真剣で八極拳士に恋しなさい! (阿部高知)
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真剣で私に恋しなさい!
プロローグ 夢と食事と鍛錬と


息抜き作品。
行き詰まったらこっちを書いて、落ち着いたらFateを書きます。

尚、評価次第で更新ペースは変わる模様。


12/24 要らない行間や空白を消去。
12/27 タイトルを無題から変更。


 ――――懐かしい夢を見ている。今から八年ほど前の出来事だ。

 

 

 

 

「――――おーい颯斗(はやと)! そろそろ俺たち帰るけど、お前どうする?」

「もうちょっとだけ遊んで帰る。それじゃあ、また明日!」

 

 忘れられない――忘れる事の出来ない――その日は、近所にある公園にて仲の良かった男子グループで遊んでいた。今となっては高校進学の関係で離れ離れになってしまったが、メールで会話したりと今でも交友がある程には仲が良かったと思う。自分を含めて四人のグループは、休みになれば毎回と言っていい程遊んでいた。

 遊ぶ内容は日によって違っていた。野球をする時もあったし、サッカーをする時もあった。家の中で一日中ゲームをしたりトランプをしたりと、小学生が出来る全ての遊びを網羅した――当時はそう思った程、自分たちは遊びまくっていたのだ。小学生というのは素晴らしい身分で、遊んでいる事だけが生き甲斐と言われる程呑気なモノである。

 実際、自分が小学生の思い出では修学旅行とグループでの遊び、そして師匠との鍛錬が強烈に印象に残っている。

 

 この日は一人が家族と出掛けており、自分と他の二人で公園の砂場で遊んでいた。今では出来ない遊びだが、案外砂遊びというものは楽しい。協力して掘った巨大な穴に、いけ好かない気取ったヤツを嵌めた事は今でも憶えている程だ。その掘った土で山を作るのも楽しかったし、「落とし穴」と称して上手く穴を隠そうと試行錯誤するのは相当悩んだ気がする。

 朝の八時から遊び始めて、気が付けば既に十二時半過ぎ。昼食を食べるには充分過ぎる時間だ。

 自分は親が仕事に出ているので自由な時間に帰ればいいが、他の二人はそうはいかない。いつも居る時間帯に居ないというのは親に不安を覚えさせるし、この当時は親に怒られるのが怖かったのだ。だからこそ心配させずに自分を怒られない為にも、早く帰る必要があったのだ。

 

「……………………ふう」

 

 「バイバーイ」と手を振って別れた後は、公園に居るのは自分一人になった。珍しく自分以外の人間が居ないという環境は、まるで自分が公園の主になった気がしてえらくわくわくした記憶がある。小さい頃は誰しも単純なのだ、うん。公園の前を通り過ぎる人はいても、入ってくる人は居ない。別に留守番に慣れていたから寂しくは無かったが、やはり一緒に遊ぶ友達が居ないのは詰まらなかった。

 砂遊びでついた汚れをしっかりと洗って、二台あるブランコの内一つに座る。意味もなくブラブラするのがこの当時はお気に入りだった。というよりは、子供の本心からか人よりも高い所に居るのが好きだったのだろう。そんなに激しく振らなくとも、低空で風を受ける方が気持ちが良い。単純に高所恐怖症なんだけどさ。

 

「はあ…………」

 

 詰まらない。全く持って詰まらない。

 家に帰る気にはならない。どうせ家に帰っても用意されている昼食を温めて食べ、昼から宿題をするだけだ。ゲームも面白いがしたい気分ではない。それなら、もしかしたら友達が来るかもしれない公園で遊んでいる方が良い。遅く朝食を摂った御陰か、お腹も空いてなかったのだ。

 ブランコに座ってから十分ほど経っただろうか。ブランコでしばらく遊んでいたが、それでも友達が来る気配はない。砂場も既に山を崩し穴を埋めたので、何もやる事がない。そろそろ暑くなって来たし、いい加減家に帰ろうか――そう思っていた頃だった。

 

 

 

「少年、少しいいか。失礼だが、道案内を頼みたい」

 

 公園から出て家のある方向へ歩き出した瞬間、背後から声を掛けられた。

 凛とした声だった。声量自体は普通だが自然と聞き入ってしまう声。まるで先生たちが生徒に話を聞かせる時に出す、「聞き取らせる声」とでも言おうか。そんな声で話し掛けられて、ビクッとなりながらも「ハイ」と上ずった声で返事しながら振り返った。

 そこに居たのは見た目二十代後半の女性だった。日本の服とは違う、俗に言うカンフー服の群青色を纏っていた。髪は髪型にも詳しくなかった自分でも判るポニーテールで、真っ黒な艶のある髪が腰元まで伸びている。片手にはキャリーケースを持っており、古風だが若干イントネーションの可笑しい日本語は彼女が外国人という事を此方に伝えてくる。

 …………すごい美人だ、と当時の自分は思った。まるでテレビに出てくる女優さんのようで、その力強い瞳で見つめられて赤面したのを憶えている。彼女からすれば目力が原因で視線を逸らされたとでも思っているのだろう。無駄に自己評価が低い人なのだ、彼女は。

 

「え、えと……。道案内って、その、どこへ行きたいんですか?」

「おお、引き受けてくれるのか。済まないな、如何せん川神に来るのは初めてでな。

 それで場所だが――川神院という建物に心当たりはあるか? 武術で有名なんだが……」

 

 川神院――それなら川神市でも一位二位を争う観光場所だ。

 川神市の名前の元なった寺院であり、世界でも有数の拳法家・川神鉄心が弟子たちに拳法を教える場所。なんでも時々世界中から鉄心さんを倒そうとして挑戦しに来るとか。そうなるとこの女性も挑戦者だろうか? 拳法家にしては四肢が細いし、そもそも女性が老人でも鉄心さんに勝てるとは思えない。

 武道以外にも、様々なイベントの開催地としても有名だ。最近は駅前付近で行われる事が多いが、歴史ある寺院故か風情ある祭りなどが行われる事が多い。実際毎年行われている夏祭りには絶対に行っているし。他にも寺院自体が風格ある建物なので、市の観光スポットとしても認知されている。

 

「ああ――川神院なら、ここから結構近いんで。ええっと……なんて言えばいいかな……うーん」

「その、言いにくいんだが……。口で説明されるよりも、直接案内された方が良い。私に此処の土地勘はないから、説明されても行ける気がしない」

「そ、そうですね。時間なら、あるんで、良かったら案内しますけど……」

「それは助かる」

 

 そう言われて恐る恐る歩き出した。

 外国人と話した事など殆ど無いし、ましてや案内をするとは。始めて尽くしの体験だが、彼女が相当な美人で本当に良かった。日本語も得意だし、会話は無理かも知れないけど意味は伝わるだろう――。

 

 

 

「そう言えば名前を言っていなかったな。

 私は鵬泰山(おおとりたいざん)。見ての通り中国人だ。君は?」

「じ、自分は――――――」

 

 

 

 この時は思っていなかった。

 目の前の人物が、自分の師匠となるなんて――――――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………何ともまあ、懐かしい夢を」

 

 そう呟いて、這いずるようにしてベッドから出た。

 暦は既に五月を過ぎており、布団を被るには些か暑くなってきた。寝ている間に布団は案の定蹴飛ばされており、ベッドから落下している。足元は冷えるので畳んでいた筈だが、見事に型は崩れて蹴り飛ばされていた。寝相の悪さは自覚しているが、まさかここまで酷いとは。寝ている最中でも拳を振っているのかも知れない。

 時刻は六時半。ベッドから出たら直ぐに寝巻きを脱ぎ、清潔な制服へ着替える。寝ている間にも汗をかくので案外下着というのは汚かったりするのだ。流石に下は履いたままだが、上は新しいものに着替えると何だかスッキリした気分になる。こういうのは気分の問題なのだ。

 制服に着替えたら階段を降りて一階へ。我が家は二階の階段と一階の玄関から続く階段が繋がっており、左折すれば洗面所がある。洗面所の正面が和室で、その隣がリビングだ。

 洗面所で顔を洗い、寝ぼけていた目と脳を叩き起す。顔に触れる冷水が気持ちよかった。寝癖を直して市販の口臭予防の液体で口内洗浄し、ミントの香りで更に頭を覚ました状態でリビングに入った。

 

「おはよー」

「おはよう。もう御飯できてるわよ」

 

 母に促されて、自分の定位置へ座った。

 真正面にあるテレビのニュースをなんとなく見ながら朝食のサンドイッチを食べる。食パンの生地と冷蔵庫にあったハム、適当な野菜を詰め込んだ乱雑な品だが普通の美味しい。人間、寝起きに食べる料理はよっぽどではない限り旨く感じるのだ、うん。

 母は台所でせっせと自分と母用の弁当を作っている。朝の残り物で良いのに、わざわざ昼に自分が食べたいものを作るのだから凄い。そんな事をする暇があるなら、もう少し丁寧に朝食を作って欲しいものである。以前そう言った事があるものの、改善される余地はなかった。食わせてもらっている身分で何を贅沢な事を、とでも思っているのだろう。

 

 サンドイッチを十分で食べ終わると、牛乳を一気飲みする。やっぱり喉を通る爽快感が心地よい。朝一はこれに限る。

 母も弁当作りが終わったらしく、自分の席に置かれたサンドイッチを頬張っていた。その姿をなんとなく見ていたら、その視線をきっかけに何かを思い出したらしく――。

 

ふぉうひへば(そう言えば)ふぁいひんぶっほうだから(最近物騒だから)ひゃやめにかへりなひゃい(早めに帰りなさい)

「いい年した大人が食べながら喋るなよ」

「……ん、……ん、ふう」

 

 促されて咀嚼しコーヒーで流し込む母。

 こういう所を天然というのか、子供というのか。

 

「いい、最近何かと物騒だから早めに帰るのよ?」

「判ってるよ。鍛錬が終わったら帰る」

 

 へいへいとでも返しそうな態度が気に入らなかったのか、母はむすっとした表情になる。

 …………母の顔は凛々しい部類に入る。師匠ほどでは無いが男勝りな強気を感じさせる顔が、口を尖らせて眉を顰める姿は中々そそるものが――ハッ!?

 まあ冗談はこのくらいにして。

 御馳走様、と告げて洗面所へ。歯磨きと身だしなみのチェックを行って、終わったら二階へ戻る。特にやるべき事は無いが、登校するには些か早い。もう少し経ったら出る時間帯になる。

 それまで、川神市の料理雑誌でも確認するとしよう。熊ちゃん曰く「フレンチの店が近々オープン」との事なので、今度の休日にもいこうか……。

 

 

 

 そうして時間を潰して、学校へ向かう。

 騒がしい通学路の先には、川神鉄心学園長が治める川神学園があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 川神学園2年A組。良く言えばこの学園では珍しい常識人の集まりで、悪く言えば地味な集団である。

 その集団に属している以上、自分も地味なのだろうが周囲はそう思っていないらしい。特に食堂へ行った時に向けられる視線の量は、それこそ百代(ももよ)先輩に負けていない程だろう。

 2年A組の連中は食堂で食事を摂る事が多いのか、自然と自分を目撃する人間も多い。その所為か、自分のクラスでの評価は「大食漢」になりつつある。なんともまあ、失礼な話だ。こちとら自分の赴くままに食事をし、学園に金を落とし、尚且つ真心篭った食事をいただいているだけなのに。何故そんな蔑称とも取れるようなあだ名を付けられなくてはならないのか。

 

「そういうのは熊ちゃんが似合っているんだよ」

 

 そう呟くのも仕方がない話だ。実際、体格的に考えて熊ちゃんの方が大食漢だろうに。

 なんて言いつつも、足が目指すの川神学園の食堂だ。内容自体は普通の学食と変わらないが、偶に出てくる新作料理はゲテモノから逸品まで幅広い料理が出てくる。……自由な校風の所為か、食堂の人まで自由気ままに料理を作っている。いやまあ、美味しいから文句は無いんだけどさ。

 2年A組から食堂までそう遠くはない。すれ違う知り合いや先生方に挨拶をしながらだと、だいたい五分程度で食堂についた。

 

 食堂は生徒や一部の先生方で大賑わいだった。席は八割方埋まっており、食券の所には行列が出来ている程だ。

 早くしないと埋まる――焦って自分も列に並んだ。前方にいるのは八人。まだこれだけなら席には座れるだろうが、案外席に座らずトレイを持ったままうろうろしている生徒は多い。友達を探しているのか知らないが、さっさと座って欲しいものだ。

 所詮は食券なので、十分程度で出番が回ってきた。千円札を入れて、適当に目を動かす。何かビビっと来るものや新しい試作品は無かったものの、どれも手頃な価格で良心的だ。千円だったら日替わり定食とカツ丼の大が頼めるな…………。

 日替わり定食とカツ丼大盛りを押して、食券を持って席を確保しに向かう。最悪立って食べてもいいが行儀が悪いし食べづらい。

 適当な席を取って、点呼を待つ。数分も経てば自分の名前が呼ばれて、トレイを取りに行く。今日の日替わり定食はエビフライ定食で、カラッと揚がった海老がなんとも美味そうな雰囲気を出している。カツ丼も衣がカリカリで肉も分厚い。食べごたえは十二分にありそうだ。

 

 席に戻って、手を合わせる。

 食事前の儀式だ。

 

「いただきます」

「いただきまーす」

「…………?」

 

 はて、一瞬誰か混ざっていたような……?

 カツ丼へ向けていた意識を、声がした前方へ向ける。えらく可愛らしい不抜けた声だったので女の子だろうが、他人の挨拶に息を合わせるほど親しい娘は限られてくる。そう、それこそマシュマロを推してくる不思議系天然ぐらいだろう――。

 

「どうしたの李くん。早く食べないと冷めちゃうぞ?」

「やっぱり」

 

 顔を上げてみると、目の前には箸にうどんを絡めて微笑む少女が一人。

 名前を榊原小雪という。名は体を表すといった具合に、小雪の肌はそれこそ雪のように白い。透き通るような肌色に、異色の白髪。ニコニコと笑っている姿は子供のようだが、成長した肢体はこれでもかと自己主張してくる。主に胸。俗に言う天然系なのだろうが、それでもこの子供っぽさは一線を画したものだと思う。

 彼女との出会いは…………確か、小学校だったっけ? ほぼ毎日のように遊んでいたから知り合った時期などとうに忘れてしまった。自分が適当に遊んでいると自然と混ざっていた気がする。当時の彼女は今とは違い地味だったものの、精一杯個性を発揮しようとしていた。

 しようとしていたのだが…………。

 

「その、なんだ、小雪。そう見られながらだと食べづらい」

「そう? 僕は李くんを見ているだけで幸せだけどなー」

 

 こうも見られながらだと、箸が進まなかった。

 いつの間に正面に座っていたのか。師匠の教えで気配察知能力は鍛えられている筈なのに……まあ、昼食摂るのに夢中に疎かになっていただけだが。

 小雪のお盆には月見うどんが一つ。先程出来たばかりなのか、うどんからは湯気が立ち込めている。あまり食べたことは無いものの、コシのある麺に鰹節の効いた汁が良いとか。月となる卵も半熟で、あれを崩して麺に絡めて食べたら最高だろう。おまけに値段も安くて、千円あれば『中』なら二杯とデザートが付いてくる。

 てっきりマシュマロひと袋でも食べているかと思ったら、普通の食事が出来ていたのか。学級が違うからそう何度も逢う事自体が少なく、食堂で逢うことなど指で数える程しか無いが――その時は食事をしていなかった。それ以来ちゃんと食事を……あれ、いや、確か自分がきちんと食べるように注意したんだったけ……?

 最近は脳味噌まで筋肉になってきたのか、物覚えが悪くなってきている。まずいまずい。

 

「……他人が食べている所を見て、なにか楽しいんだか」

「僕は李くんがいるならなんでも楽しいのだ」

 

 適当な会話を挟みつつ、お互い料理に手を付ける。

 サクッ、という食感は衣がしっかり揚がっている証拠だ。海老も下味がしっかりとついている御陰でなにもかけなくても充分いける。寧ろ海老の風味が楽しめる分、此方の方が好きかもしれない。

 続いてカツ丼へ。カツは揚げたてなのか油が光っており、食欲をそそる。口にすれば判るが、噛んだ時の肉の食感が堪らない。ミルフィーユ仕立てと言うのか、何層も重なっているので肉汁の量も段違いだ。

 

 ――――美味い、と。単純に思う。

 

 エビフライも何も無しで行けるが、タルタルソースを付けるとこれがまた別の味わいになる。卵のマイルドさと油は濃厚で嫌いな人もいるかもしれないが、自分にこれがちょうど良い。プリプリの海老にカリカリの衣、そしてトロトロのソースが合わない筈が無い。

 カツ丼もキャベツと一緒にご飯を掻き込むと最高だ。カツの肉汁とそれを受け取るご飯、そしてキャベツで食感とさっぱり感を与えている。タレも甘さ重視で油との相性が良く、肉の風味を引き立てている。 

 小雪も麺のコシや喉越しが美味しいのか、ニコニコしながら麺をすすっている。いやまあ、いっつも笑顔と言われたらそうなんだけど。

 月見も崩れ、黄色い塊が汁に浮かんでいる。それに絡めて食べる麺はコーティングされて輝き、ちゅるちゅると吸われた。麺が通っているであろう首元や鎖骨付近はなんとも妖艶で、思わず見とれてしまいそうな――――。

 

「もしかして李くん、うどん欲しいの?」

「あ、いや、別にそういう訳じゃ……」

「いいよ! ふぅー、ふぅー……はい、あーん」

 

 良かった、勘違いされてなくて………………って、えー。

 自分も男だから嬉しいんだけど、周囲の視線が……。主に男子からの視線が痛い。なんせ小雪は美人でスタイルが良い。天然でえらくマシュマロを推してくることから話しかけられた事は少ないらしいが、それでも思わず振り返ってしまう程度には美少女だ。

 おい、さっき「爆発しろ」とか言ったの2-Fの島津岳人だろ。あの筋肉野郎、自分こそ美女に囲まれていることに何故気付かない!

 師岡ァ! テメエも苦笑いしてんじゃねえぞオラァ!

 特に直江ェ!! お前こそ百代さんと仲良いだろうが!

 

 とまあ、現実逃避しても無意味な訳で。既に小雪はうどんを口元に近付けていて、自分が飲み込むのを今か今かと待ちわびている。小雪は割と意地っ張りな所がある。もし自分がこのまま食べなければ、最悪強引に口の中へ突っ込んでくる可能性だってあるのだ。

 …………ええい、ままよ!

 

「……っ、……ん。美味しいよ」

「そうかそうかー! なら、マシュマロ食べる?」

「二個貰おう」

 

 もうどうにでもなーれ。

 そんな境地に至った自分に残されていたのは、食事による現実逃避だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 多馬川の河川敷にて、刃を潰したレプリカの槍を振るう。重さは十五キロ、長さは百八十センチメートル。自分の体格とほぼ同じ武器を振り回すのは相当しんどく、鍛えている筈の肉体すら悲鳴を上げる。

 

「ふっ…………!」

 

 武道でもスポーツでもそうだが、素振りという行為は動作において基本中と基本と言われている。野球で言えば打撃の前にバットを振るという行為を、剣道であれば面切りの前に竹刀で斬るという動作を。人は歩く為に足を動かす――と言えば良いか。全ての基点となるが故に、素振りは最も重要な練習と言える。

 だが――自分の師は、それを否定していた。本人曰く「素振りを一億回やったとしても強くならない」との事。そりゃあ歩行の練習なんてしても無意味だが、素振りは回数をこなせば厳しくなるのがセオリーだ。そう考えると、師匠の言葉は的外れに聞こえるかもしれないが――あながち、これも間違いでは無い。

 素振りは基本となる動きを身体に覚えさせる為に行う。野球のバット然り、剣道の竹刀然り、動きを覚えなくてはスムーズに動く事は出来ない。そこで身体と脳に動きをインプットさせ、美しい形での動作を出せるようにしているのだ。

 しかし師匠から言わしたらそれは違うらしい。素振りとは身体に覚えらせるのではなく、頭と脳との回路を繋ぐ為にするとか。はじめて聞いた時は意味が判らなかったが、鍛錬を積むとその意味がなんとなく判った。

 

 例えば。

 野球でバッターボックスに立った時、どんなに美しいフォームだろうと判断に迷えば打てない。

 剣道で立ち会った時、どんなに早く面を斬れても始動が遅くては意味が無い。

 

 つまり――回路を繋ぐとは、脳で思考したことを直様行動に移せるようにする、という事。

 型を覚えても、出せなくては意味が無い。三振しては無意味で、剣が空を斬れば無意味だ。泰山流の八極拳では状況判断能力が第一とされる。即座に状況を見極め、迷う事なく拳を突き出すのが重要なのだ。この「拳を突き出す」時に、回路が繋がっていなかったら拳に迷いが生じるとか云々。

 詳しい事は判らないが、要するに判断能力を鍛える為に素振りをすると解釈した。これが合っているかは判らないけれども、兎に角今の自分に出来るのはただひたすらに槍を振るい、拳を突く事のみだ。

 

「――――はあ!」

 

 槍の基本技にして一番威力のある突き。

 そこから繋ぐは穂先を相手に向けて払う切り払い。

 切り払いの遠心力を利用して回転、そこから柄を短く持ち、柄から穂先に掛けて払う。

 更に柄を短くし、穂先をナイフに見立てて近距離で振るう。風を切る音が心地よい。

 至近距離になったら足払いを挟み、避けられたとして後退。

 槍を回して相手を威嚇しつつ、突撃と共に下段から切り上げる。

 もう一度柄を長く持ち、構えは中段。突撃を勢いのまま、相手の心臓を目掛けて貫く――!

 

 以上の動作をそれぞれ二百回、通して二百回繰り返し、槍を振るった数は今日だけで千回を優に超える。時間に直すと二時間以上の間、十五キロもある槍を振り回している事になる。とうに腕には限界が来ており、足は繊維がちぎれたように痛む。握力は無いも同然で、ほぼ気力で振り回しているようなものだ。

 師匠の練習計画では二回目の突きの後、槍投げが入っているがよっぽどではない限りしていない。そんな突き穿つ死翔の槍(ゲイボルク)みたいな芸当、自分に出来る訳が無い。まあ、最悪槍を失っても八極拳があるからこその芸当だろう。まあ、あの人の事だから「格好いいから」で入れていても可笑しくないのだけれど。

 

 河川敷は視界が良好で、素振りを見られる事も少ない。最初は恥ずかしがっていたものだが、一年も経てば慣れた。なんせ河川敷の利用客は多く、視線が集まる事も多い。慣れないと悶え死ぬレベルだ。師匠が居たら鍛錬が厳しすぎて視線を意識する余裕なんて生まれないのだが。

 いつもの観客は常に昼寝している青髪のお姉さんに、2-Fの風間ファミリー。川神院の人たちも走るし、時々同級生にも出会う。どうやら演武と思われているようで、弓道部や茶道部など演武に関心がある人が見学に来たりする。槍を使う演武なんて実用性は無いだろうに。それに本職は八極拳である。

 

「――――――――ッ!」

 

 八十六回目の反復を終えた時点で五時は越えている。

 残り百十四回を何十分で終わらせられるか――母の言い付けは守らなきと後々で面倒くさい。恐らく母の感覚なら「遅い」は七時の筈。それならもう少し鍛錬が出来る。

 これでも高校生だからこんな時間帯まで鍛錬出来ている。昔は「小学生だから」と言われて五時までしか鍛えられなかったり、「中学生は勉強!」と言われて勉学に励むよう強要されたこともあった。師匠も文武両道を目指していたので否定せず、寧ろ勉強することを望んでいたように感じる。

 まあ、今思い返すと鍛錬がしたかったので猛勉強した自分がアホらしく感じる。単純に母と師匠の手の平で踊らされていたのだ。敢えて煽ることで、結果を出させる……これだから大人は恐ろしい。

 

 六時を過ぎれば、急速に人足は少なくなっていく。まだ太陽は海に沈んでおらず、河川敷を赤く染め上げる。川面から反射する光が眩しい。それで槍の腕前が鈍る程、未熟では無い。

 百七十二回目辺りから足が死んだ。そう比喩出来る程疲労困憊している。腕も正直限界で、どうして槍をもてているのかが不思議なぐらいだ。小さい頃から染み付いた癖、とでも言うべきか――この身は、武器を手放す事を意地でも拒否するらしい。

 拳法家らしからぬ拳法家。これでこそ泰山の弟子として相応しい筈だ。あの人も拳法家の癖して太刀の扱いが凄まじく達者だったような。槍は神槍レベルだが。

 

「――はぁ……く……――ぜぇあ――」

 

 呼吸は荒く、視界が霞む。肺もまともに機能しておらず、二酸化炭素と酸素がごちゃ混ぜになった気分だ。

 心臓の鼓動は炸裂するんじゃないかと思う程早い。こんなんで血液が送られているのか、甚だ疑問である。

 身体の芯が重い。生命力が薄くなっている、と感じる。まるで病気になった時のように、思考は回らない。

 この感覚はいつになっても慣れない。昨日も一昨日も一週間前も一ヶ月前も一年前も――八年前から味わっているのに、この感覚は不快だ。生命が犯される、としか言えない。体験したことは無いが、死を前にして人間が感じる感性に近いだろう。

 師匠は十五年もすれば感じなくなると言っていたか。もう折り返し地点になっているのに、まるで無くなる気配は無い。自分という人間が死んでいくのが、モロに判った。

 

 

「――――……………………」

 

 

 二百回目を振り終わり――耐え切れず倒れた。

 もう駄目だ。四肢に力は入らず、動悸が止まらない。目眩がして頭痛がする。吐き気じゃなくて、実際に胃から這いずって来ている。

 仰向けのまま、必死に携帯を取り出し、一つの電話番号へコールする。

 数秒経過してようやく繋がり、酸欠になりかけて荒いままの呼吸で通話相手に話しかけた。

 

「――――む、かえ……に」

『実の母に欲情するんじゃない』

 

 ぴしっ、と。

 迎えに来て欲しい――の途中で電話は切られた。おまけに絶大な勘違いを残したまま。

 

 

 もうどうにでもなーれ。




後半の雑さはヤバい。マジで。

S買いてーなー、俺もなー。
無印しか持ってないんですよね……ダウンロード版はよ。


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第1話 夢と誘惑と決闘と

息抜きなのに想像以上の伸びで驚いております。
Fateよりも伸びるってどういうことだよ……。

それと、小雪の口調が難しい。天然は書けません。



12/27 タイトルを無題から変更。


 ――――懐かしい夢を見ている。今から八年ほど前の出来事だ。

 

 

 

 

 川神院と我が家は結構近い。それこそ子供の足で徒歩十五分程度の距離だ。自分に先頭を譲る形で斜め後ろを歩く女性なら、その半分かもっと早く到着出来た事だろう。それでも歩を合わせてくれる優しさは、今思い返しても――今思い返すからこそ、相当不気味である。あの豪傑がこんなに優しかったとは。

 チラチラ、と。視線だけを背後に移して、女性を見る。横顔が美人だった。

 こんな色ガキとも捉えれてしまうような行動をするのは、女性の言動に理由がある。

 中国人と名乗った女性、鵬泰山(おおとりたいざん)は道案内を始めた時から落ち着きが無いのだ。態度自体はそれこそ波紋の立たぬ水面を思わせる程冷静で、付け入る隙をまるで見せていない。落ち着きが無いのは視線だ。家があればそちらに目を移し、物があればあちらに目を動かす。時折振り返ると視線があちこちへ移動しているのが判った。顔を見なくても視線のブレが判るのだから、相当気合を入れて見ていたに違いない。

 泰山は来日経験はあるが、それも数回だと言う。ならば日本の光景が珍しいのかもしれなかった。『来日』と言ってもそのほとんどは仕合いで、観光する余裕なんて無かったとか。今となれば暗殺者が潜んでいるような場所を手当たり次第見つけていたとしか思えないが、当時は川神が美しいと判断されたと信じきって喜んでいたっけ。

 

「時に少年。本日、川神院には鉄心殿はおられるか」

「鉄心って……えと、川神院の偉い人、ですよね」

「その偉い人は間違いなく鉄心殿だろうな。あれ程名前の知れ渡った武芸者もそうはいない。それに子供である君が知っているのなら、私の知っている鉄心殿だろう」

「はぁ…………」

 

 泰山の言葉遣いは、その、なんだ、うん、アレ。少々というか何というか――――相当古臭い。

 それこそ中国で日本人に騙されて覚えたのでは、と不安になる程までの古風な言葉遣い。当時は半分近く理解できていなかった気がする。最近の小学生がこんな古い話し方をする人間と会話する機会なんてそうそう無いのだ。理解しろと言う方が残酷だろう。

 こうなった原因は、武士道の始まりは鎌倉にあり――とか何とか言って、鎌倉時代の武士を研究しながら日本語を勉強しているとこんな風になったとか。

 まるで意味が解らん。

 鎌倉時代風の喋り方に加えて、近代日本の言語学を修めたからさあ大変。古臭い言葉遣いと現代語が合わさり最強に聞こえる。日本語学校の先生、よくこんな生徒を卒業させたものだ。文章的に可笑しくなくても、聞く立場からすれば言葉の真意を理解しにくいのだ。もしかしたら日本語学校の先生が古風だった可能性が泰山の実年齢が二十代だったレベルで存在している……?

 泰山の言葉のほとんどを聞き流して、残った僅かな言葉の意味を咀嚼して、考え込んでようやく返答が出来た。

 

「多分、鉄心さんはいると思います。今日は特に大きなイベントは無いし、川神院に住んでいるらしいので」

「そうか、それは良かった」

 

 安堵――とまではいかないが、安らかな笑みに心奪われる。

 これでも当時五十歳手前の女性だったのだから、泰山は恐ろしい。いや、若さを保つ秘訣という『気』が凄いのだろうか。気は生命力そのものらしく、これを大量に消費することで細胞を維持しているとかなんとか。そんな事はどうでも良かったのでまともに聞いていなかったが、兎に角女にとって若さとは武器であり人生である――そう豪語していたのだけ憶えている。自分にとって気はあまり重要なモノでは無いから、そこら辺の座学が曖昧だったりする。

 まだ四十後半ということに気が付いていない自分は、思春期に入る手前の男子のお手本通り顔を真っ赤にして歩き出した。もしもこれが夢でなく過去なら、今すぐにでも助走つけてぶん殴り「アイツBBAだよ」と教えてあげたい。泰山はそんなに可愛い女性では無い、寧ろキツい女だ。どれくらいキツいかと言うと、まだペーペーの弟子に対して全力で発勁かますぐらいだ。あの師匠、割とマジで容赦ねえから。一ヶ月も経てば後悔するぞ。

 

「えと、その。泰山さんは、どんな理由で川神院に行きたいんですか?」

 

 ふと。赤面している自分を隠す為に、わざわざこんな質問をした。

 正直どうでもいいことだったが、これ以上無言でいると赤面しているのがばれてしまうと思っての質問だった。大方川神院に行く人間は鍛錬か挑戦に分けられる。自身を中国人と名乗りクンフー服も来ている泰山は後者に分類されるだろう。

 

 ――――しかし。関東の武家総本山、川神院はそこまで優しくない。

 

 鍛錬に来た者には肉体が悲鳴を上げる程のトレーニングを。挑戦に来た者には戦士としての心が折れる程の実力差を。実力主義という社会の中で生き残るには、それ程までの研鑽を行わなければならないのだ――――と思っていた。

 最近になって認識は変わったが、川神院は母曰く魔境だ。それは当時ですら知っている事実だった。

 曰く、川神院の総代は齢百を超える。

 曰く、川神院では板張りの床がほぼ毎日粉砕される。

 曰く、総代の孫はかめはめ波を撃つ。

 挙げればキリがない程、怪しい噂は後を絶たない。それでも認知されているのは、ひとえに川神院が鍛錬の場として相応しいと皆感じているからだ。事実、川神院に通っている人は心も体も鍛えられて穏やかな表情をしている。一種のお坊さんかもしれない。まあ、多分頭が照り輝いているのは激しすぎる鍛錬が災いしているからだと思っている。

 

「理由、か――――そうだな。

 川神院と戦争にしに来た、と言えば判りやすいな」

「え」

「冗談だ」

 

 真顔でそんなことを言わないで欲しい。

 ニヤニヤとしている泰山の顔を尻目に、不貞腐れたのか早足になって川神院を目指す。赤面は冗談の恐ろしさに引っ込んでしまっていた。

 もう歩き始めて十分は経過している。あと数分も経たない内に川神院に着くことだろう。川神院は敷地も広いが、正門に案内すれば後は川神院の人がどうにかしてくれる筈だ。

 その会話を最後に、自分と泰山が言葉を交わすことは無かった。お互いが無言のまま、川神院へ向かう姿は中々異質なものだっただろう。片やしかめっ面で、片やニヤニヤといやらしい顔だ。もしも自分の顔がもう少し整っていたら仲の悪い姉弟に見えたかもしれない。

 

「――――っと。

 着きました。ここが川神院です」

 

 巨大な木造の門が自分たちを迎える。見上げてもまだ上があると錯覚してしまうそれは、川神院という空間の器の広さを表しているのかもしれない。

 泰山に別れを告げて、そそくさと帰ろうとする。これ以上泰山と一緒に居て調子を狂わせられるのは堪ったものではない――。

 

「待ちたまえ」

 

 ――と思っていたら、泰山に声を掛けられ足が止まってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「不死川と2-Fが揉めてる?」

「そうなのだー。冬馬も準も、こころんを手伝ってるよ」

 

 こころん、と言うのが不死川のあだ名という事は判る。判るが、それは本人の了解を得ているのだろうか……?

