SIREN(サイレン)/小説 (ドラ麦茶)
しおりを挟む

第一話 須田恭也 上粗戸/眞魚岩 前日/九時二十八分五十七秒

 濃い霧の立ち込める森の中で、須田(すだ)恭也(きょうや)は、変わり果てた姿の愛車を前に、どうしたものかと思案していた。自慢の愛車である折り畳み式のマウンテンバイクのタイヤは、空気が抜け、無残に潰れている。パンクの修理キットは持っている。画鋲や釘が刺さった程度なら直すことはできるが、恭也のマウンテンバイクのタイヤは、鋭利な刃物で切り付けられたかのように、大きく裂けていた。それも、前輪後輪共に、である。市販の修理キットなどで直せるような状況ではない。おそらく、タイヤごと交換する必要があるだろう。自転車店に運ぶしかない。しかし、自転車店がどこにあるのか想像もつかなかった。恭也は辺りを見回した。八月の強い日差しさえ、生い茂る木々に阻まれて地表に届くことのない森の中。舗装されていない砂利道が一本、森をふたつに分断するように作られているだけだ。自転車店はおろか、人の気配さえ、まるで無い。

 

 この道をまっすぐ自転車で進めば、恐らく一〇分ほどで、目的の村に着くはずである。しかし、事前にインターネットで調べた情報によると、人口千人ほどの、本当に小さな村だ。自転車を修理できる施設があるかは疑問だ。

 

 来た道を戻れば、そこそこ大きな街がある。そこなら自転車店はあるだろうが、ここまで来るのに、自転車で二時間ほど掛かっている。自転車を押して徒歩で戻るなら、三倍以上の時間がかかるだろう。気の遠くなるような時間だが、村に自転車店が無ければ、戻るしかない。今から戻れば夕方前には着くはずである。戻るなら、早い方がいい。

 

 村へ向かうか、街へ戻るか、あるいは、他に何か良い方法があるのか……どうすれば良いかしばらく迷った恭也は、結局そのまま村へ向かうことにした。恐らく徒歩でも一時間と掛からないだろうから、もし修理できる店が無くても、それほど時間のロスにはならないはずだ。それに、田舎は都会と違い、親切な人が多いだろう。運が良ければ、自転車を車に積んで街まで送ってくれるかもしれない。恭也は自転車を押し、森の道を、村へ向かって歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 須田恭也は、都立中野坂上高等学校の一年生だ。夏休みを利用し、東京から遠く離れたこの地域にやってきた。と、言っても、特に自転車旅行が趣味というわけではない。体力には自信があるし、自転車にもよく乗るが、彼の本当の趣味は、ホラー映画を見たり、インターネットのオカルト系サイトを見たりすること、そして、心霊スポットと呼ばれる場所に出かけることである。

 

 きっかけは七月末、恭也がよく利用しているインターネットのオカルトサイトの掲示板への書き込みだった。

 

 

 

《ドライブをしていたら、道に迷ってしまい、いつの間にか山奥に入り込んでいた。一時間ほど迷っていると、朽ち果てた家が何軒も並ぶ廃村らしき場所にたどり着いた。その村には、いたるところに血だらけの着物が散らばっており、そして、一軒の廃屋の中で、四つん這いの老婆が何かを漁っていた――。》

 

 

 

『血塗れの集落』と題されたその書き込みは、このようなものだった。

 

 正直に言えば、大して面白い話ではない。このテのサイトを探せば、もっと面白い話はいくらでもある。しかし、そういった話は、よくできているがゆえに、創作であることがほとんどだった。それに対し、この書き込みはリアルだった。書き込みには、実際の県や郡の地名が書かれてあり、迷った場所周辺の詳細な地図も添付されてあったのだ。恭也が調べてみると、全て実在する地名だった。

 

 さらに、別の人が、その地域で起こった事件について書き込んだ。戦時中、この地域の小さな村で、一晩で村人三十三人を惨殺する事件が起こったらしい。その村は廃村となったが、昭和四十年代に大きな土砂災害があり、村全体が土砂に飲み込まれ、消滅してしまったという。それ以来、周辺地域で血まみれの幽霊を見たとか、付近を通ると突然気を失って倒れると言った話が続出しているという。もしかしたら、最初に書き込みをした人が迷い込んだ血塗れの集落は、この、土砂災害で消えた村ではないか……というのだ。

 

 この書き込みに興味を持った恭也は、まず、三十三人殺しについて、インターネットで調べてみた。たくさんのサイトがヒットしたが、どれも、恭也が利用しているようなオカルト系のサイトだった。『事件が起こったのは昭和十三年五月二十一日だ』とか、『犯人は、学生服にゲートル姿、胸には自転車用のランプ、両手に猟銃と日本刀という格好だった』とか、様々な情報を得ることができたが、どれも信頼性に欠けるモノばかりで、噂話の域を出なかった。

 

 しかし、土砂災害に関しては本当の話だった。発生したのは二十七年前の昭和五十一年。昭和四十年代ではなかったが、この土砂災害で、実際に村が一つ消滅している。

 

 恭也は、その地域に行ってみることにした。

 

 血塗れの集落や三十三人殺しの話を、本気で信じているわけではない。だが恭也は、学校の勉強を熱心にする方ではなかったし、部活動もしていない。オカルト以外の趣味もない。要するに、夏休みは暇を持て余していたのだ。だから、その地域に行き、詳細を調べてみるのも面白いと思ったのである。もしかしたら、すべて本当に起こったことなのかもしれないし、もし単なる噂話で、面白いことが何も無かったとしても、適当に話をでっち上げて掲示板に書き込めば、それなりに盛り上がるだろう――その程度の気持ちだった。

 

 ネットでさらに調べた結果、昭和五十一年の土砂災害で消えた村は、隣の村に吸収されたようだった。

 

 ――羽生蛇(はにゅうだ)村。

 

 それが、恭也が向かっている村の名である。

 

 

 

 

 

 

 パンクした自転車を押して歩くのは、意外と体力を消耗する。舗装されていない山道なら、なおさらだろう。三十分ほどで、恭也の息は切れてきた。

 

 森は、相変わらず深い霧に包まれている。陽の光の届かない森の中は薄暗く、神秘的というよりはどこか不気味だった。そういえば、八月だというのにセミの声一つ聞こえない。ときどき聞こえてくるのは、まるで断末魔の叫びのような鳥の鳴き声だ。

 

 あとどのくらい歩けば羽生蛇村に着くのか分からない。地図は持っているが、目印になる物が何も無い森の中では、今、どこにいるのか見当もつかなかった。もしかしたら、同じ場所をグルグル回っているのかもしれない。そうなるとここは、一度入ったら二度と出ることはできない迷いの森か。

 

 ――そうだったら、面白いな。

 

 恭也は楽天的な性格だった。もし道に迷っているのだとしても、オカルト掲示板に書き込むネタができた程度にしか考えていなかった。オカルト好きではあるが、心のどこかで、そんなことがあるわけない、と、思っているのかもしれない。

 

 ――まあ、焦ってもしょうがない。のんびり行こう。

 

 恭也は一休みすることにした。道端の大きな木に自転車を立て掛け、リュックからペットボトルのスポーツドリンクを取り出し、一気に飲み干した。森の中はひんやりと涼しいが、二時間以上も自転車を漕ぎ、さらに三十分も歩けば、さすがに汗だくである。失われた水分を補給し、恭也は大きく息を吐いた。

 

 しばらく、自転車のそばでぼんやりとしていると。

 

 遠くから、何か堅いものを打ちつけるような音が、断続的に聞こえて来ることに気がついた。

 

 耳を澄ます。森の奥から聞こえてくる。なんの音かは分からないが、誰か、人がいるのかもしれない。そう思い、恭也は音のする方へ向かうことにした。自転車はその場に残し、道を逸れ、森の中へ入って行った。

 

 進むにつれ、その音は大きくなっていく。石と石をぶつけあっているような、鈍い音だ。人がいるのは間違いないだろう。白装束を着た女の人が、藁人形にクギを打ちつけていたら面白いな、そんなことを考えながら、進んでいく。

 

 五分ほどで、森の中にぽっかりと空いた広場に出た。

 

 その真ん中には大きな三角錐の岩があり、恭也は目を奪われた。高さ三メートルはあろうかという大きな紺色の岩で、表面は鏡のようによく磨かれており、まるで巨大な宝石のような姿だった。

 

 巨石の手前には一メートルほどの高さの土が盛られてあり、その上に、火の点いたろうそくが二本立てられてある。何かの祭壇のように見えた。

 

 石と石をぶつけあうような音は、その向こうから聞こえてくる。

 

 恭也のいる位置からは、陰になって見えない。恭也は音の主に気付かれないよう、ゆっくりと、回り込んだ。

 

 祭壇の向こうには、一人の少女がいた。

 

 恭也よりも年下だろう。まだ顔に幼さの残る、長い黒髪の少女だった。

 

 その右手に、握りこぶし大の石を持ち、地面に打ち付けている。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 狂ったように――そんな表現が似合うほどに、何度も、何度も、少女は石を振るう。

 

 何に向かって石を打ちつけているのだろう? 恭也の位置からは、まだ、祭壇が陰になっていて見えない。

 

 恭也は、幽霊などは怖くなかった。だからこそ、オカルトサイトの掲示板の怪しげな書き込みにつられ、こんなところまで来たのだが。

 

 その少女の鬼気迫る姿には、胸の奥に言い知れぬ恐怖を感じた。

 

 少女は、何度も何度も、石を振り下ろす。

 

 少女のそばには、一匹の白い犬がいた。少女と同じくらいの体長の、大きな犬だ。じっと、少女が石を振り下ろす姿を見ている。

 

 あの少女は、いったい何をしているのだろう? 恐怖心よりも好奇心が上回り、恭也は、もう少し回り込んで、少女が石を打ちつけている物を見ようとした。

 

 その気配に、白い犬が気づいた。

 

 こちらに顔を向ける。

 

 だが、どうやらおとなしい性格のようだ。恭也を見ても、吠えることはなかった。ただじっと、こちらを見ている。

 

 少女の手が、止まった。

 

「――誰?」

 

 透き通るような声。

 

 少女の声だ。恭也に気付いたようだ。

 

「村の人……じゃ、ないよね?」

 

 その声は、どこか怯えているようでもある。突然見知らぬ者が現れて、驚かせてしまったのだろうか?

 

「あ、えっと、俺は、その……」

 

 何と説明したらいいか迷う恭也。ここに来たいきさつを正直に話すと、変に思われるかもしれない。

 

 と、恭也は、おかしなことに気が付いた。

 

 少女は、こちらを見てはいなかった。

 

 その目は、祭壇の陰に隠れた、少女がさっきまで石を振り下ろしていた何かに向けられたままだ。こちらを見ているのは、白い犬だけだ。

 

 なのに、なぜ少女は、近づいてきたのが村の人間ではないと気付いたのだろうか?

 

 ――あのよそ者を追い払え

 

 遠くで、別の声が聞こえた。

 

 白い犬が、声のした方を見る。

 

 少女の視線は、祭壇の影に向けられたままだ。

 

 その表情が、さらに怯えたものになる。

 

 少女は、石を投げだすと、白い犬と共に走り出した。

 

「――あ、待って」

 

 恭也は声をかけようとしたが、少女の姿は、すでに森の中に消えていた――。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 須田恭也 上粗戸/眞魚岩 前日/二十三時十一分〇三秒

 陽が沈み、すっかり闇に包まれてしまった森の中で、須田(すだ)恭也(きょうや)は、木の陰に身をかくし、森の中にぽっかりと空いた広場の様子を見ていた。朝、何度も石を打ちおろす少女と、白い犬を見かけた、あの三角錐の岩がある広場である。

 

 朝は少女以外の人を見かけることがなかったこの森で、日付も変わろうかという時間に、どういうわけか、大勢の人が集まっていた。広場にはたくさんのかがり火が焚かれ、昼間よりも明るいのではないかと思えるほどである。

 

 集まった人々の様子は異様だった。数人の者を除き、ほぼ全員が、顔を隠すかのように赤いベールをかぶっている。他にも、教会の神父のような黒い法服に身を包んだ男、赤い修道服を着た女性、白のワイシャツに黒のスラックスという、他の人と比べると明らかに不釣り合いな格好をした若い男もいる。こんな夜中に、こんな森の中に、一体何が目的で、集まっているのだろう?

 

 

 

 

 

 

 朝、石を打ちつける少女と白い犬を見かけた後、恭也は自転車を置いた場所へ戻り、パンクした自転車を押しながら、ふたたび羽生蛇(はにゅうだ)村へ向かった。幸い村にはそれから一〇分と掛からずに着いたが、村人の反応は冷たかった。恭也が最初に見かけたのは、田んぼで作業している初老の男性だった。失礼のないようにきちんと挨拶をし、自転車を修理できる店が無いか訊ねたが、男はそっけなく「知らん」と言っただけで、後は何を訊いても答えてくれなかった。次に出会ったのは民家の庭先を掃除する年配の女性だ。その人にも失礼のないように声をかけたが、反応は同じだった。それから二人ほど声をかけたが、みんな同じような態度だった。村人同士で楽しそうにおしゃべりをしていても、恭也が声をかけると、途端に不機嫌になり、短い言葉と共にどこかへ行ってしまう。田舎の人は人情に厚いと思っていたが、どうやら都市伝説だったようだ。これなら都会の人の方がずっと優しいだろう。

 

 村人とコミュニケーションをとることを諦めた恭也は、地図を頼りに、自転車店がありそうな地域へ行ってみることにした。上粗戸(かみあらと)という地域だ。事前に調べた情報によると、二十七年前の土砂災害で消滅した大字粗戸(おおあざあらと)という地域があった場所で、食堂や雑貨店が立ち並ぶ商店街だったらしい。土砂災害後は、区画整理により新たな商店街が作られ、今の地名になったようである。他に商店街は無いので、自転車店があるとすればここしかないだろう。村の様子を見る限りあまり期待はできないが、行ってみるしかない。

 

 しかし、実際に行ってみると、恭也の想像以上に酷かった。食品店や雑貨店など数件のお店が並んでいるが、どの店もシャッターが下ろされ、営業しているのかどうか判らない状況だ。人通りも全く無い。それでも、なんとかしてもらおうと、恭也は一軒一軒訪問して回ったが、ほとんどの店は反応さえなかった。唯一、タバコ屋だけがシャッターを開けてくれた。中から出てきたのは、腰の曲がった小柄な老婆だった。恭也は自転車がパンクしたことを告げ、近くに修理できるところはないかと訊いてみたが、老婆はぶっきらぼうに、「そんなものはない」と答えた。それでも客商売をしているからか、一応質問には答えてくれる。自転車を修理するなら、ふもとの街まで行かなければならないらしい。恭也は、どこか宿泊できる場所が無いか訊いてみた。自転車店を探すのに時間がかかりすぎてしまい、すでに夕方に近い時間帯である。今から自転車を押して山を下りると、半分も行かずに夜になってしまうだろう。昼間でも薄暗く不気味なあの山道を、夜中に歩いて帰るのは勘弁してほしい。が、自転車店さえないこの村には、当然、宿泊できるような施設は無かった。インターネットカフェや二十四時間営業のハンバーガーショップはもちろん、旅館や民宿といった施設さえ無いと言う。そして、自転車がパンクして困っている高校生を冷たくあしらう排他的な村人が、見ず知らずの恭也を一晩泊めてくれるとも思えなかった。この老婆にしても、一応恭也の質問には答えてくれるものの、いかにもめんどくさそうな口調で、村から出て行けという雰囲気が身体中から溢れている。恭也が礼を言うと、老婆は乱暴にシャッターを下ろした。

 

 その後も恭也は自転車を修理できる場所か宿泊できる施設を探してみたが、見つからず、村人たちの反応も冷たかった。すぐに夜となり、行き場を失った恭也は、眠れそうな場所を探すうちに、少女と出会った森の広場に戻ってきたのである。

 

 

 

 

 

 

 広場に集まった村人たちは、祭壇の前に二列に並ぶ。皆、神妙な顔つきをしている。何か、重要な儀式が始まるようだ。見てはいけないものを見ている気持ちになる恭也。すぐに立ち去った方が良いのではないかと思う反面、見てはいけないと思うからこそ、見てみたいという好奇心もある。恭也は身を潜め、様子を窺った。

 

 やがて、神父の格好をした男の合図で、村人たちがゆっくりと手拍子を始め、低い声で、歌を歌い始めた。離れているので歌詞はよく聞こえないが、どうやら天の神を称える歌のようである。しかし、歌の雰囲気は、歌詞の内容とは対照的に不気味だった。低く、地の底に響くような歌声は、まるで悪魔を召喚する歌のようでもある。

 

 その歌に誘われるように、森の中から、少女が二人、現れた。二人とも、礼装用と思われる黒い法服に身を包み、同じく黒のベールをかぶっている。

 

 村人の歌の韻律に合わせるように、ゆっくりと、祭壇へ向かって歩く二人。

 

 と、少女の一人が、何かに気付いたように、視線を恭也に向けた。

 

 目が合う。

 

 同時に、恭也は気が付いた。

 

 ――あの()だ。

 

 それは、朝、この場所で出会った、何かに石を打ちつけていた、あの少女だった。

 

 少女の視線に、村人も気が付いた。ワイシャツ姿の若い男がこちらを見る。

 

「――誰だ!?」

 

 若い男が声を上げると同時に、全員の視線が、一斉に恭也に集まる。

 

 まずい、と、直感的に悟る。村人たちが何をしているのかは判らないが、この村にとって重要な儀式であることは間違いないだろう。それを邪魔したとなると、余所者に冷たいあの村人たちが、簡単に許してくれるとは思えない。恭也は、とっさに逃げ出した。

 

 恭也のこの判断は正しかったが、認識は甘かった。もし捕まったら、こっぴどく叱られる――その程度に考えていたのだ。儀式の邪魔をした者は、いや、村外の者で儀式の存在を知った者に与えられる罰は、その程度のものではなかった。

 

 昼でも薄暗い森の中は、夜ともなれば足元さえ見えないほどの闇である。念のために持参していた懐中電灯の明かりを頼りに、恭也は走った。幸い、村人が追いかけて来る気配は感じない。立ち止まって息を整えようと思った時。

 

「――――っ!」

 

 強烈な痛みが、恭也の頭を包み込んだ。

 

 頭が割れるような、いや、何者かに頭を引き裂かれるような痛みだ。

 

 あまりの痛みに意識を失いかけ、地面に膝をつく。

 

 しかし、強烈な痛みは一瞬だった。鋭い痛みはすぐに鈍く断続的な痛みに変わる。おかげで意識を失うことはなかった。

 

 代わりに、恭也は奇妙な感覚に襲われる。

 

 ――誰かに見られている。

 

 そう感じた。

 

 それは、なんとなく他人の視線を感じるとか、そういったレベルのものではなかった。自分を見ている他人の意識が、脳内に流れ込んできている――言うなれば、そのような感じだった。

 

 がさり。背後で、草を踏む音。

 

 振り返ると、警官の姿。

 

 まだ二十代だろう。若い男性である。

 

 特に悪いことをしていなくても、警官と会うとなんとなく緊張するものである。まして、恭也は先ほど、村の儀式の邪魔をしてしまった。だから。

 

「――あの、ゴメンなさい。俺、泊まれる場所を探してたら、たまたま、あの場所に出ちゃって。全然、邪魔をするつもりじゃなくて――」

 

 訊かれてもいないのに、言い訳を始める。決してワザとではない。そうアピールしたかった。

 

 警官は、一歩、また一歩と、ゆっくりと恭也に向かって来る。その足取りはおぼつかない。フラフラと不安定で、今にも転びそうだ。酒でも飲んで酔っているのだろうか? そんなことを思う。

 

 次の瞬間。

 

 警官は、信じられない言葉を口にする。

 

「……りょう……かい……しゃ……さつ……し……ます」

 

 ろれつが回っていない、たどたどしい口調だった。しかし、恭也の耳には、ハッキリと聞こえた。

 

 ――了解、射殺、します?

 

 耳を疑う恭也。確かにそう聞こえたが、聞き間違いだったのだろうか? そう思わずにはいられない。きっとそうに違いない。

 

 しかし。

 

 警官は、腰のホルダーから拳銃を抜き。

 

 その銃口を、恭也に向けた。

 

 まさか、本当に撃つつもりだろうか? いや、あり得ない。自分は、たまたま儀式を目撃しただけだ。邪魔をしたのは悪かったと思うが、いきなり銃で撃たれるほどの悪事だったとは、到底思えない。たちの悪い冗談だろうか? きっとそうだ。そう思う反面、警官ともあろう者が、冗談で銃を抜き、銃口を向けることなどありえないことも理解している。

 

 警官は、ひきつったような、不気味な笑い声を上げる。

 

 その指が、拳銃の引き金にかかった。

 

「――うわああぁぁ!!」

 

 恭也は、悲鳴と共に走り出した。

 

 同時に、背後で銃声が鳴り響く。本当に撃ってきた!

 

 幸い、銃弾は外れたようだ。あるいは、あの銃はおもちゃか、空砲だったのかもしれない。そう思いたいが、そうでないことを、恭也は直感的に悟っていた。あの、おぼつかない足取りと、ろれつの回らない口調、不気味な笑い声。警官は、おかしくなっていた。それも、酒に酔っているというレベルではないだろう。明らかに、狂っていた。善悪の判断もつかないほどに。だから、無抵抗の者に向かって容赦なく発砲しても、不思議ではない。

 

 恭也は走った。ただ、狂人から逃れたい一心で、暗い森の中を走る。ライトで足元を照らす余裕など無く、ただ、走り続けた。木や岩にぶつからなかったのは、幸運だった。

 

 しかし。

 

 ずるり。

 

 右足を、何かに取られた。

 

 次の瞬間、恭也の身体は浮遊感に襲われる。

 

 だが、それも一瞬だった。強い衝撃と共に、腰に鋭い痛みが走る。

 

 何が起こったんだ? 痛みでいくらか冷静さを取り戻した恭也は、ライトで辺りを照らした。五十メートル四方の広場だった。奥にプレハブ小屋らしき建物があり、そのそばには、軽トラックが一台停められている。黄色と黒の縞々のプレートがぶら下がったバリケートやフェンスにカラーコーン、ブロックや鉄板などの資材と思われるものも置かれてある。工事現場のようだ。振り返ると、恭也の身長の倍ほどの高さの崖がそそり立っていた。どうやら、足を滑らせて落ちたらしい。幸い高さはそれほどでもない。骨が折れたりはしていないだろう。

 

 空を覆う樹々の葉が無くなったため、見上げると、煌々と輝く満月と星々が見えた。ライトが無くても月明りで行動できそうである。

 

 と、また銃声が鳴り響いた。のんきに星空を見上げている場合ではないことを思い出す。あの警官が追ってきたのだ。腰の痛みに耐え、恭也は再び走り出す。どさり、と、背後で警官が飛び降りた音が聞こえた。とっさにライトを消す恭也。月明りに照らされているとはいえ、広場は薄暗い。少し離れれば、闇に身を隠すことは可能だろう。思った通り、警官はライトで周囲を照らし、恭也を探している。

 

「おと……なしく……出て……来なさい……」

 

 相変わらずたどたどしい口調の警官。警官のいうことを聞かなければ公務執行妨害の罪になるが、無抵抗の高校生に向かって銃を撃つ警官の言うことなど聞けるはずもない。そのまま息をひそめる。しかし、このままではすぐに見つかってしまう。どこかに身を隠さなければ。恭也は気配を消したまま、プレハブ小屋に近づいた。スライド式のドアに手をかける。鍵はかかっていない。そっとドアを開け、滑り込むように中に入ると、静かにドアを閉めた。警官は、広場を探している。どうやら隠れる所は見られなかったようだ。恭也は大きく息を吐き出した。いつの間にか、呼吸をするのも忘れていた。

 

 警官の足音が聞こえる。移動しはじめたようだ。そのまま立ち去ってくれれば――恭也の願いは届かない。足音は、こちらに近づいてくる。

 

 ――しまった。恭也は、自分が愚かなミスを犯していることに気が付いた。広場に恭也の姿が無ければ、警官は、当然周囲を探し始める。このプレハブ小屋など、真っ先に目を付けられるだろう。プレハブ小屋は小さなもので、六畳ほどの広さにロッカーと机があるだけだ。ロッカーは小さくて身を隠せそうにないし、仮に隠せたとしても、すぐに見つかってしまうだろう。他に出入口は無い。窓はあるが、ドアのすぐ隣だから、ドアから出るのと大差はない。つまり、逃げ場がない場所に逃げ込んでしまったことになる。隠れるならば、他の場所にするべきだったのだ。

 

 警官の足音が、ドアの前で止まる。

 

 もうダメだ――そう思ったが。

 

 警官は、そのまま離れて行った。中を覗くことも無かった。

 

 助かった。そう思ったが、安堵よりも疑問の方が強かった。警官はなぜ、中を確認しなかったのだろう? 恭也はドアに鍵をかけていないから、簡単に開けることができたはずだ。それなのに、ドアを開けず、開けようともせず、離れて行った。

 

 恭也は窓から外の様子を窺った。警官は、ライトで周囲を照らしながら、時折、あのひきつった不気味な笑い声をあげたり、ろれつの回らない口調で投降を呼びかけたりしながら、広場を歩き回っている。恭也を探している、という感じではない。このプレハブ小屋だけでなく、軽トラックや資材の陰など、隠れる場所は沢山あるが、それらには全く注意せず、ただ、徘徊しているだけである。

 

 そこで気が付いた。あの警官は、正常な状態ではない。恐らくは危ない薬でもやっているのだろう。だから、隠れそうな場所を探す、ということまで、頭が回らないのだ。

 

 いくらか安心した恭也だったが、だからといって事態が好転したわけではない。頭のおかしな警官が銃を持って自分を探していることに変わりは無いのだ。いつまでも隠れていられるものでもないだろう。なんとかして逃げ出さなければ。恭也は慎重に外の様子を窺った。広場の出口は、プレハブ小屋の反対側だ。警官のスキを突いて走れば気づかれずにたどり着けそうだが、残念ながらフェンスで閉ざされている。恐らく鍵がかけられてあるだろう。乗り越えられない高さではないが、さすがに気付かれるだろうし、登っている途中で撃たれると危険だ。フェンスの左側は崖になっている。耳を澄ますと、大量の水が流れる音が聞こえた。恐らく崖の下は川だ。思い切って飛び込んでみようか? いや、崖の高さも川の深さも流れの速さも確認しないで飛び込むのは、あまりにも危険すぎる。何か、他に方法はないのか? 恭也は、部屋を見回した。机の上に、車の鍵が置かれてあった。外の軽トラックの鍵だろうか? 恐らくはそうだろう。あのトラックを使って、出入口のフェンスを突破できないだろうか? 名案のように思えた。工事現場を囲むフェンスが、車のぶつかる衝撃に耐えられるほど頑丈だとは思えない。よし、それで行こう。恭也は、車の鍵を手に取った。警官の様子をうかがう。しばらく広場を徘徊していた警官は、プレハブ小屋の反対側の崖の方へ歩いて行った。恭也に背を向ける格好だ。

 

 ――今だ。

 

 恭也は静かにドアを開け、外に出た。隣の軽トラックのドアに鍵を刺す。ゆっくりと捻ると、がちゃり、と音がして、回った。よし。鍵を抜き、ドアを開け、素早く中に入る。ドアを閉める音で気づかれる可能性があるので、開けたままにしておく。ハンドルを握り、ペダルに足を置いた。

 

 しかし、恭也は十六歳の高校生だ。決して優等生ではなかったが、無免許で車を乗り回すような不良でもない。車の運転経験など無かった。父親の運転する車に乗った時の記憶を頼りに、ハンドルのそばにあった鍵穴に鍵を差し込む。これを捻れば、エンジンがかかるはずである。不注意な警官もさすがに気づくだろう。だから、エンジンがかかったら、ギアを入れ、アクセルを思いっきり踏んで、フェンスを突破しなければならない。恭也は、大きく息を吸い込み、鍵を捻った。エンジンが唸り声を上げる。崖のそばにいた警官が振り返った。恭也はギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。

 

 しかし、軽トラックは唸り声を上げるだけで、走り出さない。どうなっている!?

 

 軽トラックのエンジン音をかき消すかのように、広場に銃声が鳴り響く。

 

 同時に、フロントガラスに大きな穴が開いた。撃ってきた!

 

 幸い弾は恭也に当たることはなかったが、このままではマズイ。さらにアクセルを踏み込む恭也。しかし、軽トラックはいっこうに進む気配を見せない。銃を構えた警官が近づいてくる。早くしなければ! でも、どうして進まない? 車内を見回す。ギアのそばのサイドブレーキが目に入った。これか!? サイドブレーキを下げる。アクセルは踏み込んだままだ。急発進する軽トラック。正面には、銃を構えている警官が――。

 

 想像していたよりも、あまりにも軽い衝撃が、ハンドルを通じて恭也の腕に伝わる。

 

 すぐにブレーキを踏む恭也。軽トラックは、がりがりと嫌な衝撃を伝え、なんとか停まった。

 

 正面を見るが、先ほどの銃弾でフロントガラス一面にひびが入っているため、よく見えない。

 

 ただ、警官がそれ以上発砲してくることはかなった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 須田恭也 上粗戸/眞魚川護岸工事現場 前日/二十三時五十九分二十四秒

 須田恭也は軽トラックを降り、ライトを正面の暗闇へ向けた。警官が横たわっている。その頭の付近に、赤黒い液体がじわじわと広がっていた。あれはまさか、血だろうか?

 

 先ほど、いきなり銃を発砲してきたこの警官から逃れるため、恭也は工事現場に駐車されてあった軽トラックに乗りこんだ。まだ十六歳の恭也に運転の知識は無く、アクセルをおもいっきり踏み込んだままサイドブレーキを解除してしまい、軽トラックは勢いよく走り出した。そして、進路上にいた警官を跳ね飛ばしてしまったのだ。

 

「あ……あの……大丈夫……ですか……?」

 

 恐る恐る声を掛けるが、警官は、まるで死んだように動かない

 

 ――死んだように?

 

 恭也の背中を冷たいものが走った。俺はいま、車で人をはねたのだ。とんでもないことになった。事故とは言え、人を一人殺してしまったかもしれない。だが、これは俺が悪いのだろうか? 相手はいきなり発砲してきたのだ。逃げなければ、撃たれていただろう。逃げる方法は他に無かった。こうするしかなかったのだ。いや、今はそんなことはどうでもいい。助けを呼ばなければ。一一〇番通報か? それとも、救急車か? 判らない。どうすればいいのか、何も判らない。

 

 ――と。

 

 地面が、小さく揺れている。

 

 ――地震? そう思った瞬間、揺れは大きく、耐えがたいものになる。とても立っていられない。尻餅をついて倒れる恭也。

 

 揺れは大きかったが、すぐに治まった。ぽつり、と、顔に水滴が当たった。途端に、水滴が次々と降り注ぎ、恭也の顔を、地面を、倒れた警官を、濡らす。雨が降り始めたようだ。

 

 

 

 恭也は気づかない。先ほどまで雲ひとつ無かった星空が、一瞬にして、闇よりも暗い黒雲に覆われたことに。

 

 恭也は気づかない。降り注ぐ雨が、血のように深い朱色であることに。

 

 恭也は気づかない。自分が、決して戻ることができない世界に、迷い込んでしまったことに。

 

 

 

 突然。

 

 周囲に、獣が鳴き叫ぶような声が響き渡った。

 

 再び、頭を引き裂かれるような痛みに襲われる恭也。

 

 獣の鳴き叫ぶ声は、高く、大きくなる。それにつれて、恭也の頭の痛みも耐え難いものになっていく。

 

 獣の鳴き叫ぶ声――いや、これは、サイレンの音か?

 

 サイレン。危険を知らせるための音。さっきの地震のためか? それにしても、あまりにも大きな音だ。まるで、地の底から天に向かって危険を知らせているかのような――。

 

 サイレンはしばらく鳴り続けていたが、徐々に小さくなっていく。

 

 それにつれ、恭也の頭を襲う痛みも、治まっていく。

 

 やがて、サイレンの音は聞こえなくなった。

 

 雨は降り続いている。

 

 頭を上げた恭也が目にしたのは、ゆっくりと立ち上がる、警官の姿だった。

 

 ――良かった! 生きていた!! とは思わなかった。

 

 その顔は、どす黒い、まるで生気を感じない色をしていた。墓からよみがえった死者のような顔色だ。そして、両目からは、赤い液体を流していた。血の涙――恭也は、そんなことを思った

 

 警官は、あの不気味な笑い声を上げながら、恭也に銃口を向けた。

 

 今度は、逃げ出すこともできない。

 

 銃声が鳴り響く。

 

 同時に、胸に、焼けた鉄の塊を押し付けられたような痛み。

 

 ――撃たれた、のか。

 

 胸を見ると、溢れ出した血が、服を染めている。

 

 地面が揺れている。また地震か? いや、揺れているのは地面ではない。自分自身だ。足に力が入らない。フラフラと、後ろに下がる恭也。

 

 ずるり。また、何かに足を取られ、浮遊感。

 

 空が遠ざかっている。自分は、崖下に落ちているのか。

 

 そう思った瞬間、全身に激しい痛みが走り。

 

 恭也は、意識を失った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 須田恭也 大字粗戸/眞魚川岸辺 初日/二時二十八分十三秒

 雨は、降り続いている――。

 

 

 

 須田恭也は、真冬の雪山に放り出されたかのような耐えがたい寒さで目を覚ました。身体を起こす。衣服が異常に重かった。ねっとりと身体にまとわりついている。水に濡れているようだ。足元は、スネの近くまで水の流れを感じる。どうやら、川の中にいるようである。

 

 それで、思い出した。

 

 自分は、頭のおかしな警官に追われ、銃で撃たれて、崖下に落ちたのだ。

 

 だが、不思議なことに、痛みを感じない。

 

 撃たれたはずの胸に手を当てる。傷は、無い。撃たれたと思ったのは気のせいだったのだろうか? その割には、銃弾が命中した時の強烈な痛みをハッキリと思い出せる。それに、傷こそないものの、シャツの胸の部分には大きく穴が開き、その周囲は血で染まっていた。それはまるで、撃たれた後、傷がすぐに治ったかのようだ。訳が判らなかったが、とりあえず無事だったことに安心する。

 

 ぶるっと、身体が震えた。寒い。腕時計を見ると、二時半少し前だ。二時間半ほど、川の中で気を失っていたことになる。今が八月で良かった。真冬なら、間違いなく凍え死んでいただろう。

 

 とりあえず川から上がろう。前を見ると、川辺にライトが落ちていた。恭也は川の水を蹴るようにして歩き、ライトを拾った。

 

 ライトが、水面を照らす

 

 ――え?

 

 川の水は、真っ赤に染まっていた。

 

 深い、あまりにも深い、赤。

 

 それは、血の色に似ていた。

 

 ――血塗れの集落。

 

 その言葉が、頭をよぎる。自分がこの村に来た理由を思い出す。

 

 ……朽ち果てた家屋が立ち並ぶその村には、いたるところに血まみれの着物が散らばっている……血まみれの幽霊を見た……三十三人殺し……土砂災害で消滅した村……。

 

 この川の赤い水は、まさか、本当の、血――?

 

 言い知れぬ恐怖に襲われ、恭也は走り出した。血の川から少しでも遠ざかりたかった。森の中をがむしゃらに走った。

 

「――――っ!」

 

 また、あの、頭を引き裂かれるような痛みに襲われる。

 

 走っていられなくなり、頭を抱えてひざまずく。

 

 そして、また感じる。自分を見ている他人の意識が、脳内に流れ込んで来る、あの感覚。

 

 ――いや。

 

 今度は、はっきりと見えた。

 

 苦しそうに頭を抱え、ひざまずく少年の姿。その服装は、恭也が着ているものと全く同じだ。背を向けているから顔は見えないが、恐らく恭也自身だろう。背後から誰かがビデオカメラで撮影している映像を、モニターで見ている、そんな感覚だ。

 

 がさり、と、草を踏む音とともに、背後に人の気配を感じた。

 

 まさか、あの、頭のおかしな警官が追って来たのか!?

 

 弾かれたように振り返る。同時に、頭の痛みは消え、背を向けていた自分の姿の映像も消える。

 

 現れたのは警官ではなかった。赤い修道服にベールをかぶった女性。見覚えがあった。たしか、森の中で奇妙な儀式をしていたあの村人たちの中にいた。この人も、儀式を邪魔されたことに怒り、自分を射殺するために追って来たのだろうか。

 

「あ、あの……俺……何も知らなくて……だから……」

 

 許しを請う恭也。

 

 だが、修道服の女は顔を覆うベールを取り、怯える恭也に対し、優しく微笑みかける。

 

「落ち着いて。大丈夫だから」

 

 そのほほ笑みは、慈愛に満ちた聖母のようだった。恭也の恐怖心を一瞬にして取り除くほどに。

 

 安堵感から全身の力が抜けた。立っていられなくなり、その場にへたり込む。

 

 修道服の女を見る。年齢は三十代だろうか? 優しさに溢れた笑顔に、恭也は心を奪われそうになる。

 

「あなた、村の人じゃないでしょ?」修道服の女は、微笑んだまま言う。「どこから来たの?」

 

「あ、えっと……東京から来ました。夏休みを利用して、自転車旅行に」とっさに嘘をついた。インターネットのくだらない怪談話の確認に来たとは、言えなかった。

 

「それで、たまたま広場の儀式を見たんだ」くすりと笑う女。どこか、あどけない姿だった。さっきは三十代くらいに見えたが、今は、二十代、いや、恭也と同世代にも見える。

 

「すみません。邪魔をするつもりはなかったんですけど……」

 

「いいのよ。あなたに悪気があったわけではないし」女はほほ笑みを浮かべたまま言う。どうやら、怒ってはいないようだ。「でも、村の人たちはかんかんよ? あなたに見られたせいで、儀式が失敗したんじゃないか、って」

 

「儀式が失敗? そんな……」

 

「気にしないで。よその人に見られたくなかったのは確かだけど、それで失敗するようなものではないから」

 

 そう言われ、恭也は安堵の息を洩らした。

 

「でもね――」修道服の女の表情が、少し曇る。「ちょっと、困ったことになってるの」

 

「困ったこと……なんですか?」

 

 恭也の問いに、女は応えなかった。逆に問いかけてくる。「怪我をしてるようだけど、大丈夫?」

 

「これ、ですか」恭也は胸を触る。「拳銃で撃たれたと思ったんですけど、傷が無くなってて。でも、服は破れてるし、血が出たあともあって、もう、何が何だか……」

 

「撃たれた……誰に?」

 

「若い、男の警官でした」

 

「若い男の警官……石田さんだわ」あごに手を当てる女。どうやら知っている人らしい。

 

「あの人、絶対おかしいですよ!」警官の狂行を思い出し、興奮してくる恭也。怒りをぶつけるように言う。「気味の悪い笑い声をあげてて、いきなり、拳銃を撃って来たんですよ!? きっと、危ない薬をやってるに違いないです!」

 

「落ち着いて」笑顔を向ける女。「石田さんは、この村の駐在員なの。ちょっとお酒好きで、酔っぱらうと人に絡む悪いクセがあるけど、普段は仕事熱心で、優しい人よ。それが、いきなり銃を撃ってきたなら……もう、人間じゃないのかもしれない……」

 

 また、女の表情が曇る。人間じゃないのかもしれない。その言葉の意味が、恭也には判らなかった。

 

「どこで撃たれたの? 場所は、判る?」女が言う。

 

「判りません。でも、儀式をやっていたあの広場からは、そんなに離れてないと思います。川沿いの、工事現場みたいでした……」

 

眞魚(まな)川の護岸工事の現場ね。ここから、そう離れていないわ。彼、まだ近くにいるかもしれない」

 

 彼――あの頭のおかしな警官が、まだ近くにいる。また、胸に恐怖がよみがえる。

 

「待って、調べてみる」女はそう言うと、目を閉じた。

 

 そして、そのままじっとしている。

 

「あの、調べてみるって、どうやって――」恭也が訊いたが。

 

「静かに」

 

 そう言われ、恭也は口をつぐんだ。

 

 女はしばらく目を閉じたままじっとしていた。まるで、周囲の気配でも探っているかのようだ。真剣な表情。そこに、さっきまでの慈愛に満ちた表情や、子供のようなあどけなさは無い。こうして見ると、年齢は三十代よりもっと上のようにも思える。四十代、あるいは、五十代に見えなくもない。どうも、年齢のはっきりしない人だ。

 

 やがて、女は目を開けた。「――近くにいるわ。ここにいると、見つかってしまうかも」

 

 近くにいる? 恭也は慌てて周囲を見回した。

 

 だが、樹々が生い茂るだけで、人の姿は見えない。気配も感じない。

 

「大丈夫。まだ、見つかるような距離ではないから」女はまたほほ笑んだ。

 

 近くにいるのが判るのに、まだ見つかるような距離ではない? どういうことだろう? 恭也には、意味が判らなかった。

 

「詳しいことは後で説明するわ。とにかく、ここは危険だから、行きましょう。ついて来て」

 

 女は歩き始めた。判らないことだらけだったが、またあの警官に会うのはごめんだし、修道服の女は悪い人ではなさそうだ。恭也は、彼女について行くことにした。

 

 修道服の女は、八尾(やお)比沙子(ひさこ)と名乗った。眞魚(まな)教の求導女(きゅうどうめ)だと言う。眞魚教というのは、羽生蛇村に古くから伝わる独自の宗教で、求導女とは、他の宗教で言うところの修道女のような存在であるらしい。

 

 比沙子は暗い森の中を、明かりも持たずに先導して歩いていた。時間は深夜二時。雨が降り続いているから空は雲に覆われているだろうし、そうでなくても木々の生い茂る森の中だ。明かりが無い状態では真っ暗で何も見えなくなるはずだが、比沙子はためらうことなく進む。木や岩などの障害物にぶつかることもない。まるで、全てが見えているかのような足取りだ。試しに、恭也もライトを消してみた。一瞬真っ暗になったが、すぐに、ぼんやりと周囲の様子が見えてくる。はっきりと見えるわけではないが、注意すれば、十分歩けるだろう。しかし、なぜだ? 周囲に明かりらしきものは何も無い。こんな暗がりで、見えるはずがないのだが。

 

 やがて二人は森を抜け、川沿いのちょっとした河川敷のような場所に出た。コンクリートで舗装された細い道があり、その横には、三メートルほどの高さの堤防がある。

 

 恭也はライトを点け、川の水面へ向けた。血のように赤い水が流れている。さらに恭也は、降り注ぐ雨も、川の水と同じように赤い色をしていることに気が付いた。赤い川に、赤い雨。これは、一体なんなのだろう?

 

「あの、この川、どうしたんですか? それに、雨も」恭也は比沙子に訊いてみた。しかし。

 

「しっ。静かに」人差し指を鼻に当てる比沙子。「ライトも消して」

 

 言われるままにライトを消す恭也。

 

 比沙子はまた目を閉じ、何かを探るように、集中する。

 

「ダメだわ。ここも、ヤツらでいっぱいみたい」目を開けた比沙子が言った。

 

「あの、さっきから、それ、何をしてるんですか?」

 

「うーん。これは、ちょっと説明が難しいんだけど……」困ったよう比沙子の顔が、何かを思いついたような表情になる。「そういえばあなた、さっき、あたしと共鳴したわよね?」

 

 共鳴? 何のことだろう? 判らないので黙っている。

 

「頭が痛そうだったけど、あの時、なにか、おかしなものが見えなかった?」

 

 比沙子の言葉には思い当たることがあった。そうだ。あの、強烈な頭痛に襲われた時、頭をおさえて苦しむ自分の姿が見えた。あれは一体なんだったのか。そして、比沙子はなぜ、おかしなものが見えたのを知っているのだろう?

 

「……そう、見えたのね」戸惑う恭也の表情を見て、比沙子は悟ったらしい。一瞬、残念そうな顔になるが、すぐにまた笑顔に戻る。「それは、『幻視(げんし)』という能力よ」

 

 幻視? 能力? この人は、何を言っているのだろう?

 

「実際にやってみるといいわ。目を閉じてみて」

 

 訳が判らなかったが。恭也は比沙子に言われた通り、目を閉じた。

 

「そのまま、意識を、あたしに集中してみて」

 

 その通りにする恭也。目を閉じたまま、比沙子の気配を探るように、集中する。

 

 すると、突然、目の前に自分の姿が映った。

 

「――え!?」

 

 驚いて目を開ける。優しく微笑む比沙子がいる。

 

 今のはなんだ。もう一度目を閉じる。やはり見える。目を閉じた自分自身の姿が。

 

「それが、幻視よ」比沙子が言った。「あたしが見ているものが、あなたにも見えるの」

 

 比沙子の見ているものが、俺にも見える? そんなバカな?

 

 とても信じられなかった。だが、実際に目を閉じると、自分の姿が見えるのだ。

 

「すべて、この赤い水のせいよ」比沙子は川に手を向けた。「この赤い水が身体の中に入ると、こういった、不思議なことが起こるの。銃で撃たれた傷が治ったのも、水の力だと思う。流れた血の分だけ、水が、あなたの身体に入ったんだわ」

 

「この水は、何なんですか……?」目を開け、川を見る恭也。

 

「それはあたしにも判らない。ただ、傷が治るとはいえ、これ以上は水を体内に取り込まない方がいいわ。さもないと……」声のトーンが下がる比沙子。しかし、すぐに元の声に戻る。「ううん、何でも無い。それより、あたしの他にも、いくつか気配を感じなかった? 探ってみて」

 

 他の気配? 恭也は再び目を閉じた。比沙子から意識を外す。すると、目を閉じた自分の姿は消え、何も見えなくなった。

 

「そのまま、遠くに意識を送ってみて」

 

 比沙子の言葉通りにする。それは、アナログのラジオのチューナーを合わせる作業に似ていた。しばらくは何も見えなかったが、まるで周波数が合ったかのように、ぱっと、映像が浮かび上がった。音も聞こえる。雨の降り注ぐ音、風の吹きぬける音、そして、獣のような、荒い息づかい。

 

 そこは、古びた家屋が立ち並ぶ広い道路だった。家屋はすべてシャッターで閉ざされている。タバコ屋や食堂などの看板が出ているので、お店のようだ。どこかの商店街らしい。この村にある商店街は、昼間、恭也が立ち寄った上粗戸(かみあらと)だけだ。どうやらあの商店街らしい。ならばこの映像は、商店街の人の視点か。

 

 相変わらず荒い呼吸を繰り返す音が聞こえる。この視点の主のようだ。何やら、かなり興奮している様子だ。

 

 ――え?

 

 それを見て、恭也は思わず声を上げそうになった。

 

 その人の右手には、包丁が握られていた。

 

 そこが、屋内の台所だというのなら判る。料理をしているのだろう。だが、視点の主がいるのは、道路の真ん中だ。包丁を握って立っていると、ちょっと問題がありそうだ。視点の主は荒い呼吸を繰り返し、時折唸り声をあげたり、奇妙な声で笑ったり、意味をなさない言葉をつぶやいたりしている。それは、恭也に向かって銃を撃ってきた、あの警官の様子に似ていた。

 

「見えたみたいね」比沙子が言う。「彼らはもう、人間じゃない」

 

 まただ。また、人間じゃないと言う比沙子。人間ではないのなら、いったい、何なのか。

 

 疑問に答えるように、比沙子は続けた。「――屍人(しびと)よ」

 

「しびと?」

 

「ええ。(しかばね)に、(ひと)と書くわ。文字通り、人の姿をした屍よ」

 

 屍――死んだ人の身体。まさか、一度死んだ人間がよみがえったとでもいうのだろうか? そんなバカな。冗談を言っているものと思い、恭也は笑った。つられて比沙子も笑う。そう思った。

 

 しかし、比沙子は真剣な表情のままだ。冗談を言っているようには見えない。

 

「――まあ、すぐに信じられないのも、無理はないわ」比沙子は視線を足元に落とした。「今は信じなくてもいい。ただ、危険な相手だということだけは、覚えておいて」

 

 確かにその通りだった。ヤツらが生きているか死んでいるかは問題ではない。重要なのは、ヤツらは頭がおかしいということだ。

 

 比沙子が、一瞬だけ目を閉じた。「マズイわ。石田さんが来てる」

 

 石田さん。あの警官だ。恭也は意識を背後に向けた。しばらく探る。いた。拳銃を持ち、森の中を進んでいる。

 

「危険だけど、進むしかないわね。この向こうの通りを抜けて、西へ進めば教会があるの。そこなら安全だと思うわ。ついて来て」比沙子が走り始めた。恭也は目を開け、後を追った。

 

 しばらく走ると右手側に階段があり、堤防の上にあがれるようになっていた。比沙子に続いて階段を上がる恭也。しかし、比沙子は階段を上がりきらず、身を屈めて目を閉じた。ヤツらの気配を探っているのだろう。恭也も目を閉じる。さっきの包丁を持った屍人の映像が見えた。場所を移動したようで、家屋のそばの堤防の上を見ている。

 

 あの堤防は、いま自分たちがいるこの堤防だろうか? そうだとしたら、このまま階段を上がると、見つかってしまう。

 

「通りは進めないわね」比沙子が言った。「裏道があるから、そこから行きましょう」

 

 比沙子はそのまま目を閉じている。恭也も意識を集中する。

 

 しばらくすると、包丁を持った屍人の視線が堤防から外れ、反対側を向いた。

 

「今よ」

 

 比沙子が走り出す。堤防を越え、道路を渡り、正面の食堂らしき建物のそばの細い道に入る。恭也も目を開け、比沙子の後を追う。なんとか見つからずに移動できた。

 

 と、食堂の建物を見て、恭也は違和感を覚えた。

 

 建物が、あまりにも古い。

 

 上粗戸の商店街は、旧大字粗戸(おおあざあらと)の商店街が二十七年前の土砂災害で消滅し、その後、区画整理で今の商店街が作られた、と、インターネットには書いてあった。できてからまだ十年ほどしか経っておらず、建物は皆、比較的新しく、コンクリート製のものがほとんどだった。

 

 しかし、いま恭也のそばにある食堂は、今にも崩れそうな古い木製の建物だ。そう言えば、さっき包丁を持った屍人の視点で見た商店街も、全て、同じように木製の古い家屋ばかりだった。昼間見た光景と、あまりにも違うように思う。

 

「あの……」比沙子に訊いてみる。「ここって、上粗戸の商店街ですよね?」

 

「そうよ。よく知ってるわね」

 

「村に来る前に、インターネットでいろいろ調べたんです。でも、俺、昼間ここに来たんですけど、こんな古い商店街じゃなかったと思うんですけど」

 

「そうね。あたしも、この商店街に来たのは、二十七年ぶりだわ」

 

 二十七年ぶり……土砂災害のあった年だ。しかし、あの災害で、旧大字粗戸の商店街はすべて土砂に飲み込まれたと聞いている。どういうことだろう? 相変わらず、比沙子の言うことは判らない。

 

「ごめんなさい。話すと長くなるから、詳しくは、教会に着いてからね」

 

 歩きはじめる比沙子。疑問は尽きないが、確かに、今は安全な場所へ移動する方が良いだろう。

 

 食堂の横の細い道は、そのまま表の道路と並行するように続いていた。比沙子と二人で進んで行く。

 

 比沙子が立ち止まった。「――この先にも一人、いえ、二人いるわね」

 

 恭也は目を閉じ、気配を探った。すぐに見つける。一人は、畑のような場所にいる。鎌を持ち、草を刈っているようだ。もう一人は、商店街を見下ろす高い場所にいた。その手には、なんと、猟銃が握られている。羽生蛇村は山奥の村だから猟師がいても不思議ではないが、驚かずにはいられない。あんなもので襲われたら、ひとたまりもないだろう。

 

「見つかると厄介だから、慎重に行くわよ」比沙子が言った。

 

 言われるまでもない。どちらの視点の主も、石田という警官や、通りにいた包丁を持ったヤツと同じく、興奮気味に大きく息をし、時折笑ったり意味不明な言葉を口にしたりしている。どう考えても関わらない方がいい。

 

 身を屈め、ゆっくりと進んで行く比沙子。恭也もそれに倣う。食堂の隣は生垣になっていた。しゃがんでいるから向こう側は見えないが、幻視をしなくても、あの狂ったような笑い声が聞こえる。どうやら、鎌を持った屍人はこの向こうにいるようだ。息を殺し、進む恭也。なんとか気づかれず、生垣のそばを通り抜ける。その先には十メートルほどの高さの(やぐら)が見えた。猟銃を持っている屍人は、あの上にいるようだ。再び幻視を使う恭也。幸い、猟銃を持った屍人は遠くを見張っているようで、足元には注意していない。二人はそのまま進み、櫓のすぐ下を通り抜けた。

 

 やがて、裏道は表通りと合流する。この先には、もう気配を感じない。安堵する恭也。比沙子の顔にも笑顔が戻る。

 

 しかし、通りを進んだ二人は、驚いて立ち止まる。

 

 道が、たくさんの板を張り合わせて作ったバリケードで塞がれていたのだ。

 

「ヤツらが作ったのかしら」比沙子がバリケードに触れる。「とても進めそうにないわね」

 

 バリケードの高さは五メートル以上あるだろう。乗り越えられる高さではない。戻るしかないのだろうか? この村の地形には詳しくないが、恐らく教会へは遠回りになるだろう。もちろん、今やり過ごしたヤツらのそばを、また通らなければならない。それは、あまりにも危険だ。

 

 比沙子は道路の横を見ている。そこは、コンクリートで舗装した三メートルほどの高さの崖になっており、その上はフェンスで囲まれている。フェンスの向こうは木々が生い茂る山だ。

 

「……確かあの頃、子供たちが、近道だって、言っていたわね」つぶやくように言う比沙子。「この上に、上がれないかしら?」

 

 恭也は崖を見上げる。三メートルの高さのコンクリートの壁を上るのは難しい。だが、子供たちが近道だと言っていたなら、簡単に上れる場所があるのかもしれない。周囲を見回した。少し離れたところにバス停があり、そのそばに、トタンでできた小さな小屋があった。そこから上がれるかもしれない。やってみよう。恭也は小屋の屋根に手をかけ、懸垂の要領で屋根の上にあがった。そこから崖の上を見ると、フェンスに大きな穴が開いており、その向こうには細い山道が続いている。

 

「ここから行けそうです」小屋の下の比沙子に向かって言う。

 

「良かった。あたし一人じゃ上がれないから、引き上げてくれる?」

 

 恭也は、屋根の上から比沙子に向けて手を伸ばした。

 

 その時。

 

 身体が、ビクンと、大きく震えた。

 

 そして、一瞬だけ、別の映像が見える。

 

 それは、トタン製の小さな小屋の屋根の上の少年が、下にいる修道服姿の女性を引き上げようとしている姿。

 

 ――まさか!?

 

 周囲を見回す恭也。さっきの包丁を持った屍人が、こちらに向かって来ていた。マズイ! 見つかった!!

 

「早く引き上げて!」叫ぶような声の比沙子。

 

 恭也は比沙子の手を握り、力を込めた。

 

 しかし、一瞬遅かった。

 

 包丁を振り上げ、比沙子に斬りつける屍人。

 

「きゃあ!!」

 

 比沙子は手を離し、身をひるがえす。なんとか屍人の包丁をかわし、距離を取る。

 

 しかし、彼女の修道服の右袖の二の腕の部分が、大きく切り裂かれていた。そこから覗く白い肌に、細く赤い線が走る。線はじわじわと広がり、やがて、どろりとした液体が流れ落ちた。比沙子の顔が恐怖に歪む。

 

 血を見て興奮したのか、屍人は、まるで獣の遠吠えのように、空に向かって吠えた。その顔色は土のように暗く、目からは、血の涙を流している。あの石田という警官と同じだ。屍人は再び包丁を振り上げた。助けなければ! こちらはほとんど丸腰だが、見捨てて逃げ出すわけにはいかない。屋根から飛び降りようとした時。

 

 また、身体が大きく震えた。

 

 そして今度は、高い場所から恭也を見下ろす映像が見えた。櫓の上の、猟銃を持った屍人だ!

 

 映像は消え、銃声が鳴り響く。同時に、トタン屋根の一部が弾け飛んだ。狙撃された! とっさに身を屈める恭也。それで身を隠せたのかは判らないが、二発目の銃声は鳴らなかった。弾を込めているのか、あるいは、櫓を降りているのかもしれない。何にしても身動きが取れない。包丁を持った屍人は、今にも比沙子に斬りつけようとしている。一か八か、跳びかかるしかないのか?

 

 ――と。

 

 怯えた比沙子の表情が、変った。

 

 冷たく、鋭い目で、包丁の男を睨む。

 

 その姿に、さっきまでの優しく微笑む比沙子の面影は無かった。屈強な男でさえすくみ上がってしまう、そんな、鋭い視線だ。包丁を振り上げた屍人の足が止まる。恭也さえも、思わず動けなくなってしまった。

 

 比沙子は、その華奢な身体からは想像もつかないような、低く、恐ろしい声で、言う

 

「立ち去りなさい……今すぐに!!」

 

 屍人は、包丁を振り上げたまま後退りする。震えている。比沙子に対し、恐怖を感じているようだ。

 

 屍人は、比沙子から十分に距離を取ると。

 

 背を向け、早足で、川の方へ戻っていった。

 

 ふうっ、と、大きく息を吐き出す比沙子。表情は、さっきまでの、優しい笑顔の比沙子に戻っていた。呆然とその姿を見つめる恭也。

 

「恭也君? 大丈夫?」

 

 不思議そうな顔で見上げている。

 

「あ、え……と……はい。俺は大丈夫です」思うように声が出てこない恭也。「その……比沙子さんの方こそ、ケガは、大丈夫ですか?」

 

「ケガ? ああ、これね」比沙子は、右腕を見せた。斬り裂かれた袖の間から見える二の腕には、べっとりと血が付いている。しかし、比沙子が左手で血を拭うと、その下からは、傷一つない肌が出てきた。「かすっただけよ。この程度の傷なら、すぐに治るわ。赤い水の力で、ね」

 

 何と言っていいか判らず、恭也はただ黙っている。

 

「ゴメン。ヤツらが戻って来るといけないから、早く引き上げてくれる?」笑顔で言う比沙子。

 

 恭也は、言われるがままに、比沙子を引き上げた。

 

「ありがとう。さあ、行きましょう」

 

 比沙子は屋根からフェンスの穴を潜り、何事も無かったかのように歩き出す。

 

 しばらく立ち尽くしていた恭也だったが、我に返り、後を追った。

 

「――あの、比沙子さん」後ろから声をかける。

 

「何?」立ち止まり、振り返る比沙子。

 

「さっきのは、一体……?」

 

「さっきのって?」

 

 訊いていいものかどうか迷う恭也。恐る恐る、口にする。「その……あいつら、どうして、急に逃げ出したんですか?」

 

「驚かせちゃったかしら? ごめんなさい。あたし、怒ると結構怖いって、みんなからよく言われるの」

 

 比沙子は、おどけたように笑った。

 

 恭也はあいまいに笑う。怒ると怖い……そんなレベルではなかったように思う。あの時の比沙子は、豹変していた。まるで、別の人格が乗り移ったかのようだった。

 

 比沙子は相変わらず聖女のような笑顔を浮かべている。さっきまでは、求導女という名にふさわしい、慈愛に満ちた笑顔だと思っていたが、今は、その笑顔に、得体の知れない恐怖を感じる。

 

「教会はまだ遠いから、急ぎましょう」

 

 再び歩き出す比沙子。恭也は、黙って後を追った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 竹内多聞 大字波羅宿/耶辺集落 初日/二時十八分三十四秒

 竹内(たけうち)多聞(たもん)は羽生蛇村の南に位置する細い県道の真ん中に立ち尽くし、目の前に広がる光景に愕然とした。ほんの二時間ほど前、この場所からは、山のふもとの街を見下ろすことができた。しかし今は、見渡す限りの赤い水で覆われている。水――いや、それはもはや海だ。突如出現した、赤い海。

 

 それは、深夜〇時を回った頃だった。大きな地震があり、続いて、地の底から聞こえるかのようなサイレンの音が鳴り響いたのだ。そのサイレンは、頭を叩き割られるかと思うほどの大きな音で、強烈な頭痛により多聞は意識を失い、気が付くと、ふもとの街が海に飲まれて消えていたのである。

 

「先生……これ……ヤバくないですか……?」

 

 竹内の隣で、安野(あんの)依子(よりこ)も、目の前の光景が信じられないのか、掛けている黒縁のメガネを何度もハンカチで磨き、ぱちぱちと瞬きをしている。当然、見間違いなどではない。

 

「まさか……さっきの地震で、津波が発生したんじゃ……」安野は息を飲む。

 

 津波……いや、あり得ない。この羽生蛇村は、山に囲まれた内陸の村だ。標高は、最も低い場所でも三百メートル以上ある。そんな津波に襲われたら、日本の国土の大部分は海の藻屑となるだろう。それはもはや、ノアの方舟の大洪水だ。世界的に見れば、一九五八年、アメリカ・アラスカ州のリツヤ湾で発生した津波が、高さ五百二十四メートルまで達したという記録がある。しかしあれは、湾の一方にある山が地震の影響で千メートル四方に渡って土砂崩れを起こし、大量の土砂が湾に落ちたことにより、対岸に波が押し寄せた結果だ。地形が生み出した極めて特殊な例であり、通常、そこまでの高さの津波が発生するなどあり得ない。では、この赤い海はどう説明する? 竹内は、持てる知識を全て探り、納得できる説明を見つけようとする。

 

 

 

 

 

 

 竹内多聞は、都内にある私立城聖大学で民俗学を教える講師である。三十四歳という若さだが、学会では名の知られた存在だった。しかしそれは、決して良い意味ではない。彼の唱える学説は、良く言えば革新的、悪く言えば荒唐無稽で、学会ではどちらかと言えば異端視されていた。

 

 竹内がこの羽生蛇村を訪れたのは、この村で信仰されている眞魚(まな)教と、今夜、行われたであろう、眞魚教の秘祭の調査が目的だった。

 

 眞魚教は、羽生蛇村に古くから根づいている土俗信仰だ。大昔、天から舞い降りて来た『神』と、神と共に降りてきた『眞魚岩』と呼ばれる巨石を、信仰の対象としている。旧暦の大みそかに信者が川に身を鎮めたり、山に囲まれているにもかかわらず、通常は沿岸地域に多くみられる漂着神信仰の傾向が見られたりと、多少、奇妙な信仰と言えなくもない。しかし、土俗信仰とは大体そのようなものだ。奇妙な風習は特に珍しいわけではない。竹内が眞魚教の調査を行うのには、理由がある。

 

 四日前、竹内は、独自のルートから村で眞魚教の秘祭が行われるとの情報を入手した。

 

 眞魚教には、何年かに一度、村の権力者の娘を神の花嫁として常世に送るための儀式が行われるという話がある。常世とは、眞魚教では神の住む楽園とされている。要するに、村の娘を一人、神の生贄に捧げるのだ。残酷な行為ではあるが、歴史的に見て、このような儀式を行う宗教は珍しくない。ほんの百年もさかのぼれば、世界各地で行われてきたことだ。もちろん、現代においては許される行為ではない。ほとんどの宗教では廃止されているが、儀式として、形だけ行うことは、現代でもよくあることである。

 

 だが竹内は、眞魚教の儀式は、現代でも本来の形で行われているのではないか、と、睨んでいた。二十七年前、実際にこの羽生蛇村で、秘祭が行われたとの情報も掴んでいる。

 

 二十七年前――土砂災害に見舞われ、村がひとつ消滅した年だ。

 

 竹内は、こう考えている。

 

 二十七年前、村が土砂災害に見舞われたのは、儀式に失敗し、神の怒りに触れたからではないか、と。

 

 その真相を究明するため、竹内は、羽生蛇村を訪れたのである。

 

 

 

 

 

 

「――先生! なにボーっと突っ立ってるんですか! 早く逃げないと、津波に飲み込まれちゃいますよ!」

 

 考えを巡らす竹内の横で、安野は両手をブンブンと振って危険を訴える。

 

「落ち着け。これは津波ではない」考えを中断させられ、竹内は忌々しそうな口調で言う。

 

「あたしはいつも落ち着いてます! それより、これが津波じゃなきゃ、何なんですか!?」

 

「それを今考えているんだ。少し静かにしてくれないか」

 

「あたしはいつも静かにしてますよ! そんなことよりとにかく逃げましょうよ! 津波に飲み込まれたら、絶対助かりませんよ!?」

 

「だから、これは津波ではないと言ってるだろう。いいから、邪魔をしないでくれないか」

 

「あたしは今まで一度だって先生の邪魔はしてませんよ! とにかく逃げましょう! 早く!」

 

 ……ダメだ。コイツを黙らせるのは、自分の学説を学会の連中に認めさせるよりも難しいだろう。竹内は、大きくため息をついた。

 

 安野頼子は城聖大学の四年生で、竹内の教え子だ。学会だけでなく大学内でも教授や生徒から変人扱いされている竹内のことを、安野はどういうわけか慕っており、自称・助手として、今回の調査に勝手に同行してきたのだ。何度も追い返そうとしたが、今のような調子で聞く耳を持たず、結局ついて来てしまったのである。

 

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる安野を黙らせるのを諦め、竹内は考えを進める。

 

 二十七年前、この地域に発生した大規模な土砂災害で、村の大部分が消滅した。それがもし、眞魚教の儀式が失敗したことによる神の怒りだったのなら、さっきの地震と、この赤い海も、二十七年前と同じく儀式が失敗したことによる神の怒りではないのだろうか?

 

 竹内は、そう、仮説を立てた。

 

 一般的に考えれば、この仮説は荒唐無稽だ。地震により高さ三百メートルの津波が押し寄せたと考えた方が、まだ現実的であろう。このような説を大真面目に唱えるから、竹内は異端とされているのだ。

 

 もちろん竹内自身も、なんの根拠や証拠もなく、この仮説が正しいと言うつもりはない。説の正しさを証明するために、調査をしなければ。

 

 竹内は安野を見た。「私は村へ向かう。君は、車に戻って、大人しくしていろ」

 

「車はさっきの地震でひっくり返っちゃったじゃないですか。それに、こんな危険な場所にカワイイ女の娘を一人でおいて行くなんて、先生ヒドイです」

 

「村に向かう方が危険なんだ。それに、ここから一番近い集落でも、歩いて数時間は掛かる。途中で疲れたとかお腹が空いたとか眠いとか携帯が繋がらないとか騒がれては、たまらん」

 

「そんなこと言いませんよぉ」ぷくっと、頬を膨らませる安野。「それに、村なら、すぐそこにあるじゃないですか。ほら」

 

 安野は、赤い海の反対側を指さした。すぐそばに村がある? 何をバカな。竹内は振り返った。

 

「――――!?」

 

 その光景に、竹内は、赤い海を見た時以上の衝撃を覚えた。

 

 安野の言う通り、道の先には、棚田状になった山肌にへばりつくように、いくつかの家屋が立てられた集落が見える。

 

 ――バカな。この一帯の集落は、二十七年前の土砂災害で、消滅したはず……。

 

 この辺りは、昔、大字波羅宿(おおあざはらやどり)という小さな集落だった。しかし、二十七年前の土砂災害に飲み込まれて消滅し、近年の区画整理によって、下粗戸(しもあらと)と地名を変えた。現在は人は住んでおらず、道路が通っているだけの、何も無い地域だったはずだ。

 

 いったいどうなっているんだ。これも、神の怒りに触れたからか。

 

「なに変な顔してるんですか。さあ、村に行きましょう。きっと、みんな大騒ぎですよ?」

 

 安野は、村へ向かって歩く。

 

「ま、待て――」

 

 竹内が呼び止めようとすると。

 

「――――!!」

 

 強烈な頭痛が、竹内を襲った。

 

 それはまるで、撃ち込まれた銃弾が頭の中をぐるぐると何周も周回しているような、そんな激しい痛み。

 

「なに……これ……」

 

 安野も、頭を抱えて苦しんでいる。

 

 そして、次の瞬間。

 

 竹内の閉ざした目に、森を走る少女と白い犬の映像が映し出される。

 

 その映像は、すぐに別の映像に変わる。今度は、走る少女と白い犬を、追いかけている映像。獣のような息づかいも聞こえる。

 

 だが、それも一瞬だった。映像が消えた時、同時に、激しい頭の痛みも、嘘のように消えていた。

 

 ――今のはまさか……幻視か?

 

 竹内は考えを巡らせる。幻視の話は事前に聞いていた。さすがの竹内も半信半疑だったが、まさか、その現象を目の当たりにしようとは。

 

 今のが幻視ならば、あの少女と犬を追いかけていたのは、屍人――。

 

 竹内は、笑いがこみあげてくるのを抑えることができなかった。やはり、私の考えは正しかったのだ!

 

「……先生、なにニヤニヤしてるんですか。気持ち悪いですよ?」冷たい視線を向けている安野。コイツにそんな目で見られるいわれはないんだが。

 

 まあいい。口うるさいヤツだが、屍人がうろついている以上、一人でここに残しておくわけにもいかない。やれやれ、とんだお荷物を連れてきてしまったものだ。

 

 竹内は安野を見た。「私について来るのなら、どんな時でも、私の指示に従うんだ。判ったか?」

 

「言われなくても、あたし、先生の言うことは、いつも聞いてますよ?」平然と言う。判っていないようだが、今は時間が惜しい。

 

 竹内は足元に置いてあるバッグを開けた。中に手を入れたところで、もう一度安野を見る。安野は、じーっと、こちらを見ている。

 

「……安野」

 

「はい」

 

「少しの間、目を閉じ、向こうを向いていろ。絶対に、こっちを見るんじゃないぞ? 絶対にだ」

 

「はーい」

 

 幼い子供のように返事をし、向こうを向く安野。竹内は再びバッグを探り、中から、三角形の形に包装された紙包みを取り出した。包装紙を破る。中身は拳銃だった。モデルガンではなく、本物である。銃弾も用意してある。この村で秘祭が行われるのならば、屍人の有無にかかわらず危険であることは判っていた。だから、独自のルートで、事前に入手していたのである。

 

「先生。サバイバルゲームが趣味だったんですか?」

 

 背中越しに、安野が竹内の手元を覗き込んでいた。

 

「……絶対に見るなと言ったはずだが?」

 

「はい。絶対に見るなっていうのは、絶対に見ろっていうフリだと思ったので」

 

 どうして私がそんなお笑い芸人のマネ事をしなければならないのだ。竹内は、さっきとは別種の頭痛に、頭を抱えた。

 

「それより先生」

 

「なんだ」

 

「さっきからあたし、目を閉じると、変なものが見えるんです」安野は、実際に目を閉じた。

 

「変なもの? 何が見えるんだ?」

 

「今は、あたしの顔が見えます」

 

「それは確かに変なものだな」

 

「……どういう意味ですか。違いますよ。なんと言うか……そう、先生が見ているものが、あたしにも見えるんです。ちょうど、先生の視界を、ジャックしているような」

 

 ほう、と、竹内は初めて安野に感心した。勘は悪くないらしい。

 

「これって、何なんでしょう?」目を開け、頭を傾ける安野。

 

「幻視だ。詳しい理屈は私にも判らんが、この村に伝わる、特殊能力のようなものだ」

 

「特殊能力? それは、悪魔の実とか、念能力的なヤツですか?」

 

「よく判らんが、たぶんそうだ」

 

「やった。学校に帰ったら、みんなに自慢しよ。能力名は、視界ジャックっていうのでいいですかね?」

 

「……好きにしろ」

 

 嬉しそうにガッツポーズをする安野を見て、呆れた口調で言う竹内。さっきまで津波だ地震だと騒いでいたのに、この変りようだ。コイツに構っていると時間がいくらあっても足りない。さっさと調査を始めよう。竹内は、集落の方へ歩き始めた。

 

「あ、先生、待ってください」安野が追ってくる。「暗いですから、これ、どうぞ」

 

 安野は懐中電灯を二本取り出し、一本を竹内に渡した。幻視の影響からか、暗闇でもある程度見ることはできるが、ライトはあった方が心強い。竹内は、ありがたく使わせてもらうことにした。

 

 集落の前には北から南へかけて大きな川が流れている。羽生蛇村の中央を流れる眞魚川だ。川にはコンクリート製の古い橋が架けられてあり、橋を渡れば集落はすぐそこだ。

 

「……あれ? 変ですね」背後で、安野が不思議そうな顔で地図を見ていた。「ここって確か、下粗戸ですよね?」

 

「そうだ」

 

「地図では、この辺りはただの山道で、集落なんて載ってないです。地図が古いんでしょうか?」

 

「いや、恐らくは、逆だ」竹内は独り言のように言った。地図が古いのではない。地図が新しいから、この集落は載っていないのだ。

 

「へ? 逆ですか?」

 

 安野は地図を逆さにしたり、ひっくり返したりしている。そういう意味ではないが、説明している時間が惜しい。竹内は構わず、橋を渡ろうとした。

 

 突然、身体が大きく震えた。

 

 そして、竹内の目に、どこか高い場所から橋を見下ろす視点が映る。

 

 視点の主は、持っている猟銃を構えた。

 

 映像はすぐに消える。マズイ! 今のが幻視なら、ヤツが狙撃してくる!

 

「安野! 戻れ!!」

 

 叫ぶ竹内。安野は、状況が判らず、目をぱちぱちしている。竹内は安野の手を引き、走る。銃声が鳴り響いた。ほぼ同時に、竹内の右足に鋭い痛みが走る。

 

「――くそっ!」

 

 足を引きずりながら走り、竹内は岩の陰に身を隠す。

 

「先生! 足が!!」

 

 口元を押えて叫ぶ安野。幸い銃弾の直撃は避けられたが、右の腿が大きく裂けていた。

 

 安野はハンカチを取り出し、竹内の傷口に強く押しあてた。ほう、と、また竹内は感心する。かなりの出血だったが、それを見ても動揺せず、すぐに止血を始めた。適切な対応だ。医学部の生徒でも、いざとなったらこうはいかないだろう。

 

 おっと。感心している場合ではない。今、狙撃してきたやつが、まだ狙っているかもしれない。竹内は目を閉じ、敵の気配を探った。橋の向こう、十メートルほどの高さの櫓の上に、猟銃を構えている屍人の視点を発見した。橋に銃口を向けているが、岩の陰に隠れている竹内と安野の姿は見えない。狙撃することはできないだろう。やがて銃を降ろす。そのまま櫓を降りてこちらに来られると厄介だったが、屍人は、そのまま櫓に残り、周囲を見渡し始めた。竹内は、大きく息を付く。

 

「――どうしよう。こんなハンカチじゃ、止血しきれない」竹内の足の傷を押さえている安野は、止血できるものを探すように、周囲を見回した。

 

「いや、大丈夫だ」竹内はそう言った。安心させようとして言ったことではない。竹内には、本当に大丈夫だという確信があった。

 

「大丈夫って、そんな訳……あれ?」

 

 安野は、不思議そうな顔で足に当てているハンカチを離した。傷痕は消え、すでに出血は止まっていた。

 

 首をかしげる安野。「おかしいですね。ケガをしたと思ったんですけど、気のせいだったんでしょうか? でも、そのワリには、先生のズボンにもあたしのハンカチにも、血が付いてますけど」

 

「これも、この村に伝わる特殊能力のようなものだ。この程度の傷なら、すぐに治る」

 

「それは、クレア・ベネット的なヤツでしょうか? 大変です先生。その能力、敵に奪われると、取り返しがつきません。最優先で保護しないと」

 

 相変わらず何を言っているのか判らないが、いちいち相手にしていてはキリがない。竹内は安野の言うことを無視し、立ち上がった。もう一度目を閉じる。櫓の上の屍人は、油断なく周囲を警戒している。このまま橋を渡って進むのは危険だ。竹内は記憶を探る。彼には、突如現れたこの集落に関する古い記憶があった。確か、橋の手前には川に沿うように細い砂利道があり、少し川上へ行けば、小さな橋があったはずだ。

 

「川沿いに北へ向かう。安野。ヤツらに見つからないように、ライトを消せ」

 

「あ、はい」

 

 二人はライトを消した。

 

 再び幻視をする竹内。屍人の注意が橋から逸れたスキに走り出した。安野も後に続く。橋の手前にある細い砂利道へ入り、そのまま川上へ向かって走った。屍人は狙撃してこない。櫓と川はかなり離れている。ライトさえ消せば、闇が姿を隠してくれる。

 

 五分ほど走ると、記憶の通り、今にも崩れ落ちそうな木製の橋があった。慎重に渡り、対岸へとたどり着く。

 

 対岸は棚田状になっており、古い木製の家屋が数軒建っている。どれも、いま渡った橋と同じで、今にも崩れ落ちそうな廃屋だ。人が生活している様子は無い。しかし、何者かの気配は感じる。櫓の上の屍人だけでなく、他にも何人か徘徊しているようである。

 

 竹内はこれからどうすべきかを考えた。この集落には屍人しかいないようだ。危険だが、調べる価値はある。

 

 後ろの安野を見る。ここを調べる以上、安野にも屍人のことを教えておく必要がある。「あっちに人がいますよ」などと言って、気安く話しかけられてはたまらない。

 

「安野」

 

「はい」

 

「どうやらこの集落には、さっき、いきなり銃を撃ってきたような、頭のおかしなやつらが何人もうろついているようだ」

 

「そうなんですか? それは、大変ですね」

 

「だから、誰かを見かけても、絶対に、『こんばんは~』とか、話しかけるんじゃないぞ。絶対にだ」

 

「はい。判りました」

 

「…………」

 

「…………」

 

「安野」

 

「はい」

 

「一応言っておくが、今のは、フリとかじゃないからな」

 

「判ってますよ。いくらあたしでも、命懸けでそんなボケはやりません」

 

 どうだか。コイツは、「今ここで死ねばウケる」と思ったら、ためらいなく死ぬヤツだ。別にそれでコイツが死のうがどうしようが構わないが、巻き添えにはなりたくない。

 

 ……どうもコイツといると緊張感が無いな。竹内は気を引き締め直し、集落を進んだ。

 

 集落には、包丁を持った屍人と、鎌を持った屍人の二人がうろついていた。竹内は、幻視の能力で屍人の視界を逃れながら、慎重に進む。

 

 しばらく進むと広場があった。中央に井戸があり、少し離れたところには、玄関も窓も開け放たれた廃屋がある。そして、廃屋の隣には小さな(ほこら)があり、祠の前には、太い支柱に四枚の細長い木の板を張り合わせた看板のようなものが立てられてあった。奇妙な形をしている。上の三枚の板は水平に貼り付けられているが、一番下の一枚は、右上に向かって斜めに貼り付けられていた。

 

「あれ、何なんですかね?」安野が言った。「あっちにも、同じものがあります」

 

 安野が指差した先にも、確かに同じものがあった。この集落だけではない。羽生蛇村のいたる所で、この看板を見ることができるだろう。

 

「眞魚教の宗教的シンボル、マナ字架(じか)だ」竹内は答えた。

 

「宗教的シンボル……キリスト教の、十字架みたいなものですか?」

 

「そうだ。魔よけや墓碑として、いろいろな場所に建てられている。産まれたばかりの赤子の額に書いたりする風習もあるようだ。形の成り立ちについては諸説あるが、生きるという意味を込め、漢字の『生』という字を逆さにしたという説が、有力だな」

 

「『生』の字……ナルホド」

 

「祠には、眞魚岩の欠片が(まつ)られている。眞魚岩とは、眞魚教の信仰の対象の一つだ。村の中心に位置する三角錐の巨大な岩で、神と共に天から降臨したことから、『天降りの神岩』とも呼ばれている。一説によると――」

 

 大学の講義のように説明する竹内だったが。

 

 気が付くと、安野の姿は無かった。

 

 どこに行った? 周囲を見回すが、見当たらない。

 

 と、廃屋の方から、スピーカーのノイズのような耳障りな音が聞こえてきた。安野か? 何をしている! 廃屋へ走る竹内。思った通り、中には安野がいた。部屋にあったらしいラジオのスイッチを入れ、チューナーを合わせようとしている。

 

「安野! 何をしてるんだ!!」

 

「あ、先生。ラジオがあったから、聞いてみようと思って。さっきの地震や津波のこと、ニュースでやってるかもしれませんから。でも、電波が入らないんですよ。やっぱり、山奥だからですかね?」

 

「バカなことはやめろ! 早く消せ! ヤツらに気付かれる!!」

 

「あ、そうか。スミマセン」

 

 安野はラジオのスイッチを切ったが、遅かった。

 

 びくん、と、身体が震え、一瞬、家屋の中にいる自分と安野の姿が見えた。見つかった! 振り返ると、鎌を持った屍人が、広場の向こうから大股でこちらに向かって来ていた。

 

「あらら。見つかっちゃいましたね。どうしましょう?」緊張感のない声の安野。コイツは、事態が判っているのか。

 

 仕方がない。こうなったら、迎撃するしかない。

 

 竹内は拳銃を構えた。

 

 銃を手に入れたとはいえ、竹内に実弾射撃の経験は無かった。事前にエアガンで練習した程度である。うまく行くか……。

 

 銃口を向けられても屍人はひるまない。鎌を振り上げ、向かって来る。竹内は、十分に屍人を引きつけ。

 

 ――今だ。

 

 引き金を引いた。

 

 銃声が鳴り響く。

 

 銃弾は、屍人の左胸に命中した。

 

 数歩、後ずさりする屍人。

 

 だが、踏みとどまる。己を奮い立たせるように大きく吠えると、また鎌を振り上げた。

 

 竹内はもう一度引き金を引いた。今度は、腹に命中する。

 

 屍人の足は止まり。

 

 前のめりに、ゆっくりと崩れ落ちた。

 

 ふう、と、大きく息をつく竹内。初めての射撃だったが、うまく行ったようだ。

 

「驚きました。先生、その銃、本物だったんですね」大して驚いていないような口調の安野。

 

「警察には言うなよ?」

 

「判りました。でも先生、そんなもの、どこで手に入れたんですか?」

 

「内緒だ。いいから、行くぞ」

 

 広場から離れようとする竹内。

 

 しかし、安野が付いて来ない。倒れた屍人の前にしゃがみ込み、じーっと見ている。

 

「何をしている」

 

「観察です。先生、コイツ、何なんですか? 顔色悪いですし、目から血を流してますし、とても生きてる人間には見えません。まあ、先生が銃で撃ったから死んでるんでしょうけど、そうじゃなくて、なんかこの人、先生に撃たれる前から死んでたような気がするんです」

 

「それは屍人だ。屍に、人と書く。お前の言う通り、そいつらは元から死んでいる」

 

「死んだのに歩き回るんですか? それはひょっとして、ゾンビ的なヤツでしょうか?」

 

「まあ、そうだな。頭を潰しても死なないから、ゾンビより厄介だろうが」

 

「そうなんですか? じゃあ、この屍人さん、よみがえるんですか?」

 

「ああ。さっき私の足の傷が治ったのと同じだ。そいつらも、時間が経てば傷が塞がり、また動き出す」

 

「それは面倒ですね。だったら、せめて今のうちに、武器を奪っておきましょう」

 

 安野は屍人の持つ鎌を奪おうとするが、がっしりと握られているようで、手から離れない。

 

「……ダメです。手が、硬直してます。手首ごと切り落としてやりましょうか?」物騒なことを言う。

 

「時間の無駄だ。それより、急ぐぞ」今度こそ広場から離れようとするが。

 

「あ、先生。大変です」

 

「なんだ?」

 

「今、視界ジャックの能力で確認したんですが、櫓の上にいた屍人さんが、下りてきて、こっちに向かって来てます」

 

 なに!? 慌てて竹内も幻視を使う。安野の言う通り、あの猟銃を持った屍人が、広場に向かって来ている。

 

「あーあ。たぶん、先生が撃った銃の音を聞いたからですよ? 大きな音を立てたら、ダメじゃないですか」

 

 そもそもは貴様がラジオを点けたからだろうが! くそ! コイツから射殺しておくべきだった!

 

 どうする? こちらにも銃はあるが、拳銃と猟銃では分が悪すぎる。こちらは射撃の経験も乏しい。まともに撃ち合っては、勝ち目はないだろう。櫓からこの広場まではやや距離がある。いまのうちに身を隠してやり過ごすか。いや、そのまま広場で警戒されれば、移動が困難になる。何か、手は無いのか。

 

「しょうがないですね。この依子ちゃんに任せてください」

 

 のんきな声で言う安野。さっきの廃屋へ戻り、中から、あのラジオを持って来た。

 

「そんなもの、どうするつもりだ」と、竹内。

 

「いいから見ててください」

 

 ぱち、っとウィンクをすると、安野はラジオのスイッチを入れ、音量を最大まで上げた。耳障りなノイズ音が広場中に鳴り響く。続いて安野は、広場の中央にある井戸のそばへ行き、ロープを引いて桶を引き上げた。

 

「あれ? なにか入ってますね」

 

 安野は桶の中にあったものを取り出す。それは、ボロボロのまな板に赤子の上半身と魚の下半身を持つ人魚のミイラだった。健全な女子が見たら不気味さに震えあがりそうなものだが、安野は。

 

「ま、いいや」

 

 ぽい、っと、ミイラを井戸のそばに投げ捨てた。たたられても知らんぞ。

 

 ミイラに続いて桶の水も捨てた安野は、ラジオを桶の中に入れる。そして、そのまま井戸の中へ戻した。

 

「さ、隠れましょう」

 

 安野は小走りで廃屋の陰に隠れた。竹内も隠れる。いったい、どうするつもりだ。

 

 しばらく広場の様子を窺っていると。

 

「――あ、来ましたね」

 

 安野が指差す先に、猟銃を持った屍人が現れた。

 

 屍人は、広場に入ると、まっすぐに井戸へ向かう。そして、そのまま井戸の中を覗きこんだ。どうやら、ラジオの音を気にしているようだ。じーっと見つめ、動かない。

 

「予想以上にガン見してますね」と、安野。「先生、今です。背後から撃って、ぶっ殺してください」

 

 そういうことか。確かに、音に強く反応する屍人相手には、有効な作戦だ。

 

 竹内は廃屋の陰から出て、足音を立てず、静かに、ゆっくりと、屍人の背後に近づく。屍人は井戸の底を見つめ、こちらに気付かない。十分に距離を詰めた竹内は、引き金を引いた。銃弾は背中に命中する。大きくのけ反る屍人。バランスを崩し、そのまま前のめりに倒れ、井戸の中へ落ちて行った。

 

「やったぁ! さすが先生です!」手を叩いて喜ぶ安野。「どうです? あたし、役に立ったでしょ?」

 

 確かにそうだが、そもそもコイツがいなければこんな危機に陥ることも無かっただろう。役に立つのか立たないのか、よく判らないヤツだ。

 

「ところで先生、これって、何なんですか?」安野は、さっき井戸のそばに捨てた赤子の人魚のミイラを手に取った。

 

「偶像の一つだろう。羽生蛇村には、漁師の網にかかった亀を川に帰したら、恩返しをされたという昔話がある」

 

「筋斗雲を貰ったってヤツですか?」

 

「違う。亀は漁師を川の中の宮殿へ連れて行き、豪華な料理でもてなした。その料理の中に、まな板の上に赤ん坊を乗せたものがあったそうだ。漁師はそれを食べず、こっそり村へ持ち帰ると、井戸の底に捨てたそうだ」

 

「先生、のんきに解説している場合じゃないです。後ろの屍人さん、よみがえってますよ?」

 

 言われて振り返る。安野の言う通り、鎌を持った屍人が、ゆっくりと起き上ろうとしていた。

 

「もう一人の包丁を持った屍人さんも、こっちに向かって来てますね。先生。いちいち相手にしていてはキリがありません。銃弾にも限りがあるでしょうから、さっさと行きましょう」

 

 安野はまた人魚のミイラを投げ捨てると、スタコラと広場を出て行った。竹内は大きくため息をつくと、後を追った。幸い、よみがえった屍人も、包丁を持った屍人も、追ってはこなかった。今頃、井戸の底を覗き込んでいるのだろう。他に屍人はいない。安野のおかげで安全に調査できるようになったが、だからといって感謝する気にはなれなかった。

 

 かなり時間がかかったが、なんとか集落の中をひと回りすることができた。それ以上大きな収穫は無かったが、多聞は確信する。この、突然現れた集落は、二十七年前の土砂災害で消えた村に間違いないだろう。集落の全てが、自分の記憶と一致するのだ。

 

 ではなぜ、消えたはずの集落が、突然また現れたのだろう?

 

 それはまだ判らない。さらに調査をしなければ。次はどこへ向かう? 調査するなら、東の蛭ノ塚(ひるのつか)という地域か、西の刈割(かるわり)という地域だろう。蛭ノ塚は、この村に眞魚教が生まれるより以前、村人たちの信仰のよりどころとなっていた地域で、蛭子(ヒルコ)という神を奉った神社がある。しかし、眞魚教が普及してからは衰退の一途をたどり、二十七年前の土砂災害で、こちらの地域も壊滅してしまった。西の刈割は、田んぼや畑ばかりの農業地帯だが、山の上に眞魚教の教会があるはずだ。

 

 竹内が、どちらに向かうか思案していると。

 

 

 

《……先生……助けて……先生……》

 

 

 

 遠くから子供のものと思われる声が聞こえて来た。役場か学校の放送のような、ノイズ交じりのスピーカー音だ。

 

「先生。呼んでますよ?」と、安野。

 

「どうして私なのだ。この村にだって、学校くらいはある」

 

「そうなんですか。でも、どうします? なんか、助けてほしいみたいですけど」

 

 声が聞こえて来た方を見る竹内。北西の方角だ。確かこの方角には、羽生蛇村小学校の折部(おりべ)分校があったはずだ。そこの児童だろうか? 少なくとも、屍人ではなさそうだ。生存者がいる。向かうべきか? だが、助けを求めている以上、学校も、ここと同じように屍人が徘徊しているのかもしれない。学校に用は無い。無用な危険は避けるべきだが……。

 

「先生?」何かを訴えかけるような表情で、竹内の顔を覗き込む安野。

 

 竹内は、フフッと笑った。考えずとも、答えは初めから決まっていた。「――子供のようだ。放ってはおけないな」

 

「さすが先生です。じゃあ、行きましょう」意気揚々と刈割方面へ向かおうとする安野。

 

「いや、やはりやめておくか。お前が行くと、かえって子供が危険だ」

 

「……どういう意味ですか」

 

「冗談だ。行くぞ」

 

 竹内は銃に弾を込め直す。そして安野を連れ、羽生蛇小学校織部分校へ向かい、走り始めた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 須田恭也 刈割/不入谷教会 初日/七時十三分二十九秒

 羽生蛇村の南西に位置する地域、刈割(かるわり)。棚田が広がる小高い丘の上に、羽生蛇村に住むほとんどの人が信仰する宗教・眞魚教の不入谷(いらずだに)教会がある。

 

 その礼拝堂の一角で、須田恭也は、眞魚教の求導女・八尾比沙子から、村で起こっていることについての話を聞いていた。赤い水、幻視、屍人、昨日の昼間とは違う街並み……知りたいことは無数にある。

 

「あたしたち眞魚教の聖典・天地救之伝(てんちすくいのつたえ)の中に、末世過乱ノ事(まつせからんのこと)という記述があるの」比沙子は、信者に教えを説くように話す。「『末世において人の心の乱れ長きにわたり、地鳴りと豪雨と共に、今も昔もひとつとなる。神王の血より水赤く染まりて、得し者、生死を超えた神王の大いなる力を宿し、魂を元の肉体へ還すなり』と。つまり、世界が終わりを迎えると、人の心は乱れて、地震と大雨と共に、現在と過去が入り乱れた世界になる。赤い水は、神の身体から流れ出した血で、その血を体内に取り入れた者は、生者も死者も大きな力を得る。そして、魂を神の王に捧げる、というものね」

 

 話を聞いても、恭也はとても信じることができなかった。当然だろう。要するに比沙子は、赤い水とは眞魚教の神が流した血であり、幻視とは神の血を体内に取り込んだ者が得る特殊能力であり、屍人とは死者が赤い血を得てよみがえった姿であり、昨日の昼間とは違う街並みは、二十七年前の土砂災害で消えた羽生蛇村だと言うのだ。オカルト好きの恭也ですら思わず笑ってしまいそうな話だが、しかし、他に合理的な説明をすることもできない。

 

「ごめんなさい。とても信じられないわよね、こんな話」恭也の困惑を察してか、比沙子は申し訳なさそうに言う。「あたしも、本当に聖典通りのことが起こっているのかは判らない。求導女のあたしがこんなことを言うのも変だけど、今までずっと、信者を戒めるための教えのひとつだと思っていたから」

 

 終末思想を唱える宗教は多い。一部の過激な宗教団体によって危険思想と思われがちだが、ほぼすべての宗教で取り入れられていると言っていいだろう。救いを求め、祈りをささげる――それは、宗教が信者を獲得するために使う常套手段であり、決して珍しいものではないのだ。

 

 また、宗教と関係があるかどうかは判らないが、恭也がよく利用するインターネットのオカルト系掲示板では、定期的に、何年何月何日に世界が滅びるという予言めいたことを書きこむ者が現れる。大部分はかすりもしないが、まれに、大地震や台風などの自然災害、または、テロや大量殺人などの事件と重なることもある。しかし恭也は、これらの予言を全く信じていなかった。毎日誰かが終末の日を言っており、毎日どこかで災害や事件は起こっている。それが、たまたま一致したに過ぎない。

 

 終末思想を信じるつもりはない。しかし、今、周りで起こっていることを説明する術を、恭也は持ち合わせていない。赤い水、幻視、屍人、見覚えのない街並み……全てが、比沙子の話と一致する。

 

「どうして、こんなことになったんですか? その……」訊いてはいけないことを聞くように、恭也は恐る恐る口にする。「昨日の夜、あの、大きな岩がある広場でやっていた儀式と、何か、関係があるんですか?」

 

「関係ない、とは、言えないわね」恭也の予想に反し、比沙子はあっさりと答える。「信者のみんなは、あの儀式が失敗したと思っている。でも、求導師様は、全て手順通りに行ったと言ってる。あたしも、儀式に不手際があったようには見えなかった。でも、こうなってしまったからには、何か、見落としがあったのかも……」

 

 それを聞いて、恭也は不意に思い出す。

 

 昨日の朝、恭也は巨石があったあの広場で、長い黒髪の少女と白い犬を見かけた。少女はあの時、持っている石を、繰り返し何かにぶつけていた。何をしていたのかは判らなかったが、何かを壊していたように思う。いったい何を壊していたのか。もしそれが、儀式が失敗した原因だったとしたら……。

 

「あの、俺、昨日……」

 

 見たんです、と言いかけて、恭也は言葉を飲み込んだ。

 

 いま村に起こっている事態が、儀式が失敗したことが原因ならば、少女のあの行動が、何か関係している可能性は十分にある。そのことは、比沙子に伝えるべきだろう。

 

 だが、そもそも儀式とはなんだ?

 

 儀式が失敗したことでこのような事態になったのならば、儀式は、それを避けるために行ったと考えるべきだろう。

 

 あの少女が何をしていたのかは判らないが、仮に、儀式の邪魔をするために何かを壊していたのならば、その結果、村がこうなることを、彼女は予見していたのだろうか?

 

 石を振るう少女の姿を思い出す。狂ったように、何度も何度も、石を振り下ろす少女。冗談やイタズラで儀式の邪魔をしようという雰囲気ではなかった。

 

 そして、少女はその夜、あの儀式の場にいた。それも、恐らくは主要な人物としてだ。集まった村人たちに歌いながら迎えられる少女の姿は、例えるならば、そう、結婚式の花嫁のようだった。

 

 少女はあの広場で、儀式を邪魔するために何かを壊した。その結果、儀式が失敗し、村に異変が起こると判っていても、やらざるを得ない理由があったのだろうか。その理由とは、一体……。

 

 そこまで考えて、恭也は大きく首を振る。あまり考えすぎるのは良くない。考えを巡らせるには、確実な情報が少なすぎる。不確実な情報から導き出される答えは、単なる思い込みだ。

 

「恭也君?」何か言いかけて急に黙り込んだ恭也を見て、比沙子は首をかしげる。

 

「あ、えっと……」少女のことは胸の内にしまうことにした。代わりに、思いついた適当なことを言う。「あいつら……屍人は、なぜ、俺たちを襲ってくるんですか?」

 

 恭也と比沙子が大字荒戸の商店街を通り抜け、この不入谷教会へ来るまでに、多くの屍人を見かけた。幻視の能力を使い、できるだけ回避してきたが、何人かには見つかってしまった。恭也たちを見つけた屍人は、例外なく武器を持って襲ってきた。屍人は死人がよみがえったようなもの。映画やゲームなどに登場するゾンビのような存在だが、ゾンビと違い、生きている人間を食べるために襲ってくる、というわけではなさそうだった。

 

「そうね……」比沙子は、しばらく考えた後、言った。「想像だけど、彼らはあたしたちと同じで、生活をしているのよ」

 

「生活、ですか?」目を丸くする恭也。適当に訊いたことだったが、比沙子の答えには興味を引かれた。刈割で見かけた屍人のほとんどは、田んぼや畑で農作業をしており、中にはお弁当を食べたりトラクターを運転している者までいた。比沙子の言う通り、それは、村で生活をしている人間と同じだった。

 

「彼らは自分たちの生活を護るために、あたしたちを排除しようとしている……いえ、違うわね」比沙子はあごに手を当てた。そのまましばらく考えた後、ゆっくりとした口調で続けた。「……彼らはたぶん、あたしたちを救おうとしているんだわ」

 

「俺たちを救う? どういうことですか?」

 

「例えば、恭也君が街で普通に暮らしていて、そこに、ゾンビが現れて襲って来た場合、なんとかして排除するか、もしくは、治療してゾンビから元の人間に戻せるようなら、治療するでしょ?」

 

「まあ、そうですね」

 

「きっと、屍人も同じなんだわ。屍人にとって、あたしたち生きている人間は、生活を脅かす存在なの。でも、生きている人間は、死ぬことによって屍人になる。つまり、自分たちの仲間になるの。だから、殺そうとするんじゃないかしら」

 

 恭也は黙って視線を落とした。比沙子の話はなんとなく判るが、だからと言って、ヤツらの仲間入りはしたくない。

 

 しばらく沈黙した後、恭也は、つぶやくように言った。「これから、どうするんですか?」

 

「あたしは、ここで求導師様が戻られるのを待つわ。求導師様なら、きっと、あたしたちを導いてくれるはず」

 

 比沙子は、祈りをささげるように、胸の前で両手を組んだ。

 

 求導士。求導女がキリスト教で言う修道女のような存在ならば、求導士は、さしずめ神父や牧師と言ったところだろう。儀式の時、黒い法服に身を包んだ男を見たが、彼のことだろう。この村で眞魚教の影響力は大きいようだし、比沙子の口ぶりからも、頼もしい人物に違いない。

 

 自分はどうすべきだろう? 恭也は昨日の昼間の村人の様子を思い出した。自転車のタイヤがパンクして困っていた恭也に、村人は冷たかった。かなり排他的な住民たちだ。余所者が教会に上がり込んで、怒ったりしないだろうか。

 

「あの、俺、このままここにいても大丈夫ですか? 余所者ですけど」比沙子に訊いてみる。

 

「もちろん、大丈夫よ。困っている人を救うのが、教会の役目だもの」比沙子は、笑顔でそう言ってくれた。

 

 その言葉と笑顔に安心する恭也。まあ、村人たちには歓迎されないかもしれないが、求導女である彼女がこう言っているのだ。追い出されたりはしないだろう。

 

 恭也は礼拝堂の椅子に座り、大きく息を吐いた。教会は安全、比沙子はそう言っていた。これから避難してくる村人は多いだろう。

 

 ――あの娘は、どうしてるだろう?

 

 恭也は目を閉じ、なんとなく少女のことを考えた。

 

 その瞬間、閉じた恭也の目に、別の映像が映る。幻視だ。

 

 商店街からこの教会に来るまでに、すでに何度も幻視を行っていたので、もう驚かなかった。恭也は、そのまま映像を見る。棚田のそばの細い砂利道を歩いている。見覚えがある道だ。教会に来る前に、恭也も同じ道を通ったのだ。

 

 映像と同時に聞こえたのは、獣のような息づかい。一瞬、屍人かと思ったが、人にしては視点が低い。大きく前に突き出した動物の鼻が見える。どうやら本当の動物、恐らくは犬の視点のようだ。幻視の能力は、動物にも使えるらしい。

 

 視点の主の少し前には、ゆっくりとした歩調で歩く人の姿が見えた。黒のノースリーブワンピースを着た、長い黒髪の少女。恭也はすぐに気付く。あの、儀式の広場にいた少女だ。と、すれば、この視点はあの少女のそばにいた、白い犬だろう。あの娘が、教会の近くにいる。彼女も避難して来たのだろうか?

 

 と、白い犬が、何かの気配に気づいたように突然左を向いた。道の左側は細い川が流れてあり、その向こうは小高い丘で、斜面一面に棚田が広がっている。犬は川の向こう側を見つめ、何かを威嚇するかのように、低い唸り声を上げる。まさか? イヤな予感がした。少女が小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。犬が警告を発するかのように吠えはじめる。恭也の予感は的中した。棚田の中に、こちらに向かって来る人影が見えた。農作業用の(くわ)を持ち、棚田を飛び下りながら向かって来る。屍人だ。このままでは、少女が襲われてしまう。

 

 恭也は目を開け、立ち上がった。少女を助けなければ。驚いたような表情の比沙子に、「すぐに戻ります」とだけ告げて、恭也は教会を飛び出した。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 牧野慶 大字粗戸/眞魚川岸辺 初日/五時〇三分〇七秒

 大字荒戸の眞魚川の河川敷の小道を、牧野(まきの)(けい)はフラフラとさ迷い歩いていた。八月を迎えたばかりのこの時期は夜でも蒸し暑い。にもかかわらず、牧野が着ているのは全身を覆う厚手の修道服だ。羽生蛇村の信仰の中心・眞魚教の求導士のみが着ることが許されているものである。

 

 もうすぐ陽が上る時間だが、深夜から雨が降り続いており、空は黒雲に覆われているのだろう、周囲はまだ真っ暗だ。牧野は明かりを持っていない。しかし、不思議と、うっすら周囲の様子を見ることができる。いったい、どうなっているのか。

 

 強い風が吹いた。牧野は風を遮るように右手で顔を隠す。正面から何かが飛んできて、牧野の顔を覆った。驚き、慌てて引き剥がす。見慣れた赤い布だった。眞魚教の求導女が顔を覆うために使うベールである。眞魚教に求導女は八尾比沙子しかいないから、彼女のもので間違いないだろう。彼女はここに来たのだろうか?

 

 牧野が八尾比沙子のことを考えていると、突然、これまでに経験したことが無いほどの激しい頭痛に襲われた。頭を抱えてうずくまる。目を閉じ、歯を食いしばり、痛みに耐える。

 

 その、閉ざされた目に、別の映像が映った。

 

 包丁を持って周囲を伺う映像……拳銃を持って街を徘徊する映像……ハンマーで板に釘を打ちつける映像……畑の草を刈る映像……いくつかの映像がテレビのザッピングのように切り替わった後、頭痛は嘘のように治まった。顔を上げる牧野。今のはまさか、幻視か? なぜ私が、幻視を行うことができるのだ? そして、今の幻視で見えたのは、人ではない者の姿。あれは……屍人だ。牧野はめまいを覚えた。突如降り出した赤い雨、血に染まったかのような赤い川、幻視、屍人……眞魚教の聖典・天地救之伝(てんちすくいのつたえ)末世過乱ノ事(まつせからんのこと)に書かれてあることと一致する。やはり、私の行った儀式は失敗だったのだろうか? だが、一体何がいけなかったのか? 儀式は手順通り行ったはずだ。余所者に見られはしたが、それが失敗に繋がるとは思えない。

 

 牧野は、風に運ばれてきた八尾比沙子のベールを、じっと見つめる。

 

 ――ああ……八尾さん、今どこに……私は、これからどうすれば……。

 

 牧野は、まるで母の温もりを求める幼い子供のように、八尾比沙子のベールに顔をうずめた。

 

 

 

 

 

 

 牧野慶は、羽生蛇村のほとんどの住人が信仰する宗教・眞魚教の求導士(きゅうどうし)だ。まだ二十七歳という若さだが、父である先代の求導士が十五年前に急死してしまったため、弱冠十二歳で今の地位に就いた。もちろん、まだ子供と言える年齢の者に務まるような職ではない。牧野慶が求導士に就いてしばらくの間、実質的に眞魚教を取り仕切ってきたのは、求導女である八尾比沙子だった。

 

 その後、八尾の後見のもと牧野は成人し、今では信者から敬われる立派な求導士へと成長した。

 

 いや、正しくは、信者からは立派な求導士へと成長したと思われていた。

 

 実際の所は違う。

 

 牧野は、表向きは眞魚教を取り仕切ってはいるものの、裏では十二歳の頃と何も変わっていなかった。二十七歳の今でも、八尾比沙子の保護の元でないと、務めを満足に果たすことができない状態なのである。それは、母離れできない息子のようなものだった。昨晩行われた儀式も、信者の前では自らが先導して行っているように振る舞ってはいたが、全て、八尾比沙子の指示通りに行ったことだった。それですべてがうまく行くはずだったのだが……。

 

 

 

 

 

 

 牧野は顔を上げた。八尾比沙子は近くにいるのかもしれない。探さなければ。彼女に会い、今、村で何が起こっているかを訊いて、これからどうするのか教えてもらわなければならない。牧野は八尾のベールを大事そうに懐にしまうと、河川敷の道を進んだ。

 

 しばらく進むと右手側に階段があり、堤防の上にあがれるようになっていた。牧野は階段を上り、そして、目の前に広がる光景に、呆然と立ち尽くした。

 

 ――ここは、どこだ……?

 

 目の前には、古い木造の商店が軒を連ねていた。今にも崩れ落ちそうな食堂に、廃屋同然のタバコ屋。とても、営業しているとは思えない商店街だ。自分は、眞魚岩の広場から眞魚川に沿って南下して来たから、上粗戸の商店街に着くはずだ。上粗戸は、かつては大字粗戸という地名で、二十七年前の土砂災害で消滅した地域だ。近年の区画整理で新たな商店街が作られ、現在の地名に変わったのである。コンクリート製の立派な建物が並ぶ近代的な商店街で、こんな古い街並みではない。道に迷ってしまったのだろうか? ここまで暗い森の中を歩いてきたから、その可能性もあり得なくはない。しかし、羽生蛇村は小さな村だ。例え森の中で迷っても、牧野が知らない場所に出るということはないはずだ。

 

 呆然と立ち尽くす牧野。まるで、異世界に迷い込んでしまったような気分だ。

 

 突然、牧野の身体が大きく震え、一瞬だけ、堤防に立ち尽くす自分の姿が見えた。今のは何だ? 周囲を見渡す。商店街の方から、包丁を持った屍人がこちらに向かって来るのが見えた。

 

 牧野は求導師としては頼りない存在であるが、勉強だけは怠らなかった。眞魚教の聖典は何度も読んでおり、屍人に関する知識はあった。赤い水を体内に取り入れた人間の成れの果ての姿で、生きている人間を見かけると襲ってくる。それが眞魚教の求導師であろうとも関係ないだろう。牧野はとっさに走り出した。正面の食堂のそばにある細い道に駆け込む。道はそのまま表通りと並行するように南へ続いているようだ。そのまま走って逃げようとした牧野だったが、再び身体が震え、屍人の視界を感じた。今度は正面だった。鎌を持った屍人が、こちらに向かって来る。後ろには包丁を持った屍人が迫っている。挟まれた。逃げ場を探し、周囲を見渡す。食堂の裏口と思われる木製のドアが目に入った。牧野はドアを開け、中に入った。ドアを閉め、鍵をかける。もちろん、それくらいでは多少の時間稼ぎにしかならないだろう。室内を見回す。八畳ほどの縦に長い部屋で、手前に大きな冷凍庫、奥には流し台と食器棚があるだけだ。食堂の調理場のようである。隠れられるような場所は無い。冷凍庫のそばにドアがある。食堂のフロアへ通じていると思われるが、向こう側から鍵がかけられてあるり、開かなかった。逃げ場が無くなった。

 

 がちゃり、と、裏口のドアのノブを捻る音がして、牧野は悲鳴を上げる。何度もノブが回され、ドンドンとドアが叩かれる。今にも崩れ落ちそうな古い家屋だ。ドアが破られるのは時間の問題だろう。隠れる場所も逃げる場所もない。残された道は戦うことだけだが、牧野は生まれてから一度も、喧嘩などの争いごとをしたことが無かった。凶器を持った屍人二人を相手に戦うことなどできるはずもない。牧野にできることは、祈ることだけだった。調理場の隅に身を縮め、手を組み、救いを求め、祈った。それが眞魚教の神に救いを求めたのなら、まだ求導士としての面目は保たれたと言っていいのかもしれない。だが、この時牧野が救いを求めたのは神ではなく、求導女の八尾比沙子だった。

 

 ――ああ、八尾さん、助けてください! 八尾さん!!

 

 そのような祈りが通じるはずもないが、祈った瞬間、どういうわけか、ドアを叩く音は治まった。顔を上げる牧野。まさか本当に八尾比沙子が助けに来てくれたのだろうか?

