東方己分録 (キキモ)
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こうして彼は幻想入りをする
一話 とある青年のちょっとした転機


追記なのですが、東方キャラは今回と次回は出ません。
次々回の終盤での登場になります。念のため。


俺は、きっと自分は人一倍恵まれている、と自負している。

 

家が裕福であるかといえば、そんなことはない、ごく一般的な家庭である。

他の人と一線を画す才に恵まれているかといえば、少し運動神経がいいくらいで、平凡の域を出ない。

美人な恋人がいるかといえば、恥ずかしながら生まれてからの20年、彼女などいたことがない。

 

それでも俺は、自分は他の人より幸せである、と断言できるのは、単に俺が両親のことを誇りに思っているからだ。

教師の父と、看護士の母は、近所でも評判の鴛鴦夫婦というやつで、息子の俺から見てもたまに恥ずかしくなるくらい仲がいい。

そんな二人は、俺に惜しみない愛情を注いでくれた。

いつも優しく、時に厳しく、そして常に俺を想って接してくれた。

たまに鬱陶しく思うこともあったが、それでもやっぱり、俺は二人のことが大好きだ。

 

だから、こんな素敵な家族に恵まれた俺は、幸せ者なんだ。

 

 

 

 

 

訃報が届いたのは、俺が大学の友人たちと、二週間後の小旅行の計画を友人宅で立てている最中だった。

知らない番号からの着信に、首をかしげながら通話に応じる。

 

「岡崎悠基(オカザキ ユウキ)さんでしょうか」

「……はい。あの、どちら様でしょうか」

「どうか、落ち着いて聞いてください」

 

そんなありきたりな言葉の後に、相手の男(後に警官であることを知る)は重々しく言葉を続ける。

この辺りから、記憶は曖昧だ。

男は、俺の両親が交通事故で亡くなった、というようなことを告げた。

俺は、冗談はやめてくださいとか、そんなことを言った気がする。

男は沈黙で返すが、その沈黙が、男の告げた事が事実であると、俺を確信させた気がする。

 

それでも俺は、そんなことを信じたくなくて。

あの二人が死ぬわけがなくて。

あの二人が俺を置いていくわけがなくて。

こんなに唐突に終わるはずがなくて。

旅行のお土産何がいいかって聞いたのに。

話の流れで、久しぶりに家族旅行に行くかって父さんが言って。

俺は、素直に応えられなくて。

母さんが全部お見通しだとばかりにクスクスと笑って。

今朝、そんな話をしたのに。

 

俺はまだ、

 

あの二人に、

 

ここまで育ててもらった恩を、

 

たくさんの愛情を注いでもらった恩を、

 

数え切れない幸せをくれた恩を、

 

これっぽっちも、

 

何一つとして、

 

 

 

 

 

返せてないのに。

 

 

 

 

 

 

…………二人の葬儀は、3日後に粛々と執り行われた。

父の弟にあたる叔父とその奥さんの叔母が、俺の代わりに色々と手配してくれた。

葬儀が終わり、参列者が一通り帰宅したのち、俺は外の空気を吸うために通りに出る。

 

死んだ人は星になる、という言葉を思い出し、空を見上げる。

その日は朝からしとしとと雨が降り続けており、夜空の星は分厚い雲に覆われていた。

それでも俺は、目を凝らせば星が見えるかもしれないと、灰色の雲を凝視していた。

 

その視界を遮るように、黒い傘が俺の上に掲げられる。

雨の中傘もささずに空を見上げる俺を見かねた叔母が、苦悶の表情で俺の傍に立っていた。

「悠基君……中に、戻りましょ」

叔母の後ろには、叔父もいて、悲しげな目を俺に向けている。

 

二人に、そんな顔をして欲しくなかった。

「俺は大丈夫だよ」

言いながら、笑みを浮かべようとする。

「大丈夫だから」

もう一度言って、口角を上げたけど、上手くいかず、歪な笑顔になったようだ。

目の前の二人が、より一層悲しげな顔をしたから、分かった。

 

 

 

 

 

それから半年が立った。

俺は今、家族3人で過ごしていた家に、一人で住んでいる。

叔父夫婦や、他の親戚が引き取ってくれることを提案してくれたが断った。

3人で過ごした家を、守らなければいけないという使命感があった。

 

大学に通いながら、炊事洗濯掃除と、家事をこなさなければいけなくなったが、以前から手伝いで日常的に行っていたこともあり、さほど苦労はしなかった。

一人で住むには広すぎる家の掃除も、親戚が頻繁に手伝いに来てくれた。

 

父の書斎を掃除しているとき、ふと、小さな写真立てを見つけた。

分厚い書籍の奥に、まるで隠されるように、押し込まれていた。

 

気になって引っ張りだすと、写真がしっかりと収められている。

そこには、俺が生まれる前の、若かりしころの両親が写っていた。

二人の後ろに小さな鳥居が、そしてその奥に小さな小さな神社が見て取れる。

山の中だろうか、周辺には木しか見えない。

そして、その二人に寄り添うように、女性が佇んでいる。

腰まで届く長い金髪と、少しだけ微笑を浮かべる美しい顔立ちは、その写真の中で強烈なほど浮いていた。

濃い紫を基調とし、フリルのついた艶やかなドレス姿で、一緒に写っている二人や背景とはあまりにも場違いだ。

大人びた雰囲気を写真ごしに醸しているが、若い両親よりも更に若くも見える。

 

見てはいけない物な気がしたが、それ以上に好奇心が勝った。

写真立てから写真を取り出し裏面を見る。

「あった」

思わず声がでた。

裏面には、父の字で、約25年前の夏の日付、そして「博麗神社にて」という一文が記してあった。

 

一緒に写っている女性は何者なのか。

二人とはどういう関係なのか。

博麗神社とは。

湧き出てくる疑問は、強い興味を伴い、俺はその写真を調べることにした。

 

その写真が隠されるように仕舞われていたことに、一瞬邪推しかけるが、首を振って沸きそうなイメージを取り払う。

 

とにかく、博麗神社について調べよう。

 

聞いたことのない神社名だったが、ネットで検索したところ、数件ヒットする。

地図を見ると、山奥にある神社らしい。

ヒットした情報がどれも、10年近く前の情報で、その時点で廃れ始めているのが分かる。

アクセス方法を調べてみた。

少し遠い。

早朝から家を出れば、ぎりぎり日帰りで行けそうだ。

 

最悪、ホテルに泊まる手もある。

両親は、俺が大学を出た後も何年かは不自由せずに過ごせる程度に、お金を遺してくれていた。

そのほんの一部を少しだけ、使わせてもらおう。

そうして半ば衝動的に、俺は次の日が週末だったのをいいことに、博麗神社へと向かうことにした。

 

 




はじめましての初投稿です。

開始早々鬱々としていますが、一応ほのぼのとしたものを書きたいと思っています。
遅筆なので進みは遅いですが、よければ気長によろしくどうぞ。


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二話 邂逅、逃走、覚醒

空は茜色に染まり、森は次第に闇を深くしてゆく。

俺は焦りと不安に押しつぶされそうになりながら、黙々と歩いていた。

スマートフォンを見る。

圏外表示に溜息がこぼれる。

GPSも然り。

 

まずい、まずい、と心の中で呟く。

周囲を見渡すが、似たような景色が広がっているのみだ。

ほんの二十四時間前、写真を発見したときは、異常なほど興奮していた俺だったが、今は全く別の意味で落ち着かなかった。

 

 

*

 

 

早朝、家を出た俺は、新幹線、電車、バスを乗り継ぎ、昼すぎにとある田舎町に降り立つ。

コンビニで調達した昼食を、一時間にバスが一本しか来ないことを示す標識の立つバス亭で済ませ、スマートフォンの地図アプリを起動させた。

電波は問題なく届いていたし、GPSも誤差も許容範囲だ。

これから、山に入るのだから、電波の状況はこまめに見ておこう。

 

博麗神社はバス亭から徒歩一時間ほど。

ただし、道程の半分は山道を行くので、長く見て二時間半ほどか。

 

果たして、博麗神社に写真の手がかりがあるかは分からないが、兎に角行ってみよう。

 

 

と、意気込んでから数時間後。

山からは半分獣道となった細い道を歩いていたのだが、ふとスマートフォンを見ると表示が「圏外」となっている。

GPSも機能していない。

ほんの数分前に確認したときは問題なかったはずだ。

おかしいな、と思いながら、俺は電波状況がよくなるまで引き返すことにした。

道はほぼまっすぐだったし、迷うということはないだろうと、半ば楽観的に見ていた。

 

だが、いくら戻っても、電波は一向に入らない。

どころか、慎重に元来た道を辿って来たにもかかわらず、気づくけば道が消えていた。

 

絶句した。

 

遭難の恐れがあったとはいえ、一応の警戒はしていたし、慎重に行動したつもりだった。

だが、現状はご覧の有様である。

 

 

* * *

 

 

そうして、冒頭に至る。

 

疲労から俺は一本の木を背に座り込んだ。

日はすっかり落ちているが、月明かりが強く、辺りは夜にしては明るい。

それでも視界がそれほど確保できない今、無闇に動くのは危険だ。

 

それにしても、と俺はスマートフォンを見る。

ディスプレイに表記される現在時刻。

 

『16:18』

 

季節は初夏手前。

本来ならば、まだ日が傾いてもいない時間である。

にもかかわらず、空を見上げれば、既に夜空には星が瞬き、枝葉の隙間から月光が降り注ぐ有様である。

 

「なんだよこれ……」

 

最初はスマートフォンに何らかの不具合が起きたのかと思ったが、父から譲り受けた腕時計の針は、ディスプレイに表示された時刻と同じ時間を指していた。

 

一体どういうことだろう。

考えてみる。

 

案1。なにかしらの影響で、スマートフォンと腕時計両方に同時に不具合が生じた。

例えば、強力な磁場が発生しており、デジタル時計とアナログ時計が同時に狂ってしまったのかもしれない。

しかし、それにしてはスマートフォンは通常通りに動作しているし、同じ時間を指しているというのもおかしな話である。

 

案2。時空を超えてしまった。

例えば、気づかないうちに未来、もしくは過去に戻っている。

さもなくば、時間の異なる別世界にワープした、とか。

なるほど、これなら時計の表記と実際の時間が食い違うのも納得がいく。

 

「ハァ……」

と、そこまで考えて溜息をついた。

遭難という現実から逃避して馬鹿馬鹿しいことを考えている場合じゃない。

 

こういうときこそ冷静にならないと。

とりあえずは、一晩はここから動かないでおこう。

体を休めて、日が昇るのを待つことにする。

一応は山に入るため、コンビニで調達したスポーツ飲料と、携帯食料を準備していたのだが、今ではそれが生命線である。

ほんの少しだけ口にして、後はリュックに仕舞いこんだ。

 

そこからは、あまりエネルギーを消費しないように、横になり、体を胎児のように丸める。

幸い地面は柔らかな草に覆われ、存外寝心地は悪くない。

目を閉じる。

疲れているのですぐに眠れるかと思ったが、動機が落ち着かない。

遭難したという現実のせいで不安に押しつぶされそうなのだろう、と他人ごとのように俺は考えた。

 

 

* * *

 

 

ガサリ、と。

草木が揺れる音がしたような気がした。

目を開く。

顔を上げ、周囲を見回すが、辺りの様子に変化はない。

腕時計を月明かりに翳す。

十八時を半ば回ったところだ。

眠れないと思ったが、いつの間にか意識を手放していたようだ。

 

と、そこまで考えたとき、音がした。

――っ!

息を呑み、慎重に起き上がる。

 

今のははっきりと聞こえた。

というか、断続的に聞こえる。

風で葉が揺れる音ではない。

何かが草を掻き分ける音だとはっきりと分かる。

 

横においていたリュックを背負いこみ。

音のする方向を凝視する。

 

何かが近づいてきている。

地面に落ちた枝を折るようなポキリという音が混じる。

大きい。

少なくとも、狸とか、狐とか、そういったサイズではないように感じる。

 

熊、か……?

 

冷や汗が頬を伝った。

どうする……。

確か、死んだ振りは効果がないとか聞いた覚えがある。

相手の目を見たまま、ゆっくりとあとずされば不用意に襲ってこない。

それで、その後は――?

 

そんな風に熊の対処方を考えているとき、遂に音の主が、木々の間から現れた。

距離にして、20メートルに満たないだろう。

月光に照らされたその姿を見て、俺は思考が停止した。

 

体格は二メートルほど。

体は黒い体毛で覆われ一見すると熊に見えなくもない。

しかし、二足歩行で立つそれは、熊のような寸胴と太い足とは不釣合いに、長い前足は、だらりとぶら下げると地面に触れそうなほど長い。

大きく裂けた口からは鋭い牙が生えている。

そして、熊との……いや、普通の動物との決定的な違いは、その巨大な目だった。

 

顔の中央やや上に、おぞましさすらかんじる巨大な瞳が一つのみ。

月光に照らされたソレが硬直する俺を真っ直ぐ捉えていた。

 

 

 

それは、化け物だった。

 

 

 

一ツ目の化け物と対峙した俺は、思考が止まり、動けない。

化け物から、目が離せない。

 

直後、化け物の口端が、まるで笑うかのように釣りあがった。

笑った、と無意識に直感した俺は、直後に瞠目する。

 

「ニンゲン……」

 

あろうことか、はっきりと、そう呟いた。

息を呑み、目を見開く。

こいつ……今、喋った……?

纏まらない思考の俺を前に、化け物ははっきりと分かるほど満面の笑みを浮かべる。

 

「ニンゲンダ……」

と、噛み締めるように呟き、そして、

 

「……ニクダ」

 

――やばい――

身の危険を悟った俺は、瞬時に身を翻し駆け出した。

 

「マテ!!!」

化け物が追いかけてくる。

 

ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!!

 

俺は、身に迫る危険から、半ばパニックに陥っていた。

死に物狂いで木々を避けながら、走る。走る。走る。

咄嗟の判断で逃走を選択したのが幸いし、最初に邂逅したときよりも距離は取れていた。

が、背後から迫る音は次第にその距離を縮めてくる。

 

ヤツの方が速い!

 

俺は一瞬逡巡したのち、背負っているリュックを放り投げた。

身を軽くするために荷物を捨てたのもあるが、運が避ければ化け物が捨てた荷物に食いつくかもしれないと、咄嗟に判断した。

 

しかし、化け物は荷物ではなく俺を追ってきていた。

 

「アハハハハハハハハ!!」

化け物は嗤っていた。

「ニクダ!!ヒサカタブリノ、ヒトノニクダ!!」

 

「クソッ!!」

俺は必死でペースを上げようとする。

が、俺の気持ちに反して、体が重い。

 

まずい。

このままでは、体力が尽きる。

 

背後から追ってくる気配が、少しずつだが、近づきつつある。

 

 

一瞬、その化け物に自分が喰われる様が頭に浮かぶ。

「っ!!」

不穏な想像を掻き消そうとするも、そのイメージは頭にこびりつき、俺の精神を恐怖に染め上げていく。

実際、このままではその想像は現実になるのだ。

 

どうにかしないと。

 

どうする。

 

まずい。

 

どうやって?

 

 

速く。

 

 

逃げられない。

 

 

ヤバイ。

 

 

畜生。

 

 

 

どうする。

 

 

 

どうか。

 

 

 

誰か――。

 

 

 

 

バチン、と。

なかば半狂乱の俺の頭の中で、何かが弾けるような錯覚を覚えた。

 

唐突に気配が、真横からした。

 

 

右を見る。

 

 

 

俺がいた。

 

同じ顔で、同じ体型で、同じ服装をした俺が、俺と併走していた。

走りながらも驚愕した顔が向けられていた。

 

「ガ!!??」

追ってくる化け物が混乱したような声を上げた。

 

何が起きたのか分からなかった。

理解できるはずもない。

だが、理解が及ばないまでも、咄嗟にこれはチャンスだと悟る。

 

俺は――俺たちは、示し合わせたかのように二手に分かれた。

 




それほど長くするつもりはないのですが、実際書いてみると思ったよりかなり長くなりますね。

こんな感じで進んでますが、一応ほのぼのとしたものを書きたいと思っています。


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三話 もう一人

何が起きたのか、俺は理解できないままに、走った。

俺を追っていた怪物だが、どうやらもう一人の俺を追いかけていったようだ。

しばらく走ったところで、体力が尽き、その場にへたり込んだ。

心臓の動悸が激しい。

火照った体に夜風が心地よかった。

 

逃げ切れた……のか?

分からない。

 

いまいち纏まらない頭を回し、なにが起きたのかを考える。

 

まずは俺を追っていた怪物。

体格は熊。

だが、腕は手長猿のように長く、顔面は平らで、獣というよりは人間の骨格に近い。

これだけなら、まあ、そんな生物もいるかもしれない程度には思ったかもしれない。

だが、あの巨大な目。

異様だった。

 

御伽噺に聞く、一ツ目の巨人、サイクロプスを髣髴とさせた。

しかも、獣の鳴き声ではなく、はっきりと、その怪物は喋ったのだ。

 

幻でも見たのではないかと思いたいくらいだが、あの怪物の息遣い、言葉、存在感が、現実であると俺を確信させる。

あれは一体なんなのか。

駄目だ。考えても分からない。

 

分からないといえば、突然現れたもう一人の俺だ。

あのとき、必死で逃げている合間、頭の中で何かが弾けたような錯覚を覚えた。

それと同時に、唐突に現れたのはまさしくもう一人の俺と表現するほかない、瓜二つの容姿を持ち合わせたナニカだ。

いや、分身のようなものかもしれない。

 

漫画やアニメで見る、忍者が扱う代表的な忍術の一つである分身の術。

囮を作り出すことで、相手の意表をついたり、逃走のための時間を稼ぐための術だ。

それ、に近いのか……?

と、そこまで思考を巡らせたときだった。

 

 

「―――あああああああ――――」

 

 

それは、断末魔だった。

 

それは、少し離れたところから聞こえた。

 

それは、俺の声だった。

 

 

 

俺の声だと、俺が知覚するの同時に、その声は唐突に、まるで叫んでいる途中で声の主が消えたかのように途絶えた。

刹那、

 

「うっ」

 

頭を抑える。

強烈なイメージ。

フラッシュバック。

何かが流れ込んでくる。

 

 

 

 

 

――何かが弾けたような気がした。

 

走る。

左を見る。

併走するもう一人の俺。

目を見開く。

右側へ進路をずらす。

もう一人の俺から遠ざかる。

だが。

ヤバイ。

ヤツが、

一ツ目の怪物。

こっちを追ってきた。

走れ。

でも、

体力が、

足がもつれる。

地面に倒れこんだ。

慌てて立ち上がる。

もうすぐ背後まで、

息遣いが、

背後で、

風切り音。

背中に鋭い痛み。

熱い。

再び、倒れる。

重い。

圧し掛かってきた。

「ゲハハ……」

怪物の顔が、

ニタリと嗤う。

目の前に、

巨大な目、

「あ、あ……あ」

巨大な口、

「ああ………」

巨大な牙、

「あああああ――」

眼前に

「イタダキマァ――」

「ああっ!!!あああああああああ――」

 

 

 

 

 

……心臓が、痛いほど強く鳴っていた。

突然のイメージの激流は、同じく唐突に終わった。

喰われた。

と思ったが、しかし、実際の俺は、先ほどと同様に地面にへたり込んでいる。

周囲にあの怪物は見当たらないし、背中に怪我を負っている訳でもないようだ。

だが、それにしても今のイメージは鮮烈過ぎた。

 

あれではまるで、

分身した俺の記憶……。

 

いや、実際そうなのだろう。

そして分身の俺が死んだから、その記憶が流れ込んできた、ということだろうか。

だめだ、分からない。

 

ただ、分身の俺は、自分が本物だと思い込んでいた。

いや、実際にはあちらが本物で、俺は偽者なのか?

 

いや、『どちらも本物だった』のかもしれない。

根拠はないが、この考えがなぜか一番しっくりきた。

 

分身ではなく、二人とも本物の俺だった。

突飛な発想にも思えたが、実際先ほどから突飛な事象が起き続けている。

なにが起きているのか、理解する余裕はない。

 

 

とにもかくにも、あの怪物は今俺を見失っているはずだ。

体力が尽きている今、どこか近くの藪に身を潜め、ヤツをやり過ごすしかない。

 

そう思って立ち上がったそのとき、

俺が向いている方向、即ち、分身した俺の断末魔が聞こえた方向から、

茂みを掻き分け、

ヤツが現れた。

 

愕然と目を見開く。

対照的に怪物は、目を細め、ニタリと笑う。

その距離、10メートル。

 

「ミーツーケータァアアアアア!!」

 

「クッソ!!」

息を切らしながら再び走り出す。

 

早すぎる。

分身の俺がやられてから、五分と立っていない。

なぜ、こんなに早く俺を発見できた。

 

そのとき、一陣の突風が吹きぬける。

俺のいる方向から、怪物の方向に向かって。

 

「風上……においか!!」

 

怪物の顔に鼻はないように見えたが、存外離れたところにいる俺の臭いを嗅ぎ付けるほど性能はいいようだ。

あるいは、別の能力かも知れないが、そんなことを調べる余裕はない。

 

とにかく、走れと。

自分を奮い立たせようとする。

だが、

「っ!!」

ここにきて木の根に足をとられ転倒した。

いや、そもそもとっくに体力は底を尽きていた。

 

必死に起き上がろうとするも、足に力が入らない。

 

「ゲハハハハ!!」

そしてついに、怪物に追いつかれた。

馬乗りに圧し掛かられ、動きを拘束される。

おそらく食い殺されたであろう俺の記憶がフラッシュバックし、その光景に絶望的な既視感を抱かせた。

 

「オマエハ、ホンモノカーー?」

唾を飛ばしながら、俺に問いかける怪物。

だが、俺はそれを無視し、目を閉じる。

 

捕らえられた今、更に逃げ続けるとすれば、もう一度分身するしかない、と、俺は咄嗟に判断する。

頭の中で、分身をイメージする。

先ほどの分身したときの記憶を呼び起こそうとする。

念じる。

必死に、死に物狂いで。

 

頭の中で、パチパチと何かが連続で弾けた。

だが、その衝撃は、例えるならば線香花火のような小さな衝撃だ。

分身したときは、頭の一部が爆発したのではないのかと錯覚するほどだったが、それと比較するとあまりに弱弱しい。

失敗だ、と悟った。

何かが足りない、と直感的に理解する。

 

何が足りない?

体力か、気力か、集中力か、

或いは――

 

「マア、コロセバワカルカ」

 

と、怪物は右手を振り上げ、鋭いツメの先端を俺の心臓に向ける。

 

或いは、

 

「シネヨ?」

 

或いは、

 

 

タイムスパンか。

一定の時間間隔。

 

瞬間、それが今だと悟った。

 

 

 

弾けた。

 

同時に、怪物の鋭いツメが俺の左胸を刺し貫く――のを、俺はほんの3メートルほど離れたところで見ていた。

 

怪物に馬乗りに拘束され、貫かれた俺は、霞のように薄くなり消失した。

その光景を、俺は見ていた。

 

どうやら、土壇場で分身に成功したようだ。

 

 

しかし、ここまでのようだ。

 

分身を生み出す、もしくは、俺が分身して現れることができる場所は、自分のすぐ近くしか指定できないようだ。

怪物の一撃を分身を用いて避けることに死力を尽くした俺は、怪物の前で無防備に横になっていた。

体中が、鉛のように重く、動かない。

もとからの体力切れもあったのだろうが、分身能力は、使用すると体力や気力を消費するみたいだ。

もう、腕を上げることすら億劫だった。

 

「マタニセモノカ……」

怪物は地面に突き刺さる右腕を抜く。

 

「デモ」

立ち上がり、俺を見た。

 

「オマエハ、ホンモノ、ダヨナ?」

 

ああ、その通りだよ、と。

俺は心の中で言った。

口を動かすことすら、億劫だった。

どうやら、諦めとともに覚悟が出来たようで、今は怪物に対する恐怖よりも、一矢報いたいという負けん気が勝っているようだった。

動けないながらも、怪物を睨み付ける。

それでも、その意思に反し、体はもう動かない。

 

「ゲヒッ」

下卑た笑みを、怪物は浮かべる。

 

「ニゲルナヨ」

先ほどと同じように、長い腕を振り上げた。

その光景が、絶望的なほどにどうしようもないという事実を、俺に伝えているようだった。

 

言われなくても、できねえよ、と。

俺は、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………………………?

 

 

 

 

来ない。

 

ツメを振り下ろす風切り音も。

 

俺の体が引き裂かれる感触も。

 

焼けるような鋭い痛みも。

 

いつまで立っても、来ない。

 

 

恐る恐る、目を開ける。

 

「…………え?」

 

鋭い銀色の槍の先端が、怪物の喉笛に向けられていた。

怪物はそれを前に、動けないようだ。

 

「よう、せい?」

槍(というより形状はランスに近い)の持ち主は、小さなヒトのようななにかだ。

大きさとしては30センチ前後。

青を基調としたロングスカートの洋服を着ており、フリルの着いたエプロンを備えている。

長い金髪に大きな赤いリボン。

クリッとした丸い瞳は愛らしく、これで羽が生えていれば、御伽噺に出てくるような妖精の一種だと確信しただろう。

 

そんな妖精のような何かが、一ツ目の怪物の周囲に、10体近く展開し、空中を浮いている。

その手には、一様にものものしい銀色のランスが握られており、鋭い先端が、その殺傷性を示している。

 

異様な光景に、息を呑む。

が、俺の頭は靄がかかったようにぼんやりとし始める。

どうやら、疲労のピークが、意識を保つことすら困難なレベルまで達したらしい。

 

「ニンギョウ……ツカイ……」

怪物が憎憎しげに呟いた。

巨大な目が、俺の真上を通りすぎ真正面へ向けられる。

 

「騒々しいわね」

怪物の視線の先、俺の後ろ、それほど離れていないところから声がした。

女性の声だった。

 

「ジャマヲ、スルナ」

「悪いけど、そうもいかないわ」

 

女性の声は、一ツ目の恐ろしい風貌の怪物に対する恐怖を微塵も感じさない。

ともすれば、世間話をしているかのような、落ち着いた声だった。

 

「ヒトザトノソトナラ、ヒトヲクッテモ、イイダロ?」

「そうね。その通りよ」

「ナラ、ナンデ、ジャマスル。オマエモ、コイツ、クイタイノカ」

 

怪物は、指差すようにツメを一本、器用に俺に向けた。

 

「いいえ。ただ、このまま見殺しにするのは目覚めが悪いだけよ」

「フザケルナ!!オレノ、ジャマヲ、スルナ!!」

怪物が吼える。だが、女性の声は先ほどと全く同じトーンだ。

「ここでは人間を喰わなくても、あなたたちは生きていけるでしょう?」

 

「ヒトヲ、クエバ、チカラガツク!!ヒトノ、ニクハ、ウマイ!!」

怪物が、妖精?を無視し、再び俺を殺そうと右腕を上げる。

 

「……ずいぶんと品性がないのね」

「ガッ!?」

怪物の動きが中途半端なところで止まった。

 

……?

目を凝らす。

何か、細い糸のようなものだろうか。

淡く発光しているようにも見えるそれが、怪物の体中に巻きついている。

よく見るとその糸は、妖精たちにも伸びていた。

 

「これ以上やる気なら」

「ガァ……」

「容赦はしないわよ」

 

糸が怪物の肉体に喰いこむ。

憎憎しげな視線を怪物は浮かべる。

 

だが、どうやら戦意を無くしたらしい。

程なくしてその体に巻きついた糸から開放されると、踵を返す。

 

「…………ガァ…………」

最後にちらりと、俺を名残惜しそうに見るも、そのまま歩み去ってゆく。

出来ればもう二度と関わりたくない。

 

助かった……のか……?

 

怪物が去った後、横になった俺の近くまで、軽い足音が近づいてくる。

「大丈夫?」

と、問いかけられる。

俺は、体を動かし、声の主を見ようとする。

 

だが、

 

…………あ。

 

助かったことによる安堵で、緊張が解けてしまったためか。

瞬間、急速に俺の意識は闇に呑まれ始めた。

俺を起こそうとしたのか、背中と肩に、手が添えられる感触がした。

 

「あの」

 

何か言わなければと、俺は無理矢理口を動かす。

 

助けてくれてありがとう、とか。

君は誰なんだ、とか。

 

何か、何か言わなければ。

 

視界が急速に闇に包まれる中、蒼い瞳が見えた気がした。

 

宝石みたいで、綺麗だ。

 

そんな場違いなことを思いながら、俺は意識を手放した。




三話目にしてやっと会話した感があります。主人公は喋ってませんが。
せっかくの後書きなので、なにか解説的なのを入れようかなあと思いました。
気が向いたり、必要そうだったら書くかもです。

主人公が死にかけてますが、真面目にほのぼのとしたものを書きたいと思っています。


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四話 魔法使いの少女

「うっ……」

眩しい。

 

顔に暖かい光が当たってるのを感じ、瞼を開く。

横たえていた上体を起こす。

掛けられていた暖かい毛布が腰まで滑り落ちる。

 

ズキリと、頭痛が奔った。

うめき声が漏れ、頭を押さえる。

 

記憶が蘇ってきた。

 

写真。

神社。

山奥。

森。

怪物。

分身。

妖精。

そして、蒼い瞳。

 

「ここは……」

辺りを見回す。

屋内の一室のようだ。

俺がいるのはその部屋のベッドの上。

着ている服は昨日のままだ。

だが、靴はベッドの足元に揃えてある。

俺を起こした光は、どうやら閉められたカーテンの隙間から漏れた日の光のようだ。

部屋は狭く、俺が寝ているベッドがその面積の3分の1を占めていた。

ベッドの横には小さな机と椅子。

 

そして体を起こし、部屋を見回した俺の目の前に

 

「…………」

金髪の妖精がふよふよと浮いていた。

昨日見た妖精に似ているが、服装は赤を基調としている。

また、ランスのような武器は所持していなかった。

 

「…………」

その妖精は首を傾げると、部屋の唯一のドアにふわふわと飛んでいき、ドアノブを回して部屋を出て行った。

 

その間俺は、ずっと呆気にとられて妖精を眺めるのみだった。

妖精が部屋のドアを閉めた音で我に返る。

 

ここは、どこだろう。

昨日の記憶からして、俺を助けてくれた女性の家だろうか。

カーテンを少しだけ開き、外の様子を眺める。

鬱蒼と生い茂る木々があり、なんとなく、昨日襲われた、もしくは助けられた森の近くではないかと思われた。

 

そういえばと、ふと思いつく。

分身は……あ、出来そうだ。

 

どういうわけか、唐突に自分は分身能力に目覚めたらしい。

昨日から、自分の理解できない事象に囲まれているが、それでもこの能力は恐らく自分にとって都合がいいものだ。

現状を打破する切り札になるかもしれない。

 

ただ、あれは体力気力を消費するし、今のところは温存しておこう。

 

そこまで考えたところで、部屋の外で気配がした。

なにか、咳払いをするような物音だった。

直後、ノックされる。

 

ドアが開かれ、一人の少女が部屋に入ってきた。

 

 

 

……訂正。

 

 

 

 

一人の『美少女』が部屋に入ってきた。

 

整った顔立ち、白い肌、セミロングの薄い金髪、青いロングスカートの洋服に、白いケープを羽織り、アクセントか、赤いリボンがところどころに見られる。

表情は人形を彷彿とさせる無表情で、蒼い瞳をパッチリと開いて、俺をまっすぐ見ている。

瞳の色から、昨日俺を助けてくれた人だと気づいた。

 

うっかり息を呑んでしまった。

突然の美少女に驚いて。

バレテナイよな……?

 

美少女は、ブーツをカツカツと鳴らしながら俺に近づき、ベッド脇の椅子に腰掛けた。

未だベッドから上半身を起こしただけの俺との距離、1メートル。

女の子と話した経験がないわけではないが、相手が相手なだけに、緊張してしまう。

あれ、なんかいい匂いがする?

 

「よく眠れたかしら」

「え?あ、ああ、よく、眠れた」

動揺丸出しである。

 

「まあ、いろいろ聞きたいこともあるでしょうけど」

美少女はそう切り出した。

確かに、冷静な俺なら今は聞きたいことが山ほどあっただろうが、実際の俺は緊張やら羞恥やらで思考がほとんど停止していた。

 

「まずは、名前を教えて。私は」

少女は自分の胸に手を添える。

 

「アリス・マーガトロイドよ」

「あ、俺は、岡崎悠基、です」

自分の鼓動を静めながら、俺は美少女、アリスに名前を言う。

アリスは自分より年下か、同い年くらいにみえる。

だが、その落ち着いた雰囲気は同世代より大人びて見え、気づくと語尾が敬語になっていた。

 

アリスは頷き、立ち上がった。

「じゃあ、悠基」

苗字でなく、名前で呼ばれた。

それだけで、心臓が少し強く跳ねる。

チョロ過ぎないか、俺。

 

と自虐的思考をする俺に構わず、アリスは踵を返し部屋のドアに歩いてゆく。

部屋の入り口で、俺のほうを振り返る。

「とりあえず朝食を用意したわ。冷めない内に頂きましょう」

と言ってから、微笑をその顔に浮かべる。

天使かよ……。

そのまま、俺が何か言う前に、部屋を出て行った。

 

 

「天使かよ……」

 

声に出ていた。

 

 

* * *

 

 

朝食は、トーストにスクランブルエッグ、サラダという洋風テイストに、純和風の味噌汁という不思議なセットだった。

トースト以外は箸で食べる。

丸机を挟み、俺とアリスは向かい合う形で椅子に腰掛けているのだが、俺の両隣にも椅子が用意され、それぞれ、青と赤の服装の妖精が一人ずつ、ちょこんと腰かけ、俺を眺めている。

 

妖精を気にしつつ朝食を食べながら、アリスからいくつか質問を受ける。

俺は、アリスに答える形で今までの経緯を話した。

 

「ふぅん……」

一通り話を聞いたアリスは興味があるのかないのか判別しがたいトーンで呟き、何かを考えるように黙り込む。

 

その頃には朝食は二人とも食べ終えていた。

 

俺は、手持無沙汰に周囲を軽く見る。

背の高い本棚が目に付いた。

並べられた本はどれも分厚いハードカバーで背表紙には書かれた言語は、一部英語はあるものの、見たことのない文字ばかりだった。

俺は正面に座っているアリスを見る。

 

白い肌、蒼い瞳、薄い金色の髪は染めているようには見えない。

名前からして、明らかに日本人ではないが、話している言葉は、流暢な日本語である。

 

「あの」

と、俺はおずおずとアリスに話しかけた。

「ん、何?」

「ここは、日本、なのか?」

 

俺の問いかけに、アリスは少し考えるように視線を反らし、程なくして答える。

「そうね、まあ、広い目で見れば、ここは日本という国の一部ね」

「一部?」

「ええ。この地の名は、幻想郷。日本とは地続きだけど、私のような存在が住まうために隔絶された地、といった所かしら」

 

幻想郷、隔絶という単語も気になるが一先ずは、

「私のような存在?」

と、一番気になった言葉を訊いてみる。

 

アリスは、黙って俺の前に右手を向ける。

そのまま掌を天井に向けた。

 

瞬間、

ボッ、と。

彼女の掌が突然燃え上がったと思ったら、火の玉が目の前に浮かんでいた。

驚いて息を呑む。

 

「多分、あなたの世界では」

掌の上の空間に火の玉を浮かべたまま、アリスは口を開いた。

「『魔法』は空想の存在とされているんじゃない?」

 

目の前の事象には、タネも仕掛けもないように思えた。

少なくても、手品の類ではないと直感する。

 

「あ、ああ……凄いな……」

思わず感嘆してしまった。

 

アリスが開いていた右手を閉じると同時に、火の玉も消え去った。

 

「あの、つまりアリスは、『魔法使い』なのか?」

「そういうことよ」

俺の問いかけに、アリスは頷く。

頷いてから、肩に僅かにかかった髪を払い、微笑を浮かべる。

 

……気のせいか、得意気に見える。

そのせいなのか、浮かべている微笑もなんだかドヤ顔に見えた。

 

俺はアリスに対して、基本的に無表情で、その美貌とあいまって神秘的であるとすら感じていた。

こうして向かいあっていてもどこか別世界のような、そう、古い言い方をすれば『高嶺の花』って感じだった。

近寄りがたくて、遠くから眺めてる感じ。

 

そのギャップのせいか、得意気(に見える)なアリスに、妙な親近感を感じた。

不思議と可笑しくて笑いそうになるが、失礼な気がして、我慢した。

 

アリスが表情を元に戻し、首を傾げる。

「どうして少し可笑しそうなのかしら」

 

我慢したつもりだったが、失敗したようだ。

 

「あー、それじゃあ、この妖精たちは?」

俺は両隣に座る妖精たちを見ながら、無理矢理話題を反らす。

 

「上海と蓬莱よ」

アリスが答える。

「青いのが上海。赤いのが蓬莱ね。さ、ご挨拶」

それぞれ、青と赤を貴重とした服をまとっている二体の妖精は、彼女たちには大きすぎる――というか人間用サイズの――丸椅子の上に立ち、両手で自分のスカートの端を摘み、頭を下げた。

映画なんかで見たことがある、淑女の挨拶である。

 

「お……おぉ……」

またしても感嘆が漏れた。

 

お揃いの赤いリボンを揺らしながら、頭を上げた彼女たちは、得意気に自分の肩にかかる長髪を、似たような動作で同時に払った。

先ほどのアリスと同様の動作である。

やばいまた笑いそうになった。

 

「ちなみに」

アリスが口を開く。

やはり気のせいかもしれないが、声のトーンがさっきよりも高い気がする。

つまり、嬉しそうというか、誇らしそうというか、そういった感情が読み取れた気がした。

 

「二人とも、妖精じゃなくて、人形よ」

「え?そうなの?」

驚いて声が上ずる。

我ながら、先ほどから驚いたり笑ったりと忙しい。

 

二体……いや、アリスに習うなら、二人か。

目の前の二人を見る。

青い方、上海人形は、デフォルメ感のある丸い目を細め、得意気に笑みを浮かべる。

一方の赤い方、蓬莱人形は丸い瞳を開き、興味深そうに俺を観察している。

 

「そう。とは言っても半自動で、私が前もってインプットした動きをしているだけなのだけど」

「てことは、この子達も魔法で動いてるのか」

「ええ。見えないと思うけど、魔法の糸で私と繋がっているのよ」

 

魔法の糸……昨日、あの一ツ目の怪物を縛っていたあれだろうか。

今は見えないが。

 

「生きてるようにしか見えない」

言いながら、俺は手を伸ばし、上海と蓬莱の頭を撫でる。

愛玩動物を撫でるのと同じ感覚である。

二人の髪はさらさらで柔らかかった。

 

頭を撫でられた二人は、嬉しいのか照れくさいのか、目を細め、顔に両手を当てながら腰をくねらせた。

デフォルメされた見た目もあいまって、凄く愛らしい。

だが、考えてみれば、この動きもアリスがそう動くように指示しているのである。

神秘的で、どことなくクールな印象のアリスが、である。

 

「可愛らしいな」

そう考えると、再び可笑しくなり、アリスに視線を移した。

やはり得意気にしているかな、とか、もしかしたら照れているのかも、とか俺は予想していたのだが、どちらも外れだった。

 

 

アリスは、驚いたように目を見開き、俺と人形たちを観察していた。

意外な光景に気圧され、俺は手を止める。

 

「あの、アリス?」

「ん?」

 

アリスが視線を上げ、俺の目を見る。

 

「どうか、した?」

「…………」

俺の問いかけにアリスは視線を下ろし、何かを考え込むように黙り込む。

 

何か気に触るようなことでもしてしまったのだろうか。

俺は少し不安になり、アリスを見つめるが、ほどなくして、

 

「不思議なものよね」

と、答えなのかなんなのか、よく分からないことを言った。

 

 




というわけでアリスとの邂逅回でした。
神秘的で近寄りがたいけど、いざ話してみれば、親近感がわくようなキャラっぽさを感じていただけたらいいなあと思います。
できるだけ原作に沿った性格とか書いていたのですが妄言になりそうですね。

今回はなかなかほのぼの出来ているのではないでしょうか(得意気)。


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五話 博麗神社へ

アリス曰く、幻想郷にも博麗神社があるとのことだった。

そもそも幻想郷は、博麗大結界と呼ばれる結界で覆われ、外の世界から隔絶された土地らしい。

博麗神社の巫女がその結界を管理しており、その巫女に頼めば幻想郷の外に出してもらえるようだ。

外の世界には、叔父や叔母を始めとする、親戚や、友人たちを残している。

大切な人たちだ。

心配をかけたくないので、出来れば早めに帰りたかった。

 

「博麗神社までは遠いし、道中でまた襲われるかもしれないから、案内も兼ねて着いていくわ」

と、アリスが申し出てくれた。

助けてもらった上に泊めてもらい、更には朝食までご馳走になり、彼女には借りを作ってばかりである。

だが、彼女に送ってもらわなければ、博麗神社まで迷わず安全に辿り付ける保証もないため、頼る以外の選択肢はない。

 

「すまない。助かる」

「どうせなら最後まで面倒見るわよ」

お礼を言うと、アリスはすまし顔で答える。

アリスさんかっけー。

 

上海と蓬莱は留守番である。

まるで名残を惜しむかのように、アリスの家を出るまで俺の周りをふわふわと漂っていた。

「随分気に入られたみたいね」

アリスがその様子を見ながら言った。

 

「気に入られたって、アリスが動かしてるんじゃないのか」

と訊くと、

「半自動だから、半分は勝手に動くのよ」

と返される。

 

いや、それは半自動とは違うだろ。

 

「さて、一応確認するけど」

アリス邸の玄関のドアを閉め、アリスが俺に向き合い切り出す。

「あなた、飛べる?」

「え?飛べるって、空を?」

一瞬何を言ってるのか分からなかった。

「そう。空を」

 

「もちろん、飛べないけど」

「そうよね」

おずおずと答えるとあっさりと頷かれる。

 

「アリスは飛べるの?」

「ええ」

俺の問いかけに首肯すると、彼女はふわりと、30センチほど浮き上がる。

 

「おぉ……」

またも感嘆する。

が、同時にアリスのスカートが風にたなびくのを見てぎょっとする。

 

アリスはロングスカートだし、今はそれほど高く飛んでないから問題ないが、高度を上げるとスカートの中が見えるんじゃないだろうか。

見える、という期待よりも、見えてしまうのではないか、という心配の方が先立っていた。

と、俺が余計なことを心配している内にアリスは柔らかい草地の上にふわりと着地していた。

「あ、あのさ」

恐る恐るアリスに話しかける。

 

「もっと高く飛べるのか?」

……もちろん純粋に疑問に思ったから問いかけたのであって、断じていやらしい感情ではない。

スカート云々は置いといて、人が単身で空を飛ぶなんでのはなかなかにロマン溢れる話だ。

 

「もちろん。実演しましょうか?」

「あ、いや、いい」

俺は慌てて顔の前で両手を振り、アリスを制止する。

急に狼狽した俺を見て、アリスは不思議そうに首をかしげていた。

勘の鋭い人なら気づいたかもしれないが、この辺は鈍いようで助かる。

いやだからスケベ心じゃないって。

 

「ま、飛べないなら仕方ない。せっかくだし、博麗神社まで歩きましょうか」

自分で自分に言い訳をする俺を放置して、彼女は歩き始めた。

「あ、うん」

俺は我に帰って、そのあとを着いていく。

 

 

* * *

 

 

鬱蒼とした森だったが、アリスに着いていくと、木の根を避けたり草むらを掻き分けたりすることなく順調に進むことが出来た。

森を抜け、『香霖堂』という看板が掲げられた不可思議な建物を素通りし、丘陵を超え、時たま明らかに動物とも人とも異なる存在が遠目に見えて背筋を冷たくしつつ、歩くこと約1時間。

疲れた様子も見せず涼しげに歩くアリスと、足が痛くなってきた俺は、人里に到着した。

幻想郷には妖怪だけでなく、人間も住んでいるらしく、幻想郷の殆どの人は人里に集まって生活を営んでいるとのことだ。

 

その人里だが、時代劇で見るような木造建築が並ぶ世界だった。

目に入る里の人も同様、それこそテレビなんかでたまに見るような着物、もしくは袴姿がほとんどで、一部洋服も見受けられるが、歴史の教科書の明治時代の頁で見かけるような古風なものばかりだ。

 

「博麗神社までは里を通って東に向かうの」

とアリスが教えてくれた。

俺は頷き、アリスの隣に並び歩く。

 

「なんだか、100年前にタイムスリップしたみたいだ」

「だいたい100年ほど前に、博麗大結界が張られて幻想郷は隔離されたそうよ」

俺の呟きに、アリスは補足的に答えてくれる。

 

「へえ、なるほどな……」

俺は周囲の光景を見ると、周りの人と目が合い、気恥ずかしくなり慌てて目をそらす。

やはり、ほとんどの人が和服を着ている中、外来人(幻想郷の住人から言えば、俺みたいなのはそう呼ばれると教わった)の服装をした俺や、異国情緒溢れるアリスはどうしても視線を集めてしまうらしい。

若干緊張しながら前を向いた。

 

 

* * *

 

 

暫くして、

「あら」

とアリスが足を止めた。

隣を歩く俺も、立ち止まり、アリスを見る。

前方に視線を固定させている彼女を見て、その視線の先を追った。

 

そこには、人ごみの中で、その風体と雰囲気から一人だけ浮いている少女が歩いていた。

薄い紫髪の少女だった。

驚いたことに、現代風のブレザーにスカートと、学生を思わせる服装で、背中に大きなつづらを担いでいる。

だが、それ以上に目を見張るのが、少女の頭部に生えているものだ。

なんだかしなしなと折れ曲がっているし、やけに長いが、どうみても兎の耳である。

 

そんな兎耳を垂らし、少女は項垂れてこちらに向かって歩いてくる。

顔は見えないが、その覇気のない歩みから元気がなさそうに見える。

ていうか、なんか陰険な感じの黒いオーラが見える気がする。

周囲を歩く人たちも、その彼女の雰囲気から、若干驚いたように道脇に逸れ、彼女の前から避けている。

 

「あの、もしかしてあの女の子って、妖怪?」

「ええ、そうよ。別に珍しい光景じゃないわ」

俺の質問の意図、すなわち、人里に妖怪がいるけど大丈夫なのか、という言外の意味を読み取り、アリスは答えてくれる。

 

「へえ……」

俺は兎耳少女に視線を移した。

どんよりとした暗い雰囲気を纏わせながらだんだん近づいてくる彼女の容姿を改めて見る。

頭に兎耳を生やした女子高生風の少女の姿に、人型の妖怪もいるのか、とか、なんか……あざといな……、などの感想を抱きながら、別の感覚が俺の中で浮上する。

 

あれ……?この子……どこかで……?

湧き出た違和感、既視感に首を傾げる俺をよそに、兎耳少女は俺やアリスの近くまで来ていた。

頭を下に向けたままなので、俺たちには気づいていないようだ。

 

「ねえ」

と、アリスが少女に声をかけた。

知り合い?と、親しげに声をかけたアリス(といっても無表情で声も相変わらず抑揚がない)に少し驚く。

 

ハッ、とした様子で少女は顔を上げ、アリスを見た。

ちなみに美少女である。

立ち止まり、暗い赤……臙脂色の瞳を見開いたのち、びっくりするくらい露骨に嫌な顔をした。

あれ??仲悪いのか??と、俺は彼女の反応に困惑する。

 

「こ、この間の……」

と呟く兎耳少女は、警戒したように後ずさる。

その反応に周囲を歩く人々が、険悪な雰囲気を察知し距離を取り始める。

 

「何をしてるの?」

だが、アリスはそんな兎耳少女の反応を意に介さず、先ほど声をかけた時と全く同じ調子で尋ねる。

完全に世間話をするかのような口調だ。

 

「え、」

と、少女は拍子抜けしたような声を漏らす。

「し、師匠に言われて、置き薬の訪問販売に来たのよ」

「あぁ……なるほどね」

律儀に答える兎耳少女にアリスはなにか得心がいったように頷く。

 

「あ、あなたこそ、こんなところで何してるのよ」

今度は兎耳少女がアリスを指差しながら、やや警戒したように言った。

「ああ、この人」

と俺に視線を投げかける。

「幻想郷に迷い込んだ外来人なの。外の世界に帰るみたいだから、博麗神社まで送ってるのよ」

 

「へ、へぇ……そうなの」

なぜか毎回どもる少女は、俺の方に視線を向けてくる。

俺はどういう反応を示せばいいか分からなかったので、取り敢えず「どうも」と軽く会釈する。

なぜか微妙な顔をされた。

 

「それじゃ、私たちは行くわね」

アリスが切り出し、兎耳少女とすれ違うように歩き始める。

俺は慌てて隣に並び歩く。

 

慌てたのは少女も同様らしく、

「え、ええ」

と間の抜けた返事をした。

 

「お仕事頑張ってね。鈴仙」

と、アリスがすれ違いざまに少女に言葉を投げかける。

 

鈴仙と呼ばれた少女は今度は目を見開く。

「え、名前……」

と驚いたように呟くが、遠ざかっていく俺たちをを見て気を咳払いし、気を取り直したのか、

「あ、ありがとう。……その……えっと……」

「アリスよ。アリス・マーガトロイド」

口篭る鈴仙に、アリスが何かを察したように自分の名前を告げた。

 

「っ!!……」

振り返って鈴仙を見ると、羞恥なのか顔を真っ赤にしながら、悔しげに歯を食いしばり、ジト目で俺の隣を歩くアリスの背中を睨んでいる。

ぐぬぬ……とか言ってそうな表情だった。

そんな様子で暫く鈴仙はアリスを睨んでいたが、俺の視線に気づくと、勢いよく踵を返し、早足で去っていく。

 

「……知り合い?」

俺がアリスに視線を移し尋ねると、

「まあ、いろいろあったのよ」

すまし顔で答えられた。

 

「ふぅん……なんか、慌しい子だな」

「そうね」

俺はもう一度振り返る。

人ごみの中で、あの兎耳がぴょこぴょこ揺れていた。

 

「……うーん……」

やはりその容姿に、自分の中で何かが引っかかり、俺は首を捻っていた。

 

 

* * *

 

 

「もうすぐ人里を抜けるわ」

それから更に暫く歩いたのち、アリスが言った。

「そっか」

足が張ってきたので、そろそろ歩くのが辛くなってきたなと思いながら俺が答えると、前方から元気いっぱいな歓声が上がった。

なんだ、と声の上がった方を見ると、数人の少年少女が、一人の女性に手を振りながら走っている。

 

「けーね先生バイバーイ!!」

「せんせーまたあしたー!!」

と口々に声を上げる子供たちは、蒼髪交じりの銀髪の女性に手を振っている。

 

「こらこらー!きちんと前を向いて歩けー!気をつけて帰れよー!」

と、子供たちを叱りながら、女性は手を振り返している。

 

子供たちは笑いながら、俺たちの横を通り駆けていった。

彼らを見送っていた女性は、自然と俺たちの方を見て、「おや」と呟いた。

 

「こんにちわ。慧音」

「やあ、アリス。と」

慧音と呼ばれた女性は、アリスに片手を上げると、観察するように俺を眺める。

 

「君は……」

「ええ。外来人よ」

俺の代わりに、アリスが答えた。

 

「ああ、ということは、博麗神社に向かっているのか」

「あ、そうです」

慧音さんは合点が言ったように頷いたので、俺も頷き返す。

 

「ふむ、しかし君が外来人を保護するなんて、意外だな」

慧音さんは僅かに首をかしげ、アリスを見る。

「意外って?」

「ああ。魔理沙の言うところによると、君はいつも家に篭りきりだそうじゃないか」

「アイツ……」

 

アリスが僅かに顔を顰める。

一方の俺は、慧音さんの言った人名と思わしき単語が引っかかった。

 

……マリサ……?

 

「どこで保護したんだ?」

慧音さんは訝しむ俺の様子には気づかず、アリスに問いかける。

「家の近くよ」

アリスが答えると、慧音さんは当惑したようにまた首をかしげた。

 

「家の近く?君の?」

「ええ」

「……確か、君の家は魔法の森にあったと記憶しているが」

「ええ。その森で保護したの」

 

慧音さんは当惑顔を俺に向ける。

俺は二人の会話の意味がよく分からない。

「あの、何か?」

恐る恐る慧音さんに問いかけると、慧音さんは視線を反らし、表情を引き締めた。

 

「いや、失礼。引き止めて悪かったな」

「いいえ」

アリスが首を振った。

 

「……気を付けて、帰りなさい」

慧音さんは、俺を見て微笑んだ。

彼女の言動の意味がよく分からないまま、俺は頷く。

「あの、はい。ありがとうございます」

 

 




主人公は家に帰る事にしたようです。
で、すぐに博麗神社、というのも淡白なので人里に寄らせました。
ついでに露骨に伏線も撒いてます。

今回もそれなりにほのぼのしてるんじゃないでしょうか。


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六話 神社の巫女と違和感の理由

慧音さんと別れた後、俺とアリスは人里の茶屋で休憩も兼ねて昼食をとった。

もちろん俺が幻想郷の通貨など持っているはずもなく、アリスの驕りである。

博麗神社に着くまでにあといくつアリスに借りを作ってしまうのだろうかと思うと、肩身が狭い思いをする俺だった。

 

休憩後、程なくして人里を抜け、そこから更に暫く歩きに歩くと、博麗神社があるという山の麓までたどり着いた。

ここまででかなり歩いたのだが、長い長い石段が山頂まで延びているのを見ると、気が遠くなる。

 

だが、アリスがさっさとその石段を登り始めたので覚悟を決める。

「おしっ」

と、俺は自分の両頬を叩くと気合を入れ、長い長い石段を登り始めた。

 

 

*

 

 

「つ、ついた……」

息も絶え絶えに、俺は一番最後の石段を踏む。

日は既に真上を通りすぎ、傾き始めていた。

「ご苦労様」

俺より少し先を登っていたアリスが、労ってくれる。

だが、相変わらずの平坦なトーンで、なんだか社交辞令感が拭えない。

あの長い階段を登っても、相変わらず汗一つ掻いてない。

やはり、魔法を使っているのだろうか。

 

「ふぅ……」

呼吸を落ち着かせながら、俺は気を取り直して、山頂の博麗神社を見る。

歩いて数歩のところに鳥居が構え、その奥には本殿がある。

 

「ここだ……」

写真で見た景色だ。

写真の裏に書いてあったとおり、どうやらここで撮影したのは間違いないようだ。

 

アリスが境内へ入っていくのに従い、俺も鳥居をくぐった。

 

周囲を見回しながら、アリスは歩みを進める。

おそらく、博麗神社の巫女を探しているのだろう。

だが、人影は見当たらない。

 

「留守なのかな」

俺が問いかけると、

「どうせ母屋の方よ」

と、アリスは本殿の横を通り裏手へ歩みを進める。

 

果たして、本殿の奥の方にも平屋の建物があった。

その平屋の縁側で、恐らく中学生ぐらいだろう、奇抜な服装の少女が、湯のみを手にぼんやりと寛いでいる。

 

……え、あれ……?

 

「あら、アリスじゃない」

少女は気だるげにアリスに視線を向けた。

「こんにちは、霊夢」

……レイムと、そう呼ばれた少女にアリスは軽く手を上げ挨拶する。

 

……レイム……。

目を見開き、霊夢を見る。

 

「なんの用?……って外来人か」

頭の大きな赤いリボンを揺らしながら、霊夢は俺に視線を向ける。

だが、俺の様子を見て、怪訝な表情になる。

 

「ええ、彼は外の世界へ――」

と、アリスが話しながら俺を振り返る。

だが、霊夢を凝視したまま固まっている俺を見て、話が止まった。

 

「悠基?」

アリスの呼びかけに、俺はどこかぎこちなく視線を向ける。

頭の中は混乱と困惑でいっぱいだ。

 

どうして、

なぜ、

彼女が、

霊夢が……?

 

「あの」

かろうじて、声を出す。

「霊夢」

「何?」

ただならない俺の様子に、訝しげに顔を歪めながら彼女は応じる。

 

「その、俺は、君を知っているかも、しれない」

一昔前のナンパのような台詞だ、と思考が纏まらない中でそんな感想を抱く。

だが、先ほど人里でも感じた疑念が、ここにきて想起される。

 

「知り合い?」

アリスが霊夢を見るも、霊夢は首を振る。

「いいえ。覚えがないわね」

 

「どういうこと?」

アリスは俺に視線を戻す。

「……すごい、馬鹿馬鹿しい話をするんだけど……」

俺は少しずつ思考を整理しながら、ただただしく話し出す。

 

 

 

東方……と、確かそう呼ばれていた。

俺自身は、それほど詳しくないが、友人が熱弁していたのを覚えている。

曰く、弾幕シューティングというジャンルのゲームが原作なのだが、二次創作が非常に盛んで息も長く、その界隈では凄まじい人気を誇る一大ジャンル……らしい。

 

正直なところそこまで関心を持たなかった俺なのだが、それでも何人かは登場人物を知っている。

知っているといっても、名前と顔が一致している程度だが。

 

そして、俺が知っている数少ない登場人物の一人が、

 

 

 

「私、というわけね?」

霊夢が自身を指差しながら言った。

俺は黙って頷く。

霊夢は明らかに訝しげな視線を俺に向けてくる。

 

「つまり、彼女を題材にした物語があるってこと?」

僅かだが困惑を表情に見せるアリスの問いかけにも、「そんなところ」と頷く。

ゲームと彼女たちに言っても伝わらないと思うので、その辺りは適当な言葉を代替に使って話していた。

 

暫くその場を沈黙が支配する。

俺は、気まずくなり頭をやや大げさに掻いた。

 

まあ、荒唐無稽な話だよな。

話している俺ですら、逆に信じられなくなってきたくらいだし。

 

「いや、すまん。やっぱり何かの勘違いだろう。忘れてくれ」

という俺の言葉に、霊夢が嘆息する。

 

「なーんか釈然としないわね」

半眼で俺を見据える彼女に、俺は軽く頭を下げ、再び謝る。

「変なことを言って悪かったな」

 

だが、彼女は湯のみを脇に置きながら、「違うわよ」と言う。

「悠基、だっけ?あなたが言ってること、なんだか本当のことのような気がするのよね」

「どういうこと?」

アリスが首を傾げるが、俺も同様である。

 

「まあ、ただの勘なんだけど」

と、霊夢は縁側から立ち上がる。

「ねえ悠基。あなたはどうして、自分でも荒唐無稽と思うような話をわざわざ私たちに話したの?」

「え……?えぇと」

不意の質問に一瞬考え込む。

「他にも、その話が事実かもしれないという根拠があったのね?」

霊夢のその言葉に、俺は「あ」と小さく声を漏らす。

 

そういえば、確かに人里のときから感じた違和感が、霊夢を見て確信に変わったのが、その話をするきっかけだった。

 

霊夢は、俺の数歩前まで近づいてきた。

「ねえ、その『東方』とやらの、あなたが知っている他の登場人物のことを、教えてもらえるかしら」

 

もしかしたら、この霊夢は相当な切れ者なのかもしれない。

と、俺は、霊夢の視線に息を呑む。

 

「あ、ああ。まず、あの鈴仙って子だ」

「レイセン?誰よそれ」

霊夢が眉根を寄せる。

 

「ほら、この前の竹林の屋敷で会った子よ」

「あー、あの大きい方の兎ね。そんな名前だったわね」

アリスの説明で霊夢が得心がいったという風に頷く。

……なんだか今のやり取りで、鈴仙が不憫に感じられたが、それは置いておく。

 

「俺の記憶では、うどんげ……とか呼ばれてた気がする」

「ウドンゲ……あー聞いたことがあるような」

 

「確か、鈴仙のフルネームが、鈴仙・優曇華院・イナバだったはずよ。それと、永淋が彼女のことをウドンゲと呼んでいたわ」

首を傾げる霊夢に対し、アリスが思い出すように視線を上に彷徨わせながらスラスラと語る。

 

ウ、ウドンゲイン……?なんだか強そうだな……。

だが、どうやら俺が知っている知識と一致しているようだ。

 

「ああ、確かにそう呼ばれてたわね。ていうかアリス、よくそんなこと覚えてるわね」

と感心したように霊夢が言うと、

「あなたはもう少し他人に興味を持った方がいいと思うわ」

とやや呆れ声でアリスが嗜めた。

 

「それから、慧音さんが言ってたマリサって名前」

俺は、もう一つの記憶を辿る。

 

「魔理沙?会ったの?」

どうやら霊夢はそちらはよく知っているようで、アリスに視線を向ける。

「私の知る限りでは、ないはずよ」

アリスは首を振った。

 

「その魔理沙って子は、俺が記憶している限りでは、金髪で、黒い服を着てて、箒に乗ってた。そう、魔女みたいな服装だった気がする」

「……他の特徴は?」

「他……?ええと……」

 

霊夢が掘り下げてきたので、俺は腕を組み、眉間に皺を寄せつつ記憶を掘り起こす。

………………ああ、そういえば。

 

「語尾に『ぜ』とか着いてた……ような……」

思い出したことをつい口にしたのだが、なんだこの情報……。

すごい間抜けなことを言ってないか……?

 

だが、霊夢とアリスは顔を見合わせると、何かを考え込むように、難しい顔になる。

「確かに、言われてみれば、そうかも」

アリスが困惑したように言うと

「なんだか妙な情報だけど、確かにしっくりくるわね」

と霊夢は複雑そうに俺を見る。

だが、どうやら俺が言ったことは正しいようだ。

 

「……まあ、いいわ。他に知っている人は?」

暫くして霊夢が頭を振って気を取り直し、問いかけてくる。

 

「ええと、その、東方に出てくるキャラクターで覚えてるのは……あー、チ、チルノ、だったかな」

俺の言葉に、アリスも霊夢も再び困惑顔になる。

 

「意外な名前が出てきたわね……」

「……他には?」

霊夢が先を促す。

チルノのことはもういいのかな、と思いつつ頭を捻る。

 

「あーあと、なんて言ったかな、確か銀髪で、短いスカートのメイド服の……て言っても分からないよな」

と、メイド服をどういい返ればいいか一瞬悩むが。

 

「メイド服ってことは、咲夜ね」

と、霊夢が確信しているかのように断言する。

「そ、そうそう、そんな名前だった……というか、メイド服は分かるのか……」

「他は?」

俺の後半の呟きを聞き流し、霊夢が先を促した。

 

「あー、他にもいたかもしれないけど……今思い出せるのはこれくらい……かな」

「なるほどね……」

霊夢は腕を組んで考え込む。

暫くして顔を上げると、

「アリス、ちょっと」

同じく考え込むように黙り込んでいたアリスの腕を掴み、俺から若干距離をとってから、声を潜めて話し出した。

 

どうやら、俺には内緒にしておきたい様子なので、俺は黙って待つことにした。

 

暫く話し込んだのち、二人は頷く。

相談は終わったのだろうか、と思うと、霊夢がこちらに向かって歩いてきた。

 

「それじゃあ、アリス。留守番をお願い」

「分かったわ」

霊夢の言葉に、アリスは頷く。

 

「それじゃあ、悠基」

霊夢は俺の前で立ち止まった。

「外へ、行きましょうか」

 

 

* * *

 

 

霊夢は一度母屋に戻ると、白い紙のついた棒を手にして戻ってきた。

よく神社の神主さんなんかが、儀式を行うときなんかに持っている物だ。

昔父からその名前を教えてもらった記憶がある。

えっと……ヌサ、だったか。

 

そのまま霊夢は、俺に着いて来る様に言って、神社の本殿へ向けて歩き出す。

アリスは母屋の縁側に座って俺と霊夢を見送った。

「いってらっしゃい」

「あ、ああ」

相変わらずなんの感情も篭っていないようなアリスの言葉に、俺は当惑しながら応える。

ん?いってらっしゃいって、変だよな……。

 

そのまま霊夢に連れられ、神社本殿前まで歩いたところで霊夢は歩みを止めた。

「この辺でいいかしら」

霊夢は周囲を見回しながら呟く。

いったい何を始めるのだろうかと見ていると、懐からお札を取り出した。

そして、本殿の間の前から、鳥居の方を向き、直立する。

 

 

左手の中指人差し指で札を挟み、顔の前に掲げてなにやら小声で何かを呟く。

そして、右手にもった幣(ぬさ)をゆっくりと頭上に掲げると、上から下へ振り下ろした。

 

瞬間、霊夢の目の前の空間が裂けた。

見えない布が、幣によって断ち切られたかのように、その軌跡を辿るように真っ直ぐと亀裂が走る。

俺はその光景に瞠目する。

 

空間の裂け目はそのまま横に広がり、人一人が何とか通れる程度の幅になる。

その向こうは水面のように揺らぎ、セピア色に染まった世界が広がっている。

 

「鳥居……?」

裂け目の向こうの世界は、揺らぎのせいでよく分からないが、俺はその景色に鳥居らしきものがあるのに気づいた。

ちょうど、こちらの世界の博麗神社の鳥居と同じ位置だ。

 

俺は目を丸くして、その光景を眺めていると、霊夢は左手に持った札をその空間にゆっくりと差し込んだ。

札は、裂け目の揺らぎに溶けるように飲み込まれる。

 

「さて」

と霊夢は幣を肩に担ぐと、隣に立つ俺に左手を差し伸べてくる。

「行きましょうか」

 

手を掴め、ということだろうか。

「あ、ああ」

と俺は応じるままに、差し出された手を握る。

柔らかい、と思った瞬間、俺の手が握り返され、そのまま驚くべき力で引っ張られた。

 

声を上げる暇もなく、霊夢に手を思いっきり引かれ、俺は裂け目へ顔面から突っ込んだ。

 

 

* * *

 

 

俺は恐る恐る目を開く。

目の前には小さな鳥居。

博麗神社で見たものと同じ大きさだが、なんだか古く見えた。

 

「着いたわよ」

背後で声がし、振り返る。

 

俺が抜けてきた裂け目が、ゆっくりと閉じつつあった。

霊夢がその脇で、パンパンと手を払う。

気づくと、握っていた手を離していた。

 

「ここは……」

裂け目が閉じ、なにもなくなった空間を見ながら俺は言った。

裂け目があった空間の先には、博麗神社の本殿がある。

だが、先ほど見たものと比べると、随分廃れていた。

 

それにしても、日が傾き始めたせいか、なんだか肌寒い。

 

「外の世界の博麗神社よ」

霊夢が応えながら、再び懐から御札を取り出す。

先ほどと同様札を目前に構え、何事か呟く。

と、日差しで分かりにくいが、霊夢の体が淡く発光する。

 

何かの術だろうか、と目を丸くして見ていると、光はゆっくりと消えた。

「……何したんだ?」

「幻想郷の外では、この格好は目立つからね」

俺の問いかけに、霊夢は体を捻り自分の体を見下ろしながら応える。

 

外『では』?外『でも』じゃないのか?

「え、そ、そうだな」

霊夢の、胴部分か完全に分離された袖を見ながら、おそらく俺は微妙な顔をしているのだろう。

 

そんな俺の様子に気づいていないのか、はたまた気づいていて無視しているのか、霊夢は説明を続ける。

「私を知らない人が私に対する違和感を抱かないようにする結界を張ったのよ」

「……そんなことが出来るのか?」

「まあね。さあ、行きましょう」

「どこに?」

歩き始める霊夢に、俺は咄嗟に問いかける。

 

霊夢は振り返り、俺を見据える。

「着いて来れば、分かるわ」

その短い言葉に、言い知れぬ迫力を感じた。

 

頭一つ分も小さい少女のなにげない言葉に、俺は気圧され、黙って頷いた。

 

 

* * *

 

 

あ、れ……?

博麗神社の石段を下り、暫く道を歩くと、程なくして小さな町に着いた。

調度人里の辺りだ。

 

「おかしいな……」

俺が調べた限りでは、博麗神社は山奥にあったはずだし、近くには町どころか、村や集落が点在する程度だったはずだ。

不思議に感じながらも、自分が調べた情報が間違っていたのか、と自分を納得させ、前を歩く霊夢に着いていく。

 

少し寂れた商店街を歩いていた霊夢と俺だったが、霊夢がある書店の前で足を止める。

寂れた商店街にあるのが不思議に感じる程度に規模の大きな書店だった。

商店街の他の店舗の倍は敷地を占有している。

 

「ここか?」

俺の問いに霊夢は頷いた。

そのまま店舗に入ってゆく。

 

俺は黙ってその後に続く。

 

 

ふと、店頭に吊るされているカレンダーが目に留まる。

月捲りの物で、実際に使われているらしく、何度か捲られている。

 

つまり、今、俺の目に映っているカレンダーの月が、現在の月を示すのだ。

 

「霊夢……」

呟くような俺の言葉に、霊夢が振り向く。

 

「今は、何月なんだ……?」

『11月』と記されたカレンダーを見る。

 

 

「……何月だと思っていたの?」

逆に問いかけてくる霊夢。

もし俺が『そのこと』に気づいてなければ、「5月じゃないのか」と半ば放心気味に、そう答えただろう。

 

だが、俺は答えられない。

カレンダーから目を離せない。

年号に記される『平成20年』の文字から目が離せない。

 

 

………………?

 

 

平成20年………………?

 

 

………………?

 

 

 

 

………………『平成』?

 

……平成ってなんだ?

 

年号……なのか?

 

いや、そんな筈はない。

 

だって、

 

昭和の後の年号は、

 

今の年号は、

 

『太平』……だろう?

 

 

混乱する。

何か、気づいていはいけないことに気づいてしまった感覚だった。

否、なにかしらの違和感はあったのだ。

それが、ここに来て顕著になっただけ……と、そう感じられた。

 

「なあ、霊夢」

俺は放心気味に呟きながら、彼女を見る。

 

「『平成』って?」

 

「…………」

霊夢は、カレンダーを見て、逡巡する。

「……私は外のことはよく知らないけど、年号みたいね」

「日本の?」

「ええ。日本という『国』のよ」

と、霊夢は再び俺に視線を戻した。

 

……?

霊夢の言い方に、引っかかる。

何気ない言葉なのに、そこには確かに違和感があった。

 

「なあ、霊夢」

と、壊れたレコードのように再び呟く。

 

「ここは日本だよな?」

「?ええ。そうよ」

「いや、言い方が悪かった」

眉を潜める霊夢に、俺は頭を振る。

 

 

 

「ここは『日本国(にほんこく)』……だよな?」

 

 

「…………」

俺の問いかけに、霊夢は答えない。

だが、その沈黙の返しが、答えと言ってもよかった。

 

「悠基、私は確かめに来たの」

霊夢が、書店の一角、小中学生の教科書を取り扱っているコーナーへ歩き出す。

 

「それをね」

霊夢の言う『それ』が、何を示すのか分からなかった。

 

俺はなにも理解できないままに、霊夢が教科書コーナーから引き抜き俺に差し出した一冊の書籍、中学生向けの歴史の教科書を、黙って受けとった。

 




主人公の世界には「東方Project」があるようです。メタ的にいえばそういう設定です。
この設定だとちょっとした齟齬があるのですが、まあ追々触れるつもりです。いつになるかは分かりません。
ちなみに主人公は「東方Project」には疎いようです。なのでほぼ死に設定になります。今はかろうじて生きてますが。

平成20年とありますが年代は特に今はないです。メタ的に言えばサザエさん時空なので気にしない方向でお願いします。

やや今更感がありますが、誤字脱字誤用等ございましたらご報告くださるとありがたいです。

それから次回の話はほのぼのした話になりません。


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七話 外の世界

叔父はよく笑い、寛容で、器の大きい人だった。

だけども不器用で、迂闊な失言も多く、両親を失った俺を慰めようとして、手段を間違えることが多かった。

だけど、その言葉の、その行動の根底には、確かに俺に対する優しさがあった。

 

その奥さんの叔母は、穏やかだけどしっかり者の良妻だった。

叔父の失言のフォローはだいたい彼女がしていたし、俺に対していつも穏やかな優しい笑顔で話しかけてくれた。

その優しさが、この上なく暖かかった。

 

二人の一人娘、即ち俺の従妹は、俺に厳しかった。

たくさん文句や小言を言われたし、ムキになって喧嘩したこともあった。

でも、叔父や叔母の前で無理して振舞っていた俺に一番最初に叱咤したのは彼女だった。

俺に、本音を言う機会をくれた。

そういう意味では、彼女は俺を立ち直らせてくれた大切な恩人だ。

 

俺の大好きな3人だ。

3人だけじゃない。

他の親戚だって、俺を腫れ物のように扱いもしなければ、過度に気を使ったりもしなかった。

あるときは厳しく、あるときは優しく、あるときは痛快に、あるときはごく自然に、あるときは穏やかに、俺に接してくれた。

心地よい距離感は、血の繋がりだけではない、別の絆を感じた。

 

それは親戚に限った話ではない。

級友。

親友。

幼馴染。

恩師。

先輩。

後輩。

 

俺の事情を知る知らないに関わらず、俺をどん底から救ってくれた。

両親を失い、絶望の底にあった俺に、手を指し伸ばしてくれた。

たくさんの人たち。

たくさんの、大切な人たち。

 

両親が死んだときから感じていた、自分の体の一部が、失われた感覚。

俺の胸に空いた穴。

でも、気づいたらその穴は、暖かい思いで埋まっていた。

 

皆が、埋めてくれたのだ。

 

「だから、俺は大丈夫だよ」と、俺は両親の墓前で笑った。

屈託のない笑みを浮かべられたと思う。

そうして思ったのだ。

 

大切な世界。

俺を救ってくれた世界。

いつかは失うかもしれない。

でも、それは今じゃない。

 

俺は、この世界を、

 

大切な人たちを、

 

今度こそ、失いたくないと。

 

強く、強く、そう願ったのだ。

 

 

* * *

 

 

 

霊夢から受けとった歴史の教科書をパラパラと捲る。

二年前の大学受験で頭に叩き込んだ歴史の知識はまだ健在で、俺の知識と教科書の内容は一致していた。

平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代、明治時代、と記された歴史は進む。

進むたびに、僅かな安堵に嘆息を漏らしながら、しかし、確定した恐怖との接近が俺の心臓を跳ねさせる。

 

そして、昭和時代、太平洋戦争の頁で、ついに俺は決定的な『違い』を見つけた。

 

その頁は、原子爆弾投下に関して書かれていた。

あってはならない相違だった。

なぜ、原子爆弾が『2つも』投下されているのか。

なぜ、終戦記念日が『5日も遅い』のか。

 

「あったのね?」

と、隣に立つ霊夢が囁いた。

ページを捲る手を止め、本の中身を凝視している俺を真っ直ぐ見上げている。

 

俺は霊夢を見るが、何か言うことも、頷くこともできない。

 

「分かったわ」

だが、霊夢は俺の様子に構わず、俺の手から教科書を取り上げると、すばやく本棚に差し込む。

そして俺の手を取ると、「行きましょう」と俺を引っ張り書店を出た。

 

 

霊夢に引かれるがままの俺の頭に、バタフライエフェクト、という単語が頭に浮かんだ。

ほんの僅かな差異が、経過を伴いに連れ、次第に全く異なる結果になる。

 

 

「霊夢」

俺は足を止める。

霊夢もそれにあわせて立ち止まり、振り向いた。

「ここは、どこなんだ?」

 

霊夢は逡巡するように黙り込むが、少しして口を開いた。

「少なくとも、私が知っている限りでは、外の世界に『東方』なんてものはないわ」

まっすぐと、俺を見る。

「もしそんな物があったら、博麗大結界は維持できないもの。それに、紫が黙っていないわ」

 

ユカリ……人の名前だろうか。

だが、俺がその疑問を口にする前に、霊夢は問いてくる。

「さっきの歴史書に見つけたんでしょ?あなたが知っている歴史とは違うところを」

 

「……俺が知っている限りじゃ、原子爆弾は一発しか落とされていない。日本は3日後にポツダム宣言を受諾し、その翌日日本の戦争は終戦した」

つらつらと、俺の知っている歴史を話す。

 

「日本は大日本帝国の名残を残し国名を日本国にした」

それでも、だいたいの人は自国を日本と略していたし、日本国語を日本語と言っていた。

アメリカ合衆国をアメリカと、中華人民共和国を中国と呼ぶのと同じだ。

 

「でも、ここは日本国じゃ…………俺のいた世界じゃ、ないんだろう?」

俺は問いかける。

確信していた。

しかし、その確信を否定してくれと、

一縷の希望に縋るように、霊夢に問いかけた。

 

だが、霊夢は俺の問いかけに黙って首肯した。

 

「もともとは、この世界とあなたがいた世界は同じだった世界だったんでしょうね」

霊夢は淡々と話し始める。

「でも、どこかで分岐した。100年前か、200年前か、それ以上前なのかは分からないけど、違う現象が起きて、二つの世界に分かれた。

二つの世界は同じような歴史を辿っていたと思うわ。でも分岐した時を起点に、二つの世界には違いが増えていく。

あなたが見つけたのは、その違いが歴史書に載るくらいの規模にまで発展した結果だったの」

 

「…………そうか」

俺は呆然とした面持ちで霊夢を見る。

「霊夢」

「…………」

俺の呼びかけに、霊夢は黙って俺を見つめ続ける。

 

「どうすればいい?」

頼む、

「どうやれば、」

頼むから、

「俺がいた世界に戻れるんだ?」

頷いてくれと、

「なあ、霊夢」

縋るような気持ちで問いかける。

 

だが霊夢は、俺の願望に沿うことなく、

「分からないわ」

と、そう、断言する。

 

「……そんな……」

呟くような声が漏れる。

 

「じょ、冗談だろ……?」

歪に口角を上げる。

「な、なにか、方法があるはずだ。そうだろ?」

「……少なくとも、私は知らない」

 

体中から、力が抜ける。

気づくと俺は、その場に膝を着き、項垂れていた。

周囲の世界が、闇に包まれていくような錯覚を覚えた。

 

 

なあ、霊夢。

俺は、俺のいた世界に、大切な人たちを残してるんだ。

俺を救ってくれた人たち。

俺に光をくれた人たち。

俺の、かけがいのない人たち。

だから、失っちゃいけないんだ。

失いたくないんだ。

 

頼む。

 

頼むよ。

 

戻してくれ。

 

元の世界に戻してくれ。

 

助けてくれ。

 

頼むから。

 

助けてくれよ。

 

なあ、

 

父さん……母さん……。

 

助けて…………。

 

 

 

 

闇の中に、小さな光が灯る。

 

 

 

 

ああ……待て……。

 

だったら……もしかしたら……。

 

でも……そんなこと……いや……可能性は、あるんじゃないのか?

 

 

 

その光に手を伸ばす。

 

 

顔を上げ、霊夢を見る。

 

「悠基?」

霊夢は怪訝な瞳で、様子の変わった俺を見つめた。

 

「れ、霊夢」

俺は半ば興奮した口調で、彼女に問いかける。

「この世界は、俺の世界とは違うけど、それでも、同じような歴史を辿っているんだろう?」

霊夢は眉を潜めたまま答えない。

 

俺は続けざまに問いかける。

「だったら、俺の世界と同じところもあるんだろう?」

「…………まあ、共通するところもあるでしょうね」

「そうだよな!ああ……なら、ありえるかもしれない」

「何が言いたいの?」

 

俺は笑顔を浮かべ、続ける。

「俺の両親が、この世界では生きているかもしれない」

半ば、夢心地だった。

「霊夢、俺のいた世界では、俺の父さんと母さんは死んでいるんだ」

興奮が俺を支配する。

「でも、こっちの世界では、二人は俺の世界と同じように生まれて」

夢中で、霊夢を見る。

「生きているかもしれない。そうだろう?」

永遠に失ったと思ったものが、この世界にはあるかもしれない、と。

 

 

霊夢は目を閉じ考え込む。

俺は、期待の籠った目で、霊夢を見た。

ほどなくして、彼女は目を開き、俺を真っ直ぐ見据える。

 

 

「……ありえないわ」

 

「………………え?」

思考が止まった。

 

「ありえないのよ。そんなことは」

「…………ま、待ってくれ」

俺は震える声を上げる。

「た、確かに、可能性は低いかもしれない。でも、二人がいる可能性は、ゼロじゃないだろ?」

「悠基、聞いて」

霊夢は、俺の両肩を掴んだ。

 

「もしかしたら、あなたのご両親と同じ姿で、同じ声で、同じ振る舞いをする人がいるかもしれない」

 

…………ああ、霊夢。

 

「その人たちはこの世界では元気に生きてるかもしれない」

 

…………それ以上は、やめてくれ。

 

「でもね」

 

……それじゃあ、その言い方じゃあまるで、

 

「その人たちは、絶対に、あなたのご両親じゃないわ。あなたのご両親たりえないの」

 

 

「…………あ」

 

 

灯ったと思った微かな光は、存在などしていなかった。

どん底だと思っていたところから突き落とされ、さらに下へと落ちていく感覚。

埋まっていたと思った胸の穴が、さらに広がっていく錯覚。

 

もう、何もない。

分からない。

考えられない。

 

 

「…………霊夢」

覇気のない声が、俺の口から漏れる。

「俺はどうすればいい?」

どうやって、生きていけばいい?

 

霊夢は、俺の手を取る。

「悠基」

そのまま俺を引く。

「帰りましょう」

促されるままに力なく立ち上がった。

「幻想郷に」

 

俺は、力なく頷いた。

 

 

* * *

 

 

 

霊夢が開いた裂け目をくぐり、俺は博麗大結界の内側、幻想郷の博麗神社へと戻った。

夕暮れ時で、周囲の世界は朱色に染まっている。

 

アリスが、博麗神社本殿の前で俺たちの帰りを待っていた。

いや、きっとこうなることが、分かっていたんだろう。

霊夢に手を引かれ裂け目を抜けた俺は、覇気のない目で彼女を見る。

 

「おかえりなさい」

「ただいま」

出迎えてくれたアリスに、霊夢は返事をするが、俺は何も言うことができない。

ただ茫然と、その場に立ち尽くし、項垂れる。

 

俺は元の世界に帰れない。

その現実を受け止めてから、時間が立つが、未だに俺の意志は立ち直ろうという兆しをみせない。

 

「悠基」

すぐ傍で、声がする。

顔を上げると、アリスが目の前まで近づいていた。

 

冷たいなにかが、俺の頬に触れる。

アリスの伸ばした左手が、俺の右頬に添えられていた。

 

「……その…………」

何かを言おうとしているのだろう。

アリスの憂いを帯びた目が揺れる。

だが、何を言えばいいのか分からなかったのか、それ以上の言葉が出てこない。

 

 

 

………………ああ…………。

 

 

そんなアリスの姿に既視感を覚えた。

 

 

………………そうか…………。

 

 

両親の葬式が終わってから、雨に濡れるままに空を見上げる俺に、

 

 

………………同じなんだ…………。

 

 

傘を差しだしてくれた叔母の目と、俺を気遣おうとする叔父の目。

 

今のアリスは、あの時の二人と同じ目をしていた。

 

出会って、1日しか立っていないというのに、

こんなにも親身に、俺を心配してくれる。

なんて、優しいんだろう。

そんな彼女を、これ以上困らせたくなかった。

 

「大丈夫だから」

気付くと俺は、そう口にしていた。

 

「俺は」

無理矢理、口角を上げる。

「大丈夫だから」

笑みを浮かべようとしていた。

あの時と同じように。

 

でも、今回もきっと、歪な笑みだったのだろう。

アリスの反応を見るまでもなく、分かった。

 

 

「悠基」

霊夢がアリスの隣に立ち、睨むように俺を見た。

「泣きなさい」

 

「…………え?」

何を言われたか、一瞬わからなかった。

 

「我慢して、自分を殺すな」

有無を言わさぬ声で、霊夢は俺に言う。

「泣きなさい」

 

 

 

 

俺に優しかった叔父、叔母と違い、その娘の従妹は俺に厳しい人だった。

『いつまでも無理してんじゃないわよ!』

会話の流れは、思い出せない。

ただ、従妹の少女は俺に怒っていたのだ。

 

両親の死に茫然としながら、ただ、周りの人たちに心配を掛けまいと無理矢理明るく振舞っていた俺に。

『さっさと吐き出しなさいよ!この馬鹿!!』

俺を想って、叱ってくれたのだ。

なのに俺は、その時は彼女の言葉の意味がその時が分からず、更に彼女を怒らせた。

 

結局、その言葉の意味するところを俺が理解するのは、それから暫く経ってからだった。

 

 

 

「…………あれ……?」

 

俺の目から、暖かい物が零れ落ちた。

それは、俺の頬に添えられたままのアリスの手を濡らす。

霊夢の言葉は、あの時の彼女と同じだ。

 

俺は、アリスの手を握り、俺の頬からゆっくりと剥がす。

その手は冷たいのに、とても暖かい。

握ったその手を放したくなかった。

 

「…………ああ…………」

無理矢理浮かべた笑顔が崩れた。

 

「……あぁぁ…………」

視界が滲み、とめどなく涙が溢れ、零れる。

 

「ぐ……うぅ…………」

嗚咽を止めることが出来ない。

 

その顔を二人に見られるのが恥ずかしく、ささやかな抵抗をするように、俺は俯く。

「ああ……ああああ…………」

 

鼻水と涙で汚らしく顔を汚しながら、

無理矢理押さえていたものを吐き出すように、

子供のように、

俺は、泣いていた。

 

 

俺を見守るように、アリスも霊夢もただ黙って、俺の傍にいてくれた。

 

 

 

 

…………ああ、二人とも、違うんだよ。

 

 

俺は心の中で呟く。

 

 

 

俺はこの世界で一人ぼっちになったと思ってたんだ。

 

大切な人たちにもう会えないと思うと、今でも胸が張り裂けそうなくらい痛い。

 

でも、

 

会って間もない俺に、二人はこうして傍にいてくれる。

 

ただその事実が、この上なく嬉しいんだよ。

 

だから、これは嬉しくて、泣いてるんだ。

 

 

……ありがとう。

 

 

 




今回の主人公はずっと鬱っていましたが、ひとまずは立ち直れたという感じです。
そういうことにしておいてください。

さて、次回で一章は終わりなのですが、こんな重い感じの空気を経て、やっとこさ路線をほのぼのしたものにしたいです。切実に。


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八話 そうして彼は幻想入りをする

………………イタイ。

 

…………頭が、痛い。

ていうか、体が重い。ダルい。

ついでに言えば気持ち悪い。ちょっと吐き気までする。

 

「うぅぅ……」

うめき声を上げながら、暖かい布団を退かし体を起こす。

 

小さな和室の中央に敷かれた布団で寝ていたようだが、ここに至るまでの記憶がない。

痛む頭を押さえながら、俺は昨日のことを思い出す。

 

 

この世界は俺のいた世界ではない。

俺は、元の世界に帰ることはできない。

 

その現実に気分が沈むが、

 

アリスと霊夢の前で泣いたことを思い出す。

二人が俺を気遣い、傍にいてくれたことを思い出す。

 

心が温かかった。

 

 

 

……同時に、顔が熱かった。

体中がむず痒く、身悶えたい衝動に駆られる。

 

仕方なかったとは思うが、大の男が、二人の少女の前で号泣である。

 

 

ああああああああああああああ超恥ずかしいいいいいいいいいいいいい!!!

 

 

俺がその場で布団に潜り込み、羞恥にゴロゴロ転がって悶えなかったのは、一重にわずかな理性が残っていたからである。

おそらく一分ほど、傍目から見れば、固まっていただけにしか見えないが、内心では物凄い感情の奔流に耐え忍んでいた俺だったのだが、辛うじて冷静になり昨日の記憶を辿る。

 

さて、それから泣き止んだ俺は、アリスに手を引かれ……いや、待て待て。

そういえば、あの時俺は、頬に添えられたアリスの手を、自分の涙で汚したくないからと、頬から剥がした。

だが、その手を放すことが出来ず、握りっぱなしだった。

そして、泣き止んだ後も、ほぼ無意識に、彼女の手を掴んでいた。

まあ、今思えば美少女の手を握っているという役得感はあるかもしれないが、そのまま手を引かれている俺の様子は、傍からではこう見えるのではないだろうか。

 

 

泣きながら母親の手を握り離そうとしない幼稚園児(ビジュアルは成人男性)。

 

 

……再び羞恥との戦いを一分近く繰り広げるハメになった。

 

短時間で黒歴史を増産してしまった。

昨日の記憶の続きを思い出すのが怖い。

だが、現状を理解するために俺は覚悟を決めて記憶を遡った。

 

 

* * *

 

 

話の流れはよく思い出せないが、霊夢の家(博麗神社の母屋)で、晩酌をしけ込むことになった。

まあ、「こういう時は酒を飲みましょう」という霊夢の言葉に「そうね」とアリスが二つ返事で同意しただけなので、流れなどないようなものだったが。

茶の間でアリスと俺はちゃぶ台を囲むように座り、霊夢は納戸に酒を取りに行った。

外はすっかり日が落ち暗くなっていた。

 

「上物よ」

戻ってきた霊夢はそう言いながら、大吟醸とラベリングされた大きな瓶をちゃぶ台の真ん中に置いた。

ついでに、御猪口や、つまみなのか干し肉や大根の漬物が並ぶ。

「他のつまみは後で用意するとして、一先ずこれで乾杯といきましょう」

 

「霊夢、お酒、大丈夫なのか?」

俺は目を丸くしながら訊くと

「霊夢はお酒に強い方だから」

と、アリスが答えてくれた。

 

いや、そうじゃなくて、見た目中学生の霊夢が酒を飲むのは、道徳的とか法律的な意味で大丈夫なのかという意味だったのだが。

そうツッコミを入れようとする俺の目の前に、御猪口が突き出される。

「悠基、飲めるわよね」

霊夢が俺を見据え言い放つ。

 

「まあ、一応は……」

俺は押され気味に御猪口を受け取った。

ちなみにお酒は、弱くはないがそこまで強くはないってところだ。

 

アリスが手慣れた動作で俺が持つ御猪口に大吟醸を傾ける。

流れるように、霊夢と自分の御猪口にもお酒を注ぐ。

お酒の匂いは、嗅ぐだけで酒が苦手な人は酔っぱらうのではないだろうかというくらい強い。

匂いでアルコール度数が図れるわけではないが……これ水で割るやつじゃないのか?

ストレートで飲んでいいやつじゃなくないか!?

 

そう思った時には既に、霊夢とアリスは御猪口を掲げていた。

そして前口上を省略し、

「乾杯」

と、霊夢が音頭をとる。

「乾杯」

アリスがそれに続く。

「か、乾杯」

俺も、自分の御猪口を掲げ、二人の御猪口にぶつけた。

 