 場所は食堂。人の波に揉まれそうになりながらも着席し安堵した途端、小雪

から食事のお誘いを受けた。別に共に食事するのに何も文句は無く、寧ろ毎日でいいから受けたいくらいなのだが…………その、了承したら抱きつこうとしてくるのはやめて欲しい。主に視線がヤバいから。特にヨンパチの。「魍魎の宴」を手伝っている相手に向ける視線じゃないよ、アレ。

 自分は坦々麺・大盛りと爆弾おにぎり三つを。小雪はパンケーキというデザートがメインか判らないものを頼んだ。イマイチ女子の感覚は判らない。パンケーキでお腹いっぱいになるのだろうか? そう考えてしまうのは、淋しい男の性なのかも知れない。

 

「別に不死川とF組が喧嘩してるのは良いんだけど……原因は何?」

「なんでも賭場で負けたって、こころんが言ってた。それで冬馬が手伝って、あれこれ揉めてるのだー!」

「ふーん……む」

 

 適当に麺をすすりながら小雪の話に耳を傾ける。結構辛いな、コレ。

 二年S組が二年F組と仲が悪い――悪いのは一部だが――というのは周知の事実だったりする。片や優等生ばかりを集めた特待生クラス、片や問題児を集結させてカオスになった問題児クラスだ。馬が合わないのも当然だが、厄介なことに今年の2-Sには面倒くさい生徒がいたりする。

 それが、小雪の口から出た不死川心だ。不死川、というのは教師の綾小路先生と同じ財界にもパイプを持つ日本の名門だ。それのお嬢様ということもあってか、学生服ではなく着物での登校を許されている。まあ、着物は動きにくいという印象があるので別に文句は無いが、お洒落好きからしたら羨ましいのではないだろうか。

 自分の不死川の印象だが、まあ兎に角「高慢ちき」に尽きる。上級階級の所為か小馬鹿にしたような態度を取り、いざとなれば自身の実家の権力を振り回す。

 会話したことは無いが、噂や騒いでいるのを外野で見ている限りはそんな印象しか持てなかった。小雪に話を聞く限りは「泣き虫」や「葵が好き」という情報も出てくるが、それで印象が変わる事は無い。

 

「普段なら冬馬と軍師さんが勝負するんだけど、今回はちょーっと違うの」

「え、知恵勝負じゃないの? なら島津と井上が力比べとか?」

「うーん…………どうなのかなあ。準はハゲだけと結構強いから、あの肉達磨じゃ勝負にならないかも」

「肉達磨ってお前」

 

 見下した態度を取る不死川は、当然の如く問題児の集まりであるF組も罵倒する。しかしそこで黙っているのは耐えられないのが今年のF組だ。

 風間ファミリー――そう呼ばれる集団が、今年のF組には集まっている。

 リーダーである風間翔一を始めとし、知識比べでは負けなしの軍師直江大和。筋肉自慢で肉達磨と罵倒された島津岳人や、一緒に食事にも言った師岡卓也。妹弟子であった川神一子に日本でも有名な弓道家の娘椎名(しいな)京。そして武人川神百代だが――彼女は学年が違うので今回は除外しよう。最近は転校生の……えーと……フェンシングの……クリスなんとかさんも入ったとか。

 不死川に対して反抗した風間ファミリーは、言葉を撤回するよう求めて何かと勝負を仕掛けている。学園のシステムである「決闘」であったり私闘だったりと、形はバラバラだが兎に角争っているのだ。

 まあ、反旗を翻したのは風間ファミリーだけじゃない。魍魎の宴の主催者であるヨンパチ(本名を忘れた)や、師岡と一緒にゲーセン巡りする大串などもS組には否定的だろうか。

 

 今回も例に漏れず、賭場にて珍しくバカ勝ちしていたヨンパチに不死川が「イカサマではないかの?」といちゃもんを付け、それが原因で揉めている。

 その、なんだ。うん、真剣な本人たちがいる中で言うのもアレだけど、バカじゃないの。

 

「でも、否定しないってことは力比べなんだろ? それならいい勝負だと思うけど。かず……川神さんに椎名さん、転校生は強いと思うよ」

「確かに戦うみたいだねー。でも、まだ選手が決まってないのだ」

 

 それもまた、変な話だ。

 基本的に不死川(2-S)風間ファミリー(2-F)の戦いは、不死川が涙目になって逃げるか逃げて葵を召喚するかのどちらかだが……まさか、今回は実力行使にでるとは。それなら小雪を出せば良いと思うんだけど、葵や井上にも何か考えがあるんだろう。

 力勝負、となったら出てくるのは風間ファミリーなら間違いなく一子か、転校生だろう。椎名さんは正直怪しい。決闘という形式上、遠距離からの射撃である弓は扱いにくいのだ。島津や風間もありえるが、確実な勝利を目指すなら武士っ娘三人組の誰かを出した方が良いだろう。

 不死川の方は……本人が出れば良いけど、そういうのって出なさそう。大方井上か小雪が出るんじゃなかろうか。

 

「なら小雪が出ればいいじゃん。テコンドー、頑張ってるんだろう?」

「うんっ! ――――でも、今回は出ないよ」

「それなら井上か? アイツも結構なやり手だけど」

「準はお芝居作ってたら、鋏で手を怪我しちゃったから出れない。全く、ドジだよねー」

 

 アハハと笑う小雪だが、それって小雪が危なっかしい事をしようとしたのを止めたんじゃないだろうか。

 しかし……それならS組は誰が出るのか。葵は頭脳派で肉弾戦闘には向かず、S組のあずみ姐さんもこういうのには九鬼が言わない限り参加しない。マルギッテさんも妹分である転校生が出る可能性がある以上、参加を見送るのではないだろうか。

 一体誰が――――。

 

「だから、李くん。僕の代わりに出てくれないかな?」

 

 ――――へ? と呆けるのと同時。

 その笑顔に眩んで、思わず頷いてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「では、今回の決闘についての概要を説明します。

 質問は随時受け付けるので、その場その場でお願いしますね」

「わーい! どんどんぱふぱふー!」

「リアクションありがとう、雪」

 

 ――――どうしてこうなった。

 放課後の屋上で、思わず空を仰いでいた。雲一つ無い晴天で、綺麗な青色が広がっている。その美しさが、今はとても恨めしく感じた。空はこんなに青いのに――ってやつだ。

 

 昼休み。S組とF組の抗争の話を聞いていたら、何故か自分が決闘に参加することになっていた。小雪の誘惑に負けて、反射的に頷いてしまった自分を尻目に、わーいと喜ぶ小雪。その姿は好きな玩具を与えられた子供のようで、とてもじゃないがその了承(玩具)を取り消す気にはなれなかったのだ。と言うか、断ったら小雪は拗ねてしまうだろう。無駄な苦労を葵と井上に掛けるつもりは無い。

 食堂で小雪と別れて、放課後を告げるチャイムがなって帰宅の準備をしている途中――葵冬馬と直江大和が2-Aにやって来た。美形四人組に選ばれる秀才や交友関係の広い軍師が何故来た、と一時騒がしくなっていたが、今頃は何故自分が連れて行かれたかで議論が交わされているのだろう。割と強引に連れて行くものだから、周囲の視線が痛々しかった。特に葵のヤツ、何故かボディタッチが多かった気が……。生憎と同性愛はNG。

 

「その前にワッペンを配っておく。これがSクラスの分、これがクリスの分だ」

「そうでした。私としたことがすっかり失念してましたね――どうぞ、李君」

「……ん」

「ありがとう、大和」

 

 適当に現実逃避していたら、葵がワッペンを手渡してくる。こうもニコニコされると裏があるのではと疑ってしまうが、実際裏がありそうだから困る。

 ワッペンを渡す――――それは、川神学園においては『決闘』の挑戦状を意味している。先生方に一度申請し、決闘が認証されればワッペンが支給される。言わば参加証みたいなものだ。決闘前にこれを先生方に返すことで、決闘が行われる。

 学生服の胸ポケットに押し込んで、自分とは違うワッペンを受け取った相手を見る。

 金色。それが第一印象で、次にお嬢様という言葉が頭を過ぎった。日本人では有り得ない金髪に、凛々しさを感じさせる青い瞳。人形のような整った顔立ちに加えて、身体も戦う者からしても男としても充分なものだろう。まあ、それを感じさせないけどね。視姦はバレていないから意味があるのだ。ていうか、一子と良い勝負する女子にバレたらどうなることやら……。

 

 彼女の名前は、クリスティアーネ・フリードリヒ。四月にドイツから転入してきた転入生だ。

 転入初日から馬で投稿するという偉業を成し遂げたり、いきなり一子と決闘するなど何かと噂の絶えない御方だ。最近では風間ファミリーに入ったらしく、彼らと遊んでいる光景を時々見かける。

 一子との決闘で使っていた得物はレイピア。西洋剣の一種で、主に刺突を目的として作られている。刀身が細く刺突に優れるのが有名だが、逆に言えば斬撃や受け流しには向かない。下手に受けると折れたり曲がったりするらしい。しかし、達人が扱うレイピアの突きは神速の如く速さで迫ってくる。決闘を見る限り彼女は相当出来る人間だ。刺突も速く、巧みに刀身を滑らせることで受け流しをも可能にしていた。速さだけで比べたら自分の槍術と良い勝負だろう。

 槍と剣、そのどちらが優れている武器か――その議論はどの時代にも交わされてきた。リーチと速さでは槍が、知名度と殺傷力なら剣が優れているだろう。結論は担い手の実力次第、という事になるのだが――――どうやら、今回で自分の中での結論が出てきそうだ。

 

「まず、今回の決闘の形式について。普段なら私と大和君での勝負になるのですが、今回に限っては川神学園らしく剣を交えようかと」

「俺たちばかりが競い合っても、お互い決着がつかないと判断したんだ。知恵で互角なら肉体で――ってこと」

「そう言うことだ。部外者である李さんには申し訳無いが、正々堂々行かしてもらう」

「おっけー。事情は把握したし、形式も理解した。後はルールを教えてくれ」

「ルールは時間無制限、場所は校庭、勝敗は片方が戦闘続行が不可能になるか降参するまで――以上でよろしいでしょうか」

「一応二人で話し合って不具合の無いようにはしたんだが……」

「私は問題無しだ」

「俺も。強いて言うなら校庭の範囲を教えて欲しい」

「校庭を使う部活動の人や先生には許可を取っているから、全面使ってオーケーだ。ただ、校門から出たり校舎に入るのは違反になる」

「つまりは校庭全域がリングだな?」

「そうなりますが……もしも逃亡と取られるような行動を取った場合は、外野からの野次は覚悟しておいて下さいね」

 

 一通り説明が終わったようなので、設置されているベンチに腰掛ける。

 屋上には葵、直江、フリードリヒさん、小雪、自分の五人がいる。サイドで分けるなら葵と小雪と自分がS組、フリードリヒさんと直江がF組になる。お互い不意打ちをする程卑怯では無いものの、万が一に備えて武闘派のフリードリヒさんと小雪を揃えている――と言った具合か。まあ、直江やフリードリヒさんが来ているのは自分の観察が目的だろうが。

 今回のルールを考えたのは葵と直江の二人だ。葵は自分にルールを説明しなくてはならないので来るのは判るが、わざわざ直江とフリードリヒさんが来る必要は無い。賢い彼なら、フリードリヒさんに充分説明出来る筈なのだ。つまりここに来たのは他の目的があると判断し、消去法で観察になった。だって流石に自己紹介とか有り得ないでしょ。

 直江の人間的視点から見る自分と、フリードリヒさんの武人的視点から見る自分。この二人を重ね合わせて弱点でも見つけるつもりなのだろう。今のところ弱点らしい弱点は礼儀悪くベンチに腰掛けているぐらいだろうか。先客がいるから許してほしいものだ。

 

「審判はルー先生にお願いしています。ですので、公正なジャッジを期待していて下さいね」

「後は武器だが……これはいつも通りレプリカを使用してもらう。クリスは慣れないかもしれないけど、学園が支給してくれるモノを使ってくれ」

「むっ。それはどうしてだ?」

「さっき葵も言っていたが、今回は公平であるのを前提としているんだ。クリスも多馬川の河川敷で遊んでいた時見てたかもしれないけど、李は槍を使う。そうだろう?」

「まあね」

「なら、李の武器は学園側が用意した槍を使うことになる。李が支給品を使う以上、クリスも支給品を使ってくれないと困るんだ。

 片方が慣れない武器を使い、片方が使い慣れた私物を扱う。それがどんな結果を生むか、武術の経験があるクリスなら判ると思う」

「確かに慣れた武器ほど実力は引き出せるが……それなら了解した。彼と同じく、学園が用意してもらったモノを使うとしよう」

「ありがとう、助かった。もしそれで勝っても、Sクラスに言いがかりをつけられるかも知れないからね」

「安心してください。もし言うような輩がいても私が許しませんよ?」

 

 別に個人的にはどっちでも良いんだがなあ……。直江のヤツ、公平と謳っているが牽制することで葵の口を封じてやがる。

 先に「この戦いは公平なものである」と告げることで、葵が変なルールを付け足そうとするのを妨害しているのだ。正々堂々などとはとてもじゃないが言えないな、コレ。確かにアイツは軍師気質だわ。

 何故か目をキラキラさせて直江を見つめるフリードリヒさんが印象的だった。そういえばこの人、日本の武士大好きでしたね。正面から戦っているように見せている直江に感銘を受けているらしかった。直江は搦め手が大好きだから、見直したといった具合だろうか。

 

 この後は大した説明も無く、あったとしてもクラス同士の取り決めだったので関係無い自分は自販機で買った野菜ジュースを飲んでいた。青汁寄りだったので苦かったが、栄養は多い筈である。

 数分後、お互い宣戦布告のようなものを残して直江とフリードリヒさんは帰っていた。彼女が残したのは「お互い死力を尽くしてぶつかり合おう」という言葉だった。騎士道精神に則った素晴らしい言葉だと思う。

 因みに葵が言ったのは「ではSクラスが勝ったら大和君、デートしましょうか」という男ならゾッとする言葉だったりする。アイツやっぱ裏があったよ!

 

「おや。貴方は帰らないのですか?」

「いや、飲み終わったらすぐ帰る。放課後はトレーニングがあって忙しくてね」

「それは大変結構ですが、身体を壊すことが無いようお願いしますね」

 

 今日は金曜日。決闘は月曜日だから鍛える時間はたっぷりとある。仮に身体を壊したとしても、気を使ったまま寝れば一晩で大抵の傷は癒える。それこそ骨折ほどじゃない限り、だ。

 …………そうだ。葵に聞いておきたい事があるんだった。

 

「なあ葵。よくS組が他のクラスに手を貸すことを許したな」

「正直、そこは私も驚いていますが……Sクラスと言っても、主なのは不死川さんですから。如何せん、私たちのクラスは排他的でして。我関せずという人も居れば、侮辱されたと思っている人もいます。今回は前者が多かったのでしょう。それに――」

「それに?」

「特に雪の存在が大きかった、というのがありますね」

 

 小雪の存在が大きいとな。確かに胸とお尻は大きいけど……ゲフンゲフン。

 榊原小雪がS組で、一体どういう扱いを受けているのか自分は知らない。葵と井上がいる以上、虐げられているような事態では無いのだろうが――それでも、旧知がどういう立場なのかは気になる。なんせ、小雪は天然だ。おまけに一年中蝶々を追っかけているような娘だから、どんな対応をされているか。

 疑問を浮かべていることに気付いたのか、葵は苦笑しながら応えた。

 

「雪がですね、『それなら最適な人がいるのだー!』と言うものですから。不死川さんが止めても聞かず、結局折れる形で受け入れたのです。雪、何故か発言力があるんですよねぇ」

「成程」

 

 案外自由に暮らせているようで何よりだが、心労をかけるようで済まん、葵。そして井上の頭は小雪が原因だったのか……ストレス的な意味で。今度効き目のある育毛剤でも持っていくとしよう。或いは魍魎の宴で、甘粕さんの写真でも入荷しようかなあ……。

 野菜ジュースを飲み終わって、席を立つ。ゴミ箱へと放物線を描いて入った缶の音で目を覚ましたのか、自分の隣で寝ていた小雪が起きる。すぐに話が長くなると眠くなってしまうのは小雪らしい。こんなんで授業を受けれているのか……。まあ授業は別なのだろう。それに学年トップの葵が教えてくれるのだから、成績が落ちる訳が無かった。これでもS組在籍なのである。

 

「ふぁ……んん……おはよー……」

「おはようございます、雪。もう放課後ですから、私たちも帰りましょう」

「話し合い終わった……? 李くんも、いっしょに帰ろうよ……ふぁ」

「いえ、彼は彼で用事があるそうなので。非常に残念ですが、それもまた今度。さあ行きましょうか、雪」

「うん……。じゃあね、李くん」

「じゃあね」

 

 バイバイ、と手を振って屋上を後にする小雪と葵。

 残ったのは自分一人だけ。眼下を覗けば陸上部がレーンを全力疾走している様子が見られた。遊園地を思わせる設備の屋上だが、見通しだけは学園随一のものだ。誰に趣味か判らないものの、こういう所に設置されていると愉快に感じる。この気の抜けた表情をしているロディも、そう思うと可愛く…………やっぱり見えない。

 珍しく黄昏てみたが、慣れないことはするもんじゃない。いつものサイクルを守らない所為か、身体は今か今かと拳を振るうのを心待ちにしている。気が滾り、自然と力が篭った。

 

「それじゃま、行きますか――――」

 

 繰り返すが、今日は金曜日だ。

 時刻は四時前。河川敷に移動した時点で五時過ぎだろうから、二時間近く拳を振るえる計算になる。休日はフルに使えば十時間以上鍛錬が出来るだろう。決闘があるのだから最悪釈迦堂さんに師事すれば、搦め手の一つや二つ教授してもらえるかもしれない。あの人は川神院出身の癖して、法外な手段が大好きな御人だからなあ…………。そんなんだから破門になるのだ。辞めた自分が言えた口ではないけど。

 

 

 

 目指すは河川敷。今日のメニューは拳法である。

 あらかじめ連絡しておいて、ぶっ倒れるまで拳を振ろうか。




軽いステータスを。

主人公
八極拳の使い手。師匠に悪態を付くがなんやかんやで親しみを持っている。ある意味ツンデレ。

師匠
八極拳の使い手。弟子に厳しく自分にも厳しい御仁。クーデレだがBBA。それを言ったら内臓破裂するまで殴られるとか。


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第2話 夢とフレンチと鍛錬と

一話の回想シーン→普通だなあ……。
二話の回想シーン→あれ、主人公ってこんなに口悪かったけ?

だんだんやさぐれて来てるって事にしておいて下さい。或いは本性が出て来たと。


 ――――懐かしい夢を見ている。今から八年ほど前の出来事だ。

 

 

 

 

「待ちたまえ」

 

 川神院の正門前まで鵬泰山(おおとりたいざん)を案内したので帰ろうとした矢先、彼女から声を掛けられた――掛けられてしまったのだ。

 その『聞き取らせる声』は、強い拘束力となって自分の足を止めた。最初に声を掛けられた時とは性質が全く違う、聞き取らせるというよりも聞かせる声。まるで叫んでいる人間の声は嫌でも聞こえてしまうように、彼女の声は強引に脳まで響いてきたのだ。ただ声を掛けられただけだというのに――両足は縫い付けられたと錯覚してしまう程、ぴくりとも動かなかった。

 …………今になって考えると、気を声に上乗せし、相手に聞かせる事で効力を発揮していたのだろうか? 弟子入りして泰山の逸話は耳に入ってきたが、何よりも優れているのは彼女の気の柔軟性というか、気の使い方だと思う。彼女ほど気の使い方が巧い人間は見たことが無い。それこそ鉄心先生を上回る程の技量だと思っている。

 

「え…………なんでしょうか?」

「いや、なに。君にはわざわざ案内してもらったからな。何かお礼をしなければ、と思って」

 

 振り返って一番に見えたのは、彼女の妖しい笑顔だった。まるで魅了してくるような顔を向けられれば、嫌でも視線は彼女に集まってしまう。…………気の使い方が巧いと言ったが、どちらかと言えば人心掌握術に長けているのかも知れない。

 自分が話を聞く気になったと判断したのか、足の重圧は消え失せた。しかし泰山の言葉は言霊となって自分の中で反響している。今回は聞き取らせる、というよりかは理解を深めるのが目的だろうか、あまり意味の判らない単語でもスラスラと理解できるようになっていた。気ってスゲー。

 

「別にいいですよ。その、母が言ってたんで。見知らぬ人が困っていたら助けてあげなさい、て」

「ほう…………日本人の美学、というヤツだな。確かに殊勝な考え方だが、それなら此方にもあってな――

 ――『恩は借りたままにするな』と、昔口酸っぱく言われたよ」

「はあ。でも、僕も出会ったばっかりの人に恩を着せるようなひどい事はしません。これぐらいの事は別になんともない、普通の事ですよ」

「ケンキョ、とは君のような人間を指すのだな。だが、世の中は等価交換で成り立っていると聞いたことは無いかね? 君は私に時間と徒労を割いてくれたのだから、私も君に何かを割かなくてはならない」

「そんな…………人助けは、恩返しを求めないからこそ人助けなんです。それに、そもそも貴方は川神院に用事があるんだから、そっちを優先して下さい」

「別に構わないさ。道は覚えたし、中にいる人間の気も覚えた。今度来る時は一人で来れるから、今時間は空いている」

 

 どちらも譲る気は無いらしく、一進一退の攻防が繰り広げられた。

 泰山が『聞かせる声』でも発せば一瞬で決着がつく筈なのだが、そんなくだらない事に気を使う程彼女は馬鹿では無い。鬼だが馬鹿ではないのだ。脳味噌が筋肉になりかけている気がしないでもないが、彼女の知能は高い。

 それに――そうやって気を使わないのは、本心から彼女が恩義を果たそうと思っているからだろう。強引に恩義を果たすのではなく、自分も満足して彼女も満足できるような恩返しをしようとしているからこそ、彼女は気を使わず言葉だけで語りかけているのだ。自分よりも遥かに年下の、年端もいかないガキにここまで献身的になれるのだから、師匠は凄いと認めざるを得ない。

 …………一方、思春期手前の自分は恥ずかしいことに、泰山に見蕩れてあらぬ欲求を考えていたりする。だからこそ断ったのだが、それを察することは泰山でも出来なかったようだ。まあ、知られても困るんだけどさ。

 

 十分ほど経っても、議論に終わりは訪れなかった。相変わらず自分は日本人らしく謙虚にお礼を断り、誠実な泰山は恩を返そうとして歩み寄ってくる。

 はっきり言って、この状況はかなり恥ずかしかったりする。なんせ此処はあの川神院である。地域との関わりも深く、修行している人の中には近所のお兄ちゃんだって居る。その人にこんな場面を見られて、偶然出会った時に話されては爆死する未来しか見えない。当時の自分は女子と会話するだけできりきり舞いだったのだ、こんな美人と話していたなどと言われれば舞い上がりすぎて昇天するかもしれなかった。

 

「はあ……。まさか君がこんなにも頑固だったとはな。

 なら質問を変えよう。恩義を果たすのではなく、願いを叶える――これならどうだ? 金銭なら余裕があるから、それなりの願いは叶えられると思うが」

「ね、ねがっ……!? ん、んんっ。願い、ですか」

 

 一瞬裸体が頭を過ぎった俺は悪くないと思う。

 泰山はBBAだが相当な美人であり、スタイルも最高に良い。それこそ胸はE以上、もしかしたらGはあるかもしれない。カンフー服も密着しているのでお尻がはっきりと判り、顔を近付けて口論していたので吐息がかかってもうたまらねえぜ。

 妄想で滾るのはいいが相手は老人だというのを認識すると萎えた。閑話休題だ閑話休題。

 しかし唐突に願いを叶えると言われても、案外思い浮かばないものだ。こういうものは地道な努力によって身を結ぶものだと思っているから、尚の事浮かばないのかもしれない。

 それなら彼女の言う通り金銭面で解決できるものにした方がいいのだろうか。

 文房具は…………低賃金で、別に今必要はない。

 新しいランドセル……他人に買わす代物じゃない。

 教科書…………税金だから問題無し。

 学校関係で考えてみたら出てくると思っていたが、案外出てこないものだ。学校、学校、学校ねえ――――あ。

 

「その、一つ……だけなら」

「おっ、考え事は済んだか? なら教えてくれ。一万円なら余裕で出せるが――」

 

 

 

「――――僕を、強くしてくれませんか」

「……………………ほう」

 

 瞬間――――陽気だった彼女の瞳が、無機質な水面を思わせる瞳に変化する。

 纏う空気は陽から陰へ。しがない観光客に過ぎない鵬泰山から、川神院に訪れた武人鵬泰山へと人格が変わったのだ。雰囲気すら変えた彼女はまるで気の触れた狼のようで――それでも尚、理性を保ったまま見定めるように自分を見ていた。

 

「その言葉が何を意味しているのか、君は判っているのか?」

「え、まあ。勿論修行はしますし、根はあげないつもりです」

「それは結構だが……理由を聞かせもらっても?」

「理由、ですか。実は自分の学校に、いじめられている子がいるんです」

 

 名前は確か、椎名(しいな)と言った筈。母親が原因でいじめられている同級生。クラスが違うので詳しい事情は判らないが、名前が知れ渡っている程度には有名だ。インバイだとか椎名菌だとか、とても不名誉なあだ名を与えられている少女。

 彼女を助ける――と自分は思っているのか。或いはいじめられている彼女のことを聞いて、自分もそうならないよう力を付けたいのか。理由は判らないが、兎に角自分は強くなりなかったのだ。

 

 ――――まあ、本当は。

     自分に好きな人が出来た時、その人を守りたいだけなのだが。

 

「成程な。詳しい理由は聞かん。込み入った事情を聞くのは面倒だからな」

「ありがとうございます」

「私に師事するのはいいが、覚悟はしておけ。それこそ地獄のような苦しみと、驚く程強くしてやる」

「――――っ! はいっ!」

 

 その言葉に強く頷く。彼女のたくましさと言うか、その熱意を感じ取ったから安心したのだ。この人なら自分を高みへと連れて行ってくれる、そんな予感がした。

 

 

 

「なら――景気付けに一発くらっとけ!」

 

 ――――最初の修行と称して、冲捶(ちゅうすい)を喰らうまでは。

 マジで痛かったんだよなあ…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 土曜日。部活に入っていない自分は2-Fの熊飼満こと熊ちゃんと食べ歩きをしていた。

 休日だというのに男二人で街を巡るのは些か花が無いものの、熊ちゃんは花より団子派だし自分は三度の飯と研鑽好きの変人だ。こんな二人に色恋沙汰がある筈も無く、街へ繰り出しイタリア商店街をふらついている訳だ。風間を連れていた時はナンパされたりもしたが、デブとフツメンじゃギャル系女子の心は動かないらしい。明らかに暇そうにしている女子高生の視線が一瞬向いたと思ったら、興味無さげに逸らされる。……なんだよう、興味が無いなら見るんじゃないよ! この厚化粧共が!

 

「…………熊ちゃんてさあ、女子にモテたいと思う?」

「そりゃあ僕だって男だからね、欲しいと言われたら欲しいけど…………急にどうしたの?」

「いや、気まぐれだよ。それよりも、最近オープンしたばっかりのフレンチって何処よ」

「それならあそこの角を左に曲がって、しばらくした所の路地に入って――」

 

 なんだ、熊ちゃんも彼女欲しかったのか。てっきり「食事が僕の彼女だよ」とか抜かすとか思ってたのに。

 今回の目的は食べ歩きだが、それはメインディッシュでは無い。寧ろ今回に限っては食べ歩きなどメインを頂く前のスープやサラダなどの前菜に近い。熊ちゃんもそれを理解しているようで、イタリア商店街で買ったジェラートは普段よりも何個か少なかった。いつもなら五個は買うのに抑えている辺り、相当メインは美味しいようだ。これは期待が持てる。

 熊ちゃんの先導の元、雑誌などでも取り上げられているフレンチの店へ向かう。イタリアな雰囲気漂うこの商店街にフレンチの店を建てる心構えには感服するが、感服したのは心構えだけではない。商店街の空気に飲まれることなく、尚且つ雑誌で取り上げられる程の業績を叩き出したのは正直驚いた。同じような店が立ち並ぶ中一つだけ系統の違う店があるというのは敬遠されがちだが、それでも結果を出しているのは味が認められたからだろう。

 

「その店のオススメみたいなのはあるか?」

「僕たちじゃコースは食べれないからねえ。ええと、ちょっと待ってね…………雑誌を見る限り、キッシュが有名みたいだよ」

「キッシュか、聞いたことはあるけど食べたことは無いな」

「僕は何度か。あのパイ生地と中に入っている具材の食感がたまらなく美味しいんだ。オーブンで焼いているからパリパリで食べ応えも充分だし、看板メニューだからどれぐらい美味しいのかなあ……」

「熊ちゃん、涎垂れてるから」

 

 キッシュ。日本で頂けるフランス料理では珍しい郷土料理の一種。

 器となるパイ生地の中に卵や生クリーム、アスパラやベーコンなどを入れる。自分が知っているキッシュはほうれん草やひき肉が入っていて、野菜多めの印象があった。具材を入れたら上にチーズを大量に乗せてオーブンで焦がす。チーズに焼き目が付いて生地が焼けたら完成だ。

 イメージではパイ生地にグラタンを入れていると言ったところか。地方によってはナッツ類を入れることもあり、割と自由だと聞く。今回行く店がどのスタイルなのかが今から楽しみになってきた。

 

 熊ちゃんと行く店の名前は「Gourmet(グルメ)」。フランス語で美食家を意味する言葉だ。

 古いお城をイメージした内装に、客をリラックスさせる事に重きを置いた選曲。一見厳格そうに見える城のイメージを緩和する為に店員の接客にも力を入れていると聞いた。こういう雰囲気作りも一流の店には必要だったりする。

 フレンチの店だということでコースは高いものの、それ以外は学生でも注文出来るような良心的な値段とか。イタリア商店街は川神学園帰りの学生も多く通うスポットなので、学生もターゲットに入っているようだ。実際クラスでこの店に行った人から話を聞いたが、単品なら千円で食べれるらしい。フレンチでこれは充分安いと思う。

 

「――っと、此処か。着いたは良いけど、結構混んでるな」

「お昼前だし人気店だからね。僕らも並んでおこうよ」

 

 通りから少し離れた所に店はあった。只々商店街を歩いただけでは発見出来ないような入り組んだ道を抜けた先に、堂々と建っている。

 建っているのだが…………その、予想以上に人数多くないか? 穴場スポットと言われて来てみれば、昼前だというのに十人以上の行列が出来ている。雑誌効果というヤツだろうか。そういうので取り上げられるのは良いのだけれど、自分のお気に入りだった店が荒らされたような気分になるのは自分が未熟だからだろう。フレンチという特性上調理には時間がかかるので、間違いなく数十分は待たなくてはならないだろう。

 まあ、その待つのが良いんだけどさ。今か今かと待ちわびて、現物が出た時の喜びは並んだ人間にしか判らない感情だと思う。

 

「客は……女性が多い感じか?」

「お洒落なお店、ていうのがコンセプトだからじゃないかな」

 

 列に並んで適当に時間を潰すこと一時間。お店の人から案内されてようやく店内に入った。

 まず耳に入ってきたのはモダンな音楽である。古臭い――というよりは今と違って落ち着きのある音楽は、確かに食事には最適なミュージックだった。この頃はジャズが世界的に流行ったと聞くが、仄暗い明かりの店内では派手さの無い音楽の方が合っているだろう。

 内装はお城というコンセプト通り、古い絵画が壁に描かれ店の中央にはシャンデリアが吊るされている。置物もアンティークな物が多く、白を基準とした清潔なデザインとなっている。薄暗い印象から白は合わないと思っていたが、これぐらいの明かりの方が王政の時代を思わせて良い。ナイスチョイスだ。

 

 案内されたのは窓際の席だった。向かい合うように座り、手を拭き流れメニューを眺める。野郎二人が対面するなんて花が無いが、腐った思考回路を持った生物学上女みたいな人種じゃない限りは友人と判断されるだろう。腐女子の思考回路は気を持ってしても読めないんだよなあ……。

 看板メニューということもあり、キッシュは一番最初のページに飾られていた。写真と共にキッシュの概要が説明されており、これなら初見の客にも判りやすい。気遣いが出来ているのはいい店の証拠だ。時々全て外国語という店を見かけるが、判らない人間にとっては迷惑極まりない。こうして丁寧な接客こそお客様確保に繋がるのだ、多分。

 

「南瓜、ほうれん草、クリームか。俺は南瓜にするけど、熊ちゃんは?」

「僕はほうれん草にしようかなあ。クリームも食べてみたいけど、ちょっと手持ちが……ね」

「それなら二人で割り勘するか」

「うん」

 

 学生の身分故致し方なし。

 …………なんか虚しくなってきた。こんな気持ちはさっさと切り替えて、今から出てくる美味しい料理を堪能するとしよう。

 

 

 

 あ、キッシュは凄く良かった。

 パリパリの生地に南瓜の甘みが合っていて、ベーコンの塩気やアスパラの食感も良いアクセントになっていたと思う。

 クリームはベーコンなどを抜いている代わりに果物を入れることで甘めにしてあり、上のチーズもクリームチーズになっていた。しつこくなかったので案外軽く食べれた。

 今度は小雪とでも行こうかなあ。デートと称すのは恥ずかしいから、自然な流れで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――嘗て、武術の本場中国にはある男が居た。

 

 男の名は李書文。貧しい農村出身の彼は劇団員を目指していたというが、舞台での事故で足を負傷。泣く泣く実家へ帰る羽目になってしまったという。

 傷を癒した書文は、怪我を乗り越える為にとある武術を習うことを決心する。

 その武術の名前は八極拳。敵の防御の上から打ち破ることを信条とする拳法。

 日夜練習に没頭した書文はその実力と才能を開花させる。小柄であり拳法には向かないと思われていた体格の不利も、血を吐くような鍛錬によって得た怪力が打ち消した。槍を好み、仕事を忘れ一日中振り回していた時もあったと言う。

 その結果、彼がどんな異名で呼ばれるようになったか。

 真剣勝負に於いて悉く牽制だろうと全力だろうと一撃で敵を葬り去る姿から、彼は『无二打(二の打ち要らず)』と呼ばれていた――――。

 

 

 

 ……………………格好いい。何と言うか、格好いいのだ。

 李書文の生き方――八極拳の一撃を極め、只ひたすらに自分を鍛えるその姿。これこそが自分の目指す武人そのものだと思う。

 っべー。マジべー。書文先生マジリスペクトっす。もう一生見習っていくっす、本当。人生の師匠つーか先輩つーか、もうかっこよすぎて拳に力が込もるっす!

 

「――――ふっ」

 

 冲捶(ちゅうすい)川掌(せんしょう)を織り交ぜながら拳を振るい、躱されたと仮定して追撃用の蹴りを放つ。華麗なバックステッポによって蹴りは空を切るだろうから、後ろへ後退、体制を立て直し震脚で前へ踏み込む。

 震脚には二種類存在する。一つは前進する為のもので、この場合は地面を踏みしめるように足を出すのが重要になる。言わば相手に初動を判らせないようにするのだ。最初は音を出し豪快に踏みつけていたが、鍛錬を重ねるにつれ音が少なく動きも僅かになってきた。普通に歩くように踏みしめるからこそ、相手に初動を悟られないのだ。これが中国拳法の強みの一つだろう。

 二つ目は先程言った踏みつける震脚で、こちらは主に相手へ拳を当てる瞬間に使用する。この状態になれば音など関係が無いので思いっきり踏みつけることが出来る。その為威力は踏みしめるものよりも強いだろう。それこそコンクリートを粉砕する程度には。

 一歩で三メートルほど移動したら、右足でブレーキを掛け半身になって裡門頂肘(りもんちょうちゅう)を放った。肘は下から上へ、相手の身体を持ち上げるイメージで。勢いの乗った一撃は空を斬り、風切り音となって周囲へ木霊した。

 

 ――――――――遠い。そして弱い。

 師匠の牽制にも満たない一撃だった。気を使っていないので威力は保証されないが、それでも弱すぎる。二の打ち要らずを体現したような師匠や李書文には遠く及ばない、未熟な拳。気を使わずして内臓を破壊し得る威力を持つ師匠の一撃を知っていれば、自分の拳がどれ程まで弱々しいか痛感させられる。

 悔しくて、思わず歯軋りをしていた。拳にも力が入り、使う予定の無い気が溢れる。この辺りも自分の未熟な所だろう、少し至らぬ所があれば感情が爆発する。学校生活においては必要なそれも、武道においては不必要なものとなる。明鏡止水の心理こそが武人に必要とされる心なのだ。

 感情の爆発は善を助け悪を挫く上では重要だろう。重要だろうが――善悪程度で騒ぐようでは彼女らには届かない。彼女たちの強さはそういうややこしい物を抜きにした、一種の価値観の中で生まれたモノだ。李書文だって源義経だって、祀りたてられているが現実は人殺しである。それでも彼らに魅了されるのは、善悪抜きで彼らが凄まじいから。今の自分に必要とされるのは、善悪が入り込む余地の無い純粋な強さだ……!

