわしい、おぞましき日々を。

 

 

 薄暗く淀む大気に白い息を吐きながら、私は歩く。このソヴィエトでは、働かない者、学ばない者に生存の権利はないのだから。

 

 

──だから、ああ。

 

 

 昔を懐かしんだところで。私は、私には、もう。

 

 

──視界の端に。

 

 

 戻るべき場所も。迎えてくれる『兄弟』も。

 

 

──躍る、道化師が見える。

 

 

 ありはしないのだから────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「ザイツェヴァくん。すこし、時間はあるかね?」

「え? あ────」

 

 

 碩学院の講義を終えて。帰り支度をしている最中の事。いつものように、リュダが、『ミュールとメリリズ、寄ってく?』と聞いてくる前に。

 ホームルーム、終えた後。学年担任の先生から、声、掛けられて。

 

 

「は、はい、先生。なんでしょうか」

 

 

──学年担任の、イワン先生。大人っぽい人。いえ、実際大人なんだから、こんな評価は失礼だけれど。担当は近代文学、穏やかな物腰と、聞き惚れるくらい素敵なバリトンの声の。

──よく、学年の女の子の話題に上る人。恋人はいるのか、とか。だ…………抱かれるなら、この人が良いとか。よく。ミラとか、他の女の子も。

 

 

「ああ、うん。先程の授業なんだが……ドストエフスキー氏の『罪と罰』。これは、理解できる内容だったかな?」

「は、はい。現実と理想の解離、犯した罪、それに対する罰と向き合う苦悩と孤独を描いた、名作だと思います」

 

 

 わたし、もし、スターリン同志に答えていたなら、すぐにシベリア送りになるような、吃語で。答えれば、先生は少し、驚いた顔をして。

 

 

「そうか。私には、理想論者が現実に敗北する物語だったが。そう言う解釈もあるんだね」

 

 

 そう、口にされて。碩学院で最も、現在のソヴィエトを席巻する『無神論』を識っていると言われている、イワン先生は。

 

 

「と。いけないな、実は、授業の話がしたかったわけではないんだ。確か、君は、篆刻写真機を持っていると聞いたのでね」

「はい、持っています。あの、それが……」

「ああ、うん。咎めているわけではなくてね」

 

 

 いきなりの事に、怒られるのかと思ったけれど。先生、穏やかに微笑んで。安心させるように。

 

 

「実はね。故郷のサンクトペテルヴルクから、兄夫婦と弟がモスクワに旅行に来るんだ。だから、君に、記念写真を撮ってほしいとお願いしようと思って」

「き、記念写真……ですか?」

 

 

 そして、やっぱりいきなりの事に、わたし、驚いて。あたふた、意味もなく、掛けた鞄の紐、弄って。

 でも、先生。柔和な笑顔のまま。

 

 

「ああ。是非、お願いしたい。育ちのせいで、そういう機会に恵まれなかったが────」

 

 

 ()()()()()()、柔和な笑顔のままで────

 

 

()()()()()()()()、兄弟だからね────」

 

 

 微笑んでいて────

 

 

「は、はい。こちらこそ、是非」

「ありがとう。兄弟が来るのは、来週の安息日なんだ。突然で申し訳ないが、宜しく頼むよ」

「はい────」

 

 

 その笑顔のまま、立ち去っていく。最後に、わたしの肩を軽く叩いて。学年担任の、近代文学専攻の、イワン・フョードロヴィチ────

 

 

「────カラマーゾフ先生」

 

 

 彼は、去っていった────

 



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赫い旗/紅鉄の男 ―Красный флаг/магнето―

 

 

 安息日。モスクワの一週間で、最も憂鬱な日。空から降る《黒い雪(チェルノボグ)》に覆い隠された朝の町並みは、まるで深夜のよう。薄く灯る機関灯の明かりすら、飲み込まれそうで。

 今も、今も。《不幸の黒き悪神(チェルノボグ)》は、降り続ける。空を見上げる眼差しを潰そうと、前に進む足下を掬おうと。僅かな希望を抱くことすら許さないとばかりに、『幸福の白き善神(ベロボーグ)よ、消えてしまえ』と言わんばかりに。

 

 

 そんな中を、走り抜けて。双輪の蒸気自動車(ガーニー)が、『赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)』の近くに停まる。二人乗りのバイクが、聖ワシリィ大聖堂の前で。

 向こうには、偉大なるソヴィエト建国の父、同志ウラディーミル・イリイチ・レーニン閣下の亡骸が安置されるレーニン廟が見える。

 

 

──噂では、中に安置されている亡骸は偽物だとも言われているけれど。エンバーミング処理を施されているのではなく、一から造り出したものだとも。

──噂では、同志レーニンの亡骸は、十年ほど前のサンクトペテルヴルクの爆発事故で喪われたとも言われているけれど。

 

 

「あの……いつも、ありがとうございます、ハヤトさん」

「気にする必要はないと言っている。ある意味、仕事のようなものだ」

 

 

──もう、最近は口癖になりそうなくらいに言っている台詞と、聞き慣れた返しの台詞。ある意味、予定調和のような。

──そんな事が、少しだけ。少しだけ嬉しいような。うん、なんだろう、変なの。変な関係だわ、うん。

 

 

 腰かけていた後部座席から降りて、頭を下げて。それから、体に纏わり付く《黒い雪》を払う。放っておくと、溶けて、煤が衣服に染み着くから。

 お父さん(パーパ)お母さん(マーマ)が、モスクワ大碩学院の合格祝いに買ってくれた大事な外套(パリトー)だもの。綺麗な、白色の。一世紀近く前に失われた、《白い雪》の色の。

 

 

「……服にばかり気を取られているようだが、髪にも随分と付いているぞ」

「あ────」

 

 

 髪。密かに自慢の、わたしの、銀髪。帽子からはみ出している房、それをハヤトさんの掌が(くしけず)る。自分の事なんて、二の次に。

 止めようもない速さで。だけど、驚くくらいに優しく《黒い雪》を払ってくれて。そもそも、止めたところで聞いてはくれないんだろうけど。うん、それくらいは判るだけの関係だと思う。

 

 

「大事にしろ、折角の美しい髪なんだ。そう、故郷で見ていた頃の、雪のような。無垢な、処女雪のような────」

「う────」

 

 

──でも! だからって! 慣れるかどうかは別問題だと思うんですけど! 心臓、ばくばく! 爆発しそうなんですけど!

──屋外で! 臆面もなく! 女の子の髪を梳きながら、真摯に見詰めて! 睦言のような台詞を恥ずかしげもなく、さらりと口にされて! 平静で居られるわけ、ないじゃないですか!

 

 

 だから、アンナは気付かない。先程、自分が考えた事実と、ハヤトの口にした記憶の齟齬に。

 気付かずに────

 

 

「おや────間の悪いところに来てしまったかな?」

「あっ────」

 

 

 背後から掛かった、重厚な声。鋼の強度の、鉄じみた、機関が軋むように重い声。

 慌てて、振り向く。そこには、予想通り────

 

 

おはよう(ドーブリョ・ウートラ)修道女(シストラ)アンナ。ハヤト君」

「……イオセブ・ジュガシヴィリ」

 

 

 真紅のスーツ、一目で最高級の物と判るそれを難なく着こなし、最新式の機関パイプを左手に携えた男性。色素の薄い灰色の髪に猫めいた黄金の右瞳と、青い左瞳の怜悧な美貌の。髭を蓄えていてもなお、精悍な印象の男性。

 わたしを庇うように前に出たハヤトさんの向こうに、見えて。

 

 

「……無礼であろう、同志ナイトウ。如何に同志ジュガシヴィリの懇意であるとはいえ、御名を呼び捨てるなどと────」

 

 

 傍らに雪避けの傘を指しかける、中背だけど肥満体の金髪の男性。欧州風の外套(パリトー)と山高帽子を被った、目付きの鋭い男性を連れたジュガシヴィリさんが。

 

 

「ベリヤと同じことを抜かすのだな、ニキータ・セルゲイエヴィチ・フルシチョフ。程度が知れるぞ」

「貴様────!」

 

 

 ベリヤ────確か、以前ジュガシヴィリさんが連れていた、嫌な雰囲気の男性。昆虫のようなラヴレンチー・パヴローヴィチ・ベリヤ。

 その人と同じ、と言われて。目に見えて怒気を孕んだ声で、ニキータ・セルゲイエヴィチ・フルシチョフと呼ばれた男性は青筋を額全体に浮かべて、下顎から長い犬歯を剥きながらハヤトさんを睨んで────

 

 

「選りにも選って、あの虫けらと俺を並べやがって────」

「色狂いの毒虫と痴愚の白猪豚だ、お似合いだぞ、お前らは」

「痩せ狼が────()()()()()()()

 

 

──丸太のように太い腕の先で握り締められた、鋭利な刃を備えた重厚なクローム鋼製の拳が二つ、軋む音を立てて。更に、破裂するような音。背中側の肩口から伸びる排気筒から、彼、機関排煙を吹いていて。

──ハヤトさんも、既に、排煙を吹いている機関刀に手を掛けていて。一触即発の空気、張り詰めていて。

 

 

「────構わんさ、フルシチョフ。彼は、私の数少ない友だ。友ならば呼び捨てにしあう、当たり前のことではないかな?」

「はっ────差し出がましい真似をいたしました、同志ジュガシヴィリ」

 

 

 ジュガシヴィリさんの言葉に、すぐさま、それを掻き消して。落ち着いた態度で拳を収めて、その後方に下がって。

 

 

「さて、では、あまり外で騒ぐのもよくない。大聖堂に入らせてもらうとしよう。良いかい、修道女(シストラ)アンナ?」

「あ、は、はい────」

 

 

 促されるままに頷けば、満足した風に。ジュガシヴィリさんは、先に大聖堂の門をくぐって。

 後に残されたわたし達、暫し立ち尽くして。

 

 

「……命拾いしたな、同志ナイトウ」

「本当にな。お前は運が良いぞ、フルシチョフ。()()()()()()()()()()、果ては第一書記長か大統領か、楽しみだな。行くぞ、仔兎(ザイシャ)

 

 

 懐取り出した紙巻き煙草にマッチで火を点けながら、苛立たしげに口を開いたフルシチョフさん。その声に促されて、と言うわけではないのでしょうけど。ハヤトさんも、面倒そうに。いつの間にか咥えていた、煙管を吹かしながら。

 

 

「……滑稽にして哀れな話だ。真実も知らず、騎士気取りの男に庇われるなど」

「え────?」

 

 

──なに? 何が、言いたいの? あのベリヤと言う男性とは違って、そこまで嫌な気配はしない人。怖さは、同じくらいだけど。

──ニキータ・フルシチョフさん。あなたは、何を言いたいの?

 

 

 すれ違う一瞬。フルシチョフさん────確かに、わたしを見下ろして。哀れみと蔑みの、怒りと悲しみの入り交じった、複雑な表情で。

 

 

「……さっさと行け。()()()()()()()()()()()、死にたいのか」

 

 

 だけど、すぐにそれを吹き消して。帽子を目深に被り直して、長い下顎の犬歯を見せながら紫煙を吐き出して。広い背中を、こちらに向けてしまった。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

────例題です。これは、例題です。過去にあった事かどうかなんて些細なことです。だから、例題です。

 

 

 一人の青年が居ました。努力家な男です。小さい頃から生まれの悲劇に負けず、努力し続けている青年です。

 父親は、最低の人間でした。彼には二人、兄弟が。兄と弟が居ました。ですが、兄とは、畑が違います。

 

 

 何故、そこまで頑張れるのか? それはある日、若かりし彼の育ちの家の事。

 彼が目を奪われていたのは、夫婦。睦まじい、人間の男女。己を愛して、慈しんでくれる、変えがたい存在です。それに、彼は────言いようもない疑問を覚えました。

 

 

『ねえ、おじさん、おばさん。ぼく、しりたいんだ』

『おじさんとおばさんは、おじさんとおばさんでしょう? だから、だからね』

 

 

 それが、最初の動機でした。それから彼は、没頭します。ただ、一つの目的に向けて。終生の命題として。

 

 

『ぼくの、ほんとうの、かぞくは?』

 

 

 それは、神に挑む行為です。男女を悲しませる、悲しい愛の問です。それを彼は何度も何度も、幾度も幾度も、問いかけました。

 それでも、彼は神童です。無数の失敗は、それでも実を結び、やがて一つの集大成へと。

 

 

『君を、愛している』

 

 

────はい、私は、愛しています。

 

 

 そして、彼は、一人の女性を愛しました。

 

 

『君を、愛している』

 

 

────はい、私は、愛しています。

 

 

 愛した女は、焦がれたように口にします。美しい彼女、儚い彼女。愛の何たるかすら、知らぬような彼女は。目の前で愛を語る男に?

 

 

『君を、愛しているんだ』

 

 

────はい、()()、愛しています。

 

 

 いいえ、他の誰か────此処には居ない、誰かに────

 

 

『君を、愛しているんだ』

 

 

────はい、()()、愛しています。

 

 

 焦がれたように────

 

 

『君を、愛しているんだ、僕は。だから、君も────』

 

 

────いいえ。私が、愛しているのは。

 

 

 でも、それも仕方ありません。だって、彼が欲しかったものはこんなものではなかったのですから。

 

 

────()()()()()()()()()()()()────

 

 

 それは────もっと、崇高なもののはずだったのに。こんな、味気ないものになるはずではなかったのに。

 

 

 青年は一体、どうするべきですか?

 父親を殺す?

 兄を投獄する?

 それとも────神の不在を証明する?

 

 

────例題です。これは、例題です。過去にあった事かどうかなんて些細なことです。だから、例題です。

────例題です。これは、例題です。ただし、《世界の敵》なんて助けに来てくれない、黒い雪に包まれた地獄の釜の底の、光も届かない奈落の例題(蜘蛛の糸)です。

 

 

────ええ、例題ですとも。つまり、既に結末の決まった、例題なのですよ。

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 静謐の空間。壁面を埋め尽くす、聖人達のイコンに見守られた、聖ワシリィ大聖堂の中で。

 

 

「────おい、仔兎(ザイシャ)

「────さて、修道女(シストラ)

 

 

 揺蕩う、紫煙が二つ────

 

 

「えっ、あ、はっ、はい────」

 

 

 わたし自身、どちらに答えたのかわからないけれど。それぞれ、年代物の煙管と最新式の機関パイプを燻らせる、ハヤトさんとジュガシヴィリさんの二人に、全く同時に声を掛けられて。

 修道帽子(クロブーク)の布を持ち上げながら、どちらにともなく聞き返して。

 

 

「あまり学友を待たせるのは良くない。早く帰って、安心させてやれ」

「この間、去り際に約束しただろう? 手土産をね、持ってきたんだ」

「は────はい」

 

 

 結局、どちらも譲らずに言葉を出し切って。でも、お互いに我関せずで。

 

 

──どうしよう。これ、どっちに答えるべきなの?

 

 

 どちらに答えても、角が立ちそう。リュダに問い詰められる事を心配して、早く帰れと促してくれているハヤトさん。わたしに、口約束程度なのに、ちゃんとお土産を持ってきてくれたジュガシヴィリさん。

 そのどちらに答えればいいのか、分からなくて。目、ぐるぐる回りそうになって。

 

 

「あ────ありがとうございます、ジュガシヴィリさん」

「いや、大した事ではないさ」

 

 

 迷ったけれど────わたしなんかの為に、お土産を持ってきてくれたジュガシヴィリさんの方に、頭を下げて。

 ちら、と盗み見たハヤトさんの顔。苦虫を噛み潰したように不快そう。うう、どうしたらいいって…………

 

 

「喜んでもらえれば良いのだがね」

 

 

 そんなわたしに、また。また、用意していたような笑顔で、機械仕掛けのように正確に微笑んで。

 ジュガシヴィリさんが取り出したのは────

 

 

「────檸檬(リモーン)……」

 

 

 一つの、檸檬(リモーン)────

 

 

「ああ。私の屋敷の温室で育てているんだ。中々良い出来だったのでね、君に味わって貰おうと思ったんだ」

「お、温室で……ですか」

 

 

 お金持ち(オルガリヒ)だ、とは思っていたけれど。まさか、庭に温室だなんて。そんなの、わたしが何千年働けば手に入るんだろう。

 でも、確かに瑞々しくて。ミュールとメリリズでも手に入りそうにないくらい、新鮮で。

 

 

 機関文明の発達以来、失われた太陽の日差し。それを浴びて育つと言う、この果物。本当に、本当に稀少な、現物なんて始めて見た、檸檬(リモーン)

 

 

「頂きます、ありがとうございます、ジュガシヴィリさん」

「いや。お口に合えば良いが」

 

 

 断りを入れて、はしたないとは思うけれど。ジュガシヴィリさんは、今、感想を求めているんだと分かったから────早速、皮を剥いて。

 ぷしゅ、と音がしたと指先から感じるくらい、取れ立ての檸檬(リモーン)。その透き通るような果肉に、かじりついて。

 

 

「っ~~~~~!」

 

 

 酸っぱい。まず感じたのは、酸っぱさ。舌を突き破って鼻に抜けるような、爽やかな酸味。舌の両脇から唾液、両の目尻から涙が溢れるくらいに分泌されて、思わず唇を尖らせてしまう。

 気を悪くしたかしら、なんて心配して。きつく閉じていた瞼、開ければ────

 

 

「ふ────くく。どうだい、お口に合ったかな?」

「あっ────う」

 

 

 笑顔の、ジュガシヴィリさんが目に入って。うん、さっきまでの、()()()()()()()()()()()じゃない────

 

 

「お、美味しいです。少し、酸っぱかったですけど……」

「はは、それは重畳。酸っぱくない檸檬(リモーン)など檸檬(リモーン)ではないからね」

 

 

 ()()()()()()、悪戯っ子のような。ウラディーミルのように屈託なく笑う彼が、そこに居て。

 

 

「休日はこれの木の世話をした後、紅茶でも嗜みながら読書を出来ればね。後は、合衆国から輸入した映画(キーノ)でも見つつ、訳者の突拍子もない翻訳で笑えれば最高の休日だ」

「合衆国の、映画(キーノ)……」

 

 

 鷹揚に笑っているけれど、思い知る。本当に、何から何までわたしとは生活の水準が違う。合衆国の映画(キーノ)だなんて、そんなもの。

 そもそも、見ただけで。わたしなら、反体制分子として処刑されちゃうから。

 

 

──そんな心配もなく合衆国から輸入した映画(キーノ)を楽しめるなんて。しかも、訳者付きで。

──ジュガシヴィリさんは、同志スターリン閣下が。反革命委員会(ヴェチェーカー)が、怖くないのかしら?

 

 

「興味があるかい? 良ければ、どうかな? 今度の安息日にでも、私の休日に華を添えて欲しいのだが?」

「えっ?! あ────」

 

 

 そして、少年のような笑顔を吹き消して。ジュガシヴィリさんは、いつものように機関パイプを吹かして。

 いつの間にか、見慣れたものになってきた、機械仕掛けのような。用意していたような笑顔で、正確に微笑んでいて。

 

 

「ど う か な ?  修 道 女(シ ス ト ラ) ア ン ナ」

「あ────の」

 

 

 反抗を許さない、決定済みの事項を伝えるように。鋼鉄の圧力を持った声で、語りかけるのだ────

 

 

「わ、わたし、は────」

 

 

──そうだ、思い出した。この人は。

 

 

「君 は ?」

 

 

──恐い人。恐ろしい人、だったんだ。

 

 

「────悪いな、先約済みだ。その日もこの子は、俺とこの、聖ワシリィ大聖堂だ」

 

 

 そんな、鋼鉄の圧力を遮るように。ハヤトさんが、わたしとジュガシヴィリさんの間に立って。嘘じゃないけど、本当の事とも言えない。玉虫色の答え、口にしながら。

 鋼鉄の圧力をも、一太刀で斬り捨てるように。ハッキリと、しっかりと。

 

 

 まるで、冷徹に獲物へ銃口を向ける狩人と。それに向けて唸る狼のように、雄壮に。

 

 

「お二方────此処は神の家ですよ。痴話喧嘩や鞘当てなら、どうぞ路上で」

 

 

 そんな空気を切り裂いて。いつから居たのか、ブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)の冷厳な声が大聖堂の中に響いた。

 

 

「ふむ────残念だが、今回は夫人の顔を立てて引くとしよう。だが、近い内にまた誘わせてもらうよ? 来月、外国の要人を招いた晩餐会があるのでね」

「う、あ、あの────」

「悪いが、そんな時は永劫来ない。安息日は、毎日、予約済みだ」

 

 

 それに、先に折れたのはジュガシヴィリさんの方で。色違いの瞳から圧力を吹き消して、パイプを仕舞いながら、ゆっくりと立ち上がる。

 

 

「ああ、ご心配には及ばないよ。()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 最後に、にこりと。用意していたような笑顔で、正確に微笑んで。そんな、物騒な事を言って。

 

 

「……全てが貴様の思い通りに運ぶと思うなよ、イオセブ・べサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ。少なくとも俺の目の黒い内には、この子に手は出させん────《紅鉄の男(マグニートー)》よ」

 

 

 答えて、ぎろりと。ハヤトさん、衝動に任せた睨みを効かせて、獰猛に睨み付けて。そんな、物騒な事を言って。

 

 

「肝に命じておくよ、《日本狼(ウルヴァリン)》。ではまた、修道女(シストラ)アンナ、ブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)

 

 

 そうして、振り向くこともなく。最高級と分かるスーツを着こなした彼は、門扉の向こう側に消えて。後に残ったのは、静寂と。

 

 

「……全く。あなた方は本当に。ここをどこだと思っているんですか」

 

 

 呆れ返ったような、申し訳なくなる、夫人(ミシス)の溜め息だけで────



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回路 ―схема―

 

 

 遠い、遠い。果てしなく遠い。暗く、長い長い隧道(トンネル)、或いは天蓋付きのアーケード。その彼方に揺れるもの。いつからだろうか、多分、ずっと。目指して歩いている、あの『光』は。

 届かないものを思う。見た事はないけど、水鏡に煌めく満月であるとか、蒼穹に輝く太陽であるとか。

 

 

 そして、ふと、足元に目を向けた。

 

 

 隧道の天井から漏れる、僅かばかりの『光』を湛えた石畳に。そこに芽を出した、ほんの些細な命を。雑草と、一括りにされるもの達だ。だが、確かに命の輝きだ。

 一休みしよう、この命を眺めて。背後から吹く風に揺れる、小さな彼等を眺めて。

 

 

 辺りに佇む、セピア色の、皆と共に。

 

 

『──オブジェクト記録を参照:ロシア革命とは』

 

 

 その時、声が。声、声? いいや、違う。心を震わせる『思い』が、流れ込んできた。

 

 

『二十世紀の始まりと共に、ロシア帝国に吹き荒れた革命の機運。《真紅の男》ウラディーミル・イリイチ・レーニンの成し遂げた世界初の、共産主義革命である。十一月革命と二月革命の二回に渡り、遂には皇帝ニコライ二世を退位に追い込み、ロマノフ王朝に最期をもたらした。

 そして、囚われた皇帝ニコライ二世と皇后アレクサンドラ、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアの四人の皇女達は────亡国の王族として、例外には扱われることなく。イパチェフの館にて、従者達と共に凄惨な最期を遂げる事となった』

 

 

 見上げても、暗く霞んだ天井から吊り下げられた、仮面が口走る言葉。その全てを囁いて、色を失った仮面は霧のように消える。

 

 

『────チェルノブイリ皇帝機関(ツァーリ・ドヴィーガチリ)とは』

 

 

 次に、吊り下げられた左腕。鋼鉄の、機関義肢(エンジン・アーム)

 

 

『機関の恵みから見放された土地と揶揄されるロシアで、その恵みを逃さず得るために編み出された機関。幾つもの機関を連結、統合し、極冷のロシアの気候でも安定した蒸気の発生を望む事ができる。現在はサンクトペテルブルク、モスクワ等の大都市に位置し、全部で四基が稼働している。

 ……噂では。あくまで、噂では。それは実は、世界を対象にした隠蔽工作を行う装置だとも。或いは、モスクワの一基は事故に因り機能は失われており、その内部は灼熱と極寒が入り乱れた地獄となっているとも。その内部は、既に此の世ならざる者達の巣窟になっているとも。あくまで、噂では。誰が囁いたのかも分からない、噂では』

 

 

 そして、消えていく。やはり、霧か霞のように。

 

 

「私の、記憶────」

 

 

 色を得て、語り出したのは少女。白く、輝くような銀色の髪の。携帯型篆刻写真機を抱く、白い兎のような。

 

 

「わたしの最初の記憶は、ウラル山脈の麓。エリノの町。その近くの、雪深い森の中。降り積もる灰色の世界で、一人、うずくまるっているところ。どうして、そんな記憶なのかしら? どうして、父さんや母さん、兄さんがいるのに、どうして────」

 

 

 煌めくように、そう口にして。色を失って、代わりに。

 

 

 

 

 Q、夢とは?

 

 

 

 

「私の、夢か────」

 

 

 色を得て、語り出したのは男。ブロンドの、緑色の瞳の青年だ。携えた小説のページを捲る、学者のような。

 

 

「愛を知りたい。愛を、知りたい。本当の愛を知りたい。実の親から、実の兄弟から。愛した、女性から────」

 

 

 陰るように、そう口にして。色を失った彼の代わりに。再び色を得て、少女が口を開く。

 

 

「わたしは────アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァ。アナスタシアじゃない。そう、よね……」

 

 

 彼の陰りに釣られたように、俯いて。全てを語り終えて色を失い、霧か霞か、或いは雪のように消えていくのだ。

 

 

 

 

 Q、叶えるべき願いは?

 

 

 

 

「愛を、知りたいんだ────」

 

 

 彼も、また。全てを語り終えて、得たはずの色を失って。霧か霞か、或いは雪か────若しくは紫煙のように、消えてしまった。

 

 

 後に残されたのは、ただ、この日溜まりだけ。ああ、もう十分に休んだ。さあ、歩き出そう。最後に、僅かな名残を残して。

 風に揺れる草を、華を。有りもしない瞳に焼き付けて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 灰色の雪の降る、モスクワの市街。底冷えのする冷気を伴いながら、しんしんと。歩く人々は、一様に手袋に包まれた手で襟と襟巻を引き寄せて。白い息を吐いて、家路を急ぎながら。

 そんな人々を横目に、わたしとリュダは、連れ立って。同じように手袋に包まれた手で、襟と襟巻を引き寄せながら。

 

 

「さて、と────じゃあ、アーニャ?」

「ええ────じゃあ、リュダ?」

 

 

 そして、ある建物の中に入ったわたし達は、一緒に。クスクス笑いながら。

 

 

「「────ようこそ、ミュールとメリリズへ!」」

 

 

 なんて、おどけながら。モスクワ最大のマーケットに。二階建てのアーケード、天蓋に覆われた総合商店に足を踏み入れた。

 

 

──ミュールとメリリズ、モスクワで一番楽しい場所! ミュールとメリリズ、何でも揃う総合商店! ミュールとメリリズ、最高の場所!

 

 

 もう、自分でも分かるくらいはしゃいじゃう。だって、ミュールとメリリズだもの! ああもう、楽しい!

 

 

「はしゃいでるわねー、アーニャのミュールとメリリズ好きも堂に入ってるわ」

「な、なによ。良いじゃない、好きなんだから」

「悪いとは言ってないけど。年齢考えなさいよね、あと性別も。カメラ屋の前で騒いでる女の子なんて、アーニャくらいのものよ?」

 

 

──言われて、うぐ、と、ぐうの音もでなくて。まあ、それは。ミュールとメリリズで騒いでるのなんて子供くらいだけど。更にカメラ屋の前で騒いでるのなんて、男の子くらいだけど。

──普通の女の子は、服屋でおしとやかに見繕うんだろうけど。でも、仕方ないじゃない。カメラ、好きなんだから。

 

 

 そんな風に心の中で不満を呟きながら、愛用のカメラを手に取る。最初期のライカカメラ、随分と手を加えられた、前の持ち主の人に大事にされていた事がよく分かる、古めかしいけどしっかりしたカメラを。

 

 

──そういえば。カラマーゾフ先生から頼まれていた写真撮影。明日、なのよね……

──うう、思い出したら、なんだかお腹が痛いったら……

 

 

 カメラ屋さんでフィルムを買って、ついでに新しいレンズとカメラを見て。うん、買うお金はないから、あくまで見るだけで。

 少し、緊張でお腹が痛くなるけど。カラマーゾフ先生のご兄弟の写真なんだし。うん、少しでも良いものにしなくちゃ。

 

 

 そんなことを思いながら、表で待っていたリュダと一緒に歩き出す。と、ふと、古本屋に目が留まって。

 

 

「なぁに? カメラの次は古本? あのねぇ、アーニャ。どうしてあなたはそう、おじさん臭いところに興味があるかなぁ……」

「うっ、い、いいでしょ、別に」

「悪いとは言ってないけど。私はこの先の服屋に行ってるから」

 

 

 分かりやすいくらいに『飽きた』と言った風のリュダは、とっとと先の服屋に向かって行って。

 わたしは、その姿を見送った後で。羊皮紙とインクの臭いが染み付いた店内に足を踏み入れた。

 

 

「…………」

 

 

 静かな、静かな店内。少し先では、アーケードの下、機関排煙に汚染された雪に脅かされる事のない空間ではしゃぐ子供達の姿もあるというのに。

 まるで、俗世から隔絶されたかのような、静謐の空間が。広がっていて────

 

 

「…………」

 

 

 室内には、ただ、一つの音しかしない。そう、ただ、一つの────

 

 

「────ようこそ」

「────────」

 

 

 瞬間、息が止まりそうなくらいに驚かされて。髪の毛二房、跳ね上がったんじゃないかしらってくらい。

 慌てて振り返った目に映ったのは、女性。良かった、優しそうな眼差しの。ブロンドで、艶やかな肢体の。

 

 

「珍しいわね、貴女のようなお若い方が。こんな古ぼけた店に」

「あ、いえ、あの、その」

「ふふ、ご免なさい。驚かせてしまったかしら。見たところ、モスクワ大碩学院の生徒さんかな?」

 

 

 優しげに笑う淑女に、先ずは非礼をお詫びして。

 

 

「はい、モスクワ大碩学院の二等生です」

「やっぱり。ああ、懐かしいわ。私もあそこの卒業生なのよ」

「そうなんですか、あの、専攻は」

「数学よ。この世のすべては数字で表せる、そう信じてたわ」

 

 

 世間って狭い。こんなところで先輩にお会いできるなんて。それにしても────

 

 

「どうして数字者がこんなところに。そう思ってる顔ね?」

「あう、あの」

「いいのよ、責めてる訳じゃないから。ところで、何か探しにここに?」

 

 

 言われて、なんとも言えない。うん、だって、何となく寄ってみただけだから。ただ、何となく、本当に。

 

 

「……そう、喚ばれた、のかしらね」

 

 

 そんなわたしの顔色から、察したんだろう。女性は思案顔になって、隣の本棚から、無造作に一冊。

 

 

「これ、あげるわ」

「え────?」

 

 

 黒い背表紙。ううん、背表紙だけじゃない。表紙も裏表紙も、全て真っ黒な本をわたしに差し出して。

 

 

「貴女のための本よ。題名は、《アルソフォカスの書》」

「《アルソフォカスの書》……?」

 

 

 気のせいか、おぞましさすら感じられる程の、その書物。一様に真っ黒で、試しに開いた一ページは────

 

 

「────あれ?」

 

 

──真っ白。何一つ、書かれてなくて。本当に、他のページにも、何一つ。

──落丁、じゃないと思うけど。うん、驚くくらい、何も書かれてなくて。

 

 

「そう、それは貴女が紡ぐ物語。その記録者だから。今は、真っ白。いいえ、少しは書かれているかもしれないけど」

「あ、の────」

「大丈夫よ。それは、他の誰にも知られない。貴女を見下ろす赤い騎士からも、貴女と共にある白い騎士からも、貴女を見上げる黒い騎士からも。誰からも知られない、銀雪の詩編だから────」

 

 

『あぶない、アンナ。アナスタシア』

 

 

 熱に浮かされるように、熱い眼差しでわたしを見やる女性。その姿に、恐怖とは違う、だけど、恐ろしさがわたしを包む。

 何、この人は。誰、この人は。どうして、わたしの前に────

 

 

『そのひとは、きみを、まどわせる』

 

 

 背後の《彼》が、そう、怯えながら口に。いいえ、音じゃなくて、意思を伝えてきて。

 その時、ようやく気付く。わたしの周り、本棚。どこまでも続くような、書架、書架、書架。見果てぬくらいに、広がっていて。

 

 

「私は、ソフィア。ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤ。専攻は数学、《現象数式》────そして、《回路》よ。覚えておいてね」

 

 

 足場を失うような、或いは意識を失うような、浮遊感と共に────

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()────いいわね? 新たなる、《魔女(クローネ)バーバ・ヤガー》。《白い第四皇女(アナスタシア)》様?」

 

 

 天地を失う喪失感と共に、わたしは────

 

 

「────アーニャ、お待たせ」

「え────?」

 

 

 ミュールとメリリズの、アーケードの真ん中のベンチに腰掛けている姿で、紙袋を抱えたリュダから声を掛けられて。

 

 

──夢? わたしは、今まで、何を……

 

 

 そう、混乱しそうになって。でも、左手。そこに携えていたもの、その存在に気付いて。

 

 

「何、新しい本? 真っ黒だけど……何それ?」

 

 

 そこにある、漆黒の書物。その存在に────

 

 

「……なんだっけ、これ」

 

 

 思い出すものは、何もなくて────



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信仰 ―вера―

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む、機関の揺籃だ。数多の文学書籍と、数多の書類が所狭しと並ぶ、蠱毒の坩堝を思わせる場所だ。

 しかし、深遠ではない。薄い機関灯の明かりに照らされる、教師の書斎だ。安息日の、明けない夜の底に沈んだ、モスクワの片隅だ。

 

 

「私は────────」

 

 

 その中心で、その部屋の主は机に突っ伏している。背後で佇む『もの』には、一切の悪意を向けずに。ただ、己の未熟を恥じて。

 

 

「────どうすれば」

 

 

 苦悩し、懊悩し続ける。意味がないことなど、知っていてもなお。どうすることも出来ずに、ただ、煩悶する。どうすることも出来ずに、ただ、自問して反問するのだ。

 

 

『────可哀想。あなた、そんなに悩んで』

「黙れ────」

 

 

 だから、それは来る。薄暗がりから這い出るように、扉からではなく。次元の角度から這い出るように、扉からではなく。空間すらねじ曲げて?