 

「……八尾さん?」

 

 ドア越しに名を呼んでみた。返事は無い。冷静に考えれば、都合よくこの場に八尾比沙子が現れる可能性は低いだろう。では、何が起こったのだろう? 屍人はどうなったのか? ドアを開けるのを諦め、どこかへ行ってしまったのだろうか? そんな訳は無いと思うが、そのまま様子を見ていても、それ以上は何も起こらなかった。調理場に窓は無い。外の様子を窺うには、裏口のドアを開けるしかない。しかし、開けた瞬間、包丁か鎌で斬りかかられるということも十分に考えられる。いったい、どうすれば……。

 

 そこで牧野は気が付いた。自分は今、赤い水の影響で、幻視ができるということに。目を閉じ、外の様子を探る。すぐに映像が浮かび上がった。畑のような場所で、鎌を使って草を刈っている。食堂のすぐそばのようだ。さきほど正面から来た屍人で間違いないだろう。まるで、牧野のことなどすっかり忘れてしまったかのように、草刈りに没頭している。

 

 牧野は別の気配を探った。もうひとつの気配もすぐに見つかった。包丁を持った屍人は表通りを歩いていた。一瞬、食堂の玄関に回ったのかと思ったが、そのまま食堂の前を通り過ぎ、元いた場所に戻ってしまった。

 

 どうやら屍人はあまり頭が良くないらしい。想像でしかないが、牧野の姿を見て追いかけたものの、逃げ込んだドアを叩いているうちに、何をしているのかを忘れてしまったのだろう。牧野は大きく安堵の息を付いた。とりあえずの危機は去ったが、問題が解決したわけではない。表通りは包丁を持った屍人が警戒しているし、裏道は鎌を持った屍人が作業をしている。身動きが取れない。だが、このまま待っていても助けが来る保障は無い。行動を起こさなければ。やはり、戦うしかないだろう。何か武器になる物は無いだろうか? 牧野は調理場を探してみることにした。冷凍庫、食器棚、流し台の下、何かありそうな場所を全て探る。しかし、めぼしいものは何も無かった。見つかったのは、新聞紙、広報誌、手ぬぐい、ブタの貯金箱、そして、冷凍庫の中の腐った食料だけだった。調理場だというのに包丁一本見つからない。もっとも、仮に包丁があったとしても、それで屍人を刺したりする精神力が牧野にあるはずもないが。

 

 武器になりそうなものは無い。この身ひとつで、刃物を持つ屍人を突破しなければならないのか? ああ、せめて冷凍庫の電源さえ入っていれば。凍った食肉などは、立派な打撃武器になったかもしれない。

 

 そこで、牧野はひらめいた。先ほど室内を調べた時、冷凍庫は壊れているのではなく、単にプラグが抜けていただけだったことを確認している。また、流し台の蛇口からは、赤く染まってはいるものの、一応、水も出るようである。見つけた手ぬぐいを濡らし、それを凍らせれば、武器になるのではないだろうか? あまり名案とは言えないが、何も持たないよりははるかにマシだろう。牧野は水道から流れる赤い水で手ぬぐいを濡らすと、冷凍庫に入れ、プラグを差し込んだ。ぶうん、という、低い稼働音がする。念のため、幻視で屍人の動きを探ってみたが、音に気付いた様子は無かった。よし。時間はかかるが、これで一応、武器は確保できるだろう。

 

 他に何かできることはないだろうか? 見つけた新聞紙と広報誌を見る。火を点ければ武器や陽動に使えそうだが、残念ながらマッチもライターも無い。しかし、使い道がないわけではない。刃物を持つ暴漢と対した時、紙は決して馬鹿にできないものだ。雑誌やダンボールなどで刃物を防いだという話を聞いたことがある。新聞紙も広報誌も薄いもので頼りないが、これも、無いよりはマシかもしれない。牧野は広報誌を手に取った。

 

 と、何気なく広報誌に書かれてある文章を読んで、牧野は首を傾けた。広報誌は羽生蛇村役場が定期的に発行しているもので、土地区画整理に関する知らせだった。大字粗戸と波羅宿が対象で、地名も変更になるというものである。かなり昔の話だ。実際に区画整理が行われたのは十年ほど前だが、計画が上がったのは三十年以上前。牧野が生まれるよりも前の話だ。まさかこの広報誌は、そんなに古いものだったのか。発効日を見た。昭和五十一年七月発行、とある。随分と古いものを取ってあるな、と、牧野は思った。そう思うのが当然だったが、しかし、何かが心の中に引っかかった。

 

 ――まさか、な。

 

 牧野は心の引っかかりを解消しようと新聞紙を広げた。真っ先に日付を見る。昭和五十一年八月二日発行の物だった。

 

 それは、二十七年前の、あの土砂災害が起こる前日である。

 

 牧野の背中を、冷たいものが流れ落ちた。

 

 新聞紙も広報誌も、日付は古いが、最近発行された物のように、ほとんど痛んではいない。まるで、コレクターが細心の注意を払い保管していたもののようである。もちろん、その可能性も考えられるが、もしそうなら、食堂の調理場などに投げ出したりはしないだろう。

 

 牧野は、聖典・天地救之伝の一節を思い出した。

 

 ――末世において人の心の乱れ長きにわたり、地鳴りと豪雨と共に、今も昔もひとつとなる。

 

 まさか、この見知らぬ街は、二十七年前の土砂災害で消滅した、かつての大字粗戸の商店街だとでもいうのだろうか? もしそうならば、やはり、私は儀式に失敗したのだろうか……。

 

 ああ、八尾さん、私はどうしたら……。牧野は、懐にしまった八尾比沙子のベールを、ぎゅっと握りしめた。

 

 ガラガラガラと、引き戸が開く音がした。驚いて顔を上げる。真っ先に調理場の裏口を確認したが、閉ざされたままだ。音は、調理場の外から聞こえた。恐らく、この部屋の隣、食堂のフロアの入口が開いたものと思われる。誰か来たのだろうか? 牧野は目を閉じ、幻視で食堂内の気配を探った。すぐに見つけた。獣のような低く荒い息をしながら、店内を見回している。その右手に握られている物を見て、牧野は悲鳴を上げそうになった。拳銃だ。モデルガンであると思いたいが、その可能性は低いと思わざるを得なかった。屍人が下を向いた時、着ているものが見えた。薄いブルーのシャツに紺のスラックス、肩の近くに無線機、腰のベルトには拳銃のホルダーと警棒が下げられてある。警察官の格好だ。

 

 警官屍人は席に着くと、テーブルの上のメニュー表を見始めた。まさか、料理を注文するつもりだろうか? 店はどう見ても営業している雰囲気ではないが、屍人にそれが判るとは思えない。もし、誰も注文を取りに来なかったら、どうするだろうか? そのまま帰る、などと楽観的に考えない方が良い。恐らく、誰かいないかと、調理場を確認するはずだ。調理場とフロアをつなぐ扉は鍵がかけられているが、こちらから開かない以上、向こう側からは開けられるのだろう。まずいことになった。もう、ここにはいられない。氷のタオルは完成していないが、こんな狭い場所で拳銃を持った屍人と対峙するよりは、逃げ場のある外で鎌を持った屍人と対峙する方が、まだ生き残る可能性は高い。牧野は意を決し、裏口のドアから外へ出た。静かにドアを閉める。念のために幻視を行ったが、食堂の警官屍人も、隣の畑の鎌屍人も気付いていないようだ。ひとまず安堵する。

 

 だが、問題はここからだ。表通りも裏道も、屍人が待ち受けている。ヤツらに見つからないためには、どちらの道を進むべきだろうか? 牧野は幻視を続けつつ、様子を探る。表通りの包丁を持った屍人は、商店街を行き来し、油断なく巡回をしている。裏道の鎌を持った屍人は、畑の草刈りに没頭していた。どちらの道を行くかは明白だった。牧野は、裏道を少し進み、食堂の隣の畑の様子をそっと窺った。屍人は裏道に背を向け、一心に草を刈っている。こちらには全く注意を払っていない。行ける。そう確信し、牧野はゆっくりと、静かに、しゃがみ歩きで屍人の背後を通過した。思った通り、屍人が牧野に気付くことはなかった。

 

 畑の裏を無事に通り抜け、牧野は大きく息を吐き出した。このまま裏道を進むと、すぐに表通りと合流するようである。牧野は目を閉じ、幻視で道の先の様子を探った。すぐに、一人の屍人の視点を発見する。表通りに建つ古い木造の家屋の屋根の上で、ハンマーで外壁に釘を打ちつけている。畑の鎌屍人と同じく、牧野に背を向ける格好である。恐らく、先ほどと同じ要領で通り抜けられるだろう。牧野は目を開け、道を進んだ。表通りと合流し、道端に立つ火の見櫓の下を通り抜ける。屍人が釘を打つ音が、はっきりと聞こえる。通りの向こうの建物の屋根の上を見た。暗がりだが、うっすらと屍人の背中が見える。いまヤツが振り返ると見つかってしまうが、畑の屍人同様に、作業に没頭していて振り向く気配は無い。そのまま通り抜けた。しばらく進むと、バス停と、トタン製の小さな小屋があった。小屋の陰に身を隠した牧野は、再び大きく息を吐き出した。この先に屍人の気配は無い。もう安全だろう。

 

 しかし、少し道を進んで、牧野は愕然とした。木の板を何枚も貼り合わせて作ったバリケードが、道を塞いでいたのである。高さは五メートル以上あるだろう。とても乗り越えられない。ヤツらが作ったのだろう。道路の右側はコンクリートで舗装した三メートルほどの高さの崖になっており、その上はフェンスで囲まれている。フェンスの向こうは木々が生い茂る山だ。反対側は家屋が立ち並んでいる。これ以上は進めない。ああ、ここまで来て、また今の道を引き返すのか……牧野は心が折れそうになった。

 

 と、牧野の身体が大きく震え、屍人の視線を感じた。まずい、見つかった。

 

 次の瞬間、どさり、と、高いところから何かが落ちたような音がした。音のした方を見る。ハンマーを持った屍人が、ゆっくりと起き上っていた。屋根の上にいたヤツだ。作業に没頭して気付かないと思ったが、甘かったようだ。

 

 屍人は起き上がると、ハンマーを振り上げ、大股でこちらに向かって来る。あんなもので殴られたらただでは済まない。頭を打たれれば即死だ。こちらは武器も何も持っていない。逃げなければ。でも、どこへ? 周囲を見回す。バス停のそばのトタン小屋が目に入った。あの上に登ってやり過ごせないだろうか? 甘い考えだが、他に逃げ場はない。牧野は小屋へ走り、屋根の上にあがった。

 

 それは、まさに奇跡だった。少なくとも、牧野はそう思った。トタン小屋の屋根から崖の上を見ると、フェンスに大きく穴が開いており、その向こうに細い山道が続いている。屍人は迫ってきている。逃げるしかない。牧野はフェンスの穴を潜ると、山道を走った。

 

 ……ああ、八尾さん……八尾さん……。

 

 牧野は知らず、懐のベールを握りしめていた。屍人が追って来る気配は無い。それでも牧野は、足を止めることなく、走る。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 神代美耶子 刈割/切通 初日/七時三十八分四十一秒

 眞魚教の教会が建つ小高い丘のふもとの小道で、神代(かじろ)美耶子(みやこ)は、地面に横たわる愛犬・ケルブの身体に顔をうずめ、泣いていた。ケルブの喉は鋭い刃物で斬り裂かれ、流れ出した血は、地面に大きく円を描いていた。すでに息はしていない。降り続く雨が、ケルブの体温を奪って行く。

 

 一〇分ほど前、美耶子はケルブと共にこの道を通り、北の田堀地区へと向かっていた。その途中、農作業をしていた屍人に見つかってしまい、襲われたのだ。ケルブは美耶子を護るべく戦い、喉元に咬みついて屍人を倒した、しかし、自らも相手の(くわ)で喉を斬られてしまったのである。

 

 美耶子は泣き続ける。物心ついた頃からずっと一緒にいたケルブ。十年以上、ケルブと共に生きてきた。美耶子にとってケルブは飼い犬ではなく、数少ない友達の一人、いや、唯一の家族と言っていい存在だった。

 

 砂利を踏む音が聞こえた。誰かが近づいてくる。屍人か、あるいは村人か。どちらにしても、美耶子は逃げなければいけない。だが、もう、その気力は残っていなかった。ケルブがいなければ、美耶子は逃げることができない。ケルブがいたからこそ、ここまで逃げることができたのだ。ケルブを失った今、美耶子は、屍人に襲われるか村人に連れ戻されるかのどちらかしかないのだ。

 

 だが――。

 

「……ねえ、君。大丈夫?」

 

 優しい声だった。村人でも、もちろん、屍人でもないようである。声には聞き覚えがあった。昨日の朝、眞魚岩のある広場で会った、余所者の少年だ。

 

 少年は、美耶子を気づかうような口調で話す。「なんかさ、この村、今ちょっと大変なことになってるみたいなんだよね。俺もよく判らないんだけど、さっき君を襲ったような危ないヤツらが、いっぱい、ウロウロしてるんだ。だから、ここにいると危険だから、行こう」

 

 美耶子はケルブの身体を抱いたまま泣き続ける。ここが危険だということは判っている。それでも、ケルブのそばを離れたくなかった。

 

「気持ちは判るけどさ……その……」少年は、言いにくいことを言う口調で続ける。「その犬、もう、死んでるみたいだし」

 

 美耶子は顔を上げる。もう、ケルブは死んでいる。判っていたことだったが、そのことを告げられ、現実なんだと思い知らされた気分になった。悲しみと怒りが込み上げてくる。それを拳に込め、少年の胸に打ち付けた。何度も、何度も、打ちつけた。

 

「ご……ごめん……ごめんね……」

 

 謝る少年。この少年は悪くない。それでも謝る。

 

 美耶子は、やり場のない怒りを、悲しみを、拳に込め、何度も少年に打ち付ける。そうすることしかできなかった。

 

 少年は、ただ、されるがままに、美耶子の悲しみを、受け止めていた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 須田恭也 刈割/切通 初日/八時十分二十四秒

 須田恭也は、長い黒髪の少女と共に、丘を登る砂利道を急ぐ。少女は泣き続けている。少し前、(くわ)を持った屍人に襲われ、飼い犬を殺されてしまったようである。亡骸に顔をうずめ、その場から動こうとしなかったのを何とか説得し、安全な教会へ向かっているところだった。

 

 恭也は足を速めた。丘の斜面には棚田が広がっており、農作業をしている屍人が何人かいる。見つかれば、ヤツらは襲ってくるだろう。一刻も早く教会へ着きたかった。だが、少女の足は重い。と、言うよりは、明らかにおぼつかない足取りだった。まるで、暗闇の中を歩いているかのように、一歩一歩、ゆっくりと、探るように足を出している。見ていて危なっかしい。案の定、小さな石につまずき、転びかける。

 

「大丈夫?」恭也は少女に駆け寄る。

 

「――見えない」少女は視線を地面に向けたまま、つぶやくように言った。

 

「え?」

 

「もっと、ゆっくり歩いて」

 

「あ、ゴメン」

 

 恭也は少女と歩調を合わせ、ゆっくりと歩いた。もちろん、周囲の警戒は怠らない。いつ屍人が襲って来るか判らないから当然だった。油断なく、辺りを見回す。

 

 と、また、少女がつまずいた。

 

「――おっと」

 

 とっさに恭也が支えたので、転ぶことはなかった。

 

「ホントに大丈夫?」恭也は、少女の顔を心配げに覗き込んだ。この砂利道は舗装された道路とは違い、歩きにくいことは確かだ。しかし、そう何度もつまずくほど危険でもない。何か理由があるように思えた。

 

「やっぱり、ケルブじゃないとダメ……」少女はまた、つぶやくように言った。その視線は、恭也の背後を向いている。

 

 恭也は、少女と初めて会った時から奇妙な違和感があった。その理由がいま判った。少女は、恭也と目を合わせようとしないのだ。そしてそれは、恥ずかしがり屋であるとか、決して性格的なモノではないことも悟る。

 

「君、ひょっとして、目が……」

 

 恭也の声に、少女は反応しない。しかし、おそらく間違いのないだろう。

 

 少女は目が見えない。なのに、あの儀式が行われた広場からここまで、飼い犬と一緒にやって来た。それは、盲導犬のように、犬の身体に取り付けたハーネスによって導かれてきたのではない。あの犬には盲導犬用のハーネスはおろか、リードさえ付けられていなかった。恐らく少女は、あの白い犬の視界を幻視で見ていたのだろう。そういえば、初めて広場で出会った時、少女は恭也の姿を見ることなく、村人ではないことを見抜いていた。あれも、犬の目を通して恭也を見ていたからだろう。

 

 ――いや、まてよ。

 

 少し考え、それはおかしいことに気が付いた。

 

 求導女の比沙子が言うには、幻視の能力は、赤い水を体内に取り込んだ結果起こる特殊能力らしい。村の水が赤く染まったのは、今日の深夜〇時以降。あの、サイレンが鳴り響いた後だ。少女と出会ったのは昨日の朝だ。あのとき幻視を行っていたのなら、少女はこの怪異が始まる前から幻視ができたことになる。

 

「ねえ、君。昨日の朝――」

 

 恭也が理由を問いただそうとした時、少女の表情が怯えたものとなった。屍人か? 振り返る恭也。

 

「――美耶子。探したぞ」

 

 幸い、現れたのは屍人ではなかった。ワイシャツにスラックス姿の若い男。見覚えがある。確か、儀式の場にいた男だ。

 

 男は少女に視線を向け、高圧的な口調で言う。「お前の役割はまだ終わってないだろ? お前が戻らないと、儀式が再開できない。早く戻るんだ」

 

 少女は後ずさりし、恭也の後ろに隠れる。男を恐れているように見えた。

 

 男の視線が恭也に移った。探るように、恭也の姿を見つめる「余所者か……あっち側へ行くのも、時間の問題のようだな」

 

「あっち側……?」何のことか判らない恭也。

 

 男は、フン、と、鼻で笑った。「まあ、妹が世話になったようだから、一応、礼は言っておくよ」

 

 妹と呼ぶからには、この男は少女の兄だろうか? その割にはあまり似ていないな、と、恭也は思った。

 

「さあ、美耶子。一緒に来るんだ――」

 

 男が、視線を再び美耶子に向けた瞬間。

 

 ガツン、と、男の頭に、太い木の枝が叩きつけられた。

 

 驚いて後ろを見る恭也。木の枝は、少女の手に握られていた。

 

 少女に殴られた男は、うめき声をあげ、地面に膝をつく。

 

「美耶子……お前……」恐ろしい目で睨む。立ち上がろうとするが、脳震とうを起こしたらしく、うまく立てない。

 

 少女は木の枝を投げ捨てると、恭也の腕を引いた。「早く! 連れてけ!」

 

 あまりに突然のことに状況が理解できていない恭也だったが、少女の引かれるままに、その場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 男から逃れ、丘を登る二人。しばらく進むと、道は左右に分かれていた。教会へ通じているのは左の道だ。恭也が左へ進もうとすると。

 

「待て。どこへ行く?」少女が足を止めた。

 

「どこって、教会だけど」不思議そうに答える恭也。少女は村の人だから、当然、この先に教会があることは知っているものと思っていた。

 

「イヤだ。教会には行きたくない」怯えたような表情。

 

「え? でも、教会は安全だって、求導女の比沙子さんが言ってたよ? これから村の人たちも避難してくるみたいだし」安心させようと、優しい口調で言う恭也。しかし。

 

「イヤだ。絶対に、教会には行かない」少女は、何度も首を振って拒否する。「どうしても行くのなら、お前一人で行け」

 

「俺一人って……君はどうするの?」

 

 少女はうつむき、少し迷っていたようだったが。「あたしは……村から出る」

 

「村から出る? そんな、君一人じゃムリだよ」

 

「……うるさい。とにかくあたしは、教会には行かない」

 

 そう言って、少女は教会とは反対の道を進もうとするが、またすぐにつまずいてしまう。慌てて支える恭也。

 

 少女は恭也の手を振り払った。「離せ。お前の世話にはならない」

 

 恭也はしばらく考え、やがて言った。「……判った。じゃあ、俺も一緒に行くよ」

 

「……え?」意外そうな顔をする少女。「いいよ。教会は安全なんだろ? お前は、教会へ行け」

 

「女の娘一人放っておいて、そんなワケにはいかないよ。さあ、行こう」

 

 恭也は教会とは反対側の道を進んだ。しばらく立ち尽くしていた少女だったが、恭也が振り返ると、後を追って来た。

 

 右の道は、左手側に棚田を見上げる形で緩やかに下っていた。しばらく進むと、道に沿って細い川が流れていた。なんとなく川を見る恭也。川幅は二メートルほど。水量は多く、流れは早い。深さは一メートル以上はありそうだ。

 

「おい、お前」少女が呼ぶ。

 

「あ、ゴメン。歩きにくかった?」恭也は視線を川から道へ戻した。少女は恭也の視界を介して歩いている。じっと川を見ていては歩きにくいだろう。

 

「そうじゃない。お前、なんで理由を訊かないんだ」

 

「理由?」首を傾げる恭也。

 

「そうだ。あたしはあの男をいきなり殴り倒して、その上、お前が安全だと言う教会に行くのを拒否した。おかしいと思わないのか」

 

「思うけど、理由を訊いたら、教えてくれるの?」恭也は、イタズラっぽく言う。

 

「……いや、言わないけど」

 

「じゃあ、訊いてもしょうがないじゃん」

 

「…………」

 

 黙り込む少女。その姿が可愛らしくて、恭也は小さく笑った。

 

 少女がなぜ教会に行くのを嫌がったのか、恭也には、なんとなく察しがついていた。

 

 求導女の八尾比沙子は、教会は安全だと言っていた。確かに、教会周辺に屍人はいなかった。屍人は生きている人間を見つけると襲って来るが、それは、屍人が自分たちの生活を護るためであり、人殺しが目的というわけではないのだ。だから、生きている人間を積極的に探して殺すようなことはしない。教会に隠れていれば安全というのは間違いないだろう。少女は、なぜそれを拒否するのだろうか? それも、目が見えないのに一人で行動するという危険を冒してまで。

 

 恐らく、少女は村人に会いたくないのだ。

 

 村人たちは、村で起こっている怪異を、儀式が失敗したことが原因だと思っている。恐らくそれは間違いのないところなのだろう。そして、儀式が失敗したのは、少なからず少女が関係しているはずだ。恭也が初めて少女を見かけた時、広場の祭壇の前で、少女は何かを壊していた。何をしていたのか知りたいという思いはもちろんある。しかし、今は訊かない方がいい。訊くと、少女は心を閉ざしてしまう。なんとなく、そんな気がしたのだ。

 

 川沿いの道をしばらく進むと、道の右側に古いトタン製の小屋があった。長年使われていない倉庫のようである。そのそばを通り過ぎようとした時、恭也の身体が大きく震える。屍人に見つかったようだ。周囲を見渡す。丘の上の方。鎌を持った屍人が、棚田を飛び下りながら向かって来る。

 

 少女が息を飲む。怯え、震えている。

 

「大丈夫、あの倉庫の裏に隠れよう」

 

 恭也は落ち着いた声で言い、少女を連れ、廃倉庫の裏に身を隠した。

 

 少女の震えは止まらない。白い犬が襲われた時のことを思い出しているのかもしれない。恭也は少女の手を取り、「大丈夫、大丈夫」と、言い続けた。少女も、恭也の手を握り返す。

 

 大丈夫と言うのは気休めではなかった。恭也は、八尾比沙子と一緒に教会へ向かう間に、屍人の行動パターンをかなり把握していた。屍人は生きている人間を襲うが、襲うことに執着しているわけではない。こうやって隠れていれば、積極的に探そうとはしないのだ。また、かなり頭が良くないようで、しばらくすると、自分が何をしているのか忘れてしまうのか、何事も無かったかのようにそれまでしていた作業に戻るのである。

 

 恭也は幻視で屍人の様子を探る。棚田を飛び下りる屍人。棚田の高さは一メートル以上あり、飛び降りるたびに転んでいる。三回ほど転んだところで、恭也の思った通り、何をしていたのか忘れてしまったようだ。しばらく周囲を見回した後、元いた場所に戻って畑仕事を再開した。恭也と少女は大きく息を吐き出した。少女の震えも、やがて治まっていく。

 

 と、少女が顔を赤らめる。慌てて握っている手を離した。

 

「い……行くぞ……」倉庫の裏から出ようとする少女。

 

「あ、待って、美耶子ちゃん」呼び止める恭也。

 

 すると、少女は目を丸くし、ますます顔を赤らめた。

 

「あ……ゴメン。さっき、お兄さんって言ってた人が、そう呼んでたから」思わず美耶子ちゃんなどと呼んでしまったことを謝る。「イヤなら、別の呼び方するけど」

 

 少女は顔を赤らめたまま、首を振った。「いや、美耶子でいい……名字で呼ばれるのは、好きじゃない……」

 

「なら、良かった」恭也はそこで、まだ自己紹介をしていないことを思い出した。「あ、俺、須田恭也。俺も、恭也でいいよ」

 

「お……お前なんか、お前で十分だ」美耶子は恥ずかしそうに顔を背けた。「それより、何だ? 早く行かないと、あいつがまた来るかもしれない」

 

「うん。でも、慎重に進まないと」

 

 恭也は目を閉じ、屍人の気配を探った。さっきの鎌を持った屍人は畑仕事に戻っている。こちらに背を向けて作業をしているから、しばらくは大丈夫だろう。別の気配を探る。いた。道を進んだ先。道端に、廃車となったライトバンの自動車が停められてあり、その前に、猟銃を持った屍人が周囲を警戒していた。危なかった。そのまま進んでいたら、狙撃されていたところである。

 

 恭也はしばらく様子を見続けたが、猟銃屍人がその場を離れる気配は無い。どうやら見張りをしているようである。このまま進むことはできない。何か方法を考えなければ。すぐに思いついたのは、川の中を進むという方法だ。だが、川は深く、流れも速い。自分一人ならともかく、目の見えない美耶子には危険だ。

 

 ……待てよ。

 

 恭也は美耶子を残し、倉庫の裏から出て川を見た。棚田の横を流れる川。これは、川というよりは用水路だ。田んぼに水を引くために人工的に作られたもの。だとしたら、どこかに流れを調整するための水門があるのでは? それを閉じることができれば、用水路の中を進むことができる。

 

 恭也は美耶子の元に戻った。「ゴメン。あの川の上流に行ってみようと思うんだ。水の流れを止めることができれば、安全に進むことができると思うんだけど、どうかな?」

 

 美耶子は少し考えていたが。「……お前に、任せる」

 

「よし。じゃあ、行こう」

 

 二人は道を少し戻る。川は、道端の立ち木の中に消えていた。さっき通った時は気づかなかったが、立ち木をどけると、その奥に細い道が続いていた。思った通り、水門がありそうだ。恭也が先に進み、後に美耶子が続く。今まで通っていた道も決して状態が良いわけではなかったが、この道はずっと細くて凹凸も激しく、進むのが困難だった。何度も転びそうになる美耶子を見かねた恭也は、美耶子の手を取って進むことにした。また顔を赤らめる美耶子だったが、今度は手を離したりはしなかった。

 

 そのまましばらく進むと。

 

「……待て」美耶子が立ち止まる。「この先に、ヤツがいる」

 

 どうやら歩きながら幻視を行って見つけたようだ。恭也も幻視で探る。片手用の小さな斧を持った屍人が歩いているのが見えた。こちらに向かっているようである。幸いまだ恭也たちに気付いた様子は無い。

 

「大丈夫、隠れよう」

 

 恭也は美耶子を連れ、道端のやぶの中に身を潜めた。しばらく待つと斧を持った屍人が現れたが、恭也たちには気付かず、そのまま通り過ぎた。

 

 やぶから出る恭也。思った以上に屍人の数は多いのかもしれない。これまではどうにかやり過ごしてきたが、常にうまく行くとは限らないだろう。いつかは戦わなければいけない。そのためには武器が必要だ。どこかで調達しなければ。

 

 恭也は美耶子の手を引き、さらに奥へ進んだ。しばらくすると小さな広場に出た。中央に井戸のような四角い石の囲みがあり。その上に、鉄のバルブがある。川はこの下を通っているようだ。あれが水門で間違いないだろう。その隣には焚き火の消えた後があり、薄い煙が一筋立ち上っている。

 

 水門を閉じようとした恭也だったが、焚き火のそばにある物が気になった。火をかき回すために使う棒だ。手に取ってみる。長さは一メートルほど。鉄製で、それなりに重量がある。何度か素振りをしてみる。少々頼りなさは否めないが、十分武器として使えそうだ。頂いて行くことにしよう。

 

 武器を確保した恭也は、改めて水門のバルブを調べてみた。錆びついており、かなり重い。だが、力いっぱい捻ると、耳障りな金きり音を上げながら、ゆっくりと回り始めた。そのまま回し続ける。徐々に、水の流れる音が小さくなっていく。回らなくなるまで回したところで、水の音は完全に消えた。これで、川を通れるようになるだろう。

 

「……マズイ。さっきのヤツが戻ってきた」美耶子が怯えた声で言う。

 

 恭也も幻視で気配を探る。美耶子の言う通り、さっきの斧を持った屍人が戻って来ている。バルブを回す音を聞かれたのかもしれない。武器は手に入れたが、できるだけ戦いは避けたい。恭也はまた隠れることにした。焚き火のそばのやぶの中に入る。

 

「……あれ?」

 

 やぶをかき分けると、その向こうにも小さな広場があった。その中央には、奇妙な看板のようなものが立てられてあり、花が添えられていた。看板は、支柱に細い板が四枚貼り付けられたもので、上の三枚は地面と平行になっているが、一番下の四枚目は、右に上がるように斜めになっていた。ちょうど、漢字の『生』の字を反対にしたような形だ。そう言えば、丘の上の眞魚教の教会でも、祭壇にこれと同じ形のものが掲げられていたように思う。眞魚教のシンボルみたいなものだろうか? もっと観察するために看板に近づく。一枚目の板に、文字が書かれていることに気が付いた。

 

「……竹……内……?」

 

 そう読めた。

 

 これが眞魚教のシンボル、キリスト教でいう十字架のようなものならば、恐らくこれは、誰かのお墓だろう。だが、どうしてこんなところにひとつだけぽつんとお墓があるのだろうか? まるで、人目を忍ぶようである。添えられている花は、まだ新しいようだ。

 

「来たぞ」

 

 美耶子が小さな声で言い、恭也は我に返った。今は、誰かのお墓などどうでもいい。息をひそめ、屍人の気配を探る。

 

 現れた屍人は水門の前に立った。そのまましばらく水門をじっと見ていたが、やがて、そばの焚き火の跡に目をやり、またじっと見る。

 

 マズイな、と、恭也は思った。ヤツらは頭が悪いと思っていたが、水門が閉ざされ、火掻き棒が消えていれば、さすがに怪しむだろうか?

 

 恭也の心配した通りになった。屍人は注意深く周囲を確認しはじめる。そして、乱れたやぶに気が付いた。やぶをかき分け、こちら側にやって来る。見つかった!

 

 恭也は美耶子をかばうように立つ。恭也たちを見つけた屍人は、獣の遠吠えのような声を上げる。こうなったら戦うしかない。火掻き棒を構える。相手が持っているのは小型の斧。あんなもので殴られたら無事では済まない。殺傷力は相手の方が明らかに高いが、リーチはこちらの方が上だ。

 

 大丈夫! なんとかなる!

 

 自分に言い聞かせる。

 

 屍人が斧を振り上げ、向かって来た。

 

 それが振り下ろされるよりも早く、恭也は火掻き棒を振り下ろした。

 

 がつん!

 

 鈍い音とともに、火掻き棒を持つ手に、イヤな感触が広がる。

 

 火掻き棒は、屍人の頭に沈み込んでいた。

 

 屍人の顔が奇妙に歪んでいる。だらり、と、血が流れ落ちる。

 

 屍人は、数歩後退りする。

 

 しかし。

 

 再び斧を振り上げた。

 

 恭也の一撃により、屍人の頭は陥没している。それほどの傷を負いながらも、まだ襲い掛かってくる。

 

 この時、恭也は初めて。

 

 ――殺される。

 

 そう、思った。

 

 屍人に襲われたのはこれが初めてではない。だが、これまではうまく隠れ、やり過ごしてきた。恭也はまだ、心のどこかで、自分が死ぬことなどありえないと思っていたのだ。甘かった。そんな訳は無い。あの斧が振り下ろされれば、自分はあっけなく命を失う。この村では、死は、あまりにも身近な存在なのだ。

 

 ――死にたくない。

 

 生者として当然の欲求が、胸の奥から湧き上がる。

 

 ――殺される前に、殺せ。

 

 誰かがそう言った気がした。

 

 死にたくない。殺されるわけにはいかない。殺されないためには、殺すしかない。

 

 そうだ。

 

 相手は、自分を殺そうとしている。生きるためには、相手を殺すしかない。

 

 恭也は、獣の咆哮を上げると。

 

 また、火掻き棒を振り下ろした。

 

 がつん! 屍人の頭を捉える。屍人が片膝をついた。まだ倒れない。もう一度振るう。血が飛び散る。うつ伏せに倒れた。だが、まだ起き上がって来るかもしれない。また火掻き棒を叩きつける。血が飛び散る。何度も、何度も、叩きつけた。やがて屍人は動かなくなった。それでも恭也は殴り続ける。大丈夫だ。コイツは死んだ。もう起き上がっては来ない。そう思う。だが、殴るのをやめない。今やめると、コイツは起き上がる。また襲ってくる。そう思えて仕方が無かった。だから殴る。殴り続ける。

 

「――おい!」

 

 背後で、少女が叫んだ。

 

「もういい。もう、やめろ」

 

 それで、恭也はようやく手を止める。

 

 むっとする血臭が辺りを漂っている。足元には屍人が横たわっていた。何度も火掻き棒を打ちつけられた頭部は、もはや原形をとどめていない肉片と化している。これは、俺がやったのか? 身体が震えている。大丈夫だ。もう、ヤツは死んだ。もう、起き上がっては来ない。そう、自分に言い聞かせても、震えは止まらない。屍人に対する恐怖ではない。自分のしたことへの恐怖だった。今、俺は、この手で人を殺したのだ。火掻き棒を握りしめる。仕方がなかったのだ。向こうから襲って来たのだ。殺さなければ、こちらが殺されていた。俺は、俺の命を護っただけだ。それに、屍人はもともと死んでいるのだ。だから、殺したことにはならない。自分に言い聞かす。震えは止まらない。命を奪われる恐ろしさと、命を奪う恐ろしさが入り混じり、恭也は、おかしくなりそうだった。

 

 その、恭也の手を。

 

 美耶子が、優しく握った。

 

「……大丈夫……大丈夫だから……」

 

 諭すような声。

 

 今までの少女とは違う、温かな声だった。

 

 優しい手と、温かな声に、不思議と、興奮と震えが治まってゆく。

 

 恭也は、美耶子に、身と、心をゆだねた。

 

 どれくらいそうしていたか。

 

「――ありがとう。もう大丈夫」

 

 落ち着きを取り戻した恭也は、美耶子を見つめ、笑顔でそう言った。

 

 美耶子は、またまた顔を赤らめると、ぱっと、手を離した。「……さ……さっきの、お返しだ」

 

 さっきの、とは、廃倉庫の裏に隠れていたときのことだろう。つっけんどんとしているが、可愛いところもあるようだ。

 

「それより、早く行くぞ」美耶子は屍人を指さした。「そいつ、そろそろ蘇る」

 

 蘇る? あれだけ頭を殴ったのに? 信じられない話だが、考えてみたら、それはあり得る話だった。求導女の八尾比沙子は、赤い水を体内に取り込んだ者は、生者も死者も大きな力を得ると言っていた。傷はすぐに治るらしい。実際に、比沙子の傷がすぐに治るのも見た。屍人を殺したと思っていたが、そもそも屍人は死んでいるのだ。それは単に動かなくなっただけで、時間が経てば傷が治り、また動き出すのだろう。現に、恭也が潰した頭は、元の形に戻りつつある。なんだか、罪悪感抱いて損をした気分だった。

 

 だが。

 

 逆に、これでもう、屍人を倒すことにためらいは無くなった。

 

「――行こう」

 

 恭也は美耶子の手を引き、その場を後にした。

 

 水門のある広場から川を覗くと、水はすっかり無くなっていた。これなら進めるだろう。だが、よみがえった屍人がまた水門を開けるとマズイ。開かないように壊しておいた方がいいだろう。恭也は火掻き棒で水門のバルブを叩いた。何度か叩くとすぐに変形し、回らなくなった。これでもう、水門は開けられないだろう。恭也と美耶子は慎重に川へ下り、下流へ向かって進んだ。

 

 川は予想以上に深く、二メートル以上あった。おかげで、しゃがみ歩きをしなくても身を隠すことができた。しばらく進み、廃倉庫があると思われる付近で再び幻視を行う。鎌を持った屍人は相変わらず畑仕事をしており、猟銃を持った屍人は周囲を警戒していた。どちらも川には注目していない。これなら行けるだろう。恭也と美耶子は、音を立てないよう、ゆっくりと進んだ。そのまま猟銃屍人から十分に離れた位置まで進み、周囲を警戒しつつ、川の上の道へ上がる。遠くに猟銃屍人の姿が見えた。相変わらず周囲を警戒しているが、こちらに気付いた様子は無い。

 

「やったな恭也! あいつらを出し抜いた!」美耶子の嬉しそうな声。

 

 恭也は美耶子を見る。それは、初めて名前を呼ばれ、そして、初めて美耶子の笑顔を見た瞬間だった。

 

「な……なんだ……?」恭也に見つめられていることに気付いたのか、戸惑ったような声の美耶子。

 

「いや、笑うとカワイイな、って思って」からかってみる。

 

 予想通り、美耶子は顔を真っ赤にする。「ばっ……バカなこと言ってないで、ほら、行くぞ!」

 

 美耶子はプイッと顔を背けると、そのまま歩き始めた。あれが、ウワサに聞くツンデレというヤツだろうか。実際に見るのは初めてだな、と、恭也は思った。

 

 ……などと、のんきなことを言っている場合ではない。

 

 道は、北の方角へ続いている。恭也が事前にインターネットで調べた情報によると、田堀という地域があるはずだ。かつては小さな集落だったが、ここも、二十七年前の土砂災害で消滅した地域である。今は区画整理が進んでいるものの、数軒の家が建つだけで、ほとんど何も無い地域のはずだ。

 

 しかし、八尾比沙子の言う通り、ここが過去と現在が入り混じった世界ならば、二十七年前に消えた集落が存在しているかもしれない。

 

 もちろん、屍人もいるだろう。

 

 恭也は、火掻き棒を強く握りしめる。

 

 そして、美耶子の後を追った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 志村晃 合石岳/三隅林道 初日/八時十九分五十九秒

 ――空気が、騒がしいな。

 

 赤い雨の降り続く合石岳(ごうじゃくだけ)の林道で、志村(しむら)(あきら)は胸の奥で呟いた。二十歳の時から猟師を生業にしている彼は、この合石岳とは、もう五十年以上の付き合いだ。山の全てが庭のようなものだが、今日は、まるで見知らぬ他人の家に上がり込んでしまったかのような居心地の悪さを感じる。どこがどうおかしいのか? と、問われても、うまく答えることはできないだろう。その異変は、言葉で言い表せるものではない。猟師の勘とでもいうようなものだ。ただ、異変が起こった理由には思い当たることがあった。

 

 二日前のことだ。羽生蛇村役場から、八月二日の夜は外出しないようにとの連絡が村人全員に行き渡った。村の有力者である神代家が祭事を行うというのである。祭事というのが何なのかは村人には知る由もなかったが、この村に住んでいるかぎり、神代家のやることに口出しをしない方が良い、それが、この村での不文律であった。

 

 その祭事が行われたであろう八月二日の夜、村にサイレンが鳴り響き、大きな地震に襲われた。

 

 志村が異変を感じたのは、それ以降だ。

 

 神代家の祭事が関係しているかは判らない。しかし、以前も全く同じことが起こっている。

 

 二十七年前の土砂災害の日だ。

 

 志村自身はその災害に巻き込まれることは無かったが、妻と息子は帰らぬ人となった。だから、今でもよく覚えている。あの夜も、神代家は祭事を行っていた。

 

 志村は、長年愛用している旧式の猟銃を両手で握りしめた。父より譲り受けたその猟銃は、八十を間近に控えた志村よりも古いものだ。もはや骨董品と言ってもよい物だが、手入れだけは毎日欠かさなかった為、今でも問題なく獲物を撃つことができる。

 

 しかし今日は、獲物以外のものを撃つことになるかもしれない。

 

 志村は、胸の奥でそう感じていた。

 

 

 

 

 

 

 志村晃は、羽生蛇村で代々猟師を営み、生活をしてきた。猟師とは、山に入り、熊や猪などの獣を狩り、生活をしている者である。かつては獲物の肉や毛皮は高く売れ、村にも多くの猟師がいたが、時代は変わり、今では動物愛護の名のもとに、世間から白い目で見られ、非難されることが多い。肉や毛皮は売れなくなり、現在の主な仕事は、村に現れ農作物を荒らしたり人を襲ったりする害獣を駆除することである。それで貰えるお金はわずかだ。多くの猟師が職を変え、あるいは、農家や会社勤めと兼業する者(というよりは、農家や会社勤めを本業とし、猟師を副業とする者)がほとんどだが、志村はずっと猟師のみを生業としてきた。生活は楽ではなかったが、天涯孤独の身であったから、なんとか生活することができたのである。

 

 

 

 

 

 

 林道を進んだ志村は、山肌に大きく口を開けたトンネルの前で足を止めた。このトンネルを抜けた先には、かつて、(すず)が採れる炭鉱があった。三隅錫(みすみすず)という、羽生蛇村でしか採れない希少な鉱石だ。昔は村の主要産業のひとつだったが、鉱量が枯渇し、四十年近く前に閉鎖された。さらに、二十七年前の土砂災害で鉱山そのものが土砂に埋もれてしまった。以来、このトンネルは、子供たちが勝手に入り込まないよう、防護柵で固く閉ざされたはずであった。

 

 しかし、志村の目の前にあるトンネルには防護柵が施されていなかった。トンネルの奥からは強い風が吹き付けている。中は、土砂で埋もれているはずなのに。

 

 ――まるで、二十七年前の山にいるようだ。

 

 志村はまた、胸の奥で呟いた。

 

 志村は勘の鋭い男であった。長年野生の動物を相手に生活をしてきた猟師だから、というのもあるが、それ以上に、志村の一族には、彼のように勘の鋭い者が多くいたのだ。村の誰も気付かない異変に、志村の家の者だけが気付くことがある。しかし、それが原因で、彼の従兄弟と息子は、村から姿を消してしまったのだが……。

 

 志村は大きく首を振った。もう、二十七年も前の話だ。最近、昔のことをよく思い出す。わしも歳を取ったな。

 

 志村は猟銃を肩に担ぐと、トンネルの中へ入って行った。このトンネルは、鉱山で採れた錫を、西の蛇ノ首谷(じゃのくびだに)にある選鉱所へ送るためのものだ。壁と天井はコンクリートで固められ、地面にはトロッコのレールが敷かれてある。トンネルは深く、奥の方まで光は届かない。志村は懐中電灯を取り出した。山に入る時はいつなんどきも持ち歩いている。ライトで闇を照らし、奥へと進む。この先には、今朝からずっと感じている違和感の正体がある――特に理由は無いが、持ち前の勘でそう思っていた。

 

 しばらく進むと前方が明るくなってきた。ライトを消し、外へ出る。

 

 トンネルのすぐそばにはコンクリートでできた二階建ての鉱山事務所があり、その前に、東西に延びるトロッコのレールが敷かれてある。東には二つの炭鉱があり、西に行けば、そちらにもいくつかの小さな炭鉱と、鉱員たちが休憩したり鉱山で使用する道具を置いたりする管理小屋があるはずだ。

 

 それは、志村の古い記憶にある三隅鉱山と同じ光景だった。

 

 二十七年前に消えたはずの鉱山が、目の前に存在している。

 

 だが、志村はそのことに対し、特別な感情を抱くことは無かった。若い者なら何が起きているのか解明しようとするのかもしれないが、志村はもう、そのような好奇心を抱くような歳ではない。面倒なことはごめんだ。志村は昔から事なかれ主義であり、村で起こる面倒事には関わらないようにしていた。二十七年前もそうだった。息子や従兄弟が神代家の存在に疑問を持ち、行動を起こす中、自分は関わらないようにしてきた。

 

 志村はまた大きく首を振る。今日は本当に、昔のことをよく思い出す。

 

 村で何が起ころうとも、自分には関係ない。ここが二十七年前の三隅鉱山だろうとそうでなかろうと、どうでもいいことだ。志村は、来た道を戻ろうとした。

 

 突然、志村の身体が大きく震えた。

 

 そして、一瞬、トンネルに向かって歩く自分の後ろ姿が見えた。それはまるで、他人の視点を自分が見ているかのような映像。

 

 映像はすぐに消える。今のは何だ? 周囲を窺う。静かな鉱山に乾いた銃声が鳴り響き、志村の足元の土がトンネル側へ大きく弾け飛んだ。誰かに撃たれた。とっさに身を屈め、素早く鉱山事務所の中に隠れる。そのまま様子を窺うが、それ以上銃声が鳴ることはなかった。うまく隠れられたようだ。

 

 土が弾け飛んだ方向から考えて、銃を撃った者は、東の炭鉱付近にいるものと思われた。だが、様子を探ろうにも、顔を出した瞬間また撃たれる可能性がある。どうにかして、顔を外に出さずに相手の様子を探るすべはないだろうか? 考える。そう言えば、撃たれる前、一瞬トンネル側へ歩く自分の姿が見えた。あれはもしや、銃を撃った者の視点ではないだろうか? 志村は、持ち前の勘でそう悟った。幻視――この村に伝わる特殊能力のようなものだ。話に聞いたことはあったが、まさか、自分の身に起こるとは。

 

 志村は目を閉じ、意識を東の炭鉱付近に集中する。すぐに映像が浮かび上がった。炭鉱の前に小さな小屋があり、その屋根の上に、猟銃を持った男が、周囲を見回している。ひどく興奮しており、獣のような荒い息づかいだ。猟銃を持つ手は灰色で、とても生きている人間の手とは思えない。

 

 屍人だ。直感的にそう思った。

 

 目を開けた志村は、これからどうすべきかを考えた。幻視に屍人。この村に、何かが起こっている。それは間違いない。村に何が起ころうとも志村には関係が無かったが、もうこの村で静かに暮らすことは不可能だろう。志村はこの村が好きだというわけではない。それでも、妻と息子が眠る地だったから、これまで村を離れることはなかった。それも、そろそろ潮時だ。

 

 村を捨てる決意をした志村。ちょうど、この鉱山事務所の裏に、道祖神(どうそじん)道と呼ばれる、山を越えるための道がある。険しい山道だが、この鉱山から村を出るにはそこを通るのが一番早い。家に戻ってもまとめるほどの荷物は無いし、別れを告げる人もいない。この猟銃ひとつあれば十分だった。志村は事務所の奥へ向かい、裏口から外に出た。

 

 裏口の外は高い塀に囲まれた庭になっている。道祖神道へ出るには小さな門をくぐる必要があるのだが、門は鉄格子の扉で閉ざされており、扉は鎖が巻きつけられ南京錠がかけられていた。鎖も錠前も長年風雨にさらされていたようで、錆びついて今にも崩れ落ちそうだ。しかし、志村の力で引っ張ったくらいではビクともしなかった。なにか道具があれば壊せるかもしれない。考える志村。ここは鉱山だ。どこかにつるはしのひとつくらいあるだろう。志村は事務所へ戻った。片っ端から部屋を調べて行くが、荒れ果てたビル内に使えそうなものは何も無かった。ここに無ければ、西の管理小屋まで行かなければならない。その場合はビルの表玄関から出なければならず、東の小屋の屋根の上にいる屍人に狙撃される危険性がある。

 

 志村は目を閉じ、幻視で屍人の様子を探った。猟銃を持った屍人は、先ほどと同じ屋根の上で周囲を警戒している。このビルの玄関も監視しているが、時折振り返り、反対側の坑道の出入口にも注意を払っている。その間はビルから注意が逸れるので、隙をついて外に出ることも可能だ。だが、相手がどのくらいの時間ビルから目を離すかは判らない。外に出た瞬間振り返ることも十分考えられる。背後から狙撃されるのが最も危険だ。

 

 ならば、いっそのことこちらから狙撃するか。

 

 相手が屍人ならば狙撃したところで何の問題もない。すでに死んでいるから屍人と呼ばれるのだ。もし屍人ではなく、生きている人間だとしても、先に撃ってきたのは相手の方だ。まともな人間ではないだろう。

 

 ――よし。

 

 戦う決意をした志村は、ビルの玄関の陰に隠れ、幻視で屍人の様子を探る。屍人はしばらく玄関付近を見ていたが、やがて視線が逸れ、坑道入口の方へ向いた。

 

 ――今だ。

 

 志村は外に出て、銃を構えた。照準器を覗き込む。薄霧の立ち込める中、小屋の上に、ぼんやりと屍人の背中が見えた。素早く照準を合わせ、引き金を引いた。銃声が空に響き渡る。一瞬遅れて、屍人は倒れた。

 

 五十年以上猟師をしている志村だが、熊や猪などの獣以外を撃ったのはこれが初めてだった。しかし、そのことで特別な感情が沸くことは無かった。相手は人の姿かたちをしているとはいえ、人に害を及ぼす以上、害獣と同じだ。駆除すべき相手を駆除したに過ぎない。それに、村の伝承が正しいとすれば、銃で撃ったごときで屍人を完全に殺すことはできない。傷はやがて塞がり、よみがえるはずである。

 

 志村は西の管理小屋へ向かった。もたもたしていると、また撃たれてしまう。

 

 管理小屋へ続く道は緩やかな下り坂だ。地面に敷かれているトロッコのレールは、西の炭鉱まで続いている。レール上には数台のトロッコが放置されてあった。レールに沿ってしばらく進むと、また身体が大きく震え、猟銃を構える屍人の視点が見えた。撃たれる。そう思ったが、幻視は一瞬で、どこから狙われているのか判らない。

 

 銃声が鳴り響き、右肩に焼け付くような痛みが走った。正面からの銃撃だ。志村はトロッコの陰に身を隠した。すぐに傷を確認する。幸い急所は外れ、銃弾は貫通しているようだが、血が大量に吹き出している。血管を損傷したのかもしれない。志村は持ち物からタオルを取り出し、片手で巻きつけた。タオルはみるみる赤く染まる。出血が止まらなければ、まずいことになる。

 

 しかし、鋭い痛みは次第に和らいでいく。傷が治っているようだ。驚きはしなかった。幻視が使える以上、こういった特殊な能力が宿ったとしても不思議ではない。傷は放っておいても大丈夫そうだ。志村は目を閉じ、撃ってきた屍人の気配を探った。すぐに見つけた。この道を進んだ先。管理小屋近くのレール上で、銃口をトロッコに向けている。そのまま様子を探ったが、トロッコから目を離そうとしない。じっと銃を構えたまま、いつでも引き金を引ける体勢だ。隙は無いように見えた。トロッコの陰から姿を出した瞬間狙撃されるだろう。いくら傷が早く治るとは言え、連続で撃たれるのはあまりにも危険だ。反撃は難しい。ここは一度退くべきだろうか? だが、戻ったところで事態が好転するとは思えない。村から出るには北の道祖神道を通って山を越えるのが一番早い。それ以外に村の外に出るには、一度村に下りなければならない。恐らく村にも屍人が溢れているだろう。ならば、なんとかしてここを突破し、道祖神道を進んだ方がはるかに安全だ。

 

 では、どうする?

 

 何か良い案は無いかと周囲を見回した。すぐに思いついたのは、志村がいま身を隠しているこのトロッコを使うことである。屍人は下り坂の先のレール上に立っている。トロッコを走らせることができれば、はね飛ばせるだろう。問題は、はたしてこの古いトロッコが走るのか、ということである。トロッコは長年風雨にさらされてかなり錆びついている。しかし、鉱石を運ぶためのトロッコだ。非常に頑丈で、重量もある。勢いさえつけば走り出す可能性は高い。志村は腰を落とし、足を踏ん張り、力いっぱい押してみた。初めはビクともしなかったが、何度か勢いをつけて押すと。

 

 ゴトリ。

 

 ゆっくりと車輪が回り、進み始める。そのまま押し続けると、思った通り、勢いよく走り出した。大きく息を吐き出し、トロッコを見送る。勢いの付いたトロッコはもう止まらない。幻視で屍人を確認する。接近するトロッコに気付き、逃げようとしているが、道は細く、逃げ場はない。屍人は強くはね飛ばされ、動かなくなった。

 

 屍人を排除した志村は、そのままレール沿いに進んだ。屍人が立っていた場所から少し進むと、左手側に下りの階段があり、そこを降りるとすぐに管理小屋だ。幸い小屋に鍵はかかっていなかった。中に入る。八畳ほどの狭い小屋だ。一応部屋の奥に作業用の机があるものの、ほとんど倉庫として使われていたようで、様々な鉱山道具が雑然と置かれていた。

 

 目的のものはすぐに見つかった。部屋の壁に、つるはしやシャベルがたくさん立てかけられてある。どれも錆びついており、木製の柄の部分もボロボロだ。その中からなんとか使えそうなつるはしを一本選び、志村は来た道を引き返した。早く戻らないと、倒した屍人がよみがえる頃である。

 

 幸い、屍人がよみがえる前に鉱山事務所まで戻ることができた。裏口まで回る。先ほど撃たれた肩の傷はすっかり塞がっており、つるはしを振るうのに問題は無いだろう。

 

 だが志村は、左の二の腕と右の太ももに別の傷ができていることに気が付いた。撃たれてできたものではない。鋭い刃物で切ったような傷だ。山に入るのが仕事の志村だ。真夏とは言え、厚手の衣服を身につけている。その衣服ごと切れているのだ。いつの間に切ったのだろう? まるで身に覚えがない。

 

 しかしそれは、山では決して珍しくない現象だった。知らぬ間に木の枝で引っ掻いたり、草や木の葉で切ったり、時には突風に乗って飛んできた砂や小石で切れることもある。幸い、それほど大きくない傷だ。猟銃で撃たれた傷が一〇分ほどで塞がるのだ。この程度の傷ならば、すぐに治るだろう。

 

 鉄格子の前に立ち、つるはしの刃先を鎖に向ける。大きく振り上げ、勢いよく振り下ろした。がきん! 火花が飛び散る。何度か繰り返すと、鎖はバラバラに崩れ落ちた。同時に、柄がボロボロだったつるはしも折れてしまった。もう使えそうにない。まあ、目的は達した。志村はつるはしを投げ捨て、門を開けた。

 

 門の向こうは、両側を切り立った崖に挟まれた細い砂利道が続いている。少し歩くと、道端に小さな石碑が置かれてあった。男女が並んで立つ姿が浮き彫りにされた像。道祖神の像だ。

 

 道祖神とは、街や村の境、峠などに奉られ、疫病や悪霊などの災いが侵入するのを防いだり、旅へ出る者が道中の安全を祈願したりするための神様である。羽生蛇村だけでなく日本各地で見ることができるが、この村の道祖神の像には、眞魚教のシンボル・マナ字架が彫られているのが特徴だ。

 

 志村は、道祖神の像を見下ろす。信心深い者は、村を出入りするとき、この像に祈りをささげるのだが。

 

 ――フン。

 

 志村は祈りをささげることなく、山奥へと続く道を進んだ。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 美浜奈保子 合石岳/蛇頭峠 初日/十一時〇二分四十八秒

 赤い雨が降り続く合石(ごうじゃく)岳の細い山道で、美浜(みはま)奈保子(なおこ)は道端の岩に腰掛け、どうしたものかと途方に暮れていた。かれこれ十時間近くも山の中をさまよっている。決して広い山ではないし、道も一本道のはずだが、どれだけ歩いても、どういうわけか同じ場所に戻って来てしまうのだ。一度入ったら二度と出ることはできない迷いの山――ホラーネタとしてはあまりにも使い古されたもので、今どき小学生に話しても笑われてしまうだろう。しかし、本当に身に起こったとしたら、笑い事ではすまない。

 

 奈保子の手には小型のビデオカメラが握られている。最新式のモデルで、テープではなく8センチのDVDに録画するタイプのものだ。初めのうちはこのカメラで自分の身に起こっていることを記録していたが、録画時間とバッテリーの無駄なので途中でやめた。山で迷う自分を撮影するのが目的ではない。本当の目的は、この村で行われているはずの『神代家の秘祭』とやらを撮影することである。

 

 どうしても、良い映像()を撮りたい!!

 

 昨晩、そう胸に誓っていたはずだった。しかし、その強い決意も、降り続く雨と溜まり続ける疲労によって、すっかり小さくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 美浜奈保子は都内の大手芸能事務所に所属するタレントだ。十年ほど前、当時大人気だった国民的アイドルグループに所属し、『なぽりん』の愛称で親しまれ、人気メンバーの一人として活躍していた。多くのテレビ番組や映画などに出演し、CM契約は二十社以上、視聴率30%を超える月曜九時のドラマで主演を務めたこともある、超売れっ娘アイドルだった。

 

 そんな人気絶頂だった一九九五年の三月、奈保子はかねてからの夢だった女優業に専念するために、所属しているアイドルグループを卒業。ソロで活動する道を選んだ。

 

 だが、それが失敗だった。

 

 グループ卒業後、奈保子の仕事は目に見えて減っていった。以前は何もしなくても次々と仕事のオファーが来たのだが、それがピタリとやんだ。テレビのレギュラー番組やCM契約は更新されることなく次々と終了。仕方がないのでオーディションに参加したり、企業やテレビ局、有名映画監督などに売り込んだりしたが、ほとんど相手にされなかった。

 

 それで、奈保子は気が付いた。

 

 奈保子が人気だったのは国民的アイドルグループの看板があったからであり、CMやドラマなどの仕事は、彼女自身ではなく、その看板が目的で舞い込んでいたのだ。その大きな看板が奈保子の唯一の武器であり、それを手放した奈保子には、もう、何も残されていなかったのである。

 

 仕事が激減した奈保子はあっという間にテレビから姿を消した。今では『あの人は今?』的な番組からの出演依頼すらない状態である。

 

 そんな奈保子が、現在唯一持っているテレビのレギュラー番組が、『ダークネスJAPAN』というオカルト番組である。レギュラーとは言っても、番組が放送されるのは月に一回だけで、しかも地上波ではなくCSの深夜番組だ。番組の内容は、都内の某マンションに住むと噂される五十三歳の口裂け女に会いに行く、とか、話題のスカイフィッシュを虫取り網で捕まえる、とか、非常にくだらないものばかりである。視聴者を恐がらせるよりは、笑わせることが目的の番組だと言っていい。最大のウリは、製作費が安いことだ。撮影はオール屋外ロケで行われるので撮影場所を借りる必要は無し。撮影は基本的に短時間。宿泊が必要な場合はロケバスでの車中泊。出演タレントは落ちぶれた元アイドルで格安のギャラ。など、徹底的に予算が抑えられ、視聴者よりもスポンサーへ配慮した番組だった。そのため、人気は全く無いものの、今月八回目の放送が予定されている。

 

 今回、奈保子が羽生蛇村へ来たのは、このダークネスJAPANの撮影が目的だ。テーマは、『ついに発見!! あの幻の猟奇事件の舞台にツチノコ!?』である。この羽生蛇村には、戦時中、一晩で村人三十三人を惨殺する事件が起こったとのウワサがある。また、かねてからツチノコの目撃情報も相次いでおり、そこに、番組プロデューサーが目を付けたのだ。今回もくだらない内容だが、今の奈保子に仕事を選んでいる余裕はない。こんな仕事でも、アイドル時代に一緒に仕事をしたプロデューサーに何度も頼み込んで、ようやく得ることができたのだ。やらせてもらえるだけありがたい。 

 

 当初の予定では、昼間に村で取材をし、夜になったら山の中で撮影をして、朝にはすべて終えて帰るはずだった。しかし、昨日の昼間、村で取材を進める内に、奈保子は興味深い話を聞くことができた。村の有力者である神代という家が、何やら秘密の祭りを行うというのである。

 

 奈保子は今回の撮影の前、この羽生蛇村についてインターネット等で調べていた。三十三人殺しやツチノコの話以外にも、血塗れの集落で老婆の幽霊を見たとか、UFOやスカイフィッシュが飛び交っているとか、怪しげなウワサが多い村だった。中でも奈保子が最も興味を引かれたのが、二十七年前、土砂災害で村の大部分が消滅していることである。

 

 これらの怪奇現象は、村の秘祭とやらに関係しているのではないか? そう考えた奈保子は、秘祭の正体を突き止めよう、と、プロデューサーに提案した。

 

 しかし、プロデューサーは奈保子の案に耳を貸さなかった。秘祭の謎を探る必要はない。撮影は予定通り行う、というのである。村での取材は終えたので、後は山での撮影だけだ。撮影のための小道具も用意してあった。戦時中の兵隊をイメージした衣装と、ツチノコのおもちゃである。夜、迷うはずの無い一本道の山の中で迷い、数々の怪奇現象を目の当たりにしたが、なんとか朝を迎えることができた。しかし、局に戻って撮影した映像をチェックすると、画面の隅に、軍服を着た謎の人影と、ヘビのような謎の動物が映り込んでいた。これはもしや、三十三人殺しの犯人とツチノコか? ――これが、プロデューサーの描いたシナリオだ。ハッキリ言えば、ヤラセである。

 

 ダークネスJAPANはドキュメンタリー番組ではなくバラエティ番組だ。普通に撮影して面白いことが起こればそれに越したことはないが、毎回必ずしも面白いことが起こるとは限らない。そういった場合、多少の演出やヤラセを入れるのは、番組的に必要であろう。そのことは、奈保子も理解している。しかし、面白そうなネタが目の前にあるのに、それに目をつむり、安易にヤラセへ走ることには納得できなかった。秘祭について調べるべきだ。そう主張したが、受け入れてもらえなかった。

 

 結局撮影は予定通り行うことになった。夜、山の中でさ迷う映像を撮り、小道具の仕込みもバッチリで、つつがなく終了。後は、無事に朝を迎えるところを撮影するだけである。時間は二十三時。このままロケバスに泊まり、朝になるのを待つだけだった。

 

 だが、奈保子はカメラを持って村へ下り、秘祭について調べることにした。プロデューサーたちは反対したが、一人で出かけ、朝までには戻ってくると約束して、なんとか認めてもらえたのだ。秘祭というのがどこで行われているのかは判らないが、小さな村だ。探せばすぐに見つかるだろう。もちろん、秘祭の撮影に成功したとしても、それで面白い番組になるとは限らない。ただ、村人たちが和やかにお祭りをしているだけという可能性も十分にある。それに、最終的に撮れた映像を使うかどうかの判断をするのはプロデューサーだ。徹夜で調査しても、すべてがムダに終わる可能性が高い。

 

 それでも奈保子は、少しで良い番組を作るためには、何でもするつもりだった。奈保子はロケバスを後にし、山を下りた。

 

 その途中だった。

 

 深夜〇時を回った頃、突如、村中にサイレンが鳴り響き、大きな地震に襲われた。

 

 地震はすぐに治まり、幸いケガをすることはなかったものの、直後に原因不明の激しい頭痛に襲われ、気を失ってしまった。三時間後に目を覚ました時には頭痛は嘘のように消えていたので、そのまま山を下りようとしたが、それ以降、山道をどう進んでも、村に下りることも、ロケバスに戻ることもできなかった。

 

 そのまま奈保子は、今の時間まで、ずっと山の中をさ迷っていたのである。

 

 

 

 

 

 

 奈保子は大きくため息をついた。この山はどうなっているのだろう? 番組の当初の予定では山の中で一晩さ迷うはずだったが、それはあくまでもプロデューサーが考えた設定だ。こんな番組に出演してはいるものの、奈保子は幽霊などの怪奇現象を本気で信じているわけではなかった。この山が一度入ったら二度と抜けることのできない迷いの山などとは思っていない。だから、逆に心配なのだ。十時間近くも山の中で迷っているならば、それはもう立派な遭難だ。プロデューサーたちは心配しているだろうか? まさか、置いて帰ったりはしていないだろうか? あり得ることだった。いや、むしろその方がいいかもしれない。ヘタに通報されて救助隊が出動、などという事態になる方が困る。テレビ番組で事故は厳禁だ。タレントが山で遭難し救助隊に救出される、なんてことになったら、小さな番組などあっさり打ち切りになってしまうだろう。こんな仕事でも、今では唯一のレギュラーであり、これまで一生懸命やって来たのだ。失いたくはない。そのためにも、なんとしてでも無事に生還しなければ。いや、待てよ? 遭難して大騒ぎになれば番組は打ち切りになるだろうが、それはそれで話題になるのではないだろうか? 名前が売れればそれだけ仕事がしやすくなる。遭難をネタに再ブレイクということも可能だろう。いやいや、スッフのみんなにはお世話になっている。あたしのせいで番組が打ち切りになってしまっては、さすがに申し訳ない。

 

 ……などと考えていると。

 

 がさり。草を踏む音が聞こえた。誰か来たのだろうか? 音のした方を見ると。

 

「……余所者か……巻き込まれたな」

 

 年配の男性が、奈保子を見下ろすように立っていた。その手に猟銃を持っていることに少し驚いたが、ここは田舎の村だ。猟師がいてもおかしくは無い。

 

 奈保子は立ち上がり、猟師の男に笑顔を向けた。「良かった! あたし、道に迷っちゃって。一晩中、山の中を迷ってたんです」

 

 昨日の取材で、この村の住人が非常に排他的なのは身をもって知っている。奈保子は、精一杯ぶりっ子で話しかけた。できれば村まで案内してほしい。その一心だった。

 

 しかし、猟師の男は。

 

「……あの女のせいだ。昔と寸分に違わない姿……」

 

 なんだかよく判らないことを言う。ボケているのだろうか? 見た感じ八十歳くらいだから、それも仕方がない。しかし、ボケてる人に銃を持たせて大丈夫だろうか? 絶対ダメだろう。家族は何をしてるんだ。

 

 まあいい。ボケていようと、ようやく会えた村の人だ。なんとか助けてもらおう。奈保子は、ぶりっ子を続ける。「あの、良かったら、村まで案内してくれませんか?」

 

「あれは……八百比丘尼(やおびくに)だ」

 

 猟師は独り言のように言った。どうも話がかみ合わない。

 

 ……待てよ? 八百比丘尼って、人魚伝説のヤツだよな?

 

 八百比丘尼については、以前、ダークネスJAPANでも取り上げたことがある。大昔、人魚の肉を食べた女性が、八百年以上も生きたという伝説である。番組では、実際に八百比丘尼伝説が伝わる地方に出向き、番組が用意した人魚の肉と称するただの魚の肉を食べた。いつもの通りのくだらないネタだったが、もうすぐ三十歳になる奈保子は、若く美しいまま歳を取らない女性という話に興味を引かれ、今でもよく覚えていた。

 

「えっと……この村にも、八百比丘尼の伝説があるんですか?」訊いてみる。すでに番組で一度扱ったネタだからプロデューサーが興味を持つ可能性は低いが、一応、調べておいた方がいいだろう。

 

「……村へ下りたいのか?」

 

 また、見当違いの答えが返ってくる。

 

 この人、本当にボケてるのか? それとも、ワザとやってるのかな。奈保子はだんだん腹が立ってきたが。

 

「はい。良かったら、案内してくれませんか?」

 

 なんとか怒りを抑え、笑顔でそう言った。

 

「村はいま危険だ。命が惜しければ近づくな」

 

 ようやくまともな回答を得られた。しかし、村が危険とは、どういうことだろう? 考える。

 

「え? まさか、夜中の大きな地震で、大変なことになってるんですか?」口元に手を当てて驚く奈保子。かなり大きな地震だった。二十七年前のように、土砂災害が起こっていてもおかしくはない。

 

 猟師はあごを上げた。「村を出るならついて来い。こっちだ」

 

 そのまま道を進もうするが。

 

「あ……いえ、あたし、やっぱり、村へ行ってみます」

 

 奈保子はカメラを持ってそう言った。村が災害に見舞われたのなら、テレビに関わる者としては放ってはおけない。秘祭や八百比丘尼の調査などより、よっぽど重要な仕事だ。

 

「やめておけ。死ぬぞ?」

 

 猟師は止めるが。

 

「いえ、行きます」

 

 奈保子は決意を込めて言った。災害現場に素人が踏み込むのは確かに危険だが、それでも、行かなければならないと思っていた。スクープを撮って有名になりたいというよこしまな思いもないワケではない。しかし、それ以上に、村で何が起こっているかテレビを通じて日本中に伝えることが、今、自分がやるべきことではないか。そう思う。

 

 猟師は大きくため息をつき、そして、自分が来た道を指さした。「……この道をしばらく進めば、鉱山跡地がある。そこから西へ向かえば、山を下りることができるだろう」

 

「ありがとうございます!!」

 

 奈保子は深く頭を下げ、そして、村へ向かって走った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 八尾比沙子 刈割/不入谷教会 初日/七時三十八分二十二秒

 刈割の丘の上に建つ教会の礼拝堂の席に座り、求導女の八尾比沙子は、膝の上に広げたノートをぼんやりと眺めていた。教会に一緒に避難して来た須田恭也は、五分ほど前、突然外へ飛び出して行った。恐らく、幻視で何かを見つけたのだろう。外は危険だが、恭也は機転の利く少年だ。すぐ戻ると言っていたし、大丈夫だろう。

 

 膝の上に広げているのは信者帳だ。眞魚教の信者の名前や住所などの情報が記されてある。羽生蛇村ではほとんどの住人が眞魚教を信仰している。つまり、村人ほぼ全員の名がここに書かれてあった。それも、現在の信者だけではない。この信者帳には、過去五十年ほどの信者の名前が書き連ねてあった。それでも、信者の一部にすぎない。眞魚教の歴史は古く。少なくとも江戸時代より以前から続いていると伝わっている。実際に教会には、一七〇〇年代の信者帳も保管されてあった。

 

 比沙子が広げたページには、今から三十年ほど前の信者の名が書き込まれていた。懐かしい名前が多い。ここに書かれてある信者のほとんどが、すでに亡くなっている。寿命や病気で亡くなった者もいるが、大半は、二十七年前の土砂災害で命を落としたのだった。今回も、多くの信者が命を落とすかもしれない。

 

 ……いいえ。そうならないための教会よ。

 

 これから、多くの信者が避難してくるだろう。求導師様も戻って来られるはずだ。みんなで力を合わせて、この苦境を乗り切らなければいけない。

 

 比沙子はページをめくる。

 

 その手が止まった。

 

 そこには、ページ一面に、奇妙な図形が書かれていた。

 

 円や三角形、直線や曲線など組み合わせた図形だった。何かのシンボルのようにも見える。ちょうど、古代の象形文字のような形だ。それが八つ、二列に渡って並んでいる。赤黒い色をしており、まるで、血で描いたかのような色だ。子供の落書きだろうか? 大切な信者帳にイタズラするなんて、求導師様に叱ってもらわなければ。そんなことを思いながら、その落書きを眺めていると。

 

 

 

 ――目覚めよ。

 

 

 

 その言葉が、胸の奥から浮かび上がってきた。

 

 なぜ、そんなことを思ったのかは判らない。だた、その落書きを眺めていると、誰かにそう言われている気がしてならないのだ。

 

 あるいは――これは、文字なのだろうか?

 

 判らない。なぜこれを文字だと思ったのか、なぜその文字が読めるのか、比沙子にはまるで分らなかった。

 

知子(ともこ)!! 知子はいませんか!!」

 

 教会の扉が開き、村人が二人、血相を変えて飛び込んで来た。比沙子はノートを閉じた。

 

 飛び込んできたのは、羽生蛇村の役場に勤める前田(まえだ)隆信(たかのぶ)と、その妻の真由美(まゆみ)だった。熱心な信者で、中学二年になる娘の知子と三人で、週に一度は必ず礼拝に訪れている。

 

 前田夫妻は取り乱した様子で礼拝堂を見回す。夫の隆信の手には鉄パイプが握られている。教会に来る前に、すでに屍人に襲われたのだろう。娘の知子の姿はない。言動から察するに、はぐれてしまったのだろう。

 

「知子ちゃん、一緒じゃないんですか?」比沙子は、二人を落ち着かせるように、優しい口調で訊く。

 

 比沙子の存在にも気づかないほど取り乱していた隆信は、声を掛けられ、大きく息を吐いた。「はい……昨日の夜から、帰ってなくて……」

 

「ああ! あたしが、あんな事さえしなければ……」妻の真由美が泣き崩れる。

 

 隆文は、妻を慰めるように肩を優しく抱きしめた。

 

 昨日の夜は神代家が祭事を行うため、村人には外出を控えるように通達されているはずである。よほどのことが無い限り出歩いたりはしないはずだ。なのに、どうして知子は家に帰ってこなかったのだろう?

 

 だが、比沙子はあえてその理由は訊かず、諭すような口調で言う。「あたしが探してきましょう。お二人は、ここにいてください。知子ちゃんが来るかもしれませんから」

 

「え……いえ、求導女様を危険な目に遭わせるわけには……」

 

「大丈夫です。あたしには、神のご加護がありますから」比沙子は祈りをささげるように胸の前で手を組んだ。

 

 前田夫妻は不安そうに顔を見合わせる。比沙子の言うことを信用していないわけではないだろう。ただ、『神のご加護があれば大丈夫』という言葉に説得力が無いことは、比沙子自身にも判っていた。屍人は、生きている人間を襲う。それが眞魚教の信者であっても関係が無い。実際、比沙子自身も、教会に来るまでに何度も襲われている。

 

 それでも、困っている信者がいる以上、救わないわけにはいかない。まして知子は十四歳のか弱い少女だ。屍人だらけになってしまったこの村のどこかで、たった一人で恐怖に震えているかもしれない。どれだけ心細い思いをしているだろう? それを思うと、眞魚教の教えを説くものとして、見捨てることなどできるはずもなかった。

 

 比沙子は、前田夫妻を教会に残し、知子を探すため外へ出た。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三話 牧野慶 蛭ノ塚/県道333号線 初日/十一時五十九分三十三秒

 羽生蛇村の南東に位置する地域、蛭ノ塚(ひるのつか)蛭子命(ひるこのみこと)を奉った水蛭子(みずひるこ)神社があり、その歴史は眞魚教よりも古く、かつては村人の信仰のよりどころとして栄えていた。しかし、村に眞魚教が広まると、次第に人は寄り付かなくなり、寂れていく。そして、二十七年前の土砂災害により、その大部分が消滅した。近年の区画整理でも積極的な再開発はされず、神社こそ再建されたものの、それ以外は県道333号線が通るだけの寂しい地域である。

 

 その蛭ノ塚の県道を、眞魚教の求導士・牧野慶は、前田知子を連れ、屍人から逃れるために走っていた。幸い襲って来た屍人は銃を持っておらず、足も遅い。振り返ると、屍人の姿は無かった。ここまで来ればもう大丈夫だろう。

 

「――振り切ったみたいだ。もう安心だよ、知子ちゃん」

 

 牧野は足を止め、知子に向かって優しく言った。知子は乱れた息を整える。だが、屍人に襲われた恐怖がよみがえってきたのか、あるいは両親と離れ離れになって不安なのか、涙を流し、嗚咽を洩らし始めた。

 

 前田知子は羽生蛇村立中学校の二年生だ。役場に勤める前田隆信と真由美の一人娘で、週に一度は一家そろって必ず礼拝のため教会に訪れる。まだ少女だが、熱心な信者の一人である。

 

 六時間ほど前、大字粗戸の商店街を何とか脱出した牧野は、刈割(かるわり)の教会へ戻ろうとしていた。教会ならば安全だろうし、もしかしたら求導女の八尾比沙子も戻って来ているかもしれない。しかし、刈割への道中には多くの屍人がいた。農作業や大工仕事をしている屍人がほとんどだったが、拳銃や猟銃を持って見張りをしている屍人も多く、それらを避けているうちに、刈割とは正反対の蛭ノ塚付近まで来てしまったのだ。前田知子と出会ったのは一時間ほど前だ。道端で一人、めそめそ泣いていたのを保護したのである。

 

 県道を南へ向かって歩く牧野。その後ろを、やや遅れて知子がついて来る。中学校指定の赤色のジャージの袖で涙を拭きながら歩く知子。涙は止まりそうにない。

 

 ――泣きたいのはこっちだ。

 

 牧野は知子に悟られぬよう、小さくため息をついた。

 

 前田知子を保護した牧野だったが、本音を言えば、保護などしたくなかった。立場上、保護せざるを得なかったのである。生きている人間を見かけると問答無用で襲いかかってくる連中が村中を徘徊しているのだ。十四歳の少女が一人で泣いていれば、保護するのが大人の務めだろう。しかし、今の牧野には、そんなことに気を使う余裕は無かった。一刻も早く八尾比沙子を探さなければならない。いま村で何が起こっているのか? これは儀式に失敗したからなのか? これからどうすればいいのか? 比沙子に訊かなければいけないことは山ほどある。子供のお守りをしている場合ではない。牧野にとって、前田知子は邪魔者でしかなかった。自分の代わりに屍人と戦ってくれるならまだ連れていく価値もあるというものだが、十四歳の少女ではそれも望めないだろう。だからと言って放っておくわけにもいかない。知子も立派な眞魚教の信者であり、牧野は眞魚教の最高責任者だ。信者を見捨てた、などとあらぬ噂が立てば、求導士としての牧野の面目は潰れてしまう。そんなことになれば、比沙子に厳しく咎められるだろう。知子をどこか安全な場所まで連れて行くしかない。

 

 ――まったく。とんだお荷物を抱え込んでしまったものだ。

 

 牧野はもう一度ため息をついた。

 

 県道を歩く牧野と知子。この先には眞魚川を越える橋があり、村の南部の集落へと続いている。かなり遠回りにはなるが、そこから教会へ向かうことができる。

 

 だが、眞魚川に掛かる橋を前にして、牧野と知子は言葉を失った。

 

 橋は途中から崩れ落ちていた。それだけならば深夜の地震の影響とも考えられるが、問題は、橋の向こうに存在するはずの村が、消滅していることである。それも、地震の影響で土砂に飲み込まれたというのではない。橋の先に広がっているのは、広大な赤い海だった。まるで、村が津波に飲み込まれてしまったかのようである。羽生蛇村は山奥の村だ。津波が到達するなどありえない。ならば、この赤い海は何だ? 牧野は自分の持っている知識の中から答えを探る。眞魚教の聖典・天地救之伝(てんちすくいのつたえ)によれば、村の赤い水は、神王の流した血であるとされている。ならば、この海すべてが、神の血だというのだろうか?

 

「……求導師様……あれ……」

 

 知子が橋の下を指さした。

 

 赤い波が打ち寄せる岸辺に、数人の村人が立っていた。看護師の服を着た若い女、警官姿の男、頭の禿げ上がった小太りの中年男性。あれは、宮田(みやた)医院の恩田(おんだ)美奈(みな)看護師、駐在員の石田徹雄(てつお)巡査、羽生蛇村小学校の名越(なごし)栄治(えいじ)校長ではないだろうか? 残念ながら、彼らの肌の色は血の気の無い黒ずんだ色で、目からは血の涙を流している。すでに屍人と化しているようだ。

 

 その時。

 

 村に、サイレンが鳴り響く。

 

 深夜と同じ、いや、それ以上に大きな音。まるで、誰かの叫び声のようだ。聞いているだけで、頭が割れそうな痛みに襲われる。

 

「……求導師様……あたし、この音怖い……」

 

 両手で耳を塞ぐ知子。あまり効果は無いだろう。サイレンは、塞いだ手を通り抜け、容赦なく襲い掛かってくる。

 

 この音は一体なんなのだ? 牧野はこのサイレンを、深夜と、今から六時間ほど前の明け方にも聞いている。これで三回目だ。今、鳴り響いているサイレンの音は、これまでのものよりもはるかに大きい。まるで、海の向こうから聞こえて来るようである。

 

 と、橋の下の屍人が。

 

 サイレンに誘われるかのように、海へ向かって歩き始める。

 

 赤い水が、膝の上を越え、腰までつかり、胸の上まで来ても、屍人は進み続ける。

 

 やがて、屍人たちは完全に赤い海に飲み込まれてしまった。

 

「まるで、海送りみたい……」

 

 屍人の沈んだ海を見つめ、知子がつぶやいた。

 

 海送りとは、羽生蛇村に古来より伝わる民俗行事のひとつだ。旧暦の大みそか、黒装束に身を包んだ村人が、一年の罪や穢れを祓い清めるため、眞魚川に身を沈めるのである。由来は諸説あるが、常世へ向かうための儀式のひとつとされている。常世とは、海の向こうにある不老不死の理想郷である。もっとも、羽生蛇村には海が無いため、眞魚川を海と見立てている。村人は常世へと向かうため、眞魚川へ身を沈め、現世の穢れを洗い流す、というわけだ。

 

 屍人はなぜ、海送りのような儀式を行っているのだろう?

 

 これまで牧野が見てきた屍人は、皆、生前と同じような暮らしをしていた。詳しいことは牧野にも判らないが、屍人にも生前の記憶が残っており、それに従っているのだろう。だから、村の重要な行事のひとつである海送りを行っても別に不思議ではないかもしれない。しかし、今は真夏だ。海送りをする時期ではない。また、海送りは希望する村人数人が行う儀式であり、村人全員が参加するわけではない。駐在員の石田や校長の名越は参加したことはあるが、看護師の美奈は参加したことはないはずだ。生前の記憶に従って行っているものではないように思えた。

 

 海送りの儀式で眞魚川に身を沈めた村人は、年が明けると同時に岸へ上がる。これを、海還りという。海還りを終えた村人は、現世の穢れを洗い流し、常世の恩恵を受けた者として、村人たちに温かく迎えられる。

 

 では、赤い海に身を沈め、現世の穢れを祓い、常世の恩恵を受けた屍人は、何になって帰って来るのだろう?

 

 想像もつかない。ただ、恐ろしいことが起こる予感だけがした。この場にいてはいけない。一刻も早く、安全な場所へ避難しなければ。どうする? 考える牧野。教会へと向かう橋は赤い海へと消えている。この先へは進めない。安全と思える場所でここから最も近いのは、北の比良境(ひらさかい)にある宮田医院だろうか? 羽生蛇村唯一の病院で、緊急時の避難場所に指定されている。避難している村人がいるかもしれないし、もしかしたら八尾比沙子の姿もあるかもしれない。徒歩では少し遠く、着くのは夕方になるかもしれないが、行くしかない。幸いこの辺りは人が住んでいない地域だ。屍人はいないだろう。牧野は知子に宮田医院へ行くことを説明し、その場を離れた。

 

 だが、五分ほど歩いたところで、牧野と知子は再び立ち尽くしてしまう。

 

 蛭ノ塚は近年の区画整理でも積極的な再開発はされず、小さな神社と県道が通るだけの寂しい地域だったはずだ。しかし、いま目の前には、いくつかの家屋が建つ小さな集落が広がっている。家屋はどれも古く、寂れてはいるものの、人が生活しているような気配も感じられる。

 

「……求導師様……ここ、どこなんですか……? あたしたち、これからどうなっちゃうの……?」震える声の知子。

 

 ――黙れ! 私だってなんでも知ってるわけじゃない!

 

 喉まで出かかった言葉を飲み込む牧野。求導士たる者、いかなる場合も信者を導く存在でなければならない。常々八尾比沙子から教えられてきたことだった。

 

 牧野は、知子を励ますように言った。「僕にも何が起こっているのか判らないけど、大丈夫。僕たちには、神のご加護がある。必ず、知子ちゃんをお父さんお母さんに会わせてあげるから」

 

 我ながら説得力の無い言葉だと思う。神のご加護があれば大丈夫など、あり得ないことはすでに身をもって経験済みだ。知子も牧野の言葉には疑問を持っているような表情だが、求導士である自分がこう言えば、信者は信じるしかないだろう。

 

 目の前の集落を見る牧野。恐らくここも、大字粗戸と同じく、二十七年前に消滅した比良境なのだろう。ならば、生活しているのは人ではなく屍人だ。蛭ノ塚は、今は人が住んでいない地域だから安全に進めると思ったが、甘かったようだ。だが、進むしかない。

 

「行こう、知子ちゃん。大丈夫。僕が付いてるから」

 

 心にもないことを言い、再び歩きはじめる。

 

 道は、右手側に広大な赤い海が広がっており、左手側には切り立った崖がつづいている。しばらく進むと、崖の間を縫うように石造りの細い階段があり、その手前には大きな鳥居が建てられてあった。鳥居があるということは、階段を登れば水蛭子神社があるのだろう。県道は東に向かっているので、階段は北へ向かうことになる。比良境へはこの階段を使った方が近いのかもしれない。もし、比良境への道が無かったとしても、高台から見下ろせば集落の地形を把握できるだろう。牧野は階段を登ってみることにした。

 

 しかし、数段登ったところで、身体が大きく震え、一瞬、猟銃を構える屍人の視点が見えた。まずい、撃たれる!

 

「知子ちゃん! 戻って!!」

 

 一人で逃げ出したい気持ちを何とか抑え、知子を連れて階段を駆け下りる。背後で銃声が鳴り響いたが、なんとか身を隠すことができた。素早く幻視を行い、狙撃手を探す牧野。いた。階段の途中。下段に向けて銃を構えている。幸い、その場を離れて追って来る様子は無かった。しばらく銃を構えて警戒していたが、やがて銃を下ろした。ひとまずは安心だが、屍人はそこから動こうとはしなかった。どうやら階段を見張っているようである。この階段は進めない。このまま県道を進むしかないが、そのためには階段の前を通らなければならず、屍人の前に姿をさらすことになる。それはあまりにも危険だろう。別の道は無いのか? 考えても無駄だった。ここは恐らく土砂災害が発生した二十七年前の蛭ノ塚だ。その当時、牧野はまだ生まれたばかりで、村の地形は全く判らない。どの道を進めば宮田医院へ行けるのか見当もつかなかった。でたらめに進んでも、今のように屍人に襲われるだけだ。くそ! 苛立つ牧野。どうして私がこんな危険な場所にいなければいけないのだ。私は、眞魚教の求導師だぞ。

 

「あの、求導師様?」知子が声をかける。

 

「なんだ!?」

 

 溜まっていた苛立ちが爆発し、牧野は、思わず声を荒らげてしまう。

 

 突然豹変した求導師に怯えたような表情の知子。

 

 牧野は我に返った。慌てて笑顔を作る。「ああ、ゴメンゴメン。何?」

 

「えっと……変なことを言うかもしれないんですけど、あたし、ここは、二十七年前の蛭ノ塚じゃないかと思うんです」

 

「……どうして、そう思うんだい?」

 

「おばあちゃんがまだ生きていたころ、毎日、水蛭子神社のお参りに行ってて、あたしもよく付いて行ってたんです」

 

 知子の祖母が亡くなったのは二年前だ。祖母もまた熱心な眞魚教の信者だったが、知子の言う通り、水蛭子神社への参拝も行っていたようである。日本では神社などの神道と教会やお寺などの宗教は別物という考えが強い。ゆえに、仏教やキリスト教を信仰しながらも神社を参拝する人は多く、この羽生蛇村でも、知子の祖母のように、眞魚教信者でありながら水蛭子神社を参拝する者も少なからずいる。数年前の区画整理で水蛭子神社が再建されたのも、そういった村人の要望に応えたものだった。

 

「でも、知子ちゃんが参拝したのは再建された新しい神社で、二十七年前のものじゃないよね?」牧野は言った。

 

「はい。でも、おばあちゃんはあたしが生まれる前から蛭子様に通ってて、よく、蛭子様のお話をしてくれてたんです。土砂災害が起こる前の神社や村の写真とかもたくさん見せてくれました。ここ、その写真で見た村に、すごく似てるんです」

 

「……それで?」続きを促す牧野。ここが二十七年前の蛭ノ塚だというのは判っている。牧野にしてみれば、今さらそんなことを指摘されてもなんの役にも立たない。

 

「もし、本当にここが二十七年前の蛭ノ塚なら、この道をまっすぐ進むと神主様の家があって、その近くにも神社へ行ける裏道があるんです。宮田医院のある比良境へは、そこからも行けると思います」

 

 知子の話を聞いた牧野は腕を組み、ふうむ、と唸った。本当ならば有益な情報だが、所詮は子供の言うことだ。どこまで信用していいのかは判らない。

 

 それに。

 

「ありがとう、知子ちゃん。すごくためになる情報だよ。でも、もし、その話が本当だったとしても、いま重要なのは、この階段の先にいる、銃を持っている屍人をどうするかってことなんだ。神主様の家に行くには、どうしても、あいつの前を通らなければいけない。僕はともかく、知子ちゃんを危険な目に遭わすわけにはいかないからね」

 

 本音を言えば、知子に囮になってもらい、その隙に通り抜けるくらいのことはしてもいいと思う。眞魚教の信者ならば、命を賭して求導師を護るのが義務と言っても過言ではない。それに、今は赤い水の影響からか、治癒能力が飛躍的に向上している。銃で撃たれた程度の傷なら、簡単に治ってしまうのだ。子供とはいえ、囮になって求導師を護ることくらいはできるだろう。名案だが、さすがにそれを自分の口から言うのはまずい。

 

「そう……ですね」あごに手を当て、考える知子。「でも、宮田医院へ行くには、ここを通るしかないと思うんです」

 

 心の中で舌打ちをする牧野。これだから子供は嫌なんだ。大した根拠もないくせに自分の意見が絶対だと思い込み、否定しても決して受け入れようとしない。ここは、大人としてしっかりと教育する必要がありそうだ。

 

「でも、どうやって屍人の前を通るんだい?」訊いてみた。どうせ良い案など考えていないから、黙るしかないだろう。自分がいかに無責任な発言したか、身をもって知るはずだ。

 

 知子は少し考え、言った。「屍人ってすごくのろまだから、全力で駆け抜ければ大丈夫だと思うんです。動いているものを撃つのって、本物の猟師でも難しいはずだし」

 

 再度、心の中で舌打ちをする牧野。間違いを認めて反省するかと思いきや、さらにとんでもないことを言い出した。銃を持っている屍人の前を駆け抜ける? 本気で言っているのか。やはり子供だ。それがどんなに危険なことかが判っていない。

 

「ダメだよ。知子ちゃんを、そんな危険な目に遭わせるわけにはいかない」苛立ちをおさえつつ、牧野は務めて優しい口調で言うが。

 

「じゃあ、求導師様はどうすればいいと思いますか?」逆に問うてくる知子。

 

「それは……」

 

 言葉を告げない牧野。この道を進まないならば戻るしかないが、戻ったところで他に道はない。良い案は、牧野には無いのだ。だから。

 

「それを、いま考えてるんだ」

 

 そう言うしかなかった。

 

 知子は自信を込めた口調で言う。「大丈夫です、求導師様。あいつらの撃つ弾なんて、絶対に当たりませんから」

 

 そう言って知子は、鳥居の前に飛びだした。

 

 銃声が鳴り響き、地面がはじけ飛ぶ。

 

 しかし、知子はその前に鳥居の前を走り抜けていた。知子の言う通り、弾が当たることはなかった。

 

「求導師様も早く!」向こう側から手を振る知子。

 

 危険だが、もたもたしていると屍人が下りて来ることも考えられる。意を決し、牧野は走った。銃声がしたが、知子の時と同じように、銃弾は牧野の背後の地面を弾き飛ばした。

 

「ほら。あたしの言ったとおりでしょ?」

 

 嬉しそうな表情の知子。牧野には、それが自分をバカにしているように思えた。

 

「なんて無茶をするんだ! たまたまうまく行ったから良かったけど、ヘタをしたら、撃たれてたかもしれないんだよ!?」

 

「あ……その……すみません」

 

 知子は肩を落とし、小さく縮こまった。

 

 その姿を見て、牧野は満足する。「ああ、いや。いいんだ。怒鳴ったりして、ゴメンね。でも、二度と、こんな危険なマネをしちゃいけないよ?」

 

「はい……」

 

 やれやれ。本当に子供は面倒だな。胸の内でため息をつく牧野。しかし、怒鳴ったりしたのはまずかっただろうか? 自分は温厚な求導師で通っている。そのイメージを損なったのではないだろうか? いや。子供が危険なことをしていれば叱る。これは、大人の義務だ。むしろ、求導師としては正しい行いだろう。そう納得することにした。

 

 知子の無茶のおかげで危険に晒されはしたが、なんとか鳥居の前を通り抜けることができた。だが、それで安心はできない。この先には神主の家があり、その近くにも神社へ向かう道がある、と、知子は言っていたが、はたしてどこまで信用してよいものか。所詮は子供の言うことだ。あまり期待はしない方がいい。牧野は、知子を連れ、先を進んだ。

 

 途中、道端に古いパトカーが放置されているのを見つけた。中に何か使えるようなものはないだろうか? 拳銃はさすがに期待できないだろうが、警棒くらいはあるかもしれない。牧野は中を探りたかったが、知子がいる手前、諦めるしかなかった。眞魚教の求導師として、このような非常事態であっても、子供の前で車上荒らしなどするわけにはいかない。そのまま通り過ぎるしかなかった。

 

 道を進んだ先には、民家と、その近くに山の上に向かう細い階段があった。知子の言う通りであった。民家の周りには草刈りをしている屍人と見張りをしている屍人がいたが、なんとか見つからずに通り抜けることができた。

 

「この階段を上がるとまず(ほこら)があって、その先に神社があります」

 

 得意げな表情で言い、先を進む知子。牧野はなんとなくその態度が気に入らなかったが、後を追って階段を上がる。彼女の言う通り、階段は祠のある広場へと続いていた。その先に神社の社もある。

 

 しかし、社では、屍人がハンマーで釘を打ちつけていた。ここでも、大工作業をしているようである。祠の陰に身をひそめ、様子を窺う。屍人はときどき振り返り、周囲の警戒も怠らない。社の前には鳥居があり、その先は下りの階段だ。さきほど牧野たちを狙撃した猟銃屍人がいるものと思われる。

 

「まずいね。あの、釘を打ってる屍人に見つかると、さっきの銃を撃ってきた屍人を呼ばれる可能性もあるよ。知子ちゃん。どうする?」

 

 牧野は知子に訊いた。少々意地悪を言っているように思われるかもしれないが、これも、知子のためだ。この道を進もうと言ったのは知子だ。言ったことには最後まで責任を持つ義務があることを教えなければならない。まあ、所詮は子供だ。どうせ良い案は無く、私に泣きつくことだろう。

 

 知子は周囲を見回した。「……確か、神社の裏に回れば、小さな泉と川があって、そっちにも進めるはずです」

 

「はずです、って、そんな曖昧な記憶で進むのは危険だよ。それに、あの屍人はすごく周囲を警戒してる」

 

「大丈夫です。たしかに、警戒していますが、釘を打ってるときは、作業に没頭しています。静かに進めば、きっと気付かれません。見ててください」

 

 知子はまた、牧野が止めるのも聞かず、祠の陰から出た。屍人の様子を窺い、釘打ち作業に没頭している間に、しゃがみ歩きで横を通り過ぎ、社の横に身を隠した。知子の言う通り、気付かれることはなかった。牧野に向かって手を振る。来い、ということだ。牧野も屍人の様子を窺い、隙をついてそばを通り抜けた。

 

「ほら、大丈夫だったでしょ?」

 

 また嬉しそうな表情で言う知子。危険なマネはするなとついさっき言ったばかりなのに。牧野はまた怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られたが、すぐ側に屍人がいるので、何とか気持ちを抑えた。

 

 神社の裏に回ると、赤い水が湧き出す泉と川があった。小さな石橋もかかっており、先に進めるようになっている。

 

 先を進む知子の背中を、牧野は忌々しげに見つめる。ここまでは、すべて、知子の言う通りだった。危険な目にもほとんど遭っていない。しかしそれは、単に運が良かっただけだ。ヘタをすれば屍人に襲われ、命を落としていた可能性も十分にある。知子はそれが判っているだろうか? 恐らく判っていない。それどころか、無事に蛭ノ塚を通り抜けられたのは自分のおかげだと思っているだろう。子供だからそれは仕方ないかもしれない。しかし、もし、求導師様は屍人相手にしり込みばかりして頼りなかった、などと、村人たちにあらぬことを吹聴されると困る。子供の言うことなど誰も信用しないだろうが、そんなことを言われるだけで、牧野の面子は丸潰れだ。なんとかして、求導師の威厳を示さなければならない。

 

「……あ」橋を渡って少し進んだところで、知子が小さく声を上げた。

 

「どうしたの?」

 

「この先に、屍人がいます」

 

 道の先を見る。下りの階段になっており、そこにも、猟銃を持った屍人がいた。幸い背を向けているため見つかることはなかったが、このままでは通れない。

 

 牧野は内心ほくそ笑む。これは、求導師の威厳を示すチャンスだ。「どうするの? このままじゃ進めないし、今さら引き返すのも危険だよ? だから、僕の言う通りにしていればよかったのに」

 

 だが、知子は牧野の言うことなど聞いていないかのように、周囲を見回している。「たしか、この辺りで道が二つに分かれてたはずなんです」

 

 牧野も見回すが、道は切り立った崖に挟まれており、横道などない。「そんなこと言ってごまかそうとしてもダメだよ。この道を通ると決めたのは知子ちゃんなんだ。もう、君も十四歳なんだから、言ったことにはちゃんと責任を持たなきゃね。それができないなら、今度からはちゃんと僕の言うことを――」

 

「――あそこ」知子は、牧野の言うことを遮り、崖の上を指さした。「あれ、たぶん道になってると思います」

 

 知子の指さした先を見る。周りは五メートルはあろうかという切り立った崖だが、そこだけ大きくくぼんでおり、二メートルほどの高さしかない。確かに、道があるように思えた。登ろうと思えば登れる高さだ。

 

 知子は何とか登ろうと試みるが、十四歳の少女の腕力と身長では登れそうにない。

 

「仕方ないな。僕に任せて」

 

 牧野は崖に手を掛けた。腕力に関しては牧野もあまり偉そうには言えないが、身長は高い。苦労しながらも、なんとか上ることができた。知子の言う通り、細い道が、宮田医院のある比良境方面へ続いている。

 

「さあ、知子ちゃん。手を貸して。僕が引き上げてあげるから」

 

 崖の上から手を差し伸べる牧野。知子一人ではどうにもならなかったところを、求導師様に助けられた。そのことを強調しなければならない。

 

 知子の手を握り、引き上げようとしたとき。

 

 大きく身体が震え、一瞬屍人の視界が見える。崖の上から少女を引き上げようとしている自分の姿だ。さっきの屍人に見つかった!

 

 そして、鳴り響く銃声。

 

「きゃあ!」

 

 知子の悲鳴。

 

 幸い、銃弾は牧野の足元の土を弾き飛ばしただけだったが、驚いた牧野は、知子の手を離してしまった。尻餅をついて倒れる牧野。

 

「求導師様! 助けて!!」

 

 崖下から悲痛な叫び声が聞こえる。牧野は手を伸ばそうとしたが、再び銃声が鳴り響き、手をひっこめた。屍人の方を見る。銃を構え、さらに撃とうとしている。

 

「いやあぁ!!」

 

 知子の悲鳴が遠ざかる。神社の方へ逃げているようだ。

 

「待って! 知子ちゃん! そっちに行っちゃダメだ!!」

 

 だが、知子の声は聞こえなくなった。崖の下を覗いたが、姿はない。くそう! 勝手に行動しやがって! これだから子供はイヤなんだ!!

 

 立ち上がり、知子の後を追おうとしたが、また銃声が鳴り響いた。屍人は近づいてくる。このままでは、撃たれてしまう。

 

 牧野は。

 

 ――もう知るか! 私の言うことを無視し、勝手に逃げ出したのはアイツだ!!

 

 神社とは逆の方向へ走った。

 

 銃声は鳴り響くが、それも、走るとともに遠ざかって行く。屍人は、牧野ではなく、知子を追っているようだ。

 

 ――私は悪くない! 私はさんざん警告したんだ!! それを全部無視した知子が悪いんだ!

 

 牧野は、比良境へ向かって走る。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四話 竹内多聞 蛭ノ塚/水蛭子神社湧水 初日/十二時二十七分〇八秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 水蛭子神社の裏にある赤い泉のそばで、大学講師の竹内多聞はひどい頭痛に襲われていた。正午ごろからサイレンが鳴り続けている。村中に響き渡るほどの大きな音だ。どうやら、南に出現した赤い海の向こうで鳴っているようで、地形的に、この辺りが最も大きく聞こえるだろう。だが、サイレンの音は大きいが、耐えられないほどではない。竹内を襲っている頭痛は、別のことが原因だった。

 

「先生、この音どうにかしてください! もうあたし、頭が変になりそうです!! 疲れたしお腹も空いたし喉も渇いたしケータイも繋がらないしナージャもガッシュも観られないしサイアクです!!」

 

 竹内の後ろで、サイレン以上に大きな声でわめき散らしているのは、教え子の安野依子だ。そういうことを言わない約束で同行を認めたはずだったが、すっかり忘れてしまっているようだ。もうずっと、この調子である。

 

 十時間ほど前、突如目の前に現れた大字波羅宿の集落を調査中した竹内達。その途中、子供が助けを求めるような放送を聞いた。おそらくは村にある唯一の小学校・羽生蛇村小学校の折部分校からだと思われた。生存者がいる。放っておくことはできず、助けに向かった竹内達。明け方には小学校に着き、校内をくまなく探索してみたが、残念ながら子供を発見することはできなかった。幸い子供の屍人の姿も無かったので、何とか脱出したのかもしれない。結局、竹内達にできることは何もなく、そのまま学校を後にするしかなかった。

 

 小学校を離れた竹内達は、村の調査を再開するため、蛭ノ塚までやって来た。ここにある水蛭子神社は、眞魚教よりも歴史が古く、かつては村人の信仰のよりどころになっていた。しかし、村に眞魚教が普及するとともに廃れて行き、二十七年前の土砂災害で消滅した。事前にインターネットなどで調べたところ、現在は再建された水蛭子神社くらいしかなく、後は県道が通っているだけの地域だった。しかし、竹内達が訪れてみると、ところどころに古い家屋が立ち並び、屍人たちが生活をしている。どうやらここも、二十七年前の蛭ノ塚のようである。さっそく竹内は調査をしようとした。屍人に邪魔される可能性は高いが、調べなければならない。しかし、調査を始めた途端、屍人ではなく教え子が邪魔をしてきたのである。

 

「――ああ。もうあたし、ガマンできません。これ以上水を飲まないと死んじゃいます。もう、この水でいいです」

 

 安野は、誘われるように、赤い泉に向かっていく。

 

「よせ!」竹内は慌てて安野の肩を掴み、泉から引き離した。「ここの水は決して飲むなと、あれほど言っただろう!」

 

 安野は、ケロッとした顔をしていた。「もう。そんな青筋立てて怒らなくてもいいじゃないですか。冗談ですよ、冗談。あたしだって、黄泉戸喫(よもつへぐい)くらいは知ってます」

 

 ほう、と、内心感心する竹内。なかなか面白いことを言う。

 

 黄泉戸喫(よもつへぐい)とは、黄泉(よみ)の国で食事をすることだ。黄泉の国は死者の国であり、そこで食事をした者は国の一員と見なされ、二度と現世に戻ることはできないと言われている。世界中の神話や昔話で見られる概念で、日本では、古事記に登場するイザナミノミコトが有名だろう。火の神カグツチを産んだことで死んでしまったイザナミを迎えに行くため、夫のイザナギノミコトは黄泉の国へ向かった。しかし、イザナミは黄泉の国で食事をしてしまっていたため醜い姿に変貌しており、現世に戻ることはできなかった。

 

 つまり安野は、この羽生蛇村を黄泉の国であると捉えており、そこで何かを口にすれば醜い化物となり、二度と現世に戻ることはできない、と考えているのだ。なかなか面白い仮説である。実際、赤い水を体内に取り入れると屍人になり、二度と元に戻ることはできない。

 

「まあ、判っているならいい」竹内は、安野の肩から手を離した。「疲れたならここで待っていろ。私は、少し周辺を調べて来る」

 

「ええー。こんな所にカワイイ教え子を一人残していくんですかぁ? 先生サイテーです」

 

「なんとでも言え。ずっとそばでギャーギャー騒がれては、私の精神がもたん」

 

「あたしはずっと静かにしてますよぅ」

 

 ぷくっと頬を膨らませる安野。貴様が静かにしているのなら、私は生まれてから一言もしゃべってないことになるな。

 

 まあいい。コイツに構っていたら、いっこうに調査が進まない。竹内は安野を置いてその場を離れようとするが。

 

「あ、先生、待ってください」

 

「なんだ? ちびまる子ちゃんとサザエさんなら録画予約してあるから安心しろ」

 

「違いますよ。えっと、別行動するなら、これから十五分おきに、お互いを視界ジャックすることにしませんか?」

 

 視界ジャックとは、幻視の能力に安野が勝手に付けた能力名である。十五分おきにお互いを幻視する? なぜそんなことを。

 

 安野は続ける。「あたしたち、視界ジャックって呼んでますけど、実際この能力、視覚だけでなく、聴覚もジャックできるじゃないですか? と、いうことは、お互いに視界ジャックを行えば、携帯電話みたいに、離れていても会話できるはずなんです」

 

「確かに、その通りだな」

 

「はい。でも、ケータイと違って、呼び出し機能はありません。なので、十五分おきにお互いを視界ジャックして、連絡を取り合うんです。そうすれば、お互いの無事を確認できますし、何かあった時にも、すぐに伝えられます」

 

 安野のアイデアを吟味する竹内。悪くない考えだ。

 

「判った、やってみよう。だが、幻視が使える範囲はせいぜい二、三キロと言ったところだ。連絡が取れないからと言って、慌てることはないぞ」

 

「わっかりましたー。では先生、行ってらっしゃいませ」

 

 右手をおでこに当て、敬礼する安野。うるさいヤツだが、たまにこういった役に立つアイデアを出す。勘も鋭く、要領もいい。こんなことは本人には口が裂けても言えないが、なかなか優秀な教え子だ。うるさいのを何とかしてくれれば、頼もしい助手となるのだが。まあ、安野がうるさいのはいつものことである。考えてみれば、それはとてつもなく重要なことなのだ。この、いつ命を落とすかも判らない極限の状況において、いつも通り振る舞うことができる安野。よほど強い精神力を持っているか、よほど何も考えていないかのどちらかだろう。後者の可能性が高いのが残念な所ではあるが、どちらにしても、恐怖のあまり発狂したり、絶望してすべてを投げ出したりしないのは、非常に心強い。

 

「……先生、何か言いましたか?」

 

「何でも無い。とにかく、ここで大人しくしているんだ。もし屍人が来たら、うまく隠れろ。いいな?」

 

「はーい」

 

 手を挙げて返事をする安野。イマイチ信用できないが、まあ、コイツのことだから大丈夫だろう。竹内はその場を離れた。

 

 先ほど、まるでサイレンに導かれるように、屍人がその身を赤い海に沈めているのを見た。

 

 羽生蛇村には、『海送り』という民俗行事がある。海の向こうにあるという不老不死の理想郷へ向かうために、海に身を沈め、現世の罪を祓うのだ。

 

 しかし、羽生蛇村は山々に囲まれた内陸の村だ。海など存在しない。なぜ、そのような儀式が存在するのか謎だった。

 

 今、村は赤い海に囲まれている。それが関係していることは、間違いないだろう。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五話 牧野慶 刈割/不入谷教会 数日前/十六時四十五分二十一秒

「――宮田(みやた)です。神代(かじろ)の使いで参りました」

 

 眞魚教の総本山・不入谷教会に、宮田医院の院長・宮田(みやた)司郎(しろう)が訪れたのは、村にサイレンが鳴り響く数日前のことだった。求導師の牧野慶は、求導女の八尾比沙子と共に、宮田を迎えた。

 

 宮田は大事そうに封書を取り出すと、牧野へ差し出した。牧野は封書を受け取り、裏を確認する。神代の家紋印で封をされている。確かに、神代家からのものだった。

 

「受け取りました」牧野は、まるで儀式のように、封書を両手で持ち、小さく掲げた。

 

 神代家とは、羽生蛇村で最も権力のある一族である。その家系は眞魚教よりも古く、村に伝わる古文書によると、一三〇〇年前の天武時代に、神代の祖先がこの地を切り開いたことが村の始まりとされている。眞魚教を作ったのも神代家の祖先だ。来訪神を迎え入れたのが神代家だったと言われているが、これには諸説あり、逆に来訪神を怒らせてしまったため、許しを請うために奉った、という説もある。現在眞魚教の求導師の立場は神代家から牧野の家系に移ったが、今でも教会に強い影響力を持っている。

 

 丁寧に封を開ける牧野。悪い予感がする。神代家から教会に使いが来るのは珍しいことではないが、大抵は、海送りなどの祭事や村の行政に関する知らせなどである。それほど重要な用事ではなく、神代家のお手伝いが使いとしてやって来る場合がほとんどだ。今回のように、宮田医院の院長が神代の使いで来るなど異例のことだ。宮田医院は村にある唯一の病院で、院長である宮田司郎もまた、村の有力者の一人である。

 

 牧野は封書を開けた。

 

 

 

『嫁入りの儀の御印が下りたこと、御伝え申す。神迎えの支度、つつがなきよう。』

 

 

 

 手紙には、短く、そう書かれてあった。

 

 どくん、と、大きく心臓が鳴った。とうとう、儀式を行う時が来たのだ。身体が震えてくる。

 

 だが、それを悟られぬよう、無表情で宮田を見た。「御当主に、承りましたとお伝えください」

 

「かしこまりました。では」

 

 宮田は深く頭を下げ、教会から去ろうとする。

 

 しかし、玄関のドアを開けたところで、牧野たちを振り返った。

 

「――二十七年ぶりになりますね」

 

 静かな声で言った。

 

 その表情には、何の感情も宿っていないように見えた。だが牧野には、宮田が自分のことを笑っているように思えて仕方が無かった。

 

 ――お前に、儀式を成功させることができるのか?

 

 そう言われているような気がした。いや、気のせいではない。牧野には、宮田がそう思っているという確信があった。

 

 牧野と宮田は、お互いを見つめ合う。

 

 そこには、同じ顔があった。

 

 牧野と宮田の二人は、服装と髪型が違うだけで、同じ顔、同じ背丈、同じ声をしていた。

 

 今は別に暮らし、別の姓を名乗っているが、二人は、双子の兄弟である。

 

 二十七年前、二人は吉村という家に産まれたが、同年に発生した土砂災害の影響で、跡取りを求めていた不入谷教会と宮田医院の後継者に、それぞれ選ばれた。

 

 一卵性双生児であり、もともと二人は、ひとつの存在だった、二十七年間異なる環境で育った今でも、それは変わらない。だから、牧野には宮田が考えていることが手に取るように判る。同じように、宮田にも牧野が考えていることが判るはずだった。

 

 だから、宮田は笑っている。

 

 牧野はずっと、神迎えの儀式が行われる日が来ることを恐れていた。宮田には、それが判るのだ。だから、笑っている。儀式を成功させることなどできない。そう思っているのが、牧野には判る。

 

「――ご成功をお祈りしております」

 

 宮田は、挑発するような口調で言った。いや、そう聞こえたのは牧野だけだろう。そばにいる比沙子には、言葉通り、儀式の成功を心より祈っているように聞こえたはずだ。

 

 二人を残し、宮田は教会から去った。

 

 

 

 

 

 

 牧野は、比沙子の胸に顔をうずめ、泣いた。

 

 ついに、この時が来た。

 

 神代の娘を、神の花嫁として捧げる儀式。

 

 この儀式は、二十七年前にも行われた。儀式を取り仕切ったのは、先代の求導師――牧野慶の養父にあたる者だ。

 

 だが、儀式は失敗した。

 

 村は災いに襲われ、多くの命が失われた。

 

 父は、その責任に苦悩し、災害から十二年後、自ら命を絶った。

 

 もし、今回も儀式に失敗すれば、自分も、父のように――。

 

 怖い。

 

 求導師として生きていくこととなった日から、覚悟はしていたはずだった。

 

 だが、実際にその日を迎えると、その恐ろしさに震えが止まらない。

 

 私は、父のようにはなりたくない。

 

 牧野は泣く。

 

 比沙子の胸に顔をうずめ、まるで子供のように、泣いた。

 

「……大丈夫……大丈夫よ。あたしが、そばで見ているから……」

 

 比沙子は、ただ優しく微笑み、牧野の頭を撫でていた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六話 宮田司郎 蛇ノ首谷/折臥ノ森 初日/三時三十一分十七秒

 宮田医院の院長・宮田(みやた)司郎(しろう)はひどい頭痛とともに目を覚まし、一瞬、自分の置かれている状況が判らなかった。目の前には生い茂る樹々が広がっている。横を向いても、後ろを向いても、その光景は変わらない。深い森の中にいる。ここはどこだ? 一瞬考えて思い出す。羽生蛇村の北に位置する山・蛇ノ首谷(じゃのくびだに)の中腹にある折臥ノ森(おりふしのもり)だ。

 

 昨夜、宮田はある作業のため、この森にやって来た。深夜〇時を回った頃である。作業を終え、帰ろうとしていたところ、村にサイレンが鳴り響き、大きな地震が発生した。直後に耐えがたい頭痛に襲われ、宮田は意識を失ったのである。

 

 生い茂る樹々の葉に雨粒が当たる音が森の中に響く。いつの間にか、雨が降り出していたようだ。宮田は腕時計を見た。三時三十分を過ぎている。三時間以上も気を失っていたようだ。何が起こったのかは判らないが、ここでの作業は終わった。長居は無用だ。すぐに行動を起こそうとしたが、その目が、足元に釘付けになった。

 

 ――バカな!?

 

 我が目を疑う。

 

 宮田の足元には、大きな穴が開いていた。

 

 縦二メートル、横一メートル、深さ一メートルほどの穴だ。人一人がちょうど収まるほどの大きさである。

 

 この穴自体は、宮田が掘ったものだった。だが、気を失う前に埋めたはずだ。誰かが掘り返したのだろうか? あり得ない話ではないかもしれないが、いったい、誰がそんなことをするというのだ? 今夜、宮田がこの森に来ていることを知る者はいない。深夜はもちろん、昼間でさえ人がよりつくような場所ではない。

 

 宮田は、じっと穴を見つめる。中には何も無い。穴の中にあるはずのものは、一体、どこへ行ったのか?

 

 穴を見つめていた宮田は、奇妙な点に気が付いた。

 

 気を失っている間に、誰かが穴を掘り返した――先ほど、宮田はそう考えた。

 

 だが、その考えは間違いではないかと思えてくる。

 

 宮田の足元にできた穴は、誰かが外側から掘り返したものではないように見えた。内側から掘られたかのように、土が周囲に散乱している。それはまるで、地面に潜んでいたものが、這い出て来たかのようだ。

 

 いったい、どうなっている? 宮田は周囲を見渡す。そばに落ちていた懐中電灯を拾い、周辺を捜したが、誰もいない。恩田(おんだ)美奈(みな)は、どこへ行った?

 

 恩田(おんだ)美奈(みな)は、宮田医院に勤める看護師だ。宮田と共にこの森に来たのだが、あるはずの姿が、ない。

 

 宮田はその場を離れ、細い林道へと戻った。蛇ノ首谷を上る山道。この道を下ったところに車を停めてある。一度、戻ってみるか、それとも、もう少し周辺を探してみるか。考えていると。

 

 突然、宮田の身体が大きく震え、一瞬、自分が見ているものとは別の映像が見えた。今のは何だ? 周囲を見回す。林道の先に人影が見えた。こんな真夜中に誰だ? 様子を窺う。こちらへ向かって来る。農作業用の服を着て、左手にライト、右手に(なた)を持っている。その顔色は土色で、目から血の涙を流していた。生きている人間には見えない。あれはまさか、屍人か? 直感的に悟った。そう言えば、降り続けている雨は、血のように真っ赤な色をしている。

 

 それで、宮田はすべてを理解した。

 

 あの腰抜けの求導師が、儀式に失敗したのだ!!

 

 宮田の行動は素早かった。すぐに森に身を隠す。村の伝承によれば、屍人は生きてい人間を見つけると襲いかかって来るが、頭は決して良くない。森の中に入れば、ヤツはすぐにこちらの姿を見失い、探すのを諦めるだろう。思った通り、屍人は森の中に入って来たものの、木の陰に身を隠しているだけの宮田を見つけることができずにいた。やがて諦めたのか、あるいは何をしているのか忘れてしまったのか、元の場所に戻って行った。これで、ひとまず安心だろう。

 

 宮田は、これから自分はどうすべきかを考えた。昨夜、村では神代の娘を神の花嫁に捧げる儀式が行われたはずだ。儀式を取り仕切っていたのは眞魚教の求導師・牧野慶だ。宮田の双子の兄でもある。牧野は、恐らくこの儀式に失敗したのだ。

 

 二十七年前も同じ儀式が行われたと聞いている。その時も失敗し、村は、土砂災害に見舞われた。恐らく、今も同じことが起こっているだろう。一刻も早く村に戻らなくては。だが、美奈はどうする? このまま放っておくわけにもいかない。しかし、どこにいるのか見当もつかない。そこで、宮田は気が付いた。先ほど、屍人に見つかった時、一瞬、屍人の視点と思わしき映像が見えた。あれは恐らく幻視だ。他人の視界が見えるという、村に伝わる特殊能力である。恐らく、儀式に失敗したことで異変が生じた結果、能力が目覚めたのだろう。この能力を使って、美奈を探してみよう。宮田は目を閉じた。周囲に意識を向ける。何人かの気配を感じた。先ほどの鉈を持った屍人の他に、つるはしを持った屍人や猟銃を持った屍人までいる。その中に、白い靴を持っている屍人がいた。ピンク色にふちどりされた白いスニーカーだ。美奈が履いていた物に似ている。こいつか? 宮田は幻視を続けるが、その視点の主が美奈かどうかまでは判らない。直接確認するしかないだろう。靴を持った屍人は、コンクリート製の橋のそばを歩いていた。宮田が車を停めた近くにある橋のようだ。宮田は幻視をやめ、山を下りた。一〇分ほどで車に戻ることができたが。

 

 ――くそ。

 

 崖のそばに停めてあった車を見て、宮田は胸の内で悪態をつく。深夜の地震の影響からか、そばの崖が崩れており、運転席より前が土砂に埋もれていたのである。車はもう使えそうにない。不幸中の幸いか、後部座席より後ろは無事だ。宮田はトランクを開けた。中には修理用具が入っている。その中から最も重量があるラチェットスパナを取り出した。長さは五十センチほどで、十分な武器となるだろう。発煙筒も何かの役に立つかもしれない。ポケットにしまう。使えそうなものはこれくらいだ。鉈や猟銃を持った屍人相手には心もとないが、無いよりはマシだろう。屍人が何人もうろついているのに、武器も持たずに行動するなど愚の骨頂だ。

 

 宮田は再び幻視を行った。靴を持った屍人は、先ほどと同じく、コンクリート製の橋のそばをうろついている。橋はここから五十メートルも離れていないが、そのそばには古びた電話ボックスがぽつんとひとつ立っているだけで、誰の姿もない。どうやら屍人は向こう側にいるようだ。宮田はすぐに橋を渡るようなことはせず、慎重に他の気配を探る。いた。靴を持った屍人より手前。向こう側の橋の麓に、猟銃を持った屍人が立っている。そのまま進んでいたら、撃たれていただろう。靴を持った屍人の所へ行くには、この猟銃屍人をどうにかしなければならない。さすがにラチェットスパナでは分が悪すぎる。何か策を用いなければ。橋のそばまで行ってみる。電話ボックスの頼りない明かりだけが周囲をわずかに照らしている。何気なく中を覗きこむ宮田。電話の上に、テレホンカードが一枚置かれてあった。『美浜奈保子限定テレカ』とあり、水着姿の女性とサインがプリントされてあった。芸能人のようだが、宮田には全く興味の無いものだった。かなり古いものだ。使用度数0の所に穴が開いている。使用済みのものを捨てて行ったのだろう。

 

 宮田は電話ボックスの中に入ると、受話器を取り、テレホンカードを挿入した。案の定、度数表示の所には0と出た。受話器を置く。ピピーという機械音と共に、カードが排出された。宮田はカードをそのままにして、静かにその場を離れた。機械音は鳴り続けている。

 

 しばらく身を隠し、待っていると。

 

 橋の向こうから、猟銃を持った屍人が姿を現した。音の原因を確認しに来たようである。

 

 屍人は電話ボックスのそばまで来ると、そのまま中をじっと見つめる。音の原因は確認できたものの、どうしていいのか判らない様子だ。

 

 宮田は息を殺し、屍人の背後に忍び寄って行く。

 

 屍人は気づかない。ただじっと、電話ボックスを見つめる。

 

 屍人が間合いに入ったところで、静かに、スパナを振り上げた。

 

 そして、力いっぱい、振り下ろす。

 

 がつん! 鈍い音と手応え。

 

 屍人は大きくのけ反ると、その場に倒れ、動かなくなった。

 

 十分な手応えだった。生きている人間ならば、脳挫傷で即死だろう。しかし、相手は屍人だ。しばらくすれば傷は癒え、蘇るはずである。宮田は猟銃を奪おうとしたが、屍人の手が硬直しているのか、奪うことができなかった。

 

 銃を奪うことを諦めた宮田は、橋を渡った。美奈の靴を持った屍人は、まだ橋のそばにいる。すぐに見つけることができた。側の茂みに靴を隠している。ボロボロのTシャツと作業用ズボンを着た男の屍人だった。美奈ではない。

 

 靴を隠した屍人が宮田に気付いた。こちらに向かって来る。その手に握られているのは草刈り用の鎌だ。スパナよりもリーチが長く殺傷力も上だろうが、宮田は恐れはしなかった。屍人が鎌を振り上げた。それが振り下ろされるよりも早く、宮田のスパナが屍人に襲い掛かる。スパナは、屍人の左頬を捉えた。大きくのけ反り、後ずさりする屍人。手ごたえは十分だったが、あれでは顔が陥没するだけで、致命傷にはならないだろう。冷静に状況を見極めた宮田は、屍人が体勢を整える前に、さらに一撃を加える。今度は脳天を捉えた。前のめりになって倒れたところに、もう一撃。ぐしゃり、と、頭蓋が潰れる音とともに、屍人は動かなくなった。宮田は鎌を奪おうとしたが、やはり手が硬直していて、ビクともしない。どうやら屍人から武器を奪うのは無理なようだ。

 

 猟銃を持った屍人と、鎌を持った屍人を、スパナ一本で処理した宮田。特別なことではない。こういうことには、昔から慣れている。

 

 宮田は屍人が茂みに隠した靴を手に取った。宮田医院で採用しているナースシューズだ。恩田美奈の物で間違いない。

 

 ――くそ。美奈。どこへ行った。

 

 宮田はその後も美奈の姿を探したが、結局見つけることはできず、一人で山を下りるしかなかった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七話 恩田理沙 田堀/廃屋 初日/四時〇〇分〇四秒

 頭が割れるような酷い頭痛に襲われ、恩田(おんだ)理沙(りさ)は、その場にうずくまって動けないでいた。目を閉じ、じっと痛みに耐える。痛みは次第に引いていったが、不思議なことに、目を閉じているにもかかわらず、ハッキリとした映像が見えた。どこか、古い日本家屋の庭を歩いているのだ。庭木や物干し台に犬小屋、小さな倉庫に、離れと思われる別邸も確認できた。見覚えはない。自分の知っている場所ではないだろう。歩いているのも自分ではない。別の人物の視点のようである。視点の主は興奮しているのか、息が荒く、声も低い。男性のようだ。用心深く周囲を伺いながら、庭を歩いている。

 

 しばらくすると頭痛は嘘のように治まった。だが、映像は消えなかった。目を開けると自分の視点だが、閉じるとやはり、別の人の視点が見える。あたし、大丈夫だろうか? 十代の頃より片頭痛に悩まされているので頭が痛くなるのは珍しいことではないが、今日の頭痛は今までにないほどヒドイ。その上、幻覚のようなものまで見える。脳梗塞とかの前触れだったらイヤだな。早めに健康診断なり人間ドッグなり受けた方がいいかもしれない。お姉ちゃんに相談してみよう。そう思い、顔を上げ、立ち上がると。

 

 ――え?