 ……………………まあ、ややこしい事言ってるけどよーするに「悪であろうと強くあれ」って事だ。そもそも泰山流八極拳は暗殺拳なので、アレコレ考えても意味が無い。強ければいいのだ、強ければ。勝てば官軍負ければ賊軍。それを体現したような拳法とも言える。

 

 ふぅ、と息を吐き出し中段に構える。震脚と同時、活歩を用いて芝生の上を滑る。実際には滑っているように見えるだけだが、この歩法を使えば一瞬で間合いを詰められるのだ。

 放つは絶技。我が流派開祖鵬泰山(おおとりたいざん)や李書文が好んで使ったとされる、当たれば終わりの連撃。

 

猛虎硬爬山(もうここうはざん)――!」

 

 狙うのは仮想の相手の腕。それを掌で叩き付け、徐々に上へと上げていく。いずれ辿り着くのは顔面であり、極遠をぶち破るその拳は師匠クラスの威力なら顔面を陥没させるには十二分だろう。

 …………そこまで自分の拳に威力が無いのが悔やまれる。気を使わなければ顔面陥没程度すら成せないとは。師匠曰く「極意の二つは極めた」らしいが、生身でこれでは拍子抜けも良いところ。せめて拳を切った風圧で腕が折れるようにはしなければ。

 

「……………………はぁ――!」

 

 まあ生身の事は後だ後。鍛えていったら至る境地だろう。

 次は気を使っての鍛錬になる。そもそも泰山流八極拳は気を使える者だけが習える拳法らしい。泰山一代で大成したのにそんな事が言えるのか。確かに兄弟子や同じ流派の武人に出会ったことは無い。なんでも最初の冲捶で素質を判断されるらしく、彼女に認められたのは自分しかいなかった、ということだ。…………随分と嬉しくない選定方法だと思う。だってさ、最初の一撃マジ死んだと思ったもん。あんな一撃を子供に放つ辺り、弟子となった者への容赦の無さを感じる。

 

「――――――――」

 

 気を全身に巡らせ、拳には濃密な量の気を宿す。気による身体能力強化は感覚まで効果が出るようで、河川敷の向こう側――変態橋の辺りまで見渡すことが出来る。此処から変態橋まで約一キロなので全体像だけなら捉えることは可能だが、今なら変態橋を通る通行人すら視認できる。

 震脚――その踏み込みで川に波紋が生まれ、柔らかい土は衝撃に耐え切れず抉れる。活歩と組み合わせて進んだ距離は五メートル以上、時間に直して一秒以内だろう。

 勢いのまま、つく足を震脚として踏みつけ冲捶を出した。拳が相手に当たった瞬間、拳に乗せた気を爆発させる。

 

 ゴン、という形容しがたい音と同時。

 拳が向いていた多馬川の水が、扇状に散っていった。

 

 コンディションは充分。後は日曜日の鍛錬でどこまで鍛えられるかだ。

 気の残量は普段なら五分程度だが、今日は三割残しておく。月曜日に十割にする為にはこれぐらいが丁度いいだろう。フリードリヒさんを侮るわけにはいかない。彼女はそれなりの実力を秘めた武人だ。手加減すれば自分が負けるだろう。

 

 

 

 

 それに、小雪からのお願いなんだ。

 今度の仕合いは絶対に負けられない。




友人からのメール『お前の作品日間入ってるゾ』→確認→ファッ!?(今ここ)。
Fateは入ってないのに……入ってないのに……贅沢は言いませんが。
兎に角、皆様この拙作を見ていただき誠にありがとうございます!

八極拳の技はググれば出てくるので、そちらを参考にしていただければ……。
自分が説明するよりも遥かに解りやすく丁寧なので。

感想くれるとありがたいです。主に自分が。


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風間ファミリー 夢と不安と心配と

今年最後の投稿となります。
それとお気に入り登録者数1000突破ありがとうございます!
完全に息抜きと本命が逆転してますけど、そこらへんは気にせずにですね……。


 ――――懐かしい夢を見ている。今からほど八年前の出来事だ。

 

 

 

 

 その日は粉雪が振る寒い日だった。気温が十度以下になろうと、基本的に川神院での服装は道着である。薄着の道着一枚では風邪を引いてしまう為中にインナーを着るのだが、それでも寒いものは寒い。身体をしっかり鍛えよく食べよく寝ているので風邪を引いた事は一度も無いものの、この日に限っては凍えるような思いをしたのを憶えている。

 川神流に限らず、道場で仕合いをする武術は素足になる。その為寒い日は床が冷たく全身が凍えるような思いをしなくてはならないのだ。薄着に加えて足元からの寒さだ、軟弱な身体では一日で風邪を引くレベルだろう。爺さんのヤツ、自分は足袋を履いている癖に私には履かせないのだから意地悪だ。他の人たちには履かせるのに。

 あれか、日頃の当て付けってヤツか。本人に問いただしても「老人だから寒いもん」なんて抜かしやがる。そもそも何歳か判らないようなジジイが何を言っているんだか。

 

「新しい門下生が入るから面倒を見ろ? 本気で言ってるのかジジイ」

「勿論じゃとも。それと百代、次ジジイなどと抜かせば肋骨をへし折るぞ」

 

 肋骨をへし折るって……可憐な美少女に言う台詞じゃないだろ。まあ爺さんを煽るような事を言った私も悪いんだけどさ。

 お昼頃。指定された修行を終え昼食を摂っていた自分の所にやってきたジジイはそう言い、外出用の上着を渡してきた。道着の上からジャンバーを着るとは……しわくちゃになって大変だと思う。

 

 川神院では門下生が入ってくること自体は珍しくない。私は身内の人間なので外部の評価はイマイチ判らないものの、此処が武道の総本山と言われていることぐらいは知っている。なんせ『世界最強のクソジジイ』である川上鉄心が教える場所だ、有名にならないほうが可笑しい。実際私もジジイ目当てにやって来る外国人も何人も見てきた。

 特に憶えているのは夏頃にやって来た中国人だ。名前は判らないが中国拳法の使い手で、ジジイと組手をしなかったものの師範代クラスのルーさんを撃破した強者だった。アレがジジイの言う『壁を越えた者』なのだろう。何時か自分もあれ程までの高みに登りたいものだ――。

 話を戻そう。川神院に門下生が入ってくることは珍しくないが、珍しいのは幼い子供の門下生が入ることだ。武道の総本山ということもあり敷居が高いと思われているのか、川神院に入る人のほとんどは成人した大人である。故に川神院に子供は少なく、ジジイの孫である私と高校生の二人しか存在しない。

 ジジイの言う門下生――面倒を見ろと言ってくる辺り年下だと思われる。つまりは現在川神院の中で最年少の私よりも下、つまりは弟分が出来る訳だ。今まで最年少という事でジジイやジジイやジジイや釈迦堂さんなどに雑用を任されていたが、これでようやく雑用係から卒業できる。いやあ長かった。……………………って、ほとんどの雑用はジジイが発端じゃないか。

 

「それで爺さん! 新しい門下生は年下だよな!? な!?」

「え、えらくそこだけ食いつくのぅ…………。確かに彼女の紹介じゃと九歳だから、一つ年下ということになるの」

「いっよっしゃあッ!」

「喜んでいるところ悪いが百代、しばらくは雑用係はお主じゃからな」

「なん…………だと……!?」

 

 あんっのクソジジイィ……! 無双正拳突きで吹っ飛ばしてやろうか……!?

 睨みつけること数分。無言の圧力を込めて睨んでいたが、ジジイはいい加減鬱陶しく感じたのか鋭い手刀を頭に放ってきた。気を纏わせていないのでそこまで痛くないが、あくまで『そこまで』だ。何発も喰らえば充分痛い。

 大人しく喰らい、ジジイが渡してきた上着を黙って着る。これ以上やっても自分が痛い思いをするだけだ。全く、あんなヨレヨレの癖して私じゃ手が出ないほど強いとは。人間とは判らないものである。

 ジジイが言うには門下生はもうすぐ来るらしい。私を連れて行くのは訪れた門下生への挨拶と紹介を兼ねてとか。確かに姉弟子となる存在は一番最初に知っておいた方がいいだろう、うん。雑用係もしばらくだし、事情を覚えたらボロ雑巾になるまでコキ使ってやる……!

 

「なにを物騒なことを考えておるか」

「あいてっ!?」

 

 ジジイに連れられてやって来たのは正門だった。川神院の敷地中に雪が積もっており、修行僧の先輩方が雪掻きと言う名の修行をさせられている。スコップで雪を掬い、隅へ寄せてては掬いの繰り返しだ。私は既に終わっており、雪はぶん殴って始末した。ジジイが聞いたら怒りそうな話だが、バレていないので問題無いだろう。

 道着の上にジャンバーを羽織るのは良いが、それでもまだ薄着だ。外に出た瞬間、身体が一気に冷めたのを感じる。流石に素足では無く下駄は履かせてもらったが、それでもこの寒さは耐え難いものだ。思わず身震いしてしまうのを抑えて、正門の風の当たらない所へ避難した。ここなら風も無く雪も落ちてこないので安全だろう。

 

 凍えるような寒さの中待つこと十分――門下生とその保護者はやって来た。

 

「待たせて済まない鉄心殿。この生意気な弟子を沈ませるのに時間を割いてしまった」

「構わんよ。それよりも泰山殿――本当に、この子をうちで修行させてよいのじゃな?」

「…………ええ。この子は強さだけなら同世代でも覇権を争えますが、実戦経験というものがまるで足りない。私も七浜に住んでおりますが、組手が出来るのは週に一度のみ。それなら鉄心殿の所に預けて経験を積ませる方が良いでしょう。他の流派の技を学ぶのも、経験という事で」

「お主がそう言うのなら、儂はもう何も言わん。――――これ百代、そこで震えていないで早く出てきなさい」

「………………………………」

 

 震えてなんかない――――とは、流石見知らぬ人物が居る前では言えなかった。

 渋々といった形で陰から出た。ジジイの横に立ち、眼前に居る二人の様子を観察する。…………何と言うか、あったかそうだなあ。門下生の方はゴツい防寒着に黒の手袋、保護者の方はコートに狐のファーを付けている。

 門下生と私の視線が交差する。顔に貼り付けられたガーゼが印象的で、身体をさすっている辺り痣でも出来ているのだろうか。つまりそれ程まで保護者にしごかれているという訳だ。先程の同世代では一位を狙えるという発言を含めて、コイツには相当期待できそうだ。

 逆に門下生の視線だが…………コイツ、私のこと可哀想なものを見るような目で見てきやがる。確かにこんな薄手だけど、そんな目をしなくても良いと思う。この時の恥は後日絶対に倍にして返す……!

 

「これこれ百代。そう警戒せんでもいいじゃろうが」

「別の流派からの刺客ですからね、総代の孫となれば警戒するのも当然でしょう」

「流派も何も、そもそも流れが違うのじゃから警戒するだけ無駄じゃろうに」

 

 なんかあらぬ勘違いが広がっている気がする。

 …………これも全部門下生が悪いのだ。

 

「――――李、挨拶をしなさい」

「…………えーと、今日から川神院で修行させていただく李颯斗(はやと)です。李でも颯斗でも、呼びやすいように呼んでください」

「李君か。儂は川神鉄心、川神院の総代をしておる。そして此処に居るのが――――」

「川神百代。お前、明日から私の舎弟な」

「……………………えっ」

 

 

 

 どこまでも冷静な李と、怒りを抑えて笑みを浮かべる私。

 私がはじめて彼と会ったのは、息すら凍る寒い日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋上にて話し合いを終えた直江大和とクリスティアーネ・フリードリヒはとある廃ビルへ向かっていた。

 

「クリス、廃ビル行くぞ」

「廃ビル……? ああ、今日はそういう日だったな」

 

 今日は金曜日。彼ら二人にとってこの曜日は特別な意味を持っている。彼らが所属するグループ、風間ファミリーでは毎週金曜日に目的地である廃ビルに集まり、議題を決めて話し合うのだ。『話し合う』と言っても、議題が無い場合は遊びにシフトチェンジされるが。

 川神学園から廃ビルまではそう遠くない。昔は埃だらけでまともに秘密基地として機能しなかった廃ビルだが、中学生になってから一気に整備が進んだ。埃などの汚れはファミリーの女子川神一子と椎名京が掃除し、崩れ落ちたコンクリートや置かれていた廃棄物は力持ちの島津岳人が撤去。頭脳担当の師岡卓也と大和で設置物の置き場所を考えて、リーダーの風間翔一が類まれなる幸運で手に入れた品物を持ってくる。

 その結果、廃ビルの一室はメンバーの嗜好品が集まるおもちゃ箱のような有様になっている。漫画本やテレビゲーム、冷蔵庫にプラモなどなど――最早誰が持ち込んだか判らないような代物もあったりなかったり。時々賞味期限切れのお菓子や食べ残してカビが生えたパンなど、結構危ない代物も見つかったりする。

 これは一度掃除した方が良いかな、と大和が悩んでいるところに、隣を歩いていたクリスが話しかけてくる。

 

「大和。あの李と言った男、一体どれ程の実力なんだ?」

「俺にはさっぱり。何年も前から河川敷で修行しているのは見てたけど、俺には武術の心得が無いから只々すごいなーとしか」

 

 李颯斗(りはやと)

 2-Sと2-Fの諍いにて突如表れたSクラスの刺客。彼自身は2-A所属だが、助っ人という形で決闘に挑むことになっている。形を変えれば巻き込まれた、と言っても過言ではないだろう。最も、大和ですら理解出来ない()()榊原小雪と仲が良い辺り、SクラスFクラス共々因縁深くどの道戦う運命だったのかもしれないが。

 李颯斗の実力ははっきり言って未知数。なんせ今まで戦闘関係で『決闘』に参加した記録が無い。食堂とおかわり自由権を求めて決闘したり2-Fの熊飼満と大食い対決をしたりと、食事関係の決闘なら幾つもこなしているのだが……大和が調べられる限り、彼が武器を取って生徒と戦ったという記録は無かった。

 しかし、彼が多馬川の河川敷で鍛錬しているのは有名な話だ。大和も度々見かけるし、日課のメール交換で話題に上がる事もある。彼が使うのは槍と拳。総じて槍の方が回数は多い気がする。今回の決闘でも彼が使用するのは槍であり、彼の腕前は素人である大和ですら感嘆の声を上げる程だ。それこそ一子やクリスに匹敵するレベルの腕前だろう。

 

「河川敷での動きを見る限り、結構な実力だっていうのは判る。でも、対人の結果が無いから強いかどうか判らないんだ」

「ふむ……そうか……。廃ビルに戻ったら一度聞いてみよう。犬やモモ先輩なら何か知っているかもしれない」

「あ、確か李って川神院に通ってたような。昔ワン子が話すのを聞き流してたから詳しく覚えてないけど、二人に聞いたら判るかもな」

 

 二人が並んで歩く姿はカップルにも見えなくは無いが、その間に空いている溝を見せられたら誰もカップルとは思うまい。

 今はこうして会話している大和とクリスだが、実は結構仲が悪い。大和は相手の隙を付く軍師タイプで、クリスは真正面から相手を破る騎士タイプ。簡単に言えば馬が合わないのだ。その相性の悪さはいきなり表立って見えた。転入初日からいきなり衝突し、その後も度々揉めている。

 大和からしたら非力な自分が狡猾な手段を取るのは戦略だと考えているが、クリスは日本男児というものを何処か勘違いしている。創作で出てくるような勇ましい姿を理想としている所為か、それを大和にも求めているのだ。大和にとっては迷惑極まりない。更に大和の態度を直そうとしてくるのだから堪ったものじゃない。クリスが可愛くなかったら怒鳴り散らしている所だろう。

 

「しかし、川神院で修行していた生徒が無名とは」

「李とはメールで会話するぐらいだけど、アイツって食べ物の話題ばっかり出すからな。武術を習っていても自慢するタイプじゃないし」

 

 大和と李颯斗はあまり仲良くない。少なくとも初見のクリスよりかは仲が良いものの、それでも「友達の友達」というレベルだろう。

 彼が夜行っているメール交換でも、李はあまり話題を振ってこない。携帯に慣れていないのでタイピングが遅く、その為文章を打つのが面倒くさい――本人はそう言っているが、単純に親しくない間柄の相手への距離感に迷っているのだと思われる。つまり情報収集の為に大和が歩み寄っても違和感を与えるだけで、まともに情報が出てこない可能性があるのだ。

 こうなってしまっては大和に出来る事は無い。後は百代と一子の情報に頼るだけだ。

 

 川神学園から歩いて二十分ちょっと。変態橋こと多馬大橋を渡り土手を通って、住宅地に向かう。此処から川神学園へ向かっている生徒は多く、放課後ということですれ違う生徒の数も多い。眉を潜めて歩くクリスと無表情の大和のペアは、さぞ可笑しく見えることだろう。

 

 数分もしない内に、風間ファミリーの集まる(廃ビル)は見えてきた。

 

 住宅地の中でも一際大きな建物――外見からすれば建設途中で放棄したビルに過ぎない。入口も封鎖されて扉からは内側の廃れた様子がよく判る。しかし、廃ビルの一室から電灯の光が漏れていた。最も、酔狂な輩ではない限り廃ビルなど注意深く見ないので、彼らがそこにたむろしている事を指摘されたことは一度も無かった。

 正面からでは無く裏口から入ると、ファミリーの騒がしい声が聞こえてくる。翔一の賑やかな声に、岳人と卓也の漫談。一子が百代に甘え、百代は一子を甘やかす。京の声は聞こえないので読書でもしているのだろう。最近ファミリーに加入した黛由紀江は…………九十九神という設定の松風と話しているのだろうか。

 

「ただいま、皆」

「ただいま帰ったぞ」

「お帰り大和。私にする? 或いは私? それとも――」

「ご飯でお願いします」

 

 ――今日は金曜日。

 週に一度の金曜集会が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今回の議題は……次の決闘の対戦相手についてだ!」

「えーい」

「よっ、キャップ」

「お前らもっと乗り気になれよなー」

 

 ビシッと指を差し宣言したと思ったら、卓也と岳人の元気が無い声援を受けて不満そうな顔をする翔一。自分がノリノリだっただけに、周囲のテンションが低いと調子が狂うらしい。一応全員が話に耳を傾けているが、直接関係の無い百代はあまり真剣には聞いておらず、逆に関係ないのに由紀江は緊張しまくって話を聞いている。寧ろ百代のほうは顔を顰めて、

 

「またお前たちSクラスと決闘しているのか……」

 

 と呆れている始末だ。

 しかし翔一はそこで諦める器ではない。顔を上げて良い笑顔で言い放つ。

 

「まあ俺もまだ対戦相手聞いてないんだけどさ」

「まだ聞いてないのにノリノリだったのっ!?」

「ってことで大和、説明頼んだ!」

 

 …………この辺りのいい加減さがキャップらしいと言ったらキャップらしい。

 翔一にツッこむ卓也を尻目に、わざとらしく咳をして大和は立ち上がった。翔一に行っていたメンバーの視線が一気に集まり、大和の動向を見つめる。若干一名熱の篭った視線を送ってくるが敢えて無視。「焦らしプレイなんて……ぽっ」なんて言っているが無視だ無視。それに便乗してくる姉貴分も無視する。

 皆の関心が集まったのを確認して、ゆっくりと口を開いた。

 

 

「今回の決闘の対戦相手はSクラスじゃない」

「Sクラスじゃない? 一体それってどういう事だよ」

「まあ話は最後まで聞けって岳人。今回の対戦相手は――――2-Aの、李颯斗だ」

 

 李颯斗。

 2-Sでも2-Fでも無い、良い言い方をすれば善良な生徒であり悪い言い方をすれば地味な生徒。その名前を聞いてメンバーはどんな反応をするのか――――実は結構楽しみだったりする。

 満を持してその名前を出した時、メンバーの反応は皆それぞれ違うものだった。

 

「アイツか!」と翔一はニコニコ笑い。

「何?」と怪訝そうな顔をするのは百代。

「うへぇ……李さん?」と珍しく一子が元気の無さげな表情をする。

「李くんが決闘するとは珍しいね」といつも調子なのは卓也で、岳人は無言だが嫌そうな顔をしていた。

「…………そう」京はどうでも良さげである。

「え、えっと、どちら様でしょうか」と唯一知らない由紀江だけが焦っている。

 

 …………由紀江が李を知らないことをすっかり失念していた。てっきり河川敷での動きを熱心に見ていたから知っていると思っていたのだが――由紀江の交友関係を考えればそれも当然であった。

 なんせ由紀江、同学年の一年ですら友人がいない。そんな生徒に学年が違う、おまけに先輩での知り合いなど風間ファミリー以外存在しないだろう。

 

「まゆっちも見たことあると思うけど、河川敷で槍振ってた人」

「ああ、あの方ですか」

『ありゃあ結構な腕前だぜぇ。なんせまゆっちですら惚れ惚れするぐらい綺麗な振り方だったもんな』

「ま、松風! 何を言うですか貴方は!」

 

 持ち前の人形松風と戯れる由紀江も見ていて面白いが――大和が気に掛かったのは他のメンバーの反応だ。

 翔一や卓也、京の反応は長い付き合いだから予想できたが、百代や一子や岳人の反応ははっきり言って予想外だった。特に百代や一子が不安そうな顔をしているのが印象的だ。百代ならもっと興味を抱いていても可笑しくないのに、顎に手を添えて考え事をしている。一子に至っては眉を潜めて黙っている始末だ。岳人は……女関係で因縁でもあるのでは?

 一体何かあったのか。それをはっきりするべく、大和が尋ねようとした矢先――先程まで無言だった岳人に対して卓也が話しかけた。

 

「岳人はあれだもんね、李君に前の決闘でコンテンパンにされてるからあまり強く出れないんでしょ」

「なっ、ば、馬鹿! バラすなって言っただろ!?」

「でももう二カ月前の話でしょ? それなら別にバラしてもいいじゃん」

「岳人、李と戦ってたのか。それで、アイツはどんな感じだったんだ」

 

 灯台元暗しだった。まさか風間ファミリーの中に、過去李と戦った者がいるとは。

 身内に対戦者が居るとは思っていなかったが、コレは好都合だ。情報を聞いておけば何か対策が練れるかも知れない――。

 

「……その、決闘って言っても殴り合いじゃないんだ。李のヤツが、えーと……写真を持っててな」

「うん」

「その写真を巡って決闘したんだ。食堂で、どちらがご飯を多く食べれるかっていう決闘」

「なんだ、そっち系か……」

 

 ――そう思っていたが、岳人との対戦は食事関係だと聞いて肩を落とす。成る程、道理で大和の情報網に岳人の決闘が引っかからない筈である。彼が調べていたのは「李楓斗と戦闘系の決闘」であり、食事系の決闘は全く調べていなかった。だからこそ岳人の決闘を大和は知らなかったのである。…………まあ、岳人からしたら知らなかった方が都合が良かったようだが。

 岳人が欲しがる程の写真も気になるが、どうせエロ関係だろう。『宴』とやらにでも出品するつもりだったのかもしれない。

 兎に角、岳人が知らない以上はこのメンバーの中で李の戦闘力を知っているのは百代と一子だけという事になる。李が本当に川神院に通っていたのなら、百代と一子はその実力を知っている筈である。

 

「姉さん。李が川神院に通っていたのって、本当?」

「…………ああそうだ。それより大和、本当に対戦相手の名前は李颯斗なんだな? 2-Aの? 河川敷で鍛錬している?」

「そ、そうだけど……。その、えらく喰いつくね、姉さん」

 

 ここまで百代が喰いつくとは珍しい。普段は男なら一瞬興味を抱くがすぐ消えて、女ならセクハラしようと画策しようと模索する。言い換えれば女好き(百代も女性なのに)である百代が、ここまで興味を抱くのは非常に珍しかった。

 それだけ聞くと再び考え込む百代。いつもなら考え事は嫌いな筈なのだが……明らかに態度が違う百代と一子に、自然とメンバーの視線は集まる。百代はそれに気付かない程思考の底まで意識を落とし、一子はバツが悪そうにしている。

 しばしの静けさが部屋に漂う。重くなる空気の中で、一区切り付いたのか京が本を閉じた音だけが響いた。

 

「えと……姉さん、何か可笑しな所でもあったかな?」

「いやな。昔川神院で修行している時、アイツが何度か言っててな。『師匠の教えで私闘は禁止されている』って。だから私はアイツと戦えなかった」

「えっ……モモ先輩が言い付け守るとか珍しい」

「みぃやぁこぉ?」

 

 ファミリーに話したからなのか、いつもの清々しい表情に戻る百代。はじめて口を開いた京に襲いかかっているので機嫌も直ったのだろう。

 百代のことだからこれの名義にして、李に決闘を申し込むつもりなのかもしれない。…………ご愁傷様としか、大和には言えなかった。

 百代が悩む理由は判った。それなら次は、不安げな顔をしている一子だ。彼女は風間ファミリーの元気の源と言っても過言ではない。そんな彼女が落ち込んでいるとファミリー全体の空気が悪くなってしまう。普段は喧嘩腰のクリスでさえ、一子を心配するような目で見た。

 

「ワン子。何か不安なことでもあるのか?」

「ううん……その……対戦相手が李さんって聞いて……その、考えちゃいけないことを考えて」

「考えちゃいけないことォ? はっきりしねえなワン子。いつもみたいなスッキリさはどうした」

「そうだよ。僕らもワン子が元気じゃないと、なんだか調子出ないよ」

 

 大和に続いて岳人、卓也が続き一子を励ます。

 何を思って落ち込んでいるのかはしらないが、今自分たちに出来るのは一子を立ち上がらせることだけだ。下手な詮索は本人に不快な思いをさせるだけである。

 顔を伏せて表情を悟らせない一子だが、決心したのかようやく顔を上げて、普段通りとまではいかないがさっぱりとした表情で語った。

 

 

 

 

 

「私が考えてたのはね――――

 ――――クリじゃ李さんには勝てないってこと」




短くてすまない……すまない……。
来年も頑張ります! 感想をくれると助かります。




一発ネタ
 川神学園に通う北星朱鷺(きたぼしとき)は、ちょっと暗殺拳が使えるだけの普通の学生。いつもは親不幸通りに出没する不良共相手にナギッしたり░▒▓█▇▅▂∩(・ω・)∩▂▅▇█▓▒░ したりして放課後を過ごしていたが、赤髪の軍人と出会った時から彼の運命は動き出す……!
(続か)ないです。



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第3話 夢と決闘と決着と

阿部 怒りの更新。
今回が今までで最多となりました……平均1万字にする為に。
完全にこっちが本命になってますね。

戦闘回ですが、クリスが噛ませ犬になっているかもしれません。
それと戦闘自体は短いですし終わりも唐突です。そこら辺はご了承ください。


 ――――懐かしい夢を見ている。今からほど八年前の出来事だ。

 

 

 

 

「唐突な話だが――これからお前には川神院で鍛錬を積んでもらう」

「…………そりゃあ、また…………急な話、ですね」

 

 真冬の気候は河川敷の土すらも冷たくするようで、頬に触れている土はそれこそ冷蔵庫のように冷えていた。

 粉雪が振る寒い日、自分と師匠は多馬川の河川敷にて週に一度の鍛錬に勤しんでいた。まあ、勤しむと言っても師匠が拳を振るい自分が吹っ飛ばされるの繰り返しなのだが。師匠の拳は自分をドMへ開花させようとしているのではと心配になるぐらい強烈で、尚且つ容赦が無い。強くなりたいと誓ったのは自分なのでどれだけ痛めつけられようと文句は無いが、それでも全力は無いと思う。あの人の動き、正直言ってブレて見えるのだ。まともに捉えることすら叶わない。

 いい加減地面に頬擦りしているのも飽きたので、ふらつく足を押さえながら立ち上がる。立ち上がる際に腹部へ凄まじい鈍痛が来たが、こんなものはもう慣れた。半年間も腹部に打撃を喰らったら嫌でも慣れてしまう。…………本当に嫌な慣れだなあ。最初の頃は痣ですら怖がっていたのに、今となっては四肢が動かなくなる方が怖いとは。どうやら自分にとって鍛錬とはしなくては恐怖を感じる程優先度が高くなってしまったらしい。

 一旦息を吐いて、再び構える。右手は上に、左手は下に。半身になり顔は正面の敵を見据える。相変わらずの無表情で、静かに自分の動きを観察していた。

 …………拳や足に力が込もる。それではいけないと判っていても――怒りからか嫌悪感からか、滾る力を抑えきれなかった。

 

「ふっ!」

 

 大地を鳴らす震脚を繰り出したのと同時、師匠の右腕が迎撃用に動き出す。

 未熟な踏み込みだが生半可な鍛錬は積んでいない。一歩で一・五メートルは前進出来る推力はある。その全てを拳に移すのだから威力も跳ね上がる筈だ。震脚にて間合いを詰めたら川掌(せんしょう)を胴体に向けて放った。その一撃は下手だが相当の速度を保ったまま、師匠の胴体を貫かんとして――震脚の時点で動き出していた右手に弾かれる。

…………何と言うデタラメな迎撃だろうか。彼女は踏み込みの時点で、自分が一体何処に何を出すか理解していたのだ。自分の師であるという事を除いても、その動物的直感には恐れ入る。

 後で聞いてみたらこの予知とも取れる回避行動は聴勁(ちょうけい)という技らしい。主に太極拳で使われる技で、聴き取る聴勁に変える化勁の組み合わせは鉄壁と言うべき防御力を誇る。マスタークラスになれば一撃すら当てるのも難しくなってくるだろう。

 

 ――――つまり、ほぼ初心者の自分が達人である師匠に拳を当たられる道理は無い訳だ。

 

「踏み込みが甘い。そもそも音を出す震脚など三流も良い所だ。威力重視の冲捶(ちゅうすい)ではなく命中率重視の川掌を選んだのは褒めてやりたいが、当たらなければ意味が無い」

「っ、がぁッ!?」

 

 指摘を終えると来るのは寸勁(すんけい)。川掌を弾いた右手で肩を掴み、只でさえ短い間合いは息がかかる程近くなる。それで魅力されるなら幸せなのだろうが――彼女を相手にしてこれ程までの間合いに入る事は、死を意味していると言っても過言では無い。

 思わずゾッとするような恐怖から、自分の生物としての本能が警鐘を鳴らしていた。

 彼女の利き腕では無い左腕は自分と触れ合うか否かという距離へ。その状態を保ったまま、彼女の震脚が大地を揺らす。自分には音を出すなと言う癖に、こういう「一撃必殺」の場面では相当音を鳴らすのは彼女らしい。無我夢中になると自分の言った事を忘れる人間なのだ、泰山という人間は。全くもって迷惑な大人である。そしてそういう部分が可愛らしいのだが――――って、何馬鹿なことを考えているのか。

 震脚によって得られたエネルギーは、腕を伝わり膨大な勁となり我が身を貫いた。

 

 ――――李氏八極拳の流れを汲み、一代で我流として成った泰山流八極拳は「内部破壊」を真髄とする。

 組手でそれを発揮することは無いが、内臓を破壊し得る衝撃は伝わるのだ。身体に伝わる勁を一点に集中させるか分散させるかで破壊を決める。最も、勁というモノは広がりにくく鋭いので分散させる方が難しいのだが、要するに破壊しようとしまいと威力は等しいという事だ。

 体に穴が空いてと錯覚する程の衝撃と、嘔吐感を与えてくる痛み。内側に響く衝撃は凄まじく、子供の身体とは言え五メートル以上吹き飛ばされた。結局、いつもと変わらず地べたに這いつくばっている訳だ。

 

「…………ぜぁあ……ぁ……」

「珍しく力が篭っていたな。なんだ? 川神院に行くのが嫌なのか?」

 

 ……………………何を当然のことを抜かしているのか、このBBAは。

 珍しく腹が立ったので睨みつけながら叫ぶ。

 

「当たり前、でしょっ!」

 

 川神院。武術の総本山の一つ。最強の一人川神鉄心がいる場所。

 そこに通える事自体は一人の武人として嬉しい。学べる事も多いだろうし、何よりも武道に専念できる環境が揃っている。うちの親は放任主義だから理由さえ付けて結果を出せば文句は言わないだろう。

 最適な環境、優れた教育者、支援してくれる親――これ以上無い程贅沢な提案を、自分は敢えて蹴る。いや、そもそもこれは提案になっていない。此方が譲渡してこそようやく提案になるが、今回自分は一歩も譲渡する気は無い。自分は川神院に行くのを絶対に拒むだろう。それこそどれだけ痛めつけられようと、だ。

 何故なら――――

 

「俺はまだ、貴女から少ししか学んでいない…………!」

「――――――――」

 

 自分が師として認めたのは彼女だけだから。それ以外の者から教えを乞うつもりは無い。

 

 その言葉が可笑しかったのか、顔を伏せ無言になる師匠。こちらは既に立ち上がって臨戦態勢は取れている。いつも通り攻め込んでも良いのだけれど……明らかに空気が違う。李颯斗という人間は空気は読める男なのだ。

 普段とは違う泰山の様子にオロオロしていると、その心配を吹き飛ばすような豪快な笑いが脳内に響いた。これでも五十手前の婆さんなんだから驚きである。うちの婆ちゃんはこんな豪傑のような笑い方はしなかったぞ。

 暫くしても彼女の大笑いは収まらない。自分を見据えて、これでもかと言う程馬鹿笑いしている。…………あ、これは馬鹿にしてますわ。

 

「クハハハハハハハッ!! いやぁ失敬失敬!! 悪いと思っているからそう睨むな李よ!!」

「…………嘘だあ。絶対馬鹿にしてるだろ」

 

 剣呑な空気から一転――大笑いする泰山と不貞腐れる自分が対面するという、何ともシュールな光景が出来上がった。何が面白いのか全く理解できないが、師匠の馬鹿笑いは土手を走るランナーが仰天する程でかい。大きいのは胸とお尻だけにして欲しい。震脚で踏み込んだらすごい事になるんだよなあ。

 

「何、李が私を求めてくれたのが嬉しくてな。そうかそうか、そんなに私の教えが良いか、ん? このぉ愛いヤツめ!」

「う、うるさいよ師匠! それに求めるとか言うな!」

「なんだ照れてるのか? 悦いぞ悦いぞ」

「……………………っ!」

 

 決して間合いを詰めることは無く、意地悪な笑みを浮かべていじってくる師匠。何と言うか、こうも言われたら嫌でも意識してしまう。師匠は美人だから笑顔も絵になるし、なによりその美人に気を掛けてもらっているという事実が嬉しいのだ。…………本人に言ったら増長するので言わないけどね。

 これ以上弄ばれるのは癪なので、仕切り直しの意を込めて構え直す。先程と同じ構えだが、力が篭っていない分勁の作用は大きくなる筈だ。勁は力んでは充分に発生しない。零から十へ移行する際の爆発力で勁は強くなる。これが最初から五だったりするとその分振れ幅が狭くなり、発勁の威力も弱まってしまうのだ。故に脱力し、自然な状態で震脚に備える。

 

 そして爆発。零から十への急激な振り上げは震脚という形で表れ、身体を伝わり師匠を打ち砕かんとする――!

 

「今度の踏み込みは良かったが――――拳の精度が悪すぎる。有り余る勁を完全に操れ。逃がすのではなく集めて放て」

 

 しかし――当然のことだが自分程度の拳が彼女に当たる筈も無く。

 突き出した冲捶は単純に身を翻して躱される。拳法や槍の一撃は点であるが故に避けにくく決まりやすいが、逆に言えば躱されてしまったらそこまでだ。今回のように全力で撃ちにいった場合は姿勢も崩れて、再起に時間がかかってしまう。

 その再起までの隙を逃さないからこその達人だ。翻した状態から一変、突き出した右腕の内側に自身の左手を添え、震脚で近付いてくる。自分が逃げないようにがっちりと腕を握り、見本となるように震脚で得たエネルギー全てを右手に乗せて放った。

 拳の名前は向捶(こうすい)。カウンター技に分類させる技で、攻めに力を込めて守りを疎かにしているからこそ、この一撃は骨身に染みた。悪い意味で。

 

「――――――――かは」

 

 息が吐き出される。鋭い痛みと共にやって来る吐き気と気持ち悪さ。毎回同じ所を殴るので予測は容易だが、そこ痣できてるんで殴るの止めてくれませんかね。

 興が乗ったのかどうなのか、自分は先程よりも更に遠くへ殴り飛ばされる。距離で言うと……七メートルよりも遠いだろうか。これも気を使わずに重心の移動と勁の力だけだと言うのだから凄まじい。気を使い身体強化した状態でやったらどうなるのか――想像したくないものだ。自分が風船みたく破裂する姿しか想像出来なかった。

 

「まあ安心しろ。鍛錬と言っても週に一度の手合わせはするし、川神院に行かせるのも実戦経験を積ませる為だ」

「――――実戦、経験」

「そうだ。お前が弟子になってから半年経つが、今まで対戦してきたのは私だけ。おまけにそれも二ヶ月に一回程度でいつもは自己鍛錬のみ。お前には才能があるからな、そうやって腐らせておくのは勿体無い」

 

 …………ありがたいと言うか何と言うか。顔が赤くなるのが判ってしまった。

 

「で、でも……! 自主練だけでも結構強くなれますよ」

「確かにそうかもしれない。だがそれにも限界がある。昔のように農作業をし、空いた時間に剣を振るえた時代ならまだしも――現代は時間が無い。お前だって早朝と放課後しか鍛える時間は無いだろう」

「そうですけど…………」

「つまりそういう事だ。大人の言う事には黙って従っておけ。

 

 どうしても嫌なら――私を倒して、川神院に行く必要など無いと証明してみろ」

 

 上等だ。痛みは続くがまだ立ち上がれる。半年もの間殴られ続ければ痛みにも耐性が付くし、身体も強くなっている。

 息を整えて構え。震脚を繰り出し目の前の敵を打ち倒す……!

