ミックス・ブラッド (夜草)
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作中設定(ネタバレ注意)

南宮クロウ(本名 南宮九朗義経)

魔女に拾われた、森育ちの純朴なオオカミ少年。

獣王と超能力者の二つの血を引く『混血』にして、禁忌の知識を持った魔女が現代に創った咎神の殺神兵器で、第四真祖(こじょう)後続機(コウハイ)

南宮那月により、絃神島の『魔族特区』に連れてこられ、彼女の助手(サーヴァント)をしながら彩海学園を通う。

常人離れした力を自覚しており、加減を誤れば人を傷つけると自分からはあまり近寄らないように気を付けている。他人との距離感に臆病なくらいに慎重なため、誤解されることもあるが、人懐こい性格で、接すればたいていの人間と仲良くなれる。

芳香(嗅覚)に特化した過適応能力を発現しており、五感の優れた獣人種の特性も相まって、非常に高く、超古代人種・天部にも匹敵。過去の情報まで読み取り、物体の生命力にも干渉でき、その追跡能力は一度でも捉えられればまず逃げられず、魔導犯罪者たちから魔女の番犬・黒妖犬(ヘルハウンド)と畏れられている。

人間時でも獣人種を圧倒する身体性能は、吸血鬼の眷獣と肉弾戦を可能とする。神獣化もでき、普段は主人の那月に封印を施されているが完全なる獣性を解放すれば真祖の眷獣に匹敵する戦闘能力。ただ、基本物理的に殴れない相手、空隙の魔女とは相性が悪い。

その身に宿る混血には毒性があり、それを発揮すれば真祖でも破滅的なダメージを負うため、吸血行為は危険極まる。ただし、あまりに破滅的で自滅してしまうため致命的とはならない。

知性に欠けるものの、学習能力は高い。スーパーコンピューター並の情報処理能力から、高い精度の未来視ができる。

身体強化、死霊術以外の呪術や魔術にはまったく適正はないと評されるが、死霊術は極まっており、完全な死者蘇生すら実現できてしまうほど。過去の過ちから死霊術は苦手としているが、状況次第では使用も辞さない。

それ以外にも式神や使い魔が使えないものの、創造主の魔女から契約を引き継いだため、守護獣(フラミー)の召喚はできる。主人の空隙の魔女との繋がりもあるため、短距離の空間転移(縮地)も扱うことはできる。

自分の過大な力を自覚しており、制限を課す禁忌契約にもすんなり受諾した。

 

・契約

 

獅子王機関との制約:存在を知覚した巫女には、三撃を受けるまで攻撃してはならない。

       誓約:半日、超能力を含めた五感を麻痺し、霊力魔力が一切使えなくなる。

アルディギアとの制約:王族からの頼みごとを、二度続けて断ってはならない。

        誓約:一日、死霊術と獣化を封印する。

第四真祖との制約:暁凪沙を泣かせない。

 

 

・変身形態

 

銀人狼:獣化した形態。銀色の体毛を持つ狼人。

    派生

    金人狼:7つの霊的中枢(チャクラ)を全解放した獣人形態。

        体毛が金色に変化する。

        純粋な魔族とは相性の悪い、天使クラスの高純度の神気を放つ。

 

金狼:神獣化した形態。完全なる獣。

   派生

   血に飢えた魔狼(ブラッディウルフ):『原初』により強制的に変身された暴走形態。

 

魔人:完全なる獣性を掌握した人型。『混血』の極致ともいえる形態。

   大人の姿に成長しており、獣要素が少し残るものの、人寄りの変身。

 

蛇尾狼:蛇尾狼の暗緑(マルコシアス・テネブリス・ヴィリディ)

    第四真祖の血の従者であるアスタルテを介して『十三番目』を引き出(サルベージ)した形態。

    兵器には役立たずである故に切り捨てられた、吸血鬼の『蘇生』の伝承を司る。

 

・武装など

 

悪魔の黄金鎧。

主人の那月が契約した守護者・輪環王(ラインゴルド)の黄金鎧。

全身鎧は那月の許可協力が必要だが、籠手くらいならば自由に出せる。

空間制御系の魔術の補助が入る。

 

フラミー

契約した守護者(獣)。毛の生えた龍族(ドラゴン)。沼の龍母。

大罪を冠する七大魔獣において八番目(さいご)に造られ、零番目(さいしょ)に生まれた『原罪』の魔獣兵器。

戦闘能力は皆無だが、同化型の守護獣であり、契約者に皮の着物と知識を与える。

 

薄緑

ディデイエ重工が製造した着る戦車を、浅葱がクロウ用の咎神の魔具として調整した鎧甲冑型強化外骨格。

 

冥/明(めい)》我狼

零式突撃降魔双槍(ファングツアーン)(プラス)。鬼才の武神具開発者である絃神冥駕が作成した廃棄兵器の完成版。

白槍と黒槍の雌雄一対の武神具で、霊力と魔力を反転増幅させる陰陽魚螺旋転変術式が刻まれる。

その術式上、『混血』にしか振るえない。

 

 

クリストフ=ガルドシュ

原作・戦王の死者に登場する黒死皇派のリーダーで、黒死皇の盟友。

黒死皇が編み出した獣人種の武技・獣人拳法の達人で、上位獣人種ではないものの獣人の形態ではクロウと互角に渡り合えるほど原作より強化されている。

 

 

ロウ=キリシマ

原作・天使炎上に登場する獣人。

叶瀬賢生により模造神獣の改造手術を施されており、同僚の女吸血鬼ベアトリスからの魔力援助をもらうことで神獣化に匹敵する血に飢えた漆黒の狂獣(ブラッディウルフ)に変身する。

 

 

ソニー=ビーン

監獄結界の脱獄犯の一人。原作・観測者の宴ではシュトラ=Dの不意打ちで退場していたシルクハットの紳士。

元アメリカ連合国の陸軍特殊部隊ゼンフォース所属の魔義化歩兵(ソーサラスソルジャー)

抱擁の右手の試験作(プロトタイプ)が身体に埋め込まれており、その力で多くの魔族魔獣を食らった美食家気取り。

 

 

血途の魔女

元図書館の科学に在籍していた魔女。

『原罪』の一端と契約したことで禁断の叡智を手に入れ、真祖を超える規格を目標とした人造魔族『黒』シリーズを造り上げようとした。

『混血』の親に選んだのは真祖の敵である咎神の末裔と真祖に逆らった獣王で、9番目にしてようやく望んでいた、両親の特性を引き継いだ個体の配合に成功した。

それから肉体が器として完成するまでは、才能を伸ばすために何でもした。

0から1を生み出す天才。この現代において殺神兵器の創造という偉業ともいえる実績から、その手の研究者たちからは一目置かれている。

 

 

人狼

咎神カインを奉じるテロリスト聖殲派の工作員。

仮面型の魔具で、あらゆる人間に化け、その対象の力までも模倣することができる。

 

 

グレン=カタヤ

北欧アルディギア王国の聖環騎士団の長。要撃騎士ユスティナ=カタヤの叔父。

超高等魔術の物質透過の魔剣バルムンクを武器とし、戦闘能力は三聖クラス。

 

 

スワルニダ

原作・人形の伴侶に登場する人工生命体(ホムンクルス)の少女。

眷獣共生型人工生命体アスタルテの製作者である人形師が創った機械化人工生命体。

姉妹機であるためアスタルテと容姿が似ている。

数多の魔導兵器が内蔵されており、剣巫と渡り合えるくらいに戦闘能力は高い。

原作では人形師に捨てられた挙句、略奪式人工生命体(ナタナエル)に取り込まされたため、暴走し、最後は古城たちに倒され、停止したが、アスタルテの姉妹機(かぞく)であることからクロウが停止する前に生命力を分け与えた。

その後、人工島特殊牢獄で同類ともいえる天塚から霊血を分け与えられ、水銀細工(アマルガム)として復活し、浅葱の付き人兼護衛となった。

 

 

タラスク

蛇の仔。

大罪の魔獣レヴィアタンの細胞をベースに複数の魔獣の遺伝子を掛け合わせて創り出された人工魔獣(キメラ)

 

 

クアウテモク

『混沌界域』に属する獣人兵団長。

鳥型の上位獣人種で、第三の夜の帝国最強の獣王。

飛行形態は始祖鳥のような姿で、超音速で飛行する。幻術を得意とし、近接戦闘も優れている。

主人である第三真祖から貸与された意志を持つ武器シウテクトリは、昼の刻に真価を発揮する蛇腹剣。最大火力となる正午は軽く振るっただけで旧き世代の吸血鬼を跡形もなく消し飛ばす。

 

 

病猫鬼

ゼンフォースの新兵器。

シアーテの豹の上位獣人種を材料とした禁呪・蟲毒。

不死性と増殖能力は一度解き放てば制御不能になるため、制限が課されている。

 

 

作鏡連

調伏兵器職人の矮人族(ドワーフ)

太史局における獅子王機関の師家・縁堂縁のような立ち位置。

 

 

ハヌマン

黒死皇と殺し合ったことのある『滅びの王朝』出身の世界最古の獣王で、魔族特区破壊集団(テロリスト)タルタロス・ラプスの古参。

猿型の上位獣人種で、四仙拳を凌ぐ仙術と武術の達人である妖仙。

特異的な変化能力により、毛一本から魔道具に武神具から自分自身まで造り出せる。

 

 

バルトロメオ

人形師が制作した捕食型人工生命体。

機械人形としての兵装を操る人工生命体と発火能力を持つ人工生命体を取り込み、その両方の力を振るう。

優れた感知能力が仇となり、アベルの巫女(ウィルス)に感染してしまう。



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一章
聖者の右腕Ⅰ


リハビリ小説ですが、楽しんでもらえたら幸いです。


 

 

 優れた両親の血を受け継いだ犬は、より優れた能力を持って生まれ、そして優秀な異性と配合することで、さらに優れた血を残す。それが繁殖の基本。優れた個体は生まれながらにして他の個体とは違っている。

 

 しかし相手は生き物だ。

 優れた個体同士を交配させたからと言って、必ず優れた子孫を得られるとは限らない。相性や、当たり外れの問題もあるし、親の欠点だけが子供に受け継がれてしまう可能性もある。

 

 農作物や園芸植物、狩猟犬や愛玩動物に競走馬―――多くの人々が、より優れた個体を手に入れるため、また成功する組み合わせを知るために複雑な品種改良や交配を続けている。そして、それに成功した者が得られるものは莫大なものだ。優れた雄の競走馬を所有する生産者は、その種付け料だけで信じられない額の金銭を手にすることができるのだ。

 

 ここに、ある魔女の遺産が眠っている。

 

 『黒』シリーズと呼ばれるある個体の配合種だ。

 無論、それは馬や犬などではない。

 金のためではなく、力を。ただひたすらにそれのみを追求する。

 魔女が作りしモノは、魔族の王に戦争を仕掛けた獣王『H』の―――

 

 

 

 ―――そこは、暗闇の森だった。

 

「ここ、か。随分と暗いな」

 

 嘆息するのは、幼女と見まがうばかりの小柄な少女だ。

 あどけなくも整った顔立ちで、馬鹿馬鹿しいほど豪華なドレスを身に纏い、陽が差さぬ森中だというのに日傘をさしている様は、愛くるしい人形のよう。

 人形のように、感情の変動がない。

 少女は精々鬱陶しがっている程度であるも、常人ならば、その森の異常さに胃の底まで震え上がったろう。

 名前も知れぬ、黒くねじくれた木々の乱舞。

 じめじめと空気は湿り、腐った落ち葉は積み重なり、腐臭と、そして獣臭とが入り混じる。

 地面を這いずる虫の蠢きが次から次へと湧き上がって、この森が夜にも眠らぬことを示している。というより、今の時間帯では陽は昇っているはずなのだが。

 白夜と呼ばれるのとは逆の極夜。夜に時間が固定されて、永遠に明日が来ないような外れた地。陽の昇ることのない場所で先行く道が照らし出されることはない。

 ……それはよい。

 森としては、自然の範疇からいささか逸脱してはいる。

 異常な魔力がこの『鉄の森』一帯に敷かれている。外周には人払いが仕掛けられて、また内部には侵入者を目的地にたどり着けさせないように迷宮の如き惑わしが仕掛けられているようだ。

 気味が悪い細工が施されていても、土地に関する呪法を主とする風水術師である師から、それを解く術を学んでいる。

 問題は、それらの奥から響く、森の異常な魔力さえも一瞬に吹き飛ばした、背筋を凍らせる遠吠え。

 

 ここは人が道を敷き、法を布き、因果応報の仕組みが一方にのみ贔屓される都会ではない。

 ここにあるのは、道のない獣道、野生の理、ルールを破った者はその時点で報いを受ける。

 治安維持を任された人間はおらず、そこが縄張りと気づかずに踏み込んでしまえば、住人である動物に襲われ、最悪、噛み殺される。

 

『■■■■■■■―――ッ!』

 

 それは、野獣の如き咆哮。

 迷宮には怪物が住まう、と逸話があるが、ならば、ここに森を縄張りとするものがいるのだろう。入口に踏み入ったこちらを察知し、速やかに迎撃を果たそうとする異形の影が見えた。音が聞こえて、もう数m先。速い。速すぎる。

 叫ぶ異形の影。敵。

 本来であればそう、愚かな獲物を喰らう、だろう。

 けれど、今ここに対峙する相手。

 彼女は、その“幾多の魔族を退治(ころ)してきた”攻魔師だ。

 

「これはまた……随分といきの良いのが出てきたな」

 

 異形の影と、魔族殺しの魔女が“目”が合った。

 深闇に浮かぶ金色の輝き。金色の眼球。金色に走る赤い線。血走っている。殺意。

 およそ人間が浮かべることのできる感情の濃さでは、ない。

 そこにあるのは、圧倒的なまでの破壊衝動と殺戮衝動の塊。

 異形の人型。

 凶人。

 狂獣。

 脳裏に過るこの二つの形容が入り混じって、魔女の鍋で煮詰めてできたもの。

 

 奇妙な感覚がある。

 

 それは両手足を地に付けた四足の前傾姿勢のままで、こちらを見据えるそれは、まっとうな人間には見えるはずもない。

 上手に森の陰に紛れ込んでいるようで、肉体の造形がはっきりと視認し難い。

 灰のようなくずんだ銀色。薄い影のような体躯だった。

 その森に溶け込むことのできないほど、凄まじいほどの存在感。

 銀色の体躯と金色の瞳。

 その頭部は獲物を喰らう直前の狼にも似て大きく開いた顎と、鋭い牙。赫い鉤爪。

 絶対的なまでの人間以上。

 

 獣人種―――

 

 所謂、狼男と呼ばれる類いのもの。魔族の中では、ポピュラーな個体だが、その魔族の中でも突出した筋力と打たれ強さは人間の敵うところではない。爆発的な加速で迫り、そのまま組み敷かれればおしまいだ。

 圧倒され、気圧され、人間には、到底、敵うはずもない凶悪。

 

『■■■■■■■―――ッ!!』

 

 二度目の咆哮。

 殺意。害意。敵意。悪意。

 とにかく負の感情と呼べるものの全てを凝集したものを叩きつける。

 動かない。

 魔女の見開いた瞳だけが、異形の姿を捉え続けるだけ。

 この刹那を切り刻んでいく中で、異形の影は接近している。間にある木々は鉤爪で爪痕を刻みながら距離を縮める、魔女の眼前まで。

 血走る金色の瞳。

 人間のそれには見えない。

 噛み砕き獲物を品定め風に、目を細めている。

 今まさに、破壊の権化は蹂躙しようとしている。

 

「―――」

 

 言葉なく、魔女は視線を叩きつける。

 涙もない。悲鳴も上げない。恐れが欠片も見えない。毅然と、佇まいを崩さない。

 異形は首を傾げながら、鋭い爪を備えた手を伸ばし、顎を開く。

 抗うことも、逃げることも不可能。

 そして。

 爪が胸を貫いて心臓を抉り出し、顎が魔女の頭部を噛み砕く、その瞬間。

 

「歓迎に挨拶もなしとは、躾のなってない野良犬だな」

 

 瞬きのうちに過ぎ去るはずの刹那が、永遠に引き延ばされる。まるで時の流れが静止したように。

 否、現実として止まっている。時間ではなく、身体が。

 爪牙が襲い掛かる直前で、その手足と肩と腰に巻きつき、そして大きく開いた口には轡を噛ませるように、

 魔女の周囲、高密度な魔方陣が展開される虚空から出現する、無数の頑強な鎖が異形を絡め捕る。

 神々が鍛えた捕獲用の魔具―――<戒めの鎖(レーシング)>。

 獣人種を含め、数多の魔族を封殺してきた銀鎖。

 そして、その使い手たる魔女は、異形の眼前からは消えていて、その背後で差していた傘をたたんでいた。

 練達者級の高位魔法使いでなければ無理な空間制御の魔術を、意思ひとつで難なくこなす、<空隙の魔女>、南宮那月。

 早々に決着はついた―――かに見えた。

 

「……っ!?」

 

 封鎖に吊り上げられたまま、侵入者たる魔女へと異形は唸り声をあげる。

 獲物を前にした血に飢えた獣ではない、『墓守』の番獣が放つ、威嚇と怒り。

 眠れる場を騒がす墓荒らしの罪人への、死の宣告

 

『■■■■■■■―――ッ!!』

 

 三度目の咆哮。

 それは、世界を平伏せさせた。

 極夜の森がざわめき。

 

 突然、大地が割れた。

 

 貫く。貫く。貫く。貫く。

 

 そこから抜け出た無数の木々の根は、怒涛の槍。

 

(魔術……? ドルイド魔術か、仙道か……)

 

 大地を砕いて現れる凶器たちは意思を持つように、獲物を狙って伸長する。

 強靭な肉体をもつ獣人種で、魔術を習得しているのは稀な存在だ。まず、その資質として、先天的に強大な魔力を備えてなければ、例外はありえない。

 

(どちらも違うな。だが―――)

「この私と術比べとは百年早い」

 

 まるで水面に沈むように、美しい波紋を残し南宮那月の姿が虚空に溶け込んだ。

 <空隙の魔女>と呼ばれる所以たる空間制御。

 魔女は、異形よりも速く、そして遠くに移動できる。音もなく、気配もなく、髪の毛の一筋すら動かさないまま、一瞬で。

 一本一本が長い槍の如く研ぎ澄まされた根は、掠ることなく標的を見失う。

 砂漠の蜃気楼の如き、されど幻ではない存在に、数多の魔族が翻弄されてきた

 

 しかし、心臓の鼓動。息遣い。体温。そして、匂い。常人の数百倍の精度を誇る獣人種の感覚器官は、視界から消えようと魔女の存在を見失わない。また野生の直感ともいうべき、予知じみた超反応。

 この森すべてが支配下で、木々のひとつひとつが意思ひとつで手足のように指揮する兵隊だ。どこに転移しようが森の中にいる限り、魔女は万の軍勢に囲まれているに等しい。

 

 転移した先で、意趣返しとばかりに緑の蔦が伸びて、魔女の体を拘束。生育速度からして普通の植物ではありえないが、その見かけによらず、鋼鉄の鎖並の強度が付与されており、魔女の体があっという間に縛りつけられる。

 

(気配を感じ取れなかった―――いや、これは魔術では―――)

 

 パキンッ、と異形を縛っていた鎖の一部が弾けた音。

 魔女が気を取られていた間、異形は姿を変化させていた。

 獣人ではなく、完全なる獣へと―――

 魔族の王たる吸血種が切り札の眷獣をも超える巨体と魔力をもった、天使や龍族と匹敵する神話級の怪獣へと変化する。

 

「―――までするとはな。実験はここまで成功していたのか」

 

 魔女が目を瞠った。

 体毛がくずんだ銀から、眩い金色へ。

 怪獣となった異形が、牙を剥く。濃密な魔力が爆発する。獣人形態でさえ2mを超える強靭な巨躯が、さらに一回り、もう一回りと、内側から溢れる力に押されるように、膨れ上がっていく。

 ぎしり……ぎしり……と異音が鳴る。

 すぐ、その音が急激に高くなって―――極限で弾けた。

 神々が鍛えた封鎖が、その内からの膨張を抑えきれなくなったのだ。

 

 それを魔女は、黙って、見ていたわけではない。

 

 ゴッ、と魔方陣を走らせる周囲の虚空から荒々しく風を巻きながら射出されるは新たな鎖。

 先の<戒めの鎖>よりも倍以上に太い、直径十数cmにも達する鋼鉄の錨鎖<呪いの縛鎖(ドローミー)>は、その環ひとつひとつに棍棒並の打撃力を秘めている。砲弾のような勢いで打ち出される。

 

「ちっ」

 

 より上位の封鎖の衝突を、異形の怪獣は片手で受けて、俊敏にステップを踏んだ。より獣に近づいたことで、本能的な勘がますます鋭くなったか。高速で迫る鎖を躱しつつ、森の力を借り、または四肢を振るうことで魔女を牽制し、隙を突いてはその身に牙を立てようとする

 連射して虚空から放たれる縛鎖が、空間の揺らぎを生じさせ場を掻き乱した。

 その嵐の中で、多少のダメージを無視し、手の甲で縛鎖を強引に払いのけながら一直線に異形の怪獣は迫り、まともなぶつかりは避ける魔女は虚空から虚空へ渡る。魔女と異形の戦いは闘牛士と闘牛のそれを思わせた。

 しかし、今の形成は魔女の方が分が悪い。異形の動きは雑だ。だが、雑だからこそタフさがあり、勢いがあり、反応がスピーディで、それも躱されても足場にした樹木をしならせた反動を上手く利用して加速していっている。

 そして、今、この空間は激しく乱れており、<空隙の魔女>といえども、この状況下で空間転移(テレポート)は難しい。このままでは―――やられる。

 

 ゴオッと魔力が渦巻き、金狼が横薙ぎの鉤爪が一閃。咄嗟に楯にした縛鎖ごと魔女を捉えた!

 

「やれやれ……そこそこ気に入っていた服だが、こうなってしまえば布きれだな」

 

 魔女が不機嫌な口調で言う。彼女自身はほぼ無傷だ。しかし着ていたゴシックのドレスは無残に切り裂かれてしまっている。

 

 小さな唇を吊り上げて、美しく笑う<空隙の魔女>。

 その影からそれは顕現する。

 

「―――起きろ、<輪環王(ラインゴルト)>」

 

 起き上がる際に巨大な歯車や駆動装置の蠢く音は、獣の咆哮じみていた。怪獣となった異形すら見下ろす巨大な、機械仕掛けの騎士。

 優雅さと荒々しさを併せ持つ、金色の甲冑をまとい、分厚い鎧の内側に闇そのものを閉じ込めているよう。

 そして手には真紅の茨――北欧の主神を噛み殺した怪獣でさえ縛り上げたという――<禁忌の荊(グレイプニール)>。

 <守護者>

 悪魔との契約で魔女が得る守護と願いを叶える力。

 契約を破棄すれば反転して主の処刑者と化すが、その代償で得たものは凄まじい。

 中でも<輪環王>は、欧州の魔族を恐怖のどん底に突き落とし、出現するだけで世界の時空を歪めてしまう故、使用に制限が掛けられているほどだ。

 

 それでも、異形は、退かなかった。

 

「なるほど“混血(ハイブリット)”……か。存分に苛め(しつけ)甲斐のある獲物だ」

 

 

ファミレス

 

 

 絃神島。

 太平上のど真ん中、東京の南方海上330km地点に浮かぶ、カーボンファイバーと樹脂と金属で造られた超大型浮体式構造物ギガフロートを、魔術によって支えられる人工島。

 総面積はおよそ180平方km。完成から20年と経ってないが、すでに総人口数は約56万人。行政区分上は東京都の管轄となっているが、絃神市は実質独立した政治系統を持つ特区行政区。

 そして、その主要な産業は製薬、精密機械、ハイテク素材産業などであり、観光都市ではなく、学究都市。

 さらに言えば、魔族特区。獣人、精霊、半妖半魔、人工生命体、吸血鬼など自然破壊の影響や人類との闘争の結果で数を減らし、絶滅に瀕した魔族が公に住まうことが許可され、人類と同じ市民権も与えられる保護区であり、その代わりにその生体の研究に協力することで科学や産業分野の発展に貢献している。

 人として特殊な、能力者というのもまた存在する。

 魔術と科学が入り混じる空間で、魔族と人間を共存させる壮大な実験の檻。

 それが、絃神市である。

 

 とはいえ、

 

「熱い……焼ける。焦げる、灰になる……」

 

 生活している分には、普通と変わりない。

 太平洋上――熱帯に位置するこの人工島は、真冬でも平均気温は20度を下回ることはない常夏の島なので、午後になっても明るく、“日射”に弱いに人には住みにくい気候ではあるものの……

 

 

 

「―――古城君、見っけ」

 

 匂いを探れば、目的人物はすぐに見つかった。

 ファミレスの窓際のテーブルで男子高校生が突っ伏している。常夏の島で制服の上に白いパーカーを羽織り、髪の色も狼の体毛のように色素がやや薄いが、どこにでもいそうな雰囲気を崩さない。またそれなりに顔の作りは良さそうなのだが、残念ながら陽射しにグロッキー気味。血の気が多そうにはとても見えないが―――ここにいる誰よりも濃い血の匂いが鼻腔をくすぐる。

 

「今、何時だ?」

 

「もうすぐ4時よ。あと3分22秒」

 

「……もうそんな時間なのかよ。明日の追試って朝9時からだっけか」

 

「今夜一睡もしなけりゃ、まだあと17時間と3分はあるぜ。間に合うか?」

 

 暁古城。

 それが彼の名前だ。

 彩海学園高等部の一年生で、中等部三年生の自身にとっての先輩は、ふらふらになりながらもテーブルいっぱいに広げた問題用紙と格闘中で、その背後にいるこちらには気づいていない。

 だから、気づいたのは、同じテーブルの正面の席に座っていた補修の手伝いをしていた先輩たち。

 

「お、クロ坊じゃん」

 

「あら」

 

 先輩男女のうち、一番最初に気づいた――もっと言うなら店に入る前から気づいていた――男の方がこちらへ気楽に呼びかける。短髪をツンツンに逆立てて、ヘッドフォンを首にかけた男子学生の名前は、矢瀬基樹。

 その隣の席でパフェをつついている女子生徒は、藍羽浅葱。

 金に染めた髪を華やかにまとめて、校則ギリギリまで制服を飾りたてているいかにも今風な女子生徒。センスがあるのか、とにかく人目に付く容姿をしていて、それでも不思議とけばけばしいとは思われない。香水もほとんどつけてないようで、鼻にも優しい

 ただ、その顔に浮かんでいるニヤニヤ笑いのせいでか、美人なのに色気はなくて、異性を感じさせないくらい気安い。目の前のテーブルに積まれている料理の皿を見る限り、意外と大食いで、ある意味花より団子な………というわけではないのだが。

 

「こんにちわなのだ、矢瀬先輩、藍羽先輩、古城君」

 

 明るくはきはき挨拶して、ひとりひとりに頭を下げる殊勝な後輩、南宮クロウ。

 人並みの頭一つ分くらい低めの身長。錆びた銅のような赤茶色の髪に褐色の肌、欠けた鎖が付いた枷のような大きめの首輪など特徴的なパーツをしているのだが、そこは“覆われて”わからない。

 なにせパーカーを着こんでいる古城よりも重装備だ。

 常夏の島だというのに、まず、店の中でもロップイヤーのように垂れた耳当て付きの帽子をかぶり、スヌード(マフラーの両端を繋げて輪っか状にしたアイテムで、マフラーのように首に引っかけて巻きつけるまでもなく、すっぽり頭から被れば着用)をしているので、口元から首筋まで隠されているのだ。頭部は、目しか見えない。

 

「相変わらず、暑そうな格好してるわねクロウ」

 

「このくらいへっちゃらなのだ。ご主人も、この程度の暑さは夏の有明と比べれば、どうということもないと言ってるぞ」

 

 それから制服の上にレインコートのような薄めの素材のコートを纏っている。大きめのサイズで、小柄な後輩男子にはあっていない。ぶかぶかの袖で見えないがその両手には手袋もしているので、道行く人から罰ゲームにひとり熱さ我慢大会でもしてるとでも勘違いされそうな服装であるのだが、どこか中世の典礼衣装を着こんだ小さな騎士を連想させる、奇妙な着こなし。自分自身に“匂い”がつくのを避けるためこの格好になったという。

 本人は、ケロッとしてるが。見慣れないうちは熱中症の心配をしていたのだが、いつものことなので、へーそう、とあっさりと流す。

 

「それでどうしたの。私たちを探してたみたいだけど……まぁ、予想はつくんだけど」

 

 浅葱は気楽に生クリームをぱくつきながら、視線を、悪い夢から逃げるよう後輩の登場から無反応の、古城に向ける。

 

「ご主人から古城君に、お使いを頼まれたのだ」

 

「やっぱりな。古城、担任教師監督殿から追加のようだぞ」

 

 積み上げられた教科書のてっぺんに、数枚のプリントが置かれた。

 それから矢瀬がとりあえず後輩に席に座るよう促し、

 必死に現実から目を逸らす同級生の代わりに、浅葱がそれを読み上げる。

 

「えー、なになに……『後期原始人の神話の型の研究』。って、これ論文のようだけど、全部英文ね。那月ちゃん、わざわざ海外のから引っ張ってきたのかしら」

 

「この英文も翻訳してくるように、とのことなのだ」

 

「……なぁ、おかしくないか」

 

 ついに、古城が声を上げた。反応せざるを得ない。

 その目が血走っているのは、怒りのせいではなく、単に寝不足のせいだ。

 英語と数学二科目ずつを含む全九科目。それに加えて、体育実技のハーフマラソンが、夏休み最後の三日間に迫った暁古城に課せられた追試の内容だ。おかげで――というわけではないかもしれないが――最近ほとんど寝てない。

 それに今、わけのわからん1mmも興味のわかない海外の論文の英訳など、追試というより、懲罰や拷問という呼び名の方があってそうな課題が加算された。

 そんな目に遭えば誰だって泣きが入るだろう。

 

「いくらなんでも大量過ぎんだろこれ。中には授業でもまだやったことねーのも混じってるし。週七日補習やらされてるのに、一向に終わる気配がないのはどういうことだ。うちの教師は俺になんか恨みでもあるんか!!」

 

 悲痛な叫びをあげる古城だが、対して同級生は呆れる表情を浮かべるのみ。

 

「そりゃ、あるわな。恨み」

「あれだけ毎日毎日、平然と授業をさぼられたらねェ。舐められてるって思うわよね、フツー」

「夏休み前のテストをさぼった時はご主人カンカンだったのだ」

 

 同級生二人に、後輩からも言われる始末に、それでも古城は理解を求めんと言い訳をする。

 

「だから、あれは不可抗力なんだって、いろいろな事情があったんだよ。大体今の俺の体質に朝イチのテストはつらいって言ってんのにあの担任は……」

 

「体質って何よ?」

 

 滑ってつい口にしてしまった単語を拾われて、浅葱の頭上に疑問符を浮かべてしまう。

 古城って花粉症かなんかだっけ? と不思議そうにぼやいており、古城はすぐ失言を挽回せんと何でもいいから納得して解消できるごまかしを重ねんと口を動かす。

 

「ああ、いや、つまり夜型っていうか」

 

「? 古城君は朝起きるのがつらい人なのか?」

 

 何故お前まで首を傾げる、と素でボケてる後輩に古城は突っ込みたくなる。

 

「それって、体質の問題じゃないんじゃない。吸血鬼でもあるまいし」

 

 だよなー、と乾いた笑顔で言葉を濁す。

 も、そもそもの問題はまだ解決されていない。

 

「なあ、クロウ。頼むから、できれば全部、課題を那月ちゃんのとこに返していってくれないか」

 

「ダメなのだ。ご主人からこれで足りない出席日数をチャラにしてやると言われてるぞ」

 

「お願いだ。せめてこの半分でいいから」

 

「むぅ。ご主人の命令は絶対厳守なのだ。いくら古城君の頼みと言えど聞けないぞ」

 

「後輩に泣きつかないの。あたしがこうして憐れなあんたに勉強見てあげてるじゃない」

 

「勉強教えてやる代わりにメシおごれと言っといて、それは恩着せがましいと思うぞ」

 

「古城君に勉強教えるとごはんくれるのか!」

 

「コストとリターンが見合わねぇ。浅葱が大食いだってこと忘れてたの今悔やんでんのに、浅葱以上の大食いに好き勝手に飲み食いされたら確実に破産する。っつか、お前勉強できるのか?」

 

「補習はないぞ。この前赤点とったら、ご主人にメシ抜きにされたのだ。オレ、がんばった」

 

「ほら、やればできるのよ。そもそも高校生が中学生に手伝ってもらうのはどうなの?」

 

「手段とか選んでられねーほど切羽詰まってんだ。仕方ないだろ」

 

「ちなみに浅葱のメシ代を出したのは俺の金だからなー。利子は付けないからちゃんと返せな、古城」

 

「わかってるよ、畜生……お前らそれでも血の通った人間か」

 

「古城」

 

 少し強めに名前を呼ばれ、古城はうっかりした事に気づく。

 この街では、魔族は珍しい存在ではない。実際、この店内にも最低でも“2人”はいるのだ。だから、血が冷たいだの温かいだのは差別表現にあたるため、気を付けなければならない。

 とはいえ、本人たちは別に気にしてないのだろう。

 

「? どうしたのだ古城君」

 

 少なくとも後輩と自分は。古城は投げやりに溜息を吐いてから、メニューの安めなサイドメニューのページを隣に座る後輩の前に開いて置く。

 

「こん中から好きなのを一つ選べ。いいか、一つだけだぞ」

 

「え、いいのか。やったー!」

 

「よかったなクロ坊。古城は毎度あり」

 

 苦笑しながら矢瀬が、親指と人差し指の二本で○を作ってくる。金持ちの息子のくせに、金銭関係に妙に細かい。それでも貸してくれるからありがたい友人だ。

 

「唐揚げ! このジューシー唐揚げいいか古城君!」

 

「いいよ。ったく、面倒な世の中だな。本人はまったく気にしてないのに」

 

「古城はなんだかんだで後輩に面倒見が良いわねぇ。元とは言え流石体育会系。といっても、今のあんたに懐いてるのは妹の凪沙ちゃんを除いたらクロウだけだけど。あ、私も唐揚げも追加で」

 

「浅葱はもうちょい遠慮してくれ」

 

「いいじゃない。勉強見てるんだから」

 

「だな。浅葱から教えてもらうなんて相当貴重だぞ古城」

 

「貴重? いや、結構浅葱には世話になってるが?」

 

「頭がいいとかガリ勉とか思われるのが嫌で、ノートとかほとんどとってなかったのに、今じゃあわかりやすくまとめてんだから、不思議だなあ。いったいどういう心境の変化があったんだろうなあ? 気にならないかあ、古城?」

 

「ちょ……ちょっ……ちょっ……ちょっといきなり何ふざけたこと言ってんのよ、アホ基樹っ!」

 

 矢瀬の問いかけに、カァと頬を紅潮させて、これまでの余裕をなくす浅葱。それを見て、古城はあっけからんと、

 

「別に。だって浅葱から見返りに、メシ奢らされたり、日直やら掃除当番やら押し付けられたりきっちり見返り要求してんだから理由なんて明らかだろ」

 

「ぜんっぜん違うわよバカ古城っ! 全部あんたの―――」

 

 言いかけて、何を口にしようとしていたのかに気づいた浅葱はこの話題に持っていった張本人に突き刺さるような視線を向けるも、その矢瀬は落胆したようにもしくは呆れたように頬杖をついてこちらを見ていた。だめだこいつら、と目は口ほどに言っている。

 何か返される前に、浅葱は突然、携帯電話を見て、ちょうど運ばれてきたアツアツの唐揚げをぽいぽいと摘まんでほくほくと熱さに涙目になりながら、残っていたジュースを一気飲みで流して飲み込み、立ち上がる。

 不自然なほど、棒読みで、

 

「あ、あー! もうこんな時間! んじゃ、あたし、バイトだから!」

 

「? 浅葱先輩はバイトしてたのか」

 

「あー、あれだ。確か、人工島(ギガフロート)管理会社の……」

 

「そそっ。保安部のコンピューターの保守管理(メンテナンス)ってやつ。割がいいのさ」

 

 空中でキーボードを叩くような浅葱の仕草はまるでスーパーのレジ打ちをするような気楽さだが、管理会社の保安部の仕事を一般人においそれと任せるわけがない。

 今どきの女子高生な見た目と性格で信じられないかもしれないが、昔から成績はぶっちぎりのトップで今や肩書き持ちの反則的な天才プログラマー。

 優秀なのだ藍羽浅葱は。

 そんな、小学生になる前から知り合いの、所謂幼馴染の間柄で、武勇伝を山ほど知っていそうな矢瀬は、逃げるように去っていく浅葱の姿を見送ってから、おーすごいのだ、と拍手喝采のクロウを見て、

 

「学生で現役攻魔師の助手をしてるクロ坊も割とすごいことだと思うけどねぇ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 バイトで浅葱が去り、ちゃっかり自分の分の宿題を写し終った矢瀬も解散した。

 取り残された古城の前にいるのは、うまうまと味わうようにゆっくりと揚げたての肉の塊を頬張る後輩ひとり。

 古城が問題集と格闘しているところ、こうも美味そうにやられると、こちらも生唾を呑みこんでしまう。

 吸血鬼ならば、ワインかトマトジュースにしか興味ないと思われるが、しっかり食欲があるのだ。

 けれど、悪気があってわざと見せつけているわけではなく、性格に裏表のない――単純思考ともいう――後輩は感情を素直に出してるだけなのは、古城もわかっている。

 

(こいつとも長い付き合いだよな……)

 

 出会ったのは、ちょうど妹がこの中高一貫性の彩海学園に入学した3年前。最初はいろいろと問題があったが、妹と同じクラス分けになった今年の春前からそれなりに良好な先輩後輩関係を築いていて、あの事件からもその縁は途切れていないでいる。

 浅葱にも言われたが、現在の古城に近寄ってこれる後輩は、この南宮クロウだけだろう。

 

 かつて、暁古城はバスケ部員だった。

 人間離れした跳躍力と反応速度に異様なまでのシュート精度を誇っていた古城中心のワンマンチームで引っ張っていって、都大会で準優勝を飾り、古城自身も優秀選手に選ばれるほどの成績を残している。

 だが、それも試合中に起きた事件で終わる。

 強引なドリブルを仕掛けた古城に、ファウル覚悟で挑んだ相手選手が重傷を負ってしまったときから。

 試合を一時中断し、救急車を呼ぶほどの騒ぎとなったが、古城にも動揺はあったが、それでもバスケをするつもりであった。怪我をさせてしまったが、古城も負傷したし、両者とも積極的な攻め合いだったのだからお互い様。

 けれど、治療にベンチに下がった時に見たのだ。相手選手からだけでなく、チームメイトからも怯えた眼差しを向けられていたのを。

 それでも、試合はまだ終わっていなかった。

 たとえエース選手が退場していても、残り時間逃げ切れるだけの点差はついていた。

 でも、チームは負けてしまった。

 古城が下がってから、士気は崩壊し、あっという間に逆転されて、大量のリードを許して呆気なく大敗した。

 それでも、古城はワンマンチーム故の弱点だと割り切ることはできた。

 でも、チームがその敗北を平然と受け入れるのを見て、『ああ、俺があいつらの気力を奪ってしまってたんだな』と思った。

 自分たちが本気を出さなくても、誰かが勝たせてくれる、ピンチでも助けてくれると思わせるような空気を部内に作ったのは自分なのだと。

 結局、自分一人では何もできないのに。

 

 どれほど力があっても、たとえそれは“世界最強の吸血鬼”になったのだとしても変わりない。

 

 以来、怪我を理由に引退し、一冊だけのアルバムを残して、バスケ部とは縁を切った。慕われていたバスケ部の後輩たちからも距離を置いて、しばらくしたら古城の周りに残ったのはバスケ部でもない――そして、“半分人間でもない”――後輩ひとり。

 

「? こっちの顔を見てどうしたのだ古城君」

 

「あのなクロウ。なんで浅葱や矢瀬が先輩で俺が古城“君”呼ばわりなんだ?」

 

「古城君は古城君なのだ。凪沙ちゃんもそう呼んでるのだ」

 

 なるほど同じクラスメイトとなった妹の口癖がうつってしまったらしい。

 

「わかっているとは思うが、凪沙にあんまり近づくんじゃねーぞ」

 

「わかっているのだ。オレも怖がらせることはしたくないのだ」

 

 そうして。

 後輩が唐揚げを食べ終わるのを見計らってから、古城は教科書と問題集、課題のプリントを鞄に放り込み、伝票を掴んで立ち上がった。

 後輩の食事しているのを見ていたら、どうもお腹の方に意識がいってしまって仕方ない。それに今頃妹が飯の支度をしているかと気になってしまってはこれ以上勉強を集中することはできなかった。

 レジで精算を済ませながら、明日からの昼食代をどうやって、財布のひもを握っている妹から引き出そうかと脳内検討中していると―――ふと、古城の制服の袖を後輩が引っ張る。

 

「オオカミが、こっちに近づいてくるのだ」

 

「はぁ? オオカミだと?」

 

 古城にしか聞こえない小声で呟く後輩の視線の先を追ってみる。

 

 店の出口から出てすぐにある、ファミレス正面の交差点。

 その向かい側にいる、眩い夕陽を逆光に背負う、ひとりの少女。

 黒いギターケースを背負った制服姿の女子生徒が、ちょうどこちらに気づいた古城の目が合った。

 

 

道中

 

 

 第四真祖<焔光の夜伯(カレイドブラッド)

 それは魔族に関わり合うものならば誰もが知るであろう、世界最強の吸血鬼の肩書だ。

 

 曰く、第四真祖は不死にして不滅な、世界の理からも外れた冷酷非情な吸血鬼。

 曰く、他の三つの真祖とは違い、夜の王国(ドミニオン)を作らず、一切の血族同胞を持たない孤高。

 曰く、歴史上の転換期に現れては、従える十二の災厄の化身たる眷獣を以て、数多の都市を滅ぼした怪物。

 

 もしも実在するのならば、個で世界のバランスを崩壊させ、秩序と安定を乱しかねない。

 そんな、どこにいるのかさえ分からず、都市伝説の空想上の存在であるとさえ疑われていた第四真祖が、この魔族特区絃神島にいるという。

 

 そして、高神の社であと4ヶ月の剣巫としての訓練期間を残していた自身に、獅子王機関の<三聖>と呼ばれる長老たちから命じられた任は、その第四真祖と接触し、監視役となること。

 妖から宮中の守護を任されていた滝口武者を源流(ルーツ)とする獅子王機関は、国家公安委員会に設置されている特務機関。

 大規模な魔導災害にテロを阻止し、そのための情報収集や謀略工作を業務とする、いわば、魔族専門の公安警察だ。

 その一員として、自分は、たとえ第四真祖が相手であろうと、監視対象が危険な存在だと判断を下せば、全力を以てこれを抹殺する。しなければならない。

 

 正式な卒業を師から認められない実戦経験ゼロの剣巫見習いが、軍隊と同じ扱いをされている第四真祖の相手をするのは荷が勝つ任務であるも、<三聖>から<雪霞狼>という銘の魔族殺しの機槍<七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)>を与えられている。

 高度な金属精錬技術で造られた穂先は最新鋭の戦闘機にも似た流麗なシルエットを持ち、武器の(コア)には古代の宝槍が使用されている、世界に3本しか存在しないとも言われる獅子王機関の秘奥兵器。

 この個人レベルで扱える中では間違いなく最強の武神具があるのならば、吸血鬼の眷獣をも一撃で滅せることができるだろう。

 

 そうして、第四真祖が通う私立彩海学園に転入手続きを済ませて、早速、近辺調査から情報収集を済ませると、第四真祖――暁古城の捜索にあたった……のだが、

 

「―――っく、さっきまでここにいたはずなのに!」

 

 逃げられた。

 事前情報として見せられた写真の学生が、ファミレスにいたことを確認できたのだが、こちらも気づかれ、店の裏口へ。

 それから急いで駆け付けるも意外と向こうの足は速く、また向こうに土地勘がある。何度か不得手ながらも探し物を占う卜筮で位置を特定したりしたのだが、そのたびに場所を移動され、巻かれてしまう。

 

(卜筮から、相手はこちらとある程度一定の距離を置いている。そう、常にこちらの様子が見られる距離を保っている。これは、おそらくこちらの観察が目的。しかし、それには相手も私の現在位置を把握してないとできないはず……)

 

 逃亡戦の鉄則は、相手に自分の位置を掴ませず、自分は相手の位置を把握していること。

 間違った方向へと逃げれば、運悪く鉢合わせることもあるのに、あれから尻尾の影すらつかませない。

 監視から本番と考えていたが、接触の段階でこんなに手間取るとは、どうやら第四真祖は逃げ足にも厄介なスキルを持っていると、敵の評価と任務の難易度を上方修正する。

 監視役の剣巫は、捕まえたら逃亡対策にまず位置探知の呪詛を仕掛けなければ、と心に決めた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「どうするのだ古城君。まだ相手は諦める気はないようだぞ」

 

 姫柊雪菜がいる地点をちょうど見下ろせるビルの屋上。

 古城はパーカーのフードを目深に被ってじりじりと肌を焦がすような真夏の熱射熱風に精一杯の抵抗を見せながら、疲れたように吐息をこぼす。

 

「一応、勘違いがないように確認だけど、あれって俺を尾けてるんだよな?」

 

「なのだ。古城君の場所を何度も占っているぞ」

 

 柵の上に器用にバランスを保ちながら、スヌードを下げて精悍で整った顔をあらわにした後輩は、すん、と鼻を鳴らす。

 ベースギターのギターケースを背負った少女。綺麗な顔立ちをしていて、どことなく人に慣れない野生の猫のような雰囲気。今、途方に暮れて立ち尽くしてる姿は儚げで、頼りなく見える。

 人相の見覚えはないが、服装は、藍羽浅葱が着ていたものと同じ、彩海学園の女子制服。襟元がネクタイではなく、リボンであることから、中等部の生徒。

 だとすると、まず最初に思いつく可能性は、中等部に通う一歳違いの妹の知り合い。ならば、妹とクラスメイトの後輩が知っているのではないか。

 

「クロウ。あいつのこと知ってるか?」

 

「知らない。中等部の校舎にも“嗅いだことのない匂い”だぞ」

 

 軽く鼻の頭を擦りながら、そういう。

 じゃあ、違うのか。

 これまでの付き合いから、南宮クロウの嗅覚は信用できるものだと古城は認めている。

 

「そうだな。なんかまだ短いスカートに履き慣れていないというか、時たま動きが無防備で危なっかしいし、初めて制服を着たっぽいな」

 

 だとすると、今日この絃神島へ来たのかもしれない。

 

 で、妹の関係者というセンが消えるとなると、古城を見知らぬ人物に尾け回される理由は、ひとつに絞られた。あまり考えたくないのだが、何やら術っぽいのを使っていると言われれば、そのセンが濃厚だ。

 

「このまま、帰る……ってわけにはいかないよなぁ」

 

 関わると厄介ごとの予感がする。

 だが、これまでのしつこさを考える限り、妹のいるマンション前にまで張り込まれてしまいそうだ。

 それは、困る。

 できれば、こちらの勘違い、もしくは人違いで済ませられるのなら済ませたい。

 ただでさえ切羽詰まってる追試の前日に面倒事はごめんだ。

 

「那月ちゃんに相談してみっか」

 

 この手のことに専門家の知恵を借りようかと古城が携帯を取り出した、そのとき。

 

 

 トン、と。

 後輩、南宮クロウが屋上から飛び降りた。

 

 

 たとえ、世界最強の吸血鬼でも厄介ごとからは逃れられないことを古城は知るのだった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 もう何度目かになる卜筮を準備に、武神具の入ったギターケースを置いたときだった。

 少女に声をかけたのは、見知らぬ男の二人組。年齢は二十歳前後で、派手に染めた長髪に、あまり似合っていないホスト風の黒スーツと、いかにも遊び人な男たちだ。

 少女の柳眉が寄る。

 

「―――ねぇねぇ。そこの彼女。どうしたの? 道に迷ったの?」

「道草してんなら、俺たちと遊ぼうぜ」

 

「どいてください」

 

 獅子王機関育成場である高神の社は、表向きは全寮制の女子校。

 異性に言い寄られることのない環境で、少女も男の人に声を掛けられたのはこれが初めての経験ではある。

 ルームメイトからこの手の輩は、下手に穏便に別れようとしてもしつこく食い下がってくるから、最初にドギツイ一発をかましてやりなさい、と教わっている。

 間違っても、ナンパに対し優しく対応してはダメだと何度も何度も言い聞かされた。

 最悪、殺しちゃっても構わないわ! なんて言われたけど、声をかけただけで流石にそれは避けたい。

 

「いいじゃんいいじゃん。俺らと一緒にいると楽しいぜ」

「給料出たばっかで金持ってるからイイとこにつれてってやるよ」

 

「結構です」

 

 男たちの手首が視界に入った。

 そこに嵌められている金属製の腕輪――魔族特区の特別登録市民。

 つまり、この二人は、魔族(フリークス)

 生体センサに魔力感知装置、発振器などを内蔵した腕輪をつけている以上、事を起こせば、ただちに特区警備の攻魔官が隊を率いて派遣されることになっているので、そうそう人間に危害を加えたりはしないだろう。

 でも、魔族だ。

 

 訓練で仕込まれた体の重心が、自然と低くなる。

 

 剣巫見習いとはいえ、少女はもう攻魔師の資格を持っている。そして、獅子王機関の一員として、少しでも危険な可能性があるのならば無視はできない。するつもりはない。

 そして、今の彼女は、ファミレスで逃げられてから一向に見つからない第四真祖に業を煮やし、苛立っていた。何度も何度も、不得手な占いをやらされて、それも成果が出てないとなるとストレスがたまるというもの。

 

「ちっ、ガキのくせに、お高くとまってんじゃねぇ!」

 

 だから、男たちの一人が暴言を吐きながら、思いっきりスカート捲りをされて、カッとなってやってしまった。

 

「<若雷>っ―――!」

 

 掌底を鳩尾に抉りこむように叩き込む。

 

 少女の勘からして、この魔族は獣人種。強靭な筋力を有する人外は、当然、肉体は人よりも硬い。鍛え抜かれたプロの格闘家が、女子中学生に殴られてもピクリともしないだろう。そして、獣人種はそのプロの格闘家以上に硬い。

 

 だが、獣人種の男はトラックに撥ねられたような勢いで吹っ飛び、壁にぶつかり、消沈。

 たった一撃で、仕留めた。

 

 そして、止まらず、次。

 

 今は仲間がやられて呆気にとられているが、我に返れば暴れる可能性が高い。戦闘において、一瞬の躊躇は命取りとなる。

 だから、少女は迷うことなく、もう一人の魔族にも同じ掌底を食らわそうとし、

 

「<若雷>っ―――「ストップなのだ」」

 

 何の前兆もなく、二人の間に現れた厚着の少年に、撃ち放った渾身の掌打を、その手袋に包まれた手のひらで受けられた。

 

「は―――?」

 

 実戦が初めてとなるも、高神の社で攻魔師候補者たちに指導される強烈な白兵術式は失敗していないはず。

 だが、それも疑わしくなっても仕方のない光景だ。

 

 いてて、と少年は一撃を喰らった手をぶんぶんと振ってる。

 多少腫れた、その程度なのだろう。

 見習いとはいえ、剣巫が放ったゼロ距離からの掌打を受けてその反応。

 魔族の中でも強力な身体能力を持った獣人でさえ、十分通用する。気を乗せて通した衝撃はその分厚い筋肉を貫通し、吹っ飛ばした少女の近接戦闘の武術なのだ。

 寸前で無意識に手加減したとしても、それは、ちょっとおかしい。いててじゃない。これでも卜占と違って武術は結構得意だし、そんな軽いもんじゃすまされない。

 思えば、掌から伝わる手応えがいつもと違っていた気がする……。

 

「まさか、生体障壁?」

 

 気功術とも呼ばれる武術の業だ。少女も師から教わった。

 ……なのだが、当の本人は聞き慣れない単語を耳にして、?マークを浮かべている。

 

「セイタイショウヘキ?」

 

「え、っと、気功術のことです。わかりますか」

 

「おー、キコウ。うん、気功。笹崎師父が言ってたぞ」

 

 笹崎―――とその名前を聞いて、少女の記憶にすぐ思い至ったのは、今朝、転入手続きの際に顔合わせした担任教師の笹崎岬。教える科目は体育実技で、学園に何人かいるという教師兼業の国家資格を有する攻魔師でもある。

 獅子王機関から送られた事前情報で、笹崎岬女史は、<仙姑(せんこ)>との異名を持つ、武術と仙術を高いレベルで極めた接近戦闘術『四拳仙』の達人(マスター)クラスの女拳士。

 それを師に持つというのなら、この相手に近接戦は避けるべきか―――

 

「オレ、みんなと一緒に体育参加できないから、授業中はいっつも師父と組手してるんだ。この前も、ショウケイケンの筋がいいって褒められたのだ。でも、師父みたいに気功波できないからまだ未熟なんだ」

 

「は、はぁ……そうなんですか」

 

 なんか、あっさり手の内をさらされてる。

 これはこちらが舐められているのか―――いや、それはないだろう。霊感霊視にそれなりの自信がある少女には、毒気がないというか。何か騙し討ちとかできなさそうな性格なのがわかってしまう。

 いや、そもそも攻魔師(こちら)側の人間であるなら戦う理由はないのか?

 

「それで、お前は何で古城君をつけ回してるんだ?」

 

「え?」

 

 あれ、ちょっと、この厚着の人、どこかで見かけたような気がする。

 少女は記憶をさかのぼって精査する。そういえば、ファミレスで第四真祖を見つけた時、そのすぐ隣にも厚着の人がいたような……

 

「ストーカーはいけないことだぞ」

 

「な……!? いや違います! とんでもない誤解です! 私は獅子王機関から監視役として派遣された剣巫です!」

 

「シシオウキカン? ケンナギ?」

 

「知らないんですか!? え、師匠(せんせい)から聞いてないんですか!?」

 

「うん、知らないのだ」

 

「どうしてそこで胸張って答えるんですか。笹崎攻魔師官の教えを受けてるなら私たちと同じでしょう!」

 

「笹崎師父は、とりあえず、歯向かってくる相手をブッ飛ばせばみんな解決することを教えてくれたのだ」

 

「何ですかその脳筋思考は。……ためしに一つ尋ねますが、攻魔師の資格をお持ちですか」

 

「持ってないのだ」

 

「だから、何でそう自慢げなんですか……」

 

 さっきまで結構気が立っていた気がするのだが、いつのまにやら戦闘意欲が失せている。

 これの相手に矛先を向けても徒労に終わる気がするのだ。

 しかし、この少年が、暁古城――第四真祖と何かしら繋がりがあることは確かだ。彼に仲介をお願いすれば、コンタクトできるかもしれない。

 できれば、話し合いで、最悪、力付くでも。

 

「―――テメェら、さっきから俺を無視してんじゃねぇ!」

 

 

 

「D種―――!」

 

 ホスト崩れの遊び人の魔族に現れた、真紅の瞳。そして牙。

 魔族の本能と同時にあらわにした身体的特徴は、欧州を勢力圏とする<忘却の戦王(ロストウォーロード)>を真祖とするD種の、吸血鬼だ。

 獣人種ほどではないにしても、常人を遥かに超える身体能力と、魔力への耐性。そして、無限の負の生命力からなる凄まじい再生能力。それだけでも厄介というのに、彼らにはもうひとつ、魔族の王と呼ばれるにふさわしい切り札を持っている。

 

「―――<灼蹄>! そいつらみんなやっちまえ!」

 

 男性吸血鬼の絶叫と共に、左腕を掲げる。魔族につけられた腕輪からは攻撃的な魔力を感知してけたたましい警告音を発しており、血管が浮かび上がったようなラインが左腕に展開されて、鮮血にも似たどす黒い炎が噴出する。

 陽炎の如くに揺らめいて、形作っていくそれは、馬。自然界にはありえない、巨大な炎の妖馬だ。

 

 こんな街中で眷獣を使うなんて―――!

 

 少女のうちで失せかけていた闘志が再点火する。

 腕輪の警報音で、ここら一帯にいる人々は皆避難するだろう。そして、警備隊が現場に急行する。

 しかし、相手は眷獣と呼ばれる怪物。

 吸血鬼が自らの血の中に従える眷属たる獣は、吸血鬼の個体個体によって姿形や能力は様々だが、『旧き世代』となれば、小さな村を丸ごと消し飛ばす芸当も可能だという。

 この男性吸血鬼は若い世代であるものの、それでも最新鋭の戦車や攻撃ヘリを上回る戦闘力を有しているだろう。

 ただ在るだけでその身から放たれる高温で融解していく、溢れだした溶岩も同然の破壊的なエネルギー。そんな炎の妖馬が、意思を以て、生身の人間に襲い掛かろうとしている。

 それも宿主の吸血鬼は実験場以外での召喚は初めてであるせいか、幉を抑えきれず、眷獣は半ば暴走気味だ。

 

「吸血鬼の眷獣は並の攻魔師でさえ相手になりません。資格を有していない見習いは下がっててください」

 

 <雪霞狼>―――!

 ギターケースに収納していた、冷たく輝く銀槍を取り出す。

 収縮機能が付いた折り畳み傘のように、柄がスライドして伸長し、穂先に格納されていた主刃が突き出る。それから戦闘機の可変翼のように左右に副刃が展開される。

 その外観は洗練された近代兵器ではあるが、使用分類は原始的な刺突武器である。

 フッ、と体の裡から絞る静かな呼気を唇から洩らしながら、その2m近い長槍を、その少女の細腕で、軽々と振り回す。

 

 バカめ!

 

 他人に逃げるよう促しておいて、自身は立ち向かう様子の少女を、男性吸血鬼は嘲り笑った。仲間を得体のしれない攻撃で吹き飛ばしたが、結局、少年に片手で止められてしまう程度のものを己の眷獣と比べ、恐れるものでもない。

 だが、そんな男は少女ばかりを警戒し、その攻魔師の一撃を防げたというもう一人の少年を見誤っていた。

 

 少女は暴れ狂う炎の妖馬に突き立てんと槍を構え―――それを後ろから追い越す影。

 

 攻魔師ではないはずの少年が、攻魔師である剣巫見習いよりも早く踏み出していた。

 厚着の少年は、槍を持つ少女の頭上を、軽々と飛び超えてる。

 信じがたい跳躍力だった。

 攻魔師といえど、肉体は常人と変わりない。

 あるいは、特殊な武術や技術を駆使することもあるが、それとて肉体そのものの強度を変化させるわけではない。まして、肉体を強化するような術を使った形跡もなかった。

 ならば、この少年の肉体は、まさしく規格外だった。

 

「―――オレもご主人の眷獣だぞ」

 

 迫る炎の妖馬と対峙して、踏み込んだのは、たった半歩。

 震脚が地面を穿ち、しゃくりあげるような拳が眷獣を打つ。

 

「な……!」

 

 ……飛んでいた。中身のない空気人形のように。吸血鬼の眷獣が。

 

 原理は、ほぼ先ほど少女が放った気を乗せた掌打<若雷>と同じだろう。

 だが、その拳骨に込められた気の総量と密度、そして膂力が違った。

 地面から螺旋を描いた反発力は、少年の拳を伝わって、炎の妖馬の体を真上に飛ばしていた。

 

「う……嘘だろ!?」

 

 突進のエネルギーが相殺されるばかりか、眷獣の巨体が無防備にも浮いた。

 致命的だ。

 機槍を構えた剣巫が、驚いたとはいえ、この絶好の隙を逃すはずもない。

 真っ向から、回避しようのないタイミングで、眷獣を機槍で貫く。

 一閃。そして、霧散。

 少女は、眷獣でさえも一刀で断ち切り、消滅させた。

 

「俺の眷獣がこんなにあっさり……」

 

 絶対だと信じていた切り札は、出現から分も持たずに消滅し、破壊を成したのは精々アスファルトに焼焦げ目をつけるだけだった。

 その衝撃は凄まじく、男性吸血鬼は今目の前にいる少年少女が恐怖の対象としか映らない。

 そして、眷獣を真上にかち上げた、その拳を天に突き上げて身体を伸び上がった少年の、その首巻に隠された顔、頬にある古く大きな切傷―――

 

 それを見てようやくひとつの魔族の中で広まる噂話が脳裏に過る。

 

「お前、まさか<黒妖犬(ヘルハウンド)>―――」

 

 総毛立った。

 その褐色の肌を一切見せない厚着と顔にある大きな古傷。

 今は気絶している仲間の獣人種が歯ぎしりさせながら語っていた。

 魔族を大量虐殺した魔女に飼われる、死の予兆で墓守の番犬であり、魔女の女王の眷属の名を冠する猟犬は―――獣人種(おれたち)の偉大なる王の血を裏切る者だ。

 

 しかし、魔女の犬よりも早く吸血鬼に死の宣告が迫る。

 

 今度は少女が少年を追い越す。向けられる視線は、冷ややかに猛り狂っている。険しい表情を見れば、眷獣を倒しても、まだ少女の戦闘は終了していないことを悟らすだろう。相手の命を取るまでは。硬直して動けない男性吸血鬼に破魔の銀槍で心臓を貫かんと突き出した―――そのとき、

 

 

「ちょっと待ったァ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 出るつもりはなかった。

 

 後輩が屋上から飛び降りた時は驚いたが、後を追って駆けつけてみれば、ケロッとしていたので心配して損した。まあ、そのドーピングの比ではないチート極まる人外の身体能力では、正々堂々スポーツマンシップなんて守れるわけがないだろうし、人間社会においてほとんど不要の長物であることは、自分のことのように理解しているが。

 

 とにかく、ホスト崩れの遊び人と遭遇し、少女から不穏な気配を感じて急行した後輩を追って、遭遇した場面は、そうちょうど……があらわになったところで。

 

 それは置いておこう。

 

 質問厨の後輩に止められた彼女は、自身の正体が監視役であると明かす。シシオウキカンとかケンナギとか後輩と同じように首を傾げたくなる知らない業界用語を並べられたが、第四真祖を捜し、魔族を一発で倒した中学生は、真祖の命を狙う賞金稼ぎではないことを理解した。でも、どちらにしろこちらにとって面倒な輩であることには違いない。

 この3ヵ月ばかり前に先代から押し付けられた『世界最強の吸血鬼』という非常識な肩書をこれまで必死に隠してきたのだ。このことを知っているのは一人の協力者と、自身と同じ彼女の観察下に入っている後輩だけだろう。

 

 それからすっかり蚊帳の外に置かれた魔族は、そこで仲間を連れて少女から逃げればいいのに、逆上。

 魔族特区では、当然魔族だけでなくその彼らを滅ぼしうる攻魔師にも厳重な制限が課せられており、道端で声を掛けられた程度で攻撃した少女にも非があることは確かだ。いくら絃神島が非常識で混沌しているとしても、斬り捨て御免が通用するほど殺伐とはしていない。

 だが、それでも吸血鬼の眷獣はやりすぎだ。しかも制御できていないとなれば、ブレーキの壊れた暴走列車と変わらない。

 

 それでも攻魔師と吸血鬼の喧嘩、それに巻き込まれた後輩の状況を見れるだけの余裕はあった。

 

 唯我独尊の担任教師から、『バカだが使える眷獣(イヌ)』と認められている後輩は、吸血鬼の眷獣を優に上回る戦闘力の持ち主であると知っていた。

 しかし、あの中学生も、眷獣を滅ぼせるだけの実力があったのは流石に古城も思わなかった。

 

 

 

 命のやり取りを目の前でされては、傍観者のままでいることはできなかった。

 吸血鬼でも、ナンパに失敗して中学生に刺殺されたなんて不名誉な死はかわいそうだ。

 して、割って入ってしまった暁古城から、攻魔師の少女は後ろに跳んで距離を取り、愕然とした表情でそれを言う。

 

「<雪霞狼>を素手で止めるなんて……っ! やはりあなたが、暁古城―――いえ、第四真祖!」

 

 ひた隠しにしていた異名を叫ぶ上擦った声はよく響いたが、幸いにしてこの場で意識があるのは、古城と攻魔師の少女、そして、あまりの恐怖に気絶した吸血鬼を回収していた後輩のみ。

 とりあえず、魔族の方は後輩に任せるとして。

 こちらを警戒して油断なく槍を構えて、むっつりと睨んでくる中学生に、古城はやれやれと息を吐きながら、攻撃の意思はないと両手を上げるポーズをとる。

 

「あのさ……なんで俺の名前を知ってるのかとか気になるけど、その話は置いといて、これ以上はやりすぎだって。もういいだろ」

 

「どうして邪魔をするんですか? ―――もしや、その男はあなたの眷属なんですか?」

 

 女子中学生をナンパした野郎と仲間扱いにされていると古城はますます吐息に滲む、気怠さを濃くする。

 

「違う。でも、目の前で喧嘩してる奴らがいたら、普通は止めようと思うだろ」

 

「公共の場での魔族化、しかも市街地で眷獣を使うなんて明らかに危険です。聖域条約にも違反しています。彼は殺されて文句は言えなかったはずです」

 

「それを言うなら、先に手を出したのはおまえのほうだろ?」

 

「そんなことは―――」

 

 ない、とはいえない。

 途中でいったん切れてしまったが、原因の発端を思い出した少女は、口を噤み、黙りこむ。

 

行動不能の(ブッ倒した)魔族を苛めるのは、攻魔特別措置法違反だぞ」

 

 そして、攻魔師助手の後輩からの援護射撃。その正論に、少女は唇を噛んで俯いてしまう。よし、よくいった、と古城は内心で僅かに快哉する。

 

「だから、やるなら生かさず殺さずが鉄則だとご主人は言っていたのだ」

 

 それは聞きたくなかった情報だ。そんな独裁者な、魔族に優しくない助言はしなくてよろしい。

 

「ま、まあ、お前もわかっただろ。いくら魔族が相手だからって、ちょっとパンツを見られたくらいで殺そうとするのは―――「え、見たんですか?」」

 

 うっかりとこぼしてしまった古城の失言に、少女は顔を上げる。銀の槍でこちらの心臓に狙いをつけたりはしないが、その視線は先ほどの男二人組に向けていたのと同じ冷ややかなもので、

 

「あ、いや、それは……」

 

 口ごもる古城は、咄嗟に警報を鳴らし続けている魔族の腕輪を止めようとしている後輩を見る。

 

「? よくわからないけど、古城君。お前のスカート危なっかしいって言ってたぞ」

 

「おい!? おま―――「見たんですね」」

 

 まさかの後輩からのフレンドリーファイアに、少女の目がナンパ男たちに向けられるものより冷たい。変質者を見る目だ。

 もはやどんなに言い訳を模索しようにもこれは釈明のしようがない。

 ナンパされているところを察知してすぐ駆けつけた後輩はとにかく、古城はこの一連の騒動を黙ってみていた。痴漢行為に遭った少女を見捨てて、市街地で暴れようとした魔族を庇う身勝手な男子と思われても仕方がない。

 

「でもほら、そんな気にするようなことじゃないだろ。年下の下着になんか俺も興味ないし、なかなか可愛い柄だったし、見られて困るようなものでもないんじゃないかと……」

 

「………」

 

「な、なあ、クロウ。お前もそう思うよな?」

 

「オレ、そこまで見てなかったからよくわからないけど、古城君の注意力はすごいな」

 

 慰めにもならないし、弁護にもならない、むしろ立場を悪くする後輩や、さらにあたふたする先輩のやり取りを眺めて、少女は、深く溜息をついた。しかし、古城に向ける軽蔑な目つきは変わらず。そして、いったん古城から視線を外して、腕輪の操作中に目が離せず背を向けて座り込んでいるクロウを見下ろす形に立つ。

 

「……あなたも、魔族だったんですね」

 

「うん、そうだぞ」

 

「……暁古城の、仲間ですね」

 

「うん、古城君は学校の先輩なのだ」

 

「……そう、ですか」

 

 私を騙していたのか、とは言われない。

 眷獣を相手にした時のように、槍先を向けられない。

 だが、そこに向けられる視線は、同じ攻魔師(ニンゲン)のものではなく、二人組や第四真祖(古城)と同じ魔族を見る目に近くなった気がする。

 

「おい、お前、クロウは―――」

 

 と、古城が口を挟もうとしたその瞬間、タイミングでも見計らっていたかのように、一陣の神風が吹き抜ける。

 仁王立ちしていた少女のスカートが、ふわっと無防備に舞い上がる。

 少女に背を向けている後輩は気づかないが、幸か不幸か、少女と対峙しようとしていた先輩からは見えていた。つい動体反射から目で追ってしまい、つい男子的反応で吸い寄せられたそこに視線が固定されてしまう。

 

「よし、これでピーピーうるさいのも止まったのだ」

 

 達成した後輩の声が、古城には遠くにあるように聴こえた。

 息苦しいほどの静寂な雰囲気に呑まれる中、一呼吸分の溜めを置いてから少女がこちらに振り向いた。

 

「いや、待て。今のは俺がやったんじゃないぞ。離島特有の強風ってやつでだな―――」

 

「……もういいです」

 

 いやらしい、とうろたえる古城にそう言い捨て、クロウには一瞥もせずに少女は去っていった。

 

 

 白い縁取りの、いくらかの金銭とクレジットカード、ぎこちなく笑う少女の顔写真と『姫柊雪菜』と名前を刷り込まれた学生証を入れたお財布を落として。

 

 

 

つづく

 



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聖者の右腕Ⅱ

人工島西地区 高級マンション

 

 

 人工島西地区(ハイランド・ウエスト)にある8階建のビルは、豪奢なマンションだった。

 王族貴族の持ち物だと言われれば頷きもするだろう。

 そんな周囲の街並みの中でも一際高い建物の、一番天に近い、支配者の座すにふさわしい最上階フロアを丸ごと主人は己の住居としている。端的な事実として、ビルの主人は社会的に明確な地位も、組織の運営もしているわけではないにも拘らず、街全土に手が届き、その異名は世界に畏怖として轟いている。

 

「第四真祖を尾け回していた攻魔師に、痴漢行為を働いたバカな吸血鬼(コウモリ)が眷獣をぶっ放した―――

 来て早々事件を起こすとは面倒な輩だが。なるほど、獅子王機関の剣巫か」

 

 冷ややかに、主人――南宮那月は言った。

 年齢は(自称)26歳であるが、その見た目は十代前半でも通用する。下手をすれば小学低学年と見間違われかねないくらいに若い、というより、幼い見た目。顔の輪郭も体つきもとにかく小柄で、常夏の島であろうと常にゴシックのドレスを着ているため、黙っていれば人形と思われるだろう。

 しかし、彼女はれっきとした魔女であり、攻魔師。そして、彩海学園の英語教師。

 どこかの華族の血を引いているとも言われており、自然仕草のひとつひとつに威厳とカリスマ性が備わっている。

 魔女として魔族に恐れられ、攻魔師として警備隊に頼りにされ、教師として生徒に慕われるなど、いずれも有能。

 

「ご主人、何か機嫌が悪いのか?」

 

 そして、かつて殺し合った相手を使い魔にするという酔狂者でもあった。

 

「様まで付けろと言ってるだろう」

 

 手にしていた黒レースのセンスを一閃。呪文を唱えず、手首を動かすだけで行使した術は、使い魔の額に叩く衝撃をぶつける。それも常人ならば、軽く頭蓋骨が陥没しかねない強さで。無論このような体罰は、二人を除いて、学生に実行したりはしないが。

 

「うぅ~、ご主人、さま」

 

「ふん、まあ、いい」

 

 ビロード張りの豪華な椅子に腰かけながら、手にしていた扇子をぱたりと閉じて―――もう片方の手にあった紅茶のカップを脇に置いて、那月の瞳が自身の前で正座しているクロウを薄く睨みつける。さほど強くはなく、それでも弱くない視線。露骨に眉を寄せて顰めつつも、視線は真っ直ぐに。

 

「機嫌が悪くなるのも当然だろう。我らの商売敵の名前を聞いたのだからな」

 

「そうか。獅子王機関は商売敵なのか。古城君は大丈夫なのか」

 

「ついでに言うと、第四真祖と比べれば犬コロだが、おまえも連中の抹殺リストに入るだろう」

 

 そこまで言って、那月は席から立つと、使い魔(クロウ)の耳を容赦なく引っ張った。

 

「痛い痛いぞ。ご主人!」

 

「当然だ。痛くしないと躾にならんからな。それにこのまま聞かせてやった方が、早速主のありがたいお言葉をド忘れする頭にも覚えがよくなるだろう」

 

 那月は耳を摘まんだまま、冷ややかな声で忠告する。

 

「やつらに理由を作らせるな。たとえ真祖が相手でも、本気で殺しに来るぞ。連中はそのために造られたんだからな」

 

「わかった! わかったぞ!」

 

 その言葉を聞いて、那月はぱっと解放する。再び、椅子に腰掛け、紅茶のカップを口付けてから、

 

「それで、今日はおまえにひとつ仕事を与える」

 

「おう、久々の仕事か。一ヶ月ぶりだぞ」

 

「警察からの依頼だ。標的は『旧き世代』の吸血鬼」

 

 虚空からクロウの手元に一枚の写真と、布きれ。

 

「その『旧き世代』は、表向きは貿易会社の役員だが、密輸組織の幹部の疑いがある。だが警察は取引の実態を掴めていない。なにせ相手は霧となってしまう吸血鬼(コウモリ)だからな。専門家(わたし)が出張ると知ればすぐ洞に引っ込む。小者は小者なりに小賢しくも知恵が回るらしい。だから、それを見つけるのがおまえの仕事だ。

 いいか、戦うな。ある程度時間をかけていいから慎重にやれ。

 現場を押さえるだけでいい。そして、その位置を私に連絡しろ。……この前、藍羽が携帯の扱いを教えたと思うが」

 

「うん。この楽々ワンダフォンの1を押せば、ご主人に繋がるんだろ。ちゃんと覚えてるぞ。……でも、オレが『旧き世代』をやっつけた方が簡単じゃないか」

 

「『旧き世代』を昨日のバカな吸血鬼(コウモリ)と一緒にするな愚か者」

 

「う~」

 

「岬が担当のクラスに預けているが、いったい何を教えている。ここ最近は調子に乗ってつけ上がるばかりではないか。馬鹿犬に馬鹿犬の相手などさせていたら、ますます馬鹿になるのはわかり切っていたのだがな」

 

 『旧き世代』の吸血鬼は、村ひとつを壊滅できるほどの眷獣をその身に有している。

 <雪霞狼>という対魔族の武神具も持たず、気功と拳法といった武術程度で相手できるものではない。

 だが、相手が自分より強いからと言って、それが退く理由とはならない

 なぜならば―――

 

「オレは、ご主人の眷獣なんだろ……!」

 

「―――」

 

 この偉大なる魔女の使い魔なのだから。人間に害する魔族を前にして、尻尾を巻くようなことはできない。そんな真似をすれば、すなわち主の評判を貶めることになるのだから。

 

 その言葉が可笑しかったのか、面を喰らった主は無言で顔を伏せて、肩を震わす。その反応にいくら主と言えど、む、と眉を寄せる。

 そんな不貞腐れる使い魔に、口元を扇子で隠しながら那月は言う。

 

「くっくっくっく―――どこまでも馬鹿犬なのだおまえは。だが、駄々をこねようが『首輪』の解放は許可せんぞ。契約に基づき一部を貸し与えているが、今のお前にアレは実戦で使える段階じゃない。最悪、寿命を削るだろう。私がおまえに期待しているのは、その鼻と脚だ。爪や牙ではない。

 自衛できるに越したことはないがな。近頃は無差別の魔族狩りが出没しているそうだ。くれぐれも気を付けろ。わかったら、返事しろ」

 

「う~」

 

「寛大な主である私は、特別にもう一度だけチャンスをやろう。

 ―――わかったなら、返事を、しろ」

 

「……わかったのだ、ご主人」

 

「様を忘れるなと何度言わせる。

 私の眷獣(イヌ)なら、犬以下の畜生などには成り下がってくれるなよ」

 

 会話が終わると、椅子に坐したまま南宮那月は虚空に消えた。

 

 

人工島南地区 ファーストフード店

 

 

 担任に昨日の件について、暁古城はちくちくとお小言をもらいながら(なんとなく口ぶりから機嫌が良さそうだった)、どうにか補習を終えた帰り。

 その際、中等部に昨日拾った『姫柊雪菜』の財布を届けようとし、その過程でいろいろとあったのだが、偶然通りかかった本人に直接渡すことができた。昨日の件から引き摺っている気まずい空気と誤解を解消しようと、ちょうど空腹な彼女を近場のファーストフード店に誘う。

 そこで獅子王機関が国家の治安のために働いてることやら第四真祖たる自分は戦争やテロと同じ扱いになっていることやら話を聞かされ愕然。監視役が付くのも当然だと納得せざるを得ない。向こうも向こうで、古城が人間から真祖を喰らって第四真祖になったことやその際の記憶がない、思い出そうとすると頭痛がすることに大変驚いていた。それでも、今の古城が人間としての生活を望んでいることと、もともと人間であったのは理解してもらえた。

 結果、こちらは第四真祖としての自覚が足りてないので監視されることを了承し、向こうも危険でない限りは安全を保障することを約束してくれた。特別、この世界最強の吸血鬼の力を用いて夜の王国を築くつもりなんてないし、生活に過度な干渉はしてこないとわかったのだから、相互理解という戦果と僅かばかりの信を勝ち得た実に有意義な話し合いだったと古城は思う。

 

「それで昨日、先輩の妹さんに会って話を聞きました」

 

「ああ……らしいな」

 

 今朝、妹の暁凪沙から、昨日、お兄さんはいるかと尋ねられた初対面の転校生に好きな食べ物から好みのグラビアアイドルに友人関係、そして恥ずかしいエピソードまでつまびらかにされたことを聞いている。妹は、兄に興味を持ってくれる女子が滅多にいないからつい暴露してしまったというが、あれは単純におしゃべり好きなだけである。

 

「先輩は、自分が吸血鬼であることを隠してますよね」

 

「まあ、そうだけど。いや、姫柊。非登録魔族だってのは違反だってのも、そいつが怪しまれるのもわかるんだけど。……ちょっと、訳あってな」

 

 この話は、妹にも深く関わっているものだからできれば話したくない。古城についてだけならばとにかく。どうやらこの監視役も妹と同じクラスで、早速友人になっているようなのだから。

 そんな焦る古城に、雪菜は少し苦笑気味で頷いて、

 

「はい。先輩が妹さんのためを思ってることがわかりました、先輩が吸血鬼だってことは内緒にしておきます。ですから、わたしのことも秘密にしておいてくださいね」

 

 悪戯っぽい笑顔でそう言ってくれた。初めて見せた、年相応の幼い笑顔。いろいろと不安な部分もあるが、姫柊雪菜は話せばわかってくれて、悪い人間ではないようだ。こうして、特務機関の監視員だと言われなければ、普通にかわいい女の子にしか見えない。

 

「あと、周りで先輩のことを吸血鬼だと知っている人はいますか」

 

「担任の那月ちゃんと後輩のクロウだな。ほら、昨日、会った厚着してた奴」

 

「ああ、あの魔族の……」

 

「ちょっと待ってくれ姫柊」

 

 古城は待ったをかける。

 

「クロウは、半分は人間だ」

 

「え?」

 

 雪菜が驚いたように目を瞬く。

 当人自身も知らないし、よく覚えてない。だから、古城が話を聞いたのはその主で、担任の南宮那月からだ。

 

「ある魔女が作ったっつう、獣人と人間の『混血』で……唯一その作品の生存例なんだそうだ」

 

 ライオンと虎を掛け合わせて、ライガーという自然界には存在しえない、神の摂理に逆らい新しい生物を生み出すことを、今の人間の科学力は可能としている。

 それと同じように、その魔女は『混血』という魔族でも人間でもない存在を創り出した。

 

「あいつは、魔族なのに魔族を捕まえる攻魔師の助手なんてやってるつって、魔族から裏切者呼ばわりされてる。かといって、人外な能力を持ってるせいで人間の中でも浮いちまってる。今は学校で爪弾きにされるようなことはないし、友人もちゃんといるけど……」

 

 彩海学園は、人間だけでなく、魔族の子も通っている。この絃神市で魔族など外国人よりもありふれた存在で、魔族だからという理由で特別視されたりはしない。転入してきた美少女の方が、よっぽど注目される。

 

 だが、人間と魔族の『混血』はいない。

 

 クロウが入学した最初の一年目、一際注目されていた彼は、ひとつの事件を起こしてしまった。

 “ある女子生徒”に、公衆の面前で、酷く怯えられてしまったのだ。

 古城はそれをよく知っている。あれは誰も悪くなかった。ただ、間が悪かっただけだ。

 だが、それが原因で『女の子を襲う凶悪な怪物』という根も葉もない悪評が広まって、迫害のような虐めを受けた。

 学校には魔族の子も通っていたが、それでも彼らは少数派。そして、魔族の裏切者の混血ということもあり対応を決めかねていて、傍観に徹していた。

 結局、その誤解が解けたのに、半年も時間がかかってしまった。

 

「あいつは良いヤツなんだ。姫柊がナンパされて困ってるのに最初に気づいたのはクロウだし、真っ先に駆け付けたのもアイツだ」

 

 虐めを受けている間も、クロウはけして屈せず、ただ只管にみんなに認められようとしていた。

 なのに、魔族から裏切者扱いされ、人間たちから討伐対象として見られるのは、あまりにも……

 

 ―――ああ、そうか

 

 魔族の力を持ちながら、人間としてあろうとしている。

 あの後輩は、古城と境遇が同じだった。

 

「……先輩。私の攻魔師の師匠は、長命種(エルフ)なんです」

 

「姫柊……」

 

「彼に、お礼を言いそびれてしまいました。気づかせてくれて、ありがとうございます先輩」

 

 雪菜は養成所で魔族を討伐することだけを教えられ、この魔族特区に来たのも昨日が初めてのことだ。

 意識してなくとも、緊張するのも無理はない。だからといって、魔族と知った途端に態度を変えてしまったのは、あまりにも失礼だった。

 

「で、でも、そうなったのは先輩のせいでもあるんですからね!」

 

「だから、あれは事故だって言っただろ!」

 

 

人工島南地区 スーパー

 

 

 昼過ぎ。

 チアリィーディング部の午前部活も終わり、マンションに帰る途中、暁凪沙は買い物にスーパーに寄る。今日はお隣に引っ越してきて、自分のクラスにやってくる転入生の歓迎会をするから、いつもより奮発して豪勢にそして多めに買うつもりだ。

 人間関係は、最初が肝心。

 絃神島に単身で転入してきて心細いはず。だから、身近の自分が助けてあげるんだ。

 ふっふふん♪ と短く結い上げた髪をご機嫌に跳ねさせながら店内を物色していると、

 

「―――あれ、あそこにいるのって、クロウ君? 何してるんだろ?」

 

 お惣菜コーナーを前に、じーっと凝視したまま固まってるクラスメイトがひとり。

 雨合羽のようなぶかぶかのコートに手袋まで付けて、耳付きの帽子と首巻で頭部は瞳しか見えないほど覆われていて、その下にちょろっと魔族登録も兼ねている特注首輪の鎖部分が顔を出している。彼はこんな厚着がデフォルトで、炎天下でも授業中の教室でも常にこの格好である。

 

「う~、骨付きフライドチキンもいいけど、この肉団子も捨てがたい。それにステーキにカルビ焼肉……どれにすべきか。500円玉じゃ全部買えないぞ」

 

 どうやらちょっと遅めの昼飯らしい。

 選択に野菜どころか炭水化物さえない、100%肉食の食生活に、暁家の献立を任されている凪沙は心配になる。

 

 明るく可愛く天真爛漫。話しかけやすく、面倒見もいい。友達も多く、男子からも人気がある。

 そんな暁凪沙は、南宮クロウには、少し、壁を作ってしまってる。

 最初の出会いが大失敗だったせいで。

 

 暁凪沙は、魔族に対し、異常なまでに恐怖を抱いてしまう。

 魔族がトラウマとなった4年前の事件から、それが原因で体調を崩しやすく、今もまだ定期的に検査入院を繰り返している。

 

 そんな凪沙が、中等部に入学して数日のころ、親切に落とし物を届けてくれた半人半魔の同級生と接触し―――絶叫。

 何もひどいこともされていないのに、ダメだった。

 

 凶悪な漆黒の巨狼にそれが率いる動く死体に囲まれ、自身を庇って死にかけている兄の姿。

 

 彼に触れられた途端、凪沙はそんな鮮明なまでの映像(イメージ)が頭の中に流れ込んだ。

 凪沙の魔族恐怖症は学内で周知となっておらず、兄とその友人たちでしか知らない。またそのショックがきっかけだったのか、凪沙は倒れてしまいすぐ病院へと運ばれた。

 凪沙が意識を失う前に見たのは、血相を変えて心配する兄の友人と、荒っぽい怒声を発しながら相手に詰め寄る兄、そして戸惑う少年の姿。教師が収拾するまで、事態は混迷を極めたという。

 その日のうちに意識を回復させた凪沙は、付き添っていた兄と一緒についてきた友人に事情を説明し、誤解を解いた。

 しかし、しばらくの間、病院に入院することを余儀なくされ、凪沙本人から学生たちへ半人半魔の少年の弁護ができなかった。凪沙の代わりに、兄と友人たちがいれば事件ではなくただの事故で、少年は無実だと話をしようにも、最初のインパクトが強過ぎたせいか信じてもらえず、虐めは止まらない。凪沙が無事に退院してからも、すでに定着していたイメージはなかなか拭えるものではなかった。

 

 だから、半人半魔の南宮クロウに暁凪沙は魔族への恐怖心が全くないとは言わない。けど、やっぱり何より罪悪感の方が強いと思う。

 

(だめだよねこのままじゃ。折角、同じクラスになったのに)

 

 人間関係は最初が肝心。でも、挽回できないはずがない。

 ぱん、と凪沙は自分の両頬を叩いてから、パッチリ目を大きく見開く。

 

「こんにちは、クロウ君」

 

「うー……う。凪沙ちゃん、こんにちはなのだ」

 

 目の前のおかずに夢中だったクロウは、話しかけられてようやく凪沙の存在に気づいたように、少し驚いた顔で挨拶を返す。

 

「何してるの? お昼の相談? ダメだよ肉ばっかりじゃ。野菜と炭水化物も一緒に取らないとバランスが悪いよ」

 

「でも、ご主人からお昼は500円までと言われてるのだ。でも、これじゃあ、他の物を買う余裕がないぞ。ほんとは、ウルトラスペシャルDX大盛りミノタウロスチャーシューメンが食べたかったのに、あれ、800円も取るんだ」

 

「ダメだよ。そんな言い訳は通じないよ。ぐーたらな古城君だって、凪沙がご飯の用意ができないときは、同じ500円でちゃんとやりくりしてるんだから。自炊とかしないの? そっちの方が安くて、いっぱい食べられるよ」

 

「前にご主人に紅茶の淹れ方を習ってたけど、二度と許可なくキッチンには入るなと言われてる」

 

 運動はもちろんのこと、成績も兄のように補習を受けない程度にそこそこで、遅刻欠席なしで皆勤賞な模範生なのだが、食方面がダメダメと聞かされて、凪沙は呆れたように腰に手を当てた。

 それから、一歩、相手に歩み寄り―――向こうも、一歩下がった。

 

「………じゃあ、」

 

 また一歩、近寄り―――一歩、後退する。

 

「―――凪沙が、」

 

 もう二歩、接近し―――二歩、遠ざかる。

 

「……、」

 

 あれほど夢中だったお惣菜コーナーから離れてしまっているが、あと1、2歩の間合いを残して、磁石の同極同士の反発でもみているように、両者の距離は縮まらない。店の角に追い詰めたら、両掌を向けてくる待ってのポーズ。

 兄からお喋り魔と言われるくらい口数の多い凪沙も、その反応に閉口してしまう。

 最初は勘違いかと思ったが、二度も三度も繰り返して同じ結果では気のせいではない。『これってどういうこと? 説明してもらえないかな?』と凪沙が珍しくも無言のジト目で訴えてくるのに、クロウはあわあわと手を振りながら、

 

「凪沙ちゃんには指一本触れるなって言われてるのだ」

 

「だ・れ・か・ら?」

 

 一文字一文字区切って、にっこりと笑う凪沙。吊り上げられた唇の端がピクピクと痙攣してるのは怒りのサインだ。騒々しき同級生から発せられる静かな恐喝に、首までぶんぶん横に振るクロウ。なんとなく凪沙は下手人がわかっているのだが、必死の抵抗を見せる。しかし、角に追い詰められた彼に逃げ場はなくて、

 

「……………こ、古城君から」

 

 やっぱり、半径1m圏内立ち入り禁止令は、兄が出したものらしい。

 そういえば、教室でも、不自然にも凪沙を避けていたし、会話もするけど距離は常にとっていた。ときどき、窓から飛び降りてたし。

 魔族に対する恐怖症を知る凪沙のことを心配して後輩に言い聞かせたのだと思うが、流石に同級生になったのにこの反応はさびしい。

 

「もー、古城くんったら、やりすぎ。いくらなんでも過保護だよ。道理でクラスメイトになったのに距離感が縮まらなかったんだ。ていうか、古城君も古城君だけど、クロウ君もなんでそんな無茶なお願い聞いてるの!? 凪沙と同じ教室のクラスメイトなのに近寄れないって大変じゃない?」

 

「オトコとオトコの約束だから、破っちゃダメなのだ」

 

 この同級生は頑固で、中々に義理堅い。

 最初の顔合わせで、妹を襲ったと勘違いされて怒鳴ったのは兄の古城なのだが、それでも今では先輩後輩。一時期、殺伐としていた兄にも離れずにいる唯一の男子後輩だろう。

 しかし、このままでは凪沙のお近づきになるという目的は果たせない。

 というわけで、凪沙はひとつ屁理屈をこねることにした。これでも口には自信がある。マシンガンのような口数を前に、兄でさえ口喧嘩は避ける。以前、自宅にエッチなビデオを持ってきた兄の友人のひとり矢瀬を苛烈な言葉責めによって、しばらくの間女性恐怖症に陥らせたことがあるくらい。

 

「でも、凪沙から触るのは良いんだよね?」

「? そうなのか?」

「そうだよ。古城君はクロウ君に触るなって言っただけで、凪沙から触ることは禁止されてないよ」

「うん、そうだな」

「うんうん、凪沙は古城君にそんなバカなこと言われてない。言ってたらお説教してるもん。だから、凪沙からクロウ君に触るのは約束を破るわけじゃないし、問題ないの」

「うーん、でも、凪沙ちゃんは、大丈夫なのか?」

 

 その返答に、凪沙は口より先に手を出した。

 クロウが突きだすその掌に、自分の掌を合わせる。手袋越しだけど、確かに触れてることに変わりなく、やはり、少し震えてしまってる。半分は人間であることを知っても、今もフラッシュバックのように蘇るあの光景に凪沙は苛まれる。

 それを察し、引こうとしたクロウの手を、凪沙は捕まえるように握り締める。

 

「やっぱり、ちょっとだめかも。でもね、クロウ君がクロウ君だってのはちゃんとわかってるんだ。だからさ、ちょっと怖いかもしれないけど、大丈夫」

 

 精一杯に握られていても、か弱い、それも震えてる女の子の手を振り解くのは簡単なことだろう。けど、クロウはそのまま、凪沙の言葉を待つ。

 

「凪沙が、魔族を怖がるの、クロウ君は知ってるよね」

「知ってるぞ。今も凪沙ちゃんが怖がってるのも、オレわかる」

「うん。クロウ君にはわかっちゃうよね。でもさ、絃神市(ここ)で生活するなら、克服しなくちゃダメだと凪沙は思う」

「荒療治はよくないと思うぞ。凪沙ちゃんは体が弱いんだから」

「ダメだよ。凪沙が逃げてもこれは変わらない、このままじゃ古城君にずっと心配かけてることになっちゃう。初めて会った時のこと、クロウ君にいっぱい迷惑かけちゃったよね」

「むぅ、でも、凪沙ちゃんは悪くないぞ。オレも不注意だった」

「ううん。古城君や浅葱ちゃんも仕方なかったって、クロウ君も気にしないって言ってくれるけど、やっぱりあれは凪沙のせいなんだよ」

 

 いつまでの過去を引きずってはいられない。

 前へ踏み出そう。今日から―――

 

「だからさ、クロウ君にあんなに迷惑かけちゃったけど、凪沙が慣れるの、手伝ってほしい。クロウ君なら、大丈夫だから……」

 

「う~……オレからはしないぞ。古城君との約束だから。でも、凪沙ちゃんから逃げない。触れてくれるのは、オレもうれしい」

 

「うん!」

 

「でも、無理はしちゃダメだからな」

 

「よしじゃあ、最初は握手からチャレンジしよう。あ、それから今日、二学期から転入してくる姫柊雪菜ちゃん――とっても可愛い子なんだよ――それで凪沙のお隣に引っ越してきたから歓迎会するんだけど、クロウ君も参加しない?」

 

「う~。でも、ご主人から頼まれた仕事が……」

 

 残念そうに断わりを入れようとするクロウ。先輩に義理堅い同級生は、保護者な主にも忠誠心が高い。けど、世の中に絶対はない。凪沙は魔法のキーワードを知っていた。

 

「お肉もいっぱい用意するよ。それも奮発してランクは特選の牛肉」

 

「ホントか!」

 

「それでたっくさんのお野菜と具材で寄せ鍋にして、しめは残ったスープを出汁にしておじやにするの」

 

「いく! 絶対にいくぞ!」

 

 凪沙と手を合わせたまま、バンザーイと高々に挙げて喜びを表現するクロウ。もし尻尾が出てたら、千切れんばかりにぶんぶんと振っていただろう。

 

 

 その後、荷物持ちに軽々と片手で両手分の買い物袋ふたつを持ちながら、もう片方の手で隣の妹と手を繋いで歩くクロウを目撃した、古城がこれはどういうことだと詰め寄ってきたが、そこで凪沙が何勝手なことしてるのと兄を迎撃し、マシンガントークで消沈させたという。

 ちなみに、その間、古城に付き添っていた雪菜が、クロウに謝罪と感謝を述べた。

 

 

道中

 

 

「もう、先輩。凪沙ちゃんを怒らせてどうするんですか」

 

「いや、姫柊、いきなり手を繋ぐ前にもっと踏まなくちゃいけない段階があるだろ!? っつか、クロウの奴いつから凪沙を下の名前で……」

 

 歓迎会後。

 妹の機嫌を損ねてしまった古城がちょっとお値段高めのアイスを買いに、そして、その古城の監視役として雪菜がコンビニ向かう道中。

 

「確かに、先輩が心配する理由もわかります」

 

 古城が過剰なまでに心配する理由を説明し、雪菜も凪沙が魔族特区の人間でありながら魔族を恐れる重度の魔族恐怖症であることを知った。それがかつて魔族に襲われて瀕死の重傷を負ったという、自己の体験に根差したものであることを。

 そして、なし崩しになってしまったが、古城が先ほど言わなかった、妹に吸血鬼であることを隠していた理由も。

 

「ですが、クロウさんは良い人だと先輩がおっしゃっていたじゃないですか」

 

「ああ、そういった。あいつが凪沙に危害を加えるようなことはないのはわかってる」

 

「はい。もしもこれで魔族恐怖症(トラウマ)を改善できたのなら、凪沙ちゃんに先輩の正体がばれたとしても、一緒に暮らせなくなるような事態にはならないのかもしれません」

 

「だったらいいんだけどな。凪沙の治療は魔族特区にある病院じゃないとできねーし、魔族特区にいる限り、魔族との接触は避けようがないからな。凪沙の“リハビリ”相手にはちょうどいいのかもしれない」

 

 雪菜の冷静な指摘に、古城は一定の理解を示したように頷く。も、

 

「だが、それとこれとは話が別だ」

 

「先輩……」

 

 もうこれはどうにも説得しようがないと雪菜は困ったように身をすくめる。

 古城の中では、凪沙はまだ子供で、ほんのちょっと前まではランドセルを背負って、小学5年生までサンタクロースを信じていた。

 

「まさか、こんなことで第四真祖の力を振るったりしませんよね?」

 

「するかっ!」

 

 冗談ではなく割と本気目で確認する雪菜に、古城は思わず怒鳴ってから、苛々と反論を展開した。

 

「うちは両親が離婚してて父親がいないし、母親が家に帰ってくることも稀なんだ。だから、なんというか……俺が守ってやんなきゃ、ってのはあるんだよ」

 

「そうですか……」

 

 普段からそこまで深く考えていたわけでもなく、半分以上は今思いついた即興の言い訳だったのだが、生真面目そうな彼女はどうも本気にしたらしく視線を下に向けて沈黙する。

 

「いいですね、兄妹って。私には家族がいないので、ちょっとだけ凪沙ちゃんがうらやましいです」

 

 何気ない口調で呟く雪菜に、古城は驚いてその横顔を見つめる。

 

「家族がいない?」

 

「はい。高神の社にいるのは全員、孤児なんです」

 

 雪菜はさしたる感傷を挟むことなく、己の身の上を古城に話す。

 獅子王機関の攻魔師養成所たる高神の社には、素質のある子供たちが全国から集められた。

 雪菜もその一人。

 でも、スタッフは皆優しく、剣巫の修行も嫌ではなかったし、その攻魔師の先生は母親のように面倒を見てもらった。

 

「へぇ、そうか」

 

 その話しぶりにウソをついている感じはなく、本心から述べられていると古城は信じられた。

 

「それでいまさら聞くのもあれなんだが、剣巫ってなんだ? 字面から剣が使える巫女って思うんだが」

 

「ええ、まあ、それで大体合ってると思いますけど」

 

「巫女ってことは、姫柊は祈祷や占いなんかもできるのか?」

 

「一応形だけは、あまり得意ではないんですけど」

 

 古城は何となく納得する。

 短い間ではあるも、雪菜がきっちりしているようで無防備な、意外と型苦しい儀式とか苦手そうな性格をしていそうな気がする。

 後輩ほどではないにしろ動物っぽいというか、理詰めではなく本能で動くタイプだろうと予想している。考えてみれば、直感が優れている方が巫女の資質として向いているのかもしれない。

 

「先輩……何か今、失礼なことを考えませんでした?」

 

「え、いや、そんなことはないぞ」

 

「わたし、霊感霊視はそれなりに使えますから、ウソをついてもすぐわかりますよ」

 

「え……!? やっぱり動物っぽい……」

 

「やはりそういうことを考えてたんですね……」

 

 ふん、と鼻を鳴らす雪菜は、そこでふと気になることを思い出した。

 

「そういえば、先輩は祈祷とか占いとかできるんですか?」

 

「いや。昔、父親の方の祖母さんがやってるのは見たことがあるけど、全然。それがどうかしたか」

 

「いえ。この前、先輩を追跡していた時、どうもこちらの位置が把握されていたようですから」

 

「ああ、それ、クロウだ。あいつの嗅覚は特別だからな」

 

「なるほど。獣人種は優れた五感の持ち主ですから」

 

 口元に手を添えて、冷静に考察しているように見えるが、古城はそれが不機嫌を隠してるポーズに思えた。

 ああ多分、負けず嫌いなんだろう。途中でトラブルがあったが、あのまま逃走戦を続けていれば、彼女の負けだった。それが霊視霊感という直感でわかっていて、顔には出さないけど、悔しいと。何とも動物っぽい……

 

「先輩……また、ですか? 言いたいことがあるなら言ってもいいですよ?」

 

「ん、いやー。そのだな。クロウの嗅覚が特別なのはそれだけじゃないんだ。

 ―――<過適応能力者(ハイパーアダプター)>っつったけな。『人間』としても特別なんだよ」

 

「……え……<過適応能力者>ですか?」

 

 古城が口にしたその単語に、雪菜は驚き古城への疑惑を忘れてしまう。

 <過適応能力者>とは、魔術や呪術に頼らない先天的な“超能力者”の総称だ。体系化できないその特殊技能は極めて稀少なスキルが多く、科学技術や魔術呪術では不可能な現象を引き起こすこともあるという。

 

「うちの母親もそうなんだけど、結構すごいらしいなそれ」

 

「いえ、先輩。結構すごいなんてそんな軽いもんじゃ……」

 

「それでクロウのは、嗅覚感応能力(リーディング)だったな。匂いで人の頭の中とか色々とわかるそうだ」

 

 たとえば、顔で笑っていても、怒ってたり、ウソをついてたり、そういうのや、そのものの記憶を――<固有堆積時間(パーソナルヒストリー)>を読み取ることで相手の力量を計り取ったりなど。

 

 五感の中で匂いは唯一、脳の古い部分に直接働きかけることができる、人間の記憶と感情に密接に繋がった感覚だ。

 

 たった一度でも匂いを覚えて(ロックして)しまえば、思念や過去まで読み取る嗅覚は、獣人の優れた性能との相乗でさらに精度を上げて、広大な範囲圏内を誇り、相手を察知すれば、どこまでも追い詰めていく。

 

 それも匂いを嗅ぐだけの受け身(パッシブ)な能力なため、どれほど気配に敏感な相手でも察知されたことを気取られることがないという、追跡者として――主人に獲物の位置を教える猟犬として実に優秀だ。

 

 そして、天性の才能を持った猟犬の主人は、息をするように空間制御を行使でき、場所さえ分かれば遠く離れていようと一瞬で転移できるのだから、あの見るだけで暑苦しい厚着主従は反則的な組み合わせと言えるだろう。

 『黒い(イヌ)を見かけたら、それは魔女()の予兆だ』なんて、魔族の中では都市伝説ともなっているようだ。

 実際、今日まで古城があの担任から逃げられたことはないし、後輩から隠れられた試しも一度もない。

 

 ただし、それは理論上、上手くいけばの話だが。

 

 

倉庫街

 

 

 ―――見つけた。

 

 人工島・南地区と東地区の境を跨ぐ大きな橋は、全長で500m以上の威容を誇るアーチ形式の橋である。

 そのアーチの頂は高さ50mを越え、その高みにあって海から吹き込む、人工島特有の突風をもろに受ければ、すぐさま足を踏み外して眼下へ落下するのは当然の帰結であり、海路がそのまま末路となるだろう。熟練の整備士とて、命綱なしに上るような馬鹿な真似はしない。

 そんな冷たい鉄骨の上に、攻魔師助手の南宮クロウは命綱も持たず、どうにも呆れ果ててしまうくらい余裕たっぷりの態度でもって腰を下ろしてぶらぶら足を遊ばせている。

 とはいえ、匂いで相手の位置が大まかにわかるのだから、なるべく高い場所に陣取る利点はなくもない。『高いところは人にとって危険である』という人類共通の常識を無視すればの話だが。

 

 さて、マスクのようにつけていた首巻をおろし、その特異な嗅覚を解放している猟犬が向ける視線の先。

 あるのは、海路と接した倉庫街。無味乾燥なプレハブ倉庫が延々と連なっており、船が停泊している様子から湾港施設も兼ね備えた区画らしい。

 夜ともなれば人通りは絶え、まばらな街灯が無益にアスファルトの路面を照らしている様が、景観を物寂しくさせる。

 だからか、“それ”ある場所に似合うのは。

 

 夜行性動物と同じ暗視能力で、陽の沈んだ夜でもその姿はっきりと視認している。

 

 大型車両の行き来を考慮して幅広に設けられた四車線の道路の真ん中で、支配者が君臨するかの如く、そこにある。

 年齢はおよそ30歳前後の、上品な背広に身を包んだ男性。だが、その見た目通りではない。夜風に乗って届く、この濃い血の匂いから、相当な年月を経ている存在だとわかっている。

 無論、嗅覚だけで相手を計ったりはしないが、沸々と放たれている法外な魔力によって、人ならざる超常の存在であることを暴露している。

 

 その程度の力量なら―――――やれない、ことはない。

 

 嗅覚感応能力で測り取る相手の吸血鬼の実力は、『旧き世代』でも長老(ワイズマン)貴族(ノーブルズ)と呼ばれるようなレベルじゃない。

 『首輪』を外さずとも、眷獣を出させる前に仕留めれる自信はある。

 なにせ吸血鬼単体は、獣人種よりも弱いのだから。接近戦に持ち込めばこちらの土俵だ。

 

「うぅ~……でも、ご主人の命は守るのだ」

 

 渋々と携帯を取り出す。機械方面にめっぽう強い藍羽先輩が選んだ、その手のものに苦手な自分にも最低限の操作ができる機種。3つのボタンを押せば、それぞれに登録した相手に繋がる仕様だ。ただそれを教えるのに、藍羽先輩とそれに付き添っていた暁古城は、30分ほど時間を費やしたという。

 なんにしても使い方をマスターしたクロウは、主の番号を登録した『1』を押そうとし―――気づく。

 

 標的の吸血鬼に近寄る、二人の存在(におい)に。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――私たちと遊んでくれませんか」

 

 

 夜。人気の絶えた時間。人払いを済ませ、誰もいないはずの空間で、吸血鬼を呼び止める何者かの声。

 薄ぼんやりと明るい街灯の下に、ひとりの女性が立っている。

 藍色の髪の小柄な少女。

 透き通るような白い肌と、水色の瞳。完全に左右対称の整った顔立ち。生物としての匂いがまるで希薄な、妖精じみた娘。

 彼女が身に着けている服装は、ケープコート。それだけ。膝丈まですっぽりと体を覆って、その下には何もつけておらず、足元も裸足である。

 

「男漁りは他所でしろ」

 

 『旧い世代』の吸血鬼は一瞥し、無視する。相手にするまでもない、と。

 

「―――いいえ、そこらの魔族には飽きてしまいまして。是非、あなたに相手してもらいたいのです、『旧き世代』の吸血鬼」

 

 しかし、少女と反対側、吸血鬼を挟む形で、もうひとり進路に立ち塞がる。

 聖職者の法衣を纏い、金髪を軍人のように短く刈り上げた白人種。左目には眼帯のような片眼鏡(モノクル)を嵌めており、年齢は40代いくかいかないか。だが、190cm以上の身長に、大きく盛り上がった肩の筋肉とがっちりとした体格で、法衣の下には軍の重装歩兵が装備する強化装甲。発する威圧感も相当なもので、また長大に相手の意識を圧迫するその得物。身の丈をさらに上回る2m余りの長竿に、巨大な刃が取り付けられたそれは、最早武具として見間違いようのない。半月斧(バルディッシュ)

 斧部分は相当な重量を持った金属の塊。それも先端に重心がいく長柄の得物だ、当然、両手を使っていなければ、振るうどころか持ち上げることもできないだろう。

 しかし、片手で真っ直ぐ腕を伸ばして、斧刃を吸血鬼に突きつけるその様は、苦としているどころか余裕すら感じられる。

 そしてその格好に『旧き世代』は、遠い過去に見たことがある。

 

「珍しい……西欧教会の祓魔師か。教会に引きこもってばかりの連中だとは思っていたが、変わり種もいるものだな」

 

 攻魔師の中でも高位技能を扱える高位の聖職者。吸血鬼の再生さえ阻害する強力な呪力を乗せた攻撃ができ、あらゆる浄化の術を身につけたという対魔族戦の専門家(スペシャリスト)。しかし、本来、地位のある司祭や僧侶である彼らは自ら市街地で死闘を誘うような真似はしない。できないのだ。

 

「ふむ。流石に『旧き世代』となれば我々を見た者がおりますか。はい、私は、ロタリンギア殲教師、ルードルフ=オイスタッハ」

 

 それでも、所詮は、人間だ。

 

「あなたの命、我が計画の糧となりなさい」

 

 吸血鬼の頭上から、それは舞い降りた。

 

「調子に乗るなよ、小童」

 

 夜闇に溶け込んでいたのは、巨大なワタリガラスに似た漆黒の妖鳥。

 翼長は優に10mを超え、黒真珠を彷彿とさせる滑らかな羽毛に琥珀色(アンバー)の煌めきが反射する。わずかに開いた嘴から漏れた、蜃気楼とばかりに大気を揺らめかせる熱気は地核熱に匹する高温を予感させる。

 若い吸血鬼の眷獣であった炎の妖馬とは、格が違う。

 まさに、『旧き世代』にふさわしい、圧倒的な存在感を知らしめる。

 

「いいだろうニンゲン。『旧き世代(われわれ)』の力を思い知るがいい」

 

 人間が、眷獣に勝てはしない。

 

 

 ―――吸血鬼に、背後から巨大な影がさしかかる。

 

 

「強大な眷獣(ちから)には、より強大な眷獣(ちから)をぶつける。これで簡単に魔族は倒せるのですよ、『旧き世代』」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 バキッ、と。

 

 ボタンを押す指の力配分を間違ってしまった。機器がひび割れて、くの字に折れた。

 普段はこんな失敗はしないのだが、現れた二人の実力に緊張が走り、つい力が入ってしまったのだ。

 

 ―――強いぞ、あの二人。

 

 倉庫街で暴れている眷獣は、“2体”。

 吸血鬼を直接相手しているのは、大柄な僧侶だが、巨大な火球を放つ漆黒の妖鳥を抑えつけているのは、夜闇を裂く虹色の光に輝く、半透明の巨大な腕だ。眷獣と同じ意思を持ち、実体化するほど濃縮された魔力の塊。

 

 戦闘の優位は明らかだ。

 

 男の半月斧は吸血鬼を肩口から深々と斬り裂く一太刀を浴びせ。

 主を助けるはずの妖鳥は虹色の腕が地に押さえつけ、羽をもぎり、喰らうように握り潰す。

 仄白く輝く虹色の腕の宿主は、小柄な少女の方。殲教師に気を取られていた隙を狙い、背後からの奇襲を仕掛けた藍色の髪の少女は、妖烏の実体化が保てなくなろうが、屍肉を貪る獣のように蹂躙する腕を静止させる気配もなく、ただ無感情に見ている。

 

 そして、(これは彼らのせいではないが)連絡手段(けいたい)が使えなくなってしまった以上、応援は呼べない。

 こんな時、担任で師父ならばなんというか、クロウは考える。

 

無問題(ノープロブレム)! とりあえずぶっとばしてから考えればいいこと!』

 

 なるほど。

 『旧き世代』とはやり合うなとは言われたが、『『旧き世代』を倒した奴ら』とやり合うなとは言われていない。

 なんて、言い訳は通じるまでもなく、一蹴されるだろう脳筋思考である。どう考えても問題点しかなく、最初に参考にする人物から間違っている。もしも場に南宮那月がいたら頭部を押さえずにいられないだろう。つまり、仕置きが一打では釣り合わないくらい頭痛がひどい。

 

「よし」

 

 開いた瞳孔が爛々と。

 脚に力を溜めるように前かがみに屈伸し、クロウは舌なめずりし、

 

「行くのだ―――!!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 それは、突然現れた。

 

 いつもの帽子と手袋を外し、首巻を下げて、常に裡に隠している己の姿見と本能を外気へと解放している。

 錆びたような銅色の髪に褐色の肌、そして、頬に走る大きな傷跡、それらのパーツが野性味を宿しているよう端整に整えられている面貌。やや小柄ながらも、纏う気配からか、少年を実際より大きく見せる。

 

「お前ら、コイツはオレのエモノだ。横取りするな」

 

 祓魔師の男は、己の命に従い少女(道具)眷獣(エサ)を喰らっている経過を見ていた。すでに吸血鬼の方は、自らの手で瀕死の重傷を負わせてあり、戦闘になるまでもなく終わっている。昂揚もなく、精々返り血を浴びてしまったのが不快なだけだ。再生阻害が掛けられた半月斧は、吸血鬼さえ殺せる。しかし、虹色の腕が完全に魔力を貪り尽くす前に、主を殺してしまうのはもったいない。今日のは『旧き世代』であることもあって食い甲斐があるのか、いつにもまして時間がかかっている。それを待つ祓魔師は、吸血鬼から意識を向けていても、視線は少女と眷獣の方へ外されていた。

 だから、祓魔師は、昏倒する『旧き世代』の吸血鬼を片腕で抱える――己から盗み取った乱入者に、少しだけ、驚いたように見開いた。

 

「―――ふむ。見られてしまいましたか。これは想定外でしたね」

 

 だが、それなら始末すればいいだけのこと。

 『旧き世代』と聞いていたのにあっさりと終わってしまい、不足だと思っていた時だ。“遊び相手”が増えるのはありがたいことだ。

 祓魔師は、隅に置かれていた細長いスポーツバックを、乱入者の少年の前に投げる。そこには無造作に武器の束が突っ込まれている。剣や刀、槍に斧など、無論すべて玩具(レプリカ)ではなく、本物の武器。そのむき出しの刀身がバックの底を突き抜け地面に刺さる。

 

「若いですね。丸腰ではかわいそうですから、どうぞ好きな得物をお取りなさい。その勇気に免じて、選ぶ時間は与えましょう、少年」

 

「得物も時間もいらん。敵から渡される道具を使うなんて阿呆のすることだぞ」

 

 呆気からんと即答され、祓魔師は失笑する。

 なるほど、その通りだ。先日の獣人種が滑稽だったとはいえ、己も無駄な慈悲をくれてしまった。

 

「くっ。いえ、全くその通り。この国には『敵に塩を送る』という言葉があったのですが、魔族に対し塩とはなんとも滑稽だ。さて、ひとつ訊きますが、

 ―――少年は、人間ですか、魔族ですか?」

 

 半月斧の切っ先を、乱入者――口封じをしなければならない少年に向ける。

 

「我が名はルードルフ=オイスタッハ。ロタリンギアの殲教師です。人間であるなら慈悲を以て天に召させ、魔族であるなら容赦なく地の底へ堕して差し上げましょう」

 

 値踏みをするように淡々とした表情で、最終宣告。

 待つつもりはなく、命乞いを聞くつもりもない。この聖別された半月斧は、魔族だろうと人間だろうと殺せる武具。

 

 その時まで、殲教師は少年を侮っていた。

 無論この状況で現れるような相手ならば、それなりの危険性があると承知している。外見が実力に比例するとは限らないのは、この世界では鉄則である。だからこそ、オイスタッハは宣告と同時に、油断なく巨大な戦斧を振り上げる。

 

「オレは南宮クロウ。ご主人の眷獣だ」

 

 依然、その場を動かず、名乗りを上げる少年。

 降されんとする断罪の暴力を前にして、避ける素振りさえ見せない。

 

 鎧の強化のアシストを得て、大地を割らんばかりに踏み込み強い前脚。

 脚力からありあまるばかりに伝わるベクトルに、はち切れんばかりに膨らむ背筋から、殲滅師の戦斧を振り下ろさせる。

 

 それをわずか半歩で躱す。

 

 攻撃した直後の、隙。絶好の機会を相手に与えてしまう。

 チャンスがピンチに変わる。

 武器も持たないその手を熊手にし、強化装甲服に構わず、すくい上げるように下から上に薙ぎ払った。

 

「ほう……!」

 

 弾き飛ばされた殲教師は愉快そうに呟いた。躱しきれなかったとはいえその巨体から想像もできないほどの敏捷さで後方に飛び退いて、威力は殺せていた。その強化装甲服の表面に、五本線の爪痕が、うっすらと刻み付けられている。

 

 ざあ、とクロウの周囲がざわついた。

 外気にさらした頭部と両手。そこから蒸気のように醸し出される体の香気(におい)が絃神島の大気と混じり合っているのである。見る見るうちにおぼろげだったものは目に見えて確かなものへと存在を持ち始めて、その八重歯から刃と紛うほどの巨大で鋭い牙に、その五指から鎌と紛うほどの強靭で硬い鉤爪を形作った。だが服や靴が破れた後はない。

 そう、半透明な獣の霊体を重ね着しているように、人間のまま気配だけが置き換わる。

 

「これは生体障壁ですか。面白い使い方をしますね少年」

 

 気功術とも呼ばれる技巧。だが、クロウのはただ全身に気を纏うというものではない。

 異常な密度の魔力が物質化して眷獣となるよう、目に見えるほどの気の塊を体に纏わせることで、少年を獣へと見せかけているのだ。

 『獣の皮を纏う戦士(バーサーカー)』という言葉の通りに、見せ掛けではない絶大な獣性は単なる生体障壁の枠を超えて、圧倒的な加速と膂力によって蹂躙する。

 

 跳躍。

 

 まるで肉食獣の如きしなやかな発条(バネ)

 その速さは、先日殲教師が対峙した獣化したL種完全体(ライカンスロープ)よりも上。

 

「正式な夜の帝国の獣人兵に優るとも劣らない速度です。が、単調ですね」

 

 アスファルトの路面を削り取りながらふり払われた気功の鉤爪を殲教師は横っ飛びに回避する。法衣の下から獣の咆哮に似た駆動音を唸らす強化鎧は、各部関節を過負荷に火花を散らしながら、主の運動能力を数倍以上にフィードバックさせる。

 人体に無理な分負担は大きくはなるが、クロウの生体障壁による身体強化にも匹敵するようだった。

 殲教師はその勢いのまま周り込み遠心力に体の捻りを加えた渾身の返し技(カウンター)で戦斧を一閃する。『旧き世代』の吸血鬼さえ致命傷を与えた一振り。濃密な生体障壁でさえ斬り伏せるであろう。

 それが器用にも、側転の要領で少年の体は勢いよく回り、振るわれた斧の柄を高跳びのように捻り回避する。

 

「む……」

 

 オイスタッハが表情を歪める

 速度は互角でも機動性は向こうが上。

 外した半月斧が叩きつけられてめくれあがったコンクリートの破片を、クロウは空中で蹴った。

 首輪に付いたアクセサリーのように垂れ下がった鎖が揺れる。

 続けざまさらに跳ぶ。

 人間の動体視力を大きく上回る速度で倉庫街のコンテナに街灯をピンボールみたいに跳ね跳んで、クロウの鉤爪は天から地に。殲教師の背後からその初撃の返しを防いだ鎧の防護のない頭上に振り落とされ―――だが、この場にいるのは、2人だけではない。

 

「―――アスタルテ!」

 

 虹色の腕が眷獣を喰らうのをやめる。

 

命令受託(アクセプト)執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先(ロドダクテュロス)>」

 

 そして新たな標的を喰らいにかかった。

 

 

 

「ほう……これも避けましたか」

 

 完全にとった状況から逃れたその事実に殲教師は驚愕する。

 

 『混血』の人間としての力、<過適応能力者>は追跡だけに役立てないものではない。

 

 嗅覚感応能力により相手の経験値や感情の動きを読心して得た情報を動物的な直感で絞り込むことで疑似的な未来予測を可能とする。

 

 オイスタッハが叫んだ一瞬でアスタルテの動きを察知し、気功波とは言えないとにかく大声と発せられた衝撃波で身体を押し、力技で空中で急転回させたのだ。

 誰よりも速く駆けて、巧く動き、そして先手を打つ。二対一だろうと確実に追い込まなければ攻撃は当てられないだろう。

 

「ひとつ、思い出しましたよ。あの<空隙の魔女>が飼っている<黒妖犬>……魔族の仲間にも、人間にもなれない憐れで醜い『混血』の噂を」

 

 男の口元に、侮蔑の笑みが浮いた。眼帯のような片眼鏡が紅く発光を繰り返す。分析器であるレンズに映す標的に情報を精査しているらしい。

 

「しかし叶わぬのならば抹殺すべきですが、あの『黒』シリーズの唯一の成功例は手に入れておきたい道具」

 

「―――オマエ、煩い」

 

 吸う。

 吸う。

 吸う。

 不透明な何かが、鼻に吸い込まれていく。

 巨大で、膨大で、絶大で―――それでいて、曖昧な流れ。

 そこで最初に、そして初めてアスタルテと呼ばれる少女が反応する。

 彼女にはわかった。

 同じである。先ほどまで“アスタルテが喰らっていたもの”と同じであると。

 

 武術と仙術の複合接近戦闘術『四拳仙』の達人から学んだのは気功ともうひとつが、象形拳。

 虎形拳、龍形拳、猴(猿)形拳、馬形拳、鳥台形拳、黽(蛙)形拳、燕形拳、蛇形拳、熊形拳、蟷螂拳、鷹形拳、鷂形拳―――と計12種の獣の動きを参考にして創られ、究めれば究めるほどに人間性を喪失させる擬獣武術は、血の半分が獣人種のクロウに適正があった。そしてそれから生体障壁を変化させるイメージを掴んだ。

 そして<嗅覚感応能力>――匂いは感情や記憶を司る大脳の深部に直接刺激する。

 クロウはクロウ自身の匂いを嗅ぐことにより獣化することなく、『混血』に眠る獣化のイメージ情報(ソース)を引き出し、纏う生体障壁を変質させた。

 

 そう、獣人種と超能力、この2つのうちどちらかが欠けていたら異質な生体障壁はクロウにはできていなかった。

 『混血』であるからこそ、人のまま獣を纏うことができた。

 

 さて。

 

 纏う生体障壁が蠢く。

 強大な狼から、また別のカタチへと。

 

 そう、匂いを嗅げるのは何も自分の匂いだけではない。

 そう、生体障壁は決まった形に固定されることはない。

 そう、“眷獣の残り香(残滓)嗅げる(喰らえる)”のは、相手の専売特許ではない。

 

「素晴らしい! 今度は『旧き世代』の眷獣に生体障壁を変化させましたか!」

 

 『獣の皮を纏う戦士(バーサーカー)』、その言葉の通り。

 巨大なワタリガラス―――『爆発』を象徴とする『旧き世代』の眷“獣”の()を纏う。

 クロウが口を開く――同時、クロウが纏う半透明な妖烏の影がその嘴を開いて、砲門と化す。

 発射されるは超高熱の塊。激突すれば激しい衝撃と共に超高温の業火が敵もろとも辺り一面を焼き尽くすだろう。

 

「いいでしょう、『黒』シリーズの成功例、食わずに持ち帰るとしましょう―――やりなさい、アスタルテ!」

 

 強化鎧の筋力を全開にして、殲教師が背後へと跳躍し、ケープコートを羽織った藍色の髪の少女が前に出る。

 

再起動(リスタート)、完了。命令を続行せよ(リエクスキュート)、<薔薇の指先>―――」

 

 虹色の腕が抱くように楯となり、そこへ琥珀色の豪火球が衝突―――

 

 

 

 

 

 ―――しなかった。

 

 直径数十mもの火の玉は、放物線を描いて、倉庫街の向こう―――海へと落ちた。

 

 超高温の塊が、海面に触れ―――大規模の水蒸気爆発が起こる。

 

 水は熱せられて水蒸気となった場合にその体積はおよそ1700倍になる。故に多量の水と高温の熱源が接触すれば水の瞬間的な蒸発による体積の増大が起こり、それが爆発となる。

 村ひとつを焼却する業火が海に落ちれば、それは水蒸気噴火の如く。

 幸いにして何もない海上であったことから被害はなく、局所的な暴風が発生したのと変わらない。

 しかし、そこで舞い散る多量の水飛沫。一気に大気に溶け込み雪崩の如く押し寄せ、倉庫街一帯をホワイトアウトの如く覆う濃霧。

 

 視界が、真っ白に。

 

「っ、まさか、アスタルテ―――」

 

 殲教師が警告を発するも、遅い。

 

 この一瞬、自由に動けるのは、特異な嗅覚を持つクロウのみ。

 

 眷獣の皮を脱ぎ、気配――生体障壁を大気に溶け込ませるよう合わせて、獣のようにその足音を殺す。

 追跡者として必要な技能は探知だけではなく、尾けられていることを悟らせない隠密もまた。

 最初、オイスタッハから吸血鬼を奪えたのはこの技能があったからこそ。

 

「―――捕まえたぞ」

 

 <薔薇の指先>に迎撃を―――しかし、気づいた時にはもう息がかかるほど眼の前にいて、アスタルテは首を掴まれていた。

 その眷獣が『旧き世代』のを圧倒するほど強力であろうと、その本体は吸血鬼よりも弱い少女。

 

 彼女はクロウにとって、殲教師よりも天敵だ。

 その身に宿す不相応な眷獣ももちろんだが、何より“匂いが薄い”。

 活力の源たる生命も、感情も過去も希薄で、視界から離してしまえばクロウの意識から外れてしまうくらいに。

 奇襲も殲教師の意思を読んでようやく気付いたくらいだ。

 それはもう生者より死者に近いのか。

 しかしないわけではない。彼女だけに注意し嗅覚に集中すれば、微かでもその足跡を辿れ―――裡を感じ取ってしまった。

 

「オレの勝ちだ。降参しろ」

 

 ここまでは上手くいった。

 だが、ここで一つ誤算が生じる。

 少女の体が予想以上に脆すぎるのだ。あまりに軟なのだ。

 再生能力を持っている吸血鬼ではなく、首の骨を折ってしまえば死んでしまう。

 吸血鬼が自身よりも強大な力を持った眷獣を召喚し得るのは、無限ともいえる負の生命力を持つからこそ。

 なのにこの少女は人間とほとんど変わらない。そして、クロウの握力は常人よりも遥かに強い。ちょっとでも力を入れてしまえば崩れてしまう、土の塊を持っているようなもの。

 上手に絞め落とすなど、そんな器用な真似はできない。少しでも加減を誤れば、その首の骨を折ってしまう。

 ボタンを押しつぶしてしまった携帯機器と一緒にするわけにはいかない。

 だから、説得するしかない。

 

 だが、ここで相手を誤解していた。

 

 苦しげに眉間に細い谷を刻む。小さく開かれた唇が痙攣するように震える。その奥で歯がきりきりと軋む。額に汗の玉がひとつ、ふたつと浮く。元から色白い肌が青く。

 力技だ。抵抗さえやめれば楽に落ちるはずなのに意思の力でもたせ、絞められて出せないはずの声を強引に出そうとしている。

 

「お前に、眷獣(それ)は無茶すぎるのだ。死んじゃうぞ」

 

 この途方もなく苦しそうにしか見えない行為を、たとえ先が死であっても中止をしないのだ。

 時間にしたら10秒足らずだったろうが、その何倍も長く感じられた苦闘の果てに、アスタルテの唇が2cmほど開いた。続いてすぼめられ、そしてもう一度開く。

 

ア、 クセ、プト。

 

 全く無音ではあったが、確かに主人の命を受けたことをアスタルテは自身の口で刻んでみせる。

 

「やめろ! お前、ホントは戦いたくないんだろ! わかってるんだぞ!」

 

 エク、ス、キュー、ト。

 

 やるしか、ない。

 この少女は殺さなければ止まらない。

 主人の眷獣であるからに負けは許されない。

 

『クロウ君なら、大丈夫だから……』

 

 初めて、泣かせてしまった少女が、それでも自分に言ってくれた言葉。

 ここでこの少女を握りつぶしてしまったら、自分は再びその手を取ることができるか。

 いや―――

 

「自分ごとやりなさい、アスタルテ」

 

 その背から生える半透明の腕が、大きく、勢いをつけて、少女自身を抱くように振るわれる。

 

「っ!」

 

 宙吊りとなっていた少女が投げられた。

 少年に捕えられた掌握から解放された。

 己の眷獣の攻撃から逃れながら少女はその光景を無感情に、しかししかと目に焼き付けた。

 

 <薔薇の指先>

 

 虹色に輝く眷獣の腕が今度こそ、クロウの体を捉えた。

 今度はクロウが捕まりその全身を握りつぶすように絞められ、骨が砕けようが容赦なく、死なさぬ、けれど限界までその生命力を貪り―――

 やがてその巨大な手を広げると、ぼとり、と力無く、クロウの体が路面に転がる。氷の棺に埋められたように、ピクリとも動かない。

 

「よくやりましたアスタルテ。これで<黒妖犬>は我々のものです」

 

 意識のない獲物を見下ろしてオイスタッハは唇をつりあげた。

 その瞬間、濃霧が裂けた。

 

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 

 中空から降り注いだ白銀の槍。あらゆる魔力を無効化する『神格振動波駆動術式(DOE)』の刻印を刻んだ<七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)>は分厚い霧を抉り、殲教師へ貫かんと迫る。咄嗟にその籠手で防がんとするも、聖別装甲の防護結界を一撃で打ち砕いた。

 弾き返された秘奥兵器を剣巫は宙で取り、表情を険しくさせる。

 半透明の腕に抱かれる、少年を見て、

 

「その人から離れてください」

 

 姫柊雪菜は槍を振るう―――しかし、南宮クロウを救出することは叶わなかった。

 

 

 

つづく

 



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聖者の右腕Ⅲ

彩海学園

 

 

 9月1日。

 夏休みが終わって最初の登校日だ。

 二学期制を採用している彩海学園は、始業式などの特別な行事は特になく、一コマつかった長めのHRが終わったら、あとは通常授業の予定である。

 よって、部活動の朝練もやっているところはやっていて、チア部も早朝ミーティングがあった。

 

(古城君大丈夫かな。遅刻してないよね。出かけた時もなんかいつにもまして頭がぼんやりしてたし。でも、お隣に雪菜ちゃんが引っ越してきたから大丈夫かな)

 

 自分の教室に向かう途中、暁凪沙は頭の中でもおしゃべりで、多々考え事(主に兄の古城への心配事)をしてる。

 

(後、リハビリ。リハビリだから、毎日ちょっとずつでもやった方がいいよね。この前は握手だったから、今日はクロウ君と朝の挨拶にハイタッチでもしよっかな)

 

 自然、頭頂部で髪をまとめた尻尾の跳ねるリズムが早くなった。

 そして、階段を上り、三年の教室のあるフロアに着くと凪沙は教室の前に人だかりができていることに気づく。

 中には何やら携帯で写真を撮ってる生徒(男子)もいるようで、凪沙に気づいたらすぐ道を開けてくれた。

 凪沙は自分の教室に入って、すぐその原因がわかった。

 

「あ、凪沙ちゃん。おはようございます」

 

 自分の席でひとりぽつんを座っている少女は、妙に緊張していて、知り合いを見つけてハッと声をかける。

 

「おはよう、雪菜ちゃん」

 

 今は誰もが様子見で話しかけてる人はいないようで、去年まで凪沙と一緒のクラスメイトで『中等部の聖女』なんて崇められてた娘がいたけど、姫柊雪菜も美少女過ぎると逆に話しかけにくくなるケースのようだ。

 けれど、お喋り魔な凪沙に質問責めされたら、HRまでには、そのプロフィールはつまびらかになるだろう。

 皆、学期初めの会話の音量をひそめ、こっそり聞き耳を立てる。

 

「今日から新学期だね。転校初日だけど道迷わなかった? あ、古城君ちゃんと学校行ったかな? 今日はいつもよりなんだか眠そうだったし」

 

「はい、先輩と一緒に登校しましたから」

 

「ありがとう雪菜ちゃん。でも、聞いて雪菜ちゃん。古城君ったら昨日コンビニに行くってずいぶん遅くまで出歩いてたのに、結局、凪沙にアイス買い忘れてたんだよ! 遊びに夢中で忘れちゃうなんて、ホント古城君はいっつも寝坊助だし、誰かが側にいてないと心配だよ。だから雪菜ちゃんがついててくれて安心」

 

「先輩は抜けてるところがたくさんありますから、いつも目にかけてないと心配になるというか……」

 

 一緒に登校。そして、今朝の問題発言。転入して早々に中等部である男子高校生を呪う会が発足された。

 

「うん。それでさ、雪菜ちゃんはバンド少女なのかな? 机脇に置いてるのってギターでしょ? それともベース? どんなジャンルを演奏してるの? 憧れてる人って誰?」

 

「お、音楽の話はもう勘弁してください。お願いですから」

 

「そっか。雪菜ちゃんは今朝のニュース見た? 昨日の謎の爆発事件」

 

 今日のメディアは絃神市で発生した原因不明の爆発事件で一色だ。

 大手食品会社の倉庫などが60棟が被害に遭い、その近辺にある2万世帯が停電騒ぎを起こし、東地区と南地区を結ぶ連絡橋とモノレールの線路も大破したので、事件の総被害額は最低でも500億は超える見積りである。死傷者こそは出なかったのが不幸中の幸いであるが。

 

「登校途中に会った浅葱ちゃんもバイト徹夜で大変だったーってゾンビみたいに疲れててたし。それで古城君は、落雷による倉庫火災だといってたけど、そんなの誰も信じないよねー。爆弾テロとか輸送中のロケット燃料誤爆とかはたまた海底火山が噴火したとかみんないろいろ言ってるけど、凪沙は隕石が怪しいと思ってるんだよね。どうかな、雪菜ちゃん?」

 

「はい……ごめんなさい」

 

「え? なんで雪菜ちゃん謝るの?」

 

 とそこで、チャイムが鳴る。

 会話をやめて、クラスの皆も席に着く。

 

「みんなー、おはよー、早速だけど二学期一発目の出席を取ってみたり」

 

 担任の笹崎岬先生が教室に入る。

 

(……………あれ?)

 

 凄く可愛い転入生ならそちらの方が気になるのが当然で、皆勤賞の学生が新学期早々に欠席したことなんて誰も気にはしない。

 凪沙は所在なさげに右手の指先同士を擦り合わせる。

 

「クロウ君、どうしたのかな」

 

「……やっぱり、来てないんですか」

 

 

彩海学園 生徒指導室

 

 

 呼び出された昼休みになり、すぐ古城は教室を抜け出し、職員室前で雪菜と合流すると生徒指導室へ向かった。

 

「来たか、古城」

 

 招集をかけた当人、南宮那月はソファでくつろいでおり、古城たちの登場にわずかに俯きかけていた顔を上げる。

 前の席に座るよう目線だけ動かした際、古城の背後にいる雪菜を見つけた。ビスクドールの精巧な人形かと勘違いさせられる那月の姿に絶句しかけている雪菜の様子に、彩海学園のカリスマ教師は、ふふん、と唇の端を吊り上げる。

 

「お前が岬のクラスの転校生か」

 

「はい……中等部3年生の姫柊です」

 

「で、獅子王機関が送り込んできたという剣巫か」

 

「……」

 

 雪菜自身が獅子王機関の関係者であることは、“使い魔”から伝わっているのだろう。それでも自分からは何も口にせず、無言で通す。無論言われずとも、那月は事情はあらかた承知してある。

 

「ま、ようこそ、彩海学園へ。おまえが何であれ歓迎するぞ。余計な揉め事を起こさないでくれるなら、特にな」

 

 詰まらせながらも返事し、わずかに雪菜は那月から視線を外す。だが、そのことも那月は察してある。

 

「さて、おまえたち。昨日、アイランド・イーストで派手な事故が起きたのは知ってるな?」

 

 いきなり核心をつかれて、きょどらせながらも古城は頷く。

 

「実は、その現場近くで、『旧き世代』の吸血鬼が1匹、確保されたようだ。重傷を負って死にかけていると、誰かが匿名で消防署に通報したらしい。マスコミにはまだ伏せられているそうだがな。―――何か心当たりがあるか、二人とも?」

 

 古城と雪菜が彫像のように固まる。

 

「その半死半生の状態にまで追い詰められた『旧き世代』は密輸組織の幹部の疑いがかけられている。それで警察からの要請もあって、“犬”をその追跡へ貸していたのだがな」

 

「……、」

 

 暁古城が何とも言えない目で、那月を見ている。それに気づいた素振りを見せることなく、淡々と話を続ける。

 

「爆発事故が起きる少し前、そのあたりで眷獣が暴れている姿が目撃されている。つまり死にかけで発見された男は、何者かと戦っていた、というわけだが、私は“犬”に“待て”を命じた以上、他に敵がいたと考えられる。十中八九、コイツが爆発事故に絡んでいる可能性は極めて高いと私は思うわけだが……何者だろうな?」

 

 言葉を切った那月から刺すような視線を向けられ、古城たちは息を呑む。

 

「ふむ……ところでな、ここ最近、この島で死にかけの魔族がよく発見されているようになった」

 

「え……?」

 

 ここ二ヶ月の間に、警察が把握しているのは6件。今回の件を含めると7件。

 いずれの魔族も一命は取り留めたようだが、意識は今も戻らない。

 それら警察の捜査資料を古城たちに見せながら、那月は優雅に頬杖をついた。

 

「生命力が取り柄の獣人と、不老不死の吸血鬼を相手に、どうやったらそんなことができるのかは知らないが。

 おまえたちを呼び出したのはそれが理由だ」

 

「え?」

 

「何が目的かは知らんが、この無差別の魔族狩りをしている犯人は、今も捕まっていない。つまり、暁古城、お前が襲われる可能性もあるということだ」

 

 未だに吸血鬼としての自覚のなかった古城は、那月に言われてようやく納得する。

 

「企業に飼われている魔族や、その血族には、魔族狩りには気を付けろと既に警告が回っているらしい。おまえにはそんな上等な知り合いはいないだろうから、私が代わりに警告してやる。感謝するがいい」

 

 頭を下げる古城。そして、そこでようやく古城は口を開いた。

 

「なあ、今日学校に来てねーみたいだけど、クロウは昨日、那月ちゃんとこに帰ってきたのか」

 

「さあな。どこをほっつき歩いてるんだろうな。誰かのように夜遊びをするなとは躾けてあったんだが、中々主の命でも頭に入らん馬鹿犬だからな」

 

 ちゃん付けで呼ばれた担任教師は、答えながらも不機嫌そうに古城を睨みつけ―――古城も表情を硬くしながら睨み返す。

 

「さっきの警告ってクロウにもしてたんだよな」

 

「うむ。あれの飼い主は私だ」

 

「だったら、なんで昨日、犯罪魔族の追跡なんてさせてたんだ。二ヶ月も前からこの島で魔族狩りが徘徊してたんだろ」

 

「警察からの要請だ。あいつの“鼻”は便利だからな」

 

「だからってな。まだ学生なんだろ、んな危険な真似なんでさせてんだよ」

 

「学生であるために必要だからしてるんだ。何故、“犬”が攻魔師の助手なんてしてるか、お前は考えたことがあるか暁?

 そうでもしなければ、受け入れられないからだ。利用価値がなければ、また、怪物と迫害を受けるだろう。怪物が、人間の社会に交じるには、それ相応の働きが必要となるのだよ」

 

 那月の正論に、古城が掌に爪を立てるよう、強く拳を握る。その様を、雪菜が心配そうに伺い。そして、那月はふんと鼻を鳴らし。

 

「余計な心配はするな暁。あれは私の眷獣だ。相手にするなら、まず真祖クラスの眷獣を用意しなければ話にならん」

 

 傲岸不遜に那月が言い放ったのを、古城と雪菜はぽかんと見つめた。

 

 

彩海学園 廊下

 

 

 倉庫街の爆発事件。

 古城たちはその渦中にいた。

 あの爆発も古城の――第四真祖の眷獣の暴走が原因だ。

 

 姫柊雪菜が遭遇した殲教師オイスタッハとの戦闘の最中、彼が連れていた少女の人工生命体(ホムンクルス)が南宮クロウを捕えていた右腕とは違う、もう一本の虹色の左腕に不意を突かれ―――後を追ってきた古城が、間一髪で防いだ。

 だが、その後の戦闘で、一撃をもらってしまった古城は、生存本能からか眷獣を召喚。神話の怪物たちにも匹敵する<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の眷獣は、超自然の嵐にも等しい破壊を倉庫街にもたらし、未だ吸血経験のない古城は『世界最強の吸血鬼』の血はあっても、十二の眷獣たちの主とは認められておらず、止めようにも制御できなかった。

 そのため雪菜は眷獣暴走から意識を失っていた『旧き世代』の吸血鬼を<雪霞狼>で守護するためその場を離れられず。

 

 結果として、殲教師に捕まっていた後輩を取り返すことはできず、逃がしてしまった。

 今はまだ、真祖と戦う時期ではない……と言い残されて。

 

「……これで、クロウは助けられると思うか」

 

「希望的憶測になりますが、先輩の眷獣が暴走した際、『旧き世代』の吸血鬼は無視して、彼だけを連れ去りました。それは殲教師にとって、利用価値があるからだと……」

 

「だから、殺さずに生かされてる、か」

 

 古城はあの後、那月に相手がロタリンギアの殲教師であることを伝えた。これは魔族狩りに遭った被害者たちが全員目覚めていないことから、警察には知れなかった情報だろう。それについて、実際にあの場にいたという根拠についてはぼやかしてだが、それでも彼女は聞いてくれたようで、それ以上明確な証言は求めなかった。

 もしも昨夜の爆発事件に突っ込まれていれば、犯人が捕まらない限り自衛の正当性が不透明な古城は一容疑者として勾留されることになっていただろう。まったく、何とも察しのいい担任である。

 

 なんにせよ、この情報でロタリンギア国関連の施設に絞られた。特に一番怪しいロタリンギア正教の教会が真っ先に調べられるだろう。

 担任の言うとおり、後のことは特区警備隊に任せ、古城は大人しくして……

 

「……私も攻魔師資格(Cカード)は持ってます。警察と獅子王機関が、別行動をとっても問題はありません。ただの通り魔事件及び誘拐事件なら警察の仕事ですけど、ロタリンギア正教、それも殲教師クラスの人間が絡んでるとなると、これは立派な国際魔導問題です。獅子王機関(うち)の管轄です」

 

 古城は最初、彼女が何を言っているのかわからなかった。

 

「以前、言いましたが、魔族の自衛権は明記されてます。家族や庇護すべき領民――親しい間柄を守るためなら―――先輩が力を使っても何の問題はありません」

 

 淡々と冷静に。雪菜は事実だけを口にするような口調で。

 

「監視役なら大人しくしてもらった方がいいんじゃねーのか」

 

「だって、先輩」

 助けたい、なんて言われなくともわかってる。

 

 迫害されるきっかけとなったあの時、一番に責めたのは、古城だ。妹に害した敵として、ひどく責めた。長く連鎖したドミノ倒しのようであるが、最初の一押ししてしまったのは、自分だ。

 妹も後輩も、誰も悪くなかったのに、悪くしてしまった責任が、古城にはある。

 いいや、そんな理由付けがなくても、身近な誰かが危機ならば―――

 

「それに、殲教師が捕まらない限り、先輩の正当防衛は認められません」

 

 降参とばかりに頭をガシガシとかきむしった古城に、雪菜はくすりと笑う。

 

「なあ、オッサン達は教会にいると思うか」

 

 

 

 

 その過去を、一冊の本にして覗く。

 

 

 魔女に創られた九個体のうち、その遺伝が――素質が発現したのは最後のひとりだけだった。というより、『八』を超える九体目にして、魔女の望む完成形を得たというべきだろう。

 そして、ある程度育ったのならば、調教。

 その生まれ持ったであろう素質を育てるには、“死体が必要だ”。

 故に、残りすべての失敗作を処分し、これで練習するように命令をする。

 子供の素質は見事にそれに応えた。

 最初は、身体が途中ぼろけてしまうことがあったが、それも月日を追うごとになくなり、一年もすれば、生前と変わらぬ動きができるようになった

 

 無垢であった子供は、その行為がなんであるかを知らないまま。

 

 ただ、話したかったのだろう。みんなと遊びたかったのだろう。失敗作たち――兄姉と過ごしたかった。孤独でいるのはどうしても嫌だった。それでは、人形のままではだめだ。

 それが若くして才能を開花させる原動力となった。

 そして、上達したのか、ついに遺伝子が提供されたオリジナルをも超えて、意思も取り戻せるようになった。

 

 きっと、それが、魔女の失敗だった。

 動かせるだけで留めていれば、こうはならなかったろうに。

 

 

『お願いだ。もう、死なせてくれ』

 

 

 言ったのは、ひとりだったか。いいや、皆同じであった。

 無垢であった子供は、そこで己の罪深さを知り、疑問を抱いた。

 それから、これまで魔女の命令通り、その術を行使するのをやめてしまう。

 

 初めての、反抗であった。

 その反抗期を迎えてしまったせいで、子供は孤独となった。

 

 そんな鳴けなくなった(ホトトギス)を前に、それは成った。

 

 それがより強く刻まれた過去(ページ)に映る影。

 女性のよう。としか、いえない。

 人らしき輪郭だけがあり、その中身を判別することはできないのだ。

 叶ったとしても、表現するための適切な解説は思いつかない。

 だが、魔女は、魔女ならばそれがなんであるかを知っている。

 

 この彷徨いの森が、陽を拝めない極夜であるのは、その残滓が一時とはいえ森全体に充満してしまったからだ。

 

 <堕魂(ロスト)>。

 

 魔女は何よりも己の作品に自信があった。生涯をかけて生み出したものの中で最高傑作だと自負していた。

 故に、その子供を最も恐れたのは魔女だ。

 最初にして最後の、生涯で一度きりの魔女の最終奥義を即断させてしまうほど。

 自らの魂を悪魔に食わせて、肉体を本物の悪魔と化した魔女は、こうなればもはや殺すしか止めようがなくなる。

 

 そうして、ドミノ倒しな悲劇が続いた果てに、ひとり残ってしまった子供は、兄姉(かぞく)たちを埋めたこの地で墓守として、この森にあり続けた。

 

 

 

「これが、森の悪魔が守っていた財宝とやらか」

 

 森の奥にあったぽっかりとひらけた空間。

 そこには住処らしき木材の残骸と、ただ、木の枝を組ませて刺しただけの十字架が並んでいた。

 こんな子供が作ったようなものが、魔女の遺産を狙ってきた墓荒らしどもが欲したとはなんとも滑稽だが。

 その子供が守りたかったのはそれなのだ。

 

 友たちのいる世界を守るために、一人の親友を裏切ったような愚か者が、他にもいるとは。

 

「せめて花くらいはたむけておけ。これでは飾り気が無さ過ぎる」

 

 ここまで己と渡り合ったのは、そういない。

 何せ、切り札たる<守護者>を出すのでさえ、久しぶりだ。

 しかし“一切の物理的なダメージを負わない”こちらに対し、向こうは長期戦となるほど体力を消耗し、そして“無理”が祟って生命力が枯渇する。

 結局、バテたところに一刀をお見舞いして決着がついた。

 この勝因は、経験の差と、何より相性であった。

 

「お前、どうしたい?」

 

 頭から血を流して倒れ、死に瀕している子供に魔女は問う。

 感情の全てを消し、生硬い表情のまま視線を虚空に向ける子供は、浅い呼吸を繰り返してなければ死体そのものだった。

 あれから、森のひとつの防衛装置と化し、食べるために動物を殺すことさえできなくなり、飢えは雨水で凌いでいた『墓守』は、ここで何故死にかけているのかさえ意識できていないだろう。

 半分はタフな獣であるとはいえ、こんな幼い子供がよくここまでもってると思える生き方をしていた。

 

「私が頼まれた仕事は、害獣の駆除だ。連中にはお前がこの土地にいるとどうも邪魔だそうだ。ま、ここから追い出せるんなら、なんだっていい。生きてようが、死んでようがな」

 

 日傘で呆然と見上げたままの頭を小突く。

 

「どうした? 殺してはないはずだ。起きてるんだろう? おい、返事できなくても、私の方を向け。つまらん過去(もん)を見せられて今の私は少々気が立っている」

 

 優しい対応なんぞ期待するな、と。

 そんな傍若無人、優しさのないのが、唯一の救いであった。

 罪を犯し、自身の利用価値を見失った子供には、優しさは毒と変わらない。

 

「ふん。気にいらん目だ。子供のくせに枯れ果ておって。なんのために産まれてきたのだとか、どうしてまだ生きているのだとか……そんなものガキのお前が考えたところで答えなんて出るわけがないだろうに。

 仕方がないから、教師である私が適当に示してやろう。だから、私の下僕(サーヴァント)となれ」

 

 捨てる魔女(かみ)がいれば、拾う魔女(かみ)もいる。

 誰もいらないのなら、私が拾っても構わんだろう。

 

 

「我が名は空隙。永劫の炎を以て背約の呪いを焼き払う者なり。汝、墓守の軛を解き、その身は我が下に―――」

 

 

研究所

 

 

 企業の研究所の建ち並ぶ人工島東区(アイランド・ノース)は、絃神島で最も近未来な区画。

 その片隅――北区第二層B区画に残された、跡地。そこにあるほぼ直方体に近い形の、4階建てのビル。

 本社はロタリンギアにある、スヘルデ製薬の研究所だったところだ。主な業務は新薬実験で、2年前に閉鎖されている。

 

 古城は、ひとつ、気になった点があった。

 

 殲教師は特徴的ともいえる法衣を着て、少女のような人工生命体を連れていて、昼間にうろつけば通報されかねないのに、いったいどうやって2ヶ月もの間、警備隊から隠れられたのだろうか。

 

 警察も事件記録の監視カメラ映像からその容姿は知れてる。

 ロタリンギア所属であるとわからなくても、西欧教会は真っ先に調べたはずだ。

 なら、教会にはいないのではないか。

 殲教師だというのは本人が名乗り上げたからで、その格好もフェイクである可能性もある。たとえ殲教師だとしても、教会以外の場所にいてはいけないというわけでもない。

 

 木を隠すなら、森の中。

 ロタリンギア人が最も怪しまれない場所は、やはりロタリンギア人の中。

 ロタリンギアの大使館や―――ロタリンギアに本社がある企業など。

 絃神市内にある企業の本社所在地を調べるなんて、攻魔師の権限があっても難しいところであったが、そこは全企業のデータを保管している人口管理公社でバイトしてる友人にお願いした。

 

 結果、ヒットしたのはここだった。

 

「人工生命体の調製施設でもあったなら、条件はピッタリです。ホント、先輩にこんな論理的思考ができたなんて……」

 

「なんか、いまいち褒められてる気がしないんだが」

 

 人工生命体の盛んな分野は、その技術を応用した医療品の開発だ。

 人為的に遺伝子構造を変更できる人工生命体であるからこそ、様々なテストケースの試験体(モルモット)に最適である。大手はほとんどこの手法をとっており、この製薬会社も、人工生命体を用いた医療実験を行っていた。

 

 

 

 廃墟にしても民間人が立ち入らないよう研究所には鍵がかけられており、また初歩的な幻術が仕掛けられていたようだが、そこは雪菜の<雪霞狼>で物理的にも、魔術的にもセキュリティを一突きで破壊する武神具で突破する。

 そして、その奥に進み、

 

「これは……人工生命体、なのか?」

 

 あったのは、製造プラントか。

 ひとつひとつの装置は直径1m程度の円筒。それが左右合わせて20基ほどあるその中身はどれもが、普通では考えられない異形であった。

 

 ワニの頭をした巨大な犬、頭が三つある猫、昆虫類の掛け合わせとしかいえないものまで。

 

 自然と強張るのを古城は自覚した。

 ここにいる人工生命体の多くは、おそらく自然界に存在するものより格段に強靭な牙や爪や頑丈な皮膚や殻をもっているだろう。しかし、逆に言えばそれしかない。おそらく総合的には、その辺にいる犬や猫の方が強いだろう。ここにある人工生命体は歪であるが故に、自然界にある何でもない問題に対処できず、また“使われる命が大きすぎて”簡単に死んでしまうのだ。

 濁った琥珀色の溶液に満たされた水槽の中にいる生命体に、生きている気配はないのだから。

 そんな実験室の有り様に思考が向けられたときだった。

 

「―――っ! 先輩!」

 

 あたりを警戒していた雪菜が背後で動く気配に振り返る。同時、姿勢を低く槍を構える。音源は水槽の向こうだった。闇のわだかまった、その奥から影は現れた。古城も見る。吸血鬼の人より優れた視力に、暗視も利く。様子からして、霊視に優れる雪菜も見えているのだろう。

 

「お前は……」

 

 そこにいたのは、小柄な少女だった。

 長い藍色の髪に透き通るような色白の肌。瞳の色は薄い水色で、槍を向けられても感情の動かない表情が特徴的。衣服は―――

 

「見てはダメです!」

 

「え?」

 

 はっとしたように雪菜が古城の眼前に左手をかざし、視界をシャット。

 

「何があっても目を開けてはダメです。こちらを振り向くのも禁止です」

 

「姫柊? いったいなにを……?」

 

 言われて、気づく。

 雪菜の小さな掌ではカバーしきるのは無理があり、少女が手術着のような布きれ一枚でいることをばっちりと確認した。

 そして、昨夜に会った少女だ。

 それなりに整った顔立ちだが、猛烈な違和感を覚えさせられる。

 人間と同じ顔立ち、人間と同じ体形、2本の腕に2本の脚、それぞれについた5本の指。普通ならば当たり前であることが、逆にものすごく不自然に思えてしまう。

 左右の比率にゆがみのない、全くの対称的なボディライン、それがどうにも作り物めいていて、布越しに見える肌も虹色の影が揺らめいて―――なんて、凝視していると真祖すらぶち殺せるおっかない槍を持った後輩からの圧力が高まるのでやめておく。

 

「いや、違う。そうじゃないんだ姫柊」

 

「何が違うんですか、ばっちりと見てるじゃないですか……先輩は本当にいやらしい」

 

「そ、それよりも、なあ、あんた、クロウはここにいるのか?」

 

 話の矛先を変えるような感じではあるも、古城がわざわざ真祖(じぶん)を狙う輩の根城に赴いたのは――ひとり捜索しようとし、ひとり囚われている――後輩たちのためだ。

 そして、人工生命体の少女――アスタルテは、感情を揺らすことのない、そよ風よりも儚げな声で古城の問いに応える。

 

「……提案します、私の後についてきてください」

 

 その予想外の言葉に二人は顔を見合わせて驚いた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 それは、地下にあった。

 途中で見つけたエレベーターに電気が来ているようだったが、古城も雪菜もケージ内だけが異様に明るいそのエレベーターに乗ることを本能的な部分が拒否する。

 アスタルテもそれには乗らなかった。というよりは、回数表示のパネルから、この施設は地上4階で構成されている――つまり、地下がないとされている建物だ。

 それはまだ活動中だった時に世間から隠蔽したい行いをしていた場所だったのか、それとも殲教師たちに新たに増設された区画なのか。

 どちらにしろお天道様の届かない地の底にあるのは、後ろめたいものというのが定説だ。

 階段で2階分を下りた時、異様な寒気を感じる。

 道なりに進むと分厚い隔壁があり、脇にまるで宇宙ステーションにいるような錯覚を陥らせる近未来な壁面パネルがついている。

 それも先導するアスタルテが操作して開けると、大きな廊下が広がっていたが、暗がりの奥には不思議なものが散見された。

 

「檻……なのか?」

 

「そのようですね先輩」

 

 正方形型の檻が廊下の壁をくり抜いて嵌め込まれている。ひとつやふたつと数えられるものではなく。長大な廊下の左右には、視界の続く限り檻があった。

 また大きさも問題だ。動物実験で使うラットやウサギなどとは、明らかに比べ物にならない大きさ。そして、横たわる影。

 なにかが、ある。いや、いる。

 構わず、先を行くアスタルテは闇に溶け込んでいくよう。下手をしたら見失いかけない。古城も続いて、廊下の暗がりに一歩踏み出す。異界に踏み込んだような後悔が古城の精神を蝕んでいく。

 しばらく進んで、ふとアスタルテから視線を逸らし、檻の中を窺う。奥まった部分にいる何かは―――上の実験室で見たのと同じく、フラスコの中の小人(ホムンクルス)たちだった。

 

「先輩……」

 

「姫柊は見るな」

 

 今度は古城が雪菜の視線を手で遮った。

 きっとここは、実際に投与した試薬の様子を、または実験動物を外に出しての経過を観察するために、暴れる実験人工生命体が外へ出ないように閉じ込める檻なのだろう。

 しかし、いくら実験体のために作られた人工生命体だからと言って、ここまでの非人道が許されるのか。

 ましてや、ここにいるのはぜんぶ―――

 

「っざけんな」

 

 そして、ぬらぬらと玉虫色に光る体表、腐肉のように熟れきった体表面がブヨブヨと粘つく液を吐き出すだけのものとなった怪生物たち―――それらが異形と化してない辛うじて原型を保っているパーツは、眼前の少女と似ている。

 やはり、このアスタルテも、人工生命体なのだ。

 

 沸々と湧き上がる憤りに、古城の中の血が騒いだのか。近くから、微かな息遣いが聴こえた。

 

「先輩! そこに!」

 

「クロウ!」

 

 牢屋のひとつ。唯一、完全な人型を保っていたのは捜し人だった後輩。

 コートに帽子、首巻に手袋は外され、上半身の制服半袖Yシャツも脱がされてる。代わりに、人工生命体と同じ手術衣が着せられている。

 後輩がここまで明らかにされるのは古城にも久しい。というより、初めてなのかもしれない。

 分厚い鎧のような装飾を剥がされ、上半身に密着した手術衣のせいか、線の細く小柄な体躯のわりに弱弱しいイメージとは無縁だということがよくわかる。

 とはいえ、包帯が至る所に巻かれており、肌の露出面積はたいして変わってないだろう。

 

 アスタルテが扉と同じように檻の壁面パネルを操作すると檻が開く。すぐさま駆け寄り、その体を見る。

 全身がご丁寧にも“死なない”程度に破壊されていた。切傷や欠損は一切ない。基本的に巨大な手に握り潰されたことによる、打撲と骨折だ。

 

「姫柊、クロウは無事か」

 

「はい、簡単ながら応急処置がされています」

 

 となると疑問になるのが、誰が治療したのか。

 攫うよう指示したのは殲教師だが、半分とはいえわざわざ魔族の治療などしたがらないだろう。なにせ、吸血種ほどでないにしても、タフな生命力を持っている獣人種の治癒能力ならば放置しても勝手に治るものだろうと魔族狩りの男は思ってるに違いない。

 

 考えられるのは、消去法でこの少女。

 

 元々、アスタルテは、医療品メーカーに設計された臨床試験用の人工生命体だ。医療活動に必要な知識は、標準装備として遠隔知識(フラッシュロム)に焼き付けられており、研修医と同じくらいの高度な医療技術が備わっている。

 ただ、これは主たる殲教師から命令されたことではない――彼女自身の意思によるもので。また、古城たちをここに連れてくるのは、主の意に反することではないか。

 しかし、古城が口を開こうとするより早く、

 

警告します(ウォーニン)、彼を連れて直ちにここから退去してください」

 

「え?」

 

 アスタルテはその抑揚の乏しい機械的な発声で、淡々と繰り返す。

 

「この島は、間もなく沈みます。その前に逃げてください。なるべく、遠くへ……」

 

 島が……沈む!?

 

 とても信じられない。もしもそのままの意味だというなら、この超大型人工島にいるすべてが終わってしまう。けれど、人工生命体が、このような戯言を口にするわけではなく、ただ古城たちに事実を伝えているだけなのだ。

 

「“この島は、龍脈の交差する南海に浮かぶ儚き仮初の大地。要を失えば滅びるのみ”……」

 

 この詩のような言葉に古城ではなく、雪菜が息を呑んだ。魔術に関わるものならすぐに察してしまう暗喩があったのだろう。

 

「―――左様。我らの望みは、要として祀られし不朽の至宝」

 

 

 

 カチ、カチ、とゆったりと歩く影が通路の向こうからやってくる。

 それに人工生命体は怯えたように振り返り、古城たちもすぐ身構えた。

 

「やれやれ、<空隙の魔女>を攪乱するのに少々ここを留守にしなければならないほど手間取りましたが、私は調整が済み次第、そこの『混血』を見張っておけと、そう命じたはずですよアスタルテ」

 

 荘厳な法衣に軽鎧のような強化服を装備する巨漢。己を上回る長さの半月斧を片手でもったロタリンギアの殲教師ルードルフ=オイスタッハの顔には冷ややかな表情が張り付いていた。

 

「宿願を果たすためには、多くの力が必要となります。獅子王機関の剣巫のおかげで目標としたラインに達しましたが、使える道具はあった方がいいのです」

 

 剣巫のおかげで、との殲教師の言葉により早く反応したのは雪菜ではなく、古城。

 その胸中に驚愕の念はない。遅かれ早かれ、この男が己の前に出現することは予期していた。また、古城もこの男に弾劾したいものがあった。

 

「そいつはまさか、その子の体内に埋め込んだヤツのことを言ってんじゃねーよな」

 

 歯ぎしりさせ、その怒りを圧し殺す古城の声に、雪菜は動揺する。

 いったい何が先輩の感情をそこまで突き動かせたのか。その答えを知るであろうオイスタッハは、怒気の込められた視線を向けられても臆することなく、

 

「おや、気づきましたか。流石は第四真祖と言っておきましょう」

 

「っざけんなっ―――! その子だけじゃねぇ、ここにいる奴ら全員に“眷獣を植え付けやがったな”―――!」

 

 静謐な地下実験室を震わす古城の一喝を聞き、雪菜も自然悟った。

 上1階でみた培養槽にいた奇妙な生物も、

 地下2階の実験の檻にいる奇怪な死体も、

 そして、アスタルテと呼ばれた人工生命体の少女も、

 

 ありえるはずのない、眷獣を寄生させた人工生命体のなれの果てであり、その成功例にして生存例ではないか。

 

 雪菜は己の想像に怯え、槍にしがみつくように握り締めた。

 

「しかし残念ながら、研究はすでに完成しております。もはや第四真祖と言えど私たちの敵ではありません」

 

 オイスタッハはその行いを恥じることなく、傲然と言い放つ。

 

「自らの血の中に、眷属たる獣を従えるのは吸血鬼のみ」

 

 その定理を崩さんと、孵化する前の眷獣を、体構成を調整した人工生命体に寄生させる。

 魔族の王と言われた最大の要因であり、唯一無二の切り札たる吸血鬼の眷獣を、安価な実験動物で賄えることができれば、それは今までのバランスを崩しかねないほどの戦力を生むだろう。

 

「黙れっ! どうして吸血鬼以外に眷獣を使役できる魔族がいないのか、あんたも知らないわけじゃないだろうが!? わかっててそんなことをやったのか―――!?」

 

「もちろんですとも」

 

 何故、無限の生命力を持つ吸血鬼にしか飼い馴らせないというのかと言えば、眷獣を実体化するには、宿主が多大な生命力を捧げなければならないからだ。それは一体を呼び出すのさえ、枯渇しかねないものであり、“これまでの実験の経過からそれは明らかだ”。

 

「アスタルテが唯一の成功例と言えど、<薔薇の指先>を宿している限り、残りの寿命はそう長くないでしょう。あと2週間生き延びればいい方ではないでしょうか? まあ、これでも魔族たちを眷獣の生餌にさせて延命させてきたのですが」

 

 それが、魔族狩りの目的の、ひとつ。

 そして、もうひとつはオイスタッハが完成させたい術式のため。

 

「しかしもういいのです。獅子王機関の剣巫よ、その槍を持つ貴女との戦闘データは、素晴らしく参考になりました」

 

「なんてことを……そんな、彼女をまるで道具みたいに!」

 

「何故憤るのですか、剣巫よ?」

 

 怒りをあらわにした雪菜に、愉快気に目端を歪めながらオイスタッハはそれを突く。

 

 

「あなたもまた獅子王機関によって育てられた道具ではありませんか?」

 

 

 攻魔師を徴用する傭兵制より、捨てられた赤子を買い取り、一から教育し、訓練した方が実用的で忠実な駒になると。

 ここまで、“人間であるはずの”姫柊雪菜は、この暗闇の中でも吸血鬼である暁古城と同じく迷わない足取りで、また獣人種を素手で打倒し、秘奥兵器があろうと槍ひとつで眷獣を相手にする―――それもまだ、古城よりも年下な後輩が。

 そんなものは、組織が、人間を道具としか思っていなければ―――

 

「黙れよ、オッサン」

 

 いつのまにか、雪菜より前に、古城がいた。血の気を失う彼女を、その背に庇うような位置で、その男を睨んでいる。

 

「道具として作りだしたものを道具として使う私と、神の祝福を受けて生まれた人を道具として扱う獅子王機関。いずれが罪深き存在でしょうか?」

 

「黙れと言ってんだろうが、腐れ僧侶(ボウズ)が―――!」

 

 猛然と青白い稲妻を迸らせる古城。その右手から濃密な魔力と共に練り上げられる雷光は、倉庫街を一夜にして壊滅させた嵐のような災害――第四真祖の眷獣が力の一端だ。自らの肉体を媒介にすることで、どうにかギリギリ制御可能な状態を維持している。どこにでもいる高校生だった古城は、己に宿る世界最強の吸血鬼の権能を、初めて己の意思で御そうとしているのだ。

 

 その凄まじさに雪菜は圧倒され、オイスタッハは昂揚したように笑みを浮かべる。

 

「これが第四真祖の力。いいでしょう。これが我らの使命を果たせるか否かを占う最終試験なら相応しい」

 

 ―――アスタルテ! 彼らに慈悲を。

 

「―――命令受託(アクセプト)

 

 創造主からの絶対命令が下り、立ちはだかるは人工生命体の少女。

 その小さな体にある残りわずかな寿命を捧げて、眷獣を召喚する。

 それも今回は腕だけにとどまらず、胴体に脚。頭部を除いた全身を出現させた。体長4、5mもの巨体は、半透明のまま虹色に輝き、宿主たる少女をその分厚い肉の鎧の裡に取り込む。

 

「てめぇも大人しく従ってんじぇねぇェ―――ッ!」

 

 己の怒りに呼応させて、未だ現界させることのできない眷獣の力を頭のないゴーレムに振るう。一端とはいえ、第四真祖の眷獣の力だ。並の吸血鬼の眷獣でさえ、一撃で致命傷を与えかねない―――しかし、力負けしたのは古城の方であった。

 

「ぐ……あっ!」

 

 殴りつけたその瞬間、荒ぶる閃光と爆発が生じて、攻撃したはずの古城が逆に吹っ飛ばされた。そして古城の全身は、ぷすぷすと超高電圧を浴びせられたように火傷で爛れている。そう、あのとき、古城は自分自身の魔力を反射されたのだ。

 

「先輩っ!」

 

 次は雪菜が突撃を仕掛ける。

 それは不老不死たる真祖をも滅ぼしうる、降魔の聖光を纏った銀槍。魔力を無効化し、あらゆる結界を切り裂くこの槍は、如何なる魔族も防御不能―――しかし、その巨体の身を貫くこと敵わず。

 

「<雪霞狼>が……止められた!?」

 

 青白い浄化の光に包まれた銀色の穂先は、虹色の巨人の体表に接触したところで留まっている。刃が立たない鋼鉄に刺しているような、この槍にはあり得ないはずの手応え。

 それは前回からどことなく覚えていた違和感で、その答えを雪菜は悟る。

 最強の矛であり、最高の盾である獅子王機関の秘奥兵器。この矛盾を崩せるのはひとつ。あらゆる魔力を断つ聖光を受け止められる力は―――“同じ力”において他にない。

 <薔薇の指先>が放つこの虹色の輝きは、<雪霞狼>の降魔の聖光と同じでなければ、この共鳴現象(きっこう)はありえない。

 

「あらゆる魔族の権能を無力化する『神格振動波駆動術式(DOE)』は、世界で唯一、獅子王機関が実用化に成功していた、対魔族戦闘の切り札です。私が欲したこの完成図を与えてくれたのは、剣巫―――あなたですよ」

 

 魔力による攻撃の一切を無効化にし、攻魔戦闘術式の究極ともいわれる秘呪『神格振動波駆動術式』

 この完成こそが、魔族狩りを行っていたもうひとつの理由だ。

 寿命が残り2週間を切り、こちらの要求水準を満たせず、未完成に行き詰っていたとき、幸運にも、その完成形たる七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)を振るう剣巫と遭遇したのだ。

 オイスタッハは、これぞ主の思し召しであると歓喜した。

 完全と成った今の我らに、真祖でさえその道を阻むことはできない。

 そして、

 

「では、アスタルテ。魔女が付けた邪魔な枷を外してさしあげるのです」

 

 あらゆる魔術を破壊する巨人が、薄らと覚醒しつつあるクロウの首を掴むように――首輪に触れる。

 

「彼に、いったい何を……」

 

「おや、ご在知ないとは。これは、もともと、道具なのです」

 

 殲教師は、必死に奮い立たせようとする剣巫に、止めを刺すようにその正体を明かす。

 

「なぜこれが、<“黒”妖犬>などと呼ばれると思いますか剣巫」

 

 錆びた銅のような髪色に、褐色の肌。

 その表面的な特徴に、黒という記号が浮かばない。

 ならば、それは内面的な要素が関わっている。

 

「これは、『黒』シリーズ――かの<黒死皇>の遺伝子を使った戦争兵器だからですよ」

 

 ―――<黒死皇>!?

 

 伝聞でしか情報を知らない雪菜だが、高神の社でその恐ろしさはよく教えられた。

 

 曰く、東欧にある最古の夜の帝国『戦王領域』――第一真祖<忘却の戦王>の支配地で、獣人優位主義を唱え、吸血鬼による夜の帝国の支配に反発反乱を起こした。

 曰く、人間と魔族の共存を目的とした聖域条約の破棄を訴えた。

 曰く、獣人でありながら、死霊術(ネクロマンシー)に精通した。

 

 そして、世界各地で様々なテロ活動を繰り広げた最悪を上回る極悪、そして敵味方関係なしに動死体(リビングデット)を武器とする行いは非道。

 まさしく極悪非道の魔族。

 伝説的な第四真祖よりは格下であるが、その爪痕は現代に生きる者たちに深く刻み込んだ。

 

 血族ではないにしろ、その血筋を、黒狼(クロウ)は継いでいる。

 

「まあ、最期は<蛇遣い>に暗殺されてしまい、その血族もひとり残らず討伐されたそうですが、<黒死皇>は、“完全なる死者蘇生”ができたと聞きます。

 ここにある壊れてしまった道具も、『黒』シリーズを使えば、蘇らせることもできるのです」

 

 眷獣に食い尽くされた人工生命体。この建物には、その亡骸で溢れかえっている。

 完成されたアスタルテに及ばずとも、それなりの水準で対魔力の力を持つ者たち。それが不死となって軍団となって攻めれば、如何なる防壁でもせき止めるのは不可能だろう。

 未だ完全な覚醒とはいかないものの、アスタルテにより首輪に施された封印術が壊されたからか、クロウの意識が少し浮かび上がって呻いている。そこへ、オイスタッハが言葉を投げかける。

 

「―――あなたの境遇は聞いております。この絃神島で、迫害を受けたそうですね」

 

 それは、教会の神父らしく。

 そして、殲教師らしくない、慈愛に満ちた声だった。

 

「魔女の飼い犬であるのも、そのせいであるとか。人に馴染めず、魔を裏切るあなたには道具としての利用価値を示さなければ生きてはいけなかった。

 <黒死皇>の血を引いてる以上、それを危惧する輩からその命を狙われることになるでしょう。そこの剣巫でさえ、あなたの敵なのです。

 こんなことが、本当に正しいのですか。この罪に塗れた島で使い潰されることをあなたは望んだのですか。

 そう、魔女に森から連れ出されなければ、そこであなたは幸福に暮らせたでしょうに」

 

 人里離れた山での暮らしは厳しいものがあるだろう。

 日々の糧を探すのだけで精一杯な生活は、この上なく簡素であり、生きること以外に時間をさくことがない。必要最低限に切り詰められたそこに楽しみなど見いだせるものはなく、生きる為にただ生きるそのサイクルを毎日繰り返す。

 そんなのと、科学が発展した都市のどちらが楽園であるかと選択をさせてみれば、100人中99人は、都市だと答えるだろう。

 だが、それでも、1人は楽園の定義が異なるものもいる―――そう、この『混血』のように。

 

「―――あなたにも、この島の全てに復讐する権利が、ある」

 

 ただ、神父の声だけが研究所内に木霊する。

 

「魔女の枷はもうない。<監獄結界>の鎖から解放された今、その力を縛る必要などないのです。さあ、死者を蘇らせなさい、<黒妖犬>。軍勢を率いて、絃神島に死を」

 

 

 

 

 

「いや、だ」

 

 開口一番。

 覚醒したクロウが放った言葉に、今日初めて殲教師の語りが止まった。

 

「フクシュウだとか、よくわからない。―――でも、ご主人の、眷獣だ、お前の命令なんて、聞かない」

 

 実際、『首輪』にかけられていた制約はさして強力なものではない。

 形式上、鎖と繋がってはいても脱獄阻止機構(システム)から外れていると言ってもいいほど、鎖が長いのである。ほとんど放し飼いと変わらないのに、甘んじて『首輪』をつけているのはほとんどポーズである。

 意味はないが、意思がある。

 その意思で応える。

 

「それに、オレ、わかる。こいつらは、蘇ることを望んじゃいない。望んでるのは、そいつの―――」

 

 だが、それが最後まで言うことはできなかった。

 ゆらゆらとおぼつかない脚で踏ん張っていたものの、パタリ、と倒れた。

 口の端から血液が一筋垂れている。そして、その腹部、真っ白な手術着がじわじわと真っ赤に染まっていく。

 見限った殲教師が法衣の下から引き抜いた拳銃で、クロウを撃ったのだ。

 

「所詮、魔女の犬。それも己の魔性を否定する不良品ということですか。ならば、処分しなければいけませんね」

 

 弾丸は、先端の弾道部が白く、胴部の薬莢が真鍮色に輝く人狼殺し(ライカンキラー)とも呼ばれる銀イリジウム合金弾。それも―――

 

「今撃ったこの特注の銀イリジウム合金弾は、一発しか用意できませんでしたが。弾丸部にロタリンギア教会で聖別された塩の結晶を液状に溶かして濃縮したモノが封入されています。インパクトの瞬間内部で砕けた聖塩が体内に広がり、上位種の獣人であろうと一発で天に召されるでしょう。内側から煉獄に焼かれるような痛苦を味わいながら、その魂が浄化されることを祈りなさい」

 

「よくも―――」

 

 余りの自責に戦意を失いつつある雪菜も、それに己を奮い立たせると槍を―――しかし、すでに殲教師は行動に移っている。

 

「もう遅い、娘。獅子王機関の憐れな傀儡よ。―――魔族ではなく人の手でかかって死ねたことを救いと知りなさい」

 

「……っ!」

 

 そして、雪菜の視界が真っ赤になった。

 

 半月斧の軌跡は線を引いて走った。

 断罪であり贖罪の刃は、その胴体を裂くように横なぐりに―――あっけなく崩れ落ちる。

 雪菜に感じる苦痛はなくて、ただただ、目の前に落ちた物体が一秒前まで誰だったか、彼女はすぐに、理解できなかった。

 

「かはっ……!」

 

 あの一瞬。

 己の魔力を反射されて重傷を負っていた古城が、雪菜を突き飛ばし、代わりにその身に殲教師の一撃をもらったのだ。

 

「せ……先輩……!?」

 

 地に臥した、そう呼ばれていたモノに雪菜は声を震わせながらも呼びかけた。

 彼の顔はもう、自分の足元に倒れている。

 鼻腔をつく臓物の異臭。かつて心臓のあった所から、赤い血液が飛散している。

 一瞬の出来事だった。

 気づかずに蹴って水いっぱいのバケツを倒してしまったように、何もかも一瞬で終わってしまって、現実感が全く追いつけない。

 唯一の救いは、おそらく、痛みさえ一瞬だった事ぐらい。

 

 殲教師の戦斧には、魔族に対しての再生阻害の術が掛けられており、吸血鬼の不老不死の根源たる心臓が潰された―――

 

「どうして……そんな……いや……あああああああっ……!」

 

 雪菜は一変した状況を目前にして、槍から手を放し、その骸の頭部を抱く。しかし、もちろん古城からの返答はない。クロウもまた、動かない。

 

 もう、終わった。

 

 オイスタッハは、半月斧の矛先を、生き残った雪菜に向けるのをやめた。

 もはや剣巫に戦闘する気力は、ない。そこにあるのは復讐鬼となれず頽れる少女がひとり。

 『神格振動波駆動術式』が完成した以上、利用価値がなくなり、これ以上戦う必要性もない。

 

「行きますよ、アスタルテ……この咎人たちが造りし背約の地から我らが至宝を奪還するのです」

 

「―――命令受託」

 

 この場を去る殲教師の後に、顔のない巨人は続こうとして、一度、彼女らを見た。

 その一層と色が沈む瞳は、早くこの島から離れるよう訴えるようにも、あの最後の言葉の続きは何であったのかと問いかけているようにも見えた。

 

 

 

つづく

 



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聖者の右腕Ⅳ

???

 

 

 夢に見たのは、失われたいつかの記憶。

 

 

『―――そうか。どうしてふたつ魂の匂いがするのかと思ったら、やっぱり、■は、『棺』の代わりなんだな』

 

 人造の獣人種の少年は、人造の吸血鬼たちに囲まれるひとりの少女を見て、そういう。

 

『心配するな。オレは、『墓守』だぞ。■が『棺』なら、守るのが役目。何があっても荒らさせはしないと約束するのだ』

 

 孤立無援。その不安を感じ取ったのだろう。

 何も根拠はないがそれっぽい理屈をつけて、味方だと彼は言う。

 

 ■■は、信じられないものを見るような目で少年の顔を凝視する。

 その表情は、何と表現したらいいだろうか。

 途方もない恐怖と、譬えようのない驚きが入り混じるような。とかく喜怒哀楽などと簡単に当て嵌められるものでないにしても、未だに安堵していいのかわからない顔だろう。

 

『どうして……?』

 

 ■■は、言う。

 感情の波が安定しない、ふらふらと揺れるような声色で。

 

『どうして、あなたが、私を助けるの……?』

 

 こぼれたのは、裡を大きく抉られた者から溢れる、本当の意味での本音だ。

 あるいは、ここで誤魔化してしまう不誠実なことは言いたくないと思えるような何かを、■■は覚えたのか。

 

『ひどいこと、しちゃったんだよ。■■のせいで、皆から怖がられたのに。ずっと避けてて、一度も■■から謝ったことないのに。どうして、■■を助けに来たの?』

 

 少年は、その言葉を黙って聞いていた。

 その言葉には、上っ面以上の何かが込められていると。

 

『わたし、心の中であなたのことこの島から出て行っちゃえって思ってたのに』

 

 ボロボロと、言葉が溢れる。

 それは、少年の半分が大事なものを奪った魔族のものと近しいものを感じ取ってしまったから、坊主が憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに、八つ当たりにもあんまりな理由だったろう。

 

『いつか皆を傷つけるんだって、あのときみたいに私たちを襲って殺しちゃうんだって!』

 

 ただ、だからこそ、その醜さには人間味があった。

 そんな本音は、彼女だけでなく他の学生からもずっと昔から嗅ぎ取ってはいた、けれど、面を突き合わせて口にしたのが最もその意思が強かった少女だとは少年には思ってもみなかったことで。

 

『頑張ってるの知って違うんだって思っても、大丈夫だって思いたくても、ずっとずっとそんなひどいことばかり考えてたのに!! 何でそんな人間を助けるために、こんなところまで来ているの!?』

 

 少年は、少女を見た。

 己が誰だかもわからなくなったひとりの少女の顔を。

 

『ひどいことも何も、それは当然のことだぞ』

 

『え……?』

 

『魔女に造られたことも、獣王の血が半分流れていることも、皆事実だ。オレは、怪物だ。正真正銘の怪物なんだ。そんな化け物が人間としていることを、今の今まで黙ってみててくれたんだろ。むしろ我慢してくれたのを図々しいオレは感謝すべきだ』

 

 少女は、驚いた顔で彼を見ていた。

 それに力強く答えるよう、無理やりではなく、心から笑みを浮かべる。

 

『オレが助けたいと思ったから、助ける』

 

 庇うよう前に出て、『棺』を攫おうとする相手と対峙する。

 彼女らが強いことを自ずと悟る。力を解放したとしても、1、2人が限界なところだが、あいにく3人以上はいる。

 だが、それが退く理由とはならない。もしも獣であれば、力量差を感じ取れば無駄な争いは避けようものだが、半分は人間。

 敗北がまず前提条件となる戦いに挑むことがわかっていながら、首輪に手をかける。

 

『だから、あんまり難しいことは考えてないのだ。■もあんまり難しいこと考えるな。オマエはちゃんと助けられていい。オレの勝手なワガママに振り回されてろ』

 

 くっきりと首に――を晒してる、それでも前にいてくれるのを見て、少女は―――

 

『……■じゃなくて、■■』

 

『?』

 

『もう、■なんて呼ばれたら、■■君と一緒になっちゃうじゃない。ややこしいからちゃんと名前でお願いね』

 

『む。そうだな。わかったぞ、■■ちゃん』

 

 

研究所

 

 

 擬死。

 俗に狸寝入りや死んだふりとも呼ばれる行為。それは、敵に捕らわれた際に起こる、ぴたりと動かなくなってしまう、反射的な行動である。

 無論、敵を前にそのような真似をすれば、格好の獲物であるも、だからこそ、急に動かなくなったそれを見ては緊張を緩めやすく、油断が生じやすい。

 また、敵の手により負傷していた場合、無駄に暴れるということもないので、傷口がより開くこともなく、余計な体力を使わずに済む。

 虎視眈々と機会を待ち、そこに全てを費やすために、あえて活動をしない。それが時によって、危機から逃れるための可能性を高めることもある。

 腐肉も平気で喰らう野生の熊相手にすればお終いであるも、利点がないわけでもない。実際、それで難を逃れた。

 

「生きて、たんですか……?」

 

 殲教師らがいなくなり、足音が遠ざかってしばらく、雪菜の目の前で、むくりと起き上がる。その腹部に血が滲んで真っ赤になっているものの、出血はすでに治まっていた。

 それを呆然と眺めていた姫柊に、当人はあっけからんと、

 

「オレの半分は人間だから、こーいうの魔族よりもへっちゃらなんだ」

 

 痛くないわけじゃないけどな、とお腹をさすりながら言う。

 

 <黒死皇>というインパクトの強い単語でイメージがそちらに傾いてしまっていたが、彼の言う通り、その血の半分は人間だ。本来なら魔族に対し致死に至る毒であった浄化された塩も、『混血』には効果が半減してしまうのだろう。

 そして、『混血』という2つの種の改良(改造)された配合体は、再生能力を持った吸血種ほどではないにしても、獣人種の秀でた生命力により速やかに銃弾による風穴も塞がれた。

 

「うん。あいつらの匂いは消えてない。もう逃がさないのだ」

 

「待ってください。何処へ行くつもりですか」

 

 まだ自らの足で立てずにいる剣巫が、静止を呼びかける。

 

 攻魔師としてならば、あの<黒死皇>の血を引くという危険な火種は速やかに排除すべきなのだろう。自滅するならそれを見逃すべきだろう。先輩――<第四真祖>とは違い、機関からは監視も命じられていない。

 なのだが、雪菜は、向う見ずな少年を諌めてしまう。

 

「今のオイスタッハ殲教師には、<雪霞狼>と同等の魔力無効化能力を有する眷獣がついています。対抗するには、真祖クラスに強力な眷獣がいなくてはいけません。あなたには、止められません」

 

 雪菜の声には静かな怒りがある。

 彼を救うために赴いた先輩が、犠牲となってしまった―――なのに、それを悼むこともせず、折角助かった命を粗末にするクロウを諌めている。

 

 確かに彼女の読みは正しいだろう。

 並の眷獣を倒せるだけの力があることは承知しているも、相手はそれ以上の『旧き世代』の眷獣をも打倒できるだけの力を持ち、そして今や腕だけにとどまらず巨人と化した、前回以上の怪物へと完成してしまい、魔術が一切通用しない。

 

「先輩の、……<第四真祖>の力は、獣人種はおろか、吸血種の『旧き世代』の長老さえも上回ってます。その魔力でさえも跳ね返したんです」

 

 このまま行ったところで返り討ちに遭うのは目に見えている。

 剣巫の判断は正しい。

 それでも、

 

「でも、行かないと。あいつら止めないと手遅れになる」

 

 あまりに落ち着いた、そして素直な響き。

 それについ頷きかけて、雪菜は眉をしかめる。

 その身を案じるのならば、と刺々しい――自らの喉にも刺さってしまう――声音で、それを問う。

 

「それは、先輩の敵討ちのためですか。……それとも、あなたが、道具、だからですか」

 

 言い難そうに――また聞きたくないように――つっかえながらも雪菜は尋ねる。

 

 わずか14歳で、殲教師と互角以上に渡り合える戦闘術を身に着け、降魔の槍を振るう獅子王機関の剣巫。それはオイスタッハが追及したとおり、魔族と戦うために育てられた道具とどこが変わらない。

 

 姫柊雪菜と、彼は境遇が似ている。いや、雪菜よりも偏っている。一から作られたことを考えれば、あのアスタルテと呼ばれた眷獣を寄生させた人工生命体の方に近いだろう。

 

 そんな同情心から響く言葉なのだと、嗅ぎ取ったのだろう。

 

「姫柊は、道具だと思ってるのか?」

 

 クロウを、また姫柊自身を、ともどちらでもとれる返し。

 

「オレは、ご主人にぶっ殺されて森から連れ出された。『捨てる魔女もいるなら、拾う魔女もいてもいいだろう。今日から私がおまえの神だ』って。こっちの了承なしで契約されたんだぞ」

 

 オーボーだ、と小さく、しかめっ面でぼやく。

 死なせた方が楽だったかもしれない。だがたとえそうこちらが望んでも、魔女がそれを許さない。魔女が神だ。

 おそらく傍若無人な魔女は、ウジウジ過去引き摺ってる暇があるなら行動しろと言いたかったのだろう。とはいえ、それが強引かつ乱暴に過ぎるやり口であることには変わりない。

 

 それから一般教養を身につけさせて、この古巣と比べて全くの別世界な絃神島に連れてこられ、学校に通わされる。その間にも、仕事の手伝いをやらされた。

 

 魔女はああしろこうしろと命令するばかりで、自らが生まれてきた理由は教えてくれない。そんなのは自分で考えるものだと一蹴された。それがわかるまで、自分は魔女についていくしかない。

 

「でも、オレはここにいるのが楽しかったぞ。大変だけど、ご主人もなんだかんだで面倒見てくれる。先輩も困ってたら助けてくれるし、クラスの皆も優しい。

 ……うん。今思うと、オレはきっと捨てられて当然な欠陥製品なんだろう」

 

 きっと道具であるなら、主の命に疑問を挟むのはおかしいのだ。たとえ、誰になにを言われたのだとしても、おかしいと思ってしまうのが間違いで、主に牙を剥くようならば、それは不良品と言われても仕方ない。

 あの閉じられた世界で、己は異分子だった。だから、もう自分はあの森へは帰れない、帰ってはいけないのだ。

 

「だから、オレは道具というのがよくわからない」

 

 この少女が自分と重ね合わせてみているのはわかった。

 できれば彼女の納得のいく、望む答えを口にしてやりたいが、それはできない。

 

 それでも、答えは決まっている。

 

「だから、オレが行くのはオレの意思だと思う」

 

 あの狭く、完結していた森の中で、己に関わってしまったから、家族は死んでしまった。親たる創造主もそれを恐れたから己を捨てたとそう思い込んでいた。

 だが、主であり、神である魔女は言う。

 おまえのせいじゃない。おまえが何もしなかったから奴らは死んだんだ。

 

 だから、もうせめて、迷わないように。

 自然に浮かんだ想いだけは貫こうとずっと前、あの時から決めたのだ。

 

「あいつらが強いのはわかってる。……でも、行かないと。ここにいたら何にもできないぞ」

 

 やらぬ後悔より、当たって砕ける方を選ぶと胸を張って断言する。

 その胸をつくのは未熟な衝動。

 今このとき、この場に残留する“匂い”を嗅いだ彼は、ただ、止めたいと思っている。

 島の危機とかそんなことは考えにも浮かばず、脳裏を占めるのはそれだけ。

 だから、全く持っていつも通りとなるのだが、その時その時の、その場その場の考えでしか動けないのだ。

 

 

 

「あ、それから古城君は、死んでないぞ」

 

「へ?」

 

 

キーストーンゲート

 

 

 絃神島の中心地にある逆ピラミッド型の巨大複合建造物キーストーンゲート。

 それは絃神島で最も天に近い建物であり、島全体の基盤を保持するための要石ともいうべき場所。東西南北と連結用ワイヤーケーブルで繋がった四基の人工島の連結部がそこにあり、そこに搭載された電子演算は、海流や気候と環境が要因となって生じてしまうわずかなズレも検知は予測し、各人工島の距離間を衝突させず一定の距離に保つよう、常時調整作業が行われている。

 

 故に、このキーストーンゲートの崩壊は、絃神島全体の崩落に繋がるため、特区警備隊のテロ等の破壊活動に対する防備は念を入れてなされている。

 

 夜の帝国の正規の獣人兵団一個中隊でさえも一日ではとても落とせないというレベルで。

 そのキーストーンゲートで、唐突に始まった戦いは、すぐに一方的な展開となり―――一方的に終わった。

 

「―――大方これで片付きましたか」

 

 ロタリンギア殲教師オイスタッハの眼差しが、冷ややかに前に向けられる。

 音のない空間が、眼前に広がっていた。ほんの少し前まで気密隔壁で閉ざされていたはずのキーストーンゲート海面下第十層は、何も行く手を遮るものがない、観葉植物に置かれた花壇が倒れて土をこぼしてるなど荒れ果てただけの廊下と化していた。隔壁には七層にも及ぶ結界が施されていたはずだが、一切静止させることもできず、ガラクタとなって床に転がっている。

 突破を阻もうとした60を超える精鋭部隊は、まるで火の中に飛び込む虫のように、“たった2人の襲撃者”に挑んでは倒された。

 

「なんなのよ、これ……」

 

 その経過を、離れた位置で眺めていた1人の少女。

 武装はない、あるのは小さなノートパソコン。戦闘訓練を受けたこともなく、魔力もない一般人。

 人工島管理公社でバイトする優秀なプログラマー兼彩海学園高等部に通う女子高生藍羽浅葱。その手にしたノートパソコンから、

 

『侵入者と鉢合わせちまうなんて、何とも運の悪いお嬢だぜ。今日の占いは恋愛運だけでなく総合運でも最下位だな』

 

「うっさいわね。今付喪神風情の相手できる状況じゃないわよ」

 

 モグワイ、と名付けた絃神島すべての都市機能を掌握する五基のスーパーコンピューターの現身(アバター)たる浅葱の補助人工知能たる相棒。

 彼の助けを借りれば、電脳世界(サイバーネット)において敵う者がいないであろう<電子の女帝>は、現実世界では普通の女子高生と変わらない。

 そして、運が悪いことに『彩海学園の女子制服』を着た相手と苦戦をした侵入者は、学校の制服に身を包んだ浅葱に警戒している。

 また、運の悪いことに、携帯電話が鳴りだした。ただでさえ相手の注意を惹きつけたくない状況下で、目立つという真似。

 

『ただ今の館内の携帯電話のご使用はご遠慮願います、ってな』

 

 戯言抜かす補助人工知能が憎たらしい。

 

 いつまでも着信音を鳴らしておけないと浅葱は襲撃者に注視されながら、のろのろと機械的な動きで携帯の画面を確認する。

 この発信者は後で絶対に―――と表示されたその名前を見たとき、浅葱の目に生気が復活した。

 

「―――古城!?」

 

 思わずその名前を口にしてしまう。

 あれだけ夏休みを補習課題三昧だったというのに、二学期早々の授業を個人的な都合上中退なさった同級生。そして、あの美少女な転校生と何かあるのではないかとやきもきさせる男子。

 

 ―――だが、浅葱は暁古城が、世界最強の吸血鬼であることを知らず、また侵入者たちがつい先ほど抹殺した相手であることを知らない。

 

(何? <第四真祖>は殺したはず……そうですか、これが真祖の不老不死と呼ばれる所以ですか)

 

 知らず知らずのうちに侵入者たちの警戒度を上げてることを知らず、訳もなく安堵してしまった浅葱はその電話を取ってしまう。

 もはやこの積もり積もった鬱憤を晴らさずしておくべきかとばかりに、

 

『浅葱……! よかった! 無事か?』

 

「なんなのよ、もう……ちっとも無事なんかじゃないわよ! 公社が襲われて、人がいっぱい怪我して、建物もあちこち壊れて閉じ込められて、しかも、今そこであいつらこっち見てるし……って!?」

 

 上擦った声で捲し立てるが、途中、現在状況を自覚して一オクターブ高めに悲鳴が上がる浅葱。電話の向こうにいる相手も、瞬時にただならぬ状況だと察知。

 

『襲撃してきた犯人がそこにいんのか!? 僧服を着たガタイのいいオッサンと人型の眷獣が!?』

 

「そ、そうなんだけど、知ってるの!?」

 

『知ってるどころじゃねーよ! こっちはそいつらのせいで危うく死にかけたんだぞ!』

 

「死にかけた……って、古城、あんた……」

 

『んなことより、今はお前が問題だろ! 早く逃げろ、浅葱―――』

 

 それ以上、古城の声は耳に入らなかった。

 浅葱に向かってくる殲教師が見えたから。

 放置してもこの島にいる人間はすべて死ぬのだから変わらないと考えていたが、<第四真祖>との関係者であるなら、それを人質に時間稼ぎができる。

 

 立ち竦む浅葱は、装甲服を纏った警備兵を一撃で重傷負わせた物騒な半月斧が今度は自身に降りかかるのを予感する。

 唯一自由になる瞼をぎゅっと閉じて、せめて、視覚情報だけは遮断する。

 けれど。

 1秒、2秒。

 3秒たっても、何もない。

 痛みもなく、掴みかかられたりもしてない。

 

「……?」

 

 ゆっくりと恐る恐る瞼を開ける。

 零れ落ちなかった涙が滲んだままの視界に映ったのは、殲教師の巨漢でもなく、半透明の巨人でもなく。無論、瞬間移動してきたクラスメイトの背中でもない

 

 ―――銀色の人狼。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 速い。

 目にも止まらぬ、を超えた、目にも映らぬ、その疾風の影。

 その残像が侵入者を囲うように、キーストーンゲート海面下第十層を駆けずり回り攪乱すると、その半月斧の牽制を躱して、浅葱の前に立つ。

 先まで電話に出ていた男子学生の色素の薄い灰色の髪とは少し違う、くずんだ銀の色。

 顔立ちは、人のものではない。

 口元には鋭い牙が生え、その両手からは長い鉤爪が伸びている狼の頭。けしておぼろげな影ではなく。紐で結ぶタイプの手術着の隙間からは銀の体毛が生えた、一頭の獣化した獣人種。

 その喩えるなら鬱蒼と生い茂る森のような深く清冽な空気を発する気配から、都会とは異邦者であることを自然と悟らす。

 なのに、どこか見覚えがある印象なのは、その首に付けた枷のせいか。

 しかし、浅葱が呼びかける前にそれは動いていた。

 

 一際高く、海底から地上にまで伸びる遠吠え。

 その喉笛を震わせ発す、弦楽器の如く遠くまで響かせる音は太古の記憶を呼び覚まさん。

 

「アスタルテ!」

 

 どっ、と緑と茶の色が巨人の足元から――正確には雑草のように踏み潰した観葉植物から、噴き上がった。

 瞬く間に膨大な量と太さに成長する植物の蔓が、巨人の身体を何重にも縛り上げたのだ。

 

 『神格振動波駆動術式』を有する<薔薇の指先>の体に、魔術的な拘束は通用しない。たとえ、<空隙の魔女>が用いる神々が鍛えたとされる鎖を以てさえ束縛しえないのだ。

 

 ならば、これに“魔力は一切使われていない”。

 

 そのような魔力とは別系統の異能が、この絃神島には存在する。

 <過適応能力者>。

 その『嗅覚感応能力』、通常時は吸引側(パッシブ)で『嗅ぐ』ことしか使えない能力を、発香側(アクティブ)にすることで匂付け(マーキング)を仕掛ける。―――自身の生命力を変化させる気功術に他者に生命力を与える死霊術の要領を学習した<過適応能力者>が、己の生命力を埋め込んだ自然物を手足の如く操る、応用技。

 精霊召喚士が行使する術と似てはいるが、こちらは動力に己の生命力で賄うため、体力は使うものの、特別な術式媒体は必要としない。

 

(同時に、警備隊を避難させてる)

 

 巨人を封殺するのとは別の蔓が、重傷を負って動けない特区警備隊に絡みついて保護し、戦場から引き擦り離していく。

 

「くっ、厄介な―――」

 

 ぎりぎり、と巨人をなおさら強く細い観葉植物の蔓が縛り上げている。

 それだけの強度が、あるのだ。獣化した今、<過適応能力者>の中でも、超常の念動力を操る古代超人種<天部>に匹敵する性能を誇る。

 魔力を使っていないため、魔力を無効化にする神格振動波でさえ完全に無効化できない巨人は、しかしその眷獣としての怪力で拘束を引き剥がそうと暴れる。

 

 ―――そこへ、迫る。

 

「結局、少年は魔族(そちら)側ということですか」

 

 迎え撃つ殲教師が法衣の隙間から、言葉と共に輝きを洩らす。

 

「ロタリンギアの技術によって造られし聖戦装備<要塞の衣(アルカサバ)>―――この光をもちて我が障害を排除する!」

 

 

 

 戦斧と気爪が、激突する。

 銀色の獣人種が銀色の気を纏った鉤爪で襲い掛かる。

 殲滅の祓魔師が黄金の呪を込めた戦斧で斬り掛かる。

 身動きの取れない巨人を狙う獣と、その脱出まで阻む人。

 浅葱が息を呑んだ時には、もう、ぶつかっていた。

 加速。加速。加速。

 刹那のうちに、両者は常人の身体能力を遥かに超える高速の領域へと達していた。

 瞬きするコンマ1秒程度で、5m先に移動していて刃を交わしてすらいる。

 床を駆けるだけに留まらず、壁にまでは疾走する二つの姿。

 それらの僅かな残像さえも、すぐに、消えてなくなる。

 

「以前の評価を訂正させてもらいましょう、貴方はやはりかの獣王の血を継いだ化物だと」

 

 互いに人体のカタチをしているのに、人体では成し得ない運動性能を当然のように発揮することで行われる、刃の舞踏。この魔族が住まう特区でもそうお目にかかれない、現実さえ置いていく高速戦闘。

 キキキキキキキキキキッッ!!! と衝撃が周囲の空間に放たれるのにやや遅れて、耳障りな金属音が連なっていく。

 火花が飛び散り、光が瞬く。物理的な現象なのか、攻撃的な力の残滓として生じたものなのか。

 あまりに速すぎる両者の戦闘を、素人の浅葱に欠片も読み取れるわけはなくて。

 

 だが、それも巨人が束縛を破ったと同時に終わる。

 

「逃がすか―――アスタルテ!」

 

「命令受託―――」

 

 巨人が手を伸ばそうとしたときには、最初と同じ位置に着地していた。

 荒々しい獣毛に身体を覆われた人狼から、浅葱は目をそむけなかった。

 自然に、それを受け止める。

 幼少のころから魔族特区で暮らしていた浅葱にとって、獣化した獣人なんてものは見慣れたもので、人より耐性がついている。

 なにより、この正体に勘付いていた。

 

「一応、確認だけど、クロウ?」

 

「そうなのだ、浅葱先輩」

 

 いつもと変わらぬ調子で応えて、腰が抜けてる浅葱を腕に抱える。

 学校で魔族としての力を発揮することのない後輩が、獣化した姿を見せるのは初めてのことだが、それでも雰囲気は変わってなかった。

 今の戦闘の合間に、植物の蔓たちは壊滅した警備隊を回収している。そのための時間稼ぎで斬り合ったのもあったのだろう。

 当然、その代償は安くなかった。

 

「……傷は、大丈夫なの?」

 

「わりと重いぞ。さっきから左脚が氷水に浸かってるみたいに感覚がない。あいつの斧に斬られるのはやっぱり危険だった」

 

 交錯しかけた状態から、無理にオイスタッハを振り切った結果である。

 <要塞の衣>で数倍以上に跳ね上げた武装祓魔師の膂力と祓魔の呪力は、掠っただけでもダメージを負う。そして、逃げ足に、剣巫クラスとは言わなくても予測した霊視と戦士の勘で合わせた。

 とはいえ、相手の方も決して無傷というわけではない。利き腕と思われる右肩の装甲に大きな裂け目があり、右腕が真紅の血によってしとど濡れていた。腱こそ断たれてないようだが、軽傷とは言えない具合であった。殲教師の纏った法衣の右半分は、今もゆっくりと真紅の領土を広げている。あとすこし、巨人が束縛されていれば、決着はついていたのかもしれない。

 

「ここで仕留めておきたかったのですが」

 

 オイスタッハは、逃げ際を誤らず撤退するクロウの背中を目だけ追う。脚を負傷している以上、こちらが全速で迫れば捕まえられるかもしれない。だが、それには時間がかかる。これが奇襲である以上、あまり時間はかけられない。ならば、当初の予定通り、先へ進むしかない。

 

「急ぎますよ、アスタルテ」

 

 出鼻をくじかれた形であるも、オイスタッハの目の光はより一層強まる。

 相手が何者であろうと、目的を達せれば、この島ごと沈むのだから。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 クロウは、オイスタッハたちの気配(におい)が自分たちから離れていくのを感知すると、その廊下の途中で立ち止まり、浅葱を床に下す。

 

「浅葱先輩にあったら言いたいことがあったんだ」

 

 若干、スピードを出し過ぎてGに振り回されたのか、まるで酩酊状態にフラフラな先輩はそれでも後輩に、なによ? と視線で問う。

 

「これどうやったら使えるようになるのだ?」

 

 取り出したのは、ボタンを潰してしまって、くの字になってる携帯電話。

 ……どうやら犬でもわかる携帯講習のお時間は無駄になったようである。まずボタン操作からではなく、ボタンの押し加減を徹底させるところから教えないとならないとはこの後輩手間がかかる。

 

「今度、那月ちゃんに、いっちばん頑丈なの、買ってもらいなさい」

 

「う~、ご主人に怒られるのだ」

 

「それより、古城がどうなってるか知ってる?」

 

 先ほど電話で死にかけたと言っていたが無事なのか。そう心配して訊いて浅葱であるが、

 

「……しばらくダメなのだ」

 

「え―――」

 

 後輩が沈んだ表情――狼頭であるも何となく表情が読めた――を浮かべ、浅葱は狼狽する。

 

「別れた時は、姫柊に膝枕されてたけど、全然起きてる気配がなかったのだ」

 

「え―――え?」

 

 ちょっと待って。

 何でそこで、この前会った美少女転校生の名前が出てくんの。それも膝枕ってどういう意味?

 

「いったいどういう状況なのよあいつは……」

 

 特区警備隊を蹴散らす侵入者に殺されかけて、病院のベットではなく後輩の膝枕で眠ってる?

 この展開は、ちょっと優秀なプログラマーの頭脳でも推理できないぞ。

 

「気になるんなら直接訊けばいいのだ。携帯まだ繋がってるぞ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 この絃神島の都市設計が公開されたのは、今より40年前。当時、その発想は一躍話題となった。

 

 第一真祖<忘却の戦王>が東欧に『戦王領域』、

 第二真祖<滅びの瞳(フォーゲイザー)>が中東に『滅びの王朝』、

 第三真祖<混沌の皇女(ケイオスブライド)>が中央アメリカに『混沌領域』

 

 真祖たちが築く夜の帝国には、豊富な資源が眠っており、また霊地として格の高い豊潤な土地でもあった。それを奪還、もしくは、略奪しようとしても、真祖とそれが率いる魔族の軍勢は強く、また聖域条約と人間と魔族の不可侵が結ばれてしまっては諦めるしかない。

 夜の帝国を除く、この地球上にある大半の有数の霊地はすでに押さえられて、資源にも限りがある。もし国家組織の発展を望むであれば、人間たちは他の人間の国家組織の土地を奪うか、土地と資源を持った真祖と共生共存するか、可能性は低いが新天地を開拓するしかない。

 

 そんな、真祖に人間の懐事情が圧迫される情勢で、『海洋上にある龍脈(レイライン)が集約する場所に、人工の浮島を建設して、新たな都市を築く』は画期的であった。

 土地がないならば、新たに作る。

 多方から龍脈が流し込まれる集約地にある人工島は、霊地としては相当な格であることが予想され、住民に活力を、都市に繁栄をもたらす。それは通常よりも強力な霊術に魔力の実験が可能となることから魔族特区として理想的だ。実現すれば、人間は真祖に頼らず、独自の発展を―――しかし、所詮それは机上の空論であった。

 

 海洋を流れる剥き出しの龍脈の力は、その予想をはるかに超え、人間の手にそうおえるものではない。

 しかし、人工島計画は、地球表面を流れる巨大な霊力経路たる龍脈の上に築かれるものでなければ、魔族特区としての水準には満たされない。

 

 それでも、都市の設計者である絃神千羅はよくやったと言える。

 東西南北――四つに分割した人工島(ギガフロート)を風水でいうところの四神に見立て、それらを有機的に結合することで龍脈を人間の手で制御できるところまで落とし込もうとした――いや、可能なところまでこじつけていた。

 たった一つの問題をクリアできれば……

 

 

 

命令完了(コンプリート)。 目標を目視にて確認しました」

 

 あらゆる結界を破る力を持った虹色に輝く巨人の眷獣は、最終防壁をも打ち破る。

 キーストーンゲート最下層であり、四基の人工島から伸びる四本のワイヤーケーブルの終端。

 その中央には、全てのマシンヘッドを固定するアンカーである、小さな逆ピラミッドの形をした金属製の土台がある。

 そして真ん中を杭のように刺し貫く黒曜石と似た素材を用いた石柱。その直径1mもない一本の円柱こそが、絃神島を支える『要石(キーストーン)』。

 その奪還こそが、ロタリンギア殲教師ルードルフ=オイスタッハの悲願だ。

 

「お……おお……」

 

 その“再会”を前にしては、これまでの怒りを一時とはいえ忘れて、敬虔な信者たるオイスタッハは、身体の震えは堪えようのない。歓喜のあまり面相は戯画のように歪んでいる。この瞬間をどれほど待ち望んでいたことであるのが、これだけでも窺えた。

 

「ロタリンギアの聖堂より簒奪されし不朽体……我ら信徒の手に取り戻す日を待ちわびたぞ!」

 

 人工生命体に、『あの忌まわしき楔を引き抜き、退廃の島に裁きを下せ』とオイスタッハは負傷に構わず高らかに右腕を掲げ、半月斧を振り下ろさんとして―――やめる。

 出来得ることなら、馳せ参じてすぐさま解放し、御前に跪きたい欲求に駆られるも、

 

「しかし、やはりその前に障害を排除しなければなりませんね」

 

 己の背後に、最後の障害がいる。

 つい先ほど、一太刀を浴びせた、銀の人狼が。

 

「『黒』シリーズ――魔女が創りし、森の番獣にして、霊地の防衛装置」

 

 人間の霊地不足は深刻だ。

 その森も、魔女が個人で所有するそれなりに格のある霊地で、それも魔族ではなく、人間が利権を持っていることから、人間にとって、この上ないご馳走であった。

 故に、森の魔女は個人で有する最強の戦力を欲して、創り出したのが、動死体を無限に蘇らせる一個にして軍団たる『黒』シリーズ。

 

「人間に故郷を奪われ、この背約の土地でさえ迫害され、それでも道具としての使命を果たしますか。そこが己の死地であることを知りながら、我々の前に立つのは、もはや献身とは呼べず、捨身としか言いようがありません」

 

 オイスタッハがつける片眼鏡(モノクル)型の分析器はすでに先の眷獣を縛った術の性質を見抜いている。

 『黒』シリーズは、森林を想定として創られた。

 この鋼鉄で仕切られた最下層にあるあらゆるものは人の手が行き届いており、生命力を伝播し易い自然物が絶無―――武器となるものがなく、『死地』と呼べるほど野生児には不利な空間だ。

 それも素早く翻弄する脚も負傷している今、戦えば待っているのは一方的な嬲り殺しだ。

 

「しかし、その憐れさに免じて、最期に、もう一度だけ、チャンスをあげましょう。―――咎人たちに踏み躙らされた彼の聖人を復活させるのです」

 

 オイスタッハは確信している。

 悲願成就に必要な『神格振動波駆動術式』をもった剣巫と遭遇したことも、

 復活という偉業を達成させる完全なる死者蘇生ができる道具を拾ったことも、

 一度目は拒絶されたが、今この瞬間に最下層に現れたとなれば、これぞ彼のご意思。

 

 そう、自壊などと生温い慈悲など与えず、己が手で、この罪に塗れた土地に天罰を下さんとしてるのだと。

 

「オマエのこと、オレもわかる」

 

 でも、

 

「誰かを蘇らすの、オレはできない」

 

 たとえ死霊術の資質があろうとも、それが可能だろうと、死者蘇生は行わない。

 <黒妖犬>は『墓守』だ。

 地面の下に眠る者たちを悪戯に起こすものではない。

 

 オイスタッハの双眸から、熱狂の炎が消える。

 激情に駆り立てられた面相が、以前と――魔族と対峙すると――同じく静かな面持ちで、立ちはだかるクロウを見下す。だが、その視線が孕む強烈な意志と執着は、微塵も衰えていない。

 

「所詮は魔族に、彼のご威光は理解できぬものですか」

 

 声はそう沈鬱に呟くも、嘆きはない。滲むのは、再点火された怒り。

 

「であるなら―――アスタルテ! この最後の障害を排除し、この退廃の島に裁きを下しなさい!」

 

 下された半月斧。

 その宣告と同時、巨人は―――動かない。

 

 

命令認識(リシーブド)。 ただし、前提条件に誤謬(ごびゅう)があります。故に命令の再選択を要求します」

 

 

「なに?」

 

 言われて、オイスタッハは気づく。

 要石によって固定されたアンカーの上に、影。

 ひとつはボロボロの制服を着た少年、もうひとつは長大な槍を持つ少女のもの。

 

「悪いな。その命令は、取り消(キャンセル)してもらうぜ、オッサン」

 

 第四真祖――暁古城と、その監視役たる剣巫――姫柊雪菜がそこにいた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「聖遺物って言うんだってな」

 

 古城が示す、要石の石柱――その中にある『腕』。

 手首に無残に縛られた痕の付いた、ミイラのように干からびたそれは西欧教会の『神』に仕えし聖人の一部。“絃神島の設計者絃神千羅が奪い”し、至宝。

 

 東に青竜、北に玄武、西に白虎、南に朱雀、四神相応の理を取り込んだ四つ人工島の中央に敷かれるのは、四神の長たる黄龍。これが、連結部の要諦となる要石である。

 

 しかし当時の技術では、黄龍の格に合わせられる建材を人の手で造り出すことはできなかった。

 故に絃神千羅は、この最後にして最大の問題に、外道に手を出した。

 

「それが、この『供犠建材』だな」

 

 古城が浅葱に頼んで軍事機密並のプロテクトを打ち破って調べてもらった。

 そして、オイスタッハが絃神島を憎悪する理由。

 

 ―――人柱。

 その建造物に降りかかる災厄を防ぐための身代わりとして、生きた人間を生贄として地中へと埋めた邪法。

 それも、龍脈という莫大な自然の気の流れを受けるには、人間では矮小過ぎる。従って、生半可な生贄では相手にならず、

 

「いかにも。絃神千羅が都市を支える贄として選んだのは、我らの聖堂より簒奪した尊き聖人の遺体でした」

 

 生涯を捧げた信仰のために苦難の道を歩んだ殉教者の右腕。それは、神の聖性が現世に顕現するための依代であり、後に続く同輩たちが迷いし時に導く信仰の対象。

 不朽体という永久に形を保ち続けるほどに聖性を秘め、遺体であれどさまざまな奇蹟を起こす―――故に、人工島の生贄に足りた。

 

「魔族どもが跳梁する島の土台として、我らの信仰を踏みにじる所業―――決して許せるものではありません」

 

 この正当性――正義を以て、ルードルフ=オイスタッハは、戦争を仕掛ける。

 断罪されるべき悪は、教会から聖人を盗み、踏み台にした絃神島の方であると。

 

「故に私は、実力をもって我らの聖遺物を奪還します。立ち去るがいい、第四真租よ。これは我らと、この都市との聖戦です。 貴方といえども邪魔立ては許さぬ―――」

 

 その隠されてきた絃神島の真実を知る者として、暁古城は、その正義を否定できない。

 共感はできないが、それが正しいものであるとは思っている。一介の学生が、割り込んでいい問題ではないと理解している。

 

「……、」

 

 己が正義を謳い上げる演説の間、黙してただこちらを見ていた後輩を見る。姿形は人とは違っても、その目を見れば、彼もまた理解している、いいや、古城はできなかった共感までしているのだろうのだとわかる。だから、ここでオイスタッハの言うとおり立ち去っても、恨むことはない。

 

「気持ちはわかるぜ、オッサン。絃神千羅って男がやったことは、たしかに最低だ」

 

 だから、暁古城も、オイスタッハの前に立つ選択肢を後悔はしない。

 

「だからって、何も知らずにこの島で暮らしている56万人が、その復讐のために殺されていいってのかよ! ここに来るまでにあんたが傷つけた連中も同じだ。無関係な奴らを巻き込むんじゃねーよ!」

 

「この街が贖うべき罪の対価を思えば、その程度の犠牲、一顧だにする価値もなし。

 もはや言葉は無用のようです。 これより我らは聖遺物を奪還する。 邪魔立てするというならば、実力をもって排除するまで」

 

 冷酷に告げるオイスタッハの前に、姫柊雪菜もまた凛とした声で叫ぶ。

 

「『供犠建材』の使用は、今は国際条約で禁止されています。ましてやそれが簒奪された聖人の遺体を使ったものであれば尚更……!」

 

 そして、現在の技術であるなら、人柱を用いずとも、人工島の連結に必要な強度の要石を作製できる。それを交換すれば、然るべき措置の下に聖遺物は返却される。

 

 ―――それが、どうしたと殲教師は言い放つ。

 

 そんなのは第三者の立場だから言える戯言だと。己の肉親が人々に踏みつけにされて苦しんでいるときも同じことを言えるのかと。

 

 それは、肉親の顔さえ覚えていない雪菜にとっては動揺せざるを得ない殺し文句であり、それを知る古城は激昂しかけるも、当人に抑えられる。

 大丈夫です、と強気に微笑んで見せて。

 

「そう、この絃神島という背約の地自体が、誰かの犠牲無くしては成り立たない、守る価値などない、滅すべき対象なのです」

 

「弱肉強食。この世界で誰も犠牲にしない人間はいないぞ」

 

 そのオイスタッハの主張にクロウは言う。

 人間と魔族の『混血』、無垢な中庸は、『墓守』としての亡き者たちの想念こそ大事にするも、その亡骸に関しては当たり前のように割り切る。

 弱肉強食。それは一方的に虐げる関係性を言うのではなくて、そのまま、肉を食うことを

意味する。生命を維持するために、生命を消費する連鎖はどこでも続いている。そこに悲嘆や同情が介入する余地はない。

 墓所を暴かれたことに憤慨は覚えても、その骸の扱われ方は、己が悟る世の理に沿っているものだと。

 クロウは、巨人――アスタルテを指しながら、

 

「お前だって、“アイツ”の命を使ってるだろ」

 

「何を言いますか。“これ”は『道具』です」

 

「欠陥製品のオレが言ってやる。“アイツ”も姫柊も生きてる。『道具』には失格だぞ。

 そして、オレには、死んでいる者より、生きている者の方が大事なのだ。古城君やみんな、56万の住人、“アイツ”の方が、そこのセイイブツよりも守りたいものだ」

 

 ―――相容れない、と。

 

 主張は平行線をたどるだろう。けして交わることはない。とっくの昔にクロウの心中の切り替えは終わっている。

 雪菜の言うよう、大人しく返還されるのを待つならそれでいいと思った。だが、それと同じだけ、オイスタッハが却下するならば終わらせてしまっても構わないとも考えていた。

 まさか、偉大なる先達者の『聖遺物(聖人)』が、『道具(アスタルテ)』よりも優先順位が下だと言われるとは、決定的な亀裂が生じても無理はない。

 ふん、とオイスタッハは荒々しく息を吐く。

 

「もはや言葉は無益のようです」

 

 人工生命体に眷獣で敵を排除するよう命令を下す。

 沈黙を守っていたアスタルテは、かすかな悲しみをたたえた声で応じると、虹色の眷獣の輝きが増す。撒き散らされる魔力の量が増大し、最後の交渉を戦場へと塗り替える。

 

「結局こうなるのかよ……」

 

 一度瞑目しながら嘆息した古城が、獰猛に歪めた唇の隙間から見えた。その犬歯だったそれは、血を吸うに適した肌に刺さる牙となっていた。そして、開かれた瞳は真紅に染まっている。

 

「……けど、忘れてねぇか、オッサン。俺はアンタに胴体をぶった斬られた借りがあるんだぜ」

 

 ―――絃神島の設計者への復讐より、まずは、その決着からつけようか。

 

 古城の全身を稲妻が包み、その周囲の、何かが軋み、空間が歪む。

 それは暁古城が、己が意思で解放した吸血鬼としての発露。宿主の意志に呼応して、血の中に住まう眷獣も雷鳴の唸りを上げて覚醒の準備を始めている。

 

「貴様……その能力は……」

 

 ゆっくりと雷光を集約させる右腕を掲げるその姿は、もはやヒトガタの災厄に等しい。魔族を圧倒する攻魔師の上位たる祓魔師の戦士さえも、その圧におされて後ずさる。

 

「さあ、始めようか、オッサン―――ここから先は、第四真祖(オレ)戦争(ケンカ)だ」

 

 相手がここを戦場とするのなら、世界最強の吸血鬼はそこに戦争を呼ぶ。

 そこへ、その隣を寄り添うように銀の槍を構える少女と、その向かい側で口角を上げる銀の人狼と化した少年の、二人の後輩が参戦する。

 

「いいえ、先輩。“わたしたちの聖戦(ケンカ)”、です―――!」

 

 悪戯っぽく微笑みながら雪菜がそういえば、クロウも、

 

「オレだって、弾丸を撃たれた恨みがあるのだ。参加する資格はあるぞ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 先の先を、選んだ。

 

 アスタルテの眷獣は、人型ではあるが、生物ではない。その実態は濃密な魔力を練り上げられて造られている。

 その拳は最大級の威力を持つ呪砲に等しく、その蹴りは儀式魔術が引き起こす爆発を凌駕する。特区警備隊を文字通り一蹴した圧倒的な力。

 だが、どれほど力があろうと何かする前に仕留められれば、どんな相手でも変わらない―――実現可能ならばと但し書きがつくが、先手必勝は基本にして効果的な、最善な策でもある。

 

 影が入り乱れた。

 

 銀人狼の爪が走り、剣巫の槍が唸った。

 申し合わせたわけでもないのに、乱れひとつない連携だった。たとえ巨人が相手であろうと、瞬きひとつの間に、身体など解体し尽くすかと思われた。その指先に至るまで、如何なる部位もその嵐からは免れまいと見えた。

 それは、防護を破れれば、だが。

 

 『神格振動波駆動術式』を発動させている<雪霞狼>は、その魔力無力化を相殺されては鋭い槍と変わらず、生体障壁で強化された人狼の爪は分厚い装甲のような身体を裂くことはできても断つことができない。

 そして、刻まれた損傷は一瞬で再生する。

 

 雪菜の体術と槍技、クロウの脚力と爪牙、それら合わせた連携で、一方的に攻められてるも、アスタルテの眷獣を破れる決定打がなく、完全な膠着状態に陥っている。

 

 

 

「おおおおッ―――!」

 

 一方、2人の後輩と人工生命体の眷獣が、膠着状態になっている時に、古城は青白い稲妻を撒き散らしながら、オイスタッハに攻め立てる。

 膨大な魔力量しか取り柄のない古城に、魔力を反射する眷獣は相性が悪い。だから、彼らが問題の眷獣を相手している間に、早急に主人たるオイスタッハを倒して、戦いを終わらせる。

 命令を出しているオイスタッハさえ倒せば、アスタルテは止まる。彼女本人は、絃神島の住人達を傷つけることを望んでいないことが、古城たちが交わした短い会話と瀕死のクロウの介抱で、確信している。

 だが、

 

「ぬぅん!」

 

 オイスタッハは、左手一本で戦斧を自在に振るっては、古城の攻撃を捌いて、一撃を返す。速く、重いこの攻撃はまともに喰らえば、吸血種だろうと致命傷を与えるものだとは研究所で実証済みだ。―――ただ、その勢いは昼間の時よりも遅く、古城にも見切られる。

 

「たしかに凄まじい魔力ですが、そのような無様な攻撃で私に触れることはできませんよ。浅はかな素人同然の動きですね、第四真租!」

 

「同然じゃなくて、本当に素人なんだが―――そういうオッサンも動き悪いぜ、バテてきたのか」

 

 元バスケ部だった古城は、相手ディフェンスの厳しいマークの裏をかいた、緩急と重心を工夫するフットワークで翻弄しながら、紫電纏う魔力を練り上げたバスケットボールサイズの雷球を鋭いパスのような感覚で投げつける。

 その動かない右腕側から―――

 

「ヘイなのだ、古城君」

 

「ったく、こっちは元気の良い後輩だ」

 

 それは一瞬のポジショニングチェンジで、ゴール前でノーマークとなった選手を見つけたような。

 エースであった古城にアシストする経験は少なかったが、そのアリウープのパスを出すような放物線を描く軌道で雷球を放り、空中のクロウがダンクするように叩きつける。

 昨夜の『旧き世代』の眷獣で見せた、生体障壁の応用。残滓ではないので模倣はできないが、その一端の欠片のベクトルを変えることくらいはできた。

 

「死力を尽くすべき敵だというのは、わかり切ったこと! ―――<要塞の衣>よ! 再度、その後光を灯せ!」

 

 外骨格のように動かない右腕を、装甲鎧が無理矢理に動かして、黄金の光を迸らせる裏拳で、即興のコンビプレイで奇襲を仕掛けた雷球を弾く。

 さらに、留まることなく、閃光に視界を奪われた古城に祓魔の呪を込めた半月斧を横薙ぎに―――それを古城は、殆ど勘だけでしゃがみ込んで回避。切り裂かれた頬から鮮血が散る。

 巨人をひとり足止めしていた雪菜は一端小休止を挟むよう、古城とクロウの傍まで後退し、その具合をみてわずかに表情を強張らせる。

 

「先輩はともかく。大丈夫、ではなさそうですね。これ以上、動くのは無茶です」

 

「う~」

 

 獣人種の生命力はあろうと、吸血種の再生力はない。

 致命傷を与えてもケロッと復活した先輩とは違うのだ。

 一度は塞いだ傷も、戦況が過熱するほど開いていく。その腹部からぽとりぽとりと血の滴が足元に落ちている。またその脚の傷も動けば動くほど悪化する。

 先までは二人で保っていた均衡だが、こうして動きを観察でき、今なら雪菜一人でも眷獣の相手ができるだろう。ならば、足手まといになる前に下がるべきで―――古城もクロウが長持ちしないことはわかっているが、それで大人しくする質ではないことも重々承知している。

 

「こっちもあんまり時間かけられないんでな。遠慮なく切り札を使わせてもらうぜ。 死ぬなよ、オッサン!」

 

「ぬ……!?」

 

 暁古城のオイスタッハへ突き出した右腕から鮮血が噴き出し、直ちにそれが雷光へと変化する。

 

「<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――!」

 

 叫びと共に、古城が念じる。

 ごぉっ、と雷光と化す血液が部屋の天井近くの宙空に集う。

 異常なまでの密度と、尽きることのない無限の奔流。カタチが成りつつある段階でさえ、魔力的な質量において、半透明に虹色に輝く巨人さえも凌駕して、この空間を侵食していく。

 

 

疾く在れ(きやがれ)、五番目の眷獣<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>―――!」

 

 

 顕現し、君臨する、雷光の獅子。しかし、災厄として無秩序に荒れ狂うことなく、眷属として主の傍に侍る。

 

 それが獅子王機関の剣巫たる姫柊雪菜の血を吸うことで御し得た暁古城の眷獣。<第四真祖>の血に宿る十二体すべてを主と認めさせることはできなくても、この雷の眷獣は従えた。

 思えば、雪菜と出会った時からその予感はあったかもしれない。なにせ、この雷の獅子はここ数日間異様なまでに活性化して、倉庫街では雪菜を守るために自ら暴走さえしたのだ。きっとこいつは、姫柊雪菜に懐いて、彼女の血の匂いに惹きつけられたのだ―――

 

「これが第四真祖(あなた)の眷獣か……! これほどの力をこの密閉された空間で使うとは、無謀な!」

 

 まさに、迅雷だった。

 黄金の雷にも似て、獅子の身体はジグザグに爪牙を振るう。

 強化しようにも人間のオイスタッハは、もはやその攻撃を避けきれない。<要塞の衣>によって凌がんとするも、それでも一蹴。

 稲妻を走らす獰猛なる爪が、半月斧を溶かして消し飛ばし。

 胸部の鋼鎧が牙に穿たれ、肺を軋ませ、その巨漢が向こうの壁に磔にさせるよう撥ね飛ばされた。

 そして、余波だけでキーストーンゲートを震撼させる。撒き散らされる大電流が、ゲートの外壁を伝って周囲に拡散。設置されていた非常灯や監視カメラに、ワイヤーケーブルを固定する巻き上げ機(ウィンチ)がすべてショート。たった一撃でこれだ。

 

「アスタルテ!」

 

 それでもオイスタッハは、血痰を飛ばしながら従者に命令する。

 自然災害にも匹敵する暴威を振るう第四真祖の眷獣に及ばずとも、所詮は魔力の塊であり、<薔薇の指先>との相性は覆しようのない。

 雪菜の攻撃を強引に振り切り、アスタルテの巨人は古城へ迫る。

 主の意志を半ば無視して、<獅子の黄金>が反撃せんと、その雷霆と化した巨大な前足で、半透明の巨人を殴打する。

 しかし、牽制にしかなりえなかった。

 その瞬間、巨人が放つ虹色の光が輝き出しては、<獅子の黄金>の攻撃を受け止め、反射した―――!

 

「うおおっ!?」

「きゃあああああっ!」

「ぐるるるっ!」

 

 制御を失った魔力の雷は暴発し、飛散しては天井壁床と至る所を跳ね回る。分厚い最下層の天井にさえも穴をあけたところで、ようやく被害は止まった。

 

「くそっ……ダメか! 俺の眷獣でも、あいつの結界は破れないってのかよ……!」

 

 相性の有利は、世界最強の吸血鬼を以てしても覆せないものか。

 <獅子の黄金>の一撃を喰らっても、<薔薇の指先>は無事。幾度攻撃を繰り返そうにも、結果は同じだろう。

 そして、あまりに雷撃を連発すれば、建物が耐えられない。ここは海底。キーストーンゲートの外壁が破られたなら、水深220mの水圧が一気に押し寄せてきて、雪菜は間違えなく即死。古城とクロウもどうなるかわからない。

 

(まずい。 あいつは、倒せないかもしれない……!)

 

 不甲斐なさに自らに怒りを覚える。

 瓦礫に埋もれかける古城、その雪菜に支えられて立とうとする彼の前に、

 

「じゃあ、次はオレの番だ」

 

 もう一人の後輩が、巨人と相対する。

 その胴体に埋め込まれているアスタルテと、真っ向から視線を合わせる。

 

「アイツには、借りがある。オレが、止めてやる」

 

「ですが―――」

 

 その無謀さに、雪菜は制止させようとするも、古城がそれを留める。

 

「できるのか」

 

「できる」

 

 簡潔に言葉を交わす。

 この後輩が、できることとできないことははっきりという。そして、その勘は十中八九当たる。

 

「おやおや、手負いの獣風情が、眷獣を相手にするとは随分と大口をたたきましたねぇ」

 

 第四真祖を退けた余裕か、殲教師が親しげな口調で呼びかける。

 虫が自ら火に入った、と状況を見ているのだろう。

 味方であるはずの剣巫でさえも訝しんでいるのだ。オイスタッハがそれを自殺願望者と見るのは当然だ。

 それに応えず、一定の距離を置いて<薔薇の指先>――アスタルテと対峙すると、クロウは痛ましげに顔を曇らせた。

 言葉を選ぶ短い逡巡の末、口にしたのは、

 

「……死にたいなら、止めはしない。だが、生きたいなら止めろ。自分の意思で決めてくれ。お前は縛られているわけじゃない。無理に従う義務はないぞ」

 

 気遣うような叱咤するような、不器用な呼びかけだった。

 完全な無視に、殲教師から笑みが消えた。生与奪権が人工生命体ではなく、こちらにあることも気にならないのか。いいや、知らないのだこの若造は。

 そして、アスタルテは淡々と、

 

「命令に反することはできません」

 

研究所(あそこ)にいた人工生命体たち(おまえのなかま)は、実験に成功したことより、生き残ってくれたことを喜んでいたぞ」

 

 応えず。

 人工生命体の少女は、眷獣を引っ込める気配はない。

 

 人工生命体(ホムンクルス)には聖域条約によって、準魔族としての権利が与えられている。だが、軍事目的の生体改造は、国際的な非難を免れない重大な条約違反だ。

 それが暴露されれば、廃棄処分されることになり、ここで矛を収めようがどの道、彼女が助ける術はない。

 だから、最初から古城たちに島から避難するように忠告しても、自身が救われることは望まなかった。

 

 そんな事情を感じ取ったかどうかは知らないが、南宮クロウは呆気らかんと、

 

「……そっか。わかった。オレ、アイツ倒す。古城君、姫柊、止めは代わりにやってくれ。加減が苦手なんだ」

 

 苦手な食べ物を告白するよう、そんな態度についにオイスタッハの苛立ちが限界を超えてしまった。

 

 

「それから、あまり、見ないでくれ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「っ―――!」

 

 古城と雪菜は息を呑んだ。

 

 頬に走る傷。

 

 その枷のような首輪の下には、痣があった。

 

 黒く、細い、まるで女性の指に酷く絞められたような痕。

 

 強烈な怨念の篭ったそれは、長い年月も癒えない呪詛だ。

 そう、これは、創造主(おや)を裏切った証たる傷痕。

 それを先の頬にあった切傷が首筋から肩口まで伸びており、まるで首輪のような痣を切ったような形である。

 

「―――契約印ヲ解放スル」

 

 それを隠していた『首輪』に手をかけると同時に、心の中にある厳重な封を解く。

 『神格振動波』によりかけられた魔術はすでに壊されているも、やっぱり主人の警告が脳裏をよぎった。

 ごめんなのだご主人。でも今は、ここは逃げちゃいけない場面なんだ。

 かつては道具であったオレにできることをあの子に見せてあげたい

 

 ごおっ! と風が吹く。

 

 決意の表れがその中心に渦を巻く。室内に巡る獣気は大気を焼く風となり、周囲の壁や床

にひっかき傷のような風紋を刻んでいく。

 

 人間だった時間は終わる。

 

 人型であった獣化形態から、さらにクロウの姿が変化していく。

 泥でもこねるように、水でも吸ったかのように、銀人狼の身体は膨張する。周囲に散乱する第四真祖の魔力の残滓もその体に取り込んでいるのか、じゅるじゅるとその体に取り込まれていった。

 コンマ数秒の出来事だ。

 昇華中の、過敏なほど強化されていく感覚には、世界がスローモーションのように感じる。

 殲教師の驚く姿を、クロウははっきりと見た。

 

「それは、まさか―――」

 

 その間も、巨大な牙がさらに盛り上がる。

 両手両足からは鋼も切り裂く爪が伸びていく。

 その肌も鱗のように硬質化し、毛並みも悪魔の牙めいて刺々しい。

 張り詰めていた筋肉は通常の獣の数倍に達し、まさに伝説上の魔獣に比すべき偉容を獲得していた。

 そして、盛り上がっていった身体は、やがて金色に染まる

 

 第四真祖の眷獣と同じ―――主が契約する守護者と同じ黄金に。

 

 現実にこんな獣は存在しない。

 体格4m以上の金の狼など存在するはずもない。だが、これは、魔術による幻影でも錯覚でもない。現実に起こりえていること。

 

「<神獣化>!? まさか、そんな―――!?」

 

 攻魔師として知識では聞いていたが、実際に目の当たりするのは初めてのことに雪菜は驚く。

 

 人型から完全なる獣の形と変生(へんじょう)する、<神獣化>。

 

 獣人種族の中でも、一握りの上位種だけが持つという特殊能力。

 寿命すら縮める凄まじいほどの消耗と引き換えに、上位種の獣人たちは、自らの肉体を神獣へと変える。鳳凰や龍にも匹敵する神話級への存在へと格を上げて、その戦闘力は、吸血鬼の眷獣をも凌ぐとすら言われている―――

 

「オ前ヲ、止メル。力尽クデモナ」

 

 左腕を持ち上げると、その左腕に頬から首筋を裂いて胸元の心蔵に至る傷痕から溢れる黄金の生命力が集積し、昨夜と同じ生体障壁の応用から手甲というカタチとなる。魔女の契約印――その<守護者>たる黄金の悪魔の騎士鎧の一部の貸与。ただし、それは殲教師の<要塞の衣>のように装備者の力を強化するためのものではなく、縛るためのもの。自身では制御しきれない力を抑え込み、律するための補助具。

 

「往クゾ―――」

 

 巨体でありながら、金の毛並みは残像遥かに、それは、暴風にしか見えない程の速度だった。

 だが対峙していた<薔薇の指先>は真っ向からくるそれと合わせることはできた。

 グリズリーの張り手のように振るわれるそれに、最大威力の呪砲に等しい拳をカウンターで繰り出した。

 

 

 加減が難しい、というが、そのリミッターを全開に外した本気の一撃はどれほどのものなのか。

 古城は後輩の言葉が戯言ではないと知ることになる。

 

 

 激突する熊手と拳骨。

 

 

 破壊音。

 というより、それはもはや爆発音だ。

 衝撃に思わず閉じた目を開いてみれば―――<薔薇の指先>が振るった左腕“があったところ”には、ごっそりと――喰われたように――弾け飛ばされたような傷口。あたかもその肩口が爆発したとしか思えないくらい千切れとんだ。

 魔女の術や武技の理だとか―――そのような、人間の理論など一切合財何の判断材料にもならない。

 これぞ、力任せ。

 とても、『二の打ち要らず』――<仙姑>と謳われる師が放つ、体内の生命力を練り上げて、強大な衝撃へと変換する内功の奥義とは比べ物にならないほど雑。それと同等の威力を生み出すために、その3倍量のエネルギーを燃やしている無駄遣い。

 だが、攻撃法が原始的であるだけに、それを防ぐことはできず、難しい。

 眷獣を物理的に倒すなどばかげた話だが、これは防御なんてまるで意味がない。全くの的外れ。盾で受ければその盾を持った腕ごと吹き飛び、鎧で身を護っても構わず吹き飛ぶ。

 純粋な力が成せる、究極とも言える物理的な破壊。

 

「洒落にならねぇぞ、那月ちゃん」

 

 <神獣化>にしても今のところ手の届く近接でしか戦えないため、最強でも、無敵でもない。だけど、眷獣だろうと魔力の塊だろうと物理的に粉砕する。実に魔族よりも怪獣らしい傑物だ。

 相手するなら真祖の眷獣を連れて来いと担任は言っていたが、これは一体じゃ釣り合わない。

 『物理的なダメージが通用しない』<空隙の魔女>であるからこそ、退治し得たのだ

 

 それは、非常識的にありえざる防御力を備えた<薔薇の指先>にとってみれば天敵のような、非常識的にありえざる攻撃力。

 

 <薔薇の指先>の特質は、他の魔族の能力を喰らって自らの糧とすることと、そして、魔力の無効化だ。

 神格振動波で護られている以上、魔術攻撃に対して強い耐性を持ち、第四真祖の強大な魔力でさえ打ち破れずに跳ね返される。

 だがそれは、魔術を使わない攻撃に対しては、身体強度は変わらない。

 

 

 そして、二撃目。

 

 

「アスタルテ……ッ!?」

 

 半透明の巨人の左腕は、まだ再生できていない。

 殲教師はこの状況を黙って見過ごせるほど理解できていないわけではない。これを見逃してしまえば、終わってしまう。要石から聖遺物を解放するというオイスタッハの野望が潰えてしまう。

 <薔薇の指先>の強さは相性の強さだ。それを突破し得る例外があると留意しなかったのか。その手の届かない遠距離からの攻撃を仕掛けてさせたいところだが、<薔薇の指先>も同じく近接戦闘しかできない。

 焦るオイスタッハは身を投げてでも、この快進撃を阻もうとする。

 だが、この場にいる脅威は、ひとつではない。

 

「―――お前の相手は俺だ、オッサンっ!」

 

 <獅子の黄金>の一撃で、武器の半月斧も防具の<要塞の衣>も破壊されている。半透明の巨人が盾と動けず、飛び掛かってくる雷の獅子に注意を向け、同時に迫っていた古城をオイスタッハは見逃す。そして、鎧の補助なしでは、右腕は動かせない。

 殲教師が気づいた時には、その右の頬っ面を古城はぶん殴っていた。

 魔力も術も何もない、真祖の能力などとは無関係な、後輩と同じ力任せの強引な一発。

 屈強なオイスタッハの身体が吹き飛び、何度かバウンドして、ついに倒れる。

 

 

 同刻。

 

 

 クロウが弓なりに両腕を大きく振りかぶって、体勢を崩して動けない<薔薇の指先>に飛び込み、

 そして、その両腕を―――

 

「コレデ、終ワリダッ!!」

 

 ―――振り下ろした。

 

 胴体の両側に2度、雷霆が落とされた。そんな、イメージだ。

 それがV字を描くように、両腕から、さらにその両脚まで振り切られた。

 再生しきってない左腕は無論、残る右腕も、肘の部分に食いつか(殴ら)れ、虹色の皮膚が弾け、魔力の塊たる腕が飛び散り、つまるところは爆散し、ばかりか、太腿にまで食い込んで、同じく―――クロウの熊手に触れられた部分は影も形も残らなかった。

 本体のある胴体を残し、手も足も出なくなった。

 強引な決着のつけ方であったが、今のクロウにはこれが限界。

 <神獣化>した獣人種が発現する尋常ではない身体能力は、混血の半分である人間の血により独力で完全な制御がきかず半ば暴走し、結果としてそれは比類なき剛力となってはいるが、上手く誘導できなければ当てることも難しいのだ。

 

 だから、止めは任せた。

 

「この聖戦(たたかい)、私たちの勝ちです」

 

 颯爽と、剣巫がこの絶好の機会を逃すまいと走り出す。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 神に勝利を祈願する剣士のように、あるいは勝利の予言を捧げる巫女のように。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 粛々とした祝詞を重ねていくごとに、その銀槍の輝きは増す。

 両者とも刻印されているのは同じ『神格振動波駆動術式』であるも、<薔薇の指先>は今や形を保つことすら難しい風前の灯で、対して、<雪霞狼>は、術者にとってその力を一点に集中し、より切れ味を上げている。

 

「<雪霞狼>!」

 

 銀色の槍が、靄のような防護結界を突き破り、人型の眷獣から宿主たるアスタルテを切り離した。

 眷獣の鎧を外しただけに留まらず、人工生命体の少女の腹部に、そっと雪菜は掌を押し当てる。

 

「響よ―――!」

 

 鎧さえ貫通して人体内部にダメージを伝える、剣巫の掌打。

 それを加減して放って、アスタルテの意識だけを刈り取った。

 

 自らも打ちのめされながら道具の最後を見て、オイスタッハはゆっくりと要石――聖遺物へと手を伸ばす。

 目視できるところまで踏み込めたのは、奇襲だからこそだ。

 次からはもう警戒される。こんな好機、もう二度とはあるまい。

 敗因は一点、神格振動波を持った眷獣の力を絶対視しすぎていたことだ。

 世界最強を跳ね除ける例外があったならば、こちらにも打倒できる例外も存在すると留意しなかったのか。

 

「……復活さえ、望まなければ―――」

 

 力無く、届くことなくその手は落ちた。

 

 

彩海学園

 

 

 彩海学園高等部の職員室棟校舎―――

 足音を吸い込んでしまうくらい分厚いじゅうたんと、陽の光に透けてステンドグラスのように煌めいて見える天鵞絨のカーテン。それに年代物のアンティークの調度品がいくつか揃えられており、天蓋付きのベッドまである。

 学園長室よりも品格だけでなく位置的にも上な最上階に位置するその部屋は、国家攻魔官としての資格を有する一教師の執務室だ。

 そんな主が王座の如きアンティークチェアに深々と腰を下ろしている足元で、クロウは粛々と正座。

 怒られる怒られないの次元ではない。数日ぶりにそこへ呼び出されたクロウを待っていたのは、予想通りの方向性でかつ予想以上の破壊力を見せつける、飼い主南宮那月様の怒涛の説教フルコースだった。時に扇子を振るっては鐘の如く空っぽな頭に空間衝撃を叩き込みつつ、

 くどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくど……と時間にして30分、ほぼ授業の一コマを消費する罵詈雑言、途中こっくりと眠そうになればわざわざ叩き起こしてくれるのでじーっと聞き続けるしかない。

 流石に長いと自覚したのか、紅茶で渇いた喉を潤しつつ、ようやく休まる。

 

「……しかし、言いつけを守らず、戦闘して殲教師の手に落ちたかと思えば」

 

「『旧き世代』とは―――あぐっ!」

 

「携帯だけでなく、『首輪』も壊しただけで飽き足らず」

 

「『首輪』は壊された―――あぎっ!」

 

「主の許可なくして、<神獣化>を使ったか」

 

「………―――あがっ!? なんも言ってないぞご主人」

 

「まあ、今回は状況を加味して、暴走させずに済んだのならそれでいい。悪いと思ってるそうだしな。許そう」

 

「じゃあ、なんで叩いたのだ……うぐぐ」

 

「で、件の転校生からは何と」

 

「あう。姫柊は―――」

 

 『私は第四真祖(センパイ)の監視役ですから』と雪菜は<黒死皇>のことや<神獣化>のことなどは獅子王機関に報告しないそうだ。

 

「良かったな。その報告次第じゃ、“ハウス”だったぞ」

 

「うむ。姫柊に感謝なのだ」

 

「何が感謝だ。商売敵に余計な借りを作りおって。それで新入りの面倒が見れるのか」

 

 新入りとは、アスタルテ。

 あの後、雪菜の協力の下、古城による“救命措置”をした結果、『血の従者』となった彼女は、眷獣に食い尽くされかけていた生命力を第四真祖に加担してもらえることとなり、一命を取り留めることができた。

 しかし、テロリストの殲教師とキーストーンゲート襲撃に加担したとして眷獣を宿す人工生命体の少女は、3年間の保護観察処分となった。

 その身元引受人となったのが、国家攻魔官であり、教育者の南宮那月である。

 

「ちょうどメイドがひとり欲しかったからな」

 

「最初は、しっかり上下関係を教えてやるのだ」

 

「安心しろ。そこの執事にはまるで向かない馬鹿犬よりはできそうな奴だ」

 

 パチン、と扇子を閉じると、クロウの前に、何かが虚空から落ちてきた。

 

「ほれ、土産だ」

 

 それは、(ニシン)の絵柄が書かれてる缶詰。きょとんとクロウは首を傾げつつ、手袋を外して、早速その縁に爪を立てた指を添わせる。

 

「土産? ご主人、外に出張し()ていたのか?」

 

 ついっと缶切りも使わず開封(オープン)

 

「……馬鹿犬は叩いて躾けても効かないようだからな。躾のやり方を変えてみることにした。いいか。これを誰もいないところで―――おい! ここで開けるんじゃない!」

 

 これより数日、南宮那月は執務室の拠点を生徒指導室へ移すことになり、缶詰から解き放たれた臭いをもろに受けたクロウは、あまりに刺激の強さに昏倒。

 銀弾よりも死にかけた、と後に彼は述懐する。

 

 

廊下

 

 

「う~、シャワーに入っても全然臭いが取れないのだ」

 

 帽子にコートに手袋、首巻と制服までクリーニングに出して、おニューの首輪はつけているも運動着で珍しく肌を露出している格好。濡れた髪をスポーツタオルでごしごし拭きながら、運動部等が利用するシャワー室から出たクロウは、くん、と鼻を鳴らした。

 不機嫌さを地面に叩き込んでいるのか、その足音は強くて、廊下の角から長い髪を結い上げた、活発そうな雰囲気の少女が現る。

 

「もう古城君ったらホント信じらんない。雪菜ちゃんに―――あ、クロウ君」

 

「凪沙ちゃん、こんにちはなのだ」

 

 なにやら怒りの頂点に達していた暁凪沙だが、級友の顔を見てとりあえず沸点から平常運転まで温度を下げた。

 

「あれ? どうしたの? シャワー使ってたみたいだけど」

「ご主人から、しゅーるすとれみんぐ、とか言う缶詰の土産をもらったのだ」

「え、それって、西欧で作られる、世界で一番くっさーい缶詰でしょ」

「おかげで死にかけたぞ」

「うわー、すっごい悪臭がするってホントなんだ。開けるときはいろいろと注意事項があるって聞いたことあるけど、けど、食べると結構おいしいって評判らしいよ」

「うむ。味はうまかった。でも、臭いが最悪。オレは、もう遠慮する」

「でさ。さっき古城君に会ったんだけど………」

 

 と早口で、妹のクラスメイトに手を出した淫魔への愚痴を聞かされる。

 それにクロウは、ああ、吸血行為(あのこと)か、と納得。しかし、先輩が吸血鬼(まぞく)というのはこの少女には絶対の秘密だと口止めされており、クラスメイトの転入生もそちら方面の関係者やら監視役やらは内密にと頼まれている。

 とはいえ、先輩には日ごろ何かと面倒を見てもらっている恩義があり、転入生には借りがある。ので、関連用語は除くよう単語を選んで二人の弁護をする。

 

「あれは、救命行為だったのだ凪沙ちゃん」

 

 詳しくは説明できないが、古城が血を吸ったのは、姫柊雪菜とアスタルテ。このうち前者は吸血鬼としての切り札と再生で失った魔力を回復させるためであるも、後者に関しては『血の従者』にして眷獣に食われた生命を補填するための延命措置だった。

 

「え、救命行為? よくわかんないけど、それより知ってるの? 古城君から聞いたのかな? でも、雪菜ちゃんの体調を気遣ったりはしてるけど初めてを奪って痛い思いをさせたんでしょ?」

「違うのだ」

 

 きっぱりとクロウは否定する。

 

「違うって何がかな?」

「確か、姫柊の方から古城君に話を持ち掛けたのだ。古城君は最初はやめた方がいいって断っていたんだぞ。だから、初めてを奪われたのは古城君の方なのだ」

「―――、っ、え、雪菜ちゃんってそんなに大胆な子だったの!? でも、浅葱ちゃんには悪いけど古城君に興味を持ってくれるのは良いような……」

「二回目は姫柊が当て馬にされたーって、古城君をブッ刺そうとしたのだ」

「ねぇ、クロウ君、それってどういうことなの!? 二回目って、え、修羅場になっちゃったの!? 古城君、牙城君みたいになっちゃったの!?」

「でも、最終的にはお互い納得したから問題ないのだ」

「問題だらけだよクロウ君っ!」

 

 兄の女性関係を問い質そうと、気炎を上げる凪沙であるも、くぅ~、とそこでクロウのお腹が鳴る。

 缶詰の処分と部屋の換気及び消臭をすぐさま空間転移で緊急脱出した主に叩き起こされてから言いつけられて、クロウはこれまで危険地帯で清掃活動に勤しんでおり、昼食は取ってない。

 

「あ、ごめんね。お昼まだだったんだね。なのにお話に付き合わせちゃって」

 

「構わないのだ。それより……」

 

 くんくん、と調子を確かめるよう鼻を鳴らす。

 

「アミノカルボニル反応で生成されたピラジン化合物の匂い。それに小麦グルテンとバターとオリーブ油……凪沙ちゃんはお昼に揚げパンを食べたんだな」

 

「わっ、正解! そうだよ、さっき購買部で買ったんだけど、おばちゃんから揚げたてのをもらったんだ」

 

「おいしそうな匂いなのだ。オレも買いに行くぞ!」

 

「あー、でも、売れ切れちゃってるかも。すっごい人気だったから」

 

「そうなのか……」

 

 しょぼーん、と落ち込むクロウ。耳が垂れてるイメージが見える。そこへ凪沙が鞄をごそごそと漁り、

 

「じゃあ、これお詫びにあげる。部活の後に食べようと思って揚げパンじゃないけど菓子パンをいくつか買ったから」

 

「え、いいのか!」

 

「いいよいいよ。お話に付き合わせちゃったし、それと正解したご褒美かな」

 

「わーい、うまうま」

 

 垂れた耳がピーンと立てたようなイメージが見えて、凪沙は苦笑してしまう。

 

「……でも、クロウ君の鼻ってやっぱりすごいんだね」

 

「うむ。すごいのだ。ご主人からもお前の頭はとにかく鼻は使えると太鼓判を押してもらってる」

 

「それで、クロウ君、この街を守ってるんだ……けど、それって無理してるんじゃないの? 始業式を欠席したのだって、そうなんでしょ」

 

「むぅ、皆勤賞を逃してしまったのだ」

 

「凪沙は心配したんだよ」

 

 ―――と数回、クロウは瞬きする。まるで耳慣れない単語を聞かされたように。耳に入って脳で理解するにしばらくの時間を要してしまう。その間にも少女は俯いた陰に隠れる唇を、小さく震わせて捲し立てる。

 

「やっぱり、おかしいよ。クロウ君は無理してまで頑張ってるけど、そんなにする必要なんてない。だって、クロウ君は学生で、攻魔師でもなんでもないのに、守る義務なんてないんだよ」

 

 ごくりと頬張っていた菓子パンを呑みこんでから、遅れて理解した少年は、少女の言葉を反復するよう深く噛み締めて、

 

「優しいんだな、凪沙ちゃんは」

 

 などと、幸せそうにいって、クロウは、くん、と鼻を鳴らす。

 そして、自信を以て堂々と、

 

「オレが守りたいと思ったから、守る。あんまり難しいことは考えてないのだ」

 

 その言葉に凪沙は小さく睫毛を震わせた。彼にとってその行動に、献身や自己犠牲などといった代物は欠片もないのだ。道具として生まれながら自我を持ってしまい、最終的には

エゴを優先してしまうようになった、それが欠陥製品の在り方だ。もしその理由を挙げるのだとすれば、その第一はきっと自分が生き残るためだろう。だから、彼女のそれは見当違いで―――

 

「クロウ君、ハイタッチ!」

 

 ばっ、と両手を上げる凪沙。釣られてクロウはそれに合わせてしまう。

 

 

 どん、という衝撃が胸元に生まれた。

 

 

 

 ハイタッチ―――と見せかけて、クロウが手を挙げ万歳したところを、鳩尾に頭突きするように抱き着いたのだ。

 

「ありがとう」

 

 クロウがどう返していいかわからずのところで、言われた。

 また、盲点を突かれたように思考が停止してしまう。

 

「でも、やっぱりクロウ君は感謝はされるべきだよ」

 

 じゃあね、と。

 彼は、久しくそんな言葉をかけてもらったことがなかったのだろう。そのまま反応が返される前に、少女はあっさりと離れて去ってしまった。

 

 

 

「それじゃあ、パトロールがんばるのだ」

 

 魔族と人間の混血は、今日も魔族と人間の入り混じる街を行く。

 

 

 

つづく

 



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二章
戦王の使者Ⅰ


ガルドシュが強化されてます。

あと、黒死皇に独自設定追加です。


港湾地区 倉庫街

 

 

 通りの泥を蹴飛ばし、黒い毛並みを持った豹頭の男は月明かりに照らされた深夜の街を必死で走っていた。

 突然の奇襲作戦から銃撃をもらってしまい、目鼻が催涙ガスにやられて使い物にならない。獣人の自然治癒能力も巡りが悪いのか働かない。対魔族の呪力を封入した兵器は、確実に、こちらの戦力を削いでいる。

 

「糞っ、糞っ、糞っ、糞っ……やってくれたな人間ども!」

 

 呻きは、切れ切れに通りへ落ちていく。

 この倉庫街で、密入国者たちは武器の闇取引を行っていた。だが、そこへボディアーマーに身を包んだ完全武装の特区警備隊が二個分隊で現場に強襲を仕掛け、催涙弾に加えて音響閃光弾に怯んだところを獣人種に特化した魔族殺しの弾丸を集中砲火。

 たった2分もかからず終わった。戦闘ではない、これでは作業だ。

 そう、相手も油断したのだろう。

 仲間たちの身を盾にし、襲撃をしのいだ男は自爆覚悟で倉庫に仕掛けられていた爆弾を作動。

 特区警備隊を倉庫ごと爆発で焼き尽くす。そして、己は人間を超越した身体能力で脱出。

 

 人豹(ワーパンサー)は、獣人種の中でも、脚力に秀でた種族。

 その速度は時速80kmを超える。自然界の二足歩行生物最速を軽々と凌駕しながら疾走する豹頭の男。

 彼は数kmもの距離を取り、背後の安全を確認した。

 ……追ってくる者はいない。

 大きく裂けた口がほう、と安堵に緩む。そして、緩んだ口から再び憎悪が吐き出される。

 

「許さんぞ、やつら……必ず後悔させてやる」

 

 密輸品の武器取引は失敗し、共に故国を追われた同胞は皆犠牲となった。『計画』に支障が出ることはないにしても、紛れもなく失態であり、現組織のトップである『少佐』からは失望されてしまうだろう。

 だが、ここにはもう一つ爆弾を仕掛けている。

 第二の爆弾は特区警備隊が避難経路に選択しているであろう地下通路。そこを崩せば、連中は混乱して他に注意を向ける余裕が少なくなる。つまりは、『計画』の成功率があがり、単独で囮を成した己は少なからずの功績を得るだろう。失敗し同胞を失ったが、これで今の地位は保たれるはずだ。

 そう思っていた。

 寄り添う二つの人影が、目の前に現れるまで。

 

「う。お前が爆弾を仕掛けた野良猫だな」

 

 親からはぐれた小動物のような、あまりにも小さく弱々しいシルエット。

 頼りなげな、小さい足音が響く。

 特区警備隊の包囲網を抜けたと思った黒豹の獣人の先にいたのは、まぎれもなく年若い少年少女である。

 

「今日はご主人からこの野良猫相手に実演を見せてやれと言われてるからな。先輩の仕事ぶりを、よーく見ておくんだぞ」

 

 ふんす! と少年の方がやる気満々に鼻を鳴らす。

 常夏でも夜は冷えるとはいえ、帽子に首巻、コートに手袋と重装備。しかし、その振る舞いはどこか主に仕える中世の騎士のようにも思える。

 そんな彼が、野生で親が子に狩りの仕方を教えるように、まずは自分が手本を見せるのだと―――獣人種の男に対してのたまってる。

 

「命令受託」

 

 対して、ギャラリー、それも初めての後輩はいることで、少年がいつにもまして張り切ってるようだが、件の少女の方は昂ぶることもなく平然としている。

 作り物のように無表情な少女。その装いは、なんとメイド服。ドレスに着飾っていることもあってよりお人形さんめいている。

 静かにうなずく顔には、微塵の恐れもありはしない。

 少女は下された命令に忠実であり、恐怖を覚えるような感情はそもそもない。

 今回の命令は、どのような仕事であるかを学習することであると主に言われたのだから、それを淡々とこなすだけ―――獣人種の男などまるで脅威に思ってない。

 

「……調子に乗るなよ、小僧ども!」

 

 騎士とメイドの二人組。恰好からふざけてる。それもいかにも非力で小柄な少年と少女。

 魔族の地位を貶めた呪わしき真祖の戦王とは違い、誇り高き我ら獣人種族を愚弄してる。

 ならば、後悔するがいい。ここで幼い子供たちを残虐に血祭りにあげ、特区警備隊に無力さを痛感させてやる。

 黒豹の獣人は、そのしなやかな身体を、一身の槍と化す。反撃など許さず、獣人の爪と牙で、人間たちをいとも容易く八つ裂きにする。

 魔族と人間の、これが違いだというように。

 少年と少女に飛び掛かり、

 

「―――カァ!」

 

 前に出た少年の喉から、雷声が迸った。

 

 真っ向から獣人の突進を受け、なお力負けしない。衝撃もその内力を以て相殺する。

 

 気功によって肉体を硬化する、『少佐』と同じ生命力を総べる武術。その生体障壁たる内力の保護がなければ、骨まで砕けていたに違いない。しかし、獣人種の男の渾身の攻撃はあっさりと防がれた。

 

「なんだ、と……!?」

 

 そして、男は予感した。

 そこは行き止まりであり、包囲網の最終防衛線。そして、それを犯そうとした己は、身の毛のよだつ力によって、メチャクチャにされる。

 

 早く、逃げなければ。

 この手の届く間合いにいたら、やられる―――!!

 

 男はすぐさま身を翻して、先いたところより、さらに数歩下がったところまで後退する。

 しかし、少年はそれを追わず、背後の少女に、

 

「『特区治安維持条例第五条に基づき、これよりお前の身柄を拘束する』―――まずこれを言うのだ」

 

 ふざけやがってっ!

 

 対峙すれば、負ける。獣人種の野生が、その身に合わない力を秘めているのは感じ取った。

 だが、これは戦闘ではなく、戦争だ。アナログ無線式起動装置(リモコン)を取り出す。捕まるにしても、仕掛けていた爆弾は使わせてもらう!

 ―――と、

 

 

 

 作動、しない。

 

 

 

 何故だ!

 

 豹頭の男は掌の上に乗せたリモコン上の小さな機械が壊れんばかりにそのボタンを連打するも、爆発が起こらない。

 暗号化処理もされていない安物であるも、こんな―――

 

「ああやって罠とかしてる奴もいるから、やる前に現場を探って、安全確保のため取っ払っておくのも大事だぞ」

 

 少年の言葉に、男はそれを見る。

 少女に今見せつけているそれ――十数のダイナマイトの束は、男が仕掛けた爆弾に違いない。

 

「逃げても無駄だぞ。見つけたコイツからお前の匂いはもう覚えてる」

 

 後ろ足を引いたのを気取られた男に、牽制が差し込まれる。

 この二人は豹頭の男を追ってきたのではなく、最初に爆弾を見つけてそこから豹頭の男に辿り着いたという―――つまり、状況は、最初から詰んでいた。

 

「で、あとはぶっ飛ばすだけだ。殺しちゃダメだぞ。生かさず殺さずがご主人の鉄則なのだ」

 

 手袋を外し、帽子を取り、首巻を下ろす。

 錆びた銅のような髪色に乾いた褐色の肌、そして、金色の瞳。

 

「そうか……おまえ、おまえがあの<黒妖犬(ヘルハウンド)>だな!? 何故人間(そちら)側にいる!? 偉大なる<黒死皇>の血を引きながら魔族(おれたち)を裏切るのか……!」

 

 豹頭の男が属する組織は、欧州『戦王領域』に拠点を置いている。

 東京都絃神市――太平洋上に浮かぶ巨大な人工島に特別な恨みはなかった。

 だが、魔族と人間が共生する聖域条約の申し子である魔族特区であり、それだけで崩壊させれば、一度は地に落ちた組織の威名も再び轟き、条約の締結を呼びかけた最古の真祖への反逆の狼煙となるだろう。

 だが、魔族特区は絃神島だけではない。世界各地に点々と存在するし、わざわざ極東を選ぶまでもない。だから、絃神島を『計画』に選ばれたのには、譲れない理由があった。

 ―――そう、この絃神島は、『黒死皇派』の<黒死皇(リーダー)>の遺伝子を継ぐ者を飼い潰している。

 

 『少佐』――クリストフ=ガルドシュは言う。

 我らが亡き獣王の血筋を引く<黒妖犬>をかの魔族大虐殺をなした<空隙の魔女>から解放し、御旗にかかげて革命を起こすのだ。

 

「ああ。オレはこの島を守る。お前らテロリストの敵だ」

 

「獣王の御力は我ら獣人の誇りであり、希望であるのだぞ!」

 

 訴える男に、少年――クロウは嘆息する。このやり取りは、何度もやられた。そして、何度やれても、変わらない。

 

「オレは南宮クロウ。ご主人の眷獣だ」

 

「ふざけるな! 獣王が、魔女に飼われることを良しとするのか! そんなことあっていいはずがない!」

 

 激昂した豹頭の男が、恐怖を忘れ、駆けだす。

 その結果は語るまでもなく、男の意識は一撃で闇に落ちた。

 

 

 

「私は忙しい。明日も授業の支度があるからな。遊んでないでとっとと報告しろ」

 

 ビルの屋上。

 夜闇から浮き上がったかのように、給水塔の上に降り立つ漆黒のドレスの少女。

 その挙動すら察知させない空間魔術の使い手は、爆発に負傷した特区警備隊を回収し、今ここに君臨する。

 南宮那月。攻魔師官であり、クロウとアスタルテの見元引取り人であり、そして、教師。

 

 パンッ、とシャトルをラケットですくうように一度真上に打ち上げてから、キャッチ。

 豹頭の男を撃退した後、どういうわけかアスタルテとバドミントンをしていたクロウはぶんぶんと上にいる那月にラケットを振り、

 

「どうだご主人。ちゃんと後輩の面倒を見れたぞ」

 

「そうなのかアスタルテ」

 

 と淡々とバドミントンに付き合っていたアスタルテは首肯し、

 

「肯定。簡潔ながら要点を押さえたわかりやすい実演でした。これで仕事を理解できました」

 

「うむ。物分りの良い後輩をもててオレ嬉しいぞ」

 

「おい、あまり馬鹿犬をつけ上がらせるな。下手をするとお前まで馬鹿になる」

 

 ふん、と那月は鼻を鳴らす。

 

「尋問は特区警備隊に任せるとするが……黒死皇派の賛同者(シンパ)、か。<蛇遣い>め。『戦王領域』のテログループの残党を食い残こすとは使えん奴だ」

 

 自らの眷獣たるクロウを一瞥し、冷ややかに告げる。

 

「馬鹿犬、今日からしばらく仕事を手伝わなくていい」

 

「何でだ? ご主人の言うとおり、オレちゃんとやったぞ」

 

 突然の戦力外通告に憤慨するクロウの頭に衝撃。

 那月は扇子をパシッと掌に叩いて、視線で反論の一切を封じながら、

 

「様を忘れてると何度言わせる。今回の件は、馬鹿犬が出張ると面倒になりそうだからな。獣風情、アスタルテで事足りる」

 

 眷獣を飼い馴らせるのは、無限の生命力を持つ吸血鬼だけ―――

 だが、アスタルテはその絶対特権たる眷獣をその身に宿す人工生命体(ホムンクルス)

 その戦闘力は、特区警備隊一個団体を無傷で蹴散らせてしまえるほど。

 加えて、国家攻魔師官の南宮那月が後ろで控えているのだから、戦力は過剰の一言に尽きるだろう。

 

「うー。オレ、先輩なんだぞ」

 

「先輩なら後輩に任せることも覚えておけ」

 

 『待て』が苦手で待機命令に不満をあらわにするクロウに那月は取り合うことなく。

 

「だったら、暁の周囲を監視していろ。

 <第四真祖>にご執心だと言われている<蛇遣い>がこの絃神島に来るそうだ。

 先日のロタリンギア殲教師の一件で、おそらく吸血鬼(コウモリ)どもにも暁の存在が知れ渡ってしまっているんだろうな。あの軽薄男が何かしらコンタクトを取ってくる可能性がある。

 奴の相手は、転入生――あの国家公認のストーカーには荷が重い。この前の借りを返すよう精々フォローしてやれ」

 

 那月が向ける視線の向こう、そこにはちょうど豪華客船が一隻停泊しようとしているところだった。

 

 

彩海学園

 

 

 9月の半ば。

 二学期が始まり、途中で転入し、一躍時の人となった美少女学生もそこそこクラスに馴染み始めている時期。

 

「……大丈夫でしょうか」

 

 姫柊雪菜。

 国家の魔族対策の専門とする組織――獅子王機関の一員たる剣巫にして、世界最強の吸血鬼の監視役である雪菜は、この彩海学園中等部に通う一生徒でもある。

 そんな彼女が、今頭を悩ませているのは、学校行事のことである。

 球技大会。

 クラスでお姫様的なポジションにいる雪菜は、男子一同(約一名は何となく周りに合わせてだが)に頭を下げられて、チアのユニフォームを着て応援することになった。

 別にそのことは良い。今朝ちょっとそのチア衣装の採寸を計った際にトラブルに見舞われて先輩に下着姿を見られたが、あれはもうしょうもない事故のようなものだと処理した。

 問題は、その球技大会に出るクラスの男女混合(ミックス)バドミントンダブルスのペアである。

 

 何でも今年度から、シングルスが廃止され、代わりに男女混合ダブルスに出場メンバーが増員。現役のバドミントン部は出場禁止となっており、初心者が出ても問題はない。

 のだけれど、

 

(凪沙ちゃんとクロウ君……)

 

 暁凪沙と南宮クロウ。

 ご近所さんで、監視対象の先輩の妹で、絃神島で一番に友達となった少女と、こちらの裏の事情を知り、美少女転入生と唯一まともに会話のできる、“まともじゃない”男子。

 

「本当に、大丈夫でしょうか」

 

 事の発端は、昨日。帰りのHRで出場選手を決める際、自分が出たい競技に挙手して立候補するようにしていた。それで他の協議は、途中ジャンケンで決めながら、次々と埋まっていったのだが、この男女混合バドミントンだけが残ってしまった。

 男女混合……別に男子一名女子一名であればなんだっていいのだが、やはりというかなんというか、カップル向けな競技である。

 そして、あいにく姫柊のクラスにはお付き合いしてる男子女子はあまりおらず、非公表でいたとしてもそのように目立ちたくはないのだろう。

 あと一組、と選手選出に難航し始めたところで、凪沙が挙手した。

 クラスの男子によく話しかけられ、明るく可愛く、面倒見もいい凪沙は、人気者で、もてる。

 これを機にお近づきしたい男子がこぞって立候補に名乗り―――出る前に、凪沙が指名した。

 普段、皆と体育に参加できないひとりの男子生徒を。

 

 南宮クロウ。彼は半分人間であるが、もう半分は魔族。それも最も身体能力に優れているとされる獣人種。部活持ちの男子生徒も含めてクラス全員と綱引きしても勝ててしまうような、反則的な運動神経であって、普通の人間と混じって競技するというのが難しいのだ。

 けれど、『クラス全員が参加するイベントなのに仲間外れは変だよ』と凪沙の言葉によってクラスは一致団結し、担任もそれを了承。

 そして、職員会議にその議題を持ち込まれての今日。

 ハンデを与えることで出場が許可されたのであった。

 とはいえ、一攻魔師官としては、やっぱり気にかけてしまうものであり。

 

「―――姫柊ちゃん、心配だったりする?」

 

 と考え込む雪菜に妙にテンションの高い声をかけられる。

 赤い髪をお団子と三つ編みにした20代前半の若い女性。チャイナドレス風のシャツにミニスカート、スパッツ着用というスポーティな装いで、姿勢がいい。

 そんな中華風赤髪女は、彩海学園中等部の体育教師であり、姫柊雪菜のクラスの担任、笹崎岬。

 

「いえ、その、笹崎先生、クロウ君なら大丈夫だと思うんですけど……」

 

「あははー、姫柊ちゃんは獅子王機関に所属してるんだっけ。気になっちゃうのはしょうがないんじゃない」

 

 笹崎は、この彩海学園に勤務する、<仙姑>との異名を持つ腕利きの教師兼攻魔師官。雪菜と同じように魔族の身体能力の危険性というのを知ってる。雪菜の心配も共感できる。

 

「獣化のさらに上の“あれ”。命を削る禁じ手みたいなものだったり。それも那月先輩の補助がないと暴走に呑まれちゃうみたいだし」

 

 『旧き世代』の眷獣をも喰らう<薔薇の指先>―――をも、瞬殺した<神獣化>。

 同じ『神格振動波駆動術式』を埋め込まれていた<薔薇の指先>さえ相手にならなかったことから、<雪霞狼>とも相性はよくないだろう。つまり、何があったら雪菜には止めることはできない。

 

(舞威姫の……さんだったら)

 

 今はもう高神の社を出て正式な任務に就いているだろう、ひとつ上のルームメイトの顔を思い浮かべる。

 雪菜に<七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)>が与えられたように、彼女に与えられた武神具は、純粋な力頼りの相手、それも近距離戦しかできないとなれば非常に相性がいいことだろう。

 

 でも、そう心配することでもない。彼の性格は敵に対しては好戦的であるも、日常的には温厚なのでそう脅威となったりしないだろう。その辺は、怠惰な世界最強の吸血鬼の先輩と一緒で、雪菜も理解してる。

 

「でも、やっぱり、どこか皆でやることに参加させることも必要だったり。正直、体育の間は、私と組手してるんだけど、教えられることはもうなかったりして。あの子には中華拳法は合わないのよねー」

 

「え?」

 

 雪菜は少しその発言に反感を持った。

 彼女が師父である、と彼が言っていたが、その拳筋はやはり相当な熟練度であった。出会いがしらに、『八雷神法(やくさのいかずちのほう)』という増幅した呪力を物理的な攻撃力へと変換する雪菜の渾身の一打を、巧く相殺されたのだ。無手に限ってだが、白兵戦の戦闘技術は剣巫の雪菜よりも上だとさえ思う。

 そんな雪菜の疑問を察したか、違う違うと手を振って、

 

「クロウちゃんには、センスがあるよ。ちゃんと私の言いつけを守って、功夫(クンフー)もよく鍛えられてたりして。

 でも、やっぱり、“人間”のやる武術はあの子の規格に合わない、というより、“間に合わない”みたいだったり」

 

 人間の武術は弱者が強者に勝つために編み出されたものだ。

 長命種など人間に近しい身体能力であるならとにかく魔族において吸血種以上の身体能力の獣人種――最初から強者のものがやる術理ではない。

 だから、才能はあったとしても、学ぶ技術の方が力を引き出すに足りていないのだ。

 四足歩行で自然界最速のチーターが、人間の二足走法をできたところで、より早くなるわけではなく、むしろ遅くなってしまうだろう。

 

「でも、全くの無駄だったりしないのよ。ほら、子犬はじゃれ合うことで加減を身に着けると言うじゃない? 人並みのさじ加減は身についてたりして。だから、混じって競技する分には心配はしてなかったり。種目のバドミントンはネットに遮られて相手と身体接触がないしね。

 それに、“凪沙ちゃんと一緒にやる”っていうのは結構良かったり」

 

 雪菜もそれを知ってる。

 『混血』として、一時いじめに遭ってしまった原因は、凪沙の魔族恐怖症である。事故で過度な反応をしてしまったせいで、ひどく警戒されるようになってしまったのだ。

 その当時の客観的な被害者(なぎさ)加害者(クロウ)が一緒にやるというのは、とてもいいイメージアップになるだろう。

 

「あの時は大変だったり。那月先輩も中等部だからって口には出さなかったけど、結構気にかけてたりして。

 そうそう、この前も、『馬鹿犬が勝手にこの島から連れ出されたんでな。ちょっと向こうに行って連れ戻してくる』とかで急にロタリンギア国まで出張しちゃって大変だったり」

 

 思わず、意外、と口にしてしまいかける雪菜であるも、妙に納得する。

 結構、雪菜と同じ境遇なクロウであるも、そんな彼も自分と同じように大事にされていたのだろう。でなければ、あんなに主の眷獣だと誇らしくは言わない。

 

「那月先輩って独身貴族がひとり淋しくて、犬や猫とか飼っちゃうタイプだったりして」

 

 それについては頷くと後が怖いというか、当人に知れたらひどい目に遭いそうなので雪菜はノーコメントで、曖昧な表情を返すだけに留めた。

 

 

体育館

 

 

 中学時代、バスケ部員だった古城は、勝利にこだわりすぎてチームの中で孤立したという苦い記憶がある。それなりに落ち込みもしたし、古城がバスケをやめたのもそれがきっかけだ。

 だが、もうそんな昔のことは気にしてない。高等部への進学を機に部活をやめる生徒は古城だけではないし、そこに特別な意味はない。当時のバスケ部員たちとも、今はそれなりに上手くやっているつもりだ。

 とはいえ、今の古城は本気でスポーツに没頭することはできない。なにせ古城は『世界最強の吸血鬼』である。魔族特有の異常な身体能力を持つ真祖が、人間に交じって勝負になるはずがない……と、古城は思っていた。

 

 だから、『元体育会系の熱血ウザ野郎』とせっつかれてても、この残暑厳しい――というより年がら年中常夏気候の島で、日射にひどく弱い古城が張り切りようがなく、勝つよりは楽しめたらそれでいい……なんて、古城は思っていた。

 

 だからか、姉貴に付き合ってバドミントン経験のある藍羽浅葱と男女混合バドミントンに出場することになったが、特に思うところはない。

 しいて言えば、浅葱がここのところどうも情緒不安定というのか、夏休み明けから――雪菜と出会ったあたりから――様子のおかしいということぐらいだろう。

 

 そんなわけで放課後。

 球技大会に向けての自主練ということで学級委員の築島倫が体育館を借りたというので、ユニフォームに着替える浅葱より先に一人、古城は体育館にやってきていた。

 

「―――おっと、あれも拾っちゃうのかい? 流石だね君」

 

「―――チャンス! よし、いくよー―――たぁ!」

 

「―――残念。アウトよ。惜しかったわね」

 

「―――ドンマイだぞ。凪沙ちゃん」

 

 体育館に入ると、すでに体育館の床に支柱が立てられバドミントン用のネットが張られており、古城のクラスの内田男子と棚原女子のペアが練習を始めていた。

 小柄で線の細く、女子と見間違えられやすい内田と、長身で気の強いが、内田の前では別人のように可愛らしく従順な姿を見せる、典型的な恋する乙女の棚原。そんな彼らカップルの周りには、余人が入り込めないような親密な空気が立ち込めており、二人きりの世界をつくっている。

 それは彼らに限った話ではなく、サーブの練習をしながら互いに肩を寄せ合ったり、ふとした瞬間に見つめ合ったり、などと館内には他にも濃厚なカップル臭を漂わせている発生源が多々ある。

 本人たちにいちゃついてるという自覚はないにしても、独り身の古城には非常に居づらい桃色空間である。

 だから、浅葱が来るまで外で柔軟でもやってようかと……古城は考えていたのだが、

 

 そのコートではなくジャージだが、首巻と帽子に手袋と全身フル装備の男子に、長髪を短く束ねた特徴的な髪形の女子が、その桃色空間に何故か混じってる。

 

「うーん、バドミントンって結構難しいね。浅葱ちゃんがバドミントン好きって言ってたから今度聞いてみようかな。あ、でも、クロウ君上手だね! 凪沙が取れなかったところも全部カバーしてくれるんだもん」

「おう、アスタルテと練習たくさんしたからな! 最初はホームランたくさんしちゃったけど、バドミントンの手加減はマスターしたぞ」

「アスタルテ?」

「後輩だぞ。ご主人のメイドなんだ」

「メイド、ってことは女の子だよね。ふーん……」

「すごく優秀なんだぞ。オレができなかったお茶の淹れ方も完璧で……う? どうしたのだなんか不機嫌になってるぞ凪沙ちゃん」

 

 よし、なんか不仲っぽく……ではなく、カップル全開な内田棚原ペアの対戦していた相手ペアが中等部の生徒であるのだが、古城がよく知る――妹と後輩であった。

 

「―――おい、クロウっ! ちょっと来い!」

 

「古城君? どうしたのだ」

 

 普段の気怠さなど吹き飛ばすような大声で、後輩を呼びつける。が、当然ではあるがその相方にも古城の大声は聴こえており、む、と眉を寄せた妹が割って入る。

 

「古城君やっと来たんだね。聞いたよ、浅葱ちゃんとペアなんだってね。あれ? 浅葱ちゃんは? お着換え中なのかな? それでクロウ君に何の用?」

 

「な、凪沙、運動しても大丈夫なのかお前?」

「いったいいつの話をしてるの古城君。凪沙はチア部に入ってるんだよ。で、何の用なの?」

 

「いや……その、アレだな。アレだよアレ。クロウに訊きたいことがあって」

「じゃあ、ここで、凪沙のいる前で、ちゃんと話して。この前のは雪菜ちゃんと一緒に誤解だって説明されたけど、そうじゃないんでしょ」

 

「お、男と男の話し合いというかだな……」

「まさか前みたいに半径1m立ち入り禁止令のことじゃないよね?」

 

 後輩だけを呼びつけたい。しかし、そんな兄の思惑を妹は邪魔する。

 そして、妹後輩ペアと試合中だったクラスメイトはそんなあたふたしてる古城を苦笑しながら、とりあえず静観の構えだ。

 つまり、古城は独力でこの妹の追及を逃れなければならず、

 

「クロウ、お前……球技大会に出て大丈夫なのか?」

 

 まずは、無難に。とはいえ、それも古城にとって心配事であるのは違いない。

 古城とは違い、『混血』であることが学内では周知となっている。だから、運動系のイベントには卑怯だとか言われてないかと気に掛ける。

 

「オレも出られるんだ古城君! 下打ちしかダメってなってるけど、バドミントン楽しいぞ! 凪沙ちゃんに誘ってもらえて感謝だぞ!」

 

「……そうか。よかったな」

 

 ハンデは与えられてる模様。それでも、ぶんぶんとラケット振ってて、本人は存分に楽しんでるようだ。尻尾が見えていれば、ぶんぶん振っているだろう。

 それに、古城は、表情を緩めてしまう。

 なんだか昔を見てるようで懐かしく、また羨ましく。この純朴さにどこか毒気が抜かれた。

 周りはカップル時空だが、彼は純粋にみんなでやる球技大会に向けて励んでいるんだろう。

 

 まあ、妹は犬とか猫に好かれるのだと思えば、この光景も見れなくもない。

 

「だったら、今度一緒にレジャー施設に行こうよ! 男女混合ダブルスに優勝したら、西地区の繁華街にある絃神レジャーのカップル割引券がもらえるからさ!」

 

「クロウ! やっぱちょっと体育館裏に来い!」

 

 それでも、やはり念に入れて運動系特有の上下関係の刷り込みが必要だろう。

 が、威嚇する山猫のように髪を逆立てた凪沙に阻止されて―――そこへ、クラスメイトの内田が、

 

「じゃあ、一緒に試合してみたらどうかな」

 

 

 

「……もう、何やってるのよ、あんた」

 

 古城に遅れてやってきた男女混合バドミントンの相方で、練習場についた途端にすぐ試合をやることになった浅葱は、その原因を棚原から大まかに聞いて呆れる。

 要は、暁兄妹の痴話喧嘩に巻き込まれたようなものだ。

 クラスメイトと仲良くしたい凪沙と、男子に親しげに近寄ることが気に食わない古城。

 その決着を、バドミントンで付けることとなった。

 

「心配するのは良いけど、ちょっと過保護じゃない。そうあまり警戒すると逆に男子に免疫がつかなくなってまずいわよ」

 

「いや、そうだと思うんだがな、浅葱」

 

 藍羽の心情的には、凪沙寄り。とはいえ、勝負に手は抜かないが。

 それより、

 

「……、でさ」

 

 モデルのように、少し腰を振ってスカートを靡かす。

 今の浅葱は、ノースリーブのポロシャツと、恐ろしく短い純白のスコート。バトミントンのユニフォームだから別におかしくない―――のだが、公式戦の試合ならとにかく、たかが球技大会の練習できるには、露出度が高すぎるかと思われる格好。

 正直、浅葱は恥ずかしい。

 しかし、友人の築島凛は言う。『浅葱のチャームポイントはその綺麗な脚』。幼馴染の矢瀬基樹も『例の中等部の転入生にも引けを取らない』と。

 

 ここ最近の浅葱の悩みは、あの嫉妬する気も起きないくらいのデタラメな美少女が、何故か古城と仲がいいということ。

 

 そんな焦燥感からか、浅葱が無難にきっちり消臭済みの体操着より、そのコスプレじみた格好に勇気を振り絞って踏み切ったのだ。

 

「よし、じゃあ、浅葱からサーブ頼むな」

 

 アピールしても、肝心の相手は無反応。

 最初に目を合わせてから、なんかずっと目を逸らされてる。感想もなし。なんだか思わずその頭にシャトルを撃ち込もうかと考えたが、浅葱は奥歯を鳴らしただけでどうにか自制する。流石にこんなのは八つ当たりだということぐらい、浅葱も自覚してる。似合ってるかしら、の一言が言えない浅葱も悪い。

 それに……

 その背中から段々と発せられる雰囲気から、試合に集中し始めてることぐらい、浅葱にはわかる。

 

『ラブ・オール』

 

「じゃあ、いくよ」

 

 審判役を買って出てくれた内田の開始に、少しの間合いを取ってから、浅葱はサーブを放った。

 ライン上より後ろに陣取ってる後衛のクロウに、正面少し前に来るショートサーブ。

 

「ほい」

 

 難なくそれをクロウは拾って、下から打ち上げるロブで奥に押し出す。うまい具合にそれが隅のコースに決まる。

 

「ありゃま。あれを軽々拾っちゃうのね」

 

 後衛の浅葱はやや体勢を崩されながらも腕を伸ばしてどうにか当てて向こうコートに返す。シャトルは素早しっこい相手後衛のいない方へ飛んで行った。

 

「甘いよ、浅葱ちゃん」

 

 けれど、その弾道は低く。前衛の凪沙の真正面。あっさりと逆サイド狙って返されて、

 

「―――」

 

 ぱんっ! と横から割って入った古城がシャトルを軽打して跳ね返す。

 今度の軌道は高く、凪沙には届かないし、反応も追いつけない。

 コート隅ギリギリ、サービスラインの辺り、良いコースに決まっている。

 しかし、それを呼んで先回りしていたクロウに、掬い取られた。

 古城の頭上。放ったものより高く山なりの軌道で返される。

 

「―――おっ、らぁ!」

 

 膝を屈め、一瞬、全身の筋肉を脱力させてから、跳躍。

 腕肩関節を鞭のようにしならせて、ジャンプスマッシュの体勢に入った。

 おっ、流石、元バスケ部のエース! と歓声が上がる。

 

 スパァン!!

 

 無駄な力みのないフォームから繰り出されたスマッシュには、伸びとキレがあった。

 凪沙には当てないよう、逆――たった今、前衛のカバーをした後衛がいない、無人の空間に強烈なスマッシュが叩き込まれて。

 

「おっとと」

 

 ……ぱん、と。

 

 それすら拾われた。

 見事しか言いようのない反応。

 しかし、良い反応をしたとはいえ相手に背を向け、今にも膝が付きそうなほど低い体勢。

 そこへ古城はまた容赦なく、油断なく、スマッシュを打ち込む!

 だが、それをまた、そのままぐるんと回ったクロウが拾って大きく返し、それをまたまた跳んだ古城がなりふり構わずダンクスマッシュで叩き落とす!

 

 ―――スパァン! ……ぱんっ ―――パァン! ……ぱんっ ……ぽんっ ……ぱんっ―――スパァン! ……ぱんっ。

 

 バトミントンは通常、5回のラリーの間に決着がつくとされるスポーツだが、幾度か決定打となりそうなものがありながら粘り強くラリーは続く。打っては、拾われて、それをスマッシュしても拾われる。なんか古城は、フリスビーを投げて犬がそれを取ってくるというようなイメージが思い浮かんだ。

 とはいえ、後輩は単純に足と反応が速いだけでなく、こちらの動きや狙いを見通しているようだった。

 スマッシュを打ち込んでも、球筋を見切られる。時折フェイントいれて、前に落としたり、後ろに散らしたりしても先回りされて、駆け引きも強い。だが、古城も相手の裏をかくことには自信があった。

 桃色空間だった館内もいつの間にか静まり返って、シャトルの行方を追う。その攻める古城と守るクロウの一騎打ちとなっているが、これは男女混合バトミントンの試合。

 

(なんだかんだで言ってやっぱり勝負事とか好きなんじゃない。ホント、ガキなんだから)

 

 知らなかったバスケの知識を一から勉強し、ついにはバスケ部の元エースとNBA戦術の議論ができるようになった。

 出る試合は公式だけでなく練習試合も必ず見に行った。

 いつの間にか健気な女の子とクラスから応援されるようになった浅葱は、この接戦に微笑ましく思う。

 部活では対等に勝負できる相手がおらず、後輩からもどこか敬遠されていた。

 でも、バスケではなく、バドミントンではあるも、我武者羅にこれまでにない難敵に挑み、そして驚嘆すべきパフォーマンスを見せる古城。その姿を間近で見て―――やや、頬を赤らめてしまう。まだ昔を懐かしむような歳ではないのに。

 

「ペア戦ってこと忘れて熱中してるあんたはやっぱり元体育会系の熱血ウザ古城よ」

 

 クロウが前に出たところで、浅葱も後衛から前に割って入った。

 バスケ部員ではなくても、バスケ部エースと議論ができるくらいに戦術というのに心得はある浅葱。

 そのアプローチは同じく勝負に熱中していたクロウの意表をつく。浅葱のラケットから放たれたスマッシュは、しかし、恐ろしいスピードで減速し、そして、鋭く落ちていく。

 歪な回転に、うねる軌道。

 

 カットだ。

 

 シャトルは急激な下降線を描いて落ちてゆく。

 それをクロウが飛びつきながら食らいついてシャトルはネットを越させたが。

 

「それも、計算通りなのさ」

 

 やや低めなロブをそのクロウの真正面に押し出す。

 スマッシュするに絶好な位置で―――下打ちしかできないハンデを抱えてる以上は、穴となるポイント。

 ちょっと卑怯かもしれないが、相方の熱にあてられて勝たせたくなったのだ。

 

「それは浅葱ちゃんもでしょ」

 

 と、うっかり。

 下打ちには厳しい、けれど、普通ならスマッシュするに絶好な位置にあるシャトル。

 凪沙はチャンスボールを逃さず、スマッシュで相手コートに叩き落とした。

 

 

体育館外

 

 

 自販機で買ってから、誰もいない非常階段の踊り場に脚を投げ出して座り、久方ぶりの心地よい疲労感と共に、スポーツドリンクを古城は味わう。

 昔、部活で試合が終わった後もこうしてひとり反省会をした。馴染みの浅葱はそんな習慣を知ってたからか、試合が終わり、休憩で体育館を出た古城の後をついてきたりはしなかった。凪沙も、どこか嬉しそうにしていて。そのわきで後輩だけは悔しそうにラケットの素振りをしていた。

 そう、一番長く続いた初回のラリーは取られたものの、試合には勝った。

 だからと言って、どうということはない。後輩妹は中等部で、古城は高等部、本番の球技大会でぶつかるということはない。

 けれども、楽しめたということは確かだ。負けたことを悔しがり、純粋に楽しんでる後輩の姿を見て、過去の自分が蘇ったような、そんな錯覚さえも覚えた。

 

 喉を潤した古城は、そのまま目を閉じて、ごろりと仰向けに寝転がる、と。

 

「―――先輩?」

 

 頭上から聞こえてくる誰かの声。

 聞き覚えのあるそれに古城が薄く瞼を蹴ると、視界にしなやかな生脚がうつる。浅葱の時もそうだったが、スパッツを穿いていても、スカートの丈が短くてちょっとした動きで露出してしまう格好は古城にとっては非常に毒である。

 驚いて上体を起こした古城を、声の主、制服ではなく白地に青のラインの入ったチアリーダー衣装の雪菜は最初プリーツスカートの裾を押さえながら冷ややかな表情で睨んでいたが、ふっと和らげて、

 

「休憩ですか?」

 

「あ、ああ、もしかして見てたのか?」

 

「はい。先輩の監視役ですから」

 

 生真面目な雪菜であるも、今のニュアンスにはどこか茶目っ気な冗談っぽさが混じってた。

 

「それに今は凪沙ちゃんとクロウ君のクラスの応援役(チア)に選ばれてますし、影でこっそり……

 でも、先輩って、意外と熱血なんですね」

 

「やめてくれ。終わってから恥ずかしい思いをしているところなんだ。浅葱のやつにも言われたし」

 

「藍羽先輩……でしたね。先輩のダブルスの相方は……」

 

 といきなり声のトーンが低めに落ちた雪菜の気配に、古城はわけもなく焦りを覚えた。

 

「いや、そうだけど、違うからな。俺が浅葱とペアを組むのを希望したわけじゃないから」

 

 早口でそう捲し立てるも、雪菜は無感動な瞳で古城を見つめて溜息をつく。そして、やや不機嫌さの滲んだ声で、

 

「わたしは別に気にしてません……でも、凪沙ちゃんの方はクロウ君とペアを組むことを希望したんですけど」

「本当かそれっ!?」

 

 思わずといった反応で雪菜の肩を掴んでしまう古城。もう大体わかってきた雪菜は呆れたように息を吐いた。

 

「先輩って、結構シス……心配性ですよね。ちょっと引きます」

 

 流石に気を遣ったのか、シスコンと言いかけて訂正する雪菜。古城は不満げに唇を曲げて―――瞬間、

 

「―――先輩! 伏せて!」

 

 引っ張られて下げさせられた古城の頭上を、轟然と風を巻いて何かが駆け抜けた。

 

 

彩海学園 中等部校舎 屋上

 

 

「ふーっ、ふーっ……」

 

 荒く深呼吸を繰り返し、気を落ち着けさせる。

 霊視霊感の強い雪菜がいる前で、生半な奇襲狙撃は成功しないだろうし、下手を打てば、こちらの位置も気取られてしまう。

 しかし、第四真祖の唇が、わずかに動いた時にはもう、矢を放っていた。

 

 いくらチア衣装姿が可愛いからって! そもそも雪菜の体に触れるだけでも許せないというのに、あまつさえ肩を捕まえて、き、キスを迫ろうとするなんて!