そして、霊夢は豪快に、アリスは優雅に、御猪口を呷る。

俺は二人の呑みっぷりに瞠目しながら、自分の御猪口の中の透明な液体を見る。

ごくりと生唾を飲み込むと、覚悟を決め、二人に習い一気に液体をのどに流し込む。

 

~~~~~~~!!

熱い。

喉が焼けるようだ。

だが、

 

超美味い……。

 

 

* * *

 

 

…………そこからの記憶がない。

 

ああ、そういえば、と俺は頭を抱える。

俺の父親は悪酔いするタイプだったらしい。

そのため、お酒は滅多に飲まないと本人が言っていた。

 

酒の相性は遺伝するとよく聞く。

父親は、絶対に深酒をするな、マジで痛い目を見るぞとよく俺を脅していた。

俺は素直にそれを受け止め、大学の飲み会はそれなりにセーブしていたのだが。

 

記憶がないあたり、最初の一杯でラインを超えてしまったのだろうか。

非常に嫌な予感がする。

思い出せないが、黒歴史をまた1つ、築いてしまったのかもしれない。

 

そして、この体調不良の原因も分かった。

ていうかどう考えても二日酔いだろう。

 

俺は盛大に嘆息すると、寝ていた布団から出てそれを畳み部屋の隅に置いておく。

障子を開き縁側に出ると、左手の方から人の気配を感じた。

少し肌寒い。

そういえば11月だったな、と思い出す。

 

縁側を歩き、人の気配がした方へ歩くと、俺が起きた部屋の隣は昨日の晩酌をした茶の間だった。

ちゃぶ台の上は片づけられていたが、周辺の畳には瓶が5,6本転がっている。

ちなみに全て空っぽだった。

 

……まあ、記憶はないが俺は多分最初の一本目を飲み終わる前には潰れてるだろう。

とすれば、霊夢とアリスの二人で4本以上の酒を一晩で消化したことになる。

…………マジかー……。

 

その部屋の隣、俺が寝ていた部屋の反対側は、土間兼台所で、霊夢がこちらに背を向け調理をしていた。

朝餉だろうか、ぐつぐつと窯が煮立ち、味噌の匂いが漂ってくる。

 

「霊夢、おはよう」

「あら、起きたのね」

声をかけると、霊夢は振り返った。

涅槃、というのか、昨日の奇抜な服装(信じがたいがあれが博麗神社の巫女の正装らしい)と打って変わった白い浴衣姿で、大きな赤いリボンもはずし黒い艶やかな髪を下している。

こうして見ると、正統派美少女だなあ、としみじみ思った。

 

「布団、ありがとう。一応畳んでおいた」

「そ。気分は?」

「……最悪かな……あの、昨日の記憶がないんだけど、なにか迷惑かけてないか?」

恐る恐る問いかける。

 

「……………………聞きたい?」

間が怖い。

 

「や、やめとく」

軽い目眩を覚えながら首を振る。

とはいえ、これは何かやらかしてしまっているんだろうなあ。

 

「そういえば、アリスは?」

「奥の部屋で、寝込んでるわよ」

霊夢は、縁側とは反対側の襖の閉まった部屋を指差す。

 

「そうか。何か、手伝おうか?」

いろいろ世話になっているので申し出る。

 

「いいわよ。そんなことより、体を洗ってきたら?ちょっと臭うわよ」

「え」

慌てて自分の体を見る。

酒臭い。酒の臭いしかしない。

だが、最後に風呂に入ったのは三日前。

幻想郷に迷い込む前である。

ちなみにその間着替えは一切なしだ。

そりゃあ汚いよなあ。

 

「そっちの奥に洗い場があるわ。悪いけどお湯は沸かしてないから、水風呂で我慢して」

「ああ、うん。分かった。ありがとう」

俺はそそくさと、霊夢の指差す方へ向かった。

 

 

* * *

 

 

「つ、めた」

鳥肌を立てながら、しゃがみ込んだ体勢で風呂桶の冷水を頭から被る。

震えから歯をガチガチと鳴らしながら、再び風呂桶に水を汲む。

流石にこの季節に朝から水浴びは堪える。

しかし、少しスッキリしてきた。

 

頭を冷やすと同時に、漠然とした不安にかられる。

 

……これからどうしようか……。

 

所持品はスマートフォンと財布と、自宅の鍵のみ。

それ以外は全て、一ツ目の妖怪から逃げる際に捨ててきた。

 

つまり着の身着のままだ。

お金は……多分幻想郷では使えないだろう。

外の世界なら……いや、多分通貨も違う可能性が高い。

つまり、当面の物資の宛ては皆無。

 

それだけでなく住むところも考えなければ。

一日目はアリス、二日目は霊夢にそれぞれ部屋を借りたが、当然いつまでもそういうわけにはいかない。

いや、あの二人なら「それくらいはいい」とか言ってくれそうな気もするが、流石になあ……。

 

先行きが不安だらけである。

 

髪先の水が滴り落ち、風呂場の床に落ちる。

気づくと、考え込んでいて体が止まっていた。

このままじゃ風邪を引きかねない。

 

そう思って手に持ったままの風呂桶を床に置こうとしたその時だった。

戸一枚隔てた脱衣所に人の気配がした。

 

「え」

と、声を上げる間もなく、

盛大に風呂場の戸が開かれた。

 

口元に手を添え、大きな欠伸をしながら、アリスが風呂場に足を踏み入れる。

明らかに俺に気づいていない。

その間俺は思考停止した状態でアリスを見上げていた。

 

一歩踏み込んだところで欠伸が止まったアリスが目を開き、ようやく俺に気付いた。

目が合う。

 

……えっと、状況について説明すると、俺は風呂場で水浴びをしていた。

しゃがんだ体勢で体を洗っていたのが幸いし、おそらく、多分……きっと、大事な部分は見えてはいない筈……だが、まあ要するに、生まれたままの姿をアリスに晒したことになる。

 

不幸中の幸いだったのは、どうやらアリスは顔を洗うために風呂場に立ち入ったようで、彼女は服を着ていたことだろう。

もし、ここでラッキースケベなんて発生した時には、気まずいやら申し訳ないやらで俺はアリスとまともに話せなくなっていた可能性が高かったので、これは、まあ運が良かった。

ほんとに……。

 

そんな状態で目があった俺たちは、完全に体を硬直させていた。

まあ、恐らくは一瞬だったのだろうが、体感10秒くらいは時間が停止したくらいに感じる。

 

一瞬の硬直を解いて我に返ったのはアリスが先だった。

 

「し」

あ、噛んだ。珍しい。

「失礼」

 

と、極めて常識的に、アリスは視線を逸らしながら風呂場から出ていく形で後ろに下がる。

風呂場の戸を閉めたのち、パタパタと早足ぎみの足音が脱衣所から出ていくのが聞こえた。

 

「う、うん」

一方の俺は、半ば呆然とした様子で誰もいない脱衣所に向けて、間抜けな返事をするのだった。

 

 

* * *

 

 

 

体を拭いて、汚れたままの服を着る。

着替えも調達しなければなあ……と頭の片隅で思いながら茶の間に入ると、朝餉がちゃぶ台に並べられて、霊夢とアリスが座して俺を待っていた。

霊夢は腹を抱え、あからさまに笑いを堪えている様子だ。

ああ、うん、聞いたのね……。

 

「あの、悠基、さっきはごめんなさい」

とアリスが謝ってくる。

 

俺はアリスから視線を逸らしながら、努めて冷静に対応する。

「え、うん、あの、キニシテナイヨー」

目を逸らしている時点で全然努められてなかった。

 

 

霊夢が堪えきれず爆笑した。

 

 

* * *

 

 

「さて、悠基。これからの話をしましょうか」

朝食後、お茶で一服したのち、霊夢が切り出した。

 

「ん。そうだな」

俺は少し緊張して、頷く。

 

「まず確認だけど、あなたは幻想郷に残るの?」

「ああ。外の世界に伝手はないし、出来れば幻想郷で暮らしたい」

 

「幻想郷に伝手はあるの?」

「え」

アリスに言われ、俺は硬直する。

「……な、ないです……」

 

「そうよね」

呟くように言うアリスの口元が少しだけ上がっている。

ん?からかわれたのか……?

 

「その、慧音さんに訊くだけ訊いてみようかなあ……と」

「慧音に?人里に住みたいの?」

「住みたいと言うか、幻想郷に住むなら、俺みたいな人間は人里に住むしか選択肢はないと思うんだが」

首を傾げる霊夢に、俺は先日里に向かう際にアリスから聞いたことを思い出しながら話す。

 

アリス曰く、幻想郷の掟として、妖怪は人里で人を襲ってはいけないらしい。

で、裏を返せば人里以外なら襲っていいということになる。

一ツ目の妖怪もそんなことを言っていたし。

そういうわけで、妖怪に対して自衛できない俺は幻想郷では人里に住むほかない、という当たり前の結論に至るわけである。

 

「それが駄目だったらどうするの?」

「……どうしよう……」

アリスに訊かれ、俺は溜息を吐く。

 

「うちに住む?」

 

ああ……アリス、まさかとは思ってたけどそれを提案しちゃうのか……。

 

「そ、それは駄目」

俺は断固とした態度で断る。

 

「どうして?」

「どうしてって……」

俺は咳払いをする。

 

「い、いいか?若い男女が一つ屋根の下なんて……その……なあ?なあ!?」

若干照れて最後は勢いで誤魔化す。

「悠基は考え方が古いわねえ」

霊夢が呆れたように言う。

頭抱えたくなってきた……。

「古いって……幻想郷の公序良俗はどうなってるんだよ……」

 

「襲うの?」

「お、襲わねえよ!?」

自身を指差し呟くアリスに俺は必死に否定する。

ていうかからかってるよねえアリスさん!?

 

「なら、いいんじゃない?」

「……助けてもらった立場でいうのもなんだけど、アリスは人が良過ぎる」

 

もう良すぎて心配したり呆れたりするレベルですらある。

心境としては初めて一人暮らしをする娘を心配しすぎて娘にうざがられるお父さんだ。

 

「別に親切心だけじゃないんだけど」

と、呟くアリスにさしもの霊夢も驚いたように目を見開く。

「……アリス?」

 

「打算的な部分もあるってことよ」

アリスは霊夢を横目に言った。

 

「打算的?」

俺が問いかけると、アリスは「んー」と何かを考えるように相槌を打つ。

 

「……まあ、慧音に話を聞いてみましょうか」

と、これで話し合いは終了だとばかりに霊夢が立ち上った。

 

 

* * *

 

 

 

結果的に言えば、慧音さんの寺子屋の離れを使わせてもらうことになった。

 

「あ、ありがとうございます!」

あまりにもあっさり住む場所が見つかった驚きに声を上ずらせながら、俺は深々と頭を下げた。

 

「構わないさ」

慧音さんは微苦笑を浮かべるが、すぐに真剣な表情になる。

「それよりも、働く口は見つかったのか?着の身着のままというなら、いろいろと入り用だろうし、生活していくなら無職という訳にはいかないんじゃあないのか?」

 

「……はい、そちらの問題も未解決です」

慧音さんの言葉に心をグサグサ抉られながら、俺は肩を小さくする。

 

「ふむ。……ところで、外の世界では、君くらいの歳なら高等学校を通っているか既に卒業したと見ているのだが、どうかな?」

「え?はい。確かに、高校は卒業して、今は大学へ通っています」

質問の意図がよく分からないままに答える。

 

「なら、大丈夫だろう」

と、慧音さんは満足げに頷いた。

 

……この話の流れは……。

俺の胸の中で期待が膨らむ。

 

 

「君が良ければ、寺子屋で私の補佐をしてくれないか?」

慧根さんは、首を傾げるに僅かに傾けて、俺を見つめてくる。

 

その背には後光がさしていた。

まあ、もちろん幻視なんだが。

しかし、一瞬女神かと思ってしまった。

 

「めが――あ、いや、ありがとうございます!」

口に出しかけた。

 

「大丈夫なの?慧音」

それまで静かに話を聴いていた霊夢が問いかけると、慧音さんは薄く笑む。

「ああ。まあ、そろそろ冬も近いしな。寺子屋を休んでいた農家の子達が、また通うようになるから、人手が欲しかったのだよ」

 

 

* * *

 

 

「さて、こんなものかしらね」

新しい俺の住まいである寺子屋の離れに住むに至り、日常品の買出しから俺とアリスは帰ってきていた。

なんだかんだと時間もかかり、既に空は朱色に染まり、俺が幻想郷に迷い込んでから2回目(3回目かもしれない)の日暮れ時である。

 

「ああ、助かるよ」

アリスが部屋の隅に買い込んだ物を置くのに習うように、俺も荷物を置いた。

 

ちなみに霊夢は、先ほどの慧音さんとの話し合いのあと、「まあ、もろもろ解決したみたいだし、私はそろそろ戻るわ」と帰っていった。

歩き始める霊夢の背に礼を言うと、彼女は背中越しに、

「お礼は博麗神社のお賽銭箱にね」

と手の平を軽く振りながら惚れそうなほどかっこいい背中で去っていった。

 

慧音さんも所要があると、日常品の買出しには同行していない。

ただ、日常品を買うための金銭は、寺子屋講師補佐(と自分の役職を勝手に名づけている)の給料を色を付けて前借している形である。

 

朝はどうなるものかと思ったが、そんなこんなで俺が幻想郷に住む基盤が整ったわけである。

意外とどうにかなるものだ。

 

……いや、違うよな。

 

「アリス」

改めてアリスを見る。

「ん?」

 

「本当に……いろいろと、ありがとう」

 

「どうしたのよ改めて」

 

「いや……なんていうかほんと、言葉じゃ表せないくらい感謝してるんだ。命を助けてもらったことも、今日のことも、昨日、博麗神社で……」

 

「泣いたときのこと?」

 

「……まあ、そうだ。他にもいろいろ」

 

「顔が赤いわよ。照れるくらいなら言わなきゃいいのに」

 

「でも、アリスのおかげで今どうにかなってるのは本当だから。今は無理だけど、いつか、言葉だけじゃなくて、礼もしたいと思ってるし」

 

「出来るの?」

 

「する。絶対。今のはその決意表明みたいなもんだよ」

 

「まあ、期待はしないでおくわ」

 

「……手厳しい……」

 

 

ぼやくような俺の言葉に、アリスは微笑を浮かべ、「さて」と踵を返す。

「それじゃあ、そろそろ帰るわ」

「ああ、今日はほんとに――」

「分かったから」

何度目か分からない御礼を言おうとしたら遮られた。

 

「じゃあね」

「うん」

 

 

* * *

 

 

 

そんな、どこかしんみりとした空気でアリスを見送り、俺は自分の新居の床に胡坐をかく。

 

正直、全く知らない世界で過ごしていくのは、不安だらけだ。

俺がいた世界では、両親が死んだあとも、いろいろな人に世話を焼いてもらいなんとかなっていたのだから。

「まあ、いつまでも不安がってもいられないかな」

俺は、気合を入れるように両頬を叩く。

 

今の状況だって同じだ、アリスに、霊夢に、慧音さんに助けられ、どうにかなったのだ。

今後どう状況が変わっていくのか分からないが、彼女たちの優しさは俺の胸の中で温かさとなって残っている。

 

「なんとかなるさ」

俺は自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 

そうして、俺は幻想郷に住むことになったのである。

 




なんかラブコメじみてるなあと思いながら書いてます。そういう方向性でいこうと思っているわけではないのですが。
個人的には主人公の言動の節々にどうt……若々しさ(遠まわしな表現)が垣間見えるよう意識してます。
種族が魔法使いのアリスは必要ないにも関わらず睡眠を取っているそうですが、生理現象の欠伸はどうなんでしょう。

そういうわけで一章終了。
次章からは主人公のまったりとした日々に原作キャラをまったりとからめたまったりほのぼのとした話を書くつもりです。
フリじゃないです。

地味に二日ごとに更新していたのですが、遅筆な身なので次回からは少し頻度が遅くなると思われます。
それでは、ここまでお付き合い頂きありがとうございました。
次回以降も、よろしければお願いいたします。


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そんな彼と花映塚
九話 新米教師と酔っ払い


随分寒くなってきたなと思いながら、俺は姦しい声を上げる集団に向かって手を振る。

「気をつけて帰れよー」

 

「はーい。ゆーき先生ばいばーい」

「じゃーなー先生」

「岡崎先生ごきげんよう」

 

軽かったり礼儀正しかったりな返事をしながら、帰宅する生徒たち。

うむ。最近ようやく先生と呼ばれるのも慣れてきた。

と一人頷きながら俺は寺子屋に戻った。

 

実質二人しか使う人間のいない職員室の扉を開けると、慧音さんが既に机に向かい作業をしていた。

あれは……さっき帰って行った子供たち向けの漢字問題か。

 

「年長組の見送り終わりました」

「ああ、ご苦労様」

慧音さんの背中に向かって報告すると、振り返ることなく返事された。

集中しているようだ。

 

「精が出ますね」

思わず声をかけると、慧音さんは呆れ顔で振り向いた。

「何を人事みたいに言ってるんだ君は」

言いながら、持っていた筆を俺の机に向けて示す。

「ほら、今日の分の算術の課題だ。それが終わったら明後日の分だぞ」

 

「はーい」

「まったく……」

間延びした返事をすると、呆れたように苦笑を浮かべられる。

「明日はせっかくの休みなのだから、早く終わらせよう」

「ですね」

俺は頷くと、慧音さんに背をむける形で、少し冷たい座布団の上に正座し、筆をとった。

 

 

*

 

 

俺が幻想郷に迷い込んで、かれこれ半月と少しの時が流れた。

明治時代から技術的にそれほど発展していない幻想郷での暮らしは、まだまだ大変なことも多いが、今のところ慧音さんのおかげでなんとかかんとかやっていけてる。

 

慧音さんの寺子屋は、彼女が予想したとおり生徒数が段々と増えてきている。

寺子屋での授業科目は、現代風にいうならば国語、算数、社会(歴史)の3つなのだが、俺が主に補佐しているのは算数で、小学校レベルの内容なので教えること自体は難しくない。

そろばんの使い方を覚えるのに少し苦労した程度だ。

 

現状寺子屋は週に4回授業を行っているのだが、受け持つ生徒数が現状50人近く、今は俺が補佐をしているためそれほど負担はないのだが、以前はこれを慧音さん一人で行っていたのかと思うと結構大変な話である。

ただ、俺を雇うことで負担が軽減されたらしい慧音さんは、寺子屋を開く日を週5にし、受け入れる子供の数を増やすつもりだと話しているので、これからだんだんと忙しくなるだろう。

 

 

*

 

 

今日生徒から受け取った課題の添削はたいした苦労ではない。

問題は、翌々日に生徒に配る問題用紙の作成だ。

内容はともかく、全て手書きで書くのがなかなかに骨が折れる。

幻想郷では印刷技術があまり進展していないようで、聞くところによると、数年前まで紙自体が微妙に高価であり、需要がなかったためだろうと慧音さんから教わった。

 

最近筆の扱いにもなんとか慣れてきたが、まだまだ書く速度は遅く、俺が用紙1枚終わらせるころには、慧音さんは4枚くらいは軽く済ませている。

というか慧音さんの筆捌きが凄い。

 

墨が殆ど散っていないのに、筆の残像が見える。

凄いというよりもおかしいと表現した方が正しいかもしれない。

 

そんな調子で俺が今日の分の仕事を終えるころには、慧音さんは既にお茶で一服していた。

 

「ふぅー……」

「お。終わったか」

溜息を吐き筆を置いて振り向くと、慧音さんも湯のみを置く。

その周囲には、俺の何倍も高く重ねられた紙の塔がいくつも積みあがっている。

 

「お待たせしました」

「ああ。だいぶ筆使いに慣れてきたようじゃないか」

「慧音さんに比べればまだまだですよ」

あの筆捌きは一生出来ない自信がある。

 

「それはどうも。ところで君はこの後は用事はあるかな?」

「え?いえ、特には……まあ、家でやる作業くらいですかね」

唐突な質問に面食らいながら答えると、慧音さんは満足げに頷く。

 

「そうか。最近寒くなってきたし、私の部屋で鍋でも……と思ったのだが、どうかな?」

おぉー鍋かー。

確かに最近冷え込むようになってきたし魅力的な提案である。

思わず口元を笑みで緩んだ。

「鍋ですか……いいですね。是非行かせてもらいます」

 

「ああ分かった。では、私は里の見回りも兼ねていろいろと準備をしておくから、二時間もしたら私の家に来るといい」

ちなみに現在時刻は大体四時ごろだ。

最近日が短く、もう暫くするとすぐに日暮れ時である。

「俺も何か手伝いますよ」

流石に準備を全部やってもらうのは申し訳ないので提案するが、慧音さんは首を振った。

 

「いや、君は家での作業があるのだろう?将来のことを考えれば、あまり手を抜くべきではないよ」

慧音さんの言うことは正しいが、随分とお世話になっている身でまた甘えてしまうのは心苦しい。

手伝えることはなんでも手伝いたかった。

「確かにそうかもしれませんが、一日くらい大丈夫ですよ」

 

「いや、君は、君を慕ってくれている生徒の見本となるべきだ。『一日くらい』だなんてことを言ってはいけないよ」

「う…………」

優しい口調で諭され、ぐうの音も出ない。

 

確かに、まだまだ短い期間とはいえ寺子屋で子供たちに接したことで、教師(補佐)としての愛情が芽生えているのも確かだ。

なので、我ながら馬鹿真面目だと思うが、そのことを突かれると痛い。

流石は慧音さん、その辺の俺の心情を察しておられる。

 

 

「……分かりました。お心遣い感謝します」

心の底からそう思いながら頭を深々と下げる。

「ふふ。君は一々大げさだなあ」

微笑を浮かべる慧音さん。

 

女神や…………。

またも後光を幻視した。

 

 

* * *

 

 

家での『作業』を終えた俺は、少し早いが、慧音さんの家へと向かうことにした。

 

……今回も駄目だったか……。

頭の半分で、なかなか成果が得られない『作業』に嘆息しつつ、もう半分では温かい鍋に上機嫌である。

 

外は暗いので、マッチを擦り灯篭の蝋燭に火をつける。

マッチを使うたびに、幻想郷で火を点ける道具が火打石でなくて良かったとおもう今日この頃である。

つい先日買った厚手の外套を羽織り、俺は歩き始めた。

 

ちなみに慧音さんの家でご馳走になるのは初めてではない。

着の身着のままで幻想郷に住むことになった俺に、いろいろと世話を焼いてくれる慧音さんが招いてくれるのだ。

やっぱり女神であると再確認。

 

そんな慧音さんは人里では多大な人気を誇る。

里の守護者として従事し、寺子屋で教鞭を取り、加えてかなりの美人である

 

そりゃあ人気はあるよな。

そんな女性に甲斐甲斐しく世話を焼いてもらい、あまつさえ食事に誘われている俺が、里の男衆からたまに殺気の篭った目で見られるのもまた当然の話であるうんうん。

 

はあ…………。

 

この前里を歩いていると、すれ違い様にドスの利いた声で

「あまり調子にのるなよ」

と言われた時は肝が冷えた。

 

まあ、その時はだいたいの事情は察してたし、その場で誠意をもってめちゃくちゃ平謝りしたら、「お、おう……」と引き気味に許してくれた。

気のせいかそれ以来少し殺気が減った気がする。

それに希望的観測が混じっているのは否定できないのだが。

 

とはいえ、いつまでも慧音さんに世話になるというわけには行かない。

慧音さんに恩を返すためにも、慧音さんの傍に居つく得体の知れない外来人に男衆がこれ以上やきもきするのを防ぐためにも、早く独り立ちせねば。

と、決意を新たに拳を固めた。

 

 

ヒュゥウ……と、冷たい風が吹きぬけ、俺は身震いする。

 

「……まあ、それはそれとして……」

と独り言を呟きながら、俺は足取り軽く、慧音さんもとい温かい鍋を目指すのであった。

 

 

* * *

 

 

「こんばんわー」

「やあ、来たか」

慧音さんの家の引き戸を開くと、既に美味そうな香りが漂ってくる。

 

玄関は土間になっており、台所を兼ねている。

ぐつぐつと煮立つ鍋の具合を、慧音さんは観察しているようだ。

 

「外は寒かっただろう」

引き戸を閉めつつ身震いする俺に、慧音さんが言った。

「凍え死ぬかと思いました」

 

と、そんな具合に大げさに俺が答えていると、土間の隣の居間に続く障子が開かれる。

「慧音、誰か来たのか?」

お?誰だ?

 

見ると、長い白髪の少女が俺を見て目を丸くしていた。

シャツの上に褞袍を羽織り、赤いモンペを履いていて、幻想郷では珍しい昭和チックな出で立ちだ。

 

「ああ、紹介するよ」

慧音さんが俺と少女を交互に見る。

 

「妹紅、こちらは岡崎悠基君だ。寺子屋で私の補佐をしている。悠基君、こちらは藤原妹紅だ。私の旧友だよ」

ふじわらの……?歴史の教科書の平安時代の項に出てきそうなイントネーションだな。

と、そんなこと感想を抱くが、妹紅の方は訝しげな視線を向けてくる。

 

……ふむ。

警戒されているみたいだし、畏まって挨拶すると却って胡散臭い印象を与えるかもしれない。

ここは、礼儀正しくかつフランクにいこう。

「ご紹介に預かった岡崎悠基だ。外の世界の出身で最近幻想郷に迷い込んで、慧音さんにお世話になっている。どうぞよろしく」

言いながら握手を求める。

 

俺が差し出した手を、妹紅は暫く見つめていたのだが、視線を慧音さんに移し、

「聞いてないんだけど」

と不機嫌そうな声を出した。

 

握手無視されて心が折れそう。

 

「まあ、ちょっとしたサプライズさ。せっかくだし今日はこの三人で鍋を囲もう」

俺と妹紅の間の気まずい空気などどこ吹く風で、慧音さんはいつもの調子で言った。

「なにが『せっかく』だか。道理で具材が随分多いと思ったわ」

「まあまあ、拗ねるな拗ねるな」

明らかに機嫌の悪そう……というか、俺を疑り深い表情で見る妹紅を、慧音さんは宥める。

 

「……別に拗ねてる訳じゃない」

「もうすぐ出来るから、待ってなさい」

反論しようとする妹紅を無視するように、慧音さんが妹紅の肩を掴み反転させ、居間に向かわせるようにその背を押した。

「わ、分かったって」

 

「ほら、悠基君も。そんな所に突っ立ってないで上がって待ってなさい」

未だ握手をしようと手を突き出したままの俺の背中を、慧音さんが優しく叩く。

「はい……」

握手を無視されやや凹みぎみの俺は、靴を脱ぎ居間に上り込もうとする。

そのとき、慧音さんが俺のすぐ傍まで近づき、唇を耳に近づける。

 

「すまないな」

「え?」

囁くような彼女の声に、俺は間の抜けた声を上げる。

もちろん、妹紅に聞かれたくないであろう空気は察して声は潜める。

 

「妹紅は少々人見知りの気があってな。ただ、ああ見えて根はとても優しいやつなんだ。どうか、仲良くしてやってくれ」

妹紅のフォローのようだ。

 

まあ、慧音さんがそういうなら、悪い人ではないだろう。

俺は黙って頷く。が、

 

「聞こえてるよ」

半開きの障子から、妹紅が顔を出した。

顔は少々赤く、ジト目で俺と慧音さんを睨んでくる。

 

「おっと、失礼」

慧音さんは悪びれた様子もなく俺から離れ、鍋の具合を見るかのように背を向けた。

 

「あー、その」

一方の俺は気まずげに頬を掻いて妹紅の反応を見る。

 

暫く俺をジト目で見ていた妹紅だったが、

「あ~~もう!」

と声を上げながら自分の頭をガシガシと掻いた。

 

唖然とその様子を見る俺だったが、やがて妹紅はばつの悪そうに視線を逸らし、右手を差し出してくる。

「さっきは無視して悪かったよ」

 

え、この差し出された右手はまさか……!?

 

「握手だよ握手!!」

恐らく、傍から見ると不思議そうな顔で妹紅の右手を見つめているであろう俺に、妹紅は声を荒げる。

「分かったからそんな悲しそうな顔するな」

 

「え?そんな顔に出てた?」

俺は妹紅の握手に応じながら尋ねると、

「そりゃもうバッチリ。ちなみに今はちょっとにやけてるよ」

 

マジか。

俺が空いた手で自分の表情筋を確かめている様子に、妹紅は盛大に溜息を吐いた。

そんな俺たちの話を聞いていた慧音さんが、クスクスと笑っていた。

 

 

*

 

 

慧音さん宅の居間に座り、ちゃぶ台を三人で囲む。

ちゃぶ台の上には、慧音さん特性の鍋料理や取り皿、白米に加え、徳利が並んでいる。

 

「おや、酒なんて珍しいじゃないか」

「まあ、『せっかく』だからな」

妹紅が嬉しそうに声を上げると、慧音さん微笑を浮かべた。

 

「妹紅は酒が好きなのか?」

「ふふ。まあねえ」

俺が見た目中学生か高校生かくらいの妹紅に問いかけると、彼女は上機嫌に頬の端を上げる。

 

「ちなみに、悠基は酒は飲めるのかい?」

「いやあ、幻想郷で見たら下戸だよ。下戸」

妹紅からの問いかけに、俺は頭を掻きながら答える。

 

幻想郷には酒飲みが多い。

夜の人里は酔っぱらいが溢れてるし、「あまり得意ではないよ」と言っていた慧音さんでさえ、俺の世界では余裕でザルに含まれる。

一方、俺の酒の強さは外の世界では割と一般的な筈なのだが、こっちでは下戸の部類に入る。

微妙にカルチャーショックである。

 

「なんだ弱いのか」

「一応外の……というか俺の世界では普通くらいなんだけどね」

妹紅の言葉に、やや言い訳気味に答えると、妹紅は首を傾げた。

「ん?なんだか含みのある言い方だな」

 

「ああ、彼は普通の外来人ではないよ」

慧音さんが俺の代わりに答える。

 

「どういうこと?」

更に首を傾げる妹紅に、俺は

「まあ、色々あってね」

と言いつつ、取り皿に箸を伸ばしながら幻想郷に住むことになった経緯を話した。

 

 

 

俺の話を妹紅は酒を飲みながら黙って聞いていた。

というか飲むペースが早い。

鍋に殆ど手を付けず、さっきからグイ呑みに酒を注いではあっという間に飲み干している。

話しながら心配になってくるんだが。

 

3本ほど用意した徳利のほとんどを妹紅が処理し、慧音さんが一度補充したお酒を再び空にしたころで、ようやく俺の話が終わった。

この頃には妹紅は顔が真っ赤になっている。

 

「……と、そんな感じで今は慧音さんに世話になって、寺子屋の離れに住んでいるんだ」

「……そうか……」

話を締めると、妹紅が呟くように相槌を打った。

俯いていて表情は見えないが、耳や首の辺りまで赤くなっていて、本格的に酒が回っているのは明らかだ。

大丈夫だろうか。

 

「苦労したんだな……」

「まあね。でも、慧音さんや、いろいろな人たちに世話になってるからな。なんとか大丈夫さ……と、悪いな。なんだかしんみりさせてしまった」

ばつが悪そうに頭を掻くと、俯いたままの妹紅が俺の肩に手を置く。

 

「お前はよく頑張ってるよ」

俯いたままの妹紅に、俺はやや固まる。

「あ、ありがとう……あの、妹紅?」

なんか妹紅の様子がおかしいのだが。

 

ちなみに慧音さんは、妹紅が再び空にした徳利に酒を補充するために今はその場にはいない。

妹紅がすっかり出来上がってるように見えるけどまだ飲むつもりなのだろうか。

 

いや、そんなことより今は妹紅の様子が先だ。

「だ、大丈夫か?」

「大丈夫じゃないに決まってるだろ~~!!」

そういって妹紅が顔を上げる。

 

その顔は真っ赤に染まり、瞳は潤んでいた。

というか泣いてた。

ついでに言うと酒臭かった。

 

……酔っ払いだこれ!!

 

「も、妹紅!?」

「無理するなよ馬鹿野郎!!」

狼狽する俺に向き合いながら、妹紅は俺の肩をバンバンと叩く。

痛い痛い。

 

「いいか?辛かったら私に言いな!いつでも相談にのるからさあ」

妹紅はまくし立てながら瞳から大粒の涙をぼろぼろと零す。

「お、おい、しっかりしろ?気分悪くないか?」

俺はたじたじで妹紅に応対するしかない。

 

「おや?」

と、慧音さんがほんのりほろ酔い顔で戻ってきた。

俺は「助けてください」と困り果てた視線を慧音さんにアイコンタクトを送る。

 

「ああ」

慧音さんは、合点がいったというように頷く。

「妹紅は泣き上戸なんだよ」

見れば分かりますってかそうじゃなくて助けて!

 

「ふむ。随分打ち解けたようだな」

慧音さんが微笑んだ。

言いながら、俺と妹紅とちゃぶ台を挟む形で座り、徳利を三本置いた。

 

「よし、今夜は無礼講だ。飲め飲め」

慧音さんはグイ呑みに補充しなおした酒を注ぐと、真っ赤な顔の妹紅に差し出す。

「ちょ、これ以上は」

と慌てて俺が止めようとするも、妹紅はそれを受け取り一気に呷る。

 

「ッハア!悠基!お前も飲め!」

と先ほど空っぽにした御猪口を俺に突き出す妹紅。

「ちょ!?慧音さん!?」

一方の俺は、妹紅の御猪口をなんとか止めながら、慧音さんに助けを求める。

「ハハハ……」

そんな二人を、慧音さんは可笑しそうに見ていた。

助けてくれねえ……。

 

結局そんな調子で、俺たち三人はその日の深夜まで飲み、語り合うのであった。

 

 

 

 

 

なお翌早朝、うっかり慧音さん宅で眠ってしまった俺は、こっそりとその場を後にする。

もちろんやましいことはないのだが、慧音さんの家から朝帰りする様を誰かに見られると、あらぬ誤解を受けかねない。

細心の注意を払ったから見られてない……はず。

多分。

きっと。

 

結局その日は戦々恐々としつつ過ごした俺なのだった。

 




東方で酔っ払いと言えば萃香が浮かびます。
というわけで今回は安直なお人好し泣き上戸設定が付けられた妹紅が登場です。

ほのぼの日常回です。作者的にはほのぼのしてると思います。
今後数話は、幻想郷に住み始めた主人公の暮らしを掘り下げつつ、それに絡める形で他東方キャラを出していきます。多分。


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十話 幻想郷フィールドワーカー

見えてきたな…………。

 

本格的に冬になり、ただでさえ寒いというのに、更に気温が下がっていくのを感じながら俺は歩みを進めた。

木々の間から見えてくるのは霧の湖と呼ばれる湖だ。

だが、濃い霧が立ち込め、その全容は伺いしれない。

 

……これ以上は近づかないでおくか。

俺は近場の木の根に腰を下ろす。

草は水分を吸いしっとりと濡れているので、茣蓙を敷く。

 

「さて、と…………」

 

木の幹に背を預け、僅かしか見えない湖を眺める。

周辺には、紅魔館と呼ばれる屋敷があるらしいが、霧はかなり濃く、だいたいの場所すら覚束無い。

まあ、今回の目的は紅魔館ではないし、あの場所は危険だから絶対に近づくなというお言葉を頂いているので、問題はない。

 

寒さに歯をガチガチと震わせながら、俺は注意深く湖の霧を眺めた。

 

 

*

 

 

幻想郷には人妖問わず特異な能力の持ち主がいる。

例えば慧音さんは、「歴史を食べる程度の能力」と聞いた。

曰く、歴史を無かったことにすることが出来て、以前はその能力を使って人里を無かったことにして隠したこともあったらしい。

その能力の原理だとか、その能力がどう作用して里を隠したのかなどイマイチ分からない。

 

ただ、それは自分に突如として発現した能力にも同じことが言える。

慧音さんに習って名をつけるなら「分身をする程度の能力」といったところか。

非日常的な能力といえば、男ならば誰もが一度や二度、どころか何度でも憧れるものだ。

まあ、見た目はそれほど派手ではないが、なにも持たずに幻想郷に住むことになった俺にとって、この力は今後の生活を営む上でネックとなる可能性が大いにある。

 

そんな考えもあり、俺は幻想郷に住むことになってからある程度自分の能力について実際に使用して調べてみた。

分かる範囲での能力の性質を簡単に纏めると以下のような感じだ。

 

・分身するには体力と精神力を消費する。

・分身した自分はどちらも本物とも言えるし偽物とも言える。

・短期間に連続で分身は出来ない。だいたい5分前後のクールタイムが必要(ムラがある)。

・3人以上に分身できない。つまり、一度分身したら、どちらかが消えるまでは分身出来ない。

・分身している状態なら、どちらか一方は自分の意志で分身を解く……つまり自ら消えることができる。

・分身が消えた際、残っていた方は消えた分身の記憶を引き継ぐ。

 

改めて見ると便利そうだが、使用者にとってなかなかに怖い能力である。

特に怖いのは分身両方が全く同じ人格、記憶を持っているところだ。

その時点でちょっと不気味だし、分身直後から異なる体験を積むことで、同じだった俺は次第に全く異なる存在に乖離していく。

あたかも、ある分岐点で異なる歴史を歩み、結果似て非なる世界となった、俺のいた世界とこの世界を彷彿とさせる。

寒気がした。

 

あーやめやめ。

こんなこと考えてても正気度が減るだけだ。

クトゥルフ神話じゃあるまいし。

 

頭を振って不吉な考えを取り払う。

 

それに分身能力だって、そもそも体力や気力なんていう目に見えないエネルギーから、有機物である俺の分身を作り出しているのだ。

質量保存則とかエネルギー保存則を鼻で笑うかのような現象だ。

そもそも幻想郷には魔法だの妖怪だのと現代科学や常識で図れない不思議な事象が溢れてる。

 

そう。

だから俺は、自らの精神安定のために1つの結論に達していた。

幻想郷では現代社会の常識は通じないし、分からないことは分からないまま受け入れるしかない。

 

つまり、幻想郷では常識に囚われてはいけないのである。

 

……まあ、それってただの現実逃避じゃないのか、と自問しないこともないがまあ、それは置いておく。

 

そんなことを考えている俺が今いるのは人里の外である。

 

幻想郷に住む人間の殆どは、基本的には里の外には出ない。

幻想郷の掟として、妖怪は人里で人間を襲わないかわりに、里の外ではその限りではないからだ。

襲われても文句は言えない訳である。

もちろん無力な人間である俺も妖怪に襲われたらひとたまりもないのだが、そこで俺の能力が生かされる。

 

分身の性質上、片方が怪我や事故に見舞われても、もう片方が安全な場所にいれば記憶を引き継ぐことができる。

考え方にもよるが、簡単に言えばバックアップが取れるわけだ。

 

だからこそ、危険な場所にもほぼノーリスクで出向くことができる。

現に、分身の片割れは今でも慧音さんの授業の補佐をしているのだ。

 

そんなわけで、今俺がしているのが人里の外の調査、フィールドワークである。

 

 

*

 

 

「こんにちは」

うお、びっくりした。

 

視界外から突然声をかけられ、心臓が跳ねた。

 

振り向くと、緑髪をサイドで結んだ少女が笑顔で立っていた。

まあ、少女というより、正しくは妖精である。

証拠に、その背からは鳥類を彷彿とさせる羽毛の生えた羽がある。

 

「ああ、こんにちは、大妖精」

俺は木に背を預けたまま手を振ると、彼女は笑顔のまま俺の正面まで歩いてきた。

 

「びっくりしました?」

「うん。それなりに」

可愛らしく首を傾げる彼女に、俺は頷く。

ああ、やっぱり気配を消してこっそり近づいてきていたのか。

俺の反応を見て、大妖精は満足気だ。

 

幻想郷には妖怪だけではなく妖精も暮らしている。

自然の具現とされているらしい彼女ら(少なくとも俺が見たことがある妖精は皆少女の姿をしている)は、悪戯好きで知られ、名前はないと語る彼女、大妖精も同様だ。

ただ、大妖精の場合は悪戯が非常に些細で微笑ましく、また妖精らしからぬ礼儀正しさを持ち合わせている。

 

「こんなところにいると風邪を引いちゃいますよ」

「俺もあまり長居はしたくないんだけどね」

吐く息が白くなっていくのを視界の端に捕らえながら、大妖精からの忠告に俺は肩を竦めた。

 

「もしかして、チルノちゃんになにか御用ですか?」

大妖精は考えるように一瞬視線を彷徨わせると、氷精の名前を出してきた。

 

チルノといえば、俺の数少ない「東方」知識に含まれるキャラクターだ。

俺が知っているくらいだから、さぞかし有名なのだろう。

 

「そんなところ。ここで待ってれば会えるかなと思ってたんだけど見てないか?」

「朝から見てませんね。隣いいですか?」

「ああ、どうぞ」

俺は茣蓙の端に寄ると、大妖精は器用に羽を畳みながら隣に腰を下ろす。

 

「どんな用事ですか?」

膝を抱えるように座りながら、大妖精は俺を見る。

「まあ、ちょっと訊きたい事があったんだ」

 

ちなみに俺も大妖精と同じく膝を抱えて座っている。

だって寒いし。

そんなわけで小さな茣蓙の上で成人男性と見た目10歳くらいの少女が、俗に言う体育座りの体勢で肩を並べているのは、きっと傍目から見るとシュールかつ哀愁漂う光景なんだろうなあとぼんやりと思った。

 

「訊きたい事?」

「寒気とか、季節のことかな。これからどれくらい冷え込むのか、この寒さはどれくらい続くのかとか、もしかしたら氷を操れるチルノなら分かるかなあと思ったんだけど」

「どうでしょう。自然そのもの、なんて言われてますけど、妖精って案外そういうのあまり分からないんですよ。この前も季節外れの夕立でびしょびしょになっちゃいましたし」

大妖精は少し恥ずかしそうに笑った。

 

「まあ、もしかしたら、くらいのつもりだったし」

「でも、チルノちゃんは強いから、そういうの分かるかも」

「そっか……だったら、一応訊くだけ訊いてみるよ」

 

大妖精は、「そうですか」と頷く。

そんな彼女は、半袖のワンピース状の服で、裸足姿だ。

普通の人間なら、寒いどころの服装ではない。

 

そう思い至った俺は、そのことを尋ねてみることにした。

「寒くないのか」

「え?」

一瞬ぽかんと目を丸くする大妖精だが、クスクスと笑った。

 

「少しだけ寒いですけど、悠基さんほどじゃないです」

「俺ほどじゃない?」

「体、震えてますよ」

まあ、やっぱり寒いし。

 

「俺のことは置いといて、なにか着るものでも持ってこようか?」

自然の具現と呼ばれる妖精に対し、お節介かなと思いながらも訊いてみると、大妖精は目を見開き満面の笑みを浮かべる。

「わあ!ほんとですか?」

 

「……まあ、コートとかは無理だけど」

「コート?」

ああ、コートは知らないか。

 

「手袋とか、マフラーくらいなら……」

半袖に裸足の大妖精には気休め程度にしかならないな、と思うと、自然と語尾が小さくなってしまう。

だが、大妖精は嬉しそうな笑顔のままだ。

「よく分かりませんけど、嬉しいです!」

 

よく分からないけど嬉しいのか……。

そんな彼女の言葉に苦笑する。

 

「今度用意するよ。まあ、期待せずに待ってな」

「はい!」

元気よく挨拶を返す彼女は、さながら優等生然としていて微笑ましい。

 

「あ」

と、急に大妖精が僅かに声を上げると、視線を逸らし、空を見上げる。

大妖精に従い見上げると、件のチルノがふわふわと降りてくるところだった。

 

あっと、不用意に上から降りてくるからスカートの中見えてる。

いくらドロワーズとはいえ、無防備すぎる。

 

「チルノちゃーん」

大妖精が膝を抱えたまま手を振る。

 

「大ちゃん、と悠基かー」

なんだか大妖精のオマケみたいな言われ方のような気がしたが、気にしないでおこう。

 

チルノはこちらに降りてきながら俺と大妖精を見下ろしているのだろう。多分。

スカートの中を見ないように視線を逸らしてるので予想になるが。

 

…………決してチルノの下着を意識しているわけではなくあくまで紳士的な対応をしているだけである。

ついでに言えば、見た目小学生のチルノにそんな邪な感情を抱くような性癖は持ち合わせていない。

 

そうして、俺と大妖精の目の前の草地にふわりと着地したチルノは、俺たちを訝しげに交互に見る。

 

「……なんで二人ともちっちゃくなってんの?」

揃って膝を抱えている光景に困惑しているようだ。

 

そんなチルノの問いかけに対し、

「「寒いから」」

と答えをハモらせる俺と大妖精であった。

ていうかやっぱり大妖精も寒かったのか。

 

「ふーん……」

俺たちを見て何か思うところがあるのか、考え込むように黙るチルノ。

 

「チ、チルノ、ちょっといいか?」

「んー?」

膝を抱えたままの姿勢で尋ねる、が、更にぐっと下がった気温に震えが止まらない。

まず間違いなくチルノがすぐ近くにきたせいだ。

 

「訊きたいことがあるんだけど」

「訊きたいこと?」

 

俺は先ほど大妖精に話した質問をチルノに問いかけてみる。

が、チルノは腕を組み首を捻る。

 

「なんでそんなこと知りたいの?」

「まあ、ある程度先のことが分かれば、対策が立てられるからな」

「寒いのなんて、我慢すればいいじゃん」

無茶なこと言うなあ。

 

「無理だよ。俺たち人間は寒すぎると死んじゃうからな」

現に今の俺がもう寒すぎてやばい。

 

「ふーん。人間って弱っちいのね」

ふむ。

「チ、チルノちゃん……失礼だよ」

チルノの言葉に大妖精は慌てたように立ち上がった。

 

「仕方ないさ」

俺は苦笑する。

「みんながみんな、チルノみたいに強くないからね」

 

その言葉にチルノが目を輝かせた。

「ま、あたいったら最強だからね!」

お、予想通り乗せられたな。

チョロい、というかチョロ可愛いな。

この反応を見るだけで満足である。

乗せた意味は特にない。

 

「それでチルノ、どうなんだ?」

鼻高々に仁王立ちするチルノに問いかける。

「なにが?」

「さっきの質問だよ。これから寒くなったりするのかが分かるかって話」

 

俺の言葉にチルノはニヤリと笑う。

おお、この反応はもしかして

「あたいは最強だから分からなくても問題ないよ!」

「分からんかー」

一瞬期待した俺はがっかりと項垂れる。

 

調子に乗っている上に開き直ってるチルノは「えっへん」と鼻息を荒くする。

何がえっへんやねん。

これには大妖精も苦笑である。

 

「あ、でもレティなら知ってるかも」

ふと、思い出したかのようにチルノが言った。

「レティ……レティ・ホワイトロック……か」

その言葉に俺は遠い目をする。

 

レティ・ホワイトロックは寒気を操る程度の能力を持つ妖怪だ。

確かに気候を知りたいのならば彼女の方が適任であろうとは思う。

しかし

 

「見つからないんだよな」

「ああ、あの人は冬の間は陽気になっていろいろなところを飛び回ってますから」

俺のぼやくような言葉に大妖精がやはり苦笑顔で言った。

 

「私さっき会ってきたよ」

「「え」」

得意気なチルノの声に、俺も大妖精も目を丸くする。

 

「会ったって、なんで?」

俺の言葉に、チルノはふふんと鼻を高くする。

「レティは私のししょーなんだ」

 

「ええ!?」

大妖精が口もとを覆う。

反面、俺はふむ、と期待した眼でチルノを見る。

 

確かに、チルノとレティは似たような能力を使うし、もしかしたらそういう関係性もありうるとは考えた。

「それでチルノ、レティはこれからどこに行くかとか言ってたか?」

「知らないけど、別れるときにあっちの方に行ったよ」

とチルノは一方を指差す。

霧でよく分からないが、その方向は多分。

 

「妖怪の山ですね」

「ああ…………」

大妖精の言葉に嘆息する。

 

あそこは縄張り意識の強い天狗をはじめ、危険な妖怪が数多く住まうとされる。

近づくなと厳しく忠告されているところだ。

レティなる妖怪に会うのは無理みたいだな。

 

「チルノ、頼みたいことがあるんだけど」

「なによ」

怪訝な顔をするチルノ。

 

「レティにさっきの質問を訊いてみてくれないか?」

「んー……ま、覚えてたらね」

期待薄な答えである。

 

「そうかー」

「それより悠基」

肩を気づかれない程度に落とす俺に、今度はチルノが声をかけてきた。

 

「相変わらず寒そうだね」

「チルノの冷気のおかげでな」

「そ」

と、短く相槌をうつチルノ。

 

隣で聞いている大妖精は「チルノちゃん?」と訝しげである。

 

直後、チルノは満面の笑みを浮かべる。

「え?」と俺が心の中で声をあげると同時に、チルノは膝を抱えるようにして座る俺に抱き着いてきた。

「もっと寒くしてあげようか?」

 

チルノは冷気を操る妖精であり、その体からは常に冷気を放出している。

この冷気はチルノの周辺の気温を下げ、その体は触れたものの温度を奪い凍りつかせる。

つまり、現在進行形でチルノに抱きつかれている俺は

 

「一度人間の氷付け見たかったんだー」

 

というチルノの言葉の通りである。

そして、今、チルノが触れている足や腕の感覚が既にない。

 

「チルノ、人間にこんなことをしたら死んでしまう」

手遅れながら、次に会う機会のことを考え、忠告する。

分身しているとはいえ命の危機なのだが、そのわりに我ながら冷静である。

まあ、三度目ともなれば流石に慣れたてきた……。

 

「知ってるよ」

チルノは俺の忠告に悪びれもせず答えた。

「だからこんなことするのは悠基だけだよ」

「え?」

なんか抱きつかれている現状で微妙に勘違いしそうな言い回しだが多分違うだろう。

なので本気でチルノが言っている意味が分からない。

 

「悠基は死んでも復活する人間なんでしょ?」

「…………」

 

なるほど。

一瞬の思考ののち、俺は次第に薄れ行く意識の中で合点がつく。

 

妖精の性質(?)として、妖精は不慮の事故で消滅しても、時間経過で復活するらしい。

つまり、チルノは俺が同じような人間であると、そう考えたようだ。

 

違うと否定したかったが、体が動かない。

あ、もう駄目だコレ。

次第に凍り付いていく俺をチルノは満足げに笑顔で見る。

 

一見すると天使のような純粋な笑顔だが、俺からすると悪魔の笑顔である。

妖精の本懐、イタズラ好きの笑顔でもあった。

俺が死なないと思っているとはいえ、シャレにならないレベルのイタズラであった。

 

俺は視線を逸らし、大妖精を見る。

彼女は先ほどから慌てた様子でどうにかしようとしているようだが、チルノが意識して強い冷気を発しているためか、近づけないようだ。

 

もはや口も動かせない俺は、アイコンタクトでどうにか彼女に別れの挨拶をしようとしたが、上手くいかなかった。

 

ああ、それからチルノ。

 

俺は消えるから氷付けは見れないぞ。

 

 

* * *

 

 

「おおぅ」

人里の蕎麦屋で唐突に身震いした。

 

寺子屋業務の合間の休憩時間だった。

向かいでは慧音さんが目を丸くし、蕎麦を啜る姿勢で固まっている。

 

分身の消滅に伴う記憶の奔流であった。

そして、消える直前の記憶が、寒気となって俺を驚かせる。

 

「っんく……分身が消えたのか」

口の中の蕎麦を飲み込んだ慧音さんが、察しよく問いかけてきた。

俺は黙って頷く。

 

絶対チルノには分身なしでは近づかないでおこうと心に固く誓った。

 

 

* * *

 

 

夕刻、里の中でも格別広い敷地と屋敷を持つ稗田家の廊下をいつもの調子で家人に案内された俺は、一つの部屋の前で立ち止まる。

「失礼します」

「はい。どうぞ」

 

落ち着いた少女の声が中から返ってくる。

家人の人が障子を開くと、巻物がいくつも開かれた畳敷きの部屋の中央で、少女が正座したまま振り返る姿勢でこちらを見上げていた。

彼女の体の正面には机があり、そこにも巻物が広げられている。

どうやら執筆作業の途中だったようだ。

 

「どうぞ、お掛けになってください」

「はい」

少女に促され、俺は部屋に踏み入ると、敷かれた座布団の上に腰を下ろした。

 

少女……彼女の名は稗田阿求、幻想郷の妖怪などについて綴った『幻想郷縁起』の著者であり、ここ稗田家のご令嬢である。

それでもって、フィールドワークの報告をする俺の雇い主でもある。

 

「さて、今日は湖に向かうんでしたね」

「ええ」

恐らく自分よりかなり歳の低い少女に対し、俺は礼儀正しく首肯する。

年下であっても、上司は上司なので、俺なりの礼儀で敬語を使っている。あと敬称も。

 

「湖には着けましたか?」

「なんとか無事に。湖までの道周辺を軽く見て回りましたが、見かけた妖怪は2体ほど。遠目にでしたが」

「先週よりも随分数が減りましたね。寒いからかしら」

「そうかもしれませんね」

阿求さんの推測に、俺も曖昧に頷く。

 

「チルノには会えました?」

「はい。彼女に気候について尋ねてみましたが、分からないそうです」

「そうですか」

阿求さんもそれほど期待していなかったのか、淡白な返事である。

 

「その後は湖周辺の探索でしたね」

「あーその予定だったのですが」

歯切れの悪い俺に阿求さんは首を傾げる。

「どうしたんですか?」

 

「チルノに殺されました」

 

「…………確か、先日の二度の接触を経て、三度目でやっと話せる程度の中になったと聞いたのですが」

阿求さんの言うとおり、俺はチルノに以前三回遭遇し、二回目までうっかり氷付けにされ、三回目にてやっと会話する程度まで仲を進展させ、生還したのである。

 

「……『妖精のイタズラ』です』

「ああ……確かにチルノのイタズラともなると、洒落にならなそうですね」

阿求さんは苦笑を浮かべた。

 

「他には特に報告することはないですか?」

「役に立つかは分かりませんが、チルノからレティが妖怪の山へ向かったと言ってました」

 

「ほう」

と亜求さんは目を輝かせる。

「寒気を操る程度の能力を持つ妖怪、レティ・ホワイトロックですか。確かに彼女なら、今後の幻想郷の気象について把握している可能性が高いですね」

「一応チルノに訊いてみるよう頼んでます」

と俺が報告すると、阿求さんは固まる。

 

「……あまり期待はできませんね」

恐らくチルノに対して、まあ、なんとういうか簡潔に言えば『バカ』という印象を持っているらしい阿求さんは、溜息を吐く。

 

「やはり、直接訊いて見るしかありませんね」

「レティにですか?」

「ええ」

確認するような俺の問いかけに阿求さんは首肯する。

 

「でも彼女は……」

「今は妖怪の山にいるかもしれませんね」

すまし顔で言う阿求さんに、俺は雲行きが怪しくなってきたことを感じながら、恐る恐る問いかける。

 

「あの、まさか」

「明日は妖怪の山に行ってもらいます」

彼女の言葉に絶句する俺。

 

「あの……この前妖怪の山は危険だから近づくなとおっしゃていたような」

「でも、あなたは死んでも大丈夫なのでしょう?」

 

頭を抱えた。

チルノと同じこと言ってる……。

 

「行かなきゃ駄目ですかね」

「どうかよろしくお願いします」

気が進まないことを全力で態度で示す俺に、阿求さんはにっこり笑顔で、言葉とは裏腹に有無を言わせぬオーラを全身から醸していた。

これでも最初のころは「あまり無理をするな」と気遣ってくれたのだが……。

 

「……報酬に色を付けてくださいね」

「それは報告次第です」

変わらぬ笑顔で言い放つ彼女に俺は嘆息した。

 

 

 

 

 

 

……なお後日、哨戒していた白狼天狗に瞬殺された。




主人公の能力と副業の話です。
一章からだいたい一ヶ月かからないくらいの時期です。
こんな感じで主人公は少しずつコミュニティを広げていきます。
殺されながら。
なんか殺伐としてます。ほのぼのに入り混じる狂気です。
でも私はクトゥルフの雰囲気とか結構好きなので嫌いじゃないです(自画自賛)。
次回は殺伐としていない話を書きたいです。


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十一話 薬売りの少女

主人公の拠点が人里なので、人里の住人としてのオリキャラが今後も登場します。
今回は導入の味付け程度に出すつもりでしたが、なんか思ったよりピックアップしてました。


なんだかんだと最近は寺子屋に稗田家と二足の草鞋だったり、何かと里の外に用事を作ったりで、朝から分身して行動することが多かった。

とはいえ、分身は体力を消費するため、朝っぱらからどこか倦怠感を伴って過ごすことになる。

だが、今日は講師補佐も里の外に行く用事もない。

完全なフリーであり、能力も使用していないためすこぶる調子がいい。

ついでに言えば兼業のおかげで少し懐が暖かい。

 

そういった事情で上機嫌な俺は、鼻歌混じりに人里を歩いていた。

 

「よう、ご機嫌じゃねえか」

と、不意に野太い声を掛けられる。

 

「ああ、善一さんですか」

振り返ると長身で屈強な体つきをした男が立っていた。

「どうもこんにちは」

 

「おう」

と笑みを浮かべるこの人、善一さんは人里のとある酒造の次男坊だが、豪快で人の良い兄貴肌な男である。

ちなみに「あまり調子に乗るなよ」と俺を脅した人物でもあるのだが、そこで真摯(必死)に謝る俺に毒気を抜かれたのか、それ以来なぜかよくお世話になってる。

礼を言うと、「慧音先生に何かしないか監視しているだけだ」と返されるのだが、どう見ても照れ隠しなのが見え見えで、間違いなく根はいい人だ。

 

「今日は非番かい?」

「はい。寺子屋も阿求さんのとこもお休みなので、暇つぶしがてら街の散策ですね」

「だったら一杯どうだい」

と、お猪口を呷る動作をする善一さんに俺は苦笑する。

 

「まだ昼前ですよ。それに用事がないわけじゃないんですよ」

「お、なにかあるのかい?」

「ちょっとプレゼント……贈り物を見繕いに」

 

先日大妖精に話した物を探していた。

 

「ほぉ~贈り物かい。お前も隅に置けないねえ」

何を勘違いしたのか、ニヤケ顔で小突いてくる善一さんに俺は「違いますよ」と首を振る。

 

「でも、渡す相手は女の子なんだろう?」

なんで断定してるんだこの人。

「まあ、そうですけど」

 

「ほーう。どいつだどいつだ」

善一さんは更に口端を上げる。

グイグイくるな。

 

「えーと、そのー」

まさか妖精に贈り物をするなど言えるはずもない俺は言いよどむが、そんな俺の様子に善一さんは「まさか!」と頓狂な声を上げる。

 

「お前……性懲りもなく慧音先生に」

「違います違います!」

一瞬恐ろしい形相になる善一さんに慌てて否定する。

「だいたい10歳ちょっとの女の子ですよ!」

 

俺の弁明を聞いた善一さん、今度は半眼になり顔をしかめる。

「お前……そういう趣味なのか」

「え?…………いやいやいやいやロリコンじゃないですって!」

「いや、俺も人の趣味にとやかく言ったりはしねえが流石にそれは……」

「聞いて!!」

 

なんというか、人妖問わず幻想郷の方々はマイペースな人が多い。

日ごろから翻弄されてばかりである。

 

「いや、でもそういう趣味なら慧音先生に手は出さないから問題ないか……」

「俺にそんな趣味はありませんし、そんな人が寺子屋で勤めてたら問題ありですよ……」

一人で勝手に納得する善一さんに、俺は嘆息しつつツッコミをいれる。

 

と、そんな俺の視界の隅にある人が映る。

「あ……あれは」

「ん?」

急に視線を固定させた俺に、善一さんは首を傾げ、俺の視線の先を見た。

「ああ、竹林の妖怪兎か」

 

いつぞやの、葛篭を背負った兎耳少女、鈴仙が歩いていた。

初めて会った時のように、頭を項垂れ、とぼとぼと歩いている。

 

「確か、置き薬の訪問販売をしてるんでしたっけ」

俺たちから離れていく方向へ歩んでいく彼女の背を見ながら、俺は善一さんに問いかける。

 

「ああ、らしいな」

「……なんというか、落ち込んでいるみたいですね」

「あれはいつもあんな感じだ。陰険ったらねえ。こっちまで暗い気分にさせられる」

と、鼻を鳴らす善一さんに俺は目を丸くする。

ここまで辛辣な口調の彼を見るのは初めてだ。

 

「厳しいですね」

「んなことねえよ。ただ単に、客商売なのに態度は陰険、喋りは早口で聞き取りづらい上に内容もよく分からん。竹林のお医者さんの薬はよく効くと評判になってきているが、あんなんじゃあ薬も売れねえよ」

「そうですか……」

俺は苦々しげに鈴仙を見る善一さんから、鈴仙に視線を戻す。

少なくとも、アリスと対面したときの彼女は慌しくはあったが、陰険とは程遠い雰囲気ではあった。

 

善一さんの言うとおりなら、客が取れなくて落ち込んでいる……ということだろうか。

 

少し前、といっても俺が幻想郷に迷い込む前の話だが、永夜異変と呼ばれる、夜が明けない異変が起きたらしい。

その異変が解決したころに、迷いの竹林と呼ばれる場所に現れたとされるのが『永遠邸』と呼ばれる建物で、そこには妖怪兎と共に医者が住んでいるとのことだ。

 

と、聞いた話が本当なら鈴仙はその永遠邸の住人なのだろう。

そして、おそらく幻想郷……少なくとも人里で見るならば、俺と同じくらいの時期にやってきた新参者となる。

少し親近感が沸いた。

落ち込んでいる様子を見て、何か力になれないだろうかと思ってしまう。

 

……お節介、になるだろうな。

 

「あの、善一さん」

「どうした悠基」

鈴仙から視線をはずさない俺に、同じく鈴仙を半眼で見る善一さんが応じる。

 

「ちょっと行ってきます」

「確かに見た目は可愛いが、あまりオススメはせんぞ」

「違いますって」

言葉のニュアンスを汲み取ってくれるかと思って暈した言い方をしたら、勘違いされた。

 

「ちょっとお節介焼いてきます」

と、俺は鈴仙の背中を追って歩き出す。

そんな俺に向かって、善一さんは声を上げた。

 

「よっ、プレイボーイ!」

「どこで覚えたんですかそんな言葉!」

 

 

* * *

 

 

いざ鈴仙に追いついてみると、彼女の背中からは初めて会ったときを思い出す黒々とした陰険なオーラをこれでもかと醸しだしていた。

まあ、オーラに関してはただの幻視なのだが、それでも彼女は悪い意味で近寄りがたい雰囲気である。

 

俺は軽く深呼吸すると、意を決して声をかけることにした。

「やあ、鈴仙」

 

ふいに声を掛けられ驚いたのか、鈴仙は肩と長い耳をびくりと震わせ振り返る。

片手を中途半端に上げる俺を見て軽く目を見開くと、今度は訝しげに顔を顰め、そして一言呟く。

「…………誰?」

 

あーやっぱり覚えてないかー。

会ったのは一ヶ月近く前の一度きりだし、あの時鈴仙はアリスを意識していたようだったので、薄々はこの反応を予想していた。

まあ、予想していた反応ではあるので決して傷ついてはいない。

決して。

 

「先月人里でアリスと一緒に歩いてた外来人だよ」

「……ああ、あの時の」

俺の説明で思い至ったのか鈴仙は軽く頷く。

 

「外に帰ったのかと思ってたわ」

「まあ、あれから色々あってここに住むことにしたんだ」

「へえ」

「というわけで、岡崎悠基だ。よろしく」

「ええ」

 

……なんだろう、喋り方と言うか、声のトーンからして興味がなさそうである。

というか、視線に敵意さえ感じる。

 

「で、何か用?」

と半眼……というよりもやや睨むかのように見てくる彼女に、俺は内心何か気に障ることでもしてしまっただろうかとたじたじである。

「ああ、その……」

 

んー……これは警戒されてるっぽいな。

ここで「何か力になろうか?」とか言っても、多分断られそうだな……。

と、そこまで考えを巡らせた俺は、

「置き薬の販売をしてるんだよね?」

と切り出すことにした。

 

「ええ。それが?」

「それはもちろん、配置薬を依頼したいんだけど、いいかな?」

俺の問いかけに、鈴仙の目つきが少し緩んだ。

 

「そ。案内して」

「うん」

相変わらず口調はぶっきらぼうなままだ。

 

俺は踵を返すと、寺子屋へ向けて歩き出す。

鈴仙は俺の斜め後ろを着いてきた。

 

ふと、視界の隅、遠くに巨漢の善一さんが映る。

満面の笑み、もといニヤケ顔であった。

俺は鈴仙に気づかれないように小さく嘆息すると、努めて明るい声で鈴仙に話しかける。

「どうだい、薬売りの調子は」

 

「……別に、関係ないでしょ」

お、すっげーツンツンしてるけど反応してくれた。

嫌われるようなことをした覚えはないが、正直無視されることも危惧していたので少し安心。

 

「永遠亭の薬はよく効くらしいね。評判になってるよ」

「当然よ。師匠の作った薬だもの」

「確か、八意永琳さん……だっけ。竹林のお医者さんの」

 

俺の周辺でも時たま話題に上がっている人物だ。

美人だと専らの評判で、里の若者の憧れの的だとか、そんな話を聞いたこともある。

 

「ええ。そうよ」

「凄腕のお医者さんらしいね」

「正確には薬師だけど……まあ、そうね。師匠に敵うような医師は存在しないわ」

口調が誇らしげなのは気のせいではないだろう。

 

「師匠ってことは、君も薬を作るのかい?」

「もちろん」

よしよし、乗ってきた乗ってきた。

そんな調子で俺と鈴仙は雑談を交えながら寺子屋に向かった。

 

 

* * *

 

 

「失礼するよ」

寺子屋の離れ、俺の自宅にて鈴仙から薬の説明を受けていると、不意に戸が開かれた。

見ると、背中に大きな籠を背負った妹紅が目を丸くしている。

 

「おっとこれは」

と彼女は、軽く目を見開く鈴仙と、おそらく苦虫を噛み潰したような表情をしているであろう俺を交互に見た。

 

「やあ、一週間ぶり、妹紅」

ちなみに慧音さんと妹紅の三人で飲んで以来である。

挨拶すると、妹紅は面白い物でも見るかのように俺に視線を固定させる。

「よお、悠基。偉く珍妙な顔をしているな」

「まあねえ」

俺は嘆息しつつ妹紅に応じる。

 

妹紅は鈴仙に視線を移す。

「鈴仙じゃないか」

「妹紅さん。どうしてここに?」

鈴仙が目を丸くしたまま妹紅に問いかけると、妹紅は自慢げに背中の籠を俺に見せてきた。

 

「悠基に差し入れだよ」

と、背負っていた籠を下すと、中には筍がこれでもかというくらい入っている。

 

「おお、筍か。いいのかい貰っても」

「私の住処じゃそこらじゅうに生えてるからね。かまわないよ」

「それじゃあいくつか頂いていくよ」

「いくつかとは言わないさ。全部やろう」

妹紅の言葉に俺は瞠目する。

 

「ええ……流石に一人じゃ無理だよ」

「ははは。私も持ってくる途中で気づいた」

笑いながら答える妹紅に俺は呆れ顔になる。

 

「ドジっ子か」

「ドジ……?なんだって?」

「いや、分からないならいいや」

プレイボーイが知られていたのでもしやドジっ子という単語も広まっているかと思ったが別にそんなことはなかった。

 

「ともかく礼を言うよ。どうもありがとう」

「どういたしまして。それにしてもやるじゃないか悠基」

「何が?」

「鈴仙を家に連れ込むなんて、とんだプレイボーイだね」

なんでプレイボーイって単語はこんな知られてんの!?

 

「ち、違います!」

鈴仙が頬を少し染めながら声を上げる。

「この人の家に置き薬の営業に来ただけですっ」

 

反応が初々しくて面白い。

 

「そうなのか」

と同じことを思っているらしいニヤケ顔の妹紅に、俺も半笑になって首肯する。

 

「どうだい、薬の売れ行き、というか、この場合は客が取れたかってところか」

と妹紅が尋ねると、鈴仙はさきほどと打って変わって、少し顔を曇らせた。

「……まあまあです」

やや俯きぎみなって答える鈴仙に、俺と妹紅は互いに顔を見合わせる。

 

ははあ、やっぱり先ほど落ち込んでいたように見えた原因は、薬の普及具合が思わしくないということか。

「なんだ?永琳の作った薬は評判が良いと慧音から聞いたんだが、あまり売れてないのか」

「……はい。なぜか……」

力なく答える鈴仙を見て、妹紅は眉を顰める。

 

「悠基、何か――」

と、妹紅が俺の方を向いてなにか言いかけるが、俺の神妙な顔つきを見て怪訝な顔をする。

「お前、また変な顔になってるぞ」

 

俺は失礼なことをいう妹紅を横目でチラリと見て、咳払いをし鈴仙に向き直る。

「では、僭越ながら」

二人の視線を受けながら俺は立ち上がり鈴仙を見据える。

 

「鈴仙」

「な、なに?」

戸惑い気味の鈴仙に、俺は心を鬼にする覚悟を決める。

 

「接客態度が最悪。薬が悪いんじゃなくて鈴仙が悪い」

「……そ、そんなことは、ない……」

微妙に片言になってるし語尾が弱弱しくなってるあたり、否定はしてても自覚は薄々あったようだ。

 

「そんなに酷いのか」

妹紅の問いかけに俺は頷く。

 

「さっきまで薬の説明受けてたけど、まず声が小さい上にぼそぼそ喋ってるから聞き取りずらい。喋ってる内容も専門用語が多すぎて理解できない。おまけに質問しようにもこっちを無視して一方的に話しすぎ。あと視線下げすぎ。ちゃんと相手の目を向いて話しなさい」

普通に話している時は、そんなことは無いんだけどなあ。

 

と、捲し立てた俺にまず妹紅が反応する。

「悠基、ずいぶん饒舌じゃないか。説教をするときの慧音みたいだったぞ」

「俺は今真面目に言ってるの。茶化さないでくれ」

まあ、あの人の影響を少なからず受けているのは間違いないのだけど。

 

一方の鈴仙は、「うう……」と俺の剣幕にたじろぎつつも、俺を上目使いに睨み付けてくる。

「し、仕方ないでしょ!今までこんなことしたこと無かったから、勝手が分かんないのよ!」

あ、反論はしてきたけど自分の接客態度が悪いのは認めてるし、案外素直だ。

 

「考えて分からないなら人に訊けばいいじゃないか」

「だ、だって、師匠はお忙しいし、姫様にきくわけにはいかないし」

 

「姫様?」

「ああ、あいつはこういうことは分からないだろうなあ」

鈴仙の言葉に俺が首を傾げる一方で、妹紅は勝手に納得している。

 

「それに、てゐ達にはこういうところ見せたくないし……」

「誰?」

妹紅を見ると、彼女は苦笑した。

「なんというか、鈴仙にも立場があるということだよ」

「はぐらかされてる気がするけどまあ分かった」

 

俺は頷くと鈴仙を再び見据える。

「つまり遠慮とか変なプライドが邪魔して相談する相手がいないってことだな」

「変なプライドってなによ」

鈴仙は非難めいた視線を向けてくるが、俺は気にしないことにした。

 

「だったら練習すればいい」

「れ、練習?」

「そうだな」

鈴仙が困惑した様子で俺を見るが、妹紅は俺の魂胆に気付いた様子で同意した。

 

「妹紅、協力してくれるのか」

「かまわないさ。竹林の案内の仕事も、こうも寒いと閑古鳥みたいでねえ、せっかくだし付き合うよ」

 

「あ、あの、何を」

俺と妹紅のやりとりに戸惑いがちに問いかけてくる鈴仙に、俺たちは互いに頷きあう。

「もちろん!」

「鈴仙の練習相手になるのさ!」

 

……まあ、この時点でテンションが少しおかしかったのは自覚している。

だが、半ば困惑した様子の鈴仙に、俺と妹紅は勢いに任せて半強制的に接客指導をするのだった。

こうして俺の久しぶりの休日はうっかり潰れていった。

 

 

 

 

後日談として、善一さんから聞いた話だと、鈴仙の置き薬の販売営業はなんだかんだで盛況になりつつあるらいい。

接客指導が余計なお世話にならずに済んだようでなによりだ。

 

ついでに余談として、妹紅から貰った筍の処理や、うっかり忘れていた大妖精への贈り物など、俺は微妙に悩みを抱えることになった。




鈴仙といえばイジラレキャラ的なイメージです。

ほんとうはもう少しイジリ倒したかったのですが、今回は自重しました。
ノリノリで書いてみたものの見返してみるとちょっと可哀そうに見えたので。嘘ですが。
ボケ約に適任すぎてオリキャラを引き立たせすぎました。
ノリノリで書いたので仕方ないです。


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十二話 ストーブと

「おじゃましまーす」

間延びした挨拶をしながら扉を開くと、店主の霖之助さんは開いていた新聞から視線を上げた。

 

「おや、いらっしゃい。外は寒かっただろう」

「全くですよ……ってあれ?暖かい?」

体の心まで凍えさせながら、扉を閉めると、店の中の気温が高いことに気付く。

 

「ああ、冷えてきたからね」

と、椅子に座る霖之助さんは、新聞を畳みながら自分の目の前の物体を顎で差す。

 

「あ、うわあ懐かしい。灯油ストーブですね」

俺はこれ幸いとばかりに熱源に近づき悴んだ手を翳す。

じんわりと指先が温まってきた。

ちなみに円柱に近い形の全方位に熱気を発するタイプのストーブだ。

そしてその上には薬缶が置かれている。

あれ、薬缶って置いていいんだっけ……。

 

「知っているのかい?」

霖之助さんは立ち上がりながら問いかけてくる。

「昔祖母の家にあったんですよ。霖之助さん?」

俺は答えつつ、店の奥へと歩いていく霖之助さんに首を傾げる。

 

少しして帰ってきた霖之助さんは、手ごろな丸椅子を持ってきた。

「君も暖まっていくといい。ああ、それから熱いお茶を用意しよう」

「いや、そんなお構いなく」

俺が慌てて手を振るも霖之助さんは椅子を置くと、再び店の奥に消えていく。

 

「僕もそろそろ飲みたいと思っていたから構わないよ。常連さんへのサービスみたいなものさ」

店の奥からそんな返しをされた俺は、

「それじゃあお言葉に甘えさせていただきます」

と声を上げつつ用意された椅子に座り灯油ストーブで温まることにした。

 

 

*

 

 

「香霖堂」は魔法の森入り口に居を構えている(俺の少ない語彙で辛うじて表現するならば)雑貨屋だ。

店主は森近霖之助さんという長身で知的な男性であり、俺もいつかはああいう落ち着いた大人になりたいという意味で密かに目標にしている人である。

 

この「香霖堂」は、外の世界から流れ着いた物を取り扱っている店だ。

まあ、かなりの割合で、壊れた電子機器を始めとする、ガラクタで占められているのだが、一応外来人である俺からすると、たまに使える物が混じっていたりするので週に1回のペースで通っている。

 

 

*

 

 

そんなわけで、ストーブに当たりながら店内を見回す。

なんというか、灯油ストーブの温かさは、なんともいえない心地よさがある。

近づきすぎると熱いため、程よい距離をキープしないといけないという微妙に不便なところは、最近の暖房機器にはなくて逆にいい。

まあ、がっつり思い出補正というやつだけど。

ちなみに技術レベルの大半が100年以上も遅れている幻想郷では、暖を取るのも一苦労なので現状は非常に快適だった。

 

ふと、雑然と積み上げられた様々なガラクタの山の中に、目に留まる物があった。

 

「っ!霖之助さん!!」

思わず興奮した声を上げる。

 

「何だい?」

霖之助さんがお盆と湯飲みを持って奥から戻ってくるのを確認して、俺は積み上げられた品物の一つを指差す。

 

「これとこれ!売り物ですか?」

香霖堂店内にはところ狭しと物が溢れているが、その半分以上が非売品、店主のコレクションである。

それって商売人としてどうなんだと最初に来たときは疑問であったが、そんなことより俺が発見したものが果たして売り物かコレクションなのかが今は重要だ。

 

「ああ、両方ともそうだよ」

霖之助さんはカウンターに盆を乗せて首肯する。

俺は小さくガッツポーズをする。

 

「か、買います!いいですよね?」

「君がそんなに興奮するのも珍しいね。もちろん買うのは構わないが……」

言いながら霖之助さんは俺が指差す物に困惑の眼差しを向ける。

 

「それはそんなに使える物なのかい?確かに材質はいいと思うけど」

「あれ?霖之助さんって『物の使い道が分かる程度の能力』があるんですよね」

「いや、せいぜい『物の名前と用途が分かる程度』だよ。それに、その道具は名前通りに使うことも分かるし、使い方も予想できる」

 

霖之助さんはストーブの上の薬缶を取ると、お湯を湯のみに注ぐ。

あ、インスタント茶葉なんだ。

 

「ああ、何に使うかってところですね」

湯のみを受け取りながら言うと、霖之助さんはお茶を一口啜り頷いた。

「そんなところかな」

 

「うーん、別に秘密にすることではないんですが、まあせっかくなので出来てからのお楽しみということで」

熱いお茶に息を吹きかけ冷ましながら答えると、霖之助さんは「そうかい」と肩を竦める。

 

「えっと、おいくらですか?今日は一応ちょっと多めに持ち合わせありますけど」

「ふむ、ではこれくらいで」

霖之助さんの提示した額は持ってきたお金にぎりぎり収まる程度だった。

使えるかはともかく、材質はいいものだからとのことで、少し冷やりとした。

 

 

* * *

 

 

冷たい外の風を思うと、ストーブは中々に離れがたい魅力がある。

炬燵に及ばないながら破壊力は抜群だ。

そんなわけで、買ったものを風呂敷に包んでもらいながらも、俺はそのまま香霖堂に留まり、霖之助さんと雑談をしていた。

ちなみに、一応外来人の俺は、外の世界から流れ着き、霖之助さんが蒐集した物の使い方などを、店に来るたびに雑談がてら教えている。

 

そんな訳で、霖之助さんが今回俺に持ってきたのは、某国民的アニメの青狸もとい猫型ロボットを模した貯金箱だ。

危うく飲める温度になってきたお茶を噴出すところだった。

「――えもん貯金箱、という名前らしくてね」

「……でしょうね」

霖之助さんの説明に眉間に皺を寄せながら応じる。

 

よくよく見るまでもなく、塗装がところどころ剥がれておりデザインも若干古い。

 

俺のいた世界と、この幻想郷の外の世界は、違う歴史を辿った異なる世界だ。

しかし、歴史の歩みは似ているので、ところどころ共通点はあるだろうと霊夢は言っていた。

そういう意味では、俺にとっても馴染み深いこのアニメが、こちらの世界にもあるというのは、なんというかちょっと感動である。

 

「使う意図もなんとなく分かる。だが、問題は形だ。なぜこのような瓢箪型なのか。瓢箪と言えば中国にはいくつか伝説がある。かの有名な猿と法師の伝説の、金閣銀閣大王の所持していた紅葫蘆が代表的だろう。つまりあれを模したのならば、実はこれには言霊、つまり人の魂を分けて封じるある種分霊としての役割が――」

大真面目な顔で二頭身キャラクターの推論を立てる霖之助さんだが、彼の考察はいつもかなり的が外れている。

今回は対象があまりにもシュールで、俺は笑い出しそうになるのを堪えるのに苦労していた。

 

と、霖之助さんが一方的に話す中で、香霖堂の扉が開かれた。

「邪魔するぜ」

振り返ると、外の冷気とともに、金髪の少女が扉を後ろ手に閉めながら片手をヒラヒラと振っていた。

 

「やあ魔理沙」

「お、悠基、来てたのか」

と、魔理沙は挨拶もそこそこに小走りでストーブまで寄ってきて、霖之助さんの隣でしゃがみ込んで暖を取り始める。

「ふいー寒い寒い」

 

 

*

 

 

霧雨魔理沙といえば、俺でも知ってる「東方」の、霊夢と双璧をなす主人公の一人だ。

実際俺の雇い主である阿求さんに話を聞くと、近年幻想郷で起きた「異変」では、霊夢だけでなく魔理沙も尽力したらしい。

その魔理沙だが、俺が初めて邂逅したのは、やはり初めて香霖堂に訪れた際の話だ。

あまりにも自然に商品と思わしき壷の上で寛いでいたので、最初は普通に店員さんだと思った。

 

 

*

 

 

「邪魔するなら出て行ってくれるかな」

と、言葉では辛辣な霖之助さんだが、いつのまにやら俺が使っているものと同じような丸椅子をストーブの傍に置き、魔理沙に座るように促している。

 

「そう冷たいこというなよ香霖。私は客だぜ」

と文句を言う魔理沙も、しっかりと霖之助さんの示す椅子に座り暖を取っている。

 

「客と言うのは彼のような商品を買う人のことを言うんだよ」

「おや、悠基は何を買ったんだ?」

溜息交じり霖之助さんの言葉に魔理沙の目がキラリと光った。

その視線が、俺が抱えている風呂敷に向かう。

 

「そんなに大事そうに抱えてるってことは、結構なお宝なのか?」

「別にそんなに価値のあるものじゃないよ」

と言いつつ俺は抱える風呂敷を魔理沙から遠ざけるように体を反らす。

 

「むう、警戒しなくても盗んだりしないぜ」

と頬を膨らませる魔理沙だが、その目は風呂敷をじっと見据えている。

油断ならないなあと思いつつ牽制。

「そりゃあ警戒もするさ。魔理沙の本職は泥棒なんだろ」

 

「……いや、待て待て。泥棒を本職にした覚えはない」

魔理沙が顔を顰める。

 

「泥棒している自覚はあるんだね」

霖之助さんがぼそりと呟くが、

「借りてるだけだぜ。一生な」

とどこ吹く風で魔理沙が答える。

 

「私の本職は魔法使いだ。それに、霧雨魔法店というちゃんとした店も持ってるしな」

「へえ、魔理沙は一人で店を経営してるのか」

「そうさ」

この歳で店を持つなんて、なかなか凄いことだなと感心する。

 

「そういえば、君の店の客足は相変わらずなのかい?」

と、いう霖之助さんの言葉に、魔理沙は誇らしげに答える。

「ああ。自慢じゃないが相変わらず客足ゼロだぜ」

「えぇ…………」

 

本当に自慢になってない。

俺の感心を返せ。

 

「それより悠基」

「ん?」

呆れ顔の俺を魔理沙が見る。

 

「一体どこのどいつに私が泥棒だって吹き込まれたんだ?」

「…………さあ?」

本能的に答えてはいけない気がして魔理沙から視線を反らす。

 

「それを知ってどうするんだよ」

「もちろん、私が魔法使いであるということをその身を持って分かってもらおうかと」

「何をする気だ!」

思わず声を荒げてしまった。

 

「で、誰なんだ?」

「も、黙秘する」

なおも問い詰めてくる魔理沙に俺はたじたじで対応する。

 

「君が泥棒であるというのは周知の事実だと思うけどねえ」

と、霖之助さんが助け舟を出してくれる。

「天狗の新聞でも以前取り上げられてたじゃないか」

「確かにそんなこともあったなあ」

魔理沙がうんうんと頷く。

 

「そ、そうそう。俺もそれで知ったんだ」

俺はどうにかその流れにノっかろうとするが

「いや、さっきのお前の反応からして、それはないだろう。間違いなく誰かからの入れ知恵だって分かるぜ」

「う……」

「ほら、やっぱり図星だ」

 

鎌をかけられていた上にまんまと引っかかっていた。

くっ……俺がもう少しポーカーフェイスなら……!

 

「さーて、この私に不名誉な称号を与えたのが誰なのか、教えてもらうとするか」

「い、言えない……」

 

もちろん、魔理沙のいう「身を持って分からせる」というのが実際それほど激しいわけではないというのは分かっている。

言動こそ荒っぽさがあるが、なんだかんだで常識は踏まえている子だ。

 

だが問題は、俺が口を割ってしまうと、俺に「魔理沙が泥棒である」と吹き込んだ人にそのことが十中八九バレてしまうことだ。

俺にその知識を授けたのは、俺の雇い主である阿求さんである。

 

阿求さんは最近ただでさえ遠慮がない。

いや、遠慮がないというのは精神的な意味で距離が近づいたとも言えるので決して悪いことではないのだが、だからといって危険な場所での調査を命じるのは勘弁してくださいお願いします。

そんなわけで、雇い主の阿求さんを「売った」ともなれば、今後はより待遇が悪化することが懸念されるわけで、それを回避したい俺は魔理沙からの言及を上手い事回避せねばならなかった。

 

「うーん、霊夢か?」

「え、いや、違う」

ヤバイ鎌をかけ始めた。

これはばれるのは時間の問題かもしれないと俺が内心冷や汗をかき始めたところで、

 

「失礼」

という声と共に香霖堂の扉が再び開かれた。

 

振り返ると、魔理沙よりも色素の薄い金髪の少女が立っている。

というかアリスだった。

「いらっしゃい」

「よおアリス」

「やあ、こんにちわ」

霖之助さんを始めとする俺たちの挨拶にコクりと頷き相槌を打ちながら、アリスはストーブの周りに集まり暖をとる俺たちをしげしげと眺める。

 

「この店がこんなに賑わってるのも珍しいわね」

「入店早々失礼だね君は」

霖之助さんが半眼になる。

 

「そんなことはないぜ」

と、魔理沙がアリスに反論する。

「よく私と霊夢がここにくるからな。まあ大概は客としてじゃあないが」

「今日はお客として来たの?」

「いや、客はこいつだけだ」

魔理沙が俺を指差す。

 

「あれ、魔理沙。さっき自分のことを客だとか、言ってなかったか?」

「香霖が言うには、私は客じゃないらしい」

俺が尋ねると、魔理沙はいけしゃあしゃあと答えた。

霖之助さんは頭痛がするかのように顔をしかめる。

 

「どちらにしろ、お客さんがいるのも珍しいわね」

「確かにそうだな」

と勝手に納得する二人。

 

「アリスは客として来たの?」

俺が問いかけると、アリスは頷く。

「ええ。もちろん」

 

「へえ、香霖とこに一日で二人も客が来るなんて、珍しいな」

魔理沙が相変わらず失礼なことを悪びれもせずに口に出す。

「こりゃあそろそろ雪でも降るんじゃないか?」

 

魔理沙の言葉に、俺は思わず香霖堂の窓を見る。

別に魔理沙の言葉を真に受けた訳ではないが、気温的に言ってもそろそろ雪が降ってもおかしくない。

窓は室内外の気温差で曇っていたがかろうじて雪が降っていないのは確認できた。

アリスも窓の外を見ていたようで、魔理沙も含めて三人揃って窓の外を見る俺たちに、霖之助さんはとうとう盛大な溜息を吐いた。

 

アリスも寒気に耐えかねていたようで、ストーブを囲む俺たちの輪に加わる。

「座る?」

「それじゃあ」

彼女を立たせておくのもなんとなく落ち着かなくて、自分の使っている椅子をアリスに譲る。

 

「さて」

その様子を見た霖之助さんは立ち上がり、店の奥にゆるりと向かう。

「今日は何をお求めで?」

おそらく新しい椅子を探しているのだろう、奥の方から物音を立てながら霖之助さんが問いかけてくる。

なんだかんだ言いつつお人好しだと思う。

 

「いつも通り、なにか面白い人形を」

「ああ、悪いね」

程なくして霖之助さんは新しい椅子を抱えて戻ってきた。

 

「今回はそういうものは無かったよ。強いて言うなら、それかな」

霖之助さんは先ほどまで話題にしていた貯金箱を指差す。

「悠基君曰く、ロボットという人形を模した物らしい。財産を貯蓄するための箱のようだが、僕としては、魂を分けて保管する役割も持っているのではないかと考えている」

 

「そうなの?」

「違うと思う」

アリスが視線を俺に投げかけてくるが、俺は霖之助さんの用意してくれた椅子に座りながら首を振った。

 

「魔力も感じないし、とてもそんなものには見えないけど」

「まだそういう役割で使われていないんだろう」

今後もそういう役割で使われないと思います。

 

「……やめておくわ」

少し間を空けて返事をするアリス。

もしかしてちょっと悩んだのだろうか。

 

「そうかい」

と霖之助さんはたいして残念そうな様子も見せず頷いた。

 

「そういえば、アリスと悠基は知り合いだったんだな」

「ああ、魔理沙には言ってなかったか。俺が幻想郷に迷い込んだ時にアリスにいろいろと世話になったんだよ」

「いろいろ、ね」

魔理沙に説明をしていると、アリスが意味ありげな視線を向けてくる。

 

ああ、うん。

博麗神社でね。

うん。

あの、まあうん。

がん泣きしたことね、はい。

ああまた恥ずかしくなってきた。

 

「いろいろ、な」

眉尻をひくひくと痙攣させながら俺は応じる。

なんというか、ふいにアリスにはこういった具合でからかってくる。

なぜだろうと理由を考えたが、前向きに考えればアリスなりに元気づけてくれているのだろうし、後向きに考えれば見たまんま単純におちょくられているのだろう。

 

「どうした悠基」

魔理沙はニヤケ顔で俺を見る。

「顔が赤いぜ」

 

「少なくとも魔理沙が勘繰ってるようなことじゃないよ」

嘆息しつつ応じる。

アリスを見ると、相も変わらず表情にほとんど変化はないが、どことなく満足げだった。

あーこれはおちょくられてる方だな。

 

「なんだ違うのか」

つまらなそうに魔理沙が言った。

言動はあれだが、色恋話に興味津々な辺り、年相応に少女だなあと思う。

 

 

* * *

 

 

「邪魔するわよ」

ストーブの傍から離れないまま取り止めのない雑談をしていると、香霖堂の扉が再び開かれた。

聞き覚えのある声に振り替えると、びしょ濡れの霊夢が立っていた。

 

「れ、霊夢!?」

自分の肩を抱き、ガチガチと凍える霊夢に目を見開く。

「どうしたんだ?」

魔理沙も目を丸くする。

 

「どうしたもこうしたも、降られたのよ」

と俺とアリスの間のスペースに霊夢は落ち着き、暖を取り始める。

「凍え死ぬかと思ったわ」

 

霊夢のためにスペースを空けつつ窓を見ると、確かに白い物がちらほらと舞っている。

魔理沙が巫山戯て言っていたことが事実になっていた。

 

「霊夢、これを」

「ああ、悪いわねアリス」

アリスが刺繍の入ったハンカチを霊夢に渡す。

 

俺は窓に近づき外を見ると、いつの間にか分厚い雲が空に立ち込め、既に辺りは暗くなりつつある。

 

ああ、まずい。

帰りどうしよ。

 

「ほら、風邪ひくよ」

霊夢が入ってきた時点で、すぐさま店の奥に向かった霖之助さんが戻ってきて、霊夢にタオルを渡す。

「それから奥に着替えを用意したから着替えておきなさい」

「感謝するわ、霖之助さん」

霊夢はアリスにハンカチを返すと、タオルを手に店の奥へ消えていった。

 

「本当に降り出したな」

どこか憂鬱な様子で魔理沙が言った。

「帰るころにはやんでくれるといいんだが」

 

「そうね。ところで、悠基は帰れるの?」

魔理沙に同意しつつアリスが俺を見る。

「うん。俺もちょっとどうしようか困ってた」

 

「ん?何か問題があるのか?悠基は能力で分身して里の外に来ているんだろ?」

魔理沙が首を傾げる。

「里の中に分身がいるんなら、分身を解けばいいんじゃないのか?」

 

「ああ、俺自身は里には帰れるんだが、問題はこれだな」

俺は抱えていた風呂敷包みを見る。

 

「分身を解けば、俺や俺の衣服は消えるんだが、これはここに残っちゃうからなあ」

「……ん?そういえば、悠基は能力で着ている物も分身出来るんだよな」

魔理沙が何かに気付いたように確認してくる。

 

「そうだけど、それが?」

と魔理沙に問い返してみるが、なんとなく魔理沙が聞きたいことには察しはついていた。

「それって、お金、とかも増やせるってことじゃないか?」

 

「まあ、そう考えるわよね」

既に俺の能力の性質を知っているアリスが頷く。

「ってことは試したのか?」

魔理沙が期待の籠った眼差しを俺に向けてくる。

 

「まあね。どう説明した物か……」

俺は頭の中で自分の分身能力の性質を整理する。

うーん、これって口頭で説明するとなると難しいんだよなあ。

 

「実演した方が分かりやすいんじゃないか?」

と霖之助さんが提案するが、

「いや、今は人里とここに分身しているので、これ以上は分身出来ないんですよね」

と俺は少々困り顔で答える。

仕方ないので、俺はつっかえつっかえ俺の分身能力の性質上、物を増やすことは結果的に見れば出来ない、ということを口頭で説明することにした。

 

 

 

そんなわけで、どうにか説明を終え、魔理沙から「ヘンな能力だな」という評価を頂いたところで、霊夢が戻ってきた。

「ふう、助かったわ。霖之助さん」

と、巫女服(冬仕様なのか袖部分が別れておらず、いつもの巫女服よりも気持ち暖かそう)に着替えた霊夢が帰ってきた。

 

「この前仕上げたんだけど着心地はどうだい?」

え?

 

「ええ。相変わらずいい仕事ね」

え!?

 

霖之助さんと霊夢のやりとりに俺は目を丸くする。

今の言い方って、まるで霖之助さんが霊夢の巫女服を仕立ててるみたいに聞こえたんだが。

 

と、そんな疑問を口にしようとするが、

「ねえ悠基」

と先に霊夢が口を開く。

 

「ん?なに?」

「最近私ふと思いついたんだけど」

と、何やら期待の籠った眼差しで俺を見る。

嫌な予感……というより既視感が……。

 

「悠基の分身能力って着物も増やせるじゃない?それを応用すれば――って皆して何よその目は」

と、自らの提案を口に出しかけたところで、その場に集まった面々からの複雑な視線の集中砲火を浴びる霊夢だった。

 




香霖堂に屯する青年と少女たちの話。
幻想入りしてから一ヵ月ということで、チルノ大妖精阿求などと同様に、すでに何人かとは知り合い程度の仲になっている主人公です。
主人公が買ったものとか、能力の性質とかと言った説明は次回次々回に改めて。
それほど大した話ではないんですけどねー。

触れなくてもいい話なのですが、一話ごとの文字数がガンガン増えてます。
今回は8000文字くらいです。
個人的にはあんまりほのぼのとした文字数ではないです。
もう少しコンパクトに纏めたいですねー。


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十三話 萃香騒動 前編

山頂まで届く長い石段を登りきり、ふう、と息をつきつつ博麗神社の鳥居をくぐり参道に入る。

昨日降った雪は積もるほどではなかったが、石段は僅かに凍りつき、足元に気をつけるのに随分神経を使った。

幻想入りしてから一ヵ月。

週に一度の頻度で、俺は博麗神社に通っている。

 

境内に入り辺りを見回すが、霊夢の姿は無い。

外出しているのか、さもなくば母屋の方にいるのか。

 

どちらにせよ、まずは参拝だ。

俺は本殿の前まで歩み寄ると、風呂敷包みをその場に置き、小銭袋からそれなりの額の賽銭を賽銭箱に入れる。

 

賽銭を多めに入れているのは、昨日霊夢に香霖堂で買ったものを届けてもらったという事情があるためだ。

夜間になると活発化する妖怪の危険を考えると、購入品を持ち帰るのは難しいと判断した俺は、博麗神社に帰る霊夢に、少し遠回りしてもらう形で護衛を依頼した。

それに対して霊夢は、「それより私が届けた方が早いわよ」と答える。

ありがたい反面で、自分の不甲斐なさをじんわりと自覚したほろ苦い体験だった。

 

とまあそんな事情はさておき、賽銭を入れて、二拝二拍手一拝と、中途半端に神社の作法を実践する。

実際は他にも鳥居をくぐる前とか、賽銭を入れる前とかにも作法があった気がしたが、覚えてないのはしかたない。

 

ちなみに霊夢に作法を訊いてみたことがあったが、

「覚えてないわよ。そんなの」

と一蹴されたときはさすがに閉口した。

そんなんでいいのか博麗神社の巫女。

 

賽銭ついでに頭の中で願い事を受かべる。

 

とはいえ、博麗神社に祀られている神様が一体なんの神様かは俺は知らない。

霊夢にどんな神様を祀っているのか訊いてみたところ、

「知らないわよ。いないんじゃないの?」

とまたもや一蹴されたときはため息が堪えきれなかった。

そんなんでいいのか博麗神社とその巫女。

 

そんなわけで、俺はいるかどうかも定かではない神様に向かって、取り敢えずはいつも通り、寺子屋の子供たちと慧音さんと阿求さんの無病息災を願う。

 

…………あと、妹紅の無病息災も。

と俺は追加の賽銭を投げ入れ再び目を閉じる。

事情は知らないが、彼女は迷いの竹林と呼ばれる場所に住んでいる。

彼女自身はそこらの妖怪に負けない程度には強いらしいし、自分のことを健康マニアだと言っているのだが、やはり怪我してないか、風邪を引いていないか、何かと心配ではある。

なにかと俺のことを気にかけてくれている彼女が、元気でいてくれますようにと願う。

 

…………あと、鈴仙の商売繁盛も。

再び俺は賽銭を投げ入れる。

先日ついテンションが上がり、妹紅と熱血接客指導を行ってしまったのだが、余計なお世話になっていないだろうか。

鈴仙の置き薬販売が上手くいっているのかどうか、評判は俺の耳にはまだ届いていない。

だが、彼女の敬愛する師匠の薬が売れれば、鈴仙はきっと喜ぶだろう。

そういう意味で、彼女の商売が上手くいきますようにと願う。

 

…………あと、商売繁盛繋がりで霖之助さんの商売繁盛……は、いいか。

と俺は追加の賽銭を掴み賽銭箱に伸ばした腕を戻す。

いや、御賽銭を入れるくらいなら香霖堂で物を買った方が直接貢献できるなあと思ったからであって、決して霖之助さんのことはどうでもいいと思っているわけでない。

本当だからな!

と自分に言い訳をする俺だが、結局は掴んでいた賽銭を賽銭箱に投げ入れた。

それじゃあ何か外の世界の面白いものが見つかりますようにと、開運成就を願う。

 

…………あ、それだったら、アリスと魔理沙も。

二人とも魔法使いだが、彼女たちにはそれぞれ目標があるらしい。

それがどんな目標かは分からないが、今の俺に出来るのは神頼みくらいだろう。

ただの自己満足ではあるが、アリスに対しては礼もすると断言しているので、ある種の表明みたいなものである。

 

この場合は目標達成……でいいのかな、と考えながら、俺は小銭入れに手を突っ込むが、

「あ」

空っぽになっていた。

そりゃあもともとそんなに持ち合わせて無かったからな。

当然である。

 

うーんできればもう少し願い事があったんだが。

無病息災や商売繁盛といえば、善一さんや甘味処のおじいさんとその孫娘、野菜農家のおじさん、酪農家の夫婦、チルノや大妖精他…………あ、これ全然少しじゃないな。

 

ていうか追加の賽銭入れて願い事をどんどん付け足していくって、常識的に考えて図々しいどころか凄く失礼だよな……。

と、冷静になった俺は、謝罪の意味をこめて最後に深々と一礼する。

 

すいませんでした。

 

『へえ、随分熱心に拝んでるねえ』

…………え?

 

突如として響く声に頭を上げる。

だが、辺りに人の気配はない。

 

『何か野望でもあるのかい?』

どこからか響く声が問いかけてくる。

いったい何者なのだろうかと、周囲を注意深く観察するも、声の主の姿はない。

とりあえず答えてみようか。

 

「その、そんな大したものじゃないです。せいぜい知り合いたちの無病息災と商売繁盛と開運成就と……」

いや改めて並べてみたら全然『せいぜい』じゃないなこれは。

 

『随分多いねえ』

謎の声も呆れた雰囲気を滲ませる。

「アハハ……すいません」

俺は頭を掻いて謝る。

 

「それで、あなたは誰……ですか?」

落ち着きなく周囲に警戒を張り巡らせながら問いかける。

相手の正体が全く分からないままに会話するのは普通に怖い。

『誰だと思う?』

逆に問い返され、更に緊張が高まる。

 

「…………」

駄目ださっぱり分からない。

 

妖精の悪戯だろうか。

フィールドワークではここ最近しょっちゅう妨害してくる彼女たちのことだ、博麗神社に訪れた俺を化かしていても可笑しくない。

 

だが、妖精の仕業にしてはどうも違和感が残る。

妖精だったら既に声の主を捕らえられていない俺に、そのまま直接的な悪戯をしかけるか、もしくは怖がらせようとするか、なんにしろもう少し過激なアクションがあるはずだ。

だが、謎の声の主は、俺を試すかのように問いかけてくるだけ。

こんなまどろっこしいことは妖精はしない。

 

……試す……っ、まさか。

 

頭のなかで天啓のように閃くものがあった。

俺は軽く目を見開きつつ、とりあえず視線を本殿やや上へ向ける。

 

「そうか……」

『ん?分かったの?』

 

様子が変わった俺に、姿の見えない声の主が首を傾げる様子を幻視する。

 

「ええ」

幻想郷は人ならざる者たちの楽園だ。

そこに住まうのは人々から忘れられた存在。

それは、妖怪だったり、幽霊だったり、妖精だったり、…………神であったり。

 

「ずばりあなたは……博麗神社に祀られる神様ですね!」

「はずれ」

至近距離からの声だった。

ついでに言えば溜めに溜めての答えだったのに、あっさりとした否定だった。

 

「っな!」

突如目の前の賽銭箱から返答された俺は驚いて尻餅をつく。

そこには、つい先ほどまでいなかった筈の少女が、賽銭箱の上で胡坐をかいている。

 

「アッハッハッハ!いい反応だね悠基」

少女は豪快に笑う。

「なるほどここの神か。私も会えるものなら会ってみたいねえ」

 

彼女は賽銭箱から降りると、いまだ尻餅を着いた状態の俺の傍まで歩みより、手を差し伸べてくる。

「え、あの、どうも」

俺は呆然としたまま応じる。

 

と、次の瞬間とんでもない力で引っ張り起こされた。

頭一つどころか三つほども身長の低い少女の発揮する、抗いようもない程の怪力に俺は再び目を丸くする。

 

「私は伊吹萃香だ。改めてよろしく、悠基」

まるで既に親しい仲であるかのような彼女の物言いに、俺は困惑顔で返す。

「どうして俺の名前を?」

 

「ああ、忘れていると思ったよ」

「え」

どうやら知り合いらしいと察した俺は慌てて記憶を辿る。

が、全く思いあたりがない。

 

というか目の前の萃香と名乗る少女に会ったことがあるのなら、まず間違いなく忘れない自信がある。

細い腕にはめられた重量感のある手錠と鎖の先の錘、そして米神のやや上から伸びている木の枝のような物体と、かなり特徴的な容姿をしている。

 

……ていうか酒臭い。

さすがに霊夢やら妹紅やらと、どう見ても成人していない女の子が酒を飲む様子には慣れてきた。

だが、見た目幼女といっても差し支えない目の前の少女が、昼間から酒気を帯びているというのは、自分の価値観になかなかに衝撃を与える。

 

あー落ち着け俺。

常識に囚われるなー。

ここは幻想郷だぞー。

よし少し落ち着いてきた。

 

「まあ、あの時あんたは潰れてたからねえ」

という彼女の言葉に、俺は眉をひそめる。

「潰れてたってまさか」

 

「そうそう。だいたい一月前くらいに、あんたがここで飲んだときだね」

俺が初めて博麗神社を訪れたとき日の夜のことか。

 

「…………いましたっけ?」

「途中参加だったから覚えてないのも無理ないさ」

萃香はにやりと笑うと、踵を返し霊夢の住居である母屋へ向かって歩き始めた。

 

「着いてきな。今は霊夢はいないけど、まあ上がっていくといい。ちょうど用事があったんだ」

「よ、用事ですか……?」

「そうさ」

家主の許可なく上がるのはどうかと思ったが、とりあえず萃香に着いていく。

 

「ああ、それから」

と着いてくる俺を萃香は振り返りつつ見る。

「敬語はいいよ。言ったとおり私は神じゃないからね」

 

「あ、うん。分かった。それで、君はいったい……」

戸惑い気味の俺の言葉に、萃香はにやりと笑う。

「鬼さ」

 

鬼、といえば最も有名と言っていい妖怪の代表格的存在だ。

姿を見たことは無かったが、幻想郷にも鬼はいると阿求さんから教わっている。

だが、と俺は前を歩く萃香の背中を眺める。

 

俺の知ってる鬼はこんな愛らしい容姿じゃないはずなんだけどなあ……。

 

 

* * *

 

 

縁側から居間へ、障子を開きつつ立ち入ると、炬燵が出ていた。

俺は目を丸くして、炬燵の中を見る。

電気炬燵だった。

ケーブルが熱源部分から伸び、霊夢の居間の隅のコンセントまで伸びている。

 

なぜ、電気炬燵が?そしてあんなところにコンセントあったか?そもそも電力はどこから伸びているんだ?

と、目まぐるしく湧き上がってくる疑問に混乱するが、萃香はそんな俺の様子など気にせず、炬燵に座り、俺を見上げる。

 

「まあ、入っていきなよ」

「あ、ああ……」

俺は困惑しつつも炬燵に入る。

 

……まあなんというか、そういった疑問などどうでもいいかと思える程度に快適ではある。

あったかい……。

 

「それで、用事っていうのは?」

「ああ、これさ」

取り敢えずと尋ねる俺に、萃香はどこからともなく瓢箪を取り出し、炬燵の上に置く。

 

「これは?」

俺は瓢箪を手に取る。

同時に、酒の匂いが漂ってきた。

「お酒が入ってるのか」

「ああ」

萃香が頷く。

 

「いやこの前霊夢が話していてね」

と、期待した眼差しを向けてくる萃香。

 

……あれ、この光景見覚えがある。

 

「悠基、あんたは分身で物を増やすことができるんだろ?」

「そうだけど」

「じゃあ、頼みがあるんだ」

「これを増やせと?」

 

先回りして聞くと満足げに頷かれた。

 

「ああ、いいだろう」

なんで承諾すると思ってるんだ。

 

「悪いけど、無理だ」

「ええ!?」

愕然とした顔でリアクションされる。

見た目も相まって、子供の夢を現実を叩きつけて壊してしまったかのような謎の罪悪感を感じる。

 

「俺の能力じゃあ、一時的に物を分身させることは出来るけど、結果的には物を増えないんだ」

と、俺は昨日を含めて通算三度目の説明をしなければいけないのかと、考えながら答える。

「それに今は、人里に分身を残しているから、これ以上は分身できないし」

 

「つまり、人里の分身が消えれば能力が使えるんだね!」

萃香が満面の笑みを浮かべる。

「え……?」

対する俺は再び困惑顔だ。

 

「いや、そりゃあ分身は出来るようになるけど……萃香?」

萃香の顔を覗き込むが、彼女は満面の笑みを絶やさぬまま、俺を見据えている。

ふと、嫌な予感がした。

 

「あの、萃香、まさ――」

 

と、言いかけた俺の頭に、唐突に記憶が流れ込んできた。

 

 

*

 

 

「じゃあ、いってくる」

と、目の前に置いた小銭入れを手に取るもう一人の俺は、寺子屋の離れから出て行った。

俺はそれを見送ると、慧音さんの授業補佐の準備を始める。

 

二時間後。

今日は年少組の子たちに慧音さんが算術を教えている。

俺は教室の後ろで子供たちの様子を眺めながら、ときどき分からない様子で問題に向かう子供たちに適度にヒントを与える。

だが、今回の問題用紙はいささかレベルが低かったのか、子供たちが皆すらすらと筆を走らせており、助力する必要はなさそうだ。

いや、きっと子供たちがどんどん計算力を身につけているのだろう。

と、前向きに考えた俺は子供たちの背中を見守っていた。

 

「ねえ、ちょっと」

 

唐突に声が上がる。

教室の隅からだ。

驚いて声のした方向を見ると、小柄な少女が立っていた。

寺子屋の子供ではない。

というか、見た目からして妖怪かも……。

教室中の子供たちが振り返る中、慧音さんは驚愕した、というよりも愕然とした様子で少女を見る。

 

「借りてくよ」

 

少女が俺を指差し、慧音さんに言った。

 

「あの――」

と、慧音さんが声を上げようとするが、彼女の答えよりも早く少女は動いた。

刹那だった。

少女は状況が分からず立ち尽くしている俺の眼前に一瞬で迫る。

驚いてリアクションをとる暇すらなかった。

次に俺が辛うじて捕らえた光景は、眼前に迫る、少女の小さな拳で――。

 

 

*

 

 

そこで、流れ込んでくる記憶は止まった。

間違いなくもう一人の俺の記憶であり、記憶が流れ込んだと言うことは、分身の俺がつい先ほど消滅したことを示している。

いや、消滅させられたのだ。

どういうわけか……いや、恐らく能力の一種なのだろう。

目の前に座っている筈の萃香は、同時に寺子屋にも現れた。

俺と同じ分身能力の使い手なのだろうか。

そして、恐らく鬼の膂力を持って、一瞬で、一発で、俺を殺したのだ。

 

「よし、これで分身できるね」

 

頭の中で警鐘がなる。

人里で人を襲ってはならない。

それは幻想郷の掟だった。

しかし彼女は平然とそれを破ってきたのだ。

そして、俺の分身は消えてしまったため、分からないが、今この瞬間も寺子屋の中にもう一人の萃香がいるのだ。

一瞬で大の男を殺せるほどの力を持った彼女が。

 

「さあ、そういうわけで、悠基」

 

…………覚悟を決める。

古来より鬼は危険な種族と伝えられてきた。

恐らく目の前の萃香もその一人なのだろう。

今この瞬間も、寺子屋の慧音さんと子供たちは彼女の脅威にさらされている恐れがある。

迷っている暇は……無い……。

 

「ちょっとその瓢箪を増やし――って、あれ?」

 

俺は炬燵から出て立ち上がると、萃香の隣まで歩み寄り、膝を着く。

 

「どうか」

「あの、悠基?」

 

「俺はどうなっても構わない!!」

 

萃香に向かって頭を下げた。

人生初にして、誠心誠意、全力全霊の土下座だった。

震えが止まらない。

それは100%純粋な、恐怖から来る震えだった。

正直ちょっとちびりそうだ。

 

 

「ちょ、悠基!?」

「だから頼む!!子供たちと慧音さんには手を出さないでくれ!!」

「あ、頭を上げ――」

「頼む!!俺の命だけで勘弁してくれ!!」

「別にそんなつもりは」

「頼む!!!」

 

 

「話を聞け」

話を聞こうとせず、全力で土下座を続ける俺の頭に萃香のかなり加減したであろう拳骨が落ちた。

「あでっ!」

 

 

 

 

 

…………いやまあ、あの状況では早とちりしても仕方ないだろうとは思う。




後編に続きます。続いちまいます。


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十四話 萃香騒動 後編

再び炬燵に入り萃香と正対した姿勢で、俺は眉間に皺を寄せ萃香に問いかける。

 

「つまり……俺が分身できるように寺子屋の俺に攻撃しただけで、害意はないと」

「うん」

「そして、分身の俺なら消しても問題はないと」

「そうそう」

「で、分身だったら人里で人を襲ってはいけないという掟には逆らっていないと解釈したと」

「そういうこと」

「どういうことだよ……」

 

盛大にため息をつく俺に、萃香は「悪かったって」と笑いながら謝ってくる。

全く反省の色が見えない。

特に最後の掟に逆らってないと解釈するって、暗に分身した俺の人権を完全に否定している。

 

分身っていっても両方ともきちんと自我もあるし記憶もある。

お互いをバックアップとして認識しているとはいえ、決して雑に扱っていいわけではない。

積極的に死ぬのはもちろん痛いのも怖いのも嫌なのだ。

消えるから問題ないと一蹴してほしくないのである。

分身しようが人権はあるんですよ阿求さん……。あとチルノも。

 

頭の中で年下の上司とどこぞの氷精にぼやきつつ、萃香を見据える。

 

「……萃香」

「なに?」

「慧音さんに俺が無事なことと、今日中に帰ることを伝えて。その、分身能力みたいなこと、使えるんだよな」

「ああ、いいよ」

すんなりと承諾する萃香。

うん、まあここまではいいんだ。

 

「向こうは大丈夫そうか分かるか」

萃香の能力がどういったものか分からないが、先ほどの会話中に分身を作り出し人里に現れることが出来る辺り、多分俺の能力の上位互換みたいなものだろう。

おそらく、分身した別の自分の情報もリアルタイムで取得出来るのではないだろうか、と目星をつける。

「ああ、ちょっと騒々しかったけど、まあ大丈夫さ」

 

大丈夫じゃなさそうだな……。

俺は頭を抱えつつ切り出す。

「それから、多分向こうは大騒ぎになってるだろうから、俺はもう帰る」

「えー駄目だよ」

「…………」

「まだ悠基にコレを増やしてもらってないからね。困るよ」

萃香は小脇に抱えた瓢箪、伊吹瓢をぽんぽんと叩く。

 

「俺は今まさに困らされてるんだけど」

「まあまあ」

ジト目で萃香を睨むも、どこ吹く風である。

もうほんとこの子……。

「ハァ……」

再びため息がこぼれた。

 

「これを増やせばすぐに解放するってば」

 

仕方ない。

能力を使っても物を増やせないってこと説明して納得してもらおう。

萃香の思惑で能力も使えることだし、実演するか。

「……貸して」

不承不承ながら手を伸ばす。

萃香は期待の籠った目で伊吹瓢を俺に預ける。

 

俺は伊吹瓢を抱えると、目を閉じ能力を発動した。

バチンと頭の中で何かが弾けるような錯覚を感じつつ、目を開く。

 

隣を見ると、コタツから出ている状態で胡坐を掻いているもう一人の俺と目があった。

今回はこっちか。

促すようなもう一人の俺の視線に頷くと、俺は萃香に視線を移す。

 

萃香は二人の俺がそれぞれ抱える伊吹瓢に目を輝かせていた。

「へえ~瓜二つだ。なかなか凄い能力だね」

言いながら、伊吹瓢を受け取ろうと手を伸ばすが、俺は手のひらを突き出してそれを拒否する。

 

「悠基?」

「分身する時に元の場所、分身元って言えばいいのか、この場合は俺のことだけど、仮に俺をAとする」

訝しげな顔で俺を見る萃香に、俺は自分自身を指差しながら淡々と説明を始める。

「そして、分身で現れた方をBとする」

隣に座るもう一人の俺を指差す。

 

萃香は腕を組むと、「ふむ」と頷く。

素直に聞いてくれるようだ。

 

「俺の能力の性質では、AとBは両方とも本物だ。Aが本物でBが偽物って誤解されることもあるけど、少なくともどちらも同じ存在であると俺は認識している」

「うん。そのあたりの事情はなんとなくは分かるよ」

なんとなくで分かってくれているならありがたい。

 

「でも、分身で増やした物体はその限りじゃない」

分身で現れた俺、この場合はBが、伊吹瓢を萃香に差し出す。

萃香は逡巡するように伊吹瓢を眺めるが、少ししてBからそれを受け取った。

 

と、その瞬間、伊吹瓢がまるで蜃気楼のように揺らいだ。

「お」

微かに目を見開く萃香の目の前で、それは霧となり、散って消滅する。

 

萃香は手に持っていたはずの伊吹瓢が消えた空間を暫く見据えた後「なるほど」と頷いた。

 

「分身で増やした物は分身の手元から離れると消えてしまうのか」

「分かってもらえた?」

「うん。物を増やせないっていうのはそういうことね」

 

萃香は口を尖らせる。

「ちぇー。せっかくいい機会だと思ったのになあ」

「いい機会?」

伊吹瓢を渡しながら俺は尋ねる。

その横でもう一人の俺が「さむさむ」とボヤキながら炬燵の一辺に入った。

 

「ああ、まあね」

萃香は頭を掻きながら俺を見る。

「霊夢にやろうと思ったのさ。まあ、そのなんだ、日頃から世話になってるからねえ」

少し顔が赤くなっている。

いや、彼女は酒気を混じらせなから常時顔がやや赤いので、実際には微妙に顔色が変化したという程度だが。

照れてるっぽいな。

 

「日頃から世話に?」

俺が鸚鵡返しに問いかけると、萃香はうなずく。

「私は今は霊夢のとこに世話になっててね。居候ってやつさ」

 

そのわりには今回が一応初めての対面だが、と疑問に思ったが、それを察したように萃香が続ける。

「大抵は外出してるんだけどね。まあ、それでも色々世話になってるもんだから、礼くらいはと」

「ふーん……」

 

それはそれは……。

 

「知り合ってそれほど話してない身で言うのもなんだけど」

「ん?なんだい?」

「お前がそんなこと言うと似合わないな」

 

俺の言葉に萃香は少し気まずそうに視線を逸らし頬を掻く。

「……あんたってそんなこと言うような性格じゃないよね」

 

「まあ、さっきのこと根に持ってるからな」

「うう……だから悪かったって」

「良い話風にしたって許さないから」

「別にそういうつもりで言ったわけじゃないよぅ」

困り顔で謝る萃香に対し俺はそっぽを向き、もう一人の俺はうんうんと腕組みをして頷く。

 

基本的には分身が同じ場所にいるときに喋るのは分身元、萃香に対してAとした俺と決めている。

 

「とにかく、俺はもう帰るから」

俺は、いそいそと炬燵を出る。

と、その様子を見た萃香がやや慌てたように立ち上がる。

「ちょっと待ちなってばあ」

 

俺は無視して立ち上がる。

が、次の瞬間首に衝撃が奔った。

というか萃香が飛びついてきていた。

「ぐぇ」

変な声を出しつつどうにか倒れないように踏ん張る。

 

「ちょ、萃香」

「許してくれるまで離さないよー」

俺の首に腕を絡めたまま離れない萃香を、慌てて剥がそうとするが、凄まじい力で全く剥がせない。

首を完全に絞めない程度には加減はしてくれているのだろうが、流石は鬼である。

 

「く、苦しい」

「許してよー、ねー悠基ー」

くそう可愛い顔で甘えられると許してもいいかなという気分になってしまう。

く、屈しないぞ。屈しないからな、俺は。ちょっと揺らいでるけど。

 

「ねえねえ、あの時あんなに優しくしてくれたじゃないか」

「「え?」」

萃香の言葉に、抱きつかれている俺と炬燵でその様子を他人事のように眺めていた俺の声が重なる。

 

「あ、あの時?」

あの時って、多分一月前にアリスや霊夢、そして聞いたところによると萃香、と一緒にお酒を飲んで酔っ払った結果、記憶が途中から無かった時だよな。

「そうだよー。あの時の悠基、意外に大胆だったなあ」

 

…………はあああああああああああ!?

「ちょ、なに、何をした!?何をした俺!!」

動揺むき出しの俺を萃香はケラケラと笑うが当の本人は笑い事ではない。

 

 

とりあえず現状見た目幼女な萃香に抱きつかれているのもなんか絵的にまずそうな気がしてきた。

だが先ほどから剥がそうにもやはり萃香の力が強くてできない。

ぅゎょぅι゛ょっょぃ……じゃなくて!

あ、いや落ち着け落ち着け、分身を解けばいいんじゃないか。

 

俺は自分の体が解けて消えていく様をイメージする。

いつぞやの、胸を刺し貫かれて霞のように消え行く様を想起する。

ほどなく、俺の意識は溶けていった。

 

 

 

 

目の前で萃香に抱きつかれている俺が霞となって消えていく様を眺めながら、記憶が流れ込む。

うん、幼女に抱きつかれて動揺している様は我ながら中々に滑稽である。

自分のことだからそういう感想を抱くとそっくりそのまま自分に帰ってくるわけだが。

 

俺の消滅に伴って空中に投げ出されるような形になった萃香は「おっと」と声を上げながら着地した。

 

「あれ?」

萃香は目を丸くして俺が消えた空間を眺める。

「ねえ、悠基」

「なんだ」

 

「今消えたのは、Aだよね」

「ああ。そうだけど」

「で、あんたがBと」

「そうだな」

萃香は首を傾げる。

 

「じゃあ、あんたが着ている服は分身した物じゃないのかい?」

「ああ……」

俺は萃香の言いたいことに察しが着く。

「そうだな。確かにこれは分身によって作り出されたものだ。でも、そうだな……俺にとっては、分身した俺と同様に、分身して作り出したものも一応は本物……ていうか」

どう表現した者かと未だに悩む。

 

「ああ、分かったよ」

萃香はそんな俺を見て察したのか、一人頷く。

「つまり、悠基の体と同じように、能力で分身した物も、悠基の手元から離れない限りは本物である可能性を有してるわけだ」

「えっと……うん。多分そんな感じ」

萃香のまとめに、俺は微妙に理解していないままに頷く。

 

「へえ、そいつはまた、とんでもない……変な能力だね」

結局俺の能力に対する萃香の感想は魔理沙の感想と同じものに落ち着いたらしい。

 

「なあ、それよりも萃香」

一方の俺は、一人で勝手に腹をくくり、萃香を見る。

 

「どうした?」

「その、俺はあの時、つまりこの前ここで飲んで酔っ払ったときだけど、何をしてた?」

「聞きたいのかい?」

 

萃香は可笑しそうに笑う。

霊夢も、俺が同じ質問をしたとき同じ返しをしてたな……。

あの時は聞かないことにしたが、そろそろ真実を知らなければならないようだ。

と、大げさに自分の中で覚悟を決める。

 

「ああ、教えてくれ」

真剣な眼差しを向けてくる俺に、萃香はニヤケ顔を浮かべながら応じる。

「いやあ、あの時はねえ――」

 

と、萃香が口を開いた瞬間。

 

スパン。

と、空を切るような音と共に縁側へと通じる障子が開かれる。

冷たい外気が入ってくるのを感じながら見ると、そこには

「れ、霊夢?」

まさしく家主たる霊夢が、障子を両手で押し開いた体勢で立っている。

 

霊夢はその体勢のまま、萃香を睨む。

その姿に言い知れようの無い圧力を感じ、俺は息を呑む。

あ、これ完全に怒ってるな。

と、俺が察したのと同時に、霊夢が口を開く。

 

「す~~~~い~~~~か~~~~……」

「やあ霊夢おかえり」

笑顔で家主を出迎える萃香。

一見平然としているように見えるが、その頬に冷や汗が流れているのを俺は目撃した。

 

と、霊夢が目にも留まらぬ動きで右腕を懐に突っ込み、次の瞬間居合いでもするかのように引き抜きながら腕で空を切る。

同時に彼女の手から何かが放たれ、引きつった笑みを浮かべる萃香の顔面に、張り付いたのはお札だった。

恐ろしく速い動作で札を投げた霊夢は、怒り心頭といった様子で声を上げる。

 

「この」

事態が把握できずその光景を呆然と眺めるしかない俺の目の前で、霊夢が跳躍し、

「大馬鹿っ!!!」

次の瞬間、札の張り付いた萃香の顔面に、あまりにも容赦の無い、しかし形としてはきれいなドロップキックをお見舞いした。

 

「ぐわ!!」

萃香が吹き飛び、襖を巻き込みつつ、奥の部屋の壁に激突する。

 

「え、霊夢、え」

と、目の前で繰り起こされたあまりにもな光景に俺が動揺した声を出すが、霊夢はそんなことなどお構いなしに、追撃とばかりに、萃香に飛び掛る。

どこからともなく取り出した幣――霊夢曰くお払い棒だが――で「痛てて」と起き上がる萃香の頭をベシベシと叩き始めた。

 

「あんたバカじゃないのホントにもう何考えてるのどれだけ騒ぎになってるか分かってるの!?」

「痛い!痛いよ霊夢!ごめ、ごめんって、ごめんってばあ」

捲くし立てながらお払い棒を振るう手を止めない霊夢に、涙目になって謝る萃香。

 

さすがにちょっと可哀想に見えてきた。

止めに入った方がいいかなと迷い始めていると、背後で再び気配がした。

 

「?」

振り返ると、額に青筋を立てた女性が立っている。

 

一方的ではあるが、知った顔だった。

腰の辺りから太い黄金色の尾が何本か生えており、一目で妖怪と分かる女性。

人里の蕎麦屋や豆腐屋などで見かけたことがあった。

 

「はあ、全く……」

と、疲れたようにため息をつく彼女からは、どこか苦労人じみた気配を感じる。

「君が岡崎悠基か」

「はい」

俺へと視線を移す彼女に首肯する。

 

「私は八雲藍と申します。この度は萃香殿がご迷惑をおかけして、誠に申し訳ない」

深々と頭を下げる藍と名乗った女性に対して、初めて話す俺は慌てて対応する。

「い、いえ、そんな……頭を上げてください」

そんな俺に対し、藍は頭を上げるとやはり疲れたような笑みを浮かべた。

 

そして霊夢に叩かれ続けている萃香に視線を移す。

「萃香殿、今後人里でこのような振る舞いは自重してください」

「ああ、悪かったよぅ」

両手で霊夢のお払い棒をどうにかガードしようと試みる萃香が応じる。

 

「全く、紫様が先日冬眠に入られたばかりだというのに」

眉間に皺を寄せながら藍が呟くと、

「逆よ。紫がいないからハメをはずしたのよコイツ」

と、萃香のガードを躱しつつお払い棒を振るう霊夢が応じる。

 

「いやあ、紫がいないんなら、その分怒られないかなーって」

「その分私が叱ってあげるから覚悟しなさい」

萃香の申し開きに、霊夢のお払い棒が振るわれる速度が速くなる。

「い、いた、ひええ~」

 

先ほどから名前の挙がっているユカリ……なる人物、もしくは妖怪は、以前もどこかで名前を聞いた。

この様子からして三人の共通の知り合いのようだが、どんな人なんだろうと疑問に思う。

 

「ああ、悠基、君を人里に送っていこう」

俺が疑問を口に出す前に藍が切り出してくる。

「なんとか落ち着かせてきたが、人里でもかなり騒ぎになっててな」

「ああ……だろうね」

「うむ。早く慧音と子供たちに無事な姿を見せて安心させてやってくれ。では、霊夢、萃香殿、私たちはこれで」

 

「ええ、手間かけるわね、藍」

相変わらず萃香を叩き続ける霊夢。

「じゃあね、悠基。今回はご愁傷様」

 

「アハハ……」

俺は乾いた笑い声を上げつつ、手を振る。

「ああ、それから霊夢、昨日言ってた筍のおすそ分け、賽銭箱のところに置いてあるから」

「ええ。助かるわ」

 

「それじゃあ。萃香も」

「あ、悠基」

別れの言葉を告げて背を向けようとする俺を萃香が呼び止める。

 

「またね」

と、笑顔を浮かべる萃香。

目を細め、まるで慈しむかのような笑みは、これまでの彼女のそれとは明らかに違うものだ。

 

「ん?…………ああ……?」

俺はその笑顔に、言い知れようの無い何かを感じた。

だが、結局なにかは分からず、普通に頷く。

「今度はこんなことしないでくれよ」

 

俺は今度こそ背を向け、霊夢と萃香に後ろ手に手を振りつつ、縁側に出て靴を履く。

後ろの方で「一ヶ月禁酒の刑よ」「ええ~~!?」という悲痛な叫びを交えたやりとりが聞こえた。

 

「さて、では行こうか」

「ああ。頼むよ」

隣に立つ藍の言葉に頷く。

 

「では失礼」

と、藍が俺の背後に回った。

 

「え?」

俺が間抜けな声を上げ振り返ろうとするも、次の瞬間俺の体が抱え上げられる。

 

……気付くと、藍によって抱きかかえられていた。

というか、お姫様抱っこされていた。

 

「え?ちょっ」

「しっかり掴まっていなさい」

動揺する俺を尻目に、藍は空中を見上げ、次の瞬間、重力を感じていないかのように軽い動作で跳躍した。

否、跳躍ではなくてそれは、飛行だった。

 

初めての飛行体験に俺は一種の感動を覚えるが、今はそれどころではない。

「ちょ、藍」

「ほら、早く掴まれ」

上昇に伴う風の音に負けないように声を上げるが、藍は上昇を止めない。

掴まるって……この姿勢で掴まるって抱きつくような形になれってことだよね!?

 

下がっていく気温とは裏腹に、俺は顔が熱くなるのを感じた。

「あ、あの、藍」

「何か?」

「ちょっと、この姿勢は男として恥ずかしいというか……」

「すまないが我慢してくれ」

「そ、そんなあ……」

 

結局俺は耳まで顔を赤くし、お姫様抱っこをされた状態で人里まで送られるのだった。

めっちゃ恥ずかしい……。




能力の説明が下手すぎて、なんでこんな面倒な能力にしたんだ自分、と後悔してなくもないです。
前々回の香霖堂回もそうですが、主人公は阿求の仕事以外にも、個人的な用事で、定期的に人里の外に出ています。

というわけで、次回もよろしくお願いします。ほのぼの!


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十五話 天下取り

稗田邸の書斎は、阿求さんの仕事部屋でもあり、俺がその日の里の外での調査報告をする場でもある。

今日は珍しく、分身を消したり消されたりといったことがない、有体に言えば生還したわけだが、同時に妖怪を見かけることもほとんどなく、成果は非常に芳しい。

 

「……とまあ、そんな具合です」

俺は手帳に記したメモを確認しつつ、短い口頭報告を締めくくる。

 

「まあ、言い様によっては平和、ということでしょうか」

「そうかもしれませんね」

阿求さんのコメントにしては、辛辣な言葉がないので密かに安堵する。

 

「ふむ、まあ、今年も残り僅かですし、次のお仕事はまた来年としましょうか」

「あと一週間ほどで今年も終わりですね」

僅かと言っても仕事納めには早いと思ったが、恐らく年末年始と稗田家でもいろいろと忙しいのかもしれないと俺は勝手に納得する。

 

「ええ。それでは、今年はご苦労様でした。来年もよろしくお願いします」

「あ、こちらこそ、よろしくお願いします」

礼儀正しく頭を下げる阿求さんに、慌てて応じる。

しかし、さすがは豪邸のお嬢様……いや、当主と言うべきか、お辞儀一つとっても様になってるように見えてしまう。

 

「ああ、そういえば」

と、頭を上げた阿求さんが俺を見つつ口端を上げる。

「聞きましたよ」

「何をですか?」

「悠基さんの噂ですよ」

「ああ…………」

 

俺は頭痛がするのを感じ眉間に皺を寄せる。

「どういった内容ですか」

「そうですね、一番酷いものだと……」

阿求さんはクスクスと笑いながら話し始める。

 

一週間前、寺子屋で萃香に襲われた俺だったが、その時の話が盛りに盛られて広まっているらしい。

 

実際のところは意味も分からないまま瞬殺されただけなのだが、それがどういう訳か、萃香と死闘を繰り広げたことになっている。

というか噂の出所は間違いなくその場に居合わせた寺子屋の年少組の子供たちだ。

そこから子供特有の感性で寺子屋の生徒を中心に噂に尾ひれがつけられながら広まった結果、鬼と戦った外来人というとんでもない称号が付けられている。

 

「一週間ほど前、突如として寺子屋に現れた鬼から子供たちを護るために丸一日の死闘を繰り広げ、最後に草薙の一振りで鬼を打ち負かした、とか」

「……とうとう倒しちゃいましたか」

昨日聞いた話ではまだ追い払った、という程度だったはずなのだが。

草薙の剣は一体誰が入れ知恵したんだ。

 

「ふふふ、一躍里の人気者ですね」

「いや、笑い事じゃないんですよ実際に」

俺は頭を抱えたくなる衝動を堪えながら応じる。

 

「里の退治屋さんには商売敵として見られますし、子供たちにはやってもいない戦いの話をせがまれますし、親御さんに感謝されたときはもう罪悪感すら感じてますし……」

「誤解は解かないんですか?」

「それはもちろんです。むしろ積極的に誤解だと伝えて回ってるんですが……その……」

「逆に強さをひけらかさず謙虚な方だと評されているわけですね」

「……見てたんですか」

「ふふふ。途方に暮れてましたね」

「アハハ……ハア……」

 

心から可笑しそうに笑う阿求さん。

彼女のこんなにも無垢に笑う姿は初めてだ。

まあ俺は乾いた笑いしか返せないが。

 

「まあ、人の噂も七十五日と言いますし、その内噂も落ち着くでしょう」

「…………ですね」

それでも暫くは誤解を解いて回る必要がありそうだと、俺は内心ため息をついた。

 

 

* * *

 

 

翌日、阿求さんから暇を頂いた俺は里を歩いていた。

 

今日は慧音さんの寺子屋も年末前の最後の授業を控えた休日ではあったが、里の中での用事があった。

だが、家での作業もあり、分身が家で控えている。

 

朝からちらほらと雪が降ったり止んだりを繰り返していた。

積もらない程度に降る雪は、地面を泥濘らせており足場は非常に悪い。

ただ、この日の俺はどこか浮かれていて、足元に気をつけながらも足取りは軽く、鼻歌さえ歌っていた。

 

「ふんふんふーん」

と、口ずさむのは『ジングルベル』。

今日は12月25日、クリスマスだ。

 

と言っても幻想郷にはクリスマスを祝う習慣もなく、人里もいつも通り、大晦日や正月に備えた年末ムードである。

特に何かがあった訳ではない。

ただ、子供に夢を与えるこの日が、俺は無性にワクワクする。

別にこの歳になってサンタを信じているわけでも、親にプレゼントをせびるわけでもないのだが、おそらく子供の頃の記憶が自然と気分を高揚させるのだろう。

いつまでも少年の心を忘れないって、大切なことだよなうんうん。

 

「あ、先生」

「ゆーきせんせー!」

浮かれる自分を騙しながら歩いていると、背後から声をかけられた。

 

「お。春、伍助、こんにちは」

寺子屋の年長組、年少組で通う兄弟に軽く手を上げる。

 

「こんにちは、先生」

「こんにちは!」

挨拶は必ずすること、というのは慧音さんの教えで、それを怠ると厳しい罰則の頭突きが待っている。

二人とも、どうやらその教えは身に着いているようだ。

 

「おお、いい挨拶だ伍助」

「だろー!」

ちなみに、うっかり者の弟、年少組の伍助の場合は、頭突きが身に染みていると言った方が正しい。

 

「ご機嫌ですね」

姉であり年長組の生徒でもある春がクスクスと笑う。

鼻歌を聴かれていたようだ。

 

「ああ、聴かれていたか」

声を抑えていたとはいえ、聴かれてもいいか程度には開き直っていたいたが、それでも若干恥ずかしい。

 

「先生はどちらへ?」

「ああ、最近生徒たちに噂になってる物を見に」

「先生のことですか?」

「そっちの噂はいいから」

春の返しに俺は苦笑する。

 

「私たちもそれを見に行こうとしてました」

「ああ、でもこの天気だからな。ちょっと微妙かなあとは思ってるんだけど」

今はまだ曇っている程度だが、灰色の空からは、いつ白い雪が降ってきてもおかしくない。

 

「絶対やるって!絶対!」

「弟がこう言っているので」

伍助の力強い言葉に春が眉尻を下げる。

 

「せんせーも行こうぜー」

「そうか。じゃあ、俺もご一緒しようかな」

「ええ、では行きましょうか」

伍助の提案に俺が応じると、春が微笑む。

俺たち三人は、泥濘に気をつけながら歩き始める。

 

「そういえばせんせー」

「ん?」

「さっき歌ってたのは何の歌なんだ?」

「ああ、『ジングルベル』か?まあ……遠い異国の歌だよ」

「どんな歌なんですか?」

「ああ……」

 

教え子たちにクリスマスの定番ソングを教えながら、俺は目的地に向かった。

 

 

* * *

 

 

「ジングルベールジングルベール鈴が鳴る♪」

「ヘイ!」

「今日は楽しいクリスマス♪」

「ヘイ!」

春が歌い、伍助が合いの手を入れる。

 

にこやかに『ジングルベル』を歌う兄弟は、見ているだけこっちまで楽しくなってしまうほど微笑ましい光景だ。

ついつい頬が緩みそうになる。

うちの教え子超可愛い。

 

とはいえ、にやけ顔で同行していると変質者として見られかねないので我慢する。

せちがらいぜ……。

 

「あの、先生」

春が戸惑った様子で尋ねてくる。

 

「ん?どうした春」

「この合いの手って本当に必要なんですか?」

「ああ。必須だ」

 

「……嘘ですよね」

我慢していたつもりだが結局顔に出ていたようだ。

「まあまあ、伍助も楽しそうだし」

「へい!」

「そうなんですけど」

 

しれっと嘘を交えつつ二人と歩いていると、人だかりが見えてきた。

「お、どうやらやってるみたいだな」

だいたい30人ほどか。

大半が子供だが大人も予想以上に多い。

 

「やったー!」

「あ、こら!」

伍助が歓声を上げ人だかりに突っ込んでいくと、春が慌ててその後を追う。

そんな二人を微笑ましく思いながら、俺もゆっくりと人だかりへ近づいた。

 

「お、いたいた」

子供たちの頭越しに、目的の人物を見つける。

 

たくさんの人形が宙を舞い、慌しく作業をしている。

その中心に立つのはアリスだ。

 

最近寺子屋の子供たちを中心に、たまに里で催される人形劇が話題になっている。

だいたい一月ほど前、俺が幻想入りしてから少し立った頃から催されているようで、子供受けの良い童話や昔話などを題材に、人形たちがまるで生きているかのような立ち振る舞いで演じているらしい。

それにしても、小さいとは言え舞台セットまで組み立てられたりと、予想以上に本格的だ。

 

「よお悠基」

声をかけられ振り向くと、いつもの魔女スタイルに、手編みなのか毛糸のマフラーを分厚く巻いた魔理沙がヒラヒラと手を振りながら近づいてくるところだった。

「やあ、魔理沙」

 

「お前も見に来たのか」

「魔理沙もかい?」

「いや、私は主催側だ」

「主催?」

俺は隣に立つ魔理沙と作業中のアリスを交互に見る。

 

「へえ、魔理沙とアリスの二人でやってたのか。それは知らなかった」

「いや、いつもはアリス一人さ。今回はまあ特別だ」

「特別って?」

「脚本を書いたのさ」

「魔理沙が、か」

そういうの書けるのか。

 

「私が、だぜ。意外って顔してるな」

「……それは、まあねえ」

「まあ見てな。今回のは悠基でも楽しめる話だ」

「ふーん。どんな話?」

「もちろん、見てのお楽しみだな」

「じゃあ期待しとくよ」

「ふふん」

魔理沙はやけに得意気だ。

 

「しかし、思ったよりも盛況だな」

「ああ、私もこの前初めて知ったんだが、まさかアリスがこんなこと始めてるとは思わなかったぜ」

そこでふむ、と魔理沙は腕を組む。

 

「なあ悠基」

「ん?」

「アリスがあんなことを始めたのはお前が幻想郷に来てかららしい。何か知らないか?」

「うーん……さあ。少なくとも俺は関係ないと思うけど」

「そうか」

首を傾げる魔理沙を横目に、俺はなんとなく心当たりがあった。

 

俺がアリスに案内され人里を歩いていたときの、アリスと慧音さんの会話を思い出す。

『魔理沙の言うところによると、君はいつも家に篭りきりだそうじゃないか』

『アイツ……』

 

まさか、そんなことを気にして……いやいやまさか。

さすがにそれは邪推しすぎか。

いやでも意外とあるかも……。

 

そんなことを考えていると、周囲のざわめきがだんだんと静まっていく。

見ると、人形用の小さな舞台が完成しており、アリスがその横に立ち観衆をゆっくりと見回す。

アリス自身は一言も発していないが、その振る舞いが、始まることを示している。

 

「お、始まるようだな」

「ああ」

俺にしか聞こえないように声を抑えた魔理沙の囁きに頷く。

 

「ちなみにだな」

「ん?」

「話の題材は、今一番ホットな話、だぜ」

「…………」

 

とても嫌な予感がする。

 

 

* * *

 

 

さて、アリスの人形劇だが、かなりの大盛況に終わった。

公演中も人が増え、気付くと50人近い人々が皆アリスの人形劇に見入っていた。

 

そんなわけで、公演も終わって一刻ほど。

片付けも終わったアリスは、俺と魔理沙とともに里を歩いている。

俺たちの後ろでは、巨大なトランクを抱えた上海と蓬莱がふよふよと飛びながら着いてきていた。

「いやあ、中々に賑わったなあ」

「ええ」

隣を歩く魔理沙が満足げに笑うと、アリスも口元に微笑みを浮かべながら頷く。

 

魔理沙の告知通り、アリスの人形劇は最もホットな話、つまり俺と萃香の誇張された話だった。

昨日阿求さんから聞いた話以上に壮大に脚色され、萃香と俺の死闘は三日三晩におよび、最後には致命傷を負った俺の最後の一振りが萃香を捉え、相討ちとなり果てていた。

突っ込みどころ満載の混沌とした内容だったがそれでも要所要所に魅せる物があった。

 

「ほんとに、見事な劇だったよ」

俺はというと、額に手を当てたうんざり顔を見せていた。

 

「ハハハ、悠基も気に入ったか」

「ああ、正直なところ、出来が良かっただけに複雑だ」

最後の方とか俺死んでたし。

 

「その言葉が引き出せたなら、まあ合格だな」

魔理沙はうんうんと頷く。

 

「ていうか、いつの間にあんな演劇準備したんだ?噂が流れたのなんて最近だったのに」

「ああ、脚本は半日とかからなかった。題材が良かったからな、筆が乗って昨日だけで仕上がった」

「え?昨日?脚本を書いたのが?」

「ああ」

でもそれだと準備期間が一日もないような気が。

 

「夜鍋して作ったわ」

魔理沙を挟んでアリスが主張する。

相変わらず表情に変化が乏しいが、どこか誇らしげにも見える。

 

「す、凄いな」

噂を広めたくない当人としてはなんでそんなに張り切ったのか問い詰めたいところだったがぐっと堪える。

 

そんな調子で話していた俺たちが到着したのは、寺子屋だ。

更に言えば、寺子屋の離れ、俺の住むところである。

「そういえば、なんで悠基の家に用事があるんだ?」

「なんだ、知らずに着いてきてたのか?」

俺の家に用事があるのはアリスだ。

魔理沙は流れで俺たちに着いてきている。

 

「まあな。……やっぱりお前たち、そういう関係なのか」

ニヤリと笑う魔理沙に、俺は軽く嘆息を交えつつ応じる。

「好きだな。そういう話」

「ああ、恋と魔法は魔女には不可欠だからな」

さいですか。

 

「理由なら魔理沙も知っているはずだけど」

「ん?」

アリスの言葉に魔理沙は首を傾げる。

 

「この前香霖堂で話してたでしょ」

「……ああ、思い出したぞ。大妖精の防寒具か」

 

大妖精に防寒具を持って来ることを約束していた俺だったが、先日香霖堂でアリスに会った際に、ふと思いついて依頼したのだ。

一週間ほどしたら持っていくと聞いていたのだが、寺子屋の子供たちの間でアリスの人形劇が今日行われるとの噂を聞いて、里に訪れるのならついでに持ってくるかもしれないと予想したら、案の定だった。

 

「ただいま」

引き戸を開け、離れの玄関に入る。

「おう、おかえり」

と、奥の方で『作業』しているもう一人の俺が答える。

傍目から見ると非常に奇妙な光景だが、さすがにこんなやりとりを一ヶ月もやっていた俺は既に慣れてきた。

 

「邪魔するぜ」

「ん?魔理沙か?」

もう一人の俺が顔を出した。

アリスが来る可能性は考えていたが、魔理沙の方は予想外だっただろう。

 

「おう。ていうか悠基、分身なんてして何してるんだ?」

魔理沙が二人の俺を交互に見る。

 

「別に、大したことじゃないよ」

俺が応じる。

「それに、なかなか成果も得られないし」

最後は自虐が混じっている。

 

まあ、正直なところすぐに作業の結果が身を結ぶとは思っていなかったが、一ヶ月も長引くと少し凹むところもある。

毎朝寒い中頑張ってるのになあ……。

 

「ああ、その成果だけど」

ふと、もう一人の俺が切り出した。

「奥に準備してるよ」

その顔には、笑みが浮かんでいた。

 

もう一人の俺の言葉に、俺は目を見開く。

「え?出来た……のか?」

「ああ。ばっちり」

 

「悠基?」

「随分嬉しそうだな」

アリスが分身した俺たちのやりとりに首を傾げ、魔理沙が呟く。

 

だが、俺は、俺たちは、気分の高揚でそれに答える余裕がない。

「ついに?」

「ついに」

「マジで?」

「大マジ」

「嘘じゃない?」

「ホントホント」

「ドッキリじゃないよな?」

「しつこい」

 

興奮を抑えきれない俺にもう一人の俺は苦笑し分身を解いた。

途端に、もう一人の俺の記憶が流れ込んでくる。

子供のように顔を輝かせる俺の顔が最後に映り、我ながら恥ずかしくなってくるがそれどころではない。

 

「ちょっと待ってて!」

俺は困惑ぎみのアリスと魔理沙に後ろ手に伝えると、奥の作業場に駆け込む。

 

現物を見て、歓声を上げた。

予想通りの仕上がりだ。

さすがは俺と、この時ばかりは諸手を上げて喜ぶ。

 

その声に、「なんだなんだ」と魔理沙たちが着いてくる。

俺はそんな二人を振り返り、頬が緩むのに任せ再び満面の笑みを浮かべる。

平らな皿の上に盛られたそれを慎重に持ち上げ、彼女たちに掲げる。

 

「それは?」

アリスが首を傾げる。

 

「ショートケーキさ」

俺は告げる。

この一ヶ月の成果物の名前を。

それでもってテンションが可笑しいことは自覚しつつ、後になっていじられようが構うものかと宣言する。

 

「俺はこれで、幻想郷の天下を取る!」




現状における主人公は、能力がある以外は、一般的な大学生と同程度のスペックです。
そんな彼に幻想郷での立ち居地を確立させるための結論としてこのような形になってます。
言い訳ですが幻想郷は明治初期頃から文化的な進歩はしていないと考えると、洋菓子についてもほとんど普及していない、という設定です。
こういった具合にこの作品内でぼかしている謎についてはぶっちゃけそれほど大したオチはつけていません。
ほのぼのなので仕方ないです。


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十六話 成果

前回からの続きとなっています。


ホールの……といっても円柱型ではなくドーム型のショートケーキを八等分を想定して切り分けた俺は、アリスと魔理沙、そして自分でも試食するために一切れずつ小皿によそう。

このときのために用意した数本の銀製のフォークは、里のとある道具屋でそれなりの大枚を叩いて購入したものだ。

わざわざ言うようなことでもないので魔理沙には黙っておくが。

 

作業場と称した奥の部屋から、普段の生活で使用している玄関前の部屋のちゃぶ台に切り分けたケーキを並べ、三人で卓を囲む。

 

「上海、蓬莱、ご苦労様」

アリスが巨大なトランクを運んできた二人を労う。

その光景を尻目に、魔理沙は目の前のケーキを興味津々と言った様子で観察する。

「ショートケーキねえ。外の世界の食べ物か?」

 

「そんなところかな。っとと」

トランクを置いた上海と蓬莱だが、久しぶりの俺との再会が嬉しいのか、一直線に俺に向かってとんでくると、胡坐を掻いた膝の上に着地する。

なんだこの可愛い生き物……まあ生き物ではないんだろうけど、普通に心癒されるので頭を撫でてやる。

 

そんなことを思いながら、魔理沙の質問に答える。

「まあ、ショートケーキといってもこれは俺としては不完全だな」

「不完全?」

「まあね。ショートケーキといえばそのトッピングに使うのは苺だ。ショートケーキイコール苺と言ってもいい。他の果物も使われるがやはり王道といえば苺だろう」

「これは……ジャムか」

俺の熱い語りを、おそらく半分以上聞き流しながら魔理沙が呟いた。

 

「……その通り。流石にこの季節に苺は用意できなかった」

「確かに苺の収穫時期は春だものね」

アリスも魔理沙と同様に目の前のケーキを観察する。

「でも、いくら保存のきくジャムとはいえ、手に入れるのは難しかったんじゃない?」

 

確かにアリスの言うとおり、幻想郷にはビニールハウスも温室といった季節はずれの果物を育てる施設もないし、冷蔵庫や冷凍庫といった長期保存できる機器ももちろんないので、真冬のこの季節に苺のジャムを入手するのは難しかった。

しかしながら奇跡的に、商家の地下倉庫に保管された僅かなジャムを、こちらもそれなりの額で譲ってもらった。

 

「ああ。正直なところ幻想郷に来て一番の出費と言っても過言ではなかった。阿求さんのところで働いてなかったら借金をする可能性すらあったね」

「……さすがにそれは冗談だろう」

「半分くらいは」

「半分か……」

困惑顔の魔理沙に真顔で答えると、魔理沙は呆れ顔になり額に手を当てる。

 

「しかし、それだけの価値はあるはずだ。今回はケーキの試作がなんとか形になったのを祝して、ふんだんに使用した」

苺ジャムの使用を判断したのは分身の俺だが、グッジョブだ。

「さあ、せっかくだし、試食してってよ」

 

俺の言葉にアリスと魔理沙は互いの顔を見合わせると、フォークを使い一口分、口に運んだ。

それを見届けた俺も、一旦上海蓬莱を撫でるのをやめ(ずっと撫でていた)、目を閉じて自分のケーキを一口味わう。

 

うむ。

やはり味は少々荒いが概ね予想通り。

自分なりに調査した結果、幻想郷にはパンはあってもケーキがないことは確認済みだ。

ならば、このクオリティのケーキはそれなりに流行るのでなかろうか。

特に、苦労して完成にこじつけたホイップクリームの食感は俺の世界の物と比較してもそこまで劣ってない……と思う。

とはいえ、やはりジャムではなく普通の苺を使いたかったなあ。

いやでもいい出来だ。きっと、いや絶対流行る。

と、俺は確信を持ちながら目を開いた。

 

「どう?」

目の前の二人の少女に感想を請う。

 

「そうだな」

まず魔理沙が切り出した。

「黄色いのは、パンかと思ったが、食感が違うな。どちらかといえばカステラに似てる」

 

「え?あ、ああ。そこはショートケーキの土台、スポンジケーキだよ。確かにカステラにも用いられる薄力粉を使っている。とはいえ、この食感で焼き上げるのは大変だった。外の世界ではオーブンを使うけど、こっちにはオーブンも型も無いからね」

魔理沙には理解できない単語が混じることを承知しつつも、俺は説明を続ける。

「形がドーム状ぎみなのは土鍋を使って焼き上げたからだ。だが、それよりも常に火力を一定に保つのが大変でね。里の鍛冶屋の子にコツを教えてもらいなんとかこの質まで仕上げたんだ」

 

「ふむ。よくは分からんが、随分と研究してるようだな」

魔理沙が腕を組み頷く。

正直なところ語りすぎかもと自覚はしていたのだが、魔理沙が案外普通に聞いてくれたのは素直に嬉しい。

 

「これは、牛乳?」

アリスは口の中の食感を確かめるように目を閉じる。

「不思議な食感ね。口の中で溶けていくわ」

 

「ホイップクリームだな」

俺はうんうんと頷く。

「このクリームの作成が一番苦労したんだ。何しろ外の世界では生クリームから作るんだけどこっちにはそんなものないからね。生乳の脂肪分を濃くしたもの程度の知識はあったけど、さすがに製法までは分からなかったから、それなりに試行錯誤したんだ」

 

「生クリームからってことは、その生クリームを加工してこのホイップクリームとやらを作ったわけだな」

魔理沙が二口目を口に運びつつ言う。

「ホイップ……whipかしら?この場合は刺激した生クリームということ?」

「いや、多分だけど、泡立てたって意味だと思うよ」

首を傾げるアリスに、俺は自信がないながらも答える。

 

「スポンジケーキもなんだけど、ケーキの材料は泡立てて細かく空気を入れて作るんだ」

「なるほど、だからこの食感なわけね」

「ああ。ちなみにこの泡立て作業だけど、霖之助さんのところで買った道具のおかげで随分捗ったんだ」

「香霖か?ああ、そういえばこの前後生大事になにか抱えてたな」

「そのときに買ったのがステンレス製のボウルと泡立て器だ。それまでは菜箸を束ねた物と木製のお椀で代用していたが、やっぱりこっちの方が断然良かったね。まあ、霖之助さんにとっては泡立てるための道具というものにそこまで意義があるのか疑問だったみたいだけど」

 

「しかし牛乳ねえ。その様子じゃそれなりに材料を使ったんじゃないか?」

「いい質問だ魔理沙」

「いい質問なのか」

「いい質問だとも。なにしろ材料の工面も頑張ったからな」

正直ちょっと褒められたいところでもある。

 

「報酬の卵と牛乳のためにほぼ毎朝、日が昇る前に起床して里の農家の手伝いをしていたんだ。二人が今食べてるそのケーキも、今朝花子の乳を搾って採ったものだよ。あいらには随分世話になったな……」

俺はここ一ヵ月掃除やら餌やりやらで世話をした乳牛たちの姿を思い起こす。

 

「あ、ちなみにちゃんと煮沸処理してるから雑菌は大丈夫なはずだ」

「あ、ああ。別にその点は心配してないが、この季節に毎朝か」

「毎朝さ。暖かい布団から出るのはすさまじい試練だった」

「そりゃ大変だっただろうな……大したもんだぜ」

「ありがとう魔理沙。もっと褒めてもいいぞ」

「お、悠基。随分浮かれてるな」

「もちろん。有頂天だ」

鼻高々に胸を張る俺。

 

と、そんな俺の顔にアリスがちゃぶ台から身を乗り出して、手を伸ばしてきた。

…………え、なに?

「あの、アリス」

俺は驚きながらやんわりとアリスの手を止める。

「この手は何かな?」

「何って、褒めろって言うから」

「言うから?」

「頭を撫でようかと。上海と蓬莱も喜んでるし」

……なるほど?

 

「……普通に恥ずかしいんで勘弁してください」

「そう」

アリスは手を引きながら体勢を戻しつつ俺に問いかける。

「落ち着いた?」

 

首を傾げるアリスに、俺の中で「ああ、そういう」と合点がつく。

「……ああ、頭が冷えたよ。あの、鬱陶しかった?」

「少し」

少しじゃなかったんだろうな……。

「……そっすか」

 

「悠基。その割には顔が赤いぜ。私が代わりに撫でてやろうか」

「うるさい。あまり大人をからかうなっ」

自分の頬がやや染まっていることを自覚しつつ魔理沙に対して少し口調を荒げる。

……でも多分これは大人のする対応ではないんだろうな。

 

「そ、それより二人とも、感想を聞きたいんだけど」

「「感想?」」

揃って首を傾げる二人に俺はため息をつく。

 

「ケーキの味だよ。二人ともどうやって作ったかってことを訊いてばかりじゃないか」

魔法使いゆえの研究者気質なのかもしれないけど。

 

「でも悠基もノリノリで説明してたよな」

「確かにそうね」

「そ、そりゃまあそうだけど、それはそれとして、俺としては一番聞きたいのは味の感想。美味かったかどうか、だよ」

咳払いをしつつ半眼になる俺に、アリスも魔理沙もお互いの顔を見合わせる。

 

「そうだな……甘かった」

「甘かったわね」

「……出来ればもう少し具体的な感想がほしいかな」

俺は眉根に皺を寄せる。

 

「美味いと言えば美味いが、私にはちと甘すぎるぜ」

「うーん確かに、和菓子と比較すると砂糖は多めだし、少し甘さは控えた方がいいか」

「あら、私としては、食感も味も新鮮だったわ。そういう意味ではそれなりに甘い方がいいとんじゃないかしら」

「ああ、確かにそういう見方もあるのか」

俺は二人の意見に頷きつつ問いかける。

 

「いやでもあれだな」

魔理沙が腕を組む。

「酒の肴にはあまり、って感じだな」

「確かに」

魔理沙の言葉にアリスが即答し、力が抜ける。

 

多分二人ともショートケーキは初めてのはずなのだが、期待していたほど反応は芳しくない。

「やっぱり代替品じゃあまり美味しくないか……苺さえあればなあ」

「いや、美味いと思うが、苺が乗るとそんなに違うのか」

「まあ苺に限った話じゃないけど、やっぱり瑞々しい果物が乗ってると違うよ。少なくとも俺はそっちの方が好きなんだよな」

魔理沙に答えながら、俺は目の前の自分のケーキを眺めた。

 

 

* * *

 

 

暫くアリスや魔理沙と話した俺は、彼女たちが帰宅した後、里のとある甘味処に訪れていた。

「こんにちわ」

暖簾を潜りつつ声をかけると、配膳をしていたらしいお盆を抱えた看板娘の千代さんが振り返る。

「あら、悠基さん。いらっしゃい」

「どうも」

頻繁に来ているのもあって顔もそろそろ覚えられている俺は、軽く会釈をしつつ店内を見る。

 

一応書入れ時となる時間を避けてきた甲斐あって、今は店内の客はそれほど多くない。

俺はそれを確認しつつ、千代さんに問いかける。

「玄さんと話がしたいんだけど、いいかな?」

「お父さんね。呼んでくるから席で待ってて」

「ありがとう」

俺は千代さんが示した席に腰掛けると、彼女の父親を待つ。

この甘味処は、玄さんとその一人娘の千代さんの二人が営んでいる。

いつもならば甘味やお茶を楽しみに待つところだが、今日はやや緊張気味だ。

 

なぜかというと、そもそもの話として、俺がショートケーキをわざわざ幻想郷で再現しようとしたのかという話になる。

 

俺は今、慧音さんと阿求さんのもとで仕事を掛け持ちしている。

ただ、慧音さんの寺子屋補佐はほとんど慧音さんの温情によるところが大きい。

更に言えば、丁度今は農家がオフシーズンであるため生徒数が多く俺の仕事もあるが、春頃になれば状況も変わるだろうし、俺だっていつまでも世話になるわけにはいかないと考えている。

阿求さんの下での調査も、阿求さん曰く、将来的に安定した職業ではないとのお言葉を預かっている。

 

つまり、現状俺は無職予備軍なのだ。

そんなわけで将来的に安定した仕事に就く、というのが幻想入りしてからの俺の目的の一つとなるわけである。

しかし、現代っ子でひ弱な大学生であり、幻想郷の明治時代の生活すらままならない俺に選択肢は限られる。

そこで俺が見出した答えが、即ち。

 

「よう悠基」

「こんにちは、玄さん」

千代さんに呼ばれ俺の正面に着く玄さんに、俺は頭を下げる。

「さて、その様子じゃあできたようだな」

「はい。こちらに」

 

俺は風呂敷に包んだ重箱を玄さんに差し出す。

玄さんは、風呂敷を開き箱を慎重な手つきで開け、そこに置かれたふた切れのショートケーキを繁々と眺める。

 

「いかがですか?」

「ふむ……まあ、食ってみねえとなんともな。二つあるってことは、千代の分だな。これは」

「はい。小皿とフォークを用意しました」

「ようし。おい、千代!」

 

現代っ子の俺が幻想郷で職につくために出した答えが、菓子作りの腕を見込んで雇ってもらうことだ。

明治時代からそれほど発展していない幻想郷で、ケーキは物珍しいだろうし、需要はある筈だ。

ケーキの売り込みは、俺の菓子作りの腕前を認めてもらうという目的こそあるが、それ以上に重要なのは、ケーキがそれなりの売り上げがあると見込んでもらうことが目的だ。

なにしろ現状俺を雇わずとも、この甘味処は玄さんと千代さんの二人で十分人手は足りている。

つまり、ケーキの売り上げが俺を雇っても十分黒字になると考えてもらうことが最低条件なのだ。

 

そこまで思考を巡らせながら、俺は目の前の親子を見る。

二人揃って、フォークで一口大に切り分け味わっている。

 

「あら、おいしい」

最初に感想が出たのは千代さんだ。

「いいわね、これ。ホッペがとろけちゃいそう」

と、満面の笑みを浮かべ頬に手を当てる。

 

結果がどうなるかは分からないが、苦労して作ったものを喜んでもらえたのは単純に嬉しい。

「そうですか」

やや高揚した声色で頬を緩める俺だが、肝心の店主であり菓子職人である玄さんの答えがまだ無い。

俺は気を引き締めなおすと、玄さんを見る。

 

目を閉じ、何か考えていたらしい玄さんだったが、暫くしてその口端をニヤリと上げた。

「なるほど。確かにこれはいいな」

「本当ですか」

「ああ、売れるな、これは」

 

その返事に思わずほっと息をつく。

 

「だが」

頬を緩めていた玄さんが、口元を引き締めた。

厳しい顔つきになった玄さんに、俺は再び気を引き締める。

 

「ここからは商売の話だな。千代」

「あ、はい」

声をかけられた千代さんは、店の奥に早足で駆けていく。

暫くして戻ってきた彼女は、算盤を手にしていた。

「悠基、これ一切れの原価はいくらだ?」

「…………そうですね」

 

俺は算盤を弾く。

実際のところ、俺もその点は無視できない問題だと思っていた。

実は生乳から得られる生クリームの量はそれほど多くない。

俺の作り方が今ひとつ下手なのかもしれないが、もう少し洗練したとしても、大量の牛乳は必要になるだろう。

玄さんに渡したケーキには高価なジャムを用いているが、これは特例なので省く。

それにしたって、それなりの数字を示す算盤を、俺は玄さんに苦虫を噛み潰したような顔で渡す。

 

「ざっとこんなところですね」

「……高いな」

「はい」

玄さんは算盤を弾き、数字を足していく。

 

「一ヶ月でこれくらい売れるとするなら……まあ、これくらいの値段でなんとか収益だな」

算盤を見て、眉根に皺を寄せる。

「ちょっとした高級菓子ですね」

「そうだな」

「厳しそう……ですね」

「ああ、その通りだ。だがな」

半ば諦め意気消沈していた俺の顔を真っ直ぐ見据え、玄さんは再びニヤリと笑う。

 

「逆に言うなら当たると凄いぞ。これは」

「え?」

 

「俺の予想だが、最初は売れねえな。誰だって、わけの分からないものに高い金は払いたくはねえ。だがな、認知度が上がれば状況は変わる可能性はある」

職人気質の玄さんだが、たまに出る言葉の中には、外来人のような単語が混じり、ギャップのせいか知性的にも見える。

「実際問題、これの美味さを知った俺からすると、この額は少々高いが、払う価値はある、と考えている」

「あ、私もー」

のほほんとした様子で千代さんが頷く。

 

「あの、じゃあ」

「ま、そうだな。試験雇用ってやつだ」

その言葉に、俺は胸を撫で下ろす。

 

「とはいえ、試験は試験だ。3月までの売り上げ次第、だな」

それに、玄さんの温情によるところもあるのだろう、と俺は微笑む。

「はい!よろしくお願いします!」

 

 

と、まあこういった経緯で、幻想入りした俺は、三つの仕事を掛け持ちする次第となったのである。




ほとんど解説回となってしまいました。
主人公は生き生きと語っていますがぶっちゃけこんな感じでケーキが出来るのかどうかは作者は分からない模様。
まあ出来るということにしてくださいお願いしますなんでもはしません。
主人公がケーキを作れる理由についてはまた別の機会に書ければなあ、とは思います、
次回はほのぼの日常回になるはずです多分。


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十七話 宵闇の妖怪

甘味処での仕事は年が明けてからという話になった。

主人の玄さんから、それまでに美味くて売れるケーキを研究しておけ、とのお達しが出たため、年末までの残る一週間弱は、慧音さんの手伝いをしながらケーキとその材料の試作である。

 

「うん。美味しい」

新たに試作したクリームたっぷりのケーキを試食し一人呟く。

そこそこ苦労はしたが、この出来栄えならば、親の趣味の影響で心得ていた洋菓子作りの知識と経験を、なんとか幻想郷で活かすことが出来そうだ。

まあケーキが売れれば、という話になるが。

 

先行きに不安を感じため息をつく。

それにしても、と、自分の現状を客観的に眺める。

 

幻想郷にはほとんど浸透していないが、日付で言えばクリスマスの翌日である。

そんな日に、家で独りケーキを食べて「うん美味しい」とか呟いてる成人男性の図がそこにはあった。

なんだか哀愁漂う光景な気がする。

別に悪いことではないはずなのだが、なぜこんなにも寂しく感じるのか。

寂しい……ということは何かが足りないということだろう。

一体何が……。

 

目の前の試作ケーキを眺め考える。

暫くして、その答えが出た。

 

「あ、感想か」

せっかくケーキを作ったのだから、自分一人で食べるより、誰かに味わってもらい喜んでもらいたい、というのは当然の話だ。

玄さんからの課題もあるし、客観的な意見は今後のケーキ作りにおいても間違いなく参考になるだろう。

 

寂しく感じた理由はそういうことかと、殆ど現実逃避気味に自分の思考を捻じ曲げて納得した俺は、早速支度を始めた。

 

 

* * *

 

 

霧の湖への道を、俺は周囲を警戒しつつ進む。

基本的には里の外といっても、道を外れさえしなければ妖怪との遭遇率は低い。

まあ、低いというだけで会うときは会うし、危険なのは変わりないのだけど。

ちなみに阿求さんの指示で里の外を調査するときは、積極的に道を外れることが多いので、大概は妖怪にエンカウントして殺されかけている。

 

まあ、年明けまでは阿求さんの仕事は休みだし、里の外に出るのも多分今年は今日が最後だろう。

で、なぜ俺がわざわざ里の外に赴いているのかというと、大妖精とチルノに会うためだ。

 

理由はもちろん、ケーキの試食をしてもらうためである。

洋菓子の試食となれば、やはり一番喜んでくれるのは子供だろう。

寺子屋の子でも構わなかったのだが、大妖精にはケーキの試食とは別に、先日アリスに作成してもらった防寒具を渡す用事もある。

前回会ってから若干時間が経過しているし、寒がっていた大妖精にはなるべく早く渡したかった。

とはいえ、前回会ったときはチルノに氷漬けにされかけたので、そこは不安なところではある。

 

そんな理由で俺は、二つの荷物を大事に抱えて歩いていたのだが……。

「…………近いな」

足を止め呟く俺の前方には、波立つ水面に浮かんでいるかのように、上下にふよふよと揺れながら飛ぶ謎の物体があった。

モヤモヤとした液体とも気体ともつかない真っ黒な物質でできた球形の物体だ。

 

実のところ、里の外に出た際はこの物体を見かけることはしばしばあったのだが、基本的には遥か上空だったり、かなり距離が離れていたりと、近くで眺めることはなかった。

それが、今日に限っては高度は低いし、目測20メートルない程度とはいえ、いつもよりもかなり近い。

 

……困ったな。

もし襲われたとして、俺自身は分身なので逃げられなくても問題はないのだが、ケーキも大妖精へのプレゼントも、分身能力によって生み出したものではない。

 

分身することで増やした物体は俺の手元を離れると消滅する。

そのため、博麗神社への賽銭だったり、香霖堂で買い物をするためだったりといったお金など、人に手渡す目的で里の外へ持ち歩く物は、当然ながら分身で生み出したものではない。

ゆえに、お金自体は失ってもいい程度の額を持ち歩いているし、里の外への調査には、基本的には分身によって生み出した衣服やメモ等の筆記用具程度しか持ち歩かない。

 

だが、今回はアリスにわざわざ作ってもらった物がある。

ケーキの方は材料も含めて自分で用意した物なので諦めきれるが、こちらは別だ。

妖怪に襲われて失くしてしまったという理由なら、アリスは許してくれるだろうし再び用意してくれるだろう。

しかしアリスには幻想郷に来てから随分とお世話になっているし、できればこれ以上迷惑をかけるのは俺の心情的には避けたいところだ。

 

しかも、今回アリスに依頼した仕事の報酬なのだが、俺がお金を払おうと料金を訊くと、「それは間に合ってるから結構よ」と断られた。

「さすがにタダとはいかないよ」と俺が困った顔を見せると、「それじゃあ貸しということで」と返された。

 

俺が今のところその『貸し』を返すあてがない、ということは分かってるはずなのだが、どういうつもりなのだろう。

まあ、お人好しなアリスのことだし、単純に厚意で言ってるのかもしれない。

もしかしたら、俺が困っている姿を見て楽しんでいる可能性もある。

俺はイジめられて悦ぶ趣味はないので、できればそういう嗜虐的なのは遠慮したいところである。

 

とまあ、凄い失礼なことを考えたのはさておき、今は物体を観察する。

 

確か、ルーミアだったか。

初めてあの物体を見た日に阿求さんに報告したところ、そんな名前が返ってきた。

闇を操る程度の能力を持ち、常に自分の周りに闇を纏っているらしい。

 

阿求さんの忠告を思い出す。

『ま、あまり近づかない方がいいですね。あ、いえ、むしろ話せそうなら是非とも――』

どうやらそれなりに危険な存在のようだ。

 

このまま道沿いに進めばルーミアに近づくことになる。

闇を纏っている本人は、外の景色が見えていないのか俺に気付いているような振る舞いは見えない。

もしこれがフィールドワークならば、全く以って気は進まないながらも危険を承知で近づいたところだが、今回は別だ。

仕方がないので一旦来た道を引き返して時間を置くか。

 

そう結論付ける俺の視線の先で、その妖怪はふよふよと相変わらず漂うように飛んでいる。

……というか、あのまままっすぐ飛んだら、木にぶつかりそうだな。

 

ルーミアの進路上には霧の湖に接する雑木林があり、その木の一本に近づきつつある。

まあ、自ら闇を纏っているのだから、視界が制限されようとも、おそらく視覚以外のなんらかの方法で外の様子を感知しているはずだし、危なげなく木々の隙間を縫うように飛んでいくはず…………あ。

俺の予想とは裏腹に、球形の闇は一本の木にめり込むようにぶつかると、そのまま落下した。

大した速度は出ていたようには見えなかったが、鈍い音がここまで聞こえてきた。

 

…………文字通り、完全に周りが見えていない、ということだろうか。

いや、そんな馬鹿な……。

 

唖然としながら俺が見守る中、球形の闇が掻き消える。

「いったーい!」

闇が晴れるとそこには、頭を両手で押さえて立ちすくむ、見た目10歳程度の少女の姿があった。

 

見た目の年で言えば、大妖精やチルノに近いだろう。

とはいえ、背中に羽らしきものが見えないから妖精ではないし、かといって間違いなく人間ではない。

つまり妖怪だ。

幽霊の可能性もあるが。

 

阿求さんから妖怪はほとんど人喰いだと教わっているし、ルーミアにみつからない内に退散したいところではある。

だが、

「「あ」」

ルーミアから隠れるため近くの茂みを目指そうとしたところで、頭を押さえたまま周囲を見回すルーミアとばっちり目が合ってしまった。

 

やべえ…………。

冷や汗をかきつつ身動きが取れない俺。

対して、ルーミアは俺を見つめて動かない。

硬直する両者だが、俺の方はさながら蛇に睨まれた蛙の気分だ。

 

しかし、見つめてくるのは涙目のいたいけな少女。

見た目でいうならば、慧音さんの寺子屋に通っていても可笑しくはない年頃だ。

「…………」

 

あろうことか、危険なはずの妖怪の少女に対し、労わるべきかと迷ってしまう。

それは良心の呵責なのか、中途半端に培われた教育者としての精神なのか、それともその両方なのかは分からない。

「~~~~~~っ」

 

ここで声をかけるなど、幻想郷に迷い込んだばかりでもあるまいに、愚の骨頂であることは明白だ。

鈴仙にお節介を焼いたときとは違う、間違いなく危険な状況。

里の人に聞けば十人中十人が阿呆と罵るだろう。

と、理性が並び立てたところで結局、

 

「ハァ…………」

一つ盛大なため息をついた俺は、心の中で色々な人に謝りながらルーミアに近づく。

まあ、襲われることの方が多いけど、無害な妖怪もいるにはいるし?

誰に向けたものかイマイチわからない言い訳も用意しながら、俺はルーミアの目前で立ち止まった。

 

「お兄さん?」

瞳に溜まった涙を拭おうともせず、ルーミアは俺を見上げて首を傾げる。

頭を両手で押さえたままでそんなことをしているので、客観的に言えば愛らしい光景と言える。

「大丈夫か?」

脂汗を自覚しつつ、中腰になりルーミアの視線の高さに合わせながら問いかける。

 

ルーミアは目を丸くしたまま頷くと、口を開く。

「お兄さんは人間?」

 

…………早速雲行きが怪しくなってきた。

 

「いや、妖怪だよ」

「嘘。人間よね」

悪あがき程度に嘘をつくと、即否定された。

レスポンス早すぎて怖い。

 

「お兄さんは」

硬直する俺に構わずルーミアは続ける。

「食べてもいい人間?」

 

「だ、駄目だっ」

慌てて否定するも、頭の中ではルーミアに襲われる前提でどうやって逃げるかを考えていた。

 

経験上、こんな質問をしてくる妖怪は俺の答えなど気にしていない。

俺を怖がらせることで生じる恐怖も、妖怪にとっては糧となるのだ。

そうして俺を散々ビビらせた挙句、最終的にはそのまま食べてしまおうと襲いかかってくるのである。

ちなみにその状況から逃げ切れたことは一度たりともない。

全戦全敗だ。

そんなわけで、俺はルーミアがどのような行動を起こすかを警戒し、身構えた……のだが。

 

「そーなのかー……」

あ、あれ?

残念そうに呟くルーミアの様子が予想外で、俺は拍子抜けする。

「はあ……」

ルーミアは落ち込んだ様子で、頭を押さえていた両手を今度は自分のお腹に回す。

お腹が空いているのだろうか。

 

「素直に人の言うこと聞くなんて、意外だな」

よせばいいのに、がっくりと落ち込んだ様子のルーミアに俺は問いかける。

 

「れーむが……」

「え?霊夢?」

予想外な名前に目を見開く。

 

「食べちゃいけない人を食べたら次はもっとボコボコにするって」

「なるほど……」

ボコボコて…………。

まあ、ボコボコ云々は置いといて、霊夢グッジョブ。

今度博麗神社に行ったらいつもより多めにお賽銭を入れよう。

俺は心の中で誓いつつ、一応は無害らしいルーミアに話しかける。

 

「そういえばさっき盛大に頭ぶつけてたみたいだけど、痛みは引いたのか」

「まだちょっと痛いけど、大丈夫よ」

「そっか」

「ねえ、お兄さん」

「ん?」

「名前はなんていうの?」

「おっと、これは失礼」

 

俺ははにかみながら頭を掻く。

「俺は岡崎悠基だ。君は、ルーミアだね?」

「え?なんで私の名前を?」

「ああ……まあ、なんというか、君は有名だからね」

阿求さんから聞いたなどと言っても伝わらないだろうことは予想できた俺は、上手く説明する言葉が浮かばず、適当な言葉でごまかす。

 

「有名……?」

ルーミアは首を傾げた。

まあ、ピンとは来ないよな。

 

だが、ルーミアは何かに思い至ったのか、「ああ、分かったわ」と声を上げた。

「あなた私のファンなのね?」

ちょっと惜しい気もする。

 

目を輝かせるルーミアに、俺は苦笑する。

「いや、違うよ」

「じゃあストーカー?」

更に目を輝かせ、期待の篭った視線を向けてくるルーミア。

これ絶対ストーカーの意味勘違いしてるよな。

 

「それも違う」

「そーなのかー……」

俺の答えに落ち込んだ様子を見せるルーミアは、なんだか罪悪感を感じてしまう光景だ。

 

「あ、悠基!」

「ん?」

突然の頭上からの声に空を見上げると、仁王立ちの姿勢でゆっくりと下降してくるチルノがいた。

あーもうだからその姿勢だとドロワーズ見えるっての。

俺は嘆息しつつ軽く目を逸らした。

でもって、その隣にはスカートを抑えて降りてくる大妖精の姿もある。

 

「やあ、こんにちは二人とも」

「こんにちは悠基さん」

着地した二人に軽く手を挙げて挨拶すると、礼儀正しく頭を下げる大妖精。

 

「こんなところで何してるの?」

一方のチルノは挨拶も返さず不躾に問いかけてくる。

もしこれが寺子屋の生徒なら、挨拶を怠った罰で頭突きをくらうところだぞ。

そんな不毛なことを考えながら、俺はルーミアを横目に「まあ、ちょっと」と曖昧な相槌を返す。

 

「ルーミアちゃん、どうかしたの?」

落ち込んだ様子のルーミアを、大妖精が覗き込む。

知り合いだったのか。

妖精と妖怪で種族は違うのだが、おそらく見た目とか精神的な年齢が近いのか、ルーミアに問いかける大妖精は、なんとなしに親しげである。

 

「悠基が……」

「悠基さん?」

ルーミアの呟きに大妖精が一瞬不穏な目で俺を見る。

ちょっと大妖精誤解だからそんな目を向けないでくれ結構傷つく。

 

「私のストーカーじゃないって……」

ルーミアの答えに、俺はルーミアが言葉の意味を分かっていないことを確信する。

「…………ん?」

一方の大妖精は表情を膠着させたまま首を傾げている。

明らかに困惑した大妖精の様子からして、どうやら彼女は言葉の意味を分かっているようだ。

 

「そっかー残念だなーそれは」

「…………んー?」

チルノがルーミアに同意するように頷くと、三人の中で常識があったゆえに少数派になってしまった大妖精が更に首を傾げた。

 

「とりあえずお前たちには後でストーカーの正しい意味をちゃんと教えてやるからな」

俺は呆れ半分に笑いながら、大妖精に向き合う。

「ほら、大妖精。前に言ってたやつ」

アリスに用意してもらったマフラーや手袋の入った包みを大妖精に手渡すと、大妖精は目を丸くし、顔を輝かせた。

 

「わあ、ありがとうございます!」

「なあに?それ?」

チルノが首を傾げる。

 

「前に大妖精に言ってたんだよ」

ふと、そういえば今日はクリスマスの翌日だったことを思い出す。

「まあ、ちょっと遅れたクリスマスプレゼントってところだな。メリークリスマス」

「メリー苦しみます?」

これまたベタな……。

眉根に皺を寄せるチルノに俺は苦笑した。

 

「クリスマスってなあに?悠基」

こちらは聞き間違えていなかったらしいルーミアに、俺は少し考えて答える。

「子供に夢をあげる日だよ」

「よく分かんない」

気障ったらしい言い方をしたらバッサリ首を振られる。

 

「ええと……まあ、良い子にしてた子にプレゼントとかケーキとかあげる日かな」

「ふーん。そうなの」

興味なさげである。

 

「ねえ悠基。あたいにはプレゼントとかケーキとかってやつはないの?」

自分を指差すチルノに、俺は再び苦笑する。

「良い子にしてなかったからなあ」

「えーないのー?」

「人を氷漬けするようなやつを良い子とは呼ばないの」

俺は眉根に皺を寄せつつ嘆息する。

 

「まあ、でもケーキならあるよ」

俺はあらかじめ切り分けておいたケーキを入れた箱を開く。

「ほら」

 

箱の中を目を丸くして覗き込む三人の少女。

「これが?」

「そう。ケーキってやつだ」

大妖精からの問いかけに頷く。

 

「まあ、一口食べてみて……おっと、食器を忘れていた」

フォークを失念していたことに気が付く。

まあ、多少行儀は悪いが、切り分けてはいるんだし手掴みでいいか。

俺はケーキを一切れ手に取ると、とりあえずはと、先ほどお腹を空かせていた様子のルーミアに差し出す。

「ほら、ルーミア、食べてみな」

 

ルーミアは目を丸くして俺の手に持ったケーキを観察する。

どことなく得体のしれない物を匂いを嗅いで観察する犬や猫を思い起こさせる光景だ。

人喰いとは聞いていたが、こうしてみるとあどけない少女である。

 

「じゃあ、いただきまーす」

少ししてルーミアはにっこりと笑うと、口を大きく開く。

俺はケーキをルーミアに手渡すつもりだったのだが、どうやら俺が持ったままの物をそのまま食べるようだ。

おいおい、行儀が悪いぞ。

と、忠告しようとした瞬間、ゾクリと背筋に冷たい物が走る。

 

慌ててケーキを差し出す腕を引っ込めた刹那、ケーキを持った俺の指があった空間を切断するかのように、ルーミアの口が勢いよく閉じた。

あのまま腕をひっこめなければ、間違いなく指が噛み切られていただろう。

その光景を幻視して、額に青筋を浮かべる俺は、ルーミアを睨む。

 

「今、俺の指を食べようとしたな」

「齧ろうとしただけよ」

しれっとした様子でルーミアは笑う。

 

「人は食べちゃダメじゃないのか?」

「あら、私みたいな妖怪の目の前に手を差し出すんだから、齧られても文句は言えないわよ」

……まあ、確かにそれもそうかもしれない……のか?

 

今まで散々妖怪に襲われていたのだから、警戒するときはきちんと警戒するべきだろう。

とは思いつつも、やはりどこか釈然しない俺は、ルーミアに再びケーキを差し出しながら言った。

「そ、そーなのかー?」

 

 

 

まあ、なんだかんだで三人とも子供らしくケーキに喜んでいたようなので、俺としては満足だ。

 




人気投票始まりましたね。
音楽部門では妖魔夜行に一票入れてます。
というわけでルーミア初登場。
ルーミアと言えば「そーなのかー」な気がしますけど、紅魔郷や文化帖だと言葉遣いは結構女性らしい感じがします。

前回はほぼ解説だったので、今回は噛み切るとか襲われるとかさらっと書いてはいますが、ほのぼのとした内容となりました。なったはずです。多分。


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十八話 スイーツと兎

「邪魔するよー」

「ああ、妹紅か?どうぞ上がって」

年末が目前まで迫ったその日、妹紅が俺の住む寺子屋の離れの扉を開いた。

 

「おっと、勉強中だったか。悪いな」

正面の机に本を広げたまま振り返る俺に、妹紅は眉尻を下げた。

 

「いや、構わないよ」

正直なところ、扉を開く前にせめてノックくらいはしてほしかったが、既に申し訳なさげな妹紅になんとなく気も削がれ、注意するのはまあまた今度でいいかという結論に至る。

俺は立ち上がると、部屋の隅に重ねた座布団を手に取り、妹紅の目の前に敷いてやる。

「それよりも、今日は随分と早いね」

外に目を向けると、影の傾き具合から、まだ日が高い位置にあることが分かった。

「自警団の会合があったんだろ?早く終わったのかい?」

 

妹紅は、一応は人里の自警団に所属している。

所属しているとは言ってもその扱いは少々特殊で、活動範囲は彼女が住んでいる迷いの竹林に絞られ、主な業務は迷いの竹林入り口と永遠亭間における案内や護衛だけに限られているそうだ。

特殊な形ではあるが自警団の所属と言うことで定期的に開かれる会合には参加しているらしく、よくその帰りに慧音さんや俺に会いに寺子屋に訪れている。

 

いつもなら寺子屋も終わった夕方に来ているのだが、妹紅が訪れた今はまだ昼下がりで、慧音さんも分身の俺も授業の真最中だ。

今は静かだが、あと一時間もすれば、授業終わりにはしゃぐ子供たちの声がここまで聞こえてくるだろう。

 

「逆だよ。いつもなら午後からやるところを、今日は朝っぱらからさっきまでず~~~っとやってたのさ」

「へえ、それはご苦労様」

俺はお茶を淹れようと竈に向かう。

 

「しかし、そんなに早くから会合なんて、何かあったのか?」

竈の薪が湿ってないか覗き込みながら妹紅に問いかける。

「年末だからとか?」

 

「いや、違うよ」

妹紅の声がすぐ近くから返ってくる。

振り返ると、妹紅がいつのまにか俺の傍まで寄ってきていた。

 

「ちょっとどいて」

「あ、うん」

不意に接近していた妹紅に驚きながらその場を譲る。

片手を竈の中に突っ込む妹紅。

その指先からゆらゆらと揺れる炎が不意に現れたと思うと、次の瞬間には薪に火が移っていた。

妖術……というらしい。

便利そうなのでそのうち教えてもらいたいところだ。

それにかっこいいし。

 

「ああ、ありがと」

「どういたしまして」

妹紅は頷くと、俺が先ほど敷いた座布団の上に胡坐を掻く。

俺はそれを見届けると、再びお茶を淹れる準備にかかる。

 

「……ちょっとした事件があってね」

おそらく俺の背中を眺めているのであろう妹紅は、話を再開させる。

 

「事件?」

「そ、殺人事件」

「ひ、人殺し……?」

物騒な響きに思わず手を止めて振り返った。

 

「そうそう。ちなみに現場はこの近くだよ」

「え?嘘だろ?そんな話聞いてないけど」

「嘘じゃないさ」

妹紅は肩を竦めた。

 

「10日ほど前の話だよ」

「10日前?……いや、やっぱり何かあったって話は聞いてないけど」

「本当に?」

「ああ……でも、どうしよう。子供たちを送っていった方がいいよな」

「ん?なんで?」

 

振り返ると、妹紅が僅かに首を傾げ俺を眺めていた。

「だって、会合が長引いたってことは、犯人はまだ捕まってないんだろ?そんなやつがこの辺をうろついていたら物騒じゃないか」

「ああ、なるほどね。それなら大丈夫さ」

口元を上げる妹紅に、今度は俺が首を傾げる。

 

「大丈夫って?犯人は捕まったのか?」

「まあ、お仕置きは受けたみたいよ」

「お仕置きってまた平和な響きを……そこは刑罰とかだろ」

「そんな大袈裟な話でもないさ」

 

「大袈裟って、人が死んでるんだろ」

飄々とした態度の妹紅に、俺は自分の目つきが険しくなるのを自覚する。

「……いや、待った。そもそも誰が殺されたんだ?」

 

「まだ分からないかね」

険を僅かに帯びた俺の視線に、妹紅はなぜか呆れ気味の半眼で応じる。

「分からないって、何がさ」

 

「ん」

短い声とともに俺を指差す妹紅。

「……ん?」

俺は確認の意味を込めて自分の顔を指差す。

「ん」

またも短く声を発しながら、妹紅は頷いた。

 

なぜ妹紅が俺を指差すのか、一瞬分からなかった。

だが、それまでの会話の流れを思い起こし、彼女の行動の意味が至るところをたっぷり10秒かけて理解すると、自然とうめき声が漏れた。

「…………萃香の事件か」

 

「そ」

妹紅がニヤリと笑う。

 

「自警団の地区長どのの内、何人かはこの事態を重く見ているようでね。年末年始だからと浮き足立ってないでいつも以上に警戒するように、だとさ」

「それはなんと言うか……いろいろご迷惑をおかけして申し訳ない」

「ま、悠基が悪くないってことくらいは分かってるさ」

妹紅は小さなイタズラが成功した子供のように無邪気に笑った。

 

 

* * *

 

 

「へえ、これがケーキとやらね」

お茶を淹れた湯呑を置き、俺の正面で胡坐を掻く妹紅は、目の前に置かれたケーキをしげしげと眺める。

「そ。ほら」

「はいどうも」

俺が差し出したフォークを受け取ると、妹紅は早速ケーキを一口含む。

 

「どう?」

「ふむ……甘いな」

どうも幻想郷では俺の作るケーキほど甘いものはないようで、試食した人の半数以上の感想が同じ内容だったりする。

 

「皆同じこと言うよ」

「まあ、美味しいよ」

苦笑する俺を見て、社交辞令気味に感想を言う妹紅。

どうやらそこまで彼女の口には合わなかったらしい。

 

「じゃあ、こっちは?」

俺は妹紅が食べているものとはまた別のケーキを妹紅の前に置いた。

 

「おや、色が違うね」

「クリームに抹茶を混ぜたものだよ。こっちなら口に合うかも」

「それじゃあ一口」

妹紅は淡い緑色のクリームを口に入れると、味わうように瞳を閉じた。

 

「……うん。なるほどね」

満足げな笑みを口元に浮かべる妹紅を見て、俺は軽く安堵する。

「私はこっちの方が好きだな」

「ああ、慧音さんも同じこと言ってたよ」

「だろうねえ」

 

そのまま二口三口と抹茶ケーキを食べていく妹紅。

その姿に満足しつつ、俺も自分のケーキにフォークを入れようとしたそのとき、玄関の扉が再びノックもなしに開かれた。

 

「失礼します」

その台詞は玄関を開ける前に言ってほしいなと思いつつ、俺は玄関口に立つ、葛篭を背負ったウサギ耳の来訪者に軽く手を挙げた。

「やあ、鈴仙」

 

「どうも。置き薬の定期補充に――って妹紅さん?」

玄関に背を向ける形で座っていた妹紅が振り返ると、鈴仙が目を丸くする。

「鈴仙じゃないか。よくここで会うね」

「そうですね。あ、そういえば姫様が寂しがっていましたよ」

 

鈴仙の言葉に妹紅が眉を顰める。

「輝夜が?冗談でしょ?」

「それが、最近よく『誰かさんが来ないから平和ね』ってぼやいてるんですよ」

「それは寂しがってるのか?」

「師匠はそうおっしゃっていました。それから今朝のことですが、このことを妹紅さんにも伝えておくように、とも」

 

すまし顔の鈴仙に、妹紅は視線を逸らしつつ頬を掻く。

「…………だったら、また今度遊びに行くって伝えておいて」

「はい」

 

「なんか嬉しそうだね妹紅」

「なにニヤついてんだ」

二人が話している間に部屋の奥の棚から薬箱を持ってきた俺が茶々を入れると、妹紅は眉間に皺を寄せ睨んできた。

 

「ごめんごめん」

「全く……」

口では謝りつつも頬を緩めたままの俺に呆れたのか、妹紅は腕を組んでそっぽを向いてしまった。

その頬は僅かばかし朱く染まっている。

 

「さて、それじゃあ薬の補充をお願いしようかな」

俺は鈴仙に向き合うと、彼女の前に薬箱を置いた。

「はいはい」

俺と同じように口元に笑みを浮かべる鈴仙は、葛篭を脇に置くと、玄関と居間の間の段差に腰掛け薬箱の中身を確認し始める。

 

「置き薬販売は順調みたいだね」

「ええ、おかげさまでね」

「鈴仙も前よりは愛想が良くなったって評判だよ」

まあ俺がよく世話になる善一さん曰く、マシになった、という程度らしいが。

 

「そう」

鈴仙の返しはそっけない。

だが、俺の言葉を聞いた鈴仙の頬が一瞬緩んだのはばっちり見えていたので、おそらく笑うのを我慢するのに神経を使ったのだろう。

 

「なにニヤついてんのよ」

薬の点検が終わったらしい鈴仙が顔を上げ、俺の顔を見ると同時に半眼になる。

「ごめんごめん」

相も変わらず頬を緩めっぱなしの俺に、鈴仙はため息を吐いた。

さっきもやったなこんなやりとり。

 

「それにしても……」

鈴仙は葛篭を開くと、台帳を取り出しなにやら書き取り留め始めた。

「確か、あなたの家に薬を置いたのは半月前よね?」

「ああ、そうだけど」

 

「……擦り傷切り傷用の塗り薬が六つ、打ち身用の湿布が三枚、バンテージが八枚と……たった半月でこれって、随分と生傷が絶えない生活をしているみたいね。そういった風には見えないけど」

鈴仙は呆れ顔で俺の体を眺める。

 

「ああ…………」

俺は気まずくなり頭を掻く。

「いや、年少組の子が遊び盛りというかやんちゃ盛りというか……」

「呆れた。寺子屋の子供にあげてるの?」

「ああ、うん。まずかったかな」

実際のところ人里の外で活動しているともっとひどい怪我に見舞われかけたりもするのだが、分身は傷をフィードバックしないので自分に薬を使うことは全くなかった。

 

「まあ、親切心で薬を誰に他人に使うのは構わないけど、飲み薬は子供の体に合わないのもあるから与えないように」

「うん。気を付けるよ。おいくら?」

「ええと……これくらいね」

 

「……結構高いな」

「あなたが使い過ぎなのよ」

薬の提示額に頬をひくつかせると、鈴仙の方は尚も呆れ顔で補充分の薬を葛篭から取り出している。

 

うーんほんのちょっと前まで微量ながら蓄えがあったのだが、そろそろカツカツだ。

この前は方々におすそ分けしたけど、妹紅に貰った筍をいくらか残しておいた方がよかったかもしれないと今更後悔する。

まあ、それはそれとして。

 

鈴仙に薬の料金を渡しながら、俺は恐る恐る問いかけてみる。

「……それで鈴仙、お願いがあるんだけど」

「……なによ」

あからさまに怪訝な表情を浮かべる鈴仙。

 

「その、さっきの塗り薬とか、絆創膏とか、置いておく量を増やしてもらうのって、無理かな?」

「……そんなことじゃないかと思ったわ」

鈴仙は嘆息するが、そんなことを言いつつも薬箱に補充する薬の量は以前よりも随分多い。

 

「すまん。助かる」

「どうせ子供のためでしょ」

「まあ、うん」

「お人好しも大概にした方がいいわよ」

「アハハ……」

乾いた笑みではぐらかしてみるが、鈴仙の言葉は耳に痛い物がある。

先日も、お人好しだけが理由でないとはいえ、ルーミアに喰われても可笑しくなかったことをしでかしてたし。

 

「忠告のし甲斐が無さそうね…………まあ」

相変わらずの半眼で鈴仙は睨んでくるが、最後に視線を逸らす。

 

「ん?」

「そ、そのお人好しのおかげで、助かったのも事実だけど……」

鈴仙の言い方からして、俺は鈴仙に対して何か手助けしたらしい。

……思い当たることといえば、俺と妹紅で行った鈴仙の接客指導くらいか。

 

「ああ、どうやら余計なお節介にならなかったみたいだね」

俺は胸を撫で下ろすと、鈴仙は視線を向けないまま首肯する。

「だ、だから、その、感謝……してるというか」

頬を赤らめながらあらぬ方向に視線を彷徨わせる鈴仙。

 

初対面ではそっけなかった鈴仙が、こういう風に感謝してくれると、頬が緩むのを抑えきれないくらい嬉しい。

確か、こういうの、デレっていうんだよな。

そんなことをしみじみと思いながら鈴仙を眺めていると、反応がないのを不審に思ったのか鈴仙がチラリと俺を見る。

 

「…………なんか変なこと考えてない?」

「え?……うーん、そうかも?」

「なにそれ」

脱力したように鈴仙は肩から力を抜いた。

 

「イチャイチャしてるとこ悪いんだけど、ちょっといいか悠基」

不意に声をかけられる。

見ると、妹紅が先ほどまで俺が向かっていた机の前まで移動しており、一冊の本を開いていた。

妹紅に渡したケーキは既に平らげているようで、手持無沙汰になったためか、俺の机に積まれた本に興味を持ったようだ。

 

「い、イチャイチャなんてしてませんっ」

真っ赤になって妹紅の軽口に反論する鈴仙。

相変わらずこの手の話には耐性がないのか、過剰に反応しすぎだと思う。

まあ、見てる分には面白いんだけど、一緒にからかわれた手前俺もちょい恥ずかしいです。

 

「はいよ、どうした?」

とはいえ、そこまで動揺する訳でもなく妹紅の言葉を流した俺は、妹紅の開いた本を覗き込む。

「これ、外来本だよな」

彼女が膝の上に広げているのは、外の世界の女性向け雑誌だ。

 

「うん。あ、借り物だから汚さないようにね」

「この頁、思いっきり癖ついてるけど」

タイトルにスイーツ特集と記されたページを妹紅が指し示す。

見開きでいくつもの色彩豊かなスイーツが並べられた写真が使用されており、写真の空いたスペースに紹介文を記すレイアウトだ。

 

「それは……まあ、参考資料だから仕方ないってことで」

「そうかい」

妹紅はクスリと笑う。

 

「それにしても、外の世界では甘味をスイーツ?なんて呼び方をしてるみたいね」

「ああ、そうみたいだね。外来語を使うと言葉の響きがお洒落になるからだと思うよ」

「へえ。それにしても、この本のケーキとやらは随分と豪勢だな」

妹紅はフルーツをこれでもかと盛り合わせたショートケーキの写真を指差す。

スイーツというより、誕生日ケーキと言った方が違和感のないボリュームで、並べられた他のスイーツと比べ存在感がありすぎて明らかに浮いていた。

 

「材料さえあれば、ある程度の再現は出来るんだけどねえ」

俺は自分の更に盛ったケーキを見る。

 

今回は蜜柑や林檎を盛り付けに使用したが、色彩的に物足りない感がどうしても残る。

いうなれば、スイーツ(未完成)だ。

蜜柑だけに。

うん、くだらない。

 

「こういうのもできるの?」

妹紅はマカロンの写真を指差しながら言った。

「作り方は分かるし材料も一応はあるから、いつかは作りたいとは思ってるよ」

とはいえ、幻想郷にはオーブンがないから、この辺りも代替案を考える必要があるんだよな。

 

「ふーん。今回の抹茶を入れたやつは美味かったから、また新しいのを作ったらまた食べさせて頂戴よ」

「気に入ってくれたのは嬉しいし、それくらいは構わないけど、ちゃんと甘味処にも買いにきてよ」

俺は苦笑しつつ、ふと鈴仙を振り返る。

 

「あ、そうだ鈴仙」

「……なによ」

鈴仙がジト目で睨んでくる。

未だに顔が赤いのは、妹紅に茶化されたことよりも、むきになって大袈裟に反応したことに気付いて恥ずかしくなってるのだろう。

 

俺はケーキを盛った自分の小皿を鈴仙に差し出す。

「よかったら、これ、試食してみてくれない?」

「……このケーキ、あなたが作ったの?」

「うん。あ、食べようとはしてたけど、まだ手をつけてはないから」

「それなら、まあ、いいけど」

 

鈴仙は俺から皿を受け取ると、縁のフォークを手に取った。

「外の世界では、もうこんなものがあるのね」

「ああ。再現するのになかなか苦労したんだ」

「ふーん」

 

胸を張って主張したらそっけない反応を返される。

いやまあ興味がそれだけケーキに向いていると前向きに考えよう。

視界の隅で妹紅が苦笑しているのが見えた気がしたが気のせいだろう。

 

そんなことを考えつつ固まっている俺を無視して、鈴仙はケーキを一口味わう。

「……美味しいわ」

「ほんと?」

「ええ、正直驚いた」

目を丸くして口元を片手で隠す鈴仙は、お世辞抜きに正直な感想を口にしているっぽい。

「ほんとに?」

「ん……しつこいわよ」

なおも問いかける俺に鈴仙はジト目を向けるが、なんだかんだでフォークを動かす手は止めない。

 

……正直ここまでガチな反応をしてくれると、めっちゃ嬉しい。

 

「ハハハ、口にあったなら、まあ、うん。良かったよ」

「悠基、顔が赤いぞ」

妹紅が面白い物でも見るような目で俺を見る。

 

「いやあ、ここまで気に入ってくれると、照れるね」

「…………」

鈴仙はケーキを食べつつ俺を見据えるが、否定しないあたり俺の言っていることも間違っていないようだ。

 

「あ、そのケーキだけど、来月からそこの通りを左に曲がった先にある甘味処で出すつもりなんだ」

「へえ……て、あなたって確か、ここの寺子屋以外でも働いてるんじゃなかったの?」

「新しく兼業するんだ。というわけで、これからはこのケーキ作りでも食っていくつもりだから、ぜひ買いに来てよ」

 

「……その内過労で倒れそうね」

意気揚々と宣伝していると、鈴仙からまたも耳に痛いお言葉を貰った。

……まあ、分身しているとはいえ、確かに現時点で手伝い程度ではあるが複数兼業しているし、さらに追加となると大変だろう。

とはいっても、慧音さんの補佐は期間限定の仕事だし、それまでの辛抱だ。

 

「ま、ほどほどに気をつけるよ」

「信用ならないわね」

「ハハ、確かに」

鈴仙がため息をつくと、妹紅も呆れ気味に笑う。

そんなに信用ならないかなあ。

 

「あ、宣伝といえば、コレ」

ケーキを食べ終えた鈴仙が、思い出したように葛篭から一枚のチラシを取り出し手渡してきた。

 

鈴仙から受け取ったチラシには、でかでかと「月都万象展」と書かれている。

「えーと、げ、げっとばんしょうてん?」

「ああ、またやるのかい?」

妹紅が横からチラシを覗き込む。

 

「以前好評だったので定期的に開催することになったんです」

「へえ、ってことは、竹林の案内の仕事もまた忙しくなりそうだな」

「あ、もし大変なら、兎を遣わせますけど」

「別にそこまでではないさ。それにいつもは暇だし、こういうときくらい自警団の使命を全うさせてもらうさ」

妹紅は鈴仙に応じつつ、肩を竦めた。

 

「これって、何かの博覧会なの?」

開催場所に永遠亭と書かれたチラシに目を通しながら、俺は二人に問いかける。

「ま、一言で言えばそれなりに珍しい物が見れる展覧会だな」

「シンプルに纏めましたね」

鈴仙が苦笑する。

 

「珍しい物って?」

「それは見てのお楽しみってとこかな。そういえば、今回もアレやるの?」

妹紅に問いかけられた鈴仙はやけに疲れた顔で答えた。

「まあ、好評でしたので……」

 

「そりゃご苦労様ね」

「アハハ……」

二人が何を話しているのかは分からないが、鈴仙の乾いた笑いからして彼女的には気が進まないものらしい。

 

「まあ、どこかで時間を作って見に行くよ」

「そ。まあ、お客様としてなら喜んで歓迎するわ」

鈴仙はどこか含みのある言い方をする。

 

妹紅は彼女の言いたいことに思い至ったのか、目を細めた。

「患者としてなら?」

「……嫌々歓迎します」

ああ、なるほど。

まだ過労で倒れないか心配しているのか。

 

「鈴仙は心配性だなあ。別に前科があるってわけでもないんだから」

「あなたのそういうところはなぜか信用できないのよね……」

鈴仙を安心させようと笑顔で言うと、ため息をついて返された。




布石とかフラグとかをばら撒きつつ私的にほのぼのと会話するお話でした。
ネタバレというほどではありませんが、最後の方で妹紅と鈴仙が言っていたアレというのは月兎の餅つき企画的なアレです。
分からない方は書籍の東方文化帖をご覧ください(ダイマ)。

私情ですが、年末辺りから多忙で、更新が遅くなりがちです。
これからもしばらくは忙しいままなので、楽しみに読んでくださる方々には申し訳ありませんが、気長にお待ちいただけると幸いです。


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十九話 そして年は暮れて

「慧音さん、こっちの方は終わりました」

俺は慧音さんに声をかけながら、手に持っていた汚水の入った桶を足元に置いた。

「ああ、ご苦労様」

慧音さんはというと、一巻の巻物を両手に広げ立っていた。

よく掃除中に漫画本なんかをついつい手に取って読みふけるっていうのは定番だけど、慧音さんはどうなのだろう。

 

「慧音さん、それ」

俺が巻物を差すと、慧音さんは「ああ」と肩を竦めて巻物を仕舞い始めた。

「内容に間違いがないか気になってね。杞憂だったようだが」

書棚に巻物を差しこむ慧音さんに、俺はややためらいがちに問いかける。

 

「えっと、書類の整理の方は……」

「もちろん終わらせたよ」

慧音さんは眉尻を下げて僅かに首を傾けた。

「どうかしたのかな?」

 

「い、いえ、すいません。邪推でした」

「邪推?」

「いや、なんでもないです」

一言余計だった。

いやそれ以前の問題な気もするけど。

慧音さんもそのことに気付いているのだろう、小さく笑う。

 

「えっと、他に掃除するところはあります?」

なんだか気まずく感じつつ、俺は頭を掻きながら話題を逸らす。

と、示し合わせたかのように周囲から続々と人が現れた。

「慧音様、門の掃除終わりましたわ」

「慧音先生、障子の張り替え終わったぜー」

「先生、他にやることありますか?」

 

実際にはタイミングが偶然一致しただけなのだろうが、なんにせよ助かった。

助かったって言うほど困っていたわけではないが。

現れたのは老若男女問わず十人ほど里の人々だ。

 

「ああ、皆」

慧音さんは穏やかな笑みを浮かべる。

「うむ……まあ、こんなものでいいだろう。ご苦労だった」

慧音さんのねぎらいに、俺含むその場に立つ皆が一様に、安堵の息を吐いたり「いえいえ」と謙遜したりと、様々なリアクションをとった。

 

 

そんなわけで、大晦日の昼下がり。

慧音さんの年末恒例の寺子屋の大掃除で、その離れに住む俺ももちろんその手伝いである。

昼飯後から始まったのだが、そこそこ広い寺子屋の掃除は、人里の住人がちらほらと掃除の手伝いに訪れていたのもあり、一時間とかからず終わってしまった。

召集があったわけでもないし、そもそも年末はどこも忙しいはずなのに、自主的に手伝いが来るというのは慧音さんの仁徳だろう。

日頃からお世話になっているのもあって実感はしているが、本当に凄い人だと思う。

 

 

「慧音様、また来年も」

「ああ、よろしくな」

「先生、良いお年を」

「うむ。良いお年を」

口々に別れを告げて帰っていく彼ら彼女らに、慧音さんは優しげな笑みを浮かべ見送る。

 

その様子を、掃除道具を片づけながら眺めていると、ふいに俺の背中がはたかれた。

「よう」

「おっと」

結構強めだったし、ふいのことだったのもあって、危うく転倒するところだった。

つんのめりかけた俺の肩を、声の主は慌てて掴んで俺を制止させる。

 

突然のことに驚きながら振り返ると、大柄な男が人の良さそうな笑みを浮かべながら頭を掻く。

「あ、善一さん」

「悪い悪い。強すぎた」

善一さんは顔の前で片手を立てた。

 

「いえいえ」

俺は平手をくらった辺りが少し熱い背中をどうにか摩りたい衝動を抑えながら、善一さんに向き直る。

「それより、今日は寺子屋の掃除、ありがとうございました」

「なあに、慧音先生のためだ。お安い御用よ」

善一さんは得意げに鼻溝をこする。

 

「やあ、善一」

と、そんな善一さんに、背後から慧音さんが声をかける。

「あ、け、慧音先生。こりゃあどうも」

慌てた様子で善一さんは振り返ると、何度も頭を下げる。

緊張したようなその様子は、普段の豪快な様子と余りにもギャップがある。

俺は目を丸くするが、慧音さんは見慣れているのか、穏やかな笑みを崩さない。

 

「君もご苦労だった」

「光栄であります!」

慧音さんの言葉に胸を張り直立する善一さん。

その鼻の穴は大きく膨らんでいる。

 

慧音さんは仁徳のみならずその美貌もあって、里の男衆、というか女性からもなのだが、羨望や憧れの対象となっている。

現代で言えばファンクラブなんかがありそうなレベルだ。

というか、この幻想郷にももしかしたらそういう類のものはあるんじゃないだろうかと、俺は思っている。

 

最近は随分減ったが、時折里内で感じる冷たい目線は、多分その辺りが要因だろう。

善一さんなんかは、以前はその筆頭だったわけだし。

まあ、要するに善一さんは、特に慧音さんに対する憧れが人一倍あるということだ。

 

そんな善一さんが、慧音さんから直々に褒められて落ち着かないわけがないので、まあこの反応も仕方のないことだろう。

仕方のないことなのだが……鼻息が荒すぎて、その、鼻毛が……。

あとでそれとなく伝えておいた方がいいのかな……。

 

「また、来年もよろしくな」

慧音さんはなぜか……いやまあ理由は察してあまりあるが、クスクスと笑っている。

「い、いえ、こちらこそ!」

面白いくらい緊張した様子の善一さんは、目を泳がせながら応えた。

 

「それでは、こ、これにて失礼いたします」

「ああ、良いお年を」

「はい。慧音先生も」

善一さんは深々とお辞儀をすると、回れ右をして、寺子屋の門に向かう。

どこか歩き方がぎこちないにも関わらず、その足取りが軽やかで、面白いくらい彼の心情を表していた。

 

「あ」

ふと、俺と慧音さんが見送る中で、善一さんが足を止め振り向く。

「悠基、また今夜な」

 

「ああ、はい」

俺は頬を緩めながら頷いた。

「また後で」

片手を軽く挙げると、善一さんも応じるように片手を挙げた。

最後に善一さんは慧音さんに改めて目礼すると、結局さっきの足取りで去って行った。

 

手伝いに来ていた人員は善一さんが最後だったらしく、他は既に帰ったあとで、その場には俺と慧音さんだけが残った。

「善一となにかあるのかい?」

善一さんを見送った慧音さんが問いかける。

 

「はい」

俺は頷いた。

「実は年末最後の酒盛りってことで、誘われているんですよ」

「ああ、なるほど。しかし、随分嬉しそうだね」

「いやあ、それほどでも」

相変わらず頬を緩めたままの俺に慧音さんは目を細めた。

 

「あ、別に男に誘われて喜んでいるわけじゃないですよ」

ふと、誤解されそうだという考えが過り、慌てて慧音さんに手を振る。

「俺にそっちの趣味はないので」

「ああ、分かってるさ」

 

慧音さんは苦笑した。

なんだか今日は彼女を笑わせてばかりだ。

まあ、今回のはともかく悪いことじゃないだろうし、うん。

まあいっか。

 

「随分里に馴染んできたようじゃないか」

見ようによっては唐突にも思える慧音さんの発言に、しかし俺はただはにかむ。

さすがというかなんというか、俺の心境をよく察してらっしゃる。

「はい。それもこれも、慧音さんのおかげです」

「何を言う」

慧音さんが眉根を吊り上げた。

 

「君が皆にこうやって受け入れられているのは、君の人柄、人徳だよ」

手放しの褒め言葉だ。

俺は目を見開く。

「君は、この世界に来てからよくやっている」

「け、慧音さん」

「根は真面目だし誠実だし、子供たちに対してもとても真摯に対応する」

 

「…………」

やばいめっちゃ嬉しい。

なんというか、頬が緩むとか、自然と口端が上がるとか、口元が笑うとか……あ、全部同じか。

とにかく、そういう次元じゃない。

ちょっと感動していた。

いや、かなり感動していた。

 

「私も誇りに思う」

ついでとばかりに必殺の追撃で俺の心を仕留めて来る慧音さん。

 

「っ…………」

嬉しさで胸がいっぱいになり、言葉が返せず、押し黙ってしまう。

この世界に来てから随分と涙脆くなった。

目頭が熱くなるのを感じどうにか堪えていると、慧音さんはやっぱり、そんな俺の様子を察してか俺の肩を優しく叩く。

「まあ、今日は楽しんできなさい」

 

「…………はい」

俺は辛うじて、なんとか慧音さんに短く答えた。

 

 

* * *

 

 

と、いうことがあったのが、多分、ええと、数時間?前だっけ……。

 

喧騒が聞こえる。

 

「んぁ?」

間抜けな声がした。

今のは……あ、俺だ。

 

机に突っ伏していた頭を上げる。

無理な姿勢で寝ていたせいか体の節々が痛い。

 

特に頭。

ぐわんぐわんする。

痛みも鈍い。

視界もなんだか揺れてる気がする。

なんだこれ。

いや……この感覚は覚えがある。

軽い二日酔いだ。

 

「おう、目ぇ覚めたか」

机の向こうから、白髪頭に手ぬぐいを捲いた男が声をかけてきた。

というか、机じゃなくてこれ、カウンター席だ。

カウンター席で、突っ伏して寝ていたのか。

 

ああ、思い出してきた。

確か、日が暮れてから、ここ、大衆食堂で催される男衆の忘年会という名目の酒盛りに参加したんだ。

会場として選ばれたここは、大衆食堂と銘打っている割に、カウンター席や机と椅子の一般的な座席に加え、奥にはかなり広い座席があり、居酒屋とか料亭とか呼んだ方がしっくりくる間取りである。

 

確か、始まってから割と早いペースで飲んで喋って食べて飲んで喋って飲んで食べて飲んで飲んで飲んで…………。

とにかく、そんな調子で開始から30分くらいは記憶がある。

そこから先は……記憶がないし、早々に潰れていたのだろう。

座敷で飲んでたはずが、いつの間にかカウンター席にいるのは何故なのか分からない。

潰れていただけならまだいいんだけど……。

 

振り向くと、座敷では未だ喧しく男たちが騒いでいる。

だが、だいたい3割ほどは床に転がり潰れていた。

一部は一段高い座敷から落っこちて地べたで鼾を掻いている。

風邪ひかなきゃいいけど……。

ていうか、床で転がっている真っ赤な顔の男の一人は確か従業員だったはず。

 

俺は若干混沌としたその光景に口元を歪めながら、体を正面に向けた。

「大将」

口端から零れていた涎を拭いながら、白髪頭の男に話しかける。

彼は、酒盛りの会場となったここ、大衆食堂の従業員ではなく、いつもは慧音さんとよく利用する蕎麦屋の主人だ。

がたいがよく、寡黙な職人気質だが面倒見がいいこの人は、なぜか大将と呼ばれ親しまれている。

 

「今、何時ですか」

「ん」

大将は親指を一方に向けて差す。

見ると、柱時計がかかっており、短針が11と12の中間を差していた。

どうやらかろうじて日は跨いで、いや、年は越していないようだ。

酒盛りが始まったのは7時ぐらいだったから、4時間前後は寝ていたのだろうか。

 

「水は?」

大将の問いかけに、俺は黙って頷く。

 

用意していたのか、俺が頷くと同時に俺の目の前に水の入った木椀が置かれた。

大将に感謝しつつ、それを一口呷る。

少しだけ気分がすっきりしてきた。

 

「大将」

「おう」

「俺、何か、酔っぱらって変なことしませんでした?」

 

俺の質問に、大将は眉根を寄せる。

記憶を辿っているのか、腕を組んで目を閉じ黙っていたのだが、しばらくして目を開くと、大将は奥の座敷を指差した。

振り返ると、腹踊りやら裸踊りやら、とても婦女子には見せられないようなあられもない光景が広がっていた。

 

「全部は知らないが、あそこまではっちゃけてはねえよ」

「そうですか……」

「まあ、大丈夫だの酔ってないだの譫言呟きながらこっちまでふらふら歩いたあげくぶっ潰れたときぐらいだな」

「…………」

しっかり酔っぱらってたらしい。

 

閉口しつつ、ふと空腹だったことに気付く。

そういえば、飲んでばかりでそれほど食べてなかった。

「大将、蕎麦はまだあります?」

「あいよ」

 

年越し蕎麦の文化がいつごろ発生したのかは知らないが、少なくとも幻想郷にはその文化は根付いているようで、蕎麦屋の主人がこの大衆食堂に来て臨時で働いているのも、その辺りが理由だ。

日ごろ親しんだ蕎麦を年越し蕎麦として頂くのも、なんというか、乙な話だ。

そうでもないか……な?

 

 

そんなことを思いながら、大将が蕎麦を湯がいているのをぼんやりと見ていると、ふいに大衆食堂の引き戸が音を立てて開かれた。

「失礼、おや、ご主人か。今はやっているか」

「あいよ」

暖簾を避けて大将に話しかける顔を見て、俺は「おや」と目を丸くする。

 

「こんばんわ、藍」

「おや、悠基」

藍は大きな尻尾を畳みながら、後ろ手に引き戸を締め店内に入る。

その際に座敷の惨状に一瞬目をやり眉を顰めた。

まあ、女性が見て楽しむものではないよな。

男が見れば楽しいのかといえばそういう訳ではないのだけど。

 

藍は、見なかったことにしたのか気にしないことにしたのか、どんちゃん騒ぎには背を向けて俺の隣に座った。

「ご主人、狐蕎麦を1つ」

「あいよ」

相変わらず寡黙な大将は、短い返事とともに新しい麺を湯がき始める。

そういえば、そろそろ俺の蕎麦が出来る頃合いだ。

 

「奇遇だね。こんなところで」

「年末だからね」

「年末……あ、年越し蕎麦?」

「ああ」

藍は軽く息を吐く。

 

「へえ、妖怪にもそういう文化があるんだ」

「そんなことはないさ。ただ、……まあ、その、なんだ。たまにはこういう風習を体験してみようかと思っただけだよ」

途中、なぜか言い淀む藍に、俺は内心首を傾げる。

 

「へい、お待ち」

だが、そのことを言及しようか迷っていると、大将の重量感のある低い声とともに、俺の目の前に湯気の立つ狐蕎麦が置かれた。

てっきり素蕎麦が出てくるものと思っていた俺は、肉厚の油揚げに僅かに目を見開き大将を見る。

 

「油揚げはオマケだ」

「わあ、大将、ありがとう」

「おう」

 

一緒に出された箸を取ると、藍に一度視線をやる。

「じゃあ、お先に」

「ああ」

藍はというと、返事をしつつも何故か俺の狐蕎麦に視線を固定させている。

 

よほどお腹が空いているのだろうか。

そう思い至った俺は、箸を下げる。

「藍、もし良かったら、先に食べる?」

「え?あ、いや、結構だ」

俺の問いかけに藍は不意を突かれたのか、慌てて首を振った。

 

「そう……なら、お先に」

「あ、ああ」

どこか落ち着きのない藍が気になるが、本人的にはあまり気にしてほしくないようだ。

まあ、藍の杯ももうすぐ来るだろうからと俺は結論付けて、自分の蕎麦に箸を付けた。

 

「ところで」

蕎麦をすする俺を横目に、藍が口を開く。

なんとなく、話題を逸らそうとしている雰囲気があったので、俺はおとなしくそれにのることにした。

「ん?」

「君は、意外な趣味をしているな」

「趣味?」

口の中の麺を飲み込み、オウム返しに呟く。

 

藍の唐突な言葉の意図がよく分からなかった。

「いや、そう思っただけだ。すまない、気にしないでくれ」

なんとなくだけど、思わず口を滑らせたってニュアンスだ。

なぜか思う。

らしくないな、と。

彼女とは殆ど話したことは無いはずなのだが、そんな印象を抱いた。

 

「えーと、意味がよく分からないんだけど」

困惑顔の俺に藍は「ああ、すまない」と再び謝る。

 

「君はどちらかと言えば大人しいタイプだと勝手に思っていたからね、そんな派手な物を羽織っているのが、私としては意外に思っただけだ」

「羽織る?」

 

ふと、肩になにかが掛かっているのに今更ながら気づいた。

見ると、おそらく毛布替わりだろう、見覚えのある大きな甚平が羽織られている。

薄紅色で、着ていたら間違いなく目立つであろう派手な柄の甚平は、間違いなく善一さんの物だ。

風邪をひかないように、という配慮だろう。

 

振り返り善一さんを探すと、大きな鼾を掻く男の中にその巨体を発見した。

厚手の着物がだらしくなくはだけられており、あのままでは風邪をひきかねない。

「ちょっと失礼」

俺は箸を置き立ち上がると、善一さんに近づき、彼の甚平を毛布代わりに重ねた。

 

「おう、復活したか鬼殺し」

座敷で飲んでいた若い男の一人が俺に目を向ける。

「はい。なんとか」

「飲み直すか?」

「いや、ちょっとキツイです」

「そうか、無理はするなよ鬼殺し」

 

「はい……ていうか、その物騒な呼び方、やめてください」

半眼になって男を非難するが、彼の方はどこ吹く風だ。

「なんだよ、恰好良いじゃねえか。鬼殺しだぞ」

 

分不相応なこの愛称(?)は、以前起きた萃香の事件の噂に尾ひれがつけられまくった結果だ。

俺が誤解を解いて回った甲斐あって、俺が萃香と死闘を繰り広げて子供たちを守った、なんて大袈裟な噂はだんだんと収束している。

なのだが、一部の悪ノリ好きな若者によって、俺はたまに親しみを込めてそんな呼ばれ方をされる。

いやまあ、格好良いと言えば格好良いのだが、未だに一部は噂を真に受けている人もいるし、どちらかと言えば、勘弁してほしい所存ではあるのだけど。

 

「いや、俺はその件で微妙に困っているので」

「オーライオーライ。善処するよ。鬼殺……悠基」

赤ら顔でチャラい返事をする男に、俺はため息をついて踵をかえした。

酔っ払いには何を言っても無駄……か……。

ていうか、その外来語の返事はどこで仕入れてくるのだろうか。

騒ぎに騒ぐ男たちは、未だ藍が訪れていることに気付いてないようだ。

 

席に戻ると、藍がまじまじと俺を見つめてくる。

「藍?」

「ああ、すまないな」

ふっと視線を逸らし、藍は正面を向く。

なんとなく、さっきとは違う意味で様子がおかしい。

 

「へい、お待ち」

先ほどと同じ調子で大将が藍の前に蕎麦を置いた。

藍が頼んだ狐蕎麦は、こちらもサービスだろう、油揚げが3枚も入っている。

油揚げと麺の割合が同じくらいあるんじゃないだろうか。

 

「ああ、毎回すまないな」

大将に礼を言いながら顔を綻ばせる藍に、俺はふと首を傾げる。

「毎回?」

 

俺の言葉に藍が硬直した。

その様子に訝しく思い、今度は大将を見ると、背中を向いて作業をしていてる。

なぜかそっぽを向いて表情を隠しているようにも見えた。

 

「…………ああ」

そんな光景に違和感を覚えていると、ふと、先ほどの言葉を思い出し、もしかしてと推論を立てる。

「藍、もしかして油上げが好きなの、隠してる?」

「……なぜ私が油揚げを好きと?」

藍は表情を硬くする。

微妙に日本語が怪しいし。

 

「え?」

対する俺は困惑顔だ。

「だって、よく里で狐うどんとか食べてるの見られてるし、豆腐屋で油揚げをよく買ってるんでしょ?周知の事実だと思うんだけど」

「…………そうか」

藍は神妙な顔でつぶやいた。

 

「えっと、藍?」

「いや、すまない。それで、私が油揚げが好物だとして、なぜ隠していると?」

「え?ええと、そりゃまあ、さっきの会話の流れ的に、頻繁に狐蕎麦を食べているのを、誤魔化そうとしている感じがしたから」

大将の様子が微妙におかしい気がするのも、多分空気を読んでのことだろう。

 

「そんなに分かりやすかったか」

「…………まあ」

 

なぜか微妙に落ち込んだ様子の藍に、俺はますます首を傾げる。

「なんでそんなこと隠そうとしたの?」

「……いや、大した理由ではないよ」

藍はため息を吐き箸を取った。

 

「私の主のことは知っているか?」

「主?えっと、確か前に言っていたユカリ様?だっけ。名前だけなら聞いたことあるけど」

「ああ、紫様は、この幻想郷の管理者でもあるんだ」

「へえ、そうなの?」

初耳だ。

 

「そんなに凄い人なんだ」

「人ではなく妖怪だがな。まあ、偉大なお方ではあるよ」

そう言う藍の顔はしかし、なぜか神妙、というか微妙だ。

 

「私はその方の式でね」

「シキ?」

「まあ、従者のようなものだ」

「うん」

「その従者が不甲斐ないようでは、紫様の、ひいては幻想郷の管理者としての沽券に関わると思ってな」

「……油揚げが好物だと、不甲斐ないの?」

困惑が抑えられず問いかける。

 

「……いや、冷静に考えてみると、別段大した問題ではないな」

一瞬逡巡して、藍は皺を寄せた眉間に指を当てる。

なんとなくだが、顔色が悪い気がする。

「藍、もしかして、相当疲れてない?」

「……かもしれない。我ながら随分と下らない迷走をしていたようだ」

自嘲気味に笑う藍に、俺は努めて明るく声をかけてみる。

 

「じゃあ、年末なんだし、ちょっとは休まないと。いくら妖怪でも、体壊すかもしれないんだし」

きっと幻想郷の管理者の従者たる彼女は、きっと責任重大な使命も多くて気疲れしているのだろう。

と、そう解釈した俺は、藍の肩を軽く叩く。

気分的には、俺の元気を藍に分けるくらいのつもりだ。

 

「それに、大手を振って油揚げを食べれるんだし、美味い物食べたら元気が出るのは妖怪も一緒なんだよね?」

「まあ、それはその通りだが、誰がそんなことを」

「知り合いの宵闇の妖怪からの受け売りだよ」

「ルーミアか……」

 

どうやらルーミアのことを知っているようだ。

まあ、ルーミアも霊夢と知り合いみたいだし、藍と知り合いだとしても可笑しくはないだろうと踏んではいたが。

「大将、藍に油揚げ一枚追加!」

「あいよ」

俺が呼びかけると、大将は殆ど間髪入れずに油揚げの乗った小皿をカウンターに置いた。

どうやら予め出す準備をしていたようだ。

大将は空気の読める出来る男だった。

 

それを見た藍は、硬く引き締めていた口元を綻ばせる。

「すまないな」

「どういたしまして」

 

俺は自然と笑顔になって、箸を手に取り蕎麦を啜る。

麺は汁を吸ってすっかり伸びていたが、大将の作る蕎麦は美味いから、問題は無い。

隣で藍も嬉しそうに出汁を吸った油揚げを頬張った。

なんか、こういうのもいいなー、とか思っていたら、少しして柱時計が音を響かせる。

 

俺が幻想郷に来てから、初めての年末はそうやって過ぎ、初めての年明けはそうやって始まった。




相変らず多忙につき、更新が遅くなりがちで申し訳ない限りです。

というわけで二章開始してから最初の一ヶ月がやっと過ぎ去りました。やっとです。だからどうこうというわけでもないのですが。

前半は慧音先生、後半は少しだけ出番があった藍しゃ、藍様とのお話です。
気付いたら藍が微妙にポンコツ感を醸しだしてます。自分としては特にそんなイメージは無いのですが、気付いたらそうなっていました。不思議。ほのぼの。


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二十話 お人好しへの忠告

結局のところ、幻想郷で過ごす初めての元旦は、二日酔いが後をひいて半日以上寝込んで過ごすことになってしまった。

新年の挨拶にとわざわざ足を運んでくれた慧音さんは笑っていたが、呆れからくる苦笑だったのは一目瞭然だった。

……頻繁にお酒を飲むわけでもないのだけど、今度鈴仙に会ったら酔い止め薬が無いか訊いておこうと心に誓った。

 

そんなわけで元旦が過ぎた1月2日の午後、俺はせっかくなのでと、幻想郷唯一の神社たる博麗神社に初詣に訪れていた。

まあ、初詣といっても、やることはいつもと変わらないのだけど。

長い石段を登りきると、境内はそれなりに雪かきが進んでいて、本殿までは雪を踏むことなく進めそうだ。

霊夢が張り切ったのだろうか。

ちょっと想像できないけど。

 

それにしても正月だというのに神社は相変らず閑散としている。

何か催してるかなと淡い期待をしていたが、特に何も無かった。

とはいえ、きっと元旦にはそれなりに客はきたんだろう。

 

……と、思ってやりたいのは山々だが、人里から神社までの道に積もった雪は、人どころか妖怪らしい足跡すらなく、せいぜい獣らしき小さな足跡が散見される程度だった。

いや、妖怪の足跡なんてあったらちょっと嫌なんだけど。

昨晩は雪は降らなかったはずだし、だとすれば…………いや、これ以上はやめておこう。

 

本殿前の賽銭箱に小銭を投げ入れて、願いを頭の中に浮かべる。

以前のように、願い事を色々と並べ立てるのもさすがになんなので、一まとめにして一言だけ、無駄に壮大に「世界平和」と願った。

 

……いや、せめて商売繁盛くらいは願っておくべきか。

明日からだしなあ。

 

「あら、今度はいくつお願いしてるの?」

「うお」

不意に背後から声をかけられ少し驚く。

 

振り向くと、分厚い襟巻きを顔の下半分が隠れるほど重ねた霊夢が、どことなく気だるげな瞳で俺を見据えている。

境内の掃除に出ていたのか、その手には穂先に癖のついた竹箒を持っていた。

 

「ああ、霊夢」

俺は頭を掻いて半笑いを浮かべてみる。

「まあ、ちょっとだよ。ちょっと」

「そ」

質問したわりに興味が無かったのか、霊夢の返事はそっけない。

 

「それよりも、霊夢。明けましておめでとう」

「ええ」

俺の挨拶に霊夢は短く答え、頷くように会釈する。

なんというか、やけに無口だ。

霊夢はよく喋るタイプというわけではないが、口数が少ないわけでもない。

 

「もしかして、機嫌悪い?」

「……そういうわけじゃないけど」

ただ、いつもと調子が違うのは確かだ。

少し注意して霊夢を見ると、霊夢が目を細め僅かに身を引いた。

 

「なによ」

「あ、ごめん」

視線が不躾だったようだ。

謝りながら少し距離をあけるが、その際に気付く。

「霊夢、顔色悪いよ」

 

最初は襟巻きに隠れて気付かなかったが、僅かに顔が青ざめている。

「風邪?」

「違うわよ」

「でも、調子悪いんだろ?」

 

俺の追及に、霊夢は小さくため息をついた。

「ただの二日酔い」

「二日酔い?」

鸚鵡返しに問い返すと、霊夢は鬱陶しそうに頷く。

どうやら喋るのも億劫らしい。

 

「宴会だったのよ。昨日は」

「新年会かなにか?」

「ええ。ちょっと騒ぎすぎたわ」

へえ、霊夢が二日酔いなんて、ちょっと珍しいかも。

俺の中では、霊夢は比較的クールで大概のことはそつなくこなすイメージだったのもあって、なんだか意外だ。

霊夢とお酒を飲んだことなんて一回しかないんだけど。

 

「俺もさ、昨日二日酔いで寝込んでたんだ。霊夢も調子悪いなら休んだほうがいいよ」

言いながら、手を差し出す。

「境内の掃除なら、俺が代わりにやるから。ほら、箒貸して」

「…………お気遣いどうも」

と、礼を言うものの、霊夢は竹箒を渡そうとはしない。

 

「霊夢?」

「掃除はさっき終わらせたの」

「え?でもさっきまで――」

「神社の裏手の方よ」

驚いて先ほどまでなんの気配もなかった境内を見回す俺の言葉を、霊夢は遮った。

 

「宴会の片付けでね」

「片付けって、その体調で?」

「さっきまで調子が良かったのよ」

霊夢はため息を吐いた。

掃除をしていたら体調を悪化させたようだ。

 

ん?ていうか、神社の裏手って空き地だったけど、まさか外で宴会したのか?

この寒空の下?

 

「母屋に戻るわ。悠基も上がっていくでしょ?」

俺が困惑しているのにかまわず、霊夢は母屋に向かって歩き始めた。

「あ、ああ。お邪魔するよ」

返事をしつつ俺は霊夢の隣に並ぶ。

 

ふと、あ、良かったのかなと躊躇する。

 

霊夢は確か一人暮らしだし、今は体調だって優れていない。

そんな状態で俺みたいな成人男性を不用意に自宅なんかに上げていいのだろうか。

いや俺はなにもしないけどさ……。

 

「なにか変なこと考えてない?」

「えっ」

歩きながら横目で俺を見上げる霊夢に、俺は露骨に肩を跳ねさせた。

す、鋭いな……。

 

「いや、変なこと、ていうか、無用心だと思っただけ。うん」

「…………襲うの?」

ジト目になる霊夢。

俺は慌てて首を振った。

 

「お、襲わないし」

「そ」

端からそんなこと疑ってもいないとばかりに、霊夢は既に視線を前方へ向けている。

 

「でも、気をつけないと駄目だよ」

照れ隠しに忠告したら、再びジト目を向けてくる。

「余計なお世話」

「ッス……」

変な声出た。

 

母屋に玄関から入ると、霊夢は箒を立てかけ、居間へと赴く。

俺もその後に続いて履物を脱いだ。

 

「おお……」

炬燵だ。

障子を開き居間上がると、以前訪れたときと同様電気炬燵が置かれていた。

何度見てもちょっと感動する光景だ。

 

ただ、依然とは一部様子が違った。

「す、萃香?」

「んあ……?」

霊夢が炬燵に入ってきてもうつ伏せのまま微動だにしない物体に声をかけると、くぐもった声とともに頭を傾ける。

といっても角が邪魔をしてほんの僅かしか傾ききれてないが。

 

「悠基……か」

萃香は虚ろな瞳で俺を一瞥するが、すぐに頭の下の座布団に顔を埋めてしまった。

先日会った時の陽気な彼女は見る影も無い。

あまりの変貌振りに俺は目を瞠る。

 

「萃香……だよな?」

まさか別人じゃあるまいしと思いつつも、つい問いかけてしまう。

萃香は今度は頭を埋めたまま、唸るような篭った声を出す。

返事すらも億劫な様子に、俺は彼女を指差しながら霊夢を見る。

 

「……二日酔い?」

「鬼が二日酔いになんてなるわけ無いでしょ」

霊夢はというと、炬燵の天板に顎を乗せて、何をするでもなくだらけている。

 

「禁酒よ」

「へ?」

「禁酒。お酒を断ってるの」

「そりゃまたなんで……ああ」

霊夢に尋ねかけた拍子に、以前別れる際の霊夢と萃香のやりとりを思い出した。

確か、一ヶ月の禁酒だっけ。

 

「人里で俺を襲ったときの罰、と言うかお仕置きか」

「そゆこと」

炬燵に入りつつ、一人納得する俺に、霊夢は応えながら、起きているのがつらくなったのかぐでんと横になった。

 

「炬燵で寝たら風邪ひくよー」

「横になるだけ」

一応忠告すると、目を閉じながら返される。

寝る気満々だな……。

 

ていうか、人を家に上げといて寝ちゃうってどうなんだ。

しかも俺みたいな男の前で無防備に。

いや、何もしないけどさ……。

 

なんとなくだらけた空気に中てられて、俺も頬杖を付いてぼんやりと視線を彷徨わせる。

「しかし……随分弱ってるな」

微動だにしない萃香を視界の端に捉える。

「酒が飲めないのって鬼的にはそんなに辛いの?」

「いつも酔っ払ってるようなやつだから、よく効くのよ」

 

俺の問いかけにうんともすんとも言わない萃香の代わりに、横になった霊夢が答える。

「へえ。でも、萃香だったら、よくは知らないけど凄い能力があるんだから、こっそり飲んでてもおかしくないと思うけど」

人里に現れたときも、萃香は突如としてその場に分身を顕現させていた。

俺の上位互換的な能力だと見ているが、その能力があれば誰にもばれずに酒を飲むことなんて、造作も無いと思える。

 

正直、霊夢との約束をこんな状態になっても律儀に守るような殊勝な性格を萃香がしているとは思えない。

「萃香の能力なら、私の御札で封じてるわ」

案の定というか、萃香の能力は霊夢によって対処されているようだ。

「ついでに鬼の力も抑えているから、そこらの妖怪並に弱いわよ」

 

そういえば、以前霊夢が萃香にドロップキックをお見舞いした時――何回思い出してもあれは凄い絵づらだと思う――あの時萃香の顔面に御札が張り付けられていたけど、おそらくあの御札も、萃香の能力を封じる類の物だったのだろう。

外の世界に出たときも御札を使って、自分に対する認識を歪める的なことをしていた記憶がある。

 

そう考えると……いや、考えるまでも無く霊夢の能力って、凄いんじゃないだろうか。

とはいっても、今はそれ以上に『そこらの妖怪並』に弱体化された萃香が少し気になった。

一瞬しか記憶が無いとは言え、萃香の強さは明らかに俺が常々襲われている『そこらの妖怪』とは、まさに次元が違う強さだろう。

 

「……萃香、生きてる?」

俺が改めて問いかけると、萃香は律儀にくぐもった声を返す。

なんというか、哀れだ。

そこには以前の陽気な彼女は見る影もない。

まあ、ぶっちゃけ俺はどちらかと言えば萃香は苦手なのだが、さすがに今の彼女は見ていて気の毒である。

 

いやまあ禁酒してるだけなんだけどね……。

禁酒してるだけなんだけども……。

 

「…………霊夢」

俺が呼びかけると、俺の声音に何かを察したのか、霊夢は気だるげに起き上がった。

 

「あの……えーと」

あ、やべえ。

呼びかけたのはいいものの、なんて言えばいいのか考えてなかった。

良い淀む俺に、霊夢は大いに嘆息する。

 

「そういえば悠基、ルーミアと知り合ったらしいわね」

唐突な切出しに俺は「え?」と間抜けな声を出す。

「あ、う、うん。急になに?」

 

「その時の話、ルーミアから聞いたわよ」

「……えぇと」

「あの子が言うには、あなたは頭をぶつけたあの子を心配して『不用意』に近づいたそうじゃない」

不用意の部分を強調する霊夢に、俺は頭を掻きながら目を逸らす。

 

「ああ……いやあ」

「あのねえ悠基。貴方のそういうところ、直した方がいいわよ」

「危険意識が足りないってこと?」

幻想郷(ここ)に来たときに妖怪に殺されかけた貴方なら、妖怪がどれだけ危険かっていうのは分かってるでしょ」

霊夢は淡々とした口調で俺の答えを否定する。

俺を見据える瞳から、気のせいかもしれないがプレッシャーを感じた。

 

「あなたはね、例え分かっていたとしても、そのお人好しで危険に自ら近づくのよ」

「別にお人好しってわけじゃあ……」

「違うの?」

「違……くはないかもだけどさ……でも、危険とはいっても、あの時俺は分身してたんだからさ、一概にヤバイってわけでもなかっただろう?」

「確かにそれはそうでしょうね。じゃあその上で質問するけど」

そこで霊夢は一呼吸置く。

 

「もしあの時分身してなかったらどうしたの?」

そんなの、答えは決まりきっている。

決まりきっている……はずなのだが、どういうわけか答えを言いよどみかけた。

 

「そ、それはもちろん、近づかなかったよ」

「本当に?」

「うん」

「絶対に?」

「ぜ、絶対に近づかなかった……と思う」

うっかり語尾に余計なものをつけてしまっていた。

こちらを見据える霊夢の視線に耐えられなかったのかもしれない。

 

当然のごとく指摘される。

「自信無くなってるじゃない」

 

「いや、それはなんというか……霊夢に気圧されて、つい、というか……」

話しながら、内容が情けないことに気付いて軽く凹む。

そんな俺に構わず霊夢は話を続ける。

 

「例え私に気圧されたとしてもね、普通はそこで迷ったりしないの。つまり貴方は、自分の命を顧みない危うさがあるのよ」

「その結論は飛躍しすぎじゃないか?」

「そんなことはないわよ。自覚が無いだけ。忠告するけど、貴方のその無駄に優しいところも、余計なお世話を焼くところも、ほどほどにしないと身を滅ぼすことになるわよ」

「言い方キツいな」

 

『無駄に優しい』『余計なお世話』……。

霊夢の言葉が胸にグサグサと刺さる。

刺さるってことは、図星というわけで、俺もそのことを自覚してるってことか。

マジか……。

 

俺は両手を頭の後ろに添えつつ横になる。

「身を滅ぼす……か」

「まあ、勘なんだけど」

霊夢が頬杖を着く。

「でも、多分当たると思うわ」

 

根拠はないと霊夢ははっきりと告げた。

なのに、霊夢の言葉には妙な説得力がある。

不思議だとは思わなかった。

そう思わないことが不思議だ。

 

「自重した方がいいのかな……」

「まあ私は貴方のそういうところ、嫌いじゃないけど」

「……なんでそこでフォローが入るかなあ」

「なんとなく、よ」

いけしゃあしゃあとすまし顔で答える霊夢に俺はジト目を向ける。

ちょっとマイペース過ぎやしませんか。

 

「…………」

ため息をついて、天井を見る。

 

なーんか。

霊夢の忠告した俺の性格って、漫画なんかでよく見る主人公っぽい?

 

「今」

霊夢がふいに口を開く。

「不謹慎なこと考えたでしょ」

……心でも読めるのだろうか。

 

見透かすような霊夢の視線に、俺は半笑いを返す。

今度は霊夢がため息をついた。

「忠告し甲斐がないわねえ」

「まあ、俺のこういう性格って、成るべくして成ったみたいなところがあるから」

「?」

霊夢が首を傾げるが、構わず俺は体を起こす。

 

開き直りついでだ。

霊夢に先ほど頼みかけたお願いをしてみよう。

萃香の禁酒を解いてやってほしいというお願いを。

 

「なあ、霊夢」

「それは駄目よ」

「……まだ何も言ってないんだけど」

「何を言いたいかぐらい、話の流れで分かるわよ」

やっぱり俺の心を読んでるんじゃなかろうか。

 

「どうしても駄目?」

「駄目よ」

「でも、直接的な被害を受けたのは俺だけだからさ、その俺が許すってことで罪を軽くはしてもらえないかな」

「……それだけで済むなら話は簡単なのよねえ」

「……まあ、大事になってたしなあ」

俺は腕を組んで考え込む。

ただ、霊夢の先ほどの言葉は、俺の頼みを聞くのは、彼女としては吝かではないという印象を受けた。

 

「妥協案はどうかな」

「妥協案?」

「一日、一本だけ」

「…………」

霊夢は腕を組み考え込む素振りを見せながら、萃香を見る。

 

しばらくして、霊夢は口を開いた。

「じゃあ、追加で条件をつけるわ」

 

俺は緊張しつつ霊夢を伺う。

「条件?」

「追加のお賽銭ね」

「お賽銭……え?そういう問題?」

どんな厳しい条件が来るのかと身構えていたら、拍子抜けする。

 

「あら、うちみたいな貧乏神社には死活問題よ。それに、貴方のお願いを聞いた上で何か問題が起きたとして、貴方に責任が取れるの?」

「な、なるほど……」

俺はため息を吐きそうになるのをなんとか飲み込み、霊夢に頭を下げる。

 

「じゃあ、それでお願いします」

「はいはい」

霊夢が立ち上がる。

頭を上げて彼女を見ると、呆れた様子で俺を見据えている。

なんというか……今後霊夢には頭が上がらないんだろうなあ。

 

霊夢はうつ伏せの萃香の元に歩み寄ると、彼女を揺する。

「起きなさい萃香」

さっきからなんの反応も示さないと思ったら、どうやら寝入っていたようだ。

 

「……ん?霊夢?」

「蔵から好きなの一本持ってきていいわよ」

寝起きの萃香は、霊夢をぼんやりと眺めていたが、彼女の言葉の意味するところを察したらしく、目を丸くする。

「え?それって?え?」

「一日、一本だけよ」

 

その言葉に茫然とした様子の萃香。

だが、見る間に顔を赤くし、瞳を潤ませると、次の瞬間飛び起きた。

「霊夢愛してる!!」

「ええい、大声を出すな」

二日酔いの霊夢は、抱き着こうとする萃香の顔をぞんさいに片手で抑える。

 

「それに、こうなるように取り計らったのは悠基よ。抱き着くならそっちにしなさい」

「そうなの!?」

霊夢の声に萃香が俺を見る。

「え」

対する俺は、いきなり矛を向けられ頬を引きつらせる。

 

「悠基愛してる!!」

案の定飛びついてくる萃香に、俺も霊夢に習って、というか咄嗟に片手を突き出して萃香の顔を抑える。

鬼とは言え、女の子の萃香に対してあんまりにもな扱いな気もするが、まあ、咄嗟の事なので仕方ない。