 

「はぁーーー!」

 

 

 

 

 

 十分後。

 そこには渋々川神院に連れて行かれる李の姿が!

 師匠には勝てなかったよ………………。

 

「いい加減いじけてないで来い。それでも男か」

「…………………………はーい」

 

 先頭を進む師匠に促されて足早に川神院を目指す。組手中に分泌されていたアドレナリンが切れたのか、身体の節々が痛んだ。頬も擦った所為か傷が出来ており、恥ずかしい限りだが大きなガーゼが貼られている。こんな所を友達に見られたら目も当てられない。

 川神院は目前まで迫ってきている。師匠の足並みは速く、後ろ姿だけでは判断できないが焦っているように感じる。……何か急ぐ用事でもあるのかと一瞬思ったがすぐ納得した。彼女は自分が川神院に通う前に挨拶がしたいのだろう。

 ――――それなら早く言ってくれればいいのに。まあ粘ったのは自分なんだけどさ。

 

「着いたぞ。身嗜みは整えておけ」

「へーい」

「返事ははいだろうが」

 

 こうしてまじまじと川神院の正門を見るのは夏ぶりだろうか。

 今日は粉雪が降る日で、正門の屋根や柱付近には掻き集めた雪が積もっている。耳を澄ませば聞こえてくるのは修行僧さん達――これからは自分の先輩となる人たちだ――が鍛錬に励む声。「えっせ、ほいっせ」という掛け声を聞く限り、雪かきを修行としてやっているのかもしれない。……なんつー昭和チックな修行だろう。

 正門の下――雪の当たらぬ屋根の陰に一人の老人が立っている。この寒さの中で道着という薄着でかなり伸びた白髭が印象的だった。かなり年のいった老人だというのに滲み出る闘気は師匠と大差ない。つまりこの老人もマスタークラスの実力を持っている、師匠曰く壁越えの実力者――。

 川神院総代、川神鉄心がそこに立っていた。

 

「待たせて済まない鉄心殿。この生意気な弟子を沈ませるのに時間を割いてしまった」

「構わんよ。それよりも泰山殿――本当に、この子をうちで修行させてよいのじゃな?」

 

 チラリ、と。鉄心さんの優しくも厳しい視線が突き刺さる。

 自分の体の状態から鍛え方、気の流れに質まで――一時期は世界最強と謳われた彼に品定めされるという事実に心が震える。緊張と喜びが入り混じった変な表情を浮かべていることだろう。

 鉄心さんが実力を探っていることに気付いたのか、師匠がフォローをしてくれた。

 

「…………ええ。この子は強さだけなら同世代でも覇権を争えますが、実戦経験というものがまるで足りない。私も七浜に住んでおりますが、組手が出来るのは週に一度のみ。それなら鉄心殿の所に預けて経験を積ませる方が良いでしょう。他の流派の技を学ぶのも、経験という事で」

 

 覇権ってアンタ…………自分が経験不足と言ったんじゃないか。

 胡散臭いものを見るような眼で師匠を睨むが、師匠は視線を逸らす。虚勢を張るのは趣味じゃないんだがなあ。

 

「お主がそう言うのなら、儂はもう何も言わん。――――これ百代、そこで震えていないで早く出てきなさい」

「………………………………」

 

 師匠に呆れていると正門の陰から誰かが出てくる。白い世界の中でその黒色は目を引き付けられる程目立つ。雪がかかって色が目立つ黒髪に、髪に引けを取らない整った顔立ち。道着の上にジャンバーを羽織るという奇抜なファションは除いても、その美貌に自分は心奪われていたのだ。

 百代と呼ばれた少女も此方を見ていて、一瞬視線が交差し心臓が跳ねた。その強気な瞳も彼女の雰囲気や闘気と合っている。若干むっすりしているがそれも美しい。師匠がすねている時の姿が重なって、無意識に笑みを作ろうとしていた。

 

「これこれ百代。そう警戒せんでもいいじゃろうが」

「別の流派からの刺客ですからね、総代の孫となれば警戒するのも当然でしょう」

「流派も何も、そもそも流れが違うのじゃから警戒するだけ無駄じゃろうに」

 

 警戒、か。確かに初見の男子なら女子は警戒してしまうのかなあ。まあ警戒しているのは自分ではなく自分の習っている武術のようだが。八極拳を此処で使ってもいいのだろうか? それなら楽なんだけどな。

 

「――――李、挨拶をしなさい」

 

 唐突に師匠から声を掛けられて元に戻る。

 自己紹介か、自己紹介、自己紹介ねえ……まあ無難に行くとしよう。

 

「…………えーと、今日から川神院で修行させていただく李颯斗です。李でも颯斗でも、呼びやすいように呼んでください」

「李君か。儂は川神鉄心、川神院の総代をしておる。そして此処に居るのが――――」

 

 自然と彼女へ三人の視線が集まる。彼女の一挙一動に関心が高まり、その絶頂で彼女はゆったり口を開いた。

 

「川神百代。お前、明日から私の舎弟な」

「……………………えっ」

 

 

 

 

 彼女の爆弾発言に腰を抜かしそうになる自分と、してやったりと獰猛な笑みを浮かべる彼女。

 自分がはじめて彼女と会ったのは、息すら凍る寒い日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月曜日の放課後。遂に決闘の時がやって来た。

 コンディションは十二分と言って良い。気の量も予想通り十割まで回復しており、肉体の疲れや痛みも見られない。思考回路もスッキリしていて問題は見られなかった。判断能力も衰えは無いだろう。

 放課後のチャイムが鳴り終わったと同時に席を立つ。既に帰宅準備は済ましているので、後は校庭へ向かうだけだ。A組の窓から確認すれば、鉄心先生とルー先生が話し合っているのが見て取れた。審判はルー先生だと聞いていたが鉄心先生も加わるようだ。川神学園に入ってから武術の上達っぷりを見せていなかったので、過去の恩師に披露する良い機会となる事だろう。…………そういう意味ではフリードリヒさんを出汁に使っている、のか? そんな事よりも女の子の出汁てエロい……エロくない?

 

 仕合い前に煩悩を出すとは随分余裕のようで。小雪の影響か何か知らないが最近性欲が抑えきれなくなっている気が…………。溜まってんのかなあ。

 決闘に遅れないよう早足で教室を抜けようとしたら――クラスメイトの何人かから声を掛けられた。

 

「今日の決闘頑張れよー」

「俺はフリードリヒさんを応援するけど、負けたとしても善戦して負けてくれ」

「頑張ってね李くん」

「……………………ん、じゃ行ってくる」

 

 A組の皆に今日の決闘に出場すること、伝えたかなあ?

 声援で頑張れる程素直な性格はしていないが、これは単純に嬉しい。これは負けられない理由が一つ増えちゃったな――そう決意して気合を入れ直す。今の自分は只の李颯斗では無いのだ。S組の刺客でありA組の代表。それが今の李颯斗という人間の立場だ。そんな重要な立場に居るのだから、負けることは絶対に許されない。例えそれが美少女だろうと。

 廊下を進むごとに受ける視線は多くなっていく。そこまで名の知れた生徒では無い事は自覚していたが、いざ決闘となるとここまで関心が来るとは。はっきり言って予想外である。別に目立つ事は嫌いじゃないけど好きじゃないが、あまりジロジロと見られるのは不快感を覚えてしまう。特に2-Fのガングロちゃん、そんな変な視線で見られると拳が暴発してしまいそうになってしまう。小笠原さんは……面食いだけど美人だからいいや。

 

 校庭に出ると早くも人だかりが出来ていた。自分が教室に居る間は鉄心先生とルー先生しか居なかった校庭も、廊下を移動する最中に人が集まり賑わっている。見渡してみれば部活動で見かける生徒や二年生、意外なことに一年生と三年生の姿も視認出来た。こういうクラス同士の諍いは他の学年には関係無いことなので興味関心は薄いと思っていたが…………お祭り好きの川神学園を舐めていたらしい。

 集まる生徒には目もくれず、人だかりの中央に居る先生方の元へ。自分が向かっているのに気付いた生徒から道を譲ってくれるので、何だか自分が偉くなった気分になる。器が小さいとは自覚していたが、まさかこんな下らない事で優越感を感じているとは。我ながら嫌になってくる。

 中央にやって来た自分に気付いたのか、ルー先生が催促するように話しかけてくる。

 

「来たネ。君の対戦相手はもう準備している。早く準備をしなさイ」

「判りました。それで、自分の武器は…………」

「儂が用意しておる。ほれ、お主が普段使っているものと寸分違わぬものじゃろう」

「おお…………」

 

 思わず声を漏らす程――――このレプリカは出来が良かった。

 長さは自分が持っている物と変わらない百八十センチメートルだが、重さはリクエスト通り三キロになっている。普段は十五キロを振り回しているが、実戦でそれを使うのは自殺行為だ。約二メートルなら三キロが適正重量であり、十五キロなんぞ使っていたらフリードリヒさんの素早い突きで一撃だろう。

 適当に振り回して感触を確かめて、戦う準備の為に制服の上を脱いだ。下は学生ズボンで問題ないものの、肩パッドが入り材質が固い制服では動きに支障が出てしまう。シャツは襟元のボタンさえ外せば問題無し、これで動きやすい格好になった。

 

 槍の調子も良い。やはりこれぐらい軽い方が振り回しやすく扱い易い。そもそも槍で十五キロというのが頭可笑しいのである。これを「片手で扱えるようにしろ」なんて練習メニューに入れている師匠はドSか鬼畜かのどちらかだと思う。両方かも知れない。

 自分に確認をしたら、遠くでレイピアを振るうフリードリヒさんの所へ向かうルー先生。あの人も中々の苦労人だと思う。一子の面倒を見て百代先輩の暴走と咎める役割も負って体育を教えて自己の鍛錬も欠かさずにして…………いつかルー先生、倒れるんじゃなかろうか。

 

「物騒なことを言わんでくれ…………」

「それはすいません」

 

 ルー先生が連れてきたフリードリヒさんだが……なんか、自分の事睨んでね?

 違和感か勘違いだと思いたいのだが、眼力の強さが金曜日に会った時とは比べ物にならない。決闘前だからとしても幾らなんでも強すぎだろ、アレ。怨敵を睨むような目付きになっている。おまけに無言だから圧力が凄まじい。

 はて、何か自分しでかしたかなと不安になっている矢先、彼女の方から声を掛けてきた。

 

「決闘が始まる前に一つ質問したい。

 先日私は犬――いや、川神一子からとある事を聞いた」

「かず……川神さんから?」

「そうだ。彼女曰く李颯斗は自身よりも強くクリスティアーネ・フリードリヒでは敵わない、と。私が君に敗北するかは今から決める事だから気にしないが、私が聞きたいのは――彼女が君に一度も勝った事が無い、というのは本当なのか?」

「……………………」

 

 ――――――――思い出すのは五年前の事。

 自分の始めての妹弟子である川神一子に対し、自分は死力を尽くして川神流を教えた。本人がまともに憶えていない癖に伝授するとは皮肉なものだが、兎に角彼女には釈迦堂さんの力も借りて川神流を教え込んだ。

 その際に嫌が応でも組手はしたが――その時に、一子が自分に勝った事は一度も無い。彼女が妹弟子であった期間は二年程度だが、その間自分は負け無しだったのだ。

 なーんて言えば自分が強いように思えるかもしれないが、事実はそうでは無い。一子が勝てなかったのではなく、勝てなくて当然なのだ。短いとはいえ数年間武術を習っていた者と習いたての初心者では前者が勝つに決まっている。寧ろ負ける方が一大事だ、師匠に知られたらぶっ殺されるどころじゃ済まない。

 まあ、負けず嫌いの一子だから勝てなかった事を悔しく思っていても仕方無い。自分に出来ることはこの間違いを訂正することだけだ。

 

「勝った事が無いって言っても、五年前の話だよ? 今戦ったらどうなるか判らないと思うけど」

「私も確かにそう思っていた。しかし、その後彼女はこう続けた――今戦っても勝てるビジョンが浮かばない、と。あの前向きな川神一子がこう言うのだから、君の実力は相当なものなのだろうな」

「…………………………」

 

 …………………………………………えー。

 随分とまあ、過大評価してくれるものだ。フリードリヒさんが誠実な態度を取ってくれているから落ち着いているが、普通の友人だったら身振り手振りで全否定していると思う。単純にフリードリヒさん相手に恥ずかしいから出来ないだけだけど。

 フリードリヒさんも回りくどいやり方をする。わざわざ聞かずとも答えを知る方法は目の前に転がっているというのに。

 

「――――君がそう思うんならそうなんだろう、君の中ではな」

「何?」

「よーするに」

 

 彼女から距離を取って槍を構える。身体は半身、穂先を下にし柄を上げ、刺突の準備に入った。槍の間合いは自分の場合三メートルちょっと。彼女との間は五メートルだから、もう少し近付く必要がある――――まあ、彼女の方から近付いてくれると思うが。

 数テンポ遅れてフリードリヒさんも構える。話し合いの途中だったから呆気に取られたらしい。そんなんでは簡単に殺られてしまうのに。師匠は構えが遅れただけで襲いかかって来たからなあ。

 

「剣を交えれば判るってことだよ」

「――――――――っ!」

 

 それを準備完了の合図と受け取ったのか――ルー先生と鉄心先生の纏う空気が変わった。先程まで談笑していた先生とは違う、武人としての張り詰めた空気。その緊張感は自分と彼女両方に伝わり、自然と得物を握る腕が震えた。

 

「――準備は宜しいカ」

「はい」

「ああ!」

 

 視線が交差する。彼女の構えも同じく刺突のモノ。一撃必殺――とまではいかないが早々に決めに来るようだ。槍と剣の間合いの違いは彼女も理解している筈。長期戦になってはリーチが長い分自分が有利になる。それを防ぐ為に、早い段階で攻め立てるのだろう。

 ならばそれに答えよう。我が槍術は一撃必殺、どちらが早く当てれるかが勝負の鍵――!

 

「東方、2-S代理人――2-A所属李颯斗」

「はい」

「西方、2-F代表――2-F所属クリスティアーネ・フリードリヒ」

「はい!」

 

 

 

「いざ尋常に――――始め!」

 

 鉄心先生の号令の直後――駆け出したフリードリヒさんの額目掛けて、突きの一撃を放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 決闘が始まる直前、クリスが考えていた作戦は単純だった。

 自身の自慢の突きによる応酬で槍の間合いよりも内側に詰め、充分に槍を振るう前に決着を付ける――単純にして豪快な戦法がクリスには合っていた。大和のように策を弄するのは苦手でありしたいとも思わない。転入初日に一子と戦った時同様、真正面から堂々と敵を打ち倒すのがクリスの流儀なのだ。

 幸いにも今回の相手、李颯斗も正面からの対決を望んでいるようだった。金曜日は自身と善戦した一子が「クリスでは勝てない」と言っていたのを聞き驚いたが、月曜日になって確信する。一子の言う通り、彼はクリスよりも高みにいるだろう。直接正面に立っているからこそ、彼の実力を垣間見れた。

 

 一瞬クリスの姉貴分、マルギッテ・エーベルバッハと相対しているかと勘違う程の闘気。彼自体は自然体でいるのに槍の穂先が首に押し付けられているような感覚がある。

 そもそも彼は身のこなし自体が違う。歩き方に無駄が無く、常に重心移動が一定。バランス感覚が良いのか重心移動を用いるような動きが流派にあるのか――それはクリスには判らない。判るのは、彼は全力で行かないと敵わない相手であるということだけだ――!

 

「――準備は宜しいカ」

「はい」

「ああ!」

 

 ルーの言葉に応じ、クリスは刺突の構えになる。フェンシングの如くレイピアを前に突き出し、利き足の右足を前に出す。李との距離はおよそ五メートルと言ったところ。彼の槍は李の背丈とそう大差無いので、恐らく一メートル八十前後。腕の長さと踏み込みから考えると三メートルが彼の間合いになる筈だ。

 対して自分の間合いはレイピアの長さ、腕の長さと踏み込みを考慮しても半分の一・五メートル程度しかない。彼がいきなり踏み込んでくると考えても、彼女自身も前進しなくてはならないだろう。移動しながらの突きは精度が落ちるが威力は上がる。先手必勝を考えている彼女には合っている戦法だった。

 

「東方、2-S代理人――2-A所属李颯斗」

「はい」

「西方、2-F代表――2-F所属クリスティアーネ・フリードリヒ」

「はい!」

 

 李の足が動く。その場で足踏みをするような動きは、足の筋肉を硬直させない為のものか。李の構えは変わらず突きの構え。初速は恐らくクリスのものと同レベルかそれ以上の精度だと予想出来る。地に足を付けてないあたり、初撃は譲るつもりなのだろう。わざわざ長いリーチがあるのだから、それを自ら縮めていくことは無いのだから。

 …………良い機会だ。自分が格上と戦える少ないチャンスなのだから、クラスの勝ち負け関係無く楽しむとしよう――!

 

「いざ尋常に――――始め!」

 

 その号令を聞いた直後――間合いを詰める為にクリスは駆けた。

 間合いは五メートル。彼が動こうと動かまいと三・五メートルは進まなければ剣の間合いには入らない。槍はリーチが長いのが利点だが、内側に入られると戦いづらいという点もある。クリスがその間合いに入れば勝ちは確定するだろう。

 この前進でどれ程まで距離を詰められるのか。そして繰り出されるであろう反撃をどういなすか。以上の二点がこの仕合いでの勝敗を分ける――――。

 

 

 

 そう思ったクリスの眼前には、彼が放ったと思われる槍が迫っていた。

 

「(え――――)」

 

 突然の出来事に思考が止まる。何故彼が槍を放っているのか――そんな疑問の前に、身体は回避行動を取っていた。

 中途半端に出ていた右腕を急いで防御へ。刀身の細いレイピアでは防御に向かないが、そんな事を気にしている余裕は無い。一直線に迫ってくる槍の下側を弾くようにして回避し、追撃を防ぐ為に後退する。

 

「(馬鹿な。彼は突きの構えこそはしていたが、動作が見れなかった――。それなら突発的に槍を放ったのか? いや、それこそ無い。彼の一撃は間違いなく私の額を狙って放たれていた)」

 

 ――――クリスは李が深く構えなかったことから初撃は無いと判断したらしいが、それは間違っている。

 彼の修めた中国拳法は()()()()()()()()ことを突き詰めた拳法だ。達人の震脚は普通の歩き方と変わらないように、李の踏み込みも一見すれば判らない。震脚の前兆が足踏みだと悟っていれば結果は違ったのだろうが――初見であるクリスには判る筈が無かった。

 八極拳の末に至る六合大槍も、当然ながら八極拳の歩法や身体の動かし方を使う。槍で予備動作が判らないというのは相当な利点だ。只でさえ神速で迫り躱しにくい槍が更に避けにくくなるのだから。

 

 レイピアで弾いたのは良いが、問題になるのはクリスの体制が崩れているという事だ。震脚によってエネルギーを得た槍の一撃を弾いたのだからレイピアにも損傷が見られ、右腕も痺れている。何よりも予想を裏切られたことによる精神的ショックが大きかった。

 その隙を見逃す程李は優しくない。後退を確認したら直ぐ踏み込み、着地責めを実行する。

 下段からの突き上げ、突きに払い。着地際を狙われたクリスは何とかいなすのが精一杯で攻撃に転じる事が出来ない。槍を躱す間にもレイピアは傷んでいき、クリスの身体にも槍がかするようになって行く。

 

「…………っ! クリ!」

「頑張れクリス!」

 

 一子と大和の応援も届かない。目の前の剣戟に集中していなければ一撃を当たられ敗北する――そんな殺意はクリスから集中力と体力を奪っていく。

 槍の突きも柄の持つ長さを変える事で上手くリーチを変えている。柄を長く持ち威力のある突きや、短く持つ事で扱い易くした切り払い。時折挟んでくる足払いがいやらしく、槍ばかりに集中すればこかされてしまう事だろう。

 

 ――――そして。

 クリスが李の連撃を受けて三十二度目の防御で、レイピアが弾かれた。

 

「しま――――――――」

「もらった」

 

 剣を弾かれて完全に無防備となった自分に突き付けられる殺気と刃。構えは中段、身を捻り遠心力を得て放たれる一撃は、クリスの心臓を狙っていて――。

 校庭を揺らす震脚の後、刺突はクリスに放たれた。

 

「――――はぁッ!!」

「…………ぐ、ぁ……………………」

 

 刃先を潰しているとは言え、槍の突きは相当な威力を持つ。その一撃を受けたクリスは吹き飛ばされ、校庭を何度かバウンドした後動かなくなった。

 決闘が始まる前まで賑わっていた生徒たちの喧騒は存在しない。二人の死闘を見て完全に沈黙していた。お互いが発する闘気に呑まれて、その光景に釘付けにされる。クリスが吹き飛ばされたのを堺に、生徒のざわつきはようやく復活した。

 クリスの元に駆け寄るルー。脈と顔色を見、意識があるかどうかを判断し――鉄心に向けて、首を横に振った。

 それはすなわち意識が無いという事。意識が無い以上決闘は続けることは出来ない。つまり――――

 

「クリスティアーネ・フリードリヒ戦闘続行不可能。それにより、勝者! 2-S代理人李颯斗!」

 

 鉄心の声が校庭中に響き渡り、Sクラスを中心に歓声が立った。

 

「うわ~! すごーいかっこいー! 李くん強いぞお!!」

「準、貴方見えましたか?」

「…………済まん若。少しなら見えたぞ」

「にょほほ、あの小雪が用意したと聞いて不安に思っておったが、これ程までとはのう。これであの猿共も太刀打ちできまい」

「――――――――素晴らしい。私闘禁止なんて無視すりゃあ良かったなぁ」

 

 ある者は褒め、ある者は動きに驚き、ある者は勝利を噛み締め、ある者は戦闘衝動に身を委ねる。

 校庭の中心――現在最も注目を集める中で、男はゆっくりと。

 

「――――――――よっしゃぁ!」

 

 自身がもぎ取った勝利を噛み締めていた。




近距離→八極とはそれ、爆発也――!
中距離→聴勁使ってから突き余裕でした。
遠距離→穿つは必中、突き穿つ突き穿つ死翔の槍!

なんだこの主人公……!?
どの道クリスに勝ち筋は無かったってことで。


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第4話 夢と見惚れと鍛錬と

おろ様、tathk様、九州男児2様最高評価ありがとうございます。

一応注意しておくと、マルさんが別キャラに見えても仕方無い……かも。これも難産だった所為なんだ。俺は悪くねえ!

それとお気に入り登録者数1500突破ありがとうございます。
八極拳回の三話と戦闘回だった五話で急激に伸びましたね……やっぱりみんな八極拳好きじゃないか!


 ――――懐かしい夢を見ている。今からほど五年前の出来事だ。

 

 

 

 

 その日は過ごしやすい秋日和だった。

 夏が終わった御陰でそこまで暑くなく、冬の準備期間なのでそこまで寒くない。学校に行ってみれば皆服装はバラバラで、半袖もいれば長袖もいる。秋の衣替えが終わっても、夏の残り香が原因か半袖の人間も確かにいるようだ。つまりそれ程までに過ごしやすい日だった。

 最も、川神院において服装は夏だろうと冬だろうと変わりない。一年中道着で過ごしていると季節感が狂いそうだが、流石にそこまで非人間的ではない。確かに踏み込み程度でコンクリートを破壊したり銃弾(エアガン)を視認出来るようになったが、それでも人間である。…………人間だよ?

 ちゃんと食事は美味しく感じるし温度も感じる。百代さんが抱き合ってきたら緊張するし釈迦堂さんに殴られれば痛い。――――うん、まだまだ人間だった。

 

 ドン、と轟音と同時――――勁を完全に拳に移動させ、目の前に向けて放つ。

 基本にして絶対の一撃、冲捶(ちゅうすい)。既に数万回以上放たれたそれは確かな精度と威力を伴って空間を叩く。拳の速度が音を超えるまでは至っていないが、釈迦堂さんの防御なら破れる程度には威力がある。と言ってもぶち破るだけで、その後二度三度と拳を打たなくてはならない。こんな体たらくでは无二打(二の打ち要らず)は程遠い。

 

「――――――――ハッ!」

「精が出るのぅ」

「…………鉄心さん」

 

 打ち込みの練習をしていたら、背後から声を掛けられた。厳格な態度を思わせるが、しかし同時に優しさも感じさせる声――川神鉄心さんが、そこに立っている。

 鉄心さんの服装もいつもと変わりない。和服に袴、そして長い白髭。足袋で歩いていた所為か全く音がせず気配を悟れなかった…………いや。()()()()()()()()()()()が正しいか。鉄心さん程の実力者なら自分のような若造には気配を探らせない事だって可能の筈。ある意味自分は試されていたのかも知れない。

 顔を流れる汗を拭って振り向く。髭を弄りながら此方に近付いてくる鉄心さんは感心しているように見える。…………鉄心さん、表情が読み取りづらいからなあ。可愛い女の子に出会うと結構判りやすいんだけど、こうしている限り憶測でしか感情を判断出来ない。マスタークラスになるとこんな事も出来るのか。

 

「いや済まん済まん。本来なら声を掛けるべきでは無いのじゃが…………つい、な」

「いえ。此方も休憩を挟みたかったので」

「休憩の後も鍛錬は続けるのかの?」

「勿論。後三百回はする予定です」

「……………………はぁ。百代もお主程修行してくれれば良いのに…………」

「ご愁傷様です」

 

 鉄心さんは鉄心さんで苦労しているらしかった。主に百代さんと釈迦堂さんで。

 百代さんは鉄心さんの孫にして次期総代候補――――なのに己の実力に甘えて鍛錬をサボり気味。本来ならツケが回って自身の身に降りかかってくるものだが、天はそれを許さなかったらしい。彼女、川神百代は天賦の才に恵まれた。その武術の才能は凄まじく、それこそ年上の修行僧さん方を軽く捻れる実力を持っている。……正直言って羨ましかった。

 釈迦堂さんは百代さんには劣るものの、それでも極上の才能を持った人だ。しかし彼はそれを完全に活かそうとはしなかった。根っからの戦闘狂である釈迦堂さんは川神流を極めるよりも、川神流でどう壊すかを考え出してしまったのだ。折角師範代まで登り詰めたと言うのに、今となっては『精神面に問題有り』とされ精神修行に出されている。…………こんなのが第二の師というのだから情けない話だ。

 

「休憩にするというのなら一つ、老人の話に付き合ってくれんかのう」

「別に良いですけど……長くなります、それ?」

「安心せい、五分程度の話じゃから」

 

 ゆっくりとした話し方で、鉄心さんは話し始めた。

 

「ある所に一人の女の子が居た。それはそれは活発で、毎日外に出ては友達と遊ぶ普通の女の子じゃ」

「…………」

「女の子の家庭は決して貧しくはないが裕福でも無い、一般的な家庭だった。しかし少女はそれで良かった。愛情を向けてくれる家族がおったからのう」

「…………」

「しかし哀しみと別れは突然やって来る。女の子の家族がな、亡くなったのじゃ」

「…………成程」

「女の子は当然悲しんだ。なんせ残ったのは自分一人だけ。一晩中涙が溢れることもあったそうな」

「はあ」

「だが、そんな彼女に救いの手を差し伸べたのは彼女の友人たちだった。その中の一人――――川神百代とかいう小生意気でまともに鍛錬もしないような少女は、自身の偉大なるお爺様に相談を持ちかけた」

「ツッコミませんよ?」

「彼女が提案したのは一つ。女の子を養子にしないか、と。幸いにも女の子も百代を信用していたし、お爺様もその事には賛成じゃった。同じ家に住む者たちも歓迎しておったしのう」

「…………それで、どうなったんですか」

「まあ話は最後まで聞くものじゃ。それで女の子は川神と姓を変えることになったんじゃが、ここで問題が生じた」

「問題」

「川神の家は武術の家だったのだ。例え養子であろうと川神の子である以上、武術は習わねばならん。女の子も望んでおったしのう。そこで年代の近い子供を師匠として付かせる事にしたじゃが…………」

「その川神百代とかいう女の子がすれば良いんじゃないですか?」

「百代はそう思ったらしいんじゃが……彼女は簡単に言えば馬鹿じゃった。只でさえ中学生になり勉強が難しくなるというのに、妹弟子など付けたら更に阿呆になる。そう危惧したお爺様は百代を説き伏せ、もう一人の男の子へと相談を持ちかけようとしていた――――ここまでがお話じゃ。どれ、五分も経ってないじゃろう」

 

 ごめんなさい鉄心さん。長すぎてまともに話を聞いていなかったです。まあ何となく概要は掴めている。

 家族を失った少女を家に引き取るのは良いが、どうしても武術を習わなくてはならない。その上では師が必要になるのだが、大人が教えては警戒してしまう。そこで同世代の子供に教えさせるつもりだが、ある少女は馬鹿で阿呆だから師事できない。ならばもう一人居る男の子に白羽の矢が立った――――多少曲解があってもこれで良いと思う。

 …………思わずため息を吐いていた。鉄心さんも回りくどいというか何と言うか、情に訴えかけてくるとは卑怯な事をしてくれる。普通に「一人門下生が増えるのじゃが、どれお主。面倒を見る気はないか?」と言ってくれれば良いものを。

 今更知ったが、鉄心さん養子取ったのか。確かに最近稽古場に出る機会が減っているのは気付いていたが、養子に関する手続きを行っていたから出れなかったとは。

 

「判りました。自分がその子の面倒を見ます」

「――――ほう、察しておったか」

「そりゃあ勿論。ていうか、アレで察せなかったら可笑しいですって」

 

 ほほほと笑う鉄心さん。間違いなく百代さんの意地悪というかずる賢い性格は親譲りだと確信した。まあ総代なんだからこれぐらいの老猾さが無いとやっていけないのかも知れないけどさ。

 しかし鉄心さんも、よりにもよって自分に師事を任せるとは……。まともに川神流を修めてないけど大丈夫なのか? 師匠の計らいか鉄心さんの優しさか知らないが、自分は川神院にて唯一別の流派を使うことを許されている。川神流の稽古をする中、一人で震脚の練習をする姿はさぞ異質に見えたことだろう。

 まあ最悪釈迦堂さんを呼び戻して教えてもらおう。あの人、容赦は無いが子供には優しいし。

 

「それで、自分が師事する女の子はどこに居るんですか」

「百代と一緒に帰って来る筈じゃから……もうそろそろじゃのう」

 

 なんて話していると、道場の扉が開けられる音が聞こえてきた。

 

「ただいまー!! ジジイ帰ったぞー!」

「え、えと……その、ただいま!」

「噂をすれば、というヤツじゃな」

「そのようですね」

 

 取り敢えず自己紹介を考えておくことにしよう。第一印象が大事だし、兄弟子としてきっちりとした姿を見せないとな――――

 

 

 

 ――――なんて考えていたら、妹弟子が同級生だと言う事に気がつき驚いたのは良い思い出である。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 ガキンと刃と刃がすれ違う音が響く。それは一度では終わらず、二度三度と校庭に響き渡った。

 刃こそ潰されているが立派な武器として成立しているそれの音色は、自分にとって聞き慣れた音だった。ナイフとトンファーを重ねた時にあのような金属音はしたし、銃弾を弾いた時は更に軽い音で鳴った。――――いずれにしろ、この音は戦場で聞き慣れたモノだったのだ。

 本来なら戦場で鳴る筈の音が、現在校庭で響いている。その異常性を咎めるような無粋な者はこの場に存在しない。校庭に集まった百人以上の生徒が、剣戟によって発せられる音楽に耳を傾けていた。それ程までに素晴らしい剣戟を見て――――自分はどう思ったのだろうか。

 

 ――――目の前で繰り広げられる剣戟に、心奪われる。

 

 戦況は一方的と言って良い。片方の槍使いがリーチと心理的隙を突き圧倒し、片方のレイピア使いは槍を逸らすのが精一杯。刀身の細いレイピアは槍を受けた所為で欠け、玉のような汗はレイピア使いの苦悶を知らせていた。その苦悩すら許さないのが槍使いの猛襲だ。逸した筈の槍を振り回し、反動で動けないレイピア使いへと刺突を降り注ぐ。

 この美しい剣戟は長く続かない。両者の実力に圧倒的に違いがある以上、どちらかが武器を弾かれその一撃を喰らう。今回は槍使いが強く、レイピア使いはその一撃を喰らうのは時間の問題だ。突きを受ける度に体力と神経を消耗していくのが見て取れた。槍使いの槍を十回ほど受けただけなのに、この展開だ。恐ろしく巧い手合いでしかこの状況は作れないだろう。

 

 ――――クリスお嬢様を応援している筈なのに、槍使いの一挙一動に見惚れる。

 

 槍使いの連撃は止まる事を知らない。突き、払い、切り上げ、足払い――卓越した技術を持ってして、レイピア使いの体力を奪っていく。その姿は(なぶ)っているようにも楽しんでいるようにも見えて――――思わず唾を飲んでいた。

 これがいけないと言う事は理解している。自分が勝って欲しいと願っているのはレイピア使い、クリスティアーネ・フリードリヒの方だ。自身が彼女の姉貴文分であり監督役である以上、願うのはクリスの勝利のみの筈。それなのに…………自分は、槍使いが勝つ事に期待している節がある。

 理由は判らない。勝って欲しいのに負ける事を願っている、負けて欲しいのに勝つ事を祈っている――その二律背反が自分を苦しめた。

 きゅん、と身体が疼く。自分の理性が――クリスの姉貴分であるという自覚が溶けていく。残ったのは戦士としての本能のみ。この目の前の敵と戦いたい、戦って打ち勝ちたいという願望だけだった。

 

 ――――止めの一撃となる刺突を放つ姿に、恍惚の声を漏らす。

 

 クリスがやられているのに、やられそうになっているのに。

 自分の脳内を占めているのは彼と向かい合っている姿のみ。彼が槍を放ち、それを自分がトンファーで受け止めている光景が浮かんでいた。槍を受け止めたらトンファーで反撃し、それすらも彼はいなして――そこまで想像した所で、周囲から沸く歓声で現実に引き戻された。

 校庭の中央――――そこには槍を振り回し肩に担ぐ彼の姿と、一撃を受けて吹き飛ばされているクリスの姿があった。

 吹き飛ばされたクリスを見てようやく理性を取り戻す。自分の未熟さを感じた所為か、それとも彼との死闘を思った所為か――握った拳から血が溢れる。あまりに強く握り過ぎ、指が掌を傷付けてしまったらしい。

 鉄心が声を張る。それは勝者を告げる大号令。勝ったのは槍使いで負けたのはレイピア使いのクリス。その事実に震えが止まらなかった。

 妹分のクリスが負けたという事実による怒りからの震えか。

 クリスに勝利した槍使いの実力を認めた歓喜からの震えか。

 自分――マルギッテ・エーベルバッハにそれは判らない。判るのはクリスの仇を取らねばならないという事と、自分が彼と戦いたいと思っていることだけだ。

 故に。自分はその願望を果たす為、彼に挑戦しなくてはならない……!