 

 放たれた矢が解けるように薄い金属板となり、それが折り紙のように複雑な獣の姿となる。

 呪術により仮初の命を吹き込まれた金属板の式神が、本物の猛獣さながらの野性的な動きで天使を襲う憎っき怨敵を狙うも、その天使――雪菜が振るう<雪霞狼>の刃で害獣駆除のように退治された。全く歯牙にもかけていない。

 流石。まだ卒業するには早いと思ってたけど、剣巫に選ばれるだけはある。

 

「でも、それ相応の裁きを覚悟しなさい第四真祖。次会った時があなたの命日よ」

 

 なんにしても、これで招待状を送る役目のひとつは終えた。

 気は乗らなかったが、任されたからにはきちんと仕事をこなすのが彼女のポリシーである。

 あとはもうひとり。

 

 得物を傍らに置いていた、キーボード用の黒い楽器ケースにしまう人影。

 この彩海学園のものではない、関西地区にある名門女子高の制服。

 しかし、年若い日本人の少女ながら、すらりとした長身。華やかさと優美さを感じさせる顔立ちで、肌は白く髪の色素も薄い。そのせいか咲き誇る桜を連想させる美しさだ。

 ポニーテールの長い髪が、屋上に吹く突風に靡いて―――巻いた。

 

「おい、オマエ―――」

「っ!」

 

 いくら第四真祖に集中していたからって、ここまで踏み込まれるとは迂闊! しかも武神具はしまったばかり。師匠に知れたら反省コースだ。

 だが、その程度でやられるほど、舞威姫は甘くない。

 

辰星(しんしょう)歳刑(さいけい)!」

 

 振り向きざまに、その長い右脚が跳ね上がる。

 身長に恵まれていても、筋肉質とは程遠い体型の彼女が放つには、あまりに爆発的な威力をその蹴りは秘めている。

 呪力によって、自らの反応速度や筋力を一時的に増幅(ブースト)する呪的身体強化(フィジカルエンチャント)は、多くの攻魔師が使うごく基本的な技術(スキル)だ。

 しかしこの少女が使う身体強化の増幅率は、並の限界値を遥かに超えている。

 それはわずかでも制御をしくじれば自滅に直結するほどの危険な呪詛で、自身を縛っているようなもので。

 しかし、その非常識な戦術を反射的にこなせなければ、獅子王機関が誇る呪詛と暗殺の専門家は名乗れない。

 

 背後を取った人影の首を狙った回し蹴りは弧を描いて、直前で手を差し込まれたが、構わずその薄いガード一枚をぶち抜くよう、この上ないタイミングでその延髄に炸裂した。

 呪術によって強化された白兵術式は、数枚に束ねた木板を粉砕しかねない、強烈な一撃だった。

 

 人影は、動かない。

 

 そして、少女も右足を手一枚挟んで首に直撃させたまま止まっていた。

 

「―――」

 

 首筋が、戦慄で凍り付いている。

 これまで多くの魔族を仕留めてきたのと同等の手応え。

 倒せないまでも、首の骨にダメージを与えたはずだ。

 そう確信した少女の思い上がりを正すように、人影――少年は眉すら動かさず、目前の少女を見つめていた。

 

「声をかけただけで、いきなり蹴られるとは思わなかったぞ。ちょっとだけ迷いがあったみたいだけど、痛かったのだ」

 

 痛かった、じゃない、と叫びかける。

 ようやくその姿を確かめる。

 この学園の体操着ジャージに手袋首巻帽子、何とも珍妙な格好だ。

 自分の蹴撃を、その生体障壁と内力相殺を用いる気功術で防いだことはわかった。

 中々の熟練者。ひょっとすると自分や雪菜より気の扱いは優るかもしれない。

 

 しかし、手袋越しとはいえ“触れているのなら”関係ない。

 

 舞威姫は、優れた巫女であると同時に呪術師であり、そして暗殺者。

 『八将神法(はっしょうじんぽう)』――獅子王機関の無音暗殺術を修得している舞威姫は、たとえ眠っていようと、その体に触れることができるのは格上の呪術使いか、こちらが心を許している相手のみ。

 従って、掴まっている足先から呪いを―――

 

「む。いやな感じ」

 

 ―――送る前に離された。

 

「ちぃ、勘が鋭いわね!」

 

 だが、距離を取ることができた。

 少女は、そこで、相手に誰何を投げる。

 

「……煌坂紗矢華。獅子王機関の舞威姫よ。あなた何者?」

 

「オレは南宮クロウ。ご主人の眷獣だ」

 

 答えられた、その名前は、少女――紗矢華に『閣下』から指名されたものだ。

 招待状を渡すよう頼まれた、もうひとり、しかし、

 

(ご主人? 眷獣? ホント、何者……? 監視役の管轄が異なるから、第四真祖・暁古城以外の資料は集めなかったけど、アルデアル公から直々にパーティに誘われるなんて、余程……)

 

 と、紗矢華が次の手に悩む将棋指しのように思考を巡らしてるとき、向こうは特に思案もせず思ったことを口にした。

 

「また獅子王機関か。こっちもひとつ訊いていいか」

 

「いいわよ、なに?」

 

「さっきからずっと古城君を見てたけど、煌坂も姫柊と同じ、国家公認のストーカーなのか?」

 

 そういうお仕事もあるのか? と本気で疑問に思ってる眼差し。

 

「―――」

 

 ガン、と見えないハンマーが紗矢華の頭を叩いた。

 確かに実際に監視してるわけだし、やってることはそうともみられるかもしれない。

 

 ―――なわけないでしょう! 私も、私の雪菜も、仕方なく、暁古城の監視をしてるだけよ! 断じて、ストーカーじゃない! 変質者はむしろ暁古城の方よ!

 

 と今が仕事中で、近くに雪菜と暁古城が警戒してなければ感情のままに大声で叫んでいたのかもしれない。

 

(私のこと馬鹿にしてる……ってわけじゃなさそうよね)

 

 これまで幾度かの実戦経験を経て、それなりに相手の感情は読める。

 その経験上、もし、ここでそうだと言えば、そうかそんな仕事もあるんだご苦労様だぞ、と返される予想がした。

 このどこか間の抜けていて、付き合うと毒気が抜かれてしまう厚着の少年は、自分にとって未知の生き物ではないか、と以前、姫柊雪菜と同じ第一印象を抱いた。

 

「……違います。獅子王機関は、魔導テロ対策を担当する日本政府の特務機関です」

 

 相手に悪気はない。

 これは天然、ただの天然、と心の中で繰り返しながら、出来るだけ冷静に努めた紗矢華の丁寧な説明に、ポン、と両手を叩く。

 素直に納得したように見えたが、

 

「なるほど、そうか。じゃあ、古城君じゃなくて、同じ獅子王機関の姫柊の方に用があったのか? でも、ジュギョーサンカンはまだだったと思うぞ」

 

「違うわよ。そりゃ、ここでの生活とか気になるし、もしあったら雪菜の授業参観は是非お願いしたいところだけど、別にそんなことしなくたって、いつでも様子は―――じゃない」

 

 ダメだ。コイツなんかズレてるわ……

 

 この少年のおかしさは、鈍感だとかそういった基準ではないらしい。

 一文明人として、多少のボケは許容していたが、これ以上は付き合ってられない。さっさと仕事を済ませよう。

 

「南宮クロウ、アルデアル公からパーティの招待状を預かっております」

 

 差し出したのは、一通の手紙。

 今、暁古城に矢にして送りつけたものと同じ、金色の箔押しが施された豪華な封筒に、銀色の封蠟で閉ざしたもの。そこに刻まれたスタンプの、蛇と剣を模した紋章は、ある貴族の刻印。

 知っている者なら知っている。というより、魔族関連の人間なら知ってなければならないものなのだが、厚着の少年は首を傾げてるという、こっちが頭を抱えたくなるような反応だ。

 だが、そんなことせず、渡したのならさっさと去っていればよかった。事態はより混沌となる。

 

「クロウ君! いきなり屋上に行ってくるとか言っていつまでも帰ってこないから、もう練習時間終って、皆お片付けしてる……」

 

「あ、凪沙ちゃん」

 

 屋上に新たな闖入者の登場。

 これに気づけなかった紗矢華はもはや反省ではなく、猛省コースを師匠から言いつけられるだろう。

 暢気に手を挙げて反応する少年に対し、現れたその少女の方は急に無表情となり、こちらと少年の両方に視線を行き来し、紗矢華の持った手紙に注目する。そして、

 

「……その手紙、何?」

 

 あ、まずい、と紗矢華は察する。

 人目のない放課後の屋上で、妙に豪華な一通の手紙を握ってる自分。それも手渡し直前で固まってしまってる。

 客観的に判断すれば、甘酸っぱい告白の場面を想定されても仕方ないような。

 

「もしかして、凪沙、邪魔だった?」

 

 ぎこちない表情を浮かべる少女。紗矢華はあわあわとして、少年は、

 

「うん。なんか邪魔みたいだぞ」

 

 率直な意見を述べた。

 確かに一般人の子が関わるのは遠慮したいところだったけど、何を考えてるのよアンタは!! と内心で怒鳴り散らすが、それが表に出ることはない。

 雪菜ではないけれど、可愛らしい少女のショックを受けているような反応に、紗矢華もショックを受けてしまっている。

 そして、にこやかに笑って――造形的には完璧だが、いつも明るい彼女らしさを感じさせない、明らかに本調子ではない取り繕った笑顔で、

 

「そう、なの。あ、その人がアスタルテさんってメイドなんでしょ? うんうん、じゃあ、凪沙はすぐ戻るね。片付けとか、任せていいから。クロウ君はゆっくりしていって……」

 

(アスタルテ? メイド? もうなんなのよーこれっ!!)

 

 勘違いを加速したまま、少女は嵐のように事態を混沌とさせて去っていった。

 もはや後の祭りだが、紗矢華はしばし、この屋上に来る気配を見逃してしまったことを痛烈に後悔した。

 

「? 煌坂は、アスタルテだったのか?」

 

「違います」

 

 少年はこれが修羅場なのかとも気づいてないようで、首を傾げている。わかっている、悪気はない。

 もっと彼女の気持ちを考えてあげなさい、とか言ってやりたいところだけど、悪いのは、勘違いさせるような真似をしてしまった自分だ。

 これが魔族関連の事件ならよかったのに、とその手の経験ゼロの紗矢華は額を指で押さえたまま、この鬱憤を晴らす方向を模索し、結果。

 

(ええ、雪菜がここに行かされたのも、私がここに来たのも、この少年に見つかったのも全部、第四真祖・暁古城のせい! せめて私と同じ苦しみを味わいなさい)

 

 ちなみに、その呪術のスペシャリストに呪われた世界最強の吸血鬼も、手紙をもらったところを見られて、クラスメイトの少女と同じような目に遭っている。

 

「なあ、なんで煌坂は、怒ってるんだ? 獅子王機関は怒るのが仕事だったりするのか?」

 

「―――」

 

 長い沈黙。これが挑発ではないのはわかっていても、それだけ気を落ち着かせるに長い時間を要した。

 その間、相手は一応受け取った招待状の文面を眺めている。

 

「……これは(わたくし)の個人的な感情ですから、あなたが気にする必要はありません。

 とにかく、招待状はお渡ししました。今日、そこに書かれてる日時場所に来てください」

 

「む。いきなり言われても困る。今日はご主人に大人しく留守番するよう言われてる」

 

「そうですか。しかし、差出人アルデアル公ディミトリエ=ヴァトラー氏は、日本政府が認めた、『戦王領域』からの外交特使です。参加していただきたいのですか。

 ……その『ご主人』とは連絡は取れませんか?」

 

携帯電話(ワンダフォン)を壊してから新しいのまだ買ってもらえてない。それに今は仕事中だぞ」

 

 とそこで、ふと、何か思い浮かんだようで、

 

「そのパーティには、古城君も行くのか?」

 

「ええ、<第四真祖>は、第一真祖の使者からすればこの島を訪れて真っ先に挨拶をするべき相手。パーティのメインゲストとして招かれるでしょう」

 

「わかった。いくぞ」

 

 難色を示していたのにあっさりそれを覆すなんて。<第四真祖>となんらか関わりがあるのか。

 

「ご主人から、古城君に軽薄男が近寄ってくるかもしれないから、姫柊のお手伝いをしてやれって言われてるんだ」

 

「え、雪菜の……ごほん。では、参加を了承いただけたということで」

 

 調子を整えたはずの紗矢華だったが、その名前が出たことで一瞬素が出かかった。

 

「でも、問題がある」

 

「なんでしょうか」

 

「招待状には、パートナーを連れてくるように書かれてる」

 

 欧米のパーティは、夫婦や恋人を同伴するのが基本だ。

 代役として、歳の近い家族か親しい異性の友人であるなら問題はない。

 

「ご主人は仕事中だ。後輩もそれに付き合ってる。その邪魔はしたくない。オレひとりじゃダメなのか?」

 

 あー……と紗矢華は視線を逸らす。

 さっき、この子と親しげな女の子に変な勘違いさせちゃったし。

 自分の責任だ。

 

「わかりました。でしたら、私がパーティの代理をします」

 

「煌坂はいいのか?」

 

 何がいいのだかこちらにはさっぱりだが、彼が気を遣っていることだけはわかる。

 なんとなく紗矢華には意外だった。

 もう少しこう、人の心に鈍感な少年だと思っていた。

 

「いいわよ別に。私もちょうどひとりだったし」

 

 あの可愛い女の子にちょっと悪い気はするけど、安心してくれていい。

 この少年は、“男”なんだけど、不思議と嫌悪感は抱けない。いつもなら意識せずとも、“触った時点で反射的に呪詛を送り込んでいた”のに。

 ……そう、なんか弟というか、犬っぽいのだ。異性として意識できないけど、警戒心は抱かないタイプ、とでもいうのか。

 

「ところで、あなたは、私の雪菜とどんな関係なの?」

 

「同じクラスメイトだぞ」

 

 

 

つづく



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戦王の使者Ⅱ

洋上の墓場

 

 

 以前、メイドの後輩が来る前、ご主人が自分を教育しようとし、その紅茶の淹れる際の分量があまりに大雑把だったりしたので諦めたそうだけど、お蔵入りとなった執事服は今も丁寧に保管されている。

 それを久々に着込んで、やってきた。

 その堅苦しい執事服というのは我慢できたけど、そこのパーティに参列してる500人余りの人々の“匂い”――キツメな香水だけでなく、思惑や感情、表面的に浮かべてるのとは食い違うその嫌な感じに辟易した。

 これが政治なんだというのは理解してるけど、自分の肌にはひどく合わない。

 でも、そこに出ている料理は美味しい。

 

「……その金色の瞳。やはり面影がありますな」

 

 振り向くと、そこに自分と同じように頬に古傷を残している初老の男性。

 料理の配膳をしている使用人と同じ礼服に身を包んでいる、けれど、たった一度しか着てない自分の執事服姿と同じように、窮屈な感じがある。見た目は熟練の老執事で、物腰は静かで知性的とも見えそうなのに。

 そんな初老の男性は、自分の目を見て感慨深そうに呟くと、下した視線の先にある枷のような首輪に目を細める。

 

「オレに何か用か?」

 

「失礼した。貴殿の顔が、かつての我が盟友と似ていたもので、つい」

 

「ふうん。そんなに似てるのか、お前の友達と」

 

「ええ、人間らに紛れ込んでいても、すぐにわかるほど」

 

 一礼し、自分の前に料理の皿を置くと、初老の男性はその場を立ち去る。

 その料理は、他のと違い、不思議と、自分の舌になじむように好みの味付けだった。

 

 

 

 港湾地区(アイランド・イースト)の大桟橋に、昨夜未明に停泊した一隻の豪華客船。

 その遠目からでも異様に目立つそれは、アルデアル公ディミトリエ=ヴァトラーのクルーズ船。

 その船体に刻まれた船名は、

 

「……<洋上の墓場(オシアナス・グレイヴ)>……か」

 

 趣味の悪い名前だな。

 だけれど、派手にライトアップされた船体は、宮殿のように華やかである。

 宮殿、そう、ある意味ここは城のようなものだ。

 『夜の帝国』で自治領の君主を任されている貴族の。

 宣戦布告ともとれる招待状を受け取った暁古城は、監視役にして代理パートナーの姫柊雪菜と共に、<洋上の墓場>へ乗船する。

 

「吸血鬼が海を越えられないというのは迷信ですけど、彼らの能力が海上で制限されるのは事実ですから」

 

 それが遥々海を渡って、堂々と船に乗っているということは、それだけで外交的な示威効果がある。

 それが軍艦ではない、戦闘力のない民間船であろうと。

 つまりは、単なる派手好きというわけではない。

 それにここの主は、最大級の空母にも匹敵する戦闘力の持ち主でもある。つまり絃神島は、その主の気まぐれな采配ひとつで戦争が起こりかねないきわどい状況にある。

 そのせいか、ほんの数ヵ月前までは普通の学生だった古城は若干浮いてさえいる。

 ほかに乗船している人々は、ニュースなどで見かける顔が多く、大物政治家や経済界の重鎮、政府や絃神市の要人たち、そして、首輪を付けた執事がひとり―――

 

「うまうま。はぐはぐ」

 

 バイキング形式で並べられた豪華な料理の数々。それを端から片っ端に空にしていく大食。その喰いっぷりは気持ちのいいもので、会場に集う偉そうな大人たちはひとつのショーのように指を指し、酒の肴にして隣と談笑しながら観戦してる。

 

「なんで、クロウがいるんだ?」

 

 こんな社交界でも己を貫いてる後輩の勇姿?に、一先輩として肩身が狭くなるような思いをする古城。雪菜もクラスメイトとして恥ずかしそうに顔を赤らめている。

 

「んぐ―――あ、古城君。姫柊。待ってたのだ」

 

 料理を味わっていても、しっかりこちらの“匂い”を察知したらしい。

 手を止め、ごっくんと口の中のものを呑みこんでから、声をかける。正直、あまり目立ちたくはなかった古城はできればご指名を無視したいところだが、こんなところで知り合いを放置する方が不安だ。

 やれやれ、と溜息をついてから、古城は後輩の下へ。

 

「おい、クロウ。どうしてお前がこんな吸血鬼がらみのパーティに参加してんだ」

 

「ひょっとして、南宮先生もここに……」

 

「ご主人はここにはいないぞ。オレも招待状をもらったのだ」

 

「何? クロウもか?」

 

「そうだぞ。それで、古城君も参加するって聞いたから、来たんだ。ご主人から姫柊と一緒に古城君の御守をしろと言われてるしな」

 

「おいおい。どちらかというと俺の方が御守することになると思うんだが、那月ちゃん」

 

 隣にいる監視役と言い、そんなに年下の後輩に面倒を見させなければいけないくらいだと自分は思われているのだろうか。

 これまで気にしたことがなかったけど、先輩としての格が心配になってくる。

 

「で……俺たちを呼びつけた張本人、そうだな、この中で一番強い“匂い”を放ってるのはどこにいる?」

 

 会場内を見回しながら古城は、後輩にわかりやすいよう言葉を選んで問う。

 会場になっている広間は船の中とは思えないほど広大で、その中から名前しか知らない第一真祖の使者を見つけるのは骨が折れる。

 だがその一方で、乗船した時から、古城は奇妙な感覚を覚えていた。

 バスケの試合、今日のバドミントンの試合が始まる直前の昂ぶりによく似たこれは、恐怖と歓喜、危機感と高揚感が一体となったような心地よい緊張感。

 おそらく、古城の中の『世界最強の吸血鬼』の“血”が、すぐ近くに強大な力を持つ同胞に勘付いて、騒いでいるのだろう。

 

「上にいるぞ。あそこに古城君と負けないくらい“濃い血”の匂いがする。こっちを見てるのだ」

 

「はい。アルデアル公は外のアッパーデッキに」

 

 直感に優れた2人の後輩の同意見に、古城は己が昂ぶりは空回りしてるものではないことを知る。

 そして、混雑する広間の隅には階段があり、そこへ導くよう雪菜が手を伸ばして―――その真横から殺気を伴った銀色の光が古城へまっすぐ伸びた。

 

「―――せいっ!」

「――――ほっ!」

 

「うおっ!?」

 

 咄嗟に跳び退いた古城の眼前を、鋭く研ぎ澄まされたフォークの先端が静止してる。

 

 横を見れば、そこに物的証拠となる凶器(フォーク)の柄を白手袋に包んだ指で挟んで止めた後輩と、それを手にしてる現行犯の少女。長い栗色の髪に、白い肌。人目を惹きつける優美な顔立ち。170cm近くあるすらりとしたモデル体型で、チャイナドレス風の衣装がよく似合っている。

 その下手人は、ちっと小さく舌打ちし、

 

「失礼。つい、手が滑ってしまったわ」

 

「む。そうなのか。気を付けるのだ」

 

 反省の色が全くない謝罪をあっさり受け入れてしまう後輩。古城は頬を引くつかせながら、

 

「どう滑ったら、フォークを他人の腕に向かって振り下ろそうとするのか、ぜひ教えて欲しんだが……てか、なんか今、掛け声っぽいものも叫んでたよな!?」

 

「あなたが、下劣な性欲を剥き出しにした手で、雪菜に触れようとするからよ、暁古城」

 

 どこか出会ったばかりの雪菜と雰囲気が似ていて、それがより攻撃的になったような少女。少しでも隙を見せたら、確実に仕留めにかかりそうだ。

 雪菜と、古城の名前を知ってることから、十中八九は、

 

「―――紗矢華さん!?」

 

「雪菜!」

 

 獅子王機関の関係者だろう。

 睨みあう両者の間に、雪菜が割って入った途端、長い髪の少女は相好を崩し、彼女に抱きついた。先まであった殺意の波動などあっさり霧散してしまっていて、犬の尻尾のように揺れる後ろ髪からは、喜びいっぱいしか伝わらない。

 

「久しぶりね、雪菜。元気だった?」

 

「は、はい」

 

 離れ離れとなった姉妹同士の再会のよう。

 突然の再会に喜びこそすれ、戸惑いの強い雪菜を他所に、くっついてもう離れないくらい少女の頬をその首筋にぐりぐりと擦り付けながら、

 

「ああ、雪菜、雪菜、雪菜っ……! 私がいない間に高神の社から転校したって聞いて心配したのよもう! でも、聞いたわ。最初は戸惑ってたようだけど、新しいところでもちゃんとやってるのね。流石、雪菜。クラスの皆から姫と呼ばれて、そんなの当然だけど。それに、友達もできたみたいだし。可愛い女の子なんでしょ、ふふふ。紹介してね」

 

「あ、あの……紗矢華さん……!? どうして……もしかして、クロウ君?」

 

「うん。煌坂は、姫柊のお姉さんだからな」

 

 きっと悪気はなく、クラスの様子を話したのだろう。

 だけど、お姫様的な立ち位置にいることは知り合いには隠しておきたかった。

 

「でも、<第四真祖>なんかの監視任務を押しつけられて可哀想に! 獅子王機関執行部も私の雪菜になんてむごい仕打ちをするのかしら!

 けれど、もう安心していいのよ。この変態真祖があなたに指一本でも触れる前に、私が即座に抹殺するわ。生命活動的な意味でも社会的な意味でも―――」

 

「おい。誰が変態だ!」

「―――古城君。ダメなのだ」

 

 雪菜に夢中で隙だらけな紗矢華の後頭部に、古城はチョップを叩き込もうとし―――後輩に止められた。気づいて、きゃっと悲鳴を上げて紗矢華が怯えたように後ずさり、そこでぱっと古城の腕からクロウは手を放す。

 その紗矢華を庇った後輩の行動に、雪菜は少し驚いたように瞬きして、古城は訝しむ。そして、キッと紗矢華は古城を睨み、

 

「何触ろうとしてるのよ、ド変態真祖! 私と雪菜の感動の再会を邪魔しないでちょうだい」

 

「邪魔したのはおまえだろうがっ!」

 

「怒鳴らないでよ唾が飛んできたじゃない。気持ち悪い。そっちはそこの後輩の面倒でも見てなさい。ちょっとでも目を離すと何かやらかすから面倒見るのが大変だったのよ!」

 

 荒々しく息を吐きながら、こちらにフォークを突き付ける。

 なんて失礼な女だ、と憤慨した古城だが、そこでようやく思い出す。

 これは乗船する前、雪菜の髪飾りにふと古城が目についた時、煌坂紗矢華という元ルームメイトからもらったものだと教えてもらったのだ。

 

「となると、コイツが姫柊の元ルームメイトだったっつう……」

 

「煌坂紗矢華。獅子王機関の舞威姫よ、あほつき古城」

 

「あ・か・つ・き、だ! わざとらしく言い間違えんな!

 ったく、んで、舞威姫ってなんだ? 剣巫とは違うのか?」

 

 まともに相手するのがこの短時間でうんざりしたのか、古城は話が通じそうで、事情を知ってそうな雪菜に質問する。

 

「どちらも同じ攻魔師ですけど、修めている業が違うんです」

 

「そう、舞威姫の真髄は呪詛と暗殺。つまり、あなたのような雪菜に付き纏う変態を抹殺するのが私の使命よ」

 

「付き纏ってねぇよ! どちらかというと、付き纏われているのは俺の方だ!」

 

「何勝ち誇ってるのよ!? 別に羨ましくなんかないんだけど!」

 

「羨ましがらせようと思って言ってんじゃねぇよ!」

 

 互いに激昂しながら睨み合う年上二人。それを眺めてて、仲裁する気のないクラスメイト。自分しかいないこの状況に雪菜は額に手を当てながら、紗矢華に問い掛ける。

 

「それで、どうして紗矢華さんが? 外事課で多国籍魔導犯罪を担当していたんですよね?」

 

「ええ、そうよ。だから、この島には任務で来てるの」

 

 古城とは180度違う、優しい姉の口調で紗矢華は事情を話す。

 雪菜が暁古城――<第四真祖>の監視役として絃神島に来たように、アルデアル公――<蛇遣い>が絃神市民に危害を加えないよう監視するのが今回の任務であると。そんなわけで、アルデアル公の代わりに招待状の手紙を届けたりもしていたとか。

 ……いきなり古城をフォークで刺そうとしたり、その脳天に矢文を食らわそうとしたのは仕事ではなく、私怨から働いたものであるが。

 

「クロウ君とお知り合いのようですが……大丈夫ですか」

 

「ちょっと色々とあったのよ。それで仕方なく付き合ってるというか、でも、大丈夫よ雪菜。コイツ、どこかの第四真祖のように邪な下心とかないし、男というより子供っていうか、犬っぽいから」

 

「納得です。先輩のようにいやらしさはないですよね」

 

「お前らな……」

 

 と不意に曇らせた紗矢華は、雪菜に小声で耳打ちする。

 

「(ねぇ、雪菜。さっきも言ったけど、凪沙ちゃん、って子、紹介してもらえないかしら)」

 

「(え、凪沙ちゃんですか。どうして紗矢華さんが……)」

 

「(その、招待状(てがみ)を渡すところを見られちゃって、それで変に誤解させちゃったみたいというか、ね……)」

 

「(ああ、それで……)」

 

 出かける際も、お喋り好きな妹がずっと生返事ばかりで様子がおかしかったと先輩が言っていたが、なるほどこれが原因だったのか。

 こちらの事情を誤魔化すには都合がよかったけれど、雪菜もその話を聞いて友人の心配していた。

 

「(ホント、私でも何言ってるかわからないと思うけど、大変だったのよ!)」

 

「(いえ、わかります紗矢華さん)」

 

 強く同意する雪菜。雪菜もまた同じような場面に遭遇してしまい、紗矢華と同じように誤解を招いてしまった。あれほど対処に困らされることはそうない。

 

「おい、内緒話なんかしてないで、さっさと案内してくれ」

 

「うっさいわね。お望み通り、さっさとあの世に連れてってあげるから、とっとと死になさい変態真祖」

 

「死ぬかっ!」

 

 そうして、案内役を任された紗矢華を先頭に、古城たちは階段を上る。

 紗矢華の後ろにクロウがついて、古城を挟んで、雪菜が最後尾を取る。

 後輩たちに守られている陣形だが、それも仕方がない。

 『戦王領域』の貴族。真祖直系の子孫たる純血の吸血鬼。第一真祖に及ばずとも、それに近い戦闘能力を持っている―――つまり、全開の<第四真祖>でなければ相手にならない実力者。

 血は継いでいても、十二の眷獣のうち一体しか従えていない不完全な<第四真祖>の古城では、太刀打ちできない相手だろう。

 

 不安と困惑を覚えながら、古城は船の上甲板に出る。

 漆黒の海と夜空を背景にして、広大なデッキにひとりの男が立っていた。

 純白のスーツを纏った眉目秀麗の青年。長身であるも、筋肉質ではなく細身。圧倒されるような威圧感もなく、先の紗矢華のような殺気じみたものも感じられない。

 だけど、騒ぐ古城の血が、この相手が強者だ、と告げている。

 たとえその見た目が二十代前半の若者であろうと、『旧き世代』、その外見年齢の何倍もの長い時間を生きている怪物だ。

 そして、青年が漆黒の景色からこちらへ碧い瞳の視線を移した―――瞬間、

 

 

「―――先輩!」

 

 

 青年の全身が純白の光に包まれ、光り輝く炎の蛇の眷獣が顕現する。

 雪菜が手にした楽器ケースから<雪霞狼>の銀槍を引き抜き、古城の前に出る。紗矢華も雪菜を庇うように彼女の前に出た。

 だが、その瞬きほどの刹那に反応した機敏さを以てしても、純白の閃光は防げない。

 流星の如き速度で撃ち放たれた灼熱の眷獣に古城はまったく反応できず、

 

「ぐお……っ……!」

 

 反射的に、古城の全身から眩い雷光が放たれて、その稲妻が炎の蛇を撃墜した。

 たとえ不完全であろうと、一体であろうと、その力は災厄に等しき<焔光の夜伯(カレイド・ブラッド)>の眷獣。

 古城が唯一主と認められている<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>の雷槌は、貴族が力の片鱗たる純白の炎蛇と相殺し、役目を終えて、住処たる古城の血に戻った。

 

「あ……ぶねぇ! なんだこれっ!?」

 

 眷獣同士が消滅しても、甲板や大気にその爪痕や残滓は残り、巨大な魔力同士の激突の余韻から、我に返った古城が呻いていると、白のコートの男から疎らな拍手が送られる。

 古城に攻撃を仕掛けておきながら、それを防がれたことを、喜んでいるようにも取れる表情を浮かべており、

 

「いやいや、お見事。やはり―――」

 

 緊張感のないのんびりとした声で、賛辞を贈る男が、不意に止まる。

 そう、雪菜よりも早く反応し、先に行動していたクロウがその男のこめかみに手刀に伸ばした爪先を突き付けていた。

 いや、寸前で止められていなければ、脳髄を抉り抜いていたのかもしれない。

 

「<炎網回廊(ネフイラ・イグニス)>!」

 

 その蜘蛛の糸が絡めるように、主に手を向けるクロウの周囲を覆い尽くしていた。

 デッキの奥、その影となるところに、その陰に顔を隠してる人影と、その足元に美しく輝く琥珀色の蜘蛛がいた。

 溶岩の肉体を持つ蜘蛛の眷獣。その放つ糸は濃密な魔力が具現化した灼熱の溶岩であり、それが美しい幾何学模様の陣となって、完全に包囲されている以上、空間制御も使えず、指一本も動かせない。すれば、絡みつく溶岩が一瞬で主に害を及ぼす敵を焼き尽くす。その蜘蛛の糸が絡めるように、主に手を向けるクロウの周囲を覆い尽くしていた。

 

「一度だけ警告します。その手を下げて、閣下から離れなさい」

 

 貴族の側近と思われる吸血鬼から冷たい声が飛ぶ。

 たとえ蘇るのだとしても、目の前で愛しき主を手にかけることは許さない。

 それに、その戦場慣れした吸血鬼の本能が警告を発している。コイツの爪は閣下に届きうるかもしれない、と。

 そして、もう一つの影が腕を頭上に掲げて、

 

「キラ、やめるんだ。トビアスも下がりなさい」

 

 そんな自身の命をも賭けにする、生死をかけた緊張感さえ、この上ない催し物のように青年は無邪気な笑みを浮かべている。

 

「ですが」

 

「悪いのはこっちの方だ。それに、彼はボクに手を出したりしないよ。その目を見ればわかる」

 

 自分が殺されなかった理由は、その憎悪も恐怖も、そして殺意もない目を見ればわかる。

 たとえ灼熱の溶岩をその身に浴びようが、構わずその腕を振り抜いてしまえるだけの力はあっただろう。

 けれどそれはない。

 なぜなら、この相手はただ“やり返そうとしただけ”だ。

 だから、寸止めで止まっている。

 殺されかけたことに対しての反撃、ではない。

 これは殺すつもりで試した行為に対する、当然の仕返しとして。

 

「クロウ! 何してんだ早くこっちに戻れ!」

 

 主の命を聞き、側近が眷獣を消せば、クロウもまた手を降ろして先輩らの方へと後退する。

 そう。貴族の青年が殺されなかったのも、部下の静止や、その意志によるものではない。

 その機械的なまでの判断で、生死の天秤が吊り合うよう状況の差引を実行しただけ。

 炎の蛇が雷光の獅子に撃墜されるとわかっていなければ、この場にいる誰かが傷つくようならば、速やかに眷獣を消すのに最も効果的な手段として――宿主の吸血鬼たる貴族の青年を殺していた。

 

「こんなにもボクを誘惑してイケナイ子だ。危うく挨拶の前に浮気してしまうところだったよ」

 

 報復という万物が従う摂理は、この真祖に最も近いとされる青年にも適用されるものだとその行為は思い出させる。

 それは永久の生に飽いてしまう不老不死の吸血鬼には、左胸を押さえたくなるほどに愉快な文句だ。

 そうして、貴族の青年は、緊迫する古城の前で片膝を突き、恭しい貴族の礼をとった。

 

御身(おんみ)武威(ぶい)を検するが如き非礼な振舞い、衷心(ちゅうしん)よりお詫び申し(たてまつ)る。我が名はディミトリエ=ヴァトラー、我らが真祖、<忘却の戦王(ロストウォーロード)>よりアルデアル公位を(たまわ)りし者。今宵は御身の尊来(そんらい)をいただき恐悦の極み―――」

 

 あまりに見事な彼の口上に、古城がうろたえた。その掌返しに獅子王機関の剣巫と舞威姫も固まってしまう。

 古城は震える喉から振り絞ったような擦れた声で、

 

「あんたが、ディミトリエ=ヴァトラー……? 俺を呼び付けた張本人?」

 

「初めまして、と言っておこうか、暁古城。いや、<焔光の夜伯>――我が愛しの第四真祖よ!」

 

 親しみと計算と、そしてこの上ない愛情をこめた微笑を捧げるよう、ヴァトラーは古城を見つめ、そして抱擁を受け入れ易いよう、大きく両腕を広げた。

 

「……はい?」

 

 古城ができたのは、しばらくそこに立ち尽くすことだけだった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――挨拶代わりとはいえ傷もつけることができなかったとはさっきの気配、<獅子の黄金>だね……ふゥん、普通の人間が<第四真租>を喰ったって噂、あながち間違いじゃなかったわけだ」

 

「……<獅子の黄金>を知っているのか……?」

 

 あれだけのことがあって、あれだけのことをして、なお無邪気な笑みを浮かべる貴族の吸血鬼に、古城は戸惑いを禁じ得ず、警戒も解くことはできない。

 とはいえ、向こうが側近を下がらせた以上は、こちらも後輩二人より前に出て対峙する。

 

「<焔光の夜伯>アヴローラ=フロレスティーナの五番目の眷獣だろ。制御の難しい暴れ者と聞いてたけど、うまく手懐けているじゃないか。よっぽど、霊媒の血がよかったんだな」

 

 淡々と告げられるヴァトラーの言葉に、古城は無言で顔をしかめた。

 古城は、先代の第四真租に関する記憶が断片的なものしかなく、それも思い出そうとするだけで耐え難いほどの頭痛まで呼び起こしてしまう。『アヴローラ=フロレスティーナ』という名を耳にするだけで容易に古城の精神をかき乱される。

 

「あんたとアヴローラ……どういう関係なんだ?」

 

 <第四真祖>の眷獣に対する知識と言い、この貴族は知っているのだろう。

 原因不明の激しい頭痛を堪えながら古城は、ヴァトラーに問う。

 すると、ヴァトラーは芝居がかった仕草で胸に掌を当て、懐かしげに眼を細めた。

 

「最初に言わなかったっけ? ボクは彼女を愛しているんだ。永遠の愛を誓ったんだよ」

 

 ヴァトラーは、第一真祖の一族だ。血族として第四真祖とは関わりのない。だが、そんなのは関係ない。ヴァトラーが求めるのは、血の繋がりではなく、その血の強さ。

 

「そう、“血”が強ければいいのさ。先祖が誰だろうが人種が何だろうが無関係に、強い血族が生き残る。そんなわけで仲良く愛を語らおうじゃないか、暁古城」

 

 その時、古城は冗談ではない寒気を背筋に覚えた。

 

「待て待て待てっ、なんでそうなる!? お前が愛を誓った相手は、アヴローラじゃないのかよ!?」

 

「だけど彼女はもういない。きみが彼女を食ったんだろう?

 ―――だからボクは、彼女の“血”を受け継いだきみに愛を捧げる。彼女に永遠の愛を誓ったボクとしては、当然の行動じゃないか」

 

「その理屈がおかしいって言ってんだよ! 血筋が同じなら何でもいいのかよ!?」

 

「もちろんそうだよ。きみが<第四真祖>の力を受け継いだということは、つまりは彼女がきみを認めたということだ。それに比べれば、ボクたちが男同士だという事実なんて些細なことだよ」

 

「些細じゃねぇーよ! そこは重大な問題だから、あと、その舌使いはやめろ!」

 

 と青年貴族のアヤシイ誘惑に半狂乱になる古城が怒鳴ったところで、雪菜が前に出た。

 吸血鬼同士の会話に人間が割り込むなど相当な度胸がなくてはできないが、そこは獅子王機関から派遣された監視役。

 ヴァトラーもその勇気と、<第四真祖>を呼び覚ますために霊媒の血を捧げた『血の伴侶』候補、いわば、恋敵に敬意を表して(吸血行為の事実が暴露された時、もう一人の監視役から凄まじい殺気が古城に向けられたが)、特別に問いを投げかけることを許された。

 

貴公(あなた)が絃神市を来訪された目的についてお聞かせください」

 

 そうやって第四真祖といかがわしい縁を結ぶことを目的とした、いわば私情で政治を動かしたのですか、と言外に咎めるような意を込めて、雪菜が問い掛けるも、ヴァトラーは笑みを崩さず、むしろより深める。

 

「ああ、そうか。忘れていたな。本題はべつにある。 もちろん、そっちも本気だけどね」

 

「冗談じゃねぇのかよ」

 

 うんざりとする古城。雪菜はより攻撃的な気配を鋭くし、追及を緩めるつもりは、その眼光を見ればわかるだろう。百戦錬磨が相手だろうと、霊視霊感と直感に優れる剣巫にごまかしは通用しない。

 

「本題というのは……?」

 

「ちょっとした根回しってやつだよ。この魔族特区が<第四真祖>の領地だというなら、まずは挨拶をしとこうと思ってね。同時に<空隙の魔女>の拠点でもあるし。なにせ、もしかしたら、迷惑をかけるかもしれないからねェ」

 

「―――迷惑とは、どういうことですか?」

 

「クリストフ=ガルドシュという男は知っているかい、古城?」

 

「いや? 誰だ?」

 

 首を振る古城に、一瞬誘導するようにクロウへ流し目を送って、ヴァトラーは言う。

 

「『戦王領域』出身の元軍人で、欧州では少しばかり名を知られたテロリストさ。黒死皇派という過激派グループの幹部で、10年ほど前のプラハ国立劇場占拠事件を起こした犯人のひとり」

 

 それは、うろ覚えながらも古城の記憶にもある。

 民間人に400人以上の死傷者を出した、と当時小学生だった古城も注目してたほどの大事件だった。

 だが、

 

「黒死皇派は、もう何年も前に壊滅したんじゃなかったか。確か指導者が暗殺されて―――」

 

 そう、言っていた。

 あのキーストーンゲート襲撃事件で、ロタリンギアの殲教師が、『<黒死皇>は、<蛇遣い>に暗殺された』と。

 

「そう、ボクが殺した。少々厄介な特技を持った獣人の爺さんだったけどね。もう半世紀以上前に最盛期(しゅん)を過ぎちゃってたみたいだけど、腐っててもウマかったよ」

 

 そして、その<黒死皇>の血を継いでいる『黒』シリーズが。

 

「この子、古城はまだ唾をつけてないんだろ?」

 

「同性愛者のお前と一緒にするな!」

 

 吸血種の吸血衝動は、性欲から生じるものだ。

 アスタルテのときは、雪菜を当て馬にしてどうにか吸血衝動を呼び起こしたが、男相手となれば誰を当て馬にしようがそんな気の迷いは起きないと断言する。

 

「もったいない。まだ青いけど、こんな美味しそうなのに」

 

 ぺろりと唇を舌でなめて、細めた目で古城の後ろに立つ南宮クロウを見る。

 

「どうだい? この<洋上の墓場(オシアナス・グレイヴ)>の『墓守』に――つまり、ボクたちの『血の従者』にならないカ。キミはもっと強くなれるヨ」

 

「俺の後輩にふざけた勧誘してんじゃねぇぞ」

 

「この子の“血”――資質は知ってる。言っただろ? <黒死皇>の爺さんを殺したのはボクだからね。なれるんだろう、君も獣人よりさらに上の段階―――」

 

 <神獣化>。

 それは命を削る禁じ手であり、だが、古城がアスタルテにしたように、吸血鬼から無限の生命力を貸し与えられれば、その制限はなくなる。

 

 ヴァトラーが求めるのは、強さ。

 己の血で強くなるのだというのならば、与えてやっても構わない。

 

「ご主人からもしも<蛇遣い>の軽薄男にあったら伝えるようにと言われたことがある」

 

「なんだい?」

 

 先から警戒心を強め、口数が減るほど相手の挙動を観察していたクロウが、淡々とその伝言を口にする。

 

「『私の眷獣(イヌ)に、“狂犬病”をうつすな』」

 

 流石は唯我独尊の高貴なる担任様だ。その弁舌はこの貴族の吸血鬼相手でも怯むものではないらしい。それをそのまま口にしてしまう使い魔たる後輩もそうだが。

 

「俺はご主人の眷獣だ。オマエのにならないぞ」

 

「なるほど。<空隙の魔女>はなかなかよく躾けてるようだ、残念」

 

 と肩をすくめて、古城――<第四真祖>に対するものほどの執着を見せることなく話を戻す。

 

「ガルドシュは、その黒死皇派の生き残りだ。正確には、黒死皇派の残党たちが、新たな指導者としてガルドシュを雇ったんだ。 テロリストとしての実歴と、古参の(ツワモノ)として圧倒的な実力を持つ彼をね」

 

「ちょっと待て。 あんたが絃神島に来た理由に、そのガルドシュって男が関係してるのか?」

 

 黒死皇派は差別的な獣人優位集団だ。その目的は聖域条約の完全破棄と、『戦王領域』の支配権を第一真祖から奪うことだ。

 そして、ヴァトラーは第一真祖に連なる上位者。

 古城の察しの良さに、ヴァトラーは感心したように頷いて、

 

「そのとおりだ。ガルドシュが、黒死皇派の部下たちを連れて、この島に潜入したという情報があった」

 

 しかし、欧州の過激派が、なぜわざわざこの島に―――と古城はすぐその理由に思い立ったが、それは。

 

「オレのせいか」

 

 古城が躊躇ったそれを、クロウは己から口にする。

 『黒』シリーズの最終の九番個体にして、唯一の生存例、黒狼(クロウ)

 <黒死皇>の血が流れるこの後輩は、そのテロリストたちには無視できない存在だろう。

 つまり、テロリストを絃神島に招いてしまったのは……

 

「さあね……全く何を考えてるんだか。ただ、<黒死皇>とそのガルドシュは盟友だったそうだよ。古城とボクのようにね」

 

「っざけんな! あんたは<第四真祖>、ガルドシュは<黒死皇>にしか興味がないんだろ。ただ血が同じだけで、俺やクロウを一緒にするんじゃねぇ!」

 

「……古城君」

 

 古城が犬歯を見せて訴えるが、ヴァトラーは片目を瞑って、

 

「何にしてもガルドシュに襲われたら、応戦してもおかしくないよねェ。自衛権として当然の行為だよ。ただ、ボクの眷獣たちは、細かな作業が苦手だから、ガルドシュひとり葬るのに、街ごと焼き払ったりするだろう。それに黒死皇派の悲願が叶う兵器がこの絃神島にあるというから、最悪、黒死皇派の残党を抹殺するためにこの島が沈んでもらう事態になるかもネ。だから、きみには最初に謝っておくよ」

 

 その時になって、古城はこの男の目的を理解する。

 

「あんたが絃神島に来たのは、テロリストを挑発しておびき出すのが目的か。そして、正当防衛を盾に()り合おうってことか」

 

 ヴァトラーは<黒死皇>を暗殺した、いわばテロリストたちの仇敵だ。

 それが潜伏していると思われる絃神島に、ド派手な船舶でやってきたのだ。挑発と変わらない。

 

「いやいや、どちらかと言えば愛しいきみに会うのが目的だヨ。この街の攻魔師たちがガルドシュを捕まえてくれれば文句はない。手間が省けていいよねェ」

 

 ヴァトラーを止める術はない。

 古城が第四真祖の力を使って止めようとしても、その余波だけで街が壊滅しかねない。

 またテロリストへの正当防衛を主張されれば、獅子王機関もヴァトラーに手を出すことはできず、かといってテロリストに狙われているからという理由で絃神島から外交使節を退去させることもできない。

 そんな八方塞の状況で、絶望を覚え始めた古城の前に、後輩が立つ。

 

 

「―――わかった。オレがテロリストをブッ飛ばす」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――待ちなさい、南宮クロウ」

 

 

 クロウの宣言に、最初に待ったをかけたのは、先輩の古城でも、同級の雪菜でもなく、獅子王機関の舞威姫――煌坂紗矢華。

 その手にした黒のキーボードケースから、戦闘機の主翼を思わせる、流麗な長剣を取り出す。刃渡りは120cmほど。刀身は分厚く、直線的な接合ラインが模様のように浮き上がっている。陽光に反射して銀色に輝くその姿は、雪菜の<雪霞狼>によく似ている。

 

「それは、『第六式重装降魔弓(デア・フライシユツツ)』――<煌華麟>! 紗矢華さんまさか―――!」

 

 雪菜の持つ『第七式突撃降魔機槍』と同じく、“魔族を討伐するための”獅子王機関の武神具。

 それを古城の前で、後輩に向ける。

 いったいそれがどんな意味なのか、古城はしばらく理解できなかった。やがて頭が正常に働き、その相手に直接意図を問う。

 

「おい、何するつもりだ煌坂」

 

「決まってるでしょ、暁古城。あなたの後輩は、<黒死皇>の血を継いでいるということが確かなら、テロリストの狙いである可能性がある以上、その身柄は獅子王機関が拘束させてもらう。もしそれに抵抗し、暴れるようなら、舞威姫としての実力を行使させてもらうわ」

 

 無表情のまま静かに告げられた紗矢華の言葉に、古城、そして、雪菜が目を見開かせる。そして、ヴァトラーは両目を薄らと陽炎のように揺らめかせて、この催し(イベント)に口角を吊り上げる。

 

「紗矢華さん、彼は決して黒死皇派と繋がってるようなことは」

 

「でも、彼の身柄をエサにすれば、ガルドシュが釣れるかもしれないでしょう。最悪、ここで殺してしまえば、黒死皇派の目的のひとつが潰れたことになるでしょうね。

 それに、雪菜。あなた、<黒死皇>の血縁者のことを獅子王機関に報告しなかったわね」

 

「それは……!」

 

「彼にもう情を抱いてる雪菜に冷静な判断は期待できない。だから、私の独断で決めさせてもらうわ。客観的に見て、第二の<黒死皇>となる可能性はゼロではないの」

 

 そこにいるのは、雪菜が慕う元ルームメイトではなく、攻魔師の先達者。

 弓矢を射るときのように、目を細めた厳しい視線を向けて反論を封殺するよう差し射抜く。

 

「ええ、雪菜に任じられた監視役はそこの暁古城・<第四真祖>よ。でも、獅子王機関は魔導テロを未然に防ぐためにあるの。起こってからでは遅い。少しでも芽があるのなら、それは刈り取らなければならない」

 

「じゃあ、ヴァトラーはどうなんだ! そいつは絃神島をぶっ潰しても構わないと言ってんだろ! なのに、それを放置させておいて、クロウは別かよ!」

 

「舐めないでちょうだい。私はアルデアル公の監視役。つまり、アルデアル公を討ち滅ぼす権利が与えられている」

 

 監視役。

 <第四真祖>を討伐することができると判断された雪菜と同じく、

 それは、獅子王機関が、彼女にヴァトラーを討伐できるだけの実力があると認められていることになる。

 

「ただ、アルデアル公は『戦王領域』からの正式な外交使節よ。政治的にそう手は出せないわ」

 

「結局、自分たちに都合のいいようにしか考えてねぇんだろうが」

 

「そうね。言い訳はしない」

 

 ふざけるな!

 古城は己の眷獣を用いてでも、紗矢華を止めようとし―――そこへ、ヴァトラーが口を挟む。

 

「獅子王機関の剣巫。きみが監視役ならここは古城を止めるべきじゃないのかい?」

 

「なにを……っ!」

 

「だって、ここは、ボクの船だヨ。うちの真祖(じいさん)、聖域条約の締結に貢献した第一真祖と交渉するに重要な外交使節の拠点だ。そんなところで、不安定な第四真祖が暴れるようなら、君たち獅子王機関は困ったことになるんじゃないカ」

 

 存在だけで戦争級の脅威とみなされる真祖。

 その人間と魔族の不可侵条約が破棄されかねない混乱を未然に防ぐために派遣されたのが……

 ヴァトラーの言葉に、雪菜は反論できない。

 

「そうしないようにするのが、監視役の役目なんだと思うんだけど、どうかなァ」

 

「っ」

 

 返答はせず、けれど、雪菜は取り出した真祖をも殺せる銀槍――<雪霞狼>を構えて、古城の前に立った。

 

「ヴァトラー、おまえ……っ!」

 

「邪魔をしちゃダメだよ古城。それに、獅子王機関の舞威姫の実力が見れるいい機会じゃないカ」

 

 そこでヴァトラーは片手をあげ、控えている側近たちにBGMを要求。それに応じて流れ始めたのは、吹き荒れる嵐のような曲。

 その激しい旋律はそれだけで心音を乱してきて、正常な判断をさせなくさせる。

 

「っ! ―――姫柊……っ」

 

「先輩。お願いです、抑えてください。クロウさんも、大人しく捕まってくだされば、紗矢華さんは手荒な真似はしないはずです」

 

 そうして、舞威姫と剣巫、二人の捕縛要求に、南宮クロウは、その執事服につけられた白手袋を外し、

 

 

「ごめん。それは断る」

 

 

 異変は、一瞬で終わった。

 錆びたような銅色の髪と褐色の肌はいぶした銀色の体毛に生え変わり、針金の如くそそり立つ。それとどうじに、犬歯は長く鋭い牙となり、手足の爪さえも常識を超えて肥大化した。

 獣化。

 獣人種がその野生を発揮するための形態。すなわち、戦闘するための変身。

 

「古城君。さっきの言葉、うれしかった。でも、やっぱり自分の血から逃げることはしちゃダメなんだと思う」

 

「クロウっ! だからって、お前は」

 

「だから、オレは自分の手で黒死皇派を止める。これはオレの戦争だ」

 

 あっさりと言い放った。

 この後輩を止めるには……っ。

 言葉に窮した古城が、せめて何事かを告げようと胸元へ手をやった。だがこれ以上の会話する時間は与えられなかった。

 

 

 

 月光を反射する銀の人狼に、舞威姫は、静かに長剣を構える。すでに相手の挙動に神経を集中させており、そして、それを言う。

 

「交渉決裂……残念ね」

 

 紗矢華は奥歯を噛む。

 斬る。

 人々を守るため、不可欠な犠牲であれば、それが雪菜のクラスメイトであろうと容赦しない。

 そういう風に思考を形成するために、いつもより数秒かかった。雪菜にも言ったが、こういった情に囚われぬよう切り離すことが、一番の難事であると紗矢華は思い知った。

 思考と感情を切り離す。

 ただ、障害を断つ。

 

「悪いが。さっきのように反撃をしないわけにはいかないぞ」

 

「おかまいなく。こちらも容赦するつもりはないから」

 

 舞威姫は、ひとつ、深呼吸して、

 

「それに、あなたのようなタイプにとって、私はきっと天敵よ」

 

 銀人狼は、その姿を消した。

 ヴァトラーの懐にさえ潜り込んだゼロから最高速へ至る急加速。彼が師事していた中国拳法は、その挙動を相手に見せないことを突き詰めていくものだ。達人となればその震脚は歩くのと変わらない自然さで、クロウも直前まで予備動作を悟らせないだけの技量はあった。

 

 だが、それが動く前に、紗矢華の行動は終わっていた。

 

 獅子王機関の舞威姫は、霊視によって一瞬先の未来を見て行動する。獣人種の移動速度よりも紗矢華の方が先手を打っているのだ。

 

辰星(しんしょう)歳刑(さいけい)!」

 

 その限度を超えた呪的身体強化で、瞬間的にだが、獣人種の脚力を上回る爆発的な加速。

 

「私の<煌華麟>の能力はふたつ―――そのうちひとつは物理衝撃の遮断」

 

 紗矢華の剣が切り裂くのは物質ではなく、それを支える空間の繋がりだ。

 どれだけ速い攻撃も、

 どれだけ強い衝撃も、

 空間の断層を超えてダメージを与えることはできない。<煌華麟>が薙いだ空間は、その一瞬だけ、絶対無敵の防御障壁と化すのだ。

 

 クロウが逃げようとした地点より先回りし、その眼前に見えない壁で進路を阻む。

 

「そしてあらゆる衝撃を防ぐ障壁は、すなわちこの世で最も堅牢な刃も同然。私の剣舞に斬れないものはない―――!」

 

 真っ向から振り落とされる長剣に、盾に構えたその強靭な爪。

 生体障壁でコーティングされ、一層に強化された鉤爪は鋼鉄の壁だろうと掘削し、砲弾が直撃しようと砕けない。

 

「―――」

 

 噴き出る血しぶきを、他人のもののように銀人狼は見た。

 次の瞬間、防御したはずの十指の爪が砕かれて、胴体が縦に寸断されたかという激痛。

 止まらず、舞威姫がさらに迫る。

 次は横薙ぎ。

 今度こそ、回避も防御もならぬ渾身の一撃。いかな獣人の身体とて、その剣の前には容易く両断されよう。

 

(そう、あなたは雪菜が犯してしまった失点のひとつ。だけど、ここで私が切り払えばそれもなかったことになる!)

 

 あの子は優しいから―――だから、自分は躊躇わない。

 少なくとも人のカタチをした―――していたモノを殺すことについても、少女は最早葛藤しない。彼女の覚えた戦闘技術は、彼女の身に着けた戦闘技術は、そういうレベルに達している。

 だから、銀人狼は言う。

 

「オマエ、なんか無茶しすぎだ」

 

 空振った。

 その言葉に動揺して、紗矢華が目測を誤ったわけではない。

 床が急に持ち上がったのだ。

 

「!?」

 

 大きく、揺れる。

 豪華客船と呼ばれるクラスでは滅多にないことだったが、船である以上は揺れる。

 ただし、これは海の、波によるものではなくて、“ひとりの踏込によって起きた”揺れだ。

 中国武術の身体運用で、霊視にすら悟らせないその震脚。一歩も動かずして、立ったままに見せかけながら、しかと床を踏み抜いた。

 その人間にはかなわない人外の全力で。

 

 いくら舞威姫の呪的身体強化をしようと、足場が揺れていてはまともに動けない。

 それも相当無茶な強化なため、持続力はなく瞬発的にしか働かず、それも見事に不意を突かれた。

 

 そして、こちらは攻撃のための踏込は済んでいる。

 

「一回は、一回だ」

 

 銀人狼の掌打が、無防備な紗矢華の胸に放たれる。

 胸の中心に刺さった杭のような銀人狼の拳の痛みに、紗矢華の意識が消えかかる。

 そして、飛んだ。中身のない空気人形のように、自分の身体が飛んでいるのがわかる。

 空中に大きく打ち上げられて、紗矢華は背中から床に落ちた。

 そして、なお胸に残る拳の衝撃。

 

「っ、………!」

 

 満足な呼吸はできず、胸部が陥没したとしか思えない痛みに、視界が点滅する。

 目から火が出るとはまさしくこのこと。

 恐ろしく気の練り上げられた痛打は、数秒経ってもまったく薄れず。

 声も出せず無残にあえぐ紗矢華の胸には、今も拳大の、杭の感覚が残っている。

 

「紗矢華さんっ!」

 

 姉のように親しい元ルームメイトが打ちのめされて、雪菜に動揺が走る。

 剣巫としてではなく、元の少女としての顔が出る。

 これで、獅子王機関の包囲網は崩れた。それを逃さず、クロウは床を蹴って跳躍。阻む者はいない。古城は苦い顔をしてそれを見送り、ヴァトラーは楽しげな顔で拍手を送ってる。そのまま空中へ。高さは、およそ10m。空中で身を捻り、強風を受けながら頭から海へ垂直落下で飛び込んだ。

 

 

 

 その様子をデッキの下から見ていた人影は、大きく口元を歪め、

 

「あの状況で剣巫と舞威姫から逃げおおせるとは。流石は、我が盟友の血を引くだけのことはある」

 

 

 

つづく



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戦王の使者Ⅲ

教会

 

 

 学校の裏手にある丘の上に、小さな教会がひっそりと建っている。

 屋根に刻まれたそのレリーフは、2匹の蛇が絡みついた『伝令使の杖』と、西欧系の教会のシンボルではあまりお目にかかれないシンボル。

 おおよそ、築数十年ほどはあるか。罅割れた礼拝堂の壁には幾重にも蔓が絡まり、十字架も随分と傾いている。敷地は雑草が伸び放題で、ここが廃墟となってから幾年かの時が過ぎたのだろうと思われた。

 そんな教会の廃墟に、朝寝起きの悪い兄を、朝から出迎えに来てくれたひとつ上の友人に任せて、暁凪沙はひとり立ち寄っていた。

 立てつけの悪い――ところを先日、ある少年が直した――木製の扉を開けると、そこに、

 

「あれ?」

 

 十数匹の、猫。その幼い小さな猫は、今年度から別々のクラス分けとなってしまったが凪沙の友人の少女が拾ってきたもので、こうして時折、凪沙もその面倒を見るのを手伝っている。この教会に既に人は住んでいないけれど、割とこまめに猫たちの世話や清掃をしているので、それほど動物の臭いはしないくらい。

 

「もう、ご飯食べてる。……今日は夏音ちゃん来られないって言ってたはずなんだけど。誰が準備したのかな」

 

 しかし、子猫たちは凪沙の登場に気づかないくらい器いっぱいに盛られたキャットフードに夢中だ。きっと食べ盛りなんだろう。そうやって食欲旺盛なのは見ると気持ちのいいもので―――そう、あの少年も同じように食べてる姿は見るだけで幸せになりそうなくらいで……

 

「はぁ、アスタルテさん、綺麗だったなぁ」

 

 誰もいない教会だから、ついそんな言葉を漏らしてしまった。

 

「身長も高くてすらりとしてるし、スタイルもよくて、顔も美人さんだよね」

 

 髪型も同じポニーテイルだからか、凪沙の大人バージョンみたいなくらいの戦力。そう、まさしく子供と大人の戦力差。敵わない。

 

 ……とはいえ、少年が新しく入った“後輩”というからには明らかに年上のお姉さんというのは、おかしいと思うのだが。

 

「古城君もそうなんだけど、やっぱり男子ってああいうのがタイプなのかなぁ」

 

 兄が兄の友人と鑑賞していた(今はもう廃棄された)そういうグラビアの物を参照するとそうなるのか。

 

 でも、お姫様な雪菜ちゃんでもクラスの男子の中で唯一、普通に話しできるし、そういうのにはまだ興味がなさそうなのか。いや、それはそれで困るというか……

 

「はぁ……」

 

 いつごろからかはわからない。

 けれど、最初の印象は、恐怖で最悪に近いものだった。

 それから、警戒してなのか、それとも罪悪感からか、視界に入ればずっとそれを目で追っていて……気づけば、最初とは反転したものになってた。

 そして、昨日、女の子から手紙を受け取っていたのを見て、それを自覚した。

 

「人気があるんだよね、ホント」

 

 ああやって無邪気な様は、高等部の先輩お姉様方から、弟みたい、と可愛がられてて、そして学園にも彼に助けられた女子も割といるそうだからその方面からという噂を耳にしたことがある。

 いい人で、腕っぷしも強く、足も早い、ちょっとおバカだけど、それがいい、と。

 うん、古城君もだらしのないように見えるけど、元バスケ部エースの人気が根強いのか意外と結構人気があって、凪沙のクラスの中にも狙ってる子はいる。

 といっても、そこに強敵な2人の美少女が周りにいるから諦める子も多くて、で、その子たちは兄の後輩でついて回ってる彼に目を付けて……

 

「あーっ! もーうっ!」

 

 ぶんぶんと頭を振る凪沙。

 そこへ足元へ一匹の子猫がすり寄る。靴をひっかいてから、まるで先導するよう凪沙の前を歩く。

 

「どうしたの、って―――なに、これ、血!?」

 

 子猫が教会の椅子の下に潜り込んで、それを引っ張り出そうとしてる。

 執事服と思われる礼服。けれど、それはびしょ濡れで、大きく右肩から裂けており、そこから出血したと思しき赤い染みがついている。

 そして、凪沙にはそれがなぜか彼の着ていたものだと……

 

「クロウ君……」

 

 その傷跡を指でなぞり、凪沙は沈むように呟いた。

 

 

 

 廃墟となって吹き抜けた教会の窓に止まる一羽の鳥。

 

「……、」

 

 その視界から、中の様子を窺えて、少女の誰もいないところだからこそ吐露した呟きまで拾ってしまった。

 昨夜から、その剣に付いた血痕から位置を割り出す探索術式で追っていて、その終着に辿り着いたわけなのだが、

 

「これじゃあ、近寄れないじゃない。……ホント」

 

 

彩海学園

 

 

「………なるほど。それでまたあの馬鹿犬は帰ってこなくなったというわけか」

 

 パーティの翌日。

 彩海学園高等部後者の最上階にある校長室よりもランクの高い一教師の部屋に呼び出された暁古城と、それについてきた姫柊雪菜は、那月から昨夜のことを話すよう言われ、その一部始終を話した。

 聞き終わった後、回転式の革張りの高級椅子に深く腰かけていた那月は開いていた扇子を閉じ、不快げに鼻を鳴らす。

 

「<蛇遣い>の軽薄男め。本当に奴は余計な真似しかしないな。無論、それに良いように振り回されたお前らもお前らだが」

 

「クリストフ=ガルドシュって男の情報が知りたい」

 

 それを真面目な顔で古城が言い放った途端、さらに空気は威圧的なものになる。

 

 ヴァトラーが言っていた。

 絃神島の攻魔師たちも、黒死皇派を捕まえようとしていると。

 カリスマ教師でありながらこの絃神島で五指に入る攻魔師である南宮那月ならば何かしらの手掛かりをつかんでいるはずだ。

 

「ほう」

 

 ただし、それを教えてもらえるかは、その西洋人形のような見た目で放つには不条理すぎる息苦しいほどの圧迫感を覚えれば、難しいのがわかる。

 

「あいにく、“エサに使えそうな”馬鹿犬がどこかにいっていて困ってる。確か、斬り捨てられて海に落ちたと聞いてるんだが。なぁ、商売敵の転入生」

 

 皮肉を向けられ、雪菜が怯む。

 

 那月が彼の保護者であり、監督者。そして、そうと見せることはないが大事にしていることは、雪菜もわかっている。

 そもそも獅子王機関と国家攻魔師は仲が悪いのに、主たる自分に一言も入れず使い魔を殺傷さえ考慮に入れて捕縛しようとしたのだ。槍を直接向けなかったとはいえ雪菜もまた同罪だ。情報を渡してくれと頼んでも、拒まれるのがオチだろう。

 

 それでも、これ以上雪菜が圧されているのは見ていられず、古城が口を挟もうとしたとき、すっと頭を低くし。

 

「それについては大変申し訳なく思ってます」

 

「……つまり、獅子王機関が否を認めるのか?」

 

 一剣巫として頭を下げた雪菜に、那月は意外そうな表情で訊き返せば、はい、と首肯し、

 

「今回、我々は性急でした。もっと慎重に事を運ぶべきだったと今は後悔しております。紗矢華さん……舞威姫も、同じ意見です。

 ……ですが、アスデアル公と接触する前に黒死皇派の残党は確保しなければなりません」

 

 顔を上げ、端整な面立ちに、静かな決意を浮かべて雪菜は己の主張を展開する。

 

「これは、第四真祖の監視役としての判断です。第四真祖をテロリストと接触させるわけにはいきませんから。相手が真祖を殺そうとしているのなら、なおさら」

 

 抑揚のない硬い声で雪菜は言う。傍目には冷静そうに見えるが、それでも負い目に感じている節があるようにも古城は見える。なまじ生真面目な性格なだけに、責任を感じればそれを挽回しようと躍起になるというか、頑固になる。

 那月もまたおおよその事情は察している。黒死皇派の残党との戦闘になれば、<蛇遣い>は絃神島に甚大な被害が出ようが構わず、喜々として自分の眷獣を暴れさせる。雪菜はそれを止めたい、そして、黒死皇派の残党さえ捕まえれば、<黒死皇>の血を引いてるクラスメイトへの警戒も解ける、そう言っているのだ。

 だが、那月は瞑目し、口を開かず……と、

 

「アスタルテ―――そいつらに茶なんか出してやる必要はないぞ。もったいない。それよりも、私に新しい紅茶を頼む」

 

命令受託(アクセプト)

 

 停滞する沈黙の中、メイド服の少女が麦茶を運んできた。

 古城と雪菜も話には聞いていたけど、実際に会うのはあれから初めてだ。

 銀色のトレイを抱いて立っている藍色の髪の少女。ロタリンギアの殲教師が連れていた眷獣憑きの人工生命体(ホムンクルス)

 執事教育に失敗したご主人が忠実なメイドが欲しかったと、保護観察処分中のところを身元引受人になって引き取ったのだ。

 メイド服という珍妙な格好であるも、ケープ一枚よりは遥かにマシで、今も那月に命令されたとおりに紅茶の準備を始めている様は、無表情ながらどことなくやり甲斐みたいなものを感じてるようにも見える。

 と、

 

「意見。先輩の安否については問題ないかと思われます」

 

 先輩……つまり、那月の使い魔たるクロウのことだ。

 アスタルテは元々医療系の研究所で制作された人工生命体。治療に関する知識が医者と同等にあり、以前、重傷を負った南宮クロウの身体を診察し、その高い治癒能力を持った性質についても理解している。

 一太刀浴びせられて、夜の海に飛び込んだとしても、生存してる可能性は十分高い。

 

「アスタルテ。いつ私が馬鹿犬の心配をしていると言った?」

 

「否定。言ってません。ですが、教官が今手に取っているのは、紅茶ではなく、麦茶です」

 

 紅茶ではなく、先ほどアスタルテが運んできた麦茶を持っていることに那月は指摘されてようやく気付く。

 それに渋い顔で眉根を寄せる那月に、古城が、ぷっと思わず吹き出してしまい。

 

「那月ちゃん。心配してんなら無理に―――ぐおっ!?」

 

 頭蓋骨に衝撃を受けて、床に沈んだ。

 

「せ、先輩!?」

 

 ぐおおお、といつもより強めな強打に苦悶する古城を雪菜が慌てて抱き起す。

 そんな様子を冷え冷えとした目つきで那月は見下し、もう一度扇子を振るい―――ゴン、とより顔面をカーペットに埋めさせる。

 

「私のことを那月ちゃんと呼ぶなと言っているだろう。いい加減に学習しろ、暁古城」

 

 嘆息してから、じろりと雪菜を睨み、

 

「それと転校生。無駄だからやめておけ」

 

「南宮先生。それはガルドシュを捕まえても無駄だという意味ですか?」

 

 古城を気遣いながらも、雪菜が食い下がる。

 その生真面目さに観念したのか、那月は仕方なくといった調子で口を開く。

 

「捕まえても無駄とは言ってない。お前たちがそんなことする必要はないと言っているんだ」

 

「え?」

 

「黒死皇派どもはどうせなにもできん。少なくてもヴァトラーが相手ではな。 奴はあれでも、“真租に最も近い存在”と言われてる怪物だ」

 

「ですが、黒死皇派の悲願は、第一真租の抹殺だと聞いています。この絃神島には、彼らはそれを実現する手段があるのではないですか?」

 

 ヴァトラーが仄めかしていたが、第一真祖を討つことを目的に掲げた黒死皇派の悲願が叶うだけのものがこの絃神島に眠っており、それを手にすれば、真租に近い戦闘力を持つと言われている吸血鬼の貴族すら殺せるものではないのか。だが、それを理解してなお、那月は首を振った。

 

「そうだな。だから無駄なのさ。ガルドシュの目的は<ナラクヴェーラ>だ」

 

 その単語に聞き覚えのない雪菜、それに古城に、一応教師らしい口調で那月は説明する。

 

 <ナラクヴェーラ>

 南アジア、第九メヘルガル遺跡から発掘された先史文明の遺産のひとつ。かつて存在した、無数の都市や文明を滅ぼしたといわれる、神々の兵器。

 表向きは絃神島には存在しないということになっている―――が、実は『カノウ・アルケミカル』という会社で、遺跡から出土したサンプルの一体を非合法に輸入しており、それが秘密裏に強奪されて黒死皇派の手に渡っている。

 

「何が無駄なんだよ!? テロリストが下手すりゃ真祖をぶっ殺しちまうヤバい代物(シロモン)もってんだろ!?」

 

「9000年も前に造られた骨董品だ。お前は、なにを焦っているんだ?」

 

 起き上がって慌てふためく古城を眺めて、那月が蔑むように言う。

 

「奪われたのは、遺跡からの出土品だと言ったろ。とっくに干からびてガラクタだぞ。仮に動いたとしても、それをどうやって制御する気だ?」

 

「……制御する方法に心当たりがあったから、黒死皇派は、その古代兵器に目をつけたのではありませんか?」

 

 雪菜の冷静な指摘に、那月は少し愉快そうに口角を上げる。

 

「ふん、さすがにいいカンをしてるな、転校生。たしかに、<ナラクヴェーラ>を制御するための呪文だか術式だかを刻んだ石板が、最近になって発見されたらしい」

 

「だったら、やっぱりその兵器が使われる可能性があるってことなんじゃねーかよ」

 

「世界中の語言学者や魔術機関が寄ってたかって研究しても、解読の糸口すらつかめていない難解のブツだぞ。テロリスト如きが、ない知恵を振り絞った所でどうにもならんよ」

 

 不安げに唇を尖らせる古城を、那月がやる気のない口調でさらに言う。

 先日、石板の解読に協力していた研究員は捕まえた。そいつを吐かせれば、黒死皇派の残党は見つかるだろう。密入国した国際指名手配犯たちが、戦車並に馬鹿でかい骨董品を抱えて潜伏できる場所は限られており、特区警備隊は、今日明日にも黒死皇派を狩り出せると状況を見ている。

 それは、那月もほぼ同意見だ。

 

「とにかく、あの<蛇遣い>がなにを言ったところで、お前たちの出る幕はない」

 

 那月は、基本的に嘘はつかない。

 なぜならば、ウソや駆け引きというのは弱者が生き残るための手段であり、圧倒的な強者である那月にはいずれも不要なものだ。

 欺く者がいれば実力を以て報復し、

 行く手を阻む者がいれば敵味方関係なく粉砕する。

 それが唯我独尊の魔女のやり方であり、カリスマ性の源だ。ただの人間でありながら、古城よりもよっぽど真祖に近い存在だ。

 だから、これまでの情報に虚偽はなく、事実なのだ。

 

「強いて言えば、追い詰められた獣人どもの自爆テロに気をつけることだな」

 

 自爆は、テロリストに考えられるヴァトラーにダメージを与える数少ない手段だ。絃神島の住人――古城たちも、それに巻き込まれる可能性もけしてないとは言えない。

 

「それからもうひとつ忠告してやる。暁古城、ディミトリエ=ヴァトラーには気をつけろ」

 

 と今度は紅茶を啜りながら、那月が古城に語る。

 ヴァトラーが“真祖に最も近い存在”と言われる所以は、『貴族』である自身より格上の『長老(ワイズマン)』――真祖に次ぐ第二世代の、それも同族の吸血鬼を、これまでに二人も喰らっていることだ。

 だとすると、『世界最強の吸血鬼』でありながら、未覚醒な古城は恰好な獲物だろう。

 

「精々、お前も喰われないようにするんだな」

 

 色んな意味で。

 たとえ捕食する気がなくても肉体的関係敵に喰われそうだ。

 緊張で強張った古城が無言で頷くのを見て、那月が不敵に笑い、そして、それで話は終わりだと古城たちに背を見せるよう、腰かけた回転椅子を窓の方へと向けて、

 

「それと、もし馬鹿犬を見かけたら、貴様の今日の晩飯は缶詰のフルコースだと伝えておけ」

 

 

???

 

 

『儂にはもう、死ぬ権利すらない』

 

 異名が名に関するほどの組織の長であった彼は、おかしなことだが、戦争時以外は常に地下牢に自ら幽閉されていた。そう、自分が親以上に歳の離れた彼と友誼を結んだのも、この陽の光の届かない地の底であった。

 

 この夜の帝国に飼われた一軍人だった自分は、この同族の反乱を鎮圧するために首謀者たる彼を討伐しにきたのが最初の関係だ。

 敵対しており、そして、敗北した。

 その腕を一振るい。おそらく消えることのない爪痕を体に刻まれ、圧倒的な力を見せつけられた。

 それで運よく、一撃をもらって息があったのが珍しかったのか、生かされた。

 他の組織幹部、友の弟からも、同族でもあることから捕虜として、同じこの牢獄に入れられた。

 軍人として死に場所を奪われ、生き恥を晒されたと最初は恨んだものの、今となってはこの傷も誇らしくさえある。

 

 そんな彼が、ある日、遠い血縁者であるものの、当時まだ正式に組織へ加入していなかった自分を呼び出し、遺言を告げた。

 半世紀前から段々と正気である時間が減ってきた老獣、もう一日に分があるかないか、けれどその一瞬は、珍しくも久々に正気に戻って言葉を残そうとした。

 

『命はすべて等価値。己の命すら同じこと。じゃが、儂はもう何千も殺し、あまつさえ何万の死を弄んだ。彼奴らの死を喰ろうて腹が膨れてしまったから、儂は儂の死を喰らうことはできん。儂の死は、誰にも喰らわれぬまま、何にも残せず、弱肉強食の野生の理から外れた無となるだろう。生物として死ぬことができず、惨めなまま、な』

 

 だが、この首を取ればお主は元いた地位に戻れるだろう、と。

 

 軍人であった自分は、討伐作戦に失敗してから、帝国に戻ることができず、かといってテロリストの組織にも参加していなかった。

 きっとこの老獣は、先が見えていたのだろう。

 もう、自分らは終わりだと。ならばそれに付き合うこともない。己のように惨めになりたくなければ、この友の亡骸を錦の旗代わりとし、出世の道具として使うがいい。

 

 これが、老いた獣の話し相手に付き合ってくれた礼じゃ、と。

 

 ―――だが、その介錯を自分は断った。

 

 何年も帰ってない故郷(くに)にも古巣(ぐん)にも、戻る気はとっくの昔に失せた。

 それに、この摂理として、強者の肉を弱者が喰らうのは反している。

 友は強い。誰よりも。老いてなお一度として勝てたことのない、自分には食えない。

 それは単純な力によるものだけではない。

 

 そう、老獣が、<黒死皇>などと呼ばれる前、獣王であった最初のころ。

 真祖により人間と魔族の不可侵条約が結ばれた当初、

 『殺し合いとなれば、人間よりも強い』と、霊地のためと住処を追われた人間に虐げられたことを根に持ち、しかし、真祖に逆らうこともできかった同胞たちに、友はそれがウジウジとしていたのがあまりに情けなかったと言っていた。

 そんな腑抜けた獣人たちに自信をつけさせ、勇気と希望を与えようと反乱を起こしたのが、そもそものテロの始まり。

 永遠に不滅で最古の夜の帝王に、この神殺しの末裔たる獣王が摂理から外れた絶対的な上位者などありはしないと皆に知らしめよう、と戦いを挑んだ。

 特別人間への復讐だとか獣人を上位にした支配世界などと関心がない。

 獣王は、弱い者が許せなかったのだ。信じられるのは、何事にも揺るぎない強い力だけだと。

 それが歳の離れた<死皇弟>と自らを称した弟がそれをさらに思想を過熱に戦争を激化させていき―――

 

 そして、友は、遺言を残したその日の夜に、地下牢に忍び込んだ<蛇遣い>の手にかかり、暗殺された。

 

 世界を敵に回した結果として、獣王の血族側近もことごとく討ち果たされた。

 血も家族も何も残らない。呪われた名だけが残された。

 

 今の獣人たちに、獣王の最初の志を知るものなど、己の他にいなくなった。

 それをわざわざ広めようとも思わない。最期の遺言も、誰に伝えようとも思わない

 そんなことをしても仕方がない。

 

「だが、我が古き盟友の死だけは、無駄にしない。無にしてなるものか!」

 

 

彩海学園 屋上

 

 

 あの後、古城は独自にその神々の兵器<ナラクヴェーラ>――を密輸したという『カノウ・アルケミカル・インダストリー社』錬金素材関係の準大手企業について調べた。

 とはいえ実際に調べたのは藍羽浅葱で、古城がしたのはネットに繋がった生徒会室に忍び寄るのに付き合ったくらいなのだが。

 その際に生じた過度な接触事故で貧血に陥った古城は、浅葱に屋上へと連れられて、ついでにお腹がすいたから弁当をいただいて、飲み物を買ってくると浅葱が一度離れたところで、昨日の嫉妬女――煌坂紗矢華が登場。

 『こっちは朝からあんたの後輩を捜し回ってたのに、授業さぼってクラスメイトと逢引とは、ずいぶんいいご身分なのね、暁古城』

 ヴァトラーが就寝中で、一時監視役の任から外れた彼女は昨夜から行方不明の後輩を捜していてくれていたらしい紗矢華は、いちゃいちゃと綺麗な女の子と楽しんでいるように見えた古城に激怒。

 うやむやになっていた雪菜の吸血行為の件も再熱して、長剣を振り回す舞威姫に襲われる古城。

 そんな主の危機に、血に宿る眷獣が暴走してしまい、彩海学園一帯を破壊的な超音波が襲う―――そこへ、<第四真祖>の監視役たる雪菜が登場し、<雪霞狼>にて暴走を鎮めた。

 だが、買い出しを終えて戻ってきた際に眷獣の暴走と出くわしてしまった浅葱が急激な気圧の変化に耐えきれず、意識を失って倒れた。

 その後騒ぎを聞きつけて、妹の凪沙が屋上へ駆けつけてきて、彼女と一緒に、紗矢華に槍を預けた雪菜は昏倒した浅葱の身体を保健室へ運ぶ。

 その際、二人はしっかりと反省するように、と言いつけて。

 

 

 

 それから一時間。

 雪菜はなかなか戻ってこないが、それはその分だけ反省しろということなのだろう。

 最初は険悪だった雰囲気も、時間とともに薄れていくもので、けれど、

 

 『あなたがいなければ、あの子が危険な目に遭うことはなかったのに!』

 

 最中、怒りに我を忘れた紗矢華から放たれた、その古城の最も触れられたくなかった部分を抉る言葉。

 その傷跡が疼くように胸が落ち着かず、ついに古城は口を開く。

 

「なあ」

「ねぇ」

 

 と同時。古城が見計らっていたように、向こうもタイミングを待っていたのか、しかし、間の悪いこと。うんざりしたように息を吐いた紗矢華は、先に言いなさいよ、と促すので、古城はやれやれと肩をすくめてから改めて口を開いた。

 

「その……なんというか、悪いな。いろいろ」

 

 古城の謝罪に、紗矢華は不意打ちを食らったように目を丸くする。

 

「なんであなたが謝るのよ?」

 

「うるせぇな! ていうか、煌坂がさっき言ったことは正しいと思ってる。姫柊はオレのせいで面倒な事件に巻き込まれたんだ。だから姫柊の友達が怒るのも無理はないかな、とか」

 

「……自分のせい、って素直に認められると、逆に自慢されているように聞こえるんだけど。

 ええ確かに、あなたのせいであるのは間違いないんだけど、雪菜は任務だから仕方なくあなたの監視をしているだけで、好きで協力してるわけじゃないんだからね。別にあなたが気にする必要はないじゃない」

 

「あー……まあそうなんだけどな。助けてもらったのも本当だし」

 

 不服そうに唇を尖らせる紗矢華は、古城に対抗心を燃やし過ぎて、途中からなんだか励ますような形になっており、それに気づいた彼女はますますばつの悪そうな表情になって、

 

「あなたって変な吸血鬼ね……普通、自分を監視してる相手に感謝なんてしないと思うけど。もしかしてそういうのが好きな人?」

 

「断じて見られて悦ぶような性癖は持ち合わせちゃいねーからな。

 ただまあ、監視は迷惑だけど、姫柊は良いヤツだからな」

 

「いいやつ、なんて表現は陳腐で雪菜を褒めるには不足だけど、まあ、少しは見る目があるってことは認めてあげてもいいわね」

 

 とはいえ、紗矢華はかなり嬉しそうで、やはり大事な雪菜を褒められるのは自分のことのようにうれしいらしい。

 と、そこで不意に笑みを消して、調子を落としたような表情を紗矢華は浮かべて、

 

「その……なんというか、私も悪かったわ。いろいろ」

 

「はぁ?」

 

 今度は古城が、紗矢華の不意打ちの謝罪に目を丸くする。

 

「なんで煌坂が謝んだよ?」

 

「だって、あなたの後輩のこと、怪我をさせたのも、ひとりにさせてる状況を作っちゃったのも、私のせいだし、その」

 

 視線を落とし、指と指と突き合わせながら、言い難そうにしながらも、それをしっかりと自分の口で伝える。

 

「いいわけに聞こえるかもしれないけど。あの子、責任感じてひとりで飛び出しそうだったじゃない。だから、それは何が何でも止めなくちゃって思ったのよ。単独行動なんて許しちゃったら、私と雪菜じゃ管理できないってことになるし、そしたら機関から警戒度が上げられてしまうことになるわ……結果的に、こっちの勝手で迷惑かけちゃって、あなたのこと言えないわ」

 

「いや、あれは那月ちゃんにも言われたが、ヴァトラーのやつに振り回されてああなっちまったことなんだし。っつか、あの時、冷静でいられたのって煌坂だけだったじゃねぇか。一番嫌な役を煌坂に押し付けちまったっつうのに、俺は結局、説得に回りもしないで喚いただけで何にもできなかった。逆に俺が癇癪起こさなければ姫柊だってクロウのこと止めに回れて、こんなことにならなかったかもしれねぇ」

 

 と今度は逆に古城が消沈する紗矢華を励ますような形になっており、一体これはどんな状況なんだと髪の毛を掻き毟る。

 しかし、こう責任感じて落ち込んでるのは雪菜に似ていて、意外とかわいいところがあるというか。

 

「そう。……でも、殺すつもりでやったのも事実よ。私の武器と相性がいいんじゃないかってことを予想してたけど、あの子、相当強いから手なんて抜けなかったし、雪菜の汚点になるかもしれないって考えたりもした」

 

「それは煌坂がそう思い込んでるだけなんじゃねぇのか。言っちゃあなんだが、姫柊だけじゃなくお前もあの時、クロウに情が湧いてたんだろ。じゃなきゃまず止めようとか考えないだろうし。傍から見てたら、なんとなく辛そうな感じしてたし。クロウのやつも無茶してるって言ったたぞ」

 

「……なんか、それ私が未熟だって聞こえるんだけど」

 

「なんでお前はこう素直に受け取れねーのかなぁ!? 意外と可愛いところあんだなーって見直してきたっつうのに」

 

「か、かわ……あなたの前で……素直になんかなるわけないじゃない!」

 

 

 その時。

 古城たちの視界の片隅で、強烈な閃光が瞬いた。

 

 

道中

 

 

 迂闊、だった。

 

 

『―――警告。校内に侵入者の気配を感知しました』

 

 黒死皇派の彩海学園襲撃。

 予期せぬ事態に対応が遅れ、運悪く、武器も預けてしまっていた。

 

『総数は二名。移動速度と走破能力から、未登録魔族だと推定されます』

 

 しかし、その程度の戦力ならば、先輩は―――だが、その予想は外れる。

 

『予想される目標地点は、現在地、彩海学園保健室です』

 

 狙いがわからない。

 相手が少人数で、電撃戦を仕掛けてきていることはわかる。

 

『嘘』

 

 思い出す。

 彼と親しいから忘れがちになるも、彼女は重度の魔族恐怖症。

 

『どうしよう、雪菜ちゃん……あたし……恐い……』

 

 初めて、それを見た。

 普段の明るさのない、別人のように弱々しい様子を。

 これでは走って逃げることもできず、

 

『よくわからないけど、逃げるわよ。ここにいなければいいんでしょ!』

 

 相手も待ってはくれない。

 

『―――獣人?』

 

 敵性魔族は、獣人種――黒死皇派のテロリスト。

 それが二体。一体だけならば、白兵戦を挑めたのに。

 

 同時、保護対象の少女が、悲鳴を漏らし、気を失ってしまう。

 民間人二人を庇って、獣人たちの相手をするのは、不可能。

 

『見つけたか、グリゴーレ』

『この三人の誰かですな、少佐。一人ずつ嗅ぎ比べれば、すぐにわかりますがね』

『日本人の顔は見分けにくくていかんな……まあいい。まとめて連れていく。交渉の道具には使えるだろう。人質にもな』

 

 そして、『少佐』と呼ばれた相手は、<雪霞狼>がなければ相手にするのは至難なほど、強い。

 

『―――人工生命体保護条例・特例第二項に基づき自衛権を発動。実行せよ(エクスキュート)、<薔薇の(ロドダク)―――』

 

 反応も判断も、迅速。

 相手がどんな切り札を持っていようが、それを出す前に仕留める。

 人工眷獣を呼び出すことが叶わず、自分と同じ戦力となる人工生命体の少女は、6発の弾丸を撃ち込まれて戦闘不能。

 

『ああ、すまない。この少女から妙な魔力の流れを感じ取ったのでな』

 

 つい反射的に、と。

 それは戦士として、相手がか弱い少女の姿をしていようが躊躇わない。

 

『安心してくれ。 大人しく従ってくれれば、君たちに危害を加えるつもりはない』

 

 銃弾を、直前で見切って、躱すことはできるかもしれない。

 けれど、銃弾から後ろの民間人二人を庇うことはできない。

 自分一人であるなら、この場から逃げることもできただろうが、もう、ここは相手の要求に従うほかない。

 それほどに、この目の前の古参の(つわもの)は、隙がない。

 

『君たちの中に、アイバ=アサギはいるな。我々のためにちょっとした仕事をしてもらいたい』

 

 それが終われば、三人とも無事に解放すると約束する。

 

『……あんた、何者なの?』

 

 恐怖におびえる妹分の少女を見て、気丈に己を奮い立たせたか。

 指名され、何も力を持たないはず彼女は自分たちを庇うように前に出て相手を睨む。

 その勇気を賛辞するように、口角を上げ、

 

『これは失礼。戦場の作法しか知らぬ不調法な身の上ゆえ、貴婦人(レディ)への名乗りが遅れたことは詫びよう』

 

 秀でた額に尖った鷲鼻。知的でありながら、苛烈な威圧感を持つ老人の顔。

 その頬には目立つ、大きな、絶対的な強者につけられた古傷が残されている。

 ―――あの『混血』の少年のように。

 

『我の名は、クリストフ=ガルドシュ―――『戦王領域』の元軍人で、今は革命運動家だ。テロリストなどと呼ぶ者もいるがね』

 

 

 

 そうして、捕縛された姫柊雪菜たちはテロリストとたちのアジトである目的地を悟らせぬよう、目隠しをされて校門前に停められていたワゴン車に連れ込まれる。

 後部座席で、運転手の席後ろの逆側の左端。そして、右端に意識を失った――錯乱状態に陥りかけた彼女を雪菜が当身で眠らせた――暁凪沙。藍羽浅葱は一番後ろで、獣人ら二人に挟まれる形で。

 そして、自分の前の助手席には、手足を縛られているとはいえ唯一の戦闘力を持った雪菜の一挙一動の気配に常に気を張り巡らせてるガルドシュ。

 

(一瞬でも、隙さえできれば―――)

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ああくそ、本当にロクでもねぇ眷獣だ! 暴走しただけで俺の<音響結界(サウンドスケーブ)>がずたずたじゃねぇかよ! 古城の野郎!」

 

 <禁忌四字>――『矢瀬』

 この一族は代々、稀だと言われている<過適応者(ハイパーアダプター)>を多く輩出する家系だ。

 彩海学園高等部の男子生徒にして、クラスメイトの親友でもある<第四真祖>暁古城の真の監視役である、矢瀬基樹もまた<音響過適応>という聴感覚に特化した特殊体質の持ち主――つまり、超能力者だ。

 <芳香過適応>と同じく、一種の念動力で拡張された聴力は、音響制御で大気を自在に操り自分の肉体を突風に乗せることだけでなく、目で見るように音響を観測でき、その精度は軍に使われる高性能なレーダーに匹敵する解像度を誇る。

 だが毎日、約74分をかけて彩海学園に構築していた感知網は、音に敏感――つまり繊細で、超音波なんてものはまさに天敵。第四真祖の暴走に生じた爆発的な大音量で、結界はずたずたに引き裂かれて、侵入者の察知に遅れてしまった。

 

「ったく、クロ坊がいないってときに浅葱を狙ってきたとは」

 

 魔女の猟犬にして、学園の番犬。

 自身と同じく、魔力に頼らない超能力の感知網を敷いていた後輩。合わせて二重のセキュリティを布いていた彩海学園。

 その失踪を矢瀬は悔やむが、同時に、心配もしていた。

 

 調べたことはないが、ひょっとすると、人間時は自分ら一族と髪色の似ている彼は、『混血』の半分である『人間』の血に<禁忌四字>を使っているのかもしれない、と考えたこともある。

 接していると、ふとした瞬間に、親近感のようなものを覚えたりもする。

 咎神の末裔の正当なる血筋が、ケダモノの中に混じってると確かだった場合、そしてもしそれが知れたら、あの親父は殺してでも存在を抹消するだろう。

 けれど、自分にとっては、親友と同じく後輩で、また親戚の従弟のようなものだ。

 最初、学園から怪物と迫害され、それでもなお担任の使い魔としてこの街や学校を護っていた彼を、出来損ないの<過適応者>と蔑まれ、一族から監視道具(センサー)として使われていた矢瀬は密かに応援していた。それに監視役上、直接的な干渉を禁じられていた自分の代わりに親友や幼馴染の周囲を警護してくれるのは助かっていた。同じバスケ部員だった奴らよりも、後輩の中では最も気にかけているだろう。

 

「ヘリポート?」

 

 現在、絃神島東地区(アイランド・イースト)を逃走中のワゴン車が向かう先にあるのは、民間航空会社のヘリ発着場だ。

 既に飛行準備を終えてるヘリも一機。

 

 絃神島の外に出るつもりか……?

 

 ならば、それを阻止する。

 合理主義の塊のような異母兄から渡された増幅薬(ブースター)。<音響過適応>の体質に合わせて合成されたケミカルドラッグは、服用すれば一時的に超能力を400倍にまで増幅させる。それは万が一の時の保険として渡されており、その無茶は寿命を削るものだ。

 

 だが、頼れる後輩が不在である以上、先輩の自分が無茶をするしかないだろう。

 

 取り出した錠剤を一気に、それも手づかみで大量に呑み込む。

 

「いけぇ―――っ!!」

 

 狙いは、逃走手段の破壊。まだ幼馴染たちが乗っていない、離陸前のヘリ。

 矢瀬の遥か前方の、ヘリポートの真上の空間に発生する乱気流。それがやがて、超能力者と瓜二つの外見に形作る。

 空気によって、肉付けされ、血管も神経も作り出された矢瀬基樹の分身体<重気流躰(エアロダイン)>。本体の感覚が極端に低下するが、幽体離脱の如く肉体の枷が外れたそれは―――

 

「悪いね」

 

 突如、出現した閃光のような魔力に呑まれた。

 

「今はまだ、彼らの邪魔をしてもらっては困るんだ」

 

 大丈夫、殺しはしないさ、と。

 分身体の消滅の反動で、ダメージを受けた矢瀬はその乱入者に太刀打ちできずに迎撃されるだろう。

 だが、その意識が闇に呑まれる寸前に、“聴こえた”。

 気配を断つ獣のように、やわらかく大地を踏みしめるよう疾走する聴き馴染みのあるそのかすかな足音を。

 

「―――おっとそこにいたのか」

 

 それに逆光の中に立っていた長身の男も勘付いたが、

 

「やらせるかよっ……!」

 

 最早、形のない暴風の塊となった分身体の残骸。

 それを一瞬の足止めにでもなればと特攻させ―――あえなく、弾かれたところで矢瀬の意識は途切れた。

 

「ま、それは『彼に手を出さない』ようにと言われてたしネ。ここは見逃してあげようじゃないか。でも―――」

 

 そっと人影は昨夜に突き付けられたこめかみのある側面を撫でて、その赤い目が語る。

 できれば、あの活きの良い獲物を横取りしたい、と。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 姫柊雪菜にチャンスが訪れたのは、逃走車がヘリポートに着く直前。

 

 

「―――」

 

 “それ”は、着地と同時に爪形の生体障壁を纏った右拳、ワゴン車両のエンジンフードを容易く突き刺して、エンジンのシリンダーブロックを破壊―――

 水冷エンジンのウォータージャケットを粉砕し、溢れだした冷却水がエンジン熱で蒸発して白煙を上げて、運転手の目の前の視界を奪った。

 さらにそのまま振り抜かれた左拳の二撃目がクランクシャフトまでもへし折ってしまえば、エンジンは完全に停止。

 瞬間的に動力源を断たれた車両は、流体クラッチに減速を余儀なくされ、ドライブシャフトがガラガラと嫌な音を立て、4つの車輪をロックさせながら停車。

 

「―――少佐!」

 

 そして、強襲者は車のフロントガラスを突き破り、群れの中で最も強いリーダーを狙う。

 車一台を廃車にしたその凶拳が真正面に放たれた。

 

「騒ぐな」

「―――っ!」

 

 一言。

 それで、部下たちの混乱を鎮めた。

 その拳打を片手で受け止めたガルドシュは、相手の顔を見て限界まで目を見開くなど大きく反応し、これまで抑えられてきた獣性を溢れ出す。

 

 この時、雪菜への警戒は一時緩まった。

 けれど、凪沙は昏倒しており、そして、浅葱は部下たちに挟まれている。

 

「凪沙ちゃんをお願い!」

 

 そんな雪菜と同じく状況を悟り、判断に迷ってる自分を押す浅葱の声。

 

「私は、大丈夫。連中、させたい仕事があるようだから」

 

 どちらか一方しか助けられない取捨選択ならば、単なる人質要因の少女ではなく、替えのない利用価値を持った自身を後回しにして―――

 

(すみません―――!)

 

 目隠しされていても、霊視霊感等直感に優れた雪菜は車内を把握している。

 縛られた両腕で掬うように凪沙の身体を抱き上げて、肩から車のドアにぶつかる。

 

「―――拆雷(さくいかずち)!」

 

 密着した状態から放たれた爆発的な衝撃に、車のドアが吹っ飛んだ。

 剣巫が修める業たる『八雷神法』は、呪力を物理的な攻撃力に変換する術であり、今の技はそのゼロ距離の体当たりだ。そのままの勢いで地面に倒れ込むよう前転して、それでも体で挟んで凪沙の身体は衝撃から守るよう、脱出。

 

 そして、周囲に豪風が吹き荒れた。

 

「―――はははっ、会いたかったぞ、<黒妖犬>!」

 

 攻撃を阻むだけでなく、強引に押し返したガルドシュ。

 それは歓喜の雄叫びをあげて、この念願の相手と対峙する。

 潜伏先にあった教会の神父が着るカソックを纏い、身ひとつで黒死皇派に挑もうとした、南宮クロウと。

 

「奴はおまえらでは相手にならん。非戦闘員に構うな。ヘリまでもう近い。<電子の女帝>アイバ=アサギの身柄だけを運べ」

 

「少佐は?」

 

「私はこやつの相手をする。グリゴーレ、お前は残ってもいいが、邪魔をしてくれるなよ」

 

「はっ」

 

 統率された戦士の手段たる獣人たちは、命令が下されてすぐ浅葱を抱えて車を出て、ヘリポートへ自らの脚で駆けだした。

 

「姫柊」

 

「クロウ君。あの……」

 

「凪沙ちゃんを頼む」

 

 その間、雪菜と凪沙の身柄を拾い上げたクロウが、ガルドシュから距離を取る。

 それから目隠しと手足の束縛から解放する際、昏倒している凪沙を見て、少し、目を細めた。それをさらに研ぐように尖らせて、ガルドシュへと向ける。

 

「心配はするな。我々は統率された戦士の集団だ。非戦闘員を辱めるような品のない真似をするものはいない」

 

「……本当だな」

 

「今は亡き我が盟友、<黒死皇>の名誉にかけて誓おう」

 

 その言葉は親戚の子供を宥めるように穏やかだった。

 クロウはそれでも油断なく、鋭い視線で警戒を解かない。

 

「オマエ、昨日の船にいた奴だな」

 

 ―――え、と雪菜はクロウを見る。そして、それに首肯するガルドシュも。

 

 何故?

 『戦王領域』からの使者、<洋上の墓場>の主は、アルデアル公。

 かつて、<黒死皇>を暗殺したのがアルデアル公で、テロリストたちがその命を狙っている相手のはず。

 なのに、そこの乗組員としてガルドシュがいた……

 

「不老不死の吸血鬼の狂った考えなんぞ理解できるとは思わんが、互いの利益が一致したのだよ、剣巫。これ以上は、まだ話せなんがな」

 

 だが、そのガルドシュの言葉というピースに、隙間だらけのところ人間(こちら)の常識を当て嵌めて埋めていた思考のパズルが、一度バラバラに形を組み替えて雪菜の頭の中で出来上がろうとしてる。

 考えもしなかった考えへと……

 

 いずれ彼女は我々が隠してきた真相へと至るだろう。

 だが、それはいい。もう時間の問題だ。

 それよりも――――

 

「オマエが、ガルドシュだな」

 

「そうだ」

 

「アスタルテを傷つけたな」

 

「返り血の匂いを嗅いだか。それはもしや、あの人工生命体のことを言っているのか?」

 

「オレの後輩だ」

 

「おお、それはすまないことをした。だが、あれは戦闘の道具だった。殺しはしないが力尽くで無力化させてもらったよ」

 

「そうか。じゃあ、オマエも殺さない程度にブッ飛ばしてやる」

 

 人型のまま、裡に眠る獣性を起こす。

 『獣の皮を纏う者(バーサーカー)』の通りに、その生体障壁を爪と牙に変え、装甲の如き野生の衣で体を覆う。

 

「ふふふ、強い覇気だ。そして、その目は懐かしいな。あの頃に戻ったように、盟友につけられた傷が疼く」

 

 戦闘態勢のクロウを眺めて、ガルドシュは愉快そうに頬の傷を撫でた。そして、背に隠した肉厚なナイフを抜くと、彼の骨格が音を立てて軋み、全身の筋肉が膨れ上がった。

 その野生を解放する獣人化。

 どれほど理知的に見えても、我々の本質は闘争を望み、破壊を好む、獣であると。

 強者との殺し合いの予感に、もう我慢ができないと。

 相手の出方など待っていられないと。

 

「シャア―――!」

 

 これより、我はケモノに戻る。

 一将校から、一匹のケモノに帰った男は走りだした。

 ナイフを片手に、地を這うような腰の低さで路上を疾走する。

 一直線。ただ純粋に、立ち尽くしたままのクロウめがけて。

 重心を低め、人間の武術の、この絃神島で身に着けた基本的な構えを取るクロウに対し、ガルドシュは人間の動きをしていない。

 蛇のように蛇行する。

 ひらけた路上は、野獣にとっては広すぎる狩猟場だ。

 クロウが目と肌で感じ取る警戒網を、狩りを極めた老練なケモノのように素早く擦り抜けてくる。

 そう―――見えているのに、その動きを捉えさせない。

 そして、クロウにとってはまだ半歩分遠く、ケモノにとっては必殺の間合いにまで距離が縮まった時―――その動きを猛獣のモノへと変えた。

 爆ぜる火花のような、迸り。

 ケモノはクロウの頭上へと跳躍して、その頭部へとナイフを突き刺す。

 きぃん、とナイフと気爪が衝突した。

 クロウの脳天を狙ったナイフと、防ぎに行ったクロウの気爪が衝突する。

 ケモノもまた、生体障壁、己が生命力を武器へと変える術を身に着けており、その武練はケモノになってもなくさず、ナイフはクロウの爪牙と同じく獣性の気を纏い硬化されている。

 一瞬―――互いの生命力()が混ざり合うように、両者は視線を交錯させた。

 沸々と怒りを圧し隠しているクロウの瞳と、歓びに満ちたケモノの瞳。

 にやりと笑って、ケモノは大きく跳ねた。

 クロウから逃れるように後方に跳んで、蜘蛛じみた動作で着地する。

 その一度の跳躍で5m以上は離れたガルドシュは、手足を地面につけて、獣のような息を吐いた。

 明らかに、これは人間を凌駕した種同士の戦闘。“人間のままでいるのがおかしい”闘争。

 

「何故」

 

 とケモノは言った。

 

「何故、獣化をしない」

 

 小手調べ(あいさつ)は終わった。

 なのに。

 その腕に血を流した際は歓びに満ちた表情を浮かべたのに、未だに変わりようのないその姿にケモノは抗議の声を上げる。

 <黒妖犬>と魔女の眷獣たる少年は応えず、ただ自分を――『自分の背後()』を見るこの相手を見つめている。

 

「……巨人の心臓を喰らいて生まれし魔狼の末裔。今は神話と同じく、その神々が鍛えし封鎖に縛られようと、その神殺しは健在なはずだ。

 さあ、昨夜のように、早く我が盟友と同じ、その気高き姿を私に再会さ()せてくれ」

 

 荒い、今にも呼吸困難で倒れそうなほど荒い。そんな心臓そのものから吐き出すような息遣いが響く。

 そんな興奮冷めやらない相手に対し、全く付き合わない冷めた対応で返す。

 

(何故……)

 

 だが、ガルドシュの言うとおり、ここで獣化をすべきだろう。

 紗矢華と同じ、加減ならぬ相手。

 この古参の兵は、ただの獣人兵ではない。そうであるなら、雪菜でも制圧できた。その雪菜と互角に近い、人型のままでは勝てない。

 

(まさか―――)

 

 雪菜が抱える、少女。その意識が失っているとはいえ、暁凪沙。かつて自分が怯えさせてしまった重度の魔族恐怖症の彼女。

 その前で、獣人という姿になるつもりはないのか。

 

 察した雪菜は、気づかれぬよう、そっと眉を曇らせた。

 けれど、あらゆる感覚が人間を大きく上回るケモノは視線から外していても、その変化を見逃さない。

 原因にすぐに至ったケモノはにやり、と口元を歪に吊り上げる。

 

「人間の少女に構うことはない。そいつは非戦闘員――弱者だ。その“血”が最も許せないものだ。そして、今見るべきは敵であるこの私だ。強者の私であるはずだ。さあ、出し惜しみなどせず、全力で殺し合う戦闘本能にだけ従えばいい」

 

 クロウは応えない。

 依然、獣人の姿に変身する気配はない。

 それに、ケモノは、最後の提案を口にした。

 

「……そうか。これだけ言ってもなるつもりがないか。ならば、仕方あるまい。無益な殺戮は好まぬところだが、獣を縛る『鎖』は“(コロ)す”しかないな。人に繋ぎとめている者がいなくなれば配慮することもない。グリゴーレ、無粋にも戦いの邪魔を取り除いてこい―――」

 

 と雪菜の動きを警戒していた獣人に告げる。

 忠実なる部下へ速やかに執行しろ、とナイフを持った腕を上げ、それを降ろした。

 

「オマエ―――」

 

 部下へ命令を下した。だが、グリゴーレは動かない。

 ガルドシュのナイフを持っていた手首から血が噴き出している。その早業に、そして、殺気に部下は固まったのだ。いつの間に切られたのか、ガルドシュ自身さえ理解できてなかった。

 気配を察知していれば、防御の構えくらいしただろう。それほど前に、一瞬、この殺意に圧倒されたのだ。

 

「―――殺スゾ」

 

 依然と獣化せず、人型でありながら、それは人外の暴威を振るう。

 それは闘争というにはあまりに空々しい―――まるで日常にある不幸な事故のようだった。無意味な災厄のようだった。

 俗に<黒妖犬>、その陰は死の前兆、と言われるまでの理不尽であった。

 

 ケモノは本能的に後退した。

 切り離された手首を、切断面につけながら、ナイフを拾わず。そして、腕は獣人種の驚異的な生命力で即座に癒着する。

 だが、放たれる殺気は刃物になって、この全身を刺し貫いている。

 初めに感じたのは恐怖。

 そのあとは、ただの歓喜だけがケモノを支配した。

 

「……いい。いいぞ、それが君の本性だ。盟友はその“血”に息づいている!」

 

 間違いなく、自分と同じ世界に棲むべき存在だ。

 獣の皮を被った人ではない、人の皮を被った獣だ。

 たったその子の少女を殺すと仄めかしただけで、クロウが自分より遥かに上質なケモノに帰ったことを、彼がきちんと理解した。

 アレが、逆鱗だ。

 ならば、それを殺せば―――

 

 

 

 一瞬の、アイコンタクト。

 そのとき、ガルドシュの部下グリゴーレは、長官の命を正しく理解する。

 

「我ら獣人種に栄光あれッ!」

 

 それを雪菜が阻まんと対峙―――しかし、グリゴーレは雪菜を見ていない。その視線の先にいるのは凪沙だった。雪菜を無視して凪沙に迫るグリゴーレの左手にはリモコンが、右手には爆弾が握られていた。口元には、笑みさえ浮かべ、グリゴーレはスイッチを押す。

 

 爆発。

 轟音と共に、グリゴーレの巨体が爆炎に包まれる。

 そして嵐の如き暴風が、辺りのものをすべて吹き飛ばした。

 

 自爆。

 

 直前で凪沙を抱えて跳んだ雪菜たちが紙屑のように路面を転がり、刹那に遅れて割り込んだクロウがその爆風から壁となった

 爆風が収まり、耳鳴りが止むまでに30秒ほど要した。クロウは顔を上げたが、宙を漂う粉塵で視界は利かない。けれど、嗅覚が二人の生存、そして、僅かながらグリゴーレと呼ばれる軍人も微かに息があることを感知する。

 しかし―――

 

「クロウ君! 私たちは大丈夫です、抑えてください」

 

 その声に、ハッとした少年は、血に染まった指先を無頓着に一振りし、路面に赤い(さざなみ)を描き捨てた。けれど、両の瞳だけが(らん)と静止した光をたたえている。

 そうして、クラスメイトである剣巫の声に、一端は気を落ち着けさせて、問い掛ける。

 

「なぁ」

 

 敵意も悪意もなく、ピントの定まらない。宙に浮いたような声だった。

 

「なんで、こんなことするんだ?」

 

「目覚めさせるためだ。君に流れる我が古き盟友の“血”。それは神さえ殺す殺戮機械だ」

 

 ガルドシュは己の宿願を告げ、クロウは唇を噛み、血を流す。

 

「―――オレのせいで、また」

 

 痛みにも似た自責が、そんな言葉を呟かせた。

 時間稼ぎが終わり、完全に腕が癒着したケモノが嗤う。

 五指をそれぞれ動かして、一度その調子を確かめて、

 

「いくぞ。かつて我が盟友たる獣王より教わりし、獣人拳法。その真髄である四つの秘奥をその身にとくと味あわせてやろう」

 

 再び、ケモノが跳ねる。

 一直線に襲い掛かってくる敵を前にして、それでも少年は動かなかった。

 

「玄武百烈脚!」

 

 それは、秒間に百の打撃。

 高速移動による分身で挟み撃ちにし、残像が生じるほどの連蹴。

 

 全身くまなく、滅多打ちにされ、

 

「白虎衝撃波!」

 

 咢の如く合わせた両手から、紫電迸る気功砲を飛ばす。

 気功術の奥義たるそれは、人間のが拳銃だとすれば、人間以上の生命力を誇る獣人種が放てば、それは大砲だ。

 

 そのどてっぱらに、諸に喰らった。

 

「青竜殺陣拳!」

 

 軸足に腰の回転を乗せて繰り出す拳。

 実際に当てずとも、当てる、当身の極みたる遠当て。

 空間を裂くそれは、生体障壁の纏いをズタズタに霧散させた。

 

 ついに、無防備に晒されたカラダ。

 そして、ココロは既に折れかかっている。

 

「―――クロウ君!」

 

 悲鳴が聞こえた。けれど、それに反応する気力も湧かない。

 もはや立っていることさえ苦痛で、生きていることも息苦しい。

 これ以上、周りに危険をするくらいなら、いっそ―――

 

「朱雀飛天の舞!」

 

 獣人種が編み出した、獣人種のための武技。

 その四つある最後の奥義。

 一帯に充溢させた闘気で、空間に歪みを起こし―――

 

 

「おっと。いつまで僕を待たせるつもりかい」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「いやあ、お楽しみのところ割って入るような真似はしたくなかったんだけど、ちょっと遊びに時間をかけ過ぎじゃない? ボクとの“契約”、忘れてもらっちゃ困るよ」

 

 昨夜、顕現させたのと同じ、灼熱の炎の蛇。

 それに襲われ、中断したガルドシュは間一髪でそれを避ける。

 そして、現れた純白の三つ揃え(スリーピース)を着こなす金髪の美青年――ヴァトラーを一睨みし、

 

「……そちらも私との“協定”を破るなよ」

 

「ああ、“ボクからは”彼に手は出さないさ」

 

 言って、ガルドシュは去った。

 それを呆然と見やる雪菜。

 もはや、事の真相は明らかだった。

 

「アルデアル公、貴公は……っ」

「―――おっと、大丈夫だったかい? ガルドシュに襲われていたようだけど、“助けが間に合ってよかったヨ”」

 

 雪菜を封殺するように、ヴァトラーは飄々とした口調でそれを言う。

 

「それからこれ、あそこで拾ったんだけど」

 

 そして、何食わぬ顔で、“それ”を目の前に投げた。

 どさっと落下し転がったのは、高校の制服を着た男子生徒。そのツンツンに逆立てた短い髪と、首にぶら下げたヘッドフォン―――

 

「矢瀬先輩!?」

 

「あれ、もしかして知り合いだった?」

 

 ぎょっとする雪菜の反応を眺めて、ヴァトラーは愉快そうに笑う。

 命に別状はなさそうだが、“強い熱を間近で浴びせられたように”、白い蒸気をその身体は発している。

 そのことに雪菜が問い詰めようと―――だが、それは隣の気配に口を閉ざされた。

 そう、ついに裡に圧縮していたものが、抑えきれなくなったのだ。

 

「………」

 

 念動力で拡張された特異な嗅覚は、その感情を読み取る。

 それが虚偽だらけというのも、誰よりもわかり切っていた。

 そして、貴族の青年も、目の前の『作品』を誰よりも“愛して”あげられる自信があった。

 

 

「知ってるヨ、君の正体を」

 

      「なんで矢瀬先輩を傷つけたんだ?」

 

 「魔女に育てられ人間になったようだけど」

 

     「古城君もホントは殺すつもりだった」

 

  「でも、その本性は何にも変わっていない」

 

    「奴ら連れてきて姫柊を困らせて楽しんでる」

 

    「君はケモノだ。それもとびっきり上等のネ」

 

   「……ミンナ、オマエのせいだ」

 

     「もし、ケモノとは、違う、と言えないなら」

 

  「………わしてやる………!」

 

      「救ってあげられるのは、ボクしかいない」

 

「ブッ壊して、やる」

 

「オマエを」 「キミを」

 

 

 

 

 

   「

     喰ラウ

         」

            」

 

 

 

 

 

 ぎりぎりと絞り出すように先鋭化した害意が形になったように、周囲を巡る生体障壁が荒れ狂う。青年は律儀にそれを待つ。だが、手を出せば正当な自衛権を使うつもりだ。だから、一撃。一撃で仕留められなければ、この絃神島を壊滅させる眷獣が解き放たれる。

 だから、最初から全力でヤる。

 

「―――契約印ヲ解放スル」

 

 契約印たる『首輪』を解放した。<守護者>に傷つけられた首筋にまで走る古傷に激痛が発し、そこから流れるおぞましい獣気が身体を侵食。どうしようもない気持ち悪さと引き換えに、獣人種としての身体能力を、限度を超えて飛躍的に増大させる。

 身体の底から噴き出すようなチカラの渦。汚泥を呑みこむかのごとき不快感。―――そして、相反する心地よさ。

 

 どんなに縛られていても、この本質は変わらない。

 これは蹂躙するための力だ。

 これは破滅させるための力だ。

 

「イイヨイイヨ! 全部終わったら、ご褒美に接吻(キス)してアゲルヨ」

 

 その真祖クラスの眷獣さえも葬りかねないモンスターへの昇華に、歓喜乱舞するヴァトラー。青褪める雪菜。

 そして、ついに人間から獣人の過程を飛ばして、一気に完全なる獣と化―――

 

 

 

 

 

「―――<神獣化(それ)>の許可は出してないぞ、馬鹿犬」

 

 

 

 

 

 寸前、複数の魔方陣がクロウを取り囲む。さらにその魔方陣から出現した銀の鎖が、ケモノの形態へ膨らもうとするのを人型に圧し込めるよう身体を何重にも縛り付けていく。

 

「まったく手間のかかる。これでは主の躾が温いように思われるではないか。おい、あまり暴れるようなら、“ハウス”にするぞ」

 

「ゴ、主人」

 

「様を付けろ馬鹿犬め」

 

 と自らの意識を断ったのか、強制的に変身は止まり、元の、人間のままで意識を失ったクロウだけが残る。

 そして、虚空から現れたのは高価そうな日傘を差し、装飾過多の黒いゴシックドレスを身に纏う―――この絃神島で、そんな恰好をしている物好きは、ただひとり。

 

「ひどいなァ。あと少しでお預けなんて、生殺しもいいとこじゃないカ」

 

「蛇にはお似合いだろう? それより、私の眷獣(イヌ)に、“狂犬病”をうつすな、と言ってなかったか、<蛇遣い>」

 

 絃神島で五指に入る国家攻魔官であり、魔族を大量虐殺した魔女。

 そして、『混血』の主たる、南宮那月が現れた。

 

 

 

つづく



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戦王の使者Ⅳ

洋上の墓場

 

 

 すべてが、整った。

 

 150人を超えるハッカーの中で解析できたのは8人いたが、一切の矛盾のない正解を導き出した<電子の女帝>アイバ=アサギのみ。

 それも数多のハッカーが頭を悩ませた難問を『つまらないパズル』と称して、3時間足らずで解析し終えた。

 

 無論、人材だけではなく、設備も最上のものを用意した。

 『スーヴェレーン(ナイン)

 我々の理念に賛同してくれた篤志家であり、“この船の主”によって、アウストラシア軍に納入予定のものを横流ししてもらったスーパーコンピューター。絃神島の管理公社にあるものの同型機(シリーズ)の、最新機種。

 

 『スーヴェレーンⅨ』を暗号破り《パスワードクラック》の実力をもった<電子の女帝>が操り、石板解読をすれば全54枚中残り53枚の<ナラクヴェーラ>の制御コマンドを解析できるだろう。

 

 それも最初の試験課題で出した『始まりの言葉』――起動コマンドのみしかわからない以上、神々の兵器は無秩序に絃神島に破壊をもたらすことになり、それを制御させるためには、残りすべてを解読する必要があるという状況、アイバ=アサギもそれをよく理解している。

 彼女は街を守るために、テロリストに手を貸さなければならない、と。

 

『私をただ働きさせると後で高くつくわよ』

 

 仲間のために一人犠牲となり、なお気丈な態度を貫ける彼女ならば、<ナラクヴェーラ>の完全なる制御もそう時間はかかるまい。

 

 そして、ここには船の主さえ知らぬ―――今、暴れているであろう一機とは別にもう五機の<ナラクヴェーラ>がある。

 

 戦争というのは個々の兵器の性能ではなく、総合的な戦力で決まる。

 そう、神殺しの力を持った獣王に誰もついていけず、動死体となっても追いつけず、我々の革命(テロ)は敗北したのだ。だから、最強の軍を求めた。

 第一真祖の力は確かに脅威だが、広大な『戦王領域』全土をひとりで守護するのは不可能だ。そこを神々の兵器の軍勢が蹂躙すれば、『夜の帝国』は確実に破滅させられる。三真祖の一角を崩せれば、聖域条約は維持できなくなり、戦略的に黒死皇派は勝利となる。

 

 ……ただひとつ。

 組織としては余分な、けれど個人としては必須な存在である<黒妖犬>を連れ出せなかったことだが、それもあの島が沈んでしまえばこちらに来るしかあるまい

 

 すべてが終わった後で改めて勧誘するとしよう。

 

 

ヘリポート付近

 

 

「―――ここで降ります」

「あいよ。780円」

 

 

 狼煙のように蒸気を噴いているワゴン車。

 至る所が荒れ果てた路面。

 明らかに事故現場模様にやってきたタクシーから降りてきたのは、血腥い匂いをぷんぷんと漂わせて、怪しげな楽器ケースを担いでいる男女二人組。

 

「―――! 凪沙、姫柊――「雪菜っ! 無事!」――押すな煌坂! っ!! クロウ!? 矢瀬も!?」

 

 争うように、やってきたのは、暁古城と煌坂紗矢華。

 保健室で倒れているところを応急処置をしたアスタルテから姫柊雪菜、暁凪沙、藍羽浅葱が黒死皇派にさらわれたことを知った二人は、すぐに爆発音響く激しい戦闘地帯へと急行した。

 そして紗矢華は古城にタクシーの支払いを任せて雪菜の下へ駆け寄り、抱きしめる。それに遅れてやってきた古城に、雪菜は苦笑しながら、けれど生真面目そうな口調で叱責する。

 

「先輩、紗矢華さん……なんでまた、こんな危ない場所に顔を突っ込んで。先輩は自分が危険人物だという自覚があるんですか。紗矢華さんも一緒にいて何やってたんですか」

 

「ゆ、雪菜たちが誘拐されたっていうから、心配で……」

 

「ああ、保健室でアスタルテから姫柊たちが誘拐されて人質に……」

 

 古城と雪菜の苦しい言い訳を聞き届けてから、雪菜は沈んだ表情で。

 

「はい。どうやら黒死皇派の狙いは浅葱先輩だったようで」

 

「何? 浅葱が?」

 

「それで、クロウ君のおかげで、私と凪沙ちゃんは助かったんですけど……浅葱先輩は」

 

「そう……」

 

 力が足りなかったばっかりにと悔やむ雪菜に、紗矢華がもう一度抱きしめる。

 とりあえず、まだ意識を失っているが凪沙と雪菜の無事に古城は安堵する。

 

「……騒がしいな、おまえたちは」

 

 その様子に、やれやれと溜息をつく南宮那月。

 それに気づいた古城は少し驚いたように、

 

「那月ちゃん? テロリストの相手をしてたんじゃないのか?」

 

「馬鹿犬の馬鹿騒ぎを聞きつけたのでな。現場のほうは、たまには特区警備隊の連中にも花をもたせてやっているところだ。突入部隊が黒死皇派の生き残りどもを圧倒しているみたいだし。まあ、これで終わりではないようだがな」

 

 その推測に、首肯する金髪の美青年。

 

「だろうね。すぐに部隊を撤退させた方がいいと思うヨ。どうせ、あそこにいるのはただの囮サ。追い詰められたら自爆するんじゃないかなァ」

 

「ヴァトラー!?」

 

 古城に気づいて呻くヴァトラーはサングラスをずらしながら、彼にウィンクを送る。

 割って入られたことに那月は不機嫌そうに眉を寄せて。

 

「囮とはどういうことだ<蛇遣い>? あそこに特区警備隊を集めて何の得がある?」

 

「それはもちろん標的が必要だからだよ。新しく手に入れた兵器のテストにはサ」

 

 知らないわけじゃないンだろう? と意味深な笑みを向けられ、那月の表情が凍りつく。

 古城も理解した。

 黒死皇派は神々の兵器<ナラクヴェーラ>を動かすつもりだ。

 

 ゴオオオオオオオオォォォン―――

 

 その時。

 爆撃にも似た轟音が、その場にいた人々の耳をつんざいた。

 遠く――機動隊がテロリストたちを追い詰めている増設人工島(サブフロート)を震源地とし、揺れがここまで届くほど大きく。

 

「お、始まったようだね」

 

 待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべるヴァトラー。

 それを鬱陶しげに睨んで、古城が苛々と地面を蹴る。

 

「おい、何でここにいる? あいつらはおまえを狙ってんだろ。自慢の船はどうした!?」

 

「ああ。実は、<洋上の墓場>は乗っ取られてしまってねェ」

 

 乗っ取られた!? と古城はヴァトラーに疑惑の目を向ける。

 『旧き世代』の中でも貴族であり、“真祖に最も近い”とも言われるヴァトラーならば、あの豪華客船でさえ一瞬で焼き尽くすことができただろう。テロリストに奪われるなど考えられない。

 

 だとすれば、可能性はひとつ。

 ヴァトラーが自ら喜々として黒死皇派に船を譲り渡したのだ。

 

「つまり、ガルドシュたちを絃神島に運んできたのは、お前の船か―――」

 

 治安を守る国家攻魔師に、獅子王機関の二人も――特に、監視役であった紗矢華の目は厳しい。

 

 黒死皇派にとって仇敵であるヴァトラー。しかしだからこそ、その拠点に隠れ潜んでいるなどとは思わないだろう。警備隊もわざわざ他国の外交使節の船まで調べようとはしなかった。

 だが実際は、<洋上の墓場>のおよそ半分は黒死皇派の残党であり、またヴァトラーは貴族であるため、自分の船に乗り込んでいる船員の素性など、いちいち詮索はしない、と。

 

 監視役の紗矢華の柳眉を逆立てた表情に、ヴァトラーはわざとらしく物憂げな表情になって、

 

「何も知らなかった、と言い張るつもりですかアルデアル公」

 

「いやァ、船員は全部船の管理会社に任せてたんだけどね。まさか、ボクの船の船員にテロリストが紛れ込んでいたとは。ホント、驚いたよ」

 

「善意の被害者を装うつもりか」

 

 深々と息を吐く那月。

 雪菜は不快そうに眉を顰めて、

 

「しかし、何故? そんなことをしてアルデアル公に何のメリットが?」

 

「どうせ退屈を紛らわすためだろう。軽薄男が戦闘狂だったということを考慮に入れておくべきだったな。真祖をも倒し得るやもしれぬ神々の兵器なんて、暇を持て余した<蛇遣い>には格好のオモチャだろう」

 

 昔からの付き合いがある那月がそれに応える。

 面目ないね、とヴァトラーは微笑して、

 

「まあ、安心してくれ。<ナラクヴェーラ>は僕が責任を以て破壊する」

 

 と弾んだ声で宣言する。

 これでは那月の言が正しいと何よりも確定づけている。

 

「安心できるかっ。おまえ、最初からあの化け物相手に暴れたかっただけだろ!」

 

 これ以上コイツの思う通りにさせてたまるか!

 

 古城はヴァトラーを睨み、そして言い切った。

 

「<ナラクヴェーラ>はオレが相手をする。お前は引っ込んでろ」

 

「他人の獲物を横取りするのは、礼儀としてどうかと思うな、暁古城。ボクはね、たった今、とってもイイ感じに熟しそうだった果実を食べ損なって、ちょっと気が立ってるんだヨ」

 

 やんわり、とながら、目をぎらつかせて抗議するヴァトラーだが、古城はそれに取り合わず、

 

「それを言うなら、他人の縄張りに入り込んで勝手してるあんたの方が礼儀知らずだろ、ディミトリエ=ヴァトラー」

 

「ふゥむ、そういわれると返す言葉もないな。仕方がない、領主たる君に敬意を表して、ここは大人しくしてようじゃないか」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 意外にも青年貴族があっさりと引き下がったところで、古城たちは考えた。

 今回は、二面作戦となるだろう。

 まず増設人工島で暴れる<ナラクヴェーラ>の鎮圧と、そして、絃神島の沖合約10kmにある<洋上の墓場>に囚われている藍羽浅葱の救出。

 

「那月ちゃん。船まで跳べないか?」

 

「助けに行くのか」

 

「当然だろ。テロリストに浅葱が捕まってるんだぞ!」

 

 噛みつくように詰め寄る古城に、優雅に日傘をさしている那月は不機嫌そうに睨む。いつの間にか仕切っていることに怒っているのか、それとも古城の呼び方が気に食わないのか。しかし現状が切迫しているものだと理解しているからか、文句を言わず彼女はそれに応えてくれた。

 

「厳しいな。空間制御の本質は距離をゼロにするのではなく、移動にかかる時間をゼロにする魔術だ。一瞬で移動できるというだけで、肉体には同じ距離を徒歩で移動したのと同じだけの負担がかかる。跳ぶのは数kmが精々、10kmとなるとギリギリだな」

 

「魔術も万能じゃないってことか……」

 

 古城は苦悶するように低く呻いた。

 

「それに、軽薄男の<洋上の墓場(ふざけた名前の船)>には結界が張られている。それさえなければ、転移できないことはないだろう」

 

 那月のその分析を聞き、雪菜が静かに頷いて、紗矢華から手渡された楽器ケースから銀槍を展開する。

 

「でしたら、私の<雪霞狼>で結界を無力化にすれば」

 

「ああ、裂いてくれるのならこちらは助かるがな。しかし、その船までどうやっていくつもりだ、姫柊雪菜。言っておくが、絃神島の条例で特区警備隊は航空戦力を持ってない」

 

 魔族特区の条例。治安維持するための組織という建前で、実際は反乱対策として航空戦力の所有が認められていない。

 海上にある巨大人工島で一括管理しているからこそ、本島に魔族の密入国等を防げている。だが、絃神市内の魔族と警備隊が手を組んで反乱なんて起こせば、それは政府には脅威となる。

 けれど、それに応えたものがいた。

 

「じゃあ、オレが姫柊を船まで連れて行く」

 

 少し前に、目覚めていたクロウ。

 それに少し皆が驚く視線を集めながら、クロウは言う。

 

「オレなら海を渡れる。浅葱先輩の匂いも忘れてないから、真っ直ぐいけるぞ」

 

 

 

 そうして、古城と紗矢華が<ナラクヴェーラ>の相手をし、雪菜とクロウが浅葱の救出へ向かう。

 二面作戦が決まったところで雪菜が古城を呼ぶ。本来、監視役である彼女が古城から離れるのは不本意であるところではあるも、役割分担であるから仕方がない、と納得はした。が、心配なのは、心配だ。色んな意味で。

 

「黒死皇派はおそらく浅葱先輩に石板の解析をさせていると思われます。彼女から<ナラクヴェーラ>の停止コマンドがつかめるかもしれません」

 

「それで、浅葱が……なるほど」

 

 浅葱が攫われた理由。確かに彼女の情報解析スキルは古城も舌を巻くところだし、そうだとするなら納得だ。

 

「ですから、先ほど決めたとおり、先輩は足止めだけお願いします。無駄に破壊しようとして、被害を拡大するような真似だけはやめてください」

 

「ああ、わかってるって。姫柊こそ、あまり無茶すんじゃねぇぞ。クロウがついてるから、あまり心配してないが」

 

「……私ひとりでは頼りないですか、先輩」

 

 不服そうに雪菜が溜息をもらす。だが、『喉元を過ぎれば熱さ忘れる』の逆パターンで、徐々に気炎を上げる。

 

「ええ、藍羽先輩たちを守れず、ガルドシュに攫われてしまいましたけど、あれは<雪霞狼>を先輩に預けていたからで、そもそも紗矢華さんとあんな―――」

 

「い、いや、姫柊も頼りにしてるぞ! もちろん! でも、姫柊、責任とか感じると無茶するし、それが心配というかだな……」

 

「大体、私からすれば先輩の方が心配です」

 

 そこで、一度、雪菜はコホン、と咳払い。唐突に口調を改めて、単刀直入に問う。

 

「先輩、もしかして2体目の眷獣が必要だと思ってたりしますか?」

 

「2体目?」

 

 思わず、古城はぐっと喉を詰まらせた。

 <獅子の黄金>は雪菜の血を吸うことで古城を主と認めた。

 だが、古城の血にはまだ11体の眷獣が潜在している。しかしそれらを手懐けるにはやはり、血が、それも気位の高い<第四真祖>の格に合う、優れた霊媒の(エサ)が必要だ。

 しかし、それを得るために必要な行為を想像して、古城は声を上擦らせ、

 

「い、いや、思ってない。全然そんなことは考えてなかったぞ!」

 

「そうですか。もし先輩が必要とおっしゃるのならば、仕方なく私のをまた……」

 

 本当か!? と言いかけて、古城は自制した。

 一応、会話の届かない距離に離れているとはいえ、すぐそこに紗矢華がいる。彼女に雪菜への吸血行為がばれてあわや殺されかけたのだ。もし頷けば、<ナラクヴェーラ>より先に古城が獅子王機関の舞威姫に誅罰される。

 どことなく残念そうな雰囲気を醸し出しつつ、雪菜は声を潜めて、

 

「それならいいのですけど。それで、おそらくクロウ君は気づいていると思いますが、先輩、実は、その―――」

 

 

 

 一方。

 雪菜にしばらく先輩と二人で話をさせてほしいとお願いされた紗矢華は、これを機に、準備体操とばかりにストレッチをしているクロウの下にいた。

 

「……はぁ。ホント、じっとしてられないのかしら」

 

「お。なんだ、煌坂」

 

 殺されかけてまだ一日も経っていないのに、この普通の反応。

 それに少し声をかけるか躊躇した自分を馬鹿らしくなった紗矢華は深い溜息をつきながら、

 

「傷、見せてちょうだい」

 

 紗矢華は制服の袖口から何かを取り出した。長さ15cmほどの、目に見えないほど細い金属針。

 

「む。オレ、注射は嫌いだ」

 

「針治療よ。刺すのは同じだけど。子供みたいなこと言ってないで、いいから傷を見せなさい」

 

 と無理やりしようとその手を伸ばしたところで、それを避けて、渋々カソックの前を開けて、見せた。先ほどのガルドシュとの戦闘できた打撃痕と、昨夜に一刀と同時に刻まれた舞威姫の呪を。

 

「あー、もう包帯の巻方からして雑じゃない。いくら獣人の自然治癒任せだからと言ってこれはないわよ」

 

「これ、傷は治ったのに、なんかピリピリが残ってていつもより動き難かったぞ」

 

「そりゃそうよ。舞威姫は暗殺と呪詛の専門。斬ると同時に拘束術式を仕掛けておくくらいのことできてないと師匠(せんせい)から怒られるわ。といってもそれで戦闘できてた方がおかしいんだけど普通は」

 

 この毒のような呪術をもらってしまえば、タフな獣人種だろうと麻痺して指の先まで動けなくなる。しかし、それで尚動けたのだから、つくづくこちらの自信を無くしてしまいそうだ。

 

「神経構造マップはタイプⅠ準拠の人間型(ヒューマンタイプ)と同じ。拘束術式の解呪と同時に、自然治癒力を活性化させる秘孔を突くわ。あまり休めないでしょうけど、その有り余る元気があるなら少しの時間で大丈夫そうね」

 

 治療するその様は、どこか神々しく、美しさすら感じられる。

 人の生と死を操ることを役目とする舞威姫――すなわち、巫女の別称たる舞姫。彼女もまた雪菜と同じように、神々の声を聴き、森羅万象を見る霊能力者なのだろう。

 だから……

 

「煌坂は、大丈夫か?」

 

「何がよ」

 

 手を休めず、言い返す。

 

「オレに、触っても大丈夫なのか?」

 

 その言葉に、紗矢華は少し見開く。

 ああ、なるほど、だから、と自然納得する。

 その『鼻』は『人の感情を覚る』とあの後に雪菜から聞いていたけど、最初から気づいていたのか。

 男に触れられるのは、嫌悪感より―――恐怖が勝っていることを。

 

 優れた霊能力を持った子供は、しばしば実の両親に疎まれて虐待されるケースがある。

 紗矢華の唯一の肉親であった父親も、やはり恒常的に紗矢華に暴力を振るい、そして小学生になる前に死んだ。

 その後、獅子王機関に引き取られたが、幼いころの父親に刻まれた恐怖は、今でも男性恐怖症とトラウマとなって紗矢華の心に深く根付いている。

 だが、そんなことを何も知らない人間から同情されるのは不快で―――しかし、

 

「オレも、魔女(オヤ)に殺されかけた」

 

 クロウに、ほとんどその記憶は残っていない。

 まるで誰かに『その悪夢(きおく)を食われたように』、忘れたつもりはないのに欠けている。

 思い出せるのは、黒い影のような女の人と、首にかかった細い―――

 

 

 

『強い感情が伴わぬ記憶は、水で薄めた酒のようなもの。我に記憶()を捧げた生贄どもの中でも、そなたのそれは複雑に濃厚な情動が入り混じった、実に味わい深い格別な『混血(カクテル)』であったよ』

 

 

 

 やっぱり……思い出せない。

 あの時に言われた言葉、あの時に見せられた表情も、ずっと覚えていくのだろうと、忘れるのは許されないものだろうとは思っていたのに。

 おかげでその悪夢を見ることはなくなったけれど、その代わりに、たったひとりの少女を守れなかった苦いものでこの空しい欠損は埋められている。

 

「覚えてない……でも、泣きたかったのは確かなんだ」

 

 その首輪の下に指を滑らせる。

 はじめは、触れるように、恐る恐る。

 あとは、握りこむように、強く強く。

 

「そう……」

 

 指を入れてできた隙間から、少しその“過去”が紗矢華にも見えた。

 一刀の断ち切られた傷も一晩で塞いでしまったこの子に、永遠と残るであろう絞め痕。記憶を忘れても、その過去は消えない。呪詛を操りし舞威姫が一目で、その呪怨は人の手では解呪できないほど強いものだとわかるのだ。

 

「本当、ここまで自信を無くさせる相手はあなたが初めてよ」

 

「でも、古城君はひどいことしないぞ。姫柊もいやいやじゃなかったし、むしろよろこんでたっぽいぞあれ。だから、煌坂も戸惑ってるようなら―――」

 

「ここまで調子を狂わされたのも初めてよホントっ!」

 

「あうっ」

 

 バンッ、と叩いて、紗矢華はそれ以上の天然の口を黙らせる。

 とにかく、これに男女の機微を相談させるのは激しく地雷だ。それもあの少女への対応を見る限り、そういった情操的なものに疎いから、悪気なく、むしろこちらのためを思って善意で、個人感情を暴露してしまうというある意味、天然極悪仕様だ。

 しかし、それで調子を取り戻した紗矢華は、クロウの目を見て言う。

 

「別に怖いんじゃなくて、苦手なだけ。そもそも、あなたは犬っぽいから全然気にする必要なんて十年早いわよ。それに、雪菜を助けてくれた。だから、私も助けるわ。それから、これから雪菜を任せるんだから、万全にしておかないと不安じゃない」

 

 最後に、その紗矢華が仕掛けた拘束術式を拭き取るように、指を這わせて、

 

「それから、昨日はごめんなさい。色々と」

 

「ふん。謝罪は転入生からもらったからしなくていいぞ。精々、働きで返すんだな、獅子王機関の舞威姫」

 

 治療と解呪が終わったところを見計らっていたのか、現れた那月に、その高慢な言い様にカチンときたり、けれど負い目があってそれが言い出せない複雑な表情を浮かべる紗矢華は、無言で一礼をして、その場を去った。

 

 

 

「……それで、一応聞いておくが、船までどうやっていくつもりだ馬鹿犬」

 

「? もちろん“走って”だぞ」

 

 その発言に、珍しくも同情したような表情を浮かべた那月だった。

 

 

絃神島 近海沖合

 

 

 結界に阻まれようと、優秀な追跡能力を誇る嗅覚の羅針盤は、船の現在地――藍羽浅葱を捉えており、最短距離で直進する。

 

 海岸から海上へと見躍らせ、海面を走る。

 そう、泳ぐのではなく、疾く駆けるように進んでいる。

 

 陽光を反射する体毛が水面を蹴り、銀の飛沫を燦然と散らす。―――が、その爪先は沈まない。銀人狼が蹴る水がまるで大地と変わらぬ強固さで、その疾走を受け止めている。それは魔族ではなく人間の超能が成し得たもの。

 

 <嗅覚過適応>

 その発香側に使った応用で、足元に接した海面に、瞬間瞬間、生命力を流し込み、刹那の間際だけ足場として凍らせているのだ。

 

 これならば、船までそう時間はかからない。

 が、

 

『よし、姫柊、乗れ!』

 

『ええっ―――!?』

 

 銀人狼と化した同級生が四足歩行のため四つん這いで、上に跨ることを要求してきました。

 

 その馬上ならぬ狼上で、片手に銀槍を手に携え、もう片手にその首輪から垂れてる鎖を幉のように手にとる可憐な乙女の姿は、傍から見れば、もののけ姫と称されるくらい颯爽と絵になりそうなものであったが、本人の心境は『こんなの、知ってる人に見られたらものすごく恥ずかしい!』と公開羞恥な目に遭ってる。

 幸い、海岸まで南宮那月に空間制御で跳ばしてもらったため、先輩や紗矢華に見られるようなことはなかったけど、傲岸不遜な魔女が初めて雪菜に同情的な視線を送ってくれたのが印象的であった。

 もっと他に方法はないんですか!? と言うも、

 

『姫柊、オレより遅いし。船よりこっちの方が速い。今は一刻も争う事態なんだろ』

 

 と言われてしまえば承諾するしかない。

 このクラスメイトが力任せに事を解決したがる脳筋思考だということを失念したことを後悔する雪菜だが、職業義務からこの罰ゲームを受けることになった。

 

 だが、雪菜は恥ずかしさのあまりだけに、その背の体毛に顔をうずめるようにしてるのではない。

 

 今、銀人狼と化したクロウの海面を駆ける速さは、競艇の時速80kmをも上回る――地上における最速とされる獣人種、人豹(ワーパンサー)と同等……いや、さらに舞威姫の呪的身体強化の如く気功も用いていて加速していっているので、もしかすると100kmはもう超えてるかもしれない怪物馬力。

 当然、体感速度はそれ以上となっているので、雪菜はもう必死にしがみついているのだ。

 

「さっき煌坂に秘孔をついてもらったからな。おかげで元気いっぱいだぞ。有り余ってて抑えるのが大変なくらいだ」

(紗矢華さん~~っ!! なんてことをしてくれたんですか~~っ!!)

 

 しかしながら、強烈と思われる空気抵抗はさほど感じていない。

 生体障壁を、頭部前方に鏃形に広げて突き出すよう展開して搭乗している雪菜ごと覆っている。硬密度な気の傘によって完全な空力特性を得た銀人狼は、空気抵抗からも解き放たれていた。

 だが、その器用さにますます速度を上げているわけで、もう雪菜は意識と同級生の幉だけは手放さないことだけを考え―――

 

「船が見えた! でも、見張ってる奴らがいるな―――よし、姫柊、耳を塞いでろ」

 

 え?

 目的地に着いたらしい。でも、片手はその首輪の鎖を掴み、もう片手は槍を持ってるので、あいにくその要求に雪菜は応えられそうにないのだが。

 ツッコミがないことを了承したと認識した同級生は、一気に船上真上に高々と跳躍。

 

「ま、待っ―――」

 

 こちらに気づき、銃口を向ける獣人たち。

 しかし、太陽の逆光で照準を合わせることができず、

 そして、空中で銀人狼の身体はすう、と息を吸った。

 

 その膨らみに、龍の如き息吹(ブレス)を思った者もいるだろう。だが、獣の口腔から発せられるのは、それとは別の『力』だ。

 生きとし生けるものを、あまねく畏怖させる『力』。

 大自然を、己が支配領域であると平伏させる『力』。

 

 

「        ――――っっっ!!!!!!」

 

 

 絶大なる咆哮(ロアー)が、絃神島沖合の空気を引き裂いて、船上の見張りに叩きつけられた。

 そして、テロリストたちを怯ませている間に、雪菜たちは無事?に<洋上の墓場>へ侵入成功した。

 が、直撃をもらってなくても、その余波が凄まじい。

 

「っ、あ、っと」

 

「む。大丈夫か。船酔いしたんだろ、姫柊」

 

 違います! と言いたいが、今はその反射を瞬時にできないくらい雪菜の脳が揺さぶられている。けして、船の揺れに酔わされたのではなく。

 

「そういえば、クラスの皆で、姫柊との接触時間に応じて、3秒、5秒、8秒、24秒ルールを設定してるんだが、ここまで来るのに数分かかったから結構な厳罰か? でも緊急事態だし」

 

 できれば許してほしいぞ、とクロウが言い切る前に、

 

「……ええ、“しっかりと”罰を受けてくださいね、クロウ君」

 

 幽鬼のようにゆらりと身体を揺らしながら、怪しげな光を銀槍と双眸から放っているクラスのお姫様の様子に、銀人狼もさすがに恐れ入るものを感じ取って尻尾を丸めてしまう。

 

「な、なんか、怖いぞ、姫柊。ぶるぶる」

 

「な・に・が?」

 

「くぅんくぅーん」

 

 澄んだ永久凍土のような瞳からの一睨みで、綺麗なお座りならぬ正座をするクロウ。

 

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 

 そうして、<洋上の墓場>テロリストたちの根城に突撃した剣巫は、守備兵として残っていた獣人相手に、鬱憤を晴らすかのように無茶苦茶無双した。

 

 

増設人工島

 

 

 各方角に分けられた主要四基の超大型浮体式構造物(ギガフロート)の他に、絃神島の周囲には、その他にも細々とした拡張ユニットが多く点在しており、この絃神島十三号増設人工島(サブフロート)は、廃棄物処理殻(ダストボックス)として建設中の小島(ユニット)

 

 その分厚い鋼板で敷き詰められた半径5kmほど海へ突き出た平坦な大地。

 そこで神々の兵器<ナラクヴェーラ>は暴れていた。

 ここの立ち入りが禁止されていたが、中の特区警備隊はすでに壊滅しており、このゴミの山の中に装甲車の残骸等があちらこちらに散らばっている。ギリギリ脱出はできたようで、負傷者の数も予想したほどではないそうだ。取り残されていた者たちも<空隙の魔女>の空間制御で残らず拾われている。

 

「一領主としてただ見物するわけにはいかないからね。君が気兼ねなく戦えるよう協力してあげよう―――<魔那斯(マナシ)>! <優鉢羅(ウハツラ)>!」

 

 と物見遊山でついてきたヴァトラーは、古城たちの前でその膨大な魔力を解放する。

 <蛇遣い>という異名に相応しく、眷獣は全長数十mにも達する2匹の蛇。

 荒ぶる海のような黒蛇と凍りついた水面のような青い蛇。

 それら二匹を同時に召喚し、さらに空中で絡めさせて―――融合。

 

 これが若い世代の『貴族』でありながら、格上である『長老』をも下したヴァトラーの特殊能力。

 

 荒れ狂う竜巻の化身が如き巨大な龍と化した合体眷獣は、<第四真祖>の眷獣<獅子の黄金>にも匹敵する格を有しており、“真祖に最も近い”という評価が間違いでないことを示している。

 

「どうだい? ボクの眷獣、中々のモノだろう?」

 

 合体眷獣の群青色の龍は、二つの人工島を繋いでいる強靭な連結ワイヤーを駆け巡るようにひとつ残らず破壊。合わせて、生じた暴風が増設人工島を洋上へと押し出した。

 

「増設人工島を、絃神島本島から切り離したのか……!?」

 

 おそらくは暴れたかっただけなのだろうが、それでもこれで市街地から距離ができた。そう、神々の兵器を相手に暁古城の<第四真祖>の力が発揮できる舞台へ―――ヴァトラーの望む展開へ。

 

「<ナラクヴェーラ>が動き出したわ、暁古城!」

 

 

 

 インド神話の『天翔る戦車(ブシユバカ・ラタ)』、道教の『哪吒太子』の原型。

 その『哪吒太子』の話となるが、

 

 曰く、蓮の花の化身で三頭六臂の異形なカラダを持つ人造神。

 曰く、火と風を操る車輪を持ち、自在に空を飛行する。

 曰く、『火を噴く槍』に『円環の投擲物』などと言った複数の武器を持つ。

 

 今、古城たちの前にいるのは、神が造りしモノにしてはあまりに禍々しく、凶悪であった。

 

 分厚い装甲に覆われた六本の脚をもった戦車、とも言い表すべき異容。

 甲殻昆虫が翅を広げるよう緩やかに湾曲した背中を展開し、内に備え付けられた円筒形のスラスターノズルで滞空。

 そして、戦車の主砲の如き頭部から放たれた真紅の閃光は、鋼鉄で覆われた大地を割断し、大爆発をもたらす。

 焦点温度2万度を超える光速の大口径レーザー砲は、まさに、『火を噴く槍』だ。

 

 現代の人間が造る兵器を大きく上回る古代兵器。吸血鬼の眷獣にも匹敵する戦闘力。

 これは黒死皇派の望んだ兵器。市街地へと進軍すれば、そこはこのゴミ山と同じ光景しか残らない。

 

「―――暁古城。消し炭になりたくなければ下がりなさい!」

 

 再び放たれた『火を噴く槍』

 それを浴びれば、不老不死の吸血鬼でさえ骨まで残さず火葬されるだろうそれに、一瞬先の未来を見た獅子王機関の舞威姫が阻む。

 

 <煌華麟>。

 獅子王機関の『第六式重装降魔弓』は空間を裂く。

 どんな超高温でさえ空間の断層を超えることは不可能。その銀剣が薙いだ領域は絶対不可侵の防波堤と化す。

 

 <ナラクヴェーラ>の紅い閃光は、古城の前で透明な障壁に遮られたように遮られ、霧散した。

 

「それが神々の兵器であろうと私の剣舞に斬れない例外は存在しない―――!」

 

 ヴァトラーをも討伐できる実力を備えた―――それはつまり、怪物にも匹敵する力を持っている。

 レーザーを放ち終えて無防備となった古代兵器の足元へと迫ると、ほっそりと少女のものにしては大きすぎる長剣を自在に振るい、舞うように銀の刃でその前脚2本を斬り払った。

 反撃をもらわぬよう、常にレーザー砲の死角に回るよう位置取りをしながら、絶え間ない斬撃を加え続け―――ついに、脚に自重を支えきれぬほどのダメージを与えて、その巨体を地につけさせ。前に傾倒したところで、大口径レーザー砲の頭部を渾身の一振りで一刀両断に斬り落とした。

 だが、これは神々の兵器―――

 

「えっ―――!?」

 

 万物を切り裂くその空間断絶の刃が阻まれた。

 何度繰り返そうが、紗矢華の剣は<ナラクヴェーラ>に届かない。

 見れば、その装甲に淡い輝きを放つ奇怪な紋様が浮かんでいる。

 

「これは、斥力場の結界!?」

 

 <煌華麟>の空間の連結を切り裂くその力は、刃に触れた空間にしか働かない。

 だから、刃を受けずに撥ね飛ばす。

 古代兵器は、斥力場の結界を纏うことで、舞威姫の斬撃を撥ね返せるように―――進化した。

 

「まさか……これが神々の兵器の能力なの……!?」

 

 古代兵器の恐るべき力は、『火を噴く槍』といった複数の兵器による戦闘火力ではなく、障害に応じて、自ら対応する学習能力。

 加えて、

 

「<煌華麟>で切断した個所が修復されてる!? まさか、元素変換!?」

 

 泥の中から花を咲かす蓮の化身の如く。

 廃棄物処理殻に積まれた資源(ゴミ)を自らの一部として取り込んでいき、自己修復する古代兵器。

 再生と学習能力―――倒しても、より強くなって復活する生体兵器。

 

 そして、黒死皇派の切り札は、一機だけではない。

 

「―――煌坂、危ねぇ!?」

 

 戦慄した紗矢華はそれに気づくのが遅れた。

 海上スレスレを滑空して増設人工島へ迫る五つの影―――五機の古代兵器(ナラクヴェーラ)

 

「ふゥん。これがガルドシュの秘策か」

 

 戦いを眺めるヴァトラーは、静かに手を組み、その吊り上がった口元を隠す。

 

 一定の距離を保ちつつ鏃型の陣形を取る統率された動きは、最新型の超電脳演算機で<電子の女帝>がその神々の言語で記された制御コマンドの石版54枚すべてを解析し終えた証左だろう。

 そして、五機のうちの先頭。

 女王蟻のように一回り巨大な胴体、八本脚に三つの頭部砲台と背中に戦輪(チャクラム)を詰め込んだミサイルランチャーの追加兵装―――<ナラクヴェーラ>の兵器群の『女王(マレカ)』だ。

 それが一時とはいえ、古代兵器を無力化した舞威姫へと爆薬を搭載したミサイルに等しきその戦輪を全弾射撃。

 おそらくは都市攻撃用巡航ミサイルと同等かそれ以上の破壊をもたらすその火を噴く円盤群は、一瞬だけしか絶対的な防壁を展開できない<煌華鱗>では防ぎきれず―――

 

「―――叩き落とせ、<獅子の黄金>!」

 

 紗矢華を身を挺して庇いながら、頭上に右腕を掲げた古城(あるじ)の命令により、膨大な魔力の源たる鮮血より現れた雷の獅子。

 飛来する戦輪を災害に等しき眷獣の咆哮と共に放たれた雷霆が悉く迎撃する。ばかりか、修復途中の最初の<ナラクヴェーラ>へと黄金の稲妻を纏わせて突貫させて機体に更なるダメージを与える。

 完全に破壊させることはできなかったが、左右の翅を砕き、全身の装甲を半壊させた。

 

 だが、一応手懐けたとはいえ、この獅子の力は巨大すぎる。暴走とはいえ、東地区を焼き払いかけたほどだ。

 その勢い余って、増設人工島の鋼鉄板の地面に激突。

 中空構造の人工島ではその威力を受け止めきることはできず、大きな地割れを起こして―――付近にいた古城たちもそれに巻き込まれた。

 

「うおおおっ!?」

「バカ―――っ!」

 

 古代兵器と共に古城と紗矢華は、生じた地割れの中へと落ちていった。

 

 

洋上の墓場

 

 

「槍を振り回して船の結界を裂いてくれて、転移できるようになった。うちの生徒を救出し、それと馬鹿犬の幉を取ってくれたことには、礼を言っておこう、姫柊雪菜」

 

 虚空から音もなく出現した那月は、やけに疲労困憊な雪菜とその横で解析に疲れて寝てしまってる浅葱、その前で正座したクロウを見て、大まかに事情を察した。

 

「いえ……これが私の仕事ですから」

 

「ご主人。姫柊、怖かったぞ」

 

「何ですか、クロウ君?」

 

「ごめんなさいごめんなさい。もう二度と人を無茶に巻き込まないのだ!」

 

 どうやら、犬の格付けする習性で、転入生は相当上位に立ったようだ。古城を見ていてそう思ったが、男を調教する才能があるかもしれない。これが馬鹿犬の同級となって学校に通ってくれれば、飼い主として頭痛が減るかもしれないと那月は密かに獅子王機関の剣巫の期待値を上げた。

 

「それで、先輩の方は……どうなって、ますか?」

 

「そんなに気になるのか、暁が」

 

「監視役、ですから」

 

「仕事熱心だな」

 

 眠り続けている浅葱を、歪めた空間に放り込んでから、那月は少し意地悪く、ふふん、と笑い、

 

「あいつは、自滅だ。<第四真祖>の力を受けるには脆い増設人工島で暴れさせたからな、大穴を作って、そこへお前の同僚と一緒に落ちていったよ」

 

「そんな―――!?」

 

 青白吐息のところをさらに雪菜は顔を青褪めさせる。

 それに那月は、その反応を見て、ふん、と鼻を鳴らし、

 

「まあ、あいつらのことだ。死んではないだろう」

 

 廃棄物処理殻として建設された増設人工島は、石油タンカーと同じ構造で、つまりは頑丈な鋼鉄の外郭に覆われた空っぽな箱だ。それもまだ建設途中で中は空っぽ。土砂崩れに押し流されるような形で緩やかに落下した古城たちは、ゴミの海に生き埋めになることもなく、無事でいるだろう。

 とはいえ、自力で脱出はできないだろうから助けが必要だ。

 そう、たとえば新たな力を得るために―――

 

「転入生が無理していくことはないだろう」

 

「何故ですか!? 先輩は<第四真祖>ですが、まだ―――」

 

「だから、言っただろう。“お前の同僚と一緒に落ちていった”とな」

 

 ようやく察した雪菜は沈黙。そして、未だ正座中の同級生がぞわっと鳥肌を立たせる冷気のようなものを放出。

 

 剣巫と同じく、舞威姫も、優れた霊能力者であり、その血は霊媒としてとても優れている。“吸血鬼のエサとしても”。

 

 二人っきりの、閉じ込められた状況。危機的状況で生死の間際という吊り橋効果。

 そして、先輩の習性に、どことなく違和感を覚える元ルームメイトの対応。

 

「……そうですね。緊急事態ですし、怒りませんよ。もしも紗矢華さんの了承を取らず、無理矢理したというなら、監視役として不埒な真似をした吸血鬼に槍を向けることも吝かではありませんけど。先輩のことですから、きっと………ええ、きっと、大丈夫、です」

 

「ご、ご主人!? 姫柊怖い、怖いぞ!」

 

 ついに泣きが入って、こちらに懇願するクロウ。

 馬鹿犬でも女の嫉妬を怖がるくらいの感性はあるらしい。良い傾向だ、と那月は艶然と微笑み、

 

「とりあえず、転入生はここで休んでいろ。槍を振り回して精根尽きてる状態で行っても役に立たん。馬鹿犬に振り回されて大変だったろう? だから、代わりにコイツに責任を取らせよう」

 

 那月が頷く。

 隠しているつもりだったが、気づいてるのだろう。この胸に燻り続けているものに。それを見透かすような目で、正座から片足を立て(こうべ)を垂れる――騎士が主へ忠誠を表すような――体勢をとるクロウを見下し、呼びかける。

 

「クロウ」

 

「……はい」

 

「<神獣化>は許可せん。すれば、暴走をしなくても力の制御ができていないお前は暁古城の二の舞になるのはわかり切ってるからな」

 

 この身を龍や鳳凰、真祖の眷獣と同じ、最上級にまで格を上げる<神獣化>を禁じる。存分に力を振るうには脆い舞台であるが、それでも市街地への進軍を防ぐためにあの増設人工島に留めなければならない。

 それを理解し、戦況の厳しさを肌で感じ取った時だった。

 不意に、身体が黄金に包まれたのだ。

 

「―――う?」

 

「本体の使用は制限がかかっているがね」

 

 実に、面倒そうな声だった。

 銀人狼の手も足も、黄金に輝いている。

 全身を纏った黄金―――<守護者>の一端を纏い、神々しい『騎士』と化していた。

 そして、この“匂い”は―――

 思わず、クロウは顔を上げてしまった。

 

「馬鹿犬とはいえ、魔女の契約を結んだ眷獣(サーヴァント)である以上、私の沽券に関わる。真祖クラスであろうが<蛇遣い>の眷獣(へび)に劣ることは許さん。

 <輪環王(ラインゴルド)>の『鎧』を貸し出してやる、ありがたく思え」

 

 そんなはずがない。主はその力を制限されているが、絃神島の危機であるならばそれが許されるはずだ。主はこちらの都合に、苦しい言い訳を付けているだけだ。

 なんて傲慢で―――なんと寛大な、頭の下がるような言い訳だろう。

 

「お前の手で終わらせてこい」

 

 そして、魔女は自らの眷獣を戦場へと送った。

 

 

増設人工島

 

 

 無人機が一機、<第四真祖>の災害ともいえる破壊に巻き込まれたが、残りの五機で市街地へ進軍しようとしていた古代兵器たちは、最初、その甲冑を纏った少年を敵性対象と判断しにくかったらしい。

 無理もない。

 自分たちに与えられた戦力からすれば、鎧こそ纏っていてもたったひとりの少年など、まともに相手にするにもあたらない。

 だが、だからといって古代兵器たちが手を抜くこともない。

  与えられたプログラムに従い、南宮クロウに向けて砲門を振り向ける。照準も精密に狙い定め、冷たい機械的な意思が『火を噴く槍』のエネルギーを充填する。

 次の瞬間。

 しかし、轟いた衝撃音は―――古代兵器たちのものではなかった。

 

「なに……っ!?」

 

 <ナラクヴェーラ>に搭乗していた獣人種のひとりが改めて、その眼前――コクピットの真上に立つ、黄金の甲冑を纏う銀人狼をみた。

 その主砲を悉く、発射直前の、“刹那に数発同時に叩き込んで”、破壊させた魔女の眷獣を。

 

 『鎧』を纏った体は、いつもの倍近い速度で動いた。

 いわば<守護者>による強化外骨格。ロタリンギアの殲教師の切り札であった<要塞の衣>と同じ理屈だろうか。

 獣人形態に合わせてくれたのか、手甲が爪のカタチになっており、鎧もそう動き妨げるような作りではない。

 

 そして、何より、これには主の力の一端が貸し与えられていた。

 

「たかがひとり。我ら黒死皇派を勝利へ導くこの<ナラクヴェーラ>に」

 

 言い切ることは、できなかった。

 “ただその手でぶん殴って”、古代兵器を破壊した。

 敵の攻撃を分析し、即時対応する学習能力はそれを把握しようとしたが、“まったくわからなかった”。学習が、理解が、全く追いつけない。たちまち数tもの重量を誇る古代兵器の子機がばぎぼごと音を立てて、ガラクタになるまで粉砕されていく。

 

「これは、もしや……」

 

 見物する『貴族』の青年は、それの正体に勘付く。

 なにせ、これの使い手は、ヴァトラーも一目置くほどだからだ。

 そう、許されるのであれば、神々の兵器よりも殺し合いたいくらいの。

 だけれど、魔女は戦う気はないだろうし、青年もそれを捕まえることはできない。

 

 

 <空隙の魔女>が行使する空間制御の魔術は、距離をゼロにするのではなく、『移動にかかる時間をゼロ』にするものだ。

 

 

 たった今。

 四機を次々と片づけたそれは、『相手を殴る時間をゼロ』にしたのだ。

 

 攻撃から着弾までの時間がゼロになる。

 つまり、放つと同時に当たり、一撃目と二撃目が全く同時に来る。二撃目と三撃目も全く同時に来る。

 おそらく、『殴る』ことだけ。その手の届く間合いでしかそれを発揮できないのだろうが。今、彼の間合いは絶対必殺圏域だ。

 

「オマエらみんな、オレの手でブッ壊す!」

 

 『哪吒太子(ナラクヴェーラ)

 それを降したのは、仙人に弟子入りし、神々からの束縛を受ける、有り余る怪力を持った獣王(サル)の大妖怪『斉天大聖』。

 

 神殺したる獣王の“血”を引く魔女の眷獣が放つ、時間を無視した拳打爪突の乱舞。

 一撃で壊れぬのなら三撃。三撃で壊れぬのなら五撃。

 立て続けに同時に重ねていく爪拳の様は、もはや三面六臂の阿修羅の如く。

 相手に攻撃も防御も分析もさせる機会も与えない、絶対的な先の先。

 

「どうだ<蛇遣い>? これが私の眷獣だ。中々のモノだろう?」

 

 それより上の位置に現れた魔女は見下しながら、青年に先の意趣返しを告げる。

 青年はその手で隠す口元で白い牙を剥きながら、

 

「まったく、やってくれたね、<空隙の魔女>。でも、あまり挑発しないでくれよ。今日は古城の見学で済ませるつもりだったのに、我慢ができなくなるじゃないカ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「『夜の帝国』を崩壊し得ると計算していた神々の兵器の軍勢を、単騎で覆したか。実に愉快だ。知略をいくら突き詰めようが、それを、力を以てして制すその有様。やはりその“血”は、我が古き盟友のものに違いない」

 

 後方で静観していた『女王』の<ナラクヴェーラ>。

 それに搭乗するガルドシュは、その黄金の鎧を纏おうとそれがすぐにわかった。

 子機を全滅されようが、この湧き上がる闘争の喜悦、それに獣人の瞳が爛々と輝く。そして、対峙する黄金鎧の銀人狼は激しく体力を消耗したように、肩を大きく上下させていた。

 

「ハァ―――ハァ―――ハァ―――」

 

 『殴る時間をゼロ』にする空間制御。

 だがそれは尋常ではない瞬発力を持った獣人種が全力で殴り続けられたからこそ成し得たもの。果てしない距離を全速力で走り続けたようなものだ。人間でもサンドバックを全力でどれだけ殴り続けられるかを考えてみればいい。

 殴った時間がゼロになろうが、連打を重ねれば重ねたほど、それに消耗した体力と反動の衝撃を受ける拳への負担は凄まじい。その爪形の籠手で守られてなければ、両手の骨は粉々に砕けていただろう。

 

「しかし、戦争はひとりの強者で勝てるものではないのだ」

 

 老将校の言葉は経験という裏付けのあるものだ。

 古代兵器に搭乗していた獣人種は残らず叩き伏せられてブッ飛ばされたようだが、粉々となった古代兵器四機は、自動で自己修復機能を働かせている。衝撃を計算し、より硬度に高めた装甲を造り上げようとしていた。

 

「私の勝ちだ。その魔女の鎧を脱ぎ、首輪を外して、こちらに付くのだ。必ずその力は我々の獣王に認められるだろう」

 

 『女王』の三つの頭部砲台と戦輪の照準が一点に向けられる。

 個人に向けられるにはあまりに過剰な殲滅火力。しかし、これが正当な評価であることをガルドシュは確信している。

 

 しかし、そんな危機的な状況においてなおその眼光は揺らがない。

 

「オレは、ご主人の眷獣だ」

 

 そして、

 

 キィン、と耳障りな高周波が、増設人工島の真下から響き渡り、続いて全体を強烈な振動が震わせる。

 

「オレは、ひとりじゃない」

 

 それに耳を押さえながら、鼻をスンと鳴らすクロウ。

 血の匂いがまた“濃くなった”。

 この多種他臭なゴミ山の空間においても、“濃い血”の匂いを感じられたからその生存を確信してはいたが、今このとき、ますますそれは強まった。

 

 鋼鉄の大地を突き破り、天に伸びる光の柱。

 それは凶暴に荒れ狂う魔力の塊であり、大気を歪ませる振動波の源。

 『貴族』の合体眷獣にも匹敵するエネルギーはやがて陽炎となり、獣のカタチを作り始める。

 緋色に煌めく鬣と、双角を持つ巨大な獣へと―――

 

疾く在れ(きやがれ)、九番目の眷獣、<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>―――!」

 

 

 

「<第四真祖>の眷獣か!」

 

 緋色の双角獣(バイコーン)は、第四真祖と共に地下へ落ちていた子機の<ナラクヴェーラ>―――の残骸をその音叉のような二本の角から共鳴振動して放たれた高周波で天高くに突き上げながら、ガルドシュの『女王』の前に君臨する。

 そして、その宿主たる暁古城と煌坂紗矢華も。

 

「地上に出ることはできたけど……あなたは滅茶苦茶ね」

 

「それは俺じゃなくて眷獣(こいつ)のことだろ」

 

 わざわざ外に出るために大きく割られたそのクレーター。

 新しく手に入れた眷獣で、障害となる瓦礫を吹き飛ばそうとしたのだが、『天井が高くて出られないのなら、低くすればいいんじゃない』とばかりに、周囲を徹底的に破壊して、地盤沈下。雷光の獅子もそうだったが、この超音波の双角獣も相当なじゃじゃ馬っぷりである。脱出の際も<煌華麟>で防いでなければ、自滅していたところだ。

 とはいえ、精神的疲労で肩を落として消沈している古城に反し、紗矢華の方は口調が愉快気である。今も古城と寄り添うように隣にいながら、笑みを浮かべて見せている。

 

「訂正。あなたたちは本当に滅茶苦茶ね」

 

 そして、紗矢華たちもまた、この戦況―――後輩がたったひとりで、古代兵器四機を撃破したのを見て、心底呆れ果てた表情を浮かべて、

 

「ただでさえあの子の同級生で大変だと思うのに。やっぱりあなたなんかの近くにいたら、雪菜が危険だわ―――だから今回だけは、私が面倒見てあげる」

 

 そして、またひとり。

 紗矢華とは反対側に、その小さな影が歩み立つ。この隣は自分の場所だと主張だとするように。

 

「―――ええ、先輩」

 

 銀色の槍を構えた制服姿の少女、姫柊雪菜が何故か拗ねたような瞳で見上げながら迫る様に、古城は根拠のない不安と謎の後ろめたさを覚える。

 

「ひ……姫柊?」

 

 どうして、ここに……と。

 二面作戦でこの少女は沖合にある船までクラスメイトの浅葱を救出に向かっていたはずだ。けれども、空間制御の使い手である那月と、同行していた後輩がこの場にいるということは、彼女もまたここにいるというのは当然である。とはいえ、あのテロリストの巣窟をこんな短時間で制圧したというのか。

 

「先輩の頼れるクロウ君と一緒でしたから。それに、紗矢華さんのおかげでとても元気がよかったですし。想定されたよりもだいぶ早く終わったんです」

 

 だったら、その一言一言に滲む冷たいものはなんなのか。恨み節と変わらないように聞こえるのだが。そんなことは古城も紗矢華も言えない。

 

「それに、監視役ですから。私が、先輩の」

 

 わざわざ倒置法で強調。そして、雪菜が初めて見るその緋色の双角獣を下から上へとじっくりと見上げて、黄金の獅子と見間違えた錯覚ではないことを重々と承知してから、抑揚のない声で、その一言にいろんなものを篭めて、訊く。

 

「新しい眷獣を掌握したんですね、先輩」

 

 古城はぎくしゃくと頷いて、紗矢華と目を合わせながら、

 

「あ、ああ。何故か、いろいろとあってこんなことに」

「そ、そう。不慮の事故というか、不可抗的ななにかがあって」

 

 そのぎこちなく視線を伏せる紗矢華は、どういうわけか最後にあった時には着てなかったパーカー――先輩のパーカーを羽織っており、その襟でその首元を隠すよう、また埋めるよう指先で引っ張っている。

 そんな元ルームメイトの態度を、雪菜は少し意外そうな表情で見つめて、仕方のない人たちですねとでも言いたげな長い溜息をついてから、

 

「そうですか。では、そのお話は後にするとしましょう」

 

 雪菜は銀槍を古代兵器の『女王』へと向け、続いて紗矢華も長剣をその隣で構える。

 そして、古城は、クロウに向けて、

 

「遅れて悪かったな。けど、古代兵器四機を相手によくやった。市街地への行くのをよく留めてくれた」

 

「古城君……」

 

「けど、ちょっとは先輩にも花を持たせてくれてもいいだろ。だから、今はここで休んでろ。あの親玉の機体の相手は任せろ。そいつは、第四真祖(オレ)戦争(ケンカ)だ」

 

 禍々しい覇気を古城は纏う。

 そして、雪菜も銀槍から清浄な空気を放ちながら、

 

「―――いいえ、先輩。“わたしたちの”、です」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『女王』の三頭の砲台に収束される光と熱。

 照準をそれぞれに向けて放たれた『火を噴く槍(レーザー)』に対して、紗矢華が前に出る。

 空間を断つ<煌華麟>が三条の真紅の閃光を阻む壁を作る。

 

 止まらず、『女王』は、その背中に備え付けられている追加兵装の『戦輪(ミサイル)』を一斉射撃。

 雨の如き爆裂弾の群を古城の<双角の深緋>の超振動波で悉く迎撃。

 ばかりか、双角獣は咆哮と共に、音叉の角の共鳴振動をさらに増幅させて、増設人工島の先―――聖書の一説に出てきた光景を再現するよう、海を割った。

 

 それほどの衝撃波の弾丸を受けた『女王』は装甲が砕け散り、骨格はへし折られ、急激に圧縮された周囲の空気が、数千度の高温となって機体を焼き尽くす。

 しかし、それでもなお、子機とは一線を画す指揮官機は原型を留めている。

 ばかりか、自己修復機能と学習能力で衝撃に耐性を持って復元しようとしている。

 これではまた―――そんな焦る古城に、雪菜は華やかに笑いながら、

 

「いいえ、先輩。大丈夫、勝てますよ」

 

 そう言って、雪菜は取り出したのは、船で救出の際に渡された薄桃色の小さなスマートフォン。その液晶画面に、ぬいぐるみのような人工知能が現れる。

 

「―――そうですよね、モグワイさん」

 

『おう。浅葱嬢ちゃんが、逆襲の段取りはきっちりすませておいてくれたからな』

 

 藍羽浅葱は、思考過程に論理演算を必要としない命令言語という言語学者がさじを投げだすようなプログラムを、『時代遅れのアーキテクチャ』とばかりにたった15分で54枚すべての解読を終わらせた。

 だけでなく、黒死皇派に監視される状況下で、密かにネットワーク経由で自身の相棒たる人工知能を呼び出しては、“新しいコマンド”を創り上げていた。

 自己修復機能を反転させて、古代兵器を自滅させる、一種のコンピューターウィルス『終わりの言葉』を。

 天才という言葉では間に合わないほどの荒業を、藍羽浅葱は成したのだ。

 

「<ナラクヴェーラ>は音声コントロールです。『女王』の指揮官機の中に入って、藍羽先輩が創った音声ファイルを流せれば、すべての機体が停止するはずです」

 

「だったら、あのでかいヤツの中に入るまで、集中砲火をさせないようあいつらの動きを止めればいいんだな」

 

 解析して進化する、古代兵器の学習能力がある以上、チャンスは一度きり。

 だが、これを成功させなければ、この戦争に勝ち目はない。

 

「―――私が止めるわ。だから、暁古城。私と雪菜の足を引っ張ったら、灰にするからね」

 

 前に突き出された舞威姫の武神具<煌華麟>。

 その銀色の刀身が前後に割れて、鍔に当る部分を支点にして、割れた刀身の半分が180度回転。銀色の強靭な弦が張られて―――飛行翼に似た流麗な長剣は、優美なアーチを描く長弓へと変形する。

 

「―――弓!? 洋弓か!」

 

 そのリカーブ・ボウと呼ばれる現代の洋弓の形態となった己の得物を紗矢華は構えると、自身のスカートをたくしあげて、太腿に巻き付いていた革製のホルスターから、金属製のダーツを取り出す。そして、ダーツを右手で一閃すると、それが伸びて銀色の矢に変わる。

 

「『第六式重装降魔弓(デア・フライシュッツ)』。これが<煌華麟>の本当の姿よ―――」

 

 そうして、獅子王機関の舞威姫は流れるような美しい姿で矢を番え、力強く弓を引き絞る。

 

「―――獅子の舞女(ぶじょ)たる高神の真射姫(まいひめ)が讃え奉る」

 

 祝詞を紡ぐと共に、体内で呪力を練り上げられる。

 呪的身体強化と同じように、己の手足の一部たる弓の性能を限界まで増幅し、銀色の矢にも呪力を装填する。

 

「極光の炎駆、煌華の麒麟、其は天樂(てんがく)と轟雷を統べ、噴焰をまといて妖霊冥鬼を射貫く者なり―――!」

 

 放たれた矢は、大気を引き裂いて天上へと伸び()がり、その際に生じた甲高い飛翔音は、慟哭にも似た忌まわしき遠鳴りとなって戦場全体に鳴り響く。

 

 <煌華麟>は二つの機能を備えている。

 ひとつは物理攻撃の無効化する空間断絶。

 そして、もうひとつは攻魔破邪の呪を施した鏑矢の魔弾を以て、人間の生体や肺活量では詠唱が不可能である、喪われた秘呪を発動させるというものだ。

 たった一矢で、半径数kmにも達する巨大な不可視の魔法陣を描き出す、これが暗殺と呪詛の専門家たる舞威姫の本領。

 重圧の如き膨大な瘴気が、『女王』と復元途中の子機たちに降り注ぎ、その機能を阻害する。

 

「先輩! 私の後ろを―――!」

 

 神々の兵器さえも圧す壮絶な瘴気は、当然、人間が生身で浴びれば確実に命はない。けれど、それをあらゆる魔力を切り裂く清浄な神気を放つ剣巫の<雪霞狼>が無効化して、道を作る。

 そして、彼女の背中を追って、疾走する古城は、『女王』に向けて右腕を掲げ、

 

「疾く在れ―――<獅子の黄金>! <双角の深緋>!」

 

 イメージするは、二体の眷獣を融合させた<蛇遣い>の姿。

 そのような特殊能力は持ち合わせていないが、同時攻撃を指揮することはできるはずだ。

 獅子が放つ雷光と、双角獣が放つ衝撃波による挟み撃ちの焦点にいた『女王』に襲う、膨大な爆圧。

 その逃げ場のない超高圧、そして、初めて行使した二体眷獣の同時攻撃の威力に、大型古代兵器は大破して、その機能を一時停止させた。

 自己修復機能があろうとそれが終わるまでは、ガラクタとは変わらない。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 そして、古城を先導していた雪菜はそのまま静かに祝詞を紡ぎ、銀槍に纏わす神気を増幅させる。

 

「破魔の曙光。雪霞の神狼。鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!!」

 

 古代兵器のコクピットへとその槍を突き刺し、

 

「―――くっ、獅子王機関の剣巫に舞威姫、そして第四真祖を同時に相手どるのは『女王』だけでは、いささか分が悪すぎるか!」

 

 コクピットから獣人化をした老将校がその血まみれの姿を外気へ晒す。

 銀槍を振るう雪菜と鍔競り合いをこなした後、地上へ逃げる。そして、雪菜はその無人となったコクピットへスマートフォンを投げ入れる。

 

「ぶち壊れてください、<ナラクヴェーラ>」

 

 <電子の女帝>が作成した55番目の命令コマンド『終わりの言葉』、その音声ファイルが指揮官機たる『女王』の内部で再生されて、あっさりと古代兵器群は崩壊した。

 時間を早送りにしたようにそれは化石と朽ち果てて、5分足らずで風化して砂と散った。

 

 これで、<ナラクヴェーラ>は無力化した。

 そして、後は黒死皇派――クリストフ=ガルドシュとの決着のみ。全員でかかれば確実に倒せる。妹の凪沙を、浅葱を攫われたことに古城も怒りを覚えている。

 しかし。

 

「姫柊。煌坂も、手を出すな」

 

 と、古城は言い切ったのだ。

 それに雪菜と紗矢華は大きく目を見開いて、

 

「……そうですね」

「……そうね」

 

 と、ふたりは、嘆息と共に納得した。

 

「何を言うか第四真祖。これは戦争だ。多数で囲もうが、それは非難されるような行いではない。私もまだ負けるつもりはないぞ」

 

「だから、だ」

 

 威厳さえ湛えて、古城は告げる。

 凄まじいほどに赤い、真祖の瞳は、この場において万物を従えるように見えた。

 

「これは、クロウが最初に始めた戦争(ケンカ)だ。

 最後はテメェの手で戦争に蹴りをつけて来いクロウ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 肉体も、限界だ。

 精神(こころ)も、一度は折れかけた。

 それでも。

 それでも、なお。

 見られている。

 見守られている。

 今も、正念場に送り出されたこの背中に視線を感じている。

 たったそれだけのことで、自分はもう一度立ち上がることができる。

 

「う。オレの手で、戦争を終わらす」

 

 主から貸し与えられた『鎧』を解いて、その銀人狼の姿を露わにするクロウ。

 それと対峙する、ガルドシュはその凪いでいる双眸に、自らの目を細めて、不思議と昂揚のない穏やかな口調で、

 

「……怒りや憎しみは力をこの上なく引き出してくれる。しかし、本当の強さというのはその先にあるものだったな」

 

 浮かべているのは、ひどく複雑な表情だった。

 けして歯噛みしてるわけではない。ケモノのようにだらしなく口を開いたりもせず、屹然と閉じている。しかしその唇、そして眉は微かに震えつつ動いており、それだけで万華鏡の如く、いくつもの想いが錯綜し乱舞していた。

 怒りであり。

 嘆きであり。

 昂りであり。

 悼みであり。

 そして、慈しみであるような、そんな“匂い”がクロウの鼻腔をくすぐる。

 

「さあ来い“南宮クロウ”。この我が戦争、喰らえるものなら喰らってみるがいい!」

 

 対峙する両者。

 その距離間10mは開いているも、共に一歩で打ち合える間合い。

 

「獣王が編み出した獣人拳法。その四つの秘奥、『混血』の貴様に凌ぎ切れるか……!」

 

 ガルドシュ、クロウに向かって踏み込む

 クロウもこれに応えるように踏み込む。

 

 獣化した身体能力は、音速にも似て大地を削る。

 ケモノではなしえぬ、絶対的な速度。そして。

 

 ガルドシュとクロウ、両者が繰り出した爪拳が激突に溶け合う。

 

 唸る鉤爪はどちらもどちらのを切り裂くことはできず、火花を散らした。

 そしてひとつの火花が消えぬ内に、また火花が散る。それも三度。

 わずか数秒で、数十の火花を散らせる超速度の剣戟。

 人間の動体視力など追いつくはずもなく、古城たちにはその結果だけを見ている。

 

「はははっ!」

 

 嗤ったガルドシュが爪を捩じる。クロウもまた逆の爪を捩じる。

 絡み合う両者の両爪。

 野生の理。

 一歩でも退ければ、負けだ。

 一歩でも引かせば、勝ちだ。

 そのまま、両手を掴み合わせながら、互いの額を真っ向からぶつける。

 鋼板さえ割る石頭。強靭な肉体を持つ獣人ならではのデタラメな威力に、大気の揺らぐほどの衝撃音が響き渡る。

 

 力は互角。

 速度も互角。

 同じ獣人――人狼同士であれば、それも当然であったか。

 ならば、勝敗を分けるのはそれまでに積み上げてきたもの。

 

 吐息のかかりそうな近距離で、額をすり合わせながら見つめ合った。どこかしら同族の抱擁にも似たそれはしかし、絶大な闘争本能で研ぎ澄まされている。

 

「血沸き肉躍る戦いは、やはり楽しいな! だが、まだまだ甘いわ小童! その牙は飾りか!」

 

 拮抗をずらし、ガルドシュは狼口を開いて首筋に噛みつく。その尖った野生の牙を荒々しく突き立て、クロウが身を捻って振り解こうとしたところでその肉を千切る。

 

「は、づぅぅぅう―――ッ!!」

 

「所詮、貴様が学んだのは『人間』の武技! 我ら『獣人』のためのものではない! そん

なお遊戯は上品すぎて肌に合わんわ!」

 

 怯んだところをガルドシュは襲い掛かる。

 

「玄武百烈脚!」

 

 その身触れんばかりの生体障壁。半ば物質化しているそれらを別けて、分身を作る。人間ならば生命力が枯渇するであろう気功武術。

 獣人の動きとシンクロする分身は左右から挟み撃ちで猛烈に攻め立てる。

 

 それをクロウもまた分身を作り、その猛攻を受け流す。

 

「なに―――っ!?」

 

 捌ききれず、弾かれたクロウの身体。

 ガルドシュはその両手を咢と構える―――それを鏡合わせの如くクロウも両手を咢と構えた。

 

「白虎衝撃波!」

 

 放たれた気功砲。真っ向からぶつかり合い、霧散。相殺された。

 

(まさか、見様見真似で獣人拳法を学習しているというのか! いくら素質があろうと、そう一度の見稽古できるものではない!)

 

 腰だめに構える拳。

 当てずとも当てる究極の当身たる遠当て。百歩神拳とも言われる人間以上の、獣人の拳速だからこそなしえるその拳技。

 それもまったく同じ動作で、腰だめに拳を構えられた。

 

「青竜殺陣拳!」

 

 合間の空間が撓むように歪んで、破裂したように暴風が吹き荒れる。またも相殺。いや、こちらが若干、押された。

 半歩、後ろに下がらされたガルドシュの巨体。

 打ち合うたびに、戦闘技術が鍛えられていく。そう、過去の経験を呼吸するように取り込んでいっている。

 

「そうか。その『混血』の半分は、人間の能力者のモノ。<芳香過適応(リーディング)>という奇怪な技で過去を読んだのだな!」

 

「ああ、『混血』のオレはこれでようやくオマエに並んだ」

 

 驚くほどに噛みあい始めている。

 それは老将校の技術がそれほどに源流(オリジナル)に迫ったものであり、その少年に流れる血筋が源流(オリジナル)に近いからこそ。

 

「だから、次は追い抜く」

 

 ダメージも深い。疲労も大きい。あと数分で燃え尽きる。しかし勢いは止まらない。むしろ動きはより速く、無駄のないものになる。蝋燭が最後に一際瞬くように。

 

 防戦一方だったクロウが攻めに回る。

 

 その身を別ける生体障壁の分身を作り出し、シンクロする連打連蹴でガルドシュを挟み滅多打つ。

 浅葱や凪沙、アスタルテたちの分まで殴って、蹴って、殴りまくる。

 それでもガルドシュは頽れず、大きく胸を反らし、

 

「甘い! まだまだ完成度は甘いわ!」

 

 獣気を一帯に放散し、充満させる。

 空間を歪ませ、手足を使わずに相手を屈させる、最後の奥義。

 あの時、止めを刺すはずだったその圧倒。

 

「朱雀飛天の舞!」

 

 だが、<蛇遣い>に横やりを入れられ、一度として見せることのなかったそれさえも『混血』は嗅ぎ取っていた。

 

「―――ウォォッ!!」

 

 <嗅覚過適応>

 それは発香側(アクティブ)匂付け(マーキング)して己の生命力を植え付けることで自然物を手足のように指揮することができる。

 今、己の獣気――“匂い”を大気に充満させ、染み渡らせ、“マーキングした”。

 ただ膨大な生命力で満たすのではなく、溶け込ませて自身の一部となるよう空間と一体化する。

 そう、超能力で補わせることで、ガルドシュの獣人種の優れた五感さえ麻痺させてしまうほどに、源流よりも空間の支配権を上回った。

 

「オレの勝ちだ」

 

 老将校、獣王の古き盟友は、一度だけ目蓋を閉じ。

 

「ああ、私の負けだ」

 

 遠くを見つめながら、己に言い聞かせるように呟いた。

 全身を巨人の手で握り潰されるよう、空間に圧し込められ―――解放された時、膝から落ちて、ゆっくりと大地に伏した。

 

 

 さわり、と―――遠くその異国の空気を運んできた海風が、その頬を撫でた。

 

 

病院

 

 

 世界初の眷獣を寄生させた人工生命体(ホムンクルス)アスタルテは、世界最強の吸血鬼の『血の従者』でもある。

 

 だからか、戦闘用に調整された人工生命体ではないのでその身体能力自体はさほど大したことがないにしても、怪我の治りは他の人工生命個体と比べれば、怪我の治りは早かった。

 通常ならば、拳銃の弾丸6発もらえば即死であったろうが、『血の従者』としての性質で、もちろん、獅子王機関の舞威姫の懸命な応急処置のおかげもあるが、その命を病院まで繋ぎとめることができた。

 

 そうして、病院の人工生命体用の調整槽で目覚めたアスタルテは、まずは自身が失態を犯してしまった事件の状況が気になり、その調整槽の前でプチ家出中だった先輩が何とも難しい顔でリンゴの皮を剥いてる様子からすぐにそれを悟った。

 

「お、起きたか。大丈夫かアスタルテ」

 

「肯定。損傷した臓器は交換し、問題ありません。完治に2週間は必要となるでしょうが。それで、黒死皇派に攫われた藍羽浅葱、暁凪沙、姫柊雪菜の3名の無事は?」

 

「藍羽先輩も、凪沙ちゃんも、姫柊も、3人ともばっちり無事だ。黒死皇派もけちょんけちょんにブッ飛ばしてやったぞ」

 

 身振り手振りを交えて説明されて、彼女らの無事を確認できた。

 けれども、自身が失態を犯してしまったことには変わりない。あそこでもっと迅速に眷獣を召喚できてさえいれば……

 

「申し訳ありません。教官(マスター)から留守を任されていた私があそこで彼女たちを守れていれば……」

 

「ふふん。後輩の尻を拭ってやるのも先輩の役目なのだ。アスタルテは古城君に必死に伝えたみたいだからな、頑張ったぞ。ふむ、よくやった」

 

 おそらく主人の真似をしていると思われる口調だが、残念なことに威厳が足りてない。

 先輩風を吹かすのがあまりに嬉しそうなので、逆に微笑ましくなるくらいだ。

 

「そうだ。オレ、気功波できるようになったから、師匠から免許皆伝を言い渡されたのだ。アスタルテを鍛えてやろうか?」

 

「否定。戦闘用の人工生命体ではありませんので、鍛えようにも先輩の目標とする水準に達することは無理です」

 

「むぅ。そうか。……じゃあ、かけっこで足を早くしてやるぞ」

 

「同上」

 

「毎日の運動は健康にいいんだぞ」

 

「入力された医療知識から、私は今の状態がベストです。また、人工生命体に維持に運動する必要もありません」

 

「むむぅ~、これじゃあ、オレ、アスタルテに何も教えられないぞ」

 

 勉強も苦手。家事は壊滅。とりあえず、運動系なら……と思ったのだが、残念。

 消沈する先輩。アスタルテはその手元を注視しながら、

 

「質問」

 

「なんだなんだ! 何をこの先輩に聞きたいのだ!」

 

「先輩は何をしてるのですか?」

 

「う? リンゴを剥いてるのだ」

 

 剥いてる……というより、その雑な現状からは削いでるというべきだろう。

 

「病院に入院したら定番なんだろ。ここに来る前にスーパーでリンゴを買ってきたのだ」

 

 確かに、そのほとんど芯しか残ってないような惨状を無視すれば、合っているのかもしれないが。

 けれど、ここは病院のベットではなく、調整槽。人工生命体に見舞いを持ってくるのは世間の常識からはいささか外れている。

 でも、アスタルテはそれを指摘することはしなかった。

 それよりも、困惑と混乱に思考回路が満ちている。こういう時は何を言うべきなのか。

 これまで、製造さ(生ま)れてから、医療系の知識情報の入力と、それが終われば眷獣寄生の調整のためカプセルの中にいた時間の方が長い。

 初めて外部に出て、その身体で世界に触れたのは、ほんの二ヵ月前だ。それも『神格振動波駆動術式』の書き込みのためその一日の大半の時間をカプセルの中で過ごしていただろう。

 引き取られてからもまだ半月と経っていない。

 なので、こういうケースで、アスタルテという人工生命体の経験は、あまりに偏り過ぎていた。

 

「もっと先輩に頼ると良い」

(……先輩)

 

 かつて、自分より先に製造された者たちのことを、考える。

 カプセルの外に出されることもなく、出れたとしても、実験につぐ実験ですり減らされていった先行作たち。

 生まれたばかりの眷獣を無垢な人工生命体に寄生させるという冒涜的な計画。

 その冒涜故に、破綻は最初から決まっていたのかもしれない。

 たったひとつ。

 アスタルテという例外を、世界に残して。

 

(………)

 

 その事実を、どう受け止めていいのか、アスタルテにはわからない。

 眷獣を呼び出すことに何の疑問もなく、何の躊躇いのない。

 生命力が尽きたとしても、やはり一緒だったろう。

 ただ、彼を『先輩』と呼ぶには、思いの外時間がかかったのを覚えている。

 『先輩』とは、アスタルテにとって『先行作』という意味と同じなのだから。

 

「質問」

 

「何だ後輩。この先輩に聞きたいことがあるんだな」

 

「先輩は……先輩でよかったですか?」

 

 自分でもわからない。

 何を問いたいのかさえ分からない、そんなアスタルテに、クロウはスンと鼻を鳴らして、

 

「……最初、この島に来たとき、ここに住んでいた皆を、森の皆と比べていた。こんな場所に、オレと血の繋がった家族はいない。近い匂いのする魔族(ヤツ)らの敵に回る。本当は寂しかったんだ。正直、今でもそう想うときもある。

 でも、いつのまにか血の繋がりの方を比べるようになってて、家族のことを忘れてないのに、今の皆の顔の方をよく思い浮かべる。オレは、この街で生きてきたんだからな」

 

 噛み締めるように、ゆっくりという。

 その時、アスタルテの瞳に浮かべていたのは、同情か、それとも憐憫か。

 ……そのどちらにしても訴えるのはひとつ。

 後悔しているのか。

 アスタルテの無言の問いかけに、クロウは目を閉じて頷いた。

 

「……うん。それは仕方のない事だ。ただ、そうなったんなら、今をすばらしいものにするんだ。後悔を、いつまでも、後悔と思わないように」

 

 感謝するように、そう告白した。

 そして、祝福するように、歓迎するように、

 

「だから、オレはアスタルテの先輩になれてよかったぞ」

 

 柔らかな笑顔を浮かべる、道具としてではない、最も対等に接してきた相手。

 未だにその心が定かではない以上、それを言うには不適切かもしれないが、“心から”、南宮クロウを『先輩』とアスタルテが認められたのはきっと今だろう。

 

「……リンゴ、そこに置いてください。あとでいただきます」

 

「うん! じゃあ、早く元気になれよ」

 

「命令受託」

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

「……馬鹿犬、絃神島(ここ)に来る前はどこにいた?」

 

 あのニシンの缶詰以来、缶詰を開けるのに戦々恐々となったクロウが、ちまちまと缶詰料理を口にしてると、赤ワインを口に転ばすように含んでいた主の那月が口を開いた。

 

「? 森にいたぞ」

 

「自分の故郷のある国名くらい覚えておけ、馬鹿犬」

 

 やれやれ、と溜息をついてから、

 

「北欧アルディギアだ」

 

 それから、一拍、間を置いてから。

 

「その国主から、お前が森に立ち入る――帰れる許可が下りた」

 

 これまでの絃神島での生活状況を見て、その判断が下されたのだろう。がやはり、黒死皇派の討伐がきっかけであることが大きい。北欧アルディギアとの国交がある『戦王領域』の外交使節――結局、独房に入れてやれなかった軽薄男がその情報を流したんだと推測。

 

「今週の休み、外出許可を取ってやった。里帰りでも墓参りにでも行って来い」

 

「……ご主人は」

 

「私は、休日を返上して補習を見てやらねばならないやつがいるからな。ひとりで行って来い」

 

 

 そして、森にいたいのなら帰ってこなくてもいい。

 

 

 

つづく



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三章
天使炎上Ⅰ


キリシマ強化。




教会

 

 

 10日前。

 

 

 教会にたくさんの猫。

 引き取り手が見つかるまでは、この修道院で預かってようと……けれど、あまり人と話をするのが苦手な私に早々都合のいい方が見つかるわけでもなく、またついつい見つけて新しい子を拾ってきてしまう。

 だから、きっとひとりでは無理でした。

 去年まで同じクラスだった女の子が人見知りの私に代わって、様々な人と話をつけてもらったり、そして、もうひとり。

 やんちゃな子猫にトイレの仕方等を教えたり、住処の教会を直してくれたり、人に慣れるよう遊んでくれた男の子。

 

『オレも昔は野良だったのだ』

 

 昔は悪だった、みたいに言う彼。

 

『でも、ご主人に厳しく躾けられたからな。正直、叶瀬に世話されるのを見てて羨ましいぞ。だから、先達者としてオレはお前らに甘やかしたりしないんだぞー』

 

 なんて、言いながら一緒になって遊んでしまう。

 その血の混じりなのか、この子たちの鳴き声も理解してるようで、具合の悪くなった子たちの異変にも一番に気づいてくれた。

 微笑ましくその様子を教会の掃除をしながら見つめて、ふと回想する。

 

 私が最初に彼に声をかけようと思ったのもこの子猫に対してのものと同じような気持ちもあったのだろう。

 一昨年、ある事件で、同学年の学生たちの、同じクラスであってもみんなのグループに交じることができず、孤立していた。それが私には寂しく見えて、また同情もした。

 そして、少し警戒もした。

 

 5年前、この修道院で、私以外の皆が死に、施設が閉鎖されたあの事件は、『人間に()ろうとした、けれど、人間ではない、『賢者』の道具』が起こしたものだった。

 

 魔族と血の混じりがありながら人間の社会にいる。それがダブらせて、ひょっとしてまたあの惨劇が……けれど、それは私の見当違いで、心配も杞憂だと知る。

 最初、話しかけた時の彼は、自分が何者であるかを模索し、何のために生きるのかを至極真面目に考えていたけれども、『創造主(おや)に歯向かってしまう道具として失格な、『欠陥製品』』と自傷するように自称した。

 私は、きっとその在り方が正しいんだと思った。

 『人間であるか否かを決めるのは肉体ではない。(こころ)の有り様だ。誰に従うわけでもなく、ただ只管に人間らしくあろうと抗うのなら、それは立派な人間なのだ』と昔、あのモノに訴えかけたけれど、結局、それは聞き届けてもらえなかった院長様のお言葉。

 そう、彼はそれを自分で悟り、そして、只管に自分が何者であるかを模索してる―――立派な人間だ。

 

 それから、人見知りで男子とはお話しすることができなかった私は、当時孤立していた彼とよく話をするようになり、そして、あの事件で脅かしてしまった、まだ接するのが怖かった女の子との仲介役を自ら買って出た。私を挟んだ伝言ゲームのようだったけど、それでも理解してもらえるよう努め、

 彼は人間。その身体が人間でなくても、きっと人間でした、と彼女にそう主張して、今、彼と彼女が同じクラスにいて仲良くしてることを密かに私は私を誇らしく思う。

 

 院長様のお言葉は正しく、そして、彼は立派な人間。

 

 でも私は……

 

『―――っ』

 

 そのとき、舌に“あるはずのない鮮血の味”がした気がして、僅かに表情を強張らせてしまった。

 それを瞬時に表情を取り繕ってから、ちらりと窺う。子猫と遊んでいた彼を。

 目と目が合う。

 曇りひとつない、丁寧に磨かれた純金のようなその瞳。

 衣服の隙間にわずかに見せる、幼き日に過ごした故郷の暗い森の陰が染み込んだようなその浅黒い肌もあって、その輝きはよく映える。

 身ではなく魂を焼く酸の誹謗中傷を浴びせられようと不変な金性と同じで、きっと変わらない。

 それが私を見据えていた。ぴたりと。

 

『……何、でした?』

 

 恐る恐る、尋ねてみる。やっぱり、これは気づかれているかもしれない。

 

『いや別に。叶瀬の見てる世界がどんなんなのか気になっただけだぞ。気にするな』

 

 と子猫の相手に戻る。

 完全に、見抜かれた、と思う。

 視線が、表情がそういっていた。言葉にしなかったのは彼の気遣いなのだろう。

 彼はその『鼻』は体ではなく、(こころ)を丸裸にさえできる、ある意味、服を剥ぎ取ってしまうことよりも礼を失するものであり、それを彼も理解している。だから、なるべく嗅がないようにする。鼻をその主人から匂い消しの呪が掛けられた首巻で覆い塞ぐだけでなく、普段のほとんどは口で呼吸をしているという。けれども、あくまで、なるべくだ。

 痛い、と思える感情(におい)だけはほんの微かでも、敏感に察知する。

 ちょっとおつむの足りないバカな子、と周りの皆は言うけれども、実際は、人一倍に気が利く人だ。ありがとう、といつも心で感謝してる。或いはそう口にすることが大半である。

 

『叶瀬はあれだな。自分のことでもいっぱいいっぱいなのに頑張りすぎだ。シスターでも誰かに相談していいと思うぞ』

 

 それでも、これは言えない。

 まだ、自分でも整理がついてない。

 たとえ彼の鼻がその奥を嗅ぎ取ろうとも、そして、誰であろうとも、自分が裡に抱えていることはきちんと言葉に出して伝えたい。

 

 

『そうだな、オレや凪沙ちゃん、同級生にし辛いなら、先輩にしてもらうといいのだ。何でも知ってる浅葱先輩や、なんだかんだで女の子には優しい古城君がおすすめだぞ』

 

 

ランヴァルド

 

 

 6日前。

 

 

 高度1000m。

 全長170mを超える船体は、氷河の煌めきにも似た白群青(ベールブルー)に装甲が染められ、黄金の装飾に飾られた豪華絢爛な王宮の様。

 けれど、その実態は特殊合金の硬殻で覆われ、ターボプロップエンジン四発と十二門の機関砲という迎撃手段をもつ、空中要塞じみた巨大な装甲飛行船。

 その主翼には大剣を握る戦乙女の紋章が刻まれている。

 <ランヴァルド>

 北欧アルディギア王家が誇るその飛空艇は、その王族と従士団だけが乗船を許されたそれは、今、火急の危機。

 船全体が炎に包まれ、もはや航空不可能なほどのダメージを負っていた。

 

 そんな中で、

 

「ハァ……(だる)

 

 いかにもかったるいといった調子の長身の女性。燃え盛る炎よりもアカい、血のように真紅のライダースーツに着て、右手にこれもまた血が凝固したような深紅の長槍を持っている。

 そして、その目は、血に濡れたように、艶めかしく、アカい。

 また唇の隙間からのぞく純白な牙にその正体は明らかだ。

 D種完全体――吸血鬼。

 この王族専用機を攻め落とそうとしている賊のひとり。

 女吸血鬼が対峙するは、この船体と同じく黄金で彩られた強化鎧に身を包んだ騎士。その肩当てに戦乙女の紋章を刻んだ、王家直属近衛騎士の飛行船護衛団長。

 

「……貴様……誰に雇われたかは知らぬが、この船を、我ら『聖環騎士団』が守護する<ランヴァルド>と知っての狼藉か!」

 

 無残に落とされていく船の有り様、自らが守るべき船の最後に近衛騎士は総身を怒りで震わす。

 『聖環騎士団』は、数多の魔族を退けて、『夜の帝国』と隣接しながらも人間の領地を守護する精兵揃いの軍団だ。

 特に、そのアルディギア王国独自の技術<ヴァルンド・システム>――この母艦にも備え付けられている精霊炉から送り込まれる大量の霊力で、武器の霊格を一時的に聖剣クラスにまで引き上げる戦術支援兵器は、魔族の天敵とも畏怖されている。

 その青白く輝く騎士の長剣には、並の魔族ではその光輝に近づくこともできず、一太刀でも喰らえば、不老不死の吸血鬼だろうと滅してしまいかねない。

 

「ったく、あの狂犬、掃除を任せたのに一匹残してるとは使えないわね。ほんと、無駄飯喰らいを飼うのはかったるいったらありゃしないわ」

 

 だが、女吸血鬼は聖剣を真紅の槍で捌きながら気だるげに、その波打つ長髪を鬱陶しげにかき上げて、

 

「こっちは、あんたたちが後生大事に匿っている腐れビッチの小娘さえ手に入ればいいの? そしたら、こっちもあんたたちを楽ゥに殺してあげるから」

 

 退廃的な女吸血鬼が携帯電話型の装置を取り出そうと、懐に手を入れた―――その瞬間、

 

 

 ゴガッ!! と。

 女吸血鬼と騎士の間、勢いよく足元真下の甲板を突き破って大きな物体が吹っ飛んできた。

 

 

「―――がはっ。ごほっ……」

 

 高々と打ち上げられて、女吸血鬼の足元に転がり落ちてきたのは、女吸血鬼の仲間である黒い毛並みを持ち、紅い刺青が入れられた獣人。

 それが打撃を受けたと思われる胸元を押さえて蹲っている。

 

「なに……?」

 

 これは魔族の中でも特に身体能力優れる獣人種の中でもタフな身体を持っていた種族だ。

 それをさらに、『計画』の副産物のようなもので、獣化のさらに“上の段階”まで疑似的にいけるようになった。自ら志願して、『商品』と同じように身体を弄られるとはおかしな奴だが、それでもひとつの欠陥を補うために自分が『血の従者』にしてやったのだ。

 無限の負の生命力を供給してやっている代わりに、絶対服従の、“眷獣”の如く、それ以上の駒を手に入れたと言ってもいい。

 『次代の獣王』になるだとか言っていたが、たとえ王でも私には逆らえない憐れな道化。それが『聖環騎士団』を壊滅させるための道具のひとつ。

 

 その身体が魔族殺しに効果的だとされる琥珀金弾(エレクトラム・チップ)さえ、その身に貫通するどころか至近で受けたところで掠り傷も負わないだろう。

 大型車両の激突に匹する運動エネルギーがなければ、飛ばされるようなことはない

 

 それを一撃で成した、コートに首巻、手袋をどことなく騎士の甲冑のように身に纏う厚着の少年が空けた穴から眼前へと軽々と跳び上がってきた。

 

「あんた、何者よ?」

 

 怠さを消して睨む、真紅の槍を持つ女吸血鬼の誰何に、その少年は瞑目しながら太極拳のようにゆっくり大きく手で円を作るモーションをとってから、かかっ、大見得を切るポーズで開眼!

 

 

「“ミ”ックス・“ブ”ラッド―――略して、壬生(みぶ)。オレは壬生の狼! オマエら国家転覆を狙う悪党は問答無用で斬り捨て御免! なのだ!」

 

 

 ……忍者に憧れる親日家な女騎士との交流で間違った方向に進んでしまったようだ。

 

「ふふん。どうだ。フォリりんが考えてくれた新しい決め台詞だぞ」

 

 さらに背中を押して加速してしまった者もいるようである。

 

「ふざけた相手のようね」

 

 こんな相手にまともに警戒してしまったことに、より疲れた溜息をこぼす女吸血鬼。それに蹴っ飛ばされて起き上がらされた黒人狼はそれに警告を発する。

 

「ハァイ。随分と派手なお帰りで。子供にまで手伝ってもらっちゃって、びっくりしたわ」

 

「奴に、気を付けろ、BB。見た目はガキだが、中身はバケモノだ」

 

「バケモノだろうがどうでもいいわよ。それより、アルディギアの雌豚はどこよ?」

 

「私の前で、王女を愚弄するか、貴様ァ―――!」

 

 その発言に、騎士は疑似聖剣を大上段に振り上げる。

 だが、それは厚着の少年によって、片手で止められた。

 鍛えられ、さらに強化鎧で挙げられた騎士の膂力を、その手首を捕まえた腕一本で押しとどめる。

 

「離せ! 王女の客人だろうと邪魔立ては許さん!」

 

「フォリりんはもういった。だから、この船沈む前にとっとと退散するのだ。残りはお前ひとりだぞ。フォリりんの王女命令なのだ」

 

 少年の言葉に、女吸血鬼は黒人狼を睨む。

 

「……救命ポッドに乗り込む直前で見つけたが、それを奴に邪魔された」

 

「無駄足だったわけ。やーれやれ。これじゃ報酬が出ないじゃない、ガキ一匹に何やってんのよ、『次代の獣王』さん」

 

「っ、だが、もう一度、“アレ”にさえなれば―――!」

 

「やめてよ。ただでさえ怠いのに、あんな疲れる真似させないでちょうだい。それにあんたの他に駒あるし」

 

 対して。

 少年の言葉――王女からの伝言を聞き届けた騎士は目を瞠ってから、ゆっくりと剣を降ろした。

 

「我らが王女を、薄汚い賊から助けてくれたこと、感謝する」

 

「いいのだ。フォリりんに王宮直伝格式のある作法とか色々と教えてもらって、“アレ”をついにマスターしたからな。それに、帰りの船に乗せてもらった。無賃乗車よくない。身体で働いて返すぞ」

 

 だが、騎士は再び聖剣を構えた。

 

「これで、思い直すことはもうない。王女が無事であるなら、心置きなく奴らを道連れにできる。私はこの船と運命を共にする!」

 

「う。団長がこう言うようだったら、フォリりんからブッ飛ばしてでも止めるように言われたのだ」

 

「な―――」

 

 師父から『クロウ君が本気でやるのは絶対にダメだったり』と言われた禁じ手で、一度、ご主人からの補習を逃げようとした世界最強の吸血鬼にしたこともあったが、一撃で倒した最凶の必殺技。

 しかし、性別男性には特に効果的な手段。

 それが、

 

「―――『玉天崩』!」

 

 固く握りしめた拳骨(ぐー)を、股間の間に入れて足元からすくい上げるように男の致命的な■■を突き上げて、そのまま騎士を物理的にも精神的にも昇天させる。

 鎧装甲とかあったがそんなのお構いなし、鎧通しとか衝撃だけを内部に伝える技法など使っておらず、力ずくでそれを成した馬力。不意打ちであるが、『聖環騎士団』歴戦の一団長を一撃で白目を剥かせて昏倒させた。一応、人並みの手加減は覚えたとその師父も弟子卒業を言い渡しているので(ほんの一週間前のことだが)、殺してはない。男性的機能も(おそらく)大丈夫。

 それを目にして、女吸血鬼もようやく少年――敵の評価を改めた。

 

「あが、ががが……」

 

「う。苦汁を飲んでも我慢するのだ。どんなに生き恥を晒そうが主のために耐え忍ぶのがニンジャだぞ。それに、“あいつ”から、お前の(それ)より濃い匂いがする。きっと敵わない無駄死にするな」

 

 重装備の騎士を肩に担ぎながら、厚着の少年は、空を見る。

 

「へぇ、気づいたの……でも、もう遅い」

 

 女吸血鬼の手にした装置の画面に映るのは『降臨』の文字。

 そして、天上からは夜空の闇を切り裂く、太陽の如き光と共に、それは現れた。

 

「天の裁きが下るのはどちらかしら?」

 

 空より降臨するは、天使、だった。

 剥き出しの細い四肢に不気味な文様を浮かび上がらせようと、

 吐き気を催すような醜悪な翼を広げようと、

 頭部を奇怪な仮面に覆われようと、

 その歪な人型は、精霊炉より人工的に生み出された疑似聖剣よりも、清澄で神々しい波動を放つ。

 

「む。あれは、まずいぞ」

 

 女吸血鬼と黒人狼は、翼を持つ怪物が船に降り立つより早く逃走を始めており、少年も姿を直視してすぐ背中に走る悪寒に弾かれて、脱兎の如く走り出していた。

 一刻も早くこの場所から逃れようと、まず、自分が空けた甲板の穴に飛び込む。そして、ちょうどその落下地点の部屋に残る一機の一人用救命ポッドが空けられているのを見て、騎士団長の身柄をそこへ投げ込み、落下させる。自分ができる最低限の仕事をこなした後、少年も―――そのとき、天使は澄んだ歌声が聴こえた。

 

「―――!」

 

 目を眩ます閃光。

 耳をつんざく轟音

 

 この光こそ。

 王家の偽物(カリモノ)ではない、真正にして神聖な、人の上に立つ存在にのみ放つことが許された暴威!

 

 

 灼熱の天罰が下された飛空艇は、爆発四散して墜落した。

 

 

彩海学園 中等部

 

 

 黒死皇派事件から二週間後。

 周りは未登録の魔族が暴れたとか事件が起きてるようだが、そんなのは魔族特区では日常茶飯事で些細なこと。

 それより、昔馴染みな女子生徒――藍羽浅葱の柔らかな唇の接触とその捨て台詞に悶々と考えさせられながら、球技大会を終えて、転入生の後輩――姫柊雪菜に付き纏われる、男子学生に羨ましがられ恨まれる日常を送る暁古城だが、ここ最近はさらに二つのことで頭を悩まされて寝不足である。

 ひとつはこの前の事件で出会った雪菜の過保護な元ルームメイトの煌坂紗矢華から深夜になると電話で、大事な妹分の日常生活について報告させられたり、説教されるようになったこと。

 特別、夜中の長電話に付き合うことは、古城の義務ではないのだが、相手は暗殺と呪詛のスペシャリストなので恨まれると怖い。

 だが、これも我慢すればいいだけで大した悩みではない。

 

 暁古城にとって無視できない問題はもうひとつのほう。

 

「中等部校舎に何の用ですか、先輩」

 

 昼休み。古城は四時限目の授業が終わるとすぐ教室に出て、高等部と中等部を繋ぐ二階の渡り廊下の途中で、ばったりと偶然――ではなく、きっちりと当然、学内でも常に見張っている国家公認のストーカーこと雪菜と遭遇。けれど、これは古城にも都合がいい。

 

「姫柊、凪沙がどこにいるか知らないか?」

 

「凪沙ちゃんですか」

 

 古城の妹凪沙は雪菜と同じクラスだ。そして、古城はその凪沙に用がある。

 

「凪沙ちゃんなら授業が終わってすぐ教室を出ていきましたけど……いったい何の用ですか?」

 

「あー……その、なんだ。最近、凪沙の様子がちょっと変っつうか。心配になってな」

 

 暁凪沙は一年半前まで、病院で入退院を繰り返した生活を送っていた。今でも時々体調を崩すことがあるのだ。

 

「この前の球技大会のバドミントンで優勝した時は元気にはしゃいでたんだが、ここのところは何か調子がおかしくてな。やっぱ、運動したのが無理に祟って……」

 

「そうですか……でも、凪沙ちゃん。体調が悪いようには見えませんでしたよ。今日の体育も普通に参加してましたし」

 

「なんだ、そうなのか」

 

 当てが外れて古城は肩透かしを食らったような気分になるも、やはり安堵したように肩を落とす。

 

「いや、何ならクロウのヤツにも訊こうかと思ったんだがな。あいつの“鼻”は健康面とかにも結構敏感で、前も凪沙が倒れそうになったらすぐ気付いたそうだし」

 

「えっ……?」

 

 雪菜は間の抜けた声を発してしまう。

 それから古城のことを困惑した表情で見つめながら、

 

「先輩、もしかして、クロウ君が―――」

 

 そして、彼女が何かを言いかけたその時、古城は渡り廊下の窓の向こう、眼下にある中等部の中庭。ちょうど、校庭や、他の校舎からは死角になった建物の陰に、ちょうど今捜していたお目当ての人物(いもうと)がいて―――そのすぐ近くに、男子の姿が。

 

 その瞬間、古城の意識は怒りと焦りで真っ白になった。

 

「―――野郎っ!」

 

「先輩!? ちょ……ちょっと待ってください! なにやってるんですか!?」

 

 窓枠を蹴って二階から飛び降りようとした古城を、雪菜が大胆にも羽交い絞めで引き留める。

 授業が終わってすぐに出たが今は昼休みで、この渡り廊下にもちらほら学生たちが立ち寄っており、視線を集めてる。

 にもかかわらず、古城は必死に、背中の雪菜ごと中庭に飛び降りんばかりに窓から身を乗り出している。

 

「な、なんだあいつ……なんてあんな男が凪沙と一緒に?」

 

「……、彼は私たちのクラスの男子生徒です。確か、高清水君だったと思います」

 

 曖昧ながら古城もその名前で記憶が一致する。

 まだバスケ部にいたころ、放課後のグラウンドで何度か見かけた顔で、小ざっぱりした顔立ちのサッカー少年だった。そして、女子にも人気があると耳にしたこともある。

 で、そんなヤツが凪沙に何の用だ、と古城が狼狽してると、

 

「あ……手紙」

 

 その雪菜の一言に、古城の心臓は一瞬止まった。

 そして、見た。

 その高清水某が凪沙に手紙を入れた封筒を渡した―――のではなく、凪沙が高清某に白い封筒を渡しているその場面を。

 

「な、な、なあ、あそこに因果逆転の魔術でも発動してるのか。じゃなきゃ、あんなのありえないだろ」

 

「正気に戻ってください先輩。そんな高度な術は万が一にも起こってません」

 

「じゃあ、なんで同じクラスの男子に、あんな人気のない場所で凪沙が手紙を渡すんだ。あの男子がじゃない、凪沙が!」

 

「それは私に訊かれても……」

 

 ただならぬ古城の剣幕に圧されて、雪菜は困ったように身をすくめる。けれど、言い難そうにしながらも雪菜はある噂を口にした。

 

「そういえば、最近、凪沙ちゃんに、気になる男子がいるって噂が」

 

 それを最後まで古城の脳は認識することはできなかった。

 もう途中で、力が抜けて物干し竿にかけられた布団のように、窓枠に上半身を投げ出すよう頽れた。それを雪菜に落ちないようせっせと引っ張り上げられながら、放心状態でも吸血鬼になって性能のあがった古城の聴力がそれを拾った。

 

『じゃあ、放課後、屋上でね』

 

 言われて、手を振る凪沙から颯爽と立ち去る高某。

 それを見送りながら、虚ろな笑みを浮かべる古城に、雪菜は残念そうなものを見つつも、見過ごせずに声をかける。

 

「あ、あの……先輩? 大丈夫ですか、いろいろと」

 

「ああ、大丈夫だ姫柊。時間と場所、それさえわかれば」

 

 ダメですね、と世界最強の吸血鬼の監視役は呆れ果てながら呟いた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 そして放課後。

 古城は昼休みの時のタイムを切る最速レコードを叩きださんとする勢いで、いや帰りのHRを無視したフライングで教室を出ようと―――したところを、カリスマ教師の南宮那月に捕まった。ここのところなんとなく機嫌が悪いように見える担任の説教に、精神と時間を大幅にロスしてしまった古城だが、それでも中等部校舎、屋上へと急いだ―――

 

「……こんなところで何をやってるんですか、先輩」

 

 当然、監視役が待ち構えていた。

 その冷静な、というより冷たい声に呼び止められて、古城の足は凍ったようにその場に固まる。

 

「ぐ、偶然だな、姫柊……たまたま通りかかったところで会うなんて」

 

「中等部の校舎で偶然、それも二度も」

 

 はぁ、と深く息を吐く。

 

「凪沙ちゃんと高清水君はもうとっくに屋上に行きましたよ」

 

「遅かったか!? まさか、もう……!」

 

 古城は舌打ちして頭上を振り仰ぐ。だが、悔やんでる暇はない。

 

「昼休みが終わった後凪沙ちゃんに訊きましたけど―――あ、先輩!?」

 

「すまん、姫柊」

 

 バスケットで鍛えたフェイントを駆使して雪菜を避け、ダッシュ。もはや忍び入るつもりはない。吸血鬼になって底上げされた脚力を全開に回して、階段を一気に段飛ばしで駆け上がる。

 屋上の扉には鍵がかかってない。

 そのわずかに開いたドアの隙間から、聴こえた。

 妙に甘ったるく抑えた男子の声とそれと会話する古城の良く知る少女の声が。

 

 

『―――いいから大人しくしてろよ、ほら……騒ぐなって』

『―――もう、駄目だってば。そんな強く抱かないで』

『―――でも、そっちから寄ってきたからさ。俺、つい』

『―――だーめ。ちゃんと優しくしてね。お願い……』

『―――わかってるさ。けど、いいのか、これ、もらっちゃって』

『―――うん。いいよ。凪沙にはもう……や、痛っ……』

 

 

 その瞬間、もうこれ以上は聞いてられなくなった古城は扉を蹴り開けていた。

 

「野郎おおおおおっ!」

 

 荒々しく吼えながら古城は屋上へ出る。

 そこには、驚愕に目を見開いている凪沙と某が振り返ってこちらを見ていた。

 

「離れろお前ら! てめぇ、自分が誰に手を出してるのかわかってんだろうな!?」

 

「え……!? あ、あの……」

 

「どこのどいつだかしらねぇが、たとえ凪沙からであっても、俺が認めねぇ限りは―――「先輩、ダメです! 落ち着いて!」」

 

 怒り狂う古城に、某は腰を抜かせて後ずさる。そこへ拳を振り上げたところを、追いついてきた雪菜がしがみついて止めた。

 

「だから、話を聞いてください! 高清水君は―――」

 

 雪菜が言い切る前に、古城はその現状が目に入った。

 茶色い毛並みの小動物。

 その抱かれる腕の中から、つぶらな瞳できょとんと古城を見返して、ミィ、と小さく鳴いた。

 ずばり、子猫である。

 

「あ、あれ!?」

 

 状況が理解できず、戸惑いながらも古城は周りを見回す。

 子猫を抱いて立ち尽くしている某、いや、高清水。そして、ピクピクと口端を震わすというお怒りのサインを出してる凪沙。古城の後ろでごめんなさいと頭を下げてる雪菜。

 そして、あともうひとり。

 凪沙の隣に、見知らぬ女子生徒。

 その少女は、古城も一瞬、状況を忘れてしまいかけたくらい、綺麗だった。

 

「―――凪沙ちゃんの、お兄さん、でした?」

 

 尋ねた唇は、可憐な花弁のよう。

 真っ直ぐに古城を見つめる淡い碧眼は輝く氷河の世界を閉じ込めたよう。そして、人に踏み荒らさていない処女雪を天工の手により編み込まれたものではないかと想起させる、銀色の髪。

 その純粋な美貌に、温かみのある慈愛の微笑はこの世界にありえざる理想的なものとも思える。

 じっと見つめることができず、視線を降ろせば。

 身近な年下の女の子たちと身長はさほど変わらないように見えるが、それでもそのスタイルの良さから背が高く見える。

 半袖の制服の下に、ハイネックの長シャツを着ており、常夏の絃神島では珍しい装いだが、あのフル装備の厚着後輩と比べればだいぶマシ、というよりも、よく似合っている。

 ミィ、とこ猫が鳴いたところで、観察から数秒の時間が経過したのだと悟り、古城は慌てて口を開く。

 

「えっと……誰だ……?」

 

「あ、自己紹介、忘れてました。叶瀬夏音です」

 

 と恥ずかしげに首を傾げる少女―――を一端後ろに下げさせた妹。

 

「―――古城君?」

 

 子猫を守る母猫のように、髪を逆立たせる凪沙。その口調は肌に刺さりような、棘のあるもの。

 

「な、凪沙……おまえ、なんで、こんなところで猫なんか……」

「古城君こそ、中等部の校舎で何やってるの!?」

 

 ぐい、と妹が詰め寄る。

 笑みを作りながら厳しい視線を外さず、突進を仕掛けてくる。そして、猛烈なマシンガントークを浴びせる。

 

「いきなり大声でわけのわからないこと言って! 高清水君に失礼だし、猫ちゃんが驚いてるじゃない。雪菜ちゃんにも迷惑かけて。なのに、古城君は夏音ちゃんに鼻の下伸ばして!」

 

「いや……だって、凪沙が、気になる奴がいるって、告白……」

「告白? 何の話……?」

 

 ついと古城は雪菜を見ようとするが、ぐいっと凪沙に頭を両手で挟まれ戻される。

 

「あたしは高清水君がこの子を引き取ってくれるっていうから、立ち会っただけだよ」

 

 と高清水君が抱く子猫を指さす。子猫も凪沙に同意するよう、ミィ、と鳴く。

 けれど、古城にはまだ不可解な部分がある。

 

「……だったら昼休みの手紙はいったい……」

「ああ、手紙ってこれのことっすか」

 

 言って高清水君が鞄から昼休みに見た白い封筒を取り出す。開けて、中に入っていた手紙―――ではなく、二枚のチケットを取り出した。

 レジャー施設のカップル特別割引券―――って、

 

「おい、これってやっぱ―――」

「この前の球技大会の商品なんだけど、期限とかあるし、凪沙にはもういらないから高清水君にあげたの。高清水君、運動部員の名簿も作ってきてくれたからそのお礼で」

 

 凪沙はそこで雪菜の方を向いて、

 

「チケット、雪菜ちゃんにもあげようと思ったんだけどね。そしたら、浅葱ちゃんに悪い気がするし。ごめんね」

 

「え、いや、別に私は、その」

 

 ちらちらと雪菜がこちらを見るが古城は気づかず、

 

「だったらなんであんな中庭で……」

「だって、誰かに渡すところを見せたくないじゃん。変に角が立っちゃうといけないし」

 

 なるほど。

 単なるお礼か。古城はそう納得しかけたところで、

 

「え、っと、俺は、てっきり、凪沙ちゃんと―――「あ゛?」―――部活のみんなと行きたかったんすよねはい!」

 

 体育会系らしい上下関係の従順さで一礼する高清水君。そんな彼に凪沙は気遣うように、

 

「うちのお兄ちゃんが変な勘違いして、ごめんね、高清水君。それと、住所録ありがとう」

 

「気にしてないし、役立てるなら何よりだよ。じゃあ、俺はこれで」

 

 爽やかな笑みを浮かべて、そして逃げ去るように、子猫を入れた段ボールを抱えて高清水君は屋上から立ち去る。

 古城はそれを見送りながら、素直に感心するよう頷く。

 

「うん、まあ、あいつ、いいやつだったな」

 

「先輩……」 「古城君……」

 

 その後、怒りが収まるまで古城は凪沙に説教をもらうこととなった。

 

 

キーストーンゲート 人工島管理公社保安部

 

 

 美女というより、美少女、あるいは幼女という言葉の似合いそうな童顔小柄な女性は、フリル塗れのゴスロリ服を着るのでより幼くみられるだろう。

 しかし、関係者以外の立ち入りを禁じるキーストーンゲートの守衛でもその姿を見咎めることはなく、不思議と見た目に反する威厳に満ちた足取りで彼女は堂々と通路の真ん中を闊歩する。

 それを待ち構えていたのは、ツンツンに逆立てた短髪の少年。学校の制服ではなく、人工島管理公社調査部の正装である黒スーツを着ていても、トレードマークのヘッドフォンは首にぶら下げており、にやりと不敵に笑う様は、普段と変わりようのない。

 

「公社直々の呼び出しというから何かと思えば……お前か、矢瀬」

 

「すみませんねぇ。理事会(うち)も人材不足なもんで」

 

 言って、那月のクラスの一生徒でもある矢瀬は、部屋へと先導する。

 その病院の手術室に似た部屋の中央にあるベット、高度な医療機器と生命維持に繋がれた少女が眠っている。まだ十代と思しきその少女は、全身包帯塗れで計測器の反応から峠は越えたようだが予断は許さない状況だ。

 だが、その両手足を何故か分厚い金属製の器具で固定されている。

 那月はそこに情を挟まず、ガラス越しから視聴で探れるだけ分析すると、ふん、と鼻を鳴らす。

 

「―――こいつが。5人目か。随分と派手に暴れ回ったようだな」

 

 二週間前から起こっていたが、今週に入ってからより多発するようになった連続未登録魔族同士による乱闘事件。

 2棟のビルを半壊させ、7棟を延焼。停電に断水といったライフラインの一時遮断などと、これでも付近が民家の少ないおかげで今回の被害はまだましな方だ

 だが、高い戦闘力を持っていることは確かであり、それが2体、追跡が困難な音速を超える速度で絃神島上空を飛び回り、無差別にその破壊の余波を撒き散らしている。

 

「……で、この未登録魔族と戦っていた片割れのほうはどうした?」

 

「依然、追跡も難航中っすね面目ない」

 

「ふん。追跡くらい馬鹿犬でも……」

 

 ちっ、と言いかけて那月は舌打ちする。

 矢瀬はそれを追求せず、話題を切り替える。

 

「んで、この子、未登録魔族だと報道してますが、公社の解析結果に出た見解は、ほぼ通常通りの人間なんだそうです。超能力者(俺の同類)でもありませんよ」

 

「……何だと?」

 

 那月は驚いたように少女を見る。

 <音響過適応>の矢瀬基樹に補足できないということはつまり音速以上で飛び回っていたのだ。それもほとんど生身で建物を倒壊させる力など、魔族であっても稀少である。

 とても人間にできることではない。

 

「小娘の損傷の程度は?」

 

「とりあえず内臓がいくつか欠損してますけど、それも体細胞からクローン再生させるんで命には別条ないって話っす」

 

「……内臓の欠損?」

 

「横隔膜と腎臓の周辺――いわゆる、腹腔神経叢(マニブーラ・チャクラ)のあたりっすね」

 

 それを、喰った。

 つまり、こいつを襲った奴の狙いは―――

 

「―――フム。つまり、内臓ではなく霊的中枢……いや、霊体そのものを奪ったというわけか」

 

 なかなか興味深いねェ、と笑いながら、通路の暗がりから現れたのは金髪碧眼の男。

 破格の力を持った『貴族』の吸血鬼であり、第一真祖の血族にして『戦王領域』からの外交特使で今は特命全権大使。そして、余計なことしか口出ししない軽薄男。

 ディミトリエ=ヴァトラー。

 それが視界に入った途端、那月は不愉快だと言わんばかりに顰めて、隠しもせず舌打ちする。

 

「おい、どうして余所者の吸血鬼(コウモリ)がここにいる?」

 

「つれないなァ。僕は君たちにわざわざ見舞いに頼まれてきたというのに」

 

「それはご苦労なことだな、<蛇遣い>。いつから獅子王機関の女狐に飼い馴らされた?」

 

「ノーコメント、とでも言っておこうか。なにしろ外交機密だからね」

 

 『戦王領域』の貴族が外交機密―――つまり、それは真祖がらみの事件か。

 国家攻魔官は傍にいる矢瀬にさえ薄ら寒くさせる気配を漂わせ、その軽薄な微笑を射ぬく。

 

「<蛇遣い>……貴様、何を知っている?」

 

「おやあ? 君の“眷獣”に探らせればすぐにわかるんじゃないか?」

 

 瞬間、その人形めいた美貌に明らかな殺気が浮かんだ。

 先の矢瀬さえも触れるのを避けた地雷へ、ヴァトラーは無邪気に笑いながら、さらに口にする。

 

「彼にはこの前は悪いことをしたからねェ。北欧アルディギアにある故郷(もり)に帰れるよう、色々と僕が取り計らってあげたんだけど、喜んでくれたかい?」

 

「悪いと思ってるのなら、『監獄』に入ってもらった方が私は喜ぶんだがな。どうだ? 今から自首しても構わんぞ」

 

 その時空さえも歪みかねない強烈な魔力の波動が、堅牢とされるキーストーンゲートをギシギシと軋ませる。

 険悪な、と言っても一方的であるがその物騒な両者の雰囲気に、矢瀬は頭を抱えている。

 とはいえ、那月もこの吸血鬼が戦いに飢えていることを知っている。

 不老にして不死。それゆえに長い人生に退屈した『旧き世代』の吸血鬼にとって、強力な敵との戦闘は、最高の暇潰しであり、生き甲斐である。

 『魔族大虐殺』などと“それなり”に名の知れた<空隙の魔女>との戦闘は、むしろ望むべきものだろう。

 ならば、挑発されようと那月がそれに付き合う気はない。魔女は蛇には生殺しが一番効くことを知っている。

 そんな、戦意が失せた途端、ちぇ、残念、とヴァトラーはぼやいてから、

 

「北欧アルディギアと言えば、<ランヴァルド>――『聖環騎士団』の旗艦が襲撃を受けたそうだよ。まだ公式には発表されていないけど、絃神島の西、160kmの地点に墜落したそうだね」

 

 <ランヴァルド>襲撃事件。

 南宮那月は居合わせなかったが護岸警備に当たっていた特区警備隊が絃神島の方に流れ着いた救命ポッドから護衛団長含め数十の『聖環騎士団』を救命。まだ意識の回復したものは多くはないがそれでも意識のあるものに話を聞くと、なんでも『血に飢えた漆黒の狂獣(ブラッディウルフ)』にやられたらしい。『王女の客人』に救われなかったら、全員が殺されていたとも。

 今回の人間が起こしたとされる事件とは、とても関係性のあるようには見えないが、それを意味もなくこの貴族が口にするとは思えない。

 

「アルディギア王国が、この事件に噛んでるというのか」

 

「さあ、どうだろうね。けど、なんにせよ、僕は静観させてもらうよ」

 

戦闘狂(バトルマニア)の貴様が、どういう風の吹き回しだ?」

 

 超高速で空中を飛び回り、ビルをも破壊する正体不明の怪物―――この吸血鬼には願ってもない遊び相手のはずだ。

 しかしヴァトラーは、唇の端を上げて優雅に微笑むだけで何も言わない。

 

「“彼女たち”は、キミたちの敵じゃない。このまま放置しておいた方が、案外、面白いものが見られるかもしれないぜ」

 

「……この私に、貴様の言うことを信じろというのか?」

 

「一応忠告はしたサ。信用するかどうかは、キミの勝手だ。ただ、情報の見返りというわけじゃないが、ひとつ頼みを聞いてくれないカ?」

 

「話を聞くだけは聞いてやる。なんだ?」

 

 瞬間、ヴァトラーの碧い双眸が紅く染まった。その身に発する波動は、この逆三角形の要塞を二度も揺るがす。

 今度は吸血鬼から魔女に殺意が差し向けられる。

 おそらく意味するは、警告。

 

「この事件に我が最愛の<第四真祖>を巻き込ませるな。古城では“彼女”には勝てない」

 

 

彩海学園

 

 

 昨日。

 高清水君にもう一度謝りに行った凪沙と別れ、中等部の校舎を後にした古城は学校の裏手にある教会へと赴き、叶瀬夏音の手伝いをした。

 教会の中の十数匹の猫の相手をするよりも、正直、道中の、『中等部の聖女』とも称えられる叶瀬夏音と、『中等部の姫様』と崇められる姫柊雪菜を左右に侍らせる古城は色んな感情のこもった視線が刺さりまくって大変だった。何でも妹曰く、

 

『夏音ちゃんと雪菜ちゃんと一緒にいられるなんて、お近づきになるなら性転換も辞さない中等部男子にはものすっごく羨ましいことなんだよ』

 

 と呪われても仕方がないと古城に言うが、古城は大丈夫か中等部男子と逆に心配になった。しかし、かといって犯罪者のように恨みがましい目線を向けられるのは気分がよくなるものではなくて、けしてあの戦闘狂の貴族ではないが、こんなとき、あの毒を失くしてしまう雰囲気を持ったワンコ後輩がいてくれたらと何度か思った。

 

「昨日、ご迷惑をおかけして、ごめんなさい、でした」

 

 銀色の髪を揺らして、深々と頭を下げる『中等部の聖女』の流れるような動きに古城はまたも言葉を失くしてしまったが、そこは不機嫌そうな雪菜に尻をつねられて復帰。

 

「ぃっづ―――っと、いや、叶瀬さんが謝ることは何もないと思うけど……」

 

「そうですか。でも、里親を捜すのを手伝ってもらえて本当にありがとうございます。これであとは今日見つけてきたこの子たちだけです」

 

 嬉しそうに叶瀬は笑う。

 そう、昨夜のうちに古城は片っ端から知り合いに声をかけまくって、修道院跡地に保護していた捨て猫たちの引き取り手を見つけることができたのである。

 

「いや、ちょっとみんなに声をかけただけだからさ。でも、どうにか片付いてよかったな」

 

「クロウ君からお兄さんのことを聞いてました」

 

「あいつから?」

 

 自分の知らない知人関係に、古城は意外そうな表情を浮かべかけたが、すぐに納得した。

 夏音は、去年まで凪沙と同じクラスで非常に仲が良かったことは聞いていた。その捨て猫を構わず拾ってしまう『中等部の聖女』とも言われる優しい彼女なら、一時期孤立していた『混血』を見過ごせないだろう。だから、この子猫と里親探しのように親友との仲を取り持とうとしてくれたのだと古城は予想がついた。

 

「お兄さんは、女の子に優しいから相談すると良い、と言ってました」

 

「ええ、先輩は“女の子”には優しいですよね」

 

 隣でやけに一単語を強調するものもいて、褒められているのか判断に微妙に迷うところだが、後輩にきっと何も含むところはないのだろう。

 夏音もそう純粋に受け取っているようで、一度、目を瞑ってから、意を決して―――

 

「それで、お兄さんに―――「ほう、美味そうな子猫だな」」

 

 ぬっと横合いから影が差す。

 横向けば、そこに日傘を差した小柄な女性の姿が……

 

「那月ちゃん?」

 

「担任教師をちゃん付けで呼ぶな」

 

 お決まりの返しで、古城は脇腹に強烈な肘打ちをもらう。非力ながらレバーを的確に抉り抜く容赦なさに古城は苦悶の声を洩らす。

 

「ところで、知っているか暁古城。この彩海学園は原則生き物を学校内へ連れこむのを禁止にしている。というわけで、その子猫は私が没収しよう。ちょうど今日の鍋の具材を探してたところだったしな」

 

 涼しげな顔で淡々とそれを言う那月に、小さく悲鳴を上げて夏音は子猫を胸に抱く。それを面白がるように、より舌なめずりするように嗜虐的な笑みを見せて、

 

「―――すみませんでした。お兄さん、雪菜ちゃん、逃げます」

 

 毛布で隠すよう子猫を包むと夏音は急いで走り去っていった。

 それを安堵の息を吐きながら古城は見送り、雪菜は一度迷うよう古城を見てから、夏音の後を追った。そして、那月は心なしか傷ついたように口をとがらせる。

 

「ふん。冗談の通じないやつだ。何も本気で逃げなくていいだろうに」

 

「あんたが言うと冗談に聞こえねーんだよ」

 

 まったくもって心外だと那月は鼻を鳴らして、

 

「ところで今の中々気合の入った髪をした小娘が、叶瀬夏音か」

 

「自分の学校の生徒に向かって小娘はないだろ。って、中等部三年の生徒だけど知ってたのか?」

 

「ああ、話には聞いてたからな。まあ、それはいい。よりもだ、暁古城。お前、今夜、私の副業(しごと)を手伝え」

 

「……それって、攻魔官の?」

 

 <第四真祖>であることを世間から隠してもらう代わりに、古城は何度か那月の仕事の手伝いをさせられている。

 しかし、当然であるがたいがいそれは厄介ごとで、死にかけなかったことがないという。できれば避けたいところである。

 だが、古城がどれだけ露骨に嫌そうな顔を見せても、那月は遠慮することなどしない。

 

「ここ最近、未登録魔族が暴れているという話は知ってるな?」

 

「……ああ、なんか。クラスでも結構噂になってるけど」

 

「あまり大っぴらにできないが、実は暴れていたのは未登録魔族じゃない」

 

「魔族じゃない……? じゃあ、一体何が?」

 

「知らん。容疑者の片割れを確保したが、そいつの正体はまだ不明だ」

 

 古城は嫌な予感がした。

 片割れということはつまり、

 

「もう一人はまだ逃走中ってことか?」

 

「ああ。それも規模こそ小さいが同様の騒ぎは、ここ2週間で5件確認されている」

 

 5件……!?

 つまり、三日に一度のハイペースで市街戦が起きてるという。いくら魔族特区でもそこまで日常茶飯事ではない。

 

「じゃあ、また今夜あたりに似たような事件が起きるかもしれないわけか……」

 

「察しがいいな暁古城。それとディミトリエ=ヴァトラーに忠告されてな。<第四真祖>を今回の事件に巻き込むな、と」

 

「なんだそれ!? あいつの忠告、完全にスルーかよ」

 

「あの男が嫌がることを、私がしないわけではないだろう―――というわけで、おまえには私の助手として犯人確保に協力してもらう。いくら私でも一人で複数の犯人を捕まえるのは難儀だからな」

 

「いやいやいやいや……!」

 

 古城は必死で首を振る。

 危険な副業もそうだが、あのヴァトラーから忠告されるというのは相当だ。これまでにないほどの難解な事件だ。

 

「事情は分かったけど、なんで俺が那月ちゃんの助手なんだよ? クロウがいるだろ?」

 

 那月には、『真祖クラスでもタメを張れる眷獣』といわれた後輩がついている。彼の『鼻』――<嗅覚過適応>は、そういった追跡調査にはうってつけの人材で、那月もそれは頼りにしてると以前評価していた。だから、古城の手伝いなどなくても、その厚着主従だけで十分―――だから、古城は最初、それを冗談だと思った。

 

 

 

「犬はいない」

 

 

 

「は―――」

 

 それはどういう意味だ、と古城が問う前に、那月は淡々と無情に告げる。

 

「故郷の森へ帰らせた。そして、そこにいたいのなら帰ってこなくてもいいとも言ってある」

 

「え、ちょ、いきなり過ぎて、話についてけない」

 

「予約の取り方もわからない馬鹿犬のことだ。一応、事前に帰りの飛行機のチケットも取ってやった。予定では、もう6日は前に絃神島に帰ってるだろう。だから、いないのはつまり―――“そういう”ことだ」

 

 固まる。

 意味が分からなかったわけではない。そこまで察せないほど、古城も愚鈍ではない。

 ただ言われても、そのあまりに突然な別離に対応できていないだけ。それでも、古城は何か言わねばと急かされるように口を開き、

 

「な、なあ、連絡とかつかないのか? 那月ちゃんが帰ってこいとか説得すれば、クロウだって」

 

「何故私から呼びかけなければならない」

 

 その視線に射すくめられる。

 訴えを切って捨てられ、そのまま喉元に返された刃先を突き付けられたように、古城は唾を呑み、

 

「そりゃ、クロウは那月ちゃんの仕事とか手伝ってくれたり」

 

「今はアスタルテがいる。黒死皇派事件での怪我でまだ現場復帰はさせられないが、馬鹿犬よりはずっと使えるメイドがな。

 それと引き替え、大食いでエサ代はかかる、私の言うことを聞かず問題行動を起こす、茶の淹れ方さえ未だに身に付かない。

 まったく、いなくなってこちらは清々してるくらいだが」

 

 普段ならば、この担任の表情から察するなど古城にはできない。

 先に夏音が脅された時のように、冗談なのか、本気なのか、本心が明かされない底知れなさが南宮那月という女である。

 けれど、これは断言する。

 でも、古城はそれ以上指摘できなかった。

 何故なら、あまりにその横顔が―――

 

 

「……私はこの島からどこにも行くことはできないが、だからといって止めることだけはしまいよ。自分の意思で離れるというのなら、たとえそれが眷獣だろうと縛り付けるようなことはしない」

 

 

 

つづく

 

 

 

とある無人島

 

 

「うーうー! お腹減ったお腹減ったぞ!」

 

「あらあら。そんなに騒いで、どうかしましたか」

 

「朝御飯、これ三つじゃ足りないのだ。このポッド見つけて、昨日まで近くの島まで泳いで引っ張ったり、海に潜って魚や貝とか捕ってきたりしたんだぞ。オレ、頑張ったぞ」

 

「三つじゃ足りない。つまり、四つもほしいんですか、いやしんぼですね」

 

「むぅ。セイトーな対価報酬なのだ。オレのお腹はぐーぐー不満を訴えてるぞ!」

 

「『朝三暮四』って言葉知ってます?」

 

「チョウサンボシ? よくわからないけど、また叶瀬や古城君のこと訊きたいのか?」

 

「いえいえ。その大変興味深いお話はまたあとでじっくりと聞きますけど。―――では、今日の朝ご飯を四つにしましょう」

 

「おお! いいのか! 太っ腹だぞフォリりん!」

 

「ええ、正当な対価報酬ですから。代わりに夕ご飯の分を一つ減らすことになりますがよろしいですね」

 

「やったやった!」

 

「おーよしよし。元気にはしゃいじゃって……面白い」

 

「それで今日はどうするのだ? もうポッドを引くのはゴメンだぞ。ひとひとりくらいなら背中に乗せて海を渡っていけるけど……姫柊に怒られるからダメだ。ぶるぶる。それにここ、遠すぎて、全く匂いがあるほうがわからないぞ」

 

「そうですね。今のところは待ちに徹しましょう。

 それで、海の幸には飽きましたし、今日は新鮮な果実を、森の幸をご所望します」

 

「おう! 森はオレのフィールドだぞまかせとけ! いっくぞーー!」

 

「早速行きましたか。いいですね、従順、いえ、純粋で。……アルディギアで飼えないか父に打診してみましょうか」

 

 

 

つづく



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天使炎上Ⅱ

北欧アルディギア

 

 

 とある神話の物語。

 いずれ世界の終りに父なる主神を殺すと予言された滅びの巨狼。

 その滅びの巨狼が、まだ何物にも戒められず、暴れ回って手に負えなかったとき、唯一の理解者とされる神がいた。

 戦争に勝利を与える闘争神。

 その闘争神が持ち掛けたとはいえ、数々の入手不可能な素材から作られた、どんな獣にも絶対に引き千切ることのできない縄には、当然、罠の可能性を怪しんだ。

 だから、その不断縄に縛り付けられる直前に、滅びの巨狼はひとつ約束させた。

 『その縄が私を縛るのなら、私の顎の中に腕を入れろ。もしも罠だったらその腕を噛み千切る』、と。

 

 だから、その闘争神には、片腕がない。

 

 いずれ喰われる相手だと予言されたその主神が下した命に、闘争神は従うしかなかった。

 理解者であった。だが結局、闘争神とは裏腹に、『上』に言われるがままそれを裏切った。

 そうして、四肢を動かすことも叶わず、口を閉ざすことさえ禁じられた滅びの巨狼。

 しかしありとあらゆる神を等しく恐怖に突き落とす憎悪を溜めこみ続け、不断縄が破られるという絶対にありえざることが成し遂げられたその時、自由の世界へ解き放たれた滅びの巨狼は予言の通りに、怒りと憎悪のままに主神を食い殺した。

 

 そして、滅びの巨狼の末裔とされ、神をも喰らう殺戮機械として造られた獣に、禁忌の茨で縛る魔女は言う。

 

『魔女は、誓った契約を破らん』

 

 それは勝手に魔女が持ち掛けた契約だった。

 消えかかっていたその命に、自らその守護神の片腕を依代にして獣をその眷属とし、獣が死ぬべき場所と定めた故郷の森を離れて、この自然のない鋼鉄の人工島へ連れて行こうとする。

 命を賭けた殺し合いを演じたとはいえ、それは許されざる行為だ。

 そして、■■に殺されかかった獣は、それと同じ魔女を信用することはできない。

 しかし、

 

眷獣(サーヴァント)としてある程度の窮屈さは知ってもらうが、本当に自由となりたいなら、その時は、お前を縛りはしない。それだけの権利を与えてやろう。もし破れば、

その顎に差し入れた(貸してやった)片腕だけじゃなく、私の魂まで丸呑みして喰らっても構わんぞ』

 

 あっさりと言い放った。

 その魔女がすべてを捧げたと言っても過言ではないその力、それの一端とはいえ切り捨てて拘束の契約を結んだというのに。

 

 獣は、創造主とは違って、この魔女がそのような詐欺をしない生き物だと嗅ぎ取っていた。

 真実の口ではないが、そこに虚偽があれば、言われずとも、その身を喰らっていただろう。

 

『契約成立だな。では最初の命令だ。貴様には、紅茶の淹れ方を覚えてもらおう』

 

 

絃神島西地区 テティスモール

 

 

 獣にとって、絃神島の都会は異界であって、住むべき場所ではない。

 

 そう言ったのは、ロタリンギアの殲教師。

 もし、彼の前に連れ出してきてしまった主人がいたのなら、何故、森より連れ出してしまったのか、と殲教師は責めただろう。

 それは危険な道具であり、使い魔だろうが使い方を誤れば、人類に必ず害をもたらす。

 独善でその愚行をした魔女は、あまりに無責任であると。

 

「……はい、クロウ君は学園に来ていません」

 

 後輩と同じクラスである雪菜に確認すれば、担任の言葉がウソではないことが分かった。

 いや、そんなことは最初から分かっていたのだ。古城よりも真祖の如くに傲慢な魔女は、そのようなことで騙したりはしない。

 

「また、何かがあったのではないかと笹崎先生に確認を取ったんですが、それがいきなり南宮先生にクロウ君を休校扱いにしろと言われたそうで……でも、まさか森に帰ったなんて」

 

 突然のことに驚いているのもあるのだろうが、やはり哀しみが大きい。それは、何かをこらえるように口元に当てられた手のこわばりようからも知れる。

 心配はしていたが、きっとそこまでとは思わなかったのだろう。

 古城も同じだ。

 いや、言われるまで、いないことに気づいてなかったのだから、より楽観視していた。

 だけれども、後輩は、自然にこそあるべきであり、森が故郷なのは数年経った今でも変わらない。

 

「だけど、それなら、なんか俺たちに一言あってもよかっただろ……!」

 

「先輩……」

 

 哀しみなのか怒りなのかもわからず、古城は歯を食いしばった。

 あの後輩がいることが古城の中では当たり前となっていたのに、いきなりの別離で、それを引き留める機会も与えられなかった。そんな忸怩たる思いに胸を浸潤されつつも、南宮那月に告げられたその意思と、反する面相が鎖となってその力を奪う。

 それでも、なお振り解かんと抗う憤りを、冷ますようその声が掛けられた。

 

 

「否定。先輩は、帰ってきます」

 

 

 現在、古城と雪菜のいるのは商業地区の繁華街。

 交通の栄える駅前で、祭りの日もあってか、いつに増して人混みの密度が大きい。

 そこで待ち合わせてから、約束の時間を1時間過ぎても気づけないほどに考え事に集中していた二人であるが、その不意打ちに肩を強張らせつつも、悲鳴までは上げなかった。

 そして、振り向いたそこに列からはぐれてしまった迷子のようにひとり、案の定、知り合いの人工生命体(ホムンクルス)の少女。アスタルテ。

 その顔立ちは左右対称の人形めいてメイド服の着こなしは動かなければ作り物と紛うものであったが、今日は、藍色の髪に映えるよう淡いラベンダー色の生地の浴衣姿。

 まず、アスタルテは頭を下げて、

 

「合流時間に1時間56分の遅延がありました。謝罪します、第四真祖」

 

「いや……」

 

 どうやら、祭りを楽しんだようだが、きっとそれは主も伴ってのことだろう。本人も楽しんでいた雰囲気だが、彼女は付き合わされた形だ。

 それよりも、

 

「おまえが謝る必要はないとは思うんだけどな……それでさっきのは」

 

「………」

 

 追求した古城に、アスタルテは沈黙した。

 人間に問われたことに、疑問を挟まずにありのままを返すようプログラムされた人工生命体。

 だが、それは言った当人でさえもわからないものだったのだろう。

 自分の中の何かを推し量るように、道具として造られた意義とこれまで積み上げられた意思を両側に載せた不可視の天秤を見定めるように、長く長く黙りこくっていた。

 やがて、

 

「不明。……ただ、帰ってくると、思います」

 

 と、曖昧な結論を出した。

 

「そうか」

 

 不思議なことに、それで古城も裡の憤りが鎮まった。

 

「そうだな。クロウは帰ってくる。ああ、那月ちゃんもそう思ってるはずだ。だって、退学じゃなくて休校扱いってことは戻ってくることを考えてのことだろ」

 

「ええ。ええ、そうですね先輩」

 

 雪菜も表情から暗さをなくし、笑顔を見せて同意する。

 古城は苦笑した。

 この中では、一番付き合いが長いというのに、一番付き合いの短い彼女に言われて気づくとは。

 まだ一週間もたっていないのに、その結論を出すのはいくらなんでも早いだろう。

 

「ひょっとしたら、どこかの無人島で迷子になってるだけなのかもな」

 

「もう、先輩。そうなってたら大変じゃないですか」

 

 なんて、不安を笑い飛ばすように、ありえない冗談を言っていると、古城を呼び出した当人、南宮那月が現れた。

 いかにも今現れたとばかりで。

 

「そんな往来で暢気に立ち話とは、なんだ暁。島流しにされたいのか」

 

「―――暢気なのはそっちだろ! ってかその恰好!? 攻魔師官の仕事じゃなかったのかよ!?」

 

 従者な人工生命体と同じく、華やかな浴衣衣装をまとう那月に、古城は往来に構わず大声で叫んだ。

 

「騒ぐな、小僧。ここのところ沈んでいたアスタルテに祭りというものを堪能させてやってたのだ。だから、詫びにたこ焼きを買ってきてやったぞ。ほれ、喰え」

 

 そりゃ、どうも、と古城は屋台に使われるそのプラスチックのパックを受け取って、

 那月はその隣にいる雪菜に視線をやって、

 

「どうしておまえがここにいるんだ、転校生」

 

「私は、第四真祖の監視役ですから」

 

 銀槍を入れた黒のギターケースを背負っており、準備は万端。

 古城が危険な目に遭うというのならば、当然、監視役も帯同する。

 とはいえ、商売敵たる獅子王機関の手先に介入されるのは気分の良くなるものではなく。

 数秒、二人の間に緊張感が漂うも、人手が増えるのならばそれにこしたがないと那月は手のひらを返して、

 

「まあいいか。それでせっかくだから、おまえも浴衣を着るか? 駅前でレンタルしてたぞ?」

 

「……いえ、結構です」

 

 若干の未練を噛みつつも、雪菜は首を横に振る。

 

「それよりも、どうしてこんな物騒な任務に、暁先輩みたいな危険人物を連れ出したんですか? こんな街中で先輩の眷獣が暴走したら、いったいどんな大参事になるか……」

 

 最も力の弱い眷獣でも、その攻撃力は最新鋭の戦闘機を上回る。ましてや世界最強の吸血鬼――<第四真祖>の眷獣となれば、その暴威は天災と変わらない。

 鎮圧しようとすれば、逆に被害が拡大しかねないのだ。

 

「だからといって、こいつがなにも知らないまま戦闘に巻き込まれたらどうする気だ、剣巫。 そっちのほうが危険だと思わんか?」

 

 と真っ当な筋立てで説かれれば、義務感溢るる監視役も閉口せざるを得ない。

 見た目は、雪菜の方が上であっても、精神年齢は遥かに那月の方が大人だ。

 

「危険物だからこそ目の届かない場所に遠ざけるよりも、手元に置いておく方が安全だろう?」

 

「うー……」

 

 トドメの論破もされて、雪菜は悄然と肩を落とした。とはいえ、取扱いに要注意危険物にされた古城は不愉快な気分で唇を歪めるが。

 そうして、この辺りで最も高い十階建てのテティスモール――飛行体を相手にするに最適なポイントへ、行く先々の夜店を賑やかしながら先導する那月から、確認の問い。

 

「メールで送った資料は読んだか?」

 

「まあ、いちおう」

 

 今回の相手。未確認の飛行物体、仮称で『仮面憑き』

 これまでのパターンから、今夜も、『仮面憑き』は二体同時に現れ、どちらかが戦闘不能になるまで戦闘を行う。

 そして、その二体ともを捕まえるのが今回の副業だ。

 

「二体とも捕まえろ、ってことだけど。空を飛んでいる奴らを、どう相手すれば……」

 

「気にすることはない。撃ち落とせ」

 

 なんて無茶な、と古城が呻いてしまうくらい迷いのない那月の即答。

 雪菜は同級生の力尽くの脳筋思考は、この主人の責任もあるのではないかと思う。

 

「問題ない。空に向かってぶっ放すぶんには、市街地に影響が出ないからな」

 

「いや、それはそうかもしれないけど―――」

 

「相手もそれなりの化け物だ。そう簡単にくたばりはしないから安心しろ。うっかり殺してしまっても、刑務所に差し入れくらいはしてやるからな」

 

「まったく安心できねぇよ!」

 

「先輩の処遇はともかく」

 

「ともかくで流すな! せめて無罪になるよう証言を確約してくれよ!」

 

「その戦闘した現場ですが、やはり変ですね」

 

 雪菜が示すのは、交差点の向こうに見えるオフィスビル。

 真新しい建物の上階層がごっそりと抉られて、飛び散った瓦礫は今も路上に山積み。

 隕石でも直撃したかのような凄惨な光景だ。

 

「あんな巨大な爆発が起きていたのに、私は気づきませんでした」

 

 そう、魔術や召喚術であれだけの破壊を生み出したのなら、相当な魔力が放出されたはずなのだ。

 なのに、霊感に優れる獅子王機関の剣巫は感知できず、事件に気づけなかった。

 絃神島に設置されている魔力感知器も、『仮面憑き』には反応しなかったようで、特区警備隊が異変を察知したのは、ビルが倒壊して、民間警備会社が騒ぎ出してからだ。

 

「超能力、という線もある。あれは、魔力には頼らない。まあ、あそこまで馬鹿げたものはそうないがな」

 

 言って、僅かに比較対象が脳裏に浮かび上がったが、那月は即座に切り替えた。

 攻撃的な笑う攻魔師のものへと。

 

「まあ、本人たちに訊けばすぐにわかることだ」

 

 十階建てのビルの屋上。そこから見える電波塔の周囲を飛来する、二つの影。

 『仮面憑き(ターゲット)』を視認。

 開戦の狼煙(あいず)とばかりに打ち上げられた花火、その爆発音と閃光に一般人たちの目が向けられてる間に、闇を狩る―――

 

 

 

 そして。

 

 

 

「叶瀬―――っ!」

 

 

 古城は知った。

 同族を喰らいあう『仮面憑き』、その片割れの正体が、いつも穏やかな笑みを湛えていた、動物好きの女子中学生であったと。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『最近、良い顔するようになったねクロウ君』

 

 それは、3人で。

 暁凪沙と南宮クロウで、教会の子猫たちの面倒を見ていたある日のこと。

 キャットフードとか消耗品の買い出しですこし遅れた私が、その木製の扉の前に付くと、すでに同じクラスである二人は中で一緒に掃除をしながら、お話してました。

 

『そうか?』

『そうだよ。なんか吹っ切れたって感じというか。ほら、顔とかも見せるようになったじゃない』

 

 言われて、気づく。

 普段、彼は室内でも帽子を深々と被っていたが、今はそれを外してる。

 その枷のように大きな首輪を隠すほどの、大きめの首巻こそしているが、その短い癖っ毛をした銅色の赤茶の髪と顔の上半分を見せるようになった。

 たった上半分。

 それでも滅多に露わとなることのなかったのだ。

 その耳付き帽子もあって奔放なワンパク犬に見られていたが、どこか野性味を宿した端整な顔立ちに、異国風の褐色肌によく映える純金のように輝く瞳。

 

『おかげで、今のクロウ君の株は急騰中だよ!』

 

『そうなのか?』

 

 おまけに、帽子だけでなく、コートも脱いでいた。

 何事も体が資本な森育ちで、日夜魔族と肉弾戦を挑むのなら予想はつくだろう。実際、厚着に覆われてもその機敏な反応を見せる仕草に姿勢のいい立ち姿からおおよそ相当に鍛えられていることは察していたはずだ。

 それでも実際に、目の当たりにするのは別。

 制服のシャツの半袖から伸びるその腕。線は細くもそれは実戦的に無駄をそぎ落としたもので、素人目にもわかるくらいに堅く引き締まり、逞しい。

 

 人畜無害っぷりの子犬のイメージだったのに、装飾を取っただけで男と意識させるオオカミだった。それも、運動部も裸足で逃げ出す、ではなく、ジャージを着込むくらい。

 

『……うん。古城君の見てて慣れてるつもりなんだけどなー』

 

 と言いながら、腕にぶら下がる凪沙ちゃん。

 特にこれといった苦も感じてないように平気な顔でされるがままのクロウ君。女子とは言え片腕で吊り上げて体幹はまったくぶれず、やはり見かけ倒しのものではない。

 

 ……それとは別に気になるのが、慣れるためのリハビリ、って最初に説明されてたけど、練習にしては何かスキンシップが近しいような気がしなくもない。うん、きっと気のせいだろう。

 

『球技大会で、シンディもクロウ君のワイルドなギャップはもはや凶器って言ってたよ』

 

 シンディ、というあだ名だが、秋田出身の純日本人。単に苗字が『進藤』で、自己紹介の時に緊張のあまり噛んでしまい、それ以来、シンディと呼ばれるようになったクラスの女子。バスケ部に所属しており、元古城君の後輩で、狙っていた女子のひとり。

 

『委員長もあれは危険ね、って固まっちゃってたし』

 

 本名は甲島桜。小学五年生からクラスの高い支持を得て、連続で委員長に選出されるという委員長・オブ・ジ・委員長は、教師受けの良い黒髪眼鏡のクラス女子で、意外にノリのいい性格をしてる。

 

 ……何か、名前を挙げて反応を見てるような、ぶらぶらとブランコのように揺らしながら目線はクロウ君に固定されているようで……うん、気のせいだろう。

 

『そうなのか。じゃあ、やっぱり着てた方がいいんだな』

『それはダメ』

 

 あまりに素早い凪沙ちゃんの主張だった。

 

『? 凶器で危険なんだろ? よくわからないがそれなら止めた方がいいんじゃないか?』

 

 首を傾げるクロウ君。

 

『えあ、うん、なんていうか』

 

 言うに困ってその賑やかな口数もストップして凪沙ちゃんは視線を逸らす。

 

『?? ……なんか凪沙ちゃんらしくないぞ。最近、ヘンだけど、熱でもあるのか? それとも“リハビリ”で無茶しすぎたんだろ』

 

 それはクロウ君から見ると、凪沙ちゃんの様子は“ヘンな感じ”レベルの扱いになってるらしい。

 

『ね、熱なんてないし、無茶もしてないったらっ! そうじゃなくてど、どうして顔とか見せるようになったの、クロウ君はっ!』

 

 目に見えて取り繕う凪沙ちゃん。

 それに疑問を混ぜっ返すことをせず、斜め上を見上げながら考え込んで、

 

『うん。古城君のおかげだな』

 

『えっ、古城君?』

 

 クロウ君の回答に、凪沙ちゃんは目を点にする。

 

『あまり詳しくは言えないけど、古城君の言葉に助けられたのだ。うん。あいつらにもいい報告ができそうだぞ』

 

 

 

 ……お兄さんのこと、クロウ君や凪沙ちゃんに言われる前から、本当は知ってました。

 あのときも、クロウ君のために、お兄さんがきっかけとなってしまった風潮を失くそうと、私たちの学年が校門を通るたびに一人一人に訴えてました。

 その時の姿を、私は覚えてました。

 

「やめろ、叶瀬―――っ!」

 

 お兄さん……

 こんな私を―――

 

 意識は真っ白な光に染めつくされた。

 

 

メイガスクラフト

 

 

 この腕輪という制御装置が気に食わない。

 

 そもそもなぜ、俺ら魔族が人間に合わせなければならないのか。

 

 『人間と魔族の共存する魔族特区』―――はっ、笑わせる。

 

 現実を見てみれば、今も昔も社会的に認められているのは人間だけだ。

 

 結局、あいつらは魔族登録証という腕輪《ブレスレット》を付けて、人間(じぶんたち)魔族(おれたち)を別けて、管理する――差別する――排他する。

 

 その土地に市民権を与える代わりに、腕輪を通して、その身体を常に監視(モニター)し、力に制限をかける。俺たちが怖いから。

 

 そうやって、自由を奪い、そして、俺たちを実験動物にする。

 

『あの忌々しい<空隙の魔女>、ナツキが犬を飼い始めたと聞いたけど』

『全然ダメね。こんなのを侍らすなんて、趣味が悪いわ』

 

『そうね、オクタヴィア。ナツキの犬は、血統書付きの金の卵。創造主(オヤ)の<守護者(アクマ)>をも下したという悪魔を喰らう狼(デビルウルフ)よ』

『ええ、エマ。主の手を噛む犬なんてお断りですけど、この雑魚は泥。血統からしてダメですわ』

 

 緋と黒の魔女二人組は、そういって実験場から攫い、奴隷として働かせ、実験動物として使ってきた俺たちを捨てた。

 気の済むまで調べて、もうその興味がないよう。怯えて逃げる俺たちを嘲笑いながら、殺し尽くし、悪魔の肥やしにした。

 

 人間どもはいつか血を見るべきだ。

 

『―――血に飢えた漆黒の狂獣(ブラッディウルフ)

 

 自己暗示と共に、小瓶に納められた主の血を服用する。

 <ランヴァルド>

 彼の偉大なる<黒死皇>が戦争を繰り広げた『戦王領域』と隣接するその人間の王国。

 『聖環騎士団』はその手に魔族を祓滅させる得物を持ち、魔族の侵入を一切阻んできた屈強な守護者。

 だが、関係ない。所詮は、自由を奪わなければ、魔族と接することもできない弱者の集団だ。

 ごくりと呑み込む。

 口から。舌から。喉から。胃の腑から。従属の契約を成した全身の隅々にまで真紅の血は瞬時に染み込んで、たちまち位をあげられるよう改造された肉体を変質させていく。

 変貌。変化。変身。

 骨格が軋み、筋肉量は増大し、体躯は強固に、牙や爪は剣の如く伸長する。

 存在そのものが拡大しながら変容していく。黒い影にも似た朧を全身に纏いつつ、緋の刺青が全身を走る。

 肉体が変わる。

 意識が変わる。

 あらゆる理性が掻き消えて、狂暴を具現化した破壊衝動の塊へと変わる。

 獲物の血を求める渇望は前景の姿勢にも顕れていて、殺意と敵意の奔流が瞳をアカ色に輝かせる。

 

『ハッ、汚らわしい魔族って、世間様は血で差別しておいて、俺たちをゴロツキ扱いしやがる。……まぁ、確かに前から、ゴロツキだったが―――だから、俺たちは、いつか人間たちに血を見せてやるべきだ』

 

 数十の聖剣をもらおうが、この肉体は“不死”。

 頑丈な鎧に包まれた騎士を爪牙は薙ぎ払い、王族の乗り物に鮮血の雨を降らす。

 緋色と漆黒―――イメージする最強で最凶で最狂の色に染めて、新たなる獣王はここに君臨する。

 

 そして、邪魔な騎士を始末した後、仕事のためある程度の理性を残した獣化形態に戻り、王女を捜す。捜しがてら、そこに乗船していた使用人女子供関係なく皆殺しだ。一族郎党を殺戮された彼の獣王と比べれば、この程度の惨劇では足りない。

 そして、怯える使用人たちに囲まれる王女を視覚に捉え、

 

『主張に一理あるのかもしれないが、力ばっかり誇示する魔族にも問題あるぞ。だいたい、オマエが言えるセリフじゃないな』

 

 天井をぶち破る勢いでブッ飛ばされた。

 

 

 

 社内の休憩室。

 調整を済ませてからも捜索に駆り出されて、大まかな当たりを付けたところで、一端の小休止を入れていたところ。

 革ジャンを着たまま、その長身をベットの上に横たえさせていた長髪の男は呼び出すを受ける。

 

「―――キリシマ。面倒な客が来たわ。『金魚鉢』へ捨ててきなさい」

 

 部屋にノックもせず入ってきたのは、成金趣味なワインレッドのスーツで窮屈にお飾りした金髪の女性。

 人型では細身のキリシマよりも、ガタイがよく。肉感的な美女は、タイトスカートから艶めかしいラインを浮き上がらせるその脚で、寝転がるこちらを踏みつけて言う。

 

「ベアトリス、お姫様をあれから捜し回ってる俺にわざわざ修学旅行の引率の真似事をやれってのか。しかも傍から見てたが、あんなバカップルの相手なんて、付き合わされるだけでたまったもんじゃない。適当に追い払ってやればいいだろ。あいつらガキくらい言い含められねーのかよ」

 

「あなたは使いっ走りで、私の『血の従者』よ。逆らうのは許されると思ってるの」

 

 怪しげに瞳に揺れる真紅の光。

 それは、力を得るために支払った代償。

 自意識を刺激する吸血鬼(ベアトリス)の言霊に、従う他ない。

 

「それに、あのガキども、昨夜の実験を邪魔してくれた<第四真祖>と獅子王機関の剣巫よ。最後の実験を飾るには最高の贄じゃない。新商品のこの上ない宣伝となるに違いないわ。だから、こちらの準備が整うまで確保しておくのよ」

 

「ハッ、『天使』のお相手をさせられるとは、あのお子様カップルが憐れでならねぇ」

 

 

金魚鉢

 

 

 メイガスクラフトが所有する、無人島。

 そこへ相手の罠にまんまとはまり、乗ってきた飛行機も古城たちを無人島に置き去りにしてさっさと離陸。

 『世界最強の吸血鬼』とはいえ、古城に自由に空を飛べたりするような力はないため、絃神島から遠く離れた島に隔離されてしまえばあっさりと無力化されるのである。

 魔族特区の周辺海域は、魔族を他所に密入国流入することを防ぐため、航空機や船舶の規制がされており、偶然船が通りかかったような都合のいい展開に期待は持てない。

 携帯の電波も圏外で、GPSが使えても、こんな無人島は地図にも乗ってないだろう。

 

 とはいえ、古城、そして、雪菜も、脱出の方法は思いつかなくても、生き抜くためにこの島を調べることにした。

 陽が完全に暮れる前に、まずは飲み水を確保し、次に食べ物と風雨をしのげる場所を見つける。そして、できればメイガスクラフトが所有するこの島に『仮面憑き』に関する資料がないかを探す。

 

 そうして、樹木の密生する森の中に入っていった古城たちは至る所に澄んだ泉が湧いていることを発見して、ひとまずの生命線に安心した。

 しかし、

 

「姫柊、これって野生動物のドキュメンタリーとかで見たことがあるんだが」

 

「はい、先輩。どうやら、この島には熊か何かいるようですね」

 

 途中、見かけた木々に引っ掻いた跡――野生の動物が縄張りを主張するマーク。それも真新しい。

 無人島ではあるが、動物がいないわけでもないらしい。それも、強靭な爪を持った猛獣である可能性が高い。

 

 いや。

 古城の血が騒ぐ。

 <洋上の墓場>で初めて、『真祖に最も近い』とされるヴァトラーの気配を感じた時のように。

 昨夜の『仮面憑き』が発していた魔力とは異なる次元のものとは違うが。

 この森に、貴族の吸血鬼に迫る何か強い生物が存在すると、第四真祖の血が警告を発している。

 

「……ここへは立ち入らないようにしましょう。先輩は第四真祖ですから熊が相手でも大丈夫だとは思いますけど」

 

「ああ、厄介なのは避けるべきだ。先住してるのは向こうだし、連れてこられたとはいえ、俺たちは異邦者だからな」

 

 二人は逸れないよう、互いの距離を縮めながら、足を早めてさらに奥へと進む。

 そして、奇妙な建物を見つけた。

 大きさは二階建てのアパート程度で、分厚いコンクリートの壁に覆われている。壁の穴には窓ガラスすら嵌まっておらず、建物の中には家具はない。とても人が住んでいたような場所ではない。

 

 おそらく、ここはトーチカ――戦場で、敵部隊の接近を阻止する側の拠点だ。

 

 見れば、その砦の辺りには機関銃弾の空薬莢が枯葉のように散らばっている。

 明らかな銃撃戦の跡。

 だが、それはかつてあった戦争によるものではないだろう。壁にある、銃弾の跡とおぼしき窪みや無数に残された亀裂は、その表面の汚れから判断して、古いものではない。

 せいぜい、ここ数年でできたもの。海賊か何かが絃神島周辺に出没したという話も聞いたことはない。ならば、一体何が、どんな理由でこの島を攻めたのか。もしかして、この島に生息してる謎の生物の駆除のためか。しかし、そこには死者も死骸もない。

 吸血鬼化した古城の五感でも、そこに血の流れた痕跡は察知できない。

 

「とりあえず、屋根は残ってますし、ここを拠点にしましょう」

 

「なんか幽霊的なものが出そうだけどな」

 

「曲がりなりにも吸血鬼ですよね先輩。なのに、幽霊なんて怖がるんですか」

 

 厭そうな顔で呻く古城に、雪菜は思わず噴き出すのをこらえるような口調で言う。その反応に古城はふて腐れたように唇をとがらせて、

 

「姫柊だって飛行機にビビってたじゃねぇかよ」

 

「ビビってません! ビビってませんからね!」

 

 とはいうものの、無人島に連れてこられた飛行機の中で終始古城の手を握って怯えていた。やれやれ、と古城はトーチカの天井を見上げながら。

 

「しっかし見事に何も残ってねぇな。なんか無線機とかあったら救援を呼べたんだが、このままだと最悪、ここで二人きりで暮らさないとならないのか。それは洒落になんねーな」

 

 電気ガス水道、ネットにテレビ、コンビニにスーパーも現代人のライフラインの一切がない環境。後輩はかつてそのような生活をしていたが、古城には想像するだけでもダメだ。ましてや古城たちがそんな原始的な状況に置かれている間にも、夏音は危険にさらされているのだ。最悪という言葉すら生温いと思える。

 と、しかし、そんな古城の呟きに、何故か傷ついたような瞳で睨む雪菜。

 

「最悪、ですか……私と二人きりだと洒落にならない……そうですか」

 

「え?」

 

「いえ、なんでもありません」

 

 背中を向けて、雪菜はトーチカを出ようとする。彼女が八つ当たり気味に振り回した槍が、古城の眼前をかすめてコンクリートの壁に新たな傷をつける。

 

「姫柊……さん? あの、もしかしてなんか怒ってるとか……?」

 

「いいえ。全然、怒ってませんから」

 

「さっきの飛行機のことでお冠……?」

 

「違います! 先輩はここで“一人っきり”で待っててください。私は食料を調達してきますので」

 

 

教会

 

 

 『外国の要人の現地案内と護衛』

 それが獅子王機関舞威姫――煌坂紗矢華に下された命。

 けれど、その『外国の要人』が失踪してしまった。

 それは、到着前の事件によるものだから、紗矢華に責任はないわけだが、それでも護衛すべき相手を守れなかったという悔いがある。

 幸い、その飛空艇に乗船していた侍従たちから彼女は救命ポッドで危機から離脱したことはわかっている。

 

 だから、彼女が会いたがっていた人物――叶瀬夏音について調べれば、その失踪の原因がわかるのではないかと。

 

 紗矢華は一人、この絃神島へ――この廃墟となった修道院の跡地へと赴いた。

 

「……まさか、この修道院だったなんてね」

 

 5年前まで、叶瀬夏音が暮らしていた修道院。

 ここへ来たのは初めてではない。捜索の途中で、対象が拠点としていた場所だった。

 結局、中に入ることはできなかったけど、その閉鎖された修道院に今も人の手が行き届いていることを訝しんだこともあった。

 おそらく、それは叶瀬夏音によるもので、調べれば何か手がかりがあるのでは―――

 

「―――誰!?」

 

 入ってすぐ。

 手にした黒い楽器ケースからその武神具をいつでも取り出せる体勢を取る。

 徹底して師に鍛えられた――そして、前回反省した――察知した気配に反応した舞威姫としての一連の動作。油断なく、感じたその方向を見つめる。

 

「隠れても無駄なんだけど……素直に出てくる気はない?」

 

 冷ややかに警告を発すれば、参った、といった感じの苦笑が返される。

 そして、現れたのは柱の陰から逆立てた茶髪に、ヘッドホンを首にかけた高校生。暁古城と同じ制服を着た。

 

「あなた……たしか」

 

 そう、紗矢華は直接その現場を見たわけではなく、けれど状況証拠から察したことだが、黒死皇派事件で、ディミトリエ=ヴァトラーが『眷獣を使って捕まえた』人物だ。

 いくら戦闘狂の吸血鬼であっても、全く無関係の人間に、その力を使うほど無秩序ではない。

 そうであるなら、獅子王機関<三聖>から抹殺すべき対象と判断が下されるだろう。

 

「ああ、この前はどうも」

 

「やっぱりただの高校生じゃなかったわけね。あなた、何者? って訊いても素直に素性を明かす気はなさそうね」

 

「まあ、そうなるね。その辺の詮索をされても俺は何も言えない。それはおたくも同じだろ。獅子王機関の舞威姫が、こんなところで誰を探しているのか、なんてのはさ」

 

 向こうは紗矢華の正体を知っていて、こちらは知らない。

 情報でアトバンテージを取ってるのは、明らかに向こう。

 それは理解しているが、何もかも見透かしたようなその物言いに、かすかな苛立ちは隠せない。

 

「取引をしよう。こちらもちっとばかり困ったことになってる」

 

 その神妙な声はあながち演技とも思えない態度で、紗矢華は半信半疑のまま先を促す。

 

「獅子王機関の舞威姫に、どんな話を持ち掛けようっていうのかしら?」

 

「まず俺からの条件は、俺の正体を口外しないこと。古城にも、姫柊雪菜にも」

 

 ……なるほど。

 雪菜が暁古城――<第四真祖>の監視役であることを知ってる。だが、それを知ってるという事実を相手に知られるのは困る立場にいる。

 つまり、考えられるのは、雪菜の動向も含めて暁古城を監視する役目。

 

「そして、見返りは情報だ。たぶん、今あんたにとっても価値のある情報だと思うぞ」

 

「……情報って」

 

 暁古城、はついでで、雪菜が関わっている。

 ならば、紗矢華はそう簡単に譲歩されない。せめて、この男子高校生がどこに所属してるかは―――

 

「暁古城の居場所について」

 

 …………は!?

 

「わ、私は別にそんなこと知りたくもないんだけど……! いったいそれのどこに価値があるっていうのよ!?」

 

 言いながら露骨な反応を見せる紗矢華に、男子学生は、うわ、面倒くせぇ、とありありと書かれた表情を浮かばせる。

 とりあえず、話はこれで終わりではないので紗矢華の言い分をまるっと無視して、

 

「古城の奴、今、どうやら島の外にいるらしい」

 

 魔族特区の外に<第四真祖>が?

 紗矢華は表情を強張らせた。

 全面的に信じたわけではないが、もしその話が本当なら重大な問題だ。そう、その監視役に責任が問われてもおかしくないほどの、

 

「もちろん姫柊雪菜も一緒なんだが」

 

「な……ん……」

 

 二人揃って、外へ逃避行―――それは、まずい。

 大変乙女チックなメロドラマを迎えているかもしれない。

 

「実はあいつら、今ちょっと叶瀬夏音がらみの事件に巻き込まれてまずいことに―――」

 

 そこまで言って、やめた。

 不意に言葉を切ったが、紗矢華としては『叶瀬夏音』というキーワードに詳細に話を聞いてみたいところだが、相手は何故か苦悩するように蹲り、ぐったりと頭を抱えていた。

 だらだらと脂汗まで流してる。

 

「どうしたの?」

 

「まずい……て言うか、最悪だろ。なんであいつらがここに来るんだ!?」

 

 あいつら? と首を傾げた紗矢華も、その耳を澄ませば―――声が聴こえた。

 

『あの古城(バカ)は、私の美術課題を手伝うって約束しておきながら、それをすっぽかすなんて!』

『ホント! クロウ君も一緒に遊びに行こうって約束してたのに、学校さえ来なくなっちゃったし!』

 

 この建物に近づいてくる気配。

 既視感さえ覚えるこの先の展開に、紗矢華も頭を抱えたくなった。

 そして、まず垢抜けた私服姿の女子高生が修道院のドアを開けて、幼馴染な男子高校生――矢瀬基樹と、紗矢華の姿を、そして紗矢華は、女子高生――藍羽浅葱を同時に視認し、

 

 

「「あーっ!?」」

 

 同時に指差し、

 

「あんた、この前古城に襲い掛かった通り魔!?」

「あ、暁古城の浮気相手!?」

 

 お互いに失礼な言葉を投げ掛ける。その失礼な言葉にお互いは目を細めて、キャットファイトでも始めんばかりに距離を詰めてく。

 

「だ、誰が浮気相手よ!?」

「こっちこそ、通り魔なんかじゃないんだけど!?」

 

 流石に掴みかかるような展開とならなかったが、罵倒の言葉を繰り広げていく両者。そんな状況に割り込まずただ傍観する矢瀬の前に、もうひとり――暁凪沙が教会に続けて入り、

 

「どうしたの、浅葱ちゃん―――あ、アスタルテでも、メイドさんじゃなかった人?」

 

「そ、その紹介は正しいんだけど……」

 

 その発言に紗矢華は気勢を削がれてしまい、少女の姿を見て、浅葱も同じく。

 矢瀬は疲れながらも、一端とはいえ落ち着いた事態にチャンスと声をかける。

 そして、親友に悪いと思いつつ、その矛先を返せてもらう。

 

「まあまあまあまあ、その辺のことは捕まえた後で古城に訊いた方がいいんじゃないか、ご両人。あの野郎、今頃、姫柊ちゃんと街の外へ逃避行してんだからさ」

 

 

金魚鉢

 

 

 飲み水を確保し、風雨をしのげるキャンプも見つけた。

 そして、『仮面憑き』の資料は見つけられなかったが、料理。

 

 獅子王機関で生存訓練(サバイバルトレーニング)を受けたことのある雪菜は、実に手際よく石を積んでかまどを造り、集めてきた枯れ枝であっさりと火を点けて、集めてきた食材を包丁の代わりにその長い銀槍を器用に操り、切り刻んで………調理、した。

 その成果が、今古城の前にあるテーブル代わりの朽木の上に並べられている。

 が、

 

「えーと……これは?」

 

「椰子の実です」

 

 少し得意げに答える雪菜に、古城はどう反応すべきか困ったが、とりあえず次の皿。

 

「……この白いのは?」

 

「椰子の実の千切りと、椰子の実の桂剥き、こちらが椰子の実と海水のスープです」

 

「なかなか独創的な料理だな。なんか子供のころに凪沙に付き合わされて腹を壊したおままごとを思い出す」

 

「なぜ今そのエピソードを思い出したのかが気になりますが、不愉快な気分になりそうなのであえて問い詰めるのはやめておきます」

 

 これでも古城は慎重に言葉を選んで感想を述べたつもりだが、雪菜は頬を膨らませてこちらを睨んでくる。まあ実際、手に入る食材が椰子の実だけでは、他に調理のしようがないだろう。それも<雪霞狼>しか道具がない中でわざわざ用意してもらっておいて、文句を言える立場ではない。

 

「お味はどうですか?」

 

 椰子の実の汁をすする古城に、期待と緊張の両方に揺れる雪菜の眼差しが向けられる。

 それにどう返すべきか、古城は眉間にしわ寄せて思案する。

 

「うん……なんて言うか」

 

 横から椰子の実の刺身を摘まむ手。

 

「う。椰子の実だぞ。それ以外味がしないな」

 

「そうだよな。普通に椰子の実の味だよな」

 

 はっはっはー、と肩を叩いて、意気投合。

 頷き合う二人に、雪菜は喜んでいいかわからない微妙な表情を浮かべて。

 

「はあ―――て、え」

 

 ………………

 …………

 ……

 

「むぅ。全部同じ味だ。それに肉がないぞ。椰子の実以外は見つからなかったのか?」

 

「……おい、それ以外に言うことはないのか」

 

「? あ! ごちそうさまを忘れてたぞ」

 

 気づく。

 全品つまみ食いされてからだが、このわりと切迫した状況下での暢気な返しに、これが幻術でもなんでもない飲み食いする実体であることが確かなのが判明した。

 いや、それはいい。

 あまりに自然に割って入ったので気づくのに遅れたが、何食わぬ顔で食事するこいつもコイツだ。

 感動の再会とか、突然の離別に対する悲嘆怒りと言った喜怒哀を表現する気も失せさせて、楽のひとつしかできなくさせるようなその楽観的な反応。

 日々の担任の頭痛を分かち合えたように頭を両手で抱えてる古城は置いて、喜びより呆れが3:7で勝る表情を浮かべる雪菜がおそるおそる声をかける。

 

「クロウ、君?」

 

「おう。久しぶりだな、姫柊。それに古城君も」

 

 元気よく、級友の雪菜に返事する――故郷の森へ帰ったと言われた――南宮クロウ。

 こんな無人島でも手袋コート首巻の厚着装備で、呆気からんとしてる後輩は古城の知る限りひとりしかいない。

 

「こんなところでどうしたのだ? 迷子か?」

 

「それはこっちの台詞だクロウ!!」

 

 飼い主に代わってその頭を拳骨落としても情状酌量の余地はあると思う。

 

 

閑話休題

 

 

「え、っと、まず、クロウは森に帰ったんだよな?」

 

「? 森には帰ったぞ。でも、墓参りに一日もかけないぞ」

 

 無人島全体に響き渡る暁古城の全力のツッコミの後、後輩に状況説明を要求する。

 

「じゃあ、なんで絃神島に帰ってきてないんだよ! もしかして何か事件に巻き込まれたのか?」

 

「おう、なんか森から出たら、ニンジャが待っててな。『我が主君の命で、叶瀬のことで話を聞きたい』って頼まれたから、お城に行ったのだ。

 そこで、ニンジャの主君であるフォリりんが待ってて、フォリりんの祖父さんが昔に隠し子作ったのに、中々浮気を認めないから困ってるっていうから、オレ、『祖父さんはウソついてる。叶瀬と同じ“血”の匂いがするぞ』、っていってな、

 そしたら、『そいつは出鱈目だー、モノども出会えい出会えい!』って騎士とチャンバラごっこやってる間に、フォリりんの祖父さんがお城の隠し扉で逃げたから、オレが出口に先回りして捕まえて、皆のところへ連れ戻したら、フォリりんの祖母さんがもうカンカンに怒ってて、

 それで、お城の皆が大混乱で、フォリりんの祖母さんは『叶瀬のことどうすんだー』とか『責任とりなさいー』とか、『その子に謝りなさいー』とか、ニンジャも『殿中でござる殿中でござる』って騒いでて、フォリりんだけ面白がって笑ってたけど、

 そしてオレは帰ろうとしたんだけど、『重要参考人だから途中退場はダメ』だってフォリりんに言われて、いやだって断ったらニンジャが『御代官様ここはひとつ……』、って山吹色のお菓子をくれて……うん、おいしくて全部食べちゃったから、その対価報酬でお家騒動にしばらく付き合うことになったのだ」

 

「待て待て待て待て。凪沙並に話が長い。聞いてるだけで頭がいっぱいになったが、色々とあったのはわかった。北欧でニンジャとか時代錯誤どころか和洋折衷入り乱れてる状況自体がすでに混沌してると突っ込みたいんだが、

 ―――まずそのフォリりんって誰だよ?」

 

 大まかにだが、この後輩は旅先で頼まれごとされて、何やら同級生が関わる事件に巻き込まれてしまい、帰れなくなったことはわかった。そして、その原因を作ったと思われるのが、

 

 

「それはわたくしのことです暁古城」

 

 

 呼ばれる出番を待っていたかとさえ思われるようなタイミングで、その優美な人影が姿を現す。

 軍人にはとても見えないが、軍隊の儀礼服を思わせるブレザーと、編み上げたブーツを着こなす、古城と同年代と思しき少女。

 銀髪碧眼に、日本人離れした端整な容姿。

 そのパーツパーツだけでも逸品のそれを組み合わせて、天工が魂を注ぎ込んだとした思えぬその美貌。

 見惚れずにいられぬほど、彼女の在り方は鮮烈であり、そして、どこか見覚えた感に記憶がくすぐられる。

 そう、その月の女神と見まがいそうなそれは―――叶瀬夏音に似ているのだ。

 

「あなたは―――?」

 

 つい、丁寧語を使ってしまう。

 そう、たとえば美しい宝石が、その価値を知らぬ者にも、権威の象徴として通じるように、古城は一目でその格を悟る。

 

「ラ=フォリア=リハヴァインです。ご指名に預かり光栄です、暁古城」

 

 唇をつりあげて、少女はドレスのスカートをつまむお辞儀(カーテシー)

 その動作に打ち震える芸術家もいるだろう。単に外見だけでなく少女には常人には得難い美質が具わっていた。オーラと言っても聖霊と言ってもいい。古来から、多くの批評家たちが芸術を表現する際、どうしても言葉にし切れぬ何かをそう叫んできたように。

 けれども、それと負けず劣らずに美少女な後輩らと接してきた古城は、その優雅な微笑を真っ向に受けても我を忘れないだけの度量がついていた。

 とはいえ、

 

「どうして俺の名前を?」

 

 そんなのは後輩に訊けば知れるだろうとも冷静に考えればわかるが、今それだけの余裕は古城にない。

 不思議そうにラ=フォリアと名乗る少女は目を瞬かせつつも、古城の問いに答える。

 

「暁古城なのでしょう。先代アヴローラ=フロレスティーナより十二の眷獣を継ぎ、日本に出現した<第四真祖>の」

 

「ああ……そうだけど……」

 

「では、ついてきてください。急な来訪ですけど、歓待の準備はできています」

 

 戸惑う古城を放置して、ラ=フォリアは一方的に会話を打ち切る。

 古城の話を聞く気がないというより、自分のペースで行動することを当然のように感じているのだろう。実際の口調以上に高飛車な印象を受けるのはそのせいか。

 貴族めいた豪華な服装から察するに、育ちのいい令嬢なのは確かであるが、まるでお姫様気取りだな、と初回のインパクトからようやく調子を取り戻しつつある古城は少し呆れた。

 

「なあ、その前にお前が誰なのか教えてくれないか」

 

 長く溜息をついてから、呼び止め、振り向いたラ=フォリアを古城は今度は真っ直ぐに見つめる。

 古城の正体、そして先代の<第四真祖>の名前を知っている彼女が、単なる金持ちの令嬢であるはずがない。

 

「さっきのクロウ君の話……それにその名前……」

 

 雪菜はすでに正体を感づいたようだが、ラ=フォリアは、静かに古城を見返す。その氷河を閉じ込めたような碧い瞳――叶瀬夏音と同じ色の瞳で。

 そして、改めて威厳を以てその名を告げる。

 

 

「ラ=フォリア=リハヴァイン―――北欧アルディギア国王ルーカス=リハヴァインが長女。つまり、北欧アルディギア王国で王女の立場にあるものです」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 王女の乗ってきた救命ポッドは、王族専用船というだけあって恐ろしく豪華な仕様であった。

 プラスチックの殻に覆われた卵形の本体と、自動で膨らむゴム製の浮力具というその形状ならば、古城の想像する救命ポッドから大きく外れてもいない。

 けれども、腐食せず、錆びず、導電性に優れて落雷に強いということから、外装は純金張り。

 内装は本革で狭いながらも立派なベットを備え、飲料水や食料はもちろんのこと温水洗浄便座まで備えている。遭難しても快適に過ごせることだろうと配慮が行き届いてる。キャンプしようとしていた冷たく吹き抜けた石床のトーチカとは段違いだ。

 そして、

 

「……そういえば、木に爪痕がついてたが、あれってお前だったのか?」

 

「一応、『こっからは危険だぞ』って“警告”の意味もあったけど、樹液を取らせてもらったんだぞ。椰子は実よりも、樹液の方が甘いのだ。ヤシ糖っていう強い糖分があってなー。実を食べることもできるけど、オレはやっぱり甘い方が好きなのだ」

 

 その救命ポッドの近くに簡単ながら、けれどしっかりと組んだ小屋があり、そこに寝床っぽい椰子の葉を積んだ場所と、先ほどの雪菜が造った簡易な石かまど。

 そして、その横には地中にあったのだろう芋が十数個ほどごろごろと入った笹籠。

 火の入れたかまどの上に、海の幸料理の材料だった海底にあった大きな貝殻を鍋代わりにして芋がぐつぐつと茹でられており、同じように煮詰めた椰子の樹液を加えてすり潰し―――甘い餡子の出来上がり。

 他にも海水から藻塩をとったり、海に潜って取ってきた魚を切って捌いて焼いて、数種類のハーブを添えたものやきちんと出汁を取ったスープなど揃ったディナーが、この島に群生する竹を加工した食器に乗せられて、救命ポッド前に置かれた木のテーブルに運ばれる。

 

「うん。うまいな。ちゃんと料理って感じがする」

 

 先の椰子糖和えの芋餡子を口にした古城は、その確かな味にうんうんと頷く。他の焼魚も焦がしたりしておらず、いい塩梅に味付けがされている。

 それを見た雪菜は、自分も一口ずついただき、

 

「そんな、まさかクロウ君に負けるなんて……」

 

「……オレ、機械とかと致命的に相性が悪いからご主人に厨房に入るなって禁止されてるけど、森で暮らしてた時は、ちゃんと自炊してたんだぞ」

 

 級友のあまりの狼狽っぷりに、ジト目でふて腐れるクロウ。

 そんな、後輩は救命ポッドにあった王家御用達と思われる缶詰、のかんぱんに先の芋餡子を乗せてもそりもそりと食べてる。

 

「サバイバルを満喫してるな、クロウ。普通は、食い物を見つけるだけでも大変だと思うが」

 

「そうか? ここ人いないから、採られてない食い物いっぱいあったぞ。ちゃんと探したのか、古城君」

 

 きょとんと首を傾げる森育ちの野性児。

 ここに来る途中で、女子二人が使った、湧水を利用した使用者からなかなか好評な天然のシャワールームがその小屋と同じように作られていたが、衣食住を大自然の中で確保するとは人より生存能力(サバイバルスキル)が高いらしい。ただ、彼には純粋に疑問に思うことでも、人によってはそうではない。

 

「ああ、まあ、来たばっかりだしな……」

 

「……なんですか、先輩。椰子の実しか調達できなかった私に何か言いたいことがあるんですか?」

 

「いや、姫柊、別に俺は……!?」

 

 なるべくフォローするつもりで言った古城だが、先から雪菜の反応が怖くなってきてるのは気のせいではない。

 そして、そんな危険な状態で追い打ちをかけるように、歓待の主催者は慣れた様子で目配せし、

 

「クロウ、そろそろ二人にデザートをお持ちなさい」

 

「う。わかったぞ」

 

 立ち上がり、少し離れた場所にある樹木のひとつの前に立ち、ぱんぱんとお参りするように拍手してから、その手袋を外した手を当てる。

 

「お前のちょっとだけいだたくぞ」

 

 <嗅覚過適応>の発信側の応用術『香付け(マーキング)』。

 自身の生命力を分け与えて生長を早めた植物から実った、その果実をきっちり人数分だけ採る。

 テーブルに運ばれ、それを一口サイズに切ったそれを古城は口にしたが、外見だけでなくきちんと中身も新鮮な、甘く酸っぱいトロピカルフルーツ。

 

「見つけるどころか、作ってくるって、すごいなお前……ってか、なんで使用人っぽい真似してんだ?」

 

「フォリりんに付き合ってもらってるのだ。格式あるマナー講座ってやつだぞ」

 

「ええ。この子にわたくしが練習台となって教えて差し上げているのです」

 

 いかにも付き合ってあげてるという風だが、楽してるのは変わりないのでないかと古城は思う。

 

「あと、果実とかお魚とか採ってくるとカンパンを交換してくれるのだ」

 

「今の話を聞いて、猿蟹合戦を思い浮かべた俺は間違っているか?」

 

 仮初の主に上手い具合に躾けられているようだが、言葉巧みにこの後輩が操縦されてないか先輩として不安になる。

 と、きゅるる~、となるそのお腹。

 

「クロウ、お前、それだけで足りるのか?」

 

「うーん、朝ご飯に4つ食べたから、夕ご飯は3つって決めてるんだぞ」

 

「いや、それならさっきみたいに果実を作ってくりゃいいんじゃないのか?」

 

「それはダメだぞ」

 

 きっぱりという後輩に、古城は意外そうに見る。

 結構な大食いだから、お腹を満たすまで根こそぎかと思ったのだ。

 そんな先輩の思い込みに、しばらく飼い主(仮)であった王女様はくすくすと笑いながら、

 

「その子は、生態系は壊しませんよ暁古城。野原を歩いても草花を踏まない仁獣と同じです」

 

「それに花は水をあげ過ぎると根元が腐って枯れてしまうのだ。だから、オレの気を分けるのはほどほどにしないとダメなんだ。とり過ぎてもいけないし、あげ過ぎてもいけないのだ」

 

 勉学面に不安はあるようだが、自然に生きるための知識とその(ルール)を知っているようだ。

 

「とはいえ、そろそろ事が動くでしょうし。空腹のままにはさせておけません。食べなさい」

 

 言って、自身の分の残りのカンパンを差し出す。

 わーい、とそれをいただこうと―――

 

「―――待て」

「う」

 

 直前でストップが掛けられる。

 ぴたりとさらに伸ばされた手が止まる。

 

「うずうず」

 

 しばらく、後輩に我慢してから、王女様は、ぱんぱん、と手を叩く。

 

「よし」

 

 うまうまはぐはぐ、とカンパンを食べてる後輩に、古城は今の一連のやり取りからふとある――後輩にお似合いな――心理学用語が思い浮かび、頬を引くつかせながら、良い笑顔をしてる王女様にひとつ問う。

 

「……え、っと、今のは何だ」

 

「こうして、食事を与える前に手を叩くことで犬に条件反射を身につけさせるとものの本で読んだことがあります」

 

「やっぱりパブロブの犬か!? 遭難してる間、相当こいつ躾けてるよなあんた!?」

 

「ええ、とっても素直でいい子で……おかげで、この無人島も退屈しないで済みました」

 

 満面の笑みでいう生まれながらにして上に立つ王女様。天然犬気質で、天上天下唯我独尊な担任様にしっかりと鍛えられた後輩もまったく気にしてないというか、なんだかかんだで幸せそうだし、ひどいことはされてないだろうと思う。だが、古城はがっちりと合った相性の良さに疲れたように、がっくりと肩を落とした。

 

 さて、腹も膨れたところだし、

 

「それであんたのことは、なんて呼べばいいんだ。殿下でいいのか?」

 

 古城の言葉に、ラ=フォリアは少しむっとして、

 

「ラ=フォリアです、古城。殿下も姫様も王女も聞き飽きました。せめて異国の友人には、そのような堅苦しい言葉で呼んでほしくありません。あなたもですよ、雪菜」

 

「え? いえ、ですが、しかし……」

 

 びっくりしたように首を振る雪菜。一応、彼女は獅子王機関という政府機関に属する一員だ。外国の王族とそのように馴れ馴れしい距離間にはやはり抵抗を感じるのだろう。

 が、

 

「? フォリりんはフォリりんと呼んじゃダメなのか?」

 

 きょとんと首を傾げる同級生。そう純粋な反応を見せられると自分の行いに疑問を持ってしまうが、やはり駄目である。しかし、一般常識に正す前に、ゆっくりと首を横に振る王女。

 

「いいえ。いいんです。郷に入れば郷に従え。殿下も姫様も王女も関係ないのです。日本に来たのなら、お互いを愛称で呼ぶ和風に合わせなければいけません」

 

「そうなのか。フォリりんはニッポンの文化に詳しいぞ。オレもビシッと決まる決め台詞を考えてもらったのだ。姫柊も考えてもらったらどうだ」

 

「まあ、いいですね。ここのところ日本の文化は魔女っ娘なるものがブームとなっておりますから―――」

「―――いえ、僭越ながらご尊名で呼ばせてもらいます、ラ=フォリア」

 

 このままだと流されて、とんでもないことを戦闘中に言うような展開になりかねないと雪菜の未来視の霊感が覚った。

 

「で、クロウもだが、あんたはなんでこんなところにいるんだ?」

 

「わたくしがある件に祖父の名代として、絃神市を訪問する途中で、船が撃墜されたのです」

 

 事も無げな口調でいうので、反応が遅れてしまったが、古城たちは驚いた。

 

「撃墜……!?」

「ひょっとしてメイガスクラフトにですか?」

 

 古城たちが問い掛ければ、ラ=フォリアは首肯を返す。そして、僅かに目を伏せて、

 

「おそらく、わたくしを拉致するためでしょう」

 

 その日、護衛の騎士団と共に、高度1000mを移動する王家の装甲飛空艇で絃神島へと向かっていたラ=フォリアだが、ちょうどこの付近の海域に差し掛かった深夜に突然の蹴撃を受けた。

 それに最初に気づいた騎士団の一隊は皆犠牲となり、そして、無力な侍従まで襲撃者たちの牙は伸びて―――

 

「それをこの子に助けてもらったのです」

 

「クロウが……」

 

「う。ご主人がチケットとってくれたんだけど、絃神島まで一緒に乗せてってくれるっていうから、オレも乗ってたんだ」

 

 『王女の友人』としてそこに居合わせた後輩がそれを撃退。王女はまず無力な侍従たちに避難するよう命令し、それから生き残っている騎士たちに仲間を連れて大型の救命ポッドで脱出するよう指示。そして、クロウに最後まで残っているだろう護衛団長を無理にでも逃がすよう頼んだ。

 そうして、飛空艇は爆破したが救命ポッドに乗り込んでいたラ=フォリアだが、潮の流れからか他とは逸れてひとり遭難。そこへ漂流していた救命ポッドを間一髪で脱出したクロウが見つけたのだという。

 

「あいつらが『天使』って呼んでたの。アレ、ヤバかった。だから、すぐに逃げたんだぞ」

 

「! 『仮面憑き』か。やっぱりメイガスクラフトの連中か!」

 

 しかし、となると相手の目的は、身代金か。それとも、

 

「彼らの狙いはわたくしの身体――アルディギア王家の血筋です」

 

 アルディギア王家に生まれた女子は、ほぼ例外なく全員が強力な霊媒。

 雪菜のようにごく稀にしか表れない資質が、必ず出る血統なのだという。

 そして、それを危険を冒してまで一国の王女を攫おうとした理由は、

 

「メイガスクラフトに雇われている叶瀬賢生はかつてアルディギア王国に仕えていた宮廷魔導技師でした」

 

 故に、叶瀬賢生が扱う魔術の奥義は大半が、アルディギア王族の力を霊媒として必要とする。

 

「叶瀬賢生って……叶瀬夏音の父親のことか?」

 

「いいえ。あの男は叶瀬夏音の本当の父親ではありません」

 

 夏音は5年前まで修道院でシスターと暮らしていた。

 そして、ラ=フォリアと夏音の似過ぎている容姿。明らかに血の繋がりを感じさせる。

 

「彼女の本当の父親は、わたくしの祖父です」

 

 15年前にアルディギアに住んでいた日本人との間にもうけた女子、それは叶瀬夏音。

 それは祖母――当時の王妃にとっては浮気である。だから、叶瀬夏音の母親は、出産の直後に祖父に迷惑をかけまいと日本に帰国。

 そのことを後で知った祖父が建てたのが、夏音が子供のころに育った修道院。

 

「ちょっと待て。あんたの祖父さんって、アルディギアの先代国王だろ!? その人が父親ってことは、叶瀬の立場は―――」

 

「わたくしの叔母、ということになりますわね。王位継承権はありませんが、アルディギアの血を引く王族の一員であることに違いありません」

 

 しかし、そこでちょっとした事件が起こったのだ。

 

「先日、天寿を全うした祖父の腹心からの遺言で、叶瀬夏音の存在が発覚しました。しかし、祖父は浮気を中々認めようとはせず、そこで『戦王領域』の貴族アルデアル公ディミトリエ=ヴァトラーから助言が届いたのです」

 

「ヴァトラーの奴が……っ! って、あんたあいつと知り合いなのか!?」

 

 意外なところからその名前が出てきたが、アルディギアは『戦王領域』と隣接しており、国交もある。それでも内部事情にまで口を挟んでくるのは非常識であるが。

 

「『ちょうどアルディギアに向かっている、南宮クロウという人物はその血統の真贋を嗅ぎ分けることができる。それは彼の<空隙の魔女>の折り紙つきである』と」

 

 ……なんだかその紹介だと、ヴァトラーの奴が後輩を有用な人材としてアルディギアに派遣したと思われるのだが、それは古城の気のせいだろうか。

 

「そして、叶瀬夏音とも友人だとも聞きました。王家の問題に他国のものを関わらせるのはいかがなものかと思いましたが、祖母が大変気にかけておりまして」

 

王太后(おくさん)が? 前国王(ちちおや)じゃなくて?」

 

 古城は訝しげに眉をあげた。

 王太后とは、つまりはラフォリアの祖母で、夏音は血の繋がらないどころか、旦那の浮気相手とできた不貞の娘だ。なのに、気に掛けるとは。

 

「もともと叶瀬夏音のお母様は、祖母のご友人だったそうです」

 

「へぇ……いい人なんだな」

 

 素直に古城は感心した。

 が、

 

「しかし、祖父はクロウの証言にも認めることはせず、どころか、ウソをついてると騎士を向ける始末でして。その混乱に乗じて当人は逃亡しようとしたのですが、この子が捕まえました。紹介状通りの優秀な子です」

 

「王太后とはずいぶんな差があるもんだな」

 

 ひやり、と。

 咄嗟に顔を背けた古城だが、無表情に見上げてくる雪菜が怖い。そして抑揚の乏しい声で、ポツリ、と。

 

「本当に許せないですよね。そういう無責任な人は」

 

「あ、ああ……」

 

 真綿を詰めるように息苦しくなる古城。特に疾しいことはないはずなのに、席をずらして距離を取ってしまう。

 

「少し目を離すとすぐに別の女の人と仲良くなって。それが、他の誰かの友達だったとしてもお構いなしで……」

 

「あ、あのさ姫柊……? それってラ=フォリアの祖父さんの話……だよな?」

 

「はい、もちろん。それともほかに心当たりがありますか?」

 

「い、いやそれは、なんというか」

 

 シンクロ競技のように二つの眼球を泳がせる古城。

 淡々と訊き返してくる彼女の言葉に、漠然とした危機感が徐々に形を持っていくようで。

 

「クロウ君も、そういう無責任な人がいたら、必ず、私に教えてくださいね」

 

「っ!?」

 

 びっくぅ!? と雪菜が視線をちらりと向けられただけで後輩は跳び上がる。

 

「こ、古城君!?」

 

 がっちりと古城の腰かける椅子を掴むクロウ。

 

「バカ何故そこで俺を呼ぶんだクロウ!? 誤解されるだろ!?」

 

「だってだって、姫柊すっごい怖いんだぞ!? フォリりんの祖母さんも怖かったけど、姫柊も怖いー!?!?」

 

「だからって、おま、俺を犠牲にするのかー!?!?」

 

「古城君も悪いことしたら謝るのだ! 逆らっちゃダメだぞー!」

 

「だから、俺は何も悪いことはしてないっつってるだろ。これは祖父さんの話で―――」

 

 と泣きながら少し離したはずの席を、雪菜の方に盾にするよう押し出す後輩と、それにブレーキをかけて抗う先輩。

 自分の首によく鳴る“鈴”がついた首輪をきつく絞められたイメージをその時古城はした。

 どうにか、この“鈴”を懐柔しない限りは自身の未来がないような気がしてきた。だが、釘を刺す、それも槍並に特大の釘を刺されて説得は容易ではない。

 とそんなやりとりを喜劇のように鑑賞する王女は―――笑顔でさらに燃料を投下する。

 

「そういえば、私の護衛をするはずだった獅子王機関の煌坂紗矢華は、第四真祖の愛人のひとりだそうですね。情婦として、愛欲にまみれた淫猥な関係だと」

 

「ぐほっ!? がほっ!? いや、煌坂はべつに―――」

 

「そして、彼女は雪菜と大の仲良しで、まさに姉妹のような関係だとか。……うふふ、ここ最近、これと似たような話を聞いた気がしますね―――さて、話を戻しますが」

 

 と言うだけ言って、何事もなかったように話を進める。

 この王女様がとてもいい性格してる事を古城は理解した。

 

 

 

「それで祖母は怒り狂っ……いえ、王宮内は今、少々混乱しております。ですが、叶瀬夏音をこのまま放っておくわけにはいきません、この状況ならばなおさら」

 

 アルディギア王族を霊媒とする魔術を行うために叶瀬夏音を養子にし、その義娘を今、叶瀬賢生が実験台としている。

 

「……あなたは知っていますか、古城? 賢生の魔術儀式がどのようなものか」

 

 その問いかけにはこれまでにない深刻な響きがこもっており、自然、古城も表情を引き締めた。

 

「俺たちが見たとき、叶瀬は……怪物のような姿に変えられて、自分の同類と殺し合ってた」

 

「そうですか。やはり賢生は<模造天使(エンジェル・フォウ)>を」

 

 聞き慣れなくても、その禍々しい響きのする言葉が示すのは、賢生が研究していた魔術儀式。

 『人為的な霊的進化を引き起こすことで、人間をより次の存在へと生まれ変わらせる』ことを目的とする。

 

「それで、叶瀬があんな姿になっちまってるっつうのかよ……」

 

 激しい憤りを古城は覚える。

 不揃いな醜い翼を広げ、同類の喉を噛み千切っていた夏音。

 それが霊的な進化に必要だとか、『天使』になるだとか、一体どうやったら信じられるというのか―――?