 

 目の前に建つ建物を見て、理沙は驚きのあまり声を上げそうになった。古い日本家屋が建っている。さっきまで、こんなものはなかったはずだ。ここ、田堀地区は、二十七年前に発生した土砂災害に飲み込まれ、多くの人が行方不明になったと聞いている。数年前に羽生蛇村全体で大きな区画整理があり、この周辺も再開発されたが、数軒の民家が建てられただけで、ほとんど何も無い地域だ。こんな古い家屋は存在しない。いったい、どうなっているのだろう。自分は、夢でも見ているのか。

 

 理沙は家から持ってきたライトで照らしながら、家屋へ近づいて行く。門は開け放たれていた。表札はかかっていない。門の奥には玄関が見えるが、明かりは点いていない。

 

 ――誰かいるのかな……誰もいないよね。真っ暗だし。

 

 理沙は独り言を言いながら、ゆっくりと門をくぐり、敷地の中を確認してみた。いくつもの庭木が植えられ、物干し台や犬小屋、離れのような別邸も見える。

 

 あれ? これって……。

 

 それは、さっき目を閉じた時に見えた光景――今も目を閉じると見えるのだが――に、そっくりだった。

 

 なんだかイヤな予感がした。それでなくてもこんな真夜中に他人の家の庭に勝手に上り込むのは良くない。早々に立ち去った方がいいだろう。理沙は門から出ようとしたが。

 

 ビクン、と、身体が震え、一瞬、別の映像が見えた。古い家屋の門から出てくる、自分の姿。

 

 映像が消えると、理沙の前に人が立っていた。まずい。家の人が帰って来たんだ。怒られる。そう思った理沙は。

 

「ごめんなさい。あたし、なんか、迷っちゃったみたいで。道を訊こうと思ったんです。こんな真夜中に失礼かなー、とは思ったんですけど」

 

 早口で言い訳をする。通報されても文句は言えないような状況だ。なんとかごまかそうと必死だった。

 

 が、その言葉が止まる。

 

 現れた男は、両手に猟銃を持っていた。

 

 羽生蛇村は山奥にある村だ。猟師を仕事にしている人もいる。だから、猟銃を持っている人がいてもおかしくはないが、こんな夜中にバッグにも入れず持ち歩くなど、正気の沙汰とは思えない。

 

 さらに男は、あろうことか、その銃口を理沙に向けた。

 

 理沙は反射的に逃げ出した。門の中に駆け込む。背後で銃声がしたが、幸い弾は当たらなかった。

 

「助けて! 誰か!! 助けてください!!」

 

 叫びながら庭を走る理沙。あの男は強盗か、あるいは人殺しか。どちらであっても大した違いはない。助けを求めて叫ぶ。家に人がいるかどうかは判らないが、とにかくたくさんの人に危険を知らせなければ。

 

 また理沙の身体が震え、一瞬別の映像が見えた。

 

 しかし、命の危険を感じていた理沙に、そんなことを気にしている余裕はなかった。目の前に男の人の姿が見えたので、助けを求めた。

 

「助けてください! 今、門のところで、銃を持った男の人がいて――」

 

 男に駆け寄ろうとした理沙だったが、その足を止める。

 

 男は、右手に包丁を持っていた。

 

 そして、まるで獣のように空に向かって吠えると。

 

 包丁を振り上げ、理沙に向かって来た。

 

 踵を返して走る理沙。門の方へ戻ることになる。あの銃を持った男がいるが、逃げ場はそっちしかない。

 

 ――なんなの!? 何なのよこれは!!

 

 訳が判らなかった。猟銃を持った男に、包丁を持った男。いつからこの村はこんな危険な場所になったんだ。これなら、東京の方がまだ治安がいいのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 恩田理沙は現在二十一歳で、羽生蛇村で家事手伝いをしている。家事手伝い。要するに無職である。二年前、高校卒業と同時に就職で上京したが、生まれてからずっとこの田舎村で育った娘が都会の生活に馴染めるはずもなく、すぐに村を出たことを後悔した。それでも生来の真面目さで何とか二年間は働いたが、結局馴染むことはできず、務めていた会社を辞め、四日前、実家に戻って来たのである。

 

 理沙には、美奈という名の双子の姉がいた。真面目な理沙に対し美奈の方はやや奔放な性格をしているが、一卵性であり、見た目は時折親でも見間違うほどに似ていた。ずっと一緒に育ってきたが、高校卒業後、美奈は上京せず、現在、村の唯一の病院である宮田医院で看護師として働いている。病院はどこも人手不足で、若い看護師など寝る暇もないほど忙しいと言われているが、のどかな羽生蛇村ではそんなことはなく、日勤夜勤共に毎日キッチリ定時に仕事が終わり、日勤の場合は夜八時までには家に帰ってきて、十二時には就寝するという、都会の看護師なら誰もが羨むような生活をしていた。

 

 しかし昨夜、美奈は、夜勤でもないのに夜の十時を過ぎても帰ってこなかった。

 

 二十一歳の大人の女性だ。普通ならば、まだ心配するような時間ではない。急遽夜勤になったか、どこかで遊んでいると思うだろう。しかし、夜勤になったのなら連絡があるだろうし、羽生蛇村には夜に遊び歩くような場所もない。さらに、その夜は村の有力者である神代家が何やら祭事を行うとのことで、なるべく外出しないようにとの通達があった。宮田医院に電話しても通じない。理沙の胸には、言い知れぬ不安が浮かんでいた。美奈に何かあった。双子の直感というものだろうか、そう感じていた。十一時になっても帰ってこない。心配になった理沙は、美奈を探すため、一人、夜の羽生蛇村へ出た。

 

 そして、深夜〇時を回った時。

 

 村にサイレンが鳴り響き、大きな地震が起こった。激しい頭痛に襲われた理沙は、意識を失い、目覚めた時、突如、目の前古い家屋が出現していたのである。

 

 

 

 

 

 

 包丁を持った男から逃れるため、門の方へ走る理沙。門の近くに人影はなかった。外に出ようとしたが、銃を持った男は門の前に立っていた。幸い、こちらに背を向ける格好だったので気付かれることはなかった。だが、包丁を持った男は追ってきている。門の外へ出るのを諦め、さらに庭を逃げる。どこかに隠れないと。走りながら庭を見回す。角を曲がったところで、家の勝手口と思われるドアが見えた。鍵はかかっていない。素早く中に入った。十畳ほどの広さの台所だ。ドアに鍵を掛けようとしたが、壊れているようでかからなかった。このままではマズイ。家の奥へ逃げようとする。廊下へ続いていると思われる引き戸が見えた。だが、鍵がかかっているのか、あるいは古くて立てつけが悪いからか、開かない。

 

 外に、気配を感じた。

 

 低く、荒い息づかい。包丁を持っている男が、すぐそこにいる。台所に隠れる場所はない。勝手口を開けられると、すぐに見つかってしまう。可能性は極めて低いが、そのまま通り過ぎてくれるのを祈るしかない。ライトを消し、息を殺す理沙。

 

 荒い息づかいが、勝手口の前で止まった。

 

 やっぱりダメだった! 諦めかけた理沙だったが。

 

 男は、しばらく勝手口の前にいたようだったが、やがて気配は遠ざかって行った。

 

 助かった……大きく息を付く理沙。なぜドアを開けて中を確認しなかったのかは判らないが、ひとまず危機は去った。その場にへたり込む。

 

 と、目を閉じた瞬間、また、別の映像が見える。

 

 慌てて目を開けると、映像は消えた。

 

 もう一度、恐る恐る目を閉じた。やはり、見える。荒い息づかいで、古い日本家屋の庭を歩いている。犬小屋や物干し台、倉庫に離れがある。

 

 ……これって、この家の庭だよね。

 

 いま逃げてきた庭と全く同じ作りだった。そして、視界の隅に包丁がちらちらと映る。どうも、さっき追いかけてきた男の視点のように思う。幻覚ではないのか? あの男の視点を見ている?

 

 何が起こっているのかさっぱり判らなかったが、今は考えている場合ではない。包丁を持った頭のおかしな人に襲われ、門の前には猟銃を持った頭のおかしな人がいる。どうにかして、逃げ出さなければいけない。

 

 目を閉じたまま、男の視点で様子を窺う。男は庭をぐるっと回っているようである。周囲を警戒しているが、倉庫や離れ、この台所まで見ることはなかった。敷地にいる男はその一人だけだった。ずっと巡回しているようなので、勝手口の反対側に行った時に、庭へ出ることは可能だろう。しかし、門の前に陣取った猟銃を持った男は、その場を動こうとしない。他に脱出できそうな場所は無く、このままではいずれ見つかってしまう。どうしよう? なんとかして、あの猟銃を持った男にどいてもらわなければならない。何か、男の注意を引けないだろうか? 台所を見回す。冷蔵庫と、その上に小さな食器棚、後は流し台と換気扇があるだけの、殺風景な台所だ。しかし、探せば役に立つものがあるかもしれない。理沙は外の男に気付かれないよう、静かに台所を探った。

 

 包丁でもあれば相手を威嚇する道具になるかもしれないと思ったが、武器になりそうなものは何も無かった。見つかったのは、流し台の引き出しの中にあった、四つ折りにされた紙と、料理用の巻糸だけだった。紙を広げてみる。スケッチブックを切り離したもので、中には奇妙な花の絵が描かれてあった。赤い花びらが放射線状に広がっており、一見すると彼岸花のようである。

 

 ――月下奇人(げっかきじん)、かな?

 

 月下奇人とは、羽生蛇村にしか咲かない珍しい花の名だ。サボテン科の多肉植物で、深夜、深紅の花を咲かせ、夜明け前にはしぼんでしまう。花言葉は『秘めたる信仰』。

 

 非常に特徴的な花ではあるが、羽生蛇村ではワリとありふれた植物である。花が咲く時間は極めて短いが、月下奇人自体は村のいたる所に自生しており、子供たちが夏休みの図画の宿題で描く絵としては定番だ。理沙も小学生の時、深夜まで起きて描いたことがある。この絵も、恐らく子供が描いたものだろう。しかし、奇妙なのは、絵は土の中まで描かれており、根の一部が、銀色のメダルのようになっている点だった。そのメダルの中央には、漢字の『生』の字をひっくり返したようなマーク描かれている。眞魚教のシンボル・マナ字架だ。さらに、花の周りには、文字とも記号とも判別がつかない小さなマークがびっしりと書き連ねてあった。何かの暗号のようでもあるが、単に子供のイタズラ書きのようにも見える。

 

 まあ、何にしても今は役に立ちそうにない。理沙は絵を折り畳み、引出しに戻した。

 

 結局使えそうなものは料理用の巻糸だけだ。これを使って、何か仕掛けを作れないだろうか? 理沙は再び周囲を見回した。流し台の上の換気扇が目に入った。これは使える。理沙は糸の片方を換気扇の羽に巻きつけ、もう一方を、冷蔵庫の上の食器棚に巻きつけた。これで換気扇のスイッチを入れれば、徐々に糸が巻き取られ、やがて、食器棚をひっくり返すはずである。音を聞いた男が調べに来れば、その隙に脱出できる。うまく行くかは微妙だが、やってみるしかない。理沙は目を閉じ、外の男の気配を探った。猟銃を持った男は、相変わらず門の前に陣取っている。もう一人の包丁を持った男は、ちょうど、勝手口の前を通り過ぎ、玄関の方へ回ったところだった。今がチャンスだ。理沙は、換気扇のスイッチを入れた。ぶうん、と音がして、勢いよく回り始めた。糸が巻きついて行く。理沙は外に出て、離れの陰に身を隠した。糸はかなり余裕をもたせてある。どれくらいで巻き取れるかは判らない。息を殺し、その時を待った。

 

 ――うん?

 

 理沙は、足元の土に園芸用の小さなスコップが刺さっているのを見つけた。武器としては心もとないが、何も持たないよりはマシだろう。理沙はスコップを引き抜いた。と、スコップのそばに、赤い小さな花が咲いていた。花びらが放射線状に広がっている。さっき台所で見つけたスケッチブックの切れ端に描かれていた花、月下奇人だ。

 

 あれ? もしかしたら……。

 

 そんなことをしている場合でもないとは思ったが、気になった理沙は、花の根元をスコップで掘ってみた。四度、土を掘り返したら、中から、マナ字架をあしらった銀色のメダルが出てきた。あの絵の通りだ。この家の子供が埋めたのだろうか? 理沙はメダルに付いている土をはらった。マナ字架の下からアルファベットが出てきた。かなり霞んではいるものの、TAKEUCHIと読み取れた。タケウチ……竹内……武内。理沙は十八歳までこの村に住んでいた。村は狭く、村人全員が顔見知りと言ってもいいほど人口は少ないが、タケウチという名には心当たりが無かった。まあ、かなり古そうだから、引っ越して行った人のものかもしれない。

 

 がしゃん! と、台所から派手な音がして、理沙は我に返った。どうやら、仕掛けはうまく行ったようである。あとは、男が陽動されるかだ。目を閉じ、男の気配を探る。

 

 猟銃を持った男は、門をくぐって庭に入り、勝手口へ向かっている。やった! うまく行った!!

 

 目を開け、離れの陰から勝手口を見る。門の方から猟銃を持った男が現れた。ドアを開け、中に入るのを確認し、理沙は走った。包丁を持った男はまだ家の裏側だ。他には誰もいない。理沙は門をくぐり、家の外へ出ることに成功した。そのまま東へ向かって走る。すぐに警察に知らせなければ。猟銃や包丁持って襲ってくるなど、ただ事ではない。放っておくと、大変なことになるだろう。

 

 理沙は、田堀の東にある上粗戸の駐在所に向かって走った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十八話 高遠玲子 羽生蛇村小学校折部分校/図書室 初日/二時十八分三十四秒

 日付が変わるころ降り始めた雨は次第に強くなり、羽生蛇村小学校折部(おりべ)分校の木造校舎の屋根を容赦なく叩いていた。その雨音にも怯える四方田(よもだ)春海(はるみ)高遠(たかとお)玲子(れいこ)は、春海の小さな肩を抱きしめた。雷鳴が鳴り響き、春海は小さな悲鳴を上げた。

 

「大丈夫。大丈夫よ、春海ちゃん。ただの雷だから」春海を恐がらせないよう、優しい声で言って、背中をなでる玲子。

 

「先生……あたし……怖い……もうダメ……ダメだよ……」弱音を吐き、泣きだす春海。

 

「何言ってるの。諦めちゃダメよ。大丈夫。ここで待っていれば、すぐに、校長先生が助けに来てくれるから。それまで、ガンバろう。絶対に、諦めちゃダメよ。ね?」

 

 力強い言葉で励ます玲子。だが、その玲子の手も震えている。春海を怖がらせてはいけない。なんとか震えを止めようとしているのだが、意思でどうにかなるものではない。玲子も怖い。これからどうなるのか、玲子にも判らない。助けなど、来ないかもしれない。

 

 それでも。

 

 ――この子は……この子だけは、絶対に護らなければ。

 

 胸に、強い想いだけはあった。

 

 

 

 

 

 

 高遠玲子は羽生蛇村小学校折部分校の三・四年生クラスを担当している教師だ。羽生蛇村は子供の数が少なく、折部分校では二学年を一クラスとしている。それでも一クラスあたりの児童の数は十人にも満たず、年度によっては新入学生が一人もいないということもあった。

 

 四方田春海は玲子のクラスの四年生だ。児童数の少ないこの小学校においても目立たないタイプの子で、理科が得意で体育が苦手ではあるものの成績は極めて平均的。授業を受ける態度はまじめで、忘れ物もほとんど無い。問題点を上げるとすれば内向的な性格で積極性に欠けるというくらいの、教師にとっては非常に理想的な児童であった。

 

 しかし、春海は今、心に深い傷を負っていた。去年の三月、事故により、両親を亡くしてしまったのである。

 

 春海は村内に住む親戚の家に引き取られたが、関係はあまりうまくいってないようである。春海の父の兄にあたるらしいのだが、両親の介護の問題で兄弟仲があまり良くなかったのだ。春海のことは、他に引き取り手が無かったので仕方なく引き取ることになった、という感じであった。虐待やネグレクトほどの大きな問題は無いものの、春海の心のケアや育児にはそれほど積極的ではない。以来、春海は教師やクラスメイトに対してもすっかり心を閉ざし、ふさぎ込んでしまっていた。授業も上の空になり、休み時間や放課後にクラスメイトと遊ぶこともなくなった。現在、玲子が最も気にかけている児童である。

 

 昨日の夜、学校で『星を見る会』という行事が行われ、玲子と春海はそれに参加していた。その日は三百三十三年ぶりに飛来するという彗星が見られる日で、四月の初めより企画されていた行事だった。児童と教師ほぼ全員が参加する予定だったが、直前になって、役場からその日の夜は外出しないようにとの通達がされた。村の有力者である神代家が、何やら祭事を行うというのである。子供たちには関係の無いことであったが、親はそうはいかない。神代家の言うことには逆らわない方がいい。次々と不参加の申し出があり、結局参加希望は春海一人だけになった。事故で両親を亡くした春海には、強く反対する者がいなかったのだ。本来ならば中止すべきだったが、両親を亡くして以来、ずっとふさぎ込んでいた春海が楽しみにしていた行事だった。玲子は校長の名越(なごし)と相談し、春海と玲子、名越の三人で星を見る会を行うことにした。神代家が祭事を行う眞魚岩の広場は小学校から遠く離れているし、その日は学校に泊まることにして、日付が変わる前に屋内に入っておけば何の問題もないであろう。春海の保護者である親戚の許可も得ることができた。

 

 こうして、玲子と春海、校長の三人で、彗星を観測していたのだが。

 

 深夜〇時。村に、サイレンが鳴り響いた。

 

 直後に、大きな地震と激しい頭痛に襲われ、玲子たちは気を失う。一時間後、先に目覚めた春海に起こされた玲子が見たものは、武器を持って襲い掛かってくる村人たちだった。なんとか校長と三人で校舎に逃げ込み、二階の一番奥にある図書室へと隠れたのだ。

 

 

 

 

 

 

「――あたし、前にミヤちゃんから聞いたことがある……あれ……しびとだ……」

 

 春海が独り言のように言った。

 

 屍人……玲子も、昔話で聞いたことがある。言うことを聞かない子供を怖がらせるための作り話だと思っていたが、まさか、本当に存在するというのだろうか? 判らない。

 

「大丈夫だよ。相手が屍人だって、校長先生がみんなやっつけてくれるから」

 

 春海を励ます玲子だが、その可能性は低いと思わざるを得なかった。様子を見て来ると言って、校長が図書室の外に出てから、もう一時間以上経っている。心配する春海には、村に助けを呼びに行った、と説明したが、二人を危険な場所に置いたまま、何も告げず学校を後にするとは思えなかった。もう、校長は帰ってこない。そう考えた方がいいかもしれない。あたしが何とかしなければ。

 

「春海ちゃん。先生、ちょっと、校長先生が戻って来ていないか確認してくるから、ここで待っててね」

 

 玲子は春海を図書室の隅に残し、出入口のそばに移動する。そこで、目を閉じ、意識を外に集中させる。すぐに、自分の視界とは違う映像が浮かび上がった。幻視の能力だ。これも、昔話で聞いたことがあった。目が覚めた時からこの能力が使えるようになっていたのだ。原因は判らないが、今は、有効に使わせてもらおう。

 

 玲子は慎重に校舎内の気配を探る。三人の屍人が侵入しているようだ。二階の階段のそばに一人。ハンマーと釘を持ち、窓に板を打ちつけている。残る二人は一階だ。一人は包丁を持ち、トイレや教室を巡回している。最後の一人は何と拳銃を持っており、廊下に仁王立ちしていた。ダメだ。こんな状況で、無事に外に逃げ出すなんて、できるわけがない。

 

 ううん。諦めちゃダメ。絶対に、諦めちゃダメ!

 

 大きく首を振り、パンパンと頬を叩いて気合を入れる。諦めちゃダメ。今さっき春海に言ったことであり、そして、常々玲子が児童たちに教えて来たことだった。

 

 玲子は静かにドアを開け、直接自分の目で外の様子を窺った。二階には三つの教室がある。一番奥にあるこの図書室の他には、すぐ隣の予備教室、そして、階段のそばの五・六年生の教室だ。釘を打っている屍人は五・六年教室の前にいた。作業に没頭しており、こちらの方は見ようともしない。予備教室までは行けそうだ。この校舎の教室は、図書室や職員室を除き、教室内のドアで隣の教室と繋がっていた。教室間の移動は廊下に出ずとも可能だから、予備教室から五・六年教室へ行くことはできる。しかし、階段を下りるには、どうしても屍人の背後を通らなければならない。作業に没頭しているとはいえ、気付かれるか気付かれないかは微妙なところだ。自分一人なら試しても構わないが、春海がいるから無茶はできない。何か、良い手はないだろうか。周囲を見回す。廊下にあるのは、火災時用の非常ベルくらいだ。子供たちには「ボタンを押すとベルが鳴ると同時に消防署に連絡が行くから、イタズラするとすごく怒られる」と教えてあるが、実際にはそんな機能は付いていない。子供たちがイタズラをしないためのウソである。繋がっているのは一階と隣の体育館にある非常ベルまでで、一つを押すと全てのベルが鳴り始める。だから、校内に非常事態を知らせることはできるものの、校外へ助けを呼ぶことはできない。

 

 ――――。

 

 玲子は、春海の元に戻った。

 

「いい、春海ちゃん。これから先生と一緒に、あいつらに見つからないよう注意しながら、校舎の外に出るから。ガンバれるわよね?」玲子は春海の肩に手を置き、同じ目線にしゃがんで、まっすぐに目を見て言った。

 

「ええ? そんなの、ムリだよ。春海、怖いし、絶対に見つかっちゃう……」

 

「大丈夫! 先生がついてるんだし、怖くないよ。がんばろう、ね?」

 

 弱気な春海を何とか励ます玲子。正直に言えば、玲子も怖い。だが、自分がやらなければ、誰がこの子を護るのだ。やるしかない。

 

 玲子はライトを持ち、春海を連れ、静かに廊下へ出た。予備教室はすぐ隣だ。ドアを開け、素早く中に入る。釘打ち屍人には気付かれなかった。ここまでは問題ない。

 

 玲子は黒板の前で春海を待たせると、再び廊下に出る。そして、非常ベルのボタンを押した。

 

 けたたましいベルの音が鳴り響く。

 

 玲子はすぐに教室に戻った。目を閉じ、幻視を行う。

 

 釘を打っていた屍人がベルの音に気付いた。作業を中断し、ボタンのところまでやって来て、そのままじっと見つめている。

 

 玲子は一階の屍人も幻視する。包丁屍人も拳銃屍人も音に気が付いたが、二階に移動することはなく、連動して鳴り始めた一階の非常ベルを見ている。狙い通りだった。

 

「さあ、春海ちゃん、行くよ」

 

 玲子と春海は黒板横のドアを通り、隣の五・六年生の教室へ移動する。そして、そこから廊下へ出て、素早く階段を下りた。一階の屍人も廊下の非常ベルに注目している。そのまま階段そばの三・四年教室に入り、後ろのロッカーのそばにあるドアを抜け、一・二年教室へ移動し、教室の後ろから廊下に出て、校舎の玄関まで移動した。やった! うまく行った!! これで脱出できる! そう思ったが。

 

「きゃあ!」

 

 春海が悲鳴を上げる。幸い非常ベルの音にかき消されて屍人に聞かれることはなかったが。

 

 目の前に、ふたつの人影が見えた。

 

 バカな! 一階の屍人は廊下にいる。他に気配は無かったのに!

 

 春海をかばって前に立つ玲子。

 

 だが、目の前の人影も玲子と同じ動きをした。一人をかばって前に出る。

 

 よく見ると、その人影は玲子と春海だった。

 

「……大丈夫。これ、鏡だよ」

 

 玲子の言葉に、安堵の息を洩らす春海。それは、玄関のそばの壁に取り付けられた大きな姿見だった。深夜二時に鏡の前に立つと未来の自分の姿が見えるとか、もう一人の自分が現れて鏡の世界に引きずり込まれるとか、子供たちがいろいろとウワサされている姿見だ。この学校には、他にもいろいろと怪談話がある。一階の一番奥のトイレに花子さんが出る、とか、山で神隠しに遭った子供が深夜妖怪になって図書室に本を返しに来る、など、『羽生蛇村小学校七不思議』などと言われ、子供たちからは怖がられているが、今はそんな非現実的な怪談話などかわいく思えてしまう。

 

 非常ベルが止んだ。屍人が止めたようだ。こうしてはいられない。玲子は玄関から外に出ようとしたが。

 

「……そんな」

 

 玄関を見て、玲子は絶句した。ドア中に板が張り付けられてあり、押しても引いてもビクともしなかった。これでは出られない。どうにかしなくては。玲子は慎重に板を探った。一ヶ所だけ、釘の打ち付けが甘いところがあった。しかし、玲子の力では引きはがすことはできなかった。これはムリだ。巡回している屍人がそろそろ戻ってくるかもしれない。ここにいたら見つかってしまう。玲子は春海とともに一旦玄関を離れ、隣の職員室に逃げ込んだ。

 

 職員室には窓があるが、そこにも板が打ち付けられている。そう言えば、ここまで通ったすべての窓にも板が打ち付けてあった。二階にいた屍人がやったのだろうか? 何のためにそんなことをやっているのだろう? まさか、あたしたちを逃がさないようにしているのか? その割には、積極的に探そうとしているような様子はない。いったい、何が目的なのだろう?

 

 ……いや。今は屍人の目的などどうでもいい。問題は、どうやって脱出するかだ。

 

 窓の板を確認する玲子。ここもしっかりと打ちつけられてある。脱出するなら玄関の打ち付けの甘いところしかない。道具があればなんとかなるかもしれない。確か、体育館の倉庫に、作業用の工具がいろいろ置いてあるはずだ。体育館は、玄関の反対側のドアから出て渡り廊下を進めばすぐそこだ。鍵は職員室にある。行ってみよう。だが、春海はどうすべきか? 廊下には拳銃を持った屍人と、巡回している屍人がいる。春海をこれ以上危険な目に遭わせたくはない。幸い、屍人は職員室の中までは確認してはいないようだった。ここにいた方が安全だろう。

 

「春海ちゃん。先生、体育館に行って、道具を取って来るから、ここに隠れてて。いいわね」

 

 また、しっかりと目を見て言う。一人になることに不安そうだったが、小さく頷いて返事をする春海。

 

 玲子は、体育館の鍵を取った。

 

 廊下に出ようとして、ふと、自分の机に目をやる。

 

 そこには、春海が図画工作の授業で描いた絵が置いてあった。

 

 異様とも言える絵だった。大部分が黒く塗りつぶされており、右端に、黒髪に黒い服の少女と、白い犬のような生き物が描かれている。他の色は使われていない。小学四年生の女の子ならば、もっといろんな色を使って、カラフルな絵を描くだろう。この絵は、両親を亡くした四方田さんの心の闇を表している、すぐにカウンセリングを受けさせた方がいい――他の教師はそう提案した。玲子も、絵を見ただけならば、同じように思ったかもしれない。しかし、その絵を描いていたときの春海は、とても嬉しそうに笑っていたのを、玲子は見ていた。両親が亡くなって以降、少なくとも学校では見せたことのない笑顔だった。大人の常識で子供の感性を推し量ってはいけない、そんな気がした。玲子はその絵に、クラスで一番大きな花丸を付けていた。

 

 ――春海ちゃん。先生が、絶対に助けてあげるからね。

 

 もう一度胸に誓う。そして、幻視で外の様子を窺った。拳銃屍人はこちら側に背を向けており、包丁屍人は階段付近にいるようだ。玲子は廊下に出た。すぐ正面のドアの鍵を開ける。渡り廊下を進み、体育館のドアの前に来た。そこで、幻視を行う。体育館の中にも二人の屍人がいた。入口からは離れた場所にいて、気付かれずに倉庫まで行けそうだった。鍵を開け、中に入る。体育倉庫は左手側だ。屍人は右手側にいる。

 

 しまった、と、思った。体育館には裏口があるのだ。この出入口の、ちょうど反対側。ここから確認する限り、板で封鎖されていないようだ。失敗した。春海を連れてくれば、そこから脱出できたのに。後悔しても遅い。最初の予定通り、工具を持って戻るしかない。玲子は屍人に気付かれないよう倉庫へ移動した。ボールや跳び箱などが整理されて置かれている。その奥の棚に、目的のものはあった。長さ七十センチの大型のバールだ。これなら、玲子にも板をはがすことが可能だろう。

 

 そして。

 

 いざという時は、これで戦うこともできる。

 

 非常に重量があるものだ。殴れば、ひとたまりもないだろう。

 

 もちろん、屍人相手とは言え、そんなことはしたくない。しかし、いざとなったらやるしかない。春海を護るために。

 

 玲子は、バールを持って倉庫の外に出た。

 

 その時である。

 

 

 

《先生!! 助けて! 先生!!》

 

 

 

 春海の声がした。校内放送だ! 助けを求めている。職員室は安全だと思ったが、甘かったのか。玲子は、屍人に見つかるのもいとわず、体育館の出入口へ走った。

 

 その前に、誰かが立ちはだかっていた。

 

 思わずバールを構えるが、顔を見て安堵の息を洩らした。頭の薄くなった小太りの中年男性。なじみ深い笑顔。校長の名越だった

 

「ああ! 校長先生、無事だったんですね!」喜んで駆け寄る玲子。「助けてください。今、校内放送で、春海ちゃんが――」

 

 言葉を失う玲子。

 

 校長は、目から血の涙を流しており、顔は、どす黒い土のような色をしている。校内をうろついている屍人と同じだ。その右手には、金属バットが握られてある。

 

 校長は、バットを振り上げた。

 

 反射的に校長を突き飛ばす玲子。校長は尻餅をついて倒れた。その隙に、渡り廊下に出た。立ち上がり、向かってくる校長の前で、ドアを閉ざして鍵をかけた。ああ、何ということだ。やはり、校長先生も屍人になっていた。だが、嘆いているヒマはなかった。一刻も早く春海の元へ向かわなければ。屍人となった校長はドンドンとドアを叩いている。向こうから鍵を開けることは可能なのだが、屍人がそれに気付くのには時間がかかるだろう。玲子は渡り廊下を駆け抜け、職員室へ戻った。

 

「春海ちゃん!! 春海ちゃんどこ!?」

 

 職員室内を見回す。春海の姿はない。どこかへ逃げたのだろうか? でも、どこへ? 玲子は幻視を使い、春海の気配を探した。すぐに見つかった。一階の階段の手前、女子トイレだ。奥の個室で小さく震えている。玲子は廊下に飛び出し、女子トイレへ向かおうとした。が、屍人のことを思い出し、立ち止まった。急ぐあまり屍人に見つかり、あたしが殺されてしまっては元も子もない。慎重に行かなければ。心を落ち着かせる。二体の屍人はさっきと同じく廊下にいた。玲子は、来た時と逆に、まず一・二年教室へ入り、そこから三・四年教室へ移動して、廊下へ出て女子トイレへ入った。奥の個室は鍵がかけられてあったが、外から呼びかけると、ドアが開き、春海が泣きながら胸に飛び込んできた。

 

「先生……ごめんなさい……しびとが職員室にはいってきて……あたし……怖くて……ごめんなさい……」

 

 泣きじゃくる春海を、玲子は優しく慰める。「いいの……いいのよ。先生の方こそ、春海ちゃんを一人にしてごめんなさい。でも、よく逃げたわね。ガンバったガンバった」

 

 春海が落ち着くのを待ち、玲子は再び移動を始めた。拳銃屍人と包丁屍人の動きは変わらない。トイレを出て、すぐ側の三・四年教室に入った。このまま隣の教室へ行き、そこから廊下に出て、職員室へ行けるはずだった。

 

 だが、隣の教室には。

 

「はるみちゃああぁぁん、どこにいるのかなあぁぁ?」

 

 屍人と化した校長が、春海の姿を探し、徘徊していた。体育館から出てきたのだ。

 

 校長の異常に、春海も気付いたようだった。怯え、震えている。

 

「んんん? はるみちゃんのにおいがするよおぉぉ? ちかくにいるのかなあぁぁ?」

 

 校長は隣の教室を徘徊し続ける。こちら側に来るのも時間の問題だった。

 

 ……もう、他に手は無い。

 

 そう思った。

 

 玲子は春海の目線にしゃがみ、また、まっすぐに目を見た。「春海ちゃん。先生、ちょっと、校長先生とお話ししてくるから、そこに隠れて、待ててくれる?」

 

 教室の後ろにある掃除用具入れを指さす。あそこに隠れていれば、すぐには見つからないだろう。

 

「え……でも……」恐怖を隠せない春海。

 

「大丈夫。お話しするだけだし、すぐに戻って来る。だから、あそこに入って、目を閉じて、耳を塞いでて。絶対に、外に出たり、何かを見たり聞いたりしちゃダメよ? 判った?」

 

 いやがる春海を何とか説得し、掃除用具入れに隠れさせた。

 

 そして、玲子は胸に手を当て、大きく、息を付いた。

 

 ――よし。

 

 ドアを開け、隣の教室へ移動する。

 

 校長が、見慣れた笑顔をコチラに向けた。

 

 優しかった名越校長。子供たちだけでなく、教師へも思いやりがあった。児童たちのことで、何度も相談に乗ってもらった。今回の春海のことも。感謝しても、しきれない。

 

 だが――。

 

 校長が、バットを振り上げて向かって来る。

 

 ――たとえ校長先生でも、春海ちゃんに手出しはさせない!!

 

 玲子は、握りしめたバールを振り上げ。

 

 校長がバットを振り下ろすよりも早く、相手の頭に、バールを叩きつけた。

 

 硬い手応え。

 

 校長が、頭をおさえて後ずさりする。

 

 弱い! すぐにそう思った。あれでは倒せない。

 

 その通りだった。校長はまたすぐにバットを振り上げる。

 

 ――ためらうな! 春海ちゃんを護るんだ!!

 

 玲子はもう一度、バールを振り下ろした。

 

 今度は、全ての力を込めた。

 

 がつん!!

 

 さっきと違い、手応えは鈍かった。まるで、柔らかい体育のマットを殴ったかのように。

 

 だが、バールは、校長の頭にめり込んでいた。

 

 片膝をつく校長。

 

 普通ならば、もう立てないだろう。しかし、相手は屍人だ。また襲ってくるかもしれない。春海ちゃんを襲うかもしれない。

 

 玲子は、もう一度、バールを叩きつけた。

 

 校長がうつ伏せにたれる。

 

 そこに、さらにバールを振るう玲子。容赦はしない。ほんのわずかでも気を抜けば、それが春海への脅威となるかもしれないのだ。

 

 春海ちゃんを護る。

 

 春海ちゃんを護る

 

 春海ちゃんを護る護る護る!

 

 想いの数だけ、バールを振るい続ける。血が飛び散り、頭が潰れ、脳が飛び散り、肉塊と化しても、それでも玲子は、バールを振るい続けた。

 

 ――あさん?

 

 誰かに呼ばれたような気がして、玲子は手を止めた。

 

 足元には、頭が潰された無惨な校長が横たわっている。

 

 相手は屍人だ。頭を潰したからといって完全に殺したとは思えない。またよみがえるかもしれないが、これなら、しばらくは大丈夫だろう。

 

 教室には、他に誰も姿も無かった。誰かに呼ばれた気がしたが、気のせいだったのだろう。春海はまだ、用具入れに隠れているはずだ。

 

 玲子は隣の教室へ戻り、用具入れを開けた。

 

「……ごめんね、春海ちゃん。もう、大丈夫だから」

 

 怯えた表情の春海に、いつものように優しい笑顔で話しかける。

 

「玲子先生……校長先生は……?」

 

「大丈夫よ? ちゃあんと、お話ししたから。さあ、行こう?」

 

 春海を連れ出す。隣の教室へ移動しようとしたが、校長が倒れたままだ。無残な姿を、春海に見せるわけにはいかない。

 

「春海ちゃん。ちょっとの間だけ、目をつむっててくれるかな? 大丈夫。先生が、ちゃんと手を握ってるから」

 

 小さく震えながらも頷き、目を閉じる春海。玲子は手を取り、ドアを開けた。校長は倒れたままだ。なるべく近づかないように、大きく回り込んで、廊下側のドアへ向かう。玄関はすぐそこだ。張り付けられた板をバールではがせば、外に出られるだろう。ドアを開けた。

 

 ビクン、と、身体が震えた。

 

 すぐそばに拳銃を持った屍人がいて、こちらを見ていた。しまった。油断した! 背を向けていると思ったのに。

 

 銃口を玲子に向ける。

 

 だが、玲子には、それが春海に向けられたように見えた。

 

 ――春海ちゃんはあたしが護る!!

 

 相手が拳銃を持っていようと、もう、恐れはしなかった。玲子の胸にあるのは、ただ、春海を護るという強い想いだけ。

 

 玲子は、繋いでいた春海の手を離すと、バールを振り上げ、拳銃屍人に向かって行った。

 

 運動会の時によく聞いた火薬が鳴る音がして、同時に、左肩に鋭い痛みが走ったが、関係ない。

 

 春海ちゃんを護る!!

 

 バールを振り下ろす。

 

 もうすでに何度も振るっていたため、腕は限界を超えているのかもしれない。それでも関係なかった。春海を護るという想いが、玲子を突き動かす。

 

 何度バールを打ちつけたかは覚えていない。拳銃を持った屍人は、足元に倒れていた。

 

 また、身体が震えた。廊下の奥から、包丁を持った屍人が向かって来る。

 

 だが、今の玲子にとって、もはや脅威でもなんでもなかった。三度、バールを叩きつけただけで、包丁屍人は倒れた。

 

 玲子は大きく息を吐き出した。廊下に動く影は無い。二階の屍人はまだ釘を打っているようだった。下りて来ることはないだろう。教室へ戻る。春海は一人、震えていた。玲子の言いつけを守り、ちゃんと目を閉じている。ゴメンね、と、一言謝って、手を引いた。教室を出て、玄関へ向かう。

 

「春海ちゃん。もう、目を開けて大丈夫だよ」

 

 玄関まで来た玲子は、春海の肩に手を置いて言った。恐る恐る目を開ける春海。屍人は廊下と教室だ。玄関からは見えない。

 

「もうちょっと待っててね。先生が、いま、出られるようにするから」

 

 玲子は釘の打ち付け撃ちつけが甘いところにバールをさしこんだ。てこの要領で引くと、簡単に引きはがすことができた。そのまま周りの板も外していく。最後にバールで玄関のガラスを割った。五十センチ四方の穴が開く。やった。これで脱出することができる。

 

 玲子は、春海に手を差し伸べた。「さあ、春海ちゃん。ここから逃げよう?」

 

 だが――。

 

 春海は大きく首を振る。

 

「どうしたの? 早く逃げないと、また、屍人のおじさんたちが来るかもしれないから、ね?」

 

 玲子は、いつものように優しく微笑んだ。

 

 春海は、首を振り続ける。

 

「先生……あたし……怖い……」

 

 また、怯えた声。

 

「大丈夫だって。先生がついてるんだし。怖いことなんて、何も無いから」励ますように言うが。

 

 春海は、大きく首を振る。「そうじゃなくて……」

 

「何?」

 

 玲子は、少し苛立った声で言った。早く脱出しないと、いつ屍人がよみがえるか判らない。なのに春海は、いったい何を怖がっているのだろう?

 

 春海は、泣きだしそうな声で言った。

 

「あたし……玲子先生が……怖い」

 

「――――」

 

 言葉を失う玲子。

 

 ――あたしが、怖い?

 

 初めて言われたことだった。この学校に赴任してから、児童たちの間では、優しい玲子先生で通っているはずだった。もちろん、悪いことをした子はきちんと叱るが、それでも、児童たちに恐れられる教師では、決して、ない。

 

 雷鳴が轟いた。玲子が空けた穴から、一瞬、光が差しこむ。

 

 玲子のそばに、血の涙を流す人影が立っていた。

 

 屍人だ! 反射的にバールを振り上げる。

 

 だがそれは、屍人の返り血を浴びた自分が、壁の姿見に映っていただけだった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十九話 宮田司郎 大字粗戸/バス停留所付近 初日/七時二十二分四十九秒

 宮田司郎は徒歩で山を下り、上粗戸の商店街まで来ていた。ここから北東へ進めば、自分が院長を務める比良境の宮田医院がある。一刻も早く戻りたいところだが、変わり果てた上粗戸の街並みに驚き、その場に立ち尽くしていた。近代的な建物が立ち並ぶ商店街だった上粗戸は、今にも崩れ落ちそうなボロボロの家屋が並ぶ古い商店街へと姿を変えていた。道路わきに立つバス停留所の標柱には、『大字粗戸』と記されてある。区画整理が行われるより以前、二十七年前の地名だ。いったいこれは、どういうことなのか。

 

 背後に気配を感じた。屍人か? ラチェットスパナを構えて振り返る。若い女性だった。息を飲む宮田。

 

「……美奈」

 

 女性は、宮田医院で働く看護師の恩田美奈の姿をしていた。四時間ほど前、蛇ノ首谷で行方不明になり、探したが、見つからなかった。ここにいたのか、美奈。スパナを強く握りしめる。苦しまないよう、一撃で葬るつもりだった。スパナを振り上げようとした。しかし――。

 

「――先生? 宮田先生、ですよね?」女は覗き込むような視線を向けた。「あたし、恩田美奈の妹の、理沙です!」

 

 女の言葉で手を止めた。美奈の妹? そういえば美奈には、何年か前に東京へ就職した双子の妹がいた。改めて女性を見てみる。美奈と瓜二つであるが、血の涙は流しておらず、肌も色白で健康的だ。屍人ではない。ということは、美奈ではない。

 

「……失礼。ヤツらかと思ったので」宮田はスパナを下ろした。「恩田理沙さん。お姉さんから話は伺っているよ。会うのは初めてだったかな?」

 

 記憶を探る宮田。二年前までは村にいたはずだから病院に来たことはあるだろうが、少なくとも宮田が診察をしたことはない。

 

「はい。あたしも、お姉ちゃんから先生の話をよく聞いてました。先生、お姉ちゃんはどこにいるんですか? これ、何がどうなってるんですか?」

 

 理沙は昨日の夜からのことを話した。美奈の帰りが遅いので探しに出たこと。サイレンが鳴って気を失い、気がついたら目の前に知らない家があったこと。そこで、銃や包丁を持った頭のおかしな男に襲われたこと。目を閉じると幻覚のようなものが見えること。なんとか逃げ出したものの、ここに来る途中にも同じように頭のおかしな人たちに襲われたこと。いったい、何がどうなっているのか?

 

 宮田は、自分の判る範囲で答えた。と言っても、詳しいことは宮田にも判らない。襲ってくる連中は屍人という化物で、目を閉じると見える幻覚のようなものは幻視という能力だということくらいである。この二つも、あくまでも宮田の想像にすぎない。確かなことは、美奈は無事ではないということだけだったが、それは言わないでおいた。

 

「私も美奈さんを探していたところだ。ひとまず一緒に病院へ戻ろう」

 

 宮田がそう提案すると、理沙は、はい、と、小さく頷いた。

 

 宮田はバス停の時刻表を確認した。宮田医院を経由し、合石岳のふもとまで行くバスだった。つまり、この道を進めば病院に着くはずである。街並みは変わっているが、地形は同じようだ。

 

 続いて宮田は、幻視を使って道の先の気配を探った。多くの屍人が見つかったが、ほとんどが民家の中や屋根の上で釘打ち作業をしていた。大通りを巡回しているのは、拳銃を持った屍人と包丁を持った屍人の二人だった。また、もう一人拳銃を持った屍人がいるが、どこか食堂と思われる建物の中で食事をしており、しばらく外に出て来ることはなさそうだ。障害となりそうな屍人は二体。宮田にとっては大した脅威ではなく、始末しながら進むこともできたが、その姿を村人に見せるのは得策ではないだろう。幸い、バス停のすぐ近くに大通りと並行して進める裏路地があったので、そちらを通ることにした。裏路地にも鎌で草を刈っている屍人がいたが、作業に没頭していたので、しゃがみ歩きで静かに背後を通過した。そのままさらに進む。古い食堂の裏口の前を通ったところで右に折れ曲がり、表通りと合流していた。この先に屍人の気配は無い。そのまま大通りを進もうとしたのだが。

 

「え……? 何、これ……?」理沙が驚きの声を洩らす。

 

 大通りは、木の板を張り合わせて作ったバリケードで塞がれていた。屍人が作ったのだろうか? 宮田はバリケードを調べてみた。高さ五メートルほどで、とても乗り越えることはできない。頑丈で、スパナで殴ったくらいではビクともしないだろう。これ以上進むことは難しい。宮田は周囲を見回した。道路のそばには堤防があり、その向こうは川になっているようである。

 

「先生……あいつらが来ます」

 

 理沙がバリケードの反対側を指さした。包丁を持った屍人がこちらに来ているようである。幸いまだ見つかってはいない。一度、どこかに隠れた方がよさそうだ。その場を離れようとして、道端に金づちが落ちているのを見つけた。片面が釘抜きになっているネイルハンマーである。屍人が忘れっていった物だろう。武器としてはスパナよりも強力そうだ。宮田はネイルハンマーを拾った。

 

 裏通りに戻った宮田と理沙。幻視で表通りの様子を探る。包丁を持っている屍人は、バリケードの前まで来ると、しばらく周囲を見回し、来た道を戻って行った。裏通りまでは巡回していないようだ。ここに隠れていればしばらくは安全だろう。

 

「あのバリケード、あいつらが作ったんですよね……」理沙がつぶやくように言った。「あんな事して、何が目的なんでしょうか?」

 

 宮田もそれは気になっていた。あのバリケードだけではない。この地域には、やたらと大工作業をしている屍人が多い。家の玄関や窓を板でふさいだり、屋根の上にさらに部屋を作ろうとしている者もいる。それが一軒だけではなく、全ての家屋で行われているのだ。まるで、街そのものを増築し、大きくしようとしているかのようだ。何のために、そんなことを? 考えてみても、判るはずもない。

 

 ヤツらのやることなど気にしても仕方ないかもしれない。それより、病院へ向かう方が先決だ。大通りが進めないなら、他の道を進むしかない。だが、他に道はあるのだろうか? 今いるこの商店街は、宮田の知る上粗戸の商店街ではない。どこをどう進めば病院まで行けるか判らない。だが、街並みが変わっていても、地形が変わっていないなら、北東方面に進めばいいはずだ。ならば、川沿いに進めばいいだろう。あの川は眞魚川だ。川上へ進めば、比良境付近へ着くはずである。

 

 だが、それにはひとつ、問題があった。

 

 川へ下りるためには堤防を越えなければならない。堤防を越えるための階段は、食堂玄関の正面にあるのだが、食堂の玄関は開け放たれており、中で、拳銃を持った屍人が食事をしているのだ。食事をしながらも店の外には注意を払っており、堤防を越えようとすると見つかる可能性が高い。理沙を伴って突破するのは少々危険だ。

 

「なんとか、あいつの気を引きつけられないでしょうか?」理沙が言った。

 

 裏通りには食堂の裏口がある。そっとドアを開け、誰もいないのを確認して中に入った。八畳ほどの縦に長い部屋で、手前に大きな冷凍庫、奥には流し台と、その隣に食器棚があった。食堂の調理場だ。入って左側に扉があり、屍人は向こうのフロアで食事をしているはずである。

 

 宮田は理沙を見た。「私がここで大きな音をたてて、ヤツの気を引きつける。その隙に、理沙さんは堤防を越えて川辺に下りるんだ」

 

「え? 大きな音をたてるって、どうやって?」

 

「何でもいい。叫んでもいいし、そこの――」宮田は、食器棚の上に置いてあるブタの貯金箱を、ネイルハンマーで示した。「その貯金箱を叩き割ってもいい」

 

「でも、それだと先生が……」

 

「大丈夫。音をたてたら私もすぐに逃げ出して、後を追うから」心配させないようにそう言った。

 

「ダメです。先生をそんな危険な目に遭わせられません。何か、いい方法があるはずです。待っててください」理沙は厨房の中を探り始めた。

 

 心の中でため息をつく宮田。本当のことを言えば、たとえ相手が拳銃を持っていようとも倒す自信があった。大きな音をたて、様子を見に来た屍人を不意打ちすればいい。宮田にしてみればその方がはるかに簡単で早いのだ。ただ、そういう姿を村人に知られるのはまずいので、理沙の見ている前ではやらないだけだ。

 

「あれ? これは……」

 

 冷凍庫を開けた理沙。中から何やら赤い塊を取り出した。どうやら、濡れたタオルを凍らせたもののようである。誰が何のためにそんなことをしたのかは判らない。

 

 しばらく凍ったタオルを見ていた理沙だったが、何かを思いついた表情で、食器棚の上のブタの貯金箱を見た。

 

「これ、使えると思います」

 

 理沙は凍ったタオルを持ってきた。そして、流し台と食器棚の間の一〇センチほどの隙間の上にタオルを置き、さらにその上にブタの貯金箱を置いた。

 

 なるほど、と、感心する宮田。こうしておけば、時間が経つと同時に凍ったタオルが溶け、やがて貯金箱が床に落ち、割れる、という仕組みである。

 

「先生、表で待機しておきましょう」

 

 理沙と宮田は外に出て、食堂の横で息をひそめて待った。それから五分ほど経ったとき。

 

 がちゃん。

 

 貯金箱が割れる音がした。幻視で中の屍人の様子を探る。音に気付いた屍人は、拳銃を持ち、調理場の扉を開けた。そして、床で割れている貯金箱を発見し、じっと見つめる。

 

 他の屍人の気配も確認する。大通りを巡回していた屍人は、ちょうど、バス停付近にいるようだ。

 

「今です。先生、行きましょう」

 

 駆け出す理沙。宮田も後に続くが。

 

 ――うん?

 

 ふと、食堂の中を見て、足を止める。

 

「ちょっと、先生。何してるんですか? 早く来てください!」

 

 階段を上りかけた理沙が呼ぶが、宮田は無視して、食堂の中に入った。屍人はすぐ隣の調理場にいる。もし戻ってくれば見つかってしまうが、それでも、中に入らずにはいられなかった。

 

 宮田が気になったのは、テーブルの上に置かれている広報誌だった。手に取って確認する。羽生蛇村役場が定期的に発行しているもので、眞魚川水門改修工事のお知らせだった。眞魚川氾濫による洪水被害への対策として、眞魚川水門の改修工事を行うとのことである。眞魚川水門とは、眞魚川の上流、蛇ノ首谷よりもさらに北の山奥にあるダムのことだ。改修工事が行われたのはもう何年も前の話である。広報誌の日付を確認すると、昭和五十一年六月となっていた。随分と古い広報誌だ。二十七年も前の物である。だが、その割にはあまり痛んでいない。最近発行されたもののように見える。

 

 昭和五十一年は、羽生蛇村で大規模な土砂災害が発生した年だ。その土砂災害で、大字粗戸をはじめとした多くの地域が消滅している。

 

 土砂災害が発生した原因は、その前日、神迎えの儀式に失敗したことにある。それを知るのは、宮田をはじめとした一部の有力者だけだ。そして恐らく、今回も同じ儀式に失敗した。

 

 ――もしかしたら、いま私は、二十七年前の羽生蛇村にいるのかもしれない。

 

「先生! ヤツらが戻って来ます! 早く!」

 

 外で理沙が呼んだ。宮田は広報誌をテーブルの上に戻すと、外に出て、堤防の階段を上がった。そのまま河川敷へ下り、理沙と共に、川沿いを北へ向かった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十話 恩田理沙 宮田医院/第一病棟診察室 初日/十時三十八分五十八秒

「――くそ! どうなっている!」

 

 宮田医院の第一病棟診察室で、院長の宮田司郎が苛立ちながら机を叩く。恩田理沙は、窓際でその背中を見ていた。机の上にはカルテが置かれてあり、理沙の立っている場所からも内容が確認できそうだ。関係者でない自分が見てはいけないものだろうと思いすぐに目を逸らしたが、視界の隅に、『昭和51年』という年と、『志村貴文』という名前が見えた。理沙は診察室を見回した。机の他に、診察用のベッドや薬品を入れる棚などがあるが、どれもボロボロだ。机は錆びつき、ベッドのシーツは黒ずみ、薬品棚は両開きの扉のガラスが全て割れており、薬品の瓶も割れて部屋中に散乱している。まるで廃墟のようだ。

 

 恩田理沙と宮田司郎が比良境の宮田医院にたどり着いたのは、大字粗戸を脱出して約三時間後のことだった。だがそこに、あるべきはずの宮田医院は無かった。いや、『宮田医院』と看板を掲げた建物はあった。だが、廃墟同然の古い二階建てのビルだった。本来の宮田医院の病棟は一九七五年に建てられたものであり、古いビルであることは確かだが、ここまでボロボロでは無い。そもそも宮田医院は四階建てだ。ここは、理沙の知る宮田医院ではない。宮田先生もどういうことなのか判らないようで、さっきから診察室内のカルテや資料を調べている。

 

 しかし、理沙にとってはここがどこであろうとあまり興味が無いことだった。理沙がいま気にしているのは、姉の美奈の安否だった。

 

 宮田医院は緊急時の避難場所に指定されており、周辺の村人が避難してきていることが考えられた。もしかしたらその中に美奈もいるかもしれない。そう思い、ここまで来たのだが、病院には誰の姿も無かった。幸い屍人の姿も無かったので、避難所にはなりそうだ。しかし、今のところ誰かが避難してくるような様子はない。ここで待っていれば、美奈は避難してくるだろうか? それとも、どこか別の場所を探した方がいいのか? ここが安全な場所であるならむやみに動き回らない方が良いのは判っているが、美奈の安否が判らない以上、じっとしてもいられない。

 

 

 

《理沙――》

 

 

 

 突然、名を呼ばれた。

 

 診察室を見回す。宮田先生と自分しかいない。先生はずっと資料を調べていて、こちらには見向きもしていない。先生が呼んだのではない。そもそも今の声は、耳で聞こえたという感じではなかった。頭の中に直接語りかけてきた。例えるならば、そんな感じの声だった。

 

 

 

《理沙――》

 

 

 

 また聞こえる。今度は、もっとはっきりとした声だった。女性の声、それも、すごくなじみのある声だった。これは……お姉ちゃん?

 

 窓の外を見る。赤い雨は降り続いている。診察室からは、病院の中庭が見える。

 

 その中央に、看護師姿の女性が立っていた。すぐに判った。美奈だ。

 

「お姉ちゃん?」

 

 窓越しに呼びかける。

 

 宮田先生が顔を上げた。「どうした?」

 

「先生、あそこに、お姉ちゃんが――」

 

 一瞬宮田先生を見て、窓の外を指さした。

 

 だが、指さした先には、もう美奈の姿は無かった。

 

 宮田先生は窓から見える範囲で美奈の姿を探すが、どこにもいないようである。

 

「本当に美奈さんがいた?」視線は窓の外に向けたまま訊く宮田先生。

 

「はい。看護師の格好をしてて、あたしの名前を呼んで、そして――」

 

 続く言葉を、理沙は飲み込んだ。

 

「そして?」宮田先生が怪訝そうな視線を向ける。

 

「――いえ、なんでも無いです。お姉ちゃんかと思ったんですけど、見間違いかもしれません」

 

「ふうむ」

 

 宮田先生は唸り声をあげ、窓の外を探す。

 

 窓の外に姉がいた。それは間違いないだろう。

 

 ただ、美奈は、目から血のような涙を流していたように見えた。さっき宮田先生に言いかけたのは、そのことだ。

 

 血の涙を流す。それは、屍人の特徴だ。姉はもう、屍人になってしまったのだろうか?

 

 いや、判らない。一瞬見えただけなので気のせいかもしれないし、ただ雨の雫が流れていただけなのかもしれない。

 

 窓の外は、赤い雨が降り続いている。

 

 ふと、腕時計を見た。十一時を過ぎている。もうすぐ十二時になる。

 

 美奈は、どこへ行ったのだろう。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十一話 美浜奈保子 合石岳/蛇頭峠 初日/十九時二十七分二十一秒

 話がかみ合わない猟師と別れてから八時間以上経ったが、美浜奈保子は今だ合石岳の山中をさ迷い歩いていた。足元には、小さな石碑が置かれてある。男女が並んで立つ姿が浮き彫りにされた像。三十分ほど前にもこの像を見た。一時間前も、二時間前にも、三時間前にも見た。もう、十回以上は見ている。最初は同じ形をしたものかと思っていたが、よくよく確認してみると、痛み方や傷のつき方が同じだった。つまり同じものであり、奈保子は同じ場所を何度も何度も行き来しているのだ。あの猟師に言われた通りの道を進んでいるはずなのだが、ひょっとして、道を間違えたのだろうか? いや、どう注意深く進んでも一本道であり、間違えるはずはない。番組が仕掛けたドッキリであることも考えたが、その可能性も低いと思う。奈保子が一人で行動しはじめてからもう二十時間になる。ドッキリならいくらなんでもそろそろネタバラシをした方がいいだろう。道を間違えてなくてドッキリでもないなら、やはり、この山は一度入ったら二度と出ることはできない迷いの山だったのだろうか。

 

 奈保子は、足元の石碑をじっと見つめる。

 

 奈保子はオカルト番組の『ダークネスJAPAN』に出演するようになってから、空いている時間は(まあ、仕事などほとんど無いからいつも時間は空いているのだが)番組に役立ちそうなことをなんでも勉強するようにしていた。民俗学に関しても多少の知識がある。この像は、道祖神像だ。街や村の境、峠などに奉られ、旅の安全を祈願したり、疫病や悪霊などの災いが侵入するのを防いだりする神様である。

 

 ――もしかしてあたし、村へ入るのを拒まれてる?

 

 そんなことを思った。自分は余所者であり、村へ来たのはくだらないテレビ番組の撮影のためだ。神様に拒まれても仕方がないのかもしれない。

 

 奈保子は像の前にしゃがみ、胸の前で両手を組んだ。

 

 ――道祖神様。村へ入ることをお許しください。村は今、地震で大変なことになっているかもしれません。あたしはテレビに携わる者として、それを国民に伝える義務があります。決して、よこしまな想いで来たわけではありません。どうか、よろしくお願いします。

 

 祈った。

 

 オカルト番組に出演してはいるものの、奈保子は非科学的なことはあまり信じていない。しかし、こういった古くから伝わる風習にはなんらかの意味があるとは思っている。神様がいるかどうかは判らないが、自然を敬う気持ちは大切だ。

 

 道祖神に祈りをささげた奈保子は、再び歩き始めた。

 

 すると、五分ほど歩いただけで、今まで迷っていたのがウソだったかのように、目の前に古いビルが現れた。道祖神様に祈ったおかげだろうか? やっぱり、そういうのってあるんだなぁ。奈保子はもう一度手を組み、目を閉じ、感謝の祈りをささげた。

 

 その瞬間。

 

 目を閉じているはずの奈保子の目に、映像が浮かび上がった。どこか、暗いトンネルの中を、ライトを片手に歩いている。

 

 ――え? なに?

 

 目を開ける。目の前には古いビル。これは、ちゃんと自分の目で見ている映像だ。

 

 もう一度目を閉じると、やはり、トンネルの中を歩いている映像が。音も聞こえる。興奮気味に荒い呼吸をしており、時折、意味不明な言葉をしゃべっている。

 

 ――ヤバイな。長時間山で迷って幻覚見るようになったか。

 

 心配ではあったものの、今はあまり気にしないことにした。何の根拠もないが、幻覚を見ているという自覚があればあまり問題は無いだろう。仕事がひと段落したら、お医者さんに相談してみよう。

 

 さて。

 

 ビルの前には鉄格子式の門があったが、カギはかけられていない。中に入る。ビルの裏庭のようである。裏口のドアも開いている。裏口横には朽ち果てた古い木の看板があり、かすかに『三隅鉱山事務所』と読めた。あの猟師が言った通り、鉱山跡地のようだ。

 

 奈保子は番組でロケに出かける時は事前調査を入念に行うようにしている。羽生蛇村についてもインターネット等でかなり調べていた。三隅鉱山は、四十年近く前に閉鎖され、二十七年前の土砂災害で壊滅したのではなかっただろうか? ごくり、と、息を飲む奈保子。消えたはずの鉱山が存在している。ダークネスJAPANのネタにピッタリだ。村へ急ぎたいのは山々だが、これは素通りできない。調査しなければ。まあ、真相はたぶん、インターネットの情報が間違っていたか、迷った挙句全く別の場所に出たか、なのだろうが、番組でそこまで明かす必要はない。後日、改めて取材を行おうとしたがどうしてもたどり着くことができなかった、とかなんとか言っておけばいいだろう。これは、番組プロデューサーも喜びそうだ。奈保子は、ウエストポーチからハンディカメラを取り出した。

 

「ただ今、八月三日の夜七時三十五分。二十時間以上山の中で迷い、鉱山事務所というビルにたどり着きました。しかし、羽生蛇村の三隅鉱山は、二十七年前の土砂災害で消滅していると聞いています。これは、一体どういうことなのでしょうか? 調査してみます」

 

 カメラに向かって言い、ゆっくりと、ビルの中に入った。

 

 中は、壁や天井の至る所が崩れ落ち、床に瓦礫が散乱していた。かなり長い間放置されていたようだ。

 

 ――懐かしい。ヒットマン女豹の撮影を思い出すわね。

 

 ふと、そんなことを思った。

 

『ヒットマン女豹』とは、四年ほど前に奈保子が出演したVシネマである。アクション作品で、クライマックスはこのような廃墟での格闘シーンだった。奈保子はこの作品に悪役の一人として出演しており、クライマックスの撮影にも参加していた。出番は決して多くなかったが、落ちぶれてから出演した数少ない作品であり、Vシネマでありながらそこそこヒットしたので、今でも撮影当時のことはよく覚えていた。あの時は、監督やスタッフさんにはお世話になった。新作を撮る時は必ず声を掛けるとも言ってくれた。監督はそれから何本かの映画やドラマを撮ったようだが、出演のオファーは来ていない。まあ、それも仕方がない。映画やドラマは監督一人で作る物ではなく、監督が一番偉いわけでもない。プロデューサーやスポンサー等の意見もあり、監督だけで配役を決められるとは限らないのだ。気長にチャンスを待つしかないだろう。

 

 それより、今はダークネスJAPANの撮影に集中しなければ。

 

 奈保子はゆっくりとビルの廊下を進んだ。いくつかの部屋があるが、どこも瓦礫が散乱しているだけで、特に面白そうなものは無かった。唯一、廊下の中央に錆びついた小さな鍵が落ちていた。念のため「鍵が落ちてました。どこの鍵でしょうか?」などとカメラに向かって言いながら拾っておいた。

 

 ビルは二階建て。地下もあるようだ。奈保子は地下に下りてみることにした。

 

 地下は十メートル四方の部屋がひとつだけだった。倉庫として使われていたと思われるが、今は瓦礫が散乱しているだけだ。何か無いだろうか? ライトを照らす。

 

 ――うん?

 

 部屋の隅に何かある。ライトを向けると、女の子用の赤いランドセルだった。

 

 ――おお、いいね。そういうの、待ってたのよ。

 

 はやる気持ちをおさえながら、カメラに向かって、「何かあります。ランドセルのようです。なんでこんなものが……」と、脅えた口調で言い、恐る恐る近づいていく。そして、ゆっくりたっぷり怖がりながら、ランドセルを開けた。中からは、紙製のカードと絵日記帳が出てきた。カードを見てみる。『羽生蛇村小学校図書室』と記されてあった。どうやら、小学校の図書室の貸し出しカードのようである。借りた児童が名前を書いていくものだ。本のタイトルは『羽生蛇村民話集』。何人かの名前が書かれていたが、ほとんどは、文字がかすれて読めない。なんとか読めたのは、最後に借りた児童の名前『吉川菜美子』と、その前に借りた『八……沙子』という文字だけだった。

 

 ――吉川(よしかわ)菜美子(なみこ)

 

 息を飲む奈保子。覚えのある名前だった。撮影前に村の情報を調べた時、その名前を目にした。確か、一九七六年七月、合石岳に遊びに行くと言ったまま行方不明になった子だ。当時はかなり大きなニュースになったようである。大規模な捜索が行われたが、結局見つからず、二十七年経った今でも行方不明のままだ。奈保子が生まれて間もない頃の話だが、『神隠し事件』として、今でも未解決事件を捜査する番組やオカルト系の番組で頻繁に取り上げられる有名な事件だ。このランドセルはまさか、その吉川菜美子のものなのだろうか?

 

 ……いやいや。そんなワケないよね。タダの図書カードだもん。本を借りた人の名前が書いてあるだけだよ。

 

 そう思うが、番組的には非常においしい。奈保子はカメラに向かい、「まさかこれは、行方不明の吉川菜美子ちゃんのランドセルなんでしょうか……?」と、困惑した口調で話す。そして、絵日記も見た。表紙には、消えかけているが、黒のマジックで『吉川菜美子』という名前が書かれてあった。

 

 ……ヤバい。これ、シャレになってないわ。

 

 さすがの奈保子もドキドキしてきた。もしかしたら、本当に吉川菜美子のランドセルを発見したのかもしれない。だとしたら大スクープではないだろうか? しかし、残念ながら、これはダークネスJAPAN向けのネタではないだろう。ダークネスJAPANはオカルト番組ではあるが、ドキュメンタリー系ではなくバラエティ系だ。これを放送してもヤラセと思われるだけだろう。プロデューサーには申し訳ないが、もっとちゃんとしたオカルト番組、いや、むしろ報道番組の方がいいのでは? 帰ったらマネージャーに相談してみよう。

 

 他人の日記を見るのは忍びないが、もう三十年近く前の物であり、事件解決の手掛かりにもなる。奈保子は心の中で菜美子に謝り、日記を開いた。パラパラとめくる。最後に書かれていたのは一九七六年の七月五日だ。菜美子が行方不明になる前日である。

 

 

 

七月五日 天気 はれ

 

 今日、学校の帰り道、合石だけの山の上に、小さな光みたいなものが飛んでいるのが見えた。でも、みんなに話したけど、みんな見えないって言った。わたしにしか見えなかったのかな? あした、学校のじゅぎょうが終わったら、合石だけにいってみようかな?

 

 

 

 UFOらしきものまで絡んできた。これは、報道番組オカルト番組、両方持ち込めそうだ。そしてあたしは事件解決に繋がる情報を提供したとして、様々なテレビ番組や雑誌などに出演し、一躍時の人に……。思わず顔がニヤける。ついに再ブレイクの時が来たか。道祖神様に聞かれたらまた山の中を迷わされそうだな。もちろん、これは事件解決のための調査だ。けっして、スクープを撮って有名になりたいとか思ってるわけじゃないぞ、うん。

 

 ……などと一人で言い訳をしていると。

 

 かちゃり。上の階で、瓦礫を踏む音が聞こえた。最初は気のせいかと思ったが、その後も断続的に聞こえる。人が歩いているようだ。誰か来たのだろうか? こんな真夜中に、こんな山奥の廃墟で、一体何を? 怖い、とは思わなかった。奈保子は幽霊やUFOなどは信じていない。だから、怖い、という気持ちよりも、マズイ、という気持ちの方が強かった。こういった廃墟にも、必ず所有者はいる。撮影するには所有者の許可がいるし、そもそも勝手に入ると不法侵入だ。ヘタをするとせっかくのスクープがお蔵入りになりかねない。どうすべきだろうか? 奈保子は、階段の陰に身を隠しながら、様子を探った。

 

 ビル内に入ってきたのは、麦わら帽子にTシャツ姿の男性のようだった。「かーぎー……かーぎー……かぎ……」と、舌足らずな言葉で独り言を言いながら、ライトで床を照らし廊下を歩きまわっている。鍵を落としたのだろうか? そう言えば、さっき古い鍵を拾ったな。どうしよう? バレないように廊下に置いておけば、その内見つけて帰って行くだろう。しかし、彼はいったい何者なのか? 陽も沈んだ遅い時間、こんな山奥の廃墟に一人でいるなど、まともな人ではないかもしれない(まあ、それは奈保子も同じだが)。しかも、地下には長年行方井不明となっている少女の物と思われるランドセルまである。ひょっとしたら、事件に関係があるのかもしれない。よし、ここは、思い切って話を聞いてみよう。いきなりカメラを向けると不信感を与えてしまう。奈保子はカメラを録画モードにしたままウエストポーチにしまった。これで、音だけは録れるはずである。

 

「あのー。こんばんはー」

 

 なるべく驚かせないよう、遠慮気味に声を掛ける。

 

 男は驚いたようにハッと息を飲み、ライトを奈保子に向けた。その瞬間、奈保子の身体もビクンと震える。一瞬また幻覚のようなものが見えたが、気のせいかもしれない。それより、どうしよう? 驚かせてしまった。まあ、こんな夜中にこんな場所で突然話しかければ、どんなに気を使っても驚かせてしまうよな。

 

 奈保子は両手を前に出して振った。「ゴメンなさい。あたし、怪しい者じゃないんです。なんか、山で迷っちゃって。さっき、ここにたどり着いちゃったんです。勝手に入って、本当にゴメンなさい。あ、鍵を落としたんですよね? さっきそこで拾ったんですけど、ひょっとしてコレですか?」

 

 アイドル時代に培ったとびっきりの笑顔で話しかけた。ポケットから鍵を取り出す。これで、相手の警戒心を解き、あわよくばインタビューまでこじつけたいと思っていた。

 

 だが。

 

 ――え?

 

 男は、右手に錆びてボロボロになったハンマーを持っていた。採掘用のものだろうか? 鉱山だからハンマーくらい持っていてもおかしくはないのかもしれないが、あろうことか、それを振り上げ、こちらに向かって来るではないか!

 

「え? ちょっと、待ってください!」

 

 ぶん! 振り下ろされるハンマー。一瞬早く身を引いたのでかわすことができたが、本気の一撃だった。かわさなければ、間違いなく奈保子の脳天を捉えていただろう。

 

「あの! 落ち着いてください! あたし、ホントに怪しい者じゃないですから!」

 

 両手を上げて敵意が無いことをアピールする奈保子。しかし、男は全く聞く耳を持たず、容赦なくハンマーを振るって来る。後ろに下がりつつかわすが、背中が壁に当たった。逃げ場が無くなった。男は、ハンマーを振り上げた。

 

 ――ええい、仕方がない。

 

 ハンマーが振り下ろされる。それが脳天を打つよりも早く、奈保子は男のハンマーを持つ手を掴み、攻撃を受け止めた。そのまま男の側面に回り込みつつ左手で相手の肩を押し、体を入れ替え、男を壁に押さえつける。

 

 長年習っている護身術だった。きっかけは、四年前に出演したVシネマ『ヒットマン女豹』である。アクション映画への出演ということで、当時、奈保子はアクションを猛勉強したのである。身体を鍛え、武術を習い、様々なアクション映画も見て研究した。アクション映画でのスタントシーンは役者本人ではなくスタントマンが演じることがほとんどだが、『ヒットマン女豹』において、奈保子はスタントマンを使わず、最後まで一人で演じきったのである。それが認められ、監督から直々に「新作を撮る時は必ず声を掛ける」と言われたのだ。その言葉を信じ、今でもアクションの練習は怠っていなかった。

 

 ぐい、っと、男の腕をひねり上げる。これで、相手は痛みのあまりハンマーを落とすはずだ。

 

 ――あれ?

 

 だが、男はハンマーを握ったまま離さない。さらにひねり上げる。腕が折れてもおかしくない角度だが、それでも男はハンマーを握ったままだ。ろれつの回らない口調で意味不明な言葉をしゃべり、よく見ると顔色は土のような灰色で、目からは血のような赤い涙を流している。

 

 そこで、奈保子は悟った。

 

 ――ああ。この人、ヤバイ薬やってるんだわ。

 

 だとしたら、例え腕を折ったとしても構わず襲ってくるだろう。やっかいな人に関わってしまった。しょうがない。取材は諦めよう。奈保子は男の足を払って倒し、地面に押さえつけた。そして、パッと手を離すと。

 

「ごめんなさーい、おじゃましましたー」

 

 一目散に逃げ出す。相手が起き上がる前に表玄関から飛び出した。もうちょっと調査をしたかったが、身を護ることが先決だ。ケガをしたり、万が一にも殺されたりしたら、せっかくのスクープも台無しである。まあ、ランドセルを発見したし、謎の男に襲われて逃げたというだけで十分な収穫だろう。地震の取材もしなければいけない。ここの撮影はこれくらいにして、村へ急ごう。奈保子はポーチの中のカメラを停めた。

 

 ビルの前には鉱石運搬用のトロッコのレールが東西に延びていた。朝、道を教えてくれた猟師は、鉱山跡地から西へ進めば山を下りることができると言っていた。西にはレールが続く道と、トンネルがある。奈保子はトンネルの前を通り過ぎ、レールに沿って道を進んだ。

 

 しかし、護身術を習ってて良かったな、と、奈保子は思った。そうでなければ、あの頭のおかしな男に殺されていたかもしれない。映画の撮影にはあまり役に立たなかったけど、どこで活躍するか判らないものだ。

 

『ヒットマン女豹』での奈保子のスタントは監督やスタッフからは絶賛されたが、視聴者からの反応はイマイチだった。と、いうのも、この作品において奈保子はあくまでも悪役の一人であり、主役や悪役のボスは他にいる。所詮は脇役であり、どうしても出番は少なく、メインの役どころより目立ってしまっては、それはそれでダメなのだ。また、この映画で主役を務めたのは当時売出し中の若いアイドルの娘だった。アクションどころか演技すらまともにできず、笑顔がカワイイだけの小娘だ。アクションシーンは当然のごとくスタントマンが代行し、本人はカメラの前で笑っているだけだったが、それが視聴者には大好評。そのアイドルの人気もあり、作品はそこそこヒットした。逆に、奈保子のアクションは不評だった。必死で勉強したとはいえ、素人が数ヶ月で身に着けたモノと、本職のスタントマンのモノでは、やはりレベルが違う。奈保子のアクションはどうしても見劣りしてしまうため、「素人が軽い気持ちで手を出すな」「あの程度でアクションやった気になってんじゃねーぞ」「BBAがムリして痛々しい」と、ネットを中心に叩かれたりもした。必死に努力して身に着けたアクションが全く評価されず、スタントマンを立て自分は笑ってるだけの若いアイドルが評価されたことには大いに不満だったが、考えてみたら自分もアイドル時代はそうだったので文句は言えない。ちなみに『ヒットマン女豹』は続編も作られた。主役のアイドルの娘は引き続き出演したが、奈保子に出演のオファーが来ることはなかった。

 

 ……ああ、イヤなことを思い出してしまった。そんなことより、今は取材だ。

 

 ブンブンと頭を振り、考えを振り払う。奈保子はレールに沿って道を進んだ。

 

 ――ん?

 

 奈保子は、右の二の腕に大きな傷があることに気が付いた。横に三センチほど、パックリと裂け、だらりと血が垂れている。大きな傷だが、不思議と痛みは感じない。いつの間に切ったのだろう? さっきの男のハンマーはかわしたはずだし、例えかわしそこなっていたとしても、錆びついたハンマーではこんなきれいな切り口にはならないだろう。

 

 ひょっとしてこれは、カマイタチ現象ではないだろうか?

 

 カマイタチ現象。知らない間に身体に切り傷ができている現象の呼び名だ。妖怪の仕業とも、特殊な条件により真空状態が生じたとも言われている。

 

 そう言えばこの羽生蛇村では、『空魚』という未確認生物の伝説があるのを、奈保子は思い出した。棒に魚のヒレのようなものが付いた生き物で、高速で飛びまわり、猟師や旅人の身体に傷をつけるのだという。

 

 これによく似た話が、最近世界中で話題なっている。山奥などで撮影したビデオの映像に映り込んでいる高速で飛来する生物だ。いわゆる、スカイフィッシュである。その正体は、未確認生物とも、宇宙人とも、アメリカ政府が開発した軍事用小型ロボットとも、単にハエが通り過ぎただけだとも言われており、以前、ダークネスJAPANでも取り扱ったことがある。虫とり網とカゴを持って山の中に入り、番組が用意したニセモノを捕まえたものの、直後に川に転落し惜しくも逃がしてしまった、というシナリオだった。その回は珍しく視聴者に好評で、ネットを中心に話題になった。

 

 傷口を見ながら奈保子は考える。不思議な現象ではあるが、残念ながらダークネスJAPANで一度取り扱ったネタだ。プロデューサーが興味を持つ可能性は低いだろう。それよりも、身体に傷がついてしまった方が問題だ。奈保子も一応女優であり、傷は厳禁だ。痕が残らなければいいのだが。まあ、最近はグラビアの撮影など皆無だし、アクション女優を目指すなら傷くらいあっても構わないだろう。幸い、出血はもう止まっているようである。こういったカマイタチ現象の傷は治るのも早いという話だ。さっきまでどろりと出血していたのに、いくらなんでも早すぎるような気もしたが、だからこそ長年妖怪や怪奇現象とウワサされたのだろう。奈保子は、あまり気にしないようにした。

 

 しばらく進むと明かりが見えてきた。外灯や家の明かりではなく、誰か人がいるようである。さっきビルの中で出会ったハンマー男の件があるので、奈保子はレール上に放置されてあるトロッコに身を隠し、慎重に様子を探った。人影はこちらに近づいてくる。先ほどの男と同じく、麦わら帽子にTシャツ姿。鉱山労働者の格好だろうか? 左手にライト、右手には採掘用の大きなシャベルを持っている。ろれつの回らない口調で意味不明なことをしゃべり、顔色が悪く、目からは血の涙を流している。ハンマー男と同じだ。この辺でヤバイ薬のパーティーでもやってるのだろうか? 田舎の山奥だから取り締まりが緩いのかもしれないな。後で警察に通報しておこう。奈保子はトロッコの陰に身を隠し、シャベル男が通り過ぎるのを待った。幸い気付かれることはなかったので、そのまま走り去る。

 

 さらに進むと、左手側に下りの階段があり、その先には倉庫と思われる小さな小屋が見えた。方向的には南に位置するだろう。道を教えてくれた猟師は西へ進めと言っていたので、階段は使わず、そのまままっすぐ進んだ。

 

 だが、道はすぐに行き止まりになった。木の板でくみ上げた高いバリケードで阻まれているのである。これ以上は進めない。道を間違えたかと思い、階段まで戻り、下へ降りてみた。小屋の左側に細い道があったが、その先も高い石壁に阻まれていた。高さは二メートルほどで、頑張れば登れないこともなさそうだが、そもそもこの道は東へ向かっており、猟師から聞いた道とは違うように思う。そう言えば、鉱山事務所のそばにトンネルがあったが、あの中を進むのだったのだろうか? なら最初からそう言えよあのジイイ。心の中で悪態をつく。まあ、せっかくここまで来たのだから、あの小屋でも調べてみるか。ひょっとしたら何か行方不明の少女に関する手がかりがあるかもしれない。

 

 だが、小屋の入口は南京錠で閉ざされていた。中を調べるのはムリか。立ち去ろうとして、さっきビルの中で拾った鍵をそのまま持ってきたことを思い出した。試しに南京錠に差し込んで回してみると、かちゃりと開いた。ラッキー。もはや不法侵入に対する罪悪感も無くなった奈保子は、いそいそと中へ入った。

 

 八畳ほどの狭い小屋だった。部屋の奥に作業用の机があるくらいで、あとは古くてボロボロのシャベルやつるはしなどが置かれてあるだけだ。とりあえず机の引き出しを調べてみようとして、机の上に古びた写真立てが置かれてあることに気が付いた。大勢の鉱山労働者が集まって撮影した白黒の集合写真だ。ウラを見てみると、『東3号斜坑開通記念写真・昭和三十三年年九月十三日』とある。随分と古い写真だ。何か面白いモノでも写ってないかと、あまり期待せず写真を見てみると、左上に、何やら光る物体が映り込んでいることに気が付いた。楕円形に膨らんだ円盤の形をしている。UFOに見えなくもない。『行方不明の少女は宇宙人によって連れ去られた!?』というタイトルが思い浮かぶ。実にインチキ臭いタイトルだ。行方不明の少女のネタはちゃんとした報道番組に持ち込みたいので、これは却下だ。でも、ダークネスJAPANのネタにはピッタリだろう。奈保子は、念のため集合写真もビデオカメラで撮影しておいた。

 

 写真を元に戻し、引き出しを開ける。

 

 ――え?

 

 思わず固まってしまう奈保子。

 

 引出しの中には拳銃が入っていた。

 

 古いリボルバー式の拳銃だ。そばには銃弾も沢山ある。

 

 ――いやいや。本物のワケないでしょ。

 

 そう思い、手に取ってみるが、ズシリと重い。

 

 奈保子は『ヒットマン女豹』などの映画やドラマで、何度となく拳銃を撃つシーンの撮影をしたことがある。そういった時に使う撮影用の小道具は、映像を見ているだけでは気付きにくいが、実際は見るからにおもちゃという感じのチープな作りをしている。犯罪に使われないための処置だ。いま手にしている拳銃は、そんな小道具とは明らかに違う。『ヒットマン女豹』の撮影前にアクションの猛練習をした奈保子は、海外で実際に射撃の体験もしていた。銃の型は違うが、その時持った銃の重さ、感触とそっくりだ。

 

 ――いやいやいやいや。本物のワケないでしょ。きっと、ものすごーく精巧に作ったモデルガンだよ。

 

 そう思い、射撃訓練の時の記憶を頼りに、安全装置を外し、銃口を壁に向け、トリガーを引いてみた。ぱぁんと、耳の奥が引き裂かれるかと思うほどの大きな音がして、手に強い反動が返ってくる。同時に、目の前の壁に小さな穴が開いた。おいおいマジかよ。本物じゃないか。どうなってんだこの山は。行方不明の少女の持ち物は落ちてるし、頭のおかしなおっさんが薬物パーティーをしているし、拳銃は隠してあるし。犯罪グループが秘密のアジトにでもしているのだろうか? 早々に立ち去った方がいい。拳銃を引き出しに戻し、小屋を出て階段を上がろうとしたが。

 

 びくん、と身体が震え、また、例の幻覚が見えた。階段の上から小屋を見下ろす映像。入口のドアの前には自分と思われる姿もある。

 

 幻覚はすぐに消える。奈保子は階段を見た。シャベル男が見下ろしていた。さっきの銃声を聞いて戻ってきたのかもしれない。階段を下りてくる。思わず小屋の中に戻ってしまう奈保子。しまった。小屋の中には逃げ場も隠れるような場所も無い。とっさに引出しの中の拳銃を取った。シャベル男が小屋の中に入って来た。奈保子は、銃口を向けた。

 

「来ないで! この銃、本物よ。さっき銃声聞いたでしょ? 撃つわよ? 本気よ? どうなっても知らないからね!!」

 

 だが、男は警告に聞く耳を持たず、シャベルを振り上げ向かって来る。奈保子はシャベルを受け止め、相手の勢いを利用して投げ飛ばそうとした。しかし、小屋は狭い。壁が邪魔して投げることはできなかった。男が掴みかかってくる。なんとか逃れようともがく奈保子。そのままもみ合いになり。

 

 再び、耳を引き裂くような乾いた音が、小屋内に鳴り響く。

 

 もみ合っていたシャベル男の動きが止まり、ばたん、と、倒れた。

 

 ――え?

 

 男は、そのまま動かなくなった。

 

「……あの、大丈夫ですか?」

 

 肩を揺すってみるが、全く反応がない。

 

 床に、ドロリとした赤い液体が広がっていく。これはまさか、血?

 

「……いやいやいやいやいやいや。そんなわけないでしょ。騙されませんよ。コレ、ドッキリなんでしょ? ひょっとして、昨日の夜からずっと撮影していたんですか? こんなリアルなモデルガンまで用意して、すごく手が込んでますね」

 

 震える声と震える笑顔で言った。ドッキリの仕掛け人ではなく、自分自身に言い聞かせるかのように。

 

 男は、ピクリとも動かない。

 

「もう。判りましたから。そろそろネタバラシてくださいよ。あまりしつこいドッキリは、視聴者にもウケませんよ?」

 

 もう一度、男の肩を揺する。手には、冷たい石のような感覚しか伝わってこない。とても生きているとは思えない。

 

「だから、もういいですってば! リアルすぎてヒキますよ。早く起きてネタバラシしてください! ねぇってば!!」

 

 だが、どんなに強く揺すっても、どんなに大声で呼びかけても、男は起き上がって来ない。

 

 たまらず小屋の外に飛び出し、叫んだ。「ちょっと! カメラ回してるんでしょ!? 判ってるんだから! 早く出てきなさいよ! いい加減にしないと、訴えるわよ!!」

 

 応える者はいない。声は暗闇に吸い込まれただけだった。

 

 本当に……本当に、ドッキリじゃないのだろうか?

 

 だとしたら。

 

 奈保子は、その場にへたり込む。

 

 じっと、拳銃を見つめる。

 

 人を、殺してしまった。

 

 とんでもないことになった。あたしは、警察に捕まるのだろうか? いや、襲って来たのは相手の方だ。おかしな薬をやってたようだし、これは正当防衛だ。だが、拳銃で撃ったのはさすがにマズイのではないか? 拳銃はたまたま拾っただけだ。殺意なんて無い。そう。これは不幸な事故だ。あたしに罪は無い。しかし、いかに罪がなかろうと、殺してしまったことに変わりはない。もう、今までのような生活はできないだろう。芸能人として成功していたとは言えないが、それでもこれまでガンバって来た。これからも続けていくつもりだった。それが、こんな形で終わってしまうのだろうか? そんなバカな話は無い。ならば、いっそのこと隠蔽してしまおうか? こんな山奥での出来事だ。知らん顔して立ち去れば、発覚しないかもしれない。なんならどこかに埋めておけばいい。穴を掘るための道具は沢山ある。万が一死体が見つかったとしても、通りすがりのあたしに捜査の手が及ぶ可能性は低いだろう。この鉱山は、なにやら怪しげな犯罪組織のアジトになってるみたいだし、組員同士のいざこざで片が付くだろう。よし、死体を隠そう。いや、そんなことはできない。やっぱり、素直に自首しよう。ありのままを話せば、きっと判ってくれるはずだ。罪になるかもしれないが、もしそうなっても受け入れよう。それがせめてもの償いだ。いや、しかし……。

 

 様々な思いが交錯し、もう、何が何だか判らなくなった。

 

 五分ほど、その場に座り込んでいただろうか。

 

 突然、男が起き上がり始めた。

 

 奈保子は、喜びのあまり泣きだしそうになってしまった。

 

「ああ! やっぱり、ドッキリだったんですね!? そうだと思ったんですよ! 良かったぁ。でも、さすがにこれはやりすぎだと思いますよ? まあいいですケド。放送では、イイ感じに編集して、面白くしてくださいね――」

 

 男は小屋を出て来た。

 

 シャベルを振り上げ、こちらに向かって来る。

 

 がつん!

 

 鈍い音とともに、頭に鋭い痛みが走った。

 

 一瞬、目の前が真っ暗になった。

 

 ――え?

 

 なんとか意識を保つことはできたが。

 

 頭に手を当ててみる。べっとりと、手のひらいっぱいに血が付いた。殴られたようだ。訳が判らなかった。ドッキリではなかったのか? では、なぜ男は、銃で撃たれたのに起き上がって来たのか?

 

 もうろうとする意識の中、男が、もう一度シャベルを振り上げるのが見えた。

 

 本能的に、銃口を向ける奈保子。

 

 二回、トリガーを引いた。男は、また倒れた。

 

 今度は、罪悪感は沸かなかった。倒れた男の様子を確認する。銃弾の当たった身体からは血が流れ出ている。息はしていない。脈もない。開かれた目を銃口で突いてみたが、反応は無い。どう見ても死んでいる。

 

 奈保子は、そのまま倒れた男のそばで待った。

 

 頭の痛みが、徐々に引いていくのが判った。もう一度触れてみると、早くも血が止まっている。信じられないことだが、傷が治っているようだ。そう言えば、謎のカマイタチ現象でついた二の腕の傷も、いつの間にか消えている。

 

 そして。

 

 五分ほどすると、男はやはり起き上がり始めた。

 

 ――ああ、ダメだ。これ、あたしの理解を超えている。

 

 奈保子は起き上がって来るシャベル男にもう一度銃弾を撃ち込んだ。今度は一発で倒れた。

 

 奈保子は小屋に戻ると、引出しの中の銃弾を銃に込め、ポーチやポケットの中にも詰め込めるだけ詰め込んだ。

 

 頭のおかしな男。問答無用で襲い掛かって来て、銃で撃ち殺してもよみがえる。恐らくこれは、ゾンビ的なヤツだ。バイオハザードとかアウトブレイクとか呼ばれているヤツ。映画やゲームなんかではよく見るが、そんなことが実際に起こり得るのだろうか? 判らない。ただ、とにかく危険なのは確かだ。命を護るための行動をしなくては。

 

 奈保子は拳銃と銃弾を持つと、シャベル男がよみがえる前に小屋を出て階段を上り、来た道を戻った。鉱山事務所の前でハンマー男に遭遇したが、容赦なく銃弾を撃ち込んだ。そして、ビルのそばにあるトンネルへ駆け込む。息が切れるほど走って、トンネルを抜けると、細い林道へ出た。西の方角へ下っている。昼間出会った猟師の言うことが正しければ、村へ通じているはずである。

 

 あの猟師は、村は危険だと言っていた。地震で被害が出たのかと思っていたが、まさか、ゾンビ的な事件が起こっているとは思わなかった。なら最初からそう言えよクソジジイ。心の中で悪態をつく。

 

 だが。

 

 不思議と、逃げようとは思わなかった。未知の事件が発生しているのならば、なおさらそのことを世間に伝えなければならない。それが、テレビに携わる者の使命だ。

 

 奈保子は、カメラと拳銃を手に、山を下りた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十二話 須田恭也 田堀/廃屋中の間 初日/十八時〇三分〇三秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 教会には戻らず、刈割を後にした須田恭也と神代美耶子は、徒歩で田堀地区までやって来た。田堀は二十七年前の土砂災害で消滅した地域のひとつで、近年の区画整理により数軒の民家が建てられたものの、基本的には何も無い地域のはずだった。

 

 しかし、恭也たちが訪れてみると、古い民家が立ち並ぶ住宅街となっていた。屍人も多数生活しているようである。恭也の予想した通り、ここも、二十七年前の田堀となってしまったようだ。

 

 村から出るにはまだかなり歩かなければならないが、刈割からここまで十二時間近く歩き通しで、それ以前にもかなりの距離を歩いており、恭也は疲労していた。体力には自信がある自分ですら疲れているのだから、目の見えない美耶子はさらに疲労しているだろう。もうすぐ陽も暮れる。恭也は幻視で屍人のいない廃屋を見つけ、そこで休むことにした。広い敷地に建つ二階建ての古い日本家屋で、庭には倉庫や離れと思われる別邸もある。玄関の扉は鍵がかけられていたが、裏に回ると勝手口があり、そこから台所に入ることができた。台所は食器棚がひっくり返っており、割れた食器が散乱していた。奥に続く扉は開かなかったが、それは鍵がかけられているのではなく、単に古くて立てつけが悪いだけだった。力いっぱい引っ張ると、なんとか通れるスペースができ、奥の部屋に入ることができたのである。

 

 廃屋の居間に座り、鳴り響くサイレンの音を聞く恭也と美耶子。サイレンが鳴るのは、これで四回目だ。深夜〇時と、早朝六時、昼の十二時、そして、夕方六時。六時間おきに鳴っていることになる。あのサイレンはなんなのだろう? 求導女の八尾比沙子も判らないと言っていた。役場などが非常時に鳴らすものでないことは明らかだった。

 

 村の怪異は、あのサイレンが鳴った時から始まった。

 

 サイレンが鳴ったことで、村の水は赤く染まり、幻視などの特殊な能力が現れ、屍人が徘徊し、村は現在と過去が入り混じる異界と化した――何の根拠もないことだが、そう思えて仕方がない。いったい、この村はどうなっているのだ? 俺は、無事に家に戻ることができるのだろうか? 判るはずもない。

 

 恭也は、隣で膝を抱えて座っている美耶子を見た。忌々しげな表情でサイレンの音を聞いている。彼女にも、サイレンが何なのかは判らないらしい。

 

 成り行きで見ず知らずの少女を助け、ここまで一緒に逃げてきた恭也だったが、はたしてそれは正しかったのだろうか、という思いは、胸の奥で疼いている。村に起こった怪異は、美耶子が昨日の昼間、眞魚岩の広場で何かを壊していたのが原因ではないかと思う。ならば、村の怪異を鎮めるためには、一緒に逃げたりせず、教会に引き渡した方がいいのかもしれない。

 

 だが、恐らく美耶子は、自分がしたことにより村がこのような状態になることが判っていても、やらずにはいられなかったのだ。その理由が何なのかは判らない。あの夜、教会は何やら怪しげな儀式を行っていた。あの儀式に失敗したから、村は怪異に襲われたのだ。ならば美耶子は、あの儀式から逃れたかったのだろうか? 儀式とは、一体なんだ?

 

「――おい」

 

 美耶子が不機嫌そうな声を上げた。恭也は考えを中断する。「なに?」

 

「あたしを助けたこと、後悔してるんだろ?」

 

 考えていることを見透かされた気がしてドキリとした。幻視の能力で心の中を読まれたのだろうか? いや、幻視では他人の視覚と聴覚をジャックするだけであり、考えていることまでは判らないはずだ。

 

 何と答えていいか迷った恭也だったが、今の気持ちを素直に言うことにした。「美耶子と逃げて来たことは後悔していないよ。ただ、判らないんだ。美耶子とここまで来たのが正しかったのか……やっぱり、教会にいた方が良かったんじゃないか、って」

 

 美耶子は一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐにまた不機嫌そうな顔に戻る。「そう思うのなら教会に戻れ。あたしは一人でも大丈夫だ」

 

「そういうわけにはいかないよ。それに、仮に戻ったとしても同じだと思うんだ。教会だって、本当に安全かどうかなんて誰にも判らないし。だったら、思うままに行動してみてもいいと思う。それに、目が見えない娘を放っておくなんて、やっぱりできないよ」

 

「同情なんていらない」

 

「同情じゃない……とは言い切れないけど、でも、困ってる人がいれば、やっぱり助けるよ。こんな状況じゃなくてもね」

 

「あたしは別に困ってない」

 

「強がらなくてもいいよ」

 

「強がってなんかない」

 

「いーや、強がってる」

 

「強がってない」

 

 何度か困ってる困ってない、強がってる強がってないと言いあった後、恭也は思わず笑ってしまう。つられて美耶子も笑った。こんな状況で子供じみた口喧嘩をしていることが、妙におかしかった。

 

「――それより、ひとつ訊きたいんだけど?」恭也は言った。

 

「なんだ?」

 

「昼間、君が殴ったお兄さんのことなんだけど」

 

 美耶子の顔から笑みが消えた。「……あいつは、兄なんかじゃない」

 

「そうなの?」

 

「姉の婚約者ってだけだ。あたしには関係ない」

 

「じゃあ、戸籍上はお兄さんになるんだ」

 

「あたしには戸籍なんて無い」

 

「え? それってどういう――」

 

「それより、なにが訊きたいんだ?」

 

「ああ。えーっと……あの時お兄さんが俺に言ったんだ。『あっち側へ行くのも時間の問題だ』って。どういう意味だと思う? まさか、俺も時間が経てば、あいつらのように――」

 

 続きを言い淀む恭也。あいつら、とは、もちろん屍人のことだ。求導女の八尾比沙子は、屍人は死者が赤い水を体内に取り入れてよみがえった姿だ、と言っていた。そして、赤い水は生者にも影響があり、幻視や治癒能力の向上といった特殊な力を得ることができる。銃で撃たれたような大きな傷でもすぐに治ってしまうのだ。だからといって、赤い水を体内に入れ過ぎない方がいい、とも言っていた。もしかしたら、赤い水を大量に体内に取り入れると、生きている者も屍人になってしまうのではないのだろうか? だとしたら、このまま赤い雨に打たれ続けるのは危険だ。

 

「――気にするな」美耶子が、ハッキリとした口調で言う。「お前は、あいつらの仲間になんてならない」

 

「……どうして、そう思うの?」

 

「あたしがさせない」

 

 美耶子は、恭也の目をまっすぐに見ていた。屍人にはならない。言葉だけなら根拠のないただの気休めのように聞こえるが、美耶子の目を見ていると、本当にそうではないかというような気がしてくる。

 

「――寝る」

 

 唐突に背を向け、美耶子は横になった。

 

 よくこの状況で寝ようと思うな……そう思いつつも、恭也も横になる。

 

 この先どうなるかは判らない。だが、自分で言った通り、何が正しいか判らないのならば、思う通りやってみるしかない。屍人にならないと美耶子が言うのならば、それを信じよう。

 

 

 

 

 

 

 サイレンは、鳴り続けている。

 

 

 

 

 

 

 その音を聞いていると、なぜだろう? 恭也は、誰かに呼ばれているような気がした。

 

 サイレンの鳴っている場所へ行かなければならない。

 

 汚れをはらうために。

 

 神の祝福を受けるために。

 

 そんな思いが、胸の奥から湧いてくる。

 

 

 

 だが、歩き続けて疲労がたまっていた恭也は、すぐにまどろみに襲われ、深い眠りへ落ちて行った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十三話 宮田司郎 宮田医院/第一病棟診察室 初日/十九時十四分三十一秒

 宮田医院・第一病棟診察室の扉がゆっくりと開いた。恩田理沙が小さく息を飲む。屍人か? 宮田司郎は机の上のネイルハンマーを持ち、構える。

 

 だが、幸い入ってきたのは屍人ではなかった。眞魚教の修道服を着ている。求導師の牧野慶だ。

 

 宮田はネイルハンマーを下ろした。「牧野さん。ご無事で何より」

 

「宮田さんこそ、よくご無事で」牧野は安堵の表情で言った。そして、その顔を理沙にも向ける。「えっと……美奈さんも、無事だったんですね」

 

「あ、いえ。あたし、美奈の妹の、理沙です」理沙は、ペコリと頭を下げた。「求導師様。お久しぶりです」

 

「ああ、そうか。そう言えば、双子だったね」

 

「はい。先生達と同じです」笑顔で言う理沙。彼女も高校を卒業するまでは村にいたから、宮田と牧野が双子であることは知っているはずだ。

 

 宮田は牧野の姿を見た。いつも着ている求導師の衣装で、手には何も持っていない。屍人がうろつく村を、武器も持たずにここまで来たのだろうか? いや、まさかな。

 

「牧野さん、お一人ですか?」

 

 宮田が何気なく訊くと、牧野は、大きく息を飲んだ。「――なぜ、そんなことを訊くのです?」

 

「いえ、求導女の八尾比沙子さんは、一緒ではないのかと思いまして」

 

「ああ、そういうことですか……」牧野は、なぜか安堵した表情になった。「いえ、一人です。私も、八尾さんを探しているのですが……」

 

「そうですか……まあ、彼女のことだ。恐らく無事ですよ」

 

「そう思います。それより――」牧野は、少しためらった後に言った。「前田さんの所の娘の、知子ちゃん、見ませんでしたか?」

 

「知子ちゃん? いえ、見てませんが」

 

 宮田は理沙を見た。首を振る理沙。彼女も見ていないらしい。

 

 牧野に視線を戻した。「知子ちゃん、一緒だったのですか?」

 

 すると、牧野はまた大きく息を飲んだ。目が宙を泳いでいる。明らかに、動揺している。

 

「牧野さん? ひょっとして、何かあったのですか?」なんとなく想像はついたが、宮田はあえて訊いてみた。

 

 牧野は観念したような表情になった。「……はい。知子ちゃんと途中まで一緒だったのですが、蛭ノ塚の神社近くで屍人に襲われ、はぐれてしまったんです。探したのですが、見つからなくて……」

 

 宮田には、それが嘘だとすぐに判った。牧野は双子の兄であり、彼の考えていることは、手に取るように判る。恐らく、はぐれたのではなく見捨てたのだろう。この腰抜けのやりそうなことだ。

 

「大変だ。すぐに探しに行きましょう」ネイルハンマーを持って診察室を出ようとする宮田だったが。

 

「いえ、それは危険です」牧野が止めた。「ヤツらは、銃を持ってますし」

 

 宮田は牧野を怒鳴りつけたい衝動に駆られた。銃を持っているから危険だ? だからなんだ? そんな危険な場所に、一人でいるかもしれない十四歳の少女を放っておいてもいいと言うのか? 貴様、それでも求導師か。

 

 だが、その言葉はなんとか胸の内に留まらせる。求導師はこの村では絶対的な存在であり、自分ごときが何か意見するなどできるはずもない。

 

「それに――」と、牧野は続ける。「知子ちゃんとはぐれた場所の近くは、よく探したんです。でも、見つかりませんでした。きっと、一人で逃げたのでしょう。彼女は、機転の利く子ですから」

 

 怒鳴りつけたい衝動は何とか抑えた宮田だったが、今度は殴りつけたい衝動に駆られる。この男は、自分の身の安全のことしか考えていない。なぜ、このような男が村人を導く存在であるはずの求導師をしているのだろう。このような状況だ。もう、立場など関係ない。宮田は本当に牧野を殴ろうと、拳を握りしめた。

 

 しかし。

 

「――それより、看護師の美奈さんは、どうしたのですか? 一緒ではないのですか?」

 

 牧野の言葉で、宮田の拳が振るわれることはなかった。じっと、牧野の目を見る。全てを見透かしたような目だ。まるで、美奈がもう無事でないことを知っているかのように。いや、恐らく知っているのだ。自分に牧野の考えていることが判るように、牧野にも、自分が考えていることが判るはずだ。

 

「……美奈さんとは、はぐれてしまいまして」そう言うしかなかった。「理沙さんと一緒に探しているのですが」

 

「そうですか……無事だといいですね」

 

 勝ち誇ったように言う牧野。いや、そう聞こえたのは宮田だけだろう。理沙には、本当に美奈のことを気付かっているように聞こえたはずだ。

 

 認めたくはないが、やはり、私とこの男は双子だな……そう思う。

 

 ……まあいい。知子のことは気がかりだが、牧野が言うことも一理ある。牧野と知子がはぐれたという蛭ノ塚へ徒歩で行くのは数時間かかる。今から探しに出たところで同じ場所に留まっている可能性は低い。どこにいるのか判らないのに探しに出るのは確かに危険だ。かわいそうだが、無事を祈るしかない。

 

 それに。

 

 知子には申し訳ないが、信者一人を救うために、牧野を危険な目に遭わすわけにはいかない。今、村で起こっている怪異は、この男が儀式に失敗したのが原因だろう。その責任を追及しなければならない。そして、可能ならば、この怪異を鎮めなければ。残念ながら、それができるのは、村でこの男だけなのだ。

 

 宮田は心を落ち着かせるため、一度、大きく息を付いた。

 

 そして、理沙を見る。「理沙さん。牧野さんと重要な話があるから、少し、席を外してもらえないかな?」

 

「あ、はい。判りました」

 

「すまない。院内はまだ安全だが、なるべく近くの部屋にいるように。何かあったら、すぐに知らせるんだ。いいね?」

 

 理沙は頷き、そして、牧野にぺこりと頭を下げると、素直に診察室を出て行った。まあ、この場にいなくても幻視を行えば会話の内容は筒抜けになるだろうが、それは仕方がない。

 

「さて――」宮田は牧野を見た。「昨晩何があったのか、詳しく聞かせてもらえますか?」

 

 牧野は、忌々しそうな目を宮田に向けていた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十四話 竹内多聞 大字粗戸/竹内家 一九七六年/二十三時五十九分五十六秒

 一九七六年八月二日の深夜、竹内多聞は家の居間で夏休みの宿題をしていた。小学一年生の多聞にとって、普段はとっくに寝ている時間だったが、その日は、両親から起きているように言われた。夜になってから非常に強い雨が降り続けており、大雨洪水警報が出ているのだ。テレビのニュースでそのことを知った両親は、避難すべきかどうかをずっと相談している。竹内家がある大字粗戸は眞魚川の近くにあり、近年、被害こそそれほど大きくは無いものの、小規模な洪水が多発している。そのため、先日、蛇ノ首谷の北にあるダム・眞魚川水門の改修工事が行われることも決定していた。

 

 雨は勢いを増すばかりだが、役場、警察、消防、どこからも避難の指示は出ていない。本来ならば指示がなくてもすぐに避難すべきなのだが、それをためらってしまうのには理由があった。数日前、役場から八月二日の夜は外出しないようにとの通達があったのだ。村の有力者である神代家が、なにやら祭事を行うらしい。村で神代家の言うことは絶対であり、逆らうわけにはいかない。しかし、災害警報が出ているとなれば話は別だろう。早く避難しないと、取り返しがつかないことになるかもしれないのだ。

 

 不安そうな表情の両親に対し、多聞は内心ワクワクしていた。こんなに夜遅くまで起きていても親から怒られないのは珍しいし、台風が来るとなんとなくワクワクするものである。時計を見る。ちょうど、深夜〇時を回ったところだった。

 

 ――と。

 

 机が、カタカタと揺れ始めた。

 

 最初、父親が貧乏ゆすりでもしているのかと思ったが。

 

 揺れは机だけでなく、テレビ、タンス、本棚も揺れている。家全体が――いや、村全体が揺れているのだ。

 

 地震だ。

 

 揺れはどんどん大きくなり、座っていることすらできないほどになった。タンスや本棚が倒れ、家が軋み、傾いていく。父親が何かを叫び、母親は多聞をかばうように抱きしめた。

 

 

 

      ☆

 

 

 

 それからのことは、多聞自身よく覚えていない。

 

 

 

 気が付くと、多聞は一人、土砂と瓦礫に埋もれた村を、はだしで歩いていた。

 

 泣きながら父と母を呼ぶが、応える者はいなかった。それだけは、今でもよく覚えている。三十七歳になった今でも、よく夢に見る。

 

 

 

 多聞は、村の消防団員によって救出された。

 

 

 

 この日発生した土砂災害は、大字粗戸だけでなく、大字波羅宿、田堀、比良境など、多数の地域に及んだ。

 

 警察・消防は自衛隊とも協力し、被災地での救助活動に臨んだが、生存者は多聞一人だけだった。

 

 

 

      ☆

 

 

 

 ――そして、二十七年の時が流れた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十五話 竹内多聞 蛭ノ塚/水蛭子神社湧水 初日/二十時四十一分十八秒

 蛭ノ塚で調査中の竹内多聞が水蛭子神社裏の泉に戻ってみると、教え子の安野依子は、泉の近くにある東屋にいた。どこから調達したのか、カセットコンロとやかんでお湯を沸かし、それを、じーっと見ていた。奇妙なのは、やかんの注ぎ口にアルミホイルが巻きつけられてあり、それがへの字に曲げられ、その先にコップが置かれていることだった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……何をしている?」

 

「ああ、先生。お帰りなさい」安野は振り返った。「遅かったですね。調査の方は、どうでした?」

 

「ボチボチと言ったところだ。それより、それは何だ?」

 

「コレですか? あまりにものどが渇いたので、水を飲もうと思いまして」

 

「この村の水は決して飲むなと言ったはずだが?」

 

「そうなんですけど、さすがにずっと飲まないのはいけないと思うんです。真夏ですから、こまめに水分補給をしないと、熱中症になっちゃいますからね。だから、考えたんです」

 

「何をだ」

 

「お湯を沸かして、水蒸気を集めるんです。見てください」安野は、やかんの注ぎ口に巻きつけてあるアルミホイルを指さした。「沸騰して発生した水蒸気は、このアルミホイルの中で冷えて水に戻り、下のコップに溜まるわけです。不純物は取り除かれた純粋な水なので、これなら飲んでも大丈夫なはずです」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「はい」

 

「悪くないアイデアだ」

 

「でっしょー? これ、テレビで見たサバイバル術なんですよ」安野は、コップを取り、竹内に差し出した。「さあ、先生。飲んでください」

 

 コップには半分ほど水が溜まっている。東屋の中で沸かしたものだから雨水が入る心配はないはずだが、どういうわけか、水は真っ赤なままだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「はい」

 

「とりあえず、お前が飲んでみてはどうだ?」

 

「いえ、あたしはあんまりのどが渇いていませんし」

 

「さっき、『あまりにものどが渇いた』と言っていたようだが?」

 

「そうでしたっけ? まあ、気にしないでください。先生は調査でお疲れでしょうから、遠慮せずにどうぞ」

 

「お断りだ。どう見ても、飲めるようには見えん」

 

「……やっぱり、先生もそう思いますか?」

 

「当たり前だ」

 

「ですよねー。実は、あたしもそう思います」安野は、コップをポイッと投げ捨てた。「でも、おかしいですね。科学的には、これで飲めるはずなんですけど」

 

 こんな現在と二十七年前の村が混在し、死んだ者がうろついているような場所で、科学的もへったくれもないだろうに。まあ、何事も試してみる姿勢は大事だろうが。

 

「しかし、困りましたね、先生」安野は顔を傾けた。「食事はともかく、さすがに水は摂らないと、数日ももたないですよ?」

 

「それに関しては、恐らく大丈夫だ」

 

「なぜです?」

 

「今、我々は治癒能力が飛躍的に向上している。水を飲まなくても死にはしない。のどは渇くだろうがな」

 

「なんだ。それなら、安心ですね」

 

「それより、やかんやコンロなど、どこで調達したんだ? ここを動くなと言ったはずだぞ」

 

「あ、はい。えーっと。そこの、神社の中で見つけました」泉のそばの社殿を指さす安野。

 

 社殿の中にコンロとやかんがあった? 疑わしい限りだが、あるわけがないとも言い切れない。

 

「まあいい。それより、変ったことはなかったか?」

 

「あ、はい。えーっと。別に、何もありませんでした。静かなものでしたよ」

 

「途中、幻視での連絡が取れなかったようだったが?」

 

 幻視での連絡とは、十五分ごとにお互いを幻視するというもので、それにより、連絡を取り合うことができるのである。安野が発案したことだったが、連絡が取れたのは最初の一時間くらいで、すぐに音信不通になったのだった。

 

「あ、はい。えーっと。あたしも、何とか連絡しようとしたんですよ。でも、先生が遠くに行ったからか、全然繋がらなくて」

 

「私は、ここからあまり離れていないがな」

 

「そうなんですか。視界ジャックの能力って、案外範囲が狭いんですね」

 

 あっけらかんとした口調で言う安野。疑わしい限りだが、幻視は未知の能力だ。有効範囲など、竹内にも判らない。

 

「それより、先生の方はどうだったんですか?」話題を変える安野。「何か、判りましたか?」

 

「まあな。県道の橋の下で、サイレンに導かれるように、屍人たちが海に入る所を見たんだが――」

 

 竹内は、見てきたことを説明した。

 

 羽生蛇村には、古来より伝わる、『海送り』という民俗行事がある。旧暦の大みそか、黒装束に身を包んだ村人が、一年の罪や穢れを祓い清めるため、眞魚川に身を沈めるのである。海の向こうにある常世と呼ばれる理想郷へ向かうための儀式とされている。これを、屍人が行っていたのである。村の伝承が本当ならば、屍人は、より常世に近づいた存在になって帰って来ると思われた。

 

「あ、それ、知ってます」安野が手を挙げた。「『海還り』ですね?」

 

「ほう? よく知っているな。誰かに聞いたのか?」

 

「あ、はい。えーっと。いえ、人から聞いたのではなくて、村に来る前に、事前にインターネットで調べたんです」

 

 この閉鎖的な村で海送りや海還りのことをインターネットに載せているとは考え難い。疑わしい限りだが、まあ、村も少なからず村おこし的なことをやっているようだし、無いとも言い切れない。

 

「まあいい。それで、五時間後、屍人が海から上がって来たんだが……」

 

 竹内が言いかけたとき、近くで、獣が吠えるような声が聞こえた。

 

「……くそ。追って来たようだ」銃を取り出し、構える竹内。「安野、少し下がってろ」

 

「はーい」

 

 子供のように手を挙げて竹内から離れる安野。竹内は銃を構えたまま、じっと待つ。

 

 しばらくして、四つん這いの獣が現れ、竹内に向かって走って来た。

 

 だが、事前に銃を構えていた竹内は動じない。十分に引きつけ、引き金を三度引いた。銃声が響き渡る。一発は外れたが、残りの二発は命中した。獣はうめき声を上げながらその場に倒れた。

 

 動かなくなった獣のそばに立つ竹内。四つん這いで走って来た獣だったが、農作業用の服を着ており、その姿は人間のものだった。いや、かろうじて人間の姿かたちを保っている、と言った方が良いかもしれない。顔は、眼球が大きく剥き出し、口元には牙が覗いていて、頭には触角のようなものが生えている。

 

「これが、海から還って来た屍人の姿だ」竹内は、忌々しげに言った。「いや、もしかしたら、これこそが屍人の本当の姿なのかもしれん。海送りや海還りは、常世へ旅立つための儀式。それを繰り返すことによって、より常世に近づくことになる。つまり、儀式を繰り返すことにより、少しずつ完全な姿へ変貌していくのかもしれないな」

 

「へぇ。そうなんですか」安野は無感情に言った。

 

「……驚いていないようだな?」

 

「はい。犬屍人さんですよね? さっき、あたしも崩れた橋の所で見ました。他に、クモみたいな屍人さんと、羽根の生えた屍人さんと、タラコみたいなのがいっぱいくっついた屍人さんがいます」

 

「ここを動くなと言ったはずだが?」

 

「あ、はい。えーっと。間違えました。橋の所じゃなくて、ここで見たんです。先生を待っていたら、あいつらがやって来たんです。なんとか隠れてやり過ごしましたけど」

 

「さっきは、『何も無い、静かなものだった』と言っていたようだが?」

 

「あ、はい。えーっと。そうでした。報告を忘れてました。先生を待っている間、変わった屍人さんたちがいっぱい来ました」

 

「さっきから、『あ、はい。えーっと』というのが多いようだが?」

 

「うるさいですね。細かいことを気にする男は、女の娘にモテませんよ?」

 

「ほっとけ。貴様が心配することではない」

 

「それより先生。これからどうするんですか?」また話題を変える安野。「海還りを終えたってことは、こんな進化した屍人さんが、周りにたくさんいるってことですよね? どうやって調査を進めるんですか?」

 

 ふうむ、と、竹内は唸る。竹内はここに来るまでに、何度か進化した屍人と戦った。安野の言う通り、犬のような屍人の他に、蜘蛛のような屍人と、羽根の生えた屍人がいる。どの屍人も野生の獣のように身体能力が向上しているが、知性は低下しているように見えた。しかし、どういうわけか統率を持って行動しているように思える。何の目的もなく、ただ襲ってきているのではなさそうだった。と、いうことは、どこかにヤツらを支配している者がいるのかもしれない。

 

「……安野」

 

「はい」

 

「さっき、タラコみたいなのをいっぱいくっつけた屍人を見たと言ったな?」

 

「はい。なんか、ほわんほわん言ってて、電波みたいなもの発してる雰囲気でした」

 

 そいつが頭脳(ブレイン)か? そいつを倒せば、あるいは――。

 

 竹内は銃を確認する。弾は、予備も合わせてあと九発しかない。ヤツらと戦うには心許無い。まずは武器の調達が必要だ。この神社を下りた先にパトカーが停められてあった。運が良ければ何かあるかもしれない。

 

「安野」

 

「はい」

 

「ヤツらを支配している者、いわば、頭脳屍人(ブレイン)とでも言うべき者がいるはずだ。そいつを見つけ出し、倒す。お前は、どんな時も私の言うことを聞いて行動しろ。いいな?」

 

「言われなくても、あたしはずっと先生の言うことを聞いてますよ?」

 

 よくもぬけぬけとそんなことが言えるものだ。まあいい。早く行動を開始しよう。

 

「ところで先生」と、安野。

 

「なんだ?」

 

「この神社に奉られている『蛭子(ヒルコ)様』って、古事記に登場する蛭子神ですよね?」

 

「そうだな。蛭子は、イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に産まれた最初の神だが、醜い姿で産まれたため、(あし)の船に乗せられ、海に流されたとされている」

 

「ブサイクだからって我が子を捨てたんですか? ヒドイ話ですね」

 

「まあ、神話に登場する神などそんなものだ。それで、海に流された蛭子神が流れ着き、神として奉られたという話は、兵庫県の西宮神社や和田神社(わだみや)を始め、日本各地に存在する。どこも、海岸に流れ着いたとされているが、この羽生蛇村の伝説は、ちょっと変わっている」

 

「何がです?」

 

「海ではなく、そこの泉に流れ着いたとされている」多聞は、そばの赤い泉を指さした。「村に伝わる『水蛭子神社縁起(みずひるこじんじゃえんぎ)』によると、子供が泉で水を汲もうとしたら、泉から人魚が現れて、『我は蛭子命(ひるこのみこと)。泉の水を以て酒飯を作り、私に奉じよ』と言ったそうだ。その子供の話を聞いた村人は驚いて社殿を作り、蛭子を奉ったそうだ」

 

「へぇ、そうなんですか。でも先生。この村って、海が無いのに、蛭子神が流れ着いたとか、海送り海還りの儀式とか、やたらと海に関連するイベントが多いですよね?」

 

「イベントではないが、まあそうだな」

 

「今、村は赤い海に囲まれてます。やっぱり、アレが関係してるんでしょうか?」

 

「まだ確証はないが、恐らく間違いないだろう」

 

「と、いうことは、いま村で起こってる怪奇現象って、ずーっと昔から続いてる、ってことですか?」

 

「……そうかもしれんな」竹内は、つぶやくように言った。

 

 安野の言うことは、恐らく正しい。海送り海還りは江戸時代に書かれたとされる村の記録に登場するし、蛭子神の神話に関しては少なくとも千年以上前にさかのぼる。これらの行事や風習ができた原因にあの赤い海関連しているのならば、村の怪異は、千年以上前から続いていることになる。羽生蛇村の歴史は古い。村に伝わる古文書によると、一三〇〇年前の天武時代に、神代の祖先がこの地を切り開いたことが村の始まりとされている。その際、来訪神を迎え入れたとか、逆に来訪神を怒らせてしまった、という説があり、それが、眞魚教の始まりとされている。

 

 竹内は、村で起こっている怪異は、神の怒りに触れたからではないか、と考えている。

 

 この怪異が、一三〇〇年前から続いているのならば。

 

 村人は、神に何をしたのだろう?