 

 ――――その前に。

 気絶し意識を失っているクリス(お嬢様)をきっちり背負る。近付いた事にルーは驚いたようだったが、自分だと判ると納得したらしい。

 

「――――――――よっしゃぁ!」

 

 校庭の中央で吠える彼の元へ近付いく。片手を天高く上げ勝利を噛み締めていた。あれ程まで研ぎ澄まされた殺気を放っていたというのに、こうして喜ぶ姿は本来の学生のようで。そのギャップに思わず笑みを浮かべそうになってしまう。

 三メートルまで近付くとようやく気付いたのか、視線を此方へ寄越す。一挙一動を逃すまいとしているその目に――下腹部がきゅんと唸った。

 彼の目を見据え、マルギッテは正面から言い放った。

 

 

 

 

「李颯斗。貴方に決闘を申込みます」

「あ、自分私闘NGなので」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い返してみると、自分の武道人生の中で勝ち星は意外と少ない。

 そもそも実戦経験が総じて少ないと言うのもあるが、まとめてみると戦績があまり芳しくないことは一目瞭然だった。師匠相手では全敗、釈迦堂さんとは勝率三割、一子はそもそも勝負になっていないので除外。こうして見ると自分の成績はあまりよろしく無いのだ。……まあ、マスタークラス相手に三割勝てたら上等だと思うけど。

 突き飛ばされたフリードリヒさんは強かった。一子と戦っていた時点でそれを理解していたつもりだったが、いざ刃を重ねてみると理解が浅かった事を思い知らされる。動作や始動は聴勁で完全に把握していたものの、彼女の本当の実力は把握できていなかったらしい。

 

 最初の一撃で仕留めるつもりだったが――まさか三十二回も回避されるとは。

 

 彼女の技術が素晴らしかった事もあるが、それでも三十二回も生存の可能性を与えては駄目だ。最低でも五回で決着を付けなければならない。マスタークラス相手に仕掛けるべきは早期決着。長期戦になっては気の総量や経験不足の自分が絶対に敗北する。それ故に短期決戦が望ましいが――――流石にフリードリヒさんにそこまでの技巧は無かった。

 未熟も未熟、師匠が知れば破門☆と言われても可笑しくないレベルの成績だろう。師匠にお墨付きをもらって二年経つが、見込み違いだったと言わざるを得ない。一撃で仕留めなくては意味が無い。

 震脚の踏み込みが甘かったのだろうか? しかし止めの一撃は気絶させるのに充分な威力を携えていた。つまり震脚に不備は無かった。それなら槍の突きの精度が悪かった? だが三十三回に及ぶ技の中で急所を外れたものは一度も無かった。

 なら単純に――――李颯斗の槍の腕前が悪かったというだけの事。神槍にはまだ程遠い。

 

 まあ小難しい事は兎に角――――自分は勝利した。その事実がとても嬉しくて、思わず雄叫びを上げていた。

 

「――――――――よっしゃぁ!」

 

 右腕を高く上げ喉が潰れる程叫ぶ。なんせ半年、下手すれば一年振りの勝利だ。嬉しくない訳が無い。フリードリヒさんには大変悪いが、今回ばかりは勝鬨を上げさせてもらうとする。

 ポツポツと歓声が上げる校庭の中央で絶叫する自分の姿は、さぞ滑稽に見えるかも知れない。それでもいい、今は掴み取った勝利に酔いしれるとしよう。

 

 ――――その時。自分の拳士として譲れない間合いに、二人の人間が入る。

 

 一つは弱々しく波も穏やかで、予想するに気絶か何かで意識を刈り取られている状態にある。この場で意識の無い人間は恐らくたった一人、自分が突き飛ばしたフリードリヒさんだろう。完全に気絶させた筈なので誰かがおぶっている可能性が高い。

 そしてもう一つは…………猛々しく気の波も荒れに荒れている。この闘気は正しく狩人と呼ぶべき鋭さ。こんな気を持ち尚且つフリードリヒさんを背負う可能性がある人間は只一人。

 何故彼女が歩いてきているのか――――その疑問は考えるまでも無くすぐ判ることだった。彼女の本質は百代さんと変わらない、或いはそれ以上の戦闘狂いの獣だ。先の戦いの熱気に当てられてやって来たのだろうが、成程、これは戦場の牝犬と言われても仕方ない。滾る戦闘本能がまるで抑えられていない――いや、押さえ付ける気がそもそも無いのか。

 

「李颯斗」

 

 自分の名前を呼ぶのはマルギッテ・エーベルバッハ。フリードリヒさんの面倒を良く見ている人であり特例で川神学園に入ったドイツ軍人。一部の人から猟犬と噂されていたが、この闘気と獰猛さは間違いなく「猟犬」だ。

 彼女はフリードリヒさんを背負い、此方へと眼差しを向けてくる。その赤い瞳は紅蓮のようで――自分の事をまじまじと観察していた。あまり良い気分はしないものの、彼女ほどの美人に視姦されていると思うと……。やべえ、テンション上がってきた。

 

 なら此方も、と言わんばかりに視姦する。

 金にモノを言わせて着物を着ている不死川同様、マルギッテさんも大量に寄付金を入れる事で軍服の着用が許されている。その軍服が彼女の眼帯と雰囲気にマッチしていて、マルギッテさんイコール軍服という方程式が成り立っていると言っても過言では無い。そうなるとマルギッテさんが私服の時の格好が気になってしょうがない。普通に休日も軍服で過ごすのだろうか、或いはお洒落なワンピースでも着るのだろうか。それを考えれば考える程、マルギッテさんの軍服の魅力も跳ね上がるし私服の価値も高くなる。学校では凛々しいマルギッテさんが私服によって可愛いになる瞬間……良いと思います。

 軍服と言うのは実用性に特化したスタイルが多く、マルギッテさんの物も例に漏れず機能美に溢れている。彼女の得物であるトンファーはズボンのホルスターに収まっており、あの分厚さから見ると防弾加工もされているものと予想できた。そしてなによりも注目すべきはフィットするデザイン故、嫌でも出てしまう胸の強調である。自分は胸でも尻でも腋でも股でも好きな女子ならなんでもバッチコイの男だが、マルギッテさんの胸には男性を惹きつける魔性の魅力がある。実際ヨンパチが死に物狂いで収めたマルギッテさんの軍服姿は魍魎の宴でも人気がある(この写真一つの為に一眼レフが犠牲になったとか何とか。南無三)。あの百代さんに引けを取らないサイズで尚且つ成熟した肉体。自分も鵬泰山(おおとりたいざん)とかいうおっぱいお化けに出会っていなければ魅了に掛かっていた事だろう。

 しかし自分が気に入っている部分は胸でも尻でもない。その瞳である。気高い誇りと自尊心が篭ったその目は磨き上げられた宝石以上の価値がある。…………どうも自分は気が強い女性が好きならしい。これも全部師匠の仕業なんだ、そうに違いねえ! 初恋の人の好きになった部分がその後の恋愛の決め手になるとは良く聞く話だが、自分もその通りらしい。

 あの自信に満ちた瞳に、俺は尊敬と恋慕を覚えたのだ――――。

 

 ……………………って、そんな事はどうだっていいんだ。重要なのはマルギッテさんを視姦という名の観察する事である。

 一瞬お互いの視線が合う。紅蓮の瞳には間抜け顔と形容されるような自分の顔が映し出されていた。対して自分の瞳にはマルギッテさんの顔が映っているのか。どんなに美麗な絵画でも画用紙が汚くては意味が無い。自分の所為でマルギッテさんの顔が汚く見えていなかったら良いのだけれど。

 見つめ合う状態が続いた。しかしそれも長くは続かない。拮抗を破ったのは張本人であるマルギッテさんだった。ゆっくりと口を開いて――――正面から、その言葉を綴る。

 

 

 

「貴方に決闘を申込みます」

 

 

 

 この言葉は聞き慣れていた。数年前まで一緒に修行していた仲間(百代さん)がよく零していた言葉である。その都度自分は断っていたのだが――――つい反射的に切り返していた。

 

「あ、自分私闘NGなので」

 

 瞬間、空気が凍る……………………って、えー。

 マルギッテさんは無表情のまま固まっている。近くで話をこっそりと聞いていた鉄心先生が頭を抱えているのが目に浮かぶ。多分あの人の事だから「また面倒なことになるのぅ……」とでも嘆いているに違いない。いや本当、これから面倒くさいことになりますよコレ。

 と言うか、マルギッテさん断られると思っていなかったのか。確かにマルギッテさん程の手合いとは一度で良いから仕合いしてみたいが、それも師匠との制約が無ければの話だ。今回はまあ、アレ、そうアレアレ、アレっつたらアレなんだよ、うん。()()()()()()だったからこそ承諾したのだ。もし決闘に代理として出るように来たのが葵だろうと井上だろうと断っていたし、あずみ姐さんや九鬼でも丁重にお断りするつもりだった。小雪だからこそ意味があった。特別視していると言われても撤回する気はさらさら無い。

 数十秒後、ようやく意識が戻ったのかマルギッテさんが慌ただしく詰め寄ってくる。息掛かっているんで止めて欲しい、いやもっと続けて欲しい。

 

「私闘が駄目とはどういう事ですか! そもそも貴方はお嬢様との決闘に臨んでいる。それは私闘ではないのですか!?」

「いやまあ、確かにそうなんですけど。それは小雪のお願いだったから受けたのであって」

「なら私が小雪に図ってもらえば良いのですね?」

「そういう訳じゃないんですけど」

 

 襟元を掴み凄まじい剣幕で攻め立てるマルギッテさん。凄く顔が近いんですけど、周囲の殺気が…………。特にF組の連中がヤバい。あれは怨念だけで人を殺せるような顔をしている。最近魍魎の宴のメンバーにえらく恨まれている気がするのは決して気の所為では無いと思う。

 結局、鉄心先生とルー先生が落ち着かせるまでずっとマルギッテさんに絡まれていた。連行されていくマルギッテさんの「李颯斗ォ…………覚悟しなさい!」という捨て台詞が印象的だった。出来れば二度と聞きたく無い。

 

 何より驚いたのは、あの騒がしい中でまだ気絶していたフリードリヒさんだった。

 あの人、肝座ってるなあ。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 フリードリヒさんとの決闘があった後だろうと基本的に放課後の鍛錬は行う。

 決闘があった所為で鍛錬の時間は短くなってしまうが、それでも時間があるのなら身体を鍛えるべきだろう。それが例え一秒だろうと一分だろうと、だ。只でさえ師匠に及ばぬ未熟者なのだ、毎日鍛えなくては意味が無い。

 槍を振り下ろすと空を斬る音が響く。槍の柄を最大限まで長く持ち、それを棍棒のように振り回した。棒なら単純な打撃にしかならないこれも、槍の穂先が付けば話は変わってくる。刀よりも長いリーチで相手を攻め立てる事が出来るのが槍の強みと言えるだろう。

 何度か振るったら持ち直し、大地に向かって叩きつけた。土地は抉れ、大地は裂ける。轟音が河川敷に響き、叩き付けた槍を振り上げる。振り上げた槍を右手で持って――――真正面に向けて投げ付けた。

 

 何故だか知らないが師匠が作った練習メニューには「槍を投げる」という攻撃が入っている。確かに槍の投擲も立派な攻撃方法だが…………それでも、自分の得物を投げるのは抵抗がある。

 

「オラァッッ!!」

 

 イメージするのは赤い彗星。かの英雄が振るった赤い槍を放つ――――!

 自分の槍は気を込めて放った所為か熱を帯び、摩擦を帯びて赤く燃え上がる。それはとてつもない速度で進んでいき、夕焼けに染まる空の彼方へ消えていった…………アレ?

 

「俺の槍が…………」

 

 キラーン、と。

 空の彼方へと消えている愛槍を見送って、なんだか淋しい気持ちになったので川辺に体育座りで座る。嗚呼、師匠が自分の為に特注で作ってくれた槍が…………割と高かったらしいし。

 ――――はあ。鍛錬するやる気が無くなってしまった。槍術ではなく拳法を大人しくすることにしよう。槍は気が失せたが拳はまだやる気がある。この無念を晴らす為に拳を……って、ん?

 

 ――――槍が飛んでいった方向から、寸分違わず同じ槍が戻ってくる。

 

 咄嗟に立ち、飛んできた槍に備える。数秒もしない内に槍は自分目掛けて迫ってきた。赤い軌跡を描きながら返って来るそれを片手で受け止めた。

 

「なんじゃこら」

 

 まさか自分の槍にこんな機能(?)があるとは…………。流石は師匠お手製の槍だぜ! まさにゲイボルクじゃないか。まああの人なら付けそうな機能ではある。本当に愉快な人だ。

 

「それじゃま、鍛錬続けますか」

 

 奇妙な槍も気になるが鍛錬は欠かせない。日の入りまで残り十分程度。それまでに朱槍を振るとしよう。




最後の鍛錬は気にしないで。アレはネタだから。

時系列にすると、
クリスと李の決闘(マルさん興奮)

李、止めの一撃を放とうとする(マルさん発情)

決着、そしてルーが確認

鉄心が判定し、李の勝利(この時点でマルさんは歩き出しており、クリス回収)

主人公絶叫、そして告白(意味深)

こんな感じです。括弧の中は気にしないでねっ!
それとR-15タグを付けるかも…………下腹部がきゅん、とか青少年に見せられないからね。

後すっげー今更なんですけど、今まで感想を頂いた方のほとんどがログインしている人だと気付いた。
…………ログインしてない方も感想くれていいのよ?


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第5話 夢と食事と豚丼と

TDQ様、みーな様、たなかさんちの昼様最高評価ありがとうございます。
そしてUA50000、お気に入り登録者数2000突破! これも皆様の御陰です。

前回の最後であそこまで反応が来るとは。まあネタですネタ。最悪消して差し替えます。

1/7 題名を無題から変更、そして誤字を修正


 ――――懐かしい夢を見ている。今から五年ほど前の出来事だ。

 

 

 

 

 初秋、岡本一子改め川神一子が自分の妹弟子になってから季節は一つ巡り、冬となった。

 この時期に川神院で思い出すのは三年前の出来事だ。師匠に連れられて川神院にやって来た自分を温かく迎えてくれた鉄心さんとルーさん。釈迦堂さんは兄弟子に使命されて面倒そうにしていたが、なんやかんやで師事してくれる。いきなり爆弾発言をかまして鉄心さんの手刀を頭に喰らっていた百代さんは置いたとしても、ここ川神院は素晴らしい人間ばかりが揃っている…………釈迦堂さんとかを除いて、だが。

 その日は冬だというのに暖かい日だった。風こそは吹いているが穏やかで、気温もそこまで低くない。流石に薄着だと肌寒いものの、例年に比べれば過ごしやすい気候だった。

 

 ……………………それでも、半袖で鍛錬する程ではないと思うけど。

 

「寒くないのか一子」

「全然ヘーキよ! それに動いてたら自然とあったかくなるから…………ぶるる」

 

 とか言いつつ身体が震えているんですがそれは。

 目の前で震える少女、川神一子を見下ろす。同級生だが自分よりも身長が小さい彼女を見ると、自然と見下ろしている形になってしまう。上目遣いで見てくる姿はなんとも愛らしい。

 一子はあれだね、馬鹿可愛いってヤツだ。人懐っこいところがあって愛嬌も良い、おまけにそれが自然と出来ているから嫌味ったらしくない。弄ればすぐに反応(意味深)するから、からかい甲斐がある。活発な笑顔も彼女の魅力の一つだろう。そして何より――――彼女は犬っぽい。頭を撫でた時に幻覚か、尻尾と耳が出ていた気がする。将来悪い大人に手懐けられそうで心配になってきた。

 手持ちのスポーツバックから着替え用のジャケットを取り出して投げる。咄嗟のことだったが一子はきちんと反応し、慌ててジャケットを掴んだ。

 

 百代さんや鉄心さんならば気を使って温めるのだろうが、自分にそんなことは出来ない。気の操作というヤツが自分は苦手だった。気は形が無く体内を巡っている。これを操ることで武芸者たちは拳に纏わせたり身体を被ったりする。気は摩訶不思議で、拳に纏わせれば威力が増し身体に被せれば防御力が上がるのだ。

 一番面白いのが気を変化させることだ。例えば気を変質させて出来るのが鉄心さんの毘沙門天である。百代さんなら熱に変えて温めることが出来るだろう。自分はこの変質が苦手で、中々上手く変えることが出来ない。纏わせたり形を象ったりは上手く行くのだが……………………こればっかりは素質の問題だから仕方がない。ある程度までいけたとしても、所詮はそこまで。多芸に秀でるよりかは一芸を極めよ、と師匠も言っていたし。

 …………別に悔しい訳じゃないのよ? 本当よ?

 

「おっとっと…………李さん、これ」

「どうせなら着ておいた方がいいよ。まだ動く前だから寒いし、温まってきたら脱げばいい」

「でも、汗が付いたりして――――」

「別に自分は気にしないから」

 

 不安そうな顔をする一子だが、女子の汗が付いた服とかご褒美以外の何物でも無いと思います。

 自分と一子の二人は多馬川の土手に居た。これも一子の修行の一環で、足腰の強化と体力増強が目的だ。その為には走るのが一番。幸いこの時期にはマラソンがあるのでそれの前哨戦とするとしよう。

 まずは軽いストレッチから。いきなり走り出しても問題ない程度には身体は鍛えているが、ストレッチを怠ってはいけない。急に動き始めては肉離れや筋肉の痙攣の可能性もある。ゆっくりと筋を伸ばし筋肉を緩ませ、身体を動かす下準備を入念に行う。

 ストレッチが終わったら、ゆっくりとしたペースで土手を往復する。これも準備運動の一種で、軽くだが走ることによって足と膝を慣らす意味がある。走る筋肉と八極拳で使う筋肉は別物だが、鍛えておいて損は無い。もしかしたら長距離の敵を仕留める為に全力ダッシュする可能性も無いことは無いのだから。

 

「……………………ふぅ、じゃあ李さん、そろそろ走りましょっ!」

「りょーかい。じゃあ今日は神奈川の辺りまで走るかな」

「カナガワ? それってどれくらい遠いのかしら」

「今度直江にでも教えてもらいなさい」

 

 冗談を交わしながら、二人仲睦まじく並んで走り出す。目指すは川神駅だ。

 走ることで火照りだした身体を冷気が刺す。それが気持ちよくて、思わず目を細めた。水面から反射する光が眩しい。それも不快なものでは無く、風流を感じさせる雅なものだった。

 多馬大橋の近くに来た辺りで――――ふと一子が、自分の名前を呼んだ。

 

「ねえ、李さん」

「何だ?」

「李さんとお姉様が戦ったら、どっちが強いの?」

「――――――――」

 

 思わず足を止めそうになってしまった。なんて質問をしてきやがる、この犬。

 一子の言う『お姉様』は川神百代を指す。川神家に養子に入った一子は百代さんを姉と慕い、百代さんは一子を妹として甘やかすのだ。……まあ、本人は甘える方が好きっぽいけど。一時期しょっちゅう身を摺り寄せてきた事は一生忘れん。仕合いを仕掛けてきた時の反撃手にすることにしよう。

 そして百代さんは師匠の釈迦堂さんに似て戦闘狂である。三度の飯より戦が好きかどうかは知らないが、事あるごとに「戦いたいなぁ」と呟く程度には戦闘狂だ。よく修行僧の方たちが吹き飛ばされる姿が目撃されるが、それも大体MOMOYOの所為。そしてその魔手は自分にも迫っていた――いや、迫っている。同世代であり同じ川神院で研鑽を積む仲故か、自分は毎日勝負しないかと声を掛けられる。結構な頻度で、だ。それこそ二時間か三時間に一回は言われてるんじゃないだろうか。

 恐らく百代さんも自分が勝負してくれないから意地になっているのだろうが…………自分だって、出来れば百代さんとは戦いたい。生きる伝説川神鉄心の孫であり稀代の才能を持って生まれた最強。そんな存在と手合わせ願えるのは、武人として最上級の誉だと言える。

 

 まあ、それも師匠との約束に比べれば全然弱いんだけどね。あの人の言葉には微塵も逆らえないし、逆らう気も無い。

 

「どうだろうねえ。百代さんは単純に強いから、自分みたいな技術頼みじゃ圧倒されるかも」

「確かにお姉様はすごいけど、李さんの動きもすごいわよねー。特にあの…………チンキャク? あれで数メートル移動した時はびっくりしちゃった!」

「震脚ね。震える脚と書いて震脚。…………まあ、自分の震脚なんてまだまだ。師匠なんて踏み込みだけでマグニチュード級の揺れを起こせると思う」

「お、恐ろしい人ね…………」

「確かに恐ろしいし容赦なく殴るけど、優しくもある。あれは信頼の裏返しだから」

「裏返し?」

「そう。こいつならこれぐらいは耐える――――そう信じているからこそ、あそこまで強く打てるんだと思う。じゃないと、怪我させちゃうからね」

 

 自分の言葉に苦笑する。まさか一子にこんな事を話すとは。

 話を聞いて理解したのかしてないのか、なんだか微妙な表情になっている一子。敢えて言うなら興味がある、と言ったところ。師匠は謎多き人物だから、気になっているのかも知れない。

 んーと唸りながら一子は口を開いた。

 

 

 

「もしかして、李さん師匠って人のこと好き?」

 

 

 

 その言葉で固まる。しかし硬直も長くは続かない。一瞬とも言える時間の中で急速に回る頭は、正直な気持ちを吐露していた。

 

 

 

「そうだね、あの人のことを考えない日は無い位には――――好きなんじゃないかな」

 

 

「あわわ…………李さんって正直なのね」

「自分の気持ちには、ね。――――無駄話もここまでで、ペース上げていくぞー」

「押忍!」

 

 顔を真っ赤にする一子の頭を撫でて、走るペースを上げる。それは脚が慣れてきたからなのか、それとも照れを隠す為なのか――――それは判らない。

 ……………………全く。自分でも思っていることだが、好きになるタイプが全然違うよなあ。なんであんなBBAを好きになってしまったのか。てっきり可愛い今時の子が好きだと思っていたのに。

 

「まあ惚れた弱みってことか」

 

 その呟きは後ろを付いてくる一子にも聞かれること無く、冬の空に消えていった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 目が覚めた時――――まず最初に感じたのは動きにくさだった。

 それも当然だろう、なんせ()()()()()()()()()()()()()のだから。両手を身体の後ろで組まされ、両足はくっつけられて紐で結ばれている。幾ら身動きしようと縛っている紐が緩むことは無く、締め付けられている痛みを感じるだけだった。縛り付けて甚振(いたぶ)るつもりは無いのか、そこまできつく縛られてはいない。抜け出せないが痛くもない、これでは尋問前の捕虜ではないか。

 辺りを見回す。幸いにも目隠しはされていなかったので目は開くが、一面真っ暗闇。照明を落としたとか、そんなレベルの暗さでは無い。此処には明かりというものが一切存在しない。明るい事を前提として作られておらず、元から暗い事を前提としているのだ。これでは本当に尋問部屋ではないか。

 

 一体どういう状況なのか。それを理解する前に、身体に違和感を覚えた。身体を拘束されている状態で違和感も何も無いが、それでもこの感じ――――身体の芯が熱くなるような、感覚は…………。

 心臓の鼓動が早まる。血液は急速に流れ、その熱は脳を溶かす。身体の一部分に向けて熱と血が集まっていくのが嫌でも判った。

 

「――――――――ッ!? ――――!!」

 

 薬を盛られた。その事実に気付き声を荒げる。

 しかしその絶叫が響くことは無い。口を閉じているガムテープによって声を発することが出来なかったからだ。鼻こそは開いているので呼吸は出来るが、やはり口を閉じられると息苦しい。こんな異常事態に巻き込まれている所為か、息も荒く感じる。

 身体が熱くなっていく。それは発熱だとか、そういう部類の熱さでは無い。身体の芯――――言ってしまえば人間の本能の部分が、鎌首をもたげて微笑んでいる――!

 

「おや、薬が効いてきたようですね」

「…………!?」

 

 声が聞こえた方に向き――――そして戦慄する。

 彼女はこの闇の中で唯一色を持った人物だった。昨日見た時と変わらぬ服装をしていて、黒の軍服に赤い髪。眼帯は片目を隠しているが似合っていて、自己主張している胸は心なしか大きく見える。普段なら無表情で冷たい態度を取っているのに、その妖艶な表情に嫌でも引き寄せられた。恍惚と言った風の笑み浮かべる彼女は本来美しいと形容されるべきなのに――――この笑顔は、まるで淫魔が浮かべる誘惑の笑み。それを美しいと言える程、自分は優れた感性を持ち合わせてはいない。

 

「その薬は即効性こそは低いものの、効果の持続時間が長い。ふふふ、これは楽しみですね。今夜は眠れないと知りなさい」

「……………………! ――――――――!?」

 

 助けてくれ。そう叫んでも伝わる訳が無い。

 淫魔の足音が聞こえる。一歩一歩、まるで焦らすように近付いて来るが、今の自分にとってそれは死の足音である。嬲るように、獲物を甚振るようなその姿は、正しく猟犬の名に相応しかった。

 そう、今の自分は哀れな獲物に過ぎないのだ。狩人に狩られる時を待つだけの野うさぎ。猟犬である彼女が自分を仕留めるのは当然のことだ。今回は命を狩られるではなく、貞操と童貞を狩られるだけである――――。

 それを考えると、身体の疼きが一層大きくなったように感じた。

 

「さぁ、可愛い声で啼いて下さいね…………ふふふ」

 

 男なら誰しも興奮する淫靡な雰囲気を纏わせた彼女、マルギッテ・エーベルバッハの顔が近付く。ガムテープを剥がされ、顔を固定され、そして――――――――

 

 

 

 

 

「――――っていう所で目が覚めたんですよ」

「よしお前ちょっとぶん殴らせろ」

 

 いきなり暴力行為に訴え掛けるとか、戦闘欲求溜まり過ぎだと思う。

 昼休みの食堂の喧騒は相変わらずで、学年を問わず多くの生徒が集まっている。一年生のリーダー格(こいついつもプレミアムって言ってんな)や三年生の矢場先輩、京極先輩など個性的なメンバーからお馴染みの風間ファミリーまで。座席戦争に負けた敗残兵共(座れなかった者たち)が辺りを彷徨いているが、官軍(座れた者)である自分には関係の無い話だった。

 目の前の席に座ってAコースのランチ、焼肉定食を食べている先輩――――川神百代先輩から、怪しげなものを見るような目で睨まれる。何と失礼な人だろうか。此方からすれば悪夢のような瑞夢のような夢を見たから、会話を弾ませる為に提供したと言うのに…………。普通に話を聞く気があるのだろうか、この人は。

 

「いきなり淫夢の話をしだすお前が悪いと思うんだが」

「いきなりって。エーベルバッハさんとはどうなんだ、なんて悪戯っぽく聞いてきたから答えただけじゃないですか」

「それでもこの回答は予想外だろ!」

 

 一度吠えて焼肉と一緒に白米を頬張る百代先輩。女性として見れば下品なのに、豪快な女傑だからか風格が出ている。確かに女の子にモテる筈だ、ここまで格好いい同性がいればついつい付いて行きたくなってしまう。まあ本性を知っているからそれは無いけど。ホイホイ付いて行ったら何をされることやら。最悪マウントを取られて反撃せざるを得ない状況にさせられてなし崩し的に戦闘になるか、無断で金を拝借されるかも。

 

「…………お前、失礼なこと考えてないか?」

「別に何も。ただ百代先輩は丼で食べるのが似合うなあと思っていただけです。自分、そういう女子は好きですよ」

「はぁ…………お前って本当にずるいよなー」

 

 睨まれたと思ったらジト目になったでござる。

 まあ百代先輩とのじゃれ合いはこれぐらいにして、そろそろ昼食を摂るとしよう。いい加減お腹も空いてきた頃だ。

 今日の昼食はCコース。Cコースの最大の特徴は川神学園流の創作料理が出てくることだろう。創作料理と聞けばお洒落な飾り付けや奇抜な料理を思い付くと思うが、どの料理も基本的に美味しい筈。しかし川神学園の創作料理は違う、簡単に言えば当たり外れが激しいのである。

 大体週に一度のペースでコースは変わるが、先週のCコースだったのはゴーヤの野菜炒め定食。ゴーヤチャンプルではない、野菜炒めである。野菜炒めにゴーヤを使うという発想自体は素敵で面白いが、ゴーヤから出た苦味が他の野菜にも移ってしまい、塩胡椒を消し飛ばしてしまう程の苦味が口いっぱいに広がった事を憶えている。あんなものは二度と食いたくない。

 今回のCコースは「マグロの氷漬け丼」。これだけ聞いたら料理の想像が出来ないと思うが、単純に冷凍マグロを白米の上に乗せただけの丼だ。このマグロが凍っているというのがミソで、最初は凍っているマグロが白米の熱で溶けて柔らかくなり、食べ始めはシャリシャリとした食感、途中からしっとりとしたマグロの切り身が味わえる。まあ溶け出したら魚のエキスがご飯に滲み出るので、苦手な人は苦手かもしれない。自分は醤油をドブドブに掛けるのであまり気にならなかった。

 

「しっかし、クリスが羨ましいなー。颯斗と決闘できるもんなー」

「あれは小雪のお願いだったからですよ。それ以外だったら引き受けてません」

「ぶーぶー、お姉ちゃんは淋しいぞ。こんな美少女がお願いしているのに勝負してくれないし、最近は川神院にも来ないし」

「こっちはあれこれ忙しいんですよ。毎日槍を振ったり拳を振ったり」

「それだったら川神院でも出来るじゃないか。皆喜ぶぞ? 特に私や一子が」

「今更辞めた所に行く気は無いです」

 

 マグロの脂身の美味さで白米をかき込む。底に溜まった醤油とマグロの相性は凄まじく、これだけでご飯がもう一杯いけそうだ。山葵(わさび)もアクセントになって清々しい。鼻に来るのがアレだけど。

 百代さんを(なだ)めながら周囲を見渡す。捜しているのは百代さんの弟分であり舎弟。自他共に認める軍師――――直江大和はおらんのか!

 

「おーい直江ー。このおっぱいお化けを連れて行ってくれー」

「姉さんの事をそんな風に言えるのはお前だけだよ」

「だーれがおっぱいお化けだってぇ? ん?」

 

 おっぱいお化けをおっぱいお化けと言って何が悪い。

 声を荒げると直江は釣れた。どうやら近くに居て監視していたようで、呆れたような目で此方を見てくる。そう言えば直江は百代先輩の尻に敷かれているんだったけ。あのお尻で敷かれるとかそれ何てご褒美…………おほん。

 百代先輩と話すのも中々楽しいが、これ以上続けていると勝負の話が本格的になりそうなのでご退場願おう。大体百代先輩も師匠との勝負で引き分けた際、自分に対して勝負の無理強いはしないと約束した筈なのに。まあ無理強いかどうかの判断基準は自分が決めれるので、これぐらいだったらまだギリギリセーフ…………いや、セウトだな。

 

「颯斗もクリスと戦ったりマルギッテと戦いそうになったり…………私も戦わせろー」

「おい直江ェ…………早く連れて行かねえと、てめえの社会的な命が死ぬと思え……!」

「一体何するつもりだオイ! …………もう、姉さん行くよ」

「やだやだー」

 

 駄々をこねながら連れて行かれる姿は哀れと言うべきか、可愛らしいと言うべきか。

 これにて安息は成った。後は既に刺身となったマグロ丼を食べるだけである。っていうか、これって時間が経ったら創作料理じゃなくてマグロ丼じゃん。これもうわかんねえな。

 

 ――――因みに、直江を社会的に殺す方法は単純である。

      全校放送で、椎名さんと婚約したと流せばいいのだから。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 河川敷での鍛錬を終えた自分は商店街の方まで足の伸ばしていた。

 普段なら門限に厳しく守らなかった場合は烈火のように叱る母親も、今日ばかりは家に居ない。なんでも仕事が立て込んでいるらしく、家に帰れないとか何とか。その為夕飯が作れず、自分も自炊できないので何か食べてこい――――とのこと。幸いにも夕飯代は母親持ちなので豪勢なものでも食べてやろうか、なんて考えていたら書置きと共に置いてあったのは千円札だった。これで腹いっぱいになれってか。

 千円で腹いっぱいになるには安い定食屋かファミリーレストラン、或いはチェーン点にでも行かないと無理だ。最悪川神院にでもお世話になろうと思っていたが、昼間に百代先輩にああ言った手前行く気にはならなかった。

 と言う訳で、千円で満足出来て尚且つ家から近い店を探しているのだ。

 

 千円と言う少ない値段で多く食べれて、実家からもそう遠くはない店。それが該当するのは――――

 

「――――梅屋しかないっしょ」

 

 梅屋。全国にチェーンを広げる有名店で、牛丼が店の売り。最近は牛丼以外にも豚丼や親子丼、果てにはすき焼きにまで手を出し始めている。迷走し出したと思いつつ、ここの豚丼は美味しいので通っている。新しいジャンルに手を出すのは良いが、きちんと足元を固めるのも重要だと思う。

 いらっしゃいませーと気の抜けたアルバイトの挨拶を受けて店内へ。店は結構繁盛しているようで、半分近くの席が埋まっている。その大部分は仕事帰りのサラリーマンであり、学生はほとんど居ない。ほとんどと言うか、自分一人だけだった。

 

「…………お、居た」

 

 その客の中に――――見慣れた人物が混じっている。

 ぼさぼさ短く切れらた髪に皺が入ったシャツ。後ろ姿だけ見れば廃れた中年にしか見えないが、その実は世界でも有数の実力者。お気に入りの豚丼のとろろ掛けを堪能しているらしく、間合いに入っているのに気付いた素振りを見せない。

 声を掛けて食事の邪魔をするのもアレなので、無言で隣の席に座る。流石にこれまですると気が付いたらしく、驚いたような顔で話しかけてきた。

 

「誰かと思ったら李じゃねえか。三年振りか?」

「お久し振りです釈迦堂さん。そうですね、最後に会ったのが中二の夏なので三年振りです」

 

 釈迦堂刑部。

 元・川神院師範代にして政府の諜報員。かつての師匠であり、破門になった後でもちょくちょくお世話になっていた人物だ。高校生になってからは逢っていなかったが、この人の様子に変わりはない。相変わらずの胡散臭さに獣のような闘気。まともに鍛錬していないのか肉体に衰えが見られるが、この人の技量と才能ならばそのブランクすら関係無いだろう。

 頼んだのは牛丼の大盛り。それに卵を落として肉に絡めて食べるのが一番美味しいと思う。釈迦堂さんは豚丼にとろろを掛けるのが通と言っていたっけ。現に今も豚丼とろろ掛けを食べていた所だ。

 

「お前さんも結構鍛えているらしいな。辰子のヤツがお前のことを話してたぜ」

「辰子? 釈迦堂さんの婚約者ですか?」

「違えよ。さらっと気にしている事を口にすんな。…………辰子っつーのは俺の弟子でな、破門になった後彷徨いてたら丁度良い原石を見つけたんで鍛えてやってるんだ。政府の仕事に飽きて辞めた頃だったからな」

「え、仕事辞めちゃったんですか」

「そうだよ。やっぱり俺にああ言う仕事は似合わねえ」

 

 辰子という人物も気になるが、一番驚いたのは釈迦堂さんが仕事を辞めたと言うことだ。

 精神面に問題ありとされて破門になった釈迦堂さんは、その実力を政府に見込まれて諜報員として働いていた。時には敵対勢力と対峙し、時には内部のスパイを追い詰める――――そんな武勇伝を聞かされていたのに、まさか「飽きた」なんて理由で辞めてしまうとは。釈迦堂さんらしいと言えば釈迦堂さんらしいが、つまり今彼はプー太郎ということで――――。

 

「いくらなんでも働いていないのは恥ずかしいですよ」

「手厳しいねえ。まあ良いんだよ、諜報員は危ない橋を渡る仕事だからよ、その分給料も高かったからそれで暮らしていける」

「なんだ、てっきりその辰子っていう人にお世話になっているのかと」

「そりゃ時々飯食ったりはするが、流石に養ってもらってはねえよ。それにアイツ等、本当なら学生って年だしな」

 

 どうやら中々込み入った事情があるようで。

 プライベートな事に口出しするつもりは無いのでこれぐらいで引き上げておく。これが問題があるなら追求していただろうが、この事を喋っている釈迦堂さんは嬉しそうなので大丈夫だろう。何年経っても子供への甘さは変わらないらしい。

 自分はお冷を、釈迦堂さんは味噌汁を飲んで一息付く。口の中に残った脂分を削ぎ落としてリフレッシュ出来た。

 

「そういやさっき働いていないとか言ってたけどよ…………もしかしたら俺、働くかもしれねえ」

「また急な話ですね。それで、どんな職業に就くんですか?」

「それがな。ちょっくらコレを見てくれや」

 

 釈迦堂さんから渡されたのは一枚のプリント。目を通してみたら、そこには職業が一通り書かれていた。諜報員、工作員、密偵、師範代、梅屋店員――――どれもこれも関連性の無い職業だが、共通しているのは釈迦堂さんが働く上で適している、というところだろう。

 ……………………まあ、所々可笑しな職業もあるけどね。なんだよ八百屋って。こんな物騒な中年が営む八百屋なんか誰が行くか。

 それに九鬼従者。九鬼は多分あの九鬼だろうから無視するけど、この人が下に付くものか。自分が楽しめなかったらクライアントですら裏切る男だぞ?