 いいや、初めから部屋の中に。雪が、黒い雪が、降る場所にならどこにでも。

 

 

『可哀想な無神論者。才能に恵まれて、必死に勉強して、ここまで来たのに。それなのに、人とは違う目で見られたくらいで、見破られて────可哀想、可哀想』

「黙れ────黙れ!」

 

 

 人間め、蠱毒の生贄よと嘲笑いながら。

 人間め、悪質な機械だと嘲笑いながら。

 白いドレスを纏い、ロシア舞踊(ベレツカ)を躍りながら。

 

 

 それは、確かに女ではあったが。それは、彼の望むような女ではなかった。それは、ひどく鉄の匂いのする、金色の髪の────

 

 

『認められないなら、消してしまえば良いのよ。貴方を認めないものを、ほうら、こんな風に』

「止めろ────」

 

 

 目映いまでの光が、悪辣なまでの白い闇が、部屋を包む。残酷なまでの白色が一片の闇すら駆逐して。逃げ場なんて、どこにも。

 

 

『必要でしょう、神の幕引きが? あなた達人間じゃあ、解決なんてできないんだから────』

 

 

 そう、最初は────

 

 

『さあ、笑いなさいな、チク・タク、チク・タク!

 夢を、世界を捨てて、チク・タク、チク・タク!

 イア、イア、呼ぶの!』

 

 

 ひどく折れ曲がった()()()()()()()()()()()()()()()のような、歪に捻れた白い仮面(ペルソナ)だけが、そこに浮かんで。耐えきれない現実と共に、耐えきれない過去と共に、魂の懊悩を際立たせながら。

 

 

「嫌だ────止めて…………くれ…………」

 

 

 無惨なまでに、悲惨なまでに暴きたてるのだ。

 

 

『あはははははははは………………!』

 

 

 そして、この西亨で。幾ばくかの若さと神秘が喪われた────────……………………。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「…………」

 

 

 起き上がり、欠伸混じりに思う。嗚呼、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そして、欠伸混じりに思うのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()と。

 

 

 誰かの声に導かれるように、あらゆる、当たり前を無視して。傍らの暖房機関(ジャラードヴィーガチリ)に火を入れて、その上に水の入った薬缶を置いて。

 コーヒーを飲むための湯が沸くまでの間に、窓の外。今も尚降り続く《黒い雪(チェルノボグ)》に覆い尽くされた、深夜と見紛うモスクワの街並みを、霞がかった眼差しで見詰めながら。

 

 

────それでも、足りない。ああ、足りないよ。足りはしないのだよ

 

 

 それでも、誰かに。

 

 

────足りないよ、私の、僕の、俺の

 

 

 躍る────

 

 

────我が、理想郷(アイラ)よ。

 

 

 視界の端の道化師に、見守るかのように踊られ、嘲り嗤われながら────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そして。

 

 

「あの、良ければ────」

 

 

 わたしは、全霊で、そんな事を、宣って。

 

 

「朝ごはん、食べていかれませんか────」

 

 

 そう。本当に。そんな事を。

 

 

 口にしていて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「────あり得ない。あり得ないから、アーニャ」

「ちょ────リュダ!」

 

 

 ボルシチを掬いながらの、リュダのそんな、不機嫌さを隠そうともしない呟き声は、静かな食卓に消えていく。

 それに慌てて、リュダを嗜めて。ちら、と。対面の座席を見る。

 

 

「あ、あの…………」

「……………………」

 

 

 むっつりと黙り込んだ、仏頂面を崩さない────

 

 

「ご、ごめんなさい……」

「……別に。気になどしていない」

 

 

 ハヤトさんを、ちらりと、見て────

 

 

──ソヴィエト機関連邦首都、モスクワ。午前七時。わたしとリュダが共同名義で借りる、モスクワ地下鉄(メトロ)電気工場駅(エレクトロザヴォーツカヤ)に程近いアパルトメントの一室で。

──いつも通り零下に凍える安息日、《黒い雪(チェルノボグ)》の降るこの日も、いつものようにわたしを送りに来てくださった、ハヤトさんを朝餉に誘った、初めての日。わたしが作ったボルシチを口に運んでいる、極東のおサムライ様を見て。

 

 

「えーえー、アーニャはいいでしょうよ。なにせ、騎士様との会餐であらせられますものねー」

「なっ、にゃ、にゃに言ってるのよ、リュダ!」

 

 

──なのに。もう、リュダったら。あんなにふてくされて。いくら、赤軍が嫌いだからって。

 

 

「ハッハッハ、しかしまあ、自ら食事に誘うとは……我が妹ながら、最近の女性のエイダ主義への傾倒はソヴィエト男子としては忸怩たる思いと言うか」

「もう、兄さんまで……!」

 

 

 そして、リュダの対面の座席の兄さん────ヴァシリ兄さんを、軽く睨んで。

 

 

「……ところで、兄さん。いつからいたの?」

 

 

 本当に気付かなかった。うん、ハヤトさんにばかり注意を取られていたから。うん、居たなんて、全然。

 

 

「最初から居たんですけど……これですよ。あーあ、昔は何かあれば兄さん兄さんと風呂の中でもくっついてきたと言うのに……時の流れは残酷ですねえ」

「いつの話ですか、いつの!」

 

 

 肩を竦めて、昔、一度だけ見た合衆国の映画(キーノ)みたく大仰に溜め息を吐いて。いきなり、そんな昔の話を持ち出してきた兄さんに、慌てて口を挟んで。そんなわたしを楽しむように、兄さんは口の端を歪めている。

 

 

「そうですよねえ、昔は何かあればリュダリュダってシャワーの最中でもくっついてきたって言うのに」

「いつの話っていうか、ありもしない記憶を捏造しないで!」

 

 

 そして、乗っかって。リュダが、身に覚えのないことを。ない、ないから! そんなこと、一度も!

 そして、示し会わせたようにクスクス笑って。もう、二人して! 頭に来るったら────!

 

 

「…………フ」

「え?」

「えっ?」

「うえ!?」

 

 

 仏頂面を、一瞬、崩して。ハヤトさんが微笑んだ。確かに、一瞬だけだけど、それを三人で見て。

 

 

「へー……笑うんですねえ、あの人も」

「まあ……そりゃ隊長も人の子だしさ」

 

 

──まず、とても失礼なことを言うリュダと兄さん。この二人、本当は仲が良いんじゃないなの、と疑いたくなるくらい。あわわ、どうしてそんな失礼なことを当たり前みたいに言えるの!

──な、なんとか、おとしどころを考えないと!

 

 

「あ、あの、本当に昔のことですし、なかったことですし! 本当に本当ですよ!」

「別に、有ろうが無かろうが。楽しそうなことに代わりはないだろう────少し、思い出したものがあっただけだ」

 

 

 わたしの拙い弁明なんて、初めから聞いていないみたいに。ハヤトさんは、また仏頂面に戻って。

 

 

「…………懐かしい、か。ああ、どうして思い出す。あの屯所の日々を、八木邸の日々を。勇さん、山南さん、新八、一、源さん、平助、佐之────総司」

 

 

──昔日の残照の、暖かさに目を細めるかのように。古傷に触れた、痛みを堪えるように目を細めて。

──なぜ、貴方はそんな目をするの? どうして、そんな、優しい眼差しをするの?

 

 

 不可思議な胸の痛みに、わたしは、胸を押さえる。わたしの知らない過去、そんなものがあるのは当たり前なのに。

 

 

──わたしは。

──どうして。

──こんなに。

 

 

「……さて。食事は終わりだ。さぁ、今日も行くのだろう、仔兎(ザイシャ)

「あっ────」

 

 

 その間に、食事を終えていたハヤトさんは、さっさと立ち上がって皿を流しに。そんな後姿を眺めて、わたしは。

 

 

「……はい」

 

 

 胸の痛みを、振り払うように。同じように、立ち上がって────…………

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そして、ハヤトさんの二輪蒸気自動車────《ふるきもの》ヌギルトゥルさんに、横乗りして。辿り着いた、聖ワシリィ大聖堂。

 いつもより少し、早いくらい。そびえ立つ玉葱頭の、可愛らしい、ロシア正教の総本山であった寺院に辿り着いた。

 

 

「…………あれ?」

 

 

 今日は、()()()に。その門の前に立つ人の、後に佇む人影の後に。

 偉大なるヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン同志の標榜する《無神論(アテイズン)》に支配されたこのソヴィエトでは、来ること自体が自殺行為にも等しいこの場所に。

 

 

「────あ、申し訳ありませんが。もしや、修道女様でしょうか?」

「え、あ────あの」

「実は昨日、サンクトペテルブルクからモスクワに来たばかりで……なので、居ても立っても居られずに、ここに来てしまいまして」

 

 

──初めは、女の子かと思った。それくらい、たおやかで、羨ましくなるくらい。細く、整った外見をしていた。

──だけど、すぐに分かる。その身に纏う衣服は、男性の……修道士の纏う教会服(カソック)だったから。

 

 

「始めまして、聖ワシリィ大聖堂の修道女(シストラ)さま。僕は────」

 

──ぺこりと、心に温かいものが溢れそうな笑顔を浮かべて頭を下げた彼。

──何より、その顔。その、顔容(かんばせ)には。

 

 

「僕は、アリョーシャ。アレクセイ・フョードロヴィチ────」

 

 

──知っている人の、面影が。

 

 

「カラマーゾフと、申します」

 

 

──あって────…………



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交錯 ―скрещивание―

 

 

 コツリ、コツリ。コツリ、コツリ。革靴の音、木霊する。広く、果てしない反響は何処までも。暗闇の中、誰かの足音がする。単調に、真っ直ぐ、長い間、ずっと。

 その足音が、止む。間を置かず、今度は、がちゃりと錠の外れる音。続き、酷く重厚な門扉が軋みながら開く音が、来客を歓待する魔物の歓声の如く響き渡って。

 

 

 薄い機関灯の明かりに照らされるのは、どこまで続くかも知れぬ膨大な書架。様々な装丁、様式。象形文字から記号文字。紙から板、果ては骨や合成樹脂の記録媒体まで。

 しかし、それは全て、ただ一冊。即ち、《過ぎ去りし年月の物語》に、他ならない。全て、総て。ここに在るものは、何もかも。

 

 

 長居してはいけない、正気が惜しければ。直ぐに取って返すべきだ、狂気に耐えられなければ。確かに、()()()()時間人間(チク・タク・マン)》の《アレキサンドリア大図書館》よりは安全だろうが。ここもまた、混沌の邸宅だ。黒い道化師の書斎だ。

 

 

 例え、遍く神秘家達が夢にまで追い求める《死霊秘法(ネクロノミコン)》が。

 例え、かの雷電王すらも疎み遠ざける《水神クタアト》が。

 例え、十字軍に参加した魔術師の記した《妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)》が。

 例え、盲目の教授がセラエノ大図書館から掠め取った叡智《セラエノ断章》が。

 例え、私自らが著した《秘密教義(シークレット・ドクトリン)》が、密やかに並んでいようとも。

 

 

 この《原初年代記(ナーチャルニヤ・レートピシ)》の持ち主が、黒い道化師が、悠々と。()()()()()()()()()()()()()

 

 

──ああ、前よりも近くにその姿はある。だというのに、その道化師は、彼方の書架の影に紛れて。かと思えば、遥か彼方にあるその姿は、目の前の書架の前を(よぎ)る。

──狂っているのだ、ユークリッド空間が。歪められているのだ、あの道化師の《夢》によって。まるで、牡牛座にあるという、かの《黄衣の王》の()()が幽閉される湖の近く。都市カルコサの尖塔の前を過ると言う、距離感の狂った月のように。

 

 

 しかして、足音の主はすぐ脇の書架より二紙の新聞紙を取り出して。《真実(プラウダ)》と《報道(イズベスチヤ)》の二紙、ばさりとそれを広げて。記事の見出しを()めつ(すが)めつ。

 

 

『全ての人民は、偉大なる同志ヨシフ・スターリンの元に集う』

 

 

──違う。これではない。

 

 

『反逆者レフ・トロツキー、メキシコの地にて誅殺される』

 

 

──違う。これでもない。

 

 

『ロマノフ王朝、悲劇の皇女達について』

 

 

────違う。これも違う。最後まで、見付からなかった。あの黒い男には既に、見つかっていると言うのに。

 

 

 ずしりと、重くなる頭。肩。蒼白の諦めと真紅の絶望が、鉛のように重く、硬く、のし掛かって────

 

 

──違う。これだ。私が探していたのは、この記事だ。間違いない。

──黙っていろ、黒い道化師(ラスプーチン)め。自分すら信じていない私には精神学(メスメル)も、自分の思考と誤認する現象数式(クラッキング・エフェクト)の声は効かない。()()()()()()()()()()()()()()

 

 

────そうかい? それは残念だ。

 

────ああ、本当に。

 

────本 当 に 、 残 念 だ っ た よ。

 

 

 振り払う、蒼白の左腕と真紅の右腕。虚空に散っていく、黒い僧衣の巨躯。木霊する、反響することなく、鼓膜を揺らすこともなく、直接脳に響く嘲笑の声。

 

 

「これを記すあたって、私は、まず、読者諸君に中途にて記事を終了するやも知れぬと言う事について断っておきたい。私はしがない一介の記者であり、現ソヴィエト評議会とは何らパイプを持たぬゆえに、いつ、処断されてもおかしくないと言うことを。それを前提に、私は、一切の虚偽を記さぬことを、ロシア国民としての我が誠心に誓おう R・ゾルゲ」

 

 

 それを無視して、私は記事に目を戻して。

 

 

『ロシア皇帝家ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフの血筋たるニコライ・フョードロヴィチ・ロマノフとフィンランド大公妃アレクサンドラ・フョードロヴナの間に産まれた四人の子女。長女と二女の《大きなペア》、三女と四女の《小さなペア》と呼ばれた四人の皇女達は、歳を重ねる毎に美しく成長した。四人は実に仲睦まじく、結束の証として()()()()のイニシャルを使ったサインを用いていた。特に、三女のマリア皇女と四女のア■■■■皇女は、テレパシーとでも言わねば説明のつかないような意思疏通を見せ、周りを驚かせたという。

 一家は、幸福であった。世継ぎとなる()()に恵まれはしなかったが、一家は、確かに幸福の中に居たのだ────』

 

 

 暗い闇底の、道化師の庭。その深奥の書斎に、低く、低く。

 

 

────未 亡 人 殿 万 歳(ウラー・ミシス)

 

 

────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!

 

 

 此処にはない、このロシアでは観る事など叶わない、夜空の月の代わりのように、嘲笑が木霊して────………………

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

──開いた扉の向こうには、ただ、凍えるような静謐が広がっていた。しん、と静まり返った大聖堂の内側。壁面の聖人達のイコンは、いつも通りに虚空を見つめていて。

──神聖なものを思う。この冷えきった静謐こそが暖かく、柔らかな、祝福の声なのだと。わたしは、祈りを捧げて。

 

 

「…………」

 

 

──そして、気付く。隣で同じように、祈りを捧げる彼の姿。修道士服姿に違わず真摯な、敬虔な祈りを捧げるアレクセイ君の姿に。

 

 

「しかし、驚いたな────」

 

 

 そして、いつも通りに。ええ、いつも通りに年代物の煙管を吹かしているハヤトさんの姿も、見付けて。

 

 

「……まさか、あのゾシマ長老の弟子とはな。世間とは狭いものだ」

「はい、長老様には良くしていただきました。貴方も、長老様とはお知り合いなのですか?」

「俺も、かつて彼に薫陶を受けたことがある。俺が知る中では、このロシアで人格者と言えるのは、彼とカサートキンくらいだ。返す返す、惜しい方を亡くした」

「ありがとうございます、極東の騎士様。そう言っていただけて、師も喜んでいることでしょう」

 

 

 意外、なのだけれど。共通のお知り合いの話題でもう打ち解けているみたいで。隣り合って、笑みを交わしたりしている。

……うう、なんだろう、この疎外感。やっぱりいつも通り、夫人もいらっしゃらないし……

 

 

「あの、わたし……着替えてきますね」

「あ、はい。僕は祈りを捧げていますので」

「では、俺は────」

「────煙管だろう? 気が合うね」

 

 

 と、ハヤトさんが椅子に座ろうとした瞬間。開け放たれた扉から、外気が流れ込む。

 黒い雪を伴って、吹き込む、凍えた風が────

 

 

「……ここまで来ると、貴様はよもや俺に会いに来ているのかと背筋が寒くなるぞ」

「貴様────我があるじに、なんたる口を!」

 

 

 矮躯の、怖気立つような。口ではあるじに令色を使いながらもわたしを見て舌舐めずりして見せた、性質劣悪な昆虫じみた従者を連れた────

 

 

「黙れ、ベリヤ────失敬。あながちそうかもしれないね、私としても友との時間は大事にしたいからね。我が友ハヤト?」

「薄気味の悪いことを抜かすな、イオセブ・ジュガシヴィリ」

 

 

 怜悧な一声だけで、おぞましい従者を黙らせ、下がらせて。

 いつも通りに最高級と判るスーツを難なく着こなして、最新式の機関パイプを吹かしながら薄く口許を歪める、ジュガシヴィリさんの姿があって。

 

 

おはよう(ドーブリョ・ウートラ)修道女(シストラ)アンナ。また、君に会いに来たよ」

「あ────えっと、あの」

 

 

 にこりと、機械のように正確に。機械のように、精密に。あらかじめ用意していたかのような笑顔で、微笑んで。

 

 

『あぶない、アンナ。アナスタシア』

 

 

 背後の《白い彼》が、そう、怯えながら。

 

 

『このひとは、きみを、きずつける』

 

 

 告げる声、それをかき消すように。

 

 

────こんにちは、アンナ。アナスタシア

 

 

 視界の端に────

 

 

────微睡みの時だ、そして

 

 

 踊る、黒い道化師が────

 

 

────始まりの時だ

 

 

 嘲笑して────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

───黒い。黒い。ああ、ここはなんて黒いのだ。

 

 

 コツコツと、石畳に革靴の音を刻みながら。ふと思う。生まれ故郷であるサンクトペテルヴルクでも、雪は暗い灰色を帯びていたが。このモスクワの雪は、更に黒く淀んでいる。

 全ての元凶は、遠く排煙の柱を立ち上らせるチェルノブイリ皇帝機関(ツァーリ・ドヴィーガチリ)群。かつては、サンクトペテルヴルク近郊で実験稼働していた際は、複合機関群(ジャラー・ドヴィーガチリ)とも呼ばれていたが。

 

 

──ああ、思い出すな。あの日々を。忌まわしい、おぞましき日々を。

 

 

 薄暗く淀む大気に白い息を吐きながら、私は歩く。写真機を持つ生徒と約束した待ち合わせ場所の、聖ワシリィ大聖堂へと。

 

 

──だから、ああ。

 

 

「────イヴァン?」

「────!」

 

 

 昔を懐かしんだところで。私は、私には、もう。

 

 

──視界の端に。

 

 

「やっぱり────イヴァン、イヴァンなのね?」

「……………………」

 

 

 戻るべき場所も。迎えてくれる『兄弟』も。『愛』も、ありはしないのだから。

 

 

「────お久しぶり、ね」

「ああ────久しぶり、だね」

 

 

──躍る、道化師が見える。

 

 

「────カチェリーナ」

 

 

────『神』さえいなければ、全ては、うまく行くのだから。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 ああ────

 

 

「ところで、修道女(シストラ)アンナ。今日は私の愛読書を土産に持ってきたのだが」

「あ、あの……」

「受けとる必要はないぞ、仔兎(ザイシャ)。余分な荷物は、俺の蒸気二輪には乗せん」

「そ、その……」

「そうかい? では、また我が温室で採れたレモン(リモーン)にしよう」

「あ…………ぁ」

「残念だったな、朝食は済ませている。食事の必要は、ない」

「う…………ぅ」

 

 

 胃に穴が、開きそう────

 

 

──どうして、わたしは板挟みになっているんだろう。おかしいわ、わたしなんかが、どうして。昔読んだ、大衆小説のヒロインみたいに。

──リュダに借りた本で読んだときは、『意中の男の人と好意を寄せてくれる男の人との板挟みになって揺れ動くとか素敵。一度でいいから体験してみたい』とか思ってたけど。うん、実際に体験すると、胃に悪いったらもう…………

 

 

 げんなりと、紫煙を吐きながら鎬を削り合う二人をどうしようもなく見詰めて。冷や汗だかなんだかわからない汗をかきながら、意味もなく両手を動かして、どうしようもなく。

 今朝食べたボルシチが重たく感じるくらい、慌てて。見えない火花を散らしているような二人を、兎に角、どうにかできないかと……

 

 

──無理。できるわけないもの。

 

 

 若干、そんな風に諦め混じりで。ただ、ふためくだけのわたしを尻目に。

 

 

「ああ────あの、お二方」

 

 

 アレクセイ君が、ハヤトさんとジュガシヴィリさんの二人に。実に、実に。

 

 

「アンナさんがお困りのようですし、その話は一旦、棚上げしませんか?」

「…………」

「…………」

 

 

 至極、簡潔に。それだけを、述べて。

 

 

「……まあ、確かにな。仔兎(ザイシャ)を困らせるべきものでもないか」

「……ふむ、確かに。修道女(シストラ)を困らせるべきではない、か」

 

 

──凄いわ(ハラショー)、一言で話題を終わらせて。うん、完全に終わらせて。

 

 

「すまないね、修道士。君のお陰で、合理的主義と言うものを思い出したよ」

「よく言うな、紅鉄めが。貴様にはそもそも、合理的主義以外はあるまいよ」

「ハハ。流石は我が友人というものだね。良くも、私の事を解っているものだ」

「お前の本質を理解するくらいならば、星辰の戦慄きでも理解した方が()()だろうさ」

 

 

 ああ────うん、なんだか、もっと面倒な事になっているような気もするけれど。気のせいよ、そう、気のせいよ、アンナ。

 今は、ただ。ただ、うん、それは────

 

 

「────アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァ」

「え────?」

 

 

 再び開かれた、聖ワシリィ大聖堂の扉から、吹き荒ぶ風と、声に遮られて。

 

 

「約束通り、写真を撮ってもらいに来たのだが────」

 

 

 現れた、イヴァン先生。そして、お連れの綺麗な女性は本当に、驚いた顔で。。わたしと、ハヤトさんと、ジュガシヴィリさんを見回した後で。

 

 

「────アリョーシャ」

「────はい、兄さん」

 

 

 アレクセイ君を、見て。盛大に驚いて。

 

 

カチェリーナ(義姉)を、心配させるな。彼女は、君がいなくなって、心を砕いていたぞ」

「────はい、ごめんなさい、兄さん」

 

 

 これが、本当の兄弟だと、言わしめるかのように。兄は、弟の頭を優しく撫でて。弟はそれに、快く応じて。

 

 

──素敵。うん、これが、本当の兄弟なのね。

 

 

 だから、わたしは。

 

 

────ああ。実に素晴らしい

 

 

 視界の端に踊る────

 

 

────なんと麗しい、兄弟愛だろうね

 

 

 道化師の言葉を、聞き逃して────

 

 

────それが、終末に至る物語の一幕だとしても

 

 

 わたしは────

 

 

「────仔兎(ザイシャ)

「え────あ」

 

 

 背後から、肩を捕まれて。それにいつも通りに、困惑を返して────慌てふためきながら。それでも。

 

 

「────此処に居たか、カチェリーナ。アリョーシャ…………」

 

 

 ハヤトさんの掌、その力強さを感じながら。新たに扉を開いた男性────何故だろう、ジュガシヴィリさんの付き人を思い出してしまう、剣呑な表情の男性を。

 

 

「────あなた」

「────兄さん」

 

 

 イヴァン先生とはにても似つかない、その人を見て。それでも、その顔容に────

 

 

「お久しぶり、ですね────ドミトリー兄さん」

「ああ────イヴァン」

 

 

 凍てつくような声で、その男性を『兄』と呼んで。同じく、凍てつくような声で返した男性に────カラマーゾフ先生の、面影を見出だして…………



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夕暮 ―сумрак―

 

 

 しんしんと音もなく、誰かの光を奪おうと、足を掬おうと《黒い雪(チェルノボグ)》の降り続くモスクワ市内。肌を切るほどの零下に冷え込む都市中心地、《赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)》。南西にクレムリンの城壁と大統領官邸、レーニン廟、北東にグム百貨店。北西に国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東に聖ワシリイ大聖堂を望む、この広場

 誰もが、《赤の広場》と呼ぶ、そこ。かつては、()()()()をもって語られていた、そこ。だけどもう、その()()()()を語る人はいない。()()呼ぶにはもう、そこは、《真紅(クラースニィ)》に塗れ過ぎたから。

 

 

 あのロシア革命以降、このスターリン閣下の治世の下。その処刑台(ロブノエ・メスト)では罪の真贋に関わらず、ただ国家反逆罪の罪状をもって、幾多の市民、幾多の外国人、幾多の兵士、幾多の政治家、幾多の革命家、幾多の将校の血が流されてきたから。

 《黒い雪(チェルノボグ)》は止まない。そんな血の歴史を覆い隠すために? いいえ、むしろ暴きたてて、嘲笑うために。凍てついた真紅を浮かび上がらせ、いつまでもいつまでも、そこに染み付けるために────

 

 

「────えっと、以上が《赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)》の案内になります」

 

 

──カラマーゾフ先生のご親族を伴っての《赤の広場》の名所巡りを終えて、わたしは白い息を吐きながら、まず、当のカラマーゾフ先生達を見る。ちなみに、ジュガシヴィリさんはお仕事があるからと帰られたから、此処にはいらっしゃらない。

──うまくできたとは思うのだけれど、満足していただけたかどうかは分からないから。だから、後ろに続いて歩く五人を、振り返って。

 

 

「はい、とても楽しかったです。特に、カザン聖堂は興味深かったです」

「そうね、私はミュールとメリリズ……今はグム百貨店って言うんだったわね。噂には聞いていたけれど、あんなに盛況だなんて思ってもみなかったわ」

 

 

 そう、満面の笑顔で答えてくれたアレクセイ君とカチェリーナさん。本当に、女の子みたいに可憐な笑顔と綺麗な大人の女性の笑顔で。この過酷なソヴィエト連邦、同志スターリン閣下のお膝下たるモスクワで。

 

 

──教会の壁に描かれたイコンの、天使様と生女神を思う。見ているだけで、こっちが元気を貰えるような。こんなにも清清しい笑顔は、いつ見て以来だろう。

──それに、比べて。

 

 

「……………………」

「……………………」

「……………………」

 

 

 表情固く、むっつりと黙り込み続けている、この男性三人組。まあ、無言と煙管で二重の意味で『もくもく』としているハヤトさんは部外者な訳だし仕方ないにしても…………イヴァン先生とドミトリーさん、このお二人。ワシリィ大聖堂で短く言葉を交わして以来、一言どころか目線すら交わしていない。

 久々に会った兄弟、とおっしゃっていたのに。どうしてだろう────

 

 

 そんな風に、疑問に思った事が分かったのかしら。カランコロンと木の板の履き物……下駄、とか言うらしい極東の靴を石畳に鳴らしながら歩み寄ってきたハヤトさんが────

 

 

「……どうやら、退っ引きならない理由があるようだな。恐らくは女絡みだろう。例えば────そう」

「えっ────」

 

 

──万色の紫煙を燻らせながら耳元に寄せた唇で、そんなことを耳打ちして。鼻孔をくすぐる煙草の香り、男性らしい低い声、切れ長の三白眼の赫い瞳、端整な顔立ち、すぐ間近で。

──心臓、ばくばく。モスクワの零下の空気の中、頬が真っ赤に紅潮してしまうのをわたし自身で自覚しながら。

 

 

「────カチェリーナと言うあの女、どうもあれが()()な」

「カチェリーナ、さん?」

 

 

 口にした言葉に、一瞬、呆けて。

 

 

「────あ」

 

 

『君を、愛している』

 

 

────はい、私は、愛しています。

 

 

 そして、彼は、一人の女性を愛しました。

 

 

『君を、愛している』

 

 

────はい、私は、愛しています。

 

 

 愛した女は、焦がれたように口にします。美しい彼女、儚い彼女。愛の何たるかすら、知らぬような彼女は。目の前で愛を語る男に?

 

 

『君を、愛しているんだ』

 

 

────はい、()()、愛しています。

 

 

 いいえ、他の誰か────此処には居ない、誰かに────

 

 

『君を、愛しているんだ』

 

 

────はい、()()、愛しています。

 

 

 焦がれたように────

 

 

『君を、愛しているんだ、僕は。だから、君も────』

 

 

────いいえ。私が、愛しているのは。

 

 

 でも、それも仕方ありません。だって、彼が欲しかったものはこんなものではなかったのですから。

 

 

────()()()()()()()()()()()()────

 

 

──目の痛みと共に、地面を、天空を喪ったように。平衡感覚を喪って。

──何か、良くない『()()()』を。《黒い道化師(クルーン)》が嘲笑いながら、()()()()()()()()()()()()()()()()を、微睡みの『()()』で垣間見た気がしたのだ。

 

 

「そろそろ、いい時間だね。夕食(ウジン)を摂ろう。レストランを予約してあるんだ」

 

 

 次に口を開いた男性、イヴァン先生。その、僅かに強張った言葉と口調は、()()()によく似て、まるで()()()()()()()()()()()かのようで。

 

 

「まあ、外食なんて久しぶりだわ。楽しみね、アリョーシャ」

「はい、姉さん」

「ああ、モスクワ市内でも最高級のレストランだよ」

 

 

 それに、カチェリーナさんとアレクセイ君は素直に喜びの表情を見せて。だから、イヴァン先生も少し、固かった表情を緩めて。

 

 

「まあまあ、ますます楽しみだわ────ねえ、あなた?」

「…………ああ、そうだな」

 

 

 やっぱり、表情を固くしたままだったドミトリーさんに。夫婦らしく睦まじげに話し掛けたところで。それに面倒そうに答えたドミトリーさんに、緩めていた表情を固くして。

 

 

「場所は、すぐそこの────」

 

 

 でも、上辺だけは取り繕って。指差した先は────

 

 

──そこには、確か。ずっと向こうに。

──え、まさか、えっ!?