 

 一三〇〇年とは、神にとってはわずかな時間でしかないのかもしれない。しかし、人にとっては、途方もなく長い時間だ。

 

 それほどまで長く続く神の怒り。一三〇〇年前、村人は、神に対し、どんな罪を犯したのだろう?

 

「――ところで先生」と、安野。「さっきから、ずっと気になってるんですけど」

 

「なんだ?」

 

 安野は、社殿の向こう側にある祠付近を指さした。「あそこに、頭にタラコをいっぱいくっつけてほわんほわん言ってる屍人さんがいるんですけど、先生が言う頭脳屍人(ブレイン)さんって、アイツのことですかね?」

 

 なに!? 慌てて安野が示した方を見る。彼女の言う通り、頭からタラコのようなこぶがたくさんぶら下がった屍人が、こちらの様子を窺っていた。

 

 しかし、竹内が見た瞬間、頭脳屍人は逃げ出し、闇の中に姿を消してしまった。

 

「あらら。逃げられちゃいましたね。残念でした」あっさりとした口調の安野。

 

「……安野」

 

「はい」

 

「いつから気付いてた?」

 

「えーっと。先生が、蛭子神について解説し始めたころからです」

 

「なぜ早く言わない」

 

「それは、せっかく先生が気持ちよさそうに解説しているので、邪魔しちゃ悪いかなー? と思ったんです」

 

「普段は空気を読まないんだから、変なところで気を使うな」

 

「……どういう意味ですか。あたしほど空気を読める人もいないでしょうに」

 

 どの口がそんなことを言うのか。まったく。

 

 まあ、逃げられたものは仕方がない。どの道銃弾が乏しい今は、倒せたかどうか判らない。まずは、最初の予定通り、武器を調達することにしよう。

 

 竹内は目を閉じ、周囲の様子を探った。パトカーは、神社の社殿正面の階段を下りた鳥居のすぐそばに停められている。近くには屍人と思われる者の視点がいくつか確認できた。いずれも視点が低い、もしくは、空を飛んでいる。安野の言う犬屍人と羽根屍人だ。武器を調達するまでなるべく戦闘は避けたいところだが、犬屍人はともかく、空から見張っている羽根屍人の視界を掻い潜るのは困難だろう。残りの弾薬でなんとかするしかない。竹内は、安野を連れ、正面の階段を慎重に下りた。鳥居まで来たところで、目視で羽根屍人の姿を見つけた。県道の上空を飛び回り、パトカー付近を見回っている。その手には拳銃が握られていた。もし、飛び道具が無い状態で狙われたら、手も足も出ないだろう。無駄弾は撃てない。竹内は鳥居の陰から慎重に狙いを定め、そして、引き金を引いた。三度、銃声が鳴り響く。一発が羽根屍人の脇腹に命中したが、残りは外れてしまった。屍人は一瞬ぐらりと揺れたが、すぐに体勢を立て直し、こちらに銃口を向けてきた。一発で倒すのは無理か。さらに三度、引き金を引く。そのうちの一発が何とか命中し、屍人は、どさりと地面に落ちた。ふう。と、息を付く暇もなく。

 

「先生。西から、犬屍人さんが来ます」

 

 安野が言った。マズイ。竹内の銃の装填数は六発だ。つまり、今の羽根屍人で撃ちつくしてしまった。リロードするしかないが、その隙に犬屍人に襲われてしまう。

 

 と、安野が鳥居の陰から飛び出した。

 

「おーい! こっちこっち!」

 

 向かって来る犬屍人に両手を振る。オトリになるつもりか? 何という無茶を。だが、(とが)めるよりも屍人を倒す方が先決だ。銃に弾を込め直す竹内。竹内の持つ銃はリボルバー式のものだ。リロードには時間がかかる。間に合うか……。

 

 獣走りでやって来た犬屍人は、安野に跳びかかった。間に合わない!

 

 だが、安野は犬屍人の攻撃をさっとかわすと、パトカーに乗り込み、バタン、と、ドアを閉めた。ガラス越しにあっかんべーをする安野。犬屍人がさらに跳びかかるが、ドアに阻まれ、その攻撃は届かない。ドアを開けるかガラスを割るかと思ったが、犬屍人は前足でドアを引っ掻くだけだった。まるで、本物の犬のようだ。知能が低下し、ドアを開ける知恵が無くなったのだろうか。

 

 竹内は残りの三発の弾を中に込めると、パトカーとじゃれ合うのに夢中の犬屍人に銃を向けた。じっくりと狙いを定め、引き金を引く。今度は一発で倒れた。

 

「やったぁ。さすが先生です」パトカーから出てくる安野。

 

 大きく息を吐く竹内。「まったく……無茶をするヤツだ」

 

「まあ、いいじゃないですか。それより、コレ、パトカーの中で見つけたんですけど、使えますか?」

 

 安野が取り出したのは拳銃の弾が入った箱だった。警察で使用されているものなら、38SP弾だろう。竹内の拳銃に使用できるものである。

 

「一応、よくやったと言っておこう」箱を受け取る竹内。中には三十発の銃弾が入っていた。これで、しばらくは大丈夫だろう。

 

「それで、先生」

 

「なんだ?」

 

「さっき逃がした頭脳屍人さんですけど、どうやら、あっちの民家のそばにいるみたいですよ?」

 

 東へ続く県道を指さす安野。竹内の古い記憶によると、確かこの先には神主の家があったはずだ。幻視を行う。安野の言った通り、電波を飛ばすような音を出している屍人の視点を見つけた。頭脳屍人で間違いなさそうだ。

 

 竹内は銃に弾を込め直す。「よく見つけた。今度は逃がさないように、慎重に行くぞ」

 

「はーい」いつものように手を上げて応える安野。

 

 竹内は安野を連れ、県道を進んだ。すぐに神主の家が見えてきた。相手に悟られぬよう、ライトを消し、近づいていく。頭脳屍人は家の裏にいるようだ。それ以外にもう一体、庭に、鎌で草刈りをしている屍人がいた。進化する前の人の姿をした屍人だ。幸い草刈りに夢中でこちらに全く気が付かなかったので、背後から容赦なく撃ち殺した。後は頭脳屍人だけだ。幻視で見る限り、頭脳屍人はライトを持っているだけで、武器は持っていない。そう言えば、さっき竹内に姿を見られた頭脳屍人は一目散に逃げ出した。ここまで竹内達は沢山の屍人と遭遇したが、こちらの存在に気付いて逃げだした屍人は初めてだ。案外、臆病なのかもしれない。だが、逃げ足は速かった。ここでまた逃がすと厄介だ。確実に仕留めなければ。

 

「……安野」

 

「はい」

 

「私はこれから家の裏に回り、すみやかに頭脳屍人を仕留めて来る」

 

「判りました」

 

「そのためにはヤツに気付かれないようにしなくてはいけない。お前が一緒だと、騒がしくて気付かれる可能性が極めて高くなる」

 

「なんでですか。あたしは、いつも静かにしてますよ」

 

「そうだな。間違えた。屍人と戦うのは危険だ。私のカワイイ教え子を、危険な目に遭わすわけにはいかない」

 

「そんなカワイイ教え子を、危険な場所に八時間以上も放置していたのは先生です」

 

「うるさいな。細かいことは言う女は、男にモテないぞ?」

 

「ほっといてください。先生が心配することではないです」

 

「とにかく、邪魔だからいや危ないからお前はどこかに隠れていろ」

 

「なんか納得いきませんけど、先生の言うことには従う約束なので、判りました。近くに倉庫みたいなのがあったので、そこに隠れてます。先生。ガンバってください」

 

 安野はスタコラと走って行った。なぜこの近くに倉庫があることを知っているのかは疑問だったが、今は頭脳屍人を倒すことが先決だ。竹内は銃を構え、民家へ近づく。民家の左側から回り込んだ。角を曲がれば頭脳屍人がいるはずである。幻視で確認すると、油断なく周囲を見回し、警戒していた。先ほどの草刈り屍人のように、背後から忍び寄って射殺、というワケにはいかなさそうだ。竹内も拳銃の扱いにはそれなりに慣れてきたが、まだまだ素人の域は出ない。うまく行くか……。慎重にタイミングを計り、相手が背を向けた瞬間、銃口を向けて飛び出した。だが、すぐに気付かれる。竹内のいる場所とは反対側へ走り出す屍人。狙いは定まっていなかったが、竹内は引き金を立て続けに三度引いた。一発が肩に命中し、体勢を崩すことはできたが、倒すことはできず、またすぐに走り出す屍人。竹内はさらに二度引き金を引いたが、屍人はすでに民家の角を曲がった後だった。くそう! 後を追う。民家正面の庭に戻ってくる。頭脳屍人は庭の外に出ようとしていた。銃を構える竹内。残る弾は一発。竹内の腕で逃げる者を相手に命中させることは難しい。また逃してしまったか……諦めかけた時。

 

 バタン、と、屍人が倒れた。

 

 銃は撃っていない。屍人が勝手に倒れたのだ。

 

 地面に倒れバタバタともがく屍人。そのそばには。

 

「――うわお。こんなにキレイに引っかかるとは思いませんでした。頭脳屍人なんて言っても、所詮は屍人さんですね、先生」

 

 倉庫に隠れているはずの安野がいた。

 

 よく見ると、地面には草を束ねてアーチ状に結んだワナがいくつも作られていた。竹内も子供時代にイタズラで作ったことがある。単純だが効果は高く、一説によると、ベトナム戦争でアメリカ兵を苦しめたブービートラップのひとつでもある。銃撃戦のさなかでは単純に転ばせるだけでも大きな効果を生むが、転んだ先に竹やりなどのもうひとつ別のワナを仕掛けることで、より高い効果を得ることができる。

 

「先生、心の中で解説している場合じゃないです。早く頭脳屍人さんをぶっ殺してください」

 

 安野の言葉で我に返り、起き上がろうとしている頭脳屍人の後頭部に銃口を当て、引き金を引いた。

 

「やりましたね、先生」安野は目を閉じた。他の屍人の様子を探っているのだろう。「……他の屍人さんも、動かなくなってるようです。先生の読み通り、このタラコ屍人さんが、ヤツらを操ってるみたいですね」

 

「それはいいが、なぜここにいる? 隠れていろと言っただろう」

 

「それはそうなんですが、先生のことが心配で。それに、先生だって、あたしが言うことをきかないのは、いい加減身に染みて判ってるでしょう?」

 

 ついに開き直りおった。まあ、安野の言う通り、コイツが言うことをきかないのは判っていたことではある。

 

「それで、これからどうするんですか、先生」悪びれた様子もない安野。

 

「もう少し付近を調査する。屍人が全滅して、調べやすくなったからな」

 

「判りました。じゃあ、あたしはここで待機してます。頭脳屍人さんがよみがえりそうになったら、すぐさまぶっ殺しますので、先生は調査に集中してください」

 

 確かに、それならこの辺り一帯の進化した屍人も全員よみがえらないから、調査はしやすいだろう。

 

「判った。お前に任せる」

 

「了解でーす。では先生、行ってらっしゃいませ」おでこに手のひらを当て、敬礼する安野。

 

 竹内は再び神社に戻ろうとしたが、庭を出たところで、安野を振り返った。

 

「どうかしましたか、先生?」首を傾ける安野。「安心してください。今度こそ、ここを動かず、ちゃんと見張ってますから」

 

「まあ、それもあるが……安野」

 

「はい」

 

「あまり無茶はするなよ」

 

「判ってますってば。先生の言いつけを守らないことはあっても、危険なことはしません。だって――」

 

 ふと。

 

 安野の表情から、笑顔が消えた。

 

 そして。

 

「――こんなところで、死にたくないですからね」

 

 つぶやくように言った。

 

 だが、すぐにいつもののほほんとした安野に戻る。一瞬だったから、気のせいかもしれない。

 

 竹内は、安野と別行動をしていた八時間の間、本当はなにがあったのかを訊こうと思った。

 

 だが、やめておいた。一見ちゃらんぽらんな性格の安野だが、根はしっかりしている。心配には及ばないだろう。

 

「では先生、ガンバってくださいね」

 

 両手の拳を握って胸の前でブンブン振る安野を残し、竹内は村の調査を再開した。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十六話 志村晃 大字波羅宿/火の見櫓 初日/十六時五十三分三十七秒

 薄霧に覆われた大字波羅宿(おおあざはらやどり)の火の見櫓の上で、志村晃は眼下に広がる集落を眺めていた。棚田状になった山肌にへばりつくように広がる古い家屋。懐かしい光景だった。二十七年前、土砂災害で消滅する前の大字波羅宿だ。なぜ、消えたはずの集落が存在しているのか。志村はすでにその答えを悟っていた。自分は今、二十七年前に消えた羽生蛇村にいる。

 

 六時間ほど前、蛇頭(じゃこうべ)峠の山道で、派手な格好をした余所者の女と別れた志村は、村を出るために道祖神道を北へ進んだ。三時間も歩けば村の外へ出られるはずだったのだが、どういうわけか村に戻って来てしまったのだ。道を間違えたのだろうか? いや、猟師を生業にしている志村は、蛇頭峠のある合石(ごうじゃく)岳には若いころから通い詰めている。山は自分の庭のようなものであり、道を間違うことは考えにくかった。もちろん、猟師であるからこそ、山の怖さも十分知っている。獲物を追うのに夢中で気が付くと知らない場所に迷い込んでいたり、予期せぬ悪天候に見舞われ数日間身動きが取れなくなることは、決して珍しくはない。しかし、道祖神道は一本道であり、故意に道から逸れない限りは迷うはずがないのだ。山の経験が豊富な志村にも、何が起こったのか判らない。しいて理由を挙げるならば、村から出るとき、道端の道祖神像に祈りを捧げなかったことくらいだ。道祖神は旅の安全を祈願する神だ。それをないがしろにした志村は、神の罰を受けたのかもしれない。

 

 あるいは。

 

「……お前がわしを呼んだのか、晃一(こういち)……貴文(たかふみ)……」

 

 志村は、懐に大事にしまっていた古い写真を取り出した。この二十七年間肌身離さず持ち歩いていた写真は、すっかり色あせ、皺だらけになっているが、そこに写っている者の姿は、不思議なほどはっきりとしている。今は亡き志村の妻と、息子の晃一、従兄弟の貴文、そして、二十七年前まで家族ぐるみの付き合いがあった竹内という家族だ。三十年近く前、この大字波羅宿で撮影したものである。

 

 この写真に写っている者のほとんどが、二十七年前の土砂災害で亡くなった。つまりそれは、志村が今いるこの場所、二十七年前の羽生蛇村に飲み込まれた、ということである。

 

 二十七年前、晃一と貴文は、村の有力者・神代家と、その神代家が行う祭事に疑問を持ち、正体を探るために行動を起こした。

 

 ――お前たちは、わしを恨んでいるのだろうな。

 

 写真の息子と従兄弟を見つめる志村。二人からは「協力してほしい」と、何度も頼まれた。志村自身も神代家には思うところはあったが、生来の事なかれ主義であったため、ずっと見て見ぬふりをしてきた。だから、二人への協力も断った。恨まれても仕方がない。

 

 志村は、大きく息を吐き出すと。

 

 写真を、投げ捨てた。

 

 志村の手を離れた写真は、ふいに吹き抜けた強い風にさらわれ、あっという間に村を覆う薄霧の中に消えた。

 

 その瞬間、志村は、これで本当に天涯孤独の身になってしまったような気がして、自嘲気味に笑った。だが、これで良かったのだ。いまさらあの二人に合わす顔など無いし、自分にできることなど、何も無い。そもそも、ずっとあの写真を持っていたのは間違いだったのかもしれない。あんなものを持っていたからこそ、二十七年もの長い間、この村を去ることができなかったのだ。あの写真は、自分の心に残る未練の象徴だ。これでもう、本当に、村に未練はない。

 

 志村は、この場を去ろうとした。

 

 と、写真が飲み込まれた薄霧の中から。

 

「――ちょっとちょっと、いいかげんにしてくださーい。しつこい男は、女の娘に嫌われますよー」

 

 何とも場違いなことを言いながら、黒縁の眼鏡をかけた若い女が走って来た。その後ろには、包丁を持った屍人もいる。追われているようだが、女の口調には切羽詰った様子はない。むしろ、余裕さえ感じられた。顔に見覚えはない。と、いうことは、村の者ではないだろう。少し前に蛇頭峠で会った女も村の者ではなかった。随分と余所者がまぎれ込んでいるようである。この羽生蛇村は観光するような場所などないが、二十七年前の土砂災害や小学生失踪などの怪事件が多発しており、怪しげな噂を聞きつけて好奇心で訪れる者や、テレビや雑誌の取材などで来る者は少なくない。恐らく、この女もその一人だろう。不届きな理由で村を訪れ、勝手に巻き込まれた者を、志村が助けてやる道理はないが、目の前で殺されそうな者を見捨てるのも気が引けた。志村は猟銃を構え、屍人に照準を合わせた。引き金に指を掛け、撃とうとしたとき。

 

 ――ほほう。

 

 女の姿に感心し、志村は銃を下ろした。

 

 女は、一メートルほどの高さの棚田をひょいっと登ると、近くにあった得物を手に取り、追って棚田を上ろうとする屍人の頭を殴った。下に落ちる屍人。だが、一撃で倒すことはできなかった。起き上がった屍人は、また、棚田を上ろうとする。女はまた屍人の頭を殴る。下に落ちる屍人。再び起き上がり、崖を上ろうとする――これを、さっきから何度も繰り返している。棚田を上ろうとするたびに殴られて下に落ちる屍人だが、屍人は上るのをやめようとしない。愚直な屍人の行動を上手く利用した戦い方だ。

 

 だが、志村が感心したのは、その戦い方ではなく、女が手にした得物だった。漢字の生の字をひっくり返したような看板――眞魚教のシンボル・マナ字架だ。この村の信者にとっては命よりも大事な物であり、それで何かを殴るなど、神への冒涜だ。もし村人に見つかれば袋叩きにされるだろう。まさに、神をも恐れぬ所業である。

 

 女は屍人を殴り続ける。看板は軽く、一発一発は大した威力ではないが、それでも、続けていればそのうち倒せるだろう。

 

 だが、女の背後から、鎌を持った別の屍人が近づいていた。女は目の前の屍人を叩くのに夢中で気づかない。

 

 志村は再び銃を構え、鎌を持つ屍人に照準を合わせる。そして、屍人が鎌を振り上げた瞬間、引き金を引いた。銃弾は見事に命中し、屍人はその場に倒れた。銃声に振り向く女。周囲を見回し、志村に気が付いたようだ。大きく手を振っている。

 

 志村はそれに応えず、無言で櫓の梯子を下りた。思わず助けてしまったが、はたしてそれが正しかったのかは判らない。ここで死をまぬがれたとしても、どの道もうこの村からは出られないだろう。遅かれ早かれ、命を落とすはずである。ならば、あのまま屍人に襲われて死んでいた方が、結果として長く苦しまずに済んだかもしれないのだ。

 

 まあ、所詮は余所者のことだ。自分には関係ない。櫓の下に降りた志村は、今度こそ本当にこの場を去ろうとしたが。

 

「――いやあ、危ないところでした。ありがとうございます」

 

 背後から声を掛けられる。

 

 振り返ると、さっき助けた女がいた。にっこりと笑い、親しげな口調で話す。「あたし、安野依子って言います。東京で大学生してるんですけど、その大学の講師が、なんか、この村の調査をするって言うんで、連れて来られたんです。そしたら、地震は起こるは津波に襲われるは頭のおかしな人たちに追いかけられるわで、もう、大変だったんですよ。でも、良かった。この村にも、ちゃんとした人がいたんですね。あ、先生は、この先の、蛭ノ塚、でしたっけ? そこで、調査してます。そうそう、聞いてくださいよ! その先生、こんな危険な場所に、こんなカワイイ教え子を一人残して、勝手に調査を始めちゃったんですよ? ヒドイと思いません? まったく、だからあの先生は――」

 

 何も訊いていないのに勝手にペラペラと話し出す女。志村が最も嫌うタイプの人間のようだ。志村でなくても、猟師は皆、お喋りな者を嫌う。志村は、黙って立ち去ろうとした。

 

「あ、待ってください」女が呼び止める。「これ、さっき風に乗って飛んで来たんですけど、ひょっとして、おじいさんが落としたものじゃないですか?」

 

 驚いて振り返る志村。

 

 女が差し出したのは、さきほど櫓の上から捨てた写真だった。

 

 写真に写る晃一と貴文が、志村をじっと見ている。

 

 困惑を隠せない志村。

 

 その表情をどう思ったのか、女は首を傾ける。「あれ? 違いましたか? でも、ここに写っている人、おじいさんにそっくりだと思うんですけど」

 

 志村は、ゆっくりと口を開いた。「――そうだ。それは、わしの写真だ。写っているのは、わしの家族と友人だ。二十七年前に、見捨てたんだ」

 

「――――?」

 

「写真は落としたのではない、捨てたのだ。未練がましくずっと持っていたが、わしが持っていてはいけないものだった。ようやく手放すことができたのに、まさか、戻って来るとは……」

 

「植草杏の砂時計的なヤツですね」

 

「結局、そういう運命なのかもしれんな」

 

「そうかもしれません。杏も結局、最後は大悟と結ばれましたから」

 

 自嘲気味に笑う志村。女が何を言っているのかは判らなかったが、はっきりと悟った。わしは、この村を出ることはできない。晃一と貴文が、どうあっても逃がしてくれないだろう。

 

 ならば、やることはひとつだ。 

 

「――蛭ノ塚にいた、と言ったな」志村は女の顔を見る。

 

「あ、はい。そうです。先生には動くなって言われてるから、すぐに戻らないと、怒られるんですけどね」

 

「ならついて来い。こっちだ」

 

 志村は写真を受け取らず、蛭ノ塚の方へ歩き始めた。

 

「あ、待ってください。戻る前に、探してる物があるんです。良かったら、一緒に来てくれませんか?」

 

 女はそう言うと、志村の返事も聞かず、蛭ノ塚とは反対の方向へ歩き始めた。やれやれ、やっかいな女と関わってしまった。だが、こうなってしまった以上、放っておくわけにもいかないだろう。志村は女を追った。

 

 女が向かったのは小さな広場だった。中央に井戸があり、少し離れたところに廃屋と小さな祠がある。女は、まっすぐに廃屋へと向かって行く。

 

 ――まさか、またここに来ることになるとはな。

 

 胸の奥で呟く志村。すっかり荒れ果てているが、その家は、志村の古い記憶と一致する。従兄弟の貴文の家だった。女が何の目的でこの家を訪れたのかは判らないが、驚きはしなかった。そういう運命なのだと、すでに悟っているから。

 

「――えーっと、ここらでチラッと見かけたような気がするんですけどね」

 

 廃屋の中に入り、何かを探す女。部屋の隅に机とタンスがあるだけの殺風景な部屋だ。女は押し入れを開け、中をあさり始めた。志村も部屋を見回す。机の上に手帳が置かれてあるのを見つけた。貴文のものだろうか? 手に取り、中を見た。

 

 

 

 昭和四十一年六月二日。

 

 誰もあの女の本当の姿に気がつかない。あの女は化け物だ。ずっとこの村を見張っている。年をとることも無く変わらぬ姿で。あの女は必ず災いを呼ぶ。

 

 

 

 日記のようだった。ページをめくる。次の日も、同じような内容が書かれてあった。さらにページをめくるが、書かれてある内容に変わりはない。あの女は化物だ、あの女は年を取らない、誰もそのことに気付かない――狂気を感じる内容だった。実際貴文は、狂人と思われ、強制的に宮田医院へ入院させられた。この事を日記に記すだけでなく村中に言い回ったためだ。重度の精神病と診断された貴文は、家族さえ面会が許されなかった。そして、二十七年前の災害で、病院と共に土砂の中に飲み込まれた。

 

「――ああ、ありました。これを探してたんですよ」

 

 女が押し入れから出てきた。カセットコンロとやかんを持っている。なぜそんなものを探していたのかは判らないし、興味もなかった。志村は手帳を机に戻すと、「行くぞ」と短く言って、廃屋を出た。

 

 広場から出て南へ向かう志村。女は後ろで相変わらずよく判らないことを喋っている。志村は無言を貫き通しているが、女には関係ないようだった。

 

「ところでおじいさん、あたし、昨日ここに来た時から不思議に思ってたんですが――」女は、道端の崖を指さした。「この辺って、洞窟みたいなのが多いですけど、あれ、何なんですか?」

 

 女が指さした崖には、直径二メートルほどの穴が開いていた。金網で閉ざされているため入ることはできないが、かなり奥が深い穴だ。

 

 女の言う通り、ああいった穴は、この大字波羅宿には無数に存在する。崖に掘られた大きなものだけでなく、民家の庭などにも、小さなものが多数あるはずだ。

 

「あれは防空壕だ」志村は、短く答えた。

 

「あ、ナルホド。テレビで見たことあります。戦争中、空襲警報が鳴ると、みんなでそこに逃げ込むんですね」

 

「そうだ。まあ、ここいらで空襲警報が鳴ったことは、一度も無かったがな」

 

「そうなんですか? そのワリには、数が多いような気がします」

 

「戦時中は、北の合石岳に錫の採れる鉱山があった。それで、空襲されるのではないかと警戒したんだろう。街から日本兵もやって来て、何やら大量の武器を持ち込んでおったよ。もっとも、錫を運び出している様子は無かったが」

 

「なぜです?」

 

「さあな。詳しくはわしも知らんが、おそらく、錫が軍事用に適さなかったのだろう。この村の錫は、かなり特殊なものらしいからな」

 

「と、言いますと?」

 

「例えば、村の錫で楽器を作ると、音が安定せず、鳴らすたびに全く違う音が鳴るそうだ」

 

「あ、なんかそれ、ネットで見たことがあります。羽生蛇トライアングル、ですね」

 

「そうだ。一般的な錫と成分が違うので、そういったことが起こるらしい」

 

「ふーん。そうなんですね」女は感心したように頷いた。「ところで、羽生蛇トライアングルって、バミューダトライアングルと、なんか響きが似てますよね? そう言えば、この村も、バミューダトライアングルと同じように、突然行方不明になる人が多いって聞いてますけど、あれって、何か関係が――」

 

 急に話が飛んだので、志村は再び口をつぐんだ。柄にもなくしゃべりすぎた。どうも、昔のことになると口が軽くなる。やはり、わしも歳を取ったということか。志村は苦笑いした。

 

 しばらくすると県道に出たので、左へ曲がる。このまま進めば眞魚川があり、コンクリート製の橋が架けられてあるはずだ。それを渡って北東方面へ進めば、水蛭子神社がある蛭ノ塚だ。

 

「あ、ちょっと待ってください」と、女。「……橋の先に、猟銃を持った屍人さんがいますね」

 

 女にそう言われ、県道の先を見る志村。年齢の割に目は良い方だが、屍人の姿はおろか橋すらまだ見えない。どうやら女は、幻視の能力を使って屍人の存在を察知したようである。志村も目を閉じ、前方の気配を探った。すぐに見つけることができた。女の言う通り、橋の向こう側で、猟銃を手に警戒している。橋から目を離そうとはしない。このまま進んでいたら、撃たれていただろう。

 

「そう言えば、おじいさんも猟師さんなんですよね?」女が志村の銃を見た。「どうです? あの屍人さんと撃ち合って、勝てそうですか?」

 

 難しいだろうな、と志村は答えた。猟師が獲物を撃つ時は待ち伏せが基本だ。こちらから獲物の方へ近づいて行って撃つことなどまず無い。野生の獣は感覚が鋭い。動けばそれだけ気付かれる可能性が高くなるのだ。だから、獲物を見つけてもむやみに近づかず、気付かれない位置に陣取り、獲物の方から近づいてくるのを待つのである。

 

「と、いうことは……」女はあごに手を当てて考える。「屍人さんの方から近づいて来てもらえばいいんですね? 判りました。いいアイデアがあります。ちょっと遠回りになりますが、あっちから行きましょう」

 

 女は志村の返事も待たず、来た道を戻り始めた。どうするつもりだ? 後を追う志村。貴文の家の前を通り、さらに進むと眞魚川のそばに出た。県道の橋からは北に三百メートルほど離れている場所だ。川には、今にも崩れ落ちそうな木造の橋が架かっており、向こう側へ渡ることができる。女は橋を渡ると、川沿いの砂利道を南へ下って行く。やがて県道が見えてきた。かなり大回りして川を越え、県道まで戻って来たことになる。右にはコンクリート製の橋がり、左に曲がれば、さっきの猟銃屍人がいるはずだ。

 

「では、あたしが囮になって屍人さんをおびき出しますので、おじいさんはここで待ち伏せして、撃ち殺してください」

 

 女はそう言うと、志村が何か言う前に県道に飛び出した。そして、道の真ん中で大きく手を振り、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。屍人が銃を構える気配がした。女は県道の向こう側へ走った。銃声が鳴るが、幸い弾は当たらなかった。女は道端に身を隠す。志村は幻視を行い、屍人の様子を窺った。屍人は銃を構えたまま、女が隠れた場所へ近づいていく。うまく誘い出せたようだ。幻視をやめ、銃を構える志村。じっと、屍人が現れるのを待つ。やがて、銃口の先に人が姿を現した。引き金を引く。銃声が鳴り響くとほぼ同時に、屍人は大きくのけ反り、ゆっくりと崩れ落ちた。

 

「やったぁ! うまく行きましたね」女が嬉しそうな顔で戻ってくる。「でも、一発で仕留めるなんて、さすがプロです。先生だったら、三発撃って一発当たればいい方ですよ。ホント、銃弾も限られてるのに、いっつもムダ弾を撃って、ヒヤヒヤします。先生も、おじいさんくらい銃の扱いがうまければいいんですけどねぇ。あ、良かったら、先生に銃の扱い方を教えてあげてください。先生の射撃のウデが良くなれば、あたしの苦労も、少しは軽くなると思うんですよね――」

 

 相変わらず何も訊いていないのにペラペラと喋り続ける女。

 

 志村は、右手を銃から離すと。

 

 ぱん、と、平手で女の頬をはたいた。

 

 何が起こったか判らない表情で、何度も瞬きをする女。

 

 志村は。

 

「――今のような危険な真似は、二度とするな」

 

 低い声でそう言った。

 

 そして、それ以上は何も言わず、蛭ノ塚方面へ向かって歩く。

 

 女はしばらく無言で立っていたが、やがて、志村の後を追って来た。

 

 囮となって獲物をおびき寄せる――これは、志村が最も嫌う猟の方法だった。

 

 野生の獣は人間を恐れている。人間の姿を見て近づいてくることなど、まず無い。基本的には臆病なのだ。だから、囮になっておびき出すことなど、まず不可能だ。

 

 だが、そんな臆病な獣も、時として、人間に襲い掛かってくることがある。

 

 ふいに出会った時、手負いになった時、そして、子供を連れている時。

 

 臆病な獣も、追い詰められれば、人間に牙を剥く。

 

 野生の獣は人間を恐れているが、決して、人間より劣っているわけではない。むしろ、まともに対峙すれば、人間が野生の獣に勝てるはずがないのだ。

 

 だから、人間は銃を持ち、獲物を見つけても不用意に近づかず、待ち伏せし、相手に気付かれる前に仕留めるのだ。

 

 人間は、銃を持つこととではじめて獣と五分に渡り合える。いや、例え銃を持ったとしても、山の中ではまだまだ分が悪いと言っていい。

 

 野生の獣とは、それほどまでに恐ろしい存在なのだ。

 

 囮になるとは、獣の前に自ら飛び込んでいくことだ。野生の獣の恐ろしさを知っている手練れの猟師なら絶対にしないし、誰にもやらせない。囮になると言い出すのは、決まって、獣の恐ろしさを知らない若い猟師だ。相手を見くびっているのである。それは、山では最も危険なことだった。

 

 屍人が相手でも、同じことが言えるはずだ。

 

 女は屍人を見くびっていた。だから、囮になる、などと言い出したのだろう。

 

 屍人は知能が低く、愚かである。それでも、決して見くびってはいけない。

 

 確かに、女が囮になったことで屍人を排除することができた。しかしそれは、たまたまうまく行ったに過ぎない。屍人の撃った弾が女に当たったかもしれないし、道端に隠れた女を屍人が追わなかったことも考えられし、隠れた先に別の脅威があった可能性もある。失敗することも、十分に考えられた。今回うまくったからと言って、次もうまく行くとは限らない。女がこんなことを続ければ、いずれ命を落とすだろう。

 

 女は余所者で、まだ若い。この村で育ち、もう十分に生きた志村とは違う。

 

 そう。村から逃れられない運命の自分とは、違うのだ。

 

 志村は、無言で蛭ノ塚へ向かって歩く。

 

 女も、もう無駄なお喋りをすることはなかった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十七話 安野依子 蛇ノ塚/県道333号線 初日/十七時五十四分二十五秒

 蛭ノ塚から刈割へと向かう県道333号線には、途中、眞魚川にかかる大きな橋がある。今は崩れ落ち、その先には、広大な赤い海が広がっていた。安野依子は崩れた橋の前に立ち、眼下に広がる赤い海を見下ろしていた。波打ち際に大勢の屍人の姿が見える。看護師の服を着た若い女、警官姿の男、頭の禿げ上がった小太りの中年男性……皆、海から陸へと上がっている。

 

「……あれって、何をしてるんですかね?」安野は、さっき大字波羅宿で知り合った村の猟師に訊いた。

 

「海還りだ」猟師は、独り言のように言った。

 

「うみがえり?」

 

「海送りに海還り……村に伝わる、古い風習だ」

 

 猟師は、ゆっくりとした口調で語る。

 

 旧暦の大みそか、黒装束に身を包んだ村人が、一年の罪や穢れを祓い清めるため、眞魚川に身を沈める。これが、海送りの儀式。そして、罪や穢れを洗い流した村人が、年が明けると同時に岸へ上がる。これが、海還りの儀式だ。常世と呼ばれる理想郷へと旅立つための儀式とされている。

 

「――山の中で海など無い村なのに、妙な風習があるものだと思っていたが、こういうことだったのか」

 

 猟師の言葉に、安野は大きく頷いた。

 

 海から上がった屍人は、神の祝福を受けたことになる。常世という場所に、より近づいた存在になったということだ。

 

 安野の思った通り、屍人たちは、その姿を大きく変えていた。

 

 四つん這いになり、獣のように走る屍人、蜘蛛のように糸を吐き、切り立った崖を上って行く屍人、頭部に大きなこぶがいくつもぶら下がった屍人、背中にトンボのような羽が生え、宙を飛ぶ屍人までいた。あれが、より常世に近い存在となった屍人の姿なのだろうか?

 

 常世とは、古事記や日本書紀などに登場する神の領域だ。『永久』を意味し、決して年を取ることの無い、不老不死の楽園とされている。

 

 広大な赤い海を見る安野。この海の向こうに、永遠に歳を取らない楽園があるというのだろうか? 海送りと海還りを繰り返せば、人も、その楽園に行くことができるというのだろうか?

 

「……この村は、もう終わりだ」安野の背後で、猟師がつぶやくように言った。「せめて、わしは、化物になる前に、逃げ出すとしよう」

 

「……え? 村から逃げ出すことができそうなんですか?」

 

 安野が振り向くと。

 

 猟師は、猟銃の銃口を、口に咥えていた。

 

「――――!?」

 

 安野が手を伸ばすよりも早く。

 

 猟師は引き金を引いた。

 

 まるで、頭の中に小型の爆弾が仕掛けられていたかのように、猟師の後頭部が爆発する。

 

 そして――ゆっくりと、地面に転がった。

 

 安野はただ、その場に立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

 どれくらい、そこに立っていたか――。

 

 

 

 

 

 

 安野は泣いた。

 

 冷たい(むくろ)と化した猟師を前に、安野は泣いた。

 

 悲しかったからではない。

 

 悔しいのだ。

 

 少し前、安野は、猟師に頬をはたかれた。

 

 そのことに対して反感は持っていない。屍人を前に危険な行動をした自分を戒めるためのことだったと理解している。

 

 だが、今の猟師の行動は、許せなかった。

 

 この村はもう終わりだ――猟師はそう言った。確かにそうかもしれない。もう、この村からは逃げられないのかもしれない。死は、この恐怖から逃れる唯一の方法なのかもしれない。

 

 だが、それでも安野は、自ら命を絶った猟師を、許すことができなかった。そんな安易な方法で村を逃げ出した猟師を、許すことができなかった。

 

 自ら命を絶った者に、危険な行為を戒められたことが、悔しかった。

 

 あなたは間違っている。あなたなんかに叩かれるいわれは無い――そう言ってやりたかったが、どんなに叫んでも、もうその言葉は届かない、それが悔しかった。

 

 安野は泣いた。だた、泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 村に、サイレンが鳴り響く。

 

 

 

 

 

 

 安野は涙を拭い。

 

 猟師の躯に、冷たい視線を向けた。

 

 ――あたしは、あなたのようにはなりませんよ。

 

 心の奥で、猟師に向かって言う。

 

 村から逃れることはできない……猟師の言う通りかもしれない。

 

 だが、それでも、あたしは決して、生きることを諦めない。

 

 絶対に――絶対に、生き抜いてみせる。

 

 あなたが間違っていたことを、証明してみせる。

 

 安野は、猟師に背を向けると。

 

 

 

 ――あたしは死なない。あたしは諦めない! どんなことをしても、あたしは、生きて、生きて、生き抜いてみせる! 最期まで、絶対に、絶対に、諦めるもんか!!

 

 

 

 強い決意と共に、その場を去った。

 

 もう二度と、ここに戻ることはないだろう。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十八話 前田知子 蛭ノ塚/水蛭子神社 初日/十七時五十四分五十一秒

 遠くで、銃声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 蛭ノ塚にある水蛭子神社。その、社殿の中で、前田知子は恐怖に身体をこわばらせた。今の銃声は、屍人が村人を撃ったのだろうか? それとも、村人が屍人を撃ったのか? 判らない。どちらにしても恐ろしいことだ。昨日までみんなでのんびりと暮らしていたのに、なぜ、こんな銃声が頻繁に鳴り響く危険な村になってしまったのだろう?

 

 六時間ほど前、猟銃を持った屍人に襲われた知子。求導師の牧野が静止するのも聞かず、恐怖のあまり逃げ出した知子は、なんとか屍人を振り切り、この社殿に隠れたのだった。

 

 外は多数の屍人が徘徊しているが、社殿の中にいる知子に気付くことはなかった。神社は神聖なものであり、屍人にとってもそれは同じなのだろう。中に誰かが隠れているとは思わないようだ。

 

 だが、社殿の扉は木を組んで作った格子式のもので、外からは丸見えだ。いつまで隠れていられるかは判らない。

 

 ――お父さん、お母さん。

 

 昨日のことを思い出し、知子は嗚咽を洩らす。

 

 昨日、知子は些細なことで両親とケンカしてしまい、家を飛び出した。知子が毎日つけていた日記を、両親が勝手に読んだのだ。些細なこと……いま思えば、本当に些細なことだ。日記には、両親はもちろん友達や他の誰にも話していないことをたくさん綴っていた。主に、好きなクラスメイトのことだ。それを勝手に見られて、恥ずかしいという思いは今もある。しかし、それだけのことだ。知子にしてみても、本当に心の底から怒っているというわけではない。家を飛び出したものの、本気で家出をしようと思ったのではなく、ただ、ちょっといなくなって親を心配させてやろうと思っただけだった。それが、こんな事態になるなんて。お父さんとお母さんは無事だろうか? 心配しているだろうか? 村のあちこちを訪ね歩き、屍人に襲われていないだろうか? もし、屍人に殺されてたりしたら、もう、二度と会えないのだ。あんなくだらないことでケンカをしたまま会えなくなるなんてイヤだ。

 

 お父さんとお母さんに会いたい。

 

 会って、昨日のことを謝りたい。

 

 胸に、強い想いが湧いてくる。

 

 涙を拭い、立ち上がった。このままここにいても、助けは来ないかもしれない。求導師様が助けてくれると思っていたが、今のところその気配は無い。それも仕方ないだろう。求導師様と言えど生身の人間。銃や刃物を持って襲ってくる化物が大勢徘徊しているのに、どこに隠れているかも判らないあたしを一人で探すのは無謀だ。それで求導師様が襲われてしまっては元も子もない。賢明な求導師様のことだ。助けを呼びに行ったのだろう。でも、あたしなんかのために求導師様の手を煩わせるなんてもってのほかだ。村はいま大変な状況だ。求導師様には、他にしなければいけないことがたくさんあるはずだ。そもそも、あたしがこんな状況になったのは、求導師様の言うことを聞かず勝手に行動したからだ。自分のせいでこうなったのだから、自分で何とかしなければいけない。

 

 知子は目を閉じ、外の気配を探った。すぐに、自分ではない別の者の見ている映像が浮かび上がる。求導師様が言うには、これは、羽生蛇村に伝わる『幻視』という特殊能力だそうだ。この能力を使って、ここから脱出してみよう。

 

 この神社の境内から脱出する道は三つ。社殿右の泉の前を通って宮田医院のある比良境方面へ行くか、正面の階段を下って県道に出るか、社殿左の祠から神主様の家の方へ行くか、である。残念ながら、どの道も屍人が見張っている。比良境方面の道にいる屍人は猟銃を持っており危険だ。仮に、何らかの方法で突破できたとしても、比良境への道は高い崖に阻まれており、知子の力で登るのは無理だろう。脱出するなら正面の階段か神主様の家の方へ行くしかないが、正面の階段も猟銃を持った屍人が見張っているし、左の祠の前にも鎌を持った屍人がいる。いずれも注意深く周辺の様子を窺っており、見つからずに脱出するのは難しい。何か、ヤツらの注意を引きつけることはできないだろうか? 幻視をやめ、社殿を見回す。すぐに、良いことを思いついた。社殿の扉の前に吊るされてある参拝用の鈴を鳴らせば、ヤツらの注意を引きつけることができないだろうか? 屍人は音に敏感に反応するから、たぶんうまく行くだろう。だが、それだけでは不十分かもしれない。鈴に異常がないことを確認したら、ヤツらはすぐに元の場所に戻るだろう。もうひとつ、ヤツらの注意を引きつけるものが必要だ。鈴の下には賽銭箱がある。長年風雨にさらされていたためか、ボロボロで、今にも壊れそうだ。

 

 ――これだ。

 

 知子は用心深く外に出た。賽銭箱を押してみる。かなり重かったが、なんとか知子の力でも動かすことができた。

 

 ――蛭子様、ごめんなさい!

 

 賽銭箱を地面に落とす。ボロボロだった賽銭箱は、衝撃で簡単に壊れた。中のお賽銭が地面にばら撒かれる。

 

 よし。続いて知子は、ひもを揺らして鈴を鳴らす。周囲に鈴の音が鳴り響いた。目を閉じ、素早く幻視を行う。周囲の屍人は音に気が付いたようだ。うまく行った。知子は神社の裏に回り、身を隠した。しばらくすると、正面の階段にいた猟銃を持った屍人と、左にいた鎌を持った屍人が現れた。地面にばら撒かれたお賽銭に気付くと、駆け寄って拾い始めた。狙い通りだった。知子は、屍人のそばを慎重に通り抜ける。気付かれたら襲われる前に走り抜けるつもりだったが、屍人はお賽銭をかき集めるのに夢中で、全く気付くことはなかった。社殿正面の階段まで来て、急いで駆け降りる。屍人はまだお賽銭を集めている。こんなにうまく行くとは思わなかった。

 

 県道の脇に立つ鳥居まで下りた知子。ここから西へ向かえば比良境を脱出できる。しかし、まだ安心はできない。再び幻視を行う。県道をしばらく進んだ先に、拳銃を持った屍人が見張りをしていた。残念ながら鈴の音はここまで届かなかったようだ。屍人はこちらに背を向ける格好だが、いつ振り返るかもわからない。ひとまずどこかに身を隠そう。周囲を見回す。鳥居のすぐそばに廃車同然の古いパトカーが停められてあった。ドアを引いてみると、カギはかかっておらず、簡単に開いた。運転席に入る。幻視をすると、知子が心配した通り、拳銃屍人はこちらを振り返っていた。幸いうまく隠れることができたため、気付かれることはなかった。

 

 あの拳銃屍人をどうにかしなければ脱出することはできない。何か方法はないだろうか? すぐに思いついたのはパトカーで屍人を撥ね飛ばすことだが、相手が屍人とは言えそんなことをするのは気が引けるし、そもそも中学生の知子に運転の技術は無い。県道の南側は切り立った崖で、はるか下には赤い海が広がっている。道にはガードレールすらない。少しでも運転を誤れば転落してしまうだろう。パトカーを運転するのはあまりにも危険だ。何か別の方法を考えよう。屍人を陽動する物でもないだろうか? 知子はパトカー内を探った。助手席のサイドポケットに新聞紙が入っていた。この三隅地方で広く読まれている地方新聞紙・三隅日報だ。役に立ちそうにもないが、その日付を見て、手に取らずにはいられなかった。昭和五十一年七月三十一日とある。二十七年前日付だ。やはりここは、二十七年前に土砂災害で消滅した比良境なのだろうか? 日報では、謎の光柱現象についての記事が載っていた。三十日未明、眞魚川水門付近に巨大な光の柱が現れた、というものだ。

 

 この光柱現象は、羽生蛇村に古くから伝わる自然現象のひとつだ。地上の明るい光が空中の氷層に反射して起こる現象とされている。村では、災いをもたらす巨大な海龍が現れる前兆という言い伝えがあり、この光柱現象が確認されると、数日以内に大きな災害が発生すると言われている。実際、この日報が発行された数日後、村は大きな土砂災害に見舞われた。こういった大災害前の謎の自然現象は世界中で報告されているが、多くの場合、科学的な関連は不明だ。

 

 知子は日報を元の場所に戻した。重要な情報かもしれないが、屍人相手には役に立ちそうもない。他に何かないか? ダッシュボードを開け、中を探っていると、知子の肘が、何かのスイッチに当たった。

 

 途端に、サイレンが鳴り響く。

 

 また、あの謎のサイレンだろうか? 一瞬そう思ったが、パトカーのサイレンだった。サイレンを鳴らすスイッチを押してしまったようだ。マズイことになった。周辺の屍人に気付かれる。幻視を行うと、案の定、県道に立っていた拳銃屍人がこちらに向かって来ていた。

 

 ……いや、これは、逆にチャンスかもしれない。

 

 知子は、入った時とは反対の助手席側のドアを開け、外に出た。そのままパトカーの陰に身を隠し、様子を窺う。拳銃屍人はパトカーの前までやって来ると、じっと運転席を見つめ、何か考えている。しばらくして、ドアを開けた。サイレンを止めようと、スイッチをいじっている。幻視で周囲を窺う知子。神社の境内にいる屍人は今だお賽銭を集めるのに夢中で、サイレンの音にも気付いていない。

 

 知子は静かにパトカーから離れ、走った。道の先には、もう屍人の気配は無い。うまく行った。これで、しばらくは大丈夫だろう。

 

 ――お父さん、お母さん、無事でいて。

 

 知子は、上粗戸へ向かって走る。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十九話 恩田理沙 宮田医院/第二病棟一階廊下 初日/二十二時五十二分五十七秒

 恩田理沙は宮田医院の第二病棟一階の廊下を、ゆっくりとした歩調で歩いていた。あと一時間ほどで日付が変わる時刻。月明りさえ届かない院内の廊下は薄暗く、割れたガラスの破片や崩れ落ちた天井の瓦礫がいたるところに散乱しており、むやみに動き回るのは危険だった。院長の宮田先生からも、動かないように言われている。だが理沙は、ライトの明かりで足元を照らし、ゆっくりと進んで行く。

 

《――理沙》

 

 自分の名を呼ぶ声が聞こえた。

 

 周囲にライトを向けるが、誰もいない。さらに廊下の奥へと進む。

 

《――理沙》

 

 また聞こえた。

 

 少し前から、断続的にこの声が聞こえている。いや、聞こえている、という表現は正しくないかもしれない。それは、耳で聞こえたというよりは、頭の中に直接響いたという感じの声なのだ。

 

 このことを宮田先生に伝えた方がいいだろうか? そう思うが、先生は、北にある第一病棟の診察室で、眞魚教の求導師・牧野慶と、何か重要な話をしている。恐らく、村で起こっている怪異についての話だろう。理沙は退席するようにお願いされた。どんな話をしているのかは気になる。部屋にいなくても、幻視の能力を使えば聞くことは可能だろう。だが、そんな盗み聞きのようなマネをするのは気が引けた。理沙は、大人しく近くの部屋で待っていたのだが、自分を呼ぶ声が聞こえ、部屋を抜け出し、一人でこの第二病棟へやって来たのだ。

 

《――理沙》

 

 また、頭の中に響く声。

 

 若い女性の声だ。知らない声なら無視したかもしれない。しかしその声は、聞き慣れた、親しみのある声だった。だから、放っておくことはできなかった。危険だと判っていても、声の主を探さずにはいられなかった。

 

「……お姉ちゃん?」

 

 ライトで廊下の奥を照らし、呼びかける。

 

 そう。この声は、間違いなく、理沙の双子の姉、美奈の声だ。昨日の夜からずっと行方不明になっている美奈。その美奈が、この病院にいる。あたしを呼んでいる。

 

 この声は、美奈が直接あたしの頭の中に呼びかけているのだ――理沙は、そう思っていた。驚きはしなかった。いま、村では原因不明の怪現象が起こっている。幻視や治癒能力の向上と言った特殊能力が宿っているのだから、テレパシーのような能力が使えても不思議はない。

 

 それに、そもそも美奈と理沙の二人には、子供の頃からこういった不思議な能力があった。

 

 例えば、美奈が転んでひざにケガをすると、理沙も同じ場所が痛んだりする。

 

 例えば、理沙が街で迷子になっても、誰よりも早く美奈が見つけてくれる。

 

 例えば、理沙が好きになった人は、美奈も好きになってしまう。

 

 大人になるにつれ、このような現象は少なくなったが、完全に無くなったわけではなかった。理沙は、高校卒業後村を離れ、東京で暮らしていたが、ふと、美奈のことが気になり、電話をすると、風邪をひいて寝込んでいたということがあった。逆のこともある。理沙が仕事先の人間関係で悩み、落ち込んでいると、美奈から電話があり、話を聞いてくれた。美奈と理沙は元々もひとつの存在であり、双子として産まれ、育った今でも、言葉では説明できない不思議な感覚で繋がっている――理沙は、そう思っていた。

 

 だから。

 

《――理沙》

 

 また、声がした。

 

 美奈はこの病院にいる。あたしを呼んでいる。

 

 あたしを、必要としている。

 

 そう、確信していた。

 

「お姉ちゃん?」

 

 もう一度、廊下の奥の闇に向かって声をかけた。

 

「……理沙」

 

 声が聞こえた。

 

 今度は、頭の中ではなく、ちゃんと、耳で聞こえた。

 

 闇の中に、人の気配がする。

 

 理沙は、足元を照らしていたライトを、少しずつ廊下の奥へ向ける。

 

 誰かの足が見えた。

 

 細い足だった。女性のものだ。床には割れたガラスの欠片や瓦礫が散乱しているのに、裸足だった。

 

 足が一歩、こちら側に向かって、動いた。

 

 息を飲む理沙。

 

 その肌の色は、どす黒い、血の気を失った、死体のような色をしていた。すでに、何度も見た肌の色だった。

 

「……理沙」

 

 名を呼び、また一歩、近づいてくる。

 

 ライトを上げる。看護師の服を着ていた。だが、それは白衣とは呼べそうになかった。泥と血が混じったようなシミがいたるところにあり、黒ずんでいる。胸に、ネームプレートが見えた。『恩田美奈』と書かれてあった。

 

「理沙」

 

 さらに一歩、近づいてくる。

 

 理沙の肺が、酸素を求めて激しく動く。呼吸が、少しずつ荒くなる。これ以上は見たくない。知りたくない。すぐに背を向け、逃げ出せば、何も見ず、何も知らずにいられるだろう。それが最善の選択のように思える。

 

 だが、ライトを上げる手を止めることはできない。姉がそこにいる。それを確認しなければいけない。たとえ変わり果てた姿になっていたとしても、それを認めるのが怖くてしょうがないとしても。

 

 ライトが闇を照らす。闇に、顔が浮かび上がる。

 

 息を飲む理沙。

 

 浮かびあがった姉の顔は、姉ではなかった。

 

 屍人と同じ、生気を失った肌の色。だがその顔は、もはや人のものではなかった。かろうじて人の形を成しているのは輪郭と口だけで、額と思われる部分から、長いこぶのようなものがいくつもぶら下がっていた。目と鼻は、そのこぶの中に埋もれていた。親でさえ、その醜い姿を娘だと思わないかもしれない。

 

 だが、双子の妹である理沙には、判る。

 

 あの醜い化物が、姉の変わり果てた姿だと、判る。

 

 だから、叫んだ。

 

 恐怖ではない。

 

 姉が、もう姉ではなくなった現実を、受け止めたくなくて。

 

 ただ、叫んだ。

 

 叫ぶことで、目の前の姉を、この現実を、否定することができると信じて。

 

 だが、もちろん、叫ぶことでは何も変わらない。

 

 それでも理沙は、叫んで、叫んで、叫び続けて。

 

《――理沙》

 

 また、頭の中に声が響いた。逃げて、と、言われた気がした。いや、違う。こっちへ来て、と言ったのか? 判らない。美奈は近づいてくる。逃げろと言っている。こっちへ来てと言っている。判らない。どっちが姉の言葉だ。姉は何を言っているんだ。判らない。双子なのに、姉の気持ちが判らない。

 

 それで理沙は、悟った。

 

 目の前の姉は、もう、姉ではないのだと。

 

 もう、美奈とは、繋がっていないのだと。

 

 もう、双子では、なくなったのだと。

 

 理沙は振り返り、走った。

 

 あれはもう、姉ではない。

 

 屍人だ。

 

 だから、逃れるために、走った。

 

 右側の壁に扉がある。北の第一病棟に通じており、診察室に宮田先生と牧野求導師がいる。知らせなければ。病院内に、屍人が侵入したことを

 

 だが、ドアが開かない。さっき理沙が通った時は開いたのに。

 

 屍人が近づいてくる。

 

 何度ドアノブを回しても開かなかった。周囲を見回す。ドアの反対側に階段があった。駆け上がる。二階の北側の壁にもドアがあり、そこからも第一病棟に行けるはずだが、そのドアも開かなかった。屍人が階段を上がる足音が聞こえる。近づいてくる。この宮田医院の建物は二階建てだ。二階の廊下を逃げるしかない。だが、廊下を少し進んだところで防火扉が下ろされており、閉ざされていた。ノブを回すとわずかに十センチほど開いたが、壊れているのか、それ以上は開かない。これでは通れない。

 

「――理沙」

 

 屍人の声が耳に届いた。振り返る。屍人が迫っている。

 

 扉に体当たりをする理沙。わずかに扉が動いた。何度か肩を打ちつけると、隙間は三十センチほどに広がった。これなら通れるかもしれない。理沙は、隙間に身体を滑り込ませた。少し引っかかったが、なんとか通り抜けることができた。

 

 だが、奥へ逃げようとして立ち止まる。この先にも気配を感じる。屍人がいる。逃げられない。

 

 どん! 背後の防火扉が叩かれた。扉の隙間から、ナース服を着た屍人の醜い顔が見えた。こちらへ来ようとしている。隙間を通り抜けようとしている。認めたくはないが、元は双子の姉だ。自分が通り抜けられたのだから、姉にも通り抜けられるだろう。逃げ場はない。そう思った。

 

 だが。

 

 姉は、扉の隙間を通り抜けられないでいた。

 

 何度も体をよじるが、顔がこちら側に来ただけで、身体は向こう側だ。

 

 やがて屍人は顔をひっこめた。諦めたのか、気配が遠ざかり、階段を下りる足音が聞こえる。一階へ下りて行ったようだ。

 

 助かった――安堵の息を吐く理沙。だが、なぜ自分が通れた隙間を、あの屍人は通れなかったのだろう? 考える。もしかしたら、姉は太ったのかもしれない。そう言えば、ずっと仕事先での人間関係がうまく行かず、悩み、食欲が減退していた理沙に対し、美奈は、職場で好きな人ができたとかで、かなり幸せそうだった。その差が出たのかもしれない。

 

 背後の脅威はひとまず去ったが、前方の脅威は去っていない。複数の気配を感じる。屍人がいる。目を閉じ、幻視を行った。すぐに、人ではない者の視点が見つかった。だが、これは屍人なのか? 疑問が湧く。視点は異常に低く、床のすれすれにある。どうやら、四つん這いで歩いているようである。ときどき視界の隅に左右の手――というよりは、前足と呼ぶべきか――が映るが、鍵爪のように細長く伸び、床を引っ掻くように歩いている。呼吸は荒い。屍人のような獣の呼吸ではなく、笛を吹いているような高い呼吸音だ。

 

 その視界に、若い女性の姿が映った。

 

 同時に、身体が大きく震える。

 

 目を開ける理沙。廊下の奥に、四つん這いの格好で素早くこちらに向かって来る屍人の姿が見えた。いや、本当に屍人なのかは判らない。服を着て、かろうじて人の姿をしているものの、顔中に細く短い毛が生え、かつて目があったと思われる場所には黒く濁った半球体が飛び出しており、その周りにも、小さな半球体がいくつもくっついている。鼻は無くなり、口があったと思われる場所には、鎌のような二つの触覚が飛び出していた。その姿は、どこか蜘蛛を想像させる。

 

 蜘蛛の姿をした屍人は、耳障りな金切り声をあげると、さらに近づいてくる。逃げなければ。だが、後ろには姉の屍人がいる。周囲を見回し、近くにあったドアを開け、中に入った。入院患者の部屋のようだ。蜘蛛屍人は近づいてくる。反射的にドアを閉めた。鍵を閉めれば知能の低い屍人には開けられないかもしれない。が、病室であるためか、中から閉める鍵は無かった。部屋を見回す。廊下同様荒れ果てた部屋の中にはベッドが一台あるだけだ。病院のベッドなので高さがあり、下に潜り込んでもまる見えだ。隠れる場所はない。逃げ場は無くなった。どん、と、ドアが叩かれる。少でも屍人から遠ざかるため、奥へ逃げる理沙。窓があった。ここは二階だ。飛び降りられない高さではない。頭から落ちさえしなければ死ぬことはないだろうし、骨折くらいならすぐに治るはずだ。理沙は、決意して窓を開けた。だが、眼下に猟銃を持った屍人の姿が見えた。ダメだ。飛び降りることもできない。

 

 ドアは、どんどんと叩かれる。どうすることもできない理沙。

 

 しかし。

 

 それ以上のことは起こらない。

 

 ただ、ドアが叩かれる。それだけだった。

 

 やがて、ドアは静かになった。幻視を行うと、蜘蛛型屍人は廊下の奥へと歩いていた。諦めたのだろうか? ドアに鍵はかけていない。ノブをひねれば、簡単に開くはずである。屍人の知能は低いが、ドアを開けられないほどではないはずだ。実際、屍人がドアを開ける所は何度も見た。考えられることは、あの蜘蛛のような屍人は、人型の屍人よりもさらに知能が低いということだ。なぜあのような姿に変貌したのかは謎だったが、ひとまず助かった。

 

 しかし、まだ安心はできない。再び幻視を行う。廊下には二体の蜘蛛型屍人がいた。一階には美奈の屍人がいる。中庭や裏庭にも何人かの屍人を見つけたが、幸い、北の第一病棟にはまだ侵入していないようである。宮田先生と牧野求導師は、第一病棟一階の診察室にいる。幻視で様子を探る。村で起こった怪異について話し合っており、屍人の侵入には気付いていないようだった。早く知らせないと。理沙は幻視越しに先生に呼びかけたが、その声は届かない。残念ながら、幻視は相手の声を聞くことはできるが、こちらの声は届かないのだ。先生達の方から自分を幻視してくれればいいのだが、真剣な表情で話し合っており、期待できそうにない。直接診察室へ行くしかないだろう。

 

 この宮田医院は、北の第一病棟と南の第二病棟に分かれており、東西二ヶ所の渡り廊下で結ばれている。この第二病棟の二階からも第一病棟へ行くことは可能だが、西の渡り廊下はドアに鍵がかけられていて開かなかったし、美奈の屍人が今も近くを徘徊している。東の渡り廊下の扉は開け放たれていたが、二体の蜘蛛型屍人が巡回している。これでは身動きが取れない。なんとかしなければ。理沙は、蜘蛛型屍人を幻視し続ける。しばらく様子を探っていると、だんだんと屍人の行動パターンが判ってきた。この第二病棟二階には三つの部屋があり、理沙を襲おうとした蜘蛛型屍人は、理沙の隣の部屋の前に立ち、前後を振り返りながら警戒している。もう一体の蜘蛛型屍人は、理沙がいるこの部屋の前から、二つ奥の部屋までを何度も往復している。廊下を進むのは無理そうだった。やはり、窓から飛び降りるしかないのか。もう一度窓の外を見る。猟銃を持った屍人は建物に背を向けて外を見張っている。頭上には注意してないが、飛び降りたらさすがに気付かれるだろう。飛び降りても死ぬような高さではないが、すぐに走り去ることができるとも思えない。逃げる前に撃ち殺されてしまうだろう。いったい、どうすればいいのか。

 

 ――あれ?

 

 理沙は、窓の外のすぐ下に、三十センチほどの幅でコンクリートの(はり)が飛び出しているのを見つけた。少し狭いが、十分な足場になりそうだ。足場は病棟外壁の左右に渡っており、伝って行けば、隣の部屋、さらにその隣の部屋まで行けそうだった。これは使えそうだ。この足場を伝ってふたつ隣の部屋まで行けば、後は蜘蛛型屍人の隙をついて渡り廊下に出て、第一病棟へ行くことができる。窓の下の猟銃屍人は頭上の警戒はしていない。よし。理沙は窓を開け、慎重に足場に下りた。壁にピッタリと背をつけ、横歩きでゆっくりと進んで行く。隣の部屋の窓の前を通り抜け、さらに奥へ進む。一番奥の部屋の窓は開け放たれていた。中に入ろうと窓枠に手を掛ける理沙。

 

「――――!」

 

 思わず声を上げそうになり、慌てて手で口を塞いだ。

 

 部屋の中に蜘蛛型屍人の姿があったのだ。幸い背を向けており、気付かれることはなかったが、驚いて危うく落ちるところだった。危なかった。足場を渡るのに夢中で油断していた。気を付けないと。幻視で部屋の中の様子を探る。部屋のドアは開け放たれており、蜘蛛型屍人でも中に入ることができたようである。蜘蛛型屍人はしばらく部屋の中を見回していたが、やがて廊下に出て、巡回に戻った。今度こそ大丈夫だ。理沙は窓枠を乗り越えて中に入った。蜘蛛型屍人はまだ近くにいるはずなので、少し様子を窺うことにした。入口のドアを閉める。これで蜘蛛型屍人は入って来られないはずだし、恐らく開いていたドアが閉まっていることにも疑問を抱かないだろう。

 

 部屋を見回す。さっきまで隠れていた部屋と同じ、入院患者の部屋だ。パイプ式のベッドが一台置いてあるだけだ。ベッドには汚れたシーツがかけられてあり、その中央が少し膨らんでいる。下に何かあるようだが、理沙は特に気にすることなく、廊下の屍人の様子を探ろうとした。

 

 その時。

 

 ガタガタと音をたて、ベッドが揺れた。

 

 驚いてベッドを見る理沙。

 

 シーツが、中央の膨らみを中心に、大きく波打っていた。

 

 その動きに合わせ、ベッドが揺れている。

 

 シーツの下で、何かがうごめいている。

 

 不思議と、恐怖は感じなかった。すでに何度も化物に襲われ、恐怖の感覚が麻痺し、今さらその程度では驚かない……というのもあるが、理沙は、そのうごめく者に、温もりのようなものを感じていた。ドクンドクンと、脈動している。それは、心臓の動きに似ていた。理沙の感じている温もりは、生命の鼓動のようなものかもしれない。

 

 理沙は、誘われるようにベッドに近づき、そっと、シーツを取った。

 

 だが――。

 

 ベッドの上に、動くものは何もなかった。

 

 そこにあったのは、木彫りの彫像だった。木の板の表面を削り、浮き彫り細工をほどこした物。レリーフと呼ばれる美術品だ。

 

 レリーフには、二人の人物が浮き彫りにされていた。一人は剣を、もう一人は盾を持っている。

 

 理沙は、その美しさに思わず息を飲んだ。美術品としての美しさではない。浮き彫りにされた男の美しさに目を奪われたのだ。いや、その人物を男性だと思ったのは、理沙が女性であったからかもしれない。男性が見れば、きっとこの人物は女性に見えるだろう。見た者すべてを魅了する――そんな、妖しげな美しさを持った人物だ。

 

 天使――。

 

 そう思った。これは、天使のレリーフだ。

 

 理沙は、しばしその美しさに見とれる。

 

 が、屍人の甲高い唸り声を聞き、我に返った。美術品に見とれている場合ではない。それに、これ以上このレリーフを見ていたら、心まで奪われてしまいそうだった。理沙はレリーフをベッドの上に戻し、シーツを掛け直した。

 

 もう一度幻視をして、廊下の様子を探る。ちょうど、巡回している蜘蛛型屍人が部屋の前を通り過ぎ、西側へ向かったところだった。今がチャンスだ。後は、隣の部屋の前に立っているもう一体の蜘蛛型屍人の隙を突いて渡り廊下へ行くだけだ。視点を切り替える。様子を探り、屍人の視点が理沙の部屋の扉から離れた瞬間、ドアを開け、素早く廊下を走り抜けた。渡り廊下に出る。うまく行った。そのまま渡り廊下を走り抜け、北の第一病棟へ入った。こちらの建物内に屍人はいない。診察室にいる宮田先生の所へ向かうだけである。理沙は、急いで階段を下りた。しかし。

 

 ――そんな!?

 

 階段を下りたところで、理沙は立ち尽くす。

 

 診療室へと向かう廊下は防火扉が下ろされてあった。鍵がかけられてあるのか、押しても引いてもビクともしない。これでは診察室へ行けない。ここまで来たのに引き返すしかないのだろうか? だが、他に診察室へ向かう方法があるだろうか? 思いつかない。どこもドアに鍵がかけられていたし、屍人がうろついている。でも考えろ。何か、先生に危険を知らせる方法はないか……。

 

 防火扉のそばの壁に、火災報知機が設置されてある。

 

 ――これだ!!

 

 理沙はボタンを押した。けたたましい警報音が病院中に鳴り響く。

 

 幻視を行う。異変に気付いた宮田先生が、廊下に飛び出す姿が見えた。牧野求導師もその後に続く。

 

 ――良かった……これで、先生が助けに来てくれる……。

 

 理沙は、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十話 宮田司郎 宮田医院/第一病棟一階廊下 初日/二十三時〇三分四十八秒

 宮田司郎は病棟一階の廊下を走っていた。先ほど、院内に火災報知機の警報が鳴り響いた。恩田理沙が鳴らしたのだろう。恐らく屍人が侵入したのだ。宮田は求導師の牧野慶と手分けして理沙を探したが、運が悪いというべきか、先に理沙を見つけたのは牧野だった。

 

 廊下を走る宮田。階段の手前に三つの人影が見える。牧野慶と恩田理沙、そして、もう一人は、ナース服を着た屍人だ。いや、それが屍人なのかどうかは宮田にも判らない。身体は人の姿を保っているが、顔は醜く変貌している。額から垂れ下がるいくつもの大きなこぶに、目も鼻も埋もれている。化物と呼ぶしかない姿だ。

 

 屍人は右手に大きなシャベルを持ち、牧野の方へ近づいていく。牧野も鉄パイプのようなものを持ち、構えているが、その手は震えている。腰も引けており、遠目にも怯えていることが判る。あれでは戦うことなど不可能だろう。

 

「お姉ちゃん、やめて!!」

 

 理沙が、祈るように叫んだ。

 

 ――お姉ちゃん、だと?

 

 宮田は思わず足を止めてしまう。あの醜い化物が、美奈だというのか。

 

 屍人の顔が、牧野から理沙に向く。ゆっくりと近づいていく。まるで、理沙のことを求めているかのように。

 

 理沙は――そして牧野も――脅え、震えることしかできない。

 

 宮田は走った。白衣のポケットの中から透明の液体が入った小瓶を取り出し、それを、屍人に投げつけた。瓶が割れ、中の液体が屍人の全身にかかる。

 

 屍人が悲鳴を上げた。液体を浴びた場所が、まるで炎にさらされたかのように焼け爛れていく。液体は、高濃度の硫酸だった。治癒能力の高い屍人にはそれほど効果はないだろうが、とりあえず撃退するには十分だろう。思った通り、屍人は耳障りな金切り声で叫びながら、階段を上がって逃げて行った。

 

 牧野が鉄パイプを下ろし、宮田を見た。「宮田さん……すみません」

 

「仕方ないですよ。牧野さんは、こういうことに慣れてないでしょうから」

 

 皮肉を込めたつもりだったが、牧野には通じなかった。「ありがとうございます」と、頭を下げる牧野。まあ、理沙を置いて逃げ出さなかっただけ上出来だろう。

 

「先生! お姉ちゃんが!!」理沙が宮田の腕にすがりついた。

 

「あれは、やはり美奈さんなんですね?」宮田はできるだけ優しく訊いた。

 

「はい……あたし、お姉ちゃんに呼ばれてる気がして……お姉ちゃんが病院に来てる気がして、探してたら……あんな姿に……」

 

 理沙の声は嗚咽に変わる。そのまま宮田の胸に顔をうずめ、泣き崩れた。

 

 優しい言葉を掛けてあげるべきかと思ったが、自分にそんな資格はないだろう。宮田は理沙の肩に手を置き、

 

「牧野さん。理沙さんを頼みます」

 

 冷たく引き離すように、理沙を牧野に預けた。

 

 牧野は困惑の目を向ける。「どうするのですか?」

 

「後を追ってみます。二人は、診察室に戻っていてください」

 

 短く言って、階段を上った。

 

「あ、先生――」

 

 理沙が呼び止める。

 

 振り返る宮田。

 

「お姉ちゃんを……美奈を、助けてあげてください」

 

 理沙は、深く頭を下げた。

 

 助けてあげる――不可能だと思った。屍人を元の人間に戻すことはできない。それは、死者をよみがえらすようなものだ。神にしかできないだろう。いや、神が死者をよみがえらせた姿が屍人なのかもしれない。その神秘的な領域に、人踏み込めるはずがない。

 

 だが、恐らく理沙にもそれが判っているのだろう。

 

 顔を上げた理沙の目には、強い覚悟が表れていた。

 

 助ける、とは、美奈を元の人間に戻すことではない。

 

 美奈を、今の苦しみから解放することだ――そう思った。

 

「――判っています」

 

 理沙の目を真っ直ぐに見て、宮田は力強く答えた。

 

 階段を上る。

 

 美奈を人間に戻すことはできないが、美奈を苦しみから解放することはできるかもしれない。

 

 そして、それができるのであれば、自分がしなければいけないとも思う。

 

 美奈があのような姿になってしまったのは、自分に責任があるのだから。

 

 宮田は、自分の両手を見た。

 

 美奈の首を締めた感覚は、今もこの手のひらに残っている。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十一話 前田知子 蛇ノ塚/県道333号線 初日/二十一時二十七分十三秒

 前田知子は蛭ノ塚の県道333号線を、一人、とぼとぼと歩いていた。両親とは、まだ再会できていない。水蛭子神社から脱出した後、教会がある刈割へと向かおうとしたのだが、村中どこも屍人が溢れており、見つからないように迂回したり、隠れたり、逃げたりしているうちに、結局また蛭ノ塚に戻って来てしまったのである。陽はかなり前に落ち、辺りは真っ暗だ。知子はライトで足元を照らしながら、県道を南へ向かって歩く。この先には眞魚川に架かる橋がある。昼間、求導師の牧野慶と一緒に、海へ身を沈める屍人たちを見た場所だ。あの時は橋が崩れ落ちていたためすぐにその場を離れたが、もしかしたら、どこか通れる場所があったのかもしれない。知子はライトで周囲を照らしながら、慎重に進んで行った。

 

 と、ライトの明かりが、道の真ん中に置かれている何かを照らした。

 

 最初はそれが何であるか判らなかったが、近づくにつれ、だんだんと見えてくる。人だった。男性のようである。白髪頭。老人のようだ。倒れている。ピクリとも動かない。酔っぱらって、道の真ん中で眠ってしまったのだろうか? そんなはずはない。老人の顔が、ハッキリと見えた。目は皿のように大きく開かれているが、その瞳は虚空を見つめている。頭の周りには黒に近い赤の液体が広がっている。血のようだ。頭を銃で撃たれ、死んだように見えた。

 

 知子は倒れた男に背を向け、走った。しばらく走って、足がもつれ、赤い雨でぬかるんだ砂利道に転んだ。泥水に埋もれる。起き上がろうとしたが、できなかった。足が震えている。恐ろしい。道の真ん中に、頭を撃たれて死んだ人がいる。しかも、その人の顔には見覚えがあった。合石岳の麓で一人暮らしをしている猟師・志村晃さんだ。無口な老人で、あまり村の人と関わることがなく、道ですれ違ったらあいさつするくらいで、それすらも月に一回あるかどうかという程度だった。親しい間柄ではない。だが、それでも同じ村に暮らす人であることに変わりはない。昨日までは、あの人も平和な村でひっそりと生きていたはずだ。それなのに、銃で撃たれて命を落としてしまった。なぜ、村はこんな恐ろしい所になってしまったのだろう。お父さんとお母さんに会いたい。優しかった両親の笑顔を思い浮かべる。しかし、それが志村さんの死に顔と重なった。お父さんとお母さんも、銃で撃たれ、どこかに倒れているのだろうか? いずれは、あたしも……。

 

 涙が溢れ出す。

 

 怖い。

 

 寂しい。

 

 会いたい。

 

 様々な感情が混じった涙だった。

 

 ぬかるみを踏む音が聞こえた。

 

 誰か来る。屍人か? 顔を上げる。

 

 目に入ったのは、赤い修道服。

 

 この村でその修道服を着ることが許されているのは、一人しかいない。求導女の八尾比沙子だ。

 

「――知子ちゃん。良かった。無事だったのね」

 

 比沙子は優しく微笑んだ。慈愛に満ちた笑顔――求導女の比沙子は、村の人からよくそう呼ばれているが、今日ほどそれを強く感じたことはない。

 

「求導女様!!」

 

 知子は比沙子の胸に顔をうずめ、泣いた。

 

 ずっと一人で怖かった。寂しかった。不安だった。

 

 いろいろな想いが込み上げ、泣いた。

 

 比沙子は知子の想いを受け止めるかのように、優しく抱きしめてくれる。

 

「もう、大丈夫よ。よく頑張ったわね」温かい手が、知子の頭をなでた。「お父さんもお母さんも、無事よ」

 

 知子は顔を上げた。「ほんとう?」

 

「ええ。二人とも、教会で待っているわ。さあ、行きましょう」

 

「――はい!」

 

 知子は、大きく頷いた。

 

 もう、あたしは一人じゃない。

 

 もうすぐお父さんとお母さんに会える。

 

 会って、昨日のことを謝ることができる。

 

 これからは、ずっと、一緒にいられる。

 

 知子は、この日初めて、心の底から笑顔を作ることができた。

 

「さあ、知子ちゃん。こっちよ――」

 

 比沙子が、知子の手を取る。

 

 ――お父さん、お母さん。待ってて。すぐに行くからね。

 

 知子は比沙子に連れられ、闇へ消えた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十二話 美浜奈保子 羽生蛇村小学校折部分校/体育館 初日/二十二時十一分〇八秒

 美浜奈保子は体育館内の光景に驚き、呆然と立ち尽くしていた。避難して来た村人が不安と恐怖に震えている――そんな姿を想像し、この羽生蛇村小学校の体育館を訪れたのだが、中に人の姿はなかった。それだけなら別の場所に避難したと思うところだが、体育館内は、壁や扉、天井など、いたるところに鋼鉄のワイヤーロープのようなものが張り巡らされてあり、ちょっと正常な状態とは思えなかった。誰が、なんのためにこんなことをしたのだろう。判るはずもない。だが、とにかくカメラを回さなければ。奈保子はポーチからビデオカメラを取り出し、録画ボタンを押した。

 

「現在、夜の十時十二分。羽生蛇村小学校の体育館と思われる建物内に入りました。村の人たちが避難しているかと思ったのですが――見てください。体育館中に、ワイヤーロープのようなものが張り巡らされて言います。いったいどういうことなのでしょう? 誰が、なんのために、こんなことをしたのでしょう? 調べてみます」

 

 カメラを構えたまま、ワイヤーが張り巡らされている壁に、ゆっくりと近づいていく。

 

 びくん、と、身体が震え、一瞬、カメラを構える自分の姿が見えた。

 

 すでに何度も体験している現象だった。他人の視界が見える特殊能力である。村を徘徊しているゾンビのような化物に見つかったのだ。ああ、もう! カメラをポーチに収め、身構える奈保子。化物の気配を探る。正面から近づいてくるようだ。数は二つ。恐らく銃は持っていないだろう。ならば、こちらも銃を使うまでもない。護身術で撃退できるだろう。奈保子は冷静に状況を分析し、闇から化物が姿を現すのを待った。ここに来るまで何度もあの化物に襲われている。拳銃や猟銃で武装している化物にも何度も襲われた。だから、体育館内に屍人がいても、もう驚くことはなかったのだが。

 

 ――って、何、あれ?

 

 闇の中から現れた化物の姿を見て、奈保子は後退りする。現れた化物は、四つん這いでこちらに向かって来ていた。一見すると人の姿をしているが、顔は短い毛に覆われ、大小さまざまな大きさの黒い眼球があり、口からは牙のようなものも生えている。手足の先は長く鍵爪のようになっており、クモを思わせるような化物だ。

 

 クモの化物は右の鍵爪を振り上げて奈保子に襲い掛かる。一瞬驚きはしたが、すぐに冷静さを取り戻した奈保子は、半歩身を引いてその一撃をかわすと、左足で相手の顎を蹴り上げた。のけ反るクモ男。軸足を変え、今度は側頭部に右の回し蹴りを叩き込む。クモ男は耳障りな金切り声を上げると、そのまま動かなくなった。続けてもう一体がこちらに向かって来る。奈保子の前で大きく跳躍し、跳びかかってきた。奈保子は慌てない。跳びかかってきた相手の襟を取ると、身体を反転させ、相手の勢いを利用して背負い投げの要領で床に叩きつけた。悲鳴を上げることもなく動かなくなるクモ男。

 

 ふう。軽く息を付く。初めて遭遇する化物だったが、問題なく撃退することができた。今までの人型の化物と比べて身体能力は上がっているようだが、それでも数が少なければ銃を使うまでもないだろう。鉱山の倉庫で拳銃と大量の銃弾を確保していた奈保子だったが、ここに来るまでにかなりの量を使ってしまい、もう弾は二十発ほどしか残っていなかった。補充できる見込みは今のところない。襲ってくる化物はなるべく護身術で撃退し、銃はいざという時のためにとっておかなければならない。

 

 また、身体が震えた。まだいるの? 身構える奈保子。闇の中に、ひとつ、ふたつ、みっつ、と、気配が増えていき――。

 

 ……ちょっとちょっと、いったい、何人いるのよ?

 

 いつの間にか、目の前には数十体のクモ男が忍び寄って来ていた。ダメだこりゃ。さすがにこの数を素手で相手するのはムリだ。銃を使うのももったいない。一人一発で倒せたとしても、銃弾は尽きてしまう。

 

 先頭の一体が跳びかかってくる。

 

 奈保子はくるりと背を向け、走り出した。

 

 それを合図にしたかのように、数十体のクモ男は、一斉に奈保子に襲い掛かってくる。

 

 ――ああ! もう! 何なのよこの村は!! これだから田舎はキライなのよ!!

 

 心の中で悪態をつきながら、奈保子は走る。

 

 

 

 

 

 

 二十七年前に消えたはずの三隅鉱山のトンネルを通り、二十時間以上迷い続けた合石岳を抜け出した奈保子。山を下り、村へ向かおうとしたが、道中も血の涙を流す化物でいっぱいだった。戦ったり逃げたりを繰り返し、ようやく学校らしき場所にたどり着いた。古い木造建ての校舎と体育館があるだけの小さな小学校だったが、村人たちが避難している可能性が高いと思われた。さっそく取材をするために中に入ろうとしたのだが、校舎の入口は堅く閉ざされていた。単に鍵がかけられているというだけではない。内側から多数の板が釘で張り付けられてあり、完全に封鎖されているのである。玄関だけでなく、全ての窓にも同様に板が打ち付けられていた。その時点でイヤな予感がしたのだが、もしかしたら、避難した村人が化物の侵入を阻止するためにやったとも考えられる。奈保子は学校中の出入口を探り、体育館の裏口が開いているのを見つけ、入ることができた。ようやくまともな人に会うことができる――淡い期待は見事に裏切られ、進化した蜘蛛型の化物と戦うハメになったのである。

 

 

 

 

 

 

 クモ男から逃げる奈保子は、校舎へと続くと思われるドアを見つけた。素早く外に出て扉を閉ざす。細い渡り廊下だ。よし。ここなら、一斉に襲われることはないだろう。一体一体相手にしていけば、何とかなるかもしれない。奈保子は身構えた。

 

 しかし。

 

 ――なにしてんだ。早く来いよ。

 

 ドアがどんどん叩かれるが、クモ男がドアを開ける気配は無かった。やがて、ドアは静かになった。視界をジャックする能力で体育館の中の様子を探る。ドアを叩くのをやめたクモ男は、まさにクモの子を散らすように元いた場所に戻って行った。ドアを開けることができないのだろうか? 山で遭った人型の化物は、知能は低そうだったがドアを開けることはできた。クモ男は人型のヤツよりもさらに知能が低いのかもしれない。なんにしても助かった。ホッと胸をなでおろす奈保子だったが。

 

 ……でもコレ、どうやって脱出すればいいんだろ?

 

 化物が徘徊している以上、もうこの学校に用はない。一刻も早く立ち去りたいところだが、入って来た体育館の裏口付近にはたくさんのクモ男が待機している。数が多く、見つからずにドアまで行くのは不可能だろう。校舎の方へ行くしかない。さっき外から調べた限りどこも開いていなかったが、内側からなら開けられるかもしれない。奈保子は、校舎へと向かった。

 

 校舎もまた体育館と同じく異様な雰囲気だった。全ての窓に板が張り付けられ閉ざされている上に、廊下には、机や椅子、跳び箱やマットなどが積み上げられ、それに鋼鉄のワイヤーロープのようなものを巻きつけたバリケードで封鎖されていた。何のためにこんなことをしているのだろう? 想像もつかない。まあ、化物のやることなど気にしても仕方がない。奈保子は脱出できそうな場所がないか探す。体育館の出入口の正面は職員室で、そのすぐ隣に玄関があったが、板が張り付けられてあり、奈保子の力で剥がすことはできない。玄関の隣は教室だが、そこの窓も同じだった。廊下はバリケードで閉ざされており、奥に進むことはできない。だが、幸い教室内はドアで繋がっており、隣の教室へは移動することができた。そこを通ればバリケードの向こう側へも行くことができが、恐らくあの化物どもがいるのだろう。視界ジャックの能力を使い、廊下の様子を探る。一体クモ男の気配を見つけた。なんと、鍵爪を使って天井に張り付き、教室の出入口を見張っている。ホントにクモみたいだな。どうしよう? クモ男はじっと出入口を見張っており、目を離しそうにない。戦うしかないか。覚悟を決め、そっとドアを開けた。そのまま待ち伏せする。クモ男が様子を見るために中に入ってきたところを一撃で仕留めるつもりだった。

 

 だが、クモ男はじっと扉を見つめたまま動かない。逆に待ち伏せするつもりか? やっかいだな。仕方がない。奈保子は、しゃがみ歩きで静かに外に出た。天井を見上げる。いた。じっと、こちらを見ている。しかし、それでもクモ男は動かなかった。ただじっと、様子を探るようにこちらを見ているだけだ。どういうことだ? 明らかに目が合っているのに、襲い掛かって来ない。ひょっとして、目が悪いのだろうか? あり得ることだった。クモは目がほとんど見えない動物で、獲物の捕獲は、空気の動きを体毛で感知するなど、触感に頼っているという話を聞いたことがある。恐らく、こちらの存在を認識してはいるものの、距離があるため、仲間なのか敵なのかの判断がつかないのだろう。なら、あえてこちらから手を出す必要もない。奈保子はそっとその場を離れた。クモ男は、結局動かなかった。

 

 一階の一番奥までやって来た。二階へ続く階段と、その正面にトイレがある。残念ながらトイレの窓も塞がれているため脱出はできない。階段の横には小さなドアがあった。倉庫のようだが、ドアに鍵がかけられてあり、中に入ることができなかった。

 

 これで、一階はすべてチェックした。脱出する場所はない。二階へ行くしかなさそうだった。もしかしたら非常階段や救助用シュートがあるかもしれないし、最悪の場合窓から飛び降りることもできるだろう。視界ジャックで二階の様子を探ってみる。三体の化物の気配を見つけた。そのうち二体はクモ男だが、残る一体は人型の化物のようだ。二足歩行で、左手にライト、右手にバットを持っている。だが、どうもこれまでのヤツとは違うような気がする。何やらほわんほわんと電波のようなものを飛ばしている雰囲気だ。さらには、「はるみちゃああぁぁん。どこにいったのかなあぁぁ。せんせい、さみしいよおぉぉ」と、場所が小学校であることを考えると変態としか思えないことをつぶやいている。できればお近づきになりたくないが、行かないわけにもいかない。萎えそうになる気持ちを奮い立たせ、奈保子は階段を上がった。

 

 二階の廊下にバリケードは無かった。クモ男二体は廊下を徘徊しており、変態男は教室にいるようである。二階には三つの教室があるようだが、どこの教室にいるのかまでは判らない。ヤツらに見つからずに調査するのは不可能だろう。今度こそ戦うしかない。まずは、どちらを相手にすべきか。廊下の二体のクモ男と、教室の変態男。散々迷った挙句、奈保子は教室へ向かうことにした。変態とは言え一対一の方が戦いやすい……と思う。

 

 階段のすぐそばのドアを開け、教室へ入る。誰もいない。耳を澄ますと、隣の教室から、あのほあんほあんという音が聞こえて来た。変態男は隣にいるようだ。ひとまず放っておいて、教室内を調べてみる。だが、やはり窓には板が張り付けられていて、脱出できそうにない。

 

 この教室も、一階と同じく教室同士がドアで繋がっており、廊下へ出なくとも隣へ移動できるようだ。奈保子は隣へ繋がるドアの前に立つ。この向こうに変態男がいる。こちらの存在には気付いていないようだ。できれば気付かれる前に片づけたい。相手が扉に背を向けた瞬間踏み込んで、振り返る前に倒してしまおう。視界ジャックで様子を窺う。しばらくして、変態男の注意が廊下側へ向いた。今だ! 奈保子は隣の教室へ踏み込むと、一気に間合いを詰めた。気配を感じた変態男が振り返る。その側頭部に、右のハイキックを叩き込もうとして。

 

 ――え!?

 

 思わずためらい、足を止めてしまう。

 

 灰色の肌に血の涙を流す目――これが、いままで見た人型の化物の顔だ。

 

 だが、目の前の化物の顔は、肌の色こそ同じだが、目はなく、頭からタコの足のようなものがいくつも生え、うねうねとうねっていた。蹴るのをためらったのは、驚いたというよりは気持ち悪かったからだ。

 

 相手がバットを構えたので、一旦距離を離す奈保子。くそう。仕留めそこなった。タダでさえ気持ち悪いのに、正面から戦わなければいけない。

 

 が、奈保子の思いに反して、変態タコ男はくるりと奈保子に背を向ける。そのまま廊下側のドアを開けると、走って逃げて行った。

 

 ……何だったんだろう? 首を傾げる奈保子。ここまでたくさんの化物と戦って来たけど、逃げたヤツは初めてだな。なにより、あの頭は何だったんだ。触手が生えていたように見えたけど、教室内は暗いし、見えたのも一瞬だったから、ああいうカツラだったのかもしれない。

 

 まあ、何にしても余計な戦いをしないですんだのは良かった。奈保子は教室内を見回す。残念ながらこの教室の窓もすべて塞がれていた。これはダメかもしれない。二階の残る教室はひとつ、一番奥の教室である。残念ながらこの教室から直接つながっていないようなので、奈保子は視界ジャックの能力で廊下のクモ男の様子を探りながら、隙をついて後ろのドアから外に出て、一番奥の教室へ入った。

 

 一番奥の教室は図書室だった。沢山の本が入った本棚、そして、机といすが並んでいる。最後の教室だったが、奈保子の予想通り、ここも窓に板が打ち付けられていた。すぐに脱出できそうなところはない。ならば、危険を覚悟でクモ男が大量にいる体育館へ戻るか、板をはがす道具を探すかだろう。そういえば一階の階段のそばに小さな倉庫みたいなのがあった。鍵がかかっていたが、板は張り付けられていなかった。なんとかして入れないだろうか? 行ってみよう。移動しようとしたが、ふと、立ち止まる。

 

 ――そう言えば、羽生蛇村小学校って、二十七年前に行方不明になった吉川菜美子ちゃんが通ってた学校だよね?

 

 三隅鉱山の廃ビルでの出来事を思い出す。地下で見つけたランドセルの中に、図書室の貸し出しカードが入っていた。この村に小学校はひとつだけだから、ここで間違いないだろう。

 

 ――羽生蛇村小学校の図書室って、何か、怪談話があったような……?

 

 奈保子は、ダークネスJAPANの撮影前、村のことをネットで詳しく調べている。その中に、『羽生蛇村小学校七不思議』というのがあった。一階のトイレの一番奥には花子さんがいる、だの、深夜二時に玄関にある姿見の前に立つと未来の自分の姿が見える、など、どこの学校にもあるたわいのない怪談話だった。だから、あまり詳しくは調べなかったのだが、その中に、山で神隠しに遭った少女が、深夜、四つん這いの化物になって図書室に本を返しに来る、という話があったように思う。いま思えば、あれは吉川菜美子ちゃんのことではなかったのだろうか? さらに、四つん這いの化物なら、いままさに学校内をうろついている。絶対に何か関係がありそうだ。でも、怪談話の詳細は思い出せない。くそ。もっと、ちゃんと調べておくべきだった。

 

 奈保子はウエストポーチを開け、廃ビルから持ってきた貸し出しカードを取り出した。棚番号386、羽生蛇村民話集、とある。あまり期待はできないが、もしかしたら何か手がかりがあるかもしれない。奈保子は386番の棚を探した。

 

 ……384……385……386……コレだわ。

 

 奥の棚で目的の本を見つけた。本棚から取り出してみる。かなり傷んでおり、慎重に取り扱わないとすぐにバラバラになりそうだった。まあ、吉川菜美子が借りていたということは、少なくとも二十七年以上前からあったということだから、ボロボロなのも当然かもしれない。ページをめくる。タイトル通り、羽生蛇村に伝わる民話を集めた本だった。奈保子はその中から適当に一本選び、読んでみた。

 

 

 

 空から降ってきた魚

 

 むかしむかし、日照りが続き、ひどい飢饉が村を襲った。

 

 村の娘が飢えに苦しんでいると面妖な魚が空から降ってきた。娘がこらえきれずその魚を口にしたところ、たちまちに空が曇りて天から大きな音が鳴り響いた。

 

 娘は悔いて謝り、これから一匹ずつ魚を天に返すので許して欲しいと神に乞うた。

 

 

 

 コレは興味深い話だな。空から魚が降ってきた……ファフロツキーズ現象じゃないか。

 

 ファフロツキーズ現象とは、空から魚やカエルなどのあり得ない物が降ってくる怪現象である。最近になってネットなどを中心に話題なっているが、古くは千年以上も前の日本の文献にも同じような現象が記されている。原因は、竜巻によるものや、鳥が吐き出したもの、飛行機から落下したものなど、様々な説がある。それらで説明がつく事件もあればつかない事件もあり、大きな議論となりつつあるのだ。いずれダークネスJAPANでも取り上げるのではないかと思っていたところだ。村の民話集に登場するということは、昔この村で同じような現象が起こっていたのかもしれない。役に立つかもしれないから、念のため撮影しておこう。奈保子はポーチからカメラを取り出すと、民話集を読むシーンを撮影しておいた。

 

 他に面白い話はないかな? 奈保子はさらにページをめくる。

 

 ……うん? 永遠に若き女?

 

 気になるタイトルだった。自分がもうすぐ三十路を迎えるから、というのもあるが、お昼に合石岳で会った猟師から聞いた話を思い出したからだ。

 

 ――あの女のせいだ。昔と寸分に違わない姿……あれは……八百比丘尼(やおびくに)だ。

 

 八尾比丘尼――人魚の肉を食べ、八百歳まで生きた女の話だ。日本各地に伝わる伝承だが、この羽生蛇村には海が無い。人魚は、一体どこから出てきたのだろう? 気になった奈保子は、その話も読んでみることにした。

 

 

 

 永遠に若き女

 

 むかしむかし、村に年老いた女がいた。女は、若い頃は美しく、村の男たちを魅了していたが、年を負うごとに美しさは失われ、いつしか村の誰からも相手にされなくなっていた。

 

 ある日、女が水蛭子神社を訪れると、そばにある泉が赤く染まっていた。蛭子様が怪我をしたのかもしれない。驚いて赤い水を手ですくってみると、不思議なことに、年老いて皺だらけいた肌が、みるみる若い頃の艶めきを取り戻していく。喜んだ女は全身に赤い水を浴び、若い頃の姿を取り戻した。

 

 若さを取り戻した女は、村を離れ、どこかへ旅立って行った。

 

 

 

 ……想像してたのとだいぶ違うな。人魚も何も出てこないじゃないか。赤い水を浴びて若返る……これじゃあ、エリザベート・バートリーの血のお風呂だよ。

 

 エリザベート・バートリーとは、十六世紀から十七世紀にハンガリーに存在した伝説の悪女だ。若い女の血には肌を若返らせる効果があると信じ、自分が治める領地に住む娘を次々と誘拐し、拷問の末に殺害。その血を湯船に浸し、全身に浴びることで若さを保とうとしたそうだ。その手にかかった娘は六百人とも七百人とも言われている。

 

 ――そう言えば、昨日の夜から赤い雨が降ってて、水たまりが血の池みたいになってたよね。この民話って、もしかしたらあの赤い水が元になって作られたのかな?

 

 ふと、そう思った奈保子。

 

 ならば、あの赤い水を浴びれば、自分も十代の頃のピチピチした肌を取り戻せるのだろうか?

 

 十代の頃。それは、奈保子の絶頂期だ。当時大人気だった国民的アイドルグループの主要メンバーとして活動し、視聴率30%を超える月曜九時のドラマで主演を務め、CM契約は二十社以上だった。月に一度CSで放送されるくだらないオカルト番組が唯一のレギュラーである今とは大違いである。一体なぜ、こんなことになってしまったのか? あの時と今と、何が違うというのか? 考えるまでもない。アイドルグループを卒業してしまったからだ。何もせずとも自動的に仕事が舞い込んで来たのは、奈保子があのアイドルグループの人気メンバーだったからだ。グループを卒業してしまった今の奈保子には、なんの価値もない。卒業したのは間違いだった。そう思うことはある。だが、卒業しなかったところで、同じだっただろう。奈保子が卒業を決意したのは、年齢的にアイドルとして活動することに限界を感じたからだ。二十歳を過ぎるとアイドル特有の可愛らしいフリフリのドレスや制服などの衣装を着るのが苦痛になって来る。奈保子が所属していたアイドルグループはどんどん若い娘を加入させたからなおさらだ。若いメンバーと同じステージに立つたびに公開処刑させられている気分になる。それでも図太く居座ることもできたが、そうしたところで、若さを失えば人気も失うことは目に見えている。結局、卒業しようとしまいと同じだったのだ。若さはアイドル最大の武器であり、それを失った時点で、奈保子はこうなる運命だったのだ。だから、永遠に若さを保つことができれば、アイドルグループを卒業する必要もなく、今も、人気メンバーでいられたのかもしれない。

 

 ――なんてね。バカバカしい。

 

 肩をすくめる奈保子。そんなのは言い訳だ。確かに若さはアイドルの最大の武器かもしれないが、あたしの夢はアイドルではなく女優だ。アイドルとして活動したのは、そのステップのひとつにすぎない。若い頃はアイドルとして活動し、その後女優に転身し、成功した人は沢山いる。あたしがそうなれないのは、きっと、努力が足りないからだ。

 

 ――努力は必ず報われる。どんな時でも前に向かって進め。

 

 かつて所属していたアイドルグループのリーダーが常々言っていた言葉だ。くじけそうなときは、いつもこの言葉をつぶやく。若さが失われたのなら、別のことで努力すればいい。だから奈保子は、いくつものオーディションを受け、かつて仕事をした監督やプロデューサーに頭を下げ、演技力を磨き、Vシネマ『ヒットマン女豹』への出演が決まった時はアクションを猛勉強し、『ダークネスJAPAN』の仕事がある時はオカルトや民俗学の勉強をしたのだ。いつか、この努力が報われる時が来ることを信じて。

 

 でも。

 

 ――その努力が報われるのはいつだろう。もしかしたら、永遠に来ないのかもしれない。

 

 そういう思いは、いつも胸の奥底で疼いている。

 

 考えを振り払うように、ぶんぶんと頭を振る奈保子。ダメだ。ネガティブになってはいけない。諦めなければ、チャンスはきっと来る。

 

 それに。

 

 今のあたしには、この村で起こっていることを世間に知らせるという使命がある。

 

 大地震、赤い雨、死んでもよみがえる化物、他人の視界をジャックする能力――間違いなく、世紀の大スクープだ。あたしは一躍有名になり、再ブレイクを果たすことができるだろう。村の事件を売名行為に使うのは申し訳ないと思うが、ここまで、まさに命懸けで取材したのだ。それくらいの見返りがあってもいいだろう。そのためには、なんとしても、生きて東京に帰らなければ。改めて強く決意し、本を元の場所に戻した。

 

 と、ガラガラとドアが開き、ビクンと体が震える。誰か来た! カメラをポーチにしまう。入口を見ると、さっき逃げて行った変態タコ男が立っていた。その後ろには、クモ男を三体引き連れている。一人では敵わないと見て仲間を引き連れて来たのか。なかなか頭がいいようである。四対一ではさすがに分が悪い。奈保子はためらうことなく銃を抜いた。銃弾は少ないが、使うところでは使わなければ。温存しすぎてやられてしまっては意味がない。銃口を化物達に向ける。バットを振り上げ向かって来る変態タコ男に向けて引き金を二度引いた。胸が小さく爆発し、変態タコ男は後ろによろめいた。しかし、倒れない。踏みとどまり、また襲いかかってくる。さらに二回引き金を引く。一発は外れたがもう一発は命中し、変態タコ男はうめき声を上げながら倒れた。その身体を越え、三体のクモ男が襲い掛かってくる。舌打ちする奈保子。変態タコ男に四発も使ってしまった。奈保子の持つ銃の装弾数は六発なので、後二発しか残っていない。敵は素早く、リロードするヒマはないだろう。一体を残りの銃弾で倒し、二体は素手で倒すしかない。そのためには、最初の一体を確実に仕留めなければ。銃を構えたまま、クモ男が近づいてくるのを待つ。今だ。引き金を引こうとしたとき。

 

 ――あれ?

 

 首を傾げる奈保子。クモ男は、奈保子が引き金を引くよりも早く、うめき声を上げながら倒れ、そのまま動かなくなった。それも、最初の一体だけでなく、三体すべてが。しばらく銃を構えたまま様子を窺ったが、動き出す気配は全く無い。

 

 ――どういうことだろう? 変態タコ男が倒れ、後を追うようにクモ男も倒れた。ひょっとして、この変態タコ男は化物たちのボスで、クモ男はボスに操られていたのだろうか? ほわんほわんと電波みたいなのを飛ばしていたのはそのためか。

 

 なんだかよく判らなかったが、とにかく動かないのならこれ以上構う必要はない。今のうちに探索を続けよう。校舎内に脱出できそうな所はないから、なにか道具を見つけて、入口や窓を封鎖している板をはがすしかない。まずは倉庫に行ってみよう。奈保子は図書室を出ようとして、倒れた変態タコ男のそばにキラリと光る物を見た。近づいて確認すると、鍵のようである。

 

 ――あれ? この鍵、もしかしたら……。

 

 鍵を拾い、廊下へ出る。そのまま一階へ下り、階段側にある小さなドアの前に来た。さっきは開かなかったが、拾った鍵を差し込み、ひねってみると、かちゃりという音がして回った。ラッキー。思った通り、このドアの鍵だったようである。倉庫のようだから、中に役立つものがあるかもしれない。ドアを開ける。六畳ほどの狭い部屋だ。木製の大きな棚があり、奥にはダンボールがいくつも積み上げられている。役に立ちそうなものがありそうだが、何よりも奈保子の目を引いたのは、右側にあるドアだった。板で封鎖されていない。鍵はかけられているが、内側からなら開けることができる。ドアを開けると、校庭が広がっていた。よし! 思わずガッツポーズをする奈保子。これで脱出できる。

 

 ――大丈夫。あたしはまだ頑張れる。大勢の化物に襲われたけど、また生き残ることができた。大丈夫だ。あたしは死なない。絶対に生きて帰る! そして、この村で起こっていることを、世界中に伝えるんだ!!

 

 奈保子は、強い決意と共に、赤い雨が降り続く闇の中へ走って行った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十三話 高遠玲子 刈割/廃倉庫 初日/二十三時四十五分十八秒

 刈割の丘のふもとで、小学校教師・高遠玲子は、教え子の四方田春海と共に、道端の古びた倉庫に身を隠していた。丘の上には眞魚教の教会がある。そこならば安全だと思い、二人で避難しようとしていたのだ。丘を上がる道の途中には鉄格子の門がある。教会の敷地であることを示すためのものなのだが、閉ざされ、鍵がかけられてあった。門は高く、よじ登ることはできない。この門は、夜の十時から朝の六時までは閉めるようになっているが、避難してくる人がいるかもしれないこの状況で、求導師様や求導女様が閉ざすとは思えない。屍人が閉ざしたのだろうか? 屍人は生前の行動を繰り返すようなので、その可能性は考えられた。ならば、六時になればまた開けるかもしれない。それまで身を隠す場所を探し、この廃倉庫を見つけたのである。

 

 春海は玲子のそばで小さな寝息を立てている。かなり疲れているだろう。小学校からこの刈割までは、大人でも歩いて四時間ほどかかる。子供の足ならその倍はかかるし、屍人の目を逃れながらではさらに倍以上かかる。遠回りし、時には戦い、時には逃げ、疲れたら休み……それを繰り返し、結局、ここまで来るのに二十時間近くかかってしまった。途中、春海は何度も弱音をはいた。何度も泣き出し、怖い、もうダメ、と言った。玲子は励まし続けた。大丈夫。教会まで行けば、求導師様が助けてくれる。だから、絶対に諦めちゃダメ。何度も何度も言い聞かせた。それは、春海ではなく、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。教会なら安全、求導師様が助けてくれる……そんな保証はどこにもない。教会だって小学校のように屍人に占拠されているかもしれないし、求導師様だって校長先生のように屍人になっているかもしれないのだ。それでも、この子を護るために、諦めてはいけないのだ。

 

「……おねぇちゃん……」

 

 春海がつぶやいた。まだ眠っている。夢でも見ているのだろう。玲子は、春海の頭を優しく撫でた。

 

「……あ……先生」

 

 春海は、小さく目を開けた。

 

「あ、ゴメン。起こしちゃったね」

 

「ううん。大丈夫」春海は目をこすって身体を起こした。「お姉ちゃんの夢見てた」

 

「お姉ちゃん?」首を傾ける玲子。春海は一人っ子だ。去年の三月、両親を事故で亡くし、現在は叔父の家にお世話になっているが、そこの子供は春海より年下である。夏休みだから、従妹が遊びに来ているのだろうか? それでも小さな村だから玲子の耳に入らないことはなさそうだが。

 

「みやちゃんっていうんだ、その子」春海は嬉しそうに笑う。「一人ぼっちだって言ったら、お姉ちゃんになってくれたの」

 

 みやちゃん……初めて聞く呼び名だった。

 

「みやちゃんは、白い犬を連れているの。ケルブって名前。おっきいんだけど、おとなしくて、すごくかわいいんだよ」

 

 白い犬、ケルブ……村に、そんな犬を連れた子供はいない。

 

 しかし、その話には心当たりがあった。春海が図画工作の授業で描いた絵だ。大部分が黒く塗りつぶされ、黒髪に黒い服の少女と、白い犬のような生物が描かれた、一見すると異様な絵。今の春海の話と合致する。

 

「あ、でも、先生、コレ、ナイショにしてね」春海は、口元に人差し指を当てた。「みやちゃんから、みんなに喋っちゃダメって言われてるの」

 

 もしかしたら。

 

 そのみやちゃんとケルブは、春海の空想が生み出した、現実には存在しない人物ではないだろうか? この年頃の子にはよく起こる現象だと、育児書で読んだことがある。

 

「みやちゃんのこと話したの、先生だけだからね」春海は笑顔で言う。「絶対、誰にも言わないでね」

 

「わかった。秘密のお姉ちゃんなんだね。じゃあ、先生は、春海ちゃんのお母さんになってあげる」

 

 玲子は、春海を優しく抱きしめた。

 

 春海も、玲子の胸に顔をうずめる。

 

 その姿が。

 

 ――お母さん。

 

 娘の姿と重なった。

 

 ――ああ……めぐみ……。

 

 胸の奥で、もう二度と抱きしめることのできない娘の名をつぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 高遠玲子には、かつて、めぐみという二歳の娘がいた。

 

 今はもういない。二年前の夏、事故で亡くなったのだ。

 

 夫と娘、家族三人で訪れた海水浴での事故だった。突如発生した高波に、娘だけでなく、海辺にいた多くの子供たちが飲み込まれた。

 

 玲子は、子供たちを助けるため、夫や他の親たちと一緒に海へ飛び込んだ。大学時代に教育学部の体育系コースを選択していた玲子は水泳が得意だった。意識を失って海中を漂っていた二人の子供を救助したが、娘のめぐみを救うことはできなかった。

 

 三日後、海水浴場から五十キロ以上離れた、とある漁村の船着き場で、めぐみの遺体が発見された。

 

 この事故が原因で夫婦仲はうまく行かなくなり、間もなく離婚。当時勤務していた中学校を辞め、遠く離れたこの羽生蛇村の小学校へ赴任したのである。

 

 ――めぐみ……ごめんね……。

 

 春海を抱きしめる――娘の代わりに。

 

 あたしは、教師失格だ。

 

 春海に、娘の面影を重ねている。

 

 春海を、娘の代わりにしようとしている。

 

 ずっと前から判っていたことだった。あたしは、春海を特別視している。決して多くはない羽生蛇村小学校の児童の中で、春海だけを、特に気にかけている。事故で両親を亡くし、心に深い傷を負っている春海に、自分の心の傷を重ねている。

 

 春海を救うことで、めぐみを救えなかった罪を償おうとしている。

 

 そんなことは何の贖罪にもならない――判っている。

 

 春海はめぐみではない――判っている。

 

 それでも。

 

 この子は、護らなければならない。

 

 なんとしても。

 

 玲子は、強く、強く、春海を抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 獣の遠吠えが聞こえた。

 

 顔を上げる玲子。

 

 春海の笑顔が恐怖に染まる。小さな身体が震えだす。

 

 玲子は幻視で外の気配を探った。鎌を持った屍人の視点が見つかった。砂利道を歩いている。道の先には古びた倉庫が見えた。まずい。この近くに来ている。

 

 だが、幸い倉庫までは来なかった。十メートルほど離れた場所で立ち止まり、そこで、道端の草を刈り始めた。ひとまずは安心だが、いずれ見つかってしまうかもしれない。このまま門が開くまで隠れているのは難しいだろう。教会へ向かうのはいったん諦め、どこか、他の安全な場所へ移動しよう。どこがいいだろうか? 考え、少し北に行ったところにある田堀地区がいいのではないかと思った。数年前に区画整理がされた地域で、現在は数軒の民家が建つだけの寂しい地域だ。人が少ないなら、屍人も少ないだろう。

 

 倉庫からそっと顔を出し、外の様子を窺う。田堀へと向かう道は緩やかな下り坂だ。草を刈っている屍人は田堀方面とは反対側にいる。作業に没頭しており、そっと移動すれば気づかれることはないだろう。

 

 倉庫の奥に戻り、脅えている春海に向かって優しく言う。「春海ちゃん、この倉庫にいると危ないみたいだから、ちょっと、移動しようと思うの。北にある田堀まで行けば安全だから。頑張れるわよね?」

 

 春海はしばらく玲子を見ていたが、やがて視線を落とし、小さく首を振った。「あたし、行きたくない」

 

 またか……胸の内からもどかしさが湧きあがる。小学校からここまで来る間にも、春海は、何度も玲子の言うことに反抗した。怖いのは判るが、言う通りにしてもらわないと、もっと危険なことになる。そのことが判らないのだろうか?

 

 玲子は胸のもどかしさを抑え、春海の顔を覗き込んだ。「どうして? なんで、行きたくないの?」

 

「だって……外はしびとがたくさんいて危ないし……ここにいれば安全だって、玲子先生言ったもん」

 

 もどかしさがさらに湧き上がるが、何とか抑える。「ごめんなさい。確かに、さっきはそう言ったけど、でも、状況が変わったの。ここは安全じゃないかもしれないから、一緒に田堀まで行こう? ね?」

 

 春海は大きく首を振った。「いやだ。絶対行かない」

 

 もどかしさは、徐々に苛立ちへと変わる。「お願い、春海ちゃん。ワガママ言わないで? すぐそこに屍人が来てるの。春海ちゃんも幻視をして、気付いてるでしょ? 今ならまだ逃げられるから、早くしよう?」

 

 それでも春海は言うことをきかない。「ヤダ。行かない。ここに隠れてたら大丈夫。先生そう言ったもん」

 

 なぜ、ここが危険だと判らないのだろう? なぜ、言うことを聞いてくれないのだろう?

 

 苛立ちは、徐々に、怒りへと変わる。「お願い春海ちゃん。先生を困らせないで!」

 

「やだ! どこにも行かないもん!! ここに隠れてるんだもん!!」

 

 怒りは。

 

 黒い感情へと変わった。

 

「いい加減にしなさい!! 言うことをきかない子は――!!」

 

 手のひらを振り上げた。

 

 小さな石のように身を強張らせる春海。

 

 その姿が。

 

 ――いい加減にしなさい!! いつまでも泣いてる子は――!!

 

 娘の姿と重なった。

 

 我に返り、右手を振り上げている自分に気が付いた。

 

 ――あたし……あたしは……何を……?

 

 泣きだす春海。

 

「ご……ごめんなさい、春海ちゃん。ごめん、先生、どうかしてた……」

 

 優しく抱きしめようとしたが。

 

「――いや!!」

 

 どん、と、子供とは思えない力で突き飛ばされた。

 

 春海は倉庫の隅にしゃがみ込み、泣く。

 

 ああ、あたしは、なんということを……後悔の念が湧きあがる。

 

 びくん、と、身体が大きく震え、一瞬、倉庫の奥で泣いている子供と、それを呆然と眺める女の後ろ姿が見えた。

 

 玲子は振り返る。鎌を持った女の屍人が、倉庫の入口に立っていた。見つかった!

 

 獣の遠吠えのような声を上げる屍人。まずい。あれは、近くの仲間に危険を知らせるための屍人の合図だ。あれを聞いたら、周囲の屍人が集まってくる。

 

 玲子は、小学校から持ってきたバールを取った。

 

 ――春海ちゃんに近づくな!!

 

 倉庫に入って来た屍人に向かって行った。

 

 屍人が鎌を振り上げるよりも早くバールを振り下ろす。よろめいた屍人の頭に、さらに渾身の力で叩きつけた。ぐしゃり、と、骨の砕ける音がして、崩れ落ちる屍人。

 

 とたんに、火がついたように泣きはじめる春海。

 

 もう、春海が言うことをきくのを待ってはいられない。さっきの雄叫びを聞いた周辺の屍人がすぐに集まって来るだろう。仮に誰もいなかったとしても、いずれこの屍人はよみがえる。その前に逃げなければ。

 

 春海に近づき手を取ろうとした。泣き叫び、手足を振り回して暴れる春海。だが、構ってはいられない。いやがる春海を無理矢理抱き上げ、泣き叫ぶ口を押さえ、廃倉庫から出て、田堀方面へと走った。

 

 しばらく走ると、道端に古いライトバンが放置されていた。周囲に屍人の気配は無い。玲子は一度ライトバンの陰に隠れ、春海を下ろした。

 

 春海はまるで屍人から逃げるかのように玲子から離れ、また、泣きはじめる。

 

 何もできなかった。玲子はただ、泣き叫ぶ春海に近づかず、「ゴメン、ゴメンね」と、ただ謝り続けた。

 

 やがて、春海が落ち着きを取り戻してくる。泣きわめく声が、すすり泣きへと変わってくる。

 

「本当にゴメンなさい、春海ちゃん。先生、もう二度と怒ったりしないから、許して……」

 

 今度こそ、優しく抱きしめた。

 

 春海も、もう抵抗はしなかった。「あたしの方こそごめんなさい。ワガママ言って、先生を困らせて」

 

 ――本当にゴメン、めぐみ。お母さん、もう二度と叩いたりしないから、許して……。

 

 娘の姿と重なる。

 

 どんなに怒っても、どんなに叩いても、謝り、抱きしめると、許してくれためぐみ。大きすぎる後悔が押し寄せてくる。

 

 大きく首を振る玲子。昔のことを思い出している場合ではない。今は、春海ちゃんを護ることだけを考えなければ。

 

 玲子は春海を連れ、田堀方面へと向かう。しばらく進むと、用水路が道を分断していた。木製の小さな橋が架けられていたようだが、崩れ落ち、渡ることができない。川幅は三メートルほどある。玲子だけなら飛び越えることもできただろうが、小さな春海には無理だろう。用水路を覗き込んだ。上流で水門が閉ざされているのだろうか、水は流れていない。高さは二メートルほどだ。これも、玲子一人なら一度下りてよじ登ることもできるだろうが、春海には無理だ。どうやって向こう側へ渡ろう? 考え、さっき道端に放置されてあった古いライトバンを思い出した。戻って確認する。ドアを引いてみるが開かない。窓越しにライトで運転席を照らしてみた。キーは刺さっていなかった。運転するのは無理だろう。だが、この道は下りで、用水路まではまっすぐ続いている。サイドブレーキを下ろせば走り出すはずだ。このライトバンを川に落とし、渡ることができないだろうか? やってみよう。玲子は春海を少し下がらせると、バールで窓ガラスを叩き割った。鍵を開け、中に乗り込む。サイドブレーキを下ろすと、ぐらり、と、大きく揺れ、ゆっくりと前に進み始めた。ある程度進んだところで車から降りる。ライトバンはそのまま進み、用水路へ転落した。これで渡れるだろう。玲子は春海の手を引き、ライトバンの屋根の上を進んで、用水路を渡った。

 

 さらに進むと道が北と西の二つに分かれていた。道のそばには石灯籠が置かれてあり、その近くに古いトラクターと給油車が停められてある。西の道は丘の上へと続いている。田堀地区へ向かうには北へ向かわなければいけない。玲子は北の道を進もうとしたが。

 

「――春海ちゃん、隠れて」

 

 トラクターの陰に身を隠す。

 

 道の先に、猟銃を持った屍人がいたのだ。最も厄介な屍人だ。幸い見つからなかったが、猟銃屍人は見張りをしているようだ。田堀へ向かうには、あの屍人をどうにかしなければならない。バールで戦うのはあまりにも危険だろう。隙をついて通り抜けるのも同じく危険だ。どうすればいい? 玲子は、幻視で屍人の様子を探る。

 

 しばらく道の真ん中に立っていた屍人は、北に向かって歩き始めた。どこかへ行くのだろうか? 期待とは裏腹に、屍人は道端の石灯籠の前に立った。さっき見た三叉路の石灯籠とは別のものだ。屍人は石灯籠をじっと見つめている。この辺り一帯には、道に沿って四つの石灯籠が立てられてあり、屍人が見ているものには獅子の頭が浮き彫りにされてあった。さっき見た三叉路の石灯籠には、雄牛の頭が浮き彫りにされてある。他に、人の頭と、鷲の頭が浮き彫りにされたものがある。

 

 しばらく石灯籠を眺めていた屍人だったが、その視線が、ふいにこちらを向いた。息を殺す玲子。大丈夫。隠れているから見つかりっこない。思った通り、屍人の視線に自分たちの姿は映らない。屍人は、そのままじっとこちらを見ていたが、しばらくして、また北に向かって歩き始めた。十メートルほど歩くと立ち止まり、北の方を見ている。そして、また獅子の石灯籠の所に戻って来た。そのまま石灯籠をじっと見つめた後、こちらを向いた。じっと見つめる。さっきと同じだ。何を見ているのだろう? 屍人の視線の先には、トラクターと、給油車と、三叉路の石灯籠。

 

 ――ひょっとして、木る伝(きるでん)解放の儀式をやろうとしてるのかしら……?