 

「これ、釈迦堂さんが選んだんですか? それなら的外れ過ぎますよ」

「別に俺が選んだんじゃねえよ…………クソ強い爺さんがな、俺にそいつを渡してきやがったんだ」

「クソ強い爺さんって、鉄心さん?」

「いや、どうやら九鬼の従者らしくてよお。なんでもプランが発動するから不確定要素は取り除いておきたいらしい」

「プラン」

「そう、プランだ。川神中を巻き込んだ壮大な」

 

 なんじゃそりゃ。まあ九鬼なら可笑しくないけど。九鬼なら仕方ない。

 確かに釈迦堂さんは不確定要素だ。壁を越えた力を保有しているのに無所属で、街の陰に溶け込んで生活している。九鬼が何をしようと企んでいるかは知らないが、妨害される可能性がある以上釈迦堂さんは潰しておきたい芽だろう。

 潰しておきたい芽なんだが…………。

 

「それがなんで労働に繋がるんです?」

「奴さんらからすれば俺が無職というのが駄目らしい。何かに所属してればそこを通じて抑止できるからなぁ」

「成程」

 

 九鬼の影響力は偉大だ。川神にある物全てが九鬼によって作られたと言っても過言では無い。そんな九鬼が脅しを掛けたら――――屈せずにはいられない。

 考えてるなあ、九鬼も。そんな事を思いつつ釈迦堂さんの職業リストを目で追う。考えは深いのに、選択する職業のチョイスがなあ…………。どうして花屋なんて選ぶんだろか。

 

「それで。釈迦堂さんは何になりたいんです?」

「一番良いのは梅屋の店員だな」

「梅屋の店員って……………………釈迦堂さん、似合わないって自覚した方が良いですよ」

「うるせえよ馬鹿。豚丼頭にぶっかけるぞ」

 

 

 

 釈迦堂さんと盛り上がりながら飯を食べた。久し振りの会話は弾み、時刻は結構遅くなっている。

 辰子さんを育てている所為か、いつもよりも子供に甘いと感じた。本人は否定するだろうけど。




現在五月中旬。武士道プランまで後数週間…………!


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第6話 夢とだらけと凶刃と

十埜様、tani様最高評価ありがとうございます。

書いてて思ったこと。
(アレ…………この主人公、修羅じゃね?)
そもそも殴られることに抵抗を覚えなかったり戦っている姿に興奮する時点で狂ってた。

それと待ちに待った戦闘回ですよ! 展開が急なのはご愛嬌で。

1/10 題名を無題から変更。
1/11 流れに矛盾が生じたので修正。


 ――――懐かしい夢を見ている。今から五年ほど前の出来事だ。

 

 

 

 

「釈迦堂ォォォ! お主は破門じゃァッ!!」

「ハッ、やってみろクソ爺ィッッッ!!」

 

 放課後、特に用事も無かったので川神院に来たら戦争が始まっていた。なんだこれ。

 

 川神院に来る前から嵐の如く、濃厚な気が荒ぶっていたのは感知していたが…………まさかこの二人が戦っているからとは。てっきり自称美少女の戦闘狂がかわかみ波でも出したかと思っていたのに。

 思わず呆然として、道場の正門で立ち止まる。いい年した大人が喧嘩しているのにも驚いたし、下手すれば闘いの余波で傷付くかも知れないのに淡々と闘いを見ている自分にも驚いた。師匠との鍛錬が原因でいい感じに麻痺しているらしい。

 目の前で拳の応酬を繰り広げる川神鉄心さんと釈迦堂刑部さんを呆れた様子で見ているのも面白いが、まずは荷物を片付けなくてはならない。二人の傍をそっと抜けて、道場の端にある更衣室へ入る。

 更衣室には何とも言えない――――強いて言うなら臭い、臭すぎて笑えるレベルの臭さ――かぐわしい匂いが漂っている。武術を習っている以上汗と汚れは付き物だが、それでもしっかりと清潔にはしよう。特に更衣室のような皆が使う場所では気を配って欲しいものである。誰が男の臭いを嗅いで嬉しいと思うのか。

 白衣の道着に着替えたら、大人しく観念して道場へ向かう。はっきり言うと行きたく無いけど、これも仕方なしだ。どうせ行かなかったら百代さんかルーさんが回収しに来るだろうし。百代さんが入ってきたのなら最悪押し倒しても良かったかなあ…………耳元で囁いたら案外弱そう。

 

 いざ道場に入ってみると、そこには惨状が広がっていた。板張りの床は闘いの余波で割れ、道場の壁には亀裂が入っている。鉄心さんと釈迦堂さんの拳がぶつかり合う度に振動が発生して道場全体を揺らす。お互い傷付く事など全く考慮していない、防御無視の近距離戦闘(インファイト)

 気を巡らしてみれば、この道場の付近には自分と殴り合う二人を含めても五人しか人間が居ない。この場にいる三人を除いて気を探ると、他の二人が誰か判った。

 一人はルーさん。道場の外側――自分が入ってきた入口とは逆側の方で静観している。気の波は穏やかで動く気配が無い。恐らく二人の闘いの行く末を見守っているのだろうが、所々焦ったように波がぶれるのは隣にいる少女の所為だろう。

 もう一人は川神百代さん。ルーさんの波がぶれるのはこの御方の所為で、闘争心を抑えられていない。二人の死闘の空気に当てられたのか波も荒れている。この戦闘狂は本当に残念な美少女だ、こんなんだから彼氏が出来ないのである。まあ最近は舎弟が出来たらしいので、その子に期待するとしよう。

 

「がんばれー」

 

 道場が荒れていては鍛錬することさえままならないので、漢二人の死闘を見守る。どちらも流派が違うので技は参考にならないが、動きは参考になる箇所が多い。熟練された武人の繰り出す技は巧いだけじゃない、次の繋ぎの際に発生する隙が少ないのだ。八極拳は一打必殺の為どうしても一撃が大振りになる。そこで決めれたら良いのだが、まだ未熟な自分にそれは出来ない。だからこそ技の後の硬直や隙を減らす必要があるのだ。

 

 鉄心さんの放った無双正拳突きが釈迦堂さんの頬を掠める。数センチずれていれば直撃したという事実に興奮したのか、恐ることなく大蠍撃ちで反撃する。技を放った隙を狙われ攻撃が直撃した鉄心さんは吹き飛ぶが、なんと壁に張り付き跳躍――――落下の勢いを乗せて地球割りを繰り出した。

 地球を割らんとする衝撃波が一直線に釈迦堂さんに襲いかかる。一瞬驚いたような顔をする釈迦堂さんだったが、すぐに獰猛な笑みを浮かべて拳を握った。放った技は川神流の禁じ手・富士砕き。普段なら正面に放つ正拳突きを地面に打つことで地球割りを相殺したのだ。お互いの必殺技がぶつかり合い、気の奔流は道場を越え屋外にも漏れ出していた。

 

「李ッ! 何をしているカ! 危ないからこっちに来なさイ!」

「はーい」

 

 飛び散る木片を叩き潰していたら後ろから声を掛けられた。いや、声を掛けられるなんてレベルじゃない、これは怒鳴りつけるの方が正しい。恐る恐る振り返ると、そこには珍しく険しい表情をしたルーさんの姿が。

 流石に居ないことを悟られたようで、ルーさんに首根っこを掴まれて外に引っ張り出される。折角良い所だったのに…………堅物ルーさんめ。そんなんだから三十後半になっても結婚出来ないのだ。

 屋外に出てみると道場は酷い有様だった。闘いの余波は道場が倒壊しそうになるまでに影響を及ぼしていたのだ。そんな中で戦っている鉄心さんと釈迦堂さんは正気じゃない。あのキチガイ共、壊れながら戦っている……!

 取り敢えず安全圏まで脱出したのを確認したのか、一息付いたルーさんに尋ねる。

 

「そもそもなんで二人が戦っているんですか?」

「――――総代が、前々から釈迦堂の欠点を見抜いていたのは知ってるネ。精神面での未熟さは武人にとって一番直すべき箇所。それを釈迦堂は直すことをせず、寧ろ悪化させようとしていタ」

「はぁ」

「それで精神修行を命じたんだけド…………結果は御覧の通りサ。見込み無しとして総代は釈迦堂に破門を言い渡し、それに反発した釈迦堂が襲い掛かってこうなったんダ」

「成程」

 

 血の気の多い釈迦堂さんの事だ、戦闘狂だからなんて理由で破門にされたらカッとなるに決まっている。それが判らない鉄心さんでは無いだろうに――――いや、わざと直接伝えたのか。

 釈迦堂さんの精神面の原因が満足して戦闘が出来ないのなら、それを満たしてやれば良い。もしそれで反省するようなら復帰させて、反省しなかったら破門とする。根っからの教育者である鉄心さんらしい手法だ。賢いとは言えないけれど、釈迦堂さん相手ならこれ以上無い方法だと思う。

 

 変に感心していると、ドゴンッを凄まじい音が背後から聞こえてきた。

 振り返ると完全に倒壊した道場と天井を突き破り空中でせめぎ合う二人の姿が! すげえ……アイツ……登りながら戦ってる……! さっきまで壊れながら戦っていると思ったら登ってた。何を言っているか判らないと思うが俺も判らない。

 二人の攻防は未だ続く。釈迦堂さんの蹴りを鉄心さんが受け止め足を掴み、掴んでいない方で掌底を出す。それをおでこで防いだ釈迦堂さんは必殺技――リングで決めにかかるものの、それを許さないのが世界最強の爺さん川神鉄心。彼の奥義・顕現の参・毘沙門天を瞬時に展開、上空に浮かぶ釈迦堂さんを叩き落とした。地面に叩き付けられた釈迦堂さんを迎撃する為、爆ぜるように着地点へ追い打ちを掛ける――――!

 

「アレで人間なんだからびっくりするよなあ」

「総代はご老体だけど腕前は世界一だからネ。ていうか、僕からしたら君のほうが恐ろしいヨ」

「そりゃまた何で」

「その年で僕や釈迦堂の防御を崩せる時点で、ネ。これでも師範代なんだから、並みの武人なら傷一つ付けられないと自負しているんだけド」

「まあ自分もしごかれてますからね…………師匠の一撃が重くて重くて」

「君も大変だネ」

 

 お見合い相手探すのに必死なルーさんには言われたくない言葉だった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「ヒゲはどこじゃあ……………………」

 

 昼休み。課題のプリントを持ったまま校舎を徘徊する修羅が一人――――まあ自分のことなんだけど。

 普段なら昼食を食べている時間帯だが、今日はそういう訳には行かない。朝に出し損ねた課題のプリントをヒゲ先生――――宇佐美巨人先生に提出しなくてはならない。プリントの提出が遅れた原因である後藤をぶん殴りたくなったが、実際に殴れば顔面陥没では済まないので脳内で殴っておく。強くなるのも考えものだぜ。

 宇佐美先生は人間学という川神学園独自の教科を教える教師で、その風貌とおっさん臭さからいつの間にか「ヒゲ」と呼ばれるようになった悲しき教師だ。本人も加齢臭に悩まされているらしく、時々授業でぼやいているのが印象的だった。後は小島梅子先生が好きらしい。本人曰く万人の女性がそそのかされるような猛アタックを仕掛けているらしいが轟沈しているとか。そんな口説き方があるのならぜひぜひ教わりたいものだ。

 昼休みが始まってすぐに職員室を伺ってみたが姿は見えず、わざわざ危険を冒してまでS組に行っても居なかった。マルギッテが捜していた、なんて死刑宣告まで聞いたのに。一瞬寒気がしたのは気の所為ではないだろう。

 

 現在場所は二階の廊下。一通りクラスを見回してみたが宇佐美先生は見つける事が出来なかった。

 宇佐美先生の性格上、小島先生が居ない限り中庭に通うことは無い筈。屋上にも用事があるのなら行くらしいが昼休みに姿を見かけた事は無い。大体彼の行動範囲を考えると自教室か職員室ぐらいだろう。しかしそこにも居なかったとなると――――何処に行ったのか。

 

「本当は使いたくないんだけどなぁ…………」

 

 逆探知されると場所が特定されるし。

 実は宇佐美先生を見つける事は容易だ。拳の間合いに範囲を絞ることでかなりの索敵能力を誇る気の探知を、学園全体に広げればいいのだから。宇佐美先生とは二年の付き合いがあるから気の性質は憶えているし、あそこまで胡散臭い気の持ち主もそうそう居ない。半径五百メートルにすればすぐに発見出来るだろう――――ただし。

 気の範囲を広げるという事は、気を察知出来る人間も範囲に入ってしまう。気を感じられる人間は川神学園には少ないものの、厄介な人間が揃いも揃っている。特に武人とかおっぱいお化けとか猟犬とかドM軍人とか。そんな連中に普段なら間近でしか感じられない気を悟られたら――――交戦状態と勘違いされるに決まっている…………!

 そうなると面倒くさい。あの戦闘狂共は基本的に話を聞かなず、聞いたとしても開口一番に「バトルしようぜ!」などと抜かしてきやがる。迫り来る猟犬を迎撃する気も無いし、説得なんて出来る気もしない。師匠に言葉に気を上乗せさせる方法を教してもらえば良かった。

 最近マルギッテさんにストーキングされているのは知っている。毎回休み時間になるごとにS組からやって来る彼女から逃げる為、窓から飛び降りなくてはならない自分の苦労、判る人間がいるかどうか。解決するには自分が相手してやればいいのだけど…………師匠との約束を破る気も無いし。

 

「これも全部ヒゲ先生が悪い」

 

 責任を全て宇佐美先生に押し付けて――――気の流れを探る。

 索敵範囲は自分を中心にして半径五百メートル。範囲内にいる人間ならば校舎の内部から校庭、学園の外に居ても感知出来る。見知った人物であれば小雪がS組で葵と井上と一緒に居て、熊ちゃんは食堂に居る。風間は屋上にいて…………隣にいる集団は風間ファミリーだろうか?

 範囲を広げる代わり、索敵の精度は下がってしまうのが難点だ。此処に人間が居る――――そんな漠然とした事実なら判るが、その人間の気を詳しく知っていないと誰が誰だか判らなくなる。小雪や熊ちゃんや風間なら付き合いが長いので判るものの、風間ファミリーの面々や葵、井上は憶測でしかない。この辺りも自分の鍛錬不足だろう。

 

「あ――――やべ、近付いて来てるし」

 

 宇佐美先生が使われていない空き教室に居るのは判ったが、迫り来る猟犬の気配を察知し駆ける。付き合いが長くないので本当は判らないけど、こんな物騒な気を放つ人物はこの学園で一人しかいない…………!

 

 廊下を走っていることを注意してくる上級生には目もくれず、気を絶って一目散に空き教室へ飛び込んだ。先輩の評価など知ったことか、今は猟犬から逃げるのが最優先だ。

 使われていない空き教室は和室だった。入った瞬間に畳の香りを感じる。それに似つかわしくないのは跳躍して畳に着地する自分だろう、和の雅さを一切感じさせない。着地自体は素晴らしいのだけれど。使われていない故か、着地の衝撃で埃が舞ったのが気がかりだった。

 急いでドアを閉め鍵を掛ける。あの軍人が本気を出したらドアなんて壁にすらならないだろうが、一応保険を掛けておく。最悪察知されたのなら教室と同じく窓から飛び降りればいいだけだし。時間稼ぎになってくればいい。

 

「さて。いい加減寝たふりしてないで起きて下さい、宇佐美先生」

「Zzz……Zzz…………。小島先生、そんな所を触っちゃ…………あっ」

「大の大人が気持ち悪い声出さないで下さいよ」

「……………………君、前から思ってたけど容赦ないよねえ」

 

 部屋の中央――――畳の上で雑魚寝していた宇佐美先生がゆっくりと身体を起こす。

 億劫そうな表情にシワシワのシャツ。くたびれた中年の姿がそこにはあった。釈迦堂さんとはまた違っただらしなさ。あの人は自分の姿に興味が無いから自然とああ成っているが、この人はその辺りを判った上で放置している気がする。そんなんだから小島先生に見向きもされないのだ。

 頭を掻きながら視線を此方へ向けて来る宇佐美先生だが、自分がプリントを持っているのにようやく気が付いた。無言でそれを手渡すと、受け取った直後に身体を畳へ預けていた。…………この人、だらけることに精を出しすぎではないだろうか。

 

「宇佐美先生、流石にだらけ過ぎですよ。一応此処学校ですし」

「別にいいじゃない。どうせこんな所にやって来るのはよっぽどの暇人か優等生ぐらいだし、さ」

「ありがとうございます」

「皮肉だよ皮肉」

「はあ。でも、こんな態度じゃ小島先生は反応してくれませんよ」

「中々痛い所を突くね…………おじさんにその一言は効く」

 

 本当に効いているのなら立ち上がれば良いと思う。

 宇佐美先生と談笑するのも楽しいが、それよりも気がかりなのはマルギッテさんの事である。恐らく先程の一件で目安としての場所は知られ、廊下に居た生徒から情報収集という名の尋問をしている筈だ。そうなると此処に居るのがバレるのも時間の問題かも知れない。

 現に、彼女の気配は結構近くまで来ている。真っ直ぐ一直線にこの部屋に来ている――とまで行かないものの、恐らくこの部屋の前も通るだろう。

 

 

 

 ……………………一瞬のような永遠のような時間が過ぎていく。そして。

 

 

 

「ふぅ…………」

「何が原因で安心したかおじさんは知らないけど、君も大変だねえ」

 

 嵐は通り過ぎた。猟犬は臭いを嗅ぎつけること無く、空き教室を発見出来なかった。

 思わず一息付いて、畳に身体を倒す。なんで学校生活をしているだけでこんな思いをしなくてはならないのか――――そんな疑問を抱く前に、まずは身体を楽にしたかったのだ。出ないとストレスが頭部に出そう。

 

「おっ、入って早々にだらけるとは…………素質があるな」

「だらけるのに素質とかあるんですか?」

「まあね。ほら、こんなのだけど一応先生だからさ。気取っちゃって真面目になる子も多いわけよ。だけど君は先生の前でもだらけてみせた――――これを素質と言わずなんと言う」

「怠惰なんじゃないですか?」

「違いない」

 

 お互い背を向けて寝転がりながら話す。

 自分を鍛錬馬鹿だと自覚しているが、こうして堕落するのは嫌いではない。寧ろこうしているのは好きだと言えるだろう。自分だって人の子であり学生だ、学友と共に馬鹿やったりはっちゃけるのは大好きだ。ただ、それよりも鍛錬に身を投じる方が好ましいというだけの話。

 

 結局、昼休みが終わる直前まで空き教室で休んでいた。宇佐美先生からは何故だか期待されているようで、「この教室使っていいから」と謎の許可も頂いた。まあ独自に使える部屋が増えた…………ということで良い、のか?

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 最近川神市の風紀が良くなっていると噂が立っていたが、どうやら本当のことらしい。

 

 既に日が落ち、真っ暗な河川敷を歩いていてそう思う。

 時刻は七時半過ぎ。幾ら初夏は日が落ちる時間帯が遅いと言っても、七時にもなれば街灯無しでは何も見えない程に暗くなる。歩き慣れた道、踏み慣れた場所だからこそ道路は判るものの、普通の人ならまともに歩けまい。学生がこんな時間帯まで外出している時点で風紀なんてあったもんじゃないが、まあその辺りは見逃すということで。遅くなると伝えているし問題は無い…………筈。

 普段なら学校に通っているかどうかすら怪しいヤンキー達が(たむろ)している多馬大橋の下も、ここ一週間全く見ていない。更生させられたのか、と思っているが彼らのリーダー格である板垣竜兵の実力を考えるとそれも微妙だ。話を聞く限り彼の実力は気を使う者の中でも上位に入る。そんなリーダーが統べる集団を警察程度が確保できるとは考えられなかった。

 

「……………………ふぅ」

 

 思わず息を吐く。体内に溜まった二酸化炭素を吐き出し、新しい空気を循環させる。

 現在多馬川の河川敷には自分以外の人間は存在しない筈だ。放課後から二時間以上鍛錬をしていたが、土手を通る人は居ても留まる人は居なかった。屯しているヤンキーもいない、土手を通る人間もいない、居るのは只自分一人で――――その()鹿()()()()()に反吐が出そうになる。

 川辺から土手へ。肩に担いでいるケースには槍が入っており、その長さは身長とほぼ同じの一メートル八十センチメートル。仮にすぐ槍を取り出し突くとすれば掛かる時間は二秒ちょっと。一子やフリードリヒさん相手ならこれでも充分に間に合うが、鉄心さんや師匠を相手にするとなれば遅すぎる。せめて一秒、出来れば一秒以内に取り出せたら良いのだけれど。まだまだ精進が足りないらしい。

 ケースの中から槍を取り出し、適当に振り回す。師匠が作ってくれたこの槍は馴染みがあり使いやすい。重さが従来の数倍あるのが難点だが、それも慣れたら問題ない。流石に対人戦闘では重さは欠点になるけど。重みは威力と同義だが、それも過ぎれば只の鉄塊になってしまう。適度な重さと適度な長さがあってこそ武器は輝くのだ。

 

「――――――――よし」

 

 槍を回して肩を慣らしたら準備オーケー。利き手の右手に槍を構え、自分の後方二十メートル先に向けて――――

 

 

 

 ――――全力で、槍を放った。

 

 

 

 気を纏わせ真紅の魔槍となったそれは、一直線に飛んで行く。描くのは赤い軌跡、放たれた赤い閃光は流星の如く。摩擦を帯び気を纏った魔槍は一秒も経たない内に狙った箇所に到着し。

 

 

 

「ほう…………完全に気を絶ったつもりだったのだがな。中々に鍛えられた赤子のようだ。流石、『大鳳泰山』の弟子と言うべきか」

 

 

 

 そこに居た老紳士に掴まれた。

 不敵な笑みを浮かべて魔槍を掴む老紳士を睨む。日本人では有り得ない金色の髪に野生さを感じさせる髭。身に纏っている燕尾服は彼の雰囲気に全く似合っていない。あずみ姐さんもそうだが、どうして自分が知っている執事メイドは仕えるような人間では無いのだろうか。自分も夢を壊さないで欲しい。

 槍を投げた事に疑問は無い。常識なら怪しいと言うだけで殺傷能力のある槍を投げるのは通報されても可笑しくないが、そもそもそんな威力の槍を掴める時点で常人では無いだろう。それに、何も無かった所から急に気配が沸けば誰でも驚く。それについ反応して槍を投げても――――許される筈だ。

 

 雑念を全て捨てて、眼前にて笑う老紳士の動きを観察する。

 一体何時から居たのか――――少なくとも鍛錬中に気配は感じなかった。いや、先程の発言を信じるのなら気配を消していたのだろう。完全な気の絶ち方は間違いなくマスタークラスのもの。言っていて恥ずかしいが気での索敵は優れていると思っている。つまり自分に気付かれないという時点で、格上なのは確定的に明らか。

 ここで気配を僅かにだが出したのは、鍛錬中に漏れていた闘気に当てられたからだろう。もしそうなら、この老紳士は百代先輩や釈迦堂さんと同じ戦闘狂の気質がある。戦闘狂を相手にするのは面倒だ――――たった一発で仕留めなければ、再び立ち上がってくる。

 

「大鳳泰山と言ったな。アンタ、鵬泰山を知っているのか?」

「答える前に小僧、年上には敬語を使え。貴様の教養が疑われるぞ」

「貴方は鵬泰山をご存知なのですか?」

「それでいい。質問に答えてやるが――――答えはイエスだ」

 

 鵬泰山を知っている――――それだけで警戒するのには充分だ。

 彼女が昔話してくれた時があった。一撃で相手を打ち倒し屠る姿は美しく、その優れた容姿や鵬という名もあり鵬泰山は大鳳と呼ばれるようになった。大鳳泰山――――かつてはその名前を知らぬ者はいない程だったとか。

 しかし彼女は歴史から記録を消す。空高く舞い上がっていた大鳳は地に堕ち、地上にて子を成した。堕落した理由はその強さが原因だった。

 

 彼女は強すぎた。強すぎて、あまりに人間を壊しすぎた。

 

 一撃で相手を打ち倒し、内臓を壊し。武人としての人生を屠る。

 容赦の知らぬ拳法家であった彼女は、破壊した武人本人や一族から相当恨まれた。名を馳せれば馳せる程人間を破壊し敵を増やしていく。最終的に彼女はあらぬ罪を着せられて拳法家として表に出ることが出来なくなってしまったのだ。

 後悔はしていない、と彼女は語った。自分は全力だっただけで、壊れる武人が悪いのだと。自分も師匠が悪いとは思わない。気にしていないと本人が言うのだから詮索するだけ無駄だ。しかし…………

 

 本当に気にしていないなら、話をする時の表情が憂えていたのは何故なのか。

 

「そうですか。ならさようなら」

 

 知っているならそれだけで良い。別に公言するつもりも無いようだし、あのオーラは間違いなく強者のもの。そんな人物が人の弱みを喋るとは思えない。

 此方にも都合がある。只でさえ無理をして門限を伸ばしてもらっているのだから、早く帰らなければ。老紳士に挨拶をして家の方へ歩き出して、

 

「まあ待て」

 

 殺気を感じて、振り返り老紳士の鋭い蹴りを受け止めた。

 二十メートル以上の間合いを瞬時に詰め、放たれた蹴りは凶刃と呼べる鋭い一撃だった。受け止めた右手は悲鳴を上げ、気で回復しなければ麻痺して動けなかっただろう。間合いを詰める脚力と一撃の重さには驚いたが、それでも対応出来る程度だ。

 掴んだ右足を手放し、仕返しに此方も蹴りを打つ。弧の軌道を描き首元を狙った蹴りは上体を逸らすことで躱され空を斬る。体勢が崩れたので追撃しようと試みるものの、相手が後退したことでそれは叶わない。

 

 強い――――経験と直感がそう囁いていた。

 

 一連の攻防だけで彼の強さが判る。迷いの無い蹴りに次の次まで予測した動き、これが出来るのは相当な熟練者の証だ。そして壁越えの実力まで備わっている…………はっきり言って、勝てる気がしない。

 

「李颯斗。大鳳泰山の弟子で、川神学園所属。中学生までは川神院に通っていたが釈迦堂刑部が破門になった事を機に辞める。壁越えか壁に迫るまでの実力を有する――――不確定要素だな」

「……………………貴方が釈迦堂さんの所に行った、クソ強い爺さんか」

「その通り。釈迦堂のヤツは己の才能を持て余していたが、貴様はそうでは無いらしい。俺の一撃を受け止めている時点で相当な実力者だ。それに、俺自身が興味を持っている」

「興味?」

()()大鳳泰山の弟子だ。先程の一撃を受け止めたことと良い、素晴らしい実力を持っているに違いあるまい」

「お褒めに預かり恐縮、でッ!」

 

 全身に気を宿し、離れた間を震脚で詰める。この際音など関係無い――――格上相手に中途半端な事をしても負けるだけだ。

 轟音と共に滾る勁。それを右腕に移し、気を宿した一撃は先程の蹴りとは比べ物にならない速度と威力を伴って老紳士に迫る。狙うは腹部。内臓が傷付くかも知れないが、そんな事はどうだって良い。目の前の敵を討ち滅ぼすのに手加減など不要。それが例え老体だろうと、敵対するのなら容赦は要らない。

 当たれば気絶の技が迫って尚不敵に笑う老紳士。口を歪めて、足を高く振り上げて――――

 

「さあ耐えてみせろ…………ジェノサイドチェーンソーッ!!」

 

 ――――回避不可能の凶刃が放たれる。

 

 直感で理解したのだ、この一撃は回避出来ない――――と。

 この老人が放った足技は正に絶技。師匠や鉄心さんが繰り出す奥義と同等、それ以上の練度を以てして出された一撃を、所詮十数年しか生きていない自分が避ける術は無い。聴勁など意味を成さない。突撃している以上急停止は出来ないし、出来たとしても目の前の凶刃して意識を刈り取られるだけだ。

 凶刃は一撃必殺と呼べる代物だった。当たれば体力十割全てを根こそぎ持っていく威力がある。防御など意味が無い、防御をしてもその上から潰されるだけだ。

 ――――――――それは八極拳の極意そのもの。防御の上から敵を打つ、その愚直なまでの姿勢を体現した一撃。

 

 だから。

 自分も八極拳士であるのなら、この一撃には自分の持てる全てを出さなくてはならない。

 

「ハァ――――――!」

 

 嘗ての八極拳の名手、李書文は牽制だろうと一撃で相手を沈めたと言う。

 命すら奪うその拳がどのようなものなのかは自分には判らない。ただ死因から何となくの推測なら可能だ。李書文の拳を受けて絶命した者の大半は内部が破壊されて死んでいた。師匠と同じように拳士を破壊する一撃を内臓や心臓に打つ事で殺害していたのだ。

 つまり李書文の成した无二打は内部破壊の極地。それを可能にするのは卓越した技術と気。鎧通しの原理で拳に纏わせた気を内部に通し、内側から爆発させる――――それに勁を加えることで更に威力を上げる。

 

 これから放つのは自分の持てる一番の攻撃。

 自分なりの解釈によって生まれた、二の打ち要らずを信条とした一撃――――!

 

 

 

无二打(むにだ)ァ!!」

「はぁッ!!」

 

 

 

 凶刃と拳が激突した。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「畜生」

 

 大の字になって土手に転がる。土の汚れなど気にしないし、気にしていられる程余裕も無い。

 右腕の痺れは尋常ではなかった。はっきり言ってしまうとピクリとも動かない程だ。利き腕がやられてしまった以上明日からは左手で生活しなくてはならないのだが…………ペンが上手く使えるかどうか。なんて事をしてくれるのだろうか、あの爺さんは。

 気で治そうとしても、何故か右腕には気が流れにくく流れても治癒が遅い。まるで治癒を阻害しているようで――――あの老紳士の名前を聞いてピンと来た。ヘルシングと言ったら不死身の怪物を打倒した一族。治癒に対しての対抗は凄まじいものだろう。道理で治らない訳である。

 

 ――――結局、自分の拳は通用しなかった。

 

 全力で放った一撃は凶刃によって弾かれたのだ。それは自分の拳法家としての誇りや人生を無下に扱われたと言っても過言ではない。今まで習ったこと全てを込めて出したモノが通用しない…………その事実に奥歯を噛み締める。

 しかしそれも当然だった。自分が八年分の思いを詰めたのなら、あの老紳士は数十年の思いを込めていた筈。そんな一撃に負けるのは当たり前で、撃ち負けるのは必然だ。技術も経験も相手が上、それに負けるのはしょうがない――――

 

「訳が無いだろう」

 

 こんなのが言い訳になるか。

 敗北は敗北、そこに言い訳が入り込む余地は無い。負けたのは技術や経験の所為じゃない、自分が弱かったからいけないのだ。ならば強くならなくてはならない。それこそ師匠と対峙しても引けを取らない程度には。

 

「明日からもっと鍛えなきゃ」

 

 何とか立ち上がって帰路に付く。

 遅くなり身体もボロボロだが、一時間も叱られれば母も許すだろう。なんやかんやで子には優しい人だし。まあそれを利用するのは気が引けるのだけど。

 

 …………嗚呼、良かった。

 

 

 

 これで自分はまた、高みへと行ける――――――――。




槍投げ☆復活ッ!(しかし返って来ない)

遅れてすまない……本当にすまない……。
これも全部短編のネタを考えていたのが悪いんだ……例えば。

燕を切り落とす為だけに極地へ至ったYAMA育ちの武人の話とか。
桜セイバーと共に刀を取って死地へ向かう魔術師らしからぬ魔術師の話とか。
おっぱいタイツ師匠を正攻法で寝取る子供には読めない小説の話とか。

どれも短編だけどね。


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第7話 夢と考察と対話と

border様最高評価ありがとうございます。

そろそろ夢のネタが無くなってきている今日この頃。
原作では六月に釈迦堂に接触しているヒュームですが、今作では主人公が居るので予定が早まっています。

日常回ですが難産。戦闘を書く方が楽だというね…………。
小雪編が短くて済まない…………本当に済まない……低クオリティで済まない……。

1/16 流れが可笑しいので加筆


 ――――懐かしい夢を見ている。今から五年ほど前の出来事だ。

 

 

 

 

 その日は桜が舞い、風情と共に虚しさも感じさせる春日だった。

 川神院に通じる道路には街路樹としてソメイヨシノが植えられていて、この時期になれば歩道を覆い尽くす程の桜が舞い散る。数に直すと五十本以上の桜が自分たちを迎えてくれる――――が。数が多い分落ちる桜の花びらの数は増えていく。その量は尋常ではない程多く、一日で落ちる花びらを集めるだけでゴミ袋を幾つも使用する程。これを修行と称して掃除するのだから、川神院の修行僧は大変だ。特に雨が降った翌日など桜が路面に張り付いて中々取れなくなるのだ、箒を持つだけで嫌になってくる。

 時刻が午後六時。工業地帯へ沈み行く太陽は桜の花びらや川神院を朱に染めていた。日が沈むという事は夜が来るという事。月夜の中で静かに散っていく桜――――嗚呼、なんて風情があるのか。月光に照らされて雅な雰囲気を出す桜を見ながら川神水を飲む事が出来たのなら、今すぐにでも无二打を放ってみせよう。

 

 ……………………いい加減思考を現実に向けるとする。これ以上現実逃避はしてられない。

 理想は夜に桜を肴に川神水を飲む事で、現実は老人と個室で二人部屋。こんな状況になったら現実逃避もしたくなる。まあ、誘ったのは自分なんだけどさ。

 

「――――――――そうか。お主が自身で判断したのなら、儂は文句は言わん。精一杯精進するがよい」

「…………ありがとうございます」

 

 この日――――自分は鉄心さんへ川神院に通うことを辞めるという旨を伝えた。

 

 別にこの事は深夜のテンションでも若気の至りでも無く、前々から考えていた事だった。決して川神院に文句があるから辞めるのでは無い、あくまで自分の心境の変化によるものだ。

 此処川神院は武術の総本山、当然その修行も厳しく心身共に鍛えられる。修行の厳しさは折り紙つきで、事実辞めていく人間を数年間で何人も見てきた。それと同時に入ってくる人間も多数なので数自体は変わらないものの、人が変われば環境が変わる。その中で自分の立場だって変化するものだ。

 

 ――――要するに居辛くなったのだ。

 

 針の(むしろ)とまではいかないが、それでも鍛錬中に向けられる視線は中々刺々しいものばかり。入った当初は別流派の技を使っていても問題は無かったのに、一年も経てばいい加減に川神流を習えという事になる。特に此処最近は人の出入りが激しい所為か、新入りの人から向けられる「お前なんで居るの?」という視線が容赦無い。