 

 

「……ほう、メトロポールか」

「ええ。ですが、ザイツェヴァ君は兎も角、貴方の予約は…………」

()()()()()()()()()()()

 

 

 驚きに言葉を無くしたわたしの代わりに、何でもなさげに。やっぱり紫煙混じりに呟いたのは、ハヤトさんで。

 

 

──すごい(ハラショー)すごいわ(ハラショー)! ホテル、メトロポール・モスクワ。帝政時代に建てられたホテルで、各国の要人や貴賓を招いた、当時としてはロシア最高のホテルだった場所。その四階、最上階のプレジデンシャルスイートルームは、未だに全ロシア女性の憧れの場所。

──現在は、スターリン氏の肝煎りで建てられた《モスクワ高層建築七姉妹(セブン・シスターズ)》の、ホテル・レニングラードとホテル・ウクライナにその栄誉は譲渡したものの、未だに最高のホテルと言えばここを推す人は多い。

 

 

 だから、あわわ、と後退りして。旧帝政時代の最高級ホテルと言う最低でも一食3000ルーブルは下らないだろうホテルのディナーに目眩を感じなら。月収160ルーブルのわたしは、がしりと。抗えない力強さでその肩を、ハヤトさんに抱かれて。見返した彼、不敵に。実に、いたずら小僧っぽく微笑んで。

 

 

()()()()()()()だ。行くぞ、仔兎(ザイシャ)

「えっ────えええ!?」

 

 

 笑うハヤトさんに引き摺られるように、慌てふためきながら、ホテル、メトロポール・モスクワへと進んだのだった。

 

 

 

 

……………………

………………

…………

 

 

 

 

──そうして、そこに座っている。わたしは、豪奢な赤いテーブルクロスの引かれた、三ツ又の燭台がゆらゆらと照らすテーブルに、慣れないナプキンなんかを膝の上に敷いた状態で座って。

 慣れないテーブルマナー、取り合えず試してみて。こう言うとき、マナーには厳しかったお母さん(マーマ)に感謝しながら。

 

 

「……どうぞ、ナイトウ様。そしてMs.(ガスパジャー)ザイツェヴァ。前菜の鮭とイクラとビーツのサラダでございます」

「ああ、悪いな」

「あ、あの────」

「御気になさらず。では、御用がありましたら御呼びくださいませ」

 

 

 それだけ言って、卓の呼び鈴を示した給仕の男性は引き下がる。然り気無く、ハヤトさんからチップを受け取って。ジュガシヴィリさんの付き人さんみたいに、一定の距離を保って動かなくなる。

 ううん、わたしは、何をしているんだろう。そんな疑念が、改めて湧いて出て。

 

 

「あ、あ、の────」

「うん────何だ?」

 

 

 そう、宣いながら。さっさと駆けつけの蒸留酒(ウォッカ)を嗜んでいる彼に問い掛けて。ふう、とため息をこぼす彼に。

 ホテル、メトロポール・モスクワの中の大食堂。普通なら、朝食以外は解放されていない場所で。

 

 

「わ、わたし、お金……」

「心配は要らんと言った。俺の懐から出す」

 

 

 そう、ハヤトさんはおっしゃってくださるけれど。でも、こんなどう考えても高級なお店で、奢って頂くなんて気が引けるし…………。

 

 

「で、でも、あの」

「ふむ…………メインディッシュはベフストロガノフか。あのサワークリームの味には未だに慣れんが、致し方あるまい」

 

 

──ベフストロガノフ……! 前に食べたのなんて、何年前だったかすら覚えてない。そもそも、前菜の時点で一週間分の食費が飛びそうな内容なのに!

──でも、だからって、食べないのはハヤトさんにも食材にも失礼だし…………そ、そうよね。折角のご厚意を無駄にしちゃ、ダメ、よね?

 

 

「……あの、ハヤトさん」

「……何だ?」

「い、頂きます……」

 

 

 そう、自分でも嫌になるくらい食欲に負けた結論を出して。大人しく両端のフォークとナイフを手に取り、前菜のサラダを頂く。

 久しぶりに食べた鮭とイクラ、うん、おいしい。機関工場製のものだろうか? 天然物は、機関工場から流れ出る廃液に汚染された海と川では育たないのだから、そうなんだと思うけれど。

 

 

──そういえば、最近はかなり安いお肉が出回っているみたい。2キロで1ルーブルとか言う、どう考えても怪しい機関工場製の。真っ黒いお肉で、なんでも()()()()()()()()()()()だとか。

──少し興味があるけれど。真っ黒いって言うのが、いかにも過ぎて。怖くて食べられないったらもう。

 

 

 極寒のこのソヴィエト、ロシア。旭北の寒気を和らげたのも機関なら、更に厳しくしたのも機関。青かったと言われる空を奪ったのも機関なら、同じく青かったと言われる海を奪ったのも機関だ。

 どちらも実際に見たことはないけれど。それでも、かつて、歴史上で全ロシアが目指したと言う、凍らない海。南の楽園。東の果ての、黄金の国。

 

 

「────チッ。やはり廃液臭くて敵わんな、養殖物は。本当はこんなものには、1コペイカも出したくはないんだが」

 

 

──ちら、と。盗み見たその人。黒髪の、切れ長の赫い瞳の美丈夫。器用に二本の棒で食べ物を挟んで、落とすことなく口許に持っていく。たしか、チョップスティック(ネリョザット・ポリョチキ)とか言う食器を使う男の人。

──黄金の国(ジパング)、極東から来たその男の人は、ハヤトさんはそう、鮭とイクラを食べながら苦々しげに一人ごちていた。

 

 

「────あら、まあ。何て美味しいウォッカかしら、イヴァン?」

「分かるかい、カチェリーナ。そのウォッカはヴィンテージ物でね」

「まあ、それじゃあお高いんじゃ?」

「折角の日だ、これくらいなんて事はないさ」

「兄さん、でも僕、お酒は飲めないよ」

「はは、済まないな、アリョーシャ。その代わり、食事を楽しんでくれ」

 

 

 そして、隣の席。五人掛けの席に四人で座っているイヴァン先生にカチェリーナさんとアレクセイ君、ドミトリーさん。

 本当は、わたしもそこに座る予定になっていたそうだけれど。うん、家族水入らずを邪魔するのは気が引けるし、部外者のわたしがあそこに座っても気が落ち着かないしで、こうして隣の卓に移らせてもらっている。

 

 

 事実、わたしが居たら、お互い気を使って楽しめないだろうし。今も、イヴァン先生とカチェリーナさん、アレクセイ君は和やかに談笑していて。

 そこだけ見れば、なんだか、誰と誰が夫婦なのかと頭がこんがらがりそうで。

 

 

「……それは俺に対する嫌みか、イヴァン」

 

 

 ただ一人、不機嫌そうにウォッカを飲んでいたドミトリーさんが、やにわにそんなことを言うまでは。

 

 

「……それは、どういう意味だい、兄貴」

「どうもこうもあるか。笑っているのは分かっているんだ、イヴァン。流石に教師様は俺のような退役軍人とは金回りが違うな」

「あなた────」

「五月蝿い、黙れ、カチェリーナ。これは俺とイヴァンの会話だ────女々しい奴だな、イヴァン。お前は、まだ、()()()()()()()()?」

 

 

 静かに、だけど、消えない燠火のように。お酒のせいだけじゃない、怒りに座った瞳で、ドミトリーさんはイヴァン先生を。イヴァン先生は、ドミトリーさんを睨み付ける。

 

 

「滑稽滑稽、実に頭でっかちらしい。精々、そのたっぷり詰まった頭に思い知れよ。()()()()()()()()()!!」

「────兄貴…………!」

 

 

 まるで、仇に会ったかのように。ご兄弟の、筈なのに。一触即発の空気を纏い始めたお二人に挟まれて、カチェリーナさんは、ただ二人を交互に見詰めるだけで。どうすることもできず。

 

 

──あれ? そういえば、あんな姿、最近どこかで…………

 

 

「────まあまあ、兄さん達。こんな場所で大人気ないですよ。アンナさんとナイトウさんにもご迷惑がかかりますし、折角の御馳走が冷めてしまいます」

 

 

 そこで、アレクセイ君が睨み合う二人を諌めた。にこりと、無邪気に。それこそ、本当に、天使様のように。輝くような、眩しいくらいの笑顔で。

 それに、流石に毒気を抜かれて。そして、回りでも。わたしたち以外のお客さん達も、彼らを見ている事に気が付いて。

 

 

「…………そう、だな」

「…………フン」

 

 

 互いに視線を外して、イヴァン先生は自己暗示を掛けるように一つ、息を吐いて。ドミトリーさんは、ウォッカを一気に煽った。

 

 

「……あ、そうだわ。ナイトウさんとザイツェヴァさんも、ウォッカ、いかがかしら?」

「えっ、あ」

 

 

 と、空気を変えようとか、気を使ってくださったのか。カチェリーナさんが、ボトルを抱えてこちらに。

 ど、どうしよう、ウォッカは飲めないんだけど…………!

 

 

「頂こう。貴女のような美女が酌を取ってくださるんだ。断る理由はない」

「まあ、お上手ですこと」

「思った事、感じた事。事実を言ったまでの事だ」

 

 

 なんて、ハヤトさんはさっさとグラスを差し出してるし……!

 

 

──と言うか、鼻の下を伸ばしすぎだと思うんですけど。物理的には伸ばしてないけど、うん、精神的に。精神的に、伸ばしすぎったらもう。

 

 

「ふふ、お世辞がお上手ですのね。アンナさんも苦労しそうですね」

「にゃっ!? な、なんでわたし、あの、違っ」

「あらあら、うふふ。それにしては、拗ねた顔をしていらしたようだけれど」

「うっ、うぅ…………」

 

 

──そんなことを考えたのを見透かされたみたいで、ばつが悪いったらもう。

──だから、頭を冷やそうと。なんだかモヤモヤする胸の中のわだかまりごと飲み込んでしまおうと、わたしは()()()()()を一気に飲み干して。

 

 

「あ────」

「む────」

「え────」

 

 

 慌てた顔をしたカチェリーナさんと、驚いたな顔をしたハヤトさん。そして、その『水』の燃えるような味に珍妙な顔をしたわたしが居て。

 

 

仔兎(ザイシャ)────それは」

「ご、ごめんなさい────勝手に注いでいたんだけれど…………」

 

 

──あ、これ……ウォッカ

 

 

 それに気づいたとき、わたしは、遠くから聞こえる二人の声を聞きながら、ぐるぐる回る天井を見たような気がして────

 

 

──そこで

 

 

──きおくが

 

 

 

 

 

 

 

 

──とぎれ

 

 

 

 

 

 

 

 



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亀裂 ―трещина―

 

 

────くるくる、クルクル、狂狂(くるくる)イアイア(来る来る)と。

────歯車が廻転(まわっ)ている。世界が廻天(まわっ)ている。悲劇が回転(まわっ)ている。

 

 

 回れ、回れと唄う者どもが居る。虚空に浮かぶベールの彼方に。くぐもった太鼓の下劣な連打と、呪われたフルートのか細く単調な音色の中で躍り狂う、痴れ果てた異形の輪舞の最中で。いいえ、いない。居るとしたら、あれは居てはいけない。

 酩酊と混濁の坩堝。逆巻く渦潮。ああ、ここは混沌の玉座。這い寄るよう嘲笑う。嘲笑いながら、妬み、見下ろしながら見上げ、引きずり込むように突き落とす。宇宙の窮極の泡立つ深淵で、深遠で、神苑で。

 

 

────さて。さて、親愛なる人間の皆様方。

────さて。さて、蒙昧なる人間の皆様方。

 

 

 漆黒の影は笑う。白い影と共に。

 

 

────ええ、そうでもあるでしょうし、そうでない事もあるでしょう。つまり、そういうことですね。

────ええ、そうでない事もあるでしょうし、そうでもあるでしょう。つまり、そうではないですね。

 

 

 三角型の耳と、長い尻尾を揺らめかせながら。二つの影は、笑い続けるのだ。

 

 

────本当に、本当に。可愛いわね、白い仔兎ちゃん。見ていて飽きないわ。うふふ。

────本当に、本当に。可愛いわね、黒い日本狼さん。見ていて飽きないわ。あはは。

 

 

 慈しむように、見詰めて。嘲るように見下して。黒い猫と白い猫は、揃ってしなやかに。足下に侍る数多の猫、猫、猫。地球の猫も居れば、土星の猫どもも。どれもが、酔い痴れたように二つの影に甘えていて。

 そのすべてが、彼女たちの兵士。そのすべてが、彼女たちの信徒。

 

 

────さあ、回しましょう。我らが父にして母なる《大いなる渦(ルー・クトゥ)》を。誰にも、誰にも邪魔はさせない。

────黄金の薔薇十字にも、黒の王にも。碩学の王にも、虚空を走る雷電にも。黄衣を纏う王にも、回る道化師にも。誰にも、誰にも。

 

 

 その全てからの礼讚を浴びながら、四つの黄金瞳を爛々と嗜虐に輝かせながら。白い猫と黒い猫は、揃って────

 

 

────────ニ ャ ア オ

 

 

 双子の猫女神は、笑うのだ────────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

──光が見える。薄緑色の、優しい光。染み入るように静かで、綺麗な光。

──ああ、覚えてる。この光は、そう。現象数式(クラッキング)の光。

 

 

「う────」

 

 

 ひどく重く感じる瞼を、精一杯持ち上げる。目に入った像はひどく歪み、渦を巻いているよう。渦、世界の渦。回転する流れ。それは、何か────不吉なものを想起させる。

 それはそう、先程まで見ていた、悪夢を思い返させて。だけどもう、その内容は思い出せなくて。その代わり、額を覆う冷たさが心地よくて。

 

 

「……目が覚めたか、仔兎(ザイシャ)

「あ……ハヤト、さん?」

 

 

 ようやく、まともになった視界。その端に映った影。躍り狂う道化師じゃない、静かに佇む狼のような、極東のおサムライさま。

 その右手、武骨な、傷だらけの、ひんやりとした。その右手の掌が、わたしの額に添えられていて。

 

 

「あ────ありがとうございます、あの、現象数式」

「気にするな」

 

 

 短くぶっきらぼうに。一言、そう言って。ハヤトさんは手を離す。少しだけ、名残惜しかったけれど。

 

 

──辺りを見回す。豪華な調度品に、シャンデリア。わたしが寝ているのも、信じられないくらいふかふかのベッド。

──まだ微かに回って感じる頭でも分かる。ここは、うん、多分。

 

 

「あの、ここは」

「俺が()()()部屋だ。悪いが、連れ込ませてもらった」

 

 

 ああ、やっぱりと頭痛がひどくなる。立ち上がったハヤトさんが、黒髪を靡かせて立った窓際。燻らせる煙管の紫煙の、その先に見える赤の広場。その見渡す展望。

 

 

──ホテル、メトロポール・モスクワ。最上階、プレジデンシャル・スイートルーム。

──帝政ロシア時代には、各国から招かれた国賓や貴賓が滞在されていたお部屋。一泊だけでも、わたしが五度、人生で稼ぎ出す金額でも足りるかどうか。そんなお部屋で。

 

 

「あ、あの……わたし、あの後……どうなったんでしょうか……?」

 

 

 だから、話題を換えたくて。覚えていない、ウォッカを飲んでしまった後のこと、聞いて。若干渋くなったハヤトさんの表情に、不吉なものを感じながら。

 

 

「……あの後、暫くは黙って座っていた。最初はなんともなかった」

 

 

──ほっと、胸を撫で下ろす。なんだ、良かった。ハヤトさんがあんな顔をするから、何かしでかしたのかと。

 

 

「……だが、直後だ。いきなりケラケラと大声で笑い始めた」

「え────?」

 

 

 そして、唐突なそんな言葉に。思わず、声を漏らしてしまって。

 

 

「しかも、給仕が持ってきたロシア風餃子(ペリメニ)を手掴みで食い始めた。実に楽しそうにな」

「な────」

 

 

──次に、顔が熱くなる。嘘、嘘ですよね? そんな、わたしが、そんな?

 

 

「極めつけに、俺のベフストロガノフを皿ごと奪って食い始めた。勿論、手掴みで。流石にこれはまずいと、捕まえて此処まで運んできた次第だ」

「あ────あぁ…………」

 

 

──最後にはもう、酔いのせいなのかなんなのか分からない寒気と吐き気まで感じて。いっそ記憶ごと吐いてしまえたらどんなに楽だろう。

──お父さん、お母さん、ごめんなさい。アンナは女としてだけではなく、人間としても死にました。やっぱり神の嫁になります。いえ、きっと神も酒乱の嫁なんて要りませんよね、はい、山奥に籠って魔女(バーバ・ヤガー)になります。先立つ不幸をお許し下さい────

 

 

「……大丈夫か?」

「う、あう……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「……気にするな、と言った。俺は、楽しかったぞ」

 

 

 そんなことを考えていると、いつの間にか。音もなく歩み寄っていらしたハヤトさんの右手が、わたしの背中を優しく擦ってくれて。

 そんな資格なんて、ないのに。彼は優しくしてくれて。

 

 

「まるで、あの日々のように。試衛館や八木邸のように。騒がしくて、乱雑で。懐かしかった」

 

 

 どこか、遠い日々を。帰れない昔を懐かしみ、噛み締めるように見詰めていて。その瞳には────

 

 

「ハヤトさん────」

「……すまん。忘れてくれ」

 

 

──後悔とも、諦念ともつかない、不思議な色を浮かべていて。

──でも、それはすぐに消えて。後には、自嘲するような呟きしか聞こえなくて。

 

 

 また、胸を締め付けられる。ああ、わたしは、どうして。

 どうして、こんな気持ちに────。

 

 

「…………そろそろ、二十三時か。もう帰らねば、同居人が心配するだろう」

「あっ────はい」

 

 

 言われて、壁に備え付けられた柱時計を見る。チク・タク。チク・タク。振り子の音を刻み続けるその時計を。

 確かに、二十三時を指している時計を。見詰めて────

 

 

「あ、ですけど、あの、先生たちに」

 

 

 非礼をお詫びしないと。そう思ったことを、ハヤトさんはちゃんと察してくださって。

 

 

「彼等もここに滞在している。ならば、帰る前に会いに行けば良い」

 

 

 燻らせていた煙管を灰皿に打ち付けて、灰を捨てて。向けた視線の先、半開きのドアの向こうに────

 

 

「お気付きでしたか。非礼を詫びなければならないのは我々ですかね」

「ごめんなさいね、気になってしまって……」

「も、申し訳ありませんでした」

 

 

 そう、申し訳なさそうにイヴァン先生とカチェリーナさん、そしてアレクセイ君がいらっしゃった。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 深夜に差し掛かる時刻。でも、《黒い雪(チェルノボグ)》は止まない。いいえ、むしろ、夜闇に紛れて何処からか。

 決まっている、空の上。モスクワを覆い尽くす、あの黒雲から。止めどなく、誰かの流す涙のように降り続いて。

 

 

 わたしとハヤトさん、イヴァン先生とカチェリーナさん、そしてアレクセイ君の三人で歩く路上を、今も。今も、塗り潰していて。

 

 

「あの、先生、カチェリーナさんにアレクセイ君。もう、この辺りで大丈夫ですから」

「そうかい? だが、無理を言って付き合ってもらった手前ね」

「そうよ、遠慮しないで。私たちに出来ることなんてこんなことくらいだし」

「はい、そうですよ」

 

 

 ヌギルトゥルさん────ハヤトさんの機関二輪車を停めたままにしている赤の広場へと向かうために、チアトラリニ通りからノーヴァヤ広場を抜けて、イリンカ通りへ。まだ、ウォッカで少しふらつくけど。後は赤の広場に抜けるだけ。そんなところまで見送っていただいてしまって。

 先生は無理を言ったと言うけれど。それを言うなら、約束の写真も満足に撮れていないのにこんな体たらくを晒したわたしの方が、恐縮の極みで。

 

 

「……それにしても、兄貴の奴。見送りもしないで」

 

 

──だから、唐突に。イヴァン先生がそんなことを口にした時。わたしは、転びそうになったところをハヤトさんに抱き止められたながら赤の広場に入ったところで。

──だから、結論から言うなら。わたしは、その間のことは知らない。ここから先は、誰か他の。

 

 

 例えば、視界の端で踊る道化師であるとか。若しくは────全てを俯瞰し、嘲り続ける双子の女神であるとか。

 若しくは、第四の壁の向こうから見ている貴方がた。そんな、()()の視点であるとだけ、言っておこう。

 

 

「ごめんなさい、イヴァン。あの人は、そう言う人だから」

 

 

 にこりと、憤るイヴァンに笑いかけたカチェリーナ。でも、その瞳は寂しげで。ああ、まるで────さっきの誰かみたいに。

 

 

「だがな、カチェリーナ。家長として、兄貴には果たすべき責任と言う奴があるだろう。それすら果たせずに、何が────」

「ええ、代わりと言ってはなんだけれど、私から謝るわ。ごめんなさい、許してね────ヴァンカ?」

「……君はやはり、卑怯だよ────カーチャ」

 

 

 その眼差しに、イヴァンは続けるべき言葉を失って。不承不承といった具合に口を閉じて。

 

 

「まあまあ、兄さんに義姉(ねえ)さん。それより、早く帰りましょう。あまり長いこと外にいると、噂の《人狼部隊(スペツナズ)》のお世話になりかねませんし」

 

 

 アリョーシャの言葉は正しい。此処はソヴィエト機関連邦の首都、モスクワ。指導者ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンの膝元である。このような深夜に動いているものがあれば、それを反動分子として処刑することなど容易いにもほどがある。

 事実、既に完全に包囲されていると彼等は気付きようもない。《心理迷彩》を廉価に量産した《視覚迷彩》を纏い、静音駆動(ステルス)をしながら建物の影と言う影。或いは屋根の上にまで犇めく数十から百にも及ぶ深紅のゴーグル。手に手にカラシニコフ突撃銃やドラグノフ狙撃銃、または対戦車榴弾砲(コルネット)コサック刀(シャスカ)を携えた人狼達が彼等を処刑しないのは、一重にハヤトから。

 

 

 彼等のボスである《日本狼》から、『三人がメトロポールホテルに帰還するまで見送れ』との指示があったからに他ならない。そうでなければ、既にこの区画は剣林弾雨。三人は跡形もなく、路上の赤い染みと変わり果てていよう。

 

 

 そうして、彼等がゆっくりと。ホテルに帰りつくまで一片の隙もなく、気づかれることもなく護衛して。常日頃、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、辺りを包んでいた静かな過剰戦力は何処へともなく消え去ったのだ。

 

 

「それじゃあ、イヴァン兄さん、カチェリーナ義姉さん。また明日」

「ああ、また明日」

「ええ、また明日ね」

 

 

 先に自室に消えたのは、アリョーシャ。屈託なく手を振りながら笑うと、足早に。後に残された二人の男女は、困ったように。

 

 

「……部屋までは送らせてくれ」

「でも、悪いわ」

「兄貴の悪態なら、心配要らない。慣れてるさ」

 

 

 笑いあって、足を進めるのだ。

 

 

────終わりの始まりへと。ああ、そうとも。

 

 

 視界の端で踊る、黒い道化師の嘲笑から目を背けて。

 

 

────踊れ、踊れ、ロシア舞踊(ベレツカ)を。我が救済を受け入れたもの達よ。

 

 

「あら────部屋のドアが」

「不用心だな、兄貴の奴────」

 

 

 僅かに開いた、目的地のドア。そこに。その、陥穽に。

 

 

「────────」

「────────」

 

 

 静かな言葉が漏れ出す、道化師の劇場へ。そこで、繰り広げられる────

 

 

「グルーシェンカ、ああ、俺の愛する女────」

「────ドミトリー、ああ、私の愛する貴方」

 

 

 破滅劇(グランギニョル)の観客として────饗せられたのだ。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 帰り着いたわたしたちを待っていたのは、とても、とても、直視に耐えるものじゃない光景だった。

 

 

「────そのぬるくて気の抜けたビールのあんまりの不味さに、俺はつい、ウェイターに怒鳴りつけたんだ。『おい、なんだこのビールは! 一週間前に来たときは出来立てのビールを出してくれたろ!』ってさ。そしたらウェイターの奴、泡を食いながらこう言ったんだよ、『ミスター、神に誓って、そのビールは一週間前と同じものです!』ってさ!」

「あははははは! ほ、本当に()()()()()()()()()()を出した訳だ、その店!」

 

 

 幾つものウォッカの空瓶が転がるテーブルを挟んで。完全に出来上がったヴァシリ兄さんと。

 

 

「くふふ、じゃあ、私が聞いたアネクドートね。ある夫婦が同じベッドで寝ていたんだけれど、夜中に飛び起きた奥さんがこう言ったの。『大変、旦那が帰ってきたわ!』って。しばらくして奥さんは寝惚けていたことに気づいたんだけど、隣を見ても旦那が居ない。おかしいなと思っていると、旦那が叫んだのよ。『おい、お前! さては浮気してるな!』って。クローゼットから出てきながら!」

「アッハハハハ! 旦那の隠れる手並みの鮮やかさも浮気の産物だろっての!」

 

 

 同じく、完全に出来上がったリュダが、大笑いしながらアネクドートを披露し合っていると言う、地獄のような光景だった。

 

 

「おっ、お帰り~、アーニャ。こんな夜遅くまで、随分お楽しみでしたね~?」

「ちょいと、隊長~。部下の妹に手ぇ出さないで下さいよ~。上司なのに弟とかやり辛いっすよ~」

 

 

──なんて、口々に。笑いながら。ああ、頭が痛いったらもう…………

 

 

 はあ、と溜め息を吐いた音が重なる。勿論、わたしとハヤトさんの。

 

 

「ほらほら、リュダ。明日も碩学院があるでしょ?早く切り上げて寝ないと」

「おい、ヴァシリ。お前、明日は非番じゃないだろう。さっさと帰るぞ」

「えー、せっかく盛り上がってきたのに~」

「そうっすよ~、折角リュダちゃんとも打ち解けてきたところなのに~」

 

 

 ぶーぶーと文句を口にするリュダからグラスを取り上げて。同じように、ハヤトさんもヴァシリ兄さんからグラスを取り上げて。

 千鳥足のリュダを抱き止めて、部屋に運ぶために。やっぱりハヤトさんも、ヴァシリ兄さんを外に運ぼうと肩を貸したところで。

 

 

「あ、兄がご迷惑をお掛けして、ごめんなさい」

「気にするな。こちらこそ騒がせて悪かったな」

 

 

 都合、真正面から見詰め合うような形になって。夜の闇を溶かしたような黒髪と、血の色の瞳を真正面に。

 とくん、と。心臓が一つ、拍を外した気がして。

 

 

「それじゃあ、おやすみなさい、ハヤトさん」

「ああ────また会おう」

 

 

 去り際に、掛けられた一言。何か、大事なことを。大切な言葉を口にするように。

 

 

「────アンナ」

「っあ────……」

 

 

 紡がれた言葉、わたしの名前。見送る背中、ただそれだけの事に。わたしの心臓は、意味もなく、早まって────

 

 

「じゃあな、リュダちゃん! また来るから!」

「は~い、楽しみに待ってますよ~、ヴァシリさん!」

 

 

 そんな余韻も、酔っ払い二人にかき消されて。もう一度、溜め息を溢したのだった。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

「────ごめん、兄さん。部屋の鍵、兄さんに預けたままだったよ」

 

 

 そうしてアリョーシャがその部屋の前に辿り着いた時、カチェリーナの姿はそこにはなかった。居るのはただ、俯いているイヴァン・フョードロヴィチ・カラマーゾフのみ。

 

 

「アリョーシャ。何故だろうな」

「え────?」

 

 

 唐突なそんな言葉に、彼はただ、首を傾げるのみ。開け放たれた兄夫妻の部屋には誰もおらず、ただ、がらんどうの部屋が広がるのみで。

 

 

「────神さえいなければ、全ては、うまく行くのに。何故、人は、神にすがるのだ、アリョーシャ?」

「え────に、兄さん?」

 

 

 不穏な台詞を口にした彼に、イヴァンに、寒気と怖気を感じながら。それを、受け入れる────

 

 

「────()()()()()()()()()()()

「兄────さん?」

 

 

 歪んでいく。捻れていく。世界が? いや、彼の認識が。この世ならざる者達のために、ぐにゃりと。ぐちゃりと。不可逆の変質を伴って。

 ごとりと、ぐちゃりと。不可逆の再生を伴って。足元に蠢く影、黒いソレ。()()()()()()()()()()ソレに、気付くことはなくて。

 

 

『────────────悪い子だ』

 

 

 白く歪んだ、仮面のような()()()()()()()()()()()()()()()を伴って。イヴァンの顔に。覆うように、現れて────

 

 

────恐怖のカタチ。恐怖の似姿を象って。ああ、それは、白い眼差しを。亀裂より覗く、()()耀()()()()()()()()()()を伴って。

 

 

『────悪い子だ、アリョーシャ』

 

 

 イヴァンの顔を、覆い尽くすように。現れた、白い仮面のようで────



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楽園 ―рай―

 

 

 夢を、見ていた。酷い夢を。酷い、悪夢を。

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)展開──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)構築──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)顕現──

 

 

 黒い塊が蠢いている。まるで、蛆虫が蠕動するかのように。黒い塊が爆ぜている。まるで、原形生物(アメーバ)が流動するように。

 黒い雪と、黒い雲。その塊。酷く戯画化された人間のような、異様に長い腕と脚の、数十フィートはあろうかと言う現実離れした大きさの……でも、確かにそこに在る、悪意の塊。顔面に張り付くのは苦痛と恐怖の内に死したかのようなデスマスクを思わせる、アルファベットの『M』のように捩れた形の仮面────殺意の実存。

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)の維持を開始。しかし、我が領域に時計はない──

 

 

『──И есть жизнь(イ ノ チ  ク ワ セ ロ)──』

 

 

──さあ、願いを果たす時だ。我が救済を受け入れたものよ──

 

 

『────Последний человек(サ イ ゴ ノ  ヒ ト リ)!』

 

 

──踊れ、踊れ、その魂が朽ち果てるまで死の舞踊(ベレツカ)を。我が救済を受け入れた玩具(もの)よ──

 

 

──そして、わたしは目を覚ます。

 

 

 がばりと、ベッドから身を起こす。暖房機関(ジャラー・ドヴィーガチリ)の切れた室内の寒気と、《背後の白い彼》の叫ぶ言葉に、眠りの壁の彼方から帰還しながら。

 

 

『はやく、はやく、アンナ。アナスタシア』

 

 

 寝ぼけ眼なんて置き去りに、突き動かされるように足は動く。頭の中にあるのは、このまま深夜の市街に、氷点下に凍えているだろうモスクワ市街に繰り出すことへの恐れではなくて。

 

 

『ポラリスが、きらめくまえに。ヒュプノスが、あざわらうまえに』

 

 

 寝間着のまま、普段ならあり得ない姿のまま。ただ、このままでは、取り返しのつかないことになると。その恐れだけを胸に、わたしは、扉を開けた。

 

 

『いそいで、アンナ。アナスタシア』

 

 

────ただ、一つ。眠る前に開いた本を置き去りに。見向きもすることなく。

────ただ、一つ。ソフィア・コワレフスカヤ女史から貰った、黒い本を置き去りにして。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

──肩を貸していた男は、酷く酒臭かった。

 

 

「ですから~、分かりますか、隊長~。アンナはですね~、あの歳になってもまだ、男と付き合ったことなんてなくてですね~」

「…………ああ、その辺は何となく分かっている。そしてその話はもう、三度目だ」

「何度話してもいいじゃないですか~! あいつはねぇ、最近希に見る箱入り娘でしてね~ウプッ!」

 

 

 既に三度以上は聞いたヴァシリの話と唐突な嘔吐にうんざりした表情で、溜め息混じりにハヤトは煙管を咥える。その先端に片手で刻み煙草を詰めると、脳内機関を励起し、指先から発した現象数式(クラッキング)の炎で火を灯す。

 本来なら、既に宿舎に帰っていてもおかしくはない時間。深夜帯は既に回り、もしも一般人なら、国家反逆容疑で《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》に無裁判処刑されていても文句は言えない時間帯。しかし、連れ合いのこれのせいで、いつもの倍以上の時間を掛けても三分の一ほどの道程しか移動していない。

 

 

「……赤衛(我が)軍兵全てに恐れられた《コッラ川の英雄》を討った《ヴォルゴグラードの大英勇》も、妹の事となるとただの兄貴だな」

「へっへ、それほどでも……っていうか、多分死んでないと思うんですよねぇ、あの化け物は。どうも、先に肩を撃ち抜かれて……()()()()()っていうか」

「お前に化け物呼ばわりとは、流石は《白い死神》と言ったところか」

「ええ、もう二度と相手したくないっすよ」

 

 

 《黒い雪(チェルノボグ)》の降り頻る、深夜のモスクワ市街の虚空に、吐き出された紫煙が消えていく。いったい何の因果で、こんな事になっているのか。今夜は本当に、騒がしかった。

 

 

──まあ、珠にはこんな夜も悪くない、か。

 

 

 だが、そこまで悪い気はしない。先に、話題になり続けている少女に言ったように。騒がしさは彼が失った極東での昔日を思い返させ、心の底に僅かばかりとはいえ、人間らしさを取り戻させてくれる気がして。

 ふう、と。肺腑全体で深く吸い込んでいた紫煙を、ゆっくりと吐き出す。それは、正に溜め息。

 

 

「全く────最後の最後でこれだ」

「隊長────」

「────分かっている」

 

 

 そして、それを凍えさせる。感じた不穏な気配に、刹那の間も置かず、ハヤトは『人斬り』の顔を取り戻して。

 同じく、先程までの酔いなど何処へやら。すっくと立ち上がった副官のヴァシリ・ザイツェフは、被り直した軍帽の鐔の下から鋭い眼光を放つ。

 

 

現象数式領域(クラッキング・フィールド)の展開を確認。誰かの願いが果たされようとしている」

「分かっている。いけるな、ヴァシリ」

「当然です。おい、お前ら! 俺の制式機関銃(モシン・ナガン)を持って来い!」

『『『副隊長殿万歳(ウラー・リチェナント)』』』

 

 

 呼び掛けたのは、モスクワの暗がりだ。だが、そこには蠢く影、そして長銃を携えた鋼鉄の人影。鋼で構築された、猟犬どもが数尾。副首領たる《人狼》の咆哮に応えて現れ出る。

 男は、《人狼聯隊(スペツナズ)》の副長としての顔を取り戻したヴァシリ・ザイツェフは、先程までの千鳥足など何処へやら。確りと己の二足で立ち、微動だにせず長銃を受け取って。

 

 

「いつも通り、俺は遠距離から援護を。隊長は斬り込んでください」

「先程から、皆まで言うなと言っている。貴様らはヴァシリの援護を。俺は────死番だ」

『『『聯隊長殿万歳(ウラー・ダージェストラージ)!!!』』』

 

 

 瞬間、ハヤトは走り出す。辺りの全員を置き去りに。獲物を定めた狼のように、風のように。ただ一点、目的地へと向けて。

 同時に、ヴァシリも近くのビルディングの()()()()()()()()数秘機関(クラック・エンジン)も備えない、生身の筈の腕と脚で。窓や僅かな窪み、他の人狼達を置き去りにするほどの速さと精確さで雨樋を駆け上がって。

 

 

『────捉えました、隊長。ホテル・メトロポールの方角に、僅かに()()()がある』

 

 

 ビルディングの屋上にて狙撃体勢を取り、覗き込んだスコープを巡らせること二秒。いや、一秒。それだけで彼の《鷹の目》は、モスクワ市街に潜む《違和感》を捉えて。

 

 

()()も、だ。酷い臭いだ、腐り果てた肉のように」

 

 

 そして、既にその近辺まで駆け付けていたハヤトは、己の腰の得物に───

 

 

「……()を斬り拓く───合わせろ、ヴァシリ」

『了解、聯隊長殿───《魔弾》を使います』

 

 

 三本の内の、一振り。剛直な一振りに手を掛けながら、懐かしむように。

 目前に捉えた《揺らぎ》に向けて、走りながら。

 

 

「───力、貸してくれ。(イサミ)さん」

 

 

 ヴァシリの放った《緑色の銃弾》と共に、抜き放つ───!