 

 木る伝解放の儀式とは、羽生蛇村に伝わる民俗行事のひとつだ。旧暦のお盆、この刈割にある四つの石灯籠に火を灯し、村人が順に祈りを捧げて行くという儀式である。眞魚教の聖典・天地救之伝によると、木る伝とは、海の向こうにある楽園・常世を守護する聖獣で、獅子、雄牛、人間、鷲、の四つの頭と、それと対をなす四対の羽を持つという。かつては合石岳に住み、村に下りては人を襲い、作物を荒らす魔獣として恐れられたが、眞魚教の神の力により、この刈割の地に封印された。それから五百年が経ち、罪を悔い改めたと見た神代家の当主は木る伝を解放し、常世を守護することを命じたそうだ。木る伝は神代に感謝し、この命を護るため、常世へと旅立って行ったという。

 

 木る伝解放の儀式は、この伝説を再現したものである。四つの石灯籠に浮き彫りにされた、獅子、雄牛、人間、鷲の顔は、木る伝の姿を表しており、灯篭に火を灯すと、木る伝に力を与えるとされている。所定の順序に従って火を灯すことで、この地に封印されている木る伝を解放し、常世へ送ることができるのだそうだ。

 

 屍人は獅子の石灯籠をじっと見ている。ロウソクは立っているが、火は灯されていない。隙をついて火を灯せば、屍人は祈りを捧げ、次の、三叉路にある雄牛の石灯籠に移動するのではないだろうか? 残り二つの石灯籠は、西の丘を登る道の途中にある。それにも火を灯せば、うまく屍人を誘導できるかもしれない。

 

 しかし、問題がひとつある。火を点ける道具がない。どこかで、マッチかライターを入手できないだろうか。

 

「……先生、これ」

 

 春海が、小さな声と共に手を差し出した。その中には、使い捨てのライターがあった。

 

「春海ちゃん? これ、どうしたの?」

 

「さっきの倉庫の中で拾ったの。役に立つかと思って」

 

 一瞬、叱るべきかとも思った。子供がライターを拾うのは、どう考えても良いことではない。だが、今は緊急事態だし、確かに役には立つ。

 

「ありがとう、春海ちゃん。でも、次は、勝手に拾っちゃダメよ?」

 

 笑顔でライターを受け取った。何度かボタンを押すと、ちゃんと火も点いた。よし。これで、ロウソクに火を灯せる。後は、猟銃屍人の隙をついて石灯籠へ行くだけだが……。

 

 春海は、どうすべきだろう?

 

 獅子の石灯籠に火を灯すためには、屍人が北へ向かったわずかな隙を突かなければならない。その後も、三叉路の雄牛の石灯籠と、丘の道を上がり、残りの二つにも火を灯す必要がある。春海を連れて歩くのは危険だ。どこかに隠れていた方が安全だろう。周囲を見回す。トラクターの後ろには小さな荷台が取り付けられてあり、ブルーシートで覆われていた。あの中に隠れていれば、しばらくは安全だ。玲子は春海に隠れているよう言った。一人になることに不安そうだったが、なんとか納得してくれた。

 

「先生、早く帰って来てね」

 

 シートの下に隠れる春海。玲子は、笑顔で応えた。

 

 猟銃屍人の様子を窺う。相変わらず、獅子の石灯籠を見、その後、三叉路の石灯籠を見て、移動を繰り返している。玲子は、屍人が北に向かったのを確認し、トラクターの陰から走り出した。素早く灯篭の中のろうそくに火を灯し、元の場所に戻る。直後に振り替える屍人。うまく行った。後は、屍人がどう行動するかだ。

 

 獅子の石灯籠の前に戻った屍人は、火が灯されたロウソクをじっと見ている。不審に思い周囲を警戒するだろうか? いや、大丈夫だ。屍人は頭が悪い。きっと、うまく行くはず。

 

 思った通り、屍人は、石灯籠に向かって手を合わせ、祈りを捧げ始めた。うまく行った!

 

 玲子は再び走り、今度は三叉路に立つ雄牛の石灯籠のロウソクに火を点けた。ぼんやりと輝き始めたのを確認し、丘を上がる道を走る。しばらくすると人の顔が浮き彫りにされた石灯籠が見えてきた。立ち止まり、幻視で猟銃屍人の気配を探る。ちょうど、三叉路の石灯籠に祈りを捧げている所だった。玲子は人間の石灯籠にも火を灯すと、さらに丘を上り、最後の石灯籠までやって来た。鷲の顔が浮き彫りにされた石灯籠。ロウソクに火を点けると、小さく燃え上がった。

 

 と、ぼんやりとした炎の明かりが、突然、白くまぶしい光へと変わった

 

 ――え? 何?

 

 驚き、思わずバールを構える玲子。

 

 まぶしい光は球体へと変わり、煙のようにゆらゆらと揺れながら、空へ上がって行く。そこに、別の球体が近づいてきた。ふたつの球が並行して飛ぶ。そこへ、もうひとつ、さらにもうひとつ、光の球が飛んでくる。四つの光の球はお互いの存在を確認し合うかのようにぐるぐると周囲を回ると、そのまま天へと昇って行き、やがて闇夜の空に消えた。

 

 何だったのだろう? 判らない。後から現れた三つの光は、獅子と雄牛と人間の石灯籠から現れたのだろうか? 村の伝承が正しいとしたら、もしかしたらあれが、この地に封印されていた聖獣・木る伝なのかもしれない。

 

 誰かが近づいてくる気配がした。猟銃屍人だ。こうしてはいられない。玲子は道を逸れ、薮の中に身をひそめた。猟銃屍人がやって来て、最後の石灯籠に祈りを捧げる。玲子は隙をついて藪から出ると、三叉路へと走った。これで、刈割から脱出できる。春海は一人で震えているだろうか? すぐに戻るからね。走る玲子。

 

 ――――!?

 

 三叉路に戻った玲子は、思わず声を上げそうになった。

 

 トラクターの所に、どこから来たのか(くわ)を持った屍人がいた。給油車からトラクターへガソリンを給油している。まさか、トラクターに乗ってどこかに行こうとしているのだろうか? 玲子の思った通りになった。給油を終えた屍人はトラクターに乗り込み、エンジンをかけ、北の田堀方面へ向かい始めた。

 

 荷台から春海が顔を出し、玲子に気付いた。

 

 ――先生助けて!

 

 泣きそうな顔で、そう訴えかけている。

 

 だが玲子は、手のひらを前に出し、そのまま隠れていて、と、合図を送った。トラクターは田堀へ向かっている。今ヘタに逃げ出すよりは、このまま隠れていて、安全な場所まで行ってから脱出した方がいいだろう。玲子も、気付かれないように後を追おうとした。

 

 しかし――。

 

 南の空から、サイレンの音が鳴り響く。

 

 とたんに、頭が叩き割られるかのような頭痛に襲われる玲子。

 

 ――まただ……また、このサイレンの音……。

 

 頭をおさえる。今日は、六時間おきにこのサイレンが鳴っている。サイレンが鳴るたびに頭痛に襲われる。その頭痛は、時間を追うごとに耐えがたいものになっていく。

 

 春海を見る。春海は耳を塞いでいるだけだ。玲子と違い、頭痛には襲われていないようである。それが幸いだった、こんな痛み、春海には感じさせたくない。

 

 荷台の車輪が石に乗り上げ、大きく揺れた。

 

 その衝撃で、荷物がひとつ、道に転げ落ちる。

 

 屍人がそれに気付いた。トラクターを停め、荷物を拾おうとしている。まずい、このままでは春海が見つかる。バールを握りしめ、春海の元へ走ろうとした。だが、さらに大きな音でサイレンが鳴り響き、さらに強烈な頭痛に襲われる。たまらず膝をつく玲子。

 

 屍人が荷物を拾った。

 

「先生! 助けて!!」

 

 春海が悲鳴を上げた。

 

 その姿が――。

 

 ――お母さん! 助けて!!

 

 娘の姿と重なった。

 

 激しく波打つ水面にかろうじて浮かぶめぐみ。襲い掛かる波が、めぐみを海の底へ引きずり込もうとしている、もがき、なんとかまた水面に顔を出す。

 

「お母さん、助けて!!」

 

 玲子に助けを求めるめぐみ。玲子に向かって手を伸ばすめぐみ。

 

 だが、玲子はめぐみに手を伸ばすことはできない。

 

 その両手は、すでに別の子供を抱いていた。もう一人を抱えて泳ぐことができるだろうか? 難しいだろう。ヘタをすると、四人とも溺れてしまうかもしれない。

 

 玲子は、決断を迫られた。

 

 そして。

 

「めぐみ! 待ってて! お母さん、すぐに戻って来るから! それまで、頑張って! 絶対に戻って来るから!!」

 

 玲子は、二人の見ず知らずの子供を抱き、娘のめぐみをその場に残し、岸へと戻った。

 

 再び海へ飛び込んだとき、めぐみの姿は、もう見えなくなっていた。

 

 ――ああ、そうか。

 

 玲子は気づいた。

 

 あの時、あたしは諦めたんだ。

 

 めぐみを救うことを。

 

 その気になれば、三人の子供を抱えて泳ぐことも、不可能ではなかったかもしれないのに。

 

 あたしは、めぐみを救うのを諦め、岸へ戻った。

 

 あたしに助けを求めるめぐみを、見捨てて。

 

 あんなに酷い目に遭わせたのに。

 

 あんなに酷い母親だったのに。

 

 それでもめぐみは、あたしに助けを求めて。

 

 あたしは、それを見捨てたんだ。

 

 めぐみを助けることを、諦めたんだ。

 

 あたしは――。

 

 ――――。

 

 屍人が、荷台のシートをめくった。

 

 あたしは、もう二度と、諦めない!

 

 玲子は、バールを強く握りしめ。

 

 給油車の窓ガラスに叩きつけた。

 

 ガラスの破片で傷がつくのもいとわず、車の中に腕を入れ、ハンドルの中央のボタンを押す。サイレンの音にも負けないほどの、けたたましいクラクションが鳴り響いた。

 

 トラクターの屍人だけでなく、周辺にいたすべての屍人が、クラクションの音に反応する。

 

 そして、玲子を見つけると、鍬を、鎌を、銃を持ち、玲子に向かって来る。

 

 ――そうだ……こっちへ……あたしの所へ来い!

 

 玲子はクラクションを鳴らすのをやめ、ふらつく足で給油車の後方へ回り込んだ。

 

 給油用のバルブがある。

 

 もうろうとする意識の中、玲子は、バルブを回した。

 

「待ってね……春海ちゃん……めぐみ……先生が……お母さんが……いま……助けるからね……」

 

 給油口からガソリンが流れ落ち、地面へと広がって行く。

 

 玲子は、ライターを取り出し、点火のスイッチを押す。

 

 屍人が武器を振り上げる。

 

 ライターの火を、足元に広がるガソリンへ近づけた。

 

 ――春海ちゃん。どうか……無事で逃げて。絶対に、絶対に、諦めちゃダメよ!

 

 心の中で、春海に最期の励ましの言葉を送り。

 

 玲子は、閃光と爆音に包まれた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 八月四日、深夜〇時。

 

 

 

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十四話 神代美耶子 田堀/廃屋中の間 第二日/〇時二十三分三十六秒

 遠くで、何かが爆発したような音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 田堀にある廃屋の廊下で、神代美耶子はその爆発音を聞き、顔を上げた。目が見えない美耶子は視力以外の感覚が優れている。その音を聞いただけで、爆発があった方角と、おおよその距離が判る。今の爆発は、刈割の方から聞こえて来た。丘のふもとに古い給油車があったが、恐らくあれが爆発したのだろう。爆発の理由までは判らない。村人が巻き込まれていなければいいが……。

 

 大きく首を振り、考えを振り払う美耶子。この村の連中がどうなろうと、あたしの知ったことではない。村人は、村を守るために、あたしを犠牲にしようとしたのだから。

 

 暗闇の中、両手で壁を触りながら、ゆっくりと進んで行く。廃屋には電気が通っているため明かりを点けることは可能だが、目が見えない美耶子にとって、それは意味の無いことだった。常に美耶子のそばにいて目の代わりになってくれた愛犬のケルブはもういない。昨日から一緒に行動している余所者の少年・恭也も、今は部屋で眠っている。廃屋内には他に人はいない。真の意味での闇だった。

 

 だが、不思議と。

 

 恭也のいる場所だけは、判った。

 

 美耶子が左手で触れている壁。この向こうの部屋で、恭也は眠っている。

 

 そこに、ぼんやりとした光が見えるのだ。

 

 生まれながらに盲目だった美耶子。誰かの存在が光って見えるなど初めての経験だった。理由は判らない。初めて恭也と会った時から、彼の姿は輝いて見えた。

 

 美耶子は、恭也から発せられる光を頼りに、手探りで廊下を進む。手のひらの感触が壁から障子へと変わった。障子を開け、部屋の中に入る。

 

 恭也は、眠りながら苦しそうにうめき声を上げていた。額に汗を浮かべ、胸をかきむしり、もがき苦しんでいる――そのような姿が想像できた。酷い悪夢にうなされているような姿。

 

 だがそれは、決して悪夢を見ているのではないということを、美耶子は知っている。

 

 外ではサイレンが鳴っている。恭也は、その音に強く反応しているのだ。屍人化が始まっている兆候であった。

 

 恭也は昨日、屍人と化した警官に銃で撃たれ、眞魚川に転落したと言っていた。その時、川の赤い水が、傷口から体内に入ったのだろう。赤い水を一定量体内に取り入れた者は屍人となる。そして、サイレンに導かれて赤い海へ入り、さらに水を体内に取り入れることで、より常世へと近い存在へと姿を変えてゆく。銃で撃たれて川に転落し、赤い雨に打たれ続けた恭也が屍人と化すのは、もう時間の問題だ。

 

 美耶子は、苦しむ恭也のそばに座った。

 

 美耶子の右手には太く長い釘が握られている。長さは十五センチほど。いわゆる五寸釘と呼ばれるもので、庭にある離れから持ってきたものだ。

 

 その刃先を、自分の左の手のひらに当て、軽く引っ掻いた。

 

 わずかな痛みと共に、傷口から血が流れ出す感触。

 

 美耶子は恭也の左手を取ると、同じように釘の刃先を当て、軽く引っ掻く。

 

 そして、自分の手のひらと、恭也の手のひらを、合わせる。

 

 美耶子の傷口から流れ出した血が、恭也の傷口へ流れ込んでいく。自分の血が、恭也の血と混じって行く。やがて、恭也の声が穏やかになっていった。もがくのをやめ、荒い息づかいが静かな寝息へと変わる。

 

 これは、血の杯、あるいは、永遠の血の契約と呼ばれる、神代家に伝わる儀式だった。

 

 神代家の血を引く者は、決して屍人にはならない。同様に、神代の血が混じった者も、決して屍人になることはない。

 

 だから、これで、もう恭也が屍人になることは、決して、ない。

 

 だが――。

 

 それが、彼を救うことになったのかは、美耶子にも判らない。

 

 恭也が屍人になることはない。しかし、それは同時に、美耶子と同じ永遠の苦しみを、恭也にも背負わせることになる。

 

 屍人になる苦しみは一瞬だ。順調にいけば、一週間もしないうちに常世へと旅立つことができ、苦しみから解放される。いや、屍人になる苦しみという考え方自体、生きている人間が勝手に思っていることだ。屍人となった者は、恐らく苦しんでなどいない。だからこそ、生きている者を襲い、殺すことで、仲間にしようとするのだ。屍人にとっては生者こそ苦しみであり、死は、理想郷へと旅立つ準備なのだ。

 

 それに対し、美耶子の苦しみは、決して終わることはない。

 

 それが判っていても、美耶子には、こうすることしかできない。

 

 恭也を屍人にさせないためには、こうするしかない。

 

 あたしは、酷く自分勝手な人間だと思う。恭也を屍人にさせたくない、その想いから、永遠の苦しみを与えてしまった。今回の、村の怪異もそうだ。自分が助かりたい、その一心でご神体を破壊し、神迎えの儀式を失敗させた。その結果、多くの村人が犠牲となった。

 

 だが――こうするしかなかったのだ。

 

「……ごめんね……せっかく、綺麗だったのに……」

 

 独り言のようにつぶやいた。

 

 美耶子は恭也の隣に横になり、手のひらを合わせたまま、眠った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十五話 恩田美奈 宮田医院/第一病棟診察室 第二日/〇時十七分二十八秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 宮田医院第一病棟の診察室で、恩田理沙は、サイレンの音を聞きながら窓の外を眺めていた。屍人と化した姉を宮田が撃退してから一時間以上経った。屍人の後を追った宮田は、まだ戻らない。

 

 姉を救ってください――屍人を追う宮田に向かって、理沙はそうお願いをした。救う、とは、美奈を今の苦しみから解放させてあげることだ。あのような醜い姿となり、苦しむ姉を見るのは心が痛んだ。宮田先生ならば、美奈を苦しみから解き放つことができるだろう。

 

「求導師様、これで良かったんですよね……」

 

 理沙は窓の外を見つめたまま、求導師の牧野慶に訊いた。

 

「良かった、とは?」

 

「姉は、屍人になって苦しんでいた。宮田先生なら、姉を苦しみから救ってくれますよね」

 

「そう……だね……」

 

 牧野の返事は歯切れが悪い。いっそ、気休めでもいいから「大丈夫」と言い切ってくれれば、理沙の気持ちも少しは楽になるのに。

 

 だが、仕方ないだろう。屍人を苦しみから救う方法は、牧野にも判らないのだ。理沙にできることは、宮田を信じて待つことだけだった。

 

「理沙さん。もう遅いから、少し休んだ方が――」

 

 がつん! という音がして。

 

 小さなうめき声と共に、牧野が床に倒れる音がした。

 

 驚いて振り返る理沙。

 

 部屋の中に、屍人と化した美奈がいた。

 

 両手に大きなシャベルを持っている。それで、牧野を殴ったようだ。

 

 美奈は、意識を失った牧野には興味を示さなかった。ただ、理沙を見つめている。

 

「――理沙」

 

 近づいてくる。

 

「お姉ちゃん……やめて……」

 

 後退りする理沙。背中に壁が当たる。逃げ場はない。

 

「理沙」

 

 姉が呼び掛けて来る。また一歩近づく。

 

 殺される――そう思った。どうにかして逃げなければ。

 

 だが美奈は、シャベルを投げ捨てた。殺す気など無い――そう言っているかのように。

 

 近づいてくる美奈。目の前に立った。逃れられない。

 

《理沙――》

 

 姉の声が、頭の中に直接響いた。

 

 姉が、いくつものこぶが垂れ下がった醜い顔を、理沙の顔に近づける。

 

 その瞬間――。

 

 

 

 ――寂しい。

 

 

 

 美奈の感情が流れ込んできた。

 

 同時に。

 

 いくつもの思い出が、浮かんでは消えていく。

 

 両親に抱かれる双子の赤ちゃんが見える。あれは、生まれたばかりのあたしたちだろうか?

 

 ランドセルを背負い、手を繋いで走る姿が見える。小学校へ向かっているのだろうか?

 

 こたつに隣り合って座り、勉強している姿が見える。中学のテスト前だろうか?

 

 憧れの先輩を遠くから見つめる姿が見える。高校の部活の時だろうか?

 

 電車に乗り、旅立つ理沙を、ホームから見送る美奈が見える。就職が決まった時だろうか?

 

 たくさんの情景が見え、消えていく。美奈の――いや、姉と自分の、二人の人生。

 

 そして――。

 

 宮田先生が、両手を伸ばす姿が見える。

 

 その、手が。

 

 美奈の首に触れる。

 

 先生の手に、徐々に、力が込められてゆく。

 

 苦しい。息ができない。

 

 先生は、手を離さない。

 

 やがて――。

 

 

 

 

 

 

 ――――。

 

 ――ああ、そうか。

 

 そうだったんだね、お姉ちゃん。

 

 やっと、判った。

 

 お姉ちゃんは、苦しんでなんていなかったんだ。

 

 ただ、寂しかっただけなんだ。

 

 ただ、先生を探していただけなんだ。

 

 あたしに、その寂しさを、判ってほしかっただけなんだ。

 

 ゴメンね、お姉ちゃん。あたし、双子の妹なのに、そんなことにも気付けなかったんだ。

 

 

 

 理沙は――。

 

 

 

 知らず、涙を流していた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十六話 須田恭也 田堀/廃屋中の間 第二日/一時十一分十一秒

 大きな物音で、恭也は目を覚ました。

 

 

 

 

 

 

 何かが壊される、あるいは、倒れる音だった。そう遠くではない。恐らく、この廃屋の中だ。

 

 隣で眠っていた美耶子も身体を起こす。

 

「……あいつらが、来た」

 

 つぶやくように言った。

 

 あいつら、とは、屍人のことだろう。目を閉じ、幻視を行う恭也。すぐに二つの気配を見つけた。包丁を持った屍人と、拳銃を持った屍人が、台所付近の廊下を歩いている。どうやら、台所の勝手口から侵入したようだ。夕方、恭也たちもそこから入った。屍人に侵入されないよう、内側に物を置いて開かないようにしていたのだが、蹴り破られてしまったようである。

 

 恭也はそばに置いてある火掻き棒を取る。刈割から持ってきたもので、恭也の唯一の武器だ。ここに来るまで何人もの屍人と戦った。屍人と戦うことにもう抵抗は無い。しかし、包丁や鎌を持った屍人相手には火掻き棒で十分だが、さすがに拳銃を持った屍人相手には分が悪い。まして二対一ともなると、撃退するのはまず無理だろう。

 

「一度、どこかに隠れよう」

 

 美耶子に言う。眠る前に家の中は探索してある。恭也がいるのは一階の中央にある部屋で、正面の障子から出て右側へ行くと、玄関、そのそばには客間があり、さらに奥へ進むと、二階へ上がる階段、トイレ、そして、台所がある。屍人が侵入したのはこちら側だ。反対の左側にもいくつかの部屋があり、その奥には納戸があった。隠れるならそこがいいだろう。恭也は美耶子を連れて部屋から出て、家の奥へ向かった。

 

 納戸は四畳半ほどの狭い部屋だ。木製の引き戸に鍵は無く、立てこもることはできそうにない。屍人がドアを開けないことを祈るだけだ。納戸の中に入る恭也。奥へ進もうとすると。

 

「――うわっ!」

 

 バリバリと木の板が割れる音と共に、恭也の右足がガクンと沈んだ。床板を踏み抜いてしまったようだ。古い家屋だから腐っていたのだろう。

 

「おい。大きな音をたてるな。ヤツらに気付かれる」美耶子が引き戸を閉めながら言った。

 

 幸い屍人はまだ離れた場所にいる。気付かれれてはいない。恭也は足を抜いた。床には、直径五十センチほどの穴が開いてしまった。

 

「そこ、気を付けて」目の見えない美耶子を気遣う。

 

「お前みたいなグズと一緒にするな」

 

 美耶子は小さくジャンプして穴を飛び越えた。

 

「あ……」

 

 穴は無事飛び越えた美耶子だったが、困ったような表情でポケットを探り始めた。「……どうしよう……」

 

「どうしたの?」

 

「いや……なんでもない。それより、ヤツらはどうしてる?」

 

 恭也は幻視を行った。拳銃を持った屍人は玄関の隣の客間へ入ったようだ。もう一体の包丁を持った屍人は、廊下を進んでこちらへ向かって来る。納戸の前まで来た。もし戸を開けられれば、戦闘は避けられない。包丁を持った屍人一体ならば勝ち目は十分にあるが、この狭い納戸では、リーチの長い火掻き棒は不利かもしれない。冷静に状況を分析しながら、火掻き棒を握りしめ、じっと様子を窺う。幸い、屍人はしばらく戸を見つめた後、何もせず引き返して行った。安堵の息を洩らす恭也と美耶子。これでしばらくは安心だ。だが、いずれは気付かれるだろう。なんとか脱出しなければ。恭也は幻視を続ける。包丁を持った屍人は、玄関と納戸の間をウロウロし始めた。もう一体の拳銃を持った屍人は、客間でじっとしている。廃屋に侵入した屍人はその二体だけだが、他にもう一体、(なた)を持った屍人が庭をうろついていた。中に入って来る様子は無い。これはチャンスだ。拳銃屍人が客間にいる間に包丁屍人を倒せば、台所の勝手口から脱出できるだろう。外の鉈屍人は隠れてやり過ごせばいい。それで行こう。

 

 恭也は美耶子にこのまま隠れているように言い、一人、納戸を出た。火掻き棒を強く握りしめ、大きく息を吐く。廊下を徘徊する屍人が恭也に気付いた。包丁を振り上げ、向かって来る。恭也も火掻き棒を構える。できるだけ速やかに、そして、静かに倒さなければならない。大きな音をたててしまうと拳銃屍人に気付かれる可能性もある。そうなると勝ち目は薄い。

 

 屍人が恭也の間合いに入った。素早く火掻き棒を振るう。頭部に打ち付けた。怯み、後退りする屍人に、さらに二度、打ちつける。そのまま倒れ、動かなくなるのを確認した恭也は、拳銃屍人を幻視する。変わらず客間でじっとしていた。廊下の物音には気付かなかったようだ。恭也は納戸に戻り、美耶子を連れ、廊下を進んだ。足音を殺して客間の前を通り、階段の横を通り抜けた。拳銃屍人は気付かない。このまま脱出できる。そう思ったのだが。

 

「――――!?」

 

 トイレのドアが開き、中から鉈を持った屍人が出てきた。そんな! いつの間に中へ!?

 

 屍人が現れると同時に、鼻が曲がるような異臭がした。見ると、屍人は体中糞尿にまみれている。この家のトイレは汲み取り式だった。まさか、トイレの中を通って侵入したのだろうか? 台所の勝手口は開いているというのに。

 

 屍人がこちらに気が付いた。鉈を振り上げ、向かって来る。恭也も火掻き棒を構える。しかし、ここで戦うわけにはいかない。すぐ後ろの客間にいる拳銃屍人に気付かれる可能性が高いし、何より、気持ち的にコイツとは戦いたくない。

 

「――ダメだ。逃げよう」

 

 美耶子の手を引き、廊下を引き返す。だが、さっき倒した包丁屍人がよみがえる頃だ。この狭い場所で挟み撃ちにされるのは危険すぎる。玄関は木の板が打ち付けられて封鎖されているから、逃げ場は二階しかない。恭也は階段を上がった。

 

 二階には部屋が三つある。恭也は廊下を進み、手前と中の部屋の戸を開けた。こうしておけば、追って来た屍人が部屋の中を確認するはずである。時間が稼げるし、時間が経てば屍人は自分が何をしていたかを忘れるだろう。恭也はそのまま廊下を進み、一番奥の部屋に隠れた。二階へ上がって来た屍人は、恭也の狙い通り、戸が開いていた一番手前の部屋に入り、中を見回した。誰もいないことを確認した屍人は廊下に出てきた。そして、思った通り、何をしていたか忘れ、そのまま階段を下りて行った。

 

 これでまたしばらくは安全だが、改めて脱出方法を考えなければならない。幻視を行う。新たに侵入してきた鉈屍人は、一階に戻ると、客間前から台所前を徘徊し始めた。先ほど恭也が倒した包丁屍人はすでによみがえり、客間の前から納戸の前を徘徊している。拳銃屍人は相変わらず客間だ。これは、脱出が非常に困難になった。廊下で鉈屍人と戦えば拳銃屍人に気付かれる可能性が極めて高い。ヘタをすると包丁屍人にも気づかれて、三対一になってしまう。完全に勝ち目はないだろう。いったい、どうすれば……。

 

「――恭也」と、美耶子が呼んだ。「ここから脱出できないか?」

 

 窓を指さす美耶子。この家の窓はすべて板で封鎖されていると思っていたが、そこだけは板が張り付けられていなかった。外は木組みのベランダになっている。二階程度なら飛び降りることができる高さだ。だが、目が見えない美耶子はどうだろうか?

 

「大丈夫だ」恭也の心の中を読んだように言う美耶子。「恭也が先に飛び降りて、あたしを受け止めてくれればいい」

 

 簡単に言ってくれるな。二階の高さから飛び降りる女の娘を受け止めるのは、かなりの力が必要だろう。あまり自信はないが、それが最も安全な脱出方法であることは間違いない。やるしかないだろう。恭也はベランダに出て木組みの手すりを乗り越え、飛び降りた。

 

「――いいか?」

 

 続いて手すりを乗り越えた美耶子が見下ろしている。恭也が両手を広げると、ためらうことなく飛び降りた。美耶子は小柄で華奢な身体をしているが、それでも、恭也の想像以上の衝撃だった。支えきれず倒れてしまう。

 

「おい。ちゃんと受け止めろ。それでも男か」文句を言いながら立ち上がる美耶子。

 

「うるさいな。そっちが重いからいけないんだろ?」

 

「な……バカを言うな! あたしは太ってない!」

 

 顔を真っ赤にして否定する美耶子を苦笑いで見つめる。まあ、何にしてもうまく脱出できた。庭に屍人はいない。後は門から出るだけだ。

 

 しかし。

 

「……まずい。拳銃を持ったヤツが、外に出てきた」

 

 美耶子が幻視で確認したようだ。恭也も幻視を行う。拳銃屍人が台所の勝手口から外に出たところだった。周囲を見回した後、こちらに向かって来る。

 

「早く逃げよう」

 

 立ち上がろうとする恭也だったが、右足に鈍い痛みが走り、うまく立てなかった。美耶子を受け止めた時、痛めてしまったようだ。

 

「……あたし、そんなに重かったか?」心配そうな顔で見つめる美耶子。恭也の足を心配しているのか、自分の体重を心配しているのかは判らない。

 

「まあ、折れてはないと思うから、少し休めば大丈夫。どこかに隠れよう」

 

「判った。近くに離れがあるから、そこがいい」

 

 美耶子に肩を借り立ち上がる。少し歩いたところに、美耶子の言う通り離れがあった。入口に鍵はかかっていない。中に入り、戸を閉ざした。

 

 拳銃屍人は庭を徘徊し始めた。幸い離れには興味を示さず、そのまま通り過ぎた。

 

 改めて離れの中を見回す恭也。六畳間で、小さな机とタンスがあるだけの部屋だった。

 

 ただ、壁に、鎌が刺さっていた。

 

「なんだ、これ?」

 

 足を引きずって鎌の所へ行く。柄を持ち、引っ張ってみたが、かなり深くまで刺さっているようで、ビクともしなかった。

 

「――気にするな」

 

 美耶子が静かに言った。

 

「え?」

 

「座って、早く足を直せ」

 

「あ、そうだね」

 

 何か知っているような口ぶりだったが、美耶子の言う通り、今は早く足を直した方がいい。言われた通り恭也は座り、足の回復を待つ。数分で痛みを感じなくなった。

 

「よし。もう大丈夫。行こう」

 

 恭也は立ち上がり、幻視で屍人の様子を探る。包丁屍人と鉈屍人は廃屋の中だ。拳銃屍人は庭を徘徊しているが、一体だけなので隙を突くのは容易だ。恭也と美耶子は、拳銃屍人が離れの前を通り過ぎたところで庭に出て走り、門から敷地の外に出た。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十七話 神代亜矢子 田堀/廃屋離れ 初日/二十三時五十九分四十四秒

「あんただけ消えればよかったのに……なんでこんなことになるのよ!!」

 

 

 

 

 

 

 田堀にある廃屋の離れの中で、神代亜矢子は、怒りと共に右手に持つ鎌を振り下ろした。壁際には妹の美耶子が立っている。鎌の刃先は美耶子の頬をかすめ、壁に深々と突き刺さった。斬り裂かれた頬から赤い血がだらりと流れ出すが、美耶子は表情を変えず、ただ亜矢子を見つめる。その目に、恐怖や怯えといった感情は微塵も宿っていない。決して何ものも映すはずの無い妹の目に宿っているのは、蔑み、あるいは憐れみだった。

 

 ――かわいそうな女。

 

 そう言われた気がした。亜矢子の怒りは黒い炎となって燃え上がる。妹の顔に、今度こそ鎌の刃を刺そうとした。しかし、壁に深く刺さった鎌は、非力な亜矢子の力で抜くことはできなかった。

 

 亜矢子は憎しみを込めた眼で妹を睨む。この女が許せなかった。昨夜の神迎えの儀式。美耶子は神にその身を捧げるはずだった。しかし、儀式は失敗し、美耶子は逃亡。村は、屍人がうろつき、過去と現在とが入り混じる異界と化した。全てこの女のせいだ。許せない。なぜ、みんなこの女のことを大事にするのだろう。この女が生まれた時からそうだった。父も、神代家に仕える者も、そして、自分の許婚である淳さえも。だれもが、あたしよりもこの女を大事にした。みんな、あたしよりもこの女を見ていた。それが許せなかった。神代家にとって、あたしは存在しないも同然だった。だがそれも、神迎えの儀式が終わるまでの我慢だと思っていた。儀式が終わればこの女は消え、淳は、あたしだけを見てくれるはずだったのに。許せなかった。鎌から手を離し、美耶子の首を掴んだ。

 

「このままあたしが力を込めれば、あんたはあの化物の仲間入りね」

 

 勝ち誇ったように笑う亜矢子だが、妹は、相変わらず蔑んだ目を向けている。

 

「お前、何も判ってないな」静かに口を開く美耶子。

 

「な……何よ……?」

 

「あたしは、化物にはならない」

 

 その言葉を、亜矢子は鼻で笑い飛ばした。「バカにしないで。あんたを殺すなんて、簡単なことなんだから」

 

「あたしは死なないよ――お前も、ね」当然のような口調で言う美耶子。

 

「……何言ってるの?」

 

「肉体は滅びても、精神は滅びない。そういう運命なんだよ。あたしも、お前も」

 

「訳の分からないことを……だったら、試してやるわよ!」

 

 両手に力を込める亜矢子。それで、哀れな妹は泣き叫び、命乞いをするはずだ。

 

 だが、美耶子の表情は変わらない。苦しそうな様子もなく、ただ、憐れむ目を亜矢子に向けている。それが亜矢子の胸の黒い炎をさらに終えあがらせる。首をへし折らんばかりに力を込めるが、それでも美耶子の目は変わらない。

 

 

 

 

 

 

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 亜矢子は力を抜き、仕方なく美耶子の首から手を離した。ここでこの女を殺すわけにはいかない。村の怪異を鎮めるために、この女は必要なのだ。

 

 亜矢子は、心を落ち着けるため、大きく息をついた。「……今日の所は許してあげるわ。だから、あんたはさっさと神の生贄になりなさい。そのために、あんたは今まで生かされてきたんだから」

 

 その言葉に、美耶子の表情が初めて歪んだ。目から蔑みが消え、わずかな怒りが宿ったのを、亜矢子は見逃さなかった。気分が良かった。ようやく、この女の上に立てた気がした。

 

 だが、美耶子は。

 

「――だったら、お前は早くあいつの子を産め」

 

 目に、再び蔑みが宿る。

 

「な……なにを……」

 

「あたしは神に捧げられるため、お前は神代の子を産むため――それだけの存在だ」

 

「――――っ!」

 

 亜矢子は、美耶子の頬を思いっきりひっぱたいた。

 

 そして、それ以上は何も言わず、離れから出た。

 

「お前は、何も判っていない」

 

 背中にかけられた美耶子の言葉は、無視した。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十八話 志村晃 蛇ノ塚/県道333号線 第二日/〇時十一分二十六秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 鳴り響くサイレンの音で目を覚ました志村は、一瞬、自分の置かれている状況が判らなかった。道路の真ん中だった。目覚めるのに適した場所ではない。酒に酔って道の真ん中で眠ってしまったのだろうか? いや、若いころにはそういうこともあったが、今はもう、そんなことはない。酒をやめたわけではない。ただ、二十七年前の事故で家族を失って以来、志村は、どんなに酒を呑んでも酔うことができなくなっていた。

 

 ゆっくりと立ち上がる。周囲は暗いが、不思議と、明かりが無い状態でもはっきりと見える。月は出ていない。それだけでなく、強い雨が降っており、空は厚い雲に覆われていた。

 

 道路の先を見た。橋が、崩れ落ちていた。

 

 そして、その先には、広大な赤い海が広がっている。

 

 それで思い出した。

 

 自分は、余所者の女をこの蛭ノ塚に連れて来た後、銃で頭を撃ち抜いたはずだ。

 

 後頭部を触ってみる。手のひらに固まりかけた血が付いたが、傷は無い。傷が治ったのだろうか? 今は赤い水の影響からか、治癒能力が向上している。多少の傷ならすぐに治るが、頭を撃ち抜いても治るとは思えない。

 

 服の裾で手のひらに付いた血を拭った。

 

 肌の色が、血の気を失った深い緑色をしていた。まるで、屍人のようだ。

 

 ――――。

 

 そういうことか――全てを悟る。

 

 志村は笑った。笑うしかできなかった。

 

 化物にならないために自分の頭を撃ち抜いたはずだった。それが、結果として自分を化物にしてしまったのだ。

 

 そう。結局、逃れられない運命だったのだ。

 

 海の向こうからサイレンの音が聞こえる。

 

 生きていたころは不快でしかなかったその音が、今は心地よい。まるで、美しい歌声のようだ。

 

 猟銃は、志村のすぐそばに落ちていた。頭を撃ち抜いてからずいぶん経つはずだ。誰かに持ち去られなかったのは幸いだった。あるいは、これも運命なのか。猟銃を拾う志村。また、お前の世話になりそうだ。

 

 その足は、自然と北へ向かう。

 

 村からは逃れられない。運命からは逃れられない。そのことがよく判った。ならば、自分が帰る場所は、ひとつしかない。

 

 合石岳だ。

 

 志村は山で産まれ、山で育ち、山と共に生きてきた。屍人として生きていくのが運命ならば、山で生きていくしかない。

 

 だが、それもいつまで続くかは判らない。

 

 今はまだ意識がはっきりしているが、そう長くない間に、他の屍人たちと同じように、本能のまま動くようになるだろう。

 

 そして、サイレンに誘われて海に身を沈め、さらなる化物になる。

 

 それが判っていても、いや、判っているからこそ、志村は山へ向かう。

 

 どうせ逃れられぬ運命ならば、せめて意識のあるうちは、山で過ごしたい。

 

 志村は、その場を後にした。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十九話 宮田司郎 宮田医院/第一病棟診察室 第二日/〇時四十九分三十三秒

 屍人と化した恩田美奈を追った宮田司郎は、第一病棟の診察室に戻っていた。求導師の牧野慶と、美奈の妹の恩田理沙が待っているはずなのだが、姿が見えない。三十分ほど前、美奈と思われる屍人が、この診察室へ向かっているのを幻視で確認している。襲われたのでなければ良いのだが……。

 

 入口のドアが開いた。振り返ると。

 

「――先生」

 

 看護師の服を着た女が立っていた。恩田美奈の姿をしている。しかし、美奈は屍人化が進み、今は醜い化物と化しているはずだ。ならば、妹の理沙か。

 

「理沙さん、無事でよかった」

 

 なぜ看護師の服に着替えたのは判らないが、ひとまず触れないでおいた。「牧野さんの姿が見えないのですが、ご存じないですか?」

 

「お姉ちゃんが、先生を探してます」

 

 宮田の質問とは関係の無い答えが返ってきた。

 

「理沙さん?」

 

「どうして、お姉ちゃんの所に行ってあげないんですか」

 

 理沙が、一歩近づいてきた。

 

「私も、早く美奈さんを楽にしてあげたい。しかし、今どこにいるのか……」

 

「あたし、先生が許せません」

 

 また一歩近づく。

 

「理沙さん、どうかしたのですか?」

 

「お姉ちゃんを一人にして……お姉ちゃんを悲しませて……先生が許せません」

 

 さらに一歩、近づいた。

 

「理沙さん。しっかりしてください」

 

「早く、お姉ちゃんの所へ行ってください」

 

 両手を、前に突き出した。

 

 その手が、宮田の首に伸びる。

 

 宮田は小さく舌打ちをすると、逆に、両手で理沙の首を掴んだ。

 

 そのまま、力を込める。

 

 理沙は抵抗しない。全てを受け入れるかのように、目を閉じ、されるがままになっている。

 

 やがて、理沙の全身から力が抜けた。両手がだらりとぶら下がり、がくんと、足が折れた。

 

「……さすが双子だな。死に顔までそっくりだよ」

 

 宮田は、さらに力を込める。

 

 理沙の目から、涙がこぼれ落ちた。

 

 赤い、血のような色をした、涙。

 

 顔から生気が失われ、死を宿した肌の色へと変わる。

 

 理沙は、目を開けた。

 

 耳障りな金切り声で笑い始める。

 

 そして、再び宮田の首に手を伸ばした。

 

「――くそっ」

 

 理沙の首から手を離し、突き飛ばす。うかつだった。いま殺せば、当然、相手は屍人と化す。

 

 屍人と化した理沙は、また、高らかに笑い、宮田に向かって来た。

 

「やれやれ」

 

 宮田はネイルハンマーを取り出すと、容赦なく理沙の頭に打ちつけた。膝をついたところに、さらにもう一度打ちつける。倒れた理沙は、そのまま動かなくなった。美奈の時と違い、特別な感情は沸かなかった。双子の妹とは言え、宮田にとっては、所詮、今朝会ったばかりの女だ。それよりも、美奈と、そして――あまり気は進まないが――牧野を探さなければ。宮田は診察室を出た。

 

 ――助けて。

 

 突然、声が聞こえた。

 

 女の声だった。美奈か? 一瞬そう思ったが。

 

 ――助けて。

 

 美奈の声ではない。理沙でもない。だが、初めて聞く声ではないようにも思う。遠い昔、この声を聞いたような覚えがある。

 

「誰だ?」

 

 周囲を見回すが、薄暗い廊下には誰の気配もない。

 

 ――ここへ来て……この村を……救って……。

 

 村を救う? 宮田は小さく笑った。それは私ではなく、牧野の仕事だ。

 

 まあいい。今は得体の知れない声よりも、美奈と牧野を見つけなければ。目を閉じ、幻視で病院内の気配を探った。何体かの屍人の気配を見つけた。ほとんどの屍人は視点が低く、四つん這いで歩いている。蜘蛛屍人だ。宮田は、屍人については村の誰より詳しかった。赤い水を一定量体内に取り込むと人型の屍人になり、そこから、海送り・海返りの儀式を行うことで、さらに屍人化が進む。蜘蛛屍人は、男のみがなる屍人の姿だった。それに対し、女は犬型の屍人になる。さらに、条件は不明だが、まれにトンボのような羽を持ち宙を舞う屍人になる者もいるし、極めて数は少ないが、知能が高く、他の屍人を操る頭脳屍人(ブレイン)とでも呼ぶべき存在になる者もいる。これらの進化した屍人は、頭脳屍人を除き、人型の屍人よりも身体能力が向上している。だが、よほど数が多くない限り宮田の敵ではない。やっかいなのは、中庭にいる猟銃を持った人型屍人だ。幸い建物内に入って来る様子はないので、放っておいて大丈夫だろう。さらに幻視を続ける宮田。蜘蛛屍人が単独で行動することはない。どこかに頭脳屍人がいるはずで、恐らくそれが美奈だ。しばらく幻視を続けた宮田は、ようやく美奈らしき者の視点を見つけた。天井に張り付き、室内を見下ろしている。いくつものベッドが並んだ広い部屋だが、どこの部屋かまでは判らない。ただ、宮田はその部屋に窓が無いことに気が付いた。地下だろうか? 地下はこの第一病棟にある。行ってみよう。宮田は階段へ向かった。

 

 しかし、地下へ向かう階段の前には扉があり、鍵がかけられていた。診察室にいくつか鍵があったから、それで開けられるかもしれない。一度診察室に戻ることにした。

 

「――先生」

 

 診察室の前へ戻ると、ドアが開き、看護師の姿をした屍人が出てきた。もう復活したのか。向かって来る屍人に対し、容赦なくハンマーを振るう。再び倒れた屍人には目もくれず、診察室へ入る。机の引き出しにあった鍵束から『地下室』の札が付いた鍵を取り、階段へ戻った。鍵穴に差し込み、回すと、静かに扉が開いた。ライトで照らしながら階段を下りた。

 

 地下には三つの部屋があった。倉庫とボイラー室、そして、霊安室だ。手前の部屋から順に確認していく。倉庫、ボイラー室と、誰もいない。残るは霊安室だけだ。宮田はハンマーを強く握りしめると、霊安室のドアを開けた。

 

 しかし、霊安室には棺桶がひとつあるだけで、動く者の姿は無かった。美奈がいるのは地下ではないのか? もう一度幻視を行う。美奈は変わらず窓の無い部屋の天井に張り付き、室内を見下ろしていた。いくつものベッドが並んでいる広い部屋――いや、それは、ベッドにしては少し横幅が狭いように思えた。人一人が横になるのが精一杯の幅だ。それはベッドではなく、手術台であることに気が付いた。ならばこれは手術室か? だが、この二十七年まえの宮田医院はまだ小さい建物で、手術室は無い。どういうことだ? さらに観察を続ける。部屋は壁も床もタイル張りにされてある。そして、いたるところに誰のものとも知れない大量の血が飛び散っていた。もっとも、タイル張りなので簡単に洗い落とせるだろう。まるで、最初から周囲に血が飛び散ることを想定しているかのようだ。

 

 ――これは、拷問室か?

 

 そう思った。ならば、見つからないのも納得がいく。隠し部屋になっているのだろう。驚きはしなかった。現代の宮田医院の建物にも、隠し部屋はいくつもある。当然、拷問用の部屋も。

 

 幻視をやめる宮田。隠し部屋がどこにあるのか見当もつかない。そう簡単に見つけられるとは思えなかった。やっかいなことになった。

 

 ――庭へ。

 

 また、あの女の声が聞こえた。

 

 庭へ来いということだろうか? そこに隠し部屋があるとでも? 判らないが、どうせ手がかりはない。ならば、言う通りにしてみよう。

 

 霊安室を出ようとした宮田だったが、ふと、部屋に一つだけある棺桶が気になった。

 

 その棺桶は木の板を組み合わせただけで、装飾ひとつほどこされていない地味な物だった。ここが霊安室でなかったら、ただの木の箱だと思っただろう。蓋には五寸釘が打ち込まれていた。霊安室にあるということはまだ葬儀は終わってないはずだが、なぜ、すでに釘が打たれてあるのだろう? ちょうど、釘を抜くことができるネイルハンマーを持っている。宮田は、釘をひとつひとつ引き抜き、棺桶を開けた。

 

 中には、黒いビニールシートにくるまれ、ロープで縛られたものが入っていた。大きさは一七〇センチほど。恐らくは遺体だろうが、奇妙なことに、胸と思われる部分に太い鉄の杭が打ち込まれていた。宮田は、杭を持ち、引き抜いた。五十センチほどの長さで、先はまだ鋭く尖っている。何かの役に立ちそうなので、持って行くことにした。

 

 さらに中を調べようとしたとき、棺桶が大きく揺れた。遺体が動いたのだ。特に驚きはしない。今は遺体が動くことは珍しくないのだ。なるほど、と、納得する宮田。これは遺体ではなく屍人なのだろう。ならば、棺桶に入れられ、杭で打たれ、蓋を釘で打たれているのも納得がいく。殺してもよみがえる屍人をとりあえず無力化するには、こうやって拘束するのが一番だ。

 

 これが屍人ならば、これ以上調べる必要もないだろう。宮田は遺体を放置し、霊安室を後にした。

 

 謎の声は庭へ来いと言っていたが、それにはひとつ問題があった。庭には、猟銃を持った屍人がいる。これが狭い場所ならば忍び寄って気付かれる前に倒すこともできるが、庭はそれなりに広く、身を隠すような場所もあまりない。屍人も周囲を警戒しており、気付かれずに接近するのは難しいだろう。蛇ノ首谷(じゃのくびだに)で公衆電話を使って猟銃屍人を誘い出した時のような策が必要だ。何かないだろうか? 宮田は幻視を使って庭の屍人を観察する。庭の中央には二十七年前の院長――宮田の祖父に当たる人物だが――の石像があり、屍人はその周りを歩いているようだ。時折立ち止まり、第二病棟の外壁をじっと見ている。そこに、鉄製の小さな扉があった。最近の建物に設置されることはまず無くなったが、高層階から一階の集積場にごみを運ぶためのダストシュートだ。

 

 幻視をやめた宮田は階段を上がり、二階から渡り廊下を進んで第二病棟へ移動した。途中、何体かの蜘蛛屍人と遭遇したが、ハンマーで問題なく撃退する。ダストシュートの投入口までやって来た。さきほど中庭の屍人が見ていた鉄の扉と繋がっており、ここにごみを入れれば、一階まで落とすことができる。

 

 牧野は、何か使える物はないかと、近くの部屋を探す。入院患者用の部屋に脳波測定器が置かれてあった。最近の物は小型化が進んでいるが、二十七年前の物だからかなり大きく、重量がある。これは使えそうだ。宮田は測定器を抱え、ダストシュートのそばまで運んだ。続いて、入院部屋から椅子を持ち出し、踏み台にして天井の蛍光灯を一本外した。

 

 宮田はダストシュートの投入口を開けると、蛍光灯を放りこんだ。がちゃん、と、割れる音が鳴り響く。庭にいる屍人にもその音が聞こえたようだ。警戒しながらダストシュートへ向かって来る。そして、ダストシュートの扉を開けると、中に頭を突っ込み、覗きこんだ。投入口からもそれが確認できる。宮田は、屍人の頭めがけ、脳波測定器を落とした。頭蓋が砕ける音と、屍人のうめき声が聞こえた。動かなくなる屍人。これで大丈夫だ。宮田は階段を下り、庭へ出た。

 

 宮田を導くような謎の声を信用するならば、どこかに隠し部屋への入口があるはずである。と、言っても、庭には先代院長の石像くらいしかない。周囲を観察すると、地面に何かを引きずったような跡があった。ここか? 宮田は石像を押してみた。石像は二メートルを超える大きさで、重量は五トンを超えると思われるが、少し力を込めただけで、ずるり、と、簡単に動いた。石像の下からは、地下へと続く階段が現れた。思った通りだ。階段を下りる。いくつもの部屋が並んだ細い通路だった。部屋の入口は扉ではなく鉄格子になっている。各部屋は二畳ほどの狭さで、粗末なベッドと小さな机、そして、トイレがあるだけだ。牢獄、それも、地下牢と呼ぶのにふさわしい場所だ。

 

 宮田は特に驚きもせず廊下を進む。このような牢獄は、現代の宮田医院にも存在する。到底病院とは思えない設備だが、むしろ、これこそが宮田医院の真の姿だと言っていい。

 

 宮田医院は、表向きは羽生蛇村唯一の病院だが、その裏では、神代家や眞魚教に逆らう者を捕え、拘束し、時には密かに処分するという役割を担っている。宮田が他者を倒す術に長けているのはそのためだ。幼い頃から、医学だけでなく、暗殺術や拘束術、拷問術などを徹底的に教え込まれた。羽生蛇村において、宮田医院は非合法な行為を秘密裏に行う『闇』の存在であり、村人に神の教えを説き、人々を導く『光』の存在である教会とは対極にあると言える。

 

 廊下を進む宮田。最も奥まった場所に両開きの鉄扉があった。ノブに手をかけ、大きく息を吐いて扉を開けた。タイル張りの広い部屋に、いくつもの手術台が並んでいる。幻視で見た美奈の視点と同じだ。美奈が、いる。

 

 どさり、と、天井から美奈が降ってきた。

 

「……先生……会いたかった」

 

 見にくいこぶだらけの顔を向け、口元に笑みを浮かべる。

 

「私も会いたかったよ、美奈」

 

 同じように笑みを返した。

 

「先生……こっちへ来て……」

 

 美奈が、シャベルを振り上げた。

 

 一瞬、美奈の言う通りにするべきかと思ったが。

 

 ――村を、救って。

 

 また、あの声が聞こえた。

 

 宮田は。

 

 ――すまない、美奈。

 

 ハンマーを美奈の頭に打ちつけた。容赦はしなかった。

 

 動かなくなった美奈を抱き、手術台へ寝かせた。

 

 この部屋には、もう一人、いる。ずっと、宮田に呼びかけていた者が、いる。

 

 部屋の奥を見る。

 

 鉄製の椅子に、骨と皮だけの遺体が座っていた。

 

 目と口に布を巻きつけられてあり、首、腰、両足、左腕が、ベルトで固定されてある。それで、この椅子が人を拘束するための物であると判った。遺体に目立った外傷はなかった。拘束され、そのまま放置された末に死んだのだろう。視界を奪われ、助けも呼べず、ただ放置されるのは、どんな拷問よりも苦痛かもしれない。唯一、右手は拘束されていなかった。何か持っている。二体の人形のようであった。

 

 宮田は遺体に近づいた。

 

 遺体の手が、ゆっくりと動いた。

 

 ほう、と、感心する宮田。こんな木乃伊(ミイラ)のような姿になっても、屍人は動くことができるのか。

 

 木乃伊は、右手に持つ人形を宮田に差し出す。受け取れということか。宮田は人形を手に取った。土をこねて人型にし、焼き上げた人形・土偶だ。二十センチほどの大きさで、一方の人形には剣、もう一方には盾の紋様が掘りこまれている。

 

 ――これは、宇理炎(うりえん)か?

 

 宇理炎とは、かつて村の郷土資料館に重要文化財として保管されていた物だ。発祥や年代は不明だが、戦いを司る精霊を模した形状と考えられ、武功を祈願する古代の祭祀(さいし)に用いられた呪具ではないかと推測されていた。宮田が実物を見るのはこれが初めてだ。今、郷土資料館には写真が展示されてあるだけだ。と、いうのも、宇理炎は、二十七年前の土砂災害の前日、何者かによって盗まれたのだ。その宇理炎が、なぜこんな所にあるのだろう? この木乃伊は、宇理炎を盗んだ者なのだろうか? だから捕えられ、拷問され、そして、異界に巻き込まれた――そういうことだろうか? だが、ただの泥棒を宮田医院の者が捕え、拷問するというのもおかしな話だ。

 

 ――村を……救って……。

 

 また、声が聞こえた。

 

 この宇理炎を使って村を救えということだろうか? だが、どう見てもただの土偶で、武器にはなりそうにもない。

 

 それに。

 

「村を救うのは私ではなく、牧野の仕事だ」

 

 木乃伊に向かって言った。自分は羽生蛇村の『闇』の存在。村人を導き、救うのは、村の『光』の存在である眞魚教の教会がやることだ。

 

 ドアが開いた。振り返ると。

 

「……先生……お姉ちゃんの所へ……」

 

 看護師の格好をした理沙の屍人がいた。

 

 両手を前に出し、フラフラと近づいてくる。

 

「……やれやれ。しつこい女だ」

 

 宮田はハンマーを振るった。

 

 そして、倒れた屍人を、美奈の隣の手術台に寝かす。

 

 そろそろ美奈はよみがえるだろう。屍人である限り、何度でもよみがえる。永遠に苦しみ続けることになる。

 

 屍人になる前の理沙と約束した。美奈を、今の苦しみから救う、と。

 

 部屋を見回す。ここは拷問部屋だ。さまざまな、拷問用の道具がある。

 

 宮田は、美奈と理沙を手術台に縛り付けた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十話 牧野慶 宮田医院/地下実験室 第二日/四時四十四分三十九秒

 宮田医院の地下牢の廊下で、牧野慶は呆然と立ち尽くしていた。宮田医院にこのような場所があることは知っていたが、実際に見るのは初めてだった。牢獄は狭く、薄暗く、いたるところに黒い虫が這いずり回っており、とても人が生きていく場所には思えない。ここに入れられた者は、人としての尊厳を奪われるに等しい、そう思えて仕方がない。いや、実際に尊厳は奪われるだろう。ここは、刑務所とは違う。この牢に入れられた者は、自分の足で歩いて外に出ることは、決してない。

 

 廊下の奥の部屋からは女性のものと思われる悲鳴が断続的に聞こえて来る。闇に潜む怪物が息絶える時の声を思わせる。断末魔の悲鳴と呼ぶにふさわしい不気味な悲鳴だ。それが、何度も聞こえる。それだけ多くの者の命が奪われているのか、あるいは、死に等しい苦しみを何度も繰り返し与えられているのか。

 

 扉の前に立つ牧野。開けたくはない。宮田医院の地下牢は、村の暗部とも言える場所だ。眞魚教の求導師である自分が関わるような場所ではない。だが、求導師である以上、確認しなければいけないという使命感もある。しばし迷い、牧野は覚悟を決め、ゆっくりと、扉を開けた。

 

 二つの手術台に、二体の屍人が拘束されていた。一体は醜いこぶだらけの顔をした恩田美奈の屍人で、もう一体は、妹の理沙の姿をしていた。ああ。理沙さんも、屍人となってしまったのか。

 

 宮田は、二人のそばに立ち、カルテに何かを記入していた。奇妙なのは、彼の足元に転がっているものだった。マネキン人形のものと思われる手や足がいくつも転がっている。赤いペンキのようなものが雑に塗られ、まるで血のようだった。ペンキは、床や壁にも飛び散っている。

 

 宮田がこちらを見た。

 

「……ああ、牧野さん。ご無事で何より」

 

 小さく笑う宮田。心のよりどころが見えない、感情の無い笑顔だった。

 

 恐る恐る部屋に入る牧野。「宮田さん……これは……一体……」

 

「理沙さんと約束しましたからね。美奈を救うと」

 

「そう、でしたね。しかし……」

 

「でも、できないんですよ」

 

「――――」

 

 意味が判らず、言葉を失うしかない牧野。

 

 宮田の顔から笑みが消えた。「どうやっても、美奈を救うことが、できないんです」

 

「それは……どういう意味ですか……?」

 

「言葉通りですよ。美奈を救う手段が、私には思いつかない。見てください」

 

 宮田はカルテを差し出した。

 

 受け取った牧野は、宮田の表情を伺いつつ、カルテを見た。赤いペンキはカルテにも飛び散っており、大部分が読めない。わずかに読める部分だけ目を通していく。……大腿静脈切断……前肘部切開……腹部切開……頭部切開……体内に見られる赤い液体に赤血球存在せず……別種の結晶……治癒と再生………。

 

 牧野は顔を上げた。「これは、どういうことでしょうか……?」

 

「ですから、書いてある通りですよ」宮田は無表情なまま答える。

 

「すみません。医学には疎くて」

 

「仕方がないですね」宮田は、理沙の手術台の上に置かれていたネイルハンマーを手に取った。「実際に、やって見せましょう」

 

 そして、ハンマーを振り上げると。

 

 理沙の顔に、打ちつけた。

 

 あの、何度も聞こえた断末魔の悲鳴が上がる。

 

 理沙の鼻は潰れ、顔は陥没し、血が飛び散った。

 

 宮田はもう一度ハンマーを振り上げると、また、理沙の顔に打ちつけた。最初よりも少し上部、目の部分だ。鼻のあった部分と同じように大きく陥没する。血が飛び散ると同時に、小さな球体のものが床に落ち、牧野の足元まで転がって来た。それは、理沙の眼球だった。苦痛に満ちた視線を向けているように思えた。もう片方の目は、宮田の足元に転がっていた。宮田は、まるで害虫を殺すかのように、それを踏み潰した。さらにハンマーを打ちつける。今度は口に当たった。折れた歯が床に散らばった。さらに、何度もハンマーを打ちつける。悲鳴はただのうめき声に変った。血が飛び散り、肉片が飛び散り、最後には脳が飛び散った。それでも、宮田はハンマーを振るい続ける。何度も何度も打ち付ける。理沙の頭が形を失っていく。やがて、頭はただの肉塊と化した。宮田はようやく手を止めた。

 

 そして、理沙の返り血を浴びた顔を、牧野に向けた。

 

「……こうやって、完全に頭を潰しても……」

 

 大きく息をつくと、今度は美奈が縛り付けられた手術台を見る宮田。その下の床には、大きなのこぎりが転がっている。それを拾い、美奈の首に当て、そして、引いた。静脈が切れたのだろうか、飛び散る血の勢いは、理沙の時とは比べ物にならない。悲鳴も、理沙の時とは比べ物にならない。のこぎりは部屋に備え付けてあった物だろう。すなわち、二十七年以上前のものだ。刃は錆び、多くが欠け、切れ味は決して良くないはずだ。それを、引いては押し、引いては押しを繰り返す。肉が斬り裂かれる。血飛沫が飛び、悲鳴が飛ぶ。やがて、肉を斬り裂く音は、何か硬い物に刃が当たる音に変った。さらに力を込めてのこぎりを引く宮田。がり、ごり、と、その硬い物を斬っていく。骨を斬っているのだと牧野が気付いた時、のこぎりの刃は、美奈の首の半分以上まで埋もれていた。悲鳴は、いつの間にか無くなっていた。さらにのこぎりを引く。やがて、胴から切り離された頭が、ごとり、と、音をたて、床に転がった。

 

 宮田が牧野を見た。「……こうやって、首を斬り落としても……」

 

 再び大きく息をつき、視線を理沙に移した。頭を潰されたはずの理沙だったが、いつの間にか、元の美しい顔――もっとも、血の涙を流し、深い緑色の肌をしているが――に、戻っていた。

 

 宮田は美奈の方を見る。美奈の首の斬り口から、細長い触手のようなものが何本も生えていた。それが、床に向かって伸びていく。まるで、失った(あるじ)を探しているかのようだ。うねうねとうねりながら床を探った触手は、やがて主――美奈の頭部を見つけた。絡みつき、引き寄せる。そして、元の場所まで持ってくると、首の斬り口と、頭部の斬り口を合わせ、触手は体内に引っ込んだ。首の傷が消えてゆく。美奈の首は元通りになった。

 

 宮田は大きくため息をついた。「……すぐに再生しちゃうんですよ」

 

「宮田さん……あなた、自分が何をしているのか判っているんですか……」震える声の牧野。

 

「もちろん、判ってますよ。美奈を救おうとしてるんです。ついでに、理沙さんもね。でも、できないんです。どこを斬り刻んでも、どこを叩き潰しても、すぐに再生してしまう。参っちゃいますよね。これじゃあ、医者なんて用ずみだ」

 

 自嘲気味に笑った。

 

 それで、ようやく牧野は気が付いた。床に転がっている手足は、マネキンではない。床や壁を濡らしている赤い液体は、ペンキではない。美奈と理沙から斬り離された手足、そして、血なのだ。

 

 宮田は続ける。「しかし、因果なものですよね。私は子供の頃、医者として、純粋に村の人の命を救いたかった。でも、父や母から教えられたのは、命を救うのとは真逆の、人を殺すための手段だった。そんなことはしたくなかったんですが、逆らえなかった。でも、今、その人を殺す手段を使って、美奈を救うことができると思ったのに……。今度は、殺すことができないんですよ。私は、一体何のためにこの村に存在するのでしょう。もう、判らなくなってしまいました」

 

 牧野は、憎しみを込めた眼を宮田に向けた。「よくもこんな酷いことを……美奈さんも……理沙さんも……村の大切な住人なのに……」

 

 宮田の顔に、一瞬、激しい怒りが宿った――ように見えた。

 

 だが、すぐに感情の無い顔に戻る。あるいは、気のせいだったのかもしれない。

 

「牧野さん、酷いのはあなたですよ」低い声で言う。

 

「……え?」

 

「私がこんなことをするのは、これが初めてではない。もう何人も、村の人に、同じことを繰り返してきました。知らないとは言わせませんよ? すべて、神代家と、教会のためにやって来たことですからね」

 

「わ……私がやれと言ったわけじゃない……全ては、神代の命令で……」

 

 宮田は、また自嘲気味に笑う。「まあ、今さら別に構いませんけどね。あなたは村人を導く求導師。私とは対極の場所にいるんですから。ああ、そうだ。牧野さんに渡す物があったんだった。誰だか知らないんですが、この部屋にいた女の人に、村を救ってくれって、託されたんですよ」

 

 宮田は懐から何かを取り出そうとしたが。

 

 牧野は後ずさりする。「……やめろ……あんた……狂ってるよ」

 

「ですから、酷いことを言わないでください。私はあなたのために――」

 

「狂ってる!」

 

 牧野は拷問室から逃げ出した。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十一話 美浜奈保子 蛭ノ塚/水蛭子神社湧水 第二日/三時三十三分三十三秒

 蛭ノ塚にある水蛭子神社のそばで、美浜奈保子は襲いくる化物相手に、一人で戦っていた。合石岳で拾った銃はすでに撃ち尽くしていた。他に武器はない。頼れるのは、Vシネマ『ヒットマン女豹』の撮影時からずっと続けている護身術だけだ。ナイフを持って襲ってくる男を背負いで投げ飛ばし、四つん這いで跳びかかってくるイヌ女の顔面を蹴り上げ、空から銃を撃ってくるハエ男には石を投げ、落ちてきたところに顔面パンチを叩き込む。それでも、化物は次々と襲いかかってくる。倒した化物もよみがえる。これでは、キリが無い。

 

 ――ボスは、ボスはどこ!?

 

 これまでの戦いから、イヌ女やハエ男、クモ男には、小学校にいた変態タコ男のようなボスがいて、そいつを倒せばみんな動かなくなることを知っていた。だから、何よりもボスを倒すことが先決なのだ。視界をジャックする能力でボスの存在は掴んでいるが、ここは初めて訪れる場所なので、どこにいるのか判らない。走り回って探しているが、見つからない。襲ってくるのはザコばかりである。

 

 赤い池がある広場にやって来た。すぐ近くに神社の社殿があり、その向こうには小さな祠のようなものもある。この近くにボスがいるはずだ。どこだ? 探す。社殿の陰から化物が飛び出してきた。鎌を振り上げている。人型の化物で、ボスではない。邪魔よ! 鎌をかわし、顔面に膝蹴りを叩き込もうとした。

 

 しかし。

 

 鎌をかわすことはできたが、その刃先が、奈保子のウエストポーチをかすめた。

 

 ポーチは引き裂かれ、中のビデオカメラが地面に転がる。

 

 しまった! すぐにカメラを拾おうと手を伸ばすが、化物が鎌を振り上げたので、反射的に間合いを取る。

 

 化物はさらに襲い掛かってくる。

 

 その右足が、カメラの上に来て。

 

 がしゃり、と、踏み潰される音。

 

「ああ――!!」

 

 声を上げる奈保子。

 

 カメラは、無惨にもバラバラになっていた。

 

「このぉ!!」

 

 もはや鎌をかわすのも忘れ、踏み込む奈保子。

 

 鎌が左肩に刺さったが、関係ない。怒りを込めた拳を、化物の顔面に叩き込む。化物は大きく吹っ飛んだ。

 

 ――DVD! 中のDVDさえ無事なら!!

 

 カメラの残骸を拾い、DVDを取り出すスイッチを押す。カメラは所詮録画機だ。中のDVDさえ無事なら、これまで録画した映像は、別の機械で見ることができる。

 

 しかし――。

 

 開かれたカメラの中のDVDは、真っ二つに割れていた。

 

 このDVDには、この二十四時間の出来事を記録している。合石岳で迷い、三隅鉱山で吉川菜美子ちゃんのランドセルを拾い、村のいたるところで化物に襲われた。

 

 その、全てを記録したカメラが、DVDが。

 

 壊れてしまった。

 

 これを東京に持ち帰る――それだけを目標に、ここまで、一人で戦って来たのに。

 

 奈保子は、崩れるように膝をついた。

 

 ――もうダメだ、あたし。

 

 左肩に刺さった鎌を引き抜いた。血が勢いよく噴き出すが、痛みは感じなかった。この程度の傷ならば、三十分もしないうちに治るだろう。

 

 だが、壊れてしまったカメラとDVDは、決して元に戻らない。

 

 悲しくはなかった。むしろ、おかしかった。こらえきれず、奈保子は笑う。これまでやって来たこと、そのすべてが、一瞬で無駄になった。それがおかしくて、笑った。笑って、笑って、涙が出るまで笑い続けた。

 

 ――あたし、何やってるんだろ。

 

 不意に、全てがバカバカしくなった。

 

 自分は、今まで何を必死になっていたのだろう? もう、判らなくなった。一体なぜ、こんなことになってしまったのか? 自分はただ、神代家の秘祭というのを取材しようとしただけだ。途中から目的が失踪した吉川菜美子ちゃんの捜索や、村で起こっている怪異を全国に伝えることに変わったが、本来は、ただ、ダークネスJAPANを少しでも良い番組にするために、できる限りのことをしようと思っただけだ。それがいけなかったというのか? 番組のプロデューサーは、秘祭の調査などする必要はないと言った。事前に用意したヤラセを撮影するだけで、それ以上のことをするつもりはなかった。少しでも面白い番組にしようという気持ちなど無かった。それが正しかったということなのか? あの時、あたしも秘祭の撮影などしようとせず、山を下りなければ、こんな怪異に巻き込まれることはなかったかもしれない。あたしが、少しでも良い番組にしよう、なんて余計なことを考えなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。

 

 思えば。

 

 これまでの人生、ずっとそうだった。

 

 あたしがどんなに努力をしても、それが報われたことは、無い。

 

 ダークネスJAPANの出演が決まった後、時間がある時はオカルトや民俗学について勉強した。ロケの前日には入念に事前調査をし、撮影に備えた。だが、それが役に立ったことは一度もない。どんなに知識を披露しても、そのほとんどがカットされ、放送で使われることはまずない。プロデューサーがあたしに求めているのはそんなことではないのだ。ギャラの安さと、用意されたシナリオを忠実に実行することと、少しの色気、それが全てだ。所詮はくだらないバラエティ番組だ。それ以上のことは必要ない。なのに、あたしは何を必死に勉強していたのだろう?

 

 四年前に出演したVシネマ『ヒットマン女豹』の時もそうだ。アクション映画ということで、アクションを猛勉強した。武術を習い、何本もアクション映画を観て研究し、海外で射撃訓練も行った。だが、それも役に立つことはなかった。スタントマンを立てずにすべて一人で演じ切ったが、公開後、待っていたのは批判の嵐だった。「素人が軽い気持ちで手を出すな」「あの程度でアクションやった気になってんじゃねーぞ」「BBAがムリして痛々しい」……ネットを中心にさんざんバッシングされた。当然だろう。素人が数ヶ月で身に着けたアクションなど、プロのアクションには遠く及ばない。なのに、無理矢理でしゃばって、結果的に作品のクオリティを下げてしまったのだ。あたしなんかがやるよりも、普通にスタントマンを立てた方が良かったのだ。そうすれば、バッシングされることもなかっただろう。実際、主役の若いアイドルは、アクションどころか演技すらまともにできなかったが、それでもその可愛らしい笑顔が好評だった。そのアイドルは続編にも出演したが、あたしに出演のオファーが来ることはなかった。なのに、あたしは何を必死にアクションの練習を続けていたのだろう?

 

 ――努力は必ず報われる。どんな時でも前に向かって進め。

 

 十年ほど前、奈保子が所属していたアイドルグループのリーダーが言っていた言葉を思い出す。この言葉を信じ、くじけそうなときは、いつもこの言葉をつぶやいていたが。

 

 ずっと、心の奥底では思っていた。そんなことは嘘だ。

 

 どんなに努力しても報われることはない。どんなに前に向かって進もうとしても無駄だ。もう、どっちが前かも判らない。

 

 そう、努力なんて無駄だ。

 

 アイドル時代、あたしは何の努力もしていなかった。歌もダンスも演技も適当だった。それでも仕事は勝手に舞い込んできた。

 

『ヒットマン女豹』で主演を務めた娘もそうだ。アクションもせず、演技もせず、ただ笑っているだけで評価された。

 

 今のあたしと、何が違うというのだろう?

 

 判っている――若さだ。

 

 アイドル時代のあたしは、若かったから、努力せずとも仕事に溢れていたのだ。

 

『ヒットマン女豹』で主演を務めた娘も、若かったから、何もせずとも評価されたのだ。

 

 若さは、努力を上回る――それが、芸能界という場所なのだ。

 

 その若さを失ったあたしは、もう、どんなに努力しても無駄なのだ。

 

 オカルトや民俗学を学んでも、武術を習っても、アクションを勉強しても、そんなのは誰も見ていない。誰も評価してくれない。誰も望んでいない。

 

 全てが、無駄なことだったんだ。

 

 それが今、ハッキリと、判った。

 

 だから笑った。笑うしかなかった。

 

 どれくらい、笑い続けたか――。

 

 ふと、赤い泉を見た。

 

 ――永遠に若き女。

 

 小学校の図書室で読んだ民話集を思い出す。

 

 年老いた女が、村に湧いた赤い水を浴び、若い姿を取り戻した。

 

 あたしも、あの赤い水を浴びれば、若返ることができるだろうか? 若返ることができたら、十年前のキラキラした人生を、もう一度味わうことができるだろうか?

 

 奈保子は、ふらりと立ち上がると。

 

 誘われるように、赤い泉へと歩いていく。

 

 永遠の若さ……永遠の若さ……。

 

 呪文のようにつぶやく。

 

 泉に足を浸した。ひんやりと冷たかったが、何か、力が体内に入って来るような気がした。さらに進む。膝まで泉に浸かった。この泉の奥に、ずっと探し求めていた永遠の若さがある。そう信じて、さらに進む。腰まで浸かり、胸まで浸かり、そして、顔まで浸かり――。

 

「――こんばんは。暑いですねぇ?」

 

 ふいに。

 

 後ろから、声を掛けられた。

 

 振り返ると。

 

 泉のそばに、黒縁の眼鏡をかけた、若い女が立っていた。

 

 二十代前半……学生だろうか。じーっと、こちらを見ている。

 

「暑いから、泳ぎたくなる気持ちは判るんですけど、この水、汚いですから、やめておいた方がいいですよ? さあ、早く上がりましょう」

 

 そう言って、手を伸ばす。

 

 何が起こっているのか判らず、呆然としていた奈保子だったが。

 

「ね?」

 

 女がにっこりと笑った。

 

 その笑顔に惹かれたのか、奈保子は、女の手を取った。

 

 ぐいっと引っ張られ、陸へ上がる奈保子。

 

「ふう。良かった」

 

 女はそのまま奈保子の手を引き、泉の近くにある東屋まで連れて行ってくれた。

 

「全身ずぶぬれになっちゃいましたね。まあ、暑いですから風邪をひくことはないでしょうし、もし風邪をひいてもすぐ治りますから、たぶん、大丈夫でしょう」

 

 そう言って、女はまたにっこりと笑う。

 

 何と答えたらいいか判らず、奈保子は黙っているが、女はそんなことは全く気にしていないかのように、一人で話し始める。

 

「あたし、東京で大学生してるんですけど、そこの講師が、村で何か調査するとかで、助手として、無理矢理連れて来られたんですよ。お姉さんも、村の人じゃないですよね?」

 

 眼鏡の女は、覗き込むように奈保子の顔を見た。

 

「え……ええ……」曖昧に返事を返す。

 

「そうだと思いました。お姉さん、すごくキレイだから、こんな田舎の村にはちょっと場違いだなーって。東京から来たんですか? お仕事、何してるんですか?」

 

 ずいぶんと人懐っこい性格のようだ。奈保子は、苦笑いを返すことしかできない。

 

「――おい、勝手に動くなと言っただろう」

 

 社殿の方から男の人の声がした。

 

「あ、先生。お疲れ様です」眼鏡の女がペコリと頭を下げた。そして、奈保子に向かって言う。「さっき言った、大学の先生です」

 

 男がこちらへやって来た。「まったく……何をしているんだ」

 

「スミマセン。ちょっと、屍人さんじゃない人を見つけたので、お話ししようと思って」眼鏡の女は、奈保子を男に紹介する。「こちら、さっき友達になった方です。名前は、えーっと……まだ聞いてなかったですね?」

 

 奈保子にしてみれば友達になったつもりなど無かった。面倒だな。あたしは早く永遠の若さを手に入れたいのに。奈保子は、黙って立ち去ろうとした。

 

 男が、はっとした表情になる。

 

「な……なぽりん……」

 

 懐かしい名で呼ばれ、思わず足を止める奈保子。

 

 なぽりんとは、アイドル時代の奈保子の愛称だ。メンバーやファンからそう呼ばれ、親しまれていた。今、この名で呼ばれることはまず無い。二十八歳にもなってなぽりんもないだろうし、そもそもアイドル時代の奈保子を知っている人も少ないのだ。

 

 あたしのことをなぽりんと呼ぶ。それは、アイドル時代のあたしを知っているということだ。

 

 眼鏡の女が男に不審そうな目を向ける。「……はい? なぽりん? 先生、なにを言って――」

 

 眼鏡の女をぐいっと押しのけ、男が前に出た。「お久しぶりです、なぽりん。まさか、こんな田舎村で、あなたに会えるとは」

 

 戸惑う奈保子。お久しぶり? 何処かで会ったことがあるだろうか? 思い出せない。

 

「ああ、失礼。混乱させてしまいましたね。あなたは、私のことを覚えていなくて当然です。最後に会ったのは、もう何年も前のことですし。それに、私にとってあなたは特別な存在だが、あなたにとって私は特別な存在ではない。いや、決して、特別な存在であってはならないのです。それが、アイドルとファンの関係というものですから」

 

 その、キザったらしい口調に、心当たりがあった。

 

 そうだ。思い出した。アイドル時代、握手会やコンサートなどに、必ずと言っていいほど駆けつけてくれた人だ。当時、奈保子のファンクラブでリーダー的存在だった人でもある。髪が伸び、十年分歳を取り、雰囲気がだいぶ変わったが、間違いないだろう。名前は確か……。

 

「……TMNさん?」

 

 記憶の奥底から掘り起こした名を言う。ブログなどにコメントしてくれるとき、そのハンドルネームを使っていたように思う。握手会などでも、その名で会話していた。

 

 奈保子の言葉に、男の顔はパッと明るくなった。「ああ! まさか、なぽりんに覚えていただいていたとは! 光栄です。もう、天にも昇る心地ですよ」

 

 TMNの顔とは対照的に、眼鏡の女の顔はどんどん暗くなっていた。不審そうに男を見ていた目は、軽蔑するような目に変っている。「……先生、さっきから何言ってるんですか? その女の人、知り合いなんですか?」

 

「バカモノ! なぽりんだ! かつて、あの国民的アイドルグループの人気メンバーとして名をはせた美浜奈保子を、知らんというのか!?」声を上げるTMN。

 

「はい、知りません」眼鏡の女はキッパリと言った。

 

「バカな! 十年前だぞ? 貴様は十歳くらいのはずだ! ちょうど、女性アイドルに憧れる年頃だろう? 当時、テレビで何を観ていた?」

 

「えーっと、十歳の頃なら、セーラームーンとか、ミラクルガールズとかですね」

 

 TMNは大げさにため息を付き、頭を抱えた。「まったく……貴様には失望したぞ」そして、再び奈保子を見る。「失礼。できの悪い教え子なもので。後できつく叱っておきます」

 

「あ……いえ、そんな……」大きく手を振る奈保子。奈保子が人気だったのはもう十年も前の話であり、今の若い娘が知らないのは当然だった。

 

 それにしても、参ったな。まさか、こんなところで昔のファンの人に会うとは。

 

 昔のファンの人に会う。これは、奈保子にとってうれしいことでもあり、同時に、苦痛でもあるのだ。

 

 と、いうのも。

 

「ところで、こんなところで、何をされているのですか?」

 

 TMNが首を傾ける。

 

 ああ、やっぱり、そうなるよね。心の中でため息をつく奈保子。

 

 昔のファンの人に会うのは珍しいことではない。今は落ちぶれたと言え、昔は超売れっ娘アイドルで、当時のファンクラブの会員数だけでも十万人を超えていたのだから当然だ。

 

 しかし、昔はファンだった、ということは、今はもうファンではない、ということでもある。現在の奈保子を知っている人はほとんどいない。だから、昔のファンに会うと、必ずと言っていいほど「今、何をしてるんですか?」と訊かれる。現在、奈保子が持っている唯一のレギュラー番組はダークネスJAPANだけだ。そう答えるしかない。当然のごとく、CSの深夜にやっているマイナー番組を知る者もほとんどいない。相手は戸惑い、憐れむような、蔑むような目で見て、「じゃ……じゃあ、ガンバってくださいね」と、気まずそうに去って行くのだ。その度に、落ちぶれた自分が情けなくなってくる。かつて応援してくれた人に落ちぶれた姿を見られ、恥ずかしくなってくる。あんなに応援してくれたのに、その期待に応えることができず、申し訳なく思えてくる。

 

 もう、あたしなんて誰も見ていない、誰も知らない。

 

 そのことを、イヤというほど思い知らされる。

 

 それが、たまらなくつらい。

 

 だから、うつむいたまま、何も答えることができない。

 

 しかし。

 

「あ、まさか、ダークネスJAPANの撮影ですか!?」

 

 思わぬ言葉に、顔を上げる奈保子。

 

 TMNは、目を子供のようにキラキラと輝かせていた。

 

「あ……えっと……」奈保子は、言葉を選ぶように、ゆっくりと言う。「TMNさん、ダークネスJAPANのこと、知ってるんですか?」

 

「当たり前ではないですか! 毎回、楽しみにしています。観るだけじゃなく、全部録画し、保管してありますとも! あれは、素晴らしい番組です」

 

 当然のことのように言うTMN。

 

 後ろにいる眼鏡の女がTMNに向ける視線は、軽蔑するような目から、汚いものを見る目に変っている。「えー、ダークネスJAPANって、ときどきCSの深夜にやってる、くっだらないオカルト番組でしょ? 先生、あんなの見てるんですか?」

 

 TMNは、鬼のような形相で眼鏡の女を見た。「くだらない番組だと? 貴様、なんということを」

 

「だって、ホントのことじゃないですか。あの番組でやってることって、都内のマンションに住む口裂け女に会いに行くとか、虫取り網でスカイフィッシュを捕まえるとか、そんなのばっかりでしょ? で、口裂け女はただ口が大きなおばさんだったし、スカイフィッシュだってよく見ればただの模型だし、ヤラセもいいとこですよ」

 

「くだらないと言うワリには、ちゃんと観ているようだな?」

 

「うるさいですね。深夜で他に観る番組が無いから、仕方なく観てただけですよ」

 

 TMNは、両手を広げ、大げさに首を振った。「やれやれ。コレだから素人は困る。いいか。確かに、あの番組で取り扱う内容はくだらない。しかし、番組の本質はそんなことではないのだ。あの番組になぽりんがどれだけ情熱を注いでいるのか、貴様には判らないのか? 私には判る。なぽりんは、ときどき、鋭い洞察や、深い知識を披露することがある。口裂け女の回では、口裂け女のルーツとなった滋賀県や岐阜県の昔話を披露したし、スカイフィッシュの回では、ハエがビデオに映ることで未知の生物に見えるメカニズムを紹介した。ああいった知識は一朝一夕で身に付くものではない。オカルトや民俗学、現地の事前調査を入念に行って、初めて身に付く知識だ。それは、少しでも良い番組にしようというなぽりんの気持ちの表れなのだ! ダークネスJAPANはオカルト番組ではない。どんな事にも全力で取り組むなぽりんの姿を見て、努力することの大切さを学ぶ番組なのだ!」

 

「……あらら。語り始めちゃったよこの人」

 

「なぽりんの努力を語る上で欠かせないエピソードがある。『ヒットマン女豹』というVシネマを知っているか?」

 

「あ、それは知ってます。あの映画の主演の娘、カワイイですよね」

 

「フッ……だから貴様は素人だというのだ。確かに主演の娘はカワイイが、『ヒットマン女豹』の見どころはそこではない。あの映画で、なぽりんがスタントマンを使わず、すべてのアクションを一人でこなしたのは有名な話だ。それがどれだけ難しいことなのか貴様には判るか、いや、判るまい。いいか。アクション映画だけでなく、特撮ヒーローもののメンバーやヒロインを演じる女優は星の数ほどいるが、そのほとんどが、アクションシーンではスタントマンを立てている。オーディションでは『ずっとアクションに興味がありましたぁ。アクションをやってみたいんですぅ』と調子のいいことを言っても、実際撮影になるとアクションなどやらないのだ。と、言うよりは、事務所がやらせないのだろう。怪我でもしたら大変だからな。女優がアクションをやるのは、それだけ大変で、覚悟がいることなんだ。私には判るぞ! なぽりんは、反対する事務所を説得し、武術を習い、アクション映画も何本も観て研究し、恐らく海外で射撃の訓練もしたのだろう。あの映画を観ていると、なぽりんがどれだけ努力をしたかが伝わってくる。その努力が認められ、監督から『新作を撮る時は必ず声を掛ける』と言われたんだ。日本を代表するアクション監督に認められたんだぞ? これほど光栄なことはないだろう。素人が数ヶ月でそこまでアクションを極めるとは、並大抵の努力ではないはずだ」

 

 TMNは語る。

 

 奈保子のことを。

 

「――なぽりんが努力家なのは、今に始まったことではない。アイドル時代からずっと努力家なのだ。アンチのバカどもは、アイドルは何もせずに仕事が舞い込んでテレビで適当に笑っていればお金がもらえると思っているようだが、そんなワケないだろう。少し想像力を働かせれば判りそうなものだがな。歌を一曲歌うにしても、歌詞と振り付けを覚えなければならん。約五分の振り付けを覚えるのに、どれだけ時間がかかるのか。それを、何曲も、何十曲も覚えるんだぞ? コンサートでは一日で数十曲歌って踊るのだ。体力だって並大抵のものではない。にも関わらず、ステージ上では何も無かったように笑顔で過ごすのだ――」

 

 アイドル時代の奈保子のことを。

 

 アイドルを卒業した時の奈保子のことを。

 

 現在の奈保子のことを。

 

「――そもそも、そのコンサートだって最初から何万人も動員できたわけではない。なぽりんが所属していたアイドルグループは国民的アイドルと言われていたが、デビューした当時、コンサートに集まったのはたった七人だと言われている。時には関係者以外一人も集まらなかったこともある。それでも、彼女たちは諦めず、ステージ上で歌い続けたのだ。当時、自ら路上でビラを配って客を呼ぼうとしたのはファンの間では有名なエピソードだ。そういった地道な努力を続けた結果、七人から、七万人以上のファンを集めるまでに――」

 

 時には、奈保子本人でさえ忘れているようなことも。

 

 TMNは、それが自分のことであるかのように、語る。

 

 眼鏡の女は、冷めた目でTMNを見ていた。「……なに異界の中心でアイを叫んでるんですか。先生、キモいですよ?」

 

「フッ……なんとでも言え。貴様に話したのは間違いだった。所詮ドルオタとアニオタは似て否なるもの。決して相容れない存在なのだ」

 

 TMNは奈保子を見た。

 

「なぽりん、お見苦しいところをお見せしました。あのバカの言うことは、気にしないでください」

 

「あ、いえ、そんな」

 

「ところでなぽりん。すでにお気づきかと思いますが、この村は少しおかしなことになっています。血の涙を流す化物がうろついているのは、もう見たでしょう。一人でいるのは危険です。ここから西に、眞魚教という宗教の教会があり、恐らくそこなら安全でしょう。少し遠いので、ご案内します」

 

「ちょっと、先生何言ってるんですか!」眼鏡の女が声を上げた。「これから、北の合石岳に行くんでしょ? 教会なんか行ってるヒマはないですよ!」

 

「予定変更だ。なぽりんを教会まで送り届ける。今はそれが最優先だ。いや、むしろそれこそが私の使命だ。私はなぽりんを護るためにこの村に来たのだからな」

 

「ダメです。予定通り、合石岳に行きます。なぽりんさんでしたっけ? 残念ですが、ここでお別れです。教会へは、一人で行ってください」

 

「何と冷酷なことを! 貴様には人の心が無いのか? こんな危険な場所にか弱い女性を一人きりにするなど、人として許されることではないぞ!」

 

「あたしの時は容赦なく八時間以上も一人きりにしたじゃないですか!」

 

「貴様となぽりんでは話が全然違う。さあ、なぽりん。コイツのことは無視して大丈夫ですので、行きましょう」

 

 奈保子は、二人のやり取りを見て、こらえきれず笑った。

 

「――なぽりん?」

 

「ごめんなさい。二人とも、仲がいいんですね」奈保子は小さく咳ばらいをした。「TMNさん。あたしは大丈夫ですから、予定通り、彼女さんと合石岳に行ってください」

 

「なっ! 何を言ってるんですか! こんなヤツは彼女なんかじゃありません! 私の心は、いつもなぽりんと共にあるのです! アイドルが恋愛禁止ならファンも恋愛禁止を守る! それが鉄則です!」

 

「別にファンの人まで恋愛禁止を守る必要はないんですよ? それに、あたしはもう恋愛禁止じゃないですけどね」奈保子はフフッと笑い、今度は眼鏡の女を見た。「――さっきは話しかけてくれてありがとう。助かったわ。二人の邪魔しちゃ悪いから、あたしはそろそろ行くね。大丈夫。もう、池で泳いだりしないから、安心して。デート、楽しんできてね」

 

「デートじゃありません! 調査です!!」

 

 ぶんぶんと手を振る眼鏡の女を見て、奈保子は、もう一度笑った。

 

「しかし、なぽりん」と、TMN。「やはり、一人では危険です」

 

「心配いりません。あんな化物、あたしの敵じゃないですから」

 

 奈保子は、拳を突き出し、続いて右のハイキックを打つ真似をした。

 

「おお! さすがは一流アクション女優。頼もしい限りだ。ぎゃーぎゃー騒ぐだけで役に立たない自称助手とは大違いですよ」

 

「TMNさん。今日は、会えて、本当に良かったです」

 

「いえ、私の方こそ、会えて光栄です」

 

「お忙しいようですから、もう行ってください。あたしは、本当に大丈夫ですから」

 

「いえ、そういうわけには――」

 

「はい! じゃあ先生、行きますよ!」眼鏡の女が割って入り、TMNの腕を強引に引っ張った。

 

「ああ! なぽりん! 本当にお気をつけて! またファンレターを書きます。ブログにもコメントします! 握手会だって駆けつけます! あなたが努力し続ける限り、私はずっと応援し続けますよ――」

 

 TMNは、ずるずると眼鏡の女に引きずられ、闇の中へ姿を消した。奈保子は、笑顔で手を振り続けた。

 

 ――本当に、会えて良かった。

 

 心の底からそう思う。

 

 あたしは、何を勘違いしていたのだろう。

 

 あたしのことなんて誰も見ていない。あたしの努力なんて誰も評価してくれない。

 

 ずっと、そう思っていたが。

 

 とんでもない間違いだった。

 

 あたしには、彼のような人がいる。

 

 あたしにも、まだ、応援してくれる人がいる。

 

 確かに、十年前のアイドル時代と比べ、その数は少なくなったかもしれない。

 

 それでも。

 

 ブログを更新すると、必ずコメントをしてくれる人がいる。仕事が決まると、自分のことのように喜んでくれる人がいる。それがどんなにくだらないバラエティ番組でも、どんなに出番が少ない映画でも、あたしが出演しているというだけで、全てを観てくれる人がいる。

 

 こんなあたしにも、応援してくれるファンの人が、確かにいるのだ。

 

 彼らは言う。「なぽりんの笑顔に癒される」「美浜さんの頑張ってる姿に勇気を貰っている」「奈保子さんのおかげで明日も頑張れる」

 

 逆だ。

 

 ファンのみんなが応援してくれるおかげで、あたしは頑張れるのだ。

 

 こんなに、ありがたいことはない。

 

 TMNさんは言った。あなたが努力し続ける限り、私はずっと応援し続けます、と。

 

 ならば、あたしは、応援してくれる人がいる限り、努力し続けよう。

 

 赤い泉を見る。

 

 さっきは、泉に永遠の若さがあると思い、誘われるように、身を沈めようとしていたが。

 

 今はもう、何も感じない。

 

 若さはアイドルの最大の武器――それは確かだ。

 

 でも、あたしはもうアイドルではない。

 

 女優なんだ。

 

 あたしはもう二十八歳だ。十代の若さはない。

 

 でも、それがなんだ?

 

 十代には無い、二十八歳の魅力も、たくさんあるはずだ。

 

 失われたものを嘆いてもしょうがない。今あるもので勝負しよう。

 

 十代のなぽりんではなく、二十八歳の美浜奈保子を応援してくれる人がいるのだから。

 

 あたしはもう、決して、あきらめない。

 

 応援してくれる人がいる限り。

 

 あたしはずっと、女優・美浜奈保子だ。

 

 

 

 

 

 

 奈保子は、無惨に割れたDVDとカメラを見た。とても再生できそうにないが、一応、持ち帰ろう。もしかしたら、データを修復する方法があるかもしれない。

 

 それに、まだ撮影する方法はある。

 

 ポケットから携帯電話を取り出す。これのカメラ機能を使って撮影できるじゃないか。圏外で繋がらないからずっと電源は切っていた。バッテリーはまだ残っているはずだ。さっき泉の中に入ったからびしょ濡れだが、防水仕様だから大丈夫だ。山や海などのロケで、水辺での撮影が予想される場合、いつでも水の中に落ちることができるよう、服の下に水着を着て、財布やケータイは身に付けないか完全防水しておく。それが、バラエティ番組の常識なのだ。

 

 そうだ。あたしはまだ頑張れる。あたしはまだ戦える!

 

 絶対に、絶対に! 生きて帰るんだ!!

 

 強く誓う。

 

 自分自身への誓いではない。

 

 ファンのみんなへの誓いだった。

 

 携帯電話を開き、電源を入れた。

 

 ――あ、そうだ。マネージャーからメールが入ってたんだった。

 

 メールボックスを開く。送られて来たのは二日の二十三時〇三分。地震が起こる少し前だ。ちょうど、合石岳の森の中でダークネスJAPANの撮影をしていた時で、後で読もうと思い、そのまま忘れていた。

 

 ちなみに、マネージャーは今、東京にいる。大手芸能事務所で専属マネージャーがつくのはよほどの売れっ子だけであり、ほとんどの場合、一人のマネージャーが複数のタレントを兼任している。ダークネスJAPANのような小さな番組のロケに同行することはまず無い。

 

 奈保子はメールを開いた。なになに……香港の映画会社から、新作映画のヒロイン役オーディションを受けてみないか、という誘いが来ている、か……。

 

 …………。

 

 なんですとおぉぉ!!

 

 思わず大声を上げる奈保子。香港映画のオーディション? しかもヒロイン役? しかもしかも映画会社の方から誘いが? このあたしに? そんなバカな? ドッキリか? いや、ドッキリならメールを読んで驚くシーンも撮影しなければいけなから、地方の村でのロケ中に送信して来るのはおかしいだろう。続きを読む。香港の映画俳優が新作に出演するので、そのヒロイン役オーディションにぜひ挑戦してほしい、と、連絡があったそうだ。その映画俳優の名を見てさらに驚いた。香港映画はもちろん、かつてはハリウッド映画にも進出し、世界中に名の知れたアクションスターだった。Vシネマ『ヒットマン女豹』の映画監督と昔から交流があったそうで、新作のヒロインを探していると知った監督が推薦したそうだ。俳優や映画会社のスタッフも『ヒットマン女豹』を見て、奈保子にかなり期待しているそうである。

 

 ……マジかよ。監督、あたしのこと覚えていてくれたんだ。香港映画のヒロイン役。もちろん、出演のオファーではなくオーディションだから、まだ決定したわけではない。それでも、向こうから直々に審査したいと連絡があるなんて、とんでもなく光栄なことだ。世界的アクションスターとの共演だから、世界中からたくさんの人がオーディションを受けに来るだろう。あたしなんかより有名で、美人で、アクションの上手な女優は山ほどいるはずだ。受かるのは奇跡に等しいかもしれない。でも、やりたい。オーディションを受けて、奇跡を起こしたい! 推薦してくれた監督、ヒットマン女豹の撮影スタッフ、他の番組のスタッフ、事務所のスタッフ、そして、応援してくれるファンのみんなに、応えるために!

 

 よっしゃ、やるぞおおぉぉ!!

 

 奈保子は、空に向かって叫んだ。

 

 がさり、と、背後で草を踏む音が聞こえた。

 

 あれ? TMNさんかな? やっぱりあたしのことが心配で、戻って来たのだろうか? オーディションのこと、話しちゃおうかな? いや、ダメだ。こういうのは関係者以外に話すのはご法度だ。携帯電話を閉じ、笑顔で振り返った。

 

 灰色の肌をし、血の涙を流す化物が、鎌を振り上げていた。

 

 完全に油断をしていた。突き飛ばすか、身を引いてかわすか、一瞬の迷いが、致命的だった。

 

 鎌が、振り下ろされた。

 

 身を引いた。痛みを感じなかったので、かわしたと思った。

 

 だが、奈保子の喉から、赤い水が勢いよく噴き出した。

 

 ――え? これ、血?

 

 血って、こんなに勢いよく噴き出すんだ。まるで、壊れた水道のようである。そんなことを思った。でも、大丈夫だ。今は治癒能力が向上している。こんな傷、すぐに治るだろう。冷静にそう考え、化物の頭に右の回し蹴りを打ち込もうとした。

 

 軸にした左足が、ガクンと折れ、奈保子は地面に崩れ落ちた。

 

 ――あれ? あたし、どうしたんだろう?

 

 立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。喉から血が流れる。力が失われていく。

 

 化物が、また鎌を振り上げた。

 

 避けなきゃ――そう思うが、身体を転がすことができない。指一本動かせない。

 

 背中に鎌が刺さる。痛みは感じない。

 

 化物は、また鎌を振り上げ、奈保子の背中に振り下ろす。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 鎌が奈保子の背中に刺さり、引き抜かれるたびに、血が溢れ出す。喉の血も止まらない。地面の水たまりは、赤い雨なのか、奈保子の血なのか、もう判らない。

 

 ――大丈夫……大丈夫だよ……こんな傷……すぐに治るんだから……。

 

 溢れ出した血が、奈保子の意識を奪って行く。

 

 ――眠いな。当然だよね。昨日の夜からずっと寝てないもん。疲れちゃった。今日はこのまま寝て、明日になったら、また頑張ろう。大丈夫。目が覚めたら傷も治って、また元気に戦える。絶対東京に帰れる。ファンのみんなに、また会える。オーディションも受ける。あたし、頑張るんだから。待っててね、みんな……。

 

 化物が、鎌を振り下ろす。

 

 奈保子は、意識を失った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十二話 前田知子 刈割/棚田 第二日/六時〇六分〇一秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 刈割の丘の上へと続くあぜ道を、前田知子は、一人、力の無い足取りで歩いていた。九時間ほど前、眞魚教の求導女・八尾比沙子に保護されたのだが、いつの間にか、また一人になってしまったのだ。

 

 ――みんな、いなくなっちゃう。

 

 胸の奥で呟く。求導師様もいなくなり、求導女様もいなくなった。思えば、二日前に家出をし、この怪異に巻き込まれてから、ほとんどずっと、一人で行動している。もう、誰もあたしを助けてくれないのではないか。このままずっと一人なのではないか。そう思えて仕方がない。

 

 雨は降り続いている。昨日の深夜からずっと、この赤い雨に打たれ続けている。髪も、服も、靴の中までずぶ濡れだ。もう、骨の中まで雨がしみこんでいるように思う。

 

 ふいに。

 

 空が、明るくなった。

 

 顔を上げる知子。山に囲まれた羽生蛇村では、夏でも日の出の時間は遅い。まだ日が昇る時間ではないし、雨が降り続いているから空は厚い雲に覆われているはずだが、まるで昼間のように明るかった。それだけではない。空には、一面、赤や黄色や紫など、様々な色がグラデーションをなした光の帯が、風にそよぐカーテンのように揺れていた。まるでオーロラのような光景だった。

 

 さらには、どこから現れたのか、知子の周囲を、光る小動物が無数に飛び回り始めた。体長は十センチほどで、卵のような楕円形をしており、小さな羽をはばたかせている。そのたびに光の粉が舞い、地面に降りそそいでいた。

 

 ……天使様?

 

 そう思った。丘の上にある眞魚教の教会に、これによく似たものを描いた絵画があるのを、知子は思い出した。『天使降臨』という聖画で、天から舞い降りた天使を人々があがめる姿が描かれている。来訪神の復活を地上の民に告知するために降臨した、と、求導師様から教わったことがある。

 

 光のカーテンに天使――聖画に伝わる話が本当ならば、もうすぐ眞魚教の神様が復活することになる。

 

 しかし、まだ十四歳の知子には、あまり難しいことは判らない。ただ、その光景があまりにも美しくて、心を奪われた。よみがえった死者が次々と襲ってくる悪夢のような村が、急に、あらゆる苦しみから解放された楽園になったような気がした。暗い気持ちもどこかへ吹き飛んでしまった。知子は空に向かって両手を広げ、光を全身に浴びるかのように、その場でくるくると回った。

 

 びくん、と身体が震え、両手を広げて空を見上げる自分の姿が見えた。屍人に見つかった合図だ。しまった。幻想的な景色に浮かれ、油断した。

 

 道の先に、若い女性の屍人が立っていた。右手に鎌を持っているが、農家の人ではないだろう。カールがかかった長い髪を頭の上で束ね、胸元と二の腕を強調するような花柄のキャミソールに、身体のラインが強調されるジーンズ姿。村ではあまり見ない派手な格好をした女だった。村の人ではないのかもしれない。

 

 女は鎌を振り上げ、こちらに向かって走り出した。かなり足が速い。決して運動が得意ではない知子には逃げられそうにない。道は一本道で隠れるような場所もない。やられる――そう思ったのだが。

 

「……スクープ……スクープ撮らなきゃあああぁぁぁ!!」

 

 女の屍人は知子のそばを通り過ぎ、奇声を上げながら、そのまま走り去っていった。

 

 遠ざかる屍人の背中を見つめ、肩の力を抜く知子。何だったのだろう? ここまで多くの屍人と遭遇してきたが、見つかったのに襲ってこない屍人は初めてだ。村の人ではないようだし、もしかしたら、屍人の中には普通とは違う奇行に走る者もいるのかもしれない。何にしても助かった。でも、危ない所だった。気を抜いてはいけない。教会はもうすぐだ。お父さんとお母さんが待っている。こんなところで殺されるわけにはいかない。生きて、お父さんとお母さんに会うんだ。萎えかけていた気持ちがよみがえる。よし。小さく気合を入れ、知子は丘の上を目指す。

 

 教会へと続く道の途中には用水路がある。普段は小さな木製の橋が架かっているのだが、崩れ落ち、道を分断していた。だが、用水路に古いライトバンが転落しており、その上を通って向こう側へ行くことができるようだ。事故を起こしたのか、あるいは誰かが橋の代わりに落としたのかもしれない。用水路を渡り、廃倉庫のそばを通ってさらに丘を登る知子。やがて、鉄柵の扉が見えてきた。そこから先は教会の敷地だ。普段、夜は閉ざされているが、もう六時を過ぎているので、鍵はかけられていなかった。知子は扉を開け、中に入ろうとしたが。

 

 また、身体が大きく震え、棚田の上から自分を見下ろす視点が、一瞬見えた。

 

 また見つかった。周囲を見回す知子、少し離れた棚田の上に、農作業着を着た屍人が立っていた。年配の女性のようだが、顔はよく判らない。と、いうのも、その屍人の顔は、無数の巨大なニキビのようなものに埋もれていたからだ。それは、海岸の岩場に群生するフジツボを思わせた。武器は持っていない。代わりに、四つん這いの犬のような姿をした屍人がそばにいた。

 

 今度こそ襲われる――そう思ったのだが。

 

 屍人は、しばらくこちらをじっと見ていたが、やがて眼を逸らし、遠くの方を眺めはじめた。そばにいる犬型の屍人も同じだ。知子には全く興味を示さず、周囲を見回している。

 

 どういうことだろう? 明らかに見つかったのに、屍人は襲ってこない。仲間を呼んだりする様子もない。まるで誰もいないかのように、知子のことを全く気にしていない。

 

 ――もしかしたら。

 

 周囲を見回す知子。天使のような光る小動物は、相変わらず光の粉を撒きながら飛び回っている。

 

 もしかしたら、天使様が、あたしのことを護ってくれているのかもしれない――そう思った。この光の粉に包まれた人は、屍人から姿が見えなくなるのかも。きっとそうだ。

 

 ――ありがとう、天使様。

 

 知子は胸の前で手を組み、天使様に祈りを捧げた。

 

 知子は鉄柵の門をくぐり、さらに丘を登る。数分で、教会の玄関が見えてきた。知子は玄関の扉を開けようとしたが、鍵がかけられてあり、開かなかった。だが、中に誰かがいる気配がする。玄関のそばの窓からは明かりが漏れている。そっと中を覗くと、礼拝堂の椅子に、寄り添って眠る父と母の姿があった。

 

 知子は、いつの間にか自分が泣いていることに気が付いた。涙が止まらない。無理もなかった。二日前、些細なことでケンカをし、家を飛び出した知子。まさか、村がこんなことになるなんて思いもしなかった。何度も危険な目に遭った。お父さんとお母さんも、同じように危険な目に遭ったに違いない。一歩間違えば、もう二度と会えないかもしれなかった。でも会えた。もう、あたしは一人じゃない。もう二度と、離れ離れになることはないだろう。

 

「お父さん! お母さん! 開けて!」

 

 知子は涙を流しながら、窓を叩き、中の両親に呼びかけた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十三話 前田知子 刈割/不入谷教会 第二日/六時三十二分五十六秒

「――お父さん……お母さん……開けて……お母さん!」

 

 

 

 

 

 

 娘の呼ぶ声で、前田真由美はまどろみから目を覚ました。しばらく、自分の置かれている状況が判らない。ここはどこだろう? 周囲を見回す。木製の椅子がたくさん並んだ広い部屋だった。奥には祭壇があり、壁に大きなマナ字架が掲げられている。教会の礼拝堂だった。真由美のそばには夫の隆信が眠っていた。なぜこんな所で眠っていたのだろう? 少し考え、すぐに思い出した。そうだ。知子が家出をした夜、村は、屍人が襲ってくる恐ろしい場所と化した。自分は隆信と共にいなくなった知子を探し、教会まで来たのだ。

 

「お母さん! ドアを開けて! お母さん! お父さんも起きて!」

 

 窓ガラスを叩く音と共に、娘の声が聞こえた。知子が近くにいる! 椅子から立ち上がり、声のする方を見た。

 

「――――!!」

 

 言葉を失う真由美。

 

 見慣れた娘の知子が、窓の外にいた。

 

 だが、それはもう、知子ではなかった。

 

「お母さん! 早く開けて!」

 

 知子が、血の涙を流す目で、こちらを見ている。

 

「お母さん!」

 

 知子が、死を思わせる暗い肌の色の手で、窓ガラスを叩く。

 

「早く開けて! お父さんも起きて!」

 

 知子が、死の淵へと落ちてしまった者の姿で、助けを求めている。

 

 真由美には、それが、屍人になった知子が自分たちを襲おうとしているように見えた。

 

「――いやあああぁぁ!!」

 

 真由美は、声の限り叫んだ。

 

 悲鳴に驚いた隆信が飛び起き、周囲を見回す。そして、屍人となって襲って来ようとしている娘の姿を見て、そばに置いてあった鉄パイプを握りしめて立ち上がり、威嚇するように振り上げた。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 前田知子は、泣き叫ぶ母と、こっちへ来るなと言わんばかりに鉄パイプを振り上げる父の姿を見て、窓を叩くのをやめた。

 

 ようやく会えた家族、これからは、ずっと一緒にいられる……そう思ったのに。

 

 母は泣き叫び、父は鉄パイプを振り上げる。

 

 あたしを、拒絶している。

 

 一人でここまで来たのに……どんなに危険な目に遭っても、どんなにくじけそうになっても、諦めないで、ここまで来たのに。

 

 お父さんも、お母さんも、あたしを受け入れてくれない。

 

 きっと。

 

 二人は、怒っているのだ。

 

 成績を落とし、勝手に家出をし、心配をかけたあたしのことを。

 

 だから、中に入れてくれない。

 

 あたしはもう、家族じゃないんだ。

 

 やっぱり、あたしは一人なんだ。

 

 これまでも、これからも、ずっと。

 

 そう思った。

 

 知子は窓を叩くのをやめた。

 

 ――ごめんね、お父さん、お母さん。

 

 知子は、教会を後にした。

 

 どこに行こうとしているのかは判らない。両親に拒絶されてしまった以上、行く場所なんて無い。

 

 知子は一人、丘を下りた。

 

 途中、屍人に見つかったが、やはり襲われることはなかった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十四話 牧野慶 大字粗戸/眞魚川岸辺 第二日/六時四十四分五十一秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 大字粗戸を流れる眞魚川そばの大通りで、牧野慶は空を見上げ、立ちつくしていた。南の空がまぶしく光っている。山間にある羽生蛇村ではまだ日が昇る時間ではないし、そもそも日が昇る方向ではない。光は一本の柱となり、空へと向かって伸びていく。それは、海から現れて天へ昇る龍を思わせた。

 

 ――あれはまさか、理尾や丹(りびやたん)では……。

 

 理尾や丹とは、眞魚教の聖典・天地救之伝(てんちすくいのつたえ)に登場する、海の底に住む巨大な海龍のことだ。混沌と仇をなすものとされており、大いなる尾を打ち振るい、天を曇らす光を発す、とある。

 

 伝承の通り、光の柱からは闇よりも黒い雲が生まれ、それが、徐々に村を覆っていた。

 

 この光の柱は、羽生蛇村に古くから伝わる現象だ。地上の明るい光が空中の氷層に反射して起こる現象、という科学的な見方をする者もいるが、多くの村人は聖典を信じ、村を災いが襲う前兆現象だと思っている。前回この現象が確認されたのは二十七年前だ。そして、その数日後、村は大きな土砂災害に見舞われた。

 

 牧野は、崩れ落ちるように膝をついた。

 

 村が災いに襲われる前兆――伝承は間違いない。理尾や丹は、神迎えの儀式が失敗したことを意味しているのだ。

 

 儀式をやり直すため、逃げ出した神代美耶子と、姿を消した八尾比沙子を探していた。儀式をやり直せば、村を元に戻すことができる――その可能性を信じていたのだが。

 

 もう、全てが遅い。村を元に戻すことはできない。

 

 そう――自分は、父と同じように、儀式に失敗したのだ。

 

 父の最期の姿を思い出す。

 

 二十七年前、神迎えの儀式に失敗し、村に災いを招いた父は、その責任を問われ、後継者である慶を十二歳まで育てると、礼拝堂で首を吊り、自ら命を絶った。

 

 天井からぶら下がる父の姿は、今も脳裏に焼き付いて消えない。

 

 自分も、いつか儀式を行わなければならない。

 

 自分も、儀式に失敗するかもしれない。

 

 自分も、父のようになるのかもしれない。

 

 求導師として生きることを余儀なくされた日から、牧野はずっと怯えていた。村人が自分に寄せる期待が怖かった。神代の使いが教会に来るのを恐れていた。このような重圧とは縁のない双子の弟が羨ましかった。

 

 ――大丈夫……大丈夫よ。

 

 どんな時も慈愛に満ちた笑顔で優しく包み込んでくれる八尾比沙子だけが、心の救いだった。

 

 ……ああ、八尾さん私はどうしたら……八尾さん……。

 

 牧野は立ち上がり、八尾比沙子の姿を求め、フラフラと歩き始めた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十五話 須田恭也 蛇ノ首谷/折臥ノ森 第二日/七時〇三分四十一秒

 羽生蛇村の北にそそり立つ合石岳。その中腹の蛇ノ首谷からは、村を一望することができる。須田恭也と神代美耶子は崖の上に立ち、はるか南に広がる赤い海を見下ろしていた。水平線の先に、まぶしい光の柱が空に向かって伸びており、その光の先から、漆黒の雲が湧き出し、空を覆っているのだ。

 

 恭也は、村を訪れる前、インターネットで村の怪現象についていろいろと調べていた。その中に、二十七年前の土砂災害の数日前に起こった謎の発光現象というのがあった。この発光現象は、村ではたびたび発生しているようで、災いの前兆として恐れられているようだった。もっとも、大きな災害の前にこのような謎の自然現象が起こることは、世界中で報告されている。恭也はあまり気にしていなかったのだが、二十七年前と今日、同じ現象が起こったのは、偶然ではないだろう。村に起こっている怪現象と関係があるのは、間違いなさそうだ。

 

「……そんな……まさか……戻って来るなんて……」

 

 美耶子は怯えていた。小さく身体を震わせ、光から逃れようとしているのか、後退りする。

 

「戻って来る? 何が戻って来るの?」

 

 詳しい話を聞こうとした恭也だったが、身体がビクンと震えた。屍人に見つかった。

 

 森の中から、低い唸り声を上げながら四つん這いの屍人が走り出してきた。犬型の屍人だ。田堀の廃屋を脱出した直後から、頻繁に遭遇するようになった。人型の屍人と比べて知能は低下しており、武器を使うことはないが、身体能力は向上している。素早く動き回り力も強い。人型の屍人よりも厄介な相手だった。火掻き棒を構える恭也。跳びかかろうとする犬屍人の頭に向けて振り下ろす。怯んだ犬屍人にさらに攻撃を加えた。四度殴ると、犬屍人は動かなくなった。

 

 素早く幻視の能力を使い、周囲の様子を確認する恭也。二体、三体と、次々と屍人の気配が見つかった。そのほとんどが犬屍人だ。一体でも厄介な相手なのに、複数に見つかると太刀打ちできない。

 

「――行こう」

 

 美耶子の手を取る恭也。屍人のいない安全な場所へ逃げる。それが、今の恭也たちの目的だった。

 

 しかし。

 

 美耶子は立ち止まった。

 

「だめ……逃げても無駄……村のどこに行っても、ヤツらはいる」

 

「でも、逃げないと、襲われちゃうよ。こんなに大勢の屍人、俺一人じゃ、とてもじゃないけど倒せない」

 

 美耶子は、大きく首を横に振った。「あいつらを束ねているヤツがいる」

 

「束ねているヤツ?」

 

「ああ。犬屍人は、単独で行動することはない。必ず群れで行動し、どこかに命令を出しているヤツがいるんだ。そいつを倒せば、全員、動きが止まるはずだ」

 

 犬屍人に命令を出すヤツ――頭脳屍人(ブレイン)とでも呼ぶべき存在がいるというのか。ならば、最優先で見つけ、倒さなければ。

 

 恭也と美耶子は近くにあった(ほこら)の陰に身を隠した。注意深く幻視を行い、頭脳屍人の気配を探る。かなり時間がかかったが、それらしい者の視点を発見することができた。ここから西、眞魚川を越えた先に二階建ての古い建物があり、その近くにいる。武器は持っていないが、すぐ側に犬屍人を従えていた。二体とも油断なく周囲を警戒しており、簡単には近づけそうにない。

 

 恭也は火掻き棒を握りしめた。ずっとこれを武器にして戦って来たが、それも限界かもしれない。犬屍人と戦うには少々頼りないし、拳銃や猟銃を持った人型の屍人も沢山いる。何か、別の武器があればいいのだが……。

 

 恭也と美耶子は、ひとまず頭脳屍人がいる建物へ向かうことにした。祠の近くには比較的大きな砂利道があり、電車のレールのようなものが引かれていた。美耶子が言うには、トロッコのレールらしい。この蛇ノ首谷の東には、かつて大きな鉱山があり、そこで採れた錫を運ぶためのものだそうだ。これを西へたどれば建物があるはずだ。建物は、運ばれてきた錫を選鉱していた場所だという。

 

 しばらくレールに沿って道を進むと、眞魚川を渡るための吊り橋があった。レールはその先へと続いている。橋の下を覗くと、はるか下に川の流れが見えた。もし落ちたらひとたまりもないだろう。吊り橋はかなり古く、今にも崩れ落ちそうだ。しかし、慎重に乗ってみると、意外と揺れは少なく、恭也と美耶子二人程度なら問題なく渡ることができそうだった。元はトロッコが行き来していた吊り橋だ。かなり頑丈にできているのだろう。二人は吊り橋を渡った。すぐ正面に、木製の古い建物があり、レールはその中に続いている。

 

 頭脳屍人はこの建物の裏にいると思われた。倒すためには中を抜けなければならないが、建物の中にも二体の犬屍人の気配があった。一体でも倒すのに苦労する犬屍人だ。二体同時に戦いになれば、かなり分が悪いだろう。幸い、犬屍人も、人型の屍人と同じく、一定の行動パターンを繰り返す傾向にある。それを利用すれば、なんとかなるかもしれない。恭也は幻視で様子を探った。一体は選鉱所の裏口付近にじっとして動かず、周囲を警戒している。もう一体は、廊下を頻繁に行き来していた。建物の北側の一角には鉱員の休憩所と思われる部屋があり、犬屍人はその中へと入って行く。中には小さな机と棚があり、犬屍人は、棚に置かれている日本酒の一升瓶をしばらくじっと見ていた。やがて部屋を出て、建物の南側へと走って行く。少し走ると廊下が南と西に分かれており、南側の廊下には、工事現場などで進入禁止を伝えるバリケードが立てられてあった。高さは五十センチほどで、乗り越えたりそばを通り抜けたりするのは可能そうだ。しかし、犬屍人はしばらくバリケードを見つめた後、廊下を西に曲がった。西側の廊下は裏口に通じており、もう一体の犬屍人がいる。そこでしばらくじっとしていた犬屍人だったが、やがて廊下を戻り始めた。そして、またバリケードを見つめた後、北の休憩所に向かって走る。

 

「アイツ、律儀に進入禁止を守っているな」同じく犬屍人を幻視していた美耶子が言った。

 

 美耶子の言う通り、犬屍人は決してバリケードの向こう側へ行こうとはせず、休憩所と裏口をずっと行き来していた。これは、利用できるかもしれない。考える恭也。犬屍人が休憩所に行っている間に、バリケードを西側の廊下に移動することができないだろうか? そうすれば、犬屍人は南に向かうはずである。その隙にまた南にバリケードを戻せば、もう犬屍人は戻って来られないだろう。裏口を見張っている一体だけなら、なんとか倒せるはずだ。

 

 恭也は美耶子に作戦を伝え、実行に移った。美耶子をその場に残し、犬屍人が休憩所に向かうのを待って、建物の中に入る。建物内の明かりは点けられており、ライトを使わなくても行動できた。どこからか、車のエンジン音に似た低い音も聞こえてくる。まるで、まだ選鉱所が稼働しているかのような雰囲気だ。

 

 歩くたびにぎしぎしときしむ板張りの廊下を進み、バリケードの前まで来た恭也は、裏口前の犬屍人に気付かれないよう、静かにバリケードを西側の廊下へ移動させた。そして、素早く外に出る。直後に、休憩所を出た犬屍人が戻って来た。バリケードの前に立った犬屍人は、しばらくじっと見つめた後、恭也の目論見通り、南の廊下を走って行った。うまく行った。再び建物の中に入った恭也は、バリケードを元の場所に戻した。

 

 これでいい。後は、裏口を見張っている犬屍人を倒すだけである。慎重に様子を窺い、背を向けた隙に忍び寄って、火掻き棒で何度も殴った。動かなくなる犬屍人。しばらくは安全だ。恭也は美耶子を呼び、裏口から外に出た。

 

 選鉱所の裏は緩やかな下り坂で、すぐ側に大きな水たまりがあった。頭脳屍人はその先にいると思われる。水たまりはかなり大きく、向こう側へ行くには中に入るしかない。ずっと雨に打たれ続け全身びしょ濡れだから、いまさら水たまりに入るのに抵抗は無い。恭也は、水たまりに足を踏み入れようとした。

 

「――待て! 危ない!!」

 

 美耶子が叫び、腕を引っ張った。華奢な身体からは想像もできないほどの力で、恭也は思わず尻餅をついて倒れる。

 

「見ろ」

 

 美耶子が水たまりの一角を指さした。切断された電線が垂れていて、水たまりの中に沈んでいる。よく見ると、水たまりはバチバチと青い火花が散っていた。電気は止まっていないようだ。そのまま足を踏み入れていたら感電するところだった。

 

 立ち上がる恭也。水たまりを渡るためには、電気を止めなければならない。だが、どうすればいいのだろう? 垂れさがっている電線を切断すれば電気は止まるだろうが、道具も知識もない恭也が行うのはあまりにも危険だろう。電源を切るのが一番だが、それには送電所まで行かなければならない。送電所がどこにあるのかは判らないが、少なくとも選鉱所の近くには無いだろう。

 

 ……待てよ?