 

「―――来たのだ」

 

 古城とラ=フォリアが見つめ合う息苦しい沈黙の中、クロウと雪菜が唐突に立ち上がった。クロウはそのコート、首巻、帽子を脱いで肌を外気にさらし、雪菜は手に取った銀槍を、滑らかにスライドさせてその刃を展開させる。

 戦闘態勢を整えた。

 

「クロウ? 姫柊?」

 

「船です」

 

 雪菜が示す先。

 夜闇に溶け込めるよう色は黒の軍用揚陸艇。

 それが海面で水飛沫を散らしてこちらに迫っている。

 

 救命ポッドには、救難信号の発信機が積まれている。これまでメイガスクラフトに傍受される危険を回避するために使用は控えていたが、古城たちをむかえた以上、もはや恐れる必要はなくなった。付近の海域には王女の捜索隊が派遣されているだろうし、救命ポッドから救難信号を発信すれば、彼らはすぐに駆けつけてくるだろう。

 だから、

 

「これまで何度かこの島にも来ていましたが、あの揚陸艇は無人。そしてメイガスクラフトの戦力は、機械人形(オートマタ)です。クロウが相手すれば容易ですが、わざわざそれに付き合うこともありません。あなたの眷獣ならば、船ごと沈められますね、暁古城」

「―――待つのだ。あれには人が乗ってる」

 

 初手の強襲を制止するクロウは言う。

 その超能力で拡大された嗅覚が敵の陣容を目で見ずとも計り取る。

 

「船を襲った奴らが“たくさん”と、知らないのがひとり」

 

 

 ―――そして、叶瀬がいる。

 

 

 

つづく



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天使炎上Ⅲ

彩海学園 生徒指導室

 

 

『なあ、ご主人。……昨日、女の子泣かせちゃった』

 

『ふん。馬鹿なことをしたな。古来より決まって、何があろうと女を泣かした男が悪い』

 

『ただ、落とし物、渡そうとしただけなんだ。なのに、皆から、すっごい目で睨まれた。……怪物だって、言われたのだ』

 

『そうか。その言い分に、何の間違いはない。その通りだな』

 

『ちゃんと契約、守ってるのに……オレ、学校、やってけるのか』

 

『知らん。そんなウジウジとした悩み、いちいち聞かせるな。いくら嘆こうがキリがない。それで話は終わりか馬鹿犬』

 

『……あのさ。もしオレが!』

 

『………』

 

『……やっぱ、何でもないぞ』

 

『殺してやる』

 

『―――』

 

『私が、殺してやる』

 

 

 

『ん』

 

 

 

『今日は、ここにいろ。……こんなどうしようもないバカ、ひとりにさせる方が問題だ』

 

『う。わかったのだ、ご主人』

 

『様を付けんか、馬鹿犬』

 

『ゴシュジン、サマ』

 

『5文字以上になると素直に覚えられないのかお前は』

 

『うーん? よくオレもわかんないけど、ご主人に連れられたから、なんか頭がずっといっぱいなんだ。それにご主人はご主人で覚えちゃったからな。

 あ、でも、ウルトラスペシャルDX大盛りミノタウロスチャーシューメンは一発で覚えたぞ。どうだ! ご主人は言えるか?』

 

『人語を喋れ、馬鹿犬』

 

『むーーーっ!?』

 

 

金魚鉢

 

 

 島に付いた揚陸艇から、最初に姿をさらしたのは革製の真紅のボディスーツを身に纏い、前のチャックを開けて大きく胸元をはだけさせている、古城たちを接待したときに付けた仮面を剥がし、攻撃的な笑みを向ける、襲撃時BBと呼ばれたべアトリス=バトラー。

 

 女吸血鬼に上陸したのは、敬虔な聖職者を思わせる、奇妙な威圧感を発する男。

 峻厳な顔つきをした、白髪混じりの男で、年齢は間もなく50に手が届くかというあたり。けれど、この男は僧侶でも牧師もない、むしろそれらとは対極にある存在。錬金術と魔術を極め、人の手で神の使いなるものを創造せんとする異端者なる信念の持ち主。

 すなわち、この男こそが、元アルディギアに仕えた王宮魔導技師、叶瀬賢生。

 

 そして、最後に、古城たちをヘリでこの金魚鉢と呼ばれる無人島に連れてきた全身に紅い刺青を入れた男、ロウ=キリシマが甲板に顔を出す。

 

「よう、バカップル。元気そうだな。仲良くしてたか―――?」

 

「……ロウ=キリシマ……てめぇ、よくもぬけぬけと」

 

「待て待て。恨むならあの女を恨めって言っただろ。俺はただの使いっ走りだっての」

 

 殺気だった古城の眼光を、手を振って流しながら、彼はその横にいるクロウに視線を向けている。血走る双眸で、刺すように。そして、己をその胸に立てた親指で指しながら。

 

「飛空艇以来だなぁ、ガキ。聞いたぜ、お前さんが魔女(ニンゲン)のお気に入りの『黒』シリーズの成功例か。だが―――俺が次代の<黒死皇>だ」

 

 その渇望した感情に呼応して、脈打つ真紅の刺青。

 

「やっとだ。この日をずーっと待っていたんだ。ああ、つらかったぜェ……内臓はグシャグシャで体中の至る所を改造した。お前の資質が金の卵なら俺は泥の塊だ! だが、底無しの泥が金を呑むトコを見せてやる!」

 

 獰猛に犬歯をむき出しにしてキリシマは笑った。彼の痩身が大きく膨れ上がり、漆黒の毛並みの獣人と化していく。

 対して。

 その月の光を取り込むように総身を輝かせて―――南宮クロウも、銀色の毛並みをもった獣人となる。

 

「オマエ、勘違いしてる。成功でも金でもない、オレはただ生き残ってるだけだぞ」

 

「ハッ、そうだ。“生き残ってる”奴が強い」

 

 『血の従者』にした獣人の昂ぶりに反し、主の女吸血鬼は気だるげに髪をかき上げて、ラ=フォリアは無防備に前に出た。

 

「久しぶりですね、叶瀬賢生」

 

「殿下におかれましてはご機嫌麗しく……7年ぶりでございましょうか。お美しくなられましたね」

 

 恭しく胸に手を当てて一礼する叶瀬賢生に、水を浴びせるような冷たい口調でラ=フォリアは返す。

 

「わたくしの血族をおのが儀式の供物にしておいて、よくもぬけぬけと言えたものですね」

 

「お言葉ですが殿下。神に誓って、私は夏音を蔑ろに扱ったことはありません。私があれを、実の娘同然に扱わなければならない理由―――今のあなたにはおわかりのはず」

 

 これが幸せだと疑いなくその目には微塵も陰がない。

 だが、実の娘も同然のものを人外に仕立て上げようとする賢生にラ=フォリアの目もより鋭さを増す。

 

「叶瀬夏音はどこです、賢生」

 

「我々が用意した<模造天使>の素体は7人。夏音はこれらの内3人を自ら倒しました」

 

 宮廷魔導技師であった賢生が丁寧な語りで、その計画を明かす。

 

 3人を倒した夏音は、途中で敗北した者たちの分も含めて6つの霊的中枢をその身体に取り込んだ。

 人が生まれ持つ7つの霊的中枢と合わせて、これで13。それらを結びつける小径(パス)は30で、これは人間が持つ己の霊格を一段階引き上げるのに必要十分な最低数に達している。

 

「まさか、叶瀬さんは、そのために自分の同類を……!?」

 

 その説明に、胸を震わす姫柊雪菜が最初に覚えたのは、無論感動ではない。

 恐怖と驚愕、そして怒りだ。

 めったに人に強い感情をぶつけることのない雪菜にそこまでの感情を抱かせる。

 そして。

 

「そうか」

 

 静かに―――クロウは目を瞑る。

 激しく憤りを露わにする雪菜に、クロウは深く練り込むように、静める。

 まず彼が覚えたのは怒りではなく、同情。哀しみ。

 『自分の死霊術を練習させるために』、クロウも8人の同類を殺され、それが罪深いことを知らず、言われるがままにその骸を蘇らせていた。今、夏音に自意識がなかろうと、それは永遠と残り続ける罪となるだろうことが、この場にいる誰よりもわかっていた。

 

 そして、古城も賢生の説明の全てを理解できなくても、この二人の後輩の反応で、動揺させるには十分足る。

 

「<模造天使>の儀式というのは、所謂蠱毒の応用です」

 

 候補者同士を互いに争わせ、勝ったものが負けたものの力を喰らい、そして最後まで生き残った者が最良となる。

 

 霊力の源である霊的中枢はすべての人間に等しく備わっているが、それを100%に駆動できるものはそういない。一流の霊能力者でも30%を出せれば上等で、100%まで引き出せたならそれは神仏に等しい覚者と呼ばれるだろう。

 

 だが、たとえ100%に引き出すことができなくても、30%の引き出しで覚者の100%の出力に至るほど潜在値を底上げすれば、人間は神に近き者――『天使』へと霊的進化することができる。

 

 そして、そんな非人道的で、大規模な、完璧違法である<模造天使>の実験は当然、個人で行えるものではなく、賢生を支援するスポンサーがついている。

 それがメイガスクラフト。

 『天使』という強大な戦闘力を持った存在の製造法を確立させ、量産できれば、それは既存の軍事バランスを崩しかねないほどの兵器となる。

 

「でも、改造済みの叶瀬夏音からは細胞が抽出できないのよねぇ。そんなときにちょうどよくあんたが来てくれたわけ、アルディギアのお姫様。だから、無駄な抵抗はやめて投降してくれないかしら。別に生きてなくてもいいんだけど、死んでたら細胞を取り出すのっていろいろと面倒だから」

 

「企業の走狗如きが、誰に指図してると思ってるのですか。身の程を弁えなさい」

 

 その氷河の碧い瞳の色と裏腹に、その眼光は燃えるようだった。

 重度の凍傷は、火傷するように熱いと感じさせると同じ。

 それに僅かに臆したベアトリスは振り払うように強気に、不気味なほど白い牙を見せつけるよう、嘲笑う。

 

「舐めた口をきいてくれるじゃないの、雌豚。精々死なないことね。あとで死んだ方がましってくらい、気持ちいい思いをさせてあげるからさァ」

 

 酷薄そうに舌なめずりし、気だるげな視線を古城と雪菜に合わせる。

 

「で、そこの坊主は除いて、あんたたち二人にはチャンスを上げる」

 

「どういう意味だ」

 

 答えず、ベアトリスは、賢生を見る。彼が黒服の懐から小型の制御端末を取り出し、キリシマが開けた管板に積まれたコンテナケースの“中身”へ向ける。

 その棺桶を連想させる形状の気密コンテナは、ドライアイスのような白い冷息を吐き出しながら開封され、そこに横たわっていた小柄な少女の姿があらわとなる。

 

 患者服に似た簡素な衣服。

 剥き出しの細い手足。

 不揃いの醜い翼。

 けれど、その零れ落ちた銀髪と、その光のない碧い瞳。

 

 ―――叶瀬夏音!

 

 眠りから覚めつつある少女に、古城たちは同時にその名を呼んだ。

 けれど、その声に反応を示すことはない。

 動揺する古城たちに、無感情のままベアトリスは宣告する。

 

「純粋に高め上げた私たちの『商品(てんし)』。そこの『黒』シリーズなんて混じり物とはわけが違う。<第四真祖>に、獅子王機関の剣巫。これだけあれば十分ね。二人がかりで構わないからさ、あの子と本気で遊んでくれる?」

 

「―――っざけんな。 なんで俺たちがそんなことしなきゃなんねーんだよ!?」

 

 古城の怒声を、ベアトリスは眉ひとつも震わせずに流して、逆にこんなわかり切ったことが何故わからないのかと蔑む調子で言う

 

「売り込みに使うのよ。我が社の『天使もどき』が、『世界最強の吸血鬼』をぶち殺しました―――ってね」

 

「叶瀬さんを、兵器として売り出すつもりですか」

 

 雪菜の槍の刺突のような追及に、女吸血鬼はにんまりと笑みを作り、

 

「ちょっと違うけど、そんなに外れてもないわね。まあ、戦う気がないってんなら、別にそれでも構わないわよ。大人しく死んでもらうだけだから。残念ね。無事に生き残れたら、あんたたちは見逃してあげようと思ってたのに」

 

 ―――それにほら、彼女のほうはすっかりやる気みたいよ。

 

 なっ……!? と愕然する。

 不揃いな翼を展開して、天の高みへと昇る夏音。

 仮面に覆われていないその素顔に、活気はなくて、感情の色はない。

 徐々に増していく禍々しい後光は、古城たちと対峙した昨夜と同じ、それ以上に瘴気が強まっている。

 人というあらゆるものを禊いで――身削いで、人から外れている

 でも、

 

「まだ、間に合うぞ」

 

 まだ誰も殺していない、手遅れではない。

 その確かなことに、クロウは拳を握る。

 

「あなたはそれでいいのですか、賢生」

 

 ラ=フォリアが問いの視線に、賢生は背中を見せ、制御端末を操作する。

 

 

「起動しろ、『XDA-7』。最後の儀式だ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 まず先手を打ったのは、雪菜だった。

 翼を広げた天使に、放たれる銀色の閃光。

 あらゆる魔力を無効化する<雪霞狼>の一刺は、人の手で作り上げられた天使――その<模造天使>の儀式術式を切り裂かんと、完全に動き出す前に狙ったのだが、それは弾かれた。

 獅子王機関の秘奥たる『七式突撃降魔機槍』には、『神格振動波駆動術式(DOE)』が仕掛けられているが、相手は人の手が生み出した神性ではない、神の後光と同じ本物の神性を帯びた天使。

 

「通じはせんよ。同じ人の手から生み出されたものでも、人間性と言う不純物の一切を取り除いた<模造天使>が放つのは真の神の波動。『神格振動波駆動術式』とは格が違う」

 

 真祖の眷獣すら斃し得る降魔の槍をここまで完全に無効化されたのは初めてのことでショックは隠しきれないものがあるが、それでも雪菜は怯まなかった。

 天使に攻撃が効かないのならば、その天使を指揮する制御端末を奪う。

 しかし、賢生の前に、真紅の槍を持つ女吸血鬼が雪菜を阻む。

 

「―――あんたの相手はこっちじゃなくて、そっちの『商品』だっての」

 

 気だるげに、けれど、その眼光は鋭く。

 見た目は華奢な雪菜より、20cmも大柄な女吸血鬼。それが手にする得物も同じその身長を上回る長槍で、まさに大人と子供。

 

 そして、剣巫と互角以上に打ち合える自信が、女吸血鬼にはあった。

 

「―――っ!」

 

 す、と雪菜の手が動き、銀槍が閃いた。

 夕闇に迸った刃は、一呼吸に3つを数えた。いずれも魔族吸血鬼の行動を不能させるよう詰める連撃、高神の社で練磨された剣巫の技量がその三段突きを成す。

 手応えはあった。

 真紅の槍の正体を知らずとも、それが禍々しくも強烈な魔力の波動を放っている。何らかの魔術によって生み出された武器であるのは間違いなく、ならばこそ<雪霞狼>を持つ雪菜の敵ではない。

 

 一撃目の牽制で、相手の立ち位置を誘導――その際、女吸血鬼の身のこなしから、武術の類を習得していないことを覚る。

 

 そして、二撃目で降魔の槍で紅の魔槍を弾き飛ばして、三撃目で女吸血鬼を討つ。

 

 だがその手筈は、ベアトリスの哄笑に遮られた。

 

「<蛇紅羅(ジャグラ)>! 串刺しにしてやんな!」

 

 雪菜の放った二撃目、その紅の魔槍を狙った巻き込みは―――直前、紅の魔槍が蛇のようにしなって躱されて、勢いのままに三撃目を放った雪菜へ、ありえない角度とタイミングからカウンターを繰り出された。

 

「―――っ!?」

 

 一瞬先の未来を察知する剣巫の霊視で、雪菜はその奇襲を避けることはできたが、後退を余儀なくされる。

 

「まさか―――眷獣が、槍の形に!?」

 

 鮮血噴き出し召喚させた真紅の槍は、“女吸血鬼の眷獣”。

 『意思を持つ武器(インテリジェント・ウエポン)』――武器のカタチをした眷獣。

 その真紅の槍は、同じ吸血鬼『旧き世代』の貴族ヴァトラーの“蛇”に比べれば、格が落ちるだろう。

 だが、人間ひとりを殺すのに、街ひとつを破壊する攻撃力はいらない。

 無差別に破壊を撒き散らす爆弾のような強力過ぎる眷獣は、逆に対人戦闘には向かないこともある。

 攻撃力の全てを、ひとりの敵に注ぎ込むことができる、対人戦闘において効率的な眷獣。

 

 

 そして。

 

 

 圧倒的であった―――

 その姿へ変貌してから、頑強と剛力は十二分に予想されたものではあったろう。

 けれどまさか、ここまで桁違いの怪物であるなどとは予想し得まい。

 

 4mを優に超す分厚い体躯を有した完全なる獣、鋼鉄の如き肉体を備えた狂暴の塊は、けして鈍重の巨怪ではない。

 <模造神獣>

 『人間を天使へと霊的進化させる』<模造天使>の儀式研究の副産物、『獣人の中でも古代種たる上位の存在しかなれない<神獣化>へと格を上げる』<模造神獣>

 『旧き世代』の眷獣をも超える龍や鳳凰と同格の存在に至った<神獣化>を、外科手術による身体改造で、キリシマは成しえた。

 

「サテ、俺ノ相手ハオ姫様ダガ―――」

 

 漆黒の巨獣へ轟音と共に襲い掛かる掃射。

 放ったのは金管楽器に似た美しい装飾の拳銃を構えたラ=フォリア。

 だが、そのフルオート17連射にも無防備に立ち尽くすだけのキリシマの肌に、漆黒の体毛に悉く弾かれる。

 

「王家ゴ自慢ノ拳銃ダガ、琥珀金弾(エレクトラム・チップ)ジャア、今ノ俺ニハ豆鉄砲ダ」

 

 キリシマの皮肉に、表情を険しくさせたラ=フォリアは無言で後退しながら、次の弾倉に交換。王女とは思えない手際の良さで拳銃の再装填を行い、また17発の弾丸をお見舞いする。

 だが、

 

「バクンバクンバクンッ!!」

「っ……」

 

 ラ=フォリアが、こめかみに冷や汗を浮かべた。

 寸分たがわず眉間めがけて撃たれた対魔族の弾丸を、キリシマは食べてしまったのだ。

 

「ゲラゲラ! ソレト今ノ俺ハ結構ノ悪食デナァ。デモ、ヤッパリオ姫様ノ方ガ旨ソウダ」

 

 三度再装填―――だが、それよりも迅く。

 爛々と、狂気に紅く輝かせる瞳が線を引く。

 

「手足ハ喰ッチマウガ構ワネェヨナァBB!」

 

 近寄らせるな。

 その超常の膂力によって破壊をもたらす殺戮に巻き込まれる。

 だが、その前に立ちはだかるは凄絶なまでに精確俊敏の戦闘を行う殺戮機械として創り出された『黒』シリーズ。

 魔族と人間の『混血』たる銀人狼。

 

「……クロウ!」

 

 王女を守護するは。

 かつて神々の兵器さえ生み出せる超人類により世界最強として造られた古代の人造魔族が、<第四真祖>ならば。

 それは最古の獣王と最新の超能の遺伝子を魔女が配合した現代の人造魔族。

 今の世代に現存する材料の中で、最高傑作であるはずの彼へと。

 王女の悲痛な呼び声が、島に響いた。

 

 端的に状況を表現するのであれば、予想を現実が上回った。

 敵を過小評価したという方向で。

 

 空挺船時、獣化の状態だった相手を、人型のまま圧倒したのならば、<神獣化>しようと、獣化した彼ならば、互角にまで持ち込める、と誤認したのだ。

 そう、<雪霞狼>が<模造天使>の格に負けるように。

 確かに、獣化された<黒妖犬>は強力だ。

 いぶし銀に光る体毛は多くの攻撃に耐え、気功でさらに硬化された鉤爪は多くの障害を切り裂くだろう。合わせて、<天部>に匹する超能力、高位の精霊使いに等しい力の応用はあらゆる場面で活躍ができるだろう。

 

 ただ、それが仮であろうと相手は<神獣化>している。

 それは5倍から10倍と獣化の強化比率を大きく上回る。そして、『血の従者』となっていることで身体能力はさらに底上げされて、生命力は底なし、『血に飢えた漆黒の狂獣(ブラッディウルフ)』。

 

 初撃同士が激突した時点では、まだ、どちらにも優劣はなかった。

 

 巨大な漆黒の狂獣と人型の銀人狼。

 衝突に砂浜に線を引いて退けられたものの、クロウはキリシマの突進を押し返し、勢いを殺した。

 力は互角、とは言えないが、それでも食らいつけないほどではない。

 そこへ王女の援護で敵を倒し得るだろうと―――けれど、衝突でお互いに身体を弾かれながら、瞬時に体勢を整え直してからの高速戦闘。

 王女は、この時点で置いていかれた。

 ただの人間の目には留まらない、超高速の世界だ。最新のハイスピードカメラだろうと残像しか映らないかもしれない。

 なおかつその一打ごとに大型車両の激突にも等しい運動エネルギーが繰り出されて、衝突のたびに凄まじい風圧が生じて、無人島の大地は揺れて、海面に漣が起こる。王女を背に庇いつつも、銀人狼は死そのものに等しい狂獣の猛攻を正確かつ精密に防ぎ、弾き、逸らし―――

 たった数秒の中で刻まれていく拮抗。

 

 だがそれはすぐに崩された。

 

「イイゼイイゼェ! ダガ、マダダ。マダ強クナル。ソウダ俺ハ―――!!」

 

 戦闘の最中でも、いや、血が滾る戦闘の最中だからか。

 血の狂獣は、なおも“巨大化を続けていた”。

 最初の4m級から今や全長5mに達する。これで、第四真祖の眷獣を超すサイズだ。成長は留まらず、血を流すたびに、血を吐くたびに、さらに。さらに。さらに。

 

「く……はッ……」

 

 銀の狼頭、その口角から真紅が一筋垂れる。

 巨大化に比例する馬力と重量。攻撃力が受け止めきれる限度を超え始めている。

 怯む。それを漆黒の狂獣は逃さず、血濡れた巨腕の熊手を横薙ぎ。

 銀人狼が瞬時に砕ける。実物ではない、生体障壁の応用変形、別けたる気功術の分身。

 そして本物は紙一重で懐に潜り込み、人間を超えた拳速。

 

「でっかくなったけど、オマエ、隙だらけだ」

 

 当てずとも当てる当身の極致、『青竜殺陣拳』と名付けられた獣人の力を引き出した果てにある四つある奥義のひとつ。

 

 血の狂獣は左腕を肩ごと―――その心臓のある左胸ごと空を抉り貫かれた。

 間違いなく、致命的な一撃。

 古豪の盟友により鍛え上げられた技量により、辛うじて血の狂獣に勝ちを拾ったか。

 

 否。

 

 まだ、終わらない。

 殺戮機械として造り上げられた戦闘本能が訴えている。

 この相手は殺しただけでは止まらない。

 

「―――俺ハ、モット強クナル」

 

 そう、心臓を喰われたはずの巨体は未だ倒れず。血の狂獣は、負の生命力が滲むが如きのアカい息を、今も、激しく口元から噴き出しながら直立している。死んでいない。致命傷を受けようが、敵の血でその渇きを潤すまでは、戦闘は終わりではない。

 

「オ前ガ、ドレダケ優レタ獣ダロウガ、俺ハドコマデモ狂ッタ超獣ダ」

 

 戦意、充分に不足なし。殺意、昂りに限度なし。

 時計が逆しまに戻すかのごとくして、左腕が、左肩が、左胸が、そして、心臓が、再構成される。

 死からも蘇る―――真祖にさえ迫る再生能力。

 

「ソウダ。俺ハ死ヲ超越シタ不死(シナズ)ノ獣王―――新タナル<黒死皇>!」

 

 復元された左腕が振り下ろされる。砂浜の土砂を撒き散らし、大気が爆散する。銀人狼は直撃こそ免れたが、異常な打撃の圧に吹き飛ばされる。

 

「子犬ミタイニ小サイナァ。ホラ、今度モ避ケナイト撥ネ飛バシチマウゾ」

 

 屈伸して、大地を蹴る。

 蹴り飛ばした余波に背後の海が割れ、未だ宙にあるクロウへ迫る。加速。加速。ただ頭からぶつかる突撃体勢。全長5mを超えた巨体は最早それだけで、災厄の一撃と化す。

 

 衝突。

 吹っ飛ばされた身柄は沿岸の向こう、無人島の樹林へ木々を巻き込み、最後はコンクリートで固められたトーチカに埋まる。

 

 そして、銀人狼を抉った、その肉片を大口開けた頭上で、握り潰して、果汁のように絞り滴るその血を伸ばした舌の上に落とす。

 

「オオオォーーーッ!! ヒャハハァアアアッ、ウメエェッウメェヨォ!! アイツノ血イイットロトロウメェヨォ、キヒヒヒヒィ!!!」

 

「黙りなさい、この畜生」

 

 指をしゃぶるまで血の渇きを満たす快楽に水を差した、氷河の如き一喝。

 ギョロリ、と狂獣の紅い炯眼は、守りのいない、しかし依然とそこにいるラ=フォリアを捉えた。

 

「オイオイ、ドウシテマダソコニイルオ姫様。船ノヨウニ、騎士ガ足掻イタ時ノヨウニ、トット尻尾ヲ巻クヨウニソノ尻振ッテ逃ゲナイノカァ」

 

 ゲラゲラゲラゲラ!!

 

 哄笑。

 口角から血飛沫飛ばし、その残酷な声で狂い悶える。

 

「弱ッチイ餌ッテノハ、仲間ヲ犠牲ニシテ生キ延ビルモンダゼェ。虫ダッテ魚ダッテナンダッテソウジャネェカ。人間ダッテソレデイイダロウ? ハ? ソレガデキナインナラオ姫様、ソリャ虫ケラ以下ッテコッタ! 違ウカヨ!?」

 

 ゲラゲラゲラゲラ!!

 

 笑う。嗤う。愚かで弱者な王女を嘲る、狂獣の声。

 攻撃も通じず、守りもなくなった王女を見下しながら、狂獣は明らかなまでに愉しんでいた。

 絶望を。諦念を。後悔を。鮮血ではなく、そういう類いの感情を味わうために、味わいたいのだと、心の底から思っている残酷な雄叫びをあげていた。聞けば誰しも虫唾が走り、邪悪、と断言するだろう怖気のする狂笑ではあった。

 

 

 だが、それは、“二つの天変地異”に中断を余儀なくされた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

Kyriiiiiiiiiiii(キリィィィィィィィィィィ)―――!」

 

 

 宙に浮かび、全身を魔術紋様に輝かせた叶瀬夏音の喉から甲高い絶叫が迸る。

 人間の声帯では出せないであろう声はあまりに凄絶で凄愴。そして、天上に近き聖性を帯びた荘厳な悲鳴。

 その神性の後光はより強くなり、神の僕に相応しき形へと変貌する。

 口腔を埋め尽くしていた牙が抜け落ち、かすかに人間味を残していた顔立ちは、黄金律を体現した美貌を獲得する。

 不揃いだった醜い翼は、光り輝く三対六枚の美しい翼へと生え替わり、その表面に天上から裁くべく不浄を見抜く巨大な眼球を浮き上がらせる。

 

「これが……<模造天使>か……!?」

 

 <模造天使>が放つ攻撃的な波動に、<第四真祖>暁古城は圧倒されて、歯軋りをした。

 その光を浴びて、吸血鬼化した肉体はその危険性を灼けつくような痛苦で訴えている。『仮面憑き』と呼ばれていたころはまさしく蛹であった。今、完全に羽化しようとしてる天使は以前とは比べ物にならない圧倒的な魔力、いいや、神気がある。

 

Kyriiiiiiiiiiii(キリィィィィィィィィィィ)―――!」

 

 二度の咆哮。同時に、翼面の眼球から発射される眩き陽光の如き熱線閃光。それは途上で巨大な光剣となり、古城へと降り注ぐ。

 

「やめろ、叶瀬……!」

 

 叫ぶが、届かないか。

 神の御使いである天使に、神に呪われた“負”の生命力の塊である吸血鬼は滅ぼさずにはいられない、いわば“天敵”。ましてや、暁古城は真祖。

 

 地面に突き刺さった巨大な光剣の天罰は、地上に巨大な爆発を生み出し、凄まじい破壊をもたらした。硬い岩盤が粉微塵に砕け散り、紅蓮の炎が吹き荒れる。

 そして、敵を殲滅するまで容赦なく、天罰は止まらない。

 このまま攻撃が続けば、遠からずこの島そのものが消滅することになることは予想し難くない。誰かが止めなくては、ここにいるみんなが犠牲となる。

 

 くそ、とこの選択の余地のない状況に古城は舌打ちし、その腕を高々に天へ挑まんと突きあげる。

 

「―――疾や在れ(きやがれ)、<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>! <双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>!」

 

 雷光を纏った獅子と、振動の塊である双角獣が、空に舞う天使へと突撃した。それぞれが膨大な魔力を秘めており、天災にも等しい破壊をもたらす。

 神々の兵器<ナラクヴェーラ>さえも粉砕したその真祖の眷獣による同時攻撃は、本体ではなくて、その翼面の眼球を狙うが―――神々の使徒たる天使の体には傷ひとつもつけられなかった。

 蜃気楼のように肉体を揺らめかせただけで、すべての攻撃は<模造天使>をすり抜けていく。引き裂かれた大気が軋み、稲妻が蒼穹を貫くが、天使は無傷のまま悠然とこちらを見下している。

 

「無駄だ、第四真祖よ」

 

 賢生が古城に呼びかけるが、その視線はこちらを向いておらず。

 彼は達観したような表情で、何も感慨もなく、ただ空を見上げて、天使を観察している。

 

「今の夏音は、既に我らとは異なる次元の高みに至りつつある。君の眷獣がどれほど強力な魔力を誇ろうとも、この世界に存在しないものを破壊することはできまい―――」

 

 哀れみを向けられても、実験は止めない。

 <模造天使>の六枚の翼に浮かぶすべての眼球は、古城に固定されている。

 そして、ガンマナイフの如く、六つの眼球から放たれる神性を帯びた陽光は、古城を焦点に結ばれる。

 逃げ場のない、包囲からの一斉。そして、絨毯爆撃の天罰。

 

「叶瀬―――――っ!」

 

 天使――夏音へ手を伸ばし、空を握る。何も届かず。吼える古城は、瞬く閃光にその身を貫かれる。

 全ての音が消滅し、古城の心臓に突き刺さった光は、苛烈な衝撃と炎を伴って、人々の視界を真っ白に染める。

 その純白の世界で、吹き飛ばされた古城の体は、スローモーションのようにゆっくりと背中から地面へバウンドして倒れた―――

 

「もう終わりか……」

 

 天罰を受けた真祖。

 溶けた岩肌が白く蒸気を吹き上げてる、その半球状に抉られた爆心地に倒れた、そして、そこから爆風に飛ばされてラ=フォリアの足元まで転がった暁古城の肉体は原型を留めているのが不思議なくらいズタズタに引き裂かれていた。

 

「先輩!?」

「古城!」

 

 ラ=フォリアがその脇に膝をついて、吹き荒れる暴風に逆らいながら雪菜が駆けつける。

 そんな絶句する少女たちを眺めて、漆黒の狂獣は白けたような口調で呟く。

 

「世界最強の吸血鬼にしちゃ、ずいぶん呆気なかったな」

 

 今この場で、最も“負”の気配が強いのは狂獣だろう。制御が効くとはいえ、暴走すれば巻き込まれかねない。真祖をも滅する天使に、流石に相手はしてられないだろう。

 一時、<模造神獣>を解いたキリシマは、途端、暴風が勢い増したことに気づいて表情を緊張に歪ませる。

 肌にぶつかってくる風の中に、刃物ような感覚が混じり始めている。それは暴風に巻き上げられた海水が凍りついて、鋭い刃物と化しているのだ。

 

 これは……第四真祖の眷獣が暴走してやがるのか!?

 

 宿主を失った<第四真祖>の眷獣が制御を離れて暴れ出す。このまま真祖の巨大な魔力が無秩序に暴走を続ければ、この無人島どころか、半径数十km以内の海域に致命的な被害が発生しかねない。

 さらに、

 

OAaaaaaaa(オアアアアアアア)―――!」

 

 天使の慟哭は、竜巻と化す。

 血の涙を流すその嘆きは、周囲の海水を凍りつかせながら暴風圏域を広げる。

 それは制御端末を手にした賢生にも御し得ない。

 人の手の届かない、被昇天の段階へと至ろうとしている。

 

 そして、取り巻く竜巻は完全凍りつき、巨大な柱と化していた。螺旋状に渦巻く地上部分は直径10mに達し、尚も成長を続けている。

 揚陸艇さえもその内部に取り込まれ、島を完全に心象風景を投影したその吹雪に閉じ込める。

 その台風の目たる中心で、

 

「先輩! 暁先輩―――!」

 

 獅子王機関の剣巫は倒れた第四真祖に縋り付いて、そして、北欧の王女は頭上に屹立する氷の柱を眺めている。

 

「<模造天使>……いえ、叶瀬夏音……あなたは……」

 

 氷雪を纏う巨大な柱は、“バベル”と呼ばれた天を衝く聖塔によく似ている。

 そして、その頂上で泣き続ける天使はいずれ、天上へと―――

 

 

 

「どうなってんのよ、これは」

 

「おい、BB、一端退くぞ。あんなのに巻き込まれたら終わりだ」

 

 一時撤退する女吸血鬼と漆黒の獣人。

 猛烈な吹雪に囚われた第四真祖たちは天使の暴走に巻き込まれたが、勝手に制御不能となる兵器など『商品』としての価値の低い不良品だ。

 あの魔導技師、腕がいいと思っていたが、

 

(ちっ、やる気失せるわ、ったく……『保険』を作っておいて良かったわねホント)

 

 揚陸艇まで凍りつけられてしまったが、あの第四真祖を竜巻に取り込んでから小康状態に落ち着いた。

 とりあえず、安全域まで―――

 

 

 ご! ご! ごごごごごっ!

 

 

「っ……!!」

 

 地鳴り? いや、地鳴りのように思えたのは八里八方にまで轟くほどの獣の吼え声。ただの声が、この無人島一帯の海域も含めて揺るがす。

 そして、森の奥の奥に、獣人種の並外れた視覚がそれを捉えた。

 

「お前……俺が殺したはずじゃ……!」

 

 歪、だった。

 遠く、鬱蒼とした森の陰で一際に輝くその腕。

 『首輪』を外していないのに、左の片腕だけ。その鎌のような爪がさらに伸び、腕は岩のようにゴツゴツと、二回りも大きく膨れ上がっており、銀ではなく、黒ずんだ金色に染まっている。それが纏うは、大気が揺らぎ、ちりつくほどの激しい獣気。

 

 

「■■■■■ッ―――!!!」

 

 

 振り上げられた巨腕。

 

 それは、島の硬い岩盤を、割った。

 

「ッ……!! んな……、馬鹿な……!!」

 

 その一撃―――にもならない余波は、誰にもいない方へと放たれた。だが、それはこの島のほぼ中央に位置するトーチカから向こう先の島の縁まで抉り、留まらず突き抜け、遥か数km先まで海を真っ二つに分けた。

 キリシマの<模造神獣>より、身体全体が桁外れに大きくなったわけではない。ただ、片腕だけ部分的に<神獣化>した、というべきだろう。なのに、この秘められた力はどうか。

 まともに当たっていれば、原子分解さえ起こすであろう、物理衝撃極まった打撃。三撃も大地を打ち下ろせば、跡形もなく無人島は壊れるだろう。

 

「なによ、あれ……っ!?」

 

 そして、その足元の影が、ひどく汚穢(おわい)な闇となって広がっている。その“半端な”状態を許さぬか、影は『混血』を喰らうように咢を開らく。

 

 

アマルゴーサ

 

 

「……空が―――」

 

 それに、大地まで騒いでいる。

 

 <第四真祖>失踪の件について調べようと、『メイガスクラフト』社のデータを<電子の女帝>藍羽浅葱が探った結果、相手の拠点『仮面憑き』の研究施設と思しきこの貨物船『アマルゴーサ』へ事情聴取と言う体で獅子王機関の舞威姫・煌坂紗矢華は乗りこみ、これを制圧。

 自動人形の警備網が敷かれていたが、自らの武神具<煌華麟>を振るいこれを退け、そして、黄金の怪腕を従え、空間制御と言う高等魔術を呼吸するように使いこなす攻魔師官<空隙の魔女>・南宮那月の助力を得てすべてを撃退する。

 

 しかし、そのとき。

 海上、水平線の彼方にあってなお感知できる強大な反応。

 そこには海面が半径数kmもの範囲にわたって凍り付いていており、天高く雲を貫く螺旋に捩じれる氷柱の巨塔がそびえていた。

 

「まさか、あそこに……!?」

 

 あれだけの大異変の発生源だ。ならば、そこには強大な存在がいて、紗矢華の心当たりにあの<第四真祖>の男子高校生の顔が浮かぶ。

 それは一時の協力者である那月も同意見のようで。

 

「どうやらあの第四真祖(バカ)は、また厄介なことに巻き込まれているらしいな―――!!?」

 

 瞬間、無表情のまま溜息を吐こうとした那月が、大きく見開いた。

 

 聴こえた。

 陽光に煌めく氷の尖塔のある島を発信源に、ここまで届くその雄叫びが。

 

 同時。

 その無人島を覆う氷の一部が、内側からの衝撃に吹き飛ばされた。

 

第四真祖(バカ)だけじゃなく、馬鹿犬までいるようだな―――それも、暴走しかけている」

 

 馬鹿犬―――それは、南宮那月が助手にしていたという、あの『混血』の少年。

 そして、紗矢華は直接それを目撃したわけではないが、元ルームメイトで少年のクラスメイトである雪菜からその情報を伝聞している。

 あの<黒死皇>の血を半分引いている少年は、真祖の眷獣をも屠りうる力を有しており、普段は<空隙の魔女>により封じられているという―――

 

「もしかして、<神獣化>が暴走を―――!?」

 

「―――違う」

 

 紗矢華の推測に、那月は否定する。

 それでは、甘い、と言わんばかりに。

 

「あれが暴走させるのが厄介なのは、<神獣化>じゃない―――今は“影となった馬鹿犬の元主人(オヤ)”の方だ」

 

 那月は淡々と、動揺もなく、けれど、早口でその事実を語る。

 

「自我を持った馬鹿犬は、命令に反抗したが反逆して主人に害したわけではない。むしろ、殺される直前まで無抵抗であったよ。悪魔に食われた魔女を食い殺しちゃいない。

 アレは、ただ、『作品』の完成を急がせただけだ」

 

 その魔女は、反逆して殺されることではなく、“『作品』が台無しになってしまう”ことを恐れた。

 だから、仕上げとして、自らを悪魔と化し、その上で“食われにいった”のだ。

 死霊の術はすでに源流(オリジナル)を超えていた。

 半分は人間であり、固有堆積時間(パーソナルヒストリー)を読み取らせる機能もついている。

 魔女の死魂を入れるだけの容器はできあがっていた。

 だから、自我が完全に芽生える前に、取り憑こうとした。

 

「それって……あの“痣”ってそういうことなの!?」

 

「……奴の<堕魂>を、<禁忌の茨(グレイプニール)>で影から出れないよう縛り付けていたが、殲教師に一度『首輪』を壊されてからたかが外れやすくなっていたようだ」

 

「じゃあ、今あの子に魔女が―――」

 

「完全に出てきたら、あの馬鹿犬は“元に戻れなくなるかもしれん”」

 

 <図書館(LCO)>の『科学』に属し、単為生殖(クローン)の製造方法を確立したが、『総記(ジェネラル)』であった<書庫(ノタリア)の魔女>からある魔導書を奪おうとして異端となった、『黒』シリーズの生みの親。

 それが得意とした魔術は、攻魔師官ならば誰もが覚えている基本である『呪的身体強化(フィジカルエンチャント)

 だがそれは、『世界をも思うがままに変えてしまう』魔導書の一端を知ったことで、『強化』は『上書き』へと変質してしまった。

 創造主たる魔女は、魔族と人間の『混血』を人工的に生み出してしまうほどに『血を上書きする』術を行使する。

 その魔術を用いて、<第四真祖>を超える人造魔族の器を造り上げようとして生まれたのが―――

 

「……馬鹿犬」

 

 

金魚鉢

 

 

 創造主たる魔女は、兄姉よりも優秀であると事あるごとに褒めて、二人きりになるといつも優しくなる。

 

《おお、また随分と傷つけられたな、さぞ痛いだろう、可哀想に、■■》

 

 オレは、何よりこの魔女(カゲ)が怖い。

 怖いのに、動けなくなかった。

 抗えなくなってしまった。

 

《おまえは私自身だ、おまえこそが私の最高傑作だ、■■》

 

 愛情を、錯覚してしまうから。

 

《あのような“鴉”にも、“泥”にも、そう、<第四真祖>にも劣るはずがない。さあ、『上書き(ツヨク)』してあげよう。だから―――》

 

 

 ―――その『首輪』を、外しなさい、“九番”。

 

 

 そんなはずは、ないのに。

 

 

 影はその足元より這いずり登り、『混血』の体に絡みつく。

 けれども、その『首輪』に阻められてか、その頭部にまで迫ることはない。

 

《さあ―――邪魔な枷を外しなさい。何かに縛られるなんて許してはならない。絶対に―――おまえは、わたしのものなのだから》

 

 それは感情のない、メトロノームのような整った音として、耳に入った。

 直接に触れずとも、影の声が『混血』の中に浸透していくのを、止めることもできず、でも、意外にも、何も感じなかった。

 

 それが、怖かったのは、記憶はなくても、記録としてそれは残っている。

 

 何よりも怖かったはずのその命令(こえ)に、“まるで初めて聞いたように”平然と、平静としていられた。

 泣きたいだろうに、泣けてない。

 

 それは、悲しいことなのか。それとも……けれども、これだけは確かなのだ。

 

「いやだ」

 

 初めて、その命に背いた時のように。

 既に半身を呑まれかけていた『混血』の少年は反抗の意思を吐き出す。

 

「オレは、オレだ」

 

 勝手に暴走するその左腕。それを逆の右手で手首を掴み、篭める。

 すでに、左腕には深刻なまでに“影”が侵していた。

 腕の神経と骨の間で、内圧が凶暴に膨れ上がり、一刻も早く『影』を受け入れねば逆に少年を引き千切りかねない程に猛っている。肉を噛み、骨を潰し、血を呑む、誰よりも何よりも『影』が少年を喰らっているようだった。

 

「ご主人は、オマエじゃない。ご主人は、オマエみたいに、優しい言葉なんてこれっぽっちもかけてもらったことがないけど―――」

 

 気持ちのいい“匂い”がする。

 もうそれを一週間以上は、嗅いでいないけれども。

 この身に沁みついて、いつだろうと思い出すことができる。

 そう、芳香が人の記憶野を刺激するのならば、これまでの思い出がこの“匂い”を香してくれる。

 暴れる『影』を必死に誘導する。奥歯を噛み締め、脳を沸騰させる熱に耐え、そのイメージをより固めていく。

 

「ああ、ご主人は、オマエと違って、一度だって約束を破ったことはない! オレを縛ったりしなかった! だから―――」

 

 願う。

 このたった一節の文句に凝縮する。

 そう、

 

 

「オレは、ご主人の眷獣だ」

 

 

 必死にその“匂い”を手繰り寄せたその威光が具現化した輝きに『影』はかき消される。

 たったいま、左腕に、手甲――契約した魔女の力の一端を、契約印の解放による助力もなしに、自らの意思だけで呼び出した。

 <神獣化>した左腕を、そして、足元に広がる極夜の如き影を、主の“鎖”の助けを借りず、自力で封じ込めた。

 

「よし」

 

 クロウは頷く。もう魔女は文字通り、影も形もない。

 

「いざって時は約束してくれたけど、オレはご主人にだけは殺されたくないのだ」

 

 そうだ。

 単純にイヤだった。

 あのとき、自らが口にさえできなかったお願いを、察してくれて、言動とは全く違う“匂い”――あの人が自分に“嘘”をついてまで、安心をさせてくれた。

 

 だから、クロウはそれが“ものすごくイヤだった”のだ。

 

 

「叶瀬、お前もイヤだって言いたいのに言えないんだったら―――オレが代わりに言ってやる」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 光の中で夢を見る。

 今、己の在る風景は、美しく透き通った雪と氷。

 それが己の故郷の景色であると、誰に言われずとも自ずと知る。

 きっとそれはこの世界に生まれて初めて目にした、己の原風景。

 静けさと孤独だけで作られた、たったひとりきりの美しく、寂しい世界。

 これが、己の心の中、自らが生み出した“世界”なのだ。

 寂しさも哀しみも絶望も、すべての感情を“世界”と共に吐き出せれば、もう己には何もない。意識すらもすべて、この世界に捧げることになる。

 自分はこれから自然の一部となり、世界の一部となりつつある。抗わず、逆らわず、干渉されることのない、無と言う名の平穏の中をただ、揺蕩い続ける。

 それに不満を覚えることはありえず。

 微かに零れる寂しさも。僅かに残る迷いも。微塵も消された焦燥も。

 何も、ない。

 ―――そのはず、なのに。

 雪と氷に埋められた吹雪の世界。

 だけれど、その吹雪の向こうに、森、があった。

 それは、不思議と故郷の古き記憶を“匂い”として共有されたもの。

 同郷のものが見せる、原風景と隣にあった誰かの原風景。

 

 そして記憶の共有は、他者との共感を芽生えさす。

 

 闇を見ればその闇もこちらを見ているように。

 叶瀬夏音の原風景の向こうの森、そこにあの金色が自分を見ていた―――

 

 

 

 『黒』シリーズ。

 魔導技師・叶瀬賢生は、それに一技術者として興味があった。

 かの魔女が目指そうとしたそれは賢生のものに近しく、また参考にできるものもあった。

 副産物として生まれた<模造神獣>もそのひとつ。<神獣化>という『さらに上位の存在に格を上げる』というプロセスは、霊的進化の要因に関して、非常に学ぶべきものがあった。

 出来得るものならば、その唯一の成功例とされる検体を、解剖してでも確かめてみたい気持ちはある。

 だが、その必要もなくなった。

 結局、その魔女よりも、賢生の方が生産者として上であったのだ。

 もはやあと数刻もしないうちに、娘は『天使』となり、賢生の計画は成就するのだから。

 

「ようやく。そう、心象風景の投影による表層人格の破棄と再構築は計算外の事態だったが、それさえ終われば、お前をこの世界に繋ぎとめるモノは完全に消えるのだな……夏音よ」

 

 これで賢生はようやく救われる。

 

 賢生はこの実験体にしている夏音を一度だって、道具などと思ったことがない。

 むしろ、今でさえも、実の娘も同然に思っている。

 何故ならば、叶瀬夏音は、妹の娘だ。

 それを知ったのは、妹が死んで、夏音に出会ってからであるも。

 まだアルディギア王に王宮魔導技師として仕えていた15年前に、自分を訪ねて遥々と日本よりやってきた妹は、そこで当時の王と出会い、報われぬ恋をしたのだ。

 そして、不貞の子として生まれた妹の娘、妹は実の母親として名乗ることはせず、故に賢生もその血の繋がりは一切夏音に話したことはない。

 

 けれども、賢生は娘も同然に思っていて、いつだって娘の幸せを願ってきていた。

 

 とそのとき―――賢生は視界の奥、その延長線上にあった森の向こうに眩い黄金が過った。

 

 先の異常な破壊。それに最初は警戒したが、それでも別次元の存在たる天使に害するものではないと思考から除去したその脅威。

 だが。

 

 森より飛び出してきたその黄金の影が、天にも昇る巨塔を滑走して登り、天使を閉じ込める氷雪の繭を砕き割った。

 

「―――<模造天使>を殴っただと!?」

 

 賢生は愕然としながら目を細めた。黄金の影は、自由に空中の支配権を得る翼を持ち得なかったようで、そのまま賢生の前に落ちた。

 それは先の銀人狼―――と同じ形をした黄金の人狼。

 その左腕に騎士の籠手を新たに装備し、体毛が一段階上のものへ変わっている。

 生体障壁ではない、その肉体自身が眩い最上の金色となっているのだ。

 

「それは、<神獣化>か!? いや、ならば、何故、“完全なる獣ではなく、人型のままを維持しているのだ”!?」

 

 そう。

 獣化のさらに上にある<神獣化>とは、完全なる獣になるものだ。

 その体型も倍以上に膨れ上がり、人型のままに納まりきるものではない。

 そもそも、副産物である<模造神獣>でさえも、理論上は<模造天使>に害することなど不可能だったはずなのだ。

 

「う? それは<神獣化>していないからだぞ」

 

 驚愕する賢生を見て、その金色となった人狼は首を傾げてしまう。

 何も難しいことなどしていないかのように。

 だが、その金色の肉体が先から放っているのは―――紛れもなく、天使に近しい神性だ。叶瀬賢生が<模造天使>の儀式術式を繰り返してようやく手に入れたものだ。それを―――

 

「おかしい! <神獣化>は、獣人種としての格を上げるモノであって、神気を纏うようなものではないはずだ。そもそも獣人のような魔族はこの聖なる気に触れることさえもできない! なのに、なぜ、その“黄金の神気”を放っているのだ!」

 

 異端者を弾劾する審問官のように賢生はその現実にはあり得ない金人狼を指差す。

 それに、指された当人は、うーん、と首をひねり、

 

「だって、オレ、半分は『人間』なんだ」

 

 『混血』は、魔族と、人間のもの。

 故に彼は、聖別された特注の魔族殺しの弾丸をその身に受けても耐えることができ、人間には致命傷な傷をも一夜で塞いでしまう高い自己治癒能力を得ている。

 つまり―――人間と同じで、“霊的中枢”を有していた。

 

「さっき、お前とフォリりんの言ってた、えんぜるふぉう? ってヤツの説明。あれって要は、“チャクラを100%に解放できれば、叶瀬と同じになるんだろ”」

 

 優秀な霊能力者でさえも、30%が精々とされるチャクラの解放。

 <模造天使>は、霊的進化のために必要な個人での100%の解放を、複数の霊的中枢をその身に取り入れさせて底上げの補強することで、30%の解放でも必要量を満たすようにすることだ。

 だが、そもそもそんな真似をする必要はないのだ。

 

 個人で、100%の霊的中枢(チャクラ)を解放さえできれば。

 

「前にいっぱい元気の出た秘孔を突くってのを煌坂に見せてもらったことがあってな。それでさっき、オレの体毛()を気を入れて針みたいに尖らせてから、師父から教わった七つの霊的中枢(チャクラ)を、こう、ぶすっと突いてな、自分で自分に生命力を送り込んだんだ(マーキングしたんだ)

 

 第一の霊的中枢は尻尾の根元にあるムーラダーラ。

 第二の霊的中枢は丹田にあるスヴァーディスタナ。

 第三の霊的中枢はおへそにあるマニブーラ・チャクラ。

 第四の霊的中枢は胸部にあるアナハタラ・チャクラ。

 第五の霊的中枢は甲状腺にあるビシュタ・チャクラ。

 第六の霊的中枢は眉間にあるアジナ・チャクラ。

 第六の霊的中枢は頭頂部にあるサハスラーラ・チャクラ。

 

 それらを一度は体験した獅子王機関の舞威姫の鍼灸術と超能力の『香付け(マーキング)』によって、活性化させた。

 その上で、<神獣化>を引き出している。

 

「そんな、方法で、覚者に至ったというのか!?」

 

「よくわからないけど、そしたら体の色が叶瀬と同じ、ピッカピカの金色になったのだ」

 

 天使とは、翼を生えた人型だけでなく、『半人半獣(ケルプ)』という楽園の守護聖獣もいる。仁獣のように神に仕える天使と同格の獣もいる。そして、<神獣化>とは鳳凰のような仁獣とも格を並べる自律進化法。

 霊的中枢を持った人型のまま<神獣化>する―――それは、『混血』だからこそできたもの。

 

「そうか……確かにこれまで夏音が儀式で霊的中枢を取り込んできた相手よりも、明らかに上だ。信じられないが、霊的進化を遂げていると言ってもいい。仁獣化、いや、<神獣人化>とでも呼ぼうか―――だが、それでも夏音の方が上だ」

 

 閉じこもっていたその氷は砕けた。

 だが、天使本体は傷ひとつついていない。

 

「ありがたい。位の近しい覚者のきみと戦えば―――強敵との戦闘で霊的中枢をフル稼働させれば、夏音は今度こそ最終段階に進化する。<第四真祖>だけでは物足りなかったが、これで、夏音は救われる」

 

「本当に、そう思うのか?」

 

 玲瓏と澄んだ声が響いた。

 張り上げたわけでもないのに、無理に聞かせようとするような我意はどこにもないのに、強い風の中でもはっきりと届く。

 賢生さえも、それに一瞬、気を奪われた。

 その身を夜照らす月光のように、覚者となりし金人狼は静かに佇んでいた。

 

「お前が叶瀬のことを実の娘だって想ってることはわかってる。“血”の繋がりもあることもわかってる。『メイガスクラフト(あいつら)』とは違って、王族の“血”を兵器にしようとしてないこともわかってる。純粋に叶瀬の幸せだけを願ってるんだろ」

 

 金人狼の瞳は、哀しげに世界を映す。

 荒れる雪と氷の世界から、さらに遠くの光景を儚んでいるようにも見えた。

 そこだけが、戦争から切り離されているようにも思えてしまうくらい、その瞬間は、奇蹟の一幕のようだった。

 

「あ……ああ……」

 

 魔導技師、ひとり目の当たりにする人間が、呻く。

 天上で光輝を放つ娘と同じく、彼から目を離せなかった。

 

「そうだ……私は親として夏音の幸福だけを願っている」

 

 何の迷いも後悔も感じさせない口調で、賢生は答えた。

 誰が聴こうがそれに疑いを持つ者はいるまい。賢生の瞳は、神の啓示をうけた聖者以上の確信に満ちていて、ただただ純粋に訴えていたのだから。

 

「夏音は、人間以上の存在へと進化する。あれを傷つけられるものはもうどこにもいなくなる。やがてあの子は神の御許へと召されて、真の天使となる―――それを幸福と呼ばずして何と呼ぶ?」

 

「オレには、よくわからないけど、きっと、そうなんだな」

 

 頷いて、賢生の主張を認めた。

 得られることのなかった理解に、迷い羊に救済の道を示した伝道師のごとく、すべてを俯瞰した眼差しをより揺るぎなく。

 

「そうだ。だから」

 

「でも―――だったら、何で“天使になってくれって言わなかった”のだ」

 

 真っ直ぐに、金人狼の舌鋒が鋭く突きつけられた。

 賢生は、一体何を言い出したのかと、目を瞠った。

 

「なにを―――」

 

「必要な儀式のために、同胞(なかま)と殺し合いをしてくれと何故言わなかった。誰も傷つかなくていい世界に行くために、先輩を殺してくれとどうして説得しなかった。それこそが、この世界で最も幸福なことだというなら、叶瀬にだってそう想わせるように、どうして堂々と娘に語らなかったのだ」

 

 金人狼の言葉に、賢生は今にも泡を吹き出しそうにぱくぱくと口を開閉する。

 

「―――そんな、ふざけた」

 

「ふざけてなんかないぞ。オレは真剣だ」

 

 彼はこの上なく真面目であり、逆に揺るぎない岩のような賢生の表情が、大きく歪んだ。

 

「結局、どんなに善い事も悪い事もそれが本当に救いになるのか、はたまた傷つけただけなのか、傍からじゃわかりっこないんだ。でも、それは自分のたどり着いた結論だったなら、ちゃんと口に出さないとダメだぞ―――そもそも娘の親だって自覚があるなら、そんな制御端末(どうぐ)に頼る前に、こんなわけもわからん暴走しないよう、えんぜるふぉう?のことを叶瀬と話し合いをして言い聞かせておくべきだった」

 

 そうしなかったのだから、予期せぬ事態となっている。

 そうできなかったから、予想しえない事態に動揺している。

 無垢な中庸は、けして日の当たる場所の倫理だけが正しいものなどとは思ってない。常人には常人の、怪物には怪物の、狂人には狂人の、価値観とルールがあり、そのどれもが彼の中で息づいていた。

 

「道具じゃなくて、たったひとりの家族なら、一方的じゃなくて、家族会議くらいするのだ。それが、親の最低限の義務だと思うぞ」

 

 金色の瞳に見つめられて、賢生は頬を引き攣り、数歩後退し、その視線から逃れるように首を振る。それは、その先を聞きたくないという意思表示か。

 

「……黙れ……なにも理解してないくせに……!」

 

 賢生は激しく首を振り、血走った目で金人狼を睨みつけた。

 

「真祖は3名しか存在してはならない! なのに、第四の真祖が現れたということは、その力が必要になるような敵が目覚める、ということなのだ。もう、時間がないんだ!」

 

 声を震わすひとりの親。しかし、憎々しげな苦悩と混乱を浮かばす彼の表情は、ありありとその信念が揺らいでると見て取れる。

 

「それなら、今からでも、ぼーっと突っ立ってないで、叶瀬に向かってそれを自分の口で伝えられるのだ。それさえも、できないんなら」

 

 金人狼は容赦しなかった。

 

「―――お前は、娘からも逃げる臆病者だ」

 

 クロウの断定するような口調に、賢生は時が止まったように動けなくなった。

 

「叶瀬は、ずっと言ってるぞ。さっきから泣いてるの、お前は聴こえてないのか?」

 

 

 

つづく



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天使炎上Ⅳ

海上 救命ポッド

 

 

 ひとりに、なった。

 いや、ひとりになれたというべきだろう。

 これまで物心ついた時から常に傍に人がいたけれど、初めてのことに当然寂しさは覚えても、落ち着いていられた。

 

 するべきことはわかっている。

 

 まず真っ先に海へと落されて、その潮の流れから、“運良く”、皆とは別れることができた。

 けれど、追手は来ている。

 空挺を襲った奴らがそう簡単に諦めるわけがない。

 だから、あとは、救難信号を発信するだけだ。

 

『―――見つけたのだ』

 

 大海をひとり泳ぐ銀色の人影。

 それは暗い夜の海に溶け込んで、海上にあった自動人形を海の狩人の如く、海中に引き摺りこんでは潰していく。

 揚陸艇さえも潜って船底から穴をあけて沈めさせる。

 そうやって、“集めさせた”追手を悉く撃退した。

 

『なぜ、おまえはこちらに来たのです。騎士団長と一緒にどうして逃げなかったのですか』

 

 武器があろうと立場の不安定な海上で、それも救命ポッドで抵抗をするなど期待はしてなかった。

 弾は十分にある、少しでも稼げるように、精々みっともなく足掻こうと心に決めていた。

 だから、助けてもらったのに、その叱責はお門違いもいいところだろう。

 

『その騎士団長に、姫様助けてくれーって言われたからな』

 

 その銃口と氷河の如き冷徹な視線を向けられて、彼は指摘する。

 

『ひとりになったら、囮となって注意を惹きつけるだろうからって。実際、そうしてたし』

 

 もし、船で生き残ったのが自分だけだったのならば、好機が来るまでじっと息をひそめていたことだろう。

 だが、生き残ったのは自分だけではない。

 負傷して命ある護衛騎士たちも、女子供の従者たちもいる。

 それらをみすみすと虐殺させてはならない。だから、ひとりとなった時、安堵したのだ。

 

『わたくしは、わたくしが生き延びるためならば周りの全てを犠牲にしなければなりません』

 

 ぱんっ! とこちらを見上げながら立ち泳ぎをする彼の、そのすぐ脇の海面を撃つ。

 

 それが騎士ではなくても、無辜の民であっても、会ったばかりの友人であっても、盾にできるのならば盾しなければならない。

 己が身の価値を重々に承知している。

 故に、自分のために、死ね、と命令する。それができなければ、王族とは呼べない。

 だが、いくら殉死した者たちを英雄として祀り、王女の盾となれたことを美談として後世に語り継ごうにも、とても、綺麗事などとは呼べない。

 

 ぱんっ! とポッドに近づく彼のこめかみを弾が掠める。

 

 けれど、後悔だけはしない。

 それは自分のために戦ってくれた者たちへの侮辱となるからだ。

 だから、ここでその王族としての有り様を曲げるつもりはなくて、この救命ポッドに乗るつもりであるなら本来は無関係の少年であろうとそれを自分のために利用する算段をしている。

 だから。

 

 その眉間に標準を合わせて、引き金に指をかける。

 

『……わたくしが、怖くなりましたか?』

 

『ううん。だってそう思えるほど、オレはお前のことをよく知らないぞ』

 

 その碧玉の瞳を見開く。

 出会ってからというもの、無垢な中庸の予想外さはもう驚きの域である。

 あまりにも素直な、脊髄反射のような答えを返してくる。

 そんな無遠慮極まりない言葉が、なぜか不快と感じない。だからか、最初に自分はその無礼を許すよう、周りの者に承知させたのではないのか。

 

 引き金を引いた銃口を臆せず、彼は、よいしょ、と海面からその縁に腰を掛ける。

 

『でも、何があってもオレ、フォリりんのこと好きだろうなって思ったんだ。団長たちと同じように』

 

 だから、ここにいる。

 認められたいがためでもなく、名誉や見返りを求めてのことでもない。

 その人が気に入ったから、助けたくなった。

 それは打算のない、清潔な心のあり方だ。

 けれど、それが人間として幸福かどうかは、また別の話。

 そう、一般教養とされてる道徳は非人間な在り方であって、計算と妥協、我欲と食い合いこそが正しい人間の在り様と考える者には、その清潔さは目に痛いだろう。

 太陽を直視するように、眩しすぎて。

 おかげで、こちらは銃の照準もまともに合わせられず。

 ただ、未来が一寸の先も見えないこの暗闇の航海の最中でさえ、深く、息を吐ける。

 

『ひとりってのは寂しいだろ? 何ができるかわからんけど、話し相手くらいならオレもできるぞ』

 

『まったく……一応、おまえは領土の生まれであって、王女は領民を養う義務があります。仕方がありませんから、乗船を許可しましょう。だから、わたくしの言うことをきちんと聞くように』

 

 

金魚鉢

 

 

 天上を見上げる金人狼。

 ただただ巻き込まれて、天使の前に立つ。

 それは、一度は敵わないと逃げた相手よりも強大で、そして、友人のひとり。

 

「オレは力になるって決めた。だから、これでいいんだ」

 

 さあ、戦争を始めるとしよう。

 通常とは手法が異なれど、この<神獣人化>も<神獣化>と同じ。蛇口の栓を思いっきり開けるように、この肉体に秘める力をありったけを解放できるよう限度(リミッター)を外してる。それを無理やりに人型に留めているのだから、気を抜けば水風船のように破裂してしまいかねない。

 だから、枯渇するか、崩壊する前に、精々、思い切り。

 全力でやってやろうじゃないか。

 

 ―――一層と輝きを放つ両脚を、大きく、大きく、金人狼は屈伸して力を溜めて。

 

 

「     ッッ!!!」

 

 

 吼えた。

 それは大自然をも平伏せさせ、土地の荒御霊をも鎮圧する聖獣の雄叫びか。

 雪と氷が狂い舞う嵐の銀世界。それが一瞬、無風となって凪ぐ。

 そして、天使めがけて、一気に金人狼は跳躍して、空中で羽ばたける翼を持たずとも、大気を蹴り込んで飛翔する。放たれた一本の矢の如く、最短距離で、その氷の巨塔の頂点を目指す。

 

 天使もついに目覚める。

 その天眼の翼を広げて、金人狼を頂上から見下ろす。

 

 空を白い線が通り過ぎた。

 

「―――」

 

 スローモーションのように、空から黄金の煌めきが降り注いでくる光景―――それが真祖をも滅ぼし得る絶望だ。

 

「邪魔だっ!」

 

 吼え、金人狼は大気を蹴った。真上に向かって駆け出し、その黄金の剣となった閃光を殴って破る。

 爆発。砕かれた天使の剣はたちまち爆炎の嵐として炸裂する。しかし金人狼は自らの負傷を顧みず、爆風を突き抜けて、天使の足元たる氷の巨塔の壁面に張り付く。

 

「ぐ―――うっ……」

 

 金人狼は塔を駆けあがろうとするも、身体が動かなかった。頭が朦朧とする。

 致命傷ではないが、危険な状態だ。何しろ、ここで止まっていては、集中攻撃を受けてしまう。

 一秒もない。そう判断した。

 肉体内面の七ヵ所に意識を集中。ただでさえ慎重に開門させなければならない、少なくとも数時間はかけて段階的に行いたいところを、無理矢理に開けさせる。

 が、その力の高まりを天使は察知する。

 双眸鋭くし、

 

「―――ッッッ!」

 

 閃光に撃たれる。咄嗟に貼った神気を巡らせた生体障壁は天罰の威力を削ぎ落としたが、食い止めることは難しい。無理だと判断した瞬間、その爪を直接、自身のへそを突く。再度、決断決行する。自身に対しての『香付け(マーキング)』。今度はリミッターを解放するのではなく、強引に破りにかかった。

 

 ―――ガチン、とスイッチの切り替わる音がした。

 

 まるで爆弾。

 それまで100Vで一定していた電線に、1億Vの高電流を流した気分。体のどこかで回路が壊れて、壊れた場所に無理やり霊力がねじ込まれる。

 視界が変わる。

 世界が変わる。

 安定を欠くそれは金人狼の存在を根底から揺るがし始める。全身に纏っている黄金の神気が、今や稲妻のように弾けて迸っている。だが、それでも身の輝きは力強さを増す。

 

 強引に取り出した力は、すぐには制御が利かない。金人狼はその荒れ狂う神気に任せて、生体障壁に阻められている黄金の剣を“掴み取った”。

 

「―――ぁああああぁぁああああっっっ!」

 

 突き破ったその腹の底から咆哮し、天使の力を掌握する(クラウ)

 己の“匂い”でマーキングし、増幅。そのままベクトルを身体ごと一回転させて、気功砲として天使へ返した。

 紫電迸る大玉が、黄金の剣を呑みこみながら、天使に迫る。天使はその翼を羽ばたかせ、雪と氷の嵐を展開。気功砲は嵐を丸ごと呑み込み、眩き流星と化して。

 

 天に至るその“バベル”を崩壊させた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

Kyriiiiiiiiiiii(キリィィィィィィィィィィ)―――!」

 

 

 被昇天の最終段階を阻止して、天使を地上へ墜落させる。

 なんと罪深き所業、もしくは、偉業。

 しかし、地につけられようが、その姿はすでに現実感を喪失させるほどの完成度を有していた。

 人の姿形に似た部品は間違いなく人体部位であるにも拘らず、人間以上の見目を得ている美しい生き物。幻想そのものを体現する、至高の芸術品。濡れた白磁の肌、潤む碧玉の瞳、けれど、その形のいいおとがいを伝って落ちる滴は神秘の領域ではない、感情の発露。すなわち、かすかな人間性が、まだ残っていた。

 

「そうか。古城君を、皆を傷つけたことを気にしてるのか」

 

 “匂い”でわかる。

 それはどれほど高く空を飛べたとしても。

 孤独が重い。

 狂気が重い。

 後悔が重い。

 罪悪感が重いだろう。

 自分と、同じだ。

 

「オレも、泣かせた、傷つけてしまったことがある。それでも、あのとき、ご主人は嘆くなってオレに言ってくれた。あれは、きっと生きていいってことなんだ」

 

 既にその体毛は、元の銀色に戻っている。

 金色の神気はすでに使い果たした。だが、こうして同じ目線(フィールド)に立つことはできた。

 昂るでもなく、憤るでもなく。

 哀しむでもなく、喜ぶでもなく。

 あまりにも自然に、あまりにも当然に、呼びかける。

 

「だから、叶瀬、嘆くな。お前も、オレたちと生きていいんだ」

 

 必死に、その細い彼女の意識を手繰り寄せるように。

 必死に、その薄れた記憶を懐かしさに蘇らせるように。

 必死に、けれど、普段と変わらないペースで話し続ける。

 

「<蛇紅羅>! そいつの腸を串刺しにしてやんなっ!」

 

 真紅の刺突が、背中から銀人狼を襲う。鋼鉄以上の硬度があるその体毛に阻まれて、背筋を貫通せず、けれど、その身体は弾き飛ばされる。

 

「ちっ、バカみたいに硬いわねぇ」

 

「オマエ―――!」

 

 攻撃を放ったのは、紅いボディスーツを着た女吸血鬼ベアトリス。先ほど投擲された槍の形をした眷獣が地面に突き立ち、激しい魔力の火花を散らしている。

 その隣には、すでに<模造神獣>と化しているキリシマ。

 漆黒の巨獣は、両脇に棺桶ほどのサイズの金属製のコンテナをいくつも抱えており、それらを無造作に、銀人狼の方へ投げつける。

 

「のんびりはお話してるとこ悪いんだけどさァ、時間外労働だし、あたしたち、そろそろ帰りたいのよね。だから、邪魔をしないでくれる」

 

 投擲した槍の眷獣を自らの手元に呼び戻して、女吸血鬼は気だるげに息を吐いた。

 そして手に持っていた制御端末のパネルを操作し、『降臨』の二文字を入力。賢生が夏音を制御していたものと同じもの―――

 

「でないと、せっかく造ったこいつらが売れ残っちゃうからさ―――!」

 

 轟音。

 散らばる金属製のコンテナを中から吹き飛ばして、咆哮と共にそれは現れる。

 醜い不揃いな4枚の翼と、肌に浮き上がる魔術紋様。そして、金属製の奇怪な仮面。

 

「こいつら、船の時に見た奴らだな!」

 

 そう、そこにあるのは、天使となる前の未完成品『仮面憑き』、しかし、不完全と言えど、それは音速以上で飛び回り、ビルを倒壊させるだけの戦闘力を持っている。それも複数体。

 それを賢生は顔を顰めて、

 

「どういうことだ。私は、儀式に必要な最低数しか用意していないぞ」

 

「悪いんだけど、たった一体しかできないんじゃ売り物にならないからね。素体が粗悪なせいかデキも悪くて、性能では叶瀬夏音には遠く及ばないんだけど」

 

 ベアトリスは蔑むように説明する。

 これは、クローン。

 これまでの儀式で敗退した『仮面憑き』たちの細胞から造り上げた、『メイガスクラフト』の『商品』。

 

「でもまあ、こっちの命令に忠実に従う分、使い勝手はマシってとこかしらね」

 

 得意げに制御装置を見せつけるベアトリス。

 女吸血鬼は、<神獣人化>の解けた銀人狼を嘲笑い、

 

「切り札ってのは、先に出した方が負けなの」

 

 戦況を見ていたのだ。

 金人狼が、『仮面憑き』に通用し得るものだとわかってから、機を見計らっていた。

 そして、もうその金色の神気が出せないと状況を見てとり、満を持して、共犯者の魔導技師にさえ秘匿した『保険』を含めて、手駒の全てを戦争に投入する。

 

「飛空艇の時から、邪魔されっぱなしだしね。かったるいけど、ここで仕留めておかないと面倒なことになりそうだから―――ここで、殺すわ」

 

 『血に飢えた漆黒の狂獣(ブラッディウルフ)』。そして、『仮面憑き』の軍団。

 特区警備隊、獅子王機関さえ相手取れるほどの戦力を有した女吸血鬼は荒々しく牙を剥いて、この邪魔者に死を宣告す―――

 

 

 

「じゃあ、オマエたちの負けだな」

 

 

 

 勝敗の決した場でついに終末を飾る多勢の暴力が蹂躙しようとしたその時、凄まじい轟音が大地を震わせた。

 頂上が崩された氷柱の巨塔へと、ベアトリスたちの視線が集中する。

 再び、崩壊した“バベル”が揺れて―――その根元の分厚い氷を破壊。ビル解体の如く、巨塔を真下から破壊して、その緋色の双角獣が君臨する。

 大気を歪める凄まじい振動は、圧倒的に格の違う膨大な魔力を女吸血鬼に知らしめる。

 

「―――第四真祖の眷獣だと!?」

 

 ベアトリスは愕然としながらも、吸血鬼だからこそわかるその覇気に自ずと後退した。

 塔を破壊した眷獣の宿主は、暁古城。

 爆風のような雄叫びを残して眷獣を己の血に戻した後、その威風を晒した古城に続いて、姫柊雪菜とラ=フォリア=リハヴァインも姿を見せた。

 

「話はいろいろと聞こえてたんだが―――まだ生きてるか、クロウ」

 

「うん。古城君も復活したんだな」

 

 天使の暴走に飲まれそうになったその時。

 剣巫・姫柊雪菜が<雪霞狼>の神格振動波で防護結界を張り、分厚い氷の下敷きに押しつぶされるのを防ぐ。

 そして、古城の胸に突き刺さった<模造天使>の剣。

 黄金の神気は、“負”の生命力で構成された古城の肉体を、酸のように蝕んでは真祖の再生能力を阻害して、存在をゆっくりと消滅させていこうとしていたが、ラ=フォリアが古城の身体に無意識に働きかけて延命させている、未覚醒の眷獣――天使の剣をも克服する可能性――に気づき……

 

「大変だったんだなぁ、姫柊とフォリりんの二人の血を吸うくらいだったなんて」

 

「いや、そのだな、クロウ一人で無茶してるっぽいから仕方なく急いでだな……!?」

 

 いかがわしい行為にふけっていたわけではなく、あれは人工呼吸のようなものだ。

 だが、その純粋に心配する後輩の目が眩しいというか、夏音の天使化に待ったをかけようと命がけで戦っている間に何だか色々と“アレ”な吸血行為をしていた古城は申し訳ないというか、とかく視線を合わせづらくなって横へ逸らす。とその脇にいた雪菜はにこやかに微笑しながら、

 

「いくら緊急時とはいえ、人が眠っているときに、そのすぐ隣でああいう行為をするなんて、思ってもみませんでしたけどね」

 

 逆を見る。とどこか愉しげな表情で浮かべるラ=フォリアが、そこで意味深に頬を赤らめて、

 

「ええ、いざというときは全部自分が初めてをとった責任を取ると、暁古城は仰ってくれました」

 

 うんうん、と頷いたクロウは、こういう時にご主人が言っていたそのフレーズを口にする。

 

「お楽しみでしたね、と言うべきとこなのか古城君」

 

「違うぞ!? お前よく考えてないでそれ言ってんだろうけど、違うからなクロウ!」

 

 これが終わったら誤解を解いて口止めをすると誓う古城。

 前回、殲教師の一件で、この後輩から妹に情報が流出しかねないことを兄は学習している。

 

 だが、その会話をする様子――まったくこちらを見ないその余裕に、女吸血鬼は、ギリッ、と歯噛みする。

 

「ほんっと、お気楽ね第四真祖……! その余裕、そこの雌豚どもを全身バラバラに切り刻んでからも保てるかしら。真祖の眷獣を呼び覚ませる霊媒なんだから、クローンにすればいい兵器になるでしょうし、兵器に改造しなくても、高く買ってくれる―――がっ!?」

 

 愉快そうに挑発していたベアトリスが突然、苦痛に唇を歪めた。

 古城の身体から放たれた雷撃が、鞭のように飛来して女吸血鬼の肩を殴りつけたのだ。

 しかしそれはベアトリスへの攻撃ではない。単純に、抑えきれない古城の怒りが魔力となって溢れだした結果だ。

 

「黙れよ、年増……それにあんたもだ、オッサン」

 

 余裕からベアトリスを見てないのではなく、視界に入れば感情のままに周囲に魔力を散らしてしまうことがわかっていたからだ。

 視線を合わされ、雷鳴のような一喝と共に爆発的な魔力の奔流に呑まれる。

 

「王族とか霊媒とか知ったことか。叶瀬もラ=フォリアも普通の女の子だろうが。それを天使にするだの、クローンで増やすだの、好き勝手なことばっか言いやがって―――!」

 

 その烈火の如き怒りを表さんと、古城の瞳が真っ赤に染まる。

 もう理屈は簡単だ。

 ベアトリスは、夏音たちを天使兵器に仕立てて、それを『吸血鬼の真祖すら倒し得る商品』として売り込もうとしている。

 賢生は、夏音を人間以上の存在にしようとしている。そのために夏音が霊的中枢を活性化させるだけの強敵が必要だった。だから、第四真祖に目を付けた。娘を進化させるための噛ませ犬として―――

 

 だったら、話は簡単だ。

 古城を倒せなければ、彼らの計画は終わる。<模造天使>如きでは、世界最強の吸血鬼を倒せないと思い知らせてやればいい。

 

「いい加減に頭にきたぜ。叶瀬を助けて、おまえらのくだらねぇ計画をぶっ潰してやるよ!ここから先は、第四真祖(オレ)戦争(ケンカ)だ!」

 

 禍々しい覇気を放って、<焔光の夜伯>が参戦。

 その前をクロスする二つの銀。

 

 真祖の魔力に反応した『仮面憑き』が、歪んだ光剣を古城へ撃ち放つが、同じ神気を纏う銀色の槍が一閃して斬り払い、

 

 『血の従者』として排除を命じられた『血に飢えた漆黒の狂獣』が飛び掛かってくるが、銀人狼が横合いから脇が無防備な胴体を蹴り飛ばす。

 

「―――いいえ、先輩、わたしたちの、です」

「だぞ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 暁古城は、天使化した叶瀬夏音を。

 姫柊雪菜は、『仮面憑き』を指揮するベアトリスを。

 そして、南宮クロウは、ラ=フォリアを捉えて人質にしようとするキリシマを相手取る。

 

「逃ゲンジャネェゾ! コッチハモウ余裕ガネェ。降参シネェナラブッ殺シチマウゼ!」

 

 獅子王機関の剣巫を相手取った女吸血鬼は、その得物の武神具を囮にした剣巫に眷獣の槍を翻弄されて、その隙に素手で倒された。

 剣巫が修める素手で魔族を倒し得る戦闘術を前に、『意思を持つ武器』に戦わせて当人自身の戦闘技術はない女吸血鬼はなすすべもなく、吸血鬼であろうと『破壊ではなく、生態の機能を狂わせる』肉体再生能力を阻害する気を篭めた打撃にやられた。

 それでも、無限に消費し続ける生命力を補填する“タンク”としての役割は果たしている。

 だが、その“タンク”は相手の手の内にあり、今のところは殺されていないようだが、それが途切れてしまえば、キリシマの<模造神獣>も保てなくなる。いや、この現状から無限の生命力をあてにした不死の再生能力も期待できない。

 だから、こちらも人質を取る。

 あのお姫様さえ捕えられれば、戦況は変えられる。

 しかし、それを相手の方も承知してるか、銀人狼に乗ってお姫様は戦線を離脱して、無人島の森の奥へと逃げ込んだ。

 それをすかさず追ったキリシマだが、森に入ったところで―――銀人狼が視界から消えていた。

 ついさっきまで、そこに見えていたのに。

 

「ヘェ……目ヲ離シタツモリハナイガ……瞬キモシテイナイガ……フゥン……」

 

 一度、立ち止まる。

 だが、表情は変わらない。

 

「ケレド、姿ヲ隠シタトコロデ、意味ハネーヨ、子犬」

 

 獣人の追跡能力のレベルは、『対象の姿を見失わないという』ものではない―――『対象を見失おうがどうしようが関係なく追い続けることを可能とする』ものだ。

 “人間大の大きさのもの”が、何の痕跡も残さずに移動することなど、そうそう簡単な話ではない。

 

「カクレンボノツモリカ? ハッ、姿隠シテモ臭イハ消セテネェゾ!」

 

 余裕の態度で、銀人狼の“痕跡”を辿るキリシマ。

 まるっきりの、余裕の態度。

 そう。

 彼は、忘れている。

 忘れているというより、意識していない。

 追う立場まであるがゆえに、意識していない。

 圧倒的な力に酔っているせいで、意識していない。

 

 “これがどこであるか”を、意識していない。

 

 獣人種と言えど、キリシマは生まれながら魔族特区で都会暮らしをする、人間と変わらない習慣感性が身についている。

 それは取り返しのつかない、油断だった。

 

「―――見ィツケタ」

 

 ガサガサ、と夜の森に蠢いた人影。

 それをキリシマは逃さず、一気に飛び掛かることはせず、追い詰められていく様を楽しむように歩いてそちらに―――

 

「―――ギャアっ!?」

 

 不意に、移動を止めた。

 いや、止まらざるを得なかった。

 右足―――

 

 右足首が、地中に埋められていた“機械人形(オートマタ)”の両腕に挟まれていた。

 

 人間離れした膂力と耐久性を誇る『自社の製品』の、黒い全身鎧の一部である籠手に、左右から―――がっちりと。

 それもひとつではなく。

 キリシマの、阻みようのない巨大な足首を、いくつもいくつも生えてくる手が捕まえ、捉えている。

 まるで、それは船を遭難させる怪談に出てくるような光景だ。

 皮を破り、肉に食い込み、

 骨に届き、血が流れ出す。

 

「……ナ、ナンダコレハ!? ドウナッテヤガル!?」

 

 どうして、こんなものが?

 いや、どうしてこんなものに捕まっている?

 拘束を剥がさんと踏ん張りを利かすよう、反対側の左脚を、とりあえず、後ろへ引こうとし―――

 

 そして後ろに引いたところに。

 またも、機械人形。

 同じように―――足首を挟まれた。

 

 そして、見た。

 先に見たその人影は―――黒の全身鎧をまとう機械人形のものであることを。

 

「……っ!」

 

 その衝撃に―――思い出す。

 この金魚鉢と言われる無人島に、第四真祖たちを閉じ込めてから、威力調査で機械人形の兵団をそこへ向かわせていた。それは全滅して、あの学生らが第四真祖であることが実証されたわけだが―――

 

「ダガ、コレハ俺タチノ道具ダ。ソモソモ、戦争用ノ機械人形ダガ今ノ俺ヲ縛ルヨウナ力ガアルワケガ―――!」

 

 そこで―――気づく。

 

 『黒』シリーズ。

 それは<黒死皇>の血を引き、“完全な死者蘇生”すら可能とするほど死霊術(ネクロマンシー)を極めている。そして、この戦争用の機械人形は起動コアに『第一非殺傷原則(ひとをきずつけてはならない)』を迂回するために、“死霊術の術式を刻んでいるのだ”。

 ならば、もう話は分かったようなものだ。

 あの<黒妖犬>が、追手として送られてきた機械人形を、ただ撃退するだけではなく、自戦力に取り入れて、トラップとして再利用していた―――己が魔術とその超能力で強化させて。

 

 と相手の狙いまで思考が至った時。

 キリシマの視界がふっと、影を差した―――月明りに雲がかかったという感じではない、もっと露骨なスピードで。一瞬それに勘付いて、上方を確認するまでもなく、掴まった足を千切り離して、キリシマはその場から、跳ぶように前に転がる。

 

 そして、刹那に、巨人の大太刀の一撃の如き勢いで椰子の大木が叩きつけられた。

 

「―――ッ!」

 

 森にある蔓とよくしなる椰子の樹木を使って作られたトラップだ、

 足を引っかけると作動する簡単なタイプである。よくしなった椰子の先には尖らせた木の枝が埋め込まれており、それが猛烈な速度で獲物を襲うようだ。

 間一髪で躱せたが、地雷の機械人形ばかりに気を取られ、頭からの気配、空気の流れに反応するのがもう少しばかり遅かったら危ないところだった―――と。

 思ったところに、二段構え。

 跳ぶように転がった先は、落とし穴だった。

 子供の悪戯としてももう成立しないような、あまりにも原始的なトラップ―――だが、二段構えの二段目としては、これ以上なく有効だ。

 

「……クゥ!」

 

 両手で突っ張って、この巨大な重量を支え、落下を防ぐ。

 それほど深い落とし穴ではない。

 カモフラージュしやすいよう、元々あった自然の窪みを利用したものだろうが―――しかし、深さなど問題ではなかった。

 落とし穴の底には、尖った竹が配置されていた。

 斜め向きに先端を切断された、竹槍のような。

 

「クソッタレ! BBサヘヘマシナケリャ、コンナ子供騙シ無視デキンノニ!」

 

 脚は、機械人形に持っていかれて、再生こそ始めているが、やはり、遅い。剣巫にもらった一撃で、女吸血鬼の内部が狂わされている証左だ。それでも遠慮なく、生命力を吸い上げる。

 しかし、休む間も与えず、次から次へと畳み掛けてくる。

 なんなんだ……どういうことなんだ?

 

 この無人島を、仇を迎え撃つ場にする、と王女の指揮で定めたその時から、ただの森を、“絶対必殺の狩場(キリングフィールド)”へと変えていた。

 かつて、蔓だけで巨人の眷獣を縛り上げた強靭な拘束へと力を上げたその天部に匹敵する超能力。

 たまたまそこにあった材料で仕掛けたすべての(トラップ)には、その『香付け(マーキング)』が施されて強化されている。

 その自然物強化の適用範囲に、機械人形たちに持たせていた銃機がなかったことが幸いと見るべきか。

 なにせ、両脚は復元途中で、両腕は自重を支えるのに忙しく、今のキリシマは頭しか動けない恰好の的で―――それを逃すような相手ではない。

 

 

 

「チェックメイトです、獣人」

 

 

 

 ああ、その水色の瞳で冷酷に敵を見下すその様は、美の女神(フレイヤ)の再来と讃えられるのも納得の美貌だ。

 

「ダカラ、ソイツハ豆鉄砲ダッツテルダロ」

 

 挑発的に、キリシマは笑った。

 これが好機だとノコノコとオモチャを片手に出てきた王女を嘲笑う。

 脚が完全に復元すれば、すぐにでも飛び掛かってやる。

 

「コッチハ動ケナイカラ、ヨク狙エヨ、オ姫様」

 

 ―――と、構えているその拳銃が先のものとは違うことに気づく。

 美しい装飾が施された銃把に、拳銃としては長めの銃身に、刃渡り15cmほどの銃剣(バヨネット)が装着された単発式のそれは、『呪式銃』。

 

「喰らえるものなら、喰らいなさい」

 

 『呪式銃』は、銃口が丸見えな構造で、キリシマはそれが見えた。

 ラ=フォリアが、『呪式銃』に装填したのは宝石を埋め込んだ黄金の弾頭。カートリッジには奇怪な文様が描かれている。

 

「バク―――」

 

 前と同じで、大口を開けていたたそこへ突き刺さるは閃光。

 琥珀金弾に血の狂獣の漆黒の体毛さえ貫通するほどの威力はない。だが、呑まれた弾頭は瞬時に圧壊し、無数の破片と化してその口腔で四散した。

 

 今、『呪式銃』に装填されたのは、『呪式弾』

 貴金属製のカートリッジに膨大な魔力を封じ込めた特殊な弾丸で、現存する弾丸は極めて少なく、それらを撃ち出せる銃となるとさらに少ない。ごく一部の王族だけが所有し、使用できる桁外れに高価な代物のである。しかしその威力は絶大だ。

 

 <模造神獣>の頭部を跡形もなく弾き飛ばして、力の抜けた胴体は竹槍の針地獄と化した落とし穴に串刺しにされた。

 

 

 

「やったのかー?」

 

「おっと、それはフラグですよ」

 

 と王女が敵討ちの裏方を務めていた銀人狼に注意をする前に、

 

 

 

「―――ナメテンジャネェゾガキ共ッッ!!!」

 

 

 

 爆発したように、落とし穴が弾けた。

 辺りの樹木を吹き飛ばし、多量の土砂を撒き散らし、再生から一気に体を膨張させて『血に飢えた漆黒の狂獣』はその巨躯を持ち上げる。

 

 ついに6mを超えた。

 

 そして、その体躯は最早、鋼鉄を裂く鉤爪では傷ひとつつけられず、また、死からも再生する尋常ではない超自然治癒能力。

 

「コレデ、テメェラガチェックメイトダ!!」

 

 もはや、罠があろうと関係ない。

 立ち塞がった機械人形たちさえその巨腕でその足元の大地ごと削り、薙ぎ払われる。

 猛然と腕を振り回し、樹木を切り倒しながら迫るキリシマに、相対するは、やはり銀人狼。

 

「喰ラッテヤル喰ラッテヤル! 金ノ卵、泥ガ呑ミ込ンデヤル!!」

 

 絶体絶命の窮地であった。

 素人目でも、十中八九、もはや罠で止めを刺せなかったこちらが喰われるだろうとは予想がつくだろう。クロウ自身も劣勢、危機は大いに認めるところではある。

 <神獣人化>という無茶から、身体はまだ完全に回復していないのだ。本調子とは程遠い。

 だが、諦めはしない。

 少しは休めた。それに、この敵を打倒する策も思いついた。

 

「ま。一発打てるかどうかだな」

 

 短く言って。

 限りある生命を磨り減らしつつ。

 限りなき意志だけを頼りとして。

 銀人狼は、その時、その声を聴いた。

 

「即興ですが、合わせなさい」

 

 “逃げてなければならない”。

 自分を盾にしようが彼女は自身が生き残る道を選ばなければならない。

 だが、これは錯覚の類ではない。

 確かな気配(匂い)は背後にあって、その凛とした美声は直接、耳朶を震わしていた。

 これは、王女が示す不退転の覚悟であり、その背水の陣に挑ませるほどの絶大な信頼の顕れだ。

 この刹那、残り僅かであった体内の気力は瞬時に増大した。

 

 <ヴェルンド・システム>

 王女がその身を精霊炉の代用して発動させたのだ。

 本来、<ランヴァルド>級の母艦に供えられた精霊炉がなければ、その霊格を強化する戦術支援はできないが、アルディギア王家の女子は皆、強力な霊媒としての素質を秘めている。

 

 

 

「―――我が身に宿れ、神々の娘。豊穣の象徴。二匹の猫の戦車。勝利をもたらし、死を運ぶものよ」

 

 

 

 精霊の寄坐(よりまし)とした王女の身体から膨大な霊力が解き放たれ、王女の髪色と同じ銀人狼が身体にその“香”を纏う。

 媒体となる宝剣がなくても、その身を媒体とする。

 そう、この身体こそが、創造主たる魔女の最高傑作であるのだから、宝剣に刻まれる魔術術式より、遥かに高度な、そして、生きた魔方陣なのだ。

 

「なるほど、“猫”だな」

 

 全身に満ち渡る清浄な香気を感じながら、伝わる意思に頷く。

 

 戦車を引く二匹の猫。

 揃えられたその双掌。

 

 瞬時にその構えを選択し、それが正しいと証明される。

 両の拳に青白い輝きが炎となって灯されたのだ。

 魔族ならばその身を焼くであろう精霊の聖光であるが、彼は『混血』、それも仁獣覚者に等しき覚醒を果たしたばかりの。

 故に、今彼の両手は、聖剣ならぬ聖拳。

 

「了解なのだ。叶瀬のおかげで猫の動きはばっちりだぞ―――にゃん」

 

 迫る狂獣に、構えは、そう。

 かつて、見習い時代であったが剣巫と舞威姫が二人がかりで挑み、指一本さえ触れられなかった武術教官――その<四仙拳>と同じ<仙姑>より学びし、仙術と武術を複合させた『人間』の技だ。

 

「―――■ス■ス■ス■ス■スッッ!!!!」

 

 それの前に立てば、列車の衝突事故より悲惨な目に遭うだろう。

 すでに王女を生きて捕えるなどと考えてはいまい。

 当たって、砕く。

 その身が砕けようが再生する、不死をあてにした捨て身の特攻。

 

 対し、こちらも特攻。

 ただしこちらは決死の献身が成す一打。

 

「―――にゃにゃっ!」

 

 暴走列車と化した血の狂獣の身体を、その聖拳たる戦車の双掌が受け、止めずに絶妙に受け流して、それらベクトルを異様なうねりで己に引き込む。

 そう、今、美の女神の加護を受けたこの手は、戦場をかけて死魂を駆り集める二匹の猫だ。

 半歩。

 懐へ沈み、大地を踏み締めた震脚の十全に練り込まれる勁、その全身を通って両手に集う。

 そして―――狙うは、一点。

 

「にゃにゃくっ!」

 

 擬獣武術、その十二種あると言われる象形拳のひとつ、虎形―――『虎撲子』

 殺人の罪に収監された『半歩崩拳、あまねく天下を打つ』と言われるほどの武の達人が、牢獄で両手足に枷を付けられたまま、虎形拳を練り上げたことで編み出したと逸話があるその絶招の一手。

 

 そして、“血”の芳香を放つその力の源を、嗅ぎ分けていた。

 双掌が穿つは、その紅い刺青――『血の主従』として中核たる右の4、5番目の肋骨に当たる部位。

 

「、!?!?」

 

 漆黒の狂獣が、痙攣する。

 これは返し技を喰らったせいではない。あの『呪式弾』を脳天に食らった時ほどの殺傷性はないはずだ。

 だが、これが己の致命打と悟る。

 

 そう、不死の再生能力が働く気配が、感じられない。

 

 原因のわからない悪寒。

 息を吐こうと喉をあげる狂獣の狼口。

 知らず、あえぐように己が腹を穿つその手にもたれかかる。

 そして、その巨体を支える銀人狼の両手に紫電が走り―――

 

「にゃっにゃにゃんにゃんにゃー!」

 

 零距離からの気功砲。

 それは巨体を呑みこみ、銀人狼を発射台に漆黒の狂獣は天高くに突き飛ばされた。

 <仙姑>より教わりし、絶招『虎撲子』から、<黒死皇>の編み出したる奥義『白虎衝撃波』―――人間と魔族、『混血』の合わせ技。

 名付けて、

 

 

「これぞ、白子猫閃光魔弾――長いから、壬生の秘拳『ねこま()ん』! なのだ!」

 

 

 聞けば、隠れマスコット好きな獅子王機関の剣巫が猛抗議するかもしれぬが。

 巴投げのように大きくその真後ろへと飛ばされたその胴体が背中から落下。大きく、森が揺れる。

 ガハッ、と吐血をする漆黒の狂獣。立ち上がる気配はない。

 それに、薙ぎ払われた命はない。

 決着。

 『血に飢えた漆黒の狂獣』は敗北した。

 

(……なんで……再生……しない)

 

 地面に埋まった後でも、キリシマは自分に起きた出来事を把握できなかった。

 魔族の天敵たる聖拳に迎え撃たれて、『血の従者』の契約に重要な部位をやられ、衝撃波で吹き飛ばされて地面に墜落した。

 そこまでは確認できる。

 通常の動物、いいや魔族の中でもタフな獣人種でさえも、それが行動不能は間違いのない、致命傷であるだろうとも承知している。

 だが漆黒の狂獣にとってはどうでもいい問題のはずだ。

 脳天に心臓も食い破られても、瞬間的に再生する不死の力があるはずだ。

 どれだけ派手な技でやられようとも、結局治ってしまうのだから、小石に躓いたのと変わらない。

 なのに、その傷が復元しないという異常。

 勝者たる銀人狼は種明かしに語る。

 

「オマエに、オレの生命力(におい)を撃ち込んだ」

 

 『香付け(マーキング)

 自然物に己の生命力を植え付ける発香側の超能力の応用。

 その適用には、“生物も範疇に入っている”。

 

「草花は水をあげ過ぎると枯れてしまうように、生物は生命力を与え過ぎると腐ってしまうのだ」

 

 本来は、死体を対象とする死霊術。

 応用された超能力を生体にぶつければ、その生体組織は破壊される。

 そして、聖拳に宿るは、正なるもの。

 その聖拳で強化された“正”の生命力の過剰供給は、吸血鬼からの“負”の生命力を打ち消した。

 そして、肋骨が再生せず、腐ってしまった以上、『血の従者』の契約は敗れて、無限の“負”の生命力がなければ、<模造神獣>を維持できず、『血に飢えた漆黒の狂獣』は、一気に人形態に戻った。

 

「俺は、次代の獣王……<黒死皇>になる、はず―――」

 

「悪いが、<黒死皇(それ)>はもう蘇らせないのだ」

 

 キリシマはそのまま意識を失う。瀕死の重傷であることには変わりはないが、辛うじて息はしている。

 

「ちょっとだけ、休むの、だ―――」

 

 それよりわずかに後、クロウもまた渾身で使い果たして、仰向けに倒れた。

 唯一、この場に立つ王女は裁かれた罪人にはもはや目をくれず、この期待に見事に応えてくれた少年の脇に腰を下ろす

 

「いいですねやはり。専属の従者としてほしいですこの子」

 

 言って、そっとその頭を優しく撫でてから、ラ=フォリアは空へと目を向けた。

 三対六枚の翼を広げてそこに待っているのは、<模造天使>。

 神気に護られた人工の天使に対抗できるは――夏音を救えるものがいるとすれば、それはただひとり―――

 

「あなたも信じてますよ、古城」

 

 自分の首筋に残る傷を愛おしげに撫でて、王女は花のように微笑んだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「苦しいか、叶瀬」

 

 その血の涙を流す天使に、古城は静かに問い掛ける。

 既に二人の後輩の活躍で、真祖と天使の対峙を邪魔する者はいない。

 

 わかってる。

 この少女は、あの猫たちを捨てた無責任な飼い主のことでさえ、一度だって責めたりはしなかった。

 

 自分の本当の両親のことを知らず、生まれ育った自分の居場所をも失った。

 孤独と悲しさを知りながら、彼女は他者に優しかった。

 

 それが彼女自身の先天的な資質なのか、あるいはあの修道院で育まれた愛情の成果なのかはわからない。けれど、その気高い有様は、きっと王族を名乗るに相応しいものだと確信している。

 

 そんな少女が、誰かを傷つけることなんて望むはずがない。

 たとえ、相手が神に呪われた吸血鬼の真祖であったとしても。

 

「神と呼ばれている連中が、傲慢で偏狭で残酷で、自分の気に入らないものを、滅ぼさずにいられない存在っていうのなら、お前をそんな奴らの使いっ走りにさせたりしない」

 

 天使とは意思を持つ存在ではなく、熱や光と同じ、ただの現象だ。

 酸が金属を溶かすように、

 炎が木々を焼くように、

 ―――天使は魔族を攻撃せずにはいられない。

 その前に立ち、この座を引き摺り下ろさんと挑むのならば、洗礼を浴びる。

 

 天翼の眼球より、降り注ぐ光の剣。

 それは古城を滅ぼしかけた神気の塊であり―――しかし、天敵に当たる前にそれらは“空間ごと”消失する。

 

「<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――!」

 

 その左腕より迸る鮮血は膨大な魔力の波動へと変わり、凝縮されたその波動が、実体を持った召喚獣の姿へと変わる。

 新たに得た、別次元にある天使を克服し得る眷獣に。

 

 

 

「―――疾や在れ(きやがれ)、三番目の眷獣<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>!」

 

 

 

 それは、霊媒の血を捧げた二人の乙女の槍と髪の色と同じ、艶やかな銀色の鱗を持ち、

 ゆるやかに流動してうねり螺旋状に絡まる蛇身と、鉤爪を持つ四肢に禍々しい巨大な翼、そして、尾がなく代わりにその前後二つに顔がある。

 すなわち、雪菜とラ=フォリアの血で目覚めたのは、双頭の龍だ。

 

Kyriiiiiiiiiiii(キリィィィィィィィィィィ)―――!」

 

 <模造天使>の六つの眼球の虹彩が揺れた。

 双頭龍が放つ異様な気配に、かつてない危機感を抱いたのか。

 先に増して、黄金の剣群を天使は乱れ撃つ―――しかし、それらは二つの巨大な咢に全てを食い尽くされた。

 どころか、高次元の神気を纏う――この世界に実在しながら、別の次元の属性をもつ――天使に轟然と襲い掛かった。

 どれほどの破壊力を誇ろうが、同じ次元に立つことができねば、異世界に属する天使を傷つけることはできない―――その筈だったが。

 

 双頭龍は、けして触れることの敵わない天使の翼を、周囲の黄金の光ごと食い千切った。鮮血の代わりに光を散らして、<模造天使>が絶叫する。

 

 神がいたのなら嘆いただろう。

 ……ああ、あと少しで完成していたものが、この世の理より外れた不条理に混乱している、と。

 

「<模造天使>の『余剰次元薄膜(EDM)』を、喰った……だと!?」

 

 呆然とする賢生の前で、双頭龍は天使の証たるその翼を食い散らかしていく。

 賢生はようやくそれを覚る。

 あの天使をも喰らう第四真祖の眷獣の能力は、次元喰い(ディメンジョン・イーター)。すべての次元ごと空間を喰らい、咢に呑まれればこの世界から消滅する、雷光の獅子や衝撃の双角獣よりも、凶悪さで群を抜いた災厄の化身。

 いわば、世界そのものに、回復不能のダメージを与える――創造主たる神にとっての天敵であり、呪わしき最悪の眷獣なのだ。

 

 そして、高次元の防護が喰われたその瞬間に、涼やかな刃鳴りの音ともに飛び出す銀の残像。

 

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――」

 

 

 制服姿の小柄な少女が、銀の獣に跨り、古城の前に現れる。

 女吸血鬼との戦いで足を負傷してしまった彼女は、追いついてきた銀の人狼の背に乗り、空高き場所にいる天使へ挑む。

 

「破魔の曙光。雪霞の神狼。鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!!」

 

 銀の騎獣を駆って、祝詞を紡いで輝き増す銀の槍を振るう。

 双頭龍により高次空間の防護膜はない、<模造天使>。それが黄金の神気を放ちて威圧するも、再び、一瞬だけ金色に染まった人狼がそれを相殺し―――剣巫は、薄皮一枚、その肌を裂いた。

 そう、夏音の肌に描かれた魔術紋様だけを狙い。

 あらゆる結界を打ち消す<雪霞狼>は、<模造天使>の霊的進化の術式を消滅させる。

 そこへすかさず、

 

「―――喰い尽くせ、<龍蛇の水銀>!」

 

 天使より解放された夏音は、本来の人間の姿を取り戻し、三対六枚の翼は抜け落ちる。眼球の形をしたその霊的中枢は核たる少女を失い、暴走しかけるも、双頭龍が丸ごと呑み込み、この世界から消失させた。

 ようやく腹が満たされた、と言わんばかりの咆哮を残して、役目を終えた双頭の巨龍は宿主の血に戻る。

 意識を失くして裸のまま落ちる夏音を、雪菜が受け止め、二人を乗せたクロウが落下の衝撃を殺そうとやわらかく地面に着地する。

 それを見て、古城は一息安堵を入れると、残るひとり、賢生を睨みつけた。

 

「―――終わりだな、オッサン」

 

 その勝利宣言に、魂の抜けたような表情を浮かべていた賢生は頷いて、認めた。

 

「ああ、そのようだ」

 

 その様子に、古城は密かに拳を作っていた右腕を無言で解いた。

 

 それが娘の望まざることであっても、確かに賢生は幸せを祈っていた。夏音の無事を案ずる瞳には、虚偽のない愛情がある。

 だから、後輩の言うとおり。

 娘と話し合い、その裁きを決める、それがこの男に相応しい罰だ。

 

「夏音……」

 

 吹雪は止み、木漏れ日のような煌めきを持った粉雪が静かに、南の島に舞い落ちる。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「暁古城おおおおおおうっ……!」

「き、煌坂? ま、待て、落ち着け。その弓はアレだろ、ヤバい奴だろ―――!?」

「動かないで欲しいんだけど、このケダモノ! あなたは私が目を離すとすぐこれだから!」

「だーっ、だから少しは人の話を聞けって!」

 

 

 それから間もなくして、無人島に沿岸警備隊(コースト・ガード)の巡視船が到着。

 そこに古城たちの行方を探していた紗矢華も乗船しており、雪菜の姿を見つけていの一番に彼女に抱きついて、その無事を確かめた。その際、王女殿下ラ=フォリアとも顔合わせて、案内役としても胸を撫で下ろす。

 だが、そこでバレた。古城が雪菜とラ=フォリア――紗矢華の大事な妹分なルームメイトと何かあれば外交問題に発展しかねない護衛対象に、“吸血行為”を働いたことが。

 そうして、古城は、獅子王機関の呪術と暗殺の達人に剣を持って追いかけられているわけであるが、その監視役の雪菜は沿岸警備隊に事件の首謀者、意識不明のベアトリスとキリシマ、そして、賢生の引き渡しをしており、危機に気づいていない、と言うより、無視している。ラ=フォリアは意識の目覚めた夏音と話し合いをしており、残るは、後輩………

 

「ご主人!」

 

 最終的に<模造天使>を倒したのは古城ではあるが、それに劣らぬ功績を挙げたとも言ってもいいだろう。飛空艇での犠牲者を最低数に抑えられたのも、王女殿下が無事に絃神島に辿り着けたのも、一攻魔官の助手には出来過ぎたくらいだ。

 けれども。

 疲労困憊の中、主を見つけた犬のように真っ先に駆け寄るクロウ。

 それに護岸警備隊と共に無人島に上陸した南宮那月は、重く、細い溜息を吐いて、

 

「森に……帰らなかったのか」

 

 その第一声に、クロウはわけがわからないようにこてんと首を傾げる。

 それに雪菜、そして古城と追っていた紗矢華も気づいて足を止めて視線を集中させる。

 

「帰りたければ帰れ。お前は必要ない……」

 

 投げつけるように言う。

 それでも、クロウは動かなかった。

 

「馬鹿犬」

 

「―――オレは、行かない」

 

 振る振ると、首が横に振られた。

 

「オレは、ご主人の眷獣だ」

 

「………」

 

 那月が言葉を失う。

 それは、南宮クロウがここまで力強く、主に逆らったのは初めてだからだ。

 

「オレは、ご主人のいるこの島にいる」

 

 もう一度、クロウが繰り返した。

 とても強い、意思のある、物言いだった。

 

「………………………お前は……」

 

 那月が長い沈黙の後、何かを言いかけた時、

 

「いらないんでしたら、この子、わたくしにくれませんか?」

 

 笑顔で割って入ったのは、先ほどまで夏音と話し合っていたラ=フォリア。

 古城たちはそれを唖然と見る。自重しろと突っ込むこともできない。雰囲気的に入りこんじゃいけないようなところへ、悠々といけたことにもはや賞賛すべきかとさえ思う。流石は、王女様。

 ただし、古城は、世界最強の不老不死の吸血鬼だとしても、今の女王様な担任の前に死んでも立ちたくない。八つ当たりでサンドバックにやられかねない。

 

「わたくしとこの子、主従として相性が良いみたいなんです。初めてながら戦闘も中々の連携がとれました、ええ、馬鹿犬ではなく、『犬のうち最高のもの(ガルム)』と呼ぶに相応しいとわたくしは思います」

 

 なんて、一国の王女から神殺しの巨狼とも同一視される最高の犬に称された当人は、『がむ……? 噛んでも食べちゃダメだろ?』と疑問符を浮かべている。

 

「それに今回の件で我が『聖環騎士団』の騎士団長も優秀な実力を認めることでしょうし、わたくしのお祖母様もとても気に入っているのです。ですから―――是非」

 

 と最後は、真剣に強めて問われる。

 あながち冗談ともいえない空気に、流石の古城も割って入ろうと、決死の覚悟を決めたところで、

 

「……ふん。随分と気にいられたようだな。第一王女に指名されるとは出世したじゃないか」

 

 吐き捨て、船へ乗り込もうとしたところで、その足が止まった。

 日傘を差し、背中を向けたまま、那月がぴたりと停止していた。

 

「ご主人?」

 

「…………………………………………………………………………」

 

 長い。沈黙があった。

 それから、日傘に隠れる背中はこう告げた。

 

「来い、クロウ」

 

「………!」

 

 ぱあっと、クロウの顔が輝いた。

 

「ご主人ご主人、オレ、いっぱい特訓して、お茶を淹れられるようになったんだぞ!」

 

「調子に乗るな馬鹿犬。そんなのはサーヴァントとして修得して当然の技能(スキル)だ……まあ、後で厳しく味見(チェック)してやるから覚悟しておけ」

 

 とてとてと走り、その斜め後ろに付いた。そして、おっと、と言い忘れていたことに今気づいた風で、クロウのいる方向とは反対側に向いて、自らの眷獣に背を見せるよう――顔を見せぬよう、那月が振り返り、

 

「残念だが、腹黒王女。コイツは私の眷獣だ」

 

 騎士団入りは諦めるんだな、と言い残して、そのまま二人が船に乗り込んだ後、ラ=フォリアはおやおやとその顎を撫でている。

 

 

 そうして、船が絃神島に到着する際、古城はラ=フォリアに話しかけた。

 

 

「ホント、度胸があるというか。那月ちゃんを焚き付けるための冗談でも、死ぬかと思ったぞ」

 

「あら? 冗談ではありませんよ。南宮那月に引き取られることになった叶瀬夏音(おばさま)は王族としての生活を望んでいないと断られてしまいましたし、ならば、こちらもあの子を貰い受けないと割に合いません」

 

「トレードかよ、ったく」

 

 呆れて嘆息する古城に、優雅に微笑むラ=フォリア。

 直々の誘いを断られてしまったけれども、不快よりも愉快がどうしようもなくこぼれてしまったという風でもあった。

 とはいえ、彼女もこれから王族の義務を果たすために、まずは飛空艇襲撃の生還者たちのいる病院へ慰問する予定であるが、これほどの事件に巻き込まれたとなってはお忍びの訪問もできなくなって大変であるのだと。

 

「―――お別れは申しません。あなた方のおかげで、無事にこの地に辿り着くことができました。この縁、いずれまた意味を持つときがありましょう」

 

 気品あふれる口調でそう言って、王女は古城たちの前に出た。

 まずは雪菜を抱き寄せて、華やかな映画のワンシーンのように彼女の左右の頬に順番にキスをする。少しびっくりしたような表情でそれを受ける雪菜。

 それから、パンパンと手を叩く。

 

「呼んだか?」

 

 躾の成果がしっかりと出ているようで、後輩のことが少し心配になる古城。

 やってきたクロウに王女はくすりと笑いながら、ポンポンとその頭を撫でて、『叔母様のこと、よろしくお願いしますね』と雪菜と同じように左右の頬に順番に。

 

 そして最後に、唇の接吻という爆弾を世界最強の吸血鬼に残して、王女は颯爽と去っていった。

 

「―――先輩」

 

「ま、待て。今のは俺は悪くないだろ。あれはたぶんちょっとした挨拶で―――!」

 

 獅子王機関の剣巫と舞威姫―――は王女の案内についていけざるを得なかったが、薄らと殺気を放ち、ギターケースに手を伸ばす雪菜に戦々恐々の古城。

 そこへ追い打ちをかける―――

 

「古城君!」

 

 王女と入れ替わりに飛んできたその声に古城は思わず頭を抱えた。

 この騒がしい足音の発生源は、長髪をショートカット風にまとめた小柄な中学生。古城の妹、凪沙だ。

 

「ね、ね、今の誰!? 夏音ちゃんそっくりだけど外国の人だよね。すごく美人ていうか、王女様みたいっていうか。なんであんな人と知り合いなの。何で古城君にキスしてたの」

「な、凪沙!? おまえ、なんでこんなところに……!?」

 

 妹から早口で絶え間なく質問を浴びせるように受けて古城は半ば放心しつつも、答えようと口を開いた―――そのとき、

 

「っていうか古城君何処に行ってたの―――」

「そのだな、これは」

「―――あーーーーっ!! クロウ君!!」

 

 するり、と古城の隣にいる少年を見てすぐ、横に抜けて妹は後輩の方へ行った。

 

「凪沙ちゃん、お久しぶりなのだ」

「久しぶりじゃないよもう! ホント何日も学校休んでてどうしたの!? 凪沙すっごく心配だったんだよ! もしかして入院してるのかもって! でも、健康そうだし、クロウ君怪我病気とかしそうにないけど」

 

「んー。『トクベツジューヨーゴクヒ任務で北欧から王女様の護衛をしていたのだ』と言えって、ご主人に言われたのだ」

「えー! じゃあ、さっきのってやっぱり本物の王女様だったの!?」

 

 ……なんだか寂しいものを覚える古城。

 よりにもよって最悪の場面を見られてしまい、どんな言い訳をすればあれを誤魔化せるのか、今回ばかりはまったく思いつかず、だから後輩に注意が逸れたことは助かったんだけれど。

 あれ? あいつら距離近くないか? とか。

 ちょっと抱き着きそうな勢いだぞ? とか。

 兄は思うわけで。

 

「おい、―――」

「仕事だから仕方なかったけど、でも、凪沙との約束! 一緒にレジャー施設に遊びに行くって指切りしたのに、もうチケットの期限切れちゃったよ!」

 

 ―――おい。

 

「むぅ。ごめんなのだ、凪沙ちゃん。お詫びに何でもするぞ」

「じゃあ、今度繁華街で今人気のケーキバイキングがあるからそれを凪沙に奢って。それで許してあげる」

 

「うん。わかったぞ」

「クロウ、ちょっとおま―――」

 

 ブラザーストップをかけようとした古城だが、そこで凪沙の背後から現れる人影に気づく。

 今の今まで大切な約束を忘れていた古城は、とてつもなく大事な用件を不意にされた相手の邪気のない笑顔に、瞬間冷凍されたように顔を青褪めさせた。

 

「軍隊がらみの企業に誘拐されたっていうから心配してたんだけど」

 

 どういうわけか気合の入った私服姿の同級生、藍羽浅葱が古城を愉快そうに見つめている。

 つまり、絃神島を離れている間に、浅葱が紗矢華と結託して、こちらの現在情報を調べ上げたのか。

 そして、この港に来ると知り、心配する妹と一緒に来て―――妹と一緒に、“それ”を目撃した、と。

 

「余計なお世話だったみたいね。可愛い外国人とも随分仲良くなったみたいで」

 

「違う! いや、違わないけど、俺と彼女はお前が考えてるような関係じゃないから!」

 

 と古城は主張し、雪菜にも同意権を求めるが、

 

「そうですね……確かに、私が思っていたよりも、ずっと仲良くなっていたみたいですね、先輩と彼女は」

 

 素っ気なく突き放されて、古城の目の前は真っ暗になる。

 そして、その横で、運良く、そのやり取りを見られてなかったらしい後輩は妹と何やら予定について話し合っているという。

 まさに、紙一重で天国と地獄は別けられたらしい。

 

「まあいいわ。時間はたっぷりあることだし、絵のモデルでもやりながら、ゆっくり聞かせてもらおうじゃないの、その理由とやらを」

 

 差し向かいで絵のモデルになるというのは、浅葱が描き終るまで逃げることは許されず、延々と会話を続けなければならないという

 モデルとは、尋問の間違いではなかろうか。

 

「まさか嫌とは言わないわよね。おかげでこっちは俄然、創作意欲が湧いてきたし」

 

 神の御使いにさえ逆らった世界最強の吸血鬼は、同級生の頼みを断ることができず、改めて己の不幸を呪った。

 

 

???

 

 

「―――では、『計画』を変更する。10万の生贄ではなく、<第四真祖>の力を使い、<監獄結界>の封印を破る」

 

「まあ、よろしいですわ<蒼の魔女>。わざわざ愚民どもを集めるのは面倒でありますから」

「10万の恐怖と絶望を味わえないのは残念ですけど。手間を省けるのならよろしいかと」

 

「<空隙の魔女>は、他の<図書館(LCO)>の分隊がその動きを封じる手筈だ。しばらくは、<監獄結界>から出なくなり、魔族特区にも空間の歪みによる混乱が生じるはずだ。

 ―――だが、絃神島には『墓守の番犬』がいる。眠りについている主に異変があればすぐに気づくだろう」

 

「たかが魔族と人間の雑種。さほどの障害とは思えませんわ」

「ええ、私たち、ケダモノの扱いは心得ておりましてよ」

 

「君たちは忘れているのか? <黒妖犬(ヘルハウンド)>はボクの母親と南宮那月と肩を並べるほどの大魔女の最高傑作だ。<守護者>どころか、<堕魂>でさえも喰らうと言われている。<空隙の魔女>と<第四真祖>と同じく、まともにやり合うのは避けるべきだ」

 

「ならば、どうするおつもりで<蒼の魔女>」

「まさか、我らの『計画』を諦めるつもりですの」

 

「それこそまさかだ。<黒妖犬>は大魔女の創った魔導書に等しい魔女の叡智の結晶だ。そして何より、<黒妖犬>は、<監獄結界>とも繋がっている。つまり、うまく利用できれば、捜索の手間が大きく省けることになるんだ。だから、彼をボク達<図書館>の手中に入れる、この『No.013』を使って」

 

「『裏切り』の魔導書!? なるほど、ナツキから使い魔を奪うのね!」

「しかし、その契約を実行するにはまず接触する必要がありましてよ」

 

「彼が、古城――<第四真祖>とその親族と親しい間柄なのはわかってるからね。……あまり使いたくはないけど、“人質”にはあてがある―――だから、キミたち<アッシュダウンの魔女>は手を出すなよ。彼らはボクの持ち物だ。ボクがやる」

 

「ええ、おまかせしますわ<蒼の魔女>」

「ただし、できないのなら、私たちメイヤー姉妹が」

 

「やるよ。それが悪魔と契約した、ボクの存在意義(プログラム)だからね」

 

 

 

つづく

 

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

「―――どうぞ、なのだ、ご主人、アスタルテ」

 

「……………」

 

「感想。結構なお点前で」

 

「そうだろそうだろ! 後輩ばっかにやらせるのは先輩としてダメだからな、頑張って覚えたん―――だッ!! ~~~なんで殴るのだご主人っ!!?」

 

「おい、これは何だ馬鹿犬」

 

「なんで怒ってるのだご主人? お茶だぞ?」

 

「ああ、茶だ。茶に間違いはない。ポットとティーカップに淹れられているのは、まさかとは思うまいが、緑茶か」

 

「そうだぞグリーンティーだ」

 

「お前はどこに行っていたつもりだ?」

 

「あっちでは日本文化ブームでな、ニンジャとサムライと茶道が人気だそうだぞ。それにフォリりんももともと欧州ではグリーンティーが主流だったって言ってのだ。だから、古来格式あるお茶なのだ」

 

「あの腹黒王女、馬鹿犬に変な躾けをするだけでなく、余計な屁理屈まで覚えさせるとは……」

 

「指摘。そのポットはコーヒーと紅茶の兼用です先輩。教官(マスター)は、各紅茶に専用のティーセットを使い分けるこだわりをお持ちです」

 

「む。そういえば、ポットとカップが何種類かあったな、なかなか奥深いぞ」

 

「急須と湯呑を買ってから出直してこい、馬鹿犬!」

 

 

 

つづく



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四章
魔女の迷宮Ⅰ


人工島南地区 マンション前

 

 

 前夜祭 当日 深夜。

 

 

『君が、欲しい』

 

 

 その声に反応する。

 薄らと開いたぼやける視界に、いつもよりも五割くらい増しで凛々しく決めてる兄の横顔が映る。

 それが歌劇団の男装の麗人が舞台から観客へ見せつけるよう、半ば覚醒してるが昏倒している自分を左腕に抱くのと逆の右手を伸ばす。

 

『君に誤魔化しがきかないってのはわかってるからね。直球で宣言しよう。

 ―――南宮那月から君を奪う』

 

 ―――妹のクラスメイトの男子生徒に。

 

『  古城君  凪沙ちゃんから離れろ』

 

『安心してくれ  の身体は10万人の  つり合う『計画』の要だからね。もちろん、この子も傷つけたくない。できれば、ね』

 

『お前は、そんなことしないって、思ってたのだ』

 

『だけど、ボクはしなければならない。この宴の間だけでいい……凪沙ちゃんを助けたければ、ボクのものになるんだ』

 

 ……今の状況を客観的に説明すると。

 

 兄が妹を人質に脅迫して、妹の気になる男の子に強引に迫っている。

 

 ……………うん、これは悪夢だ。

 

 こんな女子としても妹としても最低過ぎるシチュエーションは想像もできなかった、というより、したくなかったよ!

 何でこんな夢を見ちゃってるの私!?

 これが兄ではなく、もっと別の誰かであったら、まだマシ……ある意味、女子の憧れるシチュエーションになったかもしれないけど。でも、兄はきつい。

 雪菜ちゃんや浅葱ちゃん、それ以外にもたくさんあんなに綺麗な女の子に囲まれながら誰一人とも恋人関係になっていない古城君だけど、きっと健全な男の子だって思ってたし、隠してるつもりだけどむっつりスケベなのはわかってた。

 

 そう、思ってた。

 だから、まさか、そんな……

 いや、古城君、クロウ君のこと信頼してるし、気にかけてるし、一番仲のいい男子後輩なんだろうなーとは思ってたよ!

 

 クロウ君が自分を慕ってくれる男子後輩だからって、“そっち”にいっちゃってたの!?

 

 ここ最近、ちょっと距離が近いだけであんなに口煩かったのって、凪沙のことを心配してのことではなくて、古城君もクロウ君を狙っていたからなの!!?

 この前のケーキバイキングの時も勝手に凪沙たちの間に割って入るように古城君が同伴して、それを申し訳なさそうに雪菜ちゃんがついてきて、そしたら、慌てて浅葱ちゃんも追いかけてきて、何かついでのように矢瀬君も現れてて、いつのまに団体様になってたりしてたけど!

 それって、もしかして、嫉妬!? 凪沙に嫉妬してたの古城君!?!?

 

『…………………わかった、ぞ』

 

 頷いちゃダメだよクロウ君! お願い、ホント、ここは首を横に振って! 古城君に付き合ってそんな不健全な方向にいっちゃダメーーーッッ!

 

 

 

 暁凪沙は、そのあまりに衝撃的する悪夢のすべてを次に目覚めたときは忘れていた。

 ただ、深層意識的なもので、暁古城(あに)が最()の恋敵だと認識するようになったという。

 

 

モノレール

 

 

 前夜祭 前日

 

 

 『波朧院フェスタ』

 伝統的な民間行事の存在しない『魔族特区』で娯楽や刺激を求める者たちのために、欧米の魔除けの儀式ハロウィンを参考にした人工島管理公社の行政サービス。

 毎年10月の最終週に全島をあげて、花火大会や野外コンサート、そして仮装パレードなど様々な企画が催される、絃神島の一大イベント。

 普段は、『魔族特区』絃神島は、企業や研究機関の関係者及びその家族以外の訪問を認めていないのだが、この祭典の期間中だけは特別に、一般の観光客やジャーナリストたちにも市内に入ることが許可されている。

 日本本島から遠く離れている絃神島の立地条件であるものの、集まってくるその来場者は例年最低でも12万人を超えるという驚異的な数字を叩きだしており、まだ開催前なのに今の絃神島は『波朧院フェスタ』一色のお祭り騒ぎ。

 無論、楽しむのは観光客だけではない。

 彩海学園も前夜祭となるその前日から休校になっており、絃神市内の学生たちも、吹奏楽コンクールや展覧会など部活がらみイベントに参加する者、町内会主催の屋台などに労働力として駆り出される者、バイトに精を出す者、或いは単に客として祭りを満喫する者などなど、スタイルは様々だが、それなりに慌ただしい時期なのだ。

 

 というわけで、この通勤ラッシュも普段より一段と混雑している。

 日々の平穏こそをこの絃神島の誰よりも愛し、そして、この絃神島で誰よりも不安定で危険な魔力源である暁古城は、この熱気と圧迫に少々うんざりしながら、『波朧院フェスタ』関連でほぼ全部埋まっている中吊り広告に目を通している最中、ふとそれが目に入る。

 

「ん……?」

 

「どうしたんですか先輩?」

 

「いや、姫柊」

 

 監視役として一緒に登校している姫柊雪菜の怪訝な眼差しに、古城は目線だけでそれを誘導する。

 その先にいるのは、通学中の女子生徒だ。

 彩海学園の制服の上に真っ赤なフード付きケープを羽織り、下には、『中等部の聖女』こと叶瀬夏音と同じハイネックの長袖シャツを着ている、と常夏の絃神島では中々珍しい冬衣装の恰好で、それが意外とセンス良くまとめられていて、意図的なまでに女の子らしさというか、か弱さを印象付けている感がある。

 そして、ミニスカートから伸びるその脚は服に隠さず露わにしている。瑞々しくしなやかで健康的な艶のある美脚。褐色、それもサロンなどで人工的に日焼けしたものではない天然の肌色。ということもあってか、特に目につく。

 それに、なにか着慣れてないのか、きちんと服を着ているのに、心許なさがあって、妙に視線を吸い寄せられる、と言うか。

 

「なんか危なっかしい感じだな。中等部の生徒か? けど、あんな目立つ格好してる子、あまり見かけたことがない気が済んだが」

 

「はい、私も初めて見ますね」

 

「じゃあ、もしかして姫柊と同じ転入生か……」

 

 人混みの中に埋もれている少女を見て、古城は眉間にしわを寄せた。彼女が立っているのは、逃げ場のない上に目立たない混み合った通路。おどおどと体を縮こませながら気弱そうに俯く彼女の背後に、挙動の不審な中年男性が密着している。

 

「その後ろに立っている男性、もしかして」

 

「痴漢か! 野郎―――!」

 

 えっ!? と雪菜が虚を衝かれるほどの勢いで、古城は男に向かって突進を始めた。正義の味方を名乗るつもりもないし、正義をかたる気もないが、それでも絶対に許してはいけない『悪』がある。年頃の妹を持つ古城にとって、痴漢はその筆頭だ。凪沙も通学に使うこの路線でそんなふざけた真似をする相手など、とっ捕まえて警察に突き出してやらねば気が済まない。

 

「先輩、待ってください! 先輩! もっとちゃんと確認しないと……ん?」

 

 車内に限界まで詰め込まれた人混みを強引にかき分けて進んでいく古城を、懸命に追いかける雪菜はそこで何かに気づいたようにはたと止まった。その間にも直進を続けた古城は、すでに女子生徒の傍まで辿り着き、彼女の太腿に伸びている男の腕を確認。これ以上の痴漢を阻止しようと男の手首に手を伸ばし―――ちょうどその時にモノレールは次駅に到着。

 ドアが開き、満員電車から解放され達乗客たちがホームへ一気に溢れ出し、その流れに古城も巻き込まれて―――目一杯伸ばしていた手の平が、冬衣装の少女の臀部にぐわしと鷲掴みに。

 

「―――ん? んん?」

 

 直感的に、何か違和感を覚る古城。それから、なんとなく確かめるように一度、揉む。

 柔軟性に富む筋肉質なのか、ハリがあってやわらかいお尻。だが、こう、鼻にくるものがない。

 

 しかし、それが何なのかを知る前に、その少女が後ろに回した両手が古城と痴漢野郎の手首を捉えた。

 がっちり、と万力のように力強く。

 

「ぐおぉぉっ!?!? いたっ!? なんだこの馬鹿力!!?」

 

 そのまま古城と中年男性ふたりを冬衣装の少女はそれぞれ左右の手で掴まえながら、電車内他の乗客の邪魔にならないよう、駅のホームまで引きずり出された。

 古城が、その吸血鬼で人並み外れた力を全力で抵抗を試みても、ギシギシと骨を軋ますだけで、全く抜け出せない。

 

「―――ん、痴漢現行犯二名入れ食いで確保なのだ」

 

 困惑する古城の耳元で、妙に聞き覚えのある声がした。声の主は先の痴漢に遭っていた少女のもののはずだ。見上げてみれば、かけている大きめの眼鏡の奥には純金に煌めく瞳。その褐色肌もあってよくその輝きは映える。ケープからあふれ出てる髪の色は金髪で、うっすらと化粧がされているのが何となくわかるが、どことなく見覚えのある顔立ちだ。

 

「お……おい、離せ! 離してくれ! 俺は痴漢じゃなくて、お前を助けようとして―――!」

 

「む。やっぱり、この“匂い”は古城君だったか」

 

 必死に釈明する古城は、その“匂い”という単語でようやくこの“少女”の正体に気づいた。

 遅れて、ホームに出てきた雪菜が、おそるおそると問いかける。

 

「おはようなのだ、姫柊」

 

「え、っと、もしかしなくても、クロウ君、ですよね?」

 

「おう。―――いや、違うぞ、今のオレは南宮クロウじゃなくて、クロミちゃんなのだ」

 

 と言っているが、元気よくクラスメイトに挨拶をするのは、“男子生徒”。まぎれもなく、古城の後輩で、雪菜の同級生の、南宮クロウだ。

 

「で、なにをやってるんだ?」

 

「お仕事だぞ。ここ最近、この電車で痴漢に遭う生徒が多いらしいからな。痴漢撲滅作戦、ずばり『赤ずきん作戦』なのだ」

 

 女装趣味に目覚めたわけではないのはわかっていたが、なるほど。

 

「赤ずきんと言うより、婆さんに化けたオオカミの方だけどな。それでその制服はどうしたんだ?」

 

「浅葱先輩にお願いしたのだ。作戦のこと話したら快くお古を貸してくれて、メイクまでしてくれたんだ。いっぱい親切にしてもらったぞ」

 

「そうか、浅葱が……」

 

 気風がよくて面倒見のいい浅葱の性格なら頷いてくれただろうし、この制服の着こなしに反して着慣れてない感はそういうことか。

 とはいえ、普通は後輩でも、自分の制服を異性の男子に貸し渡したりはしないものだが、このワンコな後輩は、花より団子派、女子よりケーキを楽しむという性格で、そういった意識がほとんどない。それは不快な視線に敏感で男嫌いな獅子王機関の舞威姫にさえも敵意を欠片も抱かせないくらいだ(古城は会うたびに睨みつけられるが)。おかげで、高等部でも先輩のお姉様方からペット的な人気があり、古城も個人的に色々と非常に安心している。

 

「それで、祭りの『女装男子によるミスター美少女コンテスト』ってやつに出るようにってエントリーされたんだ」

 

「あいつ、目的の趣旨がわかってんだろうけど、変な方向に気合い入れてんな……」

 

 金髪のかつらまでして……と半ば呆れる古城。

 かつては地味な黒髪の女子学生は、ある男子学生の何気ない一言でイメチェンして、ファッションに目覚めており、それがどことなく反映されている後輩の装いなのだが、それには気づかない。

 

「おかげで、3人はつれたぞ。古城君をいれたら、4人だったのだ」

 

 『赤ずきん作戦』は成果を出しているらしい。男子にしては小柄な後輩は、声を出すまでは古城も正体に勘付けなかっただろう。

 そこで、古城に対してむっと顔を作ってから、指を立てて注意。

 

「古城君、痴漢はダメだぞ」

 

「だから、違うっつってるだろ。押し出されたせいで触っちまったけど、本当はこの痴漢野郎を捕まえるつもりだったんだ」

 

「でも、しっかりと揉まれた気がするのだ」

 

「それは、反射的につい……」

 

 違和感を確かめようとして……と古城が言い切る前に、ドサッと物音。見れば、学生鞄と楽器ケースを落とした雪菜がショックを受けたように顔を青褪めさせて、悲鳴のような甲高い声を上げる。

 

「先輩、そんな……!?」

 

「待て、姫柊、冗談でもその反応は傷つくぞ!」

 

 割と真剣に抗議する古城。その誤解だけはダメ絶対。それなら、むっつりスケベと蔑まれて、痴漢冤罪にされる方がずっとましだ。下手にそんな噂が広まったら、あの血に執着する『戦王領域』からの全権大使の貴族が歓喜する展開になりかねない。

 

 して、これまでのやり取りに赤の他人でも悟ったのか、わなわなと衝撃の事実に震える中年男性。

 

「お、男の()……?」

 

「う。男の子だぞ」

 

 がっくり、と真実を知った中年男性は何かが折れたように肩を落とす。憐れとは思わないが、同情はする。……いや、ぶつぶつと小声で『これはこれでいい……』と新しい扉を開きかけている様子に、同情の余地はない。そうして拳骨を現行犯の頭に落としてあっさりと昏倒させた後輩は、その近づいてくる“匂い”に真っ先に気づく。

 

「ご主人! それに笹崎師父!」

 

「やっほー、またまたヒットしちゃって大人気ねクロミちゃん、それに姫柊ちゃんも一緒だったり。あと、そこにいるのは暁ちゃんのお兄さん?」

 

 クロウに続いて、古城と雪菜も挨拶をする。

 チャイナドレス風にコーディネイトされた装いで、赤髪をお団子にまとめてる若い女性は、彩海学園中等部の体育教師で、雪菜とクロウ、そして凪沙のクラスの担任の、笹崎岬。

 その後ろから、舌足らずでありながら、妙に威厳のある叱責が飛んでくる。

 

「やれやれ、目立つからあまり騒ぐな馬鹿犬大小」

 

 全身鎖でガチガチに縛られて、恐怖におびえる中年男性を引っ立てている、長い黒髪の女子生徒は、ただ今女装中の後輩の主である―――

 

「え?」

「……南宮先生?」

 

 そう、制服を着てそこにいるのは、南宮那月。彩海学園高等部の英語教師で、年齢は自称26歳。普通ならば、十代の制服を着こなすなど無理があるが、彼女は顔の輪郭も体つきもとにかく幼い。少女、あるいは幼女という表現がよく似合い、一応笹崎岬の先輩教師なのだが傍から見たら完全に保護者と娘。そんな構図に見られるのを嫌ってか、隣に立つとあっち行けと岬を追い払っている。

 

「もしかして、那月ちゃんか? なんだその恰好?」

 

「巡回だ。そこの力の有り余ってる小型犬の方の馬鹿犬はともかく、生徒を痴漢捜査の囮にするわけにはいかんからな。無理を承知で変装したんだ」

 

「いや、無理って……」

 

 どうやら、この数多くの魔族から恐れられている厚着主従は、今回限定で、女子学生の平穏のために、主従揃って、コスプレしているようだ。痴漢如きの取締りに投入するには、過剰戦力とさえ正直古城は思うが、中々よく似合っている(けれど、見た目幼女と中身男の娘にひっかかる痴漢野郎が結構いるとは、大丈夫なのか絃神島と心配になる)。

 

「クロウもだけど、全然違和感がないな……むしろ、中等部の方が似合ってるんじゃないか那月ちゃん」

 

「ほらほら、那月先輩。私の言ったとおりだったりしたじゃないですか。せっかくだから、このクロミちゃんと並んで、ペアルックにすればよかったのに」

 

「余計なお世話だ。そんなふざけた真似ができるか。だから、近づくんじゃない馬鹿犬大小!」

 

「うー、ご主人、鎖で叩くのは痛いぞー」

 

 鞭代わりに鎖を叩いて、半径1m圏内に近づくのを禁じる那月はふんと鼻を鳴らし、

 

「だいたい中等部の時の制服は残ってない」

 

「残ってなかった……って、笹崎先生の言ってることが本当なら、その制服、那月ちゃんの自前なのか?」

 

 衝撃の事実だ。

 しかしながら、小学生並の彼女の身長には、特注のものをわざわざ頼まなければならないだろうし、サイズがぴったりということは彼女の私物であることに違いない。

 そんな驚く担当生徒の反応に、那月は鬱陶しげに唇をゆがめる。

 

「どうして、この大型犬の方の馬鹿犬が先生呼ばわりで、担任教師をちゃん付けにする暁古城?」

 

「威厳と風格の差だったりして」

 

「撫でるな隣に立つな馬鹿犬大!」

 

「ご主人のカリスマはすごいぞ笹崎師父」

 

「だったら様を付けろ馬鹿犬小!」

 

 天上天下唯我独尊を地でいく那月だが、学生時代から先輩後輩である笹崎岬の相手は苦手にしていて、保護者として面倒を見ているクロウの相手には苦労している。なんとなく勝手にあちこち駆けまわったりじゃれついたりと元気の良過ぎる犬二頭の幉を引くが逆に引っ張り回されて手を焼いている飼い主のイメージが古城に見えた。

 とそんなじゃれ合いを眺めながら、古城は言う。

 

「まあ、とりあえず、俺たちはもう行っていいですかね。時間、そろそろヤバいんで」

 

「だったら、そこの後輩もつれていけ。これ以上、馬鹿犬ふたりも相手していられるか」

 

「そうねー学生だし。あ、クロミちゃんのまま登校しても担任としてOKだしたり」

 

「それは、ちょっと凪沙ちゃんが何と言うか……普通に似合ってるんですけどね」

 

 ぐっと親指を立てるポーズをとる岬に、同級生を想いやんわりと止めさせる雪菜。それをみて、深く疲れたように嘆息する那月。

 

「……保健室でアスタルテに制服を持ってこさせてあるから、教室に行く前に、着替えてこい」

 

「う。わかったのだご主人」

 

 ……そこで那月が、古城に読めない不思議な表情を浮かべる。いつもと少し雰囲気が違う、古い友人と再会した直後のようななつかしさと切なさが混じる微笑。

 けれど、それも一瞬で、いつもの不敵な笑みに変わっていた。

 

「もうすぐ『波朧院フェスタ』だが、週明けからは普通に再開するからな。あまり羽目を外して学業をおろそかにするなよ」

 

 

彩海学園 屋上

 

 

『なあ、バイトしないか? うちの町内会でオープンカフェやる予定なんだけど、店員の頭数が足りなくてさ。もちろんバイト代ははずむぜ』

『待て、古城! どうせ働くならうちのブースの売り子をやってくれ! 今なら特典で利益の一割……いや、二割をバイト代としてくれてやる』

『待て待て、古城! 『波朧院フェスタ』といえば、伝統のビーチバレー大会のことを忘れてないか。俺たちと一緒に爽やかな青春の汗を流そうじゃないか!』

『待て待て待て待て! 祭りの華といえばやはりミスコン。貴様には特別審査員席を用意した。だから当日は命に代えてもテティスモール前のイベントステージにくるんだ!』

 

 クラスメイトから、多々勧誘された古城。

 その目当ては古城ではなくて、それについてくる美少女後輩こと姫柊雪菜なのだろう。転校してから常に傍にいるせいでどうもセットと思われているのか、エビでタイを釣ろうとクラスの男どもが古城を引き込もうと躍起になっている。

 だが、そんなのに巻き込まれるのはごめんであり、古城には『波朧院フェスタ』を『友人』と一緒に回る予定がすでにある。

 そこへさらに高等部でも人気な『中等部の聖女』こと夏音、教会のシスターを思わせる銀髪の美少女が、退院報告と一緒に『今日の夜、お兄さんのお宅に泊りに行ってもいいですか?』と爆弾発言に、古城の教室は一瞬凍りつき、そして阿鼻叫喚。

 それから逃げて、夏音を中等部の校舎へと送りがてら、この中等部の屋上へと避難してきたわけだが、そこには先客がいた。

 校舎内でもメイド服な人工生命体アスタルテと、そして、真ん中に雪菜とクロウ。

 告白とか密会という雰囲気ではない。互いに屈伸とか柔軟をやっていて、何か運動をするように見えるが、

 

「……え、っと何しようとしてるんだお前ら」

 

「組手だぞ。師父風に言うと、散打なのだ」

 

 ここ最近、学校ではそのコートと帽子を装備しなくなった後輩が言う。

 槍こそ持ってきてはいないようだが、制服姿の雪菜もそれに首肯。

 

「はい。先輩といるといつも何かに巻き込まれますから。監視役として腕が鈍らないよう、クロウ君に私からお願いしたんです」

 

「別に俺がトラブルを起こしてるわけじゃないからな」

 

「先輩にそのつもりがないのは、わかってます。ですが、この『波朧院フェスタ』、高い確率で何か問題が起こる予感がするんです」

 

 直感の鋭い剣巫にそういわれると、閉口してしまう古城。

 そのつもりがなくても、第四真祖である以上はトラブルメーカーだ。常在戦場の構えでいなければならない。

 というわけで、始まった後輩同士の対決。たぶん、これは彩海学園中等部の頂点を争う試合となるだろう。祭りも始まっていないのに、これは見物なイベントだ。観客が二人なのはもったいないくらいだが、雪菜が剣巫というのを秘密にしているので仕方ない。

 獣化と武器なしの条件で、模擬戦闘であるものの、両者の雰囲気は真剣そのもの。それに雪菜の方もどこか動物っぽいせいか、二頭の狼が睨み合う、闘犬のようなイメージがある。

 どちらも実力は伯仲したものがあるだろうが、それでも古城は6:4くらいでクロウの方が有利と見ている。

 獅子王機関の剣巫の雪菜も素手で吸血鬼といった魔族を倒せるほどの実力者であるものの、国家攻魔官の助手をやってる後輩は素手で並の吸血鬼の出した眷獣を殴ってブッ飛ばしてしまうくらい滅茶苦茶な奴だ。

 

(ま。怪我だけはしないでくれよ)

 

 屋上に通じる扉に背もたれる古城を見張りに立たせて、両者は対峙する。

 

 

「ん。じゃあ、姫柊、適当にやってみるのだ」

 

 

 始まった―――けれど、中々、手は動かないものだ。

 巨体でもない、どちらかと言えば平均よりも小柄だけれど、どこからどう攻めてよいかもわからない。獣化もしていないのに並々ならぬ気配、難攻不落の要塞と言うか、反則とさえ思える。全くの素人の古城では、朝の痴漢冤罪に軽く捻られたと同じ目に遭うだろう。

 

「………」

 

 そんな少女の様子を、後輩はさして長考もせず、

 

「ほれ」

 

 屋上の砂利を蹴り立て、真っ向から迫る。

 ぐうん、と腕が唸る。

 細腕なのに、分厚い斧を思わせるラリアット。

 来るのはわかっていたが、あえて雪菜は躱さずに防御姿勢をとった。

 それを受けただけで、雪菜の手は骨まで痺れた。

 

「っく!」

 

 呻きを、こらえる。

 しゃがみ込みたくなる衝動を抑え、必死に後ろへ跳ねた。

 間合いを取る。相手の動きが見えるだけの距離。戦況を正しく把握し、整理し、利用するための距離。

 次の瞬間、雪菜が後ずさったのとほぼ同じ速度とタイミングで、クロウは詰め寄っていた。

 

「遅いぞ」

 

 尖った双眸がギラリと光り、その右手が消えた。

 五指を曲げたままの掌底が、雪菜へ追い打ちに放たれる。

 まともに直撃すれば、ほとんど肉をこそいでしまうような、暴力そのものの一撃。技術ではなく、純粋な筋力で圧倒するそれに、剣巫の身体は応戦しようとした。

 

「<若雷>っ!」

 

 襲い掛かる掌底を、手前に突き出した腕のねじりで逸らして、震脚。

 逸らしたエネルギーをそのまま利用。自らの体重移動(ベクトル)と地面からの反発力を螺旋状に変換。足の裏から膝を、膝から太腿を、太腿から腰を、腰から脊椎を辿って肘や拳の先まで伝播と増幅。俗に発勁と呼ばれる、エネルギーの利用方法。

 その己の魔力をも物理衝撃に加算させる『八雷神法(やくさのいかずちのほう)』の一手。

 しかし、

 

「苦し紛れに打っちゃ(クダキ)も半減なのだ」

 

 ご―――っ!

 陽炎のように一瞬ゆらりと揺れて、雪菜の打撃は、左手ひとつで受けられる。

 前回の天使事件で、女吸血鬼をも一撃で仕留めた対魔族近接戦闘術だが、あれは戦士ではない、槍の眷獣――『意思を持つ武器』の性能に頼った素人であったからだ。

 この相手は、強化された衝撃を弾く生体障壁に徹した衝撃をも殺す内力相殺――発勁と同じ気功術を反射的に使いこなせるほど功夫を積んでいる。

 

(足、払い!)

 

 一打を受け止めたままで雪菜の身体を強く押して、ごおっ、とクロウの身体が回転する。

 一瞬、背中を見せて、ぐるんと体を沈めながら大きな円を描く足―――後ろ回し蹴りめいた挙動を、雪菜は先読みして動く。

 押されてたたらを踏みつつ、片足で跳んだ雪菜の身体が、紙一重で足払いを躱す―――はずだった。

 

(逆立ち!?)

 

 体を沈めて右手を地面についた反動を先ほどの雪菜のとは逆の手順で、脊髄に通して足先にまで伝播させる、震脚ならぬ震腕。片腕一本で浮かす逆立ちの姿勢で、足払いの勢いそのままに腰を捻る。常識的な範囲で合理化を追求する獅子王機関の攻魔師だからこそ、その異常さがわかる。アレは人間の筋肉だけで行うにはあまりに無理があり、並外れた膂力を四肢だからこそできた芸当だ。

 

 ストリートダンスやカポエイラのような予測から急遽切り替えられたトリッキーな動作を、コンマ1秒遅れて認識する。

 そして、そのコンマ1秒が致命的。

 

 跳んでしまい無防備な雪菜へ、十分に狙い澄ました逆立ち上段回し蹴りが炸裂した。

 その威力たるや、爆弾に匹敵する。

 ガードが間に合っても、受け流すための足捌きや踏ん張りが利かせられない宙にある雪菜の体は無残に吹っ飛ぶ。

 ごろごろと屋上の地面を転がる。

 

「うおっ!?」

 

 背中が“何かコンクリートとは違うもの”に受けられて、やっと止まった。

 あまりの激痛に意識を失いかけた雪菜は、ハッと眼を見開いた。

 

「っつつ、おいクロウ、やり過ぎだぞお前」

 

 視線の先には、先輩の顔。

 たまたま彼のいる方に蹴り飛ばされた少女は、逆さの姿勢のまま、自分の尻と太腿で彼の頭をきっちり挟んでいる。運良く露わに垂れ下がっていないがそのスカートの中が彼の方からではまさしく目と鼻の先にあるだろう状況を確認して、ぴきっと固まった。

 

「大丈夫か、姫らっ―――「こっち見ないでください先輩っ!」」

 

 真っ赤なものを吹き散らす前に、変則三角締めで雪菜は古城を落とした。

 

 

 

「……クロウ、お前って、割と男女平等に容赦ない奴だな」

 

 と、試合した二人のために控えていたはずのアスタルテに看護されながら、首が30度ほど傾いている古城は顔を真っ赤にさせてるもう一人からは視線を外して、まずは男子後輩に感想を述べる。

 <洋上の墓場>でも、煌坂を殴り飛ばしていたし、クラスで姫と崇められてる姫柊も蹴り飛ばすとは恐れ入る古城だ。

 

「ご主人から女には優しくしろとは言われてるけど、戦いに男も女もないのだ古城君。だいたい、オレの周りはどちらかといえば女の子の方が強いのが多いぞ」

 

 言われてみれば、古城も納得して頷く。

 あの<蛇遣い>のヴァトラーを除けば、これまでクロウとまともに打ち合えたのは、ロタリンギアの殲滅師オイスタッハに黒死皇派の残党ガルドシュと<模造神獣>に改造されたキリシマの3人。

 対して、<空隙の魔女>と魔族に恐れられてるという南宮那月に、クロウの師父である<四仙拳>のひとり<仙姑>笹崎岬、それに獅子王機関の剣巫の姫柊雪菜に舞威姫の煌坂紗矢華、それから<薔薇の指先>を寄生させた人工生命体アスタルテに個人精霊炉のラ=フォリア王女と『仮面憑き』や<模造天使>の叶瀬夏音もいれるとなると、女性が多い。

 

獅子(ライオン)は、雄が群のリーダーだけど、実際に狩りが上手なのは雌だからな。別に不思議でもないのだ」

 

 どこか説得力のある野生の理を展開する後輩。

 どうやら古城の周りは女性が強い社会のようだ。

 

「姫柊は強いからな。油断してるとやられるのだ」

 

「ええ。それぐらいでないと訓練にはなりません。それに、私から相手してほしいと頼んだんですから、これくらいは、高神の社ではよくありました。むしろ、優しいくらいです」

 

 タオルを、地面を転がった際にできた掠り傷に当てながら雪菜も同意する。

 あれだけ動いたというのに、息ひとつ切らしていない。微かに肌が汗ばんでいるぐらいだろうか。それも常夏気候で陽射しの厳しい屋上でなのだから、相当な体力。

 雪菜より激しく動いていた後輩もまったく。訓練された剣巫以上に並外れた体力のようだ。

 

「しかし、やっぱり強いですねクロウ君は。昔、紗矢華さんと一緒に武術教官だった<四仙拳>のひとりに稽古をつけてもらったことがありますが、その時は二人がかりで掠らせることもさせてもらえませんでした」

 

「うーん。オレも笹崎師父に“過適応(はな)”にばかり頼るなーってよくいわれるけど、姫柊も“霊視()”に頼り過ぎなのだ」

 

 それは理解してる。

 雪菜は誘導されていた。常に一手先を読んでる相手を動かして、隙を作るよう反応を操っていた。

 

「『剣巫は剣にして剣にあらず、巫にして巫にあらず―――未来(さき)()て流されるだけでは半人前』、と師家様からよく言われてました。反省です」

 

「ま、実戦だったら、最初にあんなまともに受けるとは思わなかったけどな。あれはオレもちょっとびっくりしたのだ」

 

「訓練ですから、色んな事態を想定して、あえて初撃は受けてみることにしたんです。クロウ君なら人並みの加減ができると思ってましたし」

 

「う。そっか。オレも姫柊の技には興味があるから、組手が楽しいぞ。師父以外で、こんなにできるとは思わなかったのだ」

 

「私も、高神の社以外で同年代を相手にここまで稽古ができるとは思いませんでした」

 

 そうして、反省会を終えた後、また組手を始める二人。

 それを見ながら古城は、少し、部活に入っていたころを思い出す。

 ワンマンエースでチームをとにかく引っ張っていた古城だが、切磋琢磨できる相手がもしいたら、何かが変わっていたのだろうか。もしかしたら、高校に入ってからもバスケをしていたのかもしれない、なんて、どこか未練がましい考えに古城は自嘲するように鼻を鳴らした。

 と、

 

(そういや、あの那月ちゃんも、学校で競い合える相手なんていたのかね)

 

 

 

「………にゃー! っとこれが壬生の秘拳『ねこまたん』なのだ! どうだ、姫柊」

 

「―――全っ然ダメです。ふざけてるんですかクロウ君? 『ネコマたん』は、もっと猫らしい、そう可愛らしさがありました!」

 

「むぅ、ちゃんと猫らしい動きができてると思ったのに、それに可愛らしさって必要か?」

 

「一番必要不可欠です! そんな技名にしたんですから一切のおふざけは許しません! いいから、クロウ君、もう一度、気の練り方からやってみてください」

 

「う、なんか逆らっちゃダメな姫柊になってるぞ」

 

「ク・ロ・ウ・君?」

 

「わ、わん!」

 

「違います! 返事はにゃんです!」

 

「にゃ、にゃん!」

 

 

 

「予定。あと5分で昼休み終了のチャイムが鳴ります」

 

「……おまえら、途中からほんとに何をやってんだよ?」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「あ、あの。すみませんでした、皆さん……私なんかのためにこんな」

 

 大変恐縮ですと人見知りなせいか小動物のように身を縮こまらせるのは、叶瀬夏音。

 透き通るような銀髪に、水宝玉(アクアマリン)の瞳に白皙の美貌は、近寄りがたいほどの神々しい気品を放ち、その優しげな雰囲気も相俟って、まさに“聖女”と呼ぶにふさわしいだろう。

 

「何言ってんの。今日は夏音(かの)ちゃんが主役なんだから」

 

 そんな彼女に力づけるよう、ひときわ明るい声を出すのは、暁凪沙。雪菜と夏音と同じ中等部の3年生で、古城の実の妹。体つきや顔立ちは、同年代の女子よりも子供っぽい印象を受けるが、全体的にできの良い妹といえるだろう。それなりに可愛らしい顔立ちに、それなりに優秀な成績、そして、家事も器用にこなすので非の打ちようがないとも思うが、やたらしゃべり好きで口数が多いのが欠点。とはいえ、それも誰かを不快にさせることはない。

 今回の宴の料理も、ほとんど彼女がせっせと調理したのだ。

 

「ほら、食べて食べて。このサラダ、自信作なんだ。クルミとピーナッツとゴマを使った自家製ドレッシングだよ。こっちは棚屋の絃神コロッケ・デラックス。そっちが凪沙特性レッドホットチリビーンズ・グランドフィナーレ。もうすぐハイブリッドパスタも茹で上がるから」

 

「あ、ありがとう凪沙ちゃん」

 

 暁兄妹の自宅の704号室で、叶瀬夏音の退院祝い。『波朧院フェスタ』の前夜祭の前日――クリスマス・イブイブのような前祝も兼ねているのか、藍羽浅葱や矢瀬基樹、それに築島倫といった夏音とはあまり付き合いのないはずの古城のクラスまで肉食料やパーティグッズを持参して参加して、開始のクラッカーを派手に鳴らして、大いに盛り上がってる。

 ……ただし、

 

「おー、美味いなこれ。流石凪沙ちゃん。また腕を上げたんじゃない」

「ほんとね。古城の妹にしとくのはもったいないわ」

 

「なんで叶瀬の快気祝いに、お前らまでいるのが疑問なんだが。……それで、俺の分の皿と箸は」

「つーん」

 

 夏音に凪沙、雪菜と同級生組に、古城、浅葱、矢瀬、倫で、全員で7人。

 けれど、テーブルに並べられた取り皿とお箸は、6人分で、古城の前だけない。

 

「……で、古城、あの後ちゃんと謝ったの?」

 

「いや、あれから中々顔を合わせてくれなくてな」

 

 視線を向けて妹にそっぽを向かれてる古城に、浅葱と矢瀬はやれやれと息を吐いた。

 

「何やってんのよあんたはもう」

 

「浅葱だって、この前約束破った詫びってことでケーキバイキング俺に奢らせたじゃねーか」

 

「そりゃ、あたしも知らなかったとはいえ悪いとは思ってるわよ。でも明らかに悪いのは古城でしょ。折角、凪沙ちゃんから誘ったのに、クロウを口車で丸め込んで同伴したのは」

 

 そう、前回の事件で、侘びとして妹にケーキバイキングをご馳走することになった後輩だが、“たまたま”その店にいた古城が相席してから、大変凪沙の機嫌がよろしくない。朝も起こされなくなったり、食事のおかずも一品減らされたりしてる(それでも目覚ましはかけていてくれて、朝夕のきっちり用意はしてくれてる)。

 

「……別に、二人きりで行くって決めてたわけじゃねぇだろ?」

 

「あんたねぇ。そういう屁理屈は小学生までしか通用しないわよ」

 

「んで、古城、そのケーキバイキングで貸したお金はいつ払えそうなんだ?」

 

「今月も最終週だし、そろそろ来月分の小遣いがもらえるはずなんだが……」

 

「もらえそうなのか、あれ」

 

 矢瀬に促されて、古城はもう一度、雪菜と夏音に挟まれて、こちらをじーっと半目で見てた凪沙に視線を送る。

 

「つーん」

 

 思いっきり、そっぽを向かれた。

 

「ダメっぽいなありゃ」

 

 しばらくすれば、機嫌が治ると思っていたが、矢瀬の言うとおり。

 普段ならばその途切れることのない口数の多さで言いたいことを出し切ったら、それで後腐れなくすっきりする性質(たち)なのだが、それさえもない。

 古城も浅葱たちに言われるまでもなく、無礼な働きをしたとはわかっている。妹にもそうだが、後輩には卑怯にも騙すような真似もしたと思っている。

 それでも、古城にはその行為を止められなかった。

 ふぅ、と深呼吸するように長く息を吐いてから、古城は席を立つ。

 

「わり。ちょっとコンビニ……じゃなくて、るる屋のアイス買ってくる」

 

 まずはお詫びの品を用意しよう。二人分。

 

 

道中

 

 

「―――お兄さん」

 

 道中、控えめな声で呼びかけられた古城は振り向くとそこにパーティの主催であった夏音がいた。

 

「あの、私も一緒についてってもいいでしたか?」

 

「……叶瀬? どうしたんだいったい」

 

 困惑の視線を向ける古城に、夏音は真面目な表情で頷いて、

 

「二人きりで少しお話がしたくて、パーティを抜け出してきました」

 

「話?」

 

 古城が歩行のペースを落とすと、夏音は少し照れたようにはにかんで、その隣までちょこちょこと駆け寄ってくる。そして再び神妙な顔つきになって続ける。

 

「お話というのは、<模造天使>のことでした」

 

 ―――天使化していた間の記憶があるのか?

 

 夏音の口からその単語を聞いて、古城の表情は自然険しくなる。

 人より上の存在へと霊的進化するために『蠱毒』の応用で“殺し合い”が強要された非道な魔術儀式。

 それから夏音を救い出せた古城だが、そんな一歩間違えればこちらも死んでいたかもしれない過酷な状況を無理に思い出せる必要はなく、それを夏音に伝えるつもりはなかった。夏音も<模造天使>の間の記憶を失くしていると診断されていたそうで、むしろ好都合であった。

 なのに、それをいまさら彼女が古城に問い掛けるということは……

 

「か、叶瀬……あのな……」

 

「お礼を言いに来たんでした。覚えてます。お兄さんと雪菜ちゃん、それからクロウ君が私を助けてくれたこと」

 

 え……? とその告白に古城は息を呑む。

 

「全部、那月先生から聞きました。父様の研究も、お兄さんの正体のことも」

 

 <模造天使>の実験に関与していたとして夏音の父親であった叶瀬賢生は、この街の警察組織に収容されて、現在は南宮那月が彼女の後見人となった。

 その後見人の口からすべての真実が夏音に語られているというのなら、彼女は古城の正体を知っているということになる。

 

「お兄さんは正義の味方だったんですね」

 

 とどこか憧れの篭った口調でそれを言う夏音に、はぁ? と古城沈黙。

 何を言っているのかさっぱりとわからないけど、しかし夏音は至って真剣な口調で、

 

「那月先生がそう言ってました。お兄さんは悪の組織に捕まって改造された魔法戦士で、絃神島の平和のために人知れず働いているのでしたね」

 

 あ、あのチビッ子は……! 吸血鬼だってことは言わなかったけど、他にもっと上手い言い方ってのがなかったのか!?

 

 どうしようもない虚脱感に、古城はがっくりと肩を落とす。

 きっと途中で考えるのが面倒になって適当に言ったんだろうが、それであのカリスマ幼女教師は、この純情な聖女を納得させてしまったらしい。まさに、魔女だ。

 

「……あのさ、叶瀬。今の話、凪沙には黙っててくれないか」

 

 弱々しい声で古城は切実に頼む。

 改造人間と誤解されるのと、吸血鬼だとばれるのとどっちがマシだろうかと一瞬真剣に悩んだが、やはり後者は妹にはまずいのだ。

 そんな古城の声を聞き届けてくれたか、夏音は大きく顎裏が首に付くほど頷いてくれた。

 

「わかってます。正義の味方の正体は家族にも内緒でした」

 

 どこかおかしくもある答えであるも、とりあえず古城は安心して深く胸を撫で下ろして息を吐く。

 

「そういや叶瀬、大丈夫なのか? また退院したばかりなんだろ」

 

「はい。体の方はもう元気でした。那月先生にも許可をいただきました」

 

「そうか、よかった」

 

「はい。アスタルテさんもよくしてくれますし、クロウ君も良く気遣ってくれてます」

 

 夏音の答えに、古城は安堵の笑みを洩らした。どうやら新しい住居での暮らしも、結構上手くいっているらしい。

 にしても、

 

(クロウは人の心に敏感な奴だと思うんだが、凪沙のことには気づいてなさそうなんだよな)

 

 きっとそれだけ、この日常にいっぱいいっぱいなのか。それともまだそれを知らない純朴なのか。

 

 そう、“誰かのように”大きな力がありながらどこか世間知らずで放っておけず。

 ひとりでは背負い消えないような過去と“血”に縛られる運命があって。

 それでも、“凪沙を命懸けで護ろう”としてくれた―――

 

「―――っつ!?!?」

 

 突然の頭痛――古城がその過去を思い出そうとすると生じるそれが唐突に苛ませる。

 

(なんでだ!? アヴローラ(あいつ)のことを思い出そうとしてないのに!? それに凪沙を護ったってそれは―――)

 

「―――お兄さん!? 大丈夫でしたかお兄さん!?」

 

 心配するその声に引っ張られるように古城は深く沈んだ思考から意識を浮き上がらせる。

 気づくと横断歩道を渡っている途中で蹲っていて、それを夏音が脇から抱くように身を寄せている。

 古城は一度息を吐いてから、大丈夫、と夏音の肩を叩いて、信号が変わらぬうちに急いで渡る。

 

「すまん。ちょっと、いきなり立ちくらみがしてな」

 

「そうでしたか。大丈夫そうで、よかったでした」

 

 ほっと胸を撫で下ろす夏音を見つめながら、そっと古城は額に手を当てた。

 一瞬、“何か”と後輩が重な(ダブ)った映像を消えないうちに掴みとろうとするように。

 

 

海岸沿いの道路

 

 

 もうすぐ外から大勢の人が来る『波朧院フェスタ』。

 だけれど、今宵はまだその前日。『魔族特区』は、まだ外から無関係のものの立ち入りを禁じられている。

 それも海港空港といった正規の玄関口を通っていないのならなおさら。

 

 海岸沿いの道路。

 護身用の魔方陣が刻まれた盾を持った機動隊を展開させる特区警備隊の密入国阻止部隊。

 その『外敵の排除』という任務の性質上、強力な武装と豊富な実戦経験で知られた精鋭たち。

 それが今、包囲するのは、二人の二十歳前後の女性。

 

「相変わらずここは醜い街ね、お姉様」

 

 異国の踊り子を連想させる露出度の高い衣装。男の視線を挑発するガーターストッキングに、そして、魔術師のローブを思わせる、長い頭巾。それらすべてが血のような緋色で統一されている。

 前から見れば娼婦、そして、後ろから見れば尼僧のように見える。けれど、放っている雰囲気は禍々しい―――魔女のもの。

 

「ええ、本当に」

 

 同じく、もうひとりも艶めかしく、嘲笑う。

 魔女の代表的な象徴である、鍔広の三角帽子にマント、それにボンテージ衣装のような黒革のライダースーツを身に纏う衣装は、裸よりも扇情的に体のラインをくっきりと浮きだす。

 そして、緋色に対して、彼女は喪服のような漆黒で統一されている。

 

 そんな緋色と漆黒の魔女が、夜の海面を悠然と歩いて、絃神島の大地へ堂々と踏み入ろうとしている。

 

『侵入者に警告する。貴君らは『魔族特区』の管理区域を侵犯している。これより特区治安維持条例に基づき身柄を拘束する。ただちに魔術障壁を解除し、我々の誘導に従え』

 

 特区警備隊を率いる分隊長からの警告。

 しかし、その海辺の大気を震わせる拡張器からの発生にも、まるで意に反さず、逆に気だるげに嘆息する。

 

「興醒めですわね、お姉様」

「10年ぶりに私たちが帰還したのだから、もっと華々しく出迎えていただきたいものだわ」

 

 構わず。

 警備隊長の警告を無視して、上陸。そして、市街地へと足を向ける。

 

『10秒間だけ待つ。これは最終警告である。従わない場合は、実力をもって拘束する』

 

 隊長からのハンドシグナルで、隊員たちは獣人すら無力化する大口径の呪力弾や琥珀金弾を装填した機銃の安全装置(セイフティ)を解除する。

 だが、そんな緊迫とした警備隊に反して、魔女たちは依然余裕を崩さず、その嘲笑をより冷やかに温度を下げていく。

 

「愚民どもが騒々しいこと」

「せいぜい愉しませていただきましょう」

 

 10秒後。

 警備隊長は、同じ人間に対する僅かな躊躇を、瞬きほどの瞑目で捨て去った後。無感情な挙動で振り上げたその手を下した。

 

『撃て!』

 

 雷鳴の如き音と光を散らした、一斉掃射。大地を揺るがすほどの衝撃音が止んだころには、たとえ障壁で身を護っていたとしても彼女らの身体が粉々に粉砕されているだろう。

 だが、特区警備隊の前に、魔女たちの肉体は依然と人の形を保っていた。

 その傍に、銃撃から盾となった“なにか”を侍らせて。

 

 ぶじゅり、という柔らかい音が聴こえた。

 足元からだ。

 

「……、」

 

 警備隊長は無言で、自分の靴がある辺りへ目をやる。

 おかしなものが広がっていた。

 海に接してる道路から特区警備隊が陣取ったそのフロート、そこは基本的にステンレス製で、浮き輪と同じで中に空気を閉じ込めることで浮力を確保するため、サイコロ状の塊をいくつも連結させることで、隙間ない平らな陸地を作り出す。

 ゴミ置き場などに利用されてる増設人工島(サブフロート)を小さくしたものをいくつも並べて簡易的な足場にしていると考えていい。

 その硬いステンレス製の表面に、脈打つ血管のようなものが走っていた。

 警備隊長の足は、くるぶしの辺りまで沈み込んでいた。硬い地面が、溶けたチョコレートのように輪郭を崩し始めている。

 

「……な、ん……?」

 

 疑問が口に出る。

 だがそれを理解するより早く、それはその足元から突き破って表れた。

 

 

 ぞるり、と。

 

 

 何か、腐った腕のようなものに警備隊長の身体は舐めるように撫でられた。

 

「仮にも『魔族特区』を名乗る都市の住民が、この程度の使い魔で驚かないでいただきたいわ」

「それは無理な注文というものよ、オクタヴィア。あの礼儀知らずの小娘が住んでいるような街ですもの」

 

 警備隊のしかに飛び込んできたのは、腕なのではなく、もっとおぞましい、その胴体の太さが最低でも直径1mは超えてる半透明の蛇のような触手で、不快を催す粘液に包まれている……

 

「そうね、お姉様。ならば彼らには自分たちの血で、この薄汚い街を精々美しく飾ってもらいましょう」

 

 緋色の魔女がいつの間にか広げていたその本に掌をあてる。描かれた文字が発光し、膨大な魔力が溢れ出す。

 

 直後。

 ぴたりと隙間なく敷き詰められた、サイコロ状の基部構造を内側から引き裂くようにして、おぞましいものが大量に噴き出してきた。それは躊躇なく、特区警備隊を暗い海に引き摺りこもうとして―――

 

 

 

「―――壬生狼(みぶろ)一番隊隊長。局長代行で援軍に只今推参! なのだ」

 

 

 

 翼のように少女の背中から広がった半透明な巨人の腕が触手を掴んで阻み、その間に、疾駆する銀影が警備隊を横合いからまとめて掻っ攫っていく。

 

「照合完了。人工島管理公社の犯罪者登録情報(クリミナル・データバング)に記録されていた術紋と一致。高確率で一級犯罪魔術師『メイヤー姉妹』と推定。所属は<図書館(LCO)>第一類『哲学(フィロソフィ)』」

 

 <薔薇の指先>を展開させたまま、その露出度高めなメイド服の少女は機械にのように淡々と。

 藍色の髪に青い瞳。完全に左右対称の人工的な美貌。人の手によって工業的に生み出されて、眷獣を寄生された人工生命体の娘、アスタルテ。

 そして、警備隊を回収してその隣に立つ、新たな蒼銀二色のコートを羽織る銀人狼………はちょこんと首を傾げて。

 

「? 結局、何なのだ、あの“おばさんたち”は」

 

 あまりのその純粋な反応に、思考がストップしてしまった魔女、メイヤー姉妹は、しかし、すぐ、ブッチィッ! と血管が切れたのではないかと思うほどその形相を歪ませる。

 けれど、そんな純粋な反応に慣れてる人工生命体は、銀人狼の穴だらけな知識を可及的速やかに埋めていく。

 

「『メイヤー姉妹』。かつて北海帝国領アッシュダウンで危険な魔術儀式を敢行し、その州都ひとつを消失させる巨大災害を引き起こしたことから、<アッシュダウンの魔女>と呼ばれる国際魔導犯罪者」

 

「うーん。つまり、すっごく悪い魔女なんだな」

 

「肯定」

 

 アスタルテのように眷獣を寄生された人工生命体という例があるも、通常、眷獣に匹敵する強大な使い魔は、召喚すればたちまち術者の生命力が枯渇して絶命する――人間が使役できるレベルを超えている。

 しかし、何事にも例外というものが存在する。

 人間でありながら、高位の吸血鬼に匹敵する強大な魔力を得る方法、己の魂と引き換えに、悪魔の力を与えられたもの

 

 すなわち、魔女―――

 

「ご名答。私たちのことを、ちゃんと知ってる女の子は偉いわ。ホント、死体にしたら映えそうな綺麗な娘ね」

「けど、そのケダモノはダメね。この偉大なる魔女を侮辱した罪、許しがたい。串刺しにして臓物をばら撒いて殺すわ」

 

 そして、<図書館>は高位の魔導師、そして魔女だけで構成される巨大犯罪組織。

 構成員は数千人規模で、『図書館』の通称に相応しく、強力な魔導書を多数有している。

 そして、メイヤー姉妹は、その<図書館>でも有数な武闘派。強力な魔女を相手に、数で対抗するのは愚策であり、特区警備隊が束となってもかなわない。同等以上の実力をぶつけるしかないのだ。

 そう、“『旧き世代』の貴族”や“獅子王機関の剣巫”クラスでなければ撃破できない。

 

「そうか……あいつら魔女か、ふむ―――」

 

 そのとき、“魔女”、という単語に、銀人狼の警戒は“最大限近く”にまであがった。

 

「そんなに強そうには見えないけど……アスタルテ、『連携』の準備だけして、ちょっと下がってろ。皆を頼む」

 

命令受託(アクセプト)

 

 その直感との齟齬に戸惑いながらも、銀人狼は緋色と漆黒の魔女姉妹の前に出る。

 

「飛んで火に入るムシケラね。自分から生贄になりに来たわよ」

 

 嘲笑する漆黒の姉エマ。そして、緋色の妹オクタヴィアは、その手の魔導書を起動させる。魔道書『No.193』―――過去に『アッシュダウンの惨劇』を引き起こした、忌まわしき書物。

 

「モナドは窓を持たず、ただ表象するのみ―――!」

 

 緋色の魔女の詠唱に反応して、魔方陣から瘴気の霧が噴出し、その霧が、再びあのおぞましい触手の姿へ変わる。その姉妹の色が混じるように漆黒と緋色の斑模様の触手だ。

 

 魔導書からの魔力の供給を受けて、今や魔女が契約した悪魔――<守護者>の触手は特殊な属性を帯びている。

 『No,193』の能力は『予定調和』。如何なる攻撃も<守護者>を傷つけることはできず、如何なる防御も<守護者>の攻撃を防ぐことはできない。

 

 そして、魔女の<守護者>は際限なくあふれ出てくる触手―――

 

「ん。この“匂い”は、“森”か」

 

 ―――ではなく、“枝”。

 そう、これは軟体動物ではなくて、植物。

 かつて、このメイヤー姉妹は一夜にして300Haを超える巨大な森を消失させた事件を引き起こしたが―――その失われた森の木々全てが、悪魔の眷属として怪物化させたのが、この“触手(えだ)”の正体だ。

 

「ねぇ、お姉様。この獣人(ケダモノ)をあのイヌを飼ってる<空隙の魔女>――ナツキが見ただけで失神してしまうような、素敵なオブジュにしてみない」

 

 巨大な鞭と化して伸びた“枝”が、銀人狼めがけて叩き落とされて―――銀人狼の姿が消えた。

 

「あら、あっさりと消し飛んじゃったわ。残念」

「―――っ!? 違うわオクタヴィア! これは、透明化! それも私たちの目をかいくぐるほどの相当な軍用迷彩だわ!」

 

 銀人狼が羽織っていた蒼色と銀色で彩られる法被(コート)の表面にはびっしりと難解な魔方陣が刻み込まれている。

 長い歴史と優れた魔導技術で知られた北欧アルディギアからお礼の品として贈られた極めて高度な魔導装備。

 彼の北欧の龍殺しの英雄が着たという<タルンカッペ>をモチーフにしたそれは、身を包んだ者の力を増強し、同時にその身体を見えなくさせる。

 

「ちっ、魔術もできない獣人のくせに、よくも魔女である私に恥を! 見えなくたって、関係ないわ! ここら一帯滅茶苦茶にすればいいんでしょ!」

 

 さらに魔力を送り込んだ魔導書の文字の不気味な輝きは増して、数十の“枝”が緋色の魔女の周囲から突き出てくる。

 これだけ多くの“枝”を、攻撃無効に防御無効の魔術強化(エンチャント)をするには、尋常ではない量の魔力が必要だが、それを可能とするのが、悪魔の加護を受けた魔女の力だ。

 特区警備隊の対魔族弾の一斉掃射でさえ余裕で耐え抜く怪物が、のた打ち回るように暴れる。そのたった一撃でももらえば終わる、打鞭の嵐の中へ、それはいく。

 

 

「―――オレを舐めてるな。森を駆け抜けるのは得意だぞ」

 

 

 展開された八方塞りの“森”の枝一本にも触れることなく、木々を躱して移動できるのなら―――

 特区警備隊が見えていたところで避けることのできないほどに錯綜した“森”を、枝一本も掠らずに活動が可能だという―――

 そんな、仮定が成立するというなら。

 そんな、机上の空論が実現するというなら。

 

 『予定調和』の結界は、空間制御系の魔術以外はほぼ完全に遮断する。しかし、もちろん例外はある。光や重力、大気といった最初から自然界に存在し、術者が脅威と認識していないものに対しては、結界は侵入を防げない。

 銃撃の弾丸もそれは自然界にとっては本来あるべき調和の外れた異物だからこそ、その結界を超えることはできなかった。

 

 だが、今の銀人狼は術者に姿を認識させず、また自然の“匂い”に溶け込んでいる。

 

 

 ドゴンッ!!

 

 

「ッ……!!」

 

 見えなかった。その全体を見渡せる間合いまで離れていた漆黒の姉には何も。

 “森”を速攻で突破した銀人狼が攻撃の瞬間だけ残した残像以外、何も。

 

「―――ぐほぼばはぁぁっっ!?!?」

 

 緋色の妹が、脇腹に砲弾でも直撃したかのような勢いで、真横へ水平に吹っ飛んだ。

 

「オクタヴィア!?」

 

 それは水切りのように向こう海面を数度跳ねて彼方へと飛んでいき―――ぽちゃん、と沈む。

 そして、これは吸血鬼の眷獣にも当てはまることだが、宿主の意識が失ってしまえば、魔力の供給が途絶えて、膨大な魔力の塊である眷獣はカタチを保てなくなる。つまり、このような相手は、強力な使い魔を壊すのではなくて、それに護られている主を倒す方がはるかに効率的だ。緋色の魔女が召喚していた<守護者>も霞となってその姿を消す。

 

「………んん? 牽制のつもりが当たっちゃったぞ? 思った以上に手応えがない、ご主人と同じか? いや、でもちゃんと感触があったし……??」

 

 何か戸惑うような声が聴こえた。

 

 ―――近くにいる!?

 

 漆黒の魔女はすぐさま己の魔導書を取り出し、ページを開いて掌をあてる。

 姉妹同じ悪魔に契約した漆黒の姉は、緋色の妹と同じ、漆黒と緋色の“森”を召喚。

 それにあらゆる攻撃を無効にする『予定調和』の魔術強化を施して、それで一切の侵入を許さぬよう隙間なくその周囲を巻かせて、繭のように魔女を包む壁を作る。

 緋色の妹とは違い、術者を狙ってくる相手に、まずは徹底した防御網を敷く―――

 

「術者を狙うなんて卑怯者め! けど、オクタヴィアのようにはやられないわよ!」

 

 ヒステリックな悲鳴じみた声で魔女は叫ぶ。

 

「オマエらに卑怯も何もないと思うんだが、なるほど、時間稼ぎだな。でも、させないぞ」

 

 透明化を解いて、その姿を晒した銀人狼が、後衛にいる人工生命体の少女に向けて、その左腕を掲げて、呼ぶ。

 

「アスタルテ!」

 

「―――付与せよ(エンチャント)、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>」

 

 人工生命体の少女の声とともに、繋がっている半透明の巨人の腕を形成する魔力をほどき、その糸のラインが銀人狼の左腕に巻くように集っていく。

 

 銀人狼の指先で、爪が淡い輝きを放つ。

 解かれて糸となった魔力(におい)を掻き集め、その“皮を纏う”。

 それは、原理とすれば、アルディギア王女が行った<疑似聖剣>と同じ。

 しかし、それは、その魔性の属性を秘めている、聖拳ならぬ、虹の巨人の腕を纏う魔拳である。

 宿る。

 左腕がどんどんと熱くなる。

 今こそ銀人狼の指先に、その眷獣に等しき魔力が宿る。

 

 雷光の獅子に主と認められた<第四真祖>は、眷獣の恩恵を得て、その手に雷撃の球を出せるようになったという。

 そして、<薔薇の指先>は、あらゆる魔力と結界を断つ<雪霞狼>と同じく、『神格振動波駆動術式』を展開する。

 <嗅覚過適応(リーディング)>の吸引側(パッシブ)の応用により、それが眷獣を物理的に破壊するほどの膂力を秘めた『獣の皮を被る者』の豪腕に宿るとすれば。

 

 

 ―――<守護者>の“森”の防護が、木端微塵に弾け散った。

 

 

 有り余る銀人狼の膂力に、半透明の巨人の眷獣の腕が強化外骨格のようにさらに強化し、そして、『神格振動波駆動術式』の属性が重ねた魔拳。風圧だけでステンレス製のフロートを破壊し、その直前に魔導書を開いていた魔女をよろめかせて、尻餅をつかせた。

 

「なっ……」

 

 悪夢のような光景だった。

 人間の魔術師が操る使い魔の中でも、魔女の<守護者>は別格だ。<守護者>とはすなわち悪魔の化身であり、並の吸血鬼となら、互角以上に戦える。魔導書による援護があれば、『旧き世代』の吸血鬼に対抗することもできると言われている。その<守護者>がひとたまりもなく粉砕されたことで、漆黒の魔女は完全に戦意を喪失していた。

 なのに。

 

「あ……ああぁ……あ……いや……」

 

 妹を吹き飛ばされて、使い魔も一撃で粉砕された魔女へ、銀人狼はさらに油断なく構え直し、再び、その姿を周囲と同化させて透明とする。そして、じっと見る。もう何もできない相手の出方を窺うように。

 

「……ほら、時間の無駄だぞ。早くするのだ」

 

「な、なにを……何をしろっていうのよ……!?」

 

 痛み、恐怖、焦燥。歯の根も合わせられぬ漆黒の魔女に、あっさりと銀人狼は言う。

 

「まだ終わりじゃないんだろ。次の手札を見せるまで、迂闊には近づかないぞ」

 

 何を言ってるのこの獣人は……?

 

 理解不能だ。

 完全に決着はついている。止めの一突きさえもう要らない。この魔女はもう、意識があるだけなのだ。魔女は普通の人間のように怯え、震えているだけなのだ。

 だが、銀人狼の口ぶりも、冗談を言っている素振りではない。むしろ、自分こそが劣勢にあるかのように、いつにもまして緊迫とした雰囲気を発している。

 

「オマエ、魔女なんだろ」

 

 その声は、震えていた。

 

「殴っても殴っても空気のようにまったく手ごたえがないし、殴っても殴ってもまた現れるのだ。どんなに縛り上げようとしたって、そこからあっさりと抜け出しちゃうし、今いない赤いのもまた出てくるんだろ……!」

 

 理解。

 アスタルテは彼の言葉の端々から、その齟齬の意味を掴んだ。教官――南宮那月が主であるからこそ、“魔女という存在を勘違いしている”のだと。

 本体に殴撃しても物理衝撃が通じない。拘束しようにも違い場所に転移する。どれほど速く動こうにも、釈迦の掌の上で踊らされた斉天大聖のように、先回りされる。

 ―――そういう存在をアスタルテは聞いたことがある。

 けれど、それは―――それは、この絃神島で五指に入る<空隙の魔女>と呼ばれた大魔女の話。大人数でようやく行使できるはずの空間制御を呼吸するようにこなす、世界でもこの上ない、魔女の最上位クラスの話。だからこそ、この最上位の魔女が縄張りとしている絃神島には、10年前から、他の魔女が寄りついてこないこず、唯一、その<空隙の魔女>との一度きりしか魔女と対決したことのない先輩は、魔女という存在の基準を、あまりに高く設定しすぎている。

 欧州で魔族を大虐殺した最高位の魔女と殺し合いを演じて尚、生き延びているというのに、それもまだ子供のころにだ。しかし、だからこそ、普段は意識していないにせよ、敵に回った時のそれがトラウマとなっているのかもしれない。

 だからこんな状況でさえ、まだ警戒し、怯えている。

 

「あなたは……何を言って……ますの……?」

 

 敗者を見るにはあまりに異様な気迫に、漆黒の魔女が呟く。

 この常夏の島で、真冬の冷気以上に震えている。

 

 今、魔女が対峙しているのは、大魔女が“運命(プログラム)”に従い、創りだした最高傑作の神殺し。

 それがかつて<蛇遣い>と衝突しかけた時のように、ちりちりと肌につく獣気でその毛を逆立たせて、けれどその姿は透明化させたままでその位置を覚らせない。

 そして、警備隊に人工生命体の少女も巻き込ませないよう下がらせて、状況次第では、主に禁じられている奥の手――<神獣化>も辞さない構えだ。

 

「オマエ、芝居なんてするな」

 

「私は……何も……」

 

「オレの“鼻”を誤魔化すなんて、でも、油断はしないぞ」

 

 殴っても実感がつかめなかったときのように、“匂い”を嗅いでもその心情はこちらを惑わすための虚偽だと。

 

 貪狼に大口を開けて喰われる寸前が、いつまでも引き伸ばされる野兎のような状況。耐えきれぬように、漆黒の魔女が頭を振っていた。

 

「い……イヤぁ! もう、イヤよぉ……!」

 

 泣き喚く<アッシュダウンの魔女>の姉に、それでも銀人狼は姿を現さない。

 アスタルテは警備隊長らが立て直して、すでに海に沈んでいた緋色の妹の回収したのを見計らって、先輩――南宮クロウへ声をかける。

 

「意見。もう対象は降参しています先輩。以前、教官と対峙した状況は憶測でしかできませんが、魔女はもっと現実的な存在です」

 

「……そう、なのか?」

 

「肯定」

 

 ようやく安堵の溜息をしたクロウが、すぅっと魔女のすぐ背後で姿を現して、その首根っこを掴む。

 持ち上げたまま、小さく悲鳴を上げる漆黒の姉と顔を合わせるクロウは、うーん、と考えるように首を捻る。

 

「オマエ、本当に魔女か?」

 

 その止めのつもりはない、純粋な疑問は、魔女のプライドを折って、そのトラウマを刻んだという。

 

 

 

 そうして、絃神島に離陸した直後、特区警備隊を壊滅させた<図書館>の中でも上位の実力者メイヤー姉妹は、国家攻魔師官の代理で送られた援軍二名の働きによって、市街に立ち入ることなく撃退されて、警備隊に引き渡された。

 

 だが、その護送中、緋色と漆黒の魔女姉妹は虚空に呑まれたように車内から姿を消して、警備隊から逃亡を果たした。

 

 

 

つづく

 

 

 

王女と出会った時のお話。

 

 

 

アルディギア王宮

 

 

「―――クロウ殿、こちらが我が主君、ラ=フォリア=リハヴァイン王女であります」

 

「ふーん、お前が偉いヤツなんだな」

 

「ほう」

 

「クロウ殿!? 姫様はアルディギア王国の第一王女で」

 

「よい。わたくしが招いた客人です。……それより、その首輪。ふむ、おまえは南宮那月の犬か」

 

「うん。オレは、ご主人の眷獣だぞ」

 

「なるほど―――では、おすわり」

 

「? なんだ?」

 

「おや? おまえは犬ではないのですか?」

 

「お前は気持ちのいい“匂い”がするけど、ご主人じゃないだろ。なんでいうことを聞かなくちゃいけないんだ」

 

「ほうほう。誰にでも尻尾を振るわけではないと。確かにその言い分は一理ある。―――ですが、犬と言うにはまだまだ」

 

「む」

 

「そこにいるユスティナは有望な要撃騎士であり、忍者です」

 

「ニンジャなのか! ユスティナ、結構強い奴だなって“匂い()”がしてたけど、どこでも忍法でどろんと隠れたり、手裏剣をしゅぱぱぱーって百発百中したりできるのか!」

 

「もちろん。できます」

 

「ひ、姫様!? このユスティナ=カタヤは騎士です。たしかに日本文化が好きで、忍者に憧れておりますが、それはちょっと無茶ぶりで」

 

「何を言うのですかユスティナ。いたずらに名誉を求めることなく、その存在を陰に隠し、主君のために命を懸ける。ジャパニーズ・ニンジャこそまさに騎士の模範」

 

「「おお!」」

 

「つまり、忍者とは主の犬。そして、優秀な騎士であるユスティナは優秀な犬なのです」

 

「な、なるほど、そうなのでありますか……」

 

「そうなのか。すごいぞ、ニンジャ!」

 

「いや、そんな純粋にキラキラと眩しい目で見られますと、その、なんとも照れると言いますか、ははあ……」

 

「なあ、後でサインくれ! 帰ったらオレの後輩のアスタルテにもニンジャ見せてやりたいんだ!」

 

「この子の期待、裏切れますか、ユスティナ?」

 

「―――忍! これよりアルディギア『聖環騎士団』所属ユスティナ=カタヤ要撃騎士は、騎士道を極めるべく忍者を研鑽してまいる所存であります」

 

「さて、おまえは忍者よりも犬として優秀であると言えますか?」

 

「む、むむぅ……オレも分身ができるようになったけど、ニンジャはもっとすっごいからなぁ。でも、オレも負けないぞ!」

 

「いい心意気です。ならば、忍者の主君であるわたくしが、おまえがどれほどのものかを見定めてあげます」

 

「わかったぞ!」

 

「いい返事です。では、これからわたくしを主と思って、わたくしの言うことに応えてみなさい」

 

「うーん、でも、ご主人はご主人だけだぞ」

 

「かつて森の悪魔と恐れられたおまえにどれほどの躾がなされたのか。これは、おまえの主の手腕が問われてますよ」

 

「む。ご主人の沽券なのか」

 

「ここでわたくしに認められないようでは、おまえだけでなく、ご主人の評判も落ちてしまうでしょう」

 

「むむ。これは絶対に負けられないぞ!」

 

「では、おすわり」

 

「わん!」

 

「よろしい。素直な子です、おまえ、名前は?」

 

「南宮クロウなの、であります!」

 

「ふふ……かわいいですねクロウ。段々と楽しくなってきました。しかし、そう無理に畏まる必要はありません。それに、流石に主と呼ばせるのはいけませんし、なによりわたくしも聞き飽きています。―――そうですね、ここは愛称という手でいきましょう。こう見えて日本文化にも詳しいですのよ、わたくし」

 

「姫様、そろそろご自重を……!」

 

「この子はわたくしが招いた友人ですよユスティナ。それに故郷とはいえ、遠い異国からひとりで来たのです。ならば、せめてこちらから合わせてあげられなければ、王女としての度量が小さいとは思えませんか?

 ―――というわけで、これからわたくしのことは、フォリりん、と呼びなさい」

 

「姫様ーーーっっ!? いくらなんでもそれはーーーっっ!?」

 

「う。わかったのだ、フォリりん」

 

「クロウ殿ーーーっっ!?!?」

 

「無視しなさい、クロウ。それでは、最初の命です。先に言っておきますが、これは、忍者にさえできなかった難問ですよ、よろしいですか?」

 

「愚問なのだ。オレはニンジャよりも優秀だって証明してやるんだぞ」

 

「大変いい覚悟です。

 ―――さあ、わたくしのお祖父様――前国王の浮気を暴いてくるのですクロウ!」

 

「了解なのだ、フォリりん!」

 

 

 

つづく



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魔女の迷宮Ⅱ

???

 

 

 一瞬だけ過った、失われたいつかの記憶。

 

 

 まるで、“水晶”に見えた。

 

 ―――お、前……その身体っ。

 

 その左腕が指先から肘の辺りまで、異常に硬質化し、水晶とも紛う変化を果たしていた。

 

『……そっか、力を使い過ぎたんだな』

 

 しょうがない、とあっさり後輩はそれを認めた。

 

 神罰を目の当たりにした者は、一瞬で塩の柱と化すという話がある。

 

 それは、岩塩に酷似した状態だった。

 神話の英雄が、ここぞというときに豪力や生涯一度の絶技を発揮するように、彼の禁じ手は、その寿命を削り出して、燃やす。どのような代償が出るかは個体種により様々であるが、神罰に等しき眷属に抗うには、それも当然であったか。

 今や燃え尽きて、それが炭となるように、身体は徐々に塩の塊となっていく。

 

『うん、まあ。多少やり過ぎたぞ。……でも、今度はちゃんと守れたのだ』

 

 ―――やり過ぎたじゃねぇだろ馬鹿野郎っ!

 

 後輩の肩を掴もうとして、何かが剥がれる感触があった。

 熱反射のようにすぐの手を引く。

 災厄の如き暴威に耐え抜きながら―――もう、その身体は、下手に触れば砕け散る。

 ぴしり、とその肩に亀裂が入るのを見てしまった。

 

『不思議なのだ。初めての時はあんなに嫌われて、怪物って言われて結構傷ついたのだ』

 

 初めて会ったとき、後輩が、真祖の眷獣をも屠るほどの存在だと知らなかったが、向かい合っただけでわかった―――

 刺すような……血の疼くような強い“気”の力。

 近寄るな。

 近寄れば間違いなく()られる。

 ……妹だけではない、自分も怯えていたのだ。

 

『でもな、どうしても傍にいたかったんだ。ご主人が手を伸ばしてくれたおかげで、オレはここにいるけど、今度はオレから誰かに手を伸ばしたくなったんだ』

 

 ……ふざけてんじゃねぇぞ。

 こんな後輩に―――

 

『……だから、ここで初めてオレから声をかけた子と、絶対に仲良くなるんだって決めてたんだぞ』

 

 脚に、罅が入る。

 まだ、人の形は保っていてもその端から、腕が、胴が、首が、風に吹かれてパラパラと欠けていく。

 あまり時間はなくて、ここまで脆くなっていると、口を動かすだけでも危うい。

 

『それに、ご主人じゃないけど、■■君は、何か、こう、ついてきたくなる……そう思わせるような“匂い”がしてたのだ。

 ■■君の周りにはいつもみんながいて、■■君が受け入れてくれてオレも混ざってると、いつの間にか寂しくなくなってた』

 

 ついに、顔にまで罅が入り、声が段々とぶれていく。

 

『森から遠く離れたけど』

 

 その五感が、壊れていた。

 “鼻”で、もう感情を嗅ぐこともできないはず。

 それでも、こちらに、気にするなとでもいうように笑って、言葉を紡ぐ。

 “血”に選ばれた真祖の従者へ、ではなくて。

 ただの、お世話になった先輩に向けて。

 

『この島で、一緒に過ごせて、楽しかった、のだ……』

 

 ―――まったくだ。

 

『じゃあな、先輩』

 

 ―――怪物だなんて、大層なもんじゃない。

 

『■■ちゃん、それにお前も、幸せにな』

 

 ―――こいつはただの……馬鹿で大食いの、世話の焼ける後輩じゃねぇか

 

 

 

『……おい、後輩なら先輩より先に眠ってんじゃねぇぞ』

 

 妹は、救われた。

 だから、今度は、この『眠り姫』の番だ。

 これから、その眷獣の力で、自分自身を氷の棺に封印するであろう彼女。

 かつて遺跡の中で眠りについていたように。

 何百年間も、あるいは何千年間も、たった一人きりで眠り続けるだろう。

 

 そんなことにはさせない。

 彼女を二度とひとりきりにはさせない。

 自分もそれに付き合う。

 

 だから、妹を残すことになるだろうが、この後輩なら、“後を任せてもいい”かもしれない。

 ものすごく癪だから、絶対にそんなことは口にしたくないが。

 

『た、助ける。我の“後続機(コウハイ)”』

 

 無事、『原初(ルート)』との融合を果たした『眠り姫』が喚び出すは、青白き水の精霊(ウィンディーネ)

 それが振るうのは、吸血鬼の超回復を象徴する癒しの力で―――万物を回帰させる。

 

 

『任せたぜ、後輩』

 

 

とあるビル

 

 

 この建物の最上階に潜むのは、一大組織の部隊。

 <図書館>の『芸術(アーツ)』に属する魔導師魔女たち。

 個々に武闘派のメイヤー姉妹ほどの実力者はいない、どちらかといえば組織本来の在り方である魔導研究者であるが、多数で組織的に動く彼らは特区警備隊にも引けを取らないだけの戦力があり、

 まるまるビル一棟を買い取り、そこを自分たちの工房として改装――陣地作成をして、大魔女のいる敵地でありながら地の利を得ている。

 集団で魔術強化が施され、トラップが隈なく仕掛けられたそこはもはや要塞で、猟犬代わりに<守護者>の魑魅魍魎まで解き放っている。まるで、ちょっとしたロールプレイゲームに出てくるダンジョンだ。

 ただし、空間制御の結界を布いて異界化しており、入り口と出口を繋げたそこは一度入ると二度と外に出てこれず、そして、魔導師魔女のえげつない仕掛けと使い魔に殺される。

 故に、『芸術』はここに籠りながら、後顧に憂うことなく、忌々しい裏切者である<空隙の魔女(ミナミヤナツキ)>に妨害を―――

 

「―――御用改めである!」

 

 なんて空気を読まず、建物の中に入ることなく壁面の突き出た窓枠部分を足場に音も立てずに跳ねる。

 背にはメイド服を着た少女一人背負っているというのに、羽毛の如き身軽さ。魔術部隊総勢でリフォームした成果を一切合財ショートカットして、屋上まで駆け上がり、

 

「いくぞ、アスタルテ! 壬生の秘拳ローストチュロスパンチだ!」

 

「訂正。炙り焼きした(ロースト)砂糖菓子(チェロス)ではなく、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>です」

 

 どこかの甘い菓子パン頭のヒーローのような掛け声とともに、

 巨人の朧影を纏う銀人狼の左腕が真下の最上階フロア目掛けて叩き落とされた。

 

 直前にその奇襲の察知はしたが、『芸術』の部隊は反応が遅れた。あるいは、自分たちが“改装”した魔術要塞の強度を信頼していたのか。実際、この建物に施されている魔術強化は、鋼鉄を遥かに超えていた。

 

 結果。

 屋上――最上階フロアの天井ごと。

 『芸術』の部隊が、彗星の如き一撃に叩きのめされた。

 

 一瞬の停滞さえなく、瓦割りどころか、発泡スチロールでも割るかのようだった。

 それが直撃はしなくても、魔術師魔女はハンマーでぶん殴られたかのように数mも吹き飛ばされて、壁にぶつかるまで転がり、崩落した天井の瓦礫に呑まれた。

 そのまま勢い余って、少女を背負う銀人狼は、さらに二階下のフロアまでぶち抜き、衝撃の余波でビル壁に大きく罅を入れて、思いっきり引っかかった魔術的なトラップも吹っ飛ばした。しゅうしゅうと摩擦の煙でもあげてる左拳が、フロアの床に肘半ばまで埋まっていたのをあっさりと引き抜く。

 

「む。ちょっとやり過ぎたか?」

 

「否定。ちょっとではありません。魔女相手に張り切り過ぎだと思われます先輩」

 

 

 

 あれから、銀人狼とメイド――南宮クロウとアスタルテは、自宅に帰宅してしばらくして、一度自分らが捕えた魔女姉妹の逃亡の報を聞き、片っ端からその“匂い”の残滓のあるところに特攻を仕掛けていっていた。

 その夜通しの働きで、肝心の<アッシュダウンの魔女>は見つけられなかったが、警備隊には攻略至難な拠点に構えていた<図書館>からの尖兵と思われる集団を3部隊壊滅させ、数冊の魔導書を回収する成果を上げていた(建物破損などの被害もそこそこ出しているが)。

 

 そして、ここ最近、義務付けられるようになった定時報告である。

 それは、主の後輩でもある担任の笹崎岬にどんな意図があるのかと相談すれば『家出から帰ってきたペットに、抱っこして散歩するくらいに過保護になった感じだったり』との回答をもらったが、その後、虚空からいきなり現れた主に問答無用で教師生徒ともどもひっぱたかれた。

 

 とにかく、主へ9時の定時報告してからの第一声。

 

『………やり過ぎだ馬鹿犬』

 

 蒼銀の法被に耳付きの帽子と手袋を着こなす様がどことなく騎士に見える少年が、隣に侍る藍色の長髪に人形めいた美貌のメイドの少女がその両手で添えた携帯電話に耳をあてている。

 

 このわりと人目につくであろう奇妙な体勢は、少年が後輩に先輩強権で命じたものではなく、むしろ反対した少年に、主が絶対強権を働かせたものだ。なにせ持てば一週間で壊すか失くすクロウには持たせられず、結果、アスタルテが携帯電話を持つことになったという経緯である。そして、人型に戻っても、電話してる最中に間違っても握り潰さないよう、アスタルテに携帯電話を持たせて、今、那月と連絡しているわけなのだ。

 で、まず耳に入ったのは、主の那月の深い溜息だった。

 

「でも、あいつらご主人と同じ魔女なんだろ?」

 

『お前は主を見損なっているのか? 魔女にもピンキリはあるに決まってるだろう。馬鹿犬にもわかりやすいようにたとえて言ってやるが、同じネコ科でも猫とライオン、どちらも同じだというのか?』

 

「あ、なるほどだぞ」

 

 理解。

 懇切丁寧に戦力の詳細を一から丁寧に説明するのではなく、適当に、それも動物とかに絡めればいいのか、と電話を持つアスタルテは教官からこの先輩の扱いを学習していく。

 

『それで、もう捜さなくていい。お前の“鼻”も祭り騒ぎで“匂い”が雑多にかき混ぜられてるようだからな。それなら警備隊の人海戦術と効率は変わらん』

 

「? あの逃げた……「メイヤー姉妹<アッシュダウンの魔女>」―――そう、それって、猫は猫でも、あいつらドラ猫で、無茶苦茶暴れるから、警備隊も大変なんだぞ」

 

『そいつらだけではないようだがな。まあ、あの歳だけが上の、悪趣味で盛ってるドラ猫姉妹を主戦力に据えているようでは、底が知れる。<図書館(あそこ)>も随分と格が落ちたものだ。

 それに、逃亡は許したが、魔導書『No,193』までは奪われなかったからな。あれがなければ、警備隊連中で囲めば十分だ。

 馬鹿犬が暴いたドラ猫姉妹の<守護者>の情報も、アスタルテから伝わっているだろう。属性さえ分かれば対策も取れてくる』

 

 警備隊に花を持たせてやれ、と魔女は言う。

 すでにたった二人だけで複数の魔女部隊を撃破し、魔導書も回収するなど、“国家攻魔官の助手にしてはやり過ぎた”戦果をあげている。十分だ。あとは周りの面目にも配慮してやるべきである。

 

「じゃあ、オレ、何をすればいい」

 

 それに、二度目の深い溜息を吐く那月。

 

『……ったく。だったら、アスタルテに付き合ってやれ』

 

 クロウは、じーっと動かず、まるで電話スタンドという置物のように電話を持ち続けてるメイド服を着た人工生命体の少女を見る。

 

『アスタルテは、前夜祭が初めてだろう? 前の祭りに連れてってやったが、そこそこ場の雰囲気でも楽しめる奴だ』

 

 辺りを見回した街中の様子は、常にない賑わい。今日から一般の入場客にも『魔族特区』絃神島が解放される。

 この絃神島に一年以上住んでいるクロウは当然知っているが、10月最後の金曜日は、『波朧院フェスタ』の前夜祭で、夕方から様々なイベントが始まるのである。

 初めてこの絃神島に来たときは、森暮らしのクロウには目に映るあらゆるものが珍しくて、空を行くヘリコプターや、子供の操るラジコンを見ただけで、古城や浅葱などが呆れるくらいはしゃいでしまったものだ。

 そんなクロウも、今では(自称)ベテランである。

 

「う。わかったぞ。ご主人は、この機会に、アスタルテに先輩の威厳を見せてやれと言ってるんだな」

 

『お前に威厳というのがあればな』

 

 主の皮肉な返しにへこたれることもなく、もう一度、後輩を見る。

 無表情で話すときも唇をほとんど動かさず、初対面の戦闘時はあまりに希薄であったが、ここのところクロウは、その“感情(におい)”を大まかに嗅ぎ分けられるようになった。

 一度、すん、と鼻を鳴らす。

 それから察する“匂い”は、わくわくしてる、というのがクロウの中で一番当て嵌まるだろうか。

 

「よし。アスタルテ、オレの頭をなでろ」

 

「命令受託」

 

 と耳付き帽子を取って、ところどころ跳ねた銅色の髪の頭を突き出してくる少年に、メイドの少女が片手に携帯を持ちかえながら、空いたその手で頭をなでる。

 なでなで、と色的に予想された金属のような硬質さはなくて、意外と柔らかな髪質をさわさわ実感。

 どことなく充足感を覚えたような“匂い”がする。だが、何か圧倒されたとか感服したというのはない。

 この状況は小動物を可愛がる状況とさして変わらないのだとは当人は思ってもないが、なんとなくこれ違うくらいは察する。

 

「むぅ。いつもご主人が師父にやられて(やって)るのをしてみたんだか、違うか?」

 

『帰ったら、徹底的に主人の威厳というのをその頭に直接叩き込んでやるから覚悟しておけ馬鹿犬』

 

 主の真似をしたのに、主がお怒りだ。電話越しでなければ、脳天にお仕置きがされてただろう。

 それから、三度目となる溜息を吐いてから。

 

『先輩なら、後輩に何か飯でも奢るくらいしろ』

 

 流石はご主人、とクロウ。

 森で暮らしていた時も兄姉に喜ばれたのは、でっかい獲物をとってくることだった。ご馳走というのは野生であっても共通する。

 それにまだ朝食も食べてないので、クロウもお腹がグーグーと不満の声をあげている。

 うんうんと頷いていると―――

 

『で、もし、私からの定期連絡が途絶えれば、こちらで保護してる叶瀬夏音の下へ向かい、それを護衛しろ』

 

 ―――上下に動かしていた首を、ピタッと止める。

 

「ご主人……?」

 

 電話越しでは“匂い”は感じ取れない。

 だけれど、“主が昨夜の事件からずっと一ヵ所に留まって動いていない”ことをクロウは感知している。

 警備隊に花を持たせているのだとしても、一度も自身で現場に出ることがないのは―――

 

『心配など10年早い馬鹿犬』

 

 一喝。されてもないが、ついお仕置きでド突かれたように、こくん、とクロウは中途半端な位置に上向いていた頭を下げる。

 

『お前らがやり過ぎてくれたからな。ドラ猫姉妹とはいえ、最初に主戦力を叩き潰して、出鼻をくじかせたのは……まあ、よくやった』

 

 びっくぅぅっ!?!? とアスタルテが持つ携帯から、クロウが飛び退く。

 あれば尻尾が二回転くらい巻いてるだろう。それは先の脅しにも見せなかった過剰な反応。

 見かねたアスタルテが状況を説明。

 

「教官。先輩が何やら怯えてるようです」

 

『なんだと……』

 

 主の那月にもわからぬ事態。

 クロウはじりじりと主と繋がっている電話口から50cmくらい距離を離して、

 

「だってだって、ご主人がいきなりオレを褒めるなんて……対応するのが無理だぞ」

 

『はぁ!?』

 

 海底から深海魚を釣り上げると内臓を飛び出してしまうように。

 冷たくされるのに慣れてるせいか、お褒めの言葉は刺激が強過ぎて、気持ちの整理に時間がかかっているようである。

 

「そういえば、北欧(むこう)から帰ってから、何だかご飯のグレードが上がってる気がするし、おかわりも3杯から5杯まで許してくれるようになったし……ご、ご主人、死んじゃうのか!?!?」

 

『………』

 

 さらにはこちらの頓珍漢にも心配までされる始末に、電話の向こうは無言。たぶん、色々とこらえてるのだろう。帰ったら、お仕置きのグレードが2、3段階上がってそうである。

 

『とにかく、今日明日、最低でも明後日までには、蹴りがつくだろう。以降は、“時期が合わない”だろうからな』

 

 

 

 定期報告が終わり、携帯電話を仕舞うアスタルテに、クロウは確認する。

 

「アスタルテ、元気あるか?」

 

「体調把握。委細問題なし。仮眠もとれて、移動中は先輩に乗り、戦闘も大半先輩に任せていたので、疲労もありません」

 

「じゃあ、どっかご飯食いに行くか」

 

「了解」

 

 アスタルテは無表情のまま、しかし幾分力強くうなずく。

 クロウはここでがつんと犬の上下社会のポジション維持のため、どこが喜ばれて、先輩らしさが上がるか思案。

 この前、お詫びに指名されたケーキバイキングだが、クロウは皆とワイワイおいしいケーキを食べれて良かったのだが、肝心の凪沙が顔には出てなかったけど終始機嫌が悪かったので、あれはきっとだめなところなんだろうとクロウは把握。

 

「よし、オレのおすすめに連れてくぞ。―――ほれ」

 

「……?」

 

 と手を差し出すクロウ。

 アスタルテはそれを凝視したまま動かず、

 

「ほら、人混みに逸れたら大変だからな、手を繋ぐのだ」

 

「……了解」

 

 そっと、その手を取る。

 

 

繁華街

 

 

 商業区の目抜き通り。見回せば、屋台からそこそこ高級そうなレストランまで様々な飲食店が散在している。魔族と共生する『魔族特区』ではあるものの店構え自体は日本の繁華街と大差ないが、大半の店の看板に日本語と英語、それに漢字と繁体字が併記してある。

 『波朧院フェスタ』で来場した外からの観光客はせっかくだから『魔族特区』特有の料理を食べてみたいだろうが、そこは空港海食港といった出入り口で配布されてるガイドブックにも記載されている通りに、魔族と人間の味覚はずれていることもあるらしいので、いきなりよくわからない料理に手を出すのは二の足を踏むだろう。

 とはいえ、アスタルテと呼ばれる人工生命体――準魔族の少女は、どういうわけだか、彩海学園の生徒たちに人気の店ランキングを把握している。アンパイな飲食店を選ぶだけの知識は持っている。

 だが、それはあくまで情報だけで、経験ではない。

 

「こっちだぞ」

 

 ここに大変鼻の良い、そして、パトロールで街を巡っているベテランな先輩が歩調を合わせつつも手を引いて先導する。それも人混みや勾配のきつい坂道では、ほとんど無意識でさりげなく速度を落とすなど疲れないよう配慮してるなど。

 あまり先輩先輩と張り切らずにした方が、らしく気遣いができるのではないだろうかと少女は思う。

 

「う。ここだ」

 

 言われて、アスタルテは金釘流で書かれて解読困難な、そして、オシャレ感ゼロな看板を見上げる。

 

絃神島(ここ)に来て初めて舌にあった店でなー」

 

 クロウが慣れた感じで暖簾を分けて入っていったのは、前夜祭の喧騒からは離れた裏路地の、小さな中華料理店だ。

 こまめに掃除はされているようだが、いかにも下町の古いラーメン屋といった風情で、女子に気に入りそうな雰囲気はまるで皆無。アスタルテが記憶する人気ランキングでものってない、ランク外だ。

 それでも先輩に続いて、素直に入る。

 もとより食事はするが道具として造られた人工生命体。かつての栄養摂取は最低限の活動に必要な成分を含んだゼリーで、あじけないもの。空腹を満たせばその辺のこだわりはなく、人気ランキング上位の洒落たカフェでケーキバイキングするのと穴場の中の穴場も同じ。

 

「だから、まだ誰にも教えてないけど、アスタルテは後輩だから連れてきたのだ特別に」

 

「特別……」

 

 その言葉に、ちょっと驚いたように後輩の少女は瞬きした。

 なんだか、小さな子供が思いがけないプレゼントでももらったような反応である。

 

「今日は“先輩”が奢ってやるから、遠慮しないで食べてもいいぞ」

 

 ふふん、と先輩風を吹かす(が意識するとやはり幼く見えてしまう)クロウは、『おっちゃん、いつものを今日は二人分でお願いなのだ』とメニューを決める。

 

 そして、厚着少年とメイド少女のテーブルに店員が置いた皿。

 

 なるほど。

 “舌に合う”と森育ちの先輩が言った意味はこういうことか。

 これは誰にも教えてなくて正解だ、と口には出さないが、一般的な感性での初見評価をアスタルテは下す。

 

 皿の上の料理は、実に旨そうに焼けていた。

 その申し分のない照り照りとした色つやといい匂いから、厨師(コック)は一流の腕を持ってるだろう。香菜や茸の炒め物で彩にも細かく配慮して添えられた盛り付けも匠の技を感じられて素晴らしく……中央の“カエル”の存在感を一層盛り立てている。

 見間違いではなく、皿の上に横綱の如く鎮座しているのは、大きなカエルをまるまる一匹をからっと香ばしく炒めたもの。

 さらに続いて、イナゴの唐揚げやサソリの串焼き、丸焦げのイモリにヘビのスープなどが運ばれる。

 もし、アスタルテでなければ、大変なツッコミを入れていただろう。けれど、これは後輩イジメではなくて、先輩としての純粋な誠意である。

 

「無人島の時に、フォリりんに島で採れるご馳走を指名されたから、丸々太ったカエルを見つけてそれを今日一番の得物だぞーって、あげようとしたら、無言で拳銃を向けられたのだ。脚のここがコリコリとしていけるのに……」

 

 不満げに言って、あーんとカエルの脚に被りつく。そのうまうまとした表情を見るだけで満足しそうな満面の笑みである。

 

「………」

 

 アスタルテも同じように、無言で、ホカホカと湯気をあげてるカエルの脚を持つ。

 匂いは、人工生命体にインプットされてる人間の嗅覚データでも最高級のものだろう。夜通りで働いて、それなりに空腹感も覚えている。カエル一脚平らげてから料理に手を付けずに、じっとこちらを見つめてる先輩の視線は、きっと同士を求めているものだろう。だが、黒魔術の生贄を求める導師に見えるのは、はたしてなぜか? それはそれで魔女の眷属らしい在り方かもしれない。

 で。

 知識はあっても、まだ一般的な感性には疎いアスタルテは回れ右で退場することなく、もくもくと先輩のおごりを味わうのであった。

 小食のアスタルテにはいささか量が多くてすべてを平らげることはできなかったけれど、人工生命体が有する味覚ソフトからの判断は、

 

「美味」

 

 

キーストーンゲート

 

 

 古城、雪菜、凪沙、夏音は、途中、用事が入って別れたが浅葱と矢瀬とも一緒に空港で暁兄妹の友人を出迎えた。

 それから、バスで移動し、地元民ならだれもが知る絃神島の観光案内の定番であるキーストーンゲート――高級ブランドショップや魔族特区博物館に土産物屋が立ち並ぶそこへと案内して、絃神島で最も高い展望台であるキーストーンゲートの最上階で楽しんだ後、古城に妙な電話が入った。

 それは獅子王機関の舞威姫・煌坂紗矢華の番号で――出たのは、北欧アルディギア王国の第一王女のラ=フォリア=リハヴァインで、簡潔に要約すれば、『絃神島からアルディギアへ帰国しようとしたら、増設人工島にいた。何を言ってるかはわからないと思うが、事件に巻き込まれて、騎士たちとも連絡がつかない。だから、お願いなのだが、王家の血筋であることが発覚した夏音を護衛の騎士たちが来るまで護ってやってはくれないか』というもの。

 

 とりあえず、昼間は古城たちと一緒に行動するが、夕方になったら、夏音の身元引受人である南宮那月に預けようと雪菜と相談して決めた―――ちょうどその時だった。

 

 

「捜索対象を目視にて確認」

 

 

 その南宮那月に引き取られて、後輩と同じ助手をしている人形めいた無機質な美貌を持った少女、

 

「ア……アスタルテ?」

 

 保護者の趣味で着せられたメイド服姿の人工生命体、と遠方から『魔族特区』の観光に来た人々を惹きつける記号だらけな存在は、注目を浴びつつも真っ直ぐに古城たちの下へと向かってる。

 とある事情で古城から生命維持に必要な魔力の供給を受けているアスタルテは、その魔力の経路をたどることで古城のいる方角がある程度分かるのだとか。

 そして、古城の前に現れたアスタルテは予想もしえなかったことを告げる。

 

「現状報告。本日午前9時の定時報告を以て教官との連絡が途切れました」

 

「……連絡が途切れた?」

「南宮先生が失踪したということですか?」

 

 古城と雪菜が半信半疑の表情で訊き返されて、アスタルテは淡々と首肯する。

 

「肯定。発信機、および呪符の反応も消失(ロスト)

 

「マジか……」

 

 古城の胸の奥にじわじわと広がる不安。

 あまりに現実味のない話で、説明をされても、あの南宮那月が失踪したとは思えないのだ。何せあの戦闘狂のディミトリエ=ヴァトラーでさえも、まともに戦って勝てるかどうかも怪しい。

 つまり、本当に失踪したというなら、そんな彼女の身に何かが起きるレベルの脅威が絃神島に存在しているということであって、矢瀬はともかく人工島管理公社でバイトしてる浅葱が急な呼び出しを受けたのと、先ほど連絡を受けた紗矢華とラ=フォリアが体験した異変もあわせて考えると、古城たちの知らないところで何か空恐ろしいことが起きているような感がある。せめてもの救いは誰かが具体的に危険な目に遭ったわけではないことだけだが……

 なんて古城の焦燥も露知らずに、『暁兄妹の友人』は、そのメイド服姿のアスタルテに驚いているようで、その透明感のあるアルトヴォイスで感嘆の声を上げる。

 

「すごいな。この子、人工生命体だろ。まさか『魔族特区』のメイドはこんな感じなのかい、古城?」

 

「いや、その子は別にメイドが本職ってわけじゃないんだが」

 

 アスタルテの名誉のために釈明するが、これはあくまで保護者の趣味で着せられているもので、ただ本人も特に嫌がっていないだけで―――とそこで、

 

 

「くんくん―――古城君見っけ! あーでも、アスタルテに負けちゃったのだ」

 

 

 遠くから、元気のいい声が。

 

「クロウ……?」

 

 日本文化に詳しい王女様から侍風に仕立てられたという蒼銀の法被を殺到と靡かせて、帽子手袋首巻完備の厚着後輩がダッシュで駆けてくる。途中大きくジャンプしたり、壁蹴りしたりして動きも派手なので、メイド姿の人工生命体の少女と負けず劣らず人目を惹きつけている。

 『嗅覚過適応(ハイパーアダプター)』という超能力でその獣人の嗅覚をさらに拡張させたそれは、その“匂い”さえ覚えていればどこまでも追跡可能だという。

 キキーッとブレーキを利かせて、古城たちの前に現れた後輩は、その後輩なアスタルテに何やら悔しそうに、

 

「ぐぬぬ。古城君捜しはオレが一番だと思ってたのに、これもあんなところにおいしそうなパンプキンケーキがあったのがいけなかったのだ。でも、やるな後輩!」

 

 どうやら徒歩で行動していた人工生命体の少女だが、寄り道もせずにまっすぐに来て、この後輩は祭りの催し物に目移りしてしまったらしい。

 『ウサギとカメ』かと突っ込みたくなる。

 

「いや、お前はホント何やってんだよ……」

 

 割とシリアスな方向に傾きつつあった古城だが、無感情なアスタルテを称賛してる後輩を見てると何だか肩の力が抜けてしまう。この前失踪したと思われたときも、無人島で呆気からんと再会して―――そうだ。

 

「おい、クロウ! お前、那月ちゃんが失踪したのって知ってるんだよな」

 

「ん? 知ってるけど、それがどうしたのだ古城君」

 

 よし、と古城はわずかな光が見えてきたと拳を握る。

 

「じゃあ、今、那月ちゃんがどこにいるか知ってるか?」

 

「知ってるぞ」

 

 アスタルテが古城の位置を感じ取れたように、南宮那月と主従の契約をしているという後輩も、そのラインを辿って、他人よりも遠くにいてもその動向を把握できるのだ。

 そして、クロウ自身が知らなくても、渦中にいると思われるその主に話を聞くことができれば……だが、

 

「今のご主人は忙しくて、“あそこ”に缶詰めになってるのだ」

 

「その“あそこ”ってのはどこだ?」

 

「それは言えない」

 

 きっぱりと断られる。

 割と従順だった後輩に常にない強めの否定に、古城はややたじろぐ。

 

「クロウ君、どうしても教えてもらえませんか?」

 

 獅子王機関の剣巫で、<第四真祖>の監視役である雪菜は、古城が巻き込まれるかもしれぬ可能性はどんなに小さくても無視はできない。

 そんな雪菜の頼みに、彼女の立場を理解している後輩は困ったように眉をハの字にするが、一文字に閉口されたままで、固い口は開こうとはしない。

 

「ご主人の“眠り”を妨げるのは古城君でも姫柊でもダメだ。ご主人の眷獣として、それはできない」

 

「………そうか。すまん」

 

 一線に踏み入ろうとした古城は、そこで心情を察して謝る。アスタルテも表情に出してはないがそのわずかに揺れてる瞳から、那月の失踪に不安を覚えているだろう。そして、クロウもきっとそれ以上に不安なはずなのだ。普段通りに明るいように見えていても、本当ならば、この後輩こそが一番に南宮那月のいるところへ行ってその無事を確かめたのだ。なのに、その居場所を知っていながら、那月の命令を優先して古城たちの下へいる。

 

「……でも、ご主人は無事だぞ。何か外からちょっかいかけてくる奴らがいるけど、明後日もすればケリをつけると言ってたのだ。それまで、オレたちにできることはないからな」

 

「わかった……」

 

 イヤな予感がする、と眉を顰める古城に、とんとん、と横から肩を叩かれる。

 

「ねぇ、古城。そろそろ、その子を紹介してくれないか」

 

「ああ、ユウマ」

 

 毛先の撥ねたショートボブの髪型に、スポーツブランドのフード付きのチェニックの上着とそのすらりと長い脚を強調するようなショートパンツを着こなす。そのごついバスケットシューズもアクセントになってて、妙に可愛らしく感じる。

 そんなボーイッシュと呼ぶにはいささか可憐な顔立ちをする――浅葱と矢瀬は昔の写真を見て男子と勘違いしたようだが――“少女”は、『暁兄妹の友人』である―――

 

「こいつは、クロウ。俺の後輩で、姫柊と同じ凪沙のクラスメイトだ。それで、クロウ。コイツは俺と凪沙の昔からの友人の―――「オマエ、何者だ」」

 

 古城が紹介したところで注意を向けた途端、後輩が厳しい声音で問うた。

 そこに固定して、爛と光らす瞳にあるのは、警戒心。

 眼光に貫かれたように、『暁兄妹の友人』はたじろぎ、後逸。だが、後輩は警戒をやめようとせず、彼女を、というより、その背後を睨み―――古城が割って入り、それ以上視線にさらされるのを、その身を以て防いだ。

 

「おい、クロウ!」

 

 強めの口調で後輩を一喝。それに、ハッとした後輩は、ようやっと視線を逸らし、目を瞑って息を吐く。吸う。呼吸を、へその下まで落として、歯車の狂いを調整するように。深呼吸が終わり、精神を落ち着けさせると後輩はゆっくりと目を開いて、それを見計らって、『暁兄妹の友人』は話しかける。

 

「はは、意外と人見知りする性格の子なのかな」

 

 無駄な肉のない八頭身に近い、反則的ともいえる体型に、その清爽とした笑顔は、老若男女問わずに骨抜きにできてしまうくらいに人懐こい。

 そして、この同じく人懐っこい後輩がこういう風に人と接するのは、ひどく珍しい事だった。

 

「悪かったのだ古城君。それにお前も。何か“鼻についた”というか……」

 

「構わないよ。何やら大変なようだしね」

 

 朗らかに笑って許す彼女は、自分の胸に手を当てて、

 

「ボクは仙都木(とこよぎ)優麻(ゆうま)です。どうぞよろしく、古城の後輩君」

 

「……ん。オレは南宮クロウだ。よろしくなのだ、仙都木」

 

 少し間を置くも、自己紹介を返す後輩。

 少し奇妙であるも、おそらく主の南宮那月を心配して、気が立っているのだろう。だから、嗅ぎ慣れない外から来た優麻を警戒してしまったのだ、と古城は納得する。

 誤解さえ解ければ、打ち解けるのも早いはず。なにせ古城の友人は、矢瀬や浅葱を速攻で落とした天然ジゴロなのだから。

 そして、空気の切り替えにはちょうどよく、トイレに行っていた凪沙と夏音が戻ってきた。

 

「お待たせでした皆さん」

 

「うん、―――って、クロウ君!」

 

「叶瀬、凪沙ちゃん。昨日は折角のお祝いに行けなくてごめんなのだ」

「そんな気にしないでって。だって、仕事だからしょうがないよ。クロウ君が皆のために頑張ってるってこと凪沙は知ってるから。それで、どうしてここに? もしかして、この近くに事件が?」

 

 会って早々で口数の多い凪沙に、さっきまでの場の雰囲気も一掃される。

 

「ご主人が仕事で帰ってこれないからな。だから、今日はオレとアスタルテ、叶瀬と一緒に泊まりたいんだが、いいか?」

 

「そうなんですか! じゃあ、今日はクロウ君とアスタルテさんも一緒にお泊りでした」

「いいよいいよ! 全然いいよ! あ、クロウ君、古城君がクロウ君にるる屋のアイスを買ってきてくれたんだよ!」

「本当か! ありがとうなのだ古城君!」

 

 賑やかになるそれを一歩離れた保護者な立ち位置で見る古城は緩く溜息を吐くと、そこへ優麻が肘で脇腹を突いてくる。

 

「なんだか、凪沙ちゃん、“ボーイフレンド”と随分仲良いみたいだけど、古城大丈夫かい?」

 

「うっせ。“クラスメイト”だからな、会話するくらいは普通だろ」

 

「へー、そうかい」

 

 ニヤニヤ笑いを浮かべる友人に、古城はふんと鼻を鳴らした。

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「雪菜ちゃんたちと一緒に食べられないのは残念だよね」

 

 と言いながら、存分に腕を振るう気満々な凪沙がキッチンに並べられた材料は、3人前より1.5倍くらい多いのではないかと古城は思う。これはけして優麻がスレンダーな身に反して痩せの大食いだからというわけではない。ちょっと作り過ぎちゃったー、を事故ではなく故意にやろうとしてるのだろう。

 

 重度の魔族恐怖症である凪沙だが、以前、命がけでテロリストから守ろうとしてくれた人工生命体のアスタルテは平気なようで、同じく混血のクロウも“ちょっと馴れ馴れし過ぎて別の意味で心配になるくらい”大丈夫である。

 が、そこは久々の旧友との再会を考慮してのメンバー別けでもあった。

 旧交を温める、それが大事。暁兄妹と優麻がゆっくりと話せるように。

 そして、那月が失踪している今、夏音が何者かに襲われる可能性を考慮して、部外者である凪沙と優麻、それに暴走すると周りの味方まで危なくなる古城とは距離を置いておくべきだ。

 

 そんな協議の結果、今夜の夏音とアスタルテ、そしてクロウは古城宅のお隣である雪菜の部屋に泊まることになった。

 降魔の槍を持つ獅子王機関の剣巫に、世界で唯一眷獣を召喚できる人工生命体に、獣人の身体能力に人間の超能力を持つ混血が詰めて防衛するというのだから、夏音の身の安全は隣で真祖が暴れようが保障されている。

 明日にはアルディギア王国から派遣された増援の騎士たちが到着し、明後日には奇妙な事態も解決してる。さっきまでの心配が杞憂に思えても仕方ないと古城は考える。

 で、

 

「そうだな……もし、作り過ぎたんなら、お隣にお裾分けすればいいんじゃないか」

 

「うん。そうだね。クロウ君ってたくさん食べるだろうし、そうするね!」

 

「そ、だな。うん、それがいい……とおもうぞ」

 

 言ってから、血でも吐くように咳き込む古城。

 ここは根性見せて古城がおよそ3人前を平らげても良かったのだが、どうも、昨日から後輩が何かと重なってしまい、強く出づらいのだ。その影が金髪であったので、まさか、電車痴漢騒ぎの『赤ずきん』の女装と思い出してるのではないだろうな自分と古城は若干の不安は覚えつつ、昨日は矢瀬もいたし手料理くらいは良いだろう、と兄は判断している。

 しかし、忘れないように念押しはする。

 

「でも、せっかく俺たちに気を遣ってくれたんだからな。ユウマとゆっくり話せるように」

 

「そっか。ユウちゃんも疲れたよね。長旅で。あちこち連れ回しちゃったし」

 

 このように、兄の苦渋の決断の成果もあってか、普通に会話できるようになった。

 

「いや、愉しかったよ。凪沙ちゃんや古城の友達にも会えてよかった」

 

 胸を押さえてる古城をニヤニヤと鑑賞しながら、ソファで足を組む優麻。こちらに背を向けて料理に気合を入れて集中してる凪沙は、頽れてる兄の葛藤に気づかずに、優麻に話しかける。

 

「みんな可愛いでしょ。あ、矢瀬っちとクロウ君は除いて、ユウちゃんは誰が好みだった?」

 

「あれ? クロウ君はダメなのかい?」

「―――だ、ダメだよ!」

 

 だん、と思わずまな板の上のキャベツを勢いよく割断して、半玉を転がしキッチンから落としてしまう。料理上手な妹にはあり得ないおっちょこちょいなミスである。思いっきり動揺したのがわかる。

 

「あはは、冗談冗談。でも、どうしてクロウ君を選ぶと凪沙ちゃんが困るのが気になるなー?」

「あ、いや、別にそうじゃなくて、女の子の中で、誰が良いかって話! もうユウちゃんったら!」

 

 がはっごほっ、と何かを吐くように咳払いする古城。それを流石に見かねてか、苦笑しながら優麻が答える。

 

「一応ボクも女の子なんだけどね。でも、そうだな。姫柊さんだっけ。彼女はちょっと気になるな」

「雪菜ちゃん、可愛いよね。たまにちょっとズレてるけどそこがまた」

 

 うんうん、と腕を組んで同意する凪沙。古城も賛成に一票。そして、優麻は一瞬遠くを見るような表情を浮かべて。

 

「……それに古城からときどき彼女と同じ匂いがする」

「え!? 何それどういう意味? 古城君!」

 

 同じ匂いという発言を物理的な意味で解釈した凪沙が包丁を握り絞めたまま、こちらを睨んでくる。古城はもちろん身に覚えがない。考えられるとすれば、満員電車で密着して残り香が移ってしまったことだが、それも昨日の話だ。

 

「いや、ほら、たまに彼女と二人でこそこそ内緒話をしてたから。仲が良いんだなって」

 

 ああ、なるほど、と優麻の補足に納得した凪沙が包丁を下して活き活きと微笑み、

 

「それは凪沙も前から気になってたんだよね。うん、じゃあ今夜は二人で古城君にそのあたりのことをきっちり問い詰めよう!」

 

「いいね。わざわざ絃神島まで来た甲斐があった。でも、ボクは凪沙ちゃんにもいろいろと問い詰めたいな」

 

 ダメだこれ以上は聞いていられん! と耳を塞ぐように頭を抱える古城。

 

「古城君ってば、晩御飯の準備、手伝わないならお風呂入っちゃってよ。あたし、ユウちゃんと後で一緒に入る約束したから」

 

「わかったー!」

 

 その提案に飛びつくように古城は乗ったのだった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 お隣。

 お客さんである夏音とアスタルテを準備していたお風呂へと案内した後、キッチンへ入ろうとしたクロウを雪菜は止めて、

 

「クロウ君は居間で待っていてください。私が、料理しますので」

 

「むぅ」

 

「今日のクロウ君はお客さんですから、仕事をしなくても大丈夫ですよ」

 

「わかったのだ。でも、何かやれることがあったら言ってほしいのだ」

 

 無人島の食材調達の一件で対抗心を燃やされているのか、もしくは機械と致命的に相性が悪い事を心配されてか、台所に踏み入ることを禁じられるクロウ。

 早速、調理に取り掛かった雪菜は、途中、あっ、と声を上げ、

 

「風呂場、シャンプー切らせてるの忘れてました」

 

「じゃあ、オレが置いてくるのだ」

 

 と部屋の隅にあった買い物袋の中のシャンプーボトルを取り、浴室への扉に手をかける、男子。

 

「え、ちょっと……!?」

 

 あまりに自然だったので見過ごしかけた雪菜。

 いくら先輩と違って性欲がなさそうで、中々意識しにくいとはいえ、この同級生は異性。

 今は浴室にいる2人と同級生の3人は同じ部屋に住んでいて遠慮のない間柄になってるかもしれないが、それでも最低限の気遣いはなくてはダメだろう。

 

「待ってくださいクロウ君! ここは私が―――」

 

 慌てて、雪菜は止めようとして、けれど、ここで吹き上げた鍋の火の元に注意がいってしまい、その間クロウは―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 脱衣所で服を脱ぎ、真っ白な湯気が漂うバスルームの扉を開けた古城は、見た。

 

「お兄さん……ですか?」

 

 ほっそりとした裸身を浴槽の中に浮かべて、頬をほんのりと赤く染める人工生命体の少女。

 洗い場のシャワー前でボディソープを泡立てて、透き通るような白い肌をあらわにしてる銀髪の少女。

 

「第四真祖の侵入を確認」

 

 いつも古城が見るバスルームと構造はほぼ同じでも、浴槽や蛇口の位置が鏡対称となってる。同じマンションの隣同士の部屋などによくある設計だ。

 そして、棚に置かれてるシャンプーボトルの銘柄は古城の知らないもので、その匂いが雪菜の体臭と同じ気がする。

 これらの情報を統合した結果、ここは高い確率で雪菜の部屋の浴槽ということになる。

 ただし、そこに何故入り込んだのかは古城にはわからないが。

 

「すみません。先にお風呂をいただいてます」

 

 とにかく、ここは出ていくべきだろう。

 夏音は普通に挨拶して、こちらが逆に驚くほど騒がないが、その無表情に見つめてるアスタルテの視線が痛い。

 きっと今の古城はものすごい勢いで冷や汗が出ていることだろう。

 

「あ、ああ……ごゆっくり」

 

 そのまま回れ右して浴室から出て、

 

「なんだ、今のは!? どうなってんだよ!?」

 

 後ろ手に扉を閉じた古城は逃げるようにそのまま脱衣所から―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――ほい、シャンプーだぞ」

 

 とクロウが扉を開けて、浴室に入ると、そこには誰もいなかった。

 一度はそれを不思議に思うが、何も気にせず、シャンプーボトルを鏡の前に置いて、浴室から出る。

 と、

 

「古城君……なに、やってるの?」

「その……ちょっと、困るかな。まだ夕方だし。それに心の準備が……」

 

 先まで雪菜がいたはずのキッチンに、耳まで顔を真っ赤にしながら顔面を引き攣らせている凪沙と、掌で目元を覆って苦笑する優麻。

 そして、

 

 

「う、うわああああああああ!」

 

 

 たらり、と鼻血を垂らしながら、居間から脱衣所(こちら)へダッシュしてきた全裸の男子先輩とぶつかった。

 

「おっと、なのだ」

 

 元バスケ部のエースに激しくぶつかったが、そこは身体能力に自信があるクロウは踏ん張り、返り討ちに撥ね飛ばした。

 場所が場所で、人が人なら、それから服が服なら、曲がり角でパンを加えてぶつかるべったべたな運命の出会いのようである。

 そして、その男子先輩は死体のように横たわり、唯一所持していたタオルがふわりと落ちて顔の上に掛けられている。あたかも死者を弔うかのごとき風情であったが、それは当人とその妹も本当にそうであったらと願ったかもしれない。

 で、

 

「え゛……」

 

 変態(あに)へ投げようとした皿を落とす凪沙。

 

「ど、どうして、脱衣所から、クロウ君が……? さっきまで裸の古城君がいたそこにいたよね……??」

 

 つまり、さっきまで、二人は一緒に風呂場にいた、と結論が導き出されるわけだ。

 

 ……………うん、裸の付き合いってやつなのかな? 女子もするし、凪沙もこのあと優麻ちゃんと一緒に入るつもりだったし。

 でも、古城君が一緒に風呂に入ろうって誘ったり、クロウ君ときゃきゃうふふと洗いっこする図のはあまりに想像できないなぁ……………うん、きっと、大丈夫。これは仲の良い証拠だよ。

 何ら問題ない。同じ家にいた凪沙にも教えず、いや気づかせず、まるで昼ドラに出てくる間男のように隠してたのが怪しいけど―――違う違うそうじゃなくて、すっごく不思議だけど、古城君とクロウ君が仲良しなのは妹として同級生として嬉しいこと! だから、問題ないよ凪沙!

 

 足元に割れた皿の破片を優麻が拾い終わるまでの間、邪魔にならないよう動かないようにしているのだと思うが、何やらぶつぶつと自分に言い聞かせるよう呟きながら固まる凪沙を他所に、きょとん、と首を傾げてクロウは、とりあえず足元に転がってる古城を起こす。

 

「? なあ、これどうなってるのだ古城君」

 

「俺に訊くな。訊くんじゃない。っつか、なんでお前がいるんだよ!?!?」

 

 その後隣の部屋に戻ったら、クロウは同級生に正座させられて無茶苦茶説教された。

 

 

公園

 

 

 最も対峙するのが怖いと思った相手は誰だろうか、ふと古城はそんなことを考えた。

 

 

 それは、真祖の監視役として選ばれた獅子王機関の秘奥兵器<雪霞狼>を操る剣巫か。

 いいや。真祖を殺す槍を持っていても、あの少女に古城はそう思えない。無論、敵には回したくはないが、脅威と思うのとはきっと違う意味でだろう。

 

 ならば、『真祖に最も近い』と言われる戦闘狂の<蛇遣い>の貴族か。

 確かに。あの吸血鬼の実力は底知れぬ。一度は試しのように眷獣をぶつけられてそれを退けたが、そのあと、眷獣と眷獣を融合させるという特殊能力を見せつけられて、今の古城ではかなわない圧倒的な実力差を見せつけられた。だけれど、それがあまりに想像がつかなくて、実感がわからない。

 

 やはり、あの魔族と人間の血が流れているあの後輩だ。

 キーストーンゲートで、“初めて見た”あの<神獣化>。相性の差であったが、古城が倒せなかった巨人の眷獣を一撃で戦闘不能にさせたあの豪力。とても真祖の眷獣が一体では釣り合わない。それがまるで実感があるように思えたのだ。

 

 

 だから、その黄金の完全なる獣の姿を見たとき、古城は、ぷつん、と内側で何かが千切れた。

 

 

 あの後で、夏音とアスタルテに謝罪に行き、部屋に戻ったら凪沙と優麻が一緒に風呂に入って男子には聞かせられない生々しい会話で盛り上がっていたので部屋に居辛くなった古城は、ひとまず夜の散歩に近くの公園まで来て―――それと、目が合った。

 

 テレビで野生の動物と目を合わせるなという。

 それはその動物を挑発する行為と同じであり、襲われてしまうのだ、と。

 

「―――」

 

 古城は目が離せなかった。

 

 ―――音が、消えた。

 ―――色が、消えた。

 

 極限まで集中力が高まると、人間の脳は余分な処理を排除するというが、今この瞬間、古城にとって最も生存率をあげるために―――会話して説得する余裕もなく一心不乱に、その左腕を突き上げた。

 

疾く在れ(きやがれ)、<獅子の(レグルス)―――」

 

 眷獣の召喚。

 吸血鬼が自らの“血”に棲まわせているという、異界からの召喚獣。それは実体化した巨大な魔力の塊であり、吸血鬼が最強の魔族として恐れられている理由だ。

 実体化するだけで宿主の寿命を根こそぎ吸い尽くすが、それに払った代償の分に見合うだけ眷獣の破壊は圧倒的である。

 ましてやそれが、世界最強の吸血鬼<第四真祖>の眷獣ともなれば天災に等しく、抗いようのない破壊をもたらす。

 

 ―――だが、それは向こうも同じだ。

 

 眷獣をも蹂躙する、ただひたすらに単純な、純粋極まる暴力の権化。

 真祖の眷属であろうが、神殺しの力は侮れず、また、力だけではなく、

 速い。

 こちらが召喚を始める前から、その変生は終わっている。

 ならば、後はその力で敵を屠るだけ。

 巨人を木端微塵にしたその熊手が古城に迫りくる。それを呆然と古城は眺めて、死を覚悟する。

 いくら世界最強の吸血鬼の力があろうと、古城は殺戮機械として鍛え上げられた後輩とは違い、戦闘の素人。先手を取られてしまえば、終わりだ。

 絶望する古城を、しかし熊手の衝撃が襲うことはなかった。

 

「は、はは……」

 

 掠れた笑い声が、零れる。

 極度の緊張が解け、今更のようにがくがくと膝が震えてしまう。

 情けないけれど、それでも安堵が先に立ってしまった。深く深く息を吐いてから、慎重に公園を見回す。

 

「……何、だったんだ。今のは……」

 

 真夏の夜の夢か、と思わず頬をつねる古城。

 瞬きの間に、あの巨大な獣は、公園から見る影もなくいなくなっていた。

 ありえないが、そうなのだ。

 古城はしばらく、公園のベンチで座り込んで天を仰いだ。

 

 

人工島南地区 マンション付近

 

 

 夏音、そしてアスタルテと雪菜が同じ部屋で寝静まる中、ひとり居間にいたクロウはそっと起きると、音を立てず、その姿を消す蒼銀の法被を羽織り、静かに玄関扉を開けて、外に出る。

 階段も使わずに、飛び降りて、音もなく着地。しばらく息を潜めて走ったところで見かけた、大型トラック用の道路標識を片手で引き抜いてから、

 

 

「そこだ!!」

 

 

 叫び、投槍のように思い切りぶん投げた。

 道路標識は実に1km以上も宙を突き進み―――そして、何の変哲もないコンクリートの壁に突き刺さった。

 しかし。

 バッ!! と慌てて二つの人影が真横に跳んだ。何もないところからいきなり出現したように見えた。まるで、誰にも見えない壁の陰に隠れていた人物が、慌てて遮蔽物の陰から飛び出したかのような現象だった。

 クロウも腰を低く落とし、それから弾丸のような速度で一気に、そして、闇から闇を滑るように気配を断ちながら、その“魔女”を追う。

 

 

 

 気づかれた!!

 二人の魔女――緋色と漆黒のメイヤー姉妹は飛んでくる道路標識を全力で回避したが、やるべきことは変わらない。攻撃を仕掛けてきたのは海岸沿いで見た――そして、その後に、知った。あの忌々しい魔女の使い魔<黒妖犬>であることを。その脅威がものすごい速度でこちらへ疾走してくるが、“策通り”だ。

 

「き、きききき来たわ!? 来たわよオクタヴィア! <黒妖犬(ヘルハウンド)>が!」

「ええ、お姉様。私たち魔女が何たるかを、死ぬよりも辛い目に遭わせてあげましょう!」

 

 すぐそこに『科学(サイエンス)』の部隊を総動員させて張った、空間制御の結界。そう、あの<黒妖犬>が無残に敗北したあの、<空隙の魔女>の術を再現した領域。

 その安全地帯は目と鼻の先にある。

 迫る脅威は視界に入れないよう背を向けて、メイヤー姉妹は二人三脚のように足並み揃って、走り続ける。

 

 あと三歩。

 あと二歩。

 あと一歩。

 

 

「―――それでは、遅いのだ」

 

 

 声が。

 聞こえたのではなくブレたのだとメイヤー姉妹が感じ取った瞬間、すでに姉妹二人共、身体がくの字に折れ、左右真横に吹き飛ばされていた。ノーバウンドで5mほど宙を舞った時、ようやくゴッシャア!! という掛けておいた魔術障壁を砕く轟音を聞いた。放たれたのは拳か、それとも蹴りだったのか。攻撃を受けて尚、魔女姉妹は自分の身に、具体的に何が起こったのかを認識できていなかった。

 引き離された姉と妹の身体が地面に落下し、2回、3回とバウンドしてようやく止まる。

 

「ごっ、げほ……ッ!? また、殴ったわね。私たちの美貌を、躊躇なく、なんて野蛮人なの……!」

 

 怯えて後ずさる漆黒の姉とは対照的に、緋色の妹は血塗れの歯を見せて、唾を吐き飛ばし叫ぶ。

 その目にはありありと憎悪が浮かんでいる。彼女たちは、魔導書を保護するために結成された犯罪組織の構成員だ。それも自分らが所有する貴重な魔導書を奪われたことは、何よりも耐えがたいものがある。

 だから、殺してやる。その殺意は確かにぶつけているはずだ。なのに、銀人狼と化した獲物からは、全く恐れが伝わってこない。

 まさか、ひょっとしなくても、あの銀人狼の視界には、自分たちはどうでもいいものとして映っているのではないだろうか?

 緋色の妹がそう考えたそのとき、銀人狼はゆっくりと両手を上げる。それにビクゥッ! と漆黒の姉が過剰な反応を見せたが、構わず、その掌を耳に当てる。

 極めて、冷静に。

 姉妹どちらにも目線を向けず、けれどその吐息は嗅ぎ取り。

 

「……煩いな」

 

 不快気に呟かれた声。

 それから、ようやく左、右と姉妹二人に視線を流して、

 

「夜中に盛ったように騒ぎ立てて、気持ち悪い臭いも撒き散らす。これだからドラ猫は迷惑なんだ」

 

 心底から不愉快だ、と言わんばかりに声。

 主の毒舌とは違い、銀人狼にとっては単なる独り言の様なもので、そんなつもりは全くないのだとしても、魔女姉妹にとって侮辱以外の何物でもない。

 

「……へぇ。要するに、一度幸運にも捕まえた程度で、私たち<アッシュダウンの魔女>を舐めているのね……」

「……やっぱり殺すわオクタヴィア。この<黒妖犬>を殺さなくちゃ、私たち<アッシュダウンの魔女>は終わってしまう……」

 

 緋色の妹と漆黒の姉の割れた唇が、赤い色と黒い色のついてそうな言葉を絡め合わせるように言い放つ。

 

 ―――瞬間、辺りは静まり返る。

 

 風はない。

 街の喧騒も遠い。

 空気が淀み、嫌な臭いだけがこもりはじめる。

 

 何の臭いかはわからない。ただひたすら嫌悪感だけを催させる、本能を刺激する感覚質(クオリア)

 

 木。

 木。

 突き出て、鬱蒼と茂り、月明りのない新月の夜に異界を呼び込む、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木、木―――!

 

 

「「<堕魂(ロスト)>。魔女の最終秘奥をとくとその身に味わいなさい!」」

 

 

人工島南地区 マンション付近

 

 

「……彼をうまく誘き出してくれたようだね」

 

 息を呑む古城。

 あの後、帰ったらすでに妹は寝静まり、ひとり自室にいた古城に、彼女は現れた。

 胸元にリボンを編み上げて、大きく肩口が開いて、スカート丈の短い黒いドレス。三角帽子に網タイツも装着すれば、魔女の装いだ。ぴったりと体のラインを浮き出て、スタイルの良い彼女にはよく似合う。だがそれ以上に露出が多すぎて、深夜に二人きりでいるときに見てはいけない格好である。

 そんな、仙都木優麻がゆっくりとしなだれかかるように古城をベットに押し倒す。

 

「お、おい、顔が近すぎるぞお前」

 

「良かった。古城の態度が昔のまんま過ぎて、ボクのことは女の子として見てくれないのかと思った。結構頑張ってみたんだけどな」

 

 状況はまったく理解に追いつけず、そして、思いがけない優麻の吐露に、しかし、古城は意外な気持ちになる。

 

「それは普通に驚いたけど、昔のお前だったら絶対そんな服着なかったもんな」

 

「うーん、そういうことじゃないんだけど」

 

 残念そうに笑って肩を落とす優麻、けれど、互いの距離は離れず。前かがみになった彼女の胸の谷間を、意識せずにはいられず。古城はその落胆の理由を考えるだけの余裕がなかったが、思いついたままに口を動かす。

 

「だっておまえはおまえだしな。それにユウマは昔から可愛かっただろ」

 

 その返答に、優麻は一瞬言葉を失くして、大きく目を見開く。その陰のある瞳にあるのは、ひどく寂しげな感情。

 

「相変わらずだなぁ、古城は。じゃあ、たとえば、もしボクが普通の人間じゃなかったとしても、そんな風に言ってくれるのかな」

 

「人間離れした知り合いは大勢いるから心配するな。今更多少のことじゃおどろかねーよ」

 

 冗談めかした優麻の言葉に、古城はきっぱりと断言。

 何せお隣は、槍を振るう霊能力者に人工生命体、元天使に混血まで揃った、モンスターハウスと化しているのだ。そして、何よりも古城自身が<第四真祖>と呼ばれる怪物(モンスター)だ。それ以上のことなどそうあるわけがなく、この幼馴染の身にそれ以上のものが起っているとは考えられない。

 

「そっか……ここは、『魔族特区』だったね」

 

 満足そうに呟き、古城を抱きしめるように腕を回す。

 

「よくわかったよ。やっぱりボクには古城しかいない」

 

「……ユウマ」

 

 その柔らかな感触に、古城は絶句した。

 何かを言いかけた古城の口が、優麻の唇に塞がれる。

 月明かりもない、かろうじて互いの顔だけがわかる、暗い部屋の中、両者は凍りついたように動かない。

 こくり、と嚥下する音。

 いつの間に切れていた口の中からその血を啜り取られる。真祖の血を、吸血された。

 

「え……?」

 

 呆然と前を向けたままの視界に、ゆらり、と波紋のように揺れる彼女の背後――ちょうど、初対面時に後輩が睨んでいたそこに、何かがゆっくりと顔を出す。

 禍々しくも蒼い巨大な影が―――

 

「ごめんね、お祭りの間だけ君たちを借りていくよ、古城」

 

 耳元で囁かれる甘美な響きを子守唄に、古城の意識は深い深い闇の底へと堕ちていった。

 

 

人工島南地区 マンション付近

 

 

「魔導書がないからと侮ったかしら、でも、残念ね。私たちは同じ悪魔に契約している」

「私たちが二人で半分ずつ悪魔に捧げることで、魔女の秘奥たる<堕魂(ロスト)>が可能なのよ」

 

 二人の魔女姉妹も緋色と漆黒の斑模様の人型を模した木の化身となる。

 

「寿命を半分削ることになるけど、本物の悪魔と化した私たちを止める者はいない」

「そして、空間制御は、何も<空隙の魔女>だけの特権ではない」

 

 完全なる悪魔となった魔女の魔力は桁外れに上がる。

 森すべてが、悪魔と化した魔女姉妹と同じ木人。

 そして、それらが点滅したように姿を消して、シャッフルされる。空間制御は、たった一ヵ所の“(ゲート)”を固定するだけでも、膨大な魔力と高位の魔術師による儀式を必要とする超高等魔術。それをメイヤー姉妹は、『科学』の部隊支援により、可能としている。本物の術者か森が木人と変化した木偶か、その見分けがつかず。死ぬこともなく、死を恐れることのない動死体(ゾンビ)の如き木偶に延々と襲われるアッシュダウンの悲劇の再演。

 

「この国には、木を隠すなら森の中って言葉があるのよねぇ。本物の悪魔と化してる私たちとその自慢のお鼻で嗅ぎ分けることはできるかしらぁ!!」

「私たちは、ゆ~っくり見物させてもらうわぁ。ナツキの犬がぐちゃぐちゃのお肉の塊に変わっていく醜悪極まる無様な最期をねぇ!!」

 

 きひゃひゃひゃひゃ―――魔女の残響が木霊する森。

 転移して、上下左右それぞれの軌跡で疾駆する木偶の襲撃を薙ぎ払って伐採しても、生命力の強い木人はすぐに再生。そして躱そうとしても、移動した先で次々と空間転移による奇襲を立て続けに連続行使し、ついにその一体の触手のような枝腕が、銀人狼の肘をかすめる。途端、それは銀人狼の腕をからめ捕る枝の鎖に変じた。一瞬動きが鈍った銀人狼を、すかさず木偶の軍勢が抱きつくように捕え、それらもまた足を地に深く根を張り、腕を束縛する堅固な鎖となった。

 

「はい、捕まえたぁ! もう終わりよこのケダモノめ!!」

「私たちの魔導書を奪った罰、た~っぷり堪能させてあげる!!」

 

 前後の木人がその腕を打鞭として振るい、蜘蛛の巣にかかった蝶のように、束縛で絞め上げて動けない銀人狼を挟み打つ。打つ。打つ。打つ。打つ。打つ。打つ。打つ。打つ。打つ。打って打って打って打ちまくる―――!

 

「動けないでしょう! 私たちの縛は、ナツキの<戒めの鎖(レーシング)>にも勝るわぁ!!」

「そう、今の私たちは<空隙の魔女>に匹敵する! 誰もを震え上がらせる大魔女なのよ!!」

 

「………ぃ……」

 

「あぁ~? 何か言ったかしらぁ!」

「命乞いなら聞かないわぁ! 早くイイ声で悲鳴を聞かせてくれない!」

 

「…………かい……」

 

「だ・か・ら! ブツブツるっさいっつってんのよ!!!」

「とっととキャンキャン鳴いて、死になさい!!!」

 

 

 瞬間。

 閃光が、森すべてを包んだ。

 

(え……?)

 

 まともな光ではない。それだけはわかった。

 なぜなら。

 その光に触れるや否や、術者の感情に呼応し狂気乱舞して踊り狂っていた木偶の木人たちが、枯れ果てたように身を縮めて、その動きを止める。

 

「どうなってるのよっ?」

 

 その中心はやはり、縛られていた、今は解放されている銀人狼―――違う、金人狼からだ。

 

「それは、まさか、神気!?」

 

 細く、震えた黄金色の息吹が体毛眩く金人狼の口から洩れる。

 『白鶴震身』。鶴の鳴き声に似た息吹を発しながら細かく震わし、内勁を強化倍増させる擬獣拳法・白鶴拳の身体運用。

 それが、この一時、丹田の霊的中枢(チャクラ)を解放して、覚者仁獣に至らせる<神獣人化>を成す。

 加えて、『朱雀飛天の舞』と呼ばれる獣王が編み出した四つの秘奥がひとつ、空間を圧する獣気の解放。

 大気に己の香気を溶け込ませる超能力との併用で、獣王のそれをも上回る空間の圧制力が、今はあらゆる魔性を浄化させる神気まで取り込んでいる。

 

 悪魔の森が、排他的なまでに、黄金一色に染まる。

 そこに聖域があるが如きの、完全な空間支配率に、木偶たちは時間を巻き戻されたかのように、悪魔の眷属となる前の、ただの樹木へと戻っていく。

 

 魔女二人は即断で、この場から離脱することを決める。その実力差もそうだが、相性が悪過ぎる。<堕魂>した魔女たちに、その光は見るだけで目を焼いてしまう。『科学』の部隊が総動員して描いた魔方陣に魔力を通し―――だが、空間制御が発動することはなかった。

 

「なんか騒いでたけど、同じ魔女でもオマエらとご主人は格が違うのはよくわかったのだ。だから、あまり調子乗るな」

 

 

 ダン!! と。

 

 

 発動間近の陣が敷かれた、この領域ごと踏み潰すように、金人狼の踵が地面に突き刺さる。獣化したその脚力は、アスファルトを容赦なく砕き、発動間近の陣を粉々に砕く。

 

「木を隠すなら森の中―――って言ってたけど、これ皆襲い掛かってたのに、オマエらだけずっと後ろに隠れてるから、その臭い“匂い”を嗅がなくても丸わかりだぞ」

 

 逃亡の手段は破壊された。空間制御で逃げることはできない。そして、向こうは最初からこっちの位置を把握していた。

 

「で、“ちゃんと数えてたぞ”。オレを叩いた回数は、最初の一発ずつは差し引きしても、“27回”―――」

 

 木偶に紛れていた木人の魔女姉妹へまっすぐ、金人狼が跳んだ。

 大地の方が縮んだと錯覚してしまうような、縮地の法。

 姑娘歩とも呼ばれる、小さく見せるために足を縛った女性が歩くような独特の歩法で、木人のちょうど中間へするりと入り込み、鶴の嘴のように曲げた手首が、反射的に動いたその緋色の妹の方の腕の肘を打ち、反撃に釘を刺す。流れるように停滞なく、重心をスライドしつつ左肩からのぶちかましが隣で動けずにいた漆黒の姉を弾き飛ばして、さらに積乱雲の如き紫電走らせ渦を巻く螺旋勁を練り上げた掌が緋色の妹の頭部を打ち抜く。その余勢を加速させて金人狼の身体が回転して、斜めから巻き上げた踵が漆黒の姉の顎を吹き飛ばした。

 そう、それは剣巫が魅せたような、女らしい嫋やかで柔らかな動作で、けれど一打一打気を篭めたもの。

 『鶴は飛べるほど、軽く、そして強靭だ』と白鶴拳が呼ばれるよう、けして強く踏ん張ることもなく、力むこともない、鶴が翼を広げるが如き柔らかな手指の動きでありながら、発勁の一打はまさしく剛拳の威力。

 

「あと、23回」

 

 そこで<神獣人化>が終わり、元の銀人狼に戻る。けれど、メイヤー姉妹も今ので疑似的な<堕魂>をしていたが、その悪魔との契約さえも神気の拳打は、一打目でその<守護者>との接続(ライン)が途切れて、二打目で魔女の体内に残留した悪魔の魔力を祓い清める、計二発で<堕魂>を消し飛ばしてしまい、つまり、魔導書も、<守護者>もいなくなった。

 その状態で、この銀人狼を相手できるか?

 

「うーん。まずはブッ飛ばしてから難しい話を聞こうかと思ったんだけど、23は2じゃ半分に割り切れないぞ。オマエらのどっちかが一発多めになっちまうけど、どっちがいい?」

 

「「ひっ……」」

 

 たとえ一発でも、そんなものをもらうのは冗談ではない。死ぬ。何の護りもなくなった自分たちは、肉塊にされる。

 

「お、オクタヴィア! オクタヴィアがあんな挑発をするからっ!」

「な!? お姉様こそ、最初に手を出したのはお姉様じゃありませんかっ!」

 

「むぅ。ドラ猫同士が喧嘩するとめんどいのだ。とりあえず、11発ずつやってから考えてもいいか?」

 

「許してちょうだい! これ以上あんな攻撃、一発でもされたら死んじゃう……!」

「お願いよ! 私たちは、そう、<蒼の魔女>に言われて仕方なくやったの……!」

 

 銀人狼にしては、珍しく、深い溜息を吐く。

 仕返しの清算はきっちりとしておきたのだが、あまりにもこの魔女に付き合いたくなくなった。どうも、彼の中にある魔女像が崩れていく。ご主人が特別であるのはよくよく理解したつもりだが、不愉快だ。

 

「じゃあ、チャラにしてやるから、言え。オマエらはご主人に何をしてる。古城君たちに何の用だ。<蒼の魔女>ってやつはどんな目的なのだ」

 

「な、なんのこと……?」

 

「あそこにいるオマエらの仲間が、昼から古城君たちを見張ってたのは知ってるぞ。何にもしてなかったから、とりあえず、手を出さなかったけどな」

 

「それは、その……」

 

 

 ―――そのとき、決着がついた途端に戦意喪失した魔女姉妹の前に、“彼”が虚空から現れた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 その虚空から出現した術は、空間制御。主<空隙の魔女>と同じ技を、同じように単独で成した。

 

「それは、ご主人と同じ……」

 

「同じ空間制御。でも、ボクに<空隙の魔女>と同格と言い張れるほどの実力はないよ」

 

 黒スーツを着た気だるそうな少年。その腕に抱かれている少女に視認した途端、乱入されたにもかかわらず南宮クロウはその獣化を解いて、銀人狼から人間へと戻してしまう。

 その反応に少年は目を細めて、笑みを作り、

 

「ここまでにしてもらえないかな。時間稼ぎをお願いしたのに、戦闘になったのはそこの<アッシュダウンの魔女>の独断だけど、ボク達はキミを傷つけるつもりはないんだ」

 

 “暁古城”と同じ顔をして、同じ濃い血の臭い、しかし、その雰囲気は明らかに違う。<過適応能力>の嗅覚が、中身とは別人であることを報せている。

 

「それで彼女たちの代わりに応えるけど、今のボク、<蒼の魔女>の目的はキミだ。

 ―――君が、欲しい」

 

 “暁古城”はその手を、クロウへと差し伸べて、言った。

 

「君に誤魔化しがきかないってのはわかってるからね。直球で宣言しよう。

 ―――南宮那月から君を奪う」

 

 その誘い文句の意味することの詳細が分からずとも、ふたつクロウは確信した。

 今、こんな場所に、寝間着姿で薄着の、大切なその妹の暁凪沙を連れ出すような輩は、“暁古城”ではなく、そして、その中身は―――メイヤー姉妹よりも遥かに濁った腐臭をその背後から臭わせた仙都木優麻だと。

 

「仙都木、古城君をどうするつもりだ。それと、凪沙ちゃんから離れろ」

 

「安心してくれ。古城の身体は10万人の生贄につり合う『計画』の要だからね。もちろん、この子も傷つけたくない。できれば、ね」

 

 “暁古城(ユウマ)”がその腕に抱いた凪沙のおとがいにその掌を添わせる。

 ひどく、裏切られたように、クロウは顔を歪ませ、拳を震わす。

 確かに、その背後に混濁した臭いを感じ取った。けれども、その彼女本人の“匂い”は純粋に、友人との再会を喜んでいたもので、そこに虚偽はなかったのだ。

 だから―――クロウは、それを信じて何も言わなかった。

 

「お前は、そんなことしないって、思ってたのだ」

 

「だけど、ボクはしなければならない。この宴の間だけでいい……凪沙ちゃんを助けたければ、ボクのものになるんだ」

 

 その背後に浮かび上がる、巨大な影。腐臭の源。騎士のような甲冑に身を包んだ、不吉な蒼い影は、髑髏に似た奇怪な兜の下に顔はなく、底知れぬ闇色の空洞が広がっている。腰に提げていた剣に手をかけて、解き放つ。鞘の下からその研ぎ澄まされた真新しい刀身があらわとなり、凪沙の頭上にその切っ先が向けられる。

 

 そして、彼女自身の“匂い”も、本気だ。

 

「…………………わかった、ぞ」

 

 頷いて、クロウは膝をつく。降参した、と示すように、その両の手の平を見せるよう差し出して、(こうべ)を垂れる。

 “暁古城”は、短く息を吐いて、

 

「良かったよ。キミの南宮那月に対する忠誠心はわかっていたからね。だから、凪沙ちゃんを人質に迫っても、ひょっとすると暴れてしまうんじゃないかって」

 

「……オレは、ご主人の眷獣だ。だから、畜生にはならない」

 

 誇り。それは、主と出会う前には持てなかったもので、今の自身を支える大事な芯のひとつ。あの傲岸不遜の大魔女の眷獣に見合うように、あらねばならない。

 そう、後輩のアスタルテが自らを盾にして、テロリストから一般人を護ろうとしたように。その先輩も見過ごすことはできない。ましてや、凪沙を―――

 

「そうか。キミは忠実な道具ではなく、誇り高い人間だったんだね。重ねて詫びよう―――きっと、その在り方を穢してしまうだろうから」

 

 虚空から現れた魔導書『No.013』を開き、その手を置き、唱える。

 

「我が名は蒼。悲嘆の氷をもって夢幻の監獄を打ち破る者なり―――」

 

 

 

 その『裏切り』の儀式は終わった。

 南宮クロウの身体に、異変はない。だが、その魂が固く結ばれたことを覚る。これより、自分は、この<蒼の魔女>の命には逆らえない。

 しかし、その腕には凪沙がいた。

 

「……ロウ…ん………ダメ……」

 

 ……何やら魘されているようだが。悪い夢でも見てるのだろうか。

 それに常夏とはいえ夜。その蒼銀の法被を脱いで、冷えないよう、寝間着姿で薄着の凪沙の身柄を包む。

 

「―――どうして、せっかくの人質を解放してるのよ<蒼の魔女>!」

 

「彼女はもう『計画』に必要ないからだ」

 

 メイヤー姉妹がそれに反対の声を上げる。<蒼の魔女>は淡々とそれに返す。しかし、それでもしつこく食い下がる緋色と漆黒の魔女。

 

「だったら、何でもいいから儀式の贄にしてやりましょうよ! 綺麗な娘だから死体にしてやったらとっても映えるでしょう―――」

 

 魔女は凪沙の身体を舐めるように見て―――クロウの視線と合わさった。声にならない悲鳴を上げるがしかし、すぐに不敵な笑みを浮かべる。

 

「もう、ナツキの犬は『No.013』で縛ったんでしょう。なら、もう私たちには逆らえないじゃない」

 

「―――ダメだ。魔女は契約を破らない。彼女の安全は保障した。それに彼女らはボクのものだと決めたはずだ。だから、手を出すな<アッシュダウンの魔女>」

 

「『裏切り』の魔導書を使っておきながら、いまさらなにを綺麗事―――」

 

「それからひとつ訂正だ。今の彼の主は、“私たち”、ではない。このボクだよ」

 

 それ以上の問答はせず、<蒼の魔女>は指を鳴らすと、凪沙の身柄は虚空に呑まれて―――元のマンションの自室のベットの上へ送られる。その鼻で嗅ぎ辿る“匂い”が、確かにその位置を伝えてくれた。

 

「それで、ひとつボクは思うんだが」

 

 <蒼の魔女>は冷静な顔で告げた。

 ひたすら、冷静に。

 

「忠告を破ったせいで、魔導書も奪われ、<守護者>も失った。はたして、“キミたちは『計画』に必要あるのかな”?」

 

「なっ!? なにをおっしゃるんですの<蒼の魔女>!」

「まさか、私たちを切り捨てるおつもりですか―――!」

 

 メイヤー姉妹は<図書館>でも武闘派の実力者。しかし、それを支えていた切り札を二つも失ってしまっている。加えて、これまでの作戦失敗に無断行動、ここで『計画』が成功しなければ、この絃神島から帰還しても、その地位は危うい。

 それに対し、<蒼の魔女>は単独で、10万人の生贄に匹敵するという真祖の身体を手に入れ、<空隙の魔女>の在り処を見つけるための使い魔をも手に入れた。

 現状。

 最も力のある魔女は、<蒼の魔女>であり、その意思次第で<アッシュダウンの魔女>は終わってしまう立場にある。

 

「いいや、そんなことはしないよ。ボクが成功したのも、君たちが働いてくれからだ―――でも、『計画』の邪魔になるようなら……」

 

 そこで、あえて言葉を切る。その不安を煽らせるよう。

 そして、メイヤー姉妹を黙らせると、傍に控えていた『科学』の部隊へ向け、

 

 

「これより、戦力の補充を行う。かの<血途の魔女>が<図書館>に残していった遺産、文字通り死蔵されている八体のうち七体の人造魔獣と、<黒妖犬>と『守護者契約』をさせ、『黒』シリーズを完成させる」

 

 

 

つづく



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魔女の迷宮Ⅲ

???

 

 

 忘れても憶えている、失われたいつかの記憶。

 

 

 彼は、自分を守るために戦い―――“自分”に刺された。

 

『これが現代の殺神兵器、我の“後続機”だというのか。それが未完成であるのはわかっていたが、殺されるまで全力すらも出さんとは……興醒めだ』

 

 自分の顔は彼の血で染まっていた。手は彼の血に濡れて、滴り落ちている。

 

 “自分を怖がらせないよう”に“人間のまま”。

 獅子の雷光を浴びて、双角獣の振動波に吹き飛ばされ、金剛の羊に反撃を撥ね返される。

 それでも、彼は自分を庇ってくれた。戦うのをやめなかった。そして、今では“自分”から兄たちを逃がそうと血を流しながら、ひとり殿でこの祭壇に残り、奮戦した。

 “自分”は、自分の前で本気を出そうとしない彼に、最初は加減してオモチャのように苛めては挑発を繰り返し、それでもそれに乗らない彼に段々と苛立ち、攻撃を苛烈にしていき―――終いには、我慢できなくなり自らの手で切り裂いた。

 

『不愉快だぞ。なんて無様な散り様だ。所詮は欠陥製品か―――』

 

 “自分”はけして認めないだろうが、彼に本気を“出させられなかった”。彼の頑固な意志を変えられなかった。思い通りにならず、“負けたのだ”。

 ―――とくん、とくん……。

 彼を抱きしめる(拾い上げる)腕が、生暖かい鮮血に染まっていく。背中に刻まれた裂傷から、尋常ではない出血が止まらない。

 

 《結局、こうなるの……?》

 

 腕の中で、彼の身体が重みを増しつつあった。

 流れる血。

 体温を失っていく、彼の身体。

 

 《結局、私は―――》

 

 ―――とくん……とくん……。

 恐怖のあまり、何も考えられなくなっていく。

 けれど、かすかに感じる心臓の鼓動の感覚が、ゆっくりと遅くなっていくのだけは感じる。

 彼は今まさに、命を失おうとしてる。

 ―――とくん……とくん……。

 いくら呼びかけようと思っても口は動かず、どんなに強く抱きしめようにも力は入れられず、腕の間から彼の命が零れ落ちていく。

 それは自分が“終わる”ことを覚悟した時とは、比べようのない恐怖だった。

 ―――とくん……。

 彼の鼓動が―――。

 ―――とくん……。

 弱っていき―――。

 ―――……。

 

 停まった。

 

 あの時と同じ。

 でも、自分にはもう何もできない。ただ、この消えゆく彼の命の温もりを最後まで感じることだけしか―――

 

 血塗られた手が、その『首輪』を外す。

 

『このまま死なせるものか。この欠陥製品のせいで、『十二番目(ドウデカトス)』を逃がしてしまったのだからな』

 

 “自分”が何をしようとしているのか、最初、自分はわからなかった。

 

『これから、お前の“一番”の記憶()を喰らってやる』

 

 《ダメだよ……■■君を、これ以上、そんな……》

 

 これから行われるのは死という尊厳すらも踏み躙る、とてもひどいことだ。

 

『そして、疑似的な『血の眷属』にして』

 

 《だめ……だめ……だめだめだめだめだめ!》

 

 どれほど願っても、“自分”には届かない。

 

『獣のように我を襲えと命じてやろう』

 

 《だめだめだめだめだめだめだめだめぇぇええええっ!》

 

 “自分”の身体が、極光の輝きに包まれた。風に煽られた炎のように髪が逆立ち、天高くある雲を吹き飛ばすエネルギーの激流となる。

 抱きしめている彼から、金色の光が溢れ出した。

 光は“自分”が噴き出した極光の輝きと混じり合い、“自分”が開いた口の中へと吸い込まれていく。

 自分の双眸から、大粒の涙があふれ出す。

 

 なんて複雑で―――

 なんて濃厚で―――

 なんて切ない、記憶―――

 

 こんなのが記憶の中で、“一番”なの……!

 

 抱きしめている彼の身体にもまた、“自分”を取り巻く極光の輝きが染み込んでいく。

 自分は涙を流しながら、彼の“一番”の記憶を頬張っていく。

 

 《ごめんね、ごめんね、■■君―――》

 

 それは、これまで食してきたどんな氷菓よりも、甘くて、冷たい。

 

『実に、いい味だ。酔ってしまいそうだ』

 

 “自分”が恍惚とした声を洩らす。

 

『強い感情が伴わぬ記憶は、水で薄めた酒のようなもの。我に記憶()を捧げた生贄どもの中でも、そなたのそれは複雑に濃厚な情動が入り混じった、実に味わい深い格別な『混血(カクテル)』であったよ』

 

 この世のものとは思えない至上の味を舌で味わいながら、涙が止まらない。彼の鼓動がまた動き始めたことに気づかないほど、夢中になっている。

 今日だけで、たくさん戦って、たくさん傷ついて、たくさん失った。

 それもこれも自分のせいなんだよ―――

 

 だから―――

 

 自分は心の中で願いながら、彼の“一番”の記憶を呑み下した。

 ごくん……と自分の喉が鳴った。

 

 だから、たくさん私のことを恨んでいいよ。たくさん、憎んでいいよ。ひどいことをした分だけ、私のことを……。

 

 彼の身体が変生する。銀の人狼から、金色の完全なる獣へ―――

 

 

『さあ、我に殺神兵器の本性を見せてみろ―――!』

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「う……ん……朝」

 

 凪沙は、夢からさめて、瞼を開く。

 毎日見る、見慣れた天井。病院暮らしが長かった凪沙は、いやに薬品臭さのない、自分の匂いのするここで目覚めるといつもほんの少しの安堵を覚える。

 窓にカーテンが引かれていたが、そのカーテンを透かした陽光で、とりあえず朝らしいということだけはわかった。

 

(……なんか、とても哀しい夢……………と、ものすっごく最低な悪夢を見た気がするんだけど)

 

 すっかりと忘れてしまっている。

 両方にも誰かの影がちらついて、それが凪沙の前で酷い目に遭っていたけれど、その夢の余韻はそれ以上詳細には凪沙の記憶に留めず、朝日に溶けるように消えてしまった。

 なんにしても起きたのだ。昨日のうちに準備が済ませてある今日の着替え、『波朧院フェスタ』で着ていく猫娘をモチーフにしたアニマルコスプレ衣装をもう一度確認して、キッチンで朝食の準備。さあ、今日も一日、元気よく―――

 

「あれ?」

 

 起き上がったところで、凪沙は体に掛けられていたそれに気づく。

 触り心地のいい相当に上質な生地に、まるで森にいるような気分を落ち着かせる香りがする。そして、どこかで見たことがあるような蒼と銀の法被(コート)……

 確か、凪沙が寝る前に羽織っていたガウンはクリーム色で、それもベットに入るときは外している。

 

 つまり、これは凪沙が眠っているときに掛けられたもの。

 

「え、え……これって……」

 

 そういえば、この法被って前に『王女様から特注に作ってもらった一品物』と当人から説明されたのと似てる。

 というか、昨日当人が着こなしてるの見た。

 あの時、大空を映し出したような蒼銀のコートを靡かせて颯爽と駆け抜けていく様は、本当に飛んでいるようで……今でもそれを思い出すとちょっと熱っぽくて、ふわふわな感じに……

 そこまで気が付いてしまえば、答えはすぐそこだった。

 

(もしかしなくても……クロウ君、の……)

 

 がらがらと、何かが崩れた音が聞こえた。

 自我とか自尊心とか世間体とかその他もろもろ、そういった大人になっていくと持っていくような物が、思春期の建設途中の足場を固めていた最中で、片っ端から崩壊していく音だった。

 ついでに、ひとつの(凪沙にとっては)無視のできない重大な事実に突き当たった、一瞬で答えに至った音だった。

 眠ってる間に自身の大事な贈り物(コート)を掛けたということは、そう。

 そのとき、彼に……無防備な寝顔を見られてしまった!