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

──夢とはなんだ。世界とはなんだ。ああ、煩い。煩わしい。黙れ黙れ黙れ。黙れ、視界の端で踊る道化師め。

 

 

 まず、目にしたのは不貞。目を覆いたくなるような、そんな光景。だが、私はまだ良い。問題は、己の夫のこんな裏切りを目にした彼女の方で。

 だから、私はまず彼女を案じる。同じ光景を見ている筈の、彼女を。

 

 

────最愛の、兄嫁を案じて?

 

 

 煩い。煩い。煩い。そんなことはどうでも良い。今、目の前の彼女が、私は────

 

 

「────仕方ない人」

「え────?」

 

 

 私は、心配で。何より、■■■■■がある筈で。だと言うのに。

 

 

「仕方ない人ね、本当に」

「カー────チャ?」

 

 

 だから、信じられない。目の前の、分かりきった裏切りを前にして。だと言うのに、笑う彼女が。あり得ない。あり得てはならない。誓った筈だろう、君達は。神の前で、当たり前のように!

 だと言うのに、当たり前のように彼女は微笑んで。此方を振り返って。

 

 

「ねえ、イヴァン。私ね、時々思うの」

 

 

──何を?

 

 

 聞くべきではない。聞いてはならない。そうは思っても、心はままならなくて。だって、期待している。その言葉を、聞けることを。

 

 

「もしも────」

 

 

──止めろ、止めてくれ。お願いだ、カーチャ。私を。

 

 

 それが、破滅へと至る言葉であると知りながら。

 

 

「もしも、私が────」

 

 

──止めてくれ。私を、殺さないでくれ。

 

 

 止めることも、できなくて────

 

 

────あの人じゃなくて、■■■■■■■■のなら。

 

 

 そして、彼の世界は()()()()()()()()────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「ハッ、ハッ、ハ────!」

 

 

 逃げ惑う少年は、恐怖と困惑のままにモスクワの石畳を蹴る。白い息を吐きながらいくら逃げ惑おうとも、その先に待つ結末は一つだと知りようもなく。

 

 

「神、様────」

 

 

 神の存在を、彼は信じている。救い主は居るのだ、と。敬愛するゾシマ長老の最期を看取り、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、殊更に敬虔な正教徒である彼は。

 今も、今も。天上に御座す父なる神に向けて、胸元の八端十字架のロザリオを握り締めて。

 

 

『────何処だ、アリョーシャァァァァ!』

 

 

 背後で聞こえる、全てを烏有と帰する声と一撃の音。たかが、腕の一振り。両方の()()の一振りで。聳え立つ登楼をも、白く煌めく塩の塊に変じて。

 

 

「ひ────」

 

 

 その砕け散り、舞い落ちる残滓を浴びながら、塞ぎ混むようにへたりこんだ少年アリョーシャは────アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフは、背後の存在へと。

 止せばいいのに、振り返ってしまった。ほんの僅かな希望、背後の彼の心変わりを信じて。

 

 

『────お前もか』

 

 

 そこにいるのは、日頃敬愛する、神の不在を信じてやまない聡明な兄などではなく。

 

 

『────お前の中にも、やはり、悪は在るのか』

 

 

 ただ、狂気に呑み込まれて荒れ狂う《白い狂気の仮面》を纏う男と。

 

 

『────お前のように純粋な人間の中にも、やはり悪は存在しているのか!』

 

 

 その背後で蠢く影、鋼鉄の色彩を放ちながら。全身から生やした《右手》を蠢かせ続ける、《恐怖の形》の身で。

 

 

『────ならば、許せるわけがない! 許さぬ許さぬ許さぬ! 決して許さぬぞ、()よ! やはり、貴様は存在してはならない!』

 

 

 理解できない言葉を吐きながら、兄であった筈の男は叫ぶ。血を吐くように、切実に。本心を吐露するように、切実に。

 アレクセイではない、他の《誰か》を睨み、呪いながら。その《右手》を、振るうのだ。

 

 

『GRRRRRRRRRRRRrrrrrrrrr────!』

「ひっ、あ────」

「────アレクセイ君!」

 

 

 その一振りに反応できず、立ち尽くしていた彼を押し倒すように突き飛ばした少女。白銀の髪を黒夜のモスクワ市街に煌めかせながら。

 たった一瞬前にその二人がいた空間を、黒い《右手》が薙ぎ払った。風圧だけで石畳を削り、《黒い雪》を巻き上げる勢いで。

 

 

 その雪の残滓を浴びながら、少女は見遣る。背後の存在へと、その、真紅の瞳を向けて。

 

 

「やめて、ください。先生……イヴァン先生!アレクセイ君は、あなたの弟じゃないですか!」

『邪魔をするな、ザイツェヴァァァァ! これは、私達カラマーゾフ家の問題だぁぁぁぁ!』

 

 

 真正面から目にした、異形の影。白い狂気の仮面に顔を包み、咆哮する男の背後で蠢く、無数の《右手》を身体中から生やした、人形の。三メートル(十フィート)はあろうかと言う、本体である筈のイヴァン・フョードロヴィチ・カラマーゾフより遥かに大柄の影を。

 絶望に歪みきった死体のように歪んだ白い仮面の下で、滂沱の血涙を流しているような影を。咽び過ぎて潰れた喉で血を吐きながら、それでも、絶叫し続けているかのような影を。

 

 

「退きません────」

『何───何故だ! お前には関係がないと言っただろう! お前は、早く帰って、明日の講義の準備をしていろ!』

 

 

 そんな、怪物。まるでそう、昔、母親から聞いた《吸血鬼ウピル》を思い出す姿。寝物語に聞かされ、恐ろしさのあまり、一晩中、お母さん(マーマ)に抱き着いて震えていた思い出と共に。

 

 

──それでも。ええ、それでも、よ。

 

 

「あります───関係、あります! わたしは、先生に頼まれました! 『家族写真を撮ってくれ』って! だから!」

『家族───家族だと!?』

 

 

 『家族』。その言葉に、一瞬。仮面の奥のイヴァン先生の瞳が理性の色を取り戻して。震えるように、怯えるように、此方を見る。

 まるで、子供みたいに。悪戯をして、それが親にばれたときのような。そんな瞳が。

 

 

『───家族など居ない! どこにも居ない! 居ないものは撮れない! そうだ、そうだとも!』

「いいえ───居るわ、此処に。あなたの弟が、アレクセイ君が居ます!」

『居たとしてもォ! もう、遅い───遅いんだ、ザイツェヴァァァァ!』

 

 

 だけど、それもすぐに狂気に塗り潰されて。濁り、狂った眼差しだけになって。

 

 

『この世界は───悪夢だ! レーニン閣下の言葉通りの共産主義なら、《楽園(ユートピア)》となる筈だった、このソヴィエトですら! 何故だ、何故見逃すのだ! 一夜の快楽のために涙を流させられ、飢餓と貧困のためにたった一カペイカのパンを盗んだだけで打ち殺され、何の非もないというのに戯れに猟犬をけしかけられて噛み殺される子供が居るのに! 神は!』

「イヴァン、先生───」

 

 

───そう、この世は不条理だ。不平等だ。何時でも、何処でも。富める者は更に肥え太り、貧しき者は更に痩せ細る。

 

 

 血を吐くように述べられた言葉は、万国共通だろう。ほんの一握りの権力者のために、弱者はいつでも()()()()()()()()()()()()

 それができなければ、死ぬだけだ。強く、守られている権力者に楯突けば。弱く、虐げられている弱者は。虫けらのように。

 

 

 それを無くそうとしたのが、このソヴィエト機関連邦───その骨子たる《共産主義》だったはず。富を全員で均等に分け合い、誰もが贔屓されず、虐げられない世界となるはずだった。レーニン閣下の『楽園計画』通りなら、文字通りこの世の《楽園》となるはずだった、ソヴィエト機関連邦。

 でも、でも。楽園となるはずだったこの国は、この世の地獄と成り果てた。一部の特権階級、連邦首脳部が富を占有し、国民は困窮し、今も凍えた大地に涙を溢し続けていて。

 

 

『地獄だよ、この世界は! だから、神は『居てはいけない』。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。なのに、子供達は今も、今も苦しんでいる。だから、だから、()()()()()!』

 

 

───そう、この世は地獄(ニラヤ)だ。奈落(ナラカ)だ。だから、そう、諦める時だ。

 

 

 連動して、虚空に向けられていた視線、真紅に燃え上がるような怪物(イタクァ)の双眸───()()()()()()()()()()()、真紅の眼差し。

 バラバラの方向を向いていたそれが、ぐるりぐるりとじれったい程に回転しながら、アレクセイの方へと。そして当然、わたしの方にも。

 

 

───アンナ。アナスタシア。諦める時だよ。

 

 

『そんな世界に、()()()()()()()()()()だろう? 大事な《家族》を───()()()!』

 

 

 生物の最小単位である、あらゆる細胞に速やかな自死(アポトーシス)をもたらす《イタクァの死線》が、無力に、無防備に。

 あと少しで腐り果てた黒い堆積物となり、この《黒い雪》に溶けて消える事になるだろう。ただ、アレクセイ君が救いを求める『神』の元へと────

 

 

──だから。

 

 

「───弱虫」

『なにぃ?!』

 

 

──だから、わたしは口を開く。ええ、何度でも言ってあげる。目の前のイヴァン先生と、《背後の白い彼》と、《視界の端で躍る道化師》にも、聞こえるように。

──わたしは、諦めない。絶対に。だって、わたしは───

 

 

「弱虫、卑怯者! 自分の弱さを世界のせいにして───貴方は、逃げる口実が欲しいだけじゃない!!」

『黙れ!』

 

 

 絶叫と共に、視線の圧力が増す。でも、だから、何。知ったことじゃないわ、そんなもの。

 

 

「貴方が絶望してるのは、世界なんかじゃない! 貴方は───!」

『黙れェェェ!!!!』

 

 

 わたしを、アレクセイ君を消し去ろうと、地獄の熱量を帯びる怪物の眼差し。あと二秒、いいえ、一秒で、わたし達はこの《黒い雪》の一部になるだろう。

 そう、変える。それを可能とする《現象数式》を宿した、怪物(イタクァ)の視線が───

 

 

───では、目を覆う?

 

 

──だけど。ええ、だけど。

 

 

───瞼を閉ざす?

 

 

──わたしは、決して。

 

 

───では、瞳を逸らす?

 

 

──決して、瞳を逸らさない───!

 

 

 降り注いで────

 

 

「────(ヒトツ)、私ノ闘争ヲ不許可(ユルサズ)。俺の目の黒い内には、例えそれが市民同士の諍いであろうと認めん」

 

 

 それを阻んだのは、青く翻る外套────否、羽織。そして、《細胞の死(アポトーシス)》をもたらす視線を真っ向から睨み返す、精悍なる黒狼の眼光だ。

 それを見届けて、視界の端で躍る道化師が消える。役目は終わったとばかりに、後は、()()()()に託すとばかりに。せせら笑いながら。

 

 

「ソヴィエト赤衛軍の名の下、市民に仇為す貴様を野放しにはしない────」

 

 

 三本の刀を携えて───

 

 

「潔く、縛に付け」

 

 

 紅く煌めく、眼差しが二つ───



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家族 ―семья―

 

 薄暗い機関灯の灯る室内。視覚化される程に濃密な、鋼の如き圧迫感。そこは、このモスクワで最も重厚な威圧感に満ちた一室だ。そこは、このソヴィエトで最も鋼鉄の冷たさに満ちた一室だ。

 そのただ中で、男女が二人。革張の椅子に腰掛けて最新式の機関パイプから紫煙を燻らせながら、窓の外の漆黒のモスクワを眺めていた男と、その隣で直立不動の姿勢のまま、静かに目を閉じていた金髪の女が二人。

 

 

 見下ろす広場、赤く輝く、五つの塔の頂の星。その煌めきが揺らめいた刹那に。

 

 

「────コーバ。我が親友」

 

 

 女が口を開く。金髪に碧眼の、赤い軍装に身を包む美しい女が静かに、低く、鉄の強度を持って。

 もしこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも失神は免れ得ぬほどの威圧と共に。

 

 

「なんだい、モロトシヴィリ。モロトシュティン?」

 

 

 それほどの声を受けても尚、男は揺るがない。色素の薄い灰色の髪に猫めいた黄金の右瞳と、青い左瞳の怜悧な美貌の。同じく、真紅の軍装に身を包む男が。胸元に、()()()()()()を備えた軍装の男が。

 鉄の声を上回るほどの、鋼鉄の強度を持って。男は、小揺るぎもしないまま。もしもこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも落命してしまいそうな威圧と共に。

 

 

現象数式領域(クラッキング・フィールド)の構築を確認した。彼の願いは果たされる」

「だろうね。だが、それもここまでだ。あそこには────()()には、《白騎士》と《黒騎士》が居る」

 

 

 左手のカップから、輪切りにされたレモンの浮いた紅茶を啜る。愉しげに、実に愉快そうに。

 

 

「ドーブリョ・ウートラ。愚昧にして哀れなる《黒い道化師(ラスプーチン)》。《魔女(クローネ)ババ・ヤガー》に仕える、三体の騎士の内の二体。白騎士と黒騎士、朝陽と夜闇の具現。貴様の粗雑な繰り人形如きで、どうにかできると思っているのか」

 

 

 自らの視界の端で嘲り踊る、黒い道化師すらも。子供の悪戯でも見るかのように、嘲笑いながら。

 

 

「……では、()()()傍観に徹するのだな?」

()()()だ、モロトシヴィリ。モロトシュティン。私が出ずとも、あの程度の完成度しかない《古き恐怖(アブホール)》くらいは、自力でどうにかしてもらわねば」

「了解した、コーバ。我が親友」

 

 

 全てを話終えたとばかりに、女は口をつぐむ。同じく、男も。後には、音もなく降り続ける黒い雪と、時折、排煙を噴くパイプの音だけが残って。

 もう、そこには、踊る道化師の姿はなくて。

 

 

────ああ、本当に。貴様はやりづらい────

 

 

────()()()()()()()()()よ────

 

 

────逢魔時(夕暮)の具現たる貴様よ。冷酷無慙なる《黄昏の赤騎士》よ────

 

 

 最後に、ポツリと。溜め息のような、そんな声が────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

『私の夢────』

 

 

 思い出したのは、半年前の彼の姿。モスクワ大碩学院の指導室での、その会話。

 ぽつり、と。余程、時間が経ってから。イヴァン先生は口を開いた。懐かしむように、苦しむように。

 

 

『そうか、君は、篆刻写真家になりたいんだね』

 

 

──知ってる。だって、聞いたもの、わたし。モスクワ大碩学院に入学して、二年目のあの日に。

──進路調査の日に、夢を語ったから。

 

 

『良い夢だと思うよ。このソヴィエトではまだ下火だけど、外国ではエイダ主義と言う、女性が社会進出することを尊ぶ風潮があるからね』

 

 

 暖房機関の効いた室内で、テーブルを挟んだ真向かいで。新任のイヴァン先生と一対一で。

 出されていた紅茶を、苺のジャムをたっぷりと含んで。口直しにしているわたしは、まだ慣れない新しい先生に恐縮しきっていて。

 

 

『ところで、その夢についてご家族とは相談したかい? ああ、そうか。応援してもらえたのか、それは良かった、うん、君は良い家族に恵まれているね』

 

 

 照れ隠しのように、俯きがちに笑ったわたしを見て。イヴァン先生は、出されていた紅茶を一口含んで。その視線は、近くの窓に。

 

 

『……大事にするんだよ。決して、決して。私のように────私の《家族》のようになっては、いけないよ────』

 

 

──心の底から、噛み締めるように。窓の外、どこか遠くを見詰めて。

──自分の、無力さに。心底、失望したように。

 

 

 笑って────

 

 

──目の前には、凄烈な青。青。空の色、本当の。《うつくしきもの》を思わせられる、老人達が往時を語る際には、必ず話題に上る、本当の空の色。

──本当の空の色。それを纏う、黒髪の男性。極東の。背は、それほどには高くないけれど。それでも、わたしなんかよりずっと高くて。そして、心鉄が入っているみたいに真っ直ぐに伸びていて。

 

 

「赤衛軍客員大佐、内藤隼人の名において。即時武装解除と投降を呼び掛ける。如何に?」

『───赤衛軍客員大佐、だと? ふざけるな、この極東野郎(イポーネツ)め! 黄色い猿風情が───!』

「一般人であろうと二度目はない。寄って、それを反抗と受け止める」

 

 

──崩れないものを思う。城壁のような。或いは、翻る旗のような。心強く、激励されるような。そんな。そんな彼の腰の、三本の機関刀(エンジンブレード)。その内の一振りが抜き放たれる。前に見た、確か……カネサダとか言う銘の物ではない。

──艶やかな刀身の。禍々しいほどに鋭利で、頑健な。その一振りを、白い雲のように山形に染め抜かれた袖の先の掌で握り締めて、音もなく抜き放って───

 

 

「行くぞ、我が牙───今宵の《長曾根虎徹(ナガソネコテツ)》は、血に飢えている」

 

 

 前とは違う刀、前と同じように。前後に足を開いて左の頬にくっつくくらいに引き寄せた、独特の構えで。

 流麗に。だけど、剛毅に。まるで、()()()()()()()()()()()()()。そんな、有り得ないことを思う。それくらい、雰囲気が違って見えて。

 

 

「俺には《鋼鉄の男》より、全ソヴィエト人民に対する無裁判処刑権が認められている。軍人ですら例外はない。則ち───一般人もまた、処刑対象だ」

『やって見せるがいい、極東の猿! この私をォ!』

 

 

──対して、イヴァン先生が叫ぶ。血の涙を流す双眸で、こちらを睨み付けながら。《背後のもの》も、無数の右手と真紅の瞳をぎらつかせながら。

──漆黒の、煤けた雪と同じ色を蠢かせながら。仮面の奥の()()()()()()を、ぎらつかせながら。

 

 

『この《古き恐怖(アブホール)ウピル》を、殺せるものならなァァァ!』

 

 

 瞬間。ウピルと呼ばれた怪物の───想像したままの吸血鬼の名前の───右腕が走る。ゴムのようにしなやかに、鞭のように鋭く、風を斬りながら。

 速い、目じゃ追えない。強化された反射神経を持つ《重機関化兵士(人狼たち)》でもなければ。躱せたとしても、ほんの少し。僅か半インチでも傷つけられれば、死んでしまうだろう。

 

 

 そして、塩の塊に変わる。変わって、《黒い雪》に紛れて無くなってしまう。これはそういうものだと、《背後の白い彼》が叫んでいる。

 

 

「───砂漠都市のアデプト達に唄われる《白き狂気の仮面》に、恐怖の顕現アブホール。()()()()()()全ての命を害し、機関を塩の柱に変える《盟約》の天使。ラスプーチンめ、面倒なものを持ち出してきたものだが……俺の牙には関係ない」

GYAAAAA(ギャァァァァァ)!』

 

 

──それを、斬り払って。薙ぎ払って。刀の柄のレバーを操作し、柄の先端から排煙の尾を引きながら。それは、まるで。強壮な虎が、葦の茎をへし折るかのように。なんの危なげもなくて。

──右目に現象数式の光の板を浮かべたハヤトさん、辟易するように吐き捨てて。ちらりと、こちらを見た。

 

 

──全ての《アブホール》は不滅──

 

──物理的な破壊は無効──

 

 

「だが───些か変質しているらしい。()()()()()()か、やはり取り込まれた《ルー・クトゥの魔神》のせいか」

『左様───ラスプーチンの夢に取り込まれたか、憐れな同胞よ。“闇の中の餓鬼”《シュイ=ニャルー》よ……せめて、解き放ってやろう』

 

 

──《アブホール・ウピル》の場合──

 

──その唯一の破壊方法は──

 

──朝陽を浴びせること──

 

 

 そして、いつのまにかわたしたちの隣に現れていた鋼鉄の黒狼───《ふるきもの》ヌギルトゥルさん。そのクローム鋼の顎が、懐かしむように。ううん、哀しむように、声を奏でて。

 

 

──て言うか……子供って。アレクセイ君のこと、よね? わたしはもう、子供じゃないし。うん、違うもの、もうお酒も飲める大人だし、うん。

──そう、よね?

 

 

 なんて、とりとめの無いことを。腕の中のアレクセイ君の震えを感じながら、一瞬、思って。

 

 

──しかし、永久の灰色雲に覆われた西亨では不可能──

 

──則ち、破壊方法は──

 

 

「つまり、やはり斬るしかあるまい───さて、イヴァン・フョードロヴィチ・カラマーゾフ。同じ釜の飯を食った縁だ、最後通牒くらいはしてやる」

『──────』

「大人しく腹を斬れ。さもなくば、抵抗せず頭を垂れろ。そうすれば、一瞬で全てを終わらせてやる」

 

 

 傲然と、悠然と、言い放つ。赫色の瞳を鋭く絞って、睨み付けながら。

 

 

『く───くく、はは。ハハハハハハ! まさか、まさか極東の猿如きに、ここまで言われるとはな!』

 

 

 それに、イヴァン先生は哄笑する。さも、可笑しげに。さも、笑える話を聞いたとばかりに。

 

 

「可笑しいか?」

『 可 笑 し い と も ! 』

 

 

 そして、更に濃密な憎悪と殺意を、背後の怪物と共に、新たにハヤトさんに叩き付けながら。

 

 

『《露極戦争(ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー)》で! 判定勝ちを掠め取ったくらいで! 我らロシアに勝ったつもりか、猿が!』

 

 

──《露極戦争(ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー)》。則ち、ソヴィエトの前身であるロシア機関帝国と極東帝国との戦争。帝政末期のロシアと東の果ての小国に過ぎなかった極東帝国との戦争。当初は、誰もがロシアの圧勝を信じて疑わなかった。国力としても、文明としても。既に列強と呼ばれていたユーラシア大陸の北半分を有する大帝国である我らがロシアと、数十年前に鎖国政策を解除したばかりの東の果てに張り付くような僅かな島嶼部でしかない極東帝国との戦争。

──しかし、結果は極東帝国の優勢勝ち。控えめに言っても、引き分けと終わった。口さがない人達は『米国が口出ししてこなければ』、『あのまま続けていればロシアが勝っていた』とは言うが。既にロシア革命の気運著しい時勢、あの戦争を戦い抜く団結力などなかった。例え、勝っていたとしてもグルジアやアフガン、モンゴル、バルト三国、ユーゴスラヴィア、南部のイスラーム等の各自治政府の独立を防ぐことなどできずに。現在のソヴィエトの国土は、半分に落ちていたことだろう。

 

 

「よく言う。レーニンの言葉に踊らされて君主を弑し、国を乗っ取った銀行強盗ども(ボリシェヴィキ)を手放しで称賛するような貴様らが。恥を知るが良い、俗物」

『───黙れ。貴様に何が解る、異邦人が! あの時代、あの時! 《最善》の行動はそれ以外に無かったのだ!』

「そのあたりは理解しよう。我ら極東人もまた、将軍を廃した同じ大逆人だ。だが、否、だからこそ考えは変わらぬ。どう言葉を弄したところで、天下の大逆を犯した事実は。仁義八行を犯した事実は変わらんよ」

 

 

 冷厳と、厳然と、そんな言葉を投げ掛けて。ハヤトさんは空の色の羽織を翻しながら。かちゃり、と刀を構える。先程の構えより、更に深く。更に、獰猛に。さながらそれは、獲物を定めた狼が今、今、今。まさに今、食らい付こうとしているかのよう。

 対する先生は、その言葉に俯いて。何かを堪えるように、肩を震わせるだけ。背後の怪物も、切り落とされた腕の痛みにか、同じようにしていて。

 

 

「天然理心流───」

『───な』

 

 

 もはや、その勢いを止めるなんて。誰にも不可能───!

 

 

『───() () () () 、 () () () () () () ()

「──────ッ! なん……だと…………!」

「っ───ハヤトさん!」

 

 

 そして、有り得ないことが起きる。先生の眼差しを伴う言葉と共にハヤトさんの勢い、完全に止まって。無防備と驚愕、誰の目にも明らかで。

 それに対応して、再生された怪物の右腕が振るわれる。巨大なビルディングすら打ち崩す一撃を、ハヤトさん、躱したり防御したりすることもできずに、戦車に撥ね飛ばされるように。

 

 

『ククハハハハハハ───教えてやろう、教えてやろう、アンナ・ザイツェヴァ! 我が異能(アート)を! イヴァン・フョードロヴィチ・カラマーゾフは、《教唆》する!』

「っ……《教唆》……?」

『そう、《教唆》だ! 他者の精神に固定観念を植え付ける───今、このようにな!』

 

 

 ハヤトさんの叩き付けられた壁。ハヤトさんが叩き付けられ、粉砕されて巻き上げる煙それだけの威力だ、まさか無事ではあるまい。

 

 

『《うつくしきもの》のための! 私の力だ!』

 

 

 そして、陶酔する言葉を吐きながら。その瞳は、もう一度わたしとアレクセイ君に向けられて───

 

 

「───銀行強盗(ボリシェヴィキ)どもに尻尾を振るばかりか《黒い道化師(ラスプーチン)》に与えられた力で傲る、憐れな男め。貴様に、信念の力と言うものを教えてやろう」

『何──────バカな?! 《アブホール》の一撃を受けて、無事な筈がない! 《アブホール》に傷つけられたものは、例外無く、黒く腐り果てて死ぬと言うのに!』

 

 

──立っている、その人は微塵も揺らがずに。空色の羽織を夜風にはためかせながら、二つの足でしっかりと。

──わたしたちを庇うように。気高き、漆黒の狼が。吼えて────

 

 

「如何に《アブホール》の爪が鋭かろうと、強靭であろうとも。我が大将の……勇さんの《長曾根虎徹》は、決して折れない」

『貴様ァァァ!』

 

 

 わたしの目の前に立っていた無傷のハヤトさんは、呆れたように、憐れむように呟いて。構え直した刀に、静かに息吹を掛ける。

 

 

「《大いなる渦(ルー・クトゥ)》の言葉を借りて。来たれ、我が影、我がかたち」

 

 

──刹那、確かに見えた。蠢くように歪なもの。虚空に刻まれる、大きな、大きな────忌まわしい、渦を。

──膨れ上がり、揺らめく、不気味な渦を。

 

 

「炎すら凍結する極寒の辺獄────」

 

 

──半透明に透き通ったアネモネ(アニモン)の花のような。

──或いは、この世ならざるもののような。または、捻れた音のような。

 

 

「氷すら凍結する零下の凍獄──」

 

 

──もし、背後に《白い彼》が居なければ。それだけで、精神が凍りついていただろう。

──きっと、あれは見てはいけないもの。見えては、いけないもの。

 

 

「そして、滅びをもたらす絶対零度の渦。我が声に応えて出でよ、我がかたち」

 

 

──そして、そこに潜むもの。あらゆるものを嘲笑する、二対四つの黄金の瞳を見て。『人間め、愚かな猿め。もっと惨めに、神の掌で踊って見せろ』と嘲笑う意思そのもの。

──()()()()()()()()()()。見たことなんてないけど、()()()()()()()()()()()()()()。わたしは、涙、流しながら見て────

 

 

「無情なる氷の神。《ふるきもの》、ブグヌ=トゥン!」

 

 

 閃光の速度で渦が歪む。

 瞬きの速度で氷が湧く。

 氷の怪物が、無明の黒を睨むのだ。

 

 

「汝の(かいな)は我が腕。汝の罪、あらゆる全ては我が罪。さあ、《ブグヌ=トゥン》。俺達の敵は、忌まわしく黒き闇の中の吸血鬼(ウピル)

 

 

 その機関刀(エンジンブレード)を氷が伝う。意思のある氷、のたうつ蛇のように。鋼を、氷の速度で、氷の冷たさが覆う。

 絶対の零度を纏って、辺りの黒い雪すらも揮発させながら。ハヤトさんは────

 

 

「……言っておくが、俺は。《雷電王(ペルクナス)》や《黄衣の王(ストリボーグ)》のようには甘くないぞ────仔兎(ザイシャ)

「っ────」

 

 

──わたしに、言葉を投げ掛ける。振り向くこともなく、ただ、それだけを。囁くように穏やかな声色で、でも、宣言するように冷酷な声色で。

──それだけで、分かる。ハヤトさんは、イヴァン先生を()()()()()()()()()こと。このまま────あの漆黒の怪物ごと、()()()()()()()()ことが。

 

 

『じゃあ、どうするの?』

 

 

────では、どうするんだい?

 

 

「────わたし、は」

 

 

 震える。怖い。あんな怪物の前に出るなんて。

 

 

『きみは、なにがしたい?』

 

 

────目を覆う?

 

 

「イヴァン先生、を────」

 

 

 でも、それでも。

 

 

『ぼくは、きみをみているよ』

 

 

────瞼を閉じる?

 

 

『ぼくには、からだがないから』

 

 

────それとも

 

 

 わたしは────

 

 

「────助けるわ、絶対に。イヴァン先生を」

 

 

──鋼の兜に包まれて──

 

 

『アンナ。アナスタシア。ぼくは、きみをみている』

 

 

──鋭く輝く、青が一つ──

 

 

 背後に立ち上がるもの。影、《背後の白い彼》。その存在をしっかりと感じながら。

 

 

 

 

──少女の瞳──

 

 

 

 

──わたしは、瞳を逸らさない!

 

 

 

 

──血の海原に揺蕩う、望月の黄金に煌めいて──

 

 

 

 

 視界の端で踊る、黒い道化師(クルーン)の言葉なんて聞こえない。聞こえていても、意味なんてない。わたしは、絶対に、瞳を逸らさない。

 

 

 だって。

 

 

──まだ、イヴァン先生に、伝えないといけないことがあるもの!

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた皇帝(ツァーリ)の城だ。誰もが知りながら、誰もが知り得ない。漆黒と排煙に閉ざされた、この世の地獄だ。

 そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、八大地獄(カルタグラ)だ。そこは死して尚、魂を苛む八寒地獄(コキュートス)だ。

 

 

 ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。

 

 

「喝采せよ、喝采せよ! おお、素晴らしきかな!」

 

 

 声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。

 

 

「我が《最愛の子》が第四の階段を上った! 物語の第四幕だ! 現在時刻を記録せよ、ラスプーチン! 貴様の望んだその時だ────《鋼鉄の男》よ、震えるがいい!」

 

 

 その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の皇帝(ツァーリ)が一人。盲目に、白痴に狂ったままに。従う事の無い従者に向けて叫ぶのだ。

 

 

「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。時計など、持ち合わせてはいませんがね」

 

 

 答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

 

「くっ──はは。夢、夢だと? ああ、偽りの《黄金瞳》と、最初で最後の《奇械》を無駄にして────悪い子だ、アナスタシア」

 

 

 堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。

 

 

「ええ、ええ。本当に」

「そうね、そうね。本当に」

「全くだわ、全くだわ。本当に」

「「「本当に本当に悪い子ね、アナスタシア」」」

 

 

 傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共にロシア舞踊(ベレツカ)を躍り、嘲りながら。

 まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる道化師(クルーン)が。

 

 

「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛の形あり!」

 

 

──それが、物語の第四幕。お伽話か活動写真(フィクション)のような、男女の出逢い。

──路地の侍士(ストリート・ナイト)と、白い皇女殿下(ベールィ・インピェーラリスサ)の。

 

 

皇 帝 陛 下 万 歳(ウラー・インピェーリヤ)──────────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 

 その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けて────

 

 

「────すべて。そう、すべて」

 

 

 その、軋むような音をたてる両腕────

 

 

「全ては、ただ。《愛しく遠き理想郷(アイラ)》の為に」

 

 

 深紅の右腕と蒼白の左腕、揺らめかせながら────

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

「待っていて、アレクセイ君。すぐに終わらせるから」

「あ、アンナ、さん……」

 

 

 腕の中で震えている少年に、そう微笑みかけて。震える足と、心臓を奮い立たせて。

 

 

「……はい、どうか。どうか、兄を────助けて下さい!」

「ええ────必ず」

 

 

 泣き笑いの笑顔でそう答えた彼に、頷きかえして。きっ、と。精一杯の意思を込めて、前を見て。一歩、前に出る。ハヤトさんの影から、前に。わたしの足で、わたしの意思で。涙、拭いながら。濡れた袖の()()、無視して。

 背後から、視線を感じる。ハヤトさんと、ヌギルトゥルさんの視線。受けて────

 

 

『よい覚悟だ。援護する』

「機会は一度限り。あのデカブツを、俺が斬った瞬間のみ。他では、間に合わない」

 

 

 ハヤトさんの言葉の意味、よく分かっている。あの怪物を産み出したのは、イヴァン先生の心。あれが存在する限り、あれを壊さない限り、イヴァン先生は囚われたまま。

 

 

────その通り。あのままにしていても、どうにかしようとしても、彼は死ぬ────

 

 

 そして、あれを壊せば、イヴァン先生の心もまた、壊れてしまう。つまり、助けることができるのは、その一瞬のみ。

 

 

────命、ではなくて。心が、記憶が。(スターリ)になるのさ────

 

 

 嘲笑う道化師が煩わしい。今、忙しいの。何処かに、消えろと言葉を────

 

 

「────仔兎(ザイシャ)

「ひゃ────!?」

 

 

──吐こうとした瞬間、背中側から抱き寄せるように。それに、顎、持ち上げられて。強制的に、上を向かされた。そこには、黒髪の男性の顔。極東の彼の、その狼のような赫い瞳が、覆い被さるように見下ろしていて。

──後少しで、キス、が、できそうなくらい。それくらい、近くて。わたし、きっと真っ赤だと思う。

 

 

「道化師など放っておけ。今は、目の前に集中しろ」

「あ──は、はい」

 

 

──紫煙の残り香を漂わせながら。不思議、彼の持つ刀の氷の冷たさ、感じられなくて。

──そう、一回きりの機会。失敗なんてできないんだから、あんな道化師のことなんて、気に留めてやらない。

 

 

 その事に気づいた瞬間────道化師は、肩を竦めながら。黒い雪に、景色に、融けるように消えて。

 

 

『だいじょうぶ────ぼくが、てつだうから』

 

 

 代わりに、《背後の白い彼》。その強い存在感を、確かに感じて。

 

 

「……大丈夫です、やります! だから────」

 

 

 彼の瞳、真紅の瞳を真っ直ぐに見上げながら。見つめ返しながら、言葉を。決意と共に。

 

 

「────どうか、貴方の力を貸してください。ハヤトさん」

 

 

 口にすれば────

 

 

「────承知(ダー)我が皇女(モーャ・リージィ)……アンナ」

 

 

 彼は、真摯な表情のまま。普段はしないような、軽口を述べて。

 

 

「────“差し向かう 心は清き 水鏡”」

 

 

 また、極東の言葉で。多分、詩編を詠んで。

 

 

 金属の擦れ合う音、甲高く。わたしとハヤトさんの回り、飛び交う漆黒の刃金(ハガネ)。それが、ヌギルトゥルさん────二輪蒸気機関車『サモセク』の装甲であると悟ったときには、もう。

 

 

《────行くぞ》

 

 

 背後のハヤトさんの姿、全身を鎧に包まれた────カダス北央帝国のヒュブリス帝が作り上げたと言われる《駆動鎧(アーマード・トルーパー)》を思わせる、黒い騎士の姿に変わっていて。

 

 

「────はい!」

 

 

 答えた瞬間────怪物の重厚なものを引き裂くように響いた、つんざくように警戒な蒸気機関の稼働音。ハヤトさんの背中の、二輪蒸気機関車の機関が、激しく排煙を噴いて。

 

 

『機動鎧だと────生意気な、猿の分際でェ! () () () () () () () ! 』

 

 

 それに気付いた怪物が、両腕を振るう。鉄の雨、鉄の風。わたしたちを飲み込もうと吹き荒れて。

 

 

《飛ぶぞ、ヌギルトゥル────圧縮蒸気噴出機構(スチームガスト)、作動準備。直線機動、シリンダー圧三割!》

了解(ウィルコ)!》

「は────うっ?!」

 

 

 聞こえた、その台詞。二度目だから、心構えはできている。できている────

 

 

「ひゃ────あぁぁぁ?!!」

 

 

──できていたけど! やっぱり慣れないものは慣れないから! わたし、大きな刃金の翼を広げたハヤトさんの左腕、黒い鋼鉄に包まれた左腕に抱かれるように!

──高く、高く! 黒い雪雲に届きそうなくらい、空高く!

 

 

 飛んで────!

 

 

『バカな────何故動ける! 私の《教唆》を受けて、動けるわけが!』

《教えてやろう、教えてやろう、イヴァン・カラマーゾフ。この鎧は、仕手(シテ)の精神に作用する効果を遮断する。つまり────端から、相手にならんと言うことだ、貴様など》

『 貴 ィ ィ 様 ァ ァ ! 』

《 残 念 だ っ た な ! 》

 

 

 遥か遠い地上、《赤の広場》の石畳の上で喚く黒い影がある。小さい、今のこの高さから、聖ワシリィ大聖堂の尖塔の上から見下ろせば。

 なんて、小さい。そうよ、あんなもの。怖くなんかない────!

 

 

『 () () () !  () () () () 穿() () () () () () () () !  () () () () () ! 』

 

 

 それに、イヴァン先生は黄金の右目を煌めかせながら。自分と、怪物にそう《教唆》しながら。

 無数の右手のただ中、掌に。強靭な牙を幾つも備えた、顎を作り出して。

 

 

 振るって────散弾の如く、牙を放つ!

 

 

《天然理心流────》

 

 

 でも、ハヤトさん、天の頂でくるりと頭を下に向けて。真下に向けて、更に、勢いよく。

 

 

 まるで、雹のように、最高速度で────!

 

 

《────電光剣(デンコウケン)!》

 

 

 圧縮蒸気の塊に、全てを灰燼に帰す劫火を纏った刀を真っ直ぐ、振り下ろす────!

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が眩むような閃光。意識を飛ばしそうな衝撃。普通なら、今頃、わたしの体なんて雪のように消えていると思う。

 

 

『馬鹿な……!』

 

 

 でも、生きている。わたしには、まだ────

 

 

『そんな、馬鹿な! なぜ生きている、ウピルの牙を食らって! なぜ!?』

 

 

──やらなきゃいけない事が、あるから!

 

 

『 () () () !  () () () () () () !?』

 

 

 あと、五歩の距離で。異能で造り上げたんだろう漆黒の腕、その掌の強靭な牙をわたしに突き付けて、叫ぶイヴァン先生。

 背後では、ハヤトさんに眉間から刀を突き立てられて。完全に動きを止めている黒い怪物が、全身を凍てつかせている。

 

 

『なぜ、私の邪魔をする────お前は、どうして!』

 

 

 後、四歩の距離で。ガチガチと牙を鳴らす異形の顎。放たれる牙の礫。でも、でも。

 

 

遅いわ(ニズカャ)────」

『なんだ、それは────なんなんだ、お前は! その目と言い、その化物と言い!』

 

 

 後、三歩の距離で。《背後の白い彼》が、わたしを護ってくれる。白銀の左腕で、それを打ち払って。

 

 

『 () () () 、 () () () () () ! 』

「────喚かないで(チーハ)!」

 

 

 後、二歩の距離で。《教唆》の叫びは響く。でも、《背後の白い彼》がそれを許さない。だから、それはただの人の声だ。構わず伸ばしたわたしの左腕、それに沿うように、白銀の左腕、重なって。

 

 

「わたしは決して破壊しない。わたしは決して奪わないわ。あなたに、夢を、取り戻してほしいだけ」

『私の、夢、だと?』

「思い出させてあげる。わたしは、ううん、()()()()()は、()()()()()()()()()()()()()だから」

 

 

 わたしたちになら、できる。わたしたちの、この、《善なる左手》ならば。

 

 

『何を言っている! 私の夢は、夢は!』

 

 

──思い出して、イヴァン先生。あなたの夢を。

──あなたの夢は。()()()()()()()()()()()()じゃないでしょう?

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

 後、一歩の距離で。わたしは、背後に囁く。

 

 

「背後のあなた。わたしの《奇械》イクトゥス────わたしは、あなたに、こう言うわ」

 

 

 心臓に牙を突き付けられた、後、零歩の距離で。決意と共に、白銀に煌めく左腕、彼に────

 

 

 

 

 

 

「────“薄氷の如く、溶かせ”」

 

 

 

 

 

 

 触れて────────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

──壊れていく。私の《ウピル》が。凍てつかされ、砕かれる。私の《古き恐怖(アブホール)》が。凍り腐れさせられ、瘴滅させられていく。私の、恐怖の形が。

──良かった。やはり、この世には有ったのだ。恐怖に負けない勇気が、恐怖に打ち勝つ正義が。ああ、それが知れただけでも、良かった。

 

 

「あ、あ────」

 

 

 そして、思い出す。私は、イヴァン・カラマーゾフは。ザイツェヴァと、その背後に顕現した《白い影》の手が触れた瞬間、再生されたその過去を。まるで、活動写真のように。

 青年の頃、憧れた女性。その、《うつくしきもの》を。まだ、愛は全てに勝ると信じていた、あの日。生まれた、夢を。増殖し続ける、その現在を。

 

 

『そうか、私は────』

 

 

 そう、思い出した。私の夢。私の願いを。

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

 私の、夢は────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「ああ────そう、だったな……」

 

 

 カラン、と。地面に落ちて、白い仮面が砕け散る。砕けて、《黒い雪(チェルノボグ)》に紛れて、見えなくなる。

 ぽろぽろ。ぽろぽろ。目の前で零れ落ちた、イヴァン先生の涙、右目からの涙と共に。

 

 

「私の、夢は────」

 

 

 消えた黄金の輝きと共に、流れた黒い煤と共に、失われた《教唆》の異能と共に。

 

 

「────イヴァン!」

「────イヴァン兄さん!」

 

 

 女性と、少年が────いいえ。カテリーナさんとアレクセイ君が、その右手を、彼に。イヴァン先生に、伸ばして。

 

 

「兄さん、兄さん────」

 

 

 倒れた彼の、体を抱き寄せて。ホテル・メトロポールから駆け付けたのだろうカテリーナさんと、今まで震えているだけだったアレクセイ君が。

 。

 

 

「……ごめんなさい。ごめんなさいね、イヴァン……いつもいつも、あなたにばかり迷惑を掛けてしまって────」

 

 

 倒れ付した彼に右手を、重ねて。笑顔のままで。全身から汗を、白い吐息を、涙を溢しながら。

 笑顔のままで、ぽろぽろ。ぽろぽろ。零れ落ちるのは────

 

 

「ああ、ああ────そうだ。国も、主義も、どうでも言い」

 

 

 雫、涙で────

 

 

 それは────

 

 

「私の夢は────ただ、欲しかっただけだった、な」

 

 

 力尽きた彼の吐息と共に、風に吹かれる雪のように。

 

 

「本当の…………()()が…………」

 

 

 モスクワの街並みに、消えていった────……………………

 



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夢Ⅱ ―мечтать Ⅱ―

 

 

 それは、黒い雪の詩編。それは、黒い雪の物語。

 

 

 そこは鋼鉄の都市でした。大きな壁に囲まれた都市に、青年は居ました。大きな、大きな壁です。縁すら見えないくらいに、大きな壁に。鉄のカーテンに囲まれた都市です。大きな壁に囲まれているくせに、でんと構えた、大きなお城です。

 青年には、愛した女性が居ました。とても綺麗な女性です。青年にとっては、狂おしいくらいに、愛した女性です。いつもにこやかで、だけど、最愛の女性が。

 

 

 女性は、青年に教えてくれました。『愛している人がいるの』、と。彼ではなく、彼のお兄さんを愛しているのだ、と。

 

 

 青年は、それを受けいれました。受けいれて、壊れました。だって、青年は、女性を愛していただったから。

 受けいれました。受けいれて、そして腐れました。ぐずぐずに、どろどろに。反吐のようになっても。腐れて、崩れて、もう動くこともできません。

 

 

 腐れて、崩れて、青年は嘆きます。だけど、誰も助けてくれはしません。だって、青年は、女性を愛していたから。

 でも、青年は道化師と約束しました。だから、皇女さまがやって来ます。

 

 

 ほら、第三の皇女さまが来ました、黒い雪の合間にふわふわ浮いて。白い光、ゆらゆら。白い皇女さま、ゆらゆら。嘲り、笑いながら、ゆらゆら。

 皇女さまは青年に言いました、『時間だよ。イア・イア。思い出す時間だよ、イア・イア』。すると、青年はぐずぐず、ぐずぐず。腐れて、崩れて。

 

 

 青年は嘆きます。腐れるのは別にいい。ただ、あの子に伝えたかったと。言葉にしたいことがあったと、嘆きます。

 でも、皇女さまはなにもしてくれません。誰も助けてくれはしません。この鋼鉄の都市では、自分の事は、自分でしなくてはいけないから。

 

 

 

 

 

 

 

Q、世界とは?

 

 

 

 

 

 

 

 どうしますか? 誰も助けてくれはしません。青年は嘆くばかり。どうすれば良いですか?

 

 

 

 

 でも────

 

 

 

 

 もしも────

 

 

 

 

 あなたが────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 あの夜から、一週間後の安息日の日。黒い雪の降る、その日。わたしは、ユーラシア大陸を横断するシベリア機関鉄道の駅舎に居た。黒い雪は天井により遮られて、寒さは暖房機関により外に追い出されていて。

 そんな、モスクワ駅構内で。わたしは、三人の前に立っている。

 

 

「わざわざ見送りに来てくださって、ありがとうございます、アンナさん」

「本当に。ご迷惑じゃなかったかしら?」

「い、いいえ、そんなことありません。それに、お渡ししないといけないものもありましたから」

 

 

 にこりと微笑んで、アレクセイ君とカテリーナさんが口々に申し訳なさそうに。だから、むしろわたしが恐縮してしまって。だから、慌てて、鞄の中から一通の封筒を取り出して。

 

 

「あの、これ……印刷した篆刻写真です。皆さんの」

「あら────」

 

 

 頭を下げて、熱くなった頬を隠しながら。だって、気に入って貰えるか不安だから。わたしとしては会心の出来だけれども、外の人もそうかは分からないから。

 受け取ってくださったカテリーナさんは、中身を取り出して。それらを眺めて────

 

 

「まあ、こんなに綺麗に撮って貰えるなんて……ほら、あなたもご覧なさいな、アレクセイ」

「はい、姉さん────わあ、すごいや」

 

 

 また、さっきよりも微笑んでくださって。アレクセイ君も、同じく。同じく、更に眩しい笑顔を見せてくれて。

 

 

「兄さん、兄さんもご覧よ!」

 

 

 そして、『その男性』にも、篆刻写真を見せて────

 

 

「────ああ、よく撮れている」

「あ────ありがとうございます、イヴァン先生」

 

 

 穏やかに頬笑むイヴァン先生にも、見せて。イヴァン先生も、やっぱり、もっと微笑んでくださって。わたし、それに恥じ入って。

 

 

「流石は、篆刻写真家の卵だな、ザイツェヴァ?」

「う、うぅ……せ、先生。それは」

 

 

──キュルキュル、と。金属の軋む音を立てながら。動かなくなってしまった両足の代わりの、車椅子の車輪を回しながら。心因性のものだろうと医者が判断した……つまり、匙を投げた……両足の代わり。

──数日前に、療養のためにモスクワ大碩学院を辞したイヴァン先生は、微笑んで。わたしの、少し、いいえ、かなり恥ずかしい夢のことを言ったから。

 

 

「────ところで、あの、ドミトリーさんは……」

 

 

 だから、話題を変えようと。ここに居ない、カテリーナさんの旦那さまのことを口にして。

 

 

「ああ、あの人なら────置いてきちゃったわ、目覚ましを三時間後にずらして。あと、財布を持ってきて、ね?」

「え、ええっ?!」

 

 

 物凄く、意外な言葉を聞いてしまう。まるで、悪戯っこみたいにペロリと舌を出したカテリーナさん。今ごろはまだ眠りの壁の彼方だろうけど、この後、ドミトリーさんの経験するだろう未曾有の窮地に同情────は、あんまりしないけれど。

 

 

「まあ、いい薬でしょ、これくらいの苦労は。()()()、私も浮気相手もそっちのけで、素っ裸でホテルの外まで逃げ出したような人には」

「あ、あはは……」

「……はは」

 

 

 それと、力なく苦笑するアレクセイ君とイヴァン先生も。もしもここにリュダがいたら、『それってすごくエイダ主義的ですよ!』なんて喜びそうな台詞に。

 ポー、と。列車の汽笛の音が重なって。吹き出された排煙が、虚空に消えて。

 

 

「────ああ、そろそろ発車時間みたいね」

 

 

──発車時間。つまり、お別れの時を告げる音が、木霊して。

 

 

「そろそろ、入りましょうか。姉さん、兄さん。それでは、失礼します、アンナさん」

「ええ、そうね────じゃあ、さようなら、ザイツェヴァさん」

「……ではな、ザイツェヴァ。応援しているよ、君の、夢を」

「うん、さようなら、アレクセイ君、カテリーナさん。はい、ありがとうございます、イヴァン先生」

 

 

 汽笛の告げる通り、三人は去っていく。『ウラジオストク行き』の、砲弾列車に乗って。『サンクトペテルブルク行き』では、なく。

 未来に向かって。過去を振り払って。真っ直ぐに。その未来に光があるように、わたしは、祈ろう。

 

 

「────そうだわ、ザイツェヴァさん」

 

 

 と、カテリーナさんは、イヴァン先生の車椅子を押しながら。最後に、また、悪戯っこみたいに。

 

 

「あのね────」

「────はい」

 

 

 最後に。穏やかに、言葉を。

 

 

「好きな人には、ちゃんと、気持ちを伝えてね」

「は、い」

 

 

 口にして。懐かしむように、微笑んで。釣られてか、イヴァン先生にアレクセイ君も、皆が。こっちを向いたまま、微笑んでいて。

 

 

「────しっかり、彼を、繋ぎ止めておくのよ。私達のようには、ならないように」

「────」

 

 

 その言葉を、聞いて。わたしは────ますます恥じ入りながら。恥じ入りながら、それでも。

 

 

「────はい!」

 

 

 負けないように、笑顔を返して。ライカ社製の、篆刻写真機を取り出していて────

 

 

 

 

 

 シャッターを、切って────

 

 

 

 

 

 笑顔を────

 

 

 

 



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第四章 聖なる鳥
白い鳥 ―Белая птица―


 

 

───黒い。黒い。ああ、ここはなんて黒いのだ。

 

 

 ヒュウヒュウと、頭がつかえそうな程に低く立ち込める灰色の雲の下。煤けた虚空を渡るの風音を聞きながら、ふと思う。かつては煌めき、輝いていたこの《世界》。しかし今は既に、煤けて、澱んでしまったこの《世界》。その北辺の雪は、更に黒く淀んでいる。

 全ての元凶は、遠く排煙の柱を立ち上らせるチェルノブイリ皇帝機関(ツァーリ・エンジン)群。懐かしき《世界》を染めつくし、奪い尽くした、呪わしきもの。

 

 

──ああ、思い出すな。あの日々を。忌まわしい、輝ける日々を。

 

 

 薄暗く淀む大気に白い息を吐きながら、私は地上を睨む。この西亨には、否、あの《カダス》にすら。もうこの《世界》には、既に《我々》に生存の権利はないのだから。

 

 

──だから、ああ。

 

 

 昔を懐かしんだところで。私は、私には、もう。

 

 

──視界の端に。

 

 

 戻るべき場所も。迎えてくれる《仲間達》も。

 

 

──躍る、道化師が見える。

 

 

 ありはしないのだから────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

────白い鳥のおとぎ話。或いは、大いなる渦のおとぎ話。()しくは、大空のおとぎ話。

 

 

────許さない

 

 

 かつて、世界は虹色に輝いていました。果てし無い青空、何処までも続く海原。どちらも清らかに、どちらも美しく。その狭間には、虹色の輝きが在って。

 そこに、一羽の鳥が居ました。真っ白な鳥です。或いは、虹色の鳥です。まだ小さいですが、この天空の持主でした。

 

 

────許さない

 

 

 白い鳥は今日も、空を飛びます。何処までも、何処までも。邪魔をするものなんて、そこにはありません。鳥は、自由でした。

 白い鳥は今日も、波に漂います。何処までも、何処までも。邪魔をするものなんて、そこにはありません。鳥は、自由でした。

 

 

────許さない

 

 

 大好きな空と、海の狭間で。黒から紫、青から緑、黄色から赤に代わり行く、輝きに照らされて。だから、白い鳥は、虹色の鳥です。

 

 

────許さない

 

 

 だけど。ああ、だけど。

 

 

────許さない

 

 

 いつからでしょう、その灰色が生まれたのは。最初は、仄かに煙る程度でした。だから、白い鳥は気にもしません。むしろ、新しい色に喜んでいて。

 だから、気付いたのはずっと後。その灰色が、染み付いて取れないと知ったのは、ずっと後。

 

 

────許さない

 

 

 大好きな空と、海が。灰色に塗り潰されてしまってからで。取り返しがつかない、灰色の世界に成り果てた後で。

 

 

────許さない

 

 

 だから、鳥は────

 

 

────許さない

 

 

 決して、決して。この空を、この海を。灰色に汚した《人間たち》を────

 

 

────絶対に。絶対に、許さない。許すものかよ

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 本日のモスクワ大学碩学院……かつてはモスクワ帝営碩院と呼ばれた……の教科を終えて、ガガーリン君とオジモフ君を引き連れて繰り出したモスクワ市街、《赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)》近くのミュールとメリリズ。リュダはいつものように服屋を中心に、ガガーリン君とオジモフ君は機関部品を扱う雑貨屋を中心に見ている中で。

 わたしは────アンナ・ザイツェヴァは、ライカカメラの部品を扱うカメラ屋を見ていて。

 

 

──レンズ、良いの入ってるなぁ……。瑞西(スイス)の、スワロフスキー社製の。最近できたばかりだけれど、凄く良質なレンズを磨きあげる会社。透き通った、まるでダイアモンドみたいな。だけど、今のわたしの財力だと手が出ないし。うん、逆立ちしたって、絶対に。

──うう、残念だけれど。今回は見送るしかないのかしら……。

 

 

 なんて、ほう、と溜め息を溢しながら。わたしは、アンナ・ザイツェヴァは、カメラのレンズを諦めて。

 

 

「おーい、ザイツェヴァ! もういいのか?」

「あ、うん、ガガーリン君!」

 

 

 呼び掛けられて、慌てて外に。これ以上、わたしの勝手は通せないと自重して。《ミュールとメリリズ》の入り口、即ち出口に集まって。

 

 

「────あら、アーニャ。お買い物はなし?」

「あ────リュダ」

 

 

 立ちはだかるように、来るときには持っていなかった手荷物を抱えたリュダが。その時、感じた香気。それは、確かに。

 

 

「────フランソワ・コティ氏の、《ヴァニラ》……」

「あら、流石はアーニャね。ええ、そう。フランソワ・コティの《ヴァニラ》よ」

 

 

 リュダが漂わせていた香気。《香気公》フランソワ・コティ氏の香水、《ヴァニラ》。特徴的な、甘い香りに誘われて、わたしは口にしていて。

 

 

「うふふ。アーニャも女の子の自覚はあったのね。まぁ、お気に入りが同じフランソワ・コティってのはご愛敬だけど。ユーリィもイサアークも、『甘い香りがする』くらいのもので呆れてたところよ」

「まあ、失礼なリュダですこと」

 

 

 ふふん、と。なぜか勝ち誇った顔のリュダを、むう、と。上目使いでにらみ返して。

 

 

──《香気公》フランソワ・コティ氏の香水、名高き、《ヴァニラ》。このソヴィエトが、事実上の鎖国政策である、《鉄のカーテン》を敷く前に。かつてのロシア機関帝国であった頃に西欧諸国から輸入していた物の一つ。

──わたしのお気に入りの香水、《ヴァイオレット》と同じ。海外……内陸ではあるけれど……の、輸入品の一つ、で。

 

 

 ふと、思い出す。今使っている《ヴァイオレット》の小瓶。節約して節約して使ってはいたけれど、もう、残り少なくなっているそれ。まだ、どこかで売っているかしら。それが気にかかって。

 

 

「へー、アンナも香水使ってんのか。知らなかったぜ」

「ふむ。パヴリチェンコからは良く匂うが、確かにザイツェヴァからは感じたことはないな」

「そりゃ、気付かないでしょうよ、あんたたちは。なにせアーニャが《ヴァイオレット》を使うのは、《愛しの騎士様》と逢瀬する安息日だけなんですから」

「にゃっ────なに言ってるのよ、リュダ!」

 

 

 外していた帽子と手袋を着けながら、歩みでたモスクワ市街。温かい屋内と凍てつく外気との気温差に、肌や粘膜は痛みすら感じて。それでも今日は、どちらかと言えば温かい方。

 灰色にくすむ雪を踏みながら、わたし達はそんな、いつもと変わらない日常を過ごす。

 

 

──ソヴィエト共産党の、ソヴィエト共産党第一書記長ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン同志の支配する。ユーラシア大陸最北に位置する、世界初の社会主義国家である、このソヴィエト機関連邦の首都モスクワで。

──死の国家法が敷かれたこの地で。僅かにでも反革命委員会(ヴェチェーカー)に疑われれば、銃弾による速やかな死(スターリン・ノック)か、シベリアの矯正収容所(グラーグ)での緩慢な死かのどちらかがもたらされる、無慈悲な世界で。人々は働き、学びながら。

──《格差のない理想郷》となるはずだった、この国で。埋めようのない貧富の差を嘆き、機関工場製の工業用アルコホール混じりの粗悪な合成ウォッカと、ロシアンマフィア(ルスカーヤ・マフィーヤ)により蔓延する新型ドラッグ《クラカヂール》に溺れ、耽りながら。日々の鬱憤をアネクドートとして密やかに囁きながら、生きている。

 

 

──許さない

 

 

 そんな、内心を押し隠して────

 

 

「え────?」

 

 

 と、誰かの《声》を聞いた気がして。思わず見上げた、灰色雲に覆われた空。有り得ない、だって、他の国ならともかく。この国で。この、ソヴィエト機関連邦で。

 空を、見上げるなんて。有り得ないから。何も、得なんて無い。降り落ちる煤煙混じりの灰色の雪に、目を潰されるだけだから。

 

 

「────ひゃっ、ふにゃ?!」

 

 

 だから────驚きが先に立つ。真っ白な、それを眼前にして。顔をまるっと覆われて。

 温かな、ふわふわした、()()()()()()()()()()()の、塊に。包まれて────尻餅をついてしまって。

 

 

「ちょっ、あ、アーニャ?!」

「おい、大丈夫か、アンナ!?」

「ザイツェヴァ、大丈夫か?!」

 

 

 驚いているのは、わたしだけじゃない。リュダも、ガガーリン君も、オジモフ君も、皆、同じように慌てふためいて、わたしに呼び掛けて。

 

 

「だ、大丈夫…………」

 

 

 そして、わたしは身を起こす。実際、大した事はなかったから。精々、頭に一ブロックのお肉が乗ってきたくらい。驚いたくらい。

 

 

──なの、だけれど。うん、本当に。驚きはその程度だったけれど。

 

 

 問題は、それじゃなくて。今、わたしの頭の上にある重さ。それは子猫くらいの大きさで、温かくて、ふんふんと、粗く呼吸している────

 

 

「……なんだけど、その」

 

 

 その、割りと大きな、《生き物》を。感じて────

 

 

「────犬?」

「────猫?」

「────鳥?」

「ど、どれ?」

 

 

 三人が三人とも、別々の生き物の名前を口にした。その、正体不明な存在がの、息遣いで────…………



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白雪姫 ―Снегурочка―

 

 

 薄暗い機関灯の灯る室内。視覚化される程に濃密な、鋼の如き圧迫感。そこは、このモスクワで最も重厚な威圧感に満ちた一室だ。そこは、このソヴィエトで最も鋼鉄の冷たさに満ちた一室だ。

 そのただ中で、男女が二人。革張の椅子に腰掛けて最新式の機関パイプから紫煙を燻らせながら、窓の外のモスクワ市街を眺めていた男と、その隣で直立不動の姿勢のまま、静かに目を閉じていた金髪の女が二人。

 

 

 見下ろす広場、赤く輝く、五つの塔の頂の星。その煌めきが揺らめいた刹那に。

 

 

「────コーバ。我が親友」

 

 

 女が口を開く。金髪に碧眼の、赤い軍装に身を包む美しい女が静かに、低く、鉄の強度を持って。

 もしこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも失神は免れ得ぬほどの威圧と共に。

 

 

「なんだい、モロトシヴィリ。モロトシュティン?」

 

 

 それほどの声を受けても尚、男は揺るがない。色素の薄い灰色の髪に猫めいた黄金の右瞳と、青い左瞳の怜悧な美貌の。同じく、真紅の軍装に身を包む男が。胸元に、()()()()()()を備えた軍装の男が。

 鉄の声を上回るほどの、鋼鉄の強度を持って。男は、小揺るぎもしないまま。もしもこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも落命してしまいそうな威圧と共に。

 

 

「モスクワへの《侵入者》を確認した。彼の者の願いは果たされるやもしれぬ」

「だろうね。だが、それもここまでだ。あそこには────()()には、《白騎士》と《黒騎士》が居る」

 

 

 左手のカップから、輪切りにされたレモンの浮いた紅茶を啜る。愉しげに、実に愉快そうに。

 

 

「ドーブリョ・ウートラ。愚昧にして哀れなる《ふるきもの》。《魔女(クローネ)ババ・ヤガー》に仕える、三体の騎士の内の二体。白騎士と黒騎士、朝陽と夜闇の具現。貴様の権能で、どうにかできると思っているのか」

 

 

 自らの視界の先、灰色の雪が降り続くモスクワ市街を眺めながら。子供の悪戯でも見るかのように、嘲笑いながら。

 

 

「……では、()()()傍観に徹するのだな?」

()()()だ、モロトシヴィリ。モロトシュティン。私が出ずとも、あの程度の完成度しかない《玩具の怪物(クリッター)》くらいは、自力でどうにかしてもらわねば」

「了解した、コーバ。我が親友」

 

 

 全てを話終えたとばかりに、女は口をつぐむ。同じく、男も。後には、音もなく降り続ける黒い雪と、時折、排煙を噴くパイプの音だけが残って。

 

 

「だからこそ、私はこう言おう────」

 

 

 もう、そこには、会話はなくて。

 

 

「────『茸と名乗ったからには(ナズバールシャ・グルスデョーム)籠に入れ(ポリザーイ・フ・クーゾ)』、と」

 

 

 最後に、ポツリと。溜め息のような、そんな声が────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

──困った、うん、本当に困ったわ。

──どうしたら良いのやら、ええ、本当にどうしたら。

 

 

 わたしとリュダの借りている、モスクワ大碩学院の学生寮のアパルトメントの一室。暖房機関(ジャラー・ドヴィーガチリ)に暖められた空気が満ちた一室で、わたしは、眉根を寄せている。

 と、言うのも。

 

 

「ほら、白雪(スニェーク)ちゃん、小鳥(プチィーツァ)ちゃん。食べて、ね?」

 

 

 笑顔を心掛けて、古い手拭いを纏めた敷物の上に乗せた、生き物へと。先程、『わたしの顔に落ちてきた』生き物……思わず、息を飲むほどに、目が覚めるほどに()()()の目の前に、匙に乗せた鳥用の餌を差し出しながら。

 

 

『……………………』

 

 

 そして、プイッと。そっぽを向かれながら。

 

 

──駄目、やっぱり食べてくれない。外傷はなかったから、お腹が空いてか疲れ果ててかと思ったんだけれど、違ったのかしら。

──綺麗な、わたし達が生まれる前に失われたという《白い雪》を思わせる、見たことがないくらいに真っ白な鳥。鳥……鳥、よね? 金属の光沢のように虹色に煌めく羽毛の、宝石の光沢みたいに七色に煌めく瞳の。図鑑を調べてみても載っていないけれど……鳥、よね?

 

 

「『白雪(スニェーク)ちゃん』はともかくさぁ……アーニャ、どーこが『小鳥(プチーツァ)ちゃん』なのよ、()()の」

 

 

 うーん、と唸っていると、背後の扉が開く。現れたのは、勿論リュダ。部屋着に着替えた姿で、紅茶の香気を立ち上らせるカップを二つ、持って。

 そんなリュダをちら、と一瞬だけ見て。すぐに興味を失ったらしく、《白い鳥》はまた、宝石の視線を虚空に戻した。

 

 

「うわ、可愛いげなー。ふてぶてしいったらありゃしない」

「もう、リュダ。そんなこと言わないで」

「はいはい、アーニャさんは動物好きでいらっしゃいますものねー。博物館のステラーダイカイギュウとかメガネウとかの剥製、果ては革命広場駅(プローシャディ・レヴォリューツィイ)の犬の銅像とか」

 

 

──相変わらず、嫌味なリュダ。薄着になると本当に女性らしい体つきで、同じ女のわたしから見ても羨ましいくらい。

──嫌味なリュダ。素敵なリュダ。でもやっぱり、悔しいから嫌味なリュダ。

 

 

「なによ、悪い?」

「別に悪いとは言ってないけどもさ」

 

 

 紅茶を受け取って、一口含む。甘い、温かな液体が喉を滑り落ちていく、幸福感が身を包む。

 

 

「……美味しい」

「ふふ、当たり前でしょ? このリュダさんが淹れたんだから」

 

 

 なんて、言いつのって。それがなんだかおかしくて、わたしは一つ、息を溢してから。

 

 

「……あの、ありがとうございました。フョードルさん、シャーニナさん」

 

 

 部屋の隅に陣取って、存在しないかのように不動の二人に向き直る。そこに居ないかのように息を潜めて、背嚢の機関の動きさえも最小限に留めている、二人に。

 

 

『『…………貴婦人殿万歳(ウラー・ガスパジャー)』』

 

 

 フョードルさんと、シャーニナさん。クローム鋼の全身鎧に身を包む、《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》のお二人。背嚢に高倍率スコープ装備のドラグノフ狙撃銃を吊り下げたとても艶やかなシャーニナさんと、システマの達人張りな立ち居振る舞いで『武器は自分自身だ』と言わんばかりに筋肉の凄いフョードルさん。

 あの時、わたしの顔に《白い鳥》が落ちてきた後に現れて、移送を手伝って下さった後で。頑なにアパルトメントの外、酷寒のモスクワ市街で待とうとしていたところを何とか中に入ってもらったお二人は、同時に口を開いて。機関音のような声、響かせて。

 

 

 ちなみに、ガガーリン君とオジモフ君はリュダに『あんたら男連中はお断りよ』と、追い返されてたり。

 

 

「お手間を取らせてしまって、本当にごめんなさい。あの、ハヤトさんに怒られたら、わたしから謝りますから……」

『御心配ニハ及ビマセン、貴婦人殿(ガスパジャー)聯隊長殿(ダージェストラージ)ノ許可ハ頂イテイマス』

『故ニ、コレハ聯隊長殿ノ御指示。貴女ガ気ニ病ム事ハアリマセン』

「そう、ですか? じゃあ、ハヤトさんにも御礼を」

『『万歳(ウラー)』』

 

 

 申し訳なくて、頭を下げれば。フョードルさんの後にシャーニナさんがそう言ってくださって、最後に二人で首肯(うなず)いてくれて。

 

 

『……デハ、コレヲ作戦終了トシ、我々ハ撤退致シマス』

『御機嫌ヨウ、御二方』

「はい、さようなら、フョードルさん、シャーニナさん。ハヤトさんにも宜しくお伝えください」

 

 

 それだけを口にして、音も立てずに静かに扉から去っていくお二人を見送って。よほど、暫くしてから。

 

 

「前々から思ってたんだけどさ、アーニャ……あんた、どうやってあの《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》二人の見分けつけてるわけ?」

 

 

 リュダのそんな、不思議な言葉を聞いて────…………

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

──温かい。この北片の地でありながら、偉大なる《お爺様(ジェド・マロース)》の支配下であった、この地でありながら。

──気候すらも操るか、傲慢なる人間どもは。これも、かの《カダス》からもたらされた《機関》の所業か。忌まわしい。

 

 

 《彼女》の見つめる先には、恨み骨髄たる人間の姿。忌々しくも、瑞々しい。既に失われた『春』を謳歌するかのように若々しい、二体の人間の姿。

 草花の香りのする液体物を啜りながら、笑ったり怒ったり、かと思えばまた笑い合う。

 

 

──くるくると、ころころと。表情を、態度を変える。

──ああ、それは、まるで。

 

 

 思い至るものがある。あの、忌々しい姿。忌まわしき人間どもの中でも、飛び抜けて悍ましい、あの────

 

 

────こんにちは、《白雪姫(ス■■■■■カ)

 

 

 刹那、声が届く。呪われた横笛(フルート)のようにか細く単調な音色で消え入るように、しかし、くぐもった太鼓の放埒な連打の如く芯まで震わし、痺れさせる。

 否、断じて声ではない。それは、脳内に木霊する《数字》の奔流。恐るべき、人間の()()だ。

 

 

目覚めるときだ、そして────

 

 

──黙れ、疎ましき《黒影》。貴様如きが幻想たる《道化師(クラウン)》を気取るか、不敬者め!

──貴様の言葉などで、妾は狂わない。疾く失せるがよい、俗物!

 

 

 それを察した瞬間、《彼女》は強く、視界の端を睨み付けて。宝石の視線、七色に煌めいて────

 

 

────おや、それは残念だ

 

 

────実に、実に

 

 

────残 念 だ っ た よ !

 

 

 後に残るのは、哄笑だけ。空気も、鼓膜も揺らさずに。ただ、特定の人物の脳内だけに木霊して。

 ただ、不快感だけを残して。消えていく────

 



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輝き ―блеск―

 

 

 ふと、窓の外を見やる。なぜだろうか、何かに心を惹かれて。もちろん、窓の外をゆらゆらと降り降りていく灰色の雪は、今さらあり得ない。もう、飽きるほど見ているから。

 

 

──だとしたら、一体何に? 当然、弾みのような行動の意味などは見つかるはずもなく。わたしはただ、拭えない不快感だけを感じて。

──だからきっと、部屋に残してきている、あの《白い鳥》のことが気になるんだと思い込むことにして。

 

 

 モスクワ国営碩学院の壇上で自己紹介を行う、()()()()を改めて視界に納めた。

 

 

「────それでは、先ずは自己紹介をさせていただく。私はカタヤマ。カタヤマ・センだ。見ての通り極東人であるが、かつて合衆国に留学した経験もある」

 

 

──カラマーゾフ先生の代わりに、ソヴィエト共産党中央委員会から派遣されたという極東の人。極東の人らしく年齢の分かりにくい、灰色に褪せた髪と、深い皺の刻まれた厳めしい顔つきの、神経質そうな小柄の……だけど、巌のように峻厳な印象のスーツの男性。

──知らなかった、中央委員会に極東の人が居たなんて。いいえ、それを言うなら、極東の人なのに赤軍大佐のハヤトさんもだったけど。

 

 

「担当教科は現代史……即ち、この世界初の共産主義国家ソヴィエトの歴史。マルクス=レーニン主義だ。いままでの、そして、これからの、ね」

 

 

──ああ、そうだ。この人は、ハヤトさんやフョードルさんを、どこか思わせるんだ。あのぶれない体幹の動きや、低く地面に根を張るような佇まいが。

──あの、偉大なるヨシフ・ヴイッサリオノヴィチ・スターリン同志の腹心の一人とも噂されるという《極東の人》。露極戦争で祖国と拮抗してのけた恐るべき、《緋の丸(クルッグ・アルオゴ)》の男性。

 

 

 そんな、とりとめのないことを考えていて。だから、ふと、こちらを見詰めた彼────カタヤマ先生の、丸眼鏡の奥の鋭い眼光にたじろいでしまって。

 

 

「……自己紹介は以上である。担任として君たちに望むことは、ただ一つ。このソヴィエト機関連邦の明日を担う者として、恥ずべき事の無きよう」

 

 

 そして、その言葉を最後に。背中に鉄の棒でも入っているかのように正しい姿勢のまま、機関のように正確な歩調で歩き去っていく。

 誰かが噂していた。『メイジ政府樹立以降の文明開化で、極東の軍拡と文明化は信じられない早さで行われた。それこそ、他の国が五十年、百年掛かる改革を二十年ほどで成し遂げた』と。

 

 

 あり得ないことではないと思う。だって、先程まで目の前に居た男性は、信じられないくらいに『文明人』だったから。

 

 

「……おお、壮麗際高なる黄金の環(ザラトーシュ)は未だ喪われることなく。愛しき黄金(ゾルート・ゾルート)の煌めきはいや増すばかり……か。愚かなるかな、恥知らずの三流道化(ユロフスキー)め。貴様は、今際の際まで苦しみ続けるがよい」

 

 

 だから、聞き逃す。最後に彼が()()()()()()呟いた、その言葉を。

 

 

「そして、そして。黙れ、悪趣味極まる《黒い道化師(ラスプーチン)》め────貴様の言葉など届かぬわ、奸賊め!」

 

 

 そして、()()()()()()()()()()()()吐き捨てた言葉を。

 

 

「……何て言うか。カラマーゾフ先生の代わりには役者不足よね、アーニャ」

「リ、リュダ!?」

 

 

 隣でそんなことを盛大なため息混じりに呟いた、リュダのせいでもあるけれど。

 

 

「そうだ、アーニャ。話は変わるんだけどさ、今度の研究発表の事。何か考えてる?」

「本当に唐突なんだから……でも、研究発表かぁ」

 

 

──研究発表。学期末の恒例行事。二年次の最後の発表。我らが最新機関技術同好会も、そろそろ何かの成果を残さないといけない瀬戸際に立たされている。

──とはいっても、わたしの携帯型篆刻写真機なんて現像の困難さで行き詰まったままだし、ガガーリン君の灰色雲突破用飛空挺(スプートニク号)も飛行用機関の入手難航の為に暗礁に乗り上げたまま。唯一の頼みの綱だったオジモフ君の機関人形……いいえ、ワシリーサさんも、わたしとハヤトさんで破壊してしまったし。

 

 

「その事で。なーんと!」

「えっ?」

 

 

 と、暗い気持ちになりかけたところで、リュダがわざとらしく明るい声を出して。ああ、落ち込んだことがばれたんだと、自戒してしまうくらいに。明るい声で。

 

 

「ユーリィの昔馴染みのツィオ……ツィエ? なんて名前だったかしら……まぁいいわよね、とにかくその、サンクトペテルブルク(ピーテル)の碩学院の物理学教授のコンスタンツさんだかが、飛行用の高出力機関の用立てをしてくれたらしいのよ!」

「コンスタンチン・ツィオルコフスキー教授だっての、リュドミラ」

「……正直、最近の科学者の中では最高に近い知名度だと思うのだがな、パヴリチェンコ」

 

 

 そこに、当のガガーリン君とオジモフ君の二人がやって来た。ガガーリン君は無遠慮にわたしの近くの椅子にどかりと腰を下ろして、オジモフ君は遠慮してか立ったままで。

 

 

「へぇ……って、それ、物凄いことだとおもうんだけど?!」

「ほんとよねー、あんたみたいな飛空挺バカに投資するなんて物好きも居たもんだわ」

「るっせえよ。俺だって、あんまりあの人に迷惑は掛けたくねぇんだけどよ……流石に一人じゃどうしようもねえ。俺は操縦はできても、頭とルーブルはからっきしだからな。翼はイサアークに設計してもらっちまったし、機関くらいは自分の力で手にいれたかったんだけどよ」

 

 

 と、憮然と唇を尖らせて不貞腐れたような表情のガガーリン君。とても責任感の強いところが素敵なガガーリン君。聞いた話では、『そんなところが格好いいのよね』って、下級生の女生徒から人気だとか。

 

 

「なにカッコつけてんのよ、あんたらしくていいじゃない」

「そうだよ、それに、貰い物でもそれはガガーリン君だから貰えたんでしょ? そんな伝があるのも、十分実力だと思うな、わたし」

「む……いや、でもよ……うむむ」

 

 

 と、今度は照れたように赤くなり頭を掻き始めたガガーリン君。子供みたいに純粋なところが素敵なガガーリン君。聞いた話では、『そんなところが母性をくすぐる』って、上級生の女生徒から人気だとか。

 

 

「────まぁ、そりゃあ一重に俺の人徳って奴だわな! ハハハ!」

 

 

 そして、すぐに調子のいいことを言うお調子者のガガーリン君。切り替えの早さが多分美徳で素敵なガガーリン君。聞いた話では、「あれさえなければいい人なのにね」って、同級生の女生徒から温かい眼差しで見守られているとか。

 多分、わたしとリュダも。

 

 

「どうでもいいが。翼の設計の代価の『卒業まで昼食を奢る約束』を果たしてもらう時間だぞ、ユーリィ。今日は黒パンでは承知しないからな、ベフストロガノフ位でなければ」

「イサアークさん、未来の《鋼鉄公》様? 少しは手加減をですね……俺にシベリアで林業させる気かよ!」

 

 

 そんなガガーリン君に掛けられる、怜悧な声。眼鏡をキラリと輝かせながらの、オジモフ君の冷徹な声で、ガガーリン君は一気に真っ青になって。

 

 

「知らんな。自業自得だろう」

「こっ、この因業眼鏡……お前は血の代わりに冷却水が流れてんのか!」

 

 

 叫んだ言葉。ああ、でもそれはきっと。ううん、間違いなく、逆効果で。

 

 

「ほう、キャビアまでつけてくれるとは太っ腹だなユーリィ」

「えっ、それを私達にも奢ってくれる? 流石ね、ユーリィ」

「マジでこいつらにシベリアの木を数えさせられるうう!」

「あはは……」

 

 

──そんな当たり前で、暖かな日常を過ごせている。今日と言う日に、感謝して。

──だって、笑っていてほしいもの。皆に、誰にも。大好きな皆に。大好きな人達、全員に

 

 

──わたしは、笑っていてほしいもの────…………

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

────例題です。これは、例題です。過去にあった事かどうかなんて些細なことです。だから、例題です。

 

 

 一羽の鳥が居ました。真っ白な鳥です。生まれた時にはもう、高貴なまでに。美しく気高い白い鳥です。

 父親は、《太陽》でした。母親は、《春》でした。そして、祖父は《霜》でした。

 

 

 不幸などありませんでした。毎日、彼女らは幸福に、慎ましく。美しく、幻想を生きていました。

 だけど、終わりは必ずやって来ます。彼らも、例外ではありませんでした。己を愛して、慈しんでくれる父と母。それが消えて、彼女は────言いようもない絶望を覚えました。

 

 

『ねえ、お爺様。妾に教えて下さいませ』

『どうして、父様と母様が。どうして、あいつらのせいで』

 

 

 それが、最初の動機でした。それから彼女は、没頭します。ただ、一つの目的に向けて。終生の命題として。

 

 

『どうして、妾の、家族は?』

 

 

 それは、神に挑む行為です。血族を悲しませる、悲しい愛の問です。それを彼女は何度も何度も、幾度も幾度も、問いかけました。

 それでも、彼女は幻想です。無数の失敗は、それでも実を結び、やがて一つの集大成へと。

 

 

『妾は、どうすれば』

 

 

────ああ、儂は、ここまでだ。

 

 

 そして、彼女は、最後の家族を失いました。

 

 

『妾は、どうすれば』

 

 

────ああ、悲しまないでおくれ、愛しき孫娘よ。

 

 

 愛した父と母は、居なくなりました。美しい彼女、儚い彼女。愛を知るがゆえに苦しむ彼女は、目の前で消え行く祖父に。

 

 

『妾は、どうすれば』

 

 

────ああ、我が愛しき《白雪姫(ス■■■■■カ)》。お前は、泣いてはいけないよ。

 

 

 いいえ、他の誰か────此処には居ない、誰かに────

 

 

『妾は、どうすれば』

 

 

────ああ、《白雪姫(■■グー■チ■)》、我が孫娘よ。泣かないでおくれ、どうか。どうか。

 

 

 焦がれたように────

 

 

『妾は、どうすれば、妾は。どうか、お爺様────』

 

 

────いいや。■■■■いけないよ。これは、定めなのだから。だから……

 

 

 でも、それも仕方ありません。だって、彼女が欲しかったものはそんな言葉ではなかったのですから。

 

 

────愛する、我が《白雪姫(■ネ■■ラ■■)》。お前は、■■■■■────

 

 

 それは────もっと、崇高なもののはずだったのに。こんな、味気ないものになるはずではなかったのに。

 

 

 鳥は一体、どうするべきですか?

 世界を憎む?

 記憶を棄てる?

 それとも────人の悪性を糾弾する?

 

 

────例題です。これは、例題です。過去にあった事かどうかなんて些細なことです。だから、例題です。

────例題です。これは、例題です。ただし、《世界の敵》なんて助けに来てくれない、黒い雪に包まれた地獄の釜の底の、光も届かない奈落の例題(蜘蛛の糸)です。

 

 

────ええ、例題ですとも。つまり、既に結末の決まった、例題なのですよ。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

──夢とはなんだ。世界とはなんだ。

──輝きとはなんだ。《美しいもの》とは、なんだ。

 

 

 吐き出した紫煙は、機関排煙に汚染されたモスクワの凍てつく大気に溶け、消えていく。凍てついた、機関廃液に汚染されて黒くねばついたモスクワ川に掛かる橋の上、それを眺めながら、俺は、柄にもなく思考を深める。

 赤い軍服に身を包み、遥か北方の異郷に身をやつしながら。それでも生きさらばえて、今日も、煙管を噛んでいる。恥知らずにも。

 

 

──夢。俺の、夢。思い出すのは、若き日々。多摩の百姓風情だった俺達が、武骨な親友と語り合った、『武士になる』という言葉。それは、後に叶う。叶って、砕け散った。だから、俺にはもう、夢なんてない。

 

 

『ハハ、大きく出たなぁ。だが、そう言う心意気は好きだ。よし、やってみようじゃないか、ト■!』

 

 

 そう、快活に笑って。後に得た知識で、ゴリラという動物に似ていた親友は────(イサミ)さんは、からからと笑って。

 

 

──世界。俺の、世界。思い出すのは、若き日々。多摩の百姓風情だった俺達が、秀麗なる後輩と語り合った、『武士になる』という言葉。それは、後に叶う。叶って、砕け散った。だから、俺にはもう、世界なんてない。

 

 

『また、大きく出たものですねぇ。でも、そう言う心意気は好きです。では、やってみましょうか、■シさん!』

 

 

 そう、闊達に笑って。後に得た知識で、リスザルという動物に似ていた後輩は────総司(ソウジ)は、ころころと笑って。

 

 

 古めかしい煙管から紫煙を燻らせながら、俺は、目映い過去の日々を。まるで、走馬灯のように。

 

 

──馬鹿馬鹿しいことだ、なんの意味もない。過ぎ去りし日々は戻らない。悔恨も、痛苦も。消えはしない。時が癒すなどまやかしだ、むしろ時が経るほどに傷口は更に膿み、腐り、拡がっていく。

──特効薬も、治療法も有りはしない。家伝の《石田散薬》も、我が大脳に刻んだ《現象数式》ですらも、なんの効果もありはしない。

 

 

 どうしようもない時流のようなものだ。そう、どうしようもない。官軍に捕らえられて斬首された親友のように。死病に冒されて早世した後輩のように。ペルクナスよ、ストリボーグよ、夢とは、世界とは、かくも残酷なのだ。無慈悲なのだ。

 この世には、どうしようもない事が溢れすぎている。唾棄したくなるほどに、反吐を吐きたくなるほどに。ぶち壊してしまいたくなるほどに。

 

 

『────あのね、あのね? 極東の騎士さん。オサムライさん?』

 

 

 だから、思い出すものがある。それは、数年前。あの、ロシア革命以前の光景。壮麗際高なる、皇帝の保養地(ツァールスコエ・セロー)で。

 極東贔屓だったかつての皇帝、ニコライ二世から皇室ヨット、スタンダルト号の警備隊長を任ぜられた俺に。

 

 

『オサムライさん、警備隊長さん。あなた、難しい顔ばかりでつまらないわ。わたしはね、みんなに笑顔でいてほしいの。お父様にも、お母様にも、姉様たちにも。侍従の人たちにも、みーんな』

 

 

──そう言って膨れっ面を見せる少女。灰色の空の下で、黄金色の、かつては珍しくもなかった、日差しの色を思わせる髪の童女。もしも他の誰かが見れば、微笑ましく思うだろうか、もしくははしたないと思うだろう膨れっ面を見せる彼女。

──こんな、自暴自棄と卑屈の吹き溜まりのようだった俺に。誰からも恐れと不気味を向けられていた俺に、真っ向から。物怖じもせずに。

 

 

『いいえ、いいえ。笑わせて見せるわ。だって────』

 

 

──そして『これは生まれつきのものだから変わらない』と口にした俺に、灰色の空の下で、同じく、かつては珍しくもなかった()()()()()()()()()の娘は、宣うのだ。

──嫌悪していたはずの貴種の生まれらしく、傲慢に。苦手だったはずの子供らしく、傲慢に。だが、その根底に()()()()()()()()()優しい心根を隠したままで。

 

 

『わたしは《反抗児》で、《道化者》ですもの。ぜーったい、ぜーったいなんだからね、■■ゾー!』

 

 

──ああ、思い出すな。あの輝ける日々を。思い出すな。あの《美しいもの》を。あんなにも、目映いものを。

──たまさか触れただけのものだ、事故のようなものだ。俺には、過ぎたものだ。俺ごときには、与えられるはずもない望外の幸運だっただけだ。そうだろう、■■■■(■■■■■■■■)。捨てた、その名前のように!

 

 

 だから、俺は。凍りついた川面に煙管から煙草の燃えカスを捨てて。勤めて、心を揺らさぬように心掛けながら。

 

 

『『────聯隊長殿万歳(ウラー・ダージェストラージ)!』』

「御苦労────では、定時報告を聞こうか」

 

 

 いつの間にか背後に立っていた、配下たる鋼鉄の猟犬達(フョードルとシャーニナ)の報告を聞きながら────…………。



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対話 ―Интерактивная―

 

 

 コツリ、コツリ。コツリ、コツリ。革靴の音、木霊する。広く、果てしない反響は何処までも。暗闇の中、誰かの足音がする。単調に、真っ直ぐ、長い間、ずっと。

 その足音が、止む。間を置かず、今度は、がちゃりと錠の外れる音。続き、酷く重厚な門扉が軋みながら開く音が、来客を歓待する魔物の歓声の如く響き渡って。

 

 

 薄い機関灯の明かりに照らされるのは、どこまで続くかも知れぬ膨大な書架。様々な装丁、様式。象形文字から記号文字。紙から板、果ては骨や合成樹脂の記録媒体まで。

 しかし、それは全て、ただ一冊。即ち、《過ぎ去りし年月の物語》に、他ならない。全て、総て。ここに在るものは、何もかも。

 

 

 長居してはいけない、正気が惜しければ。直ぐに取って返すべきだ、狂気に耐えられなければ。確かに、()()()()時間人間(チク・タク・マン)》の《アレキサンドリア大図書館》よりは安全だろうが。ここもまた、混沌の邸宅だ。黒い道化師の書斎だ。

 

 

 例え、遍く神秘家達が夢にまで追い求める《死霊秘法(ネクロノミコン)》が。

 例え、かの雷電王すらも疎み遠ざける《水神クタアト》が。

 例え、十字軍に参加した魔術師の記した《妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)》が。

 例え、盲目の教授がセラエノ大図書館から掠め取った叡智《セラエノ断章》が。

 例え、私自らが著した《秘密教義(シークレット・ドクトリン)》が、密やかに並んでいようとも。

 

 

 この《原初年代記(ナーチャルニヤ・レートピシ)》の持ち主が、黒い道化師が、悠々と。()()()()()()()()()()()()()

 

 

──ああ、前よりも近くにその姿はある。だというのに、その道化師は、彼方の書架の影に紛れて。かと思えば、遥か彼方にあるその姿は、目の前の書架の前を(よぎ)る。

──狂っているのだ、ユークリッド空間が。歪められているのだ、あの道化師の《夢》によって。まるで、牡牛座にあるという、かの《黄衣の王》の()()が幽閉される湖の近く。都市カルコサの尖塔の前を過ると言う、距離感の狂った月のように。

 

 

 しかして、足音の主はすぐ脇の書架より二紙の新聞紙を取り出して。《真実(プラウダ)》と《報道(イズベスチヤ)》の二紙、ばさりとそれを広げて。記事の見出しを()めつ(すが)めつ。

 

 

『全ての人民は、偉大なる同志ヨシフ・スターリンの元に集う』

 

 

──違う。これではない。

 

 

『反逆者レフ・トロツキー、メキシコの地にて誅殺される』

 

 

──違う。これでもない。

 

 

『ロマノフ王朝、悲劇の皇女達について』

 

 

────違う。これも違う。最後まで、見付からなかった。あの黒い男には既に、見つかっていると言うのに。

 

 

 ずしりと、重くなる頭。肩。蒼白の諦めと真紅の絶望が、鉛のように重く、硬く、のし掛かって────

 

 

──違う。これだ。私が探していたのは、この記事だ。間違いない。

──黙っていろ、黒い道化師(ラスプーチン)め。自分すら信じていない私には精神学(メスメル)も、自分の思考と誤認する現象数式(クラッキング・エフェクト)の声も効かない。()()()()()()()()()()()()()()

 

 

────そうかい? それは残念だ。

────ああ、本当に。

────本 当 に 、 残 念 だ っ た よ。

 

 

 振り払う、蒼白の左腕と真紅の右腕。虚空に散っていく、黒い僧衣の巨躯。木霊する、反響することなく、鼓膜を揺らすこともなく、直接脳に響く嘲笑の声。

 

 

「これを記すあたって、私は、まず、読者諸君に中途にて記事を終了するやも知れぬと言う事について断っておきたい。私はしがない一介の記者であり、現ソヴィエト評議会とは何らパイプを持たぬゆえに、いつ、処断されてもおかしくないと言うことを。それを前提に、私は、一切の虚偽を記さぬことを、ロシア国民としての我が誠心に誓おう R・ゾルゲ」

 

 

 それを無視して、私は記事に目を戻して。

 

 

『だが、幸福は長くは続かなかった。隆盛を極めたのなら、後は、落ちるのみというのは世の常か。始めに一家に訪れた不幸は、忘れ難きあの革命。二月の革命、ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公を擁したアレクサンドル・ケレンスキーによる革命である。これによりニコライ皇帝は退位を余儀なくされ、ロマノフ王朝は終焉を迎える。だが、それはまだ、望外の幸運であったと言わざるを得ない。一家は揃って、命を長らえたのだから。

 問題は、そう、その後の十月の革命。ケレンスキーの臨時政府を廃した、ボリシェヴィキによるテロル行為。即ち、それを成したのは《赤錆の(ウラディーミル・イリイチ)────』

 

 

 暗い闇底の、道化師の庭。その深奥の書斎に、低く、低く。

 

 

────未 亡 人 殿 万 歳(ウラー・ミシス)

 

 

────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!

 

 

 此処にはない、このロシアでは観る事など叶わない、夜空の月の代わりのように、嘲笑が木霊して────………………

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

【同調深度1】

 

 

【高密度伝承体との対話】

 

 

 

 

────暗闇の中で。

 

 

────わたしは、《古きもの》との対話を始める。

 

 

『なぜ、お前達はそこまで傲慢なのか』

 

 

 目の前には、白く凍えた塊。それは、雪。それは、氷。それは、怒り。それは、嘆き。

 靄のように、或いは曇った硝子のように。またはモザイク画か、凍てついた氷のように。その姿は、判然としない。ただ、白い────()()()()()()()()()()。そのくらいのことしか、分からない。

 

 

『妾の愛しきものを奪い去りながら、それでも、自らの愛しきものを守り続けるのか』

 

 

『なぜ、言葉を発さない。紡ぐ言葉すら持ち合わせぬか、人間よ。愚かなる者共、脆弱なる者共。狂える竜よりもおぞましく、恐ろしき者共よ。略奪者よ』

 

 

 胸が詰まる。喉から、溢れそうになる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから、わたしは、言葉を持たない。

 持ち合わせない。持ち合わせているはずもない。なにを言っても、それは、ただの侮辱に過ぎないから。

 

 

『────────そうか』

 

 

 そんなわたしに呆れてか、見下げ果ててか。ため息混じりに吐き捨てた『彼女』は。

 

 

『そうか、()()か。貴様は────』

 

 

 ぽつりと、最後に。敵意だけ、吹き消して。宝石じみた輝きを一度、煌めかせて。

 

 

 それを、最後に。

 

 

『妾と同じ────《奪われたもの》、か』

 

 

 全てが、消えて────

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

──がばりと起こした体に、はね除けた毛布の代わりに、凍えるような空気がまとわりついてくる。寒い、寒すぎる。

──いいえ、寒いのはモスクワではいつもの事だけれど、それにしたって、今日はいくらなんでも。いつもの倍は寒くて。

 

 

 ぶるりと体を震わせて、白い息を吐きながら。暖房機関を付けつつ、抱き寄せた毛布を肩まで羽織りながら見詰めた先。

 《白い鳥》は、前夜に見た時のまま。毛布を敷き詰めた籠の中で、眼を閉じて丸まったまま、身じろぎ一つ無くて。少し怖くなって触れてみるけど、ヒヤリとした羽毛の感触の後の、小動物特有の温かな、微かに上下する感触。良かった、生きている。

 

 

 だから、ホッとして。いつもなら気にしない、気にしないように心掛けている()()にまで。

 

 

『こんにちは、アンナ』

 

 

 おぞましきもの。狂気に満ち溢れ、常人ならば目にした瞬間には狂気に落ちるほどの。視界の端で踊る、黒い僧衣の大男。

 逆さまの七端十字架のロザリオを下げて薔薇の仮面を纏い、ロシア舞踊(ベレツカ)を躍り狂う道化師を目に、その囁く言葉を耳に。してしまって。

 

 

『さあ、回そう、回せ、回すべきだ、回さなければならない、回しなさい。君の夢を。君の願いを。君の世界を。回転悲劇を』

 

 

 してしまって。だから、わたしは、それを無視して。

 

 

『つまりは僕の、我の、余の、私の、俺の────『(世界)』のことだよ』

 

 

「……コーヒー、飲みたいなぁ」

 

 

 なんとなく()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()をかき揚げて耳に掛けながら、肺に溜まった冷たい空気を吐き出しつつ。

 胡乱気な眼差しで、いつもと変わらない日々を思って。いつもと変わらない、灰色の雪が降る、薄明かりの夜明けに微睡むモスクワの町並みを窓の外に眺めながら────────

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そうして、いつもどおり全ての教科が終わって。放課後となったモスクワ碩学院。わたしはいつものように、リュダとガガーリン君、そしてオジモフ君と一緒に、現代機関文明同好会の研究発表内容について会話する。

 話題の最初は、ガガーリン君。ツィオルコフスキー教授から贈られる機関が、明後日には届くだろうとの言葉の後に。

 

 

「────まぁ、とは言え、本当に俺の灰色雲突破用飛空艇(スプートニク号)が飛ぶかは未知数なんだけどな」

 

 

 そんな、爆弾発言(有り難いお言葉)からで。

 

 

「いやいや────ちょい待ち、ユーリィ? それなに、どういうことよ? イサアークの設計じゃなかったっけ?」

 

 

 すかさず、突っ込んだリュダの言葉。凄いわ(ハラショー)、笑顔だけど笑ってないという表情もさることながら、凄いわ(ハラショー)

 余りに余りな言葉に、思わず絶句してしまったわたしとオジモフ君とは大違い。

 

 

「どういうも何も、そのまんまだろ? そもそも地上を走るのと空を飛ぶのじゃ、必要になるものが違いすぎだ。三次元的な空力特性に、何よりも()()()()()()()()()()()()のこと。正直、皆目検討もつかねぇよ。なにかしら実験でもできればいいんだろうけどな」

 

 

 そう言って腕を組んで、難しい顔をしているガガーリン君。絶句するリュダと、オジモフ君と、わたし。

 

 

──灰色雲の外。他の人は、夢想すらもしないもの。年老いた人々が、昔を懐かしみながら口にする言葉くらいの。わたしが知る限り、このモスクワ碩学院内でも、ガガーリン君以外は誰も。

──だれも、気にも掛けない、この灰色雲の彼方。夢のまた夢、そこを夢に求めるガガーリン君だけの言葉。ガガーリン君だけの、詩篇。

 

 

 それに、わたしは。ああ、やっぱりガガーリン君も、紛れもない碩学様の一人なんだと見直しながら。

 

 

「……まぁ、確かにな。飛ばすまでは未知数ではある」

「だろ? だからよ、まずは飛ぶかどうかから試験するべきだよな、イサアーク?」

「だが。それを計算にいれてでも言わせてもらおう、ユーリィ」

 

 

 だから、ずれた眼鏡を直しながら。オジモフ君は、呆れたように。だけど、心底から憤ったように。

 

 

「────舐めるなよ、ユーリィ。他の技術者なら兎も角、この僕が。設計の不備などあるものか」

「そりゃ、お前の設計に不備があるなんて思ってねぇよ、イサアーク。だけどよ、人間のやることだ、絶対なんてねぇさ。俺はよ、どんなに崇高なものでも、犠牲なんて出したくねぇんだ」

「む……それは、まあ、確かにな……」

 

 

 そして、余りにも正論なガガーリン君の言葉にオジモフ君は押し負けて。やっぱり、本気になったガガーリン君は凄いと見直しながら。

 見直して、見詰めた彼。ガガーリン君は、ニコリと笑って。

 

 

「やっぱりあれだ、事前の()()()は必要だと思うわけだよ、俺としては。だからさ────」

 

 

 笑って────────

 

 

「だからさ、予約したんだよ」

 

 

──どこを? 何を? 予約、って?

──そう口にする前に、彼は、ガガーリン君は、朗らかな笑顔のままで。

 

 

「ツングースカ対爆発用試験場をな、わざわざ借りたわけさ」

 

 

 そう、笑いながら────────旧ロシア帝国時代に、()()()()()()()()の落着のあったという場所の名を冠したモスクワ郊外の試験場の名を。

 もしも、他の誰か(ハヤトさん)が聞けば、『そこは《()の王》の降り立った忌み地だ』と、苦虫を噛み潰すような場所の名を口にして、笑うのだ────



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英雄都市 ―город-герой―

 

 

 

 

【同調深度2】

 

 

【高密度伝承体との対話】

 

 

 

 

──暗闇の中で。

 

 

──わたしは、《旧きもの》との対話を続ける。

 

 

『妾は、幸福だった』

 

 

 目の前には、白く凍えた塊。それは、雪。それは、氷。それは、怒り。それは、嘆き。

 靄のように、或いは曇った硝子のように。またはモザイク画か、凍てついた氷のように。その姿は、判然としない。ただ、白い────()()()()()()()()()()。そのくらいのことしか、分からない。

 

 

『妾は、幸福の中に揺蕩っていた』

 

 

『だが、奪われた。貴様らに。貴様らの頼った《機関》に、父なる太陽は覆い隠され、母なる春は訪れなくなり、祖父なる霜は────溶けて、消えた』

 

 

 胸が詰まる。喉から、溢れそうになる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから、わたしは、言葉を持たない。

 持ち合わせない。持ち合わせているはずもない。なにを言っても、それは、ただの侮辱に過ぎないから。

 

 

『────────そうだ』

 

 

 そんなわたしに呆れてか、見下げ果ててか。ため息混じりに吐き捨てた『彼女』は。

 

 

『貴様らだ、貴様らが奪った。貴様らが────』

 

 

 ぽつりと、最後に。敵意だけ、吹き消して。宝石じみた輝きを一度、煌めかせて。

 

 

 それを、最後に。

 

 

『忌まわしき────文明の火(プロメテウス)が』

 

 

 全てが、消えて────

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 ガタン、との大きな揺れに、わたしは瞼を開く。簡素な革を申し訳程度に張られた二人掛けのシベリア鉄道の客車の椅子の、右側で。左側には、眠ったままのリュダの綺麗な寝顔。女のわたしでも息を飲むくらい、綺麗なリュダの。

 対面には、オジモフ君とガガーリン君。やっぱり、眠っている。無理もないと思う、何せ早朝、五時の便に乗ったから。

 

 

 そして、膝の上の鳥籠。その中で、丸くなるように目を閉ざしている《白い鳥》を眺めて。小さく上下する体に生きていることを確認して、安堵しながら。

 

 

 わたしは、ぼんやりと車窓から外を眺める。先頭の機関車から流れてくる機関煤煙の煤色を。そして、それよりもなお色濃い。どこまでも遠く、低く立ち込める漆黒の雪雲と、そこから降り落ちる灰色の雪を。

 わたしの顔が。二房に結わえた髪と緋色の瞳の自分と見詰め合うように、暗い、暗い……深夜と見まがう早朝のモスクワ近郊の景色に、視線を向けるのだ。

 

 

──ガガーリン君が使用許可を得た、『ツングースカ対爆試験場』に向かう道中。黒い雪の降る、安息日に。

──世界を創造なされた御主が休みたもうた最後の一日に。ガガーリン君の『灰色雲突破用飛空艇(スプートニク号)』の試験を……しかも人民政府から特別の配慮まで頂いて……を、するために。それすら許さない、《鋼鉄の男》閣下の率いるソヴィエト連邦の歯車のまま。

 

 

『────こんにちは、アンナ』

 

 

「……………………」

 

 

 ああ、今日も。今日も、また。

 

 

『救いなんてないのさ。明日は安息日、神ですら働かないのだから』

 

 

 視界の端で、道化師が踊っている事を────

 

 

『さあ、回そう、回せ、回すべきだ、回さなければならない、回しなさい。君の夢を。君の願いを。君の世界を。回転悲劇を』

 

 

 意識してしまって。だから、わたしは、それを無視して。

 

 

『つまりは僕の、我の、余の、私の、俺の────『(世界)』のことだよ』

 

 

「コーヒー、飲みたいなぁ……」

 

 

 申し訳程度の暖房機関が温めきれない客車の中、白い息を吐きながら。三人と、一匹を。他の席でも同じように眠っている乗客達を起こさないように。

 小さく、小さくいつも通りの言葉を呟いて…………。

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 その場所で降りたのは、わたし達だけ。真っ暗な昼下がり、他の乗客達はその駅名が緊張した声色の車掌に叫ばれた瞬間、あからさまに怯えたように身を縮こまらせただけで。

 早く行かせてくれ、とばかりに扉が閉じられた瞬間。高らかに鳴らされた汽笛と共に機関列車は去っていく。かつて、偉大なるヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン同志が直々に招いたと言われる碩学様によって作られた機関列車が。

 

 

「ふーん、何て言うか……見事に殺風景よね」

「当たり前だろう、パヴリチェンコ。ここは軍事施設だぞ」

「イサアークの言う通り。華やかさとは無縁、仕方ねぇよな」

 

 

──リュダとオジモフ君とガガーリン君が言う通り、殺風景で固く閉ざされた、要塞じみた場所。何でも、ロシア帝国時代の要塞を再利用した場所だとか。

──モスクワの南西、少し小高くなった丘、麓を流れるヴォルガ河。かつてはヴォルゴグラードと呼ばれた、幾度となくタタール人に侵略された都市の残骸。ロシア革命後の内戦、そしてフィンランド軍の反撃の影響で廃墟となり、手痛い敗北を喫したソヴィエト軍がフィンランドの再侵攻を睨んで築き上げた《モスクワを護る英雄都市(クレムリン)》。そして、その恐れのなくなった今は新兵器試験場を兼ねた工業都市となった。

 

 

 住んでいるのはソヴィエト軍関係者。兵士と、技術者と、一部の政治家。他は、補給で訪れる商売人くらい。だからだろうか、立入検査の後の町並みは酷く陰鬱に沈んでいる。

 道行く人々は誰もが工業都市故の濃密な機関煤煙に備えた呼吸器付防塵マスクを纏って俯き、足元だけを見つめて歩いていて。勿論、わたし達も。マスク代わりのマフラーや、帽子とコートに身を包んでいる。当然、鳥籠にも布を被せてある。

 

 

「だけど、面白い噂なら知ってるぜ。なんでも────」

「面白い、噂?」

 

 

 わたしも、感じる息苦しさにマフラーを引き上げて。《黒い雪(チェルノボグ)》に近い黒色を纏う雪から身を護る為に体を縮こまらせたところで。

 

 

「そ。噂だ。あくまでも噂だけどよ────ここじゃ、なんと」

 

 

 ガガーリン君、楽しげに。旧世代の軍用防塵防雪装備に身を包んだ彼、アネクドートを囁くみたいに笑いながらその顔をわたしの耳元に近づけて。

 

 

「────ここじゃ、なんと。『大太守の偉大な機械(スルタン・マシーン)』に対抗するために……機動要塞を造ってるらしいぜ?」

 

 

──機動要塞。カダス北央帝国の、()()()()()()()超兵器。現在でも、西亨では確立されていない技術。

──ロンドンや合衆国では研究が進んでいると聞くけれど、まさか、ソヴィエトでもなんて。思いもしなかった。

 

 

「噂、とは言うがな。南のオスマン機関帝国、西のドイツ帝国、東の合衆国(ステイツ)。ソヴィエトは敵だらけだ、あながち的外れでもないだろうさ。平和は戦争の準備期間、とはよく言ったものだな」

「ふえ?」

 

 

 オジモフ君が反対側の耳に。都合、挟まれる形になって。わたし、どうしたら良いものか、分からなくて。困るったら────

 

 

「────で? あんた達、私の仔兎ちゃん(ザイシャ)になーに色目使ってるわけ?」

 

 

 そして、最後に。背後から二人の首根っこを捕まえて引き離したリュダが、二人の間でそう、地の底から響くような小声で呟いて。

 

 

「いやっ、違! 違うって、リュダ!」

「待て、パヴリチェンコ! 僕はそんな────」

 

 

 その恐さたるや、お伽噺の《バーバ・ヤガー》みたいで。ガガーリン君とオジモフ君、可哀想なくらい狼狽えていて。

 

 

「あ、あの、リュダ────はぷ!?」

 

 

 と、振り向こうとしたところで。前方不注意が祟り、人とぶつかってしまって。

 

 

「あ────ご、ごめんなさ」

 

 

 多分、抱き止められる形になって。両肩に添えられた、二つの手の力強さから、男の人だと解って。

 

 

「全く。お前達、滅多な話は辞めた方が賢いぞ。ここは軍事都市だ。何処に憲兵の目が光っているか分からんし……何より」

 

 

──謝ろうと、言葉を紡ごうとした鼻腔に感じた香り。煙草の、紫煙の香気。お父さん(パーパ)の葉巻とも、兄さんの紙巻き煙草とも、ジュガシヴィリさんのパイプのものとも違う。

──ああ、この香りは。この、古めかしい煙管の香りは。わたしが知る限り、一人だけ。

 

 

「────ハヤト、さん……?」

「何より────例え小声の噂話(アネクドート)でも、俺達『人狼部隊(スペツナズ)』の耳には入るぞ?」

 

 

 その予想────いいえ、直感の通りに。ソヴィエト軍の軍装に身を包んだ、漆黒緋眼の日本狼を、その腕の中から見上げて。



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軍靴 ―Военные ботинки―

 

 

()調()深度3】

 

 

【高()度伝()体との対話】

 

 

──暗闇の中で。

 

 

──わたしは、《旧きもの》との対話を続ける。

 

 

『今でも、忘れ得ぬ』

 

 

 目の前には、白く凍えた塊。それは、雪。それは、氷。それは、怒り。それは、嘆き。

 靄のように、或いは曇った硝子のように。またはモザイク画か、凍てついた氷のように。その姿は、判然としない。ただ、白い────()()()()()()()()()()。そのくらいのことしか、分からない。

 

 

『あの、輝ける青い空も白い雲も。朝焼けと夕暮れの赤、透き通った夜空に瞬く月と星。全て、全て、貴様らが奪い去った』

 

 

『奪い去った。貴様らが。貴様らの頼った《機関》に、何もかも────灰色の毒の霧に多い尽くされて、消えた』

 

 

 胸が詰まる。喉から、溢れそうになる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから、わたしは、言葉を持たない。

 持ち合わせない。持ち合わせているはずもない。なにを言っても、それは、ただの侮辱に過ぎないから。

 

 

『────────そうだ』

 

 

 そんなわたしに呆れてか、見下げ果ててか。ため息混じりに吐き捨てた『彼女』は。

 

 

『貴様らだ、貴様らが奪った。貴様らが────』

 

 

 ぽつりと、最後に。敵意だけ、吹き消して。宝石じみた輝きを一度、煌めかせて。

 

 

 それを、最後に。

 

 

『妾の────大空を』

 

 

 全てが、消えて────

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

────広場の石畳を数えて歩きながら、わたしは思い出していた。ヴォルゴグラードのその広場、名を『一月九日広場』と言う。

────ソヴィエト人民であれば、知らぬものはいないだろう。ここは、かつて。帝政末期に発生したデモ行進に、ロシア帝国軍が暴走して銃火を浴びせた悲劇の日に因んで名付けられた。そう、それこそは────

 

 

 一つ、一つ。石畳を踏みながら。同時に、灰色にくすんだ雪を踏み締めながら。

 

 

「────ところで、よ」

「────ふえ?」

 

 

 がしり、と。肩を掴んで引き寄せて。ガガーリン君が、わたしの耳元に囁く言葉。静かに、だけど、嘘は許さない風に。

 

 

「あの男、お前の持ってたアルバムの極東人(ヤポンスキー)だよな? 知り合いみたいだったけど、どういう事なんだ、アンナ?」

「えっ? ええっ! いえ、あの、ハヤト、さんは、その……」

 

 

 なんて、茶化すように。だけど、妹の交遊関係を問い質す兄みたいに。兄、兄さん。そう言えば、最近は余り見かけてないけれど。ハヤトさんの指揮下なら、大丈夫よね?

 うん、大丈夫。きっと、大丈夫。だって兄さんは、ヴァシリ兄さんは、あの《白い死神(シモ・ヘイヘ)》の放った魔弾からすら逃れて見せた、ソ連邦英雄なんだから。

 

 

──大丈夫。大丈夫よ、アンナ。兄さんは大丈夫。だから、心配するのは別の。

 

 

「あ、の────」

「────(かまびす)しい。おい、小僧。確か……ガガーリン、だったか?」

「あ? ああ、そうだけど?」

 

 

 と、こちらを振り向くこともなく。面倒臭そうに、ぶっきらぼうにそう、前を歩くハヤトさんが口を開く。煙管を燻らせ、紫煙を吐きながら。

 どう控えめに聞いても、喧嘩腰以外の何者でもなくて。事実、ガガーリン君もカチンときたような声色でそれに答えていて。

 

 

「要らん詮索は止せ、その子は俺の部下の妹、たまさか縁があるだけだ」

「部下の、妹ぉ?」

「そ、そう! 兄さん……ヴァシリ兄さんが、ハヤトさんの部下だから……その縁で、知り合いなの!」

「そう、か……アンナがそう言うんなら、納得するけどよ……」

 

 

 振り返ったガガーリン君に、そう返して。彼、不承不承、そんな言葉を溢して。

 

 

「へー、ただの『部下の妹』を毎週毎週、安息日に迎えに来られるなんて。赤軍の大佐殿はそんなにお暇なお仕事なのかしらねぇ?」

 

 

 だから、意地悪な表情を浮かべたリュダのその言葉には、本当に頭が痛くなりそう。と言うか、なった。

 

 

「はぁ?! なんだそりゃ! 毎週安息日にって、どういう事だよ、リュダ!」

「どうもこうも、聴いた通りよ。毎週毎週、アンナのワシリィ大聖堂への奉仕の送り狼に来てるのよ、この人」

「マジかよ! ちょ、どうなってんだそれ! おい、イサアーク! お前からも何か言えって!」

「いや……その点に関しては、僕は彼とアンナに返しても返しきれない恩があるので口を閉ざさせてもらおう。悪いなユーリィ」

「それも含めて何だそりゃ!?」

 

 

 途端に、喧しさを増した街路。辺りで無気力に地面を見詰めていた人達すら、此方を窺うくらいに。面倒臭そうに、だけど、何か『目映いもの』でも見詰めるように。

 そんな視線を受けながら、気にせずに、騒ぎ立てるガガーリン君と煽り立てるリュダ、嗜めるオジモフ君。その、煌めくような若さに。

 

 

「……………………」

「あの……すみません、ハヤトさん」

「……何がだ」

 

 

 わたしは俯きながらそう、口にして。ハヤトさんはむっつりと口を閉ざした。いえ、初めから口は閉ざしていたけれども。

 一言、ただ、一言だけ。

 

 

「────羨ましいものだな……」

「え────?」

 

 

 煙管を噛む口許を、悔やむように綻ばせて。それも、ほんの一瞬の事。わたしが顔を上げたときにはもう、消えていて。

 

 

「何でもない。先を急ぐぞ、仔兎(ザイシャ)

 

 

 ただ、冷徹な『赤軍大佐・ナイトウ=ハヤト=ヨシトヨ』の顔が、そこに在る。冬戦争最大の激戦区『コッラ川の死闘』の勝利の立役者、偉大なる指導者ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン同志が極東より招いたとされる、戦争顧問。

 震えを感じるほどに怖い。今はすでに絶滅せし極東の狼、職業軍人『サムライ』としての顔が。

 

 

「よう、待っていたぞ、同志!」

「…………」

「…………」

 

 

 それに笑いかけた人物を目にした瞬間、苦虫を噛み潰したように歪んで。

 

 

「……何故、貴様がここにいる?」

「何故、とは? はは、決まっている。君と同じさ、ハヤト」

 

 

 にこやかに、機関自動車────至るところを病的なまでに装甲化された、要人警護用の装甲化機関自動車────に寄りかかった姿勢のままで。そう、笑いかけた男性に。

 

 

「────そうか、スターリンの差し金か。相も変わらず忌ま忌ましい」

「そう言うなよ、友よ。彼も彼で思うところはあるのさ。特に、君のような得難い友人には、ね?」

「貴様のその能天気さは、たまに恐ろしくなるよ────」

 

 

──スターリン同志の事を、まるで知己の友人のように語って。悪びれもせずに。

──癖の強い黒髪に、黒い瞳を輝かせた男性は、笑顔のままで。

 

 

「────ゲオルギィ・ジューコフ。相も変わらず、食えない奴だな、お前は」

「お互い様だろう、ハヤト・ナイトウ。相も変わらずの仏頂面だなぁ、君は」

 

 

───ソヴィエト機関連邦軍大将にして、《鋼鉄の男》スターリン同志に『ノー(ニェット)』を突き付けられる数少ない人物。このソヴィエト機関連邦に、五指にも満たない大人物。

───機関化兵団(ドヴィーガチリ・アールミヤ)の祖である、ゲオルギィ・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフ将軍は、ハヤトさんと────わたしに、微笑みかけた。

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 遠い、遠い。果てしなく遠い。暗く、長い長い隧道(トンネル)、或いは天蓋付きのアーケード。その彼方に揺れるもの。いつからだろうか、多分、ずっと。目指して歩いている、あの『光』は。

 届かないものを思う。見た事はないけど、水鏡に煌めく満月であるとか、蒼穹に輝く太陽であるとか。

 

 

 そして、ふと、足元に目を向けた。

 

 

 隧道の天井から漏れる、僅かばかりの『光』を湛えた石畳に。そこに芽を出した、ほんの些細な命を。雑草と、一括りにされるもの達だ。だが、確かに命の輝きだ。

 一休みしよう、この命を眺めて。背後から吹く風に揺れる、小さな彼等を眺めて。

 

 

 辺りに佇む、セピア色の、皆と共に。

 

 

『──オブジェクト記録を参照:イパチェフ館とは』

 

 

 その時、声が。声、声? いいや、違う。心を震わせる『思い』が、流れ込んできた。

 

 

『それは、僅かばかりの安息だったと、その皇帝は語ろう。忙しなかった己に、家族を省みることを許された、僅かな奇跡の時間であったと、皇帝ニコライは語ろう。

 ほんの僅かの間に、一家は結束を深めた。不仲であった皇母エレクトラと皇女オリガの仲を埋め、疎外されていた皇女タチアナと皇女マリア、皇女アナスタシアの仲を埋めるほどに濃密な時間であったと、ニコライ皇帝は微笑みと共に語ろう。笑顔と共に語ろう。

…………例え、その結末がどれ程に悲劇的な末路であろうとも。それは、確かに、掛け替えのない家族の時間であった筈であろうと。笑顔のままに、語るであろうとも。例え、窓を開けただけでも衛兵から銃撃されるような生活であったとしても』

 

 

 見上げても、暗く霞んだ天井から吊り下げられた、仮面が口走る言葉。その全てを囁いて、色を失った仮面は霧のように消える。

 

 

『────機関化兵団(ドヴィーガチリ・アールミヤ)とは』

 

 

 次に、吊り下げられた左腕。鋼鉄の、機関義肢(エンジン・アーム)

 

 

『『近代戦術の祖』と、ソヴィエトで持て囃されるゲオルギィ・ジューコフ将軍の為した功績。自動車の効率的運用による電撃作戦。それは極東との『日露戦争』の時代に編み出されたものでありながら、後の第二次世界大戦……第三帝国の華々しく禍々しき戦果までを待たねば評価されない。

 そう、第三帝国。憎み、恐れなければならぬ筈の『彼ら』の功績をもってしなければ。ジューコフ将軍の偉業は讃えられない。彼もまた、歴史に埋もれ得ない人物であった』

 

 

 そして、消えていく。やはり、霧か霞のように。

 

 

「私の、未来────」

 

 

 色を得て、語り出したのは少女。白く、輝くような銀色の髪の。携帯型篆刻写真機を抱く、白い兎のような。

 

 

「未来。わたしの。分からないわ────与えられなかったから、分からない、けれど」

 

 

 煌めくように、そう口にして。色を失って、代わりに。

 

 

 

 

 Q、夢とは?

 

 

 

 

「俺の、夢か────」

 

 

 色を得て、語り出したのは男。黒髪の、緋色の瞳の青年だ。携えた三本の刀を揺らす、狼のような。

 

 

「夢────そんなものは、とうに失せたと言った筈だ。もう、意味などないと。失われたものだ、と」

 

 

 陰るように、そう口にして。色を失った彼の代わりに。再び色を得て、少女が口を開く。

 

 

「だけど、思うことはあります。それは、景色を……誰かが諦めてしまった『未来』を、写し出せるような……そんな、写真家に……わたしは」

 

 

 彼の陰りに釣られたように、俯いて。全てを語り終えて色を失い、霧か霞か、或いは雪のように消えていくのだ。

 

 

 

 

 Q、叶えるべき願いは?

 

 

 

 

「有り得ない────有り得ないさ。有り得るものか。もう、全てを失ったんだ。今更、取り戻せるものか。取り戻して────…………たまる、ものかよ」

 

 

 彼も、また。全てを語り終えて、得たはずの色を失って。霧か霞か、或いは雪か────若しくは紫煙のように、消えてしまった。

 

 

 後に残されたのは、ただ、この日溜まりだけ。ああ、もう十分に休んだ。さあ、歩き出そう。最後に、僅かな名残を残して。

 風に揺れる草を、華を。有りもしない瞳に焼き付けて────

 



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鎚と鎌 ―Коса и серп―

間隔が空いてしまって申し訳ありません


 

 

 薄暗い機関灯の灯る室内。視覚化される程に濃密な、鋼の如き圧迫感。そこは、このモスクワで最も重厚な威圧感に満ちた一室だ。そこは、このソヴィエトで最も鋼鉄の冷たさに満ちた一室だ。

 そのただ中で、男女が二人。革張の椅子に腰掛けて最新式の機関パイプから紫煙を燻らせながら、窓の外のモスクワ市街を眺めていた男と、その隣で直立不動の姿勢のまま、静かに目を閉じていた金髪の女が二人。

 

 

 見下ろす広場、赤く輝く、五つの塔の頂の星。その煌めきが揺らめいた刹那に。

 

 

「────コーバ。我が親友」

 

 

 女が口を開く。金髪に碧眼の、赤い軍装に身を包む美しい女が静かに、低く、鉄の強度を持って。

 もしこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも失神は免れ得ぬほどの威圧と共に。

 

 

「なんだい、モロトシヴィリ。モロトシュティン?」

 

 

 それほどの声を受けても尚、男は揺るがない。色素の薄い灰色の髪に猫めいた黄金の右瞳と、青い左瞳の怜悧な美貌の。同じく、真紅の軍装に身を包む男が。胸元に、()()()()()()を備えた軍装の男が。

 鉄の声を上回るほどの、鋼鉄の強度を持って。男は、小揺るぎもしないまま。もしもこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも落命してしまいそうな威圧と共に。

 

 

「ヴォルゴグラードへの《侵入者》を確認した。彼の者の願いは果たされるやもしれぬ」

「だろうね。だが、それもここまでだ。あそこには────()()には、《白騎士》と《黒騎士》が。そして、我らが《将軍閣下》が居る」

 

 

 左手のカップから、輪切りにされたレモンの浮いた紅茶を啜る。愉しげに、実に愉快そうに。

 

 

「ドーブリョ・ウートラ。愚昧にして哀れなる《ふるきもの》。《魔女(クローネ)ババ・ヤガー》に仕える、三体の騎士の内の二体。白騎士と黒騎士、朝陽と夜闇の具現。そして、我らソヴィエトの誇る《機関化兵団の王(ズメイ・ゴリニチ)》。貴様の権能で、どうにかできると思っているのか」

 

 

 自らの視界の先、灰色の雪が降り続くモスクワ市街を眺めながら。子供の悪戯でも見るかのように、嘲笑いながら。

 

 

「……では、()()()傍観に徹するのだな?」

()()()だ、モロトシヴィリ。モロトシュティン。私が出ずとも、あの程度の完成度しかない《旧きもの》くらいは、自力でどうにかしてもらわねば」

「了解した、コーバ。我が親友」

 

 

 全てを話終えたとばかりに、女は口をつぐむ。同じく、男も。後には、音もなく降り続ける黒い雪と、時折、排煙を噴くパイプの音だけが残って。

 

 

「だからこそ、私はこう言おう────」

 

 

 もう、そこには、会話はなくて。

 

 

「────『熊の親切(メドヴェージャ・ウスルーガ)』、と」

 

 

 最後に、ポツリと。溜め息のような、そんな声が────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 静かに、静かに。機関の駆動音が唯一の音として響く装甲式蒸気機関車(ガーニー)の中で。

 わたしは、膝の上に乗せた鳥籠を抱き締めながら、リアウィンドウの車窓の代わり映えしない、黒ずんだヴォルゴグラードの景色を眺めている。

 

 

「……………………」

 

 

 右隣には、頬杖をつきながら、カメラの三脚のように三本の刀の柄頭を左手で床について、煙管を燻らせながら右側の車窓を眺めているハヤトさん。そして左隣には、長い足を組んで腕組みしたジューコフ将軍閣下が左側の車窓を眺めていて。

…………両隣を赤軍の上級将校さまに囲まれて。気まずいったら、もう。

 

 

「ところで、お嬢さん(ガスパジャー)?」

「え────あ、はい、何でしょうか、将軍閣下!?」

 

 

 と、唐突にジューコフ将軍の眼差しと言葉が此方に。穏やかで、敵意の欠片もない。何もかも受け入れてくださりそうな優しい瞳と言葉、だけれども。

 心臓が止まりそうになる驚きと共に、わたしは辛うじてそれだけを返せた。

 

 

「いや、なに。そう畏まらなくて宜しい。私の事などあれだ、学友とでも思って貰って欲しいものだ」

「えっ、え────いえ、ですが、あの」

 

 

 快活に笑われながらそう言われても、困る。だって、相手は赤衛軍の将軍閣下だもの。正しく、雲の上の御方。わたし如き、一介の平民如きが、そんな。

 

 

「本人が構わない、と言っているんだ。答えてやるがいい、仔兎(ザイシャ)

 

 

 と、今度は反対側からハヤトさんの声。冷たく、何もかも突き放すような端的な言葉で。此方を見ることもなく。

 だから、何て事はないと思いたいけれど。うん、何だかムッときて。

 

 

「は、はい────何でしょうか、ジューコフさん?」

 

 

 そう、口を開いて。リュダ達が息を飲むのが感じられたけれど、うん、だって頭に来たんですもの。

 それはリュダ達じゃなくて、勿論、ジューコフ将軍閣下でもなくて。隣で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()で。

 

 

「はは、いや、なに。君が後生大事に抱いているそれ。それは何かな、と思ってね」

「あ、これ、ですか?」

 

 

 でも、将軍閣下はまるで気にも留めず。むしろ嬉しそうな位の笑顔のまま、わたしが膝上に抱く、鳥籠を指差す。そこに有るものは、当然。

 

 

「あの、数日前にわたしの前に落ちてきて……放っておけなかったので……」

「ほう、これは……」

 

 

 そして、掛け布を取って。ジューコフ将軍の前に、『鳥』を見せる。煌めくような白い鳥、目映い宝石の瞳の()()

 それに閣下は顎に手を寄せて、吟味するように矯めつ眇めつ。

 

 

「……ハヤト。これは、犬かね、猫かね、それとも鳥かね?」

「知るか。チャールズ・ダーウィンにでも聞け」

 

 

 さしもの閣下も困惑したようで、ハヤトさんに助けを請うたけれど。当のハヤトさんは、「十碩学の《博物公(ダーウィン)》さまにでも聞け」と、聞く者が聞いたなら、酷く不遜なことをぶっきらぼうに溢しただけで。

 ふう、とハヤトさんの吐いた紫煙が、窓外に吸い込まれて消えていく。なんだか、そんな態度が腹立たしいったらもう。

 

 

「……むう」

 

 

 なぜか唇を尖らせて、ぷく、と右頬を膨らませてしまって。はしたないとは分かっているけれど。分かっているけれど、抑えきれなくて。

 

 

「────何だ、不服そうだな」

 

 

 そう、ごとりと落ちるようなハヤトさんの視線。緋色の、まるで燃え滾る鋼鉄のような。以前、精錬所を訪ねた際に見たそれを思わせる瞳を見つめ返して。

 

 

「────別に。何でもありません」

 

 

 とだけ、返して。わたしは、膨れた右頬のままで。膝元の《鳥》に、向き直って。

 

 

──向き直って、気付く。《鳥》もまた、わたしの方を見ていることに。その宝石色の瞳で、真っ直ぐに此方を見つめていることに。

──吸い込まれそうに深く澄んだ虹色の瞳で、じっと。七色の煌めきを湛えた双眸で、ずっと。

 

 

「まあ、なんにしても、だ。君が気に掛ける婦女子など珍しいものだな、ハヤト?」

「……別段。気に掛けているわけでもない。言った筈だ、部下の妹だ、と」

「いやいや、言わずともわかるさ。今日日(きょうび)、この御時世。路傍の鳥を放っておけずに拾うなどとは奥ゆかしいことだ」

「い、いえ、その、当然のことをしたまでで……」

 

 

 快活に、整ったご尊顔を綻ばせて、ジューコフ将軍が笑う。当たり前に思ってしたことで誉められるのは、なんと言うか、恥ずかしいったらもう────

 

 

 と、返事に窮したところでガーニーが停車する。それにつられて外を見れば、聳え立つ黒色のビルディング────旧帝政ロシア時代に起きた謎の爆発事件の名を取って名付けられた、ツングースカ試験場が、そこに在って。

 冷たい鋼鉄の外壁に包まれた大きな建物からは、既に送迎の為の儀仗兵が数十名。恭しくライフルを掲げて居並んでいる。

 

 

「お帰りなさいませ、同志ジューコフ将軍閣下! 並びに同志ナイトウ大佐、及び学生諸君!」

 

 

 その内の、最前列の真ん中に立つコサック刀(シャスカ)を帯びた男性がガーニーの扉を開けて。厳つい大柄の、かちりと軍服を纏ったカイゼル髭の壮年の男性が大声で宣う。びりびりと鼓膜が痛むくらいの大声で。

 ハヤトさんは辟易した顔で。ジューコフ将軍は、苦笑いで。

 

 

「……仰々しいのは止めて下さいと申し上げました、同志ブジョーンヌイ元帥?」

「ハッハッハ、そうだったかな? まあ、ソヴィエトの未来を担う若人の門出だ。これくらい良かろう?」

 

 

 そして、今日何度目になるかもわからない固唾を飲む。ブジョーンヌイ元帥。勇猛名高きコサックの竜騎兵団長。極東との戦争、ロシア革命、冬戦争の全てを戦い抜いた猛将。

 かつてツァーリツィンと呼ばれていたこのヴォルゴグラードで、ロシア内戦時代に勇名を(ほしいまま)にした《ブジョーンヌイの騎馬兵団》の指導者セミョーン・ミハーイロヴィチ・ブジョーンヌイ元帥閣下。その人が、目の前に。

 

 

「おや、これは可愛らしいお嬢さん(ガスパジャー)だ。申し遅れた、我輩はセミョーン・ブジョーンヌイである」

「は、はい、アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァと申します! 元帥閣下に置かれましてはご機嫌麗しゅう!」

「ハッハッハ! そう畏まらずとも良い! おや、それは……」

 

 

 わざわざ手を差し伸べて下さった元帥閣下のお手を、畏れ多くも拝借して車外に。その時、鳥篭が目にお入りになったらしく、閣下は。

 

 

「動物が好きかね? 我輩もだ! 特に馬は良いぞ! 何を隠そう、我輩の牧場には我輩が独自に交配した素晴らしい駿馬がおってな! 神話の馬にも引けをとらぬほどに健康で、良く走り、人に逆らわぬ! まさに最高の軍馬で────」

 

 

 実に上機嫌そうに、カイゼル髭をなめしつけながら滔々と。立板に水の如く、止めどなくて。

 

 

「閣下、ご予定が押しております。学生の薫陶の後はヴォルゴグラード市内の警邏が」

 

 

 それを止めたのは、ジューコフ将軍と同世代くらいの男性。表情を見せない顔で、ごく当たり前のような平坦な口調だった。

 

 

「ぬ……分かっておる! さて、それでは我らがソヴィエトの碩学の卵達。案内しよう、付いてきなさい!」

 

 

 その彼を一睨みした元帥閣下はジューコフ将軍とハヤトさんの顔を一瞥ずつ、そして早速、踵を反して歩いていく。

 苛立たしげにカイゼル髭をなめしつけながら、辺りの儀仗兵を伴って。残されたのは、わたし達と────後、一人。先程の男性だけ。

 

 

「アレクサンドル……君が居ながらなんだ、この体たらくは」

「……俺は止めたんだ。止めたんだぞ、ゲオルギィ。だが、止まらなかったんだよ、あの人は」

 

 

 ジューコフ将軍と共に、ため息混じりに呟いたその方。アレクサンドルと呼ばれた男性は、もう驚くのも疲れる《将軍》の徽章。

 

 

「アレクサンドル・ヴァシレフスキー一生の不覚だな」

「喧しい。貴様の方こそ、もっと言い含めておかんか」

「無理だな、俺は機関化兵団創設の件で嫌われている。あの人の騎馬兵団の活躍の場と存在意義を奪ったからな」

「俺だって似たようなもんだよ、『狙撃など臆病者の戦術だ』ってな。まあ、お前ほどは嫌われてはいないがな」

 

 

 そう、アネクドートを囁き合うかのように小声で、肘で互いに小突き合う。まるで気心の知れた幼なじみか何かのようで、少し微笑ましくなる。

 アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ヴァシレフスキー将軍閣下。ジューコフ将軍と双璧を成す、狙撃兵出身の若き将軍。今日のソヴィエトの常勝戦術である、機関化兵団による電撃戦と狙撃兵団による遅滞戦法の集中運用を推し進めたお二方の姿は。

 

 

──この灰色にくすんだ雪の降るソヴィエトでも、眩しいくらいに見目麗しくて。甘いマスクのジューコフ将軍閣下と精悍な相貌のヴァシレフスキー将軍閣下、とても絵になるお二人だもの。

 

 

 そう思ってしまうと、もう駄目! いけないとは分かっていても、つい、鳥籠を置いた手が、鞄の中のカメラに伸びてしまって────パシャリ、と。

 

 

「「ん────?」」

「あっ────」

 

 

 撮ってしまった、と気付いた時には後の祭りで。シャッター音でお気付きになったお二人は、揃ってわたしの方を見られていた。

 

 

「こ、こらっ、アーニャ! いつも言ってるでしょ、篆刻写真を撮る前に許可を取りなさいって!」

「すみません、将軍閣下方! こいつには後でしっかり言い含めておきますんで!」

「今から記録も処理しますので、どうかご容赦のほどを!」

 

 

 そして、リュダとガガーリン君、オジモフ君がわたしを庇って前に出て。

 

 

──そうだ、普通のものとは訳が違う。将軍様の御肖像だ、これは普通なら、軍事機密に該当するもの。どうしよう、大変なことをしてしまった。わたし、どうすれば────

 

 

「なに、気にすることはないよ」

 

 

──そうだ、気にすることはないんだ。だって、これは機密────え!?

 

 

「え!? で、ですけど、機密……」

「ブジョーンヌイ元帥ならそうだろうが、俺……ウン! 我々はもっと積極的にメディアに露出するように《大元帥》殿に申し付けられているのでね。広告塔、と言う奴さ。だから、篆刻写真程度なら気にしなくてもいい」

 

 

 心底疲れたようなご表情で、ヴァシレフスキー将軍はため息混じりに呟いた。ああ、実直なお方なんだな、と察して余りあるお言葉だった。

 

 

「そう、なにせ見た目が良いからね、我々は。ハハハ……」

「自分で言うかい、そう言うことを……ナイトウ大佐、君の上官をどうにかしてくれ」

 

 

 茶化すような、というか文字通り茶化したジューコフ将軍のお言葉に、更に眉間のシワを深くしたヴァシレフスキー将軍が我関せずを貫いて煙管を燻らせていたハヤトさんに話題を振る。

 そのハヤトさんは、と言うと────

 

 

「知るか」

 

 

 たった一言、ばっさりと一刀両断だった。聞いているこっちがハラハラする態度で。

 

 

「……一応上官だぞ、私は」

「黙れ。俺に命令ができるのは、後にも先にも()()()()だけだ」

 

 

 いささか気に障ったらしいヴァシレフスキー将軍の言葉にも、それだけ口にして煙管の灰を路上に打ち捨てるとすたすたと歩き出す。

 まるで、目映さに目を背けるように。思い出した《何か》に背を向けるように。

 

 

 向かう先は、試験場の入り口で。

 

 

「~~何をしているのかね?! 早く行くぞ、学生諸君!」

 

 

 今にも痺れを切らしそうな、ブジョーンヌイ元帥閣下のお待ちになられている場所だった。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そして、二人だけが残された路上で。ゲオルギー・ジューコフは懐から取り出した紙巻き煙草を咥えた。

 身を切るように凍えたシベリアの北風は、ソヴィエトのどこにいても等しく命の熱を奪う。いいや、北風だけではない。石畳の敷かれた街路の下からも、永久凍土からの冷気が、ソヴィエトのどこにいても。それに負けて、熱を喪ったものから、死んでいく。

 

 

 開闢以来、ここはそういう土地だった。だが、それは自然の摂理の話。今はどうだ、《鋼鉄の男》が敷いた冷たい法の下の密告と讒言、熱と蒸気を産み出す機関のもたらす排煙による寒冷化と蒸気病により、命が次々と失われていく。

 酷い時代だ、と自嘲する。軍属の、命を奪うことを生業とする己がこんなことを、と。偽善にすぎないと理解はしていても。

 

 

「……全く。返す返す人が住む場所じゃないな、此処は」

「何を今さら、だ。夏の来ていたらしいかつてならともかく、この機関の時代ではここは死の大地だ」

 

 

 その煙草に火を点したのは、アレクサンドル・ヴァシレフスキー将軍。機関ライターを閉じると、懐に仕舞い込んで己も紙巻き煙草を……ジューコフが渡した一本を咥えた。

 彼とて、そんな意味で隣の男が言葉を溢したとは思ってもいない。だが、ここはソヴィエトだ。《鋼鉄の男》ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン率いるソヴィエト連邦なのだ。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()からこそ。何処かで聞いているだろう反革命委員会(ヴェチェーカー)に対して彼は、わざわざそう口にした。

 

 

「……明日も知れぬこのシベリアの凍土、鋼鉄の掟に縛られたこのソヴィエトで。それでも若者は、未来に溢れる彼らは輝いている。願わくば、幸運のあってほしいものだ」

「そうするために、俺たちが居る。《白い男》ならざる俺たちだ、間違っても世界を救うなんて大それたことはできないが、それでも出来ることはある。だから────」

 

 

 そして(おもむろ)に、それをジューコフの燻らせる煙草の先と合わせて。すうっと息を吸い込んで。

 

 

「────死ぬなよ、ゲーリャ」

「────お前こそ、アーリャ」

 

 

 火を、点して。共に笑い合いながら、限りなく黒に等しい雪の降り始めた街路へと紫煙を吐いた。



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狼と豹 ―Волки и леопарды―

お久しぶりです

恥ずかしながら投稿させていただきます

次回は未定です


 

 

 

 

 

 

 

 

【■■深度4】

 

 

 

 

【高■度伝■体との対話】

 

 

 

 

 

 

 

 

────暗闇の中で。

 

 

 

 

 

────■は、《古きもの》との対話を始める。

 

 

 

 

 

『なぜ、お前達はそこまで傲慢なのか』

 

 

 

 

 

 目の前には、白く凍えた塊。それは、雪。それは、氷。それは、怒り。それは、嘆き。

 

 

 靄のように、或いは曇った硝子のように。またはモザイク画か、凍てついた氷のように。その姿は、判然としない。ただ、白い────()()()()()()()()()()。そのくらいのことしか、分からない。

 

 

 

 

 

『妾の愛しきものを奪い去りながら、それでも、自らの愛しきものを守り続けるのか』

 

 

 

 

 

『なぜ、言葉を発さない。紡ぐ言葉すら持ち合わせぬか、人間よ。愚かなる者共、脆弱なる者共。狂える竜よりもおぞましく、恐ろしき者共よ。略奪者よ』

 

 

 

 

 

 胸が詰まる。喉から、溢れそうになる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから、■は、言葉を持たない。

 

 

 持ち合わせない。持ち合わせているはずもない。なにを言っても、それは、ただの侮辱に過ぎないから。

 

 

 

 

 

『────────そうか』

 

 

 

 

 

 そんな■に呆れてか、見下げ果ててか。ため息混じりに吐き捨てた『彼女』は。

 

 

 

 

 

『そうか、()()か。貴様は────』

 

 

 

 

 

 ぽつりと、最後に。敵意だけ、吹き消して。宝石じみた輝きを一度、煌めかせて。

 

 

 

 

 

 それを、最後に。

 

 

 

 

 

『妾と同じ────《奪われたもの》、か』

 

 

 

 

 

 全てが、消えて────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……………………

 

…………

 

……

 

 

 

 

 

 意を決して、口を挟む。挟む、挟む。むっつりと黙りこくってしまっている、二人に向けて。

 

 

「それで、あの────」

 

 

 ゆっくり、ゆっくり。いきなりお湯に触れると熱いから、ゆっくりと足先から湯船へと。体を沈めるように。ゆっくりと。

 

 

「用意……できてる、の────?」

 

 

 むっつりと、むつかしい顔で腕を組んだままの、ガガーリン君とオジモフ君に向けて。

 そして────

 

 

「────端的に言えば」

「全く以て、間に合っていないな────」

「「────…………」」

 

 

 今日一番、聞きたくなかった台詞が。耳朶を震わせて────リュダとわたし、息を呑んで。

 

 

「ど────どうすんのよ、ユーリィ、イサアーク! 将軍方に元帥まで揃ってんのに、『用意できませんでした』なんて言い訳が通ると思ってんの!?」

「式典まで、あと、一週間しかないけど────だ、大丈夫、なの?」

 

 

 そう、一週間。現在時刻、午前九時。正直、絶望的な残り時間だけれども。それでも、碩学院きっての天才のオジモフ君に秀才のガガーリン君、何か考えがあっての事と期待して。

 うん、本当に。何かあってほしいと、期待して。

 

 

「────端的に言えば」

「全く以て、間に合っていないな────」

「「────…………」」

 

 

 苦虫を噛む潰した、なんてものじゃない。本当の本気で、困り果てた表情で。私たちを、絶望の坩堝に叩き落としたのだ────

 

 

「あ、あの────オジモフ君、ガガーリン君!?」

「言うな────分かってる。分かってるけどよ、俺等にも俺等なりの矜恃ってもんがあるんだ」

 

 

 なんて、ふふんと鼻を鳴らしているけれども。それってつまり、『全く目処がたっていません』って宣言しているだけじゃないの?

 ……とは聞けなくて。だって、あまりにも怖すぎて。わたしは、押し黙ってしまって。

 

 

「────失礼する、学生諸君」

「あ────ヴァシレフスキー閣下!?」

 

 

 そして、部屋に入って来られたお姿に驚く。三人の部下を引き連れて現れた、精悍な男性のお姿に。鷹のように鋭い目をした、狙撃兵団出身の将軍閣下のお姿に。

 

 

「静かに……宜しい」

 

 

 そして、高圧的なまでの言葉に全員が口を閉じて、次の言葉を待つのを確認して。ヴァシレフスキー将軍閣下は、その口を開かれた。

 

 

「同志ブジョーンヌイ閣下のご指示により、諸君らを今宵の晩餐会にお招きする。これは、その指示書である」

 

 

 すごく疲れたお顔でそう告げられた閣下の手には、一枚の紙。掲げられたそれに達筆なキリル文字で記された内容は、先程閣下が仰られた通りの内容。

 思い出すのは、恰幅のよい男性の姿。この、ソヴィエトで────日常的な酷寒と慢性的な貧困に支配されたソヴィエトで、肥え太ることを許された特権階級の老境の男性の姿。カイゼル髭を蓄えた、老人の姿。

 

 

「我らソヴィエト機関連邦の国威発揚の為に催される、国賓を招いた晩餐会である。諸君らには、それに応じた態度を求めたい」

「「「「………………………………」」」」

「発表は以上である。各員、気を引き締めて当たられたし」

 

 

 あまりと言えばあまりの物言いと、畏れ多い内容に頭がくらくらする。だって、晩餐会?

 晩餐会、だなんて。まるでかつての王朝時代の宮中のような言葉に。そんなこと、我が身ばかりか友達と一緒だなんて、想いもよらなくて。

 

 

「……済まないな、他ならぬ『賓客の筆頭』からのご依頼だ。ブジョーンヌイ閣下も一も二もなく頷かざるを得ないほどの、な。悪いが、付き合ってくれ」

 

 

 最後に、それだけ。申し訳なさそうに言い残して。ヴァシレフスキー将軍閣下は去っていった。心からと言う表情で、絞り出すように呟いて。

 

 

 

 

………………………………

……………………

…………

 

 

 

 

────困った。本当に、本当に困った。どうしたらいいのかしら?

 

 

 頭を抱えながら、わたしは灰色の雪が降り積もる町並みを歩く。英雄都市の一つ、歴史的建造物群であるこのヴォルゴグラードの市街を。

 外の空気が吸いたいとリュダ達に断って。頭を冷やしたくて。

 

 

────晩餐会、だなんて、そんな小説みたいな。そんな小説でしか知らないようなものにまさか、わたしが参加するだなんて。

────どうしたらいいのかしら。服は? 髪型は? 作法は? ああもう、本当に困ったったら────

 

 

 頭はぐるぐる、足もぐるぐる。市街地の大通りをぐるぐる。当て所なくぐるぐると。

 

 

「あ────」

 

 

────その時、目に入った。ああ、市街の外れに街を一望できそうな、小高い丘がある。

────すごく良い画が撮れそう、そう思うと居ても立ってもいられなくて。

 

 

「現実逃避じゃない、これは現実逃避じゃないわ……」

 

 

 そう自分に言い聞かせながら、篆刻写真機を握るわたしの足はそちらの方へ。見たところ一時間ほどもあれば戻って来れる距離、まだまだ今晩の晩餐会までは時間があるのだし大丈夫、大丈夫。

 そう言い聞かせて、大通りを曲がる────

 

 

「待て、そこの娘。一体どこに向かっている?」

「────!」

 

 

 響いた誰何の声に、体が竦む。恐る恐る振り向けば、そこには3名の兵士達の姿。機関式ライフルを携えた、まだ歳若い警ら兵。兄さんとそう、変わらないくらいの年齢の。

 

 

「この先にあるママイの丘(ママエフ・クルガン)はソヴィエト軍の管轄だ、民間人の立ち入りは禁止されている」

「あ……そ、そうだったんですか。申し訳ありません、ヴォルゴグラードには来たばかりで勝手が分からず……」

 

 

 まず、頭を下げる。兵士は苦手、苦手だからこそ事が荒立たないように細心の注意を払って。

 

 

「だとしても独り歩きなど不用心な話だ、うら若い娘が。送っていこう、宿は何処だ?」

 

 

 恐らく一番階級が高い兵士が、呆れ混じりにそう口にする。残る二人も文句はあっても口にする気はないらしく、わたしの返答を待っていて。

 苦手な兵士たちにじっと見詰められて。赤煉瓦造りのアパルトメントの下で。

 

 

「い、いえ、あの────」

 

 

────思い出すのは赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)でのあの一幕。粗暴な二人の兵士にリュダと一緒に絡まれた時。

────あの時、颯爽と現れて、助けてくれたあの後ろ姿を。

 

 

「────彼女は俺の客人だ、問題はない。貴官らは警邏に戻るがいい」

「あ────」

 

 

────そして、わたしは見た。

────黒いベレー帽に、軽装の冒険家のような服装。背中にはまるで聖アンデレ十字のように二本のサーベルを、両の腰には大型機関式拳銃を二丁携えたひと。

 

 

「ハッ!左様でしたか!失礼致しました、少佐殿!」

 

 

 途端に兵士達はぴしりと背筋を正して、敬礼を。それに男性も敬礼を返して。

 少佐、少佐と。確かに兵士達はそう言ったけれど。確かに軍人めいた恰好だけど、ソヴィエト軍の軍服ではない。じゃあこの人は、一体?

 

 

「軍曹、名前は?」

「ハッ!ヤーコフ・フェドートヴィチ・パヴロフであります!」

「上官殿に伝えておこう、市民の安全を第一に考える良い警邏だ。これからも励むように」

「ありがとうございます!」

 

 

 そう口にしてわたしの手を引いて、見送る三人の兵士を置いて男性が歩き出す。わたしも慌てて、兵士達に一礼して後を追いかける。

 

 

「────もう安心だ。大丈夫かい?」

「う────す、すみませんでした……」

「なあに、良いってことさ。街には危険が一杯だ、送っていこう」

「えっ?いえ、あの」

 

 

 そして、歩きながら優しげに口にする。葉巻を燻らせながら、器用に口角を釣り上げて。垂れ目の、()()()()()をこちらに向けて。まるで豹が笑うかのように。

 人懐っこい笑顔で、肩に手を回して。ううん、それはどちらかと言えばそう、助けて頂いておいて大変失礼なのだけれど、酷く馴れ馴れしい。

 

 

────ひょっとして。ひょっとして、なのだけれど。助けてもらっておいて、ひどい言い草かもしれないのだけれど。

────この人の方がよっぽど、危ない人なのでは……ないのかしら?

 

 

「そうだ、自己紹介がまだだった。俺はキューバ軍少佐、名前はエルネスト」

「いいや、まだ一番の危険人物が残っている」

「え────?」

 

 

 刹那、わたしの真後ろからの声に凍り付く。それは、聞き慣れた声。わたしを庇い立つように現れたのは、見慣れた背中。束ねられた黒い髪が狼の尾のようにたなびいて。

 

 

ようダチ公(チェ)!エルネスト」

 

 

 その陽気な挨拶らしき男性の声よりも早く、速く────手を掛けていた機関刀(エンジンブレード)を、引き抜いて。

 

 

「────糞ったれ(ホデール)!?殺す気かよ!」

 

 

 一陣の風を思わせる速さのハヤトさんの薙ぎ払い、それを二本の剣を交差させて受け止めた男性。火花が散る程の勢いで、だけど男性は揺るぎなく。

 

 

「殺す気じゃなきゃ剣なぞ抜かん、そのよく回る口を切り落としてやろう」

「はー、これだ!やだやだ、これだからジョークの通じない日本人(ハポネス)は!どう思うこういうの?!俺ちゃん悪くないよね?悪いのは間に合わなかった間抜け(ヒリポジャス)の方だと思わない?バーカ(カブロン)バーカ(カブロン)う○ち(ミエルダ)!」

 

 

────そして無精髭を蓄えた口からは乱暴なスペイン語と、咥えた葉巻から立ち昇る紫煙が滔々と溢れて。

────同時に一瞬だけ、男性は何処か違う方向に向けて語り掛けたような気がした。

 

 

「え────えっ?」

 

 

 いきなりの言葉に面食らう。だって、だってあまりに唐突すぎて。

 何?何なの?何が起きてるのかもう分からないったら────

 

 

「今すぐにくたばりやがれ、死に損ない獅子豹(デッドプール)!」

テメェこそ地獄に落ちろ(アスタ・ラ・ビスタ)死に損ない日本狼(ウルヴァリーン)!」

 

 

────とにかく分かったのはただ一つ。

────この二人、とても仲が悪いってことだけで。

 

 

こんにちは(ドーブルィ・ジェーニ)Ms.(ガスパジャー)アンナ。それにしても全く、相変わらず仲が良い事だね。ハヤト、エルネスト?」

「「目玉が腐ってるのか磁界王(マグニートー)!」」

 

 

 ()()()()と笑いを噛み殺しながら揶揄する口振りで隣に立つ、長身の男性────真紅のスーツ、一目で最高級の物と判るそれを難なく着こなし、最新式の機関パイプを左手に携えた男性。色素の薄い灰色の髪に猫めいた黄金の右瞳と、青い左瞳の怜悧な美貌の。髭を蓄えていてもなお、精悍な印象の男性。

 ハヤトさんがここにいる理由であろう()()

 

 

Mr.(ガスパジーン)ジュガシヴィリ────」

 

 

 雪避けの傘を差し掛ける金髪碧眼の女性を連れた、()()()()()()がそこに立っていて────…………



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異邦人 -Незнакомец-

 

 

 

 

 遠い、遠い。果てしなく遠い。暗く、長い長い隧道(トンネル)、或いは天蓋付きのアーケード。その彼方に揺れるもの。いつからだろうか、多分、ずっと。目指して歩いている、あの『光』は。

 届かないものを思う。見た事はないけど、水鏡に煌めく満月であるとか、蒼穹に輝く太陽であるとか。

 

 

 そして、ふと、足元に目を向けた。

 

 

 隧道の天井から漏れる、僅かばかりの『光』を湛えた石畳に。そこに芽を出した、ほんの些細な命を。雑草と、一括りにされるもの達だ。だが、確かに命の輝きだ。

 一休みしよう、この命を眺めて。背後から吹く風に揺れる、小さな彼等を眺めて。

 

 

 辺りに佇む、セピア色の、皆と共に。

 

 

『──オブジェクト記録を参照:三国戦争とは』

 

 

 その時、声が。声、声? いいや、違う。心を震わせる『思い』が、流れ込んできた。

 

 

『三国戦争とは、ロシア革命前夜に起きた帝政ロシアとフィンランド王国、オスマン機関帝国、そして極東帝国との三正面戦争である。北辺のロシアにとっての悲願である不凍港を目指した南進先のオスマン機関帝国との戦争に乗じて、大陸進出を目指した極東帝国の横槍と、ロシアからの独立を目指したフィンランド王国の反乱が重なった結果であった

 その結果についてはここで語ることはないだろう。全ては《緑色秘本》に記された通りであるのだから。そして、国力を減じた帝政ロシアは《赤錆の男》率いるボリシェヴィキによる革命に斃れ、ソヴィエト機関連邦となったのだ』

 

 

 見上げても、暗く霞んだ天井から吊り下げられた、仮面が口走る言葉。その全てを囁いて、色を失った仮面は霧のように消える。

 

 

『────試作機関兵器(アブイェークト)とは』

 

 

 次に、吊り下げられた左腕。鋼鉄の、機関義肢(エンジン・アーム)

 

 

『帝政ロシア末期に研究されていた機関兵器の試作品群。代表的な例を上げれば、三国戦争で各戦線に送り込まれてその侵攻を盡く挫きフィンランド軍から《街道上の怪物》と呼ばれた要塞が如きKV−Ⅱ(カーヴェー・ドヴァー)重戦車や、東方戦線に投入されて明治政府軍に甚大な被害を与えた空飛ぶ多砲塔戦車が如き《黒き死》と恐れられたIL−Ⅱ(イール・ドヴァー)襲撃飛空艇がある。それらは雲霞の如きT‐18軽戦車とともにゲオルギィ・アレクサンドロヴィチ・ジューコフ将軍とアレクセイ・ニコラエヴィチ・クロパトキン将軍指揮の下、戦線を蹂躙し──勇士達の決死の奮戦によって華ばなしく敗れ去った。

 そして、試作から制式となったその虎の子の機関兵器群もオスマン機関帝国伝統の《大太守の偉大な機械(スルタン・マシーン)》には敵わず、赤子の手をひねるように敗れ去り、南進計画は頓挫することとなったのだ。しかしその研究は帝政ロシア亡き後もソヴィエト機関連邦に引き継がれ、今も尚洗練を重ねている』

 

 

 そして、消えていく。やはり、霧か霞のように。

 

 

「わたしの、過去────」

 

 

 色を得て、語り出したのは少女。白く、輝くような銀色の髪の。携帯型篆刻写真機を抱く、白い兎のような。

 

 

「過去────過去。わたしの、過去は……紅い、燃え盛るように紅くて……大嫌いな、零れ落ちるような紅……それしか、思い出せなくて……」

 

 

 煌めくように、そう口にして。色を失って、代わりに。

 

 

 

 

 Q、夢とは?

 

 

 

 

「俺の、夢か────」

 

 

 色を得て、語り出したのは。背の高い金髪の、海色の瞳の青年だ。頑健な獅子の如く、それでいて人懐こい子犬のような。

 

 

「行きたいんだ、彼方へ。知りたいんだ、そこに何が在るのか────それとも、何も無いのか」

 

 

 陰るように、そう口にして。色を失ったの代わりに。再び色を得て、少女が口を開く。

 

 

「思い出したくないと思う。でも、思い出したいとも思う。そこに、何があるのか……それとも、なにもないのかも、しれないけれど──それでも、わたしは……」

 

 

 彼の陰りに釣られたように、俯いて。全てを語り終えて色を失い、霧か霞か、或いは雪のように消えていくのだ。

 

 

 

 

 Q、叶えるべき願いは?

 

 

 

 

「────知りたいんだ、知りたいんだ。そのためなら、俺は……この命を賭けても────賭けてでも、辿り着いて見せる」

 

 

 彼も、また。全てを語り終えて、得たはずの色を失って。霧か霞か、或いは雪か────若しくは紫煙のように、消えてしまった。

 

 

 後に残されたのは、ただ、この日溜まりだけ。ああ、もう十分に休んだ。さあ、歩き出そう。最後に、僅かな名残を残して。

 風に揺れる草を、華を。有りもしない瞳に焼き付けて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そうして帰り着いたホテルでは、これまた騒動が起きていて。わたしは、息を呑んで。

 

 

「ど──どうしたの?」

 

 

──そう、リュダに問い掛ける。

──だって、ガガーリン君とオジモフ君は。

 

 

「どうもこうも──突然政府赤軍からとんでもないプレゼントが届いたのよ」

 

 

──とっても忙しそうにしていたから、声、掛けにくくて。

 

 

「ユーリィ!早速明日内燃機関(ドヴィーガチリ)を取り付けるぞ!君は搭乗準備だ、操作方法を一から十まで頭に叩き込んでおけ!」

「バカ言ってんなよイサアーク、んなもん当の昔に百まで叩き込んであらァな!そっちこそ調整しくじんなよ!」

 

 

 リュダとわたしが見つめる先では、慌ただしく計算機関に数値を叩き込み続けているオジモフ君に、仕様書を部屋中に広げているガガーリン君の姿があって。

 正に足の踏み場も声をかける余地もないくらいの鉄火場、といった雰囲気で。正直、意味が分からないったら──

 

 

「ああ──簡単な話さ、修道女(シストラ)アンナ。ソヴィエトの未来を担う彼らに、古い飛空艇(シュトルモビク)をプレゼントしただけさ」

「えっ──ひ、飛空艇をですか?!」

 

 

──本当に何でもなさげに。悪戯が成功したようにくつくつと笑いながらそんなことを仰ったジュガシヴィリさんに、心からびっくりして。だって飛空艇、飛空艇?!

──古いものと言ってもそんな、西享では未だに軍事的にはかなりの貴重品な筈なのに。飽きた玩具みたいに取引されるようなものじゃない……わよね……?

 

 

 少し自分自身の常識に自信を失ったけれど、間違ってはいないはずだと叱咤しながら。言葉もなく、その光景を眺めているしかなくて。

 

 

「ああ、そしてこれは君に──受け取っていただけるかな?」

「あっ、はい──あ、ありがとうございます……って、これ──」

 

 

 受け取った大きめの浅い箱は、綺麗に包装されていて。まるで、そう。値の張る服飾店で買った──

 

 

「ドレ、ス──」

 

 

──そう、ドレス。わたしのお財布では何年も働かなきゃ手に入らないくらいにしっかりとした、息を呑むほどに見事な縫製の。

──そう、ドレス。()()()()()()()()()()()()()……()()()()()()()()()()()()()()()で。

 

 

「あーららコイツは中々のナイスアプローチ、金持ちならではのね。俺ちゃんらには真似できねーな痩せ狼(ウルヴァリン)?」

 

 

 そう戯けながら口にしたエルネストさん。葉巻を蒸してがははと豪快に笑いながら気安くハヤトさんの肩に手を回して、まるでというか事実、虚仮にしながらのその台詞に──

 

 

「黙れ気狂い彪(デッドプール)

「おっと──へぇ……ふーん分かりやすっ

 

 

 たった一言と共に回されたエルネストさんの腕を跳ね除けた、ハヤトさんの姿があって。

 それに酷く意外そうに、でもすぐに余裕の表情を取り戻したエルネストさんが訳知り顔で頷いて。

 

 

「──何にせよ、これで問題は解決というわけだ。君は安心して今宵の晩餐会に参加できるね」

「──あ──」

 

 

 そんな様子すら意識に潜り込まないくらい身を竦ませていたわたしの耳に届いたジュガシヴィリさんの言葉は、いつもどおりに冷たくて息を呑む。

 機械のように正確に、機械のように精密に。誰一人、反抗することを赦さないと告げる青と金の左右異色瞳の凍えた輝き。

 

 

 人ではないものを思う。もしも鮫が笑ったのならば、こういう笑顔なのだろうと思うような笑顔で。

 

 

 わたしの心、凍えて冷えて。震えてしまう、止め処もなく──

 

 

「──心配せずとも俺が連れて行くとも、イオセブ・ジュガシヴィリ。貴様はいつも通り、大仰に構えていればいい」

「あっ──ハヤト、さん……」

 

 

──そう、狼が唸るように。ハヤトさんがわたしとジュガシヴィリさんの間に立った。まるでわたしを庇うように。大きな背中で、ジュガシヴィリさんを遮って。

──機関刀を抜かんばかりに腰溜めに、だけど自然体に。緋色の瞳を真っ直ぐと、機関式煙管から万色の紫煙を燻らせながら。

 

 

「──ハヤト・ナイトウ。貴様……!」

「何だ、モロトフ──フィンランド戦の時のように()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 あからさまな挑発に色めき立ったのはジュガシヴィリさんの側に控えていた女性。麗貌に殺意を滲ませながら、綺麗なモロトフさん。いつの間にかコートの内側に含ませた手を、抜き放つ──

 

 

「止せ、モロトシヴィリ──モロトシュティン」

「──了解した、コーバ。我が親友」

 

 

──よりも早く放たれたその言葉に、ゆるりとモロトフさんは構えを解いた。一触即発の空気はただ、それだけで失せて。

──最新式の機関パイプから黒色の煙を濛々と立ち昇らせながら、ジュガシヴィリさんは穏やかな口調と仕草のまま。

 

 

「さて、実は別の用事があってね。悪いがこのあたりでお暇させて頂こう。ではね、ハヤト」

「…………」

 

 

 重い言葉と沈黙の余韻だけを残して、ジュガシヴィリさんとモロトフさんは去っていく。ただ、ハヤトさんとモロトフさんの睨めつけるような視線と。

 

 

「────《外なるもの(ニェズコメッツ)》が」

 

 

 そんな、吐き捨てるようなモロトフさんの言葉を残して。

 

 

「……なに、アーニャ?修羅場?」

 

 

 最後に残ったのはそんな、困惑したリュダの疑念だけで──……

 




あまり話が進まず申し訳ありません

現在ティルヒアをプレイしております


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