 

 水たまりに垂れた電線を見る恭也。電線は、電柱ではなく、選鉱所の屋根から垂れている。と、いうことは、この電線は、送電所から選鉱所へ電気を供給するものではなく、選鉱所の電気をどこか別の場所へ送るためのものなのだろう。ならば、選鉱所のブレーカーを落とせばいいはずだ。一度建物の中に戻る。幸い、ブレーカーは裏口のすぐそばにあり、簡単に見つけることができた。スイッチを下ろし、外に出て確認すると、水たまりを飛び散っている火花は治まった。これで渡ることができるだろう。

 

 水たまりに入ろうとした恭也だったが、ビクン、と、身体が震え、上から恭也を見下ろす視点が見えた。また見つかった!? 周囲を探ろうとする恭也。銃声が鳴り響き、足元の土が大きくはじけ飛んだ。驚いて後退りする。銃を持っているヤツがいる。銃声の聞こえた方を見ると、水たまりのそばに電柱が一本立っており、その上に、トンボのような羽根が生えた屍人が止まっていた。右手に拳銃を持ち、銃口をこちらに向けている。薄いブルーのワイシャツに紺のスラックス。警察官の格好だ。恭也の脳裏に、この怪異に巻き込まれた時の出来事――頭のおかしな警官に追われ、銃で撃たれ、川に転落した時の記憶がよみがえる。あの羽根屍人は、あの時の警官だ。間違いない。

 

 再び銃声が響き、足元の土が弾けた。恭也は建物の中に戻った。屍人は羽根をはばたかせ、電柱の上から飛び立った。幸いと言うべきか、建物の中に入ろうとはせず、宙を飛びながら周囲を警戒している。建物の中にいる限り撃たれる心配はなさそうだが、宙を飛ばれては、火掻き棒では手が出せない。このままでは身動きが取れない。さっき倒した犬屍人も、そろそろよみがえる頃だ。どうすればいい……。

 

「……あれは、駐在員の石田だな?」

 

 幻視で羽根屍人の様子を探っていた美耶子が言った。確か、求導女の八尾比沙子が、そう呼んでいたように思う。

 

 美耶子は続ける。「石田は、酒グセが悪いことで有名だ。休憩所に日本酒があったろう? あれで、ワナを仕掛けられないか?」

 

 確かに、犬屍人を幻視した時、休憩所の棚に日本酒の一升瓶があった。考える恭也。日本酒をさっきの水たまりに撒いてみてはどうだろうか? 酒の臭いにつられ、水たまりに下りてくるかもしれない。そこでブレーカーを入れれば、感電させられるはずだ。バカげた作戦のようにも思えるが、屍人は知能が低く、犬屍人や羽根屍人はもはや獣並みと言っていい。成功する可能性は高いはずだ。よし。やってみよう。

 

 恭也は休憩室へと移動し、棚の中の一升瓶を取った。再び裏口へ戻り、羽根屍人の幻視を行う。羽根屍人は選鉱所の上を飛び回り、周囲を警戒している。表口の方へ移動した隙を付き、外に出て、水たまりに一升瓶を投げ入れた。瓶が割れ、辺りに日本酒の強いにおいが立ち込める。

 

 頭上で羽虫がはばたくような音が聞こえた。羽根屍人が迫っている。恭也は選鉱所の中に戻り、幻視を行う。しばらく屋根の上を飛び回っていた羽根屍人だったが、日本酒の臭いに気が付いたのか、水たまりを見つめ始めた。そして、水たまりの中に下りると、顔を近づけ、水を舐めはじめた。

 

 うまくいった。恭也は幻視をやめ、ブレーカーのレバーを上げた。バチン、と、弾け飛ぶ音と同時に、尻尾を踏まれた小犬のような悲鳴が聞こえてきた。レバーを下げる。外に出て確認すると、羽根屍人はひっくり返って気を失っていた。これでしばらくは動けないだろう。今のうちに、頭脳屍人を倒さなければ。

 

「まずい、移動しているぞ」後ろで美耶子が幻視をしていた。「今の音に驚いたようだ」

 

 恭也も幻視を行う。頭脳屍人は選鉱所から離れ、コンクリート製の橋を渡っていた。この選鉱所の南には車が走れるほどの大きな道があったので、恐らくそこを東に向かっているのだろう。橋を渡った頭脳屍人は、電話ボックスの横を通り抜け、道端に停められていた車のそばの砂利道へと入る。さらにそこから道を逸れ、森の中へと入って行った。そして、地面に大きな穴が開いている場所で止まった。

 

「――追うぞ」

 

 美耶子に言われ、恭也は選鉱所から離れようとした。

 

 ――うん?

 

 立ち止まる恭也。意識を失っている羽根屍人のそばに、拳銃が落ちていた。感電で弾き飛ばされたひょうしに手放してしまったのだろう。銃弾も何発か散らばっている。

 

 恭也はこれまで、倒した屍人から武器を奪おうと試みたことが何度かあるが、手が硬直しており、奪うことができなかった。これはチャンスだ。恭也は、拳銃と銃弾を拾い、羽根屍人が意識を取り戻す前に離れた。

 

 コンクリート製の橋を渡り、公衆電話のそばまで来た恭也と美耶子。頭脳屍人は相変わらず森の中にいて、そばには犬屍人を従えている。

 

 拳銃を手に入れた恭也だったが、いま使うのは得策ではないと思った。素人が簡単に扱える物ではないだろう。素早く動き回る犬屍人相手ならなおさらだ。火掻き棒で戦った方がいい。しかし、犬屍人一体なら火掻き棒でも十分だが、戦っている間に頭脳屍人は逃げてしまうだろう。それでは意味がない。ここも、何か策を講じなければ。恭也は、美耶子を見た。

 

「……なんであたしを見る?」不満そうな顔の美耶子。

 

「いや、戦うのは俺だから、アイデアを出すのは美耶子の役かな、と思って」

 

「勝手に分業制にするな。たまにはお前も考えろ」

 

「じゃあ、たまには美耶子も戦ってみる?」

 

「こんなか弱い女の娘を戦わせるつもりか? お前、サイテーだな」

 

「だったら、早く考えて」

 

 せかすように言うと、美耶子は文句を言いながらも考え始めた。

 

 恭也も、何かないかと周囲を見回す。電話ボックスの近くにジッポ式のライターが落ちていることに気が付いた。拾ってみると、大きさの割にズシリと重く、かなりの高級品のようだった。最近誰かが落としていった物だろう。何かの役に立ちそうなので、持っていくことにした。

 

「――そう言えば、この先に車が停められていたな」と、美耶子。「何か使える物があるかもしれない。行ってみよう」

 

 二人はその場を離れ、車が停められている場所へ向かった。

 

 車はかなりの高級車で、まだ新車といってもよいほどの状態だった。キーさえあれば動きそうではあるが、そばの崖が崩れ、前半分が土砂に埋もれていた。それで乗り捨てて行ったのだろう。後部座席とトランクの鍵はかけられていなかった。中を調べてみたが、使えそうなものは何も無かった。ただ、崖崩れの影響からか、給油口からガソリンが漏れ出し、地面に広がっていた。

 

「さっき、ライターを拾ったな?」美耶子が言う。「それで、車に火を点けられないか? 車が燃えれば、様子を見に来るかもしれない」

 

 恐ろしいことを平気で言うな……恭也は苦笑いする。車には、大型のネコ科の動物が走る姿のエムブレムがある。車には詳しくない恭也だったが、その車が高級車の代名詞とも言えるジャガーであることをは判った。それが燃やされたとなれば、所有者は発狂するだろう。

 

 だが、そんなことを言っている状況ではないことは確かだ。恭也はライターを取り出すと、スイッチを押した。ジッポ式なのでスイッチから指を離しても火は消えない。恭也は車に向かってライターを投げた。うまい具合にガソリンが漏れたところに落ち、炎が燃え広がった。炎は車を包み込み、やがて、大きな爆発が起こり、黒煙を上げながらさらに燃え上がった。

 

 幻視を行う。頭脳屍人はその場を動かなかったが、犬屍人は頭脳屍人のそばを離れ、砂利道を下っていた。爆発音に気付き、様子を見に来たのだろう。恭也と美耶子は電話ボックスの近くに隠れた。しばらくすると犬屍人が現れ、車のそばに走って行った。その隙に二人は砂利道へ入り、頭脳屍人がいる場所へ走る。

 

「……というか、犬屍人をおびき寄せるだけなら、他に方法があったんじゃないの? クラクションを鳴らすとか」恭也は砂利道を走りながら、後ろの美耶子に言う。「何も燃やすことはなかったような」

 

「気にするな。村であんな車に乗るのは宮田くらいだ。むしろ、いい気味だ」

 

 美耶子は悪びれた様子もない。宮田というのが誰なのか恭也には判らなかったが、気の毒に。

 

 恭也は砂利道を逸れ、森の中へ入る。木の陰に身を隠しながら慎重に進み、頭脳屍人のそばまでやって来た。頭脳屍人は、足元にある大きな穴を見ていた。こちらには気付いていない。恭也は背後から静かに忍び寄り、そして、火掻き棒を振るった。不意を突かれ、前のめりに大きく倒れる屍人。逃げようとしたところに、さらに火掻き棒を振るう。屍人は、あっけなく動かなくなった。

 

 恭也は改めて幻視をし、周囲の気配を探った。さっきまで徘徊していた犬屍人は、全て、動かなくなっている。美耶子の言う通り、頭脳屍人を倒せば近くの犬屍人たちは動かなくなるようだ。

 

「やったな、恭也」美耶子が、笑顔で迎えてくれる。「これで、この辺りはしばらく安全だ。行こう」

 

 恭也と美耶子はその場を離れた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十六話 須田恭也 蛇ノ首谷/吊り橋 第二日/九時五十七分五十八秒

 合石岳・蛇ノ首谷の吊り橋の上に立ち、須田恭也と神代美耶子は、南に広がる街並みを見下ろしていた。村の南の赤い海に出現していた光の柱は消えている。しかし、村を覆う黒雲は消えてはいない。赤い雨は、今も降り続いている。

 

「……どうしよう。逃げ場なんて、無い」

 

 恭也のそばで、美耶子は泣きそうな声で言った。その通りかもしれない、と、恭也も思う。

 

 三時間ほど前、恭也たちは、森の中で頭脳屍人を倒すことに成功した。それにより、この辺り一帯にいた犬屍人や羽根屍人全ての動きを止めることはできたが、それも、所詮一時しのぎにすぎなかった。時間が経つと頭脳屍人はよみがえり、同時に、動かなかった周囲の犬屍人たちもよみがえった。何度倒しても、ヤツらはよみがえる。これではキリが無い。

 

 だが。

 

「大丈夫だよ」恭也は、美耶子を励ます。「あんなヤツら、何回よみがえったって、俺が倒してやるから」

 

「そうじゃない……そうじゃないんだ」美耶子は、大きく首を振った。

 

「え?」

 

「ここは、現世でも、あの世でもない。どちらとも、地続きの場所なんだ」

 

「それって、どういう――」

 

「あたしが……御神体を壊したりしなければ……」

 

 美耶子は両手で顔を覆い、泣き崩れるように、膝をついた。

 

 御神体を壊した……何のことだろう? 考えて、思い当たったのは、初めて美耶子と会った時だ。森の中の大きな三角錐の岩のそばで、美耶子は何かを壊していた。あれが、御神体という物なのだろうか? それを壊したから、村は怪異に襲われたというのだろうか?

 

「判っていたんだ」と、美耶子は続ける。「儀式が失敗すれば、村は災いに襲われる。でも、こんな村、滅んでしまえばいいと思ってた。そうすれば、あたしは自由になれる。そう思ってたんだ。でも、あたしたちは逃げられない。まさか、こんなことになるなんて」

 

「…………」

 

 恭也は、そっと、美耶子の肩に手を置いた。

 

「――らしくないよ」

 

 優しい口調で言う。

 

「え……?」顔を上げる美耶子。

 

 その頬に。

 

「――――」

 

 ぷにっ、っと、恭也が立てた人差し指がささった。

 

「な……何するんだ、バカ!」恭也の手を払いのける美耶子。

 

 恭也は笑った。「お? ちょっと、調子が出てきたかな?」

 

「あたしは、真面目な話をしてるんだぞ」

 

「ゴメンゴメン――まあ、難しいことは俺にはわかんないけどさ。諦めちゃ、ダメだよ。この村、キライなんだろ? だったら、諦めないで、なんとか逃げ出す方法を探そう」

 

 恭也は、笑顔のまま言った。

 

 それにつられたのか、美耶子の顔にも笑顔が浮かんだ。「……気楽なヤツだな、お前は」

 

「そう? まあ、それが俺の取り柄だし。さあ、行こう」

 

 恭也は歩き出した。

 

「――ありがとう」

 

 聞き取れるかとれないかの小さな声がした。

 

「え?」振り返る恭也。

 

「恭也がいなかったら、あたし、とっくに諦めていたと思う。本当に、ありがとう」

 

 今度は、はっきりとした声だった。

 

「だから、らしくないって」笑う恭也。

 

「いいだろ、お礼くらい言っても。お前は、あたしのことをどう思ってるんだ」

 

「変なヤツだと思ってる」

 

「……もういい。二度と、お礼なんか言わないからな」

 

 むくれる美耶子。やっと、いつもの彼女らしさが戻ってきた。

 

 恭也は。

 

 ――お礼を言うのは俺の方だよ。

 

 心の中で呟いた。

 

 俺の方こそ、美耶子がいなかったら、とっくに諦めていただろう。いつ命を落とすかも判らないこの状況で、励まし合える人がいる。どこに向かえばいいのか、何をすればいいのか判らないこの状況で、するべきことを教えてくれる人がいる。それがどれだけ心強いか、身をもって判った。

 

 訊きたいことは、たくさんある。

 

 現世でもあの世でもないとはどういうことなのか? 御神体とは何か? 儀式とは何か?

 

 だが、それを聞いたところで、自分なんかに何ができるだろう?

 

 屍人一人と戦うので精いっぱいだ。盲目の少女一人を護るのでさえ、自分には困難なことなのだ。

 

 ならば、余計なことは考えなくてもいい。

 

 少女を護り、村から脱出する方法を探す――それしかない。

 

 村から脱出できるかどうか判らない。美耶子の言う通り、逃げ場なんて無いのかもしれない。

 

 それでも。

 

 最期の最期まであきらめず、頑張ってみよう。

 

 そう、心に決めた。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 吊り橋を渡り終えたところで。

 

「――美耶子……探したぞ」

 

 ワイシャツにスラックス姿の若い男が立っていた。

 

 右手に猟銃を、左手には、鞘に収まった長い日本刀を持っている。

 

 昨日、美耶子が殴り倒した、義理の兄と呼んでいた男だ。

 

「……(じゅん)……お前……」美耶子の表情が険しくなる。憎しみを込めた眼で、兄を睨んだ。

 

「昨日のお礼をしなきゃね」淳と呼ばれた男は、銃口を美耶子に向けた。

 

「美耶子、下がって」恭也は美耶子をかばうように立ち、火掻き棒を構えた。

 

 淳は、バカにしたように笑う。「そんな物で、何ができるんだ?」

 

 猟銃相手に火掻き棒で戦うのは、あまりにも無謀だ。それは、恭也にも判っている。恭也は、ポケットから拳銃を取り出し、淳に向けた。

 

「――へえ。銃を持ってのか。これは、油断できないな」

 

 淳の笑みは消えない。左手に持つ刀を腰のベルトに刺すと、両手で猟銃を構えた。

 

「……あれは……焔薙(ほむらなぎ)か……」美耶子がつぶやくように言う。

 

「え?」

 

「恭也、あの刀に気を付けろ」

 

「刀? 銃じゃなくて?」

 

「ああ。銃で撃たれた傷はすぐに治っても、あの刀に斬られたら、決して治らないぞ。あれは、神代家の宝刀・焔薙だ」

 

 どんな傷でも時間が経てばすぐに治ってしまうこの状況でも、決して治らないというのだろうか? 淳のベルトに刺さった刀を見る恭也。(つば)の部分にマナ字架が彫り込まれている以外、これといった装飾は施されていない。とても宝刀と呼ばれるような物には見えない。

 

「おい、お前――」淳が顎を上げ、見下すような目を向ける。「銃を撃ったこと、無いだろ? そんなんで、ちゃんと撃てると思うのか?」

 

「ふん。狙いを定めて、引き金を引けばいいだけだろ? 簡単だよ」

 

 そう言ってはみたものの、強がっているのは相手に見透かされているだろう。だが、ハッタリでも言うしかない。

 

「じゃあ、やってみろよ?」

 

 淳は猟銃を構えるのをやめ、挑発するように両手を上げた。撃てるはずがない。そう言わんばかりだ。

 

「撃て、恭也」美耶子が言った。「遠慮することはない」

 

 引き金に指を掛ける恭也。これを引けば、銃口から弾が発射される。相手はすぐ目の前だ。きちんと狙えば、外す方が難しい距離だろう。

 

 だが、相手は屍人ではなく、生きている人間だ。本当に撃ってもいいのか。銃で撃たれても、傷はすぐに治るが、それは、生きていればの話だ。死んでしまったら、屍人になるしかない。

 

「やっぱり、無理なようだな」両手を下ろす淳。「じゃあ、こっちは遠慮なく撃たせてもらうよ!」

 

 淳は、再び猟銃を構えようとした。

 

「撃て! 恭也!!」叫ぶ美耶子。

 

 恭也は、引き金を引いた――。

 

 いや、正確には、引こうとした。

 

 だが、引けない。引き金は、硬直したかのように、どんなに指に力を入れても動かなかった。

 

 淳が高らかに笑う。「――銃というのは、安全装置を外さないと撃てないんだよ!」

 

 安全装置? そう言えば、テレビドラマなどでそんなことを聞いたことがあるように思う。でも、どれが安全装置だ? 銃を見ても、すぐには判らない。

 

 銃声が、鳴り響いた。

 

 同時に、恭也の腹が小さく破裂する。まるで、腹の中に小さな爆弾が仕掛けられていたかのように。

 

 淳の猟銃の銃口から、煙が薄く立ち上っていた。

 

 銃で撃たれるのはこれが初めてではない。だが、昨日の夜に拳銃で撃たれた時よりも、はるかに大きな痛みと衝撃だった。

 

 ぐらり、と、天地がひっくり返った。奇妙な浮遊感と共に、吊り橋が遠ざかり、薄ら笑いを浮かべた淳の姿が遠ざかり、そして。

 

「恭也あぁ――!!」

 

 美耶子の叫び声が、遠ざかる。

 

 恭也は、吊り橋の下へと落ちて行った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十七話 竹内多聞 蛇ノ首谷/戻り橋 第二日/十時二十九分五十六秒

 合石岳・蛇ノ首谷の南に、田堀地区と比良境地区を繋ぐ県道がある。その途中、眞魚川を渡るコンクリート製の大きな橋は『戻り橋』と呼ばれていた。昔、旅の僧が、この川の橋の上で村人の葬列に出会い、祈りを捧げたところ、棺の蓋が開き、死者がよみがえった、という伝説が由来とされている。

 

 竹内多聞は戻り橋の欄干を眺め、懐かしい傷跡がまだ残っていることに驚き、そして、頬を緩めた。古びた石造りの欄干には、『たけうち たもん 7さい』と彫ってあった。

 

 安野依子がひょいっと顔を出し、欄干の落書きを見る。「先生、なんですか? それ?」。

 

「子供の頃、私が付けたものだ」

 

「え? それって、どういうことですか?」

 

「ここは、私が生まれた村なんだ。二十七年前の土砂災害で両親を失うまで、この村で育った」

 

「あら、そうだったんですか。まあ、なんとなく、そうだろうな、とは思ってたんですけどね。随分村について詳しいみたいでしたし」

 

「それにしても、懐かしいな……」

 

 竹内は、遠い記憶を探るように、欄干の傷痕をなでた。二十七年も前に付けたものだが、不思議なほどはっきりと読み取ることができた。

 

 竹内は、依子の顔を見た。「しかし、とんだ里帰りに、君を付き合わせてしまったな」

 

「まあ、あたしが勝手についてきただけですし」

 

「こんなことになって、すまないと思っているよ」竹内は、自分でも不思議なほどに、優しく微笑んで言うことができた。

 

 それが意外だったのか、安野は戸惑った表情になる。「どうしたんですか? 先生。そんな、急に優しくなって」

 

「なぜだろうな……今、とても心が穏やかなんだ」

 

 戸惑っていた安野の顔が、急に、汚いものを見る目になった。「……ひょっとして、さっき公衆電話の所で、なぽりんの限定テレカを拾ったからですか?」

 

「ぎく。な……なぜそれを知っている……さては貴様、幻視で覗き見していたな?」

 

「見てましたよ。先生はすっかり忘れてるようですけど、十五分に一回、お互いを視界ジャックする約束ですからね。まったく……あんな使い古しのテレカなんか拾って、どうするんですか?」

 

「バカモノ! あのテレカはな、十年以上前、『BANG』という雑誌の懸賞で、抽選で二名にプレゼントされた物だ。この世に二枚しかない超限定品なのだぞ!? 当時、ファンの間では何十万の値段がついた物なのだぞ! それがまさか、こんな寂れた田舎村に落ちていようとは! 私はツイている。村でなぽりんと感動の再開をするだけでなく、こんなお宝を手に入れることができるとは!!」

 

「でも、使用済みなんでしょ? テレカなんて、未使用か使用済みかで、ずいぶん価値が変わるんじゃないですか? まして、なぽりんが人気アイドルだったのはもう何十年も前のことなんでしょ? 今じゃ、何百円の価値も無いですよ、きっと」

 

「ふん、貴様は何も判っていないな。古かろうが使い切っていようが、そんなことは関係ないのだ。なぽりんのテレカが放置されている。ファンとして、どうしてそれを見過ごすことができようか」

 

「……また語り始めちゃったよ、この人」

 

 安野は、大げさにため息をついた。

 

 竹内はポケットから拾ったテレカを取り出し、愛おしそうに眺めた。「しかし、無知とは恐ろしいものだ。こんな貴重なテレカを使用し、あろうことか使い切って捨てて行くなど、ありえん。人として許されることではない。私など、このテレカを当てるために、雑誌を何十冊も購入して応募したというのに……」

 

「え? 同じ雑誌を何十冊も買ったんですか? テレカを当てるために? 先生、バカですか?」

 

「なんとでも言え。なぽりんのテレカを当てるためには、必要な投資だったのだ。当時は、私だけでなく、ファンのみんな、全員が買いまくったものだ。その結果、その号のBANGは過去最高の売り上げを叩き出した。この記録は、十年経った今でも破られていない……」

 

 竹内は言葉を切り、あごに手を当てて考え始めた。

 

 安野が顔を覗き込む。「どうしたんですか? 先生。急に考え事を始めて」

 

「最近、音楽CDの売り上げが劇的に落ちているだろう?」

 

「はい? 何ですか、急に。まあ、確かに、十年くらい前はシングルCDが二百万枚三百万枚売れたりしましたけど、最近は、百万枚超えるのも、あんまりないですね」

 

「そこでだ。アイドルのCDに、握手会に参加できるチケットを付けて売り出してみたらどうだ?」

 

「……そんなもの付けて、どうするんですか?」

 

「チケット一枚に付き握手時間を三秒とか十秒とかに決めておくんだ。ファンは少しでも長く握手をしたいと思うから、それだけたくさんCDを買う。あっという間にミリオン達成だ」

 

「……そんな、同じCDを何枚も買う人なんて、先生くらいのものですよ。うまく行きっこありません」

 

「そうか? いいアイデアだと思うのだが」

 

「さあ、アホなこと言ってないで、早く調査しましょう。まずは、どこから調べ――」

 

 銃声が鳴り響き。

 

 左胸に銃弾を受けた安野が、大きくよろめいた。

 

「安野――!?」

 

 体勢を崩した安野の身体は、欄干を越え、谷底へと落ちていく。竹内が手を伸ばす暇もなかった。

 

 拳銃を取り出す竹内。銃声が聞こえた方を見た。橋の東側。電話ボックスの近くに、猟銃を構えた屍人の姿が確認できた。銃口を竹内に向けている。竹内も拳銃を向けるが、かなり距離があり、撃ち合っても勝てる見込みは薄い。撃たれる――そう覚悟したのだが。

 

 屍人は、なぜか銃口を下げ、電話ボックスの陰に隠れた。

 

 弾が切れたのか? そう思い、幻視で屍人の様子を探るが、弾を込め直している様子は無い。銃の中に弾も残っているようだ。

 

 なぜ撃って来ないのか判らなかったが、今は、川に転落した安野を助けるのが先決だろう。傷口から体内に赤い水が入れば、安野は屍人と化してしまう。竹内は橋の西側へ走った。屍人は撃ってこない。竹内は橋のそばの階段を駆け下りた。赤く染まった川の岸辺に、安野が倒れていた。竹内は安野を引き上げると、橋の下まで運び、橋脚にもたれかけさせた。

 

「……あれ……先生……あたし……撃たれたの……?」

 

 安野がうつろな目を向けた。胸の傷からはとめどなく血が溢れ出ている。急所は外れたようだが、血管が損傷しているのだろう。まずは止血をしなければいけない。だが、ハンカチなどでは間に合いそうにない。

 

「安野」

 

「はい」

 

「生理用のナプキンを持っているか?」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……先生。こんな時に、変態的冗談を言うのはやめてください。いくらあたしでも、ツッコむ気力がありません」

 

「冗談ではない。止血の応急処置として生理用品は非常に役に立つ。戦場で兵士が銃創にタンポンを詰めるのは有名な話だ。現在では軍用医療機器として正式に開発・採用されていて――」

 

「判りました判りました。こんな時に先生のムダに長い解説は勘弁してください。ポーチの中に入ってますから」

 

 竹内は安野のポーチを開け、中からナプキンを取り出し、傷口に強く押し当てた。期待通り、ナプキンは血をどんどん吸収していく。

 

 だが、それで大丈夫とは言えない。赤い水の影響で傷が治るのが早いとはいえ、その前に出血多量で死んでしまっては意味がない。傷が治るのが早いか、出血が致死量に達するのが早いかは判らない。赤い水を体内に取り入れれば傷の治りは早くなるが、同時に、屍人と化すのも早くなる。すでに丸一日以上赤い雨に打たれ続けている。これ以上赤い水を体内に取り込むのは危険だ。ならば、極めてありきたりな方法だが、医者に診せるのが一番だろう。この村にある病院は東にある比良境の宮田医院だけだ。そこまで運ぶしかない。そのためには、さっきの屍人を排除しなければ。

 

「……安野」

 

「はい」

 

「私はこれから、お前を撃った屍人を倒しに行く」

 

「はい」

 

「屍人を倒したら、お前を病院に運ぶ。すぐに戻るから、ここでじっとしていろ。いいな?」

 

「判りました」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野、一応言っておくが――」

 

「心配しなくても今度こそ本当にじっとしてます。と言うか、さすがに動けません」

 

「ならいい」

 

「先生の方こそ、あたしがいなくて大丈夫ですか? 相手は猟銃、先生は拳銃で、腕前もヘタクソだし、まともに戦ったって、勝ち目はありませんよ?」

 

「それこそ心配無用だ」

 

「ならいいですけど」

 

「では行ってくる。くれぐれも、動くんじゃないぞ?」

 

 竹内が安野にポーチを返そうとしたとき、中から古びた写真が落ちた。竹内は写真を拾い、ポーチに戻そうとしたが。

 

「これは……」

 

 二組の家族が写った古い写真だった。かなり色あせているが、そこに写っている人の顔だけは、はっきりとしている。

 

 その写真が、竹内の古い記憶が重なった。

 

 そこには、幼い自分が写っていた。そばには、二十七年前の土砂災害で亡くなった両親が、優しい笑顔を向けている。そして、その隣にいる家族は、かつて竹内家と家族ぐるみで付き合いのあった、志村という家の人たちだ。父の親友の志村晃と、その妻、そして、息子の晃一と、晃の従兄弟の貴文だ。

 

 竹内は安野を見た。「安野、この写真、どこで手に入れた?」

 

「えっと……下粗戸の廃村です。先生と最初に調査した、井戸のある所……」

 

 下粗戸……二十七年まえの大字波羅宿だ。二十七年前竹内が住んでいた大字粗戸のすぐ北で、志村の家族が住んでいた地域だ。

 

 安野は、かすれるような声で続ける。「そこに写ってるのって、ひょっとして先生ですか?」

 

「ああ。二十七年前の私だ」

 

「やっぱり……なんか、似てると思ったんですよ。子供の頃の先生、カワイイかったんですね。お父さんなんて、今の先生そっくりです」

 

「そうか?」

 

「――先生」

 

「なんだ」

 

「あたし、先生が住んでいた所に行ってみたいです。この調査が終わったら、連れて行ってください」

 

「……判った」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……先生」

 

「……なんだ」

 

「やっぱりやめておきます。今のは、死亡フラグでした」

 

「そうだな」

 

 竹内は写真をポーチに戻し、安野に返した。「では行ってくる。くれぐれも、動くんじゃないぞ?」

 

「判ってますよ、しつこいですね。早く行ってください」

 

 ひらひらと手を振る安野。やはりイマイチ信用できないが、仕方がない。竹内は安野を残し、階段を上がって県道へ戻った。

 

 安野を撃った屍人は、電話ボックスのそばから移動し、森の中に入ったようだ。今なら安野を病院へ運べるかもしれない。一瞬そう思ったが、それは危険だと考え直す。背後から撃たれる可能性もあるし、ヤツの他にも屍人はいるだろう。

 

 そう言えば……。

 

 さきほど銃を構えた時のことを思い出す竹内。あの時、猟銃屍人は竹内を攻撃せずに逃げた。もしかしたら、ヤツは頭脳屍人なのかもしれない。ならば、ヤツを倒せば周辺の多くの屍人が活動を停止するはずである。安野を病院へ運ぶにはそれが最も安全な方法だろう。ならば、最優先で倒すべきだが、頭脳屍人は逃げ足が速い。逃げる者を確実に撃つ技量は、今の自分には無い。

 

 ――なら、あらかじめ逃げられることを想定し、逃げ道を塞いでおくか。

 

 さらに考える。この戻り橋から北に少し行けば、吊り橋があったはずだ。そこを何らかの方法で渡れないようにしておき、追い込むことができれば、倒せるかもしれない。

 

 竹内は県道を逸れ、川沿いの砂利道を北へ向かう。しばらく走ると木製の古い建物があった。東の三隅鉱山から運ばれてきた錫を選鉱するための場所だ。その正面に、竹内の記憶通り、吊り橋があった。かなり古いものだが、元は鉱石を積んだトロッコを運搬するために作られた物で、かなり頑丈にできている。どうやって通行できないようにしたものか……竹内は考えながら周囲を見回した。と、選鉱所の玄関のそばに、赤いマジックペンのような細長い棒が落ちていた。拾ってみると、それは、車などで緊急時に危険を知らせるための発煙筒だった。最近誰かが落としていったものようで、まだ新しく、使用できそうだった。うまく使えば、これで吊り橋を燃やせるかもしれない。だが、そのためには何か燃える物が必要だ。選鉱所にガソリンか灯油でもないだろうか? 中に入ってみる。中の明かりは点いており、どこからか車のエンジン音のような低い音が聞こえて来る。発電機があるのかもしれない。音を頼りに裏口の方へ回ってみると、思った通り、大きな発電機があった。そのそばにはガソリンの入った金属缶も置いてある。竹内は缶を持って外に出ると、吊り橋にガソリンを撒いた。そして、発煙筒のキャップを外す。花火のような火花と、赤い煙が勢いよく噴き出した。それを吊り橋に向かって投げる。発煙筒の火花がガソリンに引火し、爆発するように炎が一気に燃え広がった。これで吊り橋を渡ることはできないだろう。

 

 竹内は砂利道を下ると、戻り橋を渡った。電話ボックスの先に、自動車が一台停められてあるのを見つける。事故でも起こして炎上したのだろうか、車は黒く焼け焦げていた。

 

 車のそばには山を登る砂利道がある。そこを登ると、さっき燃やした吊り橋の対岸だ。幻視で様子を探る。道の途中には小さな祠があり、猟銃屍人はその前にいた。用心深く周囲を警戒している。逃げ道は塞いだが、逃がさないように倒せるのならばそれに越したことはない。竹内は銃を構え、慎重に進んだ。しばらくして、猟銃屍人の姿が見えてくる。竹内は木の陰に身を隠し、幻視でタイミングを計る。そして、背を向けた瞬間に飛び出し、立て続けに二度、引き金を引いた。だが、距離がありすぎた。弾は屍人の足元と、そばの木の幹をかすめた。外した。銃声に気付いた屍人が振り返り、猟銃を構えた。

 

 しかし、やはり屍人は銃を撃たず、竹内に背を向け、逃げ出した。

 

 竹内は慌てず後を追う。作戦通り、屍人は炎上する吊り橋を前にして立ち尽くしていた。今度こそ外さない。竹内は慎重に狙いを定めると、残りの銃弾四発を全て撃った。運よく、そのすべてが命中する。猟銃屍人は、ゆっくりと倒れた。

 

 ふう、と、大きく息を吐き出し、倒れた屍人を見る竹内。これで、周辺の犬屍人や羽根屍人の動きも止まるだろう。安野を安全に病院まで運ぶことができる。竹内は安野の元へ戻ろうとした。

 

「……たけ……うち……か……」

 

 屍人に名を呼ばれ、驚いて振り向く。

 

 屍人は頭を上げ、血の涙を流す目でこちらを見ていた。その顔は、肌の色こそ土気色だが、まだ人の頃の面影が残っていた。頭脳屍人は、個体差はあるが、顔は大きなこぶや触手のようなものに埋もれ、醜い姿をしているはずだ。頭脳屍人ではないのか? それに、なぜ、自分のことを知っているのだろう? ほとんどの屍人には生前の記憶が残っているようだが、竹内がこの村を離れたのは二十七年も前だ。その間、里帰りなど一度もしていない。村にもまだ自分のことを知っている人はいるだろうが、ひと目見て、それが二十七年前に村に住んでいた子供だと気付くものだろうか?

 

 ――お父さんなんて、今の先生そっくりです。

 

 ふいに、安野の言葉が頭をよぎった。

 

 そして、目の前の屍人の顔が、あの古い写真の顔と重なる。

 

「まさか……志村さんなのか!?」

 

 竹内の声に、屍人は、小さく笑ったように見えた。

 

 そうだ、間違いない。志村晃は人嫌いで、近所づきあいなどほとんどしなかったが、竹内の家の者だけには、今のようなわずかなほほ笑みを見せていた。

 

「たけ……うち……」

 

 志村は、何かを求めるように右手を上げた。竹内を見つめる瞳には、まだ人の頃の生気が宿っているように思えた。志村さんは、まだ屍人になりきっていない――そう感じた。もちろん、生きているわけでもない。屍人と人の間――死と生のギリギリの狭間に踏みとどまっている。

 

 竹内は志村のそばに屈み、その手を握った。

 

 志村が、ゆっくりと口を開く。「……この村は……呪われている……」

 

 その言葉は、竹内のことを父と思っているのか、あるいは、成長した息子の多聞だと気付いているのかは判らない。

 

「……あの女は……化物だ……」

 

 差し出した手から力が抜け、志村は、眠りについた。

 

 ――あの女? 誰のことだ。

 

 思い当たる節は無い。

 

 ただ、志村の従兄弟の貴文が同じことを言っていたのを、そして、そのことで狂人とされ、宮田医院に強制入院させられたのを、竹内は思い出した。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十八話 安野依子 蛇ノ首谷/眞魚川岸辺 第二日/十一時十二分〇八秒

「……先生の所に……行かなきゃ……」

 

 安野依子はもうろうとする意識の中、橋の上へと戻る階段へ向かっていた。銃で撃たれた胸の傷からは、まだ血が溢れ出している。止血に使っていた生理用のナプキンも、すでに使い果たしてしまった。傷が塞がる様子は無い。一歩足を踏み出すたびに、心臓が大きく鼓動し、血が溢れ出し、そして、意識が遠のく。

 

 それでも。

 

「……先生の所に……行かなきゃ……先生の……所に……」

 

 呪文のように繰り返し、まるでその言葉を気力に変えるかのように、安野は、一歩、また一歩、と、足を踏み出す。

 

 竹内が猟銃屍人との戦いに向かってから四十分以上経つ。途中、銃声が六回聞こえた。竹内が撃ったのか屍人が撃ったのか音だけでは判断がつかないが、どちらにしても、竹内が苦戦しているのは容易に想像できた。やはり、先生はあたしがいないとダメだ。先生を助けなきゃ――想いに反し、身体はどんどんいうことを聞かなくなる。踏み出した足ががくんと折れ、地面に倒れた。起き上がろうとしても、手にも、足にも、力が入らない。息をするのがやっとだ。さすがに、限界かもしれない。

 

 川辺の小石を踏む音が聞こえた。

 

 誰か来る……そう思った。わずかに動く首を傾け、音がする方を見る安野。

 

 まだ顔に幼さの残る少年が、おぼつかない足取りで歩いていた。恐らく高校生くらいだろう。上着のお腹の部分が血で染まっている。安野と同じく銃で撃たれたのだろうか? 普通ならば、到底動けるような状態ではなさそうだが。

 

「……美耶子の所に……行かなきゃ……美耶子の所に……」

 

 少年も、安野と同じように、何度も同じ言葉を繰り返し、一歩、また一歩と、足を踏み出していた。わずかな力を振り絞り、気力で意識を繋ぎ留め、なんとかここまで歩いてきたようだ。

 

 少年が安野のそばまで来た。安野には気付かなかったのか、あるいは気付いても何もできなかったのか、そのまま通り過ぎる。

 

 だが、ついに力尽きたのだろう。バタリと倒れる音が聞こえた。

 

 安野の息遣いと、少年の息遣いが、次第に小さくなっていく。

 

 そこに、もうひとつの気配がした。

 

 足音が近づいてくる。しっかりとした足取りだ。先生かもしれない。安野は気配のした方を振り向こうとしたが、もう、首を動かす力さえ残っていなかった。

 

「――先生?」

 

 最期の力で呼びかけたが、返事は無い。

 

 ただ、そばに立った時、医者のような白衣を着ていたのだけは、判った。

 

 少年の息遣いは、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 

 安野は、意識を失った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十九話 八尾比沙子 大字波羅宿/耶辺集落 第二日/六時四十四分五十一秒

 羽生蛇村の南に位置する大字波羅宿の県道で、八尾比沙子は赤い海の波打ち際に立ち、水平線の彼方を眺めていた。かつてこの場所からは山のふもとに広がる街を見下ろすことができたが、今は赤い海の中に消えている。いや、あの赤い海の下に街は存在しない。村が赤い海の異界に飲み込まれたと言った方が正しいだろう。

 

 比沙子の足元には繰り返し赤い波が打ち寄せている。波の音を聞きながら、比沙子は、海を見つめる。

 

 なぜここに来たのだろう? せっかく保護した前田知子を放っておいて。自分でも、よく判らない。

 

 思えば、このところずっとそうだった。自分が何をしたいのか、判らない。

 

 村人を救わなければ。そう思う一方で、村人なんてどうなってもいいと思う自分がいる。

 

 村に迷い込み、怪異に巻き込まれた少年を哀れに思い、助けたが、一方で、あんな余所者、助ける必要など無かったと思う自分がいる。

 

 神の花嫁・神代美耶子に関しても、同じだ。

 

 御印が下り、神の花嫁として捧げられると決まった美耶子を哀れに思い、数日前、比沙子は、儀式から逃れる術を、美耶子に教えた。

 

 眞魚岩の祭壇に収められた御神体を壊せばいい。それで、儀式は失敗する。美耶子様は、自由になれる。

 

 美耶子は比沙子の言葉を信じ、儀式の前日、神代の家から密かに抜け出し、御神体を破壊したはずだ。

 

 だから、儀式が失敗した。村は異界に飲み込まれ、多くの村人の命が犠牲になったが、美耶子様が助かるならば、それでいい。そう思う。

 

 一方で。

 

 何としても儀式を成功させなければと思う自分がいる。そのために、牧野慶を一人前の求導師に育てたのだ。牧野を探し、儀式を再開すれば、この怪異は終わるかもしれない。そうすれば、村は救われる。いや、御神体を失った今、儀式を続けることはできない。怪異は止められず、村は救われない。だが、それでもかまわない。

 

 ――判らない。自分が何をしたいのか、判らない。村を救いたいのか、村を滅ぼしたいのか、村なんてどうでもいいのか……。

 

 まるで、自分の中に何人もの八尾比沙子がいるような感覚。そのどれもが自分であり、自分でない。判らない。どれが、本当のあたしなのだろう? あたしは、何がしたいのだろう? あたしは、何をしなければいけないのだろう?

 

 あたしは、何のために生きているのだろう?

 

 海の向こうに問いかけるように、ただ、見つめる。

 

 赤い波は、途切れることなく繰り返し打ち寄せている。

 

 その、波の狭間に。

 

 生物の首が、流れ着いた。

 

 比沙子は、首を拾い上げる。

 

 それは、この地球上に存在する、どの生物の首でもなかった。

 

 一般的な成人男性の首よりも、ひと回り小さい。その半分以上を占めているのが、かっと開かれた左右ふたつの目だ。眼球は無い。闇よりも暗い虚ろな穴が開いているだけ――あるいは、その闇こそが眼球だとも思える。目から下は不自然なまでに細くなっており、口は、存在するのかどうか判らないほど小さい。そして、後頭部の周りには、小さな突起物がいくつもある。

 

 それは、神の首だった。

 

 眞魚岩の祭壇に奉られている――そして、儀式の前日、神代美耶子が破壊したはずの、御神体。

 

 ――どうしてここに……これが……。

 

 比沙子は、赤子をあやすように御神体を抱きしめ、そっと撫でた。

 

 突然、雨が止んだ。

 

 ――目覚めよ。

 

 海の向こうから、誰かが呼び掛けている――そう感じた。

 

「……誰?」

 

 御神体を抱いたまま、海の向こうにいる何者かに問う。

 

「……復活の時……?」

 

 海の向こうの者の声が、心の中に響いている。

 

「……永遠の狭間で……始まりと終わりは……ひとつとなる……」

 

 判らない……どういうことだ……判らない。

 

 海の彼方で、光が生まれた。

 

 海から生まれた光は、空へ向かって伸びていく。輝きを増し、太く、まぶしくなっていく。

 

 それは、海の底に住む龍が、天へと昇る姿に似ていた。

 

 理尾や丹――聖典・天地救之伝に登場する、災いをもたらす海龍だ。

 

 天へと昇る海龍の姿を、比沙子はじっと見つめる。

 

 天空では、海龍を迎え入れるかのように、神が、大きく手を広げていた。

 

 ――いや、あれは、あたしたちが信仰している神ではない。

 

 そう思った。あれは、神よりもさらに上の者。

 

 なぜ、そんなことを思ったのかは判らない。眞魚教の経典にも、神の上に存在する者のことなど書かれていない。ただ、はるかな記憶の奥底から、もう一人の誰かが、そう教えてくれたのだ。

 

 ――儀式を続けなさい。

 

 別の声が聞こえた。

 

 誰? 比沙子は、天へ向けていた視線を落とす。

 

 目の前の波の狭間に、一人の女性が立っていた。

 

 眞魚教の求導女しか着ることの許されない――つまり、自分しか着ることの許されない赤い法服を着ている。髪は長い白髪で、老婆のような外見であるが、顔は、不自然なまでに若い。

 

 女は、木箱のようなものを大事そうに胸に抱き、比沙子に向かってほほ笑んでいた。

 

 比沙子は。

 

 

 

 ――あなたは誰?

 

 

 

 胸の中で、女に問いかけた。

 

 

 

 ――私は、あなた。

 

 

 

 女が答えた。

 

 

 

 ――なにをしに来たの?

 

 

 

 さらに問う。

 

 

 

 ――首を届けに。

 

 

 

 女は答える。

 

 

 

 どこへ行くの?

 

 必要としている、全ての場所へ。

 

 いつまで?

 

 命の続く限り。

 

 それが、あなたのすべきことなの?

 

 そう。

 

 あたしは、何をすればいいの?

 

 儀式を続けなさい。

 

 いつまで?

 

 命の続く限り。

 

 それが、あたしのすべきことなの?

 

 そう。

 

 あたしは、誰?

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 最後の問いには、答えてくれなかった。

 

 

 

 どれくらいの時間が流れたのか、比沙子は御神体を抱え、赤い海の波打ち際に、一人、立っていた。

 

 海の彼方の光の柱は消えている。首を届けに来た女も消えている。赤い雨は降り続いている。

 

 残されたのは、神の首と、そして、自分がすべきこと。

 

 ――そうだ。あたしは、儀式を続けなければいけない。

 

 その瞬間。

 

 遠い――本当に遠い記憶の彼方に沈んでいた自分が、目覚めた。

 

 比沙子は、笑みを浮かべる。

 

 そこに、村人から『慈愛に満ちた聖女』と呼ばれる八尾比沙子の優しさは、無かった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十話 四方田春海 田堀/廃屋内居間 第二日/十五時十九分五十九秒

 春海は、夢を見ていた。

 

 楽しい夢だった。お父さんとお母さん、クラスの友達、近所の友達、校長先生、そして、担任の玲子先生と一緒に、公園で遊んでいる。ずっと一緒に遊んでいた。お父さんお母さんとお弁当を食べ、クラスの友達と鬼ごっこをし、近所の友達とかくれんぼをし、校長先生に本を読んでもらい、そして、玲子先生とお喋りをした。

 

 みんな一緒だった。ずっと、遊んでいられると思った。幸せだった。この幸せが、永遠に続くと思っていた。

 

 でも。

 

「春海、お父さんとお母さんは、もう行くよ」

 

 突然、お父さんとお母さんから、別れを告げられた。

 

「え? 行くって、どこへ行くの?」

 

 春海が両親を振り返った時には、すでに二人は、春海に背を向け、遠くを歩いていた。

 

「待って! お父さん、お母さん! 春海も一緒に行く!」

 

 走って、走って、どんなに走って追いかけても、追いつけなかった。やがて、お父さんとお母さんの姿は、見えなくなった。

 

「春海ちゃん。あたしたちも、もう行くね」

 

 クラスの友達が言った。

 

 春海が振り返ると、みんな春海に背を向け、遠くを歩いていた。

 

「待って! みんな! あたしも一緒に行く!」

 

 どんなに走っても、もう追いつけない。

 

「春海ちゃん、バイバイ」

 

「春海ちゃん、さようなら」

 

 近所の友達にも、校長先生にも、別れを告げられた。

 

 気がつけば、春海は暗闇の中に、一人で立っていた。

 

 ――先生……そうだ……玲子先生は?

 

 周囲を見回し、玲子先生を探す。しかし、春海の周りに存在するのは、まとわりつくような闇ばかりだ。

 

「先生! 玲子先生!! どこ!?」

 

 叫び、周囲を見回す。返事は無い。誰もいない。存在するのは闇ばかりだ。玲子先生を探せば探すほど、自分は一人なのだと思い知らされるようだった。

 

 それでも春海は、玲子先生を探す。叫び、呼ぶ。どんなに一人であっても――いや、一人だからこそ、決してあきらめずに、探す。

 

 やがて。

 

 ――春海ちゃん?

 

 春海の背後で、玲子先生の声がした。

 

「先生!!」

 

 春海が振り返ると、そこには――。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 わずかに開いた隙間から、弱い光が差しこんでいた。

 

 春海はまぶしさに目を細め、右手で光を遮った。やがて目が慣れて来ると、それは、襖の隙間から外の明かりがさしこんでいるのだと判った。あたしは、夢を見ていたのだ。

 

 襖の向こうからは、楽しげに笑う声が聞こえて来た。男の人と、女の人と、そして、子供の笑い声。三人の家族が、楽しくお喋りをしながら食事をしている――そんな姿が想像できた。春海は、その楽しい場に加わりたくて、襖を開けて出て行こうとしたが。

 

 自分の置かれた状況を思い出し、思いとどまった、

 

 教会のある刈割から田堀地区へと移動しようとしていた春海と玲子。途中、襲ってきた屍人から春海を護るため、玲子は給油車に火を点け、爆発に巻き込まれた。一人になってしまった春海は、ただ、玲子の言葉通り、田堀地区へと向かった。

 

 ――田堀なら安全だから。

 

 先生の言葉を信じて。

 

 途中、何人もの屍人の姿があったが、見つからないように、隠れながら進んだ。なんとか田堀へとたどり着くことができた。ここで待っていたら、先生がきっと迎えに来てくれる。春海は一軒の古い家を見つけ、中に入った。玄関は板が何枚も張り付けられていて開かなかったが、裏へ回ると、台所の勝手口が開いていた。そこから中へ入り、居間の押し入れの中に身を隠し、先生を待っていた。そして、眠ってしまっていたのだ。

 

 春海は、襖の隙間から、そっと外の様子を窺った。

 

 春海よりも年上の少女と、そのお父さんとお母さんと思われる人が、居間のちゃぶ台を囲み、ご飯を食べていた。みんな、楽しそうに笑っている。何がおかしいのかは判らない。三人は、お話をしているのではない。何もしゃべらず、ただ笑っているだけだ。テレビを見ているのかとも思ったが、テレビの画面には、ただ砂嵐のようなノイズが映っているだけだ。それでも、三人は大きな笑い声を上げる。奇妙な光景だった。薄気味悪いと言っていい。

 

 その、笑う三人の顔を見て、春海は悲鳴を上げそうになった。

 

 なんとか口を押さえ、耐えることができたが。

 

 三人は血の涙を流し、血の気を失った肌の色をしている。屍人だ。

 

 それだけではない。その三人の屍人の顔には、見覚えがあった。

 

 ――知子お姉ちゃん……おじさんおばさんも……。

 

 春海の家の近所に住んでいる前田という家族だった。娘の知子お姉ちゃんとはよく遊んだし、おじさんおばさんも優しくしてくれた。

 

 その前田家のみんなが、屍人になってしまった。

 

 みんな、屍人になっちゃう。

 

 校長先生が屍人になった。村の人たちも屍人になった。知子お姉ちゃんも、前田のおじさんおばさんも、もしかしたら、玲子先生も――。

 

 あたしは、一人だ。

 

 春海は、耐えがたい孤独を感じる。みんなにおいて行かれているような気がした。いま見た、夢のように

 

 ――あたしもしびとになれば、みんなと一緒にいられるのかな……?

 

 そんなことを思う。

 

 知子たちは楽しそうに笑っている。屍人となってはいるが、それは、村が平和だったころの彼女たちと、何ら変わりは無い。ごく当たり前の、しかし、何よりも幸せな家族の姿のように思えた。

 

 あたしも、その幸せの中に入れてくれるかもしれない。

 

 みんなと一緒にいたい。

 

 ひとりはイヤだ。

 

 春海は、襖に手を掛けた。

 

 ――春海ちゃん。絶対に、諦めちゃダメよ。

 

 どこからか、玲子先生の声が聞こえたような気がした。

 

 襖に伸ばした手をひっこめる。

 

 諦めちゃダメ――それは、いつも玲子先生が春海に、そして、クラスのみんなに繰り返し言っていた言葉だ。テストの時、運動会の時。いつも、その言葉で励ましていた。

 

 そうだ。諦めちゃ、いけない。

 

 玲子先生が、絶対に、迎えに来てくれるから。

 

 そう信じて。

 

 春海は襖の隙間から外の様子を窺う。なんとか隙をついて、家から脱出してみよう。

 

 しばらく様子を見ていると、食事が終わり、三人は居間から出て行った。春海は目を閉じ、幻視の能力で三人の様子を探り続ける。父親は、玄関のそばの客間に入り、タバコを吸い始めた。母親は台所へ行き、洗い物をはじめる。知子は、二階の子供部屋で勉強を始めた。

 

 幻視をやめる春海。この廃屋には台所の勝手口から入ったのだが、今は母親の屍人が洗い物をしているので、そこから脱出するのは無理だろう。玄関は閉ざされているので、一階には他に出口は無い。だが春海は、この廃屋に入る前、勝手口の他に、二階にある木組みのベランダの窓が開いているのを確認している。あそこからなら脱出できるかもしれない。

 

 ……でも……行けるかな……。

 

 二階のベランダへ向かうには、居間から出て、客間の前を通り、台所の手前の階段を上がって、子供部屋の前を通らなければいけない。どの部屋にも屍人がいる。客間のドアは閉まっているが、台所と子供部屋は開きっぱなしだ。あれではすぐに気付かれてしまう。屍人に見つかれば、狭い家の中では逃げられないかもしれない。

 

 怖い……。

 

 屍人に追われ、捕まる姿を想像し、春海は震えた。涙が出てきた。ダメだ、絶対に、捕まってしまう。このままここに隠れていた方がいい。ここは安全だ。ここにいれば怖くない。

 

 でも。

 

 ここに隠れていても、震えは止まらない。いつかは見つかってしまうかもしれない。怖い。

 

 外に出ても、ここにいても、怖い。どうしたらいいのか判らない。ただ、泣くことしかできない。

 

 ――大丈夫! 先生がついてるんだし、怖くないよ。がんばろう、ね?

 

 学校で、玲子先生が言っていた言葉を思い出した。

 

 あの時、学校にもたくさんの屍人がいたが、見つからないように静かに行動し、脱出することができた。

 

 春海は、涙を拭いた。

 

 ……あきらめちゃダメ……あきらめちゃダメ……。

 

 玲子先生の言葉を胸の中で繰り返す。そして、玲子先生のマネをし、頬をパンパンと叩く。

 

 春海は、押し入れを出た。

 

 居間から廊下へ出る襖を開け、そっと様子を窺う。

 

 客間の出入口は閉ざされている。台所の戸は開いているが、母親は廊下に背を向け、洗い物に集中している。音をたてず、静かに移動すれば、きっと気付かれない。大丈夫。学校でも、その方法でうまく行ったんだから。怖くない、怖くない。春海は居間から出て、ゆっくりと、静かに、しゃがみ歩きで廊下を進んだ。客間の前を通り、角を曲がって、台所のそばの階段を上がる。木造の古い家屋は歩くたびにキイキイときしむが、春海の体重が軽いことが幸いしたのか、客間の屍人にも、台所の屍人にも、気付かれることはなかった。そのまま二階まで行けると思ったのだが。

 

 ビクンと身体が震え、階段の上から自分を見下ろす視点が見えた。

 

「あれえ? 春海ちゃぁん?」

 

 見上げると、知子が、血を流す目で、春海を見下ろしていた。子供部屋から出て来たのだ。

 

「はるみちゃーん、みぃつけた」

 

 知子は右手に鉛筆を持っている、先は鋭く尖っており、十分な凶器になりそうだった。それを振り上げ、階段を下りてくる。

 

「いやぁ!」

 

 春海は叫び声をあげ、階段を駆け下りた。その音を聞いた屍人が、台所から、客間から、出てくる。手に、包丁を、鉄パイプを、持って。

 

 春海は走った。廊下の奥へと逃げる。三人の屍人は追って来る。春海は廊下の角を曲がり、突き当りの戸を開けた。狭い物置だった。逃げる所も、隠れる所もなかった。屍人は迫っている。春海は戸を閉め、少しでも屍人から遠ざかろうと、物置の隅に行って小さく身をひそめた。そんなことをしても、屍人が戸を開ければ簡単に見つかってしまうが、他に方法は無い。

 

「はるみちゃんがほしいぃ」

 

 知子の声が聞こえた。まるで公園で遊んでいるかのように、はないちもんめの童謡を歌い、物置へ迫っている。その後ろから「勝手にひとの家に上がりこむなんて悪い子ねぇ」「どこの子だぁ」と、知子の母親と父親の声も聞こえる。こっちへ向かって来る。

 

 怖い……怖い……。

 

 だが、何もできない。身を震わせるだけの春海。

 

 物置の前に、知子が立った。

 

 もうダメだ――そう思ったのだが。

 

 知子たちは戸を開けることなく、立ち尽くしているようだ。

 

 そして、しばらく廊下をウロウロした後、気配が遠ざかって行った。

 

 大きく息を吐きながら、気持ちを落ち着かせる春海。幻視を行い、知子たちの様子を探った。それぞれ、客間、台所、二階へと戻って行く。どうやら、春海を探すのを諦めたようである。あるいは、春海が家に居たこと自体を忘れてしまったのか。何にしても、ひとまず助かった。

 

 だが、この廃屋から脱出しなければ、本当に助かったとは言えない。もう一度、二階からの脱出を試してみようか……しかし、勇気が出てこない。また、同じように見つかってしまうのではないか。そう思えてならない。怖い。屍人に追われた時の恐怖が、春海の小さな胸を締め付ける。身体が震える。涙がこぼれ落ちる。あきらめちゃダメ……あきらめちゃダメ……玲子先生の言葉を繰り返し唱えても、効果は無かった。もう、ずっとここに隠れているしかない。そう思い始めた。

 

 ――春海ちゃん。

 

 誰かに呼ばれた気がした。

 

 女の娘の声だった。誰? 顔を上げ、ライトで部屋の内を照らす。誰もいない。

 

 不思議と怖くは無かった。聞き覚えのある、優しい声。その声を聞いただけで、春海の胸の恐怖が少しだけ薄らいだ。春海はライトをいろいろな場所へ向ける。床に大きな穴が開いているのに気が付いた。近づいて、ライトで照らすと、何かがキラリと光った。穴に手を入れ、光った物を取ってみる。

 

 それは、白と黒のビーズを組んで作った、長い黒髪の少女の人形だった。

 

 ――これ、みやちゃんにプレゼントした人形だ……。

 

 みやちゃん。両親を事故で亡くし、独りぼっちになってしまった春海が出会った少女だった。一緒に遊んでくれた。お姉ちゃんになってくれるとも言ってくれた。ただし、一緒に遊んだことは、他の誰にもナイショだと言われた。秘密のお友達。

 

 ビーズ人形は、春海がみやちゃんをイメージして作り、プレゼントしたものだった。ここにあるということは、みやちゃんが、ここに来たということだろうか? なら、さっき呼んだのも……。

 

 ライトで床に開いた穴を照らす春海。誰かが踏み抜いてできたものだろうか? 身体の小さな春海ならば、十分通り抜けられそうな大きさだ。床下を覗き込むと、向こうが明るくなっているのが見えた。ここから外に出られるかもしれない。床下は暗く、埃っぽい。ネズミやゴキブリやクモなど、春海が苦手な生き物がたくさんいるかもしれない。

 

 ――でも、しびとに比べたら、そんなのぜんぜん怖くない!

 

 春海は決意し、床下へ下りた。明かりの方へ、ゆっくりと這って行く。頭上の床がギシギシときしむ音が聞こえた。屍人が歩いているようだ。もちろん、物置に隠れただけの春海すら見つけられないような屍人が、床下の春海に気付くはずもない。春海はそのまま這って進み、庭へ出ることができた。

 

 ――やった! 大成功!!

 

 春海は服に付いたほこりを払いながら立ち上がった。屍人が外に出て来る前に逃げなきゃ。庭を走り、門から外に出た。どこへ向かえばいいのかは判らないが、とにかく、この家から離れよう。屍人から逃げていれば、いつかきっと、玲子先生が見つけてくれる。そう信じて。

 

「――春海ちゃん?」

 

 門を出たところで、後ろから声を掛けられた。なじみのある女性の声。この声は、先生だ!

 

「先生!!」

 

 振り向いた。やっと、玲子先生が迎えに来てくれた。ずっと一人で寂しかった。怖かった。何度もくじけそうになった。でも、諦めなかった。一人で頑張った。そのことを話し、褒めてもらいたかった。ガンバったね、エライね、と、言ってもらえると思った。

 

 玲子先生は。

 

「春海ちゃぁん。じっとしてなさいって、言ったでしょぉ?」

 

 ゆっくりと、春海の方へ歩いてくる。

 

「どうして……先生の言うことが聞けないの……」

 

 血の涙を流す目で、春海を見ていた。

 

「先生を困らせて……春海ちゃんは……悪い子ね……」

 

 右手に持つバールを引きずりながら、近づいてくる。

 

 信じられない。

 

 どんなに寂しくても、どんなに怖くても、諦めないで頑張れば、きっと、玲子先生が助けに来てくれると思っていたのに。そう信じていたから、ここまで頑張ることができたのに。

 

 後退りする春海。いやいやと、大きく首を振る。これは夢……そう、夢なんだ。あたしはずっと、悪い夢を見ているの。だから、早く目覚めて! 何度も首を振る。そうすることで、この悪夢から目覚めるのを期待して。

 

 だが、夢は覚めない。これは、夢ではない。

 

「悪い子には……お仕置きしなくちゃね……」

 

 屍人となった玲子先生が、バールを振り上げた。

 

 春海は――。

 

「……いやああぁぁ!!」

 

 声の限りの悲鳴を上げ、逃げ出した。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十一話 八尾比沙子 蛇ノ首谷/吊り橋 第二日/十時〇七分二十三秒

「恭也あぁ――!!」

 

 吊り橋から身をのり出し、少年の名を叫ぶ美耶子の姿見て、神代淳は満足げに微笑んだ。吊り橋の下は、川の流れさえ見えない。この高さから落ちれば、いかに赤い水の影響で治癒能力が上がっていようとも、もう助からないだろう。

 

「さあ、美耶子。来るんだ。儀式を続けるぞ」

 

 淳は、美耶子の腕を取る。

 

「放せ! 恭也を助けるんだ!」

 

 淳の手を振りほどこうと身をよじる美耶子。所詮は十四歳の少女だから大した力ではないが、暴れられるのは面倒だ。

 

「大人しくしろ!」

 

 暴れる美耶子を、淳は、なんとかおさえようとする。しかし、殴ったり、力ずくで抑えつけたりはできない。ヘタに傷つけると、神の花嫁としての価値を失う可能性がある――神代家の当主より、そう聞いていた。暴れる美耶子に手を焼いていると。

 

「――どうして、逃げようとするの?」

 

 いつの間にか、二人のそばに、求導女の八尾比沙子が立っていた。

 

「……八尾さん……いつからそこに……?」

 

 困惑する淳。美耶子に気を取られていたとはいえ、吊り橋を渡って近づいてくる者に気が付かないものだろうか?

 

 比沙子は淳の問いには応えず、ただ笑っている。慈愛に満ちた求導女の笑顔――ではなかった。笑ってはいるが、そこには、優しさなど欠片も無かった。何かを企んでいるような、あるいは、蔑むような、冷たい、氷のような笑顔。

 

 比沙子は、美耶子に手を差し出した。「さあ、行きましょう。素晴らしい方が、待っているわ」

 

 美耶子は、見えないはずの目で比沙子を睨みつける。「お前……どうして……自由にしてくれるんじゃなかったのか……?」

 

「ごめんなさいね。あれ、あたしじゃないのよ」比沙子は冷たい笑顔のまま言った。

 

 そして、美耶子の腕を取る。

 

「放せ! お前らの言いなりにはならない!!」暴れる美耶子。

 

「……聞き分けのない娘ね」

 

 比沙子は、右手を美耶子の顔の前にかざした。

 

 すると、暴れていた美耶子が、急におとなしくなった。まるで糸の切れた操り人形のように、全身から力が抜ける。倒れそうになるのを、淳は慌てて支えた。美耶子は意識を失っていた。

 

「八尾さん……今、何を……?」比沙子を見る淳。

 

 比沙子は含みのある笑みを浮かべた。「うるさいから、ちょっと眠らせただけよ」

 

 眠らせた……それは間違いないだろう。しかし比沙子は、当て身や薬を打つといった意識を失わせる行為をしていない。ただ手をかざしただけで、美耶子は意識を失ったのだ。

 

 比沙子はあごを上げた。「さあ、儀式を再開するわよ。早く祭壇まで運んでちょうだい」

 

 命令するようなその態度が、淳の癇に障った。俺は、神代家の長女・亜矢子の許婚である。つまりは神代家の次期当主なのだ。今回の儀式では、病床にある現当主に代わって全てを任されている。この村では神代こそ絶対であり、教会は、神代の命に従って儀式を遂行するだけだ。恐らく比沙子は、神代の遠縁にあたる俺のことを見くびっているのだろう。ここは、お互いの立場をはっきりさせておく必要がある。ここで見くびられたままにしておくと、今後の神代と教会の力関係にも影響しかねない。

 

「八尾さん。勘違いしないでほしいのだが、儀式を取り仕切っているのは神代家だ。教会は、神代の指示に従って儀式を遂行するだけ。私は、病弱な当主に代わって儀式の全てを任されている。命令するのはあなたではなく、私の方――」

 

 比沙子の右手が、淳の口を覆うように掴んだ。

 

「ごちゃごちゃとうるさいわね。二度と喋れないようにしてあげましょうか?」

 

 比沙子の顔から冷たい笑みが消え、鋭い殺意が浮かんだ。顔を掴んだ手に力が込められる。あごの骨が軋む。小柄な女のものとは思えない力だった。力だけではない。右手からは、焼け付くような強い熱が伝わってくる。まるで、炎にさらされているかのようだ。

 

「あなたこそ勘違いしないでほしいわね」比沙子の手に、さらに力が込められていく。「儀式に必要なのは神代の娘という『実』のみ。あなたは、ただ種をまくだけ存在。当主などお飾りに過ぎないの。あなたの代わりなんて、いくらでもいるのよ?」

 

 淳は喋ることができない。手を振りほどこうと暴れることもできない。ただ、脅えた目を向けるだけだ。

 

 その姿に満足したのか、比沙子の顔から殺意が消え、また、冷たい笑顔が戻った。

 

 同時に、右手の力が緩む。比沙子の手から解放された淳は、腰の力が抜け、へたり込むようにその場に倒れた。

 

 比沙子が、蔑んだ目を向けた。「判ったなら、花嫁を運んでちょうだい」

 

 そう言って、淳に背を向ける。

 

 淳の手には猟銃がある。神代家の宝刀・焔薙もある。背を向けた求導女一人、たやすく殺せるはずだ。

 

 だが、淳はふらりと立ち上がると、意識を失っている美耶子を抱き、比沙子の後に続いた。そうするしか、なかった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十二話 竹内多聞 宮田医院/第二病棟一階裏口 第二日/十八時三十七分十一秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 竹内多聞は宮田医院第二病棟の裏口を開け、中に入った。壁や天井などいたるところが剥がれ落ち、瓦礫が散乱している。かなり荒れているようだ。現代の宮田医院の建物にしては古すぎる。どうやらここも、二十七年前に消えた病院なのだろう。竹内が子供の頃に通った時の記憶とも一致する。

 

 ――安野……無事でいろよ。

 

 竹内は、拳銃を取り出した。

 

 蛇ノ首谷で志村晃の屍人を倒した竹内。猟銃で撃たれた安野を病院へと運ぶため橋の下へ戻ったのだが、そこに、安野の姿は無かった。あれだけ動くなと言ったのに、やはり、勝手に行動したのか? いや、安野の傷はかなり深い。一人で動くのは不可能だろう。ならば、屍人となり、どこかへ行ってしまったのだろうか? その可能性も考えられるが、竹内は、地面に、安野のものでも自分のものでもない足跡がいくつかあることに気が付いた。誰かがここに来たということだ。たまたまここを通りがかったその誰かが、怪我をしている安野を見て、病院まで運んだのかもしれない。楽観的な考えかもしれないが、安野が生きているとすればその可能性に賭けるしかない。竹内は徒歩で山を下り、東の比良境にある宮田医院へと向かったのだ。

 

 幻視で病院内の様子を探る竹内。建物内には無数の屍人の気配があった。そのほとんどが蜘蛛型の屍人だが、一体だけ、人型の屍人の気配がある。手に持った黒縁の眼鏡を、じっと見つめている。病院内には屍人以外の気配は無かった。安野はここにいないのだろうか? だが、屍人が持っている眼鏡には見覚えがあった。安野が掛けていた物に似ている。では、この屍人が、安野なのだろうか? 眼鏡を持っているだけではそう断定することはできないが、否定もできない。確かめなければならない。

 

 この屍人は、どこにいるのだろう? 屍人はじっと眼鏡を眺めており、居場所の様子ははっきりしないが、視界の隅に手術台のようなものが見えた。手術室だろうか? だが、二十七年前の宮田医院に手術室があっただろうか? 竹内の記憶では、村人に手術が必要な場合は、ふもとの街の大きな病院へ運ばれていたように思う。もちろん、所詮は二十七年前の記憶であり、かなり曖昧だ。記憶違いであることは十分考えられる。それに、手術室があろうが無かろうが、安野の眼鏡を持った屍人が病院内にいるのは間違いない。探してみるしかないだろう。

 

 竹内は拳銃の弾を確認する。蛭ノ塚に停められてあったパトカーから調達した銃弾は、銃に込められているものも含めて残り十六発。院内の屍人の数を考えると心許無い。戦闘はなるべく避けた方がよさそうだ。竹内は、慎重に第二病棟の廊下を進んだ。

 

 第二病棟は、主に入院患者の部屋がある建物だ。徘徊している蜘蛛屍人はなるべく身を隠してやり過ごし、一階、二階と、順に部屋を調べていく。二階の一番奥の入院部屋まで調べたが、眼鏡を持っている屍人の姿は無かった。第二病棟にはいないようだ。

 

 入院部屋を出ようとした竹内だったが、ベッドの上に写真立てが置いてあるのに気が付いた。何気なく手に取ってみる。かなり古い白黒写真だった。この入院部屋で撮影された物だろうか、ベッドに座る入院患者と、修道服を着た女性が映っていた。優しく微笑みかけるその女に、竹内は覚えがあった。眞魚教の求導女・八尾比沙子だ。竹内は七歳までこの村に住んでいた。家は眞魚教を信仰しており、子供だった竹内も、お祈りを捧げるため、毎週刈割の教会へと通っていた。八尾比沙子のこともよく覚えている。村人から『慈愛に満ちた聖母のような女性』と言われていたが、その言葉通り、優しく、美しい女性だった。

 

 竹内は写真立ての裏を見た。昭和四十一年四月四日と書かれてあった。竹内が生まれるよりも前に撮影されたものだが、そこに写る比沙子は、竹内の記憶の比沙子と変わらない。二十代か、せいぜい三十代と思われる姿だ。まるで、時が止まっているかのようである。そう言えば、この人は何歳(いくつ)なのだろう? 当時から年齢不詳だった。今も求導女を続けているはずだが、六十歳に近いかもしれない。きっと、上品に年齢を重ねていることだろう。

 

 ふいに。

 

 ――あの女は化物だ。

 

 竹内は、蛇ノ首谷で屍人となった志村晃が言っていた言葉を思い出した。

 

 同じことを、二十七年前、志村晃の従兄弟・貴文も言っていた。あの女は化物だ。あの女は歳を取らない、と。

 

 二人が誰のことを言っていたのかは判らない。

 

 ただ、竹内の記憶にある八尾比沙子と、その十年近く前に撮影された写真に写る八尾比沙子は、同じ姿をしている。まったく歳を取っていないかのように。

 

 ……まさか、な。

 

 竹内の記憶の八尾比沙子は二十七年前もので、かなり曖昧だ。記憶違いということも、十分に考えられる。いずれは教会も調べるつもりだ。八尾比沙子に会うこともあるだろう。その時、もし、彼女がこの写真と同じ姿をしていたら……。

 

 竹内は写真立てを元に戻した。今は、安野を探すのが先だ。

 

 竹内は入院部屋を出て、二階の渡り廊下を通り、北の第一病棟へ移動した。第一病棟には、二階に院長室や倉庫、一階には診察室や事務室などがあり、さらに、地下には霊安室やボイラー室もあった。第二病棟と同様、ひと部屋ひと部屋調べていくが、眼鏡を持った屍人の姿は無かった。

 

 建物内の全ての部屋を探したが、どこにもいない。あと探索していないのは中庭だけだ。眼鏡を持った屍人がいるのはどう見ても屋外ではないが、他に手がかりがない以上、行ってみるしかないだろう。竹内は、中庭へ出ようとした。

 

 しかし、中庭へ出るための扉は閉ざされており、鍵がかけられてあった。建物内の窓はすべて屍人の手によって板が張り付けられてあるので、中庭へ出るには鍵を探すしかない。幸い、第一病棟を探索した際、診察室の机の上に鍵束が置かれていたのを確認している。竹内は診察室へ戻ると、机の上の鍵束の中から、木の札に『中庭』と書かれてある鍵を取った。

 

 中庭への出入口へ戻ろうとした竹内だったが、廊下の角を曲がったところで蜘蛛屍人に見つかってしまった。耳障りな金切り声をあげながら、廊下の先から走って来る。戦闘はなるべく避けたいところだ。幸い、蜘蛛屍人はドアを開けることができないようなので、どこか部屋に立てこもれば回避できるだろう。周囲を見回す竹内。最も近いのはトイレだった。トイレの個室でも十分隠れ場所になるはずだ。竹内はトイレに駆け込んだ。

 

 ――くそっ。

 

 心の中で悪態をつく竹内。個室のドアは止め金が壊れており、閉ざすことができそうになかった。これでは隠れられない。すぐにトイレから出ようとしたが、遅かった。竹内が振り返った瞬間、蜘蛛屍人が跳びかかってきた。殴られ、よろめく竹内。幸い大したダメージではなかったが、中庭の鍵を手放してしまった。鍵は勢いよくトイレの奥まで滑って行き、排水溝の中に落ちてしまった。拾うのは後だ。竹内は、さらに跳びかかって来ようとする蜘蛛屍人を右足で蹴り飛ばし、一旦間合いを取る。そして銃口を向け、素早く引き金を二回引いた。運よく二発とも命中し、蜘蛛屍人はうめき声を上げながら倒れた。

 

 竹内はトイレの奥の排水溝を覗き込む。ゴミでも詰まっているのか、中は水が溜まっており、木の札が浮かんでいた。排水溝は鉄格子のふたがはまっており、溶接されてあるのか、引っ張ってもビクともしなかった。隙間から指を突っ込んでも届かない。何か、フックのようなもので引っ掛けて取るしかないか。何かないかと周囲を見回すが、トイレの中にそのような道具は無かった。ただ、水道が目に入った。排水溝は詰まっているようだから、水を流せば、木の札の付いた鍵は浮かび上がって来るだろう。さっそく試そうとしたが、蛇口のハンドルが取り外されており、回すことができない。さらに周囲を見回す。トイレの奥には窓がある。例によって板が張り付けられてあるが、わずかに隙間が空いていた。

 

 竹内はトイレを出て、階段から二階へ上がった。二階のトイレへと駆け込む。水道のハンドルは取り外されていない。ひねってみると、わずかに水が出た。竹内は掃除用具入れからホースを取り出すと、一方の口を蛇口に取り付け、もう一方の口を、窓のわずかな隙間から外に出した。そして、また一階のトイレへ戻る。窓の外には二階から垂らしたホースがある。それを中に引き入れた。よし。うまく行きそうだ。竹内はまた二階のトイレへ向かうと、蛇口をひねり、またまた一階へと戻る。排水溝を覗くと、狙い通り、水が溜まり、木の札に取り付けられた鍵は浮かび上がってきた。かなり手間がかかったが。これで、鍵を拾うことができる。

 

 なんとか鍵を拾った竹内は、中庭への扉を開けた。中庭にも蜘蛛屍人が一匹徘徊している。戦闘は避けたいが、探索中に襲われると面倒だ。ここは、先に排除しておいた方がいいと判断した竹内は、幻視で様子を窺う。そして、蜘蛛屍人に気付かれないよう背後から近づき、銃弾を二発撃ち込んだ。

 

 中庭を見回す。中央に院長のものと思われる石像があるだけで、後は雑草が生い茂るだけの荒れ果てた中庭だ。眼鏡を持った屍人がいるのは屋内のはずだ。見当違いだったかと思ったが、念のため石像を調べてみようと近づく。すると、石像のすぐ下の地面に、地下へと続く階段があった。

 

 ――隠し部屋、という訳か。

 

 銃に弾を込め直す竹内。慎重に、階段を下りた。

 

 そこは、鉄格子のはめられた狭い部屋がいくつも並ぶ、牢獄のような場所だった。とても、病院の一角とは思えない。だが、恐らくこれが、宮田医院の真の姿なのだろう。宮田医院は神代家、教会に次ぐ村の有力者だ。神代や教会に逆らう者、あるいは、村の秘密を探ろうとする者を捕え、監禁、場合によっては密かに処分する。それが、宮田医院の役割なのだ。もしかしたら、志村貴文もここに捕えられていたのかもしれない。

 

 牢獄の中を順に見ていく竹内。そのひとつに、不気味な落書きがされてあった。壁に無数の目が描かれてあり、そのすべてが、×印で潰されている。竹内は心理学には詳しくないが、誰かに見られている恐怖の表れだろうか? もしかしたら、この絵を描いた者は、幻視の能力に気が付いていたのかもしれない。

 

 さらに奥へと進む。大きな鉄の扉が見えてきた。安野の眼鏡を持っている屍人は、この中にいるはずだ。安野ではないと信じたい。しかし、もし、安野だったら……。

 

 竹内は銃の中の弾を確認する。もし安野が屍人になってしまっていたら、私の手で葬ってやらねばならない。そう思った。もっとも、それができるかどうかは判らないが――。

 

 竹内は、扉を開けた。

 

 その瞬間、むっとする血臭が廊下に流れ出た。とっさに鼻と口を覆う竹内だが、それでも、ねっとりとした血の感触が、鼻孔と喉の奥に張り付くようだった。

 

 部屋の中にはいくつかの手術台があり、床は、大量の血と、切断された人の手足が何本も無造作に転がっていた。竹内はすぐに気が付いた。ここは、手術室などではない。捕えた者を拷問、そして、処分するための部屋なのだ、と。

 

 部屋の奥に、屍人がいた。

 

 背を向けている。ナース服を着ているようだ。竹内は銃口を向け、近づいていく。竹内に気付いた屍人は、眼鏡を置き、こちらに顔を向けた。誰かは判らない。額からいくつもの長いこぶがぶら下がっており、顔は、こぶの中に埋もれていた。唯一見えている口元が、にやりと笑みを浮かべた。そして、そばに立てかけていたシャベルを取り、竹内に向かって来る。

 

 この屍人が誰なのかは判らないが、背格好からして、少なくとも安野ではないだろう。ならば、遠慮などしない。竹内は屍人を十分にひきつけ、銃を撃った。二発の銃弾が屍人の身体に命中する。ふらふらと後退りする屍人。そのまま倒れると思ったが、屍人はもう一度シャベルを振り上げ、向かって来た。さらに二発の銃弾を撃ちこむ。それでも屍人は倒れない。残る銃弾は二発。これでも倒せなければ、拳銃しか武器を持っていない竹内は圧倒的に不利だ。竹内は、引き金を引いた。さらに二発の銃弾を受けた屍人は、悲鳴を上げながら後ずさりし、そして、ようやく倒れ、動かなくなった。

 

 大きく息を吐き出す竹内。危ない所だった。これまでの屍人は二、三発の銃弾で倒すことができたが、タフな屍人もいるようだ。銃以外の武器も持ち歩いた方がいいかもしれない。

 

 竹内は部屋の奥へ行き、眼鏡を取った。見慣れた黒縁の眼鏡だ。安野の物で間違いないだろう。屍人がなぜこの眼鏡を持っていたのかは判らないが、安野がここに来たのは確かなようだ。だが、いったいどこへ行ったのだろう?

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十三話 宮田司郎 宮田医院/第一病棟診察室 第二日/十六時〇三分〇七秒

 安野依子が目を覚ますと、簡素なベッドの上だった。どこだろう? 身体を起こし、周囲を見回すが、ぼんやりとしてよく見えない。いつも掛けている眼鏡が無いようだ。ベッドの周りを探る。右腕に引っ張られるような感覚があった。見ると、右腕にはチューブの付いた針が刺さり、テープで固定されていた。そして、そのチューブはベッドのそばのスタンドに吊り下げられたビニールのパックに繋がれている。パックの中には赤い液体が入っており、チューブと針を通して安野の体内に流入している。どうやら、輸血されているようだ。と、いうことは、ここは病院なのだろうか?

 

「――新しい目覚めはどんな感じだ?」

 

 不意に声を掛けられた。目を細め、声のした方を見る。眼鏡が無いのでよく見えないが、部屋の入口と思われる場所に、白衣を着た男の人が立っていた。

 

「えーっと。お医者さんでしょうか?」安野は訊いてみた。

 

「ああ、そうだ」

 

「と、いうことは――」安野はあごに人差し指を当てて考える。「ここは病院で、村にある病院はひとつだから、比良境の宮田医院ですね?」

 

「そうだ。見事な推理だな」

 

「ありがとうございます。そっか。あたし、銃で撃たれて、橋の下に転落したんでした」

 

 安野は撃たれた左胸のあたりを触ってみた。服に穴は開いているが、傷は塞がっている。

 

「あら。結構ヒドイ傷だったから、さすがにダメかと思ったんですけど、結局治ったんですね」安野は、腕に繋がれているチューブを見た。「この、輸血の効果でしょうか?」

 

「そうだ。君のそばに倒れていた少年の血だ」

 

「少年? そう言えば、意識を失う前、男の子がやって来た気がします」

 

「非常に珍しい血だったので、輸血しておいた」

 

「非常に珍しい血……RH+-ヌルα型とかでしょうか?」

 

「いや、Rh null型は世界で四十人以上確認されているが、彼の血は、彼以外には二人しかいないだろうな」

 

 実にマジメな答えが返って来てしまった。そこは「パタリロか!」とツッコんでほしかったのだが。まあ、このテのボケで望み通りのツッコミが返って来ることは皆無なので、安野も最初から期待はしてないのだが。

 

 医者は、白衣のポケットに手を入れ、壁にもたれかかった。「なんでこんなことをしようと思ったのか、私にも判らないんだ」

 

「はい」

 

「まあ、たまには流れに逆らってみるのも悪くない。なんだか、生まれ変わったような気分になる。実にすがすがしい」

 

 医者は、何かを見上げるように、視線を上に向けた。

 

 安野も上を見てみる。ぼんやりしてよく見えないが、古びた天井があるだけだ。

 

 安野は視線を医者に戻した。「えーっと、酔ってますか?」

 

「いや、酒は飲んでないが?」

 

「そうでなくて、自分に」

 

「…………」

 

「…………」

 

 隣のベッドで唸り声がした。カーテンで遮られているが、誰かいるようである。

 

 医者はポケットから手を出し、腕を組んだ。「君の救世主が目覚めたようだな」

 

「救世主……あの男の子ですね」安野は部屋の中を見回した。自分と、医者と、隣の少年、三人の気配しかない。「もう一人、あたしの連れがいたんですけど、知りませんか? あたしの大学の講師で、三十代前半の男性で、大学ではヅラ疑惑があるほどのふっさふさの髪で、実はキモいアイドルオタクなんですけど」

 

「森の中へ走って行くのを見かけたが、今どこにいるのかは判らないな。すまないが、君たちを助けることを優先した」

 

「そうですか。まあ、正しい判断だと思います。あと、もうひとつ、あたしのメガネ、知りませんか?」

 

「ああ、すまない。ここに来るまでに、ひと悶着あってね」

 

「ひと悶着?」

 

「私に付きまとっている屍人がいるんだよ。戦っている最中に、君のメガネを盗られてしまった。まあ、倒しはしたんだが、眼鏡を奪い返すことはできなかった」

 

「屍人さんは、死ぬと硬直しますからね。仕方ないです」

 

「そう言ってもらえると、助かる」

 

「しかし、困りましたね。うちの先生はともかく、メガネが無いと不便です。村にメガネ屋さんはありますか?」

 

「上粗戸の商店街には無いが、今は上粗戸ではなく大字粗戸だから、私も詳しくは判らない。ひょっとしたらあるかもしれん」

 

「判りました。行ってみます」

 

 医者は、また、何かを見上げるように、視線を上に向けた。

 

 安野もまた上を見てみる。やはり、古びた天井があるだけだ。

 

 視線を医者に戻す安野。「さっきから、何を見てるんですか?」

 

「いや? 別に、何も」医者は視線を落とした。「ただ、あれをやれ、これをやれと、うるさく言うヤツがいるんだよ」

 

「はあ」

 

「本来は、私じゃなく別の者がやるべきことなんだがね」

 

「そうですか。判りました」全然判らなかったが、とりあえずそう言っておいた。

 

 医者は、壁にもたれかかるのをやめた。「さて。私は大事な用事があるので、そろそろ行くとするよ」

 

「そうですか。いろいろと、ありがとうございました」安野は、ぺこりと頭を下げた。

 

 部屋から出て行こうとした医者だったが、ふと足を止め、振り返った。「そうだ。ひとつ、訊きたいことがあったのだ」

 

「はい、何でしょう?」頭を傾ける安野。

 

「戻り橋のそばに停めてあった私の車が燃やされていたのだが、何か知らないかね?」

 

「車? さあ、知りませんけど」

 

「君の連れの先生とやらは、屍人と戦うとき、吊り橋に火を点けたようだが?」

 

「え? そうなんですか? まあ、あの先生ならやりかねませんね」

 

「そうか」

 

「…………」

 

「…………」

 

「車を燃やしたのも、先生だと思ってますか?」

 

「いや、そう断定するには証拠が不十分だな」

 

「そうですか。それは良かった」

 

「ただ、状況から考えて、君の先生が犯人の可能性は高いと思っている」

 

「あらら」

 

「君はどう思う? 犯人は、先生だと思うかね?」

 

「状況から考えて、その可能性は高いと思います」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……怒ってますか?」

 

「いや、怒ってはいない。この状況だ。車を燃やすにも、何らかの事情があったのだろう」

 

「そう言ってもらえると、助かります」

 

「だが、どういう事情があれ、私の車を燃やしたからには、しかるべき報いを、いや、相応の誠意を見せてもらわないとな」

 

「そうですか。困りましたね」安野は腕を組んで考える。「じゃあ、こうしましょう。先生が村まで乗って来た車があります。停めている場所を教えますので、遠慮なく燃やしてください」

 

 医者は、安野の言葉を吟味するようにあごに手を当てた。「……ふむ。悪くない取引だが、君の先生とやらは、カーマニアかね?」

 

「はい? いえ、違うと思います。あたしは車のことはよく判りませんけど、先生の車は、ごく普通のものではないかと」

 

「それでは話にならんな。大学講師風情が乗っている普通の車と、私の車では、到底釣り合わん」

 

「それは、そちらの車はかなりお高いということでしょうか?」

 

「いや、大したものではない」

 

「そうですか。それは良かった」

 

「ただ、普通の車より少しだけ高いのは確かだ。一般的な大学講師の年収の、ほんの二・三倍くらいだろう」

 

「そうですか。確かにそれは、少しだけ高いですね」安野は、再び腕を組んで考える。「では、こうしましょう。先生の住んでるマンションの住所を教えます。たぶん、アイドルグッズが山ほどありますので、好きなだけ燃やしてください」

 

「それは、どれくらいの価値があるものだ?」

 

「あたしには何の価値も無いものですが、先生にとっては、命よりも大事な物のはずです」

 

「そうか。まあ、そのくらいで手を打っておくか」

 

「ありがとうございます。ですが、それはあくまでも、先生が犯人だという確実な証拠が見つかってからです。今の段階ではまだ先生が犯人だとは言えませんので、住所を教えることはできません」

 

「ふむ。道理だな。判った。では、君は先生を探して、車を燃やしたかどうかを問いただしてくれ。私も、時間があれば、他に容疑者がいないか調べてみる」

 

「判りました」

 

「では、何か判ったらすぐに知らせてくれ」

 

 医者は、部屋を出て行った。

 

 隣のベッドは静かだった。少年が目を覚ましたと思ったのだが、また、眠ったのだろうか?

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十四話 八尾比沙子 屍人ノ巣/水鏡 第二日/十九時〇二分三十七秒

 その岩は、『水鏡(みずかがみ)』と呼ばれていた。

 

 一見すると、それは、巨大なすり鉢状の岩に水が張られているように見える。喉が渇いた者がこの場所を訪れれば、岩の水を飲むため、両手ですくおうとするかもしれない。しかし、その水を飲むことは、決して叶わないだろう。

 

 その岩の水は、どんなに風が吹こうとも、あるいは、大きな地震が起ころうとも、決して、水面がたゆたうことはない。なぜなら、岩には、水など張られていないからだ。水に見えるものは岩の表面である。美しく磨かれたダイアモンドや水晶よりも無色透明で、水面のような輝きを持ったその岩は、覗き込んだ者の姿を怪しく写し出す。ゆえに、『水鏡』と呼ばれているのだ。

 

 しかし、この水鏡は、人の手によって磨かれたものではなかった。伝承によると、この地に神が舞い降りた時の衝撃によって岩が削られ、できたとされている。それはつまり、一三〇〇年以上前の天武の時代から存在するということであり、その間、ずっと水面のような輝きを保っているということでもある。到底、人の手のなせる業ではなかった。

 

 水鏡と呼ばれる理由はもうひとつある。地上の人々には、この水鏡は美しい岩でしかないが、天に住まう神には、文字通りの『水鏡』なのである。神は、この水鏡の水をすくうことも、水の中に入ることも可能なのだという。また、水鏡は地上と楽園を繋ぐ扉であるとされている。水鏡に潜ることができれば、その向こうの楽園――常世へ行くことができるのだ。

 

 神の力によって生み出され、そして、神のみが通ることができる楽園への扉。眞魚教においては、村の中心部にある巨石・眞魚岩と並んで信仰の対象とされるものだが、現在の羽生蛇村に、この水鏡を見た者はほとんどいない。村人はもちろん、村の有力者である宮田医院の者や、神代家の者、そして、眞魚教の求導師でさえ、水鏡については文献で読んだだけにすぎなかった。文献によると、水鏡は少なくとも千年以上も前の大地震によって地の底に埋まってしまったそうである。今となっては、どこに存在したのかも判らない。信仰心の無い者の中には、本当に存在したのかを疑問視する者もいた。

 

 だが。

 

 村に一人だけ、この水鏡が、今、どこに存在するのかを、知っている者がいた。

 

 求導女の八尾比沙子である。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 水鏡からは、赤い水がとめどなく溢れていた。

 

 水鏡の向こうは、常世のひとつがあるとされている。つまり、この赤い水は常世から流れて来て、村を満たしているのだ。

 

 水鏡の前には祭壇が設けられ、その上に、神代美耶子が横になっていた。眠っているように見えた。あるいは、死んでいるのかもしれない。身動きひとつしない――呼吸の際に上下する胸の動きさえ無かった。だが、美耶子は生きていた。その顔に、死の影は宿っていない。肩を揺すればすぐに目を覚まし、つぶらな瞳を向けてほほ笑むだろう……そんなことを思わせる、生命の強さを感じる顔だった。死んだように眠っている――あるいは、そういうことなのかもしれない。

 

 その、死んだように眠る神代美耶子のそばに、八尾比沙子は花を捧げていた。『純潔』を意味する白いユリの花。同時に、『威厳』を意味する花でもあった。一本、また一本、と、花を捧げる。祭壇に眠る美耶子は、百合の花に囲まれる。

 

 眠る美耶子からは、強い力を感じる。『御印』と、比沙子は呼んでいる。代々神代に産まれた娘にはこの『御印』が宿っているが、この娘ほど、強い『御印』を持って産まれた者はいなかった。産まれつき目が見えず、そして、産まれつき幻視が行える者は、長い神代家の歴史の中でも、この娘が初めてだ。それは、この娘が、完全なる『実』であることを意味していた。

 

 比沙子は、花を捧げ続ける。

 

 この日が来るのを、ずっと、待っていた。

 

 長い、本当に長い時だった。自分が何者かも忘れてしまうほどに。

 

 もうすぐだ。

 

 もうすぐ、解放される。

 

 この村も。

 

 あたし自身も。

 

 この『実』を神に捧げれば、全て終わる。

 

 神が、舞い降りる――。

 

 比沙子は、花を捧げ続ける。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十五話 神代美耶子 眞魚岩 第二日/十五時三十三分〇八秒

 神代美耶子は夢を見ていた。

 

 

 

 夢――だと思う。夢でないとあり得ない事だ。いや、あり得ないとは言い切れないかもしれない。それでも、あってはならない事だろう。もし、このようなことが現実に起こっていたとしたら、恐ろしい罪である。きっと、神が――美耶子は神など信じていないが――許しはしない。

 

 

 

 美耶子は地面に倒れていた。身体を起こそうとしても、できなかった。指一本、動かすことができない。わずかに動くのは首のみで、かろうじて、周囲を見回すことだけはできた。そばに、巨大な三角錐の岩があった。表面は鏡のように磨かれており、陽の光を反射し、輝いている。あれは眞魚岩だ。羽生蛇村の中央に存在し、神と共に天から降って来たとされる巨大な岩。村人たちの信仰の対象だ。これがあるということは、ここは、上粗戸の森の中にある広場なのだろうか? だが、さらに周囲を見回し、美耶子は息を飲む ここはどこだ? 眞魚岩のある広場は、豊かな森の中にある。樹々が生い茂り、鳥や小動物が住む、生命に溢れた場所だ。しかし、美耶子が見たのは、生命の息吹など感じることができない光景だった。森など、存在しなかった。地面からは、いくつもの木が生えているが、そのどれもが死んでいた。空を覆い、降りそそぐ陽の光を遮るかのように生い茂っていた緑の葉は、一枚も存在せず、枯れた枝が細く伸びているだけだ。厳しい冬を乗り越えるため葉を落としたわけではない。刺すような陽射しは決して冬のものではないし、地面には枯葉一枚落ちていなかった。雲ひとつ浮かんでいない青空が一面に見渡せ、そして、遮るものが無くなった森の中に、陽の光は容赦なく降りそそぐ。足にまとわりつくように生い茂っていた下草も生えていない。わずかな水分さえも失い、ひび割れた茶色の大地がむき出しになっていた。

 

 死んでいる。

 

 この森は、死んでいる。

 

 こんな所にいては、自分も、死んでしまう。

 

 助けて。

 

 誰か、助けて。

 

 美耶子の思いは、決して、声になることはない。ただ、死肉を喰らう黒い鳥の鳴き声が、死の森に響き渡るだけだ。

 

 それでも美耶子は、助けを求める。鳴き声が響く。

 

 ふと。

 

 森の中に、何者かの気配が生じた。

 

 誰かいる。周囲を見回す美耶子。枯れた木の陰。二人……いや、三人か。わずかに顔を出し、こちらの様子を窺っている。

 

 助けて――声にならない。鳥の鳴き声が響く。

 

 木の陰から、一人が姿を現した。こちらに向かって、ゆっくりと、歩いてくる。

 

 屍人――その姿を見た時、最初、美耶子はそう思った。生きている人には見えなかった。

 

 だが、近づくにつれ、それは屍人ではないことに気が付く。目から血の涙は流れていない。しかし、目の周りは大きく落ち窪み、そのせいで、眼球が大きく飛び出ているように見える。目の下の頬骨も飛び出していた。いや、これも、頬が大きく落ち窪んでいるせいで、飛び出しているように見えるだけだ。頭髪はほとんど抜け落ちている。その顔はまるで、頭蓋骨の上に皮をかぶせただけのように見えた。身体も同様だった。ぼろ同然の衣服から伸びるように出た手足も、骨の上に直接皮をかぶせているだけだ。腹だけが異様に突き出ていた。もちろんそれは、満たされた食事をしたからではないだろう。栄養が失われたため、腹に水が溜まっているのだ。

 

 最初の一人に続き、一人、さらに一人と、木の陰から姿を現す。三人とも、同じような姿をしていた。ただ、最後に出てきた一人だけは、頭に長い髪がわずかに残っていた。もっとも、大部分は抜け落ち、残った髪も極めて細いため、頭皮は丸見えだった。

 

 三人が近づいてくる。助けてくれる、とは思えなかった。三人が自分を見る目は、動けない少女を哀れんでいるのでは、決してない。己の欲望を満たすものを見つめる目だった。

 

 長い髪の者が美耶子のそばに立ち、腹に触れた。掴み、あるいは、ゆっくりと撫でる。まるで、肉の感触を確かめているかのように。

 

 しばらく腹を撫でていた手が止まった。

 

 代わりに、顔を近づけて来る。

 

 黄ばんだ汚らしい歯をむき出しにして。

 

 そして――。

 

 美耶子の腹に、喰らい付いた。

 

 歯が、腹の肉を裂く。喰らいついた者は、頭を勢いよく上げた。ぶちぶちと繊維が切れる音と共に、美耶子の腹の肉は、大きく喰いちぎられた。肉が失われた部分から血が滴り落ちる。そこに、もう一人の者が顔を近づける。美耶子の血で喉の渇きを潤すかのように、溢れ出た血をすする。そして、喰らいつく。肉を引きちぎる。残りの一人もやって来た。だが、顔は近づけない。代わりに、二人が喰いちぎった腹の傷に、手を突っ込んだ。獲物の逃げ込んだ穴蔵を探るかのように、美耶子の腹の中をかき回す。やがて、探していた物を見つけたのか、中の物を掴み、引きずり出した。美耶子の腹から、内臓がだらりと垂れ下がった。それに喰らいつく。初めの二人も、喰らいつく。大事な食糧を奪われてなるものかと、我先に、腹に喰らいつき、肉を喰いちぎり、血をすすり、内臓を(むさぼ)る。

 

 痛みは感じない。だが、恐怖は感じる。生きたまま食べられている。恐ろしいことだ。

 

 助けて。

 

 誰か、助けて――。

 

 声は出ない。死の鳥の声が響くだけ。

 

 美耶子の肉を喰らう者の一人が、こちらに顔を向けた。頭にわずかばかり髪の毛が残った者。

 

 じっと、こちらを見ている。笑っている――のだろうか。

 

 その顔には見覚えがあった。

 

 だが、喰われている美耶子に、それを思い出す余裕は、無かった。

 

 

 

 

 

 

 ――夢だ。

 

 そう。これは夢だ。

 

 現実ではない。

 

 美耶子の身に起こったことではない。

 

 そもそも美耶子は目が見えない。見えたとすれば、それは、別の誰かが見た光景だ。

 

 こんなことはあってはならない。許されることではない。神が、許すはずがない。

 

 だが、もし、本当に起こったとしたら。

 

 神は、彼らにどんな罰を与えるのだろう――。

 

 

 

 

 

 

 美耶子は、眠り続ける。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十六話 須田恭也 大字粗戸/眞魚川岸辺 第二日/二〇時三十一分三十三秒

 稲光が空と地上の闇を斬り裂き、地の底まで届くかのような轟音が響き渡った。赤い雨は激しさを増し、雷と共に村に降りそそぐ。空が光る都度、一瞬だけ、闇夜に包まれた羽生蛇村が、その姿を現す。

 

 須田恭也は眞魚川の河川敷を下り、大字粗戸の商店街の前まで来ていた。昨日、求導女の八尾比沙子に出会い、幻視や屍人、赤い水について教わった場所だ。恭也は我が目を疑った。街の様子が、昨日とは全く異なっているのだ。

 

 それは、前に来た時もそうだった。恭也が初めてこの場所を訪れたのは怪異が起こる前の日で、その時は、まだ新しい建物が並ぶ近代的な商店街だった。それが、昨日訪れると、今にも崩れ落ちそうな木造の家屋が立ち並ぶ古い商店街と化していた。二十七年前の土砂災害で消滅した大字粗戸の商店街だ、と、八尾比沙子は言っていた。その時見た商店街は、平屋か二階建ての家屋だけだった。

 

 それなのに、今は、三階、四階、それ以上の高い階層がある建物もある。別の場所に迷い込んでしまったわけではない。大字粗戸の商店街の面影は残っている。河川敷から堤防を上がった正面にある食堂、その近くのタバコ屋や理髪店は、ちゃんとあるのだ。その、元からあった家屋の上に、柱を立て、木の板やトタンなどを打ち付け、無理矢理、二階三階部分を増築しているのだ。街が膨れ上がっている、そんな印象を抱いた。村のいたるところで、屍人たちはハンマーで釘を打っていたが、これが目的だったのだろうか。

 

 建物からは、まだ、ハンマーで釘を打つ音が聞こえる。屍人たちが、さらに増築しようとしているのだろう。街が、さらに膨れ上がろうとしている。それは、まるで生き物のようだった。街全体が、生きている。あらゆるものを飲み込み、肥大化している。そう思えた。

 

「……メガネが無いからよく見えないんだけど、高層タワー型レジデンスを建ててるってわけじゃないよね」

 

 恭也のそばに安野依子が立ち、感想を漏らした。「ぜったい耐震基準満たしてないでしょ。ものすごい違法建築だね」

 

 安野依子とは比良境の宮田医院から共に行動している。恭也と同じく、蛇ノ首谷で銃に撃たれ、死にそうになっていたところを、通りすがりの医者に助けられたらしい。眼鏡を無くしてしまったそうで、同行者がいないと行動できないのだそうだ。

 

 安野が恭也を見た。「どうするの、恭也君? 震度五クラスの地震が来たら、すぐに倒壊しちゃいそうだけど」

 

 恭也は空を見上げた。闇か黒雲か判らない漆黒が広がっている。

 

 しばらく空を見つめた後、恭也は肥大化した街に視線を移した。「……美耶子が……呼んでる気がする」

 

「はい?」

 

「この奥に、美耶子がいる」

 

 安野は、呆れたような目で恭也を見た。「……あんたも酔ってる?」

 

 恭也は応えず、黙って歩き始めた。

 

「……やれやれ、しょうがないわね。ま、あたしも先生が呼んでる気がするし、付き合ってあげますか」

 

 安野も後ろから続いた。

 

 商店街の大通りは北から南へと続いている。昨日、比沙子とここに来た時は、大通りに包丁を持った屍人がいたため、迂回して裏通りを進んだ。今は武器があるから、包丁屍人程度なら問題なく倒せるだろう。

 

 だが、大通りを進むことはできなかった。堤防を上がってすぐ手前に、昨日までは無かった大きな木製のバリケードが建てられ、行く手を阻んでいたのだ。恭也の背丈の三倍近くある。完全に封鎖され、進むことはできそうにない。昨日と同じく、裏通りを通るしかないだろう。

 

 しかし、それにも問題があった。裏通りへ入るための食堂脇の小道の前に、猟銃を持った屍人が立っているのだ。裏通りを進むには倒すしかないが、それは極めて難しいと言わざるを得なかった。相手は用心深く周囲を警戒している。恭也は拳銃を持っているが、うまく扱う自信は無いし、見通しのいい大通りでは猟銃の方が圧倒的に有利だろう。拳銃の射程に入る前に狙撃されてしまう。裏通りは諦めて、他の道を探すしかないのだろうか……。

 

「――恭也君」と、安野が声を掛け、そばの家屋を指さした。「あれを通って、向こう側に行けるんじゃない?」

 

 恭也は安野が指さした先を見た。堤防のすぐそばに二階建ての家があり、その、二階のベランダ部分から、屍人が増築したであろう渡り廊下のようなものが伸びていた。渡り廊下は大通りを越えて向こう正面にある食堂の増築された二階部分へと繋がっている。確かに、行けそうだった。

 

 幸い家に鍵はかけられていなかった。恭也と安野は中に入ると、階段を上がって二階へ向かい、ベランダに出て、渡り廊下を進んだ。そのまますんなり向こう側へ行けると思ったが、渡り廊下の途中に鉄格子製の扉があり、南京錠で閉ざされてあった。向こう側へ行くには扉を開けるしかないが、鍵がどこにあるのか、見当もつかない。

 

「あ、でも、この鍵、棒とかで叩けば壊せそうだね」南京錠を調べていた安野が言った。

 

 安野の言う通り、南京錠は錆びてボロボロで、火掻き棒で何度か叩けば壊れそうだった。だが、この渡り廊下の下に、あの猟銃屍人がいるのが問題だ。猟銃屍人は頭上を警戒していないが、南京錠を叩く音を聞いたら、すぐに反応するだろう。そうなると危険だ。しかし、他にいい方法も思いつかない。一か八か、やってみるしかないか……。

 

 稲光が走り、やや間をおいて、雷鳴が轟いた。

 

 ぽんっ、と、安野が手のひらを拳で打った。「この、雷の音に合わせて叩いたら、気付かれないかも」

 

 名案だった。さっそく試してみることにした。扉の前で火掻き棒を構え、雷が鳴るのを待つ。空が光った。しばらく間を置き、南京錠を叩く。タイミングバッチリで、雷鳴が轟き、叩く音を隠してくれた。猟銃屍人は気付かない。うまく行きそうだ。恭也は同じ要領で二回、三回、と、南京錠を叩く。やがて、南京錠は壊れた。だが、予想外のことが起こった。勢い良く叩きすぎたせいか、南京錠だけでなく、扉を止めている金具まで壊れてしまったのだ。金具から外れた扉は、派手な音をたてて倒れた。当然、タイミング良く雷が鳴る訳もなく、猟銃屍人が頭上を見上げた。見つかった。

 

「行こう」

 

 恭也と安野は走った。銃声が鳴る。幸い銃弾は渡り廊下の手すりを弾き飛ばしただけだった。二人は渡り廊下を走り、物陰に身を隠した。幻視で様子を探ると、二人の姿を見失った屍人は、しばらく渡り廊下を見上げていたが、やがて、元の場所に戻った。

 

 猟銃屍人に見つかりはしたが、なんとか切り抜けることができた恭也たち。渡り廊下は食堂の増築された二階部分の側面まで続いており、はしごで下に降りるようになっていた。ちょうど、商店街の裏通りへ続く道だ。ここを進めば、バス停の前まで行くことができる。

 

 だが、下に降りてみると、裏通りも新たに作られたバリケードによって塞がれ、進むことができないようになっていた。このまま大通りに戻るしかないが、猟銃屍人が待ち構えている上に、大通りもバリケードで塞がれている。どうすればいい? きのう比沙子と来た時の記憶を探る恭也。食堂には、裏口があったように思う。と、いうことは、表通りに出て正面入り口から食堂の中に入り、裏口から出ることができるだろう。問題は食堂の玄関前にいる猟銃屍人だが、警戒しているのは眞魚川のある方向だけなので、いま恭也がいる場所には背を向ける格好だ。背後から襲い掛かればなんとかなるかもしれない。恭也は火掻き棒を握りしめ、表通りへ向かった。猟銃屍人は背を向けている。静かに、足音を立てず、忍び寄る。屍人の背後に立った恭也は、火掻き棒を振り上げ、渾身の力を込め、屍人の頭に振り下ろした。がつん、と、確かな手応え。屍人は、一撃で倒れた。

 

 食堂の正面玄関に鍵はかけられていなかった。中には包丁を持った屍人が一体いたが、火掻き棒で容赦なく撃退する。厨房へ回ると裏口の扉があり、そこから外に出ることができた。さっきの裏通りを塞ぐバリケードの反対側に回った形になる。これで、奥へ進むことができる。この先には畑があり、その先に火のみ櫓、そして、バス停があったはずだ。

 

 だが、裏通りを少し進むと、火のみ櫓があった手前辺りにもうひとつバリケードが建てられてあり、道を塞いでいた。幸い周囲を探ると、畑の脇の道を通ることで、表通りに戻ることができた。位置的に、食堂前のバリケードの反対側だ。

 

「これは……まるで巨大迷路だね」安野がため息とともに言う。

 

 その通りだな、と、恭也も思った。この、粗戸方面一帯が、巨大な迷路構造と化し、侵入者を拒んでいるように思えた。

 

 恭也は、さらに奥へと進んで行く。火のみ櫓の近くまでやって来た。昨日はこの上に猟銃屍人がいて、危うく狙撃されるところだった。幻視で様子を探ると、同じく猟銃屍人がいた。櫓の上から周囲を警戒している。火のみ櫓は商店街一帯が見渡せるように建っているはずだ。しかし、屍人たちが建物を大きく増築したことが仇となり、かなり見通しが悪くなっていた。死角になりそうな場所がたくさんある。うまく身を隠しながら進めば、見つからずに行けるだろう。恭也と安野は幻視で猟銃屍人の様子を探りつつ、見つからないように進んだ。

 

 バス停の前までやって来た二人。その南へ続く大通りは、昨日来た時もすでにバリケードが建てられていた。バリケードはさらに増築され、昨日の二倍ほどの高さになっている。しかし、増築するために組み上げた足場が残っており、それを上れば向こう側へ行けそうだった。

 

 だが、恭也は足場には上らず、空を見上げた。相変わらず、強い雨と雷が降り注いでいる。

 

 安野が、恭也の視線の先を追う。「……病院の先生もそうだったけど、さっきから何見てんの?」

 

 恭也は応えず、しばらく空を見た後、視線を地面に落とした。少し離れたところにマンホールがあり、フタが外されている。

 

 安野もマンホールを見て、そして、ポンッと手を叩いた。「そっか。ゾンビモノで下水道を通るのはお約束だわね。まあ、大体下水道の中もゾンビで溢れてるけど、あれって、どういうことだと思う? なんでゾンビはわざわざ下水道の中に入るんだろ? それも、一体や二体じゃなく、大量によ? ゾンビって、下水道が好きなのかな?」

 

 恭也はマンホールの梯子を下りて行った。安野も後に続く。マンホールの下は、北から南へ汚水が流れていた。屍人の姿は無い。

 

「最初から、ここを通ればよかったね、臭いけど」鼻をつまむ安野。

 

 恭也と安野は南へ向かって進んだ。しばらくすると、鉄格子製の扉が見えてきた。鍵がかけられてあり、開かない。扉自体は錆びてボロボロだが、鉄柵を持ち、揺すってみても、ビクともしなかった。今回は火掻き棒で殴ったくらいでは壊れそうにない。どうにかして通れるようにできないだろうか……?