 

「……………きゃ」

 

 声の欠片が唇からこぼれた。

 

「(きゃああああああああああああああああああああああああああああああああっ!)」

 

 咄嗟に全力で枕に頭から飛びついて隣にまで聞こえるような騒音にはならなかったが、暁凪沙は、生涯最大の叫び声をあげていた。

 

 

 

 しばらくして。

 

「……隣の雪菜ちゃんのとこにいるから直接聞いてみるのが一番手っ取り早いんだと思うけど、そんなのできないよ! できるわけないじゃん!? 顔だって合わせられないのに、ちょっと凪沙変な寝言とかしてなかったーとか、ぼさぼさ寝癖とかついてないよねーなんて!? それにまさか、涎がつい―――確かめなきゃ!!」

 

 ひとまずのところ、ある程度乙女心の整理をつけられるだけの時間、落ち着けるだけ吐き出した後すぐ、洗面台に行って鏡で色々とチェックしてギリギリセーフと胸を撫で下ろし、そこで鏡越しに時計を見た。

 

「あー! もうこんな時間! 急がないと! 昨日夜に深森ちゃんから連絡があって、祭りで混む前に着替えを届けに行かないと―――」

 

 時間通りに起きたけど、寝起き早々気分を落ち着けさせるのにだいぶ時間がかかってしまったようである。

 凪沙は慌てて身なりを整えると、キッチンへ朝食の準備に取り掛かり、それから、なんとなく今日の兄の朝食予定のししゃもに納豆に焼き海苔に白米と朝食定番セットメニューをごっちゃまぜに炒めて卵で包んだ凪沙特製オムレツには大きくバッテン(×)をケチャップで殴り書いてやろうと決めた。

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

『今日から叶瀬もオレたちと一緒に住むことになったのだ。よろしくだぞ』

 

『はい! よろしくお願いしましたクロウ君、アスタルテさん、そして、南宮先生』

 

『うむ。それで、ウチのルールでいっちばん大事なことを教えるのだ』

 

『それは何でしたクロウ君?』

 

『ずばり! ここでの、格付け、なのだ』

 

『お前の思考は犬そのものだな馬鹿犬』

 

『まず、ご主人が一番上で偉いのだ』

 

『当然だ。私がこの持ちビルの主であり、お前らの身元引受人だからな』

 

『つまり、局長だぞ』

 

『、……なに?』

 

『そして、オレは一番隊隊長で、アスタルテが二番隊隊長』

 

『理解。教官(マスター)、先輩は北欧から逆輸入されたサムライブームなるものに嵌っているのだと推測されます』

 

『それで叶瀬は三番隊隊長なのだ。新入りだからしょうがないぞ』

 

『そうでしたか。私は三番隊隊長でした。頑張ります』

 

『うむ。サムライとニンジャはいい返事が基本なのだ。あ、そうだ。叶瀬にも見せてやるのだ。これがニンジャのサインだぞ』

 

『まあ、これがニンジャさんの……名刺、でしたか』

 

『読解。アルディギア王国『聖環騎士団』所属要撃騎士ユスティナ(Yustina)=カタヤ(Kataya)とそれから直筆で『忍』とサインが書いてあります』

 

『今のニンジャはグローバルで社会マナーを守らないといけないそうだからなー、それから、いざって時は名刺(サイン)を手裏剣にして投げられるのだ―――って、フォリりんが言ってたのだ』

 

『それは大変なんですね』

 

『それでそれでこのニンジャが今度こっちにくるって言ってたんだぞ! 隠れながら遠くから見守る極秘任務だから叔母には秘密って、この前、壬生狼のユニフォームを贈られた時に一緒についてた手紙にも書いてあったのだ』

 

『でしたら、是非、その方の歓迎会もしなければなりませんね!』

 

『おい、馬鹿犬』

 

『なんだ、局長』

 

『ご主人様と呼べ。あまり馬鹿なことを教えるな。それと、叶瀬夏音』

 

『はい! ご主人様!』

 

『安心しろ。そこの馬鹿犬がここでのヒエラルキーが万年カーストだというのは固定されている。雑用なりなんなりこき使うがいい。ただし何をやらかすかわからないから注意しておけ。今のようにその気なくポロポロ暴露してくような奴だからな。それから、普通に先生でいい』

 

『むぅ。オレ先輩なのに、ぺーぺーなのか。なら、ご主人! 副長を出してくれ!』

 

『はぁ、英語担当教師である私にもお前の宇宙語は読解困難だということをいい加減に解れ』

 

『ほら、あれだ。ら、ら……ランゴールデンレトリバーだ!』

 

『走る犬がどうした。今からお前は走るのか。だったら、外へ行け』

 

『違うぞ。最初にあった時、オレをぶった切ったヤツだ』

 

『……まさか、ラインゴルドのことか』

 

『うん! ラブゴールデンレトリバーだ』

 

『……これまで、<輪環王(ラインゴルド)>は多くの魔族に色々と言われてきたが、犬呼ばわりされたのは初めてだな』

 

『オレよりも使い魔の先輩だからな。ご主人のサーヴァント同士で、下剋上してやるのだ』

 

『その馬鹿さ加減にもう一度叩き潰してやりたいところだが。そんな馬鹿な理由で出せるか馬鹿犬』

 

『むぅ……あ! なあ、オレもご主人みたいに口寄せの術ができたりするか?』

 

『―――するな。たとえできたとしても、そんな能天気で残念な頭じゃ下級悪魔でも、お前には猫に小判だ』

 

『何を言ってるのだご主人。猫にはかつお節だぞ。お金には興味がないのだ』

 

『猫さんにはお魚さんでした』

 

『解答。猫は、ねこじゃらしが最適と思われます』

 

『ここで暮らすならまず聞き流すことを覚えておけ。いちいち馬鹿犬に付き合ってると、お前らまで馬鹿が伝染(うつ)る』

 

 

キーストーンゲート 屋上

 

 

 ―――森から連れ出されて、いろんなものを、見た。

 

 知らなかった世界。

 知らなかった感情。

 知らなかった問題。

 知らなかった恐怖。

 知らなかった痛み。

 

 たくさん知った。

 それなりに考えたりもした。

 自分のことだったり、他人のことだったり。

 してるうちに、オレの中で何かがちょっとずつ変わってく気がした。

 それが良い事なのか悪い事なのかは、わからないけど。

 

 けど、それでも、まだ、見つからないものがある。

 

 もしかすると、どこかに落として忘れただけなのかもしれない。

 ただ単に、そういうことが理解できてないだけなのかもしれない。

 だけど。

 

 オレはオレの願いを、知らない。

 

 

 

 瞼を、開く。

 常夏の島特有の焼き付けるように降り注ぐ陽射しを、全身に浴びている。

 どうやら、ここは建物の屋上のようで、この見覚えのある景色からおそらく、キーストーンゲートの頂上部。

 そして、自分が横たえられているのは、その屋上の床へ描かれた魔法円、その陣の外側、東西南北八方のうち七つの方角にそれぞれ一冊ずつ、開かれた“既に文字のない白紙の”魔導書が置かれている。

 そこまで、理解した。

 気だるさはだいぶマシになっていて、一応物事を考えることはできた。

 ただ、口が利けなかった。

 口だけでなく、指一本動かない。かろうじて呼吸や瞼の開閉といった行為は行えるが、それ以上はまるでおぼつかない。糸の切れた操り人形みたいに、この身体からはあらゆる生気が失われてしまっている。

 目の前に、先輩の男子高生――と体を交換した<蒼の魔女>が立っている。

 

「……大丈夫、かい?」

 

 と、訊いてきた。

 

「………」

 

 返事は、できない。

 やはり口が動かない。自分の意思は自分の身体を“裏切る”だけ。脳と体との間で、大事な線を断たれて、別の制御装置へと繋げられてしまったかのような。

 魔女は魔導書『No.013』を取り出すと、開いたページの上に掌を置く。

 

「“蒼”の名において命じる。いつもどおりの調子で喋ってくれ」

 

 その言葉で――命令で――電源でも入れられたみたいに、口内の感覚が戻ってきた。

 あまりに突然だったので、咳き込んでしまった。

 空気を何度も取り入れ、犬みたいに涎を垂れ流してから、

 

「……何の用だ?」

 

 と、訊いた。

 <蒼の魔女>は、そんな醜態をさらす少年をじっと見つめて、

 

「相当無理を通した契約を結ばせてしまったからね。どこか不具合はないか確かめたい」

 

「……特に、問題ないと思うぞ」

 

「そうか。やはり、その身体は適合するよう造られていたんだね」

 

 完成させる、と魔女は言った。

 それはつまり、自我を持った“欠陥製品”とならなければ、いずれ持たされたものを、今つけられたということ。

 魔女は、それからかつてその古巣であったという『科学』に属する<図書館>の魔術師魔女らが、未完成のまま最高傑作を残した創造主の大魔女の遺志を引き継いだ形となるのか。

 

 しかし、ならば何故。

 調子を確かめるために、わざわざ人払いまでして、自分の意思で語らせたのか。

 『道具』ではなく、人間と会話をするように。

 

「実は、ボクもキミと同じく魔女に造られたんだ」

 

 指で自身の身体を指して、自嘲するように笑う。

 

 

 

「ボクは今から十年前に産まれて、急成長させられた試験管ベビー――キミの創造主<血途の魔女>が考案したという単為生殖(クローン)で造られて、魔女になるようにお母様に設計(プログラム)された」

 

 魔女は古い城の地下室で生まれた。

 誕生からすでに最低限の一般知識を有する頭と6歳の身体で、そして、悪魔と契約していた純血の魔女。

 

「悪魔との契約により、ボクは<図書館>の元締めだったお母様――仙都木阿夜を、この十年前よりこの絃神島の<監獄結界>に収監されている彼女を脱獄させる―――そう育てられた道具」

 

 子守唄の代わりに魔術の詠唱を聞いて、母の腕の温もりの代わりにガラスの培養液に満たされた冷たい溶液が与えられる。

 世話を見続けたのは人工生命体の侍女たちであり、彼女たちは毎日口を揃えて言う。

 自分は<空隙の魔女>の裏切りにより、この世界とは異なる空間に封印された永劫の流刑地であり、出口の存在しない時間の迷宮に囚われたお母様を脱出させるために産まれたのだと(造られたのだと)

 魔力を十全に振るえるようになる16歳、そう今、この『波朧院フェスタ』の時期に絃神島へと赴いて、<監獄結界>の封印を破ることが決定づけられていると。

 そのために<図書館>は自分の手足となって動いてくれて、13歳になってから本格的な修業が行われる。

 大勢の魔導師が自分のもとを訪れてはあらゆる知識を伝え、<図書館>と呼ばれる組織のこと、『魔族特区』にまつわる話、魔導書の解読手段、<守護者>の制御法に魔女の力の扱い方など―――

 生まれながらにして魔女の素養は群を抜いており、空間制御という超高等技術を単独で行使できる腕を身に着け、今や組織の新参者でありながら『司書』の地位まで手に入れている。

 ただ、お母様を解放した後も、お母様は使い終わった道具である自分の存在を認めてくれるのか……それだけは誰にもこたえてもらえず。

 

 悪魔との契約に支払った代償により、<監獄結界>の解放という絶対命令(プログラム)刷り込み(インストール)がなされ、課せられた設定に忠実に従う<蒼の魔女>

 そして、今その目の前にいるのは、同じく魔女に造られた道具で、創造主の絶対命令に逆らった<黒妖犬>。

 

「キミに訊いてみたかった」

 

 と、魔女は、仙都木優麻が問い掛ける。

 胸に手を置いて。これから発する言葉で起こる鼓動の乱れを抑え込むように。

 

 

「創造主に決定された“存在意義(プログラム)”から外れたら、それに価値があるのかな?」

 

 

 ……………沈黙。

 喋れないからではなくて、悩んで。きっと聞きたいことを理解したからこそ、一生懸命に考えている。

 催促もせず、魔女は待つ。

 これ以上裡を曝け出さなくても、その“鼻”は嗅ぎ取る。嗅ぎ取ってくれる、そう無意識にも想い、

 そして、その開いた口から出たのは予想外のものだった。

 

「お前、古城君の幼馴染なのに、10歳、オレより年下なのか?」

 

 ぱちぱち、と瞬き。とりあえず、話は聴いてたみたいだけど、まずそれ? だけど、向こうは真剣にじーっと見てる。

 

「……まあ、そうだね。精神年齢や肉体年齢は見た目通りだし、戸籍上も古城と同い年だと思うけど、実年齢だとそうなるの、かな」

 

「むぅ。そうか。お前、普通に身長が高いんだな。オレ、クラスでも身長順だと一番前だから羨ましいぞ」

 

「成長期になればキミも背が伸びると思うよ。確か古城も昔は僕よりも背が低い方だったし」

 

「そうだといいけど。あんまおっきくなりすぎるのも嫌だな。中型犬くらいが良いのだ」

 

 あれ? この子、ちゃんとボクの質問を理解したのかなと思いつつ、ついフォローしてしまう。

 

「うん。それでな」

 

 声を潜めた、まるでこれから内緒話をするぞともいうような雰囲気を醸し出してるようで。

 

「お前も知ってるだろうけど、オレ、半分は人間じゃないんだ」

 

「ああ、知ってる。<黒妖犬>。『黒』シリーズの設計者<血途の魔女>は<図書館>に在籍していたからね」

 

 大魔女の最高傑作。

 人間と魔族の混血。

 普通の存在ではない。

 

「オレは、半分は魔族で、怪物なんだぞ。だから、加減とか人間に合わせるのが難しいぞって、いつも思うけど。でも、それをちゃんとできないとダメなのだ。じゃないと、怪我させちゃう。ご主人は畜生にはなるなって言われてるし、オレ、怪物でもご主人の眷獣になっていたいから、皆の中で“普通”を頑張るんだ。

 あ、大変なのは、皆に内緒だぞ。あまり、気を遣わせたくないしな」

 

「キミは……」

 

 先に彼が言ったこと。

 そう、“半分は人間じゃないから”、背の低さを気にしているのだ。他の人とのちょっとした違いを個人差ではなく、まず、自分が混血であることに行き着いてしまう。

 そんな不器用な少年が今、一生懸命に言葉を選んでいる。

 

「古城君や浅葱先輩は、オレが半分、人間じゃなくても一緒にいてくれるのだ。矢瀬先輩もなんか優しいし、姫柊も監視役してて大変なのに、オレのことも気にかけてくれる。煌坂やフォリりんは何だかんだで面倒見てくれて、叶瀬やアスタルテと一緒に生活できて楽しいし、最初怖がってた凪沙ちゃんと仲良くなれてうれしい。ご主人はとっても厳しいけど……最近ちょっとだけ褒めてくれるようになったんだ」

 

 不思議だった。話はとっちらかっているのに、彼が何を言いたいのかは伝わってくる。

 

「だから、中途半端なオレと違って全部ちゃんと人間の仙都木が反抗期になっても誰からも価値がないなんてこと、ないのだ。

 きっと、仙都木が仙都木のしたいことをしたって、オレの時とは違って最初から古城君や凪沙ちゃんと仲良くできてた仙都木ならすぐ認められると思うぞ」

 

 フランケンシュタインの物語。

 内容を簡略していえば、フランケンシュタインという人物が、人間の死体を寄せ集めて人造人間をつくる話だ。

 だが、出来上がった怪物の姿、その思い描いていた理想と異なった実物を直視して、しでかしたその罪を後悔したフランケンシュタインは、その欠陥製品な怪物を残して逃げ出してしまう。創造主(オヤ)がいなくなり、孤独に苦しんだ怪物はフランケンシュタインを追いかけて自分の同族を作ってほしいと頼むが断られて、フランケンシュタインの親しい者たちを殺して彼を独りにした―――

 

 それはけして復讐のための報復ではなく、その創造主を赦したいから報復した。

 

 怪物は親を、手本になる人間を知らないから、赦し方も愛し方もわからない。唯一、創造主から教えられたのが、“相手を独りにする”ということと、“孤独の苦しみ”。

 

 だから、怪物は独りにされたフランケンシュタインが自分を赦してくれると期待した。きっとそうすれば、怪物は創造主から『赦す』という行為を学び取ることができて、孤独からの苦しみからも解放されて、それから誰かを『愛する』ことが知れる、とそう信じて。

 けれどもフランケンシュタインは怪物を憎み、けして赦さなかった。誰よりも慕っていた創造主に赦し方を教えてもらえなかった怪物の結末は、永遠に孤独のまま人間のいない場所へと消えていくという―――

 

 結局、物語の中の怪物は創造主の意に添えなかったから捨てられて、最も知りたいことを誰からも教えてもらえなかった。

 

 だけど、この説得は、その逆だ。

 

 創造主の意に添えなかった欠陥製品の怪物が赦されている実例もあるのだと。だから、ずっと“ちゃんと”している人間が赦されないはずがない。きっと価値はあるのだと。そういっている。

 あまりに純粋過ぎて、人間というものを完全に理解しているものだとは言い難いだろうが。

 

 ああ、なんて―――

 

「……話、訊かなければ良かったなホント」

 

 ひとつ知ることはできた。でも質問は、『計画』には、失敗だった。

 ただでさえも古城の後輩という立場で同情が先立ち、道具として見れなかった魔女は、それと非情に接しなければならないのに……

 

「最後に、何かボクに言いたいことはあるかい?」

 

 だから、これはそれを切り離すための作業。そのつもりだった。

 『裏切ら』せた魔女に、その誇りを穢す悪女に、蔑視して罵声を浴びせてくれるなら、この苛む胸の苦しみが少しは楽になるだろうと。

 

「それなら、ひとつ、礼を言いたいぞ」

 

「何だい」

 

「お前が、凪沙ちゃんを逃してくれて、本当に良かったのだ」

 

「……そういう、契約だからね」

 

 終わり、打ち切るように『No.013』へ強制力を強めるよう魔力を送り、その意識を奪う。

 けれども、今、最も『裏切って』いるのは自分自身なのかもしれない。

 掌で顔を覆い、髪をかき上げる。

 背後から見下ろす顔のない青騎士(フェイスレス)と同調させるよう、魔女はその表情を消す。

 そして―――

 

 

「“蒼”の名において命ずる。契約せし、七体の魔獣を“影”より解放せよ」

 

 

 屋上の端で、その会話の届かない距離まで離れてそれを見ていた緋色と漆黒の魔女姉妹は戦慄した。

 

 胴体はなく、代わりに鬼火のような複数の火の玉に囲まれる、炎で包まれ角が生えた鳥の頭部。

 

 左右違う色の二つの、駝鳥のような長い首の鳥頭と獅子のような胴体と竜のような翼をもった合成獣(キマイラ)

 

 魚類と爬虫類が合わさったような姿をした、身体の各所にヒレを備えた蒼いヤモリ。

 

 下半身はなく、本体より離れて停滞する巨大な腕と浮遊石たる橙色の核が埋め込められた上半身だけの機械兵(ロボット)

 

 脳のような球体のカタチを保ち、中央に大きな一目をもつ紫色の雲。

 

 ジャックランタンのような頭部に数多にうねる触手がついたカボチャのお化け。

 

 キーストーンゲートの屋上でようやくその胸元に届くほど巨大な、大きな角が生えた頭部に鋭い牙と爪を備え、二足歩行ではなく直立する白い野獣。

 

 その身体のサイズも格も、吸血鬼の、その中でも『旧き世代』の眷獣に匹する魔獣が七体も。

 同じ一体の悪魔と複数人が契約できることはあっても、その逆はない。一人につき複数体の悪魔と契約するなど、魔女にできない。“そんな恐ろしい”真似ができるはずがない。

 それを成す『混血』は、百鬼夜行を率いる主か。

 

 そして。

 

「健気な怪物もいるものだねェ、魔女の道具というのはみんなそうなのかい?」

 

 黄金の霧が集い、純白の三揃え(スリーピース)を着た、金髪碧眼の貴族の吸血鬼が現る。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 この絃神島には、<空隙の魔女>の他にもうひとり、警戒しなければならない相手がいる。

 欧州『戦王領域』より派遣された全権大使の貴族――<蛇遣い>ディミトリエ=ヴァトラーの威名は、<図書館>にも広く知れ渡っている。

 それは彼が『旧き世代』の吸血鬼の独りだからという理由だけではない。騒乱を好み、己の快楽のためになら同族の吸血鬼すらも喰らうという稀代の戦闘狂は、大虐殺をした大魔女と同じく、欧州で活動する魔族や魔女にとって、恐怖の象徴である。

 故に、藪を突いて蛇を出さないよう直接の介入は避けていたが、それが<蛇遣い>の方から混沌の気配を嗅ぎ取って馳せ参じてはどうしようもない。しかし、その気まぐれで長年かけて積み上げてきた『計画』をご破算させれてしまうのはあまりに不条理で、『真祖に最も近い』と謳われたその戦闘力を阻む手段はそうそうない。

 絃神島を救うという意識は一切なくても、戦闘狂は、強き者を好み、その死闘を乞い願う。

 それが以前、主に生殺しにされた相手ならば、感極まるものがあるのだろう。直接向けられてもいない魔女姉妹が震え上がらすほどの冷酷な殺気を放ちながら、大きくその白い牙を見せる満面の笑みを浮かべている。

 

「これは嬉しい歓迎だヨ。ある“契約”でネ、ボクからはその美味しそうな“青い果実”に手出しはできないんだ。だから、自分から落ちてくるのをずっと待っていた」

 

 用意された強敵と殺し合うことはできなかったが、あの獣人の(ツワモノ)は、あわや神々の兵器により島が沈没したかもしれなかった黒死皇派残党事件のヴァトラーの関与を否定した。その証言次第では、ヴァトラーはこの絃神島にいられなくなったかもしれない。

 そして、何よりも、またいずれ必ず己を殺しに来るであろう相手だ。それなりの敬意を払い、そう無碍にはできない。

 だから、一応は、それがブレーキにはなってるのだろう。邪魔をする主がいないのに、今のところ、手出ししていないのはそのおかげ。

 しかし、ヴァトラーは途端に表情を曇らせる。我慢に我慢を重ねて醸成させてようやく開けたワインに、オレンジジュースを混ぜられたかのような、不粋極まることに不愉快な。

 

「でも、“余計な味付け”が折角の“素材”を台無しにしてる。キミら人間が<第四真祖>を目指して創られた人造魔族の後続機(モデル)って聞いてたんだけど、過大評価だったみたいだ……“料理人”の腕が悪すぎるヨ」

 

 愛しの<第四真祖>――“暁古城”の身体を乗っ取っている<蒼の魔女>へ非難するように目を細めて見つめ、一言。

 

「<徳叉迦(タクシャカ)>」

 

 その身より凄まじい衝撃を撒き散らす圧倒的な魔力の奔流が、一体の巨大な蛇の眷獣と化す。

 異界より喚び寄せた、天災にも準じる力を持つ<蛇遣い>の力の一端である、全長数十mに達する禍々しい緑色の大蛇は、その眼光を魔獣の一体、自らよりも巨大な白き野獣へと合わせて―――焼き払った。霧散して、その影に戻る・

 眷獣に匹敵すると思われた魔獣を、瞬殺。

 

「人知を超えた力をいくつもつけても、それじゃあ雑多になって、本来の味までも殺してる。これなら、まだ前の、南宮那月に飼われていた方が良かったねェ」

 

 ヴァトラーは、魔力よりも意思の強さこそを高く評価する。知略や策略、ありとあらゆる手段を以て運命に抗おうとする強い意志が、ヴァトラーの望むもの。

 だから、あのとき、己よりも強いことをわかっていながらヴァトラーに決死の覚悟で挑まんとした『混血』、殺し合いを寸前で止められたのは、ひどく残念だったが、今後の成長に期待して、『第四真祖の後続機(コウハイ)』と認めるに足るものだと評価していたのだ。

 それと比べれば、道具本来の在り方となり、自意識を封じ込められている今の『混血』は、至極残念。“調理”の拙さに台無しにされてしまった“素材”はもはや、“料理人”ごと処分するしかあるまい。何であろうと出された皿は、その店ごと喰らうのがヴァトラーの流儀である。

 

「僭越ながら申し上げます、アルデアル公。まだ、これは“切った素材を並べただけ”でございます」

 

 クレームをつけてきた客人に丁寧にお品書き(メニュー)を説明するよう、臆せずに述べる<蒼の魔女>が、その手を置かれた魔導書が、不気味な輝きを放つ。

 

 消滅された野獣を除く、残る六体の魔獣が、そのカタチを溶かしてふたつをひとつに混ざり合う。

 

 炎の鳥頭と双頭の合成翼獣が混ざり、羽ばたきひとつで熱暴風を荒れ狂わす、灼熱の炎獄を纏う四本脚の怪鳥へ。

 

 蒼のヤモリと上半身の機械兵が混ざり、金剛石の如き堅固さを持つ氷に体表を覆われる恐竜へ。

 

 紫の一眼雲とカボチャのお化けが混ざり、挿し枝のように同形小型の子機を生み出す、無数の蔦蔓が絡まる一眼の植物へ。

 

 六体から三体となり、そのうちの一体――四本脚の怪鳥が炎の竜巻を起こしながら突撃し、全長数十mに達する濃緑色の怪蛇に激突。今度は、大蛇がその身を焼き尽くされて苦悶の咆哮と共に、閃光を撒き散らして爆発四散した。

 

 自らの眷獣を消滅させられた<蛇遣い>はいったん驚いたように目を瞠り、そしてより深めた不敵な笑みを作る。

 

「おっと、これはボクとしたことが、どうやらつい先走って摘まみ食いをしちゃったようだネ。でも、ボクと同じ特殊能力とは驚いたヨ」

 

 一体では『旧き世代』クラスの眷獣も、二体合わされば真祖クラスに匹敵する格となる―――それが、この<蛇遣い>が若い世代の『貴族』でありながら、『長老』を降した特殊能力――『融合』。

 しかし、魔女はその賛辞をゆるゆると首を横に振って、否定する。

 

「いいえ、これは閣下の技とは、似て非なるもの。そう、これらは、元々一体の魔獣だったのです」

 

 だから、複数の魔獣と守護者契約ができた。

 

 へェ、とヴァトラーは微笑する。この美食の客をさらに満足させるよう、“料理人”たる魔女は種明かしを語る。

 

「閣下はご在知であるでしょうが、この世界のどこかには、七つの大罪を冠した神々の時代の生体兵器であり、世界最強にして最古の魔獣がいるといわれております。例を挙げるなら、深海の底で眠っている<レヴィアタン>がおりましょうか」

 

「つまり、キミたち魔女は、その魔獣を目指したものまで創ったということかい」

 

「既に七つの大罪の席はすべて埋まっておりますが、それは現代の大魔女が生み出した人造の魔獣が、最古の魔獣に劣っているからではない、と言わせてもらいます」

 

 そもそも、大罪というのは七つに区切る必要もなく、神に害する概念であれば、それはすなわち大罪。

 魔女の物言いが大言壮語でなければ、人間は新たに八つ目の大罪を創り出したのだ。

 

「しかし、創ったのは良いですが、それは人間が契約できる(あつかえる)ものではありませんでした。故に、八番目の大罪を八つに別け、ですがそれでも創造主である<血途の魔女>に契約できたのは、一体のみ。他の七体もまた、<図書館>に所属する魔女には、とてもその代償を払うことはできず、これまで死蔵される始末でありました。ですが―――」

 

 人間が人間のために創ったものでありながら、人間には扱えない大罪。

 ここに、七つの大罪に匹敵する、いやそれをも上回る八番目の災厄たる魔獣をまたひとつにする依代がある。人間でありながら、“魔獣と魔族の中間たる存在である”『龍族』と同格の神獣に至る獣王との『混血』は、それを受け入れるに足る器として、創造主が用意したもの。

 

「今はまだ試運転の段階で、<空隙の魔女>にも縛られておりますが、過去に喰らった<血途の魔女>の<堕魂>――八つに別れし最後の一体をも引き出すことができれば、閣下もさぞご満足していただけるでしょう」  もしくは  「今はまだ試運転の段階ですが、<空隙の魔女>に縛られております過去に喰らった<血途の魔女>の<堕魂>――八つに別れし最後の一体をも引き出すことができれば、閣下もさぞご満足していただけるでしょう」

 

「いいねェ。実にイイ。素材本来の味を生かしてくれた<空隙の魔女>とは違う調理の仕方(アプローチ)だけど、雑多だからこそ旨味に深さが増すこともあるネ。完成品が実に楽しみになってきたヨ」

 

 パチパチと拍手するヴァトラー。

 “口直し”に機嫌を直してもらったところで、魔女はその場に恭しく膝をついて、貴族の吸血鬼に一礼をする。

 

「遅ればせながら名乗らせていただきます。我が名は仙都木優麻。<書記(ノタリア)の魔女>仙都木阿夜の娘にございます」

 

「<書記の魔女>―――<図書館>の『総記(ジェネラル)』の娘か」

 

 かつての<図書館>の長であり、<蒼の魔女>が造られた10年前より、この絃神島の<監獄結界>に収監された大魔女。

 

「御身の同族、<第四真祖>の肉体をお借りしたのは、『魔族特区』に隠された<監獄結界>を突き止め、結界内に封印された我が母を解放するため。しばしお目こぼししいただきたく」

 

「<図書館>は、<監獄結界>に収監された囚人たちを解放するために動いてるというのか」

 

「<第四真祖>の膨大な魔力と、私が極めた魔女の技があれば、難攻不落の監獄結界を陥落(おと)すことも可能でありましょう」

 

 ますますヴァトラーの笑みの歓喜の色が濃くなる。

 <図書館>が『総記』を救出するために破ろうとしている<監獄結界>には、通常の魔導刑務所では手に負えない凶悪な魔族や魔導犯罪者を収監した巣窟でもある。

 だから、<図書館>の『計画』が成せれば、伝説的な犯罪者たちの多くが外に、絃神島に現れる―――そう、ヴァトラーの望む強敵が。

 そして、

 

「<監獄結界>を破るには、南宮那月を破壊(ころ)さなければならない―――つまり、犯罪者だけでなく、その子の最後の封印も解けるわけだネ」

 

「左様。しかしながら、そうなると<黒妖犬>の幉は魔導書の援助があっても我々の手に余るものとなるでしょう」

 

 ―――だから、そのお相手は、是非閣下に。

 

 願ってもない状況だ。

 <空隙の魔女>と戦えなくなるのは惜しいが、代わりに完成された大罪の魔獣と共に、主を失い我を忘れて暴走する『第四真祖の後続機』と殺し合える。それの前では、<監獄結界>の囚人たちでさえも“前菜”扱いであろう。

 ヴァトラーはこの不遜な態度もまた小気味良い魔女の提案に、獰猛に牙を剥きながら大きく首肯する。

 

「そうだねェ。<監獄結界>を破るまで、それらの一体と遊ばせてくれるなら、待ってあげてもいいヨ」

 

「ここではなく、島の端の増設人工島(サブフロート)でやってくださるのなら」

 

 お持ち帰り(テイクアウト)の要求に、<蒼の魔女>は微笑んで受ける。

 この島の中央にあるキーストーンゲートから最も離れた端の増設人工島――かつて、<ナラクヴェーラ>が暴れた鋼鉄の島へと、先の炎を纏う合成翼獣を空間制御で飛ばすと、貴族の吸血鬼はその身を黄金の霧へと変えてその後を追った。

 

 

繁華街 カフェ

 

 

「美味しいですね、このカボチャプリン」

 

 鏡の国に迷い込んだ童話の主人公を彷彿とさせる、水色のエプロンドレスに頭に大きなリボンを付けた雪菜が舌鼓を打ち、頬に片手を当てて感想を漏らす。

 ただし、そのすぐそばにはメルヘン幻想をぶち壊しにする物、航空機を連想させる全金属製の長槍<雪霞狼>がある。

 

「私もさっき食べたところでした。こちらのパンプキンパイもなかなかです」

 

 襟元や袖口を白いフリルで彩った、清楚かつ可憐なデザインの修道服を、この上なく印象ピッタリに着こなす夏音もうんうんと頷いてそれに同意。

 

 ここは、以前に来たことのあるケーキバイキングのおすすめなカフェ。今日は『波朧院フェスタ』に合わせてスペシャルなメニューが用意されており、それが90分間食べ放題である。

 

「菓子の追加はいかがですか、と第四真祖に提案。この店舗の通常価格とケーキバイキングの料金を比較すると、損益分岐点を超えるためにはあと3品注文する必要がありますが」

 

 と勧めてくるのは。飲み物を持ってきてくれたメイド……ではなくて、今は馬鹿でかいカボチャの被り物をとってはいるが、オレンジ色のケープコートを羽織り全身タイツ姿のアスタルテ。

 

「そ、そうか。だったら、シフォンケーキとスコーンを……じゃなくて!」

 

 思わずテーブルを叩いて声を荒げる魔女衣装を纏うショートボブの端整な顔立ちの美少女―――ただし、中身は暁古城。

 

 空間の歪みとやらに巻き込まれて覗き魔にされたり、夜の公園で<神獣化>した後輩に襲われる幻を見たり、そして、どこか様子のおかしい優麻に、キス、をされて―――目が覚めたら、その幼馴染の女の子になっていた。

 気づいて最初は混乱した。思いっきり絶叫をあげた。駆け込んだ隣の部屋にいた3人に自分が古城であると説明しても中々信じてもらえず理解してもらうのにも苦労したし、わかってもらえた後もちょうど着替え途中であったので大変だった。

 それから、護衛対象の王女と共にホテルに宿泊した紗矢華から連絡があり、何やら察したラ=フォリアからも質問されて、雪菜がこのとてつもない異常事態に見当がついた。

 

 仙都木優麻は、空間制御の使い手でハイレベルな魔女であり、暁古城――<第四真祖>の肉体を狙い、それを奪ったのだと。

 

 魂を入れ替えて他人の肉体を乗っ取ることは、憑依系統の魔術を用いればそれほど難しいことではない。

 ただし例外的に、神々の呪いが生み出した吸血鬼の肉体は、それ以外のものに操ることはできない。神がかけた呪いを上書きするほどの魔術はこの世に存在せず、仮に存在したとしても、逆流してきた呪いによってその術者自身が吸血鬼の“血”に取り込まれて、自我を喰われて廃人となる。

 

 故に、優麻は空間を歪めて、見た目の上では魂を入れ替えたのと同じような現象を起こした。

 

 電化製品の配線を繋ぎ替えるように、互いの五感を空間同士を接続させて入れ替えることで、本来なら古城の肉体に伝えられるはずだった神経パルスを、優麻のものに置き換えた。つまり、古城は優麻の目に映ったものを自分で見てると錯覚して、自分の手足を動かしているつもりで、優麻の身体を操作している。

 

 魔術的にではなく、物理的に真祖の肉体を乗っ取り、そんな荒業が可能なほど仙都木優麻は空間制御の相当な使い手であり、

 叶えられぬ望みを叶えるために魂を代価に悪魔と契約して人間を超えた力を得た魔女である。

 

 そして、その彼女がこの絃神島で何かを起こそうとしている

 

「なんで俺たちはこんなところでのんびりケーキバイキングに挑戦してるんだよ!? ユウマが俺の身体を奪った目的だって、まだわかってないんだろ!」

 

 とお茶会をしてる場合でないと古城は言いたいわけである。

 絃神島周辺の空間異常の発生頻度は増加の一方で、一般市民の間では『波朧院フェスタの呪い』などとまことしやかに囁かれている。

 そして、事件の渦中にあると思われる担任からの連絡もないし、妹と後輩の行方もわからない。

 

「それだけじゃねぇ! 凪沙とクロウもいなくなっていた。いや、朝御飯の準備がしてあったから凪沙は無理やり攫われたんじゃなくて用事があって自分の意思で出かけたんだろうけど」

 

 なにやら独創的なオムレツに殴り書かれていた荒々しい大きなバッテンマークには、恐れ入るものを古城は感じたが。

 とにかく、妹は優麻の件とは無関係のはずだ。

 

「けど、クロウは違う。あいつは那月ちゃんからアスタルテと同じで叶瀬のことを護るように言われたんだ。俺はこれまで那月ちゃんの副業の手伝いをさせられたことがあったけど、そのどんな無茶な要求にだってクロウは応えてきたし、那月ちゃんの命令を破ったところは一度だって見たことがない。ラ=フォリアの言うとおり、魔力の強い奴ほど空間異常の影響を受けやすくて、それでどっかに飛ばされたかもしれねぇけど、それでも何としてでも言いつけを守ろうとするはずだ」

 

 敵に攫われたり、味方から逃走したり、無人島に失踪したりとよくよく単独行動をする後輩だが、それでも主の命令は絶対だ。

 なのに、今まで戻って来ていないということは……

 

「とりあえず、甘いものでも食べて落ち着いてください」

 

 古城の前に、雪菜は新しいケーキを差し出す。

 それをやけくそになって受け取ったケーキを、頬にクリームがついても構わず大口でかぶりつく。

 そして、落ち着いてはいられない古城に、雪菜は冷静な口調で、

 

「先輩の思うとおり、クロウ君は優麻さんの手に落ちた可能性が高いです」

 

 認めたくはないが、そうなんだろう。

 

「もし私が優麻さんの立場から考えると、私たちの中で最も厄介なのがクロウ君でした。入れ替えに先輩に直接接触する必要があったとはいえ、彼女自ら赴いて、その“手がかり(におい)”を部屋に残してしまっています。それを辿られてしまえば、彼の『嗅覚過適応(リーディング)』の追跡能力から逃れることはできません」

 

 最初に出会った日、その追跡能力で現在位置を常に把握されていた雪菜は、古城に接触を回避され続けていた。この魔力による逆探知もできない一方的なアドバンテージは戦術的に戦闘力よりも厄介であり、相手にしたくない能力であり、“真っ先に潰しておくべきもの”。

 

「そして、そのクロウ君以上の追跡能力のない私たちには、優麻さんの行方を探すことはできません。それに、ここまで歪みが大きくなってしまうと、下手に移動するのは危険すぎますから」

 

「そんなのはっ……わかってるんだっ」

 

 言葉を噛むように古城は吐き出す。その指摘はもっともだ。ここにいる誰もが人並み以上、特に真祖の古城は、力の大きさに比例する空間の歪みを引き寄せてしまい、迷宮と化した現在の絃神市内を迂闊に歩き回るのは危険だ。

 それでも向こうが動き出すまでじっとしているというのは―――

 

「……実は、優麻さんの魔術を今すぐに破る方法はあるんです」

 

 え? と古城は呆気にとられて、唐突な告白をした雪菜を見た。

 そんな便利な解決法があるのなら、どうして今まで黙っていたのだろう、と困惑し、そして気づく。

 

 <雪霞狼>

 

 あらゆる魔力を無力化し、あらゆる魔術の術式を無差別に消滅させる。

 空間制御はどれほど強力であってもそれが魔術で維持されているものである以上、一刺しで破壊できる。

 空間制御の“門”がなくなれば、古城たちの意識はそれぞれ元の肉体に戻ることになる。相手が何を企てていようと、こちらはいつでも<第四真祖>を取り返すことができる、と。

 

「ですけど、これだけ緻密な空間制御の術式を強制的に無効化すれば、術者に相当な反動があるはずです。接続されている神経に回復不能なダメージを与える可能性も」

 

 だが、それは古城としても取り辛い、最終手段だ。

 今ここでも、優麻の身体に<雪霞狼>を刺せば、魔女の計画を阻むことはできても、優麻の全身の神経はずたずたに引き裂かれてしまうだろう。

 魔女であっても、肉体は人間と変わらない。吸血鬼のような再生能力も、獣人種のような高い自己治癒能力もない。それだけのダメージを受ければ、彼女はほぼ確実に死ぬ。もしくは命が助かっても、二度と目覚めることはない。

 

「だ、駄目に決まってるだろ、そんなやり方!」

 

「はい、できればこの方法は使いたくありません。どうしても<雪霞狼>を使わなければならないとしたら、優麻さんに乗っ取られた先輩の身体を狙うしかないですね。先輩なら、ちょっとくらい死んでも復活するはずですし、優麻さんの肉体への反動も最小限で済むはずです」

 

「いや待て。それ、俺が元の身体に戻った時に死ぬほど痛い思いをするよな。ていうか、俺が死ぬのは前提なのかよ!?」

 

 全身の神経をズタズタにされるとはどれほどのものか恐ろしくて想像もしたくない。

 だが、穏便に済ませられるのはこの方法しかないのだ。

 古城の心情に気遣うよう、雪菜は付け加える。

 

「それと、なんとなくですけど、優麻さんは先輩の身体やクロウ君のことを手荒に扱ったりしないと思うんです。優麻さんも、先輩のことを信頼しているから、自分の身体を残していったんじゃないかと」

 

 その不器用な励ましに、古城は気づかされる。

 信じるしかない。

 何のために古城の肉体を欲したのかは知らないが、それでも優麻に古城を傷つける意思はないはずだ。それに無闇に後輩を傷つけたりはしない。根拠がなくてもその程度には信じられる。彼女は古城の友人なのだから。

 そして、これまで黙って話を聞いていた夏音が、古城の横顔を見つめながら口を開く。

 

「事情はよくわかりませんけど、お兄さんには、無事にいつものお兄さんに戻ってほしいです。優麻さんの姿も素敵ですけど、私にとってのお兄さんは、お兄さんですから」

 

 最後の方は照れたように顔を赤らめて。

 続いて、カボチャのお化けの被り物を付けた人工生命体の少女も、

 

「同意。比較検討した結果、第四真祖がオリジナルの肉体に復帰することを私は主観的に望んでいると判断しています」

 

「叶瀬、それにアスタルテも……」

 

 元の身体に戻るのを待ってくれる人がいる。

 ただそれだけで、じわじわと温かい気持ちが広がって、目が潤む思いだ。

 なんとなく流れから、古城はついと隣にいる雪菜へ顔を向ける。すると、何やら期待の眼差しを受けて少しだけ慌ててつつも、

 

「え? 私は監視役ですから……先輩がどんな姿でも任務を果たすだけですけど」

 

「……だよな」

 

 優等生な回答であるものの、まあ、姿形に関係なく古城自身を見てくれていると考えればいいだろう。

 

「そして」

 

 もう一度、人工生命体の少女は口を開く。

 

「これまでの行動記録から、先輩が勝手に行ってしまうのはいつものことです」

 

「アスタルテ……?」

 

 被り物を被ってるせいで見えないが、きっと無表情のままだろう。しかし、古城は何故か人工生命体の少女の気配に不穏なものを感じ始める。

 より具体的に言うと、まさか怒っている……?

 

「ですので、たとえ相手に捕まっていても、無事であると予想されます。根拠のない憶測ですが、教官でも手の焼かされている先輩を大人しくさせるなどとても想像できませんので」

 

「そ、そうか……」

 

 その意見を述べているのだが、喋り方いつもより淡々と一定調子で。けど、それがなんか怖い。けしてその巨大な被り物が子供の泣き出しそうなデザインだからではなく。矛先を向けられてるわけでもないのに、古城は少し席を引いた。

 

「まあ、そうだよな。那月ちゃんでも振り回されてんだから、ユウマでも大変だろ」

 

「納得ですね。先輩の次にクロウ君の奔放さには私も手を焼かされていますので」

 

 その言い方だと後輩以上に問題児扱いされてるのか、と古城は半目で雪菜を見ようとして、

 

 

 ズン、と。

 

 

 低く、そして不気味な、絃神島自体が意思を持って怯えたかのような、微震。

 真祖の身体ではない今の古城でもはっきりとわかるほどの、強烈な魔力の波動。

 

「なんだ、この感覚!?」

「キーストーンゲートの方角です!」

 

 真っ先に反応した雪菜は隣に立てかけていた銀色の槍を手に取り店の外へ。

 そして、見た。

 絃神島の中央にある、島内で最も高い、逆ピラミッド型の建物。

 古城も遅れて店を出て、雪菜につられて見ると、その上空周囲に、小さな点のようなものがいくつも浮かんでいることに気づいた。

 空に浮かんでいる点は小さいが、それは相当遠くからでも存在を視認できるほどの大きさだ。そして、今の人間の優麻の身体の古城でも見えた点を、幼少から鍛えられてきた雪菜は目に力を込めて霊視をより絞るように、その詳細に確認して、呟く。

 

「あれは……“眼”?」

 

 凝視して捉えたのは、ぐちゃぐちゃに乱れた毛糸玉のように蔓蔦が絡まり、その真ん中に目玉がある。比較物がないためにはっきりとは分からないが、ちょっとしたバランスボールと同じぐらいの大きさだろう。

 それが複数体、キーストーンゲートの周囲を停滞している。

 

「姫柊! あれは―――!?」

 

「悪魔の眷属! 魔女の<守護者>です!」

 

 魔女の使い魔だ。そして、それに混じっているがこの懐かしいとすら感じられる禍々しい波動は間違いない。

 

「そして、先輩の――第四真祖の魔力の波動です」

 

 ユウマだ!

 『魔族特区』の中心地で、一番最初に訪れたキーストーンゲート。

 もしかすると昨日は魔術儀式をする舞台の下見をしていたのかもしれない。

 だが、気づいたのは古城だけではない。

 急行する特区警備隊の機動部隊。隊列を組んで飛行する四機の攻撃ヘリは、その屋上にいるであろう術者(ユウマ)へ、容赦なく機関砲弾や浄化ロケット弾をばら撒く。

 

「あんな軍用機(もの)まで……!?」

 

 爆散する炎―――だが、それは屋上まで届かない。

 浮遊していた眼球が、盾となる。誘爆を引き起こされ、その余波で縁の部分が砕けて、流れ弾で周辺のビルにかなりの損傷が出たが、それでも邪魔な使い魔を一掃することができたはずだ。

 続く第二波。地上の機動部隊が、屋上へ向かって砲撃を開始。迫撃砲による抗魔榴弾の一斉砲撃だ。高い浄化能力を持つ銀イリジウム合金の破片が、その爆風で不浄の一切を薙ぎ払う―――しかし、それもまた、“誘爆してさらに増殖した眼球”に防がれた。

 

「……増えてやがる!?」

 

「あの<守護者>……おそらく衝撃に反応して増殖する機雷のようなものだと思われます。闇雲な攻撃では突破できません」

 

 雪菜が冷静な口調で分析する。

 特区警備隊も敵戦力の性質を同じように推測し、攻撃をやめるも、砲撃を防ぎ、そして、数倍に数を増やした怪魔が、反撃を開始。

 絃神島の上空に、斑点が浮かぶ。まるでライフル銃のレーザーポインタをあてられたかのよう。

 数多の眼球体から定規を引いたように真っ直ぐ突き抜ける熱線が、四機の攻撃ヘリを撃ち落とし、機動部隊のいる地上の付近が爆発し、炎上の黒煙がのぼる。

 攻撃を受けて爆発増殖し、熱線の威力は強力無比。それが守護する以上、警備隊に魔術儀式の邪魔はできず、屋上から放たれる魔力は、ますます勢いを増して、

 

 

「             ッッッ!!!!!」

 

 

 そして、ここにまで届くほど街全体に響き渡る遠吠え―――何かを呼ぶような声は、古城にも雪菜にも耳馴染みのあるものだ。

 古城は先を急ごうと―――しかし、

 

「―――!?」

 

 相手の<守護者>は“一体だけではなかった”。

 

 

 

 突然、虚空から現れたそれは、氷河期から生還した生きた化石のようだった。

 見ただけで硬質だとわかる鉱石を全身鎧のように纏い、その上をさらに厚い氷に覆われている恐竜。人類が生まれる遥か以前の古代ではあらゆる生物の大きさが桁違いと言われていたが、それは地上にある自然界のどの動物種よりも巨大だ。

 つまり、これは魔術の世界に棲息する魔獣。

 それが、古城たちがキーストーンゲートに向かおうとした今ここに現れたということは―――

 

「先輩、下がってください!」

 

 祭りで仮装している人々が大勢いて、人前で槍を構えていて目立ちはしないだろう。

 しかし、

 

「こいつって、まさか……!?」

 

「はい。おそらく、私たちの足止めが目的だと思います」

 

 ずっと見張られていたのか。

 なんて間抜けだ。少しでも冷静になれていれば、優麻が古城の行動を監視するのは予想できたことだ。身体を奪ったのだから、当然、それを取り返しに来て、計画の邪魔をする―――相手が現れてようやくそれに気づく古城は自分の愚かさに歯噛みする。

 

「アスタルテ、叶瀬を頼む!」

 

「命令受託」

 

 戦闘力のない、万が一にも怪我を負わせるわけにはいかない夏音を、人工生命体の少女がその背中から翼のように展開した眷獣の両腕で覆い護る。

 完全に祭りのアトラクションだと思われているのか。

 周囲の人々は逃げず、半径20mほどの距離を開けて、おおっ、と歓声をあげて拍手している。この状況がどれほどの危機なのか、麻痺しているように気づかない。しかし、気づいたら気づいたでパニックになるだろう。

 ならば、この場において、最善を求めるなら、この恐竜を真っ先に撃滅すること。今はまだ恐竜はその場より動かない。様子見ではなく、それ以上、古城たちが先を行こうとすれば阻むようにプログラムされているのか。つまりは、先手権はこちらにある。

 光り輝く銀色の槍を取る獅子王機関の剣巫の手が霞む。

 狙うは核たる左胸の心臓部。いかに強固な鱗を持とうがそれが魔力で構成されたものならば貫く。眷獣すらも、一刺必殺を成す。

 しかし。

 剣巫の未来視は覆される。

 

「―――ぐっ!」

「―――姫柊!?」

 

 恐竜に突き出した槍は弾かれ、雪菜の腕が痺れる。それが吸血鬼の眷獣だろうと魔力で実体化しているのならば切り裂く槍であるが、その体を覆っている氷は大気中の水分を固めさせたもの。それが鋼鉄ほどの硬さで、槍で貫くことはできなかった。突きでできた罅も、瞬時に再凍結される。

 そして、攻撃されたのであれば、反撃される。

 大の男の数倍はあろうかという巨体が動く。鉄の鑢を擦り合せるような奇怪な唸り声。獣にはあらざる明確な殺意を篭めて、剣巫を睨みつける。

 知性と獣性が絶妙に混じり合った視線だった。

 そうだろう。

 この恐竜はけして単なる魔獣ではない。魔女の生み出した<守護者>たる怪魔なのだから。

 二体分の魔獣がひとつに合わさった<守護者>。

 ゆっくりと、けれどその視線は剣巫の動きを牽制している。

 観客たちの目を覚まさせる暴力じみた殺気。いくつもの牙より零す地面を凍てつかせる冷気。余程の強者でも、傷ひとつつけるのも難しい。銃機を持った特区警備隊ですら、この怪魔の前には蹂躙されて終わるだろう。

 

「まさか―――これほどの<守護者>を使役していたなんて!」

 

 雪菜が、一息吸う。

 呼吸と共に内功を練り、身体を切り替える。

 全力でなければ、こちらがやられると、そう判断した。

 

 驚愕を一瞬で押し殺し、大地を蹴る。

 いつもより強く、いつもより速く。

 絶妙なる功の流れに統御されて、<雪霞狼>の刃は冷気に曇る白靄に清冽な弧を描く。

 

 キンッ! と。

 二撃目も氷壁に弾かれ、しかし雪菜はその反動を利用して魔術強化にて大地を蹴る。滑り込むようにして巨体の陰にある死角に潜り、その視野から外れる。

 しかし、続く三撃目からの連撃はその尻尾に防がれる。

 まさに<守護者>ではなく、『守護神』ともいうべき鉄壁の防御。剣巫の乱れ突きが悉く封じられるなど、誰が信じられただろう。

 驚くべきことに、この怪魔は雪菜の絶技を阻むほどの獣の如き反応と機械のような精緻さを兼ね備えていた。

 そして、冷気と反動、腕の感覚の麻痺により、微妙な体勢の崩れが生じ―――恐竜の反撃をむかえるのに、ほころびを生じさせた。

 彼女の予測を上回る、恐竜の敏捷性。

 槍を盾にしようにも、その衝撃は少女の細腕をなお微塵に砕くに足りるだろう。

 

 ―――爪が振りかぶられる。

 少女の体ほどありそうな、恐竜の鉤爪。それが怒涛の如く迫り―――

 

執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>」

 

 寸前、アスタルテが守護に回していた巨人の眷獣の片腕を雪菜の壁となるよう前に突き出した。

 城壁の如き(かいな)は、さしもの恐竜の爪を弾く。けれど、押し負けたように巨人の腕は大きくのけぞる。

 無防備な夏音が恐竜の前にさらされ、そして、何よりそちらへ注意がいってしまった。

 

 恐竜が半透明の巨人の両腕を見る。

 その途上で震える無力な少女など意識してないだろうが、巨人目掛けて襲い掛かれば無事では済まされない。

 

「叶瀬、逃げろ!」

 

 声を上げる古城。しかし、夏音は動けない。どうしたらいいかわからない。

 雪菜も槍を振るうも、弾かれその進撃を止められず―――

 

 

「忍!」

 

 

 その横合いから繰り出された銀色の光。

 無警戒な真横から放たれた斬撃は、進撃する恐竜の咢を弾いて、そのままその目元を抉る。その傷口が青白い炎に包まれて、横倒しした恐竜が苦悶の声をあげた。

 

「今の一撃を受けて、仕留められぬとは……」

 

 呟き、彼女は夏音の前に立つ。

 現れたのは、銀髪のショートヘアの如何にも有能な軍人という雰囲気を纏う二十代前半の女性。着ているのは、どこかで見た覚えのある黒色のブレザー。その実用的な軍服は派手な装飾さえすれば、“北欧の第一王女”のものと同じになるだろう。

 周りを見れば、彼女の他にもう二名の軍服の女性が観客たちの避難誘導を行っている。

 

「あんたらは―――」

 

「アルディギア『聖環騎士団』所属ユスティナ=カタヤ要撃騎士であります。ラ=フォリア=リハヴァイン王女の命により、王妹(おうまい)殿下の護衛に参りました」

 

 王妹殿下―――それは、アルディギア前国王の隠し子であり、つまり現在の国王の腹違いの妹である叶瀬夏音のことだ。

 

「ラ=フォリアが言っていた、騎士団からの護衛か!」

 

「忍! 王妹殿下をこれまで護っていただき感謝いたす第四真祖殿」

 

 夏音を庇い、隣に立つ人工生命体にも一礼し、

 

「そして、そなたがクロウ殿の言っていた後輩のアスタルテ殿か」

 

「肯定」

 

「我ら『聖環騎士団』の絃神島の上陸を阻むあ奴ら<図書館>の残党を撃破してくれたクロウ殿とそなたの活躍により、間に合うことができました」

 

 頼りになる援軍の登場に、けれども夏音は突然現れた自分の護衛に、流石に困惑の表情を隠しきれず、

 

「あの、ユスティナさん、でした」

 

「王妹殿下のご拝顔を賜り、光栄の至り―――ですが、挨拶の前にあの使い魔を討伐せんために、そのご威光をお借りいたす」

 

 感動も露わにして深く頭を下げ、朗らかに笑う表情、それも一瞬で切り替え、ユスティナの訓練された軍人の顔つきとなる。

 

 巨人の(かいな)に王妹殿下の守護を任せ、起き上がる恐竜の怪魔に要撃騎士の剣が火花を散らす。

 その剣速は迅雷。切れ味など言うまでもなし。鋼鉄に匹敵する氷の防壁さえ、その刃はあたかも薄衣のように断つ。

 

「ラ=フォリア王女より賜りし宝剣<ニダロス>は、アルディギア王族の傍らに侍る乙女に、破魔の力と癒しの加護を与える―――!」

 

 黄金の柄を持つ剣の刃は、氷河を閉じ込めたかのような王族の瞳の色と同じ、霊気の炎で青く輝いている。

 叶瀬夏音を精霊炉として霊気を借りて行われる<疑似聖剣>だ。

 天使に近い属性を持つ夏音の霊気は、魔族にとっては猛毒に等しく、そして、その剣技のさえは凄まじい。

 

「凄ェ……」

 

 氷壁を溶かす青白い炎に、そして、全身鎧の如き鉱石の鱗と鱗の僅かな隙間を裂く精密さ。さらには王族の加護によって増幅された斬波は、明らかに刃の届かぬ部位までも切り裂いた。

 もはや奇蹟にも等しいその四連撃。行動を不能にするよう目の前の怪魔の脚を集中して打ち据え、粘土の如くに切り崩す。恐竜とてまな板の上の魚ではなく、身を捻り、腕を振るい抵抗しているというのに、何ら気に留めぬのほどの絶技であった。

 

 素人の古城から見てもはっきりと一流とわかる。単純に剣の技だけならば、雪菜よりも上だ。王族である夏音の護衛として、ラ=フォリアが派遣してくるだけのことはある。……その言葉遣いがどこか怪しいが。

 

 そして、援軍は要撃騎士だけではない。

 

「えっ……!?」

 

 ホアァァァーッ、という怪鳥のような雄叫び。

 疾風の如きと形容されるほど限りを尽くして自身の体重を失くす、空前絶後の軽身功にて恐竜の各部へと飛翔する。要撃騎士の正確無比の剣戟によって、がくりと前につんのめったか今の腕を、腹部を、その美しい拳打が打ち砕いていく。

 ―――二の打ち要らず

 流派においては、そんな風に謳われる秘訣。すなわち体内の気を練り上げて、強大な衝撃へと変換する内功の奥義である。

 それをいとも簡単に放つのは、赤髪のお団子ヘアに三つ編み、チャイナ服の若い女。

 

「おー、教え子たち、ようやく会えたな。怪我したりしてないかー?」

 

 彩海学園中等部の体育教師、笹崎岬が暢気な口調で訊いてくる。

 まさかの担任教師の乱入に、雪菜は困惑を隠しきれずに、

 

「笹崎先生! どうして……!?」

 

「那月先生に頼まれたりしてたのよ」

 

 自分がいないときに、雪菜や古城のフォローをしてほしい、と先輩から頼まれていた。

 彼女もまた国家資格を持つ功魔官。たった一人でギャング組織を壊滅させた、素手で地面を割った、手から気功波のビームを出したなどなど、数々の都市伝説に事欠かない女拳士なのだ。

 

「あれ? クロウちゃんがいないし、ひょっとして、私が知らないうちに、ずいぶんヤバいことになってたりする?」

 

「……はい。かなり。クロウ君もおそらく相手に囚われて」

 

 うわー先輩になんて言おう、と正直に雪菜に頷かれて、岬は頬を引くつかせるも、どんと強めに胸を叩き。

 

無問題(ノープロブレム)! そんなやわに弟子を鍛えてないからね!」

 

 体育の合間だけの組手であるが、師父として真剣に取り組んでいた。

 だから、そう簡単にはやれないと自信はある。

 

「笹崎先生、那月ちゃんは……!?」

 

「無事だよ。今のところはまだね」

 

 古城の質問にウィンク混じりに岬は答えると、再び起き上がってくる恐竜の怪魔へと闘志に燃えた眼差しを向ける。

 

「先へ行ってください」

 

 騎士と拳士、それも特級クラスの二人が前線に出て、余裕が出たか、アスタルテが古城と雪菜に進言する。

 

「私は教官の言いつけられた優先保護対象・叶瀬夏音についています。ですから……先輩をお願いします」

 

 彼女に深々と頭を下げられて、感に入るものを覚えた古城は力強く頷いて先へ行く。

 姫を守護する騎士に、達人級の拳士に、巨人の両腕が、凍結と岩土の怪魔に果敢に攻め立てて、観客が拍手喝采に沸く。

 祭りはまだ始まったばかりだ。

 

 

 

つづく



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魔女の迷宮Ⅳ

キーストーンゲート 屋上

 

 

 特区警備隊の検問封鎖を避けるだけでも厄介なのに、進めば別の空間に飛ばされる今の絃神島で移動。

 相当に困難なミッションであるも、古城にまたもうひとり、その道を示してくれる援助。

 そう、この絃神島には魔女が脅威認定する<空隙の魔女>に<蛇遣い>も立ち入れない領域――電子の世界で頂点に立つ女帝がいる。

 携帯にいつのまにやら強制インストールされた藍羽浅葱の(寝)顔写真つき押し売り地図アプリ。空間の歪みを逆算して、空間転移をショートカットにさえ利用してしまうナビにより―――辿り着いた。

 

 絃神島で、最も天に近い場所。

 そこには蔓蔦の絡まる眼球体の群体が雲のように宙を漂い、そして、その親玉と思しき巨大な怪魔。視線を合わさった子機の数体が侵入者に反応。魔術儀式場たるここで熱線を放つようなことはできないようだが、それでもその身をぶつける体当たりの強襲を一斉に仕掛け―――凛冽とした銀閃に細切れに引き裂かれる。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 機雷である怪魔が、爆発も増殖もせず、対魔装備の機動隊でさえ退けたそれが、槍一本を得物とする少女に滅せられる。

 それに古城の眼前、緋色と漆黒の魔女を左右に侍らしている、まさに吸血鬼をイメージした黒の燕尾服――凪沙の用意した仮想衣装を着ている“暁古城”はその表情を強張らせる。

 

「その槍、そうか……『七式降魔突撃機槍(シユネーヴァルツアー)』か……」

 

 獅子王機関より派遣された<第四真祖>の監視役が手にする秘奥兵器は、あらゆる魔力を無効化する破魔の槍。魔力で実体化を保っている吸血鬼の眷獣や魔女の使い魔にとっては、この上なく相性の悪い武器だ。

 それが邪魔者を一掃し、その先の光景を露わとする。

 魔女の姉妹が両隣に陣取る鮮血の魔方陣。

 そして、その中央に立つ月光にさらされたように色素が薄く白に見える前髪の少年――暁古城の肉体と、その声が枯れ果てようと延々と音無く鳴き続ける銀の人狼。

 

「―――ユウマ! クロウ!」

 

「早かったね、古城」

 

 その声は自身のもの。しかし、その口調は友のもの。

 自分の肉体――その中身は仙都木優麻を見た古城は、苦悩に表情を浮かべる。

 優麻の手の中には、一冊の魔導書が握られて、そして、指先から魔導書へ膨大な魔力が流れ込んでいる。魔導書が駆動する術式。それが何を引き起こしているかは、ほぼ息継ぎもなしに鳴いている後輩の姿を見ればわかってしまう。

 親恋しく泣いている仔狼のように、ただただないているそれは、見るだけで胸が張り裂けるくらいに痛ましく、すぐに駆け寄り止めさせてやりたい。けれど、その瞳に輝きはなくて、無情。古城が現れたことにも気づかず、命令された作業を実行している。

 

「キミは昔からそうだったよ。何もわかっていないのに、本当に大切な場所に現れる」

 

「ユウマ……お前は……」

 

 楽観視していた。

 直接向き合うまで、やはり心のどこかで幼馴染は魔女ではなくて事件とは無関係だと願っていた。ただ巻き込まれただけの被害者だと、信じていたかった。

 しかし、古城の身体を乗っ取っとり、後輩を道具のように使役するそれは、どれほどの弁護を費やそうにも覆せない、真実を古城に告げている。

 優麻こそが、事件の首謀者だったという認めたくない事実を。

 

「心配しないで。この身体も後輩君もすぐに返す。だから、少しだけ待ってくれないか。もうすぐ見つけられそうなんだ」

 

 その苦悩を労わるように、友は優しい声音で言う。

 遠吠えが、何かを呼び寄せているように、絃神島の上空を歪ませている。

 あと少しで、実体化するところまで来ている。

 

「見つける……って、なんのことだ……?」

 

「ボクの母親だよ。生まれてから、まだ一度も会ったことはないけどね」

 

 おぼろげながらも古城にその記憶はある

 幼い優麻が母親と離れて暮らしていて、これまで古城はその母親に会ったことがないこと。そして、優麻が魔女であるなら、母親も同じように魔女である可能性が高く、今の発言が正しければ、彼女の母親はこの『魔族特区』である絃神島にいるのだろう。

 そこまでは理解できた。

 だが、そこから先は共感できない。

 ただ母親に会いたいがために、島全土を巻き込むほどの事件を起こすなど理解しがたい。

 それに緋色と漆黒の魔女が嘲笑と共に答えた。

 

「あらあら、第四真祖様はご自分の領土のことさえもご在知ないのかしらぁ」

「<監獄結界>――忌々しいナツキの夢幻の牢獄に我らが『総記』であり、この<蒼の魔女>の母親である<書記の魔女>が囚われているのよ」

 

「<監獄結界>……!? そんなもの、ただの怪談じゃなかったのか……!?」

 

 唖然と呟きを洩らす古城。

 この絃神島に長年住んでいたものとして、その都市伝説は聴いたことがある。

 凶悪な魔導犯罪者を封印する幻の監獄。幽霊の刑務所。殺された罪人の魂が成仏できずに彷徨っている場所。はたまた、海底に沈む邪神の神殿の別名であるとか。

 多々その噂が流れても、どこにあるのか知るものはおらず、存在さえもあやふやな。

 

「いいや、古城。<監獄結界>は存在する。『魔族特区』を流れる竜脈(レイライン)の力を使って造り出された、いわば人工的な異世界なんだ。その存在は魔族であっても見ることはできないし、それを造り出した理事会の者たちにさえ、どこにあるかも知られていない。

 だけど、絃神島の確かに存在するんだよ―――それを証明しているのが、キミの後輩である<黒妖犬>だ」

 

 魔女の女神の眷属にして、墓守の番犬たる<黒妖犬>。

 あの世から死者が起き上がってこないよう見張るとも言われているそれは、都市伝説に監獄の番犬とも魔族で恐れられていた―――そう、

 

「<監獄結界>の看守である<空隙の魔女>と使い魔の契約をしている<黒妖犬>は、昨日、“この島のどこにも存在しないはずの主”を感じ取っていた。それはつまり、この世界ではない南宮那月が眠っている異世界と繋がっている」

 

「<監獄結界>の在り処を探るために……クロウまで攫って、操り人形にしてるっつうのか……」

 

 歪めた空間の中に隠されたものを見つけるために、優麻はサーヴァントが繋がっているラインを引っ張らせて、網引き漁のように、<監獄結界>を現世にまで持ってこさせようとしている。

 

「そうだね。見ての通り、墓守に眠れる主を起こさせるなんて、相当な無理と無茶をさせてしまっている。その実体さえ直接視認できるところまで持ってきてくれれば、あとはこのために<蒼の魔女>として鍛えられたボクの空間制御の術式と、竜脈を上回るほどの膨大な<第四真祖>の魔力で<監獄結界>の封印は解いてみせるよ」

 

 そういうこと、か。

 古城の肉体も後輩も、すべては<監獄結界>の封印を解かねば会えない、魔導犯罪者として封印された純血の魔女たる母親のため。

 だが、そんな娘に監獄破りを強要させるような母親が、古城にはまともだとは思えない。それに<監獄結界>の中にいる犯罪者は、優麻の母親だけではなく、それが一斉に解き放たれてしまえば、街は戦場となる。

 

 止めなければ。

 

 <監獄結界>の捜索と解放のために、優麻は古城の後輩と体を欲していた。ならば、古城が自分の身体を取り戻し、後輩を正気に戻せば、彼女を止めることができるはず

 

「―――先輩! 下がって!」

 

 雪菜が鋭い声で、古城を下がらせる。

 同級生を痛ましい目で心配しつつも、会話には参加せず、相手の出方を窺っていた雪菜は、群れを成して押し寄せる眼球体の怪魔を槍で薙ぎ払う。しかし一体一突で敵を仕留めようにも槍ひとつでは庇いきれない物量作戦は途切れず、剣巫はやむなく迎撃から防衛へ切り替える。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る!」

 

 銀槍を頭上に掲げて、高らかに祝詞を唱える。その清冽な響きに呼応して、研ぎ澄まされた刃が眩い輝きを放つ。

 

「雪霞の神狼、千剣破(ちはや)の響きをもて楯と成し、兇変災禍を祓い給え!」

 

 その純白の光が消えた時、雪菜と古城を中心に、直径およそ5mほどの半球状の空間が出現していた。<雪霞狼>の神格振動波による防護結界だ。

 触れた途端に不浄を滅するそれが怒涛に押し寄せる怪魔の侵入を防ぎ、押し潰されるのを防いだ。

 眼球体を操っているのは、優麻の左右に立つ二人の魔女。穏やかな態度でどこか眉を曇らせる優麻とは対照的に、彼女たちは暴力的な興奮と蹂躙、そして支配する喜びに表情を歪めていた。彼女らの手には魔導書はないが、それぞれ優麻の魔導書『No.013』の一頁を手にしており、それがこの怪魔の操縦を行い、特区警備隊に甚大の被害をもたらした。

 

「漆黒と緋色の魔女の姉妹……! まさか<アシュダウンの悲劇>の……!?」

 

 世界的に有名な魔導犯罪者だと気付いた獅子王機関の攻魔師は微かに眉を動かす。

 魔女姉妹も新たに手に入れた力の性能に酔いしれつつも、雪菜の正体を分析する。

 

「なるほど……私たちの新たなる<守護者>に牙を剥くだけあって、小娘にしてはよく勉強してるようですわね」

「―――察するに巫女の類といったところでしょうか。どうなさいます、お姉様?」

 

「できることなら手足を引きちぎり、腹を裂き、我らが儀式の贄として使いたいところですけど、<蒼の魔女>の本体にもしものことがあってはいけませんわね……残念ですけど、ここは<蛇遣い>の眷獣にさえ匹敵するこの<守護者>の力を存分に振るおうじゃありませんか」

「ええ。所詮は魔女の道具であることをよおくわからせるよう<黒妖犬>を使い潰すまで楽しみましょう―――」

 

 魔導書の一頁が禍々しい輝きを放ち、怪魔の親玉からさらにその分体子機が増殖して、攻撃に激しさを増す。

 浄化されるのに構わず特攻を仕掛けるその勢いに、雪菜が敷く結界がじりじりと狭まる。

 ただでさえ決め手のない千日手の状況で、消耗戦を仕掛けられてはいずれ<雪霞狼>を支える霊力も途絶してしまう。霊力だけでなく、体力も削られ、疲労が蓄積していく。それは燃料タンクな扱いにされている後輩も同じ。魔女姉妹が怪魔を増産するたびに、その生命力が削り取られていっている。

 古城にはそれをただ己の無力さを噛み締めながら、見ていることしかできない。

 <第四真祖>の肉体であったなら、双頭龍がこの怪魔を根こそぎ喰らい尽くして、こんな無益な争いを止めてしまえたのに。だが、今の古城は真祖の肉体ではない、ただの一般人だ。

 むしろここで何かの助けになろうと動くのはまずい、もしこの結界内から出て捕まりでもしたら、それだけ雪菜の負担を増やすだけだ。古城さえいなければ、防護結界を張らずともこの怪魔を躱して魔女たちに直接攻撃を仕掛けられたかもしれないのに……

 第四真祖となって後悔したことは多々あったが、今はその力が欲しい。

 

「くそっ……! やめろ……やめてくれ……」

 

 この絶望に弱々しく呻く古城に、魔女姉妹はますます嘲笑を濃くする。

 

 

 一発の銃声が鳴り響いたのはその時だった。

 

 

「なっ、それは……!?」

「精霊の加護の光ですって!?」

 

 光の奔流が跡形もなく、その機雷の爆発ごと呑み込むほどの勢いで、場を一掃。

 魔族にとって致命的な精霊の輝きが、魔性の特性を無効化し、怪魔の機雷を殲滅する。

 さらに、

 

「―――獅子の舞女たる高神の真射姫が讃え奉る」

 

 その荘厳な祝詞が聴こえて、雪菜は銀槍に霊力を一層に込めて、防護結界を強化する。

 

 

「極光の炎駒、煌華の麒麟、其は天樂と轟雷を総べ、憤焔をまといて妖霊冥鬼を射貫く者なり―――!」

 

 

 先の閃光で邪魔な怪魔が退けられた空間を通って、天高くに飛翔する鳴り鏑矢より、慟哭の声に似た遠鳴りを一帯に浸透させる。

 人間の声帯や肺活量では唱えられない。すなわち魔女ですらも詠唱不可能の高密度の呪文。そう、矢ではなく、そこから放たれる呪文こそがこの攻撃の本体であり、魔弓『六式重装降魔弓(デア・フライシユツツ)』を持つことが許された獅子王機関の舞威姫の本領。

 雨のように降り注がれる、呪詛と暗殺の専門家が放った凶悪な呪いは、その圧で眼球体の子機を悉くに押し潰して―――残るメイヤー姉妹が操る怪異は、親玉の一体のみ。

 

 登場からわずか数分で、状況を逆転させた二人は、悠然と古城と雪菜の前に立つ。

 

「ラ=フォリア!」

「―――紗矢華さん!?」

 

 黄金の呪式銃<アラード>を構えた北欧アルディギアの『美の女神(フレイヤ)』の再来と謳われる第一王女と魔弓長剣の<煌華麟>を持った獅子王機関の舞威姫というあまりに豪勢な援軍に、古城と雪菜は安堵よりも先に呆然としてしまう。

 

「助けに来てやったわよ、暁古城。本当に世話が焼けるっていうか、私がついてないとあなたはいつもそうやって雪菜に迷惑ばかり………」

 

 と気持ちが良いほどに逆転劇の主役に立つ紗矢華は、助け出される姫様役な古城へ振り返ろうとして、固まった。

 雪菜の隣という羨ましいポジションにいるであろうと思っていたのに、知らぬ間に舞台の役者がチェンジしてた、それも男からボーイッシュな美少女に。

 

「えーと……誰?」

 

 連絡は取り合ってはいたが直接に顔を合わせていない紗矢華たちは、今の古城の状態を知っていない。

 どう応えてやるべきか判断に困ってる古城の代わりに、雪菜がかなりざっくりに説明する。

 

「あの……今はその人が暁先輩なんです。色々とあって女の子になってますけど」

 

「まあ、それは困りましたね。これでは世継ぎが作れません」

 

 古城の女体化に目を大きくして驚くラ=フォリア。さらっととんでもない爆弾発言をした気がするが、紗矢華の方はまるで放心したように硬直し、それから泣き出しような表情で、

 

「なんじゃそりゃあああああ!?」

 

 どうやら彼女にとっては相当衝撃的なことだったらしい。

 誠に遺憾そうに顔を伏せている妹分と美少女になってる古城を交互に見る目は、ほとんど涙目である。

 生来の思い込みの激しさに加えて、普段は先輩らしく凛とした振る舞いを心掛けている反動からか、一端動揺すると再起動に時間がかかる。

 意外なメンタルの脆さを露呈している護衛の舞威姫を置いておいて、見かけ上は常と変わらない王女様はその魔方陣の中心にある二人を見て、指差す。

 

「つまり、あそこで本物に似つかわしくない凛々しい顔をしているのは偽物ですね」

 

「いや、あの身体は一応俺の本体なんだが……つか、何気にひどいな!?」

 

 ふて腐れたように言う古城。それにくすりと笑い、目を細める。

 

「それで、その子はいずれ南宮那月からもらいうける予定ですのに、わたくしよりも先にお手付きするとはいい度胸です。調教(しつけ)のやり方というのを一から教えて差し上げましょう」

 

 それもきっと王女様だけの将来予想図なのだろうが、しかし、古城も古城で気に入っている後輩が“道具として使われている”のを見るのは気に食わない。

 人数の差でも戦力の差でも、形勢は逆転した。

 だが、そんな古城の思考を読み取ったように、優麻は微笑を浮かべている。

 

 

 そう、ついに見つけたのだ―――

 

 

 水平線を血のような紅が染めたその時、仔狼の雄叫びに応えるように大地が鳴った。

 

 激しい地鳴りと共に、絃神島の北端の海上から見覚えのない島影が浮かび上がる。

 その内側より、美しい夕映えを砕くかのごとく岩で出来上がった巨大な建造物がその姿を現した。

 直径200mに標高80mほどの小島にあるのは、どことなく幽玄で堅固な構えの城塞の如き聖堂。

 欧州の修道院で数多くの聖職者や政治犯を収監する監獄である『聖ミカエルの山(モンサンミシエル)』を彷彿とさせる威容をさらし、海上よりはるかに上の絃神島で最も高い場所にいる古城たちでさえも睥睨するように、自らの顕現を主張する。

 

 

 ―――<監獄結界>が夕暮れに屹立したのであった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「なるほど……<図書館>の狙いは<監獄結界>の解放か」

 

 古城の背後より陰気な雰囲気を纏う男が、その存在を露わにする。

 叶瀬賢生。

 僧衣のような黒服を着たこの中年男性は『仮面憑き事件』の首謀者の一人として特区警備隊に収監されていたが、元アルディギアの宮廷魔導技師で、アルディギアの第一王女ラ=フォリアの交渉により、キーストーンゲートへの移動手段として引っ張り出された。

 それを容易に推理ができた古城はさしておどろかず、素直に疑問をぶつける。

 

「あれが<監獄結界>なのか……?」

 

「どうやら異空間との境界が揺らいでいるようだな。今はまだ完全に実体化したわけではない」

 

 封印はまだ破られていない。

 喩えるなら、海底遺跡を水面から眺めてるような状態で、そこから遺跡そのものを海上まで引き上げるには、桁外れに大きな労力が必要になる。

 

 つまり、あとは真祖の肉体を持った空間制御の使い手が力技で、封印を破るだけだ。

 

「では、お集まりのところ悪いが、ボクは行かせてもらうよ」

 

 ゆらり、と水面に広がる波紋のように、優麻の眼前で景色が揺らぐ。

 空間転移のために、<監獄結界>と繋がった“門”を開いたのだ。

 その虚空に呼び止められる寸前で、魔女姉妹に呼び止められた。

 

「お待ちを―――<蒼の魔女>」

 

「キミたちはここで彼らの足止めを」

 

「ならその用済みとなった<黒妖犬>を私たちに―――」

 

「残念だが、そんな契約はしていない」

 

 振り返らずあっさりと切り捨てられて、それでどちらが“用済み”なのは当人たちは認めたがらないだろうが、明白だろう。

 優麻はそれ以上の問答に付き合わず、クロウと共に虚空に吸い込まれるように消えた。

 これより、彼女は<監獄結界>の封印を解除しに行く。

 

「賢生―――」

 

 ラ=フォリアが黒衣の魔導技師に命じ、<監獄結界>の近くに“門”を開かせる。

 無意識レベルで空間を操れる魔女ではないが、慎重に座標計算さえできれば、空間制御魔術は高位の魔導師にでも一、二回は行使可能だ。

 

「古城。あなたと雪菜は先に行ってください。わたくしたちはここで残り物を片付けます」

 

 <第四真祖>の無尽蔵の魔力を手に入れた魔女に、それに魔導書の支配で使役される混血。だが、そのどちらも魔力術式を無効化さえできれば、無力化できる。

 

「雪菜、古城の身体に遠慮なく<雪霞狼>をブッ刺しちゃいなさい。そ、それで何かあったら、私が本っ当に不本意だけど血を……」

 

 最後の方はゴニョゴニョ何を言ってるかは古城には聴こえなかったが、復活した紗矢華がとても物騒なエールを雪菜へ送る。それにややむっとする雪菜であったが、それに僅かにあった、当人でさえ気づけなかった迷いが、晴れる。

 

「わかった。助かるラ=フォリア」

「わかりました。でも大丈夫です紗矢華さん」

 

 そうして、懐から取り出した小瓶から水をまいて、その水溜りにさらに周囲に呪文をチョークで書き込んで賢生が造り出した空間転移の“門”へ、古城と雪菜は飛びこんだ―――

 

 

 

「では、先ほどわたくしが言ったことをよく理解していられないほど痴呆が始まっているおばさま方のお相手をするとしましょうか紗矢華」

 

 それを見届けた王女は護衛の舞威姫とともにここですべきことを果たすため、各々の得物を構え、

 

「―――我が身に宿れ、神々の娘。楯の破壊者。雹と嵐。勝利をもたらし、死を運ぶものよ!」

 

 長剣に切り替えた舞威姫の空間切断の鉄壁の防御で道を切り開き、自らを精霊炉に見立てた王女の<疑似聖剣>で呪式銃の銃剣(バヨネット)から展開される刃渡り十数mに達する光の大剣が、最後の親玉たる眼球体の怪魔を一刀両断した。

 

 

人工島北地区 監獄結界 前

 

 

 魔女とは、悪魔と契約を交わした女性の異称だ。

 悪魔の眷属である<守護者>を経由して、魔女は悪魔と同じ力を使う。故に、人間の身でありながら上位魔族に匹敵する魔力を操り、魔術の技量は宮廷魔導技師などといった最高位の魔術師をも凌駕する。

 

 ただし力を得るためには、代償が必要だ。

 

 悪魔が力を与える――その願いの大きさに比例して、支払う代償は大きくなる。

 

 

 

 <獅子の黄金(レグルス・アウルム)

 

 その身から迸らして発散している余波の電力だけで、一瞬で海水を沸騰させ、気化した水蒸気が水蒸気爆発を引き起こすほど圧倒的なエネルギーを秘めている雷光の獅子。

 <第四真祖>の災厄のごとき十二の力の一端。

 独立した意思を持つ異界からの召喚獣である吸血鬼の眷獣は、たとえ真祖の肉体があっても、支配権を奪い取れていない優麻には喚び出すこともできない。

 だが、<守護者>の援助を受ければ、この一時、ほんの一瞬だけ、この肉体が持つ記憶を辿り、過去に眷獣を使った瞬間と、現在のこの時空を連結することができる。

 それが実現したのはたった一分にも満たない刹那の時間で、空間を接続する術式を破壊され、フィードバックに神経が灼かれたが、それでも空間の裂け目から流れ込んでくる灼熱の奔流は、監獄の幻影を実体化するほどの成果を出してくれた。

 

「流石に<第四真祖>の眷獣……ボクの<(ル・ブルー)>でも制御しきれないか……だが、ようやくここまで来た」

 

 その古い岩山を模した人工島(ギガフロート)だけでなく、そこまでをつなげる浮橋までもこの通常空間で実体化している。

 <監獄結界>の封印が解けた証拠だ。

 そして、破壊された壁の隙間から、聖堂の中が空洞であることが窺い知れる。

 聖堂とは見かけだけで、この中身は完全に空っぽ。伽藍洞の空間。そう、そこに異名に相応しき、“本物の”<空隙の魔女>がいる。

 

「あ……」

 

 ここまで連れてきてしまった<黒妖犬>が、喉を引き攣らせる。

 命令以外に、彼が表現できる方法がそれだけだったからだろう。

 宣言した。すでに、そしてこれからまた、彼の誇りは穢される。

 

 きっとこの子は、ボクを恨むだろう。

 

 そんな断ち切ったはずの迷いが、また蘇り―――彼らの登場に気づいた。

 

「もうボクに追いついてきたのか」

 

 振り向けば、そこに見慣れた自分自身の身体――すなわち優麻の身体に入った暁古城。そして、隣には銀色の槍――警戒すべき『七式降魔突撃機槍』を持った少女。

 彼らは完全に実体化した<監獄結界>を目の当たりにして驚いたようだが、すぐ表情を真剣なものに戻す。

 

「いい友達に恵まれたようだね、古城」

 

 今の古城は第四真祖でもなんでもない、何の力も持たない普通の人間だ。空間を飛び越えて移動した優麻に追いつくには、彼ひとりでは無理だ。

 

「―――他人事みたいに言ってんじゃねぇよ。お前だってその中のひとりだろうが」

 

 そんな答えを返されて、優麻は目を瞬いて、苦々しく唇を歪めてる彼の顔を見返してしまう。

 

「嬉しいな。まだボクのことを友達だと思ってくれるのかい?」

 

「言っとくが、こっちは魔女なんか見慣れてるし、その程度じゃなんとも思わねーよ」

 

 なにせ、世界最強の吸血鬼である古城の周りにはそれに負けず劣らずに個性的な面子が揃っている。

 

「じゃあ、古城の後輩君をまだボクに貸してもらってもいいよね?」

 

 その優麻の返しに表情を険しくさせて、

 

「一応、訊くぞ」

 

 と、古城が言った。

 

「クロウを解放してやる気はないか?」

 

「ごめん。彼は『計画』を果たすまで、ボクの使い魔だ」

 

 優麻は自嘲するように笑みを洩らし、

 

「前に言っただろ、ボクにはキミしかいないんだって。ボク自身の持ち物と呼べるようなものは、キミに出会えたこと以外に何もない。だからかな、たとえそれが禁書の力で強制された、偽りでも主従として手に入れたこの子を手放すのが惜しくなる―――それに、この子は古城の近くにいない方がいいかもしれない」

 

「そんなことっ……!」

 

 声を荒げて反論しようとした古城を手で制して、優麻は静かに語り始める。

 自分が母親の刑務所破りのために造り出された道具であることを、そして、<監獄結界>を破ることは生まれた時から定められたことを。

 

「古城、魔女はね。悪魔と契約に払った代償を破ることはできない」

 

 宮廷魔導技師ですら1、2回が限度の空間制御を難なく連続行使できるほどの力を得た<蒼の魔女>は代償に、<監獄結界>の解放という絶対命令の刷り込みがなされた。

 

 優麻は<守護者>である蒼い騎士に命じて、<監獄結界>の壊れかけた門を破壊させて、その“空隙”を古城たちに見えるように晒す。

 それを視界に捉えた瞬間、古城と雪菜は息を呑む。

 

「馬鹿な……なんであんたがこんなところに……」

 

 聖堂の中は空っぽで、一脚の椅子だけが置かれている。ベルベット張りの豪華な肘掛け椅子に、眠るように目を閉じたまま、座すひとりの女性。

 レースアップされたフリル塗れのドレスなんてこの絃神島にはあるまじき暑苦しい衣装だが、それが恐ろしく似合う。美しくも幼い、人形のような顔立ちの魔女。

 

「お目にかかれて光栄です、<監獄結界>の『鍵』―――<空隙の魔女>よ」

 

 恭しく一礼する優麻。けれど、その眠り続ける南宮那月に、古城たちは声を失い、ただ茫然と眺める。

 第四真祖の力で無理やりに<監獄結界>の封印を破った衝撃を受けたか、そのこめかみから頬にかけて、鮮血が一筋垂れている。

 

 しかし、何故、これまで姿を見せなかった那月が、どうしてこんな場所で一人きりでいるのか。そもそもここにいる彼女は古城が知る本物なのか。

 そして、

 

「那月ちゃんが……<監獄結界>の『鍵』?」

 

「―――そうだよ。人工島管理公社ですら所在地を確認できない異空間にある牢獄へと囚人が送り込むことができる理由が、これだ」

 

 <空隙の魔女>は、<監獄結界>の看守であり、門番であり、扉であり、そして、『鍵』だ。

 <監獄結界>という凶悪な魔導犯罪者を封印するための舞台装置――“そのものが魔術”で、その唯一の使い手が南宮那月。

 

「この聖堂は、南宮那月の居城なんだ。彼女はずっとここで暮らしてたんだ。10年前から一度も外に出ることなく、たったひとりきりで、眠り続けていた―――それが<空隙の魔女>が支払った代償だから」

 

「そんなの、おかしいだろ。那月ちゃんは、ずっと俺らの学校で教師として働いてたぞ」

 

 彩海学園の英語教師で、古城のクラスの担任。絃神市内の高級住宅地にでかい屋敷を構えて、後輩たちと暮らしている。異世界に封印された殺風景な聖堂に、彼女が寝泊まりしているはずがない。

 しかし優麻は、哀しげに微笑みながら首を横に振り、事実を語る。

 

「キミが知ってる南宮那月は、本物の彼女が魔術で生み出した幻影だ。ここにいる哀れな少女が見ていた、ただの夢だよ」

 

 とても、信じがたい。

 けれど、否定することはできなかった。

 南宮那月という大魔女ならば、実体をもつ分身を作り出して、普通の人間のふりをすることなど簡単だろう。

 幼いまま歳を取らない理由もそう考えれば納得してしまう。

 そして何よりも、<監獄結界>の中で眠っているそのそっくりな少女は誰なのか―――百の説明を聞くよりも明白に、その姿を見ればわかってしまった。

 

 そして、“運命”に縛られるのは魔女だけではない。

 

「幻影をいくら壊しても意味がない。だからこれまで<図書館>は彼女に手が出せなかったし、直接的な攻撃しかできなかった未完成な<黒妖犬>では敵わなかった。

 でもね。『黒』シリーズは、運命(プログラム)に従い、畜生に堕ちた大魔女が『真祖を超える規格を目指して創られた人造魔族』」

 

 その戒めである『首輪』に手を伸ばす。

 

「真祖の敵である咎神の末裔に真祖に逆らった獣王の血統から生まれた『混血』だ。そして、真祖を超える第四真祖の後続機として大魔女が造り上げた最高傑作。

 わかるかい、古城―――いずれは真祖(キミ)と争う。これが、この子の血に刻まれた“運命”だ」

 

 手にした魔導書に膨大な真祖の魔力を篭め、唱えた。

 

 

「“蒼”の名において命じる! 全力を出して“敵”と戦え」

 

 

 しかし、<監獄結界>を出すためにひどく消耗して支配力が落ちたからか。その特級の意思抵抗力は、禁書クラスの魔導書の支配すら食い止めるほどだった。敵に襲い掛からんと駆動する全身の筋肉を、後輩は渾身の力で封印する。強権と反抗、鬩ぎ合う二つの力は後輩の中で荒れ狂い、その身体を今にも引き裂かんばかりだった。

 

「さあ、真祖(コジョウ)か、それとも真祖(キミ)の肉体を持つボクか。どちらを襲うか賭けてみようじゃないか!」

 

 その激痛、想像を絶する苦しみと重圧は、食い縛るその様からどれほどのものかとその一端でも見て取れる。

 だが、<蒼の魔女>が魔力を魔導書に注ぎ込み続ける以上、その抵抗も一時のもので。

 古城は、気づく。

 

「“クロウ”! “やめろ”―――!」

 

 友ではなく、後輩に静止を叫ぶ。

 もう、言葉を吐き出す余力のない後輩は、その意思の光が消える間際に、目で自らの意思を古城へ伝えた。

 

 

 そして、総身を苛む魔導書の猛威に悶えつつ―――爪が人狼自身の胸へと吸い込まれた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「クロウ!」

「クロウ君!?」

 

「………!?」

 

 白銀の毛並みを染め上げる艶やかなる朱。

 驚愕は等しく全員のもの。優麻も、雪菜も、そして直前でわかった古城も、このあまりに“裏切る”結果に、愕然と見開くしかなかった。

 わけても、絶対服従の禁書の術者であった優麻の驚きこそ、最たるものだっただろう。何せ、ちゃんと魔導書『No.013』は発動していた。そう、これは魔女に逆らうのではなかった。“主の眠りを妨げようとする南宮クロウ”という“敵”を攻撃対象と見なして、その爪を以て、クロウは自らの胸を刺し貫いたのである。

 その意思ひとつで起こしたものだろうが、そんな真似が、普通はできるか。いかに信じがたくとも、揺るがぬ結果が目の前にある。その身体に、力の限りに突き入れたのは、他でもない、彼自身の両手であった。

 ありえるはずがない。語った通り、混沌としたその血は、真祖と争うためのもの。彼が貫くとすれば、それは古城か、またその肉体を持っている優麻のはずだ。そう思っていた。その“運命”を破ったのだとすれば、彼は『黒』シリーズという道具ではないからだ。

 故に、支配に逆らえない以上は、己を機能停止させる最初から覚悟を持ち、そして、機会をずっと待った。

 

「―――なあ、わかったかよ、ユウマ」

 

 呆然としたところに差し込まれた古城の問いかけに、優麻の身体が震える。

 

「<監獄結界>を解放するためだけに生み出されたおまえは、その“運命”から逆らうことはできないのか?」

 

「古城……」

 

「ああ、俺の後輩は馬鹿野郎だ……けどな、それでも一つ証明したぞ。真祖(オレ)と争うことになるっつっていた後輩は、お前の命令に逆らって、イヤなものはイヤだって貫き通したんだろ―――ユウマ! これでもお前は運命には逆らえないっつうのか!?」

 

 古城が優麻を睨みつける。これが何よりの証明だと突きつける。だが、優麻は涙を流しながら首を横に振り。

 

「わかってるよ。ボクの行動に何の意味もない事なんて! ボクが誰よりもよく知ってる! でも怖いんだ! これまで“運命(プログラム)”通りにしか生きていけなかったボクは他に何も知らない! “運命”から外れて無価値になってしまうのが怖いんだ!」

 

 クロウに駆け寄る雪菜へ、優麻の<守護者>である禍々しい鎧甲冑を纏う青騎士が迫る。

 それを光り輝く銀の槍で、彼女自身の十倍に達するその甲冑に覆われた巨体を断ち切る。しかし、それでばらけた鎧のパーツパーツが倒れている銀人狼へ装着される。

 

「<(ル・ブルー)>! 邪魔者を<監獄結界>に立ちいれさせるな!」

 

 真祖の肉体と繋ぐ空間制御に意識を割かなければならず、十分な戦闘に回すだけの余裕はない。そして、剣巫にはあらゆる魔術を断つ術が―――つまり、ここで最も計画を土壇場でひっくり返す可能性を持っている相手。何としてでも排除しなければならないが、<守護者>ではかなわない。

 優麻には、虫がよくてもここで頼れる戦力はクロウしかいなかった。

 

 船底に穴の空けられた船体だが、<守護者>の力を帆船のように受けて、停止していた身体は前に動き出す。

 

 そして、獅子王機関の剣巫は攻撃を寸前で止める。芯を失くしたように揺れる穂先から、重体を負っている彼に躊躇しているのがわかる。

 

「やはり、甘いな」

 

 空気がびりびりと震える。

 <蒼の魔女>の操り人形となった銀人狼が発散する魔力が、空気を振動させている。<蒼>の甲冑からもまた、猛烈な魔力を発散している。

 二体分の魔力は圧倒的だ。傍にいるだけで、古城の骨に響くほど。

 <守護者>の鎧を纏った状態は、<ナラクヴェーラ>を圧倒した時とよく似ていた。

 

「その槍の力なら、そもそもボクの本来の身体に攻撃すれば、簡単にケリをつけられたはずだ。なのに、それをしないのは、古城に感化されたのか。やっぱり君も古城にたぶらかされた口かな」

 

「違います! 現状ではこれが最善だと判断しただけです! 空間制御術式が破れた際に、<第四真祖>の魔力が暴走する可能性がある以上、優先してその身体を回収する必要があるという、極めて合理的な分析の帰結です!」

 

「―――なら、彼を刺してみたまえ!」

 

 ムキになって言い返した雪菜へ、優麻は言う。

 

「魔導書により強制的に動かしているけど、今の彼は<蒼>の強化で行使されている死霊術でその半死半生の状態を維持してる。いわば自己暗示なフランケンシュタインかな。鎧を打ち消してしまえば、生命維持が保てなくなるよ」

 

「ぐっ!?」

 

 槍が放っていた銀光が淡くなり、雪菜の動きも鈍くなる。

 対して、蒼鎧の銀人狼。その動きに衰えもない。鋭敏な剣巫の感覚は、クロウが自分の身体を破壊しながらも、ますます膨大な量の生命を燃やしていることを察知している。

 自傷しているからこそ、一切のリミッターをカットしているからこそできるのではないかと、そう思わせるほどの凄絶な獣気の解放だった。

 

「―――姫柊!?」

 

 跳躍して飛び掛かり、脳天目掛けて爪を振り切る。

 ぐわっ、と空気がゆがむほどの衝撃。

 拳の振りだけで、その足場としていた浮橋が砕ける。飛び退いて緊急回避した雪菜だが、浮橋が割れて<監獄結界>側にいた古城と分断される。

 

「―――ほんっと、先輩の次に手が焼かされますね」

 

 『神格振動駆動術式』の発動を抑えた<雪霞狼>で蒼籠手を纏う爪と打ち合い―――<過獄結界>から徐々に距離を取っていく。

 

「先輩は優麻さんをお願いします! <守護者>をクロウ君に回していて、魔力の大半を空間接続に割いている今の彼女に戦闘力は残されていません」

 

 それを聞いた古城は、己が立ち向かうべき相手を見据え、

 

 

「行くぜ、ユウマ―――ここから先は、暁古城(オレ)仙都木優麻(オマエ)戦争(ケンカ)だ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 絃神島北地区のコンテナヤード―――『魔族特区』内の企業が、原材料や資材を輸送船に積み込むための工業港。

 現在は『波朧院フェスタ』開催期間なので、皆との業務は休止しており、港湾職員たちも残っていない。ヤード内には無数のコンテナが、空っぽのまま積み上げられている。

 

 <雪霞狼>を警戒する優麻に、<守護者>を封殺したい雪菜。

 合致した両者は戦闘の場を<監獄結界>から距離を取り、港にあるそのコンテナが並ぶエリアに移す。

 

「―――<伏雷>!」

 

 蒼鎧の銀人狼の突進を雪菜はひらりとかわし、上から蹴りを叩き込んだ。

 対応できず、防御はおろか、姿勢制御もできず、地面に叩きつけられた。

 決まった! ―――と雪菜はけして油断はしない。

 蒼鎧の銀人狼は反転し、着地間際の雪菜めがけ、さらに向かってきた。

 雪菜は着地前に銀槍の柄で地面を突き、棒高跳びの要領で身を翻して、突進を躱すと、もう一度カウンターの蹴りを放った。

 やはり直撃。容易く吹っ飛ばされて、地面を転がる蒼鎧の銀人狼。

 

 その身体を動かしているのは彼の意思ではなくて、その鎧<蒼>だ。

 身体能力こそ変わっていないが、その動きは単調で読み易い。

 <雪霞狼>を振るえば、すぐに決着がつく。

 

 噛み締めた口角から鮮血を垂らし、蒼鎧の銀人狼――いや、南宮クロウがこいねがうようにささやいた。

 

「姫柊……やる……。……オレは…………だいじょうぶ………どれほど…でも……………耐えられる…………」

 

 起き上がった蒼鎧の人狼の足が地面を踏み締め、自らの筋肉を断裂させながら力を振り絞る。

 押しつけられた命令に、必要な膂力を死に体から引き出させる。当然、それは肉体の限界を超えた代償を要求する。友達が、狂気の激痛を耐えるように目を見開き、開いた胸の傷口から血を噴出させ、呪文のように囁く。

 

「……オレを…………止めてくれ………」

 

 絶対に命令を果たさせるため、使い魔の肉体を壊してでも力を絞りださせるほどの、強制力。雪菜は悪魔の騎士鎧より、仙都木優麻のものとはまた違った“別の意思”の様なものを感じ取る。

 

 先輩の方も心配だ。

 一切の戦闘力がないとはいえ、魔女を今の一般人と大差ない先輩に相手できるものか。

 一刻も早く―――だけど、これ以上、同級生の身体を傷つけることは―――

 

 そのとき、思いも寄らぬ人物が登場した。

 

 

「―――焦るな、娘」

 

 

 山積みされたコンテナの上から見下ろす、雪菜と歳の変わらない同年代と思しき少女の影。

 その口から流れ出したのは、冷たく澄んだ声で、思わず吸い寄せられるような、どこか異様なその響き。けれど、まるで別人のような気配を纏う、ぎこちなさが感じられる。

 何より、口調は違うがその声音は雪菜も聴いたことがある。

 

「凪沙……ちゃん?」

 

 幼い身体の線をくっきりと浮かび上がらせる黒いワンピース。頭には獣の耳を模したカチューシャ。黒いニーソックスの足元は肉球付きのブーツで、猫の手手袋に尻尾までついている。“どこかのクラスメイト”に合わせたかのようなアニマルな黒猫仮想衣装。

 それは昨日の衣装合わせで見せてくれたものと同じで、今、目の前で対峙していた同級生が昨日着ていた蒼銀の法被を羽織っていて、いつも短く結い上げていたその髪は解けており、腰近くまで流れ落ちている。だが、間違いなく彼女は、暁凪沙―――じゃない。

 

 その虹彩の開ききった大きな瞳、凪いだ水面のように何の感情も写していない瞳は―――

 

「これは……この状態は、神憑りか……憑依……?」

 

「おお、そうか。おまえも巫女だったな。獅子王機関の剣巫よ」

 

 凪沙はそういって愉快そうに笑った。困惑する雪菜を、品定めするようにじっと見つめて、

 

「ならばおまえにもわかっていよう。今すべきことはあの坊やのところへ行くことだとな」

 

「あなたは……いったい……!?」

 

 雪菜が鋭く目を細めて訊き返すも、しかし凪沙は何も答えず、とん、と地面へ着地すると、蒼鎧の銀人狼と対峙する。

 

「こ奴の相手は我が引き受けよう。同格として創られようとも以前よりも、その性能を出し切れていないのでは止めることは容易かろうよ。それはこちらも同じだがな」

 

 普段ならば、とてもできない。

 

 だが重度の魔族恐怖症である凪沙が、人狼の前で平然としている。明らかに人間以上の存在を受け入れているように見える。神憑りか、あるいは凪沙自身の裡にある潜在人格の可能性もある。獅子王機関の報告書(レポート)にも書かれていなかったが彼女のかつての魔族に襲われたという事件と、何か関係あるのかもしれない―――だが、何にせよ、今はそれを詮索する余裕はないし、状況でもない。

 

 逆に蒼鎧の銀人狼は、何か、戸惑っているのか、そこから動かなくなる。

 

「変わらず、この娘を大事にしてるのだなお前は」

 

 剣巫の直感が、この場でむしろ自分は邪魔であると告げている。

 数瞬、迷った末、雪菜は『お願いします』と告げて、ここまで来た道を引き返し、<監獄結界>へ向かった―――

 

 

 

「……ようやく、いったか」

 

 猫耳少女は嘆息し、

 

「あまり介入はしたくなかったが、“借り”があるからな」

 

 その背後に、氷河のように透き通る新たな眷獣がいた。

 全長10m足らずの美しい、冷たい凍気を纏う眷獣。上半身は人間の女性に似ており、下半身は魚の姿である。そして背中には翼が生え、指先は猛禽のような鋭い鉤爪になっていた。

 氷の人魚、あるいは妖鳥(セイレーン)―――

 <妖姫の蒼氷(アルレシヤ・グラキエス)

 <焔光の夜伯(カレイド・ブラッド)>の十二番目の眷獣。

 

「無茶ばかりをしているが、それで壊れたら元も子もない。少しは自分の身体を大事にすることを覚えておけ」

 

 氷霧が立ち込める。

 ダイヤモンドダストの輝き。その氷の霧の中に、蒼鎧の銀人狼が囚われて、瞬間、大気中の水分が一斉に氷結し、その全身に真っ白く霜が降りた。

 動きが鈍る。強制的に動かそうにも、肉体が分子レベルで運動を停止しようとしている。

 

「―――しばし、眠れ、我の“後続機(コウハイ)”」

 

 妖鳥に猛烈な冷気を纏いながら、“凪沙”は凍てつく声で囁いた。

 しゃきんっ、と甲高い音ともに、蒼鎧の銀人狼は一瞬で氷結した。

 フルーツを入れたゼリーのように、この棺のような氷塊の中に閉じ込めてしまう。

 

 

 真祖をも封印する氷棺は、一切傷つけず、また出血をも止めて、その動きの一切を封じた。

 

 

人工島北地区 監獄結界

 

 

 走る。

 剣巫が離れていくのを確認して、<監獄結界>へ入った。

 彼女が言っていた通り、他に容量を割き過ぎてしまっていて、今の自分は空間制御すらできない。

 

「―――ユウマ、もうやめろ!」

 

 追いかける自分の姿――唯一自分のものだと言い張れる友人は後を必死に追いかけてくる。

 男女の足の長さに脚力の違い、それと人間と魔族の肉体の性能差もあって、追いつかれはしないが、それほど離すこともできない。

 眠り続ける幼い少女と変わらない今の<空隙の魔女>ならば、その首の骨をへし折ってやるだけで殺せる。だけど、そんな時間は与えられないだろう。

 

「そんなことやったって意味がないのはわかってんだろ―――!」

 

「でも、ボクは、ボクのこれまでの全てを無意味したくないんだ!」

 

「そんなはずがないだろ!」

 

 一歩分、差が縮まる。

 

「お前が自分で言ったこと憶えてるか。お前には俺がいるってユウマが言ったんだろ。だったら、俺が、お前の生きてる意味を認めてやる」

 

 また一歩分、差が縮まる。

 

「だからお前は、そんなくだらない“運命”になんか従わなくていいんだよ!」

 

 真祖の力が奪われ、自らの肉体を奪われ、それでもなお、奪った本人に向かって断言する。その声に誤魔化しや躊躇もないの意思が嫌でも伝わってくる。

 

「……まるでプロポーズの言葉だな」

 

 昔から、そういう殺し文句を不意打ちのように平気で口にできるような奴だった。それでずいぶん苦労したくせに、未だに自覚がないなんて、小学生から精神年齢が止まっているに違いない。ああ、だからあの子と先輩後輩仲が良いわけだ―――!

 

「……でも、ありがとう」

 

 泣き笑いのような表情を作り、ペースが乱れたその一瞬に古城は優麻の前に回り込んで、

 

「嬉しいよ……もう、それだけで―――それだけで十分だ」

 

 やめろ、と古城が叫ぶ前に、優麻はその手を古城がガードする正面ではなくその斜め上、石造りの聖堂の天井に向ける。

 空間制御の魔術に割くほどの余裕はないが、簡単なものなら今の<守護者>の援助のない優麻でもできる。

 手から初歩的な火球魔術を、魔女の力で放つ。その威力はちょっとした爆弾並であり、その着弾する場所は、ちょうど真上―――眠り続ける南宮那月の。

 重力に引かれて降り注ぐ石塊が当たれば、那月の命はない―――だが、優麻を追い抜いてそのまま真っ直ぐ駆け抜けた古城がその那月の身体を担ぎ上げる。

 

「だあああっ―――!」

 

 天井から落下する石塊が、豪奢な椅子を粉々に押し潰し。その一瞬前に古城は那月を攫ったまま床へ転がっていた。

 

「策士策に溺れるってやつだな、ユウマ。お前は焦ると相手の裏をかこうと奇襲を仕掛ける癖、直してなかったんだな」

 

 埃まみれの顔をあげて不敵に笑う友。今は自分の顔なのに、不思議とその背後に彼の面影が浮かんで見える。懐かしい幼馴染の癖を、彼は忘れてない。そう、奇襲するだろうと彼は“信じていた”。

 那月を庇う古城を前に、足を止め、疾走に息を切らしながら、呼吸の苦しさとは別の理由で、優麻はひどく辛そうに顔を歪めた。

 

「古城……っ! どうしてまだそんな風に笑うんだ!? ボクはキミを騙したのに! 犯罪者に創られた生まれながらの魔女なのに! キミの大事な妹を人質にとった卑怯者なのに! キミの後輩にあんなにひどいことをしたのに! 今だって、キミの住んでいる街を破壊して、キミの友達を傷つけようとしているのに―――――!」

 

「優麻……」

 

 優麻は完全にパニックに陥っていた。

 道具としての存在意義の他に何もない。他には嫌われるようなものしかない、最低な人間なのに。

 何が何だかわからなくて、頭がどうにかなってしまいそうだ。

 

 だから、そんな自身の胸の内から目を逸らし続けて、自分をも裏切ってしまうこの器用なようで不器用な旧友に、古城は声をかけようと―――して、がくっ、と力が抜ける。

 

(なんだ……これは……!?)

 

 今の瓦礫に切ったわけでもないのに、額から鮮血が流れ出す。

 額だけでなく、その美しかった肌にいくつもの裂傷ができて、そこから激しく出血している。

 

 考えられる可能性はひとつだ。

 ついに優麻の肉体そのものが悲鳴を上げたのだ。

 強引な空間接続で真祖の身体を乗っ取り、人間の手に余る真祖の膨大な魔力を引き出し、眷獣を呼び出すため時空を弄る荒技を行ったり、<守護者>で強制的に後輩を戦わせようとしたり、そして、今の不安定な精神状態―――

 いくら魔女でもとっくに限界を超えており、優麻の肉体が崩壊を始めている。これ以上、感情のままに魔力を荒ぶらせていれば―――

 

(っくそ、あとちょっとなのに―――っ!?)

 

 古城が最悪の結末を予感した―――その直後、視界に青いドレスを着た小柄な少女が横ぎった。

 何も言わずともその表情で古城の心情を察した彼女は、華やかな笑みを浮かべて、言った。

 

「―――いいえ、先輩。わたしたちの勝ちですよ」

 

 優麻を救うには、一刻も早く勝負を決着させること。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 その疾走に、魔女は目で追うこともできず。

 神に勝利を祈願する剣士のように、あるいは勝利の予言を捧げる巫女のように姫柊雪菜は粛々と祝詞を紡ぎ出して、

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 これまでの倍する爆発的な霊力が流れ込み、閃光と化した銀色の槍が、狙い違わず優麻の―――古城の肉体の心臓を刺し貫いた。

 

 

人工島北地区 監獄結界 前

 

 

 蒼鎧の銀人狼を閉じ込めた氷棺の上に、黄金の霧が人型に形作る。

 

「……何の用だ……<蛇遣い>」

 

 猫耳の少女――暁凪沙がそれに警戒して、その妖鳥の眷獣の召喚を再び意識する。

 だが、それを見ても戦闘狂である青年貴族の吸血鬼――ディミトリエ=ヴァトラーは昂ることもなく平然と微笑み、

 

「いや。残念だけど、色々と見させてもらったからね。それでキミへの興味はもうないよ。“勝てるとわかっている戦いは”しない主義なんだ。早く本来の力を取り戻してから出直すんだね」

 

 まあ、でも。

 

「暁古城が、アヴローラを喰らって<第四真祖>の力を手に入れた理由に見当を付けさせてもらったんだ。ボクが今ここに来た理由を言おうじゃないカ」

 

 吸血鬼の超視力で、事の顛末をすべて見届けていた。

 姫柊雪菜の援助もあって、仙都木優麻と決着をつけ、無事に元の身体に暁古城が戻ったことも。

 そして、まだ<監獄結界>の本体が現世に残っていることとこの“顔のない青騎士の正体”も。

 

「仙都木阿夜の娘はここまでだったけど、<監獄結界>は現出しているわけだし、最後の鍵くらいは、“自分の手でぶち壊す”という選択肢もありかな―――」

 

 細めた貴族の碧眼が、血のような深い紅に染まり、全身から禍々しい血霧を立ち上らせて―――頭上に美しい水色の眷獣が、濃密な凍気で形作られた拳を振り上げていた。

 

「おいおい、先に舞台に手を出したのはそっちだろ“十二番目”。だったら、ボクも“彼女”に手を貸してやってもいいはず―――」

 

 言い切る前に、<焔光の夜伯>の十二番目の眷獣は力を解放。

 凄まじい冷気が放出され、一瞬で極低温まで冷却された人工の大地が、収縮と低温脆化によって粉々に砕け―――散りはしなかった。

 できなかった。

 それはその氷棺にいる少年も巻き込むことになる。

 しかし、その一瞬の躊躇を嘲笑うかのように、寸前まであえて無防備だったヴァトラーは血霧から灼熱と閃光の蛇を召喚。

 氷棺を破壊し、その籠手の一部が“黒ずみ始めている”蒼鎧の銀人狼を解放した―――

 

 

「まだ、終わらせないよ。祭りはこれからだ……」

 

 

人工島北地区 監獄結界

 

 

 ギリギリで心臓は外れていた。

 深々と槍に抉られた痕が残っているが、高い再生能力を持つ吸血鬼、それも真祖であるなら致命傷ではなく、直に治るだろう。

 それでも、先輩が目覚めるまで安堵はできなかった。

 だから、その少し切った指先を、血の滴玉が浮き出る指先を、そっとその唇に―――

 

「ホント、しょうがないんですから」

 

 

 

「―――姫柊……?」

「気が付きましたか、先輩!」

 

 耳元で聴こえた――膝枕をされていた古城は驚き、慌ててその場に跳ね起き、急動作の無茶に全身を激痛が貫く。

 まるで体内の全細胞がフードプロフェッサーでミンチにされたかのような痛み。

 覚悟していたが、やはり死ぬほど痛い。

 ぐお~~っ!? と苦悶する古城の頭をまた一度膝の上に乗せながら、小さな子供をあやすような手つきでよしよしと撫でる。

 負の生命力で保っている吸血鬼には治癒の魔術はむしろ毒であるが故、雪菜としては古城にこれ以上のことはできないのだろう。

 と一応、ひとつ特効薬が存在するのだが。

 

「あのお願いがあるんですが……姫柊さんの血、を……?」

「吸わせませんよ。絶対、吸わせませんからね」

 

 むーっ、と口を一文字に結んで不埒な考えをする先輩のほっぺをつねり上げる。

 今までのは緊急事態だったからやむなくそうした。

 元ルームメイト紗矢華が優麻を追う直前に言ってくれたエールのおかげで、古城の肉体に対し、容赦なく<雪霞狼>を突き入れたのだが、しかし、そこは古城のことを深く信用していなければできなかっただろう―――と古城は思いたい。

 

「第一そんな、他の人がいるところでなんて……」

 

 人前じゃなければいいのか、と古城は素朴な疑問を抱くもそれを口にしないでおく。

 

「そうだ……ユウマは!?」

 

 姿を捜す。首を巡らせば、隣に優麻はいた。

 

「無事です。空間接続が断絶した時の衝撃は、先輩ほどではないはずですけど……」

 

 頬は青褪め、全身のあちこちには出血の痕。しかし、胸は正しき一定のリズムで上下している。苦痛に顔を歪めているわけでもなく、命に別状はなさそうだ。

 半日と少しの短い間だが、その顔立ちはやはり綺麗で、スタイルも意外と女の子らしいメリハリがある。雪菜らにトイレをするのも禁止されたわけだが、見る限りこうして吸血鬼風礼服を着ている状況から察するに向こうは古城の肉体の着替えをしているわけだし、一度くらいは役得があってもよかったのではないかと古城は思う。思うだけでしないけど。ただそんな不埒な考えがばれたか不安な古城に、淡々とした口調で、

 

「失敗……したのか、ボクは……」

 

 命を失いかけたというのに、意識が戻った彼女が最初に気にしたのはそれであった。生きていた喜びも、果たせなかった怒りも哀しみもない。何もかも、剥がれ落ちている。目的を失くした迷子のような、それとも、もう死を待ち望む老人のような。

 そんな幼馴染に古城は―――激しい怒りを覚えた。

 

「違う、そうじゃない。解放されたんだよ、お前は」

 

 睨む古城と視線を合わせながら、優麻はパチパチと瞬きをしてから、

 

「そっか」

 

 すっきり、と一言。

 それから、男前な幼馴染は不意打ちとばかりに花のような微笑を浮かべて、

 

「うん。あれだけ強烈だった焦燥感が消えてる。お母様には悪いけど、ボクにはもう、<監獄結界>をどうこうする理由はないみたいだ……」

 

 彼女はようやく母親の呪いから解放された。

 古城らも頬を緩め、笑みを作る。

 自由になった幼馴染を心から祝福するような、満足げな笑みを。

 

「そう言えば、古城。ボクの身体と入れ替わってなにかいやらしいことはしなかったか?」

 

「なっ……!? してねぇよ!」

 

 本気か冗談かもわからない優麻の問いかけに必死に否定する古城。隣にいる雪菜は不機嫌な眼差しがチクチクと刺してきて―――

 

 直後の出来事だった。

 

 

 ゴッッッ!!!!!! と。

 岩窟の聖堂に、稲光が落ちるような音が炸裂した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 いたのは。

 <監獄結界>の門を打ち崩して、現れたのは、誰だ?

 

「な……」

 

 粉塵の向こうに、何かがあった。

 目を凝らした雪菜は、ぼんやりと浮かぶ輪郭を見て、思わず声をあげた。

 

「クロウ君……ッ!?」

 

 変貌していた。

 両手足や銅を甲冑のような金属部品に覆われていたが、その姿は変貌していた。

 黒く澱んだ鎧がより禍々しくなり、そして、頭部の兜が髑髏(しゃれこうべ)の仮面に変わっている。

 幸か不幸か、自ら開けた風穴の傷は塞がれているようだが、それでも危うい状態である。

 

 まさか、第四真祖の魔力暴走が、仙都木優麻の肉体に逆流しただけでなく、術者からのラインで魔導書『No.013』にも影響を与えてしまったのか!?

 

 その奥の眼光が、ゆっくりと古城たちを視界に入れる。

 『計画において、予測される邪魔な障害』を無機質に捉える。

 

「く……」

 

 その顔に感情らしい感情はない。

 しかし。

 無機質に遮るものすべてに鬼気を向けるその有様は、危険だ。

 もう終わったのだと、身体がどれほど壊れようとも、そんな理屈は通じないだろう

 そして。

 雪菜としても、そんな命を軽視するのを、捨て置くことはできない。

 その身を縛っている怨念じみた狂化を破魔の槍で打ち消す!

 

 即座に獅子王機関の剣巫は、<雪霞狼>を展開。

 

 同時、鎧骸装の狂人狼の爪拳が、石床を叩く。

 

「■■■―――ッッ!!!」

 

 刹那、岩窟の聖堂の石床から巨大な鋭い角が噴き上がった。

 角が石床を突き破ったのではない。“石床自体が角と化したのだ”。鎧骸装の狂人狼の叩き砕いた震動は波紋の如く広がり、“ざん”とドミノ倒しのように連鎖する地割れならぬ地起こりが雪菜へ迫った。

 

 それは“魔力に頼らない”超能力。

 自然物に己の生命力を伝播させて、強化隷属させる支配力は、高位の精霊使いが起こす現象に匹敵する。

 しかもそれはあらゆる魔術を無力化する<雪霞狼>では、打ち消すことができない。

 必然、雪菜には回避する選択肢しかなく、だが“匂い”を覚えた猟犬の如く自動追跡する地起こりの猛追からは逃れられず、岩角に銀槍が弾かれた。そこへ―――

 

「■■■■■―――ッッ!!!」

 

 狂化されていようとも、動きは機械的だった。

 姿勢を崩し、槍まで手離してしまった雪菜に対し、変貌した鎧を纏う骨鎧人狼が始動する。最短、最速、最良のルートで。一息で、その間合いを一気に潰してくる。

 だんっ!! と。

 地面を踏む足音の方が、遅れて聞こえるような錯覚さえあった。

 

「く……っ!!」

 

 雪菜の手には槍がない。

 あわてて飛んで行った方向を見る彼女だったが、向こうの壁に突き刺さったままの槍を補足すると同時、すでに骸鎧人狼は無機質に雪菜の懐へ到達していた。

 濁った蒼の手甲に覆われたその五本の指から、黒のような蒼のような、不気味な煙を凝縮したような爪が伸びた。長さは1m強。もはや獣というより刀剣を連想させるサイズだ。

 横へ跳ぶ。

 回避した、と思った時には既に、二度三度と雪菜の身体は『爪』に引き裂かれていた。

 具体的な出血はない。

 だが、ガクン!! と体の芯にある力が抜けるのを明確に自覚する。

 

(これ、は……っ)

 

 二本の脚から力が抜ける。立ち上がることもできず、雪菜は石床を転がる。―――だが、そこへ鎧骸装の狂人狼へ走り込む影。

 

「させるかよッ!」

 

 幾分か休めて和らいだとはいえ、身体を動かすだけでもまだ痛みが走る。

 魔力を絞ろうとすると、貧血のように眩暈に襲われて、膝を突きたくなる。

 

「先輩!? 無茶しちゃダメです!」

 

 顔を歪める古城の様子を見て、雪菜が叫ぶ。

 古城の肉体を刺したのは雪菜だ。急所は外したとはいえ、優麻に奪われた古城の肉体を取り戻すため、雪菜は真祖さえ殺し得る<雪霞狼>で抉ったのだ。

 それを無視して、古城は駆ける。

 

「あの時はビビっちまったが、今度は逃げねぇって決めてたからなッ!」

 

 青白い稲妻を纏う右拳。古城が辛うじて掌握している3体の眷獣の中の一体、<獅子の黄金>の雷撃である。

 胸の傷がまだ塞がっていない。だが、眠っている間に、僅かでも摂取できた霊媒の血。まだ眷獣を召喚するには無理のある状態であっても、その一端を貸し出すくらいのことはでき―――――

 

 

 ぐるん。

 

 ぐるんぐるん。

 

 どさっ、と。

 

 

 空中を。

 何回転したか、もはや古城は数えられなかった。

 体感的には随分と長い浮遊感が途切れると同時、彼の身体が地面へと勢い良く叩きつけられる。思い出したように体内時計が元に戻り、現在進行形の激痛が背骨から全身の隅々まで拡散していく。

 

「がば、ァ……っっっ!?」

 

 息の吸い方を忘れる。必死の思いで口を動かすが、海風の潮の匂いに湿気る岩肌の味が充満するだけだった。そこまで感じて、自分が地面に落ちた後も、ゴロゴロと転がされていることに気づく。

 

「ご、ぐっ、が……っ!!」

 

 四肢に無理やり力を込める。

 10本の指の爪で石床を引っ掻くように、靴底で岩肌を削るように、両手両足をトラバサミにして地面に噛みつくような格好で、古城は強引に急制動する。

 

 一発の蹴りで。

 

 未だに右目がチカチカと瞬く。ようやく取り戻した呼吸もリズムが乱れ、逆に内臓を圧迫してるように感じられた。

 肉体が受けたダメージは、尾を引き続けているようだ。

 そうたった一発、蹴り飛ばされただけで。

 いとも簡単に薙ぎ払われ、宙を舞った。それは戦闘というより、歩いてる時に足元の小石を退けるような、あまりに無慈悲で感情のない作業だった。彼我の戦力差に開きがあり過ぎる。と、吹っ飛ばされて転がった古城の近くには偶然にも雪菜が手放した銀槍があった。咄嗟にそれを掴む。

 

「こ、の……! ちょっとくらい手加減しやがれ後輩ッ!」

 

 その骸骨に覆われた後輩の表情は、機械のように変化がなかった。

 今度はそこから脚を動かすことさえなかった。

 ブォ!! と、その場で爪を振るう。上から下へ。そして1m前後だったその長さが、一気に10倍以上も飛び出した。それを見た古城は、銀槍を突き刺さった壁から抜きとった。

 甲高い音とともに、槍と爪が激突する。

 やはり鎧骸装の狂人狼の顔色に変化はない。

 霊力を持たない古城では、<雪霞狼>も本来の魔力無効化能力を発揮できない。

 そのまま押し潰すように、後輩はさらに力を加えた。真上からの重圧を受けて、古城は

膝を突き、さらに地面に接触する膝からミシミシと嫌な音が鳴った。

 直後に、黒のような蒼のような巨大な爪が、唐突に破裂した。

 ぶじゅわっ!! と、焼けた鉄板に水を振りかけたような異音と共に、不気味な煙のようなそれが古城の全身へと殺到していく。

 

「がぐ……っ、ごぼっっっ!?」

 

 皮と肉に覆われたすべての内臓が不規則に蠕動した。

 口と鼻から、赤黒い液体が噴き出すが、全身の動きが緩慢になっているため、口元を手で覆うのは間に合わなかった。

 <雪霞狼>を胸に受けた直後で抵抗力が落ちていたのもあるのだろうが、それでも吸血鬼の“血”をも蝕む呪詛だ。

 

 <(ゆらぎ)>という剣巫が用いる白兵呪術で『肉体の破壊ではなく、肉体の機能を狂わせる』。

 それと同じだ。

 細胞そのものに損傷がない以上、吸血鬼の再生能力は役に立たない。

 

 しかし、それほどの呪詛をどうして使える!?

 

「馬鹿な、死霊術以外を使える情報はなかった! 彼は“まだ願いを決めていない”『仮契約』だ! なのに―――」

 

 空間干渉にも長けた<図書館>の『科学』の魔術部隊の助力を得るための、交渉契約により、『黒』シリーズの完成があって、死蔵されていた残りの七体を“影”に喰わせて、復活させた。

 だが、それは蘇らせただけで、“契約”まではさせていない。『裏切り』の魔導書『No.013』の効力で、強引に魔獣たちを優麻が支配していただけに過ぎない。

 だから、彼には、契約した対価で得るはずの、悪魔から力や術を与えられていない。

 だというのに、行動阻害の呪詛。それも、獅子王機関の舞威姫が以前に<洋上の墓場(オアシス・グレイブ)>で見せたような、斬撃と同時に刻み込むほどのハイレベルな技量が要求されるものだ。

 

「―――っ! <蒼>、解除だっ! <黒妖犬>から外れろ!」

 

 これ以上はまずいと悟った優麻が、自分の狂人狼の強化外装となっている<守護者>に武装解除を命じる。だが、すでに『計画』――『<監獄結界>の解放』という悪魔の契約を諦めてしまった“用済みの”主の命を無視し、分厚い甲冑はその肉体に張り付いたように剥がれない。そして、先ほどまでの優麻と同じ、“何かに取り憑かれているように”装着者を動かしている。これではまるで呪われた装備だ。

 

「“蒼”の名において命じる! 今すぐ行動をやめるんだ!」

 

 落ちていた魔導書を拾い、その進路を阻むように前に立った。優麻は魔導書にありったけの魔力を篭めて、叫ぶ。

 だが、その干渉力をも許容限界を超えていたのか。数瞬、その動きを止めたが命令は弾かれて(キャンセルされ)、魔導書も燃え上がり、原型を留めず灰になる。

 最後の頼みの綱も、切られた。

 剣巫も真祖も、行動不能の呪毒にやられて動けず、もう、狂人狼を止める者は―――

 

「……そこをどけ、仙都木阿夜の娘」

 

 

 

 その時、背後から、舌足らずのようで奇妙なカリスマ性を感じる不思議な声が聞こえた。つい無意識に従って体が動いてしまう声音。

 見れば、そこに、眠り続けていたはずの、南宮那月が立っていた。

 常と変わらない不敵な微笑を浮かべながら、機械的に視線を合わせた(ターゲットロックした)狂人狼に向けて、挑発。

 

「―――来い、私を殺してみろ」

 

 それを見た古城は、叫びたくても叫べない身体で、それでも這わせたまま喉を震わせ叫びる。

 

「………や、めろ……那月…ちゃん……」

 

 今の南宮那月は、魔術で作り出した分身ではなく、<監獄結界>に封印されていた本物の身体だ。人間と体の変わらない魔女、それも彼女の身体は幼い少女のもの。一撃でももらえば死ぬ。

 

「無茶だ! いくら貴女でも、ここは逃げるべきだ。<監獄結界>にぶつけられた<第四真祖>の眷獣の力の反動で、今の貴女は体を動かすだけでも、危うい状態のはずだ!」

 

「そうだな。恩師に手をあげる馬鹿な教え子のせいで、流石の私も本調子とは言えんな」

 

 言って、でも、退かない。

 がつ、がつ、と鎧骸装の狂人狼は石床を蹴り、那月の元へとゆっくりと迫る。

 その顔に感情らしい感情はない、まさに顔なし(フェイスレス)

 それもまた、<蒼>の暴走に干渉されている弊害か。

 そして、那月は、その魔族を封じ込める、神々が鍛えた鎖――<戒めの鎖(レーシング)>をも出さず、待ち構えている。

 

「<監獄結界(ここ)>の防衛システム(機能)を修復中で、生憎、お前を縛るような無駄な鎖を割いてやれん」

 

 その身に纏わりつく甲冑が、空虚な骸骨の仮面兜が、カタカタと震える。そのぶつかり合う奇怪な騒音は、嘲笑だと。

 追い詰められて、無力な大魔女を哀れに、嗤っている。

 

 クロウの表情は、最後まで変わらず。

 躊躇のない呪いの爪が振り下ろされ―――

 

 

「次に会ったら、主の威厳をその頭に教えてやると言ったはずだぞ馬鹿犬」

 

 

 その背後より出現する腕。

 黄金の甲冑に包まれた、機械仕掛けの巨大な両腕。

 黄金の籠手が呪毒の爪撃を弾き、もう片腕、その掌だけでも優に彼女の背丈を超えたそれが、ハエでも叩き落とすように、人狼を潰す。バキバキィッ!! と殻を押し割るように<蒼>の鎧外装に、骸骨面を砕いて、さらに磨り潰す。

 そして、押し潰されて体内の肺より呼気が吐き出さす大口を開け、もがき暴れる人狼、恐れずその咢に突っ込むように伸ばした―――その左手で首の喉輪を捕まえて、

 

「我が名は空隙。永劫の炎を以て背約の呪いを焼き払うものなり―――」

 

 その黄金の光が集って、形成される『首輪』。

 何もない虚空からの零からの高位の呪具練成に禁書に破られた再契約。

 この岩窟の聖堂<監獄結界>という“南宮那月自身の夢の中”であったから、不可能を可能にできた。

 契約の呪が紡ぎ終わり、倒れ込んで人型に戻る小柄な少年を見下し、奇蹟じみた神業を成した破格の大魔女は、皮肉気(シニカル)に片端の口角を僅かに吊り上げる。

 

 

「……ふん、なんて馬鹿面だ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 1分も経たずに、南宮クロウは目が覚めた。

 

「……………生きてる、ぞ」

 

 傷も、塞がっている。

 痛みも不思議と和らいでいる。

 致命傷に至らなくても、少なくとも行動を不能にするだけの損傷は与えたつもりだったのに……

 

(どうなってるのだ? ―――!!?)

 

 起き上がろうとして、がくんッ、と前のめりに倒れた。

 

「っ……?」

 

 力が、全然入らない。

 そして―――――脳裏に過る記憶。

 

「―――クロウ君! ああ、良かった目覚めたんですね!」

 

 無事を喜ぶように笑う同級生―――でも……

 

「……なぁ、ひめら―――「ダメじゃないですか。まだ急に起き上っちゃ。本当ならまともに動けるような状態じゃないんですよ」」

 

 常に立ち姿が綺麗な、鍛えられたその動作が、今はわずかに引き摺っているその違和感が目につく。

 

「……姫柊、足……?」

「―――ったく」

 

 また新たな声。

 振り向けば、そこに疲れたように肩を落としてる先輩。彼は呆れたように、

 

「もう起きたのかクロウ。ホント、吸血鬼顔負けのタフな体してるよお前」

 

「それは先輩が鍛えてないからですよ。なのに、あんな無茶して……」

 

「いや、俺も元バスケ部で結構運動してた方だぞ」

 

 その胸元のシャツが紅に滲んでおり、いつもより“血の匂い”が薄く……

 

 ―――やっぱり。

 

「なあ」

 

 夢、じゃなかったんだ……。

 

「……………それ、オレがやったのか?」

 

 俯くクロウ。

 己のしたことを悟ったからか、単に全身に走る痛覚を我慢するためか、ブルブルと震わせながら歯噛みし、食い縛る。

 ひとつ嘆息して。

 雪菜は厳しい硬い声音で、努めて冷静に、その責任を否定する。

 

「あなたのせいじゃあありません」

 

「頼むから、気を遣わないでくれッ!」

 

「クロウ」

 

「~~~ッ、ごめんっ! でも、記憶になかったけど、憶えてるんだ。手が、本気で、殺そうとした。だから、オレ……畜生にならないって……!!」

 

 一線を、破ってしまった。

 けして踏み越えないように、してしまえば、皆と一緒にいられなくなる。

 誰が決めたわけではない、独善的で自分自身に向けられた、誓い。

 くしゃり、と爪立てて頭を掻き毟る。その頭に、古城は固めた拳骨をごつんと落とし、そのまま頭に手を乗せる。

 

「ばーか。よく見ろ、俺が死んでるか? 生憎、後輩にやられるほど、やわじゃねーんだ」

 

「でも、オレ」

 

 これ以上の吐露を遮るように、雪菜も古城の乗せた手の上に手を重ねて、

 

「弱音なら聞きたくありません。誰かのせいにしようなんてこれっぽっちも考えていませんよ」

 

「そうだ。俺の傷もどちらかといえば、姫柊のが………いや、なんでもないぞ」

 

 そして。

 眠っているようにその目を瞑り、椅子に座り、その体を休めていた主が、一言。

 

「―――クロウ」

 

 古城と雪菜は手を離して、クロウも、躊躇いがちに座す那月の前に来る。那月は瞑目したままであるが、クロウは視線を合わせられずに俯かせたままで、そして、主はその“わかり切った”反応を見もせず、ゆっくりと目を開いてから立ち上がって、また一言。

 

「頭が高い」

 

 跪いて、下げた頭に、

 

 ポン、と手が置かれる。

 

「もっと固いもんだと思ったが、意外と、触り心地は良いものだな……」

 

 わしわしと“実際に”触ってみての感想をもらし――思いがけず呆然とするクロウに――思いっきり那月は拳骨を落とした。魔力を頼らない魔女は人間も同じで、幼い少女の見た目通りに素の力は弱く、痛みはない。ただ、“偽りない熱のこもった”圧力が有無を言わせず頭の中に沁み渡った。

 頭頂部を抑えて蹲るクロウに、さらにぐりぐりと旋毛を押しながら、ふん、と鼻を鳴らし、

 

「この馬鹿犬が……っ。後先考えずに行動しおって、どうせお前のことだから、単独で突っ走って、ホウレンソウもしてないんだろ」

 

「む。オレ、ほうれん草ちゃんと食べられるぞ!」

 

「食い物の話じゃない。報告連絡相談、常識の話だ。これでは何のためにアスタルテ()御守(つけ)させたのかがわからん」

 

 やれやれとクロウを見下して溜息を吐いて、

 

 

「それから、あまり失くすなよ。携帯と違って、首輪は他に預けてもしょうがないからな」

 

 

 話は終わったと那月は手を離す。

 けれど、クロウは抑えつけられた手がなくなっても、俯いたままで、それが目についた那月は少しムッと目を細め、

 

「何をニヤニヤ笑ってる」

 

「だって、なんか、なんか……あたまがいっぱいで……」

 

 さっきまで同級生に先輩の説得でも崩れなかった、頑なだった表情を緩ませて。

 ぼろぼろと、ぼろぼろと。

 

「でも、お腹はすっごくからっぽなのだ」

 

 ぐぅううぅうぅう!! と思いっきり気の抜ける音。

 

「……緊張感の続かない奴め。腹の虫くらい気合で黙らせろ。これでは主の品格が疑われるではないか」

 

「だって、しょうがないぞ。オレ、夜食に朝ご飯も昼ご飯も三時のおやつも食べてないのだ! 今日の夕ご飯は五食分いっぱいおかわりしてもいいか!」

 

「ふざけるな。今日は反省してそのまま断食してろ」

 

「えぇ~~~!? オレ、このまま何も食べなかったら死んじゃうぞ!」

 

「一日くらい飯を抜いたところで死なん。だいたいこっちは暴れたお前らの尻拭いをしてるんだぞ。主を働かせておいて、飯を優先するつもりか?」

 

「むぅ~~…………………じゃあ、待つのだ」

 

「おい、葛藤が長いぞ馬鹿犬。すぐに答えろ」

 

「早く早く! さっさとお仕事終わらせて、一緒においしいご飯なのだご主人!」

 

使い魔(サーヴァント)の分際で(マスター)を急かすとは……躾があれでは足らんかったと見える」

 

 そのやりとりに古城は思わず笑ってしまう。

 

「“やっと戻ったな”」

「はい、先輩」

 

 雪菜もそれに笑みをこぼして首肯する。

 

「それにしても、那月ちゃんも素直にクロウ―――ぐおあ!?」

 

 唐突な空間制御の一打。脳天抑えて蹲る古城は涙目で呻く。こちらは視界に入れてなかったのに、僅かなボヤキも拾うとは魔女の耳は地獄耳か。

 

「担任教師をちゃん付けで呼ぶなと何度言わせる……しかし、この私が教え子に助けられる日が来るとはな。人間、歳はとりたくないものだ」

 

「あんたがそういうことを言うなあんたが……」

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 優麻はそんなやり取りを皆とは離れた位置で見ていた。

 もしこの件で悪い者がいるとすれば、それは自分だ。その誇りをひどく穢してしまった。

 だから、彼に謝りたいのだが、空気を読んで、心の準備も整えながら静かに出番を待つ。

 けれど、

 

「よかった」

 

 そのやり取りを見て、つい口に出てしまった。

 あのとき、生身で相対した大魔女は神殺しの巨狼に対し、神々に鍛えられた抑止力(くさり)を頼らなかった。

 それがなくても、『現実には存在しないもので創られた鎖(グレイプニール)』のような、“目には見えない”ものがすでにあったのだ。

 

 お母様には、結局会うことはできなかったけれど。もし、会えたら彼らのように―――

 

「ん?」

 

 ふと、違和感を覚えた。

 <(ル・ブルー)

 最後、暴走した優麻の<守護神>。<空隙の魔女>により、バラバラの残骸に変わり果てているそれ。別に、回復するにしてもしなくても、今の優麻に魔女としての能力に特に未練はない。だから、修復できなかったとしても気にしてはいない。

 のに、何かが目につく。そう、“ひとつパーツが足りないのだ”。

 

 

 ずちゅり、と。

 

 

 生々しい肉を刺す音。

 胸を背中から何かが貫く。ただし、それは胸を突き破ることはない。首を巡らして、それが、ちょうど探し物だったことに全てを悟った優麻は、血染めの口元を歪ませる。

 

「……お母様……あなたは、そこまで……」

 

 失くしていた<守護者>の『剣』。

 無手の攻撃手段を主とする<黒妖犬>には不要だった強化外装が、今、鞘から解き放たれて、術者である優麻の身体を突き刺さり―――”その肉体を空間転移の“(ゲート)”にして、

 

 

「待チワビタゾ……コノ瞬間ヲ。抜ケ目ナク狡猾ナ貴様ガ、ホンノ一瞬、気ヲ抜クノヲ」

 

 

 <空隙の魔女>の、実体である南宮那月の胸元から、空間転移された剣の切っ先が生えていた。

 

「ブービートラップ……か。自分の娘を囮にするとはな……外道め」

 

 蔑むような呻きを洩らす那月は、咄嗟に、クロウの身体を押していた。

 主に突き飛ばされて、呆気なく尻餅をついて倒れたクロウの顔にバシャリと温血が飛散する。

 すぐに均衡は崩れた。那月はうなだれたまま膝をつくと、クロウの上に倒れ込んできた。

 愕然と目を見開いたまま、クロウはあまりに軽い人形のような主を受け止めた。

 

 

「ご主人?」

 

 

 

つづく

 

 

 

NG

 

 

 <監獄結界>に迫る狂化された南宮クロウ。

 姫柊雪菜も暁古城もやられ、仙都木優麻の制止も聞かない、まさに絶体絶命。

 その時、

 

 

「―――ナー・ツー・キュン!」

 

 

 優麻が振り返ると、そこにアイドル張りの可愛らしい決めポーズを作ってる(なんか小さくなった)大魔女がいた。その天変地異の如きありえない異様なハイテンションに、度胆を抜かれた優麻、古城、雪菜。

 そして、クロウ。

 あまりにびっくりして、自分で自分の尻尾を追いかけている。絶賛混乱中のようだ。

 

「むむむっ! クロロンが誰かに操られてるぞ! えーい、キュンキュンナツキュンビーム!」

 

「―――え、ご主人……」

 

 暴走状態から一瞬で正気に戻った。

 そんなクロウに向かって、♡な手合せのまま、にっこりと微笑みながら、

 

「もう! ちゃあんと南宮那月(ナツキ)ュンのことご主人様って呼ばないとダメだよ。キュン!」

 

 こつん、と拳骨を落としながら、理解不能な謎の可愛らしいポーズ。そのあまりの(精神的な)衝撃に膝を折り、頽れてそのまま地面に突っ伏すクロウ。

 

「でも、そんなおバカなとこが可愛いー。ほらおいでおいで、なでなでイイこイイこしてあげるキュン」

 

 ありえないほど優しく、そして、ブラッシングするように髪を梳く。クロウは生唾を呑みこんだ。これまで対決してきたどの敵、どんな危機的な窮地も及ばない、かつてない最強の相手がいる。

 

「ご、主人様、大丈夫なのか!?」

 

「なあに心配してくれるのー。ありがと。でも、ナツキュンはクロロンの顔が見れて元気いっぱいだニャン。お礼にぎゅぎゅーってはぐはぐしてあげちゃうニャ」

 

「わ、ワン! ワンワン!」

 

「ニャニャ! そんな照れないでいいニャーごろごろー!」

 

 怯えて逃げようとするところ、鎖が巻きつけられて捕まえられる。

 それをどこか屠殺場に連れて行かれる動物のようなイメージで、古城たちは涙が出てくる。

 万力のようなヘッドロックでもないのに。頬に一筋の冷や汗が垂れ、身体は緊張から小刻みに震えている。目もなんかぐるぐる渦巻いてる。点滅する思考は混乱ではなく混沌と形容するべきくらいヤバい。

 

「こ、じょうくん……ごめん……なのだ」

 

 そうして、大魔女の可愛がりから解放されて、突っ伏している後輩の身体を抱きかかえながら、

 

「うおおおおおおお―――っ!」

 

 古城がただ声を嗄らして絶叫した。

 頭からぷすぷす煙を上げて壊れかけの(ショートしてる)後輩を抱いて、暁古城の咆哮が響き渡る―――

 

 

 

つづかない



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観測者の宴Ⅰ

シルクハットの魔導師設定を追加


 

 

 花を咲かすのが得意だった。

 

 

 誰に教わるまでもなく、ただ自分の“匂い”を分ければ眠っていた蕾は開き、その花の顔を見せてくれる。

 そうして見事に咲いた花を見るたびに、兄らには感心され、姉らには喜ばれた。

 狩りの仕方や生活の事は兄姉から教わったものだけれど、唯一自分だけが発現したこの超能力(ちから)は、誰にも教えてもらっていない、自分だけのもの。だから内緒に、そして、こっそり何か祝い事があるとその力を使って皆を驚かせる。

 何もない、何も変わらない、ただ生きるだけ精一杯な森の暮らしに、毎日世話になっていた兄姉たちへの末弟からほんのお礼として、ささやかな彩を添えてみたかった。

 

 だけど、そんな隠し事も、創造主(おや)にはバレてしまう。

 

『―――おおお……! いつから“それ”ができるようになったのかい?』

 

 花を咲かせるのはみんなを喜ばす反応で、創造主も狂喜してくれた。

 

『魔力の気配がないみたいだから、<過適応能力>……いいえ、それだけではないわ。感性(さいのう)がなきゃできない……植物だけでなく、動物にもできるかしら?』

 

 わからない。

 ただ、喜んでくれるなら応えたい。それが花でなくても、自分の“生命力(におい)”を分けるだけなら簡単だ。自分にとっては誰に教わるまでもなくできたこと。

 

『ほう……じゃあ、この自動人形(オートマタ)を動かしてみなさい』

 

 創造主を“サプライズ”に喜ばせたご褒美に、って自分にだけ新しいオモチャを与えられた。

 生命力を分け……最初は、できなかったけれど、生命力を魔力へ練るやり方を教えてもらったら、すぐそのコツを掴めた。

 

『叶った! 叶った! ようやく望みの“器”を手に入れた! あとは体が出来上がる13歳になるまで……っ』

 

 そして、その日、狩りも生活の事も兄姉に任せて、ひとり小屋で“人形遊び”に専念するようにと創造主から言いつけられて…………………明日の朝。

 

兄姉(これ)らも動かなくなってしまったから、自動人形と同じ要領で、動かしてみなさい―――そう、花を咲かせるように、私を喜ばしてちょうだい九番』

 

 

彩海学園

 

 

 二年前 『波朧院フェスタ』の前週。

 

 

『―――ご主人、ここにいたのだ』

 

『……ここは私の部屋だが、居ては悪いか』

 

『だって、ずっと不思議に思ってたけど、ここにいるご主人はご主人じゃないんだろ? 本物のご主人はどこかで眠ってるんだって師父が言ってたぞ』

 

『岬め。余計なことを言いおって……』

 

『だから、ご主人がここにいるって言い方は変なのかなーって考えてな』

 

『別にここにいるでいいだろうが。で、どうした。何があった?』

 

『……今日さ。『波朧院フェスタ』ってお祭りで、みんなで育てたでっかいカボチャをくり抜いて飾りにしようって話だったんだけど、カボチャがうまく育たなくてな。それで、オレが生命力(におい)を分けてやって大きくしたのだ。……でも、一個だけ、一番、生命力入れた奴が枯れちゃった』

 

『そうか。それがどうした。お前が失敗しただけの事だろう。なんだ。弁償しろとでも言われたのか』

 

『ううん。みんな喜んでくれた。助かったって……でもさ、実らそうとしてたくさんあげたら、ダメにしたってことはさ。つまり、咲かすというのは、枯らすことと同じってことなんだろ。……森にいた時からずっと考えてきたけど、オレの“匂い”って本当は……』

 

『バカげた考えだ。そんなことで悩ませるだけ無駄だ。ただでさえお前の頭の容量は小さいというのに、くだらんことばかりに割いてどうする』

 

『なら、ご主人はどうなのだ。ご主人が枯れちゃったら、オレはどうすればいいんだ』

 

『……勝手に主を殺すとはいい度胸をしているな。この私が馬鹿犬の世話になるとでも思うのか』

 

『う。オレもすっごいそう思ったのだ。ちっとも大きくならないご主人がそうなるのまるで想像できない―――あぐっ!?』

 

『余計な心配をするな。フン、一生の終着点は同じだ。お前も私も、そこにしかいけない。ならば景色でも眺めながらゆっくりといけばいい。そうすれば見えてくるものもあるだろう』

 

『うん。ゆっくり考えるのだ』

 

『それと、花は咲けば枯れるが、種を残す。お前がダメにしたカボチャにもあるはずだ。弁償として、お前が責任もって育てろ』

 

『むぅ。育てろって言われても……』

 

『別に力を使えとは言ってない。だが馬鹿犬に任せるのも不安だ。仕方がないから、私が監督してやる』

 

『……なんか、ご主人。ここにいなくても、見ててくれるお月様みたいだ』

 

『―――』

 

『だから、なんか、オレ、寂しくても寂しくない』

 

『……人語をしゃべれと言ってるだろう。意味が解らん』

 

『うー。オレがいた森は朝でも真っ暗だけど、夜になるともっと真っ暗でな。静かで、周りに兄姉(みんな)がいるのに見えなくて、ひとりぼっちになったみたいで、眠るとずっと目覚めないんじゃないかって怖いときがあった。でも、お月様が照らしてくれたから、ぐっすり眠れたのだ。だから―――うがっ!?』

 

『もういい。これ以上その口を開くな。いちいち馬鹿犬に付き合ってたらきりがない』

 

しゃへってるとひにははなひへほひいぞ(しゃべってるときにたたかないでほしいぞ)! ひたはんじゃったのだ~(したかんじゃったのだ~)……』

 

『私は忙しい、お前にいつまでも構ってられるほど暇じゃないからな。先へ行ってる。1分以内で来い』

 

『オレも一緒に連れてってくれないのか!? ここから学校の菜園はちょっと遠いぞ!』

 

『廊下は走るなよ。それと1秒でも遅れたら、今日の晩飯は抜きだ』

 

『う~、ゆっくり行けと言ったり、急がせたり、ご主人はやっぱりスパルタなのだ~』

 

 

人工島北地区 監獄結界

 

 

 ―――世界は、悲鳴をあげて目覚めた。

 

 

 崩壊する聖堂。

 この夢幻の世界を維持していた『鍵』はその機能を停止した。雪崩を打つように、<監獄結界>全域に精密な構造を組み立てていた魔術は崩れゆく。そこに桁外れの魔力が注ぎ込まれていた証左か、世界から引き剥がされて散るエネルギーも凄まじい勢いの揺れを起こす。ここまでくれば瞭然、この聖堂は陥落する。震えが大きくなるほど阻む力も必要以上に大きくなる。負の連鎖の中で、崩壊の規模はどんどん大きくなり、夢から覚めていく世界が機能不全に陥ってゆく。

 ほんの数秒前までの、夢幻に区切られた異世界の伽藍洞は死んだ。床や柱はもはや虚飾は剥がれ落ち、正体のむくろを晒す。

 この古めかしくも荘厳な聖堂は、禁断の箱―――囚人たちを閉じ込める牢獄。罪深い超人たちにとって、背約の炎が奇蹟の翼を焼き現世へと出られぬよう永遠に繋ぎ止める檻そのもの。それが、今、分厚い鋼鉄の壁と有刺鉄線に覆われた軍事要塞ならぬ監獄へと―――禁断の箱は現世へと開かれようとしている。

 

 そんな崩落の最中、古城たちを救うは眩暈に似た奇妙な浮遊感。何者かが空間を歪めて、外へと脱出させる。

 

 

 

 ただひとり影に足を掴まれたものを除いて。

 

 

 

 異変は、その数秒後に訪れた

 咄嗟に、混血の少年は鼻頭を押さえた。

 濃厚で豊潤なとある香りが、鼻腔を満たしたのである。

 

 ―――この、匂いは―――

 

 ほんのさわりを嗅いだだけで、少年の精神は一気に深みへと沈みこんだ。崩落の喧騒も聴こえているのにまるで気にならなくなり、代わりに自分の内側から全く別の情報(ケシキ)が湧きあがってきた。

 

(―――っ!)

 

 ザグン、と突き刺されるイメージ。

 

 

 ―――地獄の釜の如き、その口が開く。

 

 

 血と涎を垂れ流す乱杭歯に、足元からしゃぶるように這ってくる蛇舌。

 そのイメージが突然少年の肉体にねじ込まれたのだ。

 この身体を吐き気と怖気と飢餓と悪寒が一度に喰いつき、異様に我慢強いはずのクロウでさえも膝を折って、胸を掻き毟る。

 

「な……あ……が……っ」

 

 息、苦しい。

 呼吸も、満足にできない。

 いくつもの強烈な衝動が現れては消え、消えたと思えば激しさを増して打ち寄せて、少年の無垢な中身(ココロ)を挽き潰す。

 よじった手が、乱暴に足元の影を叩く。

 砕けた砂塵瓦礫が少年の頬を切り、クロウはその微細な刺激へ、懸命にすがりつく。

 少年をもみくちゃにする泥流。蹂躙する腐臭の悪夢。黒の中の黒の中の黒に、そう、少年の影に、ぽっかりと笑う口が浮かんでいる。

 

 ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ。

 

 伽藍洞の、笑い声。

 

 ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ。

 

 作り物みたいな、声。

 

 ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ。

 

 だけど、記憶と一致する音。

 

 鼓膜にべっとりとへばりつき、記憶から一度も剥がれたことのない、絶叫。

 かつてヒトであったものの声なのかと疑うほどの、高密度の自我であり、凝縮された執念であった。

 

(こ、れ……は……)

 

 その渦に翻弄されながら、クロウ自身の思考が明滅する。

 注ぎ込まれるあまりの思念に、脳髄が熱湯に浸されたよう。プルプルとこみ上がってくる激情の渦に、砂地獄の如くにもがき暴れて、呑まれていく。

 

(出て―――くる―――!?)

 

 影が三つに分かれて、頭を形作る。

 左右に道化師のような悪魔、そして、中央に畜生に堕ちた魔女の面影を残す顔が、三位一体で出現する。

 自分自身の身体を抱いたまま、痙攣する。

 呼吸したくても、肺が働かない。まるで肺が大量の泡に埋め尽くされているかのようで、地上で溺れる魚の如く、喉を掻き毟る。

 

 ―――会いたかったわ。

 ―――わたしの愛しい子。

 

 これより主客は転倒する。

 実体は影法師に、影法師は実体に。演者は観客へ、観客は演者へ。

 そう、本来そうなるべきであった主従のカタチへ。

 澱んだ眼球が、こちらを射ぬく。

 見えない指が、眼球へ、鼻孔へ、耳穴へ、地肌へ、口内へ、顔の五感を司る穴という穴に触れる。ゆっくりと入り込み、感覚器にずぶずぶと潜り、神経を逆に辿って、脳底からその内側を優しく撫でる。その指ひとつひとつが『南宮クロウ』を上塗り上書きしていく、悍ましいものを流し込んでいることにも、クロウが気づいていた。

 

 ―――九番。

 

 でも、それを撥ね退けることはできなかった。

 その反応に、嬉しそうに、愉しそうに、身体を弄ったまま、嗤う。

 指から脳髄を伝い、さらに奥の奥まで、底の底まで、この魂にまで思念が響き渡る。

 

 ―――そう、抵抗してはダメ。

 ―――そう、私を受け入れるの。

 

 あまりにも無遠慮に、あまりにも無造作に、こちらを貪ってくる。

 そして、首を絞めるように、その魂に指が―――

 

 

人工島北地区 監獄結界 前

 

 

 崩壊寸前の聖堂から空間転移で脱出した古城たちは見た。

 

 

「―――周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う」

 

 

 『鍵』の夢から覚めた伽藍洞の聖堂が変容する。

 その<監獄結界>の異名に相応しく、禍々しく巨大な監獄へ。

 最強クラスの魔導犯罪者らの封印が解かれた―――

 

「<空隙の魔女>は永劫の夢から醒め、<監獄結界>は現出した。同じ世界空間にあるのなら、そこから抜け出すのは造作もないこと……だ」

 

 ついに夢の異空間から現実へと通じた要塞の巨大な門の上。

 老獪な、けれど、平安の女貴族の見た目の火眼の魔女。足元まで届く長い髪に美しい顔立ちは若々しく、けれど、優しく微笑んでるその緋色の眼球は火眼と不吉で、白と黒の二色を重ね着した十二単は死神の装束のよう。

 

 そして、その声は、仙都木優麻の<守護者>――<(ル・ブルー)>が発したものと同じ。南宮那月に一矢を報い、<監獄結界>を破った魔導犯罪者、仙都木阿夜の声。

 

「お母……様……?」

 

 そう、優麻の母親。

 認めたくないが、髪の長さと眼球の色を除いて見分けのつかない、あまりに似たその二人の容姿は、いやでも血の繋がりを感じさせる。

 

 仙都木優麻とは、単為生殖にとって産み出された(コピー)であり、<監獄結界>からの脱出のために造られた仙都木阿夜の影。

 

 その最後、<監獄結界>の『鍵』に剣を突き立てる際に、犠牲にされた優麻へ火眼の魔女はさらに―――

 

「役目を終えた道具にもう用はない。(ワタシ)と同一の存在たる我が娘よ―――貸し与えた力、返してもらうぞ」

 

「う……あ………ああああああああああああああっ……!」

 

 優麻の背後にあられた、その顔のない青騎士――契約によって下賜された悪魔の眷属の全身に黒い血管のような不気味な模様が侵食。

 そこに生まれてから愛情の一片も与えず、感動の抱擁さえなかった、初対面の娘に対する配慮も慈悲もなく。血を吐くような絶叫にも耳を貸さず。

 その契約魔術よりも血縁という強力な絆によって、<守護者>の支配権を強引に奪いにかかる。

 

「いや……やめて……お母様……!」

 

 弱々しく懇願する優麻。それを前にして、古城も雪菜も何もできない。今、眷獣と槍でこの火眼の魔女を攻撃しても、そのダメージは優麻にも等しく還って、追い打ちをかけてしまう羽目になる。

 そして、火眼の魔女は酷薄な笑みを浮かべたまま、その左手を上げる。

 

 みしっ、と。

 生木を裂くような耳障りな音。

 

 声にならない絶叫を上げる優麻。

 小鳥の翼を引き千切るような行為に、その背中から魔女の切り札たる<守護者>が引き剥がされた。

 

「ユウマっ!」

 

 用済みの道具を捨てるように投げ出された優麻の身体を古城が抱きかかえる。

 ただでさえ、背中を刺された直後に無理をして、<空隙の魔女>の補助があったとはいえ、古城たちを崩落する聖堂から超高等技術である空間転移で緊急脱出したばかりで、ひどく消耗している。

 そして、<守護者>とは、悪魔に差し出した対価であり、魔女の肉体の一部に等しい。単なる使い魔や武器ではないのだ。それを無理矢理な<守護者>剥奪により、結ばれていた霊力経路も切断されて、魔力が鮮血のように噴き出している。

 かろうじて呼吸を保っていようとも、見開かれた彼女の目は焦点があっておらず、母親の裏切りにあった旧友は無力な子供のように怯えている。

 

「なんて……ことを……!」

 

 雪菜は明白な怒気を篭めた視線をその銀槍と共に、火眼の魔女へ向ける。

 すでにその背後には主を鞍替えした青騎士、いまや影の如く黒に染まった<守護者>を従える仙都木阿夜は、それを訝しむように、

 

「第四真祖に、獅子王機関の剣巫か……いったい何を憤っている? その娘は我が作った人形……だ。どう扱おうが我の自由であろう?」

 

 本気で、本心から口にしたその文句。

 

「……ざけんな……っ」

 

 全身の血液が逆流化のような衝動。

 歯軋りしても零れてしまう殺意。

 怒りに呼応して炎と噴き出す無限の“負”の魔力。

 

「俺の友達をこんな目に遭わせておいて、言いたいことはそれだけか……!」

 

 その血のような、緋のような、赤黒い魔力の奔流は、第四真祖に宿る眷獣へ―――ならずに、宿主の激に応えられず霧散した。

 

「先輩!?」

 

 大きくよろめく古城。

 その右手で押さえている胸から、鮮血が霧となって流れ出している。そう、肉体を取り戻すために雪菜が<雪霞狼>真祖さえ殺し得る破魔の槍で抉った傷だ。

 それが底に空いた穴のように、古城から吸血鬼としての力を零れ出させてしまっている。

 

「ほう、『七式降魔突撃機槍』の使い手を捜し当てていたとは、獅子王機関の古狸共も老獪なこと……だ。我が娘にしたことなど、連中の汝への扱いに比べれば可愛いものではないか」

 

「っ!?」

 

 呪詛のように呟かれる魔女の言葉には明らかな侮蔑が含まれている。

 確かに、母親を脱獄させるための道具として育てられた優麻と幼いころから否応なく剣巫として育てられた雪菜の境遇は似通ったところがある。まだ物心もつかないうちから、選択の余地も与えずにやられたことは、獅子王機関も仙都木阿夜も同類だ。

 だが、魔女は己以上の最低であると、それを――<雪霞狼>のために用意された姫柊雪菜の存在自体をも罵り、それも知らない当人を嘲る。

 

「……てめぇは……もう黙れよ!」

 

 古城の沸点が再度達する。

 魔女の欺瞞に満ちた嘲笑から遠ざけるように雪菜に血塗れの優麻を預けて下がらせ、その第四真祖の凄まじい魔力を発する。

 だが、それが驚異的なものだとしても、眷獣として完全に実体化することはない。

 そして、この火眼の魔女は、南宮那月と同格の大魔女であり、

 

「いいのか、第四真祖?」

 

 立つのは、現界してなお原形を保つ監獄。

 

「確かに汝の力なら我を吹き飛ばすことも容易であろうが、<監獄結界>も無事では済まんぞ? この結界を維持している術者にも、相応の反動が及ぶであろうな」

 

 那月の行方はいまだに不明。そして、その後輩も何故か空間転移せず、あの場に取り残されているかもしれない。

 たとえ召喚できたとしても、今の不調で、その強力過ぎる第四真祖の眷獣を御し切れるか怪しい古城に、火眼の魔女だけを打ち抜くほど芸当は無理だ。

 

「―――もっとも、そうなることを望んでいる連中もいるようだがな」

 

 

 

 いつのまにか、黒い監獄の上に見知らぬ人影があった。

 老人。女。甲冑の男。シルクハットの紳士。小柄な若者。繊細そうな青年。

 年齢にも服装にも統一感はなく、特に不気味な容姿の持ち主はない。だが、こちらを地を這うムシケラのように見下すその目が無機質であることは全員が共通していて、

 そして、皆、南宮那月の安否を気遣う古城たちを隠しきれない強大無比の殺気を篭めた視線を差し射抜いている。

 

「まさか……彼らは……」

 

 獅子王機関の剣巫は、この最悪な事態に慄く。

 彼女の声の震えで、古城もまた理解する。

 <監獄結界>に収監されていたのは、この火眼の魔女だけではない。

 そして、火眼の魔女が外にいる現況、つまりは現界した今の<監獄結界>の脱獄は不可能ではない。

 そこにいるのは皆、<監獄結界>の囚人たち。

 この<監獄結界>でしか封じられなかった、最凶の魔導犯罪者たち。

 <空隙の魔女>に捕まり、異世界に閉じ込められた彼らにとって、その当人ではなく関係者であろうと八つ裂きにしても足りない憎しみの対象であり、古城たちへ殺意を漲らせている。

 

「仙都木阿夜……<書記(ノタリア)の魔女>、あの忌々しい<監獄結界>をこじ開けてくれたことに、まずは礼を言っておこうか」

 

 まず言を発したのは、シルクハットの紳士だった。

 おおよそ四十代半ばの白人男性。サロンやオペラハウスと言った社交場に馴染みそうな服装。けれど相当に鍛えられているのだろう、その知的で穏やかな雰囲気を強調させる紳士服も裡から押し上げられて、そのがっちりとした体形がわかるほどだ。

 最悪の囚人たちを前にしても悠然と振る舞いを乱さず、そして、傲然と火眼の魔女は問う。

 

「汝たち6人だけか……ほかはどうした?」

 

「<監獄結界>の脱獄阻止機構(システム)はまだ生きているのだ」

 

「っつうわけで、雑魚は外に出ることもできねェんだ。しっかりと<空隙の魔女>をぶち殺さなかったのか、<図書館(LCO)>の『総記(ジェネラル)』さんよ」

 

 火眼の魔女の不手際を嘲るのは、小柄な若者。

 短く編み込んだドレッドヘア。派手な色使いの重ね着に、腰穿きのジーンズなどと時代遅れのストリートファッションで、古城たちとほぼ同年代だろう。

 だが、彼もその左手首に、<監獄結界>の証たる鉛色のくすんだ金属製の手枷を嵌められている。

 

「システムに抵抗できぬほど魔力か体力が弱れば、我々も結界内に再び連れ戻されることになるだろう」

 

 なに? と囚人らの回答に、眉を顰める火眼の魔女。

 かろうじて、原形は保っているようだが、それも張りぼて、崩壊するのは時間の問題。魔女としての力を奪った以上、南宮那月に<監獄結界>を働かせる権限も魔力もないはず……

 

「<空隙の魔女>を殺して<監獄結界>が消滅するまで、ワタシたちは完全に自由になれないみたいなの」

 

 続けて文句を言うのは、退廃的な雰囲気を纏い、淫らな色気を醸し出す、菫色の髪をした美女。その長いコートの下は露出度が高く、どことなく娼婦めいた気配を漂わせる彼女の瞳は、しかし脱獄の功労者へと凄絶な殺意を放っている。

 それを向けられても、火眼の魔女は平然としているが。

 

「ふふ……おわかりになったら、さっさとあの女の居場所を教えてくださる? 同じ魔女として、心当たりのひとつやふたつあるんでしょう?」

 

「知らんな。あの女を殺したければ、精々自分で捜すことだ」

 

「そーかよ。面白ェじゃねーか……じゃあ、あんたにはもう用はねェなあ」

 

 若者は好戦的に唇をつりあげると、その右腕を振り上げる。利用価値がなければ、殺す。娘を切り捨てた魔女へ因果応報が適用されるか―――の直前に、火眼の魔女は和服の長袖に隠されていたその一冊の古本を囚人たちへと見せる。

 

「逸るな、山猿……南宮那月の居場所は知らんが、手を貸さないとは言ってない」

 

「なるほど」

 

 理解できず唸る若者の代わりに、繊細そうな面差しの青年が訳知り顔で頷く。

 

「それは<図書館>の『総記』にだけ与えられるという『No.014』……固有堆積時間操作の魔導書。つまり、<空隙の魔女>に呪いをかけた―――そうですね、仙都木阿夜?」

 

「そう……だ。十年かけて策謀を巡らせ、実の娘の肉体を囮にして、ようやくほんの一撃を与えることができ……た。致命傷とはならなかったようだが……<空隙の魔女>として体験した時間そのものを奪った今……奴は魔術も<守護者>も使えん」

 

 桁外れに強大な魔力と空間を自在に操る魔術は、<監獄結界>の管理者という凄まじい重責を担ってこそ得られたもの。そして、十年以上に渡る魔族との戦闘で重ねられた経験値は魔女を狡猾な降魔師へと鍛える。

 だからこそ、囚人たちは南宮那月を恐れていた―――だが、『No.014』はその力の源を根こそぎ奪い取った。

 

「完全に魔力を失う直前に、南宮那月は逃走したようですが、あなたが魔導書を起動させている限り、<空隙の魔女>はもう二度と魔術を使えない」

 

 つまりは逃走中の南宮那月に止めを刺せば解放される、と眼鏡の青年は冷静な口調で確認する。

 魔女は無言。解釈を各々に任せると言う体であるのだろう。

 

「そういうことなら、手を貸してあげてもいいわよ、仙都木阿夜。あの女を殺したいと思っているのは、みんな同じ―――早い者勝ちということでいいのかしら」

 

 菫色の髪の女が賛同を求めるように微笑み、そこで、紳士の男性がその手枷を見せるよう魔女に向けて挙手をする。

 

「ならば、何故、“今もシステムは動いている”? <監獄結界>の『鍵』が、その『鍵』としての能力を失したのならば、この神々が鍛えた枷に魔力が宿ることはないはずだが」

 

「んなことはどうでもいいだろうが、魔導師。どっちみち<空隙の魔女>はぶち殺すんだからよォ」

 

 ドレッドヘアの若者の言葉に、脱獄犯一同、遮られた紳士の魔導師も、同意するように頷く。

 逃走した南宮那月を捜し出して始末する。それは共闘同盟を結んだ脱獄犯たちの意見が満場一致した揺るぎない決定である。

 その魔術も魔力も、魔導書の力によって封じられて、記憶も失っている<空隙の魔女>は、一般人と変わらない、とてもこの場にいる魔導犯罪者たちを相手にできる実力はない。

 ならば、その力を取り戻す前に仕留めるべきだ―――

 

「ざけんじゃねェ……そんな話を聞かされて、お前らを行かせると思ってるのか」

 

「……アァ? 何言ってんだ、このガキは……?」

 

 前に出る。

 身体は万全には程遠い。だが、古城の足が向かうは後退ではなく前進。胸の傷口を押さえながらも、目は奴らから逸らさない。

 この<監獄結界>を破るために利用されたのは、<第四真祖>の魔力。そのことに古城には少なからずの責任を感じている。<監獄結界>の封印を護るために、那月が支払い続けてきた代償を知った今ならなおさら。

 <監獄結界>は、番人たる『鍵』がやられても、どうやらまだ作動しているようだ。弱らせれば、また封印できる可能性がある。

 だが、それをこの魔導犯罪者たちにできるか?

 

「おお。そういえば、あなたがいましたね第四真祖」

「この際です。弱っているようですし、先に排除しておきましょうか」

「<混沌の皇女(ケイオスブライド)>の血に連なる氏族(トライブ)としては、真祖に手を出したくはないのだけど。跪かせてみたいわねぇ」

「真祖とは脱獄して早々焼き甲斐のある獲物に巡り合えたわい」

「ジャマをするなら、ダレであろうとホフるのみ」

「ったく……たかが吸血鬼の真祖風情が、止めるつもりかァ?」

 

 社交的な笑みを浮かべながら紳士の魔導師は目に冷酷な光を宿らせ、

 眼鏡の青年が物静かな口調で提案し、

 コートの女は溜息を零しても妖艶に唇を舌で濡らし、

 老人は枯れ枝のような腕を掲げて笑い、

 甲冑の男は何の感慨もなく背中の剣に手を伸ばして、

 小柄な若者は蔑むように鼻を鳴らして、古城たちの前に飛び降りた。

 

 誰一人、暁古城を――世界最強の吸血鬼である<第四真祖>を恐れている者はいない。

 誰が相手であろうと、自分が敗北することはありえないと、彼らは当然のように信じているのだ。

 

「―――先輩! ここは私が引き受けますから、早く優麻さんを連れて逃げてください!」

 

 槍を構えて、雪菜が前に出た。

 その表情に余裕はない。<監獄結界>に収監されているというだけで、この場にいる魔導犯罪者たちは十分に脅威であり、その戦闘力も未知数。それが6人もいて、加えて南宮那月と同格の仙都木阿夜。いかに雪菜が優れた攻魔師であり、あらゆる魔術を無力化する獅子王機関の秘奥兵器を持っていても、この全員を相手に無傷でいられるとは思えない。おまけに、まだ前回の戦いの消耗から回復していない。ダメージが残っているのは古城だけではないのだ。

 

「ダメだ姫柊! 残るなら俺が―――」

「ダメです。こんなところで、先輩に眷獣を使わせるわけにはいきません。ここは私が時間を稼ぐのが最善の判断です」

「―――だからって、おまえを見捨てていけるわけないだろ!」

 

 古城は思わず怒鳴り返した。一方的に自論を押しつける雪菜に腹が立っていた。冷静な判断のようでいて、当然のように自分を犠牲にする考えが、本気で頭に来ていた。そう、“以前にも”―――

 

 

『―――古城君、オレが“センパイ”たちを相手にする。十二番(じゅうにばん)を連れて、ここから逃げるのだ』

 

 

「―――っつぅ」

 

 腹に開けられた風穴からではない、頭からくる痛み――過去を掘り出したときに走る激痛が古城を襲う。

 

「先輩っ!?」

 

 唐突に膝をついた古城の様子を視界に捉え、雪菜は思わず、決戦間近にして囚人たちから目を離して、そちらを見てしまった。

 それを逃す歴戦の猛者ではない。

 

「ハッハァ―――! 余所見とはいい度胸だ、第四真祖ごとブッ潰れろ―――っ!」

 

 その間合いは10m以上離れている。素手の攻撃が届く間合いではないのに、構わず、大上段に構えた右腕を振り下ろす若者。

 そこに魔術も、魔力の欠片も感じられない。

 

 だが、突然、途上にあった浮橋を裂き砕かれた。

 

 砕氷船が北極の氷海を猛然と進むように破滅が迫る、不可視の長大な刃。

 数十m大の刃は破壊の痕跡を刻みつけていき―――だが、浮橋と陸地の境に遮られた。

 

「―――!?」

 

 空間を削いだように生じる、“黒い線の走る亀裂”が、古城たちの前にあった。

 それが、不可視の刃を“噛んで”いるのだ。

 

 ボギン!! という何かが折れる音が炸裂した。

 

 不可視の刃は、破断されるのではなく、“蝕まれた”。

 強酸をかけられた物体のように、消失する。

 

「……なに? 俺の轟風砕斧を防いだだと?」

 

 己の必殺の攻撃を邪魔されて、小柄な若者はピクリと片眉を上げる。しかし、動揺していたのは古城たちも同じだ。凌いだは雪菜でも古城でもなく。

 

「―――っ!」

 

 その瞬間、古城は総毛立つのを感じた。

 

 一瞬にして、場を、沈黙させた。

 大気が震え、すべてを捻じ伏せ、押し潰すかのような凶暴な威圧感が、<監獄結界>から解き放たれる。

 いつのまにか。

 時間が逆戻りするかのように、崩れたその威容が復元されており―――監獄の門が開かれていた。

 巻き戻りに瓦礫が動く際に発生する粉塵は、煙幕が焚かれているように舞っている。しかし解っている。その見えざるカーテンの奥から、明確な『視線』が突き刺さるのを。尋常ならざる、それこそ明らかに人間のものとは違う、満月とも間違う金色に『光る眼』を持つ何者かが、この檻より『番人』が現れたことを。

 

「テメェか! 俺の轟風砕斧を邪魔しやがったのは! おかげでプライドが傷ついちまったぜェ!」

 

 そこには銀人狼がいた。ただその普段とは違っている、その足元の影から煙のように昇り立つ獣気がその感情の熱量に焦がされていくかの如く色がついていく。禍々しい黒褐色のその芳香はゆらゆらと陽炎のように揺れて動き、気体であるはずなのに実体があるかのように見える。そう、空間の亀裂じみた正体はこれで、古城が先ほど受けた蒼黒い瘴気とおそらく。同じだが、無感情に放っていたものとは違い、そこにはより黒々と変化している。

 

 

 

「―――ゥグルルウゥゥァァアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 

 

 それは、ただの叫び。

 <監獄結界>にいるすべての者が耳にしたであろう、魔女の眷獣の咆哮。

 魔力も何も特別なものはない。けれど。

 怒号、悲鳴、絶叫、人の耳をつんざくような叫びなどそんな感情を乗せた声とは一線を画する。叫びは感情の発露だ。しかしそれはそんなものではなかった。

 あたかも百獣の王が、他の獣を従わせんと天地に向かって吼えたかのようで、それを耳にした者は否応なくその咆哮を耳朶に刻み込まれてしまう。

 

 ただ、耳にしただけの者でもそうなのだ。

 真っ向からそれを浴びせられた小柄な若者が、平静でいられようはずもなかった。

 

「な……あ……!?」

 

 一呼吸。

 この場、すべての“匂い”を吸う。それだけでこの状況を把握し、そして、この身に託された“残り香”から方策を検索して、最適な“解答”がその脳裏に縫合される。

 

「オマエは、亞神の末裔たる『天部』。古代超人類の生き残りで、念動の衝撃波を操る能力者―――シュトラ=Dだな」

 

「テメェ……何者だ」

 

 出てきた建物の上には、まだ残る5名がいる。単騎で敵の懐に現われた少年は、シュトラ=Dの問いに端的に応えた。

 

 

 <空隙の魔女>の眷獣。南宮クロウ、と。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 月の最終週のこの日。

 今宵は、新月。

 陽が沈もうと、月は昇らず。

 

 されど、沈むまでの僅かな間、この煌めきは闇を切り裂いた。

 

 

「―――つくづく、世話の焼ける、使い魔だ」

 

 

 力尽くで。

 黄金の軌跡を描く斬撃が、少年ごと“影”の感応(リンク)を断ち切った。

 脳髄に侵入されたまま、後遺症が残るのもお構いなしに。とにかくそんな悠長に構っていられる余裕はなく、今ある全身全霊を注ぎ込んで、“寄生虫”の接続を断絶する。

 

 ブッツリ、と。

 

 まるで深く根付いた雑草を引き千切るかのような不快極まりない音。切り離されて悲鳴を上げて退散する三顔の悪魔。そして、周囲に飛散する血、血、血……

 それは、少年の身体から発生していた。

 縦一文字に裂かれた傷は、その古傷を精確になぞっている。どっと力が抜けて、糸の切れた操り人形みたいに、前傾からそのまま倒れて、岩肌の地面へ顔から落ちた。

 だが、深刻なのはその外傷ではない。

 

「ちっ、半分もっていかれたか……」

 

 魔女の仮契約とはいえ結ばれていた<守護者>の半分を奪い取られている。身体を乗っ取られることは防いだが、完全に仕留めきれず、内臓の半分を奪い去られた結果だろう。あの『仮面憑き事件』で<模造天使>の過程で敗退して霊的中枢を取られた『仮面憑き』と同じ状態だ。

 そして、強引な施術の代償に、切断された霊力経路から残された魔力が流出している。このままでは生命力が枯渇して、死んでしまう。

 それだけではない。

 

「やはり、これは『No.014』……固有堆積時間(パーソナルヒストリー)操作の魔導書か」

 

 徐々に、魔女の手が小さくなる。

 その身体から、魔力を絞り出すのが苦しくなる。

 南宮那月もまた、斬られた呪いが発動しつつあるのだ。

 

 大魔女と自負はあるが、力を失いつつある今の状態で、超高難度魔術である契約に関わる魔術に干渉するのは、危険だ。

 

 ならば、今の状況で、可能な手段はひとつに限られる。

 

「……<輪環王(ラインゴルド)>」

 

 何もない背後から黄金の光が溢れ出し、崩れゆく聖堂を温かく照らす。落ちる瓦礫をも弾いて、輝きは徐々に形を変えて輪郭を整え、やがて煌びやかな金属の質感を具現化させて大魔女の背後に君臨する。

 黄金の、悪魔の騎士。

 

 それが顕現してすぐ、金色の粒子に変わっていき、少年の身体に染み込んでいく。

 貴き純血の魔女が結びし<守護者>が、純粋な力に変えられる。

 傍から見れば、それは眩い金塊の銅像を融かすような愚行であったろうが、そこに黄金にも勝る尊さが存在した。消えかけた蝋燭に、灯を別けて輝きを取り戻すよう、その本来の生命力の強さがまた燃え始め、魔力の流出に出血が止まる。

 重要な臓器を失ったのならば、代わりの臓器を繋げて、傷口を塞ぐしかない。長い間使い魔契約を結んでいたおかげで、馴染んだ魔力に、拒絶反応はないだろう。

 だが、すべては等価交換だ。

 魔女はその切り札を失い、眷属は代わりに重荷を背負うこととなる。

 

 ……どうして。

 

 呆然自失した少年は、口に出すほどの気力はなくとも、その目で訴える。

 その力は、主を守護する力。今、なくてはならない力のはずだ。かつて自分を撃退し、自分よりも強大なその力を、何故、自分に使うのだ。どうして、主は<守護者>よりも弱い使い魔の自分に、と。

 けれど、なのに、大魔女の顔は少しの後悔の色はなかった。

 

 ご主人……!! ダメだ! コイツがいなくなったら、ご主人が危ないんだぞ!!

 

 少年は疑念と焦燥がごちゃ混ぜにした表情を浮かべて、力いっぱいに声なき声を叫んだ。それでも魔女はいまさら取り返すような真似はしない。迷いの欠片のない一切停滞しない高速詠唱で儀式を最後まで終えてから、

 

「……たった一人で異界に取り残される私は歳を取ることもなく、誰にも触れることなく、ただこの世界の夢を見ていた。いずれ、どこにも行けない私は忘れられるだろう。

 ―――その私を“お月様”だと」

 

 表情を映すその目の前に手がかざされる。視界を掌に覆い隠しながら、

 

「まったく、名前のなかったお前に『南宮』の姓までくれてやったのは、失敗だった。気まぐれにやっていいものじゃなかったな。あんな戯言ひとつも聞き流せずに……どうやら、私もヤキが回ったかもしれん」

 

 そうぼやくが、笑みさえ浮かべて、

 

「それにどうせ、私が持っていたところで使えん。もうすぐこの体は使い物にならなくなるだろう。しばらくの間、こいつを預けてやる。だから、お前がしばらく私の代わりを『鍵』を担え。そして、蹴りを付けて、私に帰してこい」

 

 まあ、私の代役などそう務まるものではないが―――そう付け足してから、しばし口ぐもった後、何かに慣れない文句に戸惑うかのような間を置いてから、余計な装飾は省き簡潔に略して告げる。

 

 

「お前は、私の…眷獣だ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 獣は獲物を襲う時、咆哮などあげない。

 気配を覚られれば無駄に警戒をされてしまうだけ。狩りの難易度を上げる始末だ。

 

 だが、己の存在を、相手に、そして世界に誇示せんがために高らかに謳うのだ。

 

 その声に乗せたのは、感情ではなく、己の意思。

 誰が相手であろうとけして屈さず、退かず。その咽喉笛に喰らいついてでも生きる。敗北は許されず、必勝で臨むだけの戦う理由があるのだとここに示す。

 戦争の開始を告げる叫びは、天地を焦がさんと、響き渡った。

 

 

 

 登場だけで囚人たちを黙らせたせいか、古城のところまで足音が聞こえる。

 しかしそれは、まっとうな人間の出す音ではない。一歩一歩踏み出すごとに、ズン……ッ!! と浮橋から低い震動が伝わってきて、

 

 どろり、と大地が溶けた。

 

 その身に纏う漆黒の獣気が、そのような作用をもたらしたのだろうと、なんとなく古城は直感した。そういう直感が働く理由はあまり考えなかったが、“あれ”が『第四真祖の後継機』たる存在であったと不思議と認めてしまう。

 歩くたびに、大地が溶けた。

 熱で溶けているというよりも、生き物に喰らわれているようであった。

 

 圧倒的な力の片鱗。或いは明確化された死へのカウントダウン。伽藍洞の監獄より現れた奇怪な足音が示すものは、もはや暴力以前の理不尽さだけだ。

 

 眼前より迫る空気は灼けるほどに熱く、肌をひりつかせる。

 シュトラ=Dの背中より突如として、新たな腕が出現する。生身ではなく、念動力によって生み出された幻影の腕。この六臂こそが『天部』として力を発揮する本来の構えだ。

 意識したわけではない。それはほとんど過酷な世界を生き抜いた強者の本能に従った動作であった。

 

「南宮クロウ……<空隙の魔女>の眷獣、ですか」

 

 眼鏡の青年の声が、シュトラ=Dの耳朶をかすめる。

 それを聞き、また銀人狼自らの名乗りを耳にして、魔導犯罪者たちはそれが南宮那月に近しい人物であることを知る。

 そして、同時に。

 あれは、ここで狩っておかねばならない障害である、と。

 

「調子に乗ってんじゃねェぞ、犬公! 行け、轟風砕斧―――!」

 

 六本の腕。数字的に三倍となった念動の衝撃波。それは現代超能力者の<過適応者(ハイパーアダプター)>をも超える古代超人類の猛攻。

 

 ―――火花が咲く。

 

 不可視、魔力の気配さえない三つの鎌鼬は、しかし銀人狼には通じない。

 

 敵の殺気と己の直感、そして、風切り音で軌道を読む。

 銀人狼にとって“視認できない攻撃”はそう脅威ではない。

 銀人狼はその先を行く――“理解しても防げない攻撃”こそが、仕留める極め手である。

 

「―――煌坂の方が鋭いぞ」

 

 その点で言えば、舞威姫の<煌華麟>の『空間断絶』が繰り出す斬撃は喰らえば防ぎようがない。

 あれはもう避けるしかないのだ。

 それに比べれば、『天部』の衝撃波の斬撃は御しやすい。

 不可視であるが、この腕に集中させた生体障壁で弾けば防げるモノならば突風となんら変わらないからだ。

 

「チ―――とっとと潰れろ! 轟風砕斧―――!」

 

 必殺の旋風が悉く。

 互いの距離は10m前後で、こうして観察している限りその手には武器らしい武器は何もないし獣人種のほとんどは魔力が使えないはず。

 それでも、シュトラ=Dは全身の神経を集中して、その指先の動きまで捉えていた。荒れているとはいえ、頭脳は冷めている。下手な一手は打たず、最適な判断で狩り。そして、攻めは最大の護り。その手が届く制空圏に入るのはまずいと判断し、間断なく衝撃波の斬撃を放って、反撃どころか接近する余裕も与えない―――

 

 ゆらりと前によろめいた―――その一瞬。

 逃さず、シュトラ=Dは幻腕をそれぞれの腕に絡める。

 

 決着は、一瞬。

 六臂を一点に集中させて起こした轟風は擬神化された龍の如く、銀毛の人狼を飲み込もうと、その蛇体を螺旋(おど)らせる。

 威力は乱雑に放たれたものとは段違い。

 それが衝突する1秒後、鋼より強靭な銀の体毛はズタズタに引き裂かれるだろう。

 渦を巻いて迫りくる真空の波へ―――潜り込むよう地を這う四足の走法で突進。

 

「ッ!?」

 

 シュトラ=Dが息を呑む前に、すでに銀人狼はその真横へ飛び込んでいた。消えた。そう判断するしかないほどの速度で懐深くへ潜り込んだ銀人狼は、天部の横っ面をぶん殴っていた。

 音は聞こえなかった。

 ただ古城の視覚が、浮橋を超えて、海上へ吹き飛び跳ねるシュトラ=Dの身体をかろうじて捉えた。古城はまだ息も吸えない。それでも肺の中に残っている空気を吸い、ほとんど反射的に叫ぶ。

 

「上だクロウ!」

「―――もう、オソい」

 

 攻撃直後を狙い、銀色の断頭刃(ギロチン)が襲う。

 監獄の上より跳躍して、十数mという距離を一息で落下してくる甲冑の男が、大剣を兜割に叩きつけた。

 

 それは眷獣をも屠る一撃。

 

 ブルード=ダンブルグラフ。

 西欧教会に雇われていた元傭兵にして、『龍殺し(ゲオルギウス)』の一族の末裔。祓魔師の中でも、戦闘だけに特化しており、そして、龍との戦闘に巻き込んで、数多くの都市を滅ぼした。

 

「ワが殺龍剣(アスカロン)にコロせぬマゾクはいない」

 

 避ける隙も与えずに、脳天に振り下される龍殺し。

 人の膂力が繰り出したとは思えない圧は、その場にクレーターを作る。

 だが、それを交差した腕――黄金の籠手を纏ったそれで、火花を散らして、受け止められた。

 

「―――姫柊の方が怖いぞ」

 

 それでもあらゆる魔術結界を破り、あらゆる魔族特性を無力化する破魔の槍を振るう剣巫の一撃と比べて、龍に特化した祓魔師は重いが、止められないほどではない。

 

 そのまま籠手に刃を滑らせて飛び込み、肘打ちを左胸の心臓に叩き込む。

 全身に纏う甲冑は同じ西欧教会に所属していた殲教師の<要塞の衣(アルカバ)>とよく似ている。

 だが、その肘打ちは急所を抉り込む鎧通し。貫通した衝撃は硬い甲冑を突き抜けて、内側で爆ぜる。

 しかしそれを受けて尚、『龍殺し』は怯まず。

 

「ワレのヨロイは、ワレのニクタイをマモるためのものにアラず。ワレのタタカいにタえられるイショウが、これイガイになかったというだけのことよ」

 

 龍の返り血を浴びたことで鋼の硬度と化したその全身は、如何なる武器をも受け付けない不死身の魔性を秘めている―――これが龍を殺した英雄の特権。

 

「ふっ……!」

「ハァ……ッ!」

 

 ぶつかり合う殺龍剣と金剛拳。

 英雄の剣戟に圧されながらも、銀人狼はその拳打を緩めない。

 

 ―――夕闇に走る銀光と金光。

 

 大魔女より加護を貸し与えられてその身体にどれだけの力が籠められているのか。

 わずかに力負けしているようでも、一歩も譲らなかった。

 旋風にしか見えない龍殺しの両手剣を受け、弾き、真正面から打ち崩していく。

 

「―――」

 

 息を呑む音は、古城だけではないだろう。

 傍らでその未来視じみた霊感で視ている雪菜もまた呆然と、その姿に見惚れていた。

 しかし。

 龍殺しの英雄の、あまりに凶悪な一撃によって、銀人狼は体ごと弾き返された。

 

「クロウ……!」

 

 金剛石の籠手に一撃を受け止めたが、それこそボールのように弾き飛ばされ―――海へ落ちる寸前で、だん、と拳を大地に叩きつけ、ブレーキを掛ける。

 

「―――!」

 

 反動によろめいてるのか。

 銀人狼は地面に拳を埋めたまま動かない。

 

「―――トドめだ」

 

 甲冑を纏う英雄は、悪夢のようなスピードで銀人狼へと突進する。

 薙ぎ払われる龍殺しの大剣。

 

 それを。

 

 視線を逸らさず、籠手よりさらに展開された肩当ての甲冑を纏った肩で受け止め、銀人狼は二度、大きく弾き飛ばされた。

 

 ―――岩島の上、何十mと吹き飛んでいく。

 

 銀人狼は一直線に、それこそ剛速球のように、聖堂の門へと叩き込まれた。

 

「―――」

 

 それで、死んだと思った。

 一撃ならまだいい。

 だが、あの龍殺しの渾身の斬撃を二度受けて、無事でいられるはずがない。

 銀の暴風が移動する。

 既に勝敗は決したというのに、まだ飽き足らないのか。

 『龍殺し』の末裔は、獣の如き咆哮を上げて聖堂の門前へと突進する。

 

「クロウ―――!」

 

 監獄へ駆け込もう―――と。

 踏み出した瞬間にあった光景は、古城の予想を遥かに裏切っていた。

 

 真下から突き出された『角』に吹き飛ばされる英雄。

 

「コザカしい!」

 

 怒涛に突き出される角、角、角、角、角、角、角、角、角、角、角、角、角、角……

 拳から生命力が浸透(マーキング)された大地が、龍殺しに牙を剥く。

 咆哮を上げて英雄が大剣を一閃して、冗談のように重い岩角を両断していく。

 

 ―――その中。

 

 乱舞する岩角の上、颯爽と駆け抜ける獣人がいた。

 

 吹き荒れる龍殺しの一撃。

 ドンドンと音を立てて吹き飛ぶ岩角。その中で、先ほどと同じ―――いや、それ以上の力で、銀人狼は龍殺しと対峙していた。

 

「ちょこまかと―――!」

 

 状況は、ここで逆転した。

 ただただ破壊する龍殺しに対し、有利な地の利を築き上げる少年。

 障害物に阻まれる龍殺しと、障害物などないかのように、重力さえも無視したかのように疾駆する銀人狼。

 

 ブルード=ダンブルグラフにとって、この程度の障害など些末事だろう。

 だが、けしてゼロではない。

 戦場としては些細な違いではあるが、その僅かな差こそが、拮抗する両者の天秤を傾けている。

 

 龍殺しの大剣は悉く空を切り、台風のように周囲を破壊するだけだ。

 

 その合間。

 

 振るわれる暴風と舞い上がる土塊、切断されていく岩角の礫の中で、銀人狼は体毛に黄金の籠手を汚さず踏み込んできて―――

 

「ナニモノであろうと、ワが殺龍剣(アスカロン)のテキではない!」

 

 大剣を突き出し、線から点への攻撃範囲変更。

 障害物に遮られない攻撃は迫りくる銀人狼を口から串刺しにする方向で進み、その結果、英雄は喉を凍りつかせる。

 

「こんな簡単に誘いに引っかかるなんて、オマエ、人間なのに馬鹿だな」

 

 突き出された大剣の先端、、そこに軽く爪先を乗せた一本足立ちの銀人狼の姿がある。

 微妙な力関係に、神憑りなバランス感覚があって初めて成立する軽業だ。その絶妙な均衡が崩れる前にもう片足を踏み込む。震脚―――大剣を地面に埋め、さらに足元に“匂付け(マーキング)して岩で固める。それはさながら石に刺さった伝説な聖剣のような有様で、けれどその選ばれたものでも早々抜けはしない。

 攻撃コースを限定してからの、武器封じ。

 されど、龍をも殺した北欧の狂戦士(ベオウルフ)は、剣がなくとも素手で標的を仕留めるのだ。

 

「ナめるな、ジュウジンゴトき、ケンなどいらぬ!」

 

 剣から手を離して、その龍の血を浴びた鋼の肉体を猛然と振るい―――だが、相手は仙術と武術の達人に仕込まれた銀人狼。

 その不死身の肉体頼みの大雑把な突進(チャージ)をする龍殺しへ一打を見舞う。

 

「―――壬生の秘拳『ねこまたん』!」

 

 絶招と奥義の合わせの返し技。

 殺龍剣(アスカロン)を受け流して、叩き込まれた両手から、追い打ちに放たれた紫電迸る気功砲。

 その威力は甲冑を爆散させて、龍殺し(ゲオルギウス)の不死身の肉体を深く抉り抜いて、小三つに大玉ひとつの肉球型の気功砲に呑まれて突き飛ばした。

 今度はブルード=ダンブルグラフが数十mをホームランされて海へと落下。

 

「これは、活きの良い獲物だ! 儂が焼き尽くすに値する!」

 

 息を吐かせるほどの暇しか与えずに乱入した、嗄れた声で喝采する老人の全身が赤く染まる。

 憤怒で肌を紅潮させたのではなく、その肉体そのものが高熱を帯びた金属のように発光しているのだ。

 

 そう超高温の炎の化身たる炎精霊(イフリート)の如く。

 

 キリカ=ギリカ。

 中近東カブリスタンのゲリラ部隊出身で、効率よく敵を殺すために、自分の体内に炎精霊を植え付ける術式を仕込んだ化け物。6年前に、絃神島でテロを起こそうとしたところを捕縛。

 

 精霊は、高次空間に存在するエネルギー体。極めて高純度な霊力の塊であるが、召喚された精霊は、一瞬で崩壊して消滅する。高位の魔術師や聖職者ならば攻撃手段として利用できるが、その扱いは難しく、存在を維持して世界に留まらせ続けるには、戦艦クラスにしか搭載できない精霊炉が必要だ。

 それを個人レベルで扱うごく稀な例外が、『精霊使い』――精霊召喚士。

 その単純な攻撃力は、そこらの魔術師など比較にもならず、人の身でありながら魔族を超えた恐るべき怪物。

 

「―――フォリりんの方が凄いぞ」

 

 それでも、北欧アルディギア王家の姫御子がその身に宿しているものと比べれば、老人の炎精霊は遥かに低級。

 

「これは、神気じゃと……!?」

 

 特殊な呼吸法で身を震わせ、発する重圧を布く黄金の獣気と神気の混合。鋼をも誘拐させる高温の『精霊使い』の炎撃の霊力を、格上の仁獣覚者の神気が塗り替える。

 そして、鶴の舞の如く、鮮やかに軽やかに、枯れ枝の老体に連撃を叩き込んで、また海へと落す。

 

 魔導犯罪者相手に三人抜きで大乱闘を制す。

 それを監獄の上で見る残りの3人は奇襲を仕掛けず―――銀人狼は止まらない。

 

 いいや、戦争を始めてから停滞は一切していない。

 足や身体の捌き方だけでなく、目を動かし、鼻を働かせ、頭を使う。戦いに臨んでは、常に動き、常に感じ、常に考えている。

 必ず機先を制し、相手に一秒たりとも主導権を与えない。

 それが可能となれば、望むままに打ち込むことができ、逆に敵の狙いを悉くいなすこともできるだろう。

 致して、致されず、主導権を常にとり続ける戦法、それはひとつの究極系。

 それはまだ、銀人狼には達することはできていない域であるが、この場にいる誰にも優る立場に立っている。

 その嗅覚過適応(リーディング)の先読みもそうだが、今、大魔女の十年の年月に及ぶ以て編まれ、練られ、昇華された経験値を、<守護者>のパスから過去を嗅ぎ取っている。

 

 

「―――もう、オマエらまとめてブッ飛ばす」

 

 

 右腕の籠手も、肩当ても消えて―――巨大なシャチが海面を跳ねるように、その左籠手より黄金の剣が飛び出した。先の殺龍剣よりも巨大な、人が両手で持つにもあまりに大きなそれを左腕一本片手で振るう。

 <輪環王>と呼ばれた<監獄結界>の『鍵』に仕えし、黄金の悪魔の武器を。

 

「犬如きに那月が<守護者>を託した……だと!?」

 

 火眼の魔女がその黄金の煌めきに、初めて瞠目する。

 

「―――<輪環王(ラインゴルド)>! 一点集中全力全開!!」

 

 爆音が生じた。

 所有者に合わせてしっくりくるよう変形させているのか、黄金の剣は銀人狼の爪に組み込むよう籠手と一体となっており、そこから伸びる生体障壁の気爪が、一気に10m以上に伸長し、

 

「もっと!」

 

 ゴッ!! と不気味な音を発して、さらに10倍。

 

「まだまだ!」

 

 叫びながら、円盤投げをするよう、銀人狼はその場を回って、シルクハットの紳士、コートの女、眼鏡の青年がそれぞれ構えを取ろうとした直後だった。

 

 ドッ!!!!!! と。

 

 彼らの立つ監獄の上を突き抜けるように、黄金の刀身を軸に極限まで伸長された気爪の熊手払いが突き抜けた。ただし、その薙ぎ払いは、一回りしただけで、もはや古城の肉眼では確認できないほど巨大な変化が生じている。長さも、そして、速さも。いきなり『結果』だけが突きつけられることになった。

 そう。

 今のは、上より見下ろしていた魔導犯罪者たちが吹き飛ばされた轟音だ。

 

「おい……おい」

 

 古城は思わず監獄の向こう、海の彼方へ目をやった。

 なんて、出鱈目。

 結局、遥か遠くの雲に横一線の爪痕があったところを見ると、地平線の果てまで届くほどの如意棒と化したのだろう。もはやレーザービームな飛び道具となんら変わらない攻撃距離に範囲。

 それを横へ振り回す、肉眼では現実味が脳まで伝わらない光景で、それだけ長い得物を片手で振るいきった豪腕もそうだが、『一瞬』でそれは終わった。

 その一振りだけ、『殴る時間をゼロにする』という、空間制御の補助が働いた。彼らは構えても、いつ攻撃を喰らったか、わからなかっただろう。

 <監獄結界>に当たらないよう、直撃こそしなかったが、それを掠めた余波だけでも十分すぎる。<第四真祖>の天災に等しき眷獣に匹敵する蹂躙劇。

 それでも魔導犯罪者たちはまだ監獄のシステムに囚われていないようであるが、とりあえずの脅威を払い、

 

「―――クロウ君!」

 

 ふいに叫んだ雪菜に、窮地を脱していなかったことを古城は悟る。

 

「―――<(ル・オンブル)>」

 

 いつのまにか、主たる火眼の魔女の傍らから消えていたその<守護者>。

 それがその名の如くに、銀人狼の影より現れる。

 

 魔女の戦闘は、正面切ってのぶつかり合いなどしない。相手の隙を衝き、騙し合い、一瞬でも早く相手を仕留める。

 魔女の持つ巨大な魔力に比べて、それを防御する彼女たちの肉体はあまりに脆弱だからだ。だから、一撃必殺の技量を磨く。

 

「犬め。外道が産み出した穢らわしい忌子が……生まれながらにして管理者として設計(つく)られた我が盟友(とも)の代わりをするなど、思い上がりも甚だしい……!」

 

 漆黒の鎧を纏った顔のない騎士は、容赦なくその首を掻っ切るように剣を突き出して、

 

 

「―――オマエより、ご主人の方がずっと強いぞ」

 

 

 “匂い”はもう覚えてる。

 二度目の奇襲は察知したが、意地でも避けず。

 主の力を奪った呪いの刃を、白刃取りのように口で噛んで止めた。

 呼気と共に漆黒の獣気を洩らす顎力で噛み止めた剣先を砕いて、魔導書で魔術強化された呪剣の欠片を咀嚼する。

 

「オレは、オレがご主人の代行を務まるかなんて、思っちゃいない」

 

 天上にある月星は、手を伸ばせば届いたように思えても、触れることのできない。けれど―――

 

「オマエら如きを相手するには、未熟者で十分なのだ」

 

 火眼の魔女に睨まれ、海上より6人の魔導犯罪者たちが帰ってくる。今度こそは、油断のない逆襲に遭うだろう。それでも、大魔女の眷獣は啖呵を切って、火眼の魔女を睨み返す。

 

「オマエが、一番嫌がることをしてやるぞ」

 

 悪戯っ気な笑みさえ浮かべるその様を見咎め、阿夜が不快を露わに、眉を顰めて―――吐き出された問い掛けに、不覚にも息を詰まらされた。

 

 

「なあ、どうして、オマエだけ、ご主人の束縛から解放されているのだ」

 

 

 そう、囚人たちにも聞こえるよう、大きな声で。

 南宮那月の記憶を奪ったというのなら、当然そこには<監獄結界>の『鍵』――解除(デコード)プログラムが含まれていたはずだ。現に、十二単の袖に隠された火眼の魔女の手首に、あるべきはずの手枷はない。

 仙都木阿夜は、すでに<監獄結界>から完全に解放されている。

 しかし彼女は、<監獄結界>の『鍵』を手に入れたことを、他の囚人らには伝えず、ばかりか無力化された南宮那月を追うよう扇動している。

 けれど、その企みも銀人狼の言葉で崩壊する。

 

「テメェ、騙しやがったのか……」

 

 気づかされて、真っ先に視線を向けたのは最も感情的なシュトラ=D。今このとき、魔導犯罪者たちの選択肢が――ひとりすでに気づいていた眼鏡の青年を除いて――南宮那月と仙都木阿夜の二つとなる。

 ひとつではない。捜すのが面倒でも無力化されて明らかに弱い<空隙の魔女>を狙う方が賢い選択だろう。けれど、捜さなくても、<書記の魔女>はすぐそこにいる。目の前にエサを釣り上げられて、少しも迷わないものはこの5人の中にはいない。どれほど<図書館>の『総記』たる火眼の魔女が強力な力を持っていようと、ここにいる魔導犯罪者たちは真祖相手でも怯まない猛者たちなのだから。

 

 ―――その逡巡の僅かな隙に、銀人狼は戦場より駆け出す。

 

 第一の目標は撃退ではない。ほぼ力を使い切った今の状態で、彼らを倒すほど高望みはしない。停滞せず、とにかく動き続けて、この状況より離脱すること。でなければ、主の救助などできはしない。

 

「古城君、姫柊、“迎え”が来たから逃げるのだ」

 

 その言葉に戦況を見守っていた二人は動き、そして、クロウが稼いだ時間で援護射撃が間に合った。

 

 

「―――獅子の舞女たる高神の真射姫が讃え奉る」

 

 

 『波朧院フェスタ』のナイトパレードに用意されていた首なし騎士の愛馬(コシュタ・バワー)をモチーフにした機械仕掛けの馬車。その巨大な軍馬に牽引される古代騎馬民族風の戦車の上に立ち、金属製の洋弓を引くのは、獅子王機関の舞威姫。

 アルディギア王女の護衛の任を解かれた煌坂紗矢華は、古城たちの後を追い、援軍に来た。

 事態が混乱してる最中に、さらに後押しするよう、ありったけの呪矢を撃ち込んだ絨毯爆撃で状況を攪乱して、その間に馬車に乗り込み、古城たちは危機的な状況を切り抜けた。

 

 

ファミレス

 

 

 絃神島全域に生じた空間の歪み。

 その解決に、バイト先から急援を依頼され、そのまま占拠されて折角の祭りなのに泊りがけで働いた藍羽浅葱は、ようやく面倒事から解放されたと思ったら、今度は迷子に引っかかった。

 

「ママ……どうしたの? 何か疲れてる顔してるの」

 

「え? あー、何でもない大丈夫よ……ちょっと考えごとしてただけ」

 

 ファミレスのボックス席。

 その正面からこちらを上目づかいで、抑揚の乏しい声で窺うのは、おおよそ4、5歳の幼女。西洋人形のような愛くるしいドレスを着て、髪を腰まで長く伸ばしている。ぱっつんの前髪に大きなリボンがよく似合う。おそらく祭りで賑わう人混みで親から逸れてしまったのだろう。けれど、それで偶然に手を取ってしまった浅葱を『母親(ママ)』と勘違いする(呼ぶ)のは勘弁してほしかった。女子高生で、周囲から子持ちと見られるのは、精神的に来るものがある(ちょっとこの相手役の父親を想定してしまったけど)。

 それでも幼女を見捨てるわけにはいかず、とりあえず腹ごしらえも兼ねてこのファミレスに避難してきたわけだが、

 

「ね、何か思い出した?」

 

 リボンの幼女と目線の高さを合わせてから、浅葱は優しく尋ね……首を横に振られる。

 移動している間にも何度か同じ質問をしたのだが、それでも、今と同じような反応を返される。

 自分の名前や住所も答えられない。ひょっとすると、記憶喪失なのかもしれない。見た目の割にしっかりとしていて、質問の意味もちゃんと理解している子だ。

 なのに、

 

「お母さんのお名前とは覚えてるかな?」

 

「あいばあさぎ」

 

 なんでそうなるのかな……

 ぐったりと脱力する浅葱だが、それでも保護者と逸れてしまった幼女を不安にさせぬよう、ぎこちないながらも苦笑を浮かべる。

 と、そこへ、

 

「お待たせしましたー。期間限定ブリリアント・ハロウィン・ハンバーグプレートのライスの大盛りと、お子様パンケーキセットです」

 

 ハロウィンに合わせた雰囲気の衣装を着たウェイトレスが、テーブルにほかほかの湯気が立つ料理を並べる。

 すると、幼女はほんの少しだけそわそわとした態度で前にあるお皿を目移りしてから、ちらちらと浅葱の様子を見てる。食事に手をつけていいのかどうか、悩んでいるのだろう。

 くすり、と小さく笑い浅葱は、食べていいよ、とナイフとフォークを幼女に渡してあげる。

 リボンの子は手渡されたナイフとフォークを握り、危なっかしい手つきながらパンケーキを一口より、やや大きめに切り分けて、たっぷりシロップとバターを塗ってから、小さいながらも目一杯に大きく開けた口へ運ぶ。

 

「美味しい?」

 

 笑みを堪えつつも浅葱が伺えば、幼女は栗鼠のように頬を膨らませたまま、ぶんぶん、頷いて……しゅん、とうなだれた。

 

「どうしたの? 何か苦手なものとかあったの?」

 

 心配そうに浅葱が訊けば、幼女はたどたどしくも吐露してくれた。

 

「……クロと一緒にご飯食べるって約束してたの」

 

「クロ?」

 

 初めて、少女から出てきた意味のある単語。きっかけとなりそうな情報に浅葱は話題を咲かせるよう幼女に追及すると、幼女ははしゃぎながら答えてくれた。

 

「うん! 小さくて、撫でると気持ちよくて、ばかなの!」

 

 ふむ……ペットの飼い犬だろうか。

 浅葱は、なんとなく携帯CMに出てくるもふもふな小型犬をイメージする。

 

「でも、私の言うことちゃんと聞いてくれて、缶詰いやだーって言っても残さず食べるの! ……でも、きっと今頃お腹を空かせてる」

 

「そっかぁ」

 

 罪悪感に視線を伏せる幼女の頭を、浅葱はよしよしと撫でて、慰めつつも、今得た情報から頭を回す。

 

 『波朧院フェスタ』で外から絃神島に来た子だという可能性もあるが、もしも絃神島在住ならば、今の話で相当情報が絞られただろう。

 以前に、古城から捨て猫の引受先を捜したこともあったが、一軒家が早々ない高級住宅で、アパート暮らしが大半の絃神市人口に、ペットを飼えるお宅は限られている。暁家のマンションもペット禁止だ。

 だとすると、この子は結構いいとこのお嬢様で、データーベースからさらに小型犬の飼い主記録を検索し、登録されたペット画像を見せて確かめれば……

 

「せめて、犬種さえわかれば、もうちょい絞り込めるんだけどなー」

 

「ミックス!」

 

 じゃあ、捜そうかと携帯のネット検索画面を開いて提案すれば、元気よく返答してくれた。

 でも、それはパターンが多々ありけりの一番困るタイプだ。けれど、いくらか検索数を削減できた。

 

「じゃあ、他に特徴……毛並みとか毛の色とかわかる?」

 

「普段は茶色」

 

「茶色ねー、ふんふん……………え、普段は?」

 

「それから白色」

 

「うーん、っと、それは茶と白の」

 

「怒ると、黄色になるの」

 

「犬じゃなくて、カメレオンなのその子!?」

 

「クロは馬鹿犬だよ」

 

 きょとんと首を傾げられる幼女。けれど、浅葱も首を傾げたい思いである。

 にしても、その『馬鹿犬』というフレーズ、何かどこかで聞いたことのあるような……

 

 とにかく、茶に白に黄とまるで三毛猫のようだが、そんな色を変えるカラフルな三毛犬はそれなりに流行に気を遣い情報通である浅葱に心当たりはない。

 つまり、これは相当、情報が限定されているということだ

 

「毛の色が変わる犬かー。流石は『魔族特区』ってとこね。どこかの研究所でそういう新型犬種を開発してたのかしら?」

 

 

MAR研究所

 

 

 MAR――『マグナ・アタラクシア・リサーチ社』は東アジア地区を代表とする巨大企業。世界有数の魔導産業複合体である。

 その研究所の敷地は広大であり、無数のビルが連結された複雑な立体構造となっていった。

 そんな敷地の片隅にある、リゾートマンションを連想させる円筒形のビル。そこは本来、外来客もしくは夜通しで勤務する研究者たちのために用意された宿泊施設(ゲストハウス)なのだが、とある臨床魔導医師免許も持つ優秀な医療部門の主任研究員の女史が勝手に私物化して、占拠しているという……

 

 

「ばあっ! 悪戯か、死か(トリック・オア・ダアイ)!」

「ひゃあああああっ!?」

 

 

 玄関を開けて早々、ガチガチに緊張していた女子二人を驚かしたのは、ここの主である白衣を着たカボチャお化け。

 暁古城ができれば会いたくなかった相手。実の息子であろうと、それが本来存在しえない四番目の真祖なんていう研究魂に火を点ける垂涎の研究対象ならば、監禁して身体の隅々まで調べ尽くして果ては解剖までしかねないという狂科学者(マッドサイエンティスト)

 

 そう、古城の母親、暁深森である。

 

「ふんふー……驚いた? 期間限定『波朧院フェスタ』風の挨拶よ」

 

「驚くわっ! いきなりなにやってんだ、あんたは! っつか、怖ェよ、その挨拶!」

 

 声を荒げて突っ込む息子に、すぽん、とカボチャの被り物を頭から引き抜いて、その可愛らしい童顔を露わにする。

 背も高からず低からず、しかし胸は大きい。

 しわくちゃの白衣に、古城と同じ色素の薄い灰色な長い髪は、手入れが悪いせいかぼさぼさで、開ききらない眠たげな瞼など、だらしない系大人の代表である。だけど、その怠惰な感じがどことなく息子の雰囲気と似通っているところもある。

 で、ドッキリのせいで古城の左右にぴったりと引っ付いている雪菜と紗矢華、息子に背負われている優麻に、ぐてーっと燃料切れで隣で倒れかけているクロウを見て、深森は目を瞬き、それからニヤリと。

 

「あらあら、めちゃくちゃ可愛い団体様ね!」

 

 新しいオモチャが手に入ったとばかりに嬉しい歓声を上げる母親。それを息子として嗜めようとして、ドス、と脇腹レバーを叩くフックが不意打ちされる。

 30歳はもう過ぎてるのに、うきうきを抑えきれないでいる態度はどうなんだ! もっと頼むから落ち着きを持ってほしいと脇をさすりながら目で訴える。けれど、息子との抗議などどこ吹く風か。

 

「ぐはっ……!? いきなりなんてことしやがる、てめェ……!」

 

「どの子? どっちが本命なの? もうヤッた? やだ、もしかして家族が増えちゃう? 私、もうすぐおばあちゃんになっちゃうの?」

 

「増えねぇし、ならねーよ!」

 

「え、子供ができないって、じゃあ、そこの男の子が本命? うそーん、私の息子ならちゃんと異性に興味持ちなさいよ。孫ができないじゃない」

 

「なわけねーよ! 少しは人の話を聞け!」

 

 むぅ、と頬を膨らます深森だが、話をするだけでもう異様に疲れる古城。どうして母親もそうだがうちの両親は話をするだけでこんなに苦労するんだ、と恨みがましい気分で考える。とはいえ、どちらもその腕は頼りになることだけは確かなのだ。

 

「……頼みがあるんだ。ユウマを診てやってくれないか?」

 

「ふんふ? ユウマって、ユウちゃんのこと? 懐かしいわねぇ。そういえばユウちゃんって女の子だったのよねぇ」

 

 古城に抱きかかえられたままの優麻を視察してから、臨床医として手慣れた感じでその傷ついた優麻の肌に触れて、それから背中の傷痕に目を留めた。

 

「何があったの、古城君」

 

「詳しい事情を話してる暇はないんだ。だけど……ユウマは実は……」

 

「―――魔女だった?」

 

 言い淀んだこともあっさりと当てられる。

 母親がわずか30代で一研究部門のトップに立っているのは、研究者として優秀なだけではなく、一般人にはない『触れただけで状態を調べる“スキル”』のおかげもあるだろう。

 詳しく診察すると言って、奥へと案内させられる。

 このゲストハウスの中でも特に豪華なスイートルームに下着やら未開封の郵便物やら怪しげな医療器具やらが散らばっている部屋であるが、これでも前見たときよりは比較的にマシである。

 そして、ソファの上に優麻を寝かせると、新しい白衣に着替え、両手を消毒殺菌した深森が改めて、診察を始める。

 

「出血のわりに外傷はそこまで深くないわね。胸の刀傷も、内臓までは届いてない。空間を歪めて致命傷を防いだのかも」

 

 うーん、ちょっとこのままだとよくわかんないな……とぼやいてから、古城を呼び、患者の上体を起こして支えてくれと息子の手を借りる。

 

「よいしょっ、と……これ、持ってね」

 

 優麻のドレスの胸元におもむろに手を突っ込んで、スルッとティッシュ箱からティッシュでも取るように何かを取った。それをぽいっと雪菜らの前に放り投げる。何だろうか、と確認すれば、それは白い布きれであり、広げてみれば女性下着――幼馴染のブラジャーである。

 

「あ、暁古城!? あんた何を―――」

「俺じゃねぇ!? やったのは俺じゃねぇからな!?」

 

 優麻の下着から思いっきり目を逸らしながら、実行犯な母親に抗議する。

 

「い、いきなりなにをやってんだっ、あんたはっ……!?」

 

「触診の邪魔だったから、つい外しちゃった……まあ、ユウちゃんったら、ちょっと見ないうちに立派に育っちゃって、これは医師としてほっとくわけにはいかないわね……ぐへへ」

 

 いくら大人の女性と言えど、口元に涎まで垂らして、明らかに変質者としか言いようのない深森が、昏睡状態で無抵抗な女子の胸をまさぐるのはさすがに見咎めたのか、雪菜はドン引きしつつも、やんわりとたしなめる。

 けれど、それは先輩の母親の注意を惹きつけてしまい……

 

「あの……おばさま。相手は一応……その、怪我人なので……」

 

「あら、あなたが姫柊雪菜ちゃん?」

 

 上から下に、それから下から上に視線を動かして――つい、雪菜と、それから紗矢華まで背筋を無意識に伸ばした――じっくりと検分したのち、機嫌よく深森は口元をほころばせて、

 

「なるほどねー。あ、心配しないで。私、一応医療系の『接触感応能力者(サイコメトリー)』だから。直接肌に触れるだけで、大体のところは診えるのよ」

 

「え……クロウ君と同じ、<過適応能力者(ハイパーアダプター)>?」

 

 魔術魔力を介さない、生まれ持った異能を持つ超能力者。その存在は魔族特区であっても稀少であり、暁深森の能力はこの上なく医療研究に適した特殊技能であろう。

 とはいえ、

 

「でも、肌に触れるだけでいいのなら、胸を揉む必要もないのでは……?」

 

「私の能力は可愛い女の子のおっぱいを揉むのが発動条件なの。だから仕方なかったの」

 

「―――出鱈目ほざいてんじゃねぇよ。そんな下品な『接触感応能力者』がいるかっ。初対面の相手に適当なことを言うなっ」

 

「だって、私が触りたいんだもん。女の子のおっぱいに触れるために、魔導医師になったんだよ母さんは!」

 

 鼻血を噴かせて力説する母親に、息子は怒鳴りつけた。

 もう、こんな医者しか心当たりがなくて、古城は申し訳なくなってきた。

 

「そんな理由で医者になった奴がいるか! もう冗談言わずに真面目にやってくれよエロ医者!」

 

 むぅ、と拗ねたように頬を膨らませる深森。『ああ、この人が先輩(暁古城)の母親か』と納得した雪菜らは、鼻血を拭くティッシュを手渡す。なんだかんだで、深森とのやりとりは自分らのペースを取り戻せるくらいに、緊張がほぐれている。それに何より腕は確かなのだ。瀕死の状態に追い込まれている優麻のことも救ってくれるのではないか、と不思議と期待感まで抱かせてくれるし、その診断も正確である。

 

「ふーん、この霊力経路(パス)の傷……ユウちゃんは<守護者>を無理やり奪われたわね。研究所の方へ運びましょ。できれば専門家の助けが欲しいところだけど、私だけでもできることはあるしね」

 

 受け取ったティッシュを鼻に詰めながら、深森は真面目な口調で初診の判断を述べる。

 強化人間(サイボーグ)が人工心肺を引き千切られた状態に近い今の優麻は、このまま放置すれば魔力が枯渇してしまう。それを応急処置して、流れ出る魔力を止めることはできるが、やはり、治すには力のある魔女の助けが必要だ。

 そして、別のソファに埋もれるほど深く座り込んでいる後輩に目を向ける。

 

「それから、君が南宮クロウ君?」

 

「お前が古城君のお母さんなのか。はじめまして、オレはクロウ。凪沙ちゃんともクラスメイトで、よろしくなのだ」

 

 ふかぶかーと頭を下げる後輩。

 意外にも、きちんと母親と後輩が顔合わせたのはこれが初めてだったりする。

 何せ、後輩は、この二学期まで皆勤賞で、これまで病気にかかったことがない健康優良児であり、病院のお世話になったことがない。

 雪菜らにしたようにじっくりと検分してから、はい握手、と手を差し出されて、お手するようにそれを取る後輩。

 

「……うん、古城君とそれから凪沙ちゃんのお母さんの深森ちゃんだよ。よろしくねー―――それで早速なんだけど、君の血液サンプルとっても良い?」

 

「初対面の挨拶でいきなりクロウに何を言ってやがる」

 

 後輩が病院へ――この狂学者な母親のいる医療研究所にお世話になったことはない。この絃神島に住む魔族は研究に協力することで市民権を得ているようだが、後輩はその校長よりも権限のあるカリスマ教師な保護者が手を回したのか、人間と変わらない生活が保障されている。

 であっても、後輩が稀少価値の高い生体研究に値する、研究者にとって垂涎モノの標本であるのは変わりないのだ。

 

「まさか、クロウで実験したいとか考えてねーよな」

 

「ぶっちゃけ、その子の話を聞いた時から研究所(ラボ)にお持ち帰りィ~~♪ したかったって本音はあるわよー。それがクロウ君のためにもなると思ってるしね。ここ最近は母親としても興味あったし。

 ま、それとは別にして、ユウちゃんと同じようにクロウ君も霊力経路を傷つけられたようだけど、古城君気づいてた?」

 

 え? と古城らはクロウを見る。あれだけ魔導犯罪者らに無双していたのに、重体だったのか。

 

「けど、それほどひどくないわね。すでに処置もされてるみたいだし」

 

「うん。……ご主人に助けてもらったのだ」

 

 時間を奪われ、召喚できなくなった<守護者>を、使い魔契約を経由して、仮契約させることで、<監獄結界>の維持に魔力を供給するラインをつくり、その生命の流出を防いでいる。

 

「―――けど、処置済みでも、それは急場凌ぎみたいなものだから、とりあえず、他に異常不具合がないか血液のサンプルを採っておきたいのよ」

 

「う。注射嫌いだけど仕方ないのだ」

「うん。それから、最低一週間は検査通院してね。後々になって見つかる症状とかあるから。もしかしたらこわーい感染症とかにかかってるかも」

 

「むぅ。オレ、病気になったことがないからわからないけど、結構大変なのか?」

「うん! すっっっごく大変! 健康診断は絶対にしとかなきゃダメよ。だから、この書類にちゃちゃっとサインして頂戴っ!」

 

「ふむぅ。『わたくしは、MAR医療部門所属暁深森主任研究員の身体検査(生体実験を含む)に協力することを誓います』……よくむずかしいことわからんけど、サイン、って名前を書けばいいのか?」

「それから印鑑もお願い。なかったら、ここに朱肉があるから指紋をぺたってやってね」

 

「わかったぞ。ペタッてやればいいんだな」

「そうそう。今、契約してくれたら、なんと凪沙ちゃんがついてくるサービスが」

 

「―――待てコラ。何さらっと、やってんだあんたは!?」

 

 研究欲が前面に出過ぎてる母親を拳骨して止めて、後輩がとんとん拍子で勧められるがままに記入途中の書類を奪い取り、破り捨てる。

 

「ぶーぶー、ちょっとした冗談なのに、手を上げるなんて。よよよ。息子もついに反抗期でぐれちゃったのかしら」

 

「だったら、本当にこのまま書いちまってたらどうしてたんだ?」

 

「そりゃあ、まあ……大切に保管して、有効活用させてもらいますけど」

 

「グレるぞ本気(マジ)で」

 

 やっぱり、妹は違う意味でこの母親に正体がばれるのはまずいと古城は改めて認識した。

 そうして、半ば呆れた視線を左右からもらいながら古城が深く溜息をついたとき、ぎゅるるるる~~~っ、と盛大に腹の虫が鳴く。

 

「………ダメ……もう、限界………」

 

「あちゃー、空腹状態で血を採っちゃうのはまずいわよね」

 

 朝から何も食べていない後輩。かくいう古城も同じで、空腹感を覚えてたりする。わりとぶっ倒れそうな予感がしている。

 後輩がついにふらふら倒れかけて、そこで玄関の方から音が。誰かがこの宿泊施設に入ってくる。そして、向こうも騒がしい気配を聞きつけたのか、真っ直ぐに深森の部屋までやってきて、ノックもなしに扉を開ける。ショートカット風に束ねた長い髪と大きな瞳が印象的な少女が顔を出して、

 

「あれぇ? 古城君?」

 

「えっ……!?」

 

 現れたのは、凪沙だった。

 尻尾付きの黒のワンピースに猫耳や猫球手袋と言ったアニマルな小道具に、何故か侍風な法被を羽織っていて、両手に買い物袋をもってるが、間違いない。

 思わず、古城は妹の顔を凝視して、ぽかんと口を開けてしまう。

 何も言わずに自宅から姿を消して、それきり音信不通だったはずの彼女が、どうしてここに?

 

「凪沙? おまえ……なんで……ここに?」

 

「昨日の夜遅くに深森ちゃんに呼ばれて、着替えを届けに来たんだよ」

 

 ああ、なるほど、と納得と安堵に古城は胸を撫で下ろす。

 比較的に片付いていた深森の部屋も、お世話好きの家事上手な妹がせっせと掃除したんだろう。そういえば、このMAR研究所区画には、携帯の電波が入らない。

 魔女の事件と時期同じくして凪沙が失踪していたから、ずいぶん心配したが、それでもこうして無事な姿を見れたのなら、それでいい。

 

「もう、深森ちゃんに任せてた部屋が大変で、部屋のお掃除だけでなく、クリーニングに出してた服を引き取ってきたりしてたんだけど、冷蔵庫の中身まで空っぽだったからこうして買い物に行ってきたんだけど……それで、古城君はどうしてたの? 雪菜ちゃんたちとずっと一緒だったの?」

 

 凪沙の追及に、古城たちは硬直した。引き攣った笑みを浮かべながら雪菜はぎこちなくうなずいて。

 

「こ、こんばんは」

「ていうか、ユウちゃん、怪我してる!? 何があったの? それからそっちの人ってこの前会った……―――うわっ!? く、クロウ君!?!?」

 

 ソファで寝かされてるユウマを見て驚いたり、紗矢華を睨んで半眼になったり、早口だけでなく表情も忙しなく、矢継ぎ早な質問にどう回答すべきか困ったわけだが、何故か、ぐったりしてるクロウを見た途端に慌てて部屋の外へ逃げてしまった。

 

「……ん……凪沙ちゃん?」

 

 反応が普段の7割減してる後輩は、一番遅れて、のそのそと首を回らすが、凪沙の方はその死角のなる陰で何やら髪型とか色々と整えたりしている。

 魔族恐怖症な妹であるが、それでもここのところは『混血』と言えど後輩には慣れてきている。トラウマが再発してるようには見えない。

 不自然な凪沙の反応に訝しむ古城だが、深森の方はふんふー、と微笑んでいて、

 

「ちょうどよかったわ凪沙ちゃん! 至急、ご飯作って頂戴! クロウ君、すっごくお腹減ってるみたいで死にそうなのよ。胃袋を掴むチャンスね!」

 

 

???

 

 

 島全体で行われる絢爛な祭りの喧騒から外れたくらい路地裏。

 古いビルとビルの間で、風通りも悪い。空気の循環しない通りには、嫌な臭いがこもったまま、檻の如き薄闇だけが沈殿している。この常夏の熱帯夜でも、この路地だけは避けて行った風に思えた。

 『抹消地区』

 絃神島27号廃棄区画。不慮の事故で海に沈んだ人工島・旧南東地区の跡地――地図からも消された最先端の学究都市にあるまじき、異端の街。

 退廃的な享楽を欲する酔客や快楽を求める薬を探して徘徊する中毒者が往来を賑わう、その路地裏は打ち捨てられたとうに腐り果てた生ゴミが散乱して、野鳥や野犬に引き千切られたビニール袋の残骸を晒している。

 

 そこに、“影”があった。

 

 写す実体のない“影”。そんな曖昧模糊とした陽炎が、路地裏に漂い―――その妖しい篝火に惹きつけられた魔族らが積み重なって倒れ伏している。

 皆、一応に血を抜かれた痕がある。その魔族登録証から異常を検知されるのを恐れてか――『抹消地区』は電波障害でセーフティが働かないのだが――致死量となるまでは奪っていないようだ。

 だが、これはけして吸血鬼の仕業ではない。

 見えないものまで視る吸血鬼の超視力が、すでに正体を暴いている。

 

「―――さて、そろそろ顔を見せてくれないかナ」

 

 金髪碧眼の美しい青年貴族。ディミトリエ=ヴァトラーだ。

 けれど、彼の声はいつもと同じ気障な口調でありながら、端々に冷え冷えとした殺気が見え隠れしている。

 

「どうやら、“体”のないキミはそうやって喰っていかないと存在が保てないようだネ。とはいえ、それだけ喰えれば十分だろう?」

 

 基本的に、異世界から喚び出された使い魔は、召喚者からの魔力供給がなければ、現界を維持できない。

 だが、その“影”は、かつて<堕魂>した大魔女の魂を取り込んだ悪魔だ。

 今は新たに3つの欠片――合わせて、八体の内四体を取り入れたようで、ようやく一体目を順調に消化している最中といったところだろう。

 それが終わるまでは、誰にも邪魔をされたくない―――そう、今度こそ“体”を手に入れるための準備を。

 

「聖域条約に定められた外交特使としてこの地にいるボクが、こうして吸血鬼が関与してるのではないかと疑われる事件を起こされては立場を悪くしてしまうし、人道的見地からしてもこれ以上の凶行は看過できない―――中々筋の通った建前だとは思わないか?」

 

 殺し合い、喰らい合い、そして、残った完成体を相手する。戦闘狂として、この上ない馳走を待つのもよかったが、場所が悪い。

 

 人工島・旧南東地区――この半年前に沈んだとされる悲劇の街は、聖戦の果てに無数の想いが刻まれた聖地であり、とある少女たちの墓標。

 無関係の余所者が、荒らし回っていい場所ではない。

 

 瞬間、青年の肉体より発散された膨大な魔力に、周囲の建物群が吹き飛ばされる。

 

「いつまでボクにだけ喋らせるつもりだい。それとも会話ではなくこちらの方が御望みかナ」

 

 碧眼が真紅に染まり、唇から長大な牙がのぞいている。

 そして、同時に三体の眷獣を召喚して、螺旋状に絡みついて、融合。漆黒の鱗と翼を持つ三つ首の悪龍(ドラゴン)

 無制限に周囲の大気を吸い込んで、質量を増大させていくその姿は、神話や伝説の怪物にも等しい姿だ。古来より東方では龍は大自然が意思を持った存在とされているそうだが、これはまさに暴風の化身といえるだろう。

 存在さえあやふやな残滓を消し飛ばすには、過剰な眷獣だ。その余波だけでこの旧南地区が抹消された地図の通りになりかねない。

 

 ずずん……!! と27号廃棄区画が、妙な震動を発した。

 地震、じゃない。

 それは何か巨大な存在の足音。

 

《私の邪魔をするな、蝙蝠が》

 

 音源が、実体化する。

 貪狼、角獣、美猴と三つの顔を持つ阿修羅の如き巨大な獣。

 その足を踏み下ろすだけで、大地が砕ける。巨重によってすり鉢状に踏み躙られ、狂乱の爪が振り下ろされる。荒れ狂う悪龍の嵐は切り裂かれて、青年貴族を玩具のように砕いた。

 

「グッ……ガハッ………!」

 

 勢いのまま人工島の基盤を割り、その真下の海面が見えるほど深い穴を開けられ、ヴァトラーはその寸前に埋もれている。

 純白の三揃え(スリーピース)は無残に切り裂かれた布きれとなり、無傷な骨は一本もなく、普通の人間や魔族はもちろん、まともな吸血鬼でも即死だろう。

 それでも意識を失っていないのは、真祖の血を受け継ぐ吸血鬼の『貴族』であったからこそ。

 けれど、魔力の供給を断たれたヴァトラーの眷獣は、すでに実体を失って消滅しており、全身の傷が回復(なお)りきるのにも時間がかかるだろう。

 それでも彼は獰猛な笑みを浮かべていた。

 

「はははは、いいね。実に素晴らしい。完成体がすごく楽しみになってきたヨ!」

 

 

MAR研究所

 

 

 仙都木優麻は姫柊雪菜に運ばれて、基本男子禁制の研究室へ。

 暁古城もその胸の傷を見抜かれていたようで、煌坂紗矢華とそのまま部屋にある救急箱で応急処置を。

 そして、暁深森は血液サンプルを採ったら、研究室へと向かい―――リビングには南宮クロウと暁凪沙しかいない。

 

「―――うまうまはぐはぐっ」

「クロウ君、ホントずいぶん健啖家だね。浅葱ちゃんも結構食べる方だけど、それ以上にすごいよ! ああ、でも、あるもので思い付くだけ作ってきたから、量が多すぎたかも……」

 

「ん。ありがたくいただくぞ」

「ううん! 無理はしなくていいよ。食べたいものだけ……食べてくれれば……」

 

 遠慮がちに、だんだんと声が小さくなる。

 陽を浴びて咲き誇る、朝露に濡れた大輪の花のような朗らかさ。けれど、その輝きが曇る。花は生長を逆戻りしたかのように閉じてしまう。

 視線が揺れて。少女の表情は、沈む。

 おそらくは、テーブルに並べられた料理の山を見て、我に返ったのだろう。

 深森が血を採ったり、その他もろもろしていた合間に作り、米を炊くほどの時間はないので、基本は手早く調理が済ませられるサンドイッチ。なのだが、大食漢で育ち盛りな少年に合わせてか、一枚目の皿にはたまご、シーチキン、ハムレタスなど定番ものが揃えててんこ盛りの山となって、それも各種サンドイッチ自体も象の足の裏を思わせて加重積載。さらに追加で出されたその隣の二枚目の皿にはお相撲さんの腕みたいなバゲットが皿の幅を超えて突き出してる。下手をすると、この一食分だけで、身近な男子高校生の三日分ぐらいの食事になりそうだ。

 一枚目だけでも、あからさまに少年の腹よりもでかい。

 なので、乙女的な葛藤をぶつけんと、ありったけ存分に腕を振るって、幾分かすっきりしたけれど、凪沙は視線を空になった一枚目の皿と少年の腹部を交互する。

 そんな不安がちな“匂い”が鼻腔を擽ったからか、

 

「別に無理なんかしてないぞ」

「でも―――」

 

「今日はまるまる五食分も逃したからな、いっぱいお腹が減ってたのだ」

「そうなの?」

 

「それにちゃんと腹ごしらえしないと、元気は出ないのだ。多すぎても全然困らないぞ」

 

 もぐもぐ。口いっぱいに頬張ってから、ごっくんと飲み込む。それから、ほわーと満面な笑みを浮かべる。その満足げな顔を見るだけでも、作り手として満足感があるだろう。

 少女を安心させるために弁明はしたものの、実際、この程度の量ならば無理というほどでもない。言葉にした事柄もある種の事実、これより戦場に赴いて、強敵を相手にするには大いに活力を必要とするだろう。それが山となろうが、あるだけ平らげて見せる。

 

「だから、ありがとうなのだ」

 

 これは、虚飾のない本心からの言葉だ。

 その言葉のままにサンドイッチを口へと運び、二皿目のおよそ半分の量が消えるころになって、ようやく少女は元の朗らかさを取り戻していた。美味しいぞ、と感想を伝えるたびに、少女はみるみるうちに明るくなって。花の気配が戻る。自然と、口元には微笑が浮かんでいた。

 少女も、少年も。

 

「ん。美味しい」

「本当に?」

 

「うん、凪沙ちゃんの料理は美味しいぞ」

「本当の、本当?」

 

「うん」 食べながら、頷く。

 

 今、手に取っているバゲットサンドもベーコンとチーズをレタスやトマトと言った生野菜で挟んでいる具合。汁気の多い新鮮なトマトが、肉やチーズにとても合う。それに作り手の見えるいい匂いがする。ここ最近、何度か彼女の手料理というものを食したがどれも当たりで、全部―――

 

「好きだぞ」

 

 全部。好きである。

 これも、嘘偽らざる言葉であり、元々彼は滅多に嘘を口にしない。というよりは、感情が表に出てしまうのでできない。だから今も、ただただ本心を告げる。

 

「い……今のは……」

 

「ん」

 

 もぐもぐ。サンドイッチを頬張りながら、少女を見ると、何故か狼狽えている。

 

「い、今のは、流石に……」

 

「ん」

 

 もぐもぐ。次は海老とアボカドを挟んだのを食べようと思いつつ、少女の頬が赤みを帯びているのを見る。でも、体調が崩れているといった傾向はないようだが、

 

「大丈夫か凪沙ちゃん?」

 

「……ずるいよ。クロウ君」

 

 そう言って、拗ねるように頬を膨らませて、凪沙は唇を尖らせてしまう。

 けれども、すぐ、ぷすぅと空気が抜けて、朗らかに笑う。

 それから、朝のことで色々と訊きたいことがあった気がするけどなんだかどうでもよくなってきて、食事の邪魔をしないようしばらく見ていた凪沙だが、二枚目の皿が空になったのを見計らって、祭りの屋台で見かけてつい買ったそれをテーブルに出す。

 

「はいクロウ君。これ、あげる」

 

「? 何なのだ凪沙ちゃん」

 

 出されたのは、ブレスレット。材質はアルミかなにかで、持ってみるととても軽い。それに猫をデザインしたと思われる彫刻模様の上からクロームシルバーの鍍金がかかっていて、黒猫に見える。

 クロウがそれを見て、きょとんと傾げてると、凪沙が指一本をピンと立てて説明。

 

「黒猫のお守り。『波朧院フェスタ』の出店に売られてた物なんだけどね。なんといっても、黒猫は魔除け厄除けにもなったり、怪我病気が治ったり、恋煩い――色々と御利益があるんだよ!」

 

「おお、すごいアイテムなんだな! うー、でも。オレ、これをもらう理由がないぞ?」

「いいのいいの。ほら、いつもお世話になってるし……それに法被(コート)を貸してくれたお礼! うん、これで貸し借りなし。もう気にしない。だから、もらってクロウ君」

 

 右の手首に巻かれるブレスレット。それを頭上に掲げて、照明との反射の煌めきを楽しむよう手首を返しつつ角度を変えて眺めて、

 

「ありがとうなのだ凪沙ちゃん!」

「うんうん―――あ、でも、お守りがあるからって、無茶はしちゃダメだよ」

 

「むぅ」

「だーめ。今日は絶対に安静だって深森ちゃんも言ってたんだから。クロウ君はゲストハウス(ここ)から出るの禁止」

 

「むぅむぅ~」

「もし破ったら、デラックスサンドイッチのおかわりは無しだよ」

 

「むぅ……それは困るぞ。凪沙ちゃんのご飯、美味しいから……」

「じゃあ、わかった?」

 

 納得していないながらも、しばらく目を合わせて、最後は掴んだ胃袋をゆすれば、根競べに負けたよう、こくん、と頷く。重々に言い含めた後、凪沙はキッチンへと向かい、ちょくちょく調理の合間に何度かリビングの扉が開けられてないかを確認しながら、三皿目を作り、それを持っていくと……………リビングは、もぬけの殻。昔、彼は兄の言いつけを守り凪沙が接近すると教室の窓から飛び降りていたけど―――部屋の窓が開け放たれている。

 

「………………………クロウ君のばか」

 

 残っていたのは、『ごめん』と『ごちそうさま』の二言の書き置きがテーブルに。

 そして、リビングにひょっこりと顔を出した深森だが、『あらあら』と零すだけで、さほどその逃亡に驚きはなく、見張り役の凪沙を責めるようなこともない。ただ、そのメモを拾い、片目を瞑りながら、娘を諭す。

 

「男ってのは中々女の思うとおりに動いちゃくれないものよ。凪沙ちゃんも勉強したわね」

 

 

 

つづく

 

 

 

NG

 

 

 それは、南宮クロウが己の影に呑まれかけたその時、

 

 

「―――クロロンのピンチに那月ュン参上!」

 

 

 現れたのは、いつもより10歳分若返ってる大魔(法少)女。

 その瞬間、背筋にこれまでにない、今の不快感さえも塗り替えるほどの強烈な悪寒を覚えるクロウ。

 

「やめろー! やめるのだーご主人!」

 

 鎖に雁字搦めにされて、一本釣りされるクロウはそのまま、チョキを横にして目前に決めたポーズをとる幼女は、きらりと閃光を放って、

 

「ミラクルメイクドレスアーップ!」

 

 

 

 それは、<監獄結界>より脱獄した魔導犯罪者たちに目を付けられたときだった。

 

「―――クロロン参上だワン!」

 

 なんかフリルをふんだんにつけたゴスロリチックな衣装を着た後輩がいた。

 それも、獣人化してる。

 犬に無理やりリボンとかフリフリな服を着せられたのを見てるようだ。

 小柄な後輩少年であったなら、まだ違和感を覚える程度で見れたものであったが、これはダメだ。服のサイズからして合ってない。少しでも激しく動いたらボタンが弾け飛びそうなくらい、内側からはち切れんばかり。服の端々から悲鳴を上げているのが聴こえてくるようだ。

 もう、これではリアルに『赤ずきんの狼婆(ろうば)』である。

 そんな遠い目をする古城の前に、蟷螂拳の構え――いや、可愛らしくわんわんポーズをとる後輩。

 

「月に代わってお仕置きなのだワン」

 

 クロウってあんなキャラだったか……?

 

 何故か古城は、あの脱獄犯どもを相手にするより、これ以上後輩が道を踏み外さないように止めてやった方がいいのではないかとそんな考えが脳裏に過った。

 

「昼休みにスパーリングして調整に調整を重ねてきましたが、ようやくクロウ君も自分にあった可愛らしさというものを理解できて来たようですね。……猫キャラではないのが、個人的に残念ですけど」

 

 口元に手を添えて、冷静に語る獅子王機関の剣巫。

 それに対して、

 

「あ、あの服のセンスは、那月の……!」

 

 もう見てられないとばかりに顔を両の掌で覆い、ひどくショックを受けている敵の魔女。

 そして、相手が油断してる隙に接近する後輩。

 どこからか、カーン、と鐘が鳴る音。

 この監獄結界がそびえる人工島を舞台(リング)に、大乱闘がはじまっ―――

 

 

「ワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンッッッッ!!!!!!!」

 

 

 ……………うん。『殴る時間をゼロにする』という超高等な空間制御の魔術が働いているのは理解しているが、開始早々ぶっ放した、この魔法少女的要素絶無の徹底した物理破壊。遠当ての技能を身に着けた今、手の届かない距離でも問答無用。

 シルクハットの紳士も、眼鏡の青年も、小柄な若者も、コートの女も、甲冑の男も、枯れた老人も、そして、大ボスっぽい魔女も、老若男女平等パンチが炸裂しまくった。しかも、明らかにオーバキルのフルぼっこで。

 

「! あれは本気狩る(マジカル)パンチ101(ワンオーワン)! この戦争、クロウ君の勝ちです先輩!」

 

 そろそろ、解説者してる剣巫も不安になってきたぞ。

 

「くっ、殺してくれ! 紳士服が似合う私が、もうゴシックフリフリな囚人服のワンダーランドへ帰りたくない!」

「冬佳、ごめん。私はもう変わってしまったっ!」

「やめろ! 俺は背が小さいが女物は似合わねェ!」

「いやー! ワタシにこんな少女趣味は無理よー!」

「ワれのニクタイにアうショウゾクではない!」

「儂の炎でも燃やし尽くせぬとは、呪われておるぞ!」

 

 鎖を巻きつけられて、強制的に服装がゴスロリ衣装に変えられる魔導犯罪者たちが、少女の眠れる夢の世界へと引き摺りこまれる。

 

「次こそは……(ワタシ)の和装趣味を……反映して見せる」

 

 そうして、大魔女も恐るべき<監獄結界>へと封印。

 絃神島に平和が戻った。

 

 

 

つづかない



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観測者の宴Ⅱ

地下通路

 

 

「まったく」

 

 『波朧院フェスタ』に盛り上がる街並みを抜けて、藍羽浅葱は、逃げていた。

 

『見つけたぞ、<空隙の魔女>』

 

 事の始まりは、古城からの連絡の最中に遭遇した老人。

 相棒の人工知能曰く、<監獄結界>から脱獄した精霊使い。それまで都市伝説としか考えてなかった、この『魔族特区』のどこかにあるという凶悪な魔導犯罪者を収監している幻の監獄から、抜け出してきたテロリストの脱獄囚は、その力は強大で、それが迷子の女の子サナちゃんを狙っている。

 一目散に、浅葱は彼女の手を引き逃げた。

 

 その精霊使いキリカ=ギリカは、脱獄の際に魔力を多く消耗したのか、何やらひどく疲れている模様で、100m走をスパイクなしで13秒台を出す浅葱の健脚ならば、幼女ひとりを抱えて逃げるくらい訳ない。が、その炎精霊は物理的な熱量が凄まじく、厚さ約24cmに対魔コーティングが施された、吸血鬼の眷獣を想定した馬鹿馬鹿しいほど無駄に頑丈な隔壁をも融解させて、突破される。

 

 しかし、侮ることなかれ。

 突破される可能性も計算に含めて、選択したこの逃亡ルート。

 浅葱はこの絃神島育ちで、この島のセキュリティを知り尽くしている。地の利を生かした――局地的な豪雨対策として水没防止用の放水路を、ハッキングして逆流させ、海水の奔流を炎の精霊使いにぶつける。

 扱っている炎精霊の属性により、水没されては自由に動けまい。

 それでも海まで流されることなく、力任せに蒸発させて耐え抜いたようだが、ひどく弱っていたところを―――浅葱の計算通りにかけつけた、眷獣を宿した人工生命体アスタルテと特区警備隊の機動部隊に包囲されて、捕縛。<監獄結界>へと再び収監されていった。

 

 

 

「ミス藍羽。お怪我は?」

 

 分厚い金属隔壁を一瞬で融解させた精霊使いの炎撃を、魔力を無力化して、魔力を喰らう巨人の眷獣の腕で弾いて、キリカ=ギリカを押し潰した、人工生命体の少女、アスタルテ。

 彼女がその藍色の長髪をなびかせて、浅葱に無事を確認する。

 

「あー、うん、大丈夫。服はドロドロだけど」

 

 不幸中の幸いで、サナちゃんの服は無事であったものの、浅葱の買ったばかりの私服はびちょ濡れで、懸賞で手に入れたお気に入りのサンダルも傷だらけ。

 それでも、凶悪な魔導犯罪者相手に怪我することなく切り抜けられたのだから、これ以上を望めないほどの結果だ。

 

「ありがとね、アスタルテさん。助かったわ、あなたがいてくれて。でも、どうして―――」

 

 どうして、彼女が特区警備隊と行動していたのだろうか。

 確かに彼女はこの島の国家攻魔官であり、特区警備隊の指導教官を務めている南宮那月が後見人で、その助手をしていたと思われるが。

 

「教官及び先輩の捜索中でした」

 

「捜索って……那月ちゃん、それにクロウも行方不明なの?」

 

「肯定。ですが―――そちらにいる彼女の生体的特徴が、教官と極めて高確率で一致しています。説明を求めても構いませんか?」

 

 アスタルテがその宝石のような水色の瞳を、迷子の少女サナへと向ける。

 生体的特徴が一致――つまり、似ている。

 それについては、浅葱も同意見だ。

 フリル塗れのドレス、長い黒髪、人形っぽい顔立ちも既視感を覚える。初対面ではほぼ確実に小学生と間違えられるほど童顔の担任教師であるが、自称26歳。4、5歳くらいの娘がいてもおかしくはないだろうし、もしくは親戚という線もある。

 とにかく、浅葱はこのサナちゃん((お“さ”な)那月(“な”つき)ちゃんで浅葱命名)は、南宮那月の関係者だと睨んでいる。

 

「そういえば、さっきの脱獄囚もサナちゃんのことを狙ってたみたいなのよね」

 

 最初に遭遇したとき、キリカ=ギリカはこちらを指さして、『南宮那月を見つけた』と言った。

 だけれど、それが何の関係があるか。まだ憶測でしか―――

 

 

「……ふふ、教えてあげましょうか」

 

 

 とん、と小さな靴音。

 びくり、とサナが怯えたように振り返る。

 浅葱も振り向けば、キリカ=ギリカのいた場所に、キリカ=ギリカと同じ鉛色の手枷を左腕に嵌めた、女がいた。

 菫色の髪をした、長いコート以外は下着のような露出度の高い淫猥な衣装を着た、若い女性。

 頬にかかる長い髪を払ってから、嘲笑気味に顔を歪めて彼女は言う。

 

「似てるも何も、その娘は南宮那月本人よ。ちょっと呪いで小さくなっただけ」

 

 脱獄囚の手枷。この女も、<監獄結界>から脱獄した凶悪な魔導犯罪者だ。

 特区警備隊の隊員たちが一斉に武器を構えた。銃口を向けられ包囲されてなお、女は余裕を崩さない。その艶やかな笑みを浮かべるばかりで、警備隊員たちは判断に迷う。これが罠なのか、それとも……

 

「あなた、誰?」

 

 緊迫した最中、女を睨みながら浅葱は誰何を投げる。対して、女は愉しげに唇を吊り上げて、

 

「ジリオラ=ギラルティ―――という名に心当たりは?」

 

 クァルタス劇場の、歌姫……っ!?

 

 思わず、浅葱はうめいた。

 

 5年前。とある小国の皇太子とその親族である王族数名が惨殺された事件があった。

 それは皇太子が、ある欧州各国の王侯貴族と数々の浮名を流した高級娼婦との交際が発覚したことから、それをスキャンダルになる前にその高級娼婦も含めて事実を揉み消そうと王家の人々が隠蔽画策し―――送った暗殺部隊は迎え撃ちにされ、彼女の逆鱗に触れたのが原因だ。

 その俗にいう『クァルタス劇場の惨劇』の首謀者であり、それ以外にも数々の猟奇犯罪の余罪が発覚した、高級娼婦が―――第三真祖<混沌の皇女>の血脈に連なる『旧き世代』の吸血鬼ジリオラ=ギラルティだ。

 事件後、国際指名手配されたジリオラは逮捕されて投獄されたというが……

 

「どうして……絃神島に……?」

 

 早鐘を打つ心臓を深呼吸で宥めつつ、浅葱は問う。

 『クァルタス劇場の惨劇』は世界的な大事件で、当時まだ小学生だった浅葱が今も憶えてるほど、日本でもかなり話題になった。

 しかし、それはあくまで異国の地の出来事であり、欧州で投獄されているはずの魔導犯罪者がなぜ日本の絃神島にいるのか?

 

「ヒスパニアの魔族収容所でちょっとやり過ぎちゃったの」

 

 収監された女吸血鬼は、その囚人も、監獄も、すべてを支配した。

 ヒスパニアの魔族収容所は、欧州の魔族にとっては恐怖の代名詞であり、数多くの魔導犯罪者を収容しながら、生きて出られたものはいないとまで言われている。

 それを、たった一人で、逆に支配したのだ。

 噂以上に危険であり、この絃神島を滅ぼし得る存在であることは違いない。

 

「けど、ワタシは、この『魔族特区』はどうでもいいの。恨みがあるのは、そこの<空隙の魔女>と<黒妖犬(ヘルハウンド)>だけだから、その子を素直に渡してくれれば見逃してあげてもいいわ」

 

 ゾッと震える浅葱に、ジリオラは優しげな口調で言う。

 だが、浅葱は立ち竦むサナの小さな体をしっかり抱いて、真っ直ぐに睨み返して、アスタルテが再び眷獣を召喚して前に出た。

 

「そんなの……はいそうですか、って渡せるわけないでしょ……!」

 

「同意。後退してください、ミス藍羽」

 

 虹色の巨人<薔薇の指先>は、他の魔族の魔力を喰らうだけでなく、魔力を無効化する神格振動波を発しており、魔力の塊である眷獣にとってみれば天敵。眷獣殺しの眷獣だ。

 ジリオラは物憂げに溜息を吐いて―――その手に長大な真紅の鞭を出現させる。

 

「眷獣と共生している人工生命体(ホムンクルス)……人間と魔族の『混血』といい、この『魔族特区』は珍しいオモチャが揃っているようね」

 

 機械的に相手戦力を封殺するつもりのアスタルテと対峙して、惨劇の歌姫はいっそ楽しげに笑みを作り、瞳が蛇のように細められる。その真紅に染まった視線に射竦められようが、人工生命体の少女は臆しもしないが、ほんのわずかな焦りがある。その焦燥を舐め取るように唇を舌で湿らせるジリオラ。

 

 目障りな相手―――だが、相手の土俵に付き合ってやる必要はない。

 薔薇の蔓のような有刺打鞭の形をした『意思を持つ武器(インテリジエント・ウェポン)』を、<薔薇の指先>にではなく、その足元へ叩きつける。

 

 直後、特区警備隊から大口径のアンチマテリアルライフル。携行用ロケット砲弾。銃機関砲―――と言った対魔族用に特殊加工された呪力弾が、“アスタルテの背中から生える虹色の人型眷獣(ゴーレム)”を集中砲火した。

 

「―――アスタルテさん!?」

 

 通常の魔族を殲滅するほどの銃弾の雨を、その巨体を傘にしてアスタルテの<薔薇の指先>は浅葱らを守護するが、間断なく襲う砲撃の嵐にこれ以上身動きができなくなっている。

 

「特区警備隊が、どうして……!?」

 

 特区警備隊の主力部隊は、キリカ=ギリカの――<監獄結界>より脱獄した魔導犯罪者らを捕獲するために行動しているはずなのに。

 なのになぜ、惨劇の歌姫ジリオラではなく、味方であるはずのアスタルテを狙うのか?

 その答えを、アスタルテは冷静に指摘する。

 

「逃走を推奨します、ミス藍羽。彼らは眷獣による攻撃を受けています」

 

 そう。

 ジリオラ=ギラルティが叩きつけた薔薇の鞭は地面に突き刺さり、そこから根を伸ばすよう無数に枝分かれしている。それらが地面を這って、警備隊の足元へと伸びて、絡みついている。

 これが武器である眷獣<ロサ・ゾンビメイカー>の力である、精神支配。

 恐怖の代名詞であった魔族収容所を逆に支配した、恐るべき能力。

 圧倒的な力を有する魔族に、人間は集団で戦いを挑むことで、互角に渡り合ってきたのだ。

 しかしこの寄生植物のように他人の肉体に直結しての精神支配の前では、数を揃えてもそれが裏目に出てしまう。

 ジリオラは、人類の唯一最大の武器を己のものとしてしまう、社会の敵とも呼ぶべき存在だ。

 

「私が彼らを足止めします」

 

 早く、この場から離れてください―――アスタルテが無感情のまま、けれどどこか焦りが滲んだ声音で浅葱を促す。

 今は凌いでいる。

 相性の例外はあるものの、特区警備隊の一斉攻撃程度ならば、理論上<薔薇の指先>の防衛を崩すことはできない。

 だが、宿主である人工生命体は人間よりも脆弱な身体だ。

 『血の従者』であっても、無限の“負”の生命力を持つ吸血鬼でもないアスタルテには、眷獣の召喚は負担が大きく、長時間維持するのは無理がある。

 これ以上、行く当てがなくとも、とにかくここを離れなければ、いつまでもアスタルテは浅葱たちの護衛に眷獣を割かなければならないのだ。

 しかし、

 

「ふふっ……まさか、逃げられるなんて思ってないでしょうね」

 

 行動しようとした浅葱が、その殺意に濡れた瞳に見つめられて思わず足を止める。

 ジリオラは『旧き世代』の吸血鬼であり、複数体の眷獣を同時に従えることも可能だ。

 

「行きなさい、<毒針蜂群(アグイホン)>!」

 

 慈愛の微笑のまま、酷薄に眷獣を()びつける。

 高々と掲げた左手から噴き出す鮮血が形を持つ。

 新たなる眷獣。それは真紅の蜂。体長5、60cmにも達する巨大な蜂が十数匹、群となって浅葱たちに襲い掛かる。

 

「―――くっ!」

 

 その悪夢のようなおぞましい光景に、浅葱は絶望したように膝をついた

 流石にこれは詰んでいる(チェックメイト)。人工島を制御するスーパーコンピューターの補助があっても、この状況を打開する手段は思いつかず、特区警備隊の主力部隊はジリオラに乗っ取られ、アスタルテも限界。

 ただの女子高生にすぎない浅葱に、眷獣に抗う力があるはずがない。

 せめて……せめてできるのはこの身を盾にすることくらいか―――

 

「ごめん、サナちゃん……」

 

 無駄とはわかっていても、この母親と自分を慕う少女を庇わずにはいられない。

 

「心配ないよ、ママ―――」

 

 覆い被さる浅葱に、サナは優しげな微笑みを浮かべていた。

 

 

「―――クロが来た」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ブゥン!! と空気を震わせるような、耳元でバリカンの振動音を聞かされるような、背筋のゾワゾワする音が炸裂する。迫っている。血に濡れたような殺人蜂が羽ばたいていると想像したが、とても後ろは振り向けなかった。

 だが、眷獣の毒針が浅葱に届くことはない。グシャグシャと、グシャグシャと。生々しい音が響き渡り、食い止められる。びしゃり、という水っぽい音とともに、十数の巨虫を磨り潰した粘液が路上へ散らばり、原形を失った眷獣らは魔力となり霧散する。

 そして、浅葱の耳に、聞き慣れた、こんな時でも能天気な後輩の声が聞こえた。

 

「アスタルテは人探しが上手いぞ。古城君だけでなく、ご主人まで、オレより早く見つけるんだからな。先輩としてちょっぴり自信なくすぞ」

 

「……クロウ……!」

 

 いつかと同じように、浅葱を庇い立つのは、ひとりの後輩。特別、鎧兜や剣を装備してるわけでもなく、蒼銀の法被を羽織り、耳付き帽子をかぶる、手袋首巻の厚着衣装であるのに、不思議と“騎士っぽく様になっている”少年は、何か自信を無くしたように肩を落としている。

 

「寄り道ばかりするからです、先輩」

 

 登場に、操られた特区警備隊からの攻撃の雨が一端止んで、

 変わらず、人工生命体の少女は無表情で叱責しているようだが、けれどこの頼もしい援軍の登場に声のトーンが一段階ほど上がったように浅葱は聴こえる。

 

「むぅ。これでも結構急いできたんだぞ。うん、ほんのちょっぴりだけ、おかわり食べてこうかと悩んだけど」

 

 そして、浅葱に、ではなく、サナに心から礼を取った。

 膝を落とし、胸の手前で腕を交差させる、魔女の使い魔でありながら、主より剣を預かった騎士のような礼。

 

「お待たせしたのだ、ご主人」

 

「うん、クロ」

 

 ぽん、と背伸びしてサナがその頭を叩くように撫でる。

 浅葱たちもまだ半信半疑であるところを髪の毛一本ほども迷わずに、幼くなった主に後輩は頭を下げた。

 

「あいつ、やっつけちゃって」

 

「遅刻したのに今のご主人は寛大なのだ。―――おまかせあれ」

 

 おすわり、とでもいうようにあっさりとしたサナこと南宮那月の命に、後輩は了承。

 その朗らかな残滓は一瞬で切り替わったよう、振り返った忠実な番犬は剣を鞘から抜くように帽子と手袋を外し、その姿を人型から銀人狼へと変貌させて、主から敵へ移した視線を鋭く尖らすよう、瞳孔を絞る。

 

「―――<黒妖犬>……さっきぶりね……」

 

 声は低く、微笑は血の色。

 菫色の髪の女吸血鬼は真紅の鞭を握り締めたまま、刺し射抜く眼光を真っ向から受ける。

 惨劇の歌姫の退廃的な美貌には、けれども、初めて表情から余裕を消していた。

 

「ふふっ……ちょうどよかったわ。南宮那月にだけでなく、あなたにもお礼参りがしたかったもの」

 

 状況的に、一対二。いや、特区警備隊の主力部隊を手中にしている今は、人数の理では上回っている。

 だが、眷獣を召喚する人工生命体に先ほど自分を含めて脱獄した魔導犯罪者らを一蹴した魔女の番犬が相手となると、今の駒では多勢に無勢。そして、その主らを背にした銀人狼の放つ圧倒的な威圧感の前に、もはや狐狩りを嬲り殺して楽しむ余裕などあるはずもない。

 

 『旧き世代』の吸血鬼でありながら、人間の編み出した人海戦術に頼らざるを得なくなる、魔族として立場を逆転させるほどの威容。

 ただひたすらに純粋な、己の意思を金色の瞳に映した銀人狼は、静かに告げる。

 

「ジリオラ=ギラルティ。特区治安維持条例第五条に基づき、これよりオマエの身柄を拘束する」

 

「やれるものなら、やってみなさい魔女の番犬」

 

 唇を赤い舌で艶めかしく舐めて、ジリオラは双眸に一層と殺気を宿らせる。

 銀人狼は挑発的な視線を受けて『うん、わかった』と素直な仕草で小さく頷き、

 

「悪いが、浅葱先輩、ご主人を連れて少し離れててくれ。でも、あんまり遠くに行くと庇うのが大変だから……」

 

「わかったわ。……それとあの鞭は精神操作―――って、掴まると操られる。だから、気を付けて」

 

「う。操られるのはもうゴメンだぞ。でも、蝙蝠狩りは結構得意なのだ」

 

 頼もしく言い残して、後輩は気負う様子もなく歩き出す。

 手をぶらりと下げたまま、ガードのない前進だ。

 そのあまりに余裕な対応に浅葱は思わず息を呑んだが、戦端が開かれてすぐそれ以上に仰天する羽目になる。

 

「第三真祖の氏族(トライブ)をそこらの吸血鬼と一緒にするなんて随分と調子に乗ったものね。あの程度で全力と勘違いしたこと―――後悔しなさい、<黒妖犬>!」

 

 <毒針蜂群(アグイホン)>よ!

 

 菫色の髪を振り乱して、ジリオラが吼えた。

 頭上に再び真紅の蜂の群が出現する。その数は先のとは比べ物にならない。500か、1000か―――その空間一帯が真紅に埋まるほどの膨大な群。これだけの数の眷獣を一度に召喚できる吸血鬼は、『旧き世代』でも多くない。

 

「あー、昔、ハチの巣突いて大変だったの思い出したぞ」

 

 対するクロウは懐かしむようにそれを眺めている。歩いたまま。これから間違いなく死地に赴くというのに。惨劇の歌姫は容赦なく慈悲もない。真紅の蜂たちに襲わせる。それは巨大な炎が銀人狼を焼き尽くそうとする幻影を浅葱は見た。絶対に逃れようのない無数の眷獣による一斉攻撃。

 だが―――

 

「まあ、それでもハチミツは大好物だったんだけどな」

 

 クロウは両腕に生体障壁の気爪を纏う。

 そして、無呼吸のまま、ダンッ、と地面が破裂するほど強く地面を踏み、蜂の群を正面から迎え打つ。

 ゆらり、と陽炎のように銀人狼の腕が揺らめいた。

 次の瞬間―――全長50cm以上もある毒蜂の群が、銀人狼の身体を血霧となって通り抜ける。

 そう、銀人狼の前で毒蜂が次々と破砕され、砂塵のように拡散していったのだ。

 通り抜けたように見えるほどに。

 それも魔力の気配のない――空間制御の補助もなく。

 その制空圏に入った途端にシュレッダーにかけられたように細切れ(ミンチ)にするとは、いったいどれほどの速さで動いているのだろうか。

 惨劇の歌姫はかろうじてその動きを目で捉えることができていたが、その動きについていくのは無理だ。身体性能が違い過ぎる。

 

「あんたちょっと……呆れるくらい、正攻法ねそれ」

 

 絞るように感想が浅葱の口から洩れる。

 規格外、と千を超すかもしれない毒蜂の眷獣の評価にその言葉が適している浅葱は思ったが、それは勘違いだったと確信する。

 規格外とは目の前にいる後輩のそれ。

 これでもそこそこ運動に自信はあった浅葱だが、やはり魔族、それも身体能力において最も秀でている種たる獣人には敵わない。『旧き世代』の吸血鬼であっても、比較すればかすむ。

 だが、それが正しく、後輩の方が実力的に上であるなら、迅速に吸血鬼の懐に接近して決着をつけられたのではないか。

 

「……クロは、こっちをカバーできるようにしてるんだよママ」

 

 浅葱の疑問に応じるように、同じく戦況を見ていたサナが呟く。

 そうか、と浅葱は気まずげに唇を噛む。

 あまり突っ込み過ぎてしまえば、こちらを人質に狙われる可能性がある。その前に倒せれば、だが、まだ相手が完全に手札を使い切っているかわからない以上、それは一か八かの賭けだろう。

 だから、慎重に距離を詰める。―――確実に仕留められる状況になるまで。

 

「―――っ! ワタシの眷獣(コマ)は<毒針蜂群>だけでなくてよ!」

 

 驚愕に美貌を歪めたジリオラであるが、その右手の鞭を荒々しく鳴らした。

 その瞬間、<ロサ・ゾンビメイカー>の支配下にあった特区警備隊の隊員たちが、一斉に武器をクロウへ向けた。その数は総勢160名以上。毒蜂の群を払いながらも、これだけの銃口から狙われたら、どんな魔族でも避けるのは不可能だ。そして彼らが装備する武器は、魔族には致命傷となる威力を持っているはず。

 にもかかわらず、前進を止めず。

 

「じゃあ、“手数を増やすぞ”」

 

 ―――直後、影が捩じれ歪む光景を浅葱は目の当たりにする。

 

 生体障壁を別ける分身法『玄武百烈脚』。

 それの変形応用。離れずに、別たれた分身ならぬ分身。そう、『天部』シュトラ=Dが見せた六臂の幻腕のように。二つの分身体を本体に重ねて、地獄の番犬の如く、三面六臂と化す。

 三葉の重分身を成した銀人狼は毒蜂の群も合わせて、特区警備隊の一斉射撃を360度に捌いていく。

 

 捌いて。

 捌いて捌いて捌いて。

 捌いて捌いて捌いて捌いて捌いて捌き裂く。

 

 ザン! ゾゾゾザザガゾゾザザザゾゾザガギゾゾゾゾザザザザゾゾザザザゾゾザン!! と。

 

 立て続けに攻撃が残骸と成れ果てる音だけが延々と続く。

 

「―――<毒針蜂群>!?」

 

 そして、銀人狼の周囲を撃つということは当然、毒蜂たちも巻き込む。味方に味方が潰されていく。精神操作とはいえ、蜂に当てずに敵を狙えというほど複雑な命令はできず、結果、蜂の眷獣は加速度的に数を減らしていく。

 だが、それでも惨劇の歌姫は、自爆特攻をやめず、消耗した分だけ追い詰めていき。さらにもう数百匹の毒蜂―――すべての手札を使い切って、ついに一刺を報いる!

 

「―――クロウ!」

 

 ずちゅり、と真紅の蜂の毒針が銀人狼の体毛を貫く。それで怯んだのをきっかけにもう一匹。さらにもう一匹。またもう一匹。もう一匹。もう一匹。もう一匹。もう一匹、も一匹。も一匹。一匹。一匹。一匹一匹一匹一一一一一一一―――――!!

 

 

 

 勝った、と。

 

 

 

 全身くまなく、蜂に捕まり、その姿が見えぬほど。

 物量作戦ですべてを押し切って、ジリオラ=ギラルティは、最大の障害たる<黒妖犬>を葬った。

 両手をおろし、肩を上下させながら荒く吐く息を整える。

 

(さあ、調子に乗った報いを受けろ! 眷獣の毒に悶え苦しみなさい!!)

 

 直後の出来事だった。

 ポトリ、と蜂の一匹が落ちる。また一匹。それが続けて、ぽとぽとと次々に蜂が落ちる。おかしい。確実にその身体を刺した手ごたえはあった。なのに、阿鼻叫喚の叫び声も発さず、直立不動のまま。そして、また歩き出す。

 

「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………え?」

 

 今度こそ。

 今度の今度こそ、惨劇の歌姫の思考が完全に停止した。

 

「オレに、こういうの効かないのだ」

 

 砂埃でも払うように手でパンパンと体を叩いて、蜂を落としながら、回答があった。蚊にでも刺されて痒くなった程度、とでもいうのか。

 

(何で、どうして!? ワタシの毒は魔族であっても絶命させるものなのに……!!)

 

 <黒妖犬>は一直線に、こちらへ歩いてくる。どう考えても、正常にジリオラを認識しており、毒に苦しんでいる様子もない。圧倒的な理不尽を前に思わず首を横に振る女吸血鬼だったが、そこで腕を――真紅の薔薇の鞭を引っ張られて、つんのめる。

 

「で。オレにばっかり気を取られるのはまずいんじゃないか―――なあ、アスタルテ」

 

 毒は効かないものだとわかっているのに、あえて真っ向から挑むという“派手な行動をする”銀人狼にばかりに気を取られ、状況を冷静に見ていたもうひとりを忘れていた。

 

「―――執行せよ、<薔薇の指先>」

 

 地を這い無数に張り巡らされた根の大本を、その巨人の手は地面ごと掘削させて握り込んで掴んでいた。そしてそのまま樹木を引き抜くように、ジリオラの『意思を持つ武器』を奪いにかかり、その魔力を無力化する神格振動波により引き千切る。

 特区警備隊への精神干渉のラインが切れた。

 

「……ええ、油断したわぁ。ホントいい経験になった。外に出れたばかりで気分が少しばかりハイになっていたようね」

 

「? オマエ、何をウソついてるんだ? 全然、油断なんかしてないだろ。今ので全力出し切ってるのに、何を謙遜してるのだ?」

 

 ジリオラの口端が引くつく。

 毒針が効かず、武器も失ったとなれば、これ以上は他に何もできない。

 

「……序盤は幕引きってとこね。ああ、顔見せは挨拶だけということにしておこうかしら」

 

 追い詰められたジリオラは身体を霧に変えて逃げようとした。手駒の数がこれでは足りないし、眷獣もしばらく休まないと使い物にならない。

 だが―――

 

 

「逃がさないぞ」

 

 

 両者の距離は、すでに瞬で仕留める間合い。衝撃波が生じるほどの蹴りが惨劇の歌姫を吹き飛ばしていた。

 <伏雷>、と蹴りと同時に加算させる、剣巫の魔力を物理衝撃へと変換する白兵戦術よりは雑なものであるが、轟雷迸るその一閃は、文字通り稲妻の如く。何の変哲もない前蹴りに見えたものが、その威力の余波だけで浅葱たちを突風で煽るほどの突風を発生させるのだ。人間が放つものとは比べ物にならない。それが眷獣だろうと、ぶち抜くだろう。

 霧となっていない部分を的確に蹴り抜かれたジリオラは、身体を半分霧に変えた半実体のまま地面を転がる。まだその身体は蹴撃で“匂い”が刻みつけられているように帯電していて、いかに再生能力に優れた『旧き世代』の吸血鬼でもこの麻痺した状態からすぐ回復するのは不可能だ。

 もはや、これまでというところまで追い詰められたのだが。

 

 

「外から観察していたが、実に手際の良い。なかなか狩りの仕方を心得ているとみる」

 

 

 唐突に拍手の音が鳴り響き、妙にテンションの高い声がこだまする、

 それは妙に力のある声で、聞く者に粘ついた息苦しさを感じさせる。

 さらに、その手拍子もまた、一打ち一打ちが、まるで遠くから聞こえてくる狙撃銃の銃声のような不気味な緊張を感じさせた。

 

「また、<監獄結界>からの脱獄囚なの……」

 

 精神干渉が解かれたが、その反動で昏倒している特区警備隊に、眷獣を展開できないほどに困憊しているアスタルテ、と周囲を見ながら浅葱が問い掛けるも、現れたシルクハットの紳士は無視して、朗々と自分の言葉だけをしゃべり続ける。

 

「私は、美食家(グルメ)でね」

 

 がっちりとした筋肉質の体型で、美食家と称するにしては肥満体から程遠かった。隠遁した魔導研究者というよりも、現職の軍人の雰囲気に近い。

 

「やはり、<書記の魔女>――引き籠ってばかりの<図書館>とは相容れん。だが、本は良い。本を読むには頭を使う。頭を使えば腹が減る。知っているかね、脳の重さは人間の体重のたかだか2%だが、生命活動に使うカロリーの18%を消費するのだそうだ。そして、腹が減ればその分旨い料理が食える」

 

 クツクツと楽しそうに笑いながら、紳士は両手を広げて、転がっているジリオラの下へ歩み始めた。

 

「筋肉もまた然り。肉体を鍛えて基礎代謝を上げれば、必要な食事量は増える―――美食こそが神が人間に与えた最高の快楽だ。そしてそれこそが人類の文明を発展させた原動力であるのだ。そのためなら、私はどんな努力も惜しまない」

 

「………」

 

 この中で、唯一、対抗できそうな銀人狼は無言で観察している。

 まさか、言葉の中に何か言霊や呪言の類が仕掛けられているのか、と一瞬浅葱の脳裏にそんな考えが過ったけれど、ぷしゅぅ、と煙を噴いてるその様からこの後輩は単に何やら難しい話に思考がストップしているだけの模様だ。

 

「真の美食を味わうには、それを食する側に最高の肉体が求められる。引き締まって健康な獣の肉が旨いのは当然だ。しかし、肥満した肉体や酒や煙草に冒された不健康な内臓、化学調味料で毒された貧しい舌で、真の美食を理解できると思うのかね」

 

 そんな聞き手が理解していない状況でも、自分の世界に入っている紳士はぺらぺらと自論を語り続ける。

 

「健康に気遣い、常に体調を整え、食べ過ぎてはならないのはもちろん、腹を減らし過ぎてはならない。そうやって私は、自分を律し続けてきたのだ。真の美食を味わうためにな

そこらの食通気取りの俗人とは違うのだよ。美味美食を極めるために一生を捧げた探究者として、人類の幸福にとって新たな天体の発見以上のものである新たなる美食を追い求める。私は未だにその果てに辿り着いてはいない。真の幸福に。

 ―――だが、“今の私は飢えている”」

 

 目に見えるほどの帯電は収まったがそれでも痺れて動けないでいるジリオラは、同じ脱獄囚である紳士の魔導師を見上げて、

 

「安心したまえ。苦痛など与えんよ。不味くなるからな」

 

 実体化しているその左腕を紳士の右手が掴む―――瞬間、その腕が干からびた。

 

「ああああああああああ―――っ!」

 

 喰らう。もがき苦しみ暴れようとの右手は離さず、吸血鬼の肉体を血の一滴も零さずに食らい続ける。

 魔族食い―――それは、同族ぐらいの<蛇遣い>と同じ恐れられる所業であるが、そうして力を奪うのだ。そして、残るは枯れ果てた残滓のみ。

 

「い……いや……やめて……助け……て……!」

 

 そんな残極な未来を予見して、浅葱はサナの目を覆った。これ以上の惨劇を、幼い彼女に見せるわけにはいかなかった。この美食家を名乗る魔導師は、自らの空腹を満たすためにここに現れたのだ。

 そして、浅葱と同じく、主に不快な思いはさせないとする後輩がひとり。

 

「飢えた娼婦の肉が不味いが、私は出された皿は何でも完食する性質で―――」

 

 瞬間。

 気爪を纏う手刀が、紳士の右腕を斬り飛ばす。

 

「食べ終わる前に料理を下げさせるとは、マナーがなってないな」

 

「倒れたヤツをいじめるのはいけないぞ」

 

 女吸血鬼の萎びたその左腕に嵌められた鉛色の手枷が発光する。

 そこから吐き出された銀色の鎖に絡め取られて、惨劇の歌姫は<監獄結界>へと退場した。

 

「まあ、所詮は前菜だ。次は口直しのスープに、そちらの人工生命体(ホムンクルス)をいただこうか。養殖物は好まんが、中々にゲテ物な隠し味がされてると見たぞ」

 

 そして、斬り飛ばしたはずの、シルクハットの紳士の腕が、いつの間にか肩と接合されていた。

 人間であるはずなのに、吸血鬼並の肉体復元能力、いや、この治り方はこれまで相手してきた吸血鬼たちとは違う気がする。

 

 

「それとも先に肉料理の<黒妖犬>が出るかね。主菜はもちろん、<空隙の魔女>だがな。ふむ。デザートにそちらの少女もある。出所後のフルコースだ。豪勢に行こう」

 

 

MAR研究所

 

 

 藍羽浅葱に電話をする少し前。

 

 

 テーブルの上にはこんもり盛られたサンドイッチの皿。後輩がおかわりし損ねた妹御手製料理の三皿目である。

 凪沙の作るのは何でも美味しく、空きっ腹の身には特にご馳走だ。 しかし、それを頬張る古城はしかめっ面だ。

 古城も優麻と体が入れ替わっていた半日ほどの間、彼女は一切の食事を口に入れていなかったらしく、しかも何度も大規模な魔術を実行し、最後は雪菜や古城とも派手な戦闘を繰り広げたのだ。

 知らぬ間に絶食状態な古城は空腹にあわや倒れかけて、この胸の傷のせいもあり、女子二人を大いに心配させてしまった。

 それで折檻説教されたあとに、凪沙から話を聞いた。

 

「ったく、クロウのヤツまた勝手に飛び出しやがって」

 

「しょうがないですね。凪沙ちゃんから逃れるためだったそうですけど、それで独りで飛び出すなんて……」

 

 と看護師風ミニスカートのワンピース(ミニスカナースが母親の研究室のドレスコードというわけのわからん要求に従った結果)を着た雪菜も嘆息して同意。

 

 <監獄結界>の脱獄囚に狙われているのもそうだが、<守護者>を奪われた優麻を治療する援助を得るためも、仙都木阿夜と同等以上の大魔女である南宮那月を見つけなければならない。

 けれど、彼女は行方不明。

 魔導犯罪者たちの脱獄に<図書館>の残党処理で余裕のない特区警備隊を頼ることはできない。

 『波朧院フェスタ』で街に人が溢れ返っている状況で、闇雲に探しても見つかるとは思えない。

 そして、唯一、真っ直ぐ主の場所を最短距離で行けたであろう後輩は古城たちをおいて先へ行ってしまった。

 

「凪沙を騙すなんてそう難しい事じゃないとは思うんだが、適当に誤魔化すなんてウソのつけないクロウには無理な要求だったか」

 

 おかげで、それが下手なウソをつくことよりも、かえって心配を招くことになり、凪沙も後を追って、この宿泊施設から出るところだった。凶悪な脱獄囚と残党の魔導師が彷徨ってるかもしれない街中へ。

 そこをうまく眠らせてくれた呪術の達人である獅子王機関の舞威姫様が、テーブルの上に置いた手帳に、几帳面な筆跡で、細かな数式をびっしりと書きながら、

 

「まあ、この人混みじゃ、あの子の足の速さについていけそうにもないし、魔導書で無力化されている南宮那月の救援に一秒でも早く駆けつける必要があるでしょ」

 

 何やら計算中に、ごつい軍用の腕時計と正確な方位を知るための電子方位磁石(コンパス)―――そして、仄かに輝きを放っている一枚の紙――ある魔導書の一頁の反応を見ている。

 

「幸い、ここには、ちょっと強引なやり方だけど、主従契約を結んでいた魔導書(No.013)があるから、そのラインを計算すれば現在位置を割り出すこともできるわ」

 

「へぇ……すごいんだな煌坂」

 

「そうですよ先輩。紗矢華さんは獅子王機関の舞威姫なんですから」

 

 雪菜の心からの賞賛に、ふふん、と紗矢華は胸を張る。

 獅子王機関の舞威姫は、呪術と暗殺の専門家だ。当然、彼女が身につけた技能の中には占術に関するものも含まれている。

 ただ、

 

「じゃあ、姫柊も……」

 

 獅子王機関の剣巫を見る―――が彼女はサンドイッチを小動物のようにちょこちょこと()みながら、古城の訝しげなきょとんとしてる。さっと逸らす古城。

 

「―――すごいよな。獅子王機関の剣巫なんだから」

 

「……いきなり何ですか先輩。すごく誤魔化した感があるんですけど」

 

 その不自然な反応に半目で見ながら、褒められて頬を染める器用な表情を浮かべる雪菜。

 獅子王機関の剣巫は、占術が、やや、苦手である。とはいえ、彼女も計算の邪魔にならない程度にルームメイトの手伝いをしてる。

 

「けど、魔導書か……」

 

 優麻が<守護者>と魔導書を失ったメイヤー姉妹に分け与えていた禁書級の魔導書の一片。原本の方は燃え尽きてしまったが、ページを切り分けられていたため残っていたのだ。

 これは後輩とも繋がっており、紗矢華の言うとおり現在位置を探ることや、ある程度の制御も可能。それも、99%の支配権を持っていた原本が消失してしまった以上、現在、残る“2枚”の魔導書で支配権を二分しているため、その効果は急騰していると言ってもいいそうだ。

 このことに、もう一枚を魔女姉妹から奪い取った北欧の王女様は大変ご満悦な笑みを浮かべたという。

 

『ふふ、これは棚から牡丹餅ですね』

 

 今回の混乱で戦力不足の特区警備隊が協力を仰いだアルディギアの聖環騎士団は、その援軍の対価として、<図書館>が所有する魔導書を引き取ることとなっている。それも、後輩の制御鍵になり得るものだと知る前に交渉条件が結ばれたものであり、あとでその飼い主様が抗議しようにもおそらく還ってこない。

 

「なあ、それ大丈夫なのか? 結構危険な物なんだろ」

 

「そうねぇ……あの子に対象は固定されちゃっているけど、これを材料にして、魔導機器が発達している北欧アルディギアの技術力で細工をすれば、専用の令呪が作れるかもしれないわね」

 

 また後輩の意思とは無関係に、操縦されることになるのか。いや、ラ=フォリアは信用できるとは思うのだが、

 

「煌坂もできんの?」

 

「できるわよ。だって獅子王機関の舞威姫が、魔導書であっても呪道具を使えないってわけにはいかないでしょ」

 

「あまり変なことするなよ?」

 

「するわけないでしょ!?」

 

 紗矢華が耳まで顔を真っ赤にしながら、ペンを古城に向ける。

 それから、雪菜が宥めて落ち着かせてから、ふん、と一度鼻を鳴らしてから、

 

「……ただ、あの子、八体もの悪魔と契約したんでしょ。<黒死皇>の件で折角無害認定になったのに、また」

 

 恐竜に、蔓眼、それから怪鳥。『旧き世代』の眷獣さえも屠るほどの脅威。それを個人で有している―――徐々に、<第四真祖>に迫る存在へと成りつつあるのだ。

 

「だから、このままだと獅子王機関としても措置を取らせてもらうことになるのよ。たとえば、精神呪縛を掛けて、『日本国に害を及ぼさない』という制限を入れる。『緊箍児』みたいにね」

 

 そのために、残る禁書の二頁のうち一枚をラ=フォリアから紗矢華が譲り受けた。

 今回の件のように、南宮那月に何かあれば制御は外れてしまうことになる。個人で御している弊害だ。これが解決しても危険指定されるかもしれない。けれど、獅子王機関が、それとアルディギアかが幉を取れれば―――保険、となる。つまり、自由が保障される。

 

「ま、南宮那月の管理能力が十分だと認められれば、必要なくなるでしょうけど」

 

 古城としても他人事ではない。

 真祖を殺し得る力を持った姫柊雪菜という保険があるからその自由が保障されている。

 だが、やはり、たとえ世界最強の吸血鬼であっても封印される<監獄結界>の管理者が、<第四真祖>に対抗できるという理由も大きい。

 吸血鬼の身分を隠して、普通の学生として生活が送れるのも、管理者である南宮那月が裏で手を回してくれて、それだけの力を持っているからこそ。

 だから、それに頼っている今の古城には“彼女の眠りを覚ます資格”はないのだ。

 

「……まずは、とっとと解決しないとな」

 

 後輩は必ず、担任を見つける。

 そして、後輩も可能な限り止めよう。あのあとで、暁深森に言われたのだ―――

 

 

『クロウ君、ちょっとヤバいから会ったら研究所に戻ってくるよう伝えてね』

 

 

キーストーンゲート Eエントランス

 

 

「オレの後輩に手を出すな!」

 

 

 問答無用。

 銀人狼は、後輩の人工生命体の少女に食指を伸ばそうとした美食家を―――滅多打ちにする。

 何をされたのか、美食家にはわからなかっただろう。

 疲労困憊したアスタルテの目に映ったのは、再び三葉の重分身で三面六臂と化した先輩が、またその腕をゆらめかせるほど、速くに動かしたことだけ―――

 ただただ、打撃音が激しく響き、その一打一打に篭められた紫電が走る。

 連続撮影されたように閃光が瞬いて、回数を数えるほどの時間もなく。

 シルクハットの紳士は―――丸焦げになって、仰向けに倒れた。

 

「……オマエ、人間に見えるのに、魚や獣、色んな臭いがする。どれだけ“混じっているんだ”」

 

 銀人狼は、その警戒を解かない。

 一打だけでも並の魔族を撃退するほどのものを、101打。それだけの打撃をひとつも避けられずに食らいながらもそれでも未だ意識を失わず、どころか、今や傷ひとつも負っていない―――瞬時に、復元したシルクハットの紳士。

 

「ほう、気づいていたか<黒妖犬>」

 

 欧州北海帝国に対する独立戦争や、北米連合(NAU)との武力衝突の末に成立した国家アメリカ連合国(CSA)

 その戦争の直接の原因は経済問題だが、その背景には魔族に対する差別がある。人間と魔族の共存を目的とした『聖域条約』に、アメリカ連合国は調印していない。

 人類純血政策を掲げるアメリカ連合国にとって、“魔族は淘汰されるべき下等な存在”なのだ。

 過激な差別政策によって国際的に孤立したアメリカ連合国では、軍事力の整備こそが最優先の課題とされていた。国家を存続させるためには、世界各地の紛争に常に介入し、軍事パワーバランスの調整を続ける必要があった。

 そのような軍事介入の主力となるのが。陸軍特殊部隊『ゼンフォース』。

 そこに所属するものは皆、相応の魔力と適性を必要とする強力な魔具を肉体の機械化という代償を払うことで制約を克服した<魔義化歩兵(ソーサラスソルジャー)>。

 

 それが美食家を名乗る紳士の魔導師ソニー=ビーンの正体である。

 

「私の右手は、隊長<血塗れ>アンジェリカが有するアメリカ連合国が誇る戦闘魔具<抱擁の右手>―――その試験作(プロトタイプ)。その能力は、『この右手に接触したものを思うがままに私の肉体の一部へと変える』ものだ」

 

 だが、ソニー=ビーンは、<魔義化歩兵>でありながら、国家に対する忠誠の篤い特殊部隊の中で、己の食欲を優先した異端者。

 あまりにも多くの魔族魔獣を食らい過ぎて、組織からも“人間から外れたもの”と見なされ、『ゼンフォース』から外された。

 そして、そのきっかけとなった最初の獲物こそが―――

 

「私は、この右手で『人魚』を喰らったのだよ」

 

『人魚の肉を食べた人間は不老不死になる』

 

 そのような逸話がある。

 人魚を食べ何百年も生きたという八百比丘尼(やおぴくに)の伝説は日本でも有名だろう。そう、ソニー=ビーンは人魚を喰らってから成長は止まっており、そしてかつて所属していた<血塗れ>の率いる部隊から、どれほどその身体を切り刻まれようが死ななかった。

 

「隊長でさえも私を殺すことはできなかった。吸血鬼のように眷獣を召喚することはできないが、それでも人魚を喰らった私は、魔力の容量では他の魔族を遥かに凌駕する器だ。そして、私はこの右手で、魔族魔獣どもの魔力を発生させる魔器を喰らってきた」

 

 同じように眷獣を召喚できない下等な吸血鬼――匈鬼という魔族がいる。彼らは眷獣が使えない代わりに空いているその容量に魔力を増幅させる魔器を外から自らの肉体に埋め込むことでその能力を底上げしていて、自我意識さえ失くすほど改造を施されたものは眷獣と渡り合うことさえできるという。

 だが、それでも、この美食家には及ばないだろう、

 <模造天使>の『蠱毒』と同じで、魔族の魔器を喰らってきたソニーはその魔力の総量では『旧き世代』の吸血鬼に匹敵するものがあり、それらのほとんどを肉体の再生に振り分けられているのだから、真祖と同じ何百と斬首されようが殺し切るのは不可能な存在。

 

「誰にも殺せず、そして私の食欲を抑えきることもできず、閉じ込めることもできない。故に私は<監獄結界>に入れられたのだよ」

 

 部隊を脱退したが、魔族魔獣が人間以下の家畜であるとみなす『アメリカ連合国』の出身であり、人間と意思疎通のできるだけの知性を持ち、聖域条約によって権利を保障されている魔族を襲い、保護が遅れている魔獣を大量に虐殺したソニー=ビーンは、絶滅の危機に瀕した貴重な魔獣を管理している<魔獣庭園>に大胆な“狩り”を行ったところで、南宮那月に捕縛された。

 

 <監獄結界>に収監された他の魔導犯罪者に劣らぬ所業であり、そして、凶悪さ。

 

「噂は聞いた。南宮那月の番犬――<黒妖犬>。だが、私はこの右手で何体もの獣人種を食らってきた。『シアーテ』、といったかな。古代中米にある部族の村でね。邪神の使いとして崇拝されていた獣人神官の末裔らが、今のところ“一番旨かった獣人の品種”だよ。あれは古代種にあたる獣人種族―――君と同じ<神獣化>になれるものでね。それを私は食らった。ああ、これまで私が食した中でも、五指に入る旨い肉だった」

 

 美食家は紳士たる振る舞いを忘れずにいるようであるが、それでも目だけがギラギラと強い光を放っている。飢えた獣のような眼差しだ

 彼は、銀人狼を見つめている。

 その視線に敵意は感じられない。

 美食家が発散しているのは、もっと原始的な欲求だった。食欲だ。

 回想の語りで“あの完全なる獣の肉の味を思い出して”、強烈な食欲がわき上がったのだ。

 

「きっと、君の肉も旨いのだろう」

 

「いいや、オレは“マズい”ぞ」

 

 心底嫌そうにクロウは口元を歪めて“注意”する。

 それから譲れない口調で、数多の肉を味わった美食家に向かって、

 

「オマエが自慢したいのはよくわかったけど、オレにはさっきオレが食べた凪沙ちゃんの作った料理は美味しかったって言えるぞ。最高に旨いお肉なんかじゃなくたって、とても幸せな味がしたのだ」

 

 だが、そんな主張は、すでに目の前にある“肉料理(クロウ)”から漂う香りに酔っている美食家の耳には入らない。

 

「ああ……もう……もう我慢できん……」

 

 美食家の魔導師は、陶酔した声で呟く。その言葉は、途中から獣の呻き声のように変わって上手く聞き取れなくなる。

 不死身の肉体に、何でも喰らう右手。

 倒せようがなく、防ぎようのない。

 そして、逃げようがない―――!

 

「っ―――!?」

 

 ソニー=ビーンがその右手で喰らったのは、人魚だけではない。

 

「知っているかね。毒蛇の王(バジリスク)雄鶏と蛇の合成獣(コカトリス)と視認しただけで石にしてしまう魔獣はいるが、私が喰らうのに最も労した、しかし最も旨い牛の肉であったこいつの眼もそうだった」

 

 水牛に近い身体と豚の頭、そして、頚がまるで中身の無い腸のように長く軟体。その不気味な怪牛は、視線に毒を持ち、睨まれた相手は“時間を止める”。

 大人しい性格に反して、危険な性質をもつ―――

 

「カトブレパス。『下から伺い見る』と意味する名を持つ、静止の邪視を持った魔獣。その眼を私はとりこんでいるのだよ」

 

 美食家は“肉料理”に向けて、その右目に意識を傾ける。

 急激な魔力の消耗を感じながら、邪視の発動に手応えを覚える。

 石にはならない、だが、石となったように身動きができなくなる。対象のあらゆる動作は“静止”する

 魔力があっても所詮は人並みの動きしかできない魔導師だが、相手が動かなくなれば、その右手で触れるのは何ら難しい事ではない。たとえそれが<神獣化>した獣人種や『旧き世代』の眷獣が相手であってもだ。

 身動きの取れなくなった銀人狼へ近寄る。途中、人工生命体の少女が眷獣召喚の兆候を見せたが、

 

「実行せよ、―――「“スープ”は後だ」」

 

 それも一瞥で、“静止”させた。

 それから、銀人狼の前に立ち、ワイングラスをゆらすよう、その顎に下から右手を添える。

 触れただけで、良く鍛えられ、良く育った、これまで食した先の古代種の獣人種に負けず劣らず、いや上回る極上の肉質を予感させる。

 反応はない。動けない。止まっているのだ。

 そう、“肉料理”が美食家のテーブルに運ばれた。

 邪視が可能とするのは一時的な生物の動作停止。

 強力な効果ではあるのだが、致死的な攻撃ではない。それは本来の持ち主である怪牛でないから、効果が落ちているのだが、美食家にはちょうどいい具合だ。

 止めを刺すのは――獲物を喰らうのは、この右手と決めているのだから。

 

「では、いただこう」

 

 誰にも邪魔をされず、邪魔をすることはできない―――

 誰か助けて。あの男を止めて。

 サナの身体を抱きしめたまま、浅葱はついに弱音を吐きそうになる。

 だが、

 

「<書記の魔女>が警戒するその力を手に入れれば―――」

 

 その呼びかけは、男の悲鳴に塗り潰されることになる。

 

「――――――――――――う、ぐ」

 

 <抱擁の右手>の旧型の試験作。

 その力で『混血』を吸い出そうとした――そう、ステーキにナイフを入れた瞬間――途端に、右腕の筋肉が硬直した。痙攣。握力が、“肉料理”を噛む力が、弱くなる。

 そして、右手の接触から走る悪寒が脳に伝わり怯んだその瞬間、

 

 

 がぶり、と人狼の咢に首筋を噛みつかれた。

 

 

 

(!? な、ぜ、動く!?)

 

 困惑。静止の邪視をモロに受けながら、銀人狼は動いている。

 反応がない、と確認した。その美食家の判断を誤魔化したのは―――

 

「だから、オレに“毒は効かないのだ”」

 

 “擬死”だ。俗に『死んだふり』や『狸寝入り』とも呼ばれる動物の反射的な生態行動。つまりは、『静止の邪視(カトブレパス)』が効いていなかった―――とソニー=ビーンがそれを理解する前に、噛み痕から不自然な黒い斑点が生まれる。あっという間に増殖する―――“壊毒”。

 

「なんだ、これ、は―――」

 

 一見すると痛みは感じられないが、意識した途端に胃袋の奥から何かがせり上がってきた。喉元で堪えることもできず、そのまま一気に吐き出す。

 

「がっ、げほっ!! がばごぼ!!」

 

 吐瀉物ではない。

 こんな真っ赤な食い物を食べた覚えはない!!

 

「オレを喰おうとするのは“マズい”といったのに、腹が減ってるからと言って、喰って大丈夫かどうかの見分けがつかないんじゃダメだろオマエ」

 

 捉えたはずの“肉料理”が何かを言っていたが、凄まじい耳鳴りが頭を支配していて聞き取れない。船の上にいるかのような錯覚を感じるほど、バランス感覚もおかしくなり、立っていられなくなる。痙攣。肉体と意思が断線して、指一つ動かすのもままならない。

 

「わ、たしは! 美食家だ! これまで、数多の毒をも呑んで、きたんだ! そうだ、カトブレパスの邪視にさえ、耐えたんだぞっ!」

 

 前進に静かな異変が襲い掛かってくる中、かろうじて動く舌喉に全神経を集中させ、自己暗示をかけるよう吼える。

 が、異様な頭痛や酩酊感は逆らいようのなく、抵抗意志を潰していく。

 メキメキという音が聞こえた。音源は骨か筋肉か、あるいは内臓か脳か。全身から異様な汗が噴き出し、あまりの寒気に温度の感覚が消失する。赤い血の塊が口の中から出てくるのが止められない。その内、胃袋でも一緒に引き摺り出されそうな勢いがある。右手が、震える。旧型とはいえ特殊部隊の核となる兵器が、ソニー=ビーンが有する最大の武器が、その黒い斑点に蝕まれていく。

 

「がばっ!? げぶげぼぐぼっ!! がぶがべがぼがぼごふごぼごぼげぼげぐごぼごぼ!?」

 

 吐血が止まらない―――なのに、“これまで痛みがない”。人体を守るための警告信号が発してない。

 人魚を喰らったこの肉体は、不死身。どれほど切り刻まれようが、その傷は一瞬で治癒し、この特性があったからこそ、『特殊部隊(ゼンフォース)』の隊長である<血塗れ>の<斬首の左手>を喰らっても、隊から脱走することができたのだ。

 それでも、痛み、はあった。

 なのに、それが今働いていない。

 つまりは、血塗れよりも恐怖する異常が身体に起こっている。

 

「不死身なんてならなかったら、クロも“噛んだり”しないのに」

 

 浅葱に抱きしめられたサナが、淡々と呟く。

 

 南宮那月が、まだその兆候が出る前に、一番最初に躾けたのは、“噛み癖”だ。

 

 いつまでも水の引くことのない沼や複雑に入り組んだ川を擬獣化したという多頭の水蛇(ヒュドラ)の血は、大賢者に不老不死をも捨てさせるほどの毒であり、

 神殺しの巨狼は、鎖に縛られ口を開けることもできなかったが、そこから流れ落ちる大量の涎が川となったという。

 三頭の頭を持つ地獄の番犬は、涎から月の魔女を象徴とする毒草を生み出したとも言われている。

 

 そして―――

 かつて殲教師が撃ち込んだ聖塩や特区警備隊が撃ち込んだ砲弾内部に封入されている聖銀という魔族を蝕む毒性でさえも耐え抜いて、かといえば吸血鬼の“負”の生命力が実体化した蜂の眷獣や怪牛の邪視の毒も通じなかった。

 これまであらゆる病気にかかったことがない健康体。

 

 <黒妖犬>は、その存在自体が、“毒”、なのだ。

 

 そして、完成体となるべく悪魔を取り込んで、さらには“影”の封印が解かれてしまった結果、魔族と人間の禁忌の配合とされる混血が、これまで眠っていた真の魔性たる毒性に目覚めているのだ。

 

 その身が放つ“獣気(におい)”さえも、吸血鬼の真祖を行動不能にする、体液となればあまりに強力だ。噛みつかれて、涎がつけば、逃れようがない。

 生体を狂わし、物質を錆びつかせ、自然を蝕む、万象に有害な“壊毒”に。

 

「う。わざわざ噛む必要はなかったか」

 

 それが吸血鬼であろうと体調のバランスを崩してしまい、絶対的な特性を働かせなくさせる――壊してしまう。人間と同じになるほどに、身体を弱体化させる。

 ついに、魔術師は魔力すら練れなくなり、こうなれば自力で立つこともできない赤子と変わらない。

 

「けど、安心するといいぞ。調べてくれた深森先生が言うには、オレの毒は“まだ”、致死性がないんだって。苦痛すら麻痺(こわ)させるから、楽に眠れるぞ」

 

 血液サンプル採取の際に、触覚に特化した<過適応能力>の検査で暁深森より告げられたのは、不死は壊すが、不思議なことに致死はない、というもの。

 

「ただ感覚を壊すのは痛覚(いたいの)だけじゃないから―――味覚(した)は危ないんじゃないか?」

 

 その言葉の意味を理解できたかも危うい。

 けれど、美食家としての本能的な反射で、普段ならば屈辱だと制止するであろう理性さえ無視して、舌で地面を舐める。

 

「――――」

 

 ……………………………何も味がない。

 

「深森先生が血液サンプルを採ったけど、オレの毒はまだ特効薬というのがない、できるかもわからないから、抜けても“ちゃんと”治るかは保証がないのだ」

 

 魔獣魔族の力だけではなく、ソニー=ビーンの美食家という特性すら壊した。

 

 左腕に嵌めていた鉛色の手枷が輝き、奔流のように無数の鎖が噴き出す

 すべてを失くして絶望している魔導師の肉体を容赦なく縛り上げ、何もない虚空へと引き摺りこんでいく。行先は<監獄結界>の内側だ。

 抵抗しようにも、今の魔導師には赤子ほどの力しかなくて、魔術を使うための魔力さえ貯蓄していた魔器から漏れだして空だ。

 底なし沼の中に沈んでいくように、虚空に呑まれる間際に、魔導犯罪者は、食欲からくるものではなく憎悪の眼差しをクロウに向け、呪詛のようにその存在自体を咎めた。

 

 

「貴様こそ、<監獄結界>で永劫に収監されるべき、怪物だ―――!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「なるほど、それが『神殺し』としての力か―――ははは、いいね。刺激的な味付けじゃないか」

 

 響き渡る歓喜に満ちた笑い声と共に、夜空をこがず程の膨大な魔力の奔流が、閃光のように吹き抜ける。

 その破壊的な衝撃に巻き上げられた粉塵より、その真紅の瞳を輝かせるのは、美しい金髪の青年。純白のコートに身を包んだ彼の姿は、騎士のように見えて、けれど、撒き散らす気配はあまりに邪悪。

 その獰猛な笑みを真っ向に受けられたのは、やはり、浅葱の後輩だ。

 口角より、気炎の如き黒霞を燻らしながら、<蛇遣い>ディミトリエ=ヴァトラーを睨む。

 

「オマエも、ご主人らを狙いに来たのか」

 

「いいや、そんな見る影もない<空隙の魔女>に興味はないよ―――あははははははは!」

 

 サナ――幼くなった南宮那月を見て、ヴァトラーは腹を抱えて呵々大笑。

 そのあまりに主人をバカにする反応に、クロウも眉を寄せて不快を露わにする。

 

「まあ、こう見えても僕も手負いでね。リハビリに付き合ってくれる相手を捜してたんだよ。キミにとられちゃったけど」

 

 目尻の涙を拭ってから、ヴァトラーは真面目な口調で言う。

 嘘ではない“匂い”。だが、その身体に染み込んでいる“匂い”は―――

 

 そして、浅葱はこのヴァトラー――『戦王領域』の貴族が、脱獄した魔導犯罪者でないことは理解した。

 だが、けして安心はできなかった。

 この美しい青年貴族は浅葱たちを救いに来たのではなくて、ただ戦いを望んでいるだけ。先ほどの食欲のままに動く魔導師と同じように、自らの血肉となる獲物を狩るためにここに現れた。

 殺戮を求める彼が、浅葱たちを前にして襲わないという保証はない。

 

「あの魔導師の言うことにも一理ある。今の南宮那月はこの通りだ。こんなアブない毒を放つ使い魔を野放しにさせてしまってる現状で、それを押さえつけることはできない。従って、聖域条約に基づく外交大使たるボクが危険を未然に排除する―――なんて、理由ができるんだけど、どうかナ?」

 

 重く、<蛇遣い>が言う。

 その声が美しい美青年から発せられる現実を見ていても、夜空を満たすほどの濃密な妖気からの、途轍もない圧力は変わらない。

 周囲の空間自体が軋み、こちらに雪崩れ込んでくるような―――そんな現象を錯覚するほどの、絶大な力。

 『真祖に最も近い』存在が放つ、超越者の声。

 

 それを受けたクロウに否定や非難はない。

 今のところ、人間時には毒性は発揮されないとのことだそうだが、獣化してこれだ。<神獣化>して、壊毒を使えば、ほんの一滴でも致死となるかもしれない。

 認める。

 けれども、この毒気のない少年がその口から吐いたのは、対する言葉であった。

 

「その考えは、甘いと思うぞ」

 

「何?」

 

 混血の少年は、心臓の上に手を置く。

 内側の軋みと反比例して、言葉は平坦に紡がれる。

 次第に悪化して、死人に近づいていく顔色が、加速度的に増して、呪いに焼かれていく胸の痛みが、その代償とでもいうように。

 

「オレが、怪物なんて言われるまでもない」

 

 もしも、創造主(オヤ)に奪われた悪魔との契約を取り戻した場合、この壊毒は増悪する可能性が高く、かつて欧州で大量の犠牲者を出したという黒死病(ペスト)のように、歩くだけで国を殺してしまうものになるかもしれない。

 

 ヤバい、とMAR研究所医療部門主任研究員の診断結果を一言でまとめるとそうだ。

 暁深森からその“毒”が増悪する危険性を伝えられたとき、少なからずの衝撃は受けてる―――考えてしまうだけでも、この胸を抉りたくなる衝動に襲われるほどに。

 億千万の屍を築く存在となるのが、逃れられない運命なのか。

 ずっと屈し続けていた創造主(オヤ)を、超えた先にある未来の予想図。

 それは少年にとって、恐れるべき事態で、阻止すべく地獄絵図。

 

「だからといって、怪物(オレ)を排除したから災厄(ドク)が無くなるなんて保証はどこにもないのだ」

 

 『器』が壊れようとも、この見境のない毒が溢れ出し、そして何でもかんでも壊してしまうそれをどうやって除去するというのだ。また、受け皿となる『器』を用意するのか。

 

「こんなものを誰にも押しつけるわけにはいかないだろ」

 

 ひとりの先輩を思う。

 彼は『世界最強の吸血鬼』という力を押しつけられるよう受け継いでおきながらも、それを誰かにまた押しつけようとはしない。彼は力があって変えてしまう危険性というのをよく知っている。それでも、きっとまだ従わない眷獣らを認めさせていき、強くなっていくだろう。その力を制御していくためにも。

 だから、悩み苦しみながら前に進んでいく先輩の背を見て、後輩も学ぶのだ。

 

「これは、ご主人にも、預けちゃいけないものだ」

 

 混血の少年は、そっと――診断を宣告された直後で揺らいでいた――自分の右手に巻かれた黒猫のお守りを撫でた。

 どうということもない仕草は、しかし今このとき、遥かに巨大な何かを慰撫したかのようでもあった。

 

「だから、オマエに殺されてやるつもりは、ない」

 

「―――じゃあ、ボクをその毒で殺すのかい?」

 

「まさか。オマエに構ってやる余裕なんてあるもんか」

 

 威嚇に発する獣気だけでなく、獣化すら解いた。

 この格上の強敵を前にして、あまりに無防備。万事休す。だけれど、不思議なほど静かな佇まいで、その心音も落ち着いていた。

 

「オレは、ご主人に『蹴りをつけてこい』と命じられたのだ」

 

 そう―――逃げられないのだ。主に厳命された言葉を、果たさなければならない。

 それが匂いを嗅いだだけで屈する相手であっても、倒したとしても苦しむことになるかもしれないとしても―――主に救われたこの命を、ここで死力を尽くして戦って無駄死にすることはできなかった。行く道も、費やす機会も、すでに決まっている。その意思で、決めた。

 

「だから、脱獄した奴らでもないオマエと()り合うつもりも、ない」

 

 それは、死を覚悟して全力を振るうことよりも難しい自制であっただろう。それでも余計な消耗を避けて、ただ眼差しだけで不屈で訴える少年。その小さな背丈を、ヴァトラーはしばし無言で見下した後、ひとつ、問う。

 

「それで、完成されたキミの力が増悪して絃神島(ここ)を滅ぼしてしまうことになったらどうするつもりだい」

 

「そうだな。もしもそうなったら、オレは眠る。ご主人のじゃない、オレが創ったオレの監獄(ユメ)の中で、ずっと眠ることにするぞ」

 

 ―――ある少女がいた。

    氷棺の中で何百何千年も眠りにつこうとした。

    世界に、この胸に抱く呪われた魂を閉じ込めるために。

 

 小さく頷いてから、その実体化しつつあった莫大な魔力の発散を止める。

 

「ガルドシュとの契約もあるし、“今の”君には手を出さないよ。“ボクは”、ネ」

 

「オマエ、やっぱり……」

 

「どうだい? ボクの船に来れば、キミの主はボクが守ってあげよう。そして、キミは―――存分にやるといい」

 

 目を細めて、笑む。

 舞台を用意してあげよう、と。

 早く熟すんだヨ、と。

 

 招待するようその手を伸ばし、たところである先輩の声が響き渡った。

 

「ヴァトラー―――ッ! クロウ―――ッ!」

 

 機体の性能限界を超えたあまりの馬力に白煙を上げる自転車をさらに高速回転でペダルを回す暁古城が参上した。

 

 

 

つづく



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観測者の宴Ⅲ

長くなってしまい、二分割してます。


金魚鉢

 

 

 宴から遠く離れた、誰にも観測されない場所。

 

 

 心身ともに蹂躙されて、仰向けに倒れた人狼の視界に、月はない。

 ここは絃神島より遠く離れた、誰もいない無人島。

 機械と鋼鉄に塗れた人工島よりも、開発されず自然のままに残された場所は森に近い匂いだ。

 その森の中央に君臨する、悪魔と同化した創造主の血腥い臭いも含めると尚。

 月明かりさえない極夜の森へと、この無人島を変遷していくのは、森全土に根付いた下半身に、巨大な花弁と入り混じる半植物の魔獣の上半身、そして、頭部の位置に女性の上体が生えている。怪魔と怪魔を魔女が継ぎ木して一体化したかのような、異形の存在。

 

《私に勝てる―――そう、言い聞かされて、ここに来たのかしら?》

 

 冷たい地面の上で光のない空を見る人狼の耳に、“創造主”の声が飛び込んできた。

 

《あらあら、おかしいわ……オヤである私に逆らっても無意味なことを知ってるはずよね、“九番”》

 

 “創造主”の甘い囁きは、人狼がこの戦場へとやってきた時と全く変わらない。聴く者の理性を奪うような妖艶な声が、決死で戦いに臨んだ人狼を翻弄し、オモチャのように弄ぶ。

 

《ということは、私に身体を捧げに来てくれたのかしら?》

 

 森の匂いに混じって感じる空気は、初めて逆らった時と変わらない。

 あの時と変わらない、忍び寄る絶望の匂い。

 

《そのために私に造られ、“失敗作”を使って育ててあげた。生まれた時から、“九番”は私の道具(もの)よね? ―――けして、<空隙の魔女>のではない》

 

 残された力を振り絞り、人狼は身を起こす。

 立ち上がろうとする人狼の視界に暗幕を掛ける夜闇に、とめどなく流れる鮮血の紅が混ざっていた。赤く染められ、その周囲の木々には血の飛沫が塗りたくられて。銀の体毛に主より借り受けて、今や砕けてる黄金の鎧も血を吸って変色していた。

 

「森にいたころのオレと……今のオレは、違う……オレは、ご主人の眷獣だ―――!」

 

 立ち上がった人狼の顔面は、血と泥で汚れていた。

 顔を上げ、真っ直ぐに、“創造主”を睨む。

 

《いいえ、何も変わらないわ》

 

 傷だらけの人狼を見下し、“創造主”が嗤う。

 

《あの日――初めて反抗した時と同じ結果を、また繰り返すだけ》

 

 大地に根付く蔓蔦の下半身が脈動し、その星の血液たる龍脈を吸い上げる。

 星の龍脈と生命を循環する堕ちた大魔女は、取り込んだ四体の怪獣に相応しく身体を造り上げていく。獣の上半身に頭部にあった人の上半身が変貌し、巨大な女性の半身となる。かつて人であったころの面影が現れていくほどに、悪魔に馴染んでいく。

 

「―――ぐぉああああああッッッ!」

 

 絶叫を上げて、人狼の細胞は完全なる獣へと変生を始める。

 龍族に天使と同格たる至上(カミ)に近き存在と化す<神獣化>に対し、“創造主”はますます笑みを深めた。くすり、と意味ありげに嗤い、忌々しい大魔女の守護より外れていく己の最高傑作を見据える。

 

《真の主の完成に引きずられ、器は受け入れるに相応しい形へと覚醒するか―――これはますます喜ばしいことねぇ》

 

 その『首輪』を外しこそしていないが、それでも、膨れ上がる身体に、抑え切れぬ獣性。

 もう、左片腕がすでに成っている。

 その手を咢に、腕を体に。変生の途上で停滞している左腕より発散する黒霧は、人狼時よりも密度を濃くしており、辺りの空気がすべて濃硫酸に置き換わったかのように、木々が枯れ始めていく。

 視点を定め、この暴力を向ける先へと誘導する。傷口に口角から紋様の如き悍ましい黒の線を全身に走らせて、暴れ狂うエネルギーを集約させた左手から地面へ叩き込んだ。

 

「オレはアノ時よリ―――強クなっタ!」

 

 相手は、龍脈と繋がり、存在を保っている。

 ならば、その龍脈という自然を辿れば、逃しようがない―――

 

 黒夜の森に大魔女の瘴気を呑み込む黒い霧となる“匂い”が、半人半魔の大魔女の足元まで伝播し、そこから根こそぎ払う『岩角』を突き上げた。

 <堕魂>した<血途の魔女>が、粉々に砕け散った。

 その欠片さえ黒い霧は喰らい尽くし、跡形もなく消滅したのだ。不死身の生物であろうと、この壊毒は絶対の特性すら崩す。

 

《―――そう》

 

 虚空から声が響いた。

 

《でも、どれだけ強くなったとしても、今まであなたの事だけを考えてきた私に力押しではどうにもならないわよ……》

 

「―――!」

 

 振り返った。

 その眼前へ、声が続いた。

 

《まだ、わからないのかしら“九番”?》

 

 地盤がめくれ、荒れた黒夜の森―――そして、完全なる獣へとその左腕から成りかけている銀人狼の背後に、無傷の半人半魔の大魔女が忽然と姿を現した。振り向くと同時、完全なる獣はその超音速を超えて真空波が生じるほどの速度で剛腕を振り抜き、眷獣をも一撃で木端微塵にする熊手が悪魔を薙ぎ払う。だが、空を切るよう異形の姿が霞む。

 

 ―――この脅威を見誤っていた。

 

 一度、<堕魂>した魔女姉妹を相手したが、人間としての知恵や知識などかなぐり捨てた、狂獣などではなかった。

 執念がカタチとなった怨霊とも、言えるが、つまりこれは自意識を持っている。

 魔女としての秘儀を、魔術を、すべてそれは覚えていた。

 そして、中途半端に姉妹の半分ずつ魂を捧げたのではない、大魔女の真なる<堕魂>は、人間が怪魔となった―――完全に意志を持った魔法なのだ。

 

 20年前の古代遺跡での事故の唯一の生存者で、半身を“あっち側”に残してしまった<死都帰り>という者がいる。

 こちら側の世界には存在しないはずの、死の都より帰還したその者は、その代償として、空間制御に匹敵する超高難度魔術である物質透過と同等のことができるという。

 

 ならば、悪魔に魂を捧げ、封印された長い年月の中で存在を上書きし続けたことでついには同一化を果たしたこの大魔女は?

 

《今の私は、悪魔を召喚する魔女であり、魔女の魂を喰らった悪魔でもある。それなら、私自身の召喚も退去もできる。異世界と現世を自由に行き来できるのよ》

 

 空間転移、ではない。

 この世の裏側にある別の次元からの召喚に、現世からの退去。どちら側の住人であるからこそ、世界の裏表の境界線を行き来できる―――即ち、次元跳躍だ。

 

 召喚と退去を自在にこなす“創造主”は、この世界に存在するあらゆる観測から逃れ得ることができるのだ。

 そう、完全なる獣の攻撃が如何に神をも屠るような代物であっても、この半人半魔の大魔女は絶対に傷つきはしない。

 

 片腕だけ巨大な非対称のアンバランスに空振りした勢いに引っ張られて体勢を崩し、傾ける獣の前の、何もない虚空からまた声が響く。

 

《理解したかしら?》

 

 今度、現れたのは、半人半魔ではなく、浮遊している怪魔だ。

 “眼”だ。

 蔓蔦で形作られた外殻は丸く、瞼があり、人間の目玉の様なものを包んでいる。大玉ほどのそれが重力を無視して、“空を埋め尽くすほどに”宙に浮かんでいるのである。

 何千、いや何万と半人半魔の大魔女は異世界より呼び込んだ。

 召喚できるのは、無論、<堕魂>した魔女自身だけではなく、支配下に置いた眷属もまた。

 そして、数えきれないほどのそれらの視線上の焦点が、獣へ―――

 

「―――ッッッ!」

 

 死の照準に定められた<神獣化>の半端な形態の獣人。その黄金の体毛に覆われつつある体が、青白い輝きに包まれた。

 直後に押し寄せた熱風と轟音は、天変地異のようだった。

 轟音と震動で、この金魚鉢と呼ばれる島全体が揺れた。

 とっさに身をよじった獣の胸が、腹が、肩が、腕が、手が、足が、腰が、背が、首が、頭が泡立ち、避ける間も防ぐ間も与えられず弾け飛んだ。獣人の身体が黒夜の森ごと焦がし尽くされた跡地の上をバウンドする。

 どすん、という震動と身体に触れる感触で地面を転がっていくのを知る。

 大の字に倒れたところで、流れる血とともに、自分の命が零れ落ちていくのを感じる。

 体の各部が抉れて煙を上げているものの、まだ息はできることを意識する。そして、急速に弱まっていく心臓の音が、内側より聴こえる。

 重傷を負った獣の前に、裏側より現世へカーテンを開けるような手軽さで、半人半魔が姿を現す。

 

 四つの悪魔を取り込んだその異形。

 醸す芳香が鼻腔に入った途端、裡なる獣性がまた暴れ出す。

 

 ―――なくなる。

 意識が、無くなっていく。

 思考能力の低下。

 弾け散った自我の欠片を必死に掻き集めようにも、間に合わない。

 

 完全なる獣と化した左腕が反乱する。

 宿された残る四体の悪魔が氾濫する。

 最早、主の施した拘束は破綻する。主からの命綱を手放してしまえば、この激流に呑まれて二度と戻らないような悪寒。悪い予感は現実になる。

 だが、もう限界だ。

 これ以上は抑えられないし、これ以上は無視できない。

 『首輪』に手を掛ける。

 唯一の打開策が、今か今かと解放を待っている。

 壊れてしまうのならば、せめて自分の手で……

 

 ―――首輪を掴む右手が、震える。

 

 武者震いなどとはとても呼べない。

 どれだけ覚悟しても恐怖心は消え去ってはくれ

 

 今の己は、主に助けられていなければ半死半生。

 その状態で、この醜悪な痕を晒して、獣になろうものなら、一気にその傷口は開くであろう。

 いや、それよりも。

 

 ―――いつまで、自分は自分でいられるか、と。

 

 怖いのはただ一つ。

 この身体が壊れることではなく、心が狂ってしまうこと。

 

《古き真祖の時はこれより終わりを告げ、新たなる時代が始まる。この、咎神も真祖も超えた存在となる、血途の名の下に》

 

 “創造主”の声が、やけに遠くから響いた。

 

《私が見つけた第八の大罪。すべてを受け入れるには人間の肉体ではできない。けれど、魔族では飼い馴らすことはできない。

 求められるのは、生命力の質。

 量だけなら無尽蔵に穢れた“負”の生命力を垂れ流す蝙蝠で十分。“正”と“負”、両方を併せ持つ“混沌”の生命力こそ私が欲したもの。

 ふふふ、魔族と人類は交配して子をもうけることは可能だけど、必ず人類か魔族のどちらかに性質が傾いてしまう。『混血』とは、本来ありえざる存在で、自然界では認められてない―――私だけにしか創ることのできない》

 

 死に向かいつつある自分と向き合いながら―――

 

《そろそろ我が最高傑作を完成させたいけど。新たなる神となる私に相応しい土台でありながら、(ウツワ)に忌まわしい思い出などしみつくなど許せるものではない。この際だから、この魂を移す前に、すべてを白紙になってから上書きするとしましょう。

 汚れた装束の洗濯を待つように、“九番(これ)”の自我ごと消して―――》

 

 南宮クロウは『首輪』を、ついに外す。

 

 

 誰もいない島、お月様も見てない夜で、良かった。

 

 

「契約印ヲ解放スル」

 

 

 文言は、温度のない声色で紡がれた。

 

 

四年前 ゴゾ島

 

 

 欧州マルタ共和国。

 地中海のほぼ中央に位置する島嶼国家で、変化に富んだ海岸線と遺跡が名所な観光地として有名な島。

 島内の各地には地下墳墓や環状列石、さらには人類最古とも言われる新石器時代の巨石建造物が数多く残されていて、その如何にして当初の人々が関わってきたのかという歴史背景はまだ解明されておらず、今も多くの謎に包まれてる。

 

 そんな最古の遺跡が眠る島に、香港からイタリアと経由してきた子供たち二人。

 男の子は小学生を卒業した直後で、女の子の方は小学生の最高学年の6年生にあがったというところ。

 彼らは一歳違いの兄妹であり、ただし同行者に父母の姿はない。

 多国籍企業に勤める母親にフィールドワークで世界各地を飛び回る父親と、やたらグローバルな両親に挟まれて育った兄妹は何度も海外旅行を経験していて、旅慣れしている。遠路はるばる日本から旅してきたが、地図が読めずに迷子になったり、子供たちだけでパニックになったりしておらず、両替にも手間取ることなく、ごく普通に落ち着いてたりしている。その年代の割には、だが。

 

「うわぁ……! 見て、古城君。外国だよ外国! 外国の人がいっぱいだよ! 看板も全部外国語だよ!」

 

 11歳になる妹は、長い時間閉じ込められていた飛行機の機内から解放されて、空港の到着ロビーに出るなり、人目を憚ることなく歓声を上げる。

 

「久々だねぇ、この雰囲気!」

 

「まあ、外国だからな……つか、ここじゃ俺たちの方が外国人だろ」

 

 二人分の荷物を背負う兄は、妹のはしゃっぎっぷりに若干の恥ずかしい思いをしながら、とりあえず嗜めようとするが、

 

「どうしたの、古城君? 元気ないね? あ、屋台発見! 美味しそう! ビスコッティ! ビスコッティください! 4個! クワットロ!」

 

 見事なまでの順応ぶりで現地入りして早速馴染んでる妹は、構内の売店で店員と値引き交渉など講じたりしていて、さらには他の旅行者に頼まれて一緒に写真に写る始末である。

 

「古城君元気ないね。折角の海外旅行なのに、楽しまないともったいないよ。ビスコッティ食べる? 半分上げようか?」

 

「いや、いい。てか、おまえ、あんだけ機内食を喰っといて、まだ食べるのか」

 

 まったくもって元気いっぱい。

 格安の航空券でやりくりしたため乗り継ぎが多くて、日本とローマの時差八時間、まだ時差ボケしてる兄は体がだるくて頭は眠い。

 

「大体海外旅行って言っても、親父の仕事の手伝いじゃねーかよ」

 

「……そうだよね。ごめんね、古城君。付き合わせちゃって」

 

 兄の苦労性を思い、テンションを落としてしまう妹。父親に会うための旅行だが、正確に言えば呼ばれたのは妹だけで、兄はその付き添いだ。けれど兄が面倒事を請け負ってるのは自分の意思で決めたことであって、妹にまで気を遣わせるつもりは毛頭ないのである。

 

「おまえが謝ることはねーよ。で、これからどうすればいいんだ?」

 

「えっとね、牙城君のお友達が迎えに来てくれるって。航空会社のカウンターの近くで待てってくれてるはずなんだけど……」

 

 あ、地図をもらったんだ、とコートのポケットを妹が漁ったところで、ドン、と兄の肩に乱暴にぶつかる小柄な外国人の男性。

 

「Scusi―――」

 

 年齢は30代前後で、やけに地味で目立たない服装の男。

 どういう意味は聞き取りできないけれども、それでも大げさなまでの肉体言語(ボディランゲージ)で謝っていることはわかる。

 なので、兄も旅行ガイドに記載されていたイタリア語の基本用語をうるおぼえながら使って返事をする。

 

「あ、すんません……えと……ミディスピアーチェ《こちらこそごめんなさい》……?」

 

「Huh…Di niente.Buon viaggio,stronzo―――」

 

「あー、どもども、グラッツェ《ありがとう》、グラッツェ《ありがとう》」

 

 歯を見せながら笑顔で手を振って別れる男、それを兄は答えて手を振りかえして―――妹が、気づいて声を上げる。

 

「古城君、荷物―――!」

「え……?」

 

 途端、逃げ出す男、引ったくり犯。航空券にパスポート、それに現金カードその他諸々の入った兄妹の手荷物を肩がぶつかったその一瞬に奪っていた。

 

「あの野郎っ―――!」

 

 すぐさま兄も追う。熱中したミニバスで鍛えられていたか、相当に足が速い。だが、それは引ったくり犯も同じで、それも大人と子供だ。それも、空港の外に出られてしまったら、土地勘のない兄妹が捕まえるのはほぼ不可能になる。

 間に合わないか―――そう、絶望しかけた時、ひとりの旅行者が引ったくり犯の前に立ちはだかる。兄よりは小さく、妹と同じくらいの背丈の子。ただ、ぶかぶかの帽子に首巻、それにコートを羽織っているため男女の識別ができないが、兄はミニバスで培った直感的に、身のこなしが男子だと予想する。

 

「―――Per Dio!!」

 

 それに対して、引ったくり犯はよける気はなく、ナイフを取り出した。速度を落とさずにまっすぐに突っ込んでいく。

 

「危ない! 逃げろ!」

 

 体格は大人と子供。ぶつかればひとたまりもなく、刃物に刺されれば致命傷となりかねない。兄が声を飛ばすも、間に合わず。

 

 衝突。

 そして、吹っ飛ばされて宙に浮いた―――引ったくり犯が。

 

「は?」

 

 厚着の子の手袋に包まれた右拳が、一瞬、ぶれたと思うと、引ったくり犯のどてっぱらが思いっきり突き上げられてくの字に。その衝撃に飛ばされ、宙空に身体を飛ばしてから、落下。兄の前に仰向けに倒れた、引ったくり犯が目を回して気絶している。

 

「―――と、凪沙の荷物、返してもらうぜ」

 

 荷物を奪い返した兄は、衝突の間際に引ったくり犯から掴み取った凶器(ナイフ)を左手で、ぽっきりと折る厚着の子に頭を下げる。

 

「ありがとな。おかげで助かったよ。それで、あんた、もしかして魔族なのか?」

 

 兄よりも小柄な体躯で、大人を吹き飛ばすほどの腕力。人間ではない。それに、顔はコートのフードの陰に隠れて見えないけれども、その首に大きな枷の様なもの――魔族登録証か?

 

「?」

 

 きょとん、と厚着の子は首を傾げる。

 兄の問いかけがわからなかったというより、どう応えたらいいかわからない風だ。

 そこで、兄はひとつ己の失言を悟る。聖域条約が発効して40年以上が過ぎたとはいえ、未だに魔族を嫌悪したり、恐怖する人間は少なくない。だから、その正体がばれるのが不安なのだろうと、兄はその心境を予想した。

 

「そうだよな、この島って『魔族特区』だし、いてもおかしくないっつうか……ああ、そうじゃない。俺は、あんたに感謝してるんだ。おかげで、荷物を盗まれなかった。あ、えーと、グラッチェ《ありがとう》」

 

「??? ぐら、ちぇ……?」

 

 オウム返しする厚着の子。

 あれ? この島の現地民かと思ったんだが、今の様子は言葉が通じてないのか?

 

「古城君!」

 

 そこで妹が息を切らせながら、ようやく兄に追いついた。兄の無事を確認した妹は、もう、と拗ねたように眉を吊り上げて、

 

「無茶しないでよ。こんなところで怪我したらどうするの!」

 

「大丈夫だよ。手伝ってくれた奴もいたしさ!」

 

「え、っと、その子?」

 

「ああ、そうだ。引ったくり犯をワンパンチでやっつけたんだ」

 

 くんくん、と厚着の子から鼻を鳴らす音が聞こえる。それから、フードに隠れて視線は見えないけど、何やらじーっとこちらを見てる気配。意思の疎通に困っていた兄だが、それに妹は何やら察したようで、

 

「ありがとう。お礼に、ビスコッティあげる」

 

「!」

 

 ぶんぶんと頷いて、妹から分け与えられたイタリアの伝統菓子の固焼きビスケットをいただく。一口食べて、それでこちらにまた一度ぶんぶんと感激したように首を振って、それから、ぽわーっとした幸せを満喫してる空気を醸し出しながら、もぐもぐ美味しく食べる。なんだか、大げさな反応だな、と兄は呆れつつも、妹は、うん! 美味しいよねビスコッティ! と明るい声で言ってから、

 

「ねぇ、その首輪って、もしかして登録証なの?」

 

「?」

 

 その問いかけにまた首を捻る厚着の子だが、ごっくんと呑み込んで食べ終わってから口を開いた。

 

「首輪、ご主人、もらった。オレ、サーヴァント、魔族半分」

 

 驚く兄。片言だが、日本語が通じるのか。ただ、あまり意味が解らないけど。

 

「うーん、よくわからないけど、すごいんだね! 私と同じくらいなのに、大人を倒しちゃうなんて、びっくりだよ。何か武術とかやってたりするのかな。それとも魔術。それからその厚着って、この島の日差しが強いから? 日焼け対策?」

 

「う。あ……」

 

「その辺にしとけ、凪沙。初対面だし、それにまだ日本語に不慣れな感じだろ」

 

 ものすごい早口で質問を始めた妹を、兄は嗜めて、それから苦笑交じりに厚着の子に向けて、

 

「わるいな。こいつ、無駄に口数が多くて。……それで、あんたはひとりなのか? 連れとかいるのか?」

 

「ん。ご主人。あっち」

 

 指差す方を見ると、そこには、妹や厚着の子よりもさらに小柄な東洋人の少女がいた。フリル塗れなドレスを纏ったその姿は、美しい人形を連想させる。

 

「勝手にはぐれるな馬鹿犬。それとも、その首輪にリードでもつけないといけないのか」

 

 その豪華なドレスを着飾った少女は見た目の年齢はこちらよりも幼いのに、口調や態度は傲慢で偉そう、けれどもそれが妙にしっくりと似合っている。

 どうやら厚着の子の知り合いのようだし、ひょっとして姉弟なのか、と兄は予想。

 そんな少女は、厚着の子の口元に食べかすがついているのを見咎めて、

 

「どうやら、世話になったようだな、小僧。こいつは、食欲は人並み以上で、まだ人並みの常識が身についてない。この前も勝手に店前に並べられていた売り物を買わずに齧ってな……

 代金は私が払おう。いくらだ」

 

「いや、いいよ。助かったのはこっちの方だ。荷物を取られちまった引ったくり犯を倒してくれた」

 

 ほう、とまだ昏倒中の引ったくり犯を見て、少女は美しく笑う。兄はその見た目に反して態度がでかいが、妙な威厳と貫禄のある少女の態度が憎めずに、思わず苦笑してしまう。

 

「それで、あんたらは何者なんだ? ただ者じゃないってのはわかるんだが……」

 

「詮索するな。それより、面倒事に関わりたくなければとっとと行くと良い。ほれ、迎えが来たようだぞ」

 

 引ったくり犯撃退劇は、結構目立っていたようで、周囲がざわついている。ただ無題に注目を集めたのはこのドレスの少女のせいでもあると思うのだが。

 これ以上目立つ前にこの場を退散した方がいいかと兄も同意して、その時、野次馬たちをかきわけて兄妹にひとりの女性が近づく。

 

「―――失礼ですが、暁凪沙さんではありませんか?」

 

 父親が寄越してくれた現地のガイド。兄妹がそちらに視線を向けて―――その視界から外した一瞬で、ドレスの少女と厚着の子は姿を消していた。まるで虚空に溶け込んだかのように、何の痕跡も残さずに―――

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

 軍用駆逐艦に匹敵する、破格の規模のメガヨット。

 大型船舶の寄港が多い絃神島でも、特に人目を惹きつけるこの豪華客船は、『戦王領域』の貴族アルデアル公が黒死皇派事件で占領された外洋クルーズの次世代機『オシアナス・グレイブⅡ』。

 

 つまり、ここは絃神島にありながら『戦王領域』の領地であり、日本国の法律の適用されない治外法権―――国家機関である獅子王機関の一員が気軽に立ち入っていい場所ではないのである。

 

『―――なんで、アルデアル公のメガヨットに先輩たちがいるんですか?』

『私や雪菜が乗りこめないようなところに<空隙の魔女>を連れて行くのよ? 馬鹿なの? 灰にされたいの!?』

 

 というわけで、後輩に続いて独走し、独断でヴァトラーの誘いに乗った古城へ獅子王機関のお二人はお怒りである。

 けれども、古城は何も豪華クルーズ船でのんびり楽をしたいと思って避難したわけではないのだ。

 

「仕方ねーだろ、ヴァトラーのアホは、那月ちゃんを囮にして脱獄囚を誘き寄せるつもり満々なんだから。あのまま街中にいるよりは、海上(こっち)の方がまだ安全だと思ったんだよ!」

 

 <監獄結界>の解放を望んでいた戦闘狂は、脱獄してきた強者との戦いを望んでおり、その脱獄囚が釣れる南宮那月を保護するのは都合のいい展開である。

 どうあっても、<蛇遣い>が参戦する以上、魔導犯罪者らと遭遇すれば、激しい戦闘となるだろう。被害は相当なものとなる。だから、防犯設備が整っているが、人が密集しているキーストーンゲートに滞在するより、何もない海の上の方が古城にとって好都合だ。

 

『それはまあ、たしかにそうかもしれないけど……』

 

「まあ、こっちも心配を掛けちまって悪かったよ」

 

 古城の判断がそれなりの合理性に基づいているのだと、雪菜と紗矢華も一応は認めた。

 古城も彼女らが必死に行方を捜してくれたことはちゃんと理解はしている。

 

『それで、藍羽先輩と南宮先生、それにクロウ君は無事だったんですよね?』

 

「あー、とりあえず浅葱と那月ちゃんは大した怪我はないみたいだし、脱獄囚とぶつかったクロウの方も問題はないそうだ。那月ちゃんの場合は、あれを無事っていえるのかわからないけどな」

 

 歯切れ悪く答えながら、古城は見る。

 

「クロー、ブラッシングしてあげるねー」

「痛い痛い!? 思いっきり髪を引っ張ってるの、あだだっ!? 小っちゃくなってご主人が優しくなったと思ったら、全然優しくないぞ!?」

 

 歳がおそらく10にもなるまい、ただでさえ手のかかりそうな年代の小さな女の子が、子犬の面倒を見るように後輩を可愛がっている光景。後輩は、つい先ほど極悪な犯罪者を相手取っていたそうだが、そのリトル・モンスターに泣かされている。

 

「一応……平和だ」

 

『一応って……随分と賑やかな声が聞こえますけど』

 

 ちなみに古城の電話口から聴こえるのは、救急車や消防車などのサイレンや喧噪、今雪菜らが連絡を掛けているキーストーンゲート付近はまだ混乱中のようだ。

 

「サナちゃんがクロウとスキンシップしてるんだよ」

 

『サナちゃん……ですか?』

 

「幼いバージョンの那月ちゃんの略称で、サナちゃんだ」

 

『ああ……なるほど、そういうことですか』

 

 雪菜らもまた、テレビで浅葱と一緒に幼児化した那月の姿を確認している。

 今の説明で大まかに状況を察したのか、雪菜が納得したように息を吐く。

 

「むー、クロ、癖っ毛だからブラシが梳きにくい……えいっ」

「ぎゃー! ぶちっといったぞ!? ご主人、ブラシがへたっぴなのだ!」

「サナ、へたっぴじゃないもん。クロがアスタルテみたいに真っ直ぐだったら簡単だったの……にっ」

「ぎゃーぎゃー! また強引にいったのだ!」

「もー、クロ! 動いちゃ、めっ! 次動いたら針を千本呑ませちゃうからね」

「違うぞご主人。言うこと破ったらハリセンボンをご馳走するんだったぞ」

 

 何の前触れもなく途端に、現在精神年齢が小学低学年レベルな主従の会話は古代語のルーツを求めてジグザグに脱線している。独特でも論理はあると思われるのだが、直感や感情によっていきなりバイパスしていくのがセオリーならぬセオリーであり、一瞬でも見逃していれば、完全に展開がわからなくなる。

 そして糸口が見えなくなるので会話に参加することもできないという。

 

「しゅっしゅっ―――!」

「いだっ、いたたっ!?」

「クロ、静かに。サナ、集中できないじゃない」

「うー。何か理不尽なんだぞー」

 

 しかしながら、正しいのは主に決まっており、主の決定ならばそれが黒であっても白になってしまうのだ。

 

『悲鳴を上げてますけど、助けに入らなくていいんですか』

 

「普段できないようなことをやってるんだ、水を差さないでおいてやろう」

 

 けして古城も小さくなってまで担任教師に苛められたくないからというわけではない。

 後輩ひとりを犠牲にすることで、古城もこの通り電話できるだけの余裕ができるわけで、浅葱も脱獄囚に追われて汚れた服を着替えに行けるという。

 やれやれ、と雪菜は弱々しく溜息を吐いて、

 

『それで……せめて藍羽先輩だけでも、自宅に送り届けた方が良かったんじゃないんですか。そこにいたら、確実に戦闘に巻き込まれてしまいますし』

 

「それは俺も同感なんだが」

 

 ヴァトラーに誘いを掛けられたとき、浅葱もその場にいた。

 それで『戦王領域』の有名な貴族と知人関係な古城を怪しみ、どうにか説得して誤魔化そうにも頭の回転で浅葱に勝てるわけもなく、またサナが『ママ』と懐いてることもあって、結局断り切れずについてきてしまった。

 

『とにかく、私と紗矢華さんもなるべく近くまで行きますから。せめてこれ以上、問題をややこしくしないでくださいね』

 

「ややこしく……ってなんだ?」

 

『つまり、その……藍羽先輩の前で吸血衝動に襲われたりとか……』

 

「―――するかっ!」

 

 確かに古城には前科があるが、それでも分別くらい弁えている。

 その心配はいい加減お門違いであるといつになったら理解してもらえるのだろうか。

 

『……だといいんですけど。それから、ちょっとクロウ君に―――』

 

 電話を代わってください、と言い切る前に、

 

「―――誰と電話をしてるの?」

 

「うおわ!?」

 

 突然、声を掛けられて古城は間抜けな悲鳴を上げてしまう。

 振り向くとそこには話題に出ていた人物こと浅葱が立っていた。

 

「何か私の名前が聴こえた気がするんだけど……」

 

「あ、浅葱!? 着替えてこなかったのか? ヴァトラーのとこの侍女の人が服を貸してくれるって言ってただろ?」

 

「そうよ。そしたら、お風呂を用意してくれるって言ってたから、サナちゃんも誘いに来たのよ」

 

「風呂?」

 

「船の中に大浴場があるんだって。半端ないね、ヴァトラーさん。流石領主。マジ金持ち」

 

 それには古城も同意である。

 戦闘狂的なとことか、同性愛的なとことか、性格に問題要素があり過ぎてつい忘れがちになってしまうが、れっきとした貴族で、その予測のつかない気まぐれな動向を常に注意しておかねばならないくらいの、国賓級の重要人物なのである。

 で、浅葱は間近で古城を見上げてくる。

 

「何で古城が、そんな人と知り合いなわけ?」

 

「あー、それは、その……」

 

「クロウも知り合いみたいだけど、あれは那月ちゃんの仕事だって納得できる。随分気に入られてるみたいだったけど」

 

 浅葱は古城が『世界最強の吸血鬼』であることは知らない。だから、どこにでもいる平凡な男子高生と思っているのだろう。今のところは、だが。

 

「同じ体質……じゃなくて、共通の話題的なものがあって、ちょっとな」

 

「……それって、クロウのこと?」

 

「あ、ああ、そうだな」

 

 ウソはついていない。

 けれど、何やら浅葱はそのヴァトラーを警戒している模様で、危険を承知で船に乗り込んだのもそれが要因の一つに挙げられるだろう。

 

「へー……」

 

 疑わしい半眼のまま浅葱は、ますます距離を詰めていく。

 理由はわからないがその雰囲気は、どこか追いつめられているような余裕のなさが感じられて……刺々しい視線が喉元に切先をあててくるレイピアのように、古城は迫力に圧されて壁際まで追い詰められる。

 

「あのね、古城……最近、あんたと話してると、あたしにだけなんか隠し事されてるような気がして、たまにすっごくムカつくんだけど」

 

「浅葱……」

 

 思いがけずに吐露された浅葱の本音。未だに告白の返事も返せずにいる彼女に、古城は激しい罪悪感を覚える。そんな古城の表情を観察してか、浅葱は、まあいいわ、と軽く肩をすくめて、追い詰めたところをあっさりと解放する。

 

「どうやら、まだ電話が繋がってるみたいだし、ごめんなさいね。―――でも、お風呂の後にはきっちりと聞かせてもらうから」

 

 それから、行こサナちゃん、と呼びかける浅葱。

 ブラシをしていた小さな女王様は、うん、と頷くと頭がぼさぼさしてる後輩の方を向いて、

 

「クロも行こ。洗ってあげる」

 

「うー。よりひどい目に遭う気がするのだ」

 

「あんまりはしゃいじゃダメよー。広いとはいえ他所様のお風呂なんだから」

 

 ごく自然に並び立つ3人に―――古城は待ったをかける。

 

「おい、それはまずい。っつか、浅葱も止めろ! 注意するとこが違うだろ!?」

 

「あー……やっぱそうよね。クロウって、男子だってのはわかってるんだけど、この前、制服貸して女の子のメイクしてあげたら思いの外似合ちゃっててさ。それにサナちゃんに可愛がられてるのを見てると飼い犬(ペット)みたいに認識しちゃうのよ」

 

「だからって、常識を忘れてんじゃねぇよ!」

 

 女装が似合うのだとしても、絶対に越えちゃいけない壁がある。性格は信頼できるものでも、後輩の性別は男性に分類される。年齢も男女混同禁止の7歳を倍は優に超えている。それで一緒に風呂に入ろうなどまずおかしい。

 けれど、うっかり行きそうになった後輩の手を引いて引きとめる古城、また逆の手をぎゅっとしがみつかれた。

 

「やー! クロは私が面倒見るのー!」

 

 上目遣いで睨みを効かせるサナちゃん。残念ながら、いつものカリスマなオーラのない彼女を臆すことはないが、そう目端に涙を溜められると古城も弱い。

 

「いや、でもな、クロウは男で」

「クロは私の使い魔(サーヴァント)なの!」

 

 潤む目線。向けられるだけで罪悪感がすごい。古城は頬に汗を垂らしながら、頭を抱えた。

 この娘が、古城の担任教師で、指折りの攻魔師であり、真祖よりも真祖らしい風格を備えた大魔女だということを理解しているのだが。

 

「クロウからもなんか言ってやれ」

 

「うー。小っちゃくなってもご主人はご主人だから逆らえないのだ」

 

 忠犬な後輩にあっさりと首を横に振られる。けれども、幼くても主と認識はしていても、対応には困ってるようで眉はハの字である。

 このままでは世界最強の吸血鬼も押し切られてしまいそうになるが、浅葱が脇に手を入れて持ち上げた。そして、抱きしめてその体温で安心させると力が抜けたようで、無理なく後輩を掴む小さな手を外してしまう。

 

「ママ!」

「はいはい」

 

 流れるように運ばれてしまうサナは、目を白黒させる。だが浅葱は落ち着き払った様子でその場に膝をつくと、優しく諭すように目線を合わせた。

 

「サナちゃん。クロは男の子だから一緒にお風呂に入っちゃダメなの。それに、サナちゃんもまだ一人で洗いっこできないでしょう? それでクロの面倒が見れるの?」

 

 浅葱が言うと、サナは残念そうに口ごもる。

 

「……うん、サナ、まだ一人で身体洗えないの」

 

「よし。じゃあ、ママがサナちゃんを洗ってあげる。だから、クロは古城に任せましょ」

 

 浅葱がぽん、とサナの頭を撫でる。すると、小さくこくんと頷くサナ。

 何とも鮮やかな手管で、いとも簡単に宥めてしまった。

 その光景を一枚の絵を眺めるように見ていた、古城はつい苦笑してしまい、

 

「なんか、そうしてると本当の母親と娘みたいだな」

 

 可愛らしい子であるサナに、意外にも甲斐甲斐しく面倒を見る同級生。その年齢は聊か若いと思われるが、確かに母親してる。

 それは浅葱本人も柄ではないと思っているのか、少し怒ったように顔を赤くして、

 

「ちょっとやめてよね。だいたいあたしの娘なら、父親はあんたってことに―――」

 

「え?」

 

 口を半端に開けたまま浅葱が言葉を止める。ほとんど言ったも同然のところで切ったので、古城も聞き咎めて、呻いてしまった。自らの失言を悟ってしまい硬直する浅葱に、古城も古城で何を言ったらいいかわからず、ペット的なポジションの後輩はこの場の空気が妙な方向に流れていかないようフォローすることはできない。

 いくら幼児化しているとはいえ、担任教師の目の前で、不純異性交遊を疑われるような発言は控えるべきであろう。

 

「こ、この状況ではって意味よ。あくまでこの状況ではそうなるってだけ」

 

「あ、ああ。そうだよな」

 

「そう! だから……じゃ!」

 

 と言って、サナを抱いてそのまま部屋を出て言った浅葱。

 その顔が赤かったことは見なかったことにしよう。たぶん、古城も今は鏡を見れそうにない。

 

『―――早速、ややこしいことになってるじゃないですか先輩』

 

 そんな火照った頬を冷ます言霊が、これまで繋がっていた電話口から漏れ出てきた。

 待っている間、随分と不機嫌を溜めこんでいたようで、ついオーラを漂わす携帯から距離を取ってしまう。

 

 

『大事なお話があったんですが、その前にクロウ君と先輩には“少し”注意をしないといけないようですね』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――空が落ちぬ限り、この誓いを破ることを禁じる。

 

 

 北欧地方での古い言い回しだ。

 それを、祝詞を紡ぐよう厳かに巫女が口にするのなら、それこそ神話の一幕の如き気配を宿す。

 

『現在のあなたの状態と状況を鑑みて、急を要する事態と判断。獅子王機関の舞威姫、並びに剣巫が手を打たせてもらうわ』

 

 スピーカーモードにした電話の向こうから、獅子王機関の舞威姫の宣告。

 

『南宮クロウ。これから、あなたには<禁忌契約(ゲッシュ)>を結ばせてもらうわよ』

 

 『No.013』の魔導書を介して行われるそれは、禁忌を自らに課すことで、恩恵を得るが、背いた場合は禍が降りかかる契約呪術。

 禁忌の誓約が厳しいものであるほど、受ける恩恵も強くなるというが、ただし、諸刃の剣だ。多くの英雄は敵にその禁忌を破らされることで破滅をしていった……

 

「なあ、煌坂、それって本当にしないとダメなのか?」

 

『南宮那月に封印されていた<血途の魔女>が、南宮クロウの身体を狙っている。そして、それが完成すると真祖を殺し得る脅威となる―――脱獄犯に<書庫の魔女>もそうだけど、その子も見過ごすことはできないのよ』

 

 <黒妖犬>が敵にまわってしまう危険性。

 それは、古城と雪菜二人がかりでも止めることはできなかったことからも実証されており、制止させた南宮那月も今は頼りにできない。

 ならば、最悪を予期して、最善の手段を模索する紗矢華の言は正しく。

 

『これは、アルディギアの第一王女から提案されたことなの』

 

「ラ=フォリアが……?」

 

 そして、<禁忌契約>についても、別れる間際に、紗矢華に提案をしたのだ。彼女はそれに乗った形となる。

 

『そう。今回の件で南宮那月の管理能力の信用が落ちたと獅子王機関が判断を降そうものなら、民の生活を預かる王族として、一枚噛ませてもらう―――それが、この魔導書(No.013)の一頁を譲り渡すための条件だったのよ』

 

 その歳で親善大使をこなせるだけであって、政治的な判断は迅速、余計な介入をされる前に先手を打ち、その弱みを突いた。

 たとえ、船舶であろうと他国の外交特使の所有する領土に立ち入るのを躊躇わなければならないくらいだ。

 この交渉により、紗矢華や雪菜ら現場の人間よりも上の――『三聖』であっても、獅子王機関の関与の及ばない他国の政治を担う王族が口を挟んでくるとなると、独断は許されなくなり、都合の良いように駒にさせることはできなくなる。

 

「? オレ、故郷はアルディギア(あっち)だけど、絃神島(ここ)の住民じゃないのか?」

 

『向こうでは、自国民と認められているそうよ』

 

 実際、この絃神島にいるより、長い間北欧の森に住んでいた。

 

(手回しが良過ぎるだろ、いくらなんでも)

 

 当人も知らぬ間に国民に認められているとか、前のスカウトは冗談ではなかったのかと古城は、現代の美の女神(フレイヤ)様のいい笑顔が思い浮んで軽く頬を引くつかせる。

 

『それで、前回でその子にはちょっとやそっとの拘束じゃ効かないのはわかったから、魔導書の助けを借りた<禁忌契約>くらいでないと意味がないわ。

 そのくらいの材料がないと、獅子王機関としては、監視下に置くか、それとも討伐するかの手段を取らざるをえなくなるのよ』

 

 黒死皇派事件で迫られたのと同じ選択。

 もし、これでまた逃亡なんてして、それを事前に察知しておきながら許したことになれば、『舞威姫や剣巫の手には負えない』などと危険対象としての評価を上げてしまうことになる。

 だから、どうしても『舞威姫や剣巫で対処できる』という『三聖(トップ)』が静観できるラインにまで持っていかなければならない。

 

「わかったのだ。やってくれ」

 

「クロウ……」

 

 どうしても心配してしまう古城だが、後輩は頷いてその提案を了承する。

 

「オレも前回は反省したんだぞ。それに、こうやってやる前に選ばせてくれたんだ」

 

 舞威姫は、呪術、そして、暗殺の専門家。

 相手に気づかれることなく、呪いをかけるなんて芸当は可能だろう。だから、これが紗矢華なりの譲歩であって、クロウもそれに応えたいと思った。

 

「電話からじゃ“匂い”なんて嗅げないけど、それでも煌坂や姫柊、それにフォリりんが提案してくれたなら、オレはそれで十分なのだ」

 

『本当、お気楽というかなんというか、もっと、こう頭悩ませてほしいんだけど。じゃないと、難しく考えてるこっちが溜息つきたくなりそうで、まあ、いいわ……じゃあ、獅子王機関とアルディギアからの制約と誓約を提示するわよ』

 

 託宣を告げる神官の如き厳かな声音で、告げる。

 

 『存在を知覚した巫女には、三撃を受けるまでは攻撃してはならない』

 この制約を破れば『半日、人間としての力である超能力を含めた五感を麻痺し、霊力魔力の一切を練れなくなる』誓約を受ける。

 

 『王族からの頼みごとを、二度続けて断ってはならない』

 この制約を破れば『一日、獣王としての力である死霊術と獣化を封印する』誓約を受ける。

 

『―――以上、こちらが提示するのはこの二つよ。……それで、<禁忌契約>を結べば、今私が有する魔導書の一頁は灰となって、使い捨てることになるわ』

 

 その内容も、組織の力を借りずとも相手できるよう、ハンデを課した、と言ったところか。

 誓約もその命を奪うものほどではないし、彼女らとしても、これだけの条件があれば、“対象を殺害せずとも無力化できるだけの手加減ができるライン”、なのだろう。三手ももらえて対処できないようでは、それは逆に獅子王機関の能力不足であると評価を降される。

 

 ……でだ。二つ目のアルディギアからの要求。もうあえて突っ込まないが、王族であり巫女である誰かさんから、『自分に攻撃しなさい』なんて命令を下されてしまえば、どちらか誓約を喰らう羽目になる

 絶対服従ではないのは配慮されたんだろうが、これは彼女の都合のいい方向に流されそうではないか? とは思うけれども、

 アルディギアの現国王は大変娘を溺愛しているようで、そこらの馬の骨が付き纏うようなら戦争も辞さないレベルなのだとか。それを抑えるための材料として、これくらいの要求が最低限必要なんだろう。

 それに、

 

(まあ、たぶんそれだけじゃなくて、一緒に那月ちゃんのとこに叶瀬も住んでるからな……)

 

 女児が皆、高い霊媒素養を持つ巫女である王家の血筋を引くが、無力な夏音。そんな彼女を傍に置いている不安を拭い去るためのものでもある。

 

「おう、オレ、頑張って約束守るぞ」

 

「またお前はあっさりと……」

 

『もし、契約を結んで不都合があった場合でも、南宮先生が健在であるなら、<禁忌契約>を解除、もしくは緩和も可能です。これはあくまで南宮先生が対処できない事態を想定したものですから』

 

 契約に関する魔術であり、使い魔の支配権利を正式に所有している大魔女が、力さえ戻ればまた元に戻ることもできる。あくまでこれは一時的な措置なのだと、雪菜に説明されれば、古城も長く嘆息を吐いて納得しよう。後輩の安全を保障するためというなら―――これは悪くない話である。契約も一生ではなく、頼りになる主の不在時に限定されるものであり、解除もできる。それならこの事件が解決して担任が元に戻るまで、契約を結ぶというのは選択肢として有りだ。

 

『それで、クロウ君。先輩も。二人で握手してもらえませんか?』

 

「わかったぞ」

「え? なんでだ?」

 

『お忘れですか先輩。クロウ君と魔導書を使って契約を結んだのは、優麻さんでしたが、身体は――使った魔力は第四真祖(センパイ)のものなんです』

 

 そうだ。

 肉体だけであったとはいえ、暁古城の第四真祖の魔力で、魔導書『No.013』を発動したのだ。

 

『だから、私たちがその場にいないのもあるけど、元々繋いである暁古城の魔力を使ってやる方が手間が省けてやりやすいのよ』

 

「いや、っつっても、俺、魔導書とか魔術とか全然わからねーぞ」

 

『別に難しいことは要求しないわ。ただ、魔力を流してくれればいい。雪菜が仕掛けてる監視探査の呪術を経由して、私が補助として入るから』

 

「そうか。細かいところは煌坂たちに任せて……って、何か今変なこと言わなかったか? 呪術がどうのとか……」

 

『―――先輩を監視する任務のためです!』

 

 疾しいところは何もないと、電話口の向こうで胸を張って言われる。

 

「ちょっと待てェ! 仕掛けてるって何だ!? 俺の身体に変なものでもやったの!?」

 

『変なものではありません! 今回のように身体を狙われる事態になった時を想定した対処策です。先輩のプライバシーは守りますから、安心してください』

 

「安心できるかっ!」

 

 後輩に呪術が掛けられることに悩んでいた古城であったが、自分はすでにやられていたなんて(それも当人の断わりもなく)……

 クソ真面目な彼女が100%の善意でやってることはわかっているが、獅子王機関は国家公認ストーカー養成所なのか?

 身体のどこに仕掛けられているのかもわからないだけに、どれだけプライバシーが暴かれることになるのだろうかと非常に気になるし、風呂場やトイレの中まで把握されるとは思いたくない。いくら相手が綺麗な女の子であっても、覗かれて喜ぶ露出壁は古城にはないのだ。

 

「なあ、これも解除できるんだよな!? あくまで一時だけの緊急対処なんだよな!?」

 

『そんなことよりも先輩、早く契約を済ませましょう』

 

 雪菜が、もう一度咳払いをしながら促す。古城は渋面を作って半目で繋がっている携帯を見る。

 この件についてはあとできっちり解消させるとして、とりあえず今は好都合だと考えておこう。

 

『じゃあ、行くわよ……』

 

 深呼吸ひとつして、少し緊張した面持ちで、眷獣を出すときの要領で魔力を出してみる古城―――そして、詠唱が始まった。途端に向こうにある魔導書の一頁が光出し、次に古城の身体が、続いてクロウの身体も同じ色の光を帯び始める。電話の向こうで魔導書を読み上げる契約の呪文を唱えているのだろうが、素人の古城にはさっぱりと聞き取ることはできず、念仏のように流していると、

 チャリ、と小さな音を古城は拾う。

 見ると、後輩の手首に見慣れないアクセサリーが巻かれてることに気づく。

 

「クロウ、これは……?」

 

「ん。凪沙ちゃんにもらったんだ。お守りだぞ」

 

 黒猫のシルバーのブレスレット。そういえば、凪沙の格好が今日は黒猫のコスプレだったなー……いや特別意味があるようなことではないと思うけど。

 なんとなく、兄は目についてしまうもので。

 それから、母親の忠告の後、この後輩を追って外に飛び出しかけた妹のことを思い出してしまい、ふぅ、と息を吐く。

 

「……約束しろ」

 

「ん。古城君もか?」

 

「いや、単なるお願いみたいなもんだ」

 

 後輩と繋いだ手を握り締める力を目一杯入れて、

 

「―――凪沙を泣かせるような真似をするな」

 

 吸血鬼と獣人種、種族差から力ではかなわないが、それでも何かを一緒に掴み篭めたその握力に、クロウは驚いて、それから応えるように古城の手を強く、固く握る。

 

「うん。わかった」

 

 後輩に正しくその意が理解できたかはわからないが、それでも破りはしない。

 不思議と、そう、古城は確信することができた。

 

 

四年前 妖精の柩

 

 

 地中海に潜んでいるという、黒死皇派の残党討伐。

 

 それが、『戦王領域』の<蛇遣い>が、<空隙の魔女>にした依頼だ。

 <監獄結界>の看守であり、魔族殺しでかつて名を馳せた大魔女はこのように人の手に余る凶悪な魔族の討伐にたびたび駆り出されることがある。

 今回もそうだ。

 たまたま同じ欧州地方の北欧の森で仕事を済ませてから、それが森で拾った使い魔と関わりあるものだと知り、戦闘狂に使われるのはとても気に喰わないが仕方なくその依頼を受ける。そうして、日本の絃神島に帰る便を急遽変更して、このマルタ共和国ゴゾ島にやってきた。

 

 しかし、それに<空隙の魔女>をもってしても厄介な点が二つあった。

 

 まず、テロリストらが潜伏していたと思われる地点では、『戦王領域』と日本政府のごく一部だけが知る遺跡の発掘計画が行われており、そのため『旧き世代』の吸血鬼が眷獣を使って敷いた結界で魔術的に隠蔽されていた。それを見つけるにはその『旧き世代』と同格以上の力を要するということ。

 

 そして、黒死皇派の残党に、<死皇弟>ゴラン=ハザーロフがいたことだ。

 

 魔術を扱える古代種の末裔であり、獣王<黒死皇>の親族であるハザーロフは、死霊魔術(ネクロマンシー)を操ることで敵さえ殺して動死体(リビングデット)にして己の駒としていく不死の軍団を率いて、眷獣をも嬲り殺せる神獣となることのできる正真正銘の怪物だ。

 たとえ軍の護衛がいようとも<死皇弟>が襲撃すれば、その調査団の野営地(キャンプ)はひとたまりもなく壊滅するだろう。

 

 実際、調査団のひとり、暁牙城は死を覚悟した。

 神獣と化した<死皇弟>に立ち向かい、銀弾をお見舞いしてやったが、それでも撃退することはかなわず、一蹴される。

 魔族に比べて弱い人間の命など虫けらのように思われているのか、完全に止めを刺されずに見逃されたが、左腕の骨は折れて、全身は傷だらけ。血を流し過ぎたせいで酷く寒気を覚えていて、頭の回転も鈍ってきている。

 それでも、這ってでも進む。

 <死都帰り>――多くの仲間を死なせながら、いつも一人生き残ってしまう暁牙城の異名。だが、それを今回だけは名乗らせるわけにはいかない。ハザーロフが向かった先には牙城の命よりも大切なものがいる。仲間の『旧き世代』の吸血鬼が守ってくれるだろうが、それでも相手は神獣。力はあっても戦闘経験の乏しい彼女では荷が重すぎる。

 

「―――出遅れてしまったようだが、完全に間に合わなかったということはないようだな」

 

 そんなときに現れたのが、フリル塗れの豪華なドレスを着た、小柄な東洋人。人形を思わせる美しい顔立ちで、髪が長い。そして、真夜中だというのに、何故か日傘をさしている。

 そのゴシックな服装に、若いというより幼いと形容するべき顔立ち、しかし纏う気配は見た目不相応のカリスマ性を感じさせた。

 

「あんたは……<空隙の魔女>の南宮那月か」

 

 その異名を口にした牙城に、しかしドレス姿の小柄な少女は、ふ、と嘲るように小さく笑みを返す。

 

「どうやって、ここに? この遺跡はミス・カルアナの結界が張られているはずだが」

 

「なるほど、カルアナ伯の娘か。私でもいささか手間取るようなものだが、しかし、馬鹿犬には関係がない」

 

 この惨劇に、幸運なことがあった。

 

 それは、魔力を隠蔽する結界を張ろうが、魔力によらない探知が可能な超能力者であり、<死皇弟>以上の死霊魔術の使い手を<空隙の魔女>が連れていたことだ。

 

「安心しろ。<死都帰り>が<死皇弟>を相手に稼いだ時間は無駄にはせん。もうこれ以上の犠牲者は出さんよ。面倒な動死体も馬鹿犬が(だま)らせる」

 

 一匹の銀の獣人が、遺跡を縦横無尽に駆け巡り、調査団や民間軍事会社のスタッフらを救出しながら、死霊魔術をかけられた動死体らを、術式を解除して無力化し、眠らさせていく。

 動死体は体温も脈もなく、殺気を放つこともない故、その気配を探るのは難しく、この地下墳墓一帯が強力な魔力を蓄えているために、動死体に宿る魔力を感じ取ることもできず、攻撃されるまで敵味方の区別がつかない。だが、その仔狼は死体の“匂い”を嗅ぎ分ける。

 魔女もその神々が鍛えた封鎖を展開していき、テロリストの残党らを次々と捕縛していく。その神獣をも斃せる実力者の登場に驚きを隠せないが、その彼女が連れている子供の銀人狼は何者だ?

 

「ありゃ、何者だ。見たところ子供の獣人ってのはわかるが……」

 

「森で拾った私の使い魔(サーヴァント)だ。大飯ぐらいで世話の焼ける馬鹿犬だが、存外使える拾い物だったらしい」

 

「こりゃあ驚きだ。あの魔族殺しが魔族を飼うなんてな―――」

 

 牙城が心底意外そうな表情を浮かべたのを見て、那月は、ふん、と鼻を鳴らす。

 

「あれは、半分は魔族だが、もう半分は人間だ。狂った魔女の創った人造魔族だよ」

 

「人造魔族……だと、<第四真祖>と同じ……」

 

 これまでに記憶された知識が刺激される。

 だが、それをすくい上げる前に、事態は進む。

 

「―――ご主人、この中、朝、兄妹、いる」

 

 ぐるりと遺跡を一周して、動死体に黒死皇派の残党を鎮圧して戻ってきた仔狼が、主に報告する。それを聞いた牙城は、はっと顔を上げ、

 

「そうだ! 遺跡にハザーロフが―――!」

 

「何―――?」

 

 震動。地底より噴き上げる辺り一帯を焦土と化すほどの熱気―――それを一瞬で冷ました絶対零度以下の負の温度領域の冷気が呑み込んだ。

 この下で、地下墳墓で、超越した怪物同士が激突している。

 衝撃と、その急激な熱寒の影響で物質的に脆くなった遺跡が自重に耐えきれず、崩れ去る。

 そして、崩壊する地下墳墓より、漆黒の巨狼が姿を現した。

 咆哮の代わりに黒い爆炎(ブレス)を撒き散らし、崩落から地上へ脱出したその威容を晒す。

 <神獣化>した<死皇弟>。

 その獣気を仔狼は嗅ぎ取って、

 

「アイツ、もう、死んでる」

 

 通常、魔術とは、生命力を魔力に変換して行使するもので、その原則は、死霊魔術であっても当て嵌まっている。

 そして、生者が生命力を持ち、死者が生命力を失った存在であるなら、生者を死者に変える――つまり死んでしまえば、それまでの生命力の余剰が発生する。その余った生命力をすべて魔力に変換させて、死体となった自身に死霊魔術を掛けるのだとすれば、死者でありながら意志を持って動くことが可能ではないのか。

 

 けれど、それでも死んでいることに変わりない。

 そんな自殺をするような死霊魔術にいったい何の意味があるのか。

 ……まさか、この地下に、“死んでも殺されたくない”と恐怖するほどの相手がいたのだろうか―――

 

(さっき感じた強烈な魔力は“二つ”。こりゃ、『眠り姫』が、目覚めたのか……!?)

 

 この地下墳墓には、牙城が知る限り子供たちと女吸血鬼、そして、あともうひとり。

 女吸血鬼ならば、死霊魔術使いの獣人と対抗できるかもしれないが、相手は神獣であって、それを追い払えるだけの実力は残念ながら彼女にはない。

 ならば、この神獣が、死霊魔術の禁術を行使するほど逃げ帰るほどの可能性で思いつくのはひとつ。

 『十二番目』が覚醒したという証拠はないが、<死皇弟>を圧倒できたのはあの殺神兵器しか考えられない。

 何にしても、子供たちの安否は不明で、学者(こちら)にも予想のつかない事態に見舞われているだろう。

 すぐさま、この邪魔な死体をどかして、真下の死都へ向かわなければ―――!

 

「おい、<空隙の魔女>、どうやらあいつも黄泉から帰ってきたみたいだぞ!」

 

「ふん。ならば、地獄に送り返してやるとしよう」

 

 ぱちん、と魔女が指を鳴らす。

 文字通りに死に体の神獣をめがけて、弾丸のように銀鎖の雨をぶつけていく。

 同時に数十本の鎖が、ありとあらゆる方向から撃ち込まれたのだ。

 人間の反応速度で処理できる量をとうに超えている―――だが、相手は獣だ。

 的のでかい巨体でありながら、そのすべてを回避した。ほぼ最小限の動きでほとんどの鎖をすり抜け、黒い爆炎(ブレス)で残りの全てを焼き払う。

 

「―――<戒めの鎖(レーシング)>では捕まえられんな、これは」

 

 ただ鎖を放つだけでは俊敏さに追いつけない。そう判断して那月は即座に次の手を打つ。

 まるで凄腕の手品師のように、那月は掲げた日傘の中から、小さな獣たちを撒き散らす。見た目はクマのぬいぐるみに似た、二頭身の可愛らしい獣の群。だが、これは魔女の操る式神とでもいうべき、使い魔の一種ファミリア。

 ファミリアはファンシーな見た目に反した敏捷さで動き、そして、人間より遥かに優れた獣の感覚で、この神獣に追従する。肉薄し、迎撃するより早く自爆。ファミリアという自動追跡弾を喰らい、怒涛の爆風によろけた神獣。その足元に銀鎖が巻きつく。

 那月は虚空に展開するだけでなく、その地面の下にも銀鎖を張り巡らせて、蜘蛛の巣じみた罠を作り上げていたのだ。

 

「だが、一昼夜も馬鹿みたいに馬鹿犬に付き合わされてな。害獣駆除にはもう飽き飽きとしてる―――」

 

 暴れる神獣を縛る銀鎖が軋み―――しかし、耐え切れずに破損するより早く、那月は<呪いの縛鎖(ドローミ)>を実体化させていた。

 直径十数cm、長さ数十mにも達する、神々の鍛えた銀鎖をさらに一回り強靭にした鋼色の錨鎖。重量に至っては、何百tあるのか見当もつかず、その桁外れに巨大な錨鎖を鞭のように振るって、動きを止めた神獣を薙ぎ払う。

 

 だが、神獣の躰は、『旧き世代』の眷獣よりも硬く、そして、今は死体。

 その脚に強烈な一撃を見舞われて骨が折れた音がしたというのに、動く。筋肉だけで動くようにずるずると虚空へ引き摺りこもうとする封鎖錨鎖を振り切ってくる。

 鎖は、またも黒き爆炎に焼き消される。

 

「おい―――大言吐いておいてこれか<空隙の魔女>」

 

「ちっ、あれだけの巨大な物体を破壊するのは面倒だ。生きているなら心臓を刺してやれば終わるが、死者となればそうはいかん。腕がなくなろうと頭がなくなろうとおかまいなしだ。死霊魔術を解いても、かけ続けている状態であるなら上書きされて意味がない」

 

「わかっちゃいるが、こっちも手持ちの『呪式弾』もこの前、遺跡守護像(ガーゴイル)に使っちまった―――」

 

 身体の一部が凍りついていようが、焼かれていようが、折れていようが、死者の念で動く神獣。

 死者はすでに死んでいるから、殺せない。殺すのではなく、消し飛ばさない限り、それを止めることはできない。

 だからと言って、こちらも退くわけにはいかない。まだ地下墳墓に子供たちがいるのだ。こんなところでこの神獣を暴れさせて、遺跡を完全に崩壊されては中の彼らが危ない。

 その中で、ひとり前に飛び出た仔狼。

 

 

「アイツ、邪魔、なんだな―――」

 

 

 四足で這うように駆け抜ける。

 それは背をかがめて獲物に襲い掛かる、肉食獣の在り方に似ていた。

 ぞおっ、と逆立つ銀の毛並みがその根元から金色に染まっていく。

 変生。その躰が巨大となり、強大となる。疾駆しながら、凶悪で狂暴な意志が浮上する。

 <神獣化>―――現代の殺神兵器が、その神をも喰らう獣王の力を解放。

 

 

「―――なら、オレが、壊シテヤル(ネムラセテヤル)

 

 

 (ラン)、と完全なる獣とかした仔狼が金色の瞳から赫の入り混じる火眼金睛を灯す。

 

 肥大化した両脚が地を蹴り、体当たりの特攻。

 迫りくる黄金の神獣に、漆黒の神獣はその腕を振るう。

 それを紙一重で躱して、足が潰されて動きの鈍い<死皇弟>の狼頭を掴む。神獣の顔を片手で鷲掴みしてその巨体を腕一本で宙吊りにするその様は、羅刹のよう。

 今、その腕は、獲物の頭を噛み(にぎり)潰す為の殺戮機械であり、ビキリ、と骨が砕ける音が響く。強引に閉ざされた咢から黒き爆炎が漏れ出しその手を超高温高熱で炙るが、一度食らいついた獲物は離さない。そのまま跳躍して、遺跡から遠くの地面に落下する。

 飛行機雲のように空に爆炎が昇る軌跡を描いて、黄金の神獣は漆黒の神獣を大地に叩きつけていた。地面が大きく陥没し、地響きが起こる、

 

「なんっつうもん、拾ってきてんだ<空隙の魔女>!」

 

 頭部どころか胸部まで躰を半分以上も地面に埋め込んだ状態にもかかわらず、漆黒の神獣はまだ動く。

 ―――まだ、壊し足りないわよ“九番”。

  影より聴こえる囁き声に突き動かされる破壊衝動。

 その神獣の頭を掴んだまま、また飛び出すように地面を蹴る。向かう先には森があり、そこまで掴まえた頭を地面に擦りながら重戦車の如く蹂躙走破する。

 もがき暴れる<死皇弟>の爪が、黄金の神獣の躰に裂傷を刻んでいく。

 黄金の神獣が吼える。それは痛苦に悲鳴を上げたものではなく、己の周囲の自然を従えるためのもの。高位の精霊遣いが十人揃えて成しえるか。この土地に根付いた形なき精霊の力を行使するのではなく、精霊そのものを隷属させるほどの支配力。

 眼前の森の木々が爆発的に生長したかと思うと、それらが一際高い一本木を起点にして辺りを巻き込み、天雲を突くほどのひとつの樹となるよう絡みついて、大きな壁となる。

 そこへ投擲。これまで大地を耕して引き摺ってきた<死皇弟>を、水平に円を描くように振り回し、円盤投げの要領で放り投げた。

 激しく廻って廻って廻って廻って廻って飛空する神獣の巨体。

 数多の木々を束ねて絞り込み、単一の極太の柱となった大樹に激突。神獣の叫びにドップラー効果までつきそうな勢いだった。硬いモノがひしゃげる不気味な音が辺りを震撼させる。

 野蛮で、圧倒的な凶行は、けれど、さらに奇怪な現象となった。大樹に半身がのめり込んだ<死皇弟>の躰が、水に沈むようにその中で呑み込まれらのだ。

 ぞぶぞぶと音を立てて大樹と一体化するよう、その中に神獣の巨体が、呑まれた。

 

 

 

「……あの<死皇弟>相手に、圧倒的だな。そうか、あれが<第四真祖>の後続機として設計されたっつう『黒』シリーズの九番目(ラストナンバー)か」

 

 遥か古代、人類と魔族、互いの始祖たる神を殺し合う『聖殲』で第四の真祖や大罪の魔獣と殺神兵器を造り出されたが、『黒』シリーズは現代の技術力を結集させて造り上げようとした最新の殺神兵器だ。

 まったくもって、何たる偶然か。

 獣王の血族が襲撃を仕掛けた第四真祖の遺跡に、獣王のDNAを使われた第四真祖の後続機がやってくるとは。一切の神秘を丸裸に暴き立てる考古学者であるが、運命めいたものを感じてしまう。

 

「何を呆けている<死都帰り>。まだ終わってないぞ」

 

 魔女の叱咤よりも早く、神獣を屠った金色の神獣がこちらを向く。

 ―――さあ、まだ敵がいるわよ。

 足元で蠢きざわめく影。

 ―――あなたは、私の最高傑作。第八の大罪を背負いし“器”。

 地下より感じる力の波動(におい)

 ―――四番目の真祖であろうと十二別れたその分体如きに劣ることは許さない!

 

「あいつは使い魔じゃねーのかよ<空隙の魔女>!」

 

「主の言うことをまともに聞かん奴だから、馬鹿犬なのだ。だが、制御できんとは言ってない」

 

 契約に貸した悪魔の左腕――金色の神獣の左腕より、血を流すように<禁忌の茨(グレイプニール)>が伸び上がり、その躰を縛り上げる。

 真紅の茨に捕まれた使い魔は、そのまま足元の影から強引に引き千切るよう、空間の歪みに呑まれて、水に沈むように虚空へ消えていく。

 全身から静かに、けれど凄まじい威圧感を放つ魔女は力技で切断されたその影を冷淡に見下し、かすかな怒気を含んだ声を出す。

 

「たわけ。誰が獣に堕ちることを許可した。“ハウス”だ。しばらく頭を冷やしてろ」

 

 その夢の異空間は、あらゆる力が封じられる。

 人型に戻りつつ、この不揃いな自然石が積み上げた壁と、鉄格子のはまった小さな窓と殺風景な部屋に落とされた少年は、完全に眠りに落ちる前に、主からの忠告を耳にした。

 

 

「あの<死皇弟>を忘れるな。あれが力に溺れたものの末路だ」

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

 古城が風呂へ汗を流しに行ったのを機に、クロウはひとり、船の上甲板(アッパーデッキ)へ出る。

 漆黒の海に煌びやかな街明かりを一望でき、吹いてくる風よりその“匂い”を嗅ぎ取る―――この船を拠点として周囲を見張るには絶好の位置と言える。

 

「ん」

 

 ―――黄金の霧に、濃密な血の“匂い”。

 違う船だが、同じ型の<洋上の墓場>の次世代機。

 邂逅した時とは逆の立ち位置であるが、再演するかのように舞台に上がってきたのは青年貴族――ディミトリエ=ヴァトラー。

 

「折角用意した風呂にも入らずに、ひとり見回りかい? ケド、ボクの遊び相手を奪らないでほしいネ」

 

 ヴァトラーが南宮那月を預かると申し出たのは、脱獄犯らを釣り上げるためのエサだからだ。それでこちらが退治してしまっては意味がない。

 

「それとも、ボクではキミの主人を護るには力が足りないとでもいうのかな?」

 

「……いや、オマエ、強い。でも、信用できないぞ」

 

「くくく、正直だね。または純粋と呼ぶべきかな。けど、ボクの船に乗ることは古城が決めて、キミも納得したことだろ」

 

 それに、

 

「これ以上、他の敵に力を回せるだけの余裕はないんじゃないかい?」

 

「………」

 

 クロウの視線を受けて逸らさず、ヴァトラーは蛇のような瞳を細める。

 

「舞台は用意してあげた。誰もいないとこだヨ。存分にやると良い。キミが神獣の力を振るうのは滅多にないと聞いてるからネ」

 

「―――使わない。オレは『首輪』を外すつもりはないぞ」

 

 きっぱりと断る。

 抑えつけることはできても、それを制御するのは至難。そして、暴走しても今の主を頼りにできない。この戦闘狂の甘言挑発に乗るつもりはない―――

 

「なるほど、キミは主の命を忠実に守り、自分を律してきたわけか―――随分と、南宮那月は甘やかしてるらしい。いや、宝の持ち腐れかな。どっちにしても、使い魔を堕落させるなんて、主としては失格だね」

 

「なんだとっ!」

 

 主を貶されて憤るクロウに、ヴァトラーは自論を撤回する気もなく、その口元に笑みさえ浮かべて、

 

「自分よりも強大な怪物を相手するような人間は、それを恐れながらも狡猾な知恵で、欺き、騙し、裏切り、陥れて―――殺す。そのためには、己の力を過信せず、相手の力量を見誤らないようにする。その点から考えると、キミは力に溺れず、相手を恐れてる、英雄になる資格としては合格だ。

 ―――でも、キミは怪物でもある」

 

 人間に禁忌の果実を食べるよう唆した蛇のように弁舌をふるう。

 

「古城を強くするには、アヴローラの眷獣を覚醒させるに足る霊媒の血を吸わせるのが一番手っ取り早い。<第四真祖>を完全にするためにボクは色々と人材を集めたりしてるんだぜ。

 それに対して、後継機のキミをどう手助けしてやろうとかと考えたんだが、吸血鬼とは違うから難しくてね。そこで“ある人”が助言をくれたんだ」

 

 直接は言わないが、ヴァトラーがその存在を臭わす相手―――それは、クロウにはもうわかっている。

 

「絃神島に来る前から、<輪環王>を出した全力の<空隙の魔女>と一昼夜も()り合えたという<黒妖犬>は成長すればもっと強くなるだろう。この『魔族特区』で多種多様な魔族を相手にし、<四仙拳>のひとりに師事を受けたとも聞いてる。

 なのに、『私の最高傑作(コドモ)は森を出てから成長してない』、そう、キミの“オヤ”はひどく残念がってたヨ」

 

「なに……?」

 

 その言葉にクロウは目を見開いて、けれども、それを否定できずに口を噤んでしまう。

 何故ならば、今、<蛇遣い>が口にしたが、その評価は、自分を誰よりも知っていた人物のものだからだ。

 そして、言われて見れば確かに、加減や技術を学習することはあっても、力が大きく増したとはあまり感じられたことはない。それは『首輪』を外して<神獣化>を発動したときを除けば、誰かに力を貸してもらった時だけで、それは成長したとは呼べないだろう。

 

「どうやら南宮那月の封印は、キミの身の内に潜んでいる鬼気を“森にいた時のまま”に抑え込んでいる。けど、抑えつけるだけでは制御してるとはとても呼べない。完全に使い切れてこそ、強くなる。

 怪物は自分の力を思う存分に振るえてこそ怪物だ」

 

 ディミトリエ=ヴァトラー。

 己の欲求に従うままに力を振るい、強さを貪欲に求める。だけど、それを無秩序に振るったりはしない。向けるのは、あくまで強者のみ。

 この怪物の言をそのまま受け入れて、主に言いつけられてきたこれまでのやり方を変えようとは別の話だが……

 内に鬼気を飼いながら、それを制していて、そして、縛られている自分よりも遥かに自由―――それを羨むことがないかと言われれば否定することはできない。

 

「オレが未熟だからご主人は許可しないんだ……あんな暴走するくらいなら、しない方がマシだ」

 

「違うね。解放が足りないんだヨ。中途半端にやるから寿命を削るし、暴走する。ボクが<黒死皇>と殺し合った時、全盛期をもう半世紀も過ぎてるのにあの爺さんは神獣になっても自然体だったぜ」

 

 と、ヴァトラーは試すような口ぶりでそう語った。

 

「いつまでも枷なんて付けてたら巣立ちもできないし、親離れできない。もっと強くなりたいんなら、全力で飛ぶことをオススメするよ」

 

 そうして、ヴァトラーは黄金の霧となって上甲板より去って、クロウはそれを見送る。

 ひとり、拳を握りしめて。

 

 

 

つづく



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観測者の宴Ⅳ

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

 むかしむかし、森の奥にある城にとても無知な王子が住んでいました。

 森で育った彼は外のことを知らず、周りは使用人ばかりで対等に話してくれる人もおりません。

 そんな王子のもとにある日、魔女がやってきました。

 魔女はその王子が人としての心を持てていないことを見抜いては、その王子をそのように育ててしまった使用人たちや城全体に魔法をかけてしまいます。

 王子は恐ろしい野獣の姿になり、使用人たちは家財道具に。

 それから魔女は庭に咲いたバラの花々をみて、『その花びらが全部散ってしまうまでに、王子(バカ)が『真実』を見つけなければ、お前らに掛けられた呪いが解けることはなくなる』、と言い残して去ってしまいます。

 

 そして、魔女が去ってしばらく、ある家族思いの少女が現れました。

 彼女はいなくなった父を捜しに、この森の奥の城へとひとりやってきたのです。

 しかし、父はつい娘への土産にと大事なバラの花を採ろうとしてしまったことから、城に囚われていたのです。それを知った娘は、『父がバラの花を採ってしまったのは自分のためなのだから、自分と引き換えに父を解放してほしい』と王子にお願いします。

 こうして、父は城から解放され、娘は王子と共に暮らすことになりました。

 最初のうちは礼儀や人付き合いもわからない王子に手を焼かされる娘でしたが、やがて一人城の外に出て野生の狼に襲われたところを王子に助けられたことがきっかけで、王子に惹かれるようになり、また王子も娘と触れ合ううちに、徐々に人の心を身につけていきます。

 しかし、そうして人としての在り方を学習していった王子は『家族思いの娘をいつまでも城に閉じ込めていてはいけないことだ』と思うようになり、父のことを思い沈んだ表情を浮かべた彼女に街へと帰るよう言います。自分に対する娘への情が何であるかを確かめられないまま彼女を手放してしまえば、二度と呪いが解けないことを悟りながら……

 

 そして、少女と別れてからすぐ、今度は狩人が城へ攻めてきました。

 彼は森の奥の城で野獣が守っているというお宝を狙いにやってきたのです。

 恐ろしい野獣と相手するために仲間を集めて襲い掛かった狩人らは、野獣に矢を放ち徹底的に痛めつけます。そうして、野獣は力無く倒れたまま動かなくなり、狩人らは止めを刺そうとした―――その刹那、別れたはずの娘の声がしたのです。なんと、別れた娘が城に戻ってきた。彼女の声を耳にした野獣は生気を取り戻して、狩人らに反撃を始めて、彼らを追い払います。

 だけど、狩人らに負わされた野獣の傷は重傷。虫の息ながら、念願の再会を果たした娘に『自分は君と出会って『真実』を見つけた』と告白し、息絶えてしまった。

 娘は野獣の亡骸にすがりつきながら、涙を流して自分の気持ちを告白して……

 

 途端、空から流星が落ちてきて、野獣は光に包まれる。

 そして、なんと元の人間の王子だったころの姿に戻ったのです。

 『真実』を知り、娘の告白を受けたことで、ついに野獣は魔女に与えられた試練を乗り越え、自身と城の皆に掛けられた呪いから解き放たれのだ―――

 

 

 

「………こうして、王子と娘は結ばれて、皆は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」

 

 『美女と野獣』

 物を知らぬ王子が、魔女に呪いをかけられ野獣に変えられてしまう。

 しかし、少女と出会い、『真実』を知り、魔女の呪いが解ける。

 簡単にまとめると、そんなお話だ。

 

 一悶着があった風呂(混浴)のあと、アルデアル公が用意した部屋は、大きなダブルベットがひとつだけ置かれた、完全夫婦使用の寝室(ベットルーム)

 どうせそんなことだろうと予想していたので、特別騒ぐようなこともせず、とりあえず一緒の部屋でまとまっている方が安全と判断する。

 

「古城君、鼻血ぶーっていたけど、大丈夫か?」

 

 湯船で体を休めようとしたが、親しい女子友達と腹を割っての裸の付き合いをしてそれがあまりに刺激が強過ぎた結果、血塗れとなった古城は、呼びつけられた後輩に背負われて、服も着替えさせてもらって、この部屋まで運ばれた。

 古城はのろのろと貧血気味な頭に手をやりながら、力無く笑う。

 

「気にするな……助けてくれてありがとな」

 

「ホント、あれだけ盛大に鼻血噴けば、血が足りなくなって当然ね」

 

 部屋にあった童話の絵本を読み聞かせて、サナを寝かしつけた浅葱が古城に声をかける。

 今、汚れてしまった私服の代わりに彼女が着ているのは浴衣で、普段は派手派手しい着こなしだが、こういう大人しめの格好が意外と似合ってる。というか、こっちの方が普通にモテそうだ、とかつて自分が浅葱に言った言葉を忘れてそんなことを思う古城(古城はある有名なバスケットチームのジャージを借りてる)。

 

「それで、那月ちゃんが<監獄結界>の『鍵』っていうのは本当(マジ)なわけ?」

 

 サナが幼児化した担任教師という異常事態はもう受け入れたらしい。

 さすがは、『魔族特区』の住人か。

 

「そうだぞ。だから、ご主人は檻から出てきた悪い奴らに狙われてて、それから悪い魔女に呪われて子供にされちゃったのだ」

 

「呪われて、って?」

 

「ああ、魔導書を使って、経験した時間を奪った、とか言ってたな」

 

固有堆積時間(パーソナルヒストリー)操作の魔導書ってこと? そんなの禁呪指定クラスの危険物じゃないの」

 

 思ったよりも深刻な事態に驚く浅葱。当たり前の話だが、<監獄結界>から魔導犯罪者が脱走したという事件は、古城たちだけでなく、絃神島の全住民にとっての大問題だ。

 

「それで古城たちは、優麻さんのせいでその事件に巻き込まれたってわけ」

 

「え? 何で知って……?」

 

 今度は古城が驚いた。

 何でも人工島管理公社の記録に、『10年前に仙都木阿夜という魔女が『闇誓書事件』を起こして南宮那月に逮捕された』と残っていたのだ。

 仙都木、なんて『魔族特区』でも目にしないような珍しい苗字だから、優麻がその事件の関係者ではないかと予想を付けていたのだという。

 浅葱の推理力に古城が感心してる、と。

 

「ご主人……?」

 

 その時、眠っていたはずのサナが突然、上体を起こす、

 そのまま、天井から見えない糸に吊り上げられたのではなかと思うくらい、不自然な動きで、母親役(あさぎ)と同じ浴衣姿の幼女がダブルベットの上にゆっくりと立ちあがる。

 異様な気配に、古城らは困惑。使い魔なクロウも戸惑いを覚えてる。今のサナは明らかに普通の状態ではないし、何か得体のしれないものに取り憑かれているようにも見えなくない。

 

「……くーろー……」

 

 眠りながら、伸びるように、呼ばれる名前。なのに、その寝言がなぜか怖い。

 嵐に巻き込まれる。

 その予感をひしひしと感じとる古城は、とりあえず、呼ばれているのは後輩なのでその背中を押してやる。ひどい先輩ねあんた、と思いつつも、密かに危険圏外へと移動している賢い浅葱。

 

「古城君!?」

「ほら、ご主人様が呼んでるぞクロウ」

 

 押し出され、幼女の足元、ベットに倒れ込む後輩。

 その際、スプリング入ったベットが大きく上下に撓んだけど、幼女は体勢を崩さない。

 

「ご、ご主人……?」

 

 しばらく、サナは何も言わなかった。

 ゆらり、と。

 音もなく脚膝揃えて、横倒れの使い魔後輩に目線を近づけさせる。

 びくっ、となんか頭を低くしてしまう。

 そして。

 至近距離で。

 手を出して、一言。

 

「……おて……」

 

 反射的に手を置いてしまう。

 そして、後輩の身体が、きらきらと輝く。

 部屋を真っ白に染めるほど眩い光だ。

 

「う!? これはご主人のお仕置きレパートリーの―――」

 

 眩しい閃きは、繭のように後輩の姿を包み、

 変えた。

 変わった。

 後輩の姿が。

 ―――ぽよん

 と、それは幼女の腕の中に跳ねた。

 

「ぽよん?」

 

 無論、実際に立てた音ではなく、古城が脳内で処理した擬態語である。しかし、あまりにもその音が似合いすぎる相手だった。

 白銀に煌めく毛並み。斜め30度くらいの角度に眉のあがった勇ましくもつぶらなお目目。大きめの牙を口に生やして、鋭い爪の生えたお手手。

 紛うことなく、獣化した後輩だ。

 ……ただし、小型犬くらいの大きさ。

 

「えっ、何!? 何が起きてるの!?」

「クロウが消えた!? いや、まさかそれ―――」

 

 トラブル慣れした『魔族特区』の住人も世界最強の吸血鬼も事態についていけず驚嘆する中で、再び立ちあがった浴衣姿の幼女は銀狼のお人形さんを片腕で抱きかかえたまま、大きく息を吸い、カッと目を見開き、

 

 

「―――ナー・ツー・キュン!」

 

 

 びしり、と名乗り上げて、ピースサインで決めポーズ! をとってから、クルリ、と一回転してから、おまけくらい手足の小っちゃい二頭身のぬいぐるみを古城らに突き出して、アピール。

 

 

「―――アー・ンド! クロローン!」

 

 

 ?????? と、古城と浅葱は一瞬本気で思考が止まりかけた。

 後輩が消えた――いや、何か幼児化とかそんなレベルじゃないくらい小っちゃくなってるのもそうだが、先ほどまでの最中らはありえない異様なハイテンションに二人は度肝を抜かれて固まってしまう。はっきりいって、怖い。何が起こってるのかわからな過ぎて恐怖を覚える。

 しかも、彼女は腹話術師のようにほとんど唇を微動だにさせずに、機械的な口調で何かを呟き始める。

 

「―――主人格(メインパーソナリティ)睡眠状態(スリープモード)への移行を確認。徐波睡眠(ノンレムスリープ)固定(ロック)。潜在意識下のバックアップ記憶領域へと接続。固有堆積時間の復旧(リストア)を開始します。復旧(リストア)完了まで残り1時間59分」

 

「な、なんだこれ?」

「那月ちゃんの記憶が戻った……とか?」

 

 わずかな望みを口にするが、やはりすごく嫌な予感があるのは拭えない。

 そして、こちらを向いたサナは、両手の人差し指を自分の頬に当て、見事なまでの営業スマイル。こんな風に“ぶった”笑い方、いつも通りの彼女ならまずありえない。

 

「残念。正解は南宮那月(ナツキ)ュンのバックアップ用仮想人格でした。キュン!」

 

 言って、その場で、くるっ、と回ると、再び両手の人差し指を頬に当て、にっこりスマイル。ただし、今度は、てへ、と舌を出してる。

 このあまりの異常事態にすわ敵の攻撃か!? と若干疑いたくなるも、大体は状況を把握できたと思う。やっと頭が冷静になれたともいう。

 

「いや、キュンとか言ってる場合じゃねぇだろ……つか、クロウはどうした? どうしてこんなちんちくりんになっちまってんの?」

 

「ちんちくりんじゃないのー。那月ュンに合わせて、クロロンもマジカル進化したのー」

 

「いや、これ明らかに退化だろ。戦闘力激減してんだろ」

 

「だから、那月ュンに合わせてって言ったキュン。ご主人様より強い使い魔はいないの」

 

「おい! 思いっきり意図したパワーダウンじゃねーか!」

 

 頼れるワンコ系後輩が、本当にワンコになってる。

 しかも手足が短すぎて自力で歩くことすら難しいらしく、移動する度によちよちと和みそうな効果音がつきそうなくらいだ。

 

「ご主人に“ハウス”されたのだ古城君」

 

 この場合の“ハウス”とは、つまり<監獄結界>のことか?

 

強制終了(シャットダウン)したんだよー……那月ュンがいないとこで、勝手に“三つ”も契約してたみたいだし、サーヴァントをファミリアに格下げ体験させてるキュン」

 

「怒ってるのかご主人!?」

 

「怒ってないよー……でも、お仕置きも兼ねてるとは言えなくもないニャン」

 

「あぐ!?」

 

 バシバシ、と幼女に猫パンチドリブルされるちっちゃな後輩。丸っこい体が鞠のようによく弾む。でも結構あれきつそうだ。

 そういえば、魔女が人間をカエルにしてしまう話があったがこれもそうなのか?

 

「うぐぐ~、痛くはないのに酔いそうだ~……この身体になると全然力が出ないぞ。オレの身体は眠ってるのに起きてる感じは全然慣れないのだ」

 

「あー……なるほど。そういうことか」

 

 <監獄結界>の『鍵』の代理役を任されられるほど、この主従の使い魔契約のラインは強く、<守護者>の鎧を貸して空間制御の行使ができるのだから、配分次第では主と同じようなこともできるのだろう。

 

「どういうことよ古城、ひとり納得してないで説明してちょうだい」

 

「つまり、なんつうか、ここにいる小っちゃいクロウは“実体のある幻”で、那月ちゃんのワンダーランドの住人になっちまったってことだ」

 

「ますます意味が分かんなくなったんだけど、肉体(ハード)が入れ替わっただけで精神(ソフト)自体は変わってない。つまり、クロウは問題ないってことでいいのね?」

 

 古城も自分の発言を客観的に考えれば、夢でも見てんのかと言われても仕方ないと思うが、これは『本体は眠ったままで自分たちが接していたのは彼女が夢見ている幻』という担任教師の事情を知ってないとわからないのである。

 それを浅葱は自分なりの解釈に落とし込んだことで一応の理解はしたらしい。

 

「那月ちゃんの抑圧された潜在意識って、こんな人格だったんだ……何か意外というか、納得というか」

 

 浅葱が疲れたような声で低く呟く。どうやら今の那月は、あらかじめ用意しておいた非常用の仮想人格(バックアップ)で動いてるらしい。

 今回のように敵の攻撃で本来の記憶が失われた時の対策として、一時的でも記憶を回復させるという特殊な術を自分自身に掛けられるよう、用意されたのがこの仮想人格。

 流石に一流の攻魔師とあって、備えは万全。ただ、出現した仮想人格の性格がちょっと残念なのが、誤算だと思うが。

 で、それに、後輩も付き合わされているという状況だ。

 

「バックアップからの復旧……ってことは、このまま元の那月ちゃんに戻るのか?」

 

「残念! 流石にそれは無理かもー。記憶はともかく、この身体だと魔術を行使する反動には耐えられないと思うしー。そもそも魔力が足りてないし」

 

「今、クロウをちんちくりんにしたのは魔術と違うのかよ?」

 

「あれは那月ュンじゃなくて、クロロンが自分でやったの。那月ュンはただ誘導しただけー。だから、那月ュンはちょぴっとも魔力使ってないし、那月ュン悪くないキュン」

 

「いや、思いっきりお前が悪いだろ」

 

「違うの! いっぱい働いてるのに休めてないクロロンのためを想って、心を鬼にしてやったの!」

 

「だったら、ドリブルはやめてやれ。思いっきり目を回してんだろーが」

 

「あぐっ……身体は休めてると思うけど、何だか思いっきり疲れてるのは気のせいなのか?」

 

 ドリブルされた二頭身後輩をスティールする古城。ぐったりとしてて、何だかより弱ってる。それに仮想人格は、『クロロンを返してー』とぴょんぴょんと跳ねてる。なんだか幼い子供からオモチャを取り上げてしまったような構図で、心が痛い。なわけで、そこは面倒見のいい浅葱にワンコを預け(パスし)て、古城が仮想人格の肩に手を置いて抑えに回るとする。

 

「……つうことは、やっぱり、仙都木阿夜の魔導書を破壊しないと駄目ってことか」

 

「ですです。<監獄結界>も頼れるクロロンに任せてあるし、あとは寝る子は育つ方針で。10年くらい待てば元通り成長するから、それまで待つって手もあるキュン?」

 

「それはねェよ。待てねェよ」

 

 緊張感も危機感もない仮想人格のテンションに苛立ちを覚えながら、古城は深々と溜息をつく。

 その横で、浅葱は興味津々とぬいぐるみ後輩に感心して頷いてる。

 

「あーぐー……ほっぺそんなに伸びたらお餅になっちゃうのだー浅葱先輩」

 

「ほーへー……ちゃんと触れるし、抱き枕みたい。わんぱくマスコットキャラが本当に可愛らしい癒し系マスコットになっちゃったわね。今度これで学校に行ってみたら? きっと大人気よクロウ」

 

「うー、この状態だと移動するのがカメさん並に遅いから、遅刻しちゃうぞ」

 

「そんときは、誰かに抱っこされて運ばれるから大丈夫よ。きっと凪沙ちゃんなんて、自分の部屋で飼うってお持ち帰りしちゃうわね」

 

「だめー! クロロンは那月ュンのクロロンなのー!」

 

「とったりしないわよー。けど、あとちょっとだけ堪能させて。触り心地が良いのよホント。……うちの相棒もこういう可愛げのあるのだったらよかったのに」

 

 と、そのとき、船室の壁に埋め込まれていた薄型テレビが、リモコンに触れてもいないのに、勝手に点灯。次は何だ? と怪訝顔で振り向く古城たちの前で、不細工なCG映像のぬいぐるみがぼんやりとと画面に浮かび上がるう

 

『―――そりゃ悪かったな嬢ちゃん』

 

「モ、モグワイ!?」

 

 テレビの中のぬいぐるみキャラは、浅葱の相棒の人工知能(AI)であり、絃神島を管理する五基のスーパーコンピューターの現身(アバター)だ。

 

「あんた、何でそんなところから出てきてんの?」

 

『嬢ちゃんがスマホの電源を切ってたもんでな。放送電波経由でハッキングさせてもらったんだ。悪いが、また厄介な異変(トラブル)が起きたみたいだ。ちょっと手ェ貸して欲しいんだが』

 

「あっそう。イヤよ」

 

 労働基準法的にもブラックなバイトをお断りして浅葱はテレビを消した。しかしすぐにテレビは再点灯して、土下座姿勢のモグワイが映し出される。

 

『そこを何とか頼むぜ。仕事が終わったらいくらでも撫でたり愛でたりしていいからよ』

 

「あんた二次元(そっ)から出られないし、そもそも可愛げとか主への思いやりとかいろいろ足りてない。ただのバイト学生をどんだけ働かせるつもりなのよ。あんたのせいでこっちは、祭り初日をまるっと台無しにされたんだからね」

 

 そう言いながら、リモコンの電源ボタンを連打。それでも向こうはしつこく再点灯してくるので、ついに浅葱はテレビ本体のコンセントに手を伸ばした。モグワイは慌てたように必死で首を振り、

 

『いやいやいや、今回の異変は嬢ちゃんとも無関係じゃねーんだって』

 

「は? なによそれ?」

 

 彩海学園を中心として、魔術が無効化される空間が発生。

 

 それだけならば、実害はないのだが、この絃神市は人工島。それも、“普通の技術だけならありえない”、太平洋上に人口5万人もの巨大都市を載せた超大型浮体式構造物(ギガフロート)

 そう、人工島本体の強化魔術――硬化に重量軽減、空間固定、悪霊除けに錆止めなど――が余さず無効化(キャンセル)されている。

 今はまだ彩海学園の周辺しか影響を受けていないが、このまま効果範囲が広がれば、この絃神島は崩壊して、沈みかねない。

 

「……最悪だわ」

 

『つーわけで、強度計算や補強対策や避難誘導のプログラムができる人材を絶賛大募集中なんだが。バイト代も弾むぜ』

 

「一応事情は分かったけどさ……こっちも厄介なことになってて、すぐに管理公社に駆け付けるってわけにもいかないのよ。モノレールもまだ復旧してないんでしょ?」

 

『わかってる。それはこっちの方で何か手配を―――』

 

 そこで、ぷっつん、とぬいぐるみ型アバターを映したテレビ画面がブラックアウト。

 そして、部屋の天井から巨大な爆発音が響き、オシアナス・グレイブⅡの船体が激しく揺れる。

 

 

 ―――<蛇遣い>ヴァトラーが吹き飛ばされた身体をこの船体で受けた際の衝撃で。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 脱獄犯の襲撃。

 それに古城たちがとった選択は、逃亡であった。

 

 ヴァトラーを吹き飛ばしたのは、ブルード=ダンブルグラフ。

 龍殺し(ゲオルギウス)の末裔で、西欧教会の暗部。

 <監獄結界>で銀人狼(クロウ)と対決して、一蹴された相手であるが、その膂力は獣人種をも押し切れるものがあり、その肉体は鋼の如く不死身。そして、得物である殺龍剣(アスカロン)は魔族魔獣の天敵。龍、そして、龍に連なる蛇は特に。

 

 この通り、<蛇遣い>と称されるほど、眷獣すべてが蛇であるヴァトラーには相性的に不利である―――だが、それに手を貸す必要はない。

 

 この英雄との死闘を望んだのはヴァトラーであり、あの男がたかが相性程度でやられるような怪物ではない。

 

 だから、この堕ちた英雄と戦いに狂った怪物の戦いで、船が沈没してしまいかねないから、早く避難しようというわけである。

 

「―――こちらです、古城様」

 

 変声期前の少年のような澄んだ声。

 灰色の髪に翡翠色の瞳。肌は白く、睫毛も長い芸術品のような顔立ち。銀色のタキシードを纏うその体躯は小柄であることもあって、同性ながら護ってやりたいと思わせるような(かつ、男だと常に意識掛けてないと危ういくらい)雰囲気を醸し出している。

 この広い船内を案内してくれる吸血鬼――『戦王領域』の貴族キラ=レーベデフ=ヴォルティズラフ。

 ヴァトラーの部下であるが、愛想の良くて古城と趣味の合う(今借りている有名バスケットクラブチームのジャージは彼のもの)ことから、親しくしてもらっている。

 

「キラくんか」

 

「はい。もし船をお降りになるのでしたら、後部デッキをお使いください」

 

 船が沈んで困るのは彼も同じなのだろうが、彼と同じ部下たちは、主たるヴァトラーが心置きなく暴れられるよう、戦いの余波が市街地にまで及ばぬようフォローをする役目があるのだとか。

 ただ、市街地の安全を優先してしまっているので、客人である古城らの護衛までは手が回らない。なにせ、ヴァトラーが本気になれば、絃神市はものの数分で消滅するからだ。

 

 そうして、この場は任せ、古城は船を降りようとしたところで、

 

「南宮様、アルデアル公より話は聞いております。もし<血途の魔女>との対決を望むのでしたら、そのまま前にお進みください。その先で、トビアスが案内します」

 

「どういうことだ?」

 

 キラから古城は、サナに抱かれた後輩を見る。

 <血途の魔女>、それは後輩を創った大魔女の異名だ。それが何故、今でてくるのだ?

 

「ご主人……」

 

 ぎゅっとサナは一度抱きしめて、降ろす。

 瞬間、二頭身のぬいぐるみから、元の姿に戻る後輩。

 

「オレは、半分、奪われてる。ご主人が助けてくれたけど、このままじゃ、ご主人に力を返したら、オレは倒れるのだ」

 

 そう。

 封印が解かれて影より出てきてしまった<血途の魔女>に、後輩は魔力霊力回路、行ってしまえば臓器の様なものを無理やり取られた。

 深森はすでに処置が施されていた、と言っていたが、それはあくまで応急的なもの。本来ならば、優麻と同じように死に瀕している。それを那月が命を繋ぐよう自らの<守護者>を貸し与えたようだが、それでは、那月が魔女としての力を発揮できなくなってしまっている。

 今、古城たちには那月の、<空隙の魔女>の助力が必要だ。

 そのためには、後輩は、奪われた自分の魔力霊力回路を取り返さなければならない。

 

「だから、ご主人を頼むのだ古城君」

 

 サナにその隠れ蓑の外套(タルンカッペ)を羽織らせて、後輩は立つ。

 

「だったら、俺も」

「駄目なのだ。今の古城君、本当は全然本調子じゃないんだろ」

 

 ……ちくしょう。

 その何気ない指摘に、古城は奥歯をきつく噛み締める。

 古城の胸の傷は、今も癒えていない。この状態でまともに眷獣が制御できはしない。

 古城にはその相手がどれほどの実力かはわからないが、こんな不安定な状態ではかえって足を引っ張ることになりかねない。

 そしてなによりも、

 

「それに、これはオレが蹴りを付けなくちゃいけないんだ。―――そうだろ、ご主人」

 

「……うん、クロロン」

 

 後輩が、ひとり立ち向かうことに、特別な意味を見出している。

 それは与えられた数時間の猶予で、それでも一生を賭けると決めて。違う。もっともっとずっと前から、戦うことを決めていたんだ。

 古城には、止められない。できない。この戦争に誰であろうと介入を許すことができるわけがない。

 きっと、ここは納得できなくても、引き止めずに見送ってやるのが正しいのだ。

 精々してやれるのは祈ってやるだけで、それ以外の選択肢はぜんぶ、何であろうと“余計なお世話”なのだ。

 後輩は、そんなことを、絶対に望んでなんかいない。

 そんな葛藤に、古城は強く目を閉じて、

 

「ねぇ、クロロン。どうして、主人格(メインパーソナリティ)が眠っていられると思う?」

 

 そんな最中。

 場違いに明るい声があった。

 思わず見開いた古城の視界に、仮想人格で動いてるその幼女が、キャラを作ったものではない自然な笑みを浮かべてて、

 

「それは、クロロンが“お月様”だからだよ。だから、眠ることができて、良い夢が見れたの」

 

 

 

 

 

「さっさと昔の女をブッ倒して、親離れしてこい」

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ふん。ひとりで来たか?」

 

 古城らと別れて、ひとり。キラの誘導で進んだ先にクロウを待ち構えていたのは、左腕に魔族登録証を嵌めた銀髪の男。

 冷たい刃物を連想させる少年は、顔を合わせたことがなかったが、キラと同じで、初めてヴァトラーに“挨拶”をしたあの時、船にいた側近のひとり。

 

「オマエ……」

 

「オマエ、などと気安く呼ぶな魔女の犬め」

 

 同じ『戦王領域』の貴族にして、第一真祖<忘却の戦王>の直系の若き世代の吸血鬼であるものの、友好的なキラとは違い、剥き出しの敵意をぶつけてくる。

 

「じゃあ、なんて呼べばいいのだ?」

 

「はっ、これから死ぬ奴に名前を教える奴がいるのか?」

 

 小馬鹿にするように鼻で笑い、だけれど、生憎とその手の嫌味や毒っ気には勘付けてない顔を見て、すぐ顰める。

 

「………ああ、オレの自己紹介を忘れてたな。オレは南宮クロウ。ご主人の眷獣なのだ」

 

 と誇らしげに、一言一言を噛みしめながら名乗った。

 

「―――」

 

「どうしたのだ? おかしなコト言ったか、オレ?」

 

「…………………ちっ、その頭が幼稚園児以下なのはわかったが、二度は言わん。トビアス=ジャガンだ」

 

 素っ気なく答えて踵を返す。

 たとえ不満があっても、主より任されたからには疑問を挟まず仕事をこなすのが彼の主義である。

 

「言っておくが、俺は犬と馴れ合う趣味はない。お喋りに高じるつもりはないし、とっとと済ませるぞ」

 

「それは助かるのだ。今は一分一秒が惜しいからな」

 

 直球はまたも効果なくスルーされる。

 何であれ、空振ってしまうと余計に意識してしまうもので、顔面筋の維持が難しくなってくるも、道案内の仕事をやりとげる。

 

「帰ってこなくていいぞ。アルデアル公に咬みつく犬など、悪魔に喰われた魔女と相打ちしてくれた方がこちらとしては手間が省ける」

 

 案内した先にあったのは、『(ゲート)

 この空間と別の空間を繋げた空間制御の魔術。特別な魔女でなくても、アルディギアの宮廷魔導技師など高位の魔術師ならば制作は可能であり、そして人間に可能であるなら無限とも言える魔力源を持った吸血鬼にもできるだろう。霧となって移動できる彼らにはほとんど不要なものではあるが。

 

 それを前にして試すように、貴公子は静かに最初の問いを繰り返す。

 

「はっきり言ってやろう。その先を行けば貴様は死ぬだろう。それでも仲間を呼ばずにひとりで行くか犬」

 

 どうして、ひとりで戦おうとするか。

 この先にいる相手はすでに準備を整えていて、連戦続きの自分とは違い万全だろう。なのに、ヴァトラーの案に応じたのはなぜか。

 正直、矢継ぎ早の展開に疲れて、頭はもう満足に働かなるくらい眠いのだ。

 だから、クロウの口からこぼれ出たのは、心の真ん中にある、当たり前の理由。

 

「……オレが、ご主人の眷獣でありたいからだ」

 

 納得したのか呆れたのか、貴公子は鼻を鳴らし、

 

 

「ヴァトラー閣下が貴様に期待しておられる。夜明けまでは、空間を繋いでおいてやる、南宮クロウ」

 

 

金魚鉢

 

 

 転移された場所は、金魚鉢。

 仮面憑き事件で訪れた無人島。

 誰にも邪魔をされない場所であって、初めて訪れた場所ではないのですぐに場馴れできると、都合のいい配慮をしてくれたらしい。

 人が大勢いて、鋼鉄の島である絃神島よりはやりやすい舞台である。

 

 そして、南宮クロウは浜辺に降り立ち、その先を見据える。

 

 闇――そこに君臨する存在の影に覆われた森。

 この島の夜空に星は見えず、代わりに巨大な眼があった。そして、森の向こうには星の地脈と接続した半人半魔の悪魔―――

 

《―――良い夜ね……》

 

 煌めく星々も、その影に輝きを呑まれていた。

 

《月も隠れて、誰も邪魔をする者がいない―――》

 

 何千年もあり続ける古き樹木のように大地を根付く下半身。

 天をも覆う巨人のような花弁と混じり合った魔獣の上半身。

 そして、頭部のあるところに生える女性の上半身。

 

《二人きりだけの空間……》

 

 黒夜の森の中心にいるのは、怪魔と怪魔を継ぎ木した、人にあらざる異形の存在。

 それが詠うように――酩酊するように独白し、火眼金睛の瞳――紅と黄金の瞳を細める。

 

《ずっと影に閉じ込められてきたけれど、再会はやっぱり感動的でないと、ねぇ、“九番”?》

 

 少年もまた、それを嗅ぎ取っていた。

 霊。

 ただし、これは一般的に考えられる魂とは別のものだ。かつての人格パターンを記録として残されたエネルギー。東洋のタオシズムでは、精神を支える『魂』と肉体を支える『魄』は明確に区別されており、そして、この肉体のないそれは、まさしく『魂』であろう。だが、肉体がない以上、不安定で、“守られていない”。人間の(もの)なのに、どうしようもなく汚れていて、悪魔のと同じ腐臭が染み付いてしまっている。

 それであってもなお残された執念と呼ぶべき『人格』は、『魂』だけの存在の欠けたものを補い、大地に根付くために、少年の『魄』とその肉体を欲している。

 

「……オマエは、もう死んでいる。眠らなきゃいけないんだ」

 

 『混血』の少年の体が、銀の人狼と化す。

 そして、黄金の後光が形作るよう、その身体に大魔女たる主より借り受けた悪魔の甲冑を纏った。

 左の爪籠手の切先を相手に向け、今こそ万感の思いを篭め、南宮クロウはそれの名を口にした。

 

「オマエを倒しに来たぞ……<血途の魔女>!」

 

 咆哮し、黄金鎧の銀人狼は半人半魔の大魔女に向かって直進する。

 

 

 

「おおおおおっ!」

 

 人狼の突撃に、“創造主”は逃げる素振りも見せなかった。

 艶やかに笑う“創造主”の前に、黒夜の森の影から三頭の怪獣が上体を起き上がらせた。壁役と進路を阻むその怪魔へ、金色の残像を残像を残して振り抜かれた銀人狼の爪拳が正面からぶつかり合う。

 全力の一撃を受けた怪魔が、爆発するように霧散した。衝撃波が迸り、銀人狼と大魔女の周囲の地面に大きな亀裂が走る。

 

《あら? 主に向かってオマエだなんて。昔みたいに“ご主人様”とは呼んでくれないのかしら……》

 

 全力を振るったクロウに対し、“創造主”は未だに微睡むように囁いていた。その姿を視界にいれながらも、見ていない、夢遊病のような視線を向けたまま銀人狼の攻撃をやり過ごす。その横顔は昔を懐かしんでいるようにも見えた。

 “創造主”の周囲に、大玉ほどの“眼”が夜空より降りてくる。

 銀人狼は咄嗟に黄金の籠手を盾にし、後ろに飛び退く。

 無数の『眼』は、その視線上に光を放った。高温の熱を放ちながら、銀人狼めがけて発射される。籠手で弾いた銀人狼の足元の地面が、熱によって溶岩化する。

 ゆらゆらと体を揺らす“創造主”の前に、紫色の雲が生み出された。

 

《思い出すわね。初めて私の命令に逆らったのは、この“兄姉(みんな)”を起こしたくない、だったかしら》

 

 そこに獣の怪魔が入り混じり八つに別れた紫雲が、銀人狼めがけて飛んだ。それぞれ紫雲は『見覚えのある人狼』の形となり、怨霊のような鳴き声を上げて襲い掛かる。

 銀人狼は左腕を、弓を引くように腰だめに構えた。一瞬のためを作り放たれた遠当てが、直線状にいた3体の“雲人狼”をまとめて吹き飛ばす。さらに体を回転させて繰り出したが、左右挟み撃ちを仕掛けてきた2体の“雲人狼”を横一線で粉砕した。

 

 ―――“匂い”で違うと理解しても、できればあまり視線を合わせたくない。

 

「うおおおっ!」

 

 銀人狼に装着された黄金の鎧が輝きを放った。『着弾するまでの時間をゼロにする』、空間制御の補助がされた銀人狼の爪拳が、残る“人狼”を悉く打ち砕いていく。

 

《あら? 似てなかったかしら。どうも“失敗作”となるとどうでもよくって、おぼろげなのよ。全部、私には同じ顔に見えたしね》

 

 だが“雲人狼”は本来、形を持たない雲である。倒して霧散しても、また“雲人狼”は収束して、物質透過するよう攻撃をすり抜け、次々と銀人狼の身体に牙を突き立てる。

 銀人狼の金の双眸が、“創造主”との間合いを計り取った。まとわりつく“雲人狼”にかまわず、半人半魔の大魔女に向かって突進する。

 

《けど、“九番”。あなたのことは憶えていたわずっと》

 

 どくん―――

 心臓が、銀人狼の胸を叩いた。

 鼓動が急速に速まっていく。

 ずぶり、と底無しの沼に踏み入ってしまったかのように、疾走が鈍る。

 

 少年の本能が、暴露されつつある“創造主”の解答を拒絶していた。

 

 “創造主”の頭上に、数えきれぬほどの“提灯南瓜(ジャック・オ-・ランタン)”が生み出された。彷徨える魂を内蔵した南瓜頭の大きく開けられた口から、鬼火の炎を吐き出す。

 まともに攻撃を受け、銀人狼は後方へ吹き飛ばされた。

 

「ぐっ……!」

 

《他の出来損ないなんて、あなたがいたら、記憶する必要もないじゃない?》

 

 地面をバウンドし、幹に激突して銀人狼の身体が止まる。そして、すぐ立ち上がる。

 額からは血が流れ、この身を護る鎧に罅が入り始めている。

 

 ―――“最高傑作”。

 大魔女が最後に造り上げた。

 造り上げるのをこれで終わりにした最終。

 その過程にあったものは、そのためだけの副産物であって。

 つまり―――

 

《私の作品(コドモ)は、あなただけよ、“九番”》

 

 “創造主”の瞳が、初めて銀人狼を視認した。立ち向かってくる銀人狼を見て、現実離れした恍惚の表情を浮かべる。

 

《だから、他はゴミよね? もう育てても何の意味はないんだから、いらないものは捨ててしまうのは当たり前でしょう? 練習相手の死体としては価値があったみたいだけど―――》

 

 “創造主”が自らの身体を抱きしめ、身震いした。視界を埋め尽くすほどの数の『眼』に『提灯南瓜』に、そして、8人の兄姉を模した『雲人狼』に守られた半人半魔の大魔女が、何もない、誰も抱いていないはずなのに、自らを抱く腕と身体にわずかな間を空けていて、何かに沿うように手を動かす。まるで―――そこにかつての自分がいて、頭を撫でるように。

 

《つまり、全部、あなたのせい(ため)なのよ、“九番”》

 

 薫るような吐息を漏らし、聴くだけで理性がとろけそうな甘ったるい言葉をかつての自分の定位置に向けて吹きかける。銀人狼は自分の首筋に生温かいものが這わされたような、不気味な錯覚を覚えた。

 

 だが、銀人狼は止まらない。

 一寸先が闇の黒夜の森を障害にあたらずに疾駆し、邪魔をする怪魔の大群を削っていく。

 “眼”はその視線を先読みして照準を定める前に遠当てで瞳孔を貫通し、“提灯南瓜”は爆炎を吐き出す前に三葉の重分身で囲うものすべてを瞬間的に粉砕して、そして、“雲人狼”とは逃げるように回避しながらも追いつめられれば空間を圧す獣気で応戦する。そうすることで、怪魔の数が見る間に減っていくが、銀人狼の身体も傷を増やし、その心を磨り減らしていく。

 

《ふふ、これだけの眷属が相手にならないなんて、順調に“器”として成長してくれて嬉しいわぁ》

 

 さらにまた怪魔を喚起させようと、影が波打つ湖面のように揺らいで―――

 銀人狼が、それをさせなかった。

 帯電したかのように電撃迸る黄金の爪籠手、その合間に収束する気功砲。放たれたそれは、半人半魔の躰を撃ち抜いて爆裂する。

 解放された閃光は一瞬、黒夜の森を白く塗り潰した。余波だけで木々を倒すほどの暴風となって荒れ狂うほどであり、数多の怪魔を盾にしようが防げず、なお留まることのない衝撃が、爆心地の地面をすり鉢状に陥没させる。

 光が晴れた世界から異形は蒸発したかのように影すら残らなかった。

 しかし―――

 

《けど、余計な『首輪』を付けてるのは、とても不快。そんなのを付けているから、強くなれないのよ》

 

 甘く、血腥い気配が、別の場所から感じた。

 振り向いたそこにあったのは、無傷の半人半魔の巨体と―――底知れない寵愛に満ちていた女の笑み。

 

《でも、許してあげるわ》

 

 鎖のように向けられたものを捕えて逃さない、微笑。

 金縛りにあったように硬直する銀人狼を迎え入れるように、花開かせて半植物の魔獣の両腕を拡げた。

 紅い、

 紅い鱗粉に覆われていく。

 

《あなたは、わたしのものなのだから》

 

 濃度を増していく紅い闇。

 その中で。

 呪歌のような“創造主”の声だけが、血のように鮮明だった。

 

「―――ッッッ!」

 

 2体の眷属を融合させた怪魔ではなく、4体の悪魔を取り込んだ大魔女の力。神を穢す大罪の半分を操るその魔性だ。その鱗粉はあるだけで、四肢を蝕む。真っ当な生物であれば秒で肺腑を抉り、不死の夜の王でさえ分も経たずに“壊れる”だろう毒素が充満する。

 そう、これは―――“壊毒”だ。

 

《この毒こそが、真祖をも堕落させる神殺し……これでまだ完成じゃないけど、怖いでしょう?》

 

 存在自体が“毒”であるが故に、あらゆる病と毒に抗う肉体。

 であるにも拘らず、口元から一筋の赤色が垂れ落ちる。肺が焼けている。超能力に拡張された嗅覚を含めて五感が鈍り、あらゆる動作速度が緩慢に堕ちていくことを理解する。

 大罪の半身を支配している“創造主”は、自分よりも強く、濃密な“壊毒”を作り出せるのか―――

 

 火眼金睛の瞳に蠱惑を乗せて、ゆったりとした挙措で艶めかしい唇を舌先で舐めて湿らせてから、命令する。

 

《だから、他所の魔女(オンナ)につけられた(それ)。私のものには似合わないから―――外しなさい》

 

 瞬間、世界が燃え上がり、森全体を埋め尽くすほど紅色(どく)の濃度が増す。

 

 と、錯覚した。

 

 染め上ったのは世界ではなく、紅の“壊毒”が干渉したのは物理法則ではない。

 

 視覚()が、狂う。狂っている。

 ビデオカメラの光量調整に失敗したかのように、『物を見る』という動作の際の、無意識に微調整ができていない。

 人は眼球で映像を見るのではなく、二つの眼球で得た情報を頭の中で処理して立体映像へ変換し、認識する。

 そう、“認識”が、“壊されている”。

 

《ねぇ、“お願い”》

 

 これは、命令ではなく、お願い、という。

 しかし、その催促に視界はどんどん赤く染まっていく。

 痛みはない。むしろ、感覚が消えていくようで恐ろしい。

 

《“ご主人様”の頼みが、きけないのかしら?》

 

 その声音よりも、まず吐息の甘い“匂い”が脳髄の奥まで染み込んできた。

 ぷしっ、と鼻の奥で何かが弾ける。

 鼻孔から垂れるそれは、鼻水ではなく、赤いもの。

 これは視覚が壊されたのだからではなくて、血なのだ。

 頭の中の線を切れたように鼻血を噴き出させ―――『嗅覚過適応』は働かなくなった。

 これで人間の取得情報の7割を占める視覚と、超能力者としての特異な嗅覚の“認識”が“壊れた”。

 すぐ目の前にいるはずなのに、半人半魔の大魔女を認識できなくなっている。

 だが。

 脳みそを絞り出すように、無駄な反抗を行った。

 

「……やだ……」

 

 言って、乱雑に右腕を振るった。

 ふっ、と右腕に嵌めていたなにか―――そう、手首に巻いていた黒猫のお守りがすっぽ抜けて、ッ、と何かにあたる音。

 

 そして。

 

 グシャリッッッ!!!!!! と凄まじい轟音を頭の奥から響き渡るのを知覚した。一気に、視覚と嗅覚だけでなく、味覚聴覚触覚、五感まとめて握り潰された。口、鼻、そして目と耳と血が溢れ出る。まるで脳みそを爆弾にして破裂させたかのような、圧倒的な感覚の破壊。今度こそ視界が、頭が真っ赤になって、何も察することができなくなった。

 

「がうぁぁ!? ぐふぅ!! がぎぃ! あァァうううううううおおおおおおおおおおおお!?」

 

《あまり私を怒らせないで、“九番”》

 

 体内の霊的回路及び魔器が短絡(ショート)を起こすのを感じた。手も足も重い。鉛の服を着せられた方がはるかにマシだろう。加えて主が施してくれた応急処置も剥がれかけてしまっている。

 そんな中でも、方向のわからない女の声だけが奇妙にはっきりと飛び込んでくる。感覚が摩耗した中で、もはや神の声のように強調されてる。

 

《“器”まで壊したくないの。“お願い”だから、“ご主人様”の言うことを聞いてちょうだい》

 

 ああ―――怖い。

 それが最終通告だと、声音も変わっていないのに、気づいた。

 そうだ。今さらに理解する。こうなっているのは、毒のせいだけではない。至極単純に“創造主”の存在を感じるだけで身体は竦み、足は萎え、気を抜けば指先ひとつまで自由にならなくなる。まるで内臓全てが裏返りでもしたように、過呼吸のペースが上がっていくのを止められない。

 怖い。

 怖くてたまらない。

 こんな毒よりも、自分にとっては怖いのだ。

 最も精神(こころ)の柔らかな部分に爪を立てるように、捉えて離さない。

 なのに。

 

「……いやだ……」

 

 

 

 

 

《へぇ……》

 

 『誘惑』も『堕落』も『破滅』も『恐怖』も、そして、『暴力』も女の手札にはある。

 

 閃光と爆炎に呑まれ、そして、鎧を剥ぎ取るように爪牙を立てる紫雲の人狼たち。

 毒で弱体化されて、防ぐことも避けることも間に合わない。そして、今までのより圧倒的で、抗いようのないパワーを秘めた衝撃。その時間が止まったかのように真紅に染まった空間で、己の身代わりとして黄金の鎧が砕けていくのを、銀人狼は見ながら、また地面に投げ出される。

 仰向けに倒れた銀人狼は、月のない夜空を見上げた。

 鼻腔に入る森の匂いと血腥い臭い。光のない中で半人半魔の異形の姿を視認する。

 握力が戻り始めて、身体の痺れも、取れている。

 

『薬も過ぎれば毒になるよう。使いようによれば毒も薬となるものよ。毒草(トリカブト)だって扱いによっては薬となるんだから』

 

 そして、診察してくれた魔導医師からの言葉を思い出す。

 ひとつ、銀人狼は確信した。

 あまりに巨大で、あまりに多勢を率いる<堕魂>の大魔女を攻撃することは、不可能に近い。

 だが、今、一筋の光明が見えた気がした。

 『欠陥製品』を『最高傑作』だというのだ。これを“真祖をも堕落させる神殺し”だなんて、“わかっていない”。

 何もかもを壊してしまうこの毒性と同じ力を振るっているのならば、自分に攻略できる可能性がある。

 そして怪魔を総べる大魔女の本体を叩くことができれば―――

 

《これほどに反抗するなんて……》

 

 ―――倒せる。

 

 

《私に勝てる―――そう、言い聞かされて、ここに来たのかしら?》

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 朦朧とした思考能力で、記憶を整理。

 まず、混濁した意識の中で、これまでの経緯を思い出す。

 <蛇遣い>の手引きで、“創造主”である<血途の魔女>と決着をつけにきて―――返り討ちに遭った。

 それでも、ひとつ理解して。

 けれども、力の制御ができずに―――

 

《<神獣化>を制御できずに、混乱してしまってるようね》

 

 凶ツ星が、疾駆する。

 

 それは金色の体毛を持つ、身の丈4m以上もある、完全なる獣だ。巨体を支える逞しい後肢で立ち、長く太い腕に長剣ほどの爪が伸びる手。

 龍族や天使、幻想に生きる種族と格を同じくするその“獣”が、悲しい咆哮を上げる。その背後を取った形になる三頭の魔獣が、より巨大な爪撃を見舞う。だが、その地盤を砕き割る一撃を、“獣”は片腕で、完璧なタイミングと力加減で払った。予想外の練達の武術で跳ね飛ばされた怪魔をよそに、“獣”は“創造主”へと虚空を蹴って跳躍した。

 

「■■■■■ッ!」

 

 “獣”の口から、咆哮が迸った。

 障害で合間に入る南瓜頭の爆弾に構わず猛進して、半人半魔の大魔女の脳天へその爪を振り切った。爪の切先がわずかに掠っただけで、有り得ざる密度にまで質量と魔力とが凝集された超重撃は容易に空間を裂いた。突如として発生した大気なき空間より発生する真空は、周囲の怪魔たちを撒き散らし、けれど、次元を跳躍した大魔女はまた別の場所へその姿を現す。

 

《混乱している、は正しくなかったわね―――暴走してるわ》

 

 怪魔の軍勢を半分以上、霧散されたにもかかわらず、女は嗤っていた。

 歪だが換えのない美と色気を持った半人半魔が上空の“眼”に指揮するよう腕を振るい、何万という熱線を雨と降らせる。“獣”が咆哮し、その大口から放たれる。劫火。

 魔術による炎とはけた違いの炎熱が、熱線を完全に消し去った。

 無人島上空を彩る炎の明かり。神殺しの狼が成す神話の再現。天上を焦がす凄絶の火炎。

 灼熱の吐息(ブレス)を逃れた熱線が容赦なく“獣”を直接撃つが、それが肉を焼くことはない。生体障壁と呼ばれる疑似物質の盾に、強固によろわれているからだ。

 先の返しといい、狂暴化していても、これまで学習した戦闘技能は失われていない。

 

《けど、それも長くは続かない》

 

 <神獣化>は、その寿命を削る禁じ手であり、火事場の馬鹿力。長続きはしない。その100%の力を行使すれば行使するほどに、高圧すぎる力によってその肉体が耐えられなくなる。だから、誰に制限されることもなく、この禁じ手の使用を自己防衛本能で控えただろう。何も知らぬ赤子のころから、そのリミッターの安全ラインだけは誰しも理解するものなのだから。

 

 そして、悪魔になった大魔女は、魔術師とは根本的に呪力を扱う次元が異なる。

 超高等魔術を使うのに、詠唱も儀式も必要ない。呪物に魔導書もいらない。新たな悪魔の眷属との契約に年月を要する作業だとしても、この半人半魔は一瞬で凌駕する。

 何故なら、彼女自体が、魔法であり、悪魔であるのだから。

 吸血鬼や魔女がゼロから使い魔を構築する代わりに、彼女はすでにあるものを取り出すだけ百鬼夜行の大軍を率いてしまう。

 それでいて、自身は自由に現世とその裏側を行き来できるのだから。

 

《結局、子は親には勝てない》

 

 覆い被さろうとする三頭の巨獣と眼球体と南瓜頭の波に風穴を空けて、今度は宙に停滞する“創造主”へ迫る。

 けれど、次元跳躍で躱される。

 どれほどの力があろうと、当たらなければ意味がない。

 怪魔の軍勢は、“獣”を逃そうとしなかった。前にある味方ごと撃ち抜くように熱線と爆炎を発射して、執拗に主に反逆する“獣”を狙う。それをまた灼熱の吐息で焼き払い、だが、その反対側から雲が形作る物質透過の怪魔が襲い掛かる。

 “獣”は即座に怪魔を振り払うが、数が多すぎる。たちまち“獣”は怪魔の咢の餌食となり、苦鳴を上げる。

 

「■■■―――ッ!」

 

 獣気に混在する漆黒の“壊毒”が、形なき家族に似せられた怪魔を余さず喰らうように呑み込んでいく。

 そして、眼光が赤い線を走らす視界には、悠然と嗤う<血途の魔女>がいる。眷属を何体斃されようがその魔力が減ることはなく、躰に触れることもできない。

 それでもなお、“獣”は、前に足を踏み出そうとする。

 

 今、“創造主”への恐怖は、ない。

 このまま自分もわからなくなって皆の事もわからなくなる―――その方が、ずっと怖い。

 今、この“創造主”に対峙する恐怖心を塗り替えてしまうほどに。

 だから、封じていた。

 この“力”はけして使わない。死ぬような目に遭っても使うのはダメだとわかっていた。

 ダメ、だとわかっていたのに。

 “力”が必要なのだ。

 逃げないために、戦うために―――そして、“一番”をもうなくさないために。

 

 

 

 

 

『ごめんね』

 

 

 

 

 

「!」

 

 “獣”の身体が振動した。

 背後から何かが―――一本の矢に収縮されたいくつもの情報が、光以上の速度で海を渡り飛んできたかと思うと、それは“獣”の後頭部へと命中した。脳髄をも貫いたそれが、“獣”の額から飛び抜けて、“匂い”となって鼻前に拡散していった。

 

 

回想

 

 

 ―――過去(ユメ)を、見る。

 

 

 どこか遠い国の、人里離れた森のようだった。

 近くには小さな泉があり、俗世の穢れを祓えるほど澄んでいる。空気だってどこかしら清らかで、ここで沐浴するのは気持ちよく、そして精神が研ぎ澄まされることだろう。

 この森の向こうに遺跡がある。

 あそこが、『眠り姫』の巨大な棺。

 それを目前に控えて、ひとりの巫女がそれを見上げている。或いは、見透かしている。

 そんな彼女を、木蔭で木に背を預けるよう、休みながら自分は見ていた。

 身に着けているのは薄い白襦袢で、水垢離を済ませたばかりだからか、濡れた布地がピッタリと肌に張り付いており、小柄な彼女の身体がより小さく見える。

 見るからに幼い。

 父方の祖母から受け継いだ霊媒としての素養と、母親から受け継いだ過適応者(ハイパーアダプター)としての力を併せ持つ、極めて稀少な混成能力者(ハイブリッド)である少女の『過去透視能力(サイコメトリー)』はこれまでに、いくつか埋もれていた遺跡の位置の特定や、解読不能とされていた古代の碑文を読み解いてきた。今日も、超音波診断や探査魔術でも見つけられないようなものを、視えてしまう。

 細める目。その哀しげな気配を感じ入ったように交霊(チャネリング)している。

 

 これは夢であり、現実である。

 

 <第四真祖>の身体を乗っ取った<蒼の魔女>は、その類い稀な空間制御の魔術で、真祖の肉体に記録された情報から、過去と現在の時空を連結するという荒業を成した―――

 

 そう。

 自分の“一番”を奪われて、それを視られてしまったその時、自分もまた、唯一、脳の古い部分に直接働きかけて記憶と感情に密接に繋がったその嗅覚に特化した過適応者の力とその空間制御を操る魔女の使い魔としての属性が暴走し、その<固有堆積時間(パーソナルヒストリー)>――過去の情報を嗅ぎ取ってしまった。

 その一場面だけを切り取ったように、一時、精神体だけが現在から過去へ移動してしまうほどに。

 

 これから、少女は運命を背負う……そのハジマリの前まで。

 

『あれ? ここに別の気配がする』

 

 精神体である魂、すなわち霊の如き存在を、混成能力者である少女の研ぎ澄まされたばかりの感度や精度が、捉えていた。

 視えていても姿形は見えない、得体のしれない異分子が迷い込んでいるのを覚り、しかしながら、すぐ助けを呼ぼうとはしなかった。すぐ近くには兄が見張っていて、逆運の武闘派考古学者な父もいる。

 

『うーん、なんだろ。ここにあるのとは違うってわかるんだけど……お祖母ちゃんが言うには、客人(まれびと)さんだっけ』

 

 けれど、少女はそれをまずは対話を試みる、というよりは、話し相手を見つけた、という感覚に近いのだろう。

 

《まれびと……?》

『わ、すごい! 反応も返してくれるなんて、びっくりです。やっぱりここって不思議な場所なんだね。あ、客人ってのはね、どこか遠くから来てくれた神様、かな。だったよね? 私、正月とかにお祖母ちゃん家の神社の手伝いをしてるくらいで、ちゃんとした修業は受けたことがないから……とにかく、お客さんは歓迎する! うん、これで間違ってないよね』

 

 『客人』とは、日本古来の習俗である。飛行機もなく、船で渡るにも長い年月をかけていたほど交通手段の発達していない昔は、異国の情報を得るには旅人の話からしかなく、異界と現界を繋ぐ者として旅人を神としていた。

 けれど、疫病なども運ぶことがあるので、凶兆とも恐れられていることもあるが。

 とはいえ、歴史にも、弾性がある。バタフライ効果のようにあらゆる些細な事象が全体の変動に関わるとしたら、時間を跳び越えた自分はそこにあるだけで世界を際限なく崩壊しかねない存在である。

 つまりは、過度な接触がない限りは、『歴史』の流れは変動しない。少女ひとりとお話をする程度は、許容範囲に入っている。

 

『でも、私も牙城君の手伝いてきただけで、ここじゃ異国人になっちゃうし』

 

《手伝い?》

『うん。これでも私、結構、大学とか研究機関とかで活躍してるんだよ。それで、今回のはずーっと昔に造られたお墓の調査』

 

《お墓?》

『うん。『妖精の(ひつぎ)』って呼ばれてるんだって。それが、『聖殲』――牙城君の研究してるのに大きく関わってるかもしれないの。西欧教会の聖典にも書かれてる歴史上の大きな事件なんだよ。それをこれからそこに行って調べるの』

 

《うー、あんまりお墓を荒らすのはよくないと思うぞ》

『あはは……お祖母ちゃんからも罰当たりだって叱られちゃったよ』

 

《それに危ない。ここ、何だか怖い“匂い”がする。罠が仕掛けられてる感じだぞ。大丈夫か?》

『そうだね。牙城君のお仕事がいつも危険だってことは聞いてたけど、呼ばれたのはこれが初めてなのかな。あ、牙城君は反対したんだよ! すっごく心配もしてくれて、古城君も付き添いで来てくれた。それに、お宝目当ての盗掘団が近づいてこないよう、軍が守ってくれてるの。それくらい、この遺跡調査はとっても重要で―――<第四真祖>を知る手掛かりになる』

 

《第四、真祖……》

 

 元々、難しい推測や計算ができるタイプじゃない。それでも、これまでに与えられたヒントを掻き集めることはできるし、勘は当たる。悪いものほど。

 

 ここが、過去で。

 それも、自分の訪れたことがある。

 そのときは、切迫とした状況下であって。

 そして、この少女は昔の―――

 

『それで、今回の仕事は大変だから、その分、たくさん報酬が出るんだよ。だから、お土産も奮発できるかも! 折角、外国に来たんだから、ユウちゃんとかみんなをあっと驚かすくらいの買うんだ』

 

 混成能力者(ハイブリッド)であり、魔族恐怖症のない、しかし、平穏な日常を生きる女の子だ。

 それが、ここで終わってしまう。

 彼女がそれまで積み重ねてきた努力や願望も、過去も未来もすべて捨てて、違う生き物として生きることになる。自己の抹消と変わりなくて。それで代償として、多大な力を得ることになったとしても、それがこれまでの生活をあっさりと切り捨てられるほどのものではないことは確かのはずだ。

 だって、彼女は今を満喫している。

 語られる人間関係に日々の思い出深い生活、将来の夢や希望、それは自分が羨むだけの輝きを持っている。

 それを白紙に戻す、ではない、こんなのは真っ赤に塗り潰して、一からやり直すどころか、その描いていた未来を完膚なきまでに喪失するだけの決意があるか。持てるものなのか。

 

 いいや。

 それは、いけないことだ。

 

 世界を壊してしまうかもしれない。だけど、少女を救える可能性がある。

 たった一言で、何かが変わってしまうかもしれない。変えられるかもしれない。

 無垢な中庸は何が正しいのかわからず、正しさに囚われず。

 

 ただ、遠い昔に死んでしまった者より、この今を生きている者の方が大事だった。

 

《……、行っちゃ、ダメなのだ》

 

『?』

 

《眠りを起こしたら、将来、辛い目に遭う。“凪沙ちゃん”は、ものすごく重いモノを背負うことになるぞ》

 

『……、そっか』

 

 別段、パニックになって悲鳴を上げたり、悪質な冗談だと否定したりはしなかった。

 暁凪沙は、ただ寂しそうに笑っていた。

 一言も口にしていない名前を知っている、それだけでわかってしまうものがある。

 これは、推測ではない、実体験から基づく預言なのだと。

 だけど。

 震える指を懸命に握り込んでから、すべてを振り切るように、その笑みのまま返される。

 

『ありがとう』

 

 言葉数の多い少女の告げたその一言は、無力を悟らせるには十分であった。

 

『でもね、誰かがひとりぼっちで泣いているような、そんな気がするんだ』

 

 だから、慰めないと彼女は言う。

 

 除霊や悪霊退散でまず連想することと言えば、神様仏様の力を借りた霊能力者が一方的にパパッとやっつけるイメージだろうが、それは理想形では決してない。

 読んで字の如く、霊を除く、そして退散していただく、それが本質で、理想形だ。

 名のある滝口武者が霊刀片手に斬りかかったり、徳の高い法師が暴れ回ったりしなければならない相手もいるだろう。

 けれど、どれほどの暴力が通用しない相手でも、親切に誠実に接することで立ち去ってくれるという逸話も多い。

 どんな護符も結界でも抑えきれない最強の呪いである『蠱毒』は、一度取りつかれてしまえば本人どころか一族郎党を破滅させてしまうが、家族を想って自分一人が犠牲になろうと一息で蟲を呑み込んでしまうと、その者も含めて何事もなく余生を送ることができたという話がある。

 

 この少女は、素質はあってもきちんとした修業を受けたことのない素人で、だけど、数多の国家都市を滅ぼしてきた災厄の化身の如き呪われた魂であったとしても、恐れず仲良く迎え入れようとすることのできる。

 はたして、それができる功魔師は、どれだけいるだろうか?

 

 そんな誠に、真に正しい在り方であって、それでも自分を犠牲にしてしまう、この優しい少女を、止めたかった。けど、止められない。

 この哀しい気配を覚りながらそこに行けないのなら、進んできたこれまでを否定してしまうことと同じ。周囲の期待や責任からではなく、今まで歩んだ道のりを引き返すような真似はしたくないから、少女はその運命を選ぶ。

 そんな性格はわかっていたが。わかりきっていたが。やっぱり、悔しい。

 結局、歴史を変えることは、できないのだ。

 

『せっかく、忠告してくれたのに、聞かなくてごめんね』

 

《ううん……いいのだ。すっごくやせ我慢してるのはわかるけどな》

 

『あちゃー、ばれちゃうんだ』

 

 苦笑するが、それでも見捨てはしないだろう。

 真っ直ぐな眼差しと、ただ自分であろうとする彼女の意思に、単純な力にはない気高さを感じ入る。未来を知ってるからわかる。寿命を削りながらも、その未練が晴れるまで付き合うと決めて、やせ我慢を続けるのだこの少女は。

 

『それで、何かお礼したいんだけど、まだ仕事やる前だから、そんなにお金とか物とかなくて……その、すぐに用意できないの。だから、何が欲しいか言って。いつまで客人がここにいれるかわからないけど、ちゃんとあなたに感謝したいから―――』

 

《なら、ひとつ。オレが欲しいものがある》

 

 これは、そんな勝てるはずのない運命との大敗を噛み締めての宣戦布告。

 その出会う前の過去の歴史を変えることはできないが、その未来に向けて、

 

 

 

《お前の涙が欲しい。いつか先の未来で、辛い目に遭った時、きっと助けるから、泣き止んでくれ》

 

 

 

 決意が、できた。『血の従者』だとか、誰に命じられたからではなくて、ただ、己の意思で己の全力を振るうことをその時になってようやく決められた。

 主が、己が最悪な“獣”へ後戻りできなくなってしまわぬよう施されたその封印を引き千切ってしまえば、この身体は、醜悪な暴力の化身となろう。それでもなお、精神体が現代に帰ってきてすぐ、この生命を一滴残らず使い切るに一片の後悔も抱かない、死地とこの場を定めてしまうくらいに。

 もっとわかりやすく言えば。

 どうしようもない意地で、格好つけざるをえなくなったのだ。

 

 

『さあ、我に殺神兵器の本性を見せてみろ―――!』

 

 

 ああ、お望み通りに、ブッ飛ばしてやるぞ、“原初(センパイ)”。

 

 

金魚鉢

 

 

 ―――なくしてしまったものは、たくさんあったけど

        なくしちゃいけないものもたくさんあったよね。

 

 あの時。

 奥に封じられながらも、“獣”に訴えていたその声。

 “一番”を代償に、生き返らされる自分には届かなかったが、それでも確かに拾っていたその想い。

 

 ―――でも……こんなの、違うよね?

          ごめんね、私、迷惑ばかりで……

    なんか、いっぱい苦しめちゃったね

              本当、何やってるんだろ……だね。

 

 そう、許しを請おうともせず、ただただ、ずっと謝り続けていた。

 

 ―――それでも。あなたが生きていてくれて……良かった……

 

 そして、殺し合いの最中、心からこの生還に安堵した、ひとりの少女がいたことを、思い出した。

 

 

 

 その記憶と共に目覚める。

 忘れていたあの日の約束が、偶然を重ねられてこの時より、“契約”と形を変えて蘇る。

 

《―――なに? まさか、南宮那月以外にも……!?》

 

 残滓が形を成すのは、妖鳥の影。

 それに抱かれるように『獣の皮を被る者』が纏い、その氷で造られた棺に身体を囚われる。

 

 

 ―――お前は、『私の『墓守』になる』と“誓った”はずだろう。

 

 

 少女の意思が介在した氷に凍らされ、

 <第四真祖>の魔力で<禁忌契約(ゲッシュ)>を結び、

 仮初とはいえ『血の従者』であり、

 残滓の“匂い”から約束を思い出した。

 偶然に偶然を重ねて、“第一の契約”の成立。

 そして、<禁忌契約>はただ縛るものではない、その契約の重さだけ、恩恵が与えられる。

 

 

「____―――― ̄ ̄ ̄ ̄ ――  __  ―――  ̄ ̄ ̄」

 

 

 その瞬間―――

 氷の中で、“獣”が、吼えた。

 天地を揺るがすその遠吠えは、聴く者の胸を絞めつけるような悲しさと、しかし、どこか歓喜の色を滲ませた不思議な声色だった。

 それが自然物に反響して木霊する度に音色を変えて、まるで空が、大地が、海がその指揮に合わせて合唱しているかのよう。

 その物理法則すら感動させるその鳴響が、終わり、

 

「そうだ。オレは、“一番”をなくしちゃいない」

 

 黄金に輝き出す氷棺が、崩壊する。氷の破片に反射して万華鏡の如き光と共に、クロウの躰が変貌する。

 

「だって、あのとき、“一番(まえ)”より、ずっと“一番”をもらったんだ」

 

 ずっと一方的に喋って、それに、思い込みも激しい。これは残滓が聴かせてくれた彼女の声で、録音されていたものと同然なのだから、それについて文句を言うのはしょうがないけれども。

 それを含めて、許せてしまう。

 この持て余してしまう正体不明な気持ちに、名前は付けられないけれど。

 きっと初めて会った時から、理不尽な運命を見捨てられない在り方を支えたくて、何もかもを捨てるくらい一生懸命になれた。

 

「もう、大丈夫だ……ありがとう。オレは、ちゃんと生きている」

 

 容姿は、それまでと違っていた。まるで蛹から脱皮するように、それが真の姿だと言わんばかりに。

 

 

 『真実』を知り、魔女の呪縛より解放された獣は人に戻る。

 

 

《あなた……何者?》

 

 それは、その場にいた大魔女が知覚し凍りつくほどの衝撃であった。“創造主”でさえ予期し得なかった、凄まじい“何か”に変成した。

 

《こんなの……私、知らないわよ》

 

 人型、であった。

 通常時では男子学生の中では小柄な体躯であったが、今はそれが大人にまで成長したかのように2m近くまで伸びている。

 そして、尻尾こそついてはいるが、二足歩行の獣の容姿をした完全な獣人とは違う。獣耳こそ出てるがその顔は、巨大な牙をもった狼頭ではなく、人間時のもの。針金のような体毛は全身を覆っておらず、その両手足が産毛のように短めで柔らかな獣毛を帯びていて、鋭利な爪のない、人の手であった。

 

《何者だと訊いてるのッ! 答えなさい“九番”!》

 

 次元の裏側に隠れ潜む“創造主”の声は、多数の怪魔を震わせて発しているようで、何重にも木霊しているように聞こえた。

 

「オレは、オレだ。わからないのか」

 

 毛髪に両手足の金砂の柔毛。そして、瞑目して、今開かれた瞳は、金色に似たイエローオパールから『ヴァージン・レインボー』と呼ばれる極光(オーロラ)を閉じ込めたような宝石の虹色に。

 

「もし、オレの後ろにあるものがわからないなら、それがオマエの限界だ」

 

 ひとりで、この“力”を御し得たのではない。背後には、森より出て積み上げたものが、嘆きが、愛情がある。

 

 

 とある神話で、森に棲まう神が造り上げた兵器がいた。

 それは性別もない泥の人形であり、人間としての知性もない、ただ森の獣と戯れて日々を過ごす。だけれど、その力は人知を超えて、一度内なる獣を解き放てば、国をも滅ぼすとも言われた。

 だが、ある時、その森に訪れた『聖娼』と呼ばれる巫女を出会ったことで、知性も理性もなかった兵器は、変わる。

 その種族の垣根を超えた在り方に見惚れ、六日七晩寝食を共に過ごした兵器は徐々に人間としての在り方を、彼女を真似ることで身に着ける。

 兵器の力を、獣として暴れさせるのではなく、人として振るえるだけの理性を彼女から手に入れることができた――――

 

 

「皆が、危ない」

 

 遥かに拡大されたその嗅覚感知が、この金魚鉢より、絃神島の様子を報せる。

 それから、その双眸が、半人半魔の異形を射抜いて、『ひっ……!?』とそれから逃れるよう、新たな怪魔が召喚される。

 宙空で、三つの大罪の断片が混わり、無数の細木で構成された巨人。

 クロウはこれまでのより一回り巨大な怪魔を見上げる。

 彼の立っている場所からだと、絶壁がそびえ立っているようにしか見えない。その壁がクロウを押し潰そうと迫る。

 

 それは先の『真祖に最も近い』吸血鬼を叩き潰した一撃よりも凄まじく。

 しかし、それを受けた人型の身体は潰れるどころか揺れもせず、山の如く不動に立っていた。

 

「オマエに構ってやれる状況じゃなくなった」

 

 ひゅっ、と風を切って―――絶壁が、眼前から消えた。

 ぐんにゃり、と空間が歪む。真横に腕を振ったその軌道上にあった空間がズレて、巨人がそれに巻き込まれる。だるま落としで真ん中の段が飛ばされて―――そんな三分割されたとしか思えない光景。その一瞬遅れて、ズレた空間の歪みが戻ったと同時に怪魔は消滅。

 すべては、無造作に振った裏拳によるもの。

 裏拳というより、手を当てたと言った方が正しいくらいの小さな軽い動きだったにもかかわらず、三体複合の巨獣は胴体を空間ごと吹き飛ばされ、霧散した。

 そして、その怪魔にほとんど覆い被されていたというのに返り血も浴びていない。

 扇状に、怪魔の飛び散った断片が広がるが、どうみても胴体の体積には足りない。つまりは、衝撃は吹き飛ぶどころか、原子分解を起こして消滅させるほどのものだった

 

 爪も牙もない人型であっても、その比類なき豪力は完全なる獣のもの。

 そして、拳速は、巨大な図体をした<神獣化>よりも速く、けれど、力に振り回されることなく、安定している―――

 

 それは、おかしい。

 力が倍増したとしても、その分だけ跳ね返ってくる負荷も倍増しているのであって、そんな縮小した体躯で受け切れるものか。

 軽く100%以上の力を完全に掌握し、なおかつ暴走も起こさず、理性さえ保っているなんて……!

 

《ありえない! これは単なる“器”で、力は悪魔にこそあって、私がその半分を持ってる! まだ、完成してないのに、どうして、そんな―――》

 

「<輪環王(ラインゴルド)>……あと少しだけ、付き合ってくれ」

 

 砕かれたはずの機械仕掛けの金鎧がより鋭角的なデザインとなって、装着される。

 爪籠手が、その爪ひとつひとつが剣である、野獣と騎士、両方を兼ね備えた形態は、今の状態にこの上なくしっくりと馴染んだ。

 

 

「親離れの時間だ……とっとと、蹴りをつけるぞ」

 

 

 

つづく



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観測者の宴Ⅴ

回想 彩海学園

 

 

 それは10年前の話。

 

 

 彼女は、そこにあり続ける。

 深く静かに冴え冴えと、冷たく暖かく優しく、

 遠く隔たれた夢の向こうからこの世界を看取る。

 月のように。

 

 

「―――(ワタシ)と来い。盟友(とも)よ」

 

 白黒の十二単の若い女性が、人形のように小柄な制服姿の女子生徒へ手を伸ばして、誘いをかける。

 

(オマエ)(ワタシ)と同じ……だ」

 

 生まれながらにして、悪魔に魂を奪われた純血の魔女。そして、世界に蔑まれしもの。

 

(わたし)は我らの呪われた運命を変える」

 

 故に、世界を壊す。

 その決意にきっと友も同意してくれると思っていた。

 彼女は夢幻の監獄の管理者として設計され、死後の自由はなく、永遠と孤独に彷徨うことになる運命だ。

 そして、友は定められた運命に自分と同じ抗うもの。

 今こそ、この『魔族特区』で学生生活を送っているようだが、悪魔との契約方法を学び、魔女となるきっかけを与えられたのは、<タルタロス・ラプス>と呼ばれた『魔族特区』破壊集団の一員。そして、彼女も復讐を終えさせたその5年前まで『壊し屋』に属していた

 

 

 だけど、<闇誓書>――『世界を思うがままに作り変える』魔導書を友は友自らの手で焼き捨ててしまった。

 その失われた魔導書の知識があるのは、今や友の記憶のみ。

 

「……心配してくれるのか。優しいな」

 

 憐れむように、そして、決別の意をそのかすかな微笑に友は込める。

 友はすでに、この島の、『魔族特区』に住まう学生らのために、この犯罪組織の長たる自分に逆らうことを決めている。

 

 こちらも、誘いを拒否するのならば、無理やりにでも<闇誓書>の記憶を奪うとも決めている。

 だが、出来得ることならば、友に協力してほしいと願っている。

 

(オマエ)が護ろうとしたクラスメイト達も、いずれ汝を置いて大人になる。そして汝のことなど忘れる。何処にもいけない汝のことなどな」

 

「ふん……それもいいな。

 いっそ、この学園の教師にでもなって新しい生徒の成長でも見守るか……」

 

 清々しげな友の表情に、憤怒の感情が湧きあがる。

 魔女に蔑む人々に利用されることを良しとし、恥もしないその友の態度は、自分には度し難い欺瞞に見えた。

 

「愚かな」

 

 火眼金睛と化す双眸。背後に剣を抜いた<守護者(騎士)>。

 対して、友も金色に輝く巨大な影を浮かび上がらせて、

 

「なら、賭けてみないか? 阿夜」

 

「今更、この期に及んで何を賭けるつもりだ、那月」

 

「そうだな」

 

 夜空にある月を臨みながら、友は言う。

 

 

「―――月が沈んだ後に昇ってくる、太陽を」

 

 

金魚鉢

 

 

 どうしようもなく遠いものだと普通ならば諦めるだろう。

 

 

 およそ37万km。

 10年休まず歩き続けても、辿り着けない。

 宇宙(ソラ)の月は、湖水の月と隔絶した存在である。

 手を伸ばそうにも、近づこうにも、触れられない―――はずであった。

 

 

 

「―――いくぞ」

 

 <神獣化>の性能は理解していた。

 だが、目の前のこの形態の獣気はあまりに異質だ。

 溶岩にも純度があるのだと仮定するとして―――あらゆる不純物を取り除いて“熱量”のみを極限まで濃縮したマグマの塊。それが今の人型――『魔人』に対して抱いた印象である。

 

 

 轟音。

 

 

 構えた拳を斜め上に真っ直ぐに突き出す。

 クロウがしたのは、ただそれだけのことだった。

 しかし、その単純な行為も、魔人の剛暴なる獣気が加えれば、それだけで必殺の一撃と称するに相応しい威力に膨れ上がる。

 拳圧が夜空へと飛んで、異形のいた空間を隕石でも通り抜けたかのような烈風が吹き抜けた。

 

 そして、その拳圧の激しいうねりは、暗雲を消滅させて、円形の綺麗な星空が広がった。天蓋の星々に届かんと思わされるほどに達し、稼働を終えて宇宙ゴミ(デブリ)と化した人工衛星のひとつに、まるでチーズを刳りぬいたかのように綺麗な穴を穿ち広げた―――

 

 

 

《私としたことが、何を……》

 

 次元跳躍はあらゆる物理衝撃を届かせない。

 その一撃は、意味がない。だから、この“震え”は憤りのものであって、きっと予期せぬ姿に成ってしまったことからだろう。

 

 ―――どれほどの威力があろうとも当たらない。

 ―――その性能を理解して、対抗できる性能を得るために悪魔と融合した。

 ―――それよりも、何故、こんなにも“創造主”の意に反しているのだ?

 

 純粋な疑問。

 それはお湯を注ぐだけのインスタント食品が、説明通りに調理したのに麺が伸びきってしまっているのを見た子供と似たような感想であった。

 そして、原因が『器』にあると解った瞬間、その感情は驚嘆から苛立ちへ変化する。

 

《予期しなかったわけではない。むしろ、恐れていたことが起こってしまったとみるべきでしょうね。

 でも、実際に体験するまで、これほど苛立つものとは思わなかったわ》

 

 『器』が“腐蝕している”のだ。

 こんなのは成長だなんて認められない。消費期限があるよう、何であれ時間が経ってしまえば、腐ってしまうのは当たり前であった。それも防腐加工していない生物(ナマモノ)ならばなおさら。

 苛立ちと恍惚を混ぜ合わせた笑みを浮かべ―――鬼気に満ちた吐息を吐き洩らしてから、静かに告げた。

 

《今ので理解したでしょう? 私を倒せないことが》

 

 対するクロウは自分の手と異形を見比べ、応える。

 

「なるほど、ご主人とは違うが、ここにいるようでいないのか」

 

《そう、湖面の月と同じで……》

 

「そっか。“このタイミングじゃ”ダメなんだな」

 

 その発言を、<血途の魔女>は理解しなかった。

 

 

 ―――まだ、私の有利は動かない。

 

 

 <血途の魔女>は、ひとつの確信を持って、己のものとなった力を行使した。

 異世界より、その死角となっている場所に、再び怪魔を召喚する。無数の枝で構成された巨人――先の極夜の森の化身と同じ三体を複合させたものを。

 その巨体の陰がかかるよりも早くに、魔人はそちらを振り向く。

 『龍の巣』と形容すべき積乱雲の化身の如き竜形の怪魔が天を覆い、飛空艇に改造された大鯨のような怪魔がその全長200mを超える巨体を空に泳がせる。

 そして、また黒夜の化身がその巨体を森より起き上がらせる―――しかし、その盤面はわずか九歩で覆される。

 

 召喚されたと同時、地上から魔人が飛び出した。

 

 愚かな―――!

 

 その翼のない人型で、この空を制する二大怪魔に接近戦で挑みかかるとは天に唾をする行為に等しい。不慣れであっても、先の遠当てか気功砲などと言った遠距離戦を選択すべきだったのだ。ただ一度の跳躍で届く高みあるわけではなく、これでは恰好の的にしかならない。その隙を逃すわけもなく、即座に空艇鯨が巨体の各部に備え付けられていた砲台たる眼球を向けて―――

 

 一歩目。くるりと身体を回転させた後、空中で再度跳ね上がって、迎撃を躱した。

 

《っ!》

 

 これまでにも虚空を蹴って進むという力技をしてきたが、それは“技術”として洗練されていた。

 『鮭飛びの術』、『八艘跳び』、『觔斗雲(キントウン)の術』などと言ったかつての英雄獣王と同じ、神獣の脚力を身軽な人型でようやく技術として研ぎ澄まされたその跳躍術が空を自在に(かけ)る。

 

 二歩目。空艇鯨が迎撃するその寸前、またまるで見えない壁を蹴る。それに合わせて、足元から爆発的な気功砲を放っては推進力(ブースター)に変えて加速した電光石火。

 

 音を超えてその間合いに入った瞬間、剣爪籠手の乱舞。大鯨の内側より激しく斬線が閃く。胴体から背まで体内を突き進みながら、核を滅多斬りにされて、最後はサマーソルトキックで突き破って、怪魔は霧散する。

 

 

 

 全長200mほどの怪魔を細切れにするほどの力を振るいながら、突き破って現れたその人型は、姿勢にブレがない。

 

 そう、超高速で飛び回る機体が、逆に姿勢を安定するように、その高速安定ラインに達したのだ。

 飛行機は速度が遅い方が扱いやすいが、遅すぎては失速して墜落するものだ。あえて高速で飛ばして機体を安定させている。

 本来なら暴走するはずの力をあえて全開に引き出したことで、制御可能なまでにまとめることに成功したのだろう。

 解放が足りない半端だから不安定、そう<蛇遣い>の“助言(アドバイス)”通りに。

 

 だが、それが人型にまで状態変化して力が凝集されたのはまた別の要因だ。

 

 獣より醒めて、目も覚めて、そして、力が“冷めた”。

 物理的に、水という例外を除けば、気体に蒸発したものは体積が増えてしまうが、その逆に冷めると固体となりその体積が減る。

 神獣という爆発的に膨張する気体から、理性を蒸発させずに人型という安定して固まった固体に昇華した。

 ―――それは、呪われた真祖の狂乱をも封印する『十二番目』の恩恵か。それとも“蠱毒(孤独)”を呑み込んだ少女の願いによってか。

 

 三歩目。体勢を立て直す。

 

 ―――空艇鯨を撃破した直後、もう一体、さらにその高みより見下ろしていた雲龍の怪魔が斜め上より強襲を仕掛けて、

 

 四歩目。頭突きする雲龍が直撃する寸前で、身を捻りながら、とん、と小さく強く、脚全体ではなく足先だけ空を蹴って、その咢より逃れる。

 

 このタイミングと速度。そして、龍の巨体。

 一歩の移動で躱しきれるはずがなく、ほんのわずかに当たる角度と位置が変わった程度。

 だが、突撃の衝撃は、全体で受けたその身体を森の巨人がいる大地へ叩き落としたのではなく、身体を回転させる方向へ力を伝えていた。

 

 コマのように体を回転させながら、身軽な人型が一瞬で雲龍の側面を昇っていって。

 

 生体障壁でダメージを衝撃に変換して、さらには回転して駆け上がる方向へ転換させるその身のこなし。もし当たる角度に僅かでもズレがあれば地面に叩き落とされていたか、回転を制御できずにあらぬ方向に弾き飛ばされていたか。

 感情を読む嗅覚に獣の本能が合わさった冴え渡る直感があったが、これはそれだけでは説明がつかない。

 そう、まるで台本でもあるかのように、見知っていなければ、とても―――

 

《その動き―――もしや!》

 

 あの“眼”は、すでに雲龍の動きを完全に捉えていた。虹色の双眸から紫電がぱちぱちと迸るその瞳は、“一秒先の未来を視ている”。

 

 <禁忌契約>は、制約と誓約を課すことで、“対価として恩恵を得る”。

 『知覚した巫女には、三撃を受けるまでは攻撃してはならない』

 この制約を破れば『半日、人間としての力である超能力を含めた五感を麻痺し、霊力魔力の一切を練れなくなる』誓約を受ける―――この<禁忌契約>の恩恵として、巫女の加護を得る。

 

 剣巫に舞威姫が人間でありながら魔族よりも速くに動ける技能たる、霊視。

 元より、仁獣覚者に至れるほど霊的中枢を備えていた下地があり、それが“第二の契約”の恩恵で心眼に目覚めたのだろう。

 そして、人間にとっての一秒と、獣人にとっての一秒は、選べる選択肢の幅がまるで違うのだ。

 それと、クロウが結んだ契約は三つ。

 

 五歩目。風車の如く身体を廻しながら、剣爪籠手より純白の煌炎が迸る。

 

 ―――ッッッ!!!!!! と、その発現は束の間、音の概念すらも消失させた。

 

 一回りするごとに前より倍する勢いで両腕の剣指刀掌から輝く刃が噴き出し、回転拳舞が雲龍を切り裂く。

 

 『王族からの頼みごとを、二度続けて断ってはならない』

この制約を破れば『一日、獣王としての力である死霊術と獣化を封印する』誓約を受ける―――この<禁忌契約>の恩恵として、王女の加護を得る。

 それが、契約したパスから、遠隔からの<ヴァルンド・システム>を可能とし、聖拳(剣)属性付与させた。

 白い軌跡が唸る、その魔族にとって天敵たる王族の聖気は、一切の不浄を許さず、雲龍を消滅させた。

 

 そして―――

 

 

「―――壬生の秘拳『ねこまたん』!」

 

 

 瞬間的に腕だけが肥大化した森巨人の絶大な拳が迫る。それを天地の概念が消失したかのように、魔人は上下逆さまに受け流して、

 超々小型太陽が発生。陽光の聖気を取り込んだ気功砲が、極夜の化身を影も残さず喰らい尽くした。

 

 ここまで止まらず動いたのは、わずか九歩。

 魔女にすれば飛車角ともいえる三体の怪魔を、それだけで。

 

 三歩必殺。

 

 一撃では倒せなくても、三歩あれば倒せるという、中国拳法の理念のひとつ。

 一歩目で崩し、二歩目で撃ち、三歩目で備える。

 古来、達人の武術家にとって、わずか5m程度の距離などないに等しい。そして、その必殺の間合いは実力に比例しており、

 真っ向から斬り合いは、実力が高ければ高いほど刹那に終わる。

 その刹那のうちにできるのは、進むか退くか。

 不用意に左右に避けようと思えば、それは一瞬とはいえ踏込の勢いを静止させなければならない。

 そして、静止すれば、相手は容赦なく突き、仕留める。

 しかし、向かってくる相手の攻撃に対し、自身も踏み込むというのはけして容易い事ではない。

 迫りくる恐怖を捻じ伏せて相手の懐に飛び込んで初めて相手の備えは崩れて急所へ撃ち込める。

 それだけの勇気がなければ。

 

 心技体が揃った、完全体を超えるその究極体。

 

 『旧き世代』の眷獣に近い力を持つ怪魔数十体と戦ったため、無傷というわけではない。今の形態に至るまでにも負った疵の上から、新たな傷痕が何本も刻みつけられていた。

 それでも魔人は疲れた様子すら見せず、むしろ先刻よりもさらに獣気を濃くしてそこにある。

 そう、その手は、天上の月にさえ届きかねない超越者の領域に食い込もうとしている。

 

《……“九番”》

 

 その符号を呼んだ。

 そこに怒りも驚きも歓びもなく、感情の欠片もない、ただ確認するだけの作業。

 口に出すことで、確かに自身の目に映っている光景が現実であり、理解すると―――この瞬間まで、彼女の中に満ちていた狂気が、一瞬のうちに消え去った。

 沸騰していた水が一瞬で凍り付いたかのように、血途の殺気そのものが急速に冷え切っていく。

 

《……どんな人間に誑かされたのかは知らないけど、まるで鎖から解き放たれた奴隷のような目をしてるのね》

 

 その言葉だけならば、平常通り。先までと変わっていないように聞こえる。

 だが、放散する圧に込められた圧倒的な負の感情が、夜の無人島を一層強く冷やし込む。

 その氷の刃のような殺意を真正面から受け止めるクロウの眼差し。

 それが不快か。魔女の瞳の中が露骨な怒りで湛えられていく。

 

《希望を抱いてしまったのかしら? 自分が道具ではない、と。だから、こうして“創造主(わたし)”に逆らっている。自分が独立した存在であると、自分自身に示すために。

 ―――だったら、もういらないわ》

 

 この会話に意味はない。

 応答を求めるまでもなく、“廃棄”は決定しているのだから。

 ただ、時間稼ぎだ。

 破滅が実るまでの時間を。

 

《私の理想から踏み外れた“器”に、第八の大罪は重すぎる》

 

 その超感応から逃れるよう、密かに地中に存在を隠して実らせていた怪魔。

 それはこの金魚鉢に<蛇遣い>が送り込んでくる前から島の至る所に根を張り巡らせて数十、いや数百も準備して、これまでこの島の龍脈をずっと取り込み続けていた時限爆弾。

 最初にして最後の三体複合の怪魔は、鬼火を灯す南瓜に百眼がついた歪なもの。それは二体分よりも数倍に威力を増した爆弾だ。おそらく、今の四体分を吸収した魔女が召喚し得る怪魔の中では、最も瞬間的な破壊力を秘めているであろう。

 それが龍脈を取り込み続けて、今ようやく限界まで満ちた。

 地中より飛び出した爆弾の怪魔が、逃さぬようクロウの周囲をグルグルと回らせ始める。

 

「む」

 

 爛れるように熟れた南瓜頭に百眼の怪魔の群が、メリーゴーランドのようにクロウを取り囲んで踊り回る。

 そして、高速回転する影が残像を生み出し、巨大な橙色の半球状になった瞬間―――

 溜め込んできたものを解放する。

 

 

 

 万物に純粋なる終焉をもたらす自爆を重ね合せたのだ。

 この金魚鉢と呼ばれた無人島はもし表記されていたならば、“あった”、と過去形で地図に書かれていただろう。

 島が消えた。

 ごくわずかに足場だけを残して。

 炸裂した火柱は炎の竜巻となって、荒れ巡り続けながら、夜闇を照らす。

 

《終わったわ》

 

 そこでいったん目を逸らして―――わずかに怒りの色を薄めて呟いた。

 この焔が消えた時、あるのは焼き焦がされた骸だろうが、生きていようが死んでいようがどうでもいい。その“器”が割れていたとしても、残る四体の大罪の欠片を回収できさえすれば。およそ考えられる限り最悪の形となったが、結局振出しに戻っただけのこと。何でもいいから依代を確保して、“器”はまた、創ればいい。時間はかかるが―――いや、

 

《……なぜ、私は“器”など求めようなどと思ったのか》

 

 クツクツと笑い、魔女は顔を覆っていた手を外して、そして、おもむろに視線を海岸線に向け、軽く熱線を撃ち放った。

 細く鋭い閃光が海と空の境界の果てめがけて伸び進み、一瞬遅れて、地平線上に半円状の爆発が巻き起こる。小さな町程度ならば、一瞬で消し去ることができる熱量だ。熱線が通った後の景色がわずかに揺らめいているが、それは陽炎や幻ではなく―――確かに、空間そのものが歪んでいるのである。

 四つの悪魔がひとつにまとまった結果だが、しかしながら、悪魔四体分の魔力を足しただけではここまでの威力は出ない。

 これはあくまで欠片であって、『鍵』にすぎないのだ。ひとつになることでそれまで閉ざされていた力の回廊が開き、数倍の力が解放される。

 ―――こんなにも素晴らしい『力』を与えられるというのに。

 

《本当に……愚かな道具》

 

 無垢で愚かな存在。

 世界を穢すのが悪意とするならば、世界を壊すのは無垢さだろう。

“それ”を蔑むと同時に、莞爾と笑みを作る。

 自らの中にもまた、『無垢な一面』とやらがあることに気が付いたからだ。

 

 ………………

 …………

 ……

 

 消えない。

 炎の竜巻が、消えない。

 

 ―――まさか。

 

 緩んだ頬が、強張る。

 自分の口から迸った言葉を、理解できなかった。

 

 いた。

 火山噴火のように立ち上る炎獄の中心に、直立した影が揺らめいていた。

 その影へ収束していくように、炎の竜巻は縮小していって、徐々に姿を露わにしていく。

 

 ―――これは、何? 何なの?

 

 浮かんでくる解答を何度も何度も拒否するが、それでも目の前の現実が消え去ってはくれない。

 やがて、魔女の炎はその身の内に全て吸い込まれた。

 

「すぅ―――――」

 

 深呼吸。

 その獣気を纏わすことでする『匂付け(マーキング)』。それで大気に満たして源流(オリジナル)を超える空間支配を可能とした。

 今のは、魔女の炎を吸い込み、王たる獣気(におい)である神獣の劫火(ブレス)と体内で混ぜ合せて、己のものであると屈服させて支配する――炎に『匂付け(マーキング)』したのだ。

 

「―――――っ!?」

 

 その吸引が止まった音を拾った瞬間、半人半魔の大魔女は次元の裏側に跳躍―――

 入れ替わりに、そこからありとあらゆる怪魔が溢れ出た。

 数百、数千に及ぶ使い魔と化したその怪魔。それらが彼女の感情を表しているかのように不安定に歪み合い、溶けあうように融合していく。

 昏い天を衝くほどの巨大な怪物になったそれは―――

 

 

「―――――        ッッッ!!!!!!」

 

 

 途轍もない熱量に、空気中の水分は刹那に干上がり、絶叫の如き水蒸気爆発を起こす。

 そして、怪魔も魔女の炎を呑み込み、神獣の劫火を上乗せして放たれたブレスに完全に実体化する前に焼却され、天を貫くかのような痛みが、“創造主”の全身を支配した。

 

 ―――っっ!? がっ……なっ……避け……!?

 

 この神獣の劫火は呑み込んだ魔女の炎――魔力を帯びている。紅蓮の劫火は獲物の足跡を辿る猟犬にも似て、“前の主の下へ”燃える牙を剥いてひた走った。それが次元跳躍する寸前に噛みつかれてしまった。

 その心中の、感情のブレを、嗅ぎ取られる。

 

「―――よし! 今のは手ごたえがあったぞ」

 

 この海域一帯の気温が全体で平均5度上昇した。

 

 海一面に炎が上がっている。消えることのない。何故ならば、超能力者でもある神獣の劫火は、炎であると同時に獣気(におい)であり、それがこの海にまで浸透してしまっている。そこに焦がすように染み渡った“匂い”が消えるまでは、延々と海は燃え盛り続けているであろう。

 ―――そこへ魔女は戻らなければならない。

 ―――そして、クロウは今の当たりで確信する。

 

(“壊毒(どく)”をばら撒いていた時、お守りが当たった。やっぱり攻撃するときはこっちにいなくちゃいけないんだ)

 

 次元跳躍で、常に絶対の隠れ家へ逃げ込める絶対的なアドバンテージ。

 だが、たった今見抜かれてしまったとおりに、魔女でもその次元を超えるほどの攻撃は持たないのだ。故に、次元の裏側から攻撃をしても相手に届かず、魔女もまた攻撃するには現世に現れなければならない。

 

「そして、いつまでも“かくれんぼ”はできない」

 

 肉体を持っていない魔女は、クロウから悪魔と同時に半分の魔力霊的中枢を奪えたとしても、それだけでは存在の流出を防げない。

 南宮那月から<守護者>を代用臓器に貸し出されてなければ、倒れていただろうクロウと同じ。いや、魔女は肉体すらも持っていないのだ。人間魔族の生命力か地脈龍脈を吸い上げることで魔力を無理矢理固形化した状態を保っていたようだが、それでは、いつまでも裏側にいては存在が(ほど)けてしまう。

 鰓呼吸を持たない人間が、いつまでも水面下に潜っていることはできないよう。次元の裏側に隠れ潜むことはできない。

 

 南宮クロウは原理も何もわかっていない、そんな細かいことを考えもしない。

 ただ、逃がすつもりはない。

 どこに隠れようが姿を現した瞬間にやればいい、と気を張り巡らせる。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――ウソよ……こんな……バカな……

 

 新たな駒の召喚が、できない。息継ぎすら難しい。

 

 ―――何かの間違いよ……そうでしょ! だから……

 

 顔を出そうとする―――その視界に、人型の姿が映る。

 

 その一秒先の未来を霊視し、感情思考の動きまで嗅ぎ取られて先読みされる。

 そして、宙空を蹴って跳べるようになった機動力。現れた瞬間に、もういる。

 どれだけ遠くに逃げようとも、どこまでも鼻先は正面に相対されて離れない。地の果てまで追尾してきそうだ。

 しかも、徐々にその距離を狭めて……

 

「もぐら叩きみたいなもんだが……だいたい行動パターンが読めてきたぞ」

 

 ―――……まずい。

 

 学習されている。

 これでは息継ぎもできなくなるのは時間の問題だ。

 それよりも、その目。ただ見ているのではない、その複雑な感情を篭めた瞳は、そこに含まれる感情の中に、憐れみの色がある―――

 

《何故》その憐れみの中に贖罪の色も混じり始めている。《私をそんな目で見る!》

 

 次元跳躍と同時に熱線を放つ。それはクロウを消し飛ばした。―――その分身体を。

 

《しまっ―――》

 

 接近。互いの双眸が、至近距離で揺らめいて、“見逃された”。

 確実に打ち抜けたはずの間合いで。今の隙を突かなかった。足を止めてさえいた。

 

《道具の分際でっ!》

 

 瞬間、<血途の魔女>が激昂した。あたかも戦いの最中に自分という敵の存在さえ放棄したようなその姿に、魔女は自分が世界からも否定されたような錯覚を覚えた。

 熱線を放つ。それを難なく足先だけの挙動で押された推進で躱したクロウは、

 

「オレは……もっとオマエのことをちゃんと知ってやるべきだったかもな。そうすれば、別の形でオマエと向き合えたのかもしれない」

 

《何?》

 

「死んでも縛られて、呪われていたのは“お前だったんだ”。ずっとその大罪の悪魔を創った時から、解放されたがっていた」

 

 何か、苦い後悔の様なものさえ噛み締めているその顔に、憎しみと、そしてもう一つの感情に衝き動かされて、半人半魔のその大罪の半身の力を振るう。

 “壊毒”。

 不死の王でさえ降す神殺し。それを全開で振るう。もはや五感の破壊だけに留まらず、一気にその命魂を壊すほどの濃度で、赫い鱗粉が場を満たした。

 それを諸に浴びて、吸い込まれた毒素は肺から血液に体内を駆け巡る。走って走って走り回って、その全身を沸騰させていく―――

 

《なっ―――》

 

 <血途の魔女>は、絶句する。よろめいて、血を吐き出して……………それだけ。クロウの姿が揺らいだ。炎のように揺らめくそれが、体積を増して血途の元へと、一歩、迫ってくる。

 

 “壊毒”は、“何もかも”を壊す。そこに特効薬はなくて、喰らえば真祖でさえ殺し得る―――

 

 

 ならばどうして、それを受けた南宮クロウが、“今も生きていられるのか”。いや、五感を潰されたというのに、なぜそれが復活しているのか。

 

 

 神さえ殺せるはずの“壊毒”に、不思議なことに“殺傷性がない理由”。

 それは、対処できる薬はない、だが、“対抗できる毒”がある―――“壊毒”は“壊毒”を壊せる。

 そう、自滅する。何もかもを壊す毒は、“その毒自体も壊してしまう”、共食いの毒素なのだ。

 濃ければ濃いほどに、または凶暴化するほどその破壊力は高まるが、その効力時間は反比例して短くなる。毒が強いほどに一瞬で互いに喰らい合って毒が“壊れる”。直接に噛みついて毒を送り込むのではなくて、大気中に散布してやるなど、対象に届くまでに時間がかかり過ぎてしまい、殺傷力を大幅に削いでいる。むしろ、前の加減してやった方が害せたほどだ。

 

《このッ! なんで、私の思う通りにいかないのよッ!》

 

 “壊毒”が通じない―――その原因さえ、理解できていない。だが、それでも魔女は悪魔であり、術の行使は一瞬。そして、“壊毒”がほぼ共食いされていようとその効力は凶悪であって、僅かの時間は稼いでくれた。

 即座に、細布状の群として広がる血途の触手が生体障壁で硬化させるように鋭さを増しており、それぞれの先に魔力が満ちていた。

 ほんの一瞬で、触手の先に圧縮されたそれはいつでも、先の熱線を打てることを示しており。

 

「オレは森を出て―――」臆せず、クロウは次の一歩を踏み出す。「いろんな人に会った」

 

 いろんなものを失った。その中には大事なものもあった。

 けれど、それで得たものもあった。それはかけがえのないものになった。

 それを失くさないために、目の前の“創造主”と闘う道を選んだ。

 けれど、その道は絶望と隣り合わせの道。崖の夜道など比べ物にならないほど危険な、溶岩の上に敷き詰められた薄氷を進まなければならないような道で。

 それでも、自分は踏み出せた。

 色んな後押しがあって、それだけ前に進むことができた。

 

「オレはそれをみんな、忘れてなかったんだ。ああ、オレは森を出てから、止まってなんかいない!」

 

《―――》

 

 そして、最後の、一歩。

 

「だけど、お前はもう死んだ。死んだ者は止まってる。もう先はない」

 

 血途は頬を歪ませて、魔力に、その禍々しい黒さを増していく。淀んだ沼の如く。

 そして、触手の一本一本に魔力の刃を纏い、熱線と斬撃を組み合わせた連撃が一斉に放たれる。閃光のひとつひとつが空間を歪ませ、互いに引き寄せ合い、絡まりながら空気を引き裂いていく。

 その絶死の焦点は、己の“最高傑作”―――

 

《消えた―――空間転移!?》

 

 自身の身体を自在に移す飛天の御業。

 『縮地』

 鎧の補助があってのことであるが、わずか一秒分だが、『かかる時間をゼロにした』―――霊視した未来へ空間跳躍をした。

 

「―――ご主人の力に頼るのは、これが最後!」

 

 はたして、気づいてだろうか。

 ずっと、声が微かにわななかせていたのを。

 この欠陥製品を、最高傑作と言い、

 あの神殺しの毒さえ、その欠陥に気づけない。

 都合のいいモノしか見ない人間であった。

 そう傲然と見下さなければ、その威を保てないほどに。

 目の前の相手に追い詰められていて、それほどに強くなってしまったことに。

 はたして、気づけたか。

 

「おおおおおおおお―――っ!!!」

 

 魔女の前に、鎧を解いた(ぬいだ)、ありのままの人型。

 それが、吼える。

 深く踏み込む。

 震脚。

 強く握り込む。

 拳骨。

 これまでの何もかもを、込める。

 

《―――》

 

 次元跳躍。

 間合いに入っても、まだ構えは溜めている。

 逃げられる。回避できる。魔女は、そう確信したが。

 

『加減は身に付いたけど、力が大きすぎるから仕方ないんだけどねー。クロウ君、力は多いのに、余計な力が入り過ぎてるっぽい』

 

 “第二の契約”で南宮クロウが得た加護は、“力を暴走させないようにする制御力”。

 霊能力者としての気の使い方を理解して、その霊視という心眼に目覚めた。だが、それは副産物の様なものであり、制御力こそが巫女の加護である。

 師よりも気の量は多いはずなのに、一撃の威力は同じ―――それだけの“無駄”が多かったが、今、その足りていなかった制御力を身に着けた―――

 

 ―――青竜殺陣拳!

 ―――辰星(しんしょう)歳刑(さいけい)

 ―――若雷!

 

 古兵に学びし四獣の極意に、巫女に学びし八雷八将の神法で、師に見せてもらった『二の打ち要らず』の理想形に近づける。

 十全に獣王の力を振るいながら、衝撃変化に身体強化を同時に行使する。

 クロウの左腕から小さな破裂音が響き、その手先から鋭く紫電が破裂する。

 彼の左腕が、その力の流れに耐えられない。

 神獣のときは、力がありながら無駄にロスしていたのも多かった。それを振るうだけでも至難であったというのに、力を倍々にしているのだ。

 それでも、彼は止まらず力を籠め続ける。

 首が、脚が、背が、臓腑が。

 次々と全力の反動にうち負け、新たな血を噴出させる。

 それでも今の自分ならばできる、と。

 自分の全てを上乗せした乾坤一擲の打撃。

 

 

 

「―――<(ゆらぎ)>!!!」

 

 

 

 ()く。()く。()()く。音よりも光よりも疾く、次元も時間さえ超えて。神域に至ったその神速は、時間が逆行して因果を成立させたと思うほどに、急所を捉えた。

 投擲された必殺必中の魔槍の如き左腕は一筋の光となって、その核がある魔女の鳩尾へ食い入った。

 しん、と物音が絶えた。

 風も絶えた。

 静寂。

 爆発も衝撃もない、その余波の揺らぎが拡散せず、爆縮(ぼうしゅく)と呼ぶにふさわしい。一点集中を極限にしたその<(ゆらぎ)>は、“音”さえ“食”った。

 

「……かはっ」

 

 拳を引く。

 すぐに、結果は出た。

 ちょうどクロウの拳が穿った部分から、ざわざわと触手の如き紅い影が、半人半魔と化した魔女の開いた胸元を這い回ったのだ。抑え切れなくなった魔力、その毒素が、まるで堰を切ったかのように魔女を蝕んでいるのであった。

 ぞりぞり、と何かを削るような異音。

 紅い影の這い回った場所から、魔女の肉体は萎びて、朽ちる。

 肌から水気が失い、ぴしぴしっ、といくつもの罅が入って、肉ごと割れて、そこからずり落ちてあらわとなった骨も赤くなり干乾びていく。

 最早、人の死に様ではなかった。

 

「……憐れ、ね」

 

 と、乾いた唇を洩らした。

 その唇さえ、たちまち崩れていった。

 

 その一撃は、どうしようもないほどの止めになった。

 まったく―――呆れるほど出鱈目な力技だったが、同時にこれ以上ないほどの一撃だった。あれを受けてしまっては、もはや制御核は破壊されて、そうなった以上は強大過ぎる自らの力に呑まれるだけ。

 

 わずかな身(じろ)ぎでその数多の根と化していた足元が脆くも砕ける。

 半人半魔の躰は、今や出来損ないの塑像のように崩壊していく。

 

「……本当に、憐れね」

 

 言葉さえ、微塵と砕けるようだった。

 

「……結局、契約は……果たせず……何も……残せ、ない。外道に……外道を、重ねて……これ、まで。何とも、畜生……らし、い結末。ふふ……滑稽、にも……ほどが……あるわね」

 

「………」

 

 その姿を見つめて、クロウは瞼を閉じて。

 もう一度開くと、魔女の首筋に喰らい尽くように、口づけするように噛みつく。その何もかもを壊す毒を滴らせて。

 ―――その黒き(ドク)が、紅い(ドク)を喰らい、消していく。

 

「……な、に?」

 

 魄はなく、魂もその核を打ち砕かれた以上、自滅するしかない。契約を果たせなかった魔女は、悪魔に自らの魂を喰われる。そうなるはずで、なのに、

 

「あくまで……自分の手で……私を、討つのね……“九番”」

 

 なるほど、これにも復讐する感情も芽生えていたか。その動機も“道具から成長すれば”納得できる。

 

「ああ、オレが討つ」

 

 噛みながら、人型は続ける。

 

「オレが、“ご主人様の残した種”だ。残さず喰らう。だから、ここで終わって、たとえ、その先が望まなかったものでも、“続いていく”」

 

 肉に、そして、悪魔も喰らう。

 臓器でもある奪われた魔臓霊的中枢を取り返すだけでなく、その大罪の四つの悪魔をもその身に取り込んでしまっている。

 蠱毒。

 つまり壺の中に多くの毒虫や害獣を閉じ込め、殺し合わせた結果として生まれるもの。

―――逆に言い換えれば、同じ毒を扱うものの間だけなら、互いに喰らい合うこともできる。

 そう、喰っているのだ。

 蠱毒は、生き残ったものに全ての力を結集させる邪法。すなわち、勝者は敗者を受け継いで、その負債を請け負うことになる。

 

「……ああ。愚かな子」

 

 重く、“創造主”は溜息を吐いた。

 彼女が“作品(こども)”らの前で初めて見せた、心からの感慨に満ちた吐息だった。その裏にもっと切実な感情を隠し。

 

「ふ」

 

 と、魔女は笑みを洩らす。

 今までと同じ、しかし違う声だった。

 

「ふふ、ふふふ」

 

 高く、夜空よりも高く、その声が伸び上がった。

 悪魔との契約から解放されたが、死の間際。毒がなくなっても、身体はもう耐えられない。高い声を上げるたびに、魔女の崩壊も早まったが、気にする風でもなかった。

 

「あの、<空隙の魔女>、『壊し屋』ども、一員、が。15年前まで、復讐に、取り憑かれた、小娘が、この子を、育てるなんて、無理、も、いいところ、よ」

 

 嘲笑のような言葉。

 しかし、どこか一陣の涼風の如き爽やかさが混じっていた。

 

「そ、う。つくづく、私、の、思い通りには、いかないの、ね」

 

 どんどんと、罅が入っていく。

 何百年も経た木乃伊(ミイラ)のように、崩壊が止まらない。

 ついには腕がもげ、腰が砕け、魔女の身体が大きく斜めに傾いた。

 

「ひと、つ、だけ、忠告、して、あげ、るわ」

 

 眼球さえ罅割れて埋没し、魔女は盲目のままに告げる。

 

「『聖殲』……は、まだ、終わってない……」

 

 それを最後に。

 魔女の首が、自壊した。

 まるで乾いた粘土細工のように砕け散り、皮膚や肉ばかりか、骨も血も後には残らない。

 そのまま、風に溶けていった。

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

「帰ってきたのか、魔女の―――――」

 

 

 『門』の前。

 帰還した南宮クロウを出迎えた貴公子は、まるでブレーカーが落ちるような勢いで、ピタリと声を止める。人型の魔人に成長したその様に驚いたのもあったが、なにより、その異常なまでに垂れ流す獣気の圧の濃さと量に当てられて、肺や器官ごと声帯が固まったという方が正しいだろう。

 実際、『狙ってる<第四真祖>、の後続機(こうはい)』を一目拝見しようとその傍にいた『戦王領域』に贈られた人質の5人の王女皇女は、自身が呼吸を止めていることに気づかず、危うく窒息しそうになった。

 過呼吸気味の王女らを視界の端で捉えながら、貴公子が溜息交じりに呟いた。

 

「力を抑えろ。俺は問題ないが、そのままだと人間には毒だ」

 

「む……難しいなこれ」

 

 今は全力で解放させた戦いも終わり、けれど事件は終わっていないので気が抜けず、魔人のまま中途半端に獣気を垂れ流している状態である。そのため、戦いから避難していた者らにとっては、重い圧力で臓腑の底を鷲掴みにされているようなものだ。

 そんな中、ごく自然に割りこめたのはやはりこの貴族であったか。

 

「やあ」

 

 向こうの上甲板より、ヴァトラーの声が響く。

 

「戻るなら、そろそろだと思ったよ」

 

 龍殺しとの殺し合いを愉しんだ戦闘狂は、ひとまずその空腹を満たすことはできて、抑えられているようだが、目の前の成長した(ウマくなった)強敵(ご馳走)にいつまでそれがもつか。

 

「その魔人(すがた)は予想外だけど、正直な話、キミが魔女に負ける可能性は一割はあると見ていたヨ。キミが“全力で解放しなければの話だが”」

 

「……、」

 

 何かを言おうとして、クロウは口を閉ざす。

 この吸血鬼の助言が少なからずの後押しになったのは確かだが、それにお礼を口にするのは憚れた。感情的な問題で、言いたくないのだ。

 その無言を無礼と受け取る部下の貴公子に対して、主の貴族は面白おかしくに笑い、

 

「礼ならいらないサ。キミが良き隣人か、あるいは良き“敵”になることを期待した先行投資だと思ってくれ」

 

「世話になったけど、オマエ、やっぱイヤな奴だ」

 

 薄ら笑みを浮かべるヴァトラーに、クロウはそっぽを向く。

 

「それで悪いけど、もう船は出航()して、島から離れてるんだ。絃神島(むこう)に置き去りにした古城に後のことは任せるつもりだけど……キミもここで見物するかい?」

 

 その返答は、ない。

 すでにクロウの姿はヴァトラーの前より消えていた。

 

 

MAR研究所

 

 

 毒草トリカブトも扱いによっては薬となるように、毒素から血清が作られる。

 不死をも殺す“壊毒”は、あまりに強力過ぎて勝手に自滅するものなので、その解析だけでも難しいものがあるが、もし、その“異常状態だけを壊す”よう調整できたならば、それは万病に通じる抗体とならないか。しかもそれは『病』ではなく、その概念そのものに通じるものだから、『呪』さえも()殺しくれるかもしれない。

 

 ふんふー、と暁深森は宿泊施設(ゲストハウス)の自室兼研究室でそんな夢想にふける。できれば、早速手に入った研究サンプルに没頭したいところだが、彼女には面倒を見なければならない相手がいる。

 今、寝室のベットで寝かせている、娘と、その幼馴染の少女。

 

 マグナ・アタラクシア・リサーチ――MARは世界有数の魔導産業複合体。風邪薬から戦闘機まで、広汎な魔導製品を販売している巨大産業だ。

 この絃神市内に設けられた研究所も1000人近い研究者を抱える巨大なもので、けれど、今日は『波朧院フェスタ』の開催日ということもあってか、建物の中に人の姿は少ない。所内の警備も人間ではなく、魔術的な回路を組み込まれた機械(ロボット)と、式神によって行われている。人間と違って手を抜いたり、見落としたりするケアレスミスをしない優秀な連中だ。

 

 

 その一方で、優秀な攻魔師や魔女魔術師ならば、彼らを容易く欺けるのも事実であった。

 

 

奥様(マム)―――」

 

 自室の隅の空間が揺らぐ。

 壁抜けをするように姿を現したのは、目立たない灰色のスーツを着た男たちだった。

 年齢不詳の二人組だが、特に粗暴な気配は感じられない。実直そうな顔つきで、服装にも怪しげな部分はない。訪問しに来た企業人と名乗られれば、ほとんどのものが素直に信じただろう。

 しかし男たちの手の中には、それぞれ一冊の本が握られている。禍々しい魔力を放つ奇怪な魔導書だ。

 

「古城君の厄介ごとに巻き込まれちゃったわね……」

 

 深森は、珍しく深刻そうな表情を浮かべて、ながら、しわくちゃの白衣のポケットにつっこんである型遅れの携帯電話を出さずに、警備部門の番号を呼び出そうとして―――

 

 

「縛れ―――『No.343』」

 

 

 深森の手が石化した。

 魔導書――『力ある書物』が読み手の魔力を吸い上げて起動したのだ。

 

 暁深森は、超能力者であるが、霊能力者ではない。それも『肉体面(ハードウェア)』は分析できても、『精神面(ソフトウェア)』の読み込みまではできないのだ。その特殊性から、霊的魔的な気配には対応できず、むしろ普通の人以上に鈍感になっている。

 だから、息子の連れてきた可愛い少女二人の正体が何者であるかはわかってないし、息子が第四真祖と呼ばれる規格外な魔族の肉体を手に入れたことに気づいていない―――と息子に思われている。

 

 つまり、戦闘には無縁の生粋の研究者である深森にこの魔術師らと戦える力はないのだ。

 そのあまりに遅い対応に、彼らも深森が素人以下だと察したのか、手を胸において優雅に一礼する余裕を見せた。

 

「我々は、<図書館(LCO)>の第三隊『社会学(ソーシャルズ)』の『司書』二名でございます」

 

 ライブラリ・オブ・オーガニゼーション―――通称<図書館>と呼ばれる国際的な犯罪組織。

 それが武闘派メイヤー姉妹の属する『哲学(フィロソフィ)』では戦力不足であると、別部門である『社会学』の彼らも『総記』の脱獄に協力していた。

 ただし、その目的は違う。魔術師が部門の長老から命じられたのは、魔導書の回収。つまり、その『総記』が所有する<闇誓書>の奪還。

 “貴重な禁書を保護する”――それが、<図書館>で多くに共有される理念である。

 

 そして、魔術師らがここにやってきたのは、禁忌指定の稀覯本を貸し出された魔女が、掴まってしまう前に本だけでも救出するためだ。

 

「あらあら、LCOがこのMARに何の用かしら。挨拶もなしに人に呪いをかけておいて……」

 

「失礼、奥様。人を呼ばれるのはいささか面倒なので。ですが、我らLCOはMARと事を構えるつもりはありませぬ

 我らがここに来たのは、<蒼の魔女>仙都木優麻と、彼女に貸されていた『No.013』を回収するためでございます」

 

 魔術師らの目的は、子供たちの幼馴染である魔女―――の魔導書。

 呪いが解析できず、肉体面の専門家である深森に、呪いを放つ魔導書にあまり研究意欲はわかない。LCOとMARは、文系と理系くらいの畑違いだ。だから、ここで魔術師らが帰ってくれるのなら、深森としては渡してくれても構わない。

 けれど、幼馴染の少女は別だ。巻き込まれたにしても、子供たちから預かった大事な身内だ。

 

「ユウちゃんの退院許可は出せないし、あなたたちには見舞いの許可も出せないわね。本も知らない。古城君たちが来たときにはもっていなかったから、どこかに落としたんじゃないかしら?」

 

「我ら<図書館>が、その命よりも重大な魔導書を落とすなど、ありえない」

 

 組織思想に狂信的な魔術師は、魔導書より空間を歪めるほどの瘴気を撒き散らしながら、深森を凄む。

 

「わかった。蒼の魔女(やつ)を吐かせる。その脳から記憶を穿り返そうが、禁書の叡智は護らなければならない」

 

「ダメよ。あの子はまだ身体が治り切ってないの!」

 

「どけ、研究者。さもなくば―――」

 

 再び、魔導書の魔力を深森に向けて―――そのとき、背後より突き飛ばされた。

 

「―――ごめん! 下がって、おば様!」

 

 簡易的な、けれど、だからこそ一工程(シングルアクション)で発動できる火球の魔術。

 ベットで眠っていたはずの優麻が身体を起こして、魔術師らに攻撃を仕掛けて―――先を制された。

 

「―――遅い」

 

「なっ、『法』の魔導書……それも石化の術を、高速詠唱で……」

 

 彼らは『司書』―――つまり位からすれば、優麻と同じで、それだけの実力がある。

 複雑で多くの工程を要する魔術であっても、一言で発動させる。そう、優麻が儀式触媒を有する空間制御を呼吸するようにこなせるように、彼らも魔導書の力を一工程より早くに使えるのだ。

 火球を放とうとした優麻の右腕が、魔導書の魔光を浴びせられて、石と化していた。

 石化した優麻の腕の表面には、細かな文字がびっしりと刻み込まれている。古代文字によって記された刑法の法典だ。呪力を備えたその文字は、優麻が得意とする空間制御魔術を封じて、ここからの逃走を不可能にする。

 

 大罪を犯したものだけを拘束する石化の魔導書――それが『法』の魔導書と呼ばれる『No.343』の能力。

 

「これは、罰を与えるための魔導書だ。<図書館(そしき)>の意に沿わぬ者たちほど、絶大な効力を発揮する。つまり、それが貴様の罪の重さなのだ<蒼の魔女>」

 

 咎人を見る目で、魔術師らは石にされた腕の重さを、今の状態で支えきれず前のめりに倒れる優麻を見下し、

 

「その気になれば、魔導書『No.013』を喪失した貴様を生きた石碑にしてやることができるが、まだ利用価値がある。助かりたくば、我々に従うのだ」

 

「何をしろと、言うんだ」

 

「『総記(ジェネラル)』との交渉だ。自らの作品(こども)が説得するならば、<書記の魔女>も快く<闇誓書>を我らに渡してくれるだろう」

 

 厳かに告げる魔術師に、優麻は鼻を鳴らして、自嘲するように失笑する。

 

「……なにが、おかしい」

 

「使い捨ての人形を人質に取ろうが、あの人は気にもしないよ。そして、絶対に<闇誓書>を誰にも渡したりしない。交渉は成立するわけがない」

 

「そうか。なら、貴様にもはや生かす価値はないと言うんだな」

 

 抑えられていた魔導書の瘴気の濃度が上がる。

 その足からゆっくりと、しかし着実に優麻の身体が石となっていく。

 魔導書も<守護者>もない。そもそも今の状態では、封呪されなくても空間制御は使えないのだ。優麻に打開策はない。

 だが、自分さえいなくなれば、魔術師らはここより退散する―――そんな打算的な思考もあって挑んだのもあった。

 だから、

 

「……だ、め」

 

 小さく響く、少女の声。

 それは、この部屋にいた最後のひとり。呪術を掛けられて昏倒していたはずの暁凪沙。

 彼女はまだ強制的な眠りに頭を重くされたようにふらついてるも、それに抗って目を覚ましている。

 

「ダメ。ユウちゃんにヒドいことをしないで……」

 

 ―――ここで、彼らを刺激するのはマズい。

 

 優麻、そして、母の深森は同時に思う。

 娘の身に万が一のことはない。彼女に危害を加えられる者など、滅多に存在しないし、『司書』程度の魔術師の相手は造作もない。

 だが、今日はすでに“彼女”に一度頼ってしまっている。一日二度の負担は明らかに無理であり、娘の身に祟る可能性が高い。

 そして、その“彼女”を知らない優麻は、先よりも焦った声で凪沙に制止するよう呼びかける。

 

「ダメだ凪沙ちゃん! 彼らに逆らったらキミにまで危険が及ぶ」

 

「でも、それじゃユウちゃんが!」

 

 無垢な彼女の訴えは、仙木都阿夜(ははおや)に切り捨てられた優麻にひどく染み渡る。やはり、彼ら兄妹が仙都木優麻の大事な核の部分を占めている。でも、今はそれを手放してでも突き飛ばさなければ……

 

「……キミにひとつ、言わなければならないことがある」

 

「えッ……?」

 

「キミを人質にして、彼に、南宮クロウに酷い仕打ちを強要した」

 

 きっと幼馴染の口からこんなものを聞かせられるなんて苦痛だろうが、せめて、その心だけは救いたい。

 どちらにしても、力のない凪沙に優麻を救うことはできない。

 “こんな人間は死んで当然だと思わせる”。そうすれば、目の前で見捨てても彼女は罪悪感に押し潰されることはなくて、いつもの景色の中に、笑って帰ることができるのだから。

 

 優麻がひとりの少年にした仕打ちを語る。けして、許されたいがための懺悔ではなく、淡々と覆しようのない事実を述べる。

 主の在り処を探らせて、戦力を補うために悪魔まで憑かせて、古城らを襲わせた。

 古城の正体のこともあり、ざっとであるが、それでも理解できたはずだ。

 そして、語り終えて、

 

「……ウソ、だよね。ユウちゃんが、そんな」

 

「本当、だ。ボクは、石にする以上に酷いことを平気でする悪い魔女なんだ。騙していてごめん」

 

 掛けられている石化の呪い。罰に比例して効力を上げる魔導書の力が、今の優麻の、けして組織に対してではない、この少女に向けての罪の意識に侵食の速度を加速させる。すでに上半身の胸元まで届いている。

 

「だから、助けようとしなくていいんだ」

 

「そんなの関係ない! ユウちゃんのこと、放っておくなんてできない。それにユウちゃんが本当に悪い魔女なら、凪沙は無事に解放されてない筈だよ。それに、そんなことをわざわざ凪沙に言ったりなんてしない」

 

 何も疑わず、目の中に優しい光を湛える凪沙。

 優麻はこれまで出会ってきた人間の中でも兄妹共々異質な存在だと思っていたが、ここまでお人好しではその将来も心配になる。

 ―――やめてくれ。

 ―――ボクはただ無駄な血が流れるのを避けようとしただけだ。

 

「ユウちゃんこそ、それでいいの!? 石になっちゃうんだよ!」

 

「覚悟は……できてるよ」

 

「“覚悟なんて、どうでもいいよ”! ユウちゃんがそれでいいかどうかを聞いてるんだよ!」

 

 それまでになく真剣な凪沙に、優麻は思わずたじろいでしまう。

 だが、勢いに押し切られる寸前で踏み止まり、薄い笑顔を作りながら答えた。

 

「これで……いいんだ。ボクは、魔女ということを差し置いても……存在するだけでキミらに迷惑をかけてしまっている。そうまでして生きるぐらいなら、ここで石になった方が……幸せなんだと思う」

 

「なら、何でそんな悲しい顔するの! そんなの願いじゃなくて、諦めだよ!」

 

「だって! そうしないと凪沙ちゃんは……ッ!」

 

 思わず叫んだ後、優麻は気づく。

 これでは、死ぬ理由を凪沙に押しつけているだけではないかと。

 ―――ああ、やっぱりボクは、最低だ。

 ―――この期に及んで、ボクは自分で決められない。

 ―――他人の中に、答えを求めてしまうなんて。

 

「……ごめん……ボク、キミを理由にする……つもりは……」

 

「―――いいよ。それでユウちゃんが希望を持てるなら、いくらでも私を理由にしてよ。でも、諦める言い訳をする必要はないよ。たとえユウちゃんが諦めても、私は決してユウちゃんを諦めたりしないから!

 だって、誰が何と言おうと、ユウちゃんがどんな風に言ったって、ユウちゃんは友達だよ! こればっかりは絶対に変わらないっ!!!」

 

 

 

 石化が、止まった。

 

 

 

「何?」

 

 同じ『司書』としての恩情で二人のやり取りを静観して、あるいは余興で愉しんでいた魔術師らは訝しむ。

 その胸――ちょうど心臓に差し掛かる寸前のところで、石化が遅滞した。どころか、止まっている。魔導書には魔力を注ぎ込んでいるし、魔術も発動している。ならば、それは、<蒼の魔女>の罪の意識がなくなった、と魔導書は判断したのか。

 

「……ふざけるな」

 

 裏切りの魔女が贖罪されるなど、あってはならない。

 それより、

 

「わかったぞ。この少女の絆されたのだな貴様は。そして、それを組織よりも優先順位の上に置いてしまっている―――ならば、それは取り除いてやらねばならぬ」

 

 狂信的な魔術師は、その表情を消した冷徹な面持ちを凪沙へ向ける。

 その視線の位置にいち早く気付いた優麻は声を上げる。

 

「やめろ! 彼女は関係ない筈だ!」

 

「黙れ<蒼の魔女>! 貴様、魔導書も<守護者>も失っただけでなく、我ら<図書館>の思想さえも忘れたか!」

 

「そんなもの、最初から持っちゃいない! ボクが、ボクの持ち物だって言えるのは、彼女と彼女の兄だけだ!」

 

 無表情にしたはずの顔を歪ませ、魔術師は目を細め宣告する。

 

「そうか。よくいった。なら、ここで死ね。その後にこの小娘も一緒に送ってやる」

 

 暁深森がそこで起き上がって、ぶつかろうとし、もうひとりの『司書』にあえなく阻まれる。

 そして、魔導書に魔力を送り、優麻に掛けた石化の強制力を高めさせて、同時に凪沙へ向けて火球の術式を展開する。轟!! と凄まじい音を立てて、燃え盛る豪火球。

 その。

 直前の出来事だった

 

 

 ドゴォ!!!!!! と。

 まったく別の轟音が炸裂した。

 窓から飛び込んできた金色の体毛の魔人が、その身に重ねて展開していた数十もの魔術障壁ごと魔術師の胴を蹴り飛ばした音だった。

 

 

 それはひょっとしたら、自動車にフルスピードで突撃されるにも等しかったのかもしれない。

 衝撃波じみた轟音の直後、『司書』の魔術師の身体が部屋の隅へブッ飛ばされて、今度はすり抜けたのではなく、壁をぶち破って、外へ出ていった。おそらく宿泊施設の庭に植えられた大木の幹が受け止め、施設を一直線に突き進んだ破壊の連鎖がようやく終わる。

 危機を一蹴する、文句のつけようのない至上の暴力がそこにあった。

 

 刹那、時間の流れは体感的には止まっていた。

 外まで壁に穴が開いた室内を、魔人はジロリと静かに見据える。

 

「なっ……」

 

 まだもう一人、魔術師がいた。彼は思わずといった調子で声を洩らす。その手は飛び掛かってきた深森を押さえ付けていた。けれど、あらゆる時間が戻るよりも早く、魔人の虹色の眼光が魔術師を貫く。

 それだけで、魔術師は飛び退いて、尻餅をついた。それほどまでに、その気当たりは圧倒的であって、恐竜か何かに睨まれているイメージを頭に叩き込んでいた。少しでも刺激すれば噛み千切られる、と。

 かちかちかちかちかちかち、と魔術師は永遠に震えていた。

 死という壁を感じる。自分に選択肢は与えられていない。

 百獣の王と出くわした草食獣は、相手が気紛れでも起こしてくれるのを祈るしかできないような、あらゆる努力を封殺する理不尽極まる破滅を肌で知ってしまう。魔導書を盾にするように突き出す格好。それでいて、あからさまな恐惶と殺意に塗れながら、脂汗だらけのその顔は卑屈に笑い、唇はこう動いていた。

 待て。

 素晴らしい叡智を授けよう。

 

 

「いらんっ」

 

 

 パンッ!!! と額に撃ち込まれた“指弾”。

 たった親指一本で弾き飛ばした弾丸のような空圧に、それを眉間で受けた魔術師の男は、一回回って、落ちた。少なくとも先の相方よりはマシだが、撃沈した『司書』は口よりゲロとヨダレの混じったものを吐き出している。

 それでも、加減はされた。でなければ、その頭蓋骨は木端微塵になり、中身の脳漿を飛び散らしていたことだろう。

 

「う。みんな、大丈夫だな」

 

 はっきり言うと。

 この時まで、彼には詳しい事情は分からなかったはずだ。だが、躊躇はなかった。

 状況を見渡す。

 友達を殺されそうになった少女が泣いていて、何者かが魔術を行使しようとしていた。

 それだけわかれば十分だ。

 彼は、彼の信じる世界の理に従い、即断して、その涙が零れ落ちる前に終わらせた。

 

 

「約束、ちゃんと守ったぞ、凪沙ちゃん」

 

 

 その目元の滴をすくい上げて、大人になった少年はにかっと少女に笑ってみせた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 事件は、終わっていない。

 別れた古城らがこのMARに行くと話を予め聞いていたから、そこに寄った。そして、近くに来て危機を察したと言ったところだ。

 

『―――キミに頼める資格はないのはわかってる。けど、お願いだ。ボクも一緒に古城のとこへ連れてってくれ!』

『いいぞ』

 

 少年は、また忙しく去った。

 今度は幼馴染の少女もつれて。

 それで、石化が解けたばかりで体力の低下している幼馴染が、こう、あっさりお姫様チックに抱き上げられていたのは、見ててちょっと、イラッとくるものがあったけど。

 

「…………………………………………………………………恰好良い」

 

 登場から見送りまで、姿が見えなくなるまでずっと茫然と立ち竦んでいた少女はようやく一言。

 して、その間、心臓は彼女の心の機微に呼応するように高鳴りが止まらず。

 勝手に出ていったことへの怒りや心配も吹っ飛んだ。

 ただその立ち姿だけで。

 男子三日会わずんば、とあるが、あれから三時間も経っていないのに、ひとつ、乗り越えた男の子は、その威風が大きく見せていた。

 で、そのぼーっとしてた間に行ってしまったのだが。

 

「足も速いけど、成長も早いわねあの子」

 

 肉体面のスペシャリストである深森は、神獣から魔人になったその姿に大変驚きを見せて、ますます研究対象としての興味が掻き立てられる。それに、

 

 

「へー、有望株だと思ってたけど、大人になるとああいう感じになるのねー。今のうちモノにしないと5年後は大変よ凪沙ちゃん」

 

 

 

つづく



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観測者の宴Ⅵ

彩海学園

 

 

 <書記の魔女>

 その力は<図書館>の『総記』に相応しきもので、『知識さえあればあらゆる魔導書を複製する』という、所謂『写本』の技能。

 『自分が望むように自由に世界を作り変える魔導書』――<闇誓書>の原本は、もう10年前に焼失している。

 だが、所有していた南宮那月は、その内容を覚えており、その記憶を元手にして、『写本』をかき上げることは可能である。

 

 そう、この至る所に文字が記された彩海学園こそが、<闇誓書>となっているのだ。

 

「すでにこの絃神島は、我の世界となった。ここでは我以外の異能の力はすべて失われる。それがたとえ真祖の力でもな」

 

 歯向かってきた不完全な四番目の真祖も力の真価を発揮することなく、顔のない騎士(フェイスレス)の剣を胸に突き刺された。

 そして、眷獣を無理やりに召喚して暴発させたことで逃げられてしまったが、吸血鬼の再生能力が満足に働かない以上、あれは致命傷。もう放っておいても死ぬだろう。

 

 ひとり。この<闇誓書>の結界の中でも支配を拒んで、力を振るってきた獅子王機関の剣巫もいた。『世界をあるべき姿に戻す』と推測する槍の使い手は、やはり<闇誓書>が通じぬようであった。が、それも捕えた。今は盟友と共に、この世界の真理を知るための観測者としてここに招待してある。

 

「<闇誓書>の起動には、『魔族特区』を流れる龍脈(レイライン)の霊力と、星辰の力を借りる必要があった。我が、10年もの間、<監獄結界>に雌伏していたのは星辰の配置を待つためだ。残り一晩、『波朧院フェスタ』が終わるころには、我の世界は消滅する」

 

 期限が、迫っている。

 天体の位置が変わってしまえば、<闇誓書>は動力源を失って、実験計画は破綻する。

 だが、その明朝までに、呪われているのは魔女ではなく、この世界であることを証明する。

 人が平然と魔術を行使し、吸血鬼や獣人が闊歩するこの世界。

 本当にこれが正しいのか。

 この世界の原理(ルール)がまだ解明できていないにしても、魔術や魔族の存在理由の疑惑が晴れるわけではない。かの<蛇遣い>は、ものの数分でこの絃神島を壊滅させるだけの力を持っているという。一体何故、たった一人の吸血鬼に巨大な都市を壊滅させる力が与えられているのか。世界はどうしてこんなにもアンバランスな在り方を許容しているのか。

 答えは、世界そのものが狂っているからだ。

 魔術も魔族も、本来は人の想像の中でしか存在しなかった、偶像の産物であって、それらが実在しない世界こそが、有るべき正しい姿ではないか。

 

 故に、我はこの世界に真実を取り戻す。

 たとえ、それで歪みの中心たる『魔族特区』の島が沈み、何十万もの犠牲が出ようとも。

 

 島が軋む。鋼鉄同士がこすれ合う耳障りな音が、絶え間なく響いて、不規則な震動で波打つように大地が震える。

 50万を超える人口に無数の高層ビル群に地下街も展開しながらもこの太平洋上に浮かぶ、人工島である絃神島の基盤は金属で造られた超大型浮体式構造物(ギガフロート)

 海に浮かんでいる浮き輪の上に砂のお城が造られているようなもので、非常に不安定で脆く、その非常識な有り様を支えているのはやはり魔術だ。ビルに使われている鋼鉄も、セメントも、プラスチックのすべて重量軽減が掛けられた魔術建材で、地盤には何重もの強化魔術が施されている。

 それらの魔術が一斉に消滅すれば、この絃神島は不安定な浮き輪の上の砂城に戻ってしまう。自重に耐えきれずに崩壊する。

 

 <闇誓書>は読み手である術者を除いてあらゆる魔術魔力を禁じている。

 

 明朝で<闇誓書>は機能を失うが、それよりも早くに絃神島が沈むであろう。

 

「『魔族特区』――魔術がなければ存在することすらしなかった人工の島。いわば狂った世界の象徴だ。なら、我の仮説を証明するための成果としてこれ以上に相応しい舞台はあるまい」

 

 あと少しで、この盟友の犠牲の上で成り立っているこの忌まわしき島を消す。

 

 

 

 ビギィ!!!!!! と。

 何もない筈の空間に、真っ黒な亀裂が走っていた。

 文字を消す消しゴムのようにその黒き毒霧が噴き出して、その向こうより、

 

 

「やっと、着いたぞ」

 

 ありえない声がひとつ。

 客人(ゲスト)の剣巫でも、眠っている盟友でもない。

 

「ここまで来るのに時間がかかったけど、それでも着いた。出遅れたけど間に合ったのだ」

 

 黒い亀裂が広がる。

 大魔女が幾重にも仕掛けた迷宮の如き術式が、コンピューターウィルスにやられてように喰われていく。

 

「ご主人の居場所はどこに居ようとわかる。そして、ここに着けばやることはひとつ」

 

 広がる。広がる。広がる。

 その大きく開かれる亀裂の中から、一歩。

 招かれざるものが、着実に歩を進めて、この世界へと踏み込んでくる。

 

 

「オマエの世界をブッ壊してやるだけだ」

 

 

 現れたのは、この世界の異分子たる、忌み子。

 大魔女が創り、大魔女に育てられた、そして、大魔女の世界を壊す、存在しえないはずの混血の人造魔族。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「クロウ君!?」

 

 姫柊雪菜は視認した。

 ガラスのように<闇誓書>の世界を掘削するよう砕け散らせながら出てきたのは、見たことのないけど、どこかあの少年の面影のある青年。獣耳や尻尾が生えているが、それ以外はほとんど人間のもの。雪菜はそれが直感的に誰であるか理解した。

 

「姫柊とご主人を発見」

 

 鳥籠の形をした、猛獣用の頑丈な檻。その直径4、5mもありそうなその檻の中に雪菜は閉じ込められていた。

 魔女が創造したものであるが、非常に単純な作りで直径10cmもの分厚い鉄棒が縦に等間隔で据えつけられていただけで魔術強化は施されておらず、それゆえに魔力を無効化して、あらゆる結界を破る<雪霞狼>でも壊すことは出来ない。

 これまで彼女は為す術もないまま鳥籠で囚われの身となっていた。

 

 その鳥籠の縦に並んだ鉄柵を右手で一本、左手で一本、それぞれ握り締め、特に力を込めた様子もなく。

 鉄が軋む異音が学園内に響き渡り、鋼鉄の鳥籠は魔人の膂力によってあっさりと―――本当にあまりにもあっさりと捻じ曲げられたのだ。

 2本の鉄棒が捻じ曲げられたことで、鳥籠には小柄な女子であれば何とか通り抜けられることができる隙間が生まれる。

 だが、それだけで休まずに。

 鳥籠を捻じ曲げた魔人は、ついでとばかりにさらに腕を引く。

 その怪力乱神の、つまりは馬鹿力に耐えられず、鳥籠それ自体ではなく、(した)天井(うえ)で鉄棒を支えていた留め金が悲鳴のような音を立てて弾け飛んだ。支えを失った2本の鉄棒は、苦もなく取り外されて、後にできたのは雪菜どころか大の大人でも楽に通れるであろう大きな隙間であった。

 

 ここまでくれば、もう間違いない。

 というか、こんな脳筋思考で力技をするのは雪菜が知る限りはひとりしかいない。

 

「え、っと、クロウ君なんですよね?」

 

 一応の確認のための問いかけであるも、やや不安げなのはその姿が普段と違うからだ。

 これまで、通常時、人狼時、神獣時とその形態をそれぞれ目撃してきた雪菜であるも、今のこの大人になったような状態は初見である。

 して、問い掛けられた当人は、あっさりと首を縦に振って、

 

「うん。古城君や煌坂にも驚かれたけど、成長したら、おっきくなったんだ」

 

 それは驚くでしょう、と雪菜は半ばあきれて同情する。

 当人はあまり気にしてなく、その表現もわかりやすいのだが、簡易的過ぎて伝わらないものもある。

 

 そして、変化したのは外見だけではない。

 力の量、密度が劇的に上がっている。

 

「ご主人……」

 

 そっと幼い少女の前に膝をついて、額に手を伸ばす。

 サナ――南宮那月の仮想人格(バックアップ)が、この<闇誓書>があらゆる魔術を無効化にする力の影響下で消滅したのか、眠りについている。

 寝息を立てるそれに安堵したか、胸を撫で下ろすよう深く息を吐く。

 

「それで、クロウ君、先輩は? 先輩は無事ですか!?」

 

 雪菜が囚われる寸前に、先輩は顔のない黒騎士に胸部を剣で貫かれた。

 かつて、殲教師に上半身を吹き飛ばされたがそれでも復活した真祖だ、胸に穴が開いた程度で死にはしない。けれど、今、<闇誓書>の影響下で魔族が能力を失い、人間も同然の状態に陥っている。

 この様子だと、おそらく先輩に会っているはず。

 心配する雪菜に、同級生の少年はついと目を逸らしながら、

 

「―――え、あ、うん! が、頑張ってるっ!」

 

 思いっきり怪しい。

 何の答えになっていないはずなのに、何かもう色々とわかってしまうような……

 嫉妬などという監視者にあるまじき感情を抱く自分が認められないが、あくまで生存確認のためと言い訳をしてから雪菜は追及する。

 

「……先輩は大丈夫なんですね?」

 

「う、うん。古城君は元気になれるようチューチュー頑張ってる」

 

 先輩を庇って、詳細な説明を省こうとしてると思われるが、彼に隠し事は無理難題である。

 

「内容をもっと具体的に説明してもらえませんか?」

 

「ぴゅー、ぴゅーぴゅぴゅー」

 

 下手な口笛を吹きながら、雪菜の視線より逃れるよう顔が横に向く。

 

「……どうして、目を逸らすんです?」

 

「それは……」

 

「クロウ君?」

 

「姫柊にバレたら怖い姫柊になるから内緒にするよう古城君に言われたのだ」

 

 成長しても、怖いものは怖い。

 ……でも、きっと先輩は助かる。素直にうれしい。多少の苛立ちと哀しみはあるが、それを同級生にぶつけるのは八つ当たりであろうし、この場はこれで納めるとしよう。

 

 そして、

 

「……よもや結界を食い破って、我の世界の中枢(コア)まで入ってくるとはな。土足で自分の部屋を踏み荒らされた気分……だ。それも……犬にやられるとは……最悪……だ」

 

 仙都木阿夜が、その火眼金睛を妖しく揺らめかせる。

 憎悪の刃を差し向けられた南宮クロウは、主を雪菜に預けると、むくりと身体を起こして、拳を作る。この大魔女の殺意に対応するように。

 

「先に荒らして、皆に迷惑をかけてきたのはそっちだろ」

 

「ふん……穢らわしい忌子が、何を言う。汝は我ら魔女の負の産物。どれほど醜悪なのか気づかない……か」

 

 存在自体が許されない、と否定する。今、この学園は大魔女の世界。大魔女の力は極大化し、反逆者は半減する。たとえそれがこの世界の異分子で、<闇誓書>の支配が及ばない因子を持っている相手であろうとも。

 その指先が、虚空に文字を描き出すだけで森羅万象が生み出される。龍殺しのブルード=ダンブルグラフ。天部のシュトラ=D。惨劇姫のジリオラ=ギラルディ。炎精霊遣いのキリカ=ギリカ。美食家のソニー=ビーン。赤黒の魔女二人組メイヤー姉妹。

 

「記憶を元に、魔導犯罪者たちを新たに創り出した……!?」

 

 記憶より具現化された魔導犯罪者の模造品(レプリカ)に雪菜は愕然とする。そして、それらが弾劾するよう同級生(クロウ)を取り囲むのを見て、雪菜は手を伸ばして制止しようとするが、一歩、前に出られた。その際、彼の呟くような声を耳が拾う。

 

 

 ……そんなの知ってるよ、と。

 オレの醜いトコなんてたくさん見てきたし、いっぱい見られてきた、と。

 

 

 そして、戦闘が始まった。

 仙都木阿夜が望みのままに創り出し、思いのままに動く人形は一斉にそれらの武器で侵入者を排除する。

 龍殺しの剣が、念動力の鎌鼬が、毒蜂の眷獣が、精霊の火炎が、静止の邪眼が、森樹の悪魔が、魔人たったひとりに向けられる。

 

 だが、どんな超常の力を振るって再現しようとも。

 一度倒した敵、しかもその魂のない幻影にすぎない劣化版に、見せ場などあるはずがない。

 

「でもそんなのは当たり前だ。この世界で生きてるんだからな」

 

 そう、生きる。

 闘いながら成長をする者には。

 

 巨剣を煌炎揺らめかす聖拳で砕き、真空波を空を断つ遠当てで貫き、千の蜂群を三葉重分身の阿修羅が散り飛ばして、炎精霊を神獣の劫火で吹き飛ばし、邪視を睨み返して気功砲を放ち、悪魔の眷属を神気で一掃。

 有形無形を問わず、そこにあるのならば壊せぬものがない怪物は、誰にも止められはしない。魔導犯罪者の影を容赦なく破壊する。

 

「ちっ」

 

 虚空に出現した光り輝く文字の羅列。それはこの世界で、神に等しき力を振るう<書記の魔女>の魔法文字の束縛。第四真祖の眷獣さえ封じ込める力。

 

 しかし、それが振るうは、神殺しの力。

 概念さえも喰らう“壊毒”に、魔法文字は黒く塗り潰される。

 

 次に水晶の壁が前を塞ぐが、怪力乱神の魔人を阻むには脆い。その一打で砕け散る。

 そして、魔女の懐へ跳躍。空を蹴って加速し―――だが、それも空間転移で躱される。

 

「何もかも壊す……か。世界に拒絶されるべき異分子には相応しい醜さだ。だが、壊すしか能がない犬に守れるものなど何もない―――」

 

 島が、揺れる。

 <闇誓書>の効力で島全体に施された魔術が消されて、自重に耐えきれず崩落する。

 そして、暴れれば暴れるほどその崩壊は早まるだろう。

 

「これで、わかっただろう。一個の存在が巨大な都市を壊滅させるだけの力が与えられているこの世界は間違っている。

 ―――つまり、汝の存在はあってはならない」

 

 魔族の脅威を正しく理解すれば、誰しもそう思う。何故、彼らはそれほどまでに強大な力が与えられているのか―――?

 火眼の魔女が理知的に自論を述べ、それを受けた少年は拳を握る。

 

「そうか。浅葱先輩が、この島が大変だと言ってた。だったら―――」

 

 生きる。

 闘いながら成長をしている。

 それは、たった今も続いている。

 

 瓦割りをするよう、真下に拳を放つ構え。

 地面に叩きつける魔力を篭めた拳打の衝撃は、地盤深くにまで浸透する。

 

「―――オレが、死の淵から蘇らせるのだ」

 

 その魔拳の一撃は、壊すためではなく、直すために。

 

 奪われた魔的霊的中枢を取り戻した際、意図せず得てしまった“創造主”――<血途の魔女>の経験値――<固有堆積時間(パーソナルヒストリー)>があった。

 そう、嗅ぎ取ったのは彼女が得意とした魔術―――

 

「揺れが、止まった……?」

 

 魔力がこの島全体に染み渡って、術が掛けられた。

 空間制御のような超高等魔術ではない、功魔師であるならできるだろう基本中の基本、至極単純な『強化』の魔術。

 

「確か、硬化に重量軽減、空間固定、悪霊除けに錆止め……う、色々と無効化(キャンセル)されているから大変なんだ。

 なら、島の地盤の強化魔術をオレが掛け直して補強すればいいんだろ?」

 

 事も無げに、拳一発で島の崩壊を防いだ。

 <闇誓書>にも無力化されないその魔力で、強化魔術を掛け直す。言うだけならば、簡単に聞こえる。しかし、それをこの彩海学園だけでなく、絃神島全体に行使したとなれば、尋常ではない。少なくとも人間にはできない。都市ひとつを破壊できるだけの力を持った怪物がその破格の魔力、都市を守護することに行使してできるもの。

 神話に、天空を背負った巨人(アトラス)の代わりに、一時、天の重荷を支えた英雄(ヘラクレス)がいたが、まさしくそれ。

 

 

「ご主人が起きるまでは、代わりにオレが護る」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――なら、賭けてみないか? 阿夜

 

 今更、この期に及んで何を賭けるつもりだ、那月―――

 

 

『月が沈んだ後に昇ってくる、太陽を』

 

 

「―――そんなものは、ない」

 

 ああ、その一挙一動が、発言のひとつひとつが、逆撫でする。

 壊すしか能のない獣風情が、盟友の眷獣(サーヴァント)たらんとするその姿勢が、どこまでも仙都木阿夜という魔女を苛立たせた。

 

「良いだろう」

 

 ぶちぶちぶちぶち、という細い線の束が千切れるような音が炸裂した。

 無表情に徹していた魔女の口の端が、笑みの形に裂けていく音だった。

 

「10年前、我の計画を阻止した汝が賭けたものを、“汝の力で壊してやる”!」

 

 虚空に殴り書きして、<書記の魔女>が新たに創造するのは、小柄な少女。この彩海学園の制服を着た、その女子学生は、“まるで人形のような美を持っていた”。

 

「そんな……あれは、まさか……あの夢で見た、10年前の南宮先生!?」

 

 姫柊雪菜が見せられた、『闇誓書事件』の終わり、二人の魔女の決闘。

 そこに出てきた過去の南宮那月と瓜二つの姿で、投影される。

 

「そうだ剣巫。汝に見せた、かつて我が心を許した盟友にして、忌々しい裏切者―――<空隙の魔女>南宮那月だ」

 

 そして、背後より、ゆらりと金色の巨大な影が浮かび上がった。

 

「ご主人の<輪環王(ラインゴルド)>、のそっくりさん……?」

 

 優雅さと荒々しさを併せ持つ、金色の甲冑をまとった機械仕掛けの騎士。

 その禍々しい存在感に、闇そのものを内側に閉じ込めたような分厚い鎧から怪物の咆哮の如き異音を轟かせ、この人工の大地を震わせる。

 

「言っておくが、記憶するにも値しない脱獄犯どもとは精度が違う。『No.014』でその記憶そのものを奪ったのだ。忠実にその実力は再現されてあるぞ」

 

 先の魔導犯罪者らは本体と同じ能力を持っていたとしても、魂のない幻影で、その脅威度が格段に劣る。

 だが、この『南宮那月』は、その本体の記憶から抽出したもの。そこに魂がなくとも、その<固有堆積時間>はそのまま組み込まれた、想像を補強して創造した幻影。

 

「出現するだけでこの世界の時空を歪め、召喚に制限が掛けられた<輪環王>。その魔力を十全に解き放てば、島が沈みかねないと言われているが……さて、汝は島を支えるほどの強化魔術を行使しながら、我の<空隙の魔女>を相手にできるか?」

 

 盟友の幻影を隣に侍らす阿夜は、心底愉しそうに笑みを浮かべた。

 

 

 

「―――来る」

 

 (ナツキ)の幻影が右手を掲げる。

 銀の鎖がそれに応じるように、背後の暗闇から出現。そして、掲げた右手が振り下ろされると同時、神々が鍛えた封鎖が蛇のように踊る。

 指一本を動かすだけで、攻撃の動作が終了するその卓越した技量は忠実に再現されていると言ってもいい。しかし、そのあまりにその通りな挙動は、長年、傍に居続けた眷獣にしてみれば、霊視するまでもなくわかり切った癖であった。

 闇の奥から飛び出した<戒めの鎖(レーシング)>が、魔人を搦め捕ろうとするが、最初に迫ってきた先頭の鎖を一瞬で粉砕した。更に前に進みながらも、瞠目すべき反射神経で鎖の悉くを打ち落とす。

 鎖はさながら蛇のように這い回り、はたまた猛禽類のように上より強襲を仕掛ける。その百を凌駕する鎖を、九十九余りその二本の腕で叩き落として、最後の一本が足に絡みつくが、それも一蹴で粉砕して―――しかし、動きが鈍り、隙ができる。

 

 それを見逃す、ご主人じゃない。

 

 背後より大気が揺らいで、断頭台(ギロチン)の如く長剣を真上に掲げた黄金の騎士。脳天に落とされた斬撃を魔人はその強化の魔術を重ね掛けした両腕を受けた。

 

 ズンッッッ!!!!!! と沈む。

 龍殺しの殺龍剣(アスカロン)を受けた時よりも凄まじい、真祖の眷獣であろうと屈服させかねないその膂力。それを受け切ったクロウは受けたまま身を沈めて、重心を移動。背後跳びの変則的な型ながら、魔族と人間の混在した魔人の武技を放った。

 

「―――壬生の秘拳『ねこまたん』!」

 

 黄金の甲冑の胴体部に叩き込んだ両拳から迸る気功砲。

 スッ―――と霞と消える黄金の騎士。空間転移。確実に捉えたはずの返し技が、躱され―――

 

「所詮は、犬。南宮那月に肉弾戦で挑む愚かさを理解しておらぬか」

 

 反撃を予測し、待ちかえていた罠。マラソンのゴールテープを切るように胴体に鎖が巻き付き、それを千切る間も与えず、魔人は宙高く放り投げられた。更に足に腕に鎖が絡む。遠心力の働きによって、背中から大地に叩きつけられた。

 

「グ、ッ……!」

 

 マズい、と直感が警告を発する。だが封鎖に力を制限されて、さらには小型の眷属、クマの人形のファミリアが自動追跡爆撃弾と化して迫っては、眼前で爆発。音響閃光弾の如く爆風と閃光で獣人の感覚を麻痺させては、そのたびに巻き付く鎖が数を増やしていく。

 

「ほうれ。早く逃げねばこのまま嬲り殺しぞ」

 

 鎖が振り回され、まるでモーニングスターのように校庭に、学舎に、渡り廊下にと投げつけられて―――

 

 だが、それは誤りであった。

 魔人は

魔女の思う通りにただ嬲られていたのではない、絶好の位置取りする機会を待っていた。

 

 

「ゥグォォォオオオオオッッッ!!!」

 

 

 ―――鎖が弾け飛んだ。

 黒ずんだ銀の鎖、それは“壊毒”に侵され、封鎖の性質が壊された証左。

 そして、ただの鎖では、この魔人を引き留めるに値しない。まして、既にクロウは足元より気功砲を放出して全力を疾走に傾けている。

 そして、神獣の膂力で放たれた拳が<空隙の魔女>の幻影と<書記の魔女>の前に立ちはだかる<輪環王>――避ければ、主らに当たる、故に転移できない――を“第三の契約”で遠隔接続された王女の威光を纏わせた左の聖拳が徹甲弾の如く、機械仕掛けの胴体部を一撃粉砕。

 

 やはり。

 経験値はあっても、魂なき抜け殻の<守護者>は、本物よりも脆い。

 あの力は主が多大な代償を払って得た力だ。再現するにも限度がある。

 

 

「―――甘い。<輪環王>は囮だ」

 

 

 砕いた甲冑の内側から爆ぜるように伸びてきた真紅の茨が、神殺しの狼を縛る。

 

「む!? <禁忌の茨(グレイプニール)>まで!?」

 

 虚空より現れた荊は、空間そのものを束縛するようにクロウを封じていた。

 

「―――ガアアアアアッ!?」

「クロウ君っ!」

 

 その身に食い込む荊は魔人の両腕を絞め上げ、あらぬ方向へと捻じ曲げていく。

 全身に巻きついている荊は際限なく絞られていく、引き締まった強靭な筋肉によろわれた首でさえ、その張力で絞り切ろうとしていた。

 

「邪魔をするな剣巫。汝はこやつらでも相手にしてるがいい」

 

 再び出現する魔導犯罪者の幻影。背に眠れるサナを庇わなければならない雪菜はそこを動けない。

 

「さあ、我の実験を邪魔する、この『魔族特区』に掛けた強化魔術を止めろ。さすれば、縊り殺さずに、解放してやろう」

「やだ! 絶対に断る!」

 

 吼えた瞬間、新たな荊が首と、手首足首に巻きついた。

 牛裂きの刑のように四肢頭部を引き裂こうとするその相乗効果による激痛が脊髄を走る。

 

「グフッ……今日、ひとつ、わかった。魔女は、皆性格が悪い……」

 

「戯言をほざけるほど余裕がある状況ではないはずだが? それとも、汝は死に際も理解できないほど愚かなのか?」

 

 上から出現した黄金の籠手が腹部に叩き込まれ、ダメージと共に荊の張力の反動で二重に苦しめる。それでも、絃神島の地盤に掛ける強化魔術を途絶えさせない。

 

「クロウ君! やめて……もうやめてください!」

 

 雪菜は何とか魔導犯罪者らの幻影を躱し、<雪霞狼>で荊を切り裂き解放しようとするが、水晶の壁がそれを阻む。

 サンドバックにされて悪魔の巨手に痛めつけられながら、魔人は不敵に笑い、

 

「こんなの、ご主人に、ドリブル、された方、がきつい、のだ。ああ。ご主人、オレをいじめるときすごくいい顔するけど……」

 

 そして、魔女の火眼を見据えて、

 

 

 

「―――なあ、なんでオマエのご主人は、笑わないんだ?」

 

 

 

 固まる。乱打する籠手が、止まる。

 

「な、に……?」

 

「これ、オマエのイメージのご主人だろ? なら、オマエの中じゃご主人はこんなぶすっとしてるのか?」

 

 その問いを投げられた瞬間、仙都木阿夜の心は再びざわつく。

 苛立つどころではない。心の中に湧き上がるのは、もはや明確な憎しみだ。その火眼は、不倶戴天の敵を見るような目で、魔人を射抜く。

 ―――何故だ……

 ―――何故、まだ耐える?

 疑問を憎しみに、憎しみを憎悪に変換しつつ、魔女は思う。

 ―――これ以上の遊びは、不愉快だ。もう付き合うだけ無駄だ。

 ―――そこまで汝が盟友の眷獣と自称するというのなら……

 ―――我は、汝を真実の姿に戻してやろう。

 ―――盟友に拾われる以前、獣のころにまで時間を戻してな。

 

 縛られ、身動きのできない魔人の前に、顔のない黒騎士が現れた。

 このまま、盟友の幻影にやらせてもよかったが、阿夜は、自らの手で始末をしたくて仕方なかった。

 

 ―――本当に……ここまで、犬に苛立たされるとはな。

 

 そうして。

 終わりを示すように、火眼の魔女は片腕で魔人を指した。

 勝敗は決したと思ったその瞬間―――

 

 

疾く在れ(きやがれ)、四番目の眷獣<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>―――!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 暁古城は、<闇誓書>の力に<第四真祖>の性質を封じられ、重傷を負わされた。

 古城は眷獣が暴発し、その乱戦の隙に傍にいた舞威姫に抱えられ、避難したが、それでもただの人間にまで落ちている彼は回復しない。

 その時に現れたのが、後輩に抱えられた幼馴染であった。

 

 仙都木阿夜は自分の魔力だけは消さなかった。

 <闇誓書>を発動するには術者の魔力が必要であり、そのおかげで、彼女の複製として造られた仙都木優麻の魔力も健在だ。

 

 元より<第四真祖>は本来この世界に存在しないはずの四番目の真祖で、ならば、<闇誓書>の支配より逃れられる可能性はあるはず。

 実際、その後続機(コウハイ)は、異能を存分にふるえている。

 ならば、ごく少量のワクチンがウィルスを無効化するように、体内に優麻の血を取り入れることで、その<闇誓書>に抗える因子の覚醒を促せば―――

 

 そうして、仙都木優麻、そして、煌坂紗矢華と吸血行為に及んだ古城は、<第四真祖>としてまた一つ覚醒する。

 

 実体(カラダ)にこだわるから穿たれる。

 姿形(カタチ)にこだわるから崩れ落ちる。

 吸血鬼とは生死の境界を超越した者。存在と非在の狭間に棲まう者。

 聖も邪も、生も死も、すべては原初の混沌の霧の中へ戻せばいい―――

 

 目覚めたのは、四番目の眷獣。

 銀色の霧を灰色の甲殻が覆っている甲殻類は、吸血鬼の『霧化』を示したもの。万物を霧に変えてしまうその力。

 

 それまで霧になれない不完全な吸血鬼であった暁古城が、初めて行使した霧化は、絃神島全体を霧としてしまい、仙境如く世界に溶け込ませてしまった。

 

 そのおかげで後輩の強化魔術で崩壊の瀬戸際を繋いでいた絃神島は、重力の影響を免れた上に、建材の連結部が実体を失ったことによって、強度面の問題が解消された。

 島全体を強化した後続機も凄まじいが、島の実体そのものを失くして崩壊をさせなくする<第四真祖>は恐ろしいものだ。

 もし『霧化』の制御をミスすれば、街は霧と化して消滅してしまうのだ。世界最強の吸血鬼らしいデタラメな能力である。

 

 

 

「我の複製品である人形の血を吸い、魔族の力を取り戻したか」

 

「ああ。おかげであんたをブッ飛ばしてやれるぜ」

 

 紗矢華と優麻を連れて現れた古城は、怒りに震える魔女を冷たく眺めて、言う。

 

「あんたにいいように利用されたユウマはボロボロで、那月ちゃんも幼児に変えられちまって、クロウも随分と世話になったようだな。浅葱も、アスタルテも、祭りを心待ちしてた島の皆も、あんたのせいで苦しんでいる」

 

 それに対して、魔女は静かに無言のまま、殺気を撒き散らして、虚空に無数の文字を描いた。

 脅威であることもそうだが、使い捨てた人形(むすめ)の血を吸って魔族の力を取り戻して、それで自分の計画を崩壊させようとする。自身の純血を誇り高く思う<書記の魔女>にはあまりに度し難い蛮行。一秒でも存在することが許せぬほどに。

 魔法文字は、煮え滾る溶岩、巨大な氷塊、地面より突き出す無数の針と化して、さらにそれらに加え、魔導犯罪者らの幻影も、この第四番目の真祖をめがけて襲ってくる。

 

 それを払うは、雷光と暴風。

 激昂する魔女にも劣らぬ宿主の怒りに呼応して、血に宿る災害に匹する暴威が解放される。

 

「いい加減、本気で頭にきてんだ。あんたがユウマの母親だろうが、<監獄結界>からの脱獄囚だろうが関係ねェ。あんたの目的も知ったことか! あんたは俺の大事な友達(なかま)を大勢傷つけた! ここから先は、第四真祖(オレ)戦争(ケンカ)だ!」

 

 黄金の雷霆が大気震わす獅子と緋色に煌めく鬣をなびかす双角獣。

 百雷と暴風を暴れ振るう破壊の権化らは、魔導犯罪者らの幻影や魔女の魔術攻撃を巨大な竜巻が薙ぎ払うように蹂躙して、一掃する。

 

 その力を振るい終わった隙を狙い、魔女の魔法文字の障壁が古城に―――銀色の槍が一閃して、それを裂く。

 

「―――いいえ、先輩。わたしたちの反撃(ケンカ)です」

 

 本来ならば冷静に古城を諌めるべき立場の剣巫であるが、流石に今は己の意思で火眼の魔女に破魔の槍を向ける雪菜。

 

「自分たちが魔女だから、この世界の人々に蔑まれ、利用されてきたとあなたは言った。だったら、あなたが優麻さんに対してしたことは何なんですか!?」

 

 仙都木阿夜は、本当にこの世界を変えたかったのかもしれない。世界から異能の力が失われれば、魔女が畏怖され、疎まれることもなくなる。それが願いなのだろう。

 だがその過程で、自分よりも弱い誰かを傷つけ、踏みつけにするのなら―――それを正義だと認めることはできない。誰かが止めてやらなければならない。

 

「クロウ君にしたことも、全部八つ当たりです。世界の脅威だからじゃなくて、ただあなたは10年前に裏切った盟友(トモ)である南宮那月の側にいることに嫉妬しただけでしょう。だから、あなたの想像する南宮那月が笑わないのは当然です」

 

 第三者として見ていた雪菜の追求に火眼の魔女は、心を激しく動揺させた。

 ―――まさか……

 ―――我が今更……こんなことに執着するなど……

 同時に、彼女が感じていた南宮クロウへの苛立ちの理由も理解する。

 ―――だが……どうして……“我がいるべき場所に奴がいるんだ”?

 

「あなたが呪われているのは、あなたが魔女だからではありません。自分が魔女であることを理由に、他人を傷つけても許されると言い訳する限り、誰もあなたを受け入れてくれない。今すぐクロウ君を解放して、投降してください」

 

「……たかだか十数年しか生きていない餓鬼どもが、知った風な口をきいてくれる」

 

 苦々しげに目を眇めるその表情には、絶望と拒絶が満ちている。

 そう、十年前、南宮那月との決別を決めた時と同じ―――

 

「我は『太陽』など認めん! <(ル・オンブル)>! 犬の記憶を、奪えッ!」

 

 十二単の袖口より古き魔導書『No.014』を取り出し、<守護者>の剣に呪的付与(エンチャント)をかける。

 黒ずむ刃。この刺突を受ければ、盟友が幼児化されたように、固有堆積時間が奪われることになる。無力化されるが、それより、南宮那月との時間を消去する。

 

「クロウ!」

 

 真紅の茨に拘束された魔人に悪魔の刃が振り落される。

 古城、そして、雪菜がクロウの元へ走り出す。強力過ぎる古城の眷獣では、クロウごと巻き込んでしまう。雪菜もその立ち位置で槍が届くには遠過ぎて―――

 

 一瞬という時間を十にも二十にも分割しながら、その光景は古城の真紅の瞳いっぱいに膨れ上がる。その魔剣は後輩の躰を貫き、時間も何もかも奪われてしまうだろう。

 

 そのとき、虚空が揺らいで、

 

 

 ギンッ、と金属同士が激しく衝突する音。

 

 

 黒騎士の剣を、黄金の籠手が弾いた。

 

 ―――何故、黄金の<守護者>……が!?

 

「幻影に指示は―――まさか!?」

 

 美しい波紋のように空間を揺らして出現する、黄金の鎧に身を包んだ人型の影。

 それは悪魔の如き騎士の威容は、外見は同じ―――しかし、明らかにこの世界のものではない、光を侵食する黒天体(ブラックホール)を連想させる漆黒の魔力を放っている。

 偽物には出せない、別格の本物の妖気。

 

 もう片方の手に持った黄金の剣が煌めいて、一閃、二閃、三閃―――魔人を縛る模造品の真紅の茨が切り裂かれる。

 

「ようやく、その本を持ち出してくれたな。待ちわびたぞ、阿夜」

 

 舌足らずな可愛らしい声を発したのは、解放された使い魔の前に降り立った幼女。しかし、纏う豪華なドレスがその魔力の波動に煽られるほどで、不敵な微笑も年齢とはあまりに不釣り合いなほどに、傲岸不遜なカリスマ性を放っている。

 

「那月!? 汝、記憶が―――」

 

「返してもらうぞ、私の時間を」

 

 指を鳴らす、ただそれだけの動作。高速詠唱もない無詠唱で、虚空より撃ち出した無数の鎖が、阿夜の腕に巻き付いて『No.014』――固有大敵時間操作の魔導書を絡め取った。

 

「……那月ちゃん、魔力が戻ってたのか?」

 

「一瞬だけ魔術が使える程度の、僅かなストックだがな。馬鹿犬に『鍵』をやらせていたから消耗しないで済んだし、どこぞの真祖が風呂場で鼻血を駄々洩らしてくれたおかげだ。藍羽には感謝しなければな」

「―――幼児化してた間の記憶も残ってんのかよ!?」

 

 愉快そうに唇を曲げて言う幼女に、古城は思わず頭を抱えた。

 オシアナス・グレイブⅡの大浴場で古城が流した鼻血には、微量ながら<第四真祖>の魔力の残滓が含まれており、それが溶けだしたお湯に浸かったことで幾分かの魔力が回復できたという。

 

「いつのまに……」

 

「? 姫柊は気づいてなかったのか?」

 

 驚き唖然とする雪菜に、同級生の少年は首を傾げて言う。

 

「えっ? クロウ君、気づいてたんですか?」

 

「う。ここにきて、すぐ。ご主人に<輪環王>を返したときに狸寝入りしてたのすぐわかった」

 

 あの慌てぶりは古城の吸血行為がバレないようにではなく、主の作戦を知ったからなのか。

 

「よくわからんけど、あの本を出すまで起きてることバラすなー、って念話さ(言わ)れたのだ。だから、魔女は皆性格悪いと―――「ほう、馬鹿犬。折角、褒美をやろうとしたが叩いて躾けてやった方が良いみたいだな」―――ご主人は違うけどな!」

 

 完全に復活したその主従を、呆然と立ち尽くしていたまま見つめている阿夜。

 

 南宮那月が仮想人格を使って記憶を復旧していて、<闇誓書>が発動する前に、記憶が戻っていたことを、彼女は知らない。

 そして、<闇誓書>の読み手としての記憶が戻った南宮那月に魔力無効化は及ばない。

 

 那月は無力な幼女のふりをして、仙都木阿夜の目を欺き続けた。油断させ、感情を押し殺し、奪われた時間を取り戻す好機を虎視眈々と待っていた。

 

「どうやら、賭けは私の勝ちのようだな阿夜」

 

「……っ」

 

 動揺する火眼の魔女を、幼き魔女は一瞬だけ憐れむように見つめて、

 

「よし! 難しいのはこれで全部、後はぶっ飛ばすだけで終わりだぞ。今日こそ下剋上であの<輪環王>をブッ飛ばしてや―――る゛ッ」

 

 ガツン、と脳天に衝撃。

 勢い良く駆けだそうとした犬のリードを思いっきり引っ張ったような所業。

 倒れこそしなかったが、つんのめるクロウは、下手人たる主を睨んで、対して那月は、ふん、と鼻を鳴らし、

 

「何をするのだご主人!?」

 

幻像(ニセモノ)だろうが、馬鹿犬にやられるのは気に喰わん。なんとなく」

 

「小っちゃくてもおっきくてもご主人は理不尽なんだな」

 

「馬鹿犬、それに姫柊雪菜は一緒に、仙都木阿夜の意識を刈り取ってこい。あとそこのポニテ! 阿夜の娘はまだ意識があるな?」

 

「ポ、ポニテって……」

 

 何の捻りのないあだ名に若干の不服は覚えても、ここは那月に従うべきと紗矢華は判断する。強引な契約破りを受けた優麻を救えるのは、高位の魔女である那月しかいない。

 

「あくまで我の敵に回るか、那月」

 

「潮時だ、阿夜……<監獄結界>に戻れ。おまえが見た夢はもう終わった」

 

 那月の警告は、彼女ができる恩情だ。

 凶悪な脱獄犯を扇動し、絃神島の崩壊を謀って、全島民を危機に陥れた首謀者である仙都木阿夜の罪は重い。彼女が待ち受けるのは、死刑すら生温く思えるほどの過酷な罰だ。

 だが、<監獄結界>の中に封印してしまえば、人工島管理公社は彼女に手出しはできなくなる。この夢幻の世界に“避難させてやる”のが、古き盟友として那月が選べる手段なのだ。

 

 そして、古城らも、傷ついた優麻のためにも、阿夜を見捨てることはできない。ようやく出会えた母親を、娘の目の前で破滅させてやるわけにはいかない。

 

「孤立無援か。<図書館>の魔導師どもを見限ったツケが、このような形で回ってくるとはな」

 

 那月の心情を正しく理解した上で、阿夜は首を横に振る。

 『総記』であった<書記の魔女>だが、既に彼女自身が組織の支援を切り捨ててしまった。どの道実験が終われば不要な連中であったので特に後悔はしない。だが、その結果、彼女は使える手駒を多く失ったのは確かであり、

 そして、<闇誓書>の支配が及ばない、10年前に自分を破った盟友に、殺神兵器の真祖と魔人、それに魔女の天敵たる破魔の槍を振るう剣巫をひとりで相手取れると考えるほど自惚れていない。

 だが、ここで退くわけにはいかず、そして、打開策はひとつある。

 たったひとつ、仙都木阿夜という駒を犠牲にすればいい―――

 

「なら、取れる手段はこれしかあるまい」

「―――よせ! やめろ、阿夜!」

 

 火眼を細めて陰鬱に笑う阿夜の表情に、那月は悲鳴のような声で制止を呼びかけた。

 しかし。

 仙都木阿夜の全身は炎に包まれる

 自然界に存在する炎ではない、焦熱地獄より召喚したような、不吉な闇色の焔。

 その業火に一体化するように、火眼の魔女の身体が完全に呑まれて、それを黒騎士の鎧が包み閉じ込めるように覆われる

 

 そう。

 <堕魂(ロスト)>。 自らの魂を悪魔に喰わせて、肉体を本物の悪魔と化す魔女の最終形態にして、最期の魔術。

 

「……こうなったら誰にも止められない。阿夜は、もう……」

 

 追い詰めさせ過ぎたか。

 那月が絶望に満ちた表情で唇を噛む。同じ魔女であるだけに、<堕魂>の恐怖を誰よりも理解している。

 もう、助けてやることはできない。

 精々、何もかもを奪われてしまう前に、悪魔ごと葬ってやるしか……

 

 

 ごつん、と後ろから那月の頭をチョップされる。

 

 

「~~~~~っ!?!?」

 

 頭を押さえて蹲る那月。完全に不意を衝かれた。

 今ここにあるのは彼女の実体、眠りの代償として、障子紙くらいの頑健さしか持ち合わせぬ成長の止まった幼き身体に、今のは痛すぎた。

 涙目交じりで振り向けば、驚いた顔をしてるクラスを受け持ってる問題児に、おっとなんかやりすぎったぽいぞ、と下手人とわかりやすく手を振ってるサーヴァント。

 それは何の悪気なく、普段通りのあっさりとした調子で、主の那月に問い掛けてきた。

 

「まだ寝惚けてるのか? らしくないぞご主人」

 

「っ! いきなり叩きおって、らしくないとはなんだ貴様!」

 

 それだけで射殺さんと呪がかかってしまいそうな眇めた視線を受けて、眷獣の魔人は―――笑った。

 

「殴れよご主人。馬鹿犬って叱りつけるのが、オレが知ってるご主人だ」

 

 威圧的な鬼神めいた笑みでも、上から見下すような蔑みの笑みでもない。

 ただ、見ている者を安堵させんとする、強がりともいえる、けれども不敵なもの。強気に偉ぶった姿勢が不思議と似合ってない残念な感はあるのだが、

 諦観に陥る間際に映ったそれは、呆れてしまうくらいに覿面であった。

 

「………」

 

 これ以上の説得(ことば)は必要なく、胸の中の情感に熱が入っていくのを感じる。熱くなる心中に、諦めはもう蒸発して霞んでいる。

 失笑が零れる。

 それはどちらに向けたものか、それとも両方か。しかしながら、南宮那月という魔女が、より主たらんとさせる。

 

 それを見ていた雪菜は、一度瞑目して、口を開いた。

 

「ひとつ、救える手段があるかもしれません」

 

「姫柊……」

 

「はい、先輩。<雪霞狼>は魔力を無効化するのではなく、世界を本来あるべき姿に戻しているのだと、あの人自身が言ってました」

 

「―――よし! とりあえず、あいつをブッ飛ばして、姫柊に任せればいいんだな!」

 

 ここまでの戦いで、ひどく消耗している。

 完全な悪魔と化しつつある仙都木阿夜の魔力は桁外れに膨れ上がっており、ただでさえ相手にするには至難。

 止めの雪菜は機を逃さないよう控えてるため、古城とクロウが前に出る。

 

「あまり霧化(これ)を維持できる余裕もないから一気にやりたいとこなんだが」

 

 新しい眷獣の銀霧の甲殻獣も他の眷獣同様に、性質は暴れん坊、今は大人しく人工島を支えていても、少しでも幉を緩めれば絃神島を文字通り雲散霧消しかねないので、制御に恐ろしく気を遣うのだ。

 災厄の化身たる眷獣の力が存分に振るえるのはせいぜい一回。果たしてそれで、<堕魂>した大魔女を倒せるかどうか。

 渋面を作る古城に、後輩は気息を落ち着けつつ前を見据えている。彼も古城が来るまで強化魔術で人工島を支えていたのだから、相当消耗しており、全力は出せて一度で、

 

「悪魔と合体して強くなったんだろ。だったら、古城君! こっちも合体するのだ!」

 

「んん……???」

 

 後輩の提案がわからず、首を捻る古城に、何故か顔面蒼白にする獅子王機関の攻魔師二人。

 

「ま、まさか、暁古城! 私や仙都木さんのだけでは飽き足らず、彼も……」

「ひょっとするとそうかもしれないと思ってましたが、本当に先輩は……」

 

「お前らが何を考えてるかわからないし聞きたくもないが、絶対に違うとだけは言っとくぞ!」

 

 船でも浅葱から、ヴァトラーとの関係性を疑われたが、どうしてそう結論に至るのか、年ごろの女の子の頭の中を覗きたくなる。

 

「で、クロウ。合体とはなんだ? こんな時だからふざけてるわけじゃないとは思うんだが、ちゃんと説明してくれ」

 

「む。そうだな。見せたことはあったけど、古城君とやったことはなかったぞ……」

 

 

 

「―――では、一気に行きます!」

 

 獅子王機関の剣巫が破魔の銀槍を構えて疾駆する。

 かつて仙都木優麻だった存在が、炎と化した指先で、虚空を焦がして文字を描く。呪詛を篭めた魔法文字より創り出されるのは得体のしれない不定形の怪物。この異形は<堕魂>した魔女が呼び出せる魔界の生物なのだろう。

 槍を担う巫女の行く手を阻むよう、津波の如く押し寄せる異形らに、先輩後輩の殺神兵器がその腕を振るう。

 

 

「合わせろ、<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>―――!」

 

 

 天上に挑まんと自らの血を噴き出さす左腕を突き上げ、牙のように白い歯が剥かれる。

 超振動を起こす双角獣の激震が暴風を起こして、異形らを片端から破断し、粉砕。あまりにも強烈な衝撃波とそのソニックブームに取り込まれ、不定形の怪物らはフードプロセッサーに放り込まれた果実のように次々と引き千切り霧散された。

 

 突如、眷属を薙ぎ払われた堕ちた魔女の前に、巨大な壁が現る。

 

 無論、怪物の第二陣に招来されたのだ、普通の壁ではない。

 炎と氷と砂塵とが入り混じり、竜巻の如く内側を覆い隠す―――けして敵対者の侵入は許さないという、厳とした意志の感じられる結界。それが第四真祖の凄まじい魔力を帯びた風を弾き、拮抗。

 半端な破壊力で突破できない結界だというのは、嫌でもわかったが、それでも真祖の力をも防ぐとは驚嘆する。しかも、これも魔術ではない自然現象そのものを呼び寄せている以上、<雪霞狼>が通じない超自然の結界。

 だが。

 こちらも二発目が本番だ。

 

「クロウ! ラストパスを無駄にするんじゃねぇぞ!」

 

 まるで背中を叩くような叱咤。

 同時、“双角獣を霧散させた”。

 濃密に凝縮されていた第四真祖の眷獣は、形を失い血霧となってその場に解放―――

 その風を、掴むは、魔人。

 

「おうよ古城君!」

 

 荒れ狂う双角獣の膨大な魔力を残らず掌握。その瀑布の勢いに呑まれず、そして一滴も余さず呑み込む。力任せと繊細さを両立させ、魔人が吼える。

 

「おおおおおおおおおおおおおおっ!」

 

 超能力に拡張された嗅覚が、この双角獣の“残滓(におい)”から固有堆積時間を吸い出し、合わせて魔人が纏う神獣の生体障壁を変質。

 『獣の皮を纏う戦士(バーサーカー)』―――元より大罪を受け入れるために創造された魔人は、成長し、真祖の力を取り込めるだけの“器”足り得た。

 

 

「―――壬生の秘拳『ばきくろす』!」

 

 

 『馬鬼(ばき)くろす』―――それは、絃神島で人気のマスコットキャラクター『猫又(ねこまた)ん』の仲間。人間にいじめられた過去を持つ『ばきくろす』は人に懐きにくいが、それでも心を許した相手には優しく、同じ釜の飯を食った『ねこまたん』にはお姉さんのような存在。

 その設定背景から獅子王機関の舞威姫に密かに収集してるとかなんとか……

 

 

 擬獣武術が象形拳のひとつ、馬形を双角獣に合わせて変則使用。

 その両腕を音叉の双角を模して体の前で交差。して、踏込と同時に外より内に両手を巻き込みながら丹田より獣気を掬い取るよう双掌を放つ。

 

「ぶっ……飛べえええええっ!」

 

 衝撃波を練り上げ、手中に固体も同然に超高圧縮された衝撃砲が、さながら猛る神獣の咆哮の如く、轟然と迸る。

 拡散するだけだったものにより狭めた指向性が与えられただけでなく、腕の動きに合わせてねじれが起こり、突風は旋風に変じて、一秒に数千回というレベルに回転が加速する。さらには魔人体内に高まる獣気を限界まで上乗せする。結界の強度が未知数な以上、一切の手加減せず、ここに今ある全てを費やす。

 堕ちた魔女の炎と氷の砂塵の最終防壁に、双角獣の皮を被る魔人が牙を剥いた。結界は大嵐の衝撃砲に反発してその威力を減じんと防壁を厚くさせるが、魔人の攻撃はなおさら一点に威力を集約する。

 殺神兵器の合わせ技の進撃に結界が、軋みを上げる。

 闇色の炎を撒き散らし、夜色の氷を砕き、墓土の砂塵を撹拌して、さらに突き進み―――堕ちた魔女を守護する黒騎士の鎧を弾け飛ばした。

 

 ついに、姫柊雪菜の進路が確保された。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 粛々と祝詞を紡ぎながら、銀色の槍を掲げて舞う剣巫。獅子王機関の秘奥兵器である銀槍に静謐な霊光が満ちる。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 破魔の一閃に、黒騎士鎧が破れて露わとなった魔女の鬼火が断ち切られる。

 <雪霞狼>が放つ魔を滅する浄化の光に仙都木阿夜の身体から、悪魔が退散する。それは彼女が悪魔と交わした契約が破棄されたも同じ。堕ちた魔女の肉体と、魔界との接続が断絶されて―――

 

「よくやった、教え子ども!」

 

 歓声を上げる舌足らずな声と共に、虚空より放たれた魔女の鎖が、盟友の躰を引っ張り上げた。

 そして、術者が昏倒し、接続(リンク)が途切れている<守護者>にも逃さず、銀鎖を放ち、黒騎士を締め上げる。

 

「悲嘆の氷獄より出で、奈落の螺旋を守護せし無貌の騎士よ―――

 我が名は空隙。永劫の炎をもって背約の呪いを焼き払う者なり。汝、黒き血の軛を裂き、在るべき場所へ還れ。御魂をめぐみたる蒼き処女(おとめ)に剣を捧げよ!」

 

 高位の大魔女の令呪が鎖を通して、黒騎士に伝播して―――卵の殻を割るように罅割れ剥かれた黒甲冑より、真夏の海に似た、蒼き鎧が現れる―――

 

 

「―――<(ル・ブルー)>!」

 

 

 朦朧としながらも叫ぶ優麻の母親の支配を断ち切る――親離れの意思に、青い騎士は咆哮して応えた。

 

 

港湾地区

 

 

 <闇誓書>の支配が消えて、世界に元の色彩が戻ってから一日。

 『波朧院フェスタ』は、間もなく二日目の夜を迎えようとしていた。

 最終日の明日にもイベントは盛り込まれているが、最大の目玉はやはりこの二日目に上がる『魔族特区』ならではの特殊な花火にある。

 錬金術の粋を尽くした魔導花火玉を8000発も打ち上げる絶景は、国内外からの注目度が高い。

 そんなわけで、会場となる港湾地区(アイランド・イースト)の岸壁には、着飾った多くの若者たちで賑わい、屋台も軒を並べている。

 24時間前までは、ここは脱獄した魔導犯罪者らとの死闘を繰り広げた場であったとは信じられないだろうし、

 

「………でなー、色々と七面倒なことになったからオレの身体は“ハウス”されて、ご主人に預けてるのだ」

 

 ……このマスコットな後輩がその死闘を演じたとはとても信じられないであろう。

 

 花火見物にやってきた古城と雪菜が目的地に着いたモノレールを降りたところを出迎えたのは、メイドな人工生命体(ホムンクルス)……と、ふよふよ浮いてる二頭身の妖精獣(モーグリ)

 

「……本当に、クロウなのか?」

 

「肯定。先輩は、今回の事件で調整を要すると教官(マスター)に実体を預けられています。授業再開する週明けまでには返却されるとのことですが、それまでは猛省も兼ねて、この仮想肉体(バックアップ)で我慢しろとのことです」

 

 曰く、戦闘やら呪詛やら契約やらでクロウの身体はこんがらがって解けなくなった糸玉のように大変複雑な状態であって、不具合を直すにしても調整して安定させるにしても面倒なことになっているらしい。

 とりあえずは大丈夫なので心配はしなくていいとのこと。

 

「無事なようでよかったです、本当に心配したんですからねクロウ君」

 

「うー。みんなに迷惑をかけて申し訳ないのだ」

 

 しょぼーん、と眉をハの字に垂らし、反省した顔がちゃんと作れる。

 それに、船で見た時にはなかったパーツもある。ほぼ意味をなさない短すぎな手足では移動に苦労するから配慮されたのか、物的軽重の呪術が掛けられ、ぱたぱたとちっちゃな羽(飾り用にしか見えないのだが)を動かし、空も飛べてる機能付き。他にもチョウチンアンコウについてるような触角もあって、それから暗い夜道もライトアップしたり、ウソ発見器のように感情に合わせて点滅したり、救難信号を発することができるという……

 魔法少女の相棒にはまり役な妖精獣(モーグリ)形態(フォルム)だが、ギミックが多彩というか、芸が細かいというか、仮想肉体の作成者である主のこだわりが透けてみえる。

 海風に流されないよう、その胴体部に紐がしっかりと巻き付けられて、それをアスタルテに握られているその姿は、本当、二頭身人形というかそこらの出店に売られてる風船(バルーン)にしかみえないのだが。

 これも『魔族特区』仕様だと受け入れられ、道中、女子供に、どこで売ってるんですかそれ! と人懐っこく喋る妖精獣(コウハイ)は大人気であったが、そのたびにメイドの人工生命体から、教官が先輩に合わせた特注品(オーダーメイド)で非売品です、と断わりを入れられていた。

 

「くんくん! あっちから美味しそうな匂いが! ―――ぐえっ!?」

 

「不許可。先輩の勝手な行動は一切禁止するよう教官に言われています」

 

「そんなぁ~……この仮想肉体(カラダ)、お腹は減らないけど、それでも食べたいものは食べたいぞ……」

 

「ん、んんッ! あの、アスタルテさん、クロウ君の幉を取るのは大変でしょうし、私と交替しませんか?」

 

無問題(ノープロブレム)。先輩の管理を教官より任されたのは私です。客人(ゲスト)に世話をさせるわけにはいきません」

 

「いえ、その私も少しでいいから、抱き心地がどのようなものかとか色々確かめてみたいと言いますか、無理とか全然……」

 

無問題(ノープロブレム)。先輩の管理を教官より任されたのは私です」

 

 主人に忠実なメイドさんガードは鉄壁のようだ。

 

 そうして、古城らはクロウ(アスタルテの)先導についていきながら出店を冷やかしつつ、港湾地区の外れにやってきた。

 周囲に人影はない。ガイドブックに載っている花火大会の見物スポットからは離れており、街灯も必要最低限で暗い。早速、妖精獣(モーグリ)のライトアップ機能が役立った。

 

「ここが目的地……なのか?」

 

「そうだぞ。ご主人のとっておきなのだ」

 

 貨物船用の係留スポット。この時期に絃神島を訪れる貨物船はほとんどないため、随分と見晴らしのいい。周囲の海が一望できる。

 

「時間です」

 

 アスタルテの時間に正確な報せ。

 直後、鮮やかな光が世界を染めた。

 ドン、と一瞬遅れて轟音が伝わり、肌が震える。

 

「あ……」

 

 色とりどりの花火に彩られる夜空に、生真面目な少女も童心に帰ったように大きく目を見開いて、幾分か幼い笑顔を浮かべた。

 

「なかなかの穴場だろう?」

 

 古城たちの傍には、いつの間にか豪華なドレスに着飾った、人形めいた幼女が立っていた。感激している古城たちの表情を見て、どこか得意げに鼻を鳴らす。

 そう、この絶景が彼女が送る今回の報酬である。

 

「私のとっておきの場所だが、お前たちには今回借りを作ったからな。特別だ」

 

「那月ちゃん……」

 

「担任教師をちゃん付けで呼ぶな」

 

 いまだに幼い姿の那月が、不愉快そうに古城を睨む。

 

「だが、サナと呼ぶのは許してやらんこともないぞ」

 

「気に入ったのかよ、その呼び名」

 

 脱力してその場に跪きながら、古城はうめく。そんな受け持ちの生徒から視線を流して、

 

「あ」

 

「馬鹿犬もこのままでいても構わんのだが」

 

 手品のようにアスタルテの元から那月の手元に移動される妖精獣。

 

「イヤだぞ! オレ、このままじゃご飯の味わからないし、匂いだけじゃ生殺しなのだ!」

 

「食事代もかからないし是非ともクロのままでいさせてやりたいのだが、これではペンが持てないから授業が受けられん。残念だ」

 

 ぽんぽん、と浮く妖精獣の触角を掴んでは、ヨーヨー風船のように弄ぶ。

 

「ぎゃーぎゃー!? 何をするのだーご主人!?」

 

「昔の女に蹴りをつけて来いと言ったが、それで別の女に貸しを作ってきてどうする馬鹿犬め。お前に掛けられた契約を解呪するにしても、『No.013』の魔導書が必要だが、あの腹黒王女め、『使い魔(サーヴァント)の所有権と魔導書の所有権は別だ』と主張し(言っ)て渡してこんぞ」

 

 悲鳴を上げる使い魔に、ストレス発散していい笑顔の主。

 良いようにオモチャにされているが、けれども、やはり気に入ってるに違いあるまい。なにかと世話を焼くのも馬鹿な子ほどかわいいのあれだ。

 きっとこの後輩がいるから、彼女は安眠できる。それで過ごしてきた日々は、いい夢なのだろう。

 ……でも、それは本当に良いのか

 

「また、<監獄結界>に戻るのか」

 

 花火が途切れるのを待って、古城はつい訊いてしまう。

 <監獄結界>とは、管理人である那月が見ている夢であり、それを封印するために、那月は異界の中で眠り続けなければならない。

 誰にも直接触れることなく、歳を取ることなく、たった一人きりで。それが魔女として、彼女が支払った契約の代価。

 

「気にするな。すぐにまた会える」

 

 幻影である那月には、またすぐに会える。話すことも、触れることも出来るだろう。しかし、それは本物の那月ではない。<監獄結界>に彼女が居続ける限り。

 

 そして、那月が<監獄結界>の管理人であるのは、通常の監獄では抑えきれない魔導犯罪者らを封印するためだけではない。

 この絃神島にいる世界をも滅ぼしかねない危険――<第四真祖>の暴走を止めるためでもある。

 たとえ世界最強の吸血鬼であっても、<監獄結界>に閉じ込められれば封印されるであろう。

 <空隙の魔女>は、<第四真祖>への対抗策としても<監獄結界>の『鍵』でなくてはならない。

 

 だから、古城が吸血鬼でありながら学生生活を送れて自由を謳歌できることへの恩返しをしたくても、制御も不安定ですべての眷獣を従えていない不完全な第四真祖のままでは、那月に<監獄結界>の管理人を止めろ、と言える資格はない。

 

「―――週明けからは普通に授業を再開するからな。遅れずにちゃんと来いよ」

 

 そんな古城の心情を察した上で、傲岸不遜にこの担任は笑って言う。だから古城も、いつもの笑みで応じた。

 

「分かってるよ、那月ちゃん」

 

「私を那月ちゃんと呼ぶな」

 

 ばんっ! と小さな掌で叩かれ飛んできた妖精獣が鼻先に当たって、古城はぐぉ、と仰け反った。

 

「うー。何か、オレの扱い酷くないかー?」

 

「おい、クロウ離れろ!? 前が見えん!」

 

 よちよちと顔面に張り付かれた後輩に視界が塞がれて、そのまま倒れそうになった古城を、誰かが後ろから優しく抱きとめる。はじめ、人並み以下の体力しかないアスタルテに男子高校生を支えることはできないだろうから、助けたのは雪菜かと思ったが、違った。

 後輩を剥がして首を回らし見れば、視界に入ったのは、快活そうなショートボブの少女。絃神島に訪れた時と同じ服装をした幼馴染が、同じように古城に笑みを向けていた。

 

「ユウマ……!? 怪我は大丈夫なのか?」

 

 <守護者>を取り戻したとはいえ、今回の事件で心身ともに受けたダメージは大きく、しばらくは入院が必要だと聞かされていたけれど、

 優麻はそんな不調を微塵も感じさせない快活な笑みを浮かべていて、いや、ほんのりと寂しげな色を癖を知り尽くした幼馴染の観は見取る。

 

「空隙の……いや、南宮先生に許可をもらって一瞬だけ時間をもらったんだ。またしばらくは会えそうにないからね」

 

 まだ未成年で、しかも母親に利用されていただけとはいえ、彼女は犯罪組織<図書館(LCO)>の幹部だったのだ。たとえ負傷から回復しても、長い取り調べが待っているのだろう。

 そして、罪がないというわけではない。

 

「だから、古城、キミにお別れを―――そして、彼に謝りに来た」

 

 優麻が視線を向けるのは、ふよふよ浮いてる妖精獣(モーグリ)――今は仮想肉体の南宮クロウ。

 

「クロウ君、キミには本当に大変なことをしてしまった。死蔵されていた大罪の悪魔と契約させて、呪いをかけた。これは誰のせいでもなく、ボクの責任だ」

 

「そうだな。その通りだぞ」

 

 沈む幼馴染。それを弁護してやりたい古城であるが、今回、後輩が大変な目に遭ったのは事実。

 

「でも、すぐに大丈夫になるぞ」

 

 ピカピカ、と明るく触角。

 その口調はつい先ほど古城が那月に言われたのと似通っていた。

 

「いつかこうなるのは予感してた。森を出た時からなんとなくわかってたのだ。“創造主(あいつ)”も出てくるのも含めて、いずれ俺は壁にぶつかったり、重荷を背負うことになるはずだった。それで、今、こうなった。オレは、それを受け止めるしかない。逃げないで、戦う。生きるってそういうことなんだ。

 とにかく、やっちまったことを後悔してもはじまらないぞ。だから、オレは前に進むんだ」

 

 この後輩は大物になる、そう古城は不確かながらも予感する。

 あの戦いに狂った英雄の末裔ではない、始祖の龍殺し(ゲオルギウス)のような、正真正銘の英雄に至るだろう。

 そう思い、先輩としては気を引き締められて背筋を伸ばさずにいられなくなり、誇らしげに胸を張りたくなってきた。

 

「……キミは、すごいな。そして、強い、本当に。罪人(ツミビト)のボクが証明したところで印象が悪くなるだけだと思うけど……それでも言うよ。もしも、キミがこの先、謂れなき誹りを受けることがあったら、キミが誠実であることをボクが証明しよう」

 

 すっ、と晴れたような笑みで優麻は左胸に手を置いて宣誓する。

 舞台の花形を飾れるほどに颯爽とした幼馴染が格好つけると非常に様になる。と、片目を閉じて、茶目っ気に、

 

「それと、凪沙ちゃんのこともボクが保証する」

 

「?」

 

 きょとん、とする後輩。

 古城も何故そこで妹の名前が出てきて、何を保証したのだとこの幼馴染を問い詰めてやりたくなったけれど……それは別に今訊かなくてもいい。

 何故なら、

 

「なあ、今日はお別れだけど、また会えるんだよな」

 

 古城は奇妙な確信をもって、言った。

 たしかに優麻は取り調べを受け、罪を問われることになるだろう。しかし、そう酷い扱いは受けないはずだ。意外なとこであるが、世界的にもそして絃神島の力ある企業MARの研究主任――暁深森よりも弁護があり、それに彼女には価値があるのだから。『第四真祖の幼馴染』という、とてつもない利用価値が。

 

「そうだね。たぶんそう遠くないうちに」

 

 優麻が微笑みながら両手を挙げる。その仕草は一緒にバスケをした時のハイタッチの合図と同じ。これがただ握手するよりも性に合っている自分たちなりの別れの仕方だと、古城は相変わらず気の利く幼馴染に応じて、両手を挙げる。

 そして、幼馴染の掌に目掛けて、勢いよく自分の手を叩きつけ―――ようとして、虚しく空を切る。

 優麻が不意に古城の動きから避けたのだ。

 それで勢い余って倒れこむ古城―――を正面から抱き留めて、幼馴染の少女は唇を重ねた。

 

「―――っ!?」

 

 古城は硬直して声も出せず、されるがまま。それから息を呑んでいた雪菜に向けて、挑発気に目を細めて、

 

「それまでは古城は預けておくよ、姫柊さん。次は負けない」

 

 宣戦布告をしてから、古城を解放する。

 

「やれやれ。では、アスタルテ、馬鹿犬の面倒は任せた」

 

命令受託(アクセプト)

 

 溜息を吐いて、指を鳴らす。瞬間、那月は優麻を連れて、虚空に溶け込むように消え去った。

 再び、夜空に花火の第二陣が打ち上げられる。

 無数の火花が舞っていて、爆音は途絶えずに連続する。

 しかしそれらも、どこか遠い国の出来事のようで、

 また一応、岸壁には古城と雪菜以外にもいるのだが、人形のようなメイドと風船のようなモーグリは、視界の端に置物のように控えている。

 空気を読んだのだろう。古城の心情的には壊してくれた方がありがたかったけど、

 

「先輩……」

 

「待て。今のは俺の責任じゃないだろ。ちょっと油断しただけで」

 

 そうですね、と古城の発言を認める雪菜。理解あるようだが、無表情な彼女がなぜか恐ろしい。

 

「ですが、先輩は隙が多すぎるんじゃないんですか。こないだ身体を乗っ取られたじゃないですか」

 

 怒りまかせに古城に詰め寄ってくる雪菜に、胸板を叩かれる。軽い筈の彼女の拳が、ずっしりと重く響く。

 

「本当にもういつもいつも心配させて……昨日だって……先輩が死んじゃうんじゃないかって、わたしがどれだけ不安だったか!」

 

「あ……ああ、悪かった」

 

「本当にそう思っているなら、私の目の届かないところで、変なことはしないでください!ちゃんと私の傍にいてください!」

 

 先ほど後輩にも叱りつけていたが、あまり感情を表に出さない雪菜は、溜め込んでしまうタイプ、そして、それを吐き出すのは紛れもない本音なのだ。そして、心配をかけ過ぎたのは事実。古城はそれを受けて、深く反省する。

 でも、一応、参考のためにどれくらいでほとぼりが醒めるのか訊いてみる。

 

「傍にいろって……花火大会が終わるまでってことか?」

 

「この先もずっとです!」

 

「いやさすがにそれはちょっと」

 

 びっくりするくらい大きな瞳に睨みつけられて、たじろぐ古城。

 反論は許さぬ圧に、打開策はないかと古城はあたりを見回し―――同罪人な後輩と目が合った。

 

「く、クロウ! お前も心配をかけたんだから反省しろよ! アスタルテ、クロウをパスしてくれ」

 

「びっくりするくらいとばっちりが来たぞ!?」

 

命令受託(アクセプト)。先輩もあちらで反省をするべきですと身柄要求に応じます」

 

「アスタルテ!? 信じてた後輩に裏切られたぞ!?」

 

 よし。

 ひとりで辛いこともふたりでなら半減する。

 妖精獣を受け取った古城。この可愛いフォルムに、剣巫様も隠してるようで興味津々であったし、荒御霊に人身御供を捧げて鎮めるように、貢げば怒りが少しは収まってくれるかもしれない。

 

「う~、オレはさっき説教されたばかりなのに、怖い姫柊の説教は勘弁なのだ~!?」

 

「おら、暴れるなって、大人しくしろ」

 

「古城君は、やっぱりオレの扱いが最近ひどくないか? 合体した時もすっごく荒っぽくて激しかったから、受け止めるのにとっても疲れたのだ」

 

「そりゃ、あんなのぶっつけ本番で初めてだったんだからしょうがないだろ」

 

 うねうねともがき暴れる妖精獣を無理やり押さえつけて盾にしようとする男子学生。

 それに夢中で、古城はその時、近づく気配に気づけなかった。

 

「ばたんきゅ~……」

「よし、捕まえた!」

 

 閃光と爆音が続く花火の中で、古城がどよめきを拾ったのは、ぐったりと目を回した妖精獣を抱きかかえた時であった。

 怪訝な顏で振り向いた古城たちが見たのは、呆然と立ち尽くしている友人たちの姿。

 

 人を呪わば穴二つ、という言葉を古城はこの時痛感することになった。

 

「……ゆ、雪菜……!? ずっと傍にいて……って、……それってまさかプロポー……」

 

「あ、あの……待ってください。今のは、その……」

 

 蒼白な顔で呟くのは、雪菜の心配と古城を警戒して監視役を買って出て、途中で別れたはずの紗矢華。

 どうやら紗矢華たちに聞こえてきたのは、古城たちの会話の後半部分だけらしい。

 

「そ、そう……まさか、正攻法で来るとはね……やるわね……」

 

「ち、違っ……だ、だから……私は先輩の監視役として……違うんですっ!」

 

 動揺しつつも、なぜか闘志を燃やし始めている浅葱。あわてふためく雪菜を見つめる彼女の目つきは、宿敵に遭遇したスポーツ選手のそれによく似ていた。

 

 

 そこまではいい。

 本当はよくないけど、いい。

 

 

 紗矢華と浅葱は、雪菜の発言に注意がいっていて、後のことは聞いていなかった。

 あたふたと取り乱す雪菜を注視していた、古城のことは見ていなかった。

 だけど、後の3人はちゃんと聞こえていたし、しっかりと見ていた。

 一歩離れた立ち位置で面白おかしく眺めている第三者な矢瀬と倫の2人、古城のクラスメイトら、その背後にいたもうひとり、凪沙。なぜか、ブルブルと身を震わせ、顔を蒼白にしている。

 

 

「クロウ君を、無理やり押さえつけて……合体、ってどういうこと、古城君?」

 

 

 <雪霞狼>よりも強烈な一刺が、世界最強の吸血鬼の胸をぶち抜いた。

 

「ちっ、違う! 誤解だ凪沙!」

 

「じゃあ、どういうことなの?」

 

「それは……―――」

 

 言って、それ以上の言葉を出せずに口を閉開させるだけの古城。説明するには、妹への禁止用語が多すぎる。吸血鬼だと明かさないで眷獣召喚できると語るなんて無理だろう。どちらに転んだとしても凶ならば、せめて凪沙が怖がらない方向に落ちてやるがのが、兄の選択肢なのか。

 

「……まさか、こんなネタがあったなんて。そう、暁君が攻めで、クロウ君が受けなのね」

 

「おまえはなんだか鋭い奴だと思ってたけど、それは的外れだと言わせてもらうぞ築島!」

 

 頼れる味方はいないのか!?

 雪菜、紗矢華、浅葱は何か話し合いのようなことをしていて、こちらに気づいていない、モーグリ後輩は目を回して倒れてる。そして―――

 

「なあ、笑ってないで、矢瀬からもなんか言ってやってくれよ」

 

「………」

 

「って、せめてこっちを見ろ!?」

 

「いや、俺、何にも知らないし、聞いてないから―――ぷふっ」

 

「くそっ! ―――と、とにかく違う! 違うんだ信じてくれ凪沙!?」

 

 爆笑する親友に、冗談を言ってる(と信じたい)クラス委員は頼りにならない。ひとり戦うことを決意した古城はもう死にもの狂いで凪沙に誤解を解こうとしたが―――哀しいかな、必死になればなるほど妹の態度は硬化していく。

 

「……まさか、そんな……それっぽい夢を見たような……」

 

 普段の明るくお喋りは鳴りを潜め、俯いたまま何かをぶつぶつ呟く凪沙。

 そして、ばっと勢いよく顔を上げ、

 

「絶対に古城君には負けないから!」

 

 言って、さっきの浅葱が雪菜を見るように、こちらをライバル視して、凪沙は走り去った。

 

 全部投げやりな気分で膝をついた古城。もう泣きたくなった。というか、泣いた。

 そんな彼の姿も、色鮮やかな炎の輝きが照らす。

 騒々しい宴の夜に起きた事件の、知られざる最後の一幕だった。

 

 

 

つづく



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五章
錬金術師の帰還Ⅰ


天塚強化イベント発生


???

 

 

 ―――光の届かない、森の中だった。

 

 朝なのに夜闇が滞留しているような虚空より、金色の甲冑が君臨した。

 城塞絶壁に値する構え。

 破軍を称するに相応しい斬撃拳打。

 対峙するのは、(マガ)つ獣。

 獣の爪牙より主をその身で守護し、何度となく返す太刀を浴びせる。上段は雷霆のように叩き落す拳鎚、下段は噴火のように振り払う剣撃。

 それは、これまで神獣と化した己の躰を傷つけるような存在に出会ったことのない獣でさえ初見で回避を選択させたほど。

 十に九度は躱すが、十に一度は喰らう獣の巨体が吹き飛ばされる。

 その闘いは、けして優美とは言えない。

 むしろ、獣以上の暴虐を秘めていた。

 時にその主が鎖を放ち、眷属で囲もうとするが、それは、騎士と獣の争いであり、その暴虐だけは潜まることも薄まることもなかった。

 圧倒された、のだろう。

 己よりも大きな巨躯に初めて遭遇して、真っ向からぶつかり合ってくるその横綱相撲に初めて屈服した。

 訓練で兄姉に負けることはあったが、もし神獣となった実戦であれば必ず勝てる―――そんな天狗になってた鼻っ柱を折られた、獣の上下意識に、上には上がいて、オレはこいつの下だ、と認めざるを得ないくらい、

 人生初めての屈辱で、忘れがたい敗北の味。

 あの力強さを。

 南宮クロウの記憶に、ずっと焼き付いていた―――

 

 

 

 中世の城館を連想させる、古色蒼然とした広間だった。不揃いな自然石を積み上げた壁が、ずっしりとした質量を感じさせて息苦しい。びっしりと棘を植え込んだ椅子や車輪、鋸や鋏、人体を押し潰すための巨大な万力に鉄仮面など―――赤錆が不吉な歴史を臭わせる拷問器具が吊るされている。敷き詰められた絨毯も色褪せた深緋色。そして、自分の立ち位置には、奇妙な文様が描かれていて、幾重もの同心円で構成された幾何学模様と魔術文字。やけに禍々しい気配を漂わせた魔方陣がある。

 

 ……悪い事をした子供が暗い倉庫に閉じ込められて反省されたように、片手で数えられるくらいであるも自分もこの監獄で猛省するよう“ハウス”された。そして、その猛省はちゃんと生かされて、能天気な頭でも二度過ちは繰り返さなかった。

 あまりいい思い出のない、けれど、万一、暴走させるようなことがあっても周りに迷惑をかけない。

 

「ぅ~~~………」

 

 そんな中で、南宮クロウは唸りながら念じる。

 立てた左人差し指中指を、右掌に握り右人差し指中指を立てる印。北欧よりやってきた忍者(聖環騎士団要撃騎士)直伝の集中の構え。

 そして、ある一定量、裡で魔力が練り上げられたと判断すると、印を解いて、左親指を齧り、血を出さす。そのまま掌を地面につけて、

 

「―――忍法口寄せの術!」

 

 遊んでいるように見えるかもしれないが、本人は真剣。

 使い魔の召喚方法は、術者によって千差万別であり、自分に合ったやり方を見つけるのが上達の近道である。一応、血を出してるのも、吸血鬼の眷獣を喚び出すプロセスと似通っている。とはいえ、こんなのは他にいないだろうし、独特な感性をしてることは違いない。

 少し離れた王座には、那月が肘掛けに肘をついて曲げた手首の甲に顎を乗せていた。

 どこであろうとも、いつも通りの豪華な黒のドレス。その長髪の毛先をくるくると愉しげに指先で丸め弄っている。

 

「どうだ見たか―――て、見てないなご主人っ!?」

 

「主に向かって失礼な物言いだな、馬鹿犬。場を貸し出してやるだけでなく、お前の拙い児戯を監督してやってるというのに」

 

「なら、ちゃんと監督し()てほしいのだ。上達したのか教えてくれないと、オレ、わからないぞ」

 

「ふん。私ぐらいになれば、魔力の波長だけで術者の熟練度が測れる」

 

 言いつつも、指を抜いて解き、髪を巻くのを止める那月。細められた目は、飼い犬をどう遊んでやろうかと思案する悪戯っ子にも似ていた。

 

「その喚び方からして、いろいろ文句があるが、最低限は形にはなっている」

 

「そうか!」

 

「もっとも、点数にすれば下駄を履かせても赤点だがな。―――補助する魔方陣まで敷いてやってるというのに、召喚するまでに時間がかかり過ぎだ。これでは、いざというときには呼び出せんぞ」

 

「………あう」

 

「私は今のお前よりも若いときに教わったが、そんな基礎は二、三回もやれば普通にできたな。もちろん、補助輪(魔方陣)に頼らずな。結局、この一週間でわかったことは、至極単純な強化や適性のあった死霊術はできるようだが、馬鹿犬の召喚術は残念だということだ」

 

「うぐ……」

 

 主のほんのわずかに上げてからどん底に落とす論評に、がっくりとクロウの肩が落ちた。

 

(まあ……)

 

 その様子へ片目を瞑り、那月は密かに口元を扇子で隠す。

 もう一つ、付け加えられる言葉があるにはあった。

 ―――思ったよりも、ずっと早く形になった。

 召喚術の才能は、ない。契約されて、魔力があって、資質があるのに術ができないというのは当人の才能がないのだ。

 だが、馬鹿なくせに、意欲はある。

 初めに那月が、この修練は無理だな止めにした方が良い、と散々酷評してやってから、やけに粘ってきた。その翌日に本質的に似た眷獣の召喚をする暁古城やアスタルテに話を訊きにいったりして、那月にも喰いついてきて、その助言が徐々にだが生かされてきたりする(それでも修得速度は遅いが)。

 『旧き世代』の眷獣をも圧倒する神獣に、召喚術などメモリの無駄遣いだろうに……

 

「……でも、頑張るぞ。何てったって、“ご主人が初めて教えてくれる魔術(モノ)”だからな」

 

「……………」

 

 意欲があるのは、“楽しい”、ということもあるのだろう。

 主従であっても、那月はクロウに魔術を教えたことはない。精々、仕事を手伝わせるため特区警備隊(アイランド・ガード)の教官として対魔族の戦闘法に関する知識を軽くレクチャーしてやった程度で、あとは仙術と武術の達人である後輩に丸投げした。

 魔術が使える資質があろうとも、基本的に獣人種と同じ肉弾戦を好む傾向にあったクロウに那月のやり方は合わないということもあるのだろうが、一学生として学生生活を過ごしていく上で不要な技術であると判断されたためだ。

 だから、こうして、寝ている合間の夢の中でだが、主に稽古をつけてもらっているのはクロウには初めてで、あんまりいい思い出のない躾部屋の中でも気にならないくらい、この主従契約を利用した睡眠学習に一生懸命なのである。

 

「絶対に召喚術をマスターしてやる―――ぞっ!?」

 

 ゴンッ! と改めて気合を入れようと握り拳を作りポーズを決めていたクロウの頭に盥でも落ちたかのような衝撃。

 

「ご主人!? これが夢でも、痛いモノは痛いんだぞ!?」

 

 使い魔の抗議を無視して、口元を扇子で隠したまま、那月は半目で、

 

「そんなのは当然だ。そもそも召喚術を覚えさせることになったのは、馬鹿犬が、“落《堕》ちたモノ”を“拾い食い”するからだ」

 

「う……」

 

 『波朧院フェスタ』で、クロウは悪魔と契約をした。

 だが、それは“創造主”と一緒に悪魔も滅ぼしていれば、消滅して残るは半身で問題はなかったはずだった。だが、クロウは自身の魔臓霊的中枢を取り返すだけでなく、“創造主”から悪魔を受け継いでしまい、八つの欠片が揃ってしまったことで完成させてしまった。

 『第八の大罪兵器』と称した魔獣を。

 『波朧院フェスタ』で暴れ回った怪異。欠片二つで特区警備隊を壊滅させ、『旧き世代』の眷獣と互角以上に渡り合え、退治するのに魔力無効化能力を備えた眷獣を操る人工生命体に、『聖環騎士団』の要撃騎士に<四仙拳>の達人の面子を要した。そして、その半身を取り込んだ“創造主”は、島ひとつを地図から消し去ってしまうほどの力があったのだ。

 すべての欠片の集って、ひとつになった大罪の完成体は、どれほど危険なものかと危ぶんでしまうのは当然。それこそ<第四真祖>の災厄の化身の如き眷獣に匹敵する脅威かもしれぬ。

 しかし、それをまた八つに別けて死蔵し、封印することをクロウは嫌がったのだ。契約魔術は当人がそれを受け入れるかの“意志”が重要である。仙都木優麻が、親に奪われた眷属の騎士を取り返したときのように。断固として宿主に抵抗されては、大魔女である那月でも解約するさせることができない。そして、主として、このサーヴァントが頑固者だというのは重々承知している。

 

 仕方なく、<守護者>を制御するための召喚と退去――召喚術を、この絃神島で唯一の魔女である那月は教授することを決めたのだ。

 

「まあ、それが全くの杞憂だったんだがな」

 

 と那月が嘆息して、使い魔(クロウ)からその使い魔の使い魔に目を向ける。

 そこには、この<監獄結界>でさえ収まりきれない『第八の大罪』に冠するに相応しい強大な<守護者>―――

 

「みー、みー」

 

 は、いない。

 

「おー、なんだフラミー、遊んでほしいのかー?」

 

 クロウにじゃれ付いてるのは、毛の生えた翼竜(ファードラゴン)

 全体的に白い体毛で覆われ、蝙蝠というよりは鳥類に近いその二対の翼の先端には縁取るように蒼の美しいグラデーションがある。

 頭髪は陽光のような綺麗な金色で、ぱっちりとしたまん丸の瞳は蒼穹と同じ澄んだ青色。

 これが、今喚び出した、そう、南宮クロウが契約した、『第八の大罪』と称された<守護者>ならぬ<守護獣>。

 

「みみー」

 

「よし。今日は玉乗りを仕込んでやるぞ」

 

 偉ぶっても似合わない主に似てか、厳かな威圧だとか神々しい気配がない、というよりは似合わない全身に鱗ではなく毛の生えた翼竜は、哺乳類のような柔らかでかわいらしい。体長は2mほどで、人と比べれば大きいが、吸血鬼の眷獣と比べれば小さい部類であろう。爪も丸い。牙はなくて、犬歯がちょっこり出てる感じだ。

 言っておくが、これは<監獄結界>――南宮那月の夢の影響ではない。

 そんな大罪の魔獣?にのしかかれるが硬い鱗のないもふもふに埋まっている那月の眷獣は、すでにちょっと大きめなペット感覚だろう。使い魔の主というより、親に近い。

 

「……おい、なんだその“フラミー”とは」

 

「毛皮《“フ”ァー》な翼竜《ド“ラ”ゴン》で、猫みたいに“ミー”ミー鳴くから、フラミーだ。昨日、叶瀬に考えてもらったんだぞ。動物に名前を付けるのが、上手だからな。フラミーも気に入ってくれたぞ」

「みー♪」

 

「安直なネーミングセンスだ」

 

「なあ、ご主人。フラミー、マンションで飼っちゃダメか?」

「み~?」

 

「構わんぞ。ただし、その場合はそいつの分まで馬鹿犬の食事量(エサ)を減らすことになるがな」

 

「ごめん、フラミー。ご飯は大事なんだ」

「みみー!」

 

 『ご飯>使い魔』にお怒りになった翼竜に頭をハムハム齧られる那月の眷獣(クロウ)。襲われているようだが、それも甘噛みみたいなものか、もしくはそこまで翼竜に力がないのか。

 主人(クロウ)から使い魔(フラミー)への魔力は十分に通っている。それでも、“こんな”だ。

 同じ<守護者>でも、<(ル・オンブル)>と<(ル・ブルー)>が異なるように、術者によって違いが出てくる例もある。

 本来、この翼竜が、恐ろしい怪獣であったのだろうが、それがこの馬鹿犬が主人となったことで、突然変異じみた変化が起こったか。それとも召喚術があまりに未熟で性能を出し切れていないのか。

 なんにしてもだ。

 

「もし、あの戦闘狂の<蛇遣い>とやり合うことになったと想定して、どうする馬鹿犬」

 

「それは避けられないなら、近づいて物理で殴るしかないな」

 

「<守護獣(そいつ)>は?」

 

「フラミーは、なんか戦うのイヤそうだし、どうもしないぞ」

 

「役に立たんな。馬鹿犬の残念な召喚術とお似合いの召喚獣だ」

 

「羽があるから空とか飛べそうだぞ!」

 

「<守護者>や蝙蝠の眷獣は、宙を駆けたり、翼がなくても飛べるものだ。だいたい、馬鹿犬も空を蹴って跳べるようになったとこの前言ってただろう。大抵、召喚術を行使する術者は、『自力でできないことを補わせる』のに使い魔を呼び出すものだ」

 

「う~」

「み~」

 

 兵器としての危険性がないのはわかった。しかしそれが使い魔としての有用性がないと同義()だ。

 術者よりも弱く、戦闘には後ろに下がらせるような使い魔に利用価値はあるだろうか? このままでは、愛玩動物か乗り物くらいにしかならない。

 

「最初に教えてやったが」

 

 と、那月は前置きした。

 

「<守護者>は、結んだ契約の重さに比して、力があるものだ。何の覚悟もないタダも同然の安い契約をするくらいなら、しない方がマシだ」

 

「………」

 

 『眠り続ける』と過酷な契約を課している魔女の言葉に、クロウは答えられない。

 軽い気持ちで臨んだわけではない。だが、こうして、“役立たずな”自らの使い魔を見る限り、それを否定する言が吐き出せるわけもなく、

 ごくり、と唾を呑むが、

 気管に石が詰まったようだった。石が転がり落ちて、肺までも破ってしまうようなイメージで……

 

「ふむ」

 

 ひとつ息を吐いて、那月は開いた扇子を閉じた。

 

「まあ……単にその使いようがわかっていないだけだろう」

 

「え?」

 

「にしても、龍族(ドラゴン)(タイプ)とは……阿夜の魔導書を完全に複製する『写本』の技術とは異なるが、お前の“創造主(オヤ)”は、0から1を産み出す作り手として技量的には優れている魔女であることは違いない。であるなら、その仔龍に“力がある”のは確かだ」

 

 魔女が創り出した人造の魔獣たる白龍。龍族を造り出すのは、今の人類の技術では無理だ。かつての超古代人種『天部』の技術力ならばできただろうが、ならば、<血途の魔女>はそれに匹敵する技術を有していた。

 

「とにかく、バカと鋏は使いようだ。あとは、“馬鹿犬なりの”使い方を見つければいい。要するに―――」

 

 ここで言葉を切って、不敵に那月は口端を歪めた。

 

「最低限のことは教えてやった。あと一週間は(この場)を貸してやるから、ここからは自分で考えろ」

 

 そうして、南宮クロウの主との一週間の夢の中の特別講習は終わった。

 

 

教会

 

 

(……使い魔の使いよう、かあ)

 

 今朝の夢の回想を断ち切り、クロウは瞑目した瞳を開く。

 これまでの授業の成果で、時間はかかるも自力で召喚術が使えるようになったし、だから、その次の段階である召喚した<守護獣>の使い方を模索するべきである。

 けれど、情けない話だが、森にいたころは魔女の道具として、森を出てからは魔女の眷獣として生きてきた南宮クロウに誰かを使うというやり方がそう思いつかない。

 

(でも、こればっかりはオレが思いつかないと……ご主人に教えてもらうわけにはいかないのだ)

 

 うんうん唸りながら、思考している内、

 

「―――ん、ああ、ちゃんとお前らのご飯を用意してやるぞ」

 

 学校の裏の丘にひっそりと建っている小さな修道院。

 築数十年ほどになるだろう、その罅割れた礼拝堂の壁には幾重にも蔦が絡まり、十字架も随分と傾いでいる。雑草が伸び放題の庭も、学生らから幽霊屋敷と噂されても仕方のない有様であろう。実際、5年前に事件があったそうだ。

 そんな人の寄りつかないところに、学校が始まる前の朝早くにクロウがやってきているのは、ここに集う猫たちのエサやりである。

 

「今日は叶瀬が日直で来られないからなー、代わりに来てやったのだ」

 

 かつて、この修道院の跡地では、叶瀬夏音が、拾ってきた子猫たちの世話をしていたことがあった。その時の仔猫たちは古城ら先輩方の助けで、クロウがいない間に、無事全員もらわれていったそうだが、あれからすでに数週間。

 優しい人が世話をしてくれるこの場所は、いつのまにやら野良猫たちには溜り場となっていたようで、雨の日などはここで猫たちの集会が開かれている。そんなことを知って、叶瀬夏音が猫らの期待に応えられないはずがなく、毎日ではなく日を空けてだが様子を見に来ることが習慣となった。

 ただ、今日は、彼女は用事があってこられないので、同じマンションに住んでいるクロウが代役を頼まれたというわけだ。

 夏音と一緒に猫たちの世話をしていたクロウも猫らは覚えているようで、懐いてはエサをせがんでくる。

 

「まったく、お前らは自分でエサを―――」

 

 ぞくり、と首の裏に異様な気配を感じた。

 

「誰だ……っ」

 

 修道院の出入り口の扉へ振り向くや否や。

 突然、どお、と烈風が舞い込んだ。

 

「―――!」

 

 風は修道院を荒れ狂った。

 扉が蝶番から外れ、砕かれ、何十という木片になって、長椅子等に突き刺さる。あるいは猫たちのエサやり場まで飛んできたものがあったが、それらはクロウの手に弾かれた。

 そして、猫らを庇いながら、衝撃の発生源を見た。

 風の、奥。

 千々に壊れた扉の向こう。

 現況を見極めるべく、超能に嗅覚を拡張された鼻で深呼吸する。

 

 修道院の庭に、ぽっかりと白いものが浮かんでいた。

 

 仮面。

 木を彫ったと思しい、女の面だった。

 クロウは知らぬが、深井と呼ばれる能面である。

 

「む」

 

 その周囲の空気が、渦巻く。

 仮面を中心に呪力の風が集い、庭に、ひとつのカタチを顕現させる。

 

 それは、全身の筋肉が腐り落ちて、骨と関節を繋ぐ腱だけが残っている人型の骸骨。仮面で隠されているが、おそらくはその頭骨の中は空洞で、脳も眼球も入っていないだろう。

 それが沸々と空気が泡立っている風にも感じられるほどの、沸騰寸前の熱湯にも似た呪力で死体に肉付けされていき、やがては、面と同じ、しなやかで優美な肢体となる。

 白拍子を思わせるゆったりとした袖の和装も纏い、足袋の爪先は、地面には触れず、かすかに浮かび上がっていて、降りた。

 肉付けがなされたとはいえ、細身。なのに、中々に堂の入った構えを見せる。

 そして、動死体でありながら、その呪力は、その静謐な様相に似合う、清流のよう。

 

(こいつ、笹崎師父が見せてくれた道士(キョンシー)みたいだ)

 

 ほとんど水平に、その袖をゆるりと振るう。

 長い袖より、伸ばした左腕。広げた掌の中に現れたのは、無数の光の球体で、球体はやがて輝きを増して、鋭く尖った光の矢へと変わる。

 放たれた無数の光の矢が、複雑な軌跡を描いて飛来し、四方からクロウを襲ってくる。そのすべてをよけるのは魔族の吸血鬼であっても不可能―――であるが、混血のクロウは、その目覚めた霊視と獣人の超感覚でそれを避けて、捌き切る。

 

『へぇ、霊弓術(それ)を躱しちまうかい』

 

 タン、と軽い音を立てて仮面の拳士は跳んだ。予備動作はない。足首だけでその跳躍を成す。こちらに距離を詰めてくる、重力を無視した異様な動きは、クロウの跳躍術と同じ、それもずっと洗練されている。

 

『じゃあ、これはどうだい?』

 

 迎撃にクロウが拳を刳り出そうとした、その眼前で、仮面の動死体の姿がゆらりと霞んだ。

 足捌きによるフェイントと、高速の重心移動が生み出す残像だ。

 その見るものを幻惑させる舞のような動きは、獣人種の反応速度に超能力、さらには霊視を備えたクロウさえも翻弄するレベル。

 そして、死体が繰り出す拳打。仮面の拳士は圧倒的な膂力に加え、呪的強化に衝撃変換がスムーズで、獣化をさせる間も与えず、人間時のクロウでは押されてしまっている。

 

 仮面の動死体は、魔力によって生み出された使い魔だ。見た目とは裏腹に動きが速く、通常の生物ではありえない圧倒的な腕力を備えている。

 また、技量が高い。

 反撃しても、嘲笑うようにすり抜けて、お返しに放たれる拳が弧を描く。ほぼ理想的なフックの後を追って、対角線上からミドルキックへとつなぐ近代的コンビネーション。

 あるいは、至近距離から肩へと打ち下ろす肘打ち。その間合いから一瞬も離れずに炸裂する膝蹴りと、猛烈なショルダータックル。

 その一打一打に、紫電迸る気が篭められている。

 使い魔であっても、術者の技術が投影されてか、その実力はかつて対峙した獣王の盟友たる古兵にも劣らぬ。

 

『誘いにも引っかからない。動物的な勘だけで動いてるわけじゃない、か』

 

 が―――それでも、クロウは凌いでいた。

 岩をも砕きそうな拳は、その風圧だけで、一撃ごとに髪を煽り、蹴りに至っては、制服のワイシャツの表面を切り裂いているのだが、精々薄皮一枚しか掠らせていない。

 そして、相手の動きを見ていた。

 美しい型だった。

 流れるような演舞。ごくごく自然な動きで、肘を打ち、掌にて穿つ。

 既に仮面の拳士の動きは烈風に近い。荒れ狂う嵐さえ思わせて、一息さえとどまらずに致命的な打撃を出し続ける。

 

「やっぱり、似てるぞ……」

 

 そう、姫柊雪菜や煌坂紗矢華―――獅子王機関の攻魔師の動きに。

 

 揃えて伸ばした右の指先。その指先から先の魔力で紡がれる霊弓術の不可視の刃があり、同時に腕を振るい神速の槍の如き突きを放つ。

 

 そこで、ひとまずの疑問を呑み込み、すり足が弧を描く。太腿と腰が螺旋に捩じれ、肩、二の腕、手首とベクトルが伝わっていく。行使される型は未だに稚拙な代物だったが、それ故に必死の気迫がこもっている。

 

「<(ユラギ)>!」

 

 ―――!

 無音の圧力に、仮面の拳士の左半身がひしゃげた。

 突きを放った左手首から、肋骨、襟元から覗いた鎖骨までが無残に潰れていった。ぐずぐずとなった肉骨と装束とが入り混じり、服と肉の区別もつかなくなっていた。

 

「……痛っ!」

 

 鋭い痛みが、肘から肩に伝わった。

 これは相手の攻撃によるものではない。

 無駄な力みが、筋肉を傷つけてしまっている。淀みも歪みも生じてしまってる型のせいで、エネルギーを御し切れず、つまりは、クロウの未熟さが自身を苛んでしまっている

 とはいえ、肘から拳へ込み上げた感覚は、放った後も感覚が続くほどの手応えがあって、

 

 

「―――甘い」

 

 

 と別の方向から叱責がとんできた。

 

「我が弟子から見稽古で盗んだにしては、まずまずの出来だろうけど、その程度で満足するんじゃないよ。“霊視()”に“超能(ハナ)”か、感覚に流されないようにしているのは褒めてやろう。だが、技は荒いし拳筋が悪い。意識はしててもまだまだ力任せすぎる。だから、自分を傷めつけちまってるんだ。体技に関しちゃ雪菜以上の天凛だというのにもったいない。そもそも、その肉体(からだ)の性能を考えれば、獣化せずともこの使い魔程度に苦戦することはないんだよ『壊し屋』の坊や」

 

 流れてきたのは、悪戯っぽく、瑞々しくて張りのある―――しかしその奥底に、古い高級ワインのような、香しい熟成した年輪を感じさせる声。

 

「……猫?」

 

 声の発生源を見れば、修道院の教壇の上にいたのは、しなやかな体つきの美しい黒猫。

 瞳の色は輝くような金色で、細い首輪には同じ色の金緑石が嵌め込まれている。

 

「この辺じゃ見かけない―――んん? いや、お前、猫じゃない」

 

 首輪ということは飼い猫、少なくとも野良猫ではないし―――そして、猫でもない。

 

「可愛い教え子たちが呪いをかけたというからちょいと見に来たんだが、<四仙拳>の道士に鍛えられたんだっけか? 基礎はまあできてるよ。適当にだけど、その適当こそがお前さんには合ってるんだろうね」

 

 初対面でありながら、今の組手でおおよその癖や欠点を、さらにはその積み上げてきた背景まで読み取った。それは並の実力者ではできないだろう。

 師匠格、と呼べるような相手でなければ。

 

「お前、誰なのだ?」

 

「おっと紹介を忘れて、つい説教しちまったよ」

 

 クク、と喉を鳴らしながら、猫は人間臭い仕草で前脚を上げた。

 

「縁堂縁。聞いたことないかい? 雪菜や紗矢華の師家様さ」

 

 

 

 絃神島から本州までの距離は最低でも300km。

 そして、高神の森――日本の関西にあり、さらに数百kmは離れている。

 

 そこから、黒猫と仮面―――二体の使い魔を遠隔操作している。

 

 猫の使い魔は、最もポピュラーなものだろう。呪力との親和性の高い動物として魔術師に古代より親しまれてきたのが猫なのだ。古代エジプトのバステト女神にせよ、怪談の猫又にせよ、神秘に関わる猫は枚挙にいとまがない。

 そして、優れた魔術師にとって、物理的な距離はさほど問題にならないとも聞く。

 ―――それでも異常。生半可な実力で可能な芸当ではない。

 

「さっき坊やが使おうとした<響>――雪菜と紗矢華に、『八雷神法』と『八将神法』を教えたのは私だよ」

 

 仮に、遠隔地から術者が喋らせているのだとして、あまりに発声がスムーズ過ぎる。余程の魔術師でも、もともと人間としての声帯を持たぬ猫に喋らせるのは、至難の業のはずだ。

 まして、この猫は、発声と同時に人間のような仕草までこなしてる。

 だが、剣巫と舞威姫の師匠であるならそれも容易いことのなのだろう。

 

「そうか、猫が師匠だから姫柊は、猫好きなのか」

 

「いや、これは式神だからね。と、それで猫好き? あの雪菜がかい?」

 

「そうだぞ。姫柊は猫を見るとふにゃっとなるし、オレが猫の真似をすると厳しくチェックしてくるんだ。もっとちゃんと可愛さを表現しろって」

 

「そうかいそうかい。そいつぁ、私も気を付けないとねぇ……」

 

「うん。気を付けた方が良いぞ。ちゃんと、語尾ににゃあってつけないと駄目だからな」

 

 意外なことを聞いた、と猫が愉快そうにククッと笑った。真面目な弟子が、感情を露わにするなんて高神の森では考えられない。この絃神島に送られたのは性格的にいい傾向だ。

 

「それで、何の用なのだ? 煌坂の時もそうだったけど、授業参観は今日じゃないぞ?」

 

「なるほど、こういう性格だから、雪菜と紗矢華は振り回されてんのかい」

 

 妙に納得した風に尻尾を左右に振る。

 

「私がここに来たのは、坊やに見に来たんだよ。剣巫と舞威姫の手を焼かす問題児がどんなもんかとね。実力を測るついでに稽古をつけてやったのさ」

 

 ああ、だからか、と今度はクロウが納得する風に首肯する。

 喰らえば致命打な一撃ばかりであったが、殺気はないし、ちゃんと躱せる経路が意図的につくってあった。

 少年の師匠、笹崎岬と似たような散打(くみて)をしたことがあるから、すぐにその違和感を察していた。

 

「それは、ありがとうなのだ」

 

 見た目はにゃんこだが、格上の相手に対する作法として習った礼の通りに、手を組んでから、深々と頭を下げる。

 

「礼なんていらないさ。坊やの背景には同情できるものもあったし、こっちも打算的な考えあってのことだ」

 

「?」

 

「悪事を働くような性格ではないことはわかったからね。だったら、力をつけてもらった方がありがたいのさ。その方が雪菜の仕事が減るだろ? 生真面目な雪菜は手を抜くってことは知らない性格だから休めと言っても聞きはしない。そこを我が教え子たちが信頼されてる坊やが頑張ってくれるんなら、その分だけあの子の負担がなくなるわけだ。<第四真祖>の監視役という大役もそうだが、あの<雪霞狼>の担い手になっちまったから心配してるんだよ」

 

「……やっぱり、あの<雪霞狼(やり)>は危険なんだな」

 

 その発言に、ぴくり、と猫の耳が反応する。

 それから、これまでよりやや低めた口調で、猫は目を細めて、

 

「ほう、気づいていたのかい?」

 

「使うたびにほんのちょっとずつだけど“匂い”が近くなってるのだ」

 

 ご名答、と黒猫の尻尾が、ひょろりと○を描いた。

 

「壊してやった方がいいんじゃないかと考えたこともある。でも、危険だけど姫柊には大切なものだ。姫柊は槍をもうひとりの自分のように扱ってる。それに、叶瀬の家族が、『“それ”は幸せなことだ』、って言っていた。だから、オレは難しいことはわからないけど、それに俺が口出しをしちゃいけないのはわかる。

 けど、やっぱりオレは難しい事なんてわからないから、本当にダメになりそうだったら手出しすると思う」

 

「……こりゃ、あの子たち、人を見る目をもうちょい鍛えてやるべきだったね。この子はずっと聡明だよ」

 

 報告では純粋で猪突猛進、思考より身体が早く動くタイプ、と聞いていた。

 しかし、実際は戦ってもフェイント等には引っかからない。理解も早いし、応用力もある。逆なのだ。考えて動いている。無論、反射的なものもあるだろうが、そうするように努めている。

 そして、事情を察しながら、それを悟らせずに、また本人の意思を尊重して、最低限のラインまで沈黙して見守る。

 そうそうできるようなものじゃない。少なくとも何も考えていない者にこれほどの配慮はできない。

 

「いいのか? オレは獅子王機関(お前ら)秘奥兵器(大事なもの)を壊すと言ったんだぞ?」

 

 強い口調でクロウが言う。

 普段、穏やかな気質の少年にしては珍しい―――だからこそ、黒猫も誤魔化しのできない言葉であった。

 

「そうねぇ」

 

 不意に、遠い目になった。

 動物の表情なんて、人間には半分もわからないだろうが、それでも、そう見えてしまうのは、この猫に憑いた―――縁堂縁を名乗る攻魔師の技術のためだろうか。

 

「まあ、問題発言だけど、問題があるのはこっちの方さ。前の初代の継承者がそうだったが、神狼の巫女であった雪菜も可能性は十分ある。それだけ高い適性があり、だからこそ、二代目に選ばれた。“神懸っち”まったら、手遅れだね。取れる手段がないとは言わないが……」

 

 黒猫が言う。

 この猫がそうしていると、姿は確かに猫なのに、まるで普通の人間と話しているような錯覚さえする

 

「何にしても、責任を感じることはないね。そうなれば、直前に雪菜も自分で気づくだろうし、それでも、剣巫をやめずに槍を使うのなら、それは雪菜と、獅子王機関(わたしら)の責任だ。

 だから、坊やは坊やのままでいい」

 

 猫がうんうんと頷く。

 頭を捻らせて本当にそれでいいのかと悩むクロウの前で、視線も艶めかしく、今にも腕ぐらいは組んでしまいそうな表情だった。

 

 

「―――だけど、力の扱いはダメ」

 

 

 やれやれ、と猫が溜息を吐く。

 やっぱり、異様に人間臭い仕草である。

 

「雪菜も近くに競える同年代がいればいい刺激になるだろ。槍ばかりに頼るんじゃなく、より心構えってもんがつくようになる。よし。

 そのためにも、お前さんのように力が有り余ってるおバカは、根本から学ばせないとね」

 

 見様見真似であろうと、師子王機関の技を扱うならば、その拙さを伝道師として看過できない。

 遊び程度にちょっかいを出したけど、今はスイッチが入っちゃってる状態か、当人を無視して話が進められる。

 

「む。いきなりおバカだなんて失礼だぞ」

 

「なら、お前さん。強く想えば想うほど強い力が出せると、そう思ってないかい」

 

「そうじゃないのか? 半端にやるのがダメだろ」

 

「まぁ、間違いではない。一念天に通じる。だが、想いや感情ってものは力を引き出すための“引き金”に過ぎない。そして、強過ぎる想いや感情は時に歪むものだよ。想いや感情によって引き出された力は必ずその影響を受ける。どれだけ危ういか、わかるかい坊や」

 

「うー……けど、何も思わないで力なんか出るのか?」

 

「出せる。本来、力は独立したものだよ。引き金なんぞ使わん方が、より強く、純粋で安定した力が出せる。

 そう、『無想』は、力の雑味を取ってやる技術だ。無駄の多い坊やには必須だよ」

 

「『無想』?」

 

「想うものは無い、と書いて『無想』。心を無にする。ああ、心を無にすると言っても、心を無くすということじゃないよ。ようは心を静かに何事にもさざめかない状態にするってことだ」

 

「そうなるとどうなるのだ?」

 

「難しいことがわからないって言いながら、お前さんは考え過ぎるんだよ。だから、無想さえできれば、お前さんの能力はすべての面において増強するだろうね。というよりは、本来の力が使えるようになる、と言った方が正しいかね」

 

 黒猫は、ひょいとクロウの肩に乗り、その顔を尻尾で撫でる。

 

 

「今、坊やに幻術をかけてやった。とにかく集中力を乱すように働きかけるから、人並み以上に感覚の鋭敏な獣人種には大変だろうけど、まあ、おバカを強制させるための荒療治だ。けれど一週間で日常生活でも『無想』を維持できるようにしてやろう」

 

 

 ―――時は流れる

    世界にとっては淀みなく、個人にとっては徐々に速度を増して。

 

 少なくとも深夜の夢想と現実の朝練で鍛えられた(苛められたともいう)少年にとって、それから一週間のデスマーチは瞬く間であった。

 

 

MAR研究所

 

 

 “彼女”を納める氷棺。

 『呪われた魂』が二度と復活できないよう、自ら己の肉体を氷塊のなかに閉じ込めた。眷獣の力によって作られたこの棺は、“彼女”の肉体を外部から完全に隔絶させて、細胞サンプルひとつすら入手できない。すべては『文字通り塵ひとつ残さず世界から消え去る』という“彼女”の遺志だ。

 

 だけど、それでは子供たちは救えない。

 移し替えるための肉体が創造できない以上、娘の中にその魂は眠り続けることになる。眷獣と融合した“彼女”の魂は、今も娘の肉体に多大な負担をかけている。

 肉体が用意できなければ、いずれ、それは娘の死という形で、限界が訪れる。

 

 

 ―――だから、“彼女”の後続機である“彼”に出会えたのは僥倖であった。

 

 

 あの“魔人”の肉体に触れた時、これだ、と超能力(スキル)が直感した。

 大罪という強大な存在を受けるための『器』として創り出された人工の魔族。

 それは真祖の力を受け入れるに足るものだ。実際、祭二日目に眷獣の力を受け入れることができたという。

 “彼”の生みの親である<血途の魔女>は、まぎれもなく天才。MARの魔導技術を総動員しても不可能な人造魔族の創造。それを現代で、それも独力で『天部』の作品に迫るほどのものを創り出したのだから、技術者としては尊敬に値する偉人である。

 ―――それにあやからせてもらう。

 

(医者として、最低な事をしてしまってるわね)

 

 無知で無垢であることをいい事に、“彼”を言い包めて知らずのうちに、“彼”の設計図ともいうべき、DNAマップがすでに採取されている。

 

 MAR社はけして慈善事業ではなく、軍事開発にも力を入れている。勝手ながら責任としてそれを絶対にさせないつもりでいるが、もしも自身の手から“彼”の情報が本社の軍事開発部にでも流出してしまえば、生体兵器として“彼”の複製(クローン)を生産する案が出てくる可能性がある。

 これが息子の担任でもある“彼”の――自らの半身ともいうべき<守護者>を貸し出してしまえるほどの――保護者に知れたら、あの異世界にあるという監獄に自分は放り込まれてしまうに違いない。

 だから、保護者に情報を洩らさせないよう、“彼”には教えていないし、了解を得ることはしなかった。DNAマップの件を告げれば、きっと保護者に相談するだろうし、目先の事だけでなく大局を見れる聡明な保護者はそれを断るよう言いつけるだろう。そうしたら、この一縷の望みが絶たれてしまうし、肉体の製作時間も考慮すれば説得に費やすだけの余裕がないかもしれない。

 一刻一刻と、その命が削られていくのは確かなのだから―――

 

(許して、とは言わないわ。でも……それでも……私は救いたいのよ、あの子たちを)

 

 

 

「くぁぁ~~~……」

 

 三日に一度の定期検査が終わり、研究所の一室で患者着から、耳付き帽子に首巻、手袋法被を装着した少年が大きく伸びをする。

 マグナ・アタラクシア・リサーチ社――通称MARは、東アジアに本拠を置く巨大企業だ。軍事兵器から食品まで手広く扱う、世界有数の魔導産業複合体である。

 絃神島にはそのMARの医療研究所と附属病院が置かれており、暁家の母親――暁深森が研究主任として働いている。そして『定期検査』の名を借りた彼女の実験の協力要請の下、南宮クロウは病院へやってきていた。

 病院、というものに慣れないことに加えて、この建物は自然物のない構造で薬品の匂いが染み渡り、退魔除霊の術が穴のないよう至る所に仕掛けられている、どうにもエレベータを乗るにも一苦労な野生児は、いるだけで気疲れしてしまうもの。

 森の精霊は、『鉄鋼に弱い』というそうだが、この在り方が自然霊側に属している少年もそうか。

 それでつい、修行疲れの欠伸が出てしまうと。

 くすくす―――

 隣から声がした。

 あむあむ、と欠伸を噛み殺しながら、そちらを向く。

 結い上げてショートカット風にまとめた少女が笑っていた。年は同じで、同じ学校に通い、同じクラスの女子生徒。窓から差し込む陽の光が、その黒髪を内側から輝かしている。大きなくりくりとした瞳は、真っ直ぐに少年を映していた。

 名前を、暁凪沙という。

 この病院では迷子になりそうなクロウを道案内してくれる相手だった。

 

「なんだか今の、古城君みたい」

 

 この常夏の島の灼けつくような直射日光と毎朝焦がされている吸血鬼の先輩。その彼が常にまとう気だるげな雰囲気にダブらせたのを見て、その妹は面白おかしく笑ってしまったのだろう。

 そして、表情豊かな彼女は、次は心配そうに声をかける。

 

「クロウ君、お疲れ様。大丈夫? 顔色悪いけど……なんなら、深森ちゃんに文句言ってこようか?」

 

「うー、違うのだ。『実験(ケンサ)』じゃなくて、修行が大変なんだぞ。お猫様とご主人に四六時中いじめられるとは思わなかったぞ……」

 

 がっくりとうなだれる少年。

 もっとも、そういううなだれっぷりが、妙に似合う少年である。耳付き帽子より出てるぴこんと撥ねた癖っ毛といい、無害そうなほにゃらかした表情といい、いかにも偉ぶるのが似合わない、けれども呼吸をするだけで落ち着けさせる森の空気のように、人を安心させる雰囲気が漂っている。

 

「お猫様? よくわからないけど、修行って大変なんだね」

 

「うん。それで修行のことが知られてなー、『商売敵に世話になるとは何事だ』とご主人カンカンで……だからな、バレた時はこう言えって、お猫様の言うとおりに『悔しかったらお主の色に塗り替えてみろ南宮那月』と魔法?の文句(コトバ)を伝えたら、ご主人もなんか夢の中でもいじめてくるようになったのだ」

 

 あとの一週間は自主学習に任せる予定だったのに、『ただ召喚術の練習するのもつまらんだろう? 実戦形式で目覚めるものもあるからな。大盤振る舞いだ。場所だけでなく相手も用意してやる。喜べ馬鹿犬』と監獄内の拷問器具を手にした二頭身獣人形の眷属(ファミリア)で<守護獣(フラミー)>の召喚(魔法陣補助なし)を容赦なく邪魔をするようになり、(悪)夢の中でそれから延々と逃げ回ることになった。

 その悪夢な猛特訓のおかげで独力でもできるくらいに召喚術の技量がイヤでも高まったが……そしたら、今度はお猫様が、『式神の才はてんでないが体技は剣巫(ゆきな)以上に仕上げてやろう』と言い出して……それを報告したら、今度は鎖が飛んできて、最終的には機械仕掛けの黄金騎士が出てくるようになり……日ごとに過熱していく事態。

 

「二人とも教えるのが上手なんだと思うんだけどな、それにしてもすっごくスパルタだったのだ。よーやく、今日で解放されたけど、本当に大変だったぞ」

 

 プルプルと身を震わせつつ、拳を握る少年。

 その様子がなんだかおかしくて、凪沙はまた笑った。笑い終わってから、ふと訊いた。

 

「うん、なんかすっごく頑張ったのがわかるよ。……それで、もう、あの“大人なクロウ君”にはなれるようになったの?」

 

「うーん。それは、だめなのだ」

 

 あれから、暴走を促す魔女の霊魂がなくなったからか、それとも力の半端な出した方をやめたからか、<神獣化>を安定してできるようにはなった。

 ただ、魔人になることができない。神獣にさらに何かを加算させなければ、あの高速安定ラインにはいけないのである。

 

「むむー、せっかく成長しておっきくなれたと思ったのになー。ごめんなのだ、凪沙ちゃん」

 

「ううん。別にそんなことで謝らないでよクロウ君。大人になったのを見て、すっごくドキ――ドッキリしちゃったけど、ちょっともったいないなって思ったんだ」

 

「もったいない?」

 

「私は、クロウ君と一緒の時間を生きたいよ。一緒にいろんなものを見て、いろんなものを食べて、いろんなことをして、そうして大人になってきたいって……それでクロウ君がひとりだけ大人になっちゃったら、置いてかれた気分になっちゃう。

 だから、ほっとしたの! ……うん、あんな姿をクラスのみんなに見せられたら、深森ちゃんの言う通り大変だったし」

 

 やや俯き、左右のそれぞれ五本の指をつんつんと突き合わせる少女に、うん、と少年はうなずく。

 

「そうだな。オレも凪沙ちゃんと一緒に大人になりたいぞ」

 

 5年後もこうして彼女と並んで歩けるかもしれない。

 そんな未来を思う。

 それは鬼も大笑いする願望であるだろうが、それであるかもしれない可能性を、心に持てるのはきっと何かの原動力となる。この世界を生き抜く、力になる、きっと。

 

 と、少年は何気なく注意をする。

 

「なら、体にはもっと気遣わないとな。凪沙ちゃんも、病院に検査に来てるってことはどこか体調を崩したんだろう?」

 

 こうして、凪沙が道案内してくれるのは、彼女の検査のついで―――とクロウは聞いている。彼女の母親で主治医でもある暁深森より、それが“偶然にも”クロウの検査と重なっていて、ちょうどいいから、クロウが迷わないよう病院を案内する代わりに、凪沙のガード役としてマンションまで送り迎えしてあげて、と頼まれたのだ。

 

「え、あ。検査って習慣みたいなものだし、全然大丈夫だから、心配とかしなくてもいいんだよ」

 

「でも、こんなに頻繁に通うことはなかったぞ?」

 

「ま、まあ……いろいろ念のために……大したことはないんだよ本当に……」

 

 凪沙はぼそぼそと口籠る。胸元で細い指が絡まり、視線が彷徨ったりするのだが、なんとも彼女らしくなく―――ある意味で彼女らしい仕草であるが、献身的な少年はますます心配をしてしまう。

 

「古城君からも『絶対に寄り道せずに真っ直ぐ凪沙を帰らせろ』と言われてるからな」

 

 古城君……っ!

 

 先手を打っている兄。祭以来、疑惑をかけられたから、二人きりの邪魔をすることはなくなったのだが、やはり、いろんな意味であの兄は要警戒であるらしい。

 

「う。日が暮れる前に帰らせるのだ。凪沙ちゃんも今日はコート着てるし、寒がらせちゃいけない」

 

 制服の上に羽織っているグレーのダッフルコート。

 裏地の柄も可愛く、裾の長さも制服のスカートがギリギリに隠れるラインで、いきなりタイツが見えるような感じになってる。センスのいい浅葱の紹介で知った西ランゴバルドの有名なブランドのセカンドライン。通販で昨日ようやく届いて、母親の深森に預けて、MARの今着たところである。

 初めて見せて、すぐ気づいてくれたのはうれしいけれど、求めてたのと違う。

 しかもこのままだと先輩の命令通り、早急に帰りそうで逆効果である。

 ぱたぱたと手を振って、首も振る凪沙は、慌てて言う。

 

「これは“シュクハクケンシュウ”で用意したんだよ。もう11月だし、本土は寒いでしょ?」

 

「“シュクハクケンシュウ”?」

 

「あ、その反応。もう! ダメだなあ、クロウ君は。今週初めのHRで笹崎先生も言っていたでしょ?」

 

 呆れたように溜息をつく凪沙。

 クロウは首をひねり考えるが、なかなか脳内で該当しない。

 とりあえず思い浮かべるのは、修行である。なんせ授業中でも耳に念仏が聞こえてきたり、背後に気配だけを感じさせてくる幻術がかけられていたのだ。

 それでも耳で拾ったイベントは―――

 

「あ、宿泊研修だ」

 

 彩海学園中等部3年生で行われる宿泊研修。普段、外界から隔離されている『魔族特区』、

『波朧院フェスタ』では外界から一般人の招待客を招いたが、これは学生たちに外界――一般社会の様子を見学させるという趣旨の旅行行事である。行先は有名な観光地などではなく、官庁街や工場などがメイン。自由行動の時間もほとんどない。

 そして、宿泊研修は四日間であるが、絃神島から本土まで、船で11時間――ほぼ半日かかるので、実質、三日間である。

 それでもクラスメイト達と泊りがけの旅行に出かける、というイベントが中学生にとって楽しみでないわけがない。

 

「おー、みんなで旅行かー。楽しみだなー」

 

「私も絃神島に来てからは外に出たことはないんだけど、昔は結構海外に行ってたんだよ」

 

「そうなのか。オレは、森を出てから、絃神島に行くまでにご主人と地中海ってトコを巡ったりしてたのだ。それ以外はちょくちょくと、ご主人の仕事手伝いで行ったりしてたな」

 

 気をそらせたところで、気を逃さず凪沙はクロウの前に出る。

 それからトウセンボするように大きく両腕を広げて、

 

「じゃん!」

 

「?」

 

「じゃっ、じゃん! じゃじゃっ、じゃーじゃんっ!」

 

 疑問符を浮かべつつも、クロウは目の前の少女の瞳に期待で爛々と輝いているものがあると気づいてる。

 少年が鈍いというのを承知してる凪沙は、少し袖を掴みながら腕を縮めて、かすかに頬を赤らめた上目遣いで、

 

「……え、っと………にぁぅ?」

 

 蚊の鳴くような声であるも、ごまかせずに出せる精一杯の音量。

 けれど、それも拾う少年は素直に返した。

 

「うん。似合ってるぞ、そういうのもなんか新鮮なのだ」

 

 凪沙がほっとしたように胸を撫で下ろし、口元をふにゃふにゃと緩ませる。

 

「そうかな。へへへ……―――「でも」」

 

 対し、クロウは口元をきっと結んで、凪沙を正面から抱きしめるように腕を回す。

 

「―――へ」

 

 固まる。

 思わぬ行動に頭が真っ白になった凪沙は恥ずかし気にやや下を向いていた顔を上げる。

 その一瞬、いつになく真剣な表情で自分を見つめる不変の金の瞳。それから外すことができず――いや、外したいなどとは微塵も考えられず――そして、自身の体にそっと添えられるように当たる彼の両腕が凪沙はひどく熱く感じる。

 

「ク、ロウ君―――」

 

 密着したダッフルコート越しに伝わる体温が、どこかもどかしい。兄よりも小柄ながらがっしりとして、滑らかに引き締まった体は、完成された獣を想起させる。そこから僅かに響いてくる心臓の音に否応なく凪沙の鼓動も早まって、

 心臓の鼓動がピークを迎える直前、凪沙は浮遊感を味わい―――

 

 

「―――でも、無理をしちゃだめなのだ」

 

 

 二重の意味で足元をすくわれる。

 

「こんなにも汗をかいて、風邪をひいちゃうぞ」

 

「あ……」

 

 この冬でも温暖な絃神島で、厚手のコートを着ている凪沙はもうすっかり汗だくだ。

 

「う。なんかだんだん熱くなってるっぽいし、すぐ家に帰すのだ」

 

 そのまま抱え上げられた凪沙は、ゆっくりとクロウに持ち上げられる。

 この鼓動の意味を、さっぱり、わかってないらしい。

 だけど、こちらもそのお姫様だっこな密着ぶりに、どうしようもなく。

 

「しっかりと捕まってるのだ」

「うん!」

 

 少女一人分を抱えて、少年は跳躍。

 近くの建物の壁と壁とを蹴って飛び出し、夕焼けに染まる空へと躍り出た。

 

 これが、少年の見る景色。

 幸いに厚着のダッフルコートなので肌寒くもない。

 むしろ風が心地よく、湯立つ頭にはちょうど気持ちがいい。

 

 

 絃神島南地区《アイランド・サウス》の9階建てのマンションの暁家の自宅がある7階までの帰り道、図らずも、空遊散歩(デート)を楽しんだ。

 

 

キーストーンゲート 人工島管理公社保安部

 

 

 昨夜未明。

 元アルディギア王国宮廷魔導技師であり、『仮面付き事件』の容疑者、叶瀬賢生を狙った襲撃事件が発生。

 赤白チェック模様の襲撃者――推定、錬金術師天塚汞は、叶瀬賢生を意識不明の重体にさせ、隔離施設(セーフハウス)を警護していた特区警備隊(アイランド・ガード)拠点防衛部隊(ガーディアン)を5名殺害。

 

 

「断る」

 

 

 拠点防衛部隊の部隊長からの捜査協力要請として、使い魔の貸し出し(サーヴァントレンタル)があったが、南宮那月は却下した。

 

「何故?」

 

「奴はどうせ覚えておらんだろうが、もうすぐ宿泊研修だからな。事件に駆り出さすわけにはいかないだろう」

 

 中等部3年生が明後日から、宿泊研修だということは彩海学園一教師である那月も知るところ。

 今、厄介な事件に巻き込んでしまうとなると、使い魔な少年が学校行事に参加できなくなる可能性が高い。

 

「馬鹿犬の『嗅覚感応能力(リーディング)』がなくとも、すでに面が割れている。霧になる蝙蝠ではあるまいし、貴様らだけでも追跡は可能だろう」

 

「ご冗談でしょう南宮教官?」

 

 部隊長は、その却下理由に失笑をこぼして、異議を申し立てる。

 

「なに?」

 

「<黒妖犬(ヘルハウンド)>の能力は、今の我々にこそ必要なのです。そもそも教官はいつまで学生などと遊ばせておくのですか」

 

「遊ばせておく? 何を言うか、学生に学業を優先させていて何が悪い。馬鹿犬は功魔師資格(Cカード)はない、その身分は一般の学生と変わらないことを、特区警備隊はわかっているはずだが」

 

「しかし、その実力は十分現場に通用する。護岸警備隊が壊滅させられたメイヤー姉妹も見事に撃退し、部隊を救助したそうではないですか。

 ―――拠点防衛部隊(ガーディアン)には貸し出してはくれないのですか?」

 

 再度の要請。

 特区警備隊の教官をもまかされる那月へ格上に対する口調でお伺いを立ててはいる。

 だが―――

 

「『仮面憑き』事件の容疑者として、管理公社の施設で保護観察処分を受けていた叶瀬賢生は何者かに襲撃されて、重傷。一命を取り留めましたが、意識不明。

 そして、警備員が5名も殺された!

 それを一秒でも早く追跡できる手段があるというのに、放置すると教官は仰るのですか」

 

「……まさか死んだ部下の復讐でもしたいというのか?」

 

「あんなところで死ぬような連中じゃなかった」

 

 初めて。

 そこで、どろりとした人間臭い感情が声に乗って流れてきた。

 

「新兵訓練を終えて、いきなり現場に投じるのも忍びない。本物の地獄を見せる前に、ぬるま湯の犯罪者どもの警備をやらせて、経験を作らせてやりたかった。なのに、金属にされてしまっただと。あいつらの葬式は火葬場ではなく工場で骸を融かしてやれとでもいうのか?」

 

「……ここがどれだけ理不尽な仕事場というのは、『魔族特区』の人間なら六歳児でも理解してると思っていたのだが? イヤなら適性がないとでも何とでも言って追い払ってやるべきだった。貴様はそれができる立場にいたのだろう」

 

「それを!! 警備の仕事で見極めるつもりだった!! 檻に入れられた犯罪者どもを動物園気分で見学させてな!!」

 

 そこまで聞いて、南宮那月はようやく相手の怒りの本質を見抜いた気がした。

 単純に、部下を殺されたからここまで頭に血が昇っているわけではない。

 防衛設備の整っていない外の現場で殉死していたのならば、それは仕方がないの一言で済ませられたかもしれなかった。

 厳重だと。

 絶対の自信があった。

 司法取引による協力を取り付けた犯罪者を隠匿する性質上、内部の警備は刑務所並で、監視の穴などないほどに機械人形(オートマタ)を配置し、銃器を武装した警備員が24時間態勢で警戒に当たり、部外者の侵入を拒んでいる、万全の体制を、たったひとりの襲撃犯に突破させられたことが、一兵隊として許せないのだ。『旧き世代』の眷獣といった怪物との防衛で死んだとあればそれもある意味名誉を得たものであるかもしれないが、同じ人間の形をした相手だ。それもロタリンギアの殲教師や黒死皇派のように、信念や誇りのない、我欲のままに事を成すコソ泥。

 『魔導打撃群(SSG)』――公社理事会直轄の特区警備隊の最強の特殊部隊に、次ぐのが拠点防衛部隊(ガーディアン)だと、いや、VIPを守護する彼らよりも現場に出ている者としての自負があり、根本的に、エリートなのだと。周りと比べて、上の存在であると。

 こんなところで死ぬような連中じゃなかった。

 その言葉が何よりの証拠だ。

 

「それで、<黒妖犬(ヘルハウンド)>、ここ最近は手柄を立てているようですが、『波朧院フェスタ』で、街で暴れ回った悪魔を取り込んで、また警戒度が上がったそうではないですか。警察局としましても、このまま『魔族特区』の外へ出していいものかと。なにやら政府大使局の六刃神官――対魔獣戦闘の専門家(エキスパート)が動き出しているようですし……

 ここらで教官はサーヴァントの首輪を締め直してやった方が良いのでは?」

 

 もはやそれは命令でなくとも、強制であった。

 攻魔師資格のない、それも身分は学生の攻魔師手伝いが、特区警備隊よりも成果を上げている。

 確かな戦力であっても、この拠点防衛部隊の部隊長にはどう映るか。その修羅に燃える執念深い瞳を見れば、わからぬわけがない

 

「我々の顔、立ててくださいますな、南宮教官」

 

「歪んでいるな、貴様。一瞬でも同情してやった私が馬鹿みたいだ」

 

 

ショッピングモール

 

 

「はあ……美味しい」

 

 夕方の明るい陽射しの中で、暁凪沙がとろけるような感嘆の声を出す。

 商業地区ショッピングモール内のカフェテラス。屋外のテーブルに座って彼女が舐めているのは、三段重ねの巨大なアイスクリーム。無数のトッピングで原形を留めないほどに飾り立てられ、無駄に豪華な代物になっているそれは、男子ならまず尻込みするが、氷菓大好きな妹にはそうではないらしい。

 暁兄妹と同じ卓を囲んでいるのは、<第四真祖(こじょう)>の監視役である姫柊雪菜に、そして雪菜と中等部男子人気を二分する『中等部の聖女』こと叶瀬夏音だ。

 

「やっぱり、るる屋のアイスは最高だね。この芳醇な味わいとサッパリした後味が」

 

 幼い子供のようにアイスにかぶりつきながら、愉しげに解説する凪沙は、やたらお喋り好きで食事中でも黙っていられない性分。

 それに加えて、昨日病院(MAR)から帰ってきてから、すこぶる機嫌がいい。『波朧院フェスタ』の二日目以降から“恋敵(ライバル)”という兄としてあまりに不名誉なそれを認定されて何かと警戒(特に後輩とふたりきりになると)されていたのだが、今日はこうして買い物に誘ってくれるくらいに気を許してもらえている。

 と、古城は不機嫌そうに頬杖をついて、

 

「たく、どこのグルメレポーターだ……大事なお願いっていうからなにかと思えば、荷物持ちかよ。おまえは目上の人間をなんだと思ってるんだ……」

 

「だから、お礼にアイスを奢ってあげてるでしょ。可愛い妹の頼みなんだから、お買い物くらい付き合ってよ。こんな大きな荷物持ってたら、ゆっくりお店回れないでしょ。それに男物を選ぶときの意見が欲しかったし」

 

 今、古城の足元には引越しかと見間違われるほどの大量の買い物袋がある。

 その大荷物の内訳は、宿泊研修に持っていく私服やバックが女子3人分と、男子1人分。

 

「旅行バックならウチにもあったろ」

 

 中でも一際巨大な買い物袋が、凪沙が店頭で衝動買いしたド派手な色使いのボストンバック……色違いが二組。

 

「えーっ、ウチにあるバックって、古城君が使ってたスポーツバックのこと? イヤだよ。だってあれ、男子バスケ部の部室の腐ったビブスの臭いがするもの」

 

「いくらなんでもそこまで臭くねぇよ!」

 

 イヤそうに顔をしかめる凪沙に、ムキになって言い返す古城、そんな暁兄妹のやりとりに雪菜はたまりかねたようにぷっと小さく噴き出した。

 

「だいたい古城君は贅沢なんだよ。こんなに可愛い後輩女子と一緒にいられるのに。雪菜ちゃんや夏音ちゃんとお出かけできるなら、性転換してもいいって男子は大勢いるんだから」

 

「いくらなんでも、それはないだろ……大丈夫か、中等部の男子……」

 

 思わず古城は頭を抱えて呻く。

 冗談だと思うが、絶対にあり得ないと言い切れないところが恐ろしい。あの後輩は組手で平気に蹴りつけたり、一緒の部屋に暮らして平然としているが、それは例外で、雪菜と夏音の容姿は規格外の美しさなのだ。

 

「どうしたんだ、叶瀬。ぼーっとして」

 

 会話に参加せずに、ぼんやりと遠くを見ていた夏音に気づいて、古城が声をかけると、中等部の聖女は透明感のある銀髪を揺らして、少し照れたように振り返る。

 

「すみません。アイスが美味しかったので幸せでした」

 

 ささやかな幸せを噛み締める彼女の笑顔に思わず目を奪われる。

 アルディギア前国王の庶子として生まれ、

 両親の記憶もなく、修道院で孤児として育てられ、そして、事故によってその修道院は失われて、

 それから、養父に王族女児が有する強大な霊力を見込まれ、天使に改造されかけた―――

 そんな耐えきれないほどの苦難の連続である過去を持ちながら、こんなにも歓びを露わにした笑顔を浮かべる。聖女と呼ばれるのも納得する。

 

「よかったら、これも食うか?」

 

 それでつい、古城は自分の分のいちご味のアイスを夏音に差し出した(その際に彼女から口元のアイスをナプキンで拭かれた)のだが、その行いにもうひとりの後輩女子と妹から冷たい目で見られた。けれど、夏音は喜んでくれた。

 この笑顔を見られるなら、凪沙の言うとおり、荷物持ちでもお出かけできるのは幸福である。

 

「にしても、クロウのヤツ。学校を休むだけでなく、叶瀬に宿泊研修の準備を任せるとは……」

 

「あ、その、すみませんでした」

 

「ああ、勘違いするな。別に叶瀬が悪いわけじゃないし、クロウもなんか事情があってのことだってのはわかってるんだ。ただ、アイツのことだから突っ走ってるんじゃないかって心配でな」

 

 ぺこぺこと同居人の代わりに頭を下げる夏音を古城は止めて、それに同意するよう雪菜も頷く。

 

「そう言えば、ここ最近の様子もどこか変でしたし……」

 

 その(幻術をかけられての)不調を、霊能力者である雪菜は察知したのだが、『お猫様から姫柊にはまだ内緒にするようにと言われてるのだー』と追及する前に逃亡される。

 ここしばらくは昼休みの散打もなく、雪菜は異様に避けられていた。

 

(そういえば、師家様の使い魔は猫で……今朝の手紙で、この絃神島の出張所に……)

 

 何やら勘付き始める剣巫。その横でアイスを()えていた凪沙が、咥えていたスプーンを抜いて、

 

「何か修行が大変だーってクロウ君言ってたよ。でも、大丈夫だって。凪沙を抱っこして(ソラ)()んじゃうくらい元気で―――「何だその話は。聞いてないぞ!」」

 

 古城の追求から逃げるよう慌てて、言いかけていた言葉と共に凪沙は残るアイスを呑み込んでから、席を立つ。

 

「あ、そうだ、そこ入ろ! そのお店!」

 

「おい待て」

 

 古城が制止を呼びかけるも、雪菜と夏音を連れて、凪沙は店に急行。そのピンクを基調とした可愛らしい店構えで……ショーウィンドウにゴージャスなランジェリー姿のマネキンが飾られている。

 ―――どこからどう見ても下着屋である。

 卑怯だ。あそこに逃げ込まれたら、流石に男子として後を追えない。

 

「ほらほら、タイムセールやってるみたいだし。やっぱり旅行のときは下着にも気を遣わないとねー。あれなんか雪菜ちゃんに似合いそう。夏音ちゃんも任せて。ばっちりコーディネートしてあげるから。あ、古城君は外で待っててよ! ついて来たら悲鳴を上げるから!」

 

「旅行だからって凪沙が下着にこだわる必要は―――」

 

 言い切る前に下着屋に退散されて、古城は伸ばした手を下してぐったりと溜息を吐く。それからテーブルの上に肘ついて組んだ両手に頭を乗せる。

 今日の調理実習で、矢瀬から『いつかは凪沙ちゃんも嫁に行く』発言を古城は即座に『嫁の貰い手はいない』と否定したのだが……それでも危機感を覚える相手がいるにはいる。前に勘違いした、高清水某ではない。最近、急接近してる後輩(クロウ)だ。今のところあの後輩は、古城も帰りの護衛を任せられるくらいには信頼していて、研究所に缶詰めな母からも大変気に入られているようで、しかし、

 

『あ、凪沙ちゃんと子供を作ってくれればみんな解決するかも』

 

 とわけのわからんことを言っていたし。凪沙も後輩もまだまだ子供だろうが、母が要らん知恵を吹き込んでいたとすれば、開放的になるという旅行中に何が起こるか……激しく兄は不安だ。

 でも、ここであまり強く言うと、また“恋敵”と警戒されてしまいかねないから、注意し辛いというジレンマ。この時ばかりは、絶対反対派の放蕩親父に来てもらいたいと願う古城である。

 

(けど、4年前の事故から病院暮らしだった凪沙が、退院して初めて絃神島から旅行に行くんだし、浮かれるのもしょうがないか)

 

 でも後輩にはあとで“きちんと”言い聞かせておこう、と最終的に結論を出した古城はようやく顔を上げる。

 そこで、見慣れない男が近づいてくることに気づいた。

 純白のマントコートに、赤白チェックのネクタイと帽子。左手には髑髏の彫刻がついた銀色のステッキを握っていて、見た目二十歳前後だけど、ずっと老成してるようにも思えるし、幼稚にも見える。

 その底知れない、奇術師めいた印象の胡散臭い男は、古城の前に立ち止まると、帽子に手を当てて挨拶をする。

 

「どーも」

「ちっす」

 

 元体育会系の条件反射で、つい礼儀正しく立ち上がって挨拶をしてしまう。

 男は古城の反応が意外だったようで、愉快そうに―――鮮血のように悍ましく赤い目を細めて笑う。

 

「今の銀髪の彼女、綺麗な子だね」

 

「ええ、まあ」

 

 とりあえず否定する理由もないので、馴れ馴れしい男の態度に警戒しながらも、古城は首肯を返す。

 

「ずいぶん仲が良さそうだったけど―――もしかして彼女、きみの恋人?」

 

「いや、ただの後輩だよ。妹の友人なんだ」

 

 そこで、鼻のいい後輩ではないが、“この臭い”には古城も気づく。

 吸血鬼の本能を疼かせる、血の臭い―――は。

 

「それよりも、あんたは誰なんだ? 芸能事務所のスカウトマンには見えないけどな?」

 

「僕か。僕は、真理の探求者だよ」

 

 ……は? とその予想斜め上の返しに、古城は一瞬唖然としてしまう。

 

 得体のしれない相手を前にそれはまずかった。

 

 意識が空白になったその瞬間、男の右腕が、のたうつ蛇のようにうねりながら伸長。変化したのは形態だけでなく、その性質(肌色)も。金属質の輝きを帯びた、粘性の強い黒銀色の液体と化した奇術師の腕は、古城の腕に絡みついて、そのまま浸透――侵蝕。繋がされた腕と腕が融解して一体となるような感覚は

 ―――古城の薄皮一枚のところで、急に沸騰。黒銀は勝手に弾け散った。そう、過大な電流で電気回路がショートしてしまうように、<第四真祖>の巨大すぎる魔力が送り込まれてしまい、男の仕掛けようとした術が壊れたのだ。

 

「なんだ……こいつは!?」

 

 防がれたものの、もしも古城が普通の人間であったなら、今の黒水銀に完全に浸食されて、どうなっていたか。あまり想像したくはないが、ろくでもない結果なのは確かだ。

 

「ふぅん。あれを防ぐのか。さっきから妙な気配がすると思ったら、きみ、人間じゃないね」

 

 対し、術が失敗した男は自分の右手を眺めながら、不機嫌そうに目を眇める。

 

「未登録魔族……吸血鬼か。アルディギア王家が寄越したボディーガードって訳でも無さそうだけど、まあいいや。できれば目立たないように殺したかったんだけどな」

 

 男が再び掲げたその右腕は指先から黒水銀が迸って、今度は細く鋭い刃物へと形状変化させる。そして、凄まじい速度で古城の胴から二分するよう横薙ぎに襲い掛かる。

 吸血鬼化した古城の反応速度でも、軌道を完全に見切れない。

 ギリギリ地面に伏せて古城が避けると、その背後にあった街灯の支柱が真っ二つに切断された。やはりただの黒い色のついた液体ではないようで、素人目でも見るからに重厚感を感じさせるそれはおそらく水銀と同じ性質で比重のある液体金属。それが高圧をかけて刃を形成し、自重と遠心力を利用して攻撃力を生み出している。

 

「おまえ……叶瀬を誘拐する気か……!?」

 

 叶瀬夏音が、アルディギア王家の関係者であることを知っている。

 ならば、これは身代金目的か、あるいは政治的な理由からか。何にしても、夏音を狙っている。

 続く第二撃を必死でよけながら、古城が硬い声で訊き返せば、男は古城の予想を裏切るように軽蔑したような笑みで応えた。

 

「誘拐……? どこかに連れていくってことかい?

 それだけの魔力を持ちながら、くだらないことを気にするんだな、吸血鬼! あの子はもうどこにもいけない。ただの供物になってもらおうと思っただけだよ」

 

「供物だと?」

 

 眉を顰める古城の反応に、ハッ、と男はその無知を憐れんだ声音で言う。

 

「なんだ、気づいてなかったのか。

 その様子じゃ、5年前にアデラードの修道院で起きた事件のことも知らないみたいだな」

 

「どういう意味だ―――!?」

 

 攻撃を建物の陰に隠れて逃げつつ、古城は苛立ちながら訊き返す。

 

 黒水銀の刃を操る男の攻撃力は脅威だが、古城は<第四真祖>。

 古城がその災害に等しき眷獣を召喚すれば、敵ではない。瞬殺で蹴りがつくだろう。

 だが、それでは男を撃退しても、その余波だけでも、<第四真祖>の眷獣の一撃は街を壊滅させかねない。

 こんな街中で解放するわけにはいかないのだ。

 どれだけの被害が街に出るかもわからないし、そして、凪沙たちも近くにいる。

 幸い、『魔族特区』の住人だけあって、カフェテラスにいた客や店員たちは、男の攻撃が始まると同時に逃げたので、野次馬たちを巻き込まないことは良いが、それでもこのままでは反撃できずに嬲り殺しにされてしまう。

 

「気にすることないよ。真実を知る前に、きみは死ね!」

 

 コンクリートの壁を切り裂く黒水銀の一閃。

 それに崩れ落ちた破片が退路を塞ぎ、古城は袋の小路に追い詰められる。

 頭上に振り落とそうとする黒水銀の断頭刃(ギロチン)に形状変化した腕から逃れる術はなく、

 

 だが、古城の身体にその腕が届くことはなかった。

 何処から放たれた飛来物が、黒水銀の腕刀を弾き飛ばしたのだ。

 

「……ッ!?」

 

 奇術師の男が、僅かに目を見開く。

 彼にとっても、全くの死角からの不意打ちだった。

 だが、それを探る余裕はなくて、

 

「―――先輩、下がって!」

 

 街灯も切り裂く黒水銀を藁しべのように容易く両断してのける、陽光に閃いた一条の白。

 

「ッ! これは、『七式降魔突撃機槍(シュネーヴァルツァー)』か! 獅子王機関の剣巫が、<第四真祖>の監視役に派遣されてきたという噂があったが、だとすると―――!」

 

 呆気にとられた古城の前に、ふわり、と制服のスカートが翻して着地したその背中。古城の危機に気づいて店を抜け出して駆けつけたのは、<第四真祖>の監視役である剣巫――姫柊雪菜が、古城を背後に庇う体勢で謎の襲撃者を睨む。

 

「ご無事ですか?」

 

「ああ、サンキュ。助かった姫柊。それと―――クロウも」

 

 その路地裏の反対側の向こうに立つのは、蒼銀の法被を纏いし、厚着の少年。

 

「アイツを追ってたら、古城君が襲われるなんて。トラブルメーカーだな古城君」

 

「そうかもしれないが、クロウには言われたくないぞ!」

 

 今日学校を休んでいたはずの後輩クロウだ。彼が古城を絶体絶命から救ってくれた。

 そして、赤白チェックの男はその右腕が手首から先が失われている。先ほど雪菜がその銀槍で切断した黒水銀の刃は、液体金属と融合した肉体の一部であったらしい。

 この挟み撃ちの状況に、赤白チェックの男は乱入してきた二人を見比べ、クロウの衣装に目を止める。

 

「その法被(コート)、アルディギアのものだね。ということは、きみが叶瀬夏音の護衛か!」

 

「違うが、オマエを捕まえに来た」

 

 どうやら雪菜よりも先に倒すべき障害と見たか、男はクロウの方を向く。必然、こちらに背を向けるが、雪菜はまず古城に確認をする。

 

「先輩……あちらの方は?」

 

「さあな。真理の探求者とか言ってたが」

 

 ふざけてると思われるかもしれないが、古城はそうとしか言えない。

 生真面目な雪菜は古城の投げやりな回答に叱るかと思われたが、

 

「……探求者……なるほど」

 

 なんと、あっさりと古城の言葉を受け入れた。

 

「剣巫に第四真祖と3対1とは、流石に分が悪いな。叶瀬夏音の始末は諦めるのが正しい判断か」

 

 気怠げな口調で言いながら、その場に屈み込んだ男は足元に転がっている、先ほど切り飛ばした3、4mほどの街灯の支柱に手首のない右腕で触れる。

 瞬間、その銀柱が飴のように融け崩れて、融解した鉄柱の表面が濁った鮮血のような黒水銀に。そして、男の腕に吸収され、切断された手首が復元する。

 

「なんだ…!? あいつの腕が……」

 

 鉄柱と融合して、失われた肉体の一部を復活させる。

 その異様な術に、雪菜は確信する。

 

「やはり、錬金術師……!」

 

 『魔族特区』の住人である以上、もちろん古城も、錬金術師の存在は知っている。

 万物の組成を操り、黄金を生み出す者。神の技を暴き、生命の謎を解き明かそうとする永遠の探求者。

 最初の謳い文句の通りだ。

 

 そして、錬金術の代表的な術は、鉛を金に変える物質変性―――

 その能力の凶悪さを理解して、古城はゾッとする。

 

「まずい……!」

 

 先ほど古城の腕を掴み仕掛けようとしたのが、身体を金属に変えてしまう物質変性の錬金術だとすれば、近づくのは危険―――近接戦闘は避けるべきだ。

 

「―――そして、この場において武器を持たない間抜けな護衛が穴か!」

 

「やっぱ、そうくるかテメェ! 赤白チェック!」

 

 それに気づくより早く、古城と雪菜の眼前に、金属の塊が倒れてくる。

 道路沿いに植わっていた巨大な街路樹を、一瞬で、錬金術師が鋼鉄に変えたのだ。鋭い棘となった無数の枝に、刃に姿を変えた生い茂る葉。

 ぶつかれば当然、無傷では済まない。

 

「うおっ!?」

「駄目です先輩―――!」

 

 そこに突っ込むところを古城は雪菜に掴まれて、間一髪に危機を逃れる。

 だが、雪菜に支えられて、起き上がった時には、すでに錬金術師は後輩の前で、間に合わない。

 

「クロウ君! 錬金術師に素手では危険です!」

 

 雪菜の警告が飛ぶ。

 南宮クロウでは、相性が悪いのだ。

 肉弾戦が主な攻撃手段で、精霊術と同等の効果を発揮する超能力もあるが、相手は“匂い”のつきにくい金属へと場を変性させる錬金術師。

 

「もう、遅い! 彼には鋼鉄のオブジュになってもらう!」

 

 錬金術師に迫られ、それを避けようとしないクロウは人間のまま―――それは、獣人拳法の四獣の秘奥が使えない状態だ。

 このまま出会い頭に殺される!

 そう、古城が予感した時―――

 

 

「わかってるぞ。その右半身を注意すればいいんだろ?」

 

 

 錬金術師はこの場より逃げるには、この敵ひとりを殺すしか他にないと結論した。

 大蛇の如く不規則にうねり迫るその黒水銀の右腕。狙うは胴体。即死に至る小さな急所を狙わずとも、物質変性がかかれば一瞬で行動不能にできる。ならばより大きく狙い易い箇所に放つのが鉄則であった。

 にもかかわらず、黒水銀の右腕が当たり穿つは少年の法被の下の腹部腸ではなく、コンクリートの路面だけだった。

 身を躱したクロウの動きは、確かに信じがたいスピードではあったが、何も相手の攻撃より速かったわけではない。その吸血鬼でさえ見切れぬ高速の鞭打、その思考の速度に先んじて動く。驚嘆すべきはその未来視に読心嗅覚(リーディング)、そしてその戦術判断。錬金術師の視線から狙いを、一秒先の未来を見取りタイミングを読み切り、錬金術師の攻撃を見切ってのけたのである。

 のみならず―――

 弾き飛ばされ動きを止めたのは、錬金術師の方だった。触れる物体を金属に変えて己の肉体に取り込んでしまうその右腕に突き刺さる異物。男が驚嘆の眼差しで見つめるものは、“物ではない”、冷ややかな刃の光を放っている。

 刃渡り10cm余りの交差する薄刃は手裏剣を連想させる。そう、これは霊弓術を手裏剣に変形させた投擲物である。先ほど古城の止めを防いで、たった今、錬金術師の右手の甲を串刺しに噛みつく刃がそれだった。クロウは打鞭の如き変則的な攻撃の軌道から逃れる動作と連動して、霊弓術を投げ放っていたのだ。

 そして、気で形成された非物質であるため、金属とすることはできない。さらに、非物質である気を纏うのならば、その身を叩けると実証した。

 

「その程度でやられるなら、笹崎師父とお猫様に叱られるのだ」

 

 霊弓術に続いて、その動きに雪菜は驚き、そして、悟る。

 これまで拳法と仙術の達人の指導もとにその資質に見合う強大な基礎工事が成されていた同級生を、手解きした者がいる。そして、この原石を磨いた者は雪菜の知る人物であると。

 

「<黒雷(くろ)>」

 

 錬金術師を怯ませたところで、術を行使して、一気に加速して動き出す。

 元より人間の限界値を超えた敏捷性を持っているクロウが、呪的身体強化(フィジカルエンチャント)でさらにブースト。

 それも蒼銀の法被――『タルンカッペ』の伝承では、彼の英雄に、巨大な岩をも持ち上げる十二人力の力を与えたというが、その性質からか、『強化』の魔術の伝導率が良く、3倍速させた動きを見せる。

 

 そして、迅さだけではなく、巧さもある。

 

(何だ……? この動きは……!!)

 

 ただ加速するだけでなく、減速――緩急を使い、風に舞う木の葉のように移動して、その身をまとう生体障壁の『皮』を残していく。分身とはまた違う、すぐに空に溶けてしまうが、ほんの一瞬だけ実体がある残像だ。

 

 疾い!!

 

 黒水銀の斬撃が裂くが、それは残像。別の場所に現れては、また、新たに像を増やす。

 そして、その動きに生じる足音が、ない。加速するにしても、減速するにしても、地を踏む音が聞こえない。

 

(これは、師家様の―――!)

 

 足裏に展開される、足音を殺す柔性の肉球型の生体障壁。

 それが達人でも会得するのに10年はかかる無音移動可能な技量まで文字通りに下駄を履かせるように底上げする。さらには空を蹴って宙を跳ねる仙人じみた動きをしてくるので、予測がつかない。

 数多の残像で視界が埋め尽くされていく純粋な体術は、魔力を使わずに幻術と同等以上に相手を翻弄する効果を発揮させる

 

「くっ、ちょこまかと―――!?」

 

 吸血鬼の反応速度をもってしても全弾回避不可能なほどに、錬金術師が滅多打ちに腕を振るうが当たらない。枝分かれしてその腕が多頭の蛇鞭と化して、様々な角度から襲い掛かっても、本物がわからない以上は空を切るばかり。

 躱しながら霊弓術の手裏剣を放ってくる。

 移動速度は上がり―――

 不意に、その姿が完全に無となって消え失せる。

 

 蒼銀の法被(コート)――魔導産業大国アルディギアからの贈り物<隠れ蓑(タルンカッペ)>に施された呪的迷彩による透明化。

 また、生体障壁の『皮』を移動しながら残して、場に溶け込ませていくことで、“匂い”を覚らせなくさせる疑似的な気配遮断までも行っているのだ。

 

「消え……た……?」

 

 呆然と呟く雪菜。剣巫の霊視をも攪乱する。

 ならば、錬金術師に見抜けるはずもなく。

 

 最適解を導く直感――野生の本能を備える狩人は、その場にいた全てのもの死角にいた。

 

「<火雷(ほの)>」

 

 本来の手から放つ型とは違うが、発声と同時に吐息(ブレス)のように()からの呪力放出。

 半身が金属で相当な重量である錬金術師だが、高密度に凝縮した呪力が、透明なハンマーのように半人半金の男の体を宙に打ち上げる。

 

「<鳴雷(なる)>」

 

 緩やかな放物線を描いて、飛んでいく―――それを回り込み、

 落ちてきたところを、膝蹴りのリフティングですくい上げ、

 

「<若雷(わか)>」

 

 掌打がさらに拾って持ち上げ、

 

「<伏雷(ふし)>」

 

 サマーソルトキックで再度、高々と蹴り上げられる。

 三連打(コンボ)すべて呪力を活性化させた生体電流が迸る衝撃に変換させる付与術を、この鋼鉄を砕く剛拳鋭脚に宿らせており、その黒水銀の肩、腹、腰が粉砕されている。

さらに打撃の威力に、空中で乱回転する男の体が落ちてきたところを、今度はその人間の体である左半身その脇を抉り込む―――

 

「<拆雷(さく)>」

 

 靠。零距離の体当たり。

 あらゆる物理攻撃をすり抜けるはずの液体金属の身体。

 しかし滾る電気の紫電をまとった『八雷神法』は、一手であろうとも大打撃であったろうに、都合五連打も撃ち込まれれば、錬金術師のダメージは致命的であったに違いない。遥か先に吹き飛ばされて、立ち上がる力さえ失せて仰臥したままの赤白チェックの奇術師が転がっていた。

 

「うご、けない……だと!?」

 

「オレの気を五度も打ち込んだのだ。一打では無理でも、それだけもらえれば、オレでもオマエを縛るくらいの拘束呪(のろい)がかけられるぞ」

 

 舞威姫のように一太刀に拘束呪術を仕掛けるのは無理でも、五つ重ねれば同じ効果を発揮できる、と。

 

 『八将神法』まで―――と雪菜は同級生の成長ぶりに驚きを隠せない。

 たった一週間、組手してないがそれでも実力が見違えるようだ。もともと基礎はできていたからこその成長の早さだったろうが、それでもよほどの猛鍛錬だったろう……と獅子王機関の養成所、高神の森出身校魔師は、若干の同情が禁じ得ない。

 そして、電撃に痺れたように痙攣させて動けない男の前に、クロウは立ち、その左拳に黒霞の獣気を溜める。

 ―――あれは、まずい。

 錬金術師の思考は訴えるも、だが身体は動いてくれない。どうにか起き上がってくれたが、それ以上は無理だ。

 

「これで、終わりなのだ」

 

 念入りにその“毒手”で行動不能にしようとした瞬間―――

 

 

 錬金術師の側頭部を小さな衝撃が抉りぬき、すべては一瞬にして崩れた。

 

 

 ボァ、という、重くしめった破裂音。

 奇術師の赤白チェックのシルクハットごとその頭蓋を簡単に貫いた弾丸は、減速とともに聖銀の体を四散させ、脳髄の海を焼き切りながら跳ね泳ぐ。

 貫通することのなかったその弾丸は、脳みそがあるところを歪な跳弾を繰り返し、その瞳孔の光を消す。

 そして―――

 

「今だ! やれ!」

 

 特区警備隊拠点防衛部隊の隊長の号令。

 すでに仕留めたはずの獲物に、追い打ちをかける形で数十発の弾丸が突き刺さった。

 方向は一ヶ所からではなく、二ヶ所から挟み打つ十字発射(クロスファイア)

 明らかなオーバーキル。執拗な破壊。

 その弾丸の交差する焦点には、少年がひとりいるにも関わらずに。

 そして、ラップに合わせて踊る操り人形のように、錬金術師の体はクルクル舞い回り―――ピタッと止まる。

 

 

「は……はは……はははははははは!」

 

 

 無数の弾丸の雨に晒されて、男は狂気の笑みを浮かべていた。撃たれた傷も、速やかに埋められる。

 特区警備隊の使用する対魔族兵装は、高純度の琥珀金弾(エレクトラムチップ)と、銀イリジウム弾頭弾。そのどちらもが錬金術の触媒として極めて優れた性質を持っている―――金属。

 

「いやいや、危ないところを弾丸(エサ)をこんなにも御馳走してくれて、助かったよ警備隊の皆さん」

 

 半人半金の錬金術師は、弾の琥珀金銀イリジウムに込められた呪力を吸い上げ、拘束呪に麻痺状態であった体を完全に回復させる。

 

「クロウ!?」

「クロウ君!?」

 

 一方で、追い詰めていたはずの少年は、味方から“流れ弾”(フレンドリーファイア)をもらってしまっていた。

 それも銀イリジウム合金は、人狼殺し(ライカンキラー)とも呼ばれる代物。

 止めの一打で“壊毒”の制御に気を遣っていたせいか、生体障壁の展開が遅れる。

 身体に鋭い痛み。クロウの身体真横を通り過ぎる銃弾の嵐。脇腹に手を当てると、ぬるりとした手応えと共に血液が付着する。思わず片頬を引き攣らせるが、これでも僥倖。あとわずかに横、そして反応が遅れていれば生体障壁のない人型時では蜂の巣だ。

 

「では、今度こそ逃げさせてもらうよ」

 

「ま、て……っ!」

 

 錬金術師が逃げる。それを追おうとするが、目眩がして膝をつく。撃たれた傷が疼痛を発していた。

 南宮クロウは、錬金術師、天塚汞の逃亡を許してしまった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 カフェテラス周辺の風景は、ひどい有様になっていた。何本もの街路樹が薙ぎ倒され、数件の建物が半壊している。修理にかかる費用はざっと数千万円はいくだろう。

 だが、この程度の被害で済んだのは、むしろ幸運だったのだ。

 あの時古城が助けられていなければ、錬金術師の攻撃で宿主が殺されて、眷獣が暴走、この周辺一帯は焦土と化していただろう。殲教師の一件で倉庫街を壊滅させた前科が古城にはあるのだ。

 

 そして、錬金術師をあと一歩のところで取り逃がしたのは、間違いなく不幸だ。

 

 拠点防衛部隊(ガーディアン)の部隊長は、部隊の一斉射撃に負傷して、頽れている後輩を鉄面皮のまま目を光らせ、表情の些細な機微まで余さず観察しながら淡々と、

 

「先行は許可した。標的を見つけ報告するまではいい―――だが、<黒妖犬(ヘルハウンド)>の役目は『追跡屋(イヌ)』だ。我々拠点防衛部隊(ガーディアン)が現場に駆け付けるまでは待機しろと言いつけておいたはずだが」

 

 その失態の追及に、古城は目を剥く。しかし後輩はけして憤激したり狼狽したりして表情を曇らせるような真似はしなかった。後輩なりにある程度、この叱責を予期していたのだろう。

 

「アイツ暴れてた。ご主人みたいに空間転移できないお前ら遅いから、到着待ってられない」

 

「口答えをするな!」

 

「きゃんっ!!」

 

 電撃(スパーク)が、その身を襲う。

 見れば、その右腕に見慣れないごつごつとした腕輪がつけられている。

 獣人種の人並み外れた自然治癒力はあっても負傷がまだ完治してない状態での追い打ちに、クロウは肘をついて四つん這いに項垂れる。

 その様を冷ややかに見下しつつ、部隊長はたっぷりと皮肉を込めて詰る。

 

「そんなにも点数稼ぎがしたいのか? だがそのようなスタンドプレーが隊を崩壊させるのだ。犬なら『待て』くらいはできたらどうだ?」

 

「―――おい、てめェ! いきなり味方の背中を撃っておいてよくその台詞がほざけるな!」

 

 怒声を上げたのは、クロウではなく、第三者の古城だった。

 未登録魔族であるため特区警備隊とは関わり合いたくないが、我慢できない。詰め寄ってその顔面をぶん殴る真似までは自制したが、部隊長を視線に圧を篭めて睨みつける。

 

「さっきからテメェのミスを棚に上げて、クロウばっかり責めやがって。だいたい今のは何だ!? 電気ショックって動物じゃねぇんだぞ」

 

 吼える古城。その学生服から一般市民であると認識した部隊長は、その顔を笑みに作り変える。

 しかし、こちらへ向けられる神経質そうな細く尖った鋭い瞳。民間人へ見せる作り笑顔の裏に冷たくこちらを凝視する瞳があるのを皮膚がレーダーのように敏感に感じ取る。

 

「ああ、大量破壊兵器も同然の力を持つ存在が感情に任せて暴力を振るうなど、猛獣以上に警戒すべきだ。今躾けてやらんと周囲の人間に害をなす。

 学生が無責任に口出しをするな。これも私の仕事なのだ」

 

「なんだとッ―――!」

「落ち着いて、先輩―――!」

 

 同級生が虐げられて、同じくカッと血が上る雪菜であるが、古城の監視役としての役目意識が頭を冷やした。

 しがみついて押さえながらも、冷静に、努めて冷静に、下手をすれば眷獣を暴発しかねないほどに感情を高ぶらせる先輩へ自制を促す。

 

「古城君、オレは、大丈夫だ」

 

 凛と、いつもよりも低めに通る声が古城を制止する。

 後輩(クロウ)だった。いつの間にか彼は立ち上がり、痙攣の震えも見せずに古城を真っ直ぐに見据えていた。

 

「全然大丈夫じゃねェだろ! なあ―――」

 

「それよりも、“一般人は早く逃げないとダメなのだ”。“警備隊の邪魔をすると大変だぞ”」

 

 厳しい剣幕をみせていた古城は、後輩に宥められてようやく気づく。

 特区警備隊に<第四真祖>の正体が知れれば、これまで通りの学生生活はできないし、必然的に、凪沙――重度の魔族恐怖症である彼女にもばれてしまうのだ。

 古城はクソッと呟きながら、行く手を遮ってくれた鋼鉄と化した樹木の幹を八つ当たりに蹴り飛ばす。

 と、その後輩は先輩の荒れように小さく息を吐いて、困ったように口を開く。

 

「古城君は、ちょっと神経質なのだ」

 

「神経質って……」

 

「うん、気にし過ぎだ。こんなの、普通だろ。誰だって、初めての相手との連携が失敗することくらいある。最初から何でも意思疎通ができたら苦労しないぞ?」

 

 部隊長を庇うつもりでも、援護するつもりでもない、本当に呆気からんとした調子で、当たり前にこの現状にも理解を示している。

 

「まあ、さっきは言い訳しちゃったけど、オレも焦ってたのはあるんだ。この仕事を片付けないと、皆と宿泊研修にいけそうにないし」

 

 警備隊の都合に縛られているのか!

 それを聞いて、また叫びたくなる古城だが、

 

「でも、アイツが危険なのは実際、対峙してよくわかった。叶瀬を狙ってるみたいだし、絶対に放置はできないな。とっとと片づけた方が良いぞアレ」

 

「だからって、その電気ショックは……」

 

 古城だけでなく雪菜も口を開くが、その言葉もあっさりと切り捨てられる。

 

「オレが危険だって思われてもおかしくない存在だぞ。近寄るにはこのくらいの手段は講じたくなる。実際、古城君には最初は怒鳴られたし、姫柊にも警戒されたのだ。まさかとは思うけど、そのことを棚上げしてないよな?」

 

 それは……と言葉を詰まらされる。

 

「む。別にそのことを責めてるわけじゃないぞ。人間関係、打ち解けるには時間がかかるもんなのだ。そんで、一緒にいれば仲良くなる! 今では古城君や姫柊もこうして庇ったり心配してくれるしな。嬉しいぞオレ! こういうのを、実証済みだっていうんだろ?」

 

 ふふん、とそう胸を張って言われれば、怒鳴ってやろうと吸い込んだものを嘆息と一緒に吐きだしてしまうしかない。

 何でも物事がそううまくいくはずがない。しかし、それでもこの後輩が受け止めるだろう。

 ああ、そうだった。神殺しの毒を持ちながら、この少年の性格には毒がないし、毒が通じない。

 ―――まったく、だから、心配になるんだが。

 

「じゃあ、オレは行く。“匂い”が嗅ぎ取り辛い相手だけど、まだ近くにいるはずなのだ。姫柊は古城君を連れて早く帰った方が良いぞ」

 

 言って、その血が滲む脇をさすりつつ、とっくに去っていた部隊長を追って捜索を再開する。

 攻魔師資格(Cカード)のないクロウは、特区警備隊に命令できる立場ではなく、従うしかない。

 そして、古城たちも納得がいかなくてもそれを黙って見送るしかなかった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 どれだけ優れた探知能力があろうと“足手纏い”を連れていてはその追跡速度は半減する。

 そして、この不定形(スライム)の肉体を生かし、人が通れない配管を逃亡経路にすればこの隠れ家まですぐに追いつくのは不可能だろう。

 

「やれやれ、あれが<黒妖犬>か。アルディギア王家のお気に入りだと聞いていたけど、面倒な相手だよまったく」

 

 術を掛けさせる暇も与えない果敢な攻めは、相性のハンデを覆し得るほどだ。

 噂に聞く追跡に秀でた超能力(スキル)がある以上、また対決することは間違いない。

 

「ついでで拾ったけど、こいつが役に立つかもしれない」

 

 隔離施設から盗み出したのは、“あれ”ひとつではない。

 隠れ家のテーブルに置かれていたその“金属物”を天塚は拾う。

 <監獄結界>の脱獄犯が所有していた、そして、特区警備隊に回収された“英雄の得物”。

 

 西欧教会に雇われていた元傭兵にして、『龍殺し(ゲオルギウス)』の一族の末裔ブルード=ダンブルグラフが『旧き世代』の眷獣をも一刀両断にした、対魔族魔獣に絶大な効果を発揮する殺龍剣(アスカロン)だ。

 

「精霊の力を操る巨人族(ギガス)、それも『一つ目』が造り上げた魔剣か―――流石、亜神の末裔を自称するだけはある。倉庫に腐らせておくのはもったいないね」

 

 伝承通りに一つ目の巨人(サイクロプス)が打ち鍛えた逸品。

 不毛な砂漠や山岳地帯などの過酷な環境に適応した代償なのか、彼らの肉体は極めて精霊と相性が良い。すなわち巨人種族の多くは、先天的な精霊遣いなのだ。

 それに加えて、巨人たちは古代から、採掘や金属加工、鍛冶の技術に秀でた種族でもある。

 そんな彼らが造り出した武器は精霊の力を借りて、高等魔術を凌駕する様々な現象を引き起こす。アルディギア王国の<疑似聖剣(ヴェルンド・システム)>も、彼ら巨人種族の武器を参考に生み出されたものだとされる。

 

 そして、その中でも『一つ目』――この日本でも鍛冶神の『天目一箇神(あめのまひとつめかみ)』の逸話があるように、巨人族の中で特に武器製作に優れた『一つ目』が造り出すものは、最上級のブランドだ。

 

「だから、僕が半身として有効活用しようじゃないか」

 

 ぬらぬらと光り輝く金属質の右腕が殺龍剣を掴む、いや、取り込んでいる。

 人間の右腕に擬態していた水銀のように流動する黒銀色の液体金属と、一つ目巨人が製造した玉鋼に希少金属(レアメタル)の魔導合金が混ざり合い、文字通り、一体化していく。

 

 錬金術師は、金属の組成を自在に操る。如何なる超硬合金も、彼の手に触れれば薄っぺらなアルミ箔より脆く変わり、そして、半人半金の怪人はこの魔導金属の特性に、その堕ちた英雄に使われてきた武器の<固有堆積時間(パーソナル・ヒストリー)>までも身に取り込むことが可能だ。

 

「くくく、いいぞ。融合するのに時間はかかるが、力が湧いてくる。これまで数えきれぬほど虐殺してきた魔族魔獣の返り血を啜っているのもまたいい!」

 

 <神獣化>する魔狼は巨人の心臓を喰らったそうだが、巨人の魔剣を吸収した錬金術師は如何なるものか。

 

 抑え切れずに暴発してしまう、禍々しくも奇怪な魔力の放出に、隠れ家に張られていた結界の半分以上が吹き飛ぶ。

 そして、右半身に劇的な変化が訪れる。

 人間に偽装されていた肌色が、金属光沢のある鋼色となる。さらには呪われた剣に染みついていた返り血が染料と化して、剣製で巨人が打ち込んだ魔術回路が張り付く。右腕から血管のように蠢く赤黒い紋様が走り、右半身にこの負の想念が刻み込まれる。

 刺青(タトゥ)が顔面右頬にまで届いたのと同時に魔力暴走がピタリと静まり、魔剣を取り込んだ錬金術師は何か実感を確かめるよう、一本一本小指から親指までの指を折っていき、右手で拳を作る。

 

 

「これほどの相性だとは思わなかったよ。若干、味まで覚えてしまい、魔族の血に飢えてしまうのが難点だけど」

 

 

 試し切りするかのような軽い右腕の一振りで、残る隠れ家の結界は完全に消し飛んだ。

 

 

 

つづく



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錬金術師の帰還Ⅱ

???

 

 

『手古摺っているようだが、約束の時間まで間に合うのか天塚』

 

 定時報告。

 通信機の向こうより、相手を威圧する低目の声が響く。

 

「いやはや専務、ご心配をおかけしてどうも」

 

 電話機越しであるも、大仰に帽子をとって挨拶をして見せる。

 

『あまり儂を待たせるではない』

 

 悪びれない口調での謝罪は恐ろしく不遜な応答であるも、向こうも慣れたものか、専務と呼ばれた男は苛立たしげに鼻を鳴らすだけの留める。

 

「あはは、ごめんよ。でも特区警備隊の下っ端はともかく、<黒妖犬>が厄介だ。それに叶瀬賢生が施した結界も解かないといけない。準備は念入りにやっとかないとまずいでしょ」

 

『<偽錬核(ダミーコア)>の生産にどれだけ支援してやったと思っている。それでまだ足りないというのか天塚』

 

「ああ、大丈夫だよ。物はこっちで手に入れたから。いやあ、運がいい。この僕が開発した<偽錬核>をさらに武器として昇華できるなんてね」

 

 今ならわかる。

 あの魔導犯罪者はこの始祖と同じ剣を得物としながら、その性能を十全に発揮できていなかったことが。

 それを振るうことを可能とする、この<偽錬核>と英雄の剣鉄が融合した『完全なる(アゾット)剣』が完成すれば、英雄――つまり、“人間の極致”ともいえる力を完全に手中にしたことを意味するだろう。

 

「それで、この力が馴染むまでは、攪乱に徹してるんですよ。時間がかかりますがご容赦を」

 

『ふん、ならいい。しかし、本物の<賢者の霊血(ワイズマンズ・ブラッド)>を手に入れたはいいが、それを制御するための<錬核(ハードコア)>の在り処はわかっておるんだろうな?』

 

「それはもちろん。師匠が残した遺産は当てを付けてありますし、下見も済んでありますよ。隠し場所については現場についてからのお楽しみで」

 

 <賢者の霊血>は、眠っている状態は、ただの金属塊と同じ。

 それを起こすには、<錬核>が必要だ。

 そう、高度な自己増殖機能を有する融合型の液体金属生命体<賢者の霊血>を御するための魔術触媒、それが<錬核>。

 錬金術の奥義で生み出される永遠不滅の生命体――<賢者の霊血>に自らの魂を組み込むことができれば、不老不死の人間が生まれる。そして<錬核>の中に意識を転移することで霊血と融合しても融合者は意識を保っていられる。

 

 これが師匠ニーナ=アデラードが到達した錬金術の極致。

 

 その遺産を隠した叶瀬賢生はやはりいい判断をする。

 彼は、<錬核>を修道院に飾られたレリーフの絵の具に加工していた。不定形である制御ユニットであるも、まさか思いもよらぬ別の形にするなんて、下手に隠すよりもよっぽど目立たない。この<偽錬核>の共鳴反応がなければ、下見の段階で確証までは得られなかっただろう。

 

『くくく、その力があれば私をこんな僻地に飛ばした本社の連中に一泡吹かせてやれるというわけだな』

 

「それは愉しそうだね」

 

 見えないが永遠の“生”と真祖に匹敵しうる魔力を目前として浮かべてるであろう顔はたやすく予想がつく。

 底知れぬ復讐心と権勢欲に瞳を滾らせ、今にも涎を垂らしそうであるに違いない。

 国内ではそれなりに名の知れた機械メーカーの取締役だった彼は、社内で起こした不祥事で今の通称『専務』にまで転落した。その復讐に、<賢者の霊血>を欲している。

 

『……もう一度確認するが、その<錬核>は貴様の師匠の忘れ形見だろうに、儂が貰い受けても本当に構わんのだな』

 

 錬金術師が追い求める理想形のひとつにして、究極形ともいえる至宝。それを理由もなく他人に譲り渡せる人間などそういるはずがなく、この取引相手の性格はそんな気前のいいものではないと思われているのだろう。

 確かに、そうだ。

 自分はそこまで気前のいい性格はしていない。

 ―――ただ、この天塚汞が欲するのは<賢者の霊血>ではないというだけだ。

 それに、

 

「もちろんさ。約束は守らないとね。僕はこう見えてもあんたには感謝してるんだ。

 5年前の事故で死にかけていた僕を救ってくれた専務のおかげでこの<偽錬核(ダミーコア)>も造れたしね」

 

 今、この不健康に痩せさらばえた胸にある、心臓代わりの奇怪な石。

 真紅の宝石であるだろう<錬核>とは違い、この濁った黒色の石ころが、<偽錬核>。

 これが『天塚汞』の意思を保存し、かろうじて人間らしい形を保っている要因だ。

 その錬成に協力してくれたことを、自分は専務に本当に感謝をしている。

 だから、その願いを“望まない形でだが”叶えてやるつもりでいる。

 

『ふん。それが心変わりしないことを祈ろうか天塚。しかし、儂は忠義には報いるぞ。本社の全権を掌握した暁にはな』

 

「期待しているよ専務」

 

 ―――生贄として。

 

 通信を切って、ようやく失笑を漏らす。

 <賢者の霊血>を覚醒させるには、<錬核>が必要だが、それは同時に<錬核>に保存されていた師匠の意識を目覚めさせることを意味する。

 普通に使えばまず間違いなく、<錬核>に宿りし、大錬金術師にして、自分を破門にした師匠ニーナ=アデラードが不滅の肉体を得て完全復活する。

 その師匠を除かなければ、<賢者の霊血>は完全には手に入らない。

 

 <錬核>がなければ、<賢者の霊血>はただの鉄屑で、しかし<賢者の霊血>と一体化すれば不滅の存在。

 

 だから、奪うには<賢者の霊血>が目覚めた瞬間――ニーナ=アデラードの覚醒が不完全な状態の時を狙い、内側から破壊する。

 

 ―――そのための爆弾として、専務の体はすでに改造されてある。

 

 その肥満体に埋め込んだ<偽錬核>は、霊血制御を師匠の<錬核>から奪うためにと専務には説明したが、それはすべて暴走促進剤。

 師匠の意志ともども、専務の意思も暴走に抹消される。

 まあ、完全に人間を止めてしまうことになるだろうけど、それでも専務の望み通りに、霊血の一部となって不滅の存在になるだろう。

 

「―――おっと……もう来たか<黒妖犬>」

 

 ざわめく悪寒のような感覚。

 この右半身は、液体金属生命体――<賢者の霊血>を参考にして造られており、その一部を切り離した欠片に<偽錬核>を植え付けることで魂なき分裂体を生み出すことができる。

 それは、分裂体を一体作り出すごとに、肉体の一部をごっそりと削り取っているも同然である。ほかの金属と融合すれば失われた質量の補填はできるが、それを繰り返せば、純度が低下する。

 ―――しかし、今の自分は純度を上げるほど大変質のいい金属を手に入れている。

 

 

「わかってる。あの現代に造られた殺神兵器は危険だ。確実に始末する、だから、あんたも約束を忘れるなよ」

 

 

倉庫街

 

 

 一年前。

 

『………今の『魔族特区』の原型とも言われる、プラハの魔法王国には、オカルトに偏執した皇帝ルドルフ二世が、御用達の錬金術師を集めてつくりあげた錬金術師通りがある。

 この通り、錬金術師が王侯貴族、それに教会の連中と癒着するのはそう珍しくもない。

 錬金術は異教の魔術の影響を強く受けるし、禁呪まがいの危険な術も多い。それに、金もかかる。研究が邪魔されないよう、また支援してくれる後ろ盾(パトロン)が必要なのだ』

 

『うぅ~……』

 

 高等部の英語担当の教師である主の、中等部の世界史テストの補習代行。

 これは仕事の都合上で本来の担当教師の補習に参加できなかった使い魔の少年に、仕方なく主が勉学を見てやってるというのが現状である。

 

『つまり、錬金術師は偉い人とお友達になりたいのか?』

 

『馬鹿犬が今考えているのは違う。互いの利益があっての関係だ。貯蓄を食いつぶす金食い虫の錬金術師だが、その目的の過程でつくりだす副産物は世の権力者にはおいしいものだからな。このマイセンも、元々は金を作ると豪語した錬金術師が苦し紛れに産んだ磁器だ』

 

 手元のティーカップの縁を指でなぞる。

 

『半ば趣味でやってる変人皇帝もいるが、損害が上回ればすぐに切り捨てられる。

 この『魔族特区』も、魔族が実験に協力し益をもたらすから市民権が与えられるのと同じことだ』

 

『じゃあ、オレも仕事で役に立たなかったら、追い出されるのか?』

 

『そうやって、気にせんでもいいことを気にするから赤点をとるんだ。お前は馬鹿で、大食らいで、不器用で執事もできん、本当に馬鹿なサーヴァントだが、そんなのでも使い魔にしてやったんだから、主として衣食住くらいは最低限の面倒を見てやる。寛大な主に感謝しろ』

 

『う、感謝するぞ。つまり、ご主人は変人皇帝と同じなんだな!』

 

『様を付けんどころか、変人扱いとはやはりお前は馬鹿犬だ』

 

 ゴンッ! と脳天に下された不可視の鉄槌に、額から机に突っ込む少年。

 そして、抜刀するように一閃した扇子で掌を叩き、鋭い音を響かせる。

 

『うぅ~、今のでせっかく覚えたのも飛んでちゃったぞ!?』

 

『最初に言っておいたはずだが、仕事があろうと何だろうと、私のサーヴァントならば、学業を疎かにすることは許さん。この私に他教科の義務教育内容をやらせたんだ、また、赤点を取ってみろ。次はメシ抜きではなく、“ハウス”だ』

 

『!?』

 

 びくぅ! と効き目抜群なお仕置きへの使い魔の反応をみて、主は優雅に紅茶を一服する。

 

『だから励め。そして、学業とは、勉学のことだけではない。それも努々忘れるなよ馬鹿犬』

 

 

 

 早朝の倉庫街。

 人気のないその場所で、疾駆する影。

 

「オオォォォooooo―――!」

 

 絶叫を上げるは、金属質の(メタル)不定形生命体(スライム)

 錬金術師“だった”怪物は、枝分かれして伸びる触手を振るい、暴れる。

 暴風域の如く荒れ狂うこの戦場。そこへ果敢に特攻する、そこが自身に課せられた役目であると厚着の少年は躊躇なく敵懐深くに踏み込む。

 

「夢の中でご主人にはたっくさん苛められたからな。おかげで逃げ足には自信がついたぞ」

 

 軌跡が三度閃いて、流動する金属生命体に噛みつく飛来物。液体であるからにはすり抜けてしまえるけれども、取り込めない、という他とは違う非物質の牽制は、注意を惹きつける。また、微弱ながらも帯電してるそれを何度ももらえば、いずれはまた動きを封じられる拘束呪(のろい)を警戒せざるを得ない。

 そうして、少年本来の間合いである、その手の届く距離まで潜り込まれてしまえば、人間の性能を遥かに上回る反射神経と身体運用で攻撃を躱しながら、かつ巧みな緩急をつけた足捌きで残像を作り出す。それに翻弄され、大振りとなったところでお返し(カウンター)とばかりに拳打蹴撃を浴びせて電撃弾ける快音を響かせる。

 

「―――行くぞ! 我ら拠点防衛部隊(ガーディアン)も作戦を開始する!」

 

 今が好機。

 そう確信し、部隊長はその右手を高く挙げ、その薄く浮かべる笑みを唇に張り付ける。ここまですべて予定通りと順調に“狩り”が進んでると言わんばかりの。

 これでこの“偽物”を狩るのは三度目だが、理解力の足りないその頭でもようやく分を弁えたようで、作戦通りに“連携”がかみ合ってきている。

 それを部下のひとりは、見るからに戸惑った様子で部隊長の顔を見つめていた。

 

「隊長、本当によろしいのですか? 彼――単騎分隊『黒』に撤退の合図を送らなくて……」

 

「撤退? 何を言うか、<黒妖犬>は前線で囮を続けさせる。それに合図などと我々の位置が探られるような真似はするな。二度目のようにこちらが狙われる」

 

「しかし、あの位置では『黒』が巻き込まれます!」

 

「問題ない。作戦は伝えてあるのだ、勝手に避けるだろう。だから、いないものとして扱っても構わん。我々が優先すべきはあの錬金術師だ。いちいちその“外れ”の狩りに時間など掛けられるか。いいからやるぞ」

 

 部下が食い下がるが、部隊長はこの絶好の機会、何としてでも逃すつもりはない。早く命令に従えと内心怒鳴りつけたくなるのをどうにか抑え、念押しするよう強めに一瞥して、部下から標的へ視線をむける。

 

 前線では囮役の<黒妖犬>が暴れている。

 標的は、液体金属生命体。実体弾では斃せず、エサにされるので、警備隊には不利。だが、他の土地ならばいざ知らず、ここは『魔族特区』で、怪物殺しの手段に事欠かない。異空間に放逐するか、同じ怪物――眷獣並の魔力をぶつければいい。実際、一体目は、神獣と成った<黒妖犬>がその原子破壊するほどの圧倒的な破壊で標的を始末した。

 

 して、二体目は相手の金属の性質を理解した上で効果のある策を練り、<黒妖犬>を下がらせたが、攻撃を受ければ当然反撃する。液体と同じで縛ることのできない標的を、警備隊は抑えられる手段が講じてなかった。襲撃を受けて混乱する部隊から飛び出した、<黒妖犬>が一体目と同じように……

 

 ―――周囲に被害が出ると<神獣化>を禁じ、囮役で注意をひきつけさせるよう言いつけた。

 

 嵐のように襲い掛かる“偽物”の攻撃を<黒妖犬>は良く凌ぎ、時に反撃を繰り出しながら縦横無尽に駆け続けている。一撃でももらえば危険であると理解している以上、一瞬たりとも足を止めず、なおかつ、囮役として相手の注意(ヘイト)を集めてる。

 この間に、部隊は配置準備を終えている。

 

(またも手柄を奪われてやるものか……っ)

 

 ―――そして、部隊長の腕が振り下ろされる。

 

 その合図に、金属生命体に向けて、展開した部隊の放水車に似た走行車両より液体が撃ち出された。

 その肉体が純鋼の相手に対して、数十気圧の高圧放水が有効とは思えない。しかし、それはこの常夏の島で、白く煙るほどの凍気をまとっていた。

 液体の正体は、-196度の液体窒素。

 汞――水銀は、錬金術で最初につかわれたとされている物体。

 それが錬金術で組成を弄ってるとはいえ、所詮金属。物理現象の影響を無視できない。常温常圧ならば、水銀の凝固点は-38.83度であり、同じ液体金属の肉体を持つ不定形生命体も、低温には弱いと推測。

 ―――これが、当たる。

 漆黒に輝いていた液体金属の表面には、真っ白な霜に覆われて、その動きも鈍る。部隊長は、すかさず―――

 

「―――第二陣、放てぇぇえええっ!!!」

 

 放水が止まり―――そして、極低温の檻が、高熱爆炎に呑み込まれる。

 ロケットランチャーに焼夷弾が一斉に撃ち込まれて、火炎放射でさらに炙る。鈍くなった金属生命体に炸裂したのだ。その熱量は、水銀の沸点に優に達する。

 急激に温度を下げ冷え切っていたところに、拠点防衛部隊の一斉射撃の爆発に呑まれて急激に温度を跳ね上げる。

 物体は温度を上げれば熱膨張し、下げれば逆に熱収縮する。しかし、それが全体に均一でなければ、歪みが生じてしまう。

 また、水銀は、体温計にも使われるほど温度による伸び縮みの状態変化が起こりやすいものだ。

 して、金属の材質は大きく変質して、その歪みが大きくなれば、後は勝手に自壊する。

 

 バキン!!!!!! と、膨張と収縮に引っ張られた金属製の触腕に罅が入るような音が聞こえた。

 

 まるでガラス細工を床に落としたように、次々と亀裂を走らせていく。そして、崩れ落ちた欠片は熱に蒸発して消え去る。

 

「よし効いてるぞ! 分隊『青』、再度、放水を開始。その間、分隊『赤』は、焼夷弾を装填しろ!」

 

 部隊長の歓喜の叫びに、部下たちも戦意を露わに大声で応じる。

 それはようやく自分らの手で敵がとれるという鬱憤晴らしと、『黒』単騎の活躍を黙って見るだけでは終わらせないという奮起も混じっているのだろう。

 体は機械のように冷酷に動きながら、頭は戦意の熱気に浮かされるという異様な興奮状態ながら、迅速に作戦行動は行われる。

 

 そして、囮役の『黒』こと厚着の少年は、氾濫する液体金属生命体の猛撃を捌いて足止めするだけでなく、背後より味方から冷気熱気交互に間断なく撃ち込まれる放水爆撃に晒される。

 

 蒸発した水銀は有毒物質であることは誰でも知る一般常識だ。彼の始皇帝が水銀を不老長寿の妙薬と信じ摂取し続け寿命を縮めたのは有名な話である。

 この液体金属生命体は『核』より魔力が通っていて制御されているため、水銀の毒素が害をもたらすというのはない。

 だが、それでも『核』より分離されたものにまでその制御力が働くかと言われれば、それは否。

 そして、水銀が蒸発するということは水銀が気体となるということだ。もし迂闊に呼吸を行えば肺内側より蒸発した水銀毒に焼かれることになるだろう。

 

 そんな過酷な四面楚歌の戦場を、ほぼ息もせずに綱渡りのように死の淵で踊り続ける。

 もはや、捨て石も同然の扱いではあるが、南宮クロウは最後までその役を全うした。

 

 

 

『また、標的(ターゲット)は、“切れ端(ダミー)”だったかい』

 

「そのようだ、『覗き屋(ヘイムダル)

 

 作戦が終了し、敵機を欠片も残さず蒸発したのち、骨伝導型の端末より通信が入る。

 部隊長は、拠点警備部隊の皆が無事のまま作戦が成功したことに充足を覚えながら答えた。しかし、その道化師のようにおどけた声はさっそくそこに水を差してくる。

 

『なあ、隊長さん。そろそろ<黒妖犬>を、解放しちゃくれないか?』

 

「何故だ? 作戦は成功した。狩りは上手くいくと実証されたんだぞ。私が『追跡屋(イヌ)』を御している。このまま、本体を討伐するまでは付き合ってもらう」

 

『時間外労働だよ。学生を二日連続で学校を欠席させてあんまりにも長時間も拘束してるとこわ~い飼い主様がお怒りになるぞ。魔女との契約を破るのがどれほど恐ろしい事なのかあんたらもわかるだろ?』

 

 ひょうひょうとした声調ながら公社の監視役の声色には、冗談は感じられない。

 薬に頼らざるを得ない出来損ないの<過適応者(ハイパーアダプター)>で、センサーとして使われているが、この監視役は、理事会の血族であることを部隊長は知っている。だから、あまり逆らうつもりはないが……

 

「……でしたら、こちらも補充をしなければならんのでな。一限だけ出席を許可させよう。そのあとすぐ早退させれば契約を破ったことにはならない。それでよろしいな?」

 

『いや、だったら、そのまま<黒妖犬>を叶瀬夏音の警護につかせる。標的は、彼女を狙っているんだ。<黒妖犬>なら同じ学生として身辺にいても自然だし、問題はない』

 

「―――いいや、<黒妖犬>を警護になど必要はないでしょう。彩海学園中等部には<仙姑>笹崎教官がいるはずだ」

 

 それでも、目的を達成する前にみすみす手離すつもりはない。

 

『叶瀬夏音は、異国の王族に血を連ねるVIPだ。それに、実力のある攻魔師とはいえ、複数の分裂体(ダミー)をもつ相手に中等部全部をフォローするのは無理があるだろう。<黒妖犬>なら、標的が近づけばすぐに感知できる『鼻』をもっている』

 

「ならばこそ、いち早くに標的の本体を叩くべきだ。そうすれば、叶瀬夏音を害するものは無くなる。<黒妖犬>の能力は、我々現場の人間にこそ、必要なのだ。

 そもそも、<黒妖犬>を『魔族特区』より外へ出すのは審議中ではなかったのですかな」

 

 ちっ、と短く舌打ちする音を部隊長の耳は拾う。

 理解する。今のは公社の意向ではなく、この監視役の独断であると。

 

「任務に私情を挟まれるとは、困りますぞ『覗き屋』」

 

『クロ坊が、身体を張ってあんたらの身命を守ってるっつうことは忘れるなよ部隊長』

 

 

彩海学園

 

 

 いつもよりも早めに、そして、雪菜を連れずにひとり登校した暁古城は学園に着くなり自身の教室へとは寄らずにまっすぐ職員室棟校舎の最上階――南宮那月の執務室へと足を運ぶ。

 

「―――悪い那月ちゃん。聞きたいことがあるんだけど……あれ?」

 

 けれども、そこにいるだろうと予測された部屋の主はおらず、代わりにいたのはメイド服を着た少女。

 藍色の長い髪を、古色ゆかしいエプロンドレスの背中にさげ、左右対称に切りそろえている。その水色の瞳にあんまりにも白い肌と綺麗な風貌で、袖や襟元を控えめではないが主張し過ぎない程度に彩った繊細なフリルやレースと比べても、まるで遜色がない。

 『魔族特区』である絃神島は元々異人の多い土地柄だが、だとしてもこれほど整った―――なんというか、フランス人形のような相手は、彼女しかいない。

 その主も人形のような外見をしているが、あちらは騒々しい後輩を屈させるほどの凄まじいカリスマ性のようなものを放ち、ものすごく生き生きとしている。

 

「おはようございます、第四真祖」

 

「アスタルテか。那月ちゃんは?」

 

 定位置である年代物の革張りのチェアに、この彩海学園のカリスマ女教師であり、配属された国家攻魔官である、そして、後輩と主従契約を結ぶ魔女でもある南宮那月がいない。

 

教官(マスター)は不在です。警察局からの依頼で外出されました」

 

「警察局、ね……」

 

 警察局、その言葉にイヤなことを思いだした古城は眉間に皺を寄せる。

 それを見取ったのかは定かではないが、無表情のまま淡々とアスタルテは尋ねる。

 

「何か悩み事でしょうか第四真祖?」

 

 とりあえず来客である古城に紅茶を出す。

 この学園の事務員として雇われているが、メイドのイロハを仕込まれ、実質この女王のメイドであるアスタルテの給仕スキルは高く、その淹れた紅茶はティーカップより華やかな香気を醸し出して、味も驚くほど美味。それに慌ててここに駆け付けた心を落ち着けさせたところで声をかけてくれる、細やかに配慮の行き届くメイドの鑑である。

 

「悩みっつうか、ちょっと相談したいことがあったんだ」

 

「認識。私でよければご相談に乗りますが」

 

 お盆を胸に抱きながら、しずしずと無感情だけれど献身的な人工生命体の少女。

 向こうから話を振ってくれて、打ち明けやすくなったその気遣いに感謝しながら古城は一呼吸分のためを置いて口を開いた。

 

「ああ……そうか、じゃあとりあえず教えてもらいたいんだが……」

 

「回答します」

 

「へ?」

 

 思わず、間抜けな声を出してしまう。

 内容を一言も告げてないのに、この即断。ひょっとして、古城がこの執務室に来た時点で悩みはほぼ把握されて―――

 

「今週のあなたは恋愛運が好調。小うるさい監視役が不在の隙にクラスのちょっと派手派手しい女子を自宅に連れ込んで押し倒すと良いでしょう」

 

 ―――なかった。

 

「誰が恋愛相談にのってくれって言ったよ!?」

 

 真顔でまったく的外れな、いや一周回って的を射てそうなくらいの奇妙なアドバイスに古城は力いっぱい怒鳴りつけたが、アスタルテは無感情な瞳で見つめながら、

 

「思春期の男子への助言というのはこういうものではないですか?」

 

「いや……まあ、そういうやつもいるけど……ていうかなんだその犯罪教唆ギリギリの占い!?」

 

「教官によれば他人に相談をする人間のほとんどは、既に本人の中で答えが出ている。だから、本人のやりたいことをそっと後押ししてやるのが助言者の務め……だと」

 

 ガイドするよう指を一本立てて淡々と説明する。

 そこだけ切り取るとまともなことのように聞こえるし、その背後でドヤ顔してるカリスマ教師が見えるようだ。

 

「なんで俺が浅葱を押し倒したいって判断した!?」

 

「他の女子が良かったという意味でしょうか……?」

 

 きょとんと首を傾げられる。

 

「判断が間違ってるのはそこじゃねぇ!! 俺が訊きたいのはクロウのことで」

 

 ぜえはあ、と荒く息を切らせながら頭を抱える古城が、それでもと、このあくまで本人は大真面目なアスタルテの誤解を解かんとするも。

 

「―――つまり、先輩を押し倒したい、と」

 

 より悪化した。

 口元に手を当てられ、あの無感情なアスタルテの目が少しだけだが見開いた。そこに皮肉や冗談を言ってる雰囲気はない。本気で慄いている感じである。

 

「恋愛は自由なものだと教官より教えられていますが、それは生殖学的な観点からして推奨しかねる―――「違う! 絶対に違う! いいかげんに恋愛相談から離れろ!」

 

 ここ最近の疑惑は何なのだというのだろうか。この前も凪沙の病院の行き帰りにくれぐれも送り狼になるなと後輩を校舎裏に呼び出して言いつけた休み時間で教室に戻った際、それを遠くから見ていたというクラス委員の築島倫から意味深に理解力のある感じの目で見られたし。

 ひょっとして、これはあの戦闘狂な貴族が変な噂でも広げてるのではないかと勘繰りたくなる古城。

 ひとまず、お茶をもう一服してから、気を落ち着けさせてから古城は口を開いた。

 

「クロウが、警備隊と協力してることを知ってるな?」

 

 表情をほとんど変えないアスタルテであるも、その水色の瞳は古城の言葉にほんの少し曇らせる。

 

「肯定。警察局からの依頼で先輩は拠点防衛部隊(ガーディアン)にレンタルされています。なお、私の同行は先輩に断られています」

 

 ここ最近、その活躍を耳にすることがあるが、後輩はアスタルテとコンビで仕事をこなすことが多いのだという。彼らの主たる担任教師が、猪突猛進気味なサーヴァントと冷静沈着であるが自主性の薄いメイドを組ませたのは、それがアクセルとブレーキのような役割を互いに果たすことを狙ってのものだと思う。実際、それは上手く機能していた。

 それを断ったということはおそらく、アスタルテにも“あのような措置(電気ショック)”がされるところだったのではないか。あの後輩の体の頑健さは古城も知るところであるも、この人工生命体の少女であのような仕打ちはそう耐えられるものではないし、電気ショックでも後輩には効きが悪いと判断されれば、彼女を人質に使ってくるかもしれない。

 それはあくまで古城の推測であるも、あの半魔の後輩に対する態度、魔族に対する偏見を見る限り、準魔族の人工生命体にも容赦しないかと言われれば、古城は首を横に振る。

 

 なぜ担任は容認したのかと問い詰めたいところだが、そのことはもう古城の中で半ば答えは出ている。

 けれど、最終的にその依頼を受けるか判断したのは後輩自身だろう。

 それが受けざるを得ない状況だったとしても、やるからには納得してから行動するのが後輩の性格だと古城は知っている。

 だけど、これでは―――

 

「……なあ、クロウは宿泊研修に行けそうなのか」

 

「………」

 

 問いかけに回答するようプラグラムされている人工生命体の少女が、沈黙。

 その反応だけで十分だ。古城は思わず天を仰ぐ。

 ここに雪菜を連れていないのも、明日の休暇に余計な心配をかけずに学校行事を参加させてやりたいという考えからだ。先輩として後輩にも参加してほしいし、またクラスメイトの少年が“仕事”でいけないとなれば生真面目な彼女は気にするだろう。そして、楽しそうに後輩の分まで買い物をしていた妹を思えば、何とかならないのかと強く思う。

 だけど、ここで古城が喚こうが事態は好転しない。

 この事件が解決しないかぎり―――

 

「なあ、アスタルテ。人工生命体(ホムンクルス)って、錬金術で生み出されるんだよな」

 

「肯定」

 

 現代の人工生命体は、生物工学(バイオテクノロジー)や医学による影響を強く受けていても、その基盤は錬金術からなる。

 医学用人工生命体として造られたアスタルテは、大学研修医程度の医療知識の他に、錬金術についても、基礎知識として製造過程でインプットされた。

 ならば、錬金術師について何か知っているのではないだろうか。

 

「だったら、わかるか? 錬金術師の目的……とか」

 

 古い記憶を掘り出すように遠くを見つめて、アスタルテは質問に淡々と答えた。

 

「一括りに錬金術師と言っても様々な階級(レベル)の術者が存在しますが……

 究極的に錬金術の目的は、『人間の限界を超えて、“神”に近づくこと』です」

 

 黄金変成は、あくまでその目的の副産物。すべての不完全なものを完全な存在に変えることが、錬金術の原理である。

 彼らの理屈からすれば、樹木を鋼鉄に変えたのも、いずれは寿命が尽きて枯れる植物よりも、不滅に近い無機物の方が完全に近い存在であるというのだろう。

 

「神ぃ!? ……ってまたどうすりゃそんなことができるんだ?」

 

「神という言葉の定義が曖昧なため回答不能。

 ただし肉体を保ったまま永遠に近い命を獲得することなら過去にいくつかの成功例があります」

 

「成功例?」

 

 アスタルテは古城を見て、あっさりと言う。

 

「ひとつはあなたです。暁古城。

 人間として生まれながら吸血鬼の力を手に入れた四番目の真祖。ただしそれはいわゆる“神”とは対極に位置する存在ですが……」

 

「思いっきり失敗してんじゃねーか……」

 

 がっくりと肩を落とす古城。

 不老不死の吸血鬼は、錬金術の目標である不滅の存在の条件にあてはまるものであるも、あれは神の祝福の恩恵ではなく、それとは真逆のベクトルをいく“負”の生命力という呪いじみたもの。

 けして、神になどにはならない以上、不完全な失敗作以外の何物でもない。

 

「そして、もうひとつは<賢者の霊血(ワイズマンズ・ブラッド)>です」

 

 その聞き覚えのない単語に、古城は眉を顰めて、

 

「なんだそれは?」

 

「詳細不明。

 ……ですが、ニーナ=アデラードは自ら創造した<賢者の霊血>の力を借りて、不滅の肉体と無尽蔵の魔力を手に入れたと伝えられています」

 

 アデラート……!?

 古城はその人名に小さく息を呑む。

 

『その様子じゃ、5年前にアデラードの修道院で起きた事件のことも知らないみたいだな』

 

 昨日の錬金術師の言葉。

 やはり、アデラート修道院にいた頃の叶瀬夏音が巻き込まれた5年前の事件と関係があるのか。

 

「ニーナ=アデラードは、古の大錬金術師。伝説上の人物です。生きていれば270歳は超えているはずですが」

 

 以上が、アスタルテの知る錬金術師についての知識だ。

 手掛かりは見つかった。これを辿れば、見つかるかもしれない。

 と、

 

「クロウのヤツ、今回は、<賢者の霊血>っつう神を相手にして……」

 

 本当に大丈夫なのか、と小さく口の中で呟く。

 殲教師、神造兵器(ナラクヴェーラ)、模造天使、魔女とこれまで相手にしてきた頼もしい後輩であるも、今回の錬金術師は相性もあって流石に心配だ。

 昨日は紅白チェックの錬金術師を圧倒したようだが、まだ奥の手を相手は隠しているのかもしれないし。

 

「……その完全なる“神”の如き不滅を殺すものも存在します」

 

 古城のカップにおかわりを注ぎながら、アスタルテは言う。

 

「獅子王機関の秘奥兵器<雪霞狼>。(コア)には古代の宝槍が使用されているため世界に3本しか存在しないというこの武器は、<第四真祖>を殺し得る対抗措置として現在剣巫に使われております」

 

 姫柊雪菜は、その槍の担い手に選ばれたからこそ、獅子王機関から真祖の監視役に抜擢されたのだ、と古城は聞いている。

 あらゆる結界魔術を無効化にし、あるべき姿に戻すという破魔の槍を、古城は身を以てその威力を知っている。

 

「そして、殺神兵器―――先輩も、現代の殺神兵器として、覚醒しつつあります」

 

 第四真祖の後続機(コウハイ)が放つ神殺しの毒。それはほんの障り《触り》で、不完全ながら真祖である古城が膝を屈したほど。

 『人魚』を喰らった不老不死の魔導犯罪者をも、“壊した”、と聞くその毒ならば、不滅の“神”であっても天敵ではないか。

 

「教官も、無理な相手の依頼は受けさせないと思います」

 

「……だな。那月ちゃんは、隠れ過保護だからな」

 

 古城は、二杯目の紅茶をかけつけの一杯目よりもゆっくりと味わうように飲む。

 向かい合って座る人工生命体の少女も、やはり少しだけ―――ほんの少しだけ、同意してもらえて安堵したように、表情を緩めた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 そのちょうど同時刻。

 

 

「―――失礼したのだ」

 

 中等部職員室より、厚着の少年が一礼して出てきた。

 部隊長の許可が下り、彩海学園に登校した――といっても、またすぐ現場に戻ることになるだろうが――南宮クロウは、クラス担任であり国家攻魔官である笹崎岬に挨拶に報告、それから早退の旨を話に行った。それで『学業を疎かにして先輩を心配させちゃダメだったり』とお小言をもらうも、労をねぎらうお言葉をもらった。そして、定時報告はしているとはいえ、主――南宮那月にも直接会いたかったところだが、残念ながらすれ違いで警察局へと行ってしまったらしい。

 

「クラスに行く前に、アスタルテのトコに顔見せに行くかー」

 

 今回の仕事、同行を断り、無表情ながらマンションの前で見送られたが、あれは不満半分心配半分な“匂い”であった。これまでの付き合いで後輩(アスタルテ)の感情が読めるようになったクロウは、元気な先輩の勇姿を見せて安心させてやろうと高等部の職員棟、その最上階にある主の執務室へと足を向ける。

 その、中等部と高等部を繋ぐ渡り廊下の途中で、声を掛けられた。

 

「クロウ君、おはようー!」

 

 見れば、風に揺れる黒髪のポニーテイルが視界に入って、急いで駆け付けてきて弾む息を整える凪沙の姿がある。

 そうだ。ちょうど、彼女にも言いたいことがあった。

 

「う。おはよう凪沙ちゃん」

 

「昨日はお仕事で学校休んでたけど、今日、こうして来てるってことは無事に終わったんでしょ? クロウ君、宿泊研修、行くんだよね?」

 

 クロウは頭を掻く。

 忘れてはないのだ。

 けれど、宿泊研修は明日。それまでに天塚汞の捕縛が片付く保証などあるわけもない。相手は自己増殖型の液体金属の生命体。現時点で、何体も撃退してるがそれらは本体から分裂した“偽物”。クロウは、本体が見つかるまで虱潰しに捜索しなければならないのだ。

 

「クロウ君大変だから代わりに準備もしといたよ。夏音(かの)ちゃんと雪菜ちゃん、それから古城君にも選ぶの手伝ってもらったから、それで―――」

 

「……むぅ、凪沙ちゃん」

 

「なあに?」

 

 その大きな瞳に自身の顔が映る。純粋に、信じてくれているのがわかる。

 普段なら率直に述べるところであるも、それを受けて、一瞬、口を噤んで躊躇う。それでも、なるべくウソをつきたくないクロウは口を開いた。

 

「ごめん。宿泊研修、行けそうにない」

 

「……えっ?」

 

「今の仕事、思ったよりも手古摺りそうなヤツなのだ」

 

 警備隊のサポートをしながらの、同居人(かのん)を狙う錬金術師の追跡。

 この事態を乗り切るのが、南宮クロウの最優先事項。それを放置して、呑気に宿泊研修にはいけない。

 

「ごめん」

 

 だから、謝るしかない。クロウにとって大事なものは今を生きるもので、人命と学校行事の選択で、どちらを選ぶかなんて、迷ってはならないことだ。

 凪沙は目を瞬き、戸惑うような口調で、

 

「……でも、一緒に、宿泊研修に行くって」

 

「むぅ、そうなんだけどな。急に入った仕事で、断れなくて……ごめん」

 

「謝らないでよ。クロウ君、約束したよね? なのにどうして?」

 

 確かめるように問いかけを重ねられて、クロウも息を呑んで、声が詰まる。

 その反応を見られて、凪沙の表情が曇っていく。どんどん曇る。それがわかっていても、どうすればいいのかクロウにはわからない。

 力をなくしたように俯くと、それっきり黙ってしまう。

 普段人の倍は喋り、怒るとさらに口数が倍増する凪沙は、何かをため込むように口を閉ざしている。

 互いの間に気まずい無言の間が落ちる。少しでも刺激すれば破裂してしまいそうな少女へ、それが“正しくとも”これ以上の言い訳など述べることなど許されない。ならば、何を口にすればいいかわからない。反故にしてしまったことに負い目もある。状況を打開する術はなくて、口を開こうと何度も試みるも、うまい説明が考え付かずにクロウは踏み出せない。

 そんなもどかしさを抱え込み思考もあやふやなまま、それでも率直に思えることを言葉にして、クロウはこの沈黙を破った。

 

「オレ、は……ただ、守りたい、から……」

 

 凪沙が、顔を上げる。

 その感情の波が涙の滴となって、その大きな瞳を満たしている。きっと睨んで、溢れ出しそうなものをその拍子にひとすじ、ふたすじとはらはら零しながら、頬を伝うそれをクロウは拭えずにただ見ることしかできず、

 

 

「約束破ってばっかりのクロウ君に守られたくないよ―――っ」

 

 

 万の言葉を並べた罵詈雑言ではない、短い一節の文句で、クロウは固まった。

 

「クロウ君なんて、もう知らない!」

 

 凪沙は手の甲で目元をゴシゴシとこすってから、飛び出した。

 錬金術で鋼鉄にされてしまったようにクロウは手を伸ばそうとしたところで動けない。遠ざかっていくその背を目で追うこともできない。

 

「…………………凪沙ちゃん」

 

 約束は、破っていいものではない。

 それが大義名分があったとしても、クロウは彼女との約束を破り過ぎていたのだ。球技大会のチケットもそうだし、フェスタでの制止も振り切ってしまった。これが、三度目。軽々しく扱ってると思われるのも仕方がない。気持ちを弄んでいるのも同罪。

 そして、犯してしまった過ちは、もう取り返しのつかない。

 

 

 

「―――クロウ君、今すぐ凪沙ちゃんを“追ってあげてください”」

 

 渡り廊下で立ち竦んでいたクロウに声をかけたのは、そこへ偶々通りかかっていた叶瀬夏音。その身辺警護として、アスタルテと朝早くに登校していた夏音は、凪沙と同じようにクロウの姿を見つけて声を掛けようとしたのだろう。遠くからでも拾えた会話の端々と凪沙の様子で大まかに事情を察した、心優しい『中等部の聖女』はそう促す。

 

 その言葉の通り、追いつけないと後悔する。

 心の中でサイレンが鳴っているけど、冷静な自分が『追いかけて、それでどうする?』と囁いた―――

 踏み出しかけた足を、引っ込めて呟く。

 

「それは、できないのだ」

 

 クロウは首を横に振る。

 もう、泣かせてしまったのだ。

 ここで、前言を撤回するのさえ、クロウには凪沙を軽く見ているとさえ思う。

 

「凪沙ちゃんに追いついても、オレは何も言えない。この仕事を、やめるわけにはいかないのだ」

 

 そして、結局は、約束を優先させることもできない。

 ならば、何を言えばいいというのか。クロウには何も言えない。

 だから、夏音の“頼み”でも頷けない。

 

「嫌な、予感がするんです」

 

 その不変な金色の瞳が、常に前を見続けていることを知っているが、

 夏音は震える心臓に手を置いて、その碧玉の瞳を固く瞑りながら、

 

「大切なお友達がたくさんいなくなったときと同じ気がしました。だから、もう二度と、あんなことは……クロウ君、どうか、お願いです。“今の仕事を止めてくださいませんか”」

 

 養父が入院したことも、錬金術師の事も口止めされていて、夏音は何も知らないはず。 

 どのみち夏音に受刑中の義父に合わせることはできないのだから、負傷したことを報せて心配させることもない。それよりも本人の安全を優先するべきだ、と主の那月より指示を受けている。

 

 それでも高い霊媒としての素養を持つ直感が告げるのか。

 口下手ながら必死に紡ぐ夏音の言葉。じわり、と胸が温かくなるのを感じた。

 心配してくれるから訴えてくれる。大切な友達だと思ってくれている。素直にうれしい。

 

「ごめん、できない」

 

 だが、約束を蹴って選んだものだ。

 過ちを犯したが、ならば、これ以上の間違いにはしない。泣かしてしまってまで取ったこの選択肢を無駄にするのはけしてしてはならない、そうクロウは思う。

 夏音にも辛い過去があったのだろうが、過去に、魔女に言われるがままに物事を受け入れ、“何も行動しなかったから”、大切な家族を失ったクロウに、ここで止まるという選択はできなかった。

 だから、せめて今のクロウにできることをする。

 

「仕事に、戻るのだ……」

 

「クロウ君っ!」

 

 朝のHRにも参加せず、クロウは彩海学園を去った。

 1分1秒でも早く、終わらせるために。

 

 

アデラート修道院跡地 付近

 

 

 島内のコンビニでその日に売れた肉まんの数まできっちり記録されている人工島管理公社のアーカイブにさえも、記録がない――ログが消されている5年前のアデラート修道院の事件。

 人工島管理公社の保安部が破格の高給で雇うほどの天才的な技術の持ち主である<電子の女帝>こと藍羽浅葱でさえも改竄されたデータしか見つけられず、ヤバい、と評する事件の裏側。

 古城はいてもたってもいられず直接現場を調べようと、午後の授業を自主欠席して学校を抜け出し、修道院跡地へと向かう(浅葱もついてきてしまったが)。

 

 そして、修道院跡地にボディアーマーと銃機で武装した男たち――あの部隊長はいないが、昨日見た拠点防衛部隊(ガーディアン)―――

 

「―――痛ェ!?」

 

 攻撃の気配を感じさせない、不可視の不意打ち。

 何者かが空間をすっ飛ばして、鈍器で横殴りされたような衝撃を受けて、古城の身体は吹き飛ばされて、隣の浅葱ともつれ合いながら地面に倒れる。

 

「こ、古城……!?」

 

「(騒ぐな! 静かに)」

 

 ダメージが頭蓋骨の芯に響くせいで、意識が朦朧とする古城。それでも身体を張って突然の襲撃から浅葱を守るように覆い被さり、騒ぐその口を塞ぐ。

 

「(や……やだ……こんなところで……)」

 

 浅葱も身をよじるが、それも抵抗にしては弱々しい。古城を見上げる表情もしおらしい、けれど、それを向けられる当人はあたりを警戒していてそれどころではなく、気づいていない。

 

「ったく、先輩がサボりの常習犯だから、馬鹿犬にもうつったのか」

 

 そして、背後より静かな声が聞こえてきた。

 

 

「授業を抜け出して、クラスメイトを押し倒すとは、いい度胸だな暁古城。少し見直したぞ。

 ―――悪い意味で」

 

 

 舌足らずでありながら妙にカリスマ性を感じさせる口調。そして、身に覚えのある威圧感。

 振り返れば、やはりそこにフリル塗れの日傘を掲げて豪華なドレス姿の担任教師の心底蔑む視線があった。

 

「なんだ……さっき古城が吹っ飛んだのは南宮先生のせいだったのね、よかった」

 

「よくねぇよ」

 

 先の襲撃は、彼女のもので、古城たちを、修道院を監視する警備員たちから発見されないようにしてくれたのだろう。

 もっともそれで警備員の面倒な取り調べが免れても、学校をサボっているところを担任教師に捕まってしまったのだが。

 

「お前たちが警備員に捕まると後々担任の私が面倒なんだよ。

 にしても藍羽、お前はもう少し相手を選べ。これだから見た目だけビッチの万年処女は……」

 

「うう……ほっといてください。ビッチじゃないし……」

 

 担任教師からひどい言われれようだが、完全には否定しきれないのか浅葱の反論も弱々しい。

 そんな落ち込む浅葱を放置して、古城は那月に訊く。

 

「それより那月ちゃん。何があったんだ? どうして特区警備隊が?」

 

「教師をちゃん付けで呼ぶな」

 

 ふん、と鬱陶しげに鼻を鳴らし、扇子を一閃する。

 これまでの条件反射から、古城は思わず目を瞑ってしまった。

 ぐしゃり、と潰れる音が聞こえる。

 それは古城の頭蓋がついに潰された音ではなく、目を空けた古城の前に蝶の折り紙のような紙片がはらりと落ちる。

 

「式神……? 姫柊のか?」

 

紙片の表面には複雑な呪文と魔方陣が描かれており、その見覚えのある几帳面な筆跡は雪菜――監視役の剣巫のものだ。

 どうやら、学校を抜けだしてからも古城はしっかりと式神から監視されていたらしい。

 それをわざわざ撃ち落としたということは、この先の話を雪菜に聞かせたくない、という意図があってのことだろう。

 

「教え子に下手に嗅ぎ回られても厄介だから教えてやろう。だが、ここからは他言無用の話だ。藍羽にも少し席を外してもらう」

 

 見れば、隣にいた浅葱がいない。異空間に飛ばしたのか。

 そして、那月は事件のあらましを語る。

 

 司法取引で減刑された叶瀬賢生が、管理公社の施設で保護観察処分を受けていたところ、一昨日襲撃を受けた。

 賢生は一命を取り留めたが重傷。そして、犯人は錬金術師の天塚汞で、賢生を襲撃したその翌日に、義娘の夏音を襲ったということからそこに何らかの関係性があると思われる。

 

「馬鹿犬から定時報告で聞いている。叶瀬夏音には護衛としてアスタルテをつかせている。だが、本人には知らせるな。予定通り宿泊研修に行ってもらう方が安全だ」

 

「! 絃神島の外に避難させて、その間に犯人を捕まえようってことか……!」

 

 なるほど。

 絃神島は本土から300km以上も離れた絶海の孤島。しかも空港や港では厳重なチェックが行われるため、夏音を島の外に避難させれば、天塚が追跡するのは不可能に近い。

 

 しかし、宿泊研修の間に天塚を捕まえられないのでは同じだ。だから、短期間で蹴りをつけるためにも優秀な追跡能力を持つ後輩はその捜査に欠かせないだろう。

 

「でも、それじゃあ、クロウのヤツが宿泊研修に参加できないだろ」

 

 古城は珍しく気合の入った表情で那月を睨む。それを愉快そうに口角を上げてそれを受ける那月。

 

「それに警備隊の連中にあんな扱いされてんの、やっぱりオレは納得がいかねェ……どうして、那月ちゃんは依頼を受けさせたんだ……っ」

 

「社会勉強の一環だ。心配はいらん。天塚を捕えれば、途中からでも行かせてやる」

 

「けど―――」

 

「警備隊で馬鹿犬がどんな評価を受けているか知らないようだがら教えてやるが、少なくとも、お前が心配しているような侮られ方はしていない。この前は、護岸警備隊から感謝状が届いたな。

 無論、警備隊も人間だから、警備隊の全員が全員そうだとは言わんが」

 

 パチッ、と扇子を閉じる。

 瞬間、虚空より浅葱が古城の隣に戻る。これで話は切り上げ時と那月は判断したのだろう。

 

「なあ、那月ちゃん。俺に何かできることはないか? 何をすればいい?」

 

 けれど、それでもしつこく食い下がる古城に、那月はくっと喉を鳴らして意地悪く笑った。それにこれまで強制退場されていた浅葱でも、あっ、バカ。余計なことを―――と思わずにはいられず、頭を抱えてしまう。

 

「そうか、協力してくれるのか。おまえたちには、是非補習授業を受けてもらいたいと思っていたところだ。サボった分を3倍にしてみっちりとな」

 

「そっちかよ―――!?」

 

 情けない表情を浮かべてがっくりと頽れる古城。そんな古城に脇腹を小突きながら浅葱は天を仰いで嘆息する。左耳につけた小さなピアスが、空の色を映して柔らかに輝いていた。

 

 

道中

 

 

 錬金術師を捜索する南宮クロウは、空より強襲を受けた。

 

「む」

 

 頭上の真昼間に燦々と照りつける陽光を反射する物体。

 その正体は、銀色の羽をもつフクロウ。

 それがクロウに目掛けて特攻を仕掛けて―――あっさりと、高々と打ち上げられたボールフライでもキャッチするかのようにクロウに脚を捕まえられる。

 

「これは、式神か?」

 

 刃の如く鋭利な翼に金属の身体をしているが、そこに染みつく“匂い”は今クロウが追っている天塚のものではない。

 捕まったフクロウはしばらくじたばたとその刃翼を振るってきたが、やがて一枚の薄い金属板へ姿を変えて、二度と動かなくなる。

 

「おい、お前。オレに何の用だ?」

 

 周囲をぐるりと見回しながら、小さく鼻を鳴らす。その警察犬めいた仕草のあと、クロウがまっすぐ見つめる先………しばらく睨みっこしていると、その景色が蜃気楼の如く揺らぐ。

 

 

「呪術迷彩をあっさり見破るなんて、自信を失くしちゃうわ」

 

 

 その“匂い”を辿り、術者の位置を割り出す。

 特区警備隊で魔族を追跡して、その索敵率が100%を叩きだしているクロウにこれくらいは造作もない。

 姿形や声音は変装変声して偽れても、存在から滲み出る“匂い”までは偽れず、最も誤魔化しがきかない。

 

「初めまして、<黒妖犬>。太史局の六刃、妃崎霧葉よ」

 

 姿を現したのは、若い女。おそらくクロウよりも上、けれどそんなに離れていない、浅葱先輩と同じ高等部の一学年くらいの年代だと推測。

 古風な長い髪に、身に着けている高校の制服も黒。なんだか、主と似た点があるが、向こうはすらっとした女子高生の体型である。そして、その目つきは刃のように鋭く、どことなく冷たい印象を受ける。

 

「太史局……」

 

 それは主より注意しろと忠告された組織。

 陰陽寮の流れを引くという太史局は、獅子王機関と同様の特務機関。人為的な魔導災害や魔導テロの阻止を目的とする獅子王機関に対して、太史局の任務は自然発生的な魔獣災害の阻止である。

 それ故、獅子王機関が対魔族戦闘のエキスパートであることに対して、太史局は対魔獣戦闘のエキスパートなのだと。

 今は武器を持っていない無手であっても、その身のこなし油断できる相手ではない。

 拳を構えるクロウに、くすりと上品に微笑んで六刃を名乗る少女は指摘する。

 

「あら? 三手もらうまで、“私に”攻撃してもいいのかしら?」

 

「む」

 

 その発言で意表をついたその空白に、たん、と軽く蹴る音を残して、黒髪の少女は姿を消す。

 一瞬で間合いを詰めた彼女は、クロウの懐に潜り込み、おっとりとした物腰とは予測もつかない、凄まじい威力の蹴りが―――

 

 

 ドッ!! と。

 躊躇なく、電撃を迸らせて、クロウの側頭部を薙ぎ払う。

 

 

獅子王機関絃神島出張拠点

 

 

 煉瓦造りの小さな建物。

 窓には年代物のステンドグラスがはめ込まれ、看板も色褪せて古い。時代に取り残された店構えにふさわしく、並べられているのも年代物のアンティークな輸入家具。

 ただし、これらの骨董品(アイテム)は全て曰く付きだったもの(除霊済み)。

 そんな骨董品店の店の奥で、

 

「ご無沙汰しております師家様」

 

 すっと膝を揃えて正座した雪菜が、頭を下げる。黒猫に。

 

「姫柊雪菜、参上つかまつりました」

 

 

 

 補習が終わった古城は、ギターケースを背負うご機嫌斜めな剣巫様に捕まり、浅葱と二人で学校を抜け出して修道院に向かったことや、もしも錬金術師と遭遇して一般人の浅葱を守れたのかとか、食事の時のこそこそ話する際に浅葱と顔の距離が近いなど色々と監視役からお説教された。

 最後のは脱線したと思うのだが、生真面目な後輩に一言一言区切って反省を促されたので、古城は深く反省。クロウも言っているが、怒った姫柊雪菜に叱られるのは怖いのだ。

 そうしたところで、ひとつ頼み事されては古城も頷く他あるまい。

 そんなわけで、ホテル街のエアポケットにあった獅子王機関絃神島出張拠点へ古城は雪菜につられてやってきたのだ。

 

 見た目は絃神島では珍しい煉瓦造りのビルであるも、これは偽装。

 政府組織の一部とはいえ、特務機関である獅子王機関は、対魔導テロの謀略工作を支援する連絡所兼補給場である拠点にも細心の注意を払っている。

 

「しばらくぶりだね。雪菜。元気そうで何より……」

 

 そして、そこに愛弟子――煌坂紗矢華を精巧に模した式神(罰ゲームでメイド服着用された)を侍らす黒猫一匹が居座っていた。

 これが、姫柊雪菜を剣巫として鍛えた師家様こと縁堂縁―――が本土から遠隔操作する猫の式神。

 超遠距離から猫と煌坂もどきを操作してるのだからその実力が凄まじいものだと知れるが、

 異国の王女や『戦王領域』の貴族と対面しても物怖じしなかった雪菜がここまで畏れて礼を尽くすほどの相手だ。きっと相当な大物で―――気まぐれな暴君なのだろう。男嫌いなのに男に傅かせるメイド衣装をわざわざ似せた式神に着させる、というその雪菜の姉弟子にあたる舞威姫への仕置き具合を見る限り、厄介な性格をしてるのは間違いない。

 

「それで槍は?」

 

「こちらに」

 

 雪菜が差し出した<雪霞狼>をざっと眺めてから、ぶっきらぼうに言った。

 

「ふむ……一応<雪霞狼>には受け入れてもらえたようだ、にゃん」

 

「はい……………え?」

 

「技は荒いが、刃筋(スジ)はまあ悪くない、にゃん」

 

「は、はい、師家様……えっと、それで、その……」

 

「んん? 何か言いたいことでもあるのか、にゃん」

 

 ありがたい説教を、神妙な顔つきで聞こうとしている雪菜であるも、語尾に戸惑いを覚えているようだ。

 とりあえず、状況を見守っていた古城だが、恐れ多い師の奇行が気になる後輩の代わりに突っ込んでやるとする。

 

「さっきからそのにゃんは何だ? 本当にあんたは猫なのか?」

 

「いやね。ある同級生から、色々と話を聞いたんだよ。構え(ポージング)だけでなく、語尾も可愛く鳴かないと雪菜が怒ってくる、ってね」

 

 やはり、この猫、弟子には相当暴君である。

 ニヤニヤと笑う黒猫もといニャンコ先生。あわあわとする羞恥心いっぱいに顔真っ赤にする剣巫。相当シュールな図だ。

 これと似たようなことが前にあった。そう、元ルームメイトにクラス事情を暴露したのは……

 

「や、やはり師家様、クロウ君に会ってたんですね!」

 

「ああ、一週間前にね。それからちょいちょいと暇を見つけては稽古をつけてやったんだけど、南宮那月と張り合いになっちまってねぇ。最終的に互いの領分を決めて、まあ、それでも詰め込み過ぎた感があるけど、話を聞かせてもらった礼に白兵戦術を一通り叩き込んでやったよ」

 

「ここのところクロウが死にかけてたのはあんたの仕業か!?」

 

「ふふ、ちょっとしたサプライズだよ。驚いたろ?」

 

 雪菜が畏れる魔王師家様に、古城が恐れるカリスマ国家攻魔官の引っ張り合いになっていた後輩の近況を理解して、二人は同情が禁じ得ない。

 しかし、たった一週間コースで、あそこまで技量を高めているとは、この縁堂縁の弟子育成能力はかなり高いのだろう。

 

「それで、そこの坊やが<第四真祖>かい」

 

 古城に視線を向けて、愉快そうにククッと笑い、金色の瞳を細める黒猫。

 

「……一応そういうことになってるみたいだ」

 

 誰が坊やだ、と文句を言いたげに顔をしかめつつも、応答する古城。雪菜の師匠であることは理解したが、それでも猫相手に敬語を使う気にはとてもなれないし、向こうもさほど気にはしてないようだ。

 

「呼びつけてすまなかったね。お前さんとは一度会って話をしてみたかったのさ……礼を言っておこうと思ってね」

 

「礼?」

 

「アヴローラを救ってくれた礼さ」

 

「……ッ」

 

 瞬間、古城は全身の血液が逆流するような錯覚を味わう。

 滅びゆく街並み。

 血のように紅い空。

 そして、それを背にして、虹色の髪を逆巻く炎のように靡かせる、焔光の瞳を持つ少女の影。

 脳裏に映るこの映像に古城は心当たりはなく、しかししかと記憶された過去の映像。

 この頭の奥に響く凄まじい激痛と激しい目眩が、忘れたものを思い出したことへの何よりの証左だ。

 

「あんた……あいつを知ってるのか……!?

 

 先輩……と心配そうな雪菜に体を支えられながら、激しく乱した呼吸を整えてから問う。

 

「ちょっとした因縁があるだけさ。それでもあの『眠り姫』は不憫な子だったからね。救ってくれたことには感謝しているのさ」

 

 焦らなくてもじきにすべてを思い出す、と言って、面白そうに二人の様子を観察しながら猫は続ける。

 

「それにしても……アヴローラだけじゃなく、堅物の雪菜まで手懐けちまうとはね、腑抜けた面構えの癖にやるじゃないか。ふふん……」

 

「て、手懐けられたりしてません!」

 

 古城と密着したのをからかわれた雪菜はまたも顔を真っ赤にして抗弁するが、師匠の駄猫は、嬉しそうにふんふんと意味深に頷くのみ。

 しかしながら、しっかりと<雪霞狼>を検分して仕事は済ませていたようで、

 

「ま、確かに槍は預かった。今この時刻をもって、お前を<第四真祖>の監視役から解く。たまには普通の小娘(ガキ)に戻って、英気を養ってくると良い」

 

 しかし、雪菜はそれに首肯を返さず。無言で師を見つめる。何度かもの言いたげに唇を震わせ、それが意を決して口を開くまでは、猫は足で顔を掻きながら待ち構える。どうやらこの生真面目な弟子からの初めての反抗を楽しみにしてるようだ。

 

「……お言葉ですが師家様。ほんの数日とはいえ先輩……いえ……<第四真祖>の動向から目を離すのはやはり心配です。監視のお役目……私に引き続きお任せいただけないでしょうか」

 

「3、4日ほっといたところで悪事を働くほどの度胸があるとは思えないけどねぇ」

 

「しかし、師家様。クロウ君……<黒妖犬>も、行事よりも任務を優先として動いています。だから、私も―――」

 

「それは獅子王機関じゃない他所様の事情だ。雪菜が気に掛けることじゃないよ」

 

 姫柊……

 やはり気にしていたのか。

 ここに来るまで、宿泊研修の間、雪菜も夏音の身辺警護をするといっていたが、同級生の少年が魔導犯罪にかり出されているのを見て、それでも監視役として事件にかかわれないことを、歯がゆく思っていたのだろう。

 そして古城が知るだけの事情を、どうやらニャンコ先生はご在知のようで、

 

「面白い逸材だよ。邪なものに敏感な紗矢華に初対面で警戒させない、というのは予想以上に驚いたけどね。睡眠中でも反射的に呪詛を送り込むよう鍛えてやった愛弟子が不意を打たれるんだから、あの坊やの無欲ぶりは筋金入りだ。

 まあ、それが反感を買うこともあるだろう。あそこまで無欲で純粋なものは、強欲な人間には認めがたいものだろうからね」

 

 とうとうと雪菜に対し、そして古城に向けても、諭すように、術者が魔族の長命種(エルフ)である猫の式神は語る。

 

「あの『壊し屋』の坊やが不憫なのも承知してる。

 けど、そこの第四真祖の坊やは実感がないようだから言っておくが、半魔とはいえ、魔族の扱いを受けるんなら、それも当然のことだよ。じゃないと、人間社会にはいられない。働かざる魔族に居場所はないね」

 

 真祖である古城だが、未登録魔族で魔族としての扱いはされたことがない。

 この老練な経験者が語るものも、古城は実感としては理解することはできないだろう。だから、こんなにも憤りを感じていて、そして、それを師家様にも、担任にも、そして、後輩自身にも諫められている。

 

「もしも警備隊連中が自分らの面子を気にして、『壊し屋』の坊やを手放すようなら、今後のためにも辞めたほうがいいけどね。そこの<第四真祖>と色々事件で活躍したおかげで、あの坊やは注目を浴びている。

 『戦王領域』の獣人兵部隊にアルディギアの『聖環騎士団』……

 それから、政府太史局の六刃神官――対魔獣戦闘の専門家(エキスパート)が動き出している。あの坊やの能力は臨機応変に対応できるから魔族を相手するよりも魔獣の方が向いてる」

 

「! 師家様、それはまさか―――」

 

 師家様の言葉は、ある現象を示唆していた。

 <黒妖犬>が注目を浴びているということ。そして、動き出しているということ。

 つまり、それぞれの機関や組織が、それぞれの思惑で<黒妖犬>へ接近するということ。

 それは、これからという話ではなく、すでに起きていること。

 そう―――

 

 

「私が雪菜に内緒でこっそり坊やにコンタクトを取ったのは、獅子王機関に引き抜き(スカウト)のため下調べでもあったのさ」

 

 

道中

 

 

「―――<炎雷(ほのいかずち)>!」

 

 

 弾丸のように凝縮された高密度の魔力弾を、クロウは生体障壁を纏う腕で受けて弾く。

 

「最初はちょっと驚いたけど、お前の動き、姫柊にそっくりだ」

 

「ええ、太史局の六刃と獅子王機関の剣巫の源流(ルーツ)は同じで、使ってる流派も『八雷神法(やくさのいかずちのほう)』。私は、あなたの知ってる剣巫の影のような存在。

 けど、どちらの方が上だったか気になるわ」

 

「う。お前の方が(わざ)も多いし、一撃も重い。総じて経験値が高いぞ。けど、姫柊の方が“霊視()”がいいのだ」

 

「つまり、素質は剣巫が上でも、実質的には、互角か私の方がやや上、と言うことですわね」

 

 批評に何やら嬉しげに笑っている少女だが、厚着の少年の方は気弾を受けた手をぷらぷらと振って、ぐーぱーと拳を作って調子を確認する。

 とにかく、これで、三打。同級生の少女に近しい“匂い”―――巫女。つまりは、契約が適用される相手であることは、指摘されてすぐにわかった。

 最初の一発こそもらってしまったけど、よく組手をする雪菜と戦法が似ていたおかげで、どうにか凌ぎ切った。

 仏の顔も三度までという言葉もあるが、これまでいきなり攻め立てられて、一方的にやられっぱなしだったクロウも少しは鬱憤も貯まる。

 しかし、それを晴らす前に、降参、でも言うように両手を上げられる。

 

「む。降参か?」

 

「獣化もせずに、呪符と白兵術を三打のハンデがあって凌がれたんだもの。流石に、得物がないんじゃ、反撃されて勝てる自信はないわ。けど、近接戦で六刃を圧倒できるなんて、思ったとおり有望ね。

 それで攻撃の方も実際に確かめてみたいし、もしもご不満なら、一発打ち込んでくれても構わなくてよ」

 

「いい。気が済んだのなら、オレもう行っていいか? 仕事中なのだ」

 

 拳打蹴撃を交わすたびに酔うように興奮していく性質、この薄らと漂わす戦闘狂の“匂い”にこれ以上付き合う気はない。クロウにあまり時間を無駄にできる余裕はないのだ。

 

「そうね。管轄が違うとはいえ、お仕事の邪魔はしたくないわ。用件は簡単よ。すぐに終わる」

 

 一拍置いて、立ち去ろうとするクロウの背中へ、彼女はこう言った。

 

「南宮クロウ……あなた、太史局直属の攻魔師になる気はないかしら?」

 

「ん?」

 

 眉を寄せたクロウ。

 足を止めて、疑問符を浮かべて振り返る。

 

「ええ」

 

 と、妃崎霧葉は頷いた。

 

 

「―――南宮クロウ。あなた、六刃神官になりたいとは思わない?」

 

 

 

つづく



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錬金術師の帰還Ⅲ

回想 ショッピングモール

 

 

「わぁ、綺麗……」

 

 放課後のショッピングモール。

 その雑貨店のウィンドウに飾られたそれに目を奪われた。

 

 小さな石のはまった金色のピアス。

 その石の色は緑がかった薄い藍色。所謂、浅葱色(ターコイズブルー)である。

 

 そんな名前をした石だから、彼に誕生日プレゼントとして買ってもらいたい。

 

「ね! 古城、これがいいな」

 

「はあ!? あんまり高いのは出せないぞ?」

 

 すぐしかめっ面をするけど、そこは気心の知れた幼馴染がフォローしてくれる。

 

「まあまあいいじゃねぇか。那月ちゃんの補習地獄だって浅葱のおかげで抜け出せたんだし?」

 

「う……しょ、しょうがねぇな……」

 

 嘆息してから、わかった買ってやる、と微苦笑する彼。

 

「マジで? やったー! 古城大好き! ―――……あ」

 

「へ?」

 

 嬉しさのあまりつい出てしまった言葉。

 

「……え、あの……」

 

 何を言えば誤魔化せるか、それともこの勢いのまま本音として告白するかの判断つかずに固まってしまい、しどろもどろになったところ、もうひとりの同行人が声を上げた。

 

「わぁ、おいしそうなのだぁ……」

 

 常夏の島で年中厚着の後輩が、雑貨店とは反対側の飲食店のショーウィンドウに飾られた食品サンプルに夢中。

 尻尾があれば、ぶんぶんと振っていたことだろう。

 

「なあなあ、オレ、これ食べたいぞ古城君!」

 

「はあ!? 何で俺がクロウにご馳走することになってんだ?」

 

「まあまあいいじゃねぇか。那月ちゃんの補習地獄に連れてきたのはクロ坊なんだし?」

 

「それって奢ってやる要素ゼロだよな! 逆恨みされてもいいくらいだと思うぞ!」

 

「ほれ、せっかく懐いてる後輩だ。大事にしてやんな」

 

「だったら、矢瀬が払ってやれよお前も先輩だろうが」

 

「ご指名されたのは古城だ。俺じゃない」

 

「うー。オレだって、古城君が補習じゃなかったら、とっ捕まえたりしないのだ。おまけに逃げるから。その分の手間賃が欲しいぞ」

 

「それはこの前の金的(アレ)で入院しかけたからだ! マジで死んだかと思ったぞ!」

 

「対ハーレム野郎に特化した必殺天誅技『玉天崩』またの名を一夫多妻去勢拳、師父直伝の禁じ手なのだ」

 

「禁じ手なら使ってんじゃねェ! そんな恐ろしいもんは永久に封印しとけ!」

 

 男三人で騒いでくれたおかげで、先の発言はなかったことにされて流された。

 助かったというべきかなんというか。

 とにかく、今は、このままでいい。

 けど―――

 

「あ……あ~~、私もそれ食べたい! 古城、奢って♪」

 

「え!? 大食い(お前ら)二人にメシ奢るとか破産確定なんだけどっ!」

 

 

 ……いつかちゃんと伝えたいな、私の気持ち……

 

 

修道院跡地

 

 

 誕生日に買ってもらった大事な浅葱色のピアスを失くしてしまった。

 きっと、修道院跡地前でもつれ合った拍子に落としてしまったんだろう。

 

 特区警備隊が付近で警戒しているけれど、むしろ警備隊がいるなら安心だとみるべきか。

 しかし補習が終わってからずっと探してるけど、小さいからなかなか見つからない。もう夕方ですぐにこの辺りも暗くなる。

 ここは古城に責任とって、探し物に付き合ってもらうか。

 ―――と、浅葱がスマートフォンを取り出したその時、轟音と共に大地が揺れた。

 

「きゃあ!」

 

 身体が一瞬宙に浮いて、浅葱は投げ出されるように歩道に転がった。肩にかけていたバックが吹き飛んで、中身がバラバラにぶちまけられる。

 それを回収することはできなかった。

 それだけの余裕がなかった。

 林の向こう、修道院の建物を崩壊させて、原生生物のように不定形に蠢く漆黒の流動体が姿を現した。生物でもなければ金属でもなく、決まった外観(かたち)すら存在しない―――そんな不安定で、暴走した脅威が迫っているのだ

 

「―――なによ、こいつ……!? 血、みたいな……水銀みたいな……女の人!?」

 

 身体の痛みに耐えながら、のろのろと立ち上がる浅葱は、一瞬だけ女性の形をした何かを目撃したが、すぐにそれも漆黒の流動体に呑まれた。

 異音を放ちながら多様に変形するそれは、失敗した生き物の進化の過程を辿っているようでもあった。陸に打ち上げられた魚、空より落ちた鳥、異形の獣、そして人類。ありとあらゆる生物の遺伝子を取り込んだ合成獣(キメラ)であると納得できたであろう。

 しかも、その怪物は周囲の物質と無差別に融合して徐々に成長を続けている。最初は軽自動車ほどの体積は、既に小型のトラック程度にまで膨れ上がっている。

 

 そして、何でもを取り込み続けるブラックホールの如き悪食は、浅葱のことをどうとらえるか。

 

 逃げなきゃ―――と浅葱がそう思考した時、漆黒の怪物は咆哮した。

 

 不定形の流動体からリボンのような細い帯がゆるゆると伸びる。それはリボンなどではなく、刃のように研ぎ澄まされた巨大な触手で、途中、無数に枝分かれして辺り一面に乱雑に振るわれる。斬撃は無秩序で、しかしそのひとつは確実に浅葱の身体をなぞる軌道。それを眼前に、浅葱はとっさに体を横に飛ばして回避行動を取ろうと思考。だが、肝心の体は浅葱のその思考にちっともついていけない。足が震えているからか、恐怖で体が竦んでいるからか。

 どちらも違う。これは、意思が下半身に伝わっていないのではなく、意思が加速しすぎて、 その伝達速度に体がついてきていないのだ。

 死の間際の刹那に、視界が異常なまでにゆっくりになり、浅葱は目前に死神の鎌が命脈を絶たんと迫ってくるのを肌で感じ取る。意識が現実を置き去りにし、眼球を動かすことすら叶わない。故に浅葱の視界に残っているのは、眼前に迫る触手を除けば、目の端で勝手に画面が表示されたスマートフォンのみ。そこに映る絃神島すべての都市機能を掌握する現身(アバター)――モグワイ。

 

『安心しな、嬢ちゃん。この絃神島(しま)にいる限り、大事な相棒を死なせたりしねーよ。“何を犠牲にしてでもな”』

 

 自らの命が脅かされている状況で、響いたその皮肉気な合成音声は聞き慣れた人工知能のものでありながら、しかし幻聴と思うような記憶に残させない不確かさでこの刹那に浅葱の鼓膜をゆるやかに叩いた。

 

 咎神を祀るモノたちの“血”、それは何が何でも『巫女』を守るだろう。

 それが使命。たとえその宿命を知らずとも。

 殲教師にキーストーンゲートを襲撃された時も、

 黒死皇派に誘拐された時も、

 波朧院フェスタで脱獄犯に狙われた時も

 真っ先に馳せ参じた、この必然も同然の三度目の偶然―――そうなるように“運命が操作される”。

 この四度目もまた、同じこと―――

 

「あ……れ……」

 

 瞬きの間に、視界が美しいルビーのような夕焼けの空に変わってる。

 痛みも、ない。この制服が切り裂かれて、胸元があらわとなっているけど、それも薄皮一枚を斬られた程度。

 

「間一髪だったのだ、浅葱先輩」

 

 走馬灯を見たあの刹那の間に割って入り、浅葱の身体を押し倒しつつ、死神の鎌の側面から蹴り飛ばして逸らしたのだ。

 そのありえない人外の力技、その行為をあっさりとやってのけた存在は蒼銀の法被を翻してこちらに顔を見せる。

 

「クロウ……!」

 

「昨日は古城君がピンチだったけど、今日は浅葱先輩だぞ。こういうの、お似合い夫婦っていうのか?」

 

 危機的状況の中でも、日常会話を忘れない後輩は能天気に、浅葱の顔を真っ赤にさせることをのたまうのであった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 修道院跡地に詰めていた警備隊からの定時報告が途切れた。

 それにイヤな予感を覚えたクロウは、独断専行で駆けつけ―――遭遇した。

 

「―――オマエ、ちょっと違うやつだな」

 

 思考が戦闘態勢に切り替わる。

 錬金術が生み出した化物。

 これまで三度、不定形の金属生命体と戦闘したが、それとは色が違うが、質も違う。自然、これまでのが模造品でありこれこそが真の不滅であると理解して、細胞という細胞から余裕が搾り出されていく。

 南宮クロウは、未だ立てないでいる藍羽浅葱を背に庇うよう、前に出て、その暴走した霊血と対峙する。

 漆黒の<賢者の霊血>は禍々しく慟哭し、手負いの猛獣のように激しく蠢いている。

 それを見て、クロウも<神獣化>を――――できない。

 

「む。そうだったぞ」

 

 落ちた蒼天に潰されぬ限り、荒れ狂う白き海に呑まれぬ限り、裂けた緑の大地に喰われぬ限り、この契約は破れない。

 今朝、叶瀬夏音の制止を振り切ったクロウは、<禁忌契約(ゲッシュ)>を破ってしまっている。『王族の頼みを二度続けて断ってはならない』その誓約を守れなかった今、クロウは一日、その獣王の力を封印する制約が課せられている。

 

 この不滅の怪物は、神獣の圧倒的な力で吹き飛ばしてやる他ない。

 それが取れないのならば、手段はひとつ―――

 

「浅葱先輩、逃げるぞ」

 

 倒れ込んで立てないでいる浅葱を片腕で抱え上げて走り出す。

 逃げた獲物に背後よりそれは追いかける。

 猟犬というよりはもはや巨獣。

 クロウのように木々をすり抜けられない巨獣(ソレ)は、行く手を阻む障害(きぎ)を呑み砕きながら近づいてくる。

 トンネルを削る巨大な削岩機が高速で迫ってくるような錯覚。

 真紅の壁は少しずつ加速しながら、クロウ達を喰らわんと突き進んでくるかのよう。

 

 ……まずいぞ。

 

 立ち止まればやられる。

 間違いなく。

 不滅の怪物はその身を砕こうがすぐに修復して、人型時の胴体など工事現場の機械のようにズバグシャリと木端微塵に、跡形もなく踏み潰されるだろう。

 

 そして、人一人を抱えて走る人間時のクロウと真紅の壁の速度は同じ。

 林の中、不確かな足場に乱立する木々の中を、両手を塞がれて浅葱を抱えたままで、全くスピードを落とさずに駆けているが、コース取りを気にせず最短距離で直進する霊血の方がやはり有利で、一分もしないうちに間違いなく追いつかれる。

 そして、ここから人通りのあるところまでおよそ10分はかかる見込みだ。

 

「やっぱりダメ……! 私を落として、クロウひとりで逃げなさい……!」

 

「まだ追いつかれたわけじゃないし、ちゃんと考えてるのだ。アイツは振動(おと)体温(ねつ)で相手を識別してる。金属だからな。目も見えないし、鼻も使えない。だったら、ごまかすのは簡単だ」

 

 不滅の怪物。しかし、クロウはこれまで三度の天塚の模造品(レプリカ)との戦闘で弱点を見出している。

 あのような人間の形態を止めた、しかも暴走状態にある不定形(スライム)の感覚器。それが、その液体金属が役目を果たすのならば、何が感知し、情報を伝達しているのか?

 視覚、嗅覚、味覚はそれぞれに特化した知覚装置がなければ不可能だ。故に可能性としてあるのは、触覚と聴覚。触れもしないうちにその位置を特定しているところを見ると、空気振動を判別したり、気温変化より熱源を察知することも可能だろう。

 既に足音に関しては、生体障壁を変形させた肉球で殺している。

 だから、心拍音、呼吸音、そして体温さえ誤魔化せれば、こちらの存在は捉えられなくなるなる。

 

「ここが、森で助かったのだ」

 

 己の“匂い”を染みつけさせることで手足の如く指揮するという超古代人種『天部』に匹敵するその超能力。

 遠吠えひとつ。それだけで“全土にマーキングされている”この林は従う。夏音が猫を拾い、その世話の手伝いをすることになってから、何くれとなく訪れては、話しかけ、水を与え、世話をしてきたこの学校の裏林。

 

 活性強化された林が意志を持つかのように騒めいて、これまで荒らしまわってくれた霊血に襲い掛かる。

 地中より突き出る根の槍、氷雨となって降りかかる葉の刃、そして、長い枝が自然の鞭となって霊血の水銀触手を払う。

 この並の精霊使い十人分にも勝る膨大な支配力をもって、全方位から霊血を滅多打ちにその体を穿つ。

 

 しかし、それでも倒すことはできない。

 蜂の巣にされながらも障害全てを破壊して不滅の霊血は進む。

 

 

 

 ―――獲物(クロウ)たちを見失って。

 

 

 

「浅葱先輩、ちょっと心臓を止めさせてもらうぞ」

「へ―――」

 

 林が大地を震動させながら、霊血に猛攻していたその時。

 隠遁術の使えない素人(あさぎ)を速やかに息の根を止めた。捕らえた獲物を、首を絞めて落とすように。

 眠るように仮死された浅葱のかすかな呼吸と脈拍のペースにブレーキが掛けられた血流の微温は、この騒々しく暴れる自然界のノイズに紛れ込んでしまい、

 そして、体温をも遮断する隠れ蓑に被されれば、金属生命体には知覚できない。

 そうして、クロウは霊血が遠くに行ったのを見計らい……ちょうど20秒後に胸の気穴をとん、と軽く指でついて心肺蘇生。獅子王機関の魔導の鬼才にして師範たる師家様の詰め込み修行の成果で、『八雷神法』と一緒に習得した『八将神法』の暗殺拘束呪術を駆使して、難を逃れたクロウは、起こした浅葱から脳天に感謝のチョップをもらう。

 

「痛いぞ浅葱先輩」

 

「こっちはびっくりして心臓が止まりかけたわよ!」

 

「ん、ちゃんと心臓は止めたぞ」

 

「止めたぞ、じゃない! ああ、本当に無茶苦茶ね! 古城の気持ちが少しだけわかった気がするわ」

 

 とりあえず、これで危機を免れた。あとは浅葱を無事に林の外へ送り届けて、クロウは修道院跡地へ向かう―――

 

 

「逃げられちゃったか。中々上手くいかないもんだね……まあいいさ。代わりに思わぬ見つけものができたし、昨日のお返しができそう―――」

 

 

 その笑い含みの冷淡な声を拾うと反射的に、腕を振るうクロウ。

 弾丸のように放たれる、三条の電光手裏剣が、その声主である白いコートを着た錬金術師の青年に飛来して―――中空で弾かれた。

 

 ぐる……と。

 

 何か大きな獣が唸るような鳴き声が聞こえた。

 それはすぐ近くから、吐息を吹きかけるような生々しいものを覚える距離で、何かが唸り声を上げた風に思えた。

 

「いきなりご挨拶だね<黒妖犬>」

 

 特徴的な赤白の帽子と銀のステッキは身に着けておらず、その右半身も褐色となって紅い刺青が走っているが、この男の顔と“匂い”は間違いなく、天塚汞。

 

「あんた、何者……」

 

浅葱(それ)を僕に渡してくれるなら、見逃してあげてもいいよ」

 

 見ているのは浅葱であるが、それを無視してクロウに交渉する天塚。

 戸惑う浅葱をクロウは下がらせた。

 理由はまだわからないが、天塚の狙いが、先輩であることをクロウは理解する。

 そして、迂闊に自分から離して、浅葱を一人逃げさせることができないことを。

 

「ここに、何かいるのか?」

 

「おや? 姿かたちなきこの人工精霊(エレメンタリィ)に気づくのか。やはりその『鼻』は厄介だよ」

 

「エレメンタリィ?」

 

「そう。人工精霊(エレメンタリィ)は、人工生命体(ホムンクルス)の創造においても、必須の材料だ」

 

 功魔師の式神や魔女のファミリアと同じ、錬金術師が造り出す精霊たち。

 そして、脱獄犯の精霊使いキリカ=ギリカがその力を借りていた炎精霊と同じく、その存在は人間の感覚では知覚できない。いわば、魂と同じ、幽霊のような存在。

 

「『アゾット剣』の材料にした呪われた殺龍剣(アスカロン)に染みついているのは魔獣の怨念から性質の悪い魔族の悪霊までよりどりみどりでね。

 片端から<偽錬核(ダミーコア)>に残留思念を転送させて、自分の使い魔(アガシオン)に加工したんだよ。そんなわけで」

 

 悪魔を飼ったとも逸話のある“完全なる(アゾット)”剣と化したその右腕を振るい、呪力を混ぜ合わせれば、人工精霊は無限につくれる、と。

 

 屍の山と多量の討伐された魔族魔獣の残留思念を、意志を記録する<錬核>の性質を利用して取り込み、術者の力に変える。

 

 天塚が軽く右手を捻った。

 その<偽錬核>と接続したる『完全なる剣(みぎうで)』で煽ぐようにして、一回転させる。

 すると、そこに不透明な何かが生まれたのである。

 

「精霊とは人の目には見えないものだ。現象が意思を持ったものと言ってもいい。当然、人工精霊も同じだ」

 

 ぐる……という獣の唸るような音。

 

 真後ろから、30cm以内の距離で『何か』が響いた。巨大で、圧倒的な、『何か』がいる。大型犬なんてものではない。動物園の檻にさえ収まりきれないほどの、『何か』が。

 “物理的”に、存在はない。

 だが、気配を感じる。

 徐々にその巨躯を大きくし、やがては眷獣に匹敵する何かを心で知覚した。

 

 

 直後。

 一撃をもらい、そのまま地面に押し倒された。

 

 

 相手にとっては遊びのようなものだったらしい。

 真上から落下してきた鉄球に押し潰されたような衝撃に、クロウの身体が地面に屈する。メキメキィと鈍い音が鳴り、異様な重圧に呼吸が止まる。絞り出されるように、血の塊が喉から口へとせり上がった。

 

「ごっごふ!?」

「クロウ!?」

 

「本質は形のない呪いのようなものだよ。殺龍剣に染み込み、そして僕の手で醸成された魔獣魔族たちの怨念といってもいい。だから、避けようが、警戒しようが、そういうのは関係ない。僕がやれと命じれば、人工精霊はやる。そういうわけさ」

 

 <黒雷>

 <隠れ蓑>に伝導して増幅される呪的強化で、重圧を受けながらもクロウはその身を起こす。この殺されてきた魔獣魔族の念から作られた人工精霊にのしかかられる重圧は、その魔獣魔族らの総重量に等しい。

 

「こ……の、ォッ……!」

 

 みぢみぢみぢみぢみぢっっっ!!!!!! と細い繊維の束を引き千切るような音とともに、クロウはその場で押し潰されずに立ち上ろうとしている。予想される重量は、500kg? それとも1tを超えているのか? <監獄結界>に飾られているような不気味な拷問器具の記録によれば、仰向けになった犠牲者へゆっくり上から荷重を加える分には、300kg程度でもショック死せずに生き残る場合もあるそうだが、明らかにこれは限度を超えている。

 しかしそんな屍の山を一身に背負い、立ち上がれるところまで肉体が無茶するほどの強化の倍率を上げているのだ。1t超の荷重にも耐えうるということは、人型でありながら限界まで強化されたクロウの筋繊維の強度は鉄筋コンクリート製の柱に匹敵するだろう。

 それを見ても天塚はさして恐れることもなく、拍手すら送って見せるだけの余裕を見せつける。

 

「頑張るねぇ<黒妖犬>。でも、この人工精霊は副産物だ。本題は『完全なる剣』だ」

 

「……今聞いてやらないとダメかその話?」

 

「アゾットとは、『水銀』を意味することもあるけど、『完全なる』という表現でもあってね。この剣の前の持ち主は、半分もその真価を発揮できなかった。けど、『完全なる剣』として加工したことでそれを完全に掌握したといってもいい」

 

「……難しい話は無視するぞ」

 

「殺龍剣を取り込んだとしても、剣術に関する知識《心得》のない僕には扱えるものではない。だから、それを僕の錬金術が生み出した成果たる<偽錬核>を接続させて100%その剣の意思を発揮できるようにした」

 

 天塚の呼吸を読み、感情を探り、その会話の合間を縫って、奇襲で一気に制圧しようとした時だった。

 

「まあ、吸血鬼の『意志を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)』みたいなものになるね」

 

 天塚の右腕が、こちらの超能力の読心が予期せぬタイミングで、動いた。

 

「魔獣魔族の類が近づけば自動で迎撃されるようになっている」

 

 『完全なる剣(みぎうで)』を見せつけて、錬金術師は囁く。

 

 

「『完全なる剣』から生じるのは、もちろんありとあらゆる魔獣魔族を切り伏せる“英雄の絶技”だ」

 

 

 ……ま、ずい……ッッッ!!!???

 魔術師研究者であり白兵戦で素人な天塚汞と見て、完全に『間合い』を見誤った。今、その右腕だけは紛れもなく人間の極致たる“英雄”のものなのだ。と思った瞬間にはすでに状況は動いていて。

 恐るべき斬撃が、稲妻のように襲い掛かってきた。

 

 

道中

 

 

『古城、クロウが……クロウが……死んじゃう……』

 

 

 それが電話より聴こえた最後の言葉。

 古城の携帯といきなり勝手に繋がった通話。それより聴こえた同級生の悲鳴に、後輩の苦悶。

 もう電話の声を聴いてからの記憶がないほど必死で。

 モノレールから降りてからは、何度も電話を掛け直しながら古城はその携帯に表示されているGPSの下へ、古城、そして雪菜は全速で走る。

 

「間に合え―――ッ!」

 

 

修道院跡地 付近

 

 

 くるん、と棒切れのようなものが空中で大きな円を描く。

 くるん、くるん、と。

 

 ―――

 まだ、痛みはない。だがわかる。回っているのは自分の右腕。肩のところから容赦なく切断されたその腕が回っているのだ。

 直後。

 真っ先にクロウは足元に倒れている浅葱を残る左腕で拾う。空中で回る右腕は口で強引に噛みついて固定。

 そして浅葱の体に強烈な負荷(G)がかかるが構わず、この『間合い』から“全力で”逃げる。幸い、『完全なる剣』が斬撃を放つには、人工精霊の重圧を解除しなければならないらしい。

 うっ―――とゼロから最高速まで急加速する高速移動の空気抵抗に圧を受け、苦しむ浅葱。それに目を細めて眉を寄せるも、さらに体を前へ前へと進ませる。

 その間、

 

「尻尾を巻いて逃げるとは、賢い選択だ<黒妖犬>。―――でも、逃げられるかな?」

 

 錬金術師に振るわれた『完全なる剣』は、都合三度。

 サンゾンバン!!!!!! と、金剛石(ダイヤモンド)も切断加工するウォーターカッターのように放たれる斬閃は、数十m単位で空を引き裂き、あたりの木々に地面を割断。クロウは上半身を振って回避行動をとりながら、宙空を蹴って、一身砲弾と化して発射する。

 全力で、遠くに放物線を描いて飛んで、浅葱の体を包むように抱えながら肩口から地面に落下。

 

 ざざざざざ、と地面を滑る音。跳躍着地の衝撃をうまく殺せずに転がる。風に飛ばされたゴミのように草地を跳ねて、止まった。

 そして、起き上がる前に、口で咥えていた右腕を地面に吐き捨てる。

 

「が、はぁ!! ……ぜひゅ、はあ……アイツ、やっぱり苦手だぞ……」

 

「だ、大丈夫なの、その右腕!?」

 

「ん、っく。オレ、怪我の治りが早いから、くっつとけば大丈夫、たぶん」

 

 全身に冷や汗が滲む。

 『黒死皇派』の古兵ガルドシュが、斬られた腕をくっつけられたように獣人種の治癒能力は高い。しかし、今はその獣人としての力は契約により封じられているせいで、それも半減しているが。

 

「たぶん、って! もう、早く病院に行かないとその腕が」

 

「腕だけじゃない。“全部避けきれなかったぞ”」

 

 どういう意味? と浅葱はクロウを見る。見れば、そのいつもの厚着に薄っすらと線――斬られた痕がある。

 

「……もうぶった切られてるのだ。一発も避けられなかった。“あまりにも鋭すぎて、まだ破壊が追い付いていないだけ”だぞ」

 

 これまで見切れていたクロウでさえ視えなかった、そして、切られたことに一瞬気づくのが遅れてしまったほど。

 それは術者の物質変性も間に合わぬほどであるようだが、その攻撃は光速のレーザービームのよう―――

 

生体障壁()で固定してるけど、気を抜いたらオレの体はバラバラのブロック肉になる」

 

 流石にそうなると助からない。

 死んでも蘇る真祖な先輩のような例外でもない限り、終わりだ。

 

「それに、浅葱先輩を担いで逃げられる自信もないのだ」

 

「そんな私のことは―――」

 

「立てるのか?」

 

 唇をかむ。

 着地の衝撃を殺しきれなかったせいでもあるが、腰が抜けて、立てない。

 ここで先輩一人を放置して逃げるという選択肢がない以上、生き残るには、いつまでもつかわからない制限時間内であの錬金術師と決着をつけるしかない。

 正直。

 状況は、かなりまずい。

 一秒の隙もあれば核を撃ち抜ける自信があるは、それだけの間なんて『完全なる剣』には―――

 

「―――伏せろ、浅葱先輩!」

 

 頭を地面につかせる勢いでたたきつけ、直後。

 

 

 ゾン!! と。

 眼前の林が、斜めに裂けた。

 

 

 視界にあった木々のどれもが、数十mの単位で一気に『完全なる剣』がすべて薙ぐ。伐採する。

 ……また上半身のお腹あたりもぶった切られたが、この際もう覚悟が決まった。

 修道院跡地庭先の林や地面もスパスパ斬られるのに、自身の体が時間差なのは、おそらく水分や脂肪で断面同士が若干ながら接着されているおかげでもあるだろう。

 あまりに鋭過ぎる切れ味は、切った相手にそのことを覚らせないというが、今のクロウの肉体がまさにそれだ。

 これを自覚して生きているというのは、我ながら呆れるくらい馬鹿な身体である。

 だけど、流石に無理があるだろう。

 今はかろうじて意識があるが、だんだんと視界が狭まっている。そもそも少しでも気を抜けば、中身がごっそり零れ落ちるこの状況で、この“眠気”に負ければ、永遠に眠りにつくことになる―――と。

 

「む―――う」

 

 ボトリ、と。

 獣人種の治癒性を発揮できず接続しきれない右腕が、落ちてしまう。

 

「動かないで……! もういいから、動いちゃダメ、クロウ……!」

 

 ……浅葱先輩の声が聞こえる。

 痛みはマヒしてるが、断たれた右腕からの流血も止まらない。“眠気”もだんだん濃くなっていく。

 きっとこのせいで、浅葱先輩は取り乱しているのだ。

 

「五度も受けて、まだ生きてるのか。しぶといね」

 

 近づいてくる、嗤い声。

 それがあまりに耳障りなので、消えていく意識が、しっかりと身体にしがみついている。

 

「は………あ―――!」

 

 残る左腕に力を込める。

 ずるり、と血の池を作る足元に滑りながらも地面を掴み、切断しかけている体に気を入れ直す。

 

「―――まだだ」

 

 片腕だけで構えをとる。

 両足は、断線しかかってるのか、上手く、動いてくれない。生命力も血液と一緒に垂れ流しで、心臓は鼓動を打つごとに弱まる。

 

「ふんっ、ぬ」

 

 左腕に力を込める。

 鉄にでもされたのか。

 それでも、腕は鈍い音を立てながら動いてくれる。

 そして、一歩踏み出そうとし―――ずるり、と血に足が滑って膝をつく。

 

「ぐ―――この」

 

 力を込める。また立ち上がる。

 そのたびに開いていく傷口から、何か生きていくのに必要なものがごっそりと零れ落ちていく。

 

「もう死にかけているというのに。そんなにそこの女が大事なのかい<黒妖犬>」

 

 『巫女』を命を懸けて守護せんとする血に宿るその咎神の意志か―――いいや。

 

「浅葱先輩は、大事な先輩だ。でも、それだけじゃない」

 

 左腕が、帯電している。

 最期に一太刀を浴びせるつもりか。―――そんなもの。拳打をまともに放てない今の状態で、『完全なる剣』に挑むなど無謀もいいところだ。

 

 だが、こうなるとは予想がついていた。

 夏音が危惧していた時から、それで引き留められて、止まらなかったのは自分だ。

 後悔と痛苦も皆背負い、なおこの体を突き動かすのは、至極単純な想い。

 

 

「本当に宿泊研修、楽しみだったんだ。それを約束破ってでも、凪沙ちゃんを泣かせてでも―――守ると決めたんだ!」

 

 

 だから、絶対に守る!

 吼える。

 物理的な現象を無視して、精神が肉体を凌駕する。

 身体を保持している生体障壁を解いて、この一撃にすべてを集中させる。

 その途端、クロウの目から紫電がぱちぱちと迸り、残っている生命力が大量に、急速に消費されていき―――世界が色を失い静止する。

 

 

 未来はあやふやで、ひとつに決まっていない。

 現在から未来を見渡した時、それは分岐し、変化し、只管何通りにも広がっている。

 起こりうる事象すべてが無限に分岐し樹のように伸びている

 どのような未来へも道は繋がっていて、どのような未来も起こる可能性はある。

 そして、ひとつの道を選んで前に進んだ時、後ろに下がった分岐はすべて無くなり、過去という一本道になる。

 後ろは一本、前は無限。

 未来は未知であり、未定である。

 

 霊視の未来視とは、視認し得た情報と知性が持つ未来への予想を統合して、現実の域にまで高めたモノ。つまるところ、数秒先の未来を視ているのではなくて、現実から導き出される数秒後の結果を視ている。

 直感ではなくて、高度な情報処理技術だ、と師家は語る

 

 従って、当然、外れることはある。視認できない不可視な攻撃や反射域を超えた突発的な不意打ちには、予測できずに食らってしまうし、初めて対峙するような実力が未知数の相手では、読みにくい。

 そして、余りに先のことは脳がオーバーフロウするため、ほんの一瞬先の未来しか計算できない。

 

 だから、もしも何の前提もなく未来を視るのだとすれば、それはもはや予測ではない。測定だ。特権ではなくて、越権行為。

 

『坊やの“霊視()”は雪菜(ひと)のより、『(けもの)』に近いねぇ』

 

 その越権行為をする存在がいる。

 この世に生まれ落ちた直後に、あやまたずに未来を告げて、そして、死ぬ、人頭獣体の魔獣『(くだん)』。

 生まれてすぐに死んでしまう『件』は、何も見ないで未来を予言する。

 どんな未来になるかという到達点を測定できている。

 だからこそ、代償として生まれたばかりで『件』は生命が尽きる宿命なのだ。

 無限の分岐をひとつに集束させて、必然としてしまえるのだから。

 

 そして、未来が測定できるだけでは、この状況は覆せない。

 この『完全なる剣』より、先手を打てるようでなければ―――

 

『この私と使い魔契約している以上、これの才能がないとは言わせんぞ』

 

 <空隙の魔女>の眷獣として覚えたいものがあった。

 彼女のサーヴァントであるとそんな証として、せがんで召喚黒魔術のついでに教えてもらった、空間制御。

 何度か補佐があってしたことがあったが、独力では、移動するなら自分の足でした方が速いと主からのお墨付き。

 空間制御に必要な魔術演算量は、移動距離に比例して指数関数的に増大するものなのだから、単独でやるというのがまず無茶だ。

 そして、空間制御は目的地の座標を正確に捉えてなければ行使できない。

 

 ―――今、クロウは必然とされた確固たるイメージの未来像が頭の中にある。

 

 ただし、それは空間ではなく、一秒後の時間。距離とは別次元。空間制御で記憶を辿り過去の現象を引き出すという技が可能だというが、その難易度は超高等魔術級のものだ。

 それでも南宮クロウには過去と同じ一本道であって、その一本道の距離をゼロにするイメージが、できる。そう確信した。

 

 

 必然とされた未来を視て、それが現在と未来が重なり、現在と一秒先の未来までの時間がゼロになれば―――届く。

 

 

「ばいばい、<黒妖犬>。人間のまま君を殺してあげよう」

 

 振り下ろされる錬金術師の『完全なる剣』。放たれるは、英雄の絶技に等しき、斬られたことも肉体に気づかせない神速の水銀斬撃(ウォーターカッター)

 一秒後、×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()―――

 

 

 霊視で『一秒先の未来を視て』、空間制御がその『到達する時間をゼロにする』。

 

 

「―――<(ユラギ)>!」

 

 

 生の終わりに見た未来へ伸ばした、その因果を超越させて自らの拳は、『完全なる剣』より一秒先に届かせる。

 

 姿を見た者を死に至らしめる。

 突然、轟音とともに出現し、轟音、閃光とともに消える。地面は爆発したようにえぐられた跡が残る。

 ―――その<黒妖犬>の伝承の通り。

 

 閃光が世界を白紙に染め上げた後。

 少年ごと割断されるはずの風景は、いつまでも動かない。右腕を振り下ろした体勢のまま錬金術師は、いつまでも動かない。

 

 変わらぬ景色の中で、唯一欠けているのは、錬金術師の胸の中央にある――<偽錬核>のあった場所の、一点の拳大の孔。

 貫通させて余計な罅を生じさせないほど力の収束した、最低最小限の致命傷。それが、天塚汞を止めた一撃だった。

 

 

「念のために……ダミー、で―――正解、だった―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「これで、終わった……」

 

 標的の核は打ち砕いた。

 

「あとは……凪沙ちゃんに謝って……」

 

 まだ、約束まで間に合う。

 なのに、もう体は言うことを、聞いてくれない。

 

「ああ……ダメだ。一緒に、大人に……それまで……死にたく、ない」

 

 それだけ言うと、力尽きたように両目を瞑った。

 

 瞬間、クロウの避けた腹部より腸は流れるように出ていき、急激に体温が下がり、視界が上の方から暗く染まり、さらに両足が断たれた追い打ちに姿勢はついに踏ん張れず、地面が目の前に迫ってくるのは見えた。

 そのまま地面に激突したのかどうかは、よくわからない。

 その前に、クロウの意識は途絶えていたから。

 

 

 

 各部をバラバラにして血塗れに倒れる後輩の身体。

 その様子を見て、浅葱は静かに思った。

 

 ああ、これは死ぬな、と。

 クロウはもう、まともな方法じゃ助からないな、と。

 

「古城、クロウが……クロウが……死んじゃう……」

 

 そう、呟いて。

 そこで、ふいに浅葱の意識は暗転した。

 

 

『錬金術の奥義をもってしても、死人を生き返らせることはできぬが。絶命する間を引き延ばすことはできよう。無駄なあがきとなるかは賭けだが、それをするだけの価値がこの小さな英雄にはある』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「なんだよ、これ……」

 

 最初に古城が見たのは、修道院に起きた異変。

 正面の礼拝堂が完全に崩壊し、瓦礫があちこちに飛び散っている。あたかも巨大な怪物が起き上がって、建物を内側から突き崩したような有様だ。

 そして修道院を警護していた特区警備隊の姿はなく、代わりにその場に金属製の精巧な人型の彫像たちがあった。

 これが、錬金術師の仕業であることはすぐに理解した。

 だが、古城は天塚に用はない。

 

「浅葱は……? クロウは……?」

 

 足を止めてあたりを見回すと途端にそれまでの負担が一気に心肺機能に襲いかかる。荒い呼吸を繰り返し、絶望的な焦燥感に襲われながらも、古城は二人の姿を探す。彼女らとは長い付き合いで、たとえどんな人ごみの中に居ても、すぐに見つけ出せる自信がある。それなのに今は、この場所に気配すら感じられない。

 

「浅葱! どこだ、浅葱……!? クロウも聴こえたら返事してくれ……!」

 

 そこで、古城は、林の奥で木々が倒れてる、戦闘の痕が残る場所を視界で捉えた。

 既に日は落ちているが夜行性の吸血鬼の視力は確かにそこで、二つの人影を見つける。

 そして吸血鬼の感覚は同時にそこに強い血の匂いも―――

 疲労とは別の理由で呼吸が早まり、心臓の鼓動が再び速度を上げ始める。それらの反応に急き立てられるように、古城は林の奥へと踏み込み、

 

「浅葱! クロウ!」

 

 そこに、まず確認したのは制服姿の少女。

 校則違反ギリギリまで飾り立てた派手な服装と、明るく染めた華やかな髪形。そのくせ閉じた端整な横顔には、彼女本来の真面目な性格がにじみ出ているだろう。

 黙っていれば文句なく美人なのに、いつもニヤニヤと色気を感じさせない笑みを浮かべていて―――

 

「すぅ……すぅ……」

 

 だから、無防備な寝顔は見取れるほどに愛らしいものだ。

 その、甘く愛おしい息遣いを、古城の胸を安堵させてくれる。

 良かった。

 息をしてる。生きてる。無事だ。

 そして―――

 

「クロウ」

 

 その向こう、倒れた木々の陰に隠れて、真紅の血溜りに溺れるようにうつ伏せに、“五体満足”で倒れる後輩。

 出血がひどいが、その躰は人よりも頑丈。痙攣を続けている手足を見て、不覚にも生きているかもしれないと安堵してしまう自分がいた。しかし直後に気づく。

 

 おかしい。

 獣人種の自然治癒力が働いていないのか。

 

 遅すぎる理解に達したとき、古城の全身を悪寒がぶりかえしてきた。一度生還に安堵したからか、反動にこれまでにない冷たさを覚える。

 薄らとだが痕の残っている、今も塞がることのない傷口から不定期にビュクビュクと血を噴いている。

 体から急激に血が失われていくのに従って、手足が本人の意思とは関係なく蠢いているだけだと気づいたとき、古城はこの後輩の死を認めた。死に近い、ではなくて、死そのもの、なのだと、認めて、しまった。

 

「嘘だろ……おい……なんで、こんな……」

 

 ああ、もう助からない―――

 

「ふざけんなよ……また……死んだふりしてんのか、おい!」

 

 うつ伏せに倒れたその躰を起こし、古城はその血の気のない顔を見てしまう。

 呼吸も、ない。鼓動も、感じられない。

 

「先輩!」

 

 呆然とする古城を呼んだのは、全速で走った古城を追ってきた雪菜だった。

 彼女の呼吸は随分と荒い。まず助かった様子の浅葱を見て一息安堵して、そして、絶命している同級生に気づいて、さぁっと顔が青ざめる。

 

「クロウ君……!? どうして、こんな……」

 

 気丈を装う雪菜の声が震えている。当然だ。幼少より獅子王機関の剣巫として鍛えられても、確かな愛情を受けて育った彼女は人間で、そして経験の浅い見習い故にだれか親しいものの死に直面したことがない。

 しかし、そこに雪菜が負うべき責はないのだ。

 

「俺の……せいだ……」

 

 そう、悪いのは自分。

 

「姫柊の言ったとおりだ……俺が迂闊にこんなところに連れてきたせいで、無関係な浅葱を巻き込んだんだ……」

 

 そして、

 

「そんな俺のヘマを、クロウに拭わせちまった……」

 

 何が、ふざけるなだ。

 酷い仕打ちに憤りながら、この後輩を殺してしまったのは、自分のせいだ。

 浅葱を守った後輩は誇らしい。しかし、そこに命懸けで失わせてしまった古城は恥じ入るべきだ。

 

「俺が、また―――そうだ、あのときも―――」

 

 記憶が、疼く

 

『た、助ける。我の“後続機(コウハイ)”』

 

 あったはずだ。助けられる手段が、死にかけていた後輩を救った力が―――

 

 思い出せ!

 

 過去の記憶を探ろうとする古城の脳を、握り潰すように制止をかける圧迫感。深く深く潜るたびに、苦痛と嘔吐に苛まれる。

 

 思い出せ!

 

 くるとわかっていても、死ぬことはないとわかっていても、ある領域を越えてしまった激痛は耐えられるものではないし、慣れるものでもない。脳みそに電極をブッ刺して編み物を縫うようにこねられるその痛みは、絶叫と狂ったようにのた打ち回ることをなくして語ることなどできない領域にあった。

 

「止めてください、先輩! 先輩―――!」

 

 古城が何をしているのか悟った雪菜が必死で制止を呼びかけてくる。

 だが、今は邪魔だ、と振り払う。

 

 思い出せ!

 

 現実にしては一瞬、だがこの精神世界で、長く苦しい、堪え難い苦痛の時間が続いている。心臓のリズムは狂い、血流がメチャクチャに押し出されて全身が悲鳴を上げる。痛みについに血涙まで噴き出して、噛みしめた奥歯が思わず割れ砕ける。

 

 思い出せ!

 

 そして、撒き散らされる凄まじい魔力の波動にびりびりと人工の大地が震える。

 眷獣たちが暴れている。世界最強の吸血鬼――<第四真祖>が血の中に従える異界からの召喚獣。それを霊媒の血もなしに、痛みに塗れた記憶を頼りに引き上げようという無茶をしているのだ。無制限に暴走しても何ら不思議ではない。

 やがて苦痛の時間は遠くなり、視界が真っ白に染まり―――

 忘我の果てに、暴走する真紅の魔力が、ひとつの影を作り始める。

 この世界最強の吸血鬼の血に宿る十二の内のひとつ。

 あのとき、“彼女”が呼び出した『十一番目』の眷獣<水精の■■>―――

 

疾く在れ(きやがれ)ぇぇえええっ!!!」

 

 

 

 何かおぼろげに実体が形作られても、そこから洩れる魔力の暴走はさらに勢いを増す。

 雷撃や衝撃波の余波が生じて、それをどこからともなく現れた紗矢華を模した師家様の式神が、強固な防護結界を展開して雪菜の盾となり、その致命的な直撃を防ぐ。

 おそらくまだ見ぬ彼の眷獣を呼び起こそうとしているその無茶に、絃神島が耐え得るものではなく、そして何より先輩が危うい。あれが想像を絶するほどの苦痛を味わい、噛み殺してる表情であることは雪菜にはすぐに察した。

 しかし、<雪霞狼>のない雪菜に<第四真祖>の力を止める術はなくて―――

 

 ぷっつん、と糸が切れたように、古城の身体が頽れた。

 

「先輩!」

 

 それと同時に、魔力の暴走も霧散する。

 雪菜は倒れる古城の傍に駆け寄った。途中、血を流している額を指で拭い、そして、昏倒している古城の口に血の付いた指先を入れる。

 

「お願いです起きてください! こんなところで暴走して、先輩まで失ったら私は……!」

 

 そう呼びかける雪菜に、指先を吸われる感覚。赤子が母乳を吸うように、この優れた霊媒たる剣巫の血を余さず口腔内の舌は舐め取る。そして、呻きつつも、僅かにその瞼が反応する。雪菜は膨らませた胸を、ゆっくりと撫で下ろし―――

 

 

『おお……お……Oooooo……』

 

 

 一瞬先の未来を視る雪菜の霊視が、その存在を捉える。

 向こうの茂みから聴こえる罅割れた歪な声。

 発しているのは、黒錆に覆われたような、金属質の肌をさらし、胸元に穴を空けられ、そして端々から輪郭が融けている――錬金術師、だったもの。

 人間の形が崩れて、ドロリとした漆黒の流動体へと変わっていく。不定形の液体金属の塊に。

 

「まさか―――あれが、<賢者の霊血>……!?」

 

 不滅の肉体と無尽蔵の魔力。錬金術師が追い求める完全なる“神”の肉体。

 ―――こんな、歪なものが……!

 

 金属生命体の躰より伸びる複数の触手。それぞれが意思を持つ蛇のようにのたうって、様々な角度からこちらに襲いにかかる。

 

 ―――しまった……っ!

 

 霊視で視たのに、動き出すのに遅れた。吸血鬼の反応速度をもってしても回避不能の攻撃に、人間の雪菜が先手を取らずに避けられるわけがない。

 

 ―――寸前、雪菜に迫っていた触手はすべて、空間ごと食い千切られた。

 

疾く在れ(きやがれ)、<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>!」

 

 意識を覚醒させた古城が鮮血噴き出す両腕を掲げる。鮮血はゆらりと陽炎のように揺らぎ、巨大な眷獣の姿に変わる。『三番目』の眷獣で、すべての次元ごと空間を喰らい、世界から消滅させる次元食い(ディメンジョン・イーター)―――

 水銀の鱗に覆われた双頭の蛇龍。

 

 あれが浅葱を襲い、クロウを殺した―――

 そして、今斃さなければ、雪菜が殺されていた―――

 

 古城は何故かそれを理解する。

 魔族としての本能がそう告げる。容赦はするな、と。

 

「―――食い尽くせ!」

 

 宿主より命じられた水銀色の眷獣は緩やかに流動する蛇身をうねらせて、開いた巨大な咢に、かつて天塚だった漆黒の流動体を呑み込み、跡形もなく消していく。

 

『Oooooooooo……!』

 

 融合増殖する不滅の肉体も、再生能力も、双頭龍の攻撃の前には無力であり、分裂しても

ふたつの咢は欠片も逃しはしない。

 漆黒の流動体は分裂した全ても含めて、消滅した。

 あとに残されたのは破壊されて、何もない平野となった学校の裏林だけ。

 暴れ足りずに不満そうな双頭龍を強制退去させて、古城はようやく深呼吸を吐いた。

 

「終わったんだな……これで……」

 

 夕闇の中、力無く呟く古城の背中を、雪菜は痛ましそうに見つめる。

 後輩の仇でもある、異形の錬金術師は斃した。だが、そんなことを望んでいたわけではない。

 結局、天塚が何をしたかったのかも理解できず、しかし、古城はそれを知りたいわけではない。たとえ知ったとしても、後輩の命はもう―――

 

「古……城……?」

 

 それでも、救えたものがある。

 後輩が、命がけで、救ってくれたものが。

 眠っていた、華やかな容姿の女子高生が、ぎこちなく上体を起こす。

 

「あいたたたた……―――って、クロウは!」

 

 制服が破れて、血に塗れながらも、真っ先に後輩の安否を確認しようとする。

 それに何かを堪えるように目を瞑り、そして俯くのをやめ、重く感じる胸を反らして、一度、空を見る。

 泣くな。俺に、ここで泣いてやれる資格はないんだ。だから、堪えろ―――

 

「浅葱……」

 

 呑み込んで、それから古城は真正面に対峙して、浅葱に声をかける。

 そんな古城に気づき、浅葱はほっと安堵するよう表情を緩ませて―――怪訝な顔をする。

 

「クロウは、もう―――「古城、あんたの胸に張り付いているその子は何なの?」」

 

 言われて、見る。

 やけに重い体―――それは、罪悪感とか精神的な重責からではなく、実際に重量がひっついているのだ。

 

「え? えと………………

 なにこれ?」

 

 思わず、間抜けな声を上げてしまう古城。古城の前に回り込んだ雪菜も“それ”を確認して、目を瞠る。

 古城の胸には、その制服にしがみついて―――

 

「くぅ………くぅ………むにゃむにゃ……」

 

 すやすやと眠る――どこか見覚えのある――小さな金髪褐色の赤子がいた。

 ぶかぶかの、そして、ボロボロに切れた蒼銀の法被に包まれている姿は零歳児のよう。薄らと、妙に力強い、その金色の瞳で古城を見上げ、小さくマシュマロのように丸まっちいお手手が古城の制服のシャツ生地を綿の軽さで、しかししっかりと握っている。

 直感的に、確信した古城は、もう一度天を仰いでから、遠い目で若干現実逃避。

 

(ああ、このパターンは、前にもあったなー……)

 

 泣き笑いに近いが泣くにも笑うにも実に中途半端な感情を持て余しているといった風の表情を浮かべながら、浅葱に仕切り直して言った。

 

 

「クロウは、もう……なんか、赤ちゃんになっちまった」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「はぁ……」

 

 凪沙はリビングのソファに蹲って、深く溜息を吐く。

 部活を休み、学校から帰宅してから、何もしてない。

 明日の宿泊研修の準備は昨日のうちに済ませてあるのだが、風呂の支度も夕食の準備もしない。買い忘れてた牛乳は兄にメールで頼んでおいたけど。

 

「なんで、あんなこと言っちゃったんだろ」

 

 思い出して、また消沈。自己嫌悪。

 でも、そんなことばかりしてるわけにはいかない。

 もうすぐ兄が帰ってくることだし、明日から三日間ほど家にいないから、日持ちのするおかずも用意しておかないといけない。

 とりあえず、身体を動かそう。

 そう、自分に言い聞かせて凪沙がソファより身を起こして、立ち上がり―――

 そこで、玄関のベルが鳴った。

 

「はいは~い、今出ますよ」

 

 玄関を開けるとそこに、

 

「よ、よお、凪沙……」

 

 兄が、ひとつ年上の友人を連れて、赤ちゃんを胸に抱いて帰ってきた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『―――え、えぇ~~~~~っっっ!?!?!? こ、古城君、何その赤ちゃん!? どうしたの!? それから浅葱ちゃん―――わ!? どうしたの、その恰好!? ―――は! まさか、その子、古城君と浅葱ちゃんの―――』

 

 この通り、予想されていた妹の猛追求をどうにか躱した古城は、大きく嘆息して、ソファに腰を下ろす。

 

 あれから、古城たちは修道院跡地に大部隊で押し寄せてきた特区警備隊を避けて現場を後にした。古城は未登録の吸血鬼で、雪菜はその監視役。浅葱は胸元を少し切られていて、服はボロボロ。そして、何か小っちゃくなって生き返った後輩。この状況で警備隊に捕まって、あっさり解放してもらえるわけがない。

 一応、那月にも連絡を取ろうとしたのだが繋がらず、雪菜も師家様に式神を破損させてしまった報告も含めて相談しに行くと途中で離れて、浅葱は念のために後遺症がないか医師

免許を持っている母に診てもらおうとついてきてもらい、結局、赤子は家まで連れてきてしまった。

 

『仕事で忙しいってことで、一日だけ那月ちゃんの遠い親戚の子を預かったんだが、そしたら浅葱が張り切って、できもしない料理をしようとして鍋を爆発させちまって……うんぬんかんぬん』

 

 となぜか上機嫌だった浅葱は、その不名誉な言い訳に顔をしかめたものの、古城もこれ以上に上手い言い訳が思い付かなかった。

 怪物に襲われたとか、眷獣の暴走に巻き込まれたとか、重度の魔族恐怖症の凪沙に聞かせるわけにもいかない。眷獣の暴走に関しては浅葱にもだ。浅葱も前回、幼くなった担任『サナちゃん』を経験していたおかげで、同じ状況に陥ったと勝手に納得してくれたので助かった。

 

 そうして、素直な凪沙は大変だったんだね、と理解を示してくれて、服がボロボロの浅葱にシャワーをすすめて新しいバスタオルと古城のジャージを用意してから、買い忘れていた牛乳と赤ちゃんの世話用具等を買いに急遽家を出ていった。

 

「相変わらずちょこまかしてて可愛いわね、凪沙ちゃん。今のクロウのような子供もいいけど、妹も欲しいわね」

 

「え?」

 

「あ、ちがくて……別に古城との子供とか、義理の妹とか、できちゃった婚とか、そういう意味じゃなくてね」

 

 焦ったように何やら訂正する浅葱を胡乱気に眺めつつ、古城は彼女を追い払うように手を振った。

 

「何でもいいからさっさと風呂入れ。場所はわかるよな」

 

「え、でもクロウは」

 

 と今もコアラのように古城の胸にくっついてる赤子を見る。

 

「あう?」

 

 すると浅葱が視線を向けたせいか、赤子の視線がひゅっと彼女に向かった。赤子の反射行動は予備動作が一切なくて、すべてが唐突。とはいっても、泣いたりはしない。不思議そうに口を半開きにして見つめ返す。

 可愛い。ごく単純に、そう思える。

 とはいえ、それが笑顔でないのは生まれたばかりのころに戻って感情を知らないからか。それとも感情がないほど純粋無垢なのか。サナちゃんよりも幼い赤子。赤子の世話をしたことのない古城にはその判断がつかない。

 

(なんにしても、クロウがこうなったのは俺の責任だからなぁ……)

 

 赤子から戻らなかったらどうしよう、と罪悪感と双子の不安がぞっと血の道を冷やす。

 そんな意識を向けたからか。浅葱からこちらを見上げる。赤子の、つぶらでとほんとした瞳が、ただ真っ直ぐに古城を見つめてくる。

 

「あうあう?」

 

 しがみつきながら、ぷについた右掌を古城の顔に向けて、触覚のようにぶらぶら振っている。

 ぅっ……と、それを見て鳩尾を震わせてうめく浅葱。可愛い。古城も罪悪感とか難しいことを考えてなければ素直にそう思えただろう。

 腕に収まった赤子は、柔らかく、軽い。そして、怖いくらいに静かだ。古城の不器用な腕の中でも全くむずがらないのも、おとなしいというより何かの欠如に思えた。

 人間としてではなく、道具として生まれたばかりのころに戻っているのだから。

 

「まるで『野獣の王子(アダム)』だな……」

 

 古城は思いついた名前を無意識に口にする。そう、魔女に造られた無心の少年は、現代の殺神兵器というよりも、お伽噺の呪われた王子のようだ。

 そんな古城の呟きを拾った浅葱が、ふぅん、と何やら思いついたように、

 

「『美女と野獣』の、“野獣の王子アダム(ビースト・アダム)”―――いいわね、凪沙ちゃんの前でクロウって呼ぶわけにもいかないんだし、何のひねりもなくクロと呼ぶよりは、アダムのほうがいいんじゃない」

 

「いや別に、俺は呼び名を提案したわけじゃなくてだな。っつか、風呂行けよ」

 

 浅葱の素直な賞賛に、古城は無性に気恥ずかしさを覚えてしまう。

 ただ、この心の空っぽな存在を見て、何かを吹き込んでやりたいと欲を感じてそう口にしたのだ。

 とにかく、こっぱずかしいので古城は再度、浅葱を促して、風呂場へ行かせる。

 そうして、ひとりになった古城は大きく息を吐いて、

 

 

「あー……那月ちゃんになんて説明すっかな」

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 天塚汞は、『魔族殺し』の南宮那月を見誤っていた。

 

 

「神々の鍛えた<戒めの鎖(レーシング)>の縛から逃れられるとは奇術師に転向すれば案外稼げるかもしれんぞ。

 ―――それでも、私をやれると思うのは甘いがな錬金術師」

 

 

 叶瀬夏音のいる建物に侵入。

 下見にも協力してくれた“協力者”の情報支援でここの構造は把握済み。

 だが、そこは一度捕らえた獲物を逃さない結界(おり)

 そして、主の<空隙の魔女>はすべての元素を不活性状態で練りこんだ完全秩序(コスモス)の沼を空間制御で即興で作り出せるほどの異常な技量の持ち主。

 “何物にも変化しない”終末の泥の中では、錬金術に取り込めるものがない。

 底なしの虚無に捕らわれた錬金術師はそこから脱出することは不可能だ。

 ―――本体で侵入しなくて正解であった。

 

「アルディギアの腹黒王女に貴様を捕らえてくれと頼まれてな。このまま<監獄結界>に放り込んでやるつもりだったが、貴様ただの切れ端か」

 

 その慧眼は、ここにいるのは『天塚汞』の意識をコピーした“偽物”だとすぐに気づいた。

 それでも質問に答えられるだけの知能は有している。

 

「二つ訊こう。なぜ今更叶瀬を狙う? 彼女の養父から、必要な<賢者の霊血(もの)>は奪ったのだろう?」

 

「彼女を邪魔だと思っている人間がいるからさ」

 

「何……?」

 

 敵を作るような性格でないとしても、アルディギア王家の血を引く女児である叶瀬夏音は生まれついての強力な霊媒。高めれば高次空間の神気すら受け入れてしまえる潜在能力は、『魔族特区』でも最高ランクだ。

 

「それにあの子だけが生き残っているのはあまりにも不公平が過ぎるじゃないか。だから続きをしなくちゃね。あの5年前の惨劇の続きを、今度こそ……!!」

 

 その憎悪の発露に、表情を震わせる那月は、扇子で口元を隠し、

 

「では、最後の問いだ。馬鹿犬――<黒妖犬>をどうした?」

 

「ああ、そうか。そういえば<空隙の魔女>が飼い主だったんだっけ―――」

 

 那月の問いを嘲弄するかのように、笑い含みの冷淡な声で、とぼける。

 

「さあ、どうだろうねぇ? 細切れにしてしまったと思うからどこに落ちてるのかわからないよ? ごめんよぉ、君のサーヴァントだとは知らなくて。知ってたら素敵な彫像(オブジェ)を土産にしてきたんだけど」

 

 嗤う。もうこれ以上、こちらも何もできることはないが、向こうもこの自己増殖型の液体金属生命が相手ではどうしようもないのだから、思いっきり挑発して、その感情を逆撫でする。

 怒りに我を失い、隙ができれば、幻影体とはいえ一太刀を―――

 

「―――アスタルテ、叶瀬夏音のところへ行け」

 

 パチン、と扇子を閉じて、侍らせていた人工生命体(ホムンクルス)の少女に、命じる。

 

命令受託(アクセプト)

 

 抑揚のない無機質な声で応答し、アスタルテはこの地下駐車場より立ち去る。

 二人きり。そして、今のでこの結界の逃走ルートが分かった。

 あとは近づいてきたところを触手を伸ばして、魔女の首をはねれば、この脱出不能の罠も―――

 

「<薔薇の指先(アスタルテ)>に魔力を根こそぎ喰らわせて、霊血のサンプルを手に入れようかと思ったが―――気が変わった。もうあるしな。屑鉄はやはり焼却処分に限るな」

 

 冷然と見下ろして、息を吐く。

 そして、彼女の背後から空間を引き裂いて出現したのは、黄金の鎧に包まれた巨大な腕。

 機械仕掛けの悪魔騎士<輪環王(ラインゴルド)>。欧州魔族を恐怖のどん底に突き落とした、時空すら歪めるとされる<守護者>。その一端である黄金の巨大な腕の中より、漆黒に濁る焔が灯される。

 

「魂のない抜け殻には過ぎた贅沢だが。冥土の土産に、私が『魔族殺し』と恐れられた所以が何たるか、地獄の業火の中で教授してやろう」

 

 週末の泥さえ喚び出す大魔女の空間制御によって、この地下駐車場を一時、魂をも灼き尽くす煉獄に塗り替えられた。

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 ―――まだ、終わっていなかった。

 

 <偽錬核>を5つ植え付けられて制御不能となった<賢者の霊血>は、以前暴走している。

 <偽錬核>は、天塚が死ねばその機能を停止するのに、まだ働き続けているということは、本体がまだ生きているということ。

 <偽錬核>に、切り取った身体の一部を取り込ませることで半人半金の天塚は分裂体を作ることができる。人間の姿形に執着している天塚が怪物の姿に成り果てたのならば、それは間違いなく偽物である、と。

 

「おお。(ヌシ)の料理は美味いな。このような温もり、久々に賞玩したわ」

 

「もう、大げさだなあ浅葱ちゃん。こないだ夏音ちゃんの快気祝いの時にも食べに来てくれたじゃない。それよりどうしたの、その喋り方? 流行ってるの?」

 

 浅葱――に乗り移っているヘルメス=トリスメギストスの末裔にして、大いなる作業(アルス・マグナ)を究めし者、そして、天塚を破門にした師である大錬金術師ニーナ=アデラードから説明された。

 

「そ、そうなんだよ。最近、高等部でな!」

 

 彼女には、切断された箇所を治し、後輩の命を古城たちが来るまで繋ぎ止めてくれていた。おかげで浅葱に取り憑いていたニーナは残る僅かな“霊血”を使い果たしてしまい、元の<賢者の霊血(からだ)>を取り戻すまでは離れられなくなってしまったが。

 しかし、恩人であることには変わりがない。

 けれど、自称26歳の担任の10倍以上の270歳と、周回どころではない時代遅れの彼女に、今どきの女子高生の真似するなんて無理があり、慌てて誤魔化した古城はひやひやとする。

 さらには、大錬金術師は浅葱の演技を忘れており、

 

「夏音というのは叶瀬夏音のことか? 元気にしておるかの?」

「……おい、ニーナ……じゃねぇ、浅葱!」

 

 小声でたしなめる古城だが、その心情は察していた。

 叶瀬夏音は彼女の名を冠しているアデラート修道院の出身者で、5年前まで夏音の親代わりであったのだ。娘も同然の夏音を気にかけないわけがない。

 

「今はもう元気だよ。最近は前より明るくなったかも。アスタルテさんとも仲良しだし、クロウ君との暮らしも楽しいって言ってたよ」

 

 今日の夕飯グラタンを頬張りながら、凪沙は答える。それに優しげに目を細める浅葱(ニーナ)。それから、

 

「う」

 

 と呼ばれて返事をする赤子のアダム(クロウ)

 今はきっちりふんわりもこもこな赤ちゃん服を着てる(材料バラ・手順物質変成・作成大錬金術師様)。

 小さくなっても食欲旺盛なところは変わっていないのか、自分の分の乳児用のご飯をあっという間に平らげて、今は、このこんがりと焼けたチーズの匂いを漂わすグラタンに夢中なようで、縛り付けられている椅子から必死にそのちっちゃなお手手を伸ばしてる。

 

「アダム君ダメでしょー。グラタン皿アツアツなんだからさわちゃったら火傷しちゃうよ」

 

「あうあう~」

 

 困ったように叱りつけながら、アダムを膝の上に乗せる凪沙。

 小さい。どこを撫でても丸い。全身クッションみたいに柔らかい。見た目零歳児なのに、よたよたと立って歩けて、突っつくとあっさり転がって『ぅー』と不思議そうにこちらを見上げてくる。

 ―――つまるところ、ひたすら可愛いのだ。

 感心したように、共に食卓を囲んでいるお隣の雪菜が相槌を打って、

 

「あやすのが上手ですね凪沙ちゃん」

 

「そう? 何かよくわからないけどこのことは波長が合う感じがするんだよね」

 

「あうあうあ~」

 

「もうしょうがないなぁ。ホワイトソースのとこだけちょこっと舐めさせてあげる」

 

 ふーふー、と凪沙はスプーンの先に掬ったグラタンのホワイトソースを息で冷ましてから、

 

「はい、あ~ん♪」

「あう♡」

 

 ―――ちょっ、おま!!

 

 がたっ、と急に立ち上がろうとして机に脚をぶつけてしまう古城。

 その間に、ぱくり、と凪沙のスプーンを頬張るアダム(後輩)。

 失態を悟らせぬよう、懸命に何事もなかった風に冷静を取り繕う古城だが、完全に隠しきれていない。

 

「(いや、アダムがクロウだけど、今は赤ちゃんだから別にどうということは)―――熱っ!」

 

 目測を誤り、思いっきりグラタン皿を掴んでしまう。

 

「(赤ちゃん(今のクロウ君)に何反応してるんですか先輩。いくらなんでも大人げなさ過ぎます)」

 

 狼狽える古城を、水で濡らした手拭いを渡しながら冷たく眺める雪菜が凪沙に聞こえない音量で呟く。

 

「(し、仕方ないだろ! 目の前でこんなのやられたら!)」

 

「(はぁ、もう本当に仕方ないんですから)」

 

 まったく先輩はシスコンですね、という心中の呆れまでもが、はっきりと聞こえてきそうな冷淡な眼差しである。

 それからひとり早めに食べ終わっていた雪菜は、凪沙に抱きかかえられている手を差し出して、

 

「じゃあ、今度は私がアダム君を預かります」

 

「あ、そう。ありがとう雪菜ちゃん」

 

「ぅぅ~」

 

 ぎゅっと凪沙にしがみつく。まるで雪菜から逃げてるように……

 

「あれ? どうしたのアダム君? 雪菜ちゃんとこに行かないと」

 

「アダム君、ほら、おいで」

 

「ぃぁ」

 

 説得されても、プイ、と反対側を向かれる始末。

 見れば、表情は泣き顔でもなく変わってないように見えるけれども、小さな身体はぷるぷると微動してる。

 雪菜も微妙に表情がひくつき始めてる。

 

「あ、アダム君……?」

 

「ぅ」

 

 ……ひょっとして、身体は小さくなったけれど、『怒ると怖い』記憶は覚えてたりするのだろうか? それともどこか将来は教育ママになりそうな厳しめの気配を察知したのか?

 なんて、古城が考えた時、剣巫様はついに強硬手段に、

 

「お、お姉ちゃんと遊びましょうね~~♪」

「ぅぁ~~!?」

 

 やや強引に凪沙より攫われたアダム。

 大人げないなぁ……と思うが、表情には出さないように努める古城。

 腕の中でじたばた暴れるアダムを、雪菜は、

 

「ホーラ、高い高い」

 

 懸命にあやすが、無反応。

 いやいやと身体を揺らしてる。

 

「高い高ーい!」

 

 それでも精一杯の笑みを頑張って作る雪菜は、もう一度!

 しかし、顔を青褪める始末で、

 

「食後の赤子をそんなに揺らしてどうする! ほれ、儂に預けい」

 

 横から割って入った浅葱(ニーナ)が雪菜よりアダム(クロウ)を取り上げ、それから顎を肩に乗せるように抱きながら、とんとんと赤子の背中を弱めにかつしっかりと叩く。

 時折、上下に背中をさすり、それから叩く角度を変えたりして、

 

「……けぷ」

 

 食後の赤子よりげっぷを出させた。

 すっきりしたように顔色も良くなっていく。

 

「あ……」

「うわあ、すっごくて慣れた手つきだね浅葱ちゃん」

 

「ふ、儂は夏音のおしめだって変えたことがあるんだぞ。そこらの小娘と比べ―――「うぉほんっ! 浅葱、ちょっとこっちに来てくれ」」

 

 亀の甲より年の功。今どきの若い連中の駄弁りを真似ることなど造作もないわ―――といちいち古い言い回しで自信のほどを語ってくれたが、もうこの大錬金術師は喋らせない方が良いと古城は判断。270歳にもなればボケてきても不思議じゃない。

 幸い、勘の鋭い雪菜は、ショックを受けて消沈してるようで聴こえてなかったようだが、まだ事件が終わっていないことを彼女に知られたくないのだ古城は。

 

 旅行に持っていくお菓子を厳選したり、

 パンフレットの内容を全部暗記してたり、

 まくら投げに静かに闘志を燃やしてたり、

 

 だから、『天塚汞が消滅したことで、<賢者の霊血>の脅威は去った』とそう思っているだろう雪菜をそのままでいさせてやりたい。

 細々とした後処理や未解決のクロウ幼少化の問題があるが、後処理は古城たちが直接手を出すことではない。幼少化に関しては、師家様曰く、

 

『暴走させたまだ未見の眷獣を真祖の坊やが制御できるようになるか、その退行(のろい)をかけた眷獣の力を『壊し屋』の坊やが上回る抵抗力を持つか。

 それとも責任とって、元の年代まで雪菜と二人で育てるかだねぇ』

 

 の三択(実質二択)しか古城らにできる解決策はなく、あとは主の南宮那月に任せるのが一番いいとのこと。どのみち<雪霞狼>があってもなくても雪菜にクロウを戻すことはできず、また今の使えない雪菜を無理に危険に巻き込む必要もない。

 そして、古城はニーナ=アデラードとともに天塚の本体を今日の夜中にでも捜しに行くつもりだが……

 

(アダムをどうするか……さすがに、連れていけねーよ)

 

 かといって、ひとり置いていくわけにもいかない。

 雪菜にアダムを預けるとそれを不審がるかもしれないし、また赤子の扱いを見る限り無理がありそうだ。

 当てのない古城には、天塚の居場所を突き止めるためにニーナの探査魔術も必要だ。

 となると、消去法で預けられるのは、ひとりしかいない。

 今は男女同衾が禁止される7歳より下の幼児だし、問題ない気もするが……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 こチ……こチ……と。

 真っ暗にはしないよう常夜灯だけほんのりと睡眠の邪魔にならない程度に明るい凪沙の部屋の中で、聞こえるのは、アナログ時計の隠微な作動音と、

 

「……くぅ……んゃ……」

 

 なんだか子犬っぽい寝息を立てるベットの上の赤子(アダム)

 その傍らで、凪沙は一向に眠れないでいた。ベットに横たわり寝にかかってから、かれこれ一時間、明日は宿泊研修で早いのに眠気の糸口すら掴めない。きちんと躾がされているのか、突発的にびぇぇと夜泣きもすることのない、食欲が旺盛だけどそれもまた元気のいい、親に迷惑をかけない理想な赤子なアダムに、原因があるとは思えない。

 思えない、のだが……

 その体熱に温められた匂いとかそんなようなものにいちいち胸が高鳴ってしまう。

 リビングで皆とワイワイやってた時は気にしなかったのに、自室で二人きりになるとどうも変になる。

 どうしてこうなったかといえば、兄古城から一番懐いてるし、一緒に寝てやってくれないか、と頼まれたのだ。

 

(なんか、今日は、いつもよりちょっと暑い気がする……)

 

 寝巻は、薄着で、膝下は輝くような素足で、年頃の男子をどぎまぎさせるに十二分の威力があっただろう。この常夏の島に対応するよう、タンクトップとショートパンツ姿で、ガードが甘い気がするけど、家の中には普段兄しかいないのだからこれで問題はなかった。

 それが今、気になる。しかし、赤子相手に意識してるとは思いたくないのだ。

 

(だめ……寝なくちゃと思うほどに眠くなくなるんだよね)

 

 こうなってくると、もうベットに就くなり吸い込まれるように眠ってしまったアダムが羨ましい。と、なんとなく恨みがましく八つ当たりな視線を向けた瞬間、寝返りを打ったアダムがしがみついてきた。

 

「……んゅ……」

「―――!?!?」

 

 起きてしまったわけではない。夢でも見ているのか、ぅにゃぅにゃと口を動かしながらぎゅっと凪沙の胸に顔を押しつけてくる。

 無遠慮に腹へ乗っかってくる細い手足は人形のそれのようで、でも、確かな温もりをたたえて熱いくらいだった。

 

「もう……」

 

 ふぅ~~、とこの濃密に心臓が鳴かされる原因不明の緊張感やらなんやらを一緒に吐きださんと若干長めの吐息を零す。

 大人の定義というのはあやふやで年代的に凪沙は子供であるも、5歳と10歳の子供が同じエレベータの中でふたりきりという密室環境を想定すれば、5歳から見て10歳の子供は大人に見えるだろう。

 それと同じ。

 この部屋にいるのは、中学三年生の凪沙と、まだ人肌の恋しい赤ん坊。

 子犬のように体を丸めて、紅葉のような指で凪沙のタンクトップをぎゅっと掴んでいる。ずれかけていたタオルケットを直してやると、『んゅぅ』と綿飴を口に詰め込んだような声を洩らす。それになんだか微苦笑して、その髪を撫でる。

 ―――と、既視感が針のように心臓を刺した。

 

(クロウ君に、似てる―――)

 

 常夜灯のみの薄暗い視野に映るその顔が“彼”と重なった途端、そう意識した途端、ただ気恥ずかしいだけだったこの同床が、何だかとても気まずく感じてきた。胸が締め付けられるようで、だから速く速く速くなる鼓動がより強烈に感じられる。痛い、くらいに。

 

 あのあと、HRにも参加しないまま彼は学校を早退した。仕事だから特別欠席扱いにはなるけど、『一時限目までは授業受けられたっぽいのに。警察局も働かせるね』と担任教師がぼやいてるのを聞いて、“凪沙のせいなんだ”と思うようになった。

 

(きっと、クロウ君、怒ったんだよね)

 

 そうとしか思えない。

 だから、顔も合わせたくない凪沙を避けて、クラスにも来なかった。

 

(……あの後、すぐ謝りたいって。ごめんなさい言いたかった。クロウ君が約束を破っちゃうのは本当に仕方がないってこと知ってるのに、クロウ君には皆を守る大事な仕事があって、なのに、無理を言っちゃった。私が、悪いよね……)

 

 目の奥が熱くなり、凪沙は瞼を閉じた。

 

(……もう、私のこと嫌いになったのかな?)

 

 ずっと、わがままで、ひどいことばっかり。

 初めて会った時も、それに―――――の時も、何度も何度も謝りたかった。

 なのに、その逆のことをしている。

 だから―――

 

 

 ぷにっと頬に当たる感触。

 

 

 きゃ―――

 その小さな接触にさえ凪沙は悲鳴を上げ、たまらず目を開ける。

 アダムが、見ていた。

 凪沙のことを、じっと見ていた。

 仄かな闇に満ちる部屋で、その金色の瞳は夜行性動物のように光って見える。

 ただ、それだけで、そう思っただけで、凪沙が心底に恐れる魔族に睨まれたように、硬直。

 その小さな手が自分に向かってくるのが見えても、金縛りで身じろぎもできず。それが自分の顔に触れても、凪沙はもう悲鳴も上げられない。大きな金瞳で、凪沙をじっと見ている。その掌が頬から目元を擦って、そのまま眼球を握り取られるような恐怖感に、反射的に目をきつく瞑って―――手が離れた。

 

「あう」

 

 小さな声。言葉として意味をなしてない。だけど、気にかけてくれたのが不思議とわかるような声。

 おそるおそるもう一度見開いた凪沙は、赤子の瞳に害意のようなものは無いと知り、そして、その小さな手を精一杯に伸ばしていたのは、いつの間にか目元にこぼしていた涙を拭いとろうとしたのだと知った。羞恥で顔が真っ赤になるくらい、自分の愚かさに凪沙は気づかされる。穴に入りたい気分だが、それではしがみついてる赤子も一緒に入ってしまうだろう。

 

「あうあう?」

 

 大丈夫? と伺うように、凪沙を見上げる。

 その幼い声、真っ直ぐな瞳が、凪沙の心の底にまで染み渡る。

 

「あのね、今日、私、喧嘩しちゃったの―――」

 

 気が付くと、凪沙は語り始めていた。

 “彼”と一緒に宿泊研修に行けなくて悲しかったこと、それで“彼”にヒドいことを言って仲直りがしたかったのにできなかったこと、もう“彼”は自分に愛想が尽きたんじゃないかと怖くなったこと、それから仕事でいつも怪我ばかりするからもっと“彼”自身のことも大事にしてほしいと愚痴ったりなど……胸にあるものを全部語った。全部吐き出した。

 赤子はその間、眠りもせず、ただただじっと聞いていた。単に凪沙が煩くて眠れなかっただけなのかもしれないけど、それでも全部聞いてくれた。

 

「あうあ」

 

 どこまで伝わったのか、理解したのか、わからないけれど、聞き終ると最後に、その小さな手をまた精一杯伸ばして、凪沙の頬をそっと撫でた。

 労わるような彼の手つきで、もう一度こぼれそうになった滴を拭い取る。

 不思議と、安心した。力強い大きな体に抱かれているわけではないけれど、それで十分に心の中の怖さや、そして罪悪感が軽くなったような気がした。

 ありがとう、と言葉にせず唇だけを動かすと、この小さな温もりに身を任せて、凪沙は眠りに落ちていった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 早朝。

 

 

「―――アダム(クロウ)が、どこにもいねぇっ!?」

 

 

 監視役にこっそり徹夜で霊血の捜索。

 宿泊研修に出かける妹の寝坊。

 そして、同級生の誤解をとくのにドタバタしていて、気づくのが遅れてしまった。

 てっきり昨日預けた妹の部屋で眠っているのかと思ったが、古城がベットの上をかくにんするともぬけの殻。

 大掃除が必要になるレベルで部屋だけでなく、家全体を捜索したが見当たらない。

 

「治す方法もまだ見つかってねぇのに、その本人もいなくなったらどうしようもねぇぞ」

 

「まあ、落ち着け。儂が探索魔術ですぐ見つけてやる。赤子の足だ。そう遠くには行けんだろ」

 

 浅葱(ニーナ)が落ち着いた対応で、魔術儀式の準備を終えて、魔力を通して起動―――

 その気配を辿る途中に、凄まじい魔力の波動を捉えた。

 

「―――っ! これは、<賢者の霊血>」

 

 古城もまた全身を硬直させる圧を感じた。

 続いて、雷鳴に似た巨大な爆発音が響き、絃神島の人工の大地が震える。急いで窓から身を乗り出して外を見れば、遠くの海沿いの地区(エリア)より、かすかな黒煙が立ち上っている。

 おそらく、その爆心地となっているのは、空港や埠頭が連なる絃神島の玄関口である人工島東地区の港湾地区。

 ―――そう、中等部の三年生が宿泊研修で向かったフェリー乗り場のある場所。

 

 

港湾地区

 

 

 港湾地区の倉庫には、島外より輸入した大量の鋼材や貴金属が備蓄されている。

 金属生命体である<賢者の霊血>がそれをエサとして求めて、ここを襲う可能性は高いと見た。

 修道院で7名の拠点防衛部隊が金属に物質変成されたと報告があった。そして、昨日より連絡の途絶えた<黒妖犬>がいない以上、この巨大な魔力源が多い『魔族特区』絃神市内での追跡は至難であり、予め標的の出そうな場所に網を張る方針に狩りを切り替えた。

 

 しかし標的にはこちらが築き上げた呪術結界も効かず、冷却炎熱の攻撃も表面と内部に真空の断熱層を造り出し、魔法瓶の原理で本体を守り切る。

 霊血に攻撃の通用しないことに混乱した拠点防衛部隊は、そこで突如現れた天塚汞に銃弾を浴びせてしまい、標的に極めて優れた錬金術の素材を食らわしてしまう。その総量は、おそらく数百kgに達する―――そう、錬金術の秘奥儀式を行うのに十分な量の供物。

 『賢者(ワインズマン)』の復活。

 それと同時に放たれた閃光に、部隊は壊滅。輸入品の倉庫も10棟以上が崩壊。幸い死人こそ多くはないが、装備の損耗と混乱がヒドい。そして、<賢者の霊血>は天塚と共に失踪し、そのまま『覗き屋』は行方不明。

 指揮系統の混乱はひどく、負傷した隊員の収容だけで手一杯だ。この状況でキーストーンゲートの守備部隊は動かせず、予備兵力として本土の―――

 

「―――攻魔官に任せろという警告が警察局から出ていたはずだが。仲間を殺された鬱憤を晴らすにしてもこれでは殉職した奴らも浮かばれんな」

 

 通信機を取り出した部隊長の前にいたのは、黒い日傘を差した小柄な影。

 

「……南宮教官」

 

 空間跳躍でいきなり虚空より現れた、圧倒的に場違いなフリル塗れのドレスを揺らし、一冊の古びた魔導書を胸に抱いた、魔女にして国家攻魔官、南宮那月。

 

「部隊長。馬鹿犬の前では絶対にこんなことは言わんが、獅子身中の虫を取り除けるとは、実に優秀なサーヴァントを私は持った」

 

「何を……?」

 

「貴様の言う通り、死体として火葬場に出すより、溶鉱炉に溶かしてやったほうがふさわしい物だよあれは。物質変成されたものは単なる彫像とかわらない、それがもともとその人物だったかどうか、科学捜査では完全に見分けがつかん。DNAなんて鉄からは採取できないし、彫像ならたやすく人相(かたち)を変えられるからな。遺族の前に出してやらなくて正解だ。危うく偽物を拝ませるところだった」

 

「……、」

 

「新参者のお前らに教えてやる。馬鹿犬の『鼻』は追跡能力に優れた超能力と思われているようだが、その実体は<固有堆積時間>への感応――それも、ちょっと前に拾い食いした物のせいで、過去の記録を共有(コピー)できるくらいには性能が上がっている。いや、元々できる資質があったが、そこから手本を学習した、とも言えるな。魔術世界では長い歳月を経てきたものほど強い力を得ていくが、現代に生まれた馬鹿犬が殺神兵器として足りないものは、<固有堆積時間>だからな。それを補うための学習能力として身についたんだろう。

 だから、声と姿をどんなに精巧に似せようが、馬鹿犬の『鼻』は絶対に誤魔化せん。

 『覗き屋』の声紋()を誤魔化せるほどに、どうやら“変装”には自信があったようだが、馬鹿犬の『鼻』まで誤認させられるとは思い上がったものだな。

 お前の部隊に紛れ込ませていた『人狼』の選別は終わった。残るは泳がせていたお前だけだが、予備兵力と称して本土から連れ込もうとしたお仲間は諦めた方が良いぞ『聖殲派』――魔族殲滅を掲げる咎神(カイン)のテロリストども」

 

「……、―――」

 

「『No.014』――<図書館(LCO)>の『総記(ジェネラル)』仙都木阿夜の『固有堆積時間操作』の魔導書。私はこれに一太刀を浴びせられてしまったが、馬鹿犬はその一太刀を逆に食らってしまってな。そう、これが拾い食いしたもののひとつだ。

 さて、これで人狼探しをしながらお前らと屑鉄処理に精を出していた私のサーヴァントが、“人狼”どもに気づかせずに回収して、後輩のサーヴァント(アスタルテ)を経由して私に届けてくれた霊血のサンプル――二個目の<偽錬核(ダミーコア)>があるんだが。それから、魔導書で情報を抜き取ってみれば、面白いものが見れてな。

 なあ、その内容――錬金術師が叶瀬賢生襲撃の前日に本物の部隊長と一緒に誰と会っていたか知りたいか? もし知りたいのなら、鏡を用意してやるぞ」

 

「……………………………………」

 

「昨日、押し掛けてきたコソ泥から記憶を抜き出し、増設人工島(サブフロート)に捨てられていた本物の部隊長の死体も発見した」

 

「…………………………………………」

 

「汝は人狼なりや?」

 

 気が付けば。

 部隊長の顔一面を嫌な汗がびっしょりと覆っていた。この敵に向ける明らかに異質な魔力の波動を放つ魔女を前に、小刻みに震える彼はもう動けない。これまでの余裕は失われ、探り合う腹もこちらはすでに腸を掻っ捌かれている。

 

「貴様は、何もわかっていない……」

 

「『ねぇ知ってる』と前振りが同じだな。そういわれたところでお前らの事情など知るわけがないだろう。今となっては理解する必要すらないと思えるがな。これからの予定で公社で24時間取り調べに付き合わされることに埋まっている『人狼』ほどではないが、私も忙しい立場だ。一秒たりとも無駄話に割いてやる時間はない」

 

「<空隙の魔女>、要警戒対象である貴様のことはよく調べた。仙都木阿夜の、盟友の思想を引き継いでやろうとは思わんのか? 魔族の持つ魔力が、どれほど破格で、いかにたやすく世界を歪めるか。たった一人の吸血鬼の気まぐれが、巨大な都市を壊滅させる―――こんな歪みが世界の正しい姿だと思うのか」

 

 はあはあと身の毛のよだつ重圧(プレッシャー)に過呼吸のように荒い息を吐きながら、部隊長の皮を被った『人狼』は続ける。

 

「だから、我々は全ての魔族を滅ぼし、人類の本来あるべき姿を取り戻す。魔族も魔術も存在しない、真に清浄なる世界をな。そのためなら、歪み同士を共食いさせてやる手段もとろう。

 北欧王族の血筋を引く愛人の娘を避難させたつもりでいるようだが、本土にはすでに我々の同士が待ち構えている。

 真祖を覚醒させるための供物にしてやるくらいなら、高い霊媒を持つ贄共は残らず抹殺してやるべきだ」

 

「……、」

 

「そして、<黒妖犬>。この異常な世界の歪みの産物。あれがどれだけ我々『聖殲派』に利用価値がある力を持った兵器で、そして魔族と人間が融和した『混血』という許されざる存在なのか。貴様は知りもしないで、無駄に遊ばせおって実に腹が立ったぞ。錬金術師に殺されなければ、この人工島管理公社に対抗手段として私は上手く使い捨ててやれた」

 

「幉も満足に掴めんどころか、見張られていたことも気づかないでよく言う。そろそろ、負け犬の遠吠えに付き合うのも耳が耐えられん。貴様らに阿夜の名をかたられるのは甚だ不愉快だ。公社に届けてやる前に吠え癖を強制してやろう」

 

「咎神の騎士を舐めるな魔女。即刻、貴様を処分して、その顔を剥いでやる」

 

 『人狼』はその部隊長の顔に掌を置いて、ずらす―――無貌の面を外した途端。

 ドロリ、とその全身が融けた飴が流れ落ちるように部隊長の皮が剥がれていく。

 錬金術師が使う物質変性に似ている。だがその本質は全くの別物。錬金術師は物質の変成を自在に操るが、原理のわからない複雑なメカニズムまでも再現することはできない。

 しかし『人狼』は、自身の組成は変えないままに、対象の声紋外見を忠実に模倣(コピー)した。本物の部隊長の“情報”だけを奪ったのだ。

 その、びっしりと文字を刻んだ仮面型の魔具で。

 

 そして、その姿が無地の仮面だけを出した闇色のマントに包まれる。

 

「ほう……その力、『聖殲』のものか」

 

 虚空より放たれた神々の打ち鍛えた封鎖が、その闇の仕切に弾かれる。

 その闇色のカーテンは、<雪霞狼>と同じく真祖の力を封じ得た<闇誓書>の『異能の存在しない世界』の塗り潰しに似ていた。

 そして、『人狼』は人間離れした異様な跳躍力で、一足飛びで那月に迫る。

 

「知らぬか呪われた魔女。仮面というのは古来、己を護るための魔術であり、超常的な能力を引き出すための儀式であることをな―――」

 

 トランス――降神術による超人的な身体能力。

 叶瀬夏音を含め、<模造天使>の被験体の全員に仮面が付けられていたのは、高位次元の存在たる神霊が自らの身体に憑依させ、その能力を引き出しやすいようにするための儀式だ。正体を隠すためのものではなく、人が神へと変装するためのものなのだ。

 そして、闇色のマントを手操りて、放つ布槍が那月の身体を貫き―――寸前で、彼女の姿は陽炎のように揺らいで、向こうのコンテナの上に現れた。

 

「お前も、私の体が幻影であることを知らないのか、『人狼』」

 

 そして、那月が標的の視線を引き付けるその隙に忍び寄るは―――

 

「―――アスタルテ、『人狼』を逃がすな」

「命令受託、執行せよ、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>」

 

 抑揚のない無機質な声で主に答えるアスタルテ。

 肩と背中が大きく露出したメイド服、その剥き出しの白い背中より、虹色に輝く巨大な翼が現れる。翼は不気味な怪物の腕となり、宙空の『人狼』へと手を伸ばす。

 再び、『人狼』は<戒めの鎖(レーシング)>を防いだその闇色のマントを盾にする。

 しかし、巨人の手に漆黒の仕切は破かれる。

 

「なに!?」

 

 アスタルテは眷獣共生型人工生命試験体。世界で唯一、眷獣を召喚できる人工生命体(ホムンクルス)。そして彼女が操る眷獣は、他社の魔力や生命力を食らい―――<雪霞狼>より『神格振動波』を模倣している。

 そして、<闇聖書>は<雪霞狼>に切り裂かれた。ありとあらゆる結界を破る『神格振動波』は、魔力を無効化するフィールドそのものをも無効化にする。

 

「相手が悪かったな『人狼』」

 

 <薔薇の指先>の一撃をもらい吹き飛ばされる『人狼』。闇色のマントは破かれ、ところどころその意外に細身の正体をさらす。そこへすかさず、闇が剥がれた右腕へ那月が鎖を絡みつかせ―――

 

「―――っ! この右腕の代償と我らの計画を破綻させた所業、忘れぬ。いずれ必ず復讐してやる!」

 

 ぶつり、と右腕を布槍が切り捨て、束縛から逃れた『人狼』は、マントを翻して跳躍し、一瞬で姿を消した。那月はそれを追いかけることができず。

 あとに残されたのは、その細い――女性のものと思われる右腕だけ。

 

「ヤツめ『人狼』のくせに、トカゲの真似事をするとは」

 

 面倒なやつを取り逃がした、としかめた顔で小さくつぶやく。

 それから、ふと、遠く――この僅かに感じられる主従契約のパスを手繰るように――その海の先を見て、

 

「馬鹿犬め。一体どこをほっつき歩いてる。まさか、海の上というわけではあるまいな」

 

 ―――予定時刻よりお寝坊した少女が慌てて起床する直前にベットより転げ落ちて、ベット脇に置いてあった旅行バックに入ってしまう赤子がいたのだが、その頃はまだ、誰も気づいた者はいなかった。

 

 

 

つづく



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錬金術師の帰還Ⅳ

パエトーン

 

 

 甲板に出て、海を見る。

 結局―――彼は、宿泊研修に来なかった。

 わがままを言ったことはわかっているけど、それでもやはり彼が心配だ。警備隊と徹夜で同行した一昨日、そして昨日も、マンションに帰ってこないし、一応、今の自分の保護者でもある南宮那月との主従契約が切れていないことから無事だとは言われた。少なくとも生きてはいると。

 一体、彼が何を、どんな相手を追っているかはアスタルテさんも教えてくれなかったけど、それが自分と関わりあるものだとこの日増しに強くなる胸のざわめきで知る。

 もしも、あの“錬金術師”が相手なら……

 心配はどうあっても拭えない。

 

 それと同時に信頼もあるのだ。ひょっとしたらこの船に乗ってるかもしれない予感さえする。なにせ彼の分の荷物は、那月の後輩で彼の担任の笹崎先生に事前に渡されていて、まるで主が彼はこの宿泊研修に追いついてくると―――

 

 そのとき、覗いているこの大きな黒い双眼鏡で拡大された叶瀬夏音の視界にこちらを追いかけるように海を潜水する銀色に輝く影が映る。

 

(あれは、野生のイルカさんでしたか!)

 

 筋金入りの動物マニアである夏音は碧い瞳を輝かせる。

 フェリーが海面に残す白い航跡の隙間を泳ぐ小型の潜水艦や魚雷を連想させる金属質の航空物体。とても生物的な色に見えないのに、しかし海蛇のように巨体をくねらして、海中に潜る。

 

「―――っ!?」

 

 持っていた双眼鏡を落としてしまう夏音。

 

(あれは、まさか―――)

 

 きゅっと怯えたように唇を強く噛んで、

 

「あう」

 

 そこへ、足首のちょっと上のふくらはぎを叩かれる、小さな接触。

 びくっと振るえて、隣を見る。

 そこにあのときの“錬金術師”が―――いない。

 

「あうう」

 

 幼い声につられ、視点を足元(した)に。

 

「いました」

 

 ほっと安堵の息を吐く。

 夏音の膝ほどもない身長で、しかしこの波に揺れる船の甲板をしかと二本の足で立つ赤茶髪金眼、褐色肌の赤子。白色のよだれかけのようなものを首にかけて、ふさふさのファーのついたシルク生地の赤子服を着ている。それが何か一生懸命に足を叩いてる。

 

「あうあう、あう!」

 

「あら、慰めてくれるんですね。どうもありがとうございます」

 

 ぺこり、と丁寧に頭を下げる。今日、このフェリー『パエトーン』に乗船しているのは宿泊研修の学生が大半を占めているが、ごく少数一般客も混じっている。おそらく、そこの家族連れの旅行客から、この元気のいい赤子ははぐれてしまったのだろう。

 よいしょ、と夏音はしゃがんで抱き込んだ。やわらかく、でも、しっかりと。その様は聖母のようで―――そこで、その艶やかな光沢を保つシルク生地で織られた赤子の服の手触りに、ふと郷愁のようなものを覚えた。

 

「これは、どこかで……」

 

 そこに染みる作製者の僅かな残り香。匂いは、人の古い記憶野を刺激する唯一の五感。

 そう、かつて自分もこのような赤子服を着せられていた。院長様の―――

 

 

『院長様、このようなことに魔術を使ってもいいのでした?』

 

『夏音よ。この程度の手品、術というのもおこがましいのだが、結局のところ、魔術というのは、誰かの願いを叶えるためにあるものだ。お前さんたちに服を作ってやるのもまた大いなる作業になるのだよ』

 

『そうなのですか?』

 

『ああ。今日この日まで世界の生態系が、種の存続をしてこれたのも、自分ではない誰かを想う――そうさな、愛情があったからだ。完全なるものには、愛情だの友情だの美しさだのは錯覚と言い捨てられるだろうが、それが何より世界を支えていると(わし)は思うよ』

 

 

 なんて、回想している最中に、違和感が。

 

 

「あれ? ……これはよだれかけではありませんでした」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――高清水君は……イケメン度数74点ね」

 

「えーっ、委員長それちょっと辛口だよ。ルックスも性格も良くてサッカー部のホープで、80点台は堅いんじゃない?」

 

 委員長オブ委員長こと甲島桜の採点に異議を唱えるは、女子バスケ部で同じ体育会系の進藤美波。通称シンディ。甲島は進藤の言を平然とうけたが、隣に座る雪菜が身をすくめてしまう(それでもまあ、あえて90点代は出さないところが控えめなのか、それともそのラインを基準としてる人物がいるのかと予想)。

 

「ふッ……現実を見なさいシンディ。確かに高清水君は見た感じいい感じの爽やかスポーツマンよ。人気があるのも納得ね。でも、この前の中間テストの総合点で『ワースン十指(テン)に入ったっす』と自分で吹聴してた、体育会系にありがちな脳筋であることも忘れてはいけないわ」

 

「それは同じ体育会系として聞き捨てならないわね! てかアスリートは運動ができればいいじゃない。暁先輩もここ最近は補習授業ばかりだけど、バスケ部では今も伝説に残るスーパースターなのよ!?」

 

 ぴくり、と肩を反応させる雪菜。中等部で同じバスケ部で、雪菜の知らない先輩を知るシンディの発言はいろいろと無視できない。でも、余計な口出しはしなかった。甲島はそれを無視して採点を続ける。

 

「じゃあ、次の小山田君は……イケメン度数83点」

 

「はーっ、なんであんな優男がそんなに点数高いの!?」

 

「今はインテリ眼鏡系男子がアツいの。それに中間テスト学年3位で良物件よ」

 

「でもさ、頭の良さで藍羽先輩には敵わないんじゃない?」

 

「あの人は別格。比べるのはかわいそうよ」

 

 中等部の宿泊研修1日目。

 東京湾に向けて移動中のフェリーの中で、行われる学年男子の品評会。

 お座敷風の二等船室に詰め込まれた中等部三年生は156人。クラスごとに分かれてゲームやおしゃべりに興じていて、雪菜たちの近くではないが同じ船室には、同じクラスの高清水君や小山田君もいる。

 女子の濃い花、ならぬ、恋話はひそかに注目を集めたりするのだが。中でも耳を傾けられている少女は内心困った表情を浮かべる。

 この絃神島に来てからそこそこ立つが二学期からずっとある特定の人物、それも高等部の学生に張り付いていた雪菜はちょっとついていけない話題だ。相槌を打ちながらも、ちょっぴり疎外感を覚えた―――そんなタイミングで水を向けられる。

 

「ねぇ、雪菜は誰か候補に挙げられる人っている?」

 

「えっ………」

 

 まず真っ先に思い浮かべた人物がいるがこの流れからして中等部限定。しかしながら、クラス内で『姫』と崇められる雪菜にそう話しかけてくる男子はおらず、中々これだと言えるほど印象に残ってるものがいない。ひとりを除いて。

 

「じゃあ、クロウ君は?」

 

 クラスで、唯一、雪菜と普通に会話できる相手。それからいつのまにか弟弟子になってた頼れる戦友。割と彩海学園に来てからは世話になっていて……高神の森の関係者にクラス事情を暴露されたこともあったが、話してると楽になることが多い。

 クラス内ではすでに攻魔師資格を持つ獅子王機関の剣巫と知られていない雪菜には、素で付き合えるし、生真面目に固まりがちな思考に柔らかなクッションを投げ込んでくれる。

 ……事情があって、この宿泊研修に一緒に来れなかったのが、残念だと思う。

 

「クロウ君か……」

 

 そんな今はいない、クロウも眼鏡を光らせる委員長様が行う下馬評の俎上に載せられた。それが何となく贄に差し出してしまったように申し訳なく感じて。すぐ隣で甲島の降す評点が、ことさらくっきりと耳に響いた。

 

「66点、かしら」

 

 と。

 

「はーい、買ってきたよ皆のジュース」

 

 そこで、ちょうど、トランプババ抜きの罰ゲームでジュースを買いに行かされていた暁凪沙が帰ってきた。

 このシンディ、委員長、凪沙に、雪菜が一班のグループを作っている。

 

「なになに盛り上がってるね、どうしたの? みんななに話し合ってるの? 66点って何のこと?」

 

「あ、凪沙。委員長が男子チェックをやっててさ。それで今、クロウ君が66点だって。採点辛いよね」

 

「え、あ、クロウ君が……?」

 

「んー……いつも厚着してるけど、整った顔してるし、見た目は結構いいのよね。球技大会で見たかぎり身体はすごく引き締まってる。けど、背が低くて子供っぽい。身体能力が体育会系顔負けだけど、中間テストではいつもギリギリ赤点上の低空飛行だったし」

 

「うーん、言われて見ると納得、する……?」

 

「バカな子ほど可愛いっていうし。イケメン度数じゃなくてマスコット度数なら、90点台後半は堅いわね」

 

「おおぅ、ばっさりだ。でも解かるかも。浅葱先輩とか高等部の先輩たちに可愛がられるのも、雪菜とも普通に話しかけられるのって男女の意識とか全然してないからだし、こっちもあんまり異性って意識しにくいよね」

 

「花より団子を地でいくタイプだわ」

 

「肉食系なんだけど、そういう意味での肉食系じゃないのが残念というか。逆にこっちが守ってあげたくなる感じ」

 

「何にしても貴重なタイプであることは間違いないわ。保護したくなる」

 

 まるで玉入れ合戦でもしているかのように、クロウへの寸評やらなんやらがポイポイと耳に入っていて、それは当然、隣に座った凪沙の耳にも……

 

「……そうかな?」

 

「え?」

 

 ぽつりと洩らした凪沙の呟きに二人が反応する。普段は口数の多いせいか、彼女がときどきする短めの言葉は、人を引きつけるような雰囲気がある。

 

「どういうこと凪沙?」

 

「クロウ君、学校では子供っぽい感じだけど、学校の外では街を守るために頑張ってるし、いつも私たちみんなに気遣ってくれてるよ。赤点じゃなかったのにクラスでひとり英語の補習をすることになって落ち込んでた高清水君と一緒に補習を受けたり、体育の授業が終わってひとりマットの片付けをしてて大変そうな小山田君を手伝ったり、そういう人の辛いときにすぐに気づいてくれて、自分の事より相手のことを考えてくれる。

 今日だって、宿泊研修に来れなかったのは警察の仕事に協力してるからだし」

 

 甲島と進藤はきょとんとふたり顔を見合わせ、記憶と相談する。

 

「あー……そういえば、ショッピングモールでつい買い込み過ぎちゃって、荷物が重たくて困ってたら、パトロール中のクロウ君に会って家まで運んでくれたわ」

 

「女の子に優しいよね。なんでも高等部のスーパーカリスマ教師南宮先生の教育の成果って聞いたことがあるけど、下心とかないからクロウ君って実は紳士? それにちょっと怖かったころの暁先輩とも仲良かったみたいだし……最近では暁先輩×クロウ君って妙な話を聞くけど」

 

「ええ、先輩ともすごく仲が良いですし、頼りにされてますよね……」

 

 凪沙の指摘をきっかけに、女子たちの言葉が揺れ、さらにはクラスの姫様からの高評価も加われば、お互いを見交わす視線の作る上昇気流はどんどん勢いを増し―――

 なんとなく気をよくして頬を緩める凪沙。まるで自分がほめられているみたいだ。罰ゲームでジュースを買いに行かされた疲れも急に和らいだ気がして、ガッツポーズを取るように、足の指をきゅっと縮める。

 

(うんうん。クロウ君は大したことしてないって思ってるんだろうけど、やっぱりちゃんと評価されるとすごいんだよ。

 ……うん、さりげなく古城君との仲が評価されるのは何か不安になるけど)

 

 なんて、お腹ではなく胸から笑いが込み上げてきて、自然、胸を張る凪沙。

 ―――と。

 株というのは一度上がり始めると高騰を極めるものである。険が取れ温かく弛緩した委員長とシンディの声が、何やら少しずつ熱を帯び始めてきている。

 

「……となると、将来性のある優良物件になるのかしら。これから成長期に入って背が伸びたらあれは相当化けるわね。球技大会でのギャップも凶器的だったし」

 

「言われてみると、性格もああいう素朴なのってずっと隣にいたい感じがするよ」

 

「他の男子にはない、信念ってものがあるし。学業よりも男として大事な評価よね」

 

「実は私、一年くらい前に魔族に絡まれてた時、クロウ君に助けてもらったことがあってさ、そのとき、『オマエら、オレの(クラスメイトの)シンディに手を出すな』って……………なんか、その時の顔はちょっと怖い感じだったんだけど、仁義ぽくって恰好よかったかも」

 

「あら、シンディ、あなた意外と青春してるじゃない」

 

 

 ………………………………

 

 

 ひやりと雪菜の第六感的が冷気のようなものを察知する。

 隣で、凪沙が硬い氷塊のような笑顔を凍らせていた。

 進藤(シンディ)が『?』と見上げる。しかし凪沙は頓着することなく、買ってきたよおく冷えたジュース缶をひとつひとつ手渡しでみんなに配ってから言った。

 

 

「というわけで、クロウ君は40点だね」

 

「「えええええええええ!?」」

 

 

 凪沙の啓蒙によって、評価を改めつつあった女子二人のユニゾンが船室に木霊する。雪菜も呆気にとられて声を震わす。

 

「え、っと……今の流れで評価が下がるんですか凪沙ちゃん」

 

「本当は66点の半分にして33点くらいにしたかったんだけど、それだとちょっと切りが悪いしシンディと委員長の評価分だけ下駄を履かせて、ちょうど40点くらいにしとこっかなって」

 

「そ、そうなの。クロウ君赤点ギリギリになっちゃうんだ」

 

「あのねシンディ。素“朴”な性格で、信“念”を持ってて、“仁”義がある。でも、この三つを合わせたら、“朴念仁”だよ」

 

「素“朴”と信“念”と“仁”義で……“朴念仁”ッ……!」

 

 雷に打たれたように復唱するシンディ。

 

「つまり、クロウ君は分からず屋だってこと。わかった委員長? こういう女の思い通りに動いてくれない男は苦労するよきっと」

 

「なんでそうなるのかよくわからないけどなんだか説得されざるをえない、すごく深い意見ね」

 

 眼鏡のズレを直して、赤べこのようにこくこくと頷く委員長。

 

「雪菜ちゃんもそう思うよね?」

 

「は、はい……凪沙ちゃんの言う通り、クロウ君は40点です」

 

 そして4人班の3人が納得したのなら、残る雪菜も頷く他ない。今は赤子な同級生に心中で謝りながら二度こくこく相槌を打つ。

 

 と。

 

「じゃ、じゃあさ、中等部じゃないけど、凪沙んとこのお兄さん――暁先輩って、最近ちょっと雰囲気変わって、怖い感じがなくなってきたじゃん。バスケやってたころに戻ってきたような」

 

 シンディが新たな議題を俎上に出してくるが、委員長に捌かれる前に、ざっくりと包丁で魚の頭首を落とすように、監視役が断言(介錯)しておく。

 

「―――先輩は、30点です」

 

 

 

 ただ今の時刻は、間もなく9時になるころ。

 午前7時に観光港を出港したフェリー『パリトーン』は、途中で伊豆諸侯に寄りつつ、11時間半――およそ半日をかけて東京湾に到着する予定となっている。

 船の中にも行事予定は組まれていて、10時半にホールに集合し、教材映画の視聴。それから昼食の運びになる。

 お喋りの合間に、予定を確認し合いながら、凪沙がふんふんと鼻歌を鳴らして、

 

「お昼ご飯なんだろうねえ。カレーかなあ。カレー食べたいなあ。あ、夏音ちゃんだ」

 

 視線の先に通った、別クラスの親友の夏音に声をかける。

 凪沙の呼びかけに反応した夏音は、銀髪を揺らして振り返り、その胸に抱いたものを雪菜たちにも晒した。

 

「え、アダム君!?!?」

「あう!」

 

 てっきり、朝起きたときいなかったから兄古城が連れ去って世話をしてるのだと思った赤子が、夏音の腕に抱かれながらこちらにぷらぷらと手を振っていた。

 

 

 

 

 

 その首に大変見覚えのある凪沙の下着(ブラ)をひっさげて。

 

 

港湾地区

 

 

 カッッッ!!!!!! と。

 その時、すべての音と光が消えた。

 

 カメラシャッターのフラッシュのようにあっさりと、そして、写真にそれまでの風景を“実際に”切り取ってしまったかのように。

 駆け付けた古城たちが見たのは、<賢者の霊血>という不滅の金属生命体ではなく、撤収する特区警備隊員と圧倒的な破壊の痕跡。

 コンクリート製の倉庫を高熱で融け崩して、原形を留めず跡形もなく、見えない巨大な刃で薙ぎ払われたように地形は滑らかに切り込まれていた。

 爆弾のような単純な破壊兵器のものとは明らかに違う。

 瞬く閃光の後、港湾地区一帯をクレーターに変えてしまうことを、数式を解くように『当たり前』に行使された、その力。そして、その絶対的な根源。

 

 それは、『賢者』の復活。

 

 封印されし『賢者』の意識が蘇り、霊血が放ったのは、重金属粒子砲――いわゆる荷電粒子ビームの一種。

 

「主が想像してるほど大したものではない。大気中では粒子束が拡散するから、射程はせいぜい数km。直撃したものが原子レベルで分解するだけのことだ」

 

「十分すぎるほどやべぇじゃねーか!」

 

 平然とこの惨状を見分し、そこから導き出された推論を語る浅葱――ニーナ=アデラード。

 大錬金術師の見解に古城は総毛立つような気分で息を呑む。

 半径数km内の物質を原子に分解できるビーム兵器。冗談抜きに照準がわずかでもズレテいれば市街地は一掃されていただろう。

 不滅で無尽蔵の魔力を持つ存在に弾切れが起こるような事態は考えられず、もしも未だに『賢者』がこの港湾地区で暴れていれば、どこまでも被害は拡大していたことだろう。

 

「<賢者の霊血>はそんな攻撃まで使えるのか!? それとも天塚の仕業なのか?」

 

「違う。やったのは、『賢者』だ」

 

 弱々しい、冷え切った声でニーナは問う。

 

 何故、あの液体金属の塊が、“賢者の霊血”と呼ばれるのか?

 いったいあれは誰の“霊血()”なのか?

 

 古城も気づく。

 “霊血”には、本来の持ち主がいた。それが、『賢者』だ。

 

 人工生命体の少女が教えてくれた、錬金術の究極の目的、その『完全なるもの』を創り出す大いなる作業の果てにあるのは、すなわち、完全なる存在――神へ、近づくことだ。

 すでに人工生命体という『人間』を創り出す技術はすでに完了している。

 ならば、その次の段階として、『神』の創造を目指そうと考えるだろう。

 高次空間の超存在(オーバーロード)を召喚するのではなく、自分たちの手で、人工の『完全なる人間』を創り出そうとしたのだ。

 

「だが、それは成功であり、失策であった。所詮は不完全な人間に過ぎない錬金術師たちに

、自分たちが生み出そうとしている“完全過ぎる”存在が、どれほどの過ちであるのか計り取ることはできなんだ」

 

 個体として完全な存在は、自分以外の何者も必要としない。

 『賢者』は、生きるために酸素も食物も必要としない不滅にして無尽蔵のエネルギーを持った存在。この地球がすべての生命が絶滅した死の惑星となろうとも、気にはしない。むしろ、そちらの方が都合がいいともいえる。

 『賢者』が唯一恐れるのは、他の生物が、自分以上の存在に“完全”なものに進化してしまうことなのだから。

 

「ろくでもないものを創り出してくれたもんだな」

 

 唯一完全な存在であり続けるために、自分以外のすべての生物の滅亡を願う人工の『神』

 ―――邪悪という言葉すらも生温く感じられる、最低最悪の存在だ。

 

 故に、270年前に『賢者』は封印された。

 不滅の存在を滅ぼすことはできないが、そのすべての霊血()を抜き取ることで力を奪い、ずば抜けた霊力を持った当時の最優秀の錬金術師が、復活を阻止するための番人となる。そのために――不滅の『賢者』を管理するために、<錬核>に自らの意識を移して、彼女もまた不滅の存在となったのだ。

 そんなのは、世界を滅ぼさぬためにささげられた生贄と変わらない。錬金術師の負の遺産に永遠に縛られた孤独な管理者。

 

「ああ、だから妾が管理しなければならなかった」

 

 ―――それが、ニーナ=アデラードの真実であり、罪滅ぼしに贈られた『伝説の大錬金術師』の真相。

 ニーナが、見分する際に見つけた現場に落ちていたそれを、拾い上げる。

 それは霊血ではなく、無数の人骨。

 一人や二人の骨ではない、優に十数人分はある。そして、その大多数がまだ幼い子供の骨。大柄な男性のものと思しき比較的新しい人骨を一体除いて、すべてボロボロに朽ち果てている。

 

 覚醒した『賢者』が、もはや不要と切り捨てた不純物(いけにえ)の混じる“霊血”だ。

 そう、5年前の事件に巻き込まれた修道院の修道女(シスター)と子供たちのもの。

 

 ニーナ=アデラードが、修道院を運営していたのは、それが身寄りのない霊能力者を保護するのに都合が良かったからだ。錬金術師たちの身勝手に、そのような境遇の者たちが何人も供物にされてきたことを飽きるほど見てきた彼女は、二度とそのような――自分のような不幸な生贄を出せないようにするため。

 

「『賢者』の支配を逃れられたというのに、すまぬな。身体を造り直すためにも、妾には“霊血”が必要なのだ。お前たちの骸を使わせてもらうぞ」

 

 浅葱の身体、その胸元に埋め込まれていた深紅の宝石。

 それが、ニーナ=アデラードの意識を移した<錬核>で、それを地面に落として、“霊血”の欠片と混じり合う。

 

「お、おい!? ニーナ!?」

 

 浅葱の身体をいきなりはだけさせたことに、古城は右手で鼻をつまみ、左手で視界を塞いだが、その指の隙間から重力に逆らってゆるゆると盛り上がる何かが見えた。やがてそれは人間の形となり、髪は艶やかな黒色に肌は褐色に染め上り、そして、目元口元鼻先と細やかに再現される顔立ちは、見慣れた華やかな級友のもので―――

 

「ふむ、まあ。こんなものか」

 

 『藍羽浅葱』という少女の双子のよう。

 服装が彩海学園の制服であることまで同じ。ただし、格闘ゲームの同キャラ対戦のように髪と肌の色が違う。

 そして、どういうこだわりか胸のサイズが、当社比で二回りほど違う。

 

「なんで浅葱の格好で復活したんだ、ニーナ?」

 

「急に手足の長さが変わると感覚が狂うからな。それに私本来の豊満なボディを再現するには“霊血()”が足りぬ」

 

「いや、だったら、その胸はどうなってるんだよ?」

 

「そこはこの薄っぺらい娘の体形を妾用にアレンジしてやった。感覚もさほど影響はないし、このくらいの形を変えるくらいなら量も問題ない」

 

「オリジナルの浅葱が気絶したままで本当に良かったよ。今の失礼な物言いを聞かせてたら切れてたぞ……つか、スタイルのいい浅葱を薄っぺらいとか、あんた修道院の院長のくせにどんだけグラマーだったんだ」

 

 ほれほら、とわざと制服からはち切れんばかりの胸を揺らしてる大錬金術師様を、古城は呆れ顔で眺めていると、背後から舌足らずな声が飛んできた。

 

「ほう。おまえがニーナ=アデラードか」

 

「―――那月ちゃん!?」

 

 現場に不似合いな豪華なドレスを着こんだ南宮那月は、相変わらず神出鬼没に虚空より現れ、思わず失言する教え子に無言の一打を見舞う。畳んだ日傘の面打ちをもらい、仰向けに背中から倒れた古城を無視して、じろりと胸元を強調するニーナを不機嫌そうに睨みつけながら、

 

「古の大錬金術師サマが、なぜ藍羽の顔をして偽乳を盛っているのかは、どうせ暁古城の趣味なんだろうが」

 

「違ェよ。俺は何一つ要求してねェし。つか、そんなことを言ってる場合じゃなくて―――」

 

「おおよその事情は意識が回復した叶瀬賢生から聞いている。アルディギアの騎士団からも情報提供(タレコミ)があったしな。天塚汞の正体と、お前の素性についてもだ、ニーナ=アデラード」

 

「うむ、妾も貴様の噂は耳にしたことがある。欧州で名を馳せた凄腕の魔女らしいが、しかしなるほど、百閒は一見にしかずと言ったところだな。予想以上に、尻の青いヒヨッコじゃのう」

 

「ほう、教え子と同じ顔をしてるからと言って、私を挑発すると高くつくぞ時代遅れのアンティーク」

 

 ニーナと視線を交わす那月。

 両者、冠に『大』がつくほどの世界最高峰の錬金術師と魔女の間に、世界最強の吸血鬼でも仲介に割って入ろうとは思わない。できれば背を向けてダッシュで避難したい。

 でも、今はそんなに悠長にはしていられない。

 『賢者』は相当に危険な存在だ。それを復活させようとする天塚は早く見つけ出して止めなければマズい。

 ―――そして、古城には那月にあったら言わなければならないことがあるのだ。

 

「那月ちゃん、クロウの事なんだ」

 

 そこで初めて那月がニーナより視線を外し、古城と合わせた。

 少しの間を置いて、一際静かな声で那月は問うた。

 

「どういうことだ?」

 

「瀕死のクロウを見て、俺の魔力が暴走した……アイツを助けてやりたくて、でも、その魔力の暴走にクロウを巻き込んだ」

 

 <第四真祖>の眷獣は災厄に等しいといわれる。その暴走に巻き込んだとなればただ事では済まない。それも瀕死の時に受けたのならばなおさら。

 

「………」

 

 常に傲慢に、生と死を支配する女王の笑みを浮かべて、相手に己が畏怖を叩き込む。

 だが、それが無表情であるほうが、古城には恐ろしく映る。

 喜怒哀楽があるからこそ人間味のある那月が、その感情を消せば、それは人間ではなく人形に近く見えることだろう。

 剣幕を凄ませているわけでもなく、無機質な面貌で見据えている。だが、迂闊なことを言えば、殺されかねない恐怖があり、それが彼女の場合は比喩にも何にもならない。

 ―――それでも、古城は言う。たとえ何回か殺されようとも、告げねばならない。

 

 

 ………………………

 

 

 で、ここから。ここまでシリアスに盛り上げておいて、言葉に迷う古城。実際シリアスな状況のはずなのだが、言葉にするとコミカルにしか思えない。ためを作れば作るほど相手には深刻さを増していくだけしかない。古城は瞳をパンチングボールのように忙しなく揺らして、どうにか状況を簡潔かつ的確に説明できないかと考えた結果。

 

「……それで、驚かないで聞いてほしいんだが」

 

「いいから言え。馬鹿の行動にいちいち腹を立てても仕方がない」

 

「クロウが、赤ちゃんになった」

 

 言った。

 もうそうとしか言いようがないのである。

 

「……………………………………………………そうか」

 

 長い沈黙の後、教え子の言葉が冗談ではないと数十回は咀嚼して理解し終えると、那月は畳んだままの扇子の先端を、無造作に古城に向けた。

 その瞬間、古城の額を、またも凄まじい衝撃が遅い、鉄槌で殴りつけられたような激痛に再び膝を屈する。

 

「色々と言いたいことはあるが今はこれで勘弁してやる。で、その馬鹿犬はどこだ? まずは私に見せるべきだろう。馬鹿な教え子の説明を聞くより、そっちのほうが手っ取り早い」

 

「そ、そりゃ、那月ちゃんに電話がつながらねぇし。今朝まで預かってたんだが」

 

「海の上じゃな。おそらく、古城の妹の荷物に紛れ込んで、その宿泊研修とやらに行ってしまったんだろう」

 

 遠く海の方角を差しているニーナの探査術式。昨夜は一緒に寝たという状況から、この推理が最も正しいと思われる。

 

「なに……あの船に乗っているだと」

 

「―――おや、自分の使い魔(サーヴァント)が心配かい南宮那月」

 

 また新たな、そして意外な声が飛んできた。雪菜の師匠が操る使い魔――骨董品屋にいたあの猫だ。

 

「ニャンコ先生!?」

 

 古城が声の下方角へ視線を巡らせれば、煌坂紗矢華の顔をした露出度多めのメイド服を着た少女(修復し終えた式神なのだろう)の肩の上に黒猫は自分の顔を前脚でこすっていた。その乗ってる逆の方の肩には黒いギターケースが背負われている。

 

「いい機会だし、本格的に私に預けてみないかい。そろそろ次代を作って隠居がしたいんでね。今度は一から鍛えてあげるよ」

 

「結構だ。調教師は私一人で十分間に合っている。また主の居ぬ間に、変な躾をされてはたまらんからな」

 

 国家攻魔官と獅子王機関。

 古城はかつてその二つは商売敵だと那月から憎々しげに聞かされて、さらにはつい先日に後輩を那月のもとから引き抜きに来たのだとその張本人の師家様に堂々と言われた。

 

 バリッ。

 と、崩壊質な空電の弾ける幻聴までも聞こえてきた。

 まさに、鋏。二枚の刃が交わり、間に合った空間がジョキンと破壊される―――そんな二人に見えた。

 そんな式神(と思われる)少女さえも、腰が引けて割って入りたくないこの二者面談に、

 

「あの小さな英雄のことか。何なら妾がベビーシッターに立候補しても構わんぞ。若造に赤子の世話は無理だろう」

 

 空気を読まずに爆弾を放り投げる院長兼大錬金術師は、ふふん、とクラスメイトの二回り増しの胸部を見せつけるように腕を組む。

 

「確かに、幼児体系の南宮那月には無理だろうが、乳母の真似事くらい、うちの紗矢華でもできる。そこの坊やにも前に吸わせてやったことがあるからね」

「誤解を招くような発言をするなっ、駄猫!」

 

 そういって古城は黒猫を捕まえて黙らせてやろうと手を伸ばし、寸前でひょいっと躱され、同時に乗っかられていた肩を押された式神少女。そのせいで目測を誤った古城の手は、結果的に式神少女の胸を鷲掴みにしてしまい―――

 

「ひゃっ!?」

 

 と式神とは思えないリアルな悲鳴とこの胸の弾力に、古城はぽかんと動きを止めた。

 ……昨日、見た式神はどこか違和感があってか、すぐ偽物だと感づいたが、今日のはそれがない。まったくない。この少女の顔が見る間に赤く染まっていくのも、目じりを吊り上げた瞳に、生々しい殺意と殺気を渦巻かせているのも……というより、これってまさか本物じゃ―――

 

「い、いつまで触ってるのよ!? この痴漢! 変態! ド変態真祖!」

 

 斜め45度より抉り込まれる素晴らしいアッパーが古城の顎先を捉えて脳震盪。一体この短時間に何度頭を揺らされているのかと不死身の真祖も心配になってくるが。

 

「煌坂!? お前、本物か!?」

「本物で悪いかっ!」

 

 涙目になってポカポカと古城を殴り続ける紗矢華。間違いなく本物。

 『それが精巧な分だけ式神を作り直すには時間がかかるから、本土より代理を送ってくる』とニャンコ先生は雪菜に言っていたそうだが、まさか式神の実物を連れてくるとは。なんて、紗矢華とじゃれ合いながら古城が恨みがましい気分で黒猫を睨んでいると、

 

「誰が、幼児体系だと?」

 

 腹の底から震えが来そうな声に、恐る恐ると振り向いて古城は目を疑った。

 その一瞬、目を離した間に、白シャツにタイトスカートを着こなした大人の女性がいた。

 160cm台の半ばほどの身長に、おそらく26歳ほどの年齢。

 人形のように精緻な美貌と、その印象を台無しにする全てを見下したような傲岸不遜な瞳を、そのままに維持したまま、大人へと成長させた姿というべきか。特徴的であった長い黒髪を靡かせる彼女の手には、先に古城を叩き伏せる際に用いた豪奢なレースの扇子が握られていて、つまり、これは同一人物で―――

 

「そういや、俺たちが見ていた那月ちゃんは那月ちゃんの幻像だったから、その姿もある程度自由に変えられるってことでいいのか?」

 

「まあな。ここが<監獄結界>でない分だけ面倒だが、私の実年齢に合わせてみた」

 

「確かに、そんな感じに成長しそうではあるけどな」

 

 投げやりな感想を口にする古城。

 見た目が多少変わったところで、女の口調や性格はそのまま那月。そのせいで違和感もなくて、強いて言うならいくらなんでも胸を盛り過ぎではないのかという点なのだが、そんなことを命がけで指摘したくはない古城は黙っておく。沈黙は金だ。

 

「さて、もう一度聞いてやろう。誰が、赤子の面倒も見切れんような、幼児体系だと?」

 

 思い切り呆れたような態度で深々と息を吐く古城の横で、タイトスカート姿の大人版那月は、ふふん、と得意げに笑って、伝説の錬金術師と獅子王機関の師家を挑発的に見下す。

 

「それはいくら何でも見栄を張り過ぎではないか<空隙の魔女>。実際の(ヌシ)は、まだ蒙古斑もとれんようなヒヨッ子だと古城が言っておったぞ」

 

「なに?」

 

「うぉぉおおおいっ!? 何言ってんだよこの錬金術師は! それは270歳のあんたから見れば、大抵の相手はヒヨッ子だろっつっただけで別に那月ちゃんは本当にまだ蒙古斑が残ってる可能性を示唆したわけじゃねぇぞ」

 

 三度目の衝撃に古城が撃沈していると、

 

「どちらも結局は形だけを真似た張りぼてじゃないかい。その点、うちの紗矢華のは本物だ。何ならそこの第四真祖の坊やに乳を揉ませてりゃ出すもの出すようになるよ」

 

「わ、私に何をする気よ暁古城!」

「そろそろテメェらいい加減に話し戻さねぇかっ! とばっちりが全部こっちにくんだよ!」

 

 紗矢華の猛蹴を躱しながら、古城が涙目で吠える。

 大錬金術師に大魔女に師家が顔を合わせているのだ。そこは女三人寄れば姦しいではなく、賢人らしく三人揃えば文殊の知恵のほうを発揮してほしいと切に思う古城。

 サンドバックにされるのも嫌だが、何より今の状況はそんなに悠長できる余裕はないはずなのだ。

 ふん、と小さく鼻を鳴らして、那月は淡々と告げる。

 

「のんびり話している暇がないというのは同感だ。どうやら馬鹿犬の先走り癖は、天性のものらしいからな」

 

「それはどういう……?」

 

「天塚の居場所が分かった。フェリー設備が破壊されたせいで詳しい状況はわからんが、ほぼ確定だ」

 

 そして、そのフェリーは午後7時発の東京行き――彩海学園の宿泊研修生を乗せた定期便。

 

「嘘……だろ。だってあの船には凪沙や姫柊たちが……」

 

 愕然とする古城に、ニーナが不機嫌そうに口を挟む。

 

「だから、なのかもしれんな。『賢者』を創り出す際に使われたのは大量の貴金属。そして、供物となる霊能力者だ。復活直後の『賢者』が力を取り戻すのに、それと同じものを欲しても不思議ではあるまい?」

 

「そうか……あのフェリーには叶瀬が……」

 

 天塚は、夏音が絃神島でも最高クラスの霊能力者の資質があり、『賢者』が復活した今ならば最高の生贄になる。そして、それは同じく優れた霊媒である雪菜も同じ。

 

「まずい……姫柊は<雪霞狼>を持ってないんだ!」

 

 天塚には単純な物理衝撃は通用しない。おそらくは呪術の効きも悪い。雪菜が優れた剣巫であっても、今の彼女には天塚を斃せる手段はないはずだ。自分の身を護ることすら、危うい―――

 

「ほれ、第四真祖の坊や」

 

 師家様に促されて、紗矢華が背負っていたギターケースを古城の目に差し出した。ずっしりとしたケースの中身はやはり、獅子王機関の秘奥兵器―――

 

「<雪霞狼>か―――!」

 

「雪菜に渡してやっておくれ。頼んだよ」

 

 黒猫の金色の瞳が古城を見つめる。古城は無言でうなずき返す。

 

「那月ちゃん、フェリーまで跳べないか?」

 

「無理だな。私には遠すぎる」

 

 空間制御は、移動する距離ではなく移動にかかる時間に干渉して、零に短縮する魔術。肉体には同じ距離を徒歩で移動したのと同じだけの負担がかかり、那月が跳ぶのは数kmが限界。

 

「だったら飛行機かヘリを飛ばしてくれ。船の近くまで行けば跳べるんだろう?」

 

「それも無理だな。前にも言ったはずだ。政府の条例で『魔族特区』の特区警備隊には航空戦力を持つことは許されていない」

 

 あまりに冷淡な声に返されて、古城は逆に頭に血を昇らせる。

 

「なんでそんなに落ち着いていられんだよ。あの船には姫柊、凪沙、叶瀬やほかの知り合い、それにクロウだって乗ってるんだぞ!」

 

 心配ではないのか!

 と、噛みつくような勢いで詰め寄る古城を、那月が鬱陶しげに日傘で突きのける。

 

 

「赤子だろうと何だろうと、私のサーヴァントがそこにいる―――それ以上の説明が必要か?」

 

 

 呆気に、とられる。

 吠えたてようとした古城の口も、ぱくぱくと声も出せないほどの、那月より押された保障に、大錬金術師と師家は快活に大声をあげて笑い、

 教え子を見事に静かにさせたところで、続けて説明する。

 

「それと、何も民間の航空機までも禁止にされているわけではない。都合よく機体を提供してもいいと言ってくれる親切な連中がいてな。

 ただ、手配したはいいが、それはお前とついでにそこの偽乳以外には耐えられそうにない代物で、だから、私がお前らを探しに来たわけだ」

 

 最後のほうにどこか不穏なワードが混じってたりもしたが、何にせよフェリーまで最速で送り届けてくれるのなら古城は構わない。

 

 そして、大魔女が空間を歪めて(ゲート)を開いて、向かった先は、絃神島の中央空港。巨大浮遊体式構造物(ギガフロート)の上に建設された空港には、駐機中のヘリや旅客機が並んでおり、そして駐機スポットには古城が度肝を抜くほどの恐ろしく巨大な乗り物が停まっていた。

 紡錘形の気嚢(バルーン)で構造された150m以上の、大型旅客機の二倍近い巨体の飛空艇。無数の機関砲が搭載されており、分厚い装甲に覆われた船体は、まるで城塞のような威容を見せつけてくる。

 特殊合金の硬殻を備えた軍用飛空艇は、その装甲を氷河の煌めきにも似た白群青(ペールブルー)に染められており、そのイメージカラーはまさしく。そして、船体に刻まれているのは、大剣を握る戦乙女――これは北欧アルディギア王家の紋章、そう、飛空艇はアルディギアの―――

 

 

 

『我がアルディギア王国が誇る装甲飛行船<ベズヴィルド>です』

 

 飛空船に吊り下げられている巨大なモニタに映し出されるのは、美しい銀髪に軍隊の儀礼服に似たブレザーを着た少女。叶瀬夏音と似ているが、映像越しでも揺るがない存在感に、内より醸し出される圧倒的な威厳は控えめな聖女には持てぬもの。

 この笑い声でさえも優雅であり、無自覚な気品を滲ませた高貴な口調は間違いなく、彼女。

 美の女神(フレイヤ)の再来とも讃えられる、北欧アルディギア王国の姫御子(プリンセス)――ラ=フォリア=リハヴァイン王女。

 

 

『古城、あなたのお力をお貸ししてもらえませんか』

「力を借りるのは俺のほうだろラ=フォリア」

 

 

パエトーン

 

 

 侵入経路は、すぐにわかった。

 部屋の隅に置かれたボストンバック。そのチャックが空いていた。中には、衣服やタオルをクッション代わりに携帯端末の充電機や手帳、宿泊研修のしおりに東京の観光名所ガイドブック、歯磨きセットなどが入っていて。

 

 

 割と目立つところに、やや適当に丸められた下着一式が飛び出していた。

 

 

 ビシィッ!

 電光の速度で飛び出した物をバックに詰め込み、火花が摩擦で散ってしまう勢いでチャックを閉め、一瞬で茹った顔を俯かせる。

 

「え、ええと……凪沙ちゃん?」

 

「何も……何も、言わないで夏音(かの)ちゃん……!」

 

 何かしらフォローを入れようとしてだろう、逃亡していた赤子を捕まえた夏音が困り声を宙にさまよわせたが、その無事着を凪沙は拒んだ。時間がなくて朝、荷物の中身を調べなかった。それを調べる余裕がなかったのも凪沙の寝坊が原因で、その赤子のせいとはとても言えるものではないが、それでも納得できないものがあるのだ。

 

「あう?」

 

 きょんとする赤子に凪沙は思わず大声を上げそうになり、それでもいくらかの理性が働いてそれを呑み込み、しかし猛烈に恥じた。

 思えば、あの真夜中。

 赤子に、自分の本心を晒してしまったり、あんなどうしようもない愚痴を聞かせてしまったり……朝起きて冷静になって考えてみたら、何をやってるの私、と凪沙は時間のない朝でしばし落ち込んだ。

 押し寄せる羞恥に、不思議と後悔のないすっきりとした感情。ストレスとは相反するベクトルで凪沙の精神に影響を及ぼしてくれた。それでも、なんとなくその赤子と顔を合わせるのがどうしようもなく恥ずかしくて、そして朝ベッドにいないとき兄古城が回収してくれて助かったとも安堵したのだ(ほんの少しだけ寂しさのようなものが込み上げたが)。

 

 その赤子が、凪沙の荷物に紛れ込んで、同じフェリーに乗船しており、凪沙と遭遇。しかもよだれかけのように巻きついていたそれは、宿泊研修の話を聞いた母親が、余計な気を効かせて、中々自身の遺伝子が発現しないやや幼児体型な娘に用意した、寄せて上げる胸部装甲を豊かに見せる(バストアップ)下着。

 

「あ~~~う~~~も~~~っ!」

 

 誰も悪くない。これは事故。そして結局、その見栄っ張りな偽造下着を入れたのも自分。

 

「あーーーうーーーおーーー?」

 

 幸い、約一名を除いて、赤子を拾い上げた夏音と同じ班の女子たちにしか視られていないし、彼女たちの口は固いと信じているけど。その約一名の赤子にそれを見られたのが、この上なく致命的な気がする暁凪沙。

 というわけで、赤子に対して意識はけしてするまいと思いながらも、どうしようもなく意識してしまって悶える親友を、見ている雪菜は思う。

 

(これは、先輩に報告すべきでしょうか?)

 

 悩む。とても悩む雪菜。

 この状況を事細かに記載してメールを送れば、眷獣連れてすっ飛んできそうである。

 最悪、こんな赤子相手にも今あるすべての手札(けんじゅう)を切りド級の戦力で戦争(ケンカ)を吹っ掛けるかもしれない。監視役としてもそれはNGだ。

 とはいえ、先輩もきっとアダム(クロウ)を探しているだろう。赤子を途中で寄る伊豆諸島あたりで絃神島に送り返すか、それとも宿泊研修に連れてって自分たちで面倒を見るかも相談しなければならない。

 それに―――

 とりあえず、赤子を船で発見したことを伝えよう。

 

「~~~~~っ!

 アダム君そこに正座!」

 

 と、雪菜が結論を出したとき、どうにか折り合いをつけて復活した凪沙が、夏音の膝の上に置かれてるアダムを取り上げ、そして、目の前に座らせる。そしてその口は、凪沙のとうとう葛藤では堪えきれぬものが噴火したようによく動いた。

 ここでため込んでおいたら余計に変になりそうだし、この子の将来のためにもならない。

 

「あぅぅ~」

「アダム君。わざとじゃなくても女性の下着を取るような真似はしちゃダメ」

「う……?」

「ダメ」

 「あう……」

「絶対にダメ」

    「あうあ……」

「ちゃんと反省した」

        「くぅ、くぅん……」

 

 一言一言ごとに凄みを効かせられれば、その雰囲気に罪の意識のない純粋な赤子でも、ヘビに睨まれたカエルそのもの。

 それで、怒られてることにどことなくしょんぼりしたように俯いたのを見て、そこでようやく表情の強張りが解けて、彼女本来の陽気さが顔を出した。

 

「はい、ばったーん」

 

 軽い手押しだけでアダムの身体をこてんと倒す。文字通り、赤子の手を捻るようである。そのまま、倒れたアダムの腹を枕にするように頭で抑え込む。

 

「あうあうあ~!?」

 

 雰囲気にやられたからか、本当に楽しそうにやられる。しばらくとひっくり返った亀のように手足を動かしていたが、凪沙の頭も合わせて重心を移動させてアダムの脱出を許さない。じゃれついている内に興味が移ったのか、アダムは凪沙の髪をクンクンと嗅ぎ始めた。

 

「きゃ!? くすぐったいよもう! ダメ! 匂いを嗅ぐのも禁止!」

「あぅぅ~」

 

 

 

「………」

 

 笑い合う彼女たちを見ながら、雪菜はそっと一歩後ろへ下がる。

 こっそり船室に置いてある自分の旅行鞄を開けて、通信用の式神呪符と底にあった細長い布包みを取り出す。その中身は刃渡り25cmほどのナイフが2本。先日定期点検で預けた<雪霞狼>に及ばずとも、剣巫の基本装備であり、強い破魔の力を持った呪的武器(エンチャンテッド・ウェポン)だ。それを制服の背中に仕舞い、目立たぬように上からコートも羽織る。

 

「あれ? 雪菜ちゃん、外に行くの?」

 

 そこで気づいた凪沙が雪菜を不思議そうな表情で呼びとめる。

 彩海学園の宿泊研修生たちはこれから、教材映画を視聴してその感想レポートを提出することが義務付けられている。

 それをサボるのはかなりの勇気が必要で、しかもあの生真面目な雪菜が、しかし。

 

「うんちょっと先輩にアダム君のこと教えないと」

 

「あっ、そうだね。古城君きっと心配してるよ」

 

「じゃあ、凪沙ちゃんはアダム君のことお願い。先に行っててもいいから」

 

 早口にそう言い残して、雪菜は船室を出る。

 そして、このはっきりとした異変は覚えないのに、剣巫の勘が訴えてくる、この酷い胸騒ぎの発生源と思われる方角、船橋(ブリッジ)の方へ真っ直ぐに向かう―――

 

「―――雪菜さん」

 

 そして階段を駆け上ったあたりで呼び止められた。それが透き通った銀髪を持つ制服姿の女子生徒だと知り、雪菜は驚愕する。

 そして、すぐ納得した。

 

「もしかして、叶瀬さんも?」

 

 おそらく雪菜に続いて、船室を出たのだろう。にしても、どうしてここにと―――そのまっすぐ見つめる碧い瞳に燐光のような気配を灯してる夏音が優秀な霊媒素質を考えれば、彼女の目的を自ずと理解する。

 夏音もこの船全体に強い悪意が包み込んできたのを覚ったのだ。

 その証拠に雪菜の曖昧な質問も、正確に意味を理解したように夏音は弱々しく頷きを返してくれた。

 

「この船に何かよくないものが取り巻いているみたい、だから―――」

 

 自分がどうにかする、と言い切る前に、雪菜は微笑みかけて制止する

 

「大丈夫。ここから先は私が行くから笹崎先生に知らせてもらえる」

 

 模造天使事件で、雪菜が剣巫として戦う姿を夏音は目撃している。

 隠し持った女子の手にはあまりに無骨に映るナイフを見せて、驚き瞬きしながらも納得した夏音に狼を模した銀色の折り紙をその掌に握らせる。

 

「それから、これを持ってて。お守りだから」

 

「はい。……雪菜さんも、どうか無事をお祈りします……わたしにはこのことくらいしかできませんけど」

 

 雪菜と同等以上の資質がありながら、それを御して振るう術を持たない故、無力な夏音は案じることしかできない。でも、そんな気遣いも雪菜の胸の奥にほのかに温かいものを伝えてくれる。

 

「ううん。心強いです叶瀬さん―――いえ、夏音ちゃんも気を付けて」

 

 そして、互いに力強く頷き合って、雪菜と夏音は、それぞれ違う方向へと駆け出した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「雪菜ちゃんと夏音ちゃんも、どうしたのかな?」

 

 急に部屋を出ていったふたりを気にする凪沙。

 彼女たちがいなくなった後で集合場所の報せが入ったのだ。

 理由はよくわからないけど、船員たちもみなバタバタしていて揉めていて何かトラブルがあったらしい。

 火事かそれともかの有名な沈没する船の中で行われる恋浪漫な映画のように氷山に衝突したのか。

 とかく、シンディと委員長のふたりには先に席を取ってもらって、凪沙は船内ホールの入り口で、雪菜と夏音を待つことにしたのだ。

 

 船内トラブルに駆り出されているのか、本来なら乗務員が常駐しているはずの売店や案内カウンターまでも無人。残っていた生徒たちも行ってしまえば、ここにいるのは凪沙とその胸に抱かれたアダムだけ。

 

「まあ、でも気にしても仕方ないよね」

 

 と気楽に言って、ちょうどいい機会だからと船内にある土産物を覗く。

 『妖精獣(モーグリ)』――絃神島のご当地ゆるキャラとして『波朧院フェスタ』より密かに認知されつつある――キャラ付きのシャープペンシルやストラップにキーホルダーなど、『魔族特区』土産は地元民には目新しいものばかりで、外から見た絃神島、というようなイメージに物珍しさと旅行の解放感も手伝って、ついつい物欲が刺激される。

 

「あ、『KOJO』のキーホルダーだって。これ買っちゃおうかな」

 

 奇しくも兄の風変わりな名前の商品を見つけた凪沙は思わず手に取る。それからなんとなく、ちょうどクラスの皆の視線もないし、もう一つの名前を探しておく。

 

「ここに『KOJO』があったから、Kの段ってことでしょ? O、P、Q、R、S、T、Uだから、この辺りに多分あると思うんだけどなぁ……」

 

 その時、従業員用の通路の扉が開く。誰かが出てくる気配―――店員さんだと思い、振り返った凪沙は手を挙げて―――しかし、そこにいたのは、奇術師を連想させる赤白チェックの奇妙な風体の男で。

 

「へぇ、いいね。この船には、随分と強力な霊媒を持つ娘が揃っているじゃないか。このまえの剣巫に叶瀬夏音も含めて、『賢者』の生贄(エサ)には十分な狩場だ」

 

 途端、その右半身からぐずぐずに輪郭が崩れ、無数の触手を備えた怪物へと変貌した。

 

 ―――な、なに、この人!?

 

 今いるのは広い通路中央。逃げるのはそれほど難しくない位置にいる。しかし、凪沙は、人間より変貌した異形の姿に、顔を青褪めさせて、その場に力無く座り込んでしまった。

 

「魔族……なの?」

 

 『魔族特区』の住人でありながら、重度の魔族恐怖症である凪沙は取り乱して、逃げ出すことができず、身動きもとれない。

 そんな哀れな(えもの)の慄きぶりに失笑する男、天塚はあえていたぶるように、ゆっくりと近づく。

 

「失礼だな。僕は人間だよ。傷つくなぁ……」

 

「い……いや、来ないで!」

 

 声を震わせて、必死で後ずさろうとする凪沙。しかし硬直し切った少女の細い腕は、虚しく床をひっかくだけ。

 そんな恐慌状態の凪沙をさらに陥れるように、壁の隙間より染み出してきた新たな人影が現れた。

 もうひとりの天塚汞が、挟み撃ちにするように凪沙の前に立ちふさがる。

 

「い、嫌っ! 助けて―――」

 

 絶叫して凪沙は蹲る。少女の身体に抱かれた赤子は、その手に土産物屋で取っていた妖精獣のシャープペンシルを、その柔らかな掌に筆先を刺して、血を流す。

 

 

 瞬間。

 

 

 視界が反転する。

 世界が変容した。

 錬金術師の狂笑もみなすべて遠く、暁凪沙が見るのは、そこは古びた虚構の聖堂の中。

 一体の竜を挟んだ、主従の会話。

 

 ―――『対価として、お前たちの“無念”を晴らすこと』

 ―――『それが、オレに課せられた契約の代償なんだな』

 

 《そう、それこそが、『全知』――契約の対価として咎神の叡智を受け継いだ<血途の魔女>が、『四番目の真祖たる盟友(とも)に滅ぼされ、咎神(かみ)に創り出されることのなかった――未完のまま廃棄された遺物』。その“情報(無念)”を元に産み出された『混血』の使命》

 《この無念を果たせぬことは許されない。蒼天が堕ちようともそれを穿て、白き海が荒れ狂い呑まれようともそれを呑め、緑の大地が裂けて喰われようともそれを喰らえ。死してもなお、その存在すべてを捧げてもらう。この世界の裏側へ、人の心を抱いたまま、幻想の獣として私たちと共に使われるであろう》

 

 『馬鹿犬、わかっているな? それは業だ。背負えば運命が決まる』―――

 

 ―――『そして、運命に負けたら、サーヴァントになる。ん? 今と変わらないのか?』

 

 『違う。吸血鬼の眷獣と同じ、魔女の悪魔と同じ、異世界の住人になるということだ。それは死ぬよりも辛いぞ』―――

 

 ―――『“『聖殲』は、まだ終わっていない”と聞かされた』

 ―――『それは、“いつかきっとみんなを巻き込むことになる”ってオレわかるんだ』

 

 『何を予言されたかは知らないが、それはお前と契約を結ばさせるための戯言だ』―――

 『一度だけ、言ってやる。やめておけ』―――

 

 ―――『それは、命令かご主人』

 

 『……私はお前を縛らんよ。それが最初の契約だからな』―――

 

 ―――『ああ、ご主人は守ってくれているぞ』

 ―――『サーヴァントになるのはご主人だけで十分なのだ』

 

 ああ。

 でも。

 

 

 

 絶対にその涙を流すであろう運命から守ると約束した子がいる。

 

 

 

 そして。

 予言された未来に、たった一瞬だけ、あの少女が泣いている姿が映った気がしたのだ。

 まだ何もわからない。

 それが、果たしてどのような意味を持っているのか、この契約を結んだことがどのような結果を及ぼすのか。

 何より、最後の刹那に聞こえた言葉。

 “少女は『聖殲』より呪われた魂から解放されなければ”―――

 

 

 《―――契約は、ここに完了した》

 《牙も小さく、爪も尖らず、火を吹くこともできない》

 《されど、私たちが滅ぼすものと定めし現れた時、私たちは契約主に殺神兵器としての力を与えよう》

 

 

 その厳かな声を最後に。

 泡の如く、映像は霧散していった。

 

 

 そして、この現実に、あの少年に契約をした白き獣龍がいた。

 

「みみーっ!」

 

 硬い鱗のない、そのおぼろげな白雲よりも白すぎる柔毛に包むように獣龍は身を盾にして、主を抱く凪沙ごと護る。飛来した触手は獣龍の身体に当たるも、その悉くが体皮に傷をつけることなく弾かれた。

 

「なにっ!? 龍族(ドラゴン)だと……!?」

 

 龍族。それは最強の魔獣種であり、魔獣と魔族の境界線上にある高知能を備えた種族。そして、龍族には何かを守護する習性があり、それを奪おうとして数多の英雄が殺されてきた―――

 

「だが、生物であることに変わりはないんだ!」

 

 弾かれた触手を翻し、その躰に巻き付かせる。

 掴まえた腕から、物体変成の術を滑り込ませようとした瞬間―――

 

「―――……? ……っッ!?」

 

 触手の先端から途轍もない熱量が伝わり、衝撃と共に全身に痛みが突き抜ける。まるで、十分に炎で炙り赤熱した卸金で、指先を焼きながら削られていくよう。

 

「―――術、じゃない、僕の力が食い千切られるッ!?」

 

 この痛みは、この白き龍族が放つ圧倒的なその獣気に噛みつかれたように、天塚の“何か”を喰われることで生じ、5年前に半身を吹き飛ばされた時の絶望を思い出させる。それとは別種の苦しみのはずだが、彼の本能がその龍の脅威を記憶の中から引きずり出してきた。そうだ、これはあの時と同じくらい危険なのだと本能が叫んでくる。

 走馬灯を見せられるほどの恐怖に震えつつ、天塚は必死に腕を切り離してでもこの龍より逃れた―――

 

 

 

「……屑鉄を逃すとは詰めが甘いな、“後続機(コウハイ)”」

 

 暁凪沙の口から零された文句でありながら、少女のものとは違う超然とした非人間的な声音。

 その少女の身に憑依した“何か”は、その発散している静謐な冷気だけで場を凍らせる。

 これはもはや、単に一個の存在に収まるものではなく、その威で場を女王の領域へと染め上げられていく現象そのもの。

 凍える世界全体と相対するかのような存在の圧だ。

 この白き獣龍が出ていなければ、“彼女”が錬金術師を殲滅していただろう。

 ―――しかし、それと引き換えに、全力に耐え切れずこの船は沈没し、器の少女にも多大な負担を強いることになる。

 

「だが、この娘を護ろうとしたことは褒めてやろう」

 

 凪沙の細い指が、その前髪を払いあげて、赤子の額を露わにして、

 

「それに免じて、『十一番目』にやられた呪いを解くきっかけを作ってやる。少年の尻拭いでもあるしな。今度、起こすときは霊媒の血を欠かさずに取るように伝えておけ―――」

 

 眠る前に抱いた大事な人形のするよう、自分自身の唇をその額に落とした。

 

 ……ただ柔らかい、そして舌にあたっていないのに、その“匂い”だけで本当に甘く、額で感じるその感触は何故か特別なことだと思う。

 凍える世界の中で、その体温だけを強く感じる。

 零れると息が熱く、触れる鼻はくすぐったくて、けど、むずがることもできず、なすがままにされる赤子は、その冷気にあてられたように固まっており、そして、白い蒸気のようなものを全身より噴き上げさせる。

 

(そこ)は、少女に悪いからな」

 

 そっと離れた彼女は唇を吊り上げて笑い、赤子を下に降ろす。

 

「余計な<禁忌契約(しばり)>がないのなら、これで破れるはずだ」

 

 眷獣が暴走していたからか、それとも暴走しながらも少年が離さなかった幉が最低限の一線で踏みとどまらせていたのか、もしくは、この“後続機”の生存本能による抵抗からか、“完全には奪われてはいない”。下手をすれば、“存在が抹消されていた”力を受けながらも、生き残っていて、一時的に穴をあけられ制限されていた獣王の半身も一日経った今は塞がれている。

 ただ元に成長するまでの生命力が足りていないだけ。

 ―――ならば、萎んだ風船と同じで、こちらが共有させて活力を注ぎ込み、膨らませばいい。幸いにも、不幸にも、大事なものを代償に結ばれたパスと未だに繋がっている。

 

 

「あとは、“零番目の大罪”を理解し、その龍族が“何を守護するために造られたのか”を気づけば―――現代の殺神兵器として完了するだろう」

 

 

 “先輩(センパイ)”としての助言を残して、“彼女”は再び眠りについた。

 

 

 

つづく



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錬金術師の帰還Ⅴ

パエトーン

 

 

 修道院のみんなを襲われた時のことを思い出す。

 彼は錬金術の材料となる供物――強い霊能力者が必要だといい、あの修道院にはたくさんの霊能力者が保護されていた。彼にとってみれば、格好の狩場であったのだろう。

 そして、養父に守られた自分を除くみんなを殺し、院長様がその身を賭して封印した。

 それが夏音の覚えていた、炎に包まれた5年前の記憶。“誰も救われることのない”過去。

 

 どうして、こんなことになってしまったんですか―――

 

 指一本、動かすことができなかった。

 声一つ、出すことができなかった。

 感情がすべてを拒絶し、何も感じることがなかった。

 ただ一つ、頬を伝う涙の感触だけがはっきりと伝わる。

 食事前の祈りを欠かしたことはありません。日曜のミサも、一度として休んだことがありません。

 汝の隣人を愛せよ―――

 修道院で教えられる言葉。忘れたことがありません。

 

 そして、一年生の頃。

 “人間でないと言われながら人間であろうとする”少年。かつて孤立していた彼を、最初は自分も怖かった。そんな彼が、

 

『叶瀬は、神様を信じてるんだな』

 

 そんな昼食前の祈りを捧げているの終えて、声をかけるのを見計らっていた彼は感心したように言う。

 

『本当に、信じているのか、わかりません』

 

 思わずそんな言葉が出てしまう。“思い出せずとも”、忘れていない何かが、彼を見て刺激されたように。または、この形だけのお祈りを止めようかと悩んでいたのもあったのかもしれない。

 

『クロウ君は、神様を信じてないんですか?』

 

『んー。叶瀬に悪いと思うが、さっぱりわからん。神様なんて、見たことも嗅いだこともないからな。だから、信じるなら、オレはオレのことを信じることにする。きっとオレが一番オレを見てきてくれてるからな。

 あ、叶瀬のことを馬鹿にしてるわけじゃないからな! オレが馬鹿だからうまく言えないだけで……』

 

 あたふたと言葉下手に説明しようとするその姿が、彼には悪いけど面白おかしくて、つい、くすりと笑みを漏らしてしまう。

 まだ彼に慣れていなかった人見知りな自分は、それを聞いている内に壁のようなものがなくなっていった。

 そう、あの彼の祈りは、ずっと素直に純粋のように見えたから―――

 

 そして、シスターの真似事を続けてみることにした。

 

 

 

 ―――ひとりでいれば、きっと………

 

 見渡す限りの青空と、紺碧の海を背にし、透き通るような銀髪を陽光の下で踊らせる。それは一服の絵画のような美しい情景なのだろうが、少女の表情は悲壮感であふれている。

 叶瀬夏音は、フェリーの船首でひとりきりで立ち、そこへ追い詰めるように甲板に立つ白いコートを着た錬金術師。

 

「鬼ごっこは終わりだよ」

 

 無邪気に微笑みを浮かべながら、両腕を広げて天塚が言う。舞台前に奇術師が、これより始まる惨劇の再演にご照覧あれ、と観客にむけて謳うよう高らかに。その左手に握る金色の髑髏の空洞の目が怪しく光る。

 それに圧されるよう夏音は後ずさるも、すでにそこは背水の死地。追い詰められて、逃げ場のない。

 それでもこの悲劇のヒロインが見せる健気な勇姿へ、天塚は拍手を送る。

 

「いい判断だね。ここなら他の乗客を巻き込むこともないし、僕も隠れてあんたに近づくことができない。その気になれば、あんたは海に飛び込んで死を選ぶこともできる。まあ、そんなことをしても全部無駄だけど」

 

 酷薄に嘲笑いながら。

 

「供物になる霊能力者はあんただけじゃない―――獅子王機関の剣巫や、ほかにも何人か有望なのがいたしね。既に分身たちが狩りに行ってると思うよ。どのみち『賢者』が完全に復活すれば、お終いなんだし。僕を恨まないでね」

 

 天塚の右腕が刃に――『完全なる(アゾット)剣』に変ずる。

 あの<黒妖犬>ですら見切れずに断ち切られた神速の斬撃を振るえば、夏音の命は一瞬で絶たれてしまうだろう。しかし天塚は、夏音を殺すためにここにいるのではなく、供物にするためだ。生きたまま<賢者の霊血>に取り込み、液体金属の一部となって、白骨化するまで力を搾り取られる。かつての修道院の子供たちのように―――

 

 だが、この状況において、それを理解していながらも、憎むでもなく、泣くでもなく、夏音の瞳は、天塚を哀れむように見つめて揺れていた。

 

「……まだ思い出せないのですか」

 

 唐突な問いかけに、命乞いを予想していた天塚はかすかに表情を震わせる。

 

「……なに?」

 

「私はあなたのことを覚えていました。修道院のみんなが殺されたときのことも」

 

 怯えず、怒りもせず、ただ深い悲しみだけを漂わせ、夏音は真っ直ぐ天塚を見つめている。

 

「あなたは、可哀想な人でした。自分が騙されていることにも気づいていない」

 

「……っ! なんのことだよ?」

 

 その視線に気圧されたように沈黙させられた天塚がそれを振り払うよう苛々した様子で訊き返す。

 はっきりと動揺が含まれているそれをみて、夏音は頬にかかる髪を静かに振り払い、口にするのを躊躇うように僅かな間を置いた後、

 

「『賢者』を復活させて、あなたは何をしたかったのですか?」

 

「決まってるだろ。“人間に戻るんだ”! でなけりゃ、誰があいつの言いなりになるものか!」

 

 天塚がそう言って、コートの襟元を引き裂いた。そこには金属生命体に侵食された不気味な右半身がある。天塚は、その半身を『賢者』に喰われたのだ。錬金術師といえど、『完全なる人間』である『賢者』を振り払えることなど不可能で、だから、『賢者』の望みを叶えてやるその対価として、天塚の失われた人間性(右半身)を復活させてもらう。それしか“元の人間には戻れない”。

 天塚の絶望と渇望を聞き、なお、夏音は表情を変えない。質問する穏やかな口調さえ崩さない。

 

「だったら教えてください。あなたはいったい誰でしたか……?」

 

「え?」

 

「あなたが本当に人間だったというのなら、そのころの思い出を聞かせてください。あなたがいつ、どこで生まれて、どんなふうに生きてきたのかを―――」

 

「そんなの―――」

 

 ―――――――――、詰まる。ではなく、詰まる言葉(もの)さえもなかった。

 

 夏音の質問に、天塚から答えが出ない、いや、答えることができないのだ。そこから嫌でも導き出されるたった一つの真実が、天塚をじわじわと追い詰める。

 

「思い、出せましたか?」

 

「黙れよ……叶瀬夏音……」

 

 天塚が絞り出すように呟いた。それはとても苦しそうに息を喘ぎ、だけど気づこうとしていないのなら誰かが言ってやらなければ、彼はずっと楽になれないのだ。

 

「『賢者』はあなたの願いを叶えたりはしない。なぜなら、“あなたが人間だったことはない”のだから。あなたは『賢者』が自分を復活させるために創り出した―――」

 

 そして、夏音は静かに告げる。

 

 

人工生命体(ホムンクルス)なのですから」

 

 

 断罪のように。

 懺悔のように。

 告白のように。

 

 天塚汞という存在は、ただ虚構と仮初と偽りだけで塗り固められたのが、真実であったのだと。

 

「ふざけるな―――!」

 

 激昂した天塚が、すぐかぶりを振った。

 

「いいや―――そもそも、あんたがほざいた戯言が真実だという保証がどこにあるというんだ!? 確かに僕は人間だったころの記憶がない、じゃなく、失ってるが、それだけで人間を否定される筋合いはないはずだ!」

 

 むしろふてぶてしく、挑みかかるような表情をここで取り戻したのは、天塚汞という人物の真骨頂と言えただろう。

 そして、即座に口封じに動いた。

 

「あなたは、もう薄々自分でも勘付いているのではないのですか?」

「もう何も言うな。死ね、叶瀬夏音―――!」

 

 だらりと無造作に下げられた腕が下から真上へ振られて、かすかな風が巻き起こる。直後、盾となり飛び出した剣巫の式神が縦に裂かれて、刃と化した右腕の直線上――大地が、大気が、世界が叶瀬夏音を中心に割

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 操舵室に残されていたのは、絶望と静寂。

 金属製の彫像と化して床に転がった船員たち、火花を噴き上げている航法装置――人員機器両方が致命的な事態であり、そして、それを演出した錬金術師がそこにいる。

 

 見た瞬間、雪菜の全身は緊張で硬直した。

 獅子王機関の出張所――骨董屋に並べられているアイテム、その元が呪われ、怨念に取り憑かれた呪具―――そんな悪霊が荒ぶっているような気配。または抜身の魔剣妖刀。霊的感性に鈍い一般人でさえも直視するのは憚れるようなもの。清純な巫女である雪菜には目に毒過ぎた。

 だが、ここにあるのは物ではなく、人のはずだ。そして、この人は―――

 

「天塚汞……!? どうして……あなたは死んだはず……!?」

 

「そうだよ。<黒妖犬>と<第四真祖>が殺したんだ」

 

 同級生と相打ち、最後は先輩の次元食いの眷獣に呑まれて消えた。

 そして、愉快そうに笑う錬金術師の足元、蛞蝓のようにヌルヌルと流動するその下半身。

 ―――以上から、推察できるのは、天塚は己の分身を造り出せ、そして、あの時に倒されたと思っていたのは、それであったと。

 驚愕した雪菜だが、すぐに立ち直り、思考を入れ替える。

 

「流石に勘がいいね。そうさ、ここにいる僕は分身だよ。船の中をうろつくには、こっちの身体の方が便利だからね」

 

 この船内に分身はまだいる。

 この船には、剣巫である雪菜よりも強力な霊媒が乗っている。

 そして、先輩からの話より、天塚は叶瀬夏音を狙っている節がある―――

 

「―――っ!」

 

 南宮クロウがいるが、彼は赤子でとても戦える状態ではない。

 いつも助けてくれた先輩――暁古城もこの船にはいないのだ。

 今、ここで、大切な人たちを護れるのは自分しか―――

 

「おっと、行かせない。他の分身たちの邪魔はさせないよ」

 

 ここで、背を向ければやられる!

 雪菜が選んだのは、逃亡ではなく、攻撃。

 夏音や凪沙たちの身が危ういのは承知しているが、ここで天塚を振り払うのは不可能だ。

 ここに、あらゆる魔力を無効化する<雪霞狼>があれば心強かっただろう。その半身が魔導生命体である天塚に破魔の槍は天敵である。

 だが、今の雪菜の手元にはない。

 あるのは、二本のナイフ。隕鉄を加工したその短刀は錬金術師であってもそうは取り込めない鋼。そして、ショッピングモールで同級生の少年が、その身に生体障壁を纏って天塚の身体を撃ち抜いていた―――それに、倣う。

 雪菜に全身を覆うほどの生体障壁を展開はできないが、それでもかつて師家様に生命力を半物質化させて飛ばす――霊弓術を学んでいる。実戦に活用できるほど修めてはいなかったが、それでも気を飛ばさないのなら―――この二本のナイフに纏わせるくらいならば、雪菜にもできなくない。そう、かつて古獣人兵ガルドシュがしたように。

 

「はぁ―――っ!」

 

 薄く鋭く霊気でコーティングされた短刀の二連閃。伸ばしてきた天塚の右腕を切断できずとも、大きく跳ね上げる。がら空きになった胴体。そこへすかさず、雪菜は回し蹴りを叩き込む。

 

「<伏雷>っ!」

 

 針の穴を通すような一瞬の隙を突いた、足先より凄絶な音を発する極少の神鳴り。剣巫の斬閃打突のコンビネーションは半人半金の錬金術師を吹き飛ばして、雪菜は急ぎ操舵室より飛び出し―――潰された。

 

「がっ、は―――!?」

 

 なにが!? 天塚は、動いて―――

 

 ぐる……!

 

 耳元のすぐそばに漏れる獣の吐息。

 “何か”がいる。“霊視”では見切れなかった不可視の、精霊の如きものが。

 

「僕は邪魔をさせないと言った。だから、“こいつら”が逃がすわけがない」

 

 残留思念を加工する錬金術が造り出した、人工精霊(エレメンタリィ)

 それが圧す重量は、最大でも『狂った英雄が殺してきた魔獣魔族の屍の山』。とても、人間に耐えられるものではなく、加減していても動けるものではないのだ。

 

「ああ、捕まえるだけで潰しはしない」

 

 そして、鋼を断つと自信のあった雪菜の霊気を篭めた剣閃。それを受け、斬撃を受けた右腕を軽く叩いてみせる男。肉体どころかその衣服にすら、呪的付与された隕鉄の短刀の形跡が残っていない。

 見れば、斬りつけたはずの短刀の方が刃毀れしていた。

 

「君には、前に僕の腕を斬り飛ばしてくれた借りがあるからね―――責任を取って、供物になってもらおうじゃないか」

 

 埒外の存在を前にして、身動きのできない雪菜に、天塚の右腕が触手のように伸びて巻き付く。

 体内の呪力を限界まで高めて侵食に抵抗するが、その触れた面から錆びた鉄のような色に変わっていく。

 

(すみません……先輩……失敗、しました……)

 

 “霊視”に頼り、敵戦力を見誤っていた。師家様よりも忠告されていたもの。

 謝罪するのと同時に思う。

 あの少年が哀しまないようと願いながらも、自分が失われたと知った時、少年の心に漣が起きますよう―――そんな相反するようなものを抱いて、姫柊雪菜の身体は熱の通わない彫像と化

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 錬金術師、天塚汞。

 警備隊に目を付けられている危険人物で、この宿泊研修は彼に標的とされる女子生徒を一時絃神島の外へ避難させるためのものでもあると南宮那月(センパイ)から事情を聞いていたが、まさかこの船が狙われるとは思ってなかった。

 裏目った。

 今、教材映画の視聴にホールへ集まっていた生徒たちは、城森先生の誘導で避難している。だが、結界程度で止められる相手でもなく、笹崎岬がその殿で足止めをしているのだが。

 

「面倒な相手だったり」

 

 状況は、マズい。

 たとえ救命艇で脱出しても、逃げ切るのは不可能だろう。肉体を自在に変形させる天塚は、おそらく水中でも無関係に行動できる。比重の重い液体金属の肉体でも、体内に空気を取り込めば十分な浮力が得られるはずだ。

 

 それも分裂して増える上に、どこから来るかもわからない。正直手の打ちようがない。

 

(那月先輩ならまだなんとかなったりするかもだけど)

「Oooooo―――!!」

 

 暴れ狂う金属生命体。

 半身になって触手の初撃を躱し、川の流れに浮く木の葉のようにふわりと揺れる優美な歩法で、まだ人型を保つ左半身、その裏を取るようにしながら、ゆるりと言葉を口ずさむ。

 

「―――一瞬千撃 行雲流水 天衣無縫 故仙姑成」

 

 反撃させる時間など与えない。拳、掌、熊手と手の形を狙う部位に合わせて変化させ、肘、肩、体当たりも繋ぎに混ぜて、怒涛の勢いで攻め立てる。

 さらに無数の気を練り上げた拳打を撃ち込むと同時に、その内部に直接気功波を放ち、炸裂。防御しようが、その拳が当たった場所の内部で気功波が破裂して、敵が木端微塵に砕け散るまで続く<仙姑>の仙術と武術の複合連撃。

 爆裂四散する金属生命体―――しかし、これ一体ではない。

 

「せめてこいつらの目的だけでもわかればね」

 

 と、周囲に気を探らせようとしたその時、

 

「笹崎先生―――っ!?」

 

 城守先生の声。結界の破られる音。そして、生徒たちの悲鳴。

 

「しまった―――!」

 

 こちらが誘導で、その不定形の体を生かして、通気口より遠回りだが、裏をかかれた。

 ホールに集められていた生徒たちに霊血の猛威に晒されようとする。

 焦り、一瞬、注意がそれたその隙、隠れ潜んでいたもう一体の金属生命体が、笹崎に襲い掛かる、

 

「……っ!」

 

 硬気功――生体障壁を両腕に張り、防御に構えるが、霊血は、その巨大な触手を持ち上げ、ハンマーのごとく道士へと振り下ろした。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 三つの地点で、すべてが終わる。

 

 ―――『完全なる剣』が、夏音を切り裂いた。

 ―――物質変換が、雪菜の身体を鋼鉄にする。

 ―――霊血の暴威に教師学生らが襲われる。

 

 終わった、“はずであった”。

 船で三ヵ所に起きるはずだったいくつもの『不吉な未来』は―――しかし、唐突に、あるものに待ったをかけられた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「一つ、街の人々を襲い! 二つ、不埒な悪行三昧! 三つ、見捨ててなるものか! 四つ世のため人のため!」

 

 バーン、と意味もなく時代劇っぽい数え唄を口にして、<黒妖犬>は錬金術師の絶叫よりもよほど大きな声で宣告する。

 

「五つ、いいからとにかくブッ倒す! このままだと宿泊研修が中止になりそうだからな、一気に片づけるぞ!」

 

 『完全なる(アゾット)剣』

 それは剣技に覚えのない素人である天塚が振るうために、自動操作する『意志を持つ武器』として造られたもの。

 だから、魔獣魔族優先で迎撃するようにできており、それが対策を取る要因となった<黒妖犬>であるのなら尚更。

 

 空間に一瞬にして弾けた黒銀の閃光に、叶瀬夏音を切断する寸前に、彼女の銀髪を剣圧で撫でながら軌道が無理やりに変えられた斬り返しが乱入者の首元へと走った。

 まるで右片腕だけが時間の違う世界で動いているような瞬速の剣戟に、夏音はもちろんにして、天塚自身も、反応できず声も上げられないでいた。

 しかし、

 

「―――!」

 

 次の瞬間。

 今度こそは<黒妖犬>の首を確かにはね飛ばすはずの断頭刃(ギロチン)が、差し込まれた掌に衝撃や肉骨を断つ音を響かせずに静止した。

 

 獣人となりその獣性を解放しているのならば、人間時よりも遥かに超密度の骨と筋肉に獣化で増大した生命力による硬気功を重ね掛けすれば、眷獣の攻撃にも耐えうるほどの尋常ならぬ防御性を見せるだろう。

 それでも、数多の魔族魔獣を屠り、怨念が染み付く『完全なる剣』は、魔殺しに特化している。

 魔のものを確実に殺害するように設定されたはずの血塗られた凶刃が、魔でありながら“神々しい聖なる気を放つ”『混血』に、一瞬躊躇わせられて停止されたところに手が添えられたのだ。

 触れれば断つ妖刀の切れ味に当たりながらも、血滴ひとつも流さないその光り輝く御手は、戦乙女の加護を受けて聖拳を発動させている。

 そして、

 

「前は速くて見切れなかったけど、5回もやられたんだ。オレだって学習する」

 

 ―――その完全なる刃を聖拳で刹那に受け止め、腕が捩じり上げて、螺旋の如く流動する煌炎の生体障壁で弾く。中国拳法の一技法、全身の筋骨を連動させて作り出した捻りの力を打撃部位に伝える纏絲勁で、上手い具合に船ではなく無人の海の方へ流した。

 

「なに、『完全なる剣』を、防いだ、だと―――」

 

「オマエのそれ。速いけど、わかりやすいのだ」

 

 動きが機械的すぎる。

 これまで鍛えられた師父に師家から特殊な“霊視()”や“超能(はな)”といった感性に頼り過ぎないよう、相手の呼吸や視線、間合いの変化や筋肉の動き、そういったもの全てで相手を誘導するように技を仕込まれ、常に駆け引きを行うよう意識させられてきた。

 

 獣化すらもできず、初手で不意打ちをもらった前回は、その駆け引きをする余裕もなかったが、今ならば流れ弾の着弾地点を気にかけ、逸らした場所を選択できるくらい冷静に対応ができる。それくらいに『意志を持つ武器』は、“最適解しか選んでこない”。ならば、動きをほんの少しズラしてやればいい。

 

「―――オマエの性格くらいにな」

 

 雷、蹴る。

 稲妻のごとき、いいや稲妻以上のフットワーク。

 <疑似聖剣(ヴェルンド・システム)>の加護を受けた聖拳獣爪と、錬金術師の『完全なる剣』が、刹那のうちに何度となくぶつかり合い、

 一直線に長く伸びた剣が天空(そら)を断ち切り―――躱しざま、ぐるりと体ごとぶつけるバックハンドブロー。その裏拳をまともに直撃した半人半金の人工生命体は、盾にした『完全なる剣(みぎうで)』を大きく凹まされて―――なお、止められず。

 

「<若雷(ワカ)>ッ!」

 

 

 

 雷霆が落ちたかの如く。

 獣人時の膂力に加え、体軸の旋回による遠心力と全体重を乗せて放ったその一撃がどれほどの威力を秘めていたか、斜め下に吹き飛んだ天塚の身体が海へ着水し、数十mも巻き上がる海水がそれを物語る。

 純粋なベクトル量だけで言えば大型ミサイルの直撃ですらかくや、と思われる一撃であった。

 

「叶瀬……」

 

 錬金術師の攻撃を防いで、撃退した。撃ち抜いた勢いのままにぐるりと一回回ってから夏音の前に着地。あれだけの重撃を放ちながらこれほど身軽な体裁きを見せる銀の人狼。売店に売られていた『妖精獣』のプリントがされたトランクスタイプの海パンを履いた彼は、間違いなくあの少年だ。

 一時とはいえまだ複製体がいるであろう錬金術師がその視界から消えたからか、緊張がほぐれた口が開いて、

 

「クロウ君……」

「オレは、怒ってるぞ」

 

 言いかけた夏音へ、クロウが口にした。

 

(………?)

 

 その声に、少女は戸惑った。

 何かが、今までとは違ったからだ。

 

「“どういうつもりだったのだ”?」

 

 人狼となってもその金色は変わらずに穏やかな目であったクロウが、けれど、彼に似合わぬ厳しい口調で訊いた。

 

「なにが、でした?」

 

「そんなに、死にたかったのか」

 

 クロウの言葉は、まっすぐ少女の胸を突いた。

 それでも息の詰まる夏音へ、クロウは畳みかける。

 

忍者(カタヤ)もいない、姫柊や師父だっていない、ひとりでアイツを誘い出そうとして、どうしたかったのだ?」

 

 最初の宣言通り、怒っている、ようだった。

 

「アイツが言葉で説得しようにも、止まらないのは叶瀬にはわかっていたはずだぞ」

 

「私さえ近くにいなければみんなは大丈夫のはずでした―――」

 

「囮になったというんだな。でもな、叶瀬、だからって、戦う覚悟もなくていいわけじゃないぞ。挑発みたいなことやって、悲鳴も上げて助けも呼ばないで、自分を護ろうともしない。あのままだったら間違いなく死んでた―――」

 

 金色の、穏やかな目がこちらを見据える。

 そのまま問うたのだ。

 

「叶瀬……アイツに殺されたかったのか?」

 

「………っ!」

 

 その言葉に、夏音は身体を強張らせた。

 ずっと見ないようにしていたその核心とも言える事実を、たった一言で貫かれた―――その衝撃ゆえだった。

 普段はその人を丸裸にしてしまうよりも無礼な『鼻』を使うことを控えていた少年は、命のかかるときはその禁を破る。

 

「どうして……そんなこと言うのですか?」

 

 どうして自分の胸は、こんな吐き出しきれない熱に、悲鳴を上げているのか。

 突かれたこの胸の空白を、夏音は握りこもうとする。

 そのずっと奥に、どうやっても埋まらないものがあるのだと―――そう気づいてしまったように、少女の指はすくんでしまう。

 すくむ……?

 まるで、それは怖がっているよう―――いや、怖いのだ。彼が指摘してしまうことが。先の真実を突き付けられた人工生命体と同じように。

 

 

「「叶「瀬夏「「「音ォォ「ォ「ン!!!」」」」」」」

 

 

 海中から、そして、船内からも。

 半身を不定形の金属生命体と化した天塚の複製体が押し寄せる。

 この船頭にいる叶瀬夏音へ、虫が誘蛾灯に群がるよう。

 けれど、

 

「うるさい奴だなお前」

 

 心の中のスイッチを入れた銀人狼の毛並みが、金色に変わっていく。

 体内の七つある霊的中枢を開門させ、仁獣覚者に等しき存在へと格を上げる<神獣人化>。眷獣や悪魔、怪獣サイズの的のでかい相手には、純粋にパワーアップした<神獣化>が適しているが、パワーでは劣っていても、バランスのいい<神獣人化>のほうが、人間サイズの相手には向いている。

 <神獣化>も制御できるようになった今ならば、以前よりもその強さを引き出せるようになっており、

 

(前とは、違います)

 

 <模造天使>と対峙した、あの金魚鉢の無人島での時と、その<神獣人化>は何か違う。そう、自然なのだ。あの無理矢理にチャクラを開門させたせいか、無駄な獣気の放出が紫電となって迸っていた。今は、それがない。特段力の発散がないせいか、迫力こそ静かなものになっているが、まるでそれこそ本来あるべき性能を発揮しているような、迂闊に触れるのも躊躇うほどに研ぎ澄まされている、そんな風格。

 

「邪魔をするな<黒妖犬>!」

「残念邪魔しますのだ錬金術師」

 

 ぐう、と天塚は目を見開いた。

 その左の眼球には毛細血管が走り、頬が引き攣っていた。

 

「僕は、僕は僕は僕は。人間に戻るためにここまでやってきたんだ。なのに、またあと少しのところで邪魔をされるなんて。は、はッ! どうやら神様というのは僕に意地悪らしい!」

 

 喚き散らす天塚に圧されて、夏音は息を詰まらせる。

 その瞳には殺気立つ狂気。口からこぼれる声はまるで怪鳥のよう。

 

「ああ、本当に不公平だ」

 

 天塚が夏音を見て。

 低く―――冷たい、ゾッとするような声音で言った。

 

「その顔、その体、ああ、なんて綺麗なんだ。残酷なほどにね。当然だ、5年前ひとりだけ生き残ったお前は皆の分の幸せも食ったんだからな。あの修道院で燃え盛っていた炎はお前そのものだったんだ」

 

 今の言葉が、一体どれほど夏音の心を抉るのか、気にもせず吼える。

 訴えるたびに、心臓はかつてないほど速く脈打つ。あまりの勢いに、すぐに力を使い果たして止まってしまうのではないかとすら感じた。

 いっそ、止まってしまえればいい―――

 そんな考えも浮かんでしまう。

 <模造天使>の儀式で、同じ『仮面憑き』の少女たちを喰らうときにも思ったこと。

 自分が家族や大切な人たちの幸福を食べてしまっていたのなら……自分のせいで、皆が傷ついてしまっているのなら、そんな自分なんていなくなってしまえればいい。

 心から、そう思った。

 神様という存在がいるのなら、きっと悪魔のようなこの存在を許さないに違いない。愛する人々を、愛してくれる人々を傷つけてしまう自分に、存在価値などあるわけがない。

 

「私、が……」

 

 ごほごほっ、と。激しい咳をして、床に膝をつく。胸が苦しくなってきた。頭痛もひどい。気分の悪さに平衡感覚すら失ってしまったようだ。

 

「私が、

「修道院を、

「院長様を、

「皆を、

「燃やした炎―――」

 

 涙があふれて止まらない。何とか泣き止もうと両手で目頭を押さえるが、涙が止まることはなかった。両手の隙間からとめどなく涙があふれ続ける。

 だめだ。泣いてしまうのはダメだ。心配をかけてしまう。負担になってしまう。

 

「そうだ。お前が燃やしたんだよすべて!」

 

 限界だった。

 今まで抑えようとしてきたものが、これまで自分を覆い隠してくれた仮面が音を立てて崩れていくのを感じた。

 

「私が、皆を、傷つけてました」

 

 ぽつり、と夏音の口から言葉が漏れる。

 

「でも……私、ひとりが怖かった! 寂しかった!」

 

 この心が映し出した原風景は、吹雪。先も見えず、ひとりでいると凍えてしまいそうで、だから、誰かに傍にいて欲しかった。みんなと離れるのが怖かった。

 だけど、熱を奪うばかりで、何もあげられなかった。

 父様が夏音に優しくしてくれるたびに、嬉しかった。甘えてはいけないと知りつつも、自分を守ってくれる父様と一緒にいれた時間は幸せだった。だが同時に、恐怖を拭いきれなかったのも事実。一度、修道院の院長様、皆のようにまた失ってしまうのではないか、と。与えられるばかりで何もできない自分は、何も守れないのではないかと―――

 

「みんな、優しかった。優しかったから、怖かった。私の傍からいなくなるのが。それならいっそ、ひとりの方が良かったんじゃないかって思ってました。でも、みんなは……とてもあたたかすぎて……こんなときまで、離れることができませんでした。いつも。傍にいて欲しいって思いました……私が皆にしてあげられることなんて、何もないって知ってましたのに!」

 

 きっと。

 『蠱毒』の実験儀式が始まる前から、自分が誰かから奪って生きていたのだ。

 ある言葉が、夏音の口から漏れようとしていた。

 ずっと昔から、夏音の奥底に隠れ潜んでいて、父様に封印されたもの。言ってしまえば、裏切ってしまう。思っていても、堪えなければならないもの。そう、彼に見抜かれてしまっていたもの。怒ってしまうのも当然だ。言ってしまえば、自分を守ってくれる人たちを裏切ってしまう。そのことを知っていたから、考えることを本能的に拒否していた言葉だ。

 

 なぜ、叶瀬夏音は、5年前の事件を“今”、すべてを思い出した―――そう、それまで忘れてしまっていたのか。

 

 それは養父として引き取った叶瀬賢生が、その辛い記憶を封印する術をかけていたからだろう。そうでなければ、“娘が死んでしまうからだ”。

 管理公社の記録にも残されていなかったのも、当事者の一人であった賢生が“万が一にも過去のことを調べようとして記憶が蘇ってしまわないよう”、修道院に<賢者の霊血>を絵画のレリーフに偽造工作をする際、『霊力の暴走が原因で起きた謎の爆発事故』と現場に着た警備員らに暗示をかけ、隠蔽工作を働きかけていたからだ。

 その衝動を封印()してくれた養父は、傍にいない。刑務所にいて―――

 

 

 

「叶瀬は、シスターになるんだろ?」

 

 天塚を牽制し、でも、夏音に手を貸さず。

 叫ぶ天塚に対して、その声はあまりに静かで、夏音にさえ聞こえればいいような声量であった。

 

「ご主人にみっちり勉強させてもらったところだから、シスターのこと知ってるぞ。西欧教会の敬虔なシスターは、自分の命を粗末にしない。教会の教えでは、自殺は大罪なんだな。あそこの天国ってのは、生き抜いた末に祝福されるものだったぞ。だから、教会では、自殺は人を殺すのと同じかそれ以上の大罪になる。

 だから、叶瀬は死にたくでも、自分のために自殺しちゃいけない、って頑張ってきたのだ」

 

 日本の仏教にある輪廻転生を否定する教会の教え。一緒に暮らしているから知っている。毎朝欠かさずにお祈りを捧げていることを。そして、シスターになることを夢見ている夏音にしてみれば、それは自身の純潔と等しく守るべき戒律となっていただろう。

 それでも―――

 

「でも、みんなが死んで、寂しかったんだな?」

「……寂しいでした」

「夜、一人になると泣いてたりしてたな?」

「……泣きました」

「悲しいの、ずっと続いてるんだよな?」

「……はい」

「それでも、シスターになりたい叶瀬はすごいと思うぞ」

「……そんなこと、ありません!」

 

 あれは一時的な衝動でも、悲惨な過去のショックからくる現実逃避でもない。真剣だったのだ。自分で死ぬことができなくても、本気で死のうとした。本当に、死にたかった。みんなと一緒に死ねなかった自分の境遇が恨めしかったのだ。あの時の気持ちは、まだ心のどこかで燻っているだろう。それは、いつか燃え上がるかもしれない火種。一生消えない―――

 

「……誰かに殺してもらいたい、そんな気持ちはわかるけどな」

 

 理解を示すよう、同情するよう、クロウは一瞬だけ目を伏せて、夏音、というよりも、自分を含めた世界のすべてに言い聞かせるように語り始める。

 

「―――ちゃんちゃらおかしい。

 だからって、夏音のせいなどあるもんか。夏音はオレにあたたかさをくれたのだ。夏音は感じなかったのか? 皆から、何ももらってなかったのか? 皆お前のことが好きだったのに、何も感じなかったのか?」

 

 夏音は、胸の前で組んだ両手を見つめる。

 この強く握りしめた手の中に……小さな胸の奥に、はっきりと温もりを感じていた。

 こんなときでさえも、消えることのない灯火が、確かにあった。

 クロウは言う。それはけして、自分の身を焦がして焼き尽くそうとする、そんな火種ではない。冷たい哀しみだけで、いつまでも燃えていられるか、と。そんなものが人をあたためられるモノか、と。

 

「夏音は夏音のために戦ってくれた相手のことを、夏音は信じてやれないのか? 離れるのが怖くて……いつまでも弱いままで、夏音を護るために戦った皆の想いまで失くすのか」

 

 クロウは自分の頭を掴むように手を置く。

 

「ご主人には内緒にしろと言われたけどな。叶瀬の父は入院してる」

 

「えっ、父様が―――」

 

「それでも、今伝えなきゃいけないんだと思う。オレは口で説明するのがうまくないからな、オレが病室で、叶瀬の父から嗅いだ“匂い”を叶瀬の前に蘇らせる―――」

 

 ジャコウネコ科の獣人種がその匂いフェロモンで相手の心を操るというが、クロウはその『嗅覚過適応』を働かせる。“匂い”を吸引して、その感情を読む感応―――それを逆転。

 この記憶より引き出された情報を“匂い”に変えて発香し、その記憶に染み付いた人物の感情を相手に読ませるテレパシーに―――

 

『夏音、私はお前を―――』

 

 病室のベットに眠る養父。

 それより感じるのは、ひたすらにたった一人の義娘を案じるというものだ。

 大事な妹の忘れ形見である義娘。その妹が知れず、この地で亡くなっていた悲しみ。けれど、それを義娘といることで和らぐものがあった。それが罪悪から生じたものもあるが、夏音といれて、幸せであったということ。

 心から義娘のことが好きで……だから、そばに居た。遠く離れた今もずっと想っている。

 

「―――伝わったか?」

 

「はい……っ」

 

「この思いまで、裏切るのか? 必死でお前のことを守ってくれたのに……叶瀬は叶瀬の願いを叫ぶことは、できないのか?」

 

「父……様……」

 

 掠れた声が、夏音の唇からこぼれる。

 立ち上がろうとすると、左片目を血走らせた天塚が憤怒の形相でにらみつける。

 凄まじい殺気が空気をかき混ぜる。

 しかし。

 

「なあ、叶瀬―――いや、夏音、答えてくれ」

 

 強く、強く、問いかける。

 

 

「壬生狼御庭番衆一番隊長のオレが、錬金術師とか『賢者』とか“頭でっかちの奴ら”に負けると思うか?」

 

 

 ある北欧の第一王女に逆輸入され、同士な要撃騎士とのコミュニケーションで独自進化を遂げていて、なんか混ざっているぞ、と先輩がいれば指摘(ツッコミ)しただろうが、当人には冗談のつもりがなく、

 碧色の瞳がこちらを見ず、視線は床を舐めている。

 だが、そんな強気な風に揺り動かされたよう、首は縦に振れる。

 

「……思い……ません」

 

「だったら、ここにいてもいいな。心配ばかりしないで大丈夫だから、遠慮するな。オレたちは、同じ家に暮らす“家族”だぞ」

 

 そこで、威張って格好つけるのが不思議と似合わない少年の定めであるのか、ちょっとだけ情けないように、ポリポリと頬をかいて、

 

「まあ、オレは神様みたいに何でもはできないから、勉強見てくれとかそういうのは勘弁だぞ。あ、あと淹れられるお茶は緑茶だけなのだ」

 

「クロウ君……」

 

「でも、大抵のことは力技で何とかできる自信があるぞ」

 

 そこまで力強く言い切った後で、普段の純粋な、夏音を安堵させるための百の笑みを浮かべながら頷いてくれた。

 正直、まだ迷いはある。失うことへの恐怖は消えてくれない。

 だが今の夏音にとって一番、確かなものがあった。

 受け取った“匂い”を失くさないよう大切に合わせた両手。この手の中のぬくもり。大切な人たちからもらった、あたたかさ。

 

「わたしは……父様に言いたいことがありました……!」

 

 両手を握りしめ、声を張り上げる。

 

「たった一言だけ……でも、それを言ってしまったら、もう父様やみんなに会えないんじゃないかって、怖かったのでした……!」

 

 だけど、いつか、心から言いたかった。

 父様、そして守ってくれるみんなに。

 この声は、この想いは、届くだろうか。自分を護るために戦ってくれる大切な人たちのもとへ―――

 

「私は、もう大丈夫でした、って!」

 

 ガラスが割れるような甲高い声が響いた。

 ―――ずっと願っていた。

 父様に守られるたびに、いろんな人たちに助けられるたびに。

 それを言ってしまったら、彼らを安心させてしまうかもしれない。安心したら、彼らは夏音の元を離れて行ってしまうかもしれない。

 だが、いつか大切な人に、その言葉を言える日が来ることを願っていた。そして、

 

「今度はみんなを守りたい、と思ってました。でも、それは無理で……だから―――力を貸してくださいクロウ君!」

 

 それは音としては小さくとも、その体も心も余さずに、力を振り絞って、夏音は叫んでいた。

 視線と視線が交差する、その呼吸半分程度の間をおいてから、

 

「よし。一番隊長から三番隊長の夏音に協力要請なのだ。

 夏音は、誰かに攻撃するのが苦手なのは知ってる。でも、オレも壊すのは得意でも守るのは苦手なのだ。約束だって破っちゃうしな。だから、“守る”ためにオレからも力を貸してくれ」

「―――はい、貸します!」

 

 その足元に着くまでに伸長した金色の後髪(ハックル)が伸びてきたのを、夏音は手に取る。

 以前、ラ=フォリアより合わせ方を見せてもらって、不完全ながら、クロウはやり方を学習した。

夏音も、ユスティナ=カタヤの宝剣<ニダロス>に霊力を供給した経験があり、与え方を感覚で覚えている。

 

「邪魔をするなァァァアアア!!!」

 

 一斉に、複製体がその『完全なる剣』を振るうのに対し、

 

 

 聖女は祈り、とん、と金人狼は自分の足を甲板に降ろす。

 それだけだった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――なんだこれは!?」

 

 天塚は、初めて驚嘆し、雪菜から退く。

 

(いったい、なにが……?)

 

 呪力の放出で抵抗していた物質変換の侵攻が、止まっていた。

 すでに浸食された箇所が治ったわけではないが、錬金術師が鉄鋼に変えて生贄に取り込もうとしていた剣巫の身体に、蒼く澄んだ光に包まれている。

 

(これは、神気!? <模造天使>で『仮面憑き』が纏っていたものと同じ……!)

 

 第四真祖の眷獣であろうと侵犯の許されぬ絶対結界。

 万物の穢れを祓うその高次空間よりの神気が、数多の魔の血を吸い上げた妖刀と半身が化した天塚を退けた。ばかりか、周囲に密集していた人工精霊をも薙ぎ払い、ことごとく殲滅せしめた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「こりゃまた、力ずくだねぇ」

 

 呆れるような、感心するような。

 霊血の触手に挽き潰された道士。だが、ゆらりと液体金属の触手が持ち上がった時、その姿は陽炎の如く消え去る。

 幻影の術。仙人は時に人を惑わす。<仙姑>と謳われる笹崎もその手の仙術を習得して、その一瞬に術をかけ相手の攻撃を躱す。それから生徒たちのいるホールへ駆けつけようとして、その蒼海にいるかのようにホール全体に満たされているのを見た。

 

「これ、神気が混じってるけど、生体障壁だったり」

 

 一流の達人であっても、自分の全身に纏うのが精々な硬気功。それを船全体に施すなど、人間業ではなく、<四仙拳>の笹崎でも3分ももたずに気が枯渇する。まして、神気まで混ぜ込むなんて無茶を通り過ぎている。できるのは、というか、やろうと考えそうなのは、やはり、あの弟子ぐらいだ。有り余る元気、人並み外れた生命力を持つ獣人種の特性があった彼に適正だと思い、仕込んだのだが、これは相当馬鹿げたものだったらしい。

 

 

「監獄ひとつを異空間で支配するのと同じくらい無茶苦茶だったり。流石は、先輩の眷獣(サーヴァント)だよ、ほんと」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 勝負は一瞬で決まり、ほとんど無音のうちに終わった。

 

 <神獣人化>となり、獣人種の優れた五感に、その<嗅覚過適応>に拡張された知覚範囲がさらに研ぎ澄まされ、この視界上にある相手の動きや感情の流れはもちろん、音や空気、半径1kmに渡るありとあらゆる情報を俯瞰的に把握。範囲内のすべての状況を完璧にイメージし、

 

 <疑似聖楯(スヴァリン・システム)>。

 

 防御系魔術の最高峰といわれるアルディギア王国の秘呪にして、神気によって生み出される聖護結界。

 本来、精霊炉を搭載した大型軍艦と同等の結界を、その聖拳を展開するのと同じように、生体障壁にして敷く。そして、人間の限界の範囲内にとどまっていても絃神島でも最高峰の霊力量を誇る叶瀬夏音の援助加護を受けながら、“獣気(匂い)”を浸透させて空間を支配する獣人拳法の奥義を同時に行使し、その聖護結界である生体障壁の領域を船すべてに広げた。

 そして、むろん、

 

「なんだよこんなの!?」

 

 ―――甲板にいた霊血の複製体がすべて制止している。

 

 <疑似聖盾>は、すべての物理衝撃を無効化する特性を持っている。

 もしもそれが特性ごと“裏返し(リバース)”され、標的の全身に掛けられれば―――外部からの攻撃干渉をすべてシャットアウトする絶対の防護は、外部への攻撃干渉をすべてシャットアウトする絶対の拘束となる。

 <空隙の魔女>の<戒めの鎖>でさえ捕まえられなかった不定形の相手でさえも、完全密空に封殺(パッケージング)される。

 

「言っておくが、隙は、無いのだ」

 

 まったくの隙間のない。指先に至るまでこの蒼き拘束に包まれているため身動きもできず、そして、警備隊の結界さえも破る、不定形の怪物に変身することもできない。

 

「どうなってるんだよコレェエ!!!」

 

「やめろ。暴れても無駄だぞ」

 

「くっそォオオォooooo!!」

 

 その感知能力は、この甲板にいる複製体だけでなく、船内、操舵室で雪菜を襲っていたものも、ホールで学生らを襲おうとした者たちもすべて捕らえており、遠隔の拘束障壁で捕縛されている。

 

「何故だ! こんな“半端者”に捕まるなんて! 僕なんか普通の人間が何の努力もせずに手に入れている当たり前のものを、得ることにだけひたすら心血を注いでいるというのに、いつまでたっても人間未満だ。どうしてこんなに苦しまなければならないんだ! 憎い! 叶瀬夏音、お前が憎い!」

 

 悲痛な―――喉が千切れるような哀切に満ちた声。

 

 いけない。

 

「もう、これ以上、止めてください。じゃないと、あなたの身体も―――」

 

 これはいけない状況だ―――夏音は咄嗟にそう判断する。

 天塚は薄々気づいているのだろう。自分が『賢者』がその“霊血”の残滓から作り出した人工生命体であることを。『完全な人間に戻りたい』という欲望を埋め込まれ、利用されていた駒であることも。

 そんな道化な人生を反芻して、不安定になっている。認めがたい真実から目を逸らして、正常な思考を失くしている。

 感情の乱れに制御が外れ、聖護結界内で次々と複製体は不定形の金属生命体へと融解しようとして、拘束から出られずに自滅していく。あらんかぎりに神を冒涜して、自分の人生に絶望して、底辺の底辺で、世界を呪いながら死んでいく。

 ここに、夏音よりも、不幸な人間がいた。

 

「違います」

 

 夏音があまりにも見ていられなくなったので、裏返った声で叫んだ。

 

「違います間違ってます! そんなの、絶対に間違ってました!」

 

 駄々をこねるような子供じみた否定。説得力も何もあったものではない。だけど、夏音は叫びたかった。彼の絶望を否定してやりたかった。

 究極的に不幸だったわけじゃないと、言ってあげたかった。そのために肺よ裂けろとばかりに思いきり叫びたいのに、それだけしか言えないでいるのが歯がゆくて歯がゆくて……

 

「なあ、オマエが夏音に嫉妬するくらい人間に憧れてるのはわかったけど―――オマエは何でオマエが人間じゃないと決めつけているのだ?」

 

 クロウが、その甲板の奥に隠れていた最後のひとり――天塚汞の本体の前まで行って、問う。

 

「はっ! こんな半分が金属の身体で、どこが人間だと―――」

「オレはオマエの言うとおり半端者だけど、人間をやれてるのに、オマエは、人間をやることができないのか?」

 

 同じ目線に合わせて、問いかけ続ける。

 

「オレは神様じゃないからな。肉がないと飢えちまうライオンに、草を食えなんて傲慢な事は言えないぞ。でも、オマエは生きるために夏音や皆を襲ってるんじゃないんだろ。なのに、誰も傷つけなくてもいい手段を考えなかったのか?」

 

 不滅である“霊血”の肉体は不変。しかし、複製体を切り離すなどすれば純度が下がり、劣化する―――逆に言えば、何もしなければ、変わらない。

 実際、完全に“霊血”の肉体である師匠――ニーナ=アデラードは、一切の切り離しをせず、270年もその自己を保って生きてきた。

 <錬核>の模造品、制御を誤れば暴走して原形をとどめ置いておけなくなる<偽錬核>でも下手な刺激がなければ問題なく、人間として平穏に生きていくことは可能だろう。

 

「院長様が仰っていました。人間であるかは否かを決めるのは肉体ではなく、その魂の在り様だと」

 

 夏音がその言葉を思い出したのは、やはりこの少年の問いかけからだった。彼がしてきた今日までの行いを見て、自分でもそれに確信する答えを得た―――夏音はそう信じている。

 だから叫ぶのだ。真っ直ぐな声音で。

 

「人間として造られなかったとしても、人間らしく生きようと足掻こうとするあなたは、人間です!」

 

 夏音は恐らく生まれて初めて本気で怒鳴った。

 

「なんでそれがわからないんですか! わかろうとしないんですか!」

 

「―――」

 

 ぜい、と夏音が息を吐く。

 叫びたいだけ叫んだら、なんだか急激に恥ずかしくなって、顔が過呼吸とは別で赤くなってきたけれども。

 

「……なら、何をすればよかったんだ僕は……」

 

 静かに囁くような声はすぐに掠れ、呻き声としか取れなくなる。

 

 カタカタ、と。

 震える音。天塚の左手に握られていた、天塚と共に拘束結界に閉じ込められていた黄金の髑髏が、勝手に振動している。

 

 

『カ……カカ……カカカカカ……』

 

 

 天塚は放心したように髑髏を見て、金人狼はその目を細める。

 夏音は何が起きているのかはわからないが、奇怪な笑声を放つ、この聖護結界越しでも禍々しい気配を感じる。

 

『カカカカカカ……不完全なる存在(モノ)たちよ。これで終わりと思うたか』

 

 聞き間違い、偶然風が人の言語のように聴こえたのとは違う、頭蓋に響く不快な音。

 髑髏は完全に自らの意思をもって語っている。

 

「……『賢者(ワイズマン)』!?」

 

 天塚が悲痛な声で叫ぶ。

 

 黄金の髑髏の口蓋に、凄まじい熱量(エネルギー)が収束している―――!

 

 重金属粒子砲。

 絃神島の埠頭を壊滅させたものと同じ光。膨大なエネルギーを投入し、荷電した重金属粒子を高速で撃つ出すビーム兵器。魔力を帯びたものではない攻撃だが、それは密空されている聖護結界までも破る気か?

 ―――しかし、そのような真似をすれば同じく拘束結界内に閉じ込められて、黄金髑髏を左手で握り締めている天塚は確実に巻き込まれる。

 

「やめてくれ! 僕の左半身まで奪うのか!?」

 

 黄金髑髏が“炸裂”した。

 

 火気厳禁とされる大量に積まれた花火の山に火種を入れたような光景というべきか。

 

 髑髏を中心に四方八方へ灼熱の奔流が荒れ狂う。鋼鉄すら一瞬で融解させる閃光の洪水は、この船全体にかけられた碧き神気の障壁を舐めるように溶かしていく。もはやあれは溶鉱炉や超々小型太陽も同じ。あまりにも莫大な光。下手に近づけば、人体は致命的な傷を負い、触れればどうなるかなど論じるまでもない。

 

『カカカ……不出来な我の道具よ。唯一完全たる我が造ってしまった不完全な“汚点”を一片も残すわけがない』

 

 何十、何百もの光線が一斉に発射されて、それも、一瞬では終わらない。SF映画の宇宙戦士らのビームソードのように、永続的な放射が続く。その中心地に立つ天塚の身体の輪郭すらも塗り潰していた。視界は凄まじい光の乱舞によって残像が焼き付き、まともに機能しなくなっている。

 この黄金の髑髏――“『賢者』の肉体のほんの一部”に過ぎないのだとしても、内蔵された全魔力を注ぎ込めば、神気で守護されるフェリーをも消し飛ばしてしまえるか―――

 

「ん?」

 

 熱気とオゾン臭で充満していく空間内で、金人狼はふとそのあまりにも濃い血の“匂い”を嗅ぎ取った。

 その方へ向いたクロウの視界に、飛び込んできたもの―――そう、本当に飛び込んできているモノ。

 

 水蒸気の尾を牽きながら、海面スレスレを突き進み、このままいくと情け容赦なくフェリーの船体を貫通するであろう灰色の飛行物体。

 この巡航ミサイル―――のようなものは、『聖環騎士団』が所有する試作型航空機<フロッティ>。

 本来は偵察用の無人機であるが、搭載されていた観測機器類を外して、中に人間を詰め(乗り)込める仕様にした。その速さは、時速3400km――概算でおよそマッハ2.8。ジェット戦闘機でさえ叩き出せない超音速の領域に達する。

 計算で発射されてから、105秒で目的に直撃(到達)

 よって、それを認識したときにはすでに目的地まで到達しており、しかし、予想されていた衝撃は、襲ってこなかった。

 

「やっぱり、古城君か」

 

 超音速人間ミサイルが『賢者』の重金属粒子砲に迎撃される否や、それは銀色の霧となってすり抜け、フェリーの船体を通り過ぎてから実体化。海面に激突し、爆発するもその中には人がおらず。この視界を埋め尽くすほどの濃霧より現れるは二つの人影。

 

「―――痛ってェ……ああくそ、時速3400kmのミサイルを撃ち抜かれるとは思ってなかったぞ……」

 

 大気に溶け込む強烈な魔力の波動は、間違いない。この霧の正体は、実体を持たない巨大な甲殻獣。

 <第四真祖>が従える12体の眷獣の1体にして、ありとあらゆる物体を霧へと変える『四番目』、<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>。

 

「まったく、粗忽な男よな、主も。妾が不死身でなければ死んでたぞ。それにそんなに悠長に構えていられる状況ではないようだ」

 

「ああ、盛大な歓迎を受けたんだ。後輩らに挨拶する前にやることやっておかねーとなァ!」

 

 銀の濃霧が集まり、甲板の上に実体化したのは、パーカーを羽織った少年と褐色の肌を持つ制服姿の少女。

 

「―――<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>!」

 

 破壊の濃霧の中に弾ける雷光。

 新たなる獅子の眷獣の投入で、場は白き雷雲と化す。霧にして粒子砲の破滅より逃れさせながら、莫大な電流を操る獅子がその撒き散らす電磁場で、粒子砲を拡散させて無力化する。

 人工の“神”の名に相応しい『賢者』の天罰に等しき攻撃を防ぐ、その偉業を成すとは流石は<第四真祖>―――

 

 

 

「助けに来たぜクロウ―――って、元に戻ったんだな!」

 

「あー、うん……よくわからんけど戻った」

 

「そんなあっさり言うんじゃねぇよ!? こっちはどれだけ心配したと思ってんだ!」

 

 死にかけたり、赤子になったりしても変わらない後輩の能天気さに古城は途方に暮れて深い溜息を吐く。

 

「ん。助かったのだ古城君。これ以上、堪えるのは夏音には大変だったのだ」

 

 金人狼の背後、その後ろ髪を取りながら手を組む祈り、一心に念じ続ける銀髪の少女。『賢者』の猛威より船を護るため、<疑似聖楯>を展開し続けていたクロウに、夏音はその強い霊気を流し込み続けていたのだ。その身より薄らと月光に似た輝きを放っているところを見ると、一種のトランス状態に入っているらしく、古城の登場にも気づいていない―――と、

 

「夏音!」

 

 それを見て、慌てたのは褐色色の浅葱先輩――ニーナ=アデラード。駆け寄った彼女に抱きしめられ、ようやく目に光が戻った夏音は、周りに気づき、安堵したように弱々しく微笑んだ。その儚げな笑顔に、ニーナの表情が歪む。ただでさえ白い夏音の肌は生気が弱まり、多く消耗したことがわかる。

 

「夏音、夏音! ようやった! もういい、休め。トランスを解くのだ!」

 

「ん……院長、様でした?」

 

 姿形が違えど、感じ入る面影があったのか。一目で正体を看破する夏音に、嬉しげに笑うニーナ。

 そこへ申し訳なさそうにするクロウが、

 

「む。無茶をさせ過ぎたのだ」

 

「私は、大丈夫でした。だから、謝らないでくださいクロウ君。無茶を言ったのはこっちの方でしたから」

 

 言って、夏音が見る先。そこには、左腕を失ったがそれ以外の体は無事である天塚がいた。

 あの瞬間、聖護結界を“裏返し”た拘束結界を、また“裏返し”、重金属粒子砲の炸裂より、その身を護ったのだ。ただし、その中心地で最も苛烈なポイントに<疑似聖楯>をかけ続ける負担は大きく、夏音はそれで倒れそうになっている。

 

「なん、で……だよ……」

 

 もぞもぞと蠢いている。

 それは、必要がなくなり、最後に障害の排除に使い捨てられた道具が生き残ってしまった末路。

 

「なんでだよ! ……なんで、僕まで守った叶瀬夏音……ッ!」

 

 古城は、事態を自然と悟る。

 今なら天塚を殺せる。

 眷獣など使わずとも、真祖の魔力を篭めた一撃で十分だ。

 しかし。

 

 古城は、確かに一度後悔したのだ。

 切れ端だったことを知らなかったとき、天塚の偽物を殺してしまったことを。

 

 そして、ここは古城が採決を振るえる場面ではない。

 殺されかけたクロウに、5年前に大事な家族を殺された夏音、それでも命を救った後輩二人。

 そこへ古城は口出しもできるわけもなく、クロウも回答を譲るうように沈黙を選ぶ。

 自ら支えることもできない身体を、ニーナに抱きとめられたまま、夏音は言う。

 震える唇で、絞り出すように、その本心を告げる。

 

「あなたが、『人間』だから、でした」

 

 天塚は『賢者』のために働く必要などなかった。大勢の人々を傷つけ、犠牲にしてまで、人間の身体を求める必要などなかったのだ。人間でありたいと願った瞬間から、彼はすでに人間でいられたのだから。彼自身がそのことに気づいてさえいれば―――だから、

 

 

「もうこんなことはやめましょう」

 

 

 戦う必要なんてなかった。

 従う理由なんてなかった。

 しばらく、天塚は黙っていた。

 師であるニーナの優しい視線を受けながら、拘束結界が解かれた今なら、不意さえ突ければ標的を瞬殺できる距離で、しかし、なにもせず。

 それ以前に、天塚の思考は完全に停止していた。

 そんな沈黙の中、喋るのにも無理をする夏音の代わりに、ニーナが言葉を引き継ぐ。

 

「己が何者か、なぜ生まれてきたのか―――その答えを探し続けることが、人間(ヒト)として生きるということだ天塚」

 

「そうか……僕は……」

 

 天塚は誰にも届かないよう、口の中で呟いた。

 

 

 

 しかし。

 

 その手に入れた希望は、すぐに絶望の彩に染まる。

 

 

『カカカ……不要となれば、新しい道具(しもべ)の材料に再利用してやろう』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「あ、ああああ、ああああああああああああああああああああああああああ―――――ッ!!」

 

 天塚の苦痛に満ちた絶叫と共に、その体から汚泥の如き魔力の塊が溢れ出る。それだけではない、手に、脚に、右半身の至る所に刻み込まれた赤の刺青はその右腕に集まっていく。

 そして、ぼとり、と甲板に落ちた右腕は、自らの意思を持つように蠢き始め、膨れ上がっていく。

 魔族魔獣の残留思念を“霊血”に取り込んだ『完全なる(アゾット)剣』の暴走。

 彼に干渉したものなど、誰もこの甲板の上にはいないというのに。

 

「これは、共鳴―――!!」

 

 天塚がニーナ=アデラードの意思を封じ込めた<錬核>に<賢者の霊血>を見つけ出すために、彼は彼の<偽錬核>を共鳴させることでその反応を見た。

 ならば、その逆もまた可能ではないか―――

 

 そして、暴走する『完全なる剣』は、ひとつのカタチを作る。

 

 魔力に溢れて妖気を備えた全身、ヘビや爬虫類や蝙蝠を合わせたような身体的特徴、そして、分厚い金属装甲にも等しい鱗で覆われた強靭な四肢。外見だけでいうなら、それは“竜”そのものであった。

 

 ―――『龍族』。ドラゴン。

 

 けして人が敵わないはずのもの。誰あろう英雄こそがそれを斃し、英雄ならざる人々の如何なる刃も届かないとされる、地上全土における最強の魔獣種。

 そこにいたのは“竜”その者ではないが、それを模した鋼鉄の怪物だった。

 言うなれば、錬鉄された竜(ドラゴンゴーレム)

 『殺龍剣(アスカロン)』に斬り伏せられた魔獣たちの念が肉体を持って蘇る。

 

 さらに、辺りに気を張り巡らせていたクロウが、警告を飛ばす。

 

「来るぞ」

 

 あの黄金の髑髏は『賢者』ではない。人工の“神”の血肉となるはずの液体生命体は、一滴たりとも含まれていない。

 ならば、<賢者の霊血>はどこにいるのか。

 船全体の“匂い”を金人狼は察知している。

 だが、その船の下――海中にいるその“匂い”までは、気づくのが遅れてしまった。

 

 『賢者』が、この船を狙ったのは、高い霊媒素養を持つ生贄を求めてのことではない。

 “海水”、だ。

 海水中には『金』や『ウラン』などの貴金属が含まれており、その総量は数十万tとも数千万tとも言われている。人工島に備蓄されている程度の貴金属など比較にならない膨大な量だ。だから、『賢者』は海を目指した。

 海水中の貴金属の濃度はあまりにも微量で、効率よく回収する技術は、いまだに確立されていないという。だが、『賢者』のありあまる魔力で錬金術を行使したなら―――

 

 絃神島からここまでの航路の間、船底で潜んで掻き集めた金属量は相当なものになるだろう。完全復活の供物として十分なほどに。

 

 

『カカカカカ―――不完全な者達よ。滅びるがいい』

 

 

 船前の海面より突き出るように浮上してきたのは、巨大な<賢者の霊血>の塊。

 全長はその“竜”の倍ほどはある7、8mの、巨人の影は、『賢者』。

 

「しまった―――!」

 

 天塚の絶叫に、“竜”の登場で反応が遅れた古城は、眷獣の命令が間に合わない。

 

 黄金の巨人『賢者』が、骸骨のように大きく開かれた口より荷電粒子の閃光が船に放たれ―――

 

 ―――その白い影が割って入り、盾となった。

 

 

 

「なんだ、こいつは……」

 

 重金属粒子砲をその身に受けて、なおその身は不壊で、ひとつの傷もなく、その原形を欠けてはいない。

 ―――美しい、“龍”だった。

 硬い鱗がなく、全体的に白い体毛に覆われている獣や鳥のような“龍”。その二対に羽翼の先端には蒼を基調としたグラデーションに染められていて、陽光を織り込んだような金色の頭髪、蒼穹を写したような青い瞳………とそれは古城がこれまで見てきた使い魔の中でも最も綺麗で―――最も弱く見える。

 

「フラミーちゃん、でした」

 

「は、あれがか!?」

 

 その名付け親な夏音の呟きを古城の耳は拾う。

 つまり、これが話には聞いていた、後輩が契約した『第八の大罪』――『波朧院フェスタ』で暴れ回ったあの八体の怪魔の集合体なのだというのか?

 とても、信じられない。

 その丸まった爪も、犬歯のような小さな牙もまったく脅威には見えない。

 ―――だが、それが“神”の如き『賢者』の脅威を身代わりで防いだのだ。

 

「―――古城君、姫柊がちょっと危ない」

 

 そのクロウの言葉に、疑問も飛んだ。

 見れば、いつのまにか天塚より分離したその右腕から変じた『錬鉄の竜』が空を飛んでいて、この甲板の反対側にある――ちょうど操舵室の方へ向かっている。

 

「ちょうどあっちに姫柊がいるのだ」

 

「なんだって!?」

 

 浅葱らを失った時の絶望感がぶり返す。

 しかし、浅葱の時とは違い、雪菜は剣巫で―――

 

 そこでふと思う。

 あの責任感の強い彼女がなぜこの場にいないのか。誰よりも率先して最前線に行ってしまいそうな彼女が、ここにいないということは。

 

「今の姫柊は、身体の半分を金属に変えられている。身動きもできないし、ピンチだ」

 

 その感知能力で、クロウは船全体を大まかに把握している。

 <疑似聖楯>で物質変成の侵攻を防いだが、状態異常の治癒まではできない。だから、状況が落ち着いてから向おうと思っていたが、この事態だ。

 そこを怪物に襲われれば、ただでさえ武器のない雪菜に敵うわけがない。

 

「っ!」

 

「だから、古城君は行ってくれ。オレでは姫柊にかけられた錬金術を治せない。

 ―――でも、古城君なら治せる」

 

 雪菜の危機だ。今すぐに駆けつけたい。

 でも、それはここにいる後輩ひとりに、この強大な敵を押しつけてしまうことになる。

 もう、誰も失いたくない。またも、この後輩を死なせてしまうことは絶対に避けたい―――

 

「それに、古城君は、<雪霞狼(それ)>を届けにも来たんだろ?」

 

 迷いながらも古城の駆け出したくなる衝動を後押しする後輩。

 “神”の如き相手。本来ならば、真祖たる古城が相手するべきだろう。それでも古城しか雪菜を救うことができないと後輩は言う。

 

「―――」

 

 ぎり、という音。

 悔いを噛み殺すように、古城は強く歯を鳴らす。

 そして、押し殺した声で静かに告げる。

 

「―――少しだけ待ってろ。すぐ姫柊を助けて戻ってくる」

 

「おうよ」

 

 頷いて、前に出る。

 “龍”を従えるようになっても、相変わらず徒手空拳。

 物理衝撃の通じない不滅不定形の肉体に、触れた相手を金属に変えてしまう『賢者』。錬金術とは相性が悪い後輩が挑むには、あまりに無茶だ、危険すぎる。

 雪菜を助けるために、クロウは死んでこい、と言っているようなものだ。

 これ以上、その背中に言葉をかけることもできず―――そんな葛藤を嗅ぎ分ける後輩は、黄金の巨人を見上げながら、場違いなくらいいつも通りの暢気な声で言うのだ。

 

 

「こっちは大丈夫だ―――“あの金ぴかなら、たぶん壊せる”」

 

 

 そう、トンデモナイことを平気で。

 

「クロウ、おまえ―――」

 

 そして、その直感は馬鹿げてくらいによく当たるのだ。

 

「―――ああ、思いっきりやってやれ。

 それで無理だったら後は任せろ。これは第四真祖(オレ)戦争(ケンカ)でもあるからな」

 

 古城はニーナを促して、後輩に背を向ける。

 そこで、おっとという忘れてたその“助言”を渡された。

 

「そうだ、古城君。今度はちゃんと血を飲んでないとダメだぞ」

 

 直後、頭上より黄金の光が飛来した。『賢者』の重金属粒子砲だ。だが、それは遮るよう宙空に展開される<疑似聖楯>の生体障壁で防がれる。

 

『カ……カカ……愚か、ひとりで歯向かうか……あまつさえ我を滅ぼすとは、馬鹿げてる』

 

 そして、古城はその衝突を、見届けることなく走り出した。

 ニーナはすでに夏音、そして、両腕を失った天塚を拾い、既に聖護結界に守られている船内に避難している。

 

 振り向くことなく走る。

 その頼りになる後輩に背後を任せて。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 重金属粒子砲を聖護結界で防げるが、霊力を供給してくれた夏音がいなくなった以上、それもいつまでももたないだろう。

 長期戦となれば、無尽蔵の魔力を持つ<賢者の霊血>が有利だ。

 それは、理解してる。

 本能も叫んでいる。

 

 アレの前にいてはいけない。

 

 コロサレル。

 クワレテシマウ。

 

 あれはもう、この世の理より外れている。

 レベルが違う。高い低いではなく、レベルという判断基準そのものが常識から逸脱している。

 

 ドク、ン。

 すべての血管が膨張する。

 初めに恐怖。

 その次に来たものは、使命感じみた破壊衝動。

 

 何故なら、アレは、自分が壊すべきものだ。

 

 心臓が跳ね上がる。

 

 未来予測するまでもなく、このままでは確実に不吉な未来が待つ。そうわかっているのに、壊せと全身が鳴動している。

 何と言う矛盾だ―――逃走本能をも塗りつぶし、兵器として果たすべきことをやれと受け入れた“業”が騒ぐ。

 

 

 

 持久戦が有利と判断する『賢者』は船に向けて、重金属粒子砲を絶え間なく放ち続ける。それを防ぐために聖護結界を張り続けなければならず、防御に徹している以上、反撃もできない。

 海水から抽出した貴金属を錬金の代価にして、無限に力は増す。

 この身体も増殖を続けており、今では最初の倍近い十数mに達していた。そこに果てはなくて、世界すべてを取り込んで、自分以外の存在を消滅させてしまうまでは止まらないだろう。このフェリーに固執しているのは、夏音や雪菜などと言った強い霊力を供物として欲しているがため。それもこの邪魔な結界内で造り上げた新たなる僕である『錬鉄の竜』が回収してくるだろう。それまでは―――

 

 

「オマエは、踏み外し過ぎた」

 

 

 と、眼下に反抗する声が、届いた。

 金人狼は、こちらを見上げ、その金色の双眸で刺すように睨みつけている。

 

『カカ……この“神”の如き我に何か言うたか。不完全なる存在よ』

 

「オマエは踏み外したと、そう言ったのだ」

 

 金人狼は静かに口にする。

 

「オレは、殺神“兵器”だからな。自分の意思で使えるものと使えないものがある。条件をクリアしなくちゃいけないのだ」

 

 殺神兵器―――

 それはかつて神々と咎神との争いに生み出された道具。

 

「どういう条件で発動するのか、オレにもよくわからない。“単純な強さが基準じゃないから”、オマエがその条件に見合うほどのものなのか、わからなかった」

 

 『賢者』は知る。

 この錬金術をも生み出した咎神は、神々から送り出された四番目の真祖に滅ぼされ、また咎神の造り出した<ナラクヴェーラ>などという数多の兵器が、魔に堕ちた神々を滅ぼしたことを。

 そして、『殺神兵器』を現代で自称するのは、如何に大言壮語かと言うことを。

 

『ありえぬ……それが“神”たる我を滅ぼし得るものなど、考えられぬ』

 

 金人狼の背後に控えた白き獣龍がその二対の翼を広げる。

 『龍族』にしては、あまりにも弱々しい、即興で造り上げた偽物の『錬鉄の竜』の方がまだ強い。

 それを差し向けて何ができるというか。

 爪も丸く、牙も小さい、火も吹けず、主の後ろに隠れるその最弱に。

 無尽蔵に再生と増殖を繰り返す<賢者の霊血>を斃せるほどの決定力などあるものか。

 

「でも、オマエ、“見逃せない標的(イレギュラー)”と認識されたぞ。どうやら、相手するに相応しいオマエはオマエの言うとおり“神”だ」

 

 (いにしえ)の錬金術師たちが造り上げた“神”に対し、咎神の『全知』を手に入れた異端の魔女が、創り上げた最高傑作は淡々と告げる。

 

 

「だから、オレはこれから“殺神”兵器として完了できる」

 

 

 四枚の羽が金人狼を抱いて、獣龍の肉体は解ける。

 合わせて、金人狼の肉体も変生する。獣の耳と尾、そして両手足の獣毛だけを残し、牙も爪もない、人の手を獲得し、そして大人の最盛期の姿にまで成長を遂げた『魔人』へと。

 

「あ奴、使い魔に<堕魂(ロスト)>をしよったのか!?」

 

 船内より、それを見たニーナは色めき立つが、止められない。

 止める必要が、ない。

 

「いや、“逆だ”ぞ」

 

 『悪魔喰らいの狼(デビルウルフ)』などと悪魔と化した主を喰らった話を聞いて、魔女らの間にまことしやかに噂されるようになっていたが―――実際に、“そういう機能”が付けられていた。

 『色欲』の大罪魔獣の制御鍵として、世界最強の夢魔がいるように、

 これは『第八の大罪』を受け入れる『器』として、創られたのだから。

 

「“オレが、喰ったんだ”」

 

「なんと、“龍”を食いおったのかっ!」

 

 巨人の心臓を喰らいし魔狼の末裔は<堕魂>ではなく、<守護獣>を食らうことで一体となる。

 <蛇遣い>が真祖に迫る力を手に入れた―――そして、<第四真祖>の継承で行われた『同族食い』のように。

 

 今ここに、現代の―――最新にして、最後(ラストナンバー)の殺神兵器が、完了する。

 

 『大罪』を負い、『皮の着物』を纏う、『魔人』。

 神獣の力を解放し、龍族の力を喰らい、万全にその力を振るえる、超越者の域にまで到達した究極形。

 

「<守護獣(フラミー)>に戦う力は全然ないのだ。でも、戦う力をくれる。オレに足りなかった、“護り”と“知恵”を補ってくれる」

 

 『龍族』は、“守護するモノ”。

 

 使い魔の性質の分類として、3つに分かれるとする。

 <獅子の黄金>や<甲殻の銀霧>といった最も眷獣や悪魔に多い使役型、

 <蛇紅羅(ジャグラ)>や<ロサ・ゾンビメイカー>など『意思を持つ武器』である武器型、

 そして、<薔薇の指先>のような宿主と一体化する同化型。

 おそらく、この中で希少種は、同化型だろう。

 そして、その例の少ない同化型の<守護獣>は、魔女の最終奥義たる<堕魂>のように、桁外れに強さを底上げする。

 その肉を栄養源とし、その知を“匂い”として伝え、その皮を防具とする<守護獣>は、『主を守護する龍族』なのだ。

 そして―――

 

「<守護獣>が象徴するもの―――八番目(さいご)に造られて、零番目(さいしょ)に生まれた大罪は―――『原罪』。

 楽園を追い出され、不死を失った―――得てしまったが故に人間は完全なものから外されてしまった―――『知識』だ」

 

 成長したのは、その体だけではなく。

 『知識』が――『情報』が――<固有堆積時間>が、更新される。

 『魔人』の眼球、その左右ひとつずつに、眼鏡ほどの極小魔法陣が展開される。それらは虹色の瞳を中心にそれぞれ固定されているようで、軽く首を動かす途中に浮かぶ魔法陣も連動して後を追う。

 

「オマエを理解したぞ<賢者の霊血>」

 

『カ……カカ……理解した……我を否定する抑止力か……』

 

 不滅で無尽蔵。そして、全てを知るものとして創り出された完全無欠の<賢者の霊血>。

 なのに、危機感が欠如するほどの『完全なる人間』が、この全身を液体窒素にかけられるような悪寒を味わう。

 今、目の前にいるものは、『賢者』の――人類文明の天敵であることを。

 

 

「<守護獣>がオレに力を貸してくれるかどうかの基準を過ぎたイレギュラー……

 ―――オマエは知らなくてもいいことを知り過ぎたのだ」

 

 

 

つづく

 

 

 

最終巻のネタバレあります。

 

1年後くらい

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 今日は、16歳の誕生日。

 16歳になったからと言って王子様に見初められてお城に呼ばれたりするなんて特別なことはない。ただ高等部に進学してからの一区切りとして特別な感じがする。

 それに、女の子はお嫁に行けるようになるし、少しだけ大人になった気分がするのである。

 

「あれ、深森ちゃん」

 

 よれよれの白衣を着た童顔の女性。

 寝癖がついたぼさぼさ髪で、開き切らない眠たそうな瞼。一目でだらしない系の大人とわかる。実際、家事能力皆無。そんな彼女は、この暁家の母親、暁深森である。

 今日は休日とはいえ、そう滅多に自宅に帰ってこない母が朝一番から一体何の用だろうか?

 

「やっほ、凪沙ちゃん! お誕生日おめでとー♪ はい、これ、るる屋の特注16種類のアイスケーキ!」

 

「わっ、ありがとう深森ちゃん」

 

 カラフルで甘い匂い。こんな朝一番じゃない方が良かったけど、朝弱い兄の古城はまだ寝てるから一口食べてから冷蔵庫にしまうとしよう。こんな常夏の絃神島ではすぐ溶けてしまう。

 

「凪沙ちゃんも、もう16歳かぁ。早いわねぇ……私も歳を取るはずだわ」

 

「深森ちゃんはまだまだ全然若いよ」

 

「それで、こうやって、いつの間にか大人になって……そう、私が古城君を出産した時は、16歳の時だったのよね」

 

 父の牙城とは10歳離れで、30代前半の深森は高校生の兄妹を持つ二児の母。世間的には、やはり母は相当若いし、父も犯罪的なものだったろう。良く知らないけど、やはり当時は相当苦労したんだと娘は思う。

 

「……うん、嬉しいよ。こうしてお祝いしてもらえて、ありがとう深森ちゃん」

 

「凪沙ちゃん……」

 

 うる、ときたように、白衣の袖で目元を拭う―――ポーズが終わるとけろりと、母笑い。

 

「それでね、話があるんだけど」

 

「うん? あ、深森ちゃんもケーキ食べるの?」

 

「あ、じゃあ、一口頂こうかしら。―――でね、この家に新しい同居人を預かってほしいの」

 

「えっ? そうなの? それっていつから? 男の子女の子? あ、古城君にも言っておかないとね。起こしてこようか今から」

 

「今日から」

 

「え!?」

 

「それと両方かしら。でも、ひとりは凪沙ちゃんがよおく知ってる子よ。実はもう部屋の前に来てるの。それと古城君にはなるべく慎重に伝えてあげてね」

 

「ええっ!?!?」

 

 驚く凪沙。固まる娘を置いて、玄関へ向かった深森は、この一年で大分背が伸びてきた学校の同級生の男の子を連れてきた。

 

「じゃっ、じゃじゃーん! 何とクロウ君です!」

 

「う。おはようなのだ、凪沙ちゃん。それと誕生日おめでとうだぞ」

 

「えええっっ!?!?!?」

 

 凪沙の絶叫がマンションに響き渡る。お隣の雪菜ちゃんが慌てるくらいに。

 それは驚くのも無理はない。もっと小さな子を預かると思っていたのに、まさか同い年、それも……―――“彼だけじゃない”。

 

「なに? えっと、その………

 なにかな?」

 

 同級生の男子が抱えている“それ”に気づいた凪沙は二回訊いた。突然のお年頃の男子との同居宣言を一時脇に置いておくらい。

 

「んー。オレも、今日突然言われたからよくわからない……」

 

 耳付き帽子手袋首巻に法被と厚着完備の彼が胸に抱いてるのは。

 赤ん坊。

 その髪の色は黒いけど、“犬耳と尻尾がついていて”、そのぱっちりとまん丸い瞳の色が“彼と同じ金色”……

 もこもこしたベビーウェアに包まれた姿は零歳児に見える。なんだか前にも兄の古城が先生から預かった赤子を連れてきたことがあったけど……

 と彼は、いつもよりも戸惑い気な感じ強め、でもいつも通りに回りくどいことを言わずにストレートに答えてくれた。

 

 

 

「どうやら、オレの子供らしいんだ」

 

 

 

 ………………

 

 

 ………………

 

 

 ………………

 

 

 次に凪沙の意識が時間の矢に追いついたのは、3分ほど経ってからのこと。

 

「はッ!?」

 

「ふんふー、ようやく再起動したね凪沙ちゃん」

 

 どうやら意識を彼岸まで飛ばしていたらしい。深森が愉快気に笑いながら、額の汗を拭ってくれていた。

 

「……………どういうことクロウ君」

 

 再起動したばかりで、まだ、ぼうっと光の弱い目がみるみるうちに冷たく、虚ろに冴えていく。それに比例するように、彼の顔色も悪くなっているような気もするが気にしない。

 そして、すっくと立ち上がった時の少女の顔は、笑顔だった。頬のピリピリと引き攣った笑顔だった。その、冷たすぎると逆に熱く感じるという低温火傷のような笑みを彼に向けたまま、同じ質問をもう一度、問い掛ける。

 

「どういうことなのクロウ君」

 

「いや、凪沙ちゃん、オレも初耳でよくわからない」

「わからないじゃないよ!」

 

 いくら彼とは“そういうのじゃない”としても、これはあんまりだ。予想通り成長期に入った彼は女子から人気になったり、前にちょっと綺麗なお姉さんとお付き合い(仕事の)してたけど、兄や父とは違って、そういう心配はしなくてもいいと思ってたのに。

 もう混乱する思考もまとめぬまま口を開こうとして―――そこを、ぴとっと深森に口元に人差し指をあてられる。

 

「すと~~~っぷ! 凪沙ちゃんったら勘違いしてるわよ。それからクロウ君も言葉が足りないぞ。それじゃあ誤解されてもしょうがないじゃない」

 

 ふんふー、と第三者も凍りつくような修羅場を『ああ、私も昔はこうだったのねー』と懐かしむくらいの余裕を見せる母は言う。

 

 

 

「その子はね、凪沙ちゃん。

 ―――あなたとクロウ君の娘なの」

 

 

 

 ………………

 

 

 ………………

 

 

 ………………

 

 

 ………………

 

 

 ………………

 

 

 次に凪沙の意識が時間の矢に追いついたのは、5分ほど経ってからのこと。

 

「はッ!?」

 

「今日はブレーカーが良く落ちるわね凪沙ちゃん」

 

「びっくりするよ!? 当然でしょ!? 予想外の事態にトリップくらいしちゃうよ! え!? なに凪沙の誕生日四月一日(エイプリルフール)じゃないよね!?!?」

 

「ダメよあんまりパニクちゃ。子供にも伝染しちゃうんだから。ほら、クロウ君みたいにどっしりと構えてないと」

 

「むぅ。オレも結構驚いてるぞ」

 

「だったら、もっと驚いた顔してよクロウ君!」

 

 まだ“そういう関係”じゃないし、“そのような行為”だってしてない。凪沙の記憶が確かならそうだ。なのに、娘?

 

「ダメ、全然理解が追い付かないよ。ちゃんと説明して、深森ちゃん」

 

「……そうね。これは私がしてしまった過ち。そして、償いなのよ」

 

 兄が吸血鬼、それもあの伝説的な<第四真祖>と知った時も、驚いた。しばらく受け入れるのに時間がかかったりもしたけど、彼とのリハビリで慣れがあったため、あの『暁の王国』ができるきっかけとなった事件後の三日くらいで受け入れられた。

 そして、今回の母親の語る説明もそう。

 母親が極秘裏に勝手にやっていたこと。彼が知らないのも当然。

 でも、この子供は、彼と私の遺伝子から創られた『器』―――私に取り憑いていた“彼女”の魂を受け入れるための。

 

 氷棺に閉じ込められて、細胞サンプルのひとつも入手できない“彼女”の肉体。

 しかし、強大な<第四真祖>の眷獣を血に宿していた“彼女”と同じ、大罪の悪魔を受け入れるに足る器であった人工魔族、それも人間との混血である彼の遺伝子は、眷獣と融合した“彼女”の魂にも適応できる肉体を造り出せるだろうと母親は考えた。そして、当人に無許可で採取された彼のDNAマップに、その当時まで“彼女”を受け入れていた娘のものを掛け合わせることで、“彼女”の新しい依代―――つまり、母親は『子どもたちの身代わり』を創ろうとした。

 

 ようは椅子取りゲームで、もう一つの椅子を用意したかったということ。

 受け入れられる肉体はひとつで、魂はふたつ。

 どちらかが犠牲にならなくてはならず、どちらも椅子に座るのでは、二つの魂の重さにその椅子が耐えられなくなるという。

 だから、重い魂を乗せられるだけの頑丈な椅子が、もうひとつあれば、問題は解決するだろうと。

 

「それも、あの時まで間に合わなかった。結局、あの子――『六番目』が犠牲になって……」

 

 凪沙の中にいた“彼女”は救われた。

 『六番目』から同じ人形を譲り渡されたおかげで。

 

「―――でも、私はあの子にひとつ賭けを持ち掛けたの」

 

 『眠り姫』の封印が破壊されるその時、深森は『六番目』に言った。

 もう『器』は9割がた完成している。だから、あと少しの時間をくれと。

 あの時、この絃神島の命運がかかった切迫としていた状況下で、その未完成な器に末妹を預けることはできないと断られたが―――しかし、その末妹に肉体を譲り渡した後の、自分を受け入れるのならば、と……

 

 すでに未練はない。だが、末妹が何を見てこの現世でありたいと思ったのか知りたくもある。それに、あの少年は誰かが犠牲になることに悲しむだろう……

 消えても惜しくはないが、試せるのならば試しても構わない。

 ―――で、その結果が、

 

「この子、ってこと」

 

 賭けに、勝った。

 

 ―――でも、なぜこんなことをしたのか。

 深森が何もかもを投げ打って『器』を創ろうとしたのは自分の子供たちのためであって、“彼女”たちのためではないはず。

 犠牲になった相手のことを思い出しては胸を痛めるかもしれないけれど、そのために罪を犯してしまうような人ではない。

 そんな娘の視線の訴えに、母はその想いを口にした。

 

 

「―――大事な子供たちを命懸けで助けてもらったんだから、その相手を助けられるのなら、その可能性がほんのわずかでもあるのなら、自分の人生くらい賭けるのは当然でしょう」

 

 

 時間が止まるような言葉。

 言葉は何も出ない。出るはずもなく。

 

 そして、凪沙からクロウへと視線を移して、深森は頭を下げる。

 

「でも、あなたの遺伝子を無断で採って、使ってしまった。どうしても必要だったとはいえ、私はあなたにしてはいけないことをしてしまった」

 

「ん。そうだな。ご主人も怒ってたし。

 ―――でも、救われるものがあってよかったとやっぱりオレは思う」

 

「そう、ありがとう……

 

 

 

 

 

 じゃあ、責任、取ってくれるわよね?」

 

 一転。にっこりと、けれどなんだか圧のある笑みをする深森。

 

「責任?」

 

「私も全力でサポートする気だけど、やっぱり幼い赤ちゃんを育てるには当然両親が一緒の環境が好ましいわ」

 

「む、そうなのか」

 

「そうなの。そして、この子は、凪沙ちゃんとクロウ君の子供」

 

「う。そうらしいな」

 

「じゃあ、クロウ君。男として責任を取らないとダメじゃない」

 

「そうか。オレも男だ。ちゃんと責任取るぞ」

 

 ちょ―――あまりの展開に、言葉も出ない凪沙。

 遺伝子は使われたけど、子供を創ったのは深森。ついでに父牙城は世界を飛び回り、母深森も研究室籠りで、わりと子育ても育児放棄ぎみな両親だったと思う。

 

「そうね。男の子は18歳まで結婚できないから、とりあえず凪沙ちゃんと婚約した許嫁になってね」

 

「そうなのか……うん、わかった」

 

 最初の深森ちゃんとの会話ってそういう伏線だったの!? なになになになんなの16歳になっていきなり子持ちになっちゃったのもそうだけど、誕生日プレゼントは許嫁に娘+セットだってこと!?!?

 

「いやいやいやいや、頷いちゃダメだよクロウ君。良く考えて! クロウ君に責任ないじゃん」

 

「じゃあ、その子はどうするのよ凪沙ちゃん?」

 

「それはちゃんと凪沙が育てるよ。でも、クロウ君と、その……」

 

「その? 何なのかしら凪沙ちゃ~ん」

 

「うぅ~~~……―――なるのは、流石に悪いよ!」

 

「むぅ、オレ、悪いのか」

 

「いや、クロウ君が悪いとかそういうのじゃなくてむしろその……」

「―――クロウ君がいいのよね?」

「もう、深森ちゃんは黙ってて!!」

 

 

 『六番目』の魂を、クロウと凪沙の遺伝子を掛け合わせて造られた身体を器に宿らせた赤子――ムツミがきっかけとなった『できちゃっ()()婚約』で、第四真祖な兄が、妹の許嫁になった後輩と本気で戦争(ケンカ)をすることになり、後の『暁の王国』の歴史教科書で『真祖と獣王の大戦』と載ることになった。

 

 

 

つづく

 



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錬金術師の帰還Ⅵ

パエトーン

 

 

 ある北欧に伝わりし、最古の英雄譚。

 『戦いの狼(べオウルフ)』と呼ばれる英雄に片腕をとられた咎神の末裔たる魔獣『沼の龍(グレンダ)』。

 その『沼の龍』には、母親がいた。

 それは魔獣でありながら、巨人であり、龍族であり、魔女である、と言われる母親は聖剣さえも弾いた。人が造り出した武器の通じず、それも触れた武器を溶かす肉体を持っていたという。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『聖殲』

 かつて『天部』と呼ばれた古代超人類とカインと呼ばれる異世界の神との争い。

 歴史的な事実として、認められる学説ではないが、一方で、人類が扱う魔導技術の多くは、その『聖殲』の痕跡に根差しているのも事実だ。

 魔具――獅子王機関の剣巫が使う『七式突撃降魔機槍(シユネーヴァルツアー)』も古代の宝槍を核として製造され、魔術や呪術―――そして、錬金術もそれにあてはまる。

 もう何千年も前に終わったとされる戦争の遺産。だが、戦争とは当事者のどちらかが死に絶えても繰り返されるもの。『天部』は滅びたとされるが、この世界には魔族も魔術も残っている。

 

 カイン、すべての魔族の創造主と言われ、そして人類に魔術と科学を与えたもの。いわばこの世界の法則は、この咎神の遺産に支配されているといってもいい。

 

 『完全なる人間』――すなわち、今はこの世界より滅びたとされる“神”として造り出された『賢者』は、咎神の遺産たる錬金術を究めた果てにある存在。そして極限まで突き詰めた錬金術は、その枠をはみ出し根源にまで遡り、いずれはカインに至る―――そう、『賢者』は計算している。

 

『カカ……カカ…カカカ……何を畏れる我よ。唯一完全なる存在にそのような感情(もの)は不要である』

 

 母なる海より資源を集め、さらなる進化を続けている肉体<賢者の霊血>。

 形こそ人間と酷似しているが、そこに目も耳もない。滑らかな曲線に覆われた全身は、美術室に置かれたデッサン素体のよう。でありながらも、人がそこに美を見出す黄金比で構成されたシルエットは異様な美しさを放つ。

 そして、眼の代わりに全身の至る所に<錬核>に似た球体が埋め込まれており、今、それらが標的に向けている。

 無機質でありながら、貪欲に餓えた鬼のような視線。己より完全なるものを許さず、あらゆる生物の進化を否定する『賢者』を前にして、それはかすかにも揺らいではいなかった。

 

「やめるのだ」

 

 <守護獣>の羽毛皮で織られた白衣を纏う『魔人』

 金人狼であった時よりも、人間に限りなく近しい肉体でありながらも、身に秘めた神獣と肉を喰らった龍族の力を解放している常識外の怪物。

 かつて、ある哲学者が唱えた『最大多数の最大幸福』――理想の楽園のために、あれは戦闘を義務付けられたもの。

 咎神が最後に創ろうとした、抑止力―――

 

「実力の違いは分かるだろ。頭がいいんだよな、オマエ。壊れたいのなら、かまわない。でも、少しでも生きたいなら血を抜いて封印されるほうがいい」

 

 理解した、故に同情する。

 訳も分からぬまま完全な存在として創り出されて、その挙句に全身の血を抜かれて270年も封印された。その長い年月に思想思考が唯我独尊に固まるのも無理はない。

 

「―――それとも、もうそんなこともわからないくらいに壊れちまったのか?」

 

 その言葉を聞いているのか、いないのか。『賢者』の返答は自らの腕を巨大な刃へと変形。単分子刃に匹敵する鋭さと、日本刀の粘りとを備えた、完全なる剣撃の顕現。

 それをさらに無数に増殖させて振るわれる猛威は、万物を1mmずつに刻む烈風と化して―――逃げ場なく追い詰めるよう、『魔人』を嵐の刃圏に閉じ込める。

 

『カ……カカ……理解(わか)らぬ。不完全なる存在の理屈を語られようが我は理解できぬ』

 

 ここで生与奪権があるのは、『賢者』であると。吹き荒れる嵐。

 あまりに速く鋭すぎる触手の軌跡は、宙に切断線を走らせるのを見て、やっと理解できるほど。狂喜乱舞する切断線は、一秒足らずに数百の弧を刻んだ。

 それを傍で見たものは、あの魔人は肉片一つも残らぬであろうと想像しただろう。

 だが嵐が収まると、その予想が裏切る光景が現れる。

 それは、無傷のまま――“今も船にはかけ続けている聖護結界を自身は纏わず”――着ているその白衣の誇りを払う魔人。

 ―――そして、刀身であった賢者の触手がすべて溶けきっていた無残なもの。

 

「いいや、オマエは踏み外しているけど、完全とは程遠い存在なのだ」

 

 神獣魔獣の中には時に、人類の文明そのものを拒絶する特異点が現れる。

 彼の大英雄が、第一の試練で対峙した獅子の怪物は、人が生み出したあらゆる道具が通用しなかったという。

 

 人類最初の殺人者である咎神(カイン)が残したのは、武器、そして、魔術だけではない。その罪咎で受けた呪。それが特に顕著に表れたというその末裔は、その肌に人の造り出した武器を否定する。

 

 <守護獣>が変形したその着物。それは武器に対して絶対の耐性を誇ったのと同じ性質と能力―――すなわち、“情報”をそのままに加工された裘。

 この殺神兵器として完了した魔人に、武器に変形された攻撃は一切通用しないだろう。

 

 ―――だが、それでも。

 

 『賢者』は、己の勝利を疑わなかった。

 獣龍の皮衣が、人理を否定するものであることを理解した。それでも、不滅の肉体に無尽蔵の力、溶かされた触手も秒で復元する。そして、この霊血は万物を取り込む―――

 

『カカカカカ―――世界ごと我の一部となれ』

 

 重金属粒子砲が放たれ、それに物理衝撃を遮断する生体障壁の<疑似聖楯>で防ぐ。その一瞬生じた隙に、再び触手を滑り込ませる。次は斬りつける(ぶき)ではなく、『賢者』の手としてその肉体に絡みつかせる。

 そして発動するのは、生物を無機物に変える錬金術の物質変成。

 それは不老不死の真祖であろうと確実に無力化する。ひとたび物質変成に掛けられたものは、もはや魔力は働かないただの金属(モノ)になる。

 

 

「ああ、わかった。オマエは壊さなくちゃいけないんだな」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 それは、本体より切り離されて、独自の意思を持ち始めた。

 人間に振るわれる形であれという制限より外されし、その肉体は本来の姿に戻る。不滅の身体に、本体にあった魔力を根こそぎ奪うことで。

 だが、足りない。

 再現されたのは『殺龍剣』で屠られた最も強い魔獣のみ。屍の山を築き上げて、醸造された怨念は、まだある。それらを再現す(よみがえらせ)るには、もっと魔力が―――生贄が必要だ。

 

 それの自我が芽生えて、まず満たすべきはそこだと判断した。

 そして、知っている。守られていた叶瀬夏音を狙わずとも、人工精霊に加工されていたとき、それは“旨そうな(にえ)”を押さえつけていたことを。

 

 長いひとつ首を伸ばして高らかに咆哮する錬鉄の竜は、突き破られた操舵室にいる姫柊雪菜にその咢を向ける。

 下半身は、金属に変えられて立ち上がることもできず、うつ伏せから上体を反らしてその全容を雪菜は見た。

 

「くっ」

 

 聖護結界の生体障壁がかけられているとはいえ、その聖護結界がかけられていたはずの操舵室を破ってきた錬鉄の竜。もともと、これほどの結界をそう長時間もかけられるはずがないとみていた剣巫は、自身で打開する術を検討していた。

 だが、できない。

 たとえここにあらゆる魔力を無効化する槍があろうとも、金属に変えられてしまった下半身を元に戻すことはできない。魔力の働いていない、ただの金属であるからに。

 

 逃げ足も動かず、竜に対抗できる武器もない。

 誰かに助けを求めようにも、一体誰が―――

 

「え!?」

 

 しかし窮地にいた雪菜は、どこか間の抜けた可愛らしい声を洩らした。

 何故ならば、雪菜の眼前にいた錬鉄の竜を、横から体当たりをぶちかました雷光の獅子が現れたのだから。

 そして、

 

「姫柊! 無事か!」

 

 それを従える世界最強の吸血鬼。

 

「先輩……」

 

 見開かれた大きな瞳に暁古城の姿を映した雪菜は、目の端に涙を浮かせてその名を呟いた。

 そして、半泣きのまま、駆け寄ってくる彼に向って、

 

「なんで先輩がこの船にいるんですか!?」

 

 上半身だけのひねりを加えて、手に握ったナイフのグリップ部分を叩き込んだ。

 ごふっ、とご立腹な監視役の一発は、ちょうど鳩尾を突いたようでめちゃくちゃ痛い。

 呼吸が止まりながらも、雪菜の手を掴んだ古城は、言う。

 

「んなの、姫柊たちを助けに来たに決まってるだろ!」

「そんなことを頼んだ覚えはありません!」

 

 バッサリと好意を否定。さっき後輩には普通に感謝されたのに、古城は、うぐ、と地味に落ち込む。

 

「先輩まで危ない目に遭ってどうするんですか!? それにこの船に駆け付けるのだってきっと普通の手段じゃないんでしょう!」

 

 生真面目な彼女は、絃神島に航空戦力がないことを当然知っており、南宮那月の空間転移にも限度があることを知っている。なのに警備隊よりも早くに駆け付けられたことを、これまで監視してきた経験より推理。

 ミサイルで突っ込んできたところを見ずとも、予想がつくのだ。

 

「いや、ちゃんとした移動手段だぞ。試作型航空機っつう……」

 

「ならなんで目をそらすんですか先輩!」

 

 眉を吊り上げて雪菜に睨まれて、思わず天を仰いでしまう古城だが、途方に暮れている時間はない。

 

「言い争ってる場合じゃねェ。クロウに『賢者』を任せちまってるし、こっちにもまだ」

 

 雷光の獅子に頭を吹き飛ばされたはずの錬鉄の竜が、再び迫る。

 それもそのサイズを一回りも大きくして、完全同一形状の竜頭を二つに増やしている。

 古くに語られる異形の蛇、欧州にいたとされる双頭の竜の似姿のよう。

 その鋭き爪牙の一本一本に込められる魔力の質は、妖刀魔剣も同じ。

 おそらくは不定形な霊血の肉体に形を変質させてしまうほど、魔獣魔族の呪念が馴染んできているのだろう。

 

疾く在れ(きやがれ)、<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>!」

 

 古城が新たに呼び出した眷獣も、同じく双頭の龍。その力はすべての次元ごと空間を喰らう次元食い。獅子の雷霆にも耐えうるほどの不滅の肉体を持とうが、構わずこの世界より消滅させる力だ。

 絡み合う水銀色の双頭龍は、巨大な咢を広げて錬鉄の双頭龍に襲い掛かった。が―――

 

「なに!?」

 

 古城が純粋な戸惑いの声を洩らす。空間そのものを抉り取るはずだった<龍蛇の水銀>の攻撃が、錬鉄の鱗鎧に届く前に弾かれる。

 激突の衝撃に鉄竜の巨体はたじろぐも、その表面はほぼ無傷。<第四真祖>の眷獣が喰いきれなかったのだ。―――その闇色のオーラに阻まれて。

 

「姫柊、今のは……!」

 

「はい。同じです。<闇誓書>のときと……!」

 

 眷獣に対抗するには、より強大な魔力をぶつける他に、もうひとつ――魔力の完全無効化がある。だからこそ<第四真祖>の監視役である雪菜には、魔力無効化能力を持つ『七式突撃降魔機槍』が与えられている。

 そして、古城たちの知る限り、魔力無効化を可能とする手段は、『七式突撃降魔機槍』以外にももう一つあった。

 それは、仙都木阿夜が使った<闇誓書>。

 『異能の力が存在しない世界』で絃神島を塗り潰すことで、彼女は<第四真祖>の眷獣を無力化した。

 

「そもそもあれは錬金術が造り出したものにしては、逸脱しています」

 

 雪菜は言う。

 独自の意志を持っていた魔剣を材料にしようとも、無機物を生命へ変える。剣鋼と生命の等価交換。それは人間が扱える技術の領域を超えている。そんなことが可能なのはまさに神の御業だけだ。

 

 それほどに『賢者』の錬金術が“神”に近づいたものなのか―――それとも、天塚とコンタクトを取っていたそれと同じ闇色のオーラを纏った『人狼』が、殺龍剣に何かを組み込んでいたのか。

 

 雪菜や古城にそれを知る由もない。だが、それが脅威だというのは理解し、そして、それを打開する術も……

 

(<雪霞狼>……)

 

 先輩が肩に背負うギターケース。

 あれはきっと師家様に預けていた剣巫の武神具。あらゆる結界を切り裂き、全ての魔力を無効化する神格振動波の輝きを放つ破魔の銀槍は、<闇誓書>の力をも打ち消したことがある。

 だが、今の雪菜では―――

 

 

「GYAAAAAAAAAAAAAAAAA―――!!!」

 

 

 錬鉄竜の双頭の咢から閃光の息吹《ブレス》!

 重金属粒子砲だ。

 周囲の空間ごと薙ぎ払わんとする灼熱の閃光の帯は、直径数mにも及ぶ野太いもので、それが二門。ひとつならば、<獅子の黄金>の力で防ぐこともできたが、もうひとつは―――

 

「ぐほっ……!」

 

 手を突き出していた肩から腕、それに胸と腹部の右半身が吹き飛ばされた。

 身動きのできない雪菜を庇い、そこを動けずに直撃を受ける。最後まで魔力を振り絞り抵抗し、雷光の獅子が身を盾にしてくれたが、それでも竜の吐息が突き破った。

 血の塊を吐き出し、脚の力が抜けて両膝から頽れる。

 激痛だけで全身の神経が焼き切れてしまいそうで、視界が完全に真紅に染まっている。

 

「先輩ッ!」

 

 肘をついて古城の下へ這いよる雪菜。

 古城がかろうじて意識を保てたのは、彼女のおかげだ。あの一瞬で古城の服の袖を掴み、体勢を引き倒していなければ、左胸の心臓部までもやられていた。古城はわずかに感覚の残った左手で血を吐いた口元を拭いながら、大丈夫と獰猛に笑って見せる。

 それでも致命傷であるには変わりない。強力な生命力を持つ獣人や、『旧き世代』の吸血鬼でも、このままでは戦闘を続けることはできない。

 残る左手で雪菜の身体を掴み、まだ再生途中――魔力の塊でできた得体のしれない肉のような右半身を引き摺りながら、まだかろうじて聖護結界の張られている船室内に逃げ込むも、それもいつまでもつか。

 吸血鬼の真祖が持つ、呪いにも似た超回復力の恩恵があろうとも、そうすぐには治せないし、治ったところで、あの錬鉄竜を倒せる手段がないのだ。

 

「姫柊、無事だな……?」

 

「はい、わたしは。でも、このままでは先輩の体力が―――」

 

「そうか」

 

 言って、古城の唇から鮮血が零れる。やはり今の傷ついた古城の身体では、眷獣の制御は荷が重く、竜はすぐそこにいる。

 このままではやられる、と―――閃光が駆け抜けた。

 

 

「―――(ぬし)たち頭を下げろ」

 

 

 古城たちの背後より、錬鉄竜に向かって。

 それは双頭のひとつを呑み込み、消滅させた。

 

「ニーナか? あんたその体は……!?」

 

「弟子の天塚にできて、師である(わし)にできぬことはない」

 

 その声が聞こえてきた方を向くと、そこには小さな少女――元になった藍羽浅葱の面影を残す、小学生ほどの身体となったニーナ=アデラード。

 

「そして、重金属粒子砲が、奴らだけの専売特許ではないぞ」

 

 その両手より再び閃光が放たれる。

 凄まじい熱量と膨大な電磁波を撒き散らす、重金属粒子のビーム砲撃。残る双頭のひとつを真っ直ぐに貫き通す、灼熱の光の槍―――

 魔力を使ったが錬金術で物質変換されたその重金属粒子砲自体は純粋な物理現象である故、その闇色のオーラの干渉を透り抜けて、亜光速にも達するその砲撃は、狙い違わず錬鉄竜を撃ち抜いた。

 真理の探究が目的である錬金術師にとって、戦闘は本分ではないとは思っていたが、ニーナ=アデラードは、齢270歳を超える古の大錬金術師。やはり、常識外れな存在であるらしい。

 だが……二発目を放ち終えて、ニーナの身体が砕けた。

 

「……すまぬ。妾の力では、奴に止めを刺すことはできなかったようだ……」

 

 二つの状況を同時に把握するために、その身を別けて複製体を造り上げたのだろう。しかし、ただでさえ魔力霊血の足りていない肉体で、そのような無茶をすれば存在が危うい。劣化した金属生命体が、人間の形を保てなくなる。

 

「早く……逃げろ」

 

 最後にそれだけを言い残して、ニーナの言葉が途切れた。彼女の声はもう聞こえない。

 頭を吹き飛ばされた錬鉄の竜は、ニーナの攻撃により消し飛ばされた欠損部を補うのに霊血の残滓をかき集めており、時間がかかるようだがおそらくあと数分も経たないうちに、活動を再開するだろう。その間に、古城の身体は回復するだろうが……

 雪菜が意を決して口を開いた。

 

 

「先輩、ひとつ賭けに出ましょう」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 カインの親であるアダムの話。

 『知識』を得てしまう『原罪』を犯した原初の人間(アダム)らは、楽園より追放され、地上に落とされることになった。

 しかし、彼らが互いに互いが裸であることを“知って”しまい、道徳的にも霊的にも無防備な原初の人間らを、神は憐れみ、

 楽園より離れる前に、獣を屠り、『皮の着物』を与える慈悲を見せた。

 『皮の着物』こそが、『知識』を得て、地に堕ちた人類が最初に手に入れた、神が造り上げた物。

 そして、まだ楽園にいた頃に与えられた、『楽園』の残滓をもつものでもあった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 黒ではない、白の波紋が場に浸透して、奇蹟が起こる。

 

 

 踏み締めていたその木の甲板が伸長し始めて、草木が生い茂り、蔓が船体を伝う。それだけではなくて、海上に浮かぶ船であるのに、鳥や獣の鳴き声もどこからか聴こえてくるよう。さあ、と風が歌い、天より祝福の光が射す。そして、その光熱を受けた甲板に花まで咲く。

 

『カカ……これは、『聖殲』の―――違う。これは―――』

 

 テラフォーミング、と言う言葉がある。

 もともとはSF用語で、火星などの惑星を人間が生存できるように作り変えてしまうことである。

 今、起こっている事象は、それに近かった。

 絶望の大地に降り立った原初の人間が帰郷に焦がれて、地上に楽園を求めたように。

 龍脈地脈を活性化させ、枯渇した砂漠に森林を繁茂して、果ては海に大地を造り出すような。

 小一時間も根付けば、この辺りは森になっていても不思議ではないような、そんな気配を『獣の着物』を纏う魔人は放っている。惑星の全てを金属化してしまいかねない『賢者』とは対照的なもの。

 

 そうそれは、『何もない異境(ノド)』ではなくて、咎神が理想郷と夢を見たかつて人間もその一員であった『自然のある亜異境』―――楽園(エデン)

 

『原初の、完全―――否! 否否否否否否ッ! 我は認めぬ……!』

 

 完全を目指す『賢者』に、その違う完全性を見せつけられたからか。明らかに怒気の篭った声が大気に満ちる。そんな『賢者』の安っぽい自尊心に、魔人は嘆息する。

 

「オマエ、都合の悪いものを見ようともしないで、それで完全だと言えるのか?」

 

『カカ……緘黙せよ! 『完全なる人間』たる我の下に緘黙せよ!』

 

 触手が巻き付き、侵食。しかし、魔人の肉体にかけようとした時と同じ、その万物を完全なる物質である鋼鉄に変える物質変換が、またも弾かれる。

 

 

「やっぱり、オマエは不完全だよ。人間は、不完全になって始まったんだからな」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 制御する。してみせる。

 もう二度と、あのような暴走はしない、そして、もう誰も殺させないために。

 

『瀕死から赤子になったクロウ君。先輩があの時、使った力はおそらく―――』

 

 

 

 吼え狂い、猛り狂い、さらに首をもう一つ増やし三頭となった錬鉄の竜は、全方位に対して、断続的な閃光放射をする。その中を疾駆するは、“金属化より下半身がもとに再生した”銀槍を持つ少女。

 

「<獅子の黄金>!」

 

 そして、“右半身が完全に再生した”世界最強の吸血鬼が眷獣を指揮して、彼女に攻撃が当たらぬよう相手に牽制を続ける。“高い霊媒素養の血”を飲んだ古城は、力を取り戻すだけでなく、さらなる制御力をも得ており、新たなる力を掌握した。

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――」

 

 三頭の錬鉄竜に接近しながら祝詞を紡いで、その霊力を<雪霞狼>に注ぎ込む。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 その霊視の見切りで、最後の閃光の吐息を躱して、雪菜の槍が、錬鉄竜の表面を覆う漆黒の薄膜を消滅させる。

 やはり<闇誓書>の時と同じ。ありとあらゆる結界を切り裂く<雪霞狼>の神格振動波は、魔力を無効化するフィールドそのものをも無効化する。

 しかしながら、決定力が足りない。槍ひとつで三頭になった錬鉄竜を解体するのは、剣巫であっても至難であり―――だが、これでもう、<第四真祖>の眷獣の攻撃を弾いた、闇色のオーラはなくなった。

 

「先輩……!」

 

 雪菜の声に応じて、古城は左腕を突き上げてみせた。その腕から噴き出した鮮血が、爆発的な魔力を帯びた青白く発光する。

 

「<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――」

 

 あの時の頭を削るような痛みはなく、暴れ狂おうとする“負”の魔力を掌握して、その幉をしかと手放さない。

 

 

疾く在れ(きやがれ)、11番目の眷獣、<水精の白鋼(サダルメリク・アルバス)>―――!」

 

 

 閃光の中から出現したのは、水流のように透きとおった肉体を持つ新たな眷獣。美しい女性の上半身と、巨大な蛇の下半身をもち、流れ落ちる髪も無数の蛇――青白い水の精霊(ウンディーネ)

 水妖の巨大な蛇身が、爆発的な激流となって加速する。鋭い鉤爪を備えた繊手が、“竜”の頭部を鷲掴みに握り潰して、海中へと引き摺りこむ。

 <第四真祖>の『11番目』の眷獣は水の眷獣であり、この莫大な量の海水すべてが肉体。

 そして、その力は―――『再生』と『回復』

 あらゆる存在を癒して、本来あるべき姿に戻す、吸血鬼の超回復を象徴する癒しの眷獣。

 

「GYAAAAAAA―――」

 

 海中に沈み、水妖に抱かれた“竜”が、もがき暴れる。

 その錬鉄の巨体が、強酸を掛けられた金属片のように溶かされていく。

 これは、破壊ではない。“あくまで再生”だ。錬金術によって生み出された霊血が元の金属に姿を変えて、殺龍剣に染みついた血霊がただの鉄屑に戻って、母なる海と大地へと還る。

あたかも母体に包みこまれた、生まれる前の胎児のように―――

 

「やはり、凄まじい……」

 

 ぞくりと全身を震わせる監視役の雪菜。

 もはやあれは癒しではなく、時間の逆行。行き過ぎてしまえば――生まれる前の姿にまで還す。

 強固な城壁を土塊に、高度な都市を不毛の大地に、優れた文明を原始以前に。

 災厄の化身たる<第四真祖>の眷獣に相応しい。

 今回はその時間を巻き戻すほどの『再生』に賭けてみたけれど、綱渡りであった。無事に金属化した身体も治ったけれど、下手をすれば、同級生のように赤子になるのではなく、生まれたことすらなかったことになりかねないもの。

 だが、その賭けに出ざるをえなかった状況であったのだ。

 

「先輩」

 

 “竜”を消滅させて、雪菜が古城に呼び掛けると、気だるげに顔をこちらへと向ける。力を多く消耗した反動からか、どことなくやさぐれた雰囲気だ。

 

「姫柊、怪我は?」

 

「大丈夫です。傷ももう塞がりましたから」

 

 首筋につけられた先ほどの吸血行為の噛み痕を押さえながら言う雪菜に、古城は居心地悪そうに視線を明後日の方へ向ける。そして、その場にずるずると膝をつく。慌てて雪菜は彼の隣に駆け寄る。

 

「……先輩!? 大丈夫ですか? もしかして、まだ回復しきれてなかった……!?」

 

「ああ、違う違う。ただの寝不足だ」

 

 気だるげなまま手を振って否定する古城、気を抜くと眠ってしまいそうなくらいに瞼が落ちかけている。

 

「昨日ほとんど寝ていないからな。こればっかりはしょうがねぇよ」

 

「そんなにクロウ君と凪沙ちゃんが気になったんですか? まさか寝てるところを覗き見て」

 

「そうじゃねぇよ! そうだったけど、そんなことしてねぇ! 昨日はニーナと」

「へぇ、昨日の夜から先輩が何をしていたのか興味がありますね。ニーナ=アデラードさんと知り合った経緯や、彼女が小さい浅葱先輩の姿をしていたことが特に」

 

 うっかり監視役の目を盗んでいた隠し事を洩らしてしまい、古城はこめかみに冷や汗を垂らして、にっこりと笑う雪菜から目を逸らす。しかし肩を貸している状態では逃げようがなく、いくら休暇中の彼女に心配を掛けたくないという考えがあっても、結果としてこんな風に騒ぎを拡大させてしまったら本末転倒。

 ……その気遣いが、けして嬉しくないというわけではないけれども。

 とかく隠し事をされるのは傷つくし、それにこちらも心配しないことなどありえないのだ。どんなに離れていてもだ。

 

 

「っと、んなことしてる場合じゃねェ。早くクロウに……あいつがまだ『賢者』と―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 人間が最初に手にした武器は枝。

 爪牙にあらざるもので生物の肉を刺し穿つ可能性を知った。

 

 ほぼ同じくして小石を手にする。

 投擲という概念の取得は、より遠く、より安全な位置から生物の命を討つという思考を、人間に刻みつけた。

 

 やがて、剣が世界に生まれる。

 最初は石器、次は青銅器、さらには鉄器。素材を変えていくたびに、人間の爪牙は獣たちを超えていき、

 咎神(カイン)の子孫たる鍛冶の始祖(トパルカイン)は、ついには神の御子をも殺す、殺神の刃を創り出した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 天然の精霊遣いであり、魔剣聖剣の鍛冶技能を持つとされる巨人種。その巨人種の心臓を喰らいし生まれた魔狼の血を引く者。

 そこに、『知識』――鍛冶の始祖が子孫でもある“咎神の情報”が入力(インプット)されれば、どうなるのか。

 

「……『原罪(これ)』が何なのか大体わかってきたし、そろそろやるのだ」

 

 活性化された甲板より生えた樹に手を伸ばすや、掴んだ枝がたちまち棘を生やし伸び上がる。強化呪術に、超能力の『香付け(マーキング)』による“情報”の付加。ただの枝が、魔槍の如く鋭い槍と化す。表面で弾ける雷光を見ても尋常でない力を秘めているのがわかるだろう。

 

「オレができるのは強化と死霊術に召喚術くらいで、詠唱とかもほとんどしたことがない―――」

 

 枝の槍を、思い切り投げる。

 

 <賢者の霊血>

 液体金属であり流動性があるも、鋼の硬度を持つその肉体。警備隊の包囲射撃を受けても穴を空けることもできず、呑まれて食われる。

 いくら強化しようと、人外の膂力で投擲しようと、樹枝の一刺が鋼を貫くことはありえず、逆にそこに込められた呪力を喰らい―――

 

「―――でも、“これ”には必要ないんだぞ」

 

 

 《Kyriiiiiiiiiiii(キリィィィィィィィィィィ)―――!

 

 

 『香付け』で枝槍に込めた“情報”は、『鳴り鏑』。

 舞威姫は呪矢の風切り音による詠唱で、人間の限界を超えた高密度の魔方陣を描き出す。

 そして、その音は、かつての<模造天使>と化した叶瀬夏音の発声(さけび)のようで、霊血の肉体に枝槍が当たった瞬間、透き通るような碧い輝きが閃いて、吸血鬼の眷獣に匹敵する凄まじい魔力が解放される。大気が凍てつき、『賢者』の周囲が白く煙る。花弁のように雪の結晶が舞い狂い、純白の凍気に金属生命体は包み込まれて、氷山と化した。

 

「オマエ、金属だからかっちんこっちんにされるとダメなんだろ?」

 

『カカカ……通用せぬ。所詮、不完全な存在の術など』

 

 金属の性質の弱点をつく、凍結による封印。

 しかし、それも<賢者の霊血>にしてみれば一度体験し、既に破った策。不意をつかれたが、表面と内側に真空の断熱層を造り出す、魔法瓶の原理で本体の凍結を防ぐ―――

 

 

「じゃあ、通用するまでやってやるのだ」

 

 

 枝槍を投擲したと同時、樹より枝を取り、強化魔術と“情報”付加の超能力を行使。次々と樹より生えてきた枝が、あっという間に魔人を取り囲む。

 右、左、また右。それを繰り返す。

 目にも止まらぬ速度で両腕を振り回し、魔人が枝槍を撃ち放つ。

 

 《Kyriiiiiiiiiiii―――!

   《Kyriiiiiiiiiiii―――!

     《Kyriiiiiiiiiiii―――!

 

 天使の凄絶な絶叫を再現した『鳴り鏑』の特殊詠唱。

 いつの間にか、音が止まぬ内に、別の詠唱が割り込む。さらに別の方向から、輪唱のようにまた次の詠唱が響いてくるではないか。

 

『カ……―――』

 

 さらに、分身。

 樹を活性化させて枝を生やし、

 その枝を『鳴り鏑』と化し、

 <賢者の霊血>へ投擲する。

 それを三段式のローテションで回しながら、段々とその分身の数を増やしていく。

 

   《Kyriiiiiiiiiiii―――!  《Kyriiiiiiiiiiii―――!

 《Kyriiiiiiiiiiii―――! 《Kyriiiiiiiiiiii―――!

  《Kyriiiiiiiiiiii―――! 《Kyriiiiiiiiiiii―――!

 

 詠唱でありながら、息継ぎを必要としない『鳴り鏑』の特性。それを生かした連射。そして、数十に分身しても増殖を続ける常識外な怪物の生命力を持つ魔人。個人でありながら数の暴威を実現する。

 冗談じみているが、冗談ではなく本気であって、冗談が通用しない、道理を無視した圧倒的な『強さ』―――それがなければ、殺神兵器など名乗れない。

 

     ―――  ―――  ―――《Kyriiiiiiiiiiii―――!

    ―――  ―――《Kyriiiiiiiiiiii―――! 《Kyriiiiiiiiiiii―――!

   ―――  ―――《Kyriiiiiiiiiiii―――! 《Kyriiiiiiiiiiii―――!

  ―――  ―――《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii―――!《Kyriiiiiiiiiiii《Kyriiiiiiiiiiii《Kyriiiiiiiiiiii《Kyriiiiiiiiiiii《Kyriiiiiiiiiiii《Kyriiiiiiiiiiii《Kyriiiiiiiiiiii《Kyriiiiiiiiiiii《Kyriiiiiii《Kyriii《Kyri《K《K《K《《《《《《《《《《―――――

 

 詠唱に詠唱が重なり、ついには地響きのような轟音となってこの海域内を埋め尽くした。

 すでに詠唱が終わっているはずの凍結魔術は発動されず、全ての詠唱が終わるまで空間内に力を溜め置いているかのようだった。

 だが、次の瞬間―――世界そのものが圧縮するかのような勢いで縮小を開始して―――半径数kmほどに渡って、フェリー周辺の海が氷結した。聖護結界が展開されている船内は絶対零度に凍える冷気とは遮断されて無事であるも、氷河期に転移したかのように、景色が一変する。そして、重唱となった凍結魔術を、一点に浴びせられた金属生命体は、

 

『カ――カカ―――まだ―――』

 

 不滅の肉体を、完全に停止させることはかなわずとも、確実にその動きは鈍った。触手を使った攻撃ができぬほど、液体金属特有の伸縮が固まりついている。そして、何よりも海底深くまで凍りつかされてしまい、錬金の対価にする貴金属を海水から摂取することができなくなってしまっている。魔法瓶の構造とは外界の接面を切り離すものであり、つまり、内側の本体部分は海に触れられない―――無尽蔵の供給源から断たれてしまった。

 それを理解している氷漬けにされた外殻を重金属粒子砲で突き破り、餌――高い霊媒素養の少女がいるフェリーへ―――

 

『カカ―――我に贄を捧げ―――』

「それを許すと思うのか?」

 

 しかし、そこには魔人がいる。

 振るわれる腕。気を固めて放つ霊弓術にて具現化される陣風に、『香付け』がされ、“情報”が組み込まれる。

 

 『知識』を得た人類は火を操るようになり、やがて光や雷でさえも発明家は神の領分より引き摺り落とした。

 

 『咎神の知識』を得て、『天部』をも超えた<過適応能力>は自然への支配力を増している魔人。

 轟嵐砕斧と呼ばれていたのと同じ不可視の飛ぶ斬撃。その目に視えない透明な刃は、“情報”を付加されて、それ自体がもう魔剣の如き『武器』となっている。舞威姫の武神具と同じ『疑似空間切断』という、標的の物理硬度に関係なく両断する、防御不能の一太刀へと。

 

『まさか―――我を―――本気で―――』

 

「できないことはない。一度は封印できたのだ。その“霊血()”が全部使い物にならなくなったら、オマエは止められるんだろ? こんなのオレにだってわかる簡単な理屈だぞ」

 

 銃弾も通じない鋼の肉体を持つ<賢者の霊血>が、斬り飛ばされる。

 そして、真空熱遮断の構造を取るよりも早く、斬ると同時に枝槍が撃ち込まれて凍結される。

 

 まずい。このままでは危険だ。

 <賢者の霊血>は数多の数に分裂ができる。そして、そのたびに力も分散されていく。無尽蔵に魔力を供給できる時であったなら、それは問題なかった。

 だが、今、解体された切れ端を凍結されていき、力が細分化され続けてしまえば、破壊されなくても、いずれ―――

 “神”はおろか、人間以下の存在として永遠にあり続けることになる。

 

「どこに逃げようと無駄だ。オレの『鼻』はオマエの“匂い”を覚えたのだ」

 

 魔人の炯眼に射抜かれて、『賢者』は硬直。そして、氷山を突き破り、飛び出したその黄金の巨人像を激昂に震わせる。

 

『カカカカカ―――逃げる、だと……! 完全なる我が、不完全な存在に恐れる、だと……!』

 

 本体が顔を出した瞬間、その出現を察知していた魔人は『疑似空間切断』の不可視の刃の乱れ撃ち。黄金の巨人像は細切れに両断される。否、両断される―――はずだった。

 だが、飛来した太刀風が触れる寸前、黄金の巨人像の全身を漆黒のオーロラが包み込む。

 

『我は“神”ぞ。恐れるのは、そちらである……!』

 

 ガラスが砕けるような音と共に、『疑似空間切断』の太刀風が砕けた。

 霊弓術の気刃に戻され、その鋼の肉体に食い込みかけるも虚しく弾かれる。

 

 錬金術の枠を超えた先にある、力。

 そう、“神”――『咎神』が振るった『聖殲』の再現。まだ、完全には程遠いものだが、それは魔力を根絶する『異境』を呼び出すものであり、不老不死の真祖すらも例外なく魔力を打ち消される。

 未完成であるため、その分、展開するには消耗が激しく、

 完成するには、やはり霊媒が必要だ―――

 

 

「オレは、ご主人の眷獣だ。どうして、オマエなんか恐れなくちゃいけないのだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「『たぶん壊せる』っつってたが……」

 

 こりゃ手助けは必要なさそうだな、と口の中で古城はつぶやく。

 <第四真祖>が“戦争”ということを追求した殺神兵器だったのなら、その“後続機(コウハイ)”は“戦闘”ということを究極した殺神兵器だろう。

 両者の力は似て非なるもの。比べることは間違っているのだろうが、それでも一対一でやりあえば、不完全な真祖は力を完封させられて叩きのめされることを、古城は予感させられる。

 

「金ぴか。お前には同情してやるよ。わけもわからないまま、完全な存在として創られて、その挙句に全身の血を抜かれて封印されちまったんだもんな。だから、自分が完全とは程遠い不完全な存在だって気づかねェし、クロウの最終勧告に最後の最後までわからなかった」

 

 魔力を無効化する『異境』を展開する、不滅の金属生命体。

 それを前にしても、やはり怯まない。

 

 沼の龍母の肉を喰らい、武器を拒絶する不壊の身体だから?

 原初の人間に与えられた楽園を呼び込む皮の着物を纏うっているから?

 鍛冶の始祖の情報により、自然すら武器に変えられるから?

 

 ではない。力があるから、殺神兵器なのではない。

 

 『原罪の知識』を得て、“神”の力をよく知った上で、それでも戦いを挑めるからこそ、あの後輩は殺神兵器として完了できたのだ。

 

「―――そして、オレは、殺神兵器だ。滅ぼされるのは、“(オマエ)”だぞ」

 

 魔人の口が開けられ、その口腔が金色に光っていく。

 

 それは、炎。神獣の劫火の輝き。

 そして、そこに純白の神気が混ざり始める。

 

 バギン! と凄まじい音を立てて、魔人の口前に砲台の如く三つ重なった魔法陣が展開される。

 

 あれはまさか、と破魔の槍を持つ剣巫は瞠目する。

 

 溶鉱炉のように黄金と純白が溶け合う口腔より気炎を発しながら、口前の魔法陣はゆっくりと廻り、段々と加速しながら高圧電流の爆発を起こして、四方八方へ雷を飛び散らす。

 あの陣図の意味、そこに組み込まれようとする“情報(におい)”が何であるか、<雪霞狼>の担い手は誰よりも早く一目で理解する。

 

 『戦いの狼(べオウルフ)』が、人の聖剣が通じぬ沼の龍母を斃したのは、その住処に在った、全てを焼き払う炎の波を放つ、霧の巨人の剣だったという。

 『原初の人間(アダム)』の、楽園(エデン)への道を閉ざしたものは、守護天使の煌めき回転する炎の剣だったという。

 『鍛冶の始祖(トバルカイン)』は、隕鉄より神殺しとなった槍だけでなく、もうひとつ、一振りの剣を造り出していたという。

 

 神獣の劫火に『香付け』されるのは、耐性に関わらず刃を通し、神格にて異境を燃やし、そして、古代の宝槍と同じである―――『神格振動波』の“情報”だ。

 

 

 ゴッ!! と灼熱の龍の吐息のような勢いで巨大な剣が吐き出された。

 

 

「―――っ! 先輩、下がって!?」

 

 その声に思わず顔を覆い、傍で見守っていた古城らが息を止める。

 黄金と純白が完全に混ざり合った、白金(プラチナ)の剣の形をした焔。それは金属さえ融かす高温でありながら、船の転落防止用の柵から身を乗り上げていた雪菜の肌には火傷一つできなかったほどに、剣形に炎は集約されていた。文字通りの奇蹟。魔性を滅するためだけに生まれた、聖なる炎。ありえない色を現実に広げて、天上から降り落ちた花弁の如く、聖炎の剣は突き立った『賢者』を呑み込んだ。

 効果は、絶大だった。

 魔力を無効化する闇色のオーロラは蒸発し、魔導生命体である<賢者の霊血>は融け始めて、さらには極限まで冷やされてからの高熱に金属性質からも崩壊され、どおっと『賢者』の身体を縮ませていく。

 『神格振動波』の輝きを前には、いかな怪物の不滅といえど無力と化すか。

 まとわりつかれた黄金の巨人像はのたうち、喉を持ち上げ、奇怪な声を上げた。

 絶叫とも、悲鳴ともつかない声だった。

 

『カ……カカ……理解……理解した……』

 

 みるみるうちに、身体を半分以下にまで融解されながら、『賢者』は残る9割の身を切り離して反転した。

 

「逃がさないぞ」

 

 一度捉えた獲物は逃がさぬというように、空間跳躍じみたその俊足で追い、その左手の五指が噛みつくようにようやく露わとなった本体の核を掴みとる。

 髑髏だけとなった『賢者』は、その漆黒の霞の“壊毒”を纏わす毒手に握り潰されながら、消滅する間際に呟く。

 

 

『……その力は……カインが……絶滅させるための……』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 戦闘が終わった。

 が、天塚に機関部を壊されたフェリー『パエトーン』に、最後の火炎で大半が溶かしつくされたとはいえ周囲は流氷が浮かぶ、北極とは程遠い南国の海なのに氷海で、身動きができない状況でおとなしく救助を待つしかない。

 とはいえ、あれだけ苛烈な『賢者』の戦いがあったにもかかわらず、しっかり聖護結界が張られていた船体は無事であり、乗客たちの安全は確保されている。

 で、

 

「―――さて、先輩。救助(おむかえ)の船が来るまでたっぷりと時間があることですし、昨夜のこととかいろいろ事細かに説明してもらいます」

「ひ、姫柊さん」

「今回のことでよくわかりました。やっぱり私が少しでも目を離すと、先輩はすぐに危険なことに首を突っ込んで、知らない女の人と仲良くなるみたいですね」

「いや、待て。その理屈はなんかおかしいだろ!?」

「ええ、反省しました。これからはもっと監視を強化しないといけないみたいです」

「勘弁してくれ……!」

 

 向こうで同級生の監視役に説教されている先輩を遠目で伺いつつ、また『波隴院フェスタ』のときのように巻き込まれないよう、ゆっくりと音を立てずその場を後にする。

 

「むぅ、なんだかすっごく疲れたぞ」

 

 『賢者』を斃してすぐ<守護獣(フラミー)>は身体の裡より飛び出すように分離して異界へと帰っていき、同時にクロウの『魔人化』も解かれて、小柄な中学男子の姿に戻った。その反動からか、体が怠く、眠い。うとうとと転落防止用の柵に背を預けて、瞼を閉じかけていると、声をかけられた。

 

「大儀であったな。南宮クロウよ」

 

「ん」

 

 顔を上げると、そこに夏音に抱かれている人形のような小人がいる。30cm足らずの妖精のようなサイズで、オリエンタルな美貌の見知らぬ女性の姿をしており、そのふふんと偉ぶるように張る胸には深紅の宝石――<錬核>が埋め込まれている。

 

「古城、雪菜も戦ってくれたが、主が『賢者』を斃した。どうやら最後まで壊すかどうか迷ってくれていたようだが、おかげで妾はようやく270年の重荷から解放されたわ。礼を言う」

 

「なあ」

 

「ん、なんじゃクロウ? 何か褒美が欲しいのか」

 

「お前、誰だ?」

 

 向こうはこちらを知っているようだが、あいにくクロウには小人の知り合いはいないのだ。赤子の時の記憶もおぼろげであって、なんとなくその“匂い”には覚えがあるけれども。

 あまりに率直な疑問をぶつけられて、尻餅をつくように腰を抜かしてずっこける小人であるも、クロウとしてもボケたつもりはないのである。

 

「そ、そうか。そうだったな。そういえば、自己紹介したのはお主が赤子の時であった。失念しておった。おほん―――妾は、ヘルメス=トリスメギストスの末裔にして、大いなる作業(マグナス・オブス)を究めし者。パルミアのニーナ=アデラードであるぞ」

 

「減るメシ、鳥住めギスギスの末裔にして、曲がる茄子をぶすっを究めし者。パエリアのニーナ=アデラード?」

 

「自己紹介が長かったのは確かだが、そこまで聞き間違えられるのは初めてであるな。錬金術師にして夏音の院長様であったニーナ=アデラードとだけ覚えるが良い。気軽にニーナと呼んでくれてもかまわんぞ」

 

「むぅ、ごめんな。今、お腹が減って、全然頭が働かないのだ」

 

 見るからに飢え死にしそうな表情のクロウに、ニーナと夏音は心配そうにする。

 

「大丈夫ですか? クロウ君」

「なるほど。やはりあの力は相当に消耗が激しいようだな」

 

「う。ニーナも何かすっごく消耗したっぽいな。前はもっとおっきかった気がするぞ」

 

「うむ。瀕死であった不肖の弟子にいくらか“霊血”を分けてしまったのでな」

 

 左腕を『賢者』に消し飛ばされ、右腕は“竜”となって暴走。<守護者>を強引に奪われた仙都木優麻と同じようにその魔力回路はズタズタでこのまま流出され続ければ、死んでいただろう。ニーナがその身を分け与える“献血”で欠損部を埋めていなければ。

 

「天塚はもう何もできんよ。妾の“霊血”で縛っているのもそうだが、何より其奴自身にその気がないからの」

 

 『賢者』が消滅し、その束縛より解放された。その何が何でも人間に()りたいという欲求もなくなったのだろう。今後、天塚がどうなるかは知らないが、どうするか、どう罪を償っていくかは天塚自身が考えて決めなければならない。人間であるのならば。

 

「それで、残った“霊血”で人型を保つにはこの寸法(サイズ)が限界であったわ。生活するのに特に不都合はないがな」

 

「う。そうか……でも、ニーナのいた修道院ってもうボロボロだぞ?」

 

「主らのところに厄介になるつもりだ。夏音もおるしの」

 

「夏音、前にご主人にマンションで猫飼っちゃだめだーって言われただろ?」

 

「はい。ですから、マンションで飼ってもいいよう、南宮先生を説得して見せます」

 

 クロウと夏音の会話に、ペット扱いするな、と古の大錬金術師が、むくれたように腕を組む。

 と、

 

 

「そんな時代遅れのアンティーク、どこぞの骨董品店でも置き場がないぞ」

 

 

 唐突に、皮肉交じりに虚空より登場する女性。

 疲労困憊なクロウであるも、その声には気合を入れて目を覚まさせる。

 

「まったく、目つきの悪い小娘に押し掛けられたばかりというのに、また居候を増やすつもりか」

 

「ご主じ……ん?」

 

 も、ぽかん、と固まる。

 何故ならば、現れたのはいつもの西洋人形のようなゴシックドレスを着飾った小学高学年の少女ではなくて、白シャツにタイトスカートの似合う大人な女性。バインバインの熟れごろ女教師になっているのだ。

 そんな困惑するクロウを見て、その女性――南宮那月は、ふ、と微笑を浮かべる。

 

「なんだ馬鹿犬、仔犬となったと聞いたんだが、戻ってるではないか」

 

「ご主人はなんか大人になってるけど……」

 

 戸惑う様子のサーヴァントに、那月はおっと眉をわずかに上げる。

 

「そうか。いつまでも馬鹿犬は馬鹿犬のままだと思っていたが、色を知るようになったか。これは古城に付き合わせた悪影響だな。やれやれ、困ったものだ」

 

 聞こえていれば、当人から猛抗議が来そうな発言であるも。

 しかし言いながらも、愉しげに口端を吊り上げる那月。

 そして、ただでさえ目立つ胸の膨らみを余計に強調するように腕を組み、いつものように尊大に胸を反らす。先ほど、教え子が食いついていたそのポーズをとる。そんな主に、

 

「ご主人、あんまり無茶しちゃだめだぞ」

 

 と眉をハの字にして、気遣うクロウ。

 ぴきり、と固まり、口端を吊り上げたその頬を引くつかせる那月。

 

「本当はちっちゃいんだから、あんまり違うイメージは(身体に)ダメだぞ」

 

 これは、けしてその見栄っ張りのことを言ったのではなく、この大人の状態を維持するのは普段よりも疲れることを知るからこそ、クロウは心配して言っているのである。

 ただ色々と間が悪いし、言い方も悪かったかもしれない。

 そうして、笑みは確保しつつも冷淡にその質を変えながら、主は組んだ腕を解いて、扇子を手に取り。

 

「ど、どうしたのだご主人……なんか顔が怖―――ぐぼぁ!?」

 

 きょとんと首をかしげるその横っ面に空間衝撃の術をぶち込まれる。

 3、4mも吹き飛んで受け身もとれずに転がるクロウは、疲労困憊もあってか、綺麗にノックダウンして―――そのまま、柵を超えて海に転落。

 

 

「この程度のシゲキに参るとは、『男』を名乗るにはまだまだ子供だな馬鹿犬」

 

 

漁船

 

 

 定員の都合上、装甲飛空艇に救助されたのは負傷者のみで、南宮那月は自力で動けない者を空間転移で船まで飛ばし、最後に霊力を多く消耗した夏音、ついでにニーナを回収すると、頭を打って気絶してるサーヴァントを放置して(海から鎖で引っ張り上げたが)去ってしまった。

 そんなわけで、クロウは気絶したまま古城らに運ばれて、後からやってきた旧式の漁船に乗せられたわけだが……

 

「ん……」

 

 ぱちくりと目を開けるクロウ。視界にまず飛び込んできたのは、海ではなかった。

 視界いっぱいにあったのは、大きな瞳。息が鼻にかかるくらい超至近距離で、制服姿の凪沙がこちらの寝顔を覗いていたのである。

 

「……………………………………………………」

 

「ん。おはよう凪沙ちゃん」

 

 と固まってしまっている凪沙からあっさりと離れて、ふわぁ、と欠伸をする思春期真っ盛りな年代であるはずのクロウ。寝固まった体を解すように伸びをしながら、頬を撫でて――まだズキズキする――から、頭を一回だけ回す。そして、一言。

 

「む。(海に落ちたから)なんか口の中が(しょっぱくて)変な味がする」

「―――してないよっ!?!?」

 

 これにはクロウもビックリするくらいの大声。耳元でやられてそれも五感の優れるクロウはより怯み、その間にも激情を爆発させる凪沙は、瞬発力抜群に舌を回転させる。

 

「その、最初は、気絶してるクロウ君を心配して看病してたんだけど、その顔を覗いていると何となく、いつのまにかいなくなったアダム君とどこか似ているような気がしてね! それと、これはたぶん夢、ううんきっと夢なんだけど! その、クロウ君の額に……(キス)をしたような気がしなくもないよう何と言うか―――そう! よく見たら背が伸びてる新発見があったりと気になって気になって注目しているうちに周りがだんだんと見えなくなって! ―――あれ、私、何言ってるの!? ごめん、クロウ君、何言ってるかわからないと思うけど、とにかく何にもなかったから! じゃね―――きゃっ!?」

「―――あぶない!」

「!?」

 

 舌は回るも足はもつれて、転びかけた凪沙を咄嗟にその右手を取って掴まえるクロウ。

 

「よくわからないけど、落ち着くのだ凪沙ちゃん。あんまり慌てるのは身体によくない」

「だ、大丈夫だよ。凪沙はもう元気だし、検査入院だってばっちりで―――」

「―――オレの目を見ろッ!」

 

 グッ、と凪沙の手首を握り締めたまま腕を引いて、肩に手を置いて強引に前を振り向かせ、目を合わせる。

 金色の目に捉えられた凪沙は金縛りにあったように動けず、しかしその自分の顔が映る――凪沙を真っ直ぐに見つめる瞳を前にしていくうちに、不思議と呼吸は落ち着く。クロウもその手に取る凪沙の手首から脈拍のペースが落ちてきているのを計り取っている。

 ……ただ、どうしようもなく胸の裡の熱だけは下がらずに上がり続けているけれども。それは実際の体温ではないため、クロウには勘付けない。ただただその真剣なまなざしは、彼女の不調を探ろうと必死である。

 

「………」

 

 しばらく見つめ合い、少女の火の出るような赤ら顔は、熾火となるように落ち着いていく。ただし炎が揺らめかず表面上は静かに見えてもそれはけして鎮火したわけではなくて、火が出るよりも炭の熾火の方が温度は高い。が、体調を気遣う少年は勘付けない。

 ポーーーーーー……と少女の視線にとろんと熱が篭り始めた時、『落ち着いたようだ』と判断した少年は声をかける。

 

「落ち着いたか?」

 

「う……うん。もう大丈夫」

 

 火傷しそうなくらいに熱く感じるその手が離れる。

 あっ、と思わず口から零すも、しっかりと掴まれていた右手首にはまだ彼の掌の感触が残ってるようで、我知らずに左手で右手首に触れていた。

 触れる―――というより、撫でる、と表現すべきかもしれない。彼の掌から伝わった熱を、消えてしまう前に指先でなぞっていく。

 けれど、その行為は少年からすれば、さすっているように見えて、

 

「ごめん。ちょっと強く握り過ぎたのだ」

 

 加減を誤ったと謝罪。それを受けた少女はそこでようやく名残惜しむように左手が右手首を撫でていることに気づいて、ぶんぶん、と首を横に振る。

 

「ううん! 違う、違うよクロウ君! 痛くなかったし、全然大丈夫! それにもともと凪沙が転びそうになったのが悪いんだし、それを助けてくれたんだから謝らないでよ。こっちは感謝したいくらいなんだから」

 

「そうか。なら、よかったぞ」

 

 それから、パチパチ、とクロウは瞬きをして、指摘。

 

「そういえば、リボンどうしたのだ?」

 

 ショートカット風にまとめるように結い上げていたのが、今は解かれている。そのせいか、いつもと違い長い髪を下している少女は少し大人びて見えた。

 

「え、あ、目が覚めたら、なくなちゃってたっというか……せっかく買ったコートもダメになっちゃったし、宿泊研修は中止だし。荷物は弁償してくれるって言ってたけど」

 

 そうとうへこんでいるのか、凪沙は大きく肩を落として溜息を吐く。

 

「ま、あれだけの事故で死人が出なかっただけでもラッキーだけどね。季節外れの流氷が激突しちゃうなんて、まるで映画みたいな話だよね」

 

 今回の賢者事件は、彼女の言うとおり、船が流氷に当たって不具合が起きたと説明されている。こんな太平洋のど真ん中で氷原があるのは信じがたいが、それを個人が引き起こした方が信じられるものはいない。張本人な少年はちょっとやり過ぎだと斜め上に視線を逸らして……また少女を見る。

 

「どうしたの? もしかして、何かついてる?」

『さあ、我に殺神兵器の本性を見せてみろ―――!』

 

 重なるは、やはりあの過去の幻影。そう、“あの時も”髪を下していた。

 それに少年は一度瞼をおろし、深く裡より吐き出すように長く息を吐いてから、首を横に振る。

 

「ううん。なにも、もうなにもついてないぞ。心配しなくていい。いつもと感じが違うからつい見ちゃったのだ。うん、何か大人な感じだ」

 

「そう? ……もしかして、クロウ君は……こっちの方が好みだったり……」

 

「好みと言うより、物珍しいのだ」

 

 とその回答を聞いた少女は白けたジト目を作って、つい、ポコッと少年を殴ってしまう。

 

「あた!?

 なにをするのだ、凪沙ちゃん?」

 

「なんでもないよ、もう! そんなんだから、クロウ君はクラスの女子から40点って点数がつけられるんだよ」

 

 とそんなことをうそぶいた凪沙に、クロウはややショックを受けた顔で、

 

「む。オレがいつもとってるテストの平均値くらいだ。そんなに嫌われてるのか?」

 

「そ、そういうわけじゃないんだけどね? もう何でこんなこともわからないのこの分からず屋って感じで……まあ、凪沙がさりげなくフォローしたから。“朴念仁”は、素“朴”で、信“念”を持ち、“仁”義のあるって……」

 

 凪沙が頑なに目を合わせようとせずなんだかだらだらと汗を垂れ流してるのが気になるが、彼女がこんな野放図なデマカセを口にしたりはしないだろう、とクロウは頷き、またまた凪沙の髪を見て、

 

「でも、オレはいつもの凪沙ちゃんがいいぞ」

 

「それって、その……普段が一番、ってことなのかな」

 

「うん。一番安心できる」

 

「やっぱり33点にしとけばよかったかな……」

 

 先ほどの大人版ご主人の時も思ったが、いきなり大人になられてもクロウとしては戸惑うしかない。

 なんて事情は理解されても、共感は得てくれないもので、不満そうにまた少女の頬がぷくうと膨れる。

 

「どんな髪型が満点なのかとか言われても、正直オレにはわからない。でも、いつも通りの凪沙ちゃんが凪沙ちゃんらしくていいと思うし、凪沙ちゃんらしい方がオレは好きだ」

 

「な……なんか髪を結うもの探してくるね!」

 

 急に船室から出ようとする凪沙は、部屋の入り口で立ち止まって、

 

「ねぇ、クロウ君」

 

「なんだ、凪沙ちゃん?」

 

「ごめんね。クロウ君、仕事があるのに、あんな無理、言っちゃって、凪沙が悪いよ」

 

 震える声で、つっかえつっかえに言う少女に、クロウは淡く苦笑してしまう。

 

「いいや……こっちがごめんだ。事情はあっても、オレが約束を破ったのは変わりないぞ。オレの方こそ言い訳のしようがないのだ」

 

「うん、変わらないね」

 

 断言して。続けて、告げる。

 

「たとえ、どんなことがあっても、私の気持ちはブレない。……クロウ君と仲直りしたいよ」

 

「うん。オレもだ」

 

 今回はストレスのたまる仕事で、すごく疲れたりしたけれども。

 仲直りができた。こうしてまた彼女と話せているだけで、ひどく、肩が軽くなる。

 少年は自分でもよくわからないが、少女が歩み寄ってくれることがとてもうれしくて、満面の笑みで応えられた。

 そして、そんな笑みを背中からも感じられた少女は目を瞑る。ふぅ、と熱い息を吐いて、逸る気を落ち着けさせてから、

 

「わたしはわがままで、怖がりで、ひどいことをして、何度も何度も謝るようなことばかりして、けれど―――それでも―――」

 

 少年には、まだ早いと理解している。

 だから、きっとそれで彼の気持ちが揺れ動くことはなくても。

 正しく意味を理解してもらえずに、独り相撲にしかならないだろうけども。

 なんてことのない一言に嬉しくなって舞い上がってるだけで、帰ってからベットで羞恥に悶えることになったとしても。

 ただ、この胸の裡には留めておけず張り裂けてしまいそうだから、いま伝える。

 くるり、と振り返って、この“戦争”の宣戦布告とばかりに凪沙はクロウに指差して、

 

 

「クロウ君のこと、好きでいてもいい?」

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

『『獣王』の器が覚醒した、と……』

 

「ええ、四番目の真祖に三人の真祖が注目するのと同じく、ありえざる第八の大罪の登場に、世界に7体いる魔獣の王たちは長い休眠から覚めるでしょう。もうすでに『蛇』は活動を始めていると報告がいっているはずと思いますけど」

 

『ああ、『蛇』の器の準備はすでに進めている。それで、そちらはどうなっている?』

 

「残念。断わられてしまいましたわ」

 

『何を暢気なことを。すでに獅子王機関には目を付けられているのだろう。ならば、無理やりにでも』

 

「無理よ。縛り(ハンデ)があっても、『獣王』の器はそう取れるものではないわ。それに怖い魔女がついておりますのよ。……まだ、絃神島の国家攻魔官に計画のことを知られたくはないでしょう会長?」

 

『ちっ……だからと言って、諦めるつもりではないだろうな妃崎攻魔官』

 

「それはもちろん。太史局の上層部が、獅子王機関と話をつけ、私が『獣王の監視役』になりましたのよ」

 

 

 

「うがぁ~~~~~っ」

 

 ゾンビのように死にかけてる南宮クロウ。

 雨降って地固まり、仲直りできた暁凪沙とより親密になれた気がしたのは嬉しくて、身体が軽くなった気分だけど、腹は膨れない。赤子であったころの記憶がほとんどないため、クロウにとって、昨日の昼から何も食べていない。育ち盛りの少年にしてみれば、これは致命的な事態である。

 そんな空腹の後輩を見るに見かねて、赤子にしてしまったことへの罪悪感もあった先輩の古城がちょっと部屋によって、昼飯食っていけ、と誘ったのだ。が……

 ご飯の誘惑に負けず、その時に危険信号を発した直感に従い、主のいる自宅まで我慢すればよかった。

 最初は、料理上手な凪沙が、腕によりをかけると言ってくれてすごく期待したのだ。

 でも、先輩の部屋に寄ってみたら、異臭と黒煙が充満していて―――浅葱先輩の手料理(サンドイッチ)が待っていた。

 

 藍羽浅葱の幼馴染曰く、小学5年生の時に焼いたクッキーでクラス男子14人を病院送りにしたという壊滅的な調理センス。

 

 鉄の胃袋をもち、ゲテモノ的な料理にも耐性があるクロウは、古城らが怯む中で、空腹と言う最高の調味料(スパイス)を頼りに、一番槍で突撃していった―――そして、臨死体験をする。

 前に『美食家』に対して、『毒かどうかもわからないで口にするのは馬鹿だ』と言ったのがブーメランになって返ってきたが、言い訳させてもらえるのならば、

 出されたサンドイッチから漂う異臭によって、人以上の魔族の中でも特に優れた獣人種の鼻を超能力で拡張された嗅覚(スカウター)が、エラーを起こして測定不能(まひ)になっており、そこにあるのがどれだけ戦闘力なのかを計れなかった。そして、普通に調理すれば毒のない食材であれほどの劇物を作れるとは思わなかった。

 

 それでも一度でも手を付けたご飯は命の恵みに感謝して(冒涜的な料理であっても)完食するように躾けられていたクロウは、涙を流しながらも根性を出して、全部、食べた。結局、手を付けられなかった皆の分まで。

 

 その勇姿に古城らは感涙して、しばらく部屋に休んでいけと言われたが、消臭剤を巻き換気をしても異臭を感じるクロウはそこにはいられず、退散。

 

 で、西地区から南地区へ夢遊病のようなふらついた足取りで、どうにかここまで辿り着いた、ら……

 マンションの正面玄関前に、引越し屋の一台の小型トラックが止まっていた。そして、こちらを待ち構えるように、やや年上の少女――昨日出くわした六刃の妃崎霧葉が立っていた。

 

「あら、昨日振りね。南宮クロウ」

 

「お前、この前の……」

 

 その世の中に拗ねたような目つきを細めて、薄い微笑を作る彼女に対し、思いっきりしかめっ面を作るクロウ。

 

「太史局の六刃神官とかいうのは断ったはずだぞ」

 

「ええ、だから、私がここに派遣されたのよ」

 

 ―――政府公認の監視役として。

 

「本当なら、見習の本家に倣って、隣の部屋に住みたかったのだけど、最上階フロアはこの持ちビルのオーナーが独占しておりますもの。だから、最上階の一つ下のフロアに部屋を取りましたわ」

 

 このマンション、クロウはあまり気にしたことがないが、絃神島でも一等地に立つ高級物件。そして、ビルの家主(オーナー)は、獅子王機関を商売敵というくらいなのだから、同じ政府機関の太史局の人間にあまりいい顔はしないはず。通常でも高い家賃の、さらに倍の値段請求を吹っかけてきてもおかしくない。いや、入居お断りする可能性もある。

 それでも、押し通してしまえるのだから、これは日本国政府から正式に認められている任務なのだろう。

 

「きっと長い付き合いになるだろうから、<空隙の魔女>――あなたの主人とは友好的な関係を築きたいと私は思ってるわ。後で引っ越しの挨拶に伺わせてもらうわね」

 

 そういって、配達員と一緒に自分の部屋のあるフロアへ向かう霧葉を見ながら、

 

(絶っ対、今日のご主人は機嫌が悪いのだ)

 

 ものすごく家に帰りたくなくなったけど、これ以上主を心配させるわけにはいかない。今日は厄日なのだと嘆く第四真祖の後続機(コウハイ)であった。

 

 

 

つづく

 

 

スーパー

 

 

「今度の魔獣狩り(モンスターハント)、オレ不参加するのだ」

 

『何を冗談言っているのかしら? 大罪の魔獣ベヒモスよ。『獣王』のあなたには是か非でも参加してもらわないと困るのだけど』

 

「別にそいつ今悪さしてるわけじゃないだろ? 南極でかちんこちんに凍ってるから、放置しててもいいんじゃないか」

 

『まぁ、太史局が早急に退治しなくちゃいけない必要はないわ。でもね、<空隙の魔女>と交渉して、ようやくサーヴァントを借りる権利を取れたのに、いきなり仕事を断られるのは困るのだけど。せめてこちらが納得できる、すでに支払ったレンタル料と時間に見合うほどの理由を言ってくれないかしら?』

 

「育休だぞ」

 

『………………はぁ!? どういうこと? あなた、まだ16よね?』

 

「そうだけど。なんかオレの子供ができちゃってたのだ」

 

『できちまったって、あなたねぇ……! 私の監視()を盗むなんて、一体どこの誰とつくった子供なのよっ?』

 

「それは―――あ、セールが始まった。ごめん、行かなくちゃ」

 

『待ちなさい! 何電話を切ろうとしてるの! 私はまだ納得してないわよクロウ!』

 

「じゃーな」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 学生で子育ては、相当大変になるだろうと思われたが、手伝いにやってきてくれる医学知識のあるアスタルテと子供の面倒見のいい修道院を経営した大錬金術師のニーナ=アデラードや叶瀬夏音のおかげで、どうにか形になってきている。

 そして、今日もひとり、報せを聞きつけた旧友が部屋に訪ねてきてくれた。

 

「わぁ、久しぶりだねユウちゃん!」

 

「久しぶり、凪沙ちゃん。また美人になったね。見違えたよ」

 

「またまたー……そんなお世辞言っちゃって。こないだもそう言ってたよね」

 

「それくらい綺麗になったってことさ。やっぱり恋をするとそうなるのかな」

 

「もう! からかうのはやめてってば! それを言うならユウちゃんもでしょ」

 

 歯の浮くような気障でありながらも、妙に説得力のあるセリフを口から出すのは、仙都木優麻。凪沙と古城の幼馴染で、昨年の『波隴院フェスタ』ではこの暁家でお泊りをしたことがある。そのときは、魔女としての使命に縛られていたが、今回こそは彼女たちの友人としてやってきた。

 

「にしても、まさか凪沙ちゃんに先を越されちゃうとはね。彼は古城以上に疎そうだったのに」

 

「それはちょっと違うよ。私たちの細胞が使われたってだけで、凪沙が産んだわけじゃないし」

 

「でも、君たちが親として育てるつもりなんだろ? 婚約までしたそうじゃないか。なかなかできることじゃないよ」

 

 そうして、ベットに眠っている赤子の様子を見た後、

 

「それで、古城は?」

 

 そわそわと気になる彼の家でもあることから緊張気味の優麻。

 ちょくちょくと連絡は取り合ってはいたが、闇聖書事件で捕まって以来、顔合わせしてない。この婚約騒動も、彼から聞いて、“ある事”を頼まれたのだ。でも……

 

「あー……古城君、『こんな部屋(ところ)にいられるかー』って出てちゃって」

 

「え、そうなのかい」

 

「引き留めようとしたんだよ。……うん、それなら凪沙がクロウ君の部屋に移って、向こうでお世話になろうかって言ったんだけど」

 

 

 ドンッ! と隣の部屋の壁が叩かれる。

 

 

「それは、断固反対だって古城君が」

 

「なるほど。古城は隣にいるのか。ああ、だから……」

 

 壁の向こうが、もうなんか透視(イメージ)できてしまった優麻は呆れたような乾いた笑みを浮かべる。

 同じ部屋にはいられず、かといって妹を外に出したくない。その結果、お隣の年下の女の子の部屋に転がり込む。

 

 優麻が古城から話を聞いたとき、頼まれこと。

 それは、『波朧院フェスタ』の前日のときのように、空間転移の『門』を繋げることだった。

 一体それはどんな理由でそうなったかはメールで質問しても答えてくれなかったけど……

 

「うん、必要ないね。もう、いっそ壁を壊して穴を空けてしまえばいいんじゃないかな」

 

 ……何をやってるんだよ親友。

 わかってたけど、妹のことになると器量が小さいなアイツ。

 だいたい、監視役の部屋で監視してるとは……きっと監視役の娘は苦笑いに違いない。古城と二人っきりだというのにあまりうらやましくない状況である。

 

「古城はわかってないんじゃないかな。空間制御というのは本当に高度な術で、そんなことに使えるほど安いものじゃ」

「―――お邪魔します凪沙ちゃん。南宮先生からムツミちゃんに……あ、あなたは仙都木優麻さんでした?」

「ないんだよ。普通はね」

 

 ベランダから、突然現れた、お人形を抱きかかえた銀髪の少女叶瀬夏音。

 見れば、そのやってきたベランダには空間転移の『門』が造られている。おそらく、彼が住んでいた西地区の高級マンションの部屋と繋がっているのだろう。

 

(あの人は、もうなんだろうか? ダメだ、ボクには読めない)

 

 あの主従関係を見て、どれほど彼を大事に思っているかを知っているつもりだ。無断でその細胞を使われて、さらにその子供を押し付けられた。きっと怒るだろうなと思っていたけど……

 もう一度赤子が眠るベットを見れば、あの人のセンスっぽいゴスロリチックなベビー服や人形があるのだが、それほど怒っているのか?

 とにもかくにも、

 

「古城の奴は、本当にどうにかしないとな……」

 

 今の彼はこの『暁の帝国』の王である。たとえ表向きに存在が公表されず、裏でも采配を振るっているのが別の人間なのだとしても、その気になれば真祖としての実権を握れるだけの実力があるのだ。彼の意向次第では、この仲が引き裂かれることも可能だろう。

 

(まあ、でも、古城がそれをするはずがない。それにきっと……)

 

「うーん、そうしたいのはやまやまなんだけど、ずっと避けられてるんだよね。……そんなに古城君、クロウ君のこと嫌いだったのかな……?」

 

「いや、それは違うよ凪沙ちゃん。そうでなきゃ、古城は大事な妹を置いて部屋を出たりはしない」

 

「はい、私もそう思います。お兄さんは駄々をこねてるだけだと、院長様も仰っていました。それから―――」

 

 夏音が言う。

 『暁の王国』と結びつきの強い北欧アルディギアの第一王女ラ=フォリア=リハヴァインが、解決するための舞台を準備していると。

 

 

道中

 

 

「う~ん」

 

 凪沙から頼まれた買い物を済ませた帰り道。首を捻ってうんうん唸るクロウ。

 赤子の世話とか、凪沙との関係とか色々と悩みの種はあるも、話を付けなければならない先輩、古城と会うことができないでいる。

 部屋を出て行ったが、隣の雪菜の部屋にいる。だから、会いに行こうと思えば会えるはずなのだが、逃げられる。それも吸血鬼の霧化を使ってまで、しつこく追いかければ眷獣が邪魔をしてくる。なのに、隣の部屋にいる。そこを雪菜が引き留めてくれればいいのだが、何分、彼女は古城に甘いので、本気で逃げようとすればそれは止めないのだろう。また、浅葱が電子セキュリティを敷いているためこっそり近づくこともままならない。クロウとしても“匂い”を覚えているのでどこに隠れようとも延々と追い続けることはできるのだが……そこまで本気でやられると追いかけづらい。

 

『馬鹿犬が、自分で撒いた種だと認めたんだ。むざむざと帰ってくれば、去勢してやる』

 

 と言われてるため、主に助言を求めることはできない。

 ニーナにも相談したが『時間を与えてやれ。お主と会ったら、認めざるをえないからな』と言われ、中等部の時の担任であり師である笹崎岬に相談したらからからと笑われて、『ここ最近ご主人(センパイ)から深酒飲みに付き合わされて困ってたり』と愚痴られた。他にもいろいろと大人の知り合いに相談したが、解決策を教えてくれるような“相談役(セコンド)”は誰もおらず―――

 

 

「人の考えに染まり過ぎて、(ワレラ)のやり方を忘れたか南宮クロウよ」

 

 

 渋い声に振り向き、クロウは目を大きくして見張る。

 

「お前は……」

 

 初老でありながらも、古兵(ツワモノ)と呼ぶにふさわしい壮漢。

 以前よりも老けてるようで、髪と長い顎鬚は黒から灰色となっており、けれど、その体つきは逞しく、(ひぐま)のごとき印象が強い。クロウより頭ひとつ高い体に、これでもかと筋肉を詰め込んだようだ。黒の軍服を纏った姿は老紳士然としているが、圧倒的な覇気は隠せていない。

 

「何を悩むことがあるか。力で奪えばいい。真祖より、その大事な妹を花嫁にな」

 

 クリストフ=ガルドシュ。

 あの<蛇遣い>ディミトリエ=ヴァトラーと対等な相手として交渉し、黒死皇派を率いた獣人。ヴァトラーがいなくなったが、昨年に捕まっていたはずの益荒男が大きく口角を吊り上げた笑みを見せつけながら、クロウに言った。

 

 

「<黒死皇>としてではない、獣王であったころの盟友が果たしたかった夢―――そう、お前が真祖を倒すのだ」

 

 

 

つづく



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暁の帝国

???

 

 

 『真祖と獣王の大戦』

 映像記録などがなぜか残されていないが、『暁の王国』が始まって以来の激しい“決闘(ケンカ)”であったという。そこで“愛の力”で、真祖を斃し、花嫁を得たのが、この『暁の王国』の最高戦力のひとつにして、大罪を狩る世界最強の獣王である。領主であり自由に動けない真祖に代わり、獣王は対外へ出張派遣されることが多い懐刀。

 して、その獣王を超えることを目標にするとある少年は、ある日、稽古をつけてくれた獣王の相方である女性より、ひとつ弟子卒業試験を言い渡された。

 

 

『ちょっと、獣王(クロウ)と“戦闘(ケンカ)”をしてらっしゃい』

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 それは丹沢の山奥にある小さな神社、その近くの森で迷子になった時にオオカミを見た孫娘に、父方の祖母がしてくれたお話。

 

『森でオオカミを見た? そりゃあ後で握り飯をお供えしとかないとねぇ』

 

 オオカミを漢字で書くと、『獣編に良い』――『狼』。つまり、『良い獣』を意味するのだ。

 かつては『大神(おおかみ)』と書かれ、これは文字通り『大いなる神』という意味であり、オオカミは神様の眷属と見なされていたりもした。

 当然、信仰する人々もおり、彼らは皆口を揃えて『オオカミは人を襲わない』という。オオカミは“温和”な動物であり、むしろ田畑を荒らし回るシカやイノシシを取り締まってくれる頼もしい警備隊のような存在だといわれ、あるところでは、人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと崇拝されている。

 オオカミが人を襲った実例がないわけではないが、それは人間が一線を踏み越えた時。侵すべからずの境界を仕切るものとして、オオカミは人間だろうと容赦することはない。逆に言えば、領分を弁えている限り、オオカミは人を襲うことはほとんどないと言える。『送り狼』というものも、森で道を外れた迷った人が、キツネやタヌキに化かされないよう、災難にあわないよう家まで道案内をしてくれる、からなる言葉だ。故に、たとえ人を襲うことがあっても、古来の日本人は一貫して、オオカミを邪視したことはなかった。

 しかしながら、現代の人々は、『オオカミは人を襲うもの』と常識的に思っている。

 これは、海外――西洋の文化が侵透した結果であり、古くを知るものには聖獣と崇拝されていたオオカミも、外国の異人より持ち込まれた常識から害獣として扱われ、懸賞金までかけられた。そうして、駆除されていき……日本からオオカミが絶滅した、と。

 

『凪沙。あんたは人よりもよくものが視える子だ。けどね、その印象だけですべてを判断しちゃいけないよ。それが恐ろしいものに見えても、ひょっとしたら、凪沙を守ってくれるものかもしれない』

 

 

 

 PiPiPi―――PiPiPi―――

 

 深い過去の記録を夢見るまで深く潜っていた意識が浮上する。

 整理整頓が行き届いた個室、その壁際に置かれたベットの上で、寝乱れたへそ出しパジャマ姿の暁凪沙が、こすっていた目を開くと、アラームを鳴らしている壁掛けのデジタル時計を見上げ―――カッと覚醒する。

 

「っと、起きなきゃ!」

 

 今日から早めに変更した目覚まし時刻。

 時間は、学校を行くにしてもまだ早い。兄を起こして、朝食の支度をするにしても、十分余裕がある。ただ、おめかしに気を付けたり、そこから“西地区から通う少年”の登校ルートに合わせるよう“寄り道”するにはちょっと余裕がなかったりする。

 

「好きになったんだから―――今度は、好きになってもらう。うん! 今日も頑張るよ凪沙!」

 

 

道中

 

 

 11月も半ばのある日―――

 暦の上では晩秋に近づくでも、亜熱帯に位置する絃神島は今日も強い日差しが降り注ぐ。

 そんな中で、厚着を好む者はそう目立つであろう。それが美人であるならなおさら。

 

「おはよう。さあ、一緒に学び舎に通いましょう」

 

 同じ部屋に住む夏音は修道院跡地で子猫たちの様子を見に行き、学園の事務員であるアスタルテも主の那月と一緒に空間転移で跳んでいった。

 つまりは登校しているのはクロウひとりのはずで、しかしながらここ最近、同行人がひとりついている。

 

「お前、一緒の学校じゃないから校門前でいつも引き返すのに、なんでいつも一緒に通おうとするのだ?」

 

「それはあなたの監視役だからよ。と言っても、今日から別のお仕事で忙しくなると思うから、しばらくは監視ができなくなるのだけど」

 

 さらりとすまし顔でいうのは、クロウよりも年上の女子高生。腰近くまである真っ直ぐな髪は、漆黒。クロウの通う彩海学園のものとは違う黒の制服を着て、スカートから覗く足は、これも黒のストッキングに包まれている。喪服でもないのに、イメージカラーがここまで黒一色なのは、絃神島でなくても珍しいだろう。

 そして、その世に拗ねてるような細く鋭い目つきに、虹彩までも黒く見える瞳が冴え冴えとした光を放っている。道行く人々に注目を浴びつつも興味がなく見向きもせず、クロウから視線を外すことなく、こちらの一挙一動を洩らさず観察する眼は、まさしく狩人のものと言える。

 黒の剣巫、とも呼ばれる六刃の妃崎霧葉。日本政府より送られた南宮クロウの監視役。

 

「姫柊にも思ったけど、監視役って大変なんだな。四六時中張り付いて大変じゃないのかー?」

 

「仕事ですもの。まあ、あなたの住む最上階のフロアには、<空隙の魔女>の仕掛けた結界があるし、アルディギアの護衛役も目を光らせているから監視できないのだけど。ホント、どうしたら破れるものかしらねぇ」

 

「む。それをやるから、最近のご主人は機嫌が悪いのだ。“鴉”が突っついてくるからいちいち張り直さないといけない。ああ、面倒だ、って文句言ってたのだ」

 

「あらそう? じゃあこちらもあなたの難解な過保護には手を焼かされています、と伝えてもらえるかしら」

 

「とばっちりで俺のご飯おかわり禁止になるぞそれ」

 

「なら、あなたが一階下に下りてらっしゃい。隣部屋なら私が食事の面倒を見てあげてもよくてよ」

 

「お断りするのだ。なんか、迂闊に近寄ると罠とかありそうで怖い。この前のお裾分けもオレのには変なの入ってたし」

 

「ええ、ちょっとした探査呪術の触媒に私の髪を食玩に入れたものだけど気づかれてたようね。剣巫も第四真祖に活用したと聞いたから試してみたのよ」

 

「う。監視役ってやっぱなんか変だと思うぞオレ」

 

「今度はもっと気づかれないようにうまくするわね」

 

「妃崎からの貰い物は遠慮することにするのだ」

 

 見られて悦ぶような性癖ではないが、特に見られて困るようなことはしないから気にしないクロウは、さほど霧葉の監視も苦には思わない。

 だが、周りはそうはいかないようで、主の那月がここのところ機嫌が低飛空であるし、後輩のアスタルテもなんか冷たい。付き纏われているのを見ても優しくしてくれる同居人は夏音にニーナ、カタヤである。

 そして、今日。

 仲良く会話して(るように傍から見える)登校中に出くわしてしまった少女がいた。

 

「―――おっはよう! ク、ロウ君……」

 

 こちらの姿を遠くから見てすぐ声を掛けようとしてくれた女子生徒。クロウも振り向けば、そこには登校ルート上出会わないはずの同級生暁凪沙がいた。最初のハイテンションから急落下した声音に、クロウは訝しみつつも挨拶を返す。

 

「ん。おはようだぞ凪沙ちゃん」

 

「え、っと……」

 

 凪沙が初めて見る、そしてクロウの隣にいる少女――妃崎霧葉。

 どこか、クラスメイトの親友の姫柊雪菜と似たような雰囲気を感じる。目つきは怖いけど、容姿は整っており、凪沙にはない、お姉さんな魅力のある人。

 だが、そこで怯まない。

 前回に、『アスタルテ(きらさかさやか)』との遭遇では思わず逃げてしまったけど、自覚した今は違う。

 ふんす、と内心で気合を入れる乙女。

 そんな凪沙の心情を、視線から察した霧葉は涼しげな微笑をしながら、

 

「この子は誰かしら? クロウ」

 

(うわ、呼び捨て!)

 

 (当然、『暁凪沙』について事前の身辺調査で知りながらあえて)問いかけにさりげない親密アピールで牽制される。

 

「オレのクラスメイトだぞ」

(確かにそうだけど他にもっと言い方が……)

 

 理不尽であるも恨みがましいジト目をぶつけてしまうも、少年の頭上に『?』が浮かぶだけで効果なし。

 

「もしかして、ガールフレンド、なのかしら?」

 

(な、な、な、何を言うのかな!?)

 

「そうだぞ」

(えっ―――)

 

「……へぇ、そうなの」

 

「だって、ガールフレンド、って女友達と言う意味なんだろ?」

(やっぱりそうだと思ったよ! でも、わかっててもこのお約束の問答がムカつくよ!)

 

「凪沙ちゃんなんで怒ってるのだ? オレ、間違ったこと言ったか?」

(この鈍感さにも腹立つよ! もうクロウ君のバカ! 古城君! 朴念仁!)

 

 拗ねたり、驚いたり、怒ったり、ところころ変わる凪沙。それをくすくすと笑う霧葉。それに気づいた凪沙は、笑う彼女に向けて、キッと強めに目力を入れて睨む。

 

「それで! この人は誰なのかなクロウ君!」

 

 言いながらも、凪沙の視線はクロウではなく霧葉。

 そして、そんな拙いけれど、好戦的な眼差しを受けた霧葉は、その白い美貌に冷気を放つような笑みを浮かばせ、言う。

 

「私は、妃崎霧葉」

 

 がしっと隣にいるクロウの腕を自分の腕と絡める。

 

 

「彼との関係は、端的に言うと、私が告白して、彼にフられたってとこかしら」

 

 

 凪沙の顔が茫然としたかと思うと、何も言わずに反転して、そのまま背を向けて走り去ってしまう。

 

「あ、凪沙ちゃん―――」

「では、ごきげんよう。“お友達”によろしくね」

 

 言って、霧葉も立ち去った。

 ひとり残されたクロウは、すぐ凪沙を追いかけようと走り出す。

 病院から退院したとはいえ、凪沙の運動能力はそこまで高くはない。だから、追いかければすぐに捕まえられるはずだった。

 邪魔さえ入らなければ―――

 

 

「この浮気者! 母ちゃんになんてことするんだ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「しかも、先生にまで手を出してたなんて、成敗してやる!」

 

 

 凪沙を追いかけようとしたクロウの前に立ちはだかったのは、奇妙な格好をした同い年くらいの少年であった。ぶかぶかな帽子を被り、マフラーを巻いて、そして、蒼銀のコート――クロウと同じ、北欧アルディギア王国の魔具<タルンカッペ>を着ている。

 そして、音叉のように二叉にわかれた、鉛色の双叉槍(スピアフォーク)の刃先をこちらに向けて、剥き出しの敵意をぶつけてくる。

 

「なあ、お前、一体なんなんだ? 言ってることがよくわからないぞ」

 

「問答無用―――<霧豹双月>!」

 

 突き出した双叉槍の2本の刃が、互いに共鳴して、破壊的な音波を撒き散らす。魔力を増幅する槍が使い手の呪力を増幅し、強力な攻撃呪砲として撃ち出してきた。

 だが、それをクロウは生体障壁を纏わせた拳で振り払って、あっさりと弾く。

 

「むむ。やるな。でも、『乙型呪装二叉槍(リチエルカーシ)(プラス)』はすっごいんだぞ! 太史局の秘伝の技術力で、オレ専用に造り出されたスーパー調伏兵器だっ!」

 

「ほー、そうなのか」

「ああ、そうなんだ。この双叉槍(スピアフォーク)を使いこなせば、人間には使えない特殊能力や、膨大な魔力を操れるようになる、って先生が言ってたんだぞ。すごいだろ!」

 

「でも、お前はそれを使いこなせてるのか?」

「うぐ。でもな、これは、魔力を模造(コピー)する武器で、さらに機能を一つ追加した、その改造版なんだ! 扱うのがちょっとばっかオレの手にも余るけど、獣王が相手だって勝算はあるぞ! 何せ、王様―――じゃなくて、おじさんが力を貸してくれたからな!」

 

「なんかよくわからんけど、オレ、お前と戦う理由があるのか?」

「ある! アンタになくてもオレにはあるんだ!」

 

 納得はいっていないが、この口数の多くて、戦闘前にネタバレするような少年と戦うのは避けられないらしい。

 クロウとしても、早く邪魔ものは片づけたいところで、“壊毒”、をいくらか薄めた黒霞の獣気を右手に纏わす毒手。それを生体障壁の応用で変形させて、爪状に伸ばして、少年に向けて振り抜いた。

 そこへ、向こうも同時に双叉槍を突き出してぶつけてきた。

 

「『八番目』!」

 

 それは毒を操り、抗毒血清を造り出す人食い虎(マンティコア)の力。クロウの毒爪が解毒されて、そして、その二又の刃に手首を挟み捉えられる。

 

「『五番目』!」

 

「がっ!?」

 

 それは雷撃を操る獅子の力。捕まえた腕よりスタンガンのようにクロウの全身より高電流が走り抜けた。

 それで麻痺して怯んだところへ、逆側の槍先による薙ぎ払いの一撃を叩き込んでくる。それに合わせて生体障壁を纏わせた腕を盾にするが、

 

「『九番目』!」

 

 それは衝撃波を操る双角獣(バイコーン)の力。衝突と同時に発した超振動が、浸透勁の如く守りを貫通して、臓腑を揺らす。

 たまらず、後ずさりながら牽制で霊弓術の手裏剣を投げ放つクロウだが、

 

「くっ、この」

 

「『一番目』!」

 

 それは攻撃を反射する大角羊の力。バトリングのように双叉槍を旋回させた少年の周囲に金剛石(ダイヤモンド)の障壁が現れ、投擲された手裏剣をクロウの方へと撥ね返した。

 それを弾いて逸らすクロウだが、そこで足を止めてしまい―――相手は双叉槍を地面に突き刺した。

 

「『二番目』!」

 

 それは大地を操る牛頭神(ミノタウロス)の力。溶岩が噴き出す灼熱の杭が、クロウの足元より突き出て、それを間一髪に跳んで回避する。

 

「『七番目』!」

 

 それは重力を操る三鈷剣の力。自身の周囲の重力を操作して、体重がほぼ無重(ゼロ)の状態より跳躍する。

 本来ならば、初速を高めるためには大きなエネルギーを要する。豆鉄砲と拳銃では、弾を撃ちだすのに必要な力が違うように。

 だがもしも重力を操れるのならば、豆鉄砲を撃ち出す力で、大砲の威力を得ることができるだろう。走り出しの加速が“人間の脚力頼み”でも、体重がゼロならばその速度は計り知れない。そして、十分な初速を得た後に、今度は重量を増加させれば、それは瞬間移動じみた動きで相手の上を取り―――未来を読む“霊視”で先読みして、空を蹴る二段ジャンプでさらにその上を取るクロウ。

 

「ぬなっ!?」

「<若雷(ワカ)>」

 

 電撃迸るそのイナズマチョップで、相手を地面に叩きつけるクロウ。

 瞬間移動―――だが、そんなのはクロウには慣れたものだ。重力制御の援助がなくとも、獣化さえすれば己の筋力だけの一足飛びで十分に可能な範囲である。特に驚くことでもない。

 だが、帽子の上からでもわかるくらいの大きなたんこぶを作った相手はそうはいかないようで、こちらを涙目で睨みながら、ぐぬぬと歯軋りしている。

 

「や、やるな! だが今のはまだまだほんの小手調べ、こっから本気を出すぞ!」

 

「……なあ、オレもう行っていいか?」

「だめだよ! とう――獣王! こっからなんだから! 修行の成果はこっから!」

 

 なんだかここで躱してもしつこく喰いついてきそうなので、渋々と付き合うことにしたクロウ。そして、相手は演舞のように、その双叉槍を旋回させながら軽やかに舞踏(ステップ)を踏み始める。

 

「我が影は、霧にして霧に非ず、刃にして刃に非ず」

 

 全身が、周囲の景色に溶け込むように消えていく。

 幻術の応用で空気の屈折率を操り、自身の肉体を透明にする。同時に隠形の呪術を発動し、自らの気配も遮断する。

 

「斬れば夢幻の如く、啼哭は災禍を奏でん―――」

 

 詠唱が終わるときには、すでにその姿は完全に消えていた。

 それは巫女の霊視をもってしても存在を感知できないほどの完成度を誇る呪術迷彩。これは親戚の少女にも察知できなかった自信のある術なのだ。

 足音はなく、回り込むようにして近づくが、クロウは依然と先ほどまでこちらがいたあたりを眺めている。そっと双叉槍の刃を横にして構え、肉食動物が獲物に忍び寄るが如き微音で彼の左手側から寄せ、必殺の速度で横薙ぎする。

 幾度となく魔獣相手にこなしてきた暗殺技の中でも会心の一撃である。これには先生も納得の合格印を押してくれることだろう。

 そして、相手の頭にがっつんとぶっ叩く―――そんなイメージを裏切ったのは、そちらを見もせずに跳ね上がった彼の左手であった。

 

「なんで……ッ!」

 

「いや、前に妃崎にも似たようなことされたけど、普通に“匂い”でわかったぞ」

 

 ショックで棒立ちとなってる相手をクロウが見逃すわけがなく、その襟首を掴んで、彼を持ち上げると大きく振りかぶり―――円盤投げのように一回転したサイドスローでブン投げた。

 

「ぎにゃああああああ―――!!!」

 

 悲鳴を上げて飛翔する少年。そのまま街路樹にぶつかってから、ぷぎゃと路面に顔面から落ちる。

 その際、ぶかぶかな帽子が脱げて、その顔が露わとなった。黒目黒髪。童顔で目がくりくりとしてて丸く、そして短めの髪を無理にまとめてみせたようなちっちゃなちょんまげ、サムライポニーテイルである。

 

「なにするんだッ! いつもいつもオレのことブン投げて! 『悪い事したらダメだって痛みで覚えさせるのだ』とかいって、やりすぎじゃないのか!?」

 

「こっそりオレのことをぶっ叩こうとしたお前の言えることじゃないと思うぞ?」

「もう怒ったぞっ! 全力でやってやる!」

 

 所有者の猛りに呼応して、双叉槍の刃の輝きが増して―――

 

「『二番目』+『五番目』!」

 

「ッッッ!!!!!!」

 

 ドッッッカァァァンッッ!!! と天地が、炸裂した。それを見たクロウは思考が一瞬止まった。

 まるで“稲妻のような電光の勢いで”、“灼熱の溶岩は降ってきた”。狙いが甘く、外れたが、もしも当たっていれば危なかっただろう。

 

「『八番目』+『九番目』!」

 

 それから、相手の生命力を吸収(ドレイン)する毒を付与した竜巻に巻き込まれ、

 

「『一番目』+『七番目』!」

 

 終いに、反射する重力場。天高くに飛ばされた歪んだ無重力空間に囚われる。

 

模造(コピー)合成(ミックス)―――これが『乙型呪装双叉槍・改』の本領発揮なんだ!」

 

 ふふん、と自慢げに胸を張る少年。

 しかし、その金剛石の無重結界が内側からの獣気解放に圧し上げられ、生じた隙間より脱出し、獣化をした銀人狼となったクロウが降り立つ。

 

「ちょっと危なかったのだ。もっと制御できてたらやられてたぞ」

「あー! ずっこいぞ! こっちが使ってないのに、獣化(それ)やるなんて反則だ! 母ちゃんに言いつけるぞ!」

 

「知らん。それなら武器持ってる方が卑怯なのだ」

「仕方ないだろ! オレ、何でもわかっちまう姉ちゃんみたいな超過適応者(ウルトラハイパーアダプター)じゃないんだから!」

 

「とにかく、暴れ過ぎだお前、とっ捕まえてご主人に引き渡すことにするのだ」

「ぬなっ!? そんなの絶対嫌だぞ! こうなったら、先生から頂いた『乙型呪装双叉槍・改』で―――あ、もうおじさんからもらったストックが切れちゃってる……」

 

 少年は槍を折り畳んで、背中にあった収納ケースに仕舞うと、マフラーを取り外し―――露わとなった首元には『首輪』。

 

「全力で行くからな! 覚悟しろよ! 死んだらダメだからな!」

 

「さっきのが全力じゃなかったのか?」

「もう! 細かいところ揚げ足を取るなよもう! 全力の全力だ! わかれよ父ちゃん!」

 

 『首輪』を外そうと手に掛けた―――その腕に銀の鎖が巻き付く。

 

「む」

 

 クロウが反応する。

 それは、神々が打ち鍛えた封鎖――主の南宮那月の用いる<戒めの鎖(レーシング)>。しかし、それを使っている人物は違った。

 

「あ、ムツミ姉ちゃん」

 

 そこにいたのは、少年と同じ黒色で膝あたりまで伸ばした長髪で、そして瞳は金色の少女。しかし、頭に犬耳を生やして、ふさふさな尻尾を揺らす、獣人種の血が混じっている。そして、その身は小柄なようだが、おそらくクロウよりも年上で、しかし二十歳にはいっていないだろう。18か19ほど。

 で、着ているモノは、フリルのついた着物というのか、どことなく主人が好むゴスロリチックで、巫女と魔女の合作とも言われれば納得してしまう、そんな服装。

 

 そして、その背後には、清浄な白銀の鎧に身を包んだ乙女型騎士――<守護者>が少年を束縛した<戒めの鎖>を引いている。

 

「トウシロウ。父祖たる獣王に魂の礼賛を交わすのはいいが、我らは客人(マレビト)、悪戯に過去を騒がすのではない」

 

「ムツミ姉ちゃん、いっつも難しい言い回しでオレでもよくわからないときがあるぞ」

 

「ふっ、解らぬは汝がまだまだ未熟だから仕方あるまい。内なる獣も御し得ぬ故に我が汝を縛るのだ。これも汝の姉としての役目。トウシロウよ、我の掌と契約の軛をとれ」

 

「つまり、手を繋ごうってことだな」

 

 少年を宥めすかして彼女は縛る鎖を緩め、それからクロウと金色の瞳を通わせる。

 

「獣王よ、我らの母へトウシロウに叱責を与えるよう進言しよう。それで手を引いてはくれぬか。我が師にして偉大なる空隙の魔女に時間(クロノス)に逆らったことを知られると未来が書き換わってしまうかもしれぬのでな。それに、こ奴は父祖に構われず寂しい想いをしておったのだ」

 

「ぬ、うん……何か難しいこと言っててよくわからんけどわかったのだ。反省するんならいいぞ」

 

「そう言ってくれると思っておったぞ。感謝する―――しかし、父祖は鈍感すぎるのが欠点であるぞ。母――暁凪沙にはもう少し気遣ってやれ。今日は凍てつく醍醐の滴を馳走してやるとよい」

 

 そうして、一枚のチラシを差し出すと、白騎士がその剣で次元を切り裂いて創り上げた『門』へ少女は少年を連れて、空間転移で何処へと去っていた。

 クロウの『鼻』で追えぬほど遠くに。

 

 

彩海学園

 

 

 この日、彩海学園では奇妙なことがあったという。

 と言うよりは、奇妙な人物ともいうべきか。

 なんでも、この日、朝の登校中に『姫柊雪菜のドッペルゲンガー』が現れては、

 矢瀬基樹に『将来は肥満体になり毛髪が絶滅危機指定になる』というような不吉な予言をしたり、

 カリスマ教師こと南宮那月に『まるで変ってない』と挑発じみた禁句を口にしたり、

 藍羽浅葱のことを『博士(ドク)』と呼び、『今とは全然イメージが違う』と首を傾げたり、

 叶瀬夏音を見つけては飛びついて『夏音(カノ)ちゃんやっぱこの頃から綺麗だったんだ!』と鼻血を垂らしたり……

 と色んな意味で爆弾を放り投げたその『姫柊雪菜のドッペルゲンガー』はいずこへと去って、後から現れた本物の姫柊雪菜は偶々その場に居合わせた暁古城に訊かれたが何も知らないといい、『胸のサイズが違うから姫柊とは違うと気づけた』といった先輩を折檻したそうだが……

 

「………ふーん、だ。私はおばさんですよーだ」

 

 唇を尖らせる凪沙。

 どうやら彼女も『姫柊雪菜のドッペルゲンガー』に遭遇したようで、出会い頭に『おばさん』と言われたそうだ。

 

「そりゃあ、確かに凪沙はよく喋り過ぎて田舎のおばちゃんみたいって、たまーに言われるたりするけどさ……!」

 

「そうなのか?」

 

 じろり、と凪沙に睨まれる。『姫柊雪菜のドッペルゲンガー』についてお喋り好きな凪沙から愚痴と一緒に話されたクロウは、ここで同意すると不機嫌になるなと察して、

 

「ん。でも、オレ、全然おばちゃんには見えないのだ。う。ご主人みたいに子供だぞ」

 

「ふん! そうだよね! 凪沙はぜんっぜん大人っぽくないよねっ!」

 

 フォローしたつもりだが、鎮火するどころか炎上するという逆効果な結果。ついに、ふーんだ、とクロウはそっぽを向かれてしまう。

 

「クロウ君はこれだから33点なんだよ……凪沙だって最近頑張ってるんだよ色々……なのに……」

 

「なあ、なに怒ってるのだ?」

「怒ってないよ!」

 

「やっぱ怒ってるじゃないか」

「怒ってないったら怒ってないの!」

 

 凪沙はふんと鼻を鳴らし、机の上に突っ伏した。

 表情を隠すように顔を伏せられてしまい、クロウは困って眉をハの字にする。

 こんなとき、凪沙に詳しい兄である先輩がいればよかったけれど、今古城は監視役の雪菜に連れて行かれている。だから、どうやって機嫌取りすればいいのかと悩むクロウは、そこで朝に手に入れた一枚のチラシを思い出す。

 

「う。今日はるる屋の新作発売なのだ。苛々した時は甘いもの。放課後に食べに行かないか?」

 

 凪沙は答えない。

 

「お詫びに奢るぞ……?」

「別にクロウ君が悪い事してないし、詫びるなんてしなくていいよ」

 

「むぅ」

 

「……二人でデート、ってことならいいよ」

 

「ん。わかった、デートしよう」

 

「一応聞くけど、クロウ君、デートってどんなこと?」

 

「? 友達と一緒にお出かけして仲良しになることだ」

 

 凪沙はパッと顔をあげると、ふかーく溜息を吐いてから、

 

「やっぱりね。そうだと思った。

 でも、クロウ君が凪沙のために真剣に考えてくれてるのはわかったし。つまりクロウ君の中で私はそれだけの存在感があるってことだから、今日のところはそれで良しとする!」

 

 ややご不満気味であるも、機嫌が直ったようなのでクロウはほっと一安心。

 

「絶対に古城君には内緒だからね! 前みたいについてくるのは絶対になし! わかったクロウ君?」

 

「わかったぞ凪沙ちゃん」

 

 

 

つづく

 

 

 

控室

 

 

 本当に、良いのだろうか。

 

 彼と、彼と自分の子供との同居。最初は迷った。

 『クロウ君と新婚さんごっこと思って楽しんじゃいなさい』とその母がこっそりと耳打ちしたのは、魅力的な提案では、あった。ぐらりと崩れる心地で、『うん』と小さくも頷いてしまう。

 でも、彼と自分は“そういう関係ではない”。

 この一緒に過ごせた数日は楽しくて楽しくて―――そのことに気づかないようにしていたけれど、頭の底の方、冷たい部分は正しく理解している。

 

 ―――赤子(ムツミ)が一人でも平気になれば、一緒にいる理由がなくなる。

 ―――私との婚約も口約束で、本当に守る必要はない、おままごとのようなもの。

 ―――彼を縛り付けているのは責任であって、その責任も本来は彼が負うべきものではない。

 

 “決闘”までの時間が近づくにつれて悪くなっていく考えが頭の中で滞留し、淀み、溜まっていく。

 

 ―――なら、こんな戦争は“手遅れになる前に”止めなくっちゃいけないんじゃないの。

 

 急に、震える。昨年のことを思い出したせいか、全身の肌がぞくぞくした寒気に撫でられ、背が竦む。今日の占いでも『大切なものを失ってしまうかもしれません。積極的に動きましょう』とその不安をさらに煽らせる内容。

 どうしよう。

 どうしよう。どうしよう。

 ひとりでいるとどうしても、まとまらない考えでいっぱいになってしまう。

 “決闘”、だ。忘れたことはない。兄は、それで昨年に何度も何度も殺された。して、今日。その“決闘”に勝利した『世界最強の吸血鬼』として完成された兄――暁古城が、彼と殺し合いをすることになった。自分のせいで。いったい、何故凪沙にそこまでする価値があるというのだろうか?

 そうこう考えている―――いや、ただ悩んでいる―――内に、彼のいる控室まで来てしまった。本当なら“褒美”である凪沙が、“決闘”前に会うのはよくないとは思うけれど、そこは周りのみんなから後押しされた。付き合っているのなら、一言でも声援(エール)を送ってあげなさい、と。……本当は付き合っていないのに。

 ここに来るまで、いや赤子を預けられたその日から凪沙は必死に考えた。自分が彼と一緒にいてもいい理由は何だろう? それさえあれば、納得できる。考えて、思い返して、それでも結論が出なかった。

 

(……うん、やっぱり止めようこんなこと)

 

 凪沙がそっと控室の戸を開けると、そこには目を瞑り、ひとり精神統一をしている彼がいた。真剣、だ。彼は本気で兄と戦闘する気だ。“決闘”を止めるつもりで来たけれども、これの邪魔をできない。それとも、まだ、迷う気持ちが燻っているのか。結局、彼が目を開くまでは凪沙は戸の前で立ち続けた。

 

「………やっぱり、倒すにはこれしかない」

 

 仮想相手との勝ち筋をイメージし終えた彼が、ゆっくりと深く息を吐く。その目には、凪沙と違って、迷いに曇ってはいない。

 

「どうした凪沙ちゃん?」

 

 声を掛けられる。心配そうに見つめられる。内心の不安に気づいてもらえて、舞い上がる自分もいるけれど、それも自制して静める。

 さあ、言うんだ。

 こんな“決闘”は止めにしよう。婚約も白紙にして、赤子のことも古城君も交えてもう一度話し合おう。

 と、口を開こうにも、言葉にならない。

 何でよ……

 後悔と自己嫌悪と、今更の恐怖が胸に籠ってこんなにも息が苦しいのに。吐き出せない。

 誰にも、渡したくない―――自分のところに繋ぎ止めておきたい―――そんな今かき抱いている想いを、ひとつも自分の裡から洩らせぬように、凪沙は呼吸を止めている。そんなことを今になって、彼を前にして、ようやく自覚して、そしてこのままだと破裂してしまいそうなものを吐き出せる場所を求めてる。だから、ここにいる。そう、吐き出してしまいたいのは、彼の中―――

 

 思いに至った時には既に、彼の胸元に飛び込んでいた。

 きっと向こうも予想外だったのだろう。しっかりと受け止められたけど、勢いに背を反らすよう上体をよろめかせて、そこで指が彼の頬に触れた。求めていた温かみがあった。

 

「クロウ君! クロウ君!」

 

 感極まった少女が、少年の首に力いっぱいしがみついた。

 その反射的にか、凪沙の身体に腕が回される。それに反応した凪沙が、彼の首に絡んだ腕を引き寄せる。少しだけ開いた、薄桃色の唇。怖がるように目を閉じると、そこで止まる。待つように。でも待ちきれず、成長して背が伸びた彼の口元まで、爪先を立てて、唇が合わせられる。

 

「―――――」

 

 こんな稚拙なことで彼を引き留めようとしたことが恥ずかしくて。けれど、それを拒まずに受け止めてくれたのが嬉しくて。止められなかった。

 ずっと抑えていたこの胸にたまった想いを吐き出さす激しい口づけ。どうしていいかもわからないように、目を閉じた少女はその柔らかい唇を押しつける。

 唇の薄い肌越しに、熱を送り伝えよう。鼓動の強さが、そこに自分がいると彼の胸に刻みつけるよう。この胸いっぱいの想いを、彼の胸にいっぱいに詰め込んでやろう。

 そうして、ようやく、凪沙は息継ぎができた。

 けれど。

 泣き始めた。

 最初はしゃっくりをしたかのような小さなものが()()と繋がって、連なって、そうして嗚咽になって流れ出した。

 

「わ、わたし……私、こんなことして、最低だよ……」

 

 目を開けても彼の顔を見るのが怖くて俯いたまま、凪沙は両手で自分の顔を覆っていて、零れ落ちる言葉はくぐもって聞こえてくる。

 

「そうか……そうだな。言わないから伝わらないんだろうな。オレだって言ってくれないと本当のところがわからないのに」

 

 でも、あんまり口で説明するのが上手くないから、と。凪沙を捕まえ、その手で覆う、涙塗れな顔を覗いて―――そっと唇を落とした。

 

「ん。本当は勝ってからしようと思ったけど、思わず前借しちゃったのだ。最低だなオレ」

 

 軽めの接触で、でも少女の震えを確かに止める。

 

「ううん。嬉しい、嬉しいよクロウ君」

 

「そっか。こういうの初めてだけど、オレもだ。これでますます負けられなくなったぞ」

 

 彼女が潤む視界でも、確かなほど、少年はにんまりと笑う。

 実際、その瞳からは充実した輝きが漲っていた。

 

 

「じゃあ、ちょっと“ケンカ”してくる」

 

 

巌流島

 

 

 島から離れたところに造られた、特設人工島。

 周囲に被害が出ることが確定した両者の“決闘”のために、わざわざ“壊れることを前提に”海洋上に建設されたもの。かつて日本国の剣豪同士が最強の称号を賭けて争った島にちなんで、『巌流島』と日本文化に詳しい北欧の第一王女が命名した。

 観客は皆、特設人工島『巌流島』を数km離れて囲うように並んでいる大型豪華客船におり、島につけられている船は、今はひとつ。そして、向こうからまたひとつ流れ着こうとしている。

 

(まさか、今年も“決闘”なんて時代錯誤なことをするとはな)

 

 あの戦闘狂な<蛇遣い>がいなくなり、平和に過ごせるとは思ったがそうはいかないらしい。身内にも、退屈を厭う馬鹿騒ぎを所望する王女様がいたようだ。

 

「あそこにあるのはアルディギアの船だろ? それに向こうには五帝王朝やアメリカ連合国まで揃ってんな。それに『滅びの王朝』の王子様に『戦王領域』の議長様、おいおい『混沌海域』からは第三真祖まで来てんぞ。世界中から注目されてる一戦だなこれ」

 

 双眼鏡を覗きながら横で声を上げるのは、だらしなくシャツを着崩した長身の中年男性。年齢の割には姿勢が良く、筋肉の付き方にも無駄がない。しかしながら彼の顎にはうっすらと無精ひげで覆われて、全体的に気怠い雰囲気を漂わせている威圧感とは無縁の男。

 

「ちなみに勝敗のオッズは、今のところ9対1でお前の圧倒的優勢だぞ古城。どうやらこりゃ試合っつうより、王様の権威を示すための獅子狩りと思われてるっぽいな」

 

 王者はその力を民衆に示すために闘技場で獅子を斃す、というデモンストレーションを行うこともあるという。

 まだ『夜の帝国(ドミニオン)』として独立してから一年目の『暁の帝国』、

 暁古城が四番目の真祖として聖域条約機構を統括する最高理事会<囁きの庭園>の13番目の席に認められてから、まだ一年。

 ここで新参者が力を示し、<第四真祖>の雷名を世に知らしめておくのは、政治的にも意味がある―――そう、事情を知らない他国のものには思われている。いわば、これは出来レースの見世物であると。

 実際、豪華客船の船体に飾られている横断幕には、『世界最強の吸血鬼 暁古城』やら『第四真祖の討伐ショー』やらこちらを讃える文句ばかりで、あの後輩のものは無い。

 古城も一介の高校生からの成り上がりであるが、あの後輩は名を知られていても『魔女の使い魔(サーヴァント)』では、格が違う―――と見下されている。

 そう思うとつい、古城の目に静かな怒りが宿る。そんな苛立つ古城をからかうように横の男は口を開く。

 

「さっきから何不景気な顔してるんだ。一応、世界最強の吸血鬼なんだろ小僧。もっと王様らしく振舞ったらどうだ」

 

「うっせぇなクソ親父。テメェは何でここにいんだよ」

 

「あのなあ。息子の立会人(セコンド)として、わざわざ来てやったんだろ。一言くらい、感謝の言葉もねーのか」

 

「授業参観にも来ないやつが良く言う」

 

 中折れ帽の男、暁家の大黒柱であり、古城と凪沙の父でもある牙城が、この“決闘”における古城のセコンド。流石に背中から撃ってくるような相手ではないと思うが、できればこの役は他の誰かにお願いしたかった。そう、できれば……

 

「それを言うなら、息子よ、伴侶(ヨメ)の全員から総スカンくらうとは、ひょっとして人望ないのか?」

 

「仕方ねェだろ。皆イヤだっつうんだから……」

 

 事情を知っていて信頼できる相手には全員話を通した。

 けれど、

 

『流石にそんな戦争(ケンカ)にまで付き合い切れません先輩』

 

 と剣巫。

 

『やめてシスコン。ようやくアイドル騒ぎも静まってきたのに、こんなことでまた悪目立ちしたくないわよ』

 

 と電子の女帝。

 

『いい加減妹離れしなさいよ古城』

 

 と舞威姫。

 

『悪いけど、この件に関しては、ボクは彼ら側につかせてもらうよ古城』

 

 と蒼の魔女。

 

『ごめんなさい。やっぱり、私はお兄さんにも二人のこと認めてほしいのでした』

 

 と聖女。

 

『わたくしとしましても、有力な婿殿として婚姻関係で結びつきを強めるのはよい手だと思いますし。ああ、それから、父より『ざまあ』だそうです古城』

 

 と姫御子。

 

 一応、率先して立候補してくれた世界最強の夢魔『夜の魔女(リリス)』もいたが、妹よりも年下の娘に頼めるわけがない。

 他にも古の大錬金術師や宮廷魔導技師や獅子王機関の師家や色々と頼みに行ったが、断られ、担任の空隙の魔女は、後輩のご主人様であって、そして前回に引き続き“決闘”の審判を務めている。『戦王領域』の議長やら『滅びの王朝』の王子もいるが、他国の重鎮である彼らを私事に巻き込めるわけがない。

 で困ったところで、母の深森から父が来訪する報せが入った。

 

「ま、前々から深森さんから話は聞いてたし、孫の顔が見たいとは思ってた。それも女の子―――でも、これは大事な愛娘を賭けての“決闘”だ。古城(バカ)よりも、むしろ父親である俺が出たいところだがよ。勝負を預けてやったんだ。

 ―――だから、絶対に腑抜けた真似はするんじゃねぇ。さもなくば背中を撃ってやるぞクソ息子」

 

「発破をかけるのに息子を平気で撃つとか宣言するのは、世界のどこを探してもテメェくらいなもんだよクソ親父。

 ―――それに、クロウとの“決闘”に端から手を抜くつもりはねェぞ。ぶっちゃけ、想定はアラダールとやり合った時以上だ」

 

 昨年の決闘相手、

 900年以上の戦闘経験を誇る化け物の中の化け物――第一真祖<忘却の戦王(ロストウォーロード)>に次ぐ『戦王領域』で第二位の実力者である帝国議会議長ヴェレシュ=アラダールとの戦い。それは、最後の最後まで一方的な展開に追い詰められた古城が“<第四真祖>として”覚醒を果たさなければ、倒せぬ強敵であった。

 あれほどの相手はそうはいないだろう。

 それを上回る相手だという息子に、牙城は目を細めて、

 

「へぇ。あの少年には前にちょっと戦ってるところを見たことがあるが、あのセヴェリン候だというのか古城」

 

「ああ、最強の相手だ」

 

 以前、牙城が語った『聖殲』の暗喩。それは『人類による魔族の大虐殺』。

 事の始まりは、“神”の一員であった咎神が、『天部』より追放されたこと。地に堕ちた咎神は人類と出会い、彼らから崇拝されて、本物の“神”――異境の支配者となった。そして、咎神は己を地に堕とした神々への復讐を望むようになった。

 まず、咎神は、神々と比べ無力な人類に、戦うための魔術(ちしき)魔具(どうぐ)を与え、兵隊の数を揃えた。

 それでも神々の力は圧倒的に強大であり、まともに戦えば勝ち目はない。だから、咎神は人類には“神”が殺せないのが世界の理ならば、その断りを変える力を用意すればいい―――そうして、創り出された世界を変容させる究極の禁呪が『聖殲』だ。それが神々の存在そのものを変質させて、神々を魔族に変えた。そう、魔族は、かつて『天部』と呼ばれる古代超人類、つまりは“神”であったのだ。

 そして、人類は魔族になった神々を大虐殺した。

 それが、咎神が原初の罪人と呼ばれ、魔族の祖である所以だ。

 

 だが、咎神は滅ぼされた。唯一『聖殲』の影響を受けずに神として生き残った咎神は、『天部』らが“神”を殺すための兵器として創り出された、世界最強の“人工”の吸血鬼<第四真祖>によって―――

 

 それが長年『聖殲』を専門にして研究し続けた考古学者の見解。

 

 

 だが、真実はそうではない。

 

 

 古城は<第四真祖>の全てを受け継いだとき、知った。

 

 咎神は、戦争を望んではいなかった。

 終わりのない永遠の戦争を繰り返したのは『天部』の神々――古代超人類たちだ。不死である彼らは、様々な兵器を造り出し、人類を殺し合わせ、娯楽としての戦争を愉しんでいた。

 その戦争を終わらせるために、咎神が生み出したのが『聖殲』の力。彼らを同じ土俵に引き摺り落とすことで争いを止めようとした。

 それを恐れた『天部』は『聖殲』を封じるために、咎神に監視役を付けた。不死者である咎神を殺し得る殺神兵器―――それが、<第四真祖>。

 

 当然、人類を救うために咎神は、不老不死の殺神兵器に対抗するために自らも殺神兵器を作製しようとした。

 ……でも、いつからか咎神は第四真祖に友情を抱き、<第四真祖>は咎神の唯一の理解者(とも)になった。

 だから、『対<第四真祖>を想定した殺神兵器の後続機』は創られず、咎神の最終作(ラストナンバー)は最後の『器』は創られずに未完のままに止められて、

 そして、咎神の遺産を封入された『方舟』を理解者である<第四真祖>に残すよう、“情報”を守護する『沼の龍(グレンダ)』を代わりに造り上げた。

 

 だが。

 無論、<第四真祖>と咎神の友好は、『天部』にとっても誤算であった。

 故に『天部』は、咎神(とも)を喰らうよう『原初(ルート)』と言う名の呪い(プログラム)を入力し―――<第四真祖>に咎神を殺させた。

 そうして、『聖殲』の力で神々も滅んでしまったのが、『聖殲』の真実であった。

 

 そして、滅ぼされた咎神に代わり、神々の残した兵器への人類の抑止力(カウンターガーディアン)として『第八の大罪』たる守護獣は、咎神の手を離れその『器』を求め続け………

 

 半人半魔――つまりは、半人半神である古城の後輩の代になって、ようやく完了したのだ。

 

「周りがどんなに馬鹿にしてるようだがな」

 

 静かに、低く語る。

 

「あまり見下げるんじゃねぇぞ。クロウは、<第四真祖(オレ)>の後続機(コウハイ)だ」

 

 そう、これは、果たされなかった幻の、咎神と天部が造り上げた最高傑作同士の“闘争(ケンカ)”である。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 途中まではフェリーで移動したが、決闘用特設人工島『巌流島』に近くなったところで小型のボートに乗り換えた。

 クロウは操縦法、と言うより機械類とは致命的に相性が悪く、島に辿り着く前にボートが海の藻屑となりかねないため、運転するのは今日の“決闘”のセコンドに強く志願したクリストフ=ガルドシュ。

 

「ふっ、真祖を斃すことにやる気になったのを、嬉しく思うぞ南宮クロウよ」

 

「オレ、前にも言ったけど<黒死皇>になるつもりはないぞ」

 

「いいのだよそれで。私は貴様を獣王であると思っているのだ」

 

 この時こそ古兵は、誰にも話はしなかった盟友が掲げようとした最初の志を語る。

 世界の支配権、優良種である誇りのためではなくて、弱者を許せず、故に絶対的な超越者に戦いを挑んだ獣王のハジマリを、このオワリの血筋であると認めた少年に受け継がせるように。

 

「―――故に、南宮クロウ。私は貴様に夢を見た。貴様が世界最強の真祖を打倒することで、私と盟友の宿願は叶うのだよ」

 

 この北欧の姫御子が主催するという“決闘”を聞いたとき、ガルドシュは<蛇遣い>より黒死皇派の身柄を引き継いだ『戦王領域』の議長アラダールへと嘆願した。この身が朽ちるまで再び<忘却の戦王>に仕え、『戦王領域』の獣人兵として尽くす、と誓い、『戦王領域』の貴族であったヴァトラーと黒死皇派の不正なやり取りに関する情報も交渉材料にして、ガルドシュはこの獣王の下に馳せ参じることができた。

 

「ん……そうか」

 

 遠く先を見据えたまま、今代の獣王は口を開く。

 

「今の古城君、強い、多分これまでの中で一番だと思う」

 

 クロウには、<第四真祖>、その『原初』と戦ったことがある。

 その十二の眷獣が揃っていなかった不完全な『原初』でも、クロウは圧倒された。そして、今の完成された<第四真祖>である暁古城はそれ以上に強い。

 

「オレ、古城君をずっと見てきたけどさ。

 古城君、人間だったころは、バスケ部のエースで突出してて、結局、敵にも味方にも真っ向から張り合える奴がいなかったくらいすごかった。で、やめちゃった。それを見てて、オレは寂しいと思ったぞ。

 それで、ヴァトラー(アイツ)を斃して、<第四真祖>に完成されてから、たまにすごく―――“独り”でいるように見えた。バスケの時みたいに、また全力でぶつかり合える相手がいなくなったって、寂しがってるように見えたのだ。

 だからオレ、この機会があってよかったなーって思ってる」

 

 そして、その見据える先には、己を待つ相手がいる。

 

 

「オレは絶対的な超越者なんていう“独りぼっち”にしないためにも、古城君を倒すんだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 夕暮れの海面は墨を塗り広げたように昏く、水平線だけが炎のように赤く燃えている。空は、鮮血のような深紅のグラデーション。間もなく日没。夜が訪れようとする黄昏時。魔の時間が始まる。

 特設人工島の端に設置されていた照明器が作動し、ライトアップされる―――その瞬きの間に、

 

「―――こんなくだらないこと毎年の行事にはしてくれるなよ馬鹿ども」

 

 待ち構える王者古城と挑戦者たるクロウ、両者の中央に小柄な影がふたつ、前触れもなく空間を揺らして現れる。

 フリルまみれの黒い服を着た南宮那月と、純白のシンプルなドレス――ウェディングドレスを連想させるような――姿の暁凪沙。もしそこにいたのが神父であったのなら、まさしく披露宴の花嫁入場の一幕を飾っただろうが、隣にいるのは神父ではなく魔女な主では『囚われの』という文句が『花嫁』の頭につきそうである。

 

「ああん? おい、先生ちゃん。あんたのファッションセンスは脱帽モンだけどよ、いくらなんでも凪沙に“それ”は早すぎんじゃねぇか? 父さんそっちの心の準備はできてねーんだぞ」

 

「セコンドは審判につっかからないでもらおうか盗掘屋。お前の娘は“決闘”の“褒美”だからな。それなりに見栄えは整えてやってもいいだろう。そもそも16の娘を孕ましたお前に早いと言える資格があるのか?」

 

 ふふん、と得意げに顎を上げる那月。衣装を見立てたのは彼女らしい。

 一方で花嫁衣装な騒々しい賢妹は、嬉しそうにはにかんだと思えば、恥ずかしげに顔を伏せたり、古城らの方を見て挨拶してから、クロウを見たらなんかぽーっと呆けたりして、それも意味深に唇に指をあててたり……

 

「……おい、まさか“お手つき”とかしたわけじゃねェよな少年」

「し、してないよそんな何言ってんのほんとにもう―――「うん、したぞ」」「よし、有罪(ギルティ)!」

 

 牙城が、何もない空間より、ロケットランチャーを取り出す。<死都帰り>と呼ばれる半身を“あちら側”に置いてきてしまった牙城は、その“あちら側”に仕舞い込んだ武器を意思ひとつで引っ張り出すことが出る。そして、構えると同時に照準も捉え、引き金に指を掛けていた逆運の武闘派考古学者はロケット弾を躊躇なく、クロウに放った。

 

「セコンド風情が、獣王に手を出すのは恐れ多いぞ」

 

 直前に割って入り、それを生身の体ひとつで受け止める老兵。鍛え抜かれた獣人種の鋼の肉体に、濃密に練り込まれた硬気功の生体障壁を纏わせたガルドシュは、ロケット砲弾を受けても、直立不動であり続けた。

 

「けっ、っとに馬鹿げた身体してやがんな獣人(オマエ)ら。けど、<死皇弟>にやられてからテメェらに対特化した得物を用意してねェと思ったか!」

 

「ほう、珍妙な術を使うかと思えば、盟友の弟殿とやり合ってなお生き延びているとはそれなりにやるようだな人間!」

 

 新たな銃機を取り出す牙城に、獣化して構えを取るガルドシュ。

 ―――だが、両者セコンドが何かすることはなかった。彼らが動くよりも早く、その頭上に現れた黄金の籠手が左右それぞれに降され、牙城とガルドシュを押し潰して、身動きを封じたからだ。

 

「やれやれ。摘まみ食いはしないように躾けたつもりだったんだがな」

 

 立会人らの暴走を一瞬で鎮圧してみせる審判役の手腕を披露しながら、那月は問題児な使い魔に主人として頭が痛むように額に手を当てる。

 

「何か弁明はあるか馬鹿犬」

 

「ないなご主人。オレが悪い―――「違うよ! あれは私が不安になってそれで」」「“褒美”は黙っていろ」

 

 使い魔を庇う凪沙を見て、那月は深く息を吐くと、古城に視線を送り、

 

「どうする暁古城。ペナルティでも課すか?」

 

「……ひとつ、訊かせろ」

 

 反射的異に眷獣の召喚の合図である左腕を振り上げかけた古城であるも、それより先に牙城が銃弾をぶっ放して自分の身代わりになって醜態を晒してくれたおかげで、そんな気も“一旦は”収まり、問答するだけの余裕はできた。道化を演じてくれたともいえる父に言葉にして感謝はしないが、“決闘”する前に訊いておかなければならないことがあったのでよかった。

 

「クロウ。母さんから、事情は聞いた。はっきり言って、お前は悪くねェよ。むしろ俺は『六番目』を救ってくれたことを感謝してる」

 

 それは本心からの言葉だ。だから、本来“決闘”の前に下げるべきでもない頭もやや傾けて謝礼する。そして、その俯きかけた姿勢のまま、古城は訊く。

 

「それで、クロウは一体どう考えてるんだ? 子供とかどうか関係なく、俺が訊きたいのは凪沙のことをどう思ってるかっつうことだ。こんな“決闘”をするくらいあいつのことが好きなのかってことだ」

 

 それは。

 口にされなくてもいいような、確認のための質問だった。もう―――わかっているはずなのに、この『巌流島』に来ている時点で、後輩の決心は、文字通り、決めた心はわかっているはずなのに。

 それでも、問うか。

 南宮クロウの覚悟を、最後の最後まで断言させてやらねば、認められないか。

 妹を託せるほど、本気で全力を尽くしてやり合える相手であるのかと。

 

()()

 

 クロウは答えた。

 あっさりと。

 

「オレが凪沙ちゃんと婚約したのは子供のためだけど―――凪沙ちゃんのことが好きなのは子供とか関係ないぞ」

 

 もはや、それだけ聞ければ十分。

 そして、下げた頭をあげて、王者と挑戦者の視線が今度こそ相対する―――前に、閃光と爆音が世界を真っ白に染め上げた。

 

 

 

「そうかよ―――」

 

 開始の合図はまだ告げられていない。

 稲光の閃光と衝撃波の超音波。眷獣を召喚せずともその位置からの一部を引き出して、制御できるようになった古城が、獣人種の優れた五感を逆手に取った、爆発的な光と音を相手に叩きつける閃光音響弾じみた小細工。

 先のペナルティもあってか、古城のフライングを審判の那月は見逃し、それより、巻き込まれる前に、“景品(なぎさ)”にセコンド役もついでに拾い、特設人工島より最も近くにある、雪菜らのいる船にまで空間転移する。

 

「この“決闘(ケンカ)”、受けたこと後悔するんじゃねぇぞクロウ―――!!!」

 

 大地を蹴り、一直線に突進を仕掛けた。

 古城も爆音と閃光にやや怯んだものの、常人を逸した速さで迫る。並のものならば知覚すらできないだろう。

 そして、疾走の勢いに全体重を乗せ、吸血鬼としての全力に眷獣の魔力を加えた、爆風を纏う古城の右拳を―――

 

「……っ、」

 

 顔に受けて、尚も微塵に瞳の焦点を揺らがせないクロウ。前決闘相手のアラダールでさえ、魔力を伴わない右フックで一瞬の隙を見せたというのに、真祖の渾身の一打を受けながら相手は古城より視線を外さない。顔面で古城の拳を受け止めたのだ。その出鱈目な頑丈さ加減に失笑してしまう古城。いや、それよりも、

 

「……どうして、避けなかったクロウ」

 

 避けられたはずだ。怯ませたが、この程度の不意打ちを勘付かないわけがない。目を晦ませ、耳を麻痺させたが、まだ“鼻”があったはずだ。

 

「いや、けじめとして、一発は受けておこうと決めてたのだ」

 

「へェ、余裕じゃねぇか」

 

「そうでもないぞ。それにその台詞はどちらかと言えばオレが古城君にいうものだと思う」

 

 ―――至近距離(ここ)は、オレの間合いだ。

 

 その圧力に、久しく覚えなかった危機感を古城は抱く。

 強力過ぎる第四真祖の眷獣は、あまり格闘戦では役に立たない。“戦闘”ではなく、“戦争”のために造られた故の欠点だ。

 

「―――ぶち殺すつもりでいくぞ……!!!」

 

 重心を落として金眼の瞳を見開いたクロウは、捻じり込むように右手が古城の左胸部心臓を狙い打つ。先の吸血鬼の全力よりさらに数段上の馬力で繰り出された一撃は、古城の臓腑にかつてない衝撃を走らせる。

 

「師父直伝、无二打!」

 

 鎧通しの原理で拳打を叩き込む浸透勁。剣巫も用いる、魔族の生態機能を狂わせる技法。それにさらに同時に気功波を放って、相手の気を呑む内部破壊の極み。人間に打ち込めば五臓六腑粉砕されているだろう。

 

(グッ………!!)

 

 加えて、“懐毒”という不死殺しの毒手も纏っていた。真祖であろうと、数瞬、霧化も再生もできずに硬直するしかない。そして、一度食らいついた得物をそう易々と逃す獣王ではない。

 

「師家直伝、無想阿修羅拳!」

 

 その瞬間、クロウが弾けた。

 そう見えるほどの動き。高速で繰り出される『八雷神法』と『八将神法』のコンビネーション。

 それは嵐。或いは機銃掃射。

 その五体あまさずこれ凶器である全身をフルに使い、相手の全身を滅多打ちにする。

 古城は全く動けない。多少身動ぎしたところで、クロウはそれに追随する。次から次へと叩き込まれる銃弾の如き打撃、拳骨平手熊手掌底腕刀肘打ち頭突き膝蹴り足刀体当たり、全弾命中。残像を生じさせるほどに滑らかな動作、そして連続でカメラのシャッターを切るように瞬く雷光は一打一打が渾身の気が篭められてモノであり、その一撃は吸血鬼の眷獣さえも叩きのめす。それが連打。原形を留めようが霧化して逃げる間も与えられず、体当たりの全身でぶつかってくる勢いのまま、前転からの踵落としが炸裂。

 

『―――おおっと、挑戦者の強烈な連打に、第四真祖、撃沈したァ―――!』

 

 雷霆の如く打ち下ろされた鉄槌(かかと)が古城にクリーンヒット。人工島全体に激震が走り、地面が大きく陥没。

 身体強化に衝撃変換の莫大なエネルギーが、古城の身体を病葉同然に吹き飛ばし、轟音と共に鋼鉄の板を重ねて頑健に造られた人工島の岩盤を数層ぶち抜く。

 『巌流島』そのものが崩壊するのではないかと言うほどの振動が続いて、それは囲っている観客たちの客船まで波を届かせた。そして、その中心地を見て、今度は観客席の船が驚嘆に震える。

 

「なんっつぅ、馬鹿力だ。どういう鍛え方したらそんな風になるんだよ。久しぶりに、死ぬかと思ったぞ」

 

 実況にカウントなど取らせることもなく、沈下した地盤の底より、髪の埃を払いながら、古城が何事もなかったように立っていた。少しもよろけることなく、姿勢は正常。周囲には、金剛石の結晶のような障壁を張り巡らせており、それで連打を防いでいたか。

 開始早々から驚天動地な真祖と獣王の戦闘に、船上の来賓たちは感嘆のどよめきを洩らす。

 一方で、古城は、笑っていた。

 金剛石の障壁を造ったがそれをも粉砕され、威力をいくらか減衰できたがそれでもサンドバックにされた。額は割れて、古城の視界が血で滲む。内臓外部両方を徹底的に打ちのめして各部の骨には罅が入り、依然、毒に蝕まれて意識は朦朧としている。

 歴戦の吸血鬼(アラダール)には通用したが、力はあっても技はない素人な古城に近接戦で挑むのは無謀。それだけの高い授業料をもらったが、古城の心は軽かった。

 

(……ああ、くそ。本当に面白ぇな)

 

 殴り合いが、ではない。挑戦者の後輩は古城を打ちのめせるだけの実力と、古城を受けきれるだけの器がある。不老不死の真祖を殺せるものならば、獅子王機関の秘奥兵器である<雪霞狼>を振るう剣巫がいるが、無限の“負”の魔力を持った真祖の攻撃をもらっても壊れない相手なんて、精々同じ真祖くらいしかいないだろう。そんな真祖に『夜の帝国』の王となった古城が戦いを挑むなど戦争も同じで皆を、世界を巻き込む波乱となろう。

 しかし、全力を振るっても問題ない、敵として認められる相手がいるのだ。この相手を如何にして攻め崩すか。

 それを考えることが、堪らなく面白くて嬉しかった。

 敵がいないことを厭きるようになる。いや、そんな吸血鬼の性を知る前より、人間であったころから知っている。霊媒の血を呑んで満たされるのとは違う、乾きが癒えていくようだ。

 

「……楽しそうだな、古城君」

 

 見下ろす後輩に言われ、気づかぬうちに笑みがこぼれていたことを古城は知る。

 

(ヴァトラーの奴のことが言えねーな)

 

 誰よりも戦いに飢えた男に共感できてしまっていることに、口元の血を拭いながら失笑してしまう古城。

 戦える相手がいるというのが、楽しくて楽しくて眩くて尊くて、仕方がない。血に宿る眷獣らも騒めいているのがわかる。全力を出すにふさわしい相手を前にして歓喜するように血が滾る。

 どちらもまだ出していない本気でぶつかり合えばどうなるのか。向こうが、<第四真祖>に勝つ気でいるのは明々白々でどんな手で来るのか。想像するだけで武者震いが止まらなかった。

 

「そういうクロウも、楽しそうだぞ」

 

「ああ、やっぱり燃えてくるぞ」

 

 高鳴る心臓を限界以上に働かせるのはいつ振りか。この真祖の胸は徐々に熱を上げる。

 全身に鳥肌が立つような衝撃と、思考回路をフルスロットルにして互いの手を読み合い、力をぶつけあう。神魔の領域に至った者同士が、己のすべてを駆動させて勝利を奪い取るなど、それはまさに史上最高の愉悦だろう。

 

「“俺たち全員”でこの“決闘(ケンカ)”を勝ちに行く。だから、死ぬんじゃねーぞクロウ!」

 

 潜在的な魔力の強さを決定するのは、<固有堆積時間>の総量――即ち戦闘経験の多寡である。吸血鬼の真祖が恐れられているのは、桁外れに膨大な“血の記憶”を保有しているせいだ。そして眷獣とは、自らの意志を持つ魔力の塊だ。<第四真祖>の眷獣として、あるいは封印された少女たちの中で、彼らは長い時間を過ごしてきた。

 彼らが持つ戦闘経験は、古城のそれを遥かに上回る。吸血鬼としての古城はまだ新米であり、真祖と言うには及ばない。だが、第四真祖の眷獣たちは別だ。

 古城は彼らを制御しない、膨大な戦闘経験を持った彼らの声に耳を傾け、ただ命じる。

 目の前の敵を打倒せよ、と―――

 

 

「―――<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ!」

 

 

 青白い焔色に輝く瞳。虹色に染め上がる髪が炎のように逆立つ。

 古城の全身から噴き出す魔力が十二枚の漆黒の翼と化して、完成された<第四真祖>としての真価を発揮する。

 

「やらせるか!」

 

 切り札である眷獣を出させる前にやる。それが、真祖にも通じる対吸血鬼の鉄則。

 

「―――契約印ヲ解放スル!」

 

 観客らを楽しませる気は一切なく、躊躇なく『首輪』を外して、獣化をすっ飛ばして<神獣化>したクロウが、地中深くにいる古城へ突貫する。

 重力加速を味方につけ、渾身の力で振るわれる神獣の爪拳。食らえば原子崩壊すら起こす、恐るべき破砕力を孕んだ獣王の災禍が―――空を切る。

 

「―――疾く在れ(きやがれ)、<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>!」

 

 十二枚ある内の四番目の漆黒の翼が、血霧となって分散する。そして、真祖の肉体は霧に変わった。背後より幽鬼の如く浮かび上がるそれは、銀霧が形を成した甲殻獣。象徴するのは、吸血鬼の『霧化』。

 霧に呑み込んだ物質を同じく霧に変えて消滅させる力は、クロウの獣王が編み出した秘奧の一手である獣気解放の圧に弾かれるも、それでも古城は袋小路の危機を脱して、

 

「―――疾く在れ(きやがれ)、<蠍虎の紫(シヤウラ・ヴイオーラ)>!」

 

 八番目の翼が形を変えて、紫の炎に包まれた蠍の尾と翼を持つ人食い虎(マンティコア)となる。

 毒手に侵されていた古城の状態異常が、みるみるうちに改善される。人食い虎の能力は、毒を操る。その力で抗毒血清を作り出して、魔力を全開に振るえる状態にまで回復させた。

 

 その間に、クロウも<第八大罪>として完了していた。

 

「―――来イ、<守護獣(フラミー)>!」

 

 獣王の血で描かれた召喚陣より飛び出した白き獣龍が、宙を旋回して滅ぼす敵を見定めると、器に相応しき主の頭上に落ちるよう同化する。

 咎神が未完のままに中断されていた“龍”であるも、それは『咎神の全知』を持ち、『器』が造られるまでの長い時間も“情報”を収集し続けた。古代生体兵器(ナラクヴェーラ)と同じく、その驚異的な学習能力で記録してきた<守護獣>は、<焔光の夜伯>に匹敵するほどの<固有堆積時間>を有する。そして、それが“匂い”となって、主人の経験値として取り込まれていく。

 白き裘を纏う魔人は、破壊兵器の攻撃力を持ちながら、攻撃を無力化する防衛装置の性能も併せ持つ全局面対応の殺神兵器―――そう、対<第四真祖>の後続機《コウハイ》として覚醒を果たす。

 

「―――完了。オレたちも全力でやってやるのだ!」

 

 踏み締める地面は鋼の大地であっても活力に満ちた豊穣の地面になり、次々と木々が生え、実をつける。成った果実は熟して地に落ちてまた新たな樹として成長をする。それが早送りで繰り返されていき、大気に甘い香気(におい)が付けられて、一呼吸で霊妙な幸福感を味わうだろう。

 それは咎神の『聖殲』と同じように、世界そのものを変容させるもの。絵画をインクで塗り潰してしまうのではなく、絵画を別の絵に切り替えていく楽園(エデン)化。かつて咎神の親である原初の人間(アダム)の理想郷を、物理法則も魔術の原則も無視して喚び出して、永続的に定着させる。世界の津々浦々まで届く影響力で、土地を獣王の支配圏として馴化していくのだ。それを許しては、相手が強大な地の利を得ることになり、また真祖は己の支配する領地を奪われることも同じ―――

 

「奪い返せ、<蠍虎の紫>!」

 

 人食い虎が成長した大樹に牙を突き立てる。

 人食い虎の力は、『毒』と『奪取(ドレイン)』だ。楽園化を阻むだけでなく、古城の方へと人食い虎は大地の祝福を送り込んでくる。

 

「やらせないのだ」

 

 『聖殲』とは世界を変容するほどの禁呪であり、行使するには祭壇と巫女を必要とするものだ。それの亜種とはいえ、テラフォーミングが成された楽園内でなければ、あらゆる魔力を無力化する力は振るえない。

 襲撃する魔人に、人食い虎も大樹に牙を突き立てながらも、刃と化した翼と紫の炎、そして蠍の尾で迎撃する。混血の魔人は<疑似聖楯(スヴァリン・システム)>を織り込んだ神気と獣気の生体障壁を展開してその攻撃を弾き、逸らしながら、懐に潜り込み―――

 

「―――壬生の秘拳『ねこまたん廻』!」

 

 <疑似聖剣(ヴェルンド・システム)>を発動させた聖拳を胴体部に打ち込み、紫電迸る気功砲を放って真上に思い切り飛ばした。その宙に舞い上がる巨体をさらに追うよう、身体を捻りながら跳躍し、人食い虎の顔面に旋風脚を叩き込んで、その牙を砕き割った―――その更に頭上より、舞い降りる光剣。

 

「―――疾く在れ(きやがれ)、<冥姫の虹炎(ミネラウバ・イーリス)>!」

 

 暁古城の六番目の翼が形を変えて、虹色の鎧に包まれた女騎士――戦乙女(ヴァルキュリエ)。背中に巨大な炎翼を広げ、光り輝く黄金の長剣を手にする天使型の眷獣。

 その能力は、物質だけでなく、因果律をも切り裂く『切断』の力。

 

 戦乙女が兜割りに振るう縦一閃―――!

 

 斬るという動作を極限まで研ぎ澄ませ、万物を断ち切るが如き閃光へと昇華させた一撃は、あらゆる物理衝撃より遮断するはずの<疑似聖楯>の生体障壁を『切断』した。

 しかし、その身は、あらゆる武器を否定する『沼の龍母』の不壊の“情報”を取り込んだ『皮の着物』に守られており、それが剣であるなら絶対の耐性で弾き、そして、溶かす。

 たとえそれが山を斬り海を断ち天を裂いて、因果律まで切り離すものであっても問題なく弾いて、その切れ味を削ぎ落とす。

 

「―――疾く在れ、<夜摩の黒剣(キフア・アーテル)>!」

 

 七番目の翼が変形するのは、『意思を持つ武器(インテリジエント・ウェポン)』の裁きの剣。三鈷剣と呼ばれる古代武具は優に刃渡り100mを超える、神々の振るう降魔の利剣である。

 隕石直撃に等しき超威力を誇りながら、その巨大さゆえに精密な操作など不可能に近く、電光石火に自由自在に空を駆けることのできる魔人を捉えるのは無理であろう。

 だが、その巨大な黒剣を、光剣を削がれた戦乙女の眷獣が新たな得物とした。自らの身長よりも10倍は超える長大な得物を、重さなどないかのように軽々と振り上げる。

 三鈷剣の能力は、重力制御。それが生み出す破壊力は<第四真祖>の眷獣の中でも最上位であり、一撃で世界最強の魔獣<レヴィアタン>を撃退した。

 それを『切断』の権能を持つ戦乙女に操らせることで精密な斬撃を可能にさせる。

 

(斬られないけど、食らうのはまずい!)

 

 生体障壁の『皮』を剥離させた残り香を散らしていく緩急をつけた無音無重の足捌きに、実体のある分身を切り分けていく。一人から、四人。四人から十六人。十六人から六十四人。と躱しながらも、長命種(エルフ)より教わりし残像の歩法と獣王より盗みし分身術の併用で鼠算式に数を増やしていく魔人の大群。それに三鈷剣を振るう戦乙女は翻弄される。

 

「―――疾く在れ、<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>!」

 

 九番目の翼より跳び出したのは、緋色の双角獣(バイコーン)。疾走する双角獣に、戦乙女が騎乗し、凄まじい衝撃波の咆哮を放つ。広範囲を一瞬で制圧する超音波は、残像を吹き消し、分身を消し飛ばした。

 

 そして、ひとりになった魔人本体へ、双角獣に乗る戦乙女が肉薄して、三鈷剣を振るう。

 

 三日月の如き剣閃。

 戦乙女が振り抜いた三鈷剣の一振りは刹那の閃きでありながら、ブラックホールのように重力を食い潰して、振り抜いた後も消えることのない鋭い軌跡を描く。

 双角獣は翻弄する分身残像を霧散させながら魔人を追尾し、そこに騎乗する戦乙女は一振りで100mの間合いを食い潰す三鈷剣で、舞うように連撃を見舞っていく。

 刺突、袈裟斬り、横一文字 斬り上げ、逆袈裟、唐竹割……その一撃毎に三鈷剣の斬撃は一段階加速していき、戦乙女の剣術は詰将棋のように着々と標的を回避不能なところまで追い詰めていき―――ついに捉えた。

 

「ガッ……!!!」

 

 避け切れないと判断し、攻撃を受ける覚悟を決め、歯を食いしばったが、臓腑が逆返りしそうになる衝撃。一切の武器の通じない不壊の肉体は、それが万物を切り裂く『切断』の力であっても弾く。そこに例外は許されない。それでもこの『重力』を付与された極大重撃で殴打される衝撃まで殺しきれず激しい鈍痛が迸る。そして、さらに双角獣に騎乗していることにより、剣身には細胞の結合を破壊するほどの振動波が伝わっており、続けて想像を絶するような激痛が全身を駆け抜けた。

 

「があああああッ!」

 

 視界がぶれ、全身がバラバラに分解しそうなほどの激痛。無我夢中で剣身を蹴り飛ばした反動で、距離を取った。

 が、視界が傾ぎ、痛みのあまり膝をつきそうになる。受けた脇腹は掻き毟られたようにグズグズになって、魔人になってみたこともないような出血ダメージを受けている。

 表面上に見える傷よりも、内部が酷く。気持ち悪い塊が込み上げてきたと思った時には剥がれた肺腑と共に血泡を吐き出していた。真っ黒い血が毒々しく大地を染める。

 視界が歪む。身体が痛みに絶叫し、もう動くなと危険信号を連呼している。

 三体の眷獣を合わせた攻撃は、あらゆる防備を張子の虎と化すか。

 いや―――

 

『なんと挑戦者、第四真祖の攻撃をすりぬけた―――!?』

 

 疾駆する双角獣に騎乗し、三鈷剣を振るう戦乙女。その膨大な魔力を帯びた斬撃は、しかしクロウの身体を傷つけられなかった。

 蜃気楼のように肉体を揺らめかしただけで、剣はすり抜ける。引き裂かれた大気が歪むが、魔人は悠然とその場にあり続ける。

 

 第一中枢(ムーラダーラ)第二中枢(スヴァーディスタナ)第三中枢(マニブーラ・チャクラ)第四中枢(アナハタラ・チャクラ)第五中枢(ビシュタ・チャクラ)第六中枢(アジナ・チャクラ)第七中枢(サハスラーラ・チャクラ)―――

 魔人となった状態で、<神獣人化>のようにその生体回路を全開に解放。<疑似聖楯>をさらに昇華させて―――<模造天使(エンジェル・フォウ)>と同じ、ここより異なる次元の高みに至る、この世界に存在しない領域にあるものの纏う『余剰次元薄膜(EDM)』。

 

 息を止めているようなもので、あまり長時間も別の次元に存在することはできないが、それでも相手の攻撃に接触する瞬間を見極めて高次空間に至り接触を躱す、絶対回避。

 

「―――疾く在れ、<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>!」

 

 三番目の翼が変化するのは、やはり水銀色の双頭龍。世界そのものを喰らう、創造主たる“神”にとっての天敵たる次元食い(ディメンジョン・イーター)。<第四真祖>の眷獣の中でも最も凶悪な双頭龍が、喰らいついたものを底知れぬ深淵へと呑み込む二つの咢を開き、魔人の纏う黄金の防護膜――『余剰次元薄膜』を次元ごと(こそ)ぎ落とさんとする。

 

「ああ、こうなったら、双頭龍(こいつ)が出るのはわかってるのだ!」

 

 高次空間の加護を剥がされた魔人を、清澄な純白の輝きが包み込む。回復不能のダメージを与えるはずの双頭龍の牙が弾かれる。

 クロウを覆う輝きの正体は、太古の魔法文字を内包した微細な粒子だ。そう馴化の完了した楽園の木々より花粉のように空間を満たすその粒子、一粒一粒がそれぞれ強大な呪力を秘めた魔方陣なのだ。それら純白の光の粒子が、次第に密度と輝度を増していく。

 

 最凶に対するは最凶。

 咎神が遺した最凶の禁呪『聖殲』は、世界の上書き(リライト)をする魔術だ。その威光たるや、<第四真祖>の眷獣や剣巫の<雪霞狼>の魔力無効化能力さえも輝きを妨げることはかなわない。魔人の展開する亜異境に対抗できるは、“神”の御使いの天使級の膨大な神気のみ―――

 “先代の殺神兵器”に対抗するために造り出されたのだ。当然、その対抗策はある。

 が、

 

 “俺たち”も“後続機(おまえ)”の手は読み切っている。

 

「―――疾く在れ、<水精の白鋼(サダルメリク・アルバス)>!」

 

 十一番目の翼より流れるように姿を現すのは、巨大な蛇の下半身を持つ水の精霊(ウィンディーネ)

 青白き水妖が象徴するは、吸血鬼の超回復――すなわち、『再生』。

 

 世界を塗り替える規格外の『聖殲』は、そう易々と行使できるものではない。多大な“情報”を処理できる計算能力だけでなく、莫大な魔力を消費する。

 計算処理を<守護獣>に任せようが、土台となる儀式場――『楽園』が抜けてしまえば、維持ができなくなり、『聖殲』は破綻する。

 魔人を狙うのではなく、その儀式場である森林を失ってしまえば、歪められていた宇宙の法則は再び従来の姿へと立ち戻ってしまう。

 

 水妖の巨大な蛇身より放出される物質還元の激流は、世界を洗い流したノアの大洪水のように、大地の祝福を獣王に与える源たる楽園の樹林を元の鋼の大地へと馴化される前にまで回帰させていく。

 

『圧倒的! 圧倒的です第四真祖! 挑戦者の打つ手を真っ向から潰していきます!』

 

 圧倒的―――そんなことはとっくの昔にわかりきっている。

 『焔光の宴』で、<第四真祖>の『原初(ルート)』に叩きのめされた。忘れても忘れられなかった敗北―――しかし、自分はあのころよりも成長している!

 

「―――焼き払うッ!!」

 

 魔人の大きく開けられた口より、太陽のフレアさえ思わせる、白金の劫火が吐き出す。

 『神格振動波駆動術式(DOE)』の“情報”が付与(マーキング)された焔は、不浄の一切を焼き払い、その星の心臓部に匹敵する熱量をもって鋼の大地を一瞬で融解させる。

 大洪水を押し返すほどの灼熱の大津波は物質還元の激流ごと水妖を消滅させて、そのまま<第四真祖>暁古城を呑み込む―――寸前で、阻まれる。

 

「―――疾く在れ、<牛頭王の琥珀(コルタウリ・スキヌム)>!」

 

 二番目の翼が地面に突き刺して、溶岩の肉体を持つ巨大な牛頭神(ミノタウロス)と化す。この大地から無限に湧き上がる溶岩そのものが化身となった眷獣は、『大地』の象徴。『墓場から掘り出した呪われた土を棺桶に敷き詰めて眠る』―――と流布される迷信の通りに、吸血鬼と関わり深い『大地』。それを統べる牛頭神は、この海底深くにまで地殻変動を起こさせるほどの災禍の力業をもってして『巌流島』の地盤を突き破って噴出した灼熱の溶岩を壁にし、神獣の劫火より主人を守護する防波堤とした。

 魔力の塊ではない単純な物理防壁である溶岩のバリケードに、魔力物質双方を蒸発させる白金の劫火は数秒拮抗するも、牛頭神が琥珀色の輝きを強めさせては溶岩の壁を厚くし、やがては海の巌にぶつかった飛沫のように霧散させられた。

 

 それでも防波堤は大きく削り取られており、

 

「―――壁ごと穿つぞッ!!」

 

 隣に新たに生え始めた2mほどの枝樹を引き抜いて、そこに『鳴り鏑』の“情報”を『香付け(マーキング)』。出来具合を確かめるよう、くるりくるりと片手で軽々と枝槍を旋回して、はっしと掴むと、劫火を阻んだ溶岩の壁に向かって思い切りぶん投げた。

 

 《Kyriiiiiiiiiiii―――!》

 

 閃光。絶叫。放たれた枝槍は音速を超えた衝撃波(ソニックブーム)を生じるほどの弾速のミサイル。そして、それが通過する後を氷河期へと塗り替えていく絶対零度の凍気をまき散らす。まさに紅蓮地獄を枝槍一本に凝縮したが如き暴虐であった。

 そして、大気の壁を突き抜ける魔槍投擲は、溶岩の防壁を凍固して砕き散らし、貫通してのけ―――

 

「―――疾く在れ、<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)>!」

 

 一番目の翼が、宝石の結晶となって分散して、神羊に再凝固する。

 いかなる攻撃にも傷つけられることのない金剛石(ダイヤモンド)の肉体を持つ神羊は、自分を傷つけたものにその傷を返す、吸血鬼の不死の呪いを象徴とする。

 神羊が盾となり、それより生み出された無数の宝石の障壁は飛来してきた枝槍を受け止め―――クロウへと撥ね返した。

 

 

観客席 船甲板

 

 

 他国の重鎮ら、皇帝、大統領、首相、主席―――聖域条約加盟国から選任されて、<囁きの庭園>の十三の内の九の席を占める人間たちの王と言った者たちに、三の席を占める真祖たちの『夜の帝国』における要人らも観覧する真祖と獣王の大戦。

 その関係者は、『暁の帝国』と同盟を結ぶ北欧アルディギア王国の軍艦<ランヴァルドⅡ>――一年前に大破してから空海両用に改良された王族専用機に集まっていた。

 彼女たちは『巌流島』で天変地異を起こしてる凄絶な光景を、固唾を呑んで見守っている。

 

「先輩。クロウ君……」

 

 人間には割って入れない領域で全力を振るう両者に向けて、祈るように両手を握り締めるのは姫柊雪菜。先輩と同級生は、あくまでも“ケンカ”のつもりなのだとしても、これはあまりにスケールが違い過ぎるのだ。結果がどうあれ、まず二人の無事を願う。叶瀬夏音も同じように、雪菜の隣で手を組んでいる。

 

「なによあいつら本気出し過ぎじゃない! 早く止めないとまずいわよ……!」

 

 大声を上げる煌坂紗矢華が、デッキの手すりから身を乗り出して興奮気味に手に持って剣を振り回している。

 それを背後から冷ややかに眺めていたラ=フォリアが落ち着くよう呼びかける。

 

「紗矢華、座りなさい。この船には身内しかおりませんが、他の皆様の観戦の邪魔をしてはいけません」

 

「ですけど、王女……このまま収拾がつかないようになったら……」

 

 紗矢華は最初、格闘技の試合のように殴り合いで決着をつけるものだと思っていた。いくら<第四真祖>でも、古城は普通の男子高生である。あまり過激なやり方は好まないと。ベタだが、河川敷で不良同士が殴り合って仲直りするような展開になると思っていた。

 なのに、眷獣を召喚している。物質還元やら次元食いやら、そのどれもが危険な怪獣を躊躇なく解き放っているのだ―――敵が憎し、というわけでもないのに。

 このイベントの発起人でもあるラ=フォリアを、紗矢華は叱責するように目を細めてみるも、王女は優雅な微笑を絶やさず。

 

「問題ありません。戦いも大変盛り上がっていますし、おかげで、古城も一国の王としての威光を知らしめていることでしょう」

 

「政治的に意味があるのだとしても、あんな当て馬のように……」

 

 そこで紗矢華は不自然に言葉を切って口を噤む。

 これ以上は、“景品”となっている子に聞かせるのはだめだろう。

 と、そんな紗矢華の横で“決闘”を祈ることもなく、ただ黙って見ていた藍羽浅葱が口を開く。

 

「楽しそうよね、ホント。だから、あんなにはしゃいじゃってるんでしょ。まったく子供みたい」

 

「楽しそう、って……」

 

 あっけからんと言う浅葱に、眉を顰める紗矢華。そこへもうひとり、仙都木優麻が同意する。

 

「ああ、古城のヤツ。すごく楽しそうだ。きっとあそこまで全力を出せるのは久々なんだろうね」

 

 幼き日に、共にバスケで勝負した時に見せた笑顔と、今の古城の顔が重なる。

 バスケットコートでエースとして独壇場であった古城。敵味方からも距離を置かれてしまうほど逸脱していた彼に、世界の大半の人物が望むであろう『世界最強の吸血鬼』という強大な力が与えられたとしても、そんなものは持っていてもしょうがないと嘆いたことだろう。実際、雪菜が監視役としてコンタクトを取ってきた日に、そう言っていた。

 ―――だが、だからこそ、誰よりも己の全ての力を出し切るほどの“戦い(ケンカ)”を欲していた。

 ひょっとすると王女は、そのことを解消したかったのかもしれない。意外にあの<蛇遣い>とわりと長い付き合いであった彼女にとって、その押し隠した心情であっても看破することは造作にない。

 

「わたくしたちの中で、今の古城に張り合えるのは、クロウだけでしょう。そして、古城が全力を出すのも、彼ならば問題ないとわかっているからです」

 

 つまりは、彼のことを認めている他ならないということ。

 ラ=フォリアは、“景品(なぎさ)”に目配せするも、彼女は何も言わず、けれどけして目を逸らさずに『巌流島』の“決闘”を見ている。

 今の彼女に誰も声を掛けてはいけない。今回の“決闘”の引き金となったともいえる少女であるから、人々の注目を集めているけれど、そこはラ=フォリアが関係者だけを集めた船に隔離して―――そして、その傍に立つ大魔女に、それとその父親が睨みを利かせている。

 

「なあ、先生ちゃんは、どっちが勝つ方に賭けたんだ?」

 

 周囲に気を配りながらも観戦する牙城が、そちらに首をやや傾けつつ探りを入れる。

 

「先生ちゃんのサーヴァントは、咎神(カイン)最終作品(ラストナンバー)だが、やはり<第四真祖>の方が単純に選択肢の数で勝ってる。しかも古城のヤツは不老不死の真祖だからその気になったら負けはねェんだ。ひょっとして何か秘策とか授けたりしてる?」

 

「さてな。盗掘屋とは違って、私は教師であるからな、くだらん島の解体工事に金銭は賭けたりはせん」

 

 その舌足らずな口調はいつも通りで、何も読み取れない。

 牙城は、視線もそちらに向ける。

 見た目は子供でも、公平な審判役である大魔女は、“決闘”を監督している。つまりは、自らの使い魔が追いつめられているのも見ているわけだが、そこに浮かべるは不敵な微笑―――

 

「だが、そう長くはかからんよ」

 

 

巌流島

 

 

「―――が、はっ」

 

 投擲を反射された枝槍が己が身に衝突する。あらゆる武器に不壊であるこの身を貫くことはなかったが、突き抜けた衝撃はその横隔を押し潰して、肺より酸素を吐き出させた。

 戦闘の最中にあって致命的な意識の明滅。

 この機を逃すな、と古城の血に宿る“彼女たち”の声が言う。

 

「―――疾く在れ、<麿羯の瞳晶(ダビ・クリユスタルス)>!」

 

 十番目の翼から生まれ出るは、銀水晶の鱗を持つ美しい魚竜。半透明の翼である前肢に、光り輝く水晶柱である螺旋の山羊角。その力は、相手を誘惑する吸血鬼の『魅了』の象徴。その真祖の眷獣、四聖獣をも妖しげな眼光にあてられたものを支配する魚竜の精神支配に囚われた魔人は、その『魅了』で動きを止め、抵抗する意思を奪われていく。

 

「―――疾く在れ、<妖姫の蒼氷(アルレシヤ・グラキエス)>!」

 

 十二番目の翼から飛び立ったのは、氷河のように透き通る巨大な幻影。

 上半身は人間の女性。そして美しい魚の姿を持つ下肢。背中には翼。猛禽の如き鋭い鉤爪。氷の人魚、或いは妖鳥。それが象徴する『眠り』の力で相手を氷棺に閉じ込めるもので、『原初』の呪いを封印してきたもの。

 妖鳥の羽ばたきより吹き荒ぶ清冽な冷気は、魔人を包み、その身体を凍らせていく。巨大な氷塊に閉じ込められたクロウ。しかし―――

 

 ピキッ、と氷棺に罅が入る。

 

 原子活動が静止する絶対零度の柩の中で、その骸の如く冷え切った肉体が膨張する。

 

 ―――グォォォォォオオオオオ………

 

 神獣を御し得た魔人からの、理性の限度を超えた獣性の解放たる<神獣化>―――その身を器に取り込んだ龍母とこの血に受け継がれる獣王との魂で天地鳴動する共振を発しているそれは、<神龍化>と呼ぶものか。

 

 ―――なんだ、あれは。

 

 観客席より巌流島を望む者たちが息を呑む。

 あれは目の錯覚か。しかし蜃気楼でなければ、あの場の景色が、ぐらぐらと揺らいでいるのは何なのか。

 

 ―――――ドン、と。

 

 大気を割るような音がした。

 歪みが、海域全体に侵食する。

 どくどくと、脈打つ海域。風に揺れているのではなく、海そのものが震えている。白虎、青竜、朱雀、玄武、と東西南北に配されて、世界を安定させる幻獣種が狂乱しているのだ。

 そして、氷中で炯々とした眼光が、倒すべき真祖を睨んでは、一回り大きく拡張され始めていく総身に収まりきれぬほどの熱量が憤焔となって内側より『眠り』の棺を溶かし始める。

 

 この身は、殺神兵器。

 原初の恐怖を乗り越えるために紡ぎし火種。

 魔人の裡より核熱にも等しきエネルギーが、純白の冷気を融解し、蒸発させていく。『原初のアヴローラ』をも封じ込めた力に抗うどころか、今にも粉砕しかねないほどに滾っている。神秘はより強い神秘に降される。すなわち、この怪物を相手にするには、災厄の化身一体分では釣り合わない。十二全てを掛けて、全力を尽くすに値する相手なのだ。

 

「ああ」

 

 信じていた、と言葉にせずとも古城の笑みがそれを物語る。

 <焔光の夜伯>。その十二の眷獣は災厄の化身であり、一体でも国を滅ぼし、神すら殺すことも可能な、絶大的な力。

 相手が群で攻めてこようとも圧倒して、単独で戦争に勝利する。

 <第四真祖>が行使する全力の一撃とは、すなわちそういうものなのだ。

 

 それが今、たった一人の後輩に対し、何の躊躇もなく振るわれている。

 加減も手抜きもしていない。今の己をすべて曝け出して、ぶつけている。それは向こうも同じ。二つの究極の殺神兵器の激突は、膨大なエネルギーの鬩ぎ合いであり、観客らは世界が幾度も崩壊しては生まれ変わったかのような錯覚を覚えたであろう。

 勝ちを前にしても余裕などなくて、少しでも気を抜けば逆転されることを古城は理解している。

 しかし。

 だからこそ―――それが、いい。

 ある意味で、これは児戯のようなものだ。子供同士の意地の張り合いと同じ。婚約を賭けた“決闘”など、単なるきっかけに過ぎないのだ。今や容赦も遠慮も忘却の彼方にあって、ただ、思うがままに力比べをし、存分に競い合い、力と力をぶつけたい。

 

「だが、勝つのは俺だクロウ!」

 

 だから、古城はこの“児戯(ケンカ)”に最後まで手を抜くつもりはない。貪欲に勝利を目指す。

 

「―――疾く在れ、<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>!」

 

 五番目の翼が弾けて、閃光と共に出現したのは雷光の獅子。古城が最後に喚び出した眷獣は、古城が姫柊雪菜の霊媒の血を初めて吸血し、最初に喚び出した眷獣。<焔光の夜伯>を知る者らには気難しく荒々しいと評価されながらも、最も長く古城に付き従い、何度も助けてくれた眷獣。

 その雷霆は、まさしく『天罰』。<第四真祖>という殺神兵器を造りし『天部』――神々より降される裁きの光を化身とした獅子が、その十数mの巨体を一条の黄金とし―――

 

 ゴッ!!!!!! と。

 空気をまとめて引き裂き、恐るべき速度で雷光が突き抜けていった。

 

 

 光に呑まれた氷棺は、跡形もなく消失して、

 その内部に閉じ込められていた後輩は―――――――――――――――――――――――――――――虚空より、別の場所から現れた。

 

 

「な―――っ!」

 

 古城が呻く。

 それは、<空隙の魔女>南宮那月に何度となく見せられてきた超高等魔術。

 しかし、その空間制御をクロウが独力で『(ゲート)』を開いた事に古城は驚愕し、

 そして、次の瞬間に、戦慄へと変わる。

 

 

「―――起きろ、<輪環王(ラインゴルド)>!」

 

 

 呼応して、その背後より召喚陣が浮かび上がる。

 そこよりエッセンスたる源霊が溢れ出し、術者の濃厚な呪力を食らって、主人の切り札である<守護者>を顕現せしめる。

 召喚するだけで時空を歪める、機械仕掛けの身体を持つ黄金の悪魔騎士。

 それを“クロウが、喚起したのである”。

 ばかりか、悪魔騎士はバラバラに解けて、その黄金鎧を術者へと纏わす。龍母と獣王の共鳴がその理性を塗り潰そうとしたのに正気を失わず。その主より貸された黄金鎧がその身を荒御霊の如き神龍ではなく、完了された強固な精神性を有する魔人のままに繋ぎ止めさせた―――

 

「何を驚いている古城君。オレは、ご主人の眷獣なんだぞ」

 

 使い魔(サーヴァント)契約を結んでいる以上、“匂い”で経験値を獲得できる『嗅覚過適応』の南宮クロウは、<空隙の魔女>が有する知識や技術を南宮那月から読み取ることができる。

 

 そして、空間制御は究めればできる裏技がある。

 

 そう、それは<蒼の魔女>が独立した意思を持つ異界からの召喚獣である眷獣を、支配権を奪い取らずに、時空を歪めて過去に使った眷獣の一部を呼び出すことで、同様の結果を得るというもの。

 

 膨大な魔力と主人より享受された“情報”があってそのイレギュラーな魔術操作を可能とする。大魔女の使い魔として染みついた“記憶(匂い)”を頼りに、かつて己が<守護者>の鎧をまとった瞬間を、現在のこの時空に再演するができるのだ。

 

「これが……オレが今日まで積み重ねてきた全部だ」

 

 もう手札がないと、規定する。

 この札に残ったすべてを注ぎ込むと、すべて以上を注ぎ込むのだと宣告する。

 

「―――きやがれ、南宮クロウ!」

「おう!」

 

 最終の宣戦布告を受けて、漆黒の十二の翼を広げる古城。

 だが、古城はすでに“切り札(けんじゅう)をすべて場に出している”。全部の眷獣を出させるまで、クロウは粘り―――この<輪環王(ジョーカー)>を切ったのだ。

 

 虚空より現れた真紅の茨――かつて<第四真祖>の眷獣でさえも封じ込めた――<禁忌の茨(グレイプニール)>が、この『巌流島』に現出する十二体すべての眷獣らを縛り上げにかかる。

 

「っ、まずい―――!?」

 

 古城の声が動揺に震えた。

 眷獣を縛られてしまえば、吸血鬼は魔族の中でも下位の戦闘力しかない。最上位にある獣人種、それも古代種たる獣王と、一対一(タイマン)での勝負に真祖であっても勝ち目はなく、格闘戦も最初の通りに我流の喧嘩殺法しか心得のない古城ではかなわない。

 甲殻獣も、人食い虎も、戦乙女も、双角獣も、双頭龍も、水妖も、牛頭神も、神羊も、魚竜も、妖鳥も、一瞬で同時展開される十数mの巨体を包括する茨の檻に閉じ込められた。100mもの三鈷剣さえ雁字搦めに絡みつかれている。

 

 しかし、たった一体。

 かつて一度、<禁忌の茨>に捕まった経験があり、光の速さで動くことができる<第四真祖>最速の眷獣たる雷光の獅子は、間一髪に拘束より逃れていた。

 

「<獅子の黄金>!」

 

 暁古城を最も長く守護してきた獅子が、主人に迫りくる魔人の前に立ちはだかった。

 <第四真祖>として完成されて、その暴威は最初のころとは段違いに増していることが見るだけで分かる。真に『世界最強の吸血鬼』の眷獣に相応しき格に至っているのだ。

 

「アイツらの中じゃ一番長い付き合いだけど、強くなったなお前―――でも、オレも強くなったぞ」

 

 それを前にして、黄金鎧に龍母の裘が剥がれていき―――すべての守護をこの左手へとまとめられる。

 

 光の守護鎧と引き換えに、神をも殺すと謳われる最強の槍を手にすることが許された大英霊。

 

 それと同じく、今この左手に形作られていく<守護獣>の白蒼の篭手に爪の代わりに<守護者>の黄金の剣刃が付けられたその武具。

 この剣篭手を用いて放つは、己の生命を省みない捨身の絶対破壊。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォ―――――!!」

 

 『玄武百裂脚』を可能とするのは、分身という別けた気を遠隔でさえ可能な精密操作。

 『白虎衝撃波』を可能とするのは、気を塊へ凝縮して砲弾とする制御力。

 『朱雀飛天の舞』を可能とするのは、場の制圧という濃密な気の開放。

 『青龍殺陣拳』を可能とするのは、空を断つほどの拳速を発揮するために気孔を閉じる集中。

 それら獣人拳法の四大奥義を究めた技術と肉体を持って原点へ立ち戻り、一度にこなす総集奥義ともいえる一打。

 <黒死皇>と呼ばれた獣王さえ到達し得なかった前人未到の領域に踏み込む。

 

 弓を引き絞るように限界まで引いた左手を、全身を使って一気。

 防がれれば終わり。ならば、防がれるより速く。光より速く。だが雷光の獅子の爪牙がそこへ達するのは全くの同時。

 ならば、それよりも速く――空隙の悪魔の空間制御と、全知の母龍の予測演算の補助を受けて――その死が確定された絶望(さき)だろうと手を伸ばし。

 

 

「―――<(ゆらぎ)>ッ!!!」

 

 

 絶対の未来予測より確定された未来へ、時空を超えて絶望を打ち砕く―――!!

 

 

 っっっ     !!!!!!

 

 

 刹那にすら満たぬ雲燿の閃きの果てに、殴るという行為はすでに過去として完結しており、殴ったという結果のみがあった。

 そして、その時の左手は、黄金の魔狼と白き龍母が入り混じったそれは四獣の中央要たる黄龍の顎と成り、<第四真祖>の最後の守護たる獅子を喰らう。

 

 そして、霧散した眷獣より迸る閃光が世界を真っ白に染め上げる中。

 ついに<焔光の夜伯>の十二の難行を突破した獣王は、真祖の前に立つ。

 

(問題はここからだ―――)

 

 他の眷獣を縛る封印もあまり持たないだろう。

 だから、一撃で蹴りをつけなければならない―――だが、そのための()を今使い切ってしまった。しかも眷獣の猛攻を凌いだ守護も外してしまっている。

 そして、相手は不老不死の真祖。しかも、これまで高い霊媒素養を持つ娘達を吸血してきているおかげで、魔族に天敵たる神気や魔力を無効化する『聖殲』にも耐性を持っているのだ。

 

「まだ、だっ……! 眷獣が解放するまで俺が耐えれば……!」

 

 この一呼吸分の間で幾度己はやられるだろうか。しかして、その一呼吸に耐えれば逆転できる。

 

 暁古城は、不老不死の肉体を持つ故に、神経は麻痺せず、意識を断って苦痛より逃れることも、正気を失うこともできない、そんな永遠の責め苦にも耐え得る精神力も有している。最初に猛連打(ラッシュ)で攻めても耐え切ったのだ。一撃で敗北を認めさせるのは不可能―――と、思われるが、

 

「……やっぱり、古城君を倒すのはこれしかないな」

 

 両腕を吸血鬼の再生の要である心臓部の盾にする古城。

 けれど、クロウの狙いはそこではなくて、

 

(頭を狙ってきたかっ!)

 

 後輩の主である那月も以前に、空間衝撃で頭を揺らすことで古城に脳震盪を起こさせたことがある。だから、顎先を狙ってくるフックを警戒し、右腕を頭部のガードに回す―――けれど、それも違う。クロウの左腕は、さらに奥の、古城の後頭部を掴み、がっちりと逃さないようにする。そして、右腕は顎先に伸ばされるが、それも、くいっと添えるだけで、暴れないように固定されるというようで……

 そして、次は膝蹴り―――まさか、対ハーレムの男の急所潰し!? とその思考に至った古城は反射的に内股にするも、足ではなく、頭が前に出てきて―――

 

(これは頭突き―――)

 

 そのまま古城の顔とクロウの顔が一気に近付いて―――もう互いに抱き合える距離まで接近していた両者の距離が更になくなり、すぐにゼロ―――互いの唇と唇が触れ合った。

 

 

観客席 船甲板

 

 

『………………………………………………………』

 

 

 閃光が止んだ後、そこに二人が抱き合い、“口づけ”をしていた、ドッキリではない衝撃映像。

 

 祈る雪菜や夏音、心配していた紗矢華に、苦笑しながら見守っていた浅葱や優麻、さらにはラ=フォリアまでもその光景に唖然とする。

 その前の眷獣に放った一撃必殺が時間を超えたのならば、今の一撃必殺は世界を止めたというのだろうか。

 

「……カカ! 流石、獣王だ。真祖を“食った”ぞ!」

 

 と天晴と呵々大笑する元黒死皇派の老兵ガルドシュ。

 

「……古城、お前は父さんの想像の遥か先に行っちまったんだな」

 

 と遠い目をする暁家の父親牙城。

 

 もしもここに『戦王領域』の議長アラダールがいたのなら、『……まあ、今はいなくなったが“前例”がいないわけではない。“決闘”の最中にしたのを見るのは初めてであるが、疚しいことではあるまい』と理解を示したことだろう。

 回復した男性陣の皆さんは声を上げるも女性陣は依然と沈黙を続ける。そんなすごく空気が気まずい中で、ぽつりと言葉を零す“景品”の少女。

 

「……………うん、どうやって古城君に勝つつもりなんだろって、絶対に見逃しちゃダメだって思ってみてたんだけど」

 

 敗色濃厚の中でも、勝利を信じていた少女。その健気さには胸を打たれることだろう。

 が、

 

「占いで『大切なものを失う』ってこのことだったの……??」

 

 慄く凪沙。凪沙があそこで積極的に迫ってなかったら、初めては兄に奪われていたと……

 

 

巌流島

 

 

 ―――重なる、唇と、唇。

 

 

 古城にとって、異性ではなく同性にそれをやられるのは生涯初めての体験。

 以前、<蛇遣い>に熱烈な愛を囁かれたり、いろんな意味で狙われたりしていたが、それでも実際にされたことはなかった。そして、これほどに深い(ディープ)なのは異性にされたことだってない。

 声を発するための器官は、口は、舌は、塞がれて、喉でしか呻けない。無惨に酸素を求めるもその唇が、相手の唇に塞がれる。

 息苦しくて、古城の口から漏れる呻き。だが、それは何故か甘美な響きである。聞きたくなかった。

 身をよじって逃れようとするも、その肩を相手の腕が抱き留める。いつもが強引に女子に迫る古城だが、それがいま逆転されている状況。一体なんなのだ? あまりの未知との遭遇に頭が真っ白となって、やがては無抵抗に。今なら彼女たちの気持ちがわかるような気がする。

 力無く開いた口の僅かな隙間から侵入を許してしまい、口腔の中を艶めかしい何かがぬるりと蠢く感覚。それが何か熱いモノを流し込んできて、

 こくり、と嚥下する音。

 古城の喉に滑り落ちる液体―――それを感じるよりも早く、背筋から脳髄までの全てを蕩かしながら走り抜ける、無慈悲の崩落。真祖は力を失って腰砕けに頽れる。ようやく、そこで離れた。

 口元を拭いながら、倒れる古城を見下す後輩は言う。

 

「う。なんか、ごめんだぞ。でも、古城君を倒すのは、“壊毒(これ)”しかなかったのだ」

 

 止め処なく鼻から血を垂れ流す古城。その毒を喰らいながらも、苦痛はない―――本来、真祖であるなら喪失しないはずの感覚が麻痺している(壊れている)。唾液――“懐毒”を呑み込まされて、体内に送り込んだ。解毒させる時間もない、解毒させる余裕もない。

 咎神が、『対<第四真祖>に創り出した殺神兵器』として、“後続機”を造り上げたのならば、当然、その不老不死性を打倒する機能も付けられていた。それがこの“壊毒”。そして何でも壊してしまう故に、自滅してしまう毒素は口腔より出てしまうとその効力は半減してしまう。従い、それが最大に威力を発揮するのは、噛みつく――口内の唾液を相手の体内に直接送り込ませること。

 で、獣人や神獣であったならその牙で肉を裂き噛みつくこともできたが、魔人の形態では生憎その牙がない。

 だから、方法はひとつに限られて、その“口づけ(キス)”に特に深い意味はないのである。ただ、純粋に勝つためだ。それも相手に苦痛を与えずに行動不能にさせ、時間が経てば勝手に毒同士で喰らい合って自滅するのだから万々歳。とクロウは考えている。

 

「…………………………」

 

 そこまで理解した古城は地面に倒れたまま、必死に意識を保ってクロウを見上げる。

 なるほど。これまでにないこの不調。確かに、真祖としての性質が壊されているだろう。かつて、『人魚』の不老不死性を得た魔導犯罪者を仕留めた時のように、口より直接やられる“壊毒”は抗いようのないものだ。これほどの破壊力とは古城も体験するまでは夢にも思わなかった。

 とはいえ、精神的な破壊力の方が甚大であるが。

 

 そして、実況も声援も止まってしまったこの『巌流島』に、虚空より“褒美(いもうと)”を連れて現れた審判役。

 

「やれやれ、貴様の『伴侶』どもがピーピー喚いて、強引に『(ゲート)』に押し入ろうとして来るからこちらに来てみたが。ふん、船を動かしたようだ。何にしても、私の知ったことではない」

 

 満足に身体機能を働かせない古城だが、聴覚はまだ無事。しかしながら、那月の声音はこれまでに聞いたことのないような、何とも言えないものであった。彼女であってもこれなのだから、『伴侶』の少女ら――監視役の剣巫や電子の女帝と言った面子に顔を合わせるのが怖くなる。

 

「どうだ、降参するか?」

 

 古城は動けない。10カウントを数えていれば敗北確定。しかし、これは『まいった』というまでおわらない“決闘”である。

 

「ま……だ……!」

 

 実は、この古城に完全に有利なルールの勝負で、不老不死の真祖ではクロウに勝ち目がないと思い、『もしも十二体すべての眷獣を出して、それに耐え抜いたのならば、負けを認めよう』と考えてたりした。

 その条件は満たされている。それどころか、こうして真祖の不老不死性まで攻略した。<第四真祖>を壊してみせたのだ。“懐毒”が自滅するまで古城は、再生も働かず、霧化で逃げられず、切り札である眷獣も召喚できない、どころか立ち上がることもできないのだから、魔族どころか人間以下だ。そこを後輩に攻撃されて叩きのめされれば、死ぬことはないにしても、しばらくは復活できないだろう。

 ―――が、こんな終わりはイヤだ。

 

「ぐ……この……!」

 

 気力と根性。毒にやられた体を起こし、立ち上がろうとする古城。

 敗北を認めたとしても、『世界最強の吸血鬼』の評価は下がらない。それほどの暴威は振るって見せたのだ。観客らも満足したことだろう。

 

 だが、古城が戦う理由はそこではない。

 政治的な意味があったのだとしても、後輩と“決闘”すると決めたのは意地の問題。

 それは、それほどにこの相手に妹を渡したくない―――だからではない。むしろ、その逆だ。

 

「そうか。まだ降参せんか。……これはお前への最後の慈悲だったんだがな」

 

「な、に……」

 

 あまりこの担任教師に優しくされたことのない古城は、その発言に驚き、すぐにその意図を悟ることになる。

 

「古城君……」

 

 凪沙の震える声が、古城の耳朶を振るわす。心配されているのだろう、と思い、古城は心配性な妹にこれ以上は無様を見せられないと身体に喝を入れる―――

 

「そんなに、クロウ君……凪沙との婚約がイヤなの……?」

 

「い……や」

 

 違う。そうではない。古城はクロウを買っている。一緒の部屋にいたら、妹の相手として認めてしまうくらいに。けれど、せめて学校を卒業して成人するまでは、兄としての心の準備をさせてほしかったのだ。

 だけど、それを素直に口にはできなくて―――後になってしておけばよかったと後悔する。

 

「……古城君。

 

 

 

 

 

 ―――そんなにも、クロウ君のことが好きなんだね」

 

 ああ、と危うく頷きかけたところで、固まる古城。

 確かに、古城はクロウを気に入っている。好きかどうかと訊かれれば、好きな方だろう。

 だが、そこで不自然さに気づく。

 どうして、『クロウ君との婚約』ではなく、『凪沙との婚約がイヤなの』とわざわざ言い換えたのだ? そして、この『クロウ君が好きなんだね』という問いかけ。

 最悪の予感が古城によぎるも、呂律も満足に回せないでいる今の状態で弁明は無理があった。そして―――

 

「だって、そんなにも“鼻血が出てるんだから”!」

 

・古城が鼻血を噴出して止められないでいる原因である後輩の“懐毒”。それは噛み癖を躾けた主人より厳重に使用が制限されており、知る者は少ない。

・母親の暁深森より『性的に興奮すると鼻血を噴出してしまう』という遺伝を息子の古城は受け継いでおり、それを娘である凪沙は当然それを知っている。

 

 さて。

 <獅子の雷光>が光となって霧散して、真っ白になった視界が元に戻ると、後輩に“口づけ”されて、“腰砕けに倒れこみ”、“鼻血を噴出し”続けている兄を見て、この妹は何を思うだろうか。

 

「もう隠さなくていいよ古城君」

 

 そして。

 ここで婚約を認めないとどうなるのか。もしも勘違いしたままであるのなら、妹にはまるで、妹ではなく、後輩の方を古城は……………

 

 ―――違う!!! と思い切り大声で否定したい。だが、その否定をすれば泥沼な状況に陥るだろう。

 

 毒を食らうよりも凄まじい社会的かつ精神的ダメージが、古城を襲う。担任教師は妹の心情を理解して、そしてこの展開が予想できたので降参を勧めてきたのだ。

 

「でも、凪沙、絶対に古城君に負けないから!」

 

「ちょ、はな、しを、聞いて……」

 

「クロウ君いくよ!」

 

 妹を呼びかける古城だが、凪沙はよくわからないけれど空気を読んで一歩離れた位置で見ていたクロウの手を取り、引っ張ってくる。

 

「え? 何なのだ凪沙ちゃん?」

「凪沙と一緒に古城君を倒すの!」

 

「むぅ。なんか今の古城君を打つのは気が引ける……」

「ダメだよ! ちゃんとフッてあげないと古城君のためにもならないんだから!」

 

「そうなのか?」

「うん。じゃあ、一緒に―――せーのッ」「「たぁっ!」」

 

 

 

 そうして、息を合わせた二人のダブルパンチにノックダウンされて、『獣王と真祖の大戦』は終わった。“褒美”の乱入で無効試合ではないかという意見もあったが、後で『二人のことを認める。だから、勘違いするな』と真祖直々の公言があって、無事に婚約が認められることになった(また色々と危うんだ伴侶たちより、真祖も『婚約』について迫られるようになる)。

 そして、<第四真祖>が<囁きの庭園>の一員として与えられた権限をフルに使い、観客ら全員に緘口令を敷いて、この“決闘”の様子を記録した映像媒体をすべて抹消するなど、情報封鎖が徹底されたため、一体獣王はどうやって真祖に勝利したのかは不明である。様々な憶測が飛び交ったりもしたが、後の『暁の帝国』の歴史教科書には記載されることはなく、あるのはこの一文。

 

 

 『世界最強の吸血鬼を倒した、世界最強の決まり手は、“愛の力”』

 

 

 

つづく



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戦乙女の王国Ⅰ

???

 

 

 これは北欧に伝わりし戦乙女(ヴァルキリー)の婚儀の話。

 

 龍殺しという偉業を成して、成人した英雄は、国王の妹君に一目惚れをし、求婚する。

 そして、国の危機に、戦争に援軍して勝利に導いた英雄を国王は認め、妹君を娶るためにある要求を出した。

 それは『戦乙女と結ばれる』のを上手く支援することだ。『力比べ』で勝てた者を伴侶とする戦乙女に、挑む国王をその『透明になる隠れ蓑』で助けてほしい、と……

 

 

「………では、手筈通りに“お願いしますね”」

 

 

道中

 

 

 ―――来日の為、超弩級装甲飛行船<ビフレスト>に乗り込むアルディギア国王夫妻とラ=フォリア王女、今夜にも絃神島に到着。

 

 

 北欧の立憲君主国家アルディギア王国より、王女ラ=フォリア=リハヴァインと国王夫妻ルーカス=リハヴァインとポリフォニア=リハヴァインが『魔族特区』絃神島に来日。

 『戦王領域』との相互不可侵条約期間延長の調印式を行う場として、第三国の日本の絃神島が選ばれた。

 

 道行く電光掲示板のテロップで流されるニュースを話題に、『世界最強の吸血鬼』こと<第四真祖>暁古城は気だるげに、一緒に登校している監視役の姫柊雪菜に話を振る。

 

「しかし、『戦王領域』ってヴァトラーの所属す()る『夜の帝国(ドミニオン)』だよな。それが、どうして絃神島で?」

 

「『戦王領域』とアルディギアの両国とも、色々な過去のいきさつがあるから、第三国のこの、絃神島が選ばれたと聞いています」

 

 国家の魔導テロ対策組織――獅子王機関の一員である雪菜の説明に、へぇ、と古城は相槌を打って、

 

「そういや、凪沙の奴が、警備にクロウが派遣されるから今日の学校は休むって言ってたな」

 

 朝食の席で、お喋り好きな妹曰く。

 前回、極秘に来日した王女護衛案内役として絃神島より派遣された(と言うことになっている)後輩。雪菜のように攻魔師資格(Cカード)は所持していないが、<空隙の魔女>の眷獣(サーヴァント)として特区警備隊(アイランドガード)の仕事の手伝いができるだけの能力を有し、『聖環騎士団』にスカウトされるほどアルディギア王族に気に入られてるというのだから、式典の護衛警護にはうってつけの人材だ。きっと今頃王女の付き人のようなことをされて振り回され、妙なことを躾けられていることだろう。

 

 ……何故、そんな欠席理由をクラスメイトとはいえ凪沙(いもうと)が知っているのかは古城(あに)として非常に気になるところではあるが。

 

「ま、なんにしても俺は関係ねぇな……ラ=フォリアも仕事で来てるんなら色々と忙しいだろうからな」

 

 ある事件を通じて知り合ったアルディギア国王の実子で、王位継承権を持つ17歳の第一王女ラ=フォリア=リハヴァイン。

 国民はもとより国外にもファンが多数いるラ=フォリアであるも、姫御子の人となりを知った古城には、聡明な頭脳に基づいた強い好奇心と遊び心を持っていて、その天真爛漫さを制御できるものは極めて少ない厄介な性格の相手である。

 毎度お騒がせな姫御子の来訪であるも、流石に公務中のラ=フォリアとは会うこともないだろう。

 

「だといいんですけど……」

 

「へ」

 

 息を吐く古城を一瞥する雪菜。

 古城が厄介ごとを引きつけるトラブルメーカーとみてる剣巫は、残念ながら先輩の思うとおりの平穏はないと予想する。

 ―――そして、その直感は正しく的中するのだ。

 

 横断歩道を渡ろうとする古城の前に一般車が急停車し、中から飛び出してきた人影。静かな雪原のように深く冷ややかで、して穏やかな美貌を持つ、つい先ほど掲示板で見たばかりの、今夜来日予定だという、銀髪碧眼な姫御子は古城に真っ先に抱きついてきた。

 

「助けてください暁古城!」

 

「「ラフォリア(さん)!?」」

 

 いきなりな救助嘆願に戸惑う古城と雪菜。しかし、ラ=フォリアから話を聞くだけの時間は与えられなかった。

 ラ=フォリアを追ってきた大きな黒塗りのリムジンが古城たちの前で停車し、そこから大男が現れる。

 

「―――もう、逃がさんぞ、ラ=フォリア」

 

 顎髭を生やし、二本の牛角がつけられた鉄兜。

 蛮族のように、狩った獣の皮で作られた戦衣装。

 まさしく、ヴァイキング。

 がっしりとした大柄な体躯で、遠目にも威圧感がものすごい。男の鋭い目つきに、古城は教科書で視た鬼神像をを思い出した。男に動じている様子は微塵もなく、見るもの全てを飲み込まんばかりの威圧感を周囲に振りまいている。

 

(強い……っ)

 

 その見かけ倒しな力量ではないと険しく目を細めた雪菜が、ギターケースより引き抜き展開した獅子王機関の秘奥兵器<雪霞狼>を構える。

 ラ=フォリアは、アルディギア王族の女性独特の特徴である強力な霊媒体質を継いでおり、過去にはその力を悪用しようとする輩に狙われたこともある。

 『仮面憑き事件』でもそうだったように、このヴァイキングも刺客である可能性が高いか―――

 

「下がってろ、ラ=フォリア!」

 

 咄嗟にラ=フォリアを下がらせる古城―――で、ラ=フォリアはそのまま背後にいた雪菜に抱きついて、その耳元に囁く。

 

「(雪菜は手を出さないでください)」

「―――え?」

 

 監視役として、先輩を巻き込んだ厄介ごとを率先して解決しようとした雪菜の行動はラ=フォリアにより封じられる。

 そして、割って入る古城と一対一となった大男はその双眸でジロリと睨むと、得物である片手斧(ハンドアックス)を取り出し、魔族さえ怯ませるほどの威をもった声で恫喝する。

 

「邪魔立てをするな、小童!」

 

 間近で見るヴァイキングは並外れて大きかった。身長は2m近いだろう。肩幅も広く、その筋肉はかなり鍛え上げられている。よほどの鍛錬と実戦を積み上げられたものに違いない。それが炯々と眼光を走らせ気炎を吐く憤怒の形相を浮かべているのだから、心象的にはさらに1.5倍の3mもの圧を感じさせてくる。

 それを真っ向から浴びせられた古城は、血に宿る眷獣たちの防衛本能から電撃を身体より迸らせる。

 そこへ電撃に怯むことなく、一瞬で古城との間合いを詰めてきたヴァイキングが、刃を唸らせて片手斧を振り下ろす。

 

「おいオッサン―――!?」

 

 一撃が受け止められた。

 反射的に突き出した古城の掌―――その薄皮一枚ほど前で。

 

「ぐうぅぅ!」

 

 古城は何が起きたかわからないが、目の前のヴァイキングがまさか寸止めしたわけではない。今も歯軋りさせて大柄な体躯でのしかかるように体重をかけてくるヴァイキングだが、その渾身の力を込めてもびくともしない。すでに立場上やむを得ず最前線から現役を退いても、力には自信があっただけに、これは衝撃だったのだろう。

 驚いた表情を浮かべつつも、一度大きく距離を取る。

 

「『力比べ』で儂に勝つとは、やるな若造っ! それも騎士団長さえも吹き飛ばす我が一太刀をそうも片手で軽々と受け切られるとは、この20年遡っても片手で数えられるほどしかおらんぞ」

 

「? は、何だよくわからねェけど……」

 

 戸惑う古城だが、目の前のヴァイキングは思わぬ強敵に戦意が昂揚したように歯を見せて笑う。これが演技(ウソ)なら名俳優だったろう。何にしても巻き込まれてるこちらも状況はわかっていないので、まずは話を、と口を開こうとしたその瞬間―――古城の胸先に片手斧が迫っていた。

 

「くっ!」

 

 ヴァイキングが牽制するように投げ斧を放ってきたのだ。それも続けて二つ。

 ブーメランのように旋回して迫る二つの片手斧は、吸血鬼の古城でも掴めぬ恐るべき速さ。それも変則的な軌道で読み難く、かつ完璧に出鼻を挫いたタイミングで。そしてちょうどこちらで交差するという熟練の投擲精度(コントロール)で飛翔する弧を描く二つの刃。鉄塊をも撃ち砕く一刀を左右挟み撃ちに見舞われては、いかな真祖でも無傷では済まされない。咄嗟に身を翻して投げ斧をかわしたものの、古城が体勢を整えた時には相手は間合いを詰めてきており、新たに抜いた三本目の片手斧を振りかぶっている。

 

「危ない!」

 

 ヴァイキングの片手斧が煌めき、先輩を襲う。

 雪菜はそれに飛び出そうとする―――が、ラ=フォリアに抑えられている。

 

「先輩が―――」

「古城なら大丈夫です雪菜」

 

 満腔の自信をもって、その安全を保障するラ=フォリア。

 

「全盛期であったころならば、とにかく。今では敵いません」

 

 この窮地に剣巫は助けにはいれず―――と、“何か”に肘の辺りを押し出されたように古城の腕が前に突き出された。それが“偶然にも”ヴァイキングの攻撃を不利な体勢ながらも払いのけた。古城が片手で軽々と捌いた、“ように見えた”。

 

 しかし、それでヴァイキングの攻撃は終わりではなかった。

 

「素人かと思えば中々読めぬ。―――だが、これが読めたか?」

 

 一周旋回した投げ斧がブーメランのように戻ってきていて背後より古城に迫りくる。

 その奇襲に、古城は再び“何か”に掴まれた腕が、動かされる。背後から激しく横揺()れしながら襲い掛かる片手斧に反応するとどころかその柄に当たった掌――寸前、またも薄皮一枚で“何か”にブーメラン回転が阻められて止まったところを――で反射的に掴み取ってしまい、そのまま“何か”に振り回される古城は反対側より迫るもう一つの投げ斧を薙ぎ払い―――砕いた。

 

「なぁ―――!?」

 

 ヴァイキングの顔が驚愕に歪む。

 尤もそれは古城も同感である。ヴァイキングの攻撃は鋭く、速く、重い。一撃一撃の威力もあり、それが緻密に計算された三連撃で迫ったというのに、全て捌いてみせたのだ。加えて、奪取した相手の武器で、奇襲に迫る投げ斧を打ち砕くという極悪さも見せて。

 

「―――もう十分です。やってしまいなさい、古城」

 

 ラ=フォリアの声に、“何か”に掴み重ねられた古城の手。もうよくわからないが、とにかく倒さないと終わらなさそうなので、引っ張られる力に合わせて殴りつけて、拳打がヴァイキングの胴体に叩き込まれる。

 

「―――っ!」

 

 声も出せずに悶絶したヴァイキングは、そのまま吹き飛ばされて乗ってきたリムジンに激突した。

 車体が凹むほどの衝撃が走り、勢い余って横転する。

 

「……、」

 

 下敷きになって動かなくなったヴァイキング。

 真祖の吸血鬼として、常人離れした膂力は自負していたが、今のは人並み程度に力を入れてない。ヴァイキングを一撃でのしておいてなんだが、そこまでやるつもりも、やったつもりもなかった。

 

「眷獣すら出さずに悪漢を倒して退けるとは、流石です古城」

 

 俺は何もやっていない、と弁明したいところであるも古城にそんな時間は与えられなかった。

 

 さらに追ってきた車。それも複数台。停めてすぐ中から数人の男が降りてくる。黒のスーツにサングラスと如何にもSPな服装。その下車するときの身のこなしや、ヴァイキングの男を庇いながら陣形を展開するそれは訓練されたもの。

 つまり、相当なプロが警戒態勢でわらわら現れてきているという事実……

 

 ……あれ?

 ひょっとして、あのラ=フォリアを追ってきた蛮人な悪漢は見かけによらず、相当なお偉い(VIP)さんなのか?

 

 ジャキッ。

 

「動くな」

 

 気づいた時には、周囲を円状に取り囲まれていた。

 

「ご無事ですか、国王陛下!」

 

 そして、ヴァイキングの下に駆け寄った黒服の発言に、古城と雪菜はぎょっとする。

 

「オッサンまさか……っ!?」

 

 双角の兜を脱いだその顔は、百獣の王の如き。

 そう、それは電光掲示板でラ=フォリアと共に映っていた―――

 

「アルディギアの……」

 

 雪菜も気づき、言葉を失くす。

 獅子王機関より伝えられていた写真つきの個人情報で知っている。

 

 アルディギア王国、第11代目国王ルーカス=リハヴァイン。

 元々はアルディギアの『聖環騎士団』の一員であったが、“とある事件”を契機に退団し、傭兵として世界各地を飛び回っていたことのある益荒男。

 百戦錬磨によって鍛えられたその威容、今年で44歳になるが戦時となれば最前線で味方を奮い立たせる、まさしく武王と呼ぶべきもの。だが、特筆すべきはその力だけでなくて、『戦王領域』や『北海帝国』という大国に挟まれたアルディギアを、バランス感覚に優れた政治手腕で、硬軟織り交ぜた巧みな外交で繁栄させてきている、強かさももつ王である。

 

 それほどの大物が何故ここに?

 そもそも彼とラ=フォリアは……

 

 古城と雪菜が唖然と沈黙の間に呑まれている中で、第一王女、つまりはこの武王様の娘は古城の首に腕を巻いて体全体で密着するように抱き着きながら、言った。

 

 

「お父様! この方がわたくしの“初めて”を捧げた<第四真祖>―――暁古城です!」

 

 

ファミレス

 

 

 かつて言われたことだ。

 『仮面憑き事件』の最中、兵器実験用無人島『金魚鉢』で、姫御子は確かに古城に言った。

 父であるアルディギア王は、娘であるラ=フォリアを大変溺愛しており、その娘の純血を奪う男がいるのならばその不届き者に軍を率いて成敗するでしょう、と。

 

 アルディギア現国王ルーカス=リハヴァイン。

 豪放偕楽を絵にかいたような人物。感情的であり失言が多いが、それでも国民に対する愛情あふれる言動のため、国内での人気は高い。

 国内だけに留まらず全世界に熱狂的なファンを持つ姫御子の第一王女とは似ても似つかない、美男子とは程遠い容姿であるも、その無骨さが勇士と映り人を引きつけるのだろう。

 

 だから、冗談抜きで彼の一存で戦争を起こしてしまうほどのカリスマがあるのだ。

 

「(ラ=フォリア、こいつは一体どういうことなんだよ!?)」

 

 ひょっとして、調印式というのはダミーで本当は<第四真祖>討伐に乗り出してきたのか!? そんな可能性もなくはない。そんな戦争の引き金を引くような真似はないと信じたいのだが、武王ルーカスの威圧的な眼光を前にしては、予断を許してくれない。

 

「(いいから、私に調子を合わせてください古城)」

 

 大勢のSPに占拠され、貸切にされたファミリーレストラン。ウェイトレスの女の子や店長は間違っても粗相をしてはならない、下手をすれば店が潰れかねない状況に、戦々恐々。

 その一席で、古城は通路(退路)側を塞ぐようにラ=フォリア、そして窓際で窓ガラスに反射するこちらの顔をジト目で見ている雪菜、両手に花ともいえる美少女に挟まれている状況に古城はいる。そして、ものすごく睨まれている。もう物理的に圧さえ感じるような眼光で、古城に穴を空けるように。

 

「(っつか、なんで海賊(ヴァイキング)?)」

 

「(お父様の生まれ故郷の民族衣装なんです)」

 

 こそこそと耳打ちするラ=フォリア。その体勢は古城の肩にしなだれかかっているようにも見えて、顔が近い。言い合っている様も、親しげで―――これ以上の猶予は許さん。これまで沈黙を保って相手の出方を待っていたルーカスは腕を組んだまま口を開く。

 

「貴様が、<第四真祖>か」

 

 ふっ、と失笑を零し、

 

「真祖と言うにはあまりに冴えない男だな。これでは『長老』や『貴族』の方がよっぽど迫力があるわ」

 

 余計な御世話だ……

 と愚痴をコーヒーの中に零すようにカップに口を付ける古城。だが、

 

「で、そちらが獅子王機関が派遣した<第四真祖>の愛人か?」

 

 ぶほっ!? と思いっきりコーヒーを飲んだまま拭いた古城。雪菜もその爆弾(はつげん)には我関さずとはいかない。

 

「愛人!?」

「違います! 私は<第四真祖(センパイ)>の監視役として派遣された剣巫です! ―――ですよね、先輩?」

 

「ああ、そうだな姫柊」

 

 古城に引っ付いてきて確認を問う雪菜。以前に『戦王領域』からの使者ヴァトラーにも同じようなことを言われたが、まさかまとも(娘さえ関わらなければ)な人物からもそう言われるとは思ってなかった。

 

「オッサン、妙な誤解は勘弁してくださいよ」

 

 が、疑惑に狭めた目を緩めない国王。言を否定しても、実際に横に引っ付いて、雪菜を侍らせているようにしか見えない古城の姿は頷かせるには説得力が足りない。

 そこへ、雪菜とは反対側からラ=フォリアが、ひしっと古城の腕に抱きついて、

 

「それに、もし愛人だとしても問題ありません。『英雄色を好む』、愛人の5人や10人を覚悟せずして、どうして<第四真祖>が愛せましょう。

 もし、お父様がどうしてもわたくしに結婚しろとおっしゃるのなら―――わたくしは暁古城を結婚相手に希望します」

 

 ―――結婚!?

 

 これまで展開に追いつけなかった古城らだが、そこでようやく大まかながら事情を悟った。

 ラ=フォリアは、父ルーカスより婚約相手を選ぶように迫られていたのだ。婚姻の結びつきは強固。まして、遺伝的に女児に高い霊媒素養の子供が生まれるアルディギア王家の姫御子。今でこそ和平が成立し、これからも条約を更改するつもりであるも、かつてはアルディギアと『戦王領域』は国境を巡って常に争いを繰り返していた。その『戦王領域』は隣国を吸収しては、領土を広げ、その王族の娘を人質にとる――実際に、アルデアル公の船<オシアナス・グレイブⅡ>で古城はその人質の彼女たちと会ったことがある。

 ならば何故、隣国のアルディギア王国が『戦王領域』に支配されず、第一王女であるラ=フォリアが人質に差し出されていないのか。

 答えは、姫御子に宿る強力な巫女の力だ。『精霊炉』に『疑似聖剣』といった魔族を退ける圧倒的な力が『戦王領域』の侵略を退けたのだ。

 つまり、姫御子の相手に選ぶというのは、国家そのものを託すに相応しいもの。そうでなければならないのだ。

 だから、ルーカスは納得できるだけの格を持った、家柄、容姿、実力など優れた人物と、ラ=フォリアを縁談させようとしたのだが、それを断られた。

 

「い、いいか。儂は誰でもいいから結婚しろと言っているのではない。というかだな、むしろ、その……」

 

 これまでの威厳に満ちた口調が段々と尻すぼみに小さくなり、聞き取れない。

 が、なんとなく古城は心情がわかるような気がする。きっと娘が大事なのだ。本当は誰の嫁にも出したくないくらいに。だから、心配する。将来の相手にも口を出す。

 

「(つっても、それでこんなにも大げさにされるのは困ったもんだけどな)」

 

「(……それ、なんとなくですけど、先輩が言えるようなセリフではないと思います)」

 

 ここに来て初めて巌の如き頑固不動の構えからたじろぐ父国王を逃すラ=フォリアではない。

 物腰は優雅で気品に溢れ、その施策は思慮深く慈愛に満ちていると称賛されているラ=フォリアであるも、一部の政敵からは強かでタフな外交家であると警戒されているのだ。

 

「でしたら、わたくしが伴侶になるべき殿方として選んだ古城はお父様を見事に返り討ちにして見せました。そう、これまで、わたくしの伴侶候補に名乗り出た者たちを『力比べ』で一蹴してきたお父様を、です」

 

「ぬ、ぐぬぬぅ……」

 

 揺るぎない“事実”を告げられて、呻くルーカス。

 古城とすれば先ほどの『力比べ』が疑問しかないのだが、傍からでは一対一でこの武王を撃退したようにしか見えないのだ。

 ジロリ、と片手斧こそ取り出さないが、貫かんばかりの視線を古城に向け。

 

「―――いいか、第四真祖! 儂に勝った程度で頭に乗るなよ!

 我が<ビフレスト>には、最新型の軍用魔導兵器が多数搭載されておる。人型サイズの『ベルゲルミル』。それより大型の『アウルゲルミル』は、『長老』や『貴族』といった『旧き世代』の眷獣には敵わんだろう。しっかーし、『アルルゲルミル』は大型機体の中でも最弱の兵器である。まだまだ他にも『ロキ』、『トール』、そして最終兵器『オーディン』が控えておるのだ! だから―――」

 

 力み過ぎてその腕には血管が浮き、強面には青筋が立ち始める武王。

 冗談じゃ済まされないかもしれない、と古城は息を呑む。

 このままでは世界最強の吸血鬼と北欧王族専用装甲飛空船との戦争に突入しかねない。

 ここは何としてでも、ラ=フォリアには説得してもらうしか……

 

「あらあら、落ち着いてくださいな」

 

 と、別の声が国王を諌めたのだ。

 中も外も大勢のSPに警護されているこのファミレス店内に、その相手はそっと入ってきた。

 

「だから、言ったじゃないですか。きっと本末転倒になるって」

 

「お母様!?」

「ポリフォニア!?」

 

 雰囲気も口調もおっとりとした銀髪碧眼の女性は優美に微笑した。

 しなやかな体のラインを強調する帽子と同じ色の紫紺のスーツドレス。ほっそりした首には真珠のネックレス。花弁を思わせる唇に、蠱惑的なほど白いうなじ。神に愛された彫刻家が、渾身の(のみ)を振るったかの如き天与の美貌―――そう、アルディギアの第一王女ラ=フォリア=リハヴァインと同じ。

 

 そう、彼女こそはラ=フォリアの母にして、アルディギア王国王妃ポリフォニア=リハヴァイン。

 一児の母であり、36歳でありながら、娘のラ=フォリアと並んで姉妹に見える若々しい美貌。優しく穏やかな性格で、何事にも動じない大きな度量を持っており、おっとりしているようでもその優れた直感力は幼少から仕掛けられてきた幾度となく暗殺を察知し、さらにはその全て無傷で乗り越えてきたという強運の持ち主である。

 

「ラ=フォリア。お父様はあなたと第四真祖の関係を危うんで、他の方との縁談を勧めようとしたのですよ」

 

「はい……それは存じておりますお母様」

 

 つかみどころがない性格で、合理的な現実主義者である、つまりは目的のためには手段を選ばないタイプである策略家のラ=フォリアでさえ、ポリフォニアにだけは逆らわない。

 

「あなたも。何であれ、『力比べ』で一度負けを認めたのですから、ラ=フォリアの言い分を聞いてあげてくださいな」

 

「いやな、ポリフォニア。儂は完全に負けを認めたわけじゃ」

 

「あなた?」

 

「はい」

 

 と王族になる前、“ある事件”をきっかけに騎士団を脱退し、傭兵として世界を巡っていたルーカスは、ある時、巻き込まれた事件で身分を隠して外遊していた王女と知り合い、その後既成事実を積み重ね。気が付けば成り行きで国王にされており、王女の正体を知ったのは結婚式当日という、

 そんな二人の馴れ初めであるものの、国王夫妻の仲は円満で、して、婿養子故、ルーカスは妻には頭が上がらない。

 ポリフォニアの笑みに、低頭するルーカスを驚いたように見つめる古城へ、彼女は視線を移すと、帽子を脱いで、

 

「わたくしは、ポリフォニア=リハヴァイン。娘と妹がお世話になったようですね暁古城さん」

 

「妹?」

 

 心当たりの浮かばない古城が疑問符で語尾を上げると、すかさず愛人、ならぬ監視役の雪菜が耳打ちでフォローを入れる。

 

「(夏音ちゃんのことです)」

 

 古城とも知り合いの彩海学園中等部に通う叶瀬夏音は、先代国王の隠し子。ラ=フォリアのお爺様の娘。つまり、ラ=フォリアとは叔母の関係であり、その母であるポリフォニアとは異母妹(しまい)の関係となるのだ。

 ああ、そうか、と雪菜の事情説明に古城は納得する。

 言われてみれば、『中等部の聖女』と呼ばれる夏音と似通った雰囲気で、夏音を丁寧に丁寧に大人になるまで育てたその未来予想図と言われれば納得してしまう。言うならばポリフォニアは『北欧の聖母』と言うような感じである。

 

「いろいろ伺いたいことがあるのですけど、これ以上お店の皆様(スタッフ)にご迷惑をかけるのは申し訳ありませんし」

 

 激しく首を縦に振って同意を示す店長とウェイトレス。店ひとつを貸し切るには多分な代金をいただいてはいても、強面のSPに埋め尽くされ、囲まれる状況は一般人の心臓には好ましくない。

 

「古城さん、それに剣巫のお嬢さんも。実は今夜、パーティがあるんです」

 

 そこで、ふと、古城たちの背後に目を留めたかと思うと、うふ、とポリフォニアは笑みを深めて、

 

 

「是非、皆さんをご招待させてくださいな」

 

 

???

 

 

 流石に警備が固いわね。

 

 小国とはいえ、第一真祖<忘却の戦王>の『戦王領域』と渡り合ってきた北欧アルディギア。

 その武を率いるのは王であるが、何よりその武を支えているのは王族女系の資質。彼女らをひとりでも手に入れれば、『夜の王国』と渡り合えるだけの技術が手に入るのだ。

 故に、その警備は厳重。潜り込むだけでも大変なのに、そこから掻っ攫うとなれば、これほどの難事はそうそうない。加えて、対象が同性である以上、こちらの“能力”も効きづらい。

 

 隙を見つけるのは難しいかも。

 

 もう一つの候補に挙げられている女児もいるが、そちらはあの<空隙の魔女>が後ろ盾となって保護されており、アルディギアからも腕の立つ要撃騎士を身辺警護に派遣したと聞いている。数こそ少人数だが、質があまりにも比べものにならない。しかも、大魔女も要撃騎士も女性である。

 

 だけど、諦めるつもりはない。

 

 標的――我らが組織の最後の指導者を玩具にするだけでなく、暗い牢に閉じ込めているあの男を殺し、

 幼きころ、虐げられてきた環境より解放して、我らの誇りを思い出させてくれた恩人たる指導者を救い出す。

 そのためには、使える“異性の駒”が―――

 

 あの少年は……! 北欧の姫御子の隣にいるのは、<第四真祖>!

 

 莞爾と頬が緩むのが自分でもわかる。

 いた。

 状況の突破口となりうる、世界最強の吸血鬼が。

 

 

ホテル

 

 

「あーあ、結局、巻き込まれちまったな」

 

「仕方ありません。何しろ、相手はラ=フォリアさんですから」

 

 用意された白の礼服を着て、迎えに来たリムジンに乗り込む。

 そうして、晩餐会を行うホテル到着した古城だが、やはり圧巻だ。このような政治的な社交界は、以前、ヴァトラーの船上パーティで経験しているものの、やはり一般市民がそう慣れるものではない。

 

「にしても、すげぇ警戒っぷりだな。王族が来てるから当たり前なんだろうけど」

 

 煌びやかなホテル前には装甲車が並び、装甲服を着た特区警備隊が警戒している。

 こうしてみると改めて、ラ=フォリアらが相当なVIPであるとわかる。

 と、着慣れない礼服の感覚に戸惑う古城に、その上品なネクタイの位置を調整する雪菜は言う。

 

「テロ対策でしょうおそらく」

 

「テロ?」

 

「はい。今回の調印式については不穏な動きがいくつかあるようなので」

 

 『<第四真祖>の監視役』という任を最優先とする雪菜にはあまり多くの情報は送られてはいないが、アルディギアが、わざわざ最新鋭の装甲飛行船<ビフレスト>で来たのも、到着日時の偽情報(ダミー)を流したのも、おそらくテロ対策のためであると予想する。

 

 かつては戦争をしていた『戦王領域』とアルディギアの両国であるも、停戦してから戦争に割いていた分を国力の発展に回し、両国ともに繁栄している。もしこれで停戦条約が更改されれば、国の威勢はさらに高まるだろう。

 ―――もし、それを望まぬ者はいるのだとすれば……

 

 

 

 明日の調印式の前夜祭として開かれた国王主催の夜会。数百人も招かれた大規模な立食パーティは、ホテルの最上階ワンフロアを貸し切って行われている。

 

 それほどの立食パーティとなれば、料理を用意するテーブルも中央に一つ、と言うわけにはいかない。ホテルの最上階を丸々使ったパーティホールには左右の壁際及び中央の前、後ろ、真ん中に三つずつ、ただし右奥の一角だけは除いて、合計八つの大テーブルが用意され、舌の肥えた上客重鎮たちの舌鼓を打つ料理が空にならぬよう次々と補充されている。

 

「王様ってのも大変だよな。つくづく普通の平民でよかったと思うぜ」

 

「<第四真祖>の先輩が言ってもあんまり説得力がありませんけど」

 

 ホール会場を見回しては、感心を通り越して呆れてしまう古城。それにごもっともな指摘を返す雪菜。

 パーティのドレスコードで、今日の彼女はワンピースタイプのイブニングドレス、腕や背中、そして首筋がいつもよりも露出しており、如何にも背後から噛みつき易そうな衣装で、吸血鬼の古城には目に毒である。そんな無防備にこちらに向ける背中を眺めてるうちに鼻あたりに血が集まっていく兆候を感じて、古城は視線を逸らして、そこで聞き慣れた声が響く。

 

「―――へぇ、そういう恰好、初めて見るけどそこそこ様になってるじゃない、古城」

 

 そこにいたのはやはり見慣れた少女。ただし来ているのはいつもと違う、雪菜と同じワンピースタイプのドレス、そのベアトップで胸元が強調されているためこちらも目のやり場が困る。

 

「浅葱!? なんでお前が?」

 

 古城の白のタキシード姿をふんふんと眺めるのは、藍羽浅葱。古城のクラスメイトで、<電子の女帝>とハッキング業界では有名な、でも、それがどうしてアルディギアの晩餐会に参加している?

 そんな古城の疑問に答えたのは、もう一つの声だ。

 

「今日の昼ごろにいきなり招待状が届いたんだよ」

 

「矢瀬まで」

 

 ちょうど浅葱の近くにいた、同じクラスメイトで礼服姿でもトレードマークのヘッドフォンを首に下げた矢瀬基樹が、古城によっと片手をあげながら、挨拶を交わし、

 

「どうやら、お前と夏音ちゃんの関係者が集められてるっぽいぜ。

 見ろよ、ほら」

 

 矢瀬が親指で示すその先。

 そこには……

 

「あ、やっほー、古城君!」

 

「凪沙!?」

 

 こちらに気づいて、大きく手を振る妹の暁凪沙と皿に料理を取りながら立食パーティを満喫してるアスタルテ。何かの間違えで紛れ込んだというわけではなく、きちんと二人ともドレス姿で、パーティに参加している。

 

「お前、今日は友達のところに泊まるって」

 

「えへへ。実は夏音(かの)ちゃんに一緒に来てって頼まれてたんだ。今日は親戚の人に会うからって」

 

 アルディギアと関わりのある夏音と凪沙は親友で、その伝手でこのパーティに参加したのだろう。

 そして、

 

「アスタルテ、お前も来てたのか?」

 

「肯定。教官(マスター)に招待状が届いたため」

 

 もぐもぐとよく咀嚼し、口に入れた料理を消化してから、人工生命体(ホムンクルス)の少女は古城の質問に回答を述べる。

 となると、先の矢瀬の推測通り、夏音の関係者たちが古城と同じように招待されているのか。

 

「なるほど、叶瀬が今住んでるところはお前たちのいるところだもんな。呼ばれるのは当然……って、那月ちゃん本人は? それにクロウも?」

 

 幼い見た目ながらもカリスマ性をもつ担任教師と、以前、ヴァトラーのところでの立食パーティで大食いチャレンジしていた後輩、あの大変目立つであろう主従がこれまで古城が見る限りどこにも見当たらない。

 

「教官は仕事で遅れてくる模様……先輩は仕事の最中です一応」

 

「そうか」

 

 先ほど雪菜が言っていた通り、テロと思しき不穏な動きがみられる。どうやら別行動しているようだが、その警護役で二人は忙しいのだろう。

 ひょっとするとこの晩餐会で後輩には会えるのかとは思っていたのだが……

 

「? 凪沙、お前そんな山になるほど料理を皿に取っちまって大丈夫か」

 

 そこで、ふと古城は気づく。

 凪沙の持つ取り皿に盛られた料理。普段とは違う場の空気に当てられたのだとしても、その量は彼女の胃袋のサイズからして多すぎる。浅葱のような胃袋ブラックホールな性質ではあるまいし、むしろ小食の方だと古城は認識していた。

 

「あ―――これ、うん、そうだね。珍しい料理がいっぱいでつい目移りしちゃってたうちにひょいひょいってね。……これだけあればどんな味付けが好みだとかわかるし、今後の料理の参考にしようかなー、とか思ったりしてね」

 

 古城は好奇心旺盛な妹に呆れの溜息を零す。

 

「おいおい、いくらバイキングだっつってもな、一度取った料理は戻せねぇんだぞ」

 

「わかってるよ。ちゃんと全部残さず食べます!」

 

「はぁ……ったく、その皿よこせ。俺が処理してやる」

 

「いいってば、これでも足りないくらいだって思ってるんだから。じゃあね古城君!」

 

 取り皿に手を伸ばす古城から、口早に別れを告げて逃げるように凪沙はその場を離れていく。

 なんとなくそれを怪しむ古城が凪沙を視線で追うも、その横からまた新たな声が、その注意を逸らした

 

 

「ゆっきなーっ!!!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 それは古城君(あに)たちが来る、ほんの10分前のこと。

 

 

 アスタルテと一緒にパーティ会場にやってきた暁凪沙は、実は少し緊張していた。ドレスを着飾って、晩餐会に出席という一般人にはなかなか遭遇しないイベントに、兄古城と同じように慣れてなかったのもあるけれど、今日ここにあの少年が来ている。

 

 『妃崎』というお姉さんと遭遇したその日から、より強くそれを決めた凪沙はそのマシンガンな弁舌を振るって、一緒に登校する必要性を訴えた。凪沙にも部活の朝ミーティングがあり、彼にも仕事があることから互いの都合のいい日にし、そして互いの家からちょうど中間地点で待ち合わせすることにするとこまで、放課後のるる屋で取り決めることに成功。それで注文したアイスがとけかけになってしまったけれど、それはそれで美味しいし、成果にも満足。

 それで前日夜には朝の予定を連絡し合うことが習慣になって、今日のことも昨日から話は聞いていた。

 

 北欧から来訪する王女様からご指名を受けて、そのボディガードをすることになった、と。

 そして、夏音の親友であることからこの晩餐会にも誘われて……つまりは、彼の仕事場にやってきたわけである。

 

 彼が警備隊の仕事をしていることは凪沙も知っているが、それを実際にお目にかかれたのはそうそうなかったりする。『黒死皇派』というテロリストに攫われた時に救出してくれたそうだがその時凪沙は意識を失っていて、この前の宿泊研修の事件でもいつの間にか来ていたようだけどその時も凪沙は意識を失っていて、唯一悪漢から助けられた場面で覚えているのは、『波朧院フェスタ』で母深森や幼馴染の優麻を襲ってきた魔術師を撃退した時。それすらもあっという間に終わり、凪沙も話しかけられもせず、ぼうと呆けたままであった。そう、今でもあの時のこと――あの時の彼の姿を思い出すだけで、ぼうと……………

 

(―――っ! ダメダメ! 今それを思い出すのは危険だよ! 顔も合わせられなくなっちゃう! そう、クロウ君は33点の朴念仁!)

 

 全力疾走した直後のように激しく高鳴る心臓のある左胸を押さえながら、自己暗示のように何度も念じながらどうにか気を落ち着けさせる。

 仕事の邪魔をする気はない。彼がする仕事は危険なものだと理解している。だから、遠くから働くその姿を見られれば十分で、邪魔でなければ挨拶して、それから応援ができれば満足だ。

 

 途中で合流したアスタルテから、彼がこのホテルにいる王女の護衛についていることを確認した凪沙は、パーティホールに入ってからその少年を真っ先に捜した。

 

 で。

 この時の凪沙の心理状態は昂揚しており、ここのところ体調も調子が良かった。そう、勘が冴えていた。

 

(うーん……どこにもいない、ように見えるけど……)

 

 かつて伝書にも使われていた鳩はその頭の中に方位磁石のようなものがあるそうだが、凪沙もそのように何か隠れた違和感を捉える感覚があった方向に目を凝らす。

 

 『4年前のテロ事件』で、その力を失ってしまっているが、暁凪沙は父方の祖母から受け継いだ霊媒としての素養と、母親から受け継いだ<過適応者>の超能力を併せ持つ、極めて稀少な混成能力者(ハイブリッド)であった。

 その力は、人間が感じ得ない何かを感じ取る。超音波診断《科学》と探査魔術《魔術》の両方さえ見つけ出せないものですら、探し出せる精度を持った感性。獣人でありながら超能力者である混成能力者と比較して、覚知範囲こそ劣るものの、その受信感度は上回る。

 

 とはいっても、その受信感度を最大限に発揮するために、祖母より教わった水垢離や精神統一等をしなければならないのだが、この時の凪沙は、逸る気持ちを冷静に抑えているというスポーツ選手が試合前の理想的な精神状態に入っていた。

 それが久しく覚えなかった混成能力の感性を起こしたのかどうかは定かではないが、凪沙は直感的に、誰もいないはずの空間に視線をロックオンし、その名前を呼びかけた。

 

「……クロウ、君?」

 

「……むぅ、よくわかったな凪沙ちゃん」

 

 姿こそ現さないが、呼びかけに答えてくれた。それには事前に話は聞いていてもどこにいるかは教えられていなかったアスタルテも驚く。でも見つけた当人の凪沙も驚いたし、見つけられた彼もすごく驚いている気配を感じ取れる。

 

「師父からも太鼓判が押されてたし、隠れるのには結構自信があったんだけどな。すごいぞ凪沙ちゃん」

 

「あはは……うん、勘かな。なんとなくそこにいるかなーって。ずっと前に似たようなことがあったような気がしたしね」

 

「そうなのか。凪沙ちゃんの勘は侮れないな。オレでもこう“匂い”がごちゃごちゃしてるところじゃ嗅ぎ分けにくいのに」

 

「うん、すごいでしょ。って、こんなにも調子がいいのは久しぶりなんだけどね―――あ、クロウ君仕事中なんだよね。姿を隠してるってことはバレちゃいけないってことなんだし、凪沙が話しかけたらまずかった?」

 

「うーん、警護するには別に姿を隠さなくていいんだけど、前に北欧(アルディギア)に行ったときに、あそこの王様と決闘してなー」

 

 先代国王の隠し子騒動で城にご厄介になっていたとき、『一人の戦士として、『力比べ』をしたい』と現国王と一騎打ちを挑まれた。『戦王領域』と不可侵を結んでから数年、戦場より離れていた現国王は実戦の勘を取り戻せておらず、はっきりいって一対一では相手にならない。だが、それでも相手は現国王。客人の少年に勝負を挑み返り討ちにあったとなれば、風聞が悪い。そこのところを騎士団の要撃騎士ユスティナ=カタヤから厳重に注意された(王女は『けちょんけちょんに叩きのめしてもかまいませんよ』と笑って言っていたが)―――だが、クロウは、手加減は覚えていても、上手に負ける接待の仕方は知らない。

 して、武王と1時間ほど打ち合った。

 最初の方は武王の熟練した武技に圧倒された、けれどそれを人間離れした反射能力と力業で防いで凌ぐ、そして30分が経過したあたりから老齢からのスタミナ不足で息切れし始める武王の攻撃は精彩を欠いていき、こちらもだいぶ目が慣れてきた。そのころからほぼ攻撃は防がずに、最小限の動きで躱すようになっていた。けれど、どうやって負けるかに悩む。そして、このころから武王の表情は険しいものとなる。

 

『何故、儂を攻撃せん』

 

『だって、お前、王様だし、怪我とかさせちゃったらまずいんだろ?』

 

『今、ここにいる儂は国王ではない。一人の戦士として立っているのだ。それを侮辱するつもりか!』

 

 自分が振るう得物の片手斧にさえ振り回されるほど消耗している。だが、その気迫は1時間経過してもなお衰えず、ますます盛んに燃え上がる。そして、吼えながら我武者羅に叩きつけてきて……

 

「で、接待とか難しいこと考えず、もうこうなったら一発ぶん殴ってから考えよう、って……そしたら綺麗にカウンターが入っちゃって王様気絶しちまったのだ。オレが勝ったんだけどすっごく睨みつけられるようになったぞ」

 

 決闘に勝ってしまったことについて、カタヤら騎士団は唖然としてしまったが、お叱りを受けるようなことはなかった。むしろ、後でその妻のポリフォニアからは謝罪と礼をされる。

 だが、決闘の後から国王ルーカスには睨まれるようになった。

 そうして、そのまま時は過ぎ、絃神島に帰り、途中で『仮面憑き』に船を撃墜される……つまり仲違いしたまま別れたのだと。

 

「だから、警護するんだけど、また因縁つけられないように王様には内緒でそれも会わないように、って姿を隠すことにしたのだ。他にもフォリりん()から頼まれ事があるけど、警備してるのは誰にもバレちゃダメだって。忍者は目立たず主の影に隠れて主をシークレットサービスするものだーって言われて、こうなってるんだぞ」

 

 いることは内緒にしてほしいと頼まれ、それで事情を聴いたところ、彼は大変で、面倒なお仕事をしているのがわかった。

 

「大変だね。ごめんね、なんか仕事の邪魔しちゃって……」

 

「う。見つけた凪沙ちゃんと話しかけるくらいなら問題ないぞ。見つかったオレがまだまだ未熟なだけだ。それに、なんかバレたのは悔しいけど、ちょっぴり見つかって嬉しい気がするのだ……でも」

 

 見えないけれど、その視線が隣でもぐもぐと料理を食しているアスタルテへと向けられる気配を凪沙は察知する。

 

「隠れたまま料理をとったら不自然だから、せっかくのご馳走があるのに手が出せないなんて生殺しだぞぉ、アスタルテェ……」

 

「美味。仕事中で頂けない先輩に代わって、感想をお送りします」

 

「それは気遣いじゃなくて、意地悪だと思うぞ後輩」

 

 人一倍食欲旺盛な育ち盛りの少年に、この状況は苦だろう。何せこの晩餐会のテーブルに並べられる料理はどれも絶品である。仕事中でもこれはかわいそうかな、と思った凪沙は提案する。

 

「じゃあ、私が皿に取ってきて食べさせてあげる」

 

 

 

 そうして、周りにはバレないようにクロウにご飯を食べさせていた凪沙が、その途中で古城に呼び掛けられ、何かを勘付かれるもやや強引にそれを躱し、彼のいる人目につかない植木を挟んだ壁際へ戻る。

 

 そして目撃する。

 真新しい蒼銀の法被を羽織り、その下に軍服と和服を足して二で割った、SF宇宙映画に出てくるライトセーバーを操る超能騎士のような忍装束(忍者同志(カタヤ)のデザイン案)を着た南宮クロウの姿を。

 それは乙女心的なものが限界突破(リミットオーバー)し、そこまで鮮明に凪沙の知覚能力が覚醒したわけではなく。

 単に、クロウの透化が解かれているのだ。

 

「お、おかえりだぞー」

 

 そのことに気づいてる様子もなくて、本人は今も隠れているつもり。銀装飾の古めかしい腕時計を付けた右手をふるふると振ってる。そして、声もどこか間延びしてる。それに父牙城のことを思いだした凪沙は、試しにクロウの目の前でひらひら手を振るが、何の問題もない。遠くを見つめすぎていて瞳孔も反応してない感じ。

 

「もしかして、相当酔ってる?」

 

 そう、この様子は、べろんべろんに酔い潰れていた駄目父と重なっているのだ。

 

「ん。酔ってないぞ。オレは毒が通用しなんだぞ」

 

 ぶんぶん、と首を横に振るクロウ。

 凪沙は知らないが、彼は自然界だけでなく魔に関わる非自然界の毒でさえも効かない体質……だが、それが毒でなければ?

 

 この国の鬼討伐や大蛇退治の際に、酒に酔わせて騙し討ちしたという伝承がある。

 

 凪沙は一端料理を盛った皿を近くのテーブルに置いて、深く嘆息。それから彼を隠すようにその前に立ち、両手を腰に当てるポーズを取る。

 

「酔っぱらいはみんなそういうよ」

 

「酔うも何も、ご主人からお酒ダメって言われてるからなー。オレはお酒を飲んだ記憶はこれっぽっちもないヒック」

 

「じゃあ、そのグラスは何なの?」

 

 脇のテーブルに大量のグラスが置かれて、そのうちのひとつはキラキラと光る琥珀色の液体が半分ほど減っている。状況推理から察するに、凪沙から食べさせてもらって、きっと喉が渇いてしまったのだろう。それで、つい手を伸ばしてしまい……

 

「? ジュースだぞ。お酒じゃない。お酒って、にっがぁいからなー。でも、これは匂いも味もあまたくてー、ハチミツみたいでー、オレ、ハチミツは森のころからの好物なんだぞー」

 

 ものすごく上機嫌に語るクロウ。

 残念ながら、これはジュースではなく、蜂蜜酒である。凪沙も料理の味付けを見るように少し手の甲に垂らして舌で舐め取ってみたけど、酒なのにアルコールの香気は巧く隠されていて、甘い。これならすいすいと飲めてしまいそうだ。

 ブドウの栽培が難しい北欧地域では、ワインよりも蜂蜜酒が好まれると話が聴いたことがあるけど、故に他よりも研鑽されて高品質に仕上げられているのだろう。晩餐会のためにわざわざ飛空船に乗せて持ってきたアルディギア王家御用達は極上の一品『詩の蜜酒』。

 ただし、ほんの少し舐め取った凪沙でもあまりの味覚の快感に酔ってしまいかけたほど。飲み慣れないと、芳醇かつ爽快な甘露は嗅覚を消し飛ばし、視覚や触覚までも霞ませてしまうくらいに強烈である。それを何杯も飲めば、酒に呑まれて、透過が解かれるのも無理はない。が、問題である。

 

「診察。どうしようもありませんね」

 

 水を一杯持ってきた、クロウに指導鞭撻されている後輩な立場のアスタルテ。眷獣共生型人工生命試験体であるが、元々は医療用として作られたため、医療系の知識は医師免許取得者とほぼ同等。一瞥するだけでその症状はしれた。

 

「むぅ。ヒック。オレちゃんと仕事するんだぞー」

 

「退出。酔いが抜けるまで先輩は戦力外です」

 

 アスタルテに水を飲まされ介抱されるクロウ。微動だにしない表情筋が、この時ばかりは呆れてるように見え、その無機質な瞳が凪沙にむけられる。

 

 

「代行。私が王女の護衛についておきます。

 ―――申し訳ありませんが、先輩をお願いできますかミス凪沙」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「そのドレス姿もすっごく可愛い! さっすがゆきなん! ―――で、あんたもいたの暁古城」

 

「煌坂!?」

「紗矢華さん!?」

 

 ホルタ―ネックタイプのドレスを着た美少女。

 感極まる歓声を上げて、ルームメイトの妹分に抱きついてきたのは、やはり煌坂紗矢華。

 獅子王機関の舞威姫として、雪菜よりも早くに数々の任務に取り組んできた彼女は、明日の警備の打ち合わせでこのホテルに来たのだそうだ。

 明日の調印式は『戦王領域』との式典。北欧の第一王女の案内役に駆り出される獅子王機関の舞威姫は、『戦王領域』の外交大使でありながら、『真祖に最も近い吸血鬼』と危険視される戦闘狂<蛇遣い>ディミトリエ=ヴァトラーの監視役でもあった。

 

「―――てことは、まさか」

 

「残念と言うか、幸いにと言うか。アルデアル公ならいないわよ。本国から式典出席者を迎えに行ってるから」

 

 紗矢華の事情を聞いて辺りを警戒する古城だが、あの戦闘狂で色んな意味で古城を喰いかねない青年貴族は一応外交大使である。たとえ、戦う機会が減る不可侵条約更改のためであろうと本国よりの仕事はきっちりとこなすのだろう。つまり、今の絃神島に古城の平穏を脅かす存在はおらず、

 

 

「―――古城!」

「―――お兄さん! 雪菜さん!」

 

 

 訂正。ヴァトラーと同じようにつかみどころのない姫御子は来訪してきていた。

 呼びかけてきたのは、ラ=フォリアと夏音。古城らはホールの右奥隅に用意された王族たちのいる区画(スペース)へと移動する。

 『中等部の聖女』こと叶瀬夏音がアルディギア国王夫妻にラ=フォリアに囲まれながら、笑みで迎える。

 幸福や愛を意味する胡蝶蘭の色は夏音に相応しいもので、ウエストからヒップでいったん広がるシルエットが、ボディラインに沿って足元へと次第にすぼまっていくマーメイドドレスは、彼女の黄金律にバランスの整った女性的な肉体を強調する。光り輝くティアラで銀髪を飾り、一段と神々しさが増しているよう。見るだけで幸を得そうな眼福物である。

 

「来てくれて嬉しかったですお兄さん、雪菜さん」

 

「そう言う格好してるとホントよく似てるな叶瀬とラ=フォリアは」

 

「姉妹みたいです」

 

 ラ=フォリアもまた夏音と同じマーメイドドレス。背中がばっさりと開いて素肌をさらし、夏音よりも女性的に豊満な肉体は、古城の目にはやはり扇情的過ぎるものだ。

 

「正しくは叔母と姪なのですけどね」

 

 ラ=フォリアが訂正を入れるものの、雪菜の言うとおり姉妹にしか見えないふたり。一目で確かなこの血の繋がりに、夏音は喜びを噛み締めるようにはにかむ。

 

「アルディギアには他にも親戚がたくさんいるそうです。ウソみたいでした。私をこんな風に迎えてくれるなんて……」

 

 合わせた両手を胸に抱く。この人との繋がりから生まれる温かな熱を胸に入れるように。夢のようで本物なシンデレラストーリー。天涯孤独の身であった夏音が、王族に受け入れられる光景。その生い立ちを知る古城も自然と笑みを作り、そっとポリフォニアが夏音の肩に手を置く。

 

「みんな、お兄さんのおかげでした」

 

「いや、俺はそんな……」

 

 ありったけの多謝を篭めた視線を受けた古城は気恥ずかしげに頬を掻く。幸運や人の助けもあったけれど、何より夏音が望んだから今がある。そして、以前に彼女からヒーローと思われるようになったけれども、彼女を助けるために雪菜やあの後輩も死力を尽くした。古城もまた夏音に立ちはだかる障害を打ち砕かんと力を振るったが、それを自分だけ熱心に見つめられるのは、申し訳ないようで……

 

 

「夏音、まさかお前まで……」

 

 

 まずい。爆発前に鎮火されたけど、その分短くなっている導火線に再点火する。

 夏音の新たな家族こと北欧国王ルーカスが慄き古城を見る。そこへラ=フォリアが笑って、

 

「あら、夏音もわたくしも、古城のことが大好きですのよお父様♪」

 

「ぬぅぅ! 貴様ァ! いったいどれだけの娘にその毒牙を掛けたのだ!」

 

 憤怒に真っ赤に染まる武王の覇気(オーラ)

 その威圧に古城が冷や汗を垂らす中、純粋な少女の疑問が問われる。

 

「毒牙?」

 

 と、その手の知識に疎い夏音。

 その問いかけに誰も具体的に説明するものはいなかったが、

 

「「「……、」」」

 

 その言葉に反応し、意味深に首筋を押さえる雪菜、紗矢華、それからまたいつの間に古城のそばにいたアスタルテ。

 それは百の言葉よりも明確で、ルーカスは察する。

 

「ま、まさか―――!?」

 

「わかりましたかお父様。わたくしと夏音だけではありません。雪菜さんをはじめ、今回招待した女の子たちは皆ほとんど古城のお手つきなのです」

 

 誇らしげに語るラ=フォリア。

 まあ、とそれに両掌を合わせて感嘆するポリフォニアであるが、しかしその夫で国王はわなわなと痩身を震わせて、地響きのような低い声で、

 

「……貴様の為人(ひととなり)を知るために関係する者たちを集めたが……話を聞くまでもなかったようだなァ―――!!」

 

 あわやアルディギア国王ご乱心か―――とそのときだった。

 

 

 最上階を貸し切ったパーティ会場、その島を一望できる窓ガラスを異形の怪物が突き破ってきた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――あのジュースは、学者や詩人さんになれるくらいに頭が賢くなるんだぞーって薀蓄語ってたのだー。だから、たくさん飲んでなー」

 

「むしろ、クロウ君おバカさんになってるよ」

 

 任された凪沙は、酔っぱらいな彼に肩を貸してパーティ会場を出た。

 真面目で頼もしい仕事ぶりを心のフィルターに焼き付けようと期待したけれど……

 

「むぅ、賢くなれるって言ったじゃないかー。どういうことなのだー」

 

 写ったのはだらしなく泥酔してる姿。今も右腕につけた腕時計に向かって頬を膨らませぶうたれている。

 ……しかしながら、そんなダメっぷりを見ても幻滅するどころか、『私がいないとダメかも』というような母性本能をくすぐられる自分はもう末期(ダメ)だろうか。

 

「とりあえず、外に連れ出したけど、どこかに休める場所はないかな?」

 

 ホテルの案内板がないかと、きょろきょろ周りを探る凪沙の視界に、その女性が映る。

 暗い紫色のショートヘアに、同じ色の瞳。眼鏡をかけた、エプロンドレスのメイド。立食パーティで配膳をしていたスタッフ。

 手元に何か光るものを操作しているようだけど、休憩室がどこにあるか知っているはず。

 

「ぁ―――」

 

 声をかけようとして、せり上がった言葉を喉元で止める。いきなり首を絞められたように。

 

 それはほんの些細な変化。だけど、凪沙には劇的な反応を見せるもの。

 

 昏い目の色が、変わった。

 瞳孔を開き、得物を捉え、夜目を光らす猛獣のように。

 

 魔族だ。

 過去のトラウマから重度の魔族恐怖症を持ち、発症すると凪沙はパニック状態に陥る。

 

「―――っ!」

 

 凪沙の小さな悲鳴を拾ったか。女が凪沙の方へ―――振り向く時にはすでに。

 緊張に全身の筋肉が硬直した凪沙は、なすがままに壁に押さえつけられた。

 

 凪沙が下から肩を入れて支えていた彼の腕が、

 

 壁際に凪沙の身体を押して、

 

 強引に抱き留めるように彼が迫る。

 

「っ!?!?」

 

 声にならない悲鳴。けれど、それは恐怖ではなくその恐怖すら上塗りするほどの純粋な驚き、ひょっとすると歓喜の叫びだったかもしれない。

 その瞬間、蒼銀の法被に仕込まれた術式が発動し、彼と凪沙を透過範囲に入らせ、姿を周囲に溶け込ませる。

 クロウの腕に壁際に追い込まれた凪沙は、驚愕のあまり表情を失った顔で、クロウを見上げている。

 

「誰かそこにいるのか!」

 

 殺気立つ女性の声。心身の奥底から震えが蘇り、何かしがみつけるものを凪沙は求め、更に、近づいた。

 額と額が合わさり、鼻と鼻が触れ合う距離で、吐息と吐息が混ざり合って、互いの匂いを嗅いでいる。

 

「ぅぁ……」

 

 狼や犬は、『鼻タッチ』と呼ばれる、相手の匂いを互いに嗅ぎ合うことで、遺伝的な精度(レベル)で相手の個人情報を知る。

 それは生物学的に人間にも当てはまるもので、その匂いを嗅いで精神的に落ち着くようならば、すなわち自身の遺伝子が彼のものを強く求めている証拠であり、子孫を残すためにこの異性が必要であると本能的に察知しているという。

 

 強く胸を叩く鼓動とは裏腹に、安定する精神状態、

 身体の方は、その肌が顔だけでなく全身、それこそ足の先まで薄らと赤らんでしまっており、完熟のトマトみたいに真っ赤ではないけれども、興奮と緊張が絶妙なバランスで平衡している。悲鳴をあげれないでいるのは、息が詰まって大きな声が出せないからだ。

 接する服越しから伝わる体温は、火傷するくらい熱く感じて。

 しがみついて密着する胸元は、硬く引き締まり、逞しかった。

 激しく脈打つ鼓動は、彼の心臓のものか、それとも自分の心臓のものかも凪沙には区別できずに。

 

(だめ……蕩けそう……)

 

 あまりの羞恥で死んでしまいそうだ。せめて、両手で顔を隠したいけど、姿は隠していても女性はすぐそこまで迫りわずかな身じろぎも許されない状況で指ひとつもままならない。瞑目してる気配から、酔い潰れていた彼が半覚醒で凪沙を庇ったのだとしてたことが、せめてもの慰め。けれど、こんな心臓に悪すぎる吊り橋効果を受けるのは自分だけなのは不公平だと思う。

 けして嫌ではないのだけれど、むしろ無意識にも守られて嬉しくもある。だから、余計に恥ずかしくなる。

 

 そして、この精神は安定しながら、肉体が揺れ動く、心身のバランスが大きく崩れゆく状態は偶然にも。

 神懸かりになった巫女が信託を告げるときと同じく、一種のトランス状態に入らせる。

 

 触れることで知る巫女と超能の混成能力。

 嗅ぐことで探る獣人と超能の混成能力。

 

 そう、それは鏡を見るように、相手から見える景色から、自分の姿を知る確認作業にも似た、

 共鳴し、共振し、その互いが互いの能力を高め合う共進化(ミックスアップ)が―――忘れていた過去の断片を引き出させた彼の混成能力を、凪沙の混成能力が読み取る。

 

 

『お前の涙が欲しい。いつか先の未来で、辛い目に遭った時、きっと助けるから、泣き止んでくれ』

 

『心配するな。オレは、『墓守』だぞ。暁が『棺』なら、守るのが役目。何があっても荒らさせはしないと約束するのだ』

 

『オレは、“一番”をなくしちゃいない。だって、あのとき、“一番(まえ)”より、ずっと“一番”をもらったんだ。

 もう、大丈夫だ……ありがとう。オレは、ちゃんと生きている』

 

 

 それは視たというより、もはや頭の中に直接映像情報が流れ込んできたようで。

 そのコミュニケーションは、一瞬で終わった。

 現実時間に換算すれば、五度の呼吸ができるくらいで。

 

「―――ごめん。今、起きたのだ」

 

 同時に、南宮クロウも知った。

 覚醒してすぐに暁凪沙の混成能力を通して、現在の危機的状況、そのすべてを。

 

「―――でも、もう大丈夫だぞ」

 

 あの女性はすでにいない。

 だが、悲鳴が聞こえる。事態はまだ制圧されていない。

 だから―――

 

「―――オレが、守るからな」

 

 卑怯だ。本当に卑怯だ。あれだけ格好悪いところを見せておいて、不意打ちのように頼もしいところを見せるなんて。

 一呼吸分だけその視線と視線を融け合わせてから、交代して今度は凪沙が瞼を下す、すべてを委ねるかのように。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ホテルを襲撃した魔獣。

 蠢く六本脚、胸部の翅を使い飛行、黒光りする甲殻は一見した限り、甲虫(カブトムシ)にも似ている。だが躰の大きさは、成人男性の3倍以上はあるだろう。

 

「陛下! すぐにお逃げください」

 

「ええい! 儂らよりも客人を優先させよ!」

「一人も怪我人を出したらいけませんよ」

 

 国王夫妻らの一喝。彼らは襲撃を受けた最前線ともいえる会場にあえて残り、魔獣らを引き受ける殿をするつもりだ。でも、彼らの傍には先ほどまで親しく会話をしていた古城たちが―――

 

「王様のところにいるなら逆に安全だ」

 

 幼馴染の矢瀬基樹はそう言って、浅葱の腕を引く。

 そうしてSPたちの避難誘導に従い、会場を後にするが、そこで気づく。

 

「―――凪沙ちゃんは! さっき古城のとこにいなかったわよね!?」

 

「っ―――」

 

 慌てて矢瀬が耳元に手のひらを当てて、聴覚を研ぎ澄ます。

 『音響過適応』という特殊能力を持つ超能力者で、『音で視る』ことができる。今日も74分かけて<音響結界>の感知網をこのホテル最上階に敷いていた。だが、パニックになった客人たちの金切り声の悲鳴が、矢瀬の繊細な超感覚をジャミングのように掻き乱してくる。

 

「だ、誰か助けてくれ!?」

「こっちにも魔獣が来たぞ!?」

 

 王族のいる会場だけでなく、避難している客たちにも甲虫魔獣が襲撃を仕掛けてきた。SPらがその足止めをしているものの拳銃では魔獣の装甲に弾かれる。しかしあまり高火力な兵器は客たちをも巻き込む大惨事になりかねない。

 

 

「―――凪沙ちゃんを任せた先輩!」

 

 

 背後より音もなく、そして影もなく、声だけ響く。隣に着地して、気を失ってる少女、つい先ほど話題に上がった暁凪沙の身柄を浅葱は受け止めると、それは床を蹴った。

 

「―――<黒雷(くろ)>」

 

 本来の性能を発揮する獣化をせずとも、その礼装を通しての強化呪術を全身に通して引き上げられた脚力が大理石の床を陥没させ、隠密から戦闘にスイッチを切り替え透明化を解いた少年の身体が高々と宙を舞う。蒼銀の法被(コート)が、風になびいた。

 逃げることもできず立ちすくむ客達の頭上を跳び越え、一足飛びで破られた窓のある廊下の突き当りに着地する。

 突如に甲虫魔獣らの前に舞い降りた少年――南宮クロウに驚き、銃撃で牽制していたSPたちが発砲を止める。

 

「む……!」

 

 前方の甲虫魔獣が口を開き、クロウに向かって透明な液体を吐いた。クロウが跳躍して躱すと、液体が飛び散った床が煙を立てて溶けていく。

 宙に跳んだクロウを狙い、別の甲虫魔獣が体当たりを喰らわそうと襲い掛かる。

 

「―――<若雷(わか)>」

 

 活性化された気が電気となって迸ったその腕を突き出し、甲虫魔獣を正面から受け止める。甲虫魔獣の躰を掴み、力任せに床に叩きつける。

 大地震のような震動が、この超高層建築物を揺らした。身体強化に衝撃変換を重ね掛けした腕の膂力で甲虫魔獣を叩きつけた床は突き破って、ワンフロア下の階層に巨大なクレーターが生まれた。甲虫魔獣の躰が砕け散り、発生した衝撃で周辺の窓ガラスにシャンデリラが割れていく

 

「危ない!」

 

 クロウが着地する寸前、いっせいにその場にいたすべての甲虫魔獣たちが群がった。

 その一撃で、排除すべき脅威と本能から認識したのだろう。

 だが次の瞬間、一匹の甲虫魔獣ががくりと動きを止め、噴水のような体液を噴きだした。

 

「―――填星(ちん)歳破(さい)

 

 長時間の白兵戦ではなく、一撃必殺で決着が求められる無音暗殺術故に、全身にではなく各部位に限定し、瞬発的に限界を超えた呪的身体強化を施す『八将神法』。

 床に着地したクロウが、断末魔を上げる間すら与えず大きな甲虫魔獣の腹を拳で貫いていた。すぐに腕を引き抜き、後ろ回し蹴りで別の甲虫魔獣の頭を粉砕する。彼の頭を噛み砕こうとした甲虫魔獣の牙が、その身に硬質な鎧の如く纏っている生体障壁を貫くことはできず、クロウに鷲掴みにされる。掴んだ牙を持ち上げ―――勢いに任せて残りもう一匹の甲虫魔獣へと叩きつける。

 ぐしゃり、という音と共に、衝突事故を起こした巨大な甲虫魔獣同士が潰れ弾けた。

 

「オレがこいつらを相手する。お前らは客の避難を頼むのだ」

 

「は、はい!」

 

 SPに任せると、クロウはまた別の場所へ――魔獣に襲われている人々のもとへ疾駆する。

 

 

「む。心配するな。夏音なら大丈夫だ。あっちには皆がいるからな。だから、オレは取りこぼしをやるのだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 最初に魔獣の襲撃を受け、王族が殿を務める、最も魔獣との戦闘が過酷なパーティ会場。

 何体かの取りこぼしてしまったが、魔力を断つ魔の天敵<雪霞狼>を振るう剣巫と物理的に絶対切断<煌華鱗>を振るう舞威姫、そして、魔力を食らい魔力を無効化する<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>を召喚するアスタルテの活躍で室内の甲虫魔獣をほぼ殲滅する。

 

「ちっ、うじゃうじゃいやがって……!」

 

 そして、<第四真祖>暁古城が、室内にいる甲虫魔獣の一体を真祖の魔力を篭めた拳で叩き伏せると、屋外の庭園へ出る。

 

「―――きゃあ!? 誰か助けてぇっ!」

 

 そこで、魔獣に襲われるメイドを見つけた古城は、即座にその左腕を振り上げ、真祖の血を噴き出さす。

 

 

疾く在れ(きやがれ)、<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>!」

 

 

 閃光が空気を焼き焦がして突き抜ける。

 空気は攪拌され。

 衝撃波が暴れ回り。

 ホテルの外壁がめくれ上がって。

 <第四真祖>の雷光の獅子が稲妻となって空を駆け、ホテルの外にいた魔獣たちを一匹残らず殲滅した。

 

 そのあまりの威力に室内での使用を躊躇っていた眷獣だが、それは正解であった。『世界最強の吸血鬼』が使役するのは災厄も化身も同じ。幉を誤れば、このホテルを壊滅しかねない。

 

「大丈夫かアンタ」

 

 眷獣を己の血に戻し、古城は襲われていたメイドのもとへ駆けつける。

 

「うおっ!?」

 

「すみません。安心したら力が抜けてしまって……」

 

 あわや魔獣に喰われる窮地にいた彼女は、古城に倒れこむように抱き着く。

 豊満な質量を持ちながらも、この上なくやわらかな物体が古城のお腹に押し付けられる。その様子を擬音で表現するのならば、『たゆんっ』や『むにょん』であるに違いない。

 女性との過度な接触は避けたい古城であるが、しかしながら震えた上目遣いで見つめられ、それもか細く弱弱しい声で、不安に怯えられていたと言われれば、どかすような真似はできない。

 ―――と、古城が戸惑い心情的に身動きできないでいるその時、メイドの女性が、古城の乱闘にシャツの開いた胸元を、ペロリ、と舌を這わせられる。

 

「―――」

 

 抱きしめた彼女から漂う香気が鼻腔を満たす。

 最高に素晴らしい気分だった。すべての思いも悩みも優しく拭い去られ、掴みどころのない、漠然とした幸福感だけが頭に残り、古城はふわふわと浮かんでいるような心地がした。戦闘が終わった直後にであるも、気分は緩み、遅れて人々が駆けつけてくるのを、ただぼんやりと意識しながらその場に立つ。

 

「では、()()

 

 言ってメイドの女性は離れ、入れ違うように雪菜たちが古城のもとへ駆けつけた。

 

 

 

「―――古城! ありがとう助かりました!」

 

 メイドに抱きつかれていた古城に雪菜や紗矢華の視線は冷たいものはあるものの、ラ=フォリアが古城に飛びついて感謝の意を表す。

 それに古城は―――大した動揺も見せず、落ち着いた対応を見せる。

 

「ああ、お姫様を守るのに少しカッとなってしまったけどな」

 

「まあ、古城」

 

「噂に違わぬ素晴らしい力ですわね。ねぇ、あなた、古城さんに我が国に来ていただければ、とっても心強いとは思いません?」

 

「お、おい、まさか!?」

 

「暁古城さん、是非アルディギアに来て、ラ=フォリアを娶ってくださいませんか?」

 

 魔獣らを殲滅した古城を大層気に入っただろう。絶賛する娘とのポリフォニアの結婚宣言に、雪菜と紗矢華に衝撃が走る。

 

「お母様、ありがとうございます」

 

 我が意を得たり、と感激するラ=フォリア。母の了解さえ取れれば、父もやり込める、なれば、もはや障害などないのだろう。

 

「そんな……っ!」

 

 朝のラ=フォリアの冗談を真に受けたのか?

 しかし、ラ=フォリアは本気で冗談をやる性格(タイプ)で、先輩も本気で迫られたら危ういのでは……?

 

 <第四真祖>の監視役である妹分の焦燥を見てか、外交任務の経験を積んでいる紗矢華が意を決して王妃の前に出る。

 

「お待ちください王妃様。

 第四真祖は日本政府の監視下にあり、アルディギア王家といえど、その……みだりに……」

 

「あら。聖域条約では、犯罪履歴のない限り、魔族にも移動の自由があるはずですけど」

 

「それは、そう、ですけど……」

 

「では、こうしましょう―――」

 

 掌を合わせて提案される。

 夜も更けたので詳しい話は明日へ持ち越し、今夜はこのホテルにそのまま泊まることにしましょう、と。

 時間を与えられるのは、こちらとしてもありがたいが、その間に決定的な展開に持ち込まれる予感がする、巫女の勘、もとい、乙女の勘。

 

「ですが―――」

「ありがとうございます」

 

 口を開こうとしたその時、後ろから肩に手を置き、紗矢華を下がらせる古城。

 

「みんな疲れていますし、助かります王妃殿下」

 

 にこやかに礼を述べる古城。

 そんなこちらとは危機感に温度差のある、あまりに落ち着いた対応を見せられてカッとなった紗矢華は、古城の手を振り払って、

 

「暁古城! あんたは黙って! これは獅子王機関としてちゃんとした―――」

 

 再び肩が掴まれる。

 今度は真正面から。

 そして引き寄せ―――その耳元に甘い声が囁く。

 

 

「(大丈夫さ。心配なら俺を、一晩中見張っててくれよ煌坂)」

 

 

 …………………………、へ?

 

 その発言には聞き逃せない不純物、おそらく糖分系のものが多量に含まれており、さりげないスキンシップ……

 過去の親の虐待が原因で男性嫌いとなり、異性との接触を嫌悪する紗矢華。

 なのに、触れてはない、けれど熱を感じられるほど近くに迫られた実感がいつまでも肌に残る―――それが嫌ではない心の裏切り。

 

「~~~~っ!?!?!?」

 

 人慣れしていない猫が少しの接触で過剰に飛びのくように、古城から離れた紗矢華。

 対し、古城はそれに笑みを作れるほどの余裕があった。それがものすごく癪で、でもなんだかまともに見ることができない。

 いや、これはきっと疲れているのだ。

 ここ最近絃神島で多々難事件に巻き込まれたし、それがひょっとして無自覚な隠れ疲労となって心身に積もっていて、だから…………………休むのも、いいかもしれない。

 

 

 して、獅子王機関のエージェント煌坂紗矢華が自分の世界に入り沈黙してしまった以上、王妃の提案を止めるものは誰もおらず、古城らは高級ホテルのご一泊となった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ラ=フォリアさんの電撃プロポーズかぁ……古城君、いつの間にそんな関係になってたんだろ?」

 

 部屋のダブルベットそのひとつへ飛び込んで、スプリングのフカフカ具合を確かめる暁凪沙が同室相手となった藍羽浅葱に話を振る

 浅葱がドレスを脱いで皺にならないよう丁寧に折り畳んで風呂の支度をしつつ答える。

 

「聞いた話じゃ、王妃さんが勝手に結婚するとか言い出したみたいよ」

 

 魔獣襲撃騒動があった後、SPのひとりが帰ろうとした浅葱のもとに王妃殿下からの伝言を届けに来た。

 今夜はこのホテルに泊まらないか、と。

 無料でこの絃神島でも最上級の、国賓を招く格のある高級ホテルに一泊できる機会だ。二つ返事で頷くところだろう。家族にも今日はパーティで遅くなることは伝えてあるし、そのまま泊まりになっても問題ないし、管理公社のバイトも明日は入ってない。

 断る理由がなくて、それに……

 

『あの王女は先手先手を打ってくるタイプだ。家族も認めたんなら下手すりゃ今夜にも手を打ってくるぞ。盗られたくなきゃ、やられる前にやっちまえ』

 

 という幼馴染の一押しもあって、その提案に乗った浅葱。

 でも、発破をかけられたが、その場にいなかった浅葱にそれほどの危機感はなく、具体的にどう対抗するかも思いついてない。これが学業や電子計算であったのなら、秒で最適解を導き出せるのに、この色恋沙汰というのには正解がないので厄介だ。

 とはいえ、重度の魔族恐怖症で、先の魔獣騒動のときに気を失った(本人曰く、魔族と魔獣は別物だから平気だ、とは言っていたが)凪沙が心配なのもあるし、こうして同室になれて、案外元気な様子に胸を撫で下ろせたのは正解だろう。

 

「あ、そういえば、前に一度古城君にキスしてたっけ。あの頃なのかなぁ……でも、古城君がいなくなるのはいやだなぁ―――はっ、でも夏音ちゃんと親戚になれるのかぁ。それはちょっといいかも」

 

 未来予想図にころころと表情を一喜一憂させる凪沙は見てて飽きない。

 とはいえ、それはあまり浅葱にはよろしくない未来である。もし今夜のうちに勝負が決まって、明日の調印式からそのまま婚約発表会となって絃神島から北欧に旅立ってしまったら、もう遠距離恋愛どころではない。

 

 実態を直に見ていないから薄いものの危機感はゼロではない。それを無自覚にも煽ってくる凪沙のマシンガントークに沸々と焦りが大きくなる浅葱。

 ここは身体を張って引き留めるべきか。

 ―――いや、それよりももっと効果的なのがある。

 

「でも、連れてかれるのは古城だけじゃないかもしれないわよ」

 

「ふぇ?」

 

 中々当人は認めたがらないが、古城はシスコンだ。そんなのは暁兄妹と一緒に一ヶ月も過ごせば自明の理となる。古来の賢人が言う、まず落とすべきなのは将ではなく馬であると。個人的にも親しい付き合いで、純粋な彼女を利用するようで心苦しいものがあるものの、凪沙の一言は古城を引き留める決定打になり得るほどの発言力がある。

 そして、その凪沙の焦燥感を煽るに効果的な人物(ネタ)を浅葱は知っている。

 

「ほら、クロウも王女様に気に入られてるみたいじゃない。前に騎士団にスカウトされたとか言ってたし」

 

 そう、それは一時期、浅葱の担任である南宮那月の機嫌が悪かったころ。その原因と思われることを古城がそれとなく言っていたのだ。アルディギアに後輩が出張した際に、向こうの騎士団にスカウトされるくらい気に入られた、と。

 それは後輩に断られたのだそうだが、この婚約で話が再熱するかもしれない。

 

「うん……クロウ君は、お仕事とかで絃神島から出てくことはあっても、離れることはないと思う。だから、騎士団にはならないと思うよきっと」

 

 焚きつけてみた浅葱が少し驚くほどに、ブレなかった。逆に言われて納得してしまう。

 先の凪沙の言葉を借りるのなら、一体いつの間にそこまで信頼できるくらいの関係になったのだろうか、と開いた口から漏れ出てしまうくらい。

 嫌われていた、というより、怖がられていた最初期を知るものとして、好悪のベクトルが反転したのは喜ばしいことだが、そこからさらに突き抜けちゃっていることはすごく意外である。そういえば、先の魔獣騒動での彼に抱き上げられて気を失っていた彼女は恐怖に怯えてはおらず、安心して眠りに入っている感じであった。

 兄離れが早まりそうな気配にあのシスコンは危ぶむかもしれないが、個人的にもあの後輩は気に入っているので、素直に応援しよう、と浅葱が密かにその成長を祝福する。

 が、それではそれとして、王女への対抗策を一から振り出しに戻る藍羽浅葱であった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――襲ってきた魔獣は、ちゃんと一匹残さずぶっ潰したぞ。古城君が最後は一気にばばーってやってくれたのだ。それで、術者っぽいのを見つけたんだけど、逃げられちまった。“匂い”を覚えたから追えるけど、それだと警備から離れないといけなくなる。どうするかご主人?」

 

『……そうか。容疑者は確証を得るまで追跡はするな。罠の可能性があるからな深追いは禁物だ。緊急事態における現場の判断は馬鹿犬に任せているが、怪しい輩を見つけたらなるべく連絡するようにしろ』

 

 現在、ラ=フォリアの方は国王夫妻と歓談中で聖環騎士団の騎士団長が護衛についており、風呂に入っている夏音の方は同じ女性である要撃騎士ユスティナ=カタヤがついている。

 その今日一日中張り付いた警護の空いた時間に、クロウは別行動中の主への定期報告することにした。

 後輩のアスタルテに携帯を持たせて、耳口元に当てさせる通話方法は傍から見れば奇異に映るが、クロウも彼女ももう慣れたものである。

 

「う。了解したぞ。じゃあ、オレはフォリりんの使い魔(借)(レンタルサーヴァント)をやってればいいんだな」

 

『……そうだな、絃神島にいる間は、腹黒王女の傍についていろ』

 

 今回、南宮クロウの仕事は、『警護を含めた第一王女の使い魔(借)』である。

 <禁忌契約(ゲッシュ)>により王族の依頼は二度も断るとペナルティを受けるようになったクロウであるも、それに加えて、ラ=フォリアには借りができたのだ。

 

 ―――<タルンカッペ>

 錬金術師天塚汞との戦いで、襤褸切れとなってしまった隠れ蓑は、熱ステルスに光学ステルス、そして戦闘時の強化呪術の伝導率増幅と大変優れた魔具である。

 

 ここ最近、透明になる監視役に付き纏われているクロウは、そのことを師匠こと<四仙拳>のひとりである笹崎岬に相談したところ、『目には目をで、こっちも透明になったらいいなじゃない』と助言をもらった。

 

 元々、『圏境』という魔術を使わない、体術の瞑想の極み。生体障壁を固めるのではなく拡散化させて、周囲と気を一体化させる透明化(ステルス)。その魔術によらない故に、巫女の霊視にさえ感知させない魔技を、自然に暮らしていた野生児のクロウには適性が高く、超能力の補助もあって気配遮断に関しては師匠<仙姑>の笹崎岬よりも巧い。

 

 そこへ更に、錬金術師との戦闘で喪失した旨を聞いて、クロウより謝罪を受けたラ=フォリアより直々に、専用に性能が底上げされ改良された<タルンカッペ>を頂いた。

 鬼に金棒。虎に翼。『園境』に『隠れ蓑』を身に着けたクロウは、歴戦で積み上げた経験、常時発している警戒、動物的な本能によっても初撃されるまでは感知すらさせず、巫女の霊視すら逃れる。

 

 だが、先も言った通り、この<タルンカッペ>は大変優れた魔具であり、その分だけ貴重なものである。騎士団の中でも要撃騎士クラスのエリートにしか配布されない、魔導技術国家アルディギアの秘儀国家機密の詰まった代物。それを別に騎士団でも、王族に忠誠を誓っているわけでもないクロウがもらう。ただでさえその布地は聖人がその身にまとう聖骸布と同じ素材であり、その刺繍や縫い方は完璧に計算し尽くして、ひとつひとつに意味が込めながら職人が手作業で行われている。

 それを破損してしまったから新調するなど、あまりに畏れ多いことだろう。

 あくまで隠れ蓑はお礼で、新調もご厚意なわけだが、貸しを作りたくないご主人は、王女のご要望を聞くことにしたのである。

 それが、『警護を含めた第一王女の使い魔(借)』であった。

 

「う。オレがんばるぞ。恩返しもしたいけど、フォリりんのことは気に入ってるしなー。ご飯も美味しかったし」

 

『……おい、馬鹿犬。仕事中に暢気に飯を喰らっていたわけではあるまいな?』

 

「うぐっ!?」

 

 主の権利は今は仮移譲されていても、やはり主人の威光は変わらない。電話口から使い魔の慌てぶりを覚る那月は、淡々とした口調で、

 

『まさか、それにうつつを抜かして今回の襲撃を察知できなかったとなれば“ハウス”……』

「ご、ご主人もいざというときに動けるよう栄養と水分補給はしっかりしとけと言ってたのだ。腹が減っては仕事ができぬって昔の偉い人も言ってるぞ」

 

『アスタルテ』

 

 端的に一言その名を呼ばれて、それで意を察するアスタルテは、先輩が両手を合わせて拝んでくるも、やはり教官からの命を優先する。

 もしくは、この後輩も先輩に反省すべきと判断を下しているのかもしれない。

 

「報告。襲撃時、先輩は飲酒により酩酊状態でありました」

 

「アスタルテェ……」

 

『ほうほう。馬鹿犬、お前、いつの間に酒を嗜むようになったんだなぁ。これは知らなかった』

 

 ぞくり、と。平坦ながら悪寒を走らせる声音にクロウは携帯電話から飛び跳ねて後逸。それから流れるように反省の土下座を取る。当人がその場にいるわけでもないのに、訓練された動きであった。

 

「いやな、ご主人、『ほう、あれは『詩の蜜酒』ではないか。飲むと頭が賢くなる飲み物だぞ』っていうから試しに一口飲んで、それが甘くて美味しくてな。つい……」

 

『ペット風情の戯言に乗らされるとは、つくづく馬鹿犬だ。これで王族に傷ひとつでもできていれば、借りを返すどころか余計な貸しを増やすところだったぞ』

 

「わかっているのだ反省するぞ……アスタルテも、代わりにやってくれてありがとな。う、頼りになる後輩なのだ」

 

「高確率で何らかの失態を犯す先輩のフォローをするのが任だと教官より言付かってますので」

 

「うぅ、何かそれ先輩としての威厳がない気がするぞぉ……」

 

『帰ったらしばらく妖精獣(モーグリー)だな』

 

「しゅーん……」

 

 使い魔が耳を垂れて落ち込む様子が見ずとも瞼の裏で浮かんだ那月は一度ふんと鼻を鳴らし、切り替える。

 

 

『では、こちらから報告だ。どうやらテログループには『北海帝国』がバックについている可能性が高い。そして、おそらく扇動しているのは首謀者トリーネ=ハルデン。こいつはジャコウネコ型の獣人種でフェロモンを使って………』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『ありえない! ワンフロア丸ごとスイートで、貸し切って鍵のかからない部屋に男女一緒くたに放り込むとか! アルディギア王家の倫理観とかどうなってんの!?』

 

 

 混浴であると知らなかったにしろ堂々と女子の前に立って、なおタオルで隠すことなどしない先輩。その裸体を目撃するような事故があった後、お冠なルームメイトが顔を真っ赤にして捲し立てる。

 気持ちは雪菜にもすごくわかる。

 だがこれは、たぶん、ラ=フォリアの独断で、だとすれば、第一王女はやる気だ。既成事実を作る気だ。

 部屋割りを変更させるか、古城に部屋にカギをするよう抗議するかとラ=フォリアに直訴しに行った紗矢華を見送り、雪菜は女狐ことラ=フォリアが先輩の部屋に夜這いさせるのを阻止するよう警戒を任された。

 唯一血族を持たない<第四真祖>が不埒の行いを未然に防ぐのは、獅子王機関として当然の義務。

 

 そうして、夜中に先輩の部屋の前に立つ雪菜。

 

 来ているのはいつもの制服姿。

 けれど、風呂上がりの魅力、というのか、火照って赤みがさした頬に、艶やかできめ細やかな肌。さらりと流したしっとりと微かに濡羽色の髪から、ちらりと覗くうなじには色がある。ホテルに備え付けられたいつもと違う高級シャンプーと雪菜の匂いが合わさった芳香は男性の持つ理性からすれば殺人的であろう。

 これまでの経験則からして、この状態で先輩の前に立つのは危険であると雪菜は悟っている。

 けして木乃伊取りが木乃伊になるまい、と。ドアノブを取る前に、部屋に近づくに比例してペースを上げる鼓動を抑え込むように左胸に手を当てる。深呼吸し―――そこで聴こえた。

 

『~~~っ! ―――っ!』

『―――っ!   っ!』

 

 室内から物音が。この遮音性の高いホテル壁よりも聴こえるほど大きく、何かが激しく暴れる音。そう、取っ組み合っているような―――まさか! もうすでに先輩と情事に―――!

 

「―――先輩っ!」

 

 鍵のかかっている扉。だが、それを念のために持参したギターケースより抜かれた<雪霞狼>が切り裂いて、突破する。そして、そこで雪菜が見たのは……

 

 

「離せっ! 俺はお嬢様のために……っ」

「いい加減に目を覚ますのだ古城君!」

 

 

 三人は楽に横になれそうな大きなシングルベットの上で、プロレスをするようにもつれ合う先輩と同級生。

 思わぬダークホースが現れた―――ではない、当然。

 

「こうなったら致し方あるまい。神々に呪われたこの力の裁きを受けるがいい!」

 

 紫電の渦を纏う古城の肉体。スタンガンどころではない。<第四真祖>五番目の眷獣の力の一端を引き出した電撃。

 シングルベットを吹き飛ばし、インパクトと共に強大な余剰エネルギーが空気を灼いた。

 

「か、があああ、―――っ!」

 

 クロウの身体が、たちまち紫電に包まれる。

 肌だけでなく、眼光と口からも激しく電光が噴き上がった。人間であれば間違いなく即死。―――だが、それほどのものを受けながら、混血の少年は抑止できなかった。

 電撃迸る古城の肉体からその腕を離さず、転げ落ちた床にその身を押さえつけている。

 

「ビリッと来たけど、眷獣程じゃないのだ」

 

「なにっ!?」

 

 この同級生は、素手で眷獣を殴り飛ばし、そして防護服もなく眷獣の攻撃に耐えうるほど頑丈な肉体を持っているのだ。その十分の一程度で、捕らえた獲物を逃すほど怯むわけがない。

 体格では古城の方が図体でかいが、身体能力で上回られているクロウの膂力には敵わない。眷獣を召喚できる余裕もなくて、自力での脱出が不可能―――なれば、

 

「―――姫柊! クロウに襲われてる助けてくれ!」

 

 半ば反射的に、雪菜は先輩の言葉に破魔の銀槍をクロウに向ける。<禁忌契約>で彼は三手受けるまで巫女である雪菜に攻撃はできない、つまりは反撃ができず無抵抗にやられる。ここで最速の突きを放てば防ぎようはなく―――その寸前で、止めた。

 槍を突き付けられながらも、同級生のその金色の瞳が澄んでいる。その直感的に物事の真贋を見抜く巫女の目には、彼は正気としか映らない。

 濁っているのはむしろ―――

 

「何をやってるんだ! 早くクロウをどかせろ!」

 

 たとえそれが後輩に瀕死の重傷を負わせた錬金術師が相手であっても、人に対してその力を振るったことを後悔した。

 なのに、今、親しい後輩に致死的なほどの電流を躊躇なく浴びせるという暴挙に出ながら平然としていられる。

 違和感。いつもの先輩とは違う―――そう、あの風呂場の時も、あの状況で先輩が鼻血を噴くことなく落ち着いた対応ができたであろうか。

 

「いいえ。先輩はいやらしい吸血鬼(ひと)ですけど、最低な吸血鬼ではありませんでした」

 

「何を姫柊―――がっ」

 

 疑問が生まれて、迷い、そんな三秒ほどの停滞で、決着がついた。

 開け放たれた扉から風が吹きこむ。流れに乗った香しい雪菜の体臭を鼻で呼吸し、古城の目に光が戻りかけて、不自然に抵抗を止めた。

 その一瞬を逃さず、背後を取っていたクロウは古城の両腕を取り、極める。

 

「―――ニーナ、何か縛るものくれ!」

 

 クロウが右腕で取ったベットシーツを錬金術で物質変成し、造り出される<偽・戒めの鎖(レーシング・レプリカ)>。

 その神々が打ち鍛えた封鎖の模造品。本物ほどではないが魔力封じの力のある鎖で、クロウは古城を雁字搦めに縛り付けて芋虫にして床に転ばせる。

 

「何事ですか? おや、これは一体……?」

「雪菜! 暁古城―――とクロウ!?」

 

 ネグリジュ姿の姫御子と舞威姫。

 先に来ていた雪菜としても状況説明を求めたい。

 そして、それに答えたのは、予想外の第三者の声。

 

 

「第四真祖は操られておったのだよ。アルディギアの姫御子を攫うためにのう」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 南宮クロウの右手首に巻かれた腕時計。それが急に融け出したかと思うと、30cmほどの人型を作る。腕を登りクロウの肩に腰を下ろしたオリエンタルな美貌を持つ人形は、古の大錬金術師にして、叶瀬夏音の育ての親――ニーナ=アデラート。

 

「ニーナ、夏音の家族水入らずを邪魔したくないとか言ってたけど、でも、心配だから見に行くって。だから、腕時計に変化してたのだ」

 

 ニーナ=アデラートは錬金術師。彼女の不滅の肉体を構成しているのは、<賢者の霊血(ワイズマンズ・ブラッド)>と名付けられた液体金属生命体。

 錬金術術の極致とも呼ばれる生きた金属――<賢者の霊血>は、それ自体が膨大な魔力源である高性能な魔具であり、また、不定形で形がない、つまりは“何にでも化けられる”のだ。

 

「人型のままでも良かったんじゃが、こ奴の動きに振り落とされんからの」

 

 古の大錬金術師が手首に巻き付いている、いわば『賢者の腕時計(ワイズマンズ・ウォッチ)』か。

 『園境』と『隠れ蓑』で透化するクロウについては、夏音の様子を遠目で見守り、そして時にはクロウに念話(テレパシー)で要求を伝えていた。

 

「しかし、来ておいて正解であったわ。テロリストに狙われるとはな……だが、この偉大なる作業(マグヌス・オブス)を極めし妾がおる限り、奴らの謀も終わりよ」

 

「でも、ニーナ、全然時間がずれてるから時計としてはあんま役に立たなかったのだ。進んだり戻ったりするからややこしかったぞ」

 

「仕方あるまい。自慢ではないが、妾はあくまで形を変えただけだからな。機能の方はおまけ程度のものだ」

 

「むー。まぐぬす・おぶすというのは何でも完璧なんだろ? 腕時計になるなら『完全な腕時計』にならないとダメじゃないのか?」

 

「ぬ。そこまでいうのならば、完璧に時間に正確な腕時計になってみせよう!」

 

「やめてください。ニーナ=アデラートを腕時計にするという時点でおかしい気がします」

 

 と常識を色々と無視してる会話を中断させて、

 

 

「古城君に変な臭いがついてるのだ」

 

 

 クロウが説明する。

 主より報告された情報。テログループの後ろ盾(バック)と思しき『北海帝国』。その情報部特殊工作班の中で主に潜入工作を実行するチームのリーダーである軍人トリーネ=ハルデンを確認した。

 

「で、そいつはジャコウネコ科の獣人種でな。その固有能力で、強力な催眠効果を持つフェロモン系の物質を分泌することができるのだ」

 

「ええ、聞いたことがあります。ジャコウネコ科の獣人は、特殊フェロモンで相手を意のままに動く駒にすることができると」

 

「でも、欠点もあるぞ。フェロモンだから、同性には効き難いのだ。でも、異性なら効き目は抜群だ」

 

 そう、魔力による精神支配に高い抵抗力を持つ吸血鬼に対しても有効なほどに。

 そして、ただ嗅がせるだけでなく、直に相手の肌にフェロモンを塗り込むことで、その催眠効果はより強力となり、自害さえも躊躇わずに実行できるようになる……

 

「だから、ご主人からの報告の後にすぐ、アスタルテに怪しい“匂い”がするところを教えて警備隊の女の人だけを選抜して向かわせた。SPはほとんど男だから、どいつが操られてるかチェックしないといけなかったからな。オレがこのフロアにいる男全員の“匂い”を嗅いで、それで古城君が……」

 

「なるほど。そういうことですか。大義ですクロウ。おかげで最悪の事態は免れました。あなたを眷獣(借)(レンタル・サーヴァント)して正解だったようですね」

 

 柔らかに微笑を浮かべるラ=フォリア。しかし、その眼光は鋭く、冷たい。

 

「地理的には我がアルディギア王国とも、『戦王領域』とも離れてはいますが、両国を結びつける不可侵条約更改を阻止し、結果的に『北海帝国』が政治的優位に立てるようにテロを企てたのでしょう」

 

 そして、そのテロの手段はラ=フォリアの誘拐を目論んだことから、アルディギアに引き金を引かせたように見せかけるもの。

 明日の調印式典に出席する『戦王領域』の使者はセヴァリン候。アルデアル公と同世代の若い貴族でありながら、帝国議会議長であり、隠遁中の第一真祖<忘却の戦王>の懐刀と呼ぶべき貴族。それに休戦条約の最中に攻撃を仕掛けたとなれば、アルディギアは『戦王領域』どころか全世界を敵に回すかもしれない。

 許してはおけませんね、と静かに呟く北欧の第一王女。魔導テロを防止する組織獅子王機関の一員として、雪菜と紗矢華の表情も険しい。

 

「それで、先輩はどうしたらトリーネ=ハルデンの催眠が解けるんでしょうか?」

 

「んー……魔術とかの催眠じゃないから厄介だとご主人は言ってたのだ。古城君を正気に戻すには、誰かが“上書き”しないとダメっぽいな」

 

「え、っとそれって……」

 

「うん、古城君にいつもの鼻血ぶーってやらせるのだ」

 

 魔術によらない、生体反応なフェロモンによる精神支配。

 それを解き放つには、同じフェロモンでやるのが最も効果的。一部には同性のフェロモンで興奮するアブノーマルな性格のものもいるが、暁古城は異性に反応するノーマルな性癖である。

 

「これ付いてるの異性のフェロモンだからなぁ。オレの『芳香過適応(リーディング)』でも、男の匂いでマーキングするのはあんま向いてないぞ」

 

「つまり、お主らのうち誰かが古城を興奮させねばならんということだ」

 

 だから、姫柊雪菜、煌坂紗矢華、ラ=フォリア=リハヴァインの3人。ニーナ=アデラートも性格的には女性であるも肉体は液体金属であり、フェロモンのような異性を誘惑する催淫物質を発することはできない。

 だが、浅葱、夏音、雪菜、紗矢華と裸の美少女と風呂場で囲まれながらも、鼻血を噴かなかった今の暁古城をどう誘惑するのか。それ以上に過激な方向に思考が傾くのが自然な流れである。

 

「冗談、ではないんですよね」

 

「う。これは冗談じゃないぞ姫柊。時間が経てば、付けられたフェロモンが薄まるかもしれないけど、それで催眠から解放される保証はないのだ。最悪、催眠が切れるその前に自害しろとか言う命令(プログラム)されてるかもしれないのだ」

 

「それは、ありえますね……」

 

 念のために確認を取る雪菜に、至極真面目な表情で言うクロウ。

 古城は今、ガチガチに鎖を全身に巻き付けられて、椅子に座らされている。『八将神法』の暗殺術を打ち込んであることもあり、その体はしばらく自由に動かせることはできないだろう。

 喋ること以外はまったく身動きができない―――つまり、こちらから自発的に誘惑しなければならないのだ。

 

「……わかりました。私が、先輩を正気に戻します」

 

「雪菜っ!?」

 

「紗矢華さん。大丈夫です。私が、先輩の監視役ですから」

 

「そうですね、少し準備をしときたいですし、ここは雪菜に先手を譲りましょう。わたくし、一夫多妻制でも雪菜が第二婦人なら大歓迎です」

 

「―――ですから、私は愛人ではなく、監視役です!」

 

 ラ=フォリアの発言に訂正してから、雪菜が古城の前に立つ。

 その気配を覚ったのか、昏倒からゆっくりと古城が目覚める。見開かれた瞳は、以前、曇っている。

 

「どうした姫柊。そんな顔して……」

 

「……、」

 

「なあ、この拘束、解いてくれないか。監視されるならベットの中の方が嬉しいんだが」

 

「冗談を止めてください」

 

「冗談なんかじゃない。いつも茶化しちまうけど、時々抑えられないものがあるんだ。姫柊は可愛いから。

 ……ダメか、姫柊」

 

「ふ、ふざけないでください! 先輩が周りに害を及ぼすようなら、私は監視役として先輩を」

「―――ああ。殺されるなら姫柊がいい」

 

「先輩は……やっぱり、いやらしい人なんですね」

 

 言いながら、雪菜の手は古城に縛られている鎖を解いて、自由になったその手で古城はつつ……と雪菜の頤を撫でて―――

 

 

 

「剣巫よ、主が誘惑されてどうするのだ」

 

 ニーナより冷静なツッコミが入り、はっとする雪菜。

 しかし、それも仕方ないかもしれない。

 今の古城はいつもの気だるげな彼とは違う。

 雰囲気が、大人、いやアダルティになっている。ワイルドさの中に魔性の色気がある。瞬きのひとつの仕草にも女性を誘惑するほどに、催眠によってその潜在能力が解放されているのだ。

 真の吸血鬼は目で落とす。目力を篭めた視線で、ピタリとその場で停止させ、ヘビに睨まれたカエルの如く固まってしまう。そして、そこへ甘い囁き声で抵抗する意志力を奪い陥落させる。

 そして、あっさりとしてやられたことに羞恥で真っ赤にしている雪菜に続くはやはり、

 

「あ、あ、あ、ああ暁古城! なんて羨ま―――じゃなくて、何て破廉恥なことしてるのかしら!」

 

「なんだ煌坂、焼きもちか?」

 

「んなっ!?」

 

「ふっ、煌坂はかわいいな。もしかして煌坂もしてほしかったのか。馬鹿だな言ってくれればいつでもしてやるのに」

 

 古城の自由な左手に頬を撫でられ、頤を擽られる。その妖しい手つきで最後は紗矢華の顎をくっと持ち上げる。

 吐息の温度さえ分かる距離で、囁かれる。

 

「それとも、それ以上をお望みかな?」

 

 それにピクンと震えて紅潮する紗矢華はぺたんと床に座り込むと、椅子と足の縛りを解いてしまう―――

 

 

 

「舞威姫までとはな。これでは主らは本当に獅子王機関から派遣された第四真祖の愛人であるぞ」

 

 ニーナの平坦な呆れ声に、今していることを自覚した紗矢華は慌てて古城から下がる。

 そうして、四肢の束縛より解放された古城は立ち上がれるようになった。しかし、その首と胴にはまだ封鎖が巻き付いており、その幉はクロウのしっかりと握られている。

 

「なんか性格が変わってるな古城君」

 

「あれが古城の本性か。まさに天然の女誑しよの」

 

 “お嬢様”の任務を果たすには、この縛から逃れなければならず、そして残る陥落可能な異性は標的の姫御子のみ。

 すぅ、と古城はこれまで様子見に徹していたラ=フォリアの前に跪いて、

 

「挨拶が遅れたほんのお詫びだ。こんな美しいレディを放っておくなんて、我ながらどうかしてたな」

 

 手の甲に唇を寄せ、ちゅっ、と口づけする。

 姫に傅く騎士のように。

 そして、先制攻撃にラ=フォリアが目を白黒されてるうちに、流れるように指先が銀髪に触れる。

 

「綺麗な髪だから、つい触ってしまった。女性の髪を触るだなんて失敬なのに―――罪作りな髪だな。ラ=フォリア」

 

「今の古城に、そんな似合わない歯の浮くセリフを言われてもうれしくありません」

 

「ふふっ、かわいいなラ=フォリア。髪を触らせるくらいに隙だらけなのに。それに、声も震えてるぞ。

 ―――俺の目を見て、もう一度言ってくれないか?」

 

 紅くなる魔族の妖眼。けれど女性に対し真摯に訴えてくる。

 エレガントにしてジェントル。淑女を惑わす妖しい狼である古城に、ラ=フォリアは―――

 

「いいえ、目を見る必要もありません」

 

「なに……?」

 

「残念ですが、古城。甘言で弄そうとも、“お嬢様”の標的であるわたくしへの視線には、雪菜と紗矢華とは違って“棘”があります。

 ―――そして、わたくしはわたくしがすべきことをけして見失いはしません」

 

 頬を赤くして、完全に蕩け切った表情のラ=フォリア、その声には艶が出始めており、堪えきれないように薄いネグリジュに包まれた躰をくねらせている。

 かなり扇情的。古城は思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。

 

「ふふ、この部屋、暑くありませんか古城」

 

 嫌な予感がした古城は、抵抗を封じるようにやや強引にグッと二の腕を掴むと、

 

「っ―――ふあぁぁあんっ」

 

 それだけでラ=フォリアはビクンと躰を跳ねさせた。触れた肌は、明らかに熱を持っていて。

 その熱と、返ってくる艶っぽい反応に思わず古城が後逸してしまう。

 

「本当なら、今日で既成事実を作るつもりでしたのよわたくし。ですから、念のためにとお母様に倣い、“これ”をもってきたのですが、まさかこれをわたくし自身に使うことになるとは」

 

 熱いと息と共に身を悶えさせるラ=フォリアは、胸元から“これ”――薬を包んでいた薄い薬包紙、“すでに破かれて中身のない”それの端を摘まんでを古城に見せつける。

 それはかつて、ひとりの諸国を武者修行で漫遊していた硬派な騎士崩れの傭兵(ゴロツキ)が数分と待たず満月の夜の狼男に変身し、肉欲のままに当時の王女の身体を求めさせたという代物。

 つまりは、媚薬である。

 

「古城、あなたの催眠を解く方法がわかってます。フェロモンを“上書き”すればいい。だから、わたくし、たっぷりと汗をかいてみることにしました」

 

 雪菜と紗矢華、ふたりがやられている間にラ=フォリアは媚薬を飲み、それだけでなく空調を操作し、部屋の温度を上げていた。より発汗しやすい環境にするために。

 常夏の絃神島で、冷房機能を暖房に切り替えれば、どうなるか。

 サウナ、とまではいかないけれど、なかなかの高温多湿の密室となっており、そして、女の子の“匂い”で充満してきている。

 

「ぐっ!」

 

 鼻を抑える古城。

 それほどにこの“匂い”は強烈で、このままでは“お嬢様”が施してくれたフェロモンが薄らいでしまう。

 古城がラ=フォリアから距離を取ろうとするが、

 

「―――クロウ、もう一度、古城を縛り付けなさい」

 

「ほいフォリりん」

 

 軽々と鎖を操り、古城に絡みつけて、また四肢に鎖を幾度も巻いて縛りつけて動きを封じる。

 そして、

 

「くっ、この―――」

「―――さあ、雪菜、紗矢華! 一緒に古城に飛びつくのです!」

 

 室内の温度と湿度が上昇し、雪菜と紗矢華も汗をかいている。

 先は古城にしてやられたが、これまでの“経験”からの慣れで、すでに復活しており、火照った躰をぶつけるよう、左右から挟み撃ちに、そして、真正面からラ=フォリアが飛びつく。逃げられない。

 

 

「三人集まれば文殊の知恵とこの国の言葉がありますが、“お嬢様”というにはいささか無理のあるオバさんとたっぷり汗をかいたわたくしたち三人。どちらが魅力的ですか古城?」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――お逃げください、王妹殿下!」

 

 

 自身の護衛として張り付いていた要撃騎士ユスティナ=カタヤが血飛沫を上げて倒れこむ。

 

「あ……―――」

 

 『聖環騎士団』で優秀な者に授けられる<タルンカッペ>。そのエリートの証たる隠れ蓑の透明化を解いて、叶瀬夏音の前に現れたのは、SP達と同じ礼服に身を包んだ男。

 若手最優秀の女騎士を斬り伏せたその大剣は、『騎士団のトップ』が代々受け継いできた魔剣<バルムンク>―――すなわち、魔獣襲撃の騒ぎに乗じて、<第四真祖>ともう一人手駒にされていたこの男は、騎士団長。

 

 

「さて、我が“お嬢様”(マイ・レディ)が、王家の血を引くものを必要としております。来ていただけますね、王妹殿下?」

 

 

 

つづく



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戦乙女の王国Ⅱ

???

 

 

 その純朴な反応が眩しかった。

 花に水をやっても、空を見上げていても、ただ散歩しているだけでも幸せそうに微笑む。

 だから、それが曇るのにすぐに気づくことができた。

 

『ひとりで、行くつもりか?』

 

『あなたは……兄さんの……』

 

『何故、王に話さない。兄にもだ。もし身分で公には近寄れぬというのならば、私が話を付けよう』

 

『どうして……? あなたがそこまで私に……』

 

『……それは、王に仕える騎士であるからだ。ここであなたを見過ごすのは、この剣に懸けた矜持が許さない。それだけだ』

 

『そうですか……バレてたんですね。でも、いいです』

 

『何故だ』

 

『私は納得してここを去るからです。故郷に帰り、そこで子供を産み、そして死んでいく。それが、救いです』

 

『本当にそれでいいのか? 賢生の妹であるあなたにわからぬはずがない。王の子を身籠ることがどういうことなのかを……』

 

『……そうですね。でも、兄にも……あの人にも伝える必要はありません。わたしひとりのせいで、きっとたくさんの迷惑を掛けることになるでしょうから』

 

 結局、ついてきてほしいとも、助けてほしいとも言われはしなかった。

 その女は、もう先が分かり、それに覚悟を決めていた。

 己はその女とはさほど深い縁があるわけでもない。家族でも友人でもない、己と同じ頑なな友であった兄のもとに度々訪れていた彼女を遠くで見ていた程度のものだし、そもそも女には愛する者がいたのだ。別にそんな赤の他人のために立ち上がる必要などなかった。そんなことのために命を賭けて、今ある立場を投げ捨て、王を裏切って戦うなど、理由としてあり得ない。

 

『ただ、もし私が女の子を産んだのなら―――』

 

 それでも、己は騎士として王の剣であることを義務とし生きてきた。

 国を脅かす外敵を排除し、ひとりでも多くの民に安寧をもたらす。あの時、“王の血統という王国に重要な情報の流出を見逃した”。それが後の悲劇をもたらすことになり、己の経歴の中で初めての汚点となった。だから、もう二度と失敗はしまいと誓いを立てた。そうだ。あんな戯言で己は動いているわけではない

 

 

ホテル

 

 

 ―――叶瀬夏音の誘拐。

 

 

 それが知れたのは今日未明。

 護衛の要撃騎士が重傷を負って倒れていたところを、攻魔官の助手である人工生命体(ホムンクルス)が発見。人工生命体が応急処置する際、要撃騎士より『『聖環騎士団』の騎士団長が王妹殿下を攫った』と告げて昏倒した。

 

 同刻、絃神島にあるアルディギアの大使館に犯行グループから声明。

 『王妹殿下を無事に解放してほしければ、アルディギアに収監されている政治犯14名を解放せよ』

 要求されたリストに記載された人名は誰もが終身刑を受けている者たち。ひとりでも牢獄より出せば、国益に大損害を起こすだろう。

 それを受けて、アルディギア国王ルーカス=リハヴァインは、決断を下す。

 

 

「アルディギアはテロには屈さぬ。この方針はずっと貫き続けてきたものであるし、これからも貫き続ける」

 

 

 これが『北海帝国』の策略であることは、証拠がないだけでほぼ間違いない。だが、

 

「しかし、それでは叶瀬夏音は……?」

 

 日本政府が派遣した魔導テロ対策の人員がひとり舞威姫・煌坂紗矢華が、王の決定に異議を唱える。今この場に、騎士団長と同じく敵工作員のフェロモンにやられていた第四真祖とその監視役は、念のためのメディカルチェックを受けておりこの場にいない。その彼らの分も紗矢華は気にかけているのだろう。もしその要求に従わなければ……それはわざわざ説明される必要はない。

 

「わかっておる。魔導大国アルディギアも……と、言いたいところだがな。騎士団長が向こうについている以上はこちらの手は読まれるだろう。戦力も把握されておる。迂闊に手が出せん。それも騎士団の半数があ奴にやられておる。これ以上の犠牲はだせん」

 

 ルーカスはぴしゃりと、そう言い放つ。そして、言葉に詰まった紗矢華になおも畳み掛けるように、現実を突きつけた。

 

「それに、奴らの要求に従ってそれが守られる保証がどこにあるのだ?」

 

 ない。これは何の契約拘束力のない一方的な要求。だったら、凶悪な犯罪者を解放したとしても、叶瀬夏音が助かる可能性は極めて低い。

 迂闊に犯人の思惑に乗ってしまえば余計に被害が拡大するだけだ。

 

「そして、『北海帝国』の狙いは、明日の『戦王領域』との休戦条約。もし式典が失敗し戦争となれば、多くの犠牲が出る。それだけは避けねばなるまい。兵力分散は控え、人員も捜査には多くは回せんだろう」

 

 国の発展と平和がかかっている。一人分の命と簡単に引き換えられるものではない。

 

「ですが、叶瀬夏音はアルディギア王家の……」

 

「ならば、なおさら。王族(われわれ)がすべきは、国民の為に尽くすこと。無論、見捨てるつもりはない。だが、優先順位は決まっている。まずは明日の式典を無事に終えてからだ」

 

 警備隊が動いているが、何しろ相手は工作活動を専門とする軍隊崩れの武装集団。人質の解放はそう容易いものではなく、下手に強行すれば犠牲も出る上、式典の警護にも人員を割かねばならない。しかも、その要となる騎士団長が敵方にいる以上、最初から組み直さなければならなくなった。

 

 ―――などとそんなことはどうでもいい。

 

 

「―――主らは今と昔も変わらんな。少しは期待した(ワシ)が愚かであった」

 

 

 それは第一王女の後ろに控えていた少年、その右腕より発せられた声だった。

 

「その声……もしや、あなたは、貴方様は、ニーナ=アデラート!」

 

「久しいな、ルーカス、そしてポリフォニアよ」

 

 事件からこれまでの彼女を見てきたものからすれば信じられないほど尊大に国王を呼び捨てる。

 それを無礼だというものはおらず。

 

 初めて彼女の姿を目にするSPらの間にも動揺が広がり、そのひとりが警戒を呼び掛け、ふらつく同僚の肩を支える。見れば同様の反応は他数名が見られ、そのいずれもが少年の右腕の上に立つ人形のような彼女を恐怖するような目で見つめている。

 

「さて、古の大錬金術師といえど270年も過ごせばいささかボケよう。

 ―――もういちど、先の言葉、もう一度妾に聞かせてはくれぬかルーカス」

 

 周囲の大気が歪んでいるように錯覚するそれは、おそらくは彼女の持つ魔力の膨大さが原因だ。

 縮小はしていても、無尽蔵の魔力を取り込める霊血という人外の肉体。

 その膨れ上がる剣呑な敵意の奔流を受け、心胆を震え上がらせるそれを真っ向に受けても、王は依然とその態度を崩さず、苦渋を噛むように厳つい顔を歪めながら、

 

「テロには屈さぬ。要求にも従わない。民のことを第一に考えるのが王族としての義務だ」

 

「王族としての義務? ふざけるな。15年も放置しておいて、夏音に王族としての生き方を押しつけることなどさせてやるものか!」

 

 一喝。その金属の躰は赤熱したかのように、異様な熱を孕み始める。

 

「夏音の血縁である故に、だ。主らが今ここで金属の彫像とならぬのはアルディギアの王族であるからではないぞ」

 

 それが大言虚妄でないことを知らしめるように、触れてしまうものを融かしてしまいそうなほどの、怒りを抱えたまま、

 

「主らに夏音が求めたのは、王族として認められることなどではない。夏音が欲しかったのは家族だ。それをぬか喜びさせおって、夏音の純真をどれほど弄べば気が済むのだ主らは!」

 

 吠える。

 風が吹き、部屋が揺れる。

 熱風と紛うそれは、その場にいた全員の顔面を叩いた。

 誰も動けなかった。

 今の咆哮に射竦められ、体が動かなくなったのだ。

 たった一人を除いて。

 

「もう、主らには頼らん! 夏音にも二度と会わせ―――むぎゃ!?」

 

 ニーナ=アデラートを右腕に乗せた少年が、左手で古の大錬金術師を掴んだ。ジュゥッと肉が焼ける音。掌の肉が融けるほどの熱を持っている。

 のだが、少年――クロウは平気な顔してそれを感じさせず、王さえ震え上がらせる激昂など何処吹く風とでもいうように、一蹴してくれた。

 

「ニーナ、うるさいぞ。それと熱い」

 

「……な?」

 

 戸惑いを覚えたのは一瞬。

 きっ、とすぐ怒りの炎で燃え上がる黒い瞳がクロウに向けられる。

 

「クロウ! 何を冷静にしておるのだ! 夏音が攫われたのだぞ? お主は夏音を家族と思っとらんのか?」

 

「“匂い”はわかるし、すぐに追える。でもな、“カァッ”となっちまうのはよくない。

 ―――オレは、獣で、兵器だからな」

 

 クロウが、ゾッとするほど冷たい声で呟いた。

 冷たい―――声。

 

 生きるために殺す。無駄な殺生はしない、それが野生に生きる獣の理。だが、それはけして殺すことに躊躇いがあるというわけではない。

 

「壊しちまうな。うん、壊すしかできない。許せないからな。夏音を、家族を怖がらせるのは。テロリストってのもオレひとりでも壊滅できる。でも、それだと加減が難しいんだ。きっと、ひとり残らず死んじまう。皆殺しで、絶滅だ」

 

 それが事実であるように淡々と語るその口調からは、普段ののほほんとした雰囲気が抜け、代わりに聴くものに戦慄を抱かせる静かな鬼気を帯びている。

 けれど、その双眸は穏やかで、強い意志に鋭く(かがや)いている。

 

「だから―――オレだけで夏音を助けちゃいけないと思う。夏音は家族が畜生になることなんて望まないだろうしな。それだと意味がない。

 ―――だから、兵器でも、獣でもない、ひとりの人間として、頼み申す。オレに足りない力を、そしてその命を預からせてください」

 

 

 

 その時に、ルーカス=リハヴァインは気づく。

 この少年の装いが、普段と趣が異なることに。

 首輪こそあれど、手袋も首巻も帽子もなく、その『聖環騎士団』の正式たる蒼銀の法被のフードを取った、露わとなった面相は常より精悍であった。癖のついた髪が整えられ、コートの下の服装上下は軍服で、芯の通った姿勢は見事なる体である。

 

「―――」

 

 王の前に立ち、一礼をする。

 きちんと礼儀を守った、実に床しい従士ぶりであった。

 古典はおろか古今の典礼にも通じる教養人たる主人より仕込まれた従者(サーヴァント)の姿がそこにあった。小柄なれど大人よりも大きく見える躰からいっそ涼しげに薫るような男ぶりである。

 とても王女(むすめ)をあだ名呼びするような無礼な少年とは思われなかった。

 そして、膝をついた彼は、腰に佩いていた剣を鞘から抜き出し、ルーカスの前に捧げる。

 

 ヴァイキングの戦士団にも採用されていた騎士団の従士制。この叙任儀式である『誠実宣誓』は、王が差し出される剣を受け取り、跪いた従士の肩に剣の刃を置き、宣誓を述べる。それを自ら破るのは命さえ投げ出すほどの恥であるという誓いをする。そう、このときでなければ『我に仕えよ』と言ってしまっていただろう。それほどに惚れ惚れするものだ。

 しかし、これは従士として王に仕えたいがためではなく、『人間として嘆願する』という誓いを立てる『誠実宣誓』だ。ニーナ=アデラートを恐れたのを見取って、獣として、兵器として、武王を脅迫するつもりはない、と。あなたたちに害を及ぼすつもりはない、そう誓い、剣を差し出したのだ。

 だが―――

 

「人間として、見ろ、だと……」

 

 ルーカスは勢いよく剣を取ると、目にも止まらなぬ動作で振り落とす。そして、ぎらり、と輝く刃を上段からクロウの首元に向けて鋭く振り下ろした。

 

「クロウ!?」

 

 紗矢華が悲鳴を上げる。その場にいるほぼ全員が、度肝を抜かれたように戦慄して動けなくなる。ひょっとしたら、呼吸さえ止まっていたのかもしれない。

 そんな中。

 長剣の切っ先を首元すれすれで止め、武王は傲然とクロウを見下ろす。クロウはわずかに膝をついた状態のまま固まっていたが、それでも目だけは逸らさず、重厚な鉈のような重みのある視線をしっかりと受け止めていた。

 

 過去――ルーカスに騎士団を辞めるきっかけとなった敗北を味わわされたのは、<黒死皇>。

 『戦王領域』を中心に暴れていた<黒死皇>であるが、その隣国であるアルディギアにも牙を剥くこともあった。

 殺されかけて、己が未熟であると悟った。

 故に、騎士団を退団し、何ものにも縛られない傭兵となり、武者修行で世界を巡る。だが、結局この少年ほど自由にはなれなかった。

 王妃に惚れ、王族に籍を入れ、国王たる今がある。それは後悔するものではないし、何ら恥じるものでもない。

 だが、拭えぬものがあった。あの日に刻まれた、敗北の恐怖だ。

 

「『戦王領域』との国境防衛戦で、そこに乱入して暴れてきた<黒死皇>に儂は仲間と部下を喪った」

 

 突発的に発生するトルネードのように、それはふらりと戦場に現れた。

 その腕を振るうだけで数十が暴虐に呑まれ、また腕を振るってその数十を死霊の骸兵とする。最凶最悪の魔狼が人間魔族を問わず食い荒らしていく戦場は、両国に魔狼を交えた三つ巴の戦争にすらなりえない、蹂躙劇であった。

 

 故に、戦争していた両国は、戦争をやめる。

 “あの事件”があって、アルディギアと『戦王領域』は一時休戦し、それからこの和平不可侵条約を結ぶきっかけとなった。

 それほど、停戦せざるを得ないほど、<黒死皇>は猛威であったのだ。

 

「その時のことを儂は、忘れたことがない」

 

 武王は、長剣を握る手に力を入れ、言った。

 

「儂が、<空隙の魔女>にお前の討伐命令を出した。獣王の血統を恐れた故にな」

 

 そして、

 

「知ってるぞ」

 

 と、少年は口にした。

 

「何?」

 

「ん。アルディギア(そっち)に行く前に、ご主人から普通に聴いたぞ。それに時々凄い目でこっちを睨んできたりしてたしな。そういう“匂い”もしたし。一応、表に出してこないから、指摘し(いわ)なかったけどな」

 

 感情がストレートに出てしまう、あまり顔芸の得意でないと自覚しているが、それが視破られていたことを知り思わず顰め面を作るルーカス。

 

「わかっていて、儂に剣を預けるというのか」

 

 その問いかけはひどく青臭いものだ。

 仇の半分の血を引いているからといって、それと等質に憎むのは、何と幼稚な八つ当たりであろう。もちろん、その将来性を危険視して芽のうちに潰すのが国民の安全になるという理由と意義もあった。

 だからそれは今のルーカスの心の一番深いところで、延々と存在を主張し続けていた燻る火種を意識させる――今でも、この瞬間にも、胸の内を鋭く抉るように鮮烈に蘇る、あのときの屈辱と、痛みと――向き合わせるのに必要な作業であった。

 

「ああ、人間として筋を通すために」

 

「―――なっ!?」

 

 がッ! と首元の長剣を握り締める。生体障壁など纏ってない掌に、刃が食い込み鮮血がどくどくと流れ出すのも構わず、その首筋に当てる。剣がすぐ傷口を塞ごうとする獣王を半分引き継ぐ混血の身体機能を阻んでいる。

 首の切り口から垂れる血の滴。絨毯が真っ赤に染まって、朱の水溜りを作ってゆく。

 見合いながら強い意志の圧し合い、両者は押すも退くもできずその姿勢のまま微動だに出来なくなる。見守る周囲もまた同じ。

 

「………」

 

 そして、根負けで動いたのは、王。首元からルーカスは長剣を離して、

 

「ふっ、よかろう。貴様をひとりの人間として認めよう。だが―――」

 

 眼前に切先を突きつける。

 

「いいか、南宮クロウっ? 貴様が軽々しく言った『命を預かる』というのは、引き換えに己の命を張り、今ここでその首を切り落とされても、構わんと言ってることと同じであるのだぞ! 壊すしか能がないと自身で言った貴様が、そんな筋を通せる覚悟はあるのか!?」

 

 心臓を鷲掴みにされるような、武王の鋭い声。

 それは距離を離れていようとも、全身の血が凍りつくほどの震えが走り、気が遠のくように視界が狭窄していくことだろう。まして、刃と共に至近距離で受け止めているとなっては、どれほどの威力となっているのか想像もつかない。

 それでも。

 決然と見開いた目の中に鬼神の如き王の姿をいっぱいに映して、尚言い放った。

 

「ああ、筋は通す覚悟ならある」

 

「そうか。ならば、筋を通せると思うか!!」

 

 武王の問答に、覚悟を決めた少年は―――

 

 

 

 

 

「それはオレにもわからない」

 

 下手な発言はすなわち死となる最中で、少年は降参を口にした。

 やる気があって取り組んだけれど、答えが出ず解けそうにない数式を前にしたように悩んだのだろう、汗がこめかみより垂れており、その内心の苦難を表していた。

 ここまできて。

 あと一言、いや、首を縦に触れるだけで……というところで、告白する。覚悟はあっても自信はない。あんまりにもな予想外さに、王は肩透かしを食らい、あわや剣を落としかけた。

 ただ、笑ってはいるこの小僧は、理解はしている。獣や兵器の暴力による力技ではできないものであることを。ここで焦って性急な手段に出てしまったことを。

 それに気づけたからこそ、人間としてルーカスに降参した。

 

 ……まったく、何とも素直にはにかむものだ。しかも、まことに“らしい”笑みである。

 

「でも、やっぱり、人の命を救うのは、生死の引き算とは思えないのだ。ひとりの犠牲も仕方ないって割り切れていいものじゃないと思う」

 

「それは童の語る理想論だ。非情だ、冷たいというのならそれで構わん。だが、儂にはそれだけ重い責任がある」

 

「オレにはとても真似ができない。王様って偉いのに我がままにできないなんて、大変だな」

 

 小僧の分際で、理解するか。

 思わず、ルーカスは鼻を鳴らす苦笑のような微笑を浮かべる。呆れと感慨に満ちた溜息もつこう。その裏に隠すのは嫉妬か、いやもっと切実な感情だろうか。

 仇の半分の血を引き、己の半分も生きていないこの若造を―――いや、この人格を形成してきた人々を、その背景に透かして見るように目を細めて、ポツリと呟いた。

 

「当然だ。まだ若造に後れを取るつもりはないわ」

 

 

 で。

 

 

「おい、クロウ。主、負けを認めてどうするのだ?」

 

 不満顔で古の錬金術師様は言う。

 素手で剣を握って、指と掌、それから首筋に傷がしっかりと刻まれて、真っ赤な血で染まっている。

 いち早く部屋を飛び出して、救急箱と水で満たした洗面器を持ってきた紗矢華は、手慣れた動作で消毒液と脱脂綿を取り出す。

 

「う。困ったな。どうしようか?」

「どうしようかではない! ―――「あー、はいはい! 叱るのはそこまでにしてちょうだい後が使えてんだから。クロウ、あんたこれ握ってなさい」」

 

 固く絞った手拭いで手首を絞り、水で血を洗い落としてから消毒液を含んだ脱脂綿の塊を強引に握らせた。そして、もう突くような勢いで首元の傷口をピンセットで摘まんだ消毒液に浸した脱脂綿をあてていく。自然治癒が働いていて怪我の治りは早いが、

 

「い~~~っ! しみる! いたしみるぞ! なあ、もっと優しく……」

 

「できるわけないでしょうがっ! こんな無茶をして、少しは雪菜の為にもその馬鹿を改善しなさいっ!」

 

 真っ赤に染まってゆく脱脂綿を取り換えながら、感情が激して思わず、声を荒げてしまう。さっきのやり取りは、制止がつかなくなって下手をすれば大怪我をしてもおかしくなかった。いくら覚悟を見せるといっても、なんて不器用極まりない。危険な方向に突き進んでいく大馬鹿者なのだ、この子は……っ! とぶつくさ愚痴る舞威姫。

 

「むぅ、オレもバカなとこを治そうとしてるんだけどな。でも、やっぱりバカなことしちまうみたいだ。でも、そんなバカなことに他人をつき合わせるのはまずいな」

 

 これは、これまで力業で我を通してきた慢心だ。最後の最後で“一人分じゃない”重みに気づいて、それが怖くなった。クロウは恥じ入るしかない。

 しゅん、と項垂れる姿に、いくらか気が削がれ、冷静になったニーナは嘆息してから言葉を吐く。

 

「まあ、目先のことに目が眩んで何も考えずに突き進もうとするのは、凡人。その気持ちを呑み込めたのだから、成長はしておるだろう」

 

「そうか?」

 

「結果はダメだったがの」

 

「むぅ」

 

「だが、主の命懸けの覚悟に免じて、妾はそれに従うとしよう。……妾も少しばかりカァッとなり過ぎてたようだからな。なに、夏音を人質に取るテロリストなど恐れるに足らん。アルディギアの助けを借りずとも、このヘルメス=トリスメギストスの末裔にして、大いなる作業(マグナス・オブス)を究めし、パルミアの大錬金術師がおれば十分だ」

 

「ん。オレも四分の三殺しくらいに済ませられるよう頑張るぞ」

 

 そこへ、

 

 

「―――ぷっふふっ」

 

 

 と、小さく声を漏らして笑う第一王女。

 笑う彼女に視線が集中されるも、姫御子はそれを受けてなお微笑を崩さずに、これまで顔色ひとつ変えることなくじっと静観していたラ=フォリアが初めて口を開いた。

 

「お父様はまた随分と意地悪なことをおっしゃるのですね」

 

 その上で意図の読めない発言、だがそれを聞いたルーカスがイヤな予感に、その強面にわかりやすい困惑を皺で刻む。

 

「ニーナ=アデラートの叱責には心胆が縮み上がる思いでしたでしょう―――ですが、その古の大錬金術師を諌めるだけの力量があることをこの子は証明してみせました。

 賊の居場所は捉えており、手段を問わなければ壊滅できるとも宣言し、そして、王の言葉に従う度量と分別もあります。

 これで眷獣(借)(レンタル・サーヴァント)でなければ、満点なのですけど」

 

 対して、娘の顔には唇が弧を描き、花が咲いたような微笑が生まれている。

 

「そして、筋を通す覚悟があるのであれば、その方策を考えるのはわたくし達、王族でなければなりません。逆です。彼に責を求めるのではなく、わたくし達がその想いを汲み、責を負うべきものです。

 

 ―――これより、夏音を救出します。クロウ、その力と命、わたくしに預けなさい」

 

「フォリりん……?」

 

「話を聞いていたのかラ=フォリア! 明日の調印式は何としてでも成功させねばならないのだぞ!」

 

「ここはテロに“屈さぬ”ことではなく、“勝つ”ことをしなければならないときですお父様。ここで『戦王領域』との不可侵条約が更改されようとも『北海帝国』の脅威を排除されたことにはなりません。敵の特殊工作員部隊長を捉えているこの好機、逃せば後々の禍根を残すことになりましょう。国民のためにもこの禍根は立たねばなりません。

 調印式を成功させ、ひとりも犠牲を出さずに夏音を救い出す。この両方をしなければならないのは大変ですが、これだけのカードがあるのならば、ひとりの犠牲を出さずに勝つ自信がわたくしにはあります」

 

 ルーカスの一喝にもまったく怯むことなく、ラ=フォリアは真っ直ぐに見返す。

 

「―――それと、お父様。お父様は、以前にわたくしの“初めて”を捧げた古城に全面戦争を仕掛けるとおっしゃりましたではありませんか。

 まさかその言葉、全軍統帥権を持つ一国王が何の覚悟もなく冗談で言ったわけではありませんよね?」

 

「ぬ、う……」

 

「ならば、わたくしは大事な家族である夏音を奪った相手に、全面戦争を仕掛けると宣言しましょう」

 

 過去に出した言葉は引っ込めず、また引っ込めたくはない。それとこれとは話が別だと言えば、またその揚げ足を取ってくるだろうことがこの弁舌に長けた娘の父として予想できる。

 

「……何も儂も夏音のことを心配していないわけではない。できることなら、我がアルディギアの総力を挙げたいが―――」

「よろしいではありませんか。ラ=フォリアちゃんは、ちゃんとわかっている子ですよあなた」

 

 ね? と向けてくる母の視線に、神妙な顔つきとなってラ=フォリアが頷く。

 

「もちろんですお母様」

 

 ポリフォニアからの援護射撃もあって、場はラ=フォリアに傾く。と言うよりは、己が望む展開にまで持っていったのだろう。

 ニーナ=アデラートの脅迫に、南宮クロウの説得。ニーナ=アデラートの脅迫は本気で、南宮クロウの説得も本気であった。それはルーカスも嘘偽りがないと認める。

 

 だが、ルーカスが惚れ惚れするほど礼は服装及び普段持つことのない剣を小道具として持たせていたのは、あらかじめ用意してなければ無理がある。

 

 つまり、こちらの反応を事前に予想し、夏音誘拐の報を聞きこの国王夫妻の部屋に来るまでに打ち合わせしていた(どちらも腹芸のできるタイプではないだろうから、助言という形で誘導したのだろう)。予想外のアドリブがあったにしろ、交渉するための材料にできるだけルーカスから言動を引き出せて、(おそらくルーカスよりも早くに娘の策を察した)ポリフォニアがそちらについたこの展開は娘が誘導指揮した通りに進んでいる。

 目的の為ならば何でもすると外交相手から警戒されるラ=フォリアだが、我が娘ながら末恐ろしくルーカスは思った。

 

 

「それに協力してくれるのは、クロウだけではありません」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「………と言うことになったぞご主人」

 

『そうか。香水臭い雌猫はこちらの予想以上に行動力があったようだ。それで他にマーキングされた奴は?』

 

「いないぞ。んー、というか、オレの『鼻』じゃ、古城君以外反応しなかったんだけどなー、もうひとりいたのは気づけなかったのだ」

 

『ほう……』

 

「ん! 酔ってたわけじゃないんだぞ! ……でも、むぅ、何か自信がなくなってきたのだ」

 

『……暁古城の異変を察知したのは、まあ、よくやった。馬鹿犬の『鼻』が気づかなければ、あの腹黒王女とついでに監視役もテロリストどもに捕まっていただろう』

 

「っ!?!?」

 

『ふん。だが、それも馬鹿犬がパーティ会場で雌猫を捕らえていれば、話はもっと簡単だったんだがな』

 

「うぅ……褒められるのは慣れないけど、上げて落とされるのはすっごくくるぞ」

 

『これで王族の腹黒王女まで捕まっていれば、(借)(レンタル)ではなく、アルディギア(むこう)に引き取らせることになっていたぞ』

 

「ご主人厳しいのだ~」

 

『私の眷獣(サーヴァント)であるのなら、反省しろ。主人(マスター)が働いているのに、馳走を食い、酒に酔うなど眷獣失格だ。反省する機会を一度でも与えてやった寛大な処置に感謝するがいい』

 

「ははー、感謝するのだご主人ー」

 

『それで、テロリストどもの拠点、叶瀬夏音の現在地の“匂い”はわかるんだな?』

 

「う。ご主人もこっちを手伝ってくれるのか?」

 

『……いや、警備隊に話を通してはやるが、私は別行動を取ろう。テロリストどもの掃除くらいお前らで十分だろう』

 

 

貸倉庫

 

 

「―――マイレディ、遅くなってしまい申し訳ありません」

 

 

 執事服を着た“従者”。その両腕には、命令通り後ろ手に猿轡を噛ませられた、お目当ての北欧の姫御子ラ=フォリア=リハヴァインともうひとり、あの騒動の際、王族を護衛し魔獣を屠っていた少女だ。

 

 そして、二人の少女を攫って、馳せ参じた“従者”の前に立つ女性。

 メイド服ではなく、脇腹と胸元――フェロモンを出す部位を露出させたボディスーツにハイソックスとアームカバーをつけ、各所にベルトを巻きつけた仕事服に着替えた彼女は、『北海帝国』情報部特殊工作班の中で主に潜入工作を実行するチームのリーダーである軍人、トリーネ=ハルデン。

 今回の作戦は、アルディギア王国と『戦王領域』を結びつける不可侵条約更改を阻止し、結果的に『北海帝国』が政治的優位に立てるよう―――“あの男”を殺すこと。

 

「もう、どうしたのよ古城」

 

 トリーネは、古城(コマ)に猫撫で声を囁きながら、甘えるようにその身を寄せ――念のために、時間経過で薄らいでいる暗示(フェロモン)を擦り付ける。

 強力な催眠効果を持つフェロモン系の物質を分泌するジャコウネコ科の獣人種族の固有能力。

 これにより、たとえ相手がこの通り真祖であろうとも、命令に忠実で、嘘言を吐かない、優秀な“従者”になる。

 

「っ」

 

 それに“従者”が僅か半々歩下がり、俵のように片腕に抱えられた“おまけ”が身じろいだが、幸いトリーネに気づかれることはなかった。

 

「プリンセスを誘拐する際、剣巫に見つかってしまい」

 

「ふぅん。そういえば、<第四真祖>には、この国の政府機関から“愛人”が貢がれていると聞いたことがあるわね」

 

 またわずかに“おまけ”の身体が揺れる。

 だがそちらにはあまり興味がないようで、古城にプリンセス――ラ=フォリアと一緒に奥の部屋で吊し上げるよう指示を出す。

 テロの傭兵らに警備された扉を開けると、

 

「あ……」

 

 声が、上がった。

 すでに囚われていた、プリンセスによく似た王妹殿下、先代国王の隠し子、叶瀬夏音である。

 王妹殿下は、天井から吊り下げられた鎖に両手首を縛られていた。手を伸ばそうにも動かせず、白い指が闇に震えた。

 だから、少女は白い喉を震わせた。

 

「お兄さん……っ」

 

 それでも、耳を澄まさなければ聞こえないほどの声。

 たった一本の針を落としたかのような、弱々しくか細い声。

 それに呼ばれた古城は、反応を返さず、“お嬢様”の命通りにプリンセスを吊り上げている。だが、

 

「……か、のん?」

 

 か細い返事があった。

 かすかに、布ずれのような音。

 

「ラ=フォリアさん」

 

 声は今隣に並べるよう吊り上げられ、そして、夏音の声に薄らと意識が醒め始める姫御子のものであった。

 

「ここ、は……」

 

「お目覚めかしら? アルディギアのプリンセス」

 

 眼前には艶然と微笑するトリーネに、猿轡を外される。

 その後方には騎士団長を含め、敵テロリストの傭兵が控えている。

 ラ=フォリアは状況を速やかに悟った。

 

「……申し訳ありません夏音」

 

「何、がでした?」

 

「あなたを……巻き込んでしまったようですね」

 

「そんなの、違いました……」

 

 微笑が、声に含まれる。

 この薄闇の中でも、夏音の弱々しい笑みが見えるようだった、心底から相手を気遣う、はかなくも可憐な笑み。

 

「……それでも……申し訳ありません」

 

 ラ=フォリアが謝罪する。

 夏音は、困ったように微笑んだだけだった。その微笑は、気配だけで十分に伝わる。そこで、

 

「王妹殿下との感動のご対面は済んだのでしょう? そろそろ私とお話ししないかしら?」

 

 トリーネはあくまで静かな表情のまま、その吊り上げられた第一王女を見据えた双眸のみ冷徹に光らせる。

 対するラ=フォリアは、囚われた状態にあって、

 

「わたくしたちを誘拐した目的は、明日の調印式ですか?」

 

 ラ=フォリアは弱々しい声で尋ねる。

 その呟きは半ば以上自嘲に近く、いつも感じられる声の張りは失せて、瞳からも力が損なわれいた。

 その降参している様子に、トリーネは思わず微笑みを柔らかくした。

 あの『美の女神(フレイヤ)の再来』と讃えられた美貌と王家由来の高い霊的資質を持った第一王女が敗北を認めている。ああ、なんと相手を屈服させることで悦楽を得る女王然とした気質を、心地よく擽ってくれるものだろうか。

 気を良くしたトリーネはラ=フォリアの前に歩み寄り、種明かしを語る。

 

「へぇ、こんな時でも頭の回転が速いのね。そうよ、あなたたちが乗ってきた船――<ビフレスト>を使って、式典会場を攻撃するの」

 

 最新軍用魔導兵器を多数搭載した<ビフレスト>。一機で一軍隊に匹敵する戦力をもった飛空戦艦の勇名は、世界に響き渡るほどである。ただし、主機関を動かすには<疑似聖剣>と同じく、アルディギア王族の女性が持つ霊力が必要となる。

 だから、起動させる“鍵”であるラ=フォリアと夏音を“従者”に攫わせた。

 

「―――そして、『黒死皇派』をぶっ壊したアルデアル公をぶっ殺す」

 

 トリーネの言葉に意表を突かれたように、目を丸くするラ=フォリア。それは説明というより、馬鹿正直に胸の内を吐露したようにも聞こえた。

 代表として明日の式典にも出席する、『戦王領域』から送られてきたこの絃神島の外交大使。その重要なポジションについた青年貴族を、停戦を持ちかけたアルディギアの最新兵器によって殲滅する。そして、<黒死皇>を喰らい、残党も玩具のように弄んだ<蛇遣い>への復讐も果たす。それがトリーネの描いたシナリオ。

 それを噛みしめるように聞いていたラ=フォリアは、数秒間黙考した末、『なるほど』と短い感想をもらす。

 俯いたまま、まるで、教えられた内容の確認に復唱するようにトリーネへ問う。

 

「式典自体を我がアルディギア側の罠に見せかけて、調印を阻止し、両国間を緊張状態、あわよくば戦争状態に突入させる……それがあなた方『北海帝国』の狙いですか」

 

「そうよ」

 

 答えたトリーネ、そしてテロリストの傭兵らも、ニッ、と笑みを浮かべる。

 そして―――顔を上げたラ=フォリアもまた、笑っていた。

 

 

「そんなことなら、わざわざ誘拐などせずとも力を貸したでしょうに。

 わたくし、“ずっと前からアルデアル公をぶっ殺したい”と思ってましたのよ」

 

 

 嫌悪も露わに吐き捨てるように、言い切った。

 思わぬラ=フォリアの同意に、トリーネは過剰に反応してしまう。

 

「わかってるの!? アルディギアの船が『戦王領域』の青年貴族をぶっ殺すのよ! そしたら和平が破棄されるどころか戦争状態に突入するのよ!」

 

「ですから、それこそあなた方のお望みでしょう?

 どうぞ、お好きに。騒動に乗じてアルデアル公をぶっ殺せるならわかりにくいでしょうし」

 

 考えが、読めない。

 掴みどころのない相手であると話には聞いていたが、まさかこれほど狂人であったとは。

 

「ええ、いつかはわたくし自らの手で()るつもりでした」

 

「そこまで、第一王女が狂ってるなんてね。高い霊力素養の持ち主でも所詮人間の分際で、『真祖に最も近い』と言われる<蛇遣い>を殺すなんてできるわけがないでしょう!」

 

「ええ、“今のままでは”無理でしょう」

 

 意味深に強調して、姫御子は場の空気を呑み始める。して、ただならぬ気配を滲ませ始めるラ=フォリアに野生の直感が警告を発するトリーネは狼狽をし始め、テロリストたちにもそれが伝播していく。

 

「ですが、獣人(あなた)のような変身能力は、何も魔族に限ってのものではない」

 

「な、まさか……!?」

 

「聞いたことがありませんか? 北欧に伝わりし戦乙女(ヴァルキリー)は、人間の魂を獣の形にした現れた霊的な存在である、と。

 そして、吸血種の中にも獣化の能力を持った個体がいることを。

 そう、わたくし、古城の――<第四真祖>の『血の従者』となり、目覚めたのです!」

 

 閃光。

 ラ=フォリアは高い霊媒素養を持つ巫女。縛られていようと昂る霊力が最高潮に達した、その瞬間、室内は目を開けられぬ光に満たされる。これにはトリーネとテロリストらも反射的に目を閉じてしまい―――そして、目を開けた時にはすべてが終わっていた。

 

 ビシリ、という音。

 その『美の女神』と讃えられた容姿全体に、罅が入っていくように肌が割れていく。ぎょっとするトリーネらの前で、亀裂はどんどん広がっていく。

 

「な、にそれ―――私、知らない―――知らないわよそんなの!」

 

「アルディギア王家の最終手段は知らないのは当たり前です。

 なぜなら………」

 

 無数の亀裂が走り、また膨張していき、大きく裂けていく狼口を動かして、それは語る。

 直後に、崩壊は許容量を超える。

 これまでの『ラ=フォリア=リハヴァイン』という美しい王女の像は粉々に砕け散り、全長4mもの、貸倉庫の天井に頭がつくほどの巨体が曝け出される。

 黄金の神獣は、その視線だけでトリーネらを圧倒しながら告げた。トリーネ達『北海帝国』の終わりを。

 

 

「これが古城に初めてを奪われたわたくしが至った『戦乙女=神獣形態(ヴァルキュリア・ビーストモード)』―――この姿を見たものは、みんな死んでいるからです」

 

 

貸倉庫 外

 

 

 北欧に伝わるとある神話。

 巨人(スリュム)に奪われたものを取り返すために、巨人が要求した美の女神(フレイヤ)に変装する雷神(トール)の話だ。

 

 そんな雷神が美の女神に化けた伝承を元に組み上げられた、姫御子の姿を模す『影武者』の術式がアルディギアにある。

 

 

 

「『―――では、アルデアル公と殺し合いの前の、準備運動に付き合ってもらいましょうか♪』」

 

 獅子王機関の舞威姫の隣で、中にいるであろう剣巫が式神で仲介する通信術式(マイク)に向かって、完璧に役を演じようとノリノリな台詞を連発する王女様に、紗矢華は深い吐息をこぼしつつ、魔弓を構えた。

 

『まさか、こんなことが……! ―――古城! あなたの<第四真祖>の力で、アイツを追っ払ってちょうだい!』

 

 爆発のような打撃音と中にいるテロリストたちの悲鳴が上がり、貸倉庫が崩壊する。突き破って姿を現す黄金の神獣。そして、

 

『Yes,my Lady―――“お嬢様”に仇なすヴァルキュリアよ。神々より受けた呪いの重さを知るがいい』

 

 とポーズを決める暁古城。女獣人の催眠フェロモンの対抗策として、いつもクロウが魔女御手製の首巻にかかっている『匂い消し』と同じ効果を持った呪符をニーナに製作してもらい貼り付けてはいるが、それでもあまり近くにいさせるのは危険だろう。

 また、相手に寝返ったら面倒なことになる。

 そういうわけで、『『影武者(クロウ)』と剣巫を怪しまれずに、叶瀬夏音のいる敵陣中央に送り込む』という任を果たした第四真祖は速やかに退場させる。

 

『―――疾く在れ(きやがれ)、<甲殻の』

 

 左腕を挙げて召喚の文句を告げようとする古城に、『戦乙女=神獣形態』こと南宮クロウが俊敏な動作で襲い掛かる。

 その時すでに、閃光魔術を発揮する『鳴り鏑』の照準をセットしていた舞威姫。狙いは今まさに神獣の爪撃の餌食になろうとしている似非執事である。

 魔狼の爪が古城と接触しようとした瞬間、瞬間転移した目晦まし用の閃光呪矢が炸裂し、再び視界を不明瞭にした。

 

 <煌華鱗>に備わった二つの能力の同時使用。

 空間切断能力によって生み出した空間の裂け目を使って、射放った呪矢を転移させる―――<空隙の魔女>南宮那月が得意とする、空間制御魔術の応用だ。

 本来は呪矢の発射砲台である<煌華鱗>に、『空間切断』という異質の能力が与えられたのは、超遠距離狙撃とこの暗殺射撃を実現するためのものだった。正真正銘の舞威姫の切り札。許可なく使えば始末書ものだが、そこはアルディギア王家に任せるとしよう。

 

 紗矢華の放った矢は、空間の裂け目を通っての瞬間転移で相手陣地に突然現れる。最初の変身時のタイミングに放ったのも、中にいる雪菜との感覚共有で視界をリンクして、座標調節して行ったものだ。こうして、外壁が崩されて、外からでも見えるようになった今は、初撃の暗殺射撃よりも大きく難易度は下がっており、これを外しては舞威姫を名乗れない。

 呪矢は着弾と同時に相当量の爆音を響かせるので“観客(テロリスト)たち”には古城が爪撃により分子レベルで木端微塵にさせられたように見えただろう。実際はクロウが爪撃を寸止めし、吸血鬼の能力である霧化した古城がその場を離れただけだ―――そう、叶瀬夏音を連れて。

 白銀の髪の乙女を抱いた、その白銀の霧が駆け抜けるように紗矢華たちの下へ飛んできて、着地する。

 

『第四真祖が一撃で―――!? それより、あ、あなた、古城の『血の従者(あいじん)』じゃなかったの!?』

 

「『うふふ。ええ、そうです。ですが、“香水臭いおばさん”のものになるくらいならいっそ介錯(ころ)して差し上げた方が慈悲となりましょう』」

 

 哀悼の意を篭めるように哀しげな声音で言いつつ、目を白黒させてる夏音と死んだことにされた古城にウィンクする王女様。ちなみに今の発言に女獣人が怒声を上げて抗議してくるも、きっちりと王女様は『おばさん』のところを『ババア』に訂正して返す。血管がぶち切れた音が通信術式越しに聞こえてきそうであったが、威を借りた神獣(コウハイ)の一睨みで襲い掛かろうにも近づけないという……

 

「(え? あれ? ラ=フォリアさんがそこに? じゃあ、あそこにいるのは誰でした??)」

 

「(叶瀬、混乱するのはわかるが、今はとりあえず大人しくしといてくれ)」

 

「(あの様子だと制圧するのにそう長くはかからん。しかし夏音よ、そなたが無事でよかった)」

 

 突入時は、剣巫に掛けられていた手錠に化けて、変身時で周りが『神獣と成った第一王女』に注目を集める中で、雪菜と夏音の鉄鎖の拘束を錬金術で溶かすように外し、その後は夏音に張り付いていたニーナ。

 古城とニーナの言うことに、夏音はこくこくと頷いて、落ち着いたように安堵の胸を撫で下ろす。

 

『ば、化け物!?』

 

「『いいえ。この程度ではまだまだ。実はわたくし、あともう一段階の変身を残しています』」

 

 で、向こうはテロリストたちの阿鼻叫喚。パニックになって銃弾を浴びせてくるが、神獣の肌に傷をつけるどころかその獣毛に弾かれて、人類の最たる文明兵器が全く通じない。そして、王女が煽りに煽ってくる。暴力を後輩が担当し、説得?を王女がする、鬼に金棒よりも極悪な気がするこの組み合わせ。おかげで、その気当たりを飛ばすだけで相手傭兵は昏倒していく。

 

「『そして、そこにいる雪菜も、わたくしと同じ古城の愛を受けた『血の従者(あいじん)』であり、変身することができます』」

 

(やめてあげてくださいラ=フォリア王女。アドリブで雪菜に変なキャラ設定を追加しないで……!)

 

 恥ずかしい台詞が止まらないラ=フォリアに、向こうの現場に残り、テロリストから恐れられた雪菜は顔を赤らめさせて白い湯気を吹かせている。きっと必死で今の発言に抗弁しているのだろうが誰の耳にも届いていないだろう。不憫に思う紗矢華だがその設定だと自身も入ることに気づいていないのは幸いか。

 

(ご愁傷様だな姫柊……でも、さっきの俺の中二台詞も忘れられて欲しいんだが)

 

 残念ながら、第一王女が最初の犯行証拠を引き出した会話はこの通信術式を通して、録音されており、『北海帝国』を責めるための重要証言として厳重に保管されることになる。つまり、同時録音された<第四真祖>の黒歴史は残り続けるだろう。

 

 して、これ以上更に恥ずかしい展開に陥る前に、アスタルテを先頭に特区警備隊およびアルディギアの騎士団が貸倉庫に突入し、混乱して逃げ惑うテロリストらを捕縛していく。

 それに合わせて、獅子王機関の舞威姫も最後の役目を果たす。

 

「雪菜っ―――!」

 

 最後に紗矢華が魔弓で放ったのは呪矢ではなく、銀槍。

 本来射撃用はもちろん投擲用にも作られていない獅子王機関の秘奥兵器は、重心調整の関係で飛ばしても軌道が安定しない危険性も否定はできない。しかしそこに通す空間の裂け目の座標位置さえつかめれば命中率に関わらず確実に届けられる。大事な妹分の得物である<雪霞狼>を彼女の前に送り届けるためにはなった紗矢華の一射は、女獣人トリーネ=ハルデンと格闘戦を繰り広げていた雪菜の下へ―――

 

 

貸倉庫

 

 

「……あなたが、先輩を操ろうとしたんですね?」

 

「はぁ? なに? もしかして妬いちゃったのかしらぁ? <第四真祖>の愛人さん」

 

「―――いいえ、<第四真祖>の監視役として、その力を利用しようとするあなたを看過できないだけです」

 

「へぇ、看過できないってんなら……どうする気かしら?」

 

 と、彼女は獰猛に笑った。

 ネコ科の大型動物……それこそ、百獣の王の匹敵するほどの威圧と共に。

 

「捕まえます。力尽くでも」

 

 ジャコウネコ科の獣人種。フェロモンを嗅がせるだけで異性を操るこの相手は、先輩はもちろん、同級生も危うい。ラ=フォリアが自身に変装させていたのも、同性に見せかけるためでもあったのだ。

 だから、トリーネ=ハルデンは雪菜が相手をする。

 ―――先輩を誘惑されたからとか嫉妬がどうだとかそういうのは一切ない。ないったらないのだ。

 

「ハッ―――」

 

 嘲笑するよう顔を歪めてからの、女獣人トリーネ=ハルデンの獣化。

 縦に瞳孔が裂けた目は興奮して赤くなり、白い肌が浅黒く変わった。柔らかな女性の肢体が獣性を解放した筋肉質となり、硬い突起物が肘から生える。

 

「たかが人間風情が、大きく出たものね!」

 

 直後。

 血の滴りと共に、指の先からナイフにも似た猛獣の爪が飛び出した。

 

「―――舐めるんじゃないよ小娘が!」

 

 指から飛び出した獣の爪でもって、敵を屠る。

 大仰な神秘や秘術など必要ない、ただシンプルに殺す力があればいい。その果てにあるのが、この獣の力。

 

(迅速に済ませる)

 

 軽く五指に力を込めるだけで、ミシィ!! という轟音が体内に伝わった。

 常人であれば、その音だけで鼓膜が破断していたかもしれないほどの膂力。

 

(この乳臭いメスガキを殺して退散する。あんな神獣(カイブツ)の相手などしてられるか。そして、今度はもっと強力な駒を!!)

 

 たった数mの距離など、もはや何の意味もなかった。

 鎧防具を纏って痛い華奢な女子の肉体など、腕の一振りで切り飛ばしていたに違いない。

 だから。

 なのに。

 

 

「舐めているのはそちらの方です」

 

 

 腕を。

 真横に振り始めてから振り終えるまでの、1秒を20分割したその刹那に、トリーネ=ハルデンは、そんな言葉を受けたような気がした。

 それは『彼女の時間』に、割り込んできたということで、さらに付け加えれば『彼女の時間』よりも先を、剣巫は視ていた。

 

(人間の小娘如きが)

 

 ようやく背筋に悪寒を感じた。

 “見られている”。臆して目を瞑らず、瞬きひとつしない。躱す。躱す躱す躱す。こちらの方が速く動いているはずなのに、当たらない、掠りもしない。

 

獣人(ワタシ)の動きに慣れてる……ッ!?)

 

 トリーネ=ハルデンは、雪菜がこれまで見てきた獣人種の中では、比較的獣化をしても人型を保っていると言える。おそらく完全に獣の姿へ成れないのか、またはそうなることを忌避しているか。

 特殊工作部隊という役目上、戦闘行為は少ないのだろうが、だとしても、同級生の少年と比べれば性能が低い。身軽な分だけ敏捷性はあるがそれでも彼には及ばず、筋力の最大値も常人の3から5倍程度と獣人種としては際立って脆弱である。ある程度鍛えた男性であれば、一般人でも彼女の筋力を凌ぐことは可能であろう。

 

 しかし、それで十分だったのだ。

 身体性能で上回る男性はそのフェロモンで駒になるのだから。

 これまで、彼女とまともに戦える人間に出会わなかったのだから。

 

 だからこそ、トリーネは焦り、驚く――そして、一瞬の思考の空隙が生まれる。その“一瞬”が致命的なタイムロスとなる。何故ならばその間にもトリーネの身体は動き続ける。停められないほど勢いがつき、今更、この動きをキャンセルすることはかなわない。

 

 自転車にとっての10秒と、自動車にとっての10秒は違う。

 高速道路を走る自動車と、サーキットを走るレーシングカーにとっても。

 全力のレーシングカーと、全力の超音速戦闘機ならなおさらだ。

 たった一瞬の余所見、たった刹那の意識の空隙で―――事故る。

 そしてそれは、高い速度に比例して重大な結果をもたらしてしまう。

 

「ガッ」

 

 間近において、女獣人の絶叫があった。

 標準的な速度にいるものにとって、それはドップラー効果のようにひずんで聴こえただろう。

 

「ァァああああァァ! ァァァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 

 実際に、雪菜は“投げて”いない。

 意識の空隙によってトリーネが自らの身体の制御を見失い、足運びを誤り、バランスを崩し、大きくスリップするように体を回転させてしまったのだ。

 届くはずの爪は、雪菜の鼻先、その数mmの地点で空を裂く。

 それが限界であった。

 ぐるんっ! と女獣人の身体が宙を舞う。回る。回転する。ひとりでに転び、最低でも二回転以上は宙で回って落下した。そのまま自らの背中を固い地面へと叩きつける。

 それはもはやてこの原理や体重移動を利用する合気道というよりは、柔術の専門家がひとりきりで土俵に上がり、神に投げ飛ばされる役を買うことで奉納の舞とする『精霊相撲(しょうろうずもう)』の決まり手であった。

 

 ―――ドンガラガッシャーンっ!

 

 遅れて炸裂する爆発的な大音響。

 壁にぶつかったトリーネは呼吸困難に陥るも、体勢を立て直して再び雪菜に飛び掛かる。

 

「はあああああっ―――!」

 

 裂帛の気合いと共に、トリーネが獣爪を突き出す。その爪先が、ついに雪菜の身体を捉え―――

 瞬間、剣巫の姿が陽炎のように揺らぐ。

 残像―――否、幻術だ。

 

 獅子王機関の剣巫が、幻術。

 対魔族の直接戦闘に特化した剣巫は呪術全般が得意ではない、というのが常識だ。事実、雪菜の幻術は初心者の域を出ないだろう。

 だが、それでもうまく使えば、近接戦闘の最中にほんのわずか相手に意識の空隙を作り出すことができる。

 

 昼休みの南宮クロウとの組手。

 あのまともにぶつかれば防ぎようのない馬力で、女子だろうと容赦なくぶん殴ってくる同級生が、ここのところの雪菜の練習相手であった。怪我はさせないよう加減はしてくれていると信じてはいるが、あれは掠っただけでも腕が痺れる。しかも雪菜が渾身の一打(ゆらぎ)を、後出しでそれより早く打ってくるのだ。魔族を素手で仕留めるくらい白兵戦術に自信があったが、同級生はそれ以上に成長しており打撃(パンチ)力に関しては師家様(せんせい)より上である。

 これまで通り真っ向から相手を叩き潰す、剣巫の対魔族の直接戦闘だけでは負ける。

 故に自然と雪菜は、自分よりも速く動く相手に慣れており、防ぐのではなく、身体に衝撃負担を掛けないよう、柔らに受け流し、時に幻術でわずかに相手に間合いを見誤らせる戦術が身についた。

 

「<若雷>っ―――!」

 

 生じた意識の空隙。宙を泳ぐ相手の身体。そこへ叩きこまれる掌打。上手い具合にカウンターが決まり、相手がぐらつく。そのとき、剣巫の霊視がそれを捉えた。

 

「―――紗矢華さんっ!」

 

 突如、空間の裂け目より現れた破魔の槍。ルームメイトが飛ばしてくれた己の得物をほとんど見もせずに捕まえると、バトンリングのように回しながら槍の両側にある副翼を広げて展開。

 

「……ァ……か……ッ!!」

 

 呼吸が詰まってままならず喘ぐトリーネ=ハルデン。

 そこへ、

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――」

 

 対魔族の秘奥兵器<雪霞狼>により、雪菜の体内で霊力が膨れ上がる。あの破魔の銀槍は、

魔族にとって極めて危険な存在だと本能が訴えてくる。その輝きに怯み、両手を顔の前にかざして後逸するトリーネ=ハルデン。

 だがそれを逃さず、静かに祝詞を紡ぎ終わった剣巫が動く。

 時間の流れが緩やかになった錯覚。

 何の変哲もない、ただ前に踏み込んで真っ直ぐに槍を突き出す。ただし、とてつもなく滑らかで、流麗。動作の間の無駄がなくなって、まるで芸術作品を鑑賞するかのよう。

 

 ―――そして、守り(ガード)を固めた女獣人へ、一条の銀光となった槍突きが衝突する。

 

 

「破魔の曙光。雪霞の神狼。鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!!」

 

 

貸倉庫 外

 

 

 そうして、『北海帝国』の特殊工作部隊隊長トリーネ=ハルデンおよび工作員らテロリストを捕縛。

 かなりの力技であったけれども、第一王女(ラ=フォリア)変身のインパクトと王妹殿下(かのん)救出が成功したおかげで、余裕がなくて相手を殺戮するような事態にはならず、労せずに一網打尽である。

 ただ、これにより『<第四真祖>の吸血行為を受けたものは、獣化の変身能力を得る』とか言う古城にあまりうれしくない追加設定の噂が広まることになったが、こうして後輩(かのん)を無事に救出でき、調印式前にテロリストらを捕まえることができたのだからよしとしよう。

 

 ―――だが、これで安堵するにはまだ早かった。

 

「―――やはり、こうなるか。否、これは己の手で下さなかった甘えた不始末だ。尻拭いなどとは考えまい」

 

 その深い声は、魔法のように真後ろから響いた。修羅場でこそ本当の速度で鼓動を叩く心臓が、その瞬間から、実際には2秒にも満たなかっただろう時間を何倍にも薄く長く引き伸ばす。

 夏音とラ=フォリアを庇って、古城は振り返りつつ左手に魔力を篭めて、振り抜く。眷獣の一端を引き出した暴威を向ける前に、気配はすでに消えていた。いや、違う。今のは古城が錯覚した相手の気当たりだ。

 

「あんたは……」

 

 闇に同化したように、全く気配がなかった。声をかけるまで誰に勘付かれることなく背後に、右の腰に剣を差した、ダークスーツ姿の西洋人が立っていた。

 上背は古城よりやや高く、銀の頭髪はすべて後ろへ撫でつけて、時代劇の人斬り浪人のような総髪茶筅。ピンと伸びた背筋、衣服の下の肉体が研ぎ澄まされているのが伝わってくる。おそらく歳が40代と思うが、常識を超える鍛錬の成果によるものか外見はせいぜい30代の前半である。

 ラ=フォリアもその姿を確認するや、背筋を伸ばし、

 

「騎士団長……」

 

「否。第一王女よ。ここにいるのは騎士団長ではない、グレン=カタヤというひとりの破落戸(ごろつき)だ」

 

 笑みを含んでそう言った男の目尻や口元にかろうじて年相応の小皺があらわれる。しかし、その間も、王女と相対してさえ、その目は閉ざされている。

 

「……賢生に続いて、あなたまで裏切ったとはあまり考えたくないのですけど」

 

 優秀な騎士の証である蒼銀のコートを脱いでいる。すなわち、ここにいるのは王に仕える騎士団長ではないという意思表示。

 

「申し訳ありませぬ王女。国王夫妻にもご迷惑をかけたことを心痛く思います」

 

 騎士団長の声音は、詫びているはずなのに刺さるようだ。この人物がただ立っているだけで、いつ斬り合いが始まってもおかしくないと空気の底が冷えるのだ。瞑目していてもこの全身の毛穴が開くほどの、隙を作った次の瞬間に首と胴が切り分けられることを想像させるほどの緊張感。

 そして破落戸を自称する男が、善悪を超越して闊達に笑った。

 

「―――だが、それでも認められなかった。『戦王領域』との和平も、王妹殿下―――否、叶瀬夏音が王族であることが。“故に裏切った”」

 

「テメェ……」

 

 薄々と、古城にも理解できてきた。この男は自分と同じように操られて、テロリストについたのではない。自分の意思でテロリストについたのだ。

 

「そんな……それで、カタヤさんを斬ったのでしたか……?」

 

 古城の背後より、震える声で夏音が問う。それに目は瞑っていても、そちらに顔を向けることなく、

 

「応。それが姪であろうと、剣を構えるのならば関係ない。そして、斬られたのはあれが未熟であったため」

 

 ずっと抜かれた刃物のように薄く鋭くその目が開かれる。

 

 ―――邪魔立てするのならば、斬る。

 

 それだけで、暗闇そのものが押し寄せてきたような、圧倒的な死の予感。

 それを誰よりも早く直感したのは獅子王機関の舞威姫。

 

「―――グレン=カタヤ。魔導テロに加担した容疑であなたを捕縛します」

 

 紗矢華の前に立つのは、『聖環騎士団』の長。そう簡単に撃破できる相手ではないだろう。

 その挙動を注視しながら、近接戦に合わせ長剣形態とした『六式重装降魔弓』の柄を握る指に、強く力を込める。

 

 本気で戦うが、殺さずにかつ迅速に事態を済ませるのならば、まずその得物を破壊する。

 この<煌華鱗>の『空間切断』はあらゆる攻撃を防ぐ障壁であり、この世で最も堅牢な刃。たとえ聖剣魔剣が相手でも、舞威姫の剣舞に斬れないものはない―――!

 しかし、

 

「騎士団長と斬り合ってはいけません紗矢華!」

 

 ラ=フォリアが、常にない切迫とした声で紗矢華の行動に制止を叫ぶ。

 だがそのときにはすでに、煌坂紗矢華の視界から騎士団長は消え失せていた。

 凄まじい速度―――というよりは、巧くタイミングを外され、紗矢華の視界の外へ移動されたと気付くまで、一瞬の時間が必要で、そして、その時には、ビュオ!! という風を切る音が舞威姫の斜め後ろから響いていた。

 

「ッ!?」

 

 舞威姫の霊視の未来予知がその斬撃を予想し、その空間を『空間切断』の刃で薙ぐことで、破壊不能の絶対防壁を作った紗矢華。

 ―――に構わず、騎士団長は、魔剣<バルムンク>を真一文字に薙ぐと、その白銀の刀身がその軌跡に従い淡い残光を煌めかせる。

 魔剣の白刃は、<煌華鱗>の『空間切断』による物理的に突破し得ない障壁など存在しないかのようにすり抜け、舞威姫に一太刀を浴びせた。

 

「……ほう、腕の一本は切り捨てようと思ったが、今の間合いで討ち漏らしたか。王女の助言があったとはいえ、中々に勘の優秀な素材のようだ」

 

 その瞬間、我が身に何が起こったのか、紗矢華にはわからなかった。警戒は怠らなかった。ギリギリ防御も間に合ったはず。なのに、見えなかった。防げなかった。ただ『斬られた』という結果だけがある。

 右腕をやられ、だらりと落して血を流す紗矢華を、騎士団長は追撃せず静かに見下していた。注意深く観察しているというよりは、慌てて止めを刺す必要はないとでも言わんばかりの表情だ。

 

「何を驚いている」

 

 全身から警戒心を発し、指先、その筋の動きまで注目する紗矢華に対して、騎士団長は剣先を下に向けた。その声に滲ませていたのは余裕ではなく、失望。

 

「裏切ったとはいえ、私は『聖環騎士団』の(おさ)だったのだ。舞威姫とはいえ、たかが獅子王機関の一員ごときと、互角に試合えるなどと思われていたとは心外だ」

 

「ッ!! <(ゆらぎ)>よ!」

 

 式神をばら撒く。鳥に変じた銀紙が強襲を仕掛ける。人間に躱せるような距離ではなかったが、敵は難なく回避した。目を瞑ったままで。

 

(なんて反応! こっちの呼吸を呼んで―――)

 

 騎士団長の技量は、紗矢華の師家である縁堂縁や特別講師に招かれ、訓練生時代に二対一でも触れることさえ叶わなかった<四仙拳>と同等。

 それでも無謀を承知で、大きく踏み込み、渾身の剣舞を相手に見舞う。

 

「ハァ―――!」

 

 下段、二段突き、上段と連続で踊るように打ち込んでいく。

 その連撃の一切を物ともせずに瞑目したまま躱す。巫女の霊視がないはずなのに、悉く読み合いを外していく。

 ―――とそこで、先ほど回避された式神の鳥が弧を描いて、再度強襲を仕掛けた。一撃を外してからの不意打ち。そして、それを避けてからの体勢。素早く位置を変え、剣を持っていない右手側から紗矢華は斬りかかる。止められるはずはない―――と思ったが、騎士団長はその白手袋をつけてる右手で<煌華鱗>の刃を正面からつかみ取った。

 

(『空間切断』を、防がれた……?)

 

 紗矢華は必死に<煌華鱗>を引き剥がそうとするが、騎士団長の指は微動だにしない。

 

微温(ぬる)い。私の前を阻むのならば、最低限でも同じ組織の長である『三聖』を連れて来なければ話にならん。はっきりいって、貴殿では役不足だ」

 

 右手で舞威姫の剣を止めながら、左手の魔剣を振りかぶる。

 そして、振り下ろされた剣が、紗矢華の眉間を割る―――寸前。

 

 轟っ、と紫電弾けるバスケットボールほどの雷球が騎士団長へ迫る。

 

 斬っ、とそれを魔剣で斬り捨てられるも、舞威姫に降されようとした軌道を変えることができた。そして、相手の注意がわずかに逸れた隙に、紗矢華は剣を手離して後逸した。

 

「だったら、俺がアンタと“戦争(ケンカ)”してやる」

 

「<第四真祖>、か……」

 

 古城は、即座に眷獣を召喚できるよう左手に魔力を集わせる。騎士団長は、銀光を冴え冴えと照り返す剣を自然体に下段に構えた。

 

「ラ=フォリアたちが必死に国を守ろうとするのを台無しにしようとしたり、叶瀬を悲しませたりしやがって! テメェはそれでも騎士団のトップじゃなかったのかよ! どうして、こんなことするんだ?」

 

「今更囀ってどうする。二度も同じことを言わせるな。女の命を背負った男なら、敵を斬ることだけを考えろ。それもわからんようでは、真祖といえどヒヨッコか―――」

 

 相手が人間であるも、出し惜しみなどできない。

 咆哮し、古城は眷獣を喚び出さんと掲げた―――つもりでいた左腕が、軽くなった。次の瞬間、すっと抜けたぬるい風が、古城の胸元をかすめた。

 起こったことを理解した瞬間、古城の喉は悲鳴を上げていた。騎士団長は間合いに入った全てを斬り伏せる剣鬼だ。『聖環騎士団』はアルディギアを魔族の侵攻より守るために最前線で戦ってきたものであり、その長として魔族を斬ることが最も深く皮膚の奥まで染みついた騎士団長の剣を振るう動作は、不気味なほど音を立てず、吸血鬼である古城にも軌道を見せない。

 そして、腕を斬り飛ばした魔剣の神速の返し刃が上段からの袈裟斬り。

 

 ずどんっ、と衝撃音が響く。およそ剣撃の響きではないが、確かに剣から生じた音だ。男の剣は古城を袈裟懸けに両断して、その背後の建物に5mを超す亀裂を生んだ。

 

 眷獣すらも屠りかねない一刀。これと同じことを<監獄結界>に収監される魔導犯罪者『龍殺し(ゲオルギウス)』ブルード=ダンブルグラフが<蛇遣い>との戦闘でしてみせたが、それをこの男は片手でしてのけた。

 

「いやああああああ―――――っ!」

 

 後ろに庇う少女から悲痛な叫びが聞こえた。

 それに応じることはできない。何故ならば古城の左肩から――左胸の心臓部を通り――右腰までの一直線の断面から、自分の胸から前のめりに倒れてゆくのだ。まだ下半身は地面に立ったままだというのに。ごとりと音がして、古城の顔は地面に転がり落ちる。時間差で、腰から下が崩れ倒れた。

 騎士団長が、剣を血振りする。舞威姫と真祖を無力化され、護りのいなくなった二人に、剣を向けるためだ。

 

「ぐはっ……!」

 

 古城の喉から、血の塊を吐き出す。それより、左腕の傷口より血が噴き出し、またそれ以上に胴より別れた断面から臓腑も血と共に零れ出す。焼けるような激痛に、斬られたことを判別できない脳が混乱して、思考がぐらぐらした。これほどにやられたのはロタリンギアの殲教師オイスタッハ以来か、と冷たい理解が理性を満たしていた。大量に噴き出すあたたかい液体が血だまりを作る。

 

「遅い」

「っ!」

 

 ラ=フォリアが呪式銃を抜いて、騎士団長へ弾を放つが、その銃弾を回避されて、軽く振られた剣閃で合金製の銃身が竹輪でも切るように両断されていた。金属音が、カランと軽く絶望を響かせる。ラ=フォリアは数秒でも古城が立て直せる時間が欲しくて、銃身が伐られた。もはや弾丸を真っ直ぐ飛ばせず、銃口につけた銃剣(バヨネット)もなくては、<疑似聖剣>も発動できない。剣風に圧され、崩した体勢で無防備に空いた腹へ蹴りを入れて、第一王女を遠くに転がすと、

 

「ほれ、返すぞ舞威姫」

「がは!」

 

 掴み取っていた獅子王機関の武神具を投擲され、受けた紗矢華が吹っ飛ばされる、

 残るは、

 

「お兄さんッ!」

 

 服が汚れるのにも構わず、夏音が古城にしがみついていた。この視界が完全に真紅に染まる中で古城がかろうじて意識を保てたのは、彼女のおかげだ。呼びかけ続ける少女に、大丈夫、と古城は獰猛に笑って見せる。

 

「精霊炉かアルディギア王家の加護がなければ、<バルムンク>といえど、真祖は屠ることはできんか。だが、しばらく身動きできんのなら構わん」

 

 夏音に伸ばされる右腕―――に巻き付く銀色の蛇。

 

「剣の腕は大層なものだが、妾とは少々相性が悪いぞ?」

 

 蛇が女性の人型に戻る。ニーナ=アデラート。<賢者の霊血>という液体金属の肉体に斬撃は通用せず、究めた錬金術はその人体を鋼に変える。

 

「ふ。人間に錬金術を掛けるのはしたくないが、主には容赦せん」

 

「結構だ。叶瀬夏音を狙うと決めた時から貴殿のことは警戒していた」

 

 騎士団長の右腕より滲み出た闇色のオーラが、ニーナの物質変成を弾き、霊血の肉体に侵食する。呑まれたニーナは力が抜けたように、騎士団長の右腕の拘束を外してしまう。

 

「ぬ、し……これは……―――」

 

「貴殿の言うとおり、剣で切れぬのは厄介であるが、倒せぬものではない」

 

 騎士団長が左手に嵌めた指輪をニーナの前にかざす。透き通るような青い輝きを放つ宝石が埋め込まれたそれは、魔導技術大国であるアルディギアが誇る凍結魔術が封入されている。規模は小さく、威力も低いが、それはかつて<模造天使>と化した叶瀬夏音が使ったものと同種の能力。そして、以前、特区警備隊が霊血に対してとった作戦の通り、金属の性質からして氷漬けに冷却されれば、その活動は封じることができる。

 

「院長様!」

 

「殺してはいない。真祖と同じく、邪魔な横槍は封じさせてもらっただけだ」

 

 そして、叶瀬夏音に向け、魔剣を構える。

 

「どうして、こんなことを……」

 

「……認められなかったからだ」

 

 ゆっくりと息を吐き、そして今まで閉ざされ、薄く線にしか開かれていなかった、その両の眼を静かに見開く。

 思わず、夏音は驚きに息を止めてしまう。

 特別その眼光が恐ろしく鋭いのではない。魔族の魔眼などではないし、義眼などの特殊な魔具が埋め込まれているわけではない。

 あまりにも、平凡な瞳がそこにあった。

 騎士鎧ではないにしても、漆黒のダークスーツに身を包み、栄えある騎士団を率いる多くの魔族を斬り殺してきた歴戦の戦士には到底不釣り合いなほどに純粋な、世界の闇に濁らない――そう“彼ら”のような少年の瞳。

 

「違いました。あなたは皆を傷つけるような人ではありませんでした」

 

「……否。私は、破落戸だ」

 

 少女の言葉に、これ以上は何も答えず、静かに剣を振り切った。

 

 『聖環騎士団』の長に与えられる<バルムンク>の力は、“切断する対象を任意で決められる”ものだ。

 超高等魔術である『空間制御』に並ぶ『物質透過』の魔剣。如何なる盾鎧、殻鱗であっても防御することが不可能。そして、時空を超える裏技が『空間制御』にあるように、『物質透過』を窮めたその裏技は、“斬れぬものを斬る”。

 

 魔剣が叶瀬夏音の肉体を通り、すり抜けた。

 その肌に斬れ痕はない。斬られたことすら感じさせない達人の一振りは、夢幻のよう。

 だが、“斬った”。

 霊的な感覚の持ち主でなくても見えるほど眩く白光が、叶瀬夏音の肉体より出ていき、それを騎士団長の右手が掴む。意志を篭めて拳に固める握力に引き寄せられるよう、その右手に集っていく。

 

「アルディギア王家女児の霊核、確かに頂戴する」

 

 “斬れぬものを斬る”。

 そうそれは、外科的な心霊療法か。メスの代わりに魔剣を入れ、その触れることのできぬはずの霊体にさえ刃を通し、核を切り分ける。

 叶瀬夏音の霊力が、消えた。

 そう、それはかつて<蒼の魔女>仙都木優麻が、その母親である<書記の魔女>仙都木阿夜により、魔女の魔術回路と結びついた<守護者>を奪われた時と似ている。

 力の源泉を略奪。された少女はその血色のよかった肌が、白蝋の如く変じていく―――

 瞬間、前触れもなく出現した巨大な稲妻が、眩い獅子の姿に変わり、騎士団長に喰らい尽く。

 

「<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>!」

「っ!」

 

 うつぶせに倒れ、背を反らして上体を持ち上げていた古城が、眷獣を喚び出していた。

 斬られた心臓の再生は終わっており、胴体左腕も繋がっている。正確には、魔力の塊でできた得体のしれない仮想肉で型取りして繋ぎ止めているというイメージだが、とにかく体を動かせる。万全ではないにしろ戦える状態にまで持ち直した、吸血鬼の真祖が持つ、呪いにも似た超回復の賜物だ。

 

「叶瀬から離れろテメェ!」

 

 雷光の獅子は咄嗟に魔剣を盾にした騎士団長を大きく弾き飛ばした。初めて一撃をもらった騎士団長は、地面に刺した剣を杖に身体を支えながら古城を睨み、

 

「もう、遅い。その娘はもはや用済みだ」

 

 肉体的な損傷はなくても、霊核を奪われた夏音はひどく衰弱しており、生命の温もりは弱まってきている。その四肢を投げ出して弛緩する夏音を、古城には救えない。世界最強の吸血鬼などと呼ばれていても、<第四真祖>が持つ能力は、“戦争”に特化したものでそれ以外にはほとんど何の役にも立たないのだ。この場で夏音を救えるのは、それは訓練を受けた霊媒である者たち。

 

「夏音っ!」

 

 蹴られた腹を押さえながら第一王女と、そして、舞威姫が夏音の下に駆け寄る。

 夏音と同じくアルディギア王家の血を引き、世界でも最高クラスの霊力の持ち主であるラ=フォリア。その霊力量は人間の限界点に達しているほど桁外れであり、そして血縁が近い故にその属性はほぼ同一で似通っている。輸血の際の血液型が合わず拒絶反応が起こるようなことはない。

 そして、紗矢華も獅子王機関の舞威姫として訓練された霊媒であり高い素養を持っている。けれど、単なる相性の差もあって、この上なく高い親和性を崩さぬよう別の措置に回った。人の生死を操る、呪詛と暗殺の専門家である舞威姫は鍼治療で応急処置を試みる。夏音に霊力を送り続けるラ=フォリアの横で、紗矢華は夏音の肉体、その霊的中枢のある個所に向けて針を差し込んでいく。

 

「煌坂、叶瀬は?」

 

「不幸中の幸い。皮肉だけど相手の腕が良かったお蔭で、霊核のところだけを切り取られて他はまったく傷ついていない。これなら私でも助けられそう……けど」

 

 しかし、これでは大きくその寿命は削られてしまうだろう。助けるには、霊核を取り戻すしかない。

 と、そこで、ひとつの違和感がこれ以上は無視でないほどに膨れ上がる。

 

「……騎士団長、何をしたのです」

 

「何でしょう」

 

 古城と夏音たちを守るように侍らしている雷光の獅子に視線をやりながら、騎士団長が応じる。

 底の栓を抜くように疲労していく精神を奮い立たせて、ラ=フォリアは訊いた。

 

「先ほど、お前は何をしたと訊いているのです」

 

 訝しげに古城はラ=フォリアの顔を見て、そして紗矢華もそこで違和感に勘付く。

 

 

「わたくしですら、触れただけでその霊核を取り込める術は知りません。

 いったい、その右腕には何があるんです?」

 

 

「………」

 

 騎士団長が、沈黙した。

 アルディギア王族の秘儀として、相手の霊核を喰らう『蠱毒』の儀式<模造天使(エンジェルフォウ)>がある。

 だがその<模造天使>は、優秀な宮廷魔導技師がつき、そして、“高度な霊媒素養を持つ者”に対してだけ行える儀式だ。

 騎士団長とはいえ、<疑似聖剣>の発動に精霊炉か姫御子の援助がなければならない彼に霊媒素養は高いはずがなく、そして、叶瀬賢生のような宮廷魔導技師ほどの魔術の技量はない。あくまで彼の力と術は戦闘に特化しているものだ。

 

「王女の慧眼は誤魔化せませんな。その通り、私に賢生のような知識はない。無論、貴方様のような力の器でもない。魔剣<バルムンク>で霊核を切り分けても、それを受け入れることなどできるはずがなかった。

 ―――この右手に埋め込んだ『異境(ノド)』の魔具がなければ」

 

 魔具を人体に埋め込む。

 それは、『聖環騎士団』が、『魔義化歩兵(ソーサラスソルジャー)』――聖域条約にも調印していないアメリカ連合国の人体改造を行ったということだ。

 <疑似聖剣>という北欧の姫御子らの加護を得るために清廉潔白であらねばらない騎士は、そのような邪道に手を出していたなどあってはならない。それは一神教の宗教で、他宗派の神を信仰するに等しい御法度だ。

 それも、

 

「『異境(ノド)』……まさか、『聖殲派』の……!」

 

 ラ=フォリアの言う『聖殲派』という単語に聞き覚えがないが、裏切りを知った時でも毅然としていた彼女が、一瞬、不自然に肩を震わしたのを古城は視た。

 動揺する王女の問いに、騎士団長は薄く笑い、

 

「否……と言っておきましょう。

 この魔具は、15年前に手に入れたものであります」

 

「15年前……?」

 

「ひとりの女人を狙う賊がおったのです。魔族の天敵であるアルディギア女児の“情報”を欲したのでありましょう」

 

 王女への敬意を払って丁寧な口調で、静かに、騎士団長は話し始める。

 

「国を出るまでは彼女を護衛していた私は、その賊――『咎神の騎士』を撃退することに成功しました。あ奴らの力は、魔力を打ち消すものでありましたが、剣技の冴えまで奪うものではなかった。―――今を考えれば、そうでなければ良かったものを」

 

 昏倒している夏音が身動ぎした。

 何かを、予感したのだ。

 おそらくは、聞くべきでない何かを。

 

「……おそらく、その段階で、王家に報告するべきでありましたでしょう。こちらの縄張りに無断で侵入し、それを処断した。そして、賊が持っていた『異境』の魔具を回収したことを……ですが、それができなかった」

 

 く、と苦い笑いに頬を引き攣らした。

 先の雷光の獅子のチャージを受けて、ボロボロになったダークスーツを破り捨て、シャツのボタンを外す。

 その右肩から右肺のある胸元にかけての肌が、青黒い色に変色していたのである。

 

「この魔具を取り込んだ代償で、私の内臓、特に片肺がやられ、生きながらに腐りかけております。右の聴覚も働いておらず、嗅覚も、ほとんどありません。ルーカス王はご在知だ。もっとも、王には魔族からの呪いを受けてのことだと説明しましたが」

 

 言葉を失くす。

 騎士団長の台詞に、何のハッタリもないと理解させられたからだ。

 

 魔具というのには、それを使う術者を選ぶものがある。

 例を挙げるのならば、<雪霞狼>。それは幼少のころから訓練機関で鍛えられた少女の中から剣巫という武神具の担い手が選ばれる。使うことならば、訓練された巫女にも可能であるが、その性能を100%に発揮するには、やはり剣巫しかいない。

 そして、<雪霞狼>に選ばれたのは、現剣巫が二代目。つまり、2人しかいないのだ。

 

 長年、魔剣<バルムンク>を担う騎士として研鑽をつみ鍛え上げた者が、全く違う系統の魔具を肉体に埋め込む。それを誰にも悟らせず、独力で身体に馴染ませていくのに、どれほどの才能と代償が必要であるのか。

 そして、この騎士団長に、そこまでさせた理由は何なのか。外道に踏み外してでも、成しえたいその執念とは一体、

 

「『聖殲派』の魔具は、魔力を打ち消す『異境』を呼び出すだけのものではない。他所から“情報”を奪い、自らに取り込む。触れるだけでいい。この右手にアルディギアの霊核を喰らわせるだけならば、<模造天使>の儀式を行わなくて済む。

 ―――これで、説明は終わりです第一王女」

 

 絶句する中で、騎士団長は語り終える。

 

「いいえ、まだ肝心の動機を聞いてませんが?」

 

「先ほども申しあげましたでしょう。魔族との和平協定など認められぬ。故に王位継承権などない外様の小娘に不相応なアルディギアの力を取り上げ。我がモノにした」

 

「本気なのですか? <模造天使>が門外不出の秘儀であったのは、アルディギアの血筋を引く女児にしかできなかったからです。他人の霊核まで取り込めて無事でいられるほど人間の肉体(うつわ)は耐えられるものではありません。そして、耐えられなければどうなるのか……お前もそれはわかっているのでしょう?」

 

 騎士団長は、巫女のように高い霊媒素養を受けるほどの器がない人間。

 如何に特別な魔具に頼ろうとも、その元が人間の肉体性能であるからには、何が起こるのかはわかり切っているはずだ。アルディギア王族女児、その精霊炉に匹敵する霊力の情報量を“取り入れる術”と、それを“受け入れられるほどの器”は別問題だ。

 そんな王女の裏切者を心配するような声に、騎士団長は静かに笑った。

 静かに笑って、言う。

 

 

「もちろん。承知の上」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「では、そろそろお暇させてもらいましょう。王女への最後の義理立てとして付き合いましたが、これ以上、王女の時間稼ぎ(ながばなし)をされると、面倒になりそうなので」

 

「―――逃がすかよオッサン!」

 

 去ろうとする騎士団長に、古城は荒々しくも腕を大きく振り、吸血鬼の力をぶつける。さらに追加で膨大な魔力が注ぎ込まれた雷光をまとう獅子が、踏み潰す勢いで逃亡を阻止せんと騎士団長の頭上から飛び掛かる。

 

「アルディギア王家女児の霊核を取り込んだ意味が分かっておらんようだな第四真祖」

 

 それを平然と眺めて、騎士団長は悠然と右手を前に突き出し、左手で剣を構える。その闇色に染まる虚無の障壁を纏う右掌が、紫電の速度で迫る雷光の獅子の鉤爪を、正面からまともに受けて、弾いた。まるで投げつけられた風船を叩くように音もなく。眷獣が纏う閃光と稲妻が霧散して、“初めて両手で”構えた剣を振るう。

 

 剣身が赤く光って見えるほどの、猛烈な振りは風よりも速い。神速の踏み込みの後を、巻き起こった疾風が追う。

 

 明日の調印式に出席する『戦王領域』帝国評議会議長ヴェレシュ=アラダール。

 若い世代の吸血鬼でありながら、第一真祖の懐刀であり、<蛇遣い>と同格の実力者。大罪の名を冠した七体の『剣』の眷獣を従えて、数多の戦場でその猛威を振るった武闘派の伝説的な吸血鬼。

 それと国境防衛線の際に、切り結んで生還できたほどの実力者である騎士団長の技量。

 

「―――我が剣に宿れ、戦乙女の加護よ!」

 

 柄に埋め込まれた青い宝玉が、黄昏色の光を閃かす。

 

 普通の鉄ならば、強過ぎる魔力には耐えられない。だが、この魔導大国の技術力で練磨された剣は、魔剣と呼ばれるレベルの品。魔力をよく伝導し、そして強靭。莫大な霊力を注ぎ込んでも灼き切れることのなく、宝剣以上にその威力を振るうのだ。

 精霊炉に匹敵するアルディギアの王家女児の力を手中に収め、<疑似聖剣(ヴェルンド・システム)>の戦術支援を独力でも可能となった今だからこそ、魔剣はその真価を発揮する。

 

 魔剣を中心として半円状に拡散する剣気が、この真夜中の空を黄昏の夕暮れまで時間が巻き戻ったかのように、景色を染め上げた。

 

 雷切一閃の斬撃に、<獅子の黄金>を割断される。

 眷獣が霧散する前に、一陣の風が暁古城の身体を煽った。

 最初に認識できたのは、痛み。

 通常は最後に把握すべき感覚が、最初に来た。痛みがやがて熱さに代わり、肉が裂ける感覚に代わり、ようやく、自分までまた斬られたのだと理解する。

 黄金の獅子が合間に挟まれたからか、また切り分けられたわけではない。だが、斬られたところが強酸を塗り込まれたかのように異様に熱い。これが魔族の天敵たる聖剣の一太刀か。そして、勢いに圧され、仰向けに倒れた古城の胸から溢れた血潮が座り込んでいた紗矢華とラ=フォリア、そして倒れたままの夏音を濡らす。

 

「―――」

 

 すっと意識が遠くなり、戦慄した。

 馬鹿野郎、気絶するな! 今、俺が気絶したら、誰が―――とそこで、古城は慄然とした。

 

「―――再び我が剣に宿れ、戦乙女の加護よ!」

 

(二連発……!?)

 

 一撃で殺し切れなかったとわかるや否や、間髪入れず<疑似聖剣>を再起動。

 眷獣の召喚も間に合わず、庇うものがなくもろに聖剣の一撃を受ければ、古城はもうすぐには回復できないであろう。不完全なれど真祖。その潜在能力が侮れぬものとして、剣鬼はこの好機に討つと決めていた。

 

 

「―――剣では負けたけどあまり獅子王機関の舞威姫を舐めないでもらえるかしら。私の本領は呪詛の専門家」

 

 

 騎士団長の身体に仕掛けられていた呪詛が、紗矢華の合図を受けて発動する。

 剣を振り抜くはずの騎士団長の両手。それが突然、握力を失くす。拘束術式。

 

 いつのまに……?

 舞威姫は常時、強力な呪詛を纏っており、悪意を持って触れればその悪意を何倍にも増幅して返される。ある種、体表に毒を持った生物のようなもの。だが、それ故に仕掛ける機会は与えまいと、彼女の攻撃をもらう、また受けるにしても魔術呪術を無効化する『異境』を発動させていた。

 

「『六式重装降魔弓(デア・フライシユツツ)』を奪われたのは私の落ち度だけど、その柄に触れたのは、そっちの失態よ!」

 

 感染呪術。

 舞威姫は、己が得物に呪詛を仕込んでいた。舞威姫に白刃取りで奪取した<煌華鱗>を投げ返した際に、剣を握った。その段階で紗矢華の呪詛は成立した。

 ―――が、

 

「悪くない。―――が、その程度、たかが未来を1秒先送りしたに過ぎぬ」

 

 痺れに硬直した握力が、また強く魔剣を握る。この手の呪いは、魔族から戦争時に幾度も経験がある。呪殺するには至らない。師家クラスに格上の騎士団長では、一瞬行動を邪魔するのが精々。そして、その一瞬では古城を助けられない―――

 

 そして、今度こそ騎士団長の魔剣が、第四真祖の首を容易く刎ねる。

 それが1秒先の未来だった。

 それは動かせぬ事実だった。

 王女は拳銃を破壊され、舞威姫の剣を盾にしようとも透過する防御不能の一太刀。

 だが、そのとき―――

 天上を向いた古城の視界にそれが映る。

 

「先輩―――!」

 

 その存在に気付いた騎士団長が天を仰いだときには、既に遅かった。

 黄金の神獣に騎乗する、銀槍を持つ剣巫。

 <第四真祖>と言う強大な魔力の波動を感じ取って、即座に救援にかけつけてきた監視役と後続機。

 そして、それが手にする武神具はあらゆる魔力を無効化するモノであり、『物質透過』が通用しない。

 

 避けられぬ―――ならば、迎え撃つのみ。

 

 騎士団長の判断は早い。真祖を屠るはずだった魔剣の軌道を修正。黄昏色の極光が、神獣を呑み込まんとし、

 

「―――<雪霞狼>!」

 

 剣巫が突き出した槍の切先から直線状に放たれる光刃が大気を裂く。

 

 その武神具の名に入っているよう、魔“狼”の神気との親和性が高いのか。<疑似聖剣>のように神獣の神気が『神格振動波』に上乗せされた『七式突撃降魔機槍(シユネーヴァツルアー)』。その穂先より巨大な閃光の刃と化して、魔剣から放たれた黄昏色の一閃を貫いた。

 

 かつて、<ランヴァルド>において、聖剣の霊光が数段格上の天使の神性を侵せず、まるで人工の頼りない照明が、太陽の輝きにかき消された時と同じ。

 

 属性が同質であるのならば、より強い方が勝つ。

 そして、槍の一点に威力を集中させる突きと、剣の一線に威力を拡散させる薙ぎ払いの性質による間合いの優位差もあり、<疑似聖剣>の波動を消滅させた破魔の銀槍が、騎士団長の魔剣を穿つ。

 鈍い音が響いた。

 刃と刃の衝突の瞬間、受けた魔剣の刀身が撓む。火花に混じって剣鬼の周囲に鋼のしぶきが散った。重力が加算された威力が魔剣の耐久限界を超えたのか、<バルムンク>に罅が入り、そこへ突き通った『神格振動波』の刃が武神具に刻まれていた『物質透過』の術式回路をも引き裂く。

 

「<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――」

 

 倒れたまま、獰猛に笑う暁古城が召喚の文句を唱える。そう、彼女ら後輩の姿を視認した瞬間から、そのまっすぐに突き出した左腕を右手で持ち上げ、魔剣を破損して、大きく体勢の崩れた騎士団長へ照準を合わせるよう拳を向けていた。

 

疾く在れ(きやがれ)、<双角の深緋>―――!」

 

 渾身を振り絞り召喚された衝撃波の双角獣が、古城の左手から発射されるように飛び出した。その超振動する双角をぶつけ、魔剣に止めを刺す。粉砕された騎士団長の<バルムンク>の破片が飛び散り、その身体が眷獣の突進に撥ね飛ばされた。

 

 

 

「―――まだだ! まだ終わらん!」

 

 宙にあった騎士団長の姿が虚空に消える。

 右手に嵌められた、仕様の際に宝石を砕く使い捨ての、しかし『空間制御』を発動させる指輪(まぐ)により、予め『門』をつくった地点―――アルディギアの最新鋭の超弩級飛空艇<ビフレスト>へと跳んだ。

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

 深夜の海―――

 東京南方の海上を現在航海中の外洋船。悪趣味なほど巨大で豪華で、荘厳な城塞を思わせるクルーズ船。そのマストに掲げられる船籍旗には、飛龍に牽引される戦車――欧州に君臨する夜の帝国(ドミニオン)『戦王領域』の紋章が染め抜かれている。

 船名は<オシアナス・グレイブⅡ>。『戦王領域』の大貴族にして、アルデアル公国領主ディミトリエ=ヴァトラーの私有船であり、『戦王領域』の外交大使を任されたヴァトラーの絃神島における拠点でもある。

 その<オシアナス・グレイブⅡ>が、本国から絃神島まで送るひとりの吸血鬼。

 浅黒い肌を持つ長身の男性。年齢は外見からは計れない。顔立ちだけならば若く見えるが、身に纏う威厳と落ち着きは、老獪な武将や政治家のようだ。身に着けた古風なコートと長い黒髪が、見るからに実直で聡明な彼の双眸によく似合っている。

 実際、そうなのだろう。

 彼を知り、性格を表する者は、有能で真面目、やや理想主義な一面があり、そのせいで余計な苦労を背負い込む、と言うだろう。元老院の『長老』たちからはしばしば無理難題を吹っ掛けられ、そして同年代で旧知の仲である――かつてはお互いに何度も殺し合った――親友の暴走の尻拭いをする役割をいつも主君たる第一真祖より仰せつかっている。

 その吸血鬼の男が、鮮やかな純白のコートを着る美しい金髪碧眼の青年へ冷たく言い放つ。

 

「いいか。我らが王は、明日の調印式、相互不可侵条約延長更改をお望みだ。ヴァトラー、間違えても暴れて台無しにしてくれるなよ」

 

 アルディギア王国との調印式で代表を任されたヴェレシュ=アラダール、対等の付き合いができる数少ない友人から注意を受けて、愉しげに笑いながらヴァトラーは血のように赤いワインを口に含む。

 

「もちろんわかってるよ、アラダール」

 

 外交大使として、『魔族特区』である絃神島における全権を任せられているヴァトラーであるも、真祖の命にあまり背くようならばその役目を外されてしまうだろう。それはごめんだ。まだこの島には面白そうなものが眠っており、有望な子が集まってきている。なによりも<第四真祖>がいる。今はまだ美味しくなるように育てている、だから、育ちきる前に遠く離されてお預けを喰らわぬよう、自制はできる。本当ならば、ヴァトラーも見知った北欧の姫御子らと停戦よりも戦争状態の方が望むところではあるが、将来性を考えるとやはり、愛しの<第四真祖>の方が美味しそうだ。

 とはいえ、抑えても抑えてもどんなに抑えようとも瞳に浮かぶ炎に似た獰猛な光が鎮まることはけしてない。

 

「ですがもし、向こうから手出しをしてきた場合はどうするんだい?」

 

 隣国であるのに、わざわざ遠く離れた第三国で式典を行うのは、過去の経緯からで両国で行うのは政治的な判断で無理とされたため。だが、それでも武力介入をしてくるようならば―――

 

 

「その場合は致し方あるまい。存分に叩き潰せ」

 

 

ビフレスト

 

 

 王族専用機である<ビフレスト>は、『聖環騎士団』に所属する騎士たちに警護されている。

 だがそれも虚空より突如現れた長の姿に、動揺したその隙を突かれる。

 魔剣を砕かれてしまったが、それで騎士団長の剣技が彼らより劣るわけではない。倒した騎士から配給される剣を6つほど奪い、迅速に制圧。

 そして、操舵室にいた騎士たちを打ち倒したところで、騎士団長は膝をつく。口元に当てた手を皿にし、吐き出される血を受ける。

 

「―――、―――――!!」

 

 これは先の<第四真祖>らとの戦闘によるダメージだけではない。

 肉体が、限界に近づいているのだ。

 寿命を削るほどの拒絶反応。たったひとりの霊核を取り込んだだけで、この破滅。取り込む術はあったが、受け入れる器までは用意できなかった。

 騎士団長はここにきて、『何故<模造天使>が選抜された巫女のみにしかできない儀式であったのか』その答えを実感で思い知った。

 

(これは、少々……甘く見過ぎていたか)

 

 常人にはあまりにも光が強過ぎるのだ。断熱遮光板を間に挟んで、純度を調整した状態でなければ、触れれば身を焦がし、見れば目が潰れてしまうほどに。

 

 『北海帝国』の計画通り、叶瀬夏音の霊力で動かした<ビフレスト>で調印式を襲撃できていれば――王妹殿下がテロに加担したという事実があれば――たとえ襲撃前に制圧され、救助されたのだとしても、あの少女が王族とは認められなくなったであろうに。

 

 だがそれも第一王女の働きにより、計画は破綻した。

 なれば―――もう、奪うしか、ない。

 

「――――!! ――――――!!!」

 

 腕をつき、ついに四つん這いにまで頽れた騎士団長の顔に、手に、胴に、足に、躰の至る所に傷が生じ、そこから夥しい量の血が流れていく。

 警護していた騎士たちから一太刀も外傷を与えられてはいない。しかし、内側からの圧力にはち切れていくように、幾つもの傷口が開いていく。その様は、敬虔な信徒の身体に生じるという聖痕を思わせる。

 

「―――――!!!!」

 

 だがそれでも。

 騎士では限界があることを知った。もう二度とあのような挫折をしたくないと思ったから、この外法に手を伸ばした。

 だから、こんなところで躓くわけにはいかなかった。

 

「―――ああ、そうだ。叶瀬夏音が王族であることなど認められん。なれば、その力を『戦王領域』の重鎮を討伐することに有効活用させてもらう。故に奪ったのだ。それ以外の理由など何もない」

 

 歯を食いしばり、這いずり、<ビフレスト>の制御核に手を置いた。王族の生体反応を模倣(コピー)した“情報”と共に、裡に留めておけぬ王族の霊力を一気に流し込む。

 『戦王領域』から絃神島までの<オシアナス・グレイブⅡ>の海路は推測済みとはいえ、起動させても飛空艇の全機能を個人で動かすことはできないだろう。

 しかし、この<ビフレスト>には、アルディギアの最新魔導兵器である、自動で敵を殲滅する無人機が搭載されている。そう、北欧に伝わる神話の主神の名を冠した最終兵器が。

 

 

「起動しろ、『オーディン』。アルデアル公、セヴァリン候を完膚なきまでに叩き潰せ」

 

 

 

つづく



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戦乙女の王国Ⅲ

ビフレスト

 

 

 『オーディン』

 魔導大国アルディギアの主神(オーディン)の名を付けられた最終兵器。

 コストを度外視し、高性能のみを追求し設計した機体は、推力、機動性、運動性、飛行能力など全ての基本性能は一般大型機体『霜の巨人(アウルゲルミル)』を遥かに凌駕する。

 

 今、そこに海洋上を渡航中の一隻の船に殲滅対象に指定される。

 

 超弩級飛空艇<ビフレスト>の甲板が開き、射出準備が整う。

 機体のメインカラーは黄金と蒼。その形態は、人型ではなく、戦闘機。

 機首は嘴の如く鋭く尖っており、全体的に鳥を髣髴とさせるシルエット。鷲に変身する主神の名を冠したからか、変形可能。そして、この高速飛行形態では単体での大気圏突入が可能となり、他の機体も寄せ付けない行動領域を誇る。

 

 発射されれば、もはや追いつけない―――――はずの、『オーディン』に迫る白い影。

 

 

 

 『魔族特区』絃神島では、法律上、特区警備隊は航空戦力を保有できないことになっている。

 だが、それは使い魔にまで適用はされない。

 

(―――フラミー、あそこだ!)

 

 以心伝心の騎手との念話に、契約された<守護獣>たる白き龍母は、力強く四枚の翼を羽ばたかせる。

 使い魔でありながら、爪も牙もなく、主人以上の戦力を有さない獣龍は戦闘方面以外での性能ならば高い。航空戦力のない特区警備隊の中では貴重とさえいえる飛行能力は、音速を超える速度で高速移動することも可能だ。

 衝撃波を生まない程度の速度で、ビルとビルの合間を通り、市街地を抜けて――主の少年の『嗅覚過適応』のセンサーが、空間跳躍した標的の“匂い”を捉えた――絃神島の航空を視野に入れる。

 

(む。あれはフォリりんたちが乗ってきた飛空艇(ふね)だ。それに何か出るぞ)

 

 その高速起動下での逡巡は命取りであり、“あれ”を見過ごすのはマズいと直感した少年は即断する。

 

「あの船に騎士団長がいる。オレが“あれ”を追う―――着地は頑張ってくれ古城君」

「なっ―――」

 

 と簡潔な言葉で伝えると返答を聞かず、同乗者たちを飛空艇甲板に落とすように、その上ギリギリを滑空して一瞬スピードを緩めたところで獣龍を一回転させる。

 

 ここから先の速度の領域に“荷物”を連れては不可能。速度を落とした今でさえしがみつくのが精一杯では、これ以上速度を上げれば振り落してしまうだろう。

 “あれ”――『オーディン』に追いつくには、さらなる加速をしなければならない。

 そして、先輩と同級生らが、いきなりパラシュートなしスカイダイビングすることになった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 騎士団長の追跡。

 霊核を抜かれた夏音は、状態が安定したとはいえまだ予断は許さない。したのは応急措置であり、いつ急変するかもわからないのだ。故に、応急処置を施した紗矢華と、そして失くした霊核の代わりに霊力を供給し続けているラ=フォリアはその場に残る。

 そして、雪菜と、“いつも通り”血を補給して元気になった古城の3人が同行することになった。そもそも、その“乗り物”は、古城の眷獣よりも小さな2m級で、3人乗りが限界であったともいえる。

 

 古城にはひとつ懸案があった。

 そう、雪菜が、『飛行機が弱点』ということだ。

 

『なあ、姫柊もここに残った方が良いんじゃないか?』

 

『そんなのはダメです! わ、私は獅子王機関の剣巫で、先輩の監視役なんですから! それにまた私の見てないところで先輩が誘惑されては困りますし』

 

 操られたことを古城は猛省している。でも、その女獣人は捕まっており、向こうにいるのは騎士団長と言うオッサンで、オッサンのフェロモンで誘惑されるようなことはない。あるわけがない。

 そう強く否定してやったわけだが、向こうは頑なに同乗を志願している。選択の余地なく、獅子王機関の剣巫として生きることを強要された雪菜には、人前で弱みを見せつけることは許されないのだろう。それは彼女の居場所を失いかねない行為であり、だから幼いころから常に無理をして気丈に振る舞わなければならない。

 信頼する仲間や友人らの前でも、弱音を吐けない彼女の心境は、同じくバスケットコートで孤独であった古城は知るところであるし、それから逃げた古城に彼女を笑う資格はない。

 そんなわけで『仮面憑き事件』で『人魚鉢』に送られる際と同じように手を繋ぐ……と言うわけにはいかないが、古城は雪菜の身体に覆い被さるように柔毛でふさふさな獣龍にしがみつく。

 

『せ、先輩!? まさかまだ血が足りない』

『違う。こうした方が安全だろ。嫌だったか?』

『そんなことはありません―――!』

 

 と耳元で囁くように言うと、顔を真っ赤にして、柔毛に身を埋めながら叫ぶ雪菜。古城はやれやれ吐息をついて、胴体部より前の、頭部に手を乗せ、首に股を挟むよう肩に足を乗せている騎手の後輩が元気づけるように、

 

『大丈夫だぞ。フラミーは飛ぶのが上手いし、飛行機じゃなくて相棒なのだ。この前の病院帰り、飛行機が苦手だって言ってた凪沙ちゃんを相乗りさせた時があったけど』

『―――おい、なんだその話。聞いてないぞクロウ!』

 

『ん。フラミーのこと話したら、見てみたいって言われてな。凪沙ちゃん、魔族は苦手だけど魔獣は平気みたいで、フラミーのことも可愛いって喜んでくれたぞ。『こんなふかふかな抱き枕が欲しい』とか言って跳びついて、『これは生きた人間をダメにするクッションだよ!』とか言って眠りかけてたくらいだから、古城君が心配するようなことはなかったのだ。また相乗り(タンデム)させてほしいなって』

 

『いや、魔族恐怖症(トラウマ)もそうだけど、今俺が心配してんのはそこじゃなくてだな! その凪沙との相乗りについて詳しく教え』

『―――先輩! 今そんなことを心配してる時間はないでしょう! 早く行きましょう! 出してくださいクロウ君!』

 

『う。出発進行だフラミー』

『みー!』

 

 そうして、古城と雪菜、クロウを乗せて、獣龍は空を飛んだ。その飛行速度は速い。離陸から加速、ぐんっ!! と景色の端が飴細工のように歪むほどの速度で疾空。飛行機にあるような座席はもちろんなく、命綱なしでしがみつかなければならない。けれど、飛行中は思ったよりも風は来ない。龍騎兵(ドラグーン)よろしく先頭のクロウが風を切るように生体障壁を展開させたおかげで、高速飛空に反して安定した空の旅であった。

 ……最後の着地で、アクション俳優並のダイナミックな要求をされたが、

 

「姫柊、掴まれ!」

 

 “試作型航空機(フロッティ)”というマッハ2.8で飛ぶミサイルよりはだいぶマシだ。人間ミサイルを経験した古城は、同じように霧化の能力を部分的に上手く使いながら<ビフレスト>の甲板に無事着。

 

「クロウが追ったのは……と、ぞろぞろお出ましかよ」

 

 それとほぼ同時、今飛びだって後輩が追いかけていった機体よりも小型な、だけど無数の群体で人型魔導機体『ベルゲルミル』が続けて現れてくる。

 

 

「ラ=フォリアからはブッ壊しても構わないって許可取ってるから、存分にやってやる! ここから先は第四真祖(オレ)戦争(ケンカ)だ!」

「―――いいえ、先輩。わたしたちの、です」

 

 

海上

 

 

 機体の各所に計八基の小型精霊炉を搭載した推進機能『スレイプニル・エンジン』。そのすべてを移動に回した全長20mに達する高速飛行形体の『オーディン』は、音の壁を彼方に置き去りにする。マッハ3は超える、<フロッティ>よりも速い『オーディン』を追いすがるは、獣龍。

 

(―――いくぞ、フラミー! あいつを止めるのだ!)

 

 自らが騎龍の一部となって重心を制御し、外気に身を晒すクロウ。その姿はまさに、猛獣の背中に必死にしがみつく子供のよう。だが、そのことにクロウはさして苦とは思っていなかった。むしろ、彼の内なる興奮が加速されていくような感さえある。

 物理的に御し得ぬはずの獣龍を、今クロウが十全に御した上で疾空させている秘策は、彼の膨大な生命力を物理硬化させる生体障壁だった。2mの巨体が音速を超えるような速度で突き進めば、莫大な空気が撹拌される。それを鏃状に先を尖らせた生体障壁の傘が高速時に生じる空気の撹拌を上手い具合に流して、飛空を安定させていた。

 

(でもダメだ、まだ向こうの方が速いぞ―――)

 

 先行する『オーディン』との距離は縮まることなく、徐々に開いていく。性能差で負けている。

 だが焦る必要はない。たしかに瞬間的な加速と最高速においては、魔人化時の敏捷性はこの龍母をも凌駕するだろう。だがそれは宙を蹴って進むあくまで瞬間的なもので、飛翔速度の維持においてはこの龍母に敵わない。

 だから、ここは足し算ではなく、掛け算でいく。

 

「―――フラミー」

「みー」

 

 フラミーと合わせていたクロウは呼吸を規則的に整えた。単なるスポーツ用のものではない、師より学びし精神的活動を整えるための呼吸法だ。

 速度が足りないのなら補う。<疑似聖剣>の戦術支援のように、先ほど剣巫の<雪霞狼>に自らの神気を上乗せさせたように、龍母に『匂付け(マーキング)』を施す。

 戦闘時に彼が眷獣の残滓(かわ)をその身に纏って、特性を引き出さす『香纏い』―――その超能力を、自らの身体ではなく、代わりに龍母の生体構造を強く想念して重ね合せる。狂暴性のない<守護獣>に、怪獣たる暴威を発現させる<神獣化>の“匂い”を浸透させるイメージ。一体となって騎乗する段階から、さらに自らの手足として認識できるよう……

 やがて醸し出された彼の神獣の気質は、龍母の各部、魔狼の牙に爪と言う、なかったはずの攻撃性、そして限度を超えた飛行の応力が集中する要所を強化外骨格のように包み込むようにして具現化し、硬く柔靭に補強をし始めた。

 

「ふっ!!」

 

 一気に、空間へ突き進むように加速した。想定外の応用であったろうが、クロウとフラミーの気質は非常に合っていた。黄金の神獣という輝影の外装を纏った<守護獣>は全長が十数mに達して、その形態は壮麗。金色の神格を手に入れたことで、小さく弱き龍母は正真正銘の金色の『神の精』と化して、黄龍の咆哮を高らかに轟かす。

 

 2m級という十分の一の身長から、全長20mの『オーディン』に迫る勢いで成長した<守護獣>。それは離れていた両者間を埋めていく―――魔導兵器の計算を凌駕する勢いで。

 

「―――捕まえたぞ!」

「みみー!」

 

 流星か、稲妻。

 月と朧雲しかない夜空を、金色の龍母と主神機体とが、互いの進路を邪魔しながら競り合い、絡み合いながら翔んでいく。

 竜騎兵の如く先頭で龍母を御するクロウの髪が、ちぎれそうなぐらいたなびいては、雲に突入する度に身体が濡れ、しかし、あまりの速度にすぐさま乾いてしまう。水分が染み込む前に、風圧で吹き飛んでしまうのだ。それより相手機関砲撃に鋭角に曲がって標的を追い続ける誘導ミサイルを躱そうと猛烈な水平旋転《バレルロール》を繰り返す急激なGは、常人ではとても出ないが龍母の身体に幉があってもしがみつくのは不可能で、たとえできても内臓破裂に至り即死するだろうが、肉体性能が獣人種の中でも最高位にある『混血』の少年はそんな瑣事は気にかけるような性格ではない。

 そして、戦闘機体には無理な、動物的で物理法則を無視しているような疾空飛翔で、『オーディン』の牽制射撃を全弾回避すると、

 

「<炎雷(ほの)>!」

 

 発声を引き金(トリガー)に口から放たれる魔力塊の砲弾。だが、今回のそれは“火”ではなく“炎”、クロウのだけではなく、その<守護獣>の咢よりも放たれた。そしてその二つの咆弾がその後同一軌道上で合流し、何倍にも跳ね上がった威力が敵機主翼に噛みつく―――寸前、独楽のように高速回転して―――龍母の背後を取った。

 

「―――む。忍法雲隠れの術!」

 

 背後に張り付かれては、攻撃権が向こうに有利になる。

 騎手が羽織る<隠れ蓑(タルンカッペ)>より展開される透過結界が、十数mの巨竜の身体を覆い隠す。熱反応も感知させぬそのステルスで敵機攪乱して、再び背後に回り込もうと旋回させ―――しかし、それでも、背後のポジションを取り続ける。透明化が通用しない。

 

「忍法分裂手裏剣の術!」

 

 クロウは、一瞬離した右手を後方に振るい、霊弓術の手裏剣を放って、それがさらに気の分裂操作で、ひとつが数十数百数千と無数に化ける。単なる砂粒でも(やすり)ような破壊力を持つようになるこの速度域にあって、この霰の如く手裏剣のばらまきをひとつでも無視するのは危険である。

 

 敵機は魔導大国アルディギアの最終兵器たる『オーディン』は、何より特筆すべくは計算能力。

 『スーヴェレーン(ナイン)』のような、管理公社にて絃神島の環境維持のため高速演算を続けるスーパーコンピューターと同等の演算機能を誇る『ミーミル』。

 超高度な情報分析と状況予測を行い、毎秒毎瞬無数に計測される予測結果の精度は霊媒資質の高い巫女による未来視を凌駕する、人間の脳力を超えた機械の頭脳―――それが、最適解を導き出す。

 『オーディン』は、隠行透化しようが気流の乱れに行動パターンを未来予測して追尾し、そして牽制も自らに直撃するもののみを選別し、ピンポイントの射撃にて相手攻撃を迎撃。ひとつ残らず撃ち落とし、跳ね返して、苦し紛れの敵攻撃を難なく脱する。

 

 

 が、

 

 

「フラミー!」

「み!」

 

 眼前の獣龍が、ぐるりと回った。

 スピードはそのまま、獣龍が縦回転する。四枚の翼を器用に動かして微調整しては、最大全速で前進しながら、獣龍の尻尾の先だけがでんぐり返しして下方向へ向いた。

 

「合体忍法羽手裏剣の術!」

 

 極限の曲芸飛行を見せながら、同時に、その神獣の生体障壁を纏わす二対の羽翼、その羽ばたきから羽根が舞っていくように、生体障壁が剥がされていく―――そして、分離したそれらは霊弓術の手裏剣の如く刃に研がれて、かつその一枚一枚が無数に分裂する。

 

 ばらばらばら!!

 ばらばらばらばらばらばらばらばらばらばらばらばらばらばらばらばらばらばらばら!!!!!! と。

 

 魔力咆弾と同じく、主従融合の技。

 その量は、先とは比較にならない、数万数億に達する勢い。まるで星屑の滝を流して、夜空に運河を作り出すよう。計算してもこの速度域では対処が間に合わない雲霞が主神の機体を呑み込んだ。

 そして、

 

 

辰星(しん)歳刑(さい)!」

 

 

 騎乗する龍母より手を離し、億千万の羽毛に紛れて、後方の敵機に乗り移っていた銀人狼。あまりに無茶無謀な命懸けの空中スタントを獣化することで成功させ、機体に爪痕を食い込ませて張り付く。猛烈な逆風に煽られ後ろ足が浮き上がった身体だがそれでも首相撲のように手だけは離さず、

 

 

「―――伏雷(ふし)!」

 

 

 帯電する足をピンと伸ばした逆立ちのまま姿勢を保持しているクロウが、全力で身体を振り回し、遠心力を最大に使って、上から下へと一直線に踵落としを機首に蹴り込んだ。

 

 ゴドンッッッ!!!!!! と。

 

 人間時でも、眷獣をブッ飛ばせるその膂力―――それが獣化してさらに瞬発的に限界突破させる身体強化呪術(エンチャント)で引き上げられ、衝撃変換呪術も加算される威力。

 そのインパクトは、超音速で飛翔していた飛行物体のベクトルも弾き返し、反動で撥ねた銀人狼の身体は獣龍がキャッチする。

 

 垂直に叩き込まれた『オーディン』は、直撃を受けたダメージで、コントロールを失い、錐揉み回転で空から海に墜落。

 

 

 ―――対象を、障害と認定。

 ―――標的殲滅を前に、障害の排除を優先する。

 

 

 撃墜落下の衝撃に、全方位へ散ったミルククラウン上の海水。天高々と跳ね上がった分厚い垂れ幕(カーテン)のような水飛沫がすべて落ちた時、『オーディン』の姿は、戦闘形態へと変形移行していた。

 

 

ビフレスト

 

 

 魔導人型兵器『ベルゲルミル』と、その大型機『アウルゲルミル』。

 その一機一機が吸血鬼の眷獣、魔女の悪魔に匹敵する戦闘力を有している霧の巨人の軍団。超弩級飛空艇にあるのは、戦争すら起こせる戦力。

 荒ぶる猛吹雪の如き大軍勢を前に、対峙する暁古城。微塵も狼狽を見せることなく、ただ泰然と、ただ堂々と立ちはだかる。

 

「いくぜ」

 

 突き出したのは無限の“負”の生命力が通った漆黒の腕、その血管が流れる赤いラインが走らせるその立ち姿は、ただ一身にして暴虐たる災厄の如し。その威圧感は、まさに『世界最強の吸血鬼』の文句に偽りなしの破格のものであった。

 戦争(ケンカ)を仕掛けてきた相手を見据える瞳は血色の紅に染まり、その権能を全力で振るう意思の表れ。

 

「疾く在れ、<双角の深緋>!」

 

 全身の血液が沸騰したように膨大な魔力を放ち、それは虚空に巨大な獣を召喚した。荒れ狂う暴風と大気の振動を実体化させた、緋色の鬣を持つ双角獣。

 続けて―――

 

「<獅子の黄金>!」

 

 天罰の如く神鳴りを化身とした、金色の獅子。

 天が絶叫し、地が震撼する<第四真祖>の眷獣が、二体。

 双角獣と獅子の咆哮で巻き起こる暴風域に入った霧の巨人の軍勢は、雷光に撃たれ、竜巻に呑まれ、悉くを破壊される。

 だが、宿主が無防備に晒され―――

 

「隙ありだ第四真祖―――」

「―――いいえ、ありません!」

 

 飛来してきた投剣。その魔族を浄化させる光に輝く聖剣を、横から割って入った破魔の銀槍が弾く。

 眷獣に敵魔導兵器を殲滅させて、がら空きとなる主人の古城を守るは、その監視役の剣巫。<雪霞狼>を構える雪菜の前に、騎士団に支給される剣五振りを腰につけた鞘に携える騎士団長。

 息を呑む気配を雪菜の息遣いから察知する。

 古城も視線を合わせた。

 騎士団長―――自称、破落戸。

 その男は、全身の血管が皮膚上に浮かび上がっていた。雨に打たれたようにびっしょりと汗に濡れていて、その銀髪も艶が抜け落ち、死を間近にした老人の白髪のよう。

 その閉じた両目、瞼の仲より涙のように血の帯を頬に伝わせる騎士団長は、数十分ほど、一時間も満たない合間に、寿命の半分を削ったかのような容態に陥っていた。

 にもかかわらず、

 

「おや」

 

 その二刀を抜いて、右手左手に構える騎士団長の姿は、とても半死半生とは思えないほど堂の入ったものであった

 

「横槍を入れるのは先の剣巫か。なるほど、余程その男が大事なのだな」

 

「ッ!?」

 

 ゴッ!! と。

 雪菜が銀槍に『神格振動波』を発動させ、霊力を増幅させると同時、その刃に重たい衝撃が走り抜けた。音もなく高速で接近してきた騎士団長の刃と、大きく打ち合ったためだ。

 

(なんて力……!? とても、戦えるような状態じゃないのに……!)

 

 霊力が、その器たる肉体より漏れ出しており、半ば暴走しかけている。

 霊視と言う感性に優れた雪菜からは視ているだけで、ちりちりと、こちらの肌がささくれ立ちそうでもあった。

 

 ヂッ!! という擦過音が響く。

 剣戟の威力に槍が弾かれ、がら空きとなった胴にもう一本の剣が鋭角的に雪菜へ襲い掛かった音だ。

 触れるだけで精一杯などと言う、生半可な斬撃ではなかった。

 洗練。

 その一語が示すような、速く鋭く重たい一撃を、雪菜が長い槍の柄で辛うじて受け止める。未来視で常人よりも先手を取れるアドバンテージを有する雪菜が辛うじて。その事実に彼女が思い知らされる直後、さらに騎士団長の二刀流は過激に振るう。

 ザザザガガガガギギギギギギギッ!! と。

 マシンガンよりも短い間隔で、立て続けにオレンジ色の火花が散る。

 速いだけではない。

 叩きつけるだけではない。

 一撃一撃に、相手の防御を掻い潜ろうとする思考があり、剣に伝わる衝撃には人の精神を削り取る殺意が篭められていた。満身創痍の相手に互角どころか圧されている。その意味を感じ取り、必死に槍を操り加速していく連撃に食らいつきながら、雪菜の目が鋭くなる。

 才能だけのごり押しではない。そこに甘んじず、さらなる鍛錬を積み重ねてきたからこそ、これだけの斬撃が生み出された。

 だからこそ、何故。

 

(何にしてもここでこの人を止めなければ―――!)

 

 ゴッ!! と速度が増した雪菜の槍。

 それも受けられ、逸らされたが、そこで異変が起きた。

 武器がぶつかり合うたびに生み出されるオレンジ色の火花が、妙に膨らんでいたのだ。鋼と鋼がぶつかる音も、一瞬だけぐわんと歪んだ。

 

「クッ」

 

 眉間に皺寄せて騎士団長が後ろに下がった。

 油断なく槍を構える雪菜を線のような薄目で睨みつつ、騎士団長は剣を持ち直し、二つの刃を観察した。

 魔族の人間よりも硬質な肉体を両断するために作られた、幅広の刃。

 その刃が、所々で欠けていた。出来損ないの櫛のように、数cm大の細い溝が不均一に走っている。刃を打ち合わせるたびに、特級の武神具たる槍が一般兵に支給される剣の方へ食い込んだのだろう。

 

「獅子王機関の『七式突撃降魔槍』、か。物に頼ってる点があろうが、己の剣に傷をつけるのは姪でもなかなかできんな」

 

 だが、それまで。

 今の数合で、互いの力量は知れた。

 これはまだ高神の社の訓練時代の話であるが、雪菜は紗矢華を相手にした場合、その勝率は5回やって1回勝利するというもの。その紗矢華を難なく倒した相手。魔剣ではなくとも、その剣技の冴えは尋常ではなく、魔力を用いない条件下では『神格振動波』もほとんど無意味。雪菜は、彼女自身より圧倒的に優れたものと戦っている。そこで満身創痍なその状態を気遣うなど、命取りだ。

 

「<雪霞狼>……ッ!」

 

 透明なほど愚直な一突きが放たれる。

 受け止めた『聖環騎士団』の一般支給される十字剣が、ゴム製のオモチャのようにたわむ。たわませるように、受けたのだ。限界を超えた威力でも折らさずに力を受けて、流す。足を引いて体勢を立て直す騎士団長が、体の泳ぐ雪菜に斬りつけてきたとき、元に戻る反動の勢いをつけた剣。首を刎ねる一刀を、雪菜は左に身体を捻り数mmの差ですり抜ける。後ろ髪を僅かに散らされた騎士団長の剣に、左回旋した遠心力を乗せ、十分な捻転を付けて逆に槍を打ち込んだ。

 鈍い音が響いた。

 刃と刃の衝突の瞬間、再び剣がたわむ。今度は受け流すことができなかった。火花に混じって、鋼の破片が散る。

 

「しかし、勝つのは私だ」

 

 もう片方の剣が、砕かれた剣に勢いを削がれた銀槍の柄を受け、そのまま刃を擦り合せながら足元の甲板を突き刺す。間髪入れず、予備の剣を抜いた受けた剣と鋏とするように交差させて、銀槍を挟み縫い止めた。

 得物を封じられた雪菜は、強引に取り戻すか、回避するか逡巡して、判断が遅れる。その間に迷うことなく騎士団長は残る最後の二刀の剣を抜く。

 

「させるか!」

 

 古城は全力で疾駆して、呪文の詠唱する余裕もなく、魔力を帯びた右手を向ける。

 

「先、輩……」

 

 雪菜が目元を微かに痙攣させる。

 その白い首元に鋏斬るよう交差された騎士団長の双剣があった。がっきと、そのちょうど支点を差し込んだ古城の右手がそれを止めていた。

 照らされた光に闇が払われるよう、聖別された剣に“負”の魔力は浄化されてしまう。だが、闇が光を呑む場合もあるのだと、浄化されようが無尽蔵に膨大な魔力を放出し続けるという力技で剣が見えない壁に阻まれたように制止される。

 そして、その拮抗の天秤は不意に傾く。

 

「ごふ……っ」

 

 血の混じった咳。剣の力が緩む。聖の属性である光も著しく弱まる。

 古城たちはそれを待たない。

 拳を振り抜いて大きく双剣を弾くと、懐に飛び込んだ雪菜が双掌を騎士団長の腹へ叩き込む。

 

「<(ゆらぎ)>よ!」

 

 騎士団長が突き込まれた雪菜の両手を起点にくの字に折れかけたところで、続けて古城が胸を半身に反らせて思い切り振りかぶった左拳を、騎士団長の頭に叩き込む。

 鈍い音が炸裂した。

 魔力こそ篭められなかったが、吸血鬼の馬力の容赦ない一発。そして、内部を乱す剣巫の打撃は、霊核を抑え込む幉を落としかけている身には致命的であったろう。その威力が予想を超えていたが、騎士団長は、踏ん張った。

 皮靴を甲板に滑らせて騎士団長が双剣を持った両腕をだらりと落とす。そこへさらにもう一発叩き込むと、古城は大きく踏み出そうとして―――

 

「ダメです先輩っ!」

 

 その背中を雪菜に引っ張られて制止され、後ろ向きに彼女の身体に受けられるように倒される。

 

「かぁッ!」

 

 爆発させる呼気とともに、騎士団長の姿が消えた。

 次の瞬間、古城は胸元を交差に切り裂かれていた。

 脱力から最高速に至る、残像も残らない神速の踏み込みだった。もはや人の動きではなかった。

 

「くそ……本当に人間か。もう結構な年齢(とし)いってる筈だろ……」

 

 心臓肺をぶちまけずに済んだのは、一瞬未来視で危機を察知した雪菜のおかげだろう。

 

「応、やはり衰えを感じるな。アラダールと斬り合った時よりも一回りほど体力が落ちている」

 

 だが、今の騎士団長に油断など欠片も抱けないだろう。

 満身創痍で両目から血の涙を流しながらも浮かべる、その飢え渇く虎の笑みを見れば。

 

 

「しかし、真祖よ。老いてますます技の切れ味は研がれていると自負している。

 ―――さあ、起きろ『トール』! この戦争(ケンカ)、まだ終わりにはせぬ!」

 

 

海上

 

 

 カラーリングは黄金がベースに蒼で縁取り、全身甲冑のような鋭角的なシルエット、一つ目(モノアイ)レンズを炯々と光らす頭部。そして、高速移動形態から戦闘人型形態に変形した『オーディン』にはその身の丈を超えるほどの長大極まる凶悪な槍を備えていた。

 

 

 そして、戦況は一方的だった。

 

 

「ぐぬ……っ! でっかいのに速いぞこいつ……っ!」

 

 『操る』のではなく、『動く』人型魔導兵器。

 無数の糸を繋げて操る人形ではなく、人形そのものが意思を持って動いているとは別次元だろう。自らの意志の力が末端にまで注ぎ込まれている機体の動きに制限や余計な簡略化は一切見られない。速度こそ戦闘機の形をしていた方が速かっただろうが、本来の姿である人型時の方が、自由度が高過ぎる。

 機械と言うより、自由に獲物を狩る獅子のような動物的な動き。

 そして、悉く攻撃が防がれ、防御を許さぬ機械的な読み。

 

「<炎雷>!」

 

 <守護獣>と合わせて放つ融合魔力咆弾。それを連発して撃ってくるクロウ。

 それに対する『オーディン』がブレる、海上をスケートリンクで滑るよう、右に左に細かく脚部バーニアより高速ダッシュを繰り返して―――視界から消える。ぐるりと回る気配。

 しかしそれでも意識を共有した銀人狼と獣龍の反応はついていく。

 

「<拆雷(さく)>!」

 

 <守護獣>の全身に迸る活性化された生体電流。そのぶちかましは、<第四真祖>の雷光の獅子にも匹敵する威力だろう。

 一方、『オーディン』は人型の形態を崩した、人間でも戦闘機でもない、半端にぐしゃっと潰れたシルエットで、獣龍の体当たりをギリギリのところで――紙一重にまで無駄のない計算通りの動きで――避ける。特異なシルエットが本来ならばありえない重心移動を生み出し、機体に急制動をかける。そして、まるで弾ける液体を逆回しにしたように再び人型を取り戻し、猛牛狩り(マタドール)の如く前に出たクロウらの背を狙う。

 

「フラミーっ!?」

 

 クロウの<守護獣>の皮膚は刃を通さない、あらゆる武器を否定する絶対の耐性があった。だが、『オーディン』の槍『グングニル』は獣龍の肉体を刺し貫いた。

 

 北欧主神の槍(グングニル)には、人の手にあるものの中では最強クラスの魔剣(バルムンク)を一撃で叩き折った伝説がある。

 

 同じなのだ。『物質透過』の魔術回路が埋め込まれている<バルムンク>の核を破壊したのは、剣巫の放った<雪霞狼>の一撃だ。

 そう、『オーディン』の主兵装『グングニル』に埋め込まれている魔術回路は、獅子王機関の秘奥兵器にして個人が有する武神具の中で最大威力である<雪霞狼>と同じく、『神格振動波駆動術式』。

 『神格振動波駆動術式』の完成形は、獅子王機関によって秘匿される情報であるも、独占された技術ではない。かつてその術式を人工生命体に埋め込もうとした西欧教会の殲教師がいるように、他の勢力で独自に『神格振動波駆動術式』の研究開発は進められている。

 魔導技術大国アルディギアもまた『神格振動波駆動術式』を解析し、そして組み上げたのが、<疑似聖槍(グングニル・システム)>。

 <疑似聖剣>をより洗練させた<疑似聖槍>の『神格振動波駆動術式』は、『オーディン』の計八基の小型精霊炉『スレイプニル・エンジン』と言う動力源で稼働する。その単純なデータによる出力は、剣巫のよりも勝るものだろう。

 

 そして、『神格振動波』が不死という“負”の呪いをも打ち消し、真祖を殺し得る力ならば、咎神の罪業の呪いである武器の否定をも突破し得る。

 

「みーーっ!」

 

 肉を貫き、一翼を抉り飛ばされた獣龍は錐揉み回転し、水切りのように海面を跳ね、しかし残る三翼で体勢を持ち直し、滑空する。

 <守護獣>である以上、契約者より精気を送り込めば再生するだろうが、そういう問題ではない。

 

「ぐるるぅ……」

 

 憤怒を噛み殺すように唸るクロウ。

 これまで『神格振動波』を有する相手の戦闘経験はある。<雪霞狼>を振るう剣巫な同級生や<薔薇の指先>を召喚する人工生命体の後輩。

 しかし、このアルディギアの最終兵器は、後輩の眷獣よりも大きく、剣巫の同級生よりも読みが鋭い。そして―――さらに一段階進んでいる。

 

 ―――スレイプニル・エンジン50%供給。

 ―――グングニル・システム限定解放。

 

 アルディギアの姫御子は、ひとりで魔導戦艦の動力源たる精霊炉を賄うことができるほど膨大な霊力をその身に秘めている。

 ならば、逆を言えば、精霊炉ひとつは、アルディギアの姫御子に匹敵するものであると言えるのではないか。

 

 そして、<模造天使>において、高い霊媒素養を持つ女児の肉体に元から備わっている霊的中枢は7つであり、それに6つの霊的中枢を身に取り入れさせる――つまりおよそ二人分の13の霊的中枢を持たせる。それが霊格を一段階引き上げるための必要十分な最低基準であるという。

 

 『オーディン』に搭載されている小型精霊炉は八基。

 その内動力に何基か回したとしても、最低でも二基の小型精霊炉を<疑似聖槍>に供給するとすれば―――理論上、その巨大な槍は、北欧の主神を名乗るに相応しき神気を放つようになるのではないか。

 

「ぬ、雪―――っ!!」

 

 巨大な槍を振るう機体の周囲に、粉雪を連想させる白い結晶が舞い始める。それは見る間に数を増やし、この海域に降り注ぐ。

 この白い雪片は、『神格振動波』の結晶だ。

 50%――八基中四基の小型精霊炉の霊力が注ぎ込まれて、<疑似聖槍>の『神格振動波』が結晶化したのだ。その純白の結晶は龍母の身体を灼き、銀人狼の魔性を弱めさせていく。

 

 そして、『オーディン』が、神槍より伸びる巨大な白き霊光を刃とし、大気ごと障害(クロウ)を穿つ。

 ―――寸前、銀人狼が龍母の背より飛び降りた。

 だが、それは獣龍を犠牲(たて)に逃げたのではない、逆。彼が飛び出したのはその前だ。方向を間違っているわけでもない。

 そして、着水すると瞬間、その両手を(ハンマー)のように合わせて叩きつける。

 海を。海を殴りつける。

 さて、これでいったい何が得られるのか。

 答えは単純。

 

 

 壁だ。

 超巨大な水柱が神槍の前にそびえ立ち、その分厚い壁が『オーディン』の神槍を逸らす。

 

 

「忍法畳返し!」

 

 “魔力に頼らない”南宮クロウの『嗅覚過適応』―――その応用『匂付け(マーキング)

 自然物に自身の“匂い”を浸透させることで、手足のように操作する高位の精霊術にも匹敵する超能力とその有り余る馬力(パワー)をフルに使い、大瀑布が天地逆しまにしたかのような光景を作り出した。

 

 クロウの“獣気(におい)”により強化補強された水壁は、霊光をプリズムと同じ理屈で歪曲させ、水の抵抗で巨大な鋼鉄槍の軌道をブレさせる。さらに光の熱エネルギーも減衰させる―――魔力のない、大自然の結界といえよう。

 しかしながら、曲げられる角度はそれほど大したものではない。

 数度、十数度、それが精々だろう。

 だが、龍母はその尾で主人を巻き付けて拾い上げながら、『オーディン』の攻撃を歪曲させる方向とは逆へ大きく舵を切る。二つの差が大きく広がり、それがギリギリのところで“絶対に回避不能”な『オーディン』の攻撃をやり過ごす。先の仕返しとばかりに、まるで闘牛士のような、華麗な振る舞いであった。

 

 そして、それは絶対的な演算能力を持つ機械頭脳に瑕疵を生じさせる。

 

「畳返し畳返し畳返し―――――!!!」

 

 連続して、天を衝く水柱が上がる。

 水は普通の人間にとってはただの柔らかい液体でも、高速で飛翔する物体にとっては速ければ速いほど凄まじい硬度の壁となる。それが超能力で強化されているとなれば、迂闊に飛び込めば、鋼鉄の壁に激突するほどのダメージを受けるだろう。

 

 さらに、局地的大豪雨の如く大量に撒き散らされる水滴は、雪のような『神格振動波』の結晶さえも洗い流してしまう。

 

 主兵装である<疑似聖槍>を除いて、<守護獣>に致命傷を与える武器はない以上、それさえ対応できてしまえば―――

 

 

 ―――スレイプニル・エンジン80%供給。

 ―――ミーミル接続。フリズスキャルヴ座標指定完了。

 ―――グングニル・システム開放。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 核を、穿たれた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ……何が、起こった……?

 

 水柱の壁。それで防ぐことができなくとも、勢いを削ぎ落とし、逸らせた。

 しかし、その一刺しはクロウにも覚らせず、貫いた。<守護獣>の肉体を。

 

「フラミー!?」

 

 気づけば、やられた。そして、水壁も突破された形跡はない。

 そうして、障害(クロウ)が海面に墜落した結果だが、『オーディン』には眼中がないのか、海中に没したクロウの行方を見定めることもせず、北欧の最終兵器はその14,5km先に捉えたクルーズ船に巨大槍を向ける。

 

 

 ―――スレイプニル・エンジン80%供給。

 ―――ミーミル接続。フリズスキャルヴ座標指定完了。

 ―――グングニル・システム開放。

 

 

 主神の槍(グングニル)は、最強の飛び道具だ。

 投げれば必ず標的を貫き、どんなに強靭な武器でも迎撃することは敵わず、そして投げた槍は必ず主神のもとへと帰る。

 つまり、<疑似聖槍>は投槍にこそ本領を発揮するもの。

 

 ―――標的を、殲滅する。

 

 躊躇などあるわけがなく。

 真祖さえも滅する必殺必中の神槍が、『戦王領域』の有望な若手貴族の乗る船へと、真っ直ぐに投げ放たれ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――外れた。

 

 

オシアナス・グレイブ

 

 

 必殺必中の投槍の正体は、『空間制御』

 獅子王機関の舞威姫が<煌華鱗>が指定した座標に通じた次元の裂け目に呪矢を放ち、標的に回避しようのない零距離で直撃させるのと同じ。

 

 移動距離に比例して指数関数的に増加する空間制御の魔術演算量が必要とされる―――しかし、その要求も人工衛星『フリスズキャルヴ』とリンクした超電子演算装置『ミーミル』ならば満たせる。

 『スレイプニル・エンジン』の小型化に成功した戦艦級の精霊炉の内、二基を利用すれば、演算制度も魔力量も問題ない。

 ―――ただし、『空間制御』による投槍は、同じく『空間制御』を操るものならば、その『門』の座標をずらすことも可能だ。

 

 そして、絃神島には、単独で長距離の空間転移という不可能を可能にする『空間制御』に特化した大魔女がいる。

 

 

 

 『戦王領域』の貴族ディミトリエ=ヴァトラーは、この近くの海域で戦闘が起きているのを感じ取っている。

 超音速でこちらに接近して、強大な力がぶつかり合うその波動を、戦闘狂の<蛇遣い>は誰よりも敏感に察していた。

 

(ああ、ダメだ。あんなにはしゃいじゃって! ボクが我慢できなくなるじゃないカ!)

 

 このクルーズ船ごと自分たちを破滅させかねないほどの脅威。

 普通ならば危険信号を発するところだが、この闘争に飢えた吸血鬼にしてみれば、楽しそうな遊び声を聴かされているようなもので、むしろ率先して戦闘地帯に混ざりたいくらいだ。それで休戦協定がご破算となれば尚の事良し。

 しかしながら、この場には堅物な親友であるアラダールがいる。主たる第一真祖に忠実でありその任を真面目に全うしようとする彼は、ヴァトラーと同じく近くで戦闘の気配を察してはいるが、直接的な害を被るまでは様子見に徹している。ヴァトラーが飛び出そうとすれば、止めに入るだろう。

 だが、そんな彼でも攻撃をされれば話は別だ。既に言質は取ってある。

 そして、相手の矛先がこちらに向けられる、ヴァトラーの待ち望んだ展開が来て………取り上げられた。

 こちらに迫っていた脅威が別の場所に移されるのを感知した直後、前触れもなく虚空から舌足らずな声が響いた。

 

 

「邪魔をするぞ、<蛇遣い>―――」

 

 

 ヴァトラーが認める数少ない実力者、<空隙の魔女>南宮那月の人形めいた輪郭が、波紋のように空間を揺らして、ヴァトラーたちの眼前に現れる。フリルまみれの豪奢なドレスを翻し、彼女は『戦王領域』の有力な吸血鬼らを尊大に見返した。

 

「この海域は一応絃神島の管轄に入る。それに今は少々立て込んでいるようでな。念のために、私が明日の調印式に出席するVIPを護衛しに来た」

 

「南宮那月……<空隙の魔女>か」

 

 那月の言う通り、クルーズ船の1kmほど先に、特区警備隊(アイランドガード)の船がつけられており、国家攻魔官である彼女の指揮のもと警護体制がとられている。

 この<オシアナス・グレイブⅡ>には、先代機<オシアナス・グレイブ>と同じように、空間制御の邪魔をする結界が張られていたのだが、同じ結界で侵入を阻まれることをそのまま良しとするような性格の魔女ではない。克服するよう対策を練っていたのだろう―――そう試行錯誤をしていなければ、ヴァトラーの望む強者像ではない。

 あっさりと侵入を許しながらも、親友であるアラダールは威厳に満ちた態度のまま、席を立つような真似もしない。

 

「悪魔憑き如きが、この俺を護衛するつもりか?」

 

「ヴェレシュ=アラダール、貴様もそこの<蛇遣い>と同じなら、私も対応を改めるが?」

 

 那月の挑発じみた物言いに、黒髪の吸血鬼は不機嫌そうに眉を顰める。

 今、敵の攻撃を容易くその空間制御能力で捌いたように優秀な術者であることはアラダールも理解する。アラダールが直接介入することによる影響も把握している。そして、この問題児(ヴァトラー)と同列視されるのは、不愉快極まりない。

 

「それで、護衛に送られたのは貴様だけか?」

 

「いや、私の眷獣(サーヴァント)も来ているようだ」

 

 アラダールが静かな緊張感のこもった声で訊く。

 

「そいつは使えるのか?」

 

「手間のかかる馬鹿犬だからな、私はできる仕事しか与えたことがない」

 

 那月が淡々と応える。それは、直接的には言ってはいないが、現場を任せ、彼女がここにいることが信頼の全てだと受け取れた。

 その文句を受けて、アラダールはしばし瞑目して、首肯を返す。

 

「……いいだろう。私はこのまま船の中にいて、貴様に護衛させるのが得策のようだ。この船を守った礼を述べよう、<空隙の魔女>」

 

 損得の計算を済ませた結果、周囲に渦巻かせていた鬼気を引っ込めたアラダールが実直な口調で告げる。

 

「賢明な判断だ。どうやら貴様は<蛇遣い>とは違うようだ」

 

 那月が愉快そうな口調で言って、ヴァトラーに視線をやる。アラダールがそちらに回った以上ヴァトラーも好き勝手はできない。南宮那月は『戦王領域』のVIPの護衛ではなく、見張りに来たといった方が正しいだろう。

 

「また、お預けにするのかい」

 

 馳走を獲られたのはこれで二度目。

「そろそろ、君の使い魔、食べ頃に熟れてるんじゃないカナ。収穫が待ち遠しいヨ」

 

「蛇には生殺しがお似合いだと言わなかったか」

 

 拗ねたような口調で言うヴァトラーに、那月は冷たく見返し。

 

 

「蛇は黙って見ておけ。神を殺すのは狼と北欧(むこう)では相場が決まっている」

 

 

海上

 

 

 最終戦争(ラグナロク)北欧の主神(オーディン)は、封印が解かれた“沼に棲む狼(フェンリル)”に一瞬で殺された。

 

 

 『オーディン』の頭脳『ミーミル』は、『グングニル』の投槍を外した原因にすぐに計算を出した。

 こちらが『空間制御』で座標位置設定した『門』を、また別の『空間制御』によって妨害された。普通ならばありえない。想定する事態の中でも限りなく優先度の低い。『空間制御』は高難度の魔術であり、即興でできるようなものではなく、高度な触媒か多人数を用意して行うものだからだ。

 しかし、時に、職人技の指先は機械よりも精密緻密な作業ができるように、信じられないが、最高の頭脳と膨大な魔力量を有する『オーディン』よりも『空間制御』が巧みであり、敵わない。

 

 この失敗を元に、最適解を再計算する。

 

 その取捨選別できずに魔術を打ち消してしまう『神格振動波』の性質上、投槍のための『空間制御』とは同時展開できず、『神格振動波駆動術式』は着弾時に稼働させるものであるため、それまでは神槍ではなくただの槍。

 だから、相手の『空間制御』の影響を受けてしまう。

 であるならば、空間転移による投槍ではなく、純粋な投擲により標的を殲滅する。

 

 

 ―――スレイプニル・エンジン100%供給。

 ―――グングニル・システム全開放。

 

 

 外れた槍を空間転移で取り戻し、再度構える。

 機体を浮遊させ、巨大槍を投擲するための最低限の動力源ならば、小型精霊炉のラインが途切れても予備ラインで補うことが可能だ。

 その20mの機体の全長と同じであった巨大槍より、より巨大な白き刃が発生する。精霊炉を全八基稼働させる<疑似聖槍>。理論上、それは一度しか使用ができないが、喰らえば真祖をも抹消する出力であり、<模造天使>と同等以上の神性がその槍に込められる。これが、魔を絶滅させる一刺し―――

 

 ………フラミーが、やられた。

 

 ぐぢゅり……!! という粘質な音が響いた。

 海が。『オーディン』の足元――障害(クロウ)を撃墜した地点を中心にして、真っ黒な粘液に浸食される沼になっていく。

 

 ………あそこに、ご主人が、いる。

 

 ずずずずずずずずずずずずずずずずずずずず……!! という海を黒く塗り替えた沼の泥が、竜巻のように伸び上がる。そのてっぺん、終末を知らしめる喇叭の口のように広がった先端が、不気味に蠕動して形を作っていく。

 神を喰らい尽す巨大な狼の顎(ゴットイーター)に。

 

 ………もう、やらせない。

 

 その全容に、光が溢れる。

 真っ黒な、矛盾した光。視認できなはずの、暗黒物質。そのようなもので構成された巨体。

 それは神獣と成った魔狼が、『沼の龍母』を取り込み、理性のある魔人(ひと)ではなく、強大な力を持つ幻獣(けもの)を選んだ姿であるか。

 

 ………やる前に、やる。

 

 『オーディン』は、<疑似聖槍>の照準を変える。

 障害ではなく、絶滅すべき対象として、その幻獣を見る。そう、この殺神兵器の悪性は、あのクルーズ船に潜む魔性よりも邪悪な怪物。最終兵器(どうぐ)でありながら神の位に限りなく近くある『オーディン』にとって、看過できない天敵。

 

 ―――標的を、×()×()×()×()

 

 主神が、沼に棲む狼(フェンリル)に食い殺されるのは、予言に決められている。

 獣の未来予測より導き出された先―――槍を放とうとした『オーディン』が動くよりも速く、喰い終えた。

 

 水平線の彼方から天頂までを覆い尽してしまうような、神を喰らう真黒き狼の上顎。

 まるで空が落ちてくるような光景。機体が砕かれて、奈落まで続くような狼の喉の奥へ流され、清濁万象壊し尽す毒の沼に呑まれる。

 閉ざされて行く口。閉ざされて行く主神の未来。

 

 ばづんっ!! と鈍い音の炸裂と共に竜巻が変形した巨大な漆黒の狼顎が、内側から霧散した。粘質な音を立てて散らばる残滓は、共食いする自浄作用で勝手に蒸発して、沼になった海も元の青さを取り戻して、

 その中心に獣龍と別れた少年が海に身を投げるように真っ逆さまに落ちて、大きな水柱を立てる。

 

 

 そして、北欧の魔導技術大国アルディギアの最終兵器『オーディン』は、始まる前に終わらせるという矛盾した最速にて、跡形もなく抹消された。

 

 

ビフレスト

 

 

 『トール』

 全体的にがっちりとしたシルエットに、それを支える太い脚部、そして右手で掴む巨大な鉄槌や火力過剰な左肩の砲台。野球のキャッチャーやアメリカンフットボール選手のような重装甲のイメージが強い機体で、4m級の<第四真祖>の眷獣が、小型犬に見えるほど20m級のその巨体は、見るだけで重厚な威圧感を与えてくる。

 ゴッ!! と、トールが振るう主兵装の鉄槌という超重量の風が唸り、緋色の双角獣を大きく弾き飛ばす。

 

 ゴバッ!! と、閃光が飛空艇の甲板を白く塗り潰した。

 発生源は、左肩の砲台。

 そこから発射された光の嵐が、容赦なく雷光の獅子を呑み込んだのだ。

 それは色が紫電ではない、純白の、聖なる光の属性である雷撃。

 

 剣に魔を浄化させる聖の属性を付加させる戦術支援<疑似聖剣>。それを自然現象である雷にまで組み込ませたのか。

 この<疑似聖雷(ミョルニル・システム)>の一撃は真祖の眷獣すら抹消し、そのまま純白の奔流がミキサーのように真祖の身体を粉々に粉砕し、灼き払い、押し流してしまうだけの破壊力がある―――

 しかし、暁古城は無事であった。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る!」

 

 霊視が一瞬先を捉え、誰よりも早く動く。

 銀槍を盾とし、祝詞をこの甲板に高らかに謳い上げる。

 

「雪霞の神狼、千剣破(ちはや)の響きをもて楯と成し、兇変災禍を祓い給え!」

 

 第四真祖の前に立つ監視役の剣巫。

 その研ぎ澄まされた刃より空間に浸透するよう広がる眩き光より敷かれるのは、高純度の神気を災厄に対する守りに変換する『神格振動波』の聖護結界。

 雷神の神威の如き究極の破壊を前にして、少女はあまりにも小さく矮小で儚い。吹けば飛ぶような、塵にも等しい存在。だが、姫柊雪菜は、圧倒的な暴虐の中で、流されることもなく地に足をつけて――先輩を背にして――立っている。

 両手に渾身の力を籠め、己の霊力を振り絞り、苦渋に顔を歪めながらも決して折れることのないその姿は、まさに一所懸命。

 『トール』の放った一撃は、甲板上にあった『霧の巨人』らの残骸を一掃して、第四真祖の眷獣を消滅させるという戦果を残した。

 それでも、それだけの威力を誇る攻撃に曝された第四真祖は、五体満足で立っていた。

 

「……せん……ぱい……」

 

 切れ切れに、倒れる少女の唇が呟く。

 力を使い果たした少女の華奢な身体を胸が支え、右腕でしかりと抱きしめる。その感謝は、言葉にせずとも伝わっただろう。

 ―――そして、カッと紅い目を見開き、獰猛に犬歯を剥いた暁古城はその左腕を振り上げ、

 

「<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ!」

 

 <疑似聖雷>の再装填が完了するより早く、<第四真祖>の眷獣が召喚される。

 

「疾く在れ、三番目の眷獣。<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>!」

 

 現れたのは、次元食い(ディメンジョン・イーター)の能力を有する二体一対の双頭龍。その天使の光剣すら喰らった眷獣は、雷神の一撃をも呑み込みながら、巨鎚を噛み砕き、巨重な魔導兵器を空間ごと削り取り消滅させた。

 

「これで、あんたの戦争(ケンカ)も終わりだっ」

 

 古城が飛び出す。

 眷獣ではなく、決着をつけさせるのは己の手で。

 ごくごく当たり前の正拳突き。しかしながら、真祖の身体能力と魔力を篭めれば、その当たり前が跳ね上がる。そして、当たり前な攻撃であればこそ、小手先の技術では止められない。

 騎士団長の間違いは、その一撃を躱さず、なお剣技で迎え撃とうとしたことだ。

 その覚悟を見誤った。

 魔族を蒸発させるほどの聖気を篭めた剣を振るう。それを、古城は受けた。受けて、構わず殴る。

 

「おおおおおおおおおぉぉォッ!!」

 

 その迫力に圧されたか、もう一刀の斬撃が、捻じれた。斬ろうとした騎士団長の剣が、逆に弾かれたのだ。

 不死の特性に任せた、捨て身の特攻。

 身体ごとぶつけてくるような一発を、もう、足の動かない騎士団長は避けられない。

 もしくは、避けたくなかったのか。

 

「これほど、とは―――」

 

 拳が、騎士団長の胸へ叩き込まれた。

 肋骨を砕き、ずぶり、とその手首近くまでが体内へ埋まった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『ただ、もし私が女の子を産んだのなら、その子を一度助けてあげてくれませんか』

 

 

 死に行く女がいた。その女は誰の助けも乞わなかった。目前にある破滅に対していながら微笑んで別れを告げてくる女。それを見過ごしてしまったから、惨劇が起きた。だから―――

 

 

 

「目が覚めたかオッサン」

 

 長く、長く時間が流れていた。

 これほどに意識を喪失したのは久方ぶり。

 もう起き上がることもできず、剣を握ることもかなわない。

 じわり、と。倒れた身体と甲板の間から染み出すように、赤い液体が溢れてきた。

 このまま、この身に霊核があれば、いずれこの身は死を迎えることになるだろう。

 それに説明されずとも見て悟ったのか、勝者である少年の顔色が変わる。

 その気配を察したのか、騎士団長はゆっくりと口を開いた。

 血の混じったと息と共に、真っ赤になった唇が言葉を紡ぐ。

 

「まったく。たった、ひとりの小娘のを奪った程度で……この有り様か」

 

 どこか、ひどく眠たそうな声で、

 

「土台、私ごとき小さな器では、王族の力を受け入れることなど不可能だったわけか。これを天は我を味方せず……と言うのだな」

 

 しかし、ひそかに勝ち誇る笑みを作り、

 

「だが、鉄槌は降せた。すでに『オーディン』が出撃した。『戦王領域』の、吸血鬼を消滅させるために……これで、魔族との和平もかなうまい。私の望みは叶った」

 

「……、」

 

 そして。

 気だるげな少年は、呆れたように嘆息する。

 

「そっちが本命じゃねェだろ。あんたを動かしたものの正体は」

 

「……なん、だと?」

 

 騎士団長の笑みが、止まる。

 それ以上先は、その名を告げてくれるな、と開かれた目の色が、音もなく、確実に変わっていく。

 だが、

 

「……叶瀬。結局、その辺があんたの理由なんだろ」

 

「否。真祖よそれは理論が破綻してるぞ。私があの小娘を誘拐し、その霊核を奪ったのだ! それも戦争を起こすためにな……っ!」

 

「前にあんたみたいなヤツとやり合ったことがあるから、なんとなくわかんだよ。ああ、たった一つを救うためにすべてをなげうった馬鹿野郎な義父と同じで、本当は戦争なんかどうでもいいんだってな。

 けどな、あんたが掲げる方法が完璧に成功したって、あんたが守ろうとしていた何かが救われることには繋がらねェよ」

 

 古城は、苦いものを噛み潰すように言い切った。

 それに反論を返すことはできなかった。

 

 

「―――そういうことでしたか」

 

 

 と、新たな声が同意したのだ。

 雪菜ではない。

 上――民間で貸し出されるヘリから、黒の軍服のスカートが翻った。風の精に働きかける

精霊術による気流制御を受けながらの自律落下。高位の精霊遣いであれば苦も無くこなす芸当であり、むしろその練度を問うのならば、優美さの度合いによって格付けが決まるところだ。

 完全な垂直を維持したまま滑り降りる直線軌道と、羽毛のように軽やかな着地。そして、着衣と髪には一切の乱れもなし。まさに模範演技ともいうべき彼女の手練れは、その道の魔術師であれば溜息を禁じ得ないだろうし、天から降りてくる女神のような美少女となれば魔術師でない一般人でも虜となるであろう。

 そして、これは彼女が己の霊力を完全に御している証左であった。

 

「申し訳ありません、古城、雪菜。どうやら出番が遅れてしまったようです」

 

「ラ=フォリア」

 

 銀の髪が風にそよぎ、北欧の姫御子の白い肌を美しく彩る。

 

「王女! 勝手に飛び出さないでください!」

 

「紗矢華さん」

 

 続けて、王女の護衛役である獅子王機関の舞威姫が甲板に着地する。そして、するりとその腕から流れ落ちるよう、甲板に降りた小人のような錬金術師も顔を出した。

 

「それで、15年前、騎士団長が護衛したのは、“アルディギア王家の血の記憶をもった女人”―――それは、夏音の母親ですね」

 

「っ……」

 

 ラ=フォリアの問いかけに、初めてこの男が視線を逸らす。

 そして、その反応に深く息をこぼすニーナ=アデラート。

 

「そうか。主が夏音の母親を守ったという騎士だったか……」

 

 15年前、アルディギアの先代国王が、自身に迷惑を掛けまいと日本に帰国した叶瀬夏音の母親のために建てたのが、ニーナ=アデラート修道院。

 当然、ニーナは叶瀬夏音の母親を知っているのだろう。

 そして、その最期も……

 

「しかし、残念なことだ。夏音を産んですぐに死んだ」

 

 事実を告げたニーナの言葉を受けた、その騎士団長の表情からすべてが垣間見えた。

 これ以上、口にするのはためらいが覚える。しかし、これを話さなければこの男は何も打ち明けようとはしない。

 

「夏音にはとても言えん。夏音の母親は元々誰にも頼らず単身で出産しようとして、弱り切っておった。この『魔族特区』で設備の整った病院へも頑固としていこうとせんかった。アルディギアとの血筋がバレるわけにはいかんかったからな。だが、それはあまりに無茶が過ぎた」

 

 叶瀬夏音の母親は、霊媒資質のない一般人である。

 優れた巫女であり、霊力制御に長けていたのならば、腹に宿す子の霊力暴走を抑え込めたかもしれなかったが、叶瀬夏音の母親にはできなかった。

 

 身寄りのない霊能力者の子供たちを引き取ってきたニーナはよく知る。

 莫大な霊力を持ちながら、それを御すことのできない幼児は、霊力を暴走させて悪霊を呼び寄せ、吹雪や雷などの天変地異まで発生させてしまいケースがある。

 優れた霊能資質を持つ子供は、超常現象を引き起こすせいで、親に疎まれ虐待を受けるのだ。それは実の子供を恐れずにはいられぬほどのもの。

 そして、アルディギア王家特有の女児は、必ず最高位の霊媒素養をもって生まれる。

 アルディギアでも、ラ=フォリアの出産時には、叶瀬賢生――当時の宮廷魔導技師らが総出でバックアップを務めた。そのおかげで第一王女は母子ともに無事に出産をすることができた。

 

 だが、叶瀬賢生の母親の場合は、病院設備さえない、修道院。そして、霊能力を抑えるよう尽力できたのは、修道院に派遣された院長ニーナ=アデラートただひとり。

 

「叶瀬賢生は後悔しておった。妹とその娘のことを最期まで知らなかった自分には、顔を合わせる資格もないとな。5年前の事件がなければ、夏音の前に現れようとしなかっただろう」

 

 叶瀬賢生が叶瀬夏音の存在を知ったのは、妹である母親が亡くなってからだ。

 だから、錬金術とは分野が違えど、ニーナがひとりで彼女の出産をみた。

 如何にニーナが、大錬金術師といえども、ひとりですべてのフォローをすることはできない。母と娘、どちらかを優先しなければいけなかった。

 

(わし)だけでは無理であった。古の大錬金術師と讃えられようが、ひとりの命も救えなかった! なんて無様じゃ! ―――だが、彼奴が愛人の娘を認め、アルディギアの王族専属の病院設備で出産を迎えることができていれば、どちらかが死ぬようなことはならなかったはずだった!」

 

 ニーナの懺悔するような、そして責めるような慟哭に、古城は、雪菜は、紗矢華は、ラ=フォリアもそこにいたもの全てが何も言えない。ただ、ひとり呟くように口を開いたこの男を除いて。

 

「やはり、あそこで止めていれば……」

 

 この男には似合わぬような、深い後悔の色を滲ませる声音。

 もはやこれまで。

 全てを観念したように、一度大きく息を吸い、吐く。

 

「ああ、死ぬことは予想していた。だが、願われたのは彼女自身ではなく、その娘の救いだ。

 そして、これまでに巻き込まれた事件を知り、昨日、直接見ることができた。

 あの娘に、アルディギアの霊媒素養など、ない方が幸せであろう。身に余る力は、その本人をも滅ぼす。そして、それはひとりの犠牲だけに留まらず周囲をも巻き込むことになるだろう。

 現在でさえも、多くに狙われるその素質だ。私はあれが宿業なのだと理解した。そんなものを持っていてもあの娘にとって価値はあるのか?」

 

 すう、と騎士団長が古城らを見据える。

 

「………」

 

 古城には答えられなかった。

 古城もまた、<第四真祖>という力を先代から押し付けられて、多くの不自由を受けた。

 雪菜も紗矢華も、その生まれ持った高い霊媒素養が原因で、異邦の神に捧げられる贄とされ、親より虐待を受けることになった。

 その実態を知る故に、答えられる、わけがなかった。

 

「無論、霊核は魂に依存する。所謂、精気(オド)。生物にとって、根源的な生命力であって、どれほど丁寧に剥ぎ取ろうにも、魂を引き裂くことに等しい。この通り、拒絶反応がひどいが、もしもこのまま私のものとして定着したのなれば、あの娘は大人になるまでの寿命が保つかもわからない。

 ―――それでも、マシな人生が送れるだろうと私は思ったのだ」

 

 と、騎士団長は柔らかく笑った

 やはり、古城が思った通りに、この男はあの義父と似ていた。

 力を与えるか奪うかとそのベクトルこそ真逆なものであったが、それでも己ができる限り全てを賭して、救おうとしていた。

 そして、どちらもその想いは口にせず秘し続けていたという頑固な点も。

 

「だから、返してやる気はない。すでに『オーディン』を起動させたのだ。おそらく今頃、『戦王領域』の吸血鬼たちは殲滅されているだろう。そうでなくても、和平は結ばれず、戦争になる。ならば、その引き金を引くために、私は罪なき叶瀬夏音から霊核を奪った破落戸でいいんだ。……そんな手前勝手な理由の方が、幾分かマシだろう」

 

 皮肉気に、騎士団長は唇を吊り上げた。

 彼女が最後にしたその願いを叶えるために、娘をアルディギア女児に課される運命から切り離す。だけど、そのために外法に手を伸ばさなければならなかった。その責任を彼女にだけは押しつけたくなかった。

 あんな願いをしなければこのような罪を犯さずに済んだ、己は苦しまずに済んだのだ、とそんな台詞を絶対に言わないために、別の理由を用意した。それで己に納得いかせる都合のいい理由を模索し、それが捻じれてしまって出てきた結論が、戦争、なのだろう。

 

「負けは認められない。このまま、勝ち逃げさせて、もらおう。もう後戻りはできぬ、のでな……」

 

 唇の動きがゆっくりになっていき、やがて止まろうとしていた。

 雪菜の息を呑む音が、古城の耳まで届く。

 古城は、唇を噛みしめて。

 

 

 いいえ、と。

 遠い地平線にある空と海へ視線をやる姫御子が緩やかに否定に首を横に振る。

 

 

「勝ちを名乗るには、些か気が早いですね騎士団長」

 

「どういう、ことだ……?」

 

「『戦王領域』の船を攻撃するより前に、我がアルディギアの最終兵器『オーディン』は、撃墜されました。わたくしとしましては、アルデアル公はぶっ殺してくれてたほうが嬉しかったんですけど、あの子――夏音の家族がだいぶ張り切ったみたいでして……ぱっくん、と一口で食ってしまった、と主人の南宮那月から先ほど連絡がありました」

 

 口をパクパクと動かして何かを言おうとしている騎士団長だったが、それにスカッとして古城は笑ってしまった。

 そして、同じくその連絡を受けていた紗矢華がその説明を引き継ぐ。

 

「アルデアル公の船<オシアナス・グレイブⅡ>には、絃神島の特区警備隊及び国家攻魔官南宮那月、そしてそのサーヴァントが警護についております。これ以上、戦争の引き金となるような魔導テロは起こさせません」

 

 式典警護を担当する獅子王機関の舞威姫の宣言。

 これ以上は戦争を起こすのは無理であり、未遂で終わった以上、それを政府機関は揉み消して終わりとするだろう。そして、この状況から逆転する策など思いつくわけがなく、

 

「……あの娘には心強い家族がいると」

 

「ええ、わたくしたちアルディギア家も含めて」

 

「……これは後戻りするしかないと、そうおっしゃるのですな」

 

 叶瀬夏音の霊核を必要とする理由――“言い訳”が使えなくなった。

 そう、この男は、止まることができるようになった。

 

「アンタの負けだ」

 

「ふん。私に認めさせるというのならば、誓え小僧」

 

 騎士団長は己を倒した世界最強の真祖に問う。

 

「あの娘の母親は、王家にも、家族にも、救うことができなかった。だから、だから……ピンチになったらいつでもどこでも駆けつける都合のいいあの娘のヒーローになると、ここで誓ってくれないか」

 

 これが、この男がなりたかった、本当の望みか。

 その本当は自分がやりたかった夢を、他の何者かに明け渡す重み。

 そうして。

 古城は一言だけ告げて、男が差し出した剣を取った。

 

「まったく、軽く剣を取ってくれるな」

 

 と騎士団長は倒れたまま苦笑して、つぶやいた。

 

 

空港

 

 

 『戦王領域』とアルディギアの相互不可侵条約期間延長の調印式は無事に終わった。

 病院に運ばれていた叶瀬夏音も霊核を取り戻したおかげで、その日のうちに退院できると。『北海帝国』のテロリストも特区警備隊に捕まり、騎士団長もしばらく病院で療養してから本国アルディギアに送還されるとのこと。誰一人の事件は皆解決……

 

「ふん! 妾は主らの見送りなんて行きたくなかったが、夏音が言うから仕方なく、仕方なく、義理で来てやった」

 

 医療知識を有するメイドな人工生命体は見舞いに、カリスマ教師な主人は後始末の仕事、

 というわけで、入院して送迎に行けなくなった夏音の代役を任されたのは、ぷかぷかと浮いたバルーンマスコットな妖精獣(モーグリー)に、しゃべる『賢者の腕時計』……

 これが仮装にしても混沌である。

 

「うわー、この時計本当にしゃべるんだ! 携帯マイクとかじゃないんだよね! それとクロウ君またモーグリーになっちゃってるけどどうしたの?」

 

「うー。これはご主人からの罰なのだ。仕事を真面目にやれって一日このままご飯抜きなんだぞ」

「もう、クロウ君は食欲に負けちゃうんだから、肝心な時に………うん、じゃあ、明日は凪沙が何か作ってあげるね」

「本当か! 感謝するぞ凪沙ちゃん!」

 

 そして、妖精獣の紐を握り、『賢者の腕時計』を巻いているのは、妹の凪沙という……

 監視役の雪菜と紗矢華らと一緒にラ=フォリアたちの見送りに来ていた古城は何とも言えずに目を覆ってしまう。

 

「―――ありがとう古城。とても楽しい滞在でした」

 

「ああ、そう、それはよかった」

 

 にこやかに別れの挨拶をする古城とラ=フォリアたちの後、国王妃ポリフォニアが、凪沙の――夏音の家族代理であるクロウ達の前に出て、

 

「う。今日は来れなかったけど、お前たちに会えてよかったと夏音が言ってたぞ。オレも楽しかったのだ」

 

「はい、こちらこそ。お別れの挨拶ができなかったのは残念だけど、次は夏音ちゃんがアルディギアに来てくださいと伝えてね」

 

「妾の目が黒いうちは夏音はやらんぞ」

「ええっ!?」

 

 と、和やかな雰囲気なところを針で刺すような尖った声。国王妃にケンカを売るような真似は当然注目を集め、巻き込まれて針のむしろに晒される凪沙があわあわと慌てて見るその『賢者の腕時計』こと、叶瀬夏音の育ての親はそんなことを一切お構いなしに、

 

「貴様らのことを家族とは認めたが、結局、肝心の彼奴が来ておらんではないか」

 

「お父様は、その……」

 

 言い淀むポリフォニア。

 異母妹である夏音、その父親はポリフォニアと同じアルディギアの先代国王だ。

 

「それも話に聴けば、彼奴め、夏音が隠し子であることを最後まで否定し、娘とは認めず逃げ回ったそうだな。昔の彼奴は魅力的だったが。たとえ王族の命令だろうと、そんなケツの穴の小さい最低な男の下になど妾は絶対にいかせんぞ!」

 

 腕時計からの一喝に、国王夫妻は何も言わず黙り込んでしまう。

 ……ただ、

 

(え? 隠し子? なに、それってどういうことなの!? 私が寝てる間に何かあったのはわかってるけど、ホント何があったの!?!?)

 

 一番混乱しているのは凪沙である。ほとんど事情を知らないのに、とばっちりがひどい。ニーナの怒りもわからないでもないが、そろそろ妹の為にも古城が割って入ろうと、するよりも早く、ぷかぷかと上から常と変わらない後輩の声が響く。

 

「む。それは違うぞニーナ」

 

「何が違うのだクロウ。主も彼奴から騎士を差し向けられたと言っておったではないか」

 

「んー。確かにチャンバラごっこはやったけど、王様ってのは自由にできないことが多いからな。それでも、あの祖父さんなりに夏音のことは考えてたのだ」

 

 そう、たとえば、今回の騎士団長のよう。

 アルディギア王家女児の宿業といった、その遺伝する高い霊媒資質を狙う輩が多いことを危惧し、王族――家族であることを認めようとしなかったのではないか。

 

「祖父さん、夏音の義父さんと、同じ“匂い”がしたぞ。あれって、多分、夏音が祖父さんの娘と認められないというより、爺さんが夏音の父親だと自分が認められるわけがないと思ってたんだとオレは思うぞ」

 

 胸中を嗅ぎ取ったその感情は、後悔であったとクロウが語る。

 最初、先代国王は、頑なに夏音の父親を認めようとはしなかった――夏音の父親と、自身が認められるわけがないと思っていたのだ。

 そう、彼はアルディギア王家の血を引くその遺伝子が、女児であれば必ず高い霊媒素養を持ち、そして、その女児の出産がどれほど命懸けであるのかを知っていた。

 おおよそ二分の一の確率で、己の子を身籠った愛人が死ぬ。そのことがわかっていた。

 だが、彼は王としての立場を貫いた。受け入れる修道院を建てるなどできる限りの手を尽くしたにしても、己との血縁を隠そうとした彼女の意志に甘えて、公表はしなかったのだ。

 聞けば、夏音の母親とラ=フォリアの祖母は仲が良かったそうだが、それでも王に愛人など世間体が許さなかったのだろう。

 結果として見れば、それは見殺しとかわらないものになった。そんな母親を見殺しにしたような己が、親と名乗れる資格がない、と……

 

「でも、祖父さん、祖母さんにしっかりと反省させられたからな。自分から行くのはまだ頑固に認めたがらなくても、夏音から近づけば案外すんなりいくんじゃないか?」

 

「……まったく、主と話してると気が削がれて敵わんわ。ふぅ……わかった。夏音から行きたいというのなら止めん。だが、その前に妾と彼奴とで話をさせろ」

 

「はい。その時はお父様をふんじばってでも貴女様の前に連れてきますわ。恨み言があったら遠慮なくどうぞぶつけてやってくださいな」

 

「ああ、そうさせてもらう。と言いたいところだが、その恨み言もないんじゃどうしようもない。夏音の母親は最期まで彼奴に一言もそのようなことは口にしなかったしの……」

 

 ……そういうことか。

 古城は、ニーナの抱いている複雑な気持ちが少しだけ理解できた。叶瀬賢生という聡明な兄を持ち、王族女児を出産するその危険性を知っていただろうに、それでも夏音を産んだ夏音の母親。おそらく彼女は、本気で先代国王を愛していたのだ。王族であることなど関係なく、本気で。だから彼女は、愛人の娘とわかれば誰もが止める、そう中絶されるかもしれない中でひとり、それが命懸けであっても、彼との子供を産もうとした。

 

「じゃが、夏音が嫌がり、それでも無理矢理行かそうとするのなら、戦争だぞ。のう、古城」

 

「は? え?」

 

 いきなり話を振られて戸惑う古城に、『賢者の腕時計』はやれやれと呆れた声音で、

 

「何故そんな顔をする。主、夏音のヒーローになると誓ったではないか」

 

「あー、確かにそういったけどな。できれば戦争とかしない平和裏に解決を……」

 

「……ほう、やはり貴様、夏音にまで毒牙を掛けておったのか!」

 

 再熱するルーカス王。

 がっしりと大熊のごとく古城の両肩を掴んで迫り、額を突き合わせて凄む。

 

「(我がアルディギアの騎士団長、『ベルゲルミル』に『アウルゲルミル』、そして、『トール』に最終兵器『オーディン』を倒したくらいでいい気になるなよ! あれはまだ試作段階(プロトタイプ)で、次はより改良(バージョンアップ)してるから首を洗ってまっておれ!)」

 

「(マジで戦争仕掛ける気かよアンタ!? っつか、おたくの最終兵器をやったのは俺じゃなくて、クロウだからな!)」

 

 ルーカスの威圧を少しでも逸らせぬかと、後輩へ誘導しようとする古城。

 武王が目を細め、後輩を睨む。それに対し、後輩は『ん?』と首を傾げてる。それを豪胆と言うのか鈍感と判断すべきか、悩む古城だが、ルーカスはその反応に頬をほころばせて、

 

「どうだ……“これ”で儂のところにこんか?」

 

 妖精獣の前に、指一本立てるルーカス。その意味を理解しかねるといった調子で、また逆に首を傾げる後輩に、武王は改めて言う。

 

「十億で儂の従士になる気はないか?」

 

 思わぬ後輩へのスカウトに古城は大きく目を見開いた。

 

(おいおい、それってNBA大型新人選手と契約を結ぶ年俸額よりも倍近く多いぞ!?)

 

 雪菜も紗矢華も固まっている。

 そういえば、『第四真祖の監視役』という超高難易度任務に“いつ死んでも悔いが残らないように”と獅子王機関が女子中学生に送った支度金は、一千万だったが、そこの相場を考えても、明らかに高額である。

 

「これでも『オーディン』にかけた費用よりはだいぶ安い。それに娘も気に入ってるし、娘に色目を向けん性格だとわかった。どうだ、南宮クロウよ。アルディギアで儂に仕え」

「―――ダメ!」

 

 誰もが武王のスカウトに言葉を失う中で、凪沙が叫んだ。

 

「クロウ君を連れてくなんて、絶対にダメ!!」

 

 浮いてたクロウを捕まえて、その胸に抱きかかえ、武王を真っ向から見る。これがアルディギアの偉い王様であることを理解はしていながら、一歩も退く気がないと睨んでいる。その不遜な態度に、ルーカスは咎めず、まるで対等なオークションの競り相手でも見るような眼差しで、凪沙を軽く睨み、それから古城を見た。

 

「(そういうことか暁古城。妹で獣王を引き込んでいるのか!)」

 

 ものすっごい誤解をされてる気がする。

 王女に手を出して王族に入り婿したルーカス王から、政治的手腕も侮らんと上方に過剰評価された古城は、それは必至で首を横に振って否定する。そんなつもりは一切ない。

 

「や、王様のものにはならないぞオレ」

 

 で、肝心の当人。王族の頼み事は二回以上断るとペナルティが課される。だが、その誘いに対して逡巡もしていなかった。

 

「十億では不足なのか?」

 

「食い物は森に入れば一日に必要な分はすぐに見つかるし。寝るところも雨風が凌げれば十分だな」

 

 いつもと同じ、その瞳色の金のように何事にもブレがない後輩は、素の言葉で答える。

 

「あ、でもひとつ欲しいのがあったぞ」

 

「おお、何だ言ってみろ!」

 

「昨日のパーティに出てたあのハチミツのお酒、一瓶欲しいのだ。ご主人が、飲めなかったからな」

 

 ぽかん、と今度はその要求に呆れたように口を開けて固まってしまう。そして、

 

「ふっ、ふぁはははっ! 頑固な奴め! いいだろう今回の件での貴様の働きには儂も感謝しておるからな、送ってやる」

 

「いいのか王様」

 

「心して飲めと貴様の主人に伝えておけ、そいつは十億の酒だとな」

 

 ニヤニヤと上機嫌に笑う武王。余程、後輩を気に入ったのか、まだその目は引き抜きを諦めていない色が古城に見えた。

 

「獣王を騎士団入りできぬのは残念だが、ぜひ、夏音を守ってやってほしい」

 

「言われなくても守るぞ。家族だからな」

 

「そうか。なら、あの男の毒牙にかからんようにも見張って」

 

「それは別問題なのだ」

 

 一国の王と軽口を叩くこの後輩は、馬鹿なのか大物なのか。どちらともいえないが、とりあえず古城は後者に期待しておこう。

 と苦笑してしまう古城に、忍び寄る王妃様がこっそり耳打ちする。

 

「(ラ=フォリアとの婿入りの件、諦めていませんからね)」

 

 聴こえていたのか。隣の監視役からの視線が痛くなってきた古城は天を仰ぎたくなる。

 

 ただひとつ。

 今回の件、もし、王に愛人を持つことが世間から認められていれば、変わっていたのかもしれない。

 ……ひょっとすると、ラ=フォリアが、愛人や側室等を認める発言をして、一夫多妻制度に寛大な理解があるのは、そのせいなのか、と改めてアルディギアの背景を知り、古城は思う。

 

 なんて、そんなことは、まだ肝心のお相手が一人もいない男子高校生が、考えるようなことではないだろうが。

 

「じゃあな、ラ=フォリア」

 

「はい。きっと近いうちにまた」

 

 

 

つづく

 

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「そうだ古城君。オレ、新しい技を思い付いたぞ」

 

 

 それは罰が終わって妖精獣から元に戻り、約束した飯を馳走に後輩が部屋に来た時のこと。

 部活で帰りが遅くなるという妹を監視役の後輩である姫柊雪菜も一緒に待っていると、ふと後輩が思い付いたように、ピコン、と頭上に電球を閃かす。

 

「まだ誰にもしたことがなくてなー。でも、ひょっとしたらなんかの役に立つかもしれないし、練習がしたいぞ。ちょっと試させてほしいのだ古城君」

 

「おいおい、それってプロレス技みたいなヤツじゃねーよな。そんな実験台はごめんだ」

 

「ん。痛くないぞ。古城君、一度やられた覚えがあるだろ? ほら、フェロモンで相手を操る……」

 

「それって、まさか……」

 

「ひょっとして、この前のトリーネっていうジャコウネコ系の獣人のですか?」

 

「う。姫柊の言うとおりの特殊スキルだぞ。オレも『嗅覚過適応(ハイパーアダプター)』で、匂い系には自信があるからな。同じ魔力を使わない超能力を発香系(アクティブ)してみたらできるんじゃないかって思ったのだ」

 

「確かにクロウ君は獣人種の特性がありますし、フェロモンを使った精神操作ができるかもしれませんね」

 

「だろ? だからな、古城君」

 

「待て。それは、体は痛くないかもしれないが、心が痛くなる中二病発言するようになっちまうことだろ!」

 

「大丈夫だ古城君。同性には効き目が薄いってことだし、そんなのにはならないと思うのだ。それに、ちょっと反応見たら、すぐ元に戻すぞ」

 

「いや、けどな……」

 

「……先輩。まさかクロウ君のフェロモンに誘惑される心配を」

「しねェよ! 野郎のフェロモンなんかにやられるわけがねーだろ!」

 

「よし。じゃあ、古城君、いくぞ」

 

「ちょ、まだ、心の準備が」

 

「忍法おいろけの術」

 

 と後輩の手元に集束される霞のような芳香玉。

 それが手首のスナップだけで投じた軽いキャッチボールのように古城の顔に当たる。

 顔に当たった衝撃はなくて、そして玉が弾ける、というよりは、解けていくというように拡散して、しかし大気に溶け込んだ“匂い”がすぅと鼻腔に入る。

 目のハイライトが弱くなり、そして古城の意識が遠のいて……

 

「古城君? おーい、固まっちまってどうしたのだー?」

 

「――――――はっ!」

 

「先輩、今、やられかけてませんでした……?」

 

「な、なにいってんだよ姫柊、そんなわけねーじゃねぇか!」

 

「……鼻血、出てますよ」

 

「っ~~~! ―――いや、出てねーじゃねェかよほら! 手に鼻血なんかついて……」

 

「ええ、ウソです。ですが、マヌケは見つかったようですね」

 

「なっ、まさか」

 

「あの時私のこと“良い匂い”だとか真顔で言っておきながら、クロウ君のフェロモンでかかるなんて先輩! どれだけ見境がないんですか!」

 

「かかってねーよ! ―――いてっ!? おい、こr―――いてて、ひめ! いててててっ!?」

 

 ぽかぽか、と拳を握って実力行使に出る剣巫……そんな、傍から見ればじゃれ合っているようにしか見えない世界最強の吸血鬼とその監視役に、マイペースな声が飛ぶ。

 

「よし、じゃあもう一度確かめるのだ。いくぞー、忍法おいろけの術!」

 

「わかったやめろクロウの超能力にそのスキルは危険だから!?」

 

 再び投じられる芳香玉(フェロモンボール)

 どこかの世界最強の小悪魔(リリス)でもないのに、食らうとメロメロに精神支配される、ある意味極悪なそれを、古城は咄嗟に身を反らして避ける。幸い、玉の速度はそれほどではなく、ほわんほわんほわん……………と、玄関の方へと飛んで行って、

 

 

「ただいまー、部活で遅くなっちゃってごめんね―――わっ!?」

 

 

 ガチャ、と開かれたドア。そこから顔を出した少女に、古城がたった今躱した芳香玉が当たる。

 

「「「凪沙(ちゃん)!?」」」

 

「え、なに? よくわからないんだけどイタズラ?」

 

「凪沙! 頭がぼーっととかしてないか?」

 

「うん? 熱中症の心配? あはは、部活帰りで疲れてるだけだから。古城君は本当に心配性だよ」

 

「え、っと、本当に大丈夫なんですね凪沙ちゃん?」

 

「もう、雪菜ちゃんまで。大丈夫だって」

 

「凪沙ちゃん」

「―――あ、ちょっと買い忘れたものがあったんだ」

 

「ん。じゃあ、オレがいくぞ」

「―――ううん、クロウ君はここで待ってて、お願い。絶対についてきちゃダメ。視界に入るのも禁止。じゃ、行ってくるね」

 

 言って、玄関先に重たい買い物袋と学生鞄を置いて、返答待たずに凪沙は行ってしまった……

 

 このフェロモンによる精神支配は異性であれば、真祖にさえ効果が実証されるもののはず。

 しかしながら、少女は普段と様子が変わってないように見える。

 

「むぅ。新技失敗か?」

 

「ああ、そうみたいだな」

 

「むしろ、何か避けられてた気がするのだ古城君」

 

「いや、あの凪沙の反応は嫌ってるとかじゃなかった気がするんだが……」

 

 ―――その朱に染まる表情に健康面を気遣うばかりの男子二人は気づかなかったが。

 

「(財布を入れてる筈の鞄まで置いていってるってことは……)―――先輩、クロウ君、私ちょっと凪沙ちゃんの手伝いに行ってきますね!」

 

 

 

 

 

「………………………………………………………………………………………………………………………………………………はぅぅ、顔が熱い。何だろう一目見ただけなのに。今日はクロウ君の顔も見れないよ」

 

 

道中

 

 

 翌日。

 

「む。現れたな妃崎」

 

「ええ、今の仕事が少し難航してて行き詰ってるのだけど、私が監視してない内にアルディギア王国といろいろあったみたいじゃない? だから、今日一日、確かめに監視に戻ってきたわけ。とりあえず、引き抜きはされてないみたいで安心したわ」

 

「六刃にならないと言ったはずだぞ」

 

「それで諦めるとは私は言ってないわ」

 

「むぅ……また前みたいになるのはごめんなのだ。こうなったら……」

 

「あら? 昼休みに学校の屋上でしている剣巫と同じ組手がお望みかしら。けど、私から手を出さない限り、あなたは何もできないのよ」

 

「や、これは攻撃じゃないぞ。

 ―――忍法おいろけの術」

 

 

 ……………………

 ………………

 …………

 

 

 3時間が経過。

 

 

「うふ、うふふふふふふふふ……この私が、こんなにも長い時間、立ちぼうけさせられるなんて、ありえない……ええ、鎖に繋がれた飼い犬と評価を甘く見積もり過ぎていた……そう、攻撃されるわけがないと油断していた。増上慢だったことを反省しなくては……ふふ、嬉しいわぁ、想定以上に屈服させ甲斐のある監視相手で……! ここは莉琉の力で……必ずこの屈辱、倍返しにして逆襲をしてあげなくてわねぇ―――!」

 

 

 

つづく



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六章
焔侊の宴Ⅰ


回想 道中

 

 

 『十三番』というのは、欧州では不吉な数字“忌み数”である。

 

 西欧教会では、主との最後の晩餐で十二使徒最後の席に座る裏切者(ユダ)

 北欧の神話では、宴に招かれざる十三人目の客の悪神(ロキ)

 黄道十二星座では、空が落ち地が崩れ世界の終わりの混沌(カオス)、と結び付けられてきた。

 

 日本でも、『十三階段』などと死刑執行を意味する隠語であったり、『十三塚』などと死者を象徴する数として用いられたりしているが、

 欧州ではとかく『十三』の数字は省く。航空機の座席番号からアパートの部屋番号などには『十三』は存在しないことがあるし、パーティなどにおいて、『十四番目』に来場した客は“『十三』を免れた”と歓迎されるも、逆に数が減って『十三』なってしまう場合は急いで別の人を招くかそこでパーティがお開きになることもある。

 かの『騎士(アーサー)王物語』において、『十三番目』の円卓の席は、常に空席であるよう強力な呪いが掛けられていたという。

 

 そして。

 かつて、この絃神島で行われた『聖殲』を求め、四番目の真祖を覚醒させようとした『宴』にも、『采配者(ブックメーカー)』や『選帝者』たちから、『十三番目(トリトスカイデカトス)』と呼ばれた“忌み子(もの)”がいた。

 

 

 

 それはよく晴れた秋の日の週末。

 常夏の島。季節が夏を過ぎようと強い日差しに流れる汗を拭い、地面に頽れながら、誰か人影を求めて視線を動かす。通りがかる人は多くないし、堀の陰に隠れてるこちらに気づく者はいない。人を見る機会もあまりなかったし、たぶん時間帯が悪いのだろう。見かけることはあっても、車に乗っているのがほとんど。

 

 はぁ……はぁ……

 

 吐く息は荒く、体の熱は徐々に奪われていく。まるで極寒の猛吹雪の中で遭難しているかのように、少女の身体は発熱せんと急いて取り込む酸素を燃やす。しかし、この“異様な寒気”はそれでも指先から爪先、心臓から送り出される血液が遠い箇所より少しずつ凍らせるように、その体温を死体に近しいものにしていく。

 

(古城……君……)

 

 想うは、兄。夏の終わり、中学最後のバスケ部の大会が終わってから、どこか気が抜けてしまっている。ひとつ年上の親友で女子マネージャーの子から話を聞くところによると、兄はすっかり体育館に近づくこともなくなったのだという。会話も、バスケ馬鹿だったのに、バスケの話はしなくなったし、こちらからしようとすればそれは不自然なくらいに話題を変えられるのだとか。きっとバスケ最後の負け試合で、何かあったのだろう。

 だから、そんな兄を励まそうと、サプライズで妹の手料理を作ろうかと、ひとり買い物に出たところで……

 

 はぁ……はぁ…………ぁ?

 

 朦朧とする意識で、顔に影がかかるのを感じた。誰かは判別できない。人影は小さい。おそらく子供で、自分と近しい年齢。背がそこそこ高くて、年上の兄……ではない。そして、その声音は、男の子のもの。

 

『ごめんな』

 

 助け起こしながら、彼は謝る。何を言っているのか、理解できなかった。

 

『暁が、すごく重いモノを負ってるのは、わかってたのだ。ずっとそんな力を使って大丈夫なのか心配だった。

 ……でも、怖くて、オレはずっと触れるのを避けていた』

 

 自分を抱える彼の顔は、その逆光となった日射によく見えないが、いつかどこかで見たようなもの。そう、破滅の一歩を踏み出そうとした自分を止めようとした客人(まろうど)……

 

 

『でもな、今の暁を見てると、やっぱダメだった。見逃すのは、絶対に後悔する。怖いものがわからない馬鹿でもいいから、次からは倒れる前にちゃんと手を伸ばすぞ』

 

 

道中

 

 

 単純なパワーはそれだけで脅威。

 

 いくら身体強化の呪術を施そうにも、相手の身体性能が高い上に、向こうも同じ身体強化をされては一層その差は開く。人間では身体の限度を超える強化比率でも、より頑強な身体を持っているのならば、耐えられる、そう、強化幅が人間(こちら)とは比べ物にならないのだ。

 ならば、技で躱す。

 

「我が影は、霧にして霧に非ず、刃にして刃に非ず―――

 ―――斬れば夢幻の如く、啼哭は災禍を奏でん!」

 

 透明化。相手に姿を見せず、不意をつく。

 

「―――師家直伝残像拳」

 

 姿を消したこちらに対し、向こうは姿を増やした……!」

 生体障壁を変質させた肉球で足音を消しながら、緩急をつけた独特の足運びで数多の残像を生じさせて相手を惑わす歩法で迫る。至近は彼の間合い。

 

 厄介なことにこの獲物は、力だけでなく、技もある。

 けれど、術においては、基礎的な強化呪術と“あの系統”を除いて、平均の域を出ないはず。呪符や式神が使えないという、剣巫よりも尖った相手だ。だが、剣巫を圧倒するほどの近接戦闘力を持っているのだ。

 

「―――<火雷>!」

 

 残像を一気に消し飛ばす高圧縮の呪力弾。透明なハンマーで殴られたように獲物の像が次々と、ひとつ残らず撃ち抜かれて、

 

「隙ありだぞ」

「―――っ!?」

 

 背後を取られた。

 これは空間転移ではない、先の自分と同じ透明化、だが『隠れ蓑』の魔具だけでなく、仙術『園境』により気配断ちで、こちらの霊視にすら察知させない。

 そして、巫女に攻撃ができずとも戦闘不能にする特殊スキルを、ここ最近身につけた。

 

「―――忍法おいろけの術!」

 

 『三手もらうまで巫女に攻撃できない』という<禁忌契約(ゲッシュ)>で縛られている。彼もその主と同じようにした契約は律儀に守るし、破ったのならその罰を受ける。

 だが、『なら、その契約の裏をかくようにすればいいだろう』と主から助言を受けたりしている。

 攻撃がダメならば、攻撃しないで相手を止める、それがこの超能力の応用。

 

 その顔前に寸止めされた掌。咄嗟に鼻での呼吸を止めたが、醸される芳香はそれをすり抜けて鼻腔内に入る。

 

「く、しまっ―――んぁっ!?」

 

 それを嗅いでしまった途端、全身が熱を帯びたように火照る。腹部を押さえて蹲ってしまい、透明化も解かれる。

 魅了。

 特定の獣人種が行う特殊スキルを、『嗅覚過適応』により再現したもの。超能力であるので魔力の無効化も通じず、魔力抵抗も関係ない。異性であるのなら真祖すら落とせる精神干渉。

 

 つまり簡単に言えば、トリップするほどものすごくいい匂い。

 

 高い霊媒素養があっても抵抗できずに遠のく意識。快楽の果ての夢見心地。この状態であるのなら、どんな命令でも頷いてしまいかねない、そんな巫女殺し。

 

「じゃ、妃崎、今日もオレの勝ちだな」

 

 そして、据え膳を放置していく。

 これと言った命令はされず、強いて言うなら、家に帰れ。悪用すれば、無抵抗の美少女を好き放題にできるのだが、この獲物の少年はこれまで何もしてこない。巫女に手を出すのは厳禁と言う契約の縛りがあるかだろうとかそれ以前に、その手の方向に思考がいかないのだ。紳士的な対応ともとれるかもしれないが、彼を知る者には揃って『朴念仁だから』というだろう。

 巫女への対処法もできたし、彼はきっとこれでしつこい監視の目も緩まるのだろうと考えているのだろうが、太史局からの監視役はそうはいかなかった。

 

「気を付けて帰れよー」

 

 とっとと去っていく少年の背を見つめる、妃崎霧葉の視線は焦がすよう。外見は熱にうかれているように呆けていても、内心は復讐の念で燃え盛っている。

 不意をつかれたのは己の責であるが、囚われた己からあっさりと意識を外すその対応。一度も振り返らず、触りもしない。その年頃の思春期ならば持っているだろう異性への興味、だが、あの少年はまったくその対象として自分を見てやしないのだ。それがまったくもって気に入らない、それが元々の戦闘狂な性格も入り混じって、これから何度も挑ませる闘争の源泉となった。

 

(つ、ちゅぎこそは……! 仕留めて見せるんだかりゃ……南宮クロウ!)

 

 

 

 

 

 そして、六刃との戦闘を見ていた“焔光の”影。

 

「くふふ……朝から面白いものが見れた。我が血族(むすめ)たちもあれは危うい。“世界最強の吸血鬼”たる(ワタシ)にも届きうる牙を持っているとディミトリエ=ヴァトラー――懐かしの我が盟友から忠告されたしの。これは<蛇遣い>と同様に舞台からしばし強引にでも退場させておくべきか、判断に悩むなぁ『十三番目』」

 

 

彩海学園 中等部

 

 

『『抹消地区』ってとこで事件が起きたのだ。ご主人が言うにはすっごい魔力のぶつかり合いが特区警備隊に検知されたっぽい、明日は一緒に登校できないかもしれない』

 

 と同級生の男子生徒からのメールを寝る前に確認したせいで、気が抜けていたかもしれない。

 ここのところ早起きを心掛けていたのだけど、寝過ごした。いつも寝坊助な兄に起こされるくらい寝坊して、それで慌てて身支度を済ませて家を出た。髪を結い上げる時間もないくらいなのだから、朝食の準備もできず、途中のコンビニに寄って菓子パンを購入する余裕もない。兄の古城がそれに文句をぶぅたれてたけど、仕方がない。こっちだって一限目は体育なのでしっかりと朝ご飯を食べて体力はつけておきたかったのだ。そうして、お隣の雪菜とも一緒に通学路を走って、どうにか凪沙はギリギリ始業時刻開始前に間に合った。

 

「? なんかいつもよりも騒がしい気がするね雪菜ちゃん」

 

「そうですね。何かあったのでしょうか?」

 

 高等部の古城と別れ、雪菜と一緒に中等部校舎に入ると、校舎内は、どこか浮ついた、いつもよりもざわめいている気配。歩きながら耳が拾った会話によると、何でも今日、当初の予定になかった短期留学生がまとめて7人もやってきたのだ、という。そしてその中には、あの『オシアナスガールズ』というここ最近、動画投稿サイトではやっている『戦王領域』出身の女性五人組ボーカルユニットである等。

 凪沙も見たことがある。チア部でその投稿動画が流されたのだ。そこに映し出されたのは、可愛らしい衣装に身を包んだ外国人の女性グループで、年齢は凪沙たちと同じくらいのローティーンから二十歳前後。歌と踊りは素人くさくて、ダンスならチア部も負けてないと皆でカクカクしたダンスを真似ては騒ぎ合った記憶がある。それでも5人とも日本人受けの良い美少女であるから、雑誌で取り沙汰されている。

 

「へぇ、有名人が彩海学園に来てるんだ! ちょっと時期はずれな気がするけど、絃神島に『夜の帝国』からの短期留学生が来るのは珍しくないし、私たちのとこにも来るかな?」

 

「ええ、そうなるかもしれません。けど、“オシアナス”……これはアルデアル公の差し金……」

 

「どうしたの雪菜ちゃん? 急に考え込んじゃって? あ! ひょっとして、古城君の心配?」

 

「あ、え、はい、先輩と関わり合いそうというか……」

 

「大丈夫だよ。古城君、アイドルとかそういうのあまり興味がないみたいだし、それに雪菜ちゃんの方が美人さんだよ! もう古城君が相手じゃ勿体ないくらいの」

 

「いや、違いますよ凪沙ちゃん。私は別に―――」

 

 この件に関しては中立な立場であるも、このくらいのエールは良いだろうと凪沙が励まし、それにどう誤解?を解こうかしどろもどろに言い訳をする雪菜。二人が会話をしながら教室の引き戸を開けると、

 

「―――う。姫柊、凪沙ちゃん、おはようなのだ。今日は遅かったな……ん?」

 

 褐色の肌をして、赤銅のような赤茶の髪をした少年、耳付き帽子首巻手袋法被と常夏でもしている厚着装備をその枷のような『首輪』を隠す首巻を除いて学内では外している。だから上半分だけれどその精悍で整った顔立ちや細いけれど引き締まったその二の腕とかが見れて、慣れないうちは視線を合わせるのも大変だったけれど、それも過去の話。凪沙は元気よく、そして雪菜は丁寧に挨拶を返す。

 

「おはよう、クロウ君!」

「おはようございますクロウ君」

 

 凪沙たちは鞄を自分の机に置く。前後左右男女が挟み合う市松模様に決められた席位置は、クロウがだいだいクラス内真ん中の列、その最後尾から二番目の席で、その左に雪菜が、そしてクロウの背後の最後尾に凪沙の席がある。

 

「いやー、目覚まし時計を止めた後、二度寝しちゃったみたいなんだよね。普段は滅多にそんなことやらないんだけど、ほら、猿も木から落ちる的な」

「む、凪沙ちゃんはサルなのか?」

「うん、人間は元々サルだった―――って、誰がサルやねーん! もうクロウ君は。あ、ちなみにサルと類人猿の見分け方はね、尻尾があるのがサルで類人猿には尻尾がないんだって」

「じゃあ、尻尾出せるオレはサルなのか。むぅ、でも、今は尻尾がないし、どうなのだ?」

「うーん、どうなんだろ? でも時々尻尾があるヒトもいるみたいだし、おサルさんじゃないんじゃないかな。それから、あと類人猿で泳げるのはヒトだけなんだって、これ豆知識ね」

「おー、またひとつ賢くなったぞ。感謝するのだ凪沙ちゃん」

 

 寝坊からのショックの立ち直りからか、いつもよりもハイテンションで口数の多い凪沙と思ったことをそのまま口にしてしまうクロウとの、ボケとツッコミまである会話の速度にやや置いてけぼりな雪菜。ただ、この薄く頬を染めながら、彼を見た途端にパァッと顔を明るくした友人を止めることはできないと一歩離れた位置でそれを見守る。このままいくと他愛ない話で朝のHRまで喋り通すことになったが、そこで凪沙が話題を変える。

 

「そういえば、クロウ君、昨日は事件があったってメール送ってきたけど、もう大丈夫なの?」 

 

「ん。まだ解決してないんだけど、『最近、出席が取れてないから学校でも見張っていろ』ってご主人から許可をもらったのだ。朝、またちょっと絡まれたけど、学校に遅刻しないで登校できたんだぞ」

 

 そのクロウの報告に、雪菜が食いつく。監視役として先輩に張り付いていなければならないけれど、それでも国家対魔導テロ機関の一員である。情報源が獅子王機関の定期報告しかない彼女としては、この現地で、しかも国家攻魔官直属で警備隊の仕事をしているクロウからの新鮮な情報が欲しいところなのだろう。

 獅子王機関は商売敵という主人の南宮那月からは先輩を通してでないと情報は得られないけれども、同じ級友であるクロウからは雪菜からでも話せるのだ。

 

「その昨日の事件とは……?」

 

「んー……『抹消地区』ってトコで起こった事件だからニュースにはなってないんだけどな、おっきな力のぶつかり合いがあったのだ。聞き込みしてたら、ぶっ倒れてた巨人のオッチャンから『『蛇』がでてきた』、ってなー」

 

 『蛇』―――つまりは、アルデアル公ディミトリエ=ヴァトラーか。

 今の会話から得られる情報は多い。

 <蛇遣い>が暗躍している、そしてそれと対等かそれ以上の相手がいた。それで南宮那月は自らの使い魔に学校の警護を任せたのだろう。おそらく、先輩が巻き込まれるとみて。

 

「はーい、みんな席についてー、出席取るよー」

 

 チャイナ服をきたクラス担任の女教師笹崎岬が入って、会話は中断。あとで凪沙がいないところでクロウから話を聞き出そうと決めて、雪菜は自分の席へ着く。

 

「それで今日は転校生を紹介してみたり」

 

『おおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!』

 

 笹崎の言葉に色めき立つクラス。特に男子。それは朝、噂になっていたネットアイドルの短期留学生を期待してのことだろう。

 

「失礼します」

 

 そして、クラスに入ってきた転校生はその期待に応えた。

 珈琲のような褐色肌に、幼女以外がしているのを滅多に見ない髪型の、茶髪の髪を黄色にリボンでくくったツインテール。

 

「『戦王領域』から来ました。『オシアナスガールズ』のラナでーす。よろしくね♪」

 

 そしていかにも無邪気でございと言った甘ったるい声を恥ずかしげもなく投げながら、しかしながら礼儀正しく品のある一礼を見せる美少女。雰囲気に滲ませるのは、生まれの高貴さを感じさせる類いの美しさである。そう、ついこの前に来訪したアルディギアの第一王女に通じるものがある。

 

「え? 嘘? 本物?」

「ヤバい、予想以上に可愛い」

「同じクラスになるなんて夢みたい」

 

 クラスメイト達がボソボソと小声で囁き合い、驚きと喜びを広げていく。

 そんな中で、雪菜は予感していた『オシアナスガールズ』の正体に確信を得る。

 彼女たちは、『戦王領域』周辺諸国の王族や重心の娘であり、祖国の不可侵条約のために、アルデアル公に差し出した人質。しかしながら、戦闘狂で女に興味のないヴァトラーには見向きもされず、一応、単なる客人として扱われている。

 で、先輩に眷獣を覚醒させるためのエサとして彼女たちを利用したり、また彼女たちも彼女たちで、<第四真祖>の力を下剋上の道具として利用しようと狙っている。

 ―――そう、あの『波朧院フェスタ』に<オシアナスグレイブⅡ>の大浴場で古城に対し、『子種が欲しい』と告白したのを、式神飛ばして監視していた雪菜と紗矢華は聴いていた。

 

(まさか、学校にまで来るなんて……)

 

 同じ学校に通うとなればますます接触する機会は増える。

 これは、『第四真祖の監視役』として看過できない。これは一層、先輩の監視を厳重にしなくてはと……自然と眉間に皺が寄り、表情を険しくする。

 そんな大半のクラスメイトらの好奇の視線と中等部のお姫様