 それを責める気は無かった。自分だって関係の無い人間が混ざって一緒に鍛錬していたら気になるし、最悪害のある視線を向けるかもしれない。川神流に関係無い八極拳を使っている自分が悪いのだ。

 ……………………流派特有の閉鎖的な部分を間近で見た気がする。

 そもそも釈迦堂さんが川神流を破門になった時点で、既に通う意味は無くなっていたのだろう。仰ぐべき師の喪失は弟子にとって痛手だ。無茶を許さない鉄心さんやルーさんの方針を否定するつもりは無いが、それでもやはり馬が合わない。あの釈迦堂さんの放任主義とも取れる適当ぶりが良かったのだ。決して百代さんのように戦闘狂だからとか、そういう理由ではない筈だ、うん。

 

「して、李よ。川神院を抜けた後は何処で修行をするつもりじゃ?」

「そうですね…………大人しく泰山師匠と組手でもしようと思っています。普段は多馬川の河川敷か河原が近いので、そこで鍛錬しようかと」

「毎日?」

「ええ、毎日」

「……………………はぁ。本当に、モモは何故お主のようにならなかったのかのぅ」

「ははは…………そればっかりは本人の問題ですから」

 

 頭を抱える鉄心さん。その姿があまりにも小さく見えて、思わず苦笑いを浮かべていた。相変わらず百代さんは鍛錬をしていないらしい。最近川神院に通う事自体が少なかったので様子を見ていなかったが、サボり癖は出会った当初から変わらない。

 自分と百代さんの違い――――それは決して師匠の違いなどではない。泰山も鉄心さんも実力はほぼ互角であり、師匠はスパルタだが非常に効果のある鍛錬をしてくれるし、鉄心さんは温情(それでも水準自体は高いので厳しい。あくまで師匠の修行と比べると温情なだけ)だが心技体全てをバランス良く鍛えてくれる。恐らく自分が鉄心さんに弟子入りしていても、流派や技こそは違ったが総合的な実力は変わらなかったと思う。

 結局の所、百代さんは強くなるのが早すぎたのだ。心技体の内、心が育つ前に技と体が成熟してしまった。心技体の順番は語呂だけで作られている訳では無い。まず最初に心を作り、技を磨き体を鍛える――――この順序で武人というのは完成される。心の前に技・体が完成した百代さんはそう言う意味では「不完全な武人」と呼べるかもしれない。

 

「精神修行にでも出せばいいんじゃないですか? 揚羽さん辺りなら喜んで引き受けると思いますけど」

「毎回の如く九鬼に頼るのもな…………。他に良い案は無いかの?」

「それなら、百代さんは一度敗北したら良いんじゃないでしょうか。技は勿論体も出来てますから、後は敗北して自分を見つめ直せばいいかなーと」

「そう言ってもなあ、儂じゃもう体力の限界じゃし。どこかの拳士が成し遂げてくれかのー」

「師匠の言い付けを破る程重要な事じゃないので」

「お主、本当に泰山へぞっこんじゃな」

 

 自覚しているから別に慌てない。しかし止めてくれ、思春期にその言葉は刺さる。

 川神院を抜ける…………つまりは赤の他人へ戻るというのに、鉄心さんは自分に優しくしてくれる。鉄心さんだけじゃない、ルーさんだって惜しむだろうが引き止めはせず応援してくれるだろう。一子には悪い事をしたと思っているが、別の兄弟子を取って本格的に川神流の薙刀を極めて欲しい。文句を言われるかもしれないけれども、自分に習うよりかは強くなれるだろう。百代さんは…………どうせ「私を倒してから行けっ!」とか言ってきそうだしイイヤ。

 

「それじゃあ帰ります。――――――――三年間、本当にありがとうございました。此処で培った経験は必ず無駄にしません」

「儂の方こそ、モモや一子の面倒を見てくれて感謝しておる。もしも独りで鍛えるのが難しくなったら戻って来なさい」

「男の独り立ちですからね、甘えるような事はしません。――――いずれは、百代さんすらも超えてみせましょう」

「ほほほ、そいつは楽しみじゃわい。さあ、行くがよい若人。そして見せてくれ、お主の才能を」

 

 立ち上がり部屋から出て、一直線に正門へ向かう。

 誰にも顔を見られたくなかった。例え鉄心さんには悟られているのを判っていても、男の意地が顔を見られるのを拒絶していた。ちっぽけな自尊心がこの時ばかりは存在を主張してきやがる。

 

 

 

 ――――ぽろり、と。瞳から雫が滴り落ちた。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「あれれー? 李くん右腕怪我しちゃったの?」

「小雪か。そうなんだよ、もう動かなくてさ」

「僕が痛いの痛いの飛んでいけ――って、してあげようか?」

「遠慮しとく」

 

 そんな事やられたら食堂の空気が比喩無しで凍りつく。中心となるのは自分と小雪であり、実害が及ぶのは自分なのだ…………まあ、好意自体はすごく嬉しいんだけどね。

 

 鬼強い爺さん(名前はヒューム・ヘルシング。去り際に伝えてきた)と対決した翌日。

 右腕の麻痺を引きずったまま、自分は川神学園に登校していた。医療品に加えて気での治療を施せば一晩で治ると思っていた麻痺だが全く治る気配が無い。やはり不死殺しの一族の技は尋常ではないようで、自分程度の治癒能力では一割も治らなかった。恐らく百代さんの瞬間回復すら防ぐのではないだろうか。

 利き腕である右腕が使えない以上、必然的に慣れない左腕での生活を当分の間強いられる事になる。一応武術の関係で左右のバランスはほぼ均等だが、シャーペンを握ったり文字を書くとなれば話は別だ。蛇が這いずったような文字――――とまではいかないものの、改めて見てみれば解読不可能な部分もあったりする。

 こんな文字で復習が出来るかぃ! おのれ許すまじヒューム!

 

 ――――まあ、改めて闘っても勝てる気がしないが。

 一撃必殺同士の闘いでは未熟な者が負ける。昨日の仕合いは未熟だった自分が負けた、それだけの話だ。

 

「お箸使いづらそうだね。やっぱり慣れない?」

「まあね。左腕なんて八極拳と槍術ぐらいでしか使わないし、使っていても日常生活とは動きが違うから何とも言えない」

「ふふふ、それならー……………………」

 

 ガシっと。そんな擬音が付きそうな勢いで握っていた箸を奪う小雪。

 何をするのか――――小雪を凝視していると、自分の食べていた月見うどんのお盆を引き寄せて奪った箸で麺を掬う。箸に掛かった麺に息を優しく吹きかけて、

 

「はい、あーん」

 

 にっこり笑顔で口元に突き付けてきた。

 周囲の視線が射殺さんばかりに突き刺さる。主に男子から、一部独り身の女子からの視線も混じっているが…………魍魎の宴のメンバーからが多いのは仕方無いことなのか。いい加減魍魎の宴から脱退するべきなのかもなあ…………。

 思考停止完了、そして再起動へ。

 どうせ食べなければ口に突っ込んでくるので、大人しく麺を吸う。麺に絡められた卵のとろみと出汁の味がマッチしており、喉を通り過ぎる時に鼻へ出汁の香りが抜けていく。麺はコシがしっかりと有り、食感はもちもち。このクオリティでワンコイン以下なのだから学食の安さが判る。

 

「どう? 美味しい?」

「……………………ああ、美味しいよ。はい、小雪も」

 

 今度は此方の番、と言わんばかりに箸を取って麺を差し出す。それを吸う小雪可愛い。傍から見れば「あーん」を交互にしているバカップルにしか見えないだろうが、別に小雪相手ならいいや。

 

「ぷはぁ~…………ご馳走さまでした!」

「御粗末」

 

 例え噂になってもどうでも良い、今はこの癒される笑顔で和まされるとしよう。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 ――――真っ黒な河川敷にて、燕尾服を纏った老兵と対峙した。

 ――――迫り来る凶刃。その一撃は鋭く重く、老練な技だったと言える。

 ――――それに込められていたのは数十年もの歳月。ヒューム・ヘルシングという人生そのもの。

 ――――対して放たれたのは不完全な一撃必殺。積み上げられたのはたった数年であり、お互いの思いが衝突して――――。

 

「………………………………」

 

 放課後の河川敷にて。胡座を組み座った状態で考えていたのは、昨晩のヒュームさんが放った一撃のことだった。

 ジェノサイド・チェーンソー――――あれは正しく彼の必殺技と呼べる代物だった。高年齢で身体能力は衰え始めている筈なのに、瞬間的な速さは自分よりも数段階速く鋭い。その爆発力に加えてかなり濃密な気が練られて纏わせており、冲捶(ちゅうすい)川掌(せんしょう)と言った生半可な攻撃では弾かれていただろう。あの場面で无二打(むにだ)を放ったことは正解だったのだろうが…………それで競り負けてしまった以上、自分がヒュームさんに勝てる道理は無かった訳だ。

 自身の持てる最高の技を、堂々と正面から破られたとは…………情けなくて師匠に顔向けできないなあ。

 

 故に考える。何故自分が負けたのか、そして何処を改善すべきかを。

 

「无二打の完成度自体は悪くなかった。勁の発生も充分、強いて言うなら気の濃度が薄かったか…………? いや、无二打はあまり気を必要としない技だ。気の量は関係無い。それなら内部破壊が効かなかった? しかし内部破壊程度で止まる技じゃない筈」

 

 負けは負けと認めるし、言い訳するつもりは無い。しかしそこで反省をしないのは只の馬鹿だ。敗北を元にして自分を見直す事が敗北者に出来る唯一の事なのだから。

 无二打の原理は至って簡単。李書文の逸話として有名な「牽制だろうとたった一打で相手を仕留めた」と言う話を参考にし、泰山流八極拳の極意の一つ「人体の内部破壊」を練度の高い技へと昇華したモノが无二打である。

 内部破壊は内臓から骨、神経までも破壊する事が可能で――――気の流れすら断ち切る事が出来る。拳の接地面から勁と共に自身の気を送り込み、敵の内部で爆発。その勢いで対象を破壊する。

 最も、普通の仕合いでこんな技を使用する機会など無い。そんなことをしてしまっては師匠の二の舞であり、恥を晒すのと同義である。師の技は正しい事に使うべきなのだ。

 打って良いのは昨晩のヒュームさんのような壁越えの実力者であったり、吐き気を催す邪悪ぐらいである。威力の高さが私闘禁止の理由だったりする。

 

「環境自体は悪くなかった。幾ら暗かったとは言え慣れた道のりだ、問題は無い。ただ土手という立地上、直線でしか攻め込む事が出来ない――――そうなると、ヒュームさんの方が有利か」

 

 戦った場所は此処多馬川の河川敷。時刻は七時過ぎで辺りは真っ暗、お互いの姿を視認する事すらまともに出来なかった状態だった。どちらも闘気を滲ませていた御陰で感知出来たが、完全に絶っていればまともに戦えていなかっただろう。

 つまり条件は同じだった。自分もヒュームさんも一撃必殺型の武術を扱うのだ、直線というのも本来は有利にも不利にもならない。しかし直線であるのが不利になってしまうのは、ひとえに自分が遅いからだ。敵わない相手に真正面から挑む――――その無謀さは愚か者と一蹴される程だろう。

 

「恐らくヒュームさんのジェノサイド・チェーンソーはかなりの年月を掛けて完成された技だろう。最速のタイミングで最高の威力を伴って放たれる蹴り――――真正面からの回避はほぼ不可能だろうな」

 

 无二打を打ち破ったジェノサイド・チェーンソー。鉄心さんの毘沙門天や師匠の无二打(うーある)と同じ、極地に至った必殺技。

 自分が劣っていると自覚した上で、この技を破るにはどうするのか。

 一番はそもそも相殺しようとせず回避に専念する事だが――――これは不可能だと思われる。避けようと思った時点で既に遅い。知覚した段階で目の前に迫っているような技を回避できる反射神経は李颯斗には備わっていない。例え攻撃を捨て防御を固めてもその上から破壊される未来しか見えなかった。回避も無理、受け止めようとしても崩される……………………これをどうしろと。

 次に有効なのは、技を出させる前に撃破する事。恐らくこれが一番効果的だろう――――が。問題になるのはヒュームさんが気付く事なく一撃を打ち込めるかどうかである。肉体的には此方が優秀だろうと、相手は幾多もの死線を乗り越えた強者だ。不意を突くか奇策でも用意するかでもしないと先手は取れないだろう。まあ、不意を突いても攻撃が当てれる気は微塵も起きてこないが。

 

「何と言う無理ゲー……………………結論は単純な経験値不足か」

 

 回避が出来ないのは自分の避ける動作に無駄が多いからであり、先に一撃を当てれないのは初動が遅いからである。

 やはり八年程度では経験が少ない。こんな体たらくでは何十年と武術に打ち込んだ師匠クラスの人間には勝利を収める事など出来やしない。普段は倒れるまでやっている練習をもっとハードにして、それこそ疲労困憊で倒れる程にしようかな…………しかしオーバーワークこそ身体に悪影響だし効果も薄い。結局はこのまま地道に努力を積むしかないようだ。

 例えそれが実にならなかったとしても。

 

无二打(二の打ち要らず)には程遠い…………もっと鍛錬しなきゃ――――」

 

 ふぅ、と一息付いて立ち上がる。うっすらと紅に染まりつつある河川敷には、気持ち良い風が吹いていた。そよ風でも強風でもない、正に心地よく感じる範囲での風だった。初夏の訪れは暑さの訪れでもある。少しずつ上がっている気温の中で、この風が身体を冷ましてくれた。

 今河川敷に居る人間は()()。内一人は勿論自分で、もう一人は隠れているつもりなのか土手の方から此方の様子を伺っている。本人は気を絶っているのだろうが甘い。ヒュームさん程とは言わないがせめてあずみ姐さんぐらいには気配を遮断しないと、自分に気付かれてしまう。

 

 高貴さを感じさせる気高い気。それに伴って発するのは青臭さであり、彼女が若輩であることが判る。

 こんな気を持っている人間と、つい最近武器を交えたのだ――――。

 

「――――――――で、何か用かな? フリードリヒさん」

「………………………………え。き、気付いていたのか?」

「最初から、ね」

 

 背後へ振り返る。クリスティアーネ・フリードリヒが、そこに立っていた。

 

 驚いたような表情で土手から出てくるフリードリヒさん。走る度に金色の髪と胸が揺れて…………たまらねえぜ。川神の女子は容姿のレベルが高いらしいが、姉妹都市出身のフリードリヒさんもその例に漏れていないようだ。

 お嬢様という印象を持っていたが、こうして近付いて来る姿は心なしか一子に似ていた。時々喧嘩ともじゃれ合いとも取れる小競り合いをしている彼女たちだが、原因は同族嫌悪にあるのかもしれない。或いは忠誠心の見せ合いだろうか。一子は直江たちに飼われているが…………フリードリヒさんは誰に飼われているのか。

 負かされた相手だというのに、こうして負の感情を見せずに接してくれるのは彼女の騎士道故か川神の地域性か。勝負事が大好きな川神市民は勝っても負けても後腐れが無いようにしている。正に「昨日の敵は今日の友」という言葉が似合う人種だ。

 

「まあ別に隠れてた事はいいんだけどさ」

「うぐ……それは済まなかった。何か考え事をしているようだったから声を掛けないようにしていたんだ。気に障ったのなら謝る」

「大丈夫だよ、美少女に見られてたなら寧ろありがたい」

「び、びしょうじょ…………!? 君も大和のような事を言って…………!」

「え、直江のヤツ椎名だけでなくフリードリヒさんにも言ってたのか」

「な――――京にも言っていただと!? おのれ大和…………。わ、私だけでなく京までたぶらかすとは…………ん? 京の場合それでいいのか?」

「ハハハ、フリードリヒさんは面白いねぇ」

 

 美少女と言っただけで顔を真っ赤にして…………一子で遊んでいるような気分になる。

 これが百代先輩だったら助長するので口が裂けても言わないが、こんなに弄り甲斐のある子だったらもっとハードな事を言おうか――――。

 

 そんな不埒な事を考えていたら、まるで銃口を向けられているような殺気が(こめ)かみに走る。

 

 フリードリヒさんの背後――――遥か遠くに建てられたビルの屋上を睨む。気によって強化された目は輪郭だけだが、屋上に人影を捉えていた。大体距離にすると一・五キロ程だろうか、そこから向けられた殺気だ。余程憎悪を掻き立てたか、本物の殺気を知っている人物なのだろう。

 色は黒、数は二人、片方は立っており片方はしゃがんでいる。恐らく観測手と狙撃手のペアだろう。この日本で狙撃手に出会うとは到底思っていなかったが、まあ川神なら仕方無い。

 自分が睨んでいる事に気付いたのだろう、観測手の方が手を挙げた。そこにはうっすらと文字が書かれていて…………崩れていて正確には読み取れないものの、多分「娘に手を出したら殺す」と書かれているんじゃないだろうか。

 

 ……………………そう言えばフリードリヒさんってドイツ軍人の娘だったっけ。

 成程、それなら狙撃銃が有っても可笑しくないが――――娘が男と話しているからと言って、銃口を向けるのは如何なものか。些か親バカが過ぎるのではないだろうか。

 まあ狙撃銃の弾丸は音速を超えると聞くが、撃たれたと判ったのなら問題無い。最悪弾けば良いし、回避も一キロ以上あるのなら余裕だ。

 

「おほん、大和のことは本人に追求するとして…………自分が此処に来たのはほかでもない、君と話す為なんだ」

「ほほう、逢引のお誘いですか」

「ち、違う! からかうのもいい加減にしてくれ、その、照れる…………」

「可愛い(可愛い)」

「だぁかぁらぁ!」

 

 殺気が濃くなったのは気の所為に違いない、絶対に気の所為だ。

 こうして彼女をからかうのは面白いが、本来放課後は鍛錬に費やす時間だ。可愛い女子と話す時間は師匠との組手並みに貴重だが、いい加減鍛錬がしたい。話があるのなら、それを聞いてやって返答すれば帰ってくれるだろう。別に見られるのには慣れたが、あまり視線を受けるのは好きではない。見世物じゃないのだ、あくまで鍛錬である。

 一旦咳で場の空気をリセットするフリードリヒさん。深呼吸をすると照れも無くなったようで、凛々しい瞳で自分を見据えながら口を開いた。

 

「自分がマルさんを姉のように思っている事は知っていると思う」

「まあ、ね。他人には厳しくあたるエーベルバッハさんが唯一優しいのがフリードリヒさんだから」

「自分の事はクリスで良い。――――それで、今回はマルさんの事で相談があるんだ」

 

 マルギッテ・エーベルバッハ。2-S所属のドイツ軍人であり、フリードリヒさんの姉貴分。赤い髪に凛々しい顔立ち、グラマラスな肉体とそれを律する軍服。そして猟犬――――それが自分の中での印象だ。

 先日の決闘が終わった直後、自分は彼女に仕合いを申し込まれた。その瞳にあったのは戦闘欲求と破壊欲求、そして若干の女心――――何ともまあ、純粋な戦闘狂な事で。戦闘狂であるマルギッテさんにとって、フリードリヒさんを倒した相手を自分が倒すのは当然の事らしく、決闘を申し込まれたのだが…………よりにもよって決闘の直後に言わなくてもいいと思う。自制心なさすぎィ!

 そして師匠に私闘を禁止されている自分はそれを拒否、以後自分と戦おうとして追いかけてくるマルギッテさんを避け続ける生活が始まった。毎回休み時間になる毎に窓からダイブする姿は風物詩になりつつあり、最早飛び降りても声を上げる人間はいなくなった程だ。嫌な慣れだとつくづく思う。

 

「マルさんから聞いた話だが、君はマルさんとの決闘を拒んでいると。自分との決闘は受けたのに、何故マルさんとは戦わないんだ?」

「んー…………まあ、簡単に言えば――――()()()()()()からかな」

「小雪、と言うと…………2-Sの榊原小雪か?」

「そう、その小雪」

 

 質問の返答に頭を唸らせて悩むフリードリヒさん。大方何故小雪の頼みなら引き受けるのかを考えているのだろうが、フリードリヒさんが答えを出せる筈も無い。

 自分の中で、鵬泰山という人間は相当な割合を占めている。下手すれば両親以上の信頼を寄せている存在――――それが鵬泰山である。そんな彼女との約束を破れる訳が無いのだが…………。

 

 この約束を破ってでも守るべき存在が、榊原小雪だ。

 

 考えても答えが出なかったのか、フリードリヒさんは息を吐いて思考をリセットした。どうやら小難しい事を考えるのは苦手なようだ。

 改めて向き直し、キリッとした顔立ちで言い放った。

 

「単刀直入に言うと――――マルさんとの決闘を受けてほしい」

「――――――――」

 

 それは予想出来ていた事だった。

 そもそも彼女が自分の元にやって来る目的など、再戦かマルギッテさんの事しか無い。しかし彼女は一日二日で実力差が埋まるなどと甘い考えはしていない。そうならマルギッテさんの事しか有り得なかった。

 

 ――――率直に言うのなら。別に自分はマルギッテさんと闘っても構わない。

 

 ドイツ軍人という事もあるが、彼女自身が優れた武闘家でもある。巧みにトンファーという稀少な武器を扱うセンスに優れた身体能力。あの武神とも本気ではないとは言え打ち合えると噂の戦闘力だ、彼女と組手が出来れば自分は成長できるだろう。

 それなら決闘を受ければ良いだけの話なのだが…………自分を縛り付けているのは、かつて師匠と結んだ約束だ。下手したら禁忌(ゲッシュ)と呼べるレベルまで、この約束は自分を縛っている。

 「李颯斗は個人的な理由で戦ってはならない」――――それが師匠が言った制約である。当時は何故彼女がこんな約束事を決めたのか理解出来なかったが、成長して自身の実力を客観的に見るようになってからその真意を理解した。

 

 危険なのだ、この拳法は。それこそ相手を粉砕する程に。

 

 昔人間を破壊し過ぎた所為で追放された泰山の事だ、自分の弟子にその道を歩ませる訳にはいかないと思ったのだろう。弟子思いな師匠で涙が出てきそうだが、それなら組手で手加減して欲しい。骨の髄まで響く拳に愛は無い、あるのは叩き潰そうとする殺意だけである。

 八極拳は性質上、相手に傷害を与えるのは仕方のない事。傷付くのは相手が悪いし、マルギッテさんはそれを言及するような人間ではない事も判っている。

 それでも自分がマルギッテさんの誘いに乗らないのは――――

 

 ――――単純に、師匠の方が重要だからだろう。

 

 此処で必要とされているのは本心からの回答だ。逃げの言葉じゃない、誠実な本音が聞きたいからフリードリヒさんは居る。故に、自分が話すのは本当の事だ。

 

「自分は――――――――」

 

 その意思を、はっきりとフリードリヒさんに伝えた。




最後の終わり方がアレなのはルート分岐の為です。決闘を受ければマルさんルートへ、断れば他のルートへ行きます。

活動報告にて短編をアンケートを取っています。期限は1月20日の日付変更まで。よろしければ是非投票してやって下さい。

因みに李の二の打ち要らずは「むにだ」。師匠は「うーある」としています。
刺し穿つ死棘の槍で「げいぼるく」と読んだり、突き穿つ死翔の槍で「げいぼるく」と読むから問題ないよね!


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第8話 夢と疑問と葛藤と

すごく久し振りに書いた気がした(小並感)。
Fate書いたりGOやったりガクトゥーンしたりDiesやったりで、マジ恋への熱意を失いかけていましたが…………弁慶の御陰で意欲を取り戻しました。
暫くは続けて更新出来るかなあ、と。

追記
誤って投稿してしまい、混乱を生じさせた事を深くお詫びいたします。
次からはこのような事態が起こらぬよう、気を付けて参ります。



 ――――――――懐かしい夢を見ている。今から三年ほど前の出来事だ。

 

 

 

 

 往くぞ――――とだけ呟いて彼女は駆けた。次の瞬間、迅雷にも等しき速度で彼女は間合いを詰めてくる。()()()と言っても走法で接近したのでは無い、只の踏み込みだけで十メートルもの間合いを詰めたのだ。そのあまりの速度に駆けたと錯覚してしまっただけ。実際は一歩で間合いを詰めているのだから、異常性と圧倒的な速度が判る。普通の人間ならば、たった一歩の踏み込みで――――只の前進するだけの踏み込みで、十メートルも進める訳が無い。

 正しく人外のスピード。達人級(マスタークラス)と謳われる者達が保有する、人智から離れた能力。

 

 ならば、それを目の前にして。おまけに迫っている最中だというのに、こんな考えをしている自分は一体何なのだろうか。

 

 震脚の極意は無音にして神速。爆ぜるような轟音を出す踏み込みは二流のそれで、一流の中でも頂点に位置する彼女の震脚がそんな代物の筈が無かった。

 音も無く、自然に歩くように肉迫してくる彼女は凶弾そのものだが、昔と違って()()()()()。彼女の一挙一動が、足の動きから拳の軌道まで――――細部に至るまで、この目は彼女を捉えていた。聴勁(ちょうけい)の効果もあるだろうが、そんなものは微々たるモノに過ぎない。太極拳の技である化勁と聴勁は練習こそはしているが量は遥かに少ない。見えているのは単純に自身の基礎能力が向上しているからだろう。或いは、あまりにも交わした拳が多過ぎて身体が軌道を覚えてしまったのか。

 兎に角、見えているのならば捌けば良い。拳は一直線に迫ってくるもの、故に判断は一瞬で済む。胴体を殴りに来る拳を左へ身を翻す事で躱し、無防備となった背中へ向けて蹴りを放つ。イメージは円だったり弧だろうか――――回転を加える事によって威力を底上げしている蹴り。ダメージこそは入らなくとも、崩れた体勢になった隙に連撃を加える――――!

 

 だが、そうさせてくれないからこそ彼女は強く、自分の師匠として相応しいのだ。

 

 拳を躱した瞬間から――――或いは拳を突き出した瞬間から――――彼女は自分の攻撃を読んでいた。蹴りを放った直後、突き出された右腕とは反対の左手が脛を掴んだ。捻りを加える事によって生まれた遠心力は、この瞬間完全に打ち消された。修羅の如く万力で骨を締め上げられ、思わず口から嗚咽が漏れる。痛い…………なんてものじゃない。骨の軋む感覚が神経を通じてリアルタイムに伝わってくるのだ、痛みよりも恐怖が優先される。

 痛みは危険信号だ。脛を握られてそれが発信されているという事は、このままでは最悪な事になるぞ――――と。痛みを介してそれを伝えているのだ。故に恐ろしい、怖い。愛弟子にすら破壊の矛先を向ける彼女に一種の恐怖感すら覚えた。

 

 だがそれを是とはしない。怖いのならば、恐怖を与える対象を沈黙されてば良いのだから。

 左手で蹴りを封じられようとも、お構いなしに力を込める。八極拳を習い始めて五年が経つのだから、それなりの力は備わっている――――世間では怪力と言われるであろう力が。勁や気に関係しない剛力を駆使して、脚を束縛する師匠から逃れようとする。

 無論師匠も、そう易々と解放したりはしない。男性の肉体構造や肉体年齢を考慮すると此方の方が力は上だが、彼方には往年の八極拳士としての矜持がある。力の流し方や込め方は師匠が断然優れているのだった。

 故に相殺。自分の右脚と師匠の左手は完全に止まっていた。

 

「――――――――ッ」

「…………ふん」

 

 だが、拮抗したままの状態は長く続かない。此方は両腕と左脚が、彼方は両脚と右腕が空いている。攻撃手段は幾らでもあるのだし――――何よりも、拮抗している部分の力を緩めれば更に手段は増えるのだ。

 競り合っていたのは数秒にも満たない。刹那の時間での攻防はひとまず決着が付き、次なる攻防への糧となる。

 と言っても、実質先程の攻防を制したのは彼女だ。力が拮抗しているのなら、上から押さえつけている分彼女に主導権がある。だからこそ、この場で拮抗が崩れるとしたら彼女が力を緩めたその時だ。

 脚を押さえていた左手を離し、彼女の左脚が自身の左脚へ添えられる。彼女の左脚が、膝が内側にあった。それを確認したのと同時――――気付けば拙い、と呟いていた。己の心中を吐露するなど馬鹿者がする行為だが、致し方ない事だろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 緩めた瞬間を狙った一撃を捨てて、回避に専念しようとするが――――既に遅い。

 

 その技は梱鎖歩(こんさほ)と言う。別段奥義でも何でもない、初期に習う簡単な技だ――――だからこそ、その威力は絶対という言葉に尽きる。単純であればある程、極めれば最強となり得るのだ。

 簡単に言えば体勢を崩すのが目的の技。内側から勁を加える事で根から崩す。只それだけに放たれるが故、必ず成功する。失敗は内側に脚を入り込ませる事が出来なかった時のみだ。

 自分よりも背丈の小さい女性に体幹を揺さぶられる。その女性が自分よりも遥か高みに位置する武人だとしても…………やはり男である以上、異性に見下されるのを悔しく思ってしまうものだ。

 視線が落ちる。地面へ近付いて行くのが嫌でも判った。まるで走馬灯のように、世界の流れる速度が遅くなっていく。恐らく震脚を見切った動体視力ですら、捉えきれない速度で迫り来る冲捶(ちゅうすい)も、今ではまるで地べたを這いずる蛞蝓(なめくじ)のように愚鈍。しかし避けられる一撃ではないのは確かだった。

 

 

 ――――――――ああ、なんて悔しいのか。

 

 

 数年前なら良しとした敗北が、今となっては情けない。目の前の光景をどこまでも否定したい。自分に降り注ぐであろう事実を拒否したい。彼女に打倒される光景を、敗北という事実をかき消したい。

 別段彼女以外の敗北は気にならないが、彼女によって齎される敗北は許せない。

 決して敗北を嫌う訳ではない。寧ろ敗北は良きものだと考えている。そこから得られる糧は勝利で得られるものより遥かに多い。勝ち続ける人生になど意味が無い、敗北があるからこそ勝利の喜びがあるのだから。

 だが――――彼女に負ける事だけは、絶対に嫌だ。死んでも嫌だ、歯を磨り潰す程嫌なのだ。

 …………原因は単純と言うか間抜けと言うか。彼女に聞かせれば呆れる事間違いなしの、どうでもいい理由。男の意地と言うべき下らなくも素晴らしい理由。

 

 好きな相手に自分の無様を晒したくないのは、至極当然であろう。

 だからこそ足掻くのだ。例え惨めだろうと構わない、彼女に負けて失望されるのだったら、醜態を晒す方が数百倍マシだ。

 

「ッラァ!」

「ほう、ならば」

 

 姿勢など最早メチャクチャ。幕引きの一撃を前にして正常な思考など働いておらず、次の一手など思考の片隅にも無いが…………今はこれで充分だった。

 避けられないのならば、先程のように相殺すれば良い。崩れ落ちていく姿勢で放たれた拳は不完全だが、骨身を犠牲にするのなら相殺するのに充分だった。バキ、と嫌な音と感触は骨が折れた事を告げていて、それに続く形で激痛が走る。締め上げられる痛みも相当なものだが――――骨折の痛みも、かなりしんどい。

 顔が歪むのを抑えられない。それ程までの激痛を感じても尚、拳に込める力を緩めたりはしない。例え骨が皮膚を裂き、関節が捻じ曲がろうと拳を引っ込める気は無かった。常識とか、打算とかそういうものじゃない――――男の意地で必死に喰らい付く。

 折れろ、と。只そう願って放たれた拳は、見事相殺を可能とした。

 

 しかし――――無謀と言える拳を受けて、尚冷静に彼女は切り返した。

 倒れ込んだ自分を…………イメージとしてはサッカーボールだろうか、それを蹴り上げるように胴体を蹴る。体勢が崩れていて拳を出すのに精一杯な自分がそれを回避出来る筈も無く、風を置き去りにする蹴りによって三メートル程カチ上げられた。

 肺から空気が漏れる。口から悲鳴が上がる。内臓が壊れていても可笑しくない一撃を受けて――――思わず口元が歪む。いや、別に痛みつけられて喜んでいる訳じゃない。

 その容赦の無さに感謝して。真摯に取り組んでいる事が嬉しいから、痛くても笑ってしまうのだ。

 

「――――っ」

 

 空中で何とか姿勢を戻し、獣のように四足で着地する。獣ではない人間がこのような体勢を取るのは動き難い事この上ないが、多少無理な体勢だろうと、叩きつけられるよりかはマシだ。

 着地と同時、前方にて佇む女傑を睨む。追撃は無かった――――だからと言って油断している訳でも無い。寧ろ追撃を捨てて闘気を高めた所為で、更に威圧感が増している。肌を刺す気配は殺気と言って差し支えない程で…………冷や汗と嗚咽が漏れた。

 恐れから来るものでは無い、歓喜から来る唸り。それが先程の嗚咽の正体だった。

 

「基本が崩れている。勁を当てられれば当て返せ、そう言った筈だが。

 おまけに可笑しな姿勢で拳を放つなど言語道断。その証拠に、見てみろ。完全に骨が砕けている」

「…………うげ。まさかここまでボロボロとは」

 

 一通りの攻防が終わったら、続きを開始するのでは無く反省点を指摘してもらう。彼女曰くまだ未熟なのだから長期戦闘は行わないとか。実際の所は八極拳の特性上、短期決戦なのだからわざわざ長く拳を交わす必要は無い、という判断なのだろう。

 彼女の指摘を受け右手を凝視して――――思わず目を塞いだ。

 右手は完全に破壊されていた。骨は皮膚を突き破り、関節は可笑しな方向に曲がっていて、血が川の如く垂れ流されている。それなのに痛みは全く無く、アドレナリンの偉大さをまじまじと見せられている気がする。

 神経が馬鹿になっているのか、思った通りに右手が動かない。先程の着地で気が付かないのが可笑しい程の損傷だった。

 

「…………はぁ、まさか気付いていないとは。今日の鍛錬は終了だ、至急その拳を治すぞ」

 

 闘気を霧散させて、師匠はゆっくりと此方へ近付いて来る。拳を握り、静かに目を閉じて集中力を高める。患部を触られている事よりも、彼女に手を握られている方がよっぽど感情を揺さぶられる。ああ、普段は厳しい人なのに、どうしてこんなにも魅力的なのだろうか。気の所為か、鼻腔をくすぐる香りが漂っているような。

 そんな邪念に気付く事無く(もしくは気付いていて無視しているのか)、ゆっくりと気を高めていく師匠。荒ぶる気の波を抑えて、明鏡止水の心境へ。爆発させる気では無い、まるで相手を慮るような――――そんな気が周囲の空気を満たした。

 

 心地良さ。それを感じて――――すると、彼女の気が自分に移っているのが判った。

 

「……………………おおっ、何だコレ」

「気の応用だ。気とはそれ即ち生命力、他者のモノである以上拒絶反応が出てしまうが…………どうやら想像以上に、お前と私の気は波長が似ているらしい。全く拒絶反応らしき代物が出てこない」

「それは嬉しいですね。師匠と似ている――――その言葉は、自分にとって最上級の誉れと等しい」

「冗談を言うのは止めろ。集中が乱れる」

 

 急いで口を慎む。いや、誰だってあんな猛獣すら捻り潰せるであろう目で睨まれれば黙るだろう。

 治療を開始して十分を経てば、ボロボロだった右手は普段通りに戻っていた。試しに気を込めたり開閉しても全く違和感が無い。寧ろ生命力の象徴である気を流された所為か調子が良い。

 冲捶、川掌、鳳凰双展翔(ほうおうそうてんしょう)――――技を撃ってみても、普段よりも速く鋭かった。理屈は判らないが、おおよそ自分の気と師匠の気の相乗効果によって強化されているのだろう。

 

「さて。恐らく殆ど治っているとは思うが、一応病院へ行くぞ」

「別に大丈夫だと思いますけど」

「私が普段そういう技を使うと思うか?」

「いえ、全く。寧ろ傷付ける側ですね」

「……………………。兎に角、完治していない可能性がある以上、大事を取って本職に診てもらうのは当然だろう。それに、丁度私も用事があるしな」

「――――?」

 

 医者に診てもらう? 気によって肉体年齢を二十代の全盛期に保っている彼女が?

 疑問が一瞬沸いたが、それも一瞬。恐らくは自分を病院に行かせる為の詭弁だと判断して、彼女の面子を立てる為に大人しく従うとしよう。

 

「じゃあ、今すぐ行きましょうか。傷が治っても血は拭えませんし」

「そうだな」

 

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 

 フリードリヒさんとの対話から一時間も経てば、辺りはすっかり暗くなっていた。

 

 昼間ですら静かな住宅街は夜になると更に静かさを増していて、家内の灯りが無ければゴーストタウンと錯覚してしまう程。道の真ん中を堂々と歩いても咎める人はおらず、まるで自分だけの世界が展開されているようだった。車の音もテレビの音も聞こえずに、只々人間の営みの声だけが聞こえた。

 街灯には無数の虫たちが群がり、電圧によって落ちていく。ある意味でこれも夏の風物詩なのだろうか。視線を一瞥、次の瞬間には興味を失って歩を進める。

 昔はカブトムシやクワガタムシを採集する為に森へ出掛けたりしたが、師匠と出逢ってからは森に入る事=修行になった為で昆虫採集をしなくなっていた。別に蟲は嫌いではないのだけれども、死体に好んで触れようとは思わない。

 薄暗い道を独りで歩く。幼少期はお化けが出ないか変質者が出ないかと怯えていたもんだが、変態橋で本物の変態を見てからは耐性が付いたのか特に何も感じなくなっていた。幽霊も師匠とかいう霊体よりも数万倍恐ろしい存在を知ってから、怖いとは思わなくなった。

 

「……………………」

 

 数分も歩けば我が家の灯りが見えた。周りの家と比べたら大きいとも小さいとも言えない、三人家族なら丁度良い大きさの一軒家。

 構造は二階造り。一階はリビングと和室、台所や水場と言った良くある部屋が並んでいる。二階はそれぞれの部屋になっていて、一番大きい部屋が父の書斎となっている。

 うちの父親は俗に言う本の虫という奴で、貴重な休日の殆どを読書に使っている変人だ。まあ、運動が嫌いじゃないのが幸いと言うべきか、大きな病気に掛かる事も無く一家を支えてくれている。

 次に大きい部屋が自分の部屋。本棚やDVDプレイヤー、テレビにパソコン、クローゼットその他諸々…………よくある学生の部屋だ。ただ電子機器は殆ど使っておらず、師匠の趣味に影響されて武士道に関する書物が多いのが特徴だろうか。自分が習っているのは八極拳――――つまりは中国武術だが、日本の「武士道」から学べるものは多い。

 義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義。これ等の要素から成る武士道は、言わば道徳の一種だ。流派だとか武術に関係なく、吸収出来るものはとても多いのだ。

 

「ただいま」

「お帰りなさーい。先にシャワー浴びて来なさい」

 

 扉を開けた瞬間、強烈なスパイスの香りが鼻に届く。どうやら今日はカレーらしく、スパイシーな香りが漂っていた。おまけに珍しくレトルトでは無いようで、包丁がまな板を叩く小気味いい音が聞こえてきた。

 シャワーを浴びて来い――――つまりまだ料理は出来ていないようだ。なら仕方ない、正直言って空腹だが先にさっぱりしてくるとしよう。

 階段を上り自室に入った。真っ暗な状態でも、クローゼットの場所が把握出来る程度には慣れている。暗闇の中で下着類とハンガーに掛けてある寝巻きを取り、一階にある風呂場へ突撃した。

 洗濯物は洗濯機へ、汗がついたシャツは軽くすすいで投げ込む。

 

「ふぅ――――…………」

 

 正面に設置されている姿見。それの右隣にシャワーヘッドはある。蛇口を捻り温水になるように調節して、その水を身体に浴びた。

 汗が水と共に流れ落ちていく。酷使によってオーバーヒート寸前だった筋肉は冷却されて、その爽快感は気を満たしていく。体調を万全に整える為の条件は食事と風呂と睡眠だと思っている。その一つが満たされたのだから、自然と気力が出てくる。身体を覆っていた臭気や疲れが水と一緒に消えていくようで――――

 

 ――――それでも、人が抱える悩みというものは残ってしまう。

 

「はぁ………………たまらねえぜ」

 

 ああ、気持ちが良い。しかし何処か吐き気がする。

 己の筋肉は師匠に育てられたモノ。それが立派だとは思わないし、無駄な筋肉は重荷となって速度を殺してしまう。故に求められるのは密度だ。細マッチョと呼ばれる体型が最適なのだ。

 …………まあ、それもある程度のレベルまでの話。気が扱えるようになればどんなガチムチだろうと瞬足になったりするのだから、恐ろしい話である。だって考えてみて欲しい。テッカテカに光り輝く筋肉を有したパンツ一丁の男性が、目にも止まらぬ速さで接近してくる姿を。自分なら正直吐くレベルだと思う、冗談抜きで。

 

 閑話休題。

 あくまで今回はシャワーだ。軽く汗を流す程度で止めておいて、後でゆっくり湯船に浸かるとしよう。

 蛇口を止めて身体を拭き、新調の下着に肌を通す。新しい洗剤でも使い始めたのか、若干香りが違う。いつもならローズの香りだと言うのに、今日のシャツからはオレンジの香りがする。どちらも女々しい事に変わりないものの、これはこれで気分がリフレッシュ出来た。

 

「出たよ」

「タイミングばっちしね。丁度カレーが出来たところよ。

 今回のは自信作! ほら、前にテレビでカレーの歌があったじゃない? 全ては愛のターメリック――――とかいうヤツ。あれを参考にしてみたら、結構美味しいのが出来たのよねー」

「そいつは楽しみだ。いい加減腹も減っているし、早く食べよう」

 

 リビングに入るとエプロン姿の母が。あらやだ、可愛い。

 つい数年前に三十路を越え四十路に突入したというのに、この人は変わらず麗しい。師匠のように気を使っている訳でも、整形をしている訳でもないのにこの美貌。実母でなかったら恋慕してしても可笑しくない女性だろう。

 

「いただきます」

「いただきまーす」

 

 歌詞通りに作られたカレーは中々美味しかった。隠し味のチョコレートがカレーのスパイスの辛さを引き立てていて、舌に走る辛味が心地よい。

 テレビに出ていたカレーの妖精と名乗る男――――どうして中々、侮れない。

 

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 湯船に浸かり勉強を終えれば、後はする事が無くなる。

 ゲームも漫画もテレビもパソコンも、所詮は娯楽――――只の息抜きでしかない。睡眠時間を削ってまで「やりたい」と思う程の代物ではないし、何より鍛錬の疲れによって遊んでいても気付けば寝てしまうのだ。

 肉体の修復と回復には睡眠が必要不可欠。幾ら頭が娯楽を求めていても、身体に引っ張られて睡魔に従ってしまう。本当なら夜遅くまで友人とメールでやり取りをしてみたいのだが…………まあ、代わりに早寝早起きの御陰でここ数年体調を崩した事が無いので、それで良しとしよう。

 身体を操っていた糸が切れたように倒れこむと、柔らかいマットに身体が沈み込む。それだけで既に眠気が頭を掠めるが、それよりも重要な悩みが眠気を隅に押し付けている。

 

「……………………」

 

 ベッドに横たわり考えるのは、夕暮れの下で交わした会話だった。

 

 マルギッテさんとの再戦を望むフリードリヒさんを、自分は容赦なく拒否した。戦わない、戦えない、と。騎士道を体現する彼女に正面から誓えば絶対に撤回しないのを理解した上で、残酷にそう告げたのだ。

 戦えない理由は、過去に交わした師匠との約束。破壊しか生まない拳は必要な時以外に振るってはならない――――彼女と交わした些細な約束は、自分の魂までも縛り付けている。

 事実、自分は今まで()()()()()()殆ど他者へ拳を振るった記憶が無い。八極拳(それ)が必要とされている場合、つまりは暴力によって捩じ伏せるしかない相手以外に八極拳を使った事が無かった。それは当然に思えて、しかし案外難しい事だ。

 行き過ぎた力は過信を生み、慢心を作り、狂気を育てる。釈迦堂さんのように――――力は時に暴力と変わる。図らずともそれを体現してしまった師匠だから、弟子には同じ経験をして欲しくないのだろう。

 

 だが、自分はこの力を思う存分振るいたい。

 今の自分に足りないのは経験値だ。幾ら独りで拳を振ろうと、一回の実践に比べると得られる経験値は遥かに少ないのだ。かつては週に一度は組手をしてくれた師匠も、頻度が減り続け月に一度、三ヶ月に一度になり…………去年の夏からは一度も出会っていない。

 つまり、今の自分は飢えているのだ。ガス抜きとなっていた組手がなくなり、実力が付いているのか試したい。かと言って他者へぶつける事は許されておらず、欲求不満のまま過ごしている。

 

「でもなあ」

 

 戦闘欲を抑えているのは師匠との約束。これの御陰で力に酔う事が無いと言っていい。実際、一時の気の迷いで力を振るって相手を破壊してしまったら――――師匠に向ける顔が無い。満足しなくても、自分が鍛えられれば良いと思っていた。

 

 だが、ここで問題が生じてしまった。戦わないという前提が根底から否定されるような、大きな問題。問題というよりは身から出た錆なのだが…………それが今、自分が悩んでいる原因だったりする。

 

 

 

 

「小雪に頼まれた時――――自分は、師匠と小雪のどちらを取るんだ?」

 

 

 

 榊原小雪(さかきばらこゆき)。彼女の存在が自分を悩ませている。

 八年来の友人。自分にとっては妹のようであり、償うべき人物。自分に懐いてくれていて、実際話していても楽しい。家族を除けば師匠と同じぐらい大切な人だ。

 もしもそんな彼女が――――僕の代わりに戦ってくれ、と。そう言った時に自分は師匠との約束を護るのか、小雪との友情を取るのか…………それが気になって仕方ない。戦わないという師匠との約束を破って戦うのか、護ると決めた小雪を見捨てて師匠との決まりを護るのか。

 

「師匠は大切だ。彼女の御陰で自分は在るし、彼女がいなければ自分は平凡なままだった。恩義もあるし…………何より愛している人だ」

 

 師匠の存在は自分の中でかなり大きい。李颯斗(りはやと)を形成しているものの半分を占めていると言っても過言ではない。

 

「でも、小雪も大事だ。彼女が居たから友情の大切さを知れた。そして何より――――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だが同様に、小雪の存在も自分の中では相当数を占めている。親友であるし、償いの為に彼女の願いは叶えてあげたい。

 

「師を取るか友を取るか――――ああクソ、自分の優柔不断っぷりが嫌になってくる」

 

 思わずベッドの上で悶えてしまう。枕に顔を埋めようと、布団を脚で蹴り飛ばそうと悩みは消えなかった。

 現状、自分は小雪を取っている。小雪の代わりにマルギッテさんと戦って、師匠との約束を破っている事になる。だが改めて思い返してみると、それで良いのかと(うそぶ)く自分が何処かに居るのだ。

 師匠は愛している、小雪は好きだ。どちらも大事でどちらも捨てられない。だからこそ、こういう片方を取って片方を取らない選択は悩むのだ。

 

「はぁ…………自分がもうちょっと賢かったらなあ」

 

 賢ければこの場に居ない師匠を置いて、小雪を取るという選択が出来たというのに。

 馬鹿な自分はどちらも取るという選択をしたい。師匠を裏切る事なく、小雪を助けられる方法を。そんな結末を望みたい。――――まあ、ならばその案を出せよ、と。

 

「師匠。貴女に逢いたい。貴女に逢って謝りたい、そして許可をもらいたい。

 戦わせてくれ、と。そうすれば貴女に罪悪感を憶える事なく、尚且つ小雪を支えてあげられる」

 

 一体何処に居られるのだ、我が師匠は。

 一年も逢っていないなんてはっきり言うと異常だ。最低でも数ヶ月に一度は逢えていたのに、逢えずに一年も経っているなんて。携帯電話を持たない人なので連絡が付かないのは仕方ないが――――それでも、一年も連絡が無いのは可笑しすぎる。

 何故疑問に思わなかったのだろう? 信頼も度が過ぎれば放任と大差無いのだ。あの人なら大丈夫、と。心の何処かで思っていた所為で、この異常事態に気付く事が出来なかった。

 …………嫌な汗が流れる。夏の始まりを告げる初夏の日和は過ごしやすいのに、シャツが湿ってきた。喉が鳴り、視界がゆっくりと霞んでいく。嫌な思考というのは悩みと同じく一度考えだしたら中々止まらず、延々と頭に留まり続ける。

 

 

 

 ――――黒い影の一撃で鵬泰山(おおとりたいざん)が倒れる。

 ――――ゆっくりと、だが確実に。四肢が力を失い、完全に地に伏した。

 ――――大鳳は堕ちた。口元には鮮血が滴っている。

 ――――浮かべた表情は歓喜か、或いは後悔か。

 

 

 

「まあ、師匠に限ってそれは有り得ないか」

 

 馬鹿な妄想はすぐに切り捨てるに限る。何を変な事を考えているのだろうか、自分は。あの人の強さや気高さを一番知っている自分が、彼女の敗北する姿を考えるだなんて。師の敗北を考えるとは不忠者と言われても仕方ない。

 

 

 

 結局、一晩中考えても答えは出てこなかった。

 最善なのは師匠と対話して戦闘の許可をもらうか、小雪に戦闘関連の頼み事をされないのを願うか。

 胸の内に何とも言えない不快感を残したまま、意識はゆっくり睡魔の海へ落ちていった。




投稿話数はこれで合っています。挿入投稿ってヤツです。

当初の予定では李君は「小雪や師匠のお願いは何故か聞いちゃうけど、他の人はどうでもいい」という自分の好意に気が付かない鈍感男の予定でした。まあ、自分の能力不足の所為で「禁忌とまで言った約束事を小雪の時だけ破る優柔不断野郎」になったけどな!


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幕間 大鳳は子を成し、子はその感情を恋と知る

悪い奴様、針金様最高評価ありがとうございます。
そしてお気に入り登録者数3000突破、UA数100000突破ありがとうございます。
いやあ…………一月も経たない内に此処まで来るとは。

前回の低クオリティを反省し、今回は待望(?)の師匠回。
そして唐突に訪れるマジ恋無印編終了。次話からはマジ恋Sが始まる……!
しかし難産。最近上手く書けないなあ…………スランプ?


 ――――懐かしい夢を見ている。今から八年ほど前の出来事だ。

 

 

 

 

「行ってきます」

「行ってらっしゃーい! 遅くならないようにするのよー」

 

 日曜日。一ヶ月前なら夢の世界へ旅立っていたような時間帯、自分は玄関にて靴紐を縛っていた。只々靴紐を縛る為だけに玄関へ訪れる程暇ではなく、つまりはこれから外出するということだ。事情を話すだけで了承し早朝のトレーニングを気軽に許可を出した母には頭が痛くなってくる。顔も知らない相手を信用してもいいのだろうか?

 

 嘘…………私の心配度低すぎ…………!?

 

 自分が出掛けることに気付いたのか、リビングから顔を出した母に挨拶をして、家を出る。

 目的地は多馬川の河川敷。そこで待つ一人の女傑と対峙するのが今回のミッションだ。

 何故そこへ向かうのか――――それが判らなかった。自分の行動だというのに、その意味が判らない。そこへ行ったとしても与えられるのか苦悩と苦痛だけだ。殴られる度に全身を苛む痛みが走り、拳を振るえば指摘され悩む。自分に得になる事は一つも無いと言うのに――――足は止まらず、河川敷を目指していた。

 河川敷まで三十分程度。まだ日が昇ったばかりの早朝、人足もまばらで薄暗い。一歩一歩進むごとに身体は重くなるが、心は弾んでいた。意味が判らない。自分は苦痛を与えられることに喜ぶ変態なのか、そんな疑問が浮かぶが掻き消す。決してそんな筈はない…………と思われる。

 

 少し早足で向かった所為か、二十分足らずで河川敷へ到着した。

 

「――――――――」

「……………………はぁ」

 

 ――――静かに、しかし雄大に佇む豪傑が一人。

 

 その女傑の名前は鵬泰山(おおとりたいざん)。一ヶ月前自分が案内した観光客であり、自分の師匠となった人物。腰まで伸びたポニーテールと群青のカンフー服が特徴的で、引き締められたヒップとバストで煩悩が殺されそうだ。嗚呼、これで五十代手前だというのだから――――何と勿体無い事だろうか。

 自分が来た事に気付いたのか――元から気付いていただろうが――――閉じていた瞼を開き、真っ直ぐ此方を見てくる。その瞳に込められたのは情熱、身を焦がすような熱い感情だった。

 思わず心臓が跳ね上がる。その瞳に射抜かれている、只その事実が己を興奮させているのだった。何と言うか、チョロい男だと常々思う。

 

「来たか。ならば早速始めるとしよう。

 まずは十キロ走り、その後勁を開く練習だ。早く終わったのなら組手を行う」

「はい――――所で、何時から来てたんですか?」

「む、朝の六時からだが?」

「……………………一時間半も前に来てたのか…………」

 

 呆れたような視線を送ってしまうのは仕方ない事だろう。だって、教えられる自分よりも師匠の方が張り切っているのだから。と言うか、礼儀を考えるのなら弟子である自分は彼女よりも早く来た方が良いのだろうか。

 一息付き、身体に新しい空気を巡回させる。

 十キロという距離も一ヶ月走れば慣れるもので、徐々に距離を伸ばしていくとか。いつかはフルマラソン程走るかもしれない。そうなると筋肉痛が酷そうだ――――只でさえ疲れるというのに。

 ゆっくりと、ペースを保ったまま走り出す。駆け出すと同時に背後から聞こえてくる足音。最初の頃は師匠がペースを作っていたが、二週間も経てば自分からペースを作るようになっていた。遅かったら注意し、速ければそれに合わせてくる。下手にぶつぶつ言われない分、走りやすい環境と言えるだろう。

 

 ――――――――自分がしんどい鍛錬に励む理由。

 それはきっと、鵬泰山の事が好きだからだろう。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「此処が川神か…………何とも美しい街だ」

 

 2001年の初夏。巨大なキャリアケースを引きながら、鵬泰山(おおとりたいざん)は川神市の街路を歩いていた。

 川神市は近代化を進めつつ自然との調和を図った街――――手元にあるパンフレットに書かれている通り、川神の街並みは人工物と自然物の割合が絶妙だ。あまりに開発が進み人の臭いしか感じない大都市でもなく、自然保護を優先し過ぎて不便に思う田舎でもない。人が住みやすい街とはこういう街を指すのだろう。日本には数回しか訪れた事が無く、祖国では近代化が進みすぎた街で暮らす泰山ですら判ることだった。

 一通りパンフレットに目を通したら、カンフー服の内部に付けられた内ポケットへ突っ込む。腕を突っ込んだ勢いで胸が揺れるが、幸いにも周囲に人影も気配も無い。閑静な住宅街というヤツだろうか、遠くから子供たちの遊ぶ声が聞こえるだけで人間の気配は感じなかった。

 そもそも泰山に自分が女性であるという意識は少ない。今まで武術一筋で生きていた事もあるし、彼女に言い寄ってくる男性が少なかったからだ。否、少ないというのは間違いである――――実際は誰一人としていなかった。たった一代で流派を完成させる素質を秘めた女性だ、とてもじゃないが告白など出来やしない。まあ、もし告白しても自分に勝てないようでは断っていたが。

 勝てなくとも良い勝負が出来る男性ではないと釣り合わない…………そんな事を言って早三十年。最早おばちゃんと呼ばれる年齢になってしまったのだから、時が経つのは異常に早いものだ。

 

「――――――――川神院は…………此方か…………?」

 

 パンフレット通りの道筋を進むが、初めて来た土地という事もあってか戸惑う。

 現在地は住宅街の一角。前述した通り周囲に人影は無く、無人の道路を歩いている状態だ。初夏と言えども夏、気温は上がり昼になれば真夏と大差無い程。その程度で根を上げる程柔な身体はしていないものの、それでも人間極端な暑さは嫌う。このまま立ち往生するのも一種の手段かもしれない。

 元々土地勘は優れている方ではないので、わざわざパンフレットを買ったのだが…………それでも迷うとは。思わず頭を抱えてしまった。

 近くに立てられた電柱に身体を預けて十分程経っただろうか、一旦呼吸を落ち着かせて客観的に見てみる――――

 

 ――――完全に迷っていた。

 

「む…………どうしたものか。こんな事なら大人しく鉄心殿の誘いに乗るべきだったな」

 

 今回の来日の目的は二つ。一つは川神市の観光で、もう一つは川神院に寄る事である。

 今まで日本を訪れた事は何度かあるが、それも十年以上前の話。まだ自分が『大鳳泰山』としてもてはやされていた頃であり――――その時は仕合いばかりに明け暮れていた。まともに観光はしておらず、時間の許す限り対戦者を打ち倒す日々。唯一の愉しみは自身の技の完成度を試す事と食事ぐらいだっただろうか。今思えば生き急いでいたものだ、と自嘲する。年を重ね弟子の一人でも取ろうかと思い始めた年齢になって、ようやく異国の楽しみを知れた。

 川神市に来たのだったら、川神院にも寄らなくてはならない。日本どころか世界にまで名を轟かせる場所、それが川神院なのだ。世界最強と謳われる川神鉄心が指導する鍛練場だ、有名にならない訳が無い。

 川神鉄心は若かりし頃拳を交えた友人で、今回川神に訪れるという事で案内役を買って出たのだが…………まさか迷惑をかけまいと思い断ったのが、こんな形で出るとは思いもしていなかった。

 

「仕方あるまい――――――――」

 

 瞬間――――川神全域に泰山の気が奔る。

 

 川神市は政令指定都市に選ばれる程人口が多く、また範囲も広い。日本の人口第九位は伊達ではない…………が。鵬泰山の気による索敵範囲はそれを優に凌ぐ。それこそ七浜や近隣の地域に至るまで、彼女に判らないモノは無くなっていた。

 気をエコーのように反響させる事で物体を感知したり、他人の気を感じることによって把握する探索法。気を応用した技の中でも随一の汎用性がある技だった。長所はどこまでも索敵が出来ること、短所は逆探知されれば直様居場所が判明することだが――――完全な透明人間になれる泰山には関係ない話だ。

 範囲を絞り、狭めて半径五百メートルに定める。屋内には多数の気配があるが、外出している気配は存外少ない。範囲の端の方に気配が三つ。内二つはどんどん離れていき、数秒も経たない内に範囲から消えた。残ったのは一つだけであり、動く気配は見られない。道を尋ねるのなら今が好機だろう。

 

 早足で進む事数分。辿りついた先は公園だった。泰山が思い付くような遊具は一通り設置され、仮設トイレやベンチなどが置かれた普通の公園。そこに居るのはたった一人の少年で…………今にも消えそうな雰囲気を漂わせている。大方遊び相手がいなくなり淋しいのだろうが、それはどうでもいい。代わりに自分の道案内をする事で退屈を紛らしてほしいものだ。

 公園から少年が出ていこうとしていたので咄嗟に声をかける。背後から急に声を掛けられた事に動揺しているようだった。自身の気を声に上乗せし相手に浸透させる事で話を聞かせる話術、これを泰山は修得していた。これを応用すれば例え相手が錯乱状態だろうと、ほぼ正常な状態で会話が出来るようになる。

 

「少年、少しいいか。失礼だが、道案内を頼みたい」

「え、えと……。道案内って、その、どこへ行きたいんですか?」

 

 その少年の髪は紅蓮の如く赤かった。一見穏やかさを感じさせる瞳の奥、そこに込められているのは野獣の獰猛さ。体付きは少年故か普通だが筋肉質。鍛えれば相当な怪力が生まれる事だろう。身長はこの年の男子と比べれば低め、しかし泰山より大きくなるのは明白だった。

 まるで若獅子だ――――泰山は少年を見てそう思った。

 自分の視線に気付いたのか、顔を逸らす少年。気が付けば睨むような視線になってしまったらしい。その気弱さと本質の獰猛さがあまりにも不釣り合いで思わず笑いそうになってしまう。勿論笑みは浮かべない、笑えば只々失礼なだけだ。

 

「おお、引き受けてくれるのか。済まないな、如何せん川神に来るのは初めてでな。

 それで場所だが――川神院という建物に心当たりはあるか? 武術で有名なんだが……」

「ああ――川神院なら、ここから結構近いんで。ええっと……なんて言えばいいかな……うーん」

「その、言いにくいんだが……。口で説明されるよりも、直接案内された方が良い。私に此処の土地勘はないから、説明されても行ける気がしない」

「そ、そうですね。時間なら、あるんで、良かったら案内しますけど……」

「それは助かる」

 

 若獅子の少年が引き受けてくれた事に安堵しつつ、じろりと観察を続ける。

 何故初対面の少年にここまで気を向けるのか――――恐らくそれは、無意識的に彼の才能を見抜いていたからだろう。索敵範囲を広げる時に感じた、鋭く内部へ抉り込むような気。正しく泰山流八極拳を修めるのに適した気の性質だ。弟子を取るような年齢になっているし、鉄心も早く弟子を取れと急かしてくる。それならこの少年を、と泰山の中で邪な感情が浮かぶが消した。本人の許可無しで強引に弟子入りさせるような事はしない。

 

「そう言えば名前を言っていなかったな。

 私は鵬泰山(おおとりたいざん)。見ての通り中国人だ。君は?」

「じ、自分は――――――」

 

 李颯斗(りはやと)。あの神槍李書文の名を冠する少年。

 その名前を聞いて泰山の興味はより一層深いものとなった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 最高の逸材だ――――眼下にて横たわる颯斗を見て泰山はそう思った。

 

 颯斗に連れられてやって来た川神院は十年前と何も変わらなかった。それは悪い意味ではない――――この寺院に滾る気、聞こえる声、浮かされるような熱気は色褪せていない。此処は活気に溢れている、これこそが本当の稽古場なのだろう。お互いが切磋琢磨し己を高め合う、そんな環境は世界的に見ても数が少ない。

 歓声を聞きながら横たわる颯斗を見る。案内をしてくれた少年が何故倒れているのか――それは彼女が一打を加えたからである。

 泰山流八極拳は弟子入り前の儀式として、泰山が一打加える事になっている。それを少年は知らないだろうが関係無い、弟子になる以上他の者と対等でなくてはならない。弟子にしてくれ、と抜かす者は数多くいた。その都度に泰山は一発放ち…………彼らは去っていった。見込み無しの烙印を押して消えた者もいれば、殴られた時点で失せた者もいる。今となってはどうでもいいことだが、この少年がどちらへ転がるかが楽しみで仕方がなかった。

 

 先程放った技の名は冲捶《ちゅうすい》。防御の上から破壊する八極拳の中でも威力重視のものであり、子供である颯斗に打てば内臓破壊どころでは済まない威力を有する技だが――――今回打ったものは毛色が異なる。

 人体を破壊する一撃ではなく、人体を()()一撃。それが先程の冲捶の正体である。

 人間には誰しも『気』が巡っている。気の解釈は様々で、それを生命力と言う者もいればエネルギーと呼ぶ者もいる。中国拳法を修めている泰山は勁に似たモノと判断しているが、今はそんな些細な事はどうでもいい。人間に気が巡っているというのが重要なのだ。

 この『気』を拳に纏えば威力が上がり、身体に宿せば防御力が上がる。もしも万人がそれを出来るのなら世界は変わっていたのだろう。しかし神は残酷で、この『気』を扱うのには才能がいる。

 それは気の総量であったり、気の性質であったり、気の操作性であったり。この全てに優れた者がマスタークラスと呼ばれるのだが――――残念な事に、この少年はあまり『気』に関しては素質があるとは言えなかった。

 

 気の総量自体は普通。鍛えれば壁越え寸前までは行けるが、所詮はそこまで。

 気の操作性もあまり良くはならない。なんせ気脈を開く冲捶を打っても完全に開いていないのだから。 

 しかし気の性質――――李氏八極拳の流れを汲む泰山流八極拳において、彼の内部に抉り込む気は最適とも言えた。

 

「よっと……………………」

「ん……………………」

 

 完全に気絶している颯斗を肩に担ぎ、そのまま川神院へ入っていく。

 中に入れば多くの修行僧が居た。それぞれが己の限界まで挑戦し、身体を鍛え心を育てている。数に直すと五十人程度だろうか、その全員が真剣な面持ちで組手をしている。初夏と言えども夏、当然暑く汗もかく。稽古場は特有の臭いに包まれていた。それに違和感を感じる程泰山はヤワではないものの――――それでも嫌悪感は抱くものである。

 稽古場に入った事に気付いたのか、何十人の視線が泰山と担がれている颯斗に向けられる。昔から川神院で修行している者は顔を見ただけで納得しているが、新入りは突然の来訪者に驚いているらしかった。それに…………チラチラと、音もなくもたれ掛かっている颯斗が気になるようだ。当たり前だろう、なんせ見知らぬ女が突如現れ謎の少年を担いでいるのだから。変質者と捉えられても仕方がない。

 

 しかし此処は天下の川神。この程度で言及するような人間は居らず、嬉々として挨拶を返してくる。

 

「「「「「こんにちはッ」」」」」

「声が小さイ!」

「「「「「こんにちはァッ!」」」」」

「こんにちは――――やる気が入っているなルー。流石に師範代はこれぐらいでなくてはいけないのか?」

「別にそういう訳ではないですが…………やはり上に立つ者として、しっかりしておかないト」

「相変わらず真面目だな、お前は。そんなんだから彼女の一人も出来ないのだ」

「泰山さんまデ…………。私は別に構いませン」

「少なくとも鉄心殿は困ると思うぞ?」

「…………それを言われると困りますネ」

 

 困ったような顔をしている男はルー。泰山からすればまだまだ青い子供だが、川神院の師範代を勤める男だ。熱血漢で努力家として知られるルーを慕う人間は多く、事実彼の指導を受ける修行僧はご覧の通り熱気に溢れていた。

 まだ師範代ではなく修行僧だった頃のルーを知っている泰山だが、からかい甲斐のあるルーを結構好んでいた。特に女性関係について言及すれば顔を赤くして反論してくる。若者をからかうのは老人の特権――――泰山はそう考えていた。

 ルーをからかうのもこれくらいにして、別れを告げ更に奥へ進む。勿論颯斗は担いだままであり、ルーも視線を寄越すが尋ねたりはしない。自身の生徒がひたむきに鍛えているのだから、自分がおしゃべりをしていては申し訳無い――――そう判断した結果だった。まあ、それ以外にも理由はあるのだが。

 

 対して、ルーは泰山が苦手だった。

 泰山が鉄心と同じように女性関係について弄ってくるのもあるが…………その肉体が何よりも魅力的だった。艶のある黒髪、色気を感じさせるうなじ、存在を主張する胸元――――その全てが素晴らしい。胸を見たら見たで悪戯っ子のような表情で指摘してくるのだから堪ったものではない。その辺りが苦手な部分な所だった。

 

「失礼する」

「おお、泰山殿。待っておったぞ――――して、その少年は?」

 

 稽古場を抜けた奥――――和室に入ると、一人の老人が茶を立てていた。

 名を川神鉄心。川神院の総代にして世界最強と謳われる武人。本人曰く昔程強くはないとの事だが、それでも若造に負ける程落ちぶれている訳ではない。しかし十年前拳を交えた際の煌きは失われ、恐らく彼女と戦えば鉄心が負ける――それぐらいには腕は落ちている。まあ、マスタークラスの中でも最上位に負けるのだから、まだまだ現役と言えるだろう。

 鉄心の視線の先には颯斗が居る。質問される事が判っていたのか、泰山は颯斗を降ろし座布団に座る。形の揃った正座だけ見れば、彼女が外国人と思う者はいない。それ程までに美しい正座だった。

 

「最近拾った弟子です。いや――――ついそこで、と言うべきでしょうか」

「……………………昔から思っておったが、お主は本当に破天荒じゃのう」

「褒め言葉として受け取っておきます」

 

 苦笑する鉄心に微笑む泰山。

 颯斗の頭を座布団に乗せ、改めて正面を向く。立てていた抹茶を受け取り、器を回して口へ運ぶ。鼻に抜ける茶葉の香りと抹茶の苦味が何とも言えない。これこそが抹茶の旨味、そして和菓子の甘みが心地よい。器を鉄心へ返し、感謝の意を伝える為に頭を下げる。

 

「素晴らしいお手前です」

「総代も中々暇でな、こうして茶を立てたり若いピチピチギャルを追いかける事ぐらいしかする事がない」

「ご冗談を」

 

 苦笑する泰山に微笑む鉄心。

 その後は他愛のない談笑が続いた。最近の中国の情勢から、川神院で育ってきている修行僧の話まで。若者に足りない時間のゆとりと言おうか――――それを感じさせる時間が流れる。

 ふと。鉄心が呟くように泰山へ尋ねる。

 

「所で泰山殿…………宿泊先は決まっておるか?」

「いえ。適当な所に宿を取ろうと思っていましたが」

「それならウチに泊まってくれんか? 孫が喜ぶ」

「百代ちゃんですか。判りました、ご好意に甘えさせていただきます」

 

 それは願ってもない相談だった。

 金なら有り余る程あるが、それでも無駄遣いをするものではない。倹約第一に生きてきた泰山にとって、無料で泊まれる環境は最高と言えた。おまけに赤子だった時代から知っている、言わば孫のような存在までいるのだ。断る道理が無い。

 

「代わりと言ってはなんじゃが…………その胸を儂に」

无二打(うーある)打ちますよ?」

「冗談じゃよ…………冗談じゃからその腕を収めてくれ」

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「ヒューム。例の件は彼に伝えたのですか?」

「いや、まだだ。今は伝えるべき時ではないと判断した」

「何故…………? あれは彼に伝えるべき最優先事項と記憶しておりますが」

「直接相対して判った事だが――――あの赤子は悩んでいる。本人は気付いていないようだが、拳にはそれが顕著に出ていた」

「只でさえ悩んでいる上にあれを伝えると、更なる混乱を招く――と。相変わらずと言いますか、子供には甘いですね、貴方は」

「馬鹿を言えクラウディオ。俺がそんなタイプに見えるか?」

「外見だけなら胃腸が超痛くなる程(いか)ついです」

「……………………ギャグを言わんとやっていけんのか、お前は」

 

「まあ事情は判りました。ですが、早急に伝えねばなりません。なんせ一年以上待たせているのですから」

「当の本人がそれを知らないというのだから、何とも皮肉なものだ。本当に知らないのだからな」

「…………本来なら、まず彼に伝えるべき情報でした。申し訳ないことをしてしまった」

「いずれは知る事だ、そもそも気にならない奴が悪い」

「しかし彼は彼女が九鬼と関わりがあることを知らないのでは?」

「確かに泰山なら伝えていなくても可笑しくはないか――――ヤツらしいと言えばヤツらしいが」

 

「次に予定が合うのは何時になりますか?」

「そうだな…………三日後だ。しかし何でも鍋島のヤツが鉄心に勝負をふっかけるらしい。そうなると忙しくなる」

「成程、それなら勝負が終わった後にしましょう。その頃なら帝様の護衛も終わっている」

「了解した」

 

 

 

「所でヒューム――――先程相対したと聞こえたのですが、私は物騒な真似をするなと言いましたよね」

「……………………………………ふん」

「音も無く消えた……! 流石序列第零位……!」

「瞬発力を下らない事に使うとは……何と言う才能の不法投棄。――――まあ、追々追求するとしましょう。

 行きましょうか李。今日は中華街の小龍包が格安だった筈です」

「はいっ!」




短編のアンケートを締め切らせていただきました。たくさんの投票、ありがとうございます。

……………………戯言ですが。
瀕死のエロ尼を外界の医術で治療する代わりに、教団から追われた男。彼に恋慕したエロ尼が世界を犯しても足りない程の性欲をぶつけようとする話――――見たい?


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