 

 安野は、あごに手を当てて考えていた。「うーん、キャロル・リード的なヤツで壊せるかも」

 

 よく判らない言葉と共に、安野はポーチから手ぬぐいを取り出した。それを、鉄柵の二本に巻き、輪っかを作って結ぶ。

 

 安野は恭也に手を伸ばした。「その棒、ちょっと貸してくれる?」

 

 恭也は火掻き棒を渡す。安野は、鉄柵を結んだ手ぬぐいの輪の中に火掻き棒を入れ、両端を持って手前に引くと、ぐるっと、大きく回し始めた。なるほど、と、感心する恭也。火掻き棒を回すたびに、手ぬぐいが引き絞られていく。やがて、がきん、という音と共に、片方の柵が外れた。

 

「よし、うまく行った」柵が一本外れ、できたスペースを満足気に見つめる安野。「でも、まだ小さいね。子供ならともかく、あたしたちが通り抜けるには、もう一、二本、壊さないといけないかも」

 

「いや、これで大丈夫」

 

 恭也は安野から火掻き棒を受け取ると、来た道を戻り始めた。

 

「え? ちょっと。せっかく壊したのに、向こうに行くんじゃないの?」

 

「うん。なんでそんなことをしようと思ったのか、俺にもよく判らないんだけど、そうしておけば、後で誰かが助かるような気がするんだ」

 

 安野は、あからさまに呆れた顔になった。「……あんた、ホントに病院の先生と同じようなこと言うのね」

 

 病院の先生。少し前に恭也と安野を助けた人だ。恭也は事情があって寝たフリをし、直接話をしていないが、ひょっとしたら今の自分と同じように、誰かの声を聞いていたのかもしれない。

 

 マンホールの梯子を上り、恭也はまた商店街の大通りへ戻ってきた。そして、バリケードの前の足場を上る。一番上まで上ると、さらに奥へと進めるようになっていた。そこも、屍人の手によって増築されている。奥の方まで行けば、もはや陽の光さえ届かないようになっているように思えた。

 

 恭也は確信している。この奥に、美耶子がいる。

 

 同時に、多くの屍人たちが待ち構えているだろう。

 

「なんか、スズメバチの駆除員になった気分だね」

 

 恭也の後を追って足場を上がって来た安野が、つぶやくように言った。

 

「え?」

 

「ほら。ハチの巣って、働きバチがどんどん巣を大きくしていって、それで、巣に近づく者を容赦なく攻撃するじゃない? なんか、似てるなって思って」

 

 安野にしてみれば何気なく行ったことかもしれないが、それは、妙にリアリティのある例えだった。

 

 屍人も、街を大きくし、そして、近づく者に容赦なく攻撃する――同じだ。

 

 そう。これは巣なのだ。屍人たちが造った、屍人の巣。

 

 屍人たちは、こんなものを作って、一体何をしようというのか。

 

 スズメバチは、巣の奥にいる女王を護るために、巣を造り、侵入者と戦う。

 

 ならば、屍人たちも……?

 

 いや。

 

 ヤツらが何をしようと関係ない。

 

 自分は、美耶子を救い、この村から逃げ出すだけだ。

 

 恭也は強く決意し、安野と共に巣の奥へと進んだ。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十七話 八尾比沙子 屍人ノ巣/水鏡 第三日/〇時〇〇分〇八秒

 八月五日、深夜〇時。

 

 

 

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 大字粗戸一帯は、屍人たちの手により木の板や柱・トタンなどが組み上げられ、ひとつの巨大な『巣』と化していた。

 

 巣の中枢、羽生蛇村のちょうど真ん中に位置する場所には水鏡がある。神がこの地に舞い降りた時の衝撃で表面が削られ、鏡のように、見る者の姿を写す神秘的な岩だ。岩の表面からは赤い水がとめどなく流れ出している。その上に、神の花嫁・神代美耶子が横たえられていた。装飾がほどこされた燭台が周囲を囲み、蝋燭の炎が揺れている。美耶子を見下ろすような巨大なマナ字架も掲げられていた。

 

 美耶子は身動きひとつせず眠っていた。呼吸の動作さえしていない。それでも美耶子は生きていた。これから、その身を神へ捧げる。

 

 眞魚教の求導女・八尾比沙子は、水鏡のそばでパイプオルガンを弾いていた。そばには、神代の次期当主である淳と、許婚の亜矢子が並び、儀式の様子を見守っている。

 

 比沙子が奏でる曲はレクイエムだった。死者の魂を鎮めるための曲。それはつまり、死者の魂を神の元へと送るための曲ということでもある。レクイエムにより、人々は神の住まう世界――楽園へと旅立つのだ。

 

 最後まで曲を弾き終えた比沙子は、静かに席を立ち、そして、水鏡の前に立った。

 

 時は来た。

 

 比沙子は、大きく両手を広げた。

 

「――さあ、楽園の門が開かれる」

 

 歌うような声で、そして、踊るような仕草で、比沙子は、神へ呼びかけた。

 

 その瞬間。

 

 水鏡に横たわる美耶子の身体から、炎が燃え上がった。

 

 炎は瞬く間に美耶子を飲み込み、火柱となってさらに燃え上がる。美耶子の衣服を、髪を、そして、身体を焼く。白い肌は赤く焼けただれ、やがて、黒い炭の色へと変わっていく。それでも、美耶子は動かない。眠っている。

 

 炎は美耶子を焼く。その華奢な身体を、神の元へ届けるために。

 

 その、燃え上がる炎の中に。

 

 黒い、小さな球体が生じた。

 

 燃え盛る炎の中に生じたその球体は、初めは小さかったが、少しずつ膨らみ、大きくなっていく。

 

 やがて色が薄れていく。闇の中に光を照らしたかのように、中に潜んでいたものが姿を現した。

 

 ――神が、舞い降りた。

 

 比沙子は、そう思った。

 

 長い――本当に長い時だった。この時が来るのを、どれだけ待ち望んだことだろう。

 

 これで、罪は洗い流され。

 

 あたしは、楽園へと旅立つことができる。

 

 比沙子は、うっとりとした目で、舞い降りた神の姿を見つめていた。

 

 周囲に何者かの気配をいくつも感じた。誰か、この神聖な儀式の場に現れたようである。

 

 だが、神を前にした比沙子には、もう関係なかった。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 八尾比沙子の姿を求め、村をさまよっていた牧野慶は、屍人の巣の中枢へとたどり着いていた。

 

 四十八時間前、牧野は神迎えの儀式を行ったが、村は異界へと飲み込まれた。原因はいまだに判らない。牧野は八尾比沙子の言う通り儀式を行った。失敗はしていないはずだ。

 

 何がいけなかったのか?

 

 これからどうすればいいのか?

 

 やはり、自分は儀式に失敗したのか?

 

 儀式に失敗した自分は、父のように罪に苦しみ、そして、みじめな最期を迎えるのか?

 

 不安だった。恐ろしかった。そんな自分を、八尾比沙子は優しく抱きしめ、「大丈夫よ――」と、微笑んでくれると思っていた。そうして欲しかった。だから、屍人が徘徊する危険な村を一人さ迷い、ようやくここまで来たのだ。自分を導いてほしかった。慰めて欲しかった。

 

 だが、八尾比沙子は。

 

 現れた自分には目もくれず、広場の中央にある赤い石の祭壇に向かって両手を広げ、歌うように、祈りを捧げていた。

 

 石の祭壇には、少女が寝かされている。

 

 ――あれはまさか、美耶子様?

 

 牧野がよく確認しようとした時。

 

 少女の身体が炎に包まれた。

 

 信じられなかった。少女の身体が自然に燃え上がったのも信じがたいが、それ以上に、眞魚教の求導師である自分がいないのに、比沙子が儀式を行ったことが信じられなかった。

 

 そう。これは、神迎えの儀式に他ならない。

 

 神迎えの儀式を行えるのは求導師であるあなたしかいない――幼いころから比沙子に繰り返し言われてきた言葉だった。それは、牧野にとって大きな重圧であったが、同時に、比沙子が自分に期待を寄せていることの表れだとも思っていた。比沙子は、自分を必要としてくれている。これまで求導師の責務と重圧に耐えられたのも、比沙子に必要とされていると思っていたからだ。

 

 なのに。

 

 比沙子は一人で儀式を行い、神を迎えようとしている。自分の存在を否定されたような気がした。それが信じられなかった。

 

 信じられないことはまだある。

 

 美耶子から燃え上がった炎の中に、何者かの気配が生じた。初めはただの黒い球体に見えたそれは、徐々に大きくなり、中に潜む者の姿があらわになった。

 

 その姿を見た瞬間、牧野の胸に浮かんだのは、『異形の者』という言葉だった。

 

 それは、深海に潜む生物を思わせる姿だった。人の背丈の三倍はあろうかという大きさだが、頭部は極端に小さい。顔と思われる部分の大半は眼球が占拠しており、目の下には小さな口がついていた。

 

 首の下には長く太い胴が付いている。一見蛇の胴体のようではあるが、胴の上部には腕が、そして、下部には足が生えていた。恐ろしいのは、頭部を除く肉体の全てが透明で、胴の中の内臓、両手足の骨格など、身体の内部が透けて見えていることだった。

 

 背中には、枯れた柳の枝のような触手が何本も垂れ下がっていた。背に羽は無い。仮に羽が生えていたとしても、その巨体では羽ばたくことなど不可能だろう。しかし、その生物は、宙に留まっている。まるで水の中にいるかのように浮いている。あるいは、空中を泳いでいるのかもしれない。

 

『異形の者』そう表現するしかない。およそ、地球上に存在する生物とは思えなかった。悪魔が舞い降りた――そうとしか思えなかった。

 

 だが、八尾比沙子は、まるで待ちわびた恋人を迎えるような優しい目で、その異形の者を見つめていた。

 

 あれが、神だというのか?

 

 一三〇〇年前この地に降臨し、村の人々に称えられてきた我らの神が、このような恐ろしい姿をしているというのか?

 

 信じられない。

 

 信じられないことが、もうひとつ起こった。

 

 神を迎えた八尾比沙子が、そばにいた神代亜矢子の方を見た。

 

 その顔は、牧野が母のように慕い、そして、村人全てから愛された聖女のものではなく。

 

 鋭い殺意が浮かぶ、恐ろしい悪魔のような顔だった。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 神代亜矢子は、水鏡の上で燃え上がる美耶子の姿を見、その恐ろしさに身を震わせていた。神代家の次女として産まれた妹の美耶子は、時が来たら神の花嫁としてその身を捧げることになる――幼いころからそう聞かされていた。神の花嫁というのがどういうものなのかは亜矢子には判らなかったが、なんとなく、美耶子とは永遠に会えなくなるのだろうと思っていた。かわいそうだとは思わなかった。それが美耶子の宿命であり、神代の掟なのだ。それに、美耶子は産まれてからずっと特別扱いされていた。父の愛情はすべて美耶子に注がれ、亜矢子のことなど気にも留めていないようだった。母は美耶子を産んで間もなく亡くなったが、息を引き取る間際まで美耶子のことを気にしていたと聞いている。神代に仕える者も皆、美耶子のことを可愛がった。亜矢子の許婚の淳でさえ、最近は美耶子ことばかり気にかけていた。美耶子、美耶子、美耶子……みんな、美耶子のことばかりだ。亜矢子は、自分が神代家には必要のない人間ではないかと思えて仕方なかった。

 

 だが、それも、神迎えの儀式までの辛抱だと思っていた。

 

 儀式が終われば美耶子はいなくなる。父も、神代に仕える者も、そして何より淳も、自分のことを見てくれる。そう思っていた。

 

 だから、儀式が行われるのが待ち遠しかった。美耶子など、早くいなくなってしまえばいいと思っていた。

 

 だが。

 

 目の前で燃え上がった美耶子を見て、亜矢子は震えを止めることができなかった。生きたまま燃やされている。これが、神の花嫁になるということなのか。

 

 こうなることを望んでいたはずだった。なのに、恐ろしさに震えが止まらない。美耶子は特別扱いされていたとはいえ、まだ十四歳だ。しかも、その短い人生のほとんどを、神代家の離れに閉じ込められて過ごした。その存在は極秘とされ、戸籍にさえ載っていない。美耶子のことを知る者は、神代家と教会、宮田医院など、村の一部の有力者に限られている。最近は何者かの手引きによって家の外に出ていたような様子もあるが、それも、ほんの数日にすぎないだろう。外の世界との接触を断たれ、その存在すら外部に知らされることなく、わずか十四年の生涯を終えた妹。その恐ろしさに、亜矢子は今さらながら気が付いた。生まれる順番が違えば、自分がああなっていたかもしれないのだ。しかも、その結果現れた神というのは、想像とはまるで違う、化物としか思えない異形の生物だ。あんな化物を呼び出すために、美耶子は今まで生かされていたのか。震えが止まらない。

 

 ――大丈夫……あたしは関係ない……あたしは神の花嫁じゃない。美耶子がああなったのは運命。仕方なかったのよ。あたしが悪いわけじゃない。あたしは生きている。これからも生きていける。そう、生きていけるんだ。淳と一緒に。大丈夫……大丈夫……。

 

 亜矢子は震えを止めようと自らの肩を抱き、心の中で何度も言い聞かせた。

 

 と――。

 

 現れた神の姿を愛おしそうに見つめていた八尾比沙子の目が、ふいに、亜矢子に向けられた。

 

 顔に、笑みを浮かべる。

 

 慈愛に満ちた聖女のような笑顔ではない。冷たく、恐ろしい笑み。

 

 比沙子が近づいてくる。

 

「……な……何……?」後退りする亜矢子。少しでも比沙子から遠ざかりたかった。

 

 比沙子は笑みを浮かべたまま、何も答えない。

 

 手のひらを、亜矢子に向けた。

 

 その瞬間。

 

 亜矢子の身体が、炎に包まれた。

 

 訳が判らなかった。自分は神の花嫁ではない。自分は関係ない。ただ、神代の長女として、儀式を見届けに来ただけだ。なのに、なぜ、あたしまで……。

 

 炎は勢いを増す。皮膚を焼き、肉を焼き、骨まで達しようとしている。炎を消そうと地面を転がる。だが、消えない。炎はさらに勢いを増す。悲鳴を上げることもできない。息ができない。苦しい。こんな苦痛を味わうくらいなら、死んだ方がましだ。そう思える。早く死にたい。早く殺して! やがて意識が無くなり、痛みを感じなくなる……そう思った。だが、意識は消えない。痛みも感じる。気が狂いそうだった。狂ってしまいたかった。だが、それも許されない。炎は消えない。身体を焼く。もう、指一本動かすこともできない。それでも意識は消えない。痛みは消えない。

 

 亜矢子は、ふいに。

 

 

 

 ――肉体は滅びても、精神は滅びない。そういう運命なんだよ。あたしも、お前も。

 

 

 

 昨日、美耶子が言っていた言葉を思い出した。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「……や……八尾さん……どうして、亜矢子まで……」

 

 神代淳はひとつひとつ言葉を選びながら、八尾比沙子に問いかけた。地面には、許婚の神代亜矢子が炎に包まれ、苦しみ悶えている。亜矢子は神代家の長女であり、神の花嫁ではない。自分と結婚し、神代の子供を産むはずだった。それなのに、なぜ……?

 

 比沙子は、炎に包まれた亜矢子を満足げな表情で見つめたまま、独り言のように言う。「もう、実はそろったのよ。次の実は、必要ない」

 

 実はそろった? 次の実? 意味が判らなかった。答えになっていないが、それ以上問いただすことはできなかった。うかつなことを言って比沙子の気分を害せば、次は、自分が亜矢子のようになるかもしれないのだ。逆らうことはできなかった。今は、自分の身を護るのが先決だ。

 

 やがて亜矢子は動かなくなった。それで興味を失ったのか、比沙子はつまらなさそうに小さく息をつき、そして、水鏡を振り返った。水鏡の上では美耶子が燃えており、その炎の中に異形の者が姿を現している。比沙子は、その異形の者を愛おしそうな目で見つめた。比沙子はあれを『神』と呼んだ。あれが、眞魚教の神だとでも言うのか? とてもそうは見えなかった。我々は、あんな化物を信仰していたのか? あんな化物が、我々を楽園へと導いてくれるというのか? 信じられない。

 

 淳は、自分が今どうすべきかを考えた。比沙子の言葉を信じ、あの化物を神と(あが)めるか。それとも、化物から身を護るため、この場から逃げるか。どちらが正しい行動だろう。判らない。

 

 神が――淳はまだあの化物を神と認めていないが――深い眠りから覚めたかのように大きく身体を伸ばし、そして、サイレンの音にも似た甲高い鳴き声を上げた。

 

 比沙子が、神へ向かって両手を広げる。「さあ、神よ! 我らを楽園へと導きたまえ!!」

 

 だが――。

 

 神の様子がおかしい。

 

 神の鳴き声は、復活を喜ぶものではないように聞こえた。苦しみに悶えるような、誰かに助けを求めるような、そんな、悲鳴にも似た鳴き声。全身が小刻みに痙攣している。動かない身体を無理矢理動かそうとしているのか。いや、逆に、意思に反して勝手に動き出しそうな身体を押さえつけているのかもしれない。

 

 神の異変に、比沙子も気が付いた。陶酔していた目が曇っていく。

 

 神は、ひときわ甲高い悲鳴を上げると、痛みと苦しみにのた打ち回るかのように、凄まじい早さで空中を暴れ飛んだ。

 

「神よ! どうされたのです!? 落ち着いてください!」

 

 比沙子が叫ぶが、そんな声など届かない。

 

 ――やはり、あれは神ではない。ただの化物だ。

 

 そう判断した淳は、この場から逃げようとした。

 

 だが、遅かった。

 

 神――いや、化物に背を向けた瞬間、背中に強い衝撃があり、身体が宙を舞った。

 

 暴れ飛ぶ化物に体当たりされ、弾き飛ばされたと判った瞬間、淳は、頭から地面に叩きつけられていた。

 

 頭蓋が割れる音と首の骨が折れる音を、淳は聞いた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 壁の弱い部分を蹴破り、屍人の巣の中枢へたどり着いた竹内多聞が見たものは、異形の生物が悶え苦しみ、悲鳴を上げる姿だった。それが、眞魚教の神が降臨した姿だと瞬時に悟る竹内。遅かったか。

 

「神よ! どうされたのです!? 落ち着いてください!」

 

 叫ぶような女の声が周囲に響く。赤い修道服を着た女が、苦しむ神の身を案じている。赤い修道服は眞魚教の求導女のみが着ることを許されており、すなわち、あの女は八尾比沙子だ。その顔は、竹内の記憶にある彼女と何も変わらない。昨日の夕方、宮田医院の入院患者の部屋で見つけた古い写真とも一致する。二十七年以上も前から変わらず、若く美しい姿。

 

 ――やはり、志村さんの言っていたことは正しかった。

 

 そう確信した。八尾比沙子は、何十年、何百年も、歳を取らずに生き続けている。

 

 だが、今は比沙子よりも、降臨した神の方が問題だ。

 

 悶え苦しんでいた神が、暴れるように宙を舞う。比沙子のそばにいた若い男が逃げようとしたが、その巨体に弾き飛ばされた。五メートルほどの高さまで飛ばされた男は、頭から地面に激突し、動かなくなった。

 

 拳銃を取り出す竹内。屍人さえ完全に倒すことできないこんな拳銃が神に通用するとは思えないが、武器はこれしかない。暴れ飛ぶ神に、銃口を向ける。狙いを定め、トリガーに指を掛けた時――。

 

「――あ、先生! やっと見つけた!! 探しましたよ! どこほっつき歩いてたんですか? まさか、またなぽりんの追っかけしてたんじゃないでしょうね?」

 

 聞きなれた声と場違いな台詞に、竹内は膝から崩れ落ちそうになった。どこから現れたのか、教え子の安野がこちらへ走って来る。まったく、緊張感のないヤツだ。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「――あ、先生! やっと見つけた!! 探しましたよ! どこほっつき歩いてたんですか? まさか、またなぽりんの追っかけしてたんじゃないでしょうね?」

 

 須田恭也と共に屍人の巣の中枢へたどり着いた安野依子は、銃を構える竹内多聞の姿を見つけ、走り出した。眼鏡が無いという極限の状況の中、恭也や屍人たちの視界をジャックし、ようやく迷子になっていた先生を見つけることができた。文句のひとつでも言ってやらなければ気が済まない。

 

 安野に気が付いた竹内は、冷めた目を向けた。

 

「……安野」

 

「……はい」

 

「何度も言うようだが、空気を読め」

 

「何度も言うようですが、あたしほど空気が読める人もいないと思います」

 

「そうだな。悪かった。じゃあ、言葉を変えよう。もう少し、状況を考えろ」

 

「状況と言いますと――」

 

 安野は周囲を見回した。赤い水があふれる岩の上で人が燃えており、タツノオトシゴとクラゲとウマを掛け合わせたような化物が宙を舞い、みんな慌てふためいている。

 

 安野は首を傾けた。「えーっと、今北産業」

 

 竹内は、大げさにため息をついた。「……私にも正確なことは判らんが、おそらく、神迎えの儀式を行い神が降臨したが、どういう訳か暴れ出して困っている、といった所だろう」

 

「ナルホド。よく判りませんが、判りました。で、どうするんですか?」

 

「どうもこうも、なんとかして倒すしかあるまい」

 

「倒す? 神様を、ですか?」

 

「そうだ」

 

「拳銃で、ですか?」

 

「そうだ」

 

「先生の射撃のウデで、ですか?」

 

「そうだ」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……じゃあ、ガンバってください。あたしは、これで失礼します」

 

「そうはさせるか。ここに来たのが運のツキだ。貴様にも手伝ってもらう」

 

「えー? やめましょうよ。拳銃じゃ、屍人さんすら倒すこともできないんですよ? ムリですって」

 

「ごちゃごちゃ言うな。とにかく、やるぞ」

 

「イヤです。どうしてもあたしに手伝ってほしいなら、せめて、もっとまともな武器を用意してください」

 

「まともな武器? 例えば?」

 

「そうですねぇ……」安野は、あごに人差し指を当てて考えた。「例えば、無限に撃てるロケットランチャーとか、無限に撃てるハイパーブラスターとかです」

 

「……そんなクリア後の特典のような武器は、現実の世界には存在しない」

 

「なら、やっぱりお断りします。先生一人でガンバってください。さようなら」

 

 安野は手のひらをおでこに当て、そのまま帰ろうとした。

 

「ふん、そんなこと言っていいのか?」不敵に笑う竹内。スーツの胸ポケットに手を入れ、何かを取り出した。二枚のレンズと、折りたたまれた黒いフレーム。

 

「そ……それは……!?」はっと息を飲む安野。「どうしてそれを……!?」

 

「病院の地下室で、ナースの屍人が持っていたのだ」

 

 竹内は、折りたたまれていたフレームを広げた。間違いない。あれは、屍人に奪われたという安野のメガネである。

 

 竹内は勝ち誇った顔をした。「村にメガネ屋は無い。これが欲しかろう? 私に協力すればくれてやる。だが、もし協力しないのなら、それまでだ」

 

「くっ……メガネを人質にとるなんて……卑劣な……」

 

「なんとでも言え。さあ、どうする? 私に協力するか、それとも、このままメガネなしで異界をさまよい続けるか」

 

 血が出そうなほど奥歯をギリギリと噛みしめる安野。脅迫には屈しない、それが安野の信条(ポリシー)だが、メガネひとつの命は地球よりも重い、それもまた、真実である。

 

 安野は、屈辱に耐えながら言った。「……仕方ないですね。神様に勝てるとは思えませんが、メガネには代えられません。先生に協力します」

 

「ふん、最初からそう言えば良いのだ」

 

 竹内はメガネを差し出した。受け取る安野。さっそくかけてみると、視界が大きく広がった。ああ、世界はこんなに光に満ちていたのか。これで、一人でも自由に行動することができる。

 

「よし、やるぞ!」

 

 竹内と安野は神に向き直った。

 

 その瞬間、神がものすごいスピードで接近してくる。

 

 安野は、とっさに地面に伏せた。

 

 迎撃しようと銃を構えた竹内だったが、引き金を引く前に神に体当たりされ、勢いよく吹っ飛んで行った。

 

「……あーあ。だから、やめましょうって言ったのに」

 

 地面に激突する竹内。幸い足から落ちたので死にはしないだろう。むしろ、いい気味だ。安野は静かにその場を離れた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 屍人の巣の中枢へたどり着いた恭也は周囲を見回した。求導女の八尾比沙子や、美耶子の義理の兄である淳、そして、宙を舞う異形の化物の姿を確認したが、何よりも、広場の真ん中にあるものから目を離すことができなかった。赤い水が溢れ出す岩の上で炎が燃え上がっている。その中に、人と思わしき姿があった。直感的に悟る。あれは、美耶子だ、と。

 

 恭也は、他のものには目もくれず、美耶子の元に走った。

 

 だが、化物が恭也の行く手を阻んだ。それまで暴れていたのが嘘のように静かに宙に留まり、恭也を見下ろす。それは、高さにすれば五メートルにも満たないが、まるで天空の彼方から見下ろされているような威圧感がある。

 

 

 

 恭也は――。

 

 

 

『神』と対峙した。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十八話 四方田春海 屍人ノ巣/第一層付近 第三日/〇時十四分二十六秒

 暗闇の中、四方田春海は一人で歩いていた。そこは完全な闇だった。自分の姿以外、何も見えない。何も存在しない。村も、屍人も、赤い雨も。あの鳴り響くサイレンの音も、ここでは聞こえない。本当に何もない、無の世界だった。

 

 だが、不思議とそのことに疑問は沸かなかった。ここはそういう世界であり、春海は何度も訪れている。だが、何度も訪れているとはいえ、暗闇の中にたった一人というのは不安であった。誰かいないだろうか? 春海は闇の中を歩き続ける。

 

 しばらく歩くと。

 

 ――助けて。

 

 声が聞こえた。

 

 子供の声だ。女の子のようである。

 

「……誰?」

 

 周囲を見回す。誰もいない。全てを覆い隠す闇があるだけだ。

 

 ――助けて。

 

 また聞こえる。

 

「誰かいるの?」

 

 闇に向かって問いかけるが、返事は無い。ただ、助けて、と、繰り返すのみ。

 

 春海は、声が聞こえて来る方向へ歩いた。やがて、ぼんやりとした明かりのようなものが見えてくる。誰かいる。女の子だ。背中を向け、しゃがんでいる。肩が小さく震えていた。泣いてのかもしれない。

 

「助けて……お母さん……」

 

 近づくにつれ、声もはっきり聞こえて来る。お母さんを呼んでいる。はぐれたのだろうか? 

 

「ねえ、どうしたの?」

 

 春海はしゃがんでいる少女の後ろに立ち、背中に声をかけた。

 

「お母さん助けて……おいて行かないで……」

 

 泣き続けるばかりで、少女は応えない。

 

「お母さんと、はぐれちゃったの?」

 

 さらに声を掛ける春海。

 

 それでも、少女は泣き続けるだけだ。声が聞こえていないのだろうか? お母さんとはぐれて気が動転し、他人の声に耳を傾ける余裕がないのかもしれない。春海自身、一人でいることの不安さ、寂しさは、痛いほどよく判っていた。なんとか力になってあげたかった。お母さんとはぐれたのなら、一緒に探してあげよう。

 

 春海は、少女の肩に手を伸ばそうとした。

 

 その瞬間。

 

 少女が振り向いた。肌の色が青白い。死んでいる。そう思った。

 

 ――屍人。

 

 春海は手を引っ込めようとしたが、先に少女に掴まれた。

 

 冷たい――少女の身体は氷のように冷たかった。心まで凍りつくかのような寒気が、春海の小さな身体を駆け巡る。

 

「お母さん――助けて――」

 

 ものすごい力で引っ張られる春海。

 

「やめて! 離して!! あたしはお母さんじゃない!!」

 

 叫び、少女を振りほどこうとする。しかし、少女の力はとても子供のものとは思えないほど強く、決して離そうとしない。

 

 その、少女の身体が、闇の中に沈み始めた。

 

 少女の足が沈み、靴が見えなくなった。さらに沈み、すね、膝、そして、腰まで沈んだ。このままでは春海も闇に飲み込まれてしまう。腕を振り、少女から逃れようとする。しかし、少女の力は凄まじく、がっしりとつかんで離さない。

 

「お母さん――助けて――お母さん――」

 

 少女は助けを求める。お母さんを呼ぶ。身体は沈み続ける。胸まで沈んだ。春海の腕が、闇に引き込まれる。

 

「いやああぁぁ!!」

 

 春海は、悲鳴を上げた。

 

 

 

 

 

 

 そこで――。

 

 

 

 

 

 

 春海は、目を覚ました。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「――いやああぁぁ!!」

 

 悲鳴とともに目を覚ました春海。周囲を見回したが、真っ暗で何も見えない。闇の中に飲み込まれた? 一瞬そう思ったが、すぐに思い出した。ここは、押し入れの中だ。手を伸ばすと、指先に襖の感触。少しだけ開けると、わずかに光が差しこんでくる。良かった。いま見たのは、夢だったんだ。

 

 だが、安心してもいられない。今の悲鳴を屍人に聞かれたかもしれない。幻視で周囲の様子を探ると、思った通り、屍人が一人、この部屋へ向かっている。このまま押入れに隠れていると見つかるかもしれない。春海は懐中電灯を持って素早く押し入れから出ると、部屋の窓を開け、外に飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 田堀地区で屍人となった高遠玲子に追われ、四方田春海は上粗戸に迷い込んでいた。上粗戸は近代的な建物が立ち並ぶ商店街であったが、屍人たちが増築を繰り返し、まるで巨大生物の巣であるかのように大きく膨れ上がり、迷路のように入り組んでいた。幸か不幸か、入り組んだ構造により玲子から逃れることはできたのだが、疲れ果て、精神的にも大きなショックを受けた春海は、それでも冷静に屍人のいない家を見つけ、押し入れの中で休んでいたのである。そこで、夢を見たのだった。

 

 

 

 

 

 

 なんとか屍人に見つかることなく家の外に出た春海は、商店街の裏路地を一人で歩いていた。このまままっすぐ行けば、いずれ上粗戸の中央交差点に着くはずだ。しかし、確証は持てなかった。屍人たちが増築を繰り返した結果、商店街の様子は様変わりしている。通れるはずの道が通れなくなり、通れなかった場所に新たな道ができていたりする。それだけでなく、ところどころ、春海には見覚えのない古い家が建っていた。現代の近代的な建物とはまるで違う家屋。それは、現代と昔の羽生蛇村が入り混じっているようである。

 

 南と思われる方向からは、断続的にサイレンの音が聞こえて来る。春海は耳を塞いだ。春海は、あのサイレンの音が怖かった。理由は自分でもハッキリと判らないが、とにかく、聞かない方がいい。そして、ずっと降り続いている赤い雨も危ない気がする。春海は耳を塞ぎ、なるべく雨の当たらない場所を選んで歩いた。幸い、サイレンが鳴っている場所からはかなり離れており、また、屍人が増築したおかげで上粗戸一帯がアーケード街のようになっていたため、雨を避けられる場所は沢山あった。

 

 しばらく進むと丁字路に着き、道が左右に分かれていた。正面の壁にひし形の看板が貼られてある。洋品店の場所を示すもので、矢印で左の道を指し示していた。かなり古く、今にも外れて落ちそうである。看板のすぐそばにはなぜか木の机があり、その上にたくさんの釘が置かれていた。なんだろう? 確認しようと、春海は耳を塞いでいた手を伸ばす。すると、近くでハンマーを打つ音が聞こえて来た。音のした方を見る。左の道を少し進んだところで、人型の屍人が壁に釘を打っていた。作業に集中しているので気付かれてはいないが、恐らくこの釘は屍人が使っているのだろう。と、いうことは、屍人が釘を取りに来るかもしれない。春海は屍人を避け、右の道を進んだ。中央交差点からは遠ざかるが、その分屍人も少ないだろう。

 

 だが、右の道はすぐにバリケードに阻まれ、進めなくなっていた。戻って左の道を進むしかない。そのためにはあの釘を打っている屍人を何とかしなければいけない。春海はいったん丁字路まで戻り、物陰に身を隠して様子を窺った。

 

 しばらく釘を打ち続けていた屍人だったが、打つ釘が無くなると、机の上の釘を取りに看板の所までやって来た。そして、釘を何本か選ぶと、看板をじっと見て、左の道へ進み、また釘を打ち始める。それを、何度も繰り返していた。釘を打っている間は作業に没頭しているから、そのスキに後ろを通り抜けられるかもしれない――そう思うが、勇気が出ない春海。もし見つかると、屍人に捕まってしまう。怖い。でも、やるしかない。でも怖い。

 

 勇気を持てないまま時間だけが過ぎていく。その間も、屍人は釘を打ち、釘が無くなると机の前に来て釘を取り、看板を見て左の道へ進み、また釘を打つ。

 

「――――」

 

 春海は、パンパンと頬を叩き、「あきらめちゃダメ……あきらめちゃダメ……」と、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。そして、屍人の様子を窺い、釘を打っている間に看板の所まで進んだ。ひし形の看板は、上下の角をピンでとめているだけで、今にも外れそうだ。春海が上のピンを持って引っぱると、思った通り、簡単に引き抜けた。上の支えを失った看板は、下のピンを支えにくるっとひっくり返り、洋品店の場所を差す矢印は反対を向いた。春海は、また身を隠した。

 

 釘を打ち終えた屍人が補充に来る。釘を取った後、看板を見た。矢印は逆方向を示している。しばらく看板を見つめていた屍人だったが、矢印に従い、右の道を進んだ。すぐにバリケードに阻まれる。もちろん、そこは、さっきまで釘を打っていた場所ではないのだが、屍人は構わず、バリケードに釘を打ち始めた。春海は物陰から出て、丁字路を左へ進んだ。

 

 だが、左の道も五分ほど進むとバリケードに行き当たった。この道も進むことはできないのか……春海は周囲を見回す。バリケードの右隣は民家の塀だ。バリケードほど高くなく、大人が手を伸ばせば届きそうだったが、身体の小さな春海にはとても無理だろう。だが、塀の下に小さな穴が開いていた。穴を覗き込む春海。大人はとても通ることができそうにないが、あたしなら大丈夫だ。春海は穴を潜り、民家の庭に入った。

 

 民家は廃屋同然のボロボロだった。壁や天井などいたるところが崩れ落ちている。押し入れで少し休もうかと思っていたが、これでは隠れられそうにない。さらに、幻視で周囲を探ると、春海がいる場所から家を挟んで反対側、ちょうど、玄関の前で、屍人が庖丁を研いでいるのを見つけた。庭から外に出るには玄関前の門を通るしかない。屍人は門に背を向けた状態でずっと庖丁を研いでいる。静かに背後を通り抜ければ気付かれないかもしれないが、やはり、怖い。勇気が出ない。さっきの看板のような作戦はできないだろうか? 春海は壊れた壁の穴を通って家の中に入る。居間のようだ。中央に丸いちゃぶ台が置かれてあり、そのそばに春海の胸くらいの高さの小さな茶箪笥、そして、部屋の角にはテレビとラジオが置かれてあった。春海はテレビとラジオを調べてみたが、どちらも壊れていて鳴らなかった。さらに部屋の中を探すと、茶箪笥の上に赤い巾着袋があるのを見つけた。袋には女の人が口元に手を当てて笑っている絵が描かれている。中身は何だろう? 確認しようと袋を手に取ると、カチッと、スイッチを押す感触があった。

 

 その途端、赤い袋がゲラゲラと笑い声を上げ始めたではないか。

 

 ――なにこれ!? 意味わかんない!!

 

 どうやらおもちゃのようだ。とにかく止めないと、屍人に気付かれてしまう。しかし、どうやって止めたらいいか判らなかった。袋を開け、中に入っていた四角い機械を取り出した。止めるためのスイッチは無かったが、ウラに電池を入れるためのフタがあった。フタを外し、中の電池を取り出すと、笑い声はピタリと止んだ。

 

 だが、それで安心はできなかった。襖の向こうで、ガラガラと玄関が開く音が聞こえた。足音がこちらへ近づいてくる。包丁を持った屍人だ。春海は機械を茶箪笥の上に戻すと、壁の壊れたところから庭に出て身を隠した。ほぼ同時に居間の襖が開き、屍人が入って来る。危ない所だった。

 

 屍人は居間を見回すと、茶箪笥の上のおもちゃに気が付き、じっと見始めた。今がチャンスかもしれない。春海は静かに玄関へ回り、門から外に出て走った。屍人は追って来ていないが、それでも、少しでも遠くへ逃れようと走る。

 

 だが、しばらくして立ち止まる。先の路地に拳銃を持った屍人が立っていた。幸い見つかることはなかったが、とても進めない。引き返すこともできない。このままでは立往生だ。周囲を探る。左右を高い塀に囲まれた路地で、他に道は無い。右の壁は木の板を組んだ塀で、左はブロック塀だ。どちらも高くて春海にはとても乗り越えられないが、左のブロック塀の下に、小さな穴が開いていた。そこを潜り、反対側へ抜けると、車の整備屋だった。見える範囲に屍人はいない。春海はいったん整備屋の車庫に身を隠した。

 

 この整備屋は春海もよく知っているお店だ。眞魚川の近くにあり、死んだお父さんを始め、車を持っている村の人みんながよく利用していた。ここから少し東へ進めば、千曳(ちびき)橋という、車二台すれ違うのがやっとというコンクリート製の小さな橋がある。それを越えてさらに東へ進めば、宮田医院のある比良境だ。また、橋を渡らず川沿いに南へ進めば下粗戸に着き、そこから西へ向かえば眞魚教の教会がある。どちらに向かうのがいいだろう? 玲子先生は、教会は安全と言っていた。先生のいう通りにするべきだろうか?

 

 でも、正直に言うと、春海は教会へ行きたくなかった。

 

 春海は物心ついた頃から、どうも求導師様が苦手だった。求導師様は村のみんなから慕われており、春海が教会を訪れた時も、優しくお話ししてくれる。だが、それは上辺だけのような気がしてならないのだ。いざというとき、求導師様は子供なんて相手にしない――そんな気がしてならない。

 

 さらに、求導女様に至っては、苦手を通り越し、どこか恐怖を覚えるくらいだった。怒ると怖い大人の人は沢山いる。死んだお母さんや、春海がお世話になっている親戚のおばさん、玲子先生だって、普段は優しいけど、イタズラしたり宿題を忘れたりすると怖い。しかし、春海が求導女様に感じている恐怖心は、それとはまったく異なるものだった。それは、屍人に抱く恐怖に似ている。いや、むしろ屍人などよりはるかに怖い――ハッキリとした理由は無いが、ずっと、そう思っていた。だから春海は、教会が好きではなかった。

 

 それとは逆に、宮田医院は好きだった。院長の宮田先生は、求導師様や求導女様とは反対で、村のみんなからは避けられていた。村でただ一人の医者なので一応敬われてはいたが、無口で愛想のない宮田先生には、どこか、近寄りがたい雰囲気がある。大人の人は、診察が終わると逃げるように病院を後にするし、子供たちの間では「宮田先生は密かに村の人をさらい、夜な夜な地下の隠し部屋で人体実験をしている」などという怪談話まであるくらいだ。それでも春海は、宮田先生のことが好きだった。確かに無口だが、もともと春海はお喋りが苦手だから、あまり気にならない。それに、病気になった時はすごく心配してくれて、病気が治った時はすごく喜んでくれる――言葉や態度で表すことはないが、春海にはそれがよく判った。宮田先生はとても優しい人だ――これも、ハッキリとした理由は無いが――そう思っていた。

 

 逃げるなら、教会よりも病院の方がいい。そうしよう。

 

 春海は車庫から出ると、路地を東へ進んだ。

 

 少し進むと、大きな車が停められており、道を塞いでいた。横をすり抜けようとしたが、身体の小さな春海ですら通ることができないほど狭くなっている。恐らく、路地に車を停めたのではなく、車を停めた後に増築してバリケードを作ったのだろう。反対側も、そして、屋根の上も同様に通れそうにない。しかし、車の下は開いていた。春海は、車の下を這って進み、向こう側へ出た。

 

 千曳橋の前に来たが、橋の上では犬型の屍人が見張りをしていた。こちら側と向こう側を何度も行き来し、警戒している。橋は周辺の見通しがよく、隠れながら進むのはムリだろう。幸い、橋はここだけではない。少し南に進めば、三蛇(さんじゃ)橋という大きな橋がある。遠回りになるが、そちらの方が安全かもしれない。春海は犬屍人が向こう側へ行った隙に、川沿いの道を南へ向かおうとした。

 

 だが、身体がビクンと震え、自分の背中が一瞬だけ見えた。犬屍人に見つかった!? かなり離れていたから大丈夫だと思ったが、足音に気付かれたのかもしれない。橋を振り返ると、犬屍人がものすごいスピードで走って来る。決して運動が得意ではない春海に逃げ切れるだろうか? 考えているヒマはない。春海は走り出した。しかし、すぐに立ち止まる。道は屍人が造ったバリケードに阻まれていた。背後から犬屍人が迫る。どうしよう? 周囲を探る。バリケードの下の方に、小さな穴が開いているのを見つけた。そこを潜り抜ける。犬屍人が走って来て、穴に首を突っ込んだが、穴は小さく、身体の大きな犬屍人では潜ることができない。春海は走ってその場を去った。

 

 しばらく走ると肉屋の看板が見えてきた。三蛇橋はもうすぐだ。このまま走っていこうとしたのだが。

 

「――ううん? 春海ちゃんの臭いがするよ? 近くにいるのかなぁ?」

 

 道の先から聞き覚えのある声。春海は、とっさに肉屋に駆け込んで身を隠した。いまの声は――。

 

 肉屋に隠れて外の様子を窺う。しばらくすると、金属バットを持った屍人がやって来た。屍人――だと思う。身体は屍人だが、頭が変だった。タコのような足が何本も生え、うねうねと動いている。

 

「あれぇ? 気のせいだったのかな?」

 

 その声。間違いない。校長先生だ。うすうす勘付いてはいたが、やはり、校長先生もすでに屍人になっていたんだ……。

 

「でも、春海ちゃんの臭いはまだするよ? どこかに隠れたのかな? ようし、春海ちゃん、すぐに見つけるからね。そうしたら、校長先生と、イイことしようね?」

 

 周辺を探し始める校長。匂いを察知するということは、ここに隠れていても見つかるのは時間の問題だ。裏口や窓から逃げ出せないだろうか? 春海は肉屋の奥へ進んだ。奥は生活するためのスペースだった。居間やトイレなど、いくつかの部屋がある。裏口――というよりは家の玄関だろう――があったが、板が張り付けられてあり、開けることができない。窓も同様だ。これでは、脱出することができない。

 

「うーん、こっちの方から匂いがするねぇ?」

 

 校長が肉屋に入って来たようだ。店舗の中を探し始める。このままではマズイ。何かないか? 春海は居間を探った。棚の上に目覚まし時計を見つけた。あれを鳴らせば校長の注意を引けるかもしれない。さっそくセットしようとした春海だが、時計は動いていない。裏返すと、電池が入っていなかった。これではダメだ、他に何か音が出るもの、もしくは、電池が無いだろうか――?

 

 春海はポケットに手を当てた。そうだ! 電池、持ってる! さっき笑い声を上げる巾着袋の中から抜いて、そのまま持ってきていた! ポケットから電池を取り出す。単二式の電池で、時計で使うものと同じだった。春海は時計に電池を入れると、アラームを一分後にセットし、トイレに隠れた。そのまま息をひそめ、待つ。校長はまだ店舗部分を調べている。決して広くないので、すぐにこっちに来るだろう。アラームが鳴る前にトイレを調べられたら終わりだ。ううん、大丈夫。絶対うまく行く。あきらめちゃダメ。

 

「春海ちゃん、どこかなぁ? うーん、トイレの方から匂いがするねぇ」

 

 居住スペースの方へやって来た。足音が近づいてくる。ダメだ、見つかる!

 

 諦めかけた時、目覚まし時計のアラームが鳴った。

 

「んん? 春海ちゃんかなぁ?」

 

 足音が遠ざかって行く。幻視で確認すると、校長は居間に入り、目覚まし時計をじっと見つめ始めた。うまく行った! 春海は静かにトイレから出ると、そっと廊下を通り、店舗の出入口から外に出た。校長は気付かない。春海は南へ走った。

 

 五分ほど走ると三蛇橋が見えてくる。上粗戸の商店街を東西へ走る大通りだ。橋を渡って東へ向かえば比良境、橋を渡らず西へ向かえば中央交差点があり、西の刈割や南の下粗戸へ行くことができる。宮田医院へ向かうには、東の道を進まなければいけない。

 

 しかし、春海は。

 

 ――もう……いやだ……。

 

 フラフラと、西の道を進む。すぐに中央交差点に着いた。電気の供給は止まっていないようで、街灯は点いており、信号機も、赤のランプが点滅している。宮田医院へ行くのをやめて、教会へ行こうとしているのではない。どこか別の場所に向かうわけでもない。

 

 もう、どこにも行きたくなかった。

 

 学校で屍人に襲われた。刈割でも屍人に襲われ、玲子先生が死んだ。田堀の民家では知子お姉ちゃんたちに襲われ、外では玲子先生にも襲われた。この上粗戸でも、校長先生の屍人に襲われた。

 

 どこに行っても屍人はいる。どこに行っても襲われる。どこに行っても逃げなければいけない。

 

 安全な場所なんて無い。

 

 逃げ場なんて、無い。

 

 ――疲れちゃった……

 

 春海は街灯の下にしゃがみ込んだ。隠れようとは思わなかった。隠れても、どうせ見つかる。どんなに隠れても屍人に見つかるし、どんなに逃げても屍人は追って来る。いずれは捕まって、自分も、屍人になるだろう。だったら、隠れたり逃げたりしてもムダだ。

 

 春海は膝を抱え、顔をうずめた。

 

 

 

 ――春海ちゃん。絶対に、あきらめちゃダメよ。

 

 

 

 玲子先生の言葉を思い出したが、もう、勇気は沸いてこなかった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十九話 須田恭也 ―――― 第三日/二時十三分十七秒

 風が吹き渡り、大地を覆う草が波うった。空は晴れ渡り、雲ひとつ浮かんでいない。陽の光のまぶしさに、思わず目を覆う。

 

 須田恭也はどこまでも続く草原の中にいた。見渡す限り草と風と空しかないが、ぽつんと、ひとつだけ、ポストが置かれてある。旧式の丸い郵便ポスト。そこにもたれ、座っていた。そばには、美耶子もいる。

 

「綺麗だね……」

 

 草原の彼方を見つめながら、美耶子がつぶやいた。そうだね、と、恭也は返事をする。

 

「あたし、知らなかった」

 

「――え?」

 

「世界が、こんなにキレイだったなんて。恭也の目を通してみると、こんな風に見えるんだね」

 

 美耶子を振り返る恭也。美耶子は目が見えない。草原の彼方を見つめているようだが、実際、その目は何も映していない。この景色を見ているのは美耶子ではなく恭也だ。美耶子は、恭也の目を通して、世界を見ているのだ。

 

 美耶子が、さらに言葉を継ぐ。「初めて会った時ね、恭也は、光に包まれてた」

 

「光? 何のこと?」

 

「あたし、目は見えないけど、近くに誰かがいるのは判るんだ」

 

「うん」恭也は頷いた。目が見えない分、他の感覚が敏感なのだろう。聴覚や他の感覚を使い、気配を察知できるのだ――そう思った。

 

「でもね、恭也だけは、光って見えた。すごく、温かい光」美耶子は、寄り添うように、恭也の肩に頭を乗せた。「あんなの、初めてだった」

 

「なに言ってんだよ……」恭也は、照れくささを隠すように笑う。

 

「あたしね、生まれた時からずっと、屋敷に閉じ込められて育ったの」

 

「……うん」

 

「時が来たら、神の元へ嫁ぐ――お父様から、ずっとそう言われてきた。そういう運命なんだって」

 

「…………」

 

「姉は屋敷の外に出られるのに、あたしは出られなかった。姉は自由に生きられるのに、あたしは自由に生きられなかった。神代のお手伝いの中には、あたしに同情してくれる人もいたけど……結局何もしてくれなかった。お父様には逆らえない。あたし、みんなのこと、恨んでた」

 

「……しょうがないよ……そんな状態だったら……俺だって……」

 

 恭也は、草原の先を見つめる。この村で何が行われているのか、いまだによく判らない。そんなワケの判らないもののために命を差し出せと言われても、納得できるはずもない。恨んで当然だ。

 

 美耶子が――。

 

「……あいつらも……この村も……全部消して」

 

 消え入るような声でつぶやいた。

 

「え――?」

 

 恭也は、視線を美耶子に向ける。

 

 しかし、隣にいたはずの美耶子の姿は、無かった。

 

 美耶子だけでなく、ポストも、草原も、陽の光も、空さえも、存在しない。

 

 恭也は、暗闇の中、一人で座っていた。

 

 ただ――。

 

 

 

 ――あいつらも……この村も……全部消して。

 

 

 

 美耶子の暗い言葉だけが、胸に残っていた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十話 竹内多聞 屍人ノ巣/第四層付近 第三日/三時〇三分二十七秒

 頭に手を突っ込まれて脳をかき回されるような頭痛と共に、竹内多聞は目を覚ました。狭い部屋に、ごみ同然の物が乱雑に放り込まれている。廃材、トタン、破れた襖、壊れたタンス、丸ポストやカーブミラーまである。重さで床が抜けたのか、部屋の中央は大きく沈み、赤い水が溜まっていた。そこに身体の半分が浸かる形で気を失っていたらしい。そばには、高校生くらいの少年と、眞魚教の求導師の法衣を来た男が、竹内と同じように半身を赤い水に浸らせていた。

 

「……あまりうれしくない目覚めだな」

 

 身体を起こし、つぶやく竹内。その声に気が付いたのか、少年も意識を取り戻し、身体を起こした。求導師は意識が戻っているのかいないのか、「八尾さんが……まさか……」と、うわ言のようにつぶやいている。

 

「えっと……安野さんの大学の先生ですよね?」少年が訊く。

 

「そうだ。安野と一緒にいたのか?」

 

「はい。少しの間だけですけど」

 

 竹内は部屋を見回した。安野の姿は無い。

 

 少年が続ける。「……化物に襲われた後、俺たちは比沙子さんに捕まったんです。安野さんは、一人で逃げたようですけど」

 

「アイツらしいな。まあ、正しい判断だ。全員で捕まるのは得策ではない」竹内は小さく笑った。「水から出よう。これに浸っていても、良いことはない」

 

 竹内は立ち上がり、水から出た。少年も出ようとするが、足をおさえてうずくまった。見ると、右のふくらはぎがぱっくりと切れ、血が流れ出していた。

 

「――大丈夫か?」竹内は訊いた。

 

「あ、はい。痛みますけど、すぐに治ると思います」

 

 少年の言う通り、傷は塞がりつつある。あれなら、すぐに歩けるようになるだろう。

 

 竹内も自分の身体を確認する。あちこち痛むが、どれもかすり傷程度で、少年ほど大きな傷は無い。ただ、拳銃やライトなどの持ち物は無かった。比沙子に取り上げられたのだろう。

 

 少年が求導師を水から引き上げた。意識は戻っているようだが、少年が立たせても、すぐにへたり込んでしまう。相変わらず「八尾さんが……まさか……八尾さんが……」と、独り言のように繰り返しつぶやいている。

 

 求導師の服を着ているということは、この男は眞魚教の最高責任者・牧野慶だ。訊きたいことは山ほどあるが、この様子では何を訊いても答えられそうにないし、恐らく、得られる情報も大したものではないだろう。求導師というのはただの飾りで、八尾比沙子に操られるだけの存在なのだ。

 

 竹内は少年を見た。「君、名前は?」

 

「須田……恭也です」

 

「村の出来事について、どのくらい知っている?」

 

「えっと……神に花嫁を捧げる儀式に失敗したことと、ここは現在と過去が入り混じる世界だってことと……それから……」

 

 ほう、と、感心する竹内。すでに多くのことを知っているようだ。どうやら、神の花嫁・神代美耶子と行動を共にしていたようで、竹内ですら知らないこともいくつか知っていた。これは、呆けてしまった求導士などよりもよほど頼りになりそうだ。

 

「よし、恭也君。すまないが、協力してくれないか。このままでは、取り返しがつかなくなる」

 

「……どうするんですか?」

 

「どうにかして、あの化物を倒すんだ。そのための方法を探そう」

 

 恭也は顔を伏せた。しばらく考えているようだったが、やがて「すみませんが……」と言って顔を上げ、続けた。

 

「化物も、歳を取らない女も、興味ありません。俺は、ただ美耶子と一緒にこの村から逃げ出したいだけです」

 

「しかし、神の花嫁は――」

 

 竹内は儀式の場での様子を思い出す。水鏡の上で炎に包まれていた少女。あれが、神代美耶子だろう。美耶子は神を呼び出すために生贄にされた。神の花嫁とは、そういうことである。

 

 しかし、恭也は強いまなざしで竹内を見る。「美耶子は生きています。俺には、判るんです」

 

「……そうか」

 

 竹内は頷いた。少年の言葉を否定することはできない。竹内の考えが正しければ、神代の人間はみな、死なない――死ぬことができない。

 

 竹内は頷いた。「判った。君の思う通りにしたまえ」

 

「すみません」

 

「ただ、村から脱出したいというのは私も同じだ。その点で、我々の利害は一致している。これから定期的に連絡を取り合おう。何か判ったら教えてくれ。私も、新たに判ったことがあれば伝える」

 

「連絡って、どうするんですか?」

 

「十五分おきにお互いを幻視するんだ。そうすればすぐに情報を交換できるし、お互いの無事も確認できる」

 

「判りました。そうします」

 

 竹内は周囲を見回した。一見脱出できそうなところは無いが、所詮はガラクタを組み上げてできた部屋だ。どうにかなるだろう。少し調べてみると、トタンの一部がひび割れている場所を見つけた。何度か強く蹴ると、どうにか破ることができた。暗く細い通路が続いている。

 

 ――うん?

 

 部屋から外に出た竹内は、通路の隅に懐中電灯がふたつ置かれているのを見つけた。そばには『おねぼうさん×2へ』というメモが置かれていた。竹内と思われる男がいびきをかきながら寝ているイラストも描かれている。

 

「――なんですか?」後ろから恭也が覗き込む。

 

「優秀な教え子の置き土産だ。君も使いたまえ」

 

 竹内はメモをポケットにしまうと、懐中電灯をひとつ恭也に渡した。

 

 通路は少し進むと二手に分かれていた。右の道の先には洋品店があり、左の道の先には車の整備屋の看板が見える。整備屋には見覚えが無いが、洋品店は見覚えがあった。二十七年前の土砂災害で消えた大字粗戸の商店街にあった店だ。恐らく右の道は二十七年前の大字粗戸、左の道は現代の上粗戸の建物だろう。過去と現在が入り混じっているようである。どちらの道も、屍人たちが増築したせいで、街一体が屋根に覆われており、バリケード等で道がふさがれ、かなり入り組んだ迷路のような作りになっていた。

 

 屍人は、なぜこんなことをしているのだろう? ずっと疑問に思っていたことだった。屍人たちは、あらゆる場所で大工仕事をしていた。屋根を作り、窓を塞ぎ、壁を建てている。特に、この大字粗戸一帯はその傾向が顕著で、どこも屋根に覆われており、空を見ることができない。雨を避けているのだろうか? いや、屍人にとって赤い雨は命の水だ。避ける理由がない。ならば、陽の光だろうか? だが、屍人は日中も問題なく行動できる。ドラキュラのように陽の光を浴びて灰になったりはしない。

 

「――あの」と、恭也が声をかけてくる。「あの人、置いてきちゃいましたけど、大丈夫でしょうか?」

 

 閉じ込められていた部屋の方を見る恭也。求導師のことだろう。

 

「放っておけ。どうせ役には立たん。それに、ヘタに動くより、あそこにいた方が安全だ」

 

「そう……ですね」

 

「二手に分かれよう。どっちに行く?」竹内は二つの路地を指さした。

 

 恭也は、何かを探るように目を閉じた後、言った。「……左に行ってみます。美耶子がいるような気がするので」

 

「そうか。では、気を付けてな」

 

 恭也が整備屋の方へ行ったのを確認し、竹内は、洋品店の方へ進んだ。

 

 ドクン、と、心臓が大きく脈打った。

 

 同時に、大地が波うつかのようなめまいに襲われる。

 

 そして。

 

 ――汚れをはらえ。

 

 ――神の祝福を受けよ。

 

 ――赤い海に、身を沈めよ。

 

 胸に、そのような想いが浮かんでくる。

 

 が、それも一瞬だった。めまいも、そして、赤い水の誘惑も、すぐに治まった。

 

 まずいな、と、竹内は思った。もう、丸二日、赤い雨に打たれている。なるべく赤い水を体内に取り込まないようにしていたとはいえ、それも限界がある。腕時計を見た。四時少し前だ。後二時間ほどで、またサイレンが鳴る。そうなれば、赤い水の誘惑はさらに強くなるだろう。いつまで耐えられるだろうか。もう、あまり時間は無いかもしれない。急がなければ。

 

 路地を進み、洋品店まで来た。中を覗く。何か武器になるような物でもないかと思ったのだが、店内には旧式の黒電話があるだけだった。

 

 洋品店を出てさらに路地を進む。その先には、『松川屋』という立ち飲みの居酒屋があるのだが、その店の前に、拳銃を持った屍人が立っており、周囲を警戒していた。松川屋の入口は開いており、屍人は時折中を覗きこむ。中の明かりは点いており、店の奥にピンク色の古い公衆電話が見えた。屍人は中に入らず、そのまま路地で警戒を続ける。

 

 こちらに武器は無い。戦闘は避けたいところだ。店の中に入ってくれればそのスキに路地を通り抜けられるのだが、屍人は店を覗き込むだけで、中に入ろうとはしない。どうしたものかと思案する竹内。店の明かりは点いている。と、いうことは、電気が来ているということだ。

 

 竹内は洋品店へ戻った。黒電話の受話器を取り、耳に当てると、ツー、という通信音が聞こえた。恐らく、電話の基地局がこの一帯にあるのだろう。ならば、この一帯の電話は通じるはずである。竹内は黒電話の近くを探り、電話帳を見つけると、松川屋の電話番号を調べた。ダイヤルを回し、呼び出し音が鳴ったのを確認して、拳銃屍人を幻視した。松川屋の電話が鳴っている。音に反応した屍人は、店に入り、しばらくじっと電話を見つめた後、受話器を取った。その隙に、竹内は松川屋の前を通り抜けた。

 

 少し進むと路地はバリケードに阻まれていた。その向こうからはハンマーで釘を打つ音も聞こえる。この先の道は田堀という地区へ続いており、屍人の巣からは遠ざかることになる。あえて行く必要は無い。竹内は周囲を見回した。バリケードの左側は民家の塀だ。バリケードよりは低く、手を伸ばせば届く高さだ。小さな子供には無理だろうが、自分ならば乗り越えられるだろう。竹内は塀を乗り越え、民家の庭に入った。

 

 民家は壁や屋根などいたるところが崩れ落ち、廃屋同然だった。包丁を持った屍人が一体徘徊していたが、隙をついて庭を走り抜け、門から外に出た。

 

 ここまでうまく屍人を回避してきたが、それも、そう長くは続かないかもしれない。何か武器になるものを探さなければ。さらに路地を進む竹内。路地は複雑に入り組んでいるが、どうやら南へ向かっているようである。竹内の古い記憶によれば、このまま進めば小さな町工場があったはずだ。

 

 途中、廃材が置かれた小さな空地があった。工場から出たゴミを一時的に保管しておく場所だろう。竹内は廃材の中から鉄パイプを一本見つけ、持っていくことにした。武器としては頼りないが、何も持たないよりはマシだ。

 

 さらに南へと進むと、路地に拳銃屍人が立ち塞がっていた。背後から静かに忍び寄って殴れば鉄パイプでも倒せないことはないだろうが、屍人は注意深く周囲を警戒しており、隙がない。戦うのは無謀だろう。何か方法は無いだろうか? 周囲を探る。左はブロック塀だ。高さは三メートルほどで、とても手が届かない。壁の足元に小さな穴が開いていたが、子供ならともかく、竹内の身体では通り抜けられそうになかった。反対側は木の板を組んだ壁で、穴は開いていないが、高さは二メートルほどなので、乗り越えられそうだった。向こうは民家だ。竹内は壁を乗り越えた。

 

 民家は木製の古い建物で、恐らく二十七年前の物と思われた。中を調べる竹内。何か音を出すものでもあれば屍人の注意を引きつけられるだろう。居間でテレビとラジオを見つけたが、どちらも壊れていて鳴らない。奥の部屋に進む。扉を開けてはっとなった。四畳半の狭い部屋、壁や天井など、いたるところに、女性アイドルのポスターが貼られていた。二十七年前のアイドルだが、竹内も知っている。七十年代を代表する伝説のアイドル・東エリだ。一九七六年、『私の彼の左手に肉球』でデビューすると、それまでのアイドル像を覆すぽっちゃりした体系が話題となり、すぐに人気が爆発。その年の音楽新人賞を総なめにした。しかし、同年末。レコード大賞授賞式から紅白歌合戦のスタジオに向かう途中、トラックにはねられ、二十一歳というあまりに短い人生を終えた。その数奇な運命は今なおアイドルファンの間で語り草となっている。

 

 部屋には昔懐かしいレコードプレイヤーがあった。横にある棚には何十枚というレコードがビッシリと並んでいる。そのすべてが東エリだ。東エリはデビュー一年足らずで亡くなったので、レコードは四枚しかリリースしていない。死後、追悼のレコードやCDが何度となく発売されてはいるが、この民家は七十六年の八月には異界に飲み込まれているから、レコードは三種類しかないはずだ。つまり、この部屋の主は同じレコードを何枚も買っているのだ。観賞用、保存用、そして、布教用である。いつの時代もオタクという生き物は変わらないな。竹内は、部屋の主に親近感を覚えた。

 

 しかし、このレコードは使えるな。

 

 竹内は棚を探り、『私の彼の左手に肉球』というレコードを取り出した。東エリのデビュー曲である。観賞用は開封済みだが、保存用と布教用は当然のごとく未開封である。しかも初版であり、それが十枚以上。これは、美浜奈保子の限定テレカにも匹敵するお宝だ。いや、もちろん竹内はなぽりん一筋であり、他のアイドルに興味は無い。だが、東エリのレコードには現在プレミアが付いており、ネットオークションサイトでは数万円という高値で取引されている。特に、このデビュー曲の初版は出荷枚数が極めて少なく、未開封ともなれば数十万はイケるだろう。これは思わぬ臨時収入だ。どうせ持ち主は屍人になっている。ならば、生きている私が有効に使わせてもらおう。

 

 …………。

 

 竹内は、レコードを元の場所に戻した。危うく人の道を踏み外すところだった。いかに屍人とはいえ、ドルヲタには変わりない。ドルヲタは、別のドルヲタと時に対立し争うこともあるが、基本は同じ理念を持つ仲間であり同士なのだ。表向きは争っていても、心の中ではお互いをリスペクトする気持ちがある。この部屋の主が東エリを想う気持ちと、竹内がなぽりんを想う気持ちは同じなのだ。屍人の持ち物とは言え、勝手に持ち出して売りさばくなど、ドルヲタとして許されることではない。それは、なぽりんを裏切ることと同じなのだ。

 

 ……そんなことをしている場合ではないというに。

 

 竹内は心の中で持ち主に詫び、鑑賞用のレコードを取り出すと、プレイヤーにセットした。針を乗せる。ブツッっという独特のノイズ音がして、音楽が流れ始めた。竹内はボリュームを最大まで上げると、部屋を出て、居間に身を潜めた。幻視で外の屍人の様子を探る。音楽に気が付いたようだ。玄関から家の中に入って来て、奥の部屋へと向かう。うまく行きそうだ。部屋に入った屍人はレコードプレイヤーをじっと見た後、今度は壁のポスターをじっと見始めた。その隙に、竹内は外に出て、路地をさらに南へ進んだ。

 

 五分ほどで工場が見えてきた。位置的には大字粗戸の西部に当たる。裏口から工場に入り、中を抜けて正面から出れば大通りに出られる。そのまま南へ向かえば、あの神迎えの儀式が行われた場所へ行くことができる。神や八尾比沙子がまだ同じ場所にいるとは限らないが、行ってみる価値はある。

 

 工場の明かりは点いていた。中に屍人がいるかもしれない。裏口から工場の敷地内に入った竹内は、窓からそっと様子を窺った。

 

「――――!?」

 

 思わず息を飲む。工場の中には、犬屍人、蜘蛛屍人、拳銃屍人、猟銃屍人など、ざっと数えても十体以上の屍人が徘徊していた。突破は無理か。何か策をほどこそうにも、これほどの人数の屍人……いったい、どうすればいい……。

 

 絶望的だが、諦めるわけにはいかない。竹内は周囲を探り始めた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 竹内と別れ、左の路地を選んだ須田恭也は、強い決意と共に進んでいた。

 

 ――美耶子と約束したんだ。一緒に、村から逃げ出すって。

 

 美耶子は生きている。俺に助けを求めている。

 

 必ず、見つけ出す。

 

 何度も、胸の内で繰り返した。

 

 路地を進む恭也。道は屍人の増築によりかなり入り組んでいるが、どうやら東へと向かっているようである。何度か木の板を組み上げたバリケードに行く手を阻まれたが、いずれも二メートルほどの高さで、なんとか乗り越えることができた。

 

 さらに東へ進み、車の整備店の前を通り過ぎたところで、路地に大型のバンが停車されていた。左右の壁はバンに密着するほどで、横を通り抜けることはできそうにない。恐らく、路地に車を停めたのではなく、車が停めてあったところにバリケードを作ったのだろう。車の下にはわずかな隙間があるが、タイヤがパンクしているため車高が低く、恭也の身体では通り抜けられそうになかった。戻って他の道を行くか。あるいは、何か車を持ち上げるものでもあれば、通り抜けられるかもしれない。そう言えば、さっき車の整備店があった。何か使える物があるだろ。恭也は道を戻り、整備店の中を探ってみる。すぐに油圧式のフロアジャッキを見つけた。恭也はまたバンの所に戻ると、フロアジャッキを車の下に入れ、レバーを操作する。ジャッキを使ってもかなり重かったが、なんとか通り抜けられる高さまで持ち上げることができた。恭也は這って車の下を潜り抜けた。

 

 バンの下を潜ってさらに東へ進むと、車が二台並べるほどのやや広い通りに出た。通りは東に続いており、コンクリート製の橋が架かっている。恐らく眞魚川だろう。橋の上には犬屍人がいた。一体だけだから大した脅威ではないが、何も武器を持っていない状態で戦うのはさすがに無謀だ。川沿いを南へ進む道もあるが、少し進んだところがバリケードで塞がれており、進めそうにない。なんとかして、犬屍人の隙を突くしかないだろう。しばらく様子を探ってみよう。恭也は周囲を見回し、身を隠せそうな場所を探した。すぐ側に、鉄製の階段を見つけた。どうやら小さな水門があるようだ。西には棚田が広がる刈割があるので、眞魚川本流から棚田へ水を引くための用水路だろう。階段を上って奥まで行けば、橋からは死角になりそうだ。恭也は階段を上り、水門を開け閉めするためのハンドルのそばに身を隠した。

 

 屍人の様子を探ろうとした恭也だったが、ふと、腕時計を見る。先ほど竹内と別れてから十五分経っている。十五分おきにお互いを幻視し、情報を交換するという約束だ。恭也は視界ジャックで竹内を探した。すぐにそれらしき人物の視点を見つける。恭也のいる場所から西、どこか建物中だ、黒電話の受話器を取り、ダイヤルを回している。何度か呼びかけてみたが、こちらを幻視している様子はなく、返事は無い。恐らく屍人を陽動しようとしているのだろう。いま伝えなければいけないような情報は特に無い。恭也は竹内を幻視するのをやめ、犬屍人の様子を探ることにした。

 

 犬屍人はしばらく橋の上で周囲を警戒していたが、やがて川沿いの道を南へ走り始めた。バリケードの前で立ち止まる。バリケードの下には子供が通れそうな小さな穴が開いていて、そこを警戒しているようだ。今なら橋を通れるだろう。恭也は幻視をやめ、階段を下りようとしたが。

 

 ――水門を……。

 

 誰かの声が聞こえた――気がした。

 

 直接耳に聞こえたのではなく、心に響いた。そんな感じの声だった。驚きはしなかった。少し前にも、同じ声を聞いた。大字粗戸で、マンホールの下に降り、下水道の扉を壊した時だ。

 

 恭也は水門のハンドルを見つめる。水門は開けられており、水が西へ向かって大量に流れている。これを閉じろということだろうか? 門を閉じれば水が流れなくなる。恭也は以前、刈割で水門を閉じ、水が無くなった用水路を通って屍人を回避したことがある。同じ方法で、この先誰かが助かるのかもしれない。恭也はハンドルを回し、水門を閉じた。閉じるときに少し大きな音がして、犬屍人に気付かれたが、犬屍人は音がした水門の周囲を調べただけで、すぐにバリケードの方へ戻って行った。どうやらハンドルを回す人にまでは頭が回らなかったようだ。恭也は犬屍人に気付かれないよう足音を忍ばせて階段を下り、橋を渡った。

 

 このまま道を東に進めば宮田医院のある比良境へ着くようだ。しかし、それでは屍人の巣から遠ざかってしまう。確証はないが、美耶子は屍人の巣のどこかにいるはずだ。恭也は道路から逸れ、川沿いの細い道を南へ進んだ。

 

 しばらく進むと、川沿いの小高い土手の上に、マナ字架がふたつ立てられてあるのを見つけた。それ自体はこの村ではいたるところに立てられており、特別珍しいものではないのだが、そのマナ字架はひとつが大きく、もうひとつはかなり小さかった。土手を登ってみると、マナ字架の立っている地面が少し盛り上がっていた。どうやらお墓のようである。お供え物なのか、大きな墓には猟銃が、小さな墓には子供が遊ぶボードゲームが置かれてあった。猟師の親子の墓なのかもしれない。

 

 恭也は猟銃を取った。弾も沢山お供えされてある。使い方さえ判れば、すぐに撃てそうだった。恭也は猟銃を調べ、なんとか中に弾を込めると、安全レバーを外し、構えてみた。スコープを覗き込む。川の向こう側に、さっきの犬屍人がいる。バリケードの穴を調べ終え、橋に戻る所だ。恭也は、照準を犬屍人に合わせ、引き金を引いた。鼓膜を突き刺すような大きな音と同時に、後ろへ突き飛ばされるような強い衝撃がして、恭也は尻餅をついて倒れた。どうなった? 再び銃を構え、スコープを覗き込む。犬屍人は周囲を見回している。弾が命中した様子は無い。外れたようだ。もちろん、そんなに簡単に命中するものだとは思っていない。もう一度照準を合わせる恭也。屍人はこちらを狙っている存在に気が付いてはいるが、方向までは判らないようだった。その場で周囲を見回すだけだ。恭也はしっかりと狙いを定めると、今度は弾き飛ばされないようにしっかりと腰を落とし、引き金を引いた。銃声が鳴り響き、犬屍人から少し離れた場所の地面が弾け飛んだ。もう一度狙いを定め、撃つ。また外れたが、今度は屍人のすぐ足元の地面を弾いた。さらにもう一発。屍人の頬をかすめた。もう一発――装填した最後の弾だ。鳴り響く銃声とともに、犬屍人の頭が小さく爆発した。バタリと地面に倒れると、動かなくなった。

 

 銃を下ろす恭也。五発で命中なら、初めてにしては上出来だろう。これなら、俺でも使える。恭也は猟銃に弾を込め、ポケットにも詰められるだけ詰めると、墓に手を合わせ、土手を下りた。

 

 腕時計を見る恭也。竹内と別れてから三十分ほど経っていた。お互いを幻視し合う時間だ。恭也は竹内を探す。恭也のいる場所から西、民家の中にそれらしき姿があった。レコードが並んだ棚を調べている。やはり、こちらを幻視している様子は無い。ひょっとして、自分から提案しておいて忘れているのだろうか? いや、まさかな。恐らく屍人に追われているか何かで、そんな余裕がないのだろう。今回も特に伝えるべき情報は無い。恭也は幻視をやめ、川沿いの道をさらに南へ進んだ。

 

 しばらく進むと、この道もバリケードで閉ざされていた。周囲を探ると、すぐ側の民家の二階部分が増築され、屋根の上から連絡通路のような木製の橋が、川を越えて向こう側へ伸びている。かなり急ごしらえのもので今にも崩れ落ちそうだが、道はそれしかない。恭也は民家に入って二階へ上がり、連絡通路を進んで川を越えた。

 

 通路はかなり複雑に入り組んでいた。階段を下りて右に曲がり、梯子を上がって左に曲がり、二メートルほどの高さを飛び下りてUターンする、などを繰り返している。もう、自分がどの方向へ向かっているのかも判らない状況だ。通路にはところどころ屍人がいる。猟銃は強力な武器だが、細い通路では思う通り撃てないことも考えられた。恭也は幻視を繰り返し、急に屍人に出会わないよう、慎重に進んだ。

 

 一〇分ほど入り組んだ細い通路を進み、なんとか開けた場所に出た。小さな町工場のようである。建物の明かりは点いており、中に屍人がいるようだ。窓があったのでそっと覗いてみた。

 

「――――!?」

 

 思わず息を飲む。工場の中には、犬屍人、蜘蛛屍人、猟銃屍人など、数十体の屍人が徘徊していた。中に入るのはあまりにも危険だった。敷地から外に出れば大きな交差点がある。工場へ侵入するのは避け、大通りを進んだ方が無難だろうか? だが、これほどの屍人が集まっているからには、中に何かあるのかもしれない。

 

 時計を見る。竹内と連絡を取り合う時間だ。幻視を行うと。

 

《恭也君……恭也君……聞こえるか……》

 

 竹内は、恭也に向かって呼びかけていた。うまく幻視しあえたようだ。

 

「はい、恭也です」

 

《良かった。繋がった。今、どこにいる》

 

「えっと……どこか、町工場のような所にいます。大通り側」

 

《おお、ちょうど良かった。私は、工場の裏口付近、ちょうど、君の反対側辺りにいる。工場の中は見たか?》

 

「はい。屍人が大勢集まっています。何かあるんでしょうか?」

 

《かもしれん。調べてみる価値はあるだろう。君、武器は持っているか?》

 

「はい。猟銃を拾いました」

 

《そうか。ちょうどいい。私は今、工場の配電盤の前にいる。これを壊せば、恐らく工場の明かりを落とすことができるだろう。その隙に、屍人たちを倒せないだろうか?》

 

「あまり自信は無いですが、やってみます」

 

《頼む。では、行くぞ》

 

 幻視をやめる恭也。工場の入口へ回った。しばらくして、バチンという音と同時に、工場内の電気が消えた。周囲が闇に包まれる。しまった、と、恭也は思った。今は赤い水の影響で暗闇でもわずかに見える能力があるが、明かりに目が慣れていたため、何も見えない。しばらくすれば闇に目が慣れて見えるようになるだろうが、それは屍人も同じだろう。ライトを点けるか? いや、それでは逆にこちらの居場所を相手に教えるようなものだ。一か八か、見えない状態で突っ込んでいくしかないのか……。

 

 ――恭也。

 

 また、胸の中に例の声が響いた。名を呼んでいる。やはり、この声は……。

 

「美耶子、なのか?」声を出して呼びかけた。「いま、どこにいるんだ?」

 

 ――あたしは、ずっと、恭也のそばにいるよ

 

「俺のそば?」

 

 ――約束したよね。一緒に、逃げるって。

 

「ああ。もちろんだよ」

 

 ――あたしの目を使って。

 

「目? 何のこと?」

 

 ――さあ、行こう。

 

 突然。

 

 闇の中に、青白い炎が、いくつも燃え上がった。

 

 判る……これは、屍人だ。

 

 そして、その、屍人たちの奥に、強い光も見えた。これは屍人ではない。ここに来て――美耶子が、そう言っている気がした。

 

 恭也は猟銃を構えた。青い炎に狙いを定め、引き金を引く。炎が消えた。二発、三発と、次々と狙いを定めては、引き金を引く。炎が消えていく。弾が切れても、問題なく再装填できる。これが、美耶子の目……。

 

 屍人の炎を全て消した恭也は、奥に残った強い光に向かって走った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十一話 牧野慶 屍人ノ巣/中央交差点 第三日/七時四十二分四十四秒

 ――八尾さんが……まさか……八尾さんが……。

 

 求導師・牧野慶は、屍人の巣の中を、一人、さ迷い歩いていた。うわ言のように、求導女の名をつぶやく。脳裏を駆け巡るのは、八時間ほど前に見た彼女。牧野抜きで儀式を行い、神を迎えた比沙子は、神代家の長女・亜矢子を焼き殺した。信じられなかった。あの、慈愛に満ちた聖女のような人が、人の命をゴミのように扱ったのだ。

 

 八尾比沙子は、自分が教会に引き取られた時からずっとそばにいてくれた。求導師という重すぎる責務の中、八尾比沙子の優しさだけが唯一の救いだった。それなのに……。

 

 昨日までの八尾比沙子は、一体なんだったのか。

 

 八尾比沙子にとって、私はなんだったのか。

 

 私は、これからどうすればいい。

 

 判らない。私を常に導いてくれた(ひと)は、もういない。

 

 牧野は、ただ歩く。どこへ向かっているのかも判らないまま、歩き続けた。

 

 大きな通りが交差していた。陽はとっくに昇っているはずだが、屍人たちが村を増築し、一帯はすべて屋根で覆われているため、陽の光は届かない。赤信号が明滅し、その度に、交差点を赤く染めている。

 

 ――うん?

 

 街灯の下に誰かうずくまっている。屍人ではない。子供のようである。誰だ? 牧野は近づいてみる。子供がその気配に気付いた。屍人と思ったのか、逃げるように街灯から離れ、そばの壁の下に開いていた小さな穴の中に姿を消した。穴は小さく、牧野の身体では通れそうにない。もっとも、仮に通れたとしても、追いかける気など無かった。そのまま交差点を通り抜けようとする。

 

 まぶしい光に顔を照らされた。

 

 交差点の向こう側からだ。誰かいる。ライトの明かりをこちらに向けているのだ。牧野は手で光を遮り、指の隙間からライトの持ち主を見た。

 

「――牧野さん」ライトが下げられた。宮田司郎だった。「随分と探しましたよ。今まで、どこにいたんですか」

 

「わ……私は……」

 

 言葉に詰まる牧野。何から説明していいのか判らない。多くのことが起こりすぎて、自分でも整理がつかない。

 

 ただ、ひとつだけ言えることがあった。

 

 牧野は、宮田から視線を外した。「……私は、ただの道化だった」

 

「――え?」

 

「村に必要とされていると思っていました……でも、私なんて必要じゃなかった……求導師なんて、ただの飾りだったんです」

 

「何を言ってるんですか。今こそ、村にあなたが必要なんじゃないですか」

 

 励ますようなことを言う宮田だったが、その言葉に感情は込められていなかった。この男は、とっくに気が付いていただろう。私が、何もできない哀れな男だということに。

 

 それに。

 

 本音を言えば、村などどうでも良かった。村に必要な存在になりたかったわけではない。ただ、八尾比沙子に必要とされたかっただけだ。

 

 牧野は、自嘲気味に笑った。「私にできることなんて、何もありませんよ。私は、ただ、与えられた役割を、何も知らずに演じていただけだった」

 

 宮田は、大きく息を吐き出した後、「私は、あなたが羨ましかった」と、続けた。

 

「――え?」

 

「あなたは村の人に慕われ、頼りにされていた。村の人から避けられている私とは大違いだった。私は、あなたになりたかった。同じ双子なのに、なぜ、こんな違いができてしまったのか」

 

「逆だったら、良かったのにね」牧野は、独り言のようにつぶやいた。

 

 牧野にしてみれば、何の悪意も無く言ったことだったが。

 

 

 

 

 

 

 それが、宮田の心に黒い炎を灯していた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 ――逆だったら、良かったのにね。

 

 牧野が発した言葉を、宮田は地面に投げつけ、踏みにじりたい気分だった。よくも、そんなことが言えるものだ。

 

 牧野の顔を見る宮田。自分と同じ顔。元は双子の兄弟だ。それが、兄は教会に、弟は病院に引き取られた。どういう理由で選ばれたのかは判らない。恐らく、理由など無いだろう。たまたまそうなっただけだ。逆だったら、どうなっていただろうか? 自分が求導師なら、すべてうまく行ったのだろうか? 牧野が医者なら、すべてうまく行ったのだろうか? 判らない。うまく行ったかもしれないし、同じ結果かもしれない。どちらにしても、もう、今さらどうしようもない。

 

 交差点の赤信号が明滅し、二人の身体を赤く染める。しばらく沈黙が続いた。

 

「――そうだ。渡す物があるんでした」宮田はポケットに手を入れ、中の物を取り出した。「これを、あなたにと、頼まれていましてね」

 

 二体の人形だった。土をこねて焼き上げた土偶で、一方は剣、もう一方には盾の紋様がある。

 

 目を細め、怪訝な表情をしていた牧野だが、人形を受け取った瞬間、大きく目を見開いた。「これは……宇理炎(うりえん)ではないですか!? 宮田さん、これをどこで!?」

 

「病院の地下室に拘束された人が持っていました。その人が誰なのかは判らなかったんですが、それを使って、村を救えと言われましてね。しかし、それは私の役目じゃないから、困ってたんですよ。ようやく、牧野さんに渡すことができた」

 

「これが、病院の地下室に……? なぜ……そんなところに……」

 

 宮田は眉をひそめた。「牧野さん。私には判らないんですが、それは、何なんです? それを使って村を救うとは、どういうことですか? 何か、知ってるんですか?」

 

「宮田さん、知らないんですか? 宇理炎のことを」

 

「村の郷土資料館に保管されていた重要文化財で、二十七年前の土砂災害の前日に盗まれた物と聞いています」

 

「そうか……盗まれたのは儀式の前だから……あなたに知らされていなくても無理はない……」

 

「どういうことですか? 牧野さん。それはいったいなんなんですか?」

 

 牧野は、少し迷ったような目をした後、ゆっくりとした口調で言った。「……眞魚教の教えでは、宇理炎は、神から授かった武器とあります」

 

「神から授かった武器?」

 

「はい。不死なる者を無に返す煉獄の炎を降らせる、と」

 

「――――!?」

 

 言葉に詰まる宮田。

 

 不死なる者を無に返す――それはつまり、屍人を永久に葬ることができるということなのか。

 

 牧野は、さらに続ける。「しかし、宇理炎は、命の炎とも呼ばれています。煉獄の炎と引き換えに、自らの命をも燃やしてしまうとも」

 

「命を燃やす……」ようやく言葉を発することができた宮田。「それは、使用した者は死ぬ、ということでしょうか?」

 

「恐らく」

 

「ですが……なぜ、そんな物が、病院の地下にあったのでしょう?」

 

「宇理炎は、二十七年前の土砂災害の前日、何者かによって盗まれ、犯人の手掛かりは無しとされていますが……本当は、あの日、神迎えの儀式から逃げ出そうとした先代の神の花嫁が盗み出したのです」

 

 先代の……神の花嫁……!?

 

 二十七年前の土砂災害が起こったのは、先代の神の花嫁が逃げ出し、神迎えの儀式が失敗したからだ、というのは、宮田も聞いていた。しかし、逃亡の詳細については聞かされていない。行方不明になり、今もどこかで静かに暮らしていると思っていた。

 

 だが、花嫁が宇理炎を盗み出し、そして、それが宮田医院の地下にあったということは――。

 

 息を飲む宮田。

 

 病院の地下で、宇理炎を差し出した者の姿を思い出す。

 

 拘束され、骨と皮だけの木乃伊(ミイラ)のような姿になった者。

 

 あれが、先代の神の花嫁なのか。

 

 ならば、あの木乃伊は、屍人などではない。

 

 神代の娘は屍人にはならない。死ぬことができない。

 

 そう――あの木乃伊は、生きていたのだ。

 

 宇理炎を授けるために、ずっと、病院の地下室から呼びかけていたのだ。

 

 だが……。

 

 それが、なぜ、私なのだろう。

 

 なぜ、牧野ではないのだろう。

 

 村を救うのは私ではない、牧野だ。

 

 村を救うのは宮田医院の役目ではないではない。求導師の役目だ。

 

 私は村の暗部で、牧野は村の光だ

 

 それなのに、なぜ……。

 

 宮田は、顔を上げた。「牧野さん。ひとつだけ、訊いてもよろしいですか?」

 

「なんでしょう」

 

「昨日、病院にいた時、誰かの声を聞きませんでしたか?」

 

「誰かの声? どのような声でしょうか?」

 

「女性の声です。『助けて』とか、『村を救って』とか」

 

「い……いえ……聞いていないですが……」

 

「そう、ですか」

 

 再び目を伏せる宮田。

 

 牧野は、神の花嫁の声を聞いていない。

 

 神の花嫁は、牧野ではなく、私に助けを求めたのだ。

 

 宮田は目を閉じた。美奈の顔が浮かぶ。屍人ではない、生きていた頃の美奈。宮田が、心から愛した美奈。

 

 美奈は今、どこにいるだろう? まだあの病院にいるだろうか? それとも、私を探して村をさ迷っているのだろうか?

 

 宇理炎を牧野に渡したら、美奈の元に行くつもりだった。もう、村での私の役目は終わるはずだった。今度こそ、本当に。

 

 だが。

 

 ――すまない、美奈。どうやら私は、まだ君の所へは行けないようだ。

 

 宮田は、心の中で美奈に詫びた。

 

「――宮田さん? どうかしましたか?」牧野が、怪訝そうな声を出した。

 

 目を開ける宮田。心は、もう決まっていた。

 

 宮田は首を振った。「……いえ、何でもありません。とにかく、その宇理炎は確かにお渡ししましたよ」

 

「いや……私に渡されても、困ります」

 

 予想通りの反応をする牧野。さっきまでの宮田なら憤りを感じただろうが、今はもう、何も感じない。ただの哀れな男にしか見えない。

 

 宮田は、牧野の言葉を無視して続ける。「さて。これで、村での私の役割は終わりです。一足先に、退場させてもらいますよ」

 

「退場……? どういうことですか?」

 

 言葉の意味を計りかねている牧野を前に、宮田は、胸ポケットに手を入れ。

 

 そして、拳銃を取り出した。

 

 息を飲む牧野。

 

 宮田は、その銃口を――。

 

 自分のこめかみに、当てた。

 

「宮田さん……何を……」

 

 怯えた声の牧野。

 

「化物役だけは、御免ですからね」

 

 宮田は、最後に少しだけ笑い。

 

 

 

「――さよなら、兄さん」

 

 

 

 生まれて初めて、牧野のことを『兄』と呼んだ。

 

 そして、宮田は。

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 引き金を引いた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十二話 須田恭也 屍人ノ巣/第二層付近 第三日/九時四十八分二十一秒

 複雑に入り組んだ屍人の巣の一角で、須田恭也は通路の隅に座り込み、途方に暮れていた。これからどうしたらいいのか判らない。

 

 美耶子を探さなければいけない――それは判っている。

 

 美耶子は死んでいない、生きている。常に、その存在を感じる。だが、どこにもいない。どこをどう探せばいいのかも判らない。ひょっとしたら、生きていると感じるのは自分の思い込みで、本当は、もう死んでいるのだろうか。

 

 巣の中枢、赤い石の上で燃えていた炎が、脳裏をよぎる。

 

 やはり、あのとき燃えていたのは美耶子だったのだろうか? 神を呼び出すために、生贄に捧げられたのだろうか?

 

 俺は、どうしたらいいんだ……。

 

 誰かが近づいてくる。屍人ではない。眞魚教の黒い法服を着ていた。

 

「――また会ったな」

 

 現れた男は抑揚のない声で言った。八尾比沙子に拘束された時、一緒にいた男だ。確か、眞魚教の求導師だったはずだ。あの時は呆然自失で立つことすらままならない状態だったが、今は、しっかりした足取りだ。

 

 恭也は男を睨んだ。眞魚教の求導師ということは、美耶子を神の生贄に捧げようとしたヤツらの指導者ということになる。大学講師の竹内は、求導師はただのお飾りで、全ての原因は求導女の八尾比沙子にある、と言っていた。恐らくそれは正しいのだろうが、それでも、この男を許す気にはなれない。

 

 恭也の敵意に気付いたのか、求導師は小さく笑った。「そう睨むな。いい物をやろうと思って来たんだ」

 

「いい物?」

 

 求導師は小さな人形を投げてよこした。土をこねて焼き上げた人形で、身体に盾の紋様がある。随分と古い物のようだ。似たような物を、歴史の教科書で見たことがある。土偶というヤツだろう。

 

「不死なる者を無に返すことができる神の武器だそうだ。宇理炎(うりえん)と呼ばれている」求導師が静かに言った。

 

 恭也は顔を上げた。「不死なる者を、無に返す?」

 

「ああ。その代わり、大きな副作用もあるらしいが……まあ、今の君には関係ない。気にせず使え」

 

 もう一度人形を見る恭也。どう見てもただの古い土人形で、武器には見えない。

 

「全部消し去れよ。神代美耶子と、そう約束したんだろう?」

 

 求導師の言葉に、恭也は再び顔を上げた。なぜ、そのことを知っているのだろう? 確かに、美耶子からそう言われたが、あれは、夢ではなかったのか?

 

 求導師は、「じゃあな」と言って背を向けた。

 

「どこへ行くんですか?」問いかける恭也。

 

 求導師は振り返り、恭也の目を真っ直ぐに見た。「この村を救うために、私は、私のやるべきことをやる。それだけだ」

 

 求導師は、力強い足取りで去って行った。

 

 あの男は敵であるはずなのに、敵の気がしない。恭也を見る目に、「村を救う」、という、強い意志を感じた。さっきまでとはまるで別人だ。いったい、何があったのだろう?

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十三話 牧野慶 大字粗戸/耶辺集落 第三日/十二時二十一分〇八秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 牧野慶は屍人の巣を離れ、上粗戸から下粗戸へと向かう山道にいた。夜明け頃から雨は小降りになっていた。代わりに、という訳でもないだろうが、周辺には濃い霧が立ち込めている。数十メートル離れた場所も霞んで見えないほどの濃霧だ。羽生蛇村は山間部に位置しているので霧が発生するのは珍しいことではないが、ここまでの霧は牧野も初めてだった。南に出現したという赤い海の影響もあるのかもしれない。

 

 緩やかな下り坂の先は霧に飲み込まれて見えないが、強い風が吹き渡り、一瞬、霧の切れ間に寂れた集落が見えた。下粗戸は近年の区画整理により道路が通るだけの寂しい地域となっている。集落があるということは、ここも、二十七年前の村――下粗戸ではなく、大字波羅宿ということだろう。牧野の読み通りだった。

 

 霧は再び集落を覆い隠した。牧野は、坂の上から霧の中の集落を見つめる。

 

 ――私が求導師(わたし)としてやるべきこと。

 

 強い決意を胸に、牧野は坂を下った。

 

 牧野が波羅宿に来たのには理由がある。屍人と戦う決意をした牧野だったが、そのための武器は、たまたま拾った拳銃と、弾が十発ほど。あとは、武器とは呼び難いネイルハンマーやラチェットスパナだけだった。これでは、あまりにも心許無い。神から授かった武器もあるにはあるが、これはまだ使えない。まずは、武器の調達が必要だった。

 

 この大字波羅宿には、旧日本軍が隠した武器が大量に眠っている、との噂がある。第二次世界大戦のさなか、当時の宮田医院が日本軍の指定病院に認定されたため、村には日本軍の兵士が多く出入りしていたのだ。今でも村には防空壕などの施設が残っており、戦時中の村を知る老人の中には、軍人が武器を持ち込んでいるのを実際に見た、と言う者もいる。真偽のほどは定かでない。と、言うよりは、都市伝説的な他愛のない噂話であるという見方の方が強い。

 

 だが牧野は、この話が真実では無いかと思っている

 

 この異界に来てから常々疑問に思っていた。村に、あまりにも多くの銃器が溢れている、と。

 

 村のどこに行っても猟銃や拳銃を持った屍人がいる。かつては山での猟が盛んだった村だから猟銃があるのは判るが、それにしても数が多すぎるし、拳銃が多く存在することの説明はつかない。

 

 また、旧日本軍がこんなへんぴな田舎村を指定病院に選んだことも疑問だった。村は都市部から遠く離れており、鉄道すら通っていない。今でこそそれなりに大きな国道が整備され、車による行き来が可能だが、当時はけもの道同然の細い山道があるだけの、かなり閉鎖的な村だったはずだ。

 

 だが牧野には、旧日本軍がこの村を選んだ理由にも心当たりがあった。

 

 屍人の軍事利用である。

 

 理由は定かではないが、屍人は時折、現世にも現れる。大抵は宮田医院の者に捕まって密かに監禁・処分されるのだが、その話をどこからか仕入れた旧日本軍――あるいは、村を発展させるために神代家の方から売り込んだか――は、屍人の力を軍事兵器へ転用することを考えたのだ。単なる推測でしかないが根拠もある。戦前、宮田医院は病床数十五の小さな病院でしかなかったが、軍の指定病院に認定された昭和十六年を境に、病床数六十六の大病院へと生まれ変わった。多額の資金援助がないと不可能な数であり、ただ指定病院に認定されたというだけでは説明がつかないのだ。

 

 屍人を研究すれば、不死の兵士で構成された部隊を作ることができる――軍の上層部が考えそうなことだ。

 

 もちろん、不死の兵士が完成したという事実は、(おおやけ)には無い。極秘裏に進められた作戦だったというのもあるだろうが、恐らく、計画がとん挫したのだ。当然だ。不死の兵士というと一見恐ろしげな印象を受けるが、世界規模の戦争で百人や千人程度が不死になったところで、いったいどれほどの戦果が上がるというのか。何十万規模の部隊を作り上げることができるならば話は別だが、それには莫大な労力と時間と金がかかる。旧日本軍がそのような効率の悪い兵器の研究に没頭している間に、アメリカはたった一発で都市を壊滅させる爆弾を作り上げた。

 

 屍人を軍事利用する計画は闇に葬られたのだろうが、旧日本軍が出入りしていたならば、武器が密かに運び込まれていても、何ら不思議はない。

 

 この波羅宿地区は、防空壕施設が多く点在している地域だ。武器が隠されているならば、ここしかない。

 

 集落に下りた牧野は、幻視で様子を探った。猟銃・拳銃を持った屍人が多数徘徊していた。犬屍人や羽根屍人、農具で武装した人型の屍人も多い。大字波羅宿は蛭ノ塚と同じく村の南部に位置しており、赤い海に最も近い地域のひとつだ。海送り・海還りをするため、必然的に屍人が多くなるのだろう。こちらにも銃があるとはいえ、弾数は少ない。なるべく戦闘は避けたいところだ。まずは、頭脳屍人を見つけよう。そいつを倒せば、犬屍人と羽根屍人の動きは停止し、探索が楽になるはずだ。幻視を続ける牧野。集落の中央付近にある櫓の上に、それらしき姿を見つけた。武装はしていないが、護衛なのか、猟銃を持った羽根屍人が周囲を飛んでいた。一体だけなら何とでもなるだろう。牧野は銃を構え、慎重に櫓へ向かった。

 

 櫓が近づくにつれ、羽根屍人の羽ばたく音が聞こえて来る。牧野は櫓近くの家屋の陰に身を隠し、様子を窺った。櫓の上の頭脳屍人は周囲を見回すように警戒しており、その周りを、羽根屍人が円を描くように飛んでいる。牧野が隠れている民家の付近も時折見ているが、まだ気付かれてはいない。奴らが背を向けた瞬間に出て行って、櫓の下から頭脳屍人だけを撃つのが良さそうだ。幻視を続けながらタイミングを計る牧野。羽根屍人が家屋から離れ、頭脳屍人が背を向けた。今だ。牧野は家屋の陰から飛び出し、銃を構えた。

 

 ――くそっ。

 

 心の中で悪態をつく牧野。拳銃でも十分狙える距離だったが、思った以上に霧が濃く、狙いが定まらない。射撃の腕には自信があるが、これでは外す可能性もある。もっと近づくしかない。だが、ビクン、と身体が震え、羽根屍人が猟銃を構える視点が見えた。見つかったか。牧野はいったん頭脳屍人を撃つのを諦め、走った。銃声が鳴り、牧野のそばの地面が弾けた。相手の銃の腕前は判らないが、空を飛びながらでは、走っている者に狙いを定めるのは簡単ではないはずだ。すぐに弾切れになるだろうから、そこを狙うつもりだった。しかし、二発目の銃弾が、牧野の右腿をかすめた。膝をついて倒れる牧野。油断した。相手は、かなりの銃の腕前らしい。見上げると、銃口が完全に牧野を捕えていた。これまでか……。

 

 だが。

 

 羽根屍人は引き金を引かず、銃口を上げた。撃つのをためらっているのか? 理由は判らないが、この瞬間を見逃す牧野ではない。牧野は拳銃を羽根屍人に向け、連続で引き金を引いた。距離があり、霧も濃く、拳銃では狙いも定めにくいが、六発の内二発が命中した。羽根屍人は地面に落ちた。

 

 だが、倒すべきは羽根屍人ではない。頭脳屍人を見る。櫓の梯子を下り、逃げようとしている。見失うと厄介だ。しかし、銃弾は撃ち尽くしてしまった。リロードしている暇はない。牧野は腿の傷もいとわず走り、銃をネイルハンマーに持ち替え、下りてきた頭脳屍人に殴りつけた。二発、三発と頭を殴り、頭脳屍人は動かなくなった。

 

 大きく息を吐き出す牧野。周辺の屍人を幻視する。犬屍人と羽根屍人は停止していた。人型の屍人はまだ動いているが、数体だから大した脅威ではないだろう。これで、探索はかなり楽になる。

 

 それにしても。

 

 羽根屍人を見る。ヤツは、なぜ撃つのをためらったのだろう。情けをかけたのだろうか? 屍人が人に対してそんな感情を抱くだろうか?

 

 ――うん?

 

 羽根屍人が顔を上げ、こちらを見た。まだ動けるようだ。頭脳屍人の影響を受けていないのかもしれない。狙撃されると厄介だ。牧野はとどめを刺そうと、ネイルハンマーを握りしめ、近づいた。

 

 ――――。

 

 静かにハンマーを下ろす牧野。この屍人がなぜ私を撃つのをためらったのか、判った。

 

 その顔には見覚えがあった。屍人化が進み、顔の下半分は昆虫の顎のように変異しているが、間違いない。合石岳に一人で住む老人・志村晃だ。

 

 志村は、牧野の顔を見つめると。

 

「うああをたのうむおがういけをぞぞぞ」

 

 顎を動かし、声を発した。すでに人語を喋ることはできないようだが、「村を頼むぞ」と、言われた気がした。志村は他の村人とほとんど接することはなく、特に眞魚教の人間を嫌っていた。それなのに、求導師である私に村を任せた。心の奥では、誰よりもこの村を愛していたのかもしれない。

 

 牧野は力強く頷いた。

 

 それを見た志村は、目を閉じ、動かなくなった。牧野の思いが通じたのかは判らない。ただ、その表情は、どこか満足気であった。

 

 櫓を離れ、集落の中央にある広場へ向かう牧野。先ほど幻視をした際、気になる視点をひとつ見つけた。岩に囲まれた洞窟のような場所に、屍人がいるのだ。防空壕、もしくは地下にいるのかもしれない。それが、この広場の辺りなのだ。

 

 だが、広場には井戸しかなく、あとは、近くに廃屋同然の民家が建っているだけだ。井戸に近づく牧野。この中にいるのだろうか。石を拾って投げ入れてみる。かつん、という、乾いた音が返ってきた。水は無いようだ。下りてみるか。井戸には桶を上げ下げするための滑車台がある。桶にはロープが付いてあるが、牧野の体重を支えるには少々問題がありそうな強度だった。もっとしっかりとしたロープがいる。牧野は周辺を探してみることにした。

 

 広場の近くにあった廃屋に使えそうなものは無かったため、牧野は広場を出て、眞魚川沿いに建つ民家へ向かった。かなり古いが、先ほどの廃屋ほど荒れている様子は無い。玄関には表札があり、わずかに『吉村』と読めた。

 

 ――――。

 

 牧野は玄関を開け、中に入った。家の中を探る。すぐにロープを見つけた。強度も長さも十分な物だったが、牧野はさらに部屋を探った。そして、寝室のタンスの引出しに、古ぼけた一枚の写真を見つけた。二人の赤ちゃんが写っている。額には、墨でマナ字架が描かれていた。これは、生まれたばかりの赤ん坊に行う村の古い風習で、魔よけを意味している。裏を見ると、昭和51年6月30日とあった。牧野、そして、宮田の誕生日である。

 

 この家の表札には『吉村』とあった。牧野と宮田が教会と病院に引き取られる前の名字だ。二人の家は、二十七年前の土砂災害で消えた大字波羅宿にあったことも聞いている。

 

 間違いないだろう。ここは、牧野と宮田の家なのだ。

 

 牧野は、しばらく写真を見つめていたが。

 

 元にあった場所に戻し、静かに引出しを閉めた。

 

 特に何かの感情が湧くことはなかった。牧野たちが生まれたすぐ後に土砂災害があったため、この家や集落に関する記憶は何も無い。牧野は家を出ると、広場に戻った。

 

 ロープを滑車台の柱にしっかりと結び付けると、井戸の中へ入った。

 

 下まで降りると、やはり水は無く、暗い横穴が西の方向へ続いていた。どうやらアタリだったようだ。ライトで照らし、奥へと進む。すぐに、上へと続く梯子があった。この上に屍人がいる。なぜこんな所にいるのかは判らない。さらに謎なのは、屍人は猟銃を持っており、ノイズしか流れない壊れたラジオを楽しそうに聞いていることである。まあ、屍人のやることなど気にしても仕方ないだろう。牧野は静かに梯子を上ると、ラジオに夢中になっている屍人の背後に忍び寄り、ハンマーで殴って倒した。

 

 そこには、埃をかぶった古い木箱があった。もう、間違いないだろう。旧日本軍の武器だ。牧野は木箱を開けた。

 

 中には、十センチほどの長さの金属製の筒が無数に入っていた。上部には信管が取り付けられてある。手榴弾のようだ。それ以外の物は、何も無かった。

 

 牧野は落胆を隠せなかった。これは、九九式手榴弾だ。旧日本軍の武器には違いないが、自動小銃や機関銃、あわよくばカノン砲などの重火器が欲しかった。もちろん、手榴弾は破壊力がある。屍人の集団や物陰に隠れている相手に対してはかなり効果的だが、そのような場面は数えるほどしかないだろう。また、空を飛ぶ屍人や狙撃手相手にはどこまで役に立つか判らない。はずれだったか。別の場所を探してみるか――そう思ったが。

 

 ――いや、待てよ。

 

 考える牧野。使い方によっては、屍人どもに大きなダメージを与えられるかもしれない。

 

 牧野は、持てるだけの手榴弾を持ち、その場を離れた。

 

 ロープを伝い、井戸から広場に戻ると。

 

「――あれ? お医者さんの方の先生じゃないですか?」

 

 何とも場違いな明るい調子で声を掛けられた。井戸のそばに、眼鏡をかけた女が立っている。「その節は、お世話になりました」と言って、ぺこりと頭を下げた。見覚えがある女だった。東京から来た大学生で、確か、安野依子という名だったか。

 

 安野は頭を上げた。「変なところで会いますね、先生。井戸の中なんかで、何してたんですか? 貞子(サダコ)的なヤツですか?」

 

 井戸を覗き込む安野。どうやら、牧野のことを宮田司郎と勘違いしているようである。顔は同じだが、求導師の服を着ているのだから間違うこともないだろうが。まあ、この女は余所者だから、牧野と宮田が双子であることを知らなくても無理はない。女が宮田にしか会っていないなら、服装が違っても宮田だと思うのは当然だ。

 

「失礼。私は、宮田ではないんだ」牧野は冷静に言った。

 

 安野は、きょとんとした顔になった。「――と、言いますと?」

 

「この格好を見たまえ。白衣ではなく、眞魚教の服を着ているだろう」

 

「そうですね」

 

「私は眞魚教の求導師・牧野慶だ。宮田とは双子の兄弟だから、村の者ではない君が間違うのも無理はないが」

 

 安野は、ぱちぱちと瞬きをした。「えーっと、よく判りませんが、判りました。先生がそう言うのなら、そういう設定にしておきます」

 

「設定というのが引っかかるが、まあよかろう」

 

「で、先生。井戸の中で何してたんです? お皿を数える趣味でもあるんですか?」

 

「求導師だ。何をしようと、私の勝手だ」

 

「まあ、世の中にはいろんな人がいますから、先生の趣味に口出しするつもりはないです。ちなみにこの中、猟銃屍人さんと壊れたラジオの他に、何かありました?」

 

 牧野は大きくため息をついた。やっかいな相手と関わってしまった。こんなことをしている場合ではない。サイレンの音が止んでいる。ここに来て、もう一時間以上経ったようだ。急がなければ。

 

「すまないが失礼するよ。時間が無いのでね」

 

「そうですか。判りました」

 

 牧野は安野に背を向け、広場から去ろうとしたが。

 

「そう言えば先生。ここって、小学校の放送が聞こえて来るんですよね」

 

 後から、安野が付いてくる。「二日前の夜中に、『先生助けてー!』って、放送が聞こえたんです。それで、あたし、助けに行ったんです。でも、誰もいなくて、そのまま帰っちゃいましたけど。あの時の子、大丈夫かな?」

 

「……君」

 

「……はい」

 

「なぜ、ついて来るのかね?」

 

「いけませんか?」

 

「別にいけなくはないが、私は急いでいるんだ」

 

「そうですか。判りました。どうぞどうぞ。あたしに構わず、行ってください」

 

 牧野は安野に背を向け、また歩き出したが。

 

「ところで先生。その小学校の図書室に、オバケが出るって話があるの、知ってます? あたし、この前ネットのオカルトサイトで見たんですけど、放課後、図書の先生が本の整理をしていたら、目の前に古い本が落ちてきて、上を見たら、天井に、子供の服を着た四つん這いの老婆が張りついてて、関節をバキバキ折りながら消えった、って、話なんですけど」

 

「君」

 

「はい」

 

「君は、よく人から、『空気を読め』とか言われないかね?」

 

「いえ、言われたことはないです。あたしほど空気が読める人もいませんから」

 

「そうか。君の周りの人は、よほど大らかなんだろうな」

 

「そういうワケではないと思います」

 

「まあいい。とにかく、私は急いでるんだ。ムダ話に付き合っているヒマはない」

 

「判ってます。あたしも、ムダ話をしているつもりはありません。ただ、怖い話をしているだけです」

 

「それをムダ話というんだ。ついてくるのは勝手だが、静かにしていてくれないか」

 

「あたしは、ずっと静かにしてると思いますけど、判りました」

 

 牧野は安野に背を向け、また歩き出したが。

 

「それで、その、関節バキバキの幼児服老婆なんですけど、昔、山で神隠しに遭った子供じゃないか、ってウワサなんです。なんでも、その老婆が持ってきた本が、神隠しに遭った女の子が借りてた本だったからって。ウケますよね? 神隠しに遭ったのに、図書室の本を返しに来たんですよ? どんだけ責任感強いのかって話ですよね」

 

「君」

 

「はい」

 

「私は急いでいる。怖い話を聞いているヒマも無いんだ」

 

「今のは怖い話じゃなくて、ウケる話です。その関節バキバキ幼児服老婆、いまも特別な病院で生きてるそうですよ? 何ですかね、特別な病院って? ウケませんか?」

 

「怖い話でもウケる話でも、どっちでもいい。とにかく私は、ムダ話に付き合っているヒマは無い」

 

「あたしも、ムダ話をしているつもりはありません。ワリと重要な話です」

 

「そうか。悪かった。だが、君にとって重要な話でも、今の私にとってはムダ話なんだ」

 

「主観の相違ってやつですね」

 

「判っているなら、少し黙っててくれないか」

 

「あたしは、ずっと静かにしています。あ、この会話、なんか前にしたことあるような? デジャ・ヴュってヤツですかね?」

 

 牧野は、ネイルハンマーで殴りつけたい気持ちを抑えるに必死だった。

 

 そんな牧野の気持ちなどお構いなしに、安野は続ける。「それで先生、あたし、この話について、訊きたいことがあったんです」

 

「そんな子供じみた怪談話のことなど、私は知らん。別の者に訊け」

 

 牧野は安野に背を向け、また歩き出したが。

 

「そんなこと言わずに、お願いしますよ、先生」やはり、安野はついてくる。

 

 面倒なヤツだ。本当にネイルハンマーで殴ってやろうか。それも、クギを抜く方で。いや、求導師として、そのような行為は慎むべきだろう。ここは、無視するよりも適当に答えた方が早いかもしれない。

 

「何について訊きたいんだ? 手短に頼むぞ」牧野が振り返って訊くと。

 

「――病院の地下室と、吉川菜美子ちゃんについてです」

 

 急に、安野の表情が変わった。

 

 全てを見透かすような、あるいは、挑発するかのような視線を、まっすぐに牧野に向けている。

 

 牧野も、表情が変わる。

 

 牧野は安野を睨み返した。視線がぶつかる。多くの修羅場を潜り抜けてきた牧野だ。女子供はもちろん、街のチンピラ程度ならひと睨みで追い払うことも可能だが、安野は動揺した様子もない。大した度胸だ。考えてみたら、銃器を所持した屍人が多く徘徊するこの危険な集落に、女の身一人で潜入するなど、簡単にできることではない。おそらく、偶然ここで会った訳ではないだろう。私を、私として追って来たのだ。

 

 牧野は、頬を緩めた。

 

「――先生?」安野も表情を崩し、顔を傾ける。

 

「君はなかなか見どころがあるな。とても、ただの大学生とは思えん。卒業後は宮田医院へ就職してみてはどうかね? 私が推薦しておこう」

 

「この就職難の時代にありがたい申し出ですが、お断りします。大学院に進んで、研究したいことがありますので」

 

「そうか。それは残念だな」

 

「質問、答えてくれますか?」

 

 牧野は、降参と言わんばかりに両手を挙げた。「判った。私の知っている範囲でよければ、なんでも答えよう」

 

「ありがとうございます」ぺこりと頭を下げる安野。

 

「だが、急いでいるのは本当なんだ。陽が暮れる前に、合石岳まで行かねばならん。歩きながらでも構わないかね?」

 

「もちろんです。さ、行きましょう」

 

 牧野は、安野と共に広場を後にした。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十四話 須田恭也 屍人ノ巣/第二層付近 第三日/十八時〇八分五十九秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 再び屍人の巣の内部に潜入してから十五時間以上経ったが、須田恭也はまだ神代美耶子を見つけられないでいた。本当に美耶子は生きているのだろうか? 相変わらず、存在は感じる。時折声らしきものも聞こえる。だが、それも、ただの思い違いのような気がしてならない。もう、美耶子が生きているという確証は持てない。

 

 人が二人すれ違うのもやっとというような細い通路を歩く。いや、通路というよりは、山のように積みあがったゴミの隙間といった感じだ。粗戸地域の巣は、壁や足場などしっかりしており、頑丈で崩れたりすることはなかったが、この辺りはかなりいいかげんな作りになっている。いつ崩れてもおかしくはないように見えた。入り組んだ迷路のような構造になっている点は変わりない。今いる場所も、何処か判らない。初めて来た場所のようにも思えるし、つい一時間ほど前に通ったような気もするし、昨日の夜に通ったような気もする。

 

 通路の奥に人の気配を感じた。暗闇で見えないが、屍人ではない。屍人なら、問答無用で襲ってくるだろう。だが、生きた人間でもないように思えた。近づいてくる。舞台の幕が上がるかのように、足元から、ゆっくりと姿があらわになっていく。膝が見え、腰が見え、身体が見えた。赤い修道服を着ていた。女性のようだ。最後に、顔がはっきりと見えた。

 

「……恭也君? どうして、ここにいるの?」

 

 求導女の八尾比沙子は優しく微笑んだ。いや、一見優しく見えるが、その笑顔は、出会った時のような美しさ、愛の深さは感じられない。闇の奥から這い出た魔性の者が浮かべる笑みだ。

 

「あそこから抜け出したのね。ダメよ、勝手に出ちゃ」まるで子供に言い聞かせるような言葉。

 

 大学講師の竹内の話によれば、この村の怪異は、すべてこの女から始まったらしい。信じがたいことだが、比沙子は、何十年、何百年もの昔から生きていて、村が呪われる全ての原因を作ったそうだ。その原因というのが何なのかは判らない。恭也にとってはどうでもいいことだった。重要なのは、この女が原因で、美耶子が神の生贄に捧げられることになったことだ。村の呪われた儀式は、この女が原因で生まれたのだ。憎しみが湧きあがる。

 

 比沙子は恭也の憎しみを感じたのか、小さく笑った。「そんな怖い顔しても、ダメよ。さあ、戻りましょう」

 

 手を差し出し、恭也へ近づいて来る。

 

 恭也の右手には猟銃がある。すぐに撃つことができるが、それでもなお、比沙子は笑っている。そんなもので何ができる――胸の内で嘲笑されているのが判った。恭也自身も、こんな銃では何もできないことを、本能的に感じ取っていた。

 

 比沙子が近づいて来る。その手に囚われると、もう二度と、自由にはなれない。そんな気がする。

 

 だが。

 

「……何を持っているの?」

 

 比沙子の足が止まった。

 

 その視線は、猟銃を持つ右手ではなく、左手に注がれていた。

 

 それは、求導師から貰った土人形だった。神から授かったという、武器。

 

 比沙子の表情が変わった。冷たい笑みが消え、怒りと、そして、わずかな怯えが入り混じったような顔になる。

 

「それを渡しなさい、早く!」

 

 声を荒らげる。感情が乱れていた。初めて見る姿だった。

 

 恭也は人形を隠すように身を引いた。なんだか判らないが、比沙子に対して優位に立てる物のようだ。

 

「大人しく渡しなさい。さもないと――」

 

 右手を掲げる比沙子。その掌から炎が噴き出した。美耶子の身体を焼いた炎だろうか。まるで魔術師のように、自在に炎を操る。

 

 だが、恭也の方に近づこうとはしない。炎で攻撃してくる様子もない。比沙子は、明らかに警戒していた。怯えているようにも見える。この人形は、それほどまでに恐ろしい武器なのか。

 

 求導師はこの人形を、「不死なる者を無に返すことができる武器」と言っていた。使ってみるか……いや、代わりに大きな副作用もあると言っていた。安易に使うのは危険かもしれない。それに、そもそもどうやって使うのかが判らない。

 

 睨み合う恭也と比沙子。どちらも手が出せない。こう着した状態が続く。

 

 

 

 ――と。

 

 

 

 カタカタと、床が揺れていることに、恭也は気付いた。

 

 最初は小さな揺れだったが、徐々に大きくなってくる。立っていられない。地震か?

 

 次の瞬間。

 

 ゴミを積み上げた壁を突き破り、大量の赤い水が流れ込んできた。

 

 ――津波か!?