というか、弱体化してるのに萃香の力が強すぎて止めるのも結構大変だ。

なおも抱き着こうしてくる萃香に、俺は必死に抵抗しながら声を上げる。

 

「貸し!貸しだからな!」

「えへへー分かったー」

だらしない返事をした萃香は抱き着こうとするのを止めると、踵を返して居間から縁側への障子を開く。

 

「ありがとね!二人とも!」

後ろ手に障子を閉めながら、満面の笑みを浮かべる萃香。

あまりの変わり身の早さに唖然としながらも、やはり元気な方が彼女らしいなとは思う。

 

「一本だけよー」

萃香の閉めた障子に向かって霊夢は声を掛ける。

「任せて!」

何を任せてほしいのかは知らないが、萃香は障子越しに元気に返事をすると、騒々しい足音と共に遠ざかって行った。

 

「悪いね。霊夢」

嘆息しながら炬燵に戻る霊夢に頭を下げると、ジト目を向けられる。

「謝るくらいなら……いえ、いいわ」

 

霊夢は頬杖をついて、何を見るでもなく空中に視線を彷徨わせる。

「昨日宴会したって言ってたでしょ」

「うん」

「ただね、やっぱり物足りないなって心の隅で思っちゃったのよ」

「萃香が?」

「そうね」

恥ずかしがる様子も見せず、霊夢はすまし顔で俺の答えを肯定する。

 

「だから、あの子の迷惑を一番被った貴方が許してあげてほしいって言ったときは、ちょっと安心したのよ。それだけ」

「そっか」

独白のような霊夢の言葉に、俺は頷く。

 

萃香はまだ戻ってこない。

どのお酒にするのか、迷っているのだろう。

 

「そういえば、明日かららしいじゃない」

唐突に、霊夢が話題を変えた。

「ああ、そうなんだよ。よく知ってるね」

「ケーキだったかしら」

「うん」

 

明日だ。

明日から、俺の作ったショートケーキが、甘味処で提供される。

ケーキの質は保証できる。

だが、値段は高めだ。

売れるかどうか、店主の玄さんは半々だと言っていた。

 

「魔理沙が絶賛してたわよ」

「魔理沙がかい?」

確か、クリスマスのときに試食してもらったときは、そこまでいい感触ではなかったと記憶している。

だが、なんだかんだで気に入ってくれたのだろうか。

 

「あとルーミアたちも」

「そうなのか」

『たち』ということは、チルノや大妖精も褒めてくれていたということか。

 

「そ。だから、今度ここに来るときは、私にも食べさせて」

頬杖をついたまま、霊夢は微笑を浮かべる。

俺は、頬を緩めながら頷いた。

「ああ、とびきり美味いやつを持っていくよ」

 

 

結局その後、萃香が一緒に飲もうと大きな種瓶を抱えて戻ってきた。

だが、二日酔いの霊夢は当然拒否し、結局俺と萃香の一対一(サシ)の飲みあいとなった。

萃香の持ってきたお酒はかなり度数が強いものらしく、当然ながら俺は一瞬で潰れ、それから少しの間霊夢に介抱されることになった。

いよいよ霊夢に本気で頭が上がらないな……。




ほのぼの、というよりダラダラ、とした話にするつもりだったのですが、気付いたら霊夢に説教される主人公の話になってました。なぜか。
この作品の霊夢はチートとは言えなくても割とそれに準ずるスペックがあります。


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二十一話 時期遅れのスポイラー

いよいよもって俺の新しい職場である甘味処でケーキが提供される次第となった。

 

とはいえ、大量の生乳から作ることができる生クリームは量が限られるし、生地を焼くのに時間がかかりそのための道具もあまりない。

そんな理由で、俺の作るケーキは一日の数量が限定されているという扱いだ。

作成量はたいした数ではない。

しかし、その限定された量を消化しきる日は稀で、だいたいは半分近くが売れ残る。

 

玄さんとしては「可もなく不可もなく」という評価になるらしい。

「もう少し多く作れるように何か考えとけ」

と玄さんから新たな課題を貰った。

彼としては、ありがたいことにもう少したくさん売れると見込んでいるようだ。

 

ケーキの評判はそれなりに好評らしい。

ただ、「やっぱり値段が高いのもあってお客さんは選ぶみたいよ」と甘味処の看板娘である千代さんが教えてくれた。

評判が人伝なのは、俺が店頭に顔を殆ど出さないからだ。

接客が苦手とか人見知りであるとか、そういった理由ではなく、単純に顔を出す暇が無いのだ。

 

なにしろ、俺が勤める甘味処はもともと玄さん一人で厨房を回すことを想定して作られており、機材が足りていない。

なので、俺は頻繁に甘味処の厨房と、寺子屋の離れの作業場の徒歩5分程度の距離を、何度も何度も往復するというなんとも効率の悪い方法を取らざるを得なかった。

 

「ま、この辺もいろいろと考えていかんとな」

狭い厨房で椅子を並べ、俺と額を突き合わせ腕を組む玄さんは、唸りながら言った。

「まあ、やっぱり難しいところですよね」

玄さん同様腕を組みながら俺も嘆息する。

 

忙しい時間帯を過ぎて店仕舞いをするまでの時間は、俺と玄さんとで雑談を交えた反省会が日課となっている。

最初の頃はそこに千代さんも混じっていたのだが、「狭い厨房でしかめっ面が二人もいると気が滅入る」と、あっけらかんと笑ってから参加しなくなった。

幻想郷の住人は、人や妖怪に限らずマイペースな人が多いが、彼女もその類に含まれるらしい。

 

そんな訳で男二人でああでもないこうでもないと議論を交わす夕暮れ時、そろそろ客足も途絶え、店も閉めようかという頃合だ。

俺が甘味処で勤め始めて、一週間と少し立ったその日、千代さんがひょっこり厨房に顔を出した。

「悠基さーん」

「あ、はい。どうしました?」

「お客さんよ」

「え?俺にですか?」

 

思わず玄さんと顔を見合わせる。

そこに千代さんが顔を近づけながら声を囁く。

「記者さんだって」

「記者、ですか?」

状況が分からないままに千代さんの言葉を鸚鵡返ししていると、玄さんがぼそりと呟く。

 

「ケーキの取材か?」

「そうかも」

「え?そんなことってあるんですか」

正直なところ、大して売り上げの出せていないケーキに、取材が来ると言うのは可笑しな話だと思った。

 

だが、玄さんも千代さんもそれほど疑問には思っていないらしく、二人して頷く。

「まあ、洋菓子はここでは物珍しいし、興味を持たれても不思議はねえな」

「それにね、実は悠基さんのケーキ、ぼちぼちお得意さんが出てきてるのよ」

「ほう、リピーターか」

玄さんの瞳がギラリと光ったような気がした。

 

「そうそうそれそれ」

千代さんが頷くと、玄さんは組んでいた腕を解き、両膝に手をつきながら立ち上がる。

「よし、悠基、一発かましてこい」

俺に歩み寄った玄さんは、唖然とする俺の背を勢いよく叩き立ち上がらせた。

「新規客開拓のチャンスだ」

「は、はい」

 

玄さんに押されるままに、俺は厨房の出口に歩み寄る。

千代さんが「ファイト」と両手でガッツポーズを示したので、緊張した面持ちで頷いた。

緊張……確かに少し緊張している。

なにしろ、唐突に降って沸いたチャンスは、今後のケーキの売り上げという命運を握る重要な物かもしれないのだ。

 

俺は軽く深呼吸をすると、厨房から暖簾を潜り、表――現代風に言うならホールと言うのだろうが、この店では客が茶を飲むスペースをそう呼んでいる――へ出た。

閉店前で西日が一部差し込む表は閑散としており、入り口近くのテーブル席に唯一、こちらに背を向ける形で少女が座っていた。

記者と聞いて洒落たハンチングを被った男をぼんやりとイメージしていた俺は、軽く面食らう。

 

だが、店内には他の客の姿は無く、千代さんの言う記者が彼女であることは明白だった。

ハンチング帽なんてものも明治初期の文化にはないと思うが、彼女の装いは、上はブラウス下は紫と黒の市松模様のミニスカートといったもので、幻想郷の人里では見ることのないものだ。

ウェーブのかかった長い茶髪を紫のリボンで左右に結った……いわゆるツインテールの頭の上にちょこんと、見覚えのある形の帽子(のようなもの)が乗っている。

 

天狗の帽子だ。

色合いは違っても同じ形をしたものであるというのは一目瞭然だった。

間違いない。

妖怪の山に行くたびによく白狼天狗に追い回されたり殺されかけたりしているおかげで、自信がある。

……なぜか悲しくなってきた。

 

いやいや、俺の宿敵としての地位を確立しつつある天狗の記者だ。

覚悟して挑まなければ。

決意を固めた俺は、「よし」と囁き自分に気合を入れ、彼女に歩みよった。

 

「お、お待たせいたしました」

どもった。

 

「俺になにか御用でしょか」

噛んだ。

 

散々である。

 

気まずげに顔を歪める俺を、整った顔立ちをした天狗の記者は一瞥する。

「来たわね」

一言、彼女はそう言って不遜な笑みを浮かべた。

なんだかテンション高いなあ。

 

彼女は「まあ座りなさいよ」と正面の席を指し示す。

その態度に腑に落ちない物を感じながらも、俺は椅子を引いて彼女と向かい合った。

「……どうも」

 

「あなたが岡崎悠基とやらね」

相変らず不遜な笑みを浮かべる彼女に、俺は首肯する。

「貴女は?」

「申し遅れたわ。私は姫海棠はたて。かの有名な花果子念報の記者よ」

「はあ、案山子年報、ですか」

「あら、花果子念報を知らないなんて、あなたモグリね」

 

会話開始から30秒足らずで、はたてと名乗る少女とのテンションの乖離っぷりの酷さを感じながら、俺は曖昧に「はあ」と首肯する。

「ま、最近幻想郷に迷い込んだ外来人と聞くし、それは仕方のない話ね」

腕を組み、はたては勝手に納得するようにうんうんと頷いた。

 

「よくご存知ですね。俺が外来人だってこと」

「ええ。貴方に関しては調査済みよ」

はたては手帳を取り出す。

「もちろん、あの事件もね」

「事件?」

あれ?

てっきりケーキの取材と思っていたが、なんだか雲行きが…………。

 

「先日起きた伊吹萃香襲撃事件の取材に来たのよ!」

…………。

い、今更かー……。

あたかも、つい最近起きた事件だと言わんばかりのはたてだが、萃香が寺子屋で俺を襲ったのはもう一ヶ月近く前の話だ。

 

俺が絶句していると、厨房から千代さんがお盆を手に近づいてきた。

「粗茶ですが」

千代さんが湯飲みをはたてと俺の前に一つずつ置く。

 

「ああ、店員さん。注文いいかしら?」

「ええ、構いませんよ」

人差し指を立てるはたてに、千代さんは胸にお盆を抱えて待ってましたとばかりに応対する。

 

「じゃあ、串団子を二串お願いするわ」

「え?団子、ですか?」

明らかに動揺する千代さん。

ケーキの取材に来たのだから、当然ケーキを注文するもの、とでも考えていたのかもしれない。

 

「あら、売り切れ?」

「い、いえ!しばしお待ちを」

怪訝な顔をするはたてに、千代さんは慌てて頷いてちらりと俺を見る。

「違うみたいです」という意味を込めて黙って首を振ると、千代さんは微妙な顔になって厨房に足早に引き返していった。

 

「慌しい子ね」

「アハハ……」

厨房に消えていく千代さんの後ろ姿を肩越しに見ながら呟くはたてに、俺は曖昧な笑みを浮かべるしかない。

 

「ええと、襲撃事件って、先月、萃香が寺子屋で俺を襲った事件のこと……ですか?」

「ええ、その通りよ」

はたては俺に向き直り頷く。

 

「鬼の伊吹萃香が突如として出現し、貴方を一撃の下屠り去っていった。貴方がこうして生きているのは、襲われたのが貴方の分身能力によって作り出した分身だったから」

「はい。その通りです」

まあ、分身という点については誤解している感があるが、わざわざ訂正するのも面倒なので触れないでおく。

 

だが、ここではたてが目を細める。

「……と、言うのが表向きの話ね」

得意気に断言するはたてに、俺は首を捻る。

「表向きというのは……」

「とぼけても無駄よ。すでにウラは取れているの」

 

「……ええと」

表もウラも何も、この事件に関しては今はたてが話した内容が全てだ。

補足するなら、俺の能力を萃香が利用しようとしたと言う動機があるが、はたての言い方からしてそのことを言おうとしている雰囲気ではない。

 

「じゃあ、その、貴女が掴んだ情報っていうのは?」

はたては俺を指差す。

「鬼である伊吹萃香と対等に渡り合える人間である貴方の正体は、神の血を代々受け継ぐ一族の末裔にして、人里の秘密兵器よ!」

どこかで聞いたことのある話だった。

 

「…………はあ」

気のない返事をする俺に構わず、はたては捲くし立てる。

「もうネタは上がってるのよ!貴方が伝説の剣と呼ばれる草薙の剣とやらを持ってることもね!」

「…………なるほどねえ」

ノリが記者というより警察だなあ、とどこか他人事のように思いながら、俺は腕を組む。

 

彼女の話す内容は、萃香の起こした騒動に人里の住人が好き勝手着色しまくったものなので、ウラは取っているだのネタは上がっているだのと彼女が言ったところで絵空事であるという事実に変わりはない。

人の噂も七十五日と阿求さんも言っていたが、実際そういった噂事態は随分収まったし、今時こんな話を真に受けている人もさすがにいないだろう。

せいぜい子供たちが面白おかしく話しているのと、アリスが人形劇で公演している程度だ。

 

……どうしたものかなあ。

と、迷ってみたところで、結局のところ正直に話す以外の選択肢はなかった。

 

「すいませんが、本当にそのような話はありません」

「私はそんなつまらない解答は期待してないわ」

「そうは言っても実際その通りだし」

「事実は小説より奇なり、よ。さあ、隠し立てしてないで洗いざらい面白い真実を話しなさい」

いや面白いて。

どうも彼女は、俺が秘密を持っていると決め付けている節がある。

 

「逆にききますけど、一体誰からそんな話を?」

「そんなこと言えるわけないじゃない」

「子供から?」

「ほぇ!?」

すかさずカマをかけてみると、面白い反応が返ってきた。

 

肩の力が抜けた俺に対して、はたての方はすぐに我に返ると、頬を薄く染めながら咳払いする。

「……図星ですか」

「やるじゃない、あなた」

「恐縮です…………じゃなくて」

ため息をつきつつ頭を振る。

 

「その情報元、本気で信用してるんですか?」

俺の問いかけに、はたては「ふっ」とほくそ笑む。

「記事のネタになればいいのよ!」

清清しいほどに開き直られた。

 

米神が痙攣するのを感じながら俺は再びはたてに問いかける。

「面白ければ嘘でもいいと?」

「言質を取れればそれは事実よ!」

「酷い暴論ですね」

「いいから吐きなさい!ネタを!記事に出来るネタをぉ!」

 

鬼気迫る……という程ではないが、さっさと吐けとばかりにはたてはせまってくる。

彼女の整った顔が近付くことに心中穏やかでないものを感じながら、俺は体を引きながら口を開いた。

 

「き、記事を書くネタによっぽど困っているんですね」

「へぐぅ!」

またも面白い反応をして固まるはたて。

彼女の心を鋭い棘で貫いてしまったかのような感じがする。

 

「……また図星ですか」

「貴方には関係ないでしょ」

はたては若干瞳を潤ませながら俺を睨む。

どうも、彼女を傷つけてしまったらしいと察した俺は、頭を掻きながら「なんかすいません」と、とりあえずとばかりに頭を軽く下げた。

 

ふと、そんな俺の視界に、厨房から出てきた千代さんの姿が映る。

そういえば、はたてが団子を注文してから随分立つな、と疑問に思っていると、千代さんが持つお盆の上の皿に盛られた物が目に入った。

はたてが注文した団子ではなく、売れ残りのケーキだ。

 

目を瞠る俺の様子にはたてが首をかしげていると、その横に千代さんが立つ。

「お待たせいたしました」

「あら、遅かったじゃない……?」

千代さんが置いた皿を前に、はたては訝しげに眉を顰める。

 

「あの、これは?私が注文したものじゃないわよね」

「ええ。こちら、当店の新商品でございます。もちろん料金は頂きませんので、ぜひ試食してみてください」

「へえ……」

興味深そうにケーキを覗き見るはたて。

一方で俺は、ちらりと千代さんを見る。

 

千代さんは俺に片目を閉じると、「それではごゆっくり」と頭を下げて厨房へ戻っていく。

彼女を目で追うと、厨房からこちらを覗く玄さんと目が合った。

玄さんは一度こくりと頷き、親指を立てると、厨房に引っ込む。

 

おそらくだが、玄さんたちは、はたての興味がケーキに移りそうな機会を伺っていたようだ。

「ファインプレーです」と頭の中で二人にお礼を言う。

二人の助け舟を無碍にするわけにはいかないと思ったが、俺が気合を入れるまでもなく、はたてはすでにケーキを興味を示している。

 

「もしかして、貴方が作ったもの?」

察しが良いのか、はたてはケーキを指差しながら俺を見る。

「ええ。外の世界の知識を再現したショートケーキという洋菓子です。といっても、季節や技術的な問題で、実のところ不完全なんですけどね」

「不完全ねえ……」

訝しげに呟くはたてに、俺は頷く。

 

「はい。ですが、今後更に完成度の高い物を提供できるようになる見立てはあります」

苺の乗ったショートケーキを夢想しながら、今は代替品を乗せたケーキに視線を移す。

「この段階で美味しいと感じていただけたなら……」

敢えて答えを溜めてみると、はたてが俺の言葉を引き継ぐように答える。

「もっと良いものが食べられるって期待してもいいってことね」

「その通り」

俺は努めて大袈裟に頷く。

我ながら随分芝居じみた感じになったが、はたての興味を更に引くことには成功した手応えがあった。

 

「へえ、大した自信じゃない」

はたては挑戦的な笑みを浮かべる。

「味については保証します」

彼女の笑みに答えるように、俺も自信ありげに見えるような笑みをなんとかして浮かべる。

 

「いいわ。その挑戦受けて立とうじゃない」

フォークを手に取り、はたてはケーキに視線を移す。

「これで大した物じゃなかったら、存分にこき下ろしてやるわ」

 

やばい挑発しすぎた。

と、俺が思ったところで後の祭りである。

内心では後悔しながらも、それを絶対におくびにもださないように笑みを維持する俺は、はたての反応を待った。

 

 

* * *

 

 

翌々日の早朝。

「失礼するわ」という声が、寺子屋離れの作業場で、いつものように仕込み作業をしていた俺の耳に入った。

同時に、返事を待つ素振りすらなく玄関の引き戸が開かれる音がし、俺は嘆息しつつ応対に向かった。

 

はたして、玄関に立っていたのは先日寺子屋で取材に訪れていたはたてだ。

その胸には紙の束が抱えられている。

 

「ああ、おはよう。こんな朝早くから、どうしたんだい?」

布巾で両手の汚れを拭いながらはたてを迎えると、彼女は笑みを浮かべて抱えた紙束から一枚の紙を引き抜き、俺に差し出す。

「記事が出来たわ」

「え?もう?」

「当然よ。情報は鮮度が命。早いに越したことはないわ」

 

その割には事件の取材に来るのが遅すぎるようなというツッコミを飲み込みつつ、俺ははたてから新聞を受け取る。

花果子念報……ああ、こういう字を書くのか。

そんなことを思いながら、俺はざっくりと、記事を斜め読みする。

 

もちろん、その内容は甘味処で売り出されたケーキに関するものだ。

 

「面白ければいい」というはたての言動から、滅茶苦茶な記事内容なのではと頭の片隅で危惧していたが、予想以上に内容は堅実で常識的だったので普通に驚きだった。

「おお……」

少し感動して花果子念報を見る俺に、はたては満足げに頷いた。

 

「それじゃあ、またその内取材に行くわ」

新聞を渡すことだけが目的だったのか、はたては数歩下がり開きっぱなしの玄関から外に出る。

「うん。もっと美味しい物が出せるように頑張るよ」

「期待してるわよ」

釘を挿すように、しかしどこか楽しげな様子ではたては言うと、次の瞬間突如として大きな黒い翼を背中に出現させる。

瞠目する俺を後目に「じゃあね!」と一言別れの挨拶を残したはたては、翼をはためかせたと思うとあっという間に飛び去って行った。

 

「……ああ」

俺は誰もいなくなった空間に今更すぎる相槌を打ちながら扉を閉めると、ゆっくりとした足取りで作業場に戻りつつ、花果子念報に目を通すことにした。




解説、というか裏設定みたいなものですが、萃香の騒動に関しては主人公が知らないだけで実は既に某射命丸によって記事として取り扱われていたりします。
いずれ機会が作れればそのことにもほのぼのと触れようとは思いますが今のところ未定です。



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二十二話 訪問者

その日は甘味処の定休日で、俺はゆったりとした気持ちで茶を啜りながらぼんやりと過ごしていた。

と言っても、耳を澄ませば寺子屋からは慧音さんのよく通る声が微かに聞こえるし、分身の俺は職員室の方で事務作業をしているはずだ。

 

定休日なる用語が明治時代からあったかは謎だが、玄さん曰く「ロウキに違反するから」という理由で俺の勤めている甘味処では定休日が定めている。

ロウキ……労働基準法のことだろうか……。

幻想郷にはそんな名前の法律はなかったはずだし、だとすれば、やはり玄さんは外来人なのかもしれないな、とぼんやりと頭の片隅でそんな気持ちを抱いた。

 

とはいえ、片や仕事をし、片や休息を取るというのも不思議だが、記憶を引き継ぐという性質上、分身するといっても精神的な休息は必要だと最近は実感するようになった。

そんな理由で特に何をするでもなく過ごすという、贅沢な時間の使い方をしていたわけだが、そんな俺の自宅の扉がふいに叩かれた。

 

「……?」

一瞬何が起きたのか分からなかった当たり、何も考えてなかったにしろ限度と言うものがある。

もう一度扉が叩かれて、それがノックであるということに気付いた俺はやっとこさ我に返る。

「あ、はーい!」

俺は慌てて立ち上がると、早足に玄関に近づき引き戸を引いて訪問者を出迎えた。

 

「と、君は……」

そこに立っていた予想外の人物に俺は目を瞠る。

「あなたが、岡崎悠基ね?」

俺の反応に訝しげな様子も見せず、少女は問いかけてくる。

 

「あ、ああ」

「私、十六夜咲夜と申します。お時間よろしいかしら?」

「ああ、うん。どうぞ」

俺は平静をどうにか取り戻しながら、大量の食材が見える手提げ袋を持った、ややスカートの短いメイド姿の少女を招きいれた。

 

十六夜咲夜……霧の湖の畔にある紅魔館の住人であり、単身で異変解決を可能とするほどの、霊夢や魔理沙に並ぶ実力を有する人間の少女と聞いている。

知り合いではなく俺が一方的に知っているだけなのだが、異変解決や紅魔館の住人というよりも、俺が幻想郷に迷い込む以前から、『東方』の登場人物として彼女を知っていたことに依る面が大きい。

そういうこともあって、俺としてはちょっとした有名人が突然家に訪れた気分だ。

 

しかし、俺と咲夜との間に接点はないはず。

共通の知り合いはいくらか思い当たるが、それにしても彼女の訪問理由に全く心当たりがなかった。

 

新しい湯飲みに茶を入れて、座布団に行儀よく正座した咲夜の前に置く。

彼女の荷物は玄関脇に寄せてある。

「それで、俺になんの用かな?」

「ええ。初対面の身で申し訳ないのだけど、折り入って相談したいことがあるの」

「相談?……とりあえず、聞こうか」

俺は首を捻りながら咲夜を促す。

 

「私は霧の湖の近くに建つ紅魔館でメイドを勤めているの」

「ああ。吸血鬼のレミリア・スカーレットが当主の館だよね。紅霧異変を起こしたっていう」

「そうよ。その説は迷惑をかけたようで、お詫び申し上げますわ」

咲夜は軽く頭を下げ目を伏せた。

 

紅霧異変は、幻想郷全体に紅い霧が広がり日光が遮断された異変らしく、当然ながら人里も同様に被害を多少なれど受けたと阿求さんから教わった。

咲夜は人里に住む俺自身にも当然その被害があっただろうと考え謝罪したようで、俺は慌てて手を振って否定する。

「いや、俺はつい最近幻想郷に来た外来人だから、別に被害とか、そういうのはないから謝る必要はないよ」

「外来人…………なるほどね」

 

頭を上げた咲夜は、俺を見据えながら合点がいった様子で呟いた。

「なるほどって?」

「いえ、貴方が作っているというケーキは、外の世界の知識で作ったものなのね」

「ああ、そうだよ」

首肯しながら、俺はふと気付く。

「俺が製作者だと知ってるってことは、もしかして、ケーキに関する話?」

咲夜は「ええ」と頷いた。

 

「実は、お嬢様……レミリア様が、貴方の作ったケーキを甚く気に入られているの」

「そ、れは……」

驚いて俺は思わず口篭る。

 

レミリアなる吸血鬼は、紅霧異変の主犯であり、幻想郷の中でも一大勢力の一つ、紅魔館の当主だ。

幻想郷の一般人、いわば村人Aといっても差し支えない俺からすれば、十分すぎるほどの大物だというのは阿求さんの言葉だ。

どのような人物なのかは知らないが、よもやケーキが気に入られているというのは、再現した俺からするとかなりの衝撃である。

「……光栄です」

絞り出すように咲夜に伝えると、彼女はさも当然とばかりに頷いた。

 

「それで、しばしば人里に買出しに来るたびにあの甘味処に寄らせてもらっているのだけど」

てことは、ケーキを日ごろから買っているということか。

以前、千代さんが常連さんがいると言っていたが、咲夜もそれに含まれているようだ。

しかし、気に入られてるって、マジか……。

 

「あの、日ごろのご愛好どうも」

若干呆然としつつも、使い古された文句を若干くずして礼を言うと、やはり咲夜はすまし顔で頷く。

「ええ。どういたしまして」

 

「えっと……つまり、今日もいつものように甘味処を訪れたところ、お休みだったと」

「その通りよ」

「じゃあ、俺へのお願いって、もしかしなくてもケーキを作って欲しいってこと?」

「察しが良くて助かるわ」

 

咲夜はそこで微笑を浮かべ、小首を傾げる。

「お願い、できるかしら」

対する俺は眉尻を下げて頭を掻く。

「いやまあ、お得意さんだし、お応えしたのは山々なんだけど、材料がないし、あったとしても時間がかかるからなあ」

「そう、材料と時間ね……」

咲夜はそこで、人差し指を立てる。

 

「じゃあ、代案なのだけど」

「ん?」

「レシピを教えていただけない?」

「……いや、さすがにそれは……」

「駄目かしら」

「まあ、企業秘密かな」

玄さんの方針だ。

 

「もちろん君が他言するとは思わないけど、今はまだ売れ行きも安定してないから、下手にレシピが漏れて供給が分散するリスクは避けたい……って感じ」

「それは残念ね」

と、咲夜は言うものの、その口ぶりからは、あまり残念という雰囲気は感じられない。

 

「では、レシピと同価値の物とで交換、というのはどうかしら」

「同価値というと?」

「それはもちろん、貴方が要求するものであれば、私の権限の範疇だったらなんでもご用意するわ」

 

「なんでも……」

思わず呟いてしまった。

いやでも、『なんでも』っっっって、すごい魅力的な言葉だよな。

しかも咲夜みたいな美少女から言われたら、それはもう思考が魅惑的な方向へグラついてしまうのが男の性というものだ。

いや、エロいこととか考えてないよ?

考えそうになっただけっす。

 

「誰に言い訳してるんだ……」

咲夜に聞こえないような極小の声で呟きながら俺は頭を振った。

訝しげな彼女の視線を受け止めつつ、俺は思考を打算的な、もっといえばビジネス的な方針へシフトさせる。

 

同価値……というならばやはり金銭的なものがオーソドックスだろう。

だが正直なところ、今のところ幻想郷では俺しか知らないケーキの製法の価値って、どんなものなのだろう。

これって、甘味処で雇ってもらっている以上、俺個人の問題ではないよな。

 

しかし、同価値……か。

ケーキと同価値。

同価値。

ドウカチ……。

ケーキに並ぶ……。

 

ふと、年末近くに、机の上に広げていた外の世界の雑誌を思い出す。

スイーツ特集と銘打たれた見開きのページには、ケーキに並んで他の焼き菓子も写っていた。

『こういうのも出来るの?』

確か、そんな言葉とともに、妹紅がマカロンを指差していた。

 

そのとき俺は、材料はあるけど、とかそういった答えを返したはずだ。

あるけど……そう、材料自体はあるにはあるのだが、それとは別に問題があるのだ。

 

「あの」

俺は思考に集中していてさ迷わせていた視線を、咲夜に向ける。

彼女は俺が答えるのをじっと待っていたようで、僅かに首を傾げて俺の言葉を促す。

「質問、いいかな?」

「なにかしら」

 

阿求さんからの知識を掘り起こす。

「確か紅魔館って、数年前に幻想郷に移ったんだよね」

「数年というほど最近ではないけど、まあ10年は立ってないわね」

 

「てことは、ある程度最近まで外の世界にあったって考えでいいかな?」

「それがどうしたの?」

「と、いうことは」

俺は期待を込めて咲夜を見つめる。

 

「調理機器なんかも、最近の物が取り揃えてあるんじゃないか?」

「……道具が欲しいと言うことかしら」

「道具、というよりも設置された大型の機器かな。特にオーブンを使わせて欲しいんだ」

「それは……紅魔館に訪れたいということ?」

 

「うん」

俺は若干の迷いを振り払うように力強く頷いた。

阿求さんからは、危険だから紅魔館には絶対に近づくなと最初の頃に忠告されたが、その割りに紅魔館と並んで危険区域と説明された妖怪の山には頻繁に行くよう命じられるようになった。

それに、もし客人として迎え入れてもらえるなら、多少はその危険が回避できるのではないかという考えもある。

まあ、何が危険なのかは結局教えられていなかったのだが。

 

「紅魔館のキッチンを一部使わせてほしいんだ。頻繁にとは言わなくとも、できればある程度長期的に」

「それは……お嬢様の許可が必要になるわ」

咲夜は僅かながらも困ったように眉尻を下げた。

 

「うん。だから、お願いしてもらえないかな?」

「お伺い立てするくらいなら、ええ、構わないわ」

 

「それで、もし駄目でも、妥協案として最悪ケーキくらいはここで作るっていうのは?」

「……出来るの?」

「さっきも言った通り、材料も時間も使うわけだから、完成するとしても確実に日が暮れちゃうし、品質も……まあ、この辺は妥協になるかな」

「……ええ、ではそれで」

交渉成立のようだ。

 

俺はほっと息を吐いた。

咲夜は敢えて何も言わなかったのだろうが、電気資源もガス資源もない幻想郷では、近年に幻想入りしたといえど紅魔館の設備もおそらくはそれなりに古いものが使用されているだろう。

だが、それでも明治初期の人里の設備よりは、技術的に進歩している可能性は高い。

ならば、多少なれど俺の現代の知識を活かす余地があってもおかしくない。

もし上手くいけば、他にも様々な洋菓子を再現できるかもしれない。

 

ほとんど、というか全部推定と希望的予想だが、それでも得られる物は多い……はず。

 

「ケーキ自体は、材料さえあれば紅魔館でも作れるかしら」

「それは、見てみないと何とも」

「そうね……では、材料はこちらで用意するから、外出の支度をしておいて」

「え?」

 

どうも、このまま咲夜が材料の調達をしたら、俺も一緒に紅魔館に向かう流れらしい。

確かに許可が貰えるならば、すぐに紅魔館に入って、うまくすればケーキ作りに取り掛かれるかもしれないが、俺としては咲夜が一旦紅魔館に戻り、レミリア嬢からの許可を貰ってくるものと勝手に思っていた。

まあ、それはそれで咲夜が無駄に紅魔館と人里の間を往復しなければいけなくなるから、そう考えたら咲夜としてはこちらの方が良いだろう。

 

俺は咲夜に求められるままに、材料のメモを手早く書き記して手渡す。

「でも、結構大変だよ」

なにしろクリーム作成の上で大量の牛乳が必要になるのだ。

「すぐに準備するわ」

だが、咲夜はこともなげに言うと、荷物は俺の部屋に置いて玄関に向かう。

 

「貴方も準備をしておいて」

「あ、ああ」

玄関口で俺を振り返る咲夜に、俺は目を丸くして頷いた。

 

咲夜は「すぐに」と言っていたが、さすがにある程度時間はかかるだろう。

せっかく紅魔館に行くのだから、阿求さんのところで何か助言をもらえる時間はあるかもしれない。

俺は咲夜が戻ってくる前に急いで準備にとりかかった。

 

* * *

 

結果としていえば、阿求さんのところに行くことは出来なかった。

一度分身を解くことで記憶を共有した俺は、再度分身し、もう一人の俺を寺子屋に残すと、急いで厚手の外套を羽織り、更に襟巻きを巻いた。

一月も半ばを過ぎて、幻想郷の冬は更に厳しさを増している。

持ち運べる程度の調理器具を風呂敷に包めば、もうこれで紅魔館に向かう準備は完了だ。

 

まだ阿求さんから話を聞く時間はある筈だ。

そんなわけで、荷物はそこに置いておき、稗田邸へいざ向かおうと玄関を開いた俺の目の前に、ノックをしようしとした姿勢で俺を見る咲夜の姿があった。

 

「お!っとぉ……」

危うく咲夜に接触しそうになりながら、寸前で前のめりになりかける体になんとかブレーキをかける。

 

「び、びっくりした」

一歩後ずさって胸を押さえる。

「あら、ごめんなさい」

「いや慌ててた俺が悪いんだけど……」

俺は軽く息を吐いて動機を落ち着かせる。

 

「えっと、忘れ物でもした?」

「いえ、準備が出来たわ」

やけに早く戻ってきたなと思いながら問いかけると、咲夜はすまし顔で答える。

 

「え?」

自分の耳を疑いながら、俺は咲夜の足元に目を向ける。

牛乳が入った大きな瓶が数本、ロープで縛られ纏められたていた。

その横には大量の卵といくつかの果物が入ったバスケットが置いてある。

「他の材料は紅魔館にあるわ。それで、牛乳はこれで足りるかしら?」

 

「あ、ああ。足りてる、けど」

俺は半ば呆然としながら材料を食い入るように見た。

咲夜が出てからものの5分とたっていない。

どう考えてもそんな短時間で用意できるはずはない。

「あの、どうやったの?こんなに早く」

 

「企業秘密ですわ」

茶化すように咲夜は微笑んだ。

「さて、随分慌てていたみたいだけど、貴方の準備はもう暫くかかりそうね」

「あ、いや……」

俺は頬を掻いて言いよどむ。

 

「えっと……大丈夫。いける。行けます」

さすがにあっという間に準備を終えた咲夜を待たせるのも気が引けたので、俺は大げさに頷くことにした。

「そう。では、行きましょうか」

「そうだな」

 

咲夜は俺の部屋に置いた手提げを、俺は風呂敷を取ると、改めて玄関を出る。

さて出発か、とも思うが、しかし、もとから大荷物だった咲夜に追加でケーキの材料を持たせて歩くのも気が引ける。

 

「咲夜」

「何かしら」

地面に置いたバスケットを持ち上げながら咲夜が俺の呼びかけに応じる。

 

「荷物、いくつか持つよ」

「だったら、これを」

咲夜は牛乳入りの瓶の束を指差す。

 

「了解」

俺はよっこらせと持ちにくそうな瓶束を抱えるように持ち上げる。

結構重いな、という感想を抱きながら、咲夜を振り返る。

「さて、それじゃあ行こうか」

「ええ」

 

ジャラリ、と、軽い金属が擦りあう音が俺の耳に届いた。

小さな音だった。

何か聞こえたかな?という程度だ。

俺は首をかしげながら、無意識に立ち尽くす。

 

「なにか――」

と、咲夜に問いかけようとした瞬間だった。

 

「――聞こ……は?」

 

咲夜の顔が目の前にあった。

ついでに言えば俺は宙に浮いていた。

いや違う俺は咲夜に抱えられていた。

でもってそれは俗に言うお姫様抱っこというものだった。

いやしかし俺はさっきまで普通に二本の足で立っていたのだ。

しかし現状俺は大量の荷物とともに咲夜にお姫様抱っこされていた。

うん。

うん。

……うん。

…………何が起きた?

 

とりあえず俺を抱える咲夜に声をかけようとする。

それにしても、なぜ咲夜の視線は上に向けられているのだろう?

「さく――やあああぁぁああああああああああ!?」

そうして、俺が声をかけようと口を開くのとほぼ同時、重力に逆らい咲夜が一瞬で飛び上がった。

急な上昇と、それに伴い倍増する重力と、激しい風圧を受けながら、俺は情けない声を地上に残し咲夜に抱えられ飛び立ったことになるわけで――。

 

* * *

 

「――やあああぁぁあああ――」

奇声が一瞬聞こえ、俺は思わず筆を止める。

寺子屋の職員室で作業をしていた俺は、なにごとかと、聞き覚えのある声の主から全力で意識を逸らしながら、職員室を飛び出しその足で寺子屋の敷地を出た。

僅かに騒がしい通りでは、まばらに立つ人々が皆一様に空の一点を見ている。

 

知り合いの男の顔を見つけた俺は、小走りに駆け寄った。

「あの、善一さん」

「お!?悠基?無事だったか」

善一さんの反応に嫌な予感を覚えつつ、俺は問いかける。

「何かあったんですか?」

 

「いやな、吸血鬼のとこのメイドが今しがた飛び去って行ったんだ。悲鳴を上げるお前によく似た男を抱えて」

善一さんは説明しながら空を指差す。

俺がその先を見ると、はるか上空に僅かに小さな人影らしきものが見えた。

 

「てっきりお前かと思ったが、違ったようだな。しかし、あれは一体誰だったんだ?」

誰ともなしに呟く善一さんに、「多分それ俺です」と答える気にもなれず、俺は途方に暮れて今は小さな点にしか見えない人影を見る。

 

早まったかな……。




吸血鬼異変っていつごろ起きたか決まっていないのですね。
そんな訳でこの作品では10年は立ってない程度前に起きた異変ということになっています。
安易に決めたこの設定ですが、いつか破綻しそうで怖いです。
まあでもこの作品はほのぼのとした日常系という名目で進めているので、そのあたりの設定はふわっとごまかす所存です。はい。


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二十三話 紅の館の門番

幻想郷上空、数十メートル。

もしくは数百、数キロメートルか。

さっぱり分からない。

知りたくもない。

知る余裕もない。

……死にそう。

 

季節は一月半ば。

連日雪がちらほら見えるほど冷え込んだこの季節、灰色の雲が立ち込める空は人が生身でいてもいい空間ではない。

地上から更に数段気温が下がり、激しい風で体感温度はもっと低い。

もう暫くここに居たら凍死してもおかしくない。

 

なぜ俺がこんな強風吹きすさぶ中で凍死しそうになっているかといえば、それはもう俺を抱えて空を飛ぶコスプレじみたメイド姿の少女、咲夜のおかげである。

まあ確かに徒歩で紅魔館に向かうと時間がかかるし、空を飛んでいけば時間短縮も出来て合理的だとは思う。

しかし、この寒空の下でそれを決行するのはいかがなものだろうか。

 

藍に運ばれた際は高度を抑えてくれたのでそれほど凍えずにすんだが――その代わり多数の知り合いに晒される羽目にはなった――どういうわけか咲夜はかなりの高さを飛んでいるようだ。

ちなみにお姫様抱っこってあれされる側としては咲夜みたいな美少女と強制的に顔が近づくわけだけど、「あ、いい匂いする」とか「睫長いんだな」とかそんな感想を抱くかといえば、吹きすさぶ風が痛すぎて目を開くことすら辛いので、そんな暢気なことを考えている場合ではない。

 

もうね、もう駄目っす俺。

それなりに厚着してきたとはいえ高高度の風は体を容赦なく切り刻んでいく錯覚を覚えさせるし、お姫様抱っこってあれ男が女の子にされるともう屈辱が大半だし、彼岸花だらけのお花畑を幻視するしで、もう心が折れるどころか粉砕されているまである。

 

とはいえ、現在俺は分身能力を使用中なので、荷物やら外套やらを諦めさえすれば分身を解除してこの場から離脱することは容易だ。

しかし、さすがにそれは咲夜に対して不義理な気がするので、もうダメもう無理と心の中で弱音を吐きつつも耐えられるところまで耐えることにした。

 

一瞬、本当に一瞬だけちらりと眼科を見ると、白い霧で覆われていた。

おそらくは、霧の湖を横切っているのだろう。

目を閉じ、歯を食いしばりながら納得する。

ああ、湖を一気に横断するために高度を稼いだのか。

 

せめて回り込むなりして欲しかったと思ったが、目的地はもうすぐということか。

気のせいか、風が弱まった気がする。

暖かく……はなるわけがないのだが、それでも肌を刺す寒気が弱まったような気がした。

それに、明らかに重力に従いゆっくりと降下しているのが分かった。

 

「――っ……」

閉じていた瞼を恐る恐る開こうとすると同時、咲夜が硬い地面に着地する感覚を彼女の体越しに感じた。

 

「着いた?」

「ええ。降ろすわよ」

「ああ。……ゆっくり頼む」

寒さと安堵からか、俺の体はこれ以上ないほどがくがくと震えていた。

重い荷物を抱えたまま立てるのかどうかが微妙に危ぶまれたが、生まれたての小鹿とまではいかないにしても、俺は足を小刻みに痙攣させながらもなんとか二本の足で立つ。

それほど長時間飛んでいたはずはないのだが、硬い地面を踏みしめるとそこはかとない安心感がある。

なんの予告もなしに俺を抱えて飛んだ咲夜に非難の目を向けることさえ、そのときばかりは忘れていた。

 

「さ、咲夜さん!?」

俺が固い地面の感触に感動したちょうどそのとき、女性の声とともに駆け足の足音が近づいてきた。

抱えていた荷物を置き、顔を上げて音のした方を見ると、長く赤い髪を揺らしながら、長身の女性が慌てた様子で走り寄ってくる。

 

その向こうに、壁一面を紅色に塗装された大きな洋館が建っていた。

阿求さんから聞いたとおりの外観だ。

手前には、長いレンガ塀に備えられた鉄格子の門があり、鉄格子越しに広い緑豊かな庭が見えた。

 

「話を合わせて」

走り寄ってくる女性に聞こえないよう抑えたのだろう、小さな声で咲夜が俺の耳元で囁く。

思わず聞き返しそうになるが、その前に赤髪の女性が俺たちの前で立ち止まった。

 

「美鈴、ただいま帰ったわ」

「あ、はい。おかえりなさい、咲夜さん」

いたって平静な咲夜の言葉に、美鈴は目を丸くしつつ応じる。

 

「あの、そちらの方は?なんというか、顔色が優れないようですが」

「友達よ」

一瞬隣に立つ咲夜を見そうになるが、危ういところでなんとか堪える。

咲夜の「話を合わせて」というのはこのことなのだろう。

 

「ええ!?ご、ご友人、ですか?」

「……何か問題でも?」

美鈴は目を瞠りながら俺と咲夜を交互に見るが、咲夜の刺々しい言い方に身を竦ませる。

 

「い、いやぁ……」

気まずげに頭を掻く美鈴だが、なぜか笑顔を浮かべる。

「珍しいこともあるものだなと、思いましたので」

素直に答えてしまう美鈴に、俺は思わず咲夜の反応を伺った。

 

「………………」

嘆息を堪えるように口元を歪めたのち、咲夜は無言で氷のように冷たい視線を美鈴に向けた。

「す、すいません……」

無言の圧力を承った美鈴は、顔を青くしてたじろぐ。

剣呑とした視線を収めた咲夜は今度こそため息をつくと、俺に視線を向けた。

 

「お嬢様に話を通してくるから、貴方はここで待っていて」

「うん。お願い」

俺の言葉に咲夜は無言で頷くと、再び美鈴に視線を向ける。

 

「美鈴」

「は、はい!」

「貴女は彼の治療を。凍傷まではいってないから」

「了解しました」

直立し、大げさに敬礼をする美鈴に咲夜は頷くと、地面に置かれた食材諸々を全て抱えて、格子の門に向かって歩き始めた。

ていうか、「凍傷まではいってない」って、裏を返せば凍傷しかけとも取れるような気がするんだけど……。

咲夜の残した言葉に釈然としないものを感じながら、俺と美鈴は咲夜を見送った。

 

大荷物を運びながら颯爽と去っていく咲夜の背中を見ながら、俺はそれにしてもと首を傾げる。

長袖のメイド服はある程度厚い布地を使用しているようだったし、ミニスカートで露出する足はタイツを履いている。

しかし、その程度の服装でこの寒さをどうにか耐えられるとは思えない。

ついでに言えば、俺を含めた大荷物は軽く見積もっても総重量70キロはあるだろうに、それを軽々と持ち上げるのも謎だ。

『人間』と聞いてはいるが、つくづく謎めいた少女である。

 

「さて、それでは治療させて頂きますね」

美鈴が俺に向き直る。

「ええと……」

「あ、悠基です。岡崎悠基」

 

「ああ、これはどうも」

美鈴は大袈裟に頭を下げた。

「私、ここの門番を勤めております紅美鈴と申します。どうぞお気軽に美鈴とお呼びください。もちろん敬語も結構ですので」

朗らかな笑顔で名乗る美鈴からは随分と気さくな印象を受ける。

 

「うん。よろしく美鈴」

俺が手を差し出すと、美鈴はその手を握り応じてくれる。

「ええ。よろしくお願いします、悠基さん……寒そうですね」

「まあね……」

握手している腕どころか全身を寒さで震えさせている俺に、美鈴は苦笑を浮かべた。

 

「では、改めまして……失礼しますね」

美鈴は握っていた手を離すと、俺の胸に掌をそっと当てた。

「服越しですので、多少効果は下がりますが」

と、前置きのように呟くと、美鈴は目を閉じてゆっくりと息を吸い、間を空けて吐き出す。

一体何をしているのかと思ったら、美鈴が布地越しに触れる部位、心臓の当たりがじんわりと、しかし明確に温かくなってきた。

 

目を丸くしながら美鈴を見ると、俺の様子を察したのか、彼女は瞼を開けて俺と目を合わせる。

「これって――」

「『気』というやつですよ」

微笑を浮かべる美鈴は、既に先ほどの深呼吸を続けている様子はない。

しかし心臓付近から発生したぬくもりは、ゆっくりと胸から体全体に広がりつつあった。

 

「気は血液に乗せやすいので、血液を送り出す心臓から体全体に巡らせているんです」

「それは……凄いな。驚いた」

 

『気』といえば、俺の中では漫画でよく見る特殊な能力やド派手な必殺技の源となるエネルギーの代表的な存在だ。

あるいは、気によって周囲の状況を察知したりとか、気を操ることでパワーアップだとか、その汎用性、発展性は多岐に渡る。

まあ、要するに俺の中では『なんかよく分からないけど凄いパワー』の代名詞だ。

 

そんな感じで感嘆の声を上げる俺に、

「光栄です」

と美鈴ははにかんだ。

 

「さて、いかがですか、体調の方は」

暫くして美鈴が離れると、俺はつい先ほどまで悴んでいた指が違和感なく動かせるのを見ながら頷いた。

「うん。ばっちりだよ」

「それは良かった。さて……ちょっと失礼しますね」

突然美鈴がしゃがみ込んだかと思うと、俺の足をぺたぺたと触り始める。

 

驚いてたじろぐ俺に構わず、美鈴は足から腰、胴、腕と、俺の体を下から上へボディチェックするように触っていく。

「うーん……」

やがてその作業を終えた美鈴は、何かを考え込むように顎に手を当て、俺の体を眺める。

 

「あの、何かな?」

「いえ、ちょっと気になったもので……悠基さん、武術の心得は?」

「え?」

唐突な質問に面食らう。

 

「ない、けど」

「ですよね」

「ええと、さっき体を触ってたのって、もしかして筋肉のつき方とか見てた?」

「ええ。悠基さん、筋肉、特に足の部分なんかは鍛えられてますけど、でも武芸者のそれとは明らかに違いますね」

「分かるの?」

「まあ、それなりには」

俺とやり取りしつつも、美鈴は俺の体を観察するように眺めてくる。

 

「では、何か、普通の人間にはない特殊な能力などはありますか?」

「まあ、分身が出来るくらいなら」

「ほお、分身ですか。見せてもらってもいいです?」

「あー……悪いけど分身人数って上限があるんだ。ていうか二人が限界。もう人里に分身を残してるから、今、目の前でっていうとちょっと……」

「それは残念ですね」

美鈴は眉尻を下げる。

 

「では、他には」

「他……特にないかな」

「特に、ですか?」

「うん」

「空を飛ぶくらいなら出来ますよね?」

「咲夜に抱えられてきたのを見てたなら察して欲しいんだけど」

自分で言いながらなんだか悲しくなってきた。

 

「はあ。だとすれば、純粋に人柄でしょうか?」

美鈴は腕を組んで大げさに首を傾げる。

先ほどから彼女の質問の意図がいまいちよく分からない。

名前も相まって、美鈴は一見すると中国の拳法家をどこか髣髴とさせる。

なので、一武道家として、俺の戦闘能力とかに興味でも沸いたのかと一瞬思ったが、人柄について言及する辺り、予想はハズレのようだ。

 

「あのさ、さっきから何?」

「いえ、あのですね――」

「何を話してるの?」

ふいにすぐ傍から声をかけられた。

「っ!」「おおっと」

俺も美鈴も息を呑んで、声の主を見る。

 

いつのまにか、全く以て近づいてくる気配もなく、咲夜がすぐそばに立っていた。

「もう、びっくりしましたよー咲夜さん」

「余計な詮索はやめなさい」

胸を押さえる美鈴を咲夜は鋭い目線で一瞥する。

 

だが、美鈴は懲りないのか、咲夜の視線を気にしつつも朗らかな笑顔を浮かべる。

「いやあでも気になりますよ。なんたって咲夜さんガッ!!」

 

唐突に美鈴が白目を向いて頭を仰け反らせた。

その光景に俺は目を瞠る。

美鈴の額には、まるで最初からそこにあったかのように銀色の刀身のナイフが突き刺さっており、誰がどう見ても即死レベルの致命傷であることは明らかだ。

 

だが、衝撃を受けた俺が動く間を空けず、美鈴はナイフの突き刺さった額を摩りながら涙目を浮かべて頭を起こした。

「ちょっ、酷いですよ~」

 

「美鈴、貴女今日は随分機嫌が良いじゃない」

対して咲夜は不機嫌そうに半眼で美鈴を睨みつける。

「そりゃだって咲夜さんが……いえ、なんでもないです」

なおも暢気そうに答えようとする美鈴だが、咲夜がいつの間にか握っていたナイフに気付くと、半笑いを浮かべて後ずさった。

 

「おや?悠基さん、いかがされました?また顔色が悪くなっているようですが」

「いや、まあ……」

ふいに美鈴が俺を見るが、若干の吐き気を催して口元を手で覆う俺は、彼女からやんわりと目を逸らす。

美鈴は、少なくとも人間ではないのだろう。

だが、見た目普通の女性にしか見えない彼女の頭には、刀身が脳に達しているようにしか見えないナイフが生えたままである。

最近まで平和な現代社会で生きていた俺としては、普通にショッキングでトラウマになりかねない光景だった。

 

「誰のせいだと思ってるの」

そのことを察したらしい咲夜が呆れたように言った。

……いや咲夜、見えてないけどあのナイフ突き刺したの咲夜だよね?

さも美鈴だけが悪いみたいな言い方してるけど原因の大半は咲夜にあるよね?

 

俺の無言の抗議の視線に気付いていないのか、はたまた確信犯的に無視しているのか、咲夜は平常どおりの口調で切り出す。

「お嬢様から許可が出たわ」

「……それは良かった……」

口元を手で覆ったまま俺は頷く。

 

「まずは、お嬢様にご挨拶を」

「ああ、そうだね」

いよいよか、と俺は息を吐く。

 

館にお邪魔するのだから、その当主に挨拶するというのは当然の流れだ。

とはいえ、どうしても緊張する。

催した吐き気が、美鈴のせいなのか緊張によるものなのかは微妙に判別がつかない程だ。

 

「じゃあ、着いてきて」

と歩き出す咲夜に続きつつ、おそらく門番の仕事を続けるのであろう美鈴に俺は「それじゃあ」と片手を上げた。

 

美鈴もそれに応じるように軽く手を振る。

もはやナイフに関しては出来るだけ気にしないことにした。

「はい!お気をつけて!」

いや、お気をつけてて……まあ、これから入る館の主は、過去に幻想郷全土を巻き込んだ異変の首謀者だ。

なので、俺の立場からしていえば、間違ってはいないのだろう。

 

細かいことを気にしていたらきりがないといい加減学習し始めた俺は、軽く息をつきながら聳え立つ洋館……紅魔館の敷地を跨いだ。

 

* * *

 

紅魔館の内部も、外壁同様に壁紙やカーペットによって赤の系統色に染め上げられている。

しかし、その装飾に全く下品さを感じないのは不思議だった。

 

館は窓が少なく、全ての窓に備え付けられた赤く分厚い布地のカーテンがしっかりとしまっている。

これは日光を弱点とする吸血鬼の性質に起因するのだろうが、その割には館内は明るかった。

エントランスや廊下には、随所にシャンデリアやランプなどの光源が設置され、館内をくまなく照らしている。

だが、光を発しているのは蝋燭や油の染みこんだ布についた火でなく、さながら光そのものと表現する他ない、実体の見えない光の塊だ。

 

また、驚いたことに紅魔館では妖精をメイドとして雇っているようだ。

メイド服――こちらは咲夜の物とは違い時代を感じさせるロングスカートのものだ――を身に纏い、羽を生やした幼い少女がそこかしこに散見された。

咲夜にそのことを尋ねてみると、彼女は首肯した後補足するように一言付け加えた。

「殆ど役には立たないのだけど」

確かに、メイド妖精はその大半がなにをするでもなくのんびりとした様子でふよふよと浮いており、掃除道具をもって飛び回る妖精はごく一部だ。

 

「そういえば、友達って?」

長い廊下を歩きながら、俺は周囲に人影がないのを確認しながら前を歩く咲夜に問いかける。

 

足を止めず肩越しに振り返る咲夜は、こともなげに伝えてくる。

「そう言っておけばお嬢様を説得しやすいと思ったのよ」

「ああー……」

確かに、取引して来たというよりは、友人として来たという方が印象は良さそうだ。

 

そこでふと、美鈴の言葉を思い出す。

『珍しい』って、文脈からして咲夜が個人的に友人を招くことを指しているんだよな……。

もしその推測が正しいなら、珍しく咲夜が友人を連れてきたに対して驚いたのだろう。

『男の友人を』である。

 

「ああ、だから美鈴が……」

危うく『詮索していたのか』と言いかけた所で、ちらりと咲夜が肩越しに訝しげな視線を投げかけてくる。

「美鈴が?」

「……なんでもない」

かろうじてそう答えると、咲夜は「そう」と短く返事し前方に視線を戻す。

 

美鈴が俺と咲夜の仲を邪推、とまでは行かずとも何かしら勘ぐっているのは十分ありえる。

咲夜はこのことに気付いているのかどうか分からないが、もし気付いていないのならわざわざ説明するのはやめておいた方がいいかもしれない。

美鈴の二の舞、とまではいかなくとも、額にナイフなんて突き立てられたら確実に即死なので、そんな事態は避けたいところだ。

 

「さ、着いたわ」

咲夜がある扉の前で立ち止まった。

俺は軽く息を吐くと、振り向いた咲夜に対し頷く。

「うん」

 

咲夜は俺の反応を確認すると、扉に向きなおり二度、ゆっくりと叩いた。

「お嬢様、お客様をお連れしました」

「いいわ。入りなさい」

 

ノックに応じる高い声は、どこか幼い少女のようなのに、短い言葉に含まれる流暢な発音は、上品な女性のそれを思わせた。

一体どのような人物、もとい吸血鬼なのだろう。

 

「失礼します」

と咲夜が扉を押し開く。

俺は緊張しつつも、口元を引き締めながらレミリア・スカーレットの待つ部屋に、咲夜に続いて入室した。




美鈴と会話するだけで1話消費してしまいました。
一応はほのぼのを方針としているとはいえ、我ながら話が展開するのが非常に遅いです。牛歩かな?



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二十四話 謁見

俺が案内された一室は、天蓋の着いたベッドや、豪勢なクローゼットの備えられたいかにも中世の貴族の私室を髣髴とさせる部屋だった。

例に漏れず赤系統のカーペットや壁紙といった装飾だったが、予想外だったのはその部屋には大きな窓が設置され、分厚いカーテンが開かれていたことだ。

窓の向こうは鼠色の曇り空だったが、直射日光でなければ平気だということだろうか。

 

そして、その窓の正面、部屋の中央やや奥で、小さいな丸机に上品に頬杖をつき、アンティークなデザインの椅子に足を組んで座る少女が、微笑を浮かべて俺を見据えていた。

見た目で言えば、それこそ可憐な少女だ。

大妖精やチルノと同じかその前後といったところだろう。

 

だが、見た目は幼くとも、纏う雰囲気や表情が明らかに違う。

……おそらくは、前知識による補正もあるのだろうが。

彼女こそが、幻想郷を一度ならず危機に陥らせた異変の首謀者、レミリア・スカーレットなのだ。

 

俺は一礼すると、咲夜に促されるままに、レミリアの前に進み出る。

緊張から体の挙動に若干の違和感すらあった。

とはいえ、咲夜から聞いた通り、既に紅魔館の厨房を使う許可は下りている。

だから、今回は挨拶するだけだ。

失礼が無ければ問題はないはず。

失礼さえ無ければ……。

……よけい緊張してきた。

 

「あの、お初にお目にかかります」

俺は軽く頭を下げる。

「岡崎悠基と申します。この度は――」

「ねえ、貴方」

と、俺が挨拶をしようと言葉をつないだところで、レミリアがそれを遮った。

 

「――はい?」

俺は頭を上げながらレミリアを見る。

椅子に座る彼女より直立する俺の目線は高くなるため、自然にレミリアは俺を見上げる形になる。

レミリアは僅かに上目遣いになりながら、笑窪を深くする。

 

 

 

「ただの人間風情が、私に対して頭が高いんじゃない?」

 

 

それは間違っても高圧的な物言いではなく、あたかも世間話をするかのごとく、自然な言い方だった。

 

 

対して、

 

 

瞬間、

 

――ゾワリ――

 

と、総毛立つ感覚が体中を奔る。

 

俺は無意識に呼吸を忘れ、ただ、促されるまでもなく、跪いた。

酷く緩慢な動作だ。

反して心臓は痛いほど激しく鼓動していた。

体が小刻みに震える。

しかし、片膝を着き、彼女に……その『お方』に頭を傅いたまま、俺は動けずにいた。

 

俺は支配されていた。

恐怖に体の自由を奪われていた。

純粋な死の恐怖だった。

頭では……理性では、分身である俺が殺されたところで、人里に残った俺がバックアップとなることは理解している。

だが、そんなことは瑣末でなんの気休めにもならないと、本能が訴えかけていた。

 

「お嬢……様?」

背後で困惑した声を咲夜が上げる。

その声は、水面を通して歪められたかのように、彼女と俺がいる世界が全く違う世界であるかのように、酷くぼやけた形で俺の耳に届いた。

 

そんな中で、そのお方は小さく笑った。

堪えるような、しかし僅かに喜びを含んだかすかな笑い声は、咲夜のときと違いはっきりと俺の耳に届く。

 

 

そうして唐突に、

「っ―――…………ハァ、ッ、」

俺を絞め殺さんとしていた重圧が消えた。

俺の体を拘束していた恐怖という名のプレッシャーが、ふいに消失した。

 

「ハァッ、アッ、ハァ、ハァ」

やり方を忘れていたかのように、俺は乱れた呼吸を再会する。

浮かんだ脂汗が傅いたままの俺の鼻先を伝って落ち、高級なカーペットに一滴のシミを作った。

 

先ほどとは違い、体を支配されている感覚はない。

だが、震えは止まらないし、頭を上げて正面から彼女を見る勇気がまだ沸かない。

 

「すまないね、咲夜」

レミリアが立ち上がるのが、視界の端に見える。

「お前が珍しく客を招きいれるから、どんなヤツかと思ってね」

ゆっくりと、彼女は俺に近づくと、震えるその肩に手を置いた。

 

「拍子抜けだわ。この程度の殺気でここまで怯えるなんて、予想以上に凡庸で、臆病な男なのね」

「彼は普通の人間だと、お伝えしましたが」

「お前の感覚で普通の人間と言われたところで、それを鵜呑みにできるはずがないだろう?」

 

「……?どういう意味でしょうか」

困惑した様子で咲夜が問いかけるも、どこか呆れた様子でレミリアはそれに応じる。

「お前が特別だというだけさ」

 

俺は意を決して頭を上げ、レミリアを見る。

至近距離で目が合う彼女の微笑は、侮蔑でも嘲笑でもなく、どこか楽しげだった。

「とはいえ、人間に純粋に怯えられるのも久しぶりだわ。やはりこういう感覚もたまにはいいわねえ。霊夢も魔理沙も全力の殺気をぶつけてもほとんど怯みもしないんだもの」

あの二人神経図太すぎだろ……。

頭のどこかで呆れながらも、未だに至近距離で目が合ったままのレミリアに対する畏怖は体にこびりついている。

 

「悪かったわね、悠基。でも貴方も男なのだから、もう少し根性を鍛えた方がいいわよ」

「……精進します」

俺は息を呑んでから、かろうじて掠れた声を捻り出した。

その答えにレミリアは笑みを深くする。

 

「さて、貴方の要求はここの厨房を使うこと。報酬として、今日のところは私のためにケーキを作ってくれる、でいいのかしら」

「ええ、その通りです」

どうにか呼吸を落ち着かせながら、跪いた姿勢のままで俺は頷く。

 

「まあ、それで構わないのだけど、私からはもう一つ条件がある」

「……条件ですか」

身をこわばらせる俺に、レミリアは小首を傾げながら目を細める。

「ああ」

なぜか、優雅な仕草の中に獰猛な気配を感じた。

 

「貴方の作ったケーキ。あれはいい出来ね。材料が乏しい中よく再現している。見事だよ」

唐突にして予想外。

手放しの褒め言葉だった。

 

いつもの俺なら小躍りしたくなる衝動が沸きあがる程度には大喜びしていただろうが、今は畏れ多いという感情が大半である。

「……光栄です」

本当に形ばかりの謝意になってしまった。

言った後に後悔しそうになり、どうにかこうにか搾り出すように誠意を込めて付け加える。

「――本当に……」

 

レミリアはそんな俺に対し鼻で笑う。

ただ、馬鹿にしている、というニュアンスをなぜか感じなかった。

 

「それでね、悠基。私は今日も、咲夜が人里に降りて貴方の作ったケーキを持ち帰ってくるのを楽しみにしていたんだ。でも、帰って来た咲夜が言うには、すぐに用意できないらしいじゃないか」

一瞬、彼女の言葉に首を傾げそうになりながら、俺は乾いた唇をなめる。

「その、はい。今から、となればそれなりに時間がかかります」

「ならば、私のこの高揚した気持ちはどうすればいいのかしら?」

 

レミリアが俺の耳元で囁く。

「え?」

思わず、間の抜けた声が漏れるが、レミリアはそれに構う様子はない。

「ねえ、教えて。貴方はどうやって、私のこの昂ぶった胸を、鎮めるというの?」

「それは、」

 

……要は、『楽しみに待っていたケーキのお預けを喰らったのだから代わりのものを今すぐ用意しろ』と、そういうわけだ。

確認のしようもなく、言っていることは子供の我侭だった。

だが、先ほどの殺気で抵抗する気力すらない俺は、ただ頭を捻り解決策を提案できないかと試みる。

 

「その、分かりません」

暫くして、苦虫を噛み潰したように顔を顰める俺に対して、レミリアは満面の笑みを浮かべる。

「簡単なことよ」

その笑顔は、楽しんでいる……というよりも愉しんでいるという表現が合う。

凄まじく嫌な予感がした。

 

「あなたの血で小腹を満たすの」

「っ!」

 

飛退く様に、思わず体を起こし後ずさろうとする。

が、両肩に腕を回されると同時、身動きが取れなくなる。

背後で待機していた咲夜が、俺を羽交い絞めにしていた。

 

「さく、や」

俺は反射的にもがいて咲夜の拘束から逃れようとするが、腕に力を込めた彼女の拘束は、全く振りほどける気配がない。

 

……ていうか、

いや、よそう。

そんなこと考えてる場合じゃない。

 

抵抗は無駄だと悟った俺は動きを止める。

咲夜の拘束が緩むが、再び俺が抵抗すればすぐに力を込めて動きを押さえることができる体勢だ。

完全に動きを封じられている。

 

「なに、心配はいらないわ」

レミリアは相変らず笑顔を浮かべている。

「ケーキを作る仕事が残っているのだから、これからの活動に支障を来さない程度に抑えるわよ」

「でも、吸血鬼に血を吸われると、その人も吸血鬼になるって」

「私にその意思があればの話よ」

 

背中に生やした一対の悪魔の羽を、レミリアは一度だけはためかせ、俺と同じ目線になる程度の高さまで浮き上がる。

そのまま俺の両肩に手を置いて、さながらキスでもするのではというほど顔が近づくが、見た目では一回りも下の少女に動揺するような趣味は持ち合わせていない俺は、ただただビクビクと身を引こうとする。

「私は小食なの。ちょっとくらいいいでしょう?」

正直身の危険は感じなくもないが、おそらく何を言ったところで血を吸われることは確かだろう。

というか吸わせるまで諦めてくれない気がする。

 

観念した俺は目を閉じると、

「……分かりました。あの、暴れないのでせめて拘束を解いていただけませんか?」

と、ささやかながら、せめて現状の懸念事項を解決しようと申し出た。

 

「お嬢様?」

「いいだろう。放してやれ」

俺の肩越しに、主人に指示を求める咲夜に、レミリアは頷く形で答えた。

咲夜の拘束が解かれ、俺は密かに安堵する。

 

多分、バレてはないよな?

 

「さて、少し痛いけど我慢して頂戴」

レミリアが異様に鋭い犬歯を覗かせながら笑みを浮かべる。

生唾を飲んで待ち構える俺の首筋に、彼女はゆっくりとその牙を近づけた。

 

ていうか、首からか……。

……怖い。

 

体の急所を無防備に晒すのだから当然である。

しかしレミリアは、身を強張らせる俺に噛み付く前に、耳元で囁いた。

「どうだい?」

「え?」

本当に小さな声だった。

おそらく、俺の背後数歩のところで控えている咲夜には聞こえない程度の。

 

俺が訝しげに横目でレミリアを見ると、彼女は口端を歪める。

「咲夜は『柔らかかった』かい?」

 

一瞬思考が停止した。

 

瞬間、赤面する俺に、レミリアは呆れたように息をつく。

「思春期のガキじゃあるまいに」

……どうも、レミリアには俺が動揺していたことも、その理由もバレていたようである。

 

つまりは、まあ、なんというか、羽交い絞めにされると、結果として体が密着するわけで、必然的に咲夜の体の一部が当たっていることになる。

そんなことを気にしている事態ではないのに、つい意識してしまうのは悲しい男の性というやつで、そのことを指摘された俺は、顔があからさまに熱くなるのを実感した。

というか、レミリアの言葉は普通にセクハラだった。

 

もうほんとこの人よく分からない……。

人じゃないけども。

 

「…………」

俺は思わず半眼になりながら、肩越しに咲夜の反応を確認する。

咲夜は急に振り向き自分を見る俺に、首を傾げて困惑した目を向けた。

レミリアの声はやはり聞こえていなかったらしい。

 

そのことに一応は安堵しつつ、俺はレミリアに視線を戻した。

「お宅のお嬢さん少し無防備すぎませんか」

つい先ほどまで体の震えが止められない程に怯えていた相手に対して、我ながら、随分と大胆な軽口だった。

だが、レミリアは気分を害した様子も見せず、むしろ犬歯を剥き出しにするほど口を広げて笑った。

 

「母親じゃないってば」

意外とノリが良かった。

 

「さて、それじゃあ頂こうか」

「……どうぞ」

一頻り笑ったレミリアに、俺は彼女が噛みつきやすいようにと外套を脱ぎ、頭を傾けて肩から首までを着物を軽くはだけて露出させる。

 

露出した部位にレミリアが顔を近づける。

彼女の吐息がくすぐったくて、どうにか動きそうになるのを堪えた。

……というか、これって傍から見ると凄い犯罪的な光景なんじゃ……。

 

そんな余計な思考をしていると、レミリアの牙が突き立てられた。

痛みに一瞬驚いて動きそうになるが、そんなことをすると傷口を広げかねないのでなんとか我慢する。

皮膚を牙が貫く痛みは予想よりも痛かったが、我慢できないほどではない。

 

少しずつ、力が抜けていく。

生温かい液体が、胸、腹部、背中と伝っていく。

「あの、レミリア……様?」

というか

「血、こぼしてませんか……?」

 

レミリアは俺の問いかけを無視して血を吸い続けている。

だが、その間にも鉄の臭いが辺りを漂い、こぼれた血がじんわりぬっとりと着物を濡らし染め上げていく感触が明確な物に変わっていく。

レミリアは「抑える」と言っていたが、こぼれ出た分はその範疇に収まるのだろうか。

 

……眩暈がしてきた。

頭がくらくらと揺れる。

立っていられない。と、そう感じたのと同時に、レミリアが俺から離れた。

レミリアが俺の両肩を掴んでいたのは、俺が立つことを支える意味合いもあったのかもしれない。

彼女が離れると同時、俺は脚の力が抜けて尻餅をついた。

 

すばやく、咲夜が俺の首元の傷をハンカチか何か、布のような物で押さえて止血に取り掛かる。

俺は咲夜の治療を大人しく受けながら、半ば呆然としつつレミリアを見た。

 

「やはり新鮮な血はいいわね」

床に着地するレミリア。

俺は尻餅を着いているので、必然的に今の目線は彼女がやや上だ。

「美味しいわよ。貴方の血」

口元の血を拭うレミリアの仕草はなんというかもう、ワイルドという以外に表しようがなかった。

 

「血に、美味いも不味いも、あるんですか」

恐らく顔が真っ青になっているであろう俺は、震える声で問いかける。

「当然。健康、不健康はもちろん、鮮度や感情だってそうだ。あとは経験のあるなしも含まれるわね」

「けいけ――あ、いや、なんでもないです」

俺は地雷を危うく踏みそうになりながら、言葉尻を濁す。

そんな様子を見るレミリアは相変らず楽しそうだ。

 

動脈を避けてつけられた傷は、幸いにも出血量の割にはすぐ止血処理が出来るものだったようで、じきに咲夜が離れるともう血は流れなかった。

鉄の臭いが辺りに漂う中、俺は咲夜に礼を言いつつ、尻餅をついたままの姿勢からレミリアに向かって跪く姿勢に直す……いや、直すというのも可笑しいのだけど、まあレミリアに対して精神的には屈している面があるのも事実だ。

自身に対して少々複雑な気持ちを抱いていると、レミリアが軽く手を叩きその場を仕切りなおす。

 

「そういえば、貴方は今後も紅魔館の厨房を頻繁に使いたいと言ったそうじゃない」

「頻繁にというわけではありませんが、長期的、かつ定期的に使用する許可を頂きたいと考えています」

血を吸われたことで頭が冷えたのか、多少冷静さを取り戻しつつ俺は頷いた。

 

「そう。まあ、咲夜の仕事に支障が出ない程度なら、私は構わないと思うわ。咲夜、貴方は?」

「お嬢様のお言葉とあらば、異存はございませんわ」

「だ、そうよ」

「ありがとうございます」

ほっと安堵の息を吐きながら、俺は頭を下げる。

 

「た、だ、し」

レミリアの言葉に、ぎくり、と肩を跳ねさせる。

「その都度、さっきみたいに私に血を献上すること。いいわね?」

拒否することを全く疑っていない、というよりも、拒否は認めないと言わんばかりだ。

 

「…………わかりました」

まあ、最悪分身を解けば血を失うという損失はなかったことにはできる。

俺はそんな考えの下、不承不承ながら頷くことにした。

 

「それじゃあ、話はお仕舞いね。悠基には早速ケーキを作ってもらいたいけども、さすがにその服じゃあよろしくはないわね」

赤黒くて大きな染みのできた着物をレミリアは見る。

汚した本人がいけしゃあしゃあと言っているわけだが、俺が何か抗議をする前にレミリアは咲夜に命令を下す。

 

「咲夜、彼を浴室に案内してあげなさい。それと着替えも」

「かしこまりました」

「ああそれから、失った血を作らないとね。あとで食事も用意してあげるのよ」

「仰せのままに」

俺の意見を聞こうともせず、勝手に話を進めるレミリアに、咲夜は全く異論を挟むことなく承諾していく。

 

「じゃあ、悠基、頼んだわよ」

「あの、はい、わかりましたけど」

それでも、と俺はレミリアに念を押す。

「さっきも言ったとおり、ケーキを作るにしても結構な時間がかかりますから、かなり待たせることになります」

後から時間がかかりすぎだなんて文句をつけられ追加要求される、ということはないと思うが釘は刺しておく。

 

なのだが、レミリアは事も無げに咲夜を見る。

「あら、時間についてはそれほど心配してないわ。咲夜の得意分野ですもの」

「ええ。お嬢様」

レミリアの言葉の意味が分からず、俺はただただ首を傾げるのであった。

 

 

 

 




二十二話以降から話が続いていますが一応は次回にて区切りを予定しています。
区切りといってもなにか話が大きく展開するということはないのですが。
というわけでレミリア初登場。
初の6ボスです。
威厳と茶目っ気を持ち合わせたキャラをイメージしましたが迷走してる感がなくもないです。
まあこの作品に関しては路線からして初期から迷走をしているような気がするので問題ないでしょう。ないかな?
ほのぼのって難しいですねー。



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二十五話 お茶と食事とデザートと

血に汚れた着物は、俺がシャワーを浴びている間に咲夜が洗っておいてくれるらしい。

で、咲夜が用意してくれた着替えなのだが、

 

「……うわぁ…………」

体を拭いた俺が絶句しつつ腕を通すのは、黒い生地の執事服だ。

燕尾服とも言うのかもしれないが、この館においては執事服と言ったほうが妥当だろう。

久しぶりの洋服はしっかりと糊付けされており、なんとなく窮屈に感じて居心地が悪かったし、コスプレをしているようで奇妙な気分だ。

そんな感想を抱きつつ、ちょうど着替え終わったところで浴室の扉がノックされる。

 

『終わったかしら』

「ああ、うん。どうぞ」

返事を受けて扉を開いた咲夜は、俺を見てどこか満足げに頷く。

「似合ってるわ」

「それは、まあ……どうも」

正直なところ、困惑はするものの悪い気はしなかった。

 

軽く咳払いをして気を取り直す。

「と、ところで、エプロンなんかはあるかな?さすがにこの服まで汚しちゃうわけにはいかないし」

「ええ。厨房に備えてあるけど、それでいいかしら」

「うん。じゃあ、案内よろしく」

 

 

咲夜に案内された紅魔館の厨房は、それなりに広い。

予想通り設備は少々古風だが、それでも人里のものよりは使い勝手はよさそうだし、咲夜にサポートしてもらえば問題なさそうだ。

紅魔館に来た目的が果たせそうで、ほっと一息つく。

 

「ねえ、悠基」

「ん?」

ふと、咲夜に声をかけられ振り向くと、フリルがふんだんにあしらえられた、明らかに女性向けの物と分かるエプロンを広げている。

「エプロン、これでいいかしら?」

 

「……あの、男向けの、もうちょっとシンプルなのはないかな?」

「不満なの?」

「この服装にあうエプロンがあったらそっちの方がいいかなあ」

俺は両手を広げて咲夜に執事姿をアピールする。

なんだかんだで我ながら微妙に気に入っていたようだ。

まあ、多分に咲夜に褒められたのもあると思う。

 

そんな俺の反応に、咲夜は首を傾げて逡巡した後、ボソリと呟く。

「……メイド服の方が良かったかしら?」

「分かった分かったエプロンはそれでいいです!」

不穏な言葉に俺は頷きながら、実用性の面においては特に問題はないのだからと前向きに考えることにした。

 

「さて、と」

俺は調理台の上に広げられた材料を見回す。

咲夜が用意してくれた食材は、必要な量よりもかなり余分に用意されている。

 

「何か足りないものがあったら言って頂戴」

「了解って、咲夜も何か作るの?」

別の調理台の前に立つ咲夜に視線をやると、彼女は頷いた。

「お嬢様に命じられたあなたの食事よ」

「そういえばそんなことも言ってたねえ」

 

そんなやりとりをしつつ、ケーキの作成を進めて行く。

とはいえ、懸念していたクリームの製作段階で、俺の手は否応なしに止まった。

俺が再現するクリームの製法では、手を付けずに数時放置することが過程に含まれる。

「うーん……」

『時間は咲夜の得意分野』だと言うレミリアの言葉の意味はよく分からないが、こういう時は咲夜を頼れということだろうか。

 

「ねえ咲夜……えっ」

そんな考えに至った俺は、振り向くと同時に目を瞠った。

調理台のまな板の上に置かれた塊。

彼女が包丁を入れるそれは、幻想郷では見慣れないものだった。

「それって、牛肉……?」

「ええ」

 

俺の呟くような声に咲夜は頷きつつ、淀みない手つきで分厚い肉に刃を入れる。

その光景に俺は見惚れると同時、生唾を無意識に飲み込んでいた。

 

広くない幻想郷では、牛肉というのはそれなりの高級品だ。

価格が高いのはもちろん、そもそも商店にも滅多に並ばないから見かけることすら稀。

それだけに、久しぶりに見る重量感ある肉に、思わず腹の虫が鳴る。

 

「い、いいの?そんな高級品」

「構わないわ」

すまし顔で肉を切り分け終わった咲夜は、包丁を置いた。

「紅魔館の地下でさいば――」

そこで急に言葉を切って、口元に手を添えて視線をあからさまに逸らす。

 

「……飼育してる物だもの」

「今、『栽培』って言おうとしなかった?」

「ただの言い間違えよ」

「………………」

急に得体の知れない肉塊に見えてきた……。

 

「そんなことより、何か用?」

「そんなことて……」

俺は半眼で抗議するが、咲夜は見据えるようにこちらを見たまま動かない。

「……言い間違いならいいんだけどさ」

半ば根負けするような気持ちで、俺は結局引き下がることにした。

 

「あー、えっとさ、さっきレミリア様がおっしゃってた咲夜の得意分野って?」

「そうね」

 

咲夜は布巾で手を拭うと、どこからともなく古びた懐中時計を取り出した。

「それは?」

と、俺が問いかけると同時、彼女の手に持つ時計。

その鎖部分から発せられる音が、聞き覚えのあるものだと唐突に気付く。

人里から紅魔館に発つとき、咲夜にいつのまにか抱きかかえられる直前に聞こえた軽い金属の擦りあう音。

あの音と同じだ。

 

「私の能力はね」

咲夜は鎖に吊り下げられてぶらぶらと揺れる時計に目を落としながら口を開く。

「時間を操る程度の能力と呼ばれているわ」

「じ、え?時間を?」

「ええ」

すまし顔で咲夜は頷く。

 

「え?それ、え?そ、それ、それって凄くないか?」

転じて、少々興奮気味の俺の口から出るのは小学生並みの感想だった。

 

「別に、幻想郷では大したことじゃないわ。ただ単に停止した時間の中で、」

「っ!」

突然目の前から咲夜が消えた。

「こういった具合に動いたりできる程度よ」

と同時に、背後から彼女の声がしたため、肩を跳ねさせて慌てて振り返る。

目の前から俺の後ろへ、まさしく瞬間移動した咲夜の姿に、俺は目を丸くした。

 

そんな俺を前に、咲夜は淡々と続ける。

「例えばケーキの材料とか」

――どう考えてもそんな短時間で用意できるはずはない――

「貴方がいつの間にか抱えられていたこととか」

――それは俗に言うお姫様抱っこというものだった――

「美鈴の額に刺さっていたナイフとか」

――まるで最初からそこにあったかのように銀色の刀身のナイフが突き刺さっており――

 

「不思議に思ったんじゃない?」

「ああつまり、全部時間停止を利用してたってことか」

なるほどと俺は納得する。

いやでも最後のは平気な顔をしている美鈴の光景が強すぎて不思議に思う余裕もなかったなあ。

 

「そういうことよ」

「それは……凄いな……」

さっきから凄いしか言ってない。

絶望的な語彙力だった。

 

「あ、それじゃあ、物の時間を進めたりとか戻したりとかも出来るってこと?」

「一応はね」

肯定する咲夜に俺は得心がいく。

レミリアが「心配していない」と言っていたのはこういうことか。

 

「じゃあ、これなんだけど」

俺は調理台の上の鍋に並々と注がれた生乳を指差す。

「これの時間を数時間進めることも出来るってこと?」

「ええ」

咲夜はこともなげに頷いた。

 

 

* * *

 

 

咲夜の料理の腕は見事なもので、彼女の焼いたステーキは絶妙な香辛料の風味付けによって鼻腔を通して俺の食欲を刺激させる。

得体の知れない肉であってもかまわないとさえ思わせるほどだ。

いやかまわなくはないんだけど、それでも抗いがたいほどの魅力がある。

だが、それを差し引いても、現状すぐに目の前の肉に手を出そうという気にはなれなかった。

 

「あら、食べないの?」

レミリアは口元に笑みを浮かべながら俺を見据えた。

そんな彼女は、俺の正面で小皿に盛られたショートケーキを前に舌鼓を打っている。

 

想定よりも随分早い時間でケーキ――設備が良かったのもあって再現度は完璧だ――を作り終えた俺が咲夜に案内されたのは、レミリアと顔合わせした部屋だ。 

その部屋の丸テーブルを挟んで座る俺とレミリアはどういうわけか一緒に食事をすることになっていた。

いやレミリアの場合はデザートとでも言えば良いのか。

ともかく、ステーキを前にどこか萎縮した様子の男と、ケーキを前に楽しげな笑みを浮かべる少女が同じテーブルで向かい合っているという、なんだか奇妙な光景がそこにはあった。

咲夜はレミリアの背後でまるで空気に徹するかのように控えている。

 

「いえ……」

対する俺はナイフとフォークを手にとっては見るものの、正面に座るレミリアの視線が気になってそのまま食事、という気になれない。

 

「どうして相席なのかなあ、と」

「いやなの?」

「そういうわけじゃないですけど」

「ならいいでしょ。ねえ、貴方の話、聞かせて」

レミリアはフォークの刃先を俺に向けて振った。

 

「俺の、ですか」

「というよりも、外の世界の話ね」

言いながら、レミリアは一口ケーキを口に入れる。

「んぅー!」

頬に手を当て僅かに顔を赤らめながら満足げな笑顔を浮かべる彼女は、どう見てもあどけない少女にしか見えない。

先刻の、生命の危機を感じるほどのプレッシャーを放った少女とは思えず、そのギャップにただただ戸惑った。

 

「えっと、そういえば、何年か前までは、貴女たちは外の世界に住んでいたんでしたっけ」

「そうよ。貴方も外から来たんでしょう?」

「えっと……まあ、正確には違うのですが」

「いいわ、そのことも含めて、貴方の話を聞かせてよ」

レミリアは更に一口、ケーキを食べる。

 

「ん……それから、せっかく咲夜が作ったのだから、冷めない内に食べなさい」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

俺は慣れない手つきでフォークとナイフで目の前の肉を切り分けながら、口を開く。

「だいたい3ヶ月前の話です。きっかけは……なんだったかな……確か写真を見つけたのが――」

 

 

* * *

 

 

柱時計が鳴った。

見ると、既に短針はローマ数字の3を指している。

「話こんじゃったみたいね」

空になったティーカップを音を立てずに置くと、レミリアは軽く息をつく。

 

「ですね」

俺は同意すると、「さて」と立ち上がった。

「それでは、本日はこの辺りでお暇させていただきます」

急ぐわけではないが、出来れば日没までには人里には着いておきたい。

 

「悠基、貴方意外と話し上手、いや、聞き上手なのね。楽しかったわよ」

「楽しんでいけたなら幸いです」

初対面の時よりは随分と落ち着きを取り戻したのか、それとも失った血を取り戻して体調が良くなったためか、俺はレミリアに対して自然に笑みを浮かべることが出来た。

なんとなく、話していてレミリアの性格の一端が分かってきた感じがする。

 

「またその内、アポなしで伺うと思います」

「ほどほどに歓迎してあげるわ」

 

「悠基、これを」

いつの間にか咲夜が、背後に控えていた。

その手には風呂敷包みが2つ抱えられている。

 

「こっちが貴方の荷物、こちらは貴方の着物よ」

「ありがとう咲夜」

風呂敷包みを受け取る俺は、未だに執事服だ。

「あ、それじゃあどこか部屋でも借りて着替えないと……」

「それには及ばないわ」

 

レミリアが俺の言葉を遮る。

「その服は貴方にあげるわ」

「いいんですか?」

「構わないわよ。タンスの肥やしにするよりはマシだわ」

 

「それじゃあ、有難く頂戴します」

「ええ。あ、そういえば」

ふと思い出したようにレミリアは両手を合わせる。

 

「貴方に伝えておかないといけないことがあったわ」

「えっと、何か?」

訝しく思いながら先を促すと、レミリアは笑みを浮かべる。

 

「貴方の能力、解くのなら人里に残している方にしておきなさい」

あれ?

「分身能力を使ってるって、話してましたっけ?」

 

俺の困惑の眼差しを受けて、レミリアは首を振った。

「いいえ。でもとりあえず、消えるのは残したほうの貴方にすること」

更に疑問が増える中、俺はとりあえず彼女の目的がよく分からずただただ首を傾げる。

「えっと……なんでですか?」

 

「貴方から貰った血がまだ私のものになってないからよ。貴方が消えてしまうと、私の中のそれも消えちゃうわ」

「……?」

やはり、レミリアの言葉の意味が一瞬分からない。

 

俺があげた血というのは、間違いなくレミリアが俺から吸い取った血のことを指しているのだろう。

だが、『私のもの』というのはどういうことなのだろうか。

 

分身によって増殖した俺の体は、欠損しても欠損した部位は消滅せずにその場に残る。

そして、分身が消滅するのに連動して、その分身が欠損した部位も消滅する性質……らしい。

 

『らしい』というのは、俺がこの能力の性質をきちんと確認していないからだ。

だって、欠損した部位って……つまりは腕だの何だのが切り落とされたりした場合を指しているわけで、そんなことを試しにやる度胸はないし、知っていたとしてもあまり役に立つわけではないから仕方がない。

つまるところ、俺がこの性質を確認した際に欠損した部位は髪の毛数本だけであり、それ以上は自分の能力の性質の調査はしていなかった。

 

だからこそ、なぜなのか。

俺はレミリアに向けた目を見開いた。

彼女の言葉は、俺が話していないどころか、自分で確認すらしていない俺の能力の性質を把握しているということになる。

更に、『私のもの』という意味深な言葉は、それこそ俺が全く把握していない領域だろう。

 

「なんで……」

困惑と驚きが入り混じった俺の視線を受けて、レミリアは口を開く。

「こと貴方の能力に関しては、私の領分である、というだけの話よ」

そう言って彼女は、やはり笑みを浮かべる。

 

「お嬢様、どういう意味でしょうか?」

静かに俺たちの会話を聞いていた咲夜も訝しげに尋ねてくるが、レミリアは首を振った。

 

「まあ、この話はまた今度、気が向いたら話すわ」

俺と咲夜の疑問に答えることなく、レミリアは一方的に会話を切った。

 

 

* * *

 

 

俺の能力、名付けて『分身する程度の能力』は、俺が幻想郷入りした直後に唐突に発現した能力だ。

幻想郷での生活をする上で、現状は必須の能力とも言える。

 

にも関わらず、この能力には不明な点が多い。

能力の使用によるリスクや物理的な法則、そして一番の謎は、なぜ使えるようになったのか。

改めて考えると、我がことながら得体の知れない力だと思う。

 

次の機会に紅魔館に訪れたときに、レミリアは話してくれるだろうか。

特に根拠はないが、まだ話してはくれないだろうと、なんとなく思った。

 

「もうすぐ着くわ」

身を切るような風の中、相も変わらず平気な顔をして咲夜が言った。

 

思考にふけることでどうにか寒さから気を逸らそうと試みていた俺は、空を飛ぶ咲夜に抱えられた体勢のまま頷く。

もちろんというか、残念ながらというか、その体勢は俗に言うお姫様抱っこである。

三回目ともなれば、さすがの俺も慣れてきた。

主に人前に晒されることによる羞恥に、である。

いや嘘だ。

慣れるわけはないし慣れたくもない。

咲夜に「せめて人里の近く、人気がないところに降ろしてほしい」と伝えると、「降ろした後に妖怪に襲われるかもしれないでしょ」と返される。

 

その時の咲夜の瞳が、どこか楽しそう、もとい愉しそうに感じたのは気のせいではないだろう。

ああ、こういうところはレミリアの従者だなあ、と現実逃避気味に納得した。

 

 

 

……数分後、人里でちょっとした騒動が起きていたことを俺は知る。

曰く、真昼間から人攫いがあったらしい。

曰く、連れ去ったのは紅魔館の人間らしい。

曰く、連れ去られたのは例の鬼の騒動の被害者らしい。

 

で、そんな騒動の最中、連れ去られた当の本人がなにくわぬ顔で執事服になって帰って来た。

そこからは想像もしたくないが、あえて言うならば、萃香の事件同様、今後数週間に渡ってあることないこと増長された噂が人里を駆け巡るのは確かだろう。

 

そこまで想像が着いた俺は、人里に残した方の俺が頭を抱えるのを見て、深いため息がこぼれるのだった。

 

…………早まったな。




主人公のほのぼの紅魔館初訪問でした。
ほのぼのってなんだっけ……(哲学)
なんだかんだで主人公は凡庸に収まる範囲でスペックは高いです。
レミリアがやけに主人公を気に入っているように見えるかもしれませんが、能力のことを除けば、レミリアの主人公に対する認識としては、今のところ「平凡な人間」止まりです。


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二十六話 弾幕ごっこ

俺は現在、人里では仕事を三つ掛け持ちしている。

寺子屋、甘味処、そして阿求さんに雇われての妖怪調査だ。

 

能力による分身を前提にしているわけだが、分身した俺が同時に存在できる人数は二人。

故に、仕事が全て同じ時間帯だとどうしても『俺』が足りなくなる。

寺子屋は子供たちが相手だし、甘味処だって営業時間が決まっているので、どちらも朝から夕方と時間が決まっている。

だが、外の調査ならば、時間的には多少の融通は利くだろう。

 

そんな考えの下、俺は年が明けて最初に阿求さん呼ばれたその日、とある提案をしていた。

 

「――なので、里の外の調査なのですが、今後は夜間の調査を踏まえることで調査頻度を維持する方針で考えていただけないでしょうか」

 

「…………」

静かに俺の話を聞いていた阿求さんは、無表情で俺を見据えてくる。

平常時と変わらない目つきのはずなのだが、沈黙が重苦しいせいかその目からは睨んでくる以上の無言の圧力を感じた。

「あはは……」

不満を訴えかけてくる視線に、俺は気まずくなって下手糞な作り笑いを浮かべる。

もちろん考えるまでもなく逆効果で、よけい空気が重くなった。

 

俺は笑顔を引っ込めると、正座した姿勢のまま深々と頭を下げた。

「あの、甘味処で新しく勤めることになった件については、お伝えするのが遅れて申し訳ありません」

「ええそうですね。まずはそこからですね」

阿求さんは腕を組む。

 

「何か弁明は?」

阿求さんの問いかけに、俺は頭を上げつつもたじろいだ。

「べん……えっと、あー、その、昨年最後にお会いした時には、まだケーキの再現に至っていなくてですね」

「それで?」

「なので、その時点ではまだ甘味処で勤めるかどうかも定かではなく…………」

 

「ええそうでしょうそうでしょうとも。ですが、勤め先を増やすというならば当然他の仕事に支障が出ることは分かりますよね?」

「は、はい……」

「それならば、成果が出てから甘味処に話を通す前に、私に前もって相談するべきではありませんか?違います?」

 

俺は冷や汗を浮かべながら、視線を逸らす。

「…………それは、そうなのですが」

「ですが?なんでしょうか?」

あくまで淡々した口調だ。

そこが怖い。

反論しようとしたことを後悔するも手遅れだ。

 

「そ、そのですね、なんだかんだと試行錯誤してなんとか成果が出たのが嬉しくてですね……浮かれて行動が先走りまして……その」

「…………」

「あ、あと、以前から職を増やすかもしれないと仄めかしてはいましたし…………」

「…………」

「……すいません言い訳です」

 

「……はぁ」

阿求さんが小さく嘆息した。

「……まあ、全面的に反省しているようですし、職を探していることを伝えられていたのは事実ですし、決まってしまったものは仕方ありません。今回は大目に見るとしましょう」

「本当に申し訳ありません」

「ただし、次はありませんよ」

「はい。肝に銘じます」

どうやら、一応は許してもらえたらしい。

 

内心安堵する俺を阿求さんは見据えたまま言う。

「では次です」

「え?次、ですか?」

困惑する俺に、阿求さんは小首を傾げて微笑みを浮かべる。

ただ微笑んでいるだけなのに、今まで以上のプレッシャーを感じた。

 

「これで終わりとでも?」

許されてなかった……。

 

と冷や汗を流す俺だが、彼女の言う理由に心当たりがない。

「え、えーと」

阿求さんの言葉に俺は頭を捻らせる。

分からない、心当たりがない、だとするならば、何か気付かない内に無礼を働いていたのかもしれない。

 

「ええと、何か間違えましたか?」

「間違い?」

「その、失礼というか、礼儀作法に則っていないというか」

「ああ」

阿求さんの口元が綻ぶ。

自然な笑みだった。

 

「今更ですね」

「あ、今更ですか……」

つまり無自覚に無礼を働きまくってると。

 

「ええ今更ですよ。まあ貴方が外来人であることを踏まえればそこまで気にするような話ではありません。間違いを言っているのは確かですが」

笑みを下げると、阿求さんは神妙な顔つきになる。

「夜間の里外での調査……貴方の提案は承諾しかねます」

 

俺は内心首をかしげながら口を開く。

「こうなった経緯はともかく、悪い話ではないと思ったのですが」

「ええ。確かに、夜は妖怪の時間。彼らが活発になる時間です。故に得られる物は昼よりも期待が持てるでしょう。私としては望ましいことですね」

ですが、と阿求さんは首を振る。

 

「その提案は貴方に掛かる負担が大きすぎます」

「俺の問題ですか」

「雇い主としては憂慮するべきことです」

阿求さんは右手の人差し指を立てた。

 

「貴方の能力は体力を使うのでしょう?なら、ただでさえこれから忙しくなることが見込まれるのに、あまつさえ夜間にも能力を行使すると疲労が溜まる一方では?」

「最近は能力を使ってもそれほど体力を使いません。片方が夜に動いても、もう片方が休んでいれば問題ないです」

「……貴方の能力については、他ならぬ貴方自身が一番詳しいでしょうし、そこは信じましょう」

阿求さんはコホンと咳払いをする。

 

「しかしですね、夜の里の外となると明かりも当然ありません。視界の確保は困難でしょうし、満足に行動できるか甚だ疑問です」

「あの、案外月明かりが強いので、道を外れすぎなければ意外といけますよ」

「は?」

おずおずと話す俺に、阿求さんが固まった。

目を見開いて暫く俺を見つめていたが、僅かに顔を俯かせる。

天井を指差すように伸ばした人差し指がプルプルと揺れ始めた。

おっと、これは……。

 

「まさか、とは思いますが」

「は、はい」

「日が沈んだあとに里の外に出たのですか?」

 

「……まあ、夜間調査を提案する身で、それが可能かどうか下見くらいはしたほうがいいと思ったので」

「……なんでそういうところは律儀なんですか」

天井を指差すようにしていた右手を額に動かすと、阿求さんは盛大にため息をついた。

思いっきり怒られるかと思ったが、どうやら呆れが上回ったようだ。

 

「貴方は無駄に行動力がありすぎます」

「む、無駄に、ですか」

「無駄に、です」

なんだか褒められているようで褒められていないこのフレーズを最近聞いたような気がする。

 

「何か理由でもあるのですか?」

「理由?」

阿求さんの問いかけに、はてなんのことかと首を傾げる。

 

「やけに夜間調査に拘っているようでしたので」

「あー別に、夜に出歩くことに拘っているわけではないですよ」

少し気まずい笑みを浮かべつつ、俺は頭をかいた。

「ただ、やっぱり俺の不手際でこの仕事に穴を開けたくはなかったので」

「それだけですか」

「強いて言うなら」

「そうですか」

 

何度目か分からないため息をつくと、阿求さんは俺の目を真っ直ぐ見据える。

「……では、ええ。貴方が大丈夫というなら信じることにしましょう。元より私にとってはありがたい話です」

「はい」

 

「悠基さん、貴方が今後調査する夜の里の外は完全なる妖怪の世界です。能力を過信して無謀や無理をしないように」

「はい。気をつけます」

俺は、誠意を込めて大げさに頷くが、阿求さんはどういうわけか半眼になった。

 

「……なぜか貴方のそういうところは信用できないんですよね」

「えぇー」

これも、最近誰かに言われた気がする。

 

 

 

なお、この話をしてから数週間後、俺は紅魔館へ訪れたのだが、その話を聞きつけた阿求さんから散々小言の嵐を受けるのは更にそれから少ししてからの話だ。

 

 

* * *

 

 

そんな経緯もあって、俺は今、月明かりを頼りに里から伸びる道を歩いている。

寒空の下、外套を纏った着物姿はいつものことながら、その腰には一振りの木刀を差している。

これは、せめてもの護身用にと阿求さんから持たされた物だ。

そうは言っても身体能力だけで圧倒的な差がある妖怪相手となると、武術の心得もない俺にとっては気休めにもならないわけだけど。

 

周囲を見回し警戒するが、開けた土地なのもあって近くに妖怪は見当たらなかった。

とはいえ、油断は禁物。

なにしろ今日は、『お土産』があるのだ。

 

小脇に抱えた荷物を意識しつつ、俺は空を見上げる。

幻想郷の月はやけに明るい気がする。

元の世界とこちらの世界は似たような歴史を辿っているはずなので、天体規模で見るならば俺が認識できるほどの違いはないとは思う。

だから、月の光が強いと感じるのは単なる気のせい、もしくは幻想郷を覆う博麗大結界か何かが作用しているのかもしれない。

 

「――――~~♪」

ふと、そんなことを考えていると、何か聞こえた気がした。

 

「……歌?」

耳を澄ますと、旋律にも似た声が確かな物となっていく。

だが、周囲を見回す俺の視界には、それどころではない異変が起きていた。

 

暗い。

ついさっきまでずっと先まで見通せていた光景が、まるで深い霧に覆われたように数メートル先で闇に遮られていた。

息を呑み、空を見上げて月を確認する。

眩しさすら感じていた幻想的な月光が、今は僅かに靄が掛かったように見える。

 

その間にも、歌声は次第に大きくなっていた。

美しいとさえ感じる歌声は、俺の感情を波立たせる程度に揺らす。

平常時であれば聞き惚れていただろうが、しかし、初めて聴いた時は恐怖と不安に襲われた物だ。

 

俺はこの声の主を知っている。

というか、つい最近知り合った相手だ。

なので今は素直に、急速に狭まった視界を気にすることなく歌声に耳を傾けていた。

 

「――…………」

暫くして、ふいに声が止む。

 

静寂に包まれる中、いまだ俺の視界は回復しない。

……そろそろ来るかな?

と、そんなことを思った俺の予想は確かに当たった。

予想外の形で。

 

「ふぅ」

「ひょぁっ!?」

 

突然耳元に吹きかけられた吐息に、思わず肩を震わせ身震いする。

背後から抱きつくような形で腕が回され、横目に見ると、彼女の楽しそうな笑みが間近にあった。

 

「……こんばんわ、ミスティア」

「こんばんわ、悠基。ふふっ、なぁに?ひょあって?」

目を弓なりにして笑うミスティアに、俺は朱に染まった頬を掻いた。

「ちょっとびっくりしただけだよ」

 

ミスティアことミスティア・ローレライは夜雀という生き物の妖怪らしい。

らしい、というのはもちろん、阿求さんから聞いた情報だからだ。

人の少女に近い容貌だが、部分部分が人のそれとは異なっており、一目で妖怪と分かるこの少女は、俺が夜間に出回るようになって知り合った。

俺の視界が急速に狭まったのも、彼女の能力によるものだ。

 

彼女曰く、彼女は最近は人の恐怖を糧にしたりしなかったりらしく、俺はとりあえずは襲われることなく、軽く脅かされる程度。

比較的穏やかに接することが出来ている。

今のところは。

 

「相変らず綺麗な歌だね」

「でしょー」

得意気な笑みになるミスティアは満足げに頷くと、それにしてもと話を変える。

 

「貴方って本当無防備よね」

「そんなことは……」

思わず反論しようと声を上げたが、思い返してみればついさっきミスティアが近づいてくると分かっていて驚いたばかりだ。

「……なくはないけど」

 

「弱っちいんだから、せめてもう少しは警戒なさいよ。ほらこの前も」

俺に抱きついた体勢のまま、ミスティアは話し始める。

「妖怪に襲われてなすすべなかったじゃない?」

「見てたのか……」

 

獣姿の妖怪に襲われ追い掛け回されたのはほんの数日前。

阿求さんの言ったとおり、妖怪に襲われる頻度、確率は昼間とは比較にならない。

足の早い四足歩行の妖怪から逃れるため、木々を障害物に必死で逃走を試みたものの、結局逃げきれず殺されかけたことは記憶に新しい。

 

「その腰に下げた物は飾りなの?」

ミスティアが俺の木刀を指差す。

「……ほぼ飾りだな」

「そこは否定しなさいよ」

 

「あはは……」

呆れた様子のミスティアに、俺は乾いた笑いを返す。

「そうは言っても、剣道すらやったことないし、妖怪とコレで戦うなんて無理な話だよ」

それだけでなく、逃げる際には意外と煩わしすら感じるほどだ。

 

さて、世間話をするのもいいが、俺はさっきから気になっていた問題を解決しようと切り出すことにした。

「というかミスティア、そろそろ離れてくれないか?」

「あら?なにか都合が悪いの?」

 

「君の耳がね」

俺はミスティアの獣じみた耳を思い出す。

「首筋にあたってくすぐったい」

「あら」

 

というのは建前で、本当の理由は、美少女と言っても差し支えないミスティアの顔が間近にあることに落ち着かないためなのだが、そんな本音はおくびにも出さない。

「じゃあ、そういうことにしておいてあげるわ」

……おくびにも出してない……はず。

ミスティアはやれやれといった様子で俺の首に軽く絡めていた腕を解こうとした。

 

そのとき、

 

「ゆううううううううううううきいいいいいいい!!」

「え?」「は?」

頓狂な声に俺とミスティアが揃って見るも、声の主は既に目の前まで迫っていた。

 

猛然とした勢いで。

俺たちに突っ込んでくる形で。

 

次の瞬間、鈍い音が頭の中で響くと同時、俺は抱きついているミスティアごと吹っ飛ばされた。

柔らかい草地に倒れた俺の瞼の裏で火花が散る。

遠くなりかけた意識をなんとか保った俺は、ふらふらになりながら上体を起こした。

ぶつかった箇所、額の当たりを摩ると、腫れ上がって大きなたん瘤が形成されつつあった。

 

「っ~~~~ル、ルーミア!?」

視界を涙でぼやけさせながら、俺は目の前に立つ少女の背中に声をかけた。

「悠基!」

肩ごしに振り返りながら、宵闇の妖怪少女が俺を見やる。

 

「なにするのよ、もー!」

俺と一緒にルーミアに追突されて吹っ飛んだミスティアが非難の声をあげる。

彼女は服が少々汚れた程度なのか、痛がっている様子はない。

 

そんなミスティアと俺の間に、ルーミアは立っていた。

「だって、悠基が襲われたんですもの」

両手を広げ、さながらミスティアから俺を庇うように。

俺は目を瞠る。

 

どうも、ルーミアにはミスティアが俺に取り付いて襲いかかっているように見えたらしい。

もちろん誤解だ。

だが、どんな形であれ、ついでに言えばどんな結果であれ、妖怪であるルーミアは俺を助けようとしてくれたのだ。

「ルーミア、お前……」

俺が感動して彼女をしみじみと見る。

 

一方のミスティアは目を白黒させながら俺たちを指差す。

「あなたたち、知り合いだったの!?」

 

そんなミスティアに対して、ルーミアは仁王立ちしてどうどうと言い放つ。

「この人は私のおやつなんだからダメよ!」

「おい」

……まあ、予想はついてたけど。

 

ルーミアと初めて接触して以来、割と頻繁に交流はあったはずなのだが、どうやら彼女からしてみれば、俺が食料であるという認識はほとんど変わっていないようだ。

それにしたって、おやつって……やっぱり初対面の時にケーキをあげた印象が強かったのだろうか。

…………あ。

「あぁ!」

 

「な、なによ」

真後ろでいきなり素っ頓狂な声をあげた俺に、ルーミアがたじろぐ。

だが、俺の視線の先を追うと、同様にルーミアも悲鳴をあげた。

 

ケーキ。

そう、今日俺がお土産と称して持ち歩いていたのは、売れ残りで廃棄となるはずのケーキだ。

頻繁に会うのもあってルーミアのために持ってきたケーキは、分身によって複製した重箱に入っていた。

風呂敷に包まれた重箱を抱えていたわけなのだが、その風呂敷包みは今俺の手元にない。

 

ルーミアに盛大に頭突きを受けた際に手元を離れたのだ。

俺の能力の性質として、能力によってコピーした物体は、分身の手元を離れると消失する。

結果、俺の手から離れた時点で風呂敷と重箱は消失。

投げ出された中身はというと、どうなるかは予想するまでもない。

 

「「ああ、ああぁあ~~……」」

泥に塗れてもはや原型を留めていないケーキだったものを前に、俺とルーミアは揃って呆然と嘆く。

 

「ど、どうしたのよ二人とも」

揃って膝をつき、がっくりと肩を落とす二人の光景に異様な物を感じたのか、ミスティアがたじろぎながら問いかけてくる。

 

「うぅ……」

ルーミアは余程悔しいのか、下唇を噛んで唸る。

彼女からおやつと見られている俺だが、どうにも気の毒に感じてしまう光景だった。

 

「ルーミ――」

彼女を励まそうと、俺は手を伸ばした。

だが、俺の手が届く前にルーミアは眉尻を上げて立ち上がる。

 

「ミスティア!」

語気を荒くしながらルーミアはミスティアを指差す。

「許さないんだから!」

 

対してミスティアは、困惑した様子で瞠目している。

「え?わ、私が悪いの?」

「当たり前じゃない!」

 

いや、ケーキが吹っ飛んだのはルーミアが衝突したせいだろと俺は心の中でツッコミを入れる。

だが、俺を助けようとしての行動なのでどちらかといえば事故のようなものだろう。

 

「弾幕ごっこを申し込むわ!」

「えぇー」

不満げなミスティアとは別に、その場が「おぉ」と沸き立つ。

というかその場にいるのは当の本人を除けば俺だけだし、沸き立ってるのも俺だけだ。

 

「悠基、離れてなさい!」

俺に威勢良く声をかけると、ミスティアの返事も待たずルーミアは飛び上がる。

「仕方ないわねー」

あ、付き合ってあげるのか。

俺は意外に思いながら、ルーミアに付き合って飛び上がるミスティアを見送った。

 

『弾幕ごっこ』、正式名称は『スペルカードルール』だったか。

この物騒なのか微笑ましいのかなんとも判断に迷うネーミングの遊びは、幻想郷でそれなりの力をもつ者たちで行われる決闘方法だ。

狭い幻想郷に集う妖怪が必要以上に力を使うと、幻想郷の存在が危ぶまれるため、制定されたらしい。

面白いのが、この弾幕ごっこに求められるのは純粋な力ではなく、どちらかと言えば弾幕の美しさを競う面があることだ。

 

ミスティアによる夜盲が解かれた俺は、月光の下空を舞う少女たちを見守る。

ルーミアが様々な形の光弾を形成し、次々とミスティアに向かって飛ばすのに対し、ミスティアは大量の光弾を周囲に展開しバラまく。

夜空は色とりどりの眩しい光の玉で装飾され、その隙間を掻い潜り飛び交い舞い踊る少女たちを照らす。

 

「夜符『ナイトバード』!!」

「声符『梟の夜鳴声』!!」

スペルカードの宣言と同時に、空を飛び交う光は全く異なる形、異なる模様を持ってさらにその密度を増していく。

 

俺はその様子を息を呑んで見守る。

霖之助さん曰く「弾幕ごっこは少女の遊び」らしい。

それでも。

 

俺には彼女たちのように空を飛ぶこともできなければ、光弾なんて作り出すことも出せない。

いや、だからこそ。

 

俺はこの光景に羨望する。

 

夜空を彩る光景を前に思わず言葉が漏れる。

「きれいだ……」

俺が見入る中、少女たちの決闘は、より苛烈さを、より楽しさを、より美しさを増して行われた。

 

 

 

突発的なスペルカードバトルは、辛くも服をボロボロにしたルーミアの勝利で終わった。

いつの間に決めたのか、勝者のルーミアには俺からケーキをプレゼントすることになっていた。

「勝手に決めるな」と俺は苦笑を浮かべるが、それでも、弾幕ごっこを見せてもらったお礼と考えればまあ構わないとさえ思う。

結局、ルーミアには後日また廃棄のケーキを持ってくることとなった。




今更ながら弾幕ごっこが出てきました。主人公は見てるだけですが。
それから主人公が夜間の行動を開始したのもあって、昼間見かけないような妖怪ともエンカウントするようになりました。
今回は平和でしたが基本的にはいつも苛烈に襲われています。
ほのぼのは順調に遠ざかっている気がします。

不要と思いつつも念のための解説ですが、前半の阿求との会話は二十話の少し後(作中時間で一月の初頭辺り)、後半のミスティア、ルーミアとの絡みは、二十五話の後(一月終盤)と、時系列が別れています。


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二十七話 月都万象展

先月鈴仙が宣伝していた月都万象展だが、俺が多忙だったことや、たまの休みも開催日と重なっていなかったりで、なかなか行く機会が作れなかった。

それでも、一月が終わるこの日、俺は妹紅に案内されて迷いの竹林の永遠亭に訪れていた。

 

「はい到着だよ」

延々と同じ竹やぶが続くかに思われた中、ふいに地面から沸いたかのように現れた門に着くと、妹紅が振り返る。

「おお……」

その光景に俺は息を呑むが、俺の回りでも似たような反応が上がっている。

 

老若男女を問わない数十名の人間が、俺の後ろに列を成していた。

ただ、子供の内の大部分、寺子屋の生徒たちが俺を囲むよう陣取って門を見上げている。

出発する時は元気一杯天真爛漫を絵に描いたようなはしゃぎっぷりを見せた子供たちだったが、今は借りてきた猫のように大人しい。

俺の傍に群がるようにして立っているのは、単に心細さから俺の着物の裾やら袖やらを握り締めているからだ。

心の拠り所にされているあたり、ほっこり癒されるのもあるが、それ以上に幻想郷では里の外は恐れるべき妖怪の世界なので、怖がっている辺りきちんと危機管理能力が育まれていることが分かる。

 

さて、そもそもなぜ寺子屋の子供たちが一緒に永遠亭を訪れているかというと、子供たちが兼ねてから月都万象展に行きたがっていたことが始まりとなる。

好奇心旺盛な子供たちは、鈴仙が方々でチラシを配っている月都万象展にも興味を持った。

だが、護衛こそあるものの里の外の永遠亭に子供が赴くなら保護者の同伴が必須とされ、仕事が多忙な家庭だと、その家の子はなかなか行く機会が作れない。

 

そこで白羽の矢が立ったのが、寺子屋に勤める俺だ。

俺が保護者として付き添うことになり、紆余曲折あって、現代風に言うならば社会見学という名目で寺子屋の子供たちとと永遠亭に訪れる次第となった。

ちなみに慧音さんは月末の重要な会合があるため今日は欠席。

つまりは俺一人であり、責任重大だ。

ついでに慧音さんに頼まれた所用もある。

 

それでも、里の入り口からは妖術の使い手であり自警団に所属する妹紅と、永遠亭から出張してきた武装した数人の兎妖怪が護衛として付き添っているので比較的安心できる。

妖怪兎は頭部に兎耳が生えているだけで、寺子屋の生徒たちと同世代の少女に見えるが、実力は妹紅曰く折り紙つきらしい。

妖怪兎たちは目的地についた今も油断なく周囲を警戒している。

 

「てゐ、いるかい?」

『はいよー』

妹紅の呼びかけに門の向こうから声が返ってくる。

直後、外開きの門が押し開かれ、中からは警護の妖怪兎同様に頭から兎耳を生やした少女が顔を出した。

 

「ほい、お次の団体さんだね。おやおやこれは、若い子が集まってるじゃないか」

てゐと呼ばれた少女は、若いというよりも幼いといった方が相応しいであろう子供たちを見回しながら言った。

見た目としては子供たちとそれほど年齢差はないように見えるが、そこは妖怪、見た目どおりではないといったところだろう。

 

「それじゃあ、着いといで」

てゐは踵を返すと、門の向こう、平屋の、しかし見るからに広大な屋敷へ向かう。

「ようこそ迷いの竹林の永遠亭へ。案内は私、因幡てゐが勤めさせていただくよ」

肩越しに振り返る彼女は、童顔のはずなのにどこか怪しげな笑みを浮かべた。

 

子供たちが息を呑む横で、俺は平常を保ちながら軽く頭を下げた。

「よろしくお願いします。ほら、お前たちも」

と、子供たちを促す。

 

落ち着いた様子の俺に若干安堵した様子で、子供たちはおずおずと俺に習って頭を下げた。

「よ、よろしくお願いします」

「ほいよろしくねっと」

挨拶を返すてゐは変わらない笑みを浮かべていたが、なぜか先ほどの怪しさとはまた違う、微笑ましいものを見るような印象を受けた。

 

 

* * *

 

 

件の月都万象展だが、俺は思わず渋面になって展示品を見ていた。

俺を除いた観客は、驚きこそあれど数々の超常的な展示品に感嘆の声を上げて見入っている。

彼らの場合は、魑魅魍魎が集まるこの幻想郷で見る数々の説明のつかない物も、理解できないものは理解できないもので割り切って楽しんでいるのだ。

 

俺も魔法じみた不可思議な品々なら同じスタンスでいられたかもしれない。

だが、ミリタリ部門という不穏で物騒な名前の展示エリアで、俺は思わず閉口してしまった。

 

そこに並べられていた超小型プランク爆弾やらバルカン砲やら、挙句の果てには月面走行戦車やら、SFチックで明らかに予想していたものとジャンルが違う。

いや、ジャンルとかそういう問題ではなく、それらの展示品はどう見ても超未来的な品々、現代の科学技術を凌駕する兵器だった。

「せんせープランクってなにー?」

と問いかけてくる生徒の一人、伍助に俺は「なんだろうなあ」と実に微妙な表情で返すしか出来なかった。

 

永遠亭の住人は、遥か昔に交流の途絶えた月の民だと言う噂がある。

以前ならば、月に都があるとか、月の民と交流があったなんて話は信じなかっただろうが、幻想郷に住んでいれば、その話も眉唾物の噂だと断ずることはできない。

だが、その噂は永遠亭の住人が意図的に流したカバーストーリー、正体を隠すための隠れ蓑なのではないだろうか。

 

果たしてその正体は、遥かな未来からやってきた未来人かもしれないと俺は思っている。

というか、未来人がいると言われた方が俺としては説得力がある。

異世界人がいるくらいだしな。

俺のことだけど。

 

そんなわけで俺は今、目前で話をする輝夜と名乗る少女の話に、どこか未来人的な雰囲気を察知できないかと注意深く耳を傾けていた。

名乗る以外は特に自己紹介も無く話し始めた彼女による講演会では、世間話をするような口ぶりで話題が二転三転し、今は月の都の昔話などが語られている。

 

月とかぐやと言えば、日本最古の御伽噺『竹取物語』のかぐや姫を自然と連想する。

きっと輝夜と名乗るあの少女も、その話に肖ってそう名乗ったのだろう。

 

それにしても、と俺は静かに息を吐く。

輝夜を一言で表すならば、それこそまさに絶世の純和風美少女。

この幻想郷で知り合う女性は軒並み美人だと思う俺だが、その中でも彼女は群を抜いている。

話に注意していないと、思わず見惚れてしまうほどだ。

現に周囲を見ると、男性だけでなく女性や子供まで、彼女の話に聞き入り、その相貌に視線が釘付けになっている。

 

かぐや姫は美しいが故にたくさんの貴族に求婚されたというのは有名な話だが、輝夜の様な美貌の持ち主ならば確かに説得力がある。

きっと十二単なんか着てたらすごく似合うだろう。

もしかしたら、『竹取物語』というのは実話であり、輝夜はそのかぐや姫の子孫なのかもしれない。

とまあ、そんな話を想像、というか邪推する俺の無粋な視線に気付いたのか、ふいに話をする輝夜がこちらを向き、彼女と目が合う形になった。

 

――ヤベ、惹きこまれる。

慌てて目を逸らすも、輝夜の視線を視界の隅に捕らえて心臓の鼓動が激しい。

目が合っただけなのにその瞳に吸い込まれそうになる錯覚を覚えた。

言い方を変えるなら……落ちそうになった。

いや、さすがにそれは大げさなのだが、動揺している辺りあながち間違いでもない。

ちょっと気を抜くと惚れ込んでしまうのではないか。

実際に周りの若い男集は鼻の下が伸びてるし。

 

俺は軽く息をつき鼓動を落ち着かせると、輝夜を再び見た。

その視線は既に俺のほうには向けられてはいなかったが、彼女の美貌は本当に油断ならない。

 

 

* * *

 

 

ちなみに案内を名乗っていたてゐだが、展示場に到着すると、「まあ自由に見ていってよ」という言葉を残してどこかに消えたままだ。

なんとなく自由奔放で掴みどころの無い印象だったのもありこうなる予感はしていたが、まさかこうも早くいなくなるとは思わなかった。

彼女がいなくなる前に聞いておきたいことがあったのだけど。

俺はどうしたものかと頭を掻く。

輝夜の話も終わり、彼女が去ったことで無駄に緊張していた俺は若干安堵しつつも、そろそろ慧音さんに頼まれた所用を済ませておきたい。

 

「……伍助」

丁度近くでオーバーテクノロジーな品々に目を輝かせていた生徒に声をかける。

「どうしたの先生」

「ちょっと頼まれてほしいんだが、他の寺子屋の子をちょっとの間見てやってくれないか?先生、これから慧音先生に頼まれた用事があるんだ」

 

「…………そーだなー」

俺の言葉に伍助はわざとらしく腕を組んだ。

姉に似て素直な子なので、意外な反応だ。

だが、困惑した俺を伍助は見上げると、ニカッと歯を見せて笑う。

 

「お駄賃は売れ残りのけーきがいいなー」

コイツ……いつの間にこんなに狡猾に……!

予想外の小賢しい面に、俺は再び渋い顔になるも、求める物が商品価値がない辺り、上手く妥協点を見出している所に逆に感心してしまった。

 

「……よし。ただし今回だけだし、皆には内緒にしろよ」

「やった!」

伍助は小さくガッツポーズをした。

声を潜めて周りの人間に気づかれないようにする辺り、中々抜け目がない。

「じゃ、頼んだぞ」

「任せてよ」

 

と伍助には言ったものの、見知った人里の住人も見かけていたので、彼らにもそれとなく子供達を見てくれるように頼み、俺はその場を後にした。

 

 

* * *

 

 

警備の妖怪兎に案内された俺は、永遠亭の離れに訪れていた。

妖怪兎たちは言葉を喋れないのか、それとも非常に無口なのかわからないが、俺の質問に少ない手振りで応じることはあっても言葉で対応することはない。

 

それでも客人の対応はきちんとしてくれるらしく、俺の頼みを聞いて『八意診療所』と立札のかけられたこの建物に案内してくれた。

「ここだね。ありがとう。助かったよ」

「…………」

礼を言う俺を円らな瞳で見上げる少女は、相変わらず無言だ。

だが、こくりと頷いて反応を示すと、踵を返して持ち場に戻っていく。

 

どこか庇護欲を唆る後ろ姿だ。

っと、いつまでも兎耳の幼女の背中を眺めていると危ない人に見られかねないな。

俺は無駄なことを心配しつつ、咳払いをして気を取り直す。

 

診療所の引き戸を軽くノックしつつ声を上げる。

「八意永琳様はいらっしゃいますか」

『ええ。どうぞ』

中から大人びた女性の声が返ってきた。

 

もし留守だったらどうしようかと少し心配していた俺は僅かに安堵する。

「失礼いたします」

声をかけつつ引き戸を開き、俺は以前から噂を聞いていた八意永琳様と、初めて対面した。

 

机に向かって作業をしていたらしい永琳様は、腰まで届くような長い銀髪を結った三つ編みを揺らして振り向いた。

「何の御用かしら。急患?」

「いえ、上白沢慧音の遣いで参りました」

俺は懐から書状を取り出す。

 

「こちらを」

「ああ、慧音の」

俺から書状を受け取った永琳様は、素早くそれを開いて書面に目を通す。

ちなみに内容は、一言で言えば人里での医学的支援を感謝する、といった感じだ。

里への置き薬の提供だけでなく、重篤な患者が出れば出張して看てくれる。

現代と比較すると技術レベルの低い人里では、それら永遠亭の働きは非常に心強い助けになっており、里を代表して慧音さんが礼を伝えているのだ。

 

「別に、私たちとしても利があるから力を貸しているだけで、礼を言われる筋合いはないのだけど」

書状を読み終わったらしい永琳様は書状を丁寧に折りたたむ。

「慧音も律儀ね」

「ですが、我々としても感謝しているのは事実です」

現に俺も鈴仙の持ってくる置き薬には随分世話になっている。

 

「多忙な身とあってこのような形となってしまいましたが、せめて感謝の意は示しておきたいと言っていました」

「ええ、こちらとしても人里との友好関係を築けているならばそれに越したことはないわ」

どこかドライな言い方をしながら視線を俺に移す。

 

「それで、貴方は?」

「はい?」

「慧音の遣いと言っていたけど、彼女とはどういった関係なのかしら?」

「申し遅れました。岡崎悠基と申します。訳あって、今は慧音さんの寺子屋に勤めています」

 

「ああ」

どこか納得がいった様子で、永琳様は小さく息を漏らす。

「そう、貴方が慧音のところの外来人ね」

「……ご存知でしたが」

なんだか嫌な予感がして言い淀む俺に、永琳様は含み笑いを浮かべる。

「ええ。噂はかねがね」

やっぱり……。

 

ちなみにだが、最近は俺が紅魔館に訪れたことがホットな噂になっている。

曰く、俺が今度は紅魔館の住人に拉致されたとか、俺が吸血鬼になってしまったとか、いやでも普通に太陽の光浴びてねえか?とか、てことは紅魔館に訪れて吸血鬼から逃げおおせたのかとか、アイツやべえな、とかとかとか。

なんで最終的に過大評価に繋がるのか分からないが、こんな噂を流される当人としては溜まったものではない。

おかげで紅魔館に訪れたことは周知の事実となっており、阿求さんだけでなく慧音さんや霊夢からも説教だの小言だのを喰らうハメになったし。

 

「貴方も災難ねえ」

永琳様はその辺りの事情は察しているようで、どこか同情的な視線を向けてくる。

「分かっていただけますか」

「まあ、半分は貴方の自業自得な気がするけれど」

「…………」

咲夜の件に関しては危険とされる紅魔館に行こうなど考えた事の発端だ。

つまりは永琳様の言葉は図星なわけで、思わず俺は閉口せざるおえない。

 

「図星みたいね」

「ええ、まあ」

「そんな噂を広められるのが望むところでないのなら、もう少し慎重に行動した方がいいんじゃないかしら」

果たして、この人はどこまで事情を知っている、というか察しているのだろう。

 

「……忠告、痛み入ります」

恭しく頭を下げると、永琳様はすまし顔で応じた。

「ただのお節介よ……あら」

 

ふいに、永琳様が診療所の裏手へ通じるであろうドアを振り返る。

彼女の視線を追って俺もそのドアを見たその時、木製のドアが押し開かれた。

「永琳~」と間延びした声とともに気だるげな様子で入ってきたのは、つい先刻俺の前で講演をしていた輝夜だ。

「喉が渇いたわ。お茶を――って、あらぁ?」

部屋に入ってきた輝夜は、俺に目を止める。

 

「貴方……」

「知り合い?」

永琳様が視線を輝夜から俺に移す。

 

「いいえ。でも、さっき私の話を聞いてた人よね」

「どうも」

油断ならないと思った手前、やや緊張しつつ俺は深々と頭を下げる。

 

「ふーん」

とてとてと軽い足音が近づいてくる。

「ねえ、貴方」

「はい――」

声をかけられ頭を上げる。

 

ってうおぉ!?

「――っ!?」

驚いて息を呑む俺の眼前、思いのほか近くに、輝夜の顔があった。

 

「い、いいいかが、いかが、いたしましたか」

動揺で思いっきりどもりながら、俺は思わず一歩後ずさる。

と、輝夜がその分一歩距離を詰めてきた。

「さっき気になったのよね。貴方のこと」

 

「な、何かお気に障ることでも?」

一歩下がる。

「気に障るっていうか、目がね」

一歩詰めてくる。

 

「目?」

一歩。

「そう貴方の視線よ」

一歩。

 

「なんだか貴方の目つき」

一歩。

「私を疑ってるような」

一歩。

 

「感じだったのよね」

一歩。

「す、鋭いですね」

一歩。

 

「あら、認めるのね」

一歩。

「え、ええ、まあ」

一歩。

 

「へえーなぜかしら」

一歩。

「あ、あの、しょ、正直に話しますので!」

一歩。

 

「こ、この辺で」

一歩下が……れない。

いつの間にか壁際まで追い詰められていた。

俺はホールドアップしながら、尚も近づいてくる輝夜から顔を逸らす。

「勘弁してください……」

 

「あら、何かお困り?」

目を弓なりにしながら、輝夜が俺を覗き込んでくる。

わざとらしい言い方からも分かるが、この人明らかに俺が困ってる様子を見て楽しんでいる。

「……近いです」

それを分かっていても照れてしまう辺り、自分のヘタレっぷりが悲しい。

 

「近い?近いって、何が?」

「きょ、距離、ていうか顔が近いです」

「近いと困るの?」

「……永淋様」

 

輝夜の頭越しに助けを求めると、やれやれといった様子で永淋様はため息をついた。

「そのくらいにして差し上げなさい。彼は客人よ」

「はぁい」

笑みを浮かべたまま、輝夜はゆっくりと下がる。

そのことに安堵した俺は、ほっと安堵の息を吐いた。

 

「貴方も」

永淋様は俺に視線を向ける。

「子供じゃあるまいし、もう少しどうにかならないの?」

 

未だに顔が赤い俺は、困り顔でヒラヒラと手を振った。

「無理ですよ。輝夜様のような美人に詰め寄られれば、誰だってああなります」

「だって、永淋」

誇らしげに視線を向けてくる輝夜に、永淋様は再びため息をついた。

 

 




さて、まず補足ですが、永遠亭の面々は人里の住人からすると謎の多い人々であり、彼女たちが本当に月の民かどうかはまだ噂の範疇を抜けていません。
あくまで現時点における本作の設定です。

それから今回、中盤で主人公は盛大に勘違いしています。永遠亭の住人は未来人じゃないか、みたいな。
あと輝夜=かぐや姫という発想もありません。
彼にとってはかぐや姫が不老不死だなんて発想が思いつかないほどに突飛だからですね。妹紅が不老不死なのもまだ知りませんし。
そんな彼からすれば、まだ子孫や未来人の方が説得力があるわけです。まだまだ常識に囚われてますね。囚われてるか?
そんなわけで次回も永遠亭のお話です。ほのぼの!


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二十八話 未練

『月の兎の餅つきショー』と銘打たれたイベントが開催されている会場(というか永遠亭の中庭なのだが)の隅で、俺と輝夜は並んで立っていた。

俺たちを含む会場中の視線が集まる中、「よいしょ!」「ほいよ!」と掛け声を上げてアクロバティックな動作を交えて餅をついているのは鈴仙だ。

この餅つきショーでは、ショーが終わった後についた餅を配ってくれるとのことで、皆それが目的だとか。

 

「ここなら問題ないでしょう?」

「ええまあ、構いませんよ」

隣に立つ俺を見上げてくる輝夜の上目遣いであろう視線を、俺はあえて見ないようにしつつ返事をする。

 

 

*

 

 

永淋様の診療所で輝夜に迫られた俺は、永遠亭の住人は未来人ではないかと推測したことを正直に話した。

そんな俺の話を輝夜は一笑して否定するが、対して永淋さまは俺が月の民よりも未来人の方が信憑性があると捉えていたことに疑問を持った。

まあ、単に俺が歴史が違う世界から来たというだけで、それなら未来から来ることだってありえるんじゃないのか、なんていうおおよそ根拠と呼べるかどうか微妙な理由だったのだが、そのことを話すと今度は輝夜が興味を持った。

 

「ねえ、貴方の言う歴史の違う世界って、どんな世界なの?」

「違うって言っても、大した違いはないですよ。外の世界とあまり変わらないと思います」

「構わないから話してみなさいよ」

「…………」

と話を促してくる輝夜に対し、俺は逡巡し、暫くして頭を下げた。

 

「申し訳ないのですが、そろそろ行かないといけないので」

「あら?断るの?」

目を丸くしながら首を傾げる輝夜に、俺は首肯した。

 

「今日は子供たちの付添いとして来ているので、あまり長い時間あの子達から目を離すわけにはいきません」

理由を告げながら、表情筋が強張っていることを自覚する。

言ってることは嘘ではないが、それとは別に、先刻のこともあって輝夜とあまり長時間一緒にいるのはなんだか憚られた。

 

「……警戒されてる?」

輝夜がふいに俺を指差しながら永淋様を振り返り、永淋様はそれに答えるように瞼を閉じた。

「みたいね」

 

うわあバレてる。

今のことといい、さっき輝夜に対して疑いの視線を向けていたことといい、ことごとく輝夜は俺の思いに勘付いている。

 

「……鋭いですね」

やっぱり油断ならないと、俺は気を引き締めた。

 

「だって貴方見るからにそういう顔してたもの」

……顔に出てたのか。

脱力ぎみになっている俺に対し、輝夜は眉尻を下げながら芝居がかった様子で額に手を当てた。

 

「やっぱり、美しいって損ね。美しすぎるってだけで貴方みたいな人に無意味に警戒されるんですもの」

自分で言ってる……と思わなくもないが、確かに非の打ち所がないほど容姿が整っているので特に異存はない。

現にわざとらしい芝居でも、絵になっている。

「こと貴女に関しては無意味でもないでしょうに」

永淋様が呆れを含んだ声音で言うと、輝夜は困り顔を引っ込めた。

 

「失礼ね永淋。あ、そういえばもうすぐイナバの餅つきの時間じゃない?」

「そういえばそんな時間かしら」

何かを思いついた様子で、輝夜が俺に向き直る。

 

「ねえ貴方、子供たちの様子が気がかりなのよね?」

「……はあ」

輝夜の質問の意図が読めず、俺は曖昧に頷く。

「だったら、私が一緒に行けば問題ないでしょ?」

「……えっと、話が見えないのですが」

困惑顔をする俺に、輝夜は「だ、か、ら」と人差し指を振った。

 

「その子供たちが目の届くところにいるなら、貴方の話、聞かせてくれるんでしょう?」

と、決め付けるような言い方で輝夜は俺に問いかけてきた。

 

 

*

 

 

結局、輝夜の提案をすげなく断る理由も思い浮かばない俺は、輝夜を連れ立って鈴仙のショーを眺めている。

このイベントは永遠亭に訪れた人々のほとんどが見にきているようで、共に来た寺子屋の生徒たち全員が鈴仙に対し歓声を上げている。

その光景を確認した俺は腕を組んだ。

 

「そんなに外の世界に興味があるんですか?」

横目で輝夜に問いかけると、輝夜は何か考えるように顎に手を当てた。

「そうねえ。それほどあるわけじゃないわ」

えー。

 

「でも、もしかしたら興味を引くものがあるかもしれないじゃない。まあ、退屈しのぎになるならなんだっていいわよ」

「暇なんですか」

「ええ」

少々不躾な言い方だった俺の問いかけに、輝夜はすまし顔で頷いた。

 

「……まあ、ええ、いいですよ。それで、外……というか俺の世界の話ですよね」

「そうね」

「何か質問とかありますか?」

俺の世界と言われても、果たして何から話したものかと逡巡する。

だめもとで口に出した俺の問いかけに、輝夜は「あるわ」と頷いた。

 

「貴方の、家族の話が聞きたいわ」

「………………」

てっきり、技術だとか、文化だとか、歴史だとか、そんな話を所望していると考えていた俺は、一瞬思考が停止した。

小さく深呼吸をして気を取り直す。

 

「そんなこと、ですか」

「ええ。お願いできるかしら」

 

俺の両親が死んでから、そろそろ9ヶ月……かな。

どうもこの世界は俺がいた世界とは時間がズレているらしい。

だから、それだけの月日が流れたというのも、あくまで俺の主観の話だ。

 

それでも、もう9ヶ月か、としみじみ思う。

「ええ、構いませんよ」

 

当時なら乱れていた胸の内は、漣こそ立ってこそいるが比較的穏やかだ。

「俺の――」

 

俺の父は教師で、母は看護士。

口調は男らしいのに、いつも穏やかで柔和な笑みを浮かべていて、だけど怒ると本気で怖い父。

時に父より男らしく、感情表現が豊かで、怒りっぽいけど最後の最後は誰よりも優しかった母。

 

大切なことをたくさん教えてくれた二人。

俺に惜しみない愛情を注いでくれた二人。

いつも優しく、時に厳しく、そして常に俺を想って接してくれた二人。

胸を張って誇れる二人。

大好きな……大好きだった二人。

 

「――と、そんな二人が、俺の両親です」

思い出しながら話していたら、ついつい両親のことについて喋りすぎてしまいそうになる。

どうも、俺はマザコンかつファザコンの気があるらしい。

まあ、あんな素敵な人たちが親なら仕方がないな!……なんて、開き直りながら、少し話しすぎてしまっただろうかと輝夜の反応を伺う。

 

輝夜は、口元を袖で上品に覆ってクスリと笑う。

「随分饒舌だったわね」

少しどころじゃなかった。

 

「すいません」

「いや、いいわ。ええ、貴方、ご両親に随分心酔しているのね」

「心酔って……なんですかその言い方」

「間違ってないでしょ?」

「まあ、否定はしません」

 

さすがにそろそろ自分で言っていて恥ずかしくなってきた。

俺は頬を掻きながら輝夜から視線を逸らす。

そんな俺の反応を、隣の輝夜は瞳に笑いを浮かべて眺めている。

 

「素敵な人たちみたいじゃない」

「ええ。大切な……俺にとって、何者にも代えがたい、そんな人たちでした」

「……もういないのね」

輝夜の問いかけに、俺はゆっくりと首肯する。

 

「ここに、幻想郷に迷い込む半年ほど前に」

「そう」

 

鈴仙が掛け声を上げながら杵を振り下ろし、その度に歓声が上がる。

ほんの10メートルにも及ばない程度に離れた群集のざわめきは、俺と輝夜の目前でフィルタにかけられたかのようにどこか遠くに聞こえた。

俺たちの周りだけ、どこかしんみりした空気が漂っている。

 

「……すいません。こんな空気にするつもりじゃ」

「いいわ。辛かったでしょう?」

「そうですね」

ぐいぐい来るなあと俺は思いながら首肯した。

 

「それほど大切な二人を失ってから、半年でよく立ち直れたわね」

「まあ、二人が死んでから、たくさんの人に助けられたので」

 

だから俺は、せめて、もう一度会いたいと。

「なので、まあ、その人たちのことも二人と同じくらい、大切なんです」

まだなお、ずっと思っている。

 

「そう……」

静かな相槌に俺は横を見る。

輝夜は、遠くを見るように視線を前に向けたまま、息をつくように俺に問いかけてきた。

 

「貴方……元の世界に未練があるのね?」

 

その言葉に、俺は目を閉じ、頷いた。

「……ええ」

 

だが、いくら俺に未練があったところで、帰る方法は今のところ分からない。

「もし」

輝夜が真っ直ぐ俺を見た。

「帰れる方法があったら、貴方はどっちを選ぶの?」

 

選ぶ。

どっちを。

 

それは、幻想郷か、元の世界か、という意味か。

 

「――――」

考えてみれば、たった3ヶ月なれど、この世界には随分たくさんの友達や知り合いができた。

随分と、幻想郷に対して愛着が沸いて来たことを自覚する。

ずいぶんと世話をかけたし、命の恩人だっている。

俺の中で、日に日にそんな人たちの存在が大きくなっている。

 

 

俺は一瞬だけ逡巡して、ほとんど即答する形で輝夜に答えた。

 

 

 

 

「元の世界を」

 

 

* * *

 

 

ほくほく顔で餅を頬張る人混みを掻き分けて進むと、さっきまで振るっていた杵を杖代わりに、随分疲れた様子で鈴仙が立っているのを見つけた。

彼女も俺に気付いたのか、視線を向けてくる。

 

「お疲れ様、鈴仙」

「来たのね、悠基」

「ああ」

鈴仙は深呼吸をして息を整えた。

 

「忙しそうだったし、来ないと思ってたわ」

「まあ、なんとか時間が作れてね。子供たちの付添いできたんだ」

「そ。どう?」

「ああ、楽しんでるよ。俺も子供たちも」

「なら良かったわ」

満足げに鈴仙は頷くと、「そういえば」と僅かに首を傾げる。

 

「さっき姫様と話してたわよね」

「姫様……ああ、輝夜様か」

以前鈴仙が「姫様」と口にしていたが、輝夜のことだったのか。

 

「……気付いてたんだ」

「まあねえ」

首に手を当てながら視線を逸らす俺に、鈴仙は眉を顰める。

 

「……姫様に何か言われたの?」

そんなに顔に出てたのだろうか。

「別に、大したことじゃないよ」

「そういう顔には見えないけど」

疑わしげに俺の顔を覗き込んでくる鈴仙だが、目を逸らして黙ったままの俺に小さくため息をつくと一歩下がる。

 

「ま、言いたくないならいいわよ」

「……あのさ、鈴仙」

「なによ」

輝夜と話してから、鈴仙にどうしても訊いておきたいことがあった。

 

「あー……いや」

ただ、そのことを訊くのはどうしても躊躇われる。

「やっぱり、なんでも……」

ない、と俺が言いかけた所で、鈴仙が怪訝な目になり睨んできた。

 

「なに?喧嘩でも売ってるの?」

「いや!いやいや、違う違う」

少々剣呑な雰囲気の鈴仙に、俺はたじたじになって首を振る。

我ながら面倒くさい態度だったのは自覚しているが、鈴仙も鈴仙でちょっと短気じゃないか?

とはいえ、煮え切らない自分が悪かったとは思うしで、俺は咳払いをして気を取り直すと改めて質問をすることにした。

 

「鈴仙は、月から来たんだよね」

「そうよ」

一瞬だけ、鈴仙の纏う空気が強張った気がした。

 

「どんなところだったの?」

俺にとっては空気の無い、クレーターだらけの荒野という印象だが、それは一側面だと輝夜は言っていた。

だから、鈴仙の故郷としての月の世界が、どんな世界なのかは純粋に疑問に思うところもあった。

だが、この質問の意図は別にある。

 

「どんな……ね」

鈴仙は、遠くを見るように視線をさ迷わせる。

憂いを帯びたその瞳に、俺は、「ああ、こういうことか」と勝手に納得した。

 

 

 

『そういえば、俺が、帰りたがってるのを分かってて家族のことをきいたんですね?』

『ええ』

『どうして分かったんですか?』

『目よ』

『目?』

『貴方の目、うちのイナバと同じ目をしてる』

『鈴仙とですか?』

『そう。たまにだけどね』

 

 

そんな会話を、さっき輝夜と交わしていた。

 

 

「海があるわ」

俺の質問に答える鈴仙は、やはりどこか遠くを眺めているような目をしている。

「海?ああ、確かに、幻想郷にはないよな」

「それに、ここよりもずっと豊かで、技術も発展していた」

 

故郷を思い起こすときの目つき。

穏やかな中に、後悔や自責や悲哀の感情が垣間見えた気がした。

俺も、こんな目をしていたのだろうか。

 

「帰りたい?」

ふいのことだった。

本当にふいに、言おうかどうか迷っていた質問は、俺の口から零れ落ちた。

 

輝夜の話では、鈴仙は故郷を訳あって離れているらしい。

故郷を離れている点は、俺と同じだ。

だからか、参考にするわけじゃないのだけど、鈴仙が故郷と幻想郷のどちらを選ぶのか、どうしても気になった。

問われた鈴仙は落ち着いた様子で「そうね」と考える様子を見せる。

 

「分からない、けど、今はここを気に入ってる。師匠にも姫様にも恩義があるし。てゐも、他の因幡たちもいる。他にもたくさん……そうね、貴方もいる」

「鈴仙……」

「だから、私は今はまだ、ここにいることにするわ……どうしたの悠基」

視線を俺に戻した鈴仙が、怪訝な顔をした。

 

「顔が赤いわよ」

「……なんでもない」

俺は顔の下半分を片手で多いながら、顔を背けた。

 

違う違う。

今はそういう意味で言ったわけではない。

わけではないんだけど、鈴仙みたいな子にこの話の流れで「貴方もいる」とか言われると来るものがある。

ていうか、照れるに決まってる。

で、当の鈴仙は、こういう話には面白い反応を見せてくるくせに、今は照れる様子も見せない自然体。

さては無自覚なのか。

気付かずにさっきの言葉を吐いたのか。

天然タラシなのか。

女性にタラシは適切なのかは知らないが。

 

「貴方はどうなの?」

そんな俺に鈴仙が僅かに首を傾げてくる。

 

帰りたいのか、残りたいのか。

「俺は、」

輝夜に対してはほぼ即答だったのに、なぜか鈴仙の前だと言いよどんでしまう。

 

鈴仙との付き合いはそう長くない。

今日だって、会ったのは久しぶりだ。

それでも、鈴仙に対して答えを言うのを躊躇することは、すなわち彼女の存在が俺の中で大きくなっているということなのだろう。

…………友達としてって意味でね。

 

「……帰れるなら、帰りたい……かな」

それでも、俺の答えは変わらない。

 

比較するわけではないけど、鈴仙や、この幻想郷で出会った人たち以上に大切な人たちが元の世界にいる。

だからこそ、その答えは変わらない。

 

「そう。見つかるといいわね。帰る方法」

俺の答えに、鈴仙は静かに笑みを浮かべる。

 

「ありがとう」

俺も、笑みをもって返す。

「まあ、当ても何も、見つからないんだけどね」

どこか弛緩した空気を感じながら、俺と鈴仙は互いに笑みを浮かべる。

多分だけど、鈴仙も俺に対して、どこか親近感を抱いているのかもしれない。

 

 

「ほぉおお~~?」

唐突に、俺と鈴仙に向けて頓狂な声が上げられる。

 

「っ!?」

「て、てゐ!?」

鈴仙と俺は同時に振り返ると、声の主であるてゐがニヤニヤと笑って立っていた。

戸惑った様子で俺たちは立ちすくむ。

 

「な、なによ?」

鈴仙は戸惑った様子で怪訝な目を向ける。

対して口元を手で覆いながら俺と鈴仙を交互に見た。

 

「いやいや、鈴仙も隅に置けないねえ」

「は?いったい何を……」

と、鈴仙が言いよどんだところで、俺は周囲の状況に気付く。

いつの間にか、周囲の視線が俺たちに集まっていた。

 

……っとこれはまさか。

鈴仙も状況に気付いたようで、一瞬硬直したと思うと次の瞬間目を見開いて顔を赤面させた。

「ち、ちが!違います!」

腕をぶんぶんと振り回しながら鈴仙が叫ぶ。

 

「いやいや、いい雰囲気だったじゃないか」

てゐは面白くて仕方がないようだ。

どう見ても確信犯である。

そんなてゐを鈴仙は睨みながら、俺をまっすぐ指差した。

「こ、この人とは、そういうのじゃない!!」

 

「先生」

「ん?どうした伍助」

鈴仙の慌てっぷりに逆に冷静になる俺に、伍助が声をかけてくる。

 

「これって、あいびきってやつだろ?」

「お前……どこでそんな言葉を」

 

「だ~か~ら~」

俺たちの掛け合いが耳に入ったらしい鈴仙が、その長い耳をぴょこぴょこと揺らす。

「違うってばあ~~~!!」

半ば絶叫にも近い鈴仙の声が、迷いの竹林に響いた。

 

 

 

そんな調子で、その日の月都万象展は幕を閉じた。

帰る間際、鈴仙に「今日はいろいろとご愁傷様」と半笑いで声をかけると、未だに顔が赤いままの彼女はジト目になり、俺の両肩を掴んで乱暴にゆすった。

「他人事じゃないでしょ~~!!」

 

結局鈴仙は、最後までからかわれていたことに気付いていなかったらしい。




輝夜回ではなく、どちらかといえば主人公の身の上やらスタンスやらのお話でした。
技術や文化の違いとか、暮らしの利便性などはあまり関係なく、主人公は元の世界に残した人々に会いたいようです。
なおいまだに輝夜=かぐや姫と気付いていない模様。

なんだかラブコメ感が垣間見えたかもしれませんが、この小説はほのぼの日常系です。今のところは。


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二十九話 香霖堂にて

2月に入り、幻想郷の冬はその寒さを増した。

相も変わらず身を切るような寒気の下、疎らな雲にしばしば月の明かり途切れる夜の闇の中を、一人の青年が疾駆していた。

ていうか俺だった。

開けた草地を必死に走る俺の後方から、荒い獣の息が迫ってくる。

ほんの一分ほど前にかなりの距離を置いて目が会った獣は、すぐさま全力で逃走を開始した俺との距離を無常な速さで詰めてきた。

 

一見すると狼と同じ容貌の獣は、実際には熊並みの体躯を持ち、特有の禍々しさを放っている。

これまでの経験則で分かる。

この獣は、人を喰い、味を覚えてしまった狼が妖怪と化したものだ。

 

「くそっ!」

逃げ切れないと判断した――というか最初から逃げ切れないことは分かりきっていたが、悪あがきで逃走を試みていた――俺は転身し、狼妖怪と向かい合う。

夜露に濡れた草に足元を取られそうになりながらブレーキをかけ、同時に腰の木刀の柄に手をかける。

 

狼妖怪は俺の正面5メートルほどの距離で脚を止めると、姿勢を低くし獰猛な唸り声を上げる。

どっかの人狼妖怪はまだ話が通じたのだが、どうもコイツは言葉すら持たないらしい。

 

「――――」

対して、覚悟を決めた俺は呼吸を止め、目の前の妖怪に全神経を集中させる。

目を見開き、狼妖怪の一挙手一投足を見逃すまいとその姿を捉え続ける。

 

数秒の沈黙と、そして刹那。

 

巨大な体躯を跳躍させた狼妖怪。

月光に照らされた影が先んじて俺の体を覆う。

 

対して俺は、半歩、脚を前に滑らせながら木刀の柄を握る腕に力を込める。

見様見真似の居合い抜きの構え。

だが、極限の集中力が、かろうじて的確なタイミングを掴ませた。

 

剣術に関しては素人未満の腕の俺と、大の大人を一撫で殺す妖怪。

勝負は火を見るより明らかだった。

 

しかし、

 

瞬間、

 

なんの変哲もない木刀が、突如として眩い光を放つ。

突然の閃光に空中にいた狼妖怪がたじろぐ一方で、俺はごくごく自然な動作で木刀を滑らせる。

輝く刃は抜かれる動きそのままに、俺の目前の空中を凪ぐ。

同時、刃の軌跡に沿って、月光を想起する神秘的な残光が、斬撃と化した。

一線。

狼妖怪の体が光の斬撃によって真っ二つに絶たれる。

斬撃はそのまま空中を波紋のように走りぬけ、最後には飛沫のように散って霧散した。

 

死闘の末の極限の状況下。

ただ、目の前の敵を倒すことに全てをかけた俺に起きた奇跡。

弱者たる人間が、強者の妖怪をも穿つ必殺の一撃。

名付けて――月光斬――。

それが、俺の中に秘められた力の一端でしかないことを、俺はまだ知らない…………。

 

 

 

 

 

…………なんて展開にはならない。

 

残念ながら途中からは、誇張という表現すらおこがましい妄想だ。

いや別にいい年していつもこんな痛々しい妄想してるわけじゃないけど。

どこから妄想なのかと言えば、俺の握った木刀が光を放つくだりからで、つまりは俺が無謀にも狼妖怪に見様見真似の居合い切りを試みたところまでは本当だ。

 

……まあ、その結果は言うまでもない。

 

 

 

* * *

 

 

「ふうー……」

「おや、随分大きなため息じゃないか」

昨晩のことを思い出し、うっかりため息を零した俺に霖之助さんが眉を上げた。

 

「あ、失礼しました」

魔法の森入り口に居を構える香霖堂店内でのことだった。

寺子屋の休みを利用してこの店を訪れた俺は、外の世界から新しく何か流れ着いていないかと店内を物色していた。

いつも通りカウンター横の丸椅子に腰掛けた霖之助さんは、モニタに派手な皹が入った携帯ゲーム機が起動しないかと四苦八苦している。

 

目的もなく訪れては見たものの、目ぼしいものは中々見当たらず、今日は特に買うものもないかと結論付けようとしたとき、ふと思い出す。

「あ、そういえば霖之助さん」

「なにかな?」

ふいに声をかけると、霖之助さんはゲーム機から目を離さずに返事をした。

 

「霖之助さんって剣が扱えるんですよね」

「……剣?僕がかい?」

視線を上げた霖之助さんが、怪訝な目を俺に向ける。

 

「はい。もしよろしければご教授いただけないかと」

「いや、そもそもの話として、なぜ君の中で僕が剣を扱えるということになっているのか疑問なんだが」

「ああ……あれですよ、店内にあった青銅っぽい剣。確か非買品って言ってましたよね」

「……非買品だからと言って、実際に使うというわけではないだろう?」

霖之助さんは目を閉じると、眉間を指で押さえて皺を伸ばす。

 

「あれは僕のコレクションだ。それと前も言ったが、その剣のことは他言無用で頼むよ」

「あ、そうでしたね。すいません」

口元を押さえて頭を下げる俺に、霖之助さんは小さくため息をついた。

「それで?なぜ急に『剣を習いたい』なんて言い出したんだい?」

「そうですね……」

 

俺は昨晩……に限らず、連日妖怪に成す術もなく襲われていることを話した。

ミスティアなんかはかなり特殊な例で、彼女を除けば基本的には殺されかけている。

阿求さんの言うとおり、里の外に出れば、ほとんどの場合は一刻と無事ではいられない。

危険であることは分かっていたが、さすがにあっという間に撤退するハメになっているようでは調査の結果も芳しくない。

せめてもう少し生存する時間を稼ぎたかった。

 

「で、どうしたものかと考えた結果、剣で対抗できないかと考えたわけだね」

「ええ……どうでしょうか」

「どうもなにも」

呆れたように嘆息すると、霖之助さんは頬杖をついて俺を見据える。

「無駄だということは君が一番よく分かっているんじゃないか?」

 

「無謀は承知です」

無駄だと言われることは予想がついていた。

「とはいえ、何も対策を立てないよりは、今からでも訓練すれば少しずつ変わっていくかもしれないじゃないですか」

「随分気の長い話だ。何年、いや、何十年かかるんだか」

 

霖之助さんは呆れたように肩を大げさに竦める。

だが、顎に手を当て思案顔になると、どこかに視線を彷徨わせながら口を開いた。

 

「そうだねえ……刀一本で妖怪を圧倒する知り合いなら心当たりがある」

「そんな達人がいるんですか?」

「達人……ね」

俺の言葉に霖之助さんはなぜか首を傾げる。

 

「しかし、彼女は滅多に顔を出さないし、そもそもの話として、君が剣の腕をあげるというのが現実的ではない。それよりは」

その視線が再び俺を見据える。

「魔法を使った方が手っ取り早いと、僕は思うけどね」

「手っ取り早いって……」

 

そりゃあ使えるならそれに越したことはないが、アリスの見せてくれたような魔法を自分で使えるイメージがイマイチ沸かない。

だが、魔法を使うという選択肢は頭に無かった。

「簡単に言いますけど、魔法ってそんなに簡単に出来るものなんですか?」

「おかしなことを言う」

霖之助さんは眼鏡を押し上げた。

 

「君は今も魔法を使っているじゃないか」

 

 

………………え?

 

「あの、え?お、俺が……?」

戸惑う俺を見る霖之助さんの目が丸くなる。

「……自覚がなかったのかい?」

「自覚も何も、俺は魔法なんて使えな……あ、」

 

自分の中で合点がつく。

現在進行形で使っている魔法、つまり不可思議な能力のことか。

「分身能力のことですか。これって、魔法なんですか?」

だが、俺の答えに霖之助さんは首を振った。

 

「いや、君の能力に関しては分からないよ。その能力が魔法なのか、妖術なのか、呪術なのかそれ以外か。少なくとも僕が知っている限りではなんともね」

「霖之助さんでも分からないんですか」

「別に、僕が特別物を知っているというわけではないよ」

 

魔術や魔法など、そういったことに造詣の深そうな霖之助さんでも知らないとなると、我ながらいよいよ不可思議な能力だと思う。

レミリアは何かを知っている風だったが、あれからそれとなく質問してみても、からかうようにはぐらかされてばかりだ。

 

まあ、今はその話は置いといて。

 

「……と、いうことは。魔法を使ってるって言うのはこの能力の話じゃないってことですか」

「どうやら本当に自覚がないようだね」

霖之助さんは息をつく。

 

「確か君は、幻想郷に訪れた時、魔法の森に迷い込んだといっていたね?」

「え?そうですけど」

「今の君なら知っていると思うが、この森は人間どころか妖怪にも有害な茸の胞子が常に蔓延している。普通外来人がそこに迷い込むことはないはずだが、今はそのことは別にして、普通の人間である君が森の中で平常通りだなんて、おかしいとは思わなかったかい?」

 

「確かに不思議には思っていました」

阿求さんに魔法の森の話を聞いたときに、首を捻ったのは覚えている。

そういえば、幻想郷に迷い込んだときも、魔法の森にいたことをアリスから聞いた慧音さんが困惑した様子だった記憶がある。

「もしかして、俺が平気だったのって、その魔法のおかげってことですか?」

 

「そうだね……オーラ、結界、バリア……言い方は様々だが、君の使っている、いや、君にかかっている魔法はその類だ」

「バリアですか」

思わず自分の両手を見るが、特になにかが変わったということはない。

「まあ、そうは言っても強力なものではなさそうだ」

霖之助さんは立ち上がると、俺に近づいてきて観察するように体中を眺める。

 

「しかし、やはり精巧な作りをしている。どうやらこの魔法を維持するための魔力は、君自身の魔力源にパスを通すことで供給しているようだね」

「俺の魔力を使ってるってことですか?」

「ああ。しかし微々たるものだ。日常生活には影響しないだろう。この魔法、強力ではないが上等なものだ。術者はよほど魔法に精通しているのだろう」

 

「あの……いろいろ衝撃的すぎて頭がついていけてないんですが」

軽いめまいを覚えながら、俺は頭を振った。

「この魔法って、一体誰がかけたものなんですか?」

「そこまでは分からないよ」

霖之助さんは肩を竦める。

「少なくとも幻想郷に迷い込む以前にかけられたものだろうね」

 

「……そうなると、俺の世界で魔法をかけられている、ということになるんですが」

「そうなるんじゃないのかい?」

……眩暈が収まりそうにない。

 

「まあ、今はそんなことは問題じゃない」

と、霖之助さんは困惑状態の俺を見据えながらも断じる。

「そ、そんなことって、ちょっと今俺、話を整理できていないんですが」

「重要なのは、その魔法が例え他者からかけられたものだとしても、維持しているのは君であるということ」

あくまで強引に話を進める。

 

「えっと、それってつまり?」

「君には魔法を扱う素質が十分に見込めるということになるね」

……マジか。

 

「俺にも、魔法が使えると?」

「そういうことだ」

 

俺は自分の右手に目を落とす。

なんの変哲もない、特別なことを成すわけでもない普通の手だ。

だが、霖之助さんは素質があると言った。

 

だが、幻想郷に迷い込んだとき、アリスが見せてくれた魔法に、俺は感心すると同時に憧れも抱いた。

作り話、御伽噺、空想、妄想。

存在しないはずの存在にして、誰もが夢に見る存在。

 

そんなの

 

年甲斐もなく、俺の瞳は少年のように輝いていただろう。

いくつになっても捨てないでいる少年の心が膨れ上がった。

……自分で言ってて恥ずかしくなってきたが、まあ。

 

…………つまるところ、俺は最高にテンションが上がっていた。

 

俺は目を見開いて顔を上げる。

「……り、霖之助さん!」

「断る」

期待のこめた眼差しで見たらいきなり出鼻を挫かれた。

 

「――まだ何も言ってませんが」

脱力しつつ半眼になるも、霖之助さんは何処吹く風だ。

「言わずとも。僕に魔法を教えてほしいと言い出すんだろう?あいにく僕はそれほど暇ではないのでね」

「暇て」

 

いつも店に行けばだいたい何かしら外来の品をいじっているか本を読んでいるかで、それ以外は暇そうに見えていたのだが、本人が言うのならば間違いないのだろう。

喉まで上がった言葉を辛うじて飲み込む。

 

「でも、魔法を使うのが手っ取り早いって教えてくれたじゃないですかー」

「僕でなくとも、君の周りには少なくとも3人、魔法使いがいるだろう?彼女たちに師事を仰げばいい…………まあ、魔理沙はオススメしないがね」

間を置いて付け足した一言は置いといて、俺は首を傾げる。

 

「でも、3人ですか?2人目はアリスとして、もう1人は?」

「ああ、そうか。君は紅魔館に出入りしていると話を聞いていたが、彼女のことは知らないのか」

「彼女?紅魔館に住んでいるんですか?」

「らしいね。まあ、僕もお目にかかったことはないんだが。魔理沙曰く、引きこもりらしくてね」

霖之助さんは肩をすくめると、眼鏡を押し上げた。

 

「まあ、とりあえずはアリスに頼んでみればいいんじゃないか?」

「アリス、ですか……」

俺は思わず語尾を濁す。

その反応が意外だったのか、霖之助さんは僅かに目を丸くした。

 

「気が進まないのかい?僕の見たところ、君たちは別に不仲ではなさそうに見えたが」

「いや、別にアリスのことが苦手とか、そういうわけじゃないんです」

居心地の悪さを感じながら、首に手を宛がう。

「ただまあ、アリスには随分と借りがあるので、これ以上頼みごとをするのは気が引けるだけです」

 

「ああ」

得心いった様子で霖之助さんが僅かに頷く。

 

「面倒な性格だね」

ばっさりである。

 

「…………ま、まあ、性分ですから」

「損するタイプだねえ。もう少し図太くなってもいいと思うよ。まあ、魔理沙や霊夢ほどとは言わないけど」

「あはは……」

遠い目をする霖之助さんに俺は乾いた笑いを返した。

 

と、そんな俺の背後で、香霖堂の扉が開く。

「失礼」

 

「おや、噂をすれば影、だね」

俺と向き合う形で話していた霖之助さんが、先に彼女の姿を捉える。

 

声に反応する形で、俺も僅かに心臓を跳ねさせながら、ぎこちない動作で振り返った。

 

「噂?」

人形のように整った顔立ちの少女が入り口に立っていた。

僅かに小首を傾げて、揺らした金髪に見える表情は、やはり人形のように乏しかった。

 




今回は淡々と、あ、いや、ほのぼのとお話をする回でした。
主人公関連の設定は非常に後付くさいですが、初期のころに撒いていた伏線もどきを回収しているだけです。思いの外遅くなってしまいました。
個人的には主人公はそれなりに平々凡々でいさせるつもりだったのですが、なんだか段々と主人公みたいになってる気がします。ん?


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三十話 人形使いの考え

香霖堂に訪れたアリスは、霖之助さんからそれまでの話を黙って聞いていた。

そんな彼女の様子を見ながら、俺はふいに疑問を抱く。

 

霖之助さん曰く、俺にかかっているバリア的な物は魔法らしい。

彼の口調からして、魔法にある程度造詣があるのなら、この魔法の存在にはすぐに気付くのだろう。

そして、俺が魔法の森に迷い込んだ時点で胞子の影響を受けていなかったことから、幻想郷に来る以前から、俺にはその魔法がかかっていたと言える。

 

だとしたら……。

 

「――というわけで、これ以上君に迷惑はかけたくないという理由で、彼は魔法を習うのを遠慮しているらしい」

「ちょっ」

……考えに耽っている間に余計なことまで喋られていた。

 

中途半端に腕を伸ばしたまま固まっている俺をアリスは一瞥すると、相変らず感情の読めない表情のまま霖之助さんに視線を戻した。

「そう。店主さん、急用が出来たから今日はお暇するわ」

その言葉に今度は霖之助さんが固まった。

 

「…………」

「……しまったな。そうくるか」

長い沈黙の後、明らかに消沈した様子の霖之助さんは眉間を抑える。

 

「では、失礼するわ」

「ああ、まあ、次は何か買っていってくれよ」

「善処する。悠基」

「え?」

踵を返したアリスは、呆然としたままの俺に声をかける。

 

「時間、あるわよね?」

「あの、えっと、まあ……」

「では、行きましょうか」

そう言ってアリスは、俺とすれ違い香霖堂の出口へ向かう。

 

「えっと、どこに?」

「私の家よ」

扉を開き、肩越しに俺を見るアリスを、陽光が暖かく照らした。

 

 

* * *

 

 

アリスの家に訪れるのはこれで二度目。

幻想郷に迷い込んだ際、アリスに保護されて以来だ。

 

香霖堂からアリスの家へ場所を移した俺は、紅茶を淹れる彼女の背中を眺めつつ、俺の両膝を占拠する上海と蓬莱の頭を撫でていた。

楽しげに身をくねらせる人形たちの小動物的な可愛さは相変らず癒される。

ただ、俺の意識の半分以上はアリスに向いていた。

 

「……なあ、アリス」

意を決して声をかける。

「何?」

アリスは手を止めずに背中越しに返事をした。

 

「アリスは、俺の魔法のことに気づいてたんだよね?」

「…………そうね」

小さなため息が聞こえた気がした。

 

「俺がこの魔法の存在に気付いてないことも知ってた」

「ええ」

 

「なら、どうして教えてくれなかったんだ?」

「そうね」

小さく食器の音を立てながら、ティーセットをお盆に乗せたアリスが振り向いた。

そのまま落ち着いた足取りで、俺の前にある丸机に盆を置く。

 

「…………」

俺の問いかけに答えることなく紅茶の準備を進めるアリスに困惑の目を向けると、アリスは一瞥をくれるのみ。

相変らず黙ったまま手だけ動かすが、香りの良い紅茶がカップに注がれたところで、ようやく彼女は口を開いた。

 

「……訊かれなかったからよ」

ほとんど開き直りじゃん!

しかもためにためて!!

 

「アリス」

半眼をアリスに向ける。

アリスはお盆を仕舞うと、俺の正面に座った。

 

「どうぞ」

俺の視線を意に介することなく紅茶を促すアリス。

マイペースな彼女にますます視線を険しくするも、やはり気にした様子もない。

とはいえ、せっかく淹れてもらった紅茶を無碍にするのも失礼だ。

「……どうも」

 

ジト目のまま紅茶を啜る。

「……美味しい」

「そ」

「いや、そうじゃなくてっ」

 

そっとカップを置きながらも、一応気迫を込めて語気を強めてみる。

「なんで秘密にしてたのかって話なんだけど」

「そうね」

相槌を打つと、考え込むようにアリスは押し黙る。

俺はアリスの答えを待とうと構えようとするが、その途中でふと気付く。

これ、さっきと同じで、はぐらかされる流れだ。

 

「……アリス」

「なにかしら?」

「真面目に」

「…………」

アリスは小さくため息をつくと、姿勢を正すように身じろいで、俺を真っ直ぐ見据えた。

 

「確かに、貴方の言う通り、私はその魔法の存在には気付いていた」

「うん。それで、なんで教えてくれなかったんだ?」

「貴方にかかる魔法の存在を知ったとき、同時に魔法を扱う適正があることが分かることは予想がついた」

「……それで?」

「そうしたら、貴方は絶対に魔法を習得しようとするでしょ?」

「そりゃあ、まあねえ」

 

俺は首を傾げる。

アリスが言いたいことが微妙に分からない。

「あの、アリス。それって、何か都合が悪いの?」

「別に、私の都合が悪いわけではないわ」

そう言ってアリスは僅かに、迷うように視線を泳がせた。

彼女にしては珍しい仕草だ。

 

ほんの僅かな躊躇いを感じさせながら、しかしアリスは話を続ける。

「魔法を習得するということは、貴方はより幻想郷の存在に近づくことになる」

「……?どういうこと?」

 

「私が貴方に魔法を見せたとき、貴方は魔法は空想の存在であることを肯定していた」

「…………うん」

「でも、魔法は実在する。単に、貴方の世界の魔法は、実在したことすらも忘れ去られたもの」

「…………」

ぼんやりとだが、アリスの言おうとすることが分かった気がする。

 

躊躇いを感じながら、俺は口を開いた。

「ここは、幻想郷。忘れられた存在の世界だ」

「ええ」

「そして、魔法を習得することでここの存在に近づくということは、つまり」

 

「裏を返せば」

戸惑いの視線を受けながら、アリスは俺の言葉を引き継いだ。

「貴方は元の世界から遠ざかる」

 

そうして彼女は、俺に問いかける。

「元の世界に未練があるんでしょう?」

 

折しも、先日の輝夜と同じ問いかけだった。

ただ、アリスの目からは確信ともとれる意思を感じた。

以前から気付いていたのだろう。

おそらく、あの時から。

 

「まあ、ね」

彼女の前で泣いたことを思い出し、気まずさに頭を掻く。

「だとしたら、貴方は魔法を学ぶべきじゃない。余計に帰れなくなるわ」

「でも、もとから帰る方法なんてないんだろう?」

断言する彼女に、俺は反射的に言葉を返した。

その言葉に、アリスは俯き押し黙る。

 

…………まずい。

今の言い方、まるでアリスを攻めているような険のある言い方にも聞こえる。

事実、アリスは押し黙ったまま動かない。

 

「あの、ちが、違うんだ」

狼狽を隠すことなく俺は立ち上が……ろうとするが、両膝には俺を不安げに見上げる上海と蓬莱がいるので上半身だけ乗り出す。

 

「帰れるなら、帰りたいっていうのは変わらないさ。諦めたわけじゃない。でも、俺は幻想郷も気に入っているんだ!離れたいってわけでもないんだよ?それに、アリスは俺のことを心配してくれたんだろう!?だったらむしろ俺は嬉しいんだ!ほんと――」

焦りすぎて途中からちょっと誤解されかねないことを口走っていた。

慌てて口元を押さえるが、後の祭りである。

 

しかし、アリスは顔を上げると、キョトンと目を丸くして俺を見つめる。

「何をそんなに慌てているの?」

「……いや、傷つけてしまったのかと思って」

「何が?」

 

押し黙ってしまったから、てっきり俺の言葉のせいかと思ったけど……。

……全然気にしていなかった。

 

「慌て損か……」

頬が僅かに紅潮するのを自覚しながら、俺は乗り出していた体を引いた。

アリスは首を傾げて意味が分からないといった様子だ。

俺は咳払いをして気を取り直す。

 

「ともかく、それは多分、無用な心配だよ。いや、心配してくれたのはありがたいんだけど」

それこそ無用な心配からくるフォローを付け加えながらも、俺は話を続ける。

 

「なぜ?」

「そりゃあだって、俺は元の世界が……そこで待つ人たちのことが、今だって好きだ。この気持ちは変わらない」

故郷を愛しく思う気持ちは、以前輝夜に心境を吐露して以来、開き直ってむしろ誇りにすら思っていた。

「だからさ、アリス。君の言う『遠ざかる』っていうのが、どういう意味なのかは実はわかってないんだけど、でも、少々遠ざかったところで、俺は大丈夫だよ」

 

なぜそんなことを断言できるのか、我ながら不思議だ。

根拠はないし、理解も足りない。

だが、不思議と確信があった。

 

そんなことを思いながら反応を待つ俺を、アリスは僅かに目を見開いて眺めている。

 

……それ以外の反応がない。

いや、黙り込まれると力説した身としては普通に気まずい。

今更ながら、思い返せばさっきの発言はくさ過ぎかも……。

と、勝手に狼狽えている俺を見ながら、アリスは軽く息をついていつも通りの感情の見えない目つきに戻た。

「変わったわね、貴方」

「え?そうかな?」

 

自分を指差し問いかけてみるが、アリスはそれには応じなかった。

「悠基」

「ん?」

 

「教えてあげるわ。魔法」

「…………へ?」

アリスの言葉に間の抜けた声で返してしまう。

 

全くの不意打ちだ。

いや話の流れを考えれば予想は出来なくもなかったかもしれないけど。

「いいの?」

ふいのことで、問いかけが子供のような口調になってしまう。

 

「ええ」

対してアリスは、目を丸くする俺を気にした風でもなく頷いた。

「ただし、条件があるわ」

「条件」

鸚鵡返しに呟きながら、俺は身構える。

 

「そう。研究の手伝いをしてほしいの」

「研究……って、魔法の?」

「そうよ」

アリスは頷くと、合図をするように片手を上げた。

直後、俺の膝に座っていた上海と蓬莱が飛び上がり、机の縁に着地した。

 

2人並んだ上海と蓬莱のつぶらな瞳を俺は見返す。

人形使いとして知られるアリスの魔法の研究となれば、彼女たちにも関係することなのだろう。

 

「いいかしら?」

小首を傾げて問いかけるアリスに、おれはおずおずと言葉を返す。

「いいって、俺に出来ることなのか?」

「むしろ、貴方じゃないと出来ないことよ」

「俺じゃないと?」

自分を指差すと、アリスは首肯した。

いったいどんなことをするのだろうかと疑問に思う反面、俺はほっと息をつく。

 

「……そうか」

しみじみと俺はアリスに宣言した言葉を思い出す。

 

「アリス、俺が幻想郷に迷い込んだ時、君に決意表明したこと、覚えてる?」

「……なんだったかしら」

唐突な問いかけに、アリスは眉を顰めた。

「いや、大したことじゃないんだけどさ」

 

俺は苦笑いしながら頭を掻いた。

「アリスにはあの時から助けてもらってるのに、俺からは何の礼もお返しも出来てなかったじゃないか」

「ああ……貴方って本当に――」

合点がいった様子でアリスは小さく頷くと、付け加えるように言葉を続ける。

 

「面倒くさい?」

そんな彼女の言葉を先回りするような俺の問いかけに、アリスは呆れた様子で応じる。

「『律儀』って言おうとしたのよ」

「ならよかった」

 

どこか高揚する気持ちを覚えながら、俺は話を再開する。

「まあ、ともかく、アリス。俺は君にたくさん借りがあるからね。ここらで少しは返したいと思ってたんだ」

そうして俺は、自分の胸を軽く拳で叩いた。

「だから、俺に出来ることなら、なんでもやるよ」

 

笑みを浮かべる俺に、アリスは小さく嘆息する。

「借り……ね」

どこか遠くを見るように、アリスは頬杖を着いて視線を逸らした。

「全部返せるといいわね」

 

「そ、そんなに!?」

あからさまに狼狽する。

そんな俺の反応を楽しむようにアリスは微笑を浮かべた。

「冗談よ」

 

 

* * *

 

 

で、そんなアリスの研究の手伝いなのだが。

「――というわけで、お爺さんとケンタウロスは末永く幸せに暮らしましたとさ」

なんだこの話。

いや、意外と面白かったんだけども……。

「めでたしめでたし」

俺は手元の本を閉じた。

 

そんな俺の目の前、丸机の上で、上海と蓬莱が揃って手を上げて楽しげに跳ねる。

その様子を微笑ましく思いながら、俺は正面に座るアリスに視線を動かす。

彼女はというと、興味深げに目を見開きながら上海と蓬莱を観察している。

 

「……なあ、アリス」

「なに?」

「こんなんで、いいの?」

「やってみなければ分からないわ」

「……それもそうだな」

そんなやりとりをしつつ、それでもやはり俺は腑に落ちない気持ちのまま、次の絵本を手にとって2人の人形に読み聞かせる作業を再開した。

 

聞くところによると、アリスの魔法の目的は、完全に自立した、つまりは自分で考え自分で動く人形を作ることらしい。

その目的のために日夜研究をしている彼女が言うには、もしかしたら俺がその研究の力になるかもしれないようだ。

 

魔法の知識が皆無な俺に何ができるのかというと、どうも俺と接している時の上海や蓬莱ら、アリスの作り出した人形が予期しない仕草を見せるらしい。

頭を撫でることを要求するような仕草とか、主人のアリスを真似るような仕草とか。

言われてみれば、人形たちと接していると、やたらアリスの視線を感じた気がする。

 

そこで、今回俺が魔法に関わることになるに至って、アリスも自分の研究のために俺に協力を依頼。

その内容が、要約するならば『とりあえず上海や蓬莱と戯れる』、というものだった。

 

『そんなことでいいのか?』

と問いかける俺に、アリスは小首を傾げた。

『お願いしたいのだけど』

『いや、もちろんお安い御用なんだけど……まあ、いいや。で?戯れるって?具体的には何をすればいいのかな?』

『…………そうね…………』

『…………アリス?』

『…………お任せするわ』

具体的には何も考えていなかったようだ。

 

とりあえずのところ今回は、俺はアリスの家にある子供向けっぽい本を拝借して読み聞かせることにしたというわけである。

まあ、こちらとしては愛玩動物や小さな子供と接するような心境だったわけだし構わない。

構わないのだが……。

 

「………………」

「どうしたの、急に黙り込んで」

「……いや、なんでもない」

俺の顔を覗き込むように見るアリスに俺は首を振ると、気を取り直して絵本に目を向ける。

 

……冷静に考えて。

要約するならば、大の男が人形遊びをしている様を傍目で少女が観察しているという、なんともな図がそこに完成するわけである。

いや……いいんだけどさ。

いいんだけども。

 

そんな悶々とした気持ちのまま、3冊目の絵本を置いたところで、アリスが立ち上がった。

「今日はこんなところでいいかしら」

不満げに蓬莱が飛び跳ねると、アリスはジト目を向けて蓬莱の抗議を黙殺した。

「……どう?なにか参考になった?」

自身なさげな俺の言葉に、アリスは無言で肩を竦めた。

 

「さて、それじゃあ始めましょうか」

どうも、あまり成果はなかったらしい。

とはいえ、いよいよ待ちに待った魔法の勉強だ。

 

俺は目を輝かせながら立ち上がった。

「ああ、よろしく頼む……あ」

ふと、天啓のような閃きに声が漏れた。

 

アリスが不思議な物を見るような目を俺に向けてくる。

「どうしたの?」

「あ、いやあ、えっとさ」

 

俺が魔法を習得するって、漫画なんかでよく見る定番、主人公がパワーアップするための修行みたいな物ではないだろうか。

まあ、師事する相手が女の子といのはあまり見ない気がするが、少年の心を自称する俺としては、憧れのシチュエーションと言ってもいい。

いいよな?

 

「あの、アリス」

いつになく真剣で、しかしどこか期待を込めた目をアリスに向ける。

「なに?」

きょとんと目を丸くしたアリスに、俺は咳払いをした。

 

案外アリスはノリがいい。

もしかしたらこういうのは好きかも、という根拠のない期待を込めて、俺は申し出た。

 

「し、師匠って呼んでもいい?」

対して、アリスは即答する。

 

「嫌」

「あ、はい」

 

そんな感じで出鼻を挫かれつつ、俺はアリスに魔法を師事する次第となったのである。

 




というわけで、主人公が魔法を習い始めるという話に2話も使ってしまいました。
ほのぼのを意識すると結果的に話に贅肉を注ぎ足す形になっています。

主人公の魔法のお披露目はその内、少なくとも次回ではないです。
もしかしたらその内空を自由に飛べるようになるかもしれませんね。


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三十一話 穏やかな一時を

二月も終わりの見えてきた昼下がり。

その日は寺子屋は休みで、俺の誘いで慧音さんは俺の住む寺子屋の離れに訪れていた。

勿論だが、何か邪なお願いやら目的やらがあったわけではなく、単純に慧音さんに頼みがあったのだ。

 

「ふむ」

さて、件の慧音さんだが、彼女は口端にクリームが僅かに付いていることに気付かないまま頷いた。

「なるほどこれは」

「いかがです?」

逸る気持ちを抑えていたのだが、俺はついつい先走って慧音さんに問いかける。

 

「いやはや、相変らず甘いが、しかし、果物によっては随分と印象が変わるものだな」

感心した様子で慧音さんは頷いた。

「お気に召しましたか」

「私としては、抹茶が混ざった物の方が好きだが、これも嫌いではないよ」

「それは良かった」

 

俺はほっと息をつくと、思わず釣りあがる自分の口端を自覚しつつ、慧音さんに視線を送って自分の口端を指差して見せた。

その仕草に気付いたらしい慧音さんは、僅かに目を見開いて人差し指で自分の口元を拭う。

指先に付いたクリームに、照れた様子で慧音さんは微笑んだ。

「おっと、失礼」

 

「いいえ」

機嫌が良いのを隠そうともせず、俺は満面の笑みで首を振った。

 

なんだかんだで、俺が作ったショートケーキは、慧音さんからはそれほど評判は良くなかった。

しかし、満を持して試食をお願いした今回、ついに念願叶って……なんて言い方は大げさなのだが、ともかく慧音さんからも色好い返事を貰えたと言うわけだ。

 

「ほどよい酸味とこの食感は、存外甘い生地に合うものなのだな」

「でしょうでしょう」

俺は何度も頷いた。

 

「それに、見た目にも、白い生地に赤が良く映える」

「ええその通り。可愛らしいでしょう」

「ふふ、そうだな」

慧音さんは俺の言い方が可笑しかったのか、それとも浮かれた俺が面白かったのか、クスリと笑った。

 

「確かに、可愛らしい。しかし」

笑みを少々引っ込めて、慧音さんはショートケーキをまじまじと見る。

慧音さんの視線の先、ケーキの上に乗った赤い果実。

「この苺……苺の収穫は本来ならばもう数ヶ月先のはずだが……」

言いよどむように慧音さんは俺に視線を移す。

「いったいどうやってこの時期に手に入れたのかな?」

 

「あー、それはまあ、一応は秘密なのですが」

俺は頭を掻きながら慧音さんの困惑の眼差しを受け止める。

「まあ、慧音さんなら口は堅いでしょうし、かまわないでしょう」

 

俺はコホンと芝居がかった咳払いをする。

慧音さんはというと、キョトンと目を丸くして俺を見ている。

そんな彼女に、俺は少々もったいぶった口調で説明することにした。

 

 

* * *

 

 

やはりというか、なんというか、冬場の土いじりは指先に来るものがある。

霜と低音で凍りついた土は固く、悴んで思うように動かせない手を時折自分の息で温めながら、俺は作業を進める。

まあ、土に殆ど小石が混じっていない分そこまでそこまで辛くはない。

 

鍬を使って深めに土を掘り返し、地表近くの土と入れ替える。

天地返しともいうこの作業は、植物が根を張る土壌の土質をよくするための作業だ。

ついでに、乾燥した堆肥の粉末を掘り返した土にほんの少しだけ練りこむ。

これも、春になってからの植物の成長を促進するための作業。

どちらも、元の世界で実体験を伴って培った知識を元にしている。

 

「ふう」

少し休憩とばかりに俺は息をつく。

俺は立ち上がって伸びをすると、白い息が漏れた。

しゃがんで作業をしていたためか、腰の関節が苦痛を訴えてくる。

 

2月も半ばを過ぎたが、寒さはピークを超えたように感じる。

暖かくなるのはまだ先だが、それでも冷たい風は弱くなりつつあった。

空は疎らに白い雲が浮かぶ程度の晴れ模様。

「いい天気」

腰に手を当て体を反らした先の景色に呟く。

 

独り言といっても差し支えない呟き。

だが、それに応じる声が背後からかけられた。

「そうね」

「ん」

振り返ると、それほど強くない日差しの下、日傘を差した少女が佇んでいる。

 

「ご苦労様、悠基。少し休憩しなさいな」

その言葉に、俺は思わず笑みを零して頷いた。

「うん」

 

 

幻想郷に住む妖怪は、見た目、能力、特性、どれをとっても千差万別多種多様だ。

ただ、基本的には人を襲う存在である。

俺も日夜その恐ろしさを身を持って経験している。

そんな中で無害な妖怪というのは本当に稀。

俺にとっては貴重な存在である。

 

挙げるなら、幻想郷を維持する役目を担う藍、紅魔館の門番である美鈴、鈴仙を始めとする竹林の妖怪兎、霧の湖に住む人魚の姫君なんかからは、今のところ被害を受けていないのでこれに該当するだろう。

とはいえ、彼女たちを含まえても、優しく穏やかな妖怪の筆頭とも言える少女がいる。

そう、それこそが、

 

「ありがとう、幽香」

「いいえ、こちらこそ」

 

彼女、風見幽香である。

 

 

* * *

 

 

太陽の畑と呼ばれる向日葵畑。

色褪せた向日葵は頭を垂れ、どこか寂しい風景が広がっている。

だが、萎れた花々は夏になれば眩しいほどに咲き誇る花だ。

満開になった向日葵によって彩られる景色を思うと、今から楽しみでもあった。

そんな太陽の畑の隅に、幽香の小さな家は建っていた。

 

とある事情があって、俺は定期的に彼女の手伝いをしている。

先ほどの土いじりも、幽香の家の裏庭の手入れだ。

その幽香に呼ばれ、外の洗い場で手の汚れを落とした俺は、彼女に招かれるままに彼女の家にお邪魔した。

 

部屋の中央に備えられた丸机の上では、陶器のカップから上品な紅茶の香りがした。

茶菓子に俺が持参したケーキが小皿に盛られている。

 

俺は幽香と向かい合う形で椅子に座りながら、カップの中身を覗き込む。

「ああ、この香り。俺がこの前持ってきた茶葉だね」

「そうよ」

穏やかな微笑みを浮かべ幽香は首肯する。

 

「お茶を淹れたのなんて久しぶりなのだけど、どうかしら?」

「うん。いい香りがするよ。頂いても?」

「ええ。構わないわ」

 

そっとカップを取り、もう一度香りを味わう。

それから中身をゆっくりと啜ると、まろやかだが癖の少ない舌触りがした。

仄かな酸味が僅かに鼻腔を刺激する。

 

「味はどう?」

「とても美味い。温度もいい感じだし。久しぶりだなんて謙遜しなくてもいいくらい。これにも良く合う」

端的な感想を述べながら、俺はケーキを指差した。

「なら良かったわ」

幽香は満足げに微笑んだ。

 

「そういえば聞いたわよ」

自分のカップにも口をつけてから、幽香はふと思い出したように切り出す。

「聞いたって?」

「貴方、最近魔法を習得したそうじゃない」

「……ああ」

 

俺は若干目を見開く。

そんな俺を見やりながら、幽香は口端を上げた。

「ねえ、どんな魔法を習ったの?見せて?」

幽香の頼みに特に意味もなく俺は笑うと、頭を掻いた。

「いや、したっていうか、まだまだ練習中だから」

 

「謙遜?」

「そういうわけじゃないけど、上手く扱えないからね」

「別に拙くてもいいじゃない。構わないわよ」

「いや、なんていうかさ」

少々恥ずかしくなり視線をそらす。

 

「格好つけたいんだよ」

照れ隠しを含めて少々大げさに言ってみた。

結果的に更に恥ずかしいくなっているのだが。

 

「……私に?」

「そ、そう。だからまあ、もう少し上手くなってからお披露目しようかなって……いや、お披露目って言っても魔法自体は初歩の初歩なんだけど……」

「ふふ、そう。私にね。ふふ……」

よほど俺の言ったことが面白かったのか、幽香は瞳には涙すら浮かべて笑いを堪えている。

 

「……そんなにおかしいこと言った?」

あまりの笑いっぷりに微妙な表情を浮かべ幽香を見据えるが、幽香は全く気にした風でもない。

「ふふふ……そうね。そんなこと、私に言う人なんていなかったもの」

「別に……」

危うく、『幽香みたいな可愛い女の子に格好つけたがるのなんて当たり前』みたいな旨のことを言いかけた。

まあ、さっきのこともあって、こんなことを躊躇なく言えるほどの度胸はなかったわけだけど。

 

「別に?」

幽香は意味深に笑みを浮かべ俺を覗き込んでくる。

あたかも俺の心情などお見通しとばかりの笑みに、俺は咳払いをして気を取り直す。

 

「……そ、そもそも、俺が魔法を習い始めたなんて話、どこから聞いたんだい?」

ごまかすつもりで露骨に話題を変える。

「アリスか?」

魔法を師事している友人の名前を挙げると、幽香は首を振った。

「いいえ。違うわ」

「じゃあ、誰から?」

 

「そうね」

思い出すかのように幽香は視線を泳がせる。

少ししてその瞳が細められ、肩を竦めながら愛らしい笑みを浮かべる。

「ま、花の噂というやつよ」

「風の噂じゃなくて?」

「そうよ」

「そっか」

俺は軽く息をついて再びカップに口をつけた。

 

「うん。やっぱり美味しい」

「もういいったら」

呆れたような、照れたような、どちらともとれる声音で幽香は言った。

 

「ああ、花といえば、この前妖怪の山の麓の森で、山茶花が咲いてるのを見つけたんだ」

ふいに、幽香に話そうと思っていた話を思い出す。

いつも通りのフィールドワーク中に見つけたものだ。

 

「ああ、あれね」

だが、どうやら知っていたらしい幽香の反応に、俺は僅かに肩を落とす。

「なんだ、知ってたのか」

花を愛でる彼女なら喜ぶと思ったが、空振りだったようだ。

 

「ええ。それにしても、山茶花なんてよく知っていたわね」

「そりゃまあ、有名な花だし」

ま、知ってるなら知っているでいいかと俺は気を取り直す。

 

「でも凄いよね。雪も積もるくらい寒いのに、当然の様に咲いててさ。俺の世界ではあまりみない光景だからつい見とれちゃったよ」

「それはそうよ。だってあれ、私が手をかけた子だもの」

「ああ、なるほどね」

俺の中で合点がいく。

 

幽香の能力は、『花を操る程度の能力』と呼ばれている。

花を咲かせたり、枯れた花を蘇らせたりできると、なんともメルヘンティックで素敵な能力というのが俺の所感だ。

俺が見かけた山茶花も、その能力の恩恵に預かったのだろう。

戦闘には一切役に立たない能力らしく、そういった意味でも可憐な印象を受ける幽香らしいと言える。

 

でもってこの能力、広意義に見れば花を咲かせる植物の成長を操ることもできるらしい。

俺が彼女の手伝いとして働いているのも、彼女の能力による恩恵を報酬として受け取っているからだ。

 

 

 

他愛のない話もそろそろ切り上げ、作業を再開するかと立ち上がった俺に、幽香がバスケットを見せてくる。

「悠基。これを」

中身は全て、瑞々しい赤い果実。

幽香が能力を応用して収穫したという苺の山だった。

 

「ああ、いつも悪いな」

「そのために来てるんでしょう?」

「いや」

 

俺は首を振ると、少し決め顔気味に微笑む。

「こうやって幽香とお茶するためでもあるよ」

……言う前から気付いてたけどこれめっちゃ恥ずかしい。

 

そんな俺の言葉に、幽香は口元に手を当てると、次の瞬間吹き出した。

「……顔が赤いわよ」

「…………さすがに今のは気障すぎた」

結局格好のつかないまま片手で顔を覆って無駄な抵抗をする俺を見て、幽香はますます楽しそうに笑うのだった。

 

 

* * *

 

 

「……とまあ、こういった具合ですね」

俺は、風見幽香という少女との交流を端的に話し終える。

 

「……なるほど」

対して、話を聞いていた慧音さんは、なんとも微妙な表情で相槌を打った。

「……ああ、それで」

どこか躊躇うように慧音さんは口ごもる。

いつもならばハキハキとした喋りの彼女らしくない所作だ。

 

「慧音さん?」

「いや、うむ、そうだな……そもそも君は彼女と、風見幽香とどこで知り合ったんだ」

「ああ、アリスの紹介ですよ」

俺の答えに慧音さんは目を丸くする。

 

「……言ってはなんだが、意外な交流だな」

「まあ、案外アリスって、結構いろんなところを出歩いてるみたいですよ。で、今回は俺が苺を欲しがっていたのを見て、幽香をわざわざ紹介してくれたんです」

「そうか…………うん」

 

慧音さんは腕を組んで暫く逡巡していたが、考えが纏まったのか小さく頷いた。

「君は、風見幽香のことはどう思っているんだ?」

「え?」

唐突な質問に首を傾げるも、「そうですね」と相づちを打ちながら考える。

 

「太陽の畑って、凄く広いんですよね」

「ん?……ああ、確かにその通りだが」

困惑した様子で眉を顰める慧音さん。

まあ、唐突な話だしその反応も分かる。

 

「で、その太陽の畑を幽香は守ってるらしいんです。あの広大な土地を、一人で、ですよ」

「まあ、そのように言われているな」

「だからですね」

俺はコホンと軽く咳払いをして間を置いた。

 

「それって、凄く健気じゃないですか。あの可憐な女の子がですよ」

「……………………」

どういうわけか慧音さんがフリーズした。

 

「……慧音さん?」

「――あ、いや、そうだな。けなげ、かれん、ケナゲ、カレン……健気で、可憐、か」

困惑した様子で呼びかけると、慧音さんはハッと我に返ったように身じろいだ。

なぜか俺の言葉を神妙な顔で何度も繰り返している。

 

「あの……」

「ああ、いや、すまない。少々取り乱してしまったようだ」

やはり今日の慧音さんはどこか様子がおかしい。

「慧音さん、もし体調が悪いのでしたら、無理なさらないでください」

「いや、そういうわけではないのだが……」

眉根を寄せる俺に慧音さんは首を振った。

 

「なあ、悠基君。凶暴な妖怪もひしめく幻想郷で、あの広大な土地を一人で守るというのが、どういう意味を持つのか……考えなかったことはなかったのか?」

「ええまあ。ただものじゃないんだろうなあとは思いますよ」

俺はうんうんと頷きながら言葉を続ける。

 

「でも、俺が知ってる幽香は、穏やかで気さくな親しみやすい女の子なんですよね」

「――――」

「それに、花を咲かせる能力だって、とても可愛らしいですし…………慧音さん?」

またしても慧音さんが固まっていた。

 

「あの、やっぱりご気分が優れないんじゃ――」

「いや、違うんだ」

俺の問いかけに慌てたように慧音さんは首を振る。

「違うのだが、まあ、多少混乱していてな」

 

「…………あの、そんなに幽香と交流があるのって、おかしな話なんですか?」

さすがに、ここまで慧音さんの様子がおかしいと、俺にも察する物があった。

その問いかけに、彼女は首を振らなかった。

 

「まあ、そうだな……いや」

やはり考えを整理するように暫く黙っていや慧音さんは、組んでいた腕を解く。

「風見幽香に対する君の印象がそのようなものというのなら、やはりそれも彼女の持つ側面なのだろう」

 

そうして、向かい合って座る俺の肩に慧音さんは手を置いた。

「少々彼女は誤解されやすいのかもしれない。私はこんなことを言えた立場ではないが、今後も仲良くすればいいと思うよ」

 

その言葉に俺は目を丸くするが、しかし、大きく頷いてみせる。

「ええ、もちろんですよ。あ、抹茶のケーキも用意しているのですが、いかがですか?」

「では、頂こうかな」

 

穏やかな午後の一時だった。




この度は更新が遅くなり申し訳ありません。

今回は風見幽香が初登場。いつものように既に知り合っていたパターンです。
慧音の反応からも分かる通り、拙作においての幽香は他の妖怪から恐れられる存在です。
ただ、気性は比較的穏やかで、存外主人公ともウマがあっています。
あと主人公はあれですね。結構デレデレしてます。ほのぼのとデレてるっぽいです。

そんな主人公は今回微妙にガーデニングの知識をお披露目していますが、なぜそんな知識を有しているかといえば、彼が洋菓子作りの知識があるのと同じ理由です。
やはり大した理由ではありませんが。


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三十二話 再び、訪問者

「うう゛…………」

呻き声を洩らしながら俺は布団から体を起こす。

酷い頭痛だ。

というか、二日酔いだった。

 

今日は甘味処は定休日、更に言えば寺子屋もない。

珍しく完全な休日だった。

故に昨日、夕暮れ時に男衆の酒盛りに誘われた俺は午前中の予定がないのをいいことに喜んで参加したわけだが。

 

「………駄目だ。思い出せない……」

案の定、鈍く痛む頭を捻っても飲んでる記憶が途中から曖昧になっている。

一体どうやって家に帰ったのかすら覚えが無い。

おかしなことをしていなければいいんだけど…………してるんだろうなあ。

 

思い出せないものは仕方ないと、俺は頭を振った。

とにかく、顔を洗うか。

午後は洋菓子の試作に紅魔館に行くと伝えているし。

 

俺は立ち上がりざまに布団を足蹴にすると、洗い場に向かうことにした。

おそらくぼさぼさになっているであろう頭を掻きながら大きな欠伸をしたそのとき、玄関の扉が叩かれる。

 

「すいませーん」

扉越しに少女の声がする。

 

こんな朝早くから誰だろうと窓の外を見ると、影の向きからして陽が高いのが分かった。

うわ、もういい時間だ。

紅魔館に向かう時間ではないが、寝坊と言っても差し支えないだろう。

もし訪れたのが慧音さんなら怒られても仕方ない。

「はーい」

しまったなあと反射的に掠れた返事をするが、しかし、直後に更なる失敗に気付く。

寝ぼけていてまともに働いていなかった頭が、ここに来て急に目を覚ましたようだ。

 

激しい寝癖の残る頭。

寝起きの顔。

肌蹴気味の着物。

漂わせる酒気。

 

……とてもじゃないが、人前に出れるような姿ではない。

しかも訪問者は声からして歳若い女性もしくは少女。

寺子屋の生徒ではないと思うが、どちらにしても顔を出すのが更に憚られる状況だった。

だが、返事をしてしまった以上居留守というわけには行かない。

 

仕方がない。

酒気は仕方ないものの、多少身なりを整えるために少々お待ちいただこう。

俺は短く嘆息すると、扉に向かって呼びかける。

「ちょ、ちょっと待――」

「失礼します」

 

……どうしてこうも、幻想郷の女性というものは人の返事を待たないのだろうか。

頭の片隅でそんなことを思いながら固まる俺は、両手で引き戸を開いた銀髪の少女と対面することとなった。

霊夢と同じくらいか、それより下程度。

生真面目さを漂わせる凛々しい顔つきの少女は俺を見据える。

一瞬の静寂の後、背中に物騒な刀を背負った彼女は、前述したとおりの俺の姿を見て、思いっきり眉を顰めた。

 

 

* * *

 

 

「コ、コホン」

最低限の身なりを整えた――酒気は拭えなかったが――俺は、気を取り直すつもりで咳払いをしつつ腰を下ろす。

俺の目の前には、魂魄妖夢と名乗る少女が脇に刀を置いて行儀よく正座している。

 

「さっきは見苦しい所をみせたね」

「いえ、どうぞお気になさらないでください。入る前に一言断りを入れておくべきでした」

漂わせる雰囲気通りの生真面目な返事に、俺は心の中で嘆息する。

 

もう顔には出していないが、それでも彼女の俺に対する第一印象は最悪といっていいだろう。

それでも俺の家に上がりこんでくるのだから、何かよっぽどな用事があるのかもしれない。

とするならば、どこかで汚名返上といきたいところだ。

「それで、俺に何か用かな?」

「はい。その、大変心苦しいのですが、折り入って相談があるのです」

 

「相談?」

鸚鵡返しに彼女の言葉を繰り返しつつ、頭の片隅で強烈な既視感を覚えた。

あれ……?このやりとり…………。

 

「聞くところによると、この辺りの甘味処でケーキという菓子を作っているそうで」

「……あぁ」

既視感の原因と妖夢が俺を訪ねてきた目的が同時に分かった。

先月咲夜が俺の家を訪れたのと同じ展開だ。

何かを察したように頷く俺に、妖夢は首を傾げる。

「あの、何か?」

 

「うん。要は、甘味処を訪れたところは今日はお休み。だが、どうにかしてケーキを手に入れたいと考えた君は、製作者がここに住んでいるという話を聞い訪ねてきた、ってところか」

ちなみに咲夜が俺の元を訪ねてきた際は、甘味処の主人である玄さんから話を聞いてきたらしい。

 

小首を傾けながら問いかける俺に、妖夢は目を見開いた。

「な、なぜそれをっ」

明らかにうろたえる妖夢を見るに推測は当たりだったようだ。

少しは悪い印象を改善できただろうかと思いながら、俺は半笑いになって肩を竦めた。

「もしかして、主人とか上司の命令でケーキを買いにきたとか?」

 

当てずっぽう……どころか、前回の咲夜の状況をそのまま言ってみただけだ。

だが、妖夢は更に目を見開いて腰を浮かせた。

どうやらこれも図星のようだ。

と俺が察する間に、妖夢は流れるような動作で脇に置いた刀に手をかけた。

 

そうして、

 

「え?」

間抜けな声が俺の口から漏れる頃には既に、小気味良い金属音を残しつつ俺の首元に冷たく硬い感触があった。

遅れて、状況を理解する。

 

目を離したはずは無いのに、正面に座っていた妖夢が気付くと既に抜刀していた。

その刃は、俺の首元に添えられている。

おそらくあと数センチ、数ミリ動かせば、動脈を傷つけ致命傷を与えるであろう位置だ。

 

数秒かけてその事態を把握した俺は動けなくなる。

背筋が凍り、恐らく顔はたちどころに真っ青になっているだろう。

 

「あなたは」

自分の首へ伸びる刃から、口を開いた妖夢に視線をゆっくりと移す。

「なぜ幽々子様直々の命をご存知なのでしょうか」

 

剣呑な雰囲気を漂わせる妖夢。

その目は敵意に満ち、蛇に睨まれた蛙を一瞬幻視した俺は息を呑んだ。

 

……印象上げるどころかマイナスに振り切ってる!!

とか言ってる場合じゃない。

いつもならこういう命の危険が脅かされる場合分身している場合が多いのだが、あいにくつい先ほど起床したばかりの俺は能力を未使用。

つまりは命の危機。大ピンチなわけである。

 

「あの、ちょ、ちょっと待って、くれない?」

「なにか」

「いや、なんでこうなってるのかな?って……」

恐る恐る問いかけると、鋭い刃が首に僅かに食い込む。

悲鳴を上げることすら出来ず、俺は再び息を呑んだ。

 

「質問をしているのはこちらです」

「え…………ああ、なんで君の事情を知ってるかって……」

と言っても、ただの当てずっぽうだ。

「し、知ってるわけじゃなくて、前も似たようなことがあったってだけで、適当な推測を立てただけなんだ」

「信用できませんね」

 

そんなことを言われてしまうとどうしようもない。

冷や汗交じりで眉を下げるが、妖夢は油断なく俺を見据えるばかりだ。

 

「貴方の噂は以前から耳に入っていました。故に警戒に越したことはないと思っています」

「う、噂?それってあの、現実味のない話だろう……」

萃香の騒ぎと紅魔館への訪問に伴った噂は既に下火になってはいるものの、どちらも馬鹿馬鹿しいくらい誇張されている。

「確かに眉唾物の話だとは思います。ですが、」

妖夢は剣呑な眼光をより鋭くする。

「火のないところに煙は立たない」

 

いやちょっとキメ顔になってるけど大いに買い被りだからなそれ!!

などと派手にツッコミを入れられる訳でもなく、俺はもはや涙目寸前で口を歪ませていた。

 

なんでせっかくの休日にいきなり押しかけてきた少女にこんな目に合わされているのか。

そもそもなんで刀なんて突き立てられてるんだ?

しかもめちゃくちゃ敵視してるし。

俺か?

軽い気持ちで適当な推測を立てた俺が悪いのか?

だからってこんなことされる筋合いなくない???

 

頭の中で疑問と愚痴を並び立てるが、だからと言って状況が改善されるわけでもない。

 

「貴方は、何者なのですか」

妖夢の問いかけに俺は顔を歪める。

「ただの一般人だ」

「戯言ですね。騙されませんよ」

騙されるどころか自分で勝手に勘違いしてるまであるんですが。

 

「では質問を変えましょう。貴方は私の敵ですか?」

「敵ではないよ。少なくとも」

と答えてみるも、言う前から妖夢の反応が予想できた。

 

「信じかねます」

ほらやっぱり。

どないせえっちゅうねん……と投げやりになってきた俺の視界の正面、妖夢の頭の向こう。

俺の住処である寺子屋の扉が、ふいに開かれた。

 

「あら、お邪魔だったかしら」

以前訪ねてきたときと同様、大量の食材が入った籠を抱えた咲夜が軒先に立っていた。

 

「咲夜ですか」

妖夢は咲夜の姿を一瞥すると、視線を俺に戻す。

どうも知り合いのようだ。

そんなことを察しつつも相変らず刃先を首に当てられたままの俺は動けない。

 

「咲夜、助けて」

極めて端的な俺の呼び声に、咲夜は小首を傾げる。

「……そうね。妖夢、一体どうしてこうなったのか、話してくれる?」

 

 

* * *

 

 

「つまり」

咲夜が口を開いた。

 

「幽々子の言いつけで貴女はケーキを目的に悠基を訪ねてきたと」

「はい」

「大した事情を話したわけでもないのに貴女の目的を言い当てる悠基を只者ではないと感じたと」

「はい」

「そして、幽々子と貴女しかしらない筈の事情を言い当てられたと『勘違い』した貴女は」

勘違いの部分を特に強調しながら、咲夜は俺を一瞥する。

 

「もしや白玉楼の間者間諜の類ではないかと、そう思ったのね」

「はい」

「………………」

「そう思い込んだ貴女は、悠基を尋問していたと」

「仰る通りです」

 

「だ、そうよ」

「………………」

再び視線を向けてくる咲夜だが、俺は何も言葉が浮かばず閉口する。

 

そんな俺に咲夜は小さく嘆息すると、再び俺たちの前で正座する妖夢に視線を向けた。

「貴女から言うことは?」

「誠に」

妖夢はというと、俺に向けていた真剣な眼差しをすぐに伏せて深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

 

「えっと……」

俺は目の前で土下座する少女に居心地の悪いものを感じて頬を掻く。

「あの、事情は理解したし、悪気はなかったんだろ?」

「悠基、貴方……」

咲夜の呆れた視線を受け更に気まずさを感じるが、俺は頭を下げる妖夢をついフォローしようと言葉を続けた。

 

「尋問ってことは、斬るつもりはなかったんだろ?だったら別に俺は――」

「いえ」

妖夢が頭を上げて真っ直ぐ俺を見据える。

「我が師の言葉に、『斬れば分かる』という物があります」

「は?」

「もし貴方が何者か判別しかねるなら、斬って判断する他ないと」

 

真顔で断言する妖夢に対し、俺は目を見開き顔を青くする。

ていうかなんでこの期に及んでそんなことを正直に言ってしまうのだろう。

知りたくなかった事実だった。

 

咲夜が疲れたように何度目か分からないため息をついた。

「貴女は極端すぎるのよ。彼は普通のなんの力も無い人間よ。斬られたら死んでしまうわ」

その言葉には語弊がある気もするが、まあ妖夢の前では同義と言ってもいいかもしれない。

 

「大丈夫です」

そんな咲夜に対し、妖夢は首を振った。

「峰打ちですから」

 

本当にそれは大丈夫なのだろうか……。

額に青筋を立てたまま、俺は咲夜を見る。

彼女が来なければほんとに危なかった。

いわば彼女は命の恩人である。

 

「咲夜、助かったよ」

「その顔色のまま言われても嬉しくないけど、お礼は受け取っておくわ」

「いやほんとに……ところで、咲夜はなんでうちに?」

 

ふと沸いて出た俺の疑問に咲夜は腕を組んで答える。

「貴方、確か午後から紅魔館に来るって言ってたでしょ」

「うん」

「それで、里に買い物に出る際、お嬢様がおっしゃったのよ」

「レミリア様が?」

「ええ」

 

咲夜は頷いて話を続ける。

「『里に行くならついでに悠基の迎えに行くといい。面白いものが見れるわ』って」

レミリア様っ……!

いや面白いものって言われ方は引っかかるけど、レミリア様が咲夜に指示してくれたおかげで、咲夜が俺の家を訪れた。

その結果俺は命拾いしたことになる。

 

これからは心の中でも敬称をつけて呼びます!!と自分でもどうかと思うような感謝を浮かべつつ、表面上は冷静を保ったまま俺は「そっか」と呟いた。

……なぜか咲夜がジト目を向けてきてるけど、気にしないでおこう。

今日作る洋菓子の試作はレミリア様が喜ぶものを考えないと。

 

とはいえ、その前に目の前の問題から解決しておこう。

「さて、妖夢」

「はい」

尚も正座を続けたまま俺を見る妖夢に、俺は嘆息を堪えて問いかける。

 

「注文は?」

「…………は?」

妖夢が困惑の視線を向けてくる。

横に立つ咲夜が呆れを隠そうともせずため息をつくが、まあ気にしない。

 

「ケーキを買いに来たんだろ?ちょうど材料もあるし、作ってやる。時間はかかるけどな」

「……いいのですか?」

目を丸くする妖夢に、俺は咲夜の視線を無視しながら頷く。

 

「さっきみたいなことがあったとは言え客は客だ。蔑ろにしたら玄さん……うちの店主に怒られる」

と、いうのは照れ隠し交じりの方便だ。

実際のところは、

「ただのお人好しでしょ」

咲夜にあっさりと、非常にシンプルな言い方で俺の心情を暴露される。

 

気まずい視線を咲夜に向けると、咲夜も呆れ顔で見返してきた。

そんな俺たちを見て、妖夢はクスリと笑う。

 

「…………感謝します」

 

 

* * *

 

 

最後に深く頭を下げ去っていく妖夢の背中を見送りながら、俺は隣に並び立つ咲夜を見る。

「別に、待ってくれなくても良かったのに」

材料があるとはいえ、今の設備ではケーキ一つ作るのに数時間を要する。

妖夢にケーキを作ってやる間、律儀に咲夜は待っていてくれたのだ。

 

「あら、何か不都合でも?」

「そういうわけじゃないけどさ……」

 

わざわざ迎えに来てくれた咲夜を待たせるのは心苦しかったのだが、咲夜の方は気にした風でもない。

口篭る俺に対して咲夜は口元を上げた。

「さあ、準備して。お嬢様がお待ちになってるわ」

「俺じゃなくてケーキを、だけどな」

俺は笑いながら頷いた。

 

頷きながら、ふと、気付く。

「……なあ、咲夜」

「なにかしら」

 

「たまにはのんびり、歩いて行かないか?」

そんな俺の提案に、咲夜は目を細めながら笑みを浮かべる。

 

「却下」

「…………」

「遅れているのは結局のところ貴方の責任よ。さあ、急ぎましょうか」

 

この場合の急ぎましょうかとはつまり、飛んでいこうという意味を暗に示している。

結果、空を飛べない俺は咲夜にお姫様抱っこ……まあ、抱えられて紅魔館に向かうことになることを意味する。

そんな咲夜の言葉に、俺はその日一番のため息をついた。

「…………ですよね」

 




個人的には一応真面目な主人公と生真面目な妖夢ならそりは合うだろうしほのぼのとした話になるだろうなあとは思っていました。
蓋を開けてみればこれです。
どうしてこうなった。
それでも次からはそれなりに良好な関係にはなっていると思います。
さて、なんだか妖夢が頭おかしい子に見えなくもないですが今回がちょっと特殊だっただけで普段は癒し系真面目っ子なんです多分。
ですので今後はそんな風にはならないでしょう。願望ですが。


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三十三話 スポイラー襲来

「それでは先生、さようなら」

「ああ。気をつけて」

寺子屋敷地の門前、掃除最中で片手に竹箒を持ったままの俺は頷いた。

 

「はい」

寺子屋年長組の生徒である春は、俺の言葉に微笑むと踵を返して家路についた。

午後の授業が終わり、生徒もすっかり帰った中で一人居残っていた勉強熱心の背中を、俺は少々複雑な心境で見送る。

「…………」

冬の寒さも落ち着きを見せ始め、もうすぐ農家は忙しくなってくるころだ。

そろそろ寺子屋に通う年長組の生徒は寺子屋を出て行く……現代風に言うならば、卒業していくことになる。

春もその一人だ。

 

とはいえ、狭い幻想郷に位置する人里。

卒業したとしても、その辺りでばったり遭遇することもあるだろう。

ゆえに別れてそれきりということはない。

それでも感慨深いものだな、と半年にも満たない期間教師だった俺はしみじみと思うのである。

 

「……あ」

遠ざかっていく春を見送っていると、彼女が曲がり角で知り合いと遭遇するのが見えた。

というか、もう一人の俺、正確に言うなら甘味処に勤めている方の俺だ。

 

甘味処の厨房事情で、寺子屋離れの作業場でケーキ作成を余儀なくされている俺は、甘味処と寺子屋を頻繁に行き来している。

生地だったり、クリームだったり、果実だったり、あるいは完成品だったりを運ぶためだ。

ケーキの売り上げは、まあ順調と言ったところ。

売り上げも少しずつ伸びてきている。

それでも、懸念すべき問題があり、いまだにその解決方法はないのだが……。

 

「ふう」

俺は思わずため息をつく。

その視線の先で、恐らく寺子屋に戻ろうとしていたのであろうもう一人の俺と春は立ち話をしていたのだが、暫くして一緒に歩み去って行った。

 

雑談がてら春を家まで送っていくつもりだろう。

甘味処もピーク時間を過ぎ、客足もすっかり落ち着いたころ。

時間的余裕はあるだろうし、俺ならそうする可能性はある。

そう判断した俺は、竹箒を手に寺子屋の敷地内に踵を返した。

 

「……ああ、そういえば」

敷地の門を潜りながら、俺はふいに思い出す。

「今日は、彼女が来るんだっけ」

 

「ほほう、『彼女』とは?」

唐突に、頭上から声がした。

俺が驚き頭を上げるよりも早く、重いような軽いような羽音と突風が皮膚を撫でる。

 

驚いて息を飲み、一歩たじろぐ俺の目の前に、突如その少女は降り立った。

歯が一本しかない下駄に、小さな特徴的形の帽子。

その背中には鳥類を髣髴とさせる大きな翼が生えている。

 

天狗だ。

背中の羽が鴉のような漆黒色であることからして、おそらくははたてのような鴉天狗だろう。

 

「詳しく聞かせていただきますか?」

「……あ、えと。君、は……?」

少女は問いかけてくるものの、俺は戸惑いから一歩下がりながら逆に問いかける。

 

「おや、これは失礼致しました」

鴉天狗は握った拳で自分の頭を軽く小突いて、ついでに舌をちょこんと出す。

あ……あざとい……。

ついでに言えばこれでもかってくらいわざとらしい。

 

露骨に演技がかった仕草に困惑する俺の様子を見て、鴉天狗はコホンと咳払いをした。

「あややや、外の世界の男はこういうものに弱いと聞いたのですが、期待した効果はないようですねえ」

「こういうのがどういうのかは知らんけど……」

あっけらかんと計算づくでだったことを白状する少女に、俺はジト目になって答える。

 

「ふぅむ。まあいいでしょう」

腕を組んで納得したように少女は何度も頷いた。

開始早々マイペースっぷりを発揮する彼女に、俺は早くも辟易としてきたが、そんなことを意に介す様子など微塵も見せず俺の鼻先に名刺を突き出した。

「私、文々。新聞記者、射命丸文と申します!」

 

「はあ」

面くらいつつ受け取った名刺には、楷書の読みやすい文字で「射命丸 文」と刷られていた。

 

名刺なんて洒落たものあるのか、などと思いながら俺は視線を再び天狗の少女、文に戻す。

予想通り、彼女もはたてのような鴉天狗でありなおかつ新聞記者のようだ。

「で、その記者さんが、俺に何か?」

 

「ちょっとした私情を踏まえての取材のようなものです」

「私情」

「ほんの少しですよ」

文は親指と人差し指で空気を摘むような仕草を見せながらウインクしてみせた。

 

あざといが、悔しいことに普通に可愛い。

何が悔しいかは知らない。

 

「あの、言っておくけど」

以前の経験から、一応釘を刺しておくことにする。

「萃香の事件や紅魔館に行ったとかいう噂は、あれ殆どでまかせだから」

「ええ、存じております」

対して、文は驚く様子も怪訝な様子も見せず、ましてや「面白ければいい」なんて開き直ることもせず、当然とばかりに頷いた。

 

「貴方が伊吹萃香に襲われた事件や、十六夜咲夜に連れられて紅魔館を訪れた件については、既に取材は終えています」

「取材?……来てないよね」

「前者は博麗霊夢さんから、後者は紅美鈴さんからそれぞれお話を伺っております」

「ああ……」

確かに、彼女が今挙げた二人は騒ぎの概要を把握している可能性は高い。

 

「へえ。顔が広いんだね」

素直に思ったことを口にすると、文は頭に手を当てはにかんで見せた。

「どうも。お褒めに預かり光栄です」

 

なんだか予想以上に礼儀正しい。

いつも俺が接している天狗という妖怪は、基本的には会えば会敵必殺とばかりに即切りかかるか、もしくは記事の内容は堅実なのに面白ければOKなんて強引に取材を進めるちょっと残念なタイプかの二択だったので、文の態度はかなり好印象に映った。

そう考えると最初のあっけらかんとした物言いも、茶目っ気あるものに見えてくる。

 

「それで、取材っていうのは?」

彼女の話に少々付き合うくらい別にかまわないか、という程度の軽い気持ちで俺は口を開いた。

 

 

* * *

 

 

夕暮れ時。

甘味処の客入りも落ち着き、空いた時間に教え子の一人である春を雑談がてら家の近くまで見送った俺は、一度寺子屋の作業場に戻り、その後再び甘味処に舞い戻っていた。

朱に染まった甘味処の中で、客席の一つに座る俺の正面には、新作のケーキを注視するはたてがいる。

 

花果子念報で俺のケーキを記事にしてくれたはたてだが、記事内容は堅実だし存外的確な意見を出してくる。

そんな縁もあって、たまに甘味処に訪れてくるはたてに、こうして定期的にケーキの試食を頼んでいるのだ。

 

「少し硬いわね」

「クッキー生地だからね。これでも随分いい具合に仕上がっている方だよ」

今はたてが試食しているのは、タルトケーキの試作品だ。

 

紅魔館の厨房を借りればそれなりにうまくいくが、寺子屋の作業場では施設の関係でそうもいかない。

それでもどうにかタルトケーキを再現しようと四苦八苦すること一ヶ月。

ようやくそれらしい出来になってきた。

 

不安と期待を入り混ぜてはたてを見るめる。

「で、どう?」

「まあ、悪くないわね。舌触りも滑らかだし甘さも程ほどだから美味しいわ」

「うんうん」

「でも下の生地は硬すぎるわね。こういうお皿みたいな形に拘ってるみたいだけど、分厚くなって食べにくいわ」

「やっぱり問題はそこだよなあ」

自分でも懸念していた点を指摘されて思わず唸る俺に、はたては嘆息した。

「他にもあるわよ。細かいけど」

「え」

 

 

……まあ、厳しい指摘や私的意見のほうが多いが、参考になるものも多い。

俺は熱心に頷きつつ、時に苦い顔をしながらメモを取る。

 

「とまあ、こんなところね」

「なるほど。参考にしてみるよ。ありがとう」

言いたいことは言い切ったとばかりに満足した様子のはたてに俺は礼を言った。

 

「ええ」

はたては得意気に頷くと、人差し指を立てて笑みを浮かべる。

「それで、なんだけど」

きたか……とばかりに俺は口を歪めてため息を堪える。

 

「そろそろ本当のこと、言ってもいいんじゃない?」

「君がしつこく取材してくることについては本当のことしか言ってないよ」

「今日こそ暴いてやるわ。あんたの所業をね!」

俺のそっけない返答を気にする様子なく、というかもはや無視する勢いではたては俺を指差してキメ台詞のごとく語気を荒げた。

 

「伊吹萃香の武勇伝だけでは飽き足らず!紅魔館から生還したって話じゃない!」

もう一ヶ月以上も前の話である。

「もう隠し立てできないわよ!さあ!洗いざらい本当のことを喋ってもらおうじゃないの!」

 

はたてはこうしてことあるごとに俺に取材を迫ってくる。

迫ってくるネタに関しては一貫して萃香の事件や紅魔館を訪れたことに対する、人里での誇張された噂の数々だ。

 

「なにか拘りでもあるのか?」

ふいに疑問に思った俺は問いかけるも、はたては腕を組んで顔を背けた。

「別に、あんたには関係ないでしょ」

関係なくはないと思うけど、というツッコミはさておき、否定はしないようだ。

とはいえ、いつまでもこんなやりとりをするのもいい加減不毛というものだ。

 

俺は小さく息を吸うと、真剣な面持ちではたてを見る。

「なあ、はたて」

「あら?話す気になったの」

はたての目が期待に輝くが俺は首を振った。

 

「いや、違う」

短い俺の返答に、はたては眉根に皺を寄せた。

「じゃあ、なんだってのよ」

 

「あのさ……はたてが自分でよく分かってると思うんだけど」

「なによ」

僅かに逡巡しつつも俺は口を開いて断言する。

 

「君の言う俺の噂が全部誇張だってこと」

なぜか、サンタクロースを信じている子供にその正体を教えるような罪悪感を感じた。

対してはたては、真剣な顔で発せられる俺の言葉に僅かに目を見開くと、俯いてしまった。

前髪に隠れてその瞳は見えないが、顔を伏せたままの彼女の体が僅かに震えていることに気付いてしまう。

 

……まずったかな。

それほど衝撃的な発現をしたつもりではなかったのだが、はたての反応からしてショックだったのかもしれない。

俺は気まずい思いではたてに手を伸ばす。

「なあ、はた――」

「うっさい!!」

 

バン!と両の手の平で机を叩くと、はたては立ち上がる。

音に驚き、俺は思わず身を引く。

そんな俺ははたては見下ろしながら睨むという器用な真似をすると、机を回りこんで俺に近づいてきた。

 

「え、な、どうした?」

「うっさいのよあんたは!」

苛烈な勢いのままはたては俺に詰め寄ると、胸倉を掴んで俺を立たせる。

うわけっこう力強い。

……いやいや、問題はそれどころじゃなくてはたてが普通に開き直ってることだ。

 

「そ、そうは言ってもな」

目前まで近づいてきたはたての顔に思わず照れながら俺は視線を反らす。

「嘘は言えない。俺は草薙の剣も持ってないしヴァンパイアハンターの免許も持ってない」

「いつも言ってるでしょ!」

 

はたては俺の胸倉を掴んだまま鼻息荒く顔を近づけてくる。

「面白ければいいのよ!」

やっぱそこ変わらないのか……。

と呆れ果てる反面、ぐいぐい迫ってくるはたてに心中穏やかではない俺なのだが。

 

 

パシャリ。

 

 

どこかで聞き覚えのある音がした。

俺もはたてもその音に反応し出所を見る。

甘味処入り口、夕暮れで赤く染まったその場所に、カメラを構えた少女が立っていた。

 

歯が一本しかない下駄に、小さな特徴的形の帽子。

その背には折りたたまれた黒い羽。

どうやらはたてと同じ鴉天狗のようだ、とはたてとその少女を見比べながら感じた。

 

構えていたカメラを降ろす少女の顔は、不敵な笑みを浮かべている。

「ふふん、いい絵が撮れました」

「あ、文」

はたてが目を見開く。

 

「見出しはこんなところでしょうか。『花果子念報の記者。禁忌を破り人里で暴行か!?』とか」

「な、な、なんで!?」

飄々とした様子の文と呼ばれた少女に対して、はたては声を荒げて指を差す。

指差していない方の手は未だに俺の胸倉を掴んだままである。

 

「それともこういったところでしょうか?」

文は再びカメラを構えると、パシャリとフラッシュを焚く。

「『鴉天狗と人間。種族を超えた二人の逢瀬の現場を激写!!』なんて」

「ふざけんじゃないわよ!」

 

顔を紅くしてはたては否定する。

ちなみに顔が赤いのは照れているからではなく、恐らく頭に来ているからだろう。

なぜそんなことが分かるかというと、未だにはたてが俺の着物を掴んだまま=それに気付かないくらい俺のことを意識していないだからだ、と俺は冷静に分析する。

 

どこかの妖怪兎とは大違いである。

なんてことを思う割りに、詰め寄ってくるはたてに顔を紅くしていた先ほどまでの自分を思うと、なんだか情けなくなってくる俺だった。

 

「って、そうじゃなくて!なんであんたがこんなところにいるのよ!」

「いやあ実のところ興味深い話を聞きまして」

「話?」

ちょいちょいとはたての肩を叩きながら、視線は文に向けておく。

なんやかんやがなりたてるはたてが掴んだまま振り回すおかげで着崩れそうになる着物を押さえる俺の様子に、文は目を弓なりにして面白いものでもみるようだ。

 

「ええ。とても面白い話です」

文はもったいぶった様子で腕を組むと、人差し指を立てる。

「曰く、いつも引きこもっている筈の鴉天狗が、最近人里に足しげく通ってるらしいじゃないですか」

「な」

その言葉にはたては一歩後ずさった。

 

図星らしい『引きこもりの鴉天狗』を見て、俺は問いかける。

「そうなの?」

「ち、違う!」

 

「いえいえ、既に話は伺っていますとも」

文は「うんうん」と頷いた。

「人里に訪れた貴女が、決まってここに来るらしいことも聞いております」

 

……そんなことはないはずだ。

俺は首を傾げる。

はたてに試食を頼むといってもせいぜい月に二回程度だ。

それ以外に彼女が来るという話は聞かないし、その程度の頻度を頻繁とは言わないだろう。

 

「な、な、なんでぇ?」

だが、更に後ずさるはたての様子を見るに、どうやら図星らしい。

そんなはたてに得意気な顔で文は頷く。

「ここの娘さんから聞きました」

 

瞠目した様子のはたては、勢いよく振り向いた。

俺も同じく振り向くと、甘味処の厨房から顔を覗かせ騒ぎを見ていた千代さんが片手で謝る仕草を見せた。

「ち、千代~~~!!」

いつの間にか名前で呼ぶ程度に仲良くなっていたらしいはたては、ジト目を向ける。

 

対する千代さんは気まずい笑みを浮かべる。

「いや、貴女の友達だっていうし」

「違うわよ!」

必死な様子で否定するはたて。

どこかのれいせ……妖怪兎ではないが、これは一々反応が面白い。

 

「まだあります」

文は更に目を弓なりにさせる。

 

「どうもはたて、貴女私の書いた記事への対抗記事を書こうとしてるそうですね」

「は、はぁ~~!?」

まさしく素っ頓狂とでも言うべきか、はたてが相変らず騒がしい声を上げた。

 

「な、なんのことだか分からないしっ」

ううん、これは図星かどうか微妙な反応だな。

「これに関しても証言は得ています。そこの悠基さんからも」

「え、」

「なんですって?」

 

突然指名されてたじろぐ俺に、はたてはジト目を向けてきた。

いやいや証言もなにも、文と名乗るこの鴉天狗とは初対面のはずなのだが。

そんな俺たちに構う様子なく、文は話を続けた。

 

「まず12月の伊吹萃香が起こした騒動。そして1月の十六夜咲夜による人攫い騒動。どちらも私が大した騒ぎではないと断じた記事です」

あ、なんかちゃんとした記事っぽい、と風評被害を受けている俺は思わず頷いてしまった。

隣からの視線が痛い。

 

「ですが」

文はそこで一息ためた。

「貴女はそれを覆すようなネタを探し回っているそうですね」

 

目を白黒させて言葉も出ない様子のはたてを見て、俺は変に納得した。

「あぁ……対抗記事ってそういう」

 

つまりは、文が書いた新聞記事に対抗心を燃やして、俺に関する誇張された噂をやっきになって記事にしようとしていたと。

ちょっと無理矢理感はあるが、はたての様子を見るに強ち間違いでもないようだ。

 

はたては顔を紅くしたまま唸っていたのだがようやく言うことが決まったのか文を指差した。

「け、結局あんたは何しに来たのよ!!」

あ、否定しないんだ。

 

二人の騒ぎをどこか他人事に感じながら、というか殆ど蚊帳の外な俺は、はたての問いかけに対する文の反応を見る。

 

「まあ今回はですねえ」

既に文は勝ち誇った笑みを浮かべていた。

「記事の裏づけ、及び」

「裏づけ!?」

 

目を瞠るはたて。

そんなはたてに、文はここぞとばかりに笑みを浮かべ、キメ顔で指先を向ける。

「対抗記事のネタも上がらない無様な記者さんをからかうのが半分、といったところでしょうか」

 

空気が凍ったように感じた。

俺は思わず息を呑み、恐る恐るはたてを見る。

顔を僅かに俯かせ、プルプルと体を小刻みに揺らす様子を見て、俺は全てを察して一歩離れた。

 

次の瞬間、

「じょうっとうじゃないのその喧嘩ぁ!!」

額に青筋を浮かべたはたてが爆発した。

「そっちがその気なら買ってやるわよ!!」

 

「あややや、少々挑発が過ぎたようですねえ」

反面、文は飄々とした態度で確信犯的なことを呟きながら甘味処の外へ出る。

 

「それではこれにて失礼します」

俺に視線を向け、文は笑みを浮かべる。

「私、文々。新聞記者、射命丸文と申します。以後お見知りおきを」

「文ああああああああああああ!!」

 

文の言葉に俺が何か返す間もなく、飛び掛らんばかりの剣幕のはたてを見て、文は笑いながら後ずさる。

店の外に踏み出した彼女は、次の瞬間その背に大きな翼をはためかせたと思うと一瞬で視界から消えるほどに飛び上がった。

はたても負けじとばかりに甘味処の外へ飛び出ると、その背に黒い翼を顕現させた。

「待ちなさいコラーーッ!!」

そんな怒声とともに短いスカートを翻し、文の後を追ってはたても一瞬で飛び上がっていった。

 

そうして、

 

「……おう。騒がしいのは行ったか」

店の主人の玄さんが嘆息交じりに裏手から顔を出した。

後に残るのは、先ほどの騒ぎの残響を交えた静けさだった。

 

「凄かったねえ」

暢気な様子の千代さんに俺は頷きながら、ふと甘味処の入り口に一枚の紙切れを見つける。

さっきまで文が立っていたところだ。

 

「ん……」

小さな紙切れに見えたものは、実際には名刺だった。

楷書の読みやすい文字で「射命丸 文」と刷られている。

 

どうも、

「はたてよりも一枚上手みたいだな……」

俺は嘆息しつつ、店の外へ出た。

 

空を見上げると、既に陽は沈み、深い紫色の空の彼方に、彼女たちの姿は遂に見つけられなかった。




文が常時丁寧口調でしたが、一応取材だったのもあって猫被ってます。
あとおそらく主人公は能力解除後に記憶共有した際に、両方の記憶で文に会っているのでなかなか複雑でしょうね。
「うわ、両方来てる」みたな。
次回もほのぼのしたいものですね。


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三十四話 彼岸花

物寂しい風が吹き、風が止めば不自然なほどの乾いた静けさに支配される。

まばらに置かれた石はなにか不吉で、しかし切なく、同時に不思議な懐かしさを感じさせた。

草木がないというわけではない。

荒涼とした岩場というわけでもない。

なのに、その景色は灰色に見え、俺に一貫したイメージを抱かせた。

 

 

生命のない、終わりの世界。

 

 

「………………」

ああ、なるほど。

俺は静かに得心した。

ここが、話に聞く地。

 

幻想郷の中でも最も危険とされており、人間どころか妖怪すらも近づかない場所。

阿求さんからも絶対に近づかないことを厳命されている。

幻想郷の果てに位置するその地の名は。

 

「…………無縁塚」

 

ポツリと呟く俺の声は、不意の突風に溶けていく。

「嘘だろ……」

半ば途方に暮れていた。

知らず知らずとはいえ、まさか訪れることになるとは微塵も思っていなかったし、通りで随分と歩かされたわけだ、という納得もあった。

 

「さて、では参ろうか」

隣からのいつもと変わらない声音に、俺は我に返る。

 

「……いやいや霖之助さん、『参ろうか』じゃなくてですね」

歩きだした同行者に俺は慌てて声をかける。

 

「なんだい?」

「ここって、もしかしなくても無縁塚ですよね」

「そうだが、それが?」

表情を変えることなく、霖之助さんは首を傾げてみせる。

……おそらくこの人、俺が言いたいことを分かっていて恍けている気がする。

無縁塚に到着するまでの道中、目的地をきいてもはぐらかされていたし、おそらく俺がこんな反応を見せると分かっていたのだろう。

 

「無縁塚って、幻想郷の中でも相当危険な場所らしいじゃないですか」

周囲を見渡しながら俺は問いかける。

今のところ、俺と霖之助さんを除いてなにかが動く気配はなかった。

「なんでわざわざこんなところに」

 

「目的なら話したはずだが」

霖之助さんは肩を竦めると再び歩み始めた。

「そ、そうですけど」

俺は慌てて彼の後を着いていく。

 

「ここじゃなきゃ駄目なんですか?」

「無論だよ」

どんどん歩みを進めて行く霖之助さんは、俺の問いかけに断言する形で答えながら腰のポーチに手をかけた。

「さて、まずは供養といこうか」

 

 

 

……そもそもの経緯、俺がなぜ霖之助さんと共に無縁塚に訪れているのか。

纏めてしまうなら簡単だ。

香霖堂に赴いた俺は、軒先で出掛ける様子だった霖之助さんとはち合わせた。

聞くところによると、どうやら商品、つまり外来品の調達に出ようとしていたようだ。

『調度いい。君も一緒に来てみないか?』

『え?いいんですか?』

『一度に運べる量には限りがあるからね。外来品に関しては君の外の知識があるとその辺りの選定がしやすい』

そんなやりとりがあって、そのまま霖之助さんについて妖怪の山を大きく迂回して辿り着いたのが無縁塚だった、というわけである。

 

 

 

 

閉じていた瞼を開く。

疎らに置かれた石の一つ一つが何かの墓標らしい。

誰が、誰を、どうして、何が起きて、そしてどんな想いで弔われたのか分からないままに、向かって合わせていた手を解いて立ち上がる。

既に『供養』を終えたらしい霖之助さんは、無縁塚の物色を始めていた。

 

決して広くない土地には、雑多なガラクタが散見された。

霖之助さんは目に付いたそれを拾っては眺め、少ししてから元の場所にそっと置いて歩んでいく。

見ようによっては墓場でのゴミ投棄、その一端にも見える光景に落ち着かない気持ちになりながら、俺はそそくさと霖之助さんの後に付いた。

 

「それにしても、なんでこんなに外来品があるんですか?」

立ち止まり、しゃがみ込む霖之助さん。

彼が拾い上げたどこか見覚えのあるようなキャラクターを模した陶器の置物を肩越しに覗き込みながら俺は問いかける。

「幻想郷の果てだとは聞いてますけど」

 

「それもあるかもしれないね」

どうもあまり興味が沸かなかったのか、霖之助さんはそっと陶器を置くと再び立ち上がり周囲を見渡す。

「だが、ここはそもそも結界の緩み自体が大きい。外の物が流れ込んでくるのはそれが原因だろう」

 

「結界って『博麗大結界』のことですか」

「ああ」

再び目ぼしい物を発見したのか、霖之助さんは足を止めた。

「これは?」

 

霖之助さんが手に取った色あせた古い液晶を見て、俺は僅かに嘆息しつつ答える。

「……ポケベル、ですね」

「遠くいる者と会話するための道具か。使えそうかい?」

ポケベルを受け取った俺は、分からないなりにその骨董品を注視する。

それでもやっぱり分からないものは分からないのだけど。

 

「……多分、これが電源でしょうけど……反応はしませんね。電池切れもあるんでしょうけど、これだけ古いならそれ以外にも動かない原因がありそうですね」

「電池があれば使うことが出来そうかい?」

「分かりませんって。それに、これは一つじゃ意味ないです。えっと、話す当人がお互いにポケベルを持っていないと駄目ですし、通信方法が携帯と同じなら、電波塔がないとやっぱり通信できませんね」

 

おずおずと差し出したポケベルを霖之助さんは嘆息しつつ受け取った。

「よく分からないが、色々と面倒なのは分かったよ」

と言いつつも、結局彼はそれを腰のポーチに仕舞いこむ。

 

「それで、なんでここは結界が緩んでるんですか?」

「ん?ああ、その話か」

 

霖之助さんは今度は真っ二つに割れたCDを拾い上げた。

「さっきも言ったとおり、この下には死者が眠っている」

 

……その上でこんなことをしているのも罰当たりだと思いますけどね。

内心でそんなことを思っていると、霖之助さんが肩越しに視線を向けてきた。

 

「これくらいは許してくれるさ」

「え」

肩を竦める彼を見て、思わず口元を押さえる。

 

「声に出してました?」

「いや、顔に出ていた」

そんなに!?

 

「さて、話を戻そうか」

動揺する俺を置いて霖之助さんは話し出す。

「この下に眠る死者の殆どは無縁仏だ」

「無縁仏……縁者がいないご遺体のことですか」

「そう」

 

霖之助さんは首肯しつつ、今度は拾い上げたゴムボールを俺に示す。

空気の抜けたそれを見て首を振ると、霖之助さんは頷いてそれを放り捨てた。

 

「そして、その仏の大半が、外の世界から迷い込んだ人間」

「っ…………」

「幻想郷に迷い込んだ外来人は、よほど運が良くない限り大概妖怪に襲われる。この下に眠るのは、そんな者たちばかりだということだよ」

霖之助さんの淡々とした言葉に、俺は思わず振り返った。

 

「故に、外の世界の人間が眠るここは、博麗結界の外の揺らぎを生み出す。ここに縁がなくとも、外に縁があるためだ」

「………………」

霖之助さんの言葉を聞きながら、俺は感慨に耽る。

 

まばらな石の一つ一つが墓標。

だが、この下に眠る遺体の数は、遥かに多く、その大半が訳も分からぬままに喰われた人々。

 

訳の分からないまま迷い込み、訳の分からないまま襲われ、訳の分からないまま無念を抱いて死に至る。

それは、その大半はおそらく、悲劇だったのか。

 

胸を締め付けられるような感覚を覚えながら、俺は再び黙祷を捧げた。

 

 

 

「……ついてないな」

強張った霖之助さんの声に俺は目を開いた。

「いや全く、ついてない」

「霖之助さん?」

 

視線を固定させたまま動かない霖之助さん。

目を細める彼の視線に釣られ、その先を追うも、そこには変わらない景色が広がっているのみだ。

だが、霖之助さんは苦虫を噛み潰したような顔を浮かべている。

見慣れない彼の表情に、俺は緊張する。

 

「どうか、したんですか?」

「……今日は解散だね」

嘆息を一つ、霖之助さんはぽつりと呟く。

「え?」

「悠基、君は分身を解いた方がいい」

 

目を丸くする俺に霖之助さんは言い放つ。

同時、彼は唐突に視線を先ほどまで見ていた方向に再び向ける。

振り返った彼の顔には、いつになく真剣な様相が浮かんでいた。

「僕からの忠告はそれだけだ」

呆気に取られる俺にそんな言葉を放ちながら、彼は俺とすれ違うように走り出した。

 

「え、え?り、霖之助さん!?」

我に返って振り返り、声を上げる。

だが、霖之助さんは足を止めることも振り向くこともなく走り去っていく。

その背中を呆然と見送りつつも、しかし、俺は迷いを抱いていた。

 

何かが来る。

さすがに俺にも察しがついた。

霖之助さんの忠告は、すなわち「早急にこの場所から離れろ」ということを意味している。

幻想郷でもトップクラスの危険地帯とされ、人妖構わず近づくことすら阻まれる無縁塚。

去ったのではなく逃げ去った霖之助さんを鑑みるに、おそらくはその所以に関するものだろう。

 

かなり危険なのは分かっている。

しかし、いざとなれば分身を解けば瞬時に離脱できる。

だから、少しだけ。

少し、姿を捉えるだけ。

 

僅かな興味本位というのもあるし、もしかしたら雇い主の阿求さんにとって有益な情報があるかもしれない。

「……ハハ……馬鹿だな」

俺は空元気で微笑を浮かべる。

 

霖之助さんが見ていた方向を注視しつつ、しかし恐れから少しずつ後ずさるという中途半端な体勢だった。

 

大丈夫。

 

そう自分に言い聞かせ――――

 

 

――――っ!!

 

 

目前だった。

 

ずっと注視していたはずなのに、気付けばそれは目前にまで迫っていた。

 

靄だ。

紫がかった黒い靄の塊。

向こうの景色が透けて見える程度に薄い。

なのに、それは不自然なほどに重さを感じさせた。

 

―――オォオオオォォォ――

 

声が。

背筋の凍るような、体中の体温を奪うような声が聞こえる。

怨嗟というのか。

体全体をじっとりと侵食していくような、何か。

鼓膜を揺らす音ではない、開いた腹に濁った液体を流し込まれるような、壮絶な不快感を思わせる声だった。

 

本能的な恐怖なのか、俺の脚は地面に縫い付けられたかのように動かない。

レミリアの殺気とはまた別種の、絡みつくような死の恐怖。

 

 

早く、早く解け。

能力を解けと、頭の中で警鐘が鳴っていた。

だが、動けない。

思考が、止まっていた。

 

 

目を見開く俺のすぐ鼻先で。

靄は既に大きく広がり、俺に覆いかぶさってくる。

もはや逃走を選択するには致命的に遅く、闘争を決意するにはあまりにも無謀だった。

 

俺の周囲を埋め尽くすように、その声が絡みつく。

 

 

 

 

―――オォオオォ――――

 

 

 

 

目前に、視界を覆い尽くし

 

 

 

 

―――オオオオォォォオオオ―――

 

 

 

 

それは。

 

 

 

 

―――オオオオオオオオオオオオオォォォオオオオオオオ―――

 

 

 

 

 

 

口を広げ、

 

 

 

 

 

 

 

―――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * *

 

 

~~~~♪

 

どこか、すぐ傍で陽気な鼻歌が聞こえてくる。

倦怠感に呻き声を漏らし身じろぐと、心落ち着くその歌が途切れる。

 

「っと、目が覚めたかい?」

問いかけてくる少女の声に俺は閉じていた瞼を開いた。

「…………?」

僅かに淡い紅の景色が、一面に広がっていた。

 

その全ては彼岸花。

無縁塚に向かう道中に横切った、彼岸の景色の真っ只中。

俺は横になっていた。

傍らに腰掛け俺を覗き込む少女の二つ結った髪も、彼岸花を思わせる紅色だ。

 

どうも気絶していたらしい。

酷い倦怠感に抗いつつ、俺は鉛のように重い体を無理矢理起こした。

頭痛に眉をしかめる俺に、反して少女は陽気な口調で問いかけてくる。

 

「調子はどうだい?」

「……あまり……」

「そりゃ僥倖」

渋面の答えに少女は笑みで応じた。

 

少しずつはっきりと思考が回るようになるにつれ、気絶する前の恐ろしい記憶を思い出す。

意識が途切れているということは、気絶したところをこの少女に助けられたのだろうか。

というか、彼女はいったい何者なのだろう。

沸いてくる疑問に思わずまじまじと見つめてしまう俺の視線に、少女は小首を傾げて見せた。

 

「何から訊いたらいいのか、迷ってるって顔だね」

……表情からそこまで読み取れるのだろうか。

困惑する俺に、少女は口端を上げる。

「そうさね。まずは自己紹介といこうか。あたいは小町。小野塚小町だ。よろしく」

 

漂わせる雰囲気と同じ、どこか安心感を漂わせる陽気な笑みを浮かべる小町。

俺は安堵から、気付かないうちに張っていた肩の力をゆっくりと抜いた。

「ああ、よろしく。俺は――」

小町に応じる形で名乗ろうとするが、同時に片膝を立て座る彼女の傍に置かれた物騒な得物が視界に入る。

 

「――岡崎悠基、だけど、それは?」

「ああ」

俺の視線に小町は傍らの巨大な鎌を見た。

 

「あたいの道具さ。見ての通り、あたいは死神なんでね」

「死神……」

確かに死神といえば、無造作に置かれた彼女の黒い大きな鎌を振るうイメージが色濃い。

 

だが、更に死神のイメージに付け足すなら、真っ黒なボロボロのローブに、フードの下はしゃれこうべ、というのが一般的で、間違っても彼女のような血色のいい少女とはそぐわないだろう。

「ま、死神は死神でも、仕事は死者限定さ。お兄さんの命を獲るってわけじゃないからそこは安心しな」

「あ、ああ、うん」

困惑する俺の様子に気づいているはずだが、小町は構わないといった様子で話を続ける。

 

「で、ついでに言えばお兄さんを助けたのもあたいだし、ここまで運んできたのもあたいさ。しかし、ほんとに危ないところだったね」

「……あれって、そんなにヤバイものなのか?」

意識が途切れる直前の靄を思い出しながらおずおずと問いかけると、小町はやや呆れた視線を投げかけてくる。

「目前で見たお兄さんが一番良く分かったんじゃないのかい?」

「………………」

 

思わず想像する。

もし、あの靄に取り込まれていたら。

今頃、俺は。

 

想像がつかないわりに、ふいに走った怖気に身震いすると、小町は苦笑を浮かべる。

「ねえ?」

「そう、だな。うん…………礼を言うのが遅れた。助かったよ」

「かまわないさ」

小町は肩を竦める。

 

 

同時。

「話は終わりましたか」

 

 

並んで座る俺たちの間近。

頭の上から投げかけるような凛とした少女の声。

「うっひゃあ!」

「――ぅ、うお」

俺は驚いて振り返ろうとしつつ、隣でもっと派手に驚き前のめり飛び退く小町に更にビビる。

 

「…………ハァ」

思いのほかすぐ隣で、漏れ出たかのようなため息。

芸人顔負けのリアクションを見せた小町に奪われていた視線を、先ほどの声の主へと向けなおす。

 

黒い漆塗りの笏で口元を隠した少女が、目の前に佇んでいた。

青と黒を基調とした風格ある装いに、どこかの偉い人物だろうかという印象を抱かせる少女は、ジト目ともとれる呆れの眼差しを小町に向けていた。

 

「し、四季様……」

顔を土で汚した小町が体を起こしながら気まずげに振り返った。

「いつの間に」

 

「つい今しがたです」

様付けで呼ばれた少女は気を取り直したのか、凛とした目つきになった。

「小町、また苦情が来ていましたよ。せめてこんな時期くらいはそのサボり癖を自重しなさい」

 

「も、申し訳ありません」

「……まあ、おかげで彼が助かったのは幸いでした」

恐らく小町には聞こえない程度の声で、まるで独り言のような呟きに目を丸くすると、少女の視線が俺に向けられる。

 

「さて、岡崎悠基ですね」

「え、あ、はい」

初対面にも関わらずいきなりフルネームで呼ばれたせいか、それとも彼女の纏うどこか威厳ある雰囲気に萎縮したせいか、思わず敬語になって応じる。

「はじめまして、四季映姫・ヤマザナドゥと申します」

「あ、これは、ご丁寧に、どうも」

 

思いのほか丁寧に、深く腰を折る四季映姫に俺は少々どもりながら挨拶を返した。

「さて、初対面でなんですが、貴方にはいくつか申し上げたいことがございました」

「…………え?」

不意、というか唐突なもの申しに思わず間の抜けた声を上げる俺に、映姫は目を細めた。

 

「もう少し自愛してください」

「は、はあ」

「時に貴方は自らを省みず、責任感、好奇心、使命感、それとその優しさで不用意に危険に飛び込む傾向があります。あなたの能力は貴方が思う以上に危ういもので、なのに貴方は自覚なしにその上に胡坐を掻いている。もう少し自重して行動しなさい」

「ちょ、ちょっと待ってください」

つらつらと並べ立てられる言葉に俺は息を呑み、慌てて立ち上がった。

確かに言われたことに関して想うところはあるが、初対面で言われる筋合いはない。

 

「いきなりなんですか――」

「あーお兄さん」

小町が抗議しようとする俺の肩を叩いて制止する。

「やめときな。そちらのお方はあたいの上司。あんたが『ここ』で死んだ時に世話になる方だよ。気持ちは分かるが忠告はおとなしく聞いた方がいいさ」

 

苦笑する小町の言葉の雰囲気は、どこか俺を気遣うものだ。

意を汲んで俺は大人しく引き下がると、映姫に視線を戻した。

 

「貴女は、いったいなんなんですか?」

「閻魔、といえば分かっていただけるかと」

映姫の言葉を噛み締める。

 

閻魔……閻魔って、あの…………。

「地獄の、最高裁判長」

阿求さんから聞いたことはあった。

 

幻想郷では死後、魂となった者は地獄で閻魔に裁かれると。

それは、人も妖怪も関係なく通る道であり、故にその存在は幻想郷において敵う者なしとか。

 

「さて、話を戻しましょう」

目を見開く俺の視線を真っ直ぐ受け止めながら、映姫は言葉を紡ぐ。

「貴方のその行動は、いつか貴方の存在そのものを滅ぼしかねない。どこからが無謀なのか、なにが無茶なのか、貴方はそれを分かっていて、しかし行動を起こす危うさを常に持ち合わせている」

 

他の誰かに言われれば「そんなことはない」と反論したくなるような言い草で、しかしどういうわけか彼女の言葉はやけに俺に突き刺さった。

自分自身に困惑する俺に、映姫は笏の先を向けた。

「そう、貴方は少し自分を軽く見過ぎる」

 

そうして、映姫は一度目を伏せる。

「友人を、恩人を想うなら、彼ら彼女らに想われている自分をもっと大事になさい」

そうして視線を上げて真っ直ぐ俺を見る彼女は、迷う様子なく言い放つ。

 

 

「ご両親の愛を、無駄にしたくはないでしょう?」

 

 

「っ――」

――思わず、俺は、――

 

「――四季様」

俺の肩を掴む小町が強張った声を上げる。

 

だが、映姫は全く揺らぎのない瞳で俺を見据え、対する俺も映姫を睨み返していた。

衝動的な行動は、小町の制止もあってなんとか押さえ込んだ。

それでも、映姫の言葉に沸き起こる激情と動揺で、心臓は全力疾走したあとのように激しく揺れていた。

 

「言い過ぎたとは思っていません」

冷静な、冷徹ともいえる口調で映姫は話を続ける。

「私を恨むのも結構。ですが、今の言葉、努々忘れぬように」

そうして、映姫はふいに踵を返し、俺に背を向けた。

 

「さあ、小町、行きますよ」

「……四季様」

苦虫を噛み潰したような顔をする小町に、映姫は僅かに振り向いて視線を寄越す。

「何か?」

「わざわざ恨まれ役を買わなくてもいいでしょうに」

「…………」

小町の言葉に、映姫は言葉を返すことなく視線を正面に戻し歩み始めた。

 

「まったく……」

苦笑したまま小町は嘆息すると、俺の肩を掴む力を緩める。

 

「すまんかったね」

「いや……」

強張った声を返す俺の肩を小町は軽く叩く。

 

「あの方は不器用でね。言い方はあれだけど、お兄さんのためを想っておっしゃてるんだよ」

「それは、うん。分かる」

少々困り顔の小町のフォローに、俺は肩の力を抜いた。

 

「すまない。それと、ありがとう。助かった」

色々な思いを込めて頭を下げると、おそらくその全てを汲み取って、小町は微笑んだ。

「構わないよ。じゃあ、あたいも行くよ。もうここには近づかないようにね」

そうして俺の答えを待たず、軽く手を振りながら小町は小走りで遠ざかっていく映姫を追った。

 

足取り軽く、巨大な鎌を肩に担いだ背中。

背筋を伸ばし、姿勢良く歩む背中。

二人並んだ背中を眺め、俺は息を吸った。

 

「映姫様!!」

小さくなっていく背中に向かって腹から声を張り上げる。

果たして、地獄の閻魔は俺のことをどこまで知っていて、そしてどんなつもりであの言葉を俺にぶつけたのか。

少なくとも小町の言葉と、視線を反らさなかった映姫の瞳に嘘はないように感じた。

 

「ご忠告、ありがとうございました!!」

張り上げた声は届いているはずだが、しかし二人ともその声に反応することなく遠ざかっていく。

彼岸花の向こう、薄い霧に次第に見えなくなっていく二人の少女を、俺はじっと、二人が見えなくなってもなお、静かに見据えていた。

 

 

「……どうやら行ったみたいだね」

「えっ」

 

真横から嘆息交じりの声が急に聞こえてたじろぐ。

どうも今日はふいに声をかけられて驚くことが多い。

 

いつのまにやら隣に立っていたのは、無縁塚で別れたはずの霖之助さんだった。

 

「彼女の説教は長いから」

既に見えない映姫たちの姿を幻視するように、霖之助さんは彼女たちが去った方向を眺めている。

「見つからないで済んで良かった」

 

近くで隠れていたともとれる霖之助さんの言葉に俺は目を丸くした。

「……なにか後ろめたいことでもあるんですか?」

「さあね」

霖之助さんはすまし顔で肩を竦めた。

 

「さて、我々も帰るとしようか」

「はい。というか、なんでここに?」

「よもや君が残っているんじゃないかと引き返してみたら、案の定だっただけだよ」

「……すいません」

冷ややかな視線を向けてくるお人好しの言葉に思わず頭を下げると、霖之助さんは嘆息をしつつ、人里の方向へ向けて歩み始めた。

俺も慌てて彼に並ぶ。

 

ふいに、風がふいて、彼岸花を揺らす。

 

「どうも、騒がしくなりそうだね」

銀髪を揺らしながら、霖之助さんが呟いた。

 

「え?」

思わず顔を上げるが、独り言だったのか、問いかける俺の視線に霖之助さんは応じなかった。

 




無縁塚については香霖堂(書籍)や求聞史紀などで調べはしましたが、オリジナル要素がかなり強いです。
駆け足気味ではありましたが小町、映姫が初登場です。
毎回初登場書いてる気がしますがそんなところも含めてほのぼのと見過ごしていただけたら幸いです。
文花帖(ゲーム)ではこの二人に今だに勝てません。あと金閣寺は諦めました。


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三十五話 そうして始まるその異変

「――――るですよ――――」

「…………?」

今、何か聞こえたような……。

 

時間が早いのもあって少々肌寒さはあるが、それでも日が高くなれば随分と暖かくなってきた。

いつものように寺子屋前を竹箒で掃除していた俺は、ふいの声に空を見上げる。

青い空の一点に、鳥でも虫でもない存在を発見した。

空高くを飛んでいるため定かではないが、白い衣服を纏い背中に羽を生やした幼い少女の姿、先ほどの声の主だろうか、妖精だと分かる。

 

それほど珍しい光景でもないが、なんとなしに気になり目を細めて注視していると声をかけられた。

「おはようございます、悠基先生」

「ああ、おはよう。早いな、お春」

ベタな唐草模様の風呂敷に包んだ教材を手に、寺子屋の生徒の一人、春が近づいてくるところだった。

 

「なにを見てたんですか?……あら」

さっきまでの俺の視線を追って空を見上げた春も白い衣服の妖精を目に留めた。

同時に、なぜか神妙な表情を浮かべる。

 

どうも彼女のことを知っているかのような様子だ。

「あの妖精を知ってるのかい?」

「まあ、有名ですからね。あの子は――」

俺の問いかけに春は空を見上げたまま応じる。

だが、彼女が答えを告げようとした時、再び空からあの声が聞こえてきた。

 

 

「春ですよーーーー!!!!」

 

 

「………………」

「……ハル?知り合いか?」

 

冗談半分で問いかけてみると、春は恥ずかしそうに頬を染めながら口を尖らせる。

「……違います……あの子の名前はリリーホワイト。春告精って呼ばれてる妖精です」

「春告げ……」

 

視線を春に固定したまま呟くと、とうとうジト目になって睨まれる。

「季節の方ですよ」

「すまんすまん」

さすがにからかい過ぎたようだ。

 

ついでに察するなら、リリーホワイトなる妖精を見る彼女の様子を見るに、おそらくその手の話で幼い頃からかわれていたのだろう。

俺は頭を掻きながら謝ると、春に少々呆れた様子でため息をつかれた。

 

「もう……いつまでも子供扱いしないでください。弟ならともかく」

「俺からしたらまだまだ子供だよ。というか伍助を売るのか」

春の発言を意地悪く解釈すると、彼女はすまし顔で言い放つ。

「あの子は楽しんでるからいいんです」

「それもそうだな」

 

やはり寺子屋の中でも一層聡い春をからかうのは一筋縄ではいかないようだ。

だが、それはそれで張り合いがあって楽しいものだ。

いや子供相手に張り合いってなに言ってんだこいつって思わないこともないんだけど。

 

「春ですよーーーー!!!!」

 

俺たちの遥か上空を通り過ぎ、リリーホワイトは陽気にふらふらと飛んでいる。

あの距離からしっかりと聞こえてくるのだから大した声量だと感心しつつ、俺はしみじみと呟いていた。

「そっか。もうそんな季節か……」

「悠基先生?」

「いや、もうすぐお前たち年長組は寺子屋を出てしまうのだなと思うと、目頭が熱くなってな……」

 

そんなことを言いつつ、俺は上を見上げたまま目頭を押さえる。

「もう。そんな大袈裟な。からかうのもほどほどにしてください」

「……そのつもりだったんだが、なんだか本当に零れそうになってきた」

「…………先生」

春からの呆れの視線が痛い。

 

俺は頭を振ると、唐突に緩もうとする涙腺を閉めなおした。

「まあ、短い間ではあったけど、俺としても感じるものがあるということだ。春、お前は寺子屋の中でも一番聡い子だ。それに素直で愛嬌もある。ここを出てからも立派にやっていけるさ。自信を持っていくといい」

「せ、先生……」

真顔で褒めちぎると、春は頬を染めて視線を泳がせた。

 

本当に素直な子だ。

だからこそ。

 

ぽん、と春の肩に手を置く。

「ま、ここから出てもお前は俺の教え子に変わりない。もしなんか困ったことがあったらいつでも相談に来な」

どこか含みを持たせて春に伝える。

春の、まだあどけなさが色濃く残る瞳は、俺を見て、視線を反らし、再度俺を見た。

 

そうして、彼女はいつものように穏やかに微笑んで、首を傾げた。

「はい。ありがとうございます」

「……おう」

 

いつのまにか、リリーホワイトは声が聞こえないほど遥か遠くまで遠ざかっていた。

 

 

* * *

 

 

「………………」

日は高く、暖かい陽気が漂う中、里の外を歩く俺は最低限の警戒をしつつも周囲の景色を楽しみながら歩いていた。

 

道に沿って生えた並木は桜。

その太い幹に蔦を伸ばすのは朝顔。

その隣にはコスモスの花群。

向こうの沼地には水仙。

スミレ、カーネーション、百合、菊、梅の花に紫陽花に金木犀、他......

 

当たり前のように、季節など知ったこっちゃないとばかりに、様々な咲き乱れていた。

ここまでくると豪華絢爛どころか節操なし……更に言えば混沌という表現の方が相応しい気もするし、花の知識が多少なりともある俺からすれば最初は眩暈すら感じた。

 

だが、細かいことは気にしない。

なぜならここは幻想郷。

常識に囚われてはいけない世界なのだから。

そう思うと、おのずとこの景色も目に楽しく感じるものだった。

 

幻想郷の性質なのか、それとも妖怪などの人ならざる物の仕業なのか、ともかくとして、元の世界では普通は見られないような光景だ。

だが、目的地の向日葵畑に住む花妖怪は、おそらくこの状況を大いに楽しんでいるのではないかという予感があった。

 

「お」

遠目にたくさんの妖精が飛び交うのが見える。

舞うように飛び、姦しい声を上げる彼女たちも、この光景を大いに楽しんでいるようだ。

とはいえ春の陽気に当てられ気が高ぶった彼女たちに一方的な弾幕攻撃をけしかけられるのは是非とも避けたい。

 

俺は身を屈め、近くの草むらに一時退避する。

どうも最近暖かくなってきたためか、夜にも昼にも妖怪との遭遇率が高くなってきている。

アリスから教えてもらった魔法で多少は抵抗したり逃走したりできるようにはなったものの、出来ることなら出会うことなく平和に済ませたいものだ。

だからこそ、遠目にでも妖怪を発見したらこうして隠れるようにしている。

まあ道を外れなければ妖怪に襲われる確率はぐっと下がるものの、用心に越したことはないだろう。

俺は妖精たちが過ぎ去るのを確認するために、茂みの影から首を伸ばし――

 

「わ」

「っひゃう!」

 

突然背中を軽く押された俺の口から奇声が漏れる。

驚きすぎて全身が痺れるような錯覚を覚えながら、俺は思いっきり草むらに突っ込む形で飛び退きながらも無理矢理振り返り襲撃者に相対した。

 

「だ、大丈夫ですか?」

あどけない少女が予想外の俺の驚きっぷりに目を丸くしていた。

「……だ、大妖精か」

痛いほどに強く鳴る心臓を抑えながら、俺はほっと息をついた。

マジでびびった。

 

「いつのまに……」

「ふふ、こっそり近づくのは得意なので」

大妖精は、珍しいことにチルノのような仁王立ちを見せながら鼻を高くした。

 

「いや驚いたよ。警戒を怠ったつもりはなかったんだけどなあ」

頭を掻いて感心してみせると、大妖精はいつものようにはにかんで見せる。

「えへへ……それより大丈夫ですか?」

「ん、まあ、これくらいはな」

俺は茂みから脱出しつつ立ち上がった。

 

腕の辺りを軽く切ってはいるが、出血はほとんどない。

せいぜい血が滲む程度だ。

それに今は寺子屋に『俺』がいるから、能力を解けば傷は関係ない。

 

「ご、ごめんなさい」

「唾つけときゃ治るさ」

それでも俺の傷を慌てた様子で見る大妖精に、俺は微笑んで見せた。

「ま、あまり気に病むな。人を驚かせるのは妖精の本文だ。それに今回は警戒が足りなかった俺が悪い。まあでも、驚かすにしても時と場合と相手は弁えるようにな」

なんともどちらつかずな説教を垂れているが、大妖精は微笑んで頷いた。

「はい!ありがとうございます!」

 

可愛いなあ……。

なんだか今朝のお春に似通ったものを感じる。

素直な様子の大妖精に癒されながら、今更になって俺は「そういえば」と切り出した。

「今日はチルノはいないんだな」

高い頻度で大妖精と一緒にいる氷精の姿が見当たらない。

といっても、どちらか一方だけと遭遇することもさして珍しいことでもないので、特別不思議な話でもない。

 

「あ、悠基さんも見てないんですか。チルノちゃん、朝から興奮した様子でどこかにいっちゃって」

眉尻を下げる大妖精に、俺は「ふむ」と腕を組んだ。

「妖精たちがやけに興奮してると思ったけど、チルノもそうなのか」

「まあ、楽しそうだったのは確かですけど……」

 

興奮して人里なんかで暴れてなきゃいいけど……。

なんだか心配だし、一応気にしておこう。

「ん?てかさ、大妖精は平気なのか?」

妖精たちが浮き足立っているのなら、目前にいる彼女もまたそうなのではないかと問いかける。

 

そんな俺の問いかけに、大妖精は満面の笑みを浮かべ、両手を広げた。

「とぉっても、楽しいですよ。こんなにたくさん花が咲くなんて、初めてなんですから」

「初めて?」

首を傾げる俺に、大妖精は力強く頷く。

 

「はい!去年の遅い春だって、こんなにたくさんは咲いていなかったんですから!」

羽を広げると、大妖精は並木道の上を浮いて、舞うように踊る。

「……なあ、大妖精。幻想郷の春って、いつもはこんな風に季節に関係なく花が咲くものなのか?」

「え?いいえ。そんなことありませんよ?」

踊りながら、大妖精は答える。

 

「去年も一昨年ももっと前だって、こんなことはありませんでしたよ?」

「そうか」

浮かれて踊り続ける大妖精を眺めながら、俺は腕を組んだ。

 

どうやら、幻想郷といえどこんな風に季節関係なく花が咲き乱れるというのは例年にない、いわば異常気象の一種だろう。

……もし、もしもだが、この異常気象が幻想郷の中でのみ限定されているならば、という仮定が浮かぶ。

 

「…………まさか、な」

頭に浮かんだ考えに疑問を持ちながら、しかし答えは出ない。

考えても仕方ないか、と結論付けた俺は、しばし鼻歌まで歌い始めた大妖精を眺めて癒されることにした。

 

 

* * *

 

 

「異変、でしょうね」

実にあっさりと、俺の疑問に幽香は首肯した。

「あ、やっぱり?」

そんな幽香に、俺は目を丸くしながらカップをそっとソーサーに置いた。

 

大妖精と別れて一刻半ほど、到着した太陽の畑は予想通りつい数週間前のどこか寂しげな景色を一変させていた。

太陽の花と揶揄されることはあるが、ここの向日葵は格別だ。

一本一本が大きく、力強く、そして美しく咲き誇り、向日葵畑の全貌を眺めれば、黄色い花々からは眩しさすら感じさせる。

そんな景色を窓の外に眺めつつ、俺は幽香と向かい合って穏やかな午後のティータイムを洒落込んでいるわけである。

 

「へえ、こういう異変もあるのか」

「みたいね」

幽香は軽く肩を竦めると、カップを口元に近づけた。

 

「嬉しそうだね」

僅かに上がった彼女の口角を指摘すると、幽香は目を細めて笑みを浮かべて見せた。

「ええ、とても」

 

「……あー、すまないな」

対して、俺は少々気まずい思いで頭を掻いた。

俺の言葉に幽香は目を丸くして首を傾げる。

「どうしたの?急に」

 

「いや、幽香は花妖怪なんだろ?いつもみたいに仕事で来たんだけどさ、この光景を楽しんでたのを邪魔したんじゃないかって」

籠に盛られた苺の山に視線をやるが、幽香は首を振る。

「構わないわよ。貴方とこうして花の話をする時間、私は好きよ」

 

そうして微笑んだ幽香にうっかり息を呑んだ俺は、次の瞬間慌てて目をそらした。

「っ……そりゃ、うん。良かった。お世辞でも嬉しいよ」

まあでも、幽香のような少女にそんなことを言われたなら仕方ないだろう。

チョロい俺の様子を楽しむように、幽香はなお一層笑みを浮かべた。

「嘘じゃないわ。じゃなければこうしてお茶なんて振舞わないもの」

 

「――あ、ありがと……ん……」

見た目年下に見える少女にからかわれていることを自覚しつつ、反撃の術が浮かばないあたり非常に悲しい俺は照れ隠しにカップを呷ることにした。

 

「っ!げほっ」

思いっきりむせた。

 

「何やってるの」

「っ、んふっ、こほんっいや、気にしないで」

本当になにをやってるんだかと自分に呆れ果てながら、楽しげに笑う幽香を見てほっと息をつく。

みっともないを振り切って、今ので頭が冷えたようだ。

 

「それにしても、凄い光景だな」

俺は窓の外の向日葵畑に視線をやりながら言った。

露骨な話題反らしだったが、幽香は「そうでしょう?」と頷いてくれる。

 

「いつもならあんな光景を見れるのはもう少し先の話なのよね」

「これも異変の影響か」

「ええ。そうそう、貴方が植えたマリーゴールドと、あと苺の花も、さっき見たら花が咲いてたわよ」

「…………ついこの間植えたばかりなんだけど……」

 

季節関係なしに花が育っている様は異常気象だと思ったが、植物の成長速度から見て異常現象と言った方がしっくりくる。

「なんというか、ここまで来るとさすがに不安になるな」

ぽつりと呟いた俺の言葉に、幽香は肩を竦めた。

 

「確かにちょっと不思議だけど、楽しいならいいじゃない」

思いのほか暢気な幽香の言い草に俺は思わず口端を上げた。

 

いや、暢気というよりは、慧音さんの言い方からして強い妖怪であるが故の余裕なのかもしれない。

目の前の可憐で陽気な少女を見るにちょっと信じられないけど。

 

「そっか」

どちらにせよ、幽香が楽しそうだし別にいいか。

一人勝手に納得しつつ、俺はもう一度カップに口をつけた。

 

「あら……悠基」

「ん?」

ふいに、声をかけられてカップから口を離す。

どういうわけか、幽香が僅かに目を見開いていた。

 

急に様子の変わった幽香に困惑しつつ、俺はカップを手にしたまま固まる。

「どうかした?」

「いえ、貴方……、――」

何かを言いかけた幽香が言葉を切った。

視線を玄関に向ける彼女につられ、俺もドアを見る。

 

だが、どこか変わった様子はなければ、なにかが起きるということもない。

視線を固めたままの幽香に心の中で首を傾げる。

「なあ、幽――」

 

パリン、と軽く鋭い音が足元から上がった。

 

――え。

下を見ると、陶器の破片が粉々に散らばり広がっていた。

……?

 

中に入っていたのだろう液体が広がっているのを見て、若干の時間を置いて俺は事態に気付く。

右手に持っていたカップが、俺の手をすり抜けて床に落ちたらしい。

幽香が用意してくれたカップだ。

失態に気付いて俺は慌てて視線を上げる。

 

俺の意思に反して、なぜか体の動きは緩慢だった。

「幽香、ごめ」

 

あ、れ、?

 

世界が、正面に座り目を丸くする幽香が、ぐらりと揺れた。

視界がぼやけ、重力が反転するような錯覚を覚える。

気付くと目前に割れたカップの破片が迫っていた。

 

 

 

 

 

 

「悠基」

――一瞬、意識が飛んでいたらしい俺は、耳元からの柔らかい声に瞼を開く。

目の前に幽香の顔があった。

 

「っ――」

慌てて体を動かそうとして、現状に気付く。

床に横たえられた俺の上半身を起こす形で、幽香が抱くように支えていた。

倒れた椅子と床に広がるカップの破片を見て、俺は自分が急に意識を失って椅子から転げ落ちたことを察した。

「っ、あ」

 

強烈な違和感と倦怠感を感じると同時、胸がまるで熱した火鉢でも当てられたかのような熱さを帯びる。

食道から喉元にこみ上げてくるものを感じ、俺は慌てて幽香から顔をそらしてそれを吐き出した。

 

吐き出したその液体は生暖かく、どろりとした感触で、赤黒かった。

床に散った飛沫を見て、俺は愕然とする。

 

は?

あれ?

俺の――?

え?

何?

なんで?

何があった?

 

「悠基」

落ち着いた声音の幽香に、自分の吐いた血を凝視していた俺は顔を向ける。

「暫くここには来ない方がいいわ」

え。

 

動揺を露に、俺は目を見開いた。

何か、彼女の気に障ることをしてしまったのだろうかと、冷静ではない頭で考える。

「なん――ゆうか、ごめ。っカップ、割っちゃ、って」

喉の痛みで喋ることも覚束ない俺の言葉は、まるで悪戯がばれた子供のようで、幽香もそう思ったのか呆れたように息をついた。

かからないようにしたつもりだったのに、彼女の頬にも恐らく俺が吐いたであろう血が付着しているのを発見して、ますます罪悪感が募る。

 

そんな俺の心境を察してか、幽香が浮かべる笑みは、まるで子供をあやす母性を帯びていいるように見えた。

「違うわ。危ないから近づかない方がいいってことよ。カップのことは気にしないで。貴方のせいじゃないわ」

俺のせいじゃない?

 

幽香の言葉に内心首を傾げると同時、近くで爆発が起きたかのような衝撃音と床が僅かに揺れる感覚がした。

「……礼儀という物を知らないのね」

顔を上げ、玄関の辺りを見ながら幽香は言った。

 

酷い倦怠感に抗いながら、俺も首を回す。

「どうやらやっと毒が回ったみたいね!」

勝気な声を上げるのは、赤いリボンをした小柄な少女。

開け放たれた玄関に、不遜な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。

 

いや、玄関のドアが開け放たれたわけではない。

離れた位置に拉げてしまったドアの残骸が転がっていた。

蹴破ったのか、何をしたのか分からないが、どうもあの少女が吹き飛ばしたらしい。

爆発かと思った衝撃音はその音だろう。

 

「貴女ね?この毒は」

幽香の問いかけに少女は「ええそうよ!」と得意気に頷いた。

「強いって噂だからまずは毒を撒いて弱らせたの」

…………なるほど。

 

つまりは、俺は急に意識が飛んだり吐血するようなことになったのは少女の毒のせいか。

アリスが言うには、俺にかかったバリア的な魔法は強力なものではないらしい。

ゆえに、散布された毒がバリアの許容限界を超えたのか。

それとも紅茶に混じった毒を摂取してしまったためかもしれないが、どちらにせよ、体を蝕む激痛は彼女の所業のようだ。

 

他人事のように納得しながら、反面「可愛い顔してやることエグいな」と少女にドン引きしていた。

だが、怖いのは毒だけではない。

ドア板の残骸は、人間にできる所業ではない。

彼女も立派な、しかも見かけによらず結構な力を持つ妖怪のようだ。

 

「幽香」

未だに俺の体を支える少女に目を向ける。

俺は分身をしているから問題はないが、消えてしまうとこの場に幽香が残される。

「逃げろ」

「あら、ふふ」

 

俺の心境とは裏腹に、幽香はあまりにも暢気にクスクスと笑った。

彼女の様子に目を見開くと、そっと床に寝かされる。

「心配無用よ」

そうして立ち上がった幽香に、襲撃者の少女は狼狽えた声を上げる。

 

「な、あ、あんた、毒は?」

……あれ。

確かに、言われて見ればそうだ。

守護魔法のかかった俺ですらこうなのに、幽香には毒の影響が全く見られない。

 

「いいじゃないそんなこと」

その場でただ一人、いつものように優雅な空気を纏わせながら、幽香は首を傾げる。

「それより、貴女お名前は?」

 

ふいの幽香の問いかけに、少女は思わず後ずさった。

「メ、メディスン・メランコリー」

あ、答えるのか……。

予想外に素直な対応に拍子抜けしていると、幽香は不用意にメディスンへ近づいていく。

 

ちょっ。

「ゆうか、危、ない」

掠れた声を出すも、幽香は振り向かない。

 

「や、やろうっていうの!?」

自分がしかけたくせに勝手にたじろいでいるメディスンだが、転がったドアの残骸は彼女の所業によるものだ。

ただものではないと評されている幽香だが、メディスンのその矛先が向くと無事ではすまない。

にも関わらず、幽香は普段の足取りでメディスンに近づきつつ、頷いて見せた。

 

「ええ。でも」

そうして、

「外で遊びましょうか」

 

衝撃音。

突風に俺は思わず目を閉じた。

 

……?

そうして瞼を開くと、先ほどと同様の幽香と……あれ?

メディスンが消えた?

 

急な事態に混乱している俺に、いつもの、雑談をするときと全く同じ様子で幽香は振り向いた。

「あ、悠基」

 

目を見開く俺に幽香は小首を傾げて微笑む。

「また連絡を送るわ」

その、あまりにも悠々とした佇まいと、あまりにもいつも通りの仕草と、あまりにも頼もしすぎる笑顔に、俺は一つの事実を悟る。

 

 

あ、普通に大丈夫そうだ。

 

 

もはや声を出す元気すらないほど衰弱した俺は、虚ろな顔で頷いてみせる。

幽香は頷きで応じると、視線を正面に向けて家の外へ歩き出した。

 

そんな彼女の背中を見納めに、俺は意識を溶かしていった。

 

 

 

後に、幻想郷中で花々が咲き乱れるこの異変は、「花映塚異変」と呼ばれることとなる。

 




章タイトルを「そんな彼とXXX」から「そんな彼と花映塚」に変更致しました。
いやまあタイトルの割りに全く異変とは関係のないお話が20話以上も続いておりますが、「ほのぼの」を謳っている割になんかほのぼのしてなくない?みたいな軸がブレッブレの拙作ですので、その辺りはゆるーく流してくださいすいませんお願いします。

というわけで、主人公、初めての異変です。
初めてといってもこの異変の性質上なにか急展開が起こると言うわけでもなく、多分次回以降も普通に主人公の日常風景となるでしょうけど。
異変についても完全な原作準拠、とはならずオリジナル展開が含まれます。
メディスンが早い段階でいきなり幽香を襲撃したり、とかですね。
そしてメディスンは初登場にして大ピンチなわけですが、まあ一応「ほのぼの」を謳っているので惨たらしいことにはならないはずです多分。


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三十六話 妖怪とのつきあい

里の外へ出たからといって、道を外れさえしなければ妖怪に襲われる可能性はグンと下がる。

まあ下がると言っても無くなるわけではないので、襲われるときは襲われる。

人里を出るとしても自己責任と覚悟が伴うわけだ。

もちろん、道を外れれば妖怪やら妖精やらのエンカウント率はたちどころに上がり生命の危険を伴う。

 

故にわざわざ里の外に出た上に更に道を外れる里の住人というのは、だいたい三種に分類される。

頭がおかしいか、自殺志願者か、妖怪に対抗できる力を持っているか。

ちなみに俺は里の中での謎の過大評価によって人々からは「妖怪に対抗できる」にカテゴライズされている。

残念ながら、能力で身体的には無事に済むとは言え、そこらの妖怪に襲われまくってそれでも調査を続けている身からすると、「頭がおかしい」が相応しい。

敢えてそれを主張するのもなんともな話なので黙っていることにしているのだが。

 

そんな余談はさておいて、今日も今日とて道を外れ、雑木林に入って早十分。

「…………来た」

最近トラウマと化した、ブーンという幾重にも重なり不快感を催す音が耳に届いた。

 

振り向けば、鬱蒼とした木々の合間、離れた場所に黒い靄のような塊。

怖気と寒気で鳥肌を立てながら俺はそれを見据えた。

靄はすでに俺の存在に気付いていて、俺と距離を詰めようとしている。

 

とりあえず開けた場所に移動するか、と俺は駆け出した。

その靄も俺との距離を詰めようとスピードを上げたのか、背後で発せられる音は次第に大きくなっている。

振り向けば既にその靄の実態が分かるほどに近づいていた。

 

突如として俺を襲う靄の塊。

しかしてその正体は。

 

蟲。

 

夥しいという表現があう無数の虫の大群だった。

生理的嫌悪感で背筋を冷たくしながら、俺はペースを上げる。

周囲は鬱蒼とした森林地帯で走りにくいことこの上ないが、幸いある程度地形を把握しておいた俺の知識が正しければ、目的地はもうすぐのはずだ。

 

――殺気!

 

走りながらも周囲の警戒を怠らなかった俺はその気配に気付いた。

本当のことを言えば殺気を感じたとかではなく、周囲に視線を動かしていると俺に急接近する姿を見つけただけなのだけど。

 

「とぉお!!」

「うぉわ!!」

初見では回避不可能とすら思われる、某特撮ヒーローを思わせる鋭いキックが飛んできた。

俺は慌てて前に転がりその攻撃を回避。

背中に木の根のコブが当たってけっこう痛いが、あのキックをもろにくらうよりは百倍マシだ。

実際に鋭いのを一発、鳩尾にうけて吐血するくらい悶絶した経験があるから間違いないし洒落にもならない。

 

俺は慌てて立ち上がりつつ、襲撃者の姿を確認することもなく再び走り出す。

「あはは!よく避けたわね人間!」

蟲の羽音に混じる少女の声。

「来たなリグル・ナイトバグぅ!」

走りながらヤケクソぎみに応じると、「およ?」と間の抜けた反応が返ってきた。

 

「私、あなたに名乗ったかしら?」

「こっちは調査済みだよ!」

虫たちの操り主であるリグルの声に俺は叫ぶように応じた。

 

背後の蟲の気配はどんどん色濃くなっていく。

初めてやつらに襲われたときなど、一瞬パニックになりかけながら接触される前にさっさと分身を解いて逃げおおせたのだが、二度目はリグルの奇襲に悶絶しているところを多量の蟲に覆い尽くされかけた。

その時もぎりぎりなんとか分身を解くことが出来たものの、鋭い蹴りもろとももはやトラウマな存在になっている。

 

冬場は大人しくしていたらしい彼女の存在は最近知ったのだが、俺にとってはこのリグル、目下最大最悪の天敵といっても過言ではないのである。

だからこそ、彼女はここで超えねばならない壁なのだ。

さっさと能力を解いてこの場を離れたくなる衝動にかられながら、それでも今回はそうはいかないと俺は自分を奮い立たせる。

 

「そのくせ襲われてくるなんて、あなたとっても変な人よね!」

「やかましい!!今に見てろよ!!」

「へえぇ~?あなたに何が出来るって言うの?」

明らかに俺をおちょくっているリグルの物言いだが、俺は負け犬の遠吠えよろしく威勢がいいのは口だけだ。

全力で逃げているので格好もつかないどころか普通に格好悪い。

 

が、いつまでも彼女に襲われてばかりの俺ではない。

今日はとっておきの秘策を用意したのだから。

 

急速に羽音が迫ってくる気配。

同時に木々の合間に目的地が、もうすぐそこまで見えていた。

 

ぶぅぅぅぅうううん、という強大な圧迫感に、俺は最後の最後とばかりに全力で走る。

そして、

「うおぉ!!!」

鬱蒼とした森を抜け、開けた場所に出た俺は、頭のすぐ後ろに迫った蟲たちの羽音にホーム

ベースに滑り込むプロ野球選手顔負けのスライディングを見せる。

 

頭の上を不吉な音が通り過ぎていくが、なんとか目的地に到着したようだ。

肘を派手に擦りむいているのでスライディングは全然見事じゃないが、まあゴールはゴールだ。

 

俺の頭上を通り過ぎた虫の大群は、慣性に従うようにその場を旋回する。

肘の痛みを気にしつつも、俺は急いで立ち上がりつつ蟲たちから距離をとるように開けた場所を小走りに移動した。

 

まあ、開けた場所と言っても、

 

「どうやら、行き止まりみたいね」

「ッ、ハア、ハア」

追いついたリグルが不敵な笑みを浮かべる。

 

一方は少々登るには骨が折れる程度には高い崖が聳え立ち、リグルの言うとおり俺はそこに追い詰められる形になっているわけだが。

「今日はけっこう逃げたじゃない。ま、無駄な足掻きってやつなんだけど」

「……それは、ッハア、どうかな?」

全力疾走の直後で息が上がったままの俺は、それでも不遜な目をリグルに向けた。

 

「ふふーん諦めが悪いのねえ」

俺の態度をはったりと受け取ったのか、リグルは全く警戒した様子を見せない。

黒い靄にすら見えた虫たちは俺の退路を絶つように周囲に展開している。

 

「でもでも、これが年貢の納め時ってことよね?三度目の正直よ!今度は逃がさないわ!」

こっちは逃げようと思えば逃げれるんだけどな。

とはいえ、今まで散々な目に合わせられた身分としては、憎らしくすら感じる笑みだ。

今回に限ってはその油断が命取りとなることを教えてやろう。

 

「さあ、覚悟なさい!」

リグルが腕を翳し、周囲が蟲の羽音の合唱に埋め尽くされる中、俺はリグルを真っ直ぐ睨みながら、いつもは木刀を携える腰紐に固定させた小袋に手を伸ばしていた。

「覚悟すんのは……」

 

次の瞬間、その袋に手を突っ込んで中身を一掴みする。

その動作を目にしたリグルが目を見開いた。

「そっちだ」

冷静な口調とは裏腹に、ありったけの気合を込める。

 

「皆!待って!」

リグルが慌てて警戒を促すも後の祭り、俺の攻撃は既に止まらない段階に来ていた。

「チェストぉ!!」

昔どこかで見た武道家よろしく、鋭い掛け声とともに右手から放たれたそれは、放射線を描きながら周囲に広がった虫たちに降り注いだ。

 

森の中でこの手を使わなかったのは、投擲物が周囲の木々に阻まれるとその効果が半減するためだ。

だが、開けたこの空間ならば、広い範囲にばら撒くことができる。

そのためにここに逃げ込んだのだ。

 

「うわ、うわわ」

とっさに頭を庇い、まばらに降り注ぐ俺が投げたものに驚き慄くリグル。

こうして見ると普通に子供らしくて可愛らしいものだと場違いな感想を抱いた。

 

まあ、とはいっても、

「あ、あれ?」

予想以上に軽い感触に拍子抜けした様子で、リグルは頭を上げた。

 

地面にまばらに転がった鮮やかなソレを目にし、彼女は目を丸くしながらその一つを手に取った。

手のひらで転がるものを摘み覗きこむ彼女は、戸惑った様子を見せる。

「……こ、金平糖?」

 

リグルがまじまじと見つめているのは、彼女の言うとおり紛う事なき砂糖菓子の金平糖だ。

とある商家から買い付けたもので、俺にとっては懐かしの甘い味は、人里では根強い人気を誇っている。

 

「な、なんで……あ!」

困惑の色を浮かべる彼女は、次の瞬間声を上げた。

「み、皆!食べちゃ駄目だ!」

 

リグルが警告を発するも後の祭り、広い範囲にばら撒かれた砂糖の塊に、大半の蟲が群がっている。

「毒が入ってるかも――あ、あれ?」

だが、金平糖が全て消化されても虫たちに変化は無い……ていうか毒て。

つい先日メディスンと名乗る少女にえげつない攻撃を受けた俺としては額に青筋が浮かぶ発想である。

 

とはいえ、リグル事態は蟲を操ると言う性質のためか人々に嫌われる存在だ。

もしかしたら、毒を盛られた経験でもあるのかもしれない。

「……本当に毒が混じってない?」

手に取った金平糖を一舐めして、リグルは困惑の色を濃くする。

 

「そんな酷いことしないって。ほら」

リグルの反応に嘆息しつつ、俺は懐から取り出したものを放り投げる。

「ほわっと……これって」

「鼈甲飴だよ」

 

包装紙に包まれた飴玉を見てリグルは更に目を丸くした。

「安心しな。そっちも毒は入ってない」

「な、なんで……?」

リグルとしては完全にわけが分からないだろう。

 

なにしろ追い詰められながらも不敵な笑みを浮かべる男が取っておきとばかりに取り出したのが、なんの変哲もない砂糖菓子なのだから。

俺だってそんな光景を見たら困惑する。

すごく。

 

まあそんなことはさて置いて。

気をつけてリグルを観察していた俺は一瞬の変化を見逃さなかった。

金平糖を拾い上げた時の、そして鼈甲飴を受け取った時の、リグルの瞳に浮かんだ輝きを。

 

「リグル、取引しようか」

「え?と、取引?」

急な切り出しにリグルは眉を顰める。

 

「甘いの、好きなんだろ?」

「……な、なんでそれをっ」

あからさまな反応だ。

絶対に駆け引きとかできなさそうだな。

「こう見えても顔は広い方でね」

 

ちなみに情報提供者は、未だにケーキ目的に近づいてきながら「たまにはお肉も食べたいわね」とか物騒な視線を向けてくる宵闇の妖怪である。

「で、単刀直入に言えば、今後俺を襲わないことを約束すれば、代わりに俺も里の外で会うたびにこれを提供する」

俺はまだ中身の残った金平糖袋と鼈甲飴をリグルに向かって掲げた。

 

つまるところ、リグルに対するとっておきの秘策というのが、菓子を貢いで買収するという手だった。

秘策といっておきながら完全に下手に出ているのだが、妖怪と対等に戦えるわけない俺としては、これが精一杯だ。

というか戦うとか無理。

リグルは蟲を操る妖怪だし、生理的に無理。

 

更に言えば彼女の蟲による索敵網は群を抜いており、道を外れればかなり早い段階で俺を発見してくるので、かなりの脅威となる。

そんな彼女と停戦協定を組めるのなら、これくらいは安い。

 

「な、そ、そんなことで私をどうにかできると思ってるの?」

件のリグルだが、視線が飴玉に釘付けになっていて発言になんら説得力がない。

今時こんなに心境が顔に出るようなやつはいないだろう。

…………いや俺もここまで酷くはないはず。

 

「そ、そうよ!それに今あなたを襲っちゃえば、飴も手に入って一石二鳥じゃない!」

はっ、と明暗が浮かんだという様子のリグルに俺は頷いた。

「確かに今回だけはこの飴を手に入れることはできるだろうさ。でも、それで終わりだ。次に俺を襲ったとして、もうこれは手に入らない」

「何言ってるの?あなたはここで終わりなんだから、次もなにもないじゃない。そうよ。最初から話を聞く必要なんてなかったわ」

 

「リグル、お前だって俺の評判は聞いたことあるんじゃないか?」

唐突な問いかけに「話を聞く必要はない」と断じていたのにそのことを一瞬で忘れたのか、リグルは困惑した様子で首をかしげた。

「評判……?ああ、弱いくせに何度も妖怪に襲われにくる頭のおかしい人間ね」

妖怪の間じゃそういう評価だったかー……。

否定できないのが悲しいが、今は気にしないでおこう。

 

「頭がおかしい云々は置いておいて、こんなに弱い俺が何度も何度も襲われてるっていうのに、こうして今も怪我一つなくお前と話している」

「……ハッ!もしかしてお兄さんってすっごく強い!?」

「弱いって言ったばっかり!」

さっきから薄々思っていたが、このリグルちょっと頭が弱い……いやこれ以上は止そう。

 

俺は咳払いをして頭の中で沸いた不憫な考えを振り払った。

「ともかくとして、さっきお前が『三度目の正直』だって言ってたけど、今回もそれはない。いつもみたいに俺は消えちゃうし、これからもその辺を歩いてるから」

「む……あなたは弱っちいけど、逃げ足だけは凄いらしいわね……」

 

「そ。だから今日は俺を襲ったところでこれしか手に入らないわけ。でも、今後俺を襲わないって約束したら、これから会うたびに飴が手に入る。悪い取引じゃないだろ?」

「……毎回?」

「まあ、毎回だな」

善処する、と心の中で付け足しておく。

 

リグルは小首を傾げて上目遣いに俺を見つめてくる。

「一生?」

一生たかる気かコイツ!

だが、ここで返事を渋るとリグルの気が変わるかもしれない。

仕方ない、と俺は渋面で頷いた。

「……ああ、分かった」

 

「やったあ!!」

俺の返事にリグルは思いっきり飛び跳ねた。

ほっと俺は安堵する。

どうやらこれでリグルに阻まれて成果の芳しかったフィールドワークを再開できそうだ。

 

気のせいか周囲の虫たちの羽音も、リグルと同調するように陽気に聞こえるから不思議なものだ。

その中で全身で喜びを表すリグを見ると、先ほどと打って変わってなんだか癒される光景に……いや、やっぱり虫が多すぎてあんまり癒されない。

 

「お兄さん!これからよろしくね!」

「ああ。岡崎悠基だ。よろしく」

「うん!よろしく悠基!」

そっと右手を出すと、意気揚々とリグルはその手を握った。

「さ、皆も悠基に挨拶して!」

 

「え、ちょ、気持ちは嬉しいけど近づくのは数が多いからやめてリグル手を離して逃げれな無理無理無理無理うわあああああああああああ――」

 

 

 

……かくして、俺はまた里の外に知り合いを作る次第となったわけである。

代わりにそれなりの数の飴を用意する必要が出来たわけだが。

これって必要経費で落ちるかな……。

 




作中時間はまだ花映塚異変が継続しています。
今回は永夜抄1ボスのリグルとのお話。
1ボスといっても主人公には勝てる見込みが皆無のお相手です。
主人公は最後豪い目にあってますが、会話事態はほのぼのとした話になって私的には非常に満足です。


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三十七話 巫女と魔法使い、動く

「慧音先生。本当にお世話になりました」

「ああ。お春、無理はするなよ」

礼儀正しく頭を下げた寺子屋生徒の春に、聖母と見紛うばかりの優しげな微笑みを浮かべる慧音さん。

そっと頭を撫でられて、春は頬を染めながら嬉しげにはにかんだ。

 

傍目から見る俺としては普段なら癒される光景なのだが、今日ばかりは寂しさが勝つ。

「ゆーきせんせー……」

「おうおう。暫くはお別れだな。伍助」

涙ぐむ春の弟の伍助を、俺も慧音さんを真似るわけではないが、やれやれと頭を撫でて宥めた。

 

寺子屋では卒業と言う制度はないらしい。

農家によっては畑を耕したり種を撒き苗を植え、あるいは収穫などを行ったりと、作物によってバラけはあるものの、既に多数の家が農業を再開している。

伴って、それらの家の子どもたちは仕事を手伝う必要があり、寺子屋に通う暇がなくなってしまうのだ。

暖かくなり始めた時期から減り始め、既に半数以上の生徒が来なくなり寂しく思う寺子屋では、春と伍助の姉弟が今日ここを出て行く。

 

伍助はまた秋の収穫期が終われば寺子屋に通うのだろうが、今年で十二を迎える年長組の春は、もう寺子屋の生徒ではなくなる。

それに、彼女に関して言えば、この寺子屋を出て行く時期というのは別の意味合いがある。

 

「伍助、みっともないよ」

「うぅ~」

口調は厳しく、されど優しげな声音で春が弟の元に近づいてきた。

 

「だってぇ~」

普段は元気一杯やんちゃな盛りだと言うのに、今は涙を溢れさせて伍助が春を見上げた。

「お別れなんだよ~」

「そうね」

「さびしいよ~」

「……うん」

 

「そう気を落とすな。今生の別れではないのだ。寂しくなったらまたここに来なさい。いつでも歓迎しよう」

「う……けーねせんせー!」

我慢の限界が訪れたのか、歩み寄ってきた慧音さんに伍助はぼろぼろと大粒の涙を流しながら抱きつく。

 

「……まったく」

おんおん無いている伍助を見る春の呟きは、どこか寂しげだが拗ねたようにも聞こえて、俺は思わず苦笑する。

「意地張ってないで、お前も行っていいんだぞ」

「だ、大丈夫ですっ」

頬を朱にしながら、春は頬を膨らませた。

 

「別にこんな時まで意地を張らないくてもいいって」

「そんなことないですってば、もう」

 

ジト目になる春だが、嘆息して気を取り直すと次第にその顔が真剣なものなっていく。

「悠基先生も、ありがとうございました」

「ああ」

大人の対応をする春に俺は笑い、そして逡巡した。

 

「なあ、お春」

「はい、先生」

「…………困ったことがあったら、いつでも相談に来いよ」

若干の迷いを込めた問いかけに、お春はどこか儚さすら感じさせる笑みを浮かべた。

 

「はい……どうか、お元気で」

「……うん。元気で」

 

結局、彼女は俺の問いかけに応じることはなく、寺子屋を去っていった。

 

 

* * *

 

 

寺子屋を出た春は、ある商家に嫁ぐ次第となっている。

霧雨道具店ほどではないが、それなりに規模の大きい商家だ。

農業を営む春の家の取引相手で、実質彼女の家の収益の殆どはその商家による仲介がほとんどらしい。

まだ十二に満たない少女が嫁入りなどあまりにも早すぎると思ったが、明治時代から文化的な進歩が乏しい幻想郷では珍しいことではないらしい。

 

春は歳の割りに聡い子だ。

その縁談を春の意志で断ると、彼女の家の益に影響があることも分かっていた。

三十路を手前にし跡継ぎのいない若旦那にとって、この縁談がどういう意味を持つかも春は理解していた。

だから、彼女は彼女自身の意思でこの縁談を受け入れたらしい。

 

それでもお春は間違いなく子供だし、俺にとってはかけがえのない生徒の一人だ。

その商家が、立場を利用しまだ年端もいかない少女を囲おうという下種だったのなら、断固としてそれを阻止したし、そもそも慧音さんがそんな悪行を見逃しはしない。

 

だが、春の婿となる商家の若旦那は、全くの善人だった。

実のところ、その男と商家には、人里に住み始めたころから幾度か世話になっている。

十五以上も歳の離れた少女を嫁に迎えることに対して、その男はおそらくは抵抗はないのだろう。

跡継ぎのことも考えれば、彼の立場ではおいそれと無下に出来る話でもない。

 

それでも彼は、少女が子供であることも、子供でありながら聡明であることも、聡明であるがゆえに春が自分を押し殺してまでこの縁談を受け入れていることも考慮していた。

『悪いが、彼女に……お春に、それとなく尋ねてくれないか?』

先日、道端で出くわした若旦那は、挨拶もそこそこに神妙な面持ちで俺に切り出してきた。

『尋ねるって、何をですか?』

『もし彼女が、この縁談を嫌がっているなら……いや、少しでも迷いがあるなら教えて欲しいのだ』

 

『……それを聞いてどうするつもりなのですか?』

話をしている時の俺は、若旦那のことを、大事な生徒を立場を使って囲おうとしている下種だと思っていた。

睨むような目つきに険のある態度と、今にして思えばかなり失礼な態度だったのだが、若旦那は俺を真っ直ぐ見据え目を反らさなかった。

 

『無論、縁談の話を白紙に戻すのだよ』

『…………え?』

『俺もそれとなく問うてはいるんだがな、いかんせん当の相手には言い辛いことだろう』

 

若旦那は自嘲気味に嘆息した。

『彼女はまだ子供。こんな大人の事情に利用されるのはあまりにも不憫だ。だからこそ、俺はこの縁談に関しては彼女の意思をなによりも尊重してやりたい』

 

『……いいんですか?貴方の立場を考えたら――』

反対派だったくせに、いざその張本人から願っても無い話を聞いた俺は思わず問いかける。

『俺はな、悠基よ』

若旦那は、俺の言葉に被せるように首を振った。

『死んだ妻に、恥じぬ男でいたいのだ』

 

聞いた話だと、若旦那は十年ほど前、幼い頃から付き合いのあった妻を病気で亡くしたらしい。

『子供を守ってやることも出来ないような、そんな腑抜けではアイツに愛想をつかされてしまうからな』

そうして眉根を下げて微笑む彼は、どこか寂しげで、しかしどこか吹っ切れた顔つきをしていた。

 

…………善人どころか超絶イケメンだこの人!

 

 

 

だが、そんな彼の気遣いも空しく、結局今日まで、彼女の口からその意志を聞くことは無かった。

彼女が縁談を断りたがる意思を示さないというのなら、部外者の俺も慧音さんも口を出すわけにもいかない。

どこか憂いを帯びた顔を見せるようになった春を、俺たちは見送るのみとなった。

 

 

 

* * *

 

 

 

「なんだかなあ…………」

縁側に腰を下ろし、なんともなしに空を見上げた俺は、もやもやとした心情のまま呟いていた。

 

「おうおう、朝っぱら辛気臭い顔だな」

ふいに声を掛けられた俺は、胡乱な目を声の主に向ける。

「やあ……魔理沙」

「気の滅入る顔で挨拶されても嬉しくないぜ」

苦笑する魔理沙は箒を近くの柱に立て掛けると、俺の隣にどっかりと腰を下ろした。

 

「何か悩み事か?」

「まあね。といっても、俺が悩んでも仕方ないことなんだけど」

思わずため息を零すと、俺の隣、魔理沙が座る方とは反対側に湯のみが置かれる。

 

「ここに来た時からずっとこの調子なのよね」

「ああ、ありがとう霊夢」

振り向くと、盆を持った霊夢は俺を見据えたまま呆れたように息をついた。

 

お春、伍助の二人が寺子屋を出た翌日、俺は博麗神社に訪れていた。

彼女のために何か出来ないかと考えたものの、春の口から彼女の意思を聞けなかった俺には結局のところ、いるかどうかも分からない神様に彼女の幸せを頼むくらいしか浮かばなかった。

 

そのついでに訪れた博麗神社の母屋で、なんだかんだと霊夢は茶を淹れて歓迎してくれたわけである。

萃香が見当たらないが、禁酒が解かれてからは方々をふらふらしているらしい彼女がここにいないのも決して珍しいことではなかった。

 

「よ、霊夢。私の分の茶はないのか?」

「自分で淹れなさい」

ふてぶてしく要求する魔理沙に霊夢はピシャリと言い放つ。

「ちぇー」と唇を尖らせる魔理沙の隣に腰を下ろしながら、霊夢は自分の湯のみを啜った。

博麗神社母屋の縁側に、三人並んで座る形となった。

 

「ちょっと話を聞いた感じだと、どうやら知り合いの子供が嫁ぐのが納得いかないみたいよ」

霊夢の非常に端的な状況説明を聞いた魔理沙が俺を見てたじろいだ。

「……まさか、悠基、お前そのなりで子供に欲情してるのか」

「誤解にしても言葉を選べ!……うちの寺子屋の大事な生徒ってだけだ」

 

「ふむ。生徒の一人と分かっていながら一人の女性としても見てしまうと」

「そういうのはいいから」

若干声のトーンを低くしつつ魔理沙にジト目を向けると、彼女は「スマンスマン」と苦笑いを浮かべる。

 

「しかし、縁談ねえ。悠基にはそういう話は来ないのか?」

「……なんでそうなる」

唐突に捻じ曲げられた話の方向性に、俺は半眼になって魔理沙を見た。

 

「なあに、せっかくだし聞いてみたいもんだぜ。なにしろ私らの周りじゃあ女が殆どで、色恋のいの字も聞こえやしない」

「霖之助さんがいるじゃないか」

 

「香霖はだめだ」

「なんで?」

首を傾げる俺に、魔理沙は口端を上げた。

「あいつとは付き合いは長いんだが、今までこれっぽちもそういう気配がない。つまらん」

「つまらんて……しかし、魔理沙も案外そういう話には興味があるのか」

 

「何言ってんだ。私だって年頃の乙女だぜ。そりゃあ恋バナの一つや二つや百、興味あるに決まってる」

「ただの暇つぶしって魂胆が見え見えなんだけど」

「む。嘘は言ってないんだがな」

ていうか恋バナて……たまに思うけど、どこからそんな言葉仕入れて来るんだ。

そんな疑問はさておいて、俺は嘆息しつつ魔理沙に渋顔を見せる。

 

「別に魔理沙が喜ぶようなネタはないよ。俺としても悲しいことに」

茶化すように肩を竦めると、我関せずなすまし顔で頬杖をついていた霊夢が呟いた。

「あら。最近アリスに魔法を習ってるらしいじゃない。二人っきりで」

最後の一言がやけに強調されていた。

 

その言葉に魔理沙が目を輝かせる。

「私もその話は聞いたぜ。アイツは別に何もないとシラを切ってたが……」

「ないないないない。アリスとは何もないって」

俺は慌てて首を振った。

 

強いて言えば、上海蓬莱の観察や、魔法を教授しているとき、たまーにアリスとの距離が思いがけず近いときがあったりしてドギマギするだけだ。

それだけ。

それだけなんです本当に。

 

「んんー?ちょっと動揺してるな?」

「何もないのは本当だって。そもそも二人っきりじゃなくて上海と蓬莱もいるから」

「あいつらは人形だからノーカンだろ?」

「いやいや、あの子たちはたまにアリスの意図しない行動をとるんだ。これは魔法としてはかなり異例らしくてな――」

 

「確かにその話は興味深いが、今はこっちの話が優先だ」

意味ありげに笑う魔理沙の様子からして、どうやら露骨に話題を反らそうとしていたのはバレバレだったようだ。

 

しかし、と俺は胸を反らして断言する。

「ま、叩いたところで埃一つ出ないんだけどな」

「なんで自慢げなんだか」

せやな。

 

「そういえば咲夜から聞いたんだけど」

ふと、霊夢が思い出したように視線を俺に向ける。

「……なにを聞いたって?」

 

「貴方、レミリアと抱き合ったんだって?」

「……は?」

絶句する俺に反して、魔理沙は目を見開いて飛び退いた。

「うお!?マジか」

 

「しかも半裸で」

「破廉恥だぜ!」

霊夢が付け加えた一言に、わざとらしく顔を手で覆う魔理沙だが、指の間から見える目が弓なりになっている。

面白くて仕方がないという顔をしていそうだ。

 

霊夢の言う抱き合ったとは、定期的に俺が紅魔館に訪れている際、施設を使用する対価としてレミリア様に血を捧げているときの光景だろう。

彼女は首から直接吸血することを好んでいるが、血を大量に零すので、俺は仕方なしに衣服が汚れないように上半身を肌蹴させているのだ。

決して抱き合っているわけではないし、喜んでその状況に甘んじているというわけでもないのだが……絵的にアウトなのは認める。

 

「語弊があるだろ!そもそも半裸だったのは俺だけだし」

ていうか、咲夜は主があらぬ誤解を受ける噂をわざわざ自分で吹聴したのか?

 

「半裸なのは本当なのか……あのレミリアにセクハラとは、なかなかやるな悠基!」

「ああああああああ違う!」

動揺しすぎて弁明する順序を間違えた。

頭を掻き毟る俺を、魔理沙がケラケラと笑った。

 

「ああ、そうそう。鈴仙が最近殿方と逢瀬したって噂を聞いたわ」

ポツリと霊夢が呟くと、魔理沙が「本当か!?」と嬉しげに振り向いた。

「え、そうなんだ」

と俺も驚いて見せる反面、霊夢のあからさまな話の切り出し方からして、嫌な予感しかしなかったわけだけど。

 

「相手は誰なんだ!?」

「さあ。でも聞くところによると、優男風の青年だとか」

「ほうほう」

「人里に住む人間だとか」

「ほうほう」

「鈴仙もしばしばその男の家に通ってるだとか」

「ほうほう」

「寺子屋に住んでる人だとか」

「ほうほう」

「半年前に迷い込んだ外来人だとか」

「なるほどなるほどー」

 

「その『隅に置けませんなあ』みたいなニヤニヤ笑いをこっちに向けるのやめろ」

逢瀬……とくれば、おそらく月都万象展の際の話だろう。

てゐが楽しげにその単語で鈴仙をからかっていたし。

通ってるというのは、置き薬の補充のための定期巡回のことだ。

 

魔理沙の態度に鬱陶しげに「しっしっ」と手を振るも、魔理沙は笑みを引っ込めない。

「いやいや悠基、こりゃあ問い詰める必要があるぜ」

 

「勘弁してくれ――」

「鈴仙にな!」

「あ、そっちか……いや、やめて差し上げろよ。あの子はその手の話に弱いんだから」

ほんっと面白いくらい過剰反応するからなあ。

 

「酒の肴が増えたな」

「そうね」

俺の言葉など聞こえなかったかのように頷きあう二人を見て、俺は嘆息した。

まあ、うん……ドンマイ、鈴仙。

『諦めてんじゃないわよ~~~』とジト目で睨まれる未来を幻視した。

 

「あーそういえばこんなことも聞いたわねえ」

「まだあるのか……!?」

そんな調子で霊夢が言いがかりにしても甚だしい噂を挙げて、魔理沙がそれに乗じて茶化す。

霊夢の話は完全なでっちあげではなく微妙に事実が盛り込まれているのが嫌らしい。

 

それにしても、こうして思い返せば、幻想郷に住み始めて増えた知人は女の子がかなり多い。

いやまあ、里の中でいえば男の知り合いだってそれなりにいるのだが、外で出会う人の姿をしている者は女の子の姿をしている場合が大半だ。

なにか理由でもあるのだろうか。

 

そんな疑問をふと抱いたとき、霊夢が新たな爆弾を投下した。

「そうそう、幽香とも付き合いがあるんでしょ?二人っきりでお茶する程度には」

「ほおお~~あの風見幽香とか?」

「……事実だけどさ」

 

魔理沙の質問攻めにほとほと参っていた俺はうんざりしつつ応じる。

「仕事の延長で付き合いがあるだけだ」

ついでに言えば、花の知識があるから話があうし、それ以上に穏やかで朗らかな彼女の人柄が接しやすいから仲良くさせてもらっている。

 

そんな幽香の家にメディスンと名乗る少女が急襲したのは先週の話だ。

最後に見た彼女の姿は、びっくりするほど頼もしかったわけだけど、それでも少し心配だった。

幽香が言っていた連絡は、まだ来ていない。

 

「元気にしてるかなあ……」

「まあ、死んではないでしょ」

「アイツにそんなことあるのか?」

ポツリと呟く俺の言葉に霊夢がすまし顔で応え、魔理沙がとぼけた様子で言った。

 

「で?幽香とはどこまでいったんだ?」

「……そういえば、幽香が言ってたんだけど」

再び口火を切ろうとする魔理沙の質問攻めから逃れるためか、話を逸らそうと意識したわけではないが、ふいに思い出した幽香との会話の内容が、俺の口から零れ出る。

 

「これって、異変なんだって?」

季節も場所も関係なく、相も変わらず咲き誇る花々は、博麗神社の周辺でも大量に広がっていた。

その光景を視界に捉えながら、俺は二人に問いかけていた。

 

「「………………」」

「……?どうかした?二人して固まって」

急に沈黙し固まる二人に、俺は首を傾げた。

何かまた誤解を受けるような発言でもしたのだろうか。

 

そして、数秒の沈黙の後、魔理沙が最初に口を開いた。

「そうか、その発想はなかったぜ」

「え?」

「確かに、言われて見ればこれって異変だわ」

「えー?」

 

二人して呟く魔理沙と霊夢を交互に見る。

「あの、まさかとは思うけど気付いてなかったのか」

「ちょっと野暮用が出来たぜ!」

「奇遇ね。私もよ」

 

「うお」

唐突に立ち上がった二人に驚いて俺は飛び退いた。

 

 

驚く俺の目の前で、交錯する魔理沙と霊夢の間に火花が散る。

「なあ、霊夢」

「なによ、魔理沙」

「勝負といかないか?」

ニヤリと笑みを浮かべる魔理沙に、霊夢も挑戦的な笑みを返した。

「受けて立とうじゃない」

 

「で、方法は?」

「そりゃあもちろん、どっちが先に」

「この異変を解決できるかってわけね」

 

なにやら勝手に盛り上がっている彼女たちに、俺はおずおずと立ち上がった。

「お、おい、二人とも」

「「悠基」」

「あ、はい」

急に名前を呼ばれ思わず敬語で応じる。

 

「後はよろしく!」

「留守番を頼んだわ」

言うや否や魔理沙は立てかけていた箒を手に取り、霊夢はどこからともなく幣を取り出した。

瞠目する俺の目前で、二人は呼び止める間もなく飛翔する。

 

「ちょ、勝手なこと言うな!」

我に返って声を荒げると、霊夢が振り返った。

「どうせ暇なんでしょ?」

「そ、それはまあ事実なんだけど」

馬鹿正直にたじろぐ俺を尻目に、霊夢は飛び去っていく。

 

「あ、お夕飯ごろに帰るから」

暗にご飯を作っておけという意味を込めた勝手な一言を残して。

 

「……っておいこら!霊夢!霊夢ー!」

我に返っても後の祭りだ。

ちなみに魔理沙は振り返ってもいない。

 

そうして、

「……おーい」

一人、間抜けな男が取り残されたわけである。

 

 

* * *

 

 

日が暮れかける黄昏前、お茶を飲んで一息ついた俺は、眺めていた空の彼方から、黒い衣服の魔女が近づいてくるのを発見した。

その遥か後方には赤い影も見える。

どうやら帰ってきたようだ。

 

……いやまあ、何時間もわざわざ二人を待っていたのかと言うとその通りなわけで、自分でもほとほと律儀すぎることは自覚している。

ちなみに二人のために用意している夕飯は、温かいものを食べてもらうために完成直前まで仕上げている。

俺は霊夢と魔理沙のおかんか何かか?と自問しながらも結局作ってしまうあたり……いや、もう止めとこう。

 

霊夢たちが危ない目に遭っていないかと身の丈に遭わない心配でそわそわとしていたのだが、単身で異変を解決すると名高い彼女らに対しては杞憂が過ぎたようだ。

 

「おう、魔理沙、おかえり――」

箒に乗って霊夢より先に到着した魔理沙を目に留めた俺は、やっと帰ってきたかと嘆息をこらえつつ出迎えようとする。

直後、衣服をぼろぼろに、顔を煤で汚した彼女の姿に絶句したわけだが。

杞憂じゃなかった。

 

「ただいまだぜ!」

「ま、魔理沙!?大丈夫なのか?」

「ま、唾でもつけときゃ問題ないさ」

お前は近所のガキか!

 

内心思わずツッコミを入れる俺に、魔理沙はご機嫌な様子で尋ねてくる。

「ところで悠基、飯は?」

「…………もうすぐ出来るから、とりあえず手を洗っときな」

「忠告に従うとするか。おーい霊夢!洗い場を借りるぜ!」

 

魔理沙に遅れて空から降りてくる霊夢は、魔理沙の言葉に「勝手にしなさいよー」と間延びした言葉を返す。

「おう、サンキューな!」

にこやかに満面の笑みを浮かべ、魔理沙は母屋の中へと入っていった。

 

どこまでも元気な彼女の後姿に思わずため息が零れる。

「まあ、大事ないならいいんだけどさ。おかえり、霊夢」

「ただいま、悠基」

 

俺の言葉に応じながら着地した霊夢も、魔理沙に負けず劣らずの惨状だ。

直視するには失礼に感じる程度な状態だったのもあって、俺は微妙に視線を逸らす。

 

「大丈夫か?」

「当然じゃない」

「でも、ボロボロじゃないか。怪我は?」

「ただの弾幕ごっこだってば」

俺の問いかけに、父親をうざがる思春期の娘よろしく、霊夢は鬱陶しげに応じた。

 

「それに、けちょんけちょんにしてやったわ」

「けちょんけちょんて……」

呆れて半眼になるも、霊夢は構うことなく疲れた様子で自分の肩を叩いた。

 

「ご飯はできてる?」

「もうすぐだよ……それにしても、こんなにボロボロになるなんて、誰と戦ったんだ?」

単身で異変を解決できるほどの実力を持つとされる霊夢と魔理沙だが、この様子からして、それなりに苦戦したようだ。

 

そんな俺の疑問に、霊夢は嘆息しつつ答えた。

 

 

「閻魔よ」

 

「へえ、閻魔…………………………………は?」

 

 

思考が止まり立ち尽くす俺に、霊夢はどこか誇らしげに一言付け加えた。

「あ、もちろん勝ってきたから」

 

 

 

 

 

…………血の気が引いた。

 




前半はオリキャラの設定を掘り下げてあからさまに何か起こすよ的なお話。
中盤は主人公二人にほのぼのと翻弄される主人公のお話(ん?)。
そして後半は霊夢と魔理沙がいよいよ異変解決に乗り出しサブタイトル回収するお話でした。
でもって終わらせてきました。


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三十八話 逃げた先には

里の外に出るのも慣れたもので、仕事上の都合もあれば随分と私用で出がけることも多くなった。

リグルとの約束で今後は毎回砂糖菓子を持つ必要が出てきたため、懐事情的にはダメージはあるもののそれほど大きくは無いだろう。

妖怪の山に出向くのは妖怪調査が目的の場合なのだが、今日は全くの私用、それも目的地は妖怪の山ですらない。

以前一度だけ訪れた場所を、その時の記憶を元に道を辿っていたつもりだったのだが……。

 

「ハァ、ハァ、ハァッ!」

 

俺は全力で山道を駆けていた。

どこで道を間違えたのか、妖怪の山の麓、天狗たちの領域に入らない程度の位置を迂回しているつもりが、天狗の支配領域に気付かぬうちに足を踏み入れていたのだ。

周辺の景色からそのことを察した俺は、彼女たちに見つかる前にと全力で離脱を試みている、のだが。

 

猛然と木々の合い間を縫いながら荒い息を野放しに四肢を駆り立てる。

鬱蒼と茂る木々が開けた一瞬、俺は空を仰ぎ見た。

 

「げっ!!」

やっべえ、いる。

全力疾走に伴う汗とはまた別種の汗がにじみ出る。

 

空に見えるその姿。

もはや見慣れた純白の翼。

白に加えて赤と黒を貴重とした装備。

左手に円形の盾を、右手に刀剣を携えて。

妖怪の山を守り、領域を侵す者に問答無用の制裁を与える白狼天狗の姿が、俺の直上数十メートルの位置にまで迫っていた。

 

あの刀剣に何度殺され、あるいは殺されかけたか。

いつも分身状態で襲われている分実質的な被害はなく済んでいるのだが、妖怪を種族分けして統計を出すなら、白狼天狗は俺の殺害数断トツの一位に君臨している。

リグルとはまた違った意味での天敵なのである。

……まあ、彼女たちは領域を侵している俺を事務的に処理しているだけなので、悪いのは俺なのだけど。

 

木々の合い間を抜けながら、切り立った地面をヤケクソで跳び下りる。

一般住宅の二階と同じくらいの高さから落下しつつ、運よく足を崩すことなく着地に成功した俺は、駆け出しつつも再び空を見上げる。

 

「うげ」

既にこちらを見つけていたらしい白狼天狗とばっちり目があった。

つまるところ、それが分かる程度の距離まですでに接近されていたわけである。

もはや逃げ切れない。

 

鋭い眼光でこちらを睨むその顔に、俺は悪態をつきたくなった。

「またか!」

 

何度も白狼天狗に襲われている内に、次第に彼女たちの見分けがつくようになってきた。

一貫した服装をしているが、その手の得物は刀剣のみならず薙刀剣や槍などの長物を扱っている。

装備と同様に彼女たちの特徴を見ても、どこか温和な顔だったり、敵意剥き出しだったり、陽気な雰囲気を漂わせたりと千差万別だ。

そんな彼女らの中でも、一際怜悧な眼光を宿し、厳しい顔つきをした一人の白狼天狗が、今正に俺に急接近している白狼天狗の少女である。

 

もはや見知った顔だ。

なお、名前は知らない。

 

剣呑とした気配を纏う彼女の剣術は俺に一切の抵抗を許さない。

が、彼女が恐ろしいのはそれとはまた別にある。

 

天狗の哨戒ルートを警戒しようが、地を這って木々や茂みを隠れ蓑にしようが、風下を動いて臭いを残すまいが、高確率でいの一番に俺を発見し襲い掛かってくる。

それが彼女なのだ。

驚異的とも言える発見速度と見敵必殺問答無用の攻撃姿勢。

あんなのが哨戒しているとあっては、迂闊に山に近づけない。

 

それでもって、もはや両手の指では数え切れないほど彼女に斬り殺されかけている俺だが、今のところ彼女と交わした言葉はただの一言。

 

『貴様、何者だ』

初めて会った時、突如として彼女は上空から舞い降りてそんな言葉を投げる。

俺は瞠目しつつも緊張した面持ちで会釈した。

『あ、どうも。俺は』

『人間か。死ね』

 

これが彼女との唯一の言葉のキャッチボールである。

……成立してないけど。

 

とまあそんな具合に、殺伐とした、非常に一方的な交流が続いているのである。

 

ゾクリと背筋に奔る感覚に、俺は完全な直感で、走る勢いそのままに前に転がった。

風切音が至近でしたと同時、幾束の髪が切断される。

上空を飛んでいるのを視認したのも束の間、僅かな間に既に彼女が刀剣の間合いまで迫っていたのだ。

自分の首が飛ぶ光景を想像しかけて鳥肌を立たせながらも、俺はすぐさま立ち上がり木々を障害物に逃げる。

 

背後から翼を畳ながら追ってくる気配。

さすがに木々が鬱蒼と茂るこの場所では飛行は困難らしい。

が、空中はもちろんのこと、地上でも彼女は俺に悠々と追いついてくる。

速い、というよりもどちらかと言えば人間である俺が遅いだけだ。

天狗の下駄の音であっという間に距離が詰まるのが分かる。

 

肩越しに状況を見る。

刀剣が再び降られる瞬間だった。

その刃の軌道は、やはり俺の首。

それを悟りつつも、間に合わなかった。

 

――っ!?

唐突に視界が揺れる。

足元に走った衝撃。

木の根か何か、とにかく足を取られたらしい俺の鼻先を、再び刀身が通った。

だが、そんな事実を認識して背筋を凍らせる間もない。

 

「あでっ!」

緩やかな傾斜に倒れた俺は、受け身を取り損ねてそのまま転がり落ちる。

 

「がはっう、うわ、うわああああああああああ!」

次第に急になっていく斜面の上、もはや立つことなど不可能で、体勢をどうにか整えるのがやっと。

周囲を転がる無数の小石と一緒に俺は、着物をすり減らしながら滑り落ちていく。

その先には疎らな木々、そしておそらくぶつかればただでは済まなさそうな岩。

 

怒涛の展開に目を回しそうになりながら、決死の思いでそれらを避ける。

避ける。

避ける。

避け――ザク。

 

「うわあああああ――ひえっ!」

突き出た岩を転がって避けると、一瞬前まで俺の頭があったところに刀剣が突き立てられていた。

瞠目する俺と、翼を広げ再び距離を詰めていた彼女の視線が交差する。

 

瞬間、木の幹の背中を強かに打ちつけた俺は、「げぇっ」と瞑れた悲鳴を漏らした。

「げほっ!うぐっ」

背骨から鈍い音を立てて跳ね返った俺は、勢いを完全に殺されながらついに斜面の下まで到達していた。

目を回しながらどうにか半身を起こすも、耐え切れず咳き込む。

 

体中擦り傷と打ち身で酷いことになっている。

もはや骨が折れていないのが不思議なレベルだ。

汗と泥でぐちゃぐちゃの顔を拭いながら、荒い息を漏らして俺は顔を上げた。

 

目前に追手の少女が立っていた。

 

上半身を起こし、もはや立って逃げる気力のない俺を、鋭く射抜くような視線で見下ろしてくる。

必死の逃走も虚しく――いや、今日はいつもよりも随分と逃げ続けることができた――ついに俺は彼女と対峙する。

 

俺は観念しつつ見つめた。

「ぜぇ、はあ、ハァ」

「…………」

片や体力の消耗で息が荒く、片や全く息を切らした様子がない。

完全な詰みだ。

 

「ハァ、ハァ……?」

だが、今日に限ってはいつもと様子が違う。

会話の余地なく切りつけてくる彼女が、俺を目の前にし一向に剣を振る様子がない。

 

それどころか、

「え?」

刀剣が鞘に収められる様を見て、俺は目を瞠った。

 

「ふう、全く」

彼女は嘆息を一つ零しながらも口を開いた。

 

しゃ……喋ったああああああああああ!?

実に、初対面から数えて四ヶ月振りの彼女の声であった。

度重なる衝撃に固まる俺に、彼女は更に言葉を続ける。

 

「これに懲りたら二度と山に近づかないことだ。まあ言っても無駄だろうがな」

その言葉に俺は得心が行く。

 

妖怪の山、彼女ら天狗のテリトリーから逃走している内に脱していたようだ。

領域外に出たなら話は別なのか、気付けば彼女の纏う剣呑な雰囲気も随分と和らいでいた。

 

と、納得する俺を尻目に彼女は踵を返し妖怪の山へ帰ろうとしている。

 

……はっ!

これってチャンスなのでは?

 

なにしろ、初対面以降全く会話の成立しなかった相手が、ここに来て自ら口を開いたのだ。

これはもう交流を始める絶好の機会と見て間違いないだろう。

 

「なあ!」

俺は声を上げる。

「待ってくれ!俺は岡崎悠基――ってちょっと待って!おーい!」

 

とりあえずと名乗る俺を完全に無視して、彼女はすでに翼を広げていた。

とりつく島もなく、そのまま飛翔する彼女に、俺は必死に大声を張る。

 

「待って!せめて、せめて名前だけでもー!」

とまあ、一昔前のナンパ男のような言葉にも当然振り返ることもなく、彼女はあっという間に妖怪の山の頂上に向けて飛び去っていく。

 

唖然とする俺の視線の先では、白い羽根がひらひらと風に舞うのみ。

「…………はあ」

がっくしだった。

結局会話のキャッチボールは未だ不成立のままだ。

いやでも考えようによっては以前より関係に進展が見られるかも……いや、全然見られないわ。

 

一人で虚しい自問自答をしつつ、俺は状況把握のために周囲を見る。

必死で逃げてはいたが、なんとなくだが現在地がどの辺りか予想はつく。

妖怪の山の麓の近辺であることは変わりないが、人里の間反対側と言った所か。

 

さて、どうしたものか……と迷いはしたが、さすがに今日は目的地を再度目指す気が起きなかった。

斜面を転がり落ちたおかげで体中が酷く痛い。

手荷物も逃げている途中で落としてしまった。

今日は大人しく分身を解くか、と人里に残す『俺』を意識する。

 

「ん?」

ふと、目を閉じかけた俺の視界の端になにかが見えて、視線をむける。

 

「……あれは」

疎らになった木々の向こうに目を細める。

そうして捉えたものに半ば確信を抱きつつ、俺は首をかしげて困惑の色を濃くする。

 

天狗のテリトリーである妖怪の山を近くに捉えつつ、日の向きを見るに人里からは随分離れた位置。

間違ってもそんな場所に人が、それも多数住んでいるなどという話は聞いたことがない。

にも関わらず、訝しく眉を顰める俺の視線の先、木々の合い間には、明らかな人工物、更に言えば木造の家屋らしきものが僅かに見えていた。

 

「家?」

妖怪の住処かもしれないと、俺は警戒しつつゆっくりと歩みを進める。

近づくに連れ、次第にその様相が分かってきた。

同時に、その光景に息を呑む。

 

集落だ。

一面しか見えないためその全容はつかめないもの、周囲の景色からして規模は小さいと思う。

荒れ果て多数の蔦や葉に覆われながら、辛うじて原型の残した家屋の様子からしてから、既に何十年も人が住んでいないことが分かった。

 

更に言えば、その集落は今は猫の多数の猫の住処と化していた。

夥しい、といってもリグルの虫たちほどではないが――リグルたちには悪いが、あの集団には例え好意を持たれたとしても生理的な嫌悪感は拭えそうにない――視界に入るだけで何十匹もの猫たちがそこらじゅうにいる。

 

その内の半分ほどが、警戒するように、あるいは興味深そうに観察する視線を俺に向けている。

動こうとしない彼らのプレッシャーに気圧されつつ、俺は深呼吸を一つ、気を落ち着かせてゆっくりと集落に近づこうと踏み出した。

妖怪の山のすぐ傍に猫の集落があるという話は聞かない。

今はフィールドワーク中ではないが、俺は半ば好奇心でその集落を調べようとしていた。

 

「フシャー!」

「っ!……と」

歩み始めた俺の前に躍り出る一匹の虎毛の猫。

緊張していた俺は一瞬肩を跳ねさせるが、目前で俺を威嚇する猫は今のところは妖怪の類には見えない。

 

「シャアッ!」

尚も威嚇し、これ以上近づくなと告げてくる猫に対し、俺は刺激しない程度にゆっくりとしゃがみ視線の高さを可能な限り近づける。

視線はその猫の目を真っ直ぐ見据えたまま、ゆっくりと右手を差し出すように猫の前に掲げた。

 

猫というのは、虫や小さな動物を始めとする、小さな動く物体に対して強く興味を持つ。

それが狩人の本能から来るものなのかは知らないが、俺はその習性を利用してみることにした。

威嚇する猫の目の前で、掲げた手の指をちょろちょろと動かす。

それだけの動作に、しかし猫はふいに威嚇をやめる。

 

しめしめ、と俺は指を動かしながら、今度はゆっくりと腕を左右に揺らした。

猫はといえば、よほど興味を持ったのか、揺れる俺の手に今にも喰らい付かんと。

頃合を見計らって、猫がすぐに跳びかかれるような位置へ若干の覚悟を決めつつそっと手の平を近づけた。

 

さあ、こい。

 

固唾を呑んで見守る俺の見立てでは、この猫は獲物を仕留めるがごとく腕に噛み付いてくるだろう。

擦り傷切り傷打撲だらけの腕に追い討ちをかけるのはさすがに辛いだろうが、そこはぐっと堪える。

『怖くない、怖くない』と何かの映画で見た光景よろしく、牙を立てる猫を安心させるために頭を撫でるなりして心を開かせるという計画だ。

 

ガブリ。

痛っ!

「あヅっ!」

 

まさしく予想通り、噛み付いてきた虎猫。

腕に奔る痛みの強さと、その痛みに反射的に腕を振り上げてしまった自分の不甲斐なさは予想外だったが。

 

しまったと思うと同時、俺の腕にかぶりついたままの虎猫を見て振り落とされてなかったことに安堵する。

よかった……じゃなくて痛い痛いイタイイタイ!!

 

「ちょ、痛い!離れて、離れてくれ」

涙目になりながら虎猫を宥める。

と、予想外に顎の力を緩めた虎猫は、そのまま俺の腕を舐め始めた。

ざらざらとした舌触りだが、まるで俺の傷をいたわってくれているようにも見える。

 

「え?」

目を丸くする俺の元に、気付けば何匹もの猫たちが集まっていた。

にゃーにゃーと可愛らしい声をあげる猫たちは、虎猫に倣うように俺の怪我をペロペロザラザラと舐めてきた。

 

人慣れしている、どころか。

「お、お前ら……」

 

体中の痛みはいまだに酷いが、目の前で広げられている心温まる光景に俺は感動していた。

正直なところ舌の感触は思いのほか傷に響いているのだが、耐えられないほどではない。

最初に威嚇してきた虎猫の頭を撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。

 

「ありがとな」

心癒されながら周囲の猫をみやる。

俺の周りに集まっている猫たち以外は、こちらを観察しているものが殆どだ。

 

…………?

ふいに、違和感を感じる。

今一度すぐ傍で俺を見上げる猫たちを見る。

その瞳から読み取れるのは俺への興味、そして、なんとなくだが、優しさというよりかは……。

 

「あ、あれ?もしかして哀れんでる?」

「なぁご」

 

沸いて出た発想を肯定するように一匹の猫が鳴き声で応じると、数匹の猫が驚いたことに頷くように頭を上下させた。

些細な動作だが、猫がそんなことをすると違和感がある。

 

「言葉が分かるのか?」

だめもとで問いかけると、やはり一匹が低い声を上げる。

「なー」

その声に同調するように、またも猫たちは頷く。

 

驚くと同時、もしかしたら、化け猫に近づいているのかもしれないという発想が浮かぶ。

幻想郷で群れを成して集落に住み着いている猫なのだから、あながち突飛な考えではないだろう。

 

それはともかくとして、哀れまれている、というのは事実のようだ。

「まあ、結果オーライだけども……」

なんとも複雑な気持ちになりながら、手を止めることなく俺は内心嘆息した。

経緯はどうあれ、猫たちの警戒を多少なりとも解くことができたようだと安堵した時。

 

「ああああーーーーー!?」

突如として素っ頓狂な声が上がる。

今度は何だと驚いた俺は、周囲の猫たちから、声が上がった集落の入り口に視線を向ける。

一人の少女が俺を指差し目を見開いていた。

赤を基調とした装いに、頭と腰から黒毛の猫耳と二本の尻尾を生やしている。

 

「な、なんで……?」

衝撃を受けた様子の彼女に俺は困惑する。

見た目からして明らかに猫の妖怪であろう少女。

この集落に住む猫たちのリーダーだろうか。

俺を凝視していた少女は、顔を伏せると震える足取りで俺たちの元へふらふらと歩み寄ってくる。

 

え、えっ、と内心動揺しつつ、猫耳少女からは敵意を感じられないことから逃げるという判断もつかず俺は固まっていた。

そんな俺と違って、俺を囲う猫たちは、近づいてくる少女を全く気にした風でもなく、「早く撫でろ」とばかりに俺の手を頭で押してくる。

だが、さすがに近づいてくる少女の纏う異様な雰囲気に押されてそれどころではない。

 

固まったまま動かないでいる俺のもとに近づいてきた少女の顔は相変らず伏せられたままで、その顔は窺い知れない。

しかし、異様な迫力に俺は息を呑んで身構えた。

顔を上げる少女。

 

ごくりと唾を飲み込んだ俺は、思考が止まっていた。

 

「う゛」

少女の、そのつぶらな双眸は、既に決壊寸前だった。

分かりやすく言えば、今にも涙が零れ落ちそうなくらいの、とびきりの涙目だったわけである。

 

「あ、あの」

予想外の事態に対してリアルに数秒止まっていた俺がフォローに回ろうとも時既に遅し。

 

「なんでええええぇぇぇーーーーー!!?」

疑問を伴った叫び声が、山間にひっそりと位置した集落――その名をマヨヒガというらしい――に木霊する。

その叫びは、あたふたとする俺の目前で鳴き声と嗚咽に変わっていくのだった。

 




前半は会話に至るまで発展しない白狼天狗、お察しのことと思いますが犬走椛との心温まるほのぼのとした交流です。
後半ラストの猫耳妖怪、こちらもお察しかもしれませんが橙とのほのぼとした邂逅ですね。
できるだけ早めの更新を目指しつつ、次回に続きます。


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三十九話 猫と狐

体感にして、恐らく十分ほどか。

泣き喚いていた猫耳少女の声が次第に落ち着いてきていたことに気付いた俺はほっと胸を撫で下ろす。

泣かせるような真似をした覚えはないのだが、少女の様子からして原因は俺にあるらしい。

凄まじく居心地が悪かった。

 

かと言って、目前で涙する少女をただ見ていただけかといえば一応はそんなことはないと弁明する。

とにかく落ち着かせようと声をかけ、話しかけ、質問を投げかけ、気を惹こうとアプローチするも、少女はといえば泣くばかりで完全な無視。

いつも子供をあやす時にしているように頭を撫でてみよう手を伸ばすも、涙を拭う手でことごとく弾かれる。

 

明確な拒絶反応に内心ちょっと傷付いたが……それはどうでもいい。

とはいえ、様々な試みも泣きじゃくる少女は全て拒絶もしくは無視。

しかしそんな様子の少女を置いておくのも気が惹けて、結局しばらくの間俺は困り顔のまま少女の傍らで見ていることしかできなかったわけである。

 

というか俺の周りで「そっちよりもこっちを撫でろやコラ」と要求し続ける猫たちはすぐそばで膝を突いて泣いている女の子を慰めてやれよ。

などと、当人の前でそんなことを言うわけにも行かない俺は視線で猫たちに訴えかける。

俺の無言の訴えに猫たちは完全にスルーを決め込んでいたわけだが。

 

さて、泣き止んだ少女はというと、赤くなった目で俺を睨みながら立ち上がると、膝についた土をパンパンと叩いて掃う。

「つ、スン……着いて来て下さい」

出だしから鼻を啜りはしたものの、礼儀正しい言葉遣いは幼い容姿と出会いがしらの奇行からすれば予想外だった。

 

とまどいつつも、俺は大人しく頷いて立ち上がった。

どうやら会話は出来そうだ。

 

若干の緊張と戸惑いを従えたまま、俺は踵を返して歩き始めた少女に続く。

俺たちの後ろを猫たちがぞろぞろと着いて来ていた。

「…………」

落ち着いた歩みを見せる少女の背中に得も言えない迫力を感じ、いったい何のつもりだろうと想像を内心では困惑する。

 

「こちらへ」

猫たちになんとも言えない視線を送っていると、立ち止まった少女が一軒の家屋を差す。

廃村どころか廃墟といっても過言ではない集落の中で、その家屋だけが小奇麗で立派な一軒家で、何匹もの猫が日向ぼっこをしている。

 

「…………ああ、うん」

促されるままに、俺は猫をそっと避けて座るスペースを確保する。

「にゃ~」と不満げな彼らに引きつった笑みで「すまん」と謝りながら、俺と少女は並んで座った。

春の日差しは暖かく、横になれば猫でなくてもまどろんでいただろうな、と現実逃避気味な感想を抱いた。

 

「それで」

ジト目を俺に向け、少女は口を開いた。

「貴方は何者なのですか」

 

「えーーと、岡崎悠基……ただの人間かな」

とりあえずと付け加えてみたが、我ながら白々しい。

少女は不満げに二本の尾を揺らす。

 

「ただの人間なわけないでしょう」

「いや、まあ……」

少女のきっぱりとした物言いに俺は言いよどむ。

 

「妖精たちが活発に動くこの時期に人里の外にいること」

あ、はい。

「人里から遠く離れた、それも妖怪の山の麓にいること」

はい。

「そんな人間が普通なわけないです」

確かに。

反論の余地もなく気まずい面持ちの俺に、少女は更に鼻息を荒くする。

 

「極めつけは」

少女は縁側に立ち上がる。

自然、座ったままの俺を見下ろすように視線を下げて、少女は右手を俺に掲げた。

「マヨヒガの猫たちをあっという間に手懐けたこと!」

 

「はい……て、いやいや」

話の流れからしてまよいがというのはこの集落の名前か。

 

とにかく、手懐けているというのが誤解であることは間違いない。

「それは勘違――」

「さあ!どうやってあの子たちを手篭めにしたのですか!」

「いや待って聞けって」

 

どうにか宥めようと手を伸ばすも、先ほど同様予想外に強い力で払われる。

肩を震わせ憤る少女の様子に、自分の中で合点がついた。

 

どうやら彼女は、自分の配下にある猫たちが俺を慕っていることに随分と立腹らしい。

だったら誤解を解けばその余韻を鎮めてくれるかもしれない。

猫たちに哀れまれていただけ、などと積極的に説明するのは気が進まないわけだが、安いプライドはちゃっちゃっと売っておこう。

 

「別に手懐けてたわけじゃなくてな」

「黙ってください!」

えー……。

 

理不尽な対応に閉口していると、少女の瞳がまた潤み始めた。

ま、またか!?

「待って待って、俺は別に君の猫を――」

俺は慌てて弁明しようと身を乗り出すが、妙な迫力を発する少女がぼそりと呟く。

 

「私でさえ」

「え?」

うっかり少女の言葉に耳を傾けてしまう。

 

直後、ついに瞳から大粒の涙を零し始めた少女は、声を上げる。

「私でさえ、まだ、あんなに仲良くなったこと無いのに!!」

 

……なんか、想像してた答えと違う。

 

唖然とする俺の前で、少女はえっぐえっぐとしゃくりあげる。

「うっ、わ、私だって、まだもふもふとか、ペロペロとか、数えるくらいしか、ないのに」

「う、うん」

「わた、全然、言うことも、うぅっ、私の言うこと、聞いてくれなくて」

「うん」

「ら、りゃんしゃまの言いちゅけ、守れてないええええん」

「お、落ち着いて落ち着いて」

 

本格的に泣き始めた少女に俺は嘆息しつつ慰めにかかる。

猫たちのリーダー的な妖怪かと思ったが、そんな立場にないらしい。

周りの猫は慣れた様子で気にも留めない。

 

なんとなくの事情を察しつつ、ふと少女の言葉が引っかかる。

鼻声でしゃくりあげていたためうまく聞き取れなかったが、今この子、「藍様」って言ったような……。

 

「チェンッ!!!」

突然頭上から声が降ってきた。

その声に、少女も俺も揃って肩を跳ねさせた直後、俺たちのいる家屋の真ん前に何かが凄い勢いで落ちてきた。

衝撃音と同時に突風と砂埃が巻き起こり、近くにいた哀れな猫たちが悲鳴を上げながら散開する。

 

「橙!!」

「え?」

「ら、藍様!?」

「ええ!?」

聞き覚えのある声と少女の口にした名前に、俺は砂煙を突っ切って近づいてくる妖怪と少女を交互に見る。

 

涙で濡れたままの橙の頬を凝視し、次いで俺に敵意ある視線を向け、一瞬の間を置いて今度は目を丸くしたその妖怪は「ん?」と首を傾げる。

「……なぜ悠基がここに?」

「……やあ、藍」

なかなかに破天荒な登場だったが、見知った友人の顔を見た俺はほっと安堵の息を漏らした。

 

 

* * *

 

 

「ふむ……なるほど」

藍は小さく息を吐くと、神妙な表情で頷いた。

 

先ほどまで少女が――「橙」と藍から紹介された彼女が座っていた縁側に、今度は藍が腰掛けていて、並んで座る俺は経緯を一通り話し終わったところだった。

橙はといえば、俺たちの声が届かない程度の距離をとって、なにやら猫たちに腕を振って声を上げている。

指示や命令を出しているようにも見えるが、一匹たりともそれに反応する様子がない。

 

「まあ、だいたいの事情は分かったよ。すまないな悠基。私の式が迷惑をかけたようだ」

「式?」

察しのいい藍に感謝しつつ、以前の彼女の言葉を思い出して首を傾げる。

 

「ん?確か、藍って」

「うむ。そうだな。橙は、いわば式の式といったところだ」

そもそもの話として藍のいう式というものがよく分かっていないため、いまいち彼女の言葉にピンとこない。

 

「前に言ったとおり、部下かなにかと思ってくれればいいさ」

「あー、うん。そうする」

 

「しかし、君は随分と深いところまで来るようになったのだな」

感心と、そして若干の呆れを匂わせながら藍が言った。

「まさかマヨヒガまで来るとは。まあ、無事ではすまなかったようだが」

ボロボロの衣服と傷だらけの体を見ながら、藍は眉を顰める。

 

「天狗から逃げてる内に迷い込んでね……マヨヒガだけに」

「そうかい」

最後のくだらない一言を流して、藍は相槌を打つ。

 

「さて、悠基はこれからどうする?帰るならば送っていこうか」

「気持ちはありがたいけど、帰るときは普通に能力を解くよ」

藍の申し出に「お姫様抱っこ」のオチが分かった俺は苦笑しつつ首を振る。

 

しかし、と俺は視線を藍から逸らす。

「それでなんだけど、橙は何をしてるの?」

逸らした視線の先では、無反応な猫たちに声を上げる続ける橙という変わらない景色がある。

 

「……だいたいの事情は察しているんじゃないか?」

強張った声が返ってきて、俺は途惑いながら頷いた。

「まあ、なんとなくは……あの子は、このマヨヒガの主になろうとしてるんだね?」

「そこまで大きな話ではない」

 

「…………」

力の抜けた藍の声に俺は頬を掻いた。

「全く違うというわけでは無いがな。要はあの子は、配下を作ろうとしているのだ」

「で、長いことその試みは成就していないと」

「分かるか」

 

「それもなんとなく、だけど」と俺は咳払いをして答える。

「俺が猫に慕われてるように見える光景でショックを受けてた様子だったし。それもあんなに、泣くくらいってことは相当苦労してるんだろうな、と」

「間違ってはいない。もとから泣き虫ではあるのだがな」

 

いらぬ補足もあってか、俺は思わず閉口する。

橙の言動からして、精神年齢は……妖怪だから見た目どおりではないだろうが、ともかくとして年端も行かぬ少女と言ってもいいだろう。

 

長いこと試みてもなかなか成果は得られない。

得られないまま、しかし月日は過ぎていく。

そんなとき、不意に現れた一人の男。

彼女が見たのは悲願……というと大袈裟かもしれないが、しかし、自分がまだ出来ていないことをその男が易々と成し遂げている光景。

 

彼女のそれは間違いなく勘違いだし、俺だって知らず知らずのことだった。

とはいえ橙の幼い心を傷つけたのだということ認識は、的外れということはないだろう。

 

「気にしているのか?」

ふいの言葉に思わず藍を見る。

「なん――」

「顔に出ていた」

なぜ分かったのかを問う前に答えられ、俺は思わず唸るように口元を歪ませながらあいまいな相槌を打った。

 

「んー……」

「君の人の良さは分かってはいるが、そんなことまで気にしていたら世話がないぞ」

「そんな言い方……」

「『そんなこと』だよ」

視線を下ろす藍は、なにか思案するような顔をする。

 

「子供が泣くことなど珍しいことではないだろう」

「確かにそうだけど」

 

寺子屋に勤めているおかげか、確かに藍の言うとおり子供が癇癪を起こすのは見慣れた光景だ。

特に年少組の子なんかは喧嘩や軽い怪我で泣き出すほど幼い。

それもあって子供をあやすのも慣れたものなのだが、橙のそれは俺の見慣れた光景とは異なっていた。

 

「でも、あれは癇癪の類じゃないだろ」

その背景を考えれば、それをただの癇癪と断じるには抵抗を感じる。

思わず反論を口にすると、藍は目つきを厳しくした。

「だからなんだというのだ」

 

予想外に冷たい言葉に俺は思わず口を噤んでいた。

「確かに橙は化け猫としては幼いし、妖怪としてはまだまだだ。だが、それは甘やかす理由にはならないだろう」

「そりゃ甘やかしすぎるのは良くないけど、でも厳しすぎるのも可哀想だろ」

 

言いながら、自分がむきになりつつあることを自覚する。

寺子屋で勤めてきたせいか、それとも藍曰くの無用な責任感のためか。ほとんど話していない橙に対して思っているよりも感情移入しているらしい。

そんな様子の俺に対して藍は怪訝な様子で言い放つ。

 

「部外者の君に口を出される謂れは無いよ」

「そりゃ!……そうだけども」

言われなくとも自覚はあった。

それでも強引に意見をしようと思っていたが、いざ言われて見ればついつい口篭ってしまう。

 

図式としては、よその教育方針に口を出そうとする他人といったところか。

そんな立場で意見しようなど痴がましいのは自覚しているし、そもそも藍に噛み付いたとして、それは橙のためではなく自己満足になってしまうだろう。

「…………」

 

そんな心境で黙り込む様子を察してか、藍は嘆息した。

「彼女は私の式。なれば、間接的とは言え幻想郷の守護者たるわが主の式だ。その立場に就くと言うのなら、相応に厳しくせねばなるまい」

「…………」

ふいに、大晦日の記憶が蘇る。

 

「さて、そろそろ君は帰りなさい」

これで話は終わりだと打ち切るように藍は立ち上がった。

対して、俺は素直には従わない。

 

「俺、思うんだけど」

「……まだなにかあるのか」

動かない俺に藍は胡乱な目を向ける。

 

「そういうとこ、藍の悪い癖だよ」

「なんの話だ」

首を傾げる藍に、とりあえずはと俺は思ったことを呟くことにした。

「えっと、ユカリ様だったな。その人がこの幻想郷の管理者だから、その式の自分はちゃんとしなきゃいけないって考えた結果、迷走してたよね」

 

「あの時の話はよしてくれ」

怒っているとまではいかずとも、藍は怪訝な顔で俺を見る。

「でも、藍は変に肩肘張りすぎてないか?」

「まあ自覚はあるよ」

 

意外にも素直に応じる様子に俺が鼻白むと、「でもね悠基」と藍は続けた。

「橙は妖怪なんだ。君が例えあの子を普通の子として見ていても、人の子と同じように扱うべきと思っているなら、その認識は改めるべきだよ。たとえ私の頭が固くともね」

「っ――」

 

……うおぉ、考え全部先回りされた!

さすがと言うべきか、藍は俺の浅はかな考えを完全に読んでいたらしい。

更にその上で諭すような大人の対応までされれば、完全に立つ瀬なしである。

 

「分かった。降参」

ホールドアップして見せると、藍も頷く。

口論という程のない、他愛のない言い合いだったがなんともきまずい。

 

「さて、もう一度言うがそろそろ帰りなさい」

「へいへい」

今度は素直に立ち上がった俺を見て、藍は安心したように息を吐くと、橙に視線を向けた。

 

「橙!お見送りだ」

「!…………はい」

藍に呼ばれた橙が不承不承といった様子で駆けてくる。

礼儀の正しい口調からもなんとなしに感じるが、ずいぶんと躾けられ……じゃなくて、教育されているらしい。

橙の発する空気からして少なくとも好かれてはいないとは思うが、それでも藍の言うことに素直に従っている辺り………あ、そうだ。

 

「見送りなんて別にいいのに」

思ってもいないことを口にしながら、橙を見てタイミングを図る。

とはいえ、俺は思っていることを顔に出さずにはいられない質なわけだが、今回はタイミング的には悟られる前に実行に移れる。

藍が俺の顔を見て訝しげに眉根に皺を寄せるが、すでに橙は俺たちの会話が聞こえる距離まで近づいていた。

 

「ねえ、藍」

「なんだ」

「橙が可愛いなら、厳しく躾けるばかりじゃ可哀想だよ」

「いい加減しつこいな君は」

呆れ半分、横目に橙に一瞬視線を移した藍は、眉尻を釣り上げた。

 

唐突な話に目を丸くする橙を確認しつつ、俺は悪びれもせず続ける。

「でも、可愛がっているのは事実だろ?」

「なぜそうなる」

「だって、藍がここに飛んできたのって、橙がいじめられてると思ったからじゃないの?」

 

「…………おい」

おっと思ったより露骨に不機嫌オーラを感じるぞ。

これ以上は黙れと視線で訴えかけてくる辺り、概ねの事情は察した。

 

「ここに来たとき、泣いてる橙を見て俺に殺気を向けてきたでしょ。つまりはそれくらい橙が可愛いってことでしょ?」

ついでに言えば、藍の教育方針としては橙には厳しく接するつもりのようだ。

橙を可愛がっている、と露骨に仄めかせた俺に対する藍の態度からしてそのことは隠しておくつもりだったのか。

 

そんな俺の推察を、目を見開き固まる藍の様子が裏付けていた。

つまりは図星だ。

硬い表情のまま、藍が口を開こうとしたとき、予想外の方向から藍に追撃が浴びせられる。

 

「そんなこと分かっています」

衝撃を受けた様子で藍が目を見開き、声の主を見る。

俺も驚きながら見ると、橙は胸の前で両手を握りしめ、俺をまっすぐ見ていた。

「藍様が私を可愛がっていることは、あなたなんかより私の方が分かっています!」

 

純粋な丸い瞳で俺を睨み、口元が緩みそうな微笑ましい訴えをする少女を前に、俺は思わず一歩たじろいでいた。

なにこの子可愛いっ……!

と、他者の俺ですら衝撃を受ける愛くるしさな訳だが、反して藍は。

 

「…………っはぁ~」

大いに溜息をついて、額に手を当てていた。

見るからに呆れた、という雰囲気を醸しだしてはいる。

だが、頬が赤いのは隠せていない。

 

「君はなにがしたいのだ」

ジト目を向けられた俺は、満足気な笑みを浮かべて応じる。

「さっきの意趣返し、かな」

「子供か」

 

ぴしゃりと言い放つ藍に誤魔化すように笑みを浮かべた。

「ははは、それじゃ、俺は御暇するよ」

と、踵を返した俺の肩に手が置かれる。

「まあ待て」

 

俺を引き止めるのは、先程まで「帰れ帰れ」と言っていた藍である。

微小を浮かべる彼女だが、どういうわけか強烈なプレッシャーを感じた――いや事情は察してあまりあるわけだが、ともかく――俺は冷や汗を流す。

 

「な、なにかな」

「確認だが、君は里に分身を残しているな?」

「……なんで?」

「いるんだな?」

 

有無を言わせない藍の口調。

肩を掴む手に力がこもり、もはや嫌な予感は確信に変わりつつあった。

「い、います」

「なら良し」

藍が微笑み、俺は青ざめた。

 

「な、なにが――」

ん?

背中がなんだか暖かいような――。

「あっづ!」

焦げ臭い匂いを感じたのもつかの間、背中に強烈な激痛が奔る。

 

見るまでもなく、着物の背部が燃え上がっているのを察した俺は思考が固まる。

「――うっぎゃあああ!」

熱、痛っ、死ぬっ!

のたうち回りたい衝動、肩を掴んだままの藍の手は万力のような力を発して動けない。

分身、分身をおおおおっ!

 

「ら、藍様?」

悲鳴を上げる俺の耳に戸惑った橙の声が届く。

そんな橙に構わず、暴れて逃れようとする俺を掴んだまま、藍は柔らかい口調で言う。

「ならばこれも意趣返しというものだろう」

 

「洒落にならねええええええええええ!」

涙目の俺は断末魔を残し分身を解いた。

激痛で真っ赤になった俺の視界に最後に映ったのは、笑顔の藍と、その藍にドン引きしている橙の姿だった。

 

 

 

…………その後、里で藍と遭遇し顔を青くする俺に、藍はにっこり微笑んで「あの時はすまなかったな」と悪びれもせず謝罪してきた。

口は災いの元。

古来より知れ渡るこの格言を、俺はそろそろ学んだほうがいいかもしれない。

 




更新が遅くなって申し訳ありません。
多忙が極まりこのように遅くなってしまいました。

今回は橙回……と見せかけた藍回。
まあでも橙はやっぱり癒される存在であってほしいなーとか、やっぱりこの二人には仲良くしててほしいなー、みたいなイメージで書いてます。
それとは関係なく主人公と藍の間が微妙に悪化しているような気がしないでもないですが、ほのぼのを明言している拙作ですので、次に藍が登場する際はケロリとしているでしょう。


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四十話 異変の終わりも遠からず

「…………」

「…………」

なんという、なんという気まずさなんだ。

 

いつものように稗田邸へと訪れた俺は、いつものように阿求さんの部屋へ通され、いつものように彼女と正対する。

しかし、迎い入れた俺を見る阿求さんの冷ややかな視線はいつも通りではない。

たまに向けられることはあるけど。

 

お互い正座をし、正面から向かい合って、どれくらいたったのか。

例え上質な座布団の上と言えど、そろそろ足の痺れが耐え難くなってきた。

冷や汗は幾筋も頬をつたい、落ちた先の着物の膝の辺りを濡らしているし、それ以上に気疲れがひどい。

 

「…………」

「…………」

しかし、なおのこと彼女は喋らない。

 

黙ったまま、感情を殺したような無表情を維持し、俺の半分しか瞬きしないままに見据え続けてくる。

たかだか自分の半分と少ししか生きていないはずなのに、俺は完全に気圧されていたのだ。

 

まあ、上司だし?

雇い主だし?

恩人でもあるわけだし?

引け目があるから仕方ないし?

 

「さて」

「…………はい!」

誰へとも分からない言い訳を頭の中で唱えていた俺に、ついに阿求さんが口を開いた。

些細な変化も今は救いとばかりに、元気よく返事をする。

 

「なんですかいきなり大声を出して」

「あ、はい」

出鼻を挫かれた俺が気持ち前のめりになっていた体を正すと、阿求さんは気を取り直すように咳払いをした。

 

「以前よりお話ししていましたが、私はそろそろ縁起の編纂作業に集中しようと思います」

あ、あれ?

今完全に怒られる流れだった……よな?

「……は、はあ」

なまじ心当たりがいくらかあるた分、身構えていた俺は拍子抜けした返事をする。

 

「資料もまとまってきましたし、今起きている異変もそろそろ収束するとの噂ですからね」

「……らしいですね」

阿求さんの言うとおり、先日から目に見えて咲き乱れていた花々は次第に落ち着きを見せ、その数を減らしつつあった。

花映塚異変と名付けられた、目には楽しいこの異変もまもなく終わると、心に一抹の寂しさも残るというものだ。

 

「ですので、暫く貴方にはお休みを出そうかと思います」

これもまた、以前から聞いていた話だった。

 

「それで、暫くというのは」

「さあ……未定ですね」

「今のところは、ですか」

「この先ずっと、かもしれません」

 

つまりは、この仕事も休職、場合によっては退職というわけである。

思わず押し黙る俺に、阿求さんは笑みを見せる。

 

「いいじゃないですか。貴方は既に手に職を持つ身。食べることには困らないでしょう?」

「その説はご迷惑をおかけしました」

甘味処に就いた際は、阿求さんを怒らせ直後に呆れさせた記憶がよみがえる。

 

「いえいえ。もう気にしてませんよ。そのことは」

「ありがとうございます」

ん?今「そのこと」って。

 

「ともかくとして、妖怪の調査ご苦労様でした」

先ほど付け加えられた一言に内心首をかしげていた俺に、阿求さんは静々と礼を言った。

俺も慌てて痺れる足を我慢しながら頭を下げる。

「い、いえいえこちらこそ、お世話になりました!」

 

思えば、幻想郷に住むことを決めてあまり日がたってないころ。

特殊な力で日銭を稼ぐためにと、奮起して人里一番の旧家である稗田邸を押しかけた。

慧音さんの紹介があったとはいえ、そんな素性の分からない外来人を雇うことを決めてくれたのは阿求さんだ。

無論、幻想郷縁起を記すために情報を集めていた彼女にとっては打算的な考えもあっただろうが、それでも彼女が雇ってくれたおかげで生活の基盤を固めることができたのは揺るぎない事実。

 

「大袈裟ですよ。もう」

頭を上げると、僅かに頬を染めた阿求さんが手を上下に降る。

嫋やかなその動作は、大人の女性と錯覚させるほど気品を感じさせた。

 

「悠基さん」

不意に名前を呼ばれて、見とれそうになっていた――ロリコンではない。断じて――俺は息を呑んだ。

「は、はい」

 

「縁起の編纂が終わったら、またここに来てくれますか?」

「え?はい。それはもちろん」

思ってもみない言葉に、俺は目を丸くしながら頷く。

口元を抑えて、阿求さんは上目遣いに視線を寄越していた。

「別に、用事がなくてもいいんです。ただ、」

 

そう言って彼女は、袖を抑えながら右手を差し出す。

さながら、握手を求めるように。

 

「雇われ人として仕事で、ではなく、友として遊びに、と。そんな他愛無い理由で、来てくれますか?」

「…………」

 

世の男性に問おう。

こんなにも魅力的な誘いを断れる奴はいるだろうか。

俺はもちろん、否である。

全力で。

 

「ええ。喜んで」

辛うじて仕草は紳士的に、しかし口元を完全に綻ばせ、俺は差し出された阿求さんの手を握った。

 

 

穏やかな春の日和。

幸せな時間だった。

 

 

「ところで」

「はい?」

微小を浮かべたまま小首をかしげる阿求さんに、俺も釣られて笑顔のままで頭を傾ける。

 

 

「無縁塚へ行ったそうですね。私になんの相談もなしに」

 

 

「……………………」

体感温度が十度は下がった。

暖かな春の日差しが突然曇り、どこか遠くで聞こえる子どもたちの賑やかな声が消えた。

 

一瞬思考の停止する俺の中で、胸にストンと落ちる物があった。

さっきの沈黙はこれのことかー…………。

 

「な、ナンノコトデショウカ」

笑顔を引きつらせ、ぎこちなく視線を逸らす。

だが、握ったままの俺の手をぐいと引っ張り、顔を近づけながら阿求さんは詰め寄ってくる。

「私は言いましたよね?『絶対に近づくことのないように』と」

 

俺が無縁塚へ訪れたことは確定事項らしい。

確かに事実だけども。

 

「『友人』に嘘をつくのですか?」

 

「う゛…………も、申し訳ありませんでしたっ!」

心にグサリと何かが突き刺さるような錯覚に、俺は思わず距離を取って平伏していた。

場所が場所なので表現としては正しくないが、誠心誠意の土下座である。

 

平伏する俺の後頭部越しに、阿求さんの冷たい笑い声が投げられる。

「ふふふ……天狗の射影機でこの様を写せば、私の忠告をいい加減守ってくれるのでしょうか」

ほんの数十秒前まであれほどまでに優しい笑みを浮かべていた少女のものとは思えないほど、それは冷ややかな声だった。

 

「さて、悠基さん、顔を上げてください」

さきほどとは一転した落ち着いた声音が降ってくる。

恐る恐る顔を上げると、真剣な眼差しで見据えられていた。

妙に気圧されながら、俺も姿勢を正して阿求さんと向かい合った。

 

「無縁塚で、貴方は何を見ましたか?」

「…………靄と声を」

 

極めて端的な答えに阿求さんは頷いた。

「怨霊、それも極めて凶悪な個体でしょう」

「個体ですか」

まるで動物かなにかのような言い方に俺は違和感を覚える。

 

「そもそも、無縁塚に人も妖怪も寄り付かないのは、時にあの場所に怨霊が現れるからです。怨霊は危険な存在です。心に直接干渉し、時に同族で争わせ、時に正気を奪う。推測の域を出ませんが、肉体が強靭な分、精神的な攻撃に弱いとされている妖怪にとっても、天敵たりうる存在かもしれません。ともかく、それは貴方にも同じ……いえ、むしろ危機意識が低い分、貴方にはより危険な存在かもしれません」

 

「俺だから?どういう意味ですか?」

「能力の性質の問題です。貴方の能力による分身は消滅と同時に記憶や経験を引き継ぐ。そうですね」

「そうですけど……」

イマイチ阿求さんの言いたいことが分からない。

 

「貴方の能力であれば、妖怪に襲われたとして、肉体的な傷は残りません。しかし記憶を引き継ぐということは、同時に精神的な干渉も引き継ぐかもしれません」

俺は思わず目を丸くしていた。

「ああ、確かにそれはありえますね」

 

「なんで自分のことなのに気づかないのですか。しっかりしてください」

瞬時に厳しい指摘が飛んできて、肩身が狭くなる思いだ。

 

「とはいっても、これはあくまで憶測です。楽観視するべきではないでしょうが」

背筋を冷たくしながら不意に湧いて出たもしもの想像をする。

 

もし、あの時。

小町が来なかったら。

今頃、俺は。

 

「死神に助けられたのは幸運でしたね」

「…………ええ、本当に」

俺は心の中で小町に全霊の感謝を捧げる。

同時に、彼女の上司の姿が浮かんだ。

 

「閻魔様には思い切り説教をくらいましたが」

「四季映姫・ヤマザナドゥですね」

確認するように、阿求さんは頷いた。

「彼女の説教は長いことで有名ですから」

 

「ああ、霖之助さんも同じことを言ってましたねえ」

同意するように頷く俺だが、その言葉に阿求さんは眉を顰めた。

「おかしな言い方ですね」

「はい?」

「いえ、説教を受けたと言う割りには、まるで他人事のようでしたので」

 

「ああ……」

俺は先日の記憶を辿る。

「多分、映姫様が忙しかったためだとは思うのですが、長い説教はなかったんですよね」

その分、俺の琴線を鋭く抉り出してくるような、説教と言うには少々許容しがたい内容だったが。

言葉の割には苦い顔をする俺に、阿求さんは「はぁ」と首をかしげる。

 

「ちなみに、どういった内容で?」

「え?」

不意の問いかけに、思わず目を丸くする。

「何を言われたのですか?」

「…………話さないといけませんか」

「出来ることなら」

 

上目遣いに覗きこんでくる阿求さんにたじろぎつつ、じわじわと距離をとる。

一体何が彼女が興味を引いたのだろう。

そんな疑問を抱きつつも、しかしなにかと借りを作っている俺としては、拒否するのも気が引けるわけで。

結局俺は不承不承にため息をついて頷くのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

「おやおや」

「え」

人里からあまり離れていない道沿いで、桜並木に目を奪われていた俺は不意にかけられた言葉に呆けた声で応じていた。

 

「奇遇だねえ、お兄さん」

彼岸花を思い起こす結った赤髪を揺らし、快活な笑みを浮かべる少女。

肩に担ぐ物騒な大鎌にうっかり目を奪われかけながら、同時にその隣に立つ存在ぶ更に瞠目する。

「小町――え、映姫様!?」

「どうも」

 

春の風に緑髪を揺らし、小町を肩を並べて立つ少女が会釈した。

噂をすればなんとやらではないが、阿求さんと話をした数日後の昼下がりだった。

 

「な、え?な、なんで?」

この辺りでは見かけるはずのない二人を交互に見ながら、見るからに疑問だらけなのだろう俺を小町が面白いものでも見るように笑った。

「ま、休憩がてらの散歩でね」

 

「休憩て……彼岸から?ここまで?」

もし彼女たちが徒歩で来たというのなら、直線距離でもかなりあるここまで随分と距離がある。

休憩がてらの散歩というには、随分と遠出だ。

「最近やっと仕事が落ち着いてきたもんでね」

 

俺の疑問に、やはり小町が応えると、映姫が補足するように付け足した。

「ついでなので、博麗神社まで参ろうかと」

 

「はく、え!?はく、博麗神社、ですか?」

思わず瞠目する俺に小町が目を丸くする。

「どうしたんだい?そんなに驚いて」

「いや、博霊って……な、なぜです?」

 

あまりにも動揺している俺の様子に小町は訝しげに首をかしげる。

一方、問いかけられた映姫は、以前話したときのように笏で口元を隠し、表情の読めない視線で俺に向き合う。

 

「ところで、最近妙な話を聞くようになりまして」

「はえ?は、はあ」

あまりにも唐突な話の反らし方。

にも関わらず、苦手意識があるためか、俺はついつい応じてしまう。

 

「聞いたと言っても私が、ではなく小町が、ですが」

「ああ、あの話ですね」

小町は苦笑交じりに頭を掻いた。

 

「あの話?」

「そうだねえ」

俺に視線を向けられた小町は、小さく頷くと話を始めた。

 

「仕事がら、いろんな奴の話を聞くことがあってねえ」

「いろんなって?」

「そりゃもちろん、死者さ」

 

え?

怖い話?

確かに小町は死神を自称してるけど、そういう方向性なのか?

 

「し、死者…………」

「そうそう。ま、最近はこの幻想郷の存在を知らなかったやつばかりでねえ。私としては他にも聞きたい話もあるってもんだけど。まあ、楽しそうに話すもんだから、ついつい付き合っちゃうのさ」

小町の話す内容にところどころ疑問が浮かぶ俺は、理解が不十分なままに曖昧に頷く。

 

俺が分かっていないであろうことに気づいているのだろうが、小町は特にそのことを気にする様子なく話を続ける。

「で、そんな話の中で、ちょくちょく聞くのが、消える人間の話さ」

「……それって」

 

「なんでも、妖怪に追い掛け回されては、やられる寸前で煙のように消えちまう人間を見たっていう話が連日ちらほら出てきてね」

「もしかしなくても俺の話?」

半ば脱力しながら、小町のいう死者の噂の種に上がっているという話に困惑した様子で問いかけると、小町は「だろうね」と頷いた。

 

「というか、どこから見てたんだ」

頭を捻り思い起こすも、妖怪に襲われている様子を複数人が見ていたという話はピンと来ない。

…………いや、死者というからには、むしろそれは幽霊のようなものなのか?

そんな俺の疑問に、映姫が応えるように口を開いた。

 

「花です」

「花?」

唐突な言葉にキョトンとしつつ映姫を見る。

 

「ええ。要は、今この辺りでも咲いている花の、おおよそ半分程度は死者の霊魂の拠り所となり咲いた花々なのです」

…………え?

 

呆然とする俺に構わず、映姫はジト目を小町に向けた。

「小町がしっかりと彼岸に送っていれば、こんなことにならなかったのですが」

「あんなの許容量超えてますってば」

 

「あの、この花って」

「ま、今はその話はいいのです」

「…………」

マイペース。

どうにも聞き流すには労力を要するような内容だが、後で聞き返すことくらいは出来るだろう。

 

俺は自分を無理やり納得させて代わりに大きな溜息を吐き出した。

「で、俺の話というのは?」

 

「聞いた話を照らし合わせると、ここ最近、連日のようにあんたが妖怪の山方面に向かってるって話じゃないか」

「より詳しく聞いてみれば、妖怪の山を迂回するコースですね」

「みたいですね。で、最近は中有の道の近くまで来ているらしい」

「…………まあ」

この時点で、おそらく俺の目的地が明白になっているだろうことを察して頷いた。

 

「さすがにそこまでくれば、誰だって察しがつくってもんだ」

小町は鎌を持ったまま腕を組む。

「確か、この前別れる時に近づかないように忠告はしたんだけどねえ」

 

「近くまで行こうとしただけだよ」

子供以下の言い訳をしながらバツの悪い笑みを浮かべると、小町はあからさまに呆れた目を向けてくる。

「それはまんま『近づく』って言うんだよ……で?どうして彼岸を目指してたんだい?」

 

「えっと…………」

なんというか、いざ目的を前にするとついたじろいでしまう。

口籠る俺に小町が訝しげな視線を向けるなか、映姫は表情を変えず俺を見据えていた。

 

「貴方の持っているソレと関係があるのでしょう?」

その視線は微妙にずれ、俺の右手にある風呂敷包みに向いていた。

だいたいのことはお見通しのようだ。

「ええ、まあ」

 

「なんだい?それは」

目を丸くしている小町は映姫と違って事情を知らないらしい。

そんな小町に、俺は風呂敷包みを解いて中身を晒した。

「お酒だよ」

「ほう」

 

瓶に入った透明な液体を見て、小町の眼の色が変わった。

悪くない反応だ。

俺は密かに安堵すると、そっと小町にその瓶を差し出す。

「はいどうぞ。あまり上物は用意できなかったんだけど」

「え?え?いいのかい?」

唐突とも取れる俺の行動に小町は瞠目しながら酒瓶を受け取った。

 

「それで、映姫様はどこまでご存知なのですか?」

照れくさくなって頬を掻きながら、俺は映姫を見る。

 

「貴方が博麗霊夢と霧雨魔理沙を私達の元に向かわせるきっかけを作ったと思い込んでいること、そのことに過剰に負い目を意識していること、そのお酒はお詫びの意。だいたいこの辺りでしょうか」

「…………」

全部言われた。

 

映姫の言葉に尚更目を皿にする小町は、酒瓶を抱えたまま俺と映姫を交互に見る。

「え?え?霊夢に魔理沙?あいつらが来たのは、あんたのせいなのかい?」

「結果的にはそうなったと思っている」

なにしろ、俺が異変であると吹聴したせいで、結果的に彼女たちは映姫と…………幻想郷の閻魔と戦うという暴挙に至ったのだ。

 

その経緯を話すと――なぜ映姫がそのことを知っているかはともかくとして――小町は再び呆れ顔を向けてくる。

「お兄さん……そりゃ、いくらなんでも」

「映姫様の言うとおり、意識しすぎなのは自分でも分かってるよ」

 

小町の言葉を遮るように自白の言葉が湧いて出る。

「でも、あの時世話になったのに、大した礼も出来ないままに恩を仇で返すような結果になったことが、自分の中で納得できなかっただけだ」

 

「で、その謝罪がこれってわけかい」

「気持ちばかりだけどな」

「小町、受け取っておきなさい」

助け舟なのか、映姫が静かに促す。

 

「彼なりの誠意というものです。無碍にするものでもないでしょう」

「まー私は拒否するつもりはありませんがねえ」

口元を上げて小町は酒瓶を抱え込んだ。

 

「映姫様」

再び映姫へと視線を移すと、相も変わらず笏で口元を隠す映姫の視線が返される。

「なんでしょうか」

 

声のトーンの変化に不穏なものでも感じたのか、小町が不安げに俺たちを交互に見た。

以前、別れたときこそ感謝の言葉を捧げたものの、出遭ってものの数分でちょっとした修羅場を創りだした二人だ。

心配になるのも分かる。

 

「貴女のお話は聞きました」

「説教が長いこと、ですか」

ただただ無表情な映姫の声に、しかし俺は笑みを持って応じる。

 

「貴女のその習慣は、少しでも地獄に落ちる人を減らすためだという話です」

「――――」

僅かに目を瞠る映姫。

初めて俺の言葉が彼女の硬い表情筋を揺るがせた。

 

「ほお、これは一本取られましたね」

「黙りなさい」

ニヤリと笑みを浮かべる小町を映姫は睨みながら軽く肘で小突く。

それでもニヤニヤ笑いを止めない小町に溜息をつく映姫の様子からして、俺のポジティブな予測は当たりだったと確信した。

 

「だから、ききたいのです。貴女の言葉は死後地獄に落ちないように善行を積めという内容がほとんどと伺いました」

「いろいろと調べたのですね」

映姫の言葉に呆れの色が僅かに滲むが、俺は気にせず話を続けた。

「そして、疑問に思ったのです。映姫様」

 

俺はまっすぐ彼女を見据えた。

「あの時の貴女の忠告はそれらとは違いました。貴女が口にしたのは、死後のためじゃなくて生きるための言葉でした」

なんてことない、違和感を伴う些細な疑問だ。

だが、どうしても俺はそれを見極めたかった。

そこに、彼女の、人を傷つけることすら厭わないとさえ感じた彼女の本質が垣間見える気がしたから。

 

「なぜですか」

 

まっすぐ向けた俺の視線を、映姫は正面から受け止める。

言葉を選ぶための逡巡か、彼女はすぐには口を開かず、その瞳は曇りないまま揺らぎもしない。

反して、一世一代の告白というわけでもないのに、俺の心臓は早鐘のように鳴っていた。

なにしろ、俺は幻想郷の閻魔に対して私情で質問を投げかけているのだ。

霊夢達ほどではないにせよ、失礼な行為にとられても仕方がない。

 

俺の心配を他所に、映姫は力を抜くように小さく嘆息した。

「私は以前地蔵でした」

唐突なカミングアウトに俺は目を瞠る。

「じ、え?お地蔵様ですか?」

 

「その時の記憶が残っているのでしょうね」

まるで他人事のような口ぶりだが、しかしどこか切なげな雰囲気を映姫は醸し出す。

「無論、閻魔として下す判決は私情で揺るがすことはありません。それでも、個人の感情がないわけではない…………要は、私も感傷的になることがあるということです。」

 

花々に向けていた視線を俺に戻して、映姫は問いかけてくる。

「いかがですか?」

「え?」

「納得できる答えでしたか?」

「…………ええ」

予想以上に穏やかな気持ちで、俺は頷いていた。

 

「珍しく素直ですねえ四季様」

茶々を入れるように映姫の顔を覗きこむと、映姫は「別に」と視線を逸らす。

「考えを改めただけです。私がこういう人格だという印象を抱かせておけば、多少は素直に忠告を聞く気になるだろうと判断した。それだけの話ですよ」

 

「本人の前で言いますか」

ツッコミを入れつつ、俺は思わず破顔した。

釣られるように小町は笑い、映姫でさえ口元に笑みを浮かべる。

 

胸の支えが外れたかのように、心から笑う。

穏やかな春の日和。

幸せな時間――ん?

 

「さて、岡崎悠基」

妙な既視感に俺が内心首をかしげていると、映姫は口元を上げたまま普段通りの口調で語りかけてくる。

 

「はい?」

「貴方の善性は理解しています。地獄に落ちるような人間ではない」

「な、なんですか急に。照れますね」

頬を染めながら、俺は後ずさる。

 

「その上で言わせてもらいます」

「え?」

 

ふいに映姫の隣の小町の様子が目に入る。

何故か、その笑みが苦笑に変わっていた。

 

「そこになおりなさい」

「…………え?」

「早く」

「でも、そこって、地面の――」

「座れと言っているのです」

 

有無を言わせぬ映姫の口調に押され、俺はつい従ってしまう。

そこから始まった熾烈とも言える映姫の正論の奔流。

そのときになってやっと、「これが噂の説教か」と悟るのだった。

 

 

それから実に一時間、俺は土の上に正座というちょっとした拷問に近い状況で反論の隙のない説教を受け続けた。

もはや体力も気力も全て削がれてしまった俺は、博麗神社に向かう気も起きず、どこかスッキリした様子の映姫と苦笑する小町を見送るのだった。

…………以前ほどじゃないけど、やっぱり苦手だあの人。

 




一話を前後編で構成すると、やはり削ってもかなり長くなってしまいますね。
そんなわけで遂に四十話。前半は阿求、後半は映姫と小町のお話です。
どちらも主人公は上げて落とされてますね。唯一小町がほのぼのとした癒しではないでしょうか。
個人的には映姫が一番原作とかけ離れた性格をしています。基本的に拙作の登場人物は総じてお人好し属性が付与されやすい傾向があるのでそこはもうお許しください。


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四十一話 桜の下で

里の外、ひらりひらりと舞い落ちる桜の花びらの中を俺は歩く。

向かう先は人里、帰り道の途中だ。

道沿いに整然と並ぶ桜の木々を横目に、頭の中では里の外の用事、すなわちアリスから学んだ魔法の内容を反芻する。

様になってきたかどうかは分からないが、一先ず実用的な魔法を習得して成功率も安定してきた。

 

俺としては、魔法は華やかなイメージが強いのだが、対妖怪用に習得したのは実用性のみを重視している。

俺が密かに憧れている弾幕ごっこを思えば、習得した魔法はある意味無骨と言ってもいいよういなものだったのだが、アリス曰く『そういうことにリソースを割く余裕はないでしょ』とのこと。

確かに、魔法を習う目的は妖怪に対して生存率を上げるためなので異論はないけど、出来ることならもっとこう……カラフルかつド派手で観る者を魅了するような、そんないかにもな魔法もいつかは使えるようになりたい、と密かに思うのであった。

 

そんな風に魔法について没頭して思案していると、ふいにアリスの言葉が思い起こされる。

「貴方は元の世界から遠ざかる」と、忠告をするアリスに俺は「大丈夫だと」確信を持って返したのだけど、どうにも、少しずつだが魔法にのめり込んでいる自覚がある。

「ははは」

表情の変化が乏しいアリスがジト目を向けてくる様が浮かんで、思わず一人で乾いた笑いを発していた。

 

アリスの反対を押し切って魔法を学んでいるのだ。

彼女を失望させないようにしっかりしないと…………しっかりって何を?

「んー…………?」

歩みを止めないまま腕を組んで頭を捻るが、抽象的な話のせいかなかなかピンとは来なかった。

本当に大丈夫かこれ。

 

「さっきから」

ん?

「まるで百面相ね」

 

不意にかけられた声に足を止める。

瞠目しつつ声のした方を見れば、一本の桜の下で一人の大人びた少女が微笑み座っていた。

調度俺が歩いてきた方向からは木立で隠れるような位置だったせいか、近付くまで気付かなかったのだ。

「――――はぇ?」

「あらあら」

 

少女はクスクスと笑った。

「急に笑ったと思ったら神妙な顔をして、そして今度は呆けた顔。貴方って表情豊かね」

呆けて開きっぱなしの口に気づいて、俺は咳払いをしながら表情を正す。

 

「えっと、貴女は?」

「『名前を聞くときはまず自分から』って言わない?」

その言葉にたじろぎながら、俺は軽く頭を下げた。

「……失礼、岡崎悠基です」

「西行寺幽々子です」

 

微笑みを浮かべたまま、幽々子は小首を傾げて俺を見る。

立ったままの俺に対して、座っている彼女は自然と微妙に上目遣いになっているのだが、その視線に引きこまれそうになったのか、それとも気圧されたのか、幽々子から感じるナニカに俺は息を呑んでいた。

 

「そ、れで、幽々子さん」

「幽々子でいいわよ」

 

「……じゃあ、幽々子。君はこんなところで何をしてるの?」

思いの外友好的な態度に戸惑いながら、俺はとりあえずの質問をしてみる。

「見て分からない?」

幽々子は首をかしげたまま、両手を広げて見せた。

 

彼女が座るのはなにも地面の上というわけではなく、桜の根元に半畳程度の御座が敷かれている。

ご座の上には見るからに上質な布の張られた肘掛けと、お猪口が数本、そして祝いの席で見るような赤い酒器。

ここまでばっちりセッティングされているのに、声をかけられるまで気付かない自分に心底呆れながら俺は嘆息した。

 

幽々子が示すその光景は、つまるところどう見ても酒盛りであり、更に現状の要素を鑑みて詳細な結論をつけることができる。

「お花見?」

「ええ」

 

「……こんなところで?」

「あら、景色は悪くないと思ったのだけど」

「そりゃあ、まあ」

俺は曖昧に肯定しながら周囲を眺める。

 

既にピークを終えているものの桜はまだまだ綺麗だし、他にも目には楽しい鮮やかな花々は、以前の混沌とした景色と比べれば落ち着いていて、桜を引き立てている。

見通しもいいし、花見と洒落込むには最適と言っても過言ではないだろう。

ただ一点、ここが里の外であるという事実に目を瞑ればの話だが。

 

いくら花が綺麗だからといって、妖怪に襲われるリスクを思えば里の外で花見をする人間など殆どいない(裏を返せばいるにはいるということだが)。

とはいえ、彼女は人ではないナニカだと、経験則もあって既にそういう結論には至っていた。

 

「君は……」

「なあに?」

「いや……」

さすがに初対面の相手に「君は何?」というのは、現状の雰囲気も相まってあまりに無粋に感じる。

 

煮え切らない態度をとる俺に対して、しかし幽々子は怪訝な様子を一切見せない。

「ねえ、良かったら貴方もどう?」

「え?」

「ご一緒しない?」

「……えっと」

 

言葉をつまらせながら頬を掻く。

こっちは微妙に警戒を入り混じらせて対応を決めかねているというのに、幽々子の方は無警戒どころかむしろ花見に誘ってくるほどに友好的ときた。

 

まあ、いいか。

陽気な笑みになぜか儚い印象を同時に抱かせるような幽々子は、何処かの令嬢のように上品で魅力的で、そんな彼女からのお誘いを受けるのは俺としては吝かではない。

「それじゃっ……コホン」

若干の……いや、若干どころではなく照れながら、俺は頷いていた。

「喜んで」

 

「ふふ、どうぞ」

楽しそうに笑いながら、幽々子が横にずれる。

半畳、つまりは畳半分程度の広さの御座。

一人で使うには余裕があっても二人で使うには窮屈すぎるのだが、幽々子のその動きは俺が座るスペースを空けているようにしか見えなかった。

密着して座ることを暗に促してくるような仕草に、俺は固まりそうになった。

 

ちょっとこの人パーソナルエリア狭すぎませんかね……。

逡巡しつつ、結局彼女が空けたスペースから少し離れるように、御座の端に腰掛けることにした。

「むぅ」

と頬を膨らませる幽々子だが、さすがに初対面の少女に対して肩が触れるほど直ぐ側に腰掛けるのは、我ながら妙な背徳感を抱いてしまうのもあって遠慮しておいた。

ヘタレたわけではない……いやほんと。

 

ご不満な様子の幽々子は、「ここに座れ」とばかりに唇を尖らせて自分の真横のスペースを叩いて促してくるが、そこはスルーを決め込んでおく。

最初に感じた大人びた印象の割に、妙に子供じみた仕草だ。

 

「綺麗な景色だねえ」

とりあえず幽々子の要求は流すことにして、俺は視線を前方の景色へ向ける。

「……そうね」

応じる幽々子の声は明らかに拗ねていた。

 

そんなに俺が隣に座らないのが気に入らなかったのだろうか。

「花が好きなの?」

「嫌いじゃないわ」

応えがやけに蛋白な気がする。

でもって明らかに機嫌が悪そうだ。

 

俺は嘆息すると、意を決して幽々子の真横へ移動してみる。

肩が触れるか触れないかぐらいの位置に落ち着きながら、内心緊張しつつ横目で彼女の表情を伺うと、既に上機嫌に口元を上げていた。

機嫌が治ったらしい彼女の様子を見て、俺はますます困惑する。

幽々子とは初対面のはずだか、その割になんだか随分懐かれている。

 

「ねえ幽々子」

「なあに?」

分かりやすいくらい、声のトーンがさっきよりも高くなってる。

 

「なんていうか……勘違いなら恥ずかしいんだけど、やけに好意的じゃない?」

「もう、野暮ね」

幽々子はクスクスと笑いながら俺の肩を軽く押してくるっていうかその仕草は精神的にこちょばいからやめて。

 

顔が赤くなるのを自覚しながら、俺は視線を逸らした。

「野暮は承知だけど、精神衛生上その辺りの理由ははっきりさせておきたい」

チョロい俺はこのままだと幽々子と別れた後に悶々としかねないし。

駆け引きなんて知ったこっちゃない。

 

俺の言葉に幽々子は思案するように唇に人差し指を添える。

「そうね……私、貴方のファンなの」

「ファン?」

その響きを聞くと、否が応でも里で誇張された噂話が浮かんでくる。

 

「あの、何を聞いたかは知らないけど、その辺の噂はほとんど嘘だから」

「噂って?」

「ん?」

「んー?」

どうやら俺の予想はハズレらしい。

おかげでより一層、彼女の言うファンの意味が分からないのだが。

 

「あ、そうそう悠基」

「うん?」

一人首を傾げていると、ちょいちょいと肩を叩かれる。

 

「せっかくだし、はいどうぞ」

幽々子が差し出してくるのは片手に収まる程度の酒器。

透明な液体から漂ってくる芳醇な香りは、酒が得意ではない俺でも思わず唆られるものがあった。

 

とはいえ、幻想郷に来た時からお酒を飲むと碌なことになっていない俺である。

男衆と飲むならば多少おかしな言動がある程度らしいのだが、その場に女性がいた場合はどうも酔い方が違うらしい。

飲んだ次の日、記憶のない俺を半笑いで見る者もいれば射殺すような殺気に満ちた視線を向けてくる者もいたりで、何が起きたのか詳細を聞くには心の準備が足りないのだが、ともかく今後は女性がいる場でアルコールの摂取は控えようと心に決めているのだ。

 

「すまない。酒は苦手なんだ」

そんなわけでNOと言える日本人の俺はきっぱりと断る。

「む。一杯くらいいいでしょ?」

予想通り、幽々子は引き下がってはくれないが、俺だって断固たる姿勢を崩すつもりはない。

 

「いや、断る」

と大袈裟に腕を組んでそっぽを向くと、俺の頬に酒の注がれた酒気がぐいぐい押し付けられた。

「ねえ、一杯。ねえってば」

「う……って、ちょっと零れてる零れてる!」

そして体押し付けないで当たってる当たってる何がとは言わないけど当たってるから!!

 

「ほらほら、ねえ。一杯だけだから」

なぜか頑なに俺に酒を飲ませようとする幽々子は引き下がる気配が微塵もない。

対して、肩と胸の辺りを零れた酒でびっしょびしょに濡らした俺は幽々子から距離を取ろうとするも、すでに幽々子が半ば覆いかぶさるような姿勢という傍目から見れば誤解されかねない状態になっていて上手く離脱できない。

 

「やめ、やめろって……」

気のせいか幽々子の顔がだんだん近づいてる気がする。

俺に酒を飲ませようとムキになったのか、更に体を密着させてきていやいやいやいやちょっと待って頼むからこれ以上はまずいまずいまずいって!

 

「――~~っ分かった!分かったから!飲むからちょっと離れろ!」

断固たる姿勢(笑)。

ものの十秒程度で、俺の決意は簡単に崩壊した。

 

「もう、始めからそう言ったらいいのに」

強引に言い聞かせた幽々子はそんなことを言ってやがるわけだが、顔は満足気な笑みを浮かべている。

「…………」

ようやく開放された俺は安堵しつつつもジト目で幽々子を睨むが、空っぽになった酒器に酒を注ぐ彼女はどこ吹く風だ。

 

顔が熱い。

レミリア様辺りが見たら大爆笑してそうだ。

正直、からかわれる度に真っ赤になっている鈴仙に若干呆れることもあった俺だが、今の俺はその時の彼女といい勝負だろう。

更に言えばこの後酒を飲んで今以上に顔が赤くなることが確定しているので、この勝負は俺の勝ちだ。

なんの勝負だよ。

 

動揺からか訳の分からない自分の思考にツッコミを入れている俺の前に、酒器が差し出される。

「さ、どうぞ」

「…………」

俺は無言でそれを受け取ると、中身の液体を見る。

 

……この量か。

強くない酒なら、まあ許容範囲だ。

 

軽く深呼吸。

意を決した俺は、一気に中身を呷った。

 

――――お!?

美味い!

そして飲みやすい!

 

「いい飲みっぷりじゃない」

「……美味いな」

「でしょ?さ、もう一杯」

「いや、これ以上は遠慮しとく。それより、ほれ、幽々子も飲みな」

「あら?飲ませて何をするつもり?」

「そっちだって無理に飲ませたくせに」

「もう……ん…………美味し」

「……そういえば、お花見、好きなの?」

「ええ。普段は家でしてるのだけど、今じゃないとこの景色は楽しめないじゃない?」

「だな……しかし、家で、か。立派な桜の木でも植えてるのか?」

「ええ。たくさんあるのよ。良かったら今度見に来る?」

「あー、それは興味あるなあ……ん?そういえば幽々子って、どこに住んでるんだ?」

「上よ」

「上?」

「お空の上」

「……ふーん」

「あら、信じてないわね?」

「べっつにー」

「もう、お詫びにもう一杯」

「なんでやねん」

「もう一杯」

「だから飲まないって……酒の肴とかないの?」

「話を逸らすのが下手ねえ」

「そういうわけじゃない――ヒック。失礼。でも、これじゃあ花より団子ならぬ、花よりお酒だな、と」

「団子は好きよ?」

「そこに食いつくんかーい……もしかして、甘いのとか好きなのか」

「ええ。最近はね、ケーキが好きなの」

「へえ!そうかそうかぁ……じゃあ今度俺が作ってやろう!」

「あら?いいの?」

「かまわん。俺は甘いのを食べるのも好きだがー、作るのも好きだしー、作ったものを美味しそうに食べてもらうのはもっと好きだっ!!」

「おぉー。じゃ、期待してるわね」

「もうじゃんっじゃん期待してくれ」

「ふふふ、さ、もう一杯」

「不意に出すなってもう……」

「ダメ?」

「仕方ないなあ……んぐっ…………っはぁ~~」

「相変わらずいい飲みっぷりね」

「どうもどうも…………なあ、幽々子」

「なあに?」

「――――」

「――――」

「…………」

「…………」

 

 

 

* * *

 

 

 

微睡みの中で、頭が揺れるような錯覚を覚えた。

鈍い痛みに唸り声が漏れる。

だが、後頭部を支える枕は柔らかくて心地が良い。

「んあ?」

肌寒さを感じて身震いした俺の意識がゆっくりと浮上する。

 

同時に次第に眠る前の記憶も呼び起こされ始める。

 

……確か、アリスから魔法を教授した帰り、人里に向かう道で俺は不思議な女の子と……。

 

「あら、目が覚めた?」

上から降りかかってくる声に目を開く。

見下ろすような形で微笑を浮かべる幽々子の顔が思いの外間近にあった。

記憶が酒を飲んだ前後まで蘇ると同時に、俺は現状と、そして頭の下の枕の正体を瞬時に悟った。

 

「……え」

即ち。

 

ノせられた俺、酒ノム。

酔った俺、ネル。

そして現状、寝てた俺、幽々子にHIZAMAKURAされてる。

 

「おはよ、悠基」

「…………オハヨウ」

じゃなくて!

 

飛び起きた俺は後ずさるように慌てて幽々子から距離を取っていた。

「ん?どうかしたの」

「いや、どうかしたっていうか……」

肌寒さを再び感じ、空を見る。

 

微かに茜色に染まりつつある景色を見て、俺の顔は青ざめる…………以前に羞恥で真っ赤だった。

「あのっ、えっと、何時間?」

「え?」

「何時間くらい寝てた?俺は」

 

目を見開いて問いかけると、「んー」と幽々子は首を傾げながら人差し指を立てた。

「そうねえ……だいたい四刻くらいかしら」

二時間…………っ!

そりゃあ日も随分傾いてるわけだ。

 

「す、すまない」

と、今度こそ顔を青くしながら平伏する俺だが、幽々子は微笑んだまま首を振った。

「いいのよ気にしなくて。どうだった?寝心地は」

「え…………」

 

絶句する俺だが、幽々子は俺の答えを待つように微笑んだまま動かない。

どうにも進退窮まった俺は、長い沈黙の後に一言呟いた。

「……………………良かったっス」

素直か。

 

「うんうん」

幽々子は満足気に頷く軽くと立ち上がった。

「さてと、私はそろそろ帰るわね」

「あ、ああ、うん……なあ、幽々子」

幽々子を手伝って御座を畳みながら、不意に湧いた疑問を恐る恐る投げかける。

 

「俺、何かしなかったか?」

「ふふふ。秘密」

対して、何か思い出したように笑って応える幽々子に、俺は自己嫌悪で頭を抱えたくなる衝動に駆られるのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

幽々子と別れた俺は、日が暮れつつある道を足早に歩んでいた。

結局酔っ払った俺の言動を告げること無く去っていった幽々子だが、おかげで夕涼みで頭を冷やすついでに、徒歩で里を目指しながら時間をつぶす必要が出てきた。

今の心境で分身を解くと、人里に残っていた俺に記憶が引き継がれるわけだが、その記憶からくる動揺で唐突に挙動不審になる可能性がある。

人前でそうなるのはあまり気が進まなかったのもあり、一人になるだろう時間帯までは分身を解かないことにしたのだ。

 

結局幽々子が何者なのか、そしてやけに好意的な態度だった理由も聞けないままに、悶々とした心境での帰路だった。

「……はあ」

結局覚えているのは一杯だけしか飲まなかった酒の味くらいだ。

つまるところ、その一杯で俺は酔っ払っていたらしい。

 

「……はあ」

再び溢れるため息。

頭痛がするのは酒が残っているせいではないだろう。

 

……おっと。

いつまでも凹んでいてはいけない。

まだまだ人里からは距離がある。

まもなく日が暮れるし、妖怪が活発になる時間帯は近い。

いつ襲われるとも知らないし、一応警戒はしなければ。

 

と、俺が気を引き締めたところで、

 

一人の少女とすれ違っていた(・・・・・・・)

 

…………え?

瞠目し、振り返る。

 

黄昏時と言うにはまだ少しだけ早く、見渡せる程度に陽の光は行き届いている。

先ほど幽々子と出会った時と違って、周囲は木立も少なく見通しもいい。

 

そんな中で、例え俺の注意が散慢になっていたからと言って、すれ違うまで誰かの接近に気付かないというのはありえない。

それこそ、彼女がなにもない空中から突然現れでもしない限りは。

 

歩みを進める彼女を凝視する。

白い日傘を差した少女の背。

長い金色の髪を流し、紫紺のドレスの裾を揺らす。

 

「ねえ」

ほとんど反射的に俺は声をかけていた。

「待って」

 

一瞬なんの反応も示さないのではと錯覚したが、意外にも俺の声に彼女は足を止めて振り向いた。

息を呑む俺の目を、いたいけな少女(・・・・・・・・)の瞳が捉える。

なぜか、不安を感じさせた。

 

「…………っ!」

直後、強烈な違和感と既視感に息を呑む。

覚えがある。

彼女に、覚えが。

 

そう、それはここに、『幻想郷』に来る以前。

父の書斎で、俺は。

俺は。

 

………………………………。

 

………………………………?

 

間違いなく、喉元まで何かが出かかっていた。

確実に何かを掴んでいた。

にも関わらず、それは俺の指の隙間をすり抜けて、虚空へ溶けていく。

なんだ?

俺はいったい、何を思い出しかけていた?

思い出そうとすればするほど、ソレは遠ざかっていく。

 

「何か?」

呆然とする俺の目の前で、少女は小首を傾げる。

動揺を露わにしながら、俺は辛うじて口を開いた。

「いや…………君は、君は誰?」

 

初対面にしては不躾な問いかけに、しかし少女は不快に思うような様子を一切見せずに薄く笑んだ。

「さあ?貴方は?」

肩を竦める少女に固まりつつ、俺は僅かに乱れた呼吸をなんとかして落ち着かせる。

「俺は、岡崎、岡崎悠基」

 

「そ」

少女は笑みを浮かべたままに頷いた。

「覚えておくわ」

そうして彼女は踵を返すと、一方的に話は終わりだと告げるように再び歩き始める。

 

一瞬呆気に取られる俺だが、彼女にはまだ訊きたいことがたくさんある…………気がする。

何を訊けばいいのか分からないのに、そんな焦りだけが沸き起こっていた。

「なあ」

衝動的に声を上げる。

 

「待ってくれ――」

しかし、瞬きの合間、声を上げた瞬間に、少女の姿は既にそこにはなかった。

出会った時と同様に、一瞬で彼女は虚空に消えていた。

 

日が暮れて辺りが闇に包まれる中、中途半端に手を伸ばした姿勢で固まった俺だけが、その場にポツンと取り残されていた。

少女が消えると同時に、焦燥感や違和感がゆっくりと無くなっていった。

そんな少女など元からいなかったかのように、その場には少女の痕跡も見受けられなかった。

 

深呼吸して息を整える。

「いったい…………」

その疑問が少女に向けたものなのか自分に向けたものなのか、イマイチ判別が付かないままに俺は呟いていた。

「いったいなんだったんだ?」

 

その答えは返ってはこなかった。

 

 

 




今回は幽々子が初登場ですね。趣が随分とアレな感じですがたまにはこういうのも書いてみると思ったより楽しいです。ハイ。

そして後半、というか終盤ですが、謎の妖怪少女登場です。いったい何者なんでしょうねえ。
わざわざルビつきで強調していますが、彼女については以前描写した姿と比較して明らかに外見年齢が異なっています。イメージとしては東方香霖堂のビジュアルです。

今回分身中に酔っ払った主人公ですが、分身を解いた際に引き継がれる記憶については、酔いが回った後の記憶は非常に曖昧になっており明確に引き継がれない、といった具合にふわっと言及しておきます。

最後に、いつもなら次回予告みたいなことはしないのですが、次回から章の区切りに向けてということで、あまりほのぼのとしないお話が数話続く予定です。


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四十二話 事件と焦燥、そして、再会

「さて、と」

朝餉を終えた俺は、食器を水に漬けておくと軽く伸びをした。

週に一度の甘味処の定休日だが、寺子屋自体は今日もいつも通り運営するのもあって、竹箒を手に敷地内の、主に門の周辺から建物玄関までを簡単に掃いていく。

 

さて、今日は何をしようかな、とぼんやりと考える。

阿求さんの妖怪の調査も終わり、トリプルワークに忙しくて目が回していた時期は既に過ぎている。

わざわざ分身せずに、今日は寺子屋の業務に集中してもいい。

 

のんびり里の中を回ってもいいかもしれない。

ケーキの試作時期に世話になった農家に顔を出してもいいし、外来本を見かける貸本屋、質の良い道具を取り扱っている道具店、なにかと世話になっている善一さんの酒屋……は、お酒で後悔した記憶が新しいのもあって気が進まない。

 

里の外は……特に用事はないし、いいか。

博麗神社は先週、紅魔館も最近、香霖堂やアリスの家に至ってはつい先日訪れたばかりだ。

別に一定のスパンを空ける必要があるわけではないが、リグルと遭った時のために菓子を用意しなければいけないので、以前ほど気軽な気持ちで里を出ることは減ったと言える。

いや、以前は軽い気持ちだったのかと言えばそうではないのだけど。

 

妖怪、といえば…………。

「ふう」

柄にもなく黄昏れながら嘆息する。

想い起こすのは先日の、恐らく妖怪であろう少女との出会い。

どことなくつかみどころのない雰囲気を纏い、意味深な微笑みをたたえた少女は、やけに印象深かった。

彼女を見た時に抱いた強烈な既視感の正体も分からないまま、そして俺の問いかけに答えを返さないまま消えた彼女だったが、おかげで俺の胸にはなんとももやもやとしたものが残ることとなった。

 

「ん?」

掃き掃除を進めていると、一輪の花が目に留まる。

もう暖かいというのに蕾のままの蒲公英をなんとなく気に留めていたのだが、寝坊ぎみのそいつもやっとこさ花開いたようだ。

先日までは蕾だったから、死者の魂の因果とやらで花が咲く異変とは関係の無い、至極普通の花だろう。

 

花と言えば、幽香は元気にしているだろうか。

最後に別れた時は、瀕死の俺に「また連絡する」と言っていたが、無事にメディスンの襲撃を退けたのだろうか。

無用な心配だと思うが、それでも怪我をしていないかというのは少々気がかりではあった。

 

「元気かなあ」

誰ともなしに呟くが、当然誰かが応えるなんてことはない。

ぼんやりと青空を流れる雲を眺める。

今はその連絡を待つ他ないだろう。

 

そう結論付けていると、不意に慌ただしい足音が聞こえた。

「?」

別段珍しいことでもないのに、なぜかその音を引き金に唐突に胸がざわついた。

足音は寺子屋の門の前で止まった。

 

異変に気付いて視線をやると、見知った男が息を上がらせて立っていた。

「あれ、善一さん?」

「悠基!」

普段は寺子屋に用事のないはずの訪問者に困惑する俺だが、硬い表情の彼に、只ならぬ何かを感じた。

 

「何かあったんですか?」

「事情は移動しながら話す。来い」

端的な彼の言葉に、やはり何かあったらしいことを察して頷く。

だが、踵を返そうとした善一さんが動きを止める。

 

「悠基」

「はい」

「確かお前、里の外に出るときに武器を持っていたよな」

「護身用に木刀を持って行きますが」

「……持って来たほうがいい」

 

善一さんの物騒な忠告は、僅かに抱いた嫌な予感を確信に変えるものだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

寺子屋の生徒の一人、お春と呼ばれる少女が今朝方から姿を消した。

 

隣を走る善一さんが話した内容は端的にはそういった物だ。

朝の早い春の家で、彼女の両親が起きた時には既に、弟の伍助と枕を並べているはずのお春の姿は床から消えていたらしい。

家や畑の周りを探しても娘の姿が無く、こんなことは一度もなかったことから不安を感じた両親は付近の住民や自警団にも声をかけ、そんな経緯でお春が消えたことは慧音さんの耳に入った。

善一さんは慧音さんの遣いで俺のもとに来たらしい。

 

春を取り巻く今の環境は、十二歳の少女には荷が重すぎる。

それを思えば、ただの家出と判断したかも人も多いかもしれない。

だが、そうは断ずることができない懸念材料が見つかった。

 

「慧音さん!」

里の出口近くにその姿を見つけた俺は叫んだ。

彼女の近くには幾人か自警団の姿も見える。

 

駆けてくる俺と善一さん見る慧音さんは硬い表情だ。

「悠基君」

息が上がった善一さんを遥か後方に、俺は慧音さんの前に急停止する。

 

「お春が里の外に出たって本当ですか!?」

 

目を見開いて問いかける俺に、慧音さんは「まだそうと決まったわけではない」と首を振った。

「ただ、彼女によく似た少女が里の外へ歩いて行く姿を見たという話があった」

慧音さんは自警団の男たちに視線を向ける。

 

見れば、男たちは一人の老人から話を聞いているようだった。

「彼が言うには、里の外に向かう少女を見て慌てて止めに向かったのだが、近付いたところで見失ったらしい」

「見失った?」

自警団に不安な顔で話す腰の曲がった男を一瞬だけ見るが、すぐに頭を切り替えて慧音さんに向き合った。

 

今はそれを言及している場合ではない。

「いえ、それは、その少女が消えたというのはいつの話なのですか」

 

俺の問いかけに、慧音さんは僅かに顔を俯かせる。

いつもは凛とした顔を陰らせながら、それでも彼女はほとんど即答する形で答えた。

 

「一時間前だ」

「…………っ、そんな」

 

一時間。

 

頭の中で、その単語が木霊する。

俺は目を見開いて後ずさり、追いついてきた善一さんに肩を捕まれ止められる。

 

その時間がどれだけ絶望的なのか。

それは、日常的に里を出ている俺がよく知っている。

 

冬場であれば、妖怪の活動は減り、道沿いを行くならば多少の望みは持てたかもしれない。

だが、今は妖怪や妖精たちが活発に動いている。

しかも異変の最中で、彼らはいつも以上に気が昂ぶっている。

俺は経験上危険に対する勘が働くようになったのもあり、生存時間は自ずと伸びるようになったがそれは例外だ。

 

普通の人間が里の外で無事でいられる時間など、どれだけ幸運だったとしても一時間もない。

ましてや少女など――。

 

無用な思考をそこで断ち切った。

目を瞑り、いつものように頭の中で火花を散らせた。

 

そうして目を開けば、木刀に手を添えたもう一人の俺が、慧音さんの隣に立っていた。

視線を交差させ頷き合う。

もはや一刻の猶予もない。

しかし、

 

「待つんだ」

駆け出そうとした俺の腕を慧音さんが掴んだ。

もう一方の俺は、制止されることもないが、しかし目を見開いて振り返った。

 

「慧音さん、何を――善一さん!?」

気付けば、善一さんまでもが肩を掴む手に力を込め、まるで里の外には出させないとばかりに厳しい顔を向けていた。

 

「行くのは一人だ」

硬い表情で告げる慧音さん。

彼女の言葉に目を見開き、しかしその意味は余りにも理解しやすいものだった。

 

無力な俺が、一応は命を落とすこと無く里の外に出ていけたのは分身能力によってバックアップが安全な里に残っていたためだ。

だが、バックアップもろとも妖怪に里の外に出たのなら、話は変わる。

二人揃って襲われる……そんな不幸に見舞われれば、確実に死ぬだろう。

 

その覚悟は既に出来ていた。

それでも慧音さんは看過するつもりはなかった。

 

断固たる意思を思わせる彼女の視線に、俺は逡巡しもう一人の俺を見る。

「先に行け」

慧音さんを説得するにしても、力ずくで突破するにしても、すぐには叶わないと悟る。

「……ああ」

 

全く同じ顔の男は返事をしながら踵を返す。

里の外へ走り去っていく俺の見送りもほどほどに、俺は慧音さんに視線を戻す。

 

「慧音さん、俺も行かせてください」

「出来ない」

「俺を呼んだのはこのためでしょう!?」

「駄目だ。君は――」

 

「人手は多い方がいい」

硬い表情で俺は慧音さんの言葉を遮る。

危険であることは百も承知だ。

 

だが、彼女は頑なに首を振った。

「既に妹紅や霊夢に遣いは出している。退魔師や退治屋には春の嫁ぎ先の家が依頼を出している最中だ」

里の中でもかなりの資産を持つ商家だ。

ある程度の人員は動くと見ていいだろう。

 

それに比べれば、俺がもう一人増えたところで、微々たる力かもしれない。

「だとしても、大人しく待ってるなんて出来ません」

納得できるわけがない。

教師見習いであったとしても、半年前に知り合ったばかりだとしても、お春は可愛い教え子の一人であり、命に変えても守るべき存在なのだ。

 

「時間がない」

ならばここで大人しく待つつもりはない。

「行かせてください」

気が昂ぶりを自覚しながらも、抑えが効かない

「春がどうなってもいいと――」

激しく揺れ動きそうな感情が、最悪の結末を口に仕掛ける。

 

だが、先に声を荒げたのは彼女だった。

「頼むから!」

いつもは落ち着いた慧音さんの、それは初めて聞く鋭い声に、その場の誰もが振り向いた。

正面から受け止めた俺は、吐き出そうとしていた言葉を驚いて飲み込む。

 

気付けば、俺の腕が震えていた。

 

俺の腕を掴む慧音さんの腕が震えていた。

 

「頼むから」

慧音さんの声が震えていた。

 

「これ以上、心配事を増やしてくれるな」

慧音さんの瞳が、震えていた。

 

自分の内から弾けた衝撃が体中を奔った。

言葉がまるで冷水のように、昂ぶった感情を冷ましていく。

「…………」

 

「落ち着け悠基」

後ろからかけられる言葉に、呆然と振り向いた。

「お前だけじゃないんだ」

どこか哀れみを讃えた善一さんの瞳に、俺は言葉を返すことが出来ない。

 

「悠基」

両手を握られる。

俺を真っ直ぐ見据える慧音さんの瞳は、既に震えは止まっていた。

「どうか、分かってくれ」

 

首を横に振ることが出来なかった。

彼女を裏切ることなど、俺には到底出来ないと知らしめられてしまった。

歯を食い縛りながらゆっくりと頷き、慧音さんの顔が見れなくてそのまま俯く。

 

俺の手を握る腕ごしに、慧音さんの纏う空気がほんの少しだけ安堵に緩むのが分かった。

 

…………。

 

ふいに気付く。

既に分身している今、一旦自身の能力を解けばこの場を容易に脱することはできる。

慧音さんも善一さんもそのことに気づいていないのか、既に俺に注意を向けてはいない。

いや、例え警戒されたところで、俺が分身を解くことを阻むことは出来ないだろう。

後で里の外の俺が分身能力を使えば結果的に二人でお春の捜索に当たれる。

この場で足止めされたところで、意味は無かったのだ。

 

…………でも、と俺は奥歯を強く噛み締めた。

気付くのが遅かった。

 

分身を解けば記憶が引き継がれる。

既に慧音さんの想いを知ってしまった今、『春を救うために命を賭す』ことしか考えていなかった俺の選択肢は二つに割れていた。

 

こんなこと、普段の慧音さんならばすぐに気付くはずだ。

しかし、彼女は明らかに冷静さを欠いていた。

揺れる感情の中で、俯かせていた顔を上げる。

 

慧音さんの横顔を見た瞬間に、選択する覚悟すら出来ていないことに、俺は気付いてしまった。

 

 

 

* * *

 

 

 

いざ里の外にでたところで、手がかりなしに一人の女の子を見つけなど無謀だ。

それが一時間も前なら尚更。

だからこそ里を出た俺は、走り周囲を見ながら一つの案を捻りだしていた。

 

 

「リグル!!」

道沿いを駆けながら、俺は最近出来た妖怪の知人の名を叫ぶ。

 

リグル・ナイトバグは虫を操る妖怪だ。

彼女の恐ろしいところは、虫の大群で覆い尽すというおぞましい攻撃だけではなく、従えている虫たちを使った広範囲の情報収集能力だ。

実際に、ここ最近里の外に出た俺がリグルと出会う、というよりも発見される確率はかなりのものであり、故に、そんな彼女の力が必要だと判断した。

 

「リグル!!」

里から出て既に三度目の呼びかけだった。

こんな風に里の外で大声を上げて駆けまわるというのは、妖怪に襲ってくれとアピールする自殺行為に等しいだろう。

だが、手段を選んでいられるほどの時間の余裕はなかった。

 

こうしている今も、彼女は…………。

 

湧き上がる想像を振り払いながら、俺は周囲を見る。

妖怪の姿はなく、妖精は遥か遠い空に小さく見える程度。

桜の花を咲かせた木立の合間に教え子の姿を探すも、やはりその姿も見えない。

だが、代わりに見覚えのある黒い靄の塊が近づいくるのを発見した。

 

「リグル!」

リグルの虫たちを目にした俺は、未だに拭えない生理的嫌悪感を抑えながら足を止める。

虫たちの後ろから、頭に触覚を生やした少女が飛んできていた。

 

「随分慌ててるじゃない」

荒い息で待ち構える俺の目の前に着地しながらリグルは怪訝な顔を見せる。

「ああ、リグル、頼みが――」

「それよりも悠基」

 

俺の頼みを遮るようにリグルが笑顔で言葉を被せてきた。

鼻先にお椀の形をとったリグルの両手が突き出される。

「いつもの、お菓子ちょうだ――」

「悪い、忘れた」

 

さっきの意趣返しというわけではないが、リグルの反応を予想していた俺は彼女の要求が終わる前に応えを返していたしていた。

「え?」

完全に開き直った俺の応えに、リグルは目を丸くして静止する。

 

「次はいつもの三倍持ってくる」

そんなリグルが反応を示す前に、俺は彼女に畳み掛ける。

「だから、今は見逃してくれ」

「…………良い度胸してるわね、貴方」

「すまない」

「ほんとにそう思ってるのかしら……」

 

半ば呆れたようにジト目を向けるリグル。

だが、やれやれと肩をすくめて俺と向き合う。

「それで?なんで私を呼んだの?」

「頼みがある」

 

「頼み?」

「人を探してるんだ」

「…………人?妖怪じゃなくて?」

「ああ。女の子だ。これくらいの背の」

俺は自分の胸よりもやや下、ちょうどリグルの背と同じくらいの高さで手のひらを水平にして春の身長を示してみせる。

「朝方に姿を消して、もしかしたら里の外にいるかもしれないんだ。なあ、リグルは見てないか?」

「貴方ねえ」

 

またもや呆れた気配を滲ませて、リグルは嘆息混じりに呟いた。

「私がその女の子を襲ってたらどうするつもりだったの?」

「…………あ――」

 

言われてやっと、あまりにも明白な事実に唖然としていた。

話す程度には交流があるリグルだが、それでも彼女は妖怪であり、人を襲う種族だ。

彼女がお春を襲う可能性は十分にありえることで、身を以て知っているはずの俺は今の今までそのことを失念していた。

 

「前から思ってたけど、貴方って抜けてるわよね」

硬い表情で押し黙る俺に残念な評価を付けながら、リグルは「さて」と話を戻す。

「貴方が言ってる女の子、うちの子が見かけたらしいわよ」

 

思わぬ情報に目を瞠る。

「見たのか?」

「ええ、そう。あ、襲ってないからね。襲おうとは思ったけど」

 

「……どこで見たんだ?」

最後の一言を聞き逃すことにして、俺は問いかける。

対して、リグルは肩を竦めた。

「その子、魔法の森に入っていったのよ」

 

 

「…………え?」

 

 

 

* * *

 

 

 

リグル曰く、魔法の森は彼女にとってもあまり近寄りたくはない場所らしい。

森に繁殖しているたくさんのキノコの放つ胞子は、俺には見に覚えのない守護魔法がかかっているため特に害はないのだが、リグルたちにとってはあまり気分がいいものでもないらしい。

「それに、この子たちの羽に胞子がついて大変なのよね」というリグルのボヤキも御座なりに、俺は既に駆け出していた。

 

背中に投げかられる「お菓子の念押し」に手を振ったのは、三十分ほど前。

走り続けたおかげで息を切らせながら、俺は魔法の森を歩いていた。

 

森の入り口に居を構える香霖堂には人の気配はなかった。

主人の霖之助さんは商品の調達にでも出ているのかもしれないと考えた俺は、そこを素通りして森に足を踏み入れる。

 

鬱蒼と茂る森の中、枝葉は高い密度で俺の頭上を覆い、日が高い頃合いにも関わらず視界は全体的に薄暗い。

湿度が高いのか、ぬっとりとした空気が肌にまとわりつく。

 

少しずつ息を整えながら、注意深く周囲を見回しながら歩を進める。

春の姿を見逃さないようにと神経を注ぎながら、頭の片隅ではどうしてもこの不可思議な状況に疑問を抱かずにはいられなかった。

 

お春という少女は、十二歳にしては子供らしくないところがある。

自分を取り巻く環境を理解する賢さを持つところと、理解した上で自分の意志を殺して奉仕してしまうところ。

いい意味でも悪い意味でも、彼女は大人びすぎていた。

 

それだけに、彼女が自分の意思で里を出るなどと思えなかった。

懸命な彼女なら、いや、彼女でなくても、その行為がどれだけ無謀であるか承知のはずだ。

それとも、そのことすらも判断できないほど、彼女は精神的に追い詰められていたというのか。

 

不可解なのはそれだけではない。

春らしき少女が人里で発見されてから、リグルの蟲が魔法の森入り口で春の姿を目撃するまでの時間差はおおよそ一時間。

成人男性である俺が走り続けて三十分近くかかる魔法の森に、子供の足で、更には妖怪あふれるこの時期に、一時間でそこまでたどり着く。

不可能ではないかもしれないが少し考えにくい。

 

それに、なぜ魔法の森なのか。

…………もしかしたら、森に住む魔理沙かアリスを頼ってのことかもしれない。

可能性は無いこともない。

魔理沙は度々人里で見かけるし、アリスは人形劇の公演をしている。

実際にお春とその弟の伍助は人形劇を見に来ていた。

そこに、俺の知らない交流があっても不思議ではなかった。

 

魔法の森は広い。

闇雲に探したところで、望みが低いのは変わらない。

「だったら……」と俺はしばしば訪れていたおかげでだいたいの位置を把握しているアリスの家を目指すことにした。

 

お春がアリスを頼ったなら道中で会える可能性がある。

例えそうでないとしても、アリスに事情を話せばば力になってくれるはずだ。

 

「―――?」

不意に、方向を変えた俺の視界に何かが止まる。

―――あれは―――

 

離れた場所の茂みの傍ら。

一瞬の違和感を感じ注視する。

それは、木の根でもキノコでもなく。

 

既に俺は駆け出していた。

 

近付くにつれ、なにか分かる。

人の足だ。

それも、子供の足。

 

着物の裾は淡い紅色に桜柄。

たまに見かけるその柄は、彼女のお気に入りで。

 

「あぁ――お春!春っ!!」

茂みに手を突っ込む。

触れた柔らかくもか細い感触を無我夢中で抱き寄せる。

探していた少女を。

大事な教え子を。

 

瞼を閉じたまま、お春は動かない。

着物は泥に汚れ、嫁入り前の大事な顔だというのに頬には擦り傷を負っていた。

 

 

でも、でも…………大丈夫。

 

 

跡が残るような傷じゃない。

 

きっとすぐに治る。

 

治るから。

 

だから。

 

だから、

 

 

「ああ、頼む――」

 

 

頼むから。

 

必死な思いで呼びかける。

 

 

「お春っ!!」

 

 

どうか、どうか、どうか――。

 

 

「死なないでくれ――お春――」

 

 

目を開けてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………う…………」

 

 

 

小さな口から漏れる呻き声。

 

「っ!!!」

思わず呼吸を止めた。

抱きとめた彼女の体の温もりを、今になってやっと気付く。

 

生きていた。

…………生きていて、くれた。

 

「ああ、春…………」

 

呟きと同時に、少女の頬に一滴の水滴が落ちた。

慌てて目元を拭う。

熱くなった目頭を乱暴に抑えながら、まだだ、と自分に言い聞かせる。

まだ気を緩めるな。

 

呻いただけで目を開かないお春の口に耳を近づける。

規則的に、そしてはっきりと続く呼吸音が、彼女がまだ大丈夫だと告げていた。

 

俺は胸を撫で下ろし、そして思考を切り替える。

 

魔法の森は妖怪にも人間にも有害なキノコの胞子が蔓延している。

その大半が幻覚作用を齎すものの、すみやかに死に至らしめるほど毒性の強いものは少ないらしい。

それでも、お春が目を覚まさないのは胞子の影響だろう。

 

なら、空気のいいところで可及的速やかに彼女を治療する必要がある。

アリスの家に向かうか、森の入り口に向かうか。

 

アリスならば治療も出来るかもしれないが、不運にも彼女が不在の場合は状況が悪化する。

ここからならばまだ入り口の方がやや近い。

速やかに森を出て、香霖堂を尋ねる。

 

まだ留守にしている可能性は高いが、香霖堂の中ならばそれなりに安全なはずだ。

留守の場合は乱暴だとは思うが、窓ガラスを割ってでも侵入する。

霖之助さんには申し訳ないが、今は緊急事態だし、あとで弁償して謝るしかない。

 

香霖堂に侵入したらお春を隠すように寝かせて、分身を解く。

里に残る俺が記憶を引き継ぐことで、霊夢に現状が伝えられるかもしれない。

霊夢でなくとも、空を飛べる誰かなら、迅速に香霖堂でお春を回収し、永遠亭に連れて行ってくれるはずだ。

 

よし。

方針は決まった。

急いで――

 

「――っ」

背中に奔る悪寒に、立ち上がりかけた俺は咄嗟に抱えるお春ごと茂みに身を伏せる。

 

ガサリ。

 

と、離れた場所の茂みが揺れ、木の影からソイツが顔を出した。

 

「コノヘンカ?」

息を呑む。

 

その、インパクトある風貌は今でも鮮烈に記憶に残っていた。

「ニオイ、コエ」

 

それは半年前、幻想郷に迷い込んだ直後の話。

「コノヘンカラ、シタヨウナ」

 

熊のような大きな体躯。

短い足とは不釣り合いな長い前足には鋭い爪。

頭に据えられた巨大な一ツ目。

 

「――――」

絶句した俺の口から、音にならない声が漏れた。

 

よりにもよって、こんなときに。

今まで、あれ以来、ただの一度も出会わなかったというのに。

 

現れたのは、幻想郷に迷い込んだばかりの俺が初めて出逢った妖怪。

神話に伝わるサイクロプスの子孫なのか、亜種なのか、それとも無関係なのかはともかくとして。

 

俺を二度に渡り殺害した(・・・・・・・・・)一ツ目の巨人が。

俺と春が隠れる茂みに、真っ直ぐ近付きつつあった。

 

 




前回予告した通り、ほのぼの要素少なめの回です。また長い。
一応は本筋的な回でもあります。
おそらく存在を忘れられていたであろう一ツ目妖怪君再登場。ほぼ四十話ぶりです。まじかよ。
初期のころからぼんやりとこういう展開にするつもりではありましたが、当時の自分はまさかこんなに遅くなるとは思ってませんでした。


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四十三話 経験と魔法、そして、再び

『春に、何があったのでしょう?』

 

 

 

 

一刻前、慧音さんに問いかけた言葉。

反芻するように、俺は想い起こす。

 

人里。

自警団集会場の支部の一つ。

その中で俺は、幻想郷の大まかな地図を睨んでいた。

里に残る俺は、自警団を通じて里の外を捜索する人員からもたらされる報告を元に、幻想郷の地図から捜索範囲を絞る役目を担っていた。

里の外でフィールドワークをしていた俺はその役目に適しているといってもいいのかもしれない。

ただ、今の段階になって果たしてこの役割に意味があるのかという疑問は抱かずにはいられなかった。

 

既に里に住む数少ない対妖怪の専門家が捜索を開始している。

既に霊夢に依頼を届けた報告も、妹紅が動き始めた報告も受け取っている。

慧音さんも、今は里の周辺を捜索中だ。

 

例え里の中に残っていたとしても、春のために動けるのかもしれない。

そう自分に言い聞かせたところでそれは、方便だという気持ちがぬぐえない。

 

里の外で春の捜索に加わったほうがいいのでないか。

 

分身能力の解除。

日頃から行っているその行為を、衝動的に選択する最初の機会は既に逸脱していた。

 

空を飛ぶことが出来る霊夢たちがいる以上、俺がもう一人増えたところで大した差はないだろう。

むしろ俺自信の身が危険に晒される可能性が上がる分、里に残ったほうがいいのかもしれない。

 

それは理解している。

でも、だからといって焦りがなくなるわけではなかった。

 

 

 

『分からない』

 

俺の問いかけに、慧音さんは硬い表情で首を振った。

 

『ただ、彼女は複雑な立場にあった。当然その心境も揺れていただろう』

『だからって、里の外に逃げ出すなんて、そんな』

『ああ分かってる。彼女は聡い子だ。そんな選択をするとは考えにくい。だが』

そこで慧音さんは顔を歪ませる。

 

『妖怪に誑かされた可能性はある』

その言葉に、一瞬息が止まるほど驚いていた。

『……そ、んなこと、そんなことって、出来るんですか?』

『…………お春の、心の隙間』

 

難しい顔で、慧音さんは呟くように言った。

『その隙間を、妖怪に付け込まれたのかもしれない』

 

 

不意に、その時の慧音さんの言葉に違和感を感じた。

「……………………」

今思えば、どこか含みのある言い方だった。

「いや」

そんなことを考えている場合ではないと、俺は違和感を払う。

 

 

胸の中に積もった感情が、ぐらぐらと揺れ始めた。

 

衝動的であったとしても、あまりに遅すぎたとしても、もう決断するべき時かもしれない。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

近づいてくる。

一ツ目の妖怪。

 

こちらへ。

確実に。

 

どうする。

 

どうやって、

切り抜ける。

 

逃げるか。

無理だ。

 

ヤツは足が速い。

ましてや春を抱えてなど、絶対に。

 

「ドコダ……」

 

隠れるか。

駄目だ。

 

半年前の経験で知っている。

目だけではない。

ヤツは獲物を見つけられる。

現に今、近づいてきている。

 

「チカイ、ナ!」

 

なら隠れながら逃げる?

不可能。

 

すでにその選択肢が潰えるほど、

ヤツはこちらに近づいている。

 

…………。

なら、

 

「コノヘンカァ!?」

 

春を隠すように寝かせたままに。

茂みの中から躍り出る。

ヤツの目前へ。

 

闘う。

 

緊張と焦りに鈍らせた思考の先での行動。

追い詰められての選択肢。

 

「……ニンゲン!」

 

一ツ目は笑う。

「ニ、ク!」

あの時と同じ反応。

 

口から覗く鋭い牙。

長い腕の先には鋭い爪。

熊並の巨体。

 

それだけで恐ろしい。

体が震えそうになる。

 

でも、もう遅い。

身を晒した今、正面から向き合うしか無い。

踵を返して逃げるのは論外。

 

体が震えている。

 

怖い。

恐い。

コワイ。

 

なによりも。

 

俺の背後で気絶した少女を守れないことが。

何よりも恐ろしい。

 

引きつけろ。

ヤツを春から遠ざけるんだ。

 

ゆっくりと、横に歩く。

一ツ目の視線が俺を追い、

次の瞬間、視線が茂みへと向けられた。

 

気付かれて――

 

「おいウスノロ」

咄嗟に声が出た。

 

「ア?」

巨大な瞳がこちらへ向けられる。

 

そうだ。

こっちを向け。

 

「ビビってんのか」

注意を惹け。

 

「この雑魚が」

「ア゛ァ?」

 

余りにも稚拙な挑発。

それでも、効果があった。

 

「……オメェダ」

低く濁った声が漏れ出る。

 

「オメェガ、サキダ」

 

やはり春にも気付いていた。

その上で、

こちらに矛先が向いた。

 

「……来い」

 

危なかった。

冷や汗が頬をつたう。

 

考えろ。

頭を回せ。

浅慮は捨てろ。

 

ヤツが春を狙えば終わりだ。

彼女を守る術を俺は持たない。

 

「かかって来い」

 

木刀を抜き構える。

以前よりは手に馴染んだその武器。

一ツ目相手には心もとない、けど。

 

選択肢は一つ。

闘う。

いや、

 

「ガァ!」

 

距離を詰めてきた。

だが、遅い。

白狼天狗よりも圧倒的に。

 

右腕。

袈裟斬りの軌道。

 

受け止めるのは危険。

 

間合いを図る。

見切り、飛び退――ッ!。

 

「っ!!」

 

爪の先端が触れた。

着物の胸元が僅かに切ら裂かれる。

間合いを見誤っていた。

 

思ったよりリーチがある。

安易に距離を取るのは危険。

 

「ガァアッ!」

続いて左腕。

横薙ぎ。

 

軌道は読める。

姿勢を低く。

膝と腰を軽く曲げて首を竦める。

 

頭の上で空気が裂かれた。

 

「っく!」

三撃目。

俺の顔面に迫る太い足。

 

咄嗟に首を捻る。

頬を掠める太い足。

耳が――。

 

「ぐっ!」

転がる。

奴の死角を抜けるように。

無理な体勢の蹴りで生まれた隙を見ながら。

 

耳が持って行かれた。

――かと錯覚する蹴りだった。

熱い。

 

「ガァ!?」

 

咄嗟に距離を取る。

一ツ目を見る。

体勢を立て直す。

息が荒い。

俺の息が。

 

だが、思ったよりも。

予想していたよりも。

闘えてる。

 

……ダメだなそれじゃあ。

 

猪突猛進。

一ツ目が距離を詰めてくる。

 

春からは遠ざかるように。

ああ、来い。

 

俺には避けるしか対処法がない。

 

それでも、ヤツを誘導する。

少しでも春から遠ざけるように。

 

闘えるだけじゃあ足りない。

 

時間はない。

春を早く治療しなければ。

 

突進。

飛びのく。

 

もたもたしている暇はない。

 

切り裂き。

避けながら距離を取る。

 

考えろ。

やるべきは。

 

また蹴り。

こっちも転がって対処。

 

俺がするべきは――

 

「倒す」

決意であり決断。

 

倒すこと。

もしくは、一時的に行動不能にすること。

春を連れて逃げる時間を作り出すこと。

 

それも、出来る限り迅速に、だ。

答えは決まった。

 

切り裂き。

突進。

また爪。

 

腕を警戒。

木を障害物に。

死角を突いて。

 

余りにも、厳しい状況。

達成条件は困難。

それでも、それしか手はない。

 

「――スゥ」

息を吸い、

呼吸を止めて、

右手に神経を集中。

 

するべき、は。

 

逃げるために。

春を救うために。

 

大ぶりの一撃。

躱すのは容易。

 

懐に、一歩。

体勢を崩している。

蹴りはない。

 

更に一歩。

 

右手に、

その掌に、

 

 

魔力を、込めて。

 

 

 

*

 

 

 

「出来っタァッツ!」

一瞬上がった歓喜の声が悲鳴へと転じる。

 

魔力を放った直後で、恐ろしいことに煙が出ている右手をぶんぶん振って煙を払う。

それから、掌を火傷したのではないかと恐る恐る見ると、赤くはなっているが思ったよりも無傷だった。

 

「少し出力を上げすぎたわね」

アリスが冷静な分析を告げてくる。

「強すぎて制御に失敗したのよ」

 

「まあ、そこは失敗だけども」

息を吹きかけて手のひらを冷ましがてら、俺はぼやくようにアリスに応じた。

「でも、今のって、成功したって言ってもいいよね?」

 

三月に差し掛かったころ。

アリスの家での魔法の練習もだいたい五回目。

初めて魔法を成功させた瞬間である。

成功、でいいんだよな?

 

期待の眼差しを向けると、連れない態度でアリスは肩を竦める。

「まあ、微妙だけど、いいんじゃない?」

アリスのお墨付きだから成功とみていいだろう。

評価は置いといて。

 

「よっしゃ!」

思わずガッツポーズを見せる俺だが、アリスは相変わらず無表情である。

「浮かれすぎよ」

「そりゃ浮かれもするって!初めて魔法が使えたんだから」

まあ、正直に言えばもっと華やかな魔法が良かったけど、そんなことはおくびにも出さない。

 

「不満でもあるみたいね」

バレバレ。

「いや別に不満ってほどじゃないけど…………嬉しいのは本当だし」

 

「ま、いいわ。ここからは成功率を上げるために反復練習ね。今ので感覚は掴んだでしょ?」

アリスの言葉に俺はついさっきの感覚を想起させる。

「…………一応は?」

「自信ないのね」

 

俺の曖昧な応答にため息をつきながら、アリスは「そうね」と考えるように視線を空に向ける。

「名前をつけたらどうかしら」

「名前?」

 

「そう。貴方が使った魔法に固有の名前を付けるの」

俺は首を傾げならアリスを見る。

「あの、この魔法って、元々名前があるんだよね?」

「もちろん、一般的な呼び方は定まっているわ。でも、敢えて名前をつけるの」

 

「……そのこころは?」

「自信を持って魔法が使えるようになる」

「……意味分かんない」

アリスの発想にますます首を傾げるが、アリスはどこか確信を持った様子で話を続ける。

 

「名前を付けると愛着が湧いてくるでしょ?」

「ペットじゃないんだから」

苦笑してツッコミを入れるが、アリスは表情を崩さない。

 

どうも本気らしい。

まあでも、彼女の場合は真顔で冗談を言ってくるからイマイチ判断しづらいんだけど。

「愛着が湧くと、次第にその魔法に信頼が持てるの」

俺のツッコミを無視して話を続けるアリス。

「つまりは、その魔法を使う自分への自信に繋がるわ。魔法っていうのは、精神の影響が顕著に現れるっていうのは分かるわね?」

 

「まあ、なんとなくは。つまるところ、自信を持つためってことだよね?」

と無粋と分かりつつもアリスの話を結論付けてみる。

心の中で「こじつけっぽいけど」と正直な一言を付け加えている俺に対して、アリスは頷きつつも「まだあるわ」と人差し指を立てる。

 

「まだ?」

腕を組み、首を傾げる俺にアリスは一拍置いて、つまりは微妙に溜めてから告げる。

 

「名前を言いながら魔法を使うと」

「使うと?」

 

「必殺技みたいでテンションが上がる」

 

「!…………確かに」

「自分で言っててなんだけど、そこは納得するのね」

俺の反応にやや呆れたようにアリスは言った。

 

「まあ男子としては、つい、というか」

若干照れながら俺は頭に手を当てた。

冷静に分析して、技名を言いながら必殺技って流れは、スペルカードバトルのカード宣言も連想させるし、そういう考え方は存外俺の琴線に触れていたんだろう。

 

テンションなんて言葉選びにはちょっと驚いたけど、要はそういった精神的なコンディションが魔法に影響するわけだ。

テンションが上がった分だけ威力が上がるって解釈で間違っていないかな。

「納得していただけたようで何よりだわ」

なぜか誇らしげにアリスは言った。

 

「でも、名前か…………どういうのがいいかな?」

少々迷いながら参考程度にアリスに問いかけてみる。

「好きにすればいいんじゃない?」

「そこはおざなりなんだ…………うーん、でも、カッコイイ名前がいいかなあ」

 

腕を組んで軽く唸る。

こういうのって結構ワクワクするものだ。

 

初めての魔法だし、せっかくだしと誰に向けたのかも分からない言い訳もついでに浮かべながら頭を捻りつつ、アリスに視線を寄越す。

「アリスはなにかいい案はない?」

 

「そうね……」

逡巡する様子で、アリスは口元に手を添える。

「こういうのは?」

 

そうして彼女が示した名前に俺は、

 

「……………………えーと」

「不満?」

「い、いや……いいんじゃないかな」

ただちょっと名前が魔法っぽくなさすぎっていうか、すごい無骨というか、火薬臭いイメージというか。

 

「そんなにいや?」

はっきりしない態度に俺の内心を見透かしたのか、アリスは小首を傾げて見つめてくる、

 

「まあ、魔法なのにその名前っていうのが特に」

「男の人はこういうのが好きなんじゃないの?」

「別に…………ていうかよく知ってるねそんな言葉」

感心と呆れを交えながら言うと、アリスは釈然と行かない様子で「外来本に載っていたのよ」と肩を竦めるのだった。

 

そんなことはさておいて。

そうして俺は記念すべき初めての魔法を習得したわけである。

 

 

 

 

* 

 

 

 

 

握った右手に込めた魔力。

指の隙間から光が溢れる。

 

「ア?」

一ツ目の眼前に拳を振り抜くように。

 

「――閃光魔法」

その手を開く。

 

「『フラッシュバン』っ!!」

叫ぶ。

同時に瞼をきつく閉じた。

 

フラッシュバン、別名『閃光手榴弾』。

強力な光で視力を損失させる非殺傷兵器。

つまりは外の世界の武器。

魔法というには無骨な、それが名前の由来だった。

 

「ガァア!!」

 

炸裂音。

掌が、熱い

 

瞼越しなのに。

世界が、一瞬で白に包まれる。

 

魔力を光へと変化させ、

握った拳から解き放つ。

 

名前の由来と同じく殺傷性は無し。

要はただの目眩まし。

それでも、

 

「アアア!!」

野太い悲鳴をすぐ間近に感じた。

すれ違うようにその横を抜ける。

 

距離を取りつつ瞼を開く。

反転。

ヤツを見る。

 

「ウガアアアアア!!」

悶えている。

目を抑えて。

 

効いている。

薄暗い魔法の森であることは一種の幸運。

目眩ましは効いている。

今のうちに離脱――

 

いや。

木刀を握る。

 

目潰しは一時的なもの。

妖怪の回復力を考慮。

せいぜい効果は三十秒。

 

それでは足りない。

春を抱えて逃げるには、圧倒的に。

 

故に。

 

一息に、俺は踏み出す。

未だ悶える一ツ目との距離を詰める。

 

姿勢を低く、狙うべきは。

「っすぅ――」

「グァア!?」

 

鈍い音。

振りぬいた木刀が強かに奴の左足を打つ。

 

狙うは足。

ヤツの足を潰す。

 

次いで、もう一太刀。

 

出来る限り、同じ箇所へ。

ダメージを蓄積させる。

妖怪の回復力を上回る程の。

 

鋭い太刀筋ではない。

護身用にと持たされた木刀。

 

防御のために用いても攻撃に使ったことは少ない。

だからこそ、全力で。

我武者羅に、強く。

 

「ウラァ!」

怒声とともに爪が迫る。

だが、狙いは当てずっぽう。

 

閃光魔法がまだ効いている。

 

飛び退く。

背後をつくように。

 

そこから突き。

今度は右足の膝裏。

 

「ウガアアア!!」

爪が迫る。

 

さっきよりも正確。

飛び退く。

 

間合いを見切れた。

距離を取る。

様子見。

 

「テメェ」

振り向く一ツ目。

僅かに目を開いている。

 

視力が回復しつつある。

早い。

予想よりも遥かに。

 

構うものか。

走りだす。

振り向く一ツ目の死角を付くように。

 

「コノ――」

その目が、俺を追って。

 

「『フラッシュバン』」

「ゥア!!」

再度、視力を潰す閃光。

間を置かず接近。

 

左足に一撃。

すぐに離脱。

 

爪が空振る。

隙。

再び左足を突く。

 

「ウ、ア」

ヤツが僅かに蹌踉めいた。

 

効いてる。

その隙を追撃。

 

寒気。

 

咄嗟に攻撃を中断。

 

目前の地面を抉る斬撃。

しかし無理な体勢での攻撃。

 

生じる更なる隙。

「う、」

踏み込む。

 

飛びかかる。

狙うは、目玉。

躊躇わず。

容赦なく。

 

「っらぁ!」

振り下ろす。

 

「っ―――」

木刀越しの嫌な感触。

 

手応えあり。

効いてる。

やれる。

 

油断はするな。

見る。

 

容赦もするな。

まだ体勢は崩れたまま。

 

まだいける。

 

魔法を使うか、

木刀を使うか、

 

確実に、

木刀を握って。

 

迅速に――。

「ウ」

 

「っ」

何か来る。

 

「ッアア゛ア゛ア゛アアアアアアア!!!」

叫喚。

咆哮。

 

鼓膜を震わせる衝撃。

「っ!?」

怯む。

 

いや、

体が、動かな

 

「グアアアアアアアア!!」

「っ、あ」

迫る鋭爪に無理やり体を捻る。

ギリギリ回避。

 

ではなかった。

 

バシン、と。

木刀が弾かれる。

 

右手が痺れた。

 

唯一の武器を。

咄嗟に目で追う。

 

くるりくるりと回りながら、

木刀は、霞のように、

 

しまっ――

 

空気に溶けて。

 

失態。

その時になってやっと気付く。

 

重ねる過ち。

すぐに回避に移すべき瞬間を、

既に俺は、逃していた。

 

「グオオアア!!」

一瞬目を離していた。

 

一ツ目が体勢を立て直す。

 

反して俺は、回避しようとして、

足を取られて、

つまづきかけて、

 

致命的な判断ミス。

ささやかな不運。

 

倒れまいと足を踏み出した時には既に、

質量の塊が、殺意を伴って、

眼前に――。

 

バチッ。

 

突進。

直撃。

 

視界が、

世界が、

 

肺が潰れた。

息が、

 

――――

 

トんで――

 

「っ――ア」

背中に、

直後に正面に、

 

衝撃。

圧しつぶされる。

 

喉から石が込み上げて、

熱い液体が口から溢れる。

 

――あ?

 

腹に違和感。

 

見れば、腕が。

一ツ目の腕が、生えていた。

 

いや、これは。

視線を上げる。

 

熱い。

 

充血した瞳。

 

笑う。

 

悍ましい顔。

もう一本の腕が、

 

爪が、

 

熱い。

 

見えない。

 

 

あ。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

心臓が、痛い。

緊迫した状況と慣れない戦闘に激しく息が上がっていた。

だが、それ以上に心臓を激しく打たせているのは、目前で突如として起きた現象。

 

優位に進んでいたかに思えていた戦闘は、たった一度、耳朶を叩く咆哮でいとも簡単に逆転。

木刀が分身による複製だったことも災いしていた。

一瞬にして武器を失い、そのまま突進してきた一ツ目に為す術がなかった。

 

命がけの綱渡りで、俺は足を踏み外した。

 

その瞬間に感じた頭の中で何かが弾けるような感覚。

余りにも覚えがある現象に目を見開いた時には既に、俺は一ツ目の背後にいた。

 

一ツ目は正面に突進を繰り出す。

遠ざかる背中の向こうから声にならない悲鳴が聞こえてきた時には既に、()()()()()()が腹を貫かれ樹の幹に叩きつけられていた。

霞となって消える俺の姿を見ながら、同時に腹を貫かれた記憶が流れ込み息をつまらせる。

 

もはや疑う余地は無かった。

 

土壇場で分身能力が発動したのだ。

だが、腑に落ちない点が一つ。

 

分身をしている状態で分身能力は使えない。

ゆえに、一方が能力を解かなければ分身はできないはずだ。

現に今目の前で消えた俺の記憶は、消滅を示すように頭の中に流れ込んできた。

だが、里で慧音さんに捕まっていた俺の記憶は引き継いだ覚えがない。

 

「ア?」

間の抜けた声を上げながら、一ツ目が振り向いてきた。

「オメエ…………」

 

しかし、一つだけ確かなことがある。

もし、分身のいない今の俺が致命傷を負ったならば、そこにいつものような分身の消滅ともう一人の俺への記憶の引き継ぎという過程は起きず、死亡時の記憶を持ちながらも生きているという奇妙な結果にはなりえない。

 

死ぬ…………かもな。

 

分身能力を連続して使用するには、一定のタイムスパンを置く必要がある。

 

ここ暫く、分身がすぐに消されることが無かったおかげで無縁だった能力の性質を想い出す。

ついさっき能力を使用した今、頭のなかでは小さな刺激が弾けるばかりですぐには分身が出来そうにない。

だから、一ツ目のあの鋭い爪で切り裂かれれば…………。

 

でも、

 

「はは…………」

 

時間を置けば分身能力が使えるようになる。

それはつまり、戦う手段を得たこと。

ヤツを倒す一発逆転の目が得られたこと。

 

…………一人の少女を救うことが出来る、その可能性がずっと現実的になったこと。

蝋燭の火のように、一息で消えそうな儚い希望が今、温かさを伴って大きくなっていく。

 

「ははは…………」

それが例え、自分の命を危険に晒すことであったとしても。

春という少女を救えるのならば。

 

「ハハハ」

笑っていた。

 

自分の命が危ぶまれるようになった状況下で、予想以上に落ち着いていて、驚くほどに恐怖を感じていないことを自覚する。

同時に、ふと想い出す。

 

 

『ただの人間風情が、私に対して頭が高いんじゃない?』

 

見た目は幼い吸血鬼の少女が、初めて対面した際に放った言葉。

ああ、そうか。

合点がいった。

 

あの時感じた恐怖。

それは目の前の一ツ目妖怪から感じる物とは比較にならないほど濃密で圧倒的で尊大な殺気であり、分身しているにも関わらず間近に感じた死の予感だった。

 

……そりゃあ、あれに比べれば、な。

 

「アノトキノ、キエルニンゲン、カ」

はっ。

「今更気付いたのかよ間抜け」

 

らしくもない、そんな口調で俺は嘲る。

 

ただでさえ、大きな目を限界まで見開かせたと思うと、一ツ目は息を漏らすように呟いた。

「…………コロス」

殺気を込めたその言葉さえ、レミリア様の足元にも及ばない。

 

「来いよ。出来るもんならな」

 

再び分身できるまでの残り時間。

…………五分弱といったところ。

 

さきほどの戦いでさえ、五分間には及んですらいない。

スタミナも減り、息が上がり、おまけに木刀という唯一の武器を失い。

自分の命すら危ぶまれるようになった状況下でなお、俺は不敵に笑みを浮かべ、目前の強敵と相対していた。

 

 




戦闘回です。
主人公の魔法お披露目回でもあります。ある意味地味ですが、習得難易度の低さ(比較的容易という設定です)と実用性を兼ねてということで。
でもって、なんとなく察していただければと思うのですが、今回は回想除いて終始主人公は相当テンパってます。つまり、ちょっと考えれば気付くようなことにも気付かないということです。


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四十四話 死闘と切札と、

相対する一ツ目が、目を更に大きく見開いたと思うと、突然胸を逸らす。

先制を仕掛けたのは相手。

 

巨眼の下の裂けた口が僅かに開かれ、空気が動く音がはっきりと聞こえた。

 

「っ」

予想通りなら対処は容易。

耳を塞いで心の準備。

 

「ウ゛オオオオアアアアアアアア!!」

「――――」

咆哮。

先の戦闘の形勢を簡単に覆した攻撃。

空気を震わす巨大な咆哮が、ビリビリと俺の肌を撫でた。

 

押される。

強烈なプレッシャーが空気の塊となって体を叩いているような錯覚。

だけど…………耐えれなくもない。

 

空気だけでなく周囲の木々すら揺さぶる咆哮が途絶えた。

やや激しくなりかけた息を落ち着かせる。

大丈夫だ。

体は動く。

 

「オオオオオォォォォ!!」

次いで、一ツ目の取った行動は突進。

肩を進行方向に付き出してのショルダータックルは、巨体も相まって見た目以上の迫力がある。

 

俺は避けるように真横に走り出しながら、頭の中で状況を整理する。

分身能力が使用可能になる時間制限は五分前後。

 

それまではまともな反撃手段はない。

だからこそ、一ツ目の攻撃を見て対処する完全受け身の戦い方に予定を変更。

多分、こっちの方が幾分か向いている。

 

里の外で妖怪に襲われた際は、そのほとんどが背を向けて全力で逃げの一手を打っていたのだ。

そのおかげか、回避に集中し間合いをとり続けるこちらの戦い方の方が多少向いてる感じがする。

 

一ツ目は俺を追うように軌道を変えて迫ってくるが、魔法の森という地形が俺に味方していた。

俺の胴よりも二回りは太い幹を持つ木々は一ツ目の突進を阻む障害物だ。

一ツ目が構わず突っ込んだ樹がミシミシと嫌な音を立てるが、へし折れるということはなかった。

その木々の間を駆け巡り、妖怪と比較すれば遅い俺の足で、どうにか一ツ目の追随を凌ぎ続ける。

 

「オオァ!!」

苛立ち混じりの怒号が上がり、俺は振り向く。

一本の樹を挟む反対側に、一ツ目の巨体を確認。

近付いてきてる、けど。

 

背を向けた逃走状態からの転身――からのぉ……

「『フラッシュバン』!」

その手を翳した先で、ちょうど一ツ目が障害物の樹を避けて顔を出したところだった。

 

「ガゥッ!」

突然の光撃に怯む一ツ目。

初見じゃなくても意表を付ければ効果はある。

 

ヤツの動きが止まったところでその横をすれ違うように走り抜ける。

音に反応し、鋭爪の生えた腕が振られるが、間合いはしっかり見切っていた。

 

「どうしたマヌケ!俺はこっちだ!」

挑発も交えながら、若干の距離を置く。

冷静さを奪えば、それだけ意識が俺に向けられる。

標的を春に変更すれば止める手立てはないのは変わらない。

だから、その可能性の目は摘んでおく。

 

「コン……ッアアアアアアアア!!」

激昂を交えた咆哮。

体が鈍るが、動けないほどじゃあない。

距離を取って軽く息を着きながら一ツ目を観察するように注視。

逃げに徹していれば、なんとかそれくらいの余裕は作れる。

 

時間はどれくらいだ?

どれくらい稼いだ?

数える余裕はさすがにない。

 

三十秒はたったかも。

でも、一分も立っていないと思う。

どちらにせよ、まだ分身は出来そうにない。

 

自分の魔力がどの程度残っているかを知覚。

数発分の閃光魔法は撃つ余裕がある。

オーケイ。

さっきの木刀を使った闘いよりは、危なげはない。

 

思考を巡らせつつも一ツ目からは警戒を逸らさずに見る。

咆哮を上げてからは、何故か動かない。

時間が稼げるので有り難いが、あまりにも不穏な気配は不気味に…………っ!

視界の先、木々の合間に見える一ツ目の巨体から、禍々しい煙のようなが物が沸き立つのがはっきりと見えた。

 

――おい、おいおいおいおい。

 

本能か、経験か、危険な空気をひしひしと感じた。

可視化された妖力なのか、粘性を感じさせるどす黒い気体は一ツ目の頭上で一つの球を形取る。

次の瞬間、嫌な予感に囃し立てられた俺は咄嗟にすぐ側の樹の影に跳びこんだ。

 

パパパッ、と散発的な光の明滅を視界の隅に捉える。

直後、球から放たれたソレが、俺が一瞬前にいた地面を弾き飛ばした。

「っ…………!」

間一髪、樹を盾に逃げ込んだ俺の口から無意識に悲鳴が漏れる。

 

いくつもの光弾が群生しているキノコを弾き飛ばし、草花を蹴散らし、樹の幹を抉る。

すさまじい破壊の光景と轟音に俺は目を閉じ歯を喰いしばった。

 

――弾幕。

『ごっこ』じゃない。

殺傷能力抜群の弾幕だ。

周囲を蹂躙する絨毯爆撃のような攻撃。

 

――こんなのまで出来るのかよ…………!!

 

激しい弾幕は数秒ほどで止まった。

安堵で大きく息をつく。

周囲をぐちゃぐちゃにした光弾の弾痕からは、湿った地面を焦がすような煙が燻っている。

折れる寸前まで光弾に抉られた樹から恐る恐る顔を出して一ツ目の様子を伺うと、さっきと同じ場所で同じように背を向けて立っていた。

 

一ツ目は視覚以外にも俺の居場所を探知する能力がある。

緩慢な動きで振り返るヤツは、半ば隠れるようにしていた俺へと、迷いなく血走った目を向けてきていた。

体からは、僅かながらもあの色付きの煙が僅かに立ち昇り続けていた。

 

「コ、、、ロ、、、ス。。。!!」

怒鳴り散らすような声とは打って変わった低い声。

しかし、はっきりと殺意を漲らせた声に、俺の生存本能が警鐘を激しく鳴らした。

 

ああ、こりゃヤバイな。

有体に言って、一ツ目はブチ切れていた。

それはもう、いつもの俺なら即決で全力逃走を試みるほどに。

 

――ったく。

荒い息を整えながら俺は敵を見据える。

こっちが優勢になったと思ったら、いとも簡単に状況を覆してくれるものだ。

僅か数分の時間稼ぎが随分と遠く感じる。

 

ただ、今回ばかりは、こっちも覚悟は決まっている。

「やってみろよ……!」

 

相対するように身構える。

ただし、正面からぶつかり合うつもりは甚だ無かった。

 

「ウォオオオオオオオオオオオ!!!」

魔法の森を揺るがさんばかりの咆哮が上がる。

 

急速に収束する禍々しい煙に、俺は咄嗟に駈け出した。

明滅。

背後で轟音。

 

別の樹の影に飛び込む。

弾かれた土塊がビシビシと体を叩く。

 

弾幕が止んだ隙を掻い潜るように、走り始める。

俺を追う巨体に、手をかざして閃光魔法を撃つ。

 

「キクカァ!!」

「…………っ!」

 

一ツ目もさすがに対策を取り始めた。

閃光魔法と言っても、要はただの強い光。

俺が魔法を繰り出すタイミングで魔法の発生源に遮蔽物を添えて光を遮れば、対策としては充分だろう。

むしろ、一ツ目の知能が言動通りの低さだったから今まで通用していたというだけだ。

 

「ウオォオ!!」

吠え声が上がる。

同時に、背後で明滅の気配を感じた。

 

三度目の弾幕。

連続で長時間使用は出来ないにしたって、破壊力の割に再発射までのスパンが短い。

 

対する俺は障害物を盾にするしかない。

あんなの反則だろと内心愚痴るも、そんな空元気のような余裕もあっという間に削がれていく。

 

そこからは、綱渡りをするかのような駆け引き。

一手でも間違えれば多分詰むし、間違えなくても詰むかもしれない状況。

ただ走り逃げ回るしかない俺は、それでも全力で抗う。

 

――光弾が弾いた木片が頬を掠めた。

生暖かい感触が頬を伝う――

 

逃げて転がって飛び退いて牽制して隠れて、死力を尽くして頭を常に回して集中を切らすこと無く、凌ぎ続ける。

 

――体が重い。

体力の限界が見えてきた――

 

わずか数分。

 

――予想以上に接近してきた一ツ目の爪が迫る。

鋭い一撃は、左腕を僅かに裂いた――

 

されど、その数分は、

 

――またしても光弾。

咄嗟に跳びこんだ木の影で、抉られた右肩に奔る灼熱の痛みに呻く――

 

何度、死線を超えれば至ることができるのか。

その答えは、

 

チリチリと、最善手を打とうと回していた頭が焼けるような錯覚を覚える。

 

「う」

足がもつれ、土塊を散らしながら転倒する。

長時間の緊張と全力で動き続けた体が悲鳴を上げ、脳が酸欠を訴えていた。

 

「ウォオオオ!!」

好機とばかりに迫りくる一ツ目に、これ以上の時間稼ぎは無駄と心を決める。

 

「っ、あああああ!!!」

肩の痛みで動かすのが辛い右手の代わりに、左手に全ての魔力を込める。

それは、一か八かの賭けに見えただろう。

 

この期に及んで俺は、正面からのぶつかり合いを選択していた。

明らかに、それは自殺行為だ。

愚直な正面からの突進など、リーチで勝る一ツ目などに敵うわけがない。

 

実際に、

「っハ、」

呆気無いほどに、鋭く長い爪が、俺の腹部を貫いていた。

これで、腹に穴を空けられたのは二度目。

 

ああでも、覚悟なら、していたさ。

あまりにも強烈な異物感の直後に襲い来る激痛に、意識が飛びそうになる。

それでも俺は必死に耐えながら、不敵に笑みを浮かべて見せた。

コイツも気付いているだろう。

 

 

時間制限を凌ぎ切った俺が、分身能力を使ったことも。

 

もう一人の俺が隠れるように離れた茂みに伏せたことも。

 

俺をここで殺してもあまり意味がないことも。

 

 

それでも、ヤツは、怒りのままに俺に殺意を向けていた。

俺の腹を穿ったままの一ツ目の頭上には、あの球体。

腹に風穴を空けるだけでは満足しなかったらしいヤツは、全力を持って俺を消し炭にしたいそうだ。

 

恐い。

今は素直に、死ぬのが怖い。

痛みももう我慢出来ない。

実際に、分身を解いてこの状況から一秒でも逃げたいと、そんな衝動が激しく湧き上がる。

それら全てを黙殺し、気合で堪える。

 

あと少しだけ、持ってくれ。

 

「シネ」

実にシンプルな言葉で、一ツ目が告げる。

恐ろしい形相のやや上に浮かぶ球。

 

その球が瞬くように光を放った時には既に、俺は左腕を動かしていた。

魔力を込めた掌が突き出されるのと、光弾が体を貫くのは同時だった。

 

「『――――』」

魔法の名を叫ぶ声諸共、全てが吹っ飛んだ。

 

 

 

*

 

 

 

 

「――、――」

激しい耳鳴りが世界を満たしていた。

というよりも、耳鳴り以外の音が消えていた。

 

「――、――、―――」

荒い自分の息遣いも、生暖かい液体が流れる右肩の痛みに思わず漏らす呻き声すら、聞こえない。

 

だが、構うこと無く立ち上がる俺は、隠れていた茂みから抜け出しながら煙が上がるその場所と足を進めた。

「…………」

 

その場で爆発が起きたことを錯覚させるような焼け焦げた地面の上で、それを見る。

 

一ツ目と呼ぶその妖怪は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白目を向いて、倒れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はぁ…………。

僅かな安堵を抱く。

 

どうやら怒りに任せて弾幕を放ったらしい一ツ目は、俺を消し飛ばすことしか考えてなかったらしい。

分身の俺諸共消し飛ばした自らの弾幕によって、ヤツの腕は悲惨な状態になっていた。

そんな様子で、しかしピクリとも動かない一ツ目の様子を見た俺は、すぐに踵を返した。

 

 

分身の消滅に伴う流れこんだ記憶の中で、分身の俺は全ての死力を尽くして一ツ目の撃破を果たしていた。

放った魔法は、名づけて『クラッカー』。

 

紐を引っ張り派手な音を鳴らすあのパーティーグッズがその由来。

言ってしまえば、ただ単に突然耳を劈くような音で相手を驚かせるだけの魔法だ。

 

「驚かせるだけ?」と、閃光魔法を習得を終えて早々にこの新しい魔法の習得を始めた折、問いかける俺にアリスが頷いたこと想い出す。

アリス曰く、精神的な攻撃に弱い妖怪に対して、驚かせるというのは俺が思っている以上に効果があるらしい。

 

「それに、あまりオススメはしないのだけど」と前置きとともに説明を続けるアリスは、音を爆発させるこの魔法は威力を上げれば簡単に意識を吹き飛ばすことも出来るとも言った。

ただし、それほど威力を上げれば、当然ながら魔法を掌から放った俺自身も意識が飛ぶ、謂わば自爆魔法のようなものだという説明に、期待に目を見開いた俺は意気消沈するのだった。

 

分身能力を使う俺としては、自爆魔法は選択肢にはあるだろうが――もちろん進んで使う気はさらさら無いどころか心の底から嫌だけど――そもそもそんな魔法を使うような状況は里の外でなければ起こりえないし、里の外にいるということは分身が里に残っているということだ。

能力の使用中は分身能力が使えないから、結局『クラッカー』は相手をただ驚かせるだけの魔法として扱うという結論に落ち着いた。

 

ただ、今回は状況が違った。

それこそ自爆するつもりで、『クラッカー』を放ったもう一人の俺はありったけの魔力を左手に注いでいた。

そのおかげで、予想以上の威力だ。

一ツ目の意識を吹き飛ばすだけじゃ飽き足らず、隠れて耳を塞いでいたはずの俺の聴力すら、一時的とはいえ奪ってしまったのだから。

「――」

自嘲気味に笑い声を漏らしたが、やはりその声はぼんやりとしか聞こえなかった。

 

なんにしろ、分身能力が使えたおかげで、なんとかなりそうだ。

…………おそらく、里で足止めを喰ったもう一人の俺が分身の解除を決断したのだろう。

記憶が流れ込んだ覚えが無いが、もしかしたら一ツ目の戦闘に必死で気づかなかったのかもしれない。

正直、理由としては納得出来ないものの、後でゆっくり考えればいいことだ。

 

痛みと疲労のせいか、どこかぎこちない動きで歩みを進める。

闘いの中で、一ツ目を引きつけ、春から遠ざけるように意識して動いていたが、どうやら思いの外離れていたらしい。

 

気持ちは急いているというのに、ペースは徒歩よりも更に遅く、倒れた春までの距離がずいぶん遠く感じる。

春の元にたどり着いても、まだ終わりじゃない。

彼女を運び、出来る限り急いで森から出る。

未だに血が流れる右肩は涙が出そうなくらい痛いし、二度も腹を貫かれた記憶のせいか、腹部からは鈍い幻肢痛がする。

冷静に考えて、ダメージが存外深刻らしい俺からしたら、途方も無い任務だ。

 

だが、諦めるつもりはさらさら無い。

絶対に、助ける。

そんな確固たる意思が俺の体を動かしていた。

 

もう数分したら、再び分身能力が使えるようになる。

分身に伴って体力を浪費するのは痛いが、この状況下で人手が単純に倍になるのは大きなアドバンテージだ。

とにかく、まずは春の元へ――。

 

気持ち僅かに足を速める。

ゆっくりと耳の中の圧迫が溶けていくのを感じた。

 

どうやら聴覚が戻ってきたらしい。

 

「――ァ、ハァ、っぐ……ッハア、ハァ」

荒い自分の吐息が聞こえる。

世界の音が蘇ったような気がした。

 

同時に気付いたのは、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背後の気配。

 

 

 

 

 

 

 



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四十五話 そして、その結末

…………………………………………っ。

 

なんだ?

なにが起きた?

 

湿った感触が頬を濡らす。

体の側面から重力を知覚すると同時、それに逆らうように意識が浮上する。

 

――っ゛!!

浮上しかけた意識が、体中に奔る衝撃に強引に引っ張り上げられる。

 

「っあ゛、ごふっ、げほっ」

鋭い痛みと鈍い痛みと熱い痛みが、そろいも揃って溶け合うようにあちこちで体を叩いていた。

瞼を開く。

頭痛が酷い、

ねっとりとした感触が額を濡らす。

咳と呻き声を漏らす体の下は湿った地面の感触。

 

「っが……っ」

理解の及ばないまま呻いた俺は、一瞬ぼやけた視界に焦点が合うに連れ、言葉を失った。

 

血だ。

暗い木の幹も青々と茂っていた草も極彩色のキノコすらも、鮮やかに染め上げる夥しい量の赤い血が、そこら中に飛び散っていた。

その周辺は枝葉による遮りが少ないのか、陽光が光の帯となって漂う胞子と一緒に明確な赤を照らしていた。

 

その血が全て俺の体から流れ散ったものだというのは明らかで、だけど俺の意識は更にその向こうへと向けられていた。

「……畜生…………」

思わず悪態が漏れる。

 

俺を巨大な目で見据える、一ツ目の姿。

異様に長い右の前足は、未だに黒く焼け焦げたままだがすでに原形を取り戻しつつある。

対して左の前足は鋭い爪を赤く染め上げ――そういえば左腕の…………肘から先の感覚がない――その先からはポタポタと雫が一定間隔で落ちている。

 

…………あれすらも。

 

自爆覚悟の切り札として使った『クラッカー』も、一ツ目には数分と待たず意識を取り戻す程度にしか効果が無かったらしい。

自分の間抜けっぷりに反吐が出る。

倒したと思って確認を疎かにしたことも、耳が聞こえなかったとはいえ背後まで迫ってきていることにに気付かなかったことも、春を助けられると思って緊張を緩めたことも、全部、全部、全部…………。

 

俺を見据える一ツ目は、薄く笑っていた。

「マヌケ」

自責する俺の心境を見抜いたような言葉だ。

 

ゆっくりと、俺の元へと近付いてくる。

「マヌケ、オマエガ、マヌケ」

俺の挑発を随分と気にしていたらしい。

見ようによってはまるで子供のような無邪気さすら感じさせるヤツの姿は、それまで感じていた直接的な死の恐怖とは別種の気味の悪さを思わせた。

 

俺の間近、その爪を下ろせば簡単に心臓を刺し貫ける位置まで来た一ツ目は、しゃがみ込むように短い足を折って俺を覗き込んだ。

間近に迫る巨大な瞳は、やっぱり何回見ても怖いし気持ち悪い。

「オマエガ、ノロマ。オマエガ、ザコ」

なんだよ、気にしてたのか。

 

空元気でせせら笑ってやろうとしたが、口から溢れた血の泡に咳き込んで失敗した。

咳をする度に、体中の至る所から痛みに耐えかねる悲鳴が上がる。

一ツ目は自身の爪に付着した俺の血液をペロリと舐める。

視線を無様に地に伏せ動けない俺から離さないヤツは満足げに笑みを浮かべて勝利の余韻に浸っている。

 

「マタニゲラレタラ、メンドウ」

満足しつつも、一ツ目の中では一つの結論を導き出していたらしい。

 

「サッサトトドメ。ソシタラ」

不意に、その瞳が逸らされる。

「アッチノ――」

 

その視線の先に倒れているであろう春へ、その巨眼が向けられている。

「ガキモダ」

 

やめろ。

「頼む」

反射的に、声が出た。

 

「頼む、あの子は」

無理に体を起こそうとして力が入らずに失敗する。

「あの子は……っう、見逃し、てくれ」

 

体中が無茶苦茶で、何がどうなっているのか把握できない。

身じろぎするにも労を要するし、呼吸の度に鋭い痛みが奔る。

魔力も、『クラッカー』を使った片割れが全て持っていったのか、底を尽きかけているのを感じた。

為す術がないどころか、これは、もはや………………………………いや、今は。

 

それでも、それだけは看過できない。

 

「アハ」

一ツ目の口角が大きく釣り上がった。

「アハ、アハハ、アハハハハハハハ!!」

 

唾を飛ばしながら、豪快に嗤い声を上げる。

野太い声は空気を揺らし、俺の体はそれだけで痛みに悶える。

 

「アハハハハッハハハッハハ……」

そうして一頻り笑い終えたヤツは、俺を除き込み、口角を上げたまま告げる。

「イ、ヤ、ダ」

 

自分をコケにし、挑発してきた相手が無様に地に伏せている。

その状況が嬉しくてたまらない。

そんな感情がありありと見て取れる。

 

「イヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダアハハハハハハハハハハハハハハ!」

高らかに、勝利を確信した下品な笑い声。

 

……………………ぅ……………………。

血を流しすぎたのか、目眩がして視界が歪む。

不快感を催す笑い声を耳にしながら、不意に思う。

 

あの時みたいだ。

半年前、幻想郷に迷い込んだとき。

こうして、この場所で、この妖怪に襲われ、

 

絶体絶命で、もう為す術がなくて、

 

「アハハハハハハハハハハ!!」

こんな風にヤツは嗤って、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「騒々しいわね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、不意に声をかけられたんだっけ。

 

可能性は留める程度にしていた。

あの咆哮に加え、俺の魔法による大音響。

その音が届くかどうかは分からなかったし、運に左右される部分が多すぎるし、そもそも考慮したからといってできることはほとんどない。

 

それでも、どうやら、気まぐれな幸運の女神は、最後にもう一度だけと、俺に微笑みを向けてくれたらしい。

 

「ア?」

あのときと同じように、目を丸くする一ツ目の周囲に展開する妖精と見紛うミニチュアサイズの少女、いや人形たち。

俺は彼女たちの名前を知っている。

 

「咒詛」

彼女たちの主たる少女の名前を、知っている。

 

「『魔彩光の上海人形』」

その少女の強さを、知っている。

展開する上海人形たちから光が放たれる。

 

眩い光が頓狂な声を上げる一ツ目を包み込み、俺はあまりの眩しさに瞼を閉じた。

「アアアア――」

瞼を閉じてもなお眩しい世界の中で、その場から消滅したかのように一ツ目の声が唐突に途切れた。

 

――――。

 

上海たちの放った輝きは十秒もしない内に収まった。

耳に残った一ツ目の断末魔に背筋を冷たくしながら訪れた静寂の中で恐る恐る目を開く。

 

「……………………」

消えていた。

つい先程まで目前にいたあの妖怪の姿が。

 

随分と苦しめられた存在が。

 

こうもあっさりと。

驚きなのか安堵なのか、不意に息が漏れる。

――あ。

その息とともに、張り続けた緊張が途切れた。

視界が揺れ、一瞬意識が無くなりそうになりながら、俺は渾身の気力を持ってその意識をつなぎとめる。

 

「悠基」

軽い足音が近付いてきた。

 

「……アリス」

どうにか首を動かすと、金髪碧眼の少女が駆け寄ってくるところだった。

 

「貴方の魔法の音が聞こえたの」

ここにいる理由を短く告げながら、すぐ側でしゃがみ込んだアリスは俺の赤く拉げた腹部に翳した。

流れる血を止めようと腹部を抑える彼女の腕から、優しげな淡い緑色の光が湧き上がる。

温かさを感じる治癒魔法の光が痛みを和らげてくれる。

 

「ア、リス」

自分でも驚くほど弱々しい呼吸で彼女の名を呼ぶ。

「喋らないで」

アリスは俺の腹から目をそらさない。

魔法の光が、先程よりも強まった。

 

「聞い……てくれ」

「喋らないで」

再度、アリスは言った。

「頼むよ」

ただ、こればっかりは無理をしてでも遂げなければならない。

 

「子供だ」

ほとんど失ってしまった力を捻り出し、なんとか音にする。

「こど、もが、ゲホ……あっちに」

「分かってる」

アリスは俺の腹部から目を逸らさずに告げる。

「貴方を治療したらすぐに永遠亭に運ぶわ」

 

……………………。

「アリス、いいんだ」

 

なんとか動かすことの出来る右腕を上げ、俺はアリスの腕を掴む。

もはやそれだけのことすら、気力を振り絞らなければできない。

 

「俺は、いい」

「喋らないで」

再三、アリスは硬い口調で俺に告げる。

 

頼むよアリス。

魔法の森のキノコの胞子は有毒だ。

ただちに影響が出るわけでないにしろ、春を治療をするなら急いだほうがいい。

こんな…………こんな()()()()()に時間を費やしている場合じゃない。

 

「もう、いいんだ」

いつもはほとんど表情を顔に出さないアリスが、俺の言葉に顔を歪めた。

やっぱり、アリスも気付いてたんだな。

 

 

周囲に撒き散らされ今も流れ出る赤い液体は、とっくの昔に致命的な量に達していることを。

光が与えてくれる温もりよりも早く、俺の体から熱が失われていることを。

 

 

それでも、その事実に気付いてもなお、治療をやめる様子がない。

もう……ほんと、優しい子なんだから。

 

俺は心の中でアリスに謝る。

「俺は……分身だ」

「悠基」

「さ……里に、残……してる」

里に分身がいるから、ここにいる俺の治療は必要ないと。

 

とっさについた嘘に、アリスは俺を睨むように見た。

「やめて、悠基」

 

不思議と、怒ってるようにも悲しんでいるようにも見える目だ。

ああ、嘘だって、気付いてる。

でも、アリス。

「頼む…………!」

 

行ってくれ。

騙されたことにしてくれ。

頼むよ、アリス。

 

「俺は、大丈夫」

残り僅かな死力を尽くして、俺は歯を食いしばる代わりに微笑んでみせた。

「大丈夫…………だから」

いつかの相手を安心させるつもりの笑み。

だけど、やっぱりこれも、今回も、失敗だったらしい。

 

アリスは硬い表情のまま目を見開いていた。

ああ、出来損ないでもいい。

アリスはきっと、俺の意図も覚悟も意思も、察して、汲んでくれる。

彼女は、優しいから。

 

「っ――――」

そうして、何かを言いかけるように口を開いて、結局は声にはならなかった。

 

治癒魔法の光が儚く消えると同時に、アリスは頷いた。

「……分かったわ」

 

ありがとう。

礼を言おうとして、アリスとは違う理由で声にならない息を漏らす。

 

「悠基」

立ち上がったアリスはゆっくりと後ずさった。

俺を見る瞳は、やはり揺れるように迷いながら、しかし。

 

「後で……」

最後に一瞬だけ、アリスは名残惜しそうに俺を見る。

 

俺は頷いた。

頭が動いたかどうかも分からなかった。

 

それでもアリスは俺に頷いてみせると、踵を返して春の倒れている辺りにまっすぐ向かう。

その背、その歩みからは、断固として振り向くまいという意思を感じさせた。

 

俺はゆっくりと、呼吸が落ち着いて…………いや、か細くなっていくのが分かった。

茂みに阻まれ、アリスは次第に見えなくなる。

 

そんな彼女の背中に、俺は「ありがとう」と呟いて、「ごめん」と零した。

口からは、声になりそこねた掠れた息が吐き出されるだけだった。

 

…………ああ、全く。

子供じゃあるまいし。

ここにきて、急に寂しくなってきた。

 

覚悟、というほどじゃないけど、諦めは自然とついていたつもりだったのに。

独りになって、もう終わりなんだとやっと実感が湧いてきた。

 

怖い。

すごく、怖い。

 

…………まあ、でも。

よかった。

アリスが行った後でよかった、かも。

 

んあ……眠くなってきた。

 

なんか、

痛み、引いて。

 

 

だる………………。

 

 

 

これは…………もう。

 

 

 

…………終わり、かな。

 

 

 

 

 

 

視界が濁る。

 

 

 

世界の、

 

 

 

色が、

 

 

 

音が、

 

 

 

温かさが、

 

 

 

光が、

 

 

 

 

消えて。

 

 

 

 

 

 

暗い……。

 

 

 

 

 

寒い、なあ。

 

 

 

 

でも。

 

 

 

 

なんか、安心した。

 

 

 

 

 

いいかな………………も……う…………。

 

 

 

 

 

 

い……よね……………………?

 

 

 

 

 

 

…………と…………さん、……かあ…………ん

 

 

 

 

 

 

 

…………お…………れ……………………は、

 

 

 

 

 

 

まだ…………。

 

 

 

 

 

 

……………………あ……………………ま……………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………………………………………………………………………………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・――――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――――』

『――――』

 

 

音が消えたはずの世界で、誰かの声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 




次回で花映塚編の区切りです。


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四十六話 そんな彼と花映塚

『――――』

 

………………………………………………………………。

 

 

 

『――――』

 

…………………………………………?

 

『悠基君』

『悠基』

 

…………あ、この声。

 

『ユウ』

『ユーキ』

 

…………ああ、うん。

 

 

『岡崎』

『岡崎くん』

『悠基さん!』

『岡崎先輩』

『ゆうちゃんセンパイ』

『ゆうちゃんさん!』

『岡崎サン』

 

おー。

 

『ゆうき』

『岡崎ぃー』

『悠基』

『ユウ兄』

 

はいはい。

 

『ゆう』

『ザキさん』

『悠基君』

『ゆうちゃーん』

 

『―――』

『―――』

『…………』

『   』

 

うん。

分かった、分かったって。

 

 

『悠君』

『悠基』

 

 

……………………うん。

 

『バカユーキ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「せん、せい?」

「………………ん」

…………誰?

 

呼ばれてる。

ああでも…………お布団温かい…………。

 

「せんせい」

「ん~」

温かいものに包まれての微睡みというのは、どうしてこうも心地いいのか。

二度寝という甘美な響きを浮かべつつ、いつものように今日は休みだったか記憶を辿る。

 

その工程で、俺を呼ぶ声の主にハタと思い至った。

「悠基先生?」

再び声を掛けられた瞬間に、俺の意識は微睡みの中から一瞬で覚醒した。

「春!?」

 

同時に掛けられた布団を跳ね飛ばさんばかりの勢いで俺は飛び起きる。

「ひゃう」

と可愛らしい声と同時に、春と呼ばれる少女がたじろぐように身を引くところだった。

 

ていうか思いっきり尻もちをついていた。

うわあ。

春だ。

間違いない。

頬に大きな絆創膏のようなものが貼られてる。

でも、元気そうだ。

いや、落ち着け落ち着け。

 

「……お春?」

「えっと、先生?」

「お春、なのか?」

「え?は、はい。そうです、けど。それより先生」

 

疑問符だらけの会話の合間に、彼女は不安げに周囲を見渡す素振りを見せる。

和風の座敷部屋に布団が二つ。

西日が障子越しに部屋の中を照らし、室内を朱に染める。

見覚えのある景色だった。

 

今は些細な問題だ。

「あの、ここはどこ――」

「怪我は?」

「ほぇ?」

「怪我はないか?」

「え、はい」

「痛いとこは?」

「ない、です」

「気分は?」

「大丈夫です、けど」

 

「…………そうか」

肺の空気を全部吐き出すような大きなため息が自然と漏れた。

 

 

……………………そうか。

そっか。

そっかそっか。

 

「あの、せんせ、え?」

戸惑うような春の顔がぼやけて歪む。

困惑と驚きの入り混じった声を上げる春の目前で、俺という大の大人は次の瞬間ぼろぼろと涙を流し始めていた。

幻想郷に来て以来随分と弱まった涙腺だったが…………最速記録更新だろう。

嬉しくない。

嬉しいから泣いてるわけだけど。

 

「せ、先生!?だ、大丈夫ですか!?」

「……うん。うん」

涙声で鼻を啜り、俺は大袈裟に何度も頷いた。

「大丈夫……大丈夫だ…………うん、良かった……無事で……うっ」

 

まあ、俺の醜態は置いといて。

怪我はしてるし、突然泣き出した俺に物凄い困惑してるけど、でも、元気そうだ。

春、良かった。

無事で、本当に良かった。

 

夢じゃないよな?

ああ、でも、覚えてる。

ちょっと朧気だけど、全部。

 

「せん、せい」

不意に聞こえた春の声は震えていた。

 

……あ。

慌てて流れるままにしていた涙を拭うと、既に春の瞳にも、溢れんばかりの涙が溜まっていた。

「ぅあ、春、すまん!驚かせるつもりじゃ――」

「いえ、違う、違うんです」

 

慌てて慰めに入ろうとする俺に春は首を振る。

落ちた雫が布団の上に染みを作った。

 

「私、暗いところにいて」

鼻をすすって、春は涙を拭う。

「何もしてないのに体は勝手に動いて」

「……うん」

 

混乱した様子の春の言葉に、俺は頷き静かに促す。

「それで、ずっと一人ぼっちで、いつのまにか体、動けなくなってて」

大粒の涙が数滴零れた。

 

「そしたら、せんせの、声」

「ああ、ああ」

「それで、ほっとして…………う、怖かった…………怖かったよ…………」

 

それ以上は、嗚咽で分からなかった。

「もう大丈夫だ。安心しな」

そっと、春の体を抱き寄せる。

 

本格的に涙を流し始めた春は、俺の胸で嗚咽を上げる。

「うう……うっ……」

「大丈夫。大丈夫だ」

そんな春の背中を、小さな子供をあやすようにポンポンと叩きながら……いや、大人びた言動をしていたところで彼女もまた子供なのだから、と俺は微笑ましく思う。

 

「俺がいる。もう怖くないからな」

「せんせ……うっ……~~!!」

 

安堵からか、再び目頭が熱くなってきた。

そのまま溢れる涙を拭おうともせず、ただただ泣きじゃくる少女を慰めてやる。

そうして、「な、何事!?」と襖を開けて開口一番に頓狂な声を上げる鈴仙と、「おやおや」と含み笑いを浮かべるてゐの二人が訪れるまでの十分近く、大の大人と一人の少女が揃って号泣するという、何も知らない人から見れば戸惑ってしまうような状況は続いたのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

そういうわけで、俺と春が寝かされていた部屋は、迷いの竹林の屋敷、永遠亭の一室だった。

……たとえ知人であり患者だからといって、大人の男と少女を同室で寝かせておくのはどうかと思うけど。

 

運びこまれた記憶はないが、部屋の造りに見覚えがあったことと、軽い治療を施された春がいるという状況からここが永遠亭だというのはすぐに分かった。

その春だが、一応の検査という名目で、鈴仙とてゐに連れられ診察室に行っている。

「悠基も後で診断するから、ちょっと待ってて」と鈴仙に告げられた俺は、縁側に腰掛けて永遠亭の中庭を眺めていた。

 

そろそろ空が赤くなろうかという頃合い。

春の行方不明事件が発覚した朝方だったから、ざっと六時間は寝ていたようだ。

未だに混乱が残る頭の中を整理していた俺は、視界の端、こちらに近付いてくる少女に気付いた。

 

「目が覚めたのね」

「……アリス」

低くなった日の光を背に縁側沿いに中庭を歩く少女は俺の少し横で止まった。

 

「隣、いいかしら」

「いいよ、どうぞ」

軽く頷いて、彼女が座る場所を確保するように少しだけ左に位置を動かす。

そんなことをしなくても充分なスペースはあったけど。

 

「……目が赤くなってるわね」

腰掛けたアリスが俺の目を覗き込んできた。

少々照れくさくなりながら、「まあ、ちょっとね」と腫れぼったくなってしまった目元を意識する。

十分も泣いてれば、そりゃ酷い有様にもなる。

 

「それよりもさ、ありがと、アリス。また助けられた」

話題を逸らすように礼を言うと、アリスは予想外の返しをする。

「また貸しが出来たわね」

「た、そ、そうだね」

「冗談よ」

思わぬ言葉にがっくり肩を落として苦笑してみせると、相変わらずの真顔でアリスは言った。

 

「それでなんだけど」

本題とばかりに、僅かにアリスの声のトーンが変わった。

「何があったのか聞いたわ。人里で急に倒れたって」

「……ああ、うん」

深く吐き出して、ゆっくりと頷く。

 

「でも、腑に落ちないことがあるの」

「腑に落ちないことって?」

「さっき……といっても何時間も前なのだけど、貴方は言ったわね。分身が里が残ってる、と」

「ああ、そうだね」

少しだけ朧気だが、記憶はあった。

致命傷を負った瀕死状態で絞り出した苦し紛れの言葉も、その結末も。

 

「私は、嘘だと思ったわ」

「…………」

アリスになんと答えようか考えあぐねる。

何があったのか、どこから話そうか、まだ少し混乱が残っているのか言葉が出てこない。

答えるのを迷っているように見えたのか、アリスは話を続けた。

 

「あの時、貴方が魔法の森にとどまり続ける理由はなかったし、それに怪我も酷かった。分身した貴方は大怪我を負うと消えてしまうのでしょう?」

「そう、だね。そのはず」

確かに、と俺は内心頷く。

 

今回負った怪我は……思い出すのも躊躇うほど悲惨なものだったと思う。

一瞬とはいえ意識も手放していたし、出血量を考えても致命傷であることは間違いないだろう。

ただ、あの時のアイツは……。

 

「多分、だけど」

不意に浮かんだ考えを、躊躇いながら口にする。

 

「『死ねない』って思ったからじゃないかな」

「『消えられない』、じゃなくて?」

ノータイムのアリスの返しに、俺は目を瞠る。

 

『消える』とは能力の解除による分身の消滅を指しているのだろう。

能力を使用中であるならば、いくら怪我を負っても能力を解けば分身の片割れにその傷がフィードバックされることはない。

怪我が原因で死ぬことはないのだから、普通ならば『消えるわけにはいかない』と思うはずだとアリスは言っているのだ。

 

「貴方は勘違いしていたのね?」

押し黙る俺に確信を持った様子アリスは問いかけてくる。

「分身能力を使っていないと」

「ああ、うん。その通り」

 

隠し立てることでも勿体ぶることでもない。

素直に頷いてみせる俺をアリスは無言で見つめて話を促す。

 

怪しい部分もあるが、ある程度頭の中の整理ができた俺は口を開いた。

「以前話したかもだけど、分身能力を使うには制限がある」

「時間と人数ね」

「うん」

もしかしたら、彼女は概ねの予想を付けているのかもしれないと、即答するアリスを見てそんなことを思う。

 

「そう。短時間で連続して分身能力は使えないことと、分身中に新しく分身することは出来ない……えっと、言い換えれば、同時に存在できるのは二人までってこと、かな。

それで、里に分身がいないって勘違いしたのは、魔法の森で分身能力を使ったからなんだ」

「でも実際貴方は里に残ったままだった」

 

「そうだね。まあ、つまりは俺は……分身した俺たちは、同時に三人存在していたってことになる」

 

里に一人、魔法の森に二人。

一時的にとは言え計三人に俺は分身していた。

唯一里に残った俺はこうして健在であり、魔法の森で闘い抜いた分身が果てた今、その記憶が引き継がれている。

 

俺の言葉に、アリスは無言で頷いた。

特に驚くようでもない彼女の様子に、やっぱり予想をつけていたのかと感心。

「有体に言って、能力がパワーアップしたってことになるのかな。そのときは全然気付いてなかったんだけど」

「理由を考える余裕が無かったのね」

 

まるで見ていたかのように正確に言い当ててくる。

「……魔法使いって、心も読めるの?」

感心に若干の呆れを交えて問いかけると、アリスはすまし顔で応じてみせた。

「そこまで想像するだけの材料なら充分にあったわ。さて、悠基」

「ん?」

 

「次の質問。里で何があったの?」

無意識に呼吸を止めていた。

「突然倒れるなんて尋常じゃないわ」

 

考えてみればアリスが疑問を持つのは当然なのに、俺にとってはその質問は予想外だった。

いや、意識してそのことを考えないようにしていたのかもしれない。

「倒れる前から、貴方の様子がおかしかったと聞くわ。前触れもなく急に女の子が魔法の森にいることを言い当てたそうね。永琳は肉体的に見れば問題ないと言っていたけど、暗にそれ以外に原因があると言ってるようなものね」

「…………」

 

はっきりと覚えているし、傍目から見れば様子がおかしかったことも、倒れる原因も、なんとなくではあるが予想はついていた。

「どうなの?」

ふー…………。

気持ちを落ち着かせるために深呼吸すると、俺はゆっくりと話し出す。

 

「分身が消えると、その記憶は残った俺に引き継がれる」

前提として、能力の性質を再確認。

「ええ」

小さく頷き、アリスは続きを促すように俺を見つめた。

 

「最初に記憶が流れ込んだのは、俺が……えっと、里に残ってる方の俺が、里の外での捜索に合流しようと決断しかけた時だった」

 

里の外で捜索をしていたもう一人が、リグルから手がかりをもらい魔法の森で倒れている春と発見したこと。

一ツ目の妖怪と闘い、ヤツの咆哮に不意を突かれ敗北したこと。

最初の記憶はそこまでだった。

 

「それで、春が魔法の森に倒れていることを知った俺は、急いでこのことを慧音さんや霊夢に伝えようとしたんだ」

だが、その時点で、あまりにも絶望的だと俺は気付いていた。

 

一ツ目と闘ったアイツが消えた時点で、一ツ目は春にターゲットを変えるだろう。

その事実を一刻も早く伝えようにも、都合よく霊夢たちが近くにいるわけでもなく、例えすぐにその場に急行できたとしても、一ツ目が春に手をかけることを防ぐには到底間に合わない。

 

「そうやって、焦っている内に二回目の記憶が流れ込んだんだ」

 

分身能力を発動した俺が覚悟を決めて一ツ目と闘ったこと。

串刺しにされながらも自爆覚悟の魔法『クラッカー』を一ツ目に叩き込んだこと。

これが、その時に流れ込んできた記憶だった。

 

「そのときに、俺は耐えきれなくなって気絶したんだ」

「耐えきれなくなった?」

アリスは訝しげに俺の言葉を繰り返す。

 

「記憶が流れ込んでくることに?」

「うん。おかしいよね。今まで何度も何度も分身して、消える度に記憶が流れ込んできた。その記憶に驚くことはあったけど、それで意識を失うとか、体調を崩すとか、そういうことはなかった」

 

アリスの視線を受けながら、俺は独白するように話を続けた。

「でも、その時は違ったんだ。一度目の記憶が流れ込んだ時、『春を助けないと』って焦りで無視していたんだけど、強烈な違和感があったんだ」

 

左手を見る。

今はそんな違和感は無いが、自分の()()()()()()()()()()を、どういうわけか目を覚ました直後の俺は不思議に感じていた。

 

「気絶している中でに三度目の記憶が入ってきた。夢を見たと思ったけど、その割にはっきりと覚えてて、夢じゃないって分かった」

左手を目前まで持ってきて、開いて閉じてを繰り返す。

そこに感じた違和感は今はないが、それでも想い起こすのは森で闘ったアイツの記憶。

 

――「ハハハ」――

自分が死ぬかもしれないってときに、笑っていた。

――「俺は、いい」――

自分が死ぬってときに、それを自然に受け入れていた。

 

どう思ったかもどう感じたかも覚えている。

だから、ソイツの心境を理解は出来るのに、同時に理解出来ない。

 

「アイツは…………」

開いた左の掌を見つめながら、俺は呟く。

 

能力を日常的に使うようになったころ、こんなことを危惧した。

 

分身直後の俺たちは全く同じ人間。

だけど、時間が立って異なる経験を積んでいく内に全く違う人間へと変化していく。

そうして全く違う俺たちになった時、俺は違う自分の記憶を受け入れられるだろうか、と。

能力を何度も使うに連れてそんな不安は薄れていった。

だが今回、持続的な生命の危険と緊張の中に晒されたせいなのか、それとも別のきっかけがあったのか、忘れかけていた不安は現実の物となった。

 

「アイツは、」

「悠基」

ポン、と軽く肩を叩かれた。

ギクリと身を竦ませながら、俺は我に返る。

考えに没頭しすぎていた。

 

「顔色が悪いわ」

「ごめん。まだ混乱してるっぽい」

自嘲気味に苦笑する。

「そう…………ねえ、あれ」

ひとまずは、といった様子でアリスは頷くと、不意に視線を明後日の方向へ向けた。

彼女の指差す先を見ると、ヒラヒラと空中を舞うソレが目に入る。

見守る俺たちの視線の先で、ソレは不自然な軌道を描きながらちょうど俺の開いた掌の上に舞い落ちてきた。

 

目を丸くしながらソレを摘み上げる。

大きさは人の小指程度の幅と長さの、薄い物体。

鮮やかな黄色のそれを見ながら、俺は自然と呟いていた。

 

「花びら?」

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

翌日の昼下がり。

 

太陽の畑と呼ばれる向日葵畑の隅に建つ小さな一軒家。

二週間振りに訪れた俺は、少し緊張しながら派手な損壊をどうにか修繕したらしい扉をノックした。

中から声が聞こえ、軽い足音が扉越しに近付いてくる。

 

「や、ぁ……」

扉を押し開いた少女に軽く手を上げてみせた直後、俺の表情筋は強張っていた。

 

「や~~~っと来たわね人間!どれだけ待たせるのよ!」

「……メ、メディスン?」

赤いリボンを揺らしながら、ジト目で俺を睨みつけてくる少女。

いつぞやに俺を毒殺してくれた妖怪、メディスン・メランコリーの出迎えに俺は目を丸くする。

 

「悠基」

家の奥から幽香が顔を出した。

 

「待ってたわ」

「あ、やあ幽香」

()()、ちゃんと届いたみたいね」

「やっぱりあの花びらは幽香のだったんだね」

勘違いかもしれないと少しだけ思っていたのでほっとする。

 

「ええ。分かりにくかったかしら」

「迷いの竹林で向日葵の花びらなんて、君しかないとは思ったよ」

「そ。良かったわ。さあ上がって」

「うん……そうしたいのは山々なんだけど」

 

頷いては見るが、メディスンがいる事情が分からない俺は動けない。

ついでに言えば腕を組んで仁王立ちしているメディスンが玄関から動かずに俺を睨み続けているので物理的に家の中に入りずらい。

 

「メディスンも。お掛けなさいな」

「嫌よ」

幽香に声をかけられたメディスンが振り返る。

「用事が済んだらさっさと帰るわ」

 

「それは分かるけど、そこにいると悠基の邪魔よ」

困ったように幽香は苦笑する。

「それとも…………ねえ?」

 

…………え、なにその意味深な「ねえ」は。

唐突に言葉を切った幽香に俺は困惑する。

 

「あ、わ、分かったわよ!」

だが、困惑する俺の目前で、なぜかメディスンは慌てた声を上げた。

 

「ほら、あんたも!早く!」

「あ、ああ」

さっきとうって変わって俺を促してくるメディスンに、俺は事情がわからないままにとりあえず従う。

 

「…………」

ああでも、と漂ってきた紅茶の香りに気持ちが落ち着いてきた。

先に着席したメディスンを気にしつつ、丸テーブルの入り口側の椅子に座ると、幽香が見計らったようにお盆を持ってきた。

同時に、俺は「あー」と気まずい思いで声を漏らす。

 

幽香の家に訪れるときは大概茶菓子を持参していたのだが、立て込んでいたのもあってほぼ手ぶらで来ざるおえなかった。

特に約束していたわけではないが、恒例でもあったので少し心苦しい。

「ごめん幽香。お菓子忘れた」

「あら、そう」

「え~~~~!?」

特に気にした風でもない幽香に反して、なぜかメディスンが頓狂な声をあげる。

 

「なんでよ!」

「いや、いろいろあって」

なぜメディスンに怒られるのか分からないままに首を振る。

永遠亭に一晩泊まってから里に戻ったときは、萃香の事件や紅魔館訪問のとき同様に、それはもういろいろと面倒な話になっていた。

思い出すと気疲れするので割愛するが、おかげで幽香の家に来るのが午後になってしまったのはこのせいである。

 

「ていうか、なんでメディスンがここに?」

メディスンの言い方からして、まさかとは思うが俺に用事でもあるのだろか。

だとしても以前会ったときは一言も交わした記憶はないし、まったく検討がつかない。

 

「そんなこといいわよ!それよりお菓子を忘れるなんてどういうつもり――」

「メディスン」

「……な、なんでもないわよ!」

「う、うん?」

 

幽香の呼びかけに急に意見を変えるメディスンの様子に俺は曖昧に頷いて応じる。

とりあえず上下関係がはっきりしているのと、俺の茶菓子を楽しみにしていたのは分かった。

幽香から話でも聞いたのだろう。

 

「ところで、待ってたって、いつから?」

花びらの連絡が来たのが昨日の夕方ごろ。

それ以外はなんのメッセージも無かったので行けるならなるべく早いほうがいいとは思ったが、あんなことがあった日の夜に出向くというのは心境もあって気が向かなかった。

 

まさかとは思うが、花びらが届くころからずっと待ってたわけじゃないだろう。

「昨日からずっとよ!」

まさかだった。

 

「えぇ……」

「言っとくけど私だって好きで残ってたわけじゃないわよ!コイツが『コトが済むまで待ってなさい』とか言って返してくれなかったの!!」

「そうなの?」

にわかに信じがたい話に俺は幽香を見る。

「ええ。そうよ」

 

マジか。

あっさりと頷かれて目を丸くする。

幽香がそこまで強情なことをするのは珍しいが、もしかしたら何か重要な話なのかもしれない。

「それよりメディスン」と視線をメディスンへ向ける幽香をまじまじと見ながら、俺は気持ち身構える。

 

「文句を言う前に、悠基に言うことがあるでしょう?」

配膳をしながら幽香が言うと、メディスンは思いっきり顔を歪めた。

すごく嫌そうだ。

その嫌そうな顔でなぜか俺を睨んでくる。

ちょっと傷つく。

 

「なに、かな?」

困惑しながら問いかけてみるも、彼女は口を開こうとはしない。

 

「メディスン」

幽香が彼女の前にカップを置いた。

カチャリという陶器の揺れる音が引き金になったかのように、メディスンは悶えるように声にならない声を上げた。

「~~~~~~~!!」

 

そうして、メディスンは顔を赤くして俺を指差してくる。

「に、人間!」

「お、おう」

 

「…………………………悪かったわよ」

 

「……うん?」

目を逸らし、ぼそりと呟くメディスンに、俺は申し訳なく思いつつも首を傾げるしかない。

こちらとしては彼女に謝られる謂れがない。

あと、なにかとんでもないことでも言われるのでは思っていた手前、言っては悪いが拍子抜けしたのもある。

 

「~~~!!」

反応が気に入らないのかやっぱり俺を睨むメディスンだが、「フフ」と幽香が笑って助け舟を出した。

「この前貴方を襲ったことを謝ってるのよ」

「あー……」

 

俺を毒殺したことか。

「えっと、そりゃあ全然気にしてないわけじゃないけど、でも人里の外で襲われても文句は言えないから……」

妖怪は人を襲うもの。

里の中は保護された空間だとしても、外に出れば自分の身は自分で守るしかない。

幻想郷で住む以上、さすがにそのことは弁えているし、その件で謝られる謂れもないと思う。

 

「違うわ悠基」

「えっと、なにが?」

「貴方は私の大事なお客様なのだから、失礼をしたら謝るのは当然じゃない」

「あ、だ、大事、ですか」

気恥ずかしくなって頬を掻くチョロい俺に、幽香はくすりと笑う。

 

「ね?面白いでしょ?」

と、「面白い」という感想を本人の前でどうどうとメディスンに問いかける幽香。

メディスンは顰めっ面のまま「バカじゃないの」と腕を組んだ。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

そのあとも、まあなんやかんやとあったのだが、前回とは違って――というか前回がイレギュラーだっただけで――メディスンを交えた幽香とのお茶会は平和に終わった。

先に帰ろうとするメディスンに「今度はお菓子を忘れないようにするよ」と伝えたら「二度と来ないわこんなところ!」と怒鳴られた。

……とは言いつつも、また来そうだなあとは思うけど。

 

帰り道。

既に空は赤く、気持ち足を速める。

例のごとく里に分身は残しているが、今夜は里に帰ると一人でゆっくり考える時間がなさそうな気がする。

つまるところ、里に残る俺はおそらくいろいろともみくちゃにされている可能性は無きにしも非ずだったので、徒歩で帰路につくことにした。

 

……それにしても、と内心俺は嘆息する。

 

メディスンに謝られたとき困惑したように、妖怪が人を襲うことに関しては受け入れている。

だが、それはあくまでも里の外での話だ。

今回の事件は妖怪が里の中の春に何かをしたらしい。

妖怪と人間が共存するこの幻想郷において、これは明確なルール違反だろう。

 

それも、周囲の環境に翻弄されるいたいけな少女の心の隙に付け込んだ悪質な犯行。

今回は奇跡的に軽症で済んだが、それでもトラウマになりかねない(俺はちょっとトラウマになってる)事件だ。

 

握る拳に力を入れる。

 

例え相手がなんであれ、一発パンチは確定かな。

と、俺にしては珍しく物騒な決意を固めることにした。

 

「ねえ」

「っ」

唐突に声を掛けられ、内心物騒なことを考えていた俺はギクリと肩を竦ませた。

恐る恐る声のした方を見ると、一本の桜の樹を背に、一人の少女が腰掛けている。

 

いや、腰掛けている、というかあれは膝を抱えて座る、俗に言う体育座りという姿勢だ。

膝の上に顎を乗せ、なぜかジト目で俺を見る少女に、メディスンに睨まれたときのことを思い出しながらも、俺は目を丸くする。

「君は……」

長い金髪に、日の光に染められ赤みがかかった紫紺色のドレス。

 

先日……幽々子に絡まれた後に出会った、あの謎めいた少女だった。

しかし、そのときは言いしれようのない不安を感じたのに、なぜか今回はそういった雰囲気は微塵もない。

どころか、怒ってる……いや、これはどちらかといえば不機嫌……?

 

「座っていきなさいよ」

少女は――結局名前を教えてもらっていない――自分の隣の草地を叩く。

力を込めて叩いているようでもないのに、ぽんぽん、というよりも、ベシベシ、という擬音の方があいそうな印象である。

 

「…………ああ」

不思議に感じつつも、俺は少女の言葉に素直に従うことにした。

よっこらせと少女の隣に腰掛けながら横目で見ると、向こうはいまだに俺にジト目を向けてきている。

 

なんだか今日は(見た目)小さい子によく睨まれるなあと思いながら、俺は「それで」と口を開いた。

「どうかしたの?」

「別に、悪気がなかったといえば嘘になるわ」

呟くように話し出す少女の言葉はなんのことかさっぱりだ。

だが、とりあえず黙ったまま続きを待つ。

 

「でも、これには理由があったのよ。なのに、あんなに怒ること無いじゃない」

……なんだろ。

言い方からして、イタズラかなにかしでかして、こっぴどく叱られでもしたのだろうか。

そんな憶測を立てて少女を見ると、確かに拗ねているようにも見える。

というかこれ多分拗ねてる。

 

「あー、よくは分かんないけど」

なんと言って上げればいいのか、言葉を探しながら俺は頭を掻く。

 

「悪いことをしたと思ってるなら、まずは素直に謝ろ?」

少女からの視線がますます厳しくなるが、俺は苦笑しながらそれを受け止める。

「でも理由があって仕方なかったんだろ?大丈夫。叱ってくれるような相手なら、話も聞いてくれるし、きっと仲直りできるさ」

 

事情は分からないので当たり障りのないことしか言えないが、それでも誠意を持って接するのは大切だと教わっている。

「だから、まあ、なんというか、頑張ろ?」

拳を握ってのガッツポーズを見せると、なぜか少女からの視線に哀れみが篭ったような気がした。

 

何も言わず無言で俺を睨む少女。

だが、暫くして視線を反らしと、彼女はようやくボソリと呟く。

「……悪かったわよ」

なんだか、さっきのメディスンを想い出す光景だ。

 

誰に対しての謝罪なのかは知らないが、それでも素直に自分の非を認めるのはいい傾向だ。

彼女の言葉に俺は満足げに頷いた。

「そうそうその意気その意気」

 

満足気に笑ってみせる俺に少女はなぜか嘆息する。

「違うわよ」

その言葉はやっぱり不満げで、俺は首を傾げるしかない。

 

ただ、機嫌を直したのか、目つきは少しだけ穏やかになっていた。

不意に視線を正面に向ける少女。

「これも、もう終わりね」

「コレ?」

唐突に話題が変わった気配を感じながら、俺は彼女の視線に習うように正面を見る。

 

広がるのはただただ疎らに木々が茂る風景と、黄昏時直前の紫色の空のみ。

強いていうなら、先日のような季節に関係なく咲き乱れる花々は減り、混沌とした光景は随分と落ち着いていた。

 

「この異変も」

「ああ、そういえば」

どうやら彼女が見ていたのはその光景だったらしい。

 

少しずつ夜の帳が訪れていく景色の中で、あの光景は二度は見れないだろうと思うと名残惜しさがある。

混沌とはしていたが、賑やかで華やかで、結構気に入っていた。

 

だから最後に、と俺はその光景を焼き付ける。

日が沈み、闇が深まる黄昏時の世界の中で、結局名乗る気がない少女とともに。

 

 

 

そうして、花映塚異変と名付けられたこの異変は、緩やかに、静かに、曖昧に、幕を閉じた。

 

 




更新が遅くなって申し訳ありません。そしていつもより更に長い。
というわけで花映塚編ラスト。そういえば異変でしたね、というか花映塚ほとんど関係ないですね、みたいな。
主人公の能力が一段階強化されました。活用方法に幅が出て夢が広がりますね。作者的には破綻要素も大きくなったのでドキドキも一入です。
四十二話から始まった一連のお話に関しては、主人公の視点で言えばもやもやとしている部分はあれど、一件落着といったところです。

次回からは新章。気持ち的には今回からですが、ほのぼの路線(?)も復活です。復活してくれ。


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そんな彼と風神録
四十七話 転機に迷う


「せんせー!」

「お」

昼前時。

寺子屋敷地前をいつものように掃除していると、甲高い声を掛けられる。

見れば、見知った少年が走り寄ってくるところだった。

 

「やあ、伍助」

「こんにちわ!ゆーきせんせー!」

「うんうん。いい挨拶だ」

 

目線を合わせるようにしゃがみながら、伍助の頭をぽんぽんと叩く。

「でも今は授業中だから静かになー」

俺の言葉に伍助は大袈裟に両手で自分の口塞いで何度も頷いた。

 

伍助はこの季節、家が忙しくなる関係で寺子屋を休んでいる。

人里では一般的な話で、農家の子供は忙しい時期は暫く寺子屋を休む風習らしい。

「ん?」

と伍助が首を傾げる。

 

「なんでせんせーは授業してないの?」

「ああ、元からそういう話でな」

そもそもの話として、俺が寺子屋で臨時の教職員として仕事があったのは、生徒が増える冬場に人手が必要だったからだ。

さらに言えば、幻想郷に迷い込んだばかりで食い扶持さえままならない俺に、慧音さんが半年という期間限定で仕事を与えてくれたのだが、昨日その期間が終わり教員の任を解かれたことになる。

 

契約期間が終わっただけの話。

任期満了でいいのかな。

 

そんな話を噛み砕いて説明すると、伍助は「ほぇー」と分かっているのか分かっていないのか、はたまた興味があるのかないのか分からない反応を示した。

難しかったかな?

「じゃあせんせーはせんせーじゃ無くなったってことかー」

改めて言われると普通にきつい。

 

「……よく分かってるじゃないか」

 

若干ヘコみながら伍助の頭を再び撫でてやる。

「えへへー」

照れくさそうに笑う伍助に「こやつめー」と両手でぐしぐしと頭を激しく撫でると、「うおおおおおー!」と元気が有り余っているのか無駄に全力で抵抗してきた。

楽しい。

 

とまあ、そんな具合で戯れつつ、暫くして一息つく。

「それで?今日はどうかしたのか伍助」

「んぁ?……あ、そうだった」

ぼっさぼさになった頭を気にすること無く伍助が思い出したように声を上げた。

 

「ねーちゃん、とつがなくても良くなった!」

「――そうか!」

 

沈みがちだった気持ちが報せを聞いて一気に浮き上がる。

 

「……そうかそうか。良かったなあ」

「うん!」

 

満面の笑みで頷く伍助の頭を再三撫でてやりながら(ついでに髪も直しながら)しみじみと伍助の姉、お春のことを想う。

幼い身の上で嫁ぐ話が決まっていたお春だが、彼女の婚約者である若旦那は人格者で、お春が乗り気でないなら無かったことにしても良し、そうでないならば責任を持って幸せにしようと断言する伊達男だ。

 

先日の事件の発端……お春が妖怪につけ入れられたのは、お春の心に迷いがあったからだろうと慧音さんは言っていた。

その迷いの原因が彼女の周辺環境にあるというのなら、縁談の話はその筆頭に当たるだろう。

 

『よくやってくれたな、悠基』

事件翌日、永遠亭から戻り里の人間にもみくちゃ――比喩ではなく、もみくちゃ、という表現以外浮かばないような状態だった――にされた俺に若旦那は言った。

『よくあの子を助けた。次は俺の番だな――』

その後は男どもに捕まり、英雄だのなんだのと言われながらの胴上げが始まったのでよく聞き取れなかった。

 

だが、おそらく若旦那は今回の事件を口実に縁談の話を白紙に戻したのだろうという確信があった。

 

「姉ちゃんの様子は?」

ただ、ここで気がかりなのが、お春だ。

例え乗り気でないにしろ、家族の幸せを願って縁談を受けるほどに責任感の強い彼女のこと、この結果について自分を責めなければいいのだが……。

 

気になって問いかけてみると、伍助は満面の笑みを浮かべた。

「前よりも元気そうだよ!」

「……ああ、なら良かった」

 

弟の伍助がそう言うのなら、間違いではない、と思う。

もしかしたら、それはあくまで伍助の主観であり、お春は敢えてそう振る舞っているかもしれない。

ただ、なんだかんだで賢い伍助の迷いの無い答えに俺は安堵する。

 

経過を見る必要はあるが、今回の事件は最終的には良い方向に転がりつつあるようだ。

安堵に思わず笑みが浮かぶ。

 

災い転じてなんとやら、かな。

でもお春を誑かした妖怪は許さないけどな!

 

心の片隅で静かに怒りを燃やしていると、伍助がたじろいだ。

「せんせーなんか怖いぞ……」

「うっ……」

 

顔には出さないように意識していたつもりだったが、それでも俺の逆ポーカーフェイスにはあまり意味は無かったらしい。

あるいは、やはり伍助の勘が鋭いのか。

 

……いや、それ以前に、小さい子の前でこういう邪念を抱くのはあんまりよくないな。

「悪いな伍助、なんでもない」

「だったらいいんだけどさー」

頭の後ろで手を組む伍助は、さして気にした風でもない。

 

おおらかなのか能天気なのか、あるいは大物なのか、そんな伍助の態度に微笑ましく思っていると、ふいに伍助は「あ」と思い出したように声を上げた。

「そういえばせんせー」

「どうした?」

 

 

 

「なんでけえき作るのやめちゃったの?」

 

 

 

その言葉は、まるでその部分だけ抜き取ったかのようにやけにはっきりと聞こえた。

思わず呼吸を止めかけて、慌てて深く深く、盛大に息を吐く。

「…………耳が早いな」

「耳?速くなるの?」

 

ちょっと難しかったか。

俺は「そういう意味じゃないよ」と苦笑する。

 

ただ、少々その笑みがぎこちなかったのか伍助が心配そうに顔を歪めた。

「せんせー?大丈夫か?」

 

心の中で嘆息が漏れる。

全く…………子供に心配されるほど態度に出てるとは。

自覚はなかったが思った以上に堪えているらしい。

「あんまり……」

茶化し半分で割りと素直に答えると、伍助が手を伸ばしてしゃがみこんでいる俺の頭をぽんぽんと撫でた。

 

「元気出せ?な?」

「伍助ぇ……ありがとな……」

天使かこの子は。

大げさに言って、少々涙目になりながら伍助の慰めに癒される。

なんともなさけない様相だけど、この件に関しては割りと落ち込んでいるので今だけは見逃してほしい。

 

見逃してほしいのだ。

だから構うこと無く俺のところにまっすぐと近付いてくるけど足取りの割に視線に明らかに哀れみを込めたそこのお嬢さん一旦それ以上近付くのをやめてください。

 

「なにしてるのよ貴方……」

充分に近付いたところで大いに呆れを含んだ声をかけられて、俺は「見逃してって言ったじゃん(言ってない)」と心の中でぼやいた。

彼女の接近に気付いていなかったらしい伍助が「ふあ!?」と声を上げる。

 

呆れた視線をこちらに寄越して立つ少女。

俺は少々気まずい思いで目を反らし、反して伍助は目を丸くして彼女を見上げる。

「えっと、メ、なんかのお姉ちゃん!」

「メイドでございますわ」

「メイドさん!」

 

「…………無闇に人を指差すなー」

ころころと表情の変わる伍助にこっそりと癒やされながら、突然現れた少女を……紅魔館のメイド長、十六夜咲夜を指差そうとする伍助の腕をやんわりと下げさせる。

 

嘆息して気を取り直しながら、俺は立ち上がった。

「やあ、咲夜……来るとは思ってたよ」

あるいは、はたてや妖夢あたりもそのうち来るかな、という予想はあった。

 

はたては甘味処に入り浸っているし、咲夜も妖夢も以前俺が作る洋菓子を求めてわざわざ俺の家に訪れたくらいだ。

今回の件を受けて俺の元を再び訪ねてくるだろうことは容易に予想できた。

 

「そう」

俺の言葉に咲夜は短く答え、真っ直ぐ俺を見据えたまま小さく首を傾げた。

「それで、悠基どうして甘味処を辞めてしまったの?」

 

「…………まあ、事情があってね」

 

どこか遠くをぼんやりと眺めながらあまり話したくないオーラを出してみる。

それでも構うこと無く視線だけで話を促してくる咲夜。

と、ついでに咲夜から隠れるように俺の足にしがみつく伍助。

 

いつまでも現実逃避もしてられないか。

俺は嘆息を交えながら、結局話を始めることにした。

 

阿求さんから暇を貰い、慧音さんとの契約を終えた俺が、本職とするつもりだった甘味処を去ることとなった――即ち、職を失い見事に無職の称号を手に入れるまでの経緯を。

…………自分で言ってて辛くなってきた。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

時間は今朝まで遡り、甘味処、厨房にて。

甘味処の主人、玄さんがボーリング球くらいの大きさの壺を抱え神妙な面持ちでその中を覗き込む。

同じくらい神妙な顔で俺がその斜め前に座り、その隣には玄さんの娘である千代さんが、玄さんの顔を見る。

 

全体的に重苦しい空気の中で、やや大きめのお匙を手にした玄さんが壺の中身を一掬いする。

掬い上げた壺の中身は生クリーム。

俺が作るケーキにおいて必要不可欠といっても過言ではない材料だ。

匙で掬ったその生クリームに玄さんは鼻を近づけ、暫く匂いを嗅ぐ。

厳しい視線を匙に向けたのち、ほんの少しだけ口の中に含み、飴玉を転がすように口を動かした。

 

その表情からは何も読み取れないが、壺を横に置き腕を組んだ玄さんは、反応を待ち続ける俺達の顔を厳しい顔でたっぷり十秒かけて交互に見てから、最終的には大きくため息をついた。

「限界、だな」

 

その言葉に心臓が十センチは落下したような気がした。

俯いて大きく息を吐き出すと、自分の動機を意識する。

きちんと左胸に収まった鼓動を感じて妙な安心を覚えた俺は、顔を上げて玄さんの顔を再度見た。

 

「駄目、てこと?」

いつもは快活な千代さんも、今回ばかりは声のトーンが低い。

千代さんの問いかけに、玄さんは迷いなく頷いた。

「ああ」

 

玄さんは俺を真っ直ぐ見据える。

 

 

 

 

「このクリームは傷み始めている」

 

 

 

 

俺がこの甘味処に雇ってもらったのは、外来人――正確には違うが――である俺の知識によって再現した洋菓子が商品として認められたからだ。

俺が作る洋菓子の殆ど全てにおいて、生クリームは換えが効かない材料だ。

 

だが、その生クリームを作るには様々なコストが発生する。

まず一つに、大量の生乳を使うこと。

これに関しては採算が取れる程度にはケーキが売れていたから問題はなかった。

だが、もう一つ、製作工程で必ず長時間加工した生乳を寝かせておく必要があり、これが問題だった。

 

生クリームの開発に成功したのは冬場だったが、このころは室温がほぼそのまま冷蔵庫と同程度であり、作業場内に生乳が入った壺や瓶などを置いておけばよかった。

だが、気温が上昇すれば食物というものは傷みやすくなるもので、俺が作った生クリームは特に足が早かった。

 

「悪いが……客に出せる物じゃねえ」

つまるところ、今までのように俺が作成した洋菓子を売り出すには、生クリームが傷んでいて不可能だと、玄さんは俺に言っていた。

 

「……覚悟はしてました」

一ヶ月以上も前からこの問題は懸念していた。

だが、有効な対策を立てられず、結局この日を迎えてしまったことになる。

 

そして今までのように洋菓子を出せないとなれば、腹をくくらなければいけない。

「玄さん、千代さん」

 

「悠基さん?」

「…………」

訝しげに千代さんが眉を顰め、一方の玄さんは表情を変えることなく黙って俺の言葉の続きを待つ。

 

若干の深呼吸。

そして俺は、はっきりと宣言した。

 

「今までお世話になりました。本日限りで、辞めさせて頂きます」

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

俺の宣言は明らかに一方的なもので、その言葉を聞いた玄さん千代さん親子からはその後苛烈な反対を受けた。

それから揉めに揉めた結果として、俺に命じられたのは現代で言う退職ではなく休職。

半年間、涼しくなってまた生クリームが作れるようになるまで甘味処をお休みするという扱いだった。

 

とまあ、そんな話を伍助と咲夜にし終えたところで、俺は再び嘆息した。

「せんせーまた撫でてほしいか?」

伍助が背伸びして俺の頭に向けて手を伸ばすが、身長差がありすぎて指先が顎に触れるていどだ。

 

「ありがとな。気持ちだけ受け取っておくよ」

教え子の健気な気遣いに目頭が熱くなる。

いつも以上にに脆い涙腺に、改めてかなり落ち込んでいることを自覚する。

どうやら菓子作りの仕事について、俺は自分で思っている以上に気に入っていたらしい。

 

とはいえ、いつまでも落ち込んでいるわけにもいかないな。

無理をして明るく振る舞うつもりはないが、かといってこれ以上伍助に気を使わせるのも元教師としては気が引ける。

とりあえず、と俺は何か考え込むように顎に手を当てた姿勢で黙って話を聞いていた咲夜を見た。

 

「そういうことだから、秋まで甘味処はお休み。でも、咲夜の力があればケーキ自体は多分作れると思うから、レミリア様にそう伝えておいてくれ」

俺の作るケーキを随分と気に入ってくれているらしいレミリア様への伝言だ。

対して、咲夜は「確認したいことがあるのだけど」と返事の代わりにそんなことを言う。

 

「貴方、今は仕事がないのよね?明日からどうするの?」

もうちょっと言葉を選んでほしいなあ、などと心の中でぼやきつつも、俺は力の無い笑みを浮かべた。

「いやまあ、なんとかはなるよ。幸いこの時期の農家は人手を欲しがっているところが多くてね。働き口はあるだろうから、食べるのに困るってことはないかな」

それに分身能力もあるし、決して楽観的な考え方じゃないと思う。

 

「そう……ねえ、いいかしら?」

咲夜は首を傾げ、上目遣いで俺を見る。

「提案があるのだけど」

 

「提案?」

「ええ」

 

不意の言葉にオウム返しに問い返すと、咲夜は頷いてそのまま話を続けた。

 

「あなた、ウチで働いてみない?」

「ウチねえ……………………」

……………………。

……………………。

 

 

 

「……………………え?」

 

 

 

「う、ウチって」

「もちろん」

あまりにも唐突な提案に思考がフリーズしかけている俺に、咲夜は頷いてみせた。

 

「紅魔館よ」

 

 

 

 

「うおおおおおー!」

呆然とする俺の横で、なぜか伍助が興奮した様子で声を上げる。

 

…………声を聞きつけた慧音さんに叱られるのも時間の問題だな。

真っ直ぐ見つめてくる咲夜の視線を受け止めながら、俺はぼんやりと、そんな比較的どうでもいい感想を抱いた。

 

 




新章です。オリキャラ多め。
例によって例のごとくといいますか、しばらくは風神録とは無関係な話が続きます。前回ほど長くはならないはず……おそらくは。
幻想入りしたオリ主が紅魔館で(執事として)働くっていうのはよく見ますね。お前もか、と思った方には申し訳ありませんが、拙作もそうなりそうです。
開幕早々無職(正確には違いますが)になった主人公ですが、今後共ほのぼのとよろしくお願いいたします。


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四十八話 無邪気で狂気

『――――……………………』

 

 

 

 

…………ん…………。

 

 

 

 

 

無意識に、ゆっくりと瞼を開いた。

見慣れない天井に小さく息を漏らしながら、自分の目元をなぞる。

僅かだが、濡れていた気配がある。

 

泣いていたみたいだ。

 

動機が速いことを意識して、今度は大きく深呼吸。

分厚いカーテンの隙間から入ってくる細い光を見ながら、ぼんやりと想い起こす。

 

夢を見ていた。

内容は覚えていない。

けど、なんの夢だったかは分かる。

俺が元いた世界の……正確には、あの人たちの夢。

 

「…………」

冷静に、かつ客観的に鑑みて。

 

どうやら俺はホームシックに陥っているらしい。

らしいというか普通にホームシックだった。

 

思えば、幻想郷に迷い込んで半年。

どうして今更と思わなくもないが、きっかけがあるとするなら間違いなく先日の騒ぎの折、永遠亭に担ぎ込まれたときに見た夢が原因だろう。

夢、というよりも、あれは死に瀕した記憶が呼び起こした一種の走馬灯だったのかもしれない。

 

「はあ…………」

ここ最近で一番大きなため息が漏れた。

「帰りたい…………」

二つの意味で。

 

体を起こしながら見れば、そこに広がるのはワインレッドで彩られる洋風の部屋。

カーペットも壁紙も、カーテンベッドテーブルクローゼット花瓶ドアに至るまで、ほぼほぼ赤系の色で統一された景色に、気が重くなる。

 

 

紅魔館。

 

 

別名、悪魔の館やら、吸血鬼の屋敷やら呼ばれる建物であり、以前幻想郷を脅かしたとされる紅魔異変の首謀者レミリア・スカーレットが住む危険な場所である。

そして非常に残念なことに、俺が目を覚ましたのが……つまり宿泊したのが、その危険地帯の一室だった。

 

いつもならば、里の外に出る際は安全策として分身を残しているし、この紅魔館を定期的に訪れる際だって、それは例外じゃない。

だが、今は能力未使用状態、つまり分身がいない。

イコール、バックアップなし、死んだら消滅ではなく人生終了。

にも関わらず現在地は危険度高に分類される屋敷の一室。

 

それが俺の現状だった。

 

 

…………早まったかな。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

「あら悠基、よく来たわね」

分厚いカーテンに陽光を遮られた部屋にいつものように入ると、レミリア様は顔を上げた。

天井に添えられた光源のよく分からない明かりが室内を照らしている下、レミリア様は幼い体躯には不釣り合いに見える漆の机の上で、羽ペンを手になにやら書類仕事をしている最中だったようだ。

 

「どうも…………」

彼女の正面に歩みよりながら、挨拶をする。

今の俺を事情を知らない人が見れば、とんでもなく失礼な男に見えるだろう。

なにしろ、思いっきり顰め面をしているし、不満たらたらな空気を微塵も隠そうとしていないのだから。

だが、予想通りというかなんというか、レミリア様は俺の態度に怪訝な様子を見せない。

 

どころか、

「機嫌が悪そうね」

と、笑みを浮かべて問いかけられた。

 

「やっぱグルですか」

「なんのこと?」

「なんのこともかんのこともありませんよ……!」

顔を引きつらせながら俺は呻く。

 

「お宅のお嬢さん!」

親指で部屋の入り口に静静と立つ咲夜を指す。

 

「あら、咲夜はメイドよ」

「メ、メイドさん!いやそういうのは今は問題じゃなくてっ!」

至極当然とばかりのレミリア様の指摘に早速ペースを乱されながらも俺は声を荒らげる。

 

「そのメイドさんに問答無用でここに連れてこられたんですけど!」

「貴方がここに初めて来た時もそうじゃなかった?」

「あ、あの時はねえ」

顔の筋肉が引きつり始めた。

 

「分、身、を!里に残してたんですよ!今回は分身する暇もなし!一緒にいたうちの生徒の眼の前でいきなり咲夜に連れ去られたんです!」

驚きの中で目を丸くした伍助の顔があっという間に遠のいていった記憶を呼び起こしていると、レミリア様がすかさず言う。

「お姫様抱っこで?」

「ひ、っ~~~~ええその通りでごぜえますとも!!」

 

勢いのあまり口調が可笑しい俺を、レミリア様はケラケラと笑う。

「悠基、貴方顔が真っ青よ。それに髪もぼさぼさ」

なぜ今更そこを指摘するのか。

「この季節でもお空の上は風も強くて寒かったんですよ!それに美鈴の治療も受けられなかったし!」

豪風吹き荒れる中で、もし咲夜が手を離したら……という末恐ろしい考えが浮かんだ時はさすがに死を覚悟した。

 

「いったいどういうつもりなんですか!?」

興奮のあまり相手が危険度極高の吸血鬼であることも構わずまくし立てると、レミリア様は「まあ落ち着きなさいよ」と満面の笑みで言ってくれやがった。

 

「咲夜から話は聞いてるでしょ?」

「……俺をここで雇うという話ですか」

一瞬唖然としかけた。

 

「そのためにこんなことを?」

「ええ、そうよ。どう?悪い話じゃないわよ」

「どう、と言うのでしたらねえ……!人を拉致するようなところで働きたいわけないでしょ!帰らせていただきます!」

気づいたときには思いっきり啖呵を切っていた。

更に、興奮冷めやまぬ俺は、そのまま答えも待たずに踵を返す。

初めてレミリア様に対面した際、相手の強大さに完全に萎縮していたあの頃の自分が見ていたら、間違いなく度肝を抜かれる光景だろう。

 

だが、振り向いた俺の目前には進路を遮るように咲夜が立っていた。

「さ、咲夜っ」

「…………」

無言で圧力を放ってくる咲夜に息を呑み立ちすくむと、後ろからレミリア様が…………いやもう敬称はいいや。

レミリアが声をかけてきた。

 

「ねえ、悠基。話だけでも聞いていきなさいよ」

その言葉を無視して咲夜をどう避けようか思考を巡らせようとしたところで、レミリアは更に言ってくる。

「それとも、あの時みたいに咲夜に捕らえてもらわないと、落ち着いて話も出来ないかしら」

 

体中の筋肉が一気に強張るのを感じた。

『あの時』というのは、まず確実にレミリアに初対面し、血を吸おうと迫ってくる彼女から逃れようとした時の話だろう。

 

不覚にも、体感温度が若干上昇した気がする、だが。

役得とか、そういうことを楽しめるほど俺は自分の欲望には素直ではなかったらしい。

じりじりと、腕を上げながら迫ろうとする咲夜に思わず後ずさりする。

「…………」

頬を引きつらせながらぎこちなく振り向くと、レミリアは微笑みを受かべて俺を見据えていた。

 

「ねえ、どうしてほしい?」

「…………は、話を聞くだけですからね」

「分かってもらえて何よりだわ」

 

こういうのを、『詰んでる』というんだろうか。

この話を断るには相当な困難な待ち構えていることを予感した俺は、最後のあがきとばかりにぼやく。

 

「どの口が言いますか」

「この口よ」

まるで見た目相応の少女のように、レミリアは自分の口端を引っ張った。

あどけないとも表現できるあざとい動作に、俺は心の中で呟く。

 

 

 

 

畜生、可愛い。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

そして、『交渉』の結果として、晴れて俺は紅魔館の使用人として働くことが決まった。

意外だったのは、俺を交渉の場に着かせるまでの流れがあんなに強引だったのに、反して交渉自体は一部を除いてまともな話し合いに終わったことだ。

 

レミリアは少なくとも、俺の生命と心身の無事と人としての尊厳は保証すると言っていた。

人里から拉致られた時点で『人としての尊厳』を著しく犯されている気がするが、ここに宿泊する以上、彼女の言葉を信じるしか無い。

俺が連れ去られた後の人里だが、咲夜曰く以前ほど騒ぎにはなっていないらしい。

あくまで咲夜の主観の話だが、その話を聞いて思わず閉口した。

 

契約として決められた仕事の内容は大きく分けて三つ。

紅魔館の使用人として働くこと。

一日一度、試作した洋菓子をレミリアに献上すること。

そして。

 

…………おそらく、この契約内容に関しては、その場にいなかった人が聞けば耳を疑う内容かもしれない。

少なくとも、縁起を執筆中である阿求さんに叱られることは確定だろうか。

 

「いつもすいません」

無表情で見据えてくる少女の姿を浮かべながら声に出してみる。

『いつになったら自重という言葉を覚えるのですか?』と、笑顔になった阿求さんが問いかけてきた。

自分の想像とはいえ耳の痛い話だ。

 

「急にどうしたの?」

「――え゛」

 

真横からの声。

俺に充てがわれた紅魔館の自室、俺しかいないはずの部屋の中。

にも関わらずすぐ真横から声をかけられ、寝起き気味だった頭は一気に目を覚ました。

 

振り向けば、俺が体を起こしたベッドに腰掛けて体を捻り振り返る形で、金髪の少女が思いの外近くで俺を見据えていた。

「っだ、誰?誰!?」

衝撃で思わず飛び起きながらベッドの上を後ずさる俺に、少女は僅かに目を丸くする。

 

「お姉様が言ってたわ」

「へ?え?お姉、様?」

「人に名前をきくときはまず自分からだって。違うの?」

「この場合は違うと思うけどな……」

「そうなの?」

 

唐突に礼節を問われて困惑しながらも、俺はやや緊張しながら少女を観察する。

幼い容姿に、紅魔館に勤めるメイド妖精かと一瞬考える。

ただ、枯れ枝に巨大な宝石の実が成っているように見える異質な造形の羽に目を奪われそうになるが、よく見ればこの少女の顔、つくりがあの人とよく似ている。

さらに言えば、「お姉様」という発言を考えれば。

 

「いいわ。じゃあ私からね。私はフランドール・スカーレット。フランでいいわよ」

スカーレットというファミリーネーム。

やっぱりこの子、レミリアの親族、というか多分妹だ。

 

というか、推定妹がいるなんて聞いてないですよーレミリア様。

 

勤めるのなら住人の紹介はしてほしかったが、結局昨日は地下を除く大体の部屋と使用人としての仕事を簡単に教わっただけだ。

霖之助さんから以前聞いた話、確か紅魔館には魔女も住んでいるらしい。

 

「次は貴方の番」

「ん?あ、ああ。俺は岡崎悠基」

おっと、俺はここの使用人になるわけだから、敬語にしたほうがいいか。

「今日から、ここで勤めさせていただきます」

 

「ふぅん」

相槌を打つフランの目つきは少々気だるげだ。

そんな様子を少々気にしつつ、俺は取り急ぎそれ以上に確認したい事項を問いかけることにした。

 

「あの、フラン様」

「んー?なあに?」

フランは間延びした返事をする。

「いつの間に、俺の部屋に?」

 

「え?……貴方が起きるちょっと前からよ?起きそうだったから隠れて様子を見てたの」

「あの、この部屋、鍵がかかってたはずなんですけど……」

喋りながら、フランの頭越しに視線を部屋の入り口へ向ける。

 

あれ?

あれれ?

おっかしいーなー。

ドアの鍵をかける部分が思いっきり拉げてるー…………。

 

俺の視線に気づいたらしいフランが振り返ってドアを見る。

「ああ、だって入れないじゃない?」

「えぇ……」

なんで「さも当然」みたいな顔で認めてるんだこの子。

 

「前はドアを吹き飛ばしたら怒られたから気をつけたのよ?」

「えぇー……」

なんで「褒めてもいいわよ」みたいなドヤ顔なんだこの子。

 

というか、ドアをぶっ飛ばすような妹がいるなんて聞いてないですよレミリア様。

 

あどけない顔でとんでもないことを言ってのけるフランにドン引きしながら、俺の頭の中では警鐘が鳴り始めていた。

万が一の話だけど、この子……襲ってこないよな?

襲われたらひとたまりもないんだけど……いや、さすがにその辺の常識はあるよね?

あるよねえ!?

 

「あの、なんでこの部屋に入ってきたんですか?」

「え?あー」

自慢げに笑みを浮かべていたフランが首を傾げた。

 

「えーと、お散歩してたのよ」

「お散歩」

「そしたらね、知らない人間の気配がしたの。ここから」

「気配」

「だからね、こう、キュッ、と」

「キュッ、と」

「だって鍵がかかってたもの」

「……」

 

『キュッ』で何をしたのかは分からないけど、ドアを破壊する擬音なのだけは分かった。

冷や汗が流れてくる。

「さ、さいですか……」

 

そんな俺の様子にフランは相も変わらず観察するように俺を見据えてくる。

「ねえ、えっと、悠基だっけ」

「はい?」

フランの真紅の瞳が俺の目に真っ直ぐ向けられた。

「なんで泣いてたの?」

 

フランの問いかけに目を瞠る。

だが、寝ているときから見ていたというのなら、その様子も見られているのは至極当然だろう。

 

少し気まずい思いで答えあぐねていると、続けてフランは問いかけてくる。

「怖い夢?」

もしかして、気を遣っているのだろうか。

戦々恐々とした心境の中で、不意にそんな考えが沸いた俺は微笑んで見せる。

 

「……いいえ、優しい夢ですよ」

「優しい夢なのに泣いてたの?変な人間なのね、貴方って」

「よく言われます」

 

思わず苦笑まじりに返す。

夢を見る程度には落ち込んではいるが、夢の内容自体は自分にとってかけがえのないものだ。

フランと話しながらそのことを意識すると、不思議と夢の中の誰かが俺を勇気づけてくれている気がした。

 

ああ、それに、この子は常識は少々無いのかもしれないけど、別段襲ってくるような気配も無い。

ただ単に少し好奇心が強いだけだろう。

それに、レミリアはこの館で働く上では心身の無事を保証していたし、彼女の言葉を信用するならば過度に怖がるのもよくないだろう。

 

「あのね悠基」

「ん?」

前向きに考えてもいいかもしれない。

そんなことを思いながら、なぜか上目遣いになるフランに返事をする。

「あ、はい。何か?」

「私、一つ分かったことがあるの」

 

なぜか、その時急に悪寒が俺を襲った。

フランが浮かべる笑みに、「おや?」と内心違和感を抱く。

弓なりに細められたフランの瞳がギラリと光った気がした。

 

 

 

 

 

「貴方は新しい玩具ね?」

 

 

 

 

 

あかん。

 

衝撃的な言葉に思わず息が止まった。

笑みを浮かべるフランドールから、先程とうって変わって猟奇的な気配を感じる。

 

というか、大人の男に対して「新しい玩具」なんて問いかける妹がいるなんて聞いてませんよレミリア様!!

現実逃避気味に内心叫びつつ、一刻も早くこの場から脱する方法を考える。

 

「あ、あの、玩具ってどういうことですか?」

この状況下で玩具というワードに平和的な響きを感じる人間はいないだろう。

部屋の隅に配置されたベッドの上、背中に当たる固い壁の感触が追い詰められたことを意識させられる。

 

「前にもね、こんなことがあったの」

フランは言う。

「お姉さまを殺すためにバンパイアハンターがこの屋敷に入り込んだの。使用人としてね」

「俺は本当にただの使用人ですよ」

 

この部屋唯一の出入り口はフランを挟んで反対側。

「それだけじゃないわ。泣いてたのに優しい夢を見てたって、とっても不可解。意味がわからないわ。だから、貴方はきっと、使用人を装った暗殺者」

ちょっと何言ってるか分からない。

 

「ねえ悠基」

フランの口端が更に釣り上がった。

「貴方はどれくらい遊んでいられるの?その男はお姉さまを殺そうとしてただけに強かった。でも、やっぱり簡単に壊れちゃうの」

怖っ。

 

窓も少し遠い。

だが、フランは確実に吸血鬼だ。

吸血鬼の弱点たる陽の光があれば、あるいは逃げられる可能性はあるかもしれない。

 

「多分一秒と持ちませんよ」

とはいえ、彼女がむざむざとそれを許すとは思えない。

ベッドから飛び出したとして、窓に駆け寄る前に捕まるかもしれない。

 

「そもそも、闘う気もないです」

閃光魔法でひるませるか?

勝算は見いだせるかもしれないが、どちらにしろ一か八かだ。

 

「つれないこと言わないでよー」

だとすれば保険をかけてみるか。

少し怖いが、やっておいて損はないだろう。

 

「ねえ、私と遊びましょ?」

「勘弁してください」

 

俺とフランが乗っかっているベッドの下。

少し埃っぽいが、こんなこともあろうかと人一人隠れられる程度の空間があるのを確認しておいた。

 

「…………っ!」

状況が切迫しているのもあって、迷いなく俺は能力を発動させる。

バチン、と頭のなかで小さな爆発が起きたかのような錯覚。

 

能力による分身は、半径数メートル内であれば出現させる位置は多少融通がきく。

薄い壁越しならばその場所に分身として現れることも可能だ。

とはいっても、視認できない位置に現出するのはさすがに怖すぎるから、こんな能力の使い方は滅多にしたことがない。

 

とりあえず、分身が出現したこと、記憶が流れ込んでこないことから、おそらくベッドの下ではもう一人の俺が息を顰めているはずだ。

これで、保険の準備はできた。

 

さて、仕掛けるか――。

「ん?」

不意に、フランが視線を下へ向けた。

「気配が増えた……」

「…………」

明らかにベッドの下にいるもう一人の俺を見ているかのような言動に、悪手を打ったことを悟った。

 

お、俺の馬鹿野郎…………!!

そうだね確かにフランがこの部屋に入ってきたのは俺の気配を感じ取ったからだからそりゃすぐ傍に隠れてれば知覚できるよね完全に失念してたよ!!

 

「アハ」

笑い声を漏らすフランに自責していた俺はギクリと肩を竦ませる。

 

「貴方もそんなことが出来るのね?」

言いながら、掌をかかげるフラン。

まるで掌の上に見えない何かを乗せているような仕草に、俺は訝しむ暇も与えられなかった。

不意に掲げた掌を閉じるフランを見る俺の耳に、どこからともなく「キュッ」という高い音が聞こえた気がした。

 

 

――――っ。

埃っぽい暗闇の中、息を顰めて隠れていようと思った矢先にくぐもって聞こえる『変な能力持ってるのね?』という少女の声。

そこからほんの少しの間を置いて、その記憶は唐突に途絶えていた。

 

「っ!?はぁ!?」

流れ込んできた記憶に、一瞬何が起こったかわからなかった。

というか、今も何が起きたのか分からない。

少なくともベッド下に潜ませた分身が消滅したことは確か。

 

「私も同じことが出来るのよ」

混乱する俺に畳み掛けるようにフランが言った。

 

「禁忌『フォーオブアカインド』」

呆然とする俺の眼前で、フランドールは両手を広げる。

自慢げに微笑む彼女の姿が霞んだかと思うと、次の瞬間すでに彼女は彼女たちとなっていた。

 

「「凄いでしょ?」」

フランたちの四重の声と、目前の光景に目眩がした。

 

現実逃避をしたくなるような状況の中で、どこか冷静な俺が内心納得した。

こういうのを、『詰んでる』というんだろうな。

 

「さあ、悠基」

「楽しみましょ?」

「私、こういうのは久しぶりなの」

「簡単には終わらないでね?」

そうして、俺に弁解の余地を与えること無く、フランの内の一人が、鋭い爪の生えた腕を俺の首に伸ばす。

もはや俺には為す術もなく――

 

 

「妹様」

 

 

――さ、

「咲夜」

愕然とする俺の代わりに、フランドールが振り向いた。

 

部屋の入り口、一部拉げたドアを開いて立つ少女。

このようなピンチを助けられるのは二度目。

十六夜咲夜と呼ばれる、日本人離れした容姿の銀髪の少女が、粛々と普段通りの装いで立っていた。

 

「お戯れが過ぎますわ」

え?

今までの全部悪ふざけだったの!?

咲夜の言葉に俺は瞠目し、咲夜と正面に立つフランを交互に見る。

 

「私は本気よ?この人、お姉さまを殺しに来たんでしょう?」

本気じゃねえか!!

 

「…………なにがどうなってそういう考えに至ったのかは分かりませんが、彼はお嬢様たっての希望で雇うことにした人間です」

「お姉さまの?」

「ええ。ですから、どうかその辺で」

「ふーん」

 

フランが視線を俺に向ける。

息を呑み、その視線を受けとめていると、「そう」とフランは興味を失ったかのようにベッドから飛び降りた。

同時に、彼女の分身が霞のように消滅する。

 

「分かったわ……ふわぁ」

不意に大きなあくびを上げたフランはヒラヒラと掌を振る。

「じゃあ、私は寝るわ。おやすみ咲夜」

「はい。妹様」

 

「おやすみ、悠基」

チラリと視線を向けてくるフランに、俺は固まりそうになりながらなんとか頷く。

「お、おやすみなさい」

 

僅かに笑みを浮かべると、そのままスタスタと去っていくフラン。

彼女の姿が見えなくなってやっと、俺は自分の心臓が痛いほど鼓動していることを自覚した。

フランを見送った咲夜が歩み寄ってくる。

 

「大丈夫?悠基」

「咲夜」

 

震えの止まらない体を掻き抱きながら、俺は咲夜を見る。

ポロリと、弱音のような言葉が漏れた。

「おうちかえる」

 

幼児退行した俺の言葉に、咲夜は一瞬微妙な顔を浮かべ、嘆息した。

「…………もうちょっとだけ、頑張りましょう?」

 

彼女にしては珍しく、気を遣った言葉だった。

 




フランドールとのファーストコンタクトです。おそらく主人公のこれまでの出会いの中で随一と言っていいくらい最悪の初接触でしょう。果たして主人公はフランとほのぼのと会話できるようになるのでしょうか。乞うご期待ということで。
ちなみにですが、主人公は紅魔館に宿泊する上で寝間着としてガウンを借りています(一応肌着は着用)。
つまり今回はガウン姿の男と幼女が同じベッドの上で会話をするという中々に危ない絵面に。うわあ。


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四十九話 願いと契約

咲夜に案内され地下への階段を下りた先にある大きな門を開くと、そこにはあまりに広大な空間が広がっていた。

魔法を少し齧った程度の俺でさえ息を呑むほどに魔力に満ち溢れた空間。

その空間を埋め尽くす無数の本、本、本。

優に三階建ての建造物はあろうかというくらい巨大な棚――天井も異常に高い――にみっしりと並ぶ分厚い蔵書だが、それでも空間が足りないのか所々無造作に積み上げられて山になっていた。

 

映画なんかで巨大な図書館を見たことはあるが、それに対して引けを取らない、どころか圧倒的な蔵書量は、その総数の推定すらも不可能に思える。

「およ?」

そんな光景に目を見開いていると、気の抜けた声が聞こえた。

 

「おやおや~?咲夜さん」

見れば、頭にコウモリ羽を生やした赤髪の少女がふわふわと飛んでくるところだった。

 

「こあ」と少女を見上げ咲夜が呟く中で、近付いてきた少女は興味深そうな目で俺を観察する。

「後ろの殿方はどちら様ですか?…………はっ、まさか」

低空飛行を保ったままの少女が何かを邪推しかけ、対して咲夜は即答する。

「ええ、例の彼よ」

え。

 

「ほぇ?例の?うん~?」

「?」

咲夜の答えに首を傾げる少女と、その反応に訝しげに眉を顰める咲夜。

開口一番話が噛み合っていないことを察した俺は呆れと困惑と気恥ずかしさと可笑しさが綯交ぜになった微妙な顔になっていただろう。

 

ともかく、まずは自己紹介も兼ねて挨拶しとこうか。

「あの、岡崎悠基と申します」

「あ、『例の』ってお菓子作りの人間のことですか」

名前に覚えがあったらしく、得心いった様子で少女は頷いた。

 

「紅魔館で使用人として勤めることになったのでご挨拶に伺いました。若輩ではありますが、何卒よろしくお願いします」

テンプレ通りの挨拶をして軽く頭を下げる。

「あ、これはこれは、ご丁寧にどう――ご丁寧!?」

 

なぜか間の抜けた声が上がった。

「さ、咲夜さんっ」

何事かと目を丸くする俺の前で、こあと呼ばれる少女があわあわと咲夜の元へ寄っていく。

 

「け、敬語!敬語ですよこの人!私敬われますよ!」

「落ち着きなさいよ」

ピシャリと咲夜は言ってのけながら、同時に手刀を少女の額に打った。

 

「あたっ!?」

低空飛行を保っていた少女は落下。

床の上に尻もちを着き、涙目で頭を抑える少女を尻目に、咲夜はぞんざいに彼女を指差した。

 

「彼女はこの図書館の主であるパチュリー様の使い魔よ。契約の関係で名前を明かせないらしくて、もっぱら小悪魔、それか、短くこあと呼ばれているわ」

「へえ……」

悪魔と呼ばれている割にはおっかなさ皆無な少女を見つつ俺が頷いていると、咲夜はついでとばかりに一言付け足してきた。

「あと、敬わなくていいわ」

 

「咲夜さん!?」

もちろん、声を上げたのは小悪魔である。

対して、咲夜の口調からなんとなーく小悪魔の扱いを察した俺は、自分の立場とその場の空気を読んで紅魔館内カースト(俺調べ)に従う事にした。

 

「よろしく、小悪魔」

「タメ口になってるじゃないですかうわあああん!!」

涙目の少女は盛大なリアクションとともに声を上げるのだった。

 

 

 

……そんなに気にしてたのかな。

「気にしなくていいわよ」

予想以上のリアクションにフォローに移るべきか迷う俺に、咲夜がボソリと告げる。

 

「別にあの子もそんなことを気にするタイプじゃないから。それに……面倒でしょ?」

「あー……」

「納得しないでください!?」

 

微妙に扱いが不憫なのは分かった。

 

 

 

* * *

 

 

そんなやりとりを交えつつも、図書館の主、霖之助さん曰く――正しくは魔理沙曰く、だが――引きこもりの魔法使い、さきほど咲夜からも名前の上がったパチュリー・ノーレッジに挨拶すべく、小悪魔通称『こあ』をお供に俺達は図書館の奥へと足を進めていく。

 

「ほぉ~、フランドール様にオモチャにされかけたと。それはそれは、ご愁傷様でございましたねえ」

「まあねえ」

咲夜の言うとおり、先ほどのやりとりなど全く気にした様子もなく、むしろ同情的な顔の小悪魔に俺は内心少しだけ安心しつつ頷いた。

 

「どおりで、顔が青いのですね。あんまり真っ青だったので最初見た時よもや死人なのではと思いましたよ」

「……そんなに酷かった?」

「ふぇ!?あ、い、いえ!今の言葉の綾でして」

 

まあ、小悪魔と呼ばれている割には悪い子ではないとは思う。

思うけど、短時間の会話で割と高頻度で地雷を踏んだり踏みかけたりしているし、よほど酷い天然なのかもしれない。

 

あるいは、逆に小悪魔と呼ばれている通り、それらの言動は計算づくであり天然を装って度々毒を吐き出しているのかも。

言葉遣いとかこれでもかってくらいあざといし、だとしたら中々に性悪である可能性が……。

 

「な、なんだかあらぬ誤解を受けている気がしますよ咲夜さん!」

俺の視線に何かを感じ取ったのか、小悪魔が騒々しく咲夜に訴えかける。

「自業自得じゃないの?」

「なんでっ!?」

 

天然かな……。

ひとまず自分の中で結論付けた俺は、先の話題を蒸し返す。

「顔色が悪いのは、なにもフラン様だけのせいじゃないよ」

「他に何かあったのですか?」

 

「レミリア様に血を持ってかれたんだよ」

おかげさまで貧血ぎみだ。

噛み傷のついた首元は包帯で覆われており、それを覗き込んだ小悪魔が目を丸くする。

 

「悠基さん、今日からお仕事なんですよね?朝一で血なんか流して大丈夫なんですか?」

「できれば勘弁願いたいんだけど」

「あら、契約上はなにも問題ないでしょう?」

前を歩く咲夜が歩みを止めずに振り向く。

 

「契約?なんですなんです!?その意味深な響きは!?」

咲夜の言葉に反応した小悪魔が顔を近づけてきた。

どうもこの子もパーソナルスペースが狭いのか人懐っこいのか、やけに隙だらけだ。

そんなことを思いつつやんわりと小悪魔の接近を止めてる俺の耳に、小さな風切り音が聞こえた気がした。

 

「ん?」

何事か、と視線を前へ向ける俺に小悪魔が首を傾げる。

見やった方向には一層高く積み重ねられた本が高層ビルのように並ぶ一角。

その合間に、桔梗色の少女の瞳を確かに見た。

「ほ?どうかされあだぁ!!」

 

!?

 

瞬間、スコーンという、まるで卓球のスマッシュの如き快音が響く。

同時に小悪魔が頭を仰け反らせながら盛大に吹き飛び、隣を歩く俺は愕然と目を丸くしていた。

うず高く積まれた本の山と激突し雪崩に巻き込まれる小悪魔。

その光景を目の当たりにしてやっと俺は我に返った。

「えっ、こ、こあ、小悪魔ーっ!?」

 

「こあ、もう少し静かにしたらどうなの?」

「おはようございます。パチュリー様」

「おはよう咲夜」

衝撃的な事象を完全に無視したやりとりが俺の背後で展開されていたが今はそれどころじゃない。

 

「ちょっと、大丈夫!?」

慌てて倒壊の収まった本の山に駆け寄ると、自力で上半身だけ起き上がった彼女は涙目になって声を上げた。

「うわーん!パチュリー様ぁ、いきなりは酷いですよぉ!!」

とりあえず額が赤くなっているが大丈夫そうだ。

 

「いつも静かにしなさいって言ってるでしょう」

本のビルの向こうから気だるげな声が飛んでくる。

「うう……だからってぇ……」

「ほら、小悪魔」

床に座り込んだままの小悪魔に手を差し伸べると、涙目のままの小悪魔はべそをかきながらその手を掴んだ。

 

「うう……悠基さんお優しい……」

「よく分からないけど静かにな」

「上げて落とされた気分です……」

 

めそめそする小悪魔を一応は気遣いつつ、彼女を助け起こした俺は改めてパチュリーと呼ばれる少女がいると思わしき、本の山の一角を振り返った。

既にその傍らに立つ咲夜は俺たちを待つように視線を向けてきている。

「っ」

少しドキリとする。

いつの間にやら、咲夜よりも背の低い少女が彼女の隣にまるで最初からいたかのように佇んでいた。

 

ややクマのできた目で近づいてくる少女。

以前霖之助さんの話に出てきたことがあったが、この人が……。

「悠基。こちらが、パチュリー・ノーレッジ様よ」

咲夜が傍らの少女に手を翳す。

「レミリア様のご友人だから、紅魔館で勤める以上は決して失礼のないように」

 

「別にそこまでかしこまることもないわよ」

咲夜の紹介を片手を上げて諌めながら、パチュリーは言った。

「貴方が、件の岡崎悠基ね」

「あ、はい」

 

『件の』『例の』と、この紅魔館では俺についてそれなりに伝わっているらしい。

なんとなく照れくさく思いながらも、俺は頭を下げた。

「その、どうぞよろしくお願いします」

「ふぅん」

頭を下げた俺の元へゆったりとした足取りでパチュリーが近付いてくる。

 

身長は俺よりもかなり低い。

故に見上げるような、そして観察するような視線が向けられる。

「…………」

「あの、なにか?」

無言で俺の体をじっくりと見るパチュリーに戸惑っていると不意に彼女は口を開いた。

 

「ねえ、貴方」

「は、はい」

 

 

 

「ちょっと服を脱ぎなさい」

 

 

 

「へ?」

「ふぇ!?」

「あら」

パチュリーを除くその場にいた三人の男女が同時に目を丸くした。

 

「パ、パチュリー様!?」

「なによ」

最初に頓狂な声を上げた小悪魔に、パチュリーは視線を流す。

「どうなされたのですか!?」

 

「……?別にいつも通りだけど」

「いいいいいつも通りじゃないですよねぇ!?」

「貴女はいつも通り騒がしいわね」

「だってこんなの騒がしくもなりまぴぎゃあ!?」

再び快音とともに小悪魔が吹き飛ばされていく様に唖然としていると、今度は咲夜が口を開いた。

 

「あの、パチュリー様」

さしもの彼女も戸惑っているらしい。

 

「『脱げ』はいかがなものかと……」

「何か都合が悪かったかしら」

むしろなんで都合が悪くないと思ってんだこの人。

とはいえ、困惑した咲夜の様子から察するに、パチュリーは普段このようなぶっ飛んだ発言をぶっこんでくるようなぶっ飛んだお方ではないらしい。

 

「よろしいですかパチュリー様」

おずおずと小さく挙手する俺にパチュリーはジト目を向けてくる。

「貴方もなの?」

「その、俺が言うのもアレなんですが、いきなり異性に対して『服を脱げ』だなどと言うのは……」

 

「ああ」

はた、と俺たちの反応の理由にようやく思い至ったらしいパチュリーが小さく頷いた。

「少し配慮が足りなかったわね」

少しどころじゃないっ……が、ぐっと堪える。

 

「理由があるの」

「なるほど」

俺は内心安堵する。

どうやらまともな理由があるらしい。

そりゃそうだよな何かよっぽどの理由がなければ脱げなんてそうそう言わないよな――。

 

「ただの興味本意よ」

…………えぇ。

 

絶句し、頬を引きつらせながら凍りつく俺に、パチュリーは人差し指を立てた。

「魔術的なね」

「ま、魔術……あぁ」

その言葉に俺は納得する。

 

「俺にかけられてる魔法のことですか」

「自覚はあるのね」

「一応は」

 

どうやらパチュリーが興味を示したのは、俺にかけられた一種の守護魔法のことを言っているようだ。

霖之助さん曰く上質な魔法であり、そして俺がこの幻想郷に迷い込む、正確には俺が元いた世界とは異なる歴史を辿ったこの世界に迷い込む以前からかけられた可能性が高い魔法だ。

少なくとも幻想郷に迷い込むまで魔法は架空上のものだと認識していた俺としては寝耳に水な話だったのもあって、この魔法については未だに謎が多い。

 

まあそのことは置いておいて。

どうやらパチュリーが「服を脱げ」と言ったのは俺の魔法に純粋に興味を示したかららしい。

ちゃんとした理由があったことに俺は安堵し…………いやだからっていきなり服を脱げは普通じゃないだろ。

 

「あの、魔法を見るのはいいとして、脱がないといけません?」

「脱いだほうがよく見えるでしょう?」

「……魔法の話をしてるんですよね?」

「当たり前じゃない」

 

とはいえ、前科(レミリア)はあれどさすがに初対面の女の子の前で服を脱ぐというのは抵抗がある。

…………前科ってなんだよ犯罪じゃねえよ!?

 

「面倒ね」

自分にツッコミを入れてグズグズしている俺に業を煮やしたのか、パチュリーがボソリと呟いた。

「確か、こういう時は咲夜に押さえ込んで貰えば良かったのよね」

ああやっぱりこの人レミリアの友達だよ……!!

 

「う、上だけですからね!!」

「充分よ」

提案した妥協点に頷いたパチュリーに心底安堵しながら、俺は執事服のボタンを外した。

 

「悠基、服を持つわ」

「ど、どうも……」

俺の傍まで歩み寄ってきた咲夜は気を利かせたつもりなのだろう。

が、正直女の子二人の目の前で衣服を脱ぐという行為に羞恥以外の感情を抱かない俺としては今回ばかりは余計なお世話だった。

 

「ほおほお。なかなかイイ体をしておりますねえ悠基さん」

……訂正、三人の女の子だ。

シャツを脱ぎ肌着に手をかける俺に興味深げな視線を寄越し、あまつさえ感想を言いながら近付いてきた小悪魔。

 

羞恥に顔が赤くなることを自覚しながら俺は彼女を睨む。

「普通にセクハラだからな、ソレ」

「す、すいません……で、でも本当にイイ体だと思ったんです……」

言い方。

『筋肉質』とかなら普通に褒め言葉として受け取れるかもしれないが、『イイ体』とか凄い卑猥に聞こえるせいでフォローになってない。

 

「悠基、見づらいから少ししゃがんで」

「……はい」

もはやされるがまま、どうにでもなれな自暴自棄精神でパチュリーの指示に従って膝をつく。

 

「ふむ……なるほど……」

「ほぉー……ふむふむ……」

「…………」

 

…………何かのプレイなのかこれは。

 

「少し失礼」

「はい?っ!」

背後に回ったパチュリーが人差し指を背中の上で滑らせた。

「いつっ!」

ゾクゾクとした感覚に身震い仕掛けた直後、肩甲骨の辺りで突然鋭い傷みが奔る。

 

「パ、パチュリー様!?」

「ふむ、直接的な刺激は通しちゃうのね」

「いきなり検証しないでもらえます!?」

「……しょうがないわね」

不承不承といった様子でパチュリーは嘆息すると、不意に俺の肩と首の間の辺りに手を乗せた。

 

「ん?」

そこは、今朝レミリアによる吸血の折、彼女が牙を突き立てた位置の上だ。

「えっと」

「ちょっとしたお詫びよ」

戸惑う俺にパチュリーは告げる。

 

もしや、と思ったときには既に、包帯越しに彼女の手が触れた部位が温かくなっていった。

視界の隅に緑色の光が見えて俺は確信する。

 

「治癒魔法ですね?」

「ええ」

先日、魔法の森で致命傷を負った俺にアリスが施そうとした魔法と同じものだろう。

 

「貴方、意外と無茶をするのね」

不意に背後でパチュリーが呟いた。

「契約の話、聞いたわよ」

おそらく、レミリアか咲夜から話は聞いているのだろう。

 

「あ、そういえば」

沈黙する俺の代わりに小悪魔が口元に手を当てる。

「さっきその話をしていましたよね?」

 

「……多少の無茶は承知です」

「『一日に一度、血を献上する』なんてのは、レミィの零す血の量を考えたら相当な無茶なのよ。知らなかった?」

「…………」

「はい、お終い」

パチュリーは俺の肩を軽く叩いた。

若干拍子抜けした思いで俺が振り向くと、パチュリーは数歩下がり俺と距離を取る。

 

「もう包帯をとっても大丈夫よ」

「あ、ありがとうございます」

「それと、血が足りないと思ったら来なさい。気が向いたら治療してあげるわ」

その言葉に、小悪魔が目を丸くする。

 

「パチュリー様、なんだか珍しいですねえ」

「ただの気の迷いよ。さて、研究に戻るわ。こあ、手伝いなさい」

「あ、はい。かしこまりました」

 

あたかも目的は達したとばかりに踵を返すパチュリー。

小悪魔は慌てて彼女に付き従いながら、最後に俺と咲夜に頭を下げて去っていく。

 

そんな二人の少女を、咲夜から受け取った服を着直しながら俺は見送った。

 

 

 

* * *

 

 

 

 

労働とそれに対する見返りとしてレミリアが示した内容は以下だ。

 

紅魔館の一使用人として働き、場合によってはレミリアの命令に従い(無茶な要求に対してはある程度拒否権を行使できる)、あるいは咲夜を補佐が主な仕事の内容。

その対価として相応の額の報酬と、並以上の衣食住が提供される。

 

また、洋菓子を試作するための一部紅魔館設備の使用権と、菓子を作るための材料もそれなりに貰えるらしい。

その代わりとして、試作した菓子の中でその日一番の出来の物をレミリアに献上する。

と、ここまで見るとレミリアからの命令に幾分かの不安要素はあるが、これ以上無いくらいの好条件に思える。

 

ただ、最後にレミリアが提示した内容が問題だった。

 

「あの、それ俺死にますよね」

『一日に一度、私に血液を提供すること』というレミリアの言葉に、高揚した気分が急転直下する。

ほんの少量血を取られるくらいなら大丈夫かもしれないが、目の前の吸血鬼が摂取する血の量は、零した分も含められば明らかに許容範囲外だ。

 

「あら、鉄分を取るために貴方の食事はとても豪勢にするつもりよ。牛肉の部位はどこがお好み?」

いつも紅魔館を訪れる度にごちそうになっている俺としては確かに魅力的な提案だ。

咲夜の料理の腕は絶品だし、思い返せば無意識に口の中で唾が湧き出てくる。

が、だからといって毎日血を抜かれるなんてことを享受できるほど俺は追い詰められてはいない。

 

「医学の知識はありませんけど、血を作るって言っても限界はありますよね……正直、予想外に好条件だったので名残惜しいのですが」

正直に気持ちを吐露しながらも、俺は小さく息を吐いて答えを口にする。

「……今回の件、お断りさせていただきます」

さすがに命には替えられない。

 

「仕方ないわね。なら報酬を足すわ」

直後のレミリアの言葉に、俺は脱力した。

「……レミリア様、俺が断ってるのは報酬が低いからじゃなくて――」

 

「貴方の能力に関する情報」

 

不意に告げられた追加報酬。

その言葉に俺は、思わず瞠目する。

 

「貴方が今欲しいのは、コレじゃない?」

得意げに笑うレミリア。

その瞳が、まるで俺の心情を見透かしているかのように細められる。

 

「貴方の働きに応じて私が知ってる限りの情報をあげる。それに、特別サービスで血の量についてもそれなりに善処するわ。軽い貧血程度で収まるように抑えてあげる」

追加の報酬に加え、懸念事項への善処。

さすがの俺も、話が旨すぎて猜疑心を抱く。

 

「……その情報が嘘じゃないと証拠は」

「わが誇り高きスカーレットの名とその血統の下に、誓うわ悠基。私はこの報酬に関して一切の虚偽を交えず、真実のみを貴方に告げる」

 

予想以上に大袈裟な答えが返された。

だが、同時に大袈裟では済まされない、凄まじいほどの言葉の重みを感じる。

初対面の原初的恐怖とはまた異なるプレッシャーに俺は息を呑み、目を瞠っていた。

 

「それじゃあ駄目かしら?」

口ではそんなことを言うものの、俺を見据えるレミリアの表情からは一切の迷いを感じない。

確信しているのだろう。

俺が頷くことを。

 

そして、

 

「ええ。ええ分かりました。信じますよ」

事実、俺は頷く。

 

「契約、成立かしら」

「……そうみたいですね」

 

まるで他人事のような言い方をしながらも、俺は不承不承な態度で頷いてみせた。

その反応にレミリアは薄く笑う。

「さあ、では早速いただきましょうか」

言って、舌なめずりをしながら血を所望する彼女に、俺は「今からですか」と呻く。

だが、諦めの境地か一種の覚悟なのか、動揺することもなく俺は嘆息した。

 

吸血の際にいつもやっているように、衣服を肌蹴て上半身を晒す。

彼女は盛大に血を零すので、せめて少しでも服が汚れないようにするためだ。

未だに見た目幼女の前で(ついでに言えば先程からずっと無言で咲夜が背後に控えている)こんなことをする抵抗感は濃いが、だからといってグズグズしていると終わらない。

 

「ふふ、悠基、知ってる?」

俺の肩に顔を近づけながら、レミリアが問いかけてくる。

「何をですか」

 

「野望を抱く人間の血って、とびきり濃い味がするのよ」

「知るわけないでしょそんなこと」

顔を渋く歪めながら、レミリアの言葉に俺はぶっきらぼうに答える。

 

「貴方の血、とても濃い味がすると思うわ」

「別に野望なんて大仰なものじゃないですよ」

「野望じゃなければ何というの?」

「そんなの」

 

当然、とばかりに俺は答えた。

 

 

「ただの『願い』ですよ」

「そ」

 

 

首と肩の間の皮膚を鋭い犬歯で貫かれる傷みを歯を食いしばり耐える俺は思う。

どうやら、俺を連れ去る強引な手立ても、その後の交渉も、その目的はコレ。

とびきり濃い味のする新鮮な血を毎日飲むこと。

それが彼女、レミリア・スカーレットの目的なのだろう、と。

 

 

かくして、俺は紅魔館で勤める次第となった。




サブタイトルから昨今の魔法少女物感が漂ってきますね(偏見)。
というわけで今回は紅魔郷四面のお二方が初登場。そしていつもよりギャグテイスト濃いめだと我ながら思いつつ最後に絡めちゃうシリアスっぽい話の流れ。
主人公の意図については追々、紅魔館でのほのぼのとした日常についても追々、という具合に小出しにしつつ、主人公再就職編は一旦ここで区切りです。なんだ再就職編て。


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五十話 朝霧と新しい日常

紅魔館は霧の湖と呼ばれる湖の畔に建っている。

その名が示す通り、湖にかかる霧は紅魔館の敷地近くまで及び、暖かくなったこの季節でも早朝は肌寒い。

 

そんな空気の中で冷たくなった格子状の門を押し開くと、敷地内から出てきた俺に紅魔館の門番たる妖怪少女が軽く頭を下げた。

「あ、おはようございます、悠基さん」

「おはよ、美鈴。早いね」

 

「悠基さんこそ。こんな早くにどこか御用ですか?」

まだ低い位置にある太陽の光をちらりと見つつ美鈴は問いかけてくる。

 

「ちょっと体力付けにランニングかな。この屋敷って見た目よりも随分広いから、使用人として働くにしても結構体力がいるみたいだし」

「へえ、精が出ますねぇ」

屈伸運動をしながら答えると、「感心感心」といった様子で美鈴は頷く。

 

「ん~悠基さん」

「ん?」

「少し体を触ってもいいですか?」

「…………ええと」

「あ、変な意味はなくてですね」

 

先日の大図書館での珍事もあって、過敏な反応をする俺に美鈴は苦笑しつつも構わず近づいてきた。

若干の居心地悪さを感じつつも彼女のボディチェックを受けると、何か納得いった様子で美鈴は頷いた。

 

「ふむ。最近気になっていたのですが、前よりも一段と鍛えられてますね」

「……まあ、体力は多少付いたと思うけど、そんなに変わった?」

美鈴の言う『前』というのが、初めて紅魔館に訪れた折のことを指しているのなら、まだ僅か三ヶ月と少し前の話だ。

その期間集中して体を鍛えていたかといえばそんなことはなく、普段通り甘味処で肉体労働したり里の外で歩き回ったりを繰り返した程度だから、鍛えられたなんて言い方は大袈裟に感じる。

 

「順当よりもやや上、といった程度ですかね。集中して鍛えたというよりも自然に鍛えられたって感じではありますが」

「そんなことも分かるの?」

「なんとなく、ですが」

照れくさそうに美鈴は笑う。

 

「でも、良い感じの体ですよ」

「イイ感じて」

「あ、コレじゃあなんだか言い方が変ですねぇ」

あっけらかんと笑う美鈴に俺も釣られて苦笑が浮かんだ。

とはいえ、どっかの小悪魔にはもう少し彼女くらいの気遣いを見習ってほしいところだ。

 

でも悪い子じゃないんだよ?

……誰に対するフォローだ。

 

「なんというか、武芸家よりの体になってます。もしかして、妖怪といくらか交えているのですか?」

「え?……どうなんだろ」

 

確かに、分身の際の生存時間を増やすために、魔法や木刀で抵抗する機会は少しずつ増えてはいた。

だが、機会が増えたからと言って、筋肉のつき方が顕著に出てくるほどということはないだろうし、そもそもそんな抵抗をする段階まで追い込まれているときというのは、多少の時間差はあれど最終的には妖怪の手にかかっている。

つまり分身は消えているのだ。

分身が消滅した際に引き継ぐのは記憶だけだから、美鈴の言うような鍛えられ方はされていないはず。

 

「多分、そんなことはないかな」

最終的にそんな結論に至った俺が答えると、美鈴は対して気分を害した様子も見せずに頷いた。

「ですか。じゃあ、私の勘違いですね」

 

「……さて、そろそろ行ってくるよ」

「はい、お引き止めしてすいませんでした」

「いえいえ。美鈴も、お仕事ご苦労様」

「ふふ、ありがとうございます」

 

はにかみながら手を振る美鈴に軽く手を上げて応じながら、俺はランニングを開始した。

紅魔館に来て、というか連れ去られて今日で三日目。

なんだかんだでここの住人の中では、彼女と話しているときが一番落ち着くなあ、とかそんなことをしみじみと思いながら、俺は霧の中を走り始めた。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

「――ん?」

水の跳ねる音が聞こえた気がした。

ちゃぷん、というよりも、どぽん、みたいな少し重みを感じさせる音だ。

 

走り始めて十分程、静寂に包まれた空気の中で不意に聞こえた音に、僅かに息が上がり始めた俺は足を止めることなく湖へ視線を向ける。

霧は濃く、白い景色の中で視界は悪い。

ただ、大きな波紋の中央に、鮮やかな緑の布地が翻りながら水中へ消えて行くのが一瞬だけ見えた。

 

見覚えのある姿に、俺はペースを落としながら進路を変える。

「おーい!」

聞こえるかな?と思いつつも声を上げてみて数秒ほど。

足を止めて様子を見ていると、暫くして再び水音がした。

 

「あら」

ほど近い水面から、見知った少女が顔を出した。

俺の姿を見て、彼女は僅かに目を丸くする。

 

「おはよ、姫」

「悠基じゃない」

しゃがんで視線の高さを近づけながら挨拶する俺に、どこかのほほんとした雰囲気で少女は呟いた。

 

彼女の名前はわかさぎ姫。

深緑の着物を纏い、楚々とした空気を漂わせる人魚だ。

普通に挨拶している通り、彼女は野良の妖怪でありながら非常に温和な性格だ。

そして俺主観の無害な妖怪ランキングにおいて栄えある最上位に君臨している。

 

ちなみにこのランキング、その他上位にいるのが美鈴、幽香、鈴仙あたり。

ただ、先日電撃の如く小悪魔がランクインし、激戦の模様を見せている。

今後の展開に注目したいところだ。

などと、すごく馬鹿馬鹿しい――とはいえ身の安全を確保する上では存外馬鹿にできない――思考を切るように、俺に微笑みかけてくるわかさぎ姫に気付かれない程度の小さなため息を漏らす。

 

「こんな朝早くに珍しいじゃない。お散歩?」

「まあ似たようなものだよ。姫も早くから元気だね」

「早寝早起き、規則正しい生活は美容のための第一歩なのよー」

意外な言葉に俺は無粋に思いながらも目を丸くする。

 

「へえ、人魚でもそういうの気を付けてるんだ」

「妖怪である前に女性ですから」

「おおー」

 

妙に感動して感嘆の声を漏らしながら小さく拍手する。

俺の反応にわかさぎ姫は得意げにはにかんだ。

とまあ、彼女と話しているとやけに和む。

和むけど…………幻想郷の妖怪として、それってどうなんだろ。

 

阿求さんから聞いた話では、妖怪というものは人々からの恐れを糧にしているらしい。

なので、人から全く恐れられなくなった妖怪というのは自然と消滅してしまう…………かも。

目の前で話す少女はそんな恐れというものと無縁に見えるけど大丈夫なんだろうかと、人の立場で言えばお門違いだとは思うものの心配になる。

 

「あら、案外どうにかなるものよ」

余計なお世話を承知でそんな旨の質問をした俺に、わかさぎ姫は頷いた。

 

「大丈夫なの?」

「ええ。見てて」

と、わかさぎ姫は得意気に笑みを浮かべる。

何をするのだろうと俺が待ち構えていると、不意に彼女は浮上した。

 

…………『水中を』ではなく、『空中に』である。

 

彼女の体から滴る水が湖面を派手に叩き、着物の裾から下に見える魚の艶やかな鱗は、僅かな日の光すらも反射させほのかに輝いているように見えた。

「ほら、驚いたでしょ」

「――――」

得意げに笑みを浮かべるわかさぎ姫に対し、予想外にも程がある光景に思考が止まった俺は答えられない。

 

「ふふ、悠基面白い顔」

「……姫、飛べ、えぇ?飛べたの?」

「そうよー」

 

「ど、どうやって?」

空中に浮き上がるわかさぎ姫の真下の空間に、なんの種も仕掛けもないことを確認しながら問いかけると、考え込むように彼女は首を傾ける。

いったいどういう原理で空中浮遊しているのか、さっぱり分からない。

 

「んー……気合?」

「んなバカな」

 

「でも、人魚が空を飛んだらびっくりするでしょ?しかも、そのまま迫ってくるのよ?意外と怖いでしょ?」

「あ、ああ……そういえばそんな話だった」

目の前の光景があまりにも衝撃的すぎて頭から吹き飛んでいた。

 

わかさぎ姫が空中に浮き上がりそのまま飛んでくる様を想像する。

……なんというか、思ったよりもシュールな光景が浮かんだ。

でも夜道に来られたら普通にビビりそう。

「確かに怖いかも」

 

「ふふん。でしょう?」

空中を泳ぐように尾ひれをたゆたわせながら、わかさぎ姫は得意気に胸を張った。

ちなみに彼女の魚部分だが、わかさぎ姫の身長を尾ひれの先まで図るとすれば優に二メートルを余裕で上回る。

つまり、間近で見れば結構な迫力を感じるくらいにはでかい。

そういう要素も恐怖を感じさせる一助になっているのかもしれないと、俺は勝手に納得する。

 

「あ」と、不意にわかさぎ姫が小さく声を上げた。

「で、でも気をつけなきゃ」

何を思い出したのか自らの顔の横であわあわと彼女は手を振る。

「驚かすにしても相手は選ばないと駄目なのよ」

 

のほほんとした彼女にしては珍しい真剣な様子に、俺は当惑しつつも問いかける。

「相手?」

 

「あっちの紅い館の住人よ」

と、わかさぎ姫が指し示す先には、霧で見えないものの俺の新しい職場が建っている。

「特にあの銀髪の人間の子。あの子は特にだめ。ちょっと驚かそうとしただけなのになます切りにされそうになったのよ!?」

顔を青くしながらわかさぎ姫はまくし立てる。

対する俺も彼女の言う人間の子に心当たりがあるおかげで凄く複雑な顔になっている。

 

「眉一つ動かさずに『人魚の肉は美味らしいじゃない』よ!?『今夜は刺し身にしましょう』よ!?」

「あー……」

言いそう。

 

そのときの記憶が蘇ったのか、わかさぎ姫は涙目になっている。

「食べられると思った……怖かった……」

「さ、災難だったね……」

 

時間を操る程度の能力のおかげで瞬間移動を体現する紅魔館のメイド長が、ナイフをその手に襲い掛かってくる様を思い浮かべる。

……わかさぎ姫と比較にならない迫力を感じた。

 

あとで咲夜にはわかさぎ姫をいじめないように頼んでおこう。

紅魔館で働き始めたとは言いにくい空気を感じた俺は、口には出さずに誓うのだった。

 

密かに決心する俺と、トラウマなのか記憶を呼び起こし震えるわかさぎ姫。

各々の理由で不意に会話が途切れる。

未だ空中に浮かんだままのわかさぎ姫の体から滴る水滴の音が断続的にある程度で、早朝の霧の湖周辺は静かなものだった。

 

清涼感溢れる空気の中で、軽い運動で温まりつつあった体温が涼められていくのを不意に自覚したとき、唐突にその静寂が破られた。

 

「………ん?」

「………あら」

 

高らかに鳴り響く音に、俺たちは揃って同じ方向へ視線を向ける。

金管楽器……トランペットかなにかだろうか。

 

素人目、もとい素人耳に聞いても見事な演奏は、湖に沿った俺の進路の先から聞こえてきた。

軽快な旋律は詰まることも乱れることもなく滑らかに流れ、聞いていると不思議と気分が高揚してくる。

 

「この音って……」

「いつ聞いてもいい音よね」

自然と呟いた言葉をわかさぎ姫が拾う。

彼女の言い方からして、どうもこの音色は日常的に聴こえてくるようだ。

 

「誰が吹いてるの?」

「あ、もしかして初めてかしら」

俺の問いかけにわかさぎ姫は察したように微笑む。

「プリズムリバー三姉妹って、聞いたこと無い?」

「あぁ、あるかも」

 

阿求さんの元で働いていた当時、彼女が話す数ある人ならざる存在の中に、その言葉を聞いた覚えがあった。

「えっと、幽霊楽団だったっけ」

自分で口にしつつ、なんともおどろおどろしい演奏を想像させる名前だと思う。

ただ、今まさに耳にしているこの演奏は、想像した暗い曲調の真逆、ついついリズムに乗ってしまいそうなくらい陽気な音色だ。

 

「ええ。この先にはあの子達の住処があるのよ」

「住処……」

一箇所に定住しているということは地縛霊なのだろうかと、幻想郷の幽霊に関しては疎い俺はなんとなくそう思う。

 

「あ」

わかさぎ姫が唐突に声を上げた。

なにごとかと隣に浮かぶ彼女へと視線を向けようとした瞬間、冷たい感触が突然両耳を襲う。

 

「つめたっ」

驚いて跳び上がりそうになった。

代わりにギクリと肩を竦めながら、しかし、その感触の正体を察した俺は混乱する。

「な、なに?」

俺の背後に回り込み、両耳を塞ぐように掌で押さえたわかさぎ姫。

 

困惑の声を上げる俺に対してわかさぎ姫は「で、でも気をつけなきゃ」と慌てた声音で言った。

耳の塞ぎ方が甘くトランペットの音色も彼女の声も未だによく聞こえるし、今のわかさぎ姫の言葉に既視感があったりで、妙に可笑しかった。

笑みをこらえようと頬肉を引きつらせながら、俺はなんとか問いかける。

「なにを?」

「あの子達の音って、感受性が高いと影響を受けやすいの」

 

「催眠効果でもあるの?」

「似たようなものだから、聞き入りすぎて気を抜いたりしちゃだめだからね?」

「……う、うん」

 

まず間違いなく親切心からくるであろう忠告に、俺はなんとか頷いた。

頷きつつも、こういう部分は妖怪として大丈夫なんだろうかと、余計なお世話もお門違いも承知でやっぱり心配だ。

 

「……悠基?どうかした?」

まあ、そんな心情とは裏腹に。

「っふふ、姫、ありがと」

その心遣いが思いの外嬉しかったのか、俺は小さく笑っていた。

 

「もう。こっちは心配して言ってるのに」

急に笑いだした俺にわかさぎ姫は機嫌を損ねたように頬を膨らませた。

そんな仕草も妙にツボったのか、ますます笑いが溢れ出す。

「わ、判ってるって」

 

少し自重しなければな、と剥れるわかさぎ姫を見て思うものの、反して自制心は緩まりつつあると自覚する。

未だに流れてくるトランペットの旋律が、気付けば最初に聴こえたときよりも大きくなっていた。

 

「あら~これは」

不意に間延びした声がした。

 

「うん?」

振り向けば、色素の薄い髪の少女がふよふよと低空飛行をしながら近付いてくるところだった。

その手には以前の世界で見たことのある金管楽器が握られている。

 

ぼんやりとした霧がかかり肌寒い中で、一人だけ昼間の暖かい陽気をまとっているかのように、ほんわかとした面持ちで近付いてくる少女。

隣で未だに宙に浮かぶ――意外と続くもんなんだな気合――わかさぎ姫が小さく手を振った。

「メルランじゃないの」

「おはよ~魚の姫様」

「おはよー」

 

なんだこの不思議系女子みたいなのほほんとした挨拶は。

癒されるなあ。

 

「それとこっちは初めて見る妖怪~」

地面に降り立ち、語尾を伸ばしながら俺へと視線を移す少女。

妖怪に間違われたのは初めてだ。

そんな些細なことに、再び俺の口から笑いが漏れかけた。

「……違う違う。俺は岡崎悠基。見ての通り人間だ」

 

「人間?こんな時間にこんな場所にいるなんて、変な人間なのねえ」

「はは、よく言われるよ」

初対面の少女の物言いに苦笑まじりに肩を竦める。

 

「そういう君は、もしかしてプリズムリバー三姉妹の一人かい?」

少女の手に持つ金管楽器を見ながら問いかけると、少女は笑みを浮かべながら頷いた。

「ええ。メルランよ。よろしくねーゆーき」

「ああ、よろしく」

自分の胸に手を当てながら名前を告げるメルランに、俺も笑みを浮かべてうなずき返した。

 

今もまだ、わかさぎ姫の言った幽霊楽団の住処の方向からトランペットらしき音色は聴こえてくる。

ということは、彼女たち幽霊楽団は金管楽器の担当が複数いるのかもしれないとぼんやりと推測する一方で、終始笑顔を浮かべるメルランの雰囲気につられてなんだか楽しくなってきた。

 

「あの、悠基?」

おずおずと、なぜか戸惑いがちな様子でわかさぎ姫に呼ばれた。

「ん?」

「……あらら、これは」

 

振り向いた俺の顔を見て、わかさぎ姫は何かを察したように微妙な顔を浮かべる。

彼女の呟きは中途半端に途切れ、続きがこないことに内心俺は首を傾げる。

そのついでに、そういえばさっきメルランが近付いてきたときも同じような言い方をしていたことに気づいた。

 

「どうかしたのかい?」

「貴方、あてられてるわねえ」

「あてられてるでしょ~」

あてられてる???

意味がわからず困惑する俺の正面で、わかさぎ姫が困ったような微妙な笑顔を浮かべ、隣でメルランが同意しながら頷いた。

 

「なんの話?」

「まぁいいじゃないー」

明らかに答える気がない様子のメルラン。

 

わかさぎ姫は何かに迷うように首を傾げる。

「んーいいのかしら?」

「いいのいいのー」

 

微妙に歌うように語尾を伸ばしながら、メルランが突然俺の手を握った。

不意のことに混乱する俺の手を引きながら、誘うようにメルランは軽やかにステップを踏み始めた。

 

「え?え?」

「なんだか私もノッてきたし、せっかくだから踊りましょー?」

あ、これ話聞いてくれなさそう。

 

そんなことを察した俺は、わかさぎ姫へと視線を向けた。

「どういうこと?」

困ったような笑みを浮かべたままのわかさぎ姫は、頬に手を当てる。

「まあ、いいんじゃない?」

メルランと同じこと言ってるなあ。

 

「ねえゆーき。踊りましょーよー」

「いいけどさ」

駄々をこねるようなメルランに手を引かれ、されるがままに俺は彼女とともに歩く。

ていうか幽霊って触れるもんなんだな…………なんて感慨は今はとりあえずうっちゃりしといて。

 

「俺こういうのよく分からないよ?」

「いいのよ適当で」

「そうそう」

気付けば、わかさぎ姫の笑顔から、さっきまでの困ったような雰囲気が消えている。

 

「そういうものなの?」

「そういうものよー」

なんだろう。

陽気に笑うメルランに、影響されたのか、いつまでも困惑しているのもバカバカしく思えてきた。

まあ、害はなさそうだし深くは考えなくてもいいか。

 

今もまだ、陽気な音色はどこからともなく流れてくる。

メルランに引っ張られながら、俺も釣られるように見よう見まねのステップを踏んで見る。

 

「そうそうその調子」

手拍子をするわかさぎ姫に言われ、俺は口元を緩ませる。

「え?上手い?」

「ふふふーゆーき下手っぴー」

クスクスとメルランが笑った。

「もう、なんだよー」

と、かくいう俺も釣られるように笑みをこぼす。

 

あー、でも。

結構楽しいかも。

こういうのもいいかもなー。

なんて。

 

年甲斐もなく――なんてことはないかもだけど――下手なステップを踏んではしゃぎながら、俺はそんなことをぼんやりと思った。

 

 

 

 

 

 

 

後に、このメルランという幽霊は、魔力を伴った音色で聴いた人の気分を高揚させると知った。

つまり、そんなメルランの音に、俺は思いっきり『あてられた』みたいで、その日の午前いっぱいまでやけにハイテンションだったらしい。

 

自分の話なのに『らしい』なんて言い方をしているけど、記憶はばっちりあったりするわけで。

ただ、人間というやつは、精神的安定を図るために良くない記憶には蓋をしてきれいさっぱり忘れてしまいたこともあるわけで。

今回のこともそれに該当するわけで。

 

…………結局のところ、何が言いたいかというと、

 

「あら悠基、今朝の鼻歌はもうしないの?」

「スキップは?」

「ダンスは?」

 

「レミリア様…………お願いですから忘れてくださいほんとマジで」

つまるところ、新たな黒歴史(いじられるネタ)がいくらか増産されたというオチがついたわけである。

 

 




オチがつきました(大事なことじゃないけど二回言います)
まっとうなほのぼのを目指し、のんびりスローライフ感を出そうとした日常回です。

申し訳程度に存在はぼかしてはいましたが、輝針城から先んじてわかさぎ姫に出てもらいました。ポテンシャル的には、そんなに高くは飛べないし弾幕も打てないから弾幕ごっこは出来ない程度です。主人公の姫呼び見てるとオタサーの姫感あります。
プリズムリバー三姉妹からは先んじてメルランがソロで登場してもらいました。彼女が演奏していないにも関わらず聴こえてくるトランペットの音色については求聞史紀ソースの音の幽霊的なあれです。どれだ。



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五十一話 春下がりの昼寝日和

幻想郷に集う魑魅魍魎の中で、一大勢力のトップに立つレミリア・スカーレット。

成り行きで彼女と知り合ってから数ヶ月立つけど、彼女ほど掴みどころのない人(妖怪)を俺は知らない。

 

基本的にレミリアは大人びた淑女然とした言葉遣いをする。

かと思えば、まるで暴君のような乱暴な言動だったり、威厳と貫禄を持った風格を見せたりと、印象が時と場合によって二転三転する。

しかもそんな振る舞いをするのがどう見ても十歳前後の少女なのだから、得体の知れなさに拍車がかかる。

 

全体的に見た目不相応な大人びた振る舞いが目立つが、そんなレミリアでもあどけない子供じみた一面を――意図的だとは思うが――見せるときがある。

というか最近は毎日、決まった時間に見ている。

初対面で威圧された印象が強くて、逆に年相応の振る舞いをされるとまだ違和感があったり、もしかして多重人格なのではと疑いが沸いたりもするが、それは置いておいて。

 

柱時計から鐘の音が響く。

ボーン、ボーン、ボーン、ときっかり三度。

午後の三時(おやつの時間)だ。

 

その音を律儀に聞き終えてから、漆の扉をノックする。

「入りなさい」

扉向こうの声を聞き届け、俺は左手でドアノブを掴んだ。

 

右手のトレイに乗った小皿の上には、レモン果汁によって酸味と風味を備えたマドレーヌ。

明治時代から技術的な進歩の少ない人里ではともかく、紅魔館の設備でなら再現するのにあまり苦労しない試作の甘味だ。

 

レミリアが俺を雇った理由の大部分は、俺の血が目当てだと俺は考えている。

だが、それとは別に俺が再現する甘味は彼女のお気に入りで、強いて言うならこの甘味も目的に含まれているのだろう。

 

紅魔館の設備を使う代わりに一日一度レミリアにケーキを献上すること。

俺がここで働く上で提示された条件だ。

レミリアは甘味が手に入る、俺からすれば試作が出来る上にその感想を聞くことができるということで両者Win-Winに見えるこの条件。

だが、更に付け加えるならば、気温の変化の関係でケーキを作れない俺からすれば何か解決作に通じるヒントを得られるかもしれないチャンスでもあった。

 

しかも太っ腹なことに材料は必要経費として紅魔館側が負担してくれる。

もはやこんなに優遇されていいのだろうかすら思えるレベル。

 

とまあ、最近苦手意識が再発しつつあるけれど、一勢力の長であり雇い主としてのレミリアについては概ね尊敬の念を抱いている。

とはいっても、扉の向こうにいるレミリアは、尊敬や畏怖なんて言葉から程遠い、目を輝かせた小さな女の子モードで待ち構えていて。

昨日も一昨日もその前もそんな感じだったし。

 

「失礼しますよ、レミリア様」

さて、そんなお嬢様の期待に応えることができるだろうか。

喜んでもらえるかな、なんて期待と不安をないまぜにしながら、俺は扉を押し開いた。

 

 

 

* * *

 

 

 

「おいひい!……っんく、これ美味しいわ、悠基」

「ふふん、そうだろう?」

正午を過ぎて数刻、ぽかぽかと暖かい陽気の下、花びらも随分散ってしまった桜の木の傍にて。

草地の上に胡座を掻いた俺は試作のマドレーヌの感想に満足して胸を張る。

正面で両手に菓子を持って笑みを浮かべるのは、巷で宵闇妖怪なんて呼ばれているルーミアだ。

 

暖かくなり妖怪たちも活発に動くようにはなったが、どうも彼らは人里から伸びる道に寄り着かないようで、道の上をまっすぐ行くならば遭遇率は意外と低かったりする。

だが、このルーミアなる妖怪はそういった傾向には当てはまらないのか、人里へ向かう俺の進路上を、いつものように闇を纏ってふよふよと横切ろうとしていた。

暗黒まりもと表現すると存外しっくりくるそれに声をかけて今に至るが、近付くまで俺に気づいていなかったあたり、相変わらず視界は悪いようだ。

 

ちょうど持ち合わせていたマドレーヌは、午後三時にレミリアに献上するマドレーヌの試作の更に試作だ。

ルーミアに声をかけたのは、甘味処に職場復帰するまでの半年、試作した菓子を改善するためになるべくいろいろな意見が聞きたかったのもあった。

まあいろいろな意見と言ったものの、ルーミアの感想は基本的に「美味しい」だけだからあまり参考にならない。

 

「ふふふーん♪」

「ご機嫌だね」

「悠基、私これ気に入ったわ」

「そりゃ良かった」

 

まあ、例え参考にならなくても、これだけ喜んでくれたならそれで満足だったりする。

 

「ねえ悠基」

「ん?」

「いつものクリームだっけ?これには付けないの?」

「…………」

むう。

 

「付けなくても充分甘くないか?」

「とっても甘いわよ。でも貴方が持ってくるケーキは、いつもクリームがあったじゃない」

「付けてほしい?」

「うん」

「…………」

むぅう。

 

マドレーヌにホイップクリームか。

確かにマドレーヌにケーキのスポンジ生地を連想するのは分からなくもない。

だから、彼女がオプションを所望するのもまあ理解できる。

でもなあ。

 

「そうは言っても、俺としてはその組み合わせは邪道というか凶悪というか……」

「凶悪?」

キョトンとルーミアが首を傾げる。

「なにが凶悪なのよ」

 

そんな問いかけに、真剣な顔を作る。

「めちゃくちゃ甘くなるんだ。凶悪なくらい」

 

「…………」

なぜかルーミアが鼻白むように半眼になる。

不思議なことに。

 

「……それだけ?」

「それだけ」

「…………」

「…………」

「悠基、クリームは?」

「えぇ」

聞かなかったことにされた。

 

「ま、あるけどな」

「あ、あるのね」

 

紐で蓋をしっかり固定した小壷をルーミアの正面に置く。

固定紐を解き蓋を開くと、中に入っていたホイップクリームにルーミアが目を輝かせた。

 

「衝動的に飛び切り甘くして食べたいっていうのも分からなくもないからな。特別サービスだ」

クリームを掬うためのスプーンを手渡すと、上機嫌にルーミアは頷いた。

「判ってるじゃないの」

 

「あ、クリームは半分残しといて。それ試食用なんだから」

「そうなのかー♪」

「信用するからな……?」

浮かれきったルーミアの言葉に俺は小さく嘆息を漏らした。

 

甘味処を絶賛休職中の俺だが、その理由は俺の作るスイーツの核とも言える生クリームが作れなくなったからだ。

クリームを制作する過程で生乳を長時間寝かせておく必要がある。

だが、手を加えた生乳は足が早く、この気温の下で放置しておけば残念ながら生クリームとして使う前に傷んでしまう。

 

だったらなんで作ることが出来ないはずのそれを今ルーミアに振る舞っているのかというと、これも一重に紅魔館の備蓄庫のおかげだ。

その施設は、パチュリーの魔法によって手を加えられているらしく、室内温度が常に一定以下に保たれた現代の冷蔵庫と同じ機能を有している。

ルーミアが嬉しそうに舐めているクリームも、その施設があるおかげで作ることが出来ているわけだ。

 

最近はこの技術をどうにか盗むことができないか、なんてことを密かに考えていたりする。

試作したクリームを持ち合わせていたのは、何か着想を得られないかという漠然とした考えで休職中の職場に持ち寄るつもりだったからだ。

 

「甘かったわー」

「そらそうだろ」

口端にクリームを付けたまま、ルーミアは満面の笑みを浮かべた。

 

気付けば、試作品のマドレーヌはあっという間に無くなっていた。

と言っても、ルーミアの食欲が底知れないことはだいたい分かってるのでさして気にするようなことではない。

言いつけを守ってきちんと残されたホイップクリーム入りの壺に蓋をしながら、俺は「そういえば」とルーミアに問いかける。

 

「ところで、妖怪も虫歯になるの?」

「ちゃんと歯を磨いてるから大丈夫よ」

彼女によく売れ残りのケーキを譲っていた身からすれば今更な質問だったが、思ったよりも文明的な回答が返ってきたびっくりした。

 

「そうなのか?」

目を丸くして彼女の口癖を呟くと、得意げにルーミアは口端を上げる。

「そうなのだー」

お、新しいパターン。

 

 

 

* * *

 

 

 

暖かい春の日差しの下、日向ぼっこがてらぼーっとしていた俺は、草葉を踏む軽い足音が近付いてくることに気付いて振り向いた。

日傘を差した金髪の少女が、どこか胡乱な瞳をこちらにむけたまま歩み寄ってくる。

 

春先に出会い、この前の異変の終わりになんとなく打ち解けた感のある少女だが、結局名前はまだ教えてもらっていない。

いつまでも妖怪少女と呼ぶのも何なので、名前を教えてもらうまで仮名でも付けておこうか。

例えば、日傘をいつも手にしてるところから、日傘ちゃんとか。

……知り合いの妖怪と被るから却下だな。

 

なんてくだらないことを考えていると、普通に会話出来る距離まで近付いてきた少女は足を止めた。

「や」

胡座を掻いた草地の上、とある事情で動けない俺は、彼女に上半身を捻って半笑いを浮かべて手を挙げて見せる。

 

そんな俺をジト目ぎみに見る日傘の少女は、俺の顔から視線を一度下げて、暫くしてから再び俺の目を見た。

「何をしているのかしら」

「……えーと、膝枕……みたいな?」

「…………」

 

すっげえ微妙な顔をされた。

 

さて、そんな彼女が見る俺の胡座の上。

さっきまで俺の試作菓子を試食していたルーミアが、俺の腿を枕にぐっすりと眠っていた。

寝心地が良さそうには到底見えないが、春の陽気が心地よいのか、うっすらと穏やかな笑みを浮かべて寝息を立てるルーミアは、すぐには目を覚ましそうにないくらい寝入っている。

起こすのも気が引けて、おかげさまで俺は動くことが出来ない。

 

「なんというか」

日傘の少女僅かに口元を引きつらせながら片眉を上げた。

「随分懐かれているわね」

「いやぁ……」

 

なんとなく後ろめたくなって思わず視線を逸らす。

なぜ懐かれたのか、なんて理由を考えるなら、ルーミアに甘味をあげまくったからだろう。

一瞬『餌付け』という単語が浮かびそうになったがそれはそれとして……道端で妖怪とはいえあどけない少女を菓子を使って懐柔するというのは、改めて考えればちょっとまずい気がしなくもない。

 

「昔から子供には懐かれやすくてね。親戚の子とかこうやってあやしたりしてたし」

「あっそ」

さして興味もなさそうな相槌を打つ少女は、日傘を畳むと俺の隣に腰を下ろした。

ルーミアの面倒を見る俺に付き合うような彼女の行動を意外に思いながらも、先日の夕暮れ時に話してから、多少は打ち解けたということだろうかと前向きに考えることにした。

 

そういえば、その時この子は誰かと喧嘩していたっぽいけど、それ以降はどうなったのだろうかと気になった。

「あれから仲直りはできたかい?」

「なんのことかしら」

隣に座りつつも、正面を向いて目を合わせようとしない少女の様子を見つつ、もう少しくらい圧しても大丈夫かなぁ、なんて微妙な距離を測るように俺は質問を続ける。

 

「いやさ、前遭った時に拗ねてたじゃない?」

「拗ねてないわ」

「あー、うん、そうかも」

意外と意地を張るタイプだったらしい。

 

「それより、貴方はいいのかしら?」

話題を逸したいらしい空気を察した俺はその問いかけに乗ることにした。

「なにが?」

「その子、妖怪よ」

 

「うん?それは分かってるけど、それが?」

「怖くないの?」

……それは、なんというか今更な質問だと思う。

 

なんとなく手持ち無沙汰に感じた俺は、ルーミアの前髪を軽くすきながら、その寝顔をぼんやりと眺める。

「君だって妖怪だろ?」

「…………」

「まあ、怖くないってことはないかな。この子だって、こんなあどけない顔して好物は人肉だって普通に言うし、隙あらば噛み付こうとするし。そもそも人間っぽいぽくないに関係なく、妖怪にはよく襲われてるから、そりゃ怖いってのもあるよ」

 

「じゃあ、どうしてそんな風に触れ合えるの?」

「変?」

「ええ、とても」

「そんなことは……」

と反射的に言い淀む。

 

例えば、咲夜なんかはたまに過激な部分に目をつぶっていれば、美鈴や小悪魔あたりには接し方がフランクだ。

霊夢は鬼の萃香と同居してるし、魔理沙なんかは野良妖怪と話しているとしばしば彼女の名前が出て来る。

そんな彼女たちと比べれば、俺なんて別に普通普通……。

 

「……なんていうか、一応普通の人よりは死ににくい体質してるっていうのもあるんだけど……ありゃ」

「どうしたの?」

ルーミアの髪をすいていた手を止めた俺に、少女が問いかけてくる。

 

「いや……たんこぶできてる」

触ってみれば、ルーミアの頭頂部が腫れているのが分かる。

「また低いところ飛んでぶつけたのか……気をつけろっていつも言ってるのに」

最初に遭遇したときも思いっきりぶつけてたんだよなあ。

 

「…………」

ジト目ぎみな隣からの視線に、俺は小さく嘆息して首をすくめた。

呆れの色が濃くなっているのは、唐突な俺の言動のせいだろう。

 

「こう接してるのって、こうしてどう見ても子供にしか見えないからっていうのも理由になるかな」

「貴方より長く生きている者の方が多いわ」

「そうかもだけど、言動がなあ……」

精神年齢が見た目年齢に引かれやすいのか、現状子供っぽい見た目の妖怪の大半が、見た目通りもしくはやや上程度みたいな振る舞いをする。

そんなんだから年上だの長いこと生きてるだの言われてもイマイチピンとこない。

 

「まあ、それは置いといて。普通に会話できるんだ。普通に接するのだってそこまで変じゃないさ」

「妖怪は人間を襲うものよ?襲われて命を奪われるかもしれないのに、そう思うの?」

「……確かにそれは致命的な問題かもしれないけど、生憎俺は襲われたとしても対策がある。ていうかさ、変だ変だって言うけど、そう言う君だってよっぽど変だよ」

 

「私?」

訝しげに眉根に皺を寄せる少女に、俺はふてぶてしく頷いてみせる。

「うん。さっきから妖怪だとか襲われるとか、なんだか俺を心配して忠告してるみたいだ」

 

「……もしそう聞こえるのなら」

半眼で少女は俺を睨むように見る。

「おめでたい頭をしてるのね」

 

「う……そ、その、そうかもなんだけど…………ああいや、でも、否定はしないんだね。日傘の妖怪さん?」

思ったより言われた言葉にダメージを受けつつも少しムキになって揚げ足を取ると、彼女は視線を逸した。

 

「そうね」

「…………え?」

予想外。

てっきり向こうもムキになって反論してくると思ってた。

 

「そうなの?」

「ていうかなによ。その日傘の妖怪って」

「え?ああ、だって名前教えてくれないから。勝手にそう呼ぶことにしただけだ」

「だけって」

 

「それよりもさ、今の――」

今の「そうね」は、俺を想って忠告をしたことを肯定しているようにとれるし、もしもそうならなぜ出会って間もない俺のことを心配したのか。

どういうわけかそのことが強く気になって身を乗り出そうとする俺の鼻先を鋭くも小さな傷みがはしった。

 

「うっ!?」

少女のデコピンだ。

予想外の行動に怯んでいると、俺を見据える少女は呟くような小さな声で言う。

 

「ユカリ」

「え?」

「ユカリと、そう呼んで」

「あ、ああ。名前か……」

 

やっとこさ名前を聞くことが出来たわけだが、不意のことに面食らっているおかげでなんだか感動がない。

というか、そんなに日傘の妖怪という呼び方がいやだったのだろうか。

まあいいか。

 

「じゃあ、改めて。よろしくユカリ」

「ええ。よろしく、悠基」

握手をしようと右手を伸ばすと、意外にもユカリは応じてくれた。

「あ、名前覚えててくれたんだ」

「意外?」

「興味なさそうに見えたから」

それに、名乗ったのなんて初めて会ったときだけだったし。

 

それにしても、ユカリか。

確かこの名前って――。

 

「んん…………」

不意に俺の足を枕にしていたルーミアが身動ぎした。

おそらく隣に座るユカリと握手しようと上半身を捻った俺の動きが衝撃になったのだろう。

とはいえ、人里に用がある俺としてはそろそろ起きてもらおうとは思っていたので調度いい。

 

「さて、私はそろそろ行くわ」

ルーミアの様子に気付いたらしいユカリが、握っていた手を離しながら立ち上がった。

「あ、うん。それじゃあ」

小さく手を振る俺に対し、ユカリは小さく頷くと日傘を指して背を向ける。

 

「…………んん、ゆう……き」

「お、起きたか」

名前を呼ばれて視線を向けると、ルーミアが少しだけ目を開いて、眩しそうに俺の顔を見上げている。

 

「誰かいたの?」

「ん?ああ……」

眠りが浅かったのか、俺とユカリの会話をぼんやりと聞いていたのだろう。

なんとなくそんな当たりを付けながら、俺はユカリが去っていった方向を見る。

 

比較的開けた景色の中で、既にユカリの姿は影も形もない。

とはいえ、初めて遭ったときも突然現れ突然消えた彼女のことだし、さして驚くようなことでもないか。

それよりも、少しだけ気になることがあった。

 

「なあ、ルーミア……あ、二度寝しようとすんな」

春眠暁を覚えずの精神なのか、再び目を閉じて睡眠体勢に入ろうとするルーミアを軽くはたく。

 

「ん~なによぅ」

「いや、俺もそろそろ行くからどけてくれ」

「いーやー」

「はいはい起きて起きて」

やんわりと彼女を起こしながら、俺は嘆息する。

長時間ルーミアが乗っかていたおかげで足が痺れている。

 

「ところでルーミア」

「なにかしら」

まだまだ眠りたりなかったのか、ルーミアは微妙に不機嫌そうに唇を尖らせる。

「幻想郷の管理者の妖怪って知ってる?」

 

「八雲紫がどうしたのよ」

お、フルネームか。

だとしたら面識があるのかもしれない。

 

「遭ったことある?」

「あるわよ」

「どんな妖怪?」

「なによ急に……」

訝しげな視線を向けつつも、ルーミア考えるように腕を組んだ。

 

「ま、胡散臭いヤツね」

「胡散臭い?」

意外な言葉に面食らう。

幻想郷の管理者ってことは、つまりはこの幻想郷の中ではトップに立つといってもいい大物のはずだ。

 

俺のオウム返しの言葉に、しかしルーミアは頷いた。

「そう、胡散臭いの」

「えっと、他の特徴は?」

「遭ったら分かるわよ」

ええ…………。

 

どうも、ルーミアの口ぶりからしてその八雲紫なる妖怪に対面すると『胡散臭い』いう印象を強く受けるらしい。

その特徴だけで充分とばかりのルーミアの様子に、「そうかぁ」と俺は間の抜けた相槌を打った。

 

と、するならば、ユカリは幻想郷の管理者の妖怪、八雲紫とは別人と考えていいだろう。

彼女からは胡散臭いというよりもどちらかと言えば不思議な子という感じだ。

なによりも、八雲紫なる大物が俺に接触してくる理由も浮かばないし。

 

おそらく、ユカリと名乗った少女は、八雲紫から名前を肖ったのだろと、ぼんやりと予想する。

迷いの竹林にも『かぐや姫』から肖って輝夜と名乗る前例だってあるくらいだし。

 

俺はそんな風に適当な理由で自分を納得させながら、まあなんだかんだでユカリとも仲良く慣れてきているってことなのかな?と、前向きに考えることにした。

 

 

 




補足1:「迷いの竹林にも『かぐや姫』からあやかって輝夜と名乗る前例」について
主人公は輝夜が本物のかぐや姫ではないと思っている。不老不死の蓬莱人の存在すら知らない。

補足2:主人公試作菓子のルーミア試食分は必要経費に認められないので主人公負担。
自己責任です。

以上、いつもはやらないほのぼの補足説明です。
一部修正いたしました。


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五十二話 スイーツと図書館の魔女

紅魔館で勤め始めて一週間ほど立った日の午前中、俺はふらふらと地下図書館の中を歩いていた。

 

「あら、悠基さん」

足音に気付いたのだろう、パチュリーとなにやら話していたらしい小悪魔が振り向いた。

一目で年代物と分かる分厚い本を抱えている様子からして、仕事の合間にちょっとした雑談でもしていたのかもしれない。

「やあ」

 

相変わらず重ねられた本で作られた塔が聳える机を挟み、小悪魔の向こう側からパチュリーが視線を寄越してくる。

「どうも、お邪魔してます」

「……顔が青いわね」

パチュリーは俺を観察するように目を細めた。

 

「それに鉄臭いわ」

「ええ、まあ、お察しの通りかと」

早々のパチュリーの指摘に、どうにか浮かべた苦笑を引きつらせ、鈍い頭痛に額を抑えた。

 

「死人一歩手前みたいな顔ですよ?大丈夫ですか」

小悪魔が俺の顔を覗き込んできた。

 

「……そんなに酷くはないし」

相変わらず微妙に刺さる言葉選びの小悪魔に肩を竦めつつ、俺はパチュリーの前で足を止めた。

「パチュリー様。お願いが」

「ああ、前言ってたことね。いいわよ。少し待ってなさい」

「助かります」

 

察しよく頷いてくれたパチュリーに俺は内心安堵する。

彼女は気付いていたようだが、この紅魔館で勤める上での職務、一日一度のレミリアへの血の献上をつい先程こなしてきたばかりだった。

いつも以上の倦怠感と若干の頭痛に、今日はいつにも増してたくさん血をとられたらしいと客観的に判断した俺は、パチュリーの「気が向いたら治療する」という言葉を頼って地下図書館に訪れた次第である。

 

それに、昨日ちょっとしたイベントがあったのでその件についても聞きたかった。

「ところでパチュリー様。昨日はどうでした?」

「昨日?」

不意の問いかけにパチュリーは眉を顰める。

 

「悠基さん、どうぞお掛けください」

「ああ、ありがとう」

と、すぐに戻ってきた小悪魔がの肘掛け椅子を用意してくれた。

腰掛けてみるとふっかふかだ。

立っているのが少々辛かったので非常にありがたい。

 

「これを」

言葉少なにパチュリーがどこからともなく取り出したのは、一口程度の無色透明な液体が入った小瓶だ。

机の上に置かれた小瓶を手に取り観察してみるも、なんの変哲もない清涼水にしか見えない。

「飲めばいいのですか?」

「ええ」

 

てっきり治癒魔法的なものでもかけてくれるのかと思っていたので、少し面くらう。

とはいえ、せっかくのご厚意だし素直に甘えさせてもらおう。

 

ふと、隣を見ると小悪魔「ファイト!」とばかりに拳を握って見せた。

「悠基さん、一気ですよ!」

「なんだそのノリ……本当に一気でいいんですか?」

小瓶の蓋を取りつつパチュリーに問いかける。

 

「…………いいんじゃない?」

「えぇ……」

ちょっと怖くなってきた。

 

「もう、信用してくださいよ!」

なぜか小悪魔が頬を膨らませる。

そこまで怒るようなことだったのかと不思議に思いつつも、俺は不承不承に「……オッケー」と相づちを打ち鼻を近づける。

 

匂いは……無臭、だな、うん。

…………ええい…………ままよ!

 

覚悟を決めた俺は一気に小瓶を煽って中の液体を口の中へ流し込んだ。

味――ちょっと辛い?ような、でも、ほとんど無味だ。

ごくりと一口で液体を飲み込んだ俺は、一仕事終えたような疲労感を錯覚しつつ大きくため息をついた。

「ふぅー……」

 

「ちなみにそれ」

不意にパチュリーが口を開いた。

「?」

「こあが作ったものだから」

「なぜこのタイミングでそれを」

まるで小悪魔作成の薬はヤバイみたいに聞こえる言い方だ。

一気に不安になってきた。

 

「タダより高いものはないのよ」

「えぇ」

「ちょっとパチュリー様!?」

なおも俺の不安を煽るパチュリーに小悪魔が声を上げた。

 

「そんな変なもの作ってませんよ!!」

「ふふふ」

ぷんすかと怒ってみせる小悪魔にパチュリーは小さく笑いを漏らした。

なんだかんだで仲良さげなのは結構だけど、とりあえず俺は今飲んだ薬について不安に思うことはないんだよね…………?

 

「それはただの気付け薬みたいなものよ。よっぽどの失敗でもしない限り、心配することはないわ」

不安に思う俺の視線に気付いてか、パチュリーがフォローを入れる。

 

「……信じますからね」

飲んでしまった後に信じるもへったくれもない気がするけど。

最後に、確認の意を込めて薬の作成者へ視線を向ける。

 

「…………?」

「…………」

「…………」

「…………」

「テヘペロ☆」

「小悪魔」

「じょ、冗談ですからそんなに睨まないでください……」

 

ていうか、どこでそんな言葉覚えてくるんだか。

呆れ混じりの嘆息をつくと、不意に胸の辺りが疼いたような気がした。

 

「ん……」

直後、芯から体が温まってくる。

いつぞやの美鈴の気による治療と似た感覚だ。

なんとなくだが血の巡りが良くなった気がする。

 

「あ、元気にはなってきたかも」

「ふふん、でしょう」

「まあ、ありがと。助かるよ」

得意げに胸を張ってみせる小悪魔に礼を言いつつ、俺は軽く息をついた。

体の調子が少しずつ良くなっていくのがはっきりと分かる。

とはいえ、動機は早いし倦怠感は濃いしで、できればもう少しこの座り心地最高な椅子で休んでいたい。

 

「そんな調子で大丈夫なのかしら」

興味が無くなったかのように広げた本に視線を戻していたパチュリーが不意に口を開いた。

「なんです?」

「この後仕事なんでしょう?このまま働いて体がもつとは思えないのだけど」

 

「あ、パチュリー様はご存知ないんでしたっけ」

俺よりも先に小悪魔がその問いかけに反応した。

 

「どういうことかしら」

怪訝な顔をするパチュリーの視線が俺ではなく小悪魔へと向けられる。

 

あ、だったら俺はちょっと休ませて貰おうかな。

どうも小悪魔が説明してくれるらしい流れを察した俺はこっそりと肘掛け椅子に体を更に沈めることにした。

 

「今の悠基さんは分身中なんですよ」

「分身?」

「はい。パチュリー様が懸念されている通り、血を失った状態では執事仕事もままなりません。執事と言っても悠基さんはあくまで雑用係。働かないメイド妖精の代わりに屋敷の掃除や洗濯といった咲夜さんの仕事の一部を肩代わりしているわけですが、量が量ですし悠基さんには少々きついお仕事です」

言い方が引っかかるけど事実だし何も言わないでおこう。

 

「そこで、レミリア様に血を吸われる前に、悠基さんは分身能力を使って役割を分担することにしたんです」

「なるほど。奴隷としてこき使われる(執事の仕事をする)方と食料としてキープしておく(血を吸われる)方で分けることにしたのね」

「えっと、そんなところですね……」

……気のせいだろうか、なんだかパチュリーの言葉に悪意を感じるんだけど。

 

「だとしたら、一つ気になることがあるのだけど」

「なんですか?」

パチュリーが俺へと視線を向けてきたので、姿勢を正しながらそれに応じる。

 

「血を吸われた方の貴方をわざわざ治療する意味はあったのかしら?働くわけじゃあないんでしょう?」

「ええと……」

まあ、パチュリーからすればそれはそうかもしれないけど、ちょっと言い方がキツい。

 

「パチュリー様酷いですよぉ」

苦笑する小悪魔に、パチュリーは小さく嘆息して見せる。

「別に。わざわざ地下図書館(ここ)まで足を運ぶくらいなら、大人しく横になって休んでいても良かったじゃない」

「いえいえ、実はこっちの悠基さんにもお仕事があるのです」

 

と、なぜかここも小悪魔が俺に代わって応じてくれる。

もしかして、まだ俺の体調がすぐれないことを察して気を遣ってくれているのだろうか。

そんな淡い期待を抱きかけた直後、パチュリーからの怪訝な視線を受ける小悪魔が気分良さげに笑みを浮かべた。

「随分ご機嫌ね」

「ふふーん。パチュリー様が私に教えを乞うなんて滅多にありませんからね~♪」

 

「…………そう」

気の所為か、パチュリーの視線に憐憫の色が見えた。

 

「小悪魔……」

「はい?どうかしましたか悠基さん?」

「説明、どうぞ」

「あ、そうですね」

 

俺に促され、小悪魔は咳払いをした。

「それで、仕事というのは?」

「ズバリ、お菓子作りです!」

 

「あぁ」

心当たりがあった様子でパチュリーが小さく頷いた。

「レミィの……ね」

 

なんだ今の「……」は。

まるで「おやつ」と言おうとして自重したみたいに聞こえるな。

そんな下らない邪推―をする俺の隣では、小悪魔が「はい!」と頷いた。

 

「それにしたって、ただのお菓子作りでしょう?」

「寝てれば出来るってわけでもないですから」

やはりわざわざ治療をする必要はないだろうというパチュリーの言葉に苦笑を浮かべると、小悪魔が両手を握ってぶんぶんと振った。

 

「もーパチュリー様冷たいですよ!それに『ただの』お菓子作りなんて言い方してますけど、美味しく作るのってすっっっごく大変なんですからね!」

なぜかやたらと主張する小悪魔に、パチュリーは目を細める。

自分の使い魔の様子に困惑しているようだ。

だが、最終的には気にしないことにしたのか面倒くさそうにヒラヒラと手を振った。

「貴女……あーはいはい分かった。分かったわよ」

 

だが、パチュリーの態度に対して、小悪魔は身を乗り出してじっと主人を見つめる。

「なによ」

「すっごく大変なんです」

「?……分かったてば」

「…………そうですか」

 

それはそれはもう明らかに、小悪魔はしょぼくれた様子になって身を引いた。

「……お仕事に戻ります」

肩を落として踵を返した彼女の背を、パチュリーは訝しげな視線で追った。

それほど離れているわけではない、少し大きな声で会話をしていれば声が届く程度の位置にある棚の前で小悪魔は足を止めると、抱えていた蔵書をその一角へ差し込んだ。

 

その後、ポンッ、と乾いた小さな破裂音とともに、どこからともなく取り出した羽ペンと用紙が挟まれたクリップボードを手に、なにやら作業を始める。

召喚魔法の一種だろうか。

便利そうだし、今度教えてもらおうかなぁ。

 

などとぼんやりと思いながら小悪魔の背を眺めていると、ちょいちょいと肩を突かれる。

意味が分からないといった様子でパチュリーが俺を見ていた。

「何か知らない?」と囁くパチュリー。

小悪魔の様子に意味がわからないと言った様子の彼女だが、お菓子の話題が端を発しているであろうことを鑑みてなんとなく事情を察していた俺は「おそらくは」と囁いた。

 

片眉を上げるパチュリーを見つつ小さく咳払いをすると、俺は小悪魔に聞こえる程度に声量を上げることにした。

「ところでパチュリー様、昨日小悪魔が差し入れを持ってきたと思うのですが」

「差し入れ?……ああ、そういえば茶菓子を頂いたわね」

突然の俺の問いかけに、訝しげに眉を顰めながらもパチュリーは頷く。

 

「えっとですね……」

小悪魔に視線を戻せば、こちらに背を向けているが、手が止まっているのが見え見えだ。

確実にこちらに聞き耳を立てているだろう様子に、どうやら推測が当たったようだと俺は思った。

「どうでした?」

「何がよ」

俺と同様に小悪魔の様子を見つつ、パチュリーが首を傾げる。

 

「いえ、茶菓子のご感想ですよ。昨日は南瓜を混ぜたマフィンだったのですが」

「……そうね。糖分を摂取したかったから、調度良かったわ」

「ちょうど…………」

思わず脱力しつつも、俺は机越しに会話するパチュリーに向けて心持ち身を乗り出す。

 

「味は」

「アジ?」

「美味しかったかどうか聞いてるんです!」

「何怒ってるのよ貴方……」

 

俺の様子にさしものパチュリーは一層困惑の色を濃くした。

それでも、会話の流れから応えた方がいいと判断したのか、困惑しつつもパチュリーは俺の問いかけに応える。

 

「まあ、美味しかったわよ」

「!パチュ――」

「普通に」

――っ一言多い!!

というか、話の流れ的に気付かないかなあ?

 

がっくりと肩を落とし半眼になった俺に、パチュリーもジト目を返す。

「何よ。別に、感想なんていつもレミィから聞いているでしょうに」

「え」

 

あれ?

……あ、そういうことか。

どうにも、察しが悪いと思ったら……。

 

「あ、あのですね……」

と、どうしたものかと言葉を選ぼうと迷っていると、小悪魔が近付いてきた。

 

「あの、パチュリー様」

「?」

おずおずと話しかけてきた小悪魔。

やや緊張した面持ちに頬を朱くしながらも、その瞳には期待の色が伺えた。

 

「その、美味しかったって本当ですか?」

「嘘ついてどうするのよ。というか、どうして貴女が――あ」

はたと、困惑していたパチュリーが目を丸くした。

 

「もしかして、あのお菓子はこあが作ったの?」

「え、ええ」

と、やっとこさ気付いてくれたようだ。

 

パチュリーの察した通り、昨日彼女への差し入れとして出された洋菓子は、小悪魔手製の品だ。

レミリアへの試作菓子を作る俺の助けを借りながら、菓子作りは初挑戦だという小悪魔が作り上げた。

なんでも、パチュリーにはいつもお世話になっているので少しでも恩を返したいとか、前々からこういうこと(菓子作り)に興味があったとか。

 

ちなみにだが、目を離している間に二回程材料を駄目にして作り直すハメになったりで、最終的には俺も随分とフォローを入れることになった。

小悪魔は「すっごく大変だった」と言っていたけど…………うん……大変だった。

とはいえ、多大な労力と犠牲を払い、ようやく完成したマフィンだったのだが。

 

「はぁ~~~~…………けほ、」

呆れを全面に押し出した長い長いため息と、最後に小さな咳。

「てっきりあれは悠基が作っているものと……いえ、いいわ」

 

額に手を当て、俺と小悪魔を交互に見ると、パチュリーは言う。

「あのね、感想を聞きたかったのならそう言えば良いじゃない」

「それじゃあ言わせてるみたいじゃないですか」

確かにパチュリーの言うとおりだとは思いつつも、俺は苦笑しながら肩を竦めた。

 

「わざわざ気を遣った言葉なんか選ばないわよ」

「えへへ……」

照れくさそうに小悪魔が笑みを浮かべる。

その笑顔を見て、パチュリーは再びため息をついた。

 

「美味しかったわよ。普通にね」

「はい!」

しっかりと、余計な一言も加えて再び告げられたパチュリーの感想に、小悪魔は満面の笑みを浮かべた。

まあ、余計な一言があるおかげで逆に現実味がある言葉になったのかもしれない。

 

「ほら、満足したなら仕事に戻りなさい」

若干口調を荒げながらパチュリーが命じる。

照れ隠しのような彼女の態度に、しかし小悪魔は満足気に「はいっ!」と頷いた。

 

最後に俺に礼を言って、小悪魔は踵を返し歩いて行く。

後ろ姿で分かるほどに嬉しそうだ。

その後ろ姿に一人ほっこりとしていると、不意にパチュリーが声を上げた。

 

「こあ」

「あ、はい。なんですか?」

「また作ってちょうだい。そのうちね」

「!はいっ!お任せ下さい!」

 

幸せそうに小悪魔は頬を赤らめた。

……なんというか。

ああいう笑顔を見せられると、昨日苦労して教えた甲斐があったというものだ。

その内再びパチュリーへの菓子作りを教えることになるのだろうが、そんな苦労も承知で請け負っても構わないかなと思う。

 

そんなことを考えていると、パチュリーがジト目を向けてきた。

「なにニヤついてるのよ」

「いやあ、パチュリー様はあれですね」

「どれよ」

「すけこまし」

 

俺の軽口にパチュリーは鼻で笑った。

「随分と元気になったようじゃない。ぶっとばすわよ」

 

少し調子に乗りすぎた。

 




ここのところ結構な忙しさだったのもありいつにも増して間が空いてしまいました。更新をお待ちいただいてる方々には誠に申し訳ないです。

主人公が拠点を移したのもあって、紅魔館組にスポットが当たりがちですね。
他にもいろいろと出していきたいなーとか思いながら次回も紅魔館の、というか今回の続きという流れになります。ほのぼの!


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五十三話 悪魔の妹も添えて

「さて、そろそろ俺は行きますね」

 

パチュリーの「ぶっとばす」発言に冷や汗を流しつつも、俺は肘掛け椅子から立ち上がった。

体調に関しては随分と良くなったように感じる。

飲んだ時こそ不安に苛まれたものの、小悪魔作の魔法薬はしっかりと効果を発揮してくれているらしい。

 

「待ちなさい」

と、席を外そうとする俺をパチュリーが引き止めた。

 

「……なんですか?」

「貴方に訊きたいことがあったのよ」

よもや「すけこまし」とか言ったことを根に持っているのだろうかという考えが過ぎったが、そういうわけでもなさそうだ。

微妙に安堵しつつ、俺は立ち上がったまま首を傾げる。

 

「俺にですか?」

「ええ。貴方の能力について、なのだけど」

「……」

パチュリーの言葉に困惑と期待と不安が同時に湧き起こる。

 

表情筋が緊張で僅かに強ばることを自覚しつつ、俺は肘掛け椅子にかけ直した。

「構いません。俺に答えられることなら、ですけど」

「そ。じゃあ、まずは確認。貴方はこの館で働く上で、貴方の能力に関する手掛かりがその報酬に含まれているわね?」

「はい」

 

レミリア曰く、俺の能力について彼女はそれなりに詳しいようだ。

『分身する程度の能力』と名付けたこの能力について、使用している俺すら把握していない性質を、レミリアは知っている節がある。

「なら、教えて欲しいのは、それ。レミィの話した貴方の能力についてよ」

「はぁ、それは構いませんが」

と、俺は頷きつつも戸惑いがちに疑問を口にする。

 

「あの、パチュリー様はレミリア様とご友人ですよね?レミリア様から何か聞いてたりはしないのですか?」

「あの子は秘密主義なところがあるのよ」

パチュリーは小さなため息混じりにボヤいた。

 

「貴方の能力については私にも明かす気がないみたいなのよね。『悠基から直接聞いて頂戴』ですって」

「そうですか……」

若干落胆しつつ俺は相槌を打った。

レミリアの友人というパチュリーから、もしかしたら何か新しい情報が得られるかもしれないという淡い期待は残念ながら空振りだったらしい。

 

だが、広大な地下図書館を管理するパチュリーのことだ。

魔法魔術に関する造詣は深いだろうし、もしかしたら何か新しい意見を聞けるかもしれない。

思っていることがすぐ顔に出る俺の性格が災いしたのだろう、「そこまで失望することないじゃない」と言いたげなジト目のパチュリーに向き合うと咳払いとともに気を取り直した。

 

「では、何か分かったら俺にも教えてください」

「ええ、いいわよ」

お、あっさり承諾してくれた。

レミリアの友人という割には無闇やたらと思わせぶりな態度だけとって何も教えてくれないという訳ではなさそうだ。

と、まあそれは置いといて、早速本題に入ろう。

 

「パチュリー様は、俺の能力に関してどのくらいご存知なのですか?」

「昨日咲夜からある程度のことは聞いたから、あの子が知っている範疇なら把握しているわ」

咲夜が知っている範疇だとするなら、おそらく俺がこの館で働き始める前までの情報といったところだろうか。

 

俺とパチュリーとの知識の差異を予想しつつ、俺は先日、ここで勤めることになった折、なんの気まぐれかレミリアが遂に話してくれた俺の能力の性質、その一端について話すことにした。

「レミリア様の能力は『運命を操る程度の能力』と言われるそうですね」

「……そうね」

 

唐突にレミリアの話が始まり、パチュリーは困惑した様子を一瞬見せた。

だが、おそらくそれは本筋に必要な話なのだろうと判断してくれたのか、静かに俺の話を促す。

 

「その能力のおかげなのか、レミリア様は人や妖怪の運命を垣間見ることが出来るとおっしゃっていました」

謂わば、未来予知のようなものだと俺は解釈している。

 

「この幻想郷には、その運命を簡単に覆すような存在が数多くいるとも」

あるいはそれは常識外れの力によって、あるいはそれは想像も及ばないような性質によって、あるいはそれは尋常ではない在り方によって……そんな抽象的な言葉を使いながら、レミリアは彼女の能力によって推し量れない規格外の存在が、この幻想郷には数多く跋扈していると言っていた。

だからこそ面白いのだけど、とも。

 

「初めて会ったとき、俺にはそういうものを感じなかったそうです」

平凡、凡庸、拍子抜け。

咲夜が友人と称して連れてきたという割には、期待外れにも程があるというのが第一印象だったそうだ。

 

「でも、俺の能力は例外みたいです」

「それは、分身することによって運命が変わるということ?」

「レミリア様が言うには、俺が能力を使う瞬間から先の運命が霞がかかったように見えなくなるとか」

 

そう話すレミリアは、楽しげに笑みを浮かべていた。

『だから、その気になれば貴方でも、私の寝首を掻けるかもしれないわね』

『何を期待してるのか知りませんけど、反応に困ります』

 

その時のやりとりを思いだし、嘆息が思わず溢れた。

「はぁ…………」

対するパチュリーは、唐突にため息をつく俺に訝しげに見る。

だが、気にしないことにしたようで、顎に手を当て考え込むように伏し目になった。

 

「そう、レミィの能力に干渉するということは、貴方の能力はそういった運命や因果に関するものなのかしら」

「……さあ、どうなんでしょうね」

正直なところ、そんなことを言われてもさっぱりだ。

さて、パチュリーから何か意見は聞けるだろうか。

 

「パチュリー様は何か分かりませんか?」

「その分野は専門外なのよね」

「…………」

「そう不満げな顔をされてもね。全く分からないというわけじゃなくて、判断材料が少ないのよ。適当なことしか言えないわ」

 

結局のところ、俺の能力に関する謎の解明は長期戦で見た方が良さそうだな。

「そうですか。まあ、それなら仕方ないですよね」

さて、そろそろ俺も今日の菓子作りの仕込みでも始めようか。

 

「では、もし何か分かったらよろしくお願いします。俺はそろそろ上に戻りますので」

「分かったわ……あら?」

その場を後にしようとする俺から、不意にパチュリーが視線を俺の向こう側へと向けた。

 

「ん?」

パチュリーの様子に誰か来たのかと、立ち上がりかけた俺も振り返り、固まった。

振り返った先には、二人の人影。

一人は小悪魔。

もう一人は、その小悪魔を横に従える、独特な造形の羽を生やした幼女。

口端を釣り上げて、どこか冷酷にさえ感じる笑みを浮かべ俺を見据えながら近づいてくる――

 

「フ…………ランドール様」

「怖がりすぎよ貴方」

背中から多分に呆れを含んだパチュリーの声が飛んでくる。

とはいえ、前回初めて接触した際に「玩具」と称された上に嬲られかけたおかげか、半分条件反射で俺は動けなくなっていた。

 

苦手意識を余裕で通り越して本能的恐怖を植えつけられたのかもしれない。

中途半端に立ち上がった体勢で固まる俺を見て、小悪魔は苦笑し、そしてフランドールは笑みを絶やさない。

 

「一週間ぶりね…………えっと、悠基、だっけ?」

会話ができる距離まで近づいてきたフランは、俺を見上げるように上目遣いで問いかけてくる。

そんな彼女に緊張しつつ、俺は顔を強張らせながら頷いた。

 

「……あの、おはようございます」

「ん。おはよ、悠基」

ひとまずの挨拶で一呼吸おいて、俺はどうにか気を取り直す。

 

なぜフランがここにいるのか。

最初にそんな疑問を抱いた。

 

咲夜から聞いた話なのだが、昼型のレミリアと違いフランは夜型。

というか完全な夜行性で――太陽を嫌う吸血鬼なのだから、この場合おかしいのはレミリアだ――いつもならば既に床についている時間のはずだ。

さらに言えば、彼女はあまり出歩かないタイプらしく、起きていてもあまり外には出ようとはしないらしい。

主な行動範囲は紅魔館内、更に言うなら地下から出てくることも少ない。

故に、基本的にフランが寝ている時間に働いている俺が彼女と接触する機会自体も滅多にないどころか、紅魔館に勤め始めて一週間目にしてようやく二度目の邂逅となったわけだ。

 

「め、珍しいですね。こんな時間まで起きてるなんて」

「朝ふかししたいことだってあるでしょ?」

語呂悪いな……。

「はぁ、左様で」

 

それにしても機嫌が良さそうだ。

襲われかけた際の誤解は解いているわけだから、なにかされることはないだろう、と分かっていてもやはり最初のおっかない印象が拭えない。

 

避けるわけじゃないけど、ここはさっさと地下を出よう。

うん、避けてるわけじゃないけど。

……いやこれは普通に避けてるな。

若干の罪悪感を抱えながらも、俺はその場をあとにしようと歩き始める。

「それじゃあ俺はそろそろ」

 

「ゆうきー」

…………ご指名入りましたー。

にっこりと笑顔で俺の名前を呼ぶフランに対して、使用人である俺は逆らうわけにも行かずに足を止める。

 

「いかがされましたかフラン様?」

愛想笑いを浮かべようとして失敗した俺に、フランドールは一歩近づいてきた。

 

「ねえ、貴方がケーキを作ってるんですって?」

「そう、ですね」

一体どんな話を振られるか警戒していた俺は、聞きなれた質問に一瞬拍子抜けし、安堵する。

 

甘味処で勤め始めてから、この手の質問は何度も受けてきた。

それこそ、人妖も種族も問わずであり、その質問の後は決まって同じ要求が飛んでくる。

即ち、「件の洋菓子を用意して欲しい」というものだ。

 

ただまあ、あのレミリアの妹だし、好みが似ると考えれば当然か。

それにしてもケーキの力は偉大だなあ、などとしみじみ思うと、なんだか嬉しくなって口角が上がってしまう。

 

「……なーに急にニヤニヤして」

「いえいえどうぞお気になさらずに。それで、ケーキがどうしたんですか?」

「あ、そうそう。ケーキをねー」

 

ほら、やっぱり。

 

「作りたいの」

「――え?」

なんか思ってたのと違う要求が来た。

 

「作りたいんですか?食べたいではなく?」

「もちろん食べたいのもあるんだけどねー。話を聞いてたら興味が湧いてきたの」

「話というと……」

 

昨日菓子作りを手伝った小悪魔を見る。

なぜか両手でガッツポーズをして誇らしげに俺を見ていた。

よく意図が分からないんだけど。

 

「ねえ?私にも教えて?」

「そうですね、一応理由をお伺いしても?」

いつもならば二つ返事で了承する提案だったが、相手がフランドールとなるとついつい戸惑ってしまう。

そんな俺の心情など露知らず、フランは得意げに笑みを浮かべた。

 

「そりゃあもちろん、お菓子を使ってお姉さまを毒殺するためよ」

……………………あ、うーん。

…………やっぱりそういう…………?

 

「…………えっと」

「ちょっと、突っ込んでよ」

フランがジト目で俺を睨み、その反応でどうやら彼女が冗談を言ったことをようやく俺は察する。

いやいや、冷静に考えれば分かるんだけども。

 

「……どれに?」

後にして思えば完全にポンコツじみた返答をする俺に対し、フランは頬を膨らませた。

「全部!もう、パチュリー。この人間大丈夫なの!?」

「さあ?レミィの趣味は理解できないことがあるから」

 

「パチュリー様、それじゃあ暗に悠基さんを馬鹿にしてるように聞こえますよぉ」

「…………」

あ、今の小悪魔のいらない指摘でなんだかちょっと落ち着いたかも。

 

「フラン様」

「ん」

「さっきの話、承りました」

「……毒は盛らないわよ?」

「そっちじゃないってか本気にしてませんから」

一応は。

 

「そう。それじゃあ」

困惑気味のフランが再び笑みを浮かべた。

 

――あ。

なぜか、本当に唐突に、俺が抱いていたフランに対する警戒心が溶けた。

フランが俺に向けて浮かべる笑み。

それまでどこか含みのある見た目不相応なものとは違い、それは子供らしいあどけないものだった。

全く、こんなことで恐怖心を薄れさせるとは、我ながらちょろいというか節操がないというか、なんとも。

 

「よろしくね悠基」

「ええ、ええ。どうぞよろしくお願いします」

「あ、私も!改めてですがよろしくお願いしますね!」

かくして、俺とフランドール、小悪魔の三人は、それから定期的に菓子作りに興じるようになったわけである。

 

「あ、悠基。そういえば私がケーキを作りたがる理由を知りたがってたわよね」

「そうですね。差し支えなければ」

「別に、大した理由じゃないわよ?単に興味が湧いたから。それだけ」

「充分ですよ」

 

この時の俺はまだ知らない。

小悪魔が材料をひっくり返したりフランが生地を一瞬で炭にしたり小悪魔が砂糖と塩を間違えたりフランが容器を粉々にしたり小悪魔が火加減を間違えたりフランがスポンジケーキをクッキーに変質させたり小悪魔がクリームを盛大に俺にぶちまけたりフランが癇癪を起こしたり小悪魔が材料を結局ひっくり返したりフランがオーブンを故障させたり、などなどなどなど挙げていけばきりがない、様々なトラブルが待ち受けていることを。

 

「あ、これじゃあパチュリー様が仲間外れみたいになっちゃいますね。パチュリー様もご一緒にどうですか?」

「興味ないし余計すぎる気遣いよ、こあ。ああ、それから悠基」

「なんですか?」

「一応言っておくわ。『ご愁傷様』」

「…………?」

 

俺は、まだ、知らない。

 

 




前回からの引き続きで紅魔館地下図書館でのお話です。
更新は相変わらず滞りがちで申し訳ありません。
追記:五十二話じゃなくて五十三話でしたねすいません!

さて、これまではほのぼのっつうかぐだぐだっと後書きを記していましたが、今回からこの空間を利用して(そして五十三話目にして)登場人物紹介的なものでもと。一話につき一人だけ。毎回とはいきませんが。なぜ今更かと問われれば、なんとなく!と無駄に元気に応えるしかできませんが、よろしければよろしくお願いします。
それでは、記念すべき一人目は、もちろんこの方。



名前:フランドール・スカーレット
概要:初登場四十八話。紅魔郷Exボス。『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。
当作における彼女は狂気というよりも猟奇的かもしれない。夜行性。正確には活動時間は夕方六時から明け方七時。日照時間によって変わる。引きこもり体質なのか、活動範囲は紅魔館内に留まり、更に言えば地下から滅多に出てこない。姉のレミリアと同様、主人公の作る菓子は気に入っている模様。反して、主人公に対してはぶっちゃけそれほど興味はない模様。主人公からは一方的に畏れられてはいるが、菓子作りを通してこの関係は改善されるかもしれない。


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五十四話 グリモワール

魔法の森は今日もじっとりと湿った空気が蔓延していた。

俺たちの頭上で枝葉によって構成された天然のサンシートは相変わらずなようで、たとえ昼間であってもこの森は薄暗い。

鬱蒼と茂る木々の根本に群生した極彩色のキノコも、この薄闇の中だと一層不気味だ。

 

僅かに緊張しつつ、俺は周囲を警戒しながら歩みを進める。

キノコの胞子が蔓延しているおかげで少ないとはいえ、この森にだって生息している妖怪はいる。

妙に因縁のある妖怪一ツ目だって、撃退したアリス曰く「トドメは刺していない」らしいので遭遇する可能性だってある。

ただ、今回はそのアリスが案内人として同行してくれているので大丈夫だろう。

 

「ほら、見えてきたわ」

そのアリスが、不意に声を上げるとほぼ同時に俺にもその光景が見えた。

薄暗い森の中で、木々の合間から見えるのは遮られることなく降り注ぐ太陽の光と開けた空間。

そしてそこに広がる光景は、明るい、というよりも賑やか…………いや、うるさいなこの景色!

 

近づくに連れて明らかになる全貌に、俺は半分呆れつつももう半分は彼女らしいと納得していた。

「あれが……」

「ええ」

 

その建物は、ベースは中世風の一軒家であることが辛うじて伺えるが、過剰という言葉すらおこがましい装飾、いや改造は混沌の一言だった。

屋根の上には正体不明の鋼鉄の物体、壁や窓には意味が不明な飾り付けが干され、脇の大木はクリスマスツリーさえ見劣りするのに意図が不明な飾り付け。

傘の直径が大人の人間と同じサイズのキノコも、その景色の騒々しさと混沌っぷりに拍車をかけている。

 

「これはまた……」

「やかましい?」

「そう。まさにそれ」

アリスの表現が思いの他しっくりきて、ついつい苦笑が漏れた。

建物へ更に近付くと、混沌とした物体の中に埋もれるように傾いた立て札と、そこに記された文字が見えた。

 

『霧雨魔法店』

 

「おう、珍しい顔じゃないか」

巨大キノコの影から店主兼家主の少女が顔を覗かせた。

 

いつも通りの黒装束にいつも通りの三角帽子。

霧雨魔理沙はいつも通り元気に、そして快活な笑みを浮かべ俺とアリスの元へ歩み寄ってきた。

 

さて、と。

目的の人物の登場に俺は気を引き締める。

 

「やあ、魔理沙」

魔理沙に対抗するように、俺も意識して自然な様子で軽く手を振った。

努めて、平静を装って。

怪しまれないように……あ、これは駄目だな。

 

「どうした悠基、顔が強張ってるぜ」

異変に気付いたのか、魔理沙が足を止めた。

相変わらず思っていることが顔に出る俺の様子に呆れたのか、事情を知っているアリスが隣でため息をついた。

 

不穏な気配を察しているにも関わらず、魔理沙は不敵な笑みを浮かべるに留まる。

「どうやら、愉快な話じゃなさそうだな」

「まあね」

 

元より自分の演技力に期待もしていなければ、警戒されようがされまいがやることに大差はない。

気を取り直すように咳払いをしつつ、俺は少しでも威厳を出そうと口をへの字に曲げて魔理沙を見据える。

「単刀直入に言う。魔理沙、紅魔館の地下図書館から君が無許可で持ち出した魔導書九十七冊。パチュリー様の命令で取り立てにきた」

 

魔理沙が目を見開いた。

「――へえ?紅魔館で働いてるってのは聞いてはいたが、パチュリーの犬になったってのは初耳だぜ」

「正確にはパチュリー様から依頼されたレミリア様からの命令な。あと犬とか言うな」

 

紅魔館地下図書館には、そのパチュリーによって集められた膨大な蔵書が収められている。

図書館という名の通り、パチュリーの許可さえ貰えれば本を借りること自体はなんの障害もない。

にも関わらず、目の前の少女はあろうことか天下の紅魔館に正面から押し入り、強盗が如く地下図書館の本を盗み去っていくのだ。

しかも常習犯。

いろいろと規格外にもほどがある。

 

「アリスは悠基の手助けってわけか?」

俺からアリスへ視線を移しながら魔理沙が問いかける。

警戒すべきは俺よりもアリスと判断しているであろう様子に、対してアリスは肩を竦めた。

 

「私が頼まれたのはここまでの道案内だけ。それよりも百冊近くって、貴女どれだけあそこに通いつめてるのよ」

「いやあ、パチュリーが仕掛けた私用のトラップが張り巡らされてさ。それがなかなか攻略しがいがあるもんで、ついつい面白くてな」

「自分のやったことが逆効果だったなんて、パチュリーも浮かばれないわね……」

「パチュリー様死んでないから」

やれやれとばかりに首を振るアリスに俺は半眼になり、魔理沙に対してもその視線を向ける。

 

「面白いって理由で盗みをされたんじゃあたまったもんじゃないよ」

「待て待て悠基。盗んだってのは語弊があるぜ。正確には借りただけだ。一生な」

「はぁ……」

頭痛くなってきた。

 

「そもそもな、私が本を返すのを拒否したらどうするつもりだったんだ?」

「……一応策は考えてるよ」

「ほぉ?強攻策か?」

魔理沙の瞳が輝く。

 

「ちょうど退屈してたんだ。歓迎するぜ」

「違う。あらごと(そういう方向)に持っていこうとするな」

それから期待するような目を向けるな。

 

「…………」

策についてはアリスにも話していない。

そのせいか、隣からは興味深げな視線を感じる。

……説明していないのは、わざわざ口に出したい内容ではないからだけど。

 

「で、どうするんだ?」

と、ニヤニヤ笑いで魔理沙が問いかけてくるのに対して、俺は大きく大きくため息をついた。

 

「通う」

「は?」

「今日から毎日ここに通う。雨だろうが雪だろうが、留守だろうが居留守使われようが、毎日毎日毎日毎日ネチネチネチネチ、君が持って行った本を回収するまでずっとずっとずぅっと通い続ける」

 

「お前、それ」

ドン引きした様子で魔理沙が顔を青くした。

「ストーカーね。客観的に言って」

「端的な表現どうも、アリス」

「…………」

 

……どうすんだよこの空気。

と言っても、こうなることを予想しつつ言ったわけだけども。

 

大した能力もない俺が魔理沙にできることなんてたかが知れている。

我ながらちょっとそれはどうなんだという疑問は拭えないが、相手は泥棒だし、だったら俺だって手段は選ばない。

それに、異変を解決する実績のある実力者とはいえ大人の男にとなれば、さしもの魔理沙だって少なからずプレッシャーは感じるだろうし、姑息な手だが有効なはず……!

 

…………あ。

そういえば以前レミリアが全力の殺気を放っても魔理沙は全然怯まなかった言ってたような…………?

 

色々なものを犠牲にした作戦の破綻に今更ながら気付いたとき、魔理沙が小さく手を上げた。

「分かった分かった。悠基のその覚悟に敬意を示すとしよう。借りてた本は返すぜ」

「え?マジで?」

あ、なんか上手くいったっぽい。

なぜか哀れみの視線が突き刺さるけど!

 

「しかしだな、九十六冊だろ?お前一人で全部持っていけるのか?」

「九十七冊な。まあそこらへんは問題ない。パチュリー様から魔道具を借りてきた」

 

念には念を入れてきっちり数字を訂正しつつ、俺は懐から紋様の描かれた麻の袋を取り出す。

取り出した袋の性質が子供時代に毎週見ていた国民的アニメの秘密道具まんますぎて、脳内で「タッタラタッタッタータッター」というなんとも懐かしい効果音が勝手に流れてくる。

 

「んあ?立った?何かの呪文か?」

口に出してた。

 

若干の恥ずかしさを感じながら、俺は片手で持ったその魔法道具をぶらぶらと魔理沙の目の前で振る。

「……気にすんな。これは袋の中を別空間に繋いでいるらしくてな、見た目よりもたくさん収納することが出来る、まあ容量が半端ない持ち運べる倉庫みたいなものらしい」

「ほぉ」

興味深げな声を魔理沙が漏らすと同時、手の中の荒い麻の感触が消失していた。

驚いて目を見開いた俺の目前で、魔理沙がひったくった袋を手に興味深げに観察を始めていた。

 

「ほうほうこれは……空間魔法の応用か?」

「……魔理沙。手癖が悪いのは感心しない」

「隙だらけだったから、ついな」

「というか隙しかないのよね悠基は」

「…………」

隣で見ていた第三者のアリスにまで突っ込まれた俺は気まずくなって閉口する。

 

「ま、きっちり本は返すぜ。代わりにこの袋を少しの間だけ貸してもらうがな?」

「はあ?何勝手なこと――」

「ほんとに少しだ、ちょっと構造を調べるだけ。それが済んだらこれもお前に返す。大人しくな。これでいいだろ?」

 

「…………」

一方的とも取れる交渉内容に若干の不満を感じた俺だが、その肩をアリスが叩いて制止した。

「いいんじゃないの?この条件を呑めば待ってるだけで目的を遂行できるわけでしょ?これ以上話すとこじれるかもしれないし」

「……それもそうか」

 

「お?いいんだな?」

嬉しげに目を輝かせる魔理沙に、俺は不承不承に嘆息しつつも、釘を刺しておく。

「絶対壊したり汚したりするなよ。それ借り物なんだから」

「おう!任せとけ!」

言うやいなや、踵を返し自宅に駆け込んでいく魔理沙。

 

その背に俺は声を上げる。

「絶対だぞ絶対!……大丈夫かな」

「心配しても仕方ないんじゃないの。それにあの子、魔法については妙に勘が働くし、その辺の調節は大丈夫でしょ」

不安と安心を同時に募らせるようなアリスの言い回しに俺は半眼になった。

 

「調節って……まあ、分かった。アリスの言うことだし信じることにするよ」

「それはどうも」

「さてと、俺はこのまま待ってるつもりだけど、アリスはどうする?」

「私が帰ったとして、取り立てた蔵書を貴方一人で無事に紅魔館まで持って帰れるの?」

 

ふむ。

「…………アリス」

「森の入り口までだったら付き合うわよ。パチュリーに小言を言われかねないし」

 

「さっすがアリスさんやっさしぃー……」

「…………」

「……助かります」

「はいはい。それじゃあ待ってる間、魔法の練習でもして時間でも潰しましょうか」

 

 

 

* * *

 

 

 

空を自由に飛びたいなー♪

 

そんなフレーズが今になって浮かぶのは、おそらくパチュリーから借りた四次元袋なんて命名できそうな魔法道具の影響だろう。

ライト兄弟が人類初の有人飛行を成し遂げてから百年たったとはいえ、誰もが単独でお手軽に空を飛べるなんてのはもう何十年か、あるいは何年か、とはいえまだ先の話だ。

だが、この幻想郷においてそれは存外難しいことではないのかもしれない。

 

なにしろ、

 

「そう、その調子」

正面に立つアリスの声がどこか遠くに感じられた。

 

集中しているようで、半分は無意識に。

矛盾した状態に奇妙な感覚を抱きながらも、目を閉じて視界を遮断した俺はそのまま自分の体を体内を流れる魔力に預けるように脱力した。

水中にいる自分をイメージしつつ、ゆっくり、焦らず、慎重に、しかし自然に、力ではなく魔力を体中に行き渡らせている途中で、今まで当たり前に感じてきたものが薄れていった。

 

それは重力であり、それが薄れるということは即ち。

「――あ」

 

軽い。

そんな感想を抱くと同時に、俺の足は地面を離れていた。

 

息を呑みながら目を開くと、腕を組んだアリスが満足気に頷いてみせた。

「成功ね」

 

その言葉の意味するところは、飛行魔法。

つまり、つまりだ。

俺は、まさに俺は、間違いなく俺は、自力で空を飛んでいた。

 

「や、やった」

思わず歓声が溢れる。

飛んでいるというよりも、浮き上がっているという表現が相応しいのだろうけど、ともかく俺は飛んでいるのだ。

幻想郷では空を飛ぶなんてのは珍しいことじゃないとはいえ、自分がそれを体現するというのは感じ方が変わってくるものだ。

 

「やった!やったよ!アリス!」

「ええ、おめでとう」

「ああ!ありがとう!うわあ、飛んでる!飛んでるよ」

まるでこれまで感じていた重力が鎖だったかのように、予想外の開放感と感動が駆け巡る。

我ながら子供のようにはしゃぎながら、高度は少しずつ上っていく。

興奮し高揚する心をそのまま表しているかのようだ。

そのせいなのか。

 

「うわあ俺飛んで、とん――と、とまっ、止まらないんだけど!?」

どんどん高度を上げていく。

「待って、これどうやって止め――」

俺の意思に関わらず。

「うわ高い高い高い怖い!」

っていうか洒落にならない!

 

慌てる俺の視界は既に、魔理沙の家の屋根を通り過ぎ、周辺の魔法の森の木々をも追い越していた。

既に感動は恐怖へと移り変わり、飛行魔法を制御しようとするも焦っているためかうまくいかない、どころかどんどん高度が上がっていく。

 

このままでは成層圏まで到達してしまうのではないかと、そら恐ろしい想像が一瞬沸き起こった時、二つの小さな人影どこからともなく俺の両脇に現れた。

「っ、蓬莱!上海!」

見慣れた小人の姿は、アリスの操る人形、上海人形と蓬莱人形の二人である。

 

小さな両手で服を掴み、浮き上がろうとする俺の体を引っ張り下ろしてくれる二人。

見た目の割には力のある二人のおかげで、俺の体は上昇から転じて地上へと向かいつつあった。

ほっと胸をなでおろす俺の両脇で、やけに一生懸命な仕草で俺を地上へ引き寄せる人形たち。

 

愛らしい見た目だというのに妙に心強い彼女たちの姿に、小さなその背中に天使ような羽と輪っかを幻視した。

やっべちょっと感動して泣きそう。

 

「あ、ありがとな~お前ら」

普通に話せる程度の高さまで下ろしてもらった俺に、アリスは呆れ気味の視線を向けてくる。

「泣いてたの?」

ち、違うしちょっと涙目になってただけだし!

 

「まだまだ魔力の制御が下手ね。このあたりは要練習かしら」

歯に衣着せぬ物言いだが実際その通りなので特に言い返すこともない。

「そうだね。あの、ところでさ、この魔法ってどうやって解くの?」

 

アリスの言うとおり魔法が上手く制御できていないせいか、俺の体には未だに浮力が働いており、人形たちが手を離せば再び浮き上がってしまう状態だ。

現に今もつま先が地面から数センチ離れたままである。

若干気まずい思いでアリスを見ると、彼女はため息をついた。

「……手を貸すわ」

 

と、アリスが俺に向けて手を伸ばそうとした瞬間。

突然の爆音が間近で響いた。

 

「はぇ!?」

空気を揺らすほどではないものの余りにも突然のことだった。

驚きで肩が跳ねると同時、制御が乱れたせいか浮力が掻き消える。

唐突に重力に引っ張られた俺は、僅かな落下距離だというのに危うく転びそうになった。

 

「あら、解けたみたいね。魔法」

なんとか転ぶこともなく着地に成功した俺を横目に見ながらアリスが言った。

「いや、解けたって言うか――」

それよりもさっきの爆発はなんなのか。

アリスの言葉に曖昧に反応しながらも、俺は爆発音がした方向、アリスが顔を向けた先、即ち、魔理沙の家を見る。

 

「今の、お、と……」

建物の窓から、屋内で発生したと思われる尋常ではない量の黒煙がもくもくと上がっていた。

先程の爆発音が、そこから発生したのは一目瞭然であり、即ちそれは、中にいるはずの少女の――、

 

「ま、魔理沙ーー!!」

「うお、けほっ、けほっ」

俺が叫び声を上げるのと、家の扉が勢い良く開かれ、煙とともに咳き込みながら件の少女が飛び出してくるのは同時だった。

 

「ふいー……ひどい目にあったぜ」

煙が染みたのか、涙を滲ませながら顔を煤で汚した魔理沙が俺たちの元へと歩み寄ってくる。

怪我した様子もなく元気そうな彼女の姿に、俺は安堵の息を漏らした。

「ま、魔理沙ぁ……」

 

「何やってるのよ貴女」

「いやあ、ついつい興が乗ってな」

ジト目のアリスに対して魔理沙は満面の笑みで応える。

「さすがパチュリー、耐久テストは申し分ないな」

 

耐久テスト…………?

魔理沙の言葉の意味が分からず、俺は眉を顰める。

「ま、魔理沙……?」

 

そんな俺にはにかむように、魔理沙は笑みを向ける。

どこか、気まずそうに。

「そんなに名前を呼ぶもんじゃないぜ悠基。ほれ、約束通り、これは返す」

と、彼女が俺へと差し出したのは、真っ黒な麻と思わしき袋。

 

それは――そこに記されていたであろう紋様も焼け焦げてしまったせいで判別こそつかないものの、魔理沙の言葉から察するに、間違いなく、魔理沙に貸す時に「壊したり汚したりしないように」と釘を刺したはずの――パチュリーから借り受けた魔道具の見るも無残な姿だった。

同時に俺は、魔理沙の口にした「耐久テスト」の意味を大まかに理解した。

 

「ま――まぁりぃさぁーっ!!」

 

「どうどう悠基、心配せずとも壊れちゃいないぜ。見た目はこうだがな」

「そういう問題じゃない!!」

「まあまあ悠基、おまけして私作の魔導書も返すからさ」

「そういう問題でもねえ!!」

 

青筋を浮かべて声を上げる俺に対して飄々とした様子で言葉を返す魔理沙。

そんな俺達の様子を傍目で見ていたアリスがまたも呆れたようにため息をつくのだった。

 

 

* * *

 

 

 

さて、魔理沙の言った通りパチュリーから借りた魔道具も機能面での問題はなかった。

魔理沙は約束を違えることなく図書館の魔導書を全て俺に渡し、「ま、想定内よ」と、黒焦げになった魔道具を見たパチュリーの反応はそれだけで、特にお咎めなくなんとか俺はパチュリーから依頼された魔導書の回収を無事終えることができた。

 

それにしても、と執事の仕事を終えた俺は、紅魔館に割り当てられた自室にて魔理沙自作の魔導書を開く。

パチュリーからは「いらないわ」とすげなく断られ、結局俺が預かることになったものだ。

「幻想郷弾幕全集」と、その本の中途半端なページの端に綴られた、メモとも落書きともとれる一文。

その表現があまりにも的確で、思わず苦笑する。

 

そこに記されたのは魔理沙がこれまでに見てきた様々な人妖たちが放つ弾幕の記録、というよりもメモのような物だ。

魔理沙は魔導書だと言ってはいたが、文面からは特に魔法と関連付けるような気配が見当たらない。

おそらくだが、魔理沙自身も魔導書として役に立つとはあまり思っていなさそうだ。

とはいえ、弾幕ごっこ自体に憧れや関心のある俺としては、まあ、良い読み物だと思う。

 

 




主人公は飛行魔法(仮)を覚えました。
主人公はグリモワールオブマリサ(仮)を入手しました。
そのうち弾幕ごっこでも始めるかもですね。ほのぼのと。


それでは、今回の登場人物紹介です。

名前:アリス・マーガトロイド
概要:初登場三話。妖々夢三面ボス、他。『主に魔法を扱う程度の能力』など。
当作における彼女は無表情キャラ属性が半端に付与された比較的露骨なお人好しである。彼女の操る人形は稀に彼女の意図しない行動を起こすことがある。冗談半分に半自動と称するその現象は彼女の研究対象であり、主人公もそれに協力している。主人公とはお互いに良き友人であり魔法の師弟という間柄だが、主人公からは命を助けて貰った恩や、師匠ということもあり、アリスに対して頭が上がらないようである。



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五十五話 迷いはなくて躊躇は少し

「ん?」

「おや」

寺子屋で用事を済ませ、持て余した時間をどうやって潰そうか考えながら人里を歩いていると、不意に珍しい顔に出会った。

 

「やあ、妖夢じゃないか」

「悠基さん、ご無沙汰しております」

気さくに話しかける俺に対し、礼儀正しく腰を折る少女。

小柄な体格には不釣り合いな二刀を差した魂魄妖夢は、艶やかな白髪を揺らしながら頭を上げた。

そんな彼女の背と手には食材のぎっしり詰まった風呂敷包みと買い物籠。

 

「買い物帰りかい?」

見れば分かるようなこと問いかけると、妖夢はこくりと頷いた。

「はい。悠基さんは?」

「俺はまあ、暇してたとこかな」

「? 確か、悠基さんは今紅魔館にお住みなんですよね。人里にご用事でもあったのでは?」

 

「人里というよりは、永遠亭に用事」

「永遠亭ですか?」

だったらなぜ人里で時間を潰しているのかと、そんな疑念を感じさせる視線が飛んできた。

 

「あそこは迷いの竹林の中に建ってるからね。妹紅に案内してもらうつもりだったんだけど、あいつは自警団の会合で人里にいるんだ。さっき慧音さんに挨拶ついでに話を聞いた感じだと、会合はまだまだ長引くらしいから、終わるまでどうやって時間を潰そうか考えてたところ」

 

とまあ、そんな事情を話すと妖夢から予期せぬ提案がきた。

「もし良ければ、私が送りましょうか?」

「え?永遠亭まで?」

「はい」

「どうやって?」

「飛んでいけば迷いはしませんし、悠基さんお一人くらいなら運んでいけますので」

 

「お、おう……」

どうやら、この子も藍や咲夜のような大の男を抱えて飛べる系女子のようだ。

いきなり俺を抱えあげようとしない辺りちょっと安心感がある。

 

「せっかくだけど、遠慮するよ。妹紅を待ってればいいだけだし」

「そうですか」

「まあ、せっかくだし、妖夢は今帰りなんだろ?途中まで送るよ」

 

「いえ、そんな……いや、それではお願いします」

一瞬遠慮するような気配を匂わせながら、結局妖夢は再び頭を下げる。

微妙な反応に俺は内心首を傾げつつも、「お願いします」と仰々しくはあるが受け入れられたので短く相槌を打って彼女の隣に並ぶことにした。

 

おっと、その前に。

「ほれ、妖夢」

と、俺は妖夢の目の前に片手を差し出す。

 

意味が分からないのか、妖夢は不思議そうに俺が差し出した手を見ると、その視線を俺の顔に向ける。

「えっと……」

「荷物、片方持つよ」

「いえ。そんな、お気になさらないで下さい」

俺の提案にぶんぶんと首を振って断る妖夢。

見ようによっては拒否されているようにも――いや、実際拒否されてるわけだけど――光景だが、俺はキザっっったらしく肩を竦めて微笑んで見せる。

 

「大荷物の女の子の隣で手ぶらでいて平気なほど、俺は無神経じゃないんだよ」

あ、これ思ったよりも恥ずかしいわ。

 

「――それに、回りの人にもそういう風に思われたくないってだけ。だからほら、持たせてくれ」

「…………分かりました。お願いします」

俺の言葉に神妙な面持ちになりながら、結局妖夢は再三頭を下げて手に持った荷物を俺に差し出した。

見た目通り生真面目なのか、ある意味で気の使い甲斐がある子である。

 

「…………」

……もしくは、何らかの理由で俺のことを嫌っているが、初対面で刀を向けたことを気にしており強くは拒否できない、とか。

ふと湧いて出た後ろ向きな想像に苦い顔になる。

もしその通りなら妖夢の反応にも納得できてしまうあたり悲しすぎる。

 

「…………悠基さん?」

歩き始めた途端に黙り込んだ俺を不思議に思ったのか、妖夢が俺を見上げてきた。

「その、迷惑だったら言ってもいいからな」

十秒前に格好つけたくせに一転してこの体たらくである。

 

だが、妖夢は不思議そうに目を丸くしつつ、何かを考えるように「いえ……」と口を開いた。

「その、初めてお会いしたときは、無礼を働いた上にこちらからの一方的なお願いを聞いていただきましたから」

「俺の頼みは断れない?」

 

「そういうわけではなくてですね。ただでさえ御恩があるというのに、これ以上お世話になるのは気が引けるというか……」

おー予想以上に真面目な回答。

しかも『御恩』ときた。

 

「んな大袈裟な。別に気に病まなくていいって。むしろ俺からすれば、日頃からのご愛好いただきありがとうございますって感じだし」

俺が勤めている甘味処でケーキを作っていた折は、同僚とも言える甘味処の一人娘、千代さんから、妖夢がしばしば訪れていた話は聞いている。

つまるところ大事な常連さんでもあるわけだ。

 

「そんな……」

「っていうか、ご愛好いただいているのに品を用意できなくてすいませんって感じだし……」

「そ、そんなことは……」

休職中であることを自虐的に苦笑してみせると、困ったように妖夢は口籠る。

 

からかうのもこの辺にしとこうか、と俺がフォローを入れようとした瞬間、意を決したように妖夢が先に口を開いた。

「悠基さん。その、未熟な私では力不足だとは思いますが、出来ることならなんでも言って下さいっ」

 

「ああ。気持ちだけ頂いておくよ」

「お気持ちだけではなくてですね」

隣を歩く妖夢は、内心を打ち明けたことがきっかけとなったのか、ずいずいと迫るように俺に近付く。

 

「どうぞなんなりと申し付けて下さい。出来ることならなんでもしますから」

「……あの、そういうことはあんまり言わないようにな?」

特に、『真っ昼間の往来の中』、『大声』で、妖夢みたいな『いたいけな少女』が、俺みたいな『男に向かって』、『ハタから見れば誤解されるようなこと』を、という注釈が付く。

やっぱり極端だよな……と、尚もどこか不満げな妖夢の視線を感じていると、ふと見慣れた建物が目についた。

 

「あ、じゃあさ、ちょっと付き合ってよ」

と、俺が妖夢を見つつ指差した先は、絶賛休職中の甘味処である。

 

 

 

* * *

 

 

 

紅魔館で試作した洋菓子を、俺は度々この甘味処に持ち寄っている。

来る職場復帰に向けて、甘味処の主人である玄さんから意見をもらうためだ。

 

「いらっしゃい。あら、悠基さんじゃない」

「こんにちは、千代さん」

「あれー?来るって言ってたっけ?」

俺が試作菓子を持ち寄る日はだいたい決まっている。

千代さんが疑問にしているのは、今日がその日に該当しないからだ。

 

「今日は客として、ですよ」

「ふーん……と、こっちは妖夢ちゃんじゃない。珍しい組み合わせね」

「どうも、店員さん」

やけに親しみのこもったちゃん付けにも、妖夢は畏まるように頭を下げて応じた。

 

そんな俺たちに向ける千代さんの目が弓なりに細められる。

「ははーん、さては逢引ねー?」

「いえそんな、滅相もございません」

 

「またまたぁ」

「……俺はみたらし三つで」

「あ、それでは、私は串を二つ」

「温かいお茶もお願いしますね」

「かしこまりました~……むぅ、ちょっとはノッてもいいじゃない」

 

ノリの悪い反応に不満げに唇を尖らせる千代さんを横目に、ちらほらとお客さんがいる中、俺たちは店の入り口に近い適当な席に向かい合う。

「あ、そうそう悠基さん」

注文を通す前にと、千代さんが思い出したように厨房に向かいかけた足を止めた。

 

「この前慧音様がいらしてたわよ」

「慧音さんが?」

「ええ。貴方が何か言ってなかったかーって」

 

…………?

「えっと、どういうことです?」

「ほら、だって悠基さんって思ったことが顔に出るじゃない?」

「はあ、そうですね」

「だからバレバレなのよね。湖の館でのお勤めが大変なくせに、心配かけないようにって隠そうとしてること」

 

唐突に図星を突かれた俺は思わず閉口する。

そんな俺の反応を見ながら、千代さんは目を細めた。

「ダメよ、悠基さん。そういうのって慧音様には却って気苦労になっちゃうんだから。辛いなら辛いって正直に言うこと!相談大事!分かった?」

「……すいません」

「謝るなら慧音様に!」

「……そうですね」

 

「全くも~世話が焼けるんだから」と、腕を組んでわざとらしく怒る仕草をしながら千代さんは厨房へと消えていく。

半ば茶化すような言い方はしているものの、それは空気が重くならないようにという彼女なりの配慮。

内容そのものは真剣味を帯びていた。

「ありがとうございます」

その背中に向けた謝礼の呟きを聞いていたのは、俺の正面で今まで黙って話を聞いていた妖夢だけだろう。

 

「紅魔館でのお仕事は大変ですか?」

「いや、うん……まあね」

一瞬条件反射で曖昧な否定を口に仕掛けながらも、俺は正直に応えることにした。

 

「でも、仕事が辛いってことはないよ。これまで咲夜がこなしてた仕事の一部を請け負ってるだけだ。むしろ、大変なのはレミリア様に血を渡していることの方かな」

自分の首元に半ば無意識に手を当てる。

レミリアが吸血の折に牙を立てる辺りだが、分身を使用した噛まれていない方(今の俺)にはその傷はない。

 

「血、ですか?確かにあの館には吸血鬼の姉妹がいますが、必要な血液は定期的に供給されていると聞いています」

「うん知ってる。でも、『新鮮な血』がいいんだとさ」

「それは……」

 

眉根に皺を寄せ、ともすれば睨むような目つきになる妖夢。

「そんな怖い顔しない。合意の上だし、一応気は使ってもらってるから、大変とは言ったけど無茶は――」

「……そういえば、悠基さんは永遠亭に向かうつもりでしたよね」

「――あー」

鋭い。

この子、永遠亭に行くという俺の発言とレミリアへの血の提供の関係性に気付きやがった。

 

「…………」

「なるほど」

答えあぐねて無言になる俺に、妖夢は納得したように頷いた。

「店員さんがおっしゃっていた通り、貴方は隠し事が出来ないらしい」

 

表情筋を強張らせる俺を妖夢は微笑し見据え、それからすぐに真剣な顔に戻った。

「永遠亭に行くのは、悠基さんが無理をしてでも紅魔館で仕事を続けるためですね」

「……はい」

 

どうにも、俺の使うこの分身能力について、まだ俺自身が知らない性質があるらしい。

貧血と同様の症状が見られる俺に、どういうつもりか原因の張本人であるレミリアは永遠亭への増血剤の買い出しを命令してきた。

……どういうつもりも何も、長期的に見て新鮮な血を提供する人間を確保しておきたいと見るのが自然なわけだけども。

 

「どうして隠そうとしたんですか」

「人里ではいろいろな人に世話になったから、出来れば心配かけたくはなかったんだ。それに、まあ、危ない橋を渡ってるように見える自覚はある。確実に止められるだろうから、言えないよ」

 

とはいえ、今の妖夢然り、さっきの千代さん然り、俺には隠し事が絶望的に向いていないらしい。

今更である。

それ以上に逆効果だということも身を以て分からされたわけだし、ここ腹を割るべきところなのだろう。

 

「そんなことまでして、どうして紅魔館で働くのですか?」

「そんなことまでするだけの報酬があると踏んだから」

俺の答えに怪訝な顔をする妖夢。

「一体何を?」と、『報酬』について問いかけようとする彼女に、俺はどこから説明しようかを考えながら口を開いた。

 

「……俺ってさ、なんていうか、この世界の人間じゃないんだ」

「? 聞き及んでいます。違う歴史の世界から来られたと」

「へえ?」

 

誰から聞いたのだろう。

咲夜だろうか。

と、共通の友人の顔を浮かべながら俺は頷いた。

 

「そっか。そんで俺は、元の世界に帰りたいんだ。どうやって帰るかさっぱり分からないんだけどね」

「悠基さんは、どうやってこの世界に来たのですか?」

「分からない。どうやったのか、何が起きたのか、全く検討が付かないんだけど、気付いたら俺は幻想郷に迷い込んでた。だから俺は、どうすれば元の世界に帰れるのか方法を探してて、それで最近、一つだけ手がかりに思い至ったんだ」

 

「手がかり、ですか?」

「うん。俺の『分身する程度の能力』って、幻想郷に迷い込んだ直後に使えるようになったんだ。それまではこんな能力を持ってるなんて俺自身全く知らなかったのに、だ。そう考えると、この能力とこの世界に来たことって、何か因果関係があるようには思えないか?」

 

「……それは――」

何かを言い淀む様子の妖夢に、俺は努めて笑みを浮かべて見せた。

「うん、分かってる。これは完全な憶測だから、無関係かもしれない。でも、アテがあるとすれば、今はこれくらいしか思いつかないからなあ」

「…………」

 

何かを考え込むように、妖夢は僅かに俯いた。

そんな彼女を見ながら、不意に、注文した団子が未だに来ないことに俺は気付く。

不思議に思い厨房をちらりと見ると、こちらを覗き見るように入り口から顔を出した千代さんとばっちり目があった。

 

慌てたように顔を引っ込める千代さんに、俺は思わず苦笑する。

空気を読んで話が終わるのを待っているということだろうか。

だとしたら、さっさと終わらせないと、いつまでたっても団子にありつけない。

そんな思いに至った俺は話を再開することにした。

 

「レミリア様は俺の能力についてある程度知ってる節がある。俺がさっき言ってた『報酬』は俺の能力についての情報。つまるところ、俺は元の世界に帰る手がかりを求めて、結果的には紅魔館での仕事を続けてるわけ」

 

補足するならば、最近は元の世界への想いが強くなってきたのもあって、多少の無茶は承知の上で俺はレミリアの話を受けることにした。

ただ、もしも帰ることができるというのなら、色々な人への恩とか、職場への復帰とか、そういう話を反故にしてしまうことになるかもしれなくて、その点に関しては非常に後ろめたいことではあるのだけど。

 

「……悠基さん、立ち入ったことをお伺いして申し訳ありません」

「いんや。気にするようなことじゃないよ」

軽い調子で応える俺に対し、何か思うところがあるのか妖夢は真剣な眼差しを俺に向けてきた。

 

「ただ、一つだけ、覚えておいていただきたい」

「……?」

「もし私にお手伝いできることがあれば、いつでも相談して下さい。私は貴方の助けになりたい」

 

「んな大袈裟な…………」

そんな妖夢の申し出をやんわりと断ろうとし、思わず笑みがこぼれていた。

どこまでも真摯に、そして真剣な顔で俺を見る妖夢。

やや幼い容姿のせいか、どこか微笑ましさを感じると同時、彼女の優しさになにか温かいものを感じて俺は胸に手を添えた。

 

「……それじゃあ、うん。何か困ったことがあったら、頼らせてもらうよ」

「ええ。お待ちしております」

俺の答えに満足したのか、妖夢は微笑みながら頷いた。

 

 

 

* * *

 

 

 

「ん?」

「おや」

「え?」

 

甘味処から出た俺と妖夢だが、妖夢を送って人里の出口近くまで歩いたところで、これまた別の知り合いに遭遇した。

配置薬の仕事帰りだったのだろう、同じく里の外へ向かっていた様子の葛籠を背負った鈴仙は、俺と妖夢を困惑した様子で交互に見た。

 

「やあ。鈴仙」

「こんにちは、鈴仙」

軽く手を振る俺の隣で、これまた礼儀正しく妖夢が頭を下げた。

どうやら妖夢も鈴仙とは知り合いだったようだ。

 

同じ方向に向かっていた俺達は自然と三人並ぶ形になって歩く。

 

「ど、どうも」

なぜかたじろぎながらも、歩みを止めること無く鈴仙も会釈を返した。

軽く頭を下げた彼女だが、困惑した面持ちは変わらない。

不思議なものでも見るかのような彼女の様子に内心首を傾げる俺の隣で、妖夢が口を開いた。

 

「鈴仙」

「……なによ?」

「誤解されると悠基さんに失礼ですので先に申し上げますが」

誤解?

「逢引ではありませんので」

 

「「え」」

 

唐突な発言に思考が硬直する。

鈴仙はと言えば、困惑した顔が見る見る間に赤くなっていく。

 

「そ、そうなの?」

鈴仙が俺へと視線を泳がせた。

明らかに動揺しているのがまた彼女らしい。

「逢引ではないです……妖夢、そういうことを自分から言うと逆に誤解されることもあるからな?」

「そうなのですか?」

 

眉を顰めて妖夢が振り向き、俺はため息を漏らした。

俺に失礼という前置きをするところは気が利いているのに。

 

「さて、そろそろだね」

ここから先は里の外だ。

人通りは随分と減っている。

足を止めた俺の隣で、妖夢もまた足を止めて頷いた。

 

「はい。荷物、ありがとうございました」

「いえいえ」

ずっしりとした重みを感じる買い物籠を妖夢に手渡す。

何度見ても、彼女の体躯には不釣り合いな量だが、妖夢は特に重そうな素振りも見せずにその籠を片手にかけた。

 

「悠基さん、どうかご無理をなさらないでください」

「うん。ほどほどに善処する」

気遣い甲斐のない俺の言葉に、しかし妖夢は特に表情を変えること無く頷いた。

「それでは、私はこれで。鈴仙も」

「え、ええ」

俺たちと同じく足を止めていた鈴仙が頷いた。

 

最後に、妖夢はぺこりと頭を下げると、踵を返して去っていく。

振り向くことのない彼女の、風呂敷包みを背負った背中が、なぜかその時は大きく見えた。

 

「妖夢と知り合いだったのね」

ふと、隣でなんとなしに俺と一緒になって妖夢と見送っていた鈴仙が口を開いた。

「そっちこそ。どこで知り合ったの?」

 

鈴仙は配置薬の仕事、妖夢は買い出しで人里に訪れている。

おそらくその関係だろうと当たりを立てていると、全く違う回答が帰ってきた。

 

「永遠亭にあの娘たちが押しかけてきたのよ」

「たち?」

「ええ。妖夢と主人の西行寺幽々子よ。全く、あの時は大変だったわ」

「ふーん……ん?」

 

なんか比較的最近聞いたことのある名前が出てきたぞ……。

「えっと、妖夢の主人の、なんだって?」

「西行寺幽々子」

「さいぎょーじゆゆこ」

 

思い出すのは、桜の下で一緒に花見をした不思議な少女の姿。

それでもって、彼女のゴリ押しに負けて飲んだ酒で酔いつぶれ、目を覚ました時の膝枕の…………いや、そんなまさか。

 

きっと、俺が出会った少女も、あれだ、名前を肖っているんだろう。

永遠亭の輝夜とか、ユカリとか、それと同じように。

うん、きっと。

 

「悠基?」

思考に耽る俺に、鈴仙が訝しげな顔をする。

「なんで急に顔を赤くしてるの?」

 

「べ、別に……」

「…………?」

なぜか嫌な予感が拭えない。

そんな胸中を隠すように、俺は顔を逸して誤魔化した。

 

 




本文終盤、“名前を肖っているんだろう。”については、主人公の思い込みです(断言)。
主人公は妖夢とどうやって連絡を取るのか、についてですが、甘味処が仲介になるとか、そういう感じで補完しておいてください。
次回は永遠亭編です。ほのぼの?




名前:魂魄妖夢
概要:初登場三十ニ話。妖々夢五面ボス、他。『剣術を扱う程度の能力』。
当作における彼女はちょっとクールで過剰に真面目な天然暴走特急少女である。基本的には敬語を使い敬称をつける彼女だが、ある程度近しい相手に対しては敬称を省略しているらしい。主人の幽々子に対する忠義心は人一倍。振り回されがちではあるが慕っている模様。主人公との友人関係は比較的良好だが、初めて出会った際の勘違いからきた失礼を、妖夢はかなり気にしている模様。


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五十六話 薬を求めて

一応前回からの続きとなっております。


しばらく前に飛行魔法を習得した俺だが、果たしてそれを『飛行』魔法と呼んでも良いのかといえば、自分自身でもついつい首を傾げてしまう。

なにしろ、飛行魔法というよりも正しくは浮くだけの浮遊魔法。

しかも、重力に逆らって浮き上がり続けるだけで、一定の高度に留まり続けることも高度を下げるように浮力を抑えることもできず、一応は前後左右に移動はできるが子供の足よりも遅くで、つまるところコントロールがほとんど出来ていないのである。

 

辛うじて魔法を解くことは出来るが、一度解いてしまうと魔力の練り直しに時間がかかって再び魔法を使うにも時間がかかる。

つまり、屋外でこの魔法を使用した日には、初めて魔法を行使した時と同じようなことになってしまうので早々使えないのだ。

 

とはいえ、この魔法を未熟なりにも一応は習得したことで、ありがたいことが一つだけある。

 

目的地である永遠亭の敷地に入り高度が下がってきたところで、ようやく俺飛行魔法を解いて地面の上に着地した。

未だに自分の魔法で飛ぶことには慣れず、高度が高くなってくると肝が冷える。

硬い地面の感触を心強く思いながら、俺は深く安堵の息をついた。

 

「ふー……助かったよ」

「別に、なんてことないけど」

俺の言葉を軽く流すのは、浮遊した俺を引っ張ってくれた鈴仙だ。

 

人里で妖夢を見送った俺だが、元々の目的は永遠亭に行くことで、そのために案内を頼みたかった妹紅は自警団の会合中。

会合が終わるのを待っていたところだったが、鈴仙がいるならちょうどいいと、俺は仕事帰りの彼女に頼んで永遠亭まで連れてきてもらったのだ。

 

「貴方、本当に浮くだけなのね」

「そりゃあ最近出来るようになったわけだし?」

鈴仙の正直な言葉に俺は言い訳じみた反論をしてみせる、だが、普通に悔しい。

悔しい、が。

 

「でも、まだだいぶマシだよ」

「マシ?」

 

「ああ」

なにしろ、この魔法を覚えたおかげで、

「お姫様抱っこされなくて済むからねぇ……」

 

「え゛」

どこか遠くを見るような目の俺の発言に明らかにドン引きして後ずさる鈴仙。

目は口程になんとやらで、その視線からは分かりやすいほどに「唐突に何言ってんだコイツ」的なメッセージを感じるが、今の俺にはそこまで気にならない。

「そうそう。普通はそういう反応をするもんだよな」

 

「……一人で勝手に何を納得してるのよ」

「いやあ俺としては『幻想郷では常識には囚われてはいけない』という教訓を持って入るんだけどさ、でもそれにしたって限度があると思うんだよね」

「は、はぁ……?」

「だというのに、ほんっとあの子達は俺の意思とか意見とか完全無視で強制的に横抱きなんだもんちっとは俺の事情考えてほしいよなあ全くアッハッハッハ」

 

想い出すのは屈辱の記憶。

初めては藍によって博麗神社から人里へ。

それから何度かは、咲夜によって人里のど真ん中から紅魔館へ。

 

咲夜に運ばれていく俺を「見た」と口を揃えて証言したのは寺子屋の教え子たちで、その時の俺は本気で穴があったら一日その中で埋まって何も考えずに寝ていたいと現実逃避したこともあった。

そんな羞恥を思い浮かべて乾いた笑いを漏らすと、引き気味だった鈴仙の視線に次第に可哀想な物でも見るような憐憫が込もっていた。

 

「よ、よく分からないけど、元気出しなさいよ」

「俺は元気だよ?」

ホントだよ?

 

「おや、珍しい顔じゃないか。なんとも痛ましい空気を感じるけど」

と、そんな絶妙に空気を読んだ言葉とともに、うさぎ耳の幼女、てゐが俺たちの元へ近付いてきた。

永遠亭に訪れて以来の再開だ。

「やあ。ご無沙汰だね」

「ああ、元気そうで。いやあ、しかし驚いたよ」

 

どこか芝居がかった言い方をしながら、てゐは意味深な視線を鈴仙にむけた。

「……なにがよ?」

訝しげな顔で言葉を返す鈴仙。

 

その隣で二人の様子を見ていた俺だが、てゐの笑みがイタズラをする子供特有のそれに気付いて、彼女の次の言葉に予想がついてしまった。

「ウサギたちが慌てて私に報告したのさ。『鈴仙が男を攫ってきた』ってね」

「――んな!?」

 

攫うて……。

てゐの言葉に目を見開く鈴仙。

見る間に赤くなる鈴仙の顔を眺めながら、そういえば以前永遠亭に来た時もこんなことがあったことを他人事の様に想い出す。

 

「で、私も何事かと見に来たら案の定お前さんじゃないか」

てゐが俺へと視線を移し、鈴仙は予想通りに目を見開いた。

「な、なにが案の定なのよ!!」

 

「まあまあ落ち着いて」

……このままだと話が進まな――鈴仙が可哀想だったのもあって、俺は嘆息混じりに彼女を宥める。

「てゐもほどほどに。ところで、永琳様はいるかな」

 

「お師匠様に?へえ、あんたの好みはそっちか」

「いちいちそういう方向に持ってかないで。お目通り願いたいんだけど」

「ああ、一応確認してくるよ」

「よろしく」

俺の言葉にてゐは頷いて踵を返した。

 

仕事帰りの鈴仙をからかって満足したのか、てゐは楽しげな足取りで歩いていく。

俺が思う限りでは鈴仙とてゐは同じ住処のはずなのだが、あんな同居人がいるのになんで鈴仙は一向にこの手の冗談を真に受けてしまうんだろう。

少し不思議だ。

 

「…………なによ」

未だに顔を紅潮させたままの鈴仙に半眼で睨まれた。

てゐにからかわれたことを根に持っているのか、どこか拗ねた様子だ。

とはいえ、すぐに機嫌を直すだろうと、俺は気にしないことにして鈴仙の問いかけに応えることにした。

 

「いや、別に。そういえば、輝夜様もいるかな」

「姫様にもなにか用なの?」

 

「一応挨拶くらいは、と」

「少なくとも私が出た時はお休みだったし、まだお目覚めじゃないかもしれないわ」

俺は眉根を寄せながら空を見上げる。

 

永遠亭の敷地内にいることも相まって竹林に阻まれること無く開けた空には、燦々と太陽が輝いていた。

「……もうお昼なんだけど」

「そういうこともあるわよ」

 

「いい身分してるなあ」

そんなぼやきをしながらも、姫様と呼ばれてるくらいだし当然か、と俺は一人勝手に納得していた。

 

 

 

* * *

 

 

 

診療所に通して貰ってからは、永琳様から数十分ほどの診察を受けた。

そんなにかかるものなのかと不思議に思ったが、永琳様は「一応ね」と興味深げな視線を俺の体に向けてくる。

なんなんだろう。

 

仕事帰りの鈴仙は雑務があるらしく姿を消したが、なぜかてゐは診療所に着いてきた。

永琳様のことを「お師匠様」と呼んでいたので診察の手伝いでもするのかと思えば、そんな素振りもなく診療所のベッドに腰掛けて俺や永琳様と他愛のないやりとりをする程度だ。

 

暇なのかと、そんなことをぼんやりと思っていると、正面に座る永琳様が診断結果を告げた。

「簡単に言えば、貧血ね」

「ああ、はい。ですよねえ」

予想通りの診断結果に俺は相槌混じりに頷いた。

 

「確か貴方、今は紅魔館に勤めているのよね」

「え?あ、はい」

「吸血鬼の姉妹に血でも吸わせてるの?」

 

あ、どうやら察したらしい。

まあ、診断結果を見ればそういう予想に行き着くよなあ。

「ええ。姉の方に」

「物好きねえ」

さして驚くこともなく落ち着いた様子の永琳様に対して、俺は彼女の何気ない感想に釈然としないものを感じて半眼になっていた。

 

「物好きって」

「それで?定期的に血を与えているの?」

俺の視線に構うこと無く永琳様は質問を続ける。

 

「……そうですね。毎朝、だいたい決まった時間に要求されます」

「それじゃあすぐにガタが来るのも納得ね。それで、ご所望するのは毎日あのお嬢さんに血をあげるための薬ということね?」

「ええ。お願いできますか?」

「別にかまわないけど、私としてはその習慣を止める方をオススメするわ」

「……申し訳ないのですが……」

 

「その気はなさそうね。別に、私が謝られるようなことじゃないわ」

こういう時は、永琳様のドライな反応がありがたい。

 

「なあお兄さん」

「ん?」

それまで黙って俺たちの話を聞いていたてゐが不意に話しかけてきた。

 

「お節介で言わせてもらうけど、止めるとはいかなくてももう少しその習慣は控えめにはできないのかい?」

「そうは言っても、こればっかりはレミリア様の提案に同意したわけだから俺の意思だけじゃあ――」

「ああうん、ダウトだ」

言い訳じみた俺の言葉にすかさずてゐが突っ込んできた。

唐突に話を遮られたのと言葉選びが意外だったのもあって、俺は二重に驚いて閉口する。

 

「あそこのお嬢様はああ見えて話が通じるし存外常識的だ」

「……誰が常識的だって?」

「レミリア・スカーレットだよ。あんたがどう思ってるかは知らないけどね」

 

一瞬冗談を言ったのかと俺が首を傾げてみせると、てゐはおかしそうに笑みを浮かべながらも釘を刺した。

「あんたが体を壊すほどとなれば、多少は吸う血の量を減らすなり、その習慣の頻度を減らすなりの交渉は聞き入れてくれるだろうさ」

 

……なんでそんなことが分かるんだ。

確かに、そういった提案を聞いてくれる旨の話はレミリア自身が言っていたけれど。

 

「だから、その習慣を毎日続けるっていうのは、お兄さんの問題さね」

「…………」

「なにをそんなに頑固になってるんだい?」

「別に頑固になってなんか……」

ない、と思う。

 

紅魔館でのお勤めは、仕事の内容に応じて報酬が決まっている。

 

咲夜の補佐を始めとして、レミリアからの命令に従う使用人としての勤め。

報酬は妥当な額の賃金。

レミリアに洋菓子の試作を提供する勤め。

報酬はその材料と設備の使用許可。

 

そして、レミリアに血を献上する勤め。

その報酬は、俺の能力に関する情報、イコール、元の世界帰還のための手がかり。

 

もし、この血を献上する勤めの頻度を減らせば、その分だけ元の世界への手がかりが遠ざかってしまうのではないか。

それは……可能ならば避けていきたい。

 

俺が頑なにレミリアへの血の献上を毎日こなそうとするのは、そんな考えがあってのことだ。

ただし、レミリアは俺の働きに対してどの程度の情報をくれるのかは明言していない。

結局はレミリアのさじ加減というわけだ。

 

だから、そんなレミリアの機嫌を損ねないためにも、血を献上する仕事に関してはできるだけ妥協はしたくない。

…………つまるところ。

 

「ああ、うん。確かに頑固になってるかも」

最終的にはそんな自己分析になる。

ただ、それを自覚したからといって意見が変わるというわけではない。

 

「でも、悪いけどレミリア様に交渉するつもりはないよ」

「じゃあ、こういう言い方はどうだい」

 

てゐが俺の胸の辺りを指差した。

「……?」

 

 

「あんたの母親が腹を痛めて生んだ体を、そんな風に扱っちまっていいのかい?」

 

 

一瞬、言葉が出なかった。

意識の外側から全力で畳み込まれたような攻撃、もとい、口撃。

放たれた言葉が、予想外に鋭く太いトゲとなって俺の心臓を刺し貫いたような、そんな衝撃を受けた。

 

「――てゐ、君はどこまで…………」

「? なんのことかな?」

 

とぼけた様子のてゐに、しかし俺は嘆息する。

次の瞬間には、俺の意見は完全に翻っていた。

「……いや、参った。確かにそういう言い方をされると弱い。判ったよ。レミリア様には交渉してみる」

 

俺の行動に永琳様が目を丸くする。

「あっさりね……貴方、意外と……」

「意外と、なんですか?」

「……さあ?」

あからさまに視線を逸らす永琳様に、絶対何か失礼なことを言いかけたのは分かった。

 

「てゐ、いつの間に彼の()()なんて把握してたの?」

「姫様が言ってただけですよ」

確かに輝夜と話した際に、そんなやりとりをした覚えがある。

 

「そ……しかし、残念ね」

「残念?」

不意に遠い目をする永琳様に、俺は首を傾げる。

 

「えっと、薬の話でしたら、それはそれとして必要なんですけど」

「薬が売れないから、というわけじゃないわ」

適当な予想を言ってみるも、永琳様は首を振る。

 

「貴方の分身能力って薬の効能を調べるのに最適なのよね。その内なにか手伝って貰おうと思ってたのよ」

「あ、臨床試験とか、治験とかいうやつですか」

「そういう呼ばれ方もあるわね。でも今の話の流れじゃあね」

「あー……そうかも、ですね」

 

と、苦笑交じりに曖昧に頷いてみるが、これに関しては別に受けてもいいんじゃないか、と思わなくもない。

治験といえば、俺の印象ではちょっと珍しいアルバイト、という程度だ。

それに永琳様には人里の人たちも世話になっている。

俺がこの治験に参加することで、間接的に人里への貢献も出来るんじゃないか、と思わなくもない。

 

だが、一方ではこんな提案を安請け合いしたおかげで、最近それなりに後悔しているのも事実だ。

なにを後悔しているかといえば、フランドールお嬢様と小悪魔、二人のための料理教室まがいの集まりだ。

 

次第に紅魔館での勤めに慣れてきた俺にとって、それは正に晴天の霹靂だった。

語るも涙な悲劇の連続だとか耳を疑うような珍事件の頻発だとか…………いや、思い出しただけで疲れるし、考えないようにしよう。

 

そんな経験もあって、いつもの俺なら請け負うような永琳様の提案だったが、今回ばかりは遠慮することにした。

「残念ね」

「すいません」

永琳様は対して残念そうでもなさそうだが、寺子屋に勤めていたときは配置薬には随分と(寺子屋の子供たちが)世話になった俺としてはちょっと後ろめたい。

 

微妙な罪悪感を抱いていると、不意にてゐがとんでもないことを言い出した。

「人体実験なら、お師匠様が自分でやればいいじゃないか」

 

親しい間柄とはいえ結構酷い言い方だ。

せっかく気を遣って穏やかな単語を選んだ俺の努力が無駄になった、のはどうでもいいとして。

思わず閉口する俺だが、言われた永琳様は全く気にした様子もない。

「蓬莱人だとあまり意味が無いのよね」

 

ホウライ?

「蓬莱人って、なんです……?」

なんで急にアリスの人形の名前が呼ばれたのか、不可解な単語に俺は首を傾げた。

 

「あら」「おや」

と、俺の反応が意外だったのか、永琳様もてゐも僅かに目を見開いた。

変な質問だっただろうか。

 

「貴方、妹紅から何も聞いてないの?」

「なんで妹紅の名前が?」

今度は妹紅の名前が出てきて、俺は更に混乱する。

「慧音からは?」

「あの、なんのことですか?」

 

「お師匠様。どうやら何も知らないらしいね」

「……十中八九、妹紅の意向でしょうね。あの娘、まだ気にしてるのね」

「そりゃあ、お師匠様みたいに開き直れてはいないでしょうねえ」

「別に開き直ってるわけじゃないわよ」

 

何かを察した様子の二人の様子に、なんとなくだが、俺もあまり触れるべきではなさそうなのは分かった。

とはいえ、永琳様やてゐの言い方からして、別段大したことでもなさそうに聞こえる。

「あの、何の話ですか?」

ついつい気になって問いかけてみると、永琳様が首を竦めた。

 

「まあ、妹紅のためにも黙っててあげましょう。直にあの娘が自分で話すでしょうよ」

「姫様がバラすのが先かもしれないね」

「こじれると面倒なことになりそうだし、輝夜にはこのことは黙っておきましょうか」

「同感」

 

あ、これは結局、妹紅本人に教えてもらうしかなさそうだ。

仕方ない。

もしかしたら自警団の会合を終えた妹紅が永遠亭に来るかもしれないし、後で妹紅に尋ねてみよう。

「……分かりました。後で妹紅に――」

 

と、俺が引き下がろうとしたところで、不意にくぐもった轟音が耳に届いた。

「――?」

音自体は永遠亭の診療所からは遠いが、診療所を僅かに揺らすほどの衝撃に心臓がざわめく。

 

一瞬地震かと錯覚しかけたが、違う気がする。

尋常ではない規模の爆発、だろうか。

嫌な予感がした俺は、半分無意識に立ち上がっていた。

 

「ちょっと俺、見てきます」

と、出口に向かう俺に対して、永琳様もてゐもなぜか動揺した様子も見せず頷いた。

ただ、てゐの方はどこか気まずそうだ。

二人の様子に不可解な物を感じつつも、先程の衝撃が気になった俺は診療所を後にする。

 

なんだろう。

全身の鳥肌が立つような感覚がした。

何も分かっていないくせに濃くなりつつある嫌な予感をひしひしと自覚しながら、俺は診療所入り口を回り込みながら音がしたと思わしき方向を見――はああああああ!?

 

ここからそれなりに離れた上空。

それなりと言っても、真下まで全力で走れば五分程度の距離だろうか。

 

小型の太陽が浮かんでいた。

巨大な火の玉だ。

赤く眩しい波が球体の上を這い回り、放出される灼熱の余波がここまで届きそうだ。

紅蓮の炎の固まりは、燃える物がないはずの遥か上空で落ちるわけでもなく浮かび続けている。

 

衝撃的な光景だった。

この世の終わりではないか、そんな考えが過る俺の背中に、不意に声がかけられる。

 

「悠基?」

「…………鈴仙」

鈴仙は小首を傾げて俺を見ている。

 

上空に浮かぶ火の玉ではなく、俺を、だ。

彼女にとっては驚くべき光景ではないのか。

そう思わせるには十分過ぎる鈴仙の様子に、俺は体を強張らせながら火の玉を指差した。

「あ、あれって?」

「ああ、あれは――」

 

と、やはり何か知っている様子の鈴仙が答えようとしたところで、再び爆発音が響く。

 

火の玉の回りで無数の光が散発的に瞬いた。

その煌めきに削り取られるかのように小型太陽の規模は収縮し、何度も小さな爆発が起きる。

音から遅れて届く熱波が俺の顔を撫で、目を細める。

その光景の最中で、俺は見た。

 

なにかが、燃え上がる何かが火の玉から吐き出されたように落下していく。

――あれは。

 

「妹紅さん」

鈴仙が言った。

俺は一瞬、彼女が何を言ったのか分からなかった。

 

分からないままに、俺の足は勝手に動いていた。

何を思ったのか、俺自身が分かっていなかった。

 

「ちょ!?悠基!?」

唐突に走り出す俺の背中に、鈴仙の驚いた声がかけられる。

 

だが、足が止まらなかった。

ただただ、胸に抱いた焦燥が俺の足を駆り立てる。

なんだ。

根拠はない。

なのに、嫌な予感は増すばかり。

 

どれだけ走ったのか。

高熱の余波が残る竹林の中。

そうして、俺がたどり着いた先、既に小さくなった火球の下の辺り。

地面を燻る煙が点々と立ち昇る中。

 

 

 

 

その中心に、見知った少女の変わり果てた姿があった。

 




治験(とても控えめな言い方)。
主人公、幸運にもフラグを一時的に回避しました。なんのフラグかはご想像にお任せします。

今回は登場人物紹介はお休み。
次回にほのぼのと続きます。


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五十七話 まっすぐ見据え

前回からの続きです。



巨大な火の玉が上空にあったにも関わらず、その下の竹林は僅かに煙が燻る程度。

まるでそんな光景など日常茶飯事とでも言うかのように、迷いの竹林は既に静まり返っていた。

 

その竹林の開けた空間に彼女はいた。

予想に反して彼女の体に焼け焦げた気配はない。

笹の葉の絨毯の上で体を横たえる少女は、見ようによっては昼寝でもしているように見えたかもしれない。

 

それでも、彼女が……妹紅が、ただ眠っているようには見えないだろう。

 

周囲に充満する濃い匂い。

白い彼女の衣服を染める赤。

その胸を穿つ拳大の空洞。

 

おい、

なあ、

嘘だろ?

 

立ちくらみがしてよろけそうになった。

どうにか踏みとどまりながら、覚束ない足取りで妹紅に近づこうとして、

「悠基」

不意に呼び止められた。

 

「……輝夜」

いつのまにか、俺のすぐ傍に輝夜が立っていた。

俺と並ぶように立つ彼女の視線は、妹紅へと向けられている。

 

「もうすぐ始まるから、近づかないほうがいいわ」

 

なにを――。

 

次の瞬間突如として激しい炎が目前で上がり、俺は目を瞠った。

俺の身長よりも高く燃え上がる炎は、まるで妹紅から発せられるようで、熱気は人を拒絶するかのように熱い。

「――なにが――!?」

 

そして、唐突に燃え上がった炎は、ほんの数秒で一瞬にして消え去った。

目を見開いたまま、俺は横たわったままの妹紅を見て、それから更に目を大きく開くことになる。

 

「っう…………ゲホ……」

呻き声が聞こえた直後、信じられないことについ先程まで動く気配の無かった妹紅が身じろぎした。

唖然とする俺の前で妹紅は咳き込みながらも体を起こすと、頭を振った。

その胸には、傷どころか血痕一滴、服が破れた痕跡一つ残っておらず、あたかもそんな致命傷など存在しなかったかのようだった。

 

見間違いだったのか。

だが、あの光景は余りにも鮮明に網膜に焼き付いていた。

そんな風には思えない。

 

「った……クゥ……輝夜」

頭が痛いのか額に手をやり眉間に皺を寄せながら、妹紅は俺達へと顔を向けた。

そうして、輝夜とその隣に立つ俺を見た妹紅は大きく大きく目を見開いた。

 

「…………悠基?」

「妹紅?」

「なんでここに、いや…………見た、の?」

 

巨大な炎の玉と落下する人影。

心臓の穴。

燃え上がる少女。

 

「どれを?」

「そう、分かった」

 

疑問に疑問を返す俺の言葉に、妹紅は何かを察した様に頷いて立ち上がった。

険しい顔で輝夜を一瞥すると、重い息をゆっくりと吐き出す。

どこか気まずそうに、どこか不服そうに、どこか悔しそうに、どこか悲しそうに、顔を歪め瞳を曇らせた。

そして、最後に俺を見据えた妹紅は一言だけ言い放つ。

 

 

 

 

「帰る」

 

 

 

 

「…………へ?」

「そ」

予想外の言葉に唖然とする俺の隣で輝夜は短く応じる。

そんな俺たちに妹紅は背を向け早足で歩き始めた。

 

いやいやいやいや何だよ帰るって!

「え、あ、ちょ、ちょっと!」

驚いて固まっていた俺は我に帰ると慌てて妹紅の後を追おうとする。

逃げるように俺に背を向ける妹紅は、そんな俺を仰ぎ見た。

 

振り返った妹紅の赤い瞳を目にした瞬間、俺と妹紅の間に唐突に紅蓮の炎の壁が上がった。

「っうお」

走り出そうとして危うく炎に突っ込みそうになりながら、なんとか踏みとどまる。

 

強い熱を発するその壁は、まるで妹紅と俺を隔てるかのように横に伸びる。

おそらくは妹紅の妖術によって生み出されたものだろう、炎を越えることが出来ずにたたらを踏む俺を見据えたのち、妹紅は何も言わずに再び歩きはじめた。

 

「着いてくるな」と、離れていく彼女の背中が明確に拒絶の意思を語っていた。

 

「な、なんだよそれ……」

「フられたわね」

目を弓なりにした輝夜に声をかけられ、睨み返そうかどうか一瞬迷った。

「…………」

いや、今は――。

 

妹紅の放った炎の壁を見る。

見える範囲で横に向かって長く伸びている。

回り込んでいる間に妹紅の姿を見失うかもしれない。

 

……だとしたら…………。

 

「悠基?」

黙り込んだ俺に輝夜が目を丸くした。

俺は短く応える。

 

「ちょっと、追っかけます」

「貴方、まさか……」

何かを察したように呟く輝夜の目前で、俺は()()()()()()に一旦炎の壁から後ずさる。

 

「妹紅!!」

小さく深呼吸をして叫ぶように呼びかけてみる。

 

無視されるかと思ったら、意外にも妹紅は振り返って俺を見た。

直後に目にした光景の意味を理解したのか彼女は目を瞠る。

「待ってろ!!」

「は?悠基!?」

動揺した妹紅の様子に子供じみた満足感を覚えながらも、俺はあっさり覚悟を決める。

 

…………後にして思えば、衝撃的な光景を連続して見たせいか、この時の俺からは何か、常識的な判断を下すために必要な理性が一時的に欠落していたのだろう。

じゃなければ、こんな無茶なことを即決はしないと思う。

 

 

そんじゃまあ、行きますか。

と、そんな軽いノリで、次の瞬間俺は駆け出した。

炎の壁に突っ込む形で。

その向こうの、妹紅を追うために。

 

以前、藍に()()()()()意趣返しをされた際に随分懲りたはずなのだが、その時の記憶は俺にブレーキをかけるつもりはないようだ。

まあ例え大やけどをしたところで、分身能力使用中だから怪我は残らないだろう。

いつもならそんな痛い目を見るのは全力で拒否するし、激痛によるトラウマはまた刻まれるかもしれないが、それはそれとして。

 

近付くだけで炎の熱気が熱波となって俺を押し返そうとしているように感じた。

だが、怯んではいけない。

突っ切るならば半端に速度を緩めるべきではないだろうと、そんなところだけ冷静な判断を下しながら、俺は全力で炎の壁に突っ込んで――あ。

それと同時に炎の壁が二つに割れた。

 

一瞬にして熱気が弱くなり、なぜか燻った程度にとどまる笹の葉が散る地面の上に、俺は盛大に倒れ込んでいた。

「――え?」

突然のことに驚く俺の傍で、炎の壁は小さくなっていく。

 

そして、顔を上げる俺の目の前に、愕然とした様子の妹紅がいつの間にやら近付いてきていた。

その顔は紅潮し、肩を怒らせ食い入るように地面に倒れたままの俺を見ている。

声にならないのか、二、三度口をぱくつかせた彼女から、辛うじて最初の一文字が発せられる。

 

「…………あ」

あ?

 

 

「アホかぁ!!!!」

 

 

 

 

* * * *

 

 

なんとも、居心地が悪い、と俺はそんなことを思っていた。

 

「ご理解頂けたかしら?」

「ちょっと頭を整理する時間がほしいです」

小首を傾げる永琳様の問いかけに俺は脂汗を浮かばせながら口を歪めた。

再び永琳様の診療所に戻った俺は、永琳様から一通りの説明を受けたところだ。

その間、輝夜に半ば強引に連れてこられた妹紅は、今は輝夜が腰掛けるベッドの反対側でそっぽを向いている。

 

俺は軽く深呼吸をしながら、永琳様からの説明を噛み砕くように頭の中で反芻する。

「えっと、蓬莱の薬で不老不死なった人間というのが蓬莱人で」

「ええ」

「妹紅も、永琳様も輝夜様もその蓬莱人で」

「ええ」

「それで……」

 

複雑な心境で永琳様からベッドの上に腰掛けてこちらを見据えてくる輝夜へと視線を移す。

「あら、何かしら?悠基?」

「貴女があの竹取物語のかぐや姫様本人、と」

「ええ。大トリね」

大トリ…………そりゃあ確かに最後に回す形で言ったけども。

 

「……その辺が一番疑わしいので」

「まあ失礼しちゃう」

ジト目混じりの俺の弁明に輝夜はわざとらしく――もしくはあざとく――頬を膨らませた。

子供じみた所作にも関わらずそれすらも魅力的に見える辺り、「疑わしい」とは言ったものの件の御伽噺で求婚者が続出したという話にも納得してしまう。

と、そんなことを思いながらも永琳様の説明した内容がいろいろと許容範囲外で正直まだ混乱が拭えない。

 

「その言い方だと蓬莱人の存在自体はあまり疑っていないように聞こえるけれど」

永琳様から指摘が入り、俺は輝夜への窘めるような視線を一旦打ち切ることにした。

「……そう、ですね」

ちらりと、輝夜の隣でそっぽを向いている妹紅を見た。

その顔は窺い知れないが、少なくとも聞き耳を立てているのは間違いないだろう。

 

「ところで、なんでわざわざ蓬莱人の説明を?」

そんな俺の疑問に、永琳様は小さく頷いた。

「貴方は現状紅魔館の住人ではあるけれど、立場としては人里の人間でしょう?」

「立場って言われてもピンとは来ませんけど、紅魔館には出稼ぎに来てるようなものですし、確かにそんなところかと」

 

「そう。だから、反応を見ておきたかったの」

「反応?なんのですか?」

「私達の正体が普通の人間ではないとわかったなら、人里は受け入れるのか、それとも拒絶するのか。貴方はどう思う?」

 

永琳様の目を見据える。

俺を観察するような目は真剣味を帯びている。

もしかしたら、今後の永遠亭と人里との関係に影響する質問かもしれない。

医学的には明らかに百年以上は先を行く永遠亭との関係は、人里の住人にとっては重要なものだ。

ここは慎重に答えるべきところなのだろう。

 

「…………」

と、そうは思うもののイマイチピンと来ない話だ。

 

「普通に考えれば、ありのままに受け入れられるというのは難しい話だと思います」

「そう、普通だったら、ね」

 

俺の言葉を半ば予想していたのか、促すような永琳様の言葉に俺は内心首を傾げながらも頷いた。

「ええ。ここは幻想郷で、妖怪や神様が当然のようにいる世界です。そりゃあ人里は妖怪を畏れてはいますが、かといって全部が全部拒否されるということはないでしょ」

 

他の場所で作業でもしているのだろう、この場にはいない永遠亭の住民の名前を挙げる。

「実際ここの鈴仙が頻繁に仕事に来てますし、この前の月都万象展だって迷いの竹林にも関わらず結構な人が来ていました。俺はここに来てまだ半年程度ですけど、人里にとって害のない、ちょっと特別な人間の貴女方が受け入れられないとは余り思いません」

 

「そう、ちょっと特別、ね」

「そうです……まあ、あくまで俺の所感です。妖怪にすら変わり者と言われる俺ですから、客観性は微妙なところかもしれませんが、概ね間違ってはいないかと」

軽い予防線は張ってみるが、こんなところだろう。

 

永琳様の表情はあまり変化した様子もなく、俺にしても彼女のような人がこのくらいのことを予想できないとは思えない。

だが、こういったデリケードな問題は慎重に進めたいのかもしれない。

 

と、思考を巡らせつつも、ちらりとそっぽを向いたままの妹紅を見る。

まさか、とは思うけど。

今回永琳様が蓬莱人のことを俺に打ち明けたことは、今後の永遠亭の動向を決めるためという体を装っているだけに思えてしまう。

 

「だ、そうよ」

と、永琳様が振り向いた。

 

一瞬輝夜に言ったのかと思ったが、当の輝夜はそれには答えず隣へと視線を向けた。

「妹紅」

 

「…………なんで私に話を振るのさ」

「とぼけちゃって」

「はあ?」

やれやれといった様子の輝夜に、妹紅が声を上げながら振り向いた。

 

「悠基の言葉を聞いたでしょう?幻想郷の住人なら今までみたいにはならないわよ。いつまでも気にしてんじゃないわよ」

輝夜の言葉に、俺は小さく息をつく。

……どちらかと言えば、妹紅のために設けた場、ということか。

 

「……別に、気にしてない」

顔をしかめた妹紅に対して、輝夜はすまし顔で言い放つ。

「さっき悠基から逃げたのはそのせいでしょう?」

「…………」

 

ちらりと、妹紅は俺の顔を見た。

唇を引き結んだ顔には何かの葛藤が伺えて、俺は黙って彼女の答えを待つ。

 

曰く、妹紅は千年以上も生き続けているらしい。

死ぬことも出来ず老いることもできない。

少女の姿のまま変わることのない……変わることの出来ない彼女が、何を思い何を悩み何に苦しんだのか。

俺には、想像することしかできない。

 

しばらく黙り込んでいた妹紅は、徐ろに口を開いた。

「……なあ、悠基」

「うん」

 

「なんでさっき、あんなことをしたの」

「あんなことって?」

「私が作った炎の壁に突っ込んできただろ」

「あー……」

改めて問いかけられると答えに迷う。

 

あの時は、少なくとも冷静ではなかったというか、正常な思考が働いてなかったというか。

おそらくそんなことはないんだろうけど、あの時妹紅を見失えば会えなくなるのではないかと、根拠も無しに確信した俺はすでに行動を決めていたのだ。

そんな結論に落ち着いた俺は、妹紅に端的に応えた。

「なんとなく?」

……もっと他に言い方があっただろ。

 

「……悠基」

ボソリ、といつもよりも幾分か低い声で妹紅が呟いた。

 

彼女は徐ろに腕を伸ばすと俺の胸ぐらをがっちりと掴み、そのまま力任せに前後に揺さぶってきた。

「『なんとなく』ってなんだよ『なんとなく』てぇ!」

「うあ、ごめ、ごめんて、苦しい」

強制ヘドバンに目を回しながら謝るが、それでは気が収まらないのか全く手を止めてくれない。

 

「それで炎の中に突っ込むやつがいるかぁ!」

「で、でもあのときは」

「火傷で済むと思ったのか!?」

「分身だったし」

「そういう問題か!?」

脳みそを揺さぶられ続けたおかげで若干気持ち悪くなってきたところで、ようやく妹紅が手を止めてくれた。

 

目眩を感じながら妹紅を見る。

俺の襟元を掴んだままの妹紅は俯いていて顔が見れない。

 

「なんでだよ」

さっきよりも、随分と沈んだ声で妹紅が改めて問いかけてきた。

「追わないと、そのまま妹紅がいなくなるんじゃないかと思ってさ」

「そんなわけないだろ」

俯いたままの妹紅は言うが、さっきのやりとりの後だと少しだけ説得力がなかった。

 

不意に、妹紅の手が震えているのに気付いた。

「……気持ち悪くないのかよ」

消え入るような呟き。

 

一瞬聞き間違いかと思い、俺は目を瞠る。

「……え?」

「気持ち悪かっただろう?死体が生き返る様を見るのは」

「も、妹紅?」

 

妹紅の言葉に俺は息を呑む。

戸惑う俺の顔を見るのが怖いとでも言うかのように、妹紅は俯いたままだ。

「私はね、悠基。ずっとずっと独りだった。怪我をしてもすぐに治る、年をとることのない私の体を見て、バケモノだって、気持ち悪いって、近づくなって、恐ろしいって…………たまに夢に見るんだ。ああ、私もその立場ならそう言っただろうさ。悠基、お前は」

「言わない」

 

遮るように声を上げる。

しなければいけないと思った。

 

「言わないさ。絶対に」

「ああ、だろうな。お前は優しいから」

「妹紅」

「でも、ずっとじゃないよ。変わるよ、お前も」

 

「そんなことはないよ」

「いいや、私とお前は違うんだよ。いつまでも、こうとはいかないんだ」

「君は……」

「ああ、分かってる。分かってるよ、そうじゃないかもしれないってことは」

「妹紅…………」

「信じてやれないんだ、私は。悠基の言葉も、慧音の言葉さえも」

 

痛ましさすら感じる本音に、俺は投げかけてやれる言葉がすぐには浮かばない。

「私は、こんなに弱い私が、嫌いだ」

「…………」

 

蓬莱人であることを妹紅は秘匿したがっていた。

容姿が変わらないのだから、いつかは打ち明けなければいけないと、彼女自身だって分かっていたはずだ。

 

ただ、彼女が口にしたように、この蓬莱人の体質に心無い言葉を投げた人はいたんだろう。

不老不死であることが知られたが故に刻まれた心の傷があるのだろう。

 

慰め、励まし、元気づける言葉が浮かぶが、口にすることが出来ない。

下手な励ましは却って逆効果になるかもしれない。

この場で彼女の言葉をどれだけ否定したところで、彼女は聞き入れてくれないのではないか。

 

でも、それでも、彼女の傷を癒やすとまではいかずとも、なにか。

 

「ごめん、悠基」

不意に、妹紅が顔を上げる。

 

なにか。

 

「少し、感情的になった」

いつもの快活な笑みとは違う、疲れたような儚げな笑み。

 

なにか。

 

「え?」

「困らせて、悪かったね」

そっと、妹紅は俺の襟から震えたままの手を離した。

 

なにか…………。

 

「そろそろお暇させてもらうよ」

そのまま妹紅は立ち上がる。

 

…………。

 

輝夜が制止する声を上げるが、妹紅は首を振った。

「それじゃあ……」と、無理やり作った笑みを顔に貼り付けたまま妹紅はその場を後にしようとし、

 

その腕を、俺は掴んで引き止めた。

 

 

「…………悠基?」

腕を掴んだ体勢で黙ったままの俺に、妹紅は戸惑ったように声を上げる。

その妹紅に対して、俺の中の倫理的かつ理性的な思考がかろうじて注意するような言葉を選んだ。

 

「言っておくけど、友達として、だからな」

「?」

唐突に聞こえたのだろう。

 

妹紅が眉を顰めて口を開く。

「何を――」

そんな彼女の言葉を遮るように、俺は言った。

言ってやった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「好きだ」

 

 

「――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一瞬、静寂が訪れた。

 

 

「まあ、ふふ」

「あらあら」

「うぇっ!?」

 

「――は、ええ!?」

 

予想通り声が上がる中で、言われた当の本人は数秒の硬直のあとに見る間に顔を紅潮させ素っ頓狂な声を上げた。

ああ、言ってしまった、と一瞬躊躇しそうになるが、言ってしまった事実は変わらないしもう行けるところ、もとい言いたいことは全部言ってしまおう。

流石に驚いたのか、目を丸くし頬を朱くした妹紅の様子からして、どうやら効果は抜群だったらしいし。

 

……というか、なんだか声が一つ多かったような?

不意にそんなことを思った俺が嫌な予感を感じて振り返ると、真っ赤な顔をした鈴仙が診療所の入り口で突っ立っていた。

薬箱を抱えた彼女は何かの用事で今正に診療所に入ろうとしていたのだろう。

 

「し」

振り返った俺と目があった鈴仙は頬を引きつらせたまま数歩後ずさると、次の瞬間踵を返して、まさしく脱兎のごとく駆け出した。

「失礼しましたーー!!」

 

…………凄まじく間が悪いなあの子は。

いやまあ、今は先に妹紅だな。

明らかに誤解した――そう、誤解である――様子の鈴仙への説明を、俺はため息を堪えて後回しにすることに決めると、再び妹紅と向かい会おうとする。

 

「見て見て永琳、悠基の顔、面白いくらい真っ赤よ」

「格好がつかないわね」

 

「ちょっと静かにしててください」

いらない野次を飛ばしてきた二人に声を上げつつ、俺は気を取り直して妹紅を見る。

 

普段見られないほどに頬を朱に染めたまま硬直する妹紅。

先程の俺の前フリが頭から吹き飛んでいるのかもしれないので、念のため再度言い含める。

 

「……もう一度言うけど、友達として、だからな」

「あ、ああ……」

と、俺の言葉にたじろぎつつもどこか安堵したように妹紅は相槌を返す。

だが、しかし。

 

「だから、それを踏まえてあえて言わせてもらうけど」

「え」

「妹紅、好きだ。大好きだ」

 

まっすぐ目を見てはっきりと言い放つ。

多分、そうした方が効果が高いから。

 

「や、ちょっと、やめて……」

顔を逸し俺に掴まれていない方の手で表情を隠す妹紅。

その声はいつもよりも弱々しく、拒否の声もそこまで本気じゃないように聞こえる。

まあ本気で拒否されても全部言ってやるつもりだけど。

 

「いやです」

なぜか敬語になった。

まあいい。

 

「いいか?分かってないみたいだから教えてあげるけど、君はめちゃくちゃ素敵な人間なんだぜ?この際だからな。まずは、初対面はぶっきらぼうなくせに、本当は分かりやすいくらい優しくて気遣いが出来るところだろ?あと困ってる人を見過ごせないところとか、面倒見が良くて子供に好かれてるところとか、ノリが良くて話してるとこっちも楽しくなってくるところとか、相談には親身になってくれるところとか、表情がコロコロ変わるところとか、あと笑顔が可愛いところとか――」

 

「待って、ちょっと待って」

指折りまくし立ててやるところで、妹紅は腕を掴む俺の手を振りほどくと、こんどは俺の両肩を掴んで止めにかかった。

今や鈴仙といい勝負と言っても差し支えないほどに顔を紅くした妹紅は、若干涙目になって俺に訴えかけてくる。

「分かったからもう止め――」

 

「いんや、分かってないね」

だが、そんな妹紅の訴えを俺は即答する形で拒否した。

なにしろ、全部言ってやるつもりなので。

 

「分かってないよ。妹紅。こう思ってるのは俺だけじゃないってこと」

「え?」

「慧音さんや寺子屋の子どもたちとか自警団の男どもとか他にも、君のことが好きな人、俺はたくさん知ってるから」

「っ、そんなこと」

 

「そんなことあるんだよ。自覚しろ……しなさい」

ちょっと口調が荒かった気がしたので慌てて言い直す。

すごく間抜けな感じになったが、言いたいことは概ね言ったのでちょっとすっきりした。

 

俺から手を離した妹紅は顔を俯かせる。

「なんで、急にそんなこと……」

呟くような彼女の言葉に、俺は今更気恥ずかしさを感じつつも、真剣さを損なわないようやっきになって妹紅をまっすぐ見据える。

突飛なことを言ってる自覚はあるが、極めて真剣に言っていると妹紅に伝わるように。

 

「君が自分のことを気持ち悪いとかのたまうから、違うって言ってやらないと気がすまなかっただけだ」

「なんだよそれ……」

なぜか恨めしそうな目で睨まれたけど、俺は構わず言ってやる。

 

「だから、あんまり自分が嫌いとか言うな。自分のことだからって大切な人をそんな風に言われたら、俺だってカチンとくるよ」

「たいせ…………っああ、もう、やめろ!」

「おう。言いたいことは言ったからな。このくらいで勘弁してやる」

開き直っていたせいなのか、やけに偉そうに言い放つと俺は最後に息をついた。

 

「そういうわけだから、これからも仲良くしてくれ」

「無茶苦茶言って最後にそれか…………」

潤んだジト目で睨まれる。

落ち着いてきたのか、幾分か顔色が普段通りに戻りつつある。

 

「なんだ?まだ足りないか?」

「もうやめろバカ」

軽く額を叩かれた。

呆れと照れ隠しを含んだ声音は、しかしいつも軽口を言い合う妹紅を思い出させる。

少しは元気が出ただろうか。

 

大きくため息をつき、妹紅は腕を組んで俺を睨み続けている。

「ったく、調子狂うよ。バカなこと言って」

「俺は真面目に言ったつもりだ」

「支離滅裂なんだよ言ってることが」

「それでも、落ち込んでる妹紅なんか見たくなかったんだよ、俺は」

「…………」

 

すっげえ睨まれた。

 

「ふふふ」

と、袖で口元を隠しながら、不意に輝夜が上品に笑った。

視線を向けると、やけに楽しげに目を弓なりにしている。

 

「情熱的な告白ね」

からかう気満々といった様子に、俺は嘆息をこらえた。

「……そういうのじゃないです」

「『好き』とまで言っておいてそこは線引するのね。貴方みたいな男って世間ではどう呼ばれてるか知ってる?」

「……想像はつきます」

「ふふ」

 

いつまでもここに居たら輝夜のいい玩具だ。

言うべきことは言ったつもりだし、一時退散するとしよう。

 

今だに顔が熱いことを自覚しつつ、俺は「それじゃ」と逃げるように踵を返すと、その場をあとにしようとし、

 

その腕を、妹紅が掴んで引き止めた。

さっきと逆である。

 

「え?妹紅?」

目を瞠り不意の行動にでた妹紅の顔を振り返る。

その顔はまだ僅かに赤く、照れているのは明白だ。

普段ならそんな彼女の様子に不覚にもトキめいてもよさそうなシチュエーションかもしれない。

しれない、のだけど。

直後に浮かべた妹紅の別種の笑みに、なぜか俺は嫌な予感がした。

 

「ねえ悠基」

「なにかな?」

「さっきの情熱的な告白の責任、取ってもらおうか」

「え゛」

 

いろいろな意味で衝撃的な発言に一瞬思考が止まった。

そんな俺の肩を、妹紅は気軽にポンポンと叩く。

 

「なに、そんなに怖がらないでよ。簡単なことだから大丈夫だって」

「か、簡単なこと?」

なぜだろうか。

妹紅が何を言うのかさっぱり予想がつかないのに、「簡単なこと」が恐ろしく感じる。

 

「ええ。小耳に挟んだのだけど」

妹紅の浮かべる笑みは、まるでイタズラをする子供じみたものだった。

「悠基、あんたって、酔うと中々面白いことになるらしいじゃない」

 

「誰から――あ、えっと、それじゃあ俺は、これで」

「帰るなんて」

踵を返した俺の肩を、妹紅ががっちりと掴んだ。

 

「言わないよね?」

現代でいうアルハラである。

最も、先程の発言に若干の引け目を感じていた俺は、妹紅からの誘いを断れるわけがない。

 

結局のところ、ほとんど諦めの気持ちで、俺は頷くことになり。

こうしてまた一つ、俺の知らない(覚えていない)ところで黒歴史が創られたのである。

 

 

 

 

 

例によって例のごとく、その後酒を飲んでからの俺の記憶はない。

ただ、それ以降、里で妹紅と出会うと、度々彼女は意味もなくニヤニヤ笑いを向けてくるようになった。

以前と同じように快活で人当たりのよい彼女の様子にほっとした分、とても複雑だ。




実は主人公テンパってたシリーズ第二弾です。第一弾は四十三話辺りの戦闘回。
妹紅も非常に気にしていたことなので情緒不安定ぎみ。輝夜が一応フォローする程度には落ち込んでいます。
とはいえ若干シリアスな回が続きぎみだったのである程度ほのぼの分を混ぜ込んでおこうと思っていたらこんなことになりました。




名前:藤原妹紅
概要:初登場九話。永夜抄Extraボス、他。『老いる事も死ぬ事も無い程度の能力』。
当作における彼女は快活で人当たりの良い姉御肌なお人好しであり、その実繊細な心の少女である。友人である慧音の紹介で自警団に所属しており人里にはそれなりの人望を築きつつある。同じく蓬莱人であり憎しみを向けていた輝夜とは、現状嫌い合っているわけではなさそう。かといって仲が良いかといえば疑問。自身の蓬莱人の体質は、彼女にとっては耐え難い経験を積ませたものであり秘匿したがっている。主人公の言葉は、そんな彼女の考えに影響を及ぼすものなのか。果たして。


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五十八話 とある紅魔館での一日

『――――!』

 

 

 

 

「…………ん――」

誰かが呟いた気がした。

浮上する意識に伴い深い海に沈むように夢の記憶が抜け落ちていく。

寂寥感のみが残ることを知覚しながら、微睡みから覚醒した俺はゆっくりと瞼を開いた。

 

紅魔館に住み込みで働くようになってから一月以上が過ぎていた。

俺に割り当てられ、もはや慣れ親しんだ自室の中は暗く、まだ夜だと思った。

だが、それでも天井の色が赤で彩られていることが辛うじて分かる程度には認識できる。

分厚いカーテンに空けた隙間から僅かながらの光が入っているのだろう。

だったら、日の出直前、もう明け方といったところか。

 

どうやら随分早く目が覚めてしまったらしい。

この季節ならばもう一眠りくらいは大丈夫そうだ。

俺は二度寝を貪ろうと思いながら寝返りをうって、

 

 

ベッドの上に顎を乗せる形で、俺をぼんやりと眺める少女と至近距離で目があい眠気が吹っ飛んだ。

 

 

「――っ、フラ!……フランドール様」

 

「おはよ」

「お、おはようございます……心臓が止まるかと思いました」

俺は体を起こすと胸を抑えながら胡乱な目つきのフランに応えた。

 

「人の顔を見てそれは失礼じゃないの?」

「起き抜けで目の前に顔があったらそりゃ驚きます」

本音を付け足すならば、初めてのフランドールとの邂逅の折に殺されかけたことを思い出させるような状況だったせいでもある。

あの時も就寝中の俺をフランは物珍しさで観察していたらしいのだが、ならば今回はどういうつもりなのだろう。

 

「なんでここに」

「鍵が空いてたから」

「…………」

 

見れば、確かに今回俺の自室の扉が破壊された気配はない。

自分の不用心さに呆れつつも、「いやいやそうじゃないだろう」と俺は首を振った。

 

「なにか俺に御用ですか?」

「それより悠基」

「はい?」

 

「もう眠いからこのベッド使うわね」

「えぇ……」

マイペース!!

 

「あ、あのですね」

「悠基」

「はい」

「狭いからどいてちょうだい」

横暴!!

 

「いやいやフラン様。自室にお戻りくださいよ」

「いやよ。めんどくさい」

「じゃあなんで俺の部屋に来たんですか!」

「さっきまで目が覚めてたのよ」

気まぐれ!!

そして微妙に話が噛み合ってない!

 

と、ツッコミを入れたくなる衝動を喉元で堪えつつも立ち上がる俺を差し置いて、フランは入れ替わるように俺の安眠空間にもぞもぞと潜り混んでいく。

我道を邁進する彼女に俺はほとほと呆れていた。

 

「フラン様?」

「じゃ、おやすみ」

「ちょ、ちょっと!」

「うるさいなあ」

つい先程まで俺が横になっていた空間に収まったフランは、不満げに俺を見る。

ジト目で睨んでくる彼女に若干怯みつつも、俺は困り顔で訴えた。

 

「駄目ですってそんなことしたら」

「なにが駄目なのよ」

 

「えっと、あの、あれです。フラン様は可愛らしいですから、俺みたいな男の前でそんな風にしてたら拙いというか……」

「何が拙いのよ」

「あー、襲われたり、とか?」

 

何言ってんだ落ち着け俺。

 

「え?悠基、私に勝てると思ってるの?」

あ、でもこれ多分意味分かってないよなあ……。

「いや俺はそもそもそんなことはしませんが」

「じゃあいいじゃないの」

 

「あ、ちょっと?そういう問題じゃなくてですね」

もはや聞く耳持たずといった様子で、フランは俺に背を向けた。

本格的にシカトを決め込むらしい彼女の様子に、ため息が漏れる。

 

寝床を取られるのも不満だが、それ以上に(精神的に)幼いフランドールがこんな調子だと彼女の将来が若干心配だったりもする。

寺子屋で勤めていたこともあってか、我ながら妙な使命感を抱きつつ、俺は気を取り直して眠るには随分と邪魔そうな羽を生やした背中に向けて声をかけた。

 

「レミリア様がなんと言うか……」

「お姉さまが?」

ちらりと、フランが振り返った。

 

「はい。そのようなはしたない真似を見たら、さしものレミリア様もいい顔をしないのでは?」

「…………」

まあ、半分くらいは口から出任せだ。

とはいえ、この一ヶ月でなんとなく察したことだが、フランドールは姉に対してそれなりの親しみと尊敬を抱いている。

そんな姉の名前を出されれば、フランとしては無視できないのでは、と思ったが。

 

「…………分かったわよ」

渋々と言った様子でフランは体を起こした。

 

ベッドから不満げに降り立つフランを見て、俺は内心大いに驚くと同時に思う。

まさかこうもあっさり言うことを聞くなんて、もしかしてフランドール、チョロい?

 

「……なによ」

「いいえ、なにも」

勘の良いフランの問いかけに視線を泳がせつつも、俺は今度フランがわがままを言ったら同じ手を使ってみようと考えていた。

そんな俺の思案に気付いたかどうかは定かではないが、フランは小さくため息をつくと、部屋の入り口まで歩き、そのドアを開く。

 

どうやら素直にお帰りいただけそうだ。

そのことに俺が安堵の息をこっそりついていると、不意にフランが振り向いた。

「あ、悠基」

「はい、なんでしょうか?」

 

 

 

「今日のお菓子作り、よろしくね」

 

 

 

……………………あぁ…………。

「――――あ、はい」

 

硬直する俺の顔を見て、満足気にフランドールは部屋を出ていった。

 

そういえば、結局彼女がなぜ俺の自室に訪れたのかは分からないままだ。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

フランのおかげで目が冴えてしまった俺は、いつもよりも早めの日課に取り掛かることにした。

 

「あれ、悠基さんじゃないですか」

「おはよ、美鈴」

 

そんなわけで、紅魔館で働くことになってから習慣となっている毎朝の霧の湖一周ランニングだ。

明るくなりつつある空の下、流石にこんな時間にはいないんじゃないかと思っていたのだが、予想に反して紅魔館の門番である美鈴は既に門柱に背を預けて立っていた。

 

「今日は随分お早いですね」

「ちょっと目が覚めたんで。美鈴こそ、こんな時間から立ってるのかい?」

「門番ですので」

美鈴は茶化すように得意げに胸を張って見せるが、素直にすごいと思う。

逆に心配になるレベルだ。

 

「大丈夫かい?昨日は博麗神社で宴会だとかで、遅くに帰ってきたみたいだけど」

どうもこの幻想郷では不定期に催される宴会文化が人里のみならず妖怪界隈でも根付いているらしい。

昨日はどういう名目だったのかは聞いてはいないが、ただ口実がほしいだけで酒をのんでワイワイやりたいというのが基本的なスタンスなんだろう。

妖怪退治の専門家であるはずの霊夢が住む博麗神社で、退治されるはずの妖怪が集まるのもどうかと思うが、ともかくとして我が紅魔館の面々も、門番たる美鈴も参加したようだ。

 

ちなみに俺は女子の前限定の禁酒の誓いを立てているので留守番を決め込むことにした。

俺のその返答にレミリアは特に何も言わなかったが、気まぐれな彼女のことだし、いつまでも留守番というわけにはいかないかも、というのは自意識過剰だろうか。

 

「いやあアハハ、実のところ昨日は鬼の伊吹萃香さんの飲み比べに付き合わされまして」

「え、あの子に」

思い出すのは博麗神社に住み着いている鬼の少女。

伊吹瓢なる無限の酒を生み出す瓢箪を手に、年がら年中酒を飲み倒している彼女との酒の飲み比べ。

 

いろいろな意味で考えるだけで頭が痛くなりそうだ。

「大丈夫だったの?」

「いやあ見事に潰されまして」

結構本気で心配する俺に対して、美鈴はどこ吹く風といった様子で朗らかに笑った。

やはり人間と違って妖怪は肝臓なんかも頑丈ということなのだろうか。

 

「二日酔いとかしてない?」

「おかまいなく。この当たりは『気』を操れば問題ありませんよ」

「気?」

「ええ、気です」

 

「気で酔いが抜けるの?」

「はい。裏技みたいなものですが」

美鈴はさも当然とばかりに頷いた。

対して俺は、その新事実に目を丸くする。

 

「…………」

「悠基さん?」

「なあ、美鈴」

「なんです?」

 

一種の感動を覚えた俺は、美鈴へと期待の眼差しを向けていた。

なにしろ、美鈴の言うことが正しいのなら、酒気自体がコントロールできるのではないだろうか。

そんな考えに至った俺の脳内では、「気を操る=酔いを操る=酔っておかしな言動をしなくなる!」という、奇跡的な等式が構築されていた。

 

「『気』の使い方、教えてくれない?」

「この話の流れでそれを言われるのは複雑ですね」

美鈴は苦笑を浮かべるも頷いた。

 

「まあ、そうは言っても構いませんよ」

「やった」

気さくに頷いてくれる美鈴に、思わずはしゃぎたくなる衝動を堪えてガッツポーズにとどめた。

よしよし、これで大手を振ってお酒が飲めるようになる。

と、浮かれ気分になりつつも一応美鈴に確認してみる。

 

「ちなみにだけど、どれくらいでその『気』ってやつは使えるようになるのかな」

「そうですね。筋が良ければ、三十年程でしょうか」

 

え。

 

「……そんなに?」

「まあ、酒気のコントロールという点に絞るなら、普通の方でしたら私が手伝ってそのくらいが妥当ですかね。どうします?」

 

「ごめん、やっぱりいいや……行ってきます」

「はい。お気をつけて」

 

俺の反応が予想通りだったのか、美鈴はさして残念そうな顔も見せずに頷いた。

そんな彼女に手を振り駆け出しながら、俺は小さくため息をつく。

 

 

残念。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

「ねえ、ちょっといいかしら」

「あ、はい?いかがされましたか。パチュリー様」

 

紅魔館の地下図書館は、俺みたいな駆け出しの魔法使いでも一応は理解できる魔導書も取り扱っている。

ただしあくまで『一応』だ。

俺みたいな凡人では、内容はあまりに難解で、しばしばパチュリーや小悪魔にご教授願いながら、それでも一日に数ページがいいところだ。

 

いつものように初心者向けとパチュリーに渡された魔導書の内容解読に四苦八苦していると、今日は珍しいことにパチュリーから声をかけられた。

「少し訊きたいことがあるのだけど」

「ええ、かまいませんよ。どうぞなんなりと」

いつもは俺が質問する側なので、若干張り切って応じてみる。

 

「貴方、ロケットって知ってる?」

「ロケット。ペンダントですか?」

「乗り物の方よ」

「はあ、そっちですか」

 

意表を突かれた気分だ。

科学と魔法といえば、しばしば対比され、異なる存在として取り扱われることが多い。

そんな印象があるせいか、現代科学の粋を集めた成果の一つというイメージがあるロケットについて、魔法使いであるパチュリーが口にするのは意外に感じる。

ああ、でも、アリスも近代兵器の名前とかサラッと口にしてるし、そこまで変なことでもないのか。

 

「一応は知ってますけど、パチュリー様はご存知じゃないんですか?」

確か、七十年代前後には月面に合衆国の国旗が立てられた筈だ。

そう考えれば紅魔館が幻想入りするずっと前からロケットという存在は広く知れ渡っているだろうし、概要くらいは知っていそうなものだが。

そんな俺の疑問に、パチュリーは肩を竦めた。

 

「見ての通り出不精なものでね。宇宙に行く乗り物という以外は、それがどんなものなのか知らないのよ。興味も無かったし」

「それはそれは……」

 

「出不精」だとか「興味が無い」だとか言っても限度があると思わなくもないが、せっかくの機会でもあるので、俺は簡単にパチュリーにロケットの概要を話した。

そうは言っても俺の知識なんて一般的な範疇に留まるわけだが。

 

「……なるほど。キーワードは大気圏を突破するための『推進力』と、空気抵抗を減らすための『筒状』の機体、そして機体を軽くするための『多段式』の構造というわけね」

俺の説明に対して、最終的にパチュリーはそのような解釈に至ったらしい。

「つっても俺だって詳しくはないですから、雰囲気的にそんな感じだとしか言えませんね。地下図書館(ここ)には資料とかないんですか?」

「あったら貴方に質問なんてしないわよ」

 

「左様で。それにしたってどうしたんですか?いきなり『ロケット』だなんて」

「それは――」

俺からの問いかけに対してパチュリーが答えようとしたちょうどそのとき、「悠基さーん」と俺を呼ぶ声が届く。

 

「こあ?どうかしたか?」

パタパタと背中の羽をはためかせながら低空飛行で近付いてくる――明らかに揚力を使って飛んでいるわけではないが――小悪魔は、なにやら小脇に薄い冊子を抱えている。

 

俺の近くに着地した彼女は、興奮した様子で俺の目の前にそれを開いた。

「これ!これ見て下さい!」

と、彼女が開いたのは何かの、おそらくは結婚情報誌だろうか、そこに見開きで映された写真だった。

 

ウエディングケーキに入刀する、緊張のせいか引きつった笑みの新郎と満面の笑みを浮かべる新婦が大きく写された、結婚式のワンシーンだ。

……小悪魔が持っているということは、この図書館はこういう雑誌は取り扱っているということだろうか。

 

「なに?結婚でもするのかい?おめでとう、こあ」

「悪魔に結婚願望があるなんて珍しいケースね。興味深いわ」

 

「二人揃ってボケないでくださいよ!そうじゃなくてこれですこれ!」

割りと真面目な顔で呟く俺とパチュリーに抗議をしながら、小悪魔は写真の一部をこれでもかと指差す。

指し示されているのは、豪華絢爛という言葉がしっくり来る、新郎新婦の背よりもずっと高いウエディングケーキだ。

 

「これがどうかしたの?」

嫌な予感に眉を顰めると、案の定小悪魔は満面の笑みでのたまった。

「今日はこれを作りましょう!!」

と、俺とフランと小悪魔の三人で催される菓子作りの題材の提案に対し、俺は笑みを浮かべて即答する。

 

「無理」

「ええ!?」

 

俺の返答に大袈裟なリアクションをとる小悪魔だが、対する俺は自分の中で湧き起こる衝動を堪えて笑みを維持する。

「なあ、こあ。小悪魔よ」

「は、はい?」

 

「今のところホールケーキ一つすらまともに出来てないのに、そんなでかいもの作れるわけ無いだろう?」

「うぅ……というか悠基さん、ちょっと怒ってます?」

 

「いや、怒ってはないよ。うん。まだね」

「ま、『まだ』ですか……」

 

俺の言葉に小悪魔はびくびくとパチュリーの後ろに隠れるように移動した。

使い魔の不甲斐ない様にか、はたまた引きつった笑みを浮かべる俺を含めてなのか、パチュリーは呆れた様子で嘆息した。

 

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

一月もすれば、さすがに執事仕事にも随分と慣れてきた。

仕事といっても咲夜の仕事の一部を請け負っているだけで、基本的には体力仕事はあってもそれほど大変ではない。

稀にあるレミリアの無茶振りを除けば、高給な割には平和な業務でもある。

 

「ユウキー、あっちの掃除終わったー」

「お、ご苦労様、ティア。ほれ」

「わーい!」

 

ところで、幻想郷には妖精という種族が当たり前のように、しかも無数に存在する。

自然の権化と言われる彼女たちは気まぐれで悪戯好きであり、一部の人里の住民からは厄介な存在だと疎まれていたりする。

確かに彼女たちの悪戯は限度を知らないのもあって質が悪いこともあるが、かと言って悪質な存在なのかといえば、そんなことはないだろう。

 

「ユーキ、お皿を運び終わったわ」

「お、ナナ、早いじゃんか。ほれ」

「えへへー」

 

実のところ、その大半が精神的に幼いというか、良くも悪くも素直であり、無邪気だ。

お菓子をあげれば簡単に釣られるところとか、素直すぎてぶっちゃけチョロい。

チョロ可愛い。

逆にちょっと心配になる。

 

「ユウキ、お花を活けてきたわ」

「おお、リーネ、凄いじゃないか。ちゃんと俺が言った通りの花だな。美鈴に教えてもらったのか?」

「うん!」

「よしよし偉いぞ。ほれ」

「やったー!」

 

つまり、何が言いたいかと言うと。

 

メイド妖精が可愛くて癒される。

 

俺から受け取った飴玉を頬張り大喜びで去っていく紅魔館のメイド妖精の後ろ姿を見送りながら、俺はそんな胸中をしみじみと口にする。

 

「はー癒やされるなあー」

「…………」

「ねえ、咲夜もそう思わない?」

「…………」

 

隣に立つ同僚、というか上司の少女は、同意を求める俺の問いかけに沈黙を返してきた。

「……えーと、咲夜?」

気持ち悪がられただろうか、などと開き直った割には憂いながら呼びかけてみると、ようやく咲夜は口を開いた。

 

「貴方って、ああいうのがタイプなの?」

「どういうのだよ」

想像の斜め下をいく質問に俺は半眼になって見せる。

 

「冗談よ。でも、かなり半端だけど、あの妖精たちが一応は仕事をしてるなんて少し驚いたわ。これも貴方の『調教』の賜物かしら」

「せめて『教育』って言ってくれない?」

と言っても、仕事をしたご褒美にお菓子をあげているだけなのだが。

 

「それにしてたって、半端な仕事のせいで結局貴方が後始末をしてるみたいだし、自分でやった方が早いんじゃない?」

「でも、せっかくメイドとして雇ってるんだから、仕事を覚えて貰った方がいいじゃないか」

 

謂わば将来を見据えての先行投資みたいなものだ。

彼女たちメイド妖精が仕事を覚えれば、俺が紅魔館を辞めた後も多少は咲夜の負担が軽減されるかもしれない。

ついでに言えば、妖精たちと接していれば俺の仕事へのモチベが上がるし、むしろそっちが本命まである。

 

「まあ、その内きちんと仕事ができるようになるかもしれないし、気長に見てかないとねぇ」

「それまで毎回お菓子で釣るの?回りくどい話ね。ナイフで脅したほうが早いわ」

「俺はそういうのは好きじゃないの」

真顔で物騒なことをのたまう咲夜に俺は嘆息しつつ、柱時計を見る。

 

「……さてと、そろそろ仕事に戻るよ。食器を片付けなきゃだし。咲夜は?」

「一旦お嬢様のところに戻るわ。あ、そういえば悠基」

「ん?」

ふとなにかを思い出したように咲夜が俺を呼び止める。

 

「昨日の宴会で聞いたわよ」

「何を?」

「永遠亭での話」

「……どれを?」

その単語だけでおおよそ咲夜が言いたいことを察した。

 

「そりゃあ、ね」

意味深な咲夜の視線は、ある意味では雄弁にその答えを物語っていた。

俺は眉間に皺を寄せながら思案する。

 

咲夜が示しているのは、先日俺が永遠亭で妹紅に告げた告白まがいな行為のことだろう。

口止めはしていなかったので、他言されても文句は言わない。

言わないけど……だからといって積極的に言いふらされるのもなあ……。

 

「悠基」

「ん?」

「好きよ」

 

「――――え」

一瞬思考が止まった。

その後に聞き間違いを疑ったのは、その言葉があまりにも脈絡がなかったせいだ。

硬直する俺を見つめたまま、咲夜は真顔で続ける。

 

「もう一度言うけど、友達としてよ」

「え?お、おう?」

「だから、それを踏まえてあえて言わせてもらうのだけど」

「咲夜?」

「悠基、好きよ。大好きよ」

 

「……………………」

どうしよう。

どこからツッコミを入れたらいいんだろう。

とりあえず、再現率から言ってそれなりに細かく事情を聞いたということは分かった。

 

「あのな、咲夜」

「ええ」

「どういうつもり?」

「面白いものが見れるって」

あ、これは俺怒ったほうがよさそう。

 

半眼になって咲夜を睨む。

「それで?どうだった?」

「普通かしら」

その普通はどう解釈すればいいんだか、ともかく。

 

「そういうのは良くないよ」

「そういうの?」

「異性に対して『好き』だとか、冗談でも言うもんじゃない」

「あら、半分は冗談じゃなかったのだけど」

「あ――っ~~そりゃどうも!!」

 

相変わらず真顔で言ってのける咲夜に、俺は緩みそうになる頬をどうにか引きつらせながら声を荒げた。

不覚にもときめきそうになったよチクショウ。

「だからな?あー、なんていうか、君は美人なんだから、そういう告白まがいのことを言われると男は本気にしちゃうだろって話だよ」

「あら、悠基は本気にするの?」

 

「しな、しないけどさぁ」

ちょっと危なかったかもだけど。

そしてこの話の流れは今朝方のフランとのかけあいと同じだ。

……少しアプローチを変えてみるか。

 

「しないけども、もし本気にしたらどうすんの」

「そうね」

咲夜は考え込むよう口元に手を当て、そしてほとんど間を置かずに応えた。

 

「丁重にお断りするわ」

「そ、そう」

全然その気は無かったのに告白してフラれたみたいになった。

 

俺は咳払いをして気を取り直す。

「ともかく、人をからかうにしたって、やりすぎは良くない」

フランにはレミリアの名前を出すことで話を聞いて貰ったし、ワンパターンだけど同じ手で行くとしよう。

「レミリア様だっていい顔をしないだろうし」

 

「あら、お嬢様の指示でからかった(やった)のだけど」

 

「そういえばそんな人だったよあの方は!」

 

 

 

* * *

 

 

 

深呼吸して気を落ち着かせる。

思いつく限りの準備は全て終わった。

先んじて試作しておいたレミリア様への試作菓子もすでに執事仕事担当の俺に託してある。

 

憂いは無い。

おそらくは。

 

ボーン、ボーン、ボーンと、備えられた時計が始まり(午後の三時)を告げる。

 

姦しい声で喋りながら、俺の目前に立つ悪魔たち(少女たち)を見据え、もう一度深呼吸。

息を吐き出し、覚悟を決める。

 

 

さあ、お菓子作り(闘い)の時間だ。

 

 

 

「それじゃあ始めますか」

「はーい!」

「よろしくお願いします!」

「はいよろしく。さてと、とりあえず今回ですが、前回と同じくショートケーキを作ろうと思います」

「えー?またなのー?」

「そうですね。前回も前々回も前前前回も同じものを作ろうとしました。そして、これまでで一度たりとも完成に至ってませんね?」

「そりゃあないけどー」

「じゃあせめて一度くらいは完成させましょう?」

「あ、あの、悠基さん」

「はい、こあ」

「その、もう少し簡単なものにしてはいかがですか?」

「ああうん。確かに俺もそれは考えたよ」

「じゃあ、どうしてショートケーキに拘るんですか?」

「意地」

「へ?」

「意地だよ」

「あははー悠基頑固ー」

「はい。自覚しておりますとも。それじゃあ、もう質問はないですね?」

「は、はぁ」

「オッケー」

「よし、それじゃあ、今度こそ完成させましょう。えいえいおー!」

「「おー!!」」

 

 

*

 

 

「ゆ、悠基さーん!す、すいません。また材料ひっくり返しちゃいました……」

「大丈夫だこあ。材料の予備はあるから、片付けたらもう一度作り直そう」

「悠基ー、これ壊れちゃったー」

「大丈夫ですフラン様。予備のボールはありますし、これは片付けておきますからもう一度作り直しましょう」

 

 

*

 

 

「悠基さん!なぜかしょっぱいです!」

「大丈夫だこあ。砂糖と塩間違えてるだけだから。もったいないけどそれは処分しような」

「悠基ー、なんか変な色になったー」

「だ……大丈夫ですフラン様。なんでそんな毒々しい色になったのかは分かりませんが予備の材料はここにあります」

 

 

*

 

 

「悠基さん!なんだか焦げてます!」

「だ、大丈夫だ。まだ大丈夫、こあ。火加減ミスっただけだからな。冷蔵庫に予め作っておいたスポンジケーキがあるからそれを使ったらいい」

「悠基ー、なんか燃えちゃったー」

「だ……だい…………あー…………大丈夫じゃないですねコレ…………」

 

 

*

 

 

「悠基さん!」

「どうしたこあ!」

「すいませんまたひっくり返しました!」

「よしそれは大丈夫だまだ予備がある!」

「はいっ!!」

 

「悠基ー」

「なんですかフラン様!」

「なんかグニョグニョ動いてるんだけど」

「だいっ、え?なん、え?なん、ですかこの物体」

「分かんない」

 

 

*

 

 

「悠基さーん!」

「……どうしたこあ」

「冷蔵庫の材料が!というか冷蔵庫が!」

「一体何が……え?」

「悠基ー、なんか気付いたらこんな風になってたー」

「なんですかこの触手生物!!」

「あははーおもしろーい」

「ちょ、フラン様近付いたら危な――え」

「きゃああああ悠基さーん!!」

「あはははは」

「うわああぁぁ――」

「――――!!」

「――――!?」

「――――」

「…………」

 

 

 

 

 

…………お菓子作りがトラウマになりかけるとは思わなかった。

 

 

 

* * *

 

 

 

 

紅魔館で出される夕食は、ほぼ毎日レミリアに献上している俺の血液を補うために豪勢な肉料理が多い。

幻想郷では結構贅沢な話だ。

しかも、それに加えて咲夜の作るディナーはどれも絶品だ。

魚や野菜、炭水化物が程よく交えており、栄養バランスも偏りすぎるということはない。

 

『男を掴むなら胃袋から』なんて言うが、その点で咲夜は間違いなく及第点だろう。

現に俺も、レシピを教えてほしいと常々思うレベルだ。

あれ、なんか違う。

 

と、話は反れたが、そんな俺の夕飯は、基本的に自室に持ち込んで一人で食べているのだが、稀にレミリアに誘われることがある。

菓子作りのためにわざわざ生活リズムを修正したフランドールや、出不精なパチュリーなんかも交えることもあったが、基本的には二人きり――といっても咲夜がいる――での食事だ。

 

食事中のレミリアの後ろに控えている咲夜を見ていると、同じ従者であるはずの俺が主人のレミリアと皿を並べるというのもおかしいとは思うが、誘われているのなら仕方ないだろうと納得することにしている。

それに、稀にレミリアが俺の能力の情報を漏らすことがあるし、そういう意味ではこの食事の時間はとても重要だ。

重要、なのだけど……。

 

「どうしたの悠基。いつになく疲れた顔をしているわね」

「……すいません」

 

いつもなら堪らないほどに鼻孔を刺激する香辛料も、今の俺には少し物足りない。

空腹感は確かにあるのだが、それ以上の疲れ――主に精神的な――のせいか、どうにも手を動かすことすら億劫にさせる。

原因は間違いなく今日のフランや小悪魔とともにとりおこなった菓子作りという名の惨劇の記憶だろう。

俺の分身が体験した記憶は、分身消滅に伴う記憶の流入と同時に、俺の精神をゴッソリとすり減らしていった。

 

いったいなぜあのような大惨事が起きるのか。

純粋に疑問に思った俺は視線を上げて正面に座るレミリアへと向ける。

「レミリア様」

「なにかしら」

「なぜフラン様と料理をするとあんなことになるんでしょう」

 

疲れていたせいか、抽象的な質問になっていた。

というか受け取り方によっては普通に失礼な質問だった。

 

だが、レミリアは口端を上げると、特に気分を害した様子も見せずに俺の問いかけに応える。

「フランの能力は『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。それは物体や生物にとどまらず、概念にすら干渉する。そう、あの子は常識すらも破壊せしめるのよ」

「そんなカッコイイ言い方されても納得できないっす……」

それにドヤ顔で言われても、と俺は引きつった苦笑を浮かべようとして失敗した。

 

なぜかやけに得意げで誇らしげなレミリアに薄々と姉馬鹿の気配を感じながらも、俺は小さく嘆息するだけに留める。

とはいえ、昨日の宴会で仕入れてきたであろう俺をからかうためのネタをその日に使ってこなかったのは、もしかしたら彼女なりに気を遣ってくれたのかもしれない。

…………次の日死ぬほどいじられたけど。

 

とにかく今日は、ただ単に、疲れた。

 




今回はオムニバス形式風というか寄せ集め話。目まぐるしいし無理やり盛りすぎた感がありますが反省はしません。
主人公は相変わらずホームシック発症中。禁酒の誓い(笑)。当作における紅魔館の幻想入り=吸血鬼異変が起きたのは十年ほど前という設定。ロケットのくだりは一応の伏線。メイド妖精の名前の由来については特になし。フラン、小悪魔とのお菓子作りは五十二話の流れから。お菓子作り描写についての詳細はほのぼのとご想像にお任せします。



名前:パチュリー・ノーレッジ
概要:初登場四十九話。紅魔郷四面ボス、他。『火+水+木+金+土+日+月を操る程度の能力』、他。
当作における彼女は、やはり動かない大図書館であり、基本的には動じない女性であり、実のところ面倒見の良い魔女である。紅魔館の他の面々に負けず劣らずマイペース。話のオチを予測できる程度には聡明だが、言わない方が面白いことになると分かっているので大概意味深な言葉にとどめている模様。主人公にとってはなんだかんだ世話になりつつある主人の友人で、パチュリーにとっての主人公は特異な遍歴を持つという意味で興味のある観察対象の一人である。



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五十九話 アプローチ

その少女を言い表すならば、深窓の令嬢と言ったところだろうか。

 

あどけなさを残しながら、しかしどこか大人びた気品ある面持ち。

新雪を連想させる白い肌。

嫋やかで品のある仕草。

浮かべる笑みは美しく、されども同時に儚さを抱かせる。

 

画家ならば絵を描かせてくれと頼み込むだろう。

音楽家ならば彼女のために曲を作るだろう。

歌人ならば無意識に一句詠んでいるだろう。

少女ならば憧れ、少年ならば思慕を寄せるだろう。

誰もが敬意と羨望を抱くだろう。

その笑みを自分に向けてくれるのなら……と、そんな夢想をするのだろう。

 

さすがに誇張しすぎただろうかと思わなくもないが、どうにもそんな表現がしっくり来てしまうのが、彼女なのだ。

そして、その少女の笑みは今、正面に座す俺に向けられている。

 

では、羨望を受けるであろう彼女の笑みを向けられた、当の俺の心境はいかがなものかと言えば。

 

 

 

「……………………」

「……………………」

 

 

 

 

 

めっちゃ気まずい。

 

 

 

 

 

 

少しずつ暑さが増し始めた頃合い、以前は毎日のように通っていた人里、稗田邸の一室にて。

幻想郷縁起の編纂が終わったとの話を慧音さんから聞いた俺は、早速とばかりにちょうど持ち合わせていた甘味を土産に邸宅に訪れた。

部屋へと通された俺を見てにっこりと微笑む元上司の、そして友人であるはずの少女、稗田阿求さんは、俺の挨拶を手を翳して制止し、無言で正面の座布団を促した。

「そこに座って下さい」という無言の指示に威圧感を受け取った俺は「あ、あれ?」と内心戸惑う。

 

半年も顔を突き合わせていたおかげか、一月以上会わなかったわりには俺はすんなりと察する。

これは叱られる流れだな、と。

 

それにしてもなぜか。

俺、なにかやらかした?

といっても、縁起の執筆作業に集中していると家人の人から聞き及んでいたこともあり邪魔をするのも申し訳ないということで暫く顔も出していない。

だから、なぜいきなり機嫌が悪いのか皆目検討もつかな…………あー、いやいや。

 

以前は無茶な行動をよく窘められていし、それを踏まえてここ一ヶ月の行動を省みる。

心当たり、ありますね……。

俺は気まずい思いのまま口元を歪めるが、阿求さんは貼り付けたような微笑みのまま、俺に無言のプレッシャーを与え続けている。

 

ああ、今回はどんな正論で責められるんだろう……でもこういうのも久しぶりだなあ。

 

「なにを和んでいるのですか」

「は、いえ」

気の緩みを即指摘された俺は慌てて居住いを正す。

どうやら無言の威圧タイムは終わりらしい。

 

「さて、悠基さん」

「はい」

「何か私に言いたいことはありますか?」

 

全く笑顔が崩れないのが非常におっかないです。

 

「……言い訳をしても?」

「ええ。どうぞ」

ダメ元で提案してみると、あっさりと承諾された。

かといって状況が好転するわけではないけれど。

 

「あの、紅魔館に住み込みで働くことについては、危険は重々承知の上で、致し方ない事情がございまして」

「なんの話をしているのですか?」

「はい?」

 

最初に浮かんだ『無茶』を口にしてみるが、どうやらハズレらしい。

笑顔のまま小首を傾げる阿求さんに戸惑いつつも、俺はおずおずと次の候補を挙げてみる。

 

「…………えっと、それじゃあ、人里で子供が攫われたときの話ですか」

「話は聞いていますよ。大活躍だったそうじゃないですか」

あ、こっちか――。

「それで、それがなにか?」

あれぇ?

 

「……霧の湖で幽霊楽団のフルコーラスに()てられて着衣水泳した話ですか?」

「馬鹿ですか貴方」

阿求さんは大いに呆れた顔になった。

とはいえ、貼り付けたような笑顔をやっとほぐしてくれた。

 

安堵する俺に嘆息しつつ、阿求さんは額に手を当てた。

「そのことではありません」

あっれぇ?

これもはずれ?

 

「……でも、言いたいことが一つ増えましたね」

「あ、もしかして俺墓穴掘りました?」

「ええ」

「うわぁ」

顔に手を当てる俺を阿求さんは口元を隠して上品に笑った。

 

「確かに以前は貴方のそういうところも窘めていました。ですが、それはあくまで私が貴方の雇い主だったからです。雇っている以上は、貴方に無理をさせてはいけないという責務もありました。まあ、半分以上はお節介でしたが」

「阿求さん……」

……ありがとうございます。

 

「それに」

「?」

「言っても無駄なことは言わないことにしました」

「阿求さん……」

……ホント、すいません!

 

 

「ですので、これから私が話すのはただの我侭です」

「我儘、ですか?」

「ええ。悠基さん」

 

名前を呼ばれて俺は改めて正座の姿勢を正す。

それにしても、「我儘」だなんて、阿求さんにしては珍しい言葉選びだ。

名家のご令嬢、というか若くしての当主というだけあって、基本的には彼女の言葉使いは同年代の少年少女と一線を画すというか、振る舞いを含めて俺よりも大人びているまである。

そんな彼女の我儘などと、一体何を言われるのか俺が戸惑っているのもつかの間、更に珍しい光景に俺は瞠目する。

 

「なんで今更なの!」

「え?」

それは、そう、本当に珍しい、というか初めて見たわけだけど。

阿求さんは子供の顔をしていた。

 

「来るのが遅すぎでしょ!」

「えぇ?」

年相応どころか、ともすればそれよりも幼さを思わせる仕草。

頬を膨らませて立ち上がった彼女は両の握りこぶしをぶんぶんと振っていた。

今まで一度として崩さなかった丁寧口調は見る影もない。

 

「友達ですって言ったのに、なんで遊びに来なかったの!」

「あの、阿求さ――」

「しかもなんでこのお土産!」

ビシッ、と俺が持ち込んだ風呂敷包みを指さされる。

 

「どうせ貴方のことだから甘いものでしょう!?」

「え、ええ、そうですけども」

「ほらやっぱり!なんで今更なの!」

「い、今更?」

 

「あ!ま!い!も!の!といったら、頭を使ったときに欲しくなるものでしょ!?違う!?」

「はぁ、確かにその通りですが」

「私はずぅっと『縁起』を書いてたの!分かる!?頭を使ってたの!そしたら差し入れは甘いものでしょ?なんで書き終わってから持ってくるの!?」

「いやでも、この前の話の流れ的には」

「縁起の編纂が終わるまで来ない方がいいとでも!?だからって一月以上も来ないってある!?別にずっと作業していたわけじゃないわよ!お客さんをもてなすくらい出来たました!ケーキの差し入れくらい寄越しなさいよ!ていうか気晴らしくらいさせなさいよ!バカ!!」

 

 

……なんというか。

もはやキャラ崩壊どころではない、というか。

 

「え、えぇと…………」

「ハァー、ハァー、ハァー……」

 

 

一応受け答えはしたもの未だに頭の中は混乱の最中、というか。

予想だにしない彼女の豹変ぶりを披露された俺の受けた衝撃たるや計り知れない、というか。

 

 

「…………ふぅ、すっきりしました」

「え、えぇー……?」

そして、あっけらかんといつもの調子に戻る阿求さんに、もう脱力しか出来ない、というか。

 

 

「なんですか今の」

「あら、人間というのはストレスが溜まるものなんですよ?たまには発散しないと持ちません」

「それはまた、個性的な発散方法で」

確かに『ストレス発散』と聞けば腑に落ちなくも無いが、それにしたってこれまでの付き合いで築かれた印象とのギャップが激しすぎる。

 

おずおずと俺は小さく挙手する。

「あの、ちなみになんですけど」

「なんです?」

「どちらが素なんですか?」

「あら、こういうのは使い分けるものでしょう?」

 

使い分けるだって?

そういうレベルなのか?

正直言って人格が入れ替わったようにすら感じたんだけども。

 

「ふぅ。久しぶりに大声を上げたらすっきりしました」

笑顔を浮かべて息をつく阿求さんだが、それもつかの間、唐突に彼女はよろめいた。

半ば呆然としていた俺ではあったが、反射的に腰を浮かせる。

「阿求さん!」

「……大丈夫です」

 

傍にあった柱に手を当てて体を支えると、阿求さんは空いた手で胸を抑えた。

「少し、はしゃぎすぎました」

「……ほどほどにしてくださいよ」

一瞬彼女が倒れるのではないかと危惧した俺はほっと胸を撫で下ろす。

 

つい先程の癇癪から落ち着いつからの落差のせいか、今の彼女はいつも以上に儚い印象を抱かせる。

先程よりも顔色が青白いのは気のせいではないだろう。

慧音さんから「代々御阿礼の子は短命」だと聞き及んでいた俺としては、過剰だという自覚はあるものの気が気でない。

 

「先日まで縁起のために部屋に篭りきりだったんでしょう?疲れが残ってるんじゃないですか?」

「……そうみたいですね」

「だったら、無理せず今日はもうお休みになって下さい」

 

「……分かりました」

不承不承、といった様子で阿求さんは頷く。

頷いたまま、僅かに顔を俯かせた体勢で阿求さんは俺を見つめる。

「悠基さんはこのままお帰りになるのですか?」

 

疲れで弱っているのか、問いかけてくる阿求さんの瞳がどこか寂しげに見えた。

そのせいか彼女の言葉は縋るようなニュアンスを含んでいるように聞こえて、俺は反射的に応えていた。

「……傍にいましょうか?」

 

自分の発言がどう取れるか。

言ってしまった後に気付く程度には腑抜けていた俺だが、対する阿求さんも意外なことに僅かながらも顔を赤らめていた。

「別に、はい、あの、結構ですので」

やはり、随分と弱っているらしい。

今日の彼女はなんだか隙だらけだ。

 

「ま、また来ますから……あの、遊びに」

戸惑いがちになりつつも俺が言うと、阿求さんは気を取り直すように小さく咳払いをした。

「…………ええ。ですけど、一つ謝らないといけませんね」

 

「謝る?」

「私は、貴方に友人として来て欲しいと言いました。それに――」

 

調子を取り戻したのか、いつものように凛とした真剣な面持ちで阿求さんは言う。

「『お休みを出す』とも申し上げましたね」

「……!」

おや、これは。

 

「貴方が相変わらずお忙しいことは重々承知でお願いさせていただきます」

俺の目を真っ直ぐ見据え、阿求さんは告げる。

「今一度私の元で、私の手伝いをしていただけませんか?」

 

「妖怪調査の仕事ですね。構いませんよ」

 

「そうで……え?そうなんですか?」

二つ返事で頷く俺の態度があまりにも予想外だったのか、阿求さんは目を見開いた。

 

「そんなに驚くところです?」

「い、いえ、まさか即答されるとは思っていなかったので」

「いやまあ、俺としても、心残りはありましたから」

「心残りですか?」

 

「はい。結局、この仕事をしていた半年の中で一度も妖怪の山での調査をまともに出来ませんでしたからね。実を言うと、いつかはリベンジ出来たら、程度には考えていたと言いますか……阿求さん?」

実に呆れた様子で、阿求さんは嘆息し、そして口元を綻ばせた。

 

「そうでしたね。貴方は、おとなしい顔をしてそういうことをあっさりと言ってのける方でしたね」

「『山に行け』と命令を出したのは阿求さんじゃないですか。お互い様ですよ」

「まあ」

と、軽口を返す俺に阿求さんは驚くように目を見開いて、次の瞬間クスクスと朗らかに笑った。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

さて、阿求さんにそうは言ってはみたものの、だ。

 

正直なところ、妖怪の山への侵入なんて難しい話だ。

山での妖怪調査は、警備である白狼天狗に阻まれ続けて一度としてまともに決行出来たことはない。

最後に山へ赴いたのは二月近く前の話だが、その間で何かが変わったかと言うならばなんの変化もないので当然だ。

 

強いて挙げるなら、俺が飛行魔法を習得したことくらい。

日常的に練習している甲斐あって、以前のように自分の意思に関わらずただ浮き上がるだけ、よりはそれなりにマシにはなった程度だ。

 

まず確実に山への侵入を試みた俺を撃退した回数がトップであろう、白狼天狗の少女の鋭い眼光を思い出すと、背筋が冷たくなる。

いずれにせよ、妖怪の山の侵入を試みたところで、巡回警備する白狼天狗に阻まれ為す術もない。

 

 

なら、ここはアプローチを変えてみるのが順当だろう。

例えば、知り合いの山の住人に手引きを頼んでみるとか……。

 

 

 

 

「嫌よ」

「ですよね」

 

稗田邸から場所を移し、甘味処にて。

 

如何にして妖怪の山へ侵入するか、浮かんだ策を検討しながらいつもの習慣で元職場へ赴いたところ、タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど目的の少女と居合わせた。

即ち、姫海棠はたてである。

以前は俺の作る洋菓子の記事を書いていてくれたのだが、甘味処を休職し、紅魔館に住み込むようになってからは殆ど会う機会も無かった。

そんなわけで久しぶりに会えたこともあり、せっかくなのでと事情を話してはみたものの、結果は予想通りである。

当然とばかりに半眼を俺に向けながら、はたては手にした団子の串を振った。

 

「山は天狗のテリトリーで、天狗っていうのはテリトリーへの侵入者を嫌う妖怪なの。だから侵入者は即排除か追い払う。この方針は私達の総意じゃなくてウチのお偉方が決めてるんだけど、概ね同調されてるわ。だから、わざわざ人間を呼び込んでその方針にケチなんてつけたら、私の立場が悪くなるじゃない」

「そこをなんとか、無理かな?」

「絶対に嫌。そもそもあんたに協力して私に得とかあるの?」

 

確かに、これは一種の取引、交渉みたいなものだし、相手にとって有益なものを提示するのは当たり前どころか前提条件だ。

「……俺の菓子の試食が出来る」

まあ俺はその辺まだなんにも考えてなかったわけだけど。

 

「そんなのいつものことじゃない」

「むぅ」

やはり、そんなに簡単には行くわけはないか。

仕方ない。

アプローチを変えるにしても他のやり方を検討してみるとしよう。

 

と、俺が考えていると、不意にはたてが俺の名前を呼ぶ。

「それより悠基」

「ん?」

串だけになった皿を横にどけながら、はたては視線を俺の横へ動かす。

 

「その荷物って、吸血鬼の館で作ってるっていう件の新作ケーキじゃないの?」

「ん。そうだよ」

おそらく甘味処の従業員である千代さん辺りから話を聞いたのだろう。

俺は机に置いた包を正面へ動かしながらその中身を開く。

期待した様子ではたてがその中を覗き込む。

 

箱の中身は、はたての推察した通り紅魔館で作成した試作品だ。

今回作成したのは幻想郷では非常に珍しいチョコレートを生地と生クリームに混ぜ込んだチョコレートショート。

ケーキ自体の単価が高いこともあって、人里で売り出すとすればちょっとした高級品になるだろう。

ちなみにデコレーションには王道の苺を採用しているため、見た目が全体的に赤系統に寄っている。

ホールケーキで持参したそれは、稗田邸の台所を一時的に借り受けて八等分されており、その一部は阿求さんへの差し入れだ。

 

「へえ、面白い色のケーキね」

「幻想郷では珍しい材料を使ってるんだ。食べたい?」

「当然」

 

俺のケーキを目にしたはたてがあからさまに機嫌をよくする。

作った立場から言えば嬉しい光景だ。

前もって千代さんに用意してもらった小皿にケーキを一切れ装いはたてに差し出そうとする。

そこで、不意に俺はちょっとした意地悪を思いついた。

 

「はたて」

「ん?なに?」

「悪い。取引だ」

「……は?」

 

先程の会話を想い起こすような言葉に、はたては眉を顰めた。

「何を――」

「さっきの言葉を使うなら、君にこのケーキを譲ったところで俺に得はないよね」

 

あるよ!

自作したケーキの感想を聞くだけで俺的には満足だよ!

 

と、そんな思いを怪訝な顔を浮かべるはたてに悟られないように、俺は頬杖をつく仕草を装い口元に手を当てて表情を隠す。

 

「『いつものこと』だなんて君はのたまってたけど、これの材料にそれなりに珍しいもので、売れば値段だって相応になる。譲るにしたって『タダで』とは言えない」

「なっ!今まで散々記事にしてあげたじゃない!」

「それに関しちゃお互いに利益があったからだよね。こっちは宣伝が出来て、そっちはケーキが食べられる上に新聞のネタを定期的に手に入れることが出来る。でもこれは試作品で、今のところ売り出す予定は無いから、新聞の記事には出来ない。だよね?」

 

 

「グ、ぐぬぬ……このぉ…………」

眉間に深い皺を刻みながら、はたては顔を真っ赤にして俺を睨みつけてくる。

思いの他怒っているみたいだ。

 

もちろんだけど、俺の言葉は全部冗談だ。

ただ単に妖怪の山の件で素気ない態度を取られたことに対する、ちょっとした意趣返しを込めてからかっているだけ。

さすがの俺だって、そんなせこい損得勘定でこれまで築いてきた信頼関係を崩すほど愚かじゃないし、器が小さいわけでもない。

と、俺がネタバラシをしようとしたところで、ハタテは「ふん!」と鼻を鳴らした。

 

「はっ!いいわよ!別に要らないわ!そんな土みたいな色の不味そうなお菓子なんて!」

 

……カッチーン。

 

「はああああ!?よく見ろ全っ然違うだろ!?」

「は?どこが?どう見たって泥の色じゃない!」

「そんな色してないし!ていうか不味くないしめっちゃ美味いし!」

「どうだか!どうせ『珍しい』とか『ちょっと高級』ってだけで美味しいと思い込んでるだけでしょ!?」

「んなわけないだろ!?」

 

「ちょっとお二人さん」

ヒートアップする俺たちの口喧嘩の合間の絶妙な隙を狙うように、落ち着いた、しかし言い知れ用のない威圧感を感じさせる声がかけられる。

二人揃って声のした方を見ると、千代さんが立っていた。

 

浮かべた表情はいつものように朗らかな笑みのはずなのに、有無を言わせぬ迫力を感じて俺は思わず息を呑んだ。

頭の天辺から急激に体が冷めていくような錯覚を抱く。

「もう少し静かにしてくれる?他のお客さんに迷惑だから」

「は……はい。すいません」

「……ふん」

 

「じゃあ、よろしく、ね?」

釘を刺すような言葉を残し、千代さんはスタスタと去っていく。

その背中をドキドキと見送りながら、彼女は怒らせないようにしようと俺は肝に銘じることにした。

 

「…………ちょっと大声出しただけじゃない」

はたては腕を組んでブウたれているが、声量はずいぶんとおさえられている。

さしもの彼女も険のある態度はなりをひそめている。

 

さて、うっかり熱くなってしまったけれど、そもそも意地の悪いことを言い出した俺が原因だ。

俺は姿勢を正しながらはたてに向き合う。

「ごめん、はたて」

「なっ、なによ」

不意の謝罪に驚いた様子で、はたては目を丸くした。

 

「いや、さっきのは意地が悪かったよ。本気で言ってたわけじゃないから、この通り、水に流してくれないかな」

そんな文言を口にしながら、俺はそっとチョコレートケーキを装った小皿をはたてに差し出した。

「…………そ」

ジト目になってケーキを見つつも、はたては呟くようにそう返した。

 

それからフォークを手に取り、彼女は言う。

「別に、嘘ついてることくらい、分かってたし」

「へぇ?本当に?」

 

「顔を隠したってバレバレなのよ」

「そんなに?」

「そうよ」

「そうかい……ん?じゃあ、どうしてムキになったのさ」

 

「別に」

はたては短く応じて、チョコレートケーキを口に入れた。

「……美味しいわね、コレ」

 

あからさまに話を逸らされたが、まあ気にするまい。

それ以前に待ちかねていた感想の言葉を聞いて、俺はついつい口元を綻ばせていた。

「だろ?」

「…………」

 

さてと、それはともかくとして、どうやって妖怪の山に侵入したものか。

はたての助力は難しいみたいだし、だとすればもう一人の烏天狗、文を頼ってみようか。

といってもこちらも望み薄だろう。

 

などと、腕を組んでぼんやりと策を企てる。

そんな俺を、どういうわけかはたてはケーキを口にしながらもずっとジト目を向けてきていた。

 

 




紅魔館に住み込むのくだりは四十七話以降、人里で子供が攫われたのくだりは四十二話より、幽霊楽団のくだりはボツネタ。ルナサとリリカもその内出てきます。『お休みを出す』は四十話より。白狼天狗の少女=主人公視点では主に犬走椛を指す。主人公は彼女の名前を知らない。主人公と椛のほのぼのとした交流は三十八話にて。

更新に間が空きがちなので、必要かどうかは置いといて補足もどきを前回から書き記しております。補足という名の誘導かもしれません。


名前:姫海棠はたて
概要:初登場二十一話。ダブルスポイラー自機、他。『念写をする程度の能力』。
当作における彼女は、あまり引きこもりではない代わりに能力の念写描写が皆無という原作と比較して無個性方面に舵を切られつつある少女である。取材時のスタンスは「面白ければOK」という身も蓋もない印象を受けるものの、打って変わって記事の内容は意外と、そしてかなり堅実。食レポもこなす。主人公からは見ていて飽きない友人として見られている模様。


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六十話 夏空の下の冬

雑木林から届く蝉の声はけたたましく、早朝にも関わらず太陽の光は熱さを帯びて地上に降り注いでいた。

 

六月も終わりを迎える頃合い。

梅雨は長くは続かず、空は爽やかな青に満たされていた。

季節はすっかり夏。

既に紅魔館に移り住んで二月以上が過ぎた頃合い。

 

その日の早朝も、俺は薄い霧の中を湖沿いに走っていた。

体力作りの一貫で始めたこの習慣も意外と続いていた。

平均気温はここ数日でグンと上がったが、日中は霧が立ち込めるこの湖の周辺は肌寒いくらいで、どちらかと言えば快適だ。

 

なんだかんだと、湖の住人であるわかさぎ姫(相変わらず陽気でのほほんとしていて心配になる)や周辺の妖精たち(ただしチルノには要注意)との交流や、洋館に住むプリズムリバー楽団の演奏を聴いたり(というよりも聴き流すように意識しないとすぐにアてられるが)と、俺は存外この習慣を楽しんでいるらしい。

出る際に美鈴に『気』を操ってもらうおかげですこぶる調子がいいし。

 

それにしたって、幽霊楽団の演奏を楽しむなんて、紅魔館に来た頃と比べるとなんていうか随分と余裕が出てきている。

これもここでの生活、特に紅魔館で過ごしているおかげだろうか。

なんというか、我ながら豪胆になったものだなあ、と。

 

 

「わっ!」

!?

「うっぉ」

 

不意にかけられた声に転びそうになった。

 

「び、っくりしたぁ……」

我ながら豪胆などと考えていたくせに軽い悪戯にあっさりと驚かされた俺が振り向けば、身長差のある俺の背中に触れるためか宙に浮いた少女がくすくすと笑っていた。

 

「おはよーございます。悠基さん」

「おう、おはよう大妖精」

見知った顔の少女に俺は表情を緩めながら挨拶を返す。

大妖精は柔らかい草地に降り立つと、後ろ手を組んで数歩俺に近付いてきた。

必然的に上目遣いで俺を見つめる彼女は「今日も成功ですね」

 

「いや全く、相変わらずお前は驚かせるのが上手いな」

大人しい顔立ちで言動もこそ礼儀正しいものの、彼女もまた悪戯好きの妖精だ。

ほとんど挨拶のように、俺は彼女に毎度驚かされている。

 

一応は警戒しつつ考え事をしていたつもりだったが、今回も接近されていることに全く気づかなかった。

気配を悟らせること無く走っている男に追いつくとは、この大妖精、実はかなりのやり手なのかもしれない。

 

「悠基さんも結構敏感な方なので驚かし甲斐があるというものです」

「おう、ありがとな」

胸の前で両の拳を握る大妖精の微笑ましい仕草に思わず顔を綻ぶ。

調度いい位置に頭があったので軽く撫でてやると、くすぐったいのか頬を赤らめながら大妖精は首を竦めた。

 

とはいえ、特に拒絶する様子はなし、嫌というわけではないのだろう。

どこか居心地が良さそうに目を細める大妖精の様子を見ていると、驚かされたことで早まっていた動機が落ち着いてくる。

 

それにしても、こうしてると寺子屋に勤めていたころを思い出す。

子どもたちは元気にしているだろうか。

……と思いを馳せてみるものの、普通に先週人里へ行った際に会っているので、別に懐かしむほどのことではなかったな、うん。

 

「そういえば悠基さん」

ふいに思い出したように大妖精が瞼を開いた。

 

「うん?」

「ずっと前にレティさんを探してましたよね?」

「レティ?」

 

久しぶりにその名前を聞いた。

阿求さんの依頼で――半ばダメで元々とはいえ――探していた妖怪の名だ。

文明レベルが百年も前であり、凍死者こそ出ていないものの気候の変化が死活問題になりかねない人里の事情もあって、冬の気候について寒気を操るレティに何か話を聞けないかと考えていたのだが、結局は接触は叶わなかった。

もう半年前のことだが、その折にチルノが師匠と称していたことを思い出す。

 

思い出すと言えば、大妖精もよく俺がレティ・ホワイトロックを探していたことを覚えていたものだ。

「ああ、そうだけど、そのレティがどうかしたの?」

 

「今、いるんです」

「いる?」

「はい。チルノちゃんのお家に」

「…………へぇ」

 

大妖精の言葉に、俺は逡巡するでもなく無言で佇み、暫く後におもむろに空を見上げる。

霧があるとはいえそこまで濃い霧ではない。

白濁の向こう側には澄み渡っているであろう群青が広がっている。

 

レティは寒気を操る妖怪と言われ、冬に目にするそうだ。

代わりに春や夏といった季節の目撃情報はほとんど皆無で、一説によるとその力が大きく弱まっているため住処に篭っているだとか、冬眠ならぬ夏眠をしているだとかで、ともかくにしろ夏場にお目にかかることはないと阿求さんは見立てていた。

 

まさしく夏真っ盛りなやかましい程の蝉の声を聴きながら、俺はポツリと呟いた。

 

「……マジかー」

他に口にして然るべき言葉はいろいろあったのだろうが、なんとも、間の抜けた感想しか浮かばなかった。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

チルノの住処は湖から少しだけ歩いたところにあるらしい。

もう夏本番を目前としているのに、その周辺だけは異様な冷気が漂っており、軽装のまま訪れていれば後悔したことだろう。

 

しかし、都合三度もチルノに氷漬けにされ、彼女の発する冷気の恐ろしさを身を以て味わわされていた俺は、大妖精から話を聞いた後に一旦紅魔館に戻り防寒用の装備を揃えてきていた。

隣を歩く大妖精も、以前俺がプレゼントした防寒具を身に着けたている。

 

そんな彼女に案内され暫く歩いていると、次第に氷と雪で覆われたドーム状の物体が凍りついた雑木林の中に見えてきた。

 

……というか、かまくらだった。

ついでに言えばそのかまくら、蝉の声も周辺の蒸し暑い空気も燦燦と照りつける太陽光など関係ねえとばかりの存在感を放っていた。

間違いなく冷気の発生源はあのかまくらからだ。

 

入り口があるところを正面とするならば、俺たちの方向からみたそのかまくらはやや右側を向いておりその中がどうなっているか分からない。

足を止めた大妖精がその物体を指差す。

 

「あそこです」

「凄いな……あんなの作れるのか」

妖精としては規格外なチルノの力。

この暑い中であんな物を作るその力を改めて見せられた俺が感心しつつ呟くと、大妖精が俺の袖を引いた。

 

「いつもはもっと奥に洞窟があって、チルノちゃんはそこを冷やして住んでるんです。でも今はレティさんがいるから」

「あれはレティの力のおかげってこと?」

「ここだけこんなに寒いのも、チルノちゃんだけじゃなくてレティさんが手伝ってるんだと思います」

「なるほど。似たような能力だからこんなことも出来るってわけか」

「はい。それじゃあ、行きましょうか」

「うん」

 

ある程度近付いたところで、大妖精が小走りになって入り口の穴へ近付く。

「チルノちゃん」

一応は女子の住むところというのもあるし、大妖精なりに気を遣ったのかもしれない。

大妖精の呼びかけに応じる声はないが、中を見た大妖精は俺の方を振り向いて「大丈夫です。来てください」と、少し声を小さくして言った。

大妖精の行動を少々不思議に思いつつも、彼女後に続き俺も中を覗いた。

 

かまくらの中心に横たわる二人の人影。

一人は湖周辺に住んでいることもあって馴染みのあるチルノで、すやすやと眠っていた。

大妖精が声を潜めたのは彼女を起こさないようにという配慮だろう。

 

そして、チルノ同様に目を閉じ眠っている様子の少女。

大人びた顔立ちをしたその少女は、チルノの背中の羽が邪魔であるにも関わらず、チルノを背中から抱きしめる形で眠っていた。

髪が同系色なせいか、一見すると年の離れた姉妹が仲睦まじく一緒に眠っているようにも見える。

どこか儚い印象を受ける眠り顔は美しく、まじまじと見つめているのも失礼な気がして俺は目をそらした。

 

「あの人が?」

「はい」

隣に並ぶ大妖精は、俺の問いかけに頷きつつも視線を向け続けてくる。

視線で「どうしますか?」と問いかけくる大妖精に、俺は軽く頭を掻いた。

 

気持ちよさそうに眠る二人をわざわざ俺の都合で起こすのも申し訳ない。

「出直すよ」、と応じようと口を開きかけたところで、不意に「ん~」と唸るような声が聞こえてきた。

 

チルノが身動ぎし、様子を見守る俺たちの目前で薄っすらと目を開いた。

どうも起こしてしまったらしい。

「大ちゃん?ゆーき?」

 

「おはよ、チルノちゃん」

まだ眠ったままのレティを配慮したのだろう、大妖精は囁くように挨拶した。

 

「んあ?」

寝ぼけた様子のチルノは、起き上がろうとしたのかもぞもぞと動き、自分がどういう状況なのかしばらくしてから気づいた。

「あー……」

自分の体に巻き付いたレティの腕を少しの間見つめた後、相変わらず眠そうな目で「師匠~」とぼやくように言った。

 

「おーきーてー」

「んー…………」

抱枕にしていたチルノの訴えにレティも瞼を揺らす。

少ししてゆっくりと瞼を開いた彼女の薄紫の瞳と目があって、思わず俺は唾を呑んだ。

 

話こそ聞いてきたものの会うことは叶わなかった、探し続けていた彼女との初の邂逅だ。

なんだかんだで俺は少し緊張していたらしい。

こんな美人だとは聞いてなかったし。

 

だが、レティは固まる俺を見ても反応を示さない。

どころか、再び瞼を閉じると、顎の下に収まっていたチルノの頭に頬ずりをしながら、ゆっくりとした口調で言う。

 

「あと五分~」

……これまたベタな。

随分気の抜けた言葉に俺は思わず脱力する。

 

と、そんなレティの腕から逃れようとチルノは若干抵抗を強める。

「レティー離して―」

「駄目よーチルノ」

「なんでー」

「修行って言ったでしょー?」

なんとも間延びしたテンポで会話する二人に、こちらも緊張したのがバカバカしくなってきた。

ほのぼのとした光景に俺は思わず苦笑を漏らす。

 

「修行?」

レティの言葉に大妖精が首を傾げると、未だにレティに捕まったままのチルノが威勢よく頷いた。

どうやら完全に目を覚ましたらしい。

 

「そうだった!こうしてレティとくっついてるとあたいの力がパワーアップするんだよ!」

「へえ、そんなことがあるのか」

普通に感心する俺だが、直後に気付く。

それってつまりこれまでにされてきたチルノの攻撃(イタズラ)が悪化するということじゃないか?

と、俺が眉を顰める目の前で、自慢げに修行だとのたまっていたチルノは元気よく言い放つ。

 

「でも飽きた!」

「チルノちゃん……」

どこか呆れたように大妖精が苦笑した。

 

「もう、それじゃあ修行にならないじゃない」

「でもレティ、こうしててもつまんないよ」

「我慢しなきゃ意味ないでしょー」

「むぅ……」

 

まあ、レティの言うことはもっともかもしれないけれど、そうは言ってもチルノは子供だ。

多少飽きっぽいのも仕方のないことだろう。

 

「あの、レティ――」

と、俺がチルノに助け舟を出そうとしたところで、レティは再びチルノの頭に頬をすり寄せる。

「はぁ~、しゃっこくて気持ちいいわ~」

あれ?

これってどう見ても……。

 

「レティさん、もしかしてチルノちゃんを抱枕にするために嘘ついてません?」

俺の思ったことをそっくりそのまま大妖精が問いかけた。

戸惑いがちなその問いかけに、レティは悪びれもせずに微笑む。

「そんなことないと思うわ。多分」

 

……これ、完全に開き直ってるというか、最初から隠す気ないな。

 

「そうだぞ大ちゃん。師匠は愛弟子に嘘なんてつかないんだぞ」

この場でただ一人、レティの言葉を信じ切った様子のチルノが自信満々に言った。

思い出したように「師匠」呼びする彼女の様子に、俺は思わずため息をつく。

 

「あー……チルノちゃんがそれでいいなら別にいいかぁ」

さしもの大妖精も苦笑を浮かべる。

どうやらそのままチルノを放っておくことにしたようだ。

 

まあ、その内我慢できなくなってレティの腕から自分で脱出するだろう。

俺はそう結論付けると、改めてレティに向き合う。

 

「レティ、お休みのところすまない」

「ん~?人間の男が私に何か用?ていうか貴方だあれ?」

レティの問いかけに、俺は自己紹介をしようとして、それを遮るようにチルノが声を上げた。

 

「悠基だよ!」

「ゆーき?チルノの友達なの?」

「うん!」

 

元気いっぱいにチルノが首肯した。

躊躇いなく断言する彼女の様子に俺が思わず笑みを漏らしていると、更にチルノが補足する。

「お菓子くれるんだ!あと凍らせると消えるけどまたひょっこり出てくるんだよ!」

おい後者。

ていうか、その説明の仕方だと誤解されかねないんだけど。

 

「あらぁ、人間と思ったけど妖精なのね貴方?」

案の定のほほんと誤解するレティに俺はため息混じりに「違います」と否定した。

 

大妖精が助け舟を出す。

「悠基さんはそういう能力があるってだけで、普通の人ですよ」

「そうなの。それで、その人間さんが私になにか御用?」

相変わらずチルノを抱枕に横になったままの姿勢でレティが言った。

 

なんともマイペースな彼女の態度に脱力しつつも、俺は気を取り直すように咳払いをする。

できれば、今のうちにレティに尋ねたいことがあった。

 

以前、俺がレティ・ホワイトロックを探していたのは、人里にとって益になる気候について、彼女から何かしらの情報を得られないかと画策していたからだ。

しかし、夏真っ盛りで弱体化しているらしい今のレティからは――現に、目の前の彼女はリラックスこそしているがどこか気だるげにも見える――そういった情報は得られないだろう。

だが、季節が巡り次の冬が来た折には話を聞けるようにはしておきたい。

今のうちに仲良くなっておこうと、そういう打算的な考えがあるにはあった。

 

とはいえ、現状俺がレティに尋ねたいのは、そのこととは別件だ。

「レティ、君は妖怪の山に住んでいるのかい?」

「山?まあ、しばらく滞在することはあるわね。どうして?」

「冬場にチルノから君が山に向かったと聞いたもんでね」

 

「そんなことあたい言ったっけ?」とレティに捕まったままのチルノが首を傾げた。

そういえば「妖怪の山」と言ったのは大妖精かもしれないが、まあそこは問題ではない。

 

「なあに?私の家に用事でもあるの?」

若干ずれたレティの予想に俺は首を振った。

「生憎だけど、俺が興味があるのは山の方」

「まあ、山に?」

「そう。山に」

 

「ふぅん。人間には無縁のところだと思うけど、山がどうしたの?」

「……単刀直入に聞くけど」

でもって、無謀を承知で聞くけど。

「妖怪の山に侵入する方法を知りたい」

 

探るように俺を見据えていたレティの目が丸くなり、その後細められた。

「貴方、あれね?」

「あれ?」

「あたまのおかしな人間」

直球ぅ……。

 

まあ、客観的に見ればそうなるよな。

レティの言葉に胸を抉られながらも、俺は苦笑を浮かべる。

「自覚はあるよ。とはいえ、簡単に諦めるのもなんなんでね」

「そ。じゃあ教えてあげるけど、そんな方法はないわよ。あそこの白狼天狗には優秀な子がいるからね。妖怪ならお情けで通すかもしれないけれど、人間の侵入者を見逃すことはないでしょうね」

 

個人を指すようなレティの言い方に、俺は一人の白狼天狗の少女の顔を想い出す。

「……わかってるけど、それでもなにか手立てなり方法なりないかと探しているところなんだ」

「時間の無駄だと思うわ」

レティの返事はすげないもので、少なくとも彼女からこれ以上話を聞くのは難しそうだ。

 

「……そうか。うん」

期待こそしてはいなかったものの、もしかしたらという思いが全くないというわけではなかった。

再開してからも変わりのない妖怪の山侵入計画だが、今回も結局進展はゼロらしい。

「わかった。話をきいてくれてありがとう」

と、礼を言いながらも肩を落としたその時、チルノが声を上げた。

 

「ねえ師匠、悠基も色々頑張ってるみたいだしさ、助けてあげてよ」

「――チルノ?」

予想外の応援だった。

 

目を丸くする俺だが、驚いたのはレティも同様らしい。

「あらチルノ、貴女がそんなこと言うなんて思わなかったわ」

「そう?」

「ええ。とっても意外」

「そうかなあ?」

 

「あの、レティさん!私からもお願いします!」

首を傾げるチルノに代わって、今度は大妖精が声を上げる。

「大妖精……」

 

「そんなにその人間を助けたいの?」

「はい。悠基さんには私もチルノちゃんもいつもお世話になってるので、なにかお手伝いをしたいんです」

 

「えー?あたいは別に悠基にお世話なんてされてないよー」

「チ、チルノちゃん!」

「でも悠基が困ってるってんなら、私は友達だからね。助けてあげなきゃ」

 

……ああ、全く。

普段の行いはえげつない悪戯ばかりだというのに。

こんな時だけ健気で、頼もしい。

「…………お前たち……」

 

些細なことかもしれないが、それでも俺は感極まって思わず俯いた。

こういうのには弱い。

 

「随分とまあ、好かれてるのね、貴方」

「……おかげさまで」

何が「おかげさま」なのかはともかくとして、俺はどうにか緩みかけた涙腺を締めなおすと顔を上げた。

 

「レティ、なんでも構わない。山について、君が知っていることを教えて欲しい」

「このとおりだ」と、俺は頭を下げた。

 

正直なところ、それでレティが応じてくれるとはあまり思わなかった。

どちらかといえばその行動は、俺を援護してくれたチルノと大妖精の言葉に誠意を持って応えたいという意図が強かった。

果たして、チルノたちの言葉で気が変わったのか、それともその行動の誠意が伝わったのか。

 

そのままの体勢で反応を待っていると、ごそごそとレティが身動きする音がした。

「そうねえ。私はやっぱり無駄だと思うけど」

顔を上げると、チルノを器用に抱きしめたままながらも、レティは上半身を起こして俺に向き合っていた。

 

「面白いものも見れたし、ちょっとくらいなら教えてあげてもいいわ」

「師匠!」

「レティさん!」

レティの言葉にチルノと大妖精は自分のことのように目を輝かせる。

そんな二人の様子に思わず口元を綻ばせながら、俺はレティに再度頭を下げた。

 

「ありがとう、レティ」

「別に、礼を言われるほどのことじゃないわよ」

目を細めて澄まし顔でレティは応じるも、ふと思いついたように「あ」と小さく声を上げた。

 

「でも、せっかくだし、ただというわけにはいかないわ」

「?」

一瞬不穏な予感を抱いた俺だが、知り合ったばかりのレティの微笑みは、反して安心感を抱かせた。

 

「お菓子よ」

「お菓子」

「ええ。さっきチルノが言ってたお菓子、私にも頂戴な」

 

「あ、あたいもー!あたいも欲しい!」

「チルノちゃん……」

レティの提案にチルノが早速とばかりに手を挙げて、それを大妖精が困ったように諌める。

結局終始チルノを抱きしめたまま、俺を見据えて微笑むレティに、俺も笑みを返す。

 

「ああ、もちろんだ」

 

 




前回から少し時間が飛びつつあります。主人公早朝ランニングの習慣は五十話から。主人公のレティ捜索は十話からです。優秀な白狼天狗は三十八話のあの子。そして結末はいつものほのぼのお菓子パターン。


今回は新作自機おめでとう!な彼女の紹介です。

名前:チルノ
概要:初登場十話。紅魔郷ニ面ボス、他。『冷気を操る程度の能力』、他。
当作における彼女は原作よりも精神年齢が幼い。最強の妖精でありその能力は人間はもちろん妖怪にも対抗しうる。見た目も中身も子供なこともあり、主人公は基本的に甘やかしてはいるものの、凍りづけにされたこともあるので同時に警戒もしている。チルノにとっての大ちゃんは親友。レティは師匠。主人公はお菓子くれる人。


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六十一話 お茶会と提案

「暑っつ……」

殺人的な日光の下、うだるような暑さに汗を滴らせながら、誰に向けたものでもない呟きが自然と溢れる。

 

燦々と降り注ぐ太陽の光は、美鈴に進められた麦わら帽子をしていても目を細めてしまう程に眩しい。

そんな陽の光を少しでも和らげるように、俺より背の高い向日葵の影を通りながら歩いていた。

 

太陽の畑と呼ばれる一面の向日葵畑。

その一角に居を構える太陽の畑の所有者の少女、風見幽香の家の赤い屋根が向日葵の合間に見えてきた。

右手に洋菓子の入ったバスケットを携え、俺はようやく陽の光から逃れられそうだと息をついた。

 

一軒家の建つ開けた空間にたどり着いた俺は、真っ直ぐ幽香の家に近づきドアをノックする。

春に起きた異変の折、強襲してきた少女に破壊されたドアだが、数週間前に新しいものに取り替えたおかげで周囲の壁と比較してそこだけ真新しい。

屋根の影に入ったことで幾分か和らいだ暑さにほっとすると、ノックに反応した足音が家の中から聞こえてきた。

 

……軽快な足音は子供のものだろう。

家主の幽香ではないが、まあ予想はつくので数歩下がって大人しく待ち構えることにする。

直後に、外開きのドアを押し開いて家の中から思った通りの少女が顔を出した。

 

「来たわね人間!」

「ようメディスン。元気そうだな」

 

メディスンは鈴蘭畑に住む妖怪だ。

太陽の畑の妖怪でもないし、幽香の同居人というわけでもない彼女がなぜ俺を出迎えたのかというならば、春の異変以来、幽香とお茶を呑む際にしばしばメディスンが同席するようになった、というだけのことだ。

俺から見た幽香とメディスンの関係は、一応は友人ということになるだろう。

見たところ仲が悪いということもなく、見ようによってはなんとなく年の離れた姉妹を思わせる。

 

「ねえ、ケーキは!?」

「……お前が寺子屋の子だったら頭突き確定だったな」

 

俺の挨拶を完全スルーしてくれるメディスンにぼやきながら、俺は右手のバスケットを掲げてみせる。

「まあいいや。ほら、持ってきたよ」

顔を輝かせたメディスンはそれを受け取ろうと手を伸ばす。

だが、その手から逃れるように俺は更に高い位置へと荷物を掲げた。

 

「む、なによ」

「いつも言ってんだろ。『人間』じゃなくて、ちゃんと名前で呼べって」

「なによケチ!」

「ケチで結構。じゃあメディスンはこれお預けな」

「むぁー!なによー!」

「なんだよ『むぁー』て」

 

ムキになって高く掲げたケーキに背伸びをするメディスンだが、さすがに俺との身長差があるので届く気配もない。

そうは言っても、分厚いドア板を蹴り一つで真っ二つにした前科を持つメディスンだ。

彼女がその気になれば俺から荷物を力づくで奪うことなんて容易だろう。

だが、そんなことをすれば中身のケーキが崩れてしまうかもしれないし、それ以前に家の中で暴れることに関しては家主からの禁令が出ているためそうもいかない。

 

さしものメディスンも幽香には逆らえないらしい。

おかげさまで、この家の中であれば俺はメディスンを普通の子どもと同じ様に扱うことが出来るのだ。

まさしく虎の威を借る狐だが、自分で言うのもなんだけど俺は(ドア板を真っ二つには出来ない程度に)か弱いから仕方がないだろう。

 

そんなわけで、メディスンをおちょくっていると、呆れたように声をかけられた。

「貴方、いつもこんなことしてるの?」

「ん?」

見ると、丸テーブルの向こうに、椅子に腰掛けこちらを眺めてくる少女の姿。

 

「リグル?」

ショートヘアに服装も相まってボーイッシュな印象を受ける少女は、丸テーブルに頬杖をついてこちらを半眼で眺めていた。

意外な先客に目を丸くし固まっていると、その隙をついてメディスンが俺からバスケットを奪取した。

 

「はっはっはーざまぁ見なさいよ!」

したり顔で俺の手荷物を両手で掲げるメディスンは、そのままキッチンの方まで小走りで駆けていく。

 

「……ひっくり返すなよー」

キッチン部屋へと消えていくメディスンに一応注意しつつ、俺はリグルのいる丸テーブルに近付いた。

丸テーブルに並べられた四つの椅子、リグルから見て右隣の席に腰掛けながら俺はリグルに問いかける。

 

「驚いた。君も来ているとは思わなかった」

「あら、幽香と知り合いだったってことには驚かないのね」

「まあ聞いてたし」

花と虫という、それぞれが操る生物の性質からして何かと縁があるらしく、幽香の口からリグルの名前が出て来るということがしばしばあった。

 

「そういえば、君の虫たちはここには来てないんだな」

流石に家の中にまで来られるのは恐怖でしか無いが、幸いなことに彼女が連れ歩いている夥しい蟲はこの場には見当たらなかった。

 

「外で遊んでるわよ。そういえば、この家の花壇にある花って貴方が育ててるんだって?」

「まあ一応はそうだけど、基本的には幽香が世話してるよ」

幽香の家の裏庭の土地には石で組まれた簡易的な花壇が作られている。

 

冬場に収穫の難しい苺を幽香に依頼した折に、その対価として作成したものだ。

春が来て幽香に苺を依頼する必要はなくなったが、今でも幽香の家に訪れる度に、愛着の沸いたその花壇の整備をしている。

元の世界の実家にも庭があり、いくつかの花を育てていた。

その習慣を振り返るように幽香の家の花を世話している時間は、なんとなしに落ち着く時間でもあったり。

 

元の世界……俺が消えてからもう半年をとっくに過ぎている。

実家の庭は、もしかしたら親戚が管理しているかもしれないが、それなりに大変だし望みは薄いだろう。

枯れてしまっているというのなら、それは仕方のないことだと割り切ろうとはするものの、それでも残念に思うのは仕方がない。

と、考えも仕方がないことに想いを馳せようとしていた俺に、リグルは口端を上げた。

 

「いい感じに育ってるじゃない」

「それは幽香に……いや、そりゃあどうも」

「花の蜜、貰ってるわよ」

「ああ、構わないけどほどほどにな。多分枯れるようなことはないと思うけど」

「そんなことしたら幽香に何されるかわからないわよ」

 

肩を竦めるリグルの言葉に、俺は苦笑を浮かべる。

「別に大した事されないって……お、噂をすれば」

 

気配を感じて見てみれば、キッチンからリグルがお盆を手に出てくるところだった。

その後ろにはご機嫌な様子のメディスンがケーキの乗ったお盆を持っている。

微笑ましい光景に頬を緩めつつ、俺は軽く手を上げる。

 

「こんにちは幽香。お邪魔してるよ」

「ええ、いらっしゃい悠基」

 

相変わらず穏やかな微笑を浮かべる幽香とメディスンを手伝って手早く配膳を済ませると、早速とばかりにいつもより人の増えたお茶会が始まった。

ちなみに今日のケーキはオレンジベースのティラミスだ。

甘さとほどよい酸味付けは、この暑い季節には打ってつけだろう。

人数が増えることを聞いてはいなかったが、あらかじめ切り分けないでおいたのは正解だった。

 

「あら?」

嬉しげにケーキを頬張るメディスンを眺めていると、不意にリグルが声を上げた。

 

見れば俺が作ったケーキを目を丸くして眺めるリグルが口元に手を当てている。

「これ、冷えてるわ」

問いかけるようにリグルは視線を俺に投げかけてきた。

 

つい先程まで炎天下の中を歩いていた俺の荷物だ。

不思議に思うのも当然だろう。

「ああ、それはパチュリー様……俺の勤め先の魔法使いが作った魔道具のおかげでな」

 

空中に両手で正方形を描いてみせる。

ちょうど持って来たバスケットにすっぽり収まる程度の大きさだ。

「これくらいの箱なんだけど、魔力を込めることで暫くは中に入ってるものを冷やすことができるんだ。俺が作るお菓子はこの暑い中だとすぐに傷んでしまうからな」

つまりは、電力の代わりに魔力で稼働する小型の冷蔵庫のようなものだ。

 

気温の関係で甘味処を休職中の俺としては、是非ともその技術を習得して洋菓子作りに活かしたいところだ。

そんなわけで最近は、パチュリーや小悪魔からのアドバイスを貰いつつ魔導書片手に気温を操る系統の魔法を練習中でもある。

 

「そういえば、貴方も魔法を使えたわよね」

「まあね」

「こういう風に物を冷やす魔法も使えるの?」

「このレベルになるのはまだまだ当分先らしいけど――」

 

不意に視界の隅でメディスンが動いたのが見えた。

どうやら俺が話に夢中になっていると見たようで、右隣のメディスンが俺のケーキに向かってフォークを伸ばしてきたので、そのフォークを取り上げる。

 

行儀が悪いなあ。

内心嘆息しつつも、リグルと会話を続ける形のまま、つまみ食いに失敗して顔を歪めるメディスンに右手を掲げる。

「一応こういう魔法は覚えたよ」

 

目を丸くするメディスンに至近距離で放つ形で、俺は比較的最近習得した魔法の名を唱えた。

「冷風魔法『クーラー』」

 

由来はもちろん、その名で呼ばれることの多いこの季節必須の家電だ。

右手に集めた少量の魔力を冷気に変換して放つ程度の――しかしこれがかなり難しい――言ってしまえば冷風を掌から発生させるだけの魔法だ。

しかも、冷風といってもそこまで冷たいわけではなく、どちらかと言えば涼風と言った表現が正しいだろう。

だが、そんなものを至近距離でいきなり受けたメディスンは声を上げて飛び上がった。

「ひゃうぅ!!」

 

「とまあ、こんな感じ」

「涼しそうな風ね」

椅子から転げ落ちるメディスンがよほど面白かったのか、クスクスと笑いながら幽香が言った。

 

「実際この季節に使うと気持ちいいいもんだよ」

と言っても、まだまだ練習中の魔法であり、今はまだ燃費が悪くて十分も使用すれば俺の魔力が底をついてしまうというのがパチュリーの見立てだ。

ケーキを冷やすための魔道具に供給する魔力が必要だったこともあり堪えてはいたものの、炎天下で魔法を使えば一時とはいえ涼むことができるという誘惑は中々に抗いがたいものだった。

 

「ねえねえ私にもー」

と、リグルが自分を指差したので、「はいはい」と左手を翳せば、出力を抑えた冷風魔法にリグルは心地よさげに目を細めた。

「どうだい?」

「いいわね、コレ」

 

「こんのぉ……よくもやってくれたわね人間!」

と、ここで立ち上がったメディスンが声を上げた。

眉間に皺を寄せて睨んでくる彼女に、俺もリグルへの冷風魔法を続けながら応じる。

 

「メディスン、行儀が悪いのは良くないよ。これは俺の分だ」

俺の目の前の小皿によそおった、まだ一口しか無いケーキを指差してみせると、メディスンは口を尖らせた。

「だってちょっとしか食べてないじゃない。いらないなら私が貰ってあげようと思ったのよ」

「勝手に人の分を取るんじゃありません。お前の分はどうしたんだ」

「そんなの美味しくてすぐなくなっちゃったわよ!」

「お……そ、そうか」

 

ちょっと人が説教しようってときに自慢の品(ケーキ)を褒めて不意をつくのはやめてほしい。

不覚にも浮かれそうになり調子が狂った俺が口籠ると、代わりとばかりに幽香が口を開いた。

 

「メディスン」

「な、なによ、幽香」

「この家にいる以上、最低限のマナーは守ることって言ったわよね」

「う…………わ、判ったわよ」

 

幽香の言葉には逆らえないのか、葛藤する気配を顔に出しながらも、メディスンは不承不承と頷いた。

 

「それから、『人間』じゃなくて『悠基』よ。きちんと名前で呼びなさい」

「ぐぬぬ…………呼べば良いんでしょう呼べば!ふん!」

態度は非常に反抗的だが、幽香の言葉に素直に頷くメディスンを見て、俺はしみじみと思う。

 

やはり、上下関係ははっきりしているらしい。

と、そう結論付ける俺の目前で、腕を組んでそっぽを向くメディスンに、幽香は楽しげに微笑を浮かべていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

ケーキも食べ終えて、幽香が淹れた絶品の紅茶を呑んで一息ついたところで、リグルが「それで」と頃合いを見計らったように話を切り出した。

「どうして私は呼ばれたのかしら?」

幽香は小首を傾げるようにして茶化しながらそれに応じる

「あら、食事をするなら人が多い方が楽しいって――」

 

そりゃまた、可愛らしい発想だなあ。

「――悠基が言ったのよ」

「俺か」 

可愛らしいとか思った手前、若干恥ずかしい。

言ったっけ……。

 

「まあそれは冗談として、もちろん貴女に来てもらったのは他に理由があるわ」

「碌なお願いじゃない気がするわ……」

半眼になりながら、リグルは幽香から遠ざかるように僅かに身を引かせた。

何をそんなに警戒してるんだろうかと俺は不思議に思いつつも紅茶を啜った。

 

「リグル、貴女に悠基の手伝いをしてほしいの」

…………俺?

向けられる幽香の視線を受けて、不意に名前を挙げられた俺は紅茶を啜った体勢のまま固まった。

話をしていたリグルだけでなくメディスンの視線も向けられ、自然と注目を浴びることになる。

 

「手伝い?」

一時の静寂の後に、最初にメディスンが口を開く。

「ええ、そうよ」

 

「どうしてまた」

眉根にシワを寄せるリグルが幽香を見ると、幽香はことも無げに言ってのけた。

「強いて言うなら、面白いから、かしら」

「やっぱり……碌なお願いじゃさそうね」

「あら、そうとは限らないじゃない」

 

「…………」

幽香の言葉を不審がるように、リグルは「どういうつもり?」と問いかけるような視線を再度俺に向けてくる。

だが、突然の幽香の言葉は俺にとっても青天の霹靂だ。

真意の読めないままにカップを置いて、今度は俺が質問を投げる。

 

「えっと、そもそもなんだけど手伝うって、何を?」

「なんだと思う?」

この場の微妙な空気を楽しむかのように微笑みを絶やさない幽香が首を傾げてみせるので、俺は逡巡の後、「まさか」と半信半疑ながらも思い浮かんだ言葉を告げる。

 

「…………妖怪調査」

「正解」

 

阿求さんの仕事に復帰することが決まり始めた妖怪の山の調査。

レティ・ホワイトロックを始めとして妖怪からいくらかの情報は集まりつつあったが、未だに直接足を踏み入れるに至らない。

そんな近況を、幽香とのとりとめのない話の中で相談混じりに話したことがあった。

 

だが、まさかその助けをリグルに求めるとは、一体幽香は何を考えているのだろう。

「妖怪調査ぁ?」

頓狂な声を上げるのはご指名がかかったリグルで、机に手を置いて立ち上がった彼女は俺と幽香を交互に見る。

 

「な、なんで私がそんなことを手伝わないといけないのよ!」

「だって、貴女の虫たちの情報を集める力は便利じゃない。きっと悠基の助けになるわよ」

確かに、妖怪調査をする上でリグルの虫たちによる広範囲の情報を収集する力は役に立つだろう。

 

とはいえ、そもそも人里の住民が妖怪の対策をするための書、『幻想郷縁起』を記すための妖怪調査だ。

「私が悠基を手伝ったところでなにか得があるの?」

腕を組んでジト目になるリグルの態度は当然だろう。

それに対して、「そうねぇ」と呑気に言いつつ幽香も一瞬考える素振りを見せた。

 

「じゃあ、こういうのはどうかしら」

「?」

「悠基が貴女にあげる甘味の量を増やす」

 

えぇ……。

「あの、幽香、そんな勝手に……」

「あら、ダメなの?」

「まあ大丈夫だけどさ」

 

らしくない強引なやり方と、ケロリと言ってのけてしまう幽香の様子に俺は困惑しつつも頷いた。

実のところ、衣食住を提供してくれている紅魔館の給料はそれなりに高い。

加えて、最近は成果は芳しくないものの阿求さんからも妖怪調査の報酬としていくらか給金をいただいている。

そのおかげで、今の俺はお金に関しては少々余裕があり、リグルに襲われないために用意する菓子についても、金銭的には増やしても得に問題がない。

 

だが、報酬にお菓子を出すとか、そういう問題ではないだろう。

妖怪調査を手伝うというのは、回り回って妖怪にとっての不利益に繋がる可能性が大いにある。

故に、リグルがそのことを承知しているかどうかは置いといて、彼女が幽香の提案を受け入れるというのは妖怪そのものへの裏切りと取られても可笑しくないだろう。

 

そのことを鑑みれば、リグルが俺の仕事を手伝う件を受けるとは到底思えな――。

 

「その条件でどう?リグル」

「ノッたわ!」

「いいのかよ!?」

 

思わずツッコミを入れてしまった。

 

「あら?なんで貴方が驚くのよ」

「いや、えっと、いいのか?本当に?」

「ええ。要は悠基の周りに何かあったり虫たち(あの子たち)に伝えさせたらいいんでしょう?」

「そうなるわね」

「それで悠基がくれるケーキが増えるならお安い御用よ」

 

「お安いのか?」

あっさりと承諾するリグルに俺は困惑する。

ノリが随分と軽い気がするが大丈夫なのだろうか。

 

それとも、俺が重く考えすぎているだけなのか、もしくはリグルにとっての俺のケーキはそれほどまでに価値があるものとか……いや、さすがにそれはないか。

「ちょっと!リグルだけずるいわ!」

と、唐突に今までおとなしくしていたメディスンが声を上げた。

 

「あらあら、メディスンも悠基を手伝ってくれるの?」

「ケーキが貰えるんでしょう!だったら私もやるわよ!」

 

え?

えぇ?

リグルもそうだが、俺に対して反抗的だったメディスンさえも率先して俺を手伝うといい出した状況に俺は混乱する。

なんだ?

俺のケーキの一体何が彼女たちを突き動かすんだ?

そんなに俺のケーキが魅力的なのか?

妖怪にとってなにかヤバイものとか……は入ってないはずだけど。

困惑する状況の中で、メディスンが更に声を上げる。

 

「妖怪の山にかちこんだらいいんでしょう!?」

ぎょっとする俺の正面で、全く動じた様子もみせず幽香は冷静に言った。

「貴女はその血気盛んなところをまず治さなくちゃダメね」

 

 

 

その日の幽香の家でのお茶会の結果、俺としては、まあ、ありがたいと言えばありがたいもののそれ以上に困惑が強いのだけど。

どういうわけか、俺の妖怪調査の仕事に、リグルとメディスンという助っ人が加わるということで話が纏まってしまった。

幽香は「面白そうだから」と言っていたけど、正直なところどうなんだろう。

 

 




主人公が習得する魔法の方向性が、だんだん戦闘から生活に役立つものに変化しつつあります。
メディスンの幽香の家襲撃事件は三十五話。四十六話にて和解しています。幽香の家の花壇自体は、三十一話から作られています。



名前:風見幽香
概要:初登場三十一話。花映塚自機、他。『花を操る程度の能力』。
当作における彼女は非常に穏やかで気さくながらも力の強い大妖怪である。花についてある程度の造詣があるおかげで、主人公は彼女とはそれなりに良好な友人関係を築いている。元「主人公主観の無害な妖怪ランキング」第一位。アリスは友人。メディスン、リグルは上下関係が明確な友人。


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六十二話 夜目の利かない屋台にて

黄昏時というのは、目前にいる人の顔が分からないほど暗くなった夕暮れに、そこにいるのは誰ですかと問いかける「誰そ彼」という言葉が由来だと、慧音さんから教わった。

そんな、空の色が紅から濃紺へと変わりゆく時間帯。

いつもならば妖怪が活発に動くようになるそんな時間に外を出歩くことはないのだが、今回は待ち合わせの用事があった。

手を振るメイド妖精たちの見送りを背に、俺は紅魔館の正面玄関の扉を押し開いて外に出る。

 

少しでも涼しい服装をしようと甚平姿にしたものの、この時間になってもまだ真夏の昼の熱は残っていて、すぐに汗が滲みそうだ。

冷風魔法の誘惑を早くも感じつつ、明かりのランタンを右手に携え歩くと、向かう正門の脇、塀の向こう側で話す声が聞こえてきた。

 

一人は門番の美鈴だが、もう一人は待ち合わせの相手だろう。

格子門を押し開いた俺は楽しげに話す二人に軽く手を振った。

 

「や、待たせたね」

「悠基遅ーい!」

と、口調の割には楽しげな声を上げるのは、先日幽香の突然の提案で俺の妖怪調査を手伝うことになったリグルだ。

 

「悠基さん」

「お仕事ご苦労様。今からちょっと出てくるから」

「ええ。リグルから聞いてます。お二人でご飯にいかれるそうですね」

「そーぅよー」

と、やけに上機嫌なリグルが応じた。

「悠基の奢りなの」

 

「それは羨ましいですねえ」

美鈴が問いかけるような視線を向けてきたので、俺は首肯してみせた。

「まあ、ここで働いてるおかげでお金はあるからね」

 

衣食住完備な上に給金良し。

当主である吸血鬼の姉妹を筆頭に気をつけることは多いものの、慣れてくれば条件の良い職場だと思っている。

 

「奢り♪奢り♪」

よほどその響きを気に入ったのか、リグルは楽しげに繰り返した。

ともすれば小躍りしそうな様子の彼女を眺めていると、不意に美鈴に肘で突かれる。

 

何事かと見ると、顔を寄せてきた美鈴は小声で囁いた。

「いやあしかし、二人きりで食事とは、悠基さんも隅に置けませんねえ」

「あのなあ……」

 

冗談まじりの邪推をしてくる美鈴に、俺は嘆息混じりに応じる。

「ご飯は仕事の打ち合わせのついでだよ」

「そういう建前なんですよね?」

「本当だって。そもそもリグルは子どもだろう」

「悠基さん的にはタイプなんじゃ――いたっ」

ペシリと、美鈴の額に軽いチョップをかます。

 

「そういう軽口を言うから咲夜からナイフをぶっ刺される(過激なツッコミが入る)んだろ」

それに名前を挙げた咲夜もだけど、俺が子どもに甘いからと言って特殊な性癖があるみたいな扱いをするのは止めて欲しい。

依然ニヤニヤ笑いで俺を見てくる美鈴に少々「ムカッ」と来た俺は、ちょっとした意趣返しをすることにした。

 

「それに…………」

「?」

意味深な間を置きつつ、真剣な顔を作って俺は美鈴に向き合った。

あたかも、今から告白でもするかのように。

 

「……俺的には、どちらかと言えば君のほうがタイピュだし」

「…………」

「…………タイプ、だし」

「悠基さん」

「……なんだよ」

「フフ……慣れないことはするものじゃないですねえ」

 

全くもってその通りだ、と内心思いつつも俺は言い訳混じりに負け犬の遠吠えを返す。

「……ちょっと噛んだだけだし」

 

それが尚更可笑しかったのか、美鈴はクスクスと笑い始めた。

 

 

 

* * *

 

 

 

リグルの有する『蟲を操る程度の能力』の性質上、彼女に襲われるということは、夥しい数の虫の大群に襲われることと同義だ。

その光景は想像を絶し、トラウマになること請け合いという、人間からすれば実に恐ろしい存在である。

だが、彼女が厄介なのはそこだけではなく、その多量の虫による索敵網だ。

範囲広く、性能も良しで、彼女がその気で虫を操れば隠れてやり過ごすことはほぼ不可能だろう。

 

逆に言えば、もしもリグルの助力が得られるなら、周辺の妖怪の位置を特定し、相手に気付かれる前に適切な行動を取れるという大きなアドバンテージが期待できる。

侵入する妖怪の山の哨戒天狗たちにどこまで通用するかは分からないが、その優位性を活かすことができれば、もしかしたら数ヶ月滞りっぱなしの妖怪の山の調査が進展するかもしれない。

 

とすれば最初に必要なのは作戦会議だろう。

そうリグルに話した結果、なぜかリグルが最近見つけたという屋台でその会議が開かれることになった次第だ。

 

「ミースチー」

夜の帳が降りる人里への道の途中。

目的の屋台に先んじて駆け込んだリグルが声を上げると、屋台の主人の驚いたような声が「八目鰻」と記された暖簾の向こうから聞こえてきた。

 

「リグルじゃない。随分機嫌良さそうね。どうしたのよ」

「奢り!」

「奢り?」

「そう」

「どういうこと?」

 

言葉が足らないおかげで全く通じてない。

人から奢ってもらえるのがそんなに嬉しいのだろうかと微笑ましく思いながら、俺もリグルに続いて暖簾をくぐった。

 

「やあ、ミスティア」

「あらぁ?悠基?」

芳ばしい煙が漂う中で、夜雀の妖怪を名乗るミスティアが目を丸くした。

 

「珍しい顔ね」

「まあね。このお店は人間は大丈夫かい?」

人里の外で経営する妖怪の店だ。

無論、客も妖怪を見越しているだろうと配慮して問いかけると、ミスティアは快く頷いてくれた。

 

「お客さんなら構わないわ」

「それじゃあ、お邪魔するよ」

ミスティアに断りを入れて、俺は先に腰掛けていたリグルの隣の席に座る。

 

屋台は思ったよりも規模がやや大きく、客が座るカウンターがL時型になっており、六人分の席が備えてあるようだ。

俺とリグルは端の席を選んだが、反対側の端の席には先客がいた。

 

カウンター越しなため胸元から上しか見えないが、この幻想郷では非常に珍しいことに、ジャケット姿の洋装だ。

ハンチング……確か、キャスケット、だったか、空気で膨らんだような形状のやや丸みを帯びた帽子を目深に被っており、更に俯いているせいで、その顔は口元しか伺えない。

服装から一瞬男性かと思ったが、肩幅から見るに女性だろうか。

 

と、なんとなしに気になって考えていると、ミスティアがその客の前に皿を配した。

「はい、お待たせお兄さん」

どうやら男性だったようだ。

 

その客は無言で小さく頷く。

無口な妖怪らしい。

 

「ミスチー、とりあえず蒲焼きを一本ね。悠基は?」

「ん、ああ、うな重はあるかい?」

「ええ」

「それじゃあご飯大盛りで」

「はいよー」

「あとお酒!お米のやつ」

「どれよ」

 

……いつまでも観察するような目を向けるのも失礼か。

俺はその妖怪に向けていた意識をリグルとミスティアへと向ける。

 

「ねえ。悠基はお酒どうするの?」

「リグル。飲むのは良いけど仕事の話に来たってこと忘れてないか」

「固いこと言わない言わない」

「……まあいいんだけどさ、俺は飲まないよ」

「ええ?本気ぃ?」

「本気」

 

それにしたって、言動は子どものくせに飲むもんはしっかり飲むのな。

ノリが悪いとでも言うかのようにジト目になって睨んでくるリグルの視線を受け流しつつ、ミスティアが置いた徳利をリグルのお猪口に傾けた。

 

「それで、妖怪の山の調査の件なんだけど」

「んぐ、もう、悠基ノリわるーい」

「ノリわるーい」

「やかましいわお前ら」

リグルに乗っかって楽しげに茶々を入れてくるミスティアにも唇を尖らせながら、俺は再び徳利を手に取ると空になったリグルのお猪口に再び酒を注ぐ。

 

「ほれ、俺の分も飲んどけ飲んどけ。どうせ俺の奢りなんだから」

「やったー♪」

「話をする前に酔いつぶれるなよ」

 

…………?

視線?

不意に抱いたその違和感に、俺は頭を上げて暖簾の外を見る。

既に夜の帳はおり、屋台から漏れる光が届かないところは完全な暗闇に包まれている。

 

もしかしたら、ミスティアの屋台に入った人間()を狙って、妖怪が潜んでいるのかもしれない。

「なあ、リグル」

声を潜めてリグルに顔を近づける。

既に酒気を纏い始めたリグルは僅かに火照った顔で「あによ」と応じた。

 

「この辺り、妖怪が潜んでたりする?」

「え?んーちょっと待って」

まるで外で雨でも振っているのかと確認するように、リグルは右手を屋台の外へ掲げる。

目を凝らせば、彼女の手のひらから小さな生物が宵闇の中へと飛び立っていくのが辛うじて見えた。

 

そのまましばらく待っていると、不意にリグルが頷く。

「隠れてる妖怪は居ないみたいね」

「……そうか。すまない、気のせいみたいだ」

いつもの妖怪調査の癖か、気付かない内に神経を張りすぎたのかもしれない。

俺は軽く息をつくと、ミスティアが置いた湯呑みを手に取る。

酒の臭いがしないか確認してから煽れば、冷えた水が喉を潤す心地よさか、一人出に息をついていた。

 

それにしたって便利な能力だ、とリグルを横目にしみじみと思う。

動かずして周囲の状況を容易に把握できるというのは大きな強みだ。

索敵だけでなく不意の襲撃に対処しやすくなるし、先手だって容易にとれるなど、そのアドバンテージはかなりでかい。

 

ただ一つ、重要な難点がある。

虫たちの索敵によって有益な情報を得たとして、俺にその情報が届かなければ意味がないことだ。

だが、俺と虫たちで直接情報をやりとりする術はほとんどなく、リグルを介することが必須条件と言ってもいいだろう。

これに関してはリグルが傍にいるならば考慮する問題ではないが、妖怪の山へ侵入するなら話は変わってくる。

 

分身能力を使用した俺一人での侵入の場合、天狗やその他妖怪に襲われたところで分身を解いて逃走すれば問題ないし大事にもならずそれでお終いだ。

しかし、リグルに同行してもらうとなると、分身した俺が消えれば彼女が一人取り残されてしまう。

妖怪である彼女なら、人間の俺みたいに弁明の余地なく攻撃されるなんてことはないかもしれないが、人間の俺と協力して妖怪の山を嗅ぎ回っているとくれば、その対応が変わることは想像に容易い。

 

いかにリグルの使う能力が優れていたとしても、哨戒天狗に囲まれればひとたまりもないだろう。

リグルに手伝って貰えるのは大歓迎だが、かといって彼女が怪我や、あるいはそれ以上に酷いことになるのは論外だ。

 

そこで俺は、一つの提案を用意していた。

 

「まどうぐ?」

「そ、遠隔通信の術式が組み込まれているらしい。つまりは無線機ってこと」

「ふーん」と、おそらくは余り理解していない様子で、俺が手渡した一枚のタロットカードをリグルは観察する。

 

小悪魔曰く、パチュリーが用意したこの魔道具は、俺ではさっぱり理解不可能なレベルのかなり高度な魔法によって作られているそうだ。

パチュリーは造作もないとでも言いたげではあったが、それは彼女が並外れて魔術への造詣が深いからだとも、小悪魔は誇らしげに言っていた。

タロットカードに通信術式を組み込んだのは、その方が使い勝手がいいかららしい。

 

「なんなの?これ」

と、明かりに透かすようにリグルがカードを掲げたので、「耳に当ててみな」と電話機を扱うように俺が持つもう一枚のカードを自分の耳に当てて手本を見せてみた。

困惑したように眉を顰めながらも、俺に習うリグルに俺は頷いた。

 

「もしもし」

「っっひゃあ!」

電話口での常套句を口にした瞬間、驚いたリグルが声を上げる。

ただの紙だと思っていたものから突然声がするなんて予想もしていなかったのだろう。

 

そして俺にとっても予想外だったのは。

「――あ」

驚いたリグルの手からタロットカードが離れ、ミスティアが扱う鰻焼き台の金網の上に落ちたことだ。

 

「な、なに!?」

リグルの反応に驚いたのか、別の焼台を見ていたミスティアが声を上げ、俺は慌てて立ち上がる。

「ミ、ミスティア!火鉢火鉢!」

「え?な、なんなの?」

「もう!ビックリするじゃない!」

 

……とまあ、てんやわんやになりつつも、なんとかミスティアに預かりもののタロットカードを回収してもらったときには既に、真っ黒になった一枚の炭化した紙切れと化していた。

いや、一枚の紙切れなのに燃え尽きずに炭化したというのもおかしな話だが、火で炙られたにも関わらず、そのタロットカードは燃え落ちることなく形を維持していた。

というか。

 

「…………もしもし」

『もしもし』

 

通話機能が生きていた。

…………そういえば、魔理沙が耐久テストだのなんだのとのたまって、パチュリーから借りていた魔道具を真っ黒に焦がしてしまったことがあった。

その時もパチュリーはなにが起こるのか見越していたかのように耐久度の高い魔道具を俺に預けていた。

 

黒焦げになったタロットカードを見据えて、俺は嘆息する。

もしかしたら今回も、こうなることを見越していたのかもしれない。

一重に、彼女の先見の明が優れているからなのか、それとも燃えた程度では壊れない魔道具を容易に作れる程度には魔法使いとしての腕が高いからか。

それとも、単純に俺の信用がないのか……?

 

「はあ……」

再び嘆息する俺の前に、「お待たせ」とミスティアが丼を置いた。

 

「なに辛気臭いため息してるのよ」

「まあ、ね」

空腹気味の胃袋を刺激する香りに舌鼓を打つ。

隣のリグルは既に蒲焼きを美味しそうに頬張っていた。

 

ミスティアがカウンターに手をついて俺の顔を覗きこんでくる。

「悩み?」

「いんや。そこまでじゃあないさ」

「誰かに打ち明けたほうが気が軽くなるわよ」

 

気遣うようなその言葉に、思わず頬が緩む。

「……なんというか、女将さんが板についてきてるね」

「あら、上手いこと言っても出てくるのは歌だけよ。あ、それじゃあ悠基が元気になるように歌ってあげましょうか」

「それ、君が歌いたいだけでしょ?」

 

「ふふん。ご名答」

「まあ、夜目が利かなくならない程度なら聞かせてほしいかな」

「八つ目鰻を食べたらいいのよ。目が良くなるから鳥目になっても大丈夫よ?」

「それは本末転倒じゃない?」

 

「商売上手と言って頂戴」

ミスティアは笑みを浮かると胸に手を当て、どこか心地よい歌声を響かせた。

 

 




作中季節は八月の半ばといったところ。
魔理沙が黒焦げにしたパチュリー作の魔道具のくだりは五十四話より。
ミスティアの屋台にいた先客について、服装は鈴奈庵の人里侵入スタイルです。
次回はほのぼのとした妖怪の山侵入回です。


名前:リグル・ナイトバグ
概要:初登場三十六話。永夜抄一面ボス。『蟲を操る程度の能力』。
当作における彼女は容姿以外は中性的な面のない(幻想郷基準で)普通の妖怪の少女。夥しい数の蟲を操り情報収集や襲撃を得意とする、襲われる人間からすれば非常に厄介な妖怪。操る蟲共々甘いものに目がなく、襲わないことを条件にしょっちゅう主人公に菓子をねだっている。


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六十三話 妖怪の山小騒動 前編

人里から霧の湖方面へと向かう道を半ばで反れ、多少開けた草原を抜けた先には森がある。

その森を更に歩くと妖怪の山に入る。

森の手前に生えた背の高い一本杉。

そこを待ち合わせにした俺とリグルは、妖怪の山侵入前の、最後の確認作業をしていた。

 

「じゃあ、貴方の周りに敵の妖怪が来たら知らせればいいのね?」

このあと俺は妖怪の山に向かい、リグルは天狗の哨戒範囲外で待機する手はずになっている。

 

「ああ。それから、俺を一番最初に襲ってくる白狼天狗。今回も襲われるとは限らないけど、もしそうだったら今度教えるから、次に侵入するときは前もってソイツをマークしてほしい」

鋭い眼差しの白狼天狗を俺は思い浮かべる。

 

山に侵入する際に、いの一番に俺の元へ飛んでくる白狼天狗の少女。

哨戒天狗は他にもたくさんいるはずだが、俺を発見し最初に飛んでくるのは大概彼女だ。

十中八九、侵入者を発見するための能力を有していると考えていいだろう。

 

「それは分かったけど、(この子)たちよりも天狗たちの方が動きは速いのよ。もし天狗が真っ直ぐ貴方のところに飛んでいったら、私にそのことが伝わる前に、天狗が貴方の元に辿りつくと思うわ」

「それについては目下思案中。見つかったときは多分どうしようもないけど、どうやって俺を見つけているのか分かれば対処方が分かるかもしれないから、よろしく頼むよ」

「むぅ、まあ、やるだけやってみるわ」

 

腕を組んで難しい顔をするリグルに「それじゃあよろしく」と最後に声をかけると、俺は意気揚々と出発した。

今まで一人で挑んでいた妖怪の山での調査作業だが、今回はリグルの助力がある。

早々に上手くいくとはいかないだろうが、きっと今までの調査から何かしらの進展はあると期待してもいいかもしれない。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

蒸し暑さに汗を滴らせながら、俺は周囲を警戒する。

正確な境界は未だに把握できていないものの、既に天狗のテリトリー内だろう。

傾斜している地面を登りながら、俺は懐からタロットカードを取り出した。

 

「リグル、俺の周囲に妖怪はいるか?」

『何匹かいるわよ。一番近いのは東側。貴方の速さなら走って五分くらいのところね』

魔法の通信にもノイズが入るのか、ややくぐもったリグルの返答がタロットカードから返ってくる。

普段の俺ならば知る由もないような情報をあっさりと言ってのけたリグルたちの能力の凄さを実感しつつ、俺は問いかけた。

 

「どんなヤツ?」

『獣の妖怪みたいね。人の形をしてないし、多分雑魚よ』

「ふむ」

そういう妖怪は鼻が良い奴が多い。

太陽の位置を見てから風を確認してみると、南東へと流れている。

その妖怪の元へ向かったとして接近中にこちらが風上になるかもしれない。

 

気付かれる可能性は高い。

リグル基準では人の姿を取れない妖怪というのは取るに足らない相手らしいが、身体能力で大きく遅れを取る俺からすれば正面からかち合えばまだまだ強敵だ。

 

とは言え、その妖怪が空を飛べない程度のレベルなら、飛行魔法で逃げることは容易なはずだ。

飛んだら飛んだで哨戒天狗に発見される可能性は上がるし、妖怪の山でも変わらず飛び交う妖精たちに絡まれることも考えられるが、俺の目的は妖怪調査。

リスクは承知で向かうべきだろう。

 

方針を固めた俺は、リグルにその旨を伝えようとタロットカードを口元に近づけ…………不意に、気配を感じた。

「…………」

 

小さな音だったが、風で草葉が擦れる音に混じって、枝が折れた乾いた音が聞こえた気がした。

 

音がしたであろう大体の方向を見る。

誰かがいる様子はないものの、木々が生い茂っており隠れる場所は多々ある。

リグルが言うには俺のすぐ近くには妖怪は居なかったはずだ。

その言葉が真実ならば、気の所為のはずだ。

あるいは自然に枝が折れたのか。

 

だが…………。

俺は両手を空けるため、タロットカードを胸元にしまいこんだ。

中腰で姿勢を低くしながら、俺は音源から離れるように近くの茂みへと移動し――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ドーン!!」

 

唐突に背後から衝撃を受けた。

 

 

「はうぁ!」

不意の襲撃に咄嗟に踏ん張ることも出来るはずもない。

俺は頭からもろに地面に転倒した俺を待っていたのは、湿気った土の地面。

まあ、硬い岩や石ころが無かったのは幸いだったが、その代わり口に思い切り含んでしまった。

 

「うえ!ゲホッ!ウエェ!」

催す嫌悪感を吐き出しながら振り向けば、俺を両手で押し倒した犯人がしたり顔で笑みを浮かべていた。

 

「メ――メディ……?」

空中で腕を組んで倒れた俺を見下ろすのは、鈴蘭畑に住み、普段なら妖怪の山に訪れないはずのメディスンだった。

 

思いがけない人物、もとい妖怪の登場に呆然とする俺に対しメディスンは満足気である。

「ふふん。なかなかいい間抜け面じゃない」

「なんで、うっ――ぺっ」

「ちょっと?人と話してるときに唾を吐くなんて、貴方マナーがなってないんじゃないの?」

 

お茶会の折に幽香に「行儀よくしなさい」と窘められることを根に持っているのだろうか。

したり顔で俺を指差すメディスンを、俺は口内に残る土を拭いながら半眼になって睨む。

「人を押し倒しといてマナーもなにもないだろ――」

「ゆーきー!」

「わぷっ!?」

 

直後、今度は軽い衝撃とともに誰かが背中に抱きついてきた。

「っチルノ!?」

 

背中に張り付いてきたチルノに、俺は再び瞠目する。

「アッハッハ!びっくりした?」

「びっくりつうかお前までなん――こらこらこらこらどさくさに紛れて凍らそうとすんな」

さすがにチルノの過ぎた悪戯に慣れてきた俺は、冷気を感じてすぐさま彼女を引き剥がした。

そんな俺達のすぐそばに二つの軽い着地音。

草葉を踏む音に振り向けば、最初に小柄なチルノの親友が目に入った。

 

「こんにちは悠基さん」

「大妖精……それにこあまで」

 

大妖精の斜め後ろで手を振る小悪魔は微笑んだ。

「どうも悠基さん。今朝振りですね」

「あ、なんで…………これで全員か?」

まだまだ誰か潜んでいるのでは、続けざまに飛び出してくるのでは、と周囲を見回す俺に小悪魔は「ええ。これで全員ですよ」と頷いてみせた。

 

「そうか……それで、どうして君たちが…………リグル?」

不意に俺は胸元のタロットカードに語りかける。

 

『なによ』

「俺の周りに妖怪はいないんじゃなかったのか?」

『敵の妖怪はいなかったわよ』

つまりは、メディスンたちについては知っていてスルーしたようだ。

 

「…………」

俺は思わず閉口し、次いでこの場に集った面々を眺める。

なぜ彼女たちがここに。

 

そしてなぜこのメンツ。

 

チルノと大妖精の二人はよく一緒にいるからともかくとしても、だ。

鈴蘭畑に住むメディスン、湖の近くに住む妖精二人、そして紅魔館地下図書館の小悪魔。

俺の知る限りこの三組に特別接点はなく、この山にも縁はないはずだ。

 

「ふふん。感謝しなさい」

メディスンが得意げに腕を組んだ。

「あんたの手伝いにきてやったのよ」

「手伝いって、まさかとは思うけど――」

妖怪調査の仕事を手伝うのか、と問いかけようとして、その言葉を口にする前にチルノが「うん!」と元気に頷いた。

 

「カチコミだよ!」

「よう、は?カチコミ?」

物騒な言葉に俺は面食らう。

だが、直後に慌てた様子で「違うよチルノちゃん」と訂正する大妖精を見て安堵した。

 

そうだよな、そんなおっかないことじゃないよな。

「威力偵察だよ!」

「やっぱり物騒じゃねえか!」

しかも血気盛んでやんちゃの過ぎるチルノやメディスンならともかく、普段は真面目で大人しい大妖精が言うとかなり衝撃的ですらある。

とはいえ、ショックを受けている場合ではないだろう。

 

「待て待て!なんでそうなんだよ。つか、そもそも手伝うなんて話だって聞いてない、し」

はたと、集まった四人の中で、見た目や言動的な意味で最も年上である小悪魔を見る。

ニコニコと笑みを浮かべたまま黙っている彼女は、ともすれば俺が慌てる様を傍目から見て楽しんでいるようにすら見える。

 

「……こあ、先導したのは君か」

「なんのことですか?」

「ふぅー……」

わざとらしーく肩を竦める彼女の様子に、俺は確信を持ってため息をつく。

直後にあらん限りに目を見開いて小悪魔に詰め寄った。

 

「な、ん、の、つ、も、り、な、の、か、な、あ???」

「ま、まあまあ落ち着いてください」

俺の怒気を感じ取ったのか、小悪魔は浮かべていた笑みを引きつらせた。

 

「私は別に、嫌がらせでここに来たわけじゃないですよぉ」

「じゃあなんでこんなことを?」

「レミリアお嬢様からの命令です」

 

眉を顰めて俺はオウム返しに問いかけた。

「レミリア様?」

「ええ」

「……妖怪調査の仕事は紅魔館とは関係ないだろ」

「それとは別の用事でして」

 

「ねえ、まだなのー?」

「もう少々お待ち下さいねー」

チルノが我慢ならないといった様子で駄々をこねるが、小悪魔は彼女を諌めながらも胸元から古風な書状を取り出した。

一昔前のヤンキー漫画なんかで「果たし状」などと書かれていそうな――実際のところなにも書かれてはいないが――そんな封をされた手紙を小悪魔は俺に手渡してくる。

どこから出してるんだと内心思いながらも、俺は渋々それを受け取った。

 

「……これは?」

「見ての通り、お手紙ですよ」

「俺宛て、じゃないよな」

「ええ。悠基さんには、この手紙を届けて欲しいのです」

「誰に?」

 

唐突に、小悪魔は腕を伸ばしある一方を指差した。

雲に隠れ見えないほど、遥かな彼方、妖怪の山の頂上を。

 

その仕草に否応なしに背筋を凍らせる俺の顔を眺めたまま、小悪魔は事も無げにその呼び名を告げてきた。

「天魔様にです」

「…………冗談だろ?」

 

天魔。

その名前は阿求さんから伝え聞いていた。

 

幻想郷の天狗を統べる頭領であり、それは即ちこの広大にして巨大な妖怪の山の実質の現支配者と言ってもいい存在であり、当然ながら俺みたいな人里の一住民がお目通り願えるような妖怪ではない。

立場的にも、そして物理的にも、まさしく雲の上の存在なわけだ。

 

そんな天狗のボスに手紙を渡せと、そうレミリアはのたまったらしい。

…………普段から無茶振りで人を困らせるお嬢様だが、今回は突拍子な上に無謀にもほどがある。

にも関わらず、否定しようとする俺の言葉に小悪魔は首を振った。

「いいえ、本気だそうですよ」

 

「あー、アポとか、あるんだよな」

「アポイントメントですか?当然ながらなんの約束もございませんよ?」

「なにが当然なんだよ……」

自信満々に非常識なことを言ってくれる小悪魔に俺はため息をついた。

 

「そこら辺の哨戒天狗にでも渡せばいいのか?手紙を渡す前に問答無用で斬られかねないけど」

「天狗の中でも身分の低い哨戒天狗に渡したところで、天魔様に手紙が届かないことは充分に考えられます。せめて大天狗とか、身分がそれなりに高い天狗に直接渡すことがこの任務の条件です」

「いや任務て――」

 

不意に、先程のチルノと大妖精の言葉を想い起こす。

『カチコミ』に『威力偵察』。

うわあとっても嫌な予感がしてきた。

 

「……なあ、こあ」

「はい」

「じゃあ、約束も取次もダメなら、どうやって大天狗や天魔に手紙を渡すんだ」

「それはもちろん」

 

絶対に「もちろん」じゃないだろ。

内心でそう毒づく俺の半眼を正面に受けながら微笑む小悪魔は、やっぱり事も無げに告げてくれやがった。

「力づくで、ですよ」

 

半ば予想された言葉に、俺は少なからず頭痛を感じて額に手を当てる。

「こあ、レミリア様に――いや、直接俺から文句を言うよ」

「悠基さん?」

「今俺は阿求さんからの依頼で山に来てるんだ。つまり今紅魔館にいる『俺』はともかくとして、ここにいる『俺』は阿求さんに仕えてるわけ」

 

「それは屁理屈では?」

「屁理屈で結構。そういうわけでレミリア様の命令を聞く道理もない。勝手におかしな命令をねじ込まれても、俺はその命令を聞くつもりはないね」

ついでに言えば意図的に仕事の邪魔をされたおかげで若干機嫌が悪くなっているまである。

 

「まあまあ、落ち着いて下さい悠基さん」

「これが落ち着いてられるかよ。しかもこの子達まで巻き込んで」

 

「ゆ、悠基さん!」

不意に大妖精が声を上げた。

「私たち巻き込まれたわけじゃないんです!」

「大妖精?」

「そうだぞ悠基。アンタが頑張ってるみたいだから、アタイも何か力になってあげようって美鈴に言ったんだ」

「はい。それで小悪魔さんから話を聞いたんです」

 

俺の目を真っ直ぐ見て話す大妖精とチルノに、俺は気まずくなって頬を掻く。

「お前たち……その気持ちは嬉しいけど、俺と一緒にいたらお前たちも天狗に襲われかねない」

「大丈夫だよ悠基!あたいはサイキョーだかんね!」

「それに私たちは『一回休み』になるだけですから」

 

自然の具現とされる所以だろうか、彼女たち妖精に一般的な死という概念は適用されないらしい。

大きな怪我をすれば、彼女たちは一時的に消滅した後に復活するようで、そのことを『一回休み』という言い方で表すこともある。

つまりは自分の身を案じないようにと、大妖精はそう訴えてきたのだ。

 

「それを大丈夫と言っちゃうのは俺の精神衛生上良くないんだがな」

眉間に皺が寄るのを自覚しつつ呟くが、分身能力で似たようなことをしている俺が人に言えた台詞ではない。

「…………とにかく、だ。集まってもらった皆には悪いけど、今日はもう帰るよ」

 

「えー?」とチルノが不満気に声を上げ、メディスンも半眼になって俺を睨む。

小悪魔は頑なな俺の態度に苦笑した。

「むぅ、悠基さんにしては融通が利きませんね」

「俺は君に対してはそんなに甘くはないと思うんだけど」

「どういう意味ですかーそれ?」

「ふん、さあ?」

鼻を鳴らす俺に小悪魔はやれやれと肩を竦めてから、「それでは」と人差し指を立てた。

 

「レミリア様からもう一つ、悠基さんに言伝てを預かっているので、それを聞いてから帰るかどうか判断して下さい」

「……俺は意見を変えるつもりはないけど」

「まあまあ、それではそのまま伝えますね」

 

 

軽い咳払いを挟むと、小悪魔は胸元に手を当てて言った。

 

「『無事手紙を届けたなら、報酬を上げるわ。貴方がこの世界に流れ着いた、その要因の一端についての情報よ』だそうです」

「…………」

いつもの無茶振りかと、そう踏んでいた俺にとって、唐突に俺の目的の確信をついてくるレミリアの提案はまさしく晴天の霹靂だった。

 

元の世界への帰還。

それは俺にとって悲願と言っても差し支えない目的だ。

幻想郷に――異なる時間軸(この世界)に迷い込んで以来、俺はこの世界に迷い込んだ原因を探し続けていた。

それが元の世界へと帰る手がかりになる可能性が高いからだ。

それだけに、レミリアが提案した情報は、その甘言は、俺の心をあまりにも強く揺さぶった。

 

 

「…………俺は」

 

 

 

『悠基!』

不意に、篭った叫び声が俺の胸元から上がった。

通信用の魔道具越しのリグルの声だ。

 

「リグル?」

突然の呼びかけに驚きながらも、俺はタロットカードを取り出した。

「どうかしたか」

『天狗が――』

 

と、リグル口にしたとほぼ同時、なんの前触れもなく体中を寒気が襲った。

目前に立っていた小悪魔が手を翳し、直後にすぐ背後で凄まじい金切り音が響く。

衝撃が風となって俺の後頭部を撫で、俺は咄嗟に飛び退いた。

 

「っ」

「うわ!」

「きゃっ!」

チルノが目を見開き、大妖精が短い悲鳴を上げる。

 

既に、彼女がいた。

剣を抜き、今まさに振り抜いた姿勢で立つ件の白狼天狗が。

斬られたか――!?

と一瞬錯覚したが、遅れて体に裂傷の痛みが訪れるということはない。

 

「…………問答無用、警告なしの襲撃ですか。少し乱暴すぎやしませんかねえ?」

小悪魔が僅かに緊張を孕んだ声音で言った。

彼女の手は、その白狼天狗へ向けられている。

 

俺の背後から急接近して襲撃をしかけてきた白狼天狗の攻撃をなんらかの魔法を使って防いだようだ。

白狼天狗は舌打ちすると、素早く後ろに飛び退いて距離を取る。

 

油断なく刃を構えるその姿と殺気に、背中から冷や汗がどっと流れ始めた。

白狼天狗を油断なく見据えながら、小悪魔は俺の肩に手をおいて囁きかけてくる。

 

「もたもたしすぎましたね」

「?」

『悠基!』

再びリグルが声を上げた。

 

『貴方のところにたくさん天狗が向かってるわ!色んな所からよ!』

「っ――!」

出発前にリグルは言った。

蟲の移動の関係で、どうしても俺の元へと情報が伝わるのに大きなタイムラグが発生すると。

つまり、リグルがそれを伝えてきたということは。

 

見渡せば、背の高い木々の合間にいくつもの影。

少なく見積もっても、十人以上はいるであろう羽を生やした姿。

小悪魔は口元を歪めて現状を口にする。

 

「どうやら、既に囲まれているみたいですね」

 

 




妖怪の山編です。
前編とある通り、中編、中編2、後編と、今回を含め四話構成の予定です。中編2とは。
今回集まった面々に関しては、それほど大げさな騒動にならない程度という、ぶっちゃけてしまえばご都合的な選出理由があります。気付けば中ボスたちが集っていました。




名前:大妖精
概要:初登場十話。紅魔郷ニ面中ボス、他。
当作における彼女は優等生然とした大人しい妖精であり、無害の象徴である。大妖精という呼び名はもちろん通称。特に名前はないそう。人を驚かせるのが趣味であり特技という、一部妖怪のアイデンティティを脅かしかねない侮りがたい少女である。チルノのよき相棒。こども好きな主人公お気に入りの幼女(特に深い意味はない)。


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六十四話 妖怪の山小騒動 中編

絶体絶命。

現状にふさわしい言葉だ。

 

周辺に展開している天狗の数は、木々に遮られてはいるものの十人はくだらない。

俺には何ヶ月もの間彼ら彼女らに屠られ続けてきた経験則がある。

身体能力や戦闘技術を見ても、そこらの野良妖怪とは一線を画するほどに白狼天狗という種族は揃いも揃って強いのだ。

とてもこの場にいる面々――使い魔一人、幼い妖怪一人、妖精二人に、一般人に毛が生えた程度の人間一人――で太刀打ちできるとは思えない。

 

特に、正面で大きな曲刀を俺たちに向ける白狼天狗の少女。

冷徹な視線は逸らされることなく俺たちに――特に俺に――向けられ、眼光で殺してやると言わんばかりの迫力に冷や汗が流れた。

 

彼女と出会ってそれなりに立ったが、未だに会話を成立したこともなく名前すらも知らない。

いつかは彼女の口から名前を教えてもらえる程度には仲良く――いやここまでくれば意地でも彼女の口から名前を聞き出してやりたい、なんて思っていたがまだ長らくは無理そうだ。

 

「貴女のことは聞いたことがあります」

不意に、緊迫した空気の中で小悪魔が口を開く。

見据えるは正面の白狼天狗。

 

「この山の哨戒天狗部隊の隊長、犬走椛さんでお間違いないですね」

…………。

え。

 

「……なぜ私の名を」

あ、そうなんだ。

ふーん…………。

 

「貴様、何者だ」

「椛」と、そう呼ばれた彼女は、小悪魔の言葉に一層視線を鋭くする。

「名乗るほどの者ではございません。『小悪魔』で通ってはいるのですが、もしよろしければ、親しみを込めて『こあ』とお呼びくださいな」

「巫山戯たことを……」

鼻を鳴らす椛だが小悪魔はまったく笑みを崩さない。

 

「そう露骨に嫌そうな顔をしないでくださいって。ところで、なんで悠基さんから非難めいた視線を感じるんですかねぇ」

「いや?気にしてないよ(気のせいだよ)

ほんと。

 

「はあ、でしたらいいんですが」

腑に落ちないと言った様子ではあるが、小悪魔は俺に向けていた視線を椛へと戻す。

 

「さて、椛さん。単刀直入にお伺いいたします。ここを通しては頂けませんか?」

「抜かせ。そんなことを許すとでも思ったか。特にそこの人間は」

「…………」

 

「それは残念。ついでに、天魔様にもお目通り願おうと思っていたのですが」

あたかもなんでもないことのように小悪魔が言うと、椛は一層目つきを険しくした。

「……世迷い言を。我々の領域を侵すに飽き足らず、天魔様を愚弄するか」

「そんなつもりはございませんってば」

 

困ったような半笑いで肩を竦める小悪魔――傍から見れば挑発してるようにも見える、というか実際そういう部分もあるのかもしれない――だが、相対する椛の方からはどんどん剣呑とした空気が濃くなってくる。

「もはや生きて帰れると思うな。特にそこの人間は」

 

「…………」

すっげぇ見てくるすっげぇ睨んでくるすっげぇヘイト向けてくる……。

 

大方、「こそこそ侵入するだけでは飽き足らずついに仲間まで引き連れてきやがったかこの人間ぶっ殺す」とか思われてるんだろう。

いつもの流れからして、「いやいや違うんだよ俺はいつもみたいにこそこそ侵入していただけだったんだよ」と弁明しようにも話を聞いてくれないだろうしそもそも弁明が弁明になっていないから。

 

「まあまあ、そうカッカしないでくださいって」

椛と対峙する小悪魔は飄々とした態度のままだ。

「あんまり怒ると眉間に皺が残っちゃいますよぉ。せっかくの美人さんが台無しです」

 

傍から見ればおちょくっているようにすら見える態度。

小悪魔のことだし、もしかしたら素で言っているのかもしれないが、ともかくとして、ずっと俺へと向けられていた椛の殺気もとい視線がついには小悪魔へと向けられた。

 

それでも小悪魔は笑みを崩さなかったが、これ以上は話すことは無理だと判断したのか小さく嘆息した。

「さてと、どうやら交渉決裂みたいですし、仕方がありませんね」

 

「こあ、何を――」

嫌な予感に俺は口を開いたが、しかし。

行動を起こすのが致命的に遅すぎた。

 

問いかけに被せるように小悪魔は声を上げる。

「無論!」

勢い良く掲げた右手。

気づけばその手のひらの上には、翡翠色の透明な石が浮かんでいた。

「強行突破です!!」

 

その声に応じるように、椛が――周囲の天狗たちが一斉に飛びかかってきた。

同時、待ち構えていたチルノとメディスンが叫ぶ。

 

「毒符『ポイズンブレス』!!」

「雪符『ダイアモンドブリザード』!!」

 

正面から一瞬で距離を詰めてくる椛に迎え撃つ形で、小悪魔が宣言する。

「木符『シルフィホルン』!!」

 

それは、そう、間違いなく、『スペルカード宣言』。

弾幕ごっこ開始の合図。

遊びの始まりを告げる声。

かつ、徹底抗戦の意思表示。

 

小悪魔の手にあるものと似通った形状の弾幕が、彼女の周囲の虚空に突如として無数に現れた。

「むっ!」

こちらに一足飛びに突っ込んできていた椛は目を見開いて真上に跳躍。

彼女を追うように小悪魔が現出させた煌めく石が、川に流れる幾つもの木の葉のように一つの流れを伴って椛へと向かった。

 

「飛びますよ!」

「え」

小悪魔が振り返った。

彼女の弾幕とそれを機敏に回避し距離を取ろうとする椛を固唾を呑んで見入っていたせいで反応が遅れる。

そんな俺を小悪魔は待つ気はないとばかりにすぐさま横抱きに抱え上げると地面を蹴った。

チルノ、大妖精、メディスンの三人も示し合わせたように飛び上がる。

 

重力に逆らう圧迫感と風切り音の中で、小悪魔が声を上げた。

「悠基さん!飛行魔法を!」

「わ、わかってるよ!」

久方ぶりのお姫様抱っこに動揺しつつも、俺は魔力をどうにか練り上げる。

 

俺の飛行魔法は未熟だ。

最初の頃と比べればかなり改善されたものの、移動速度は小悪魔や周りの子どもたちとは比較にならないくらい遅い。

未だに発動に若干の時間を要する飛行魔法を行使した直後、小悪魔は鈍間な俺のフォローを続けるために横抱きから腕を引く体勢へとシフトした。

 

「木符『シルフィホルン上級』!!」

空いた片手に再び石を出現させた小悪魔が叫ぶと、先程の数倍の量の弾幕が上空で展開し周囲の天狗たちへと襲いかかる。

青い空を流れるように翡翠色の弾幕が飛び交い、その美しくも広範囲に広がる弾幕に俺は圧倒されて息を呑んだ。

 

「こあ」

「はい?」

「あれって、パチュリー様の……?」

「おや、ご存知でしたか」

 

小悪魔が使ったスペルカードは、どちらもパチュリーが以前使用したと伝えられたスペルカードだ。

実際に見たことは無かったが、魔理沙に渡された魔導書もといスペルカード辞典でその名前には見覚えがあった。

その光景は、たまに見かける幼い妖怪や妖精たちが繰り広げる弾幕ごっこよりも壮大で、さしもの天狗たちもこの弾幕に翻弄され、包囲網は既に崩壊していた。

 

小悪魔に先導されながら、俺たちは弾幕に足止めされる天狗たちを横目にその包囲を突破し進む。

「……凄いな」

と、それどころではないのに思わず零した俺の言葉に、どこか得意げに小悪魔は笑みを浮かべる。

後方で今もなお展開される弾幕は、さながら色を伴った竜巻のようだ。

 

「でしょう。パチュリー様から魔力と媒介をお借りしました」

やはり、というか当然だが、レミリアの命令で小悪魔がここに来たのなら、パチュリーも一枚噛んでいるのだろう。

「今回の私はひと味違いますよ!具体的には普段の三十割増しぐらいです!」

「パチュリー様の割合多くない?」

 

「ちょっと!抜けてきてるわよ!」

横を飛ぶメディスンが声を上げた。

彼女の言うとおり、後方で足止めされていた白狼天狗が何人か、弾幕をかいくぐり俺たちを追ってきていた。

 

移動速度において、天狗という種族は妖怪の中でも最も速いとされている。

白狼天狗である彼女たちもその傾向にもれず、見る見る間にその距離を詰めてくる追手に、小悪魔は「さすがに簡単にはいきませんか」と振り返った。

「大妖精さん!」

「はい!」

「ここからは手はず通りに行きますよ!」

 

「わ、分かりました」

なんのことかと目を丸くした直後、大妖精が俺の背中に近付いてきた。

大妖精はそのまま俺の両脇を掴み、同時に小悪魔の手が俺の腕から離れる。

俺の飛行補助を小悪魔から大妖精に引き継ぐ形になった。

 

「悠基さん、これ、お願いしますね」

大妖精に半ば運ばれている形となった俺の胸元を、小悪魔は人差し指でちょいちょいと突いた。

気付けば、レミリアが用意して小悪魔が俺に手渡してきた天魔へ向けて綴られた手紙が、リグルとの通信用魔道具であるタロットカードと同じところに収められていた。

 

いつのまに、いや、恐らく俺を抱きかかえた折に忍ばせたのだろう。

手品師かよと思わなくもないが、それよりも小悪魔の言った『手はず』が気になった。

 

「こあ、何を」

「私が足止めに残ります。スペルカードで注意を引くので、その隙に山頂へ向かって下さい」

話しながら、小悪魔は両手に新たな魔法媒介を出現させると、高らかにスペルカードを宣言した。

 

「さあ、行きますよ!土&金符『エメラルドメガリス』!!」

一人だけ俺たちの元を離れた小悪魔の放つ弾幕が追手の天狗たちの目前に展開される。

巨大な球状弾幕のシャワーで視界が切れ、同時に俺達は急降下した。

 

「こあー!頑張れぇー!」

「ええ、お任せください!」

チルノの呼びかけに力強く応える小悪魔。

 

その背中がぐんぐん遠ざかり、彼女自身も弾幕の中に消えていく。

結局、言いそびれてしまった。

小悪魔、俺は――――まだレミリアの命令を受けると応えていないんだけど、と。

 

 

小悪魔から伝えられたレミリアの言葉が蘇る。

報酬。

元の世界への手がかり。

 

俺がなんとしても手に入れたいそれを、レミリアは提示してきていた。

 

…………。

……ああ、くそっ、まったく。

……ワガママで気まぐれで横暴なお嬢様め。

その言葉をチラつかせておけば俺が何でも言うこと聞くと思うなよ。

 

心の中で悪態を一つ。

その影響でため息が一つ。

それから、半ばヤケクソな気持ちで、俺は前を見る。

 

…………まあ、今回はそのワガママを聞いて差し上げますけどね。

代わりに報酬はしっかり貰いますよ。

 

心のなかでぼやいてみると、なぜか全てを見透かしたような笑みを浮かべるレミリアの顔が浮かんだ。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

小悪魔が足止めに残って数分。

妖怪の山に生い茂る木々の少し上を飛んでいる。

遥か後方では今もまだ青い空を背景に色とりどりの煌めきが軽じて見える。

 

追手と思わしき白狼天狗の姿は見えない。

「あの使い魔が上手いこと足止めしてるみたいね」

メディスンが周囲を見ながら呟いた。

 

「ああ、でもいつ新手が来るか分からないからな。警戒は解かないようにな」

「ふん!人間風情に指図されなくても判ってるわよそんなこと!」

「おう。なら心配ないな」

 

「ま、天狗が来たところで、あたいが全部けちょんけちょんにしてやるからね!悠基は泥舟に乗ったつもりで安心してなよ!」

「チルノちゃんそれじゃあ沈んじゃうって」

自信満々とばかりに自分の胸を叩くチルノに大妖精が苦笑する。

 

やや弛緩した空気。

俺は妖精たちの様子に口元を緩めながらも、こういう時こそ油断出来ないと周囲を隈なく見る。

とはいえ、開けた空の上。

遮蔽物は無いから、不意の襲撃は無いと見ていいはずだ。

 

『悠基!』

焦ったようなリグルの声が胸元から聞こえてきた。

緊張した空気を感じ取りチルノと大妖精が口を閉じる。

「リグル、どうかしたか」

『一人そっちに向かってるわよ!小悪魔の弾幕を大きく迂回して貴方達を追ってるわ!』

 

「……分かった」

彼女だ、と俺は確信する。

 

リグルへの情報伝達のタイムラグを考えれば、小悪魔が足止めに残った直後にリグルの言う天狗は俺たちの逃走に気付いて行動を起こしている。

だが、小悪魔の弾幕は俺達が逃げていることをすぐには悟らせない為に天狗から死角を作るように展開されていた。

 

だからこそ、すぐさま俺たちの動きを見抜いて追ってくる天狗は、小悪魔の意図を瞬時に見抜いた切れ者か、あるいは…………見えない位置にいる俺たちを知覚することが出来る能力を有しているであろう、犬走椛か――。

 

瞬間、唐突に寒気が体中に奔った。

「っ」

眼下を見る。

 

枝葉に彩られた緑の海はほど近い。

目立たない用に高度を抑えているためだ。

 

流れていく真下の木々。

その合間に何かが見えたと、俺がそう思った刹那。

 

 

緑の海から弾丸のように白い何かが飛び出してきた。

気付いたときには既に、鋭い眼光が眼前にあった。

振るわれる刃が陽光を反射し翻る。

 

っ。

 

 

「悠基さん!!」

頭のすぐ後ろで、大妖精が声を上げ、同時に景色が一点する。

俺の両脇を引いていた力が向きを変え、抗う暇もなく、進行方向から真横に向かって大妖精が俺を()()()

 

「だい――」

投げ出された衝撃で、体がきりもみするように回る。

視界が定まらない中で、しかし、はっきりとその声は耳に届いた。

 

「きゃっ」

小さな悲鳴。

僅かに聞こえる風切り音。

そして、直後に何かが弾けるような『ピチューン』という音。

 

そんな。

どうにか空中で姿勢を安定させた俺が見たときには既に、光の粒子の群れ――まるで、つい先程まで少女の体を形どっていたかのような――が、空中に霧散していくところだった。

その傍らには、刃を振り切った姿勢の椛の姿。

 

「っあ」

 

判ってる。

分かってる。

頭では、理解ってる。

妖精に死の概念はない。

「――この」

故に、今、大妖精は斬られたとして、しかし、彼女は死んではいなくて、だから、消えただけで、それに、時間をかけたら復活するから、大丈夫、大丈夫だと、わかってても――目の前で、俺を庇った小さな女の子が斬られて、それで平静でいられるわけがないだろうがよ!

 

右手に魔力を込める。

だが、俺が魔法を使う前に、チルノが動いた。

「『パーフェクト――』」

 

そう認識したと同時に、周囲の気温ががっくりと下がった気がした。

「『――フリィィイイイイィィィズ』!!」

 

「!」

椛が素早く飛び退り、彼女がいた場所を色とりどりの弾幕が乱れ飛ぶ。

 

「あたいがやる!」

椛から目を離さないまま、チルノは叫んだ。

「大ちゃんはあたいの大親友で、あたいは大ちゃんの大親友だ!だから仇はあたいが討つ!二人は先に行って!」

 

いつも陽気なチルノの激情にかられた声に、俺は思わず息を呑んだ。

相手は妖怪、しかも天狗だ。

妖精と妖怪には大きな格差が存在する。

いかに最強の妖精であるチルノであったとしても、それでも天狗である椛は、おそらく、ずっとずっと強い。

 

「チルノ!?」

一人では無茶だと声をあげようとすると同時に、不意に腕を引かれた。

「ふん、嫌いじゃないわよ、そういうの」

メディスンは俺の意思など関係ないとばかりに、チルノを一瞥するとそのままその場から離れるように飛び始めた。

小さな体の彼女の力に俺は抗うことが出来ず、メディスンに引かれるままにチルノたちから遠ざけられる。

 

「おおおおおおおお!!」

チルノが声を上げ、彼女から様々な弾幕が撃ち放たる。

椛は彼女から距離を取りながら、その弾幕を悠々と回避し弾幕による反撃を放つ。

始まった彼女たちの弾幕ごっこに介入することも出来ないまま、俺は歯がゆい思いでその光景から目をそらした。

 

小悪魔から大妖精、そして大妖精から引き継ぐ形で、鈍間な俺の腕を引くのはメディスンだ。

メディスンに引かれるままに、空を飛びながら、俺は叫びたくなる堪えるように歯を食いしばる。

脳裏からは大妖精が消えた瞬間がこびりついたまま拭い去れない。

チルノの離れていく背中も。

 

彼女たちは妖精だ。

しばらく時間が立てば復活する。

そう自分に言い聞かせても、胸のざわめきはどうしようもなく収まらなかった。

 

自ずと、意識がメディスンに向けられる。

……じゃあ、妖精ではない、今俺の手を引く少女は――?

…………。

 

「…………メディ」

風の音で俺の呟くような声は掻き消えているのだろう。

俺は最初よりも大きく声を上げた。

 

「メディスン!」

「……あによ」

半眼で俺を振り返るメディスンに、俺は「頼みがある」と切り出した。

 

「ここで別れよう。君はこのまま投降してくれ」

「は?」

「天狗は侵入者であっても妖怪に対してはある程度寛容だ」

と、これはレティから伝え聞いた情報だ。

 

「俺と一緒にいたら問答無用で攻撃されるだろうけど、君一人なら、大人しく降参してくれれば許してくれるかもしれない。なんなら、全部俺のせいにしてくれて構わない」

「ちょっと!なに勝手なこと言ってんのよ!」

明確に怒気を見せるメディスンに対して、俺もまっすぐ彼女の目を見据えた。

 

「幽香に頼まれたんだろ?」

「……な、なんで急にアイツの名前が出て来るのよ」

 

普段の態度を見ていれば、俺を嫌っているメディスンが自発的に俺を手伝うとは考えにくい。

とすれば、第三者が介入したと見るのが自然だろう。

そして、俺とメディスンの場合その第三者は自ずと絞られる。

「俺と君との接点はそれくらいしかないだろ。幽香に言われて渋々俺の助けに来たってことはなんとなく分かるよ」

「…………」

黙り込むメディスンの態度が、俺の推測が正しいことを示していた。

 

「もし後で幽香に怒られるんじゃないかと思ってるなら心配ない。俺はここで斬られても分身が紅魔館に残ってるから、ちゃんと幽香は説得する。それよりも俺は、君がここで天狗に斬られる方が恐ろしいよ」

「私は負けたりしないわよ!」

「ああ、そうかもな」

明らかに意地を張ったメディスンの態度に、しかし俺はそれを指摘せずに敢えて肯定した。

その方が、きっと話を聞いてくれるからだ。

 

「それでも、俺は君が傷つくかもしれないと思うと耐えられないんだ」

俺の言葉に、メディスンは目を大きく見開いた。

何を驚いているのか、メディスンは声を出し損ねているかのように口をパクパクと開閉させ、少ししてからようやく絞り出すように問いかけてきた。

 

「――な、なんで」

「?」

「なんで、そんなに私のこと……?」

 

尻切れトンボな彼女の疑問だが、それでも俺は概ね察して応える。

「そうだな。俺が作ったケーキを、君が美味しそうに食べてくれたから」

「……は?」

 

数秒間、メディスンは呆けた顔で固まっていた。

そんなに驚かれると逆に気まずい。

「……それだけ?」

「充分だと思ってるよ」

 

「……バ、バカじゃないの?」

「ああ、うん。かもね」

「だって、私はあんたを襲ったのよ!?」

 

メディスンが幽香の家を襲撃し、俺が巻き添えになったときの話だろう。

「なんだ、もしかして気にしてたのか?」

「き、気にしてなんか!…………ないわよ」

 

全く気にしていないというわけではないらしい。

「でも、アイツが、『きちんと償え』とか、『借りはきちんと返せ』とか言うから……」

「『借り』か」

メディスンがこの場にいる理由が分かった気がした。

 

とするならば、俺も幽香の言葉を借りればいい。

「じゃあ、メディスン。今ここで、『借り』を返して欲しい」

「……え?」

「さっきの俺の頼みを聞いてくれ。ここで、俺を見捨てて、逃げろ」

 

俺の言葉にメディスンは再び目を見開いた。

彼女の顔には葛藤が見え、されどもその視線は真っ直ぐ俺に向けられ続けていた。

しばらくした後、メディスンはおずおずと口を開く。

 

「あるの?」

「……?」

「あの白狼天狗は、多分氷精を倒すわ」

どこか確信しているようなメディスンの言葉だ。

俺は、まだチルノが負けるかどうかはわからないと思っているが。

 

「そうなった時、あんたに勝算はあるの?」

もしかして、心配してくれているのだろうか。

だとすればこれまでの経緯を踏まえると驚くべきことだが、ともかくとして。

 

「あるよ。一応ね」

と、俺は誠意を持って正直に応えた。

俺は嘘をつけばすぐに顔に出ることはメディスンも承知のはずだ。

メディスンは俺の顔を少しの間見据えてから、彼女にしては珍しく「そう……」としおらしい相槌を打った。

 

これまで引き続けていた俺の腕をメディスンは離した。

彼女が離れたことで、慣性が残ってはいるものの俺の移動速度はがっくりと落ちた。

「判ったわ。じゃあ、これで貸し借り無しだから…………」

「ああ、ありがとな」

 

どこか後ろめたそうに、俺から離れていくメディスンは、最後に呟くように、しかしはっきりと言った。

「せいぜい頑張りなさい。悠基」

「!……おう」

 

多分、俺の勘違いでなければ、だけど。

メディスンに名前で呼ばれたのは、初めてだ。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

リグルから『チルノが負けた』と報が入ったのは、それから暫くしてからだった。

メディスンの予測は的中したようだ。

間もなく椛は俺の元へと来るだろう。

俺は彼女を待ち受けるべく、空中で動きを止めた。

 

『本当に勝算はあるの?』

俺とメディスンの会話を聞いていたのだろう、魔道具越しにリグルが問いかけてくる。

 

「全くないってわけじゃないかな」

『それ、ほとんどないって言ってるように聞こえるわよ』

「ははは」

痛いところを突いてくる。

ただ、それでも、可能性は確かにあった。

 

「……来た」

俺が見据える空の先。

次第に大きくなりつつある人影。

 

その姿を捉えながら、俺は脳裏で想い起こす。

 

 

 

…………飛行魔法を習得して間もなく、その訓練は同時進行で始まった。

飛べない妖怪からは飛行魔法で逃げられるようになったが、空を飛べる妖怪だっているし、ついでに言えば妖精だって空にいるほうがよりちょっかいをかけてくる。

だから、飛行魔法を覚えた時点で、唯一の、そして最も単純な空中での対処方法として、アリスの師事のもとその訓練は飛行魔法を習得してから間もなく始まった。

 

幻想郷独自のルール。

慧音さん曰く、強大な力をもつ妖怪同士が狭い幻想郷で甚大な被害を出さずに争うために制定されたルール。

阿求さん曰く、人が妖怪と対等に戦い、打倒するためのルール。

アリス曰く、それは、絶対的な格差を圧倒的な格差程度には誤魔化せるルール。

…………あとは、まあ、霖之助さん曰く『少女の遊び』か。

 

右の手のひらに魔力を込め、その形状をイメージする。

ポポポと、断続的な軽い破裂音とともに目の前の空間に球状のそれがいくつも現れた。

今はまだ最も単純な球状にしなければ大量に作り出すことができないが、それでも一応形にはなるだろう。

 

これまで問答無用で斬りかかってきた椛だったが、今回ばかりはそういうことはないだろう。

根拠は、つい先程の光景。

妖精であるチルノに対して椛はその闘いに応じていた。

つまり彼女は、そのルールで挑まれれば応じるということだ。

その予測は当たり、こちらに真っ直ぐ近付いていた椛は、俺の様子を見て警戒するように動きを止めた。

 

 

すなわちそれこそが、メディスンに告げた勝算。

すなわちそれこそが、逆立ちしたって勝てっこない、犬走椛との絶対的な格差を、辛うじて圧倒的な格差に縮める手段。

 

 

「犬走椛!」

人差し指を向け、俺は高らかに宣言する。

 

すなわちそれこそが。

 

 

「君に、決闘を申し込む!」

 

弾幕ごっこ(スペルカードバトル)である。

 

 




魔理沙に渡された魔導書もといスペルカード辞典については五十四話より。
メディスンによる幽香の家襲撃は三十五話より。

決闘と書いてますがデュエルじゃないです。ほのぼのとした決闘です。念のため。
中編2に続きます。

名前:メディスン・メランコリー
概要:初登場三十五話。花映塚自機、他。『毒を操る程度の能力』。
当作における彼女は人間は大嫌いで甘いものは大好きで、生意気で素直で、つまるところ相応に幼い妖怪の少女。幽香の家を襲撃し主人公(分身)を殺害。その折に、幽香から手痛い反撃を受けて以降、幽香には逆らえないらしい。嫌いな人間である主人公と、彼の作る大好物の甘味との間で揺れていたり揺れていなかったりする。対して、子どもに甘い主人公はメディスンに対しても寛容。


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六十五話 フォールオブフォール

「君に、決闘を申し込む!」

 

雲の上に隠れた妖怪の山の頂き。

目的地は遥か遠く、しかも具体的な場所も分からずと、冷静に考えてなかなかに絶望的だ。

 

その景色を背に、俺は追手の白狼天狗、犬走椛と空の上で相対していた。

「…………」

俺の言葉に椛は何も応えない。

ただ、その手に持った刃を俺に向け、警戒するように空中で構えるのみ。

 

椛と言葉を交わすことはない。

初めて出会ったときから一貫して、侵入者の人間と馴れ合うつもりはないという姿勢を彼女は貫き続けてきた。

そしてそれは、今回も例外ではない。

 

その瞬間に言葉はなく、俺はただただ待ち構える椛に向けて、開幕の狼煙を上げた。

自分の腕を機関銃に、両の手のひらを銃口とするイメージ。

魔力を変換させながら、俺は椛へ向けて『弾幕』を展開する。

形が似ていることから米粒弾と呼ばれる楕円形に近い非殺傷性エネルギー弾がいくつも撃ち出す。

 

「椛に向けて」と言っても、全部が全部、真っ直ぐ椛へ向かうわけではない――というか真っ直ぐ向かわせることが出来ない。

見ていてじれったくなるような速さの弾幕は直線軌道ではあるものの、それらは半分が椛へ向けて、もう半分はあらぬ方向へと散らばるように広がっている。

 

一重にその理由は、俺の練度の低さ。

見知った人妖は、全部が全部思い通りの弾幕を展開し、スペルカードを複数宣言する。

対して俺は、弾幕をまとまった数だけ撃つのがやっとで制御は満足に出来ない。

同じ土俵に立ってすらいないという、ただそれだけの理由だ。

 

その密度も総量も、先程チルノが宣言したスペルカード『パーフェクトフリーズ』の半分にも満たない。

しかも俺を起点として散らばるように展開される弾幕は、椛の元に届く頃には疎らになっており、椛はほとんど動くことなくそれらを凌いでみせた。

 

……予想は出来てたけど、やっぱり弾幕ごっこ(これ)でも椛に勝つなど絶望的だ。

そもそもチルノを下した椛に、弾幕ごっこに関して大きく劣る俺が勝つなんて光景が全く想像できない。

アリスは「絶対的な差を圧倒的な差に誤魔化す」だなんて言っていたけど、その圧倒的な差を覆す方法は思いついてすら無かった。

 

「……それでも」

無意識に言葉が漏れる。

浮かぶのはレミリアが提示した報酬。

元の世界への手がかり。

それと、俺を庇った大妖精や、激昂したチルノの横顔。

メディスンの言葉。

「やるしかないよなぁ…………!」

 

椛が空中で刃を振った。

剣舞でもするかのような仕草。

その後、彼女の周囲の空間から、まるで椛の刃に切り裂かれた空間から生み出されたかのように、無数の――それこそ、俺の放った弾の十倍はあろうかという弾幕が発生する。

 

うわ……これ、これはやばいな!

 

俺と同じ米粒弾なのに、圧し潰されるとさえ錯覚させる多量の弾幕。

想像を上回るほどの力量差を前に汗が滲む。

 

落ち着け落ち着け。

無理に動くな。

俯瞰で捉えろ。

軌道を読み切れ。

避けられない弾幕など存在しない。

弾幕ごっこの大原則だ。

 

見えるぞ。

めちゃくちゃ狭いけど、弾幕が通らない道筋がある。

密度こそあるが、椛の弾幕は比較的直線軌道に近く法則性もわかりやすい。

 

俺は椛に向けて弾幕を放ち続けながら、見出した安全地帯へと移動する。

一度だけ弾がグレイズし(かすめ)たが、しかし被弾ではない。

 

…………まだまだぁ!

 

視界を埋め尽くさんばかりの弾幕。

その軌道を、法則性を見切りながら、俺は出来る限り最小限の動きで回避する。

なんとか、こうして避け続けることはできる。

対して、俺の弾幕も当たった気配はなかった。

 

お互い、被弾することなく弾幕の応酬を重ねる。

文字だけ見れば、これまで一方的に屠られ続けていた俺がそれなりに善戦しているように捉えられるかもしれない。

だが、避け続けていると言っても、椛は悠々と、対する俺はギリギリで、だ。

弾幕の軌道を見誤れば、被弾は必須。

被弾はせずともいずれは魔力が尽きる。

このままじゃあジリ貧だ。

 

どうする……っ!?

すぐ傍を米粒弾がかすめた。

なんだ、いや。

明確に、椛の弾幕の密度が上がっている――。

 

椛を見る。

発生源たる彼女の姿。

弾幕を放ちながら、彼女はジリジリとこちらに近づいてきていた。

 

弾幕の発生起点は椛自身だ。

椛を中心に広がる弾幕は、彼女から離れれば疎らになるし、逆に近づけばその分密度が上がり回避する隙がなくなっていく。

つまり椛は圧し潰さんばかりの弾幕で俺を制するつもりなのだ。

 

ちょっと!

そんなのもありか!

 

これ以上近づかせてたまるかと、牽制で弾幕を撃ち放つ。

が、悲しいかな俺ごときの疎らな弾幕など恐れるに足らないとばかりに、椛は危なげなく回避し距離を詰め、俺はどんどん追い詰められる。

 

視界を米粒弾が埋め尽くす。

直撃コースの弾幕がいくつも、いくつも、いくつも――。

 

「――こんっの!」

飛行魔法に使っていた魔力を一気に絞った。

直後に体からほとんどの浮力が失われ、重力を思い出したかのように俺は落下を始めた。

 

「!」

驚いたよう椛が目を見開いたのが弾幕の合間に見え、俺はそこに向けて飛行魔法に割り当てていた魔力も動員して、弾幕を撃って撃って撃ちまくった。

内臓が腹の中でうねる。

背中から落下する恐怖に全身の鳥肌が総毛立つ。

 

だが、急速に落下速度を上げた俺の体は椛の弾幕圏外まで脱した。

その代わり、その頃にはすでに妖怪の山の背の高い木々がすでに傍に迫っていた。

「ぅうおお!」

気合を込めて、俺は最小まで絞っていた飛行魔法の出力を全開にする。

 

視界が緑で埋め尽くされ、顔を庇う腕に鋭い痛みが走る。

いくつもの枝を巻き込む最中で、体のどこかが嫌な音を立てた気がした。

だが、地面が迫ってくることにはなんとか落下を止めることに成功した。

 

どうにか高度を一定に保てるようになった俺は、荒い息をどうにか落ち着けようとする。

強かに打ち付けたせいで全身が鈍く痛む。

木の幹で体を支えながら、俺は両手両足が思い通りに動くことを確認した。

だが、相手は休む暇を与えてくれるような相手ではない。

 

枝を折る音とともに椛が俺と同じ高度まで急速降下して追ってきた。

彼女は刃を手に、俺へと接近してくる。

弾幕ごっこが終わったと見たのか、直接斬りかかってくるつもりだ。

 

「まだ!」

俺は声を上げながら、そんな椛に向けて弾幕を放った。

「俺は地面に落ちてねえぞ!!」

 

落ちてないから弾幕ごっこは終わりじゃないと、そんな手前勝手な主張の叫びとともに放たれた弾幕に椛も接近を止めて弾幕を撃ち返してきた。

よし、応じてきた。

まだ終わりじゃない。

 

俺は木の幹を蹴って跳躍するように水平に飛んだ。

感覚的には見れば無重力空間を移動する宇宙飛行士を連想させるかもしれない。

木々を足場に跳躍を繰り返すかのようにジグザグな動きながら、同時に椛から逃げるように飛行魔法を使った。

 

椛は木々の間を縫い追いかけてきた。

再度応酬する弾幕。

地面すれすれを飛びながら弾幕ごっこは続行し、新たに追って追われての追跡劇が始まった。

 

周囲の木々が遮蔽物となり、俺の弾幕も椛の弾幕も等しくそれらにぶつかって遮られる。

俺の元へ椛の弾幕が届く頃には、その回避自体はさほど難しくはないほどに弾幕は疎らになっていた。

 

「っ」

追ってくる椛が忌々しげに舌打ちした気がした。

 

ああ、苛ついてるな。

まあ俺としても、この展開はまったくもって本意ではない。

弾幕ごっこの本質は美しさを競うことだ。

故に派手に、かつ大規模に展開する弾幕ごっこはその全貌が見えるために開けた空間、つまりは空の上で行われるものなのだ。

だからこそ、こんな遮蔽物だらけの場所での弾幕ごっこなど、魅せるも美しさもへったくれもない。

 

こんなの弾幕ごっこじゃねえ!と、弾幕ごっこにそれなりの憧れも抱いていたいつもの俺なら内心そんなことを思っただろう。

ただ、それに対する言い訳すらも今はする余裕が無かった。

 

椛の位置を捉え、彼女の弾幕を見切り、椛に向けて弾幕を放ち、飛行魔法を制御して、更には周囲の木々を把握する。

情報が処理しきれずに脳みそが沸騰で爆発しそうなくらい熱い。

代わりに脳内麻薬が溢れているのか、集中力は極限まで研ぎ澄まされている。

先程よりも回避は容易だし、木々を蹴りながら飛ぶことで機動力も僅かながらも上がっていた。

 

不本意ではあるが、遮蔽物のおかげで回避は先程よりも楽になった。

代わりに木々に衝突しないように周囲の状況を把握し続ければならないし、更にはこちらから放つ弾幕も椛に対しては対してプレッシャーになりえない。

 

このままでは結末は変わらない。

だが、新たな策をひねり出せるほどの余裕が全くない。

依然として終わりのない綱渡りを続けるような攻防を俺は続けざる負えなかった。

 

 

* * *

 

 

――どれくらい立ったのか。

数十秒なのか、数分なのか、もしかしたら十分は立ったのか。

 

木々を縫って追跡劇を続ける中で、限界が見えてきた。

やばい。

頭がくらくらしてきた。

魔力はあるものの、アクロバティックな飛行を続けながらの慣れない弾幕ごっこは、そう長い間続けられるようなものではない。

 

そんな俺の耳に、不意にその音が聞こえてきた。

 

進行方向から聞こえてきた音は次第に大きくなり、木々の合間を抜けた先で不意に、その光景は広がっていた。

気付いたときには既に、激しく耳朶を叩く轟音が辺りを埋め尽くしていた。

 

滝だ。

 

視界いっぱいに広がるほどの幅広く巨大な滝が、前方に広がっていた。

幅もそうだが高さだって途方もない。

激しく舞い散る飛沫が靄となって体を濡らす。

 

まずい。

開けた空間だ。

眼下の滝壺は滝の規模に比例して広がっていて、大きな池のようになっていた。

椛の弾幕を妨害するような遮蔽物がほとんどない。

 

慌てて進路を変えようと左右を見る。

「げ」

 

既に椛の弾幕が俺の逃走を許さまいとするかのよう左右に展開されていた。

追い込まれた。

逃げ場はない――上にしか。

 

迷っている暇は無かった。

接近してくる椛から逃れるために、俺は我武者羅に魔力を練って真上へと進む。

 

椛も俺の軌道をなぞるように追ってきた。

滝の流れに逆らうが如く、俺たちは上へ上へと飛び上がりながらほとんど一方的な弾幕ごっこを繰り広げる。

滝の轟音と飛沫を浴びながらの弾幕ごっこの中で、俺の気力を削ぐかのように次第に椛の弾幕が密度を上げて追い込みをかけてきた。

 

途中からは弾幕を放って牽制する余裕すらなくなり、否応なく回避に専念せざる負えなくなった。

俺を押しつぶさんとばかりに視界いっぱいに広がる弾幕の中に生まれる流動的な安全地帯を、ぎりぎりのところで見出しながら凌いで凌いで、掠めながらも、どうにか、凌いで――。

 

「!?」

唐突に、椛の弾幕が途切れた。

急激にクリアになる俺の視界。

目を見開く。

僅か数メートルのところまで、既に椛は接近してきていた。

射殺さんばかりの鋭い視線の彼女の手は、まるで居合い抜きを放つかのように一旦鞘に収められた刀の柄をしっかりと握っている。

 

このまま斬りつけるつもりなのか。

それとも超至近距離からあの大量の弾幕を展開するつもりなのか。

 

どちらにせよ、敗北必須の間合いだった。

 

息を呑むことすらできないほどの刹那。

その光景がスローモーションに映る。

まるで時間の流れが数倍に引き伸ばされたのではないかと錯覚するような、そんな数瞬の中で。

 

 

 

不意に、アリスの顔が浮かんだ。

同時に想い出すのは、瀕死の俺を救ったまばゆい光。

 

その光景を脳裏に、俺は静かに宣言した(呟いた)

「咒詛」

その声はきっと、滝の轟音にかき消されただろう。

 

「っ!」

だが、椛は俺の行動の意味を瞬時に悟り、目を見開いた。

 

 

 

弾幕ごっこ――またの名を、『スペルカード』バトル。

 

これまで俺と椛が繰り広げてきたのは、俗に『通常弾幕』と呼ばれる名前の無い弾幕の応酬だ。

だが、弾幕ごっこは本来名付けられた弾幕(スペル)を主軸に競いあうもの。

パチュリーの木符『シルフィホルン』、チルノの凍符『パーフェクトフリーズ』 、メディスンの毒符『ポイズンブレス』。

見た目に分かりやすいそれら弾幕は一種の必殺技みたいなものだろう。

そして、それらスペルを使用する前には、必ずスペルカードの宣言が伴う。

 

相対する椛は、俺からスペルカード宣言の気配を察し、距離を取ろうと下がり始めた。

その目は俺の一挙手一投足を見逃さないが如く見開かれ、距離を取っているのも逃げるためではなく、確実に、かつ完全に回避仕切って見せようという強い意思を俺に抱かせた。

 

弾幕ごっこは、例え互いに余力があろうともそれらスペルを制した者が勝者となるルール。

必殺技と称したが、スペルカードは相手を下すため奥の手であると同時に打ち破られれば敗北が確定しかねない一種の諸刃の剣だ。

椛はきっと俺の弾幕を回避しきって見せることで、勝負を制するつもりなのだろう。

 

――ああ、それでいい。

さあ、借りるよ、アリス。

君の。

 

 

「『魔彩光の上海人形』」

 

 

 

 

 

――虎の威を。

 

至極、当然ながら。

通常弾を撃つだけで精一杯の俺に、アリスのスペルカードを模倣する技量など当然ない。

 

ここで俺が宣言したスペルは紛れもない嘘である。

まあ、すぐそばの滝の轟音が俺の声をかき消しているから、ここで俺が嘘を言ったかどうかはさして問題ではない。

 

ただ一点。

俺がスペルを使用すると、椛が勘違いしてくれれば、それでいい。

俺のスペルを回避しようと、椛が俺に全身全霊で集中してくれれば、それでいい。

 

勢い良く突き出した両手。

今までの弾幕ごっこで、俺は手の平から弾幕を繰り出していた。

だから椛は、今回の俺のスペルもその両手から展開されるだろうと注目したはずだ。

 

『はず』と、予想するような言い方になったのは、その瞬間俺は椛を見ていなかったから。

その()から自分の眼を守るために、顔を逸して目を閉じていたからだ。

 

発動させたのは弾幕ではなく魔法。

 

閃光魔法『フラッシュバン』。

 

魔力を光に変換して、椛に向けて爆発させるの目眩まし魔法だ。

 

同時に、『美しさを競い魅せ合う』弾幕ごっこでのその行為は、紛れもない。

卑怯で姑息で卑劣な、禁忌(ルール違反)だろう。

 

悪い、椛。

君はルールに従って俺に応じてくれたのに。

俺はこんな応え方しかできなくて。

 

残光に目を瞬かせながらも、俺は椛を見据える。

苦悶の表情を浮かべ目尻をピクピクと痙攣させる椛は目を凝らすように細めていた。

だが、その視線は俺を捉えてはいない。

視えていないその様子は、俺の魔法を直視したことを明確に物語っていた。

 

今度こそ俺は弾幕を撃ち放つ。

椛と椛の周囲の空間に広がるように展開した弾幕の一部が、狙い取り椛に向けてまっすぐ進んだ。

回避は容易な弾幕だ。

もちろんそれは見えていればの話。

 

…………椛。

ほんっと申し訳ないけど。

卑怯も、反則も、全部棚に上げて、今回の『勝ち』は…………。

 

一粒の弾が椛へと迫る。

当たった――と、俺が勝利を確信した瞬間。

 

 

いただく…………え。

 

紙一重のタイミングで椛がその体を翻した。

捻るように、あるいはコマのように回転した椛は――掠めこそしたものの――被弾はしていない。

どころか、立て続けに弾幕を椛は宙空を舞うかのごとく飛んで回避する。

 

「っ」

一瞬唖然としたのは失敗だった。

気づいたときには既に、目を瞠る俺の目前まで椛は迫っていた。

 

刃が舞い、弾幕が彼女の周囲から発生した。

近距離から発生するそれに人一人通る隙などなかった。

悪あがきで距離を取ろうとして、背後に轟音が迫りくることにその時になって気づいた。

 

「なんっで」

疑問が俺の口から溢れる。

なんで見えているんだ。

俺を圧し潰さんと迫る弾幕の合間に見える椛に俺は問いかけようとした。

瞼を閉じた彼女の顔は、すぐに弾幕に遮られ見えなくなり。

 

ちくしょう。

本当、君たち強敵(妖怪)ってやつは。

なかなか俺に勝ちを譲っちゃくれないな。

 

 

そうして、俺は椛の弾幕に圧され、背後の巨大な滝の激流に飲み込まれた。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

断片的に意識が飛んだのか、記憶は途切れ途切れだった。

 

体中を殴られたかのような衝撃は椛の弾幕。

抗いようのない激流。

底へ底へと俺を引きずり込む滝壺。

光が消え、酸素が尽きて、意識が遠のきかけて。

 

それから、何かが俺の体を急速に水面へと引っ張り上げた。

 

「っはあ!!」

水面を破った先、ありったけの空気を体中が求めていた。

遠のきかけていた意識をなんとか持ち直す。

「っ、ゲホ!」

 

鈍い痛みが、肺と頭と…………あとはよく分からない。

水の冷たさのせいか、体中の痛みがどこか遠く鈍かった。

とにかくまずは酸素だと、何度も何度も俺が咳き込む隣で、水面に出てからも腕を引くその少女は浅瀬へと向かっていた。

「ゴホッ、つ……?」

 

淡い青色の髪を二つに結ったツインテールの小柄な少女は、黙って泳ぎ続けている。

大の男一人を引きながらにもかかわらず、さして苦労する素振りすら見せない様子を見て、俺は不意に想い出す。

 

確か、レティに妖怪の山の住人について聞いたときにその名前が挙がったはずだ。

泳ぎと発明と相撲が得意できゅうりが大好物な山の住人。

 

「河童――?」

「?」

俺のつぶやきに河童と思わしき少女が振り返ったが、先に俺を川岸に連れていくことを先決にしたのか、何も応えなかった。

 

少女に引かれ浅瀬へとたどり着いた俺は、這々の体になりながら川岸に上がり、そこで体力が尽きて苔むした岩の上で仰向けになった。

魔力もほとんど残っていないし、さきほどまでの弾幕ごっこの影響か、体が重くて動けない。

 

あと体中痛いし、だるいし、このまま一時間くらいここで横になってたい。

 

息の荒い俺の顔を、助けてくれた少女が覗き込んだ。

「いやあ驚いた驚いた」

河童は気さくな笑みを浮かべる。

 

「弾幕ごっこで滝に流されてるヤツなんて初めてみたよ。どうだい?大丈夫?」

「……ああ。助かったよ」

「熱くなるのいいけどほどほどにしなよぉ。それにしたって白狼天狗と弾幕ごっこをするなんて、あんた一体全体…………げげ、人間!?」

少女の観察するような瞳が俺へと近づき、少ししてから彼女は目を見開いて後ずさった。

 

「なんだ、気付かずに助けたのか」

不意に上空から声がした。

河童の少女の隣に、滝に流された俺を追ってきたのだろう椛が降りてきた。

「うえ?椛!?上で弾幕ごっこをしてたのはあんただったの?」

 

下駄の音とともに着地した椛は、鞘から剣を引き抜いて俺の元へと近づいてくる。

「話は後だ。先にコイツの始末をつける」

「お、穏やかじゃないなぁ」

どうやら椛と知り合いらしい河童の少女が口元に手を当てた。

 

流石、容赦がない。

今回は弾幕ごっこでいろいろやらかした感もあるし、殺気が溢れるくらい椛が怒ってるのも致し方ないことだろう。

むしろ体力が残っていれば、せめて土下座の一つでも披露したいまである。

 

…………あ、でも、調子がいいことは承知で最後にダメ元でも訊いてみようか。

 

「なあ椛。最後の俺の弾幕、なんで避けれたんだ?」

「ふん。教えるわけがないだろう。勝手に悩んでいろ」

と、椛は答えてはくれなかった。

答えてはくれなかった、けど。

 

「ハハ……」

「なんであんた、こんな時に笑ってるんだい!?」

思わず零した笑みに、河童の少女が瞠目しながら問いかけてきた。

 

「いやさ、今まで散々、椛には無視されてきたからさ。やっと、俺の質問に反応してくれたなって」

「…………」

「ヒュゥ」

俺の答えに椛は眉を顰め、斜め後ろに立っていた河童は口笛を吹いた。

 

「へえ、お兄さん。随分と椛にお熱みたいだねえ」

「別にそういうわけじゃ……」

「もういい」

 

明らかに棘のある声を上げ、椛は手にした刃の切っ先を振り上げた。

「もう黙れ。死ね」

 

めっちゃ怒ってるな……。

まあ、それだけ怒られるようなことをしたというだけなのだけど。

一人勝手に納得し、心の中で椛に謝りながら、俺は息をついた。

…………重ねて椛には悪いけど、このまま消えるとしようか。

 

俺は目を閉じ、椛に斬られる前に分身を解こうとし――。

 

 

 

「そこまでよ!」

 

 

 

上空から制止の声が上がった。

 

「!!」

「ヒュイ!?」

 

突風が顔を撫で、何事かと、俺は瞼を開いて――目を瞠った。

「はたて…………?」

 

黒い羽を広げた烏天狗の少女が一人、腕を組んだ仁王立ちの姿勢で降りてくるところだった。

いつもの現代の学生のような装いではなく、修行僧を連想させるどことなく厳格な衣服を纏った彼女は、目を見開く俺たちの傍にゆっくりと着地した。

 

「ひ、姫海棠のお嬢様じゃないか……」

河童の少女があわあわと動揺した様子で言った。

 

「はたて様」

「椛」

烏天狗は白狼天狗の上司である、みたいなことを阿求さんから聞いたことがある。

強ち間違いでもないのか、近づいてきたはたてに畏まるように、椛は刃を鞘に収めて頭を下げた。

 

「この場は預からせてもらうわよ。さて、悠基」

「?」

いつもの忙しない態度はどこへいったのか、落ち着いた雰囲気を漂わせるはたては、未だに仰向けのままの俺を覗き込んだ。

 

「その様子じゃあまだ暫くは動けそうにないわね……仕方ない。運ぶか」

『運ぶ』というワードに嫌な予感がした俺は思わず問いかける。

 

「えっと?どこに」

 

俺の問いかけに、はたては俺の横へと回り込みながら、さもなんでもないことのように告げてくる。

 

「大天狗様がお呼びよ」

「…………え?」

 

 

 

 

ちなみに、だが。

嫌な予感は当たるもので、『運ぶ』とは横抱きのこと――つまりは、お姫様抱っこのことだった。

体力も魔力も底を尽きた人間が天狗に対してまともな抵抗など当然出来るはずもなく、すなわち。

俺は、本日二度目のその『屈辱』に甘んじざる負えなかった。

 

…………くっそぅ。

 




大真面目に弾幕ごっこをする回です。完全敗北は当然の結果でしょう。
弾幕ごっこを始めとして今回は独自解釈が混じりがちですが大目に見て頂けるとありがたいです。
主人公が宣言したアリスのスペルカードは四十五話より。

今回は登場人物紹介はお休みです。



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六十六話 妖怪の山小騒動 後編

「………………………」

正座をして縮こまる俺の正面に、その妖怪はどっしりと胡座をかいて鎮座していた。

 

はたてと同じような野伏装束。

だが、身長は俺の倍、横幅に至っては俺の五倍はあるんじゃないかという巨体。

膝に置かれた手の皮膚も、深い髭を蓄えた顔も真っ赤だ。

そして最も目を引くのはやはり棒のように先端の伸びた鼻だろう。

なんというか、もう、でっかいしびっくりするくらい天狗だしで逆に新鮮だ。

 

はたてに連れられ訪れた妖怪の山の天狗の里――聞くところによると、山には他にも拠点があるらしく、ここはその一部だそうだ――、その一角に構える大きな平屋の邸宅。

その一室に案内された俺は、妖怪の山を統べる天狗の幹部、大天狗と呼ばれる天狗の一人と対面していた。

 

正面の大天狗は、会話が始まってからも俺を値踏みするような、あるいは試すかのような目で俺を見据え続けていた。

その巨体に加えて迫力のある顔、お偉方であると同時に力ある妖怪らしい威厳からくるプレッシャーは相当なものだ。

 

端的に言って、すっげえおっかない。

 

ちなみに俺を連れてきたはたてと同行してきた椛は二人とも俺の後ろに並んで腰掛けている。

左後ろのほど近いところから「怪しい動きを見せたら殺す」「無礼を働いたら殺す」「話が終わったら殺す」「取り敢えず殺す」と、極端な被害妄想を抱かせるようなレベルの殺気が飛んできていて非常に居心地が悪い。

 

正直に言って、すっげえ気まずい。

 

……のではあるけれど、俺の感じた空気とは裏腹に、大天狗との話は、意外にも俺にとっては朗報だった。

「…………あの、つまりは、俺――私にこの山の探索を許可してくださるということでしょうか?」

「そういうことだ」

いかつい顔の大天狗は、表情を変えることなく頷いた。

 

「貴様が昨年から幾度も侵入していることは報告を受けている。だが、哨戒天狗にすらまともに相手取れないような無力な人間だ。侵入の都度適当に追い払っておけば充分だろうと、これまで儂は考えていた」

そこで、大天狗は僅かに呆れたように嘆息した。

 

「だが、此度の騒動で考えを改めることにした。このまま貴様を阻み続ければ今後より騒動が酷くなるのではないか、とな」

「…………」

気まずくなった俺は思わず視線を逸した。

 

違うんです大天狗様。

今回は例外なんです。

そりゃ確かに途中からはこの騒動に乗っかってはいましたけど、俺だってこんな騒動を起こすつもりはもともとなかったんです。

首謀者は小悪魔……もとい、指示を出したウチのお嬢様であるからして、つまり俺は悪くない……いや普段の行い的にそんなことはないですよね、ハイ。

 

「……申し訳ございません」

「幾度も侵入を繰り返し続けてきた貴様のことだ。しおらしく謝ったところでここへの侵入を諦めるつもりはなかろう?」

よく分かってらっしゃる。

似たような説教を何度も受けている身からすれば耳が痛い。

 

「で、あるならば仕方ない。此度以上の騒動を起こされるよりは、監視下に置いたほうがまだいいだろうというだけの話だ」

「監視下ですか」

「そうだ。貴様の目的がここに住む妖怪の観察であって、我々天狗に敵対するためではないという話は聞き及んでいる」

 

はたてが話したのだろうか。

いつもと違って静かな彼女は、椛と並ぶように俺の背後に座している。

 

「しかし、だからといって自由に我らの領地を嗅ぎ回らせるのは流石に看過できんからな。故に、この山に入る上で二つ条件を飲んでもらおう。一つは、山では常に哨戒天狗の監視下につくこと。そしてその天狗の指示におとなしく従うこと。椛、監視役はお前に任せる。よいな」

「……承知」

すごい不満そうな声色の返事だった。

 

ともかくとして、条件と聞いて何を言われるかと緊張したが、至極まっとうな内容に俺は安堵する。

これまでの度重なる妖怪の山への侵入や、今回の騒動を鑑みると寛大な処置だ。

なんだか泣き寝入りさせた感が否めないけど。

 

 

「人間、異論はあるか?」

「滅相もありません。ご温情、誠にありがとうございます」

「ふん、『温情』か。物は言いようだな」

鼻を鳴らす大天狗の様子からして、所感は概ね一致しているようだ。

 

「これでよいか、はたて」

と、大天狗が俺の右後ろへと視線を動かした。

不意の言葉に目を丸くする俺の背後で、どこか機嫌良さそうな声音ではたてが応える。

 

「ええ。充分だわ、お父様」

 

え。

 

「ここでは『大天狗』と呼べと言っておるだろう」

「これは失礼致しました。大天狗様」

 

お、お嬢様!?

はたて、君、お偉いさんのとこのお嬢様だったの!?

全っ然似てないけど!!

 

「あら、なによ悠基」

思わず振り返った俺の顔を、どこか可笑しそうに見返しながらはたては言った。

「鳩が豆鉄砲食らったような顔して」

 

「…………いえ、何も……」

敬語になりながら、俺は湧き出てくる質問を飲み込んで再度大天狗様に向き合う。

マジでビビった…………あ。

もしかして、今回の大天狗の決定、大天狗の令嬢という立場を利用したはたてが一枚噛んでいるのではないだろうか。

もしそうなら、随分とでかい借りが出来てしまったな。

 

さて、今後の妖怪の山での妖怪調査に展望が開けたのはいいとして、今回の騒動の目的はそれとはまた別にある。

現状かなり印象が悪いおかげ――なぜか、先程のはたてとの一言だけのやりとり以降、大天狗様からの威圧感が上がっている――でかなり気が引けるが、こちらも蔑ろにはできない。

「大天狗様。無礼を承知で一つお願いしたいことがございます」

 

「ほう?」

「貴様……!」

俺の申し出に大天狗は片方の眉を上げ、背後で椛が押し殺したような声を上げる。

 

何を思ったか定かではないが、大天狗は椛を制するように手を翳して言った。

「よい、申してみよ」

「ありがとうございます」

「…………」

背後の剣呑とした殺気に冷や汗を滲ませながらも俺は安堵する。

 

「私の雇い主、レミリア・スカーレットより書状を預かっております」

いつ椛に斬りかかられるかと覚悟を決めながらも、俺は懐からそれを取り出す。

椛との戦闘の中で滝に突っ込んだせいでダメになっているかと思った書状だが、見たところ封がしっとりと湿ってはいるが、中からは乾いた音が聞こえてきた。

おそらく何かしらの防水加工でもされていたのか。

準備のいいことだ。

俺はその書状を大天狗に差し出した。

 

「これを、その……天魔様にお渡し頂けないでしょうか」

天魔の名前を出した瞬間に、室内の気温が一気に落ちるかのような、そんな寒気を覚えた。

流石にまずかったか、と唾を飲むが、反して大天狗の声音は変わらなかった。

 

「ほう、頭領様にか。中身を改めるぞ」

「はい」

大天狗は俺から手紙を受け取ると断りを入れて太い指で器用に封を開いた。

 

そういえば、レミリアが天魔に向けて認めた手紙の内容はなんなのだろう。

今更ながらその考えに至った俺はひやひやしながら書面に目を通す大天狗を見つめた。

……碌でもないこと書いてたらどうしよう。

 

少しの後、書状を読み終えた大天狗は「ふん」と鼻を鳴らした。

「人間。主の吸血鬼に伝えておけ。『断る』とな」

僅か一言、シンプルな言伝を俺に命じながら、大天狗はビリビリと書状を破り始めた。

 

予感した通り、失礼な内容だったのだろう。

表情こそ変わらないが明らかに機嫌の悪そうな対応をする大天狗に、俺は気落ちしながら頭を下げる。

「……かしこまりました」

 

「もう用はないな?」

「はい」

「よろしい。下がって良いぞ」

「は…………此度のご迷惑、失礼、誠に申し訳ございませんでした」

最後に俺は深々と頭を下げた。

 

「ふん」

大天狗は鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。

今回は大変な目にあったが、大きな収穫もあったし、良しとしよう。

俺は頭を上げると立ち上がり、その場を後にしようとして――直後に「待て」と大天狗に呼び止められた。

 

「?……何か?」

「…………」

不意の呼びかけに応じるが、なぜか大天狗は何も言わない。

ただ、意外なことに何か躊躇うような、僅かな迷いがその目に見えた。

これまでの威厳ある態度とは異なる様子に、俺は何事かと大天狗の言葉を黙って待つ。

 

「……はたてと」

「私?」

不意に名前を呼ばれたはたてが戸惑ったように声を上げた。

 

「貴様は」

「?」

 

 

 

「貴様ははたてと、どういう関係だ?」

 

 

「え?」

「…………」

「…………えーと」

 

……こ、これは。

お、お父さんだ……!

娘の交友関係を気にするお父さんだ……!!

 

余りにも予想外な言葉に思わず閉口していると、俺の代わりにはたてが口を開いた。

「フ、アハ、アハハハ!何よお父様。もしかして何か勘ぐっているの?」

心底可笑しいのか大笑いするはたては、硬直する俺の背中をバシバシと叩いた。

「ないないないない。悠基とそんなことあるわけないじゃない!」

 

気軽な様子で背中を叩いてくるはたてに反して、俺は冷や汗をだらだらと流していた。

 

痛っ。

痛いってはたて。

「……………………」

視線が、視線が痛いんだよ大天狗様の!

めっちゃ睨んできてるから!

気づいてくれはたて!

そういう不用意なスキンシップが大天狗様には親しげに映ってることに気づいて!

余計な誤解を生んでるって気づいて!!

 

「あ、あの、大天狗様。誓って……誓ってそのようなことはございませんので」

「なによぉ悠基。大げさねえ」

「貴様、はたてに魅力がないと言うのか」

「えぇ?あの、決してそんな」

「もう、やめてよお父様ー」

 

最初の威厳はどこへ消えたのか。

親ばか丸出しの大天狗に困惑する俺と、状況を全く察することなく暢気に笑うはたて。

 

その様子を傍目で眺める椛は、なんとも微妙な顔をしていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

最後のやりとりにダメ押しされて酷く気疲れした俺は、大天狗の屋敷を後にして、はたてと並んで天狗の里を出口へ向けて歩いていた。

俺たちの後ろを付き従うように歩く椛からは、相変わらず殺気の孕んだ視線を向けられ続けている。

 

ただ、視線は椛からだけではない。

周囲の住居からは天狗たちの視線がちらほら見えた。

興味か、敵意か、その視線に込められている意思は様々だと思うが、大天狗の正面にいるときと同様に居心地が良いものではなかった。

 

そういえば、今回の大天狗の決定は、結局のところはたてが手を回してくれたのだろうか。

隣を歩くはたては、口元に手を当ててなにやら考え込んでいる。

「あの――」

「どうも~」

気になって問いかけようと俺が口を開いたところで、不意に上からテンションの高い声がかけられた。

 

聞き覚えのある声に視線を上げた俺の視界が、黒い翼で一瞬覆われた。

次の瞬間には、驚く俺の目前に笑みを浮かべた射命丸文が着地していた。

 

「ご無沙汰しております悠基さん。清く正しい射命丸でございます」

「あ、ああ。君は相変わらずだな」

テンションの高い文の登場に、俺の隣でははたてがジト目になっていた。

 

「なにか用なの、文。今日中の悠基への接触は控えるようにお触れが出ているはずだけど」

「そうなの?」

初めて聞く話に俺は目を丸くする。

 

「……山の中でまたひと騒動起きかねないからって、お父――大天狗様が命じたのよ」

どうやら大天狗様からはすっかりトラブルメーカー扱いされているようだ。

「も、ち、ろ、ん、取材も禁止よ」

言い含めるようなはたての言葉に文は苦笑する。

 

「それは残念。あわよくば話を聞けないかと思ったのですが。ま、いいでしょう。今回はこれを配りに来たのですし」

と、文は肩にかけた鞄に手を掛ける。

鞄からははみ出るほどにぎっしりと束ねられた新聞……おそらくは彼女の書く文々。新聞だろう、その一部を取り出すとはたてへと向ける。

 

「号外よ」

「……?」

訝しげに新聞を手に取るはたて。

続いて俺にも文々。新聞の号外を手渡す文の意味深な笑みに戸惑いながらも、俺は紙面に目を通した。

 

記事の中身は今回の妖怪の山の騒動に関するものだ。

騒ぎにもなったし、記事になるであろうことは予想はできた。

が、おかしい。

 

今回の騒動が始まったのは――白狼天狗に取り囲まれた頃合いをそれとするなら――、ほんの数時間前のことだ。

文は記事を書いて纏まった部数をこうして刷っているわけだが、いくらなんでも早すぎる。

外の世界で言うならば、その早さからして単独記事といってもいいだろう。

恐る恐る隣を見れば、食い入るように新聞を読むはたてが悔しそうに顔を赤くし歯を食い縛っていた。

 

「……仕事が早いね」

「ふふん。なにしろ私、最速を自称しておりますもので。そこらのヘボ念報とは記事の鮮度が違うのですよ、そこらのヘボ念報とは!」

 

「誰がヘボ念報ですって!!」

「おんやあ?私は別にお菓子念報だなどとは一言も言っておりませんが?もしかしてはたて、貴女自覚があるのかしら?」

「花!果!子!よ!花果子念報!なによその美味しそうな名前は!」

 

舌戦で文に軍配が上がりそうだな、なんてことを思いつつも、俺は二人の口喧嘩に割り込むように「なあ、文」と声をかけた。

「なにか?」

「……ここのとこなんだけど」

 

と、俺が指差すのは紙面の右下の辺りの写真。

もともと小さい画像を無理やり広げたせいなのか、かなり粗いが、そこには俺とリグルが写っていた。

妖怪の山に入る前の打ち合わせの様子――つまりは今回の騒動が起こる前に撮影されたと思わしき写真だ。

 

「なんで?」

あたかも、俺とリグルが悪巧みを……妖怪の山へと侵入することを知っていたかのような印象をその写真から受けた。

もちろん、たまたま俺たちを見かけて撮影しただけと言われればそれまでだが、それにしてはリグルの蟲による範囲探索の目を意識したかのように遠目から撮影したのだろう思わしき写真がなんとなく気になった。

 

「あぁ、まあ、いいでしょう」

口元に指を当てた文は、僅かに逡巡したのちに口端を上げた。

 

「そうですねえ。悠基さんには、一つだけご忠告を申し上げておきましょうか。出血大サービスですよ」

「?」

訝しげに眉を顰める俺の前で、文は鞄の鞄のサイドポケットに手を突っ込んだ。

少ししてから取り出したそれを、彼女は天狗帽と取り替える形で頭の上に乗せるように被せた。

 

「……あ」

それは、いつもの文の印象とは少し異なる、どこか異国情緒漂う、茶色い布地のキャスケット帽だった。

ついでに言えば、俺はその帽子に見覚えがある。

具体的には、昨晩のミスティアの屋台にて、リグルと妖怪の山への侵入について打ち合わせていたとき、ミスティアが『お兄さん』と呼んだもう一人の客だ。

 

「……君、だったのか」

「ええ、お察しのとおりでございます」

 

つまりは、昨晩俺とリグルは堂々と侵入計画を立てていたということになる。

その侵入先の住人の目と鼻の先で。

 

間抜けっ・・・・!圧倒的間抜けっ・・・・!

 

「……?」

事情のわからない様子で眉を顰めるはたての目の前で、愕然とする俺に対して、文は悪戯が成功した子どものように笑みを浮かべ、ともすればウインクまでかましてきた。

 

なるほど、計画を知っていたからこそ先んじて記事を書く準備が出来ていた。

だからこその天狗らしからぬ情報の早さというわけか。

「いやあ、先んじて張り込んでいたおかげでいい絵がたくさん撮れました。今回の騒動に関しては他の天狗にも差をつけられそうです。さすがの私もあそこまで大事になるとは予想できませんでしたが、そこは敏腕記者としての腕の見せ所です♪」

 

「……ほう?」

と、不意に俺の背後から底冷えするほどの寒さを錯覚する冷たい声がした。

 

思わず息を呑んで振り返れば、椛が射殺さんばかりの鋭い視線を文に向けていた。

「文様。つまり貴女は、この男が侵入することをご存知だったと?そして、それを見逃したと、そうおっしゃるのですか?我々の仕事が増えることを承知で?」

「もちろん貴女方哨戒天狗の仕事を信頼してのことですよぉ。怒らないでくださいって」

 

視線を向けられているわけでもないのに椛の迫力に気圧されている俺と違って、文は楽しそうですらある。

それどころか、指を伸ばして今にも噛みつかんばかりの椛の眉間をちょこんと突いてすら見せた。

「そんなに眉間に皺を寄せていると、せっかくの美人さんが台無しですよ、椛?」

「…………」

 

こ、恐ぇ……。

数刻前の小悪魔の言葉を彷彿とさせる文の言葉に、無言の椛からの()が一段と増した気がする。

下手したらすぐさま抜刀して斬りかかりかねない様子だが、恐らくは烏天狗の文だからこそ我慢しているのだろう。

文もそれを承知しているのか、臆する気配を微塵も見せずに「それでは」と軽い足取りで数歩下がった。

 

「この度は記事の提供ありがとうございました。これからも文々。新聞をご贔屓に~」

と、終始上機嫌に笑いながら文は飛び去っていく。

 

その後姿を苦虫を噛み潰したような顔で見るはたてがぼそりと呟いた。

「アイツ……からかうためだけに来たわね……」

随分と悔しげな表情をするはたてを見て、俺は不意に思う。

はたてが父親の大天狗にかけあったと前提するならばの話だが、もしかして彼女は新聞記事のネタを反故にして俺に味方してくれたんじゃないだろうか、と。

 

「おい。人間」

「ん?」

と、不躾に俺を呼ぶ椛に振り向けば、彼女の冷たい目で俺を見ながらも一方を指差している。

見れば、天狗の里の外れの辺り、俺達が進む目と鼻の先に、白狼天狗の集団が俺たちに向かって歩いてきていた。

 

なるほど、騒動を起こした俺が天狗の領域外に出ていくまで、哨戒天狗の部隊で監視するというわけか。

と納得していると同時に、集団の先頭に知り合いがいることに気づく。

 

「リグル、メディスン」

どういうわけか……いや、メディスンは山へ侵入していたのだから分かるのだけど、なんで山の外で待機していたリグルまでいるのだろうか。

ていうか、なんかリグル、気のせいか顔色が悪いような……。

不思議に思い首を傾げる俺に、どうやら向こうも気づいたらしい。

 

「ゆ」

「……?」

俺と目があったリグルが何かを言いかけ、しかしなぜか言葉が途切れた。

何事かと様子を見ている俺は次の瞬間ぎょっとする。

丸々と見開かれたリグルの目が潤み、大粒の涙がこぼれ始めていた。

 

「どうした!?」

「ゆう、きぃ!!」

俺に向かって駆け出したリグルはポロポロと涙を零しながら飛びついてきた。

腰に抱きついてきた彼女の衝撃に踏ん張りながら、俺はリグルの頭に手を添える。

 

「リグル?」

俺の腹部に顔を埋めて尚も泣き続けるリグルに問いかけるも、嗚咽を上げるばかりで答えは帰ってこない。

あやすように彼女の頭を撫でながら、俺は椛を見た。

 

「貴様の侵入に助力したのだから当然だ。脅すだけに留めておいてやったのだ、睨まれる筋合いはない」

案の定、椛の能力か何かで居場所を特定され、彼女の部下の白狼天狗に捕まったようだ。

リグルの様子からして、随分と脅されたのだろう。

「……そうか」

 

と、するならば、今リグルが怯えているのは俺の仕事に巻き込まれたからだろう。

「……こめんな、リグル。もう大丈夫だからな」

「…………キ」

「ん?」

 

顔を埋めたままのリグルからくぐもった声が返ってくる。

「ショート……ケーキ……」

…………なるほど。

 

「クリームたっぷり甘々だな」

「ハニートースト……」

「ハチミツが溢れるくらいのやつだな」

「モンブラン……」

「そうだな。もうしばらくしたら栗が旬だし、たくさん作ったる」

「…………」

 

痛いほどに抱きしめてきていたリグルの腕の力が少しだけ緩められた。

相変わらず顔を上げようとはしないが、ひとまずはそれで許してくれるらしい。

ほんの少しだけ安堵していると、今度は俺の袖を誰かが引っ張った。

 

メディスンだ。

リグルのように泣きじゃくってはいないものの、目を潤ませたメディスンが俺の片方の袖を摘むように握っている。

顔を反らしている彼女の手は震えていて、泣き出しそうになりながらも必死で堪えているのがよく分かった。

 

「大丈夫か、メディスン」

大丈夫じゃないよなあ、と思いながらも問いかけると、メディスンは震える声で返してきた。

「大丈夫に…………決まってるじゃない……」

さすがの彼女もかなり堪えているようだ。

 

「そうだな」

「……泣いてないんだからね」

「ああ」

「本当なんだから」

「うん。大丈夫だよ」

 

俺の袖をしっかりと掴んだままのメディスンに頷いて、俺は顔を上げた。

さて、あと一人、山に侵入した同行者がいたはずだ。

 

「椛、こあ――赤髪の子は?」

「……ふん」

俺の問いかけに椛は不機嫌に鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

彼女の反応からして、今回の騒ぎの発端であり数多の哨戒天狗を翻弄する大立ち回りを見せた小悪魔は、どうやらまんまと逃げおおせたのだろう。

だとするなら、もう俺がここに残る理由はない。

 

「ん、そうか」

俺は一人納得して頷く。

それから、少しだけ迷いながらも言っておくことにした。

「じゃあ、椛。また今度、山に入る時はよろしく」

「…………」

予想通り、ものっすごい不満そうに睨まれた。

 

急かすようにメディスンが無言で俺の袖を引く。

どうやら一刻も早くここから離れたいようだ。

メディスンもだが、初めて出会ったときの、俺を瀕死にするくらいの威勢の良さはどこへやら、よほど天狗たちの脅しが怖かったのか、随分としおらしくなっている。

そんな彼女に「もうちょっとだけ待ってくれ」と言いながら、俺ははたてへと視線を移す。

 

はたてと言えば、先程から呆れたような視線を俺に向け続けている。

リグルに抱きつかれ、メディスンに片腕の自由を奪われている俺の姿は、ともすれば泣きやまない子どもたちを迎えに来た保護者くらいには見えるのだろう。

 

「はたて、今回はありがと」

「……なんのことよ」

「大天狗様のこと」

「…………何を言ってるのかさっぱりだわ」

腕を組み、唇を尖らせながらはたてはそっぽを向いた。

 

俺ほどではないにしろ、はたても嘘をつくのは随分と下手くそらしい。

とぼける彼女の朱色に染まった頬は彼女が照れていることを表していて、おそらくは俺が礼を言う理由に心当たりがあるのだろう。

 

きっと、俺の妖怪調査を大天狗が許可するようにはたてが根回しをしてくれたという俺の予想は当たっていると確信した。

恍けているのは周囲の天狗の目があるからなのか。

その辺りの事情は分からないが、今はこの話題には触れないでおこう。

 

……なら、最後に。

「はたて。試作のケーキ、また味見しに来てくれ」

今回は大きな『借り』を作ったわけだし。

 

「…………」

俺の言葉にはたては逡巡するように沈黙し、暫くしてからいつものように破顔した。

「そんなの、頼まれなくてもいつもみたいに行ってあげるわよ」

「ああ」

どこか満足気な笑みに、俺も笑みを浮かべて頷いた。

 

 

 

かくして、晩夏を目前に妖怪の山で起きた、妖精、使い魔、妖怪、人間の各種族入り乱れる侵入者たちによって引き起こされた一連の騒ぎは、ひとまずの結末を迎えたのだった。

 

 




主人公の探索エリアに妖怪の山が追加されました。
妖怪の山編は一応の決着。
章タイトルの風神録編はもう暫くしたら本格的に、です。

今回も登場人物紹介はお休み。本編が長くなると煽りを受けるのです。


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六十七話 夏の暮れとノスタルジー

残暑は色濃く、近くの木々ではこれが最期とばかりに蝉がけたたましい鳴き声を立てていた。

涼やかな風鈴の音も一緒に耳にしながら団扇を仰いでいると、小さかった頃に田舎の親戚の家に遊びに行ったことを思い出した。

 

漫画なんかで見るようなベッタベタな田舎町で、地元の子どもと日暮れまで遊んだことを覚えている。

風通しがいいおかげか意外と涼しいおかげでひんやりとした平屋の縁側にうつ伏せになって夏休みの宿題を広げていたっけ。

これで駄菓子屋で買った棒アイスか井戸水で冷やした西瓜でもあれば完璧だ。

 

「西瓜、買ってくればよかったなあ」

「んー?悠基かい?」

背後で酒気を漂わせる鬼の少女が間の抜けた声を上げた。

 

博麗神社の裏手にある霊夢の住居。

幻想郷唯一の神社に、俺はお参りも兼ねて遊びに来ていた。

遊びにといっても特に何かをするでもない、紅魔館で汗かき働く我が分身の代わりに日がな一日ぼんやりとして過ごすという贅沢な時間の浪費を博麗神社で洒落込むだけだ。

 

霊夢に「暇なの?」と呆れたような視線を向けられたがとんでもない。

分身能力を駆使して実質人一倍働いているのだから、こういった休息を取ることは必要なことだ。

それに、訪れる度にお茶を啜ってぼんやりとしている霊夢に言われたくない。

 

そんな家主の霊夢だが、今日は珍しいことに修行をしているらしい。

興味本位で見物しようとしたら、「気が散るからどっか行ってて」と睨まれたので、俺は仕方なく母屋にお邪魔することにした。

訪れたときから居候の萃香が俺の後ろにある座敷で昼寝をしていたのだが、どうやら俺の言葉に反応したようだ。

 

「ん、起こしちゃったか」

「ふわぁ~……よく寝た」

欠伸混じりに頷く萃香は、ふらふらとした足取りで俺の隣まで来ると、縁側に腰掛けて小脇に抱えていた伊吹瓢の蓋を開けた。

瓢箪から漂う酒気に眉をしかめながらも、諦め混じりに俺は嘆息する。

 

「また起きて早々」

「気付け代わりさ。ほら、悠基も一口」

「だから飲まないっての」

 

早速とばかりに酒を勧めてくるのも、それを断るのもいつものことだ。

いつもどおりのやりとりをしつつ、何度か酒を煽って一息ついた萃香が「そういえば」と思い出したように言った。

 

「聞いたよぉ悠基ぃ」

「ん……妖怪の山のことか」

「へえ、その様子じゃあここに来る前にも散々話をせがまれたみたいだねえ」

「お察しの通りで」

 

辟易とした思いで肩を竦めると萃香は笑った。

「お山で騒ぎでも起こせばそうなるだろうね。前々から思ってたけどさ、だんだんと面白いことをするようになったじゃないか」

「その『いつかやると思ってました』みたいな言い方するのはやめてくれない?」

「これからも期待してるよ」

 

「馬鹿言うな。もう二度とあんなことはないからな」

「アハハハ、説得力が欠片もないね」

「む……」

なぜだろう、不思議なことに反論できない。

 

黙り込む俺の隣で萃香はクスリと笑う。

「まあいいさ。天狗から顛末は聞いてるからね。騒ぎを起こしたのはあんただって聞いたけどほんとのところは違うんだろ?」

「なんだよ、分かってるんじゃないか」

安堵混じりにため息をつくと、俺は団扇を仰ぎながら事の発端、レミリアの書状の下りとその顛末を話すことにした。

 

 

 

* * *

 

 

 

「ふうん、そう。『断る』ね」

「はい。その一言だけ」

「それは残念」

言葉とは裏腹にさして残念そうでもないレミリアはサイコロステーキを口に入れた。

 

妖怪の山での騒動を終えたその日の夜、夕食の席に呼ばれた俺は、小悪魔から預かった書状の返事をレミリアに報告したところだった。

相変わらず咲夜お手製の肉料理は絶品だ。

その咲夜はいつものようにレミリアの背後で静かに控えている。

 

ステーキにナイフを通しながら、俺はちらりとレミリアを見た。

「取り敢えず報告としてはそんなところです。それで、一体あの手紙は何だったんですか?」

「簡単に言えば入場申請書みたいなものよ。この場合は入山申請書といった方がいいのかしら」

 

「申請って……出禁でもくらってるんですか?」

妖怪の山は閉鎖的で、基本的に侵入者は受け入れない傾向がある。

ただ、それは俺みたいな人間に限った話で、レティの話を聞くには妖怪や妖精は見逃されることも多いそうだ。

そう考えるならばレミリアだって見逃される側ではないかと、そんな思いで冗談交じりで問いかけてみると、予想外にレミリアはあっさりと頷いた。

 

「そうよ」

「……なにやらかしたんですか」

幻想郷(ここ)にきたときに色々あったのよ」

「色々……ああ、なるほど」

 

レミリアたちが幻想入りしたとき、とするならば吸血鬼異変と呼ばれる紅魔館の住人による幻想郷の侵略のことを指しているのだろう。

異変については話に聞く程度のことではあったが、その元侵略者たちの家に出稼ぎに来るなどと、我ながら物騒な決断をしたものだと思うのは今更だろう。

 

「まあ、それはいいですけど、なんで申請書なんか?山に何か用事でも?」

「河童に用があるの」

「河童?」

俺の世界でも有名な妖怪だが、この幻想郷では案の定人間の少女の姿だ。

滝壺に落ちた俺を助けてくれたにとりの姿を思い浮かべる。

 

「ほら、アイツらって発明が得意な種族じゃない?だから作ってもらおうと思ったのよね」

手慰みなのかフォークを軽く振るレミリアに俺は首を傾げる。

「なにをです?」

「ロケットよ」

 

不意の言葉に俺は違和感を覚え、腕を組む。

少しの逡巡を経て、その違和感が既視感であることに気づく。

「……ペンダントですか?」

「乗り物の方よ」

「はあ、そっちですか」

こんなやりとりを以前パチュリーとした覚えがある。

 

「まあ、保険を用意しておきたかったのだけど、仕方ないわね」

「左様ですか」

それにしたってロケットを作るなどと、荒唐無稽な話だ。

どうせいつもの冗談だろうと俺は深く考えないことにした。

 

「まあ、それはいいんですけどね」

カチャリと、俺は食器を置く。

決して大きくはないものの、意図的に立てられた音に空気が変わった。

レミリアの態度は決して変わらないが、その背後で置物のように存在感を消していた咲夜が怪訝な視線を向けてきた。

 

「何か言いたげね」

「ええ。お嬢様、俺は今回、人里の稗田の仕事で山に訪れていたんです。結果的には成果はありましたが、もしかしたら稗田にも迷惑がかかることになったかもしれません。なので、今回みたいに別の仕事に介入するのはやめてください」

 

「あら、でも貴方は最終的には命令を聞いたくれたじゃない?」

「……俺が喉から手が出るほど欲しい報酬を引き合いに出しといてなんですかその言い方は」

結局のところ、天魔に宛てた書状は大天狗によって破り捨てられてしまった。

つまりはあれだけの大騒ぎを起こしながら報酬はゼロというわけだ。

 

まあ、そんなこんなで余計な苦労や徒労を背負い込まされた身としては、流石に全く気にしないという気分にもなれず、俺は半眼になってレミリアを見据える。

「俺だって、怒る時は怒りますからね」

「へえ?怒って、それから?」

しかしレミリアは楽しげに、なにかを期待するように答えてくる。

……このお嬢様、完全に舐めてくれてるな。

 

「…………そこまで言うなら、俺にも考えがあります」

「なにか面白いことでもしてくれるのかしら?」

ほーう?

どうせレミリアのことだ、「お人良しの俺がやることなんてたかが知れてる」程度に思っているのだろう。

ふん。

だったら目にもの見せて差し上げるとしようか。

 

レミリアの背後に控える咲夜へと俺は視線を移す。

「咲夜」

「なにかしら」

「お嬢様の嫌いな食べ物は?」

不意の俺の質問に、問いかけられた咲夜も当人のレミリアも僅かに目を見開く。

 

「……炒った大豆とニンニク」

「それは吸血鬼の弱点でしょ。別にそこまでしたいわけじゃなくてさ」

 

「フフ」

苦笑交じりでレミリアは目を細めると、「悠基」と勝ち誇った笑みを俺に向けてくる。

随分と得意げだ。

「弱点じゃなくて苦手なものだなんて、相変わらず貴方は甘いわね。それに、私は偉大なる種族、吸血鬼なのよ」

 

自らの胸に手を当て、レミリアは口端を上げた。

「この私が食べ物の好き嫌いだなんて、そんな子供じみた――」

 

「茄子は間違いないわね」

不意に、レミリアの話に割り込むように言葉が聞こえた。

時間が止まったかのようにレミリアが固まる。

原因はもちろん、その背後に控える忠実なメイドが起こした謀反に他ならないだろう。

 

「あとは、アスパラもよく残してるわ。コーヒーはブラックでは絶対無理みたいだし、ワサビも辛子も、あと紅しょうがみたいな薬味とかもダメね。それから――」

「咲夜」

指折り数え始める咲夜に、レミリアは頬をひくつかせていた。

 

「はい、いかがされましたか?お嬢様」

「……余計なことを言うな」

「仰せのままに」

見ようによってはふてぶてしいほどに仰々しい態度で咲夜は口を閉じた。

だが、十分だ。

グッジョブ。

 

「なるほど。ありがと、咲夜。参考になったよ」

「何を参考にするのかしら?」

レミリアが片眉を上げると、俺はわざとらしく笑みを浮かべてそれに応じる。

 

「大した事じゃあないですよ。ま、一言申し上げるなら、明日のおやつ(試作品)の材料がたった今決まったということくらいですかね」

「…………へぇ?」

「ああ、ご心配なく。私も甘味処の一従業員としての自負はございますから。美味しく仕上げるように努めますのでどうぞご期待くださいませ」

 

「……楽しみにしてるわ」

「ええ」

僅かながらも動揺を露わにしたレミリアの引きつった笑みで、俺は先程湧いた苛立ちの溜飲を下げることにした。

へへーんだ。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

「へえ、あの吸血鬼のお嬢様の命令で」

「そういうこと」

「ふーん。その顔じゃあ随分と不服だったみたいだね」

「それはもう。ほんっと、わがままなお嬢様だよまったく」

 

肩を竦める俺に萃香はケラケラと笑う。

「悠基がこんな風に愚痴るのは珍しいね。まあいいさ。そういえば、あんたと一緒に妖精やらチビの妖怪もいたんだろ?そいつらはどうしたんだい?」

「ああ……」

チビて。

 

「大妖精やチルノは妖精だからな。次の日に湖に行ったら元気そうだったよ。チルノは『椛にリベンジしてやるんだー』って特訓してたくらいだし」

心配していただけに肩透かしを食らった気分だ。

二人とも気にしていないどころか、大妖精に至っては「全然役に立てなくてごめんなさい」と謝られてしまい大いに焦ったほどだ。

 

「まあ、妖精ってのはそういうやつらさ」

「うん。でもなあ…………」

「ん?気になることでもあるのかい?」

「いや、妖精(あの子)たちのことじゃないんだけどさ」

萃香の怪訝な視線を感じながらも、俺は溜息をつかずにはいられなかった。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

「災難だったわね」

騒動から数日ほど立ってからの太陽の畑にて、俺は幽香の淹れたお茶で一服したところだった。

「まあ、不本意ではあるけどおかげで進展はあったから、不満だけではないんだけどね」

ふぅ、と息をつくと、窓の外の景色を眺める。

 

今なお盛んに咲き続ける向日葵たち。

太陽の光を一身に浴び続けるせいか、その景色はやけに眩しく見えた。

「なにしけた顔してんのよ」

「ん?」

 

柄にもなく黄昏れていると、不意に声をかけられる。

いつものように幽香とのお茶会に同席するメディスンが、どこか不満気な顔を俺に向けていた。

 

「そうね、確かに元気がないわね」

同感だとばかりに幽香が頷いた。

「なにかあった?」

 

努めていつもどおりに振る舞おうと思っていたのだが、例のごとく俺の表情筋は感情表現を控えるのが苦手らしい。

怪訝な視線に俺は小さいため息を挟んで、おずおずと口を開いた。

「……大した事じゃないんだけどさ」

口にした通り些細なことと思っていたのだが、表情に出るということは自覚しているよりも堪えているらしい。

 

「リグルにさっき会ってきたんだ」

「何か言われたのかしら?」

「まあ、なんというかさ。あの子は今回の騒動に巻き込まれる側だったんだけどさ、天狗たちに捕まった時によっぽど怖い思いをしたみたいで」

 

騒動のあった日、俺にしがみついたままのリグルは、彼女の住処の近くに行くまで顔を上げることはなかった。

俺から離れるときも俯きがちだった彼女の顔をほとんど伺うこともできず、結局今日に至るまでリグルと話す機会もなかった。

そして、数日振りに再開した彼女は、開口一番俺に言ったのだ。

 

「『お菓子はもらうけど、前の騒ぎで懲りたから悠基にはあまり関わらなようにするわ。お菓子はもらうけど』って――」

そう話すリグルの乾いた笑みを思い出して、俺は一層気分が沈んだ。

 

「拒絶されたわけね」

「あんまりストレートに言わないでくれるとありがたいかな……」

幽香の言葉に更に凹む俺に、なぜかメディスンが目を丸くし頬を紅潮させた。

 

「あ、あんた」

「?」

小さな手で指さされて首を傾げていると、メディスンは戸惑うように続ける。

「アイツに嫌われてそんなに落ち込むって、もしかして、す…………好き、なの?」

 

どこか恥ずかしそうなメディスンの様子を微笑ましく思いながら俺は首を振った。

「いんや、別にリグルのことが特別好きってわけじゃないよ。ただ……」

「ただ?」

幽香が促す。

 

「ただ、あのくらいの子どもに露骨に拒絶されるのって結構堪える」

「はぁ?」

意味がわからないとばかりにメディスンが声を上げた。

眉根を寄せる彼女とは対象的に、幽香はクスリと上品に笑う。

 

「貴方って本当に子どもが好きよね」

「まあねえ。はあ……別に喧嘩してるわけじゃないんだけど、どーしたら機嫌直してくれるかなあ」

と、大真面目に呟くと、なぜかメディスンが半眼になって唇を尖らせた。

 

「バッカじゃないの」

威勢のいいメディスンの様子に、俺はしみじみと呟く。

 

「……君の方は大丈夫そうだね」

「なんのことよ?」

「リグルほどじゃないけど、君だってかなり怯えてたじゃないか」

「な、お、怯えてなんてないわよ!」

 

メディスンの抗議を「そうだなあ」と聴き流す。

リグルと違ってこちらはすっかりいつもの調子だ。

リグル同様距離を置かれるのではと密かに危惧していたので、実のところ大いに安堵している。

 

「まあいいんだけど、ちょっと幽香に訊きたいことがあったんだよね」

「あら、なにかしら」

「大した事じゃないんだけどね」

 

そんな前置きを挟んで、俺はつらつらと喋る。

「この前のリグルのときもそうだけど、今回もメディスンを寄越したよね。俺の仕事を応援してくれるのは嬉しいんだけどさ、親切心だけじゃなくて他にも理由があるんじゃないかなって俺はちょっと邪推してるんだけど」

 

「親切心…………」

なぜか、メディスンが不服そうに俺の言葉を口にした。

 

幽香は答えを考えるよう目を閉じると、ゆっくり一口カップを啜った。

カップを置くと、更に数秒ほど沈黙し、徐ろに口を開く。

「貴方も知っての通り、妖怪の山を支配している天狗って閉鎖的な種族でしょう?」

「うん」

 

「でも、一部の妖怪は咎められることなく山に立ち入ることが出来る」

レティの姿を浮かべながら、俺は頷いた。

「じゃあ天狗に咎められる者と咎められない者。これの違いって何だと思う?」

「?……基本的には人間かそうじゃないか、だと思ってるんだけど」

「いいえ、ハズレ」

 

これまでそうと俺が思い込んでいた推測を、幽香はあっさりと否定する。

「天狗っていうのは組織で動く妖怪なの。そんな天狗たちが最も警戒するのが他の勢力なり陣営なりに所属する存在、もしくはその集団に匹敵するくらい強い力を持った存在ね。この勢力っていうのは、例えば貴方が住んでいる紅魔館やあるいは人里とか。つまり、どこにも属していないような所謂野良の妖怪なんかは敵対されることはないわ」

 

初めての情報に俺は目を丸くする。

「……てことは、俺が哨戒天狗に襲われていたのって、俺が人間だからってわけじゃなく……?」

「人里という一つの勢力の侵入者という扱いだったんでしょうね。まあ、幻想郷に住む人間なんて、一部の例外を除いたら人里の住人だから、結果的には『人間だから』っていう貴方の推測も間違いではないわね」

 

「ふうん……ん?それと幽香が俺を手伝ってくれたのって何か関係あるの?」

「ええ」

幽香は微笑みを浮かべ首肯する。

 

「天狗の排他的な意向はこれからも変わらないでしょうね。でも、貴方っていう例外がいると、もしかしたら、侵入者に対して寛容になる風潮が出てくるかもしれないでしょう」

「それは……俺が言うのもなんだけど、楽観的な話だね」

「ええ。でも、もしかしたら変化があるかもしれないわ。妖怪の山を散歩するくらいなら邪魔されることもなくなるかもしれないじゃない?」

 

「邪魔って?幽香も天狗に追い返されるってこと?」

「ええ」

「君が言うには、どこかの勢力に所属していると追い返されるんでしょ?幽香もそうだってこと?」

「いいえ。覚えがないわね」

「じゃあ、天狗が勘違いしてるとか」

「そんなことはないと思うけど、どうしてかね」

 

幽香曰く、天狗が侵入を拒絶するのは、どこかの勢力に所属しているか、もしくは一つの勢力に匹敵する大妖怪か…………。

「それは…………」

暫くの逡巡の後、俺は思ったことをそのまま口にした。

 

 

「……なんでだろう、不思議だな」

「ねえ」

「バカじゃないの」

なぜかメディスンに半眼で睨まれた。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

「人んちでなにしてんのよあんたたち」

ヒグラシが盛んに鳴く中で、不意に呆れた声をかけられる。

 

「おんやあ霊夢ぅ、修行とやらは終わったのかい?」

へべれけな萃香が顔を上げて問いかけると、「今日はもうお終い」と霊夢が答えながら俺達の元へと歩み寄ってきた。

 

霊夢が覗き込む視線の先、縁側に腰掛ける俺の横には赤い実の野菜が切り分けれられた一枚の皿が鎮座している。

「……西瓜じゃない」

「そ、無性に食べたくなったから買ってきた」

「……萃香だけに?」

「萃香だけに」

 

「ふーん」

顔に「くだらない」と書いてはいるものの、夕暮れ時とはいえまだ蒸し暑い中でのみずみずしい西瓜の誘惑には抗えなかったのか、霊夢は皿を挟んで俺の反対側に腰掛けた。

ちなみに萃香の方は、酒の肴にならないからと手を出してこない。

小ぶりとは言え丸一玉を一人で消化するのは骨だったので、霊夢が手伝ってくれるのは行幸だった。

 

なんとなしに無言になって二人で西瓜を消化にかかる。

茜空を見上げながらしゃりしゃりと甘い果肉を咀嚼していると、不意に視線を感じた。

 

「……?」

「…………」

横目に視線を投げかけてくる霊夢に、俺は首を傾げてみる。

 

「前々から思ってたんだけど」

「ん?」

「貴方って段々とタガが外れてきてるわよね」

「その言い方だと俺が非常識みたいに聞こえるんだけど」

 

「違うの?」

「違う」

「説得力がないぞ―」

真顔で恍けてくる霊夢に半眼になって返す俺。

そんな俺に酔いどれの萃香が茶々を入れて。

 

不思議と懐かしさを覚える心地よさに身を委ね、そうして幻想郷の夏は、次第に暮れていったのである。

 

 

 




特にオチのない妖怪の山編の後日談的な回です。
今回もほのぼのとしたお話。


名前:博麗霊夢
概要:初登場六話。紅魔郷自機、他。『主に空を飛ぶ程度の能力』、他。
当作における彼女はおおらかなマイペースに見せかけてお節介混じりの小言を口にする少女。何事にも動じないためか非常にクールである。妖怪退治の専門家としての実力は各方面から一目置かれているようで、人里からの信頼も獲得している出来る女の子。それでも人里から少し離れた博麗神社という立地の関係上賽銭の収入は少なく、基本的に貧乏な模様。同居人に伊吹萃香がいる。


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