 

 そう思った時には、赤い水は、恭也と、比沙子と、そして、屍人の巣を飲み込み、さらに勢いを増して、全てを流し去った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十五話 牧野慶 合石岳/羽生蛇鉱山 第三日/十六時〇〇分五十八秒

 牧野慶は合石岳の三隅鉱山に来ていた。この鉱山も、二十七年前の土砂災害で消えた地域のひとつだ。屍人が多数いるようだが、それは、さほど脅威ではない。問題なのは、ここが、牧野が初めて訪れた地域だということだ。道が判らない。方角的には、このまま西へ進めば蛇ノ首谷があるはずだ。迷うわけにはいかない。空を見上げた。雨は相変わらず小降りだ。波羅宿地区を覆っていた濃い霧も、ここには無い。薄い雲の向こうにぼんやりと見える太陽は、かなり傾いている。もうすぐ陽が暮れる。間に合うか……。

 

 足を速める牧野。小さな広場に古い倉庫があり、右に曲がるとのぼりの階段があった。倉庫の周囲を蜘蛛屍人がうろついているが、身を隠してやり過ごすような余裕はない。牧野はネイルハンマーを振りかざして容赦なく屍人を倒すと、階段を上がった。

 

 階段を上がった先は東西に道が延び、地面にはトロッコのものと思われるレールが敷かれていた。西の道はすぐに行き止まりになっている。一度東に戻らなければいけないようだ。犬屍人らしき気配も複数ある。くそ、時間がないというのに。牧野はネイルハンマーから拳銃に持ち替え、走った。弾は六発で、予備はもう無い。それでも牧野は、ためらうことなく犬屍人に銃弾を撃ちこんだ。三体の犬屍人を全て一発で仕留め、走る。二階建てのビルの前にやって来た。ビルのそばには、西へ続くトンネルがあった。西の蛇ノ首谷には選鉱所があるから、そこへ鉱石を送るためのトンネルだろう。牧野はトンネルへ入ろうとしたが。

 

 ビルの中から、女の笑い声が聞こえた。

 

 聞き覚えのある声だった。まさか、こんなところまで追って来るとは。

 

「……先生……お姉ちゃんの所へ……」

 

 誘うような声も聞こえる。姉と言っているから、妹の理沙だろう。本当にしつこい女だ。構っている時間が惜しいが、放っておいて後で邪魔をされるのも困る。どうにかして、ここで足止めをしておかなければ。牧野は、拳銃をハンマーに持ち替え、そして、宮田医院の霊安室から持ってきた木の杭を取り出した。

 

 ビルの中から、ナース服姿の屍人が出てきた。頭脳屍人ではない。人型の屍人。理沙だ。 

 

「……許せない……先生……」

 

 理沙が、右手に持つつるはしを振り上げた。それよりも早く、牧野はハンマーを振るう。仰向けに倒れたところに、馬乗りになる牧野。木の杭を理沙の胸に押し当て、ハンマーを振り上げた。振り下ろすと同時に理沙の血が飛び散り、牧野の顔に赤い斑点を作る。同時に、金属を切るような悲鳴が響き渡った。牧野は何度もハンマーを振るい、理沙の胸に杭を打ち込んだ。杭は理沙の身体を貫通し、土の地面にまで突き刺さった。

 

 立ち上がる牧野。地面に張り付けにされ、もがく理沙を、冷たく見下ろす。これで、しばらく自力で動くことはできないだろう。その間に。

 

 牧野は、ビルの中を見た。

 

「先生……こっちに来て……」

 

 別の声が聞こえる。美奈だ。

 

 牧野は、ハンマーを拳銃に持ち替え、慎重に、ビルに足を踏み入れた。薄暗い通路の向こうに屍人の気配がする。触手の生えた醜い顔になっていても、すぐに判る。宮田司郎が心から愛した、美奈。

 

 美奈は牧野の姿を見ると、シャベルを振り上げて襲ってきた。

 

 いや、それはどこか、待ちわびた恋人がようやく現れ、喜んで迎えようとしている姿にも見える。

 

 牧野は銃口を向け、引き金を引いた。一発、二発と、胸に命中するが、美奈は倒れない。銃弾の衝撃に怯むことさえない。まっすぐに、向かって来る。それほどまでの、愛。

 

 牧野は最後の銃弾を撃つ。

 

 銃弾は、美奈の額を弾いた。

 

 美奈は、ゆっくりと倒れた。

 

 牧野は銃を投げ捨てた。

 

 そして、波羅宿の井戸の中で見つけた手榴弾をひとつ、取り出す。

 

 ビルは古い。ここで手榴弾を爆発させれば、簡単に倒壊するだろう。美奈は生き埋めになる。それで、かなりの時間を稼げるはずだ。

 

 牧野は、手榴弾のピンに指を掛けた。

 

 ――――。

 

 だが、その手が止まる。

 

 美奈が、触手のうねる頭を上げ、こちらを見ていた。

 

 泣いている。

 

 血の涙ではない。目は触手に埋もれており、美奈は涙を流すことができない。

 

 それでも牧野には、美奈が泣いているように見えた。

 

 牧野は、ピンを抜くのをやめた。

 

 そして、美奈のそばにしゃがみ、そっと、抱き寄せた。

 

 ――すまない、美奈。私はまだ、君の元へは行けないんだ。

 

 美奈に、語りかける。

 

 求導師の牧野慶としてではなく。

 

 美奈を愛した、宮田司郎として。

 

 その胸の内を、語る。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 美奈――私には、この村でやらなければいけないことができた。

 

 私はもう、宮田司郎ではない。

 

 村での役割を終え、誰からも必要とされなくなった、哀れな医者ではないのだ。

 

 あの日――神迎えの儀式が行われる前日。

 

 役割を終え、村から去ろうとした私と、一緒に居てくれると言った美奈。

 

 君だけを先に行かせてしまったことは、本当に申し訳ないと思っている。

 

 だが、もう少し待っていてくれ。

 

 私も、すぐに行く。

 

 必ず、君の元へ行く。

 

 君を救う方法も見つけた。

 

 だが、今はまだ、それを使うことはできない。

 

 私が成すべきことが終わったら。

 

 必ず、君の所へ向かう。

 

 約束する。

 

 だから、もう少しだけ、待っていてほしい。

 

 

 

 美奈。

 

 

 

 愛している――。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 牧野は、ビルの外へ出た。

 

 足元には、胸に杭を打ち込まれた理沙がいる。

 

 牧野は杭を持つと、力を込め、一気に引き抜いた。

 

 拘束から解かれた理沙だが、牧野を襲おうとはしなかった。何かを訴えかけるような目を向けた後、姉の所へ向かった。

 

 牧野は、西のトンネルを抜けた。

 

 蛇ノ首谷の林道を、北へ向かって進む。

 

 やがて、樹々の合間に、大きな白の建造物が見えてきた。

 

 眞魚川の上流で水を蓄え、村人に生活水を供給し、村を水害から護ってきたダム、眞魚川水門だ。

 

 牧野は、手榴弾を握りしめた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十六話 竹内多聞 屍人ノ巣/第一層付近 第三日/十八時〇九分〇六秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 屍人の巣の浅い場所で、竹内多聞は通路にうずくまり、苦しんでいた。サイレンが鳴り響いている。南の海へ行かなければならない、赤い海に身を沈めなければならない――サイレンの誘惑は、もはや耐えがたいものとなっていた。あと少し、あの水が体内に入れば、私は屍人と化すだろう。私にはもう、よみがえった神と、八尾比沙子を止めることはできないかもしれない。巣の中枢へ向かった須田恭也に託すしかない。

 

 ――私が人としての意思を保っている間に、どうか。

 

 苦しみに耐えながら、祈る竹内。

 

「あ! いた!! 先生! 大変です!!」

 

 なじみのある声がした。教え子の安野だろう。私と同じくらい赤い水を浴びているはずなのに、なぜあんなに元気なのだろうか。竹内は苦笑いし、顔を上げた。

 

「――――!!」

 

 息を飲む竹内。

 

 細い通路の向こうから、手を振りながら、安野が走って来る。

 

 左手に、金属バットを持っていた。

 

 その手は、血の通っていない、くすんだ灰色で。

 

 顔も、同じ色をしていた。

 

 血の涙は流していない。だが、それも時間の問題だろう。

 

 ああ、なんということだ――。

 

 安野が……屍人となってしまった……。

 

 悔やむ竹内。

 

 村に安野を連れて来るべきではなった。大学では変人扱いされている私を何故か慕い、今回の調査に無理矢理同行してきた。だが、殴ってでも、置いて来るべきだった。私のせいで、可愛い教え子を――いや、うるさいだけでなんの可愛げも無いが――こんなことに巻き込んでしまった。うるさいヤツだったが、優秀な教え子だった。めんどくさいヤツだったが、頼りになる助手だった。許せ、安野。今はせめて、私の手で葬ってやろう。鉄パイプを握りしめて立ち上がる竹内。ああ、これで、ようやく静かな日常が戻って来る。研究にも集中できる。なぽりんグッズの収集もコソコソしないですむ。なんとバラ色の日々だろう。

 

 安野が立ち止まった。キョロキョロと、周囲を窺っている。やがてバットを振り上げ、地面に叩きつけた。その衝撃で床が抜け、安野は下の階層へ落ちて行った。

 

 ……何をやっとるんだアイツは。屍人と化しても、ワケが判らんことをするヤツだ。

 

 ――と。

 

 安野が消えた通路の奥から、何か向かって来る。宙を飛んでいる。羽根屍人ではない。人よりも数倍大きい身体。その身体は半透明で、内部が透けて見える。飛んではいるが、背中に羽は生えていない。まるで空中を泳ぐように飛ぶ、異形の者。

 

『神』だ。

 

 神は竹内の頭上で静止すると、品定めでもするかのように、じっくりと竹内を見る。

 

 後退りする竹内。神を倒すことが竹内の目的だが、鉄パイプごときで何ができるだろう。だが、やるしかないのか。

 

 何かが壊れるような音がした。最初は遠くで聞こえていたその音は、どんどん近づいて来る。同時に、地面が揺れる。小さかった揺れがどんどん大きくなり、地響きとともに、巣の全体が揺さぶられ、立っていられないほどのものになる。なんだ? 何が起こっている!?

 

 次の瞬間。

 

 巣の壁を突き破り、大量の赤い水が流れ込んできた。

 

 竹内と、そして、神の身体をも飲み込む。

 

 赤い水は巣を丸ごと破壊するほどの大きな流れとなり、海へと向かって行く。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 神は、赤い水の流れから脱出した。

 

 その瞬間、天から降り注ぐ光が、神の身体を焼く。

 

 神は、炎に包まれ、悲鳴を上げた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十七話 安野依子 屍人ノ巣/第一層付近 第三日/十八時〇八分五十七秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 安野依子は焦っていた。もうすぐ、ここら辺一帯は大変なことになる。合石岳に向かった求導師先生が、ダムを破壊しようとしているのだ。この屍人の巣は眞魚川に沿うように造られてあり、ダムが破壊されたら大量の水が押し寄せて来るだろう。こんな違法建築の建物など、あっという間に流されてしまう。早く安全な場所に避難しなければ。しかし、竹内先生が見つからない。視界ジャックの能力で近くにいることは判っているのだが、通路があまりにも入り組んでおり、思い通りの方向へ進めない。右へ行ってもすぐに左に折れ曲がり、階段を上がったかと思うとすぐに下り、結局行き止まりにたどり着く。そんなことを何度も繰り返していた。さすがに腹が立ってきたので、拾った金属バットで壁を壊しながら最短距離で進むことにした。ヘタをすればすぐに巣ごと倒壊してしまいそうだが、どうせすぐに水が押し寄せるから同じことだ。

 

 何枚もの壁をぶち抜き、角を曲がったところで、ようやく先生を見つけた。週末に飲み屋を何軒もはしごしたガード下のサラリーマンのように、通路の隅で苦しそうにうずくまっている。

 

「あ! いた!! 先生! 大変です!!」手を振り、走って行く。

 

 竹内が顔を上げた。目を大きく見開き、驚いたような顔をした後、悔やむように顔を伏せ、拳を握って床を叩く。かと思うと、今度は嬉しそうな顔になり、鉄パイプを持って立ち上がった。何やってんだアイツは。早く逃げないと危ないというのに。

 

 ――ん?

 

 安野は立ち止まる。

 

 竹内の顔色が悪い。ちょっと体調がすぐれないとか、呑みすぎて吐きそうとか、そういったレベルではなく、生気を感じない深い灰色――これまで何度も見てきた、屍人の肌の色だ。目から血の涙は流していないが、それも時間の問題だろう。ああ、先生。ついに屍人さんになってしまったんですね。かわいそうに。この先、彼はどうなるだろう? 違法建築士になって巣を増築し続けるのだろうか? それとも、羽根屍人さんになってヘタクソな銃を撃ち続けるのだろうか? どちらにしても、先生が充実した屍人ライフを送れることを、陰ながら祈っています。でも、お別れ前に、メガネを人質に取られた恨みを晴らさせてもらいますね。安心してください。痛みは一瞬ですし、すぐに復活しますから。安野はバットを強く握りしめた。

 

 背後で、怪鳥のような鳴き声が聞こえた。聞き覚えのある鳴き声。ヤバイ。神様が来るよ。直感的に悟る安野。逃げなくては。周囲を見回すが、逃げ場はない。ならば、さっき覚えたばかりの新スキルを発動しよう。安野はバットを振り上げ、力いっぱい床を叩いた。三度叩くと床が抜け、下の階層に落ちた。よし。もう、先生のことは放っておこう。どうせメガネを人質にとるような外道だ。どうなろうと知ったことではない。今は、自分の命とメガネを護ることが大事だ。

 

 その場から逃げようとした安野だったが。

 

 カタカタと地面が揺れる。最初は小さな揺れだったが、すぐに立っていられないほど大きくなり、そして、巣全体が崩れるほどの強さとなった。

 

 ――タイムタイム! 求導師先生、まだ早いです!!

 

 安野は待ったをかけたが、もう遅い。

 

 壁を突き破り、大量の赤い水が押し寄せる。

 

 安野は、瓦礫と共に濁流に飲み込まれた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十八話 牧野慶 合石岳/眞魚川水門 第三日/十八時〇五分二十八秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 決壊したダムから流れ出した赤い濁流が、屍人どもの巣を飲み込んでいく。雨はほとんど上がっていた。時折、雲の切れ間から陽が差すこともある。

 

 ダムを破壊した牧野慶は、はるか眼下に広がる村を見下ろしていた。濁流は流れ続ける。眞魚川に沿って膨れ上がっていた屍人どもの巣は、すぐに流れ去るだろう。そうなれば、『神』に隠れる場所は無い。

 

 牧野はずっと疑問に思っていた。屍人は、なぜあのような巣を造ったのだろう? 村が怪異に襲われた直後から、屍人どもはいたるところで釘を打っていた。窓を塞ぎ、屋根を作り、さらにその上に屋根を作る……巣の中枢は何重もの層になり、陽の光が決して届かないようになっていた。何のためにそんなことをしているのか? ずっと考えていた牧野は、ひとつの結論を導き出した。『神』は、太陽の光に弱いのではないか? 確証は無かったが、やってみる価値はあった。仮に牧野の考えがはずれだったとしても、巣を倒壊させるだけで、屍人たちには大きな痛手となるだろう。

 

 水は、少しずつ勢いが弱まっていった。水が減るにつれ、ダムの底があらわになっていく。泥にまみれた地面が見えてきた。

 

 ――うん?

 

 牧野は、ダムの底にうごめくものを見た。

 

 最初は魚か何かの小動物かと思った。だが、それにしては大きい。牧野の背丈と変わらないほどの大きさだ。二本足で歩いており、頭と手足もある。身体中泥にまみれていて、泥をこねて作った人形のようだが、どうやら人のようである。それが、一人や二人ではなく、何十人も。屍人だろうか? なぜ、こんな所に? 

 

 泥人形のような屍人は、耳を押さえ、苦しそうにもがき始めた。南の海からはサイレンが聞こえる。ここから遠く離れているのでかなり小さいが、その音に反応しているのだろう。

 

 ――――。

 

 牧野は、全てを悟った。

 

 サイレンは南の海から聞こえて来る。村の最も北に位置するこの眞魚川水門は、村で、最もサイレンが聞こえにくい場所なのだ。

 

 その、ダムの底に身を沈めれば、サイレンの音は聞こえない。

 

 人は赤い水を大量に体内に取り入れ、サイレンの音を聞くと、屍人になる。

 

 屍人となって、さらに赤い水を取り入れ、サイレンの音を聞くことで、さらに屍人化が進む。

 

 逆に言えば。

 

 どんなに赤い水が体内に入ろうとも、サイレンの音さえ聞かなければ、屍人にはならない。屍人化は進まない。

 

 何ということだろう。

 

 彼らは、屍人になる前、あるいは、屍人となってもまだ人の意思が残っている間に、ダムの底に身を沈め、サイレンの音を聞かないようにしていたのだ。

 

 何十年もの間、この冷たいダムの底で、サイレンの誘惑に耐えて来たのだ。

 

 赤い水を取り込めば、少々のことでは死ななくなる。屍人となれば、決して、死ぬことはなくなる。永遠に、生き続ける。

 

 だが、これでは。

 

 永遠に生きることは、永遠に苦しむことと同じだ。

 

 村人たちが苦しんでいる。これまでも、ずっと苦しんできたのだ。そして、このままではずっと苦しむことになる。

 

 彼らの苦しみを、解き放ってあげなければ。

 

 それが、私が、求導師として成すべき、最期のことだ。

 

「……先生……」

 

 愛する美奈の声がした。鉱山から追いかけてきたのだろう。そばには、理沙もいる。

 

 だが、牧野を襲おうとはしない。ただ、じっと、待っている。

 

 牧野は、宇理炎を握りしめた。

 

 銃は撃ち尽くした。手榴弾も使いきった。屍人どもを殴り続けたハンマーとスパナも、もう折れてしまった。残されたものは、神から授かったこの武器だけだ。

 

 ――終わらせよう、全部。

 

 牧野は、ダムの底へ下りて行った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十九話 竹内多聞 屍人ノ巣/第三層付近 第三日/二十二時十三分三十三秒

 突如押し寄せた濁流により、屍人の巣は崩壊した。

 

 

 

 

 

 

 水が引いた屍人の巣で、竹内多聞は地面にうずくまり、苦しんでいた。心の奥底を黒い蟲がうごめき、這いずり出てようとしているのを、必死に抑えている――そんな気分。

 

 屍人化の兆候が始まってからもう二十時間近く経つが、竹内は、まだ人と屍人の間をさ迷っていた。赤い濁流に飲み込まれ、さらに多くの赤い水を体内に取り込んだはずなのに、それでも、まだ人としての理性をぎりぎり保っていた。なぜ、まだ屍人にならないのかは判らない。屍人にならないのは幸運なのか、それとも、屍人になれない苦しみが続くのは不幸なのか。判らない。これからどうすればいい。おとなしく屍人になるのを待つか。屍人にならない方法を探すか。神を倒す手段を探すか。判らない。もう、何も判らなかった。

 

 ……多聞……。

 

 声が聞こえた。女の声だ。耳で聞こえた声ではない。心で聞こえた声。優しさがにじむような声。誰だ? 周囲を見回すが、半壊した屍人の巣が広がるだけだ。

 

 ……多聞……。

 

 また聞こえる。今度は男の声だ。威厳に満ちているが、どこか、気づかいが溢れるような声。

 

 声は、断続的に聞こえる。何度も竹内の名を呼ぶ。女の声も、男の声も、はるか遠い昔に聞いた覚えがあるように思う。

 

 竹内は立ち上がった。波間に浮かぶ小さな舟の上に立っているような気分だが、それでも一歩踏み出し、声の方へ進む。声の正体は判らない。ただ、私が人としての命が尽きる前に、声の元へ行かねばならないと思った。

 

 歩き始めて、ライトを失っていることに気が付いた。陽は沈んでいる。昨日は点いていた街灯も、巣の崩壊とともに消えてしまった。街一体をアーケードのように覆っていた屋根もほとんど流されてしまったため、空が見える。雨は小降りになっていた。薄い雲の向こうにぼんやりと見える月の明かりだけが頼りだった。竹内は、鉄パイプを握りしめて進んだ。

 

 ブロック塀に挟まれた細い通路を歩く多聞。地面は水浸しだ。かなり深い水たまりで行く手が阻まれている場所もある。今、自分がどこにいるのかは判らない。濁流に飲み込まれ、流されはしたが、大字粗戸からはそう離れていないはずだ。何か、場所を特定できるものはないだろうか。周囲を見回しながら進むと、やや広い通りに出た。誰かの気配がする。通路の隅、ゴミが大量に積みあがった所に、四つん這いの獣のような姿。犬屍人だ。ゴミをあさっているのだろう。相手もこちらの気配に気づき、振り返った。牙を剥き出し、低い唸り声を上げて威嚇する。カールがかかったボサボサの長い髪、薄汚れた花柄のキャミソールにジーンズ姿。肌の露出が多く、身体のラインが強調される服装だ。今は醜い屍人だが、人であった頃はかなりの美人だったのかもしれない

 

 犬屍人は空に向かって一声吠えると、こちらに向かって走って来る。できれば戦いたくはないのだが、屍人が襲ってくるということは、私はまだ人間だということでもある。ありがたいんだかありがたくないんだか。竹内は鉄パイプを握りしめる。気分は最悪だが、犬屍人の一匹くらい、なんとかなるだろう。犬屍人が鉄パイプの間合いに入った。竹内は、渾身の力を込めて振り下ろした。

 

 がつん! と、あまりにも硬い手応え。完全に屍人の脳天を捕えていたはずの鉄パイプは、アスファルトの地面を叩いていた。屍人の姿が消えた。どこへ行った? 左側に気配を感じた。見ると、犬屍人は二メートルはあるかという高さのブロック塀の上にいた。ひと跳びであの高さまで跳んだというのだろうか? 恐ろしい跳躍力だ。竹内は塀の上の犬屍人に向かって鉄パイプを振るうが、またも屍人の姿が消え、硬いブロック塀を叩いていた。今度は後ろに気配を感じる。振り返るが、その瞬間、反対側の壁を蹴った屍人の左の回し蹴りが、竹内の右側頭部に向かって飛んでくる。なんとか腕を上げてガードするが、大きく吹き飛ばされ、竹内は水浸しの地面に倒れた。

 

 ――屍人の分際で三角跳び蹴りとは生意気な。

 

 立ち上がる竹内。犬屍人が向かって来る。今度こそ外さない。鉄パイプを構えた竹内だったが、犬屍人は竹内の間合いに入る前に地面を蹴り、大きく跳んだ。竹内の頭上を越え、背後に着地すると同時に、右の回し蹴りが頭部に向かって来る。竹内はとっさにしゃがんでかわしたが、屍人は蹴りを放った右足を軸足に変えると、今度は身を低く沈めながら、地面を這うような後ろ回し蹴りを打ってきた。足を払われた竹内は倒れそうになる。そこへ、また蹴り足が軸足に変わり、右の回し蹴りが飛んでくる。顔面に蹴りを喰らった竹内は、大きくのけ反り、背中からブロック塀に叩きつけられた。後頭部も強く打ち付け、一瞬意識が飛ぶ。屍人がさらに襲い掛かって来るのが見えた。もうろうとする意識の中、それでも竹内は鉄パイプを振るう。が、犬屍人は、今度は竹内の鉄パイプを左手で受け止めると、右手で襟を取り、身体を反転させて竹内の身体を投げた。地面に叩きつけられると同時に、犬屍人は両足で竹内の右腕を挟み込み、両手で手首を持つと、お腹を支点にして、関節を逆に曲げた。腕ひしぎ十字固め。バキリ、と、骨が砕ける音と共に激痛が走る。犬屍人は後方に大きく飛び、間合いを開けた。

 

 激痛に耐えながら、なんとか左手で鉄パイプを拾う竹内。犬屍人は相変わらず歯をむき出しにして威嚇している。この屍人は元プロの格闘家か、それとも、軍の特殊部隊にでもいたのか。今まで会ったどんな屍人よりも手強い。ダメだ。鉄パイプごときで迎撃できそうにない。たとえ拳銃があったとしても、あの速さに対応できるかどうか。

 

 犬屍人が向かって来る。到底勝てる見込みは無いが、それでも左手で鉄パイプを振るう竹内。勢いのないその攻撃は、虚しく空を切る。犬屍人は右の塀の上に飛び乗ったかと思うと、次の瞬間には反対側の塀に飛び移り、振り向いた瞬間には背後にいる。もはや目で追うこともできない。

 

 犬屍人の拳が飛んでくる。顔面と、お腹と、あごに喰らった。後ろに大きくよろめいたところに、勢いの付いた前蹴りを胸に喰らう。竹内は吹き飛ばされ、叩きつけられるように地面に倒れた。

 

 その、衝撃で、胸ポケットから何かこぼれ落ちた。

 

 意識を半分失いながらも、竹内は顔を上げ、ポケットから落ちた物を見た。昨日、蛇ノ首谷の電話ボックスで拾った、美浜奈保子の限定テレホンカードだった。この世に二枚しかない貴重な宝物。

 

 犬屍人が跳躍した。とどめを刺そうとしている。

 

 竹内は、美浜奈保子のテレカに手を伸ばした。

 

 そして、愛する者をかばうかのように、懐に入れ、うずくまる。

 

 たとえこの身を砕かれようとも、テレカだけは護るつもりだった。使い古されたゴミのようなテレカでも、私にとっては命よりも大事なものだ。テレカに価値があるのではない。なぽりんを護ることに価値があるのだ。言わば私は、愛に生き、そして、愛に死ぬのである。私は死など恐れない。なぽりんを護ることができるのならば、何を恐れることがあるだろう。さあ、屍人よ! 私を殺せ! TMNは死すとも愛は死なぬ!!

 

 …………。

 

 ……何も起こらない。屍人は襲ってこない。なぶり殺しにでもするつもりか? 趣味の悪いヤツだ。

 

 竹内は、そっと顔を上げた。

 

 犬屍人は、塀の上から竹内を見下ろしていた。

 

 歯をむき出しにし、低い唸り声をあげ、威嚇している。

 

 だが、その顔には、ためらいと、わずかな悲しみが混じっているように見えた。

 

 犬屍人は、空に向かって吠えると。

 

 大きく跳躍し、後ろの廃屋の屋根に飛び移り、そこでもう一度跳んで、闇の中に消えた。

 

 ……何だったのだ? とどめを刺すことは簡単だったはずなのに、逃げて行きおった。私となぽりんの愛に怖気づいたのだろうか? いや、まさかな。考えて、すぐに思い当った。今、この瞬間、私は屍人になってしまったのだ。屍人は屍人を襲わない。だから、去って行ったのだろう。

 

 ……多聞……。

 

 竹内を呼ぶ声は相変わらず聞こえている。

 

 人でなくなってしまったのは残念だが、どの道長くはなかっただろう。それに、屍人になっても、まだしばらくは人の意思を保っていられるはずだ。その間に、この声の元にたどり着かなければ。竹内は左手で鉄パイプを持ち、折れた右腕をかばいながら、声のする方へ歩いた。

 

 しばらく歩くと、また、誰かの気配がする。通路の奥に、誰かいる。

 

「……春海ちゃん……春海ちゃんどこ……? 出てきて……お母さん……先生……もう怒ったりしないから……ごめんなさい……めぐ……春海ちゃん……お願いだから……出てきて……めぐみ……」

 

 女性の人型屍人だった。血の涙を流し、右手に持つバールを引きずりながら歩いている。誰かを探しているようだ。娘とはぐれたのだろうか? しばらく様子を見ていると。

 

「……出て来なさいて言ってるでしょう!! どうしてお母さんのいうことが聞けないの!! うるさい! 泣くな! 泣いたら許されるとでも思ってるの!! あんたなんて産まなきゃよかった!! そうやっていつまでも泣いてる子は!!」

 

 突然ヒステリックに叫び出し、バールで壁や地面を叩きはじめる。かと思うと。

 

「……ごめんなさい……めぐみ……お母さん……またやっちゃったね……今度こそ約束する……お母さ……先生……二度と怒ったりしない……絶対に叩いたりしない……だから……めぐ……春……海ちゃん……出てきて……先生を……一人にしないで……お願い……」

 

 急に泣きはじめ、辺りを探し始める。そして、また怒り、暴れ出す。

 

 ……子供を虐待する母親の典型的行動パターンだな。できれば近寄りたくはないが、他に道は無い。幸い、私も屍人になっているから、刺激しなければ襲われることはないだろう。竹内は構わず通り抜けようとした。

 

 だが、竹内の気配に気づいた屍人は。

 

「……春海ちゃんに近づくなぁ!!」

 

 バールを振り上げ、襲い掛かって来た。

 

 襲われると思っていなかった竹内。不意を突かれたが、なんとか鉄パイプでバールを受け止めた。だが、女とは思えないほどの力だった。左手の握力では受け止めきれず、鉄パイプを落としてしまった。拾おうとする。その背中に、バールが振り下ろされる。強い衝撃。息がつまり、地面に倒れ込む。そこに、さらにバールが振り下ろされる。

 

「春海ちゃんのお母さんになるんだぁ! 誰にも邪魔させない……誰にも邪魔させない! 春海ちゃんはあたしのもの! あたしの娘えぇ!!」

 

 意味不明なことを叫びながら、屍人は何度もバールを振り下ろす。竹内にはもう抵抗すべき力が無かった。これまでか……。まあ、すでに屍人になっているのだから、殺されてもよみがえることができるだろう。いや、屍人に襲われたということは、私は屍人ではなかったのだろうか? 判らない。どちらにしても同じだ。ここで死ねば、どのみち私は屍人となってよみがえる。ああ、死ぬ前に、もう一度なぽりんの勇姿を見たかった。いつか制作されるであろう美浜奈保子主演のアクション映画を観ることができないのが、唯一の心残りである。

 

 竹内が、死を間際になぽりんに思いを馳せていた時。

 

 夜空に、獣の遠吠えが響き渡った。

 

 屍人の振り上げたバールが止まる。周囲を見回している。

 

 竹内も顔を上げた。

 

 何か来る。通路の向こう。ものすごい速さで近づいて来る。闇の中から現れた者は、竹内達の前で大きく跳躍すると、矢のように鋭い跳び蹴りを屍人の胸に打ち込んだ。屍人は大きく吹き飛んで行く。

 

 闇から現れた者は竹内と屍人との間に着地する。薄汚れた花柄のキャミソールにジーンズ。さっきの格闘系犬屍人だった。

 

 犬屍人は獲物を前にした狼のように前かがみの四つん這いになり、バール屍人に向かって低い唸り声を上げた。まるで、竹内を護ろうとしているかのようである。

 

 バール屍人が起き上がった。「春海ちゃんに手を出すなぁ!! あたしが春海ちゃんを護る!! あたしの娘に手出しさせなぁい!!」

 

 バールを振り上げ、犬屍人に襲いかかる。

 

 犬屍人は二本足で立つと、バールを持つ屍人の右手に向かって右の回し蹴りを打ち込む。バールは勢いよく回転しながら地面に落ちた。犬屍人はそのままくるりと回転して軸足を変えると、バール屍人の腹に左の後ろ回し蹴りを打ち込み、さらにもう一度軸足を変えて右足であごを蹴り上げた。大きくのけ反って後ろに倒れるバール屍人。犬屍人はバール屍人の上に馬乗りになると、顔面に向かって拳を振り下ろした。右、左、右……と、次々と拳を振り下ろす。血飛沫が飛び散り、バール屍人が動かなくなっても、殴り続ける。

 

 ……屍人が仲間を攻撃するのは初めて見た。あの犬屍人、よく判らないヤツだが、屍人の中にもおかしな行動をする者――いわば、奇行種とでも呼ぶべき者もいるのかもしれない。なんにせよ助かった。今がチャンスだ。

 

 竹内は鉄パイプを拾い、その場を離れた。

 

 しばらく通路を進むと、見覚えのある看板が見えた。車の整備屋の看板だ。先ほど街を襲った濁流の影響か、はずれかけている。わずかな風にもぐらぐらと揺れ、今にも落ちそうだ。

 

 この整備屋があるということは、ここは、二十時間ほど前、八尾比沙子に捕えられていた場所に近い通りだ。上粗戸の北地域あたりだろう。

 

 ……多聞……。

 

 竹内を呼ぶ声は南から聞こえて来る。

 

 南へ向かうには一度東へ抜け、眞魚川沿いの道を下らなければいけない。しかし、幻視で様子を探ると、川沿いの道には多くの屍人が徘徊していた。先ほど格闘系犬屍人に折られた右腕はまだ治っていない。戦闘は避けたいところだ。他に道は無いだろうか? 周囲を探る。抜け道は無かったが、整備屋の出入口の前に、北から南へ向けて大きな排水溝があるのに気が付いた。深さは四メートル、幅は三メートルほど。竹内でも十分通れそうな大きさだ。恐らく、南西の刈割方面の棚田に水を運ぶための用水路だ。水は流れていなかった。水門が閉じられているのかもしれない。

 

 だが、排水溝には木組みの枠がはめられていた。先ほどの濁流の影響か、ところどころ壊れてはいるが、小さな子供でもないかぎり下りられそうにない。何か強い衝撃を与えて、もう少し壊せば大丈夫かもしれない。竹内は鉄パイプで何度か叩いたが、力の入らない左手ではビクともしなかった。右腕の骨折が治ったとしても壊せるかどうか。何か他に方法は無いか? さらに周囲を探る。上を見ると、木組みの枠のちょうど真上に、さっきの看板があった。

 

 竹内は整備屋に入り、二階に上がった。通路に面した部屋の窓を開ける。身を乗り出すと、すぐ側に看板があり、風に揺れていた。接合部はほとんど壊れており、少しの衝撃でも落ちるだろう。竹内は看板を持ち、大きく揺すった。何度か力を込めると、接合部がはずれ、看板は下に落ちた。派手な音が周囲に響き渡る。再び一階に下りる竹内。看板は木組みの枠を破壊し、用水路に落ちていた。竹内は壊れた木組みの枠の間を通って用水路へ下り、南へ向かって進んだ。

 

 しばらく進むと、用水路の上を大きな橋が通っていた。そばには、上へあがるための梯子もある。竹内は梯子を上がる。橋の親柱に『三蛇橋』と書かれていた。上粗戸の中央交差点へと続く橋だ。

 

 ……多聞……。

 

 謎の声は、よりはっきり、より優しく、竹内を誘う。

 

 橋のそばには南へと続く小さな砂利道があった。その前に、誰か倒れている。警戒しながら近づくと、猟銃屍人だった。頭が完全に潰され、ピクリとも動かない。少し離れた場所にも、頭のつぶれた犬屍人が倒れていた。誰かが狙撃でもしたのだろうか? いや、この傷は遠距離用の猟銃では無理だ。至近距離からショットガンでヘッドショットでも決めない限り、こんな状態にはならないように思う。もしくは、何か鈍器のような物で何度も殴ったか。ただ、猟銃屍人に気付かれないように接近するのは、よほどのスピードがないと無理だろう。

 

 遠くで、犬屍人が夜空に向かって吠える声が聞こえた。

 

 見とれている場合ではない。なんであろうと、死んでいるのならそれでいい。さっさとこの場を離れよう。頭を潰したところで屍人はよみがえるし、いつ、他の屍人に襲われるかも判らないのだ。

 

 竹内はその場を離れ、南の小道を進んだ。

 

 やがて、犬屍人の遠吠えは聞こえなくなった。もう、二度と聞くことはないだろう――なぜか、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十話 牧野慶 合石岳/眞魚川水門 第三日/十八時三十九分五十八秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 爆破された眞魚川水門から流れ出た水は、赤い濁流となって、屍人の巣を飲み込んでいく。

 

 牧野慶は水底があらわになった眞魚川水門に下りていた。足にまとわりつくような泥を踏みながら歩く。ダムの底には、泥を全身に浴びた屍人たちが、フラフラとさ迷い歩いていた。

 

 皆、牧野の姿を見ると、「ああ……求導師様……」「求導師様……お助けください……」「求導師様……お救いを……」と、すがりつくようにそばへ来る。牧野を襲おうとする者などいない。そう。ここにいるのは屍人ではない。羽生蛇村に住む人間。同じ村人なのだ。

 

 皆、助けを求めている。何十年もの間、このダムの底に身を沈め、サイレンの誘惑にあらがって来た。身体は屍人となっても、心は屍人とならないように。その苦しみがどのようなものか、牧野には想像もつかない。いっそ屍人になってしまった方がはるかに楽であろう。それでも、この村人たちはサイレンの誘惑にあらがい続けたのだ。もし、この場に牧野が現れなければ、ずっと苦しみ続けていただろう。永遠に、ずっと。

 

 牧野は、宇理炎を力強く握りしめた。

 

 村人が救いを求めている。 

 

 ならば、その声に応えなければならない。

 

 今の私は、村の暗部である宮田医院の宮田司郎ではない。

 

 救いを求めるものに応え、村人を導く、求導師なのだ。

 

 振り返った。愛する美奈と、妹の理沙がいる。彼女たちも、救いを求めている。

 

 牧野は、天高く宇理炎を掲げた。

 

 さあ、煉獄の炎よ。

 

 私の命と引き換えだ。

 

 この者たちを――私の愛する村人たちを、救いたまえ――。

 

 牧野の胸の内から、生命の炎が燃え上がり、宇理炎へと吸い込まれていく。宇理炎がまばゆい光を放った。

 

 地面が大きく陥没し、穴が開いた。地の底まで続いているかと思うような、深く、巨大な穴。

 

 炎が吹きあがった。

 

 青く、そして白い炎。太い一本の柱だった炎は、一度天高く燃え上がると、まるで雨のように大地に降りそそいだ。

 

 炎を浴びた村人が、燃える。

 

 地面に落ち、その場で燃え上がる炎もある。炎を浴びなかった村人が、競うように身を投じていく。

 

 炎が、村人を焼く。

 

 悲鳴を上げる者はいない。苦しみの声を上げる者はいない。

 

「……ああ……求導師様……」「……ありがとうございます……求導師様……」「……救いの炎……ありがとうございます……」

 

 誰もが、感謝の声と共に、燃え尽きていく。

 

 生命の炎を燃やす牧野にも、その声は届く。

 

 ああ――。

 

 今、私は、村の人たちを救っている。

 

 求導師として、村を救っている。

 

 私はずっと、彼らの、この声を聞きたかったのだ。

 

 美奈と理沙を見た。彼女たちもまた、自ら進んで炎に身を投じていた。

 

 牧野の放った命の炎は、燃え続ける。

 

 

 

 

 

 

 天から、まぶしい光が降りてきた。

 

 煉獄の炎を浴び、屍人から人へと戻った村人たちが、光の柱の中へ進んで行く。

 

「……先生……」

 

 光の中で、牧野に向かって手を振っている二人の影。

 

 美奈と、理沙だった。醜い屍人ではない。生きていた頃の、美しい二人。

 

 呼んでいる。

 

「ああ……いま行くよ……」

 

 牧野は、求導師の法服を脱ぎ捨てた。

 

 私の、求導師としての役割は終わった。

 

 今は、村を救った求導師ではなく、美奈を愛した一人の男として、彼女の元に向かいたかった。

 

 ――本当に、待たせたね、美奈。

 

 宮田司郎は、美奈の元へ向かう。

 

 理沙が、そっと身を引いた。顔に笑顔と――ほんのわずかな、悲しみをにじませて。

 

 宮田は美奈を抱きしめた。

 

 美奈も、宮田に身を預ける。

 

 生と死の狭間に引き裂かれていた二人が、いま、ようやく巡り会えた。

 

「――さあ、行こう」

 

 宮田は、美奈の手を取り。

 

 理沙と、そして、多くの村人たちと共に、光の向こうへ旅立っていった。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 宮田は、何人かの村人が煉獄の炎から逃れ、村へ下りて行ったことには気付かなかった。

 

 もっとも、気づいたところで、何もできはしないだろう。

 

 彼らには彼らの思いがあり、屍人としてこの世界に留まることを選んだのだ。

 

 その選択を咎めることなど、誰にもできはしない。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十一話 須田恭也 屍人ノ巣/水鏡 第三日/二十時五十七分五十五秒

 須田恭也は再び屍人の巣の中枢へ来ていた。神を迎えるという儀式が行われ、そして、神と対峙した場所。広場を覆う瓦礫は、数時間前に襲った濁流に流されている。薄雲に覆われた空からは、わずかに月明りが降り注いでいる。広場の中央には赤い水が湧き出す宝石のような岩がある。美耶子が炎に包まれていた岩だ。

 

 恭也が岩に近づくと。

 

 聞く者を不快にする笑い声が、高らかに響いた。

 

 同時に銃声が鳴り、足元の地面が弾けた。屍人か? 銃を構え、笑い声の方を見た。美耶子の義理の兄、神代淳だった。目から血の涙を流している。屍人化してしまったようだ。

 

 淳は下卑た笑い声を上げ、銃を乱射しながら走って来る。狙いは滅茶苦茶だが、撃たれるとまずい。恭也は周囲を見回した。身を隠せそうな巨大な岩が三つある。恭也は最も近い岩に向かって走り、陰に隠れた。身を隠しながら、幻視で様子を窺う。淳は銃を乱射している。猟銃の装填数は多くない。すぐに弾切れになった。恭也は岩の陰から飛び出して銃を構えると、淳に照準を合わせ、引き金を引いた。一発、二発と、淳の身体に命中する。淳は数歩後退りしたが、倒れない。恭也に背を向けると、走って岩の陰に隠れた。恭也も一度身を隠し、銃に弾を込め直す。

 

 再び幻視で様子を窺うと、相手も銃に弾を込めたところだった。また笑い声を上げ、乱射しながら突進してくる。恭也は慌てずに身を隠し続け、相手が弾を打ち尽くしたところを見計らって身を乗り出し、狙いを定めた。さらに二発銃弾を撃ち込むと、淳の笑い声が悲鳴に変わった。フラフラと数歩足を出すと、地面に膝をついた。

 

 ――やったか?

 

 だが、淳は倒れなかった。再び立ち上がると、猟銃を投げ捨て、腰に差していた鞘から刀を抜いた。刀身がぎらりと光った気がした。刀の鍔の部分には、マナ字架の紋様が施されてある。

 

 ――恭也。あの刀に気を付けろ。

 

 昨日、美耶子に言われたことを思い出す。神代家に伝わる宝刀・焔薙(ほむらなぎ)。銃に撃たれた傷は治っても、あの刀に斬られた傷は、決して治らない。

 

 淳は焔薙を構えると、恭也に向かって突進してくる。恭也は慌てない。あの刀がどんなに強力な武器であっても、近づかれなければ銃の方に分があるだろう。恭也は銃を構え、引き金を引いた。さらに三発の銃弾を命中させたが、淳は倒れなかった。怯みもしない。銃弾の痛みも勢いも感じていないかのように、足を止めることなく走って来る。恭也はさらに引き金を引いたが、カチッっと、不発の音がした。この銃の弾の装填数は五発。弾切れだ。淳が向かって来る。逃げられない。刀を振り上げた。完全に相手の間合いに入ってしまった。振り下ろされる刀を、銃で受け止めようとした。だが、刀の勢いは止まらない。銃が、真っ二つに斬り裂かれた。刃が恭也に襲い掛かる。とっさに身を引いた。刀は、地面に突き刺さった。それでも、完全にかわせたわけではなかった。恭也の左肩から右胸の下にかけて、大きく斬り裂かれていた。どろりと血が溢れ出す。幸い、深い傷ではない。恭也は銃を投げ捨て、走った。淳は地面から刀を抜くと、高らかに笑いはじめた。勝利を確信し、恭也をあざけっているのだろうか。そのまま笑い続ける。その間に、恭也は間合いを取り、別の岩陰に身を隠した。傷の様子を確認する。致命傷ではなかったが、美耶子の言葉が本当なら、この傷はもう治らない。やっかいなことになった。どうするべきだろう……。

 

 ――あれ?

 

 恭也は、傷の左肩の部分を指で触ってみた。血が付かない。傷が治っているようだ。しばらく見ていると、左肩から右胸の下まで、まるで縫い合わせるかのように、少しずつ傷が塞がっていく。今まで負った傷と変わらない。どうやら、昨日美耶子が言っていたことは、ちょっと大げさだったようだ。

 

 だが、傷が治るとはいえ、事態は好転したわけではない。唯一の武器だった銃を失ってしまった。どうやって、アイツを倒せばいい。何か、他に武器は無いか。

 

 淳が笑うのをやめる。刀を構え、こちらに向かって来る。

 

 恭也は淳から逃れるため走った。このまま逃げるしかないのだろうか?

 

 ――うん?

 

 恭也は、ズボンのポケットが熱いことに気が付いた。なんだ? 中の物を取り出す。求導師から貰った土人形だ。薄青い炎のような光を放っていた。どこか、温もりを感じる光。

 

 ――不死なる者を無に返すことができる神の武器・宇理炎。

 

 求導師の言葉を思い出す。

 

 恭也は立ち止まり、淳の方を振り返った。

 

 焔薙を構え、襲い掛かろうとしている淳。

 

 恭也は、宇理炎を高く掲げた。

 

 宇理炎が、まぶしい光を放つ。

 

 大地が小さく揺れた。淳が立ち止まり、足元を見た。

 

 その、淳の足元から、青く、そして白い炎が噴き出した。

 

 炎は天へと向かう一本の柱となり、淳の身体を飲み込んで、さらに燃え上がる。

 

 淳の悲鳴が上がる。銃で撃たれた時の悲鳴とは明らかに違う、まさに、命を燃やし尽くす悲鳴。

 

 炎は、わずかな時間で淳の身体を、命を、焼きつくした。

 

 炎が消えた時、そこには、地面に刺さった焔薙だけが残っていた。

 

 恭也は宇理炎を見た。青白い光は消えている。だが、かすかな温もりは消えていない。まだ使える。

 

 恭也は自分の身体も確認した。刀に斬られた傷は、もうほとんど治っている。他に傷らしきものは無い。求導師は、宇理炎を使うと大きな副作用があると言っていたが、特に異常はないように思えた。

 

 宇理炎をポケットにしまった。そして、淳が燃え尽きた場所に刺さっている刀を引き抜いた。

 

 神代家の宝刀・焔薙。

 

 斬られた傷は決して治らないという美耶子の話は少し大げさだったようだが、銃を失ってしまった今、これを持っていくしかない。

 

 恭也は、宇理炎と、焔薙を携え、赤い水が溢れる岩のそばに立った。

 

 岩の表面は、まるで鏡のように恭也の姿を写し返す。

 

 その、恭也の背後に、探し求めていた少女の姿が。

 

「美耶子……ここにいたんだ……」

 

 優しく微笑むと。 

 

 ――あたしはずっと、恭也のそばにいるよ。

 

 美耶子も優しく微笑み返してくれる。

 

「そうか……そうだったね」

 

 ――ねえ、恭也。こっちに来て。

 

 鏡に写る美耶子が、恭也に向かって手を伸ばした。

 

「え?」

 

 ――全部消してって、約束したよね。

 

 甘えるようなその声に、恭也は、「あ、うん……」と、曖昧な返事を返すしかできなかった。

 

 美耶子は、鏡の向こうから手を差し出す。

 

 ――さあ、早く……全部、終わらせて。

 

 恭也は――。

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 美耶子の手を掴もうと、手を伸ばした。

 

 手が、鏡に触れた瞬間。

 

 恭也は、鏡の中に沈んで行った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十二話 竹内多聞 大字粗戸/竹内家 第三日/二十三時五十六分三十六秒

 竹内多聞は謎の声に導かれるまま、暗い小道を進んでいた。道は緩やかな登りで、丘の上へと続いている。舗装はされていない砂利道だ。

 

 ……この……道は……?

 

 多聞の古い記憶がよみがえってくる。

 

 懐かしい……とても懐かしい道だ。何度も通った。朝、この道を通って学校へ行った。学校が終わると、この道を通って遊びに行った。そして夕方になれば、この道を通って、家に帰る。

 

「……多聞……」

 

 多聞を呼ぶ声は、もう、はっきりと聞こえる。懐かしい――そして、ずっと探していた、愛する人たちの声。

 

 道の先に、古い木造の民家が見えてきた。

 

 そうだ……覚えている。

 

 開け閉めするたびやかましい音を上げる玄関の引き戸も、そのそばに置かれている黄色い小さな自転車も、水の溜まった小さなバケツも、庭にたくさん置かれた鉢植えも、秋になるとたくさん実がなる柿の木も。

 

 玄関のそばに掲げられた、『竹内』という古い表札も。

 

 すべてが、古い記憶のままだった。

 

 家の中の明かりは点いていた。

 

 多聞は、玄関を開けた。

 

 二階に続く階段と、台所へ続く廊下。そして、すぐ側には居間の襖がある。 

 

 多聞は襖を開けた。

 

「多聞、おかえり」

 

 父が、微笑んでいた。

 

「お帰りなさい、多聞」

 

 母が、優しく迎えてくれた。

 

 二十七年前の土砂災害に飲み込まれ、消息を絶った父と母。

 

 あの日、まだ幼かった多聞は。

 

 泣きながら、崩壊した村をさ迷っていた。

 

 パジャマ姿のまま。

 

 裸足のまま。

 

 お父さんとお母さんを探し続けた。

 

 どんなに泣いて、どんなにお父さんとお母さんを呼んでも。

 

 だれも、答えてくれない。

 

 闇の中で、ずっと一人だった。朝が来るまでほんの数時間だったが、幼い多聞にとっては、永遠とも思える孤独な時間だった。

 

 あの日の孤独は、ずっと続いていたのかもしれない。

 

 災害救助隊に救出され、病院へと運ばれ、親戚の家に引き取り先が決まっても。

 

 多聞は、まだ闇の中をさ迷っていた。

 

 一人で、ずっと。

 

 時々、目を閉じると、父と母の姿が見える時がある。

 

 多聞を呼んでいた。

 

 しかし、手を伸ばすといつも消える。

 

 また、一人で闇の中にいる。

 

 おじさんおばさんに話しても、それは夢だ、と、言われた。

 

 多聞は夢だと思わなかった。いつか父と母に会えると信じ、闇の中をさまよい続けた。大人になった今まで、ずっと。

 

 その、多聞の目の前に。

 

 探し求めた、父と母の姿がある。

 

 父と母に手を伸ばした。

 

 今度は――消えない。

 

 二人は多聞の手を取り、そして、優しく抱きしめてくれる。

 

 ――お父さん……お母さん……。

 

 多聞は、父の腕と、母の胸に抱かれ、泣いた。

 

 ずっと会いたかった両親。ずっと帰りたかった場所。

 

 多聞は、ようやく。

 

 望んでいたものを、手に入れることができた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十三話 須田恭也 いんふぇるの 第三日/二十三時〇三分十八秒

 大地を覆い隠すかのように咲いていた月下奇人の花は、すべて枯れていた。深紅の花弁はその色を失い、燃え尽きた炭のように地面に向かって垂れている。空は、闇夜のように暗い。

 

 そこは、八尾比沙子が知る『常世』ではなかった。

 

 比沙子のそばには『神』が倒れていた。まるで、全身を炎で焼かれたかのように、酷く焼けただれている。神は、陽の光に焼かれ、この常世へ逃げ帰って来たのだ。

 

 神はかろうじて生きていた。まだ、口と思われる部分がわずかに動き、胸と思われる部分が弱々しく上下している。神は、死ぬことはない。だが、比沙子にも理由は判らないが、不完全な状態で復活してしまった。それはつまり、不完全な死を迎える身体であるとも言える。心は滅びなくても、身体は滅びるかもしれない。

 

 比沙子には何もできなかった。神の身体を癒す方法はあるだろうか? もう、捧げる実は無い。できることがあるとすれば、それは、無事を祈ることだけ。

 

 背後に、気配を感じた。

 

 振り返る。少し離れたところに、小さな赤い池がある。その水の向こう側は、現世の水鏡に通じている。水鏡は、常世と現世を繋ぐ扉なのだ。

 

 その、水面の上に。

 

 誰かが現れた。

 

 手に、刀と、そして、土人形を持っている。焔薙と、宇理炎。

 

 須田恭也だった。

 

 比沙子は驚愕と共に恭也を見つめる。どうやってここに来たのだ? あの水鏡を通ることができるのは、神と、神の身体を共有しているあたしと、あたしの血を引く娘だけ。

 

 ――――。

 

 比沙子は、ようやく、全てを悟った。

 

 なぜ、神は不完全な形でよみがえったのか。

 

 なぜ、恭也は水鏡を通ることができたのか。

 

 すべては、この少年が原因だったのだ。

 

 須田恭也は、神代美耶子の血を体内に取り入れたのだ!

 

 美耶子の血を体内に取り入れた恭也は、美耶子と身体を共有したことになる。あたしと神と、同じように。

 

 だが――。

 

 そのせいで、美耶子は、完全な『実』ではなくなった。

 

 不完全な実を、神に捧げてしまった。その結果、神は、不完全な状態でよみがえってしまったのだ。

 

「……そうか……そうだったのね……」

 

 比沙子は立ち上がり、恭也を睨んだ。

 

「あなたが……実を盗んだのね!!」

 

 怒りに任せて、右手から炎を放った。焼き殺してやるつもりだった。

 

 比沙子の炎は恭也を包み込む。

 

 だが。

 

 焔薙から白い光が発せられ、比沙子が放った炎を飲み込んだ。

 

 光が消えた時、比沙子の炎も消えていた。恭也の身体には、火傷ひとつ、かすり傷ひとつ無かった。

 

 比沙子は思い出した。数百年前、眞魚教が弾圧され、村に火を放たれた時、焔薙が、村を襲う炎を消しさったことを。

 

 自分ごときの炎では、もう、恭也を焼き殺すことはできない。

 

 怯え、一歩後退りする比沙子。

 

 それを追うかのように、恭也が一歩前に出た。

 

「……悪いけど……全部終わらせるって、美耶子と約束したから」

 

 鋭い目が、神を睨んでいる。

 

 今の神には、恭也にあらがう力は残っていないだろう。そして、あたしにも。

 

 ……なんということだ。

 

 比沙子は膝を付き、そして、地面に伏した。

 

 すべて、終わるはずだったのに……。

 

 神代美耶子を捧げれば、全て、終わるはずだったのに。

 

 今日、全てが、終わるはずだったのに。

 

 あたしは、この日が来るのを、ずっと待っていたのに。

 

 一三〇〇年もの長い間、ずっと待っていたというのに!!

 

 神代美耶子ほど強い御印を持つ娘はこれまでいなかった。一三〇〇年の間待ち続けていた、完全なる実であったのに!!

 

 それが、こんな、ほんの十数年しか生きていない小者に、邪魔されるなんて!!

 

 もう、実は実らない。次の実を産むはずだった神代亜矢子は、もう消してしまった。

 

 これで、終わりだ。

 

 一三〇〇年の間待ち続けてきた時が、終わった。

 

 一三〇〇年の間続いた呪いは、もう、解くことができない。

 

 一三〇〇年の間続いた苦しみは、この先も永遠に続くのだ!!

 

 比沙子は泣いた。地面に伏し、泣き続けた。

 

 ああ……神よ……お許しください……。

 

 あなたに完全な実を捧げることはできなかった。

 

 あなたをよみがえらせることは、できなかった。

 

 あたしの罪は、許されることはなかった。

 

 永遠に――。

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 比沙子の胸に。

 

 

 

 ――儀式を続けなさい。

 

 

 

 自分と同じ、眞魚教の赤い法服を着た老女の言葉が浮かんだ。

 

 昨日、赤い海の上に、理尾や丹とともに現れ、比沙子に神の首を授けた老女。

 

 儀式を……続ける……?

 

 もう、儀式は続けられない。実は、無い。

 

 ――儀式を続けなさい。

 

 それでも、老女の言葉は胸に浮かぶ。

 

 儀式を続ける……実が無いのに、どうやって……。

 

 ――――。

 

 ――いや。

 

 実は、あるじゃないか。

 

 比沙子は、気が付いた。

 

 今までの、どんな実よりも完全な――神代美耶子よりも濃い――実が。

 

 その時。

 

 比沙子の中に、また、別の誰かが目覚めた。

 

 そうだ。

 

 どうして忘れていたのだろう。

 

 なぜ、気が付かなかったのだろう。

 

 あるいはこれも、私にかけられた呪いなのか。

 

 比沙子は顔を上げ、立ち上がった。

 

 恭也が足を止める。

 

 比沙子は恭也に背を向け、胸の前で両手を組み、祈った。

 

 神よ。

 

 新たな実を、捧げます。

 

 本当に、捧げなければいけなかった実を、いま、捧げます。

 

 一三〇〇年もの長い間、この実の存在を忘れていた愚かな私を、どうかお許しください。

 

 さあ、どうぞ、実を!!

 

 比沙子は祈った。神――ではなく、神のさらに上に存在する者に。

 

 比沙子の身体から、何かが消えた。

 

 同時に。

 

 大地が息を吹き返した。燃え尽きた炭のような黒い花弁を垂らしていた月下奇人が命を取り戻し、赤い、生命に溢れた色の花を咲かせる。天を覆っていた闇が晴れ、世界は、光に溢れていく。

 

 比沙子は、顔を上げた。

 

 神が――完全な姿を取り戻した神が――天から比沙子を見下ろしていた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 恭也は天から見下ろす本当の神の姿を見た。

 

 姿かたちはそう変わらない。だが、半透明で、どこかひ弱な印象を受けた身体は、本来の色を取り戻したのか、まるで鎧のように頑丈な表皮に見える。

 

 だが、恭也は恐れはしなかった。こちらには、その神から授かったとされる武器がある。煉獄の炎の前には、神すらも無事では済まないだろう。

 

 恭也は宇理炎を掲げた。煉獄の炎を、神に向かって降らせるつもりだった。

 

 だが――神の姿が消えた。

 

 恭也は周囲を探すが、神の姿は無い。それでも、気配は感じる。

 

 神が鳴き声を上げた。

 

 その声に応じるかのように。天から何か降って来る。煉獄の炎ではない。鋭い槍のような稲妻。

 

 恭也は横に跳んだ。

 

 稲妻が、恭也の立っていた場所に突き刺さる。

 

 地の底まで響くような轟音と共に、地面に大きな穴が開いた。

 

 恭也は立ち上がり、周囲を見回すが、やはり、神の姿は見えない。

 

 また、神が鳴いた。天から稲妻が降ってくる。紙一重でかわす恭也。

 

 これでは戦えない。何か方法は無いか。神の姿を探す方法。

 

 そうだ。幻視。

 

 恭也は目を閉じ、神の気配を探した。

 

 すぐに見つけた。恭也の背後を飛んでいる。

 

 目を開け、振り返り、宇理炎を掲げた。

 

 大地から炎が吹き出し、燃え上がった。

 

 炎が、何も無い空間を焼く。いや、そこには、姿を消した神がいる。神が、苦しそうな悲鳴とともに姿を現した。神の身体が燃えている。やったか?

 

 だが、炎が消えると同時に、神の姿も消える。まだだ。神は、まだ生きている。

 

 神が鳴いた。再び天から稲妻の槍が降ってくる。かわす恭也。再び幻視を行う。恭也の右に気配を感じた。目を開け、宇理炎を掲げよとしたが、その前に、神が鳴いた。槍が恭也を襲う。何とかかわした。もう一度幻視を行い、宇理炎を掲げようとしたが、その前に神が鳴き、稲妻が落ちてくる。うまく行かない。神も警戒しているようだ。稲妻の槍をかわし、幻視で神の場所を探り、そちらを向いて宇理炎を掲げるのでは間に合わない。もっと確実に神の場所をつかむ方法は無いだろうか? 周囲に身を隠すようなものは見当たらない。このまま幻視で気配を探るしかないのだろうか?

 

 ――うん?

 

 恭也は、神の視点に、恭也の目には映らないもう一人の存在がいることに気が付いた。

 

 恭也に寄り添うように立つ少女。

 

 ――美耶子。

 

 恭也は目を開け、そばを見るが、やはり、恭也の目には映らない。

 

 だが、神の目を通すと、確かにいる。

 

 ――あたしはずっと、恭也のそばにいるよ。

 

 美耶子の言葉が聞こえたような気がした。

 

 美耶子は、恭也のそばに立ち。

 

 神がいる反対の方向を指さしていた。

 

 ――そこに行け、と、いうことか。

 

 恭也は目を開け、美耶子が指さした方向に向かって走った。

 

 神が追いかけて来る気配がする。鳴き声が聞こえ、稲妻が落ちる音も聞こえた。恭也は足を止めない。止まると、稲妻の槍に貫かれてしまう。ただ、走って、走って、走り続けた。

 

 何か、見える。

 

 薄霧に覆われていたものが徐々に姿を現すように、最初はぼんやりとしていたそれは、近づくにつれ、はっきりと見えてくる。

 

 巨大な三角錐の岩だった。

 

 ――眞魚岩、か?

 

 恭也が初めて美耶子と出会った場所にあった巨石と、同じものだった。

 

 眞魚岩の表面は鏡のように磨かれ、恭也の姿を写している。彼に寄り添うように立つ、少女の姿も。

 

 そして。

 

 こちらへ向かって飛んでくる、神の姿もまた、写っている。

 

 恭也は、神の方を向き。

 

 宇理炎を掲げた。

 

 炎の柱が神を包み込む。神の身体を焼く。神が、悲鳴を上げる。

 

 それでも、神の身体は燃え尽きない。

 

 また、姿を消した。

 

 だが、もう見失わない。

 

 眞魚岩を見た。神の姿は、はっきりと写っている。

 

 神に向かって、宇理炎を掲げる。

 

 神の身体が燃える。三度目の炎。

 

 神は、これまでとは違う、苦しみに満ちた鳴き声を上げ、地面に落ちた。

 

 だが、まだ神は死なない。恭也を睨むように、首を上げた。

 

 近づき、宇理炎でとどめを刺そうとする恭也。

 

 そこに、神の、触手のような腕が伸びて来て、恭也の手の宇理炎を薙ぎ払った。

 

 宇理炎は遠くに飛ばされた。

 

 恭也は、拾いに行こうとしたが。

 

 神が鳴き、天から槍が降ってくる。何とかかわす恭也。宇理炎を探している余裕はなさそうだ。

 

 恭也は、最後に残った武器・焔薙を両手に持って構え、神に向かって振り下ろした。

 

 しかし。

 

 恭也の両手に、とてつもなく硬い物を叩いた手応え。

 

 焔薙は神の腕によって受け止められていた。その刃は、神の表皮に傷一つ付けることはできなかった。

 

 やはり、この刀では神を倒すことはできないのか。

 

 と、眞魚岩に写る美耶子が、何か言っていることに気付いた。

 

 恭也に向かってではない。美耶子は、天に向かって、何か叫んでいる。

 

 ――きるでん、来い!!

 

 恭也には、そう言っているように聞こえた。きるでん? きるでんとは、なんだ。

 

 その、美耶子の声に応じたかのように。

 

 天から、四つの光輝く球体が下りてきた。

 

 四つの光の球体は、まっすぐに、恭也の持つ焔薙に向かって来る。

 

 焔薙は、光の球に包まれ、まぶしい光を放った。

 

 美耶子が、何か言っていた。

 

 ――斬れ!!

 

 そう聞こえた。

 

 恭也は、大きく頷き。

 

 焔薙を振り上げた。

 

 神が、天に向かって鳴き声を上げる。

 

 だが、稲妻の槍が落ちる前に。

 

 恭也は、咆哮と共に、刃を振り下ろした。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十四話 八尾比沙子 いんふぇるの 第三日/二十三時二十九分五十六秒

 神の元に駆け付けた八尾比沙子が見たものは、眞魚岩と、傷つき、地面にうなだれている神と、その神に向かって光り輝く焔薙を振り上げる須田恭也だった。

 

「や――やめ――」

 

 比沙子が、声を上げるより前に。

 

 恭也は、獣の咆哮と共に、刀を振り下ろした。

 

 刃は、神の首を、堕とした。

 

「……いやああぁぁ!!」

 

 比沙子は、悲鳴を上げた。

 

 信じられない。

 

 信じたくない。

 

 神が。

 

 ようやくよみがえった、もうひとりの私が。

 

 いま、その小さな命を、失った。

 

 比沙子は、目の前の現実が信じられなくて、それを否定したくて。

 

 ただ、悲鳴を上げ続けた。

 

 比沙子の、黒く美しかった髪が、急速に色を失い、燃え尽きた灰のような色になった。

 

 その姿は、まるで老女のようだった。

 

 比沙子は、叫び続けた

 

 

 

 

 

 

 やがて――。

 

 

 

 

 

 

 恭也が去った常世に、老女と化した比沙子は、一人、立っていた。

 

 神はもういない。地面を覆っていた月下奇人の花は枯れ、空は、また闇に覆われている。

 

 比沙子の足元には、恭也によって堕とされた神の首が転がっている。

 

 それを拾い、胸に抱く。

 

 比沙子は、歩いた。

 

 

 

 

 

 

 どこへ向かっているのかは判らない。ただ。

 

 ――この首を……届けなければ。

 

 そのような想いだけが、胸にあった。

 

 地面が揺れている。冷たい風が吹き渡り、枯れ落ちた月下奇人の花びらが、葉が、舞い上がる。揺れはさらに大きくなる。大地が引き裂かれた。亀裂は地を這う無数の蛇のように広がっていく。大地だけでなく、空も、世界も、引き裂かれていく。

 

 主を失った常世が、崩壊し始めた。

 

 比沙子は、かつて赤い池があった場所に来た。すでに水は無い。池の底には、石の台座が敷かれていた。

 

 その上に、比沙子は倒れ込んだ。

 

 胸に、神の首を抱き。

 

 ――届けなければ。

 

 胸に、強い意志を抱き。

 

 大地は引き裂かれ。

 

 比沙子は神の首と共に、地の底に落ちて行った。

 

 常世の地の底は、眞魚教の経典では『奈落』と呼ばれていた。

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 奈落の底で。

 

 

 

 ――私は諦めない。

 

 

 

 八尾比沙子の意志は、目覚めた。

 

 

 

 神はまだ、よみがえる。

 

 儀式は、まだ続けられる。

 

 私の世界では、失敗したけれど。

 

 まだ、望みはあるんだ。

 

 そう――。

 

 私が、この首を届ければ。

 

 この首を必要としている、別の世界の私に届ければ。

 

 儀式は、続けられる。

 

 たとえ、またそこで失敗しようとも。

 

 何度でも、首を届ければいい。

 

 必要としている、全ての場所に。

 

 ――そうだ。

 

 それが、私の使命。

 

 儀式に失敗した私が、神のためにできる、最後のこと。

 

 私は、首を届けよう。

 

 必要としている、全ての世界に届けよう。

 

 この命が尽きるまで、ずっと――。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十五話 四方田春海 ―――― 第三日/二十三時四十三分二十一秒

 崩壊した屍人の巣の一角で、四方田春海は物陰に身を隠し、膝を抱えて震えていた。屍人に追われ、隠れているのだ。屍人は近くにいる。春海がよく知る――春海が心から慕った人の、変わり果てた姿。

 

「お願い春海ちゃん……先生、もう怒ったりしないから、出てきて……」

 

 春海の小学校の担任教師・高遠玲子は、血の涙を流し、右手にバールを持ち、春海の姿を探している。春海を心配しているような声だったが、やがて。

 

「……先生がこんなに謝ってるのに、どうして許してくれないの!」

 

 急に、感情が高ぶった。バールを振り上げ、そばにある物を、手当たり次第に叩く。

 

「……どうして先生のいうことが聞けないの? どうしてそんなに悪い子なの!! 先生はめ……春海ちゃんのために言ってるの。お母さんは……先生は……春海ちゃんを助けようとしてるの! どうしてそれが判らないの!!」

 

 ヒステリックに叫びながら暴れる。

 

 春海は目を閉じ、耳を押さえ、恐怖に耐える。

 

 しばらくすると玲子は。

 

「……ごめん……ごめんなさい! お母さん……先生……また……怒っちゃった……」

 

 急に感情が変わり、泣いているかのような声を出す。

 

「……本当にダメなお母さんだよね……許して……春海ちゃん……お願い……出てきて……春海ちゃんを護りたいの……春海ちゃんに謝りたいの……」

 

 だが、その感情も消え、また玲子は怒り暴れ出す。暴れたと思ったら、泣いて謝る。そしてまた、暴れる。

 

 春海は泣く。春海は震える。怖い。たまらなく怖い。どうして玲子先生まで、あたしを襲うのだろう? どうしてみんな、あたしを追って来るのだろう?

 

 怖い。

 

 逃げられない。

 

 こんなに怖い思いをするのなら、先生の言う通りにした方がいいのではないだろうか?

 

 そう思う。

 

 先生は言う。あたしを助けようとしていると。あたしを護ろうとしていると。

 

 そうかもしれない。

 

 屍人が怖いのは、あたしが人間だからだ。

 

 なら、あたしも屍人になれば、もう怖くない。

 

 あたしも屍人になれば、もう誰も襲ってこない。もう誰も追いかけて来ない。

 

 屍人になれば、全て、うまく行くんだ。

 

 知子ちゃんは幸せそうだった。屍人になったお父さん、お母さんと、一緒に暮らせて。

 

 そうだよ。

 

 屍人になれば、もう怖い思いをしなくていい。

 

 屍人になれば、もう逃げなくていい。

 

 先生が護ってくれる。

 

 ずっと、先生と一緒にいられるんだ。

 

 先生が、お母さんになってくれる。

 

 あたしの、お母さんに……。

 

 春海は。

 

 

 

 ――お母さん、助けて。

 

 

 

 昨日見た夢を思い出した。

 

 闇の中、一人で泣いていた少女。お母さんに助けを求めながら、闇の底に沈んで行った。

 

 顔を上げる春海。

 

 ――そうか……あの子は……。

 

 春海は立ち上がると。

 

 大きく深呼吸をし、パンパンと、頬を叩く。

 

 ――逃げちゃダメ。あきらめちゃダメ。

 

 そして、玲子の前に出て行った。

 

 玲子が、春海の姿を見つけた。

 

「ああ! 春海ちゃん! そこにいたのね。さあ、先生の所に来て。一緒に、行きましょう」

 

 手を伸ばす。

 

 春海は、大きく首を振った。

 

「どうして? 先生、春海ちゃんを、いいところに連れて行ってあげるのよ? 怖くないんだよ? こんな所に一人でいる方が怖いでしょ? だから、ね?」

 

 優しい言葉だが、少しずつ苛立ちが含まれていることに、春海は気付いていた。言う通りにしないと、また、玲子先生は怒りだすだろう。怖い。そんな玲子先生の姿、見たくない。

 

 それでも、春海は首を振る。

 

「どうして……どうして先生のいうことが聞けないの!!」

 

 玲子の感情が、また高ぶる。

 

「あたしは! 春海ちゃんを護りたいの!! 春海ちゃんのお母さんになって! 春海ちゃんのそばにずっといるの!! 春海ちゃんはあたしの娘なの!! 誰にも邪魔させない!! 春海ちゃんは、あたしの!!」

 

 また、手当たり次第に周りの物を殴る。

 

 怯え、震える春海。

 

 そんな春海の様子気に気付いた玲子は、また、泣きながら言った。「……ごめんなさい……お母さん……本当は怒ってないの……ただ……春海ちゃんのためを思って……。ね? だから、行こう? お母さんと一緒に。先生は、春海ちゃんのお母さんなのよ?」

 

 春海は、また、大きく首を振る。

 

 そして。

 

「――先生は、あたしのお母さんじゃ、ない」

 

 小さいけれど、はっきりとした声で、そう言った。

 

 その言葉を聞いた玲子の表情が変わる。悲しみと、怒りの混じった顔。

 

「なんで……なんでそんな……酷いことを言うの……」

 

 玲子の声が、低く、恐ろしくなる。「こんなに春海ちゃんのことを思っているのに、こんなに春海ちゃんを護りたいと思っているのに! こんなに謝っているのに!! あなたは! どうしてあたしの気持ちが判らないの!!」

 

 バールを叩きつける。暴れる。

 

 怖い。涙があふれてくる。

 

 でも、泣かない。

 

 言わなくちゃいけない。

 

 先生は、あたしのお母さんじゃない。

 

 あたしは、先生の娘にはなれない。

 

 だって……。

 

「これだけ言っても判らない子は!!」

 

 玲子が、春海に向かってバールを振り上げた。

 

「だって……だって!」

 

 春海は逃げない。涙をいっぱいに溜めた目で、まっすぐに、玲子を見つめた。

 

「先生が本当に護らなければいけないのは、あたしじゃなくて、めぐみちゃんだから!」

 

 叫んだ。

 

 こんなに大きな声を出すのは、生まれて初めてかもしれない。もう二度と無いかもしれない。

 

 だから、心の底から。

 

「先生が本当に謝らなきゃいけないのは、あたしじゃなくて、めぐみちゃんだから!!」

 

 春海は、叫ぶ。

 

 玲子の振り上げたバールが、止まる。

 

「め……ぐ……み……」

 

 バールが震えている。玲子が震えている。

 

 めぐみちゃん――玲子先生の娘。二年前、海水浴中の事故で亡くなった。玲子先生が他の子供たちを助けている間に、海の底に消えた。

 

 春海は、叫ぶ。

 

「先生。あたしはめぐみちゃんじゃないの。だから、あたしを護っても、先生は救われない。あたしに謝っても、先生は許されないの。あたしをめぐみちゃんの代わりにしないで!!」

 

 春海の声が、玲子を震わせている。

 

「めぐみちゃんは今も泣いてる。先生が助けに来てくれるのを待ってる。一人でずっと先生を待ってるんだよ。どうして迎えに行ってあげないの? 先生がめぐみちゃんから目を逸らせば逸らすほど、めぐみちゃんは、どんどん孤独になっていくの!」

 

「めぐみ……あたし……は……」戸惑うような表情の玲子。

 

 春海は、ふっと、笑顔になった。「判ってる。先生、怖いんだよね。めぐみちゃんが怒っているかもしれない、めぐみちゃんに嫌われているかもしれない、そう思うから、めぐみちゃんと向き合うのが怖いんだよね」

 

 玲子の、振り上げたバールが震えている。

 

 玲子の気持ちは、春海にもよく判る。怖い、逃げ出したい――春海だからこそ、その気持ちが判るのだ。

 

 だから、言わなくちゃいけない。

 

 先生の気持ちが、痛いほど判るから。

 

「でもね、先生――」

 

 春海は、玲子を真っ直ぐに見据え。

 

「――どんなに怖くても、逃げちゃダメだよ! あきらめちゃダメだよ!!」

 

 春海自身が、ずっと心の支えにしてきた言葉を、ぶつけた。

 

「先生がめぐみちゃんにしたことは、許されることではないかもしれない。でも、だからって、めぐみちゃんから逃げちゃダメ。そんなの、先生じゃない!! あたしを護って、あたしに謝っても、何も解決しない。それじゃ、めぐみちゃんは、ずっと一人ぼっちのままなの!!」

 

 想いが、玲子に届くように。

 

 春海は、さらに言葉を継ぐ。

 

「――大丈夫。めぐみちゃんは、先生のことを嫌ったりはしない。どんなに怒られても、酷い目に遭わされても、子供は、それでもお母さんのことが大好きなんだから」

 

「めぐみが……あたしを……」

 

「そうだよ! だって、先生は、本当は優しい人だって、判ってるから」

 

 玲子は、小さく首を振った。「……あたしには……めぐみに会う資格なんて……ない……だってあたしは……あの時……あの子を見捨て……」

 

「そんなことない!!」春海は叫んだ。「それは、絶対違う! 先生は、めぐみちゃんを見捨てたんじゃない! 先生は、命を懸けて二人の子供を救ったんだよ!」

 

「――――」

 

「先生に命を救われた子は、今も、絶対、先生に感謝している。先生に護られた人生を、これからも、ずっと生きていくんだよ!! そのことは、絶対間違いないから!!」

 

 そして、春海は目を閉じ。

 

「あたしも、先生に護られた」

 

 両手を、胸に当てた。

 

「学校から逃げ出そうとした時も、刈割で屍人に襲われた時も、ずっと、先生が護ってくれた。先生がいたから、あたしは、今、ここにいる。まだ、人間でいられるの」

 

 だから――と、春海は言葉を継ぐ。

 

「あたしも、生きていく。もう、絶対に泣いたりしない。絶対に、あきらめたりしない。先生が護ってくれた人生を、ずっと、生きていきたいから」

 

 春海は目を開け、まっすぐに、玲子を見る。

 

「あたしは大丈夫。もう、先生に心配をかけるようなことはしない。だから……先生は、めぐみちゃんの所に、行ってください」

 

 そして、とびっきりの笑顔を浮かべ。

 

「先生のこと、大好きだよ」

 

 玲子に、最後の言葉を伝えた。

 

 玲子の手から、バールが滑り、音をたてて床に落ちた。

 

「春海……め……ぐ……み……」

 

 その、音に反応するように。

 

「……ううん? こっちから、春海ちゃんの臭いがするねぇ?」

 

 壁が崩れる。中から、バットを持った校長の屍人が現れた。

 

 息を飲む春海。

 

 校長は、触手でうねる顔を春海に向けた。「春海ちゃん、みーつけた。今度こそ、逃がさないよぉ?」

 

 春海に近づいて来る。

 

 春海は、泣き出しそうになった。逃げ出しそうになった。

 

 でも、玲子先生と、目があった。

 

 春海は、逃げ出しそうな足を踏ん張って立ち。

 

 鋭い目を、校長に向けた。

 

「――お前なんか怖くないもん!!」

 

 自分を奮い立たせるように、言う。

 

「あたしはもう泣かない! あたしはもう逃げない!! 先生が心配するから、もう、絶対絶対、あきらめないんだからぁ!!」

 

 春海は、拳を振り上げて、屍人に向かって行った。

 

 屍人のお腹を叩く。何度も、何度も、叩く。いや、叩く、というほど、強いものではない。柔らかい春海の拳と、非力な腕は、とても、叩くなどと呼べるものではなかった。

 

 屍人は、わずらわしそうに腕を振った。

 

 屍人の手に頬をはたかれた春海は、床に倒れた。

 

 それでも春海は、顔を上げる。目に涙をためながら、それでも泣かず、歯を食いしばり、屍人を睨み返す。

 

「大人に手をあげるなんて春海ちゃんは悪い子だ。お仕置きしなくちゃね」

 

 屍人が、バットを振り上げた。

 

 春海は目を閉じる。

 

 空気を斬り裂く音がした。

 

 がつん、と、音がして。

 

 でも、痛くない。何かに抱きしめられているような感覚。

 

 春海は、目を開けた。

 

 玲子が、春海を抱きしめていた。

 

「……春海ちゃん……大丈夫……?」

 

 春海に、笑顔を向ける。

 

 血の涙を流し、人ではない肌の色をしていても。

 

 それは紛れもなく、春海が大好きな、玲子先生の笑顔だった。

 

 屍人が、もう一度バットを振り上げる。

 

 そのバットが振り下ろされるよりも早く、玲子が、屍人の身体に飛びついた。

 

 少しでも春海から遠ざけようと、屍人の身体を押す。屍人も踏ん張るが、玲子の方が強い。屍人は、背後の壁に激しく背中を打ち付けた。

 

 その衝撃で、巣が、大きく揺れる。

 

 洪水により崩壊しかけていた巣だ。わずかな衝撃でも、崩れる可能性がある。

 

 玲子と、屍人の頭上から、瓦礫が降ってきた。

 

 玲子が振り返った。春海を見た。

 

 ――春海ちゃん、ありがとう。

 

 玲子の目が、そう言っていた。

 

「先生!!」

 

 春海の声は、瓦礫の崩れる音に飲み込まれた。

 

 春海は、意識が薄れていくのが判った。ずっと張っていた気持ちが、ぷつりと、切れてしまったのかもしれない。

 

 ――先生、ありがとう。

 

 心の中で、そう告げて。

 

 春海は倒れた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 意識を失う前、誰かの気配を感じた。先生でも、屍人でもない。春海より年上の男の子だった。

 

 男の子そばに、美耶ちゃんがいるような気がした。

 

 でも、姿は見えなかったから、気のせいかもしれない。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十六話 須田恭也 大字粗戸/耶辺集落 後日/〇時十三分三十三秒

 神の首が堕ち、八尾比沙子が奈落に飲み込まれた数日後――。

 

 

 

 

 

 

 須田恭也は大字粗戸から大字波羅宿へ向かう山道にいた。右手に神の武器・宇理炎を、左手に神代の宝刀・焔薙を持ち、そして、背中に小銃・散弾銃を背負い、腰には拳銃や手榴弾を携えている。

 

 緩やかな下り坂の先には集落が見える。数日前に発生したダムの決壊により、眞魚川周辺の集落は半壊したのだが、屍人たちは、再び家を建てようとしていた。

 

 恭也は携帯音楽プレイヤーを取り出した。カセットテープ式だ。もう、ずいぶんと型落ちの物で、CDやMDと比べて音質が悪く、早送り巻き戻しが面倒で、シャッフル再生ができないなど、不満は多いが、激しい動きをしても音が飛ばない点は気に入っている。ずっと使い続けているが、最近では、音楽プレイヤー自体にCD何枚分もの音楽を録音できる物も発売されている。音飛びもしないし、ずっと欲しいと思っているのだが、なかなか手が出ない値段だった。まあ、今はまだ、この古い音楽プレイヤーでも十分だ。

 

 そんなことを考えながら、恭也はヘッドフォンを付け、携帯音楽プレイヤーのボリュームを上げた。ハードなロック曲が、鼓膜と脳を刺激し、気分が高揚してくる。

 

 恭也は坂を下り、集落の入口に立った。屍人たちが気付き、一斉にこちらを見る。警戒する者、襲い掛かろうとする者、脅えている者……様々な反応を見せた。

 

 恭也は、天高く宇理炎を掲げた。

 

 恭也の命の炎が、宇理炎を通して天へと昇っていく。

 

 天から、青白い炎が、雨のように降りそそいだ。

 

 炎が、屍人を、家を、村を、焼く。

 

 もちろん、それで恭也の命の炎が燃え尽きることはない。

 

 恭也は宇理炎をポケットに収めると、焔薙を両手に持ち替え、咆哮を上げながら集落へ入った。

 

 屍人を斬る。

 

 一人、もう一人、また一人、と、屍人を斬り捨てていく。

 

 銃も撃つ。小銃も、散弾銃も拳銃も、手榴弾も使い、屍人たちを殺していく。

 

 炎に燃えている屍人、燃えていない屍人、襲って来る屍人、逃げる屍人、泣いている子供の屍人、子供を護ろうとする屍人――。

 

 すべて、手当たり次第に斬り、銃で撃ち、手榴弾で爆破していく。

 

 屍人が一人倒れるたび、恭也の気分は高揚していく。脳を刺激するハードな曲が、それをさらに高める。さらに殺す。気分が高まる。

 

 恭也は、ふと。

 

 

 

 ――これじゃあまるで、三十三人殺しの犯人だな。

 

 

 

 そんなことを、思った。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 約束したんだ。

 

 すべて、終わらせるって。

 

 屍人も。

 

 村も。

 

 全部、消す、と。

 

 美耶子との約束だから。

 

 約束したんだから――。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 恭也は、殺戮を続ける。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十七話 須田恭也 大字粗戸/耶辺集落 後日/四時四十四分三十九秒

 須田恭也は、一人、村を歩いていた。

 

 いや、一人ではないかもしれない。そばにはずっと、美耶子がいる。

 

 彼の後ろには、焼け落ちた集落がある。多数の屍人の焼死体もある。煉獄の炎に焼かれた屍人は、もう二度と、よみがえることはない。

 

 後、何人の屍人を殺せばいいだろう? これまでも、多くの屍人を葬ってきた。元々人口の少ない村だ。二・三日で、全て終わるだろう。

 

 

 

 ――あいつらも……この村も……全部消して。

 

 

 

 美耶子の声が聞こえたような気がした。

 

 空を見上げる恭也。

 

 濃い雲に覆われているが、雨は降っていない。

 

 ただ、空の向こうに、屍人がいるような気がした。

 

 

 

 

 

 

 行かなくては。

 

 消さなくては。

 

 すべて、終わらせなければ。

 

 美耶子との……約束だから……。

 

 

 

 

 

 

 殺戮は、終わらない。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 その、数日後――。

 

 

 

 

 

 

 安野依子は、大字粗戸の小さな丘の上にある古い民家の前にいた。引き戸の玄関と小さな自転車、鉢植え、そして、柱の表札には『竹内』と、ある

 

 ――ふうん。これが、先生の実家か。なかなか趣がありますな。

 

 安野はバットを肩に置き、幻視を行った。家の中に竹内の気配がある。泥人形のような屍人の膝を枕にし、もう一人の泥人形に肩を抱かれ、「多聞、今日の夕飯は、何がいいかしら?」「うーんとね、ボク、ハンバーグが食べたい」「はっはっは。多聞は、母さんのハンバーグが好きだなぁ」などと、一見すると家族団らんな様子だ。

 

 ……何をやってんだあの男は。ドルオタの上にマザコンと来たか。はあ。ため息が出る。今回の村の調査に同行したのは間違いだったかもしれない。研究家としては優秀で、大学に入る前から尊敬していた先生だけに、こんな情けないプライベートの姿は見たくなった。

 

 まあいいや。とりあえず、ここから連れ出さなければ。

 

 安野は玄関から中に入り、居間の襖を開けた。

 

 安野の姿を見た泥人形と竹内は、脅え、後退りする。

 

 安野は、バットを振り上げた。

 

 ――が。

 

 静かにバットを下ろす。泥人形屍人を殴って竹内を連れていこうと思っていたが、こんな姿をしていても先生のご両親だ。先生本人を殴るなら何のためらいもないが、親御さんを殴るのはさすがに気が引けた。

 

 安野は畳の上に正座すると、バットを置き、両手をついて頭を下げた。「お父様、お母様、はじめまして。私、竹内先生の優秀な助手をしてます、安野依子と申します。先生にはいつもお世話になり、それ以上に世話を焼かされています」

 

 顔を上げる安野。相変わらず竹内と両親は怯えている。まあ、それも仕方がないだろう。今の三人には、安野の姿が化物に見えるのだ。

 

 安野は立ち上がった。「スミマセン。ちょっと大事なお話があるので、先生、お借りしますね」

 

 そう言って竹内の手を取り、連れ出そうとした。が。

 

「ええい、離せ! 化物! 貴様のような助手を持った覚えはない! 私はここで、お父さんお母さんと暮らすのだ!」

 

 安野の手を振りほどき、また泥人形に抱きつく。

 

 ……やれやれ。しょうがないヤツだ。このまま殴ってムリヤリ連れ出すのもテだけど、ここは、とっておきのヤツを使おう。

 

 安野はポケットから注射器を取り出した。中には赤い液体が入っている。

 

 針を覆っているカバーをはずし、ぷす、っと、竹内の首筋に刺した。赤い液体を注入する。

 

「――うん?」

 

 突然キョロキョロと辺りを見回しはじめる竹内。そばにいる泥人形の両親を見て、「うわっ!」と、驚きの声を上げた。泥人形の両親も、竹内の姿を見て「ああ! 多聞が! 化物に!!」と、怯えはじめた。

 

「先生。目が覚めましたか?」安野は、竹内の後ろから声をかけた。

 

「おお。安野。なんだ? 私は今まで、何をしていたのだ」状況が把握できないのか、相変わらず周囲を見回す。

 

「まあ、御両親が怯えていますので、話は外でしましょう。行きますよ」

 

 安野は竹内の手を引いて、家の外に出た。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「……それで、安野。私に何を注射した。ヤバイ薬ではないだろうな」

 

 家を出た竹内多聞は、首筋をさすりながら安野に訊いた。目覚める前、何か赤い液体を注射された記憶がある。

 

 安野は、空の注射器を取り出し、ドヤ顔で言った。「あたしが開発した屍人ワクチンです。これは、ノーベル医学賞モノですよ?」

 

「屍人ワクチン、だと?」

 

「はい。『RHマイナスへの4番』と名付けました」

 

「名前はどうでもいい。それより、成分は何なんだ」

 

「いい名前だと思うんですけどねぇ? ま、いいですけど。これは、あたしの血です」

 

「安野の、血?」

 

「はい。つまり、恭也君の血であり、元々は神代美耶子ちゃんの血です」

 

「神代の……血……だと?」

 

「そうです。これを体内に入れると、決して屍人化することはありません。さっきの先生のような、ギリギリ屍人さんじゃない状態なら、まだ間に合います。残念ながら、完全に屍人さんになってしまうと、効果はありません」

 

 神代の血……そうか。神代の娘は決して屍人にならない。同様に、その血を体内に取り込んだ者も、屍人にはならない。神代美耶子が自分の血を須田恭也に分け与え、須田恭也の血が安野に輸血され、そして、今度は安野の血が私に入ったのか……竹内はそう考えた。

 

 そして、自分が完全に屍人にならなかった理由も判った。数日前、八尾比沙子に囚われた時、自分と恭也は赤い水たまりの中にいた。あの時、恭也も自分も怪我をしていた。恭也の流れ出した血が、赤い水を通じて自分の体内に入ったのだろう。だが、それがかなり微量だったため、人と屍人との間で苦しみ続けていたのだ。

 

「ちなみに――」と、安野が続ける。「この薬、ちょっとした副作用もあります。いえ、大したことはありません。ちょっと、死ねなくなるだけです」

 

 安野は、さらりとした口調で言った。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……そうか。それは確かに、ちょっとした副作用だな」

 

「そうですね」

 

 ため息をつく竹内。神代の娘は決して死なない。死ぬことができない。血を共有した者も同じだろう。

 

 安野があごに指を当てる。「あ、でも、死ねないとは言っても、精神的なものなので注意してください」

 

「精神的なもの?」

 

「はい。簡単に言うと、心は不死身ですが、身体は不死身ではありません。身体が死んでも、心は生き続けます。まあ、治癒能力も上がってるので、歳をとることも、大きな怪我で死ぬこともないですが、即死ダメージや治癒が追いつかないほど継続してダメージを受け続けると、身体は死んじゃいます。なので、頭を撃たれたり、全身に火を点けられたりするのはヤバイです。その点だけは注意してください」

 

 身体が死に、精神だけが生き続ける……それがどういうものなのかは竹内にも判らない。だが、いずれは竹内達の身にも起こることになるのかもしれない。

 

「まあ、今はあんまり気にしてもしょうがないので、気楽に行きましょう」安野は、のんきな声で言った。「それより、神様と、八尾比沙子さんなんですが」

 

 竹内は身を乗り出した。「そうだ。あいつらはどうなったんだ?」

 

「数日前、恭也君に会って話を聞きました。神様は、恭也君が倒しちゃったそうです」

 

「あの少年が? いったい、どうやって?」

 

「宇理炎っていう神の武器で焼いて、焔薙っていう神代家の宝刀で首を斬り落としたそうです」

 

 宇理炎に焔薙。ふたつとも、古くから村に伝わる神具だ。まさか、神をも葬るほどの力があったとは。

 

 安野は話を続ける。「それで、八尾比沙子さんの方なんですけど、神様の首を持って歩いてたら、地面が割れて、その裂け目に落ちて行ったそうです」

 

「地面の裂け目?」

 

「はい。恭也君が言うには、『奈落』だとか」

 

 奈落? 地獄と同義の言葉だ。眞魚教の経典では、常世の地の底にあると言われている。

 

 竹内は安野を見た。「恭也君はどこにいる? 詳しく話を聞きたい」

 

「ああ。ムリです」安野は右手をひらひらと振った。

 

「無理? どうしてだ?」

 

「奈落に落ちた比沙子さんを追いかけて、別の次元に行っちゃいました」

 

「別の次元?」

 

「はい。『美耶子と約束したから、屍人を全部倒すんだー!』って、ずいぶん張り切ってましたよ」

 

「安野。何を言ってるか判らん。もっと、詳しく説明してくれ」

 

「そう言われても、あたしも確かなことは判らないんです。まあ、想像の話ならできますけど」

 

「それでいい。話せ」

 

「えーっとですね、この世には、たくさんの世界があると思うんです」

 

「たくさんの世界?」

 

「はい。まず、あたしたちが元いた『現世』。そして、今いる『異界』――」

 

 安野は、バットで土の地面に絵を描きながら説明する。

 

「――そして、恭也君が神様と戦った『常世』。常世の地の底にある『奈落』。いま確認できているだけで、これだけの世界があるんですが……」

 

 安野は、異界の絵のそばに、もうひとつの絵を描いた。

 

「別の次元に行けば、また、別の異界があると思うんです」

 

「別の異界?」竹内は目を丸くした。「パラレルワールドというヤツか?」

 

「そうですね。今いるあたしたちの世界とは、ほんのちょっと違う世界――例えば、先生が一人で村に来た世界とか、逆に、あたしが友達を何人も連れて来た世界とか、あるいは、なぽりんが今でも売れっ子アイドルを続けている世界とか」

 

「そんな世界があったら、ぜひ行ってみたいが……いや、私は、今のなぽりんが好きなのだ。どんな逆境であっても、諦めず、夢を追い続けるなぽりんこそが真のなぽりんであり……だがしかし、あの時アイドルグループからの卒業という選択肢を選ばなかったなぽりんも、それはそれで――」

 

「何気ない例え話です。先生が別世界に行かないでください」

 

「……悪かった。続けてくれ」

 

 一度大きく息をついた安野は、さらに絵を描きながら続ける。「――で、この世界での神様の復活に失敗した比沙子さんは、別の世界で神様を復活させようと思ったんじゃないでしょうか?」

 

「――――」

 

「この世界で神様を迎える儀式が失敗したのは、神の花嫁・神代美耶子ちゃんが、御神体……いわゆる神様の首を壊してしまったためです」

 

「そうなのか?」

 

「はい。恭也君が言ってました」

 

「ふうむ」

 

「でも、その後、比沙子さんの手により、儀式は再開されました。詳細は比沙子さんにしか判りませんが、おそらく、別の次元から、誰かが神様の首を届けに来たんだと思います」

 

「神の首を届けに来た……『うつぼ船』か!?」

 

「さすが先生。その通りです」安野は、パチッとウインクをした。

 

 うつぼ船とは、羽生蛇村に伝わる伝承のひとつだ。昔、川上から、お椀にガラスの蓋をしたような形の船が流れて来て、中には、眉と髪が白く、目が赤みがかった、異様な風体の女がいた。その女は、奇妙な蛮字が書かれた箱を大事そうに抱えていた。と、いう話だ。村の歴史を研究している者の中には、その箱に書かれてあった蛮字は『首』という意味だ、と、言う者もいる。

 

 安野はさらに話を続ける。「その後、届いた首を使って比沙子さんは儀式をしましたが、なんやかんやあって、神様は首を落とされ、儀式は、永遠に失敗してしまったわけです。でも、手元には首がある。これを別次元に届ければ、その次元で、儀式を続けられる……」

 

「八尾比沙子自身がうつぼ船に乗って首を届けに行ったのか!?」

 

「はい。そういうことではないかと。あくまでも推測ですが」

 

「と、すると、恭也君は、八尾比沙子を追って……」

 

「そうです。恭也君は、比沙子さんが首を届けた世界に行って、そこにいる屍人をぶっ殺すつもりなんでしょう」

 

「し……しかし……それでは……」

 

「はい。恭也君が次の世界で屍人を滅ぼしても、その間に、また比沙子さんが別の世界に首を届けているんです。恭也君は、その世界にも屍人を滅ぼしに行くでしょう。でもその間に、また別の世界に首が届いている……以下繰り返し、です。これが普通の人間ならいつかは寿命が尽きて終わるんですが、残念ながら、首を届ける人も、屍人を滅ぼす人も、永久に死なない人なんです。いつまでたっても終わりません。まさに永久ループ。これ、ハッキリ言って、笑えません」

 

 永遠の命を持った者が新たな世界を作り、永遠の命を持った者がそれを滅ぼす。それが、永遠に続く。

 

 ――虚母ろ主(うろぼろす)の輪。

 

 眞魚教の経典・天地救之伝にある言葉だ。ウロボロスとは、古来より世界中の神話や宗教に登場する考え方のひとつで、自分の尾を噛んで輪となったヘビ、もしくは竜のことだ。ヘビは不老不死の象徴とされ、それが尾を噛む姿は、始まりと終わりという概念が無い物の象徴とされている。眞魚教もこの考え方を取り入れ、虚母ろ主(うろぼろす)の輪という字をあてたのだろう。

 

 須田恭也と八尾比沙子は、この、虚母ろ主の輪に取り込まれてしまったのではないだろうか?

 

 本来、この世界は『神代美耶子が神の首を破壊し、神迎えの儀式が失敗』ということで、時間が進むはずだった。

 

 だが、八尾比沙子が神の首を持って奈落に落ち、首を必要としている全ての世界に届けることで、『首が届くことで儀式を行い、神が復活するが、須田恭也に首を落とされ、八尾比沙子が首を別の世界に届ける』という出来事が、永遠に繰り返されることになった。

 

 まさしく、虚母ろ主の輪だ。そこには、始まりも、終わりも、存在しない。永久に抜け出すことはできないだろう。

 

 安野は、大きくため息をついた。「あたし、一応、恭也君に今の説明をして、止めたんですよ。いつまでたっても終わらないミッションだからやめとけって。でも、『屍人も村も全部消すって美耶子と約束したから』って、聞かないんです。あれ、美耶子ちゃんに憑りつかれてますね」

 

「憑りつかれる?」

 

「はい。美耶子ちゃんって、神様の生贄にされちゃいましたけど、身体は死んでも心は死にません。たぶん、今も恭也君のそばにいて、あれをしろ、これをしろ、って、いろいろ命令してるんだと思います。恭也君、なんか、ときどき空を見上げて、ぶつぶつ独りごと言ってましたから」

 

 神代美耶子が須田恭也のそばにいる――確かに、神代の娘なら、それはありうることだろう。神代の娘は、身体が滅びても精神は滅びない。

 

 だが、そのせいで恭也が抜け出すことのできない永遠の輪の中に入ってしまったのなら。

 

 それは、もはや呪いだ。神代の娘の呪い。

 

 安野は、竹内がこれまで見たことないような怖い顔になった。「……あたし、美耶子ちゃんって娘には会ったことないですけど、ちょーっと、友達にはなれないと思いますね」

 

 人懐っこい安野が、これほどまでに嫌悪感を表すとは、よほど気に入らないのだろう。

 

 だが、またすぐに、いつもののほほんとした顔に戻る。「――まあ、恭也君の命は恭也君本人のものですからね。どう使おうが、彼の自由でしょう。彼がそれでいいと言うのなら、あたしたちが無理に干渉することではないかもしれません。行っちゃったものはしょうがないので、あたしたちは、あたしたちのやるべきことをやりましょう」

 

「やるべきこと?」

 

「はい。恭也君がこの世界の屍人さんをほとんどやっつけてくれたんで、ずいぶん行動しやすくなりました。さ、行きましょうか」

 

 安野は、まるで遠足にでも行くかのような明るい声で言い、歩きだした。

 

 だが、竹内はその場に立ち尽くす。

 

 安野が振り返った。「あれ? どうしたんです先生? ぼーっと突っ立っちゃって」

 

 竹内は、大きく首を振った。「ダメだ、安野。逃げ場は、もう無いんだ」

 

「はい? 逃げ場?」

 

「ああ。私たちはもう、元の世界には戻れない」

 

 竹内は、膝から崩れ落ちた。

 

 安野は、無言で竹内を見つめる。

 

 あの赤い水を体内に取り込んでしまったら、決して、この世界から逃げることはできない。もう、元の世界には戻れない。死ぬこともできない。永遠に、この異界をさまようしかない。

 

「すまない……安野……君を、こんなことに巻き込んでしまって」

 

「…………」

 

 安野はきょとんとした顔をしている。事態が深刻過ぎて理解できていないのかもしれない。

 

「安野……君はもう……帰れないんだ……本当に……すまない……」

 

 竹内は、地面に頭を擦り付けた。

 

 私はまだいい。私は、自分で望んでこの村に戻って来たのだ。泥人形のような姿になってしまったが、家族もいる。だが、安野には、何も残されていない。私が、安野を巻き込んでしまった。やはり、連れて来るべきではなかったのだ。悔やんでも悔やみきれない。

 

 だが、安野は。

 

「なに言ってんですか先生。あたし、まだ帰る気なんて無いですよ?」

 

 明るい声で、言った。

 

 顔を上げる竹内。

 

 安野の顔には、絶望も、後悔も、怒りも無かった。それは、いつも通りの――何も考えていないような、のほほんとした安野の顔。

 

「帰る気が無い……だと……?」

 

「はい。当然ですよ。だって、この世界には、羽生蛇村一三〇〇年分の謎が、ててんこ盛り盛りに詰まってるんですよ? 研究者のはしくれとして、それらの謎を解かずに帰るなんて、あり得ないでしょ?」

 

 安野は、当然のように言った。

 

「謎を、解き明かす?」

 

「そうです。あたしたちがこの数日の間に解いた謎なんて、村の歴史からすれば、ごく一部なんですから。解かなきゃならない謎は、まだまだ沢山あります。ぼーっとしてる時間は無いですよ? なんせ、一三〇〇年分の謎ですからね。時間がいくらあっても足りないくらいです。ま、時間はいくらでもあるんですけどね。なんてったってあたしたち、不死身ですから」

 

「……し……しかし……」

 

 顔を伏せる竹内。確かに、まだこの村に謎なことは多い。だが、どんなに調べても、調べ終わることはないだろう。なぜなら、謎は、これからも増え続けるからだ。村の呪いはこれからも続く。謎は、これからも増え続けるのだ。永遠に増え続ける謎に、永遠の命を持った者が挑む。それでは、八尾比沙子や須田恭也と同じだ。永久にループし続ける。私たちも、虚母ろ主の輪に取り込まれてしまう。

 

 だが、それでも安野はのほほんとした顔をしている。「――それに、あたしが調べた限り、赤い水を体内に取り込んでも現世に帰った人、いますよ?」

 

「――――?」

 

 顔を上げる竹内。

 

 赤い水を取り込んで、現世に帰った人、だと?

 

「それは……誰だ……?」竹内は恐る恐る訊いた。

 

「吉川菜美子ちゃんです」

 

「吉川菜美子……だと……?」

 

「はい。吉川菜美子ちゃんは、二十七年前の七月――前の怪異が起こる一ヶ月前ですね――に、合石岳に出かけたまま行方不明になっています。この辺のことは、先生の方が詳しいでしょう。なんてったって、当時村にいたんですから」

 

 その通りだった。当時竹内は七歳。吉川菜美子とは歳が離れていたから一緒に遊ぶことはほとんどなかったが、村に子供自体少なかったので、よく知っている。失踪直後は、子供たちの間で、神隠しに遭っただの、UFOにさらわれただの、いろいろと話題になった。

 

 安野はゆっくりとした口調で話す。「先生は土砂災害の後村を出たから知らないかもしれませんけど、その後、菜美子ちゃんは羽生蛇村小学校七不思議のひとつになってまして」

 

「羽生蛇村小学校七不思議?」

 

「はい。神隠し騒動から数年後、学校の図書室で本の整理をしていた先生が、吉川菜美子ちゃんと同じ服を着た四つん這いの老婆を見た、というものです。その老婆は、当時吉川菜美子ちゃんが図書室で借りていた本を返すと、関節バキバキ折りながら姿を消しました。その後どうなったかは不明ですが、今も特別な病院で生きている……と、こんな感じの怪談話ですね。この話、詳しくはネットで読めますので、良かったらググってみてください。まあ、この村のパソコンがネットに繋がっていれば、ですけど」

 

 安野の話を聞き、はっとする竹内。四つん這いの老婆……特別な病院……?

 

「気が付きましたか?」安野は、満足そうに頷いた。「菜美子ちゃん。神隠しに遭ったというのは、異界に取り込まれたと見て間違いないと思います。神隠し事件は土砂災害が発生する前ですが、この村では昔から行方不明者が多いことで有名ですから、何かの拍子に異界に行ってしまうのは、珍しいことではないんでしょう。で、怪談話に出てくる四つん這いの老婆というのは、犬屍人さんになった吉川菜美子ちゃんで、特別な病院というのは、宮田医院のことだと思います。宮田医院の求導師先生にも聞きました。宮田医院は、現世に現れた屍人さんを密かに捕えて、地下牢に閉じ込めたり、処分したりしてるって。その中に、子ども服を着た関節バキバキの犬屍人さんもいたそうですよ? 求導師先生が子供の頃、解剖したことがあるそうです」

 

 確かに、それならつじつまが合う。屍人が現世に現れている、というのも、十分あり得る話だった。現世の羽生蛇村でも、屍人や幻視のことは広く知れ渡っている。村に伝わる伝承のようなものだが、実際現世に屍人が現れなければ、このような伝承も生まれないだろう。宮田医院が屍人を処分していたならば、異界から現世に戻った者は、案外多いのかもしれない。

 

「まあ、どうやって帰るのか、までは、まだ判りませんけどね」安野はあごに指を当てた。「調べてみる価値はあると思いますよ?」

 

「異界から……帰れる……」竹内は、なんと言っていいか判らなかった。「いや、しかし……それはあくまでも、特別な例かもしれない。我々が帰れるという保証は、何も無い」

 

「もちろんです。だから、今から調べるんじゃないですか」

 

「――――」

 

「ま、先生が『帰れない』と主張するのなら、それはそれで構いません。でも、どんなに有力な説でも、証明しない限りは仮説のひとつにすぎませんから、あたしは認めません。あたしを納得させたいなら、帰るためのあらゆる方法を全て試し、どんな方法を使っても絶対に帰れないということを証明してください。そうすれば、先生の説が正しいことを認めます」

 

 安野は、胸を張って言った。

 

 説の証明――それは、研究者の誰もが目指すところだ。竹内は学会において多くの説を唱えてきたが、荒唐無稽で話にならないと、常に嘲笑されてきた。だが、その多くは正しかったと、今も確信している。この、異界の存在も、そのひとつだ。

 

 安野が挑戦的な視線を向けた。「どうします? 羽生蛇村一三〇〇年の謎に挑みますか? それとも、家に帰って家族ごっこを続けますか?」

 

 竹内は顔を伏せ、フフッと笑った。「……まったく、楽観的でいいな、貴様は」

 

「そうですか? ま、それだけが、あたしの取柄ですし」

 

 そんなことはない――と、竹内は心の中で呟く。

 

 いつ命を失うかもしれない状況でも冷静に行動し、私と別れた後も一人でこれだけのことを調べた安野。非常にデキのいい教え子だ。近い将来、私などとは比べ物ならないほどの優秀な学者になるだろう。こんな小さな異界の村でくすぶらせておくには惜しい逸材だ。絶対に現世に戻らねばならない。そして、学会のマヌケどもに一泡吹かせてやろう。

 

 竹内は顔を上げた。「――よかろう。羽生蛇村一三〇〇年の謎、解いてやろうじゃないか」

 

「やったぁ。さすが先生。そう来なくちゃ」安野は手を叩いて喜んだ。

 

「そうと決まればぐずぐずしておれん。行くぞ、助手よ!」

 

 スーツの襟元を整え、歩き出す竹内。

 

「はいはーい。どこまでもお供しますとも」

 

 安野は、いつものように手を挙げ、子供のような調子で応えた。

 

 そうだ。私たちは、立ち止まっているヒマはない。

 

 全ての謎を解くまでは。

 

 神が死に、八尾比沙子が奈落に消えても、まだ終わったわけではない。

 

 そう――俺たちの戦いは、これからだ!

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「……はい」

 

「何だ、この打ち切りの少年マンガみたいな終わり方は」

 

「ま、イイじゃないですか。さ、行きますよ」

 

「……まったく」

 

 

 

 ☆

 

 

 

 その、数日前――。

 

 

 

 四方田春海は、瓦礫と化した村を歩いていた。

 

 今、どこにいるのか判らない。知らない場所だ。たとえ知っている場所だとしても、どこを見ても崩れた家屋や建物でいっぱいだ。もう、ここは、春海の知っている村ではない。

 

 一人で、ずっとここまで歩いてきた春海。

 

 怖かった。心細かった。

 

 でも、もう泣かなかった。

 

 玲子先生と約束したから。もう泣かない、もうあきらめない、と。

 

 雨は降っていない。空には、雲ひとつ無かった。

 

 時々、パラパラというプロペラの音が聞こえる。ヘリコプターが飛んでいるのだ。無線で会話するような、ノイズ交じりの声も聞こえる。

 

 誰かの気配がした。

 

 春海の方に近づいて来る。

 

 とっさに、瓦礫の陰に身を隠す春海。

 

「――大丈夫だよ」

 

 低い、ガラガラの声だった。男の人のようだ。

 

「おじさん、みんなを助けに来たんだ。怖がらなくていいから、出ておいで」

 

 春海が隠れたのを見て、気を使っているのだろう。決して、向こうから近づこうとはせず、その場で待っている。

 

 春海は、ゆっくりと、瓦礫の陰から出た。

 

「こんにちは」

 

 見たことがない男の人が、にっこりと笑っていた。緑と黒の迷彩柄の服を着て、頭にヘルメットをかぶっている。クマみたいに大きな男の人だった。笑っているが、なんとなくぎこちない。普段は笑うことなんてない、いつも、怒ったような顔をしている人なのかもしれない。

 

 でも、不思議と春海は、怖いとは思わなかった。このおじさんは、宮田先生と同じだ。見た目は怖そうでも、本当は、優しい人。

 

 おじさんは、春海と同じ目線にしゃがんだ。「おじさん、『みさわたけあき』っていうんだ。お嬢ちゃんの名前、教えてくれるかな?」

 

「四方田……春海です」

 

「ありがとう、春海ちゃん。どこか、ケガをしたり、痛い所とか、ある?」

 

「大丈夫、です」

 

「そうか。それは良かった。じゃあ、春海ちゃんの、住んでるお家の住所とか、学校のクラスとか、判るかな?」

 

「おうちは、刈割の教会の近くの、叔父さん叔母さんの家です。学校は、羽生蛇村小学校・折部分校の、三・四年クラスです」

 

「うん。偉いね。春海ちゃん、ちょっと、待っててくれるかな」

 

 そう言うと、おじさんは横を向き、肩に取り付けてあるトランシーバーみたいな機会に向かって、いま春海が話したことをそのまま告げた。トランシーバーからは《了解》と、ノイズ交じりの返事が返ってきた。

 

 おじさんは、また春海を見た。「春海ちゃんは、いま、ひとりかな?」

 

 春海は、黙ってうなずく。

 

「おじさん、みんなを助けに来たんだ。大きな地震が起こって、村の人が困ってると思って。春海ちゃん。もし、話したくないならいいんだけど、お父さんお母さんや、近所の人や、友達とか先生は、どこにいるのか判るかな?」

 

「お父さんお母さんは、去年、交通事故で死にました。叔父さん叔母さんは、判りません。近所の人やともだちも……」

 

「そうか……ごめんね……イヤなこと訊いて」

 

 春海は、小さく首を振った。「大丈夫。おじさんに、聴いてほしいから」

 

「……そうか」

 

「玲子先生は、地震が起こった後、あたしを護ってくれたの。校長先生が死んで、村のみんなもいっぱい死んで、しびとになって追いかけて来たけど、ぜんぶ、先生がやっつけてくれた」

 

「――――?」

 

「でも、教会から田堀に行く途中で、玲子先生も死んじゃって、しびとになって、あたしを追いかけて来た。知子ちゃんも、前田のおじさんおばさんも、村のみんな、全員」

 

 おじさんは、春海の話を、頷きながら聞いていた。余計なことは何も言わず、ただ、笑顔で聞いている。

 

「最後に、校長先生が追いかけて来たけど、玲子先生が、元の優しい玲子先生に戻って、助けてくれた。だから、あたしは、ここにいるの」

 

 おじさんは、優しく春海の頭を撫でてくれた。「――怖い思いをしたんだね。頑張った」

 

 春海は、大きく頷く。「一人で怖くて、寂しくて、何回も泣いたけど……でも、もう泣かないの。玲子先生が、また怖い人になって、追いかけて来ちゃうから」

 

「……大丈夫。もう、怖いことなんて無いからね」

 

「あたしが泣くと、玲子先生は心配する。それじゃあ、ダメなの。玲子先生が、めぐみちゃんの所に行けない。怖い人になって、また、戻ってきちゃう。めぐみちゃんが、また泣いちゃう」

 

「――うん」

 

「だからあたし、もう泣かないの。あきらめないの。どんなに怖くても、どんなに寂しくても、絶対泣かない。玲子先生との約束だから」

 

 春海は、そこで、言葉を止めた。

 

 おじさんは、笑顔のまま、春海の言葉を待っている。

 

「でも……」

 

 春海に向かって優しく微笑むおじさんの顔が、ぐにゃりと、歪んだ。

 

「でも……もう……玲子先生には、会えないんだよね」

 

 いつの間にか、目に、涙がいっぱい溜まっていた。

 

「玲子先生にも、校長先生にも、クラスのみんなにも、叔父さん叔母さんにも、知子ちゃんにも、宮田先生にも、美奈お姉ちゃんにも、志村のおじいちゃんにも、求導師様にも、みやちゃんにも、もう、会えないんだよね」

 

 頬を、涙が伝う。

 

 おじさんは何も言わない。否定も、肯定も、しなかった。

 

 泣いちゃダメだ。泣いたら、玲子先生が心配する。玲子先生と約束したんだ。絶対絶対絶対泣かないって、約束したんだから。

 

 でも、一度こぼれ落ちた涙は、もう止まらない。

 

 おじさんが、春海を、そっと抱きしめてくれた。

 

 春海は。

 

「――――」

 

 声を上げて、泣いた。

 

 泣いちゃダメだ。泣いちゃダメだ。泣いちゃダメだ。

 

 そう、思えば思うほど、涙が止まらない。泣き続ける。もう、二度と会えない、大切な人たちのことを思って。

 

 春海は泣いた。泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 泣きながら、空を見た。

 

 

 

 

 

 

 赤い雨が上がった空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第零話 ―――― 眞魚岩 天武十二年/十一時五十九分五十七秒

 村を、酷い飢饉が襲っていた。

 

 

 

 

 

 

 春から、ずっと、雨が降らない。もう、一〇〇日を超える。村に蓄えていた食料はとうに底をつき、田畑で育てていた作物は枯れ、家畜は死に、山や森の木々も枯れ、川は干上がり、熊も、鹿も、猪も、兎も、魚も、全て、死に絶えた。

 

 村人も死んだ。わずかばかりの食料を奪い合って死に、食料とも言えぬ枯草や腐臭を放つ死骸のために争って死に、そして、村人の死体すらも奪い合って、死んだ。食べられるものは全て食べた。それでも、雨は降らない。

 

 多くの人々が暮らしていた村は、今や、二人の男と、一人の女だけとなった。

 

 

 

 

 

 

 天から、巨大な三角錐の岩と共に、異形の生物が降ってきたのは、そんな時だった――。

 

 

 

 

 

 

 男の一人は、神の恵みだ、と言った。天の神が、我らを救うために、食べ物を授けてくれたのだ。食べるべきだ、と。

 

 もう一人の男は、この異形の生物こそが神だ、と言った。神が、我らを助けるためこの地に降りたのだ。食べるなど、とんでもない、と。

 

 女は何も言わず、ただ、異形の生物を見つめた。

 

 身体が、まるで炎で焼かれたかのように赤くただれていた。死んではいないが、かろうじて息をしているだけだった。放っておくと、すぐに死ぬだろう。

 

 殺して食べるべきだ、と、一人は言う。

 

 治療して崇めるべきだ、と、もう一人は言う。

 

 女は――。

 

 どちらでもなかった。食べ物かもしれないし、神かもしれない。どちらであろうと関係ない。ただ、食べなければいけないと思った。食べるしかないと思った。自分が、生きるために。

 

 女は、異形の生物の腹に顔を近づけると。

 

 その、丸く膨らんだ肉に喰らい付き、噛み千切った。

 

 異形の生物が、森の奥に潜む鳥のような鳴き声を上げる。

 

 構わず、女はさらに手を伸ばす。腹の中に手を入れ、柔らかい内臓を引きずり出し、そして、喰らいついた。

 

 言い争っていた男たちも、女が手を付けると、先を争って、異形の生物を食べ始めた。一度食べたら、もう、神であろうとなかろうと、どうでも良かった。

 

 腹を喰い、足を喰い、首を喰い、背中を喰った。

 

 異形の生物が、ひときわ高い鳴き声を上げた。

 

 男が、頭をおさえ、うめき声を上げた。

 

 もう一人の男も、同じように苦しみ始める。

 

 頭が痛い、割れる、悲鳴を上げる。

 

 女も、頭を引き裂かれるような痛みに襲われた。

 

 やがて、男たちは、目から、鼻から、耳から、口から、血を吹き出し、息絶えた。

 

 女は――。

 

 それでも、異形の生物を食べ続けた。死ぬことはなかった。死ぬわけにはいかなかった。

 

 ただ、食べなければいけなかった。

 

 愛する者を、護るために。

 

 生まれてくる者と、生きるために。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 ――ああ。

 

 神よ。お許しください。

 

 罪深き私を、お許しください。

 

 

 

 天から降臨されたあなた様は、まぎれもなく、神。

 

 神の御身に、我々下賤の者が手を付ける。なんと罪深いことでしょう。

 

 

 

 ですが、お許しください。

 

 私は、死ぬわけにはいかないのです。

 

 我が身に宿った、新たな命のために。

 

 生まれてくる、この子のために。

 

 私は、生きなければなりません。

 

 だから、お許しください。

 

 あなたの身体に手を付けることを、お許しください。

 

 それがどんなに罪深いことでも、許されないことでも。

 

 私は、母として、その罪を犯さなければなりません。

 

 私は、あなたを食べなければなりません。

 

 例え、神の命を糧にしてでも。

 

 私は、生きなければなりません。

 

 

 

 ――その代わり。

 

 

 

 もし、無事に、この子が生まれ、育ち、私の手を離れたら。

 

 神よ。私はその後、あなたのために生きましょう。

 

 神よ。私は、残りの命を、あなたのために捧げます。

 

 

 

 私は、ご恩を忘れません。

 

 我が子を救ってくれたご恩を、決して、忘れません

 

 

 

 だから、私は、あなたのために生きましょう。

 

 あなたの恩に報いるために

 

 あなたの偉業を称えるために。

 

 あなたの存在を伝えるために。

 

 この罪を、償うために。

 

 私は、あなたのために、生きていきます。

 

 命が続く限り、この罪を償い続けます。

 

 

 

 犯した罪の大きさは、私のような短い命では、償いきれないかもしれません。

 

 私の命で足りぬのならば、私の子孫の命も捧げます。

 

 たとえ何十年、何百年、何千年かかろうとも、この罪を償い続けます。

 

 

 

 私は、今日、あなたから頂いた恩を、決して忘れない。

 

 我が子を救ってくれた恩を、決して忘れない。

 

 

 

 ああ、神よ。

 

 

 

 ありがとうございます――。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 女は食べる。

 

 神の身体を。

 

 生きるために。

 

 我が子のために。

 

 神に、感謝の祈りを捧げながら。

 

 

 

 神が悲鳴を上げた。命が尽きる時の、最後の叫び。断末魔の悲鳴が、空に響き渡る。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 (『SIREN(サイレン)/小説』 終わり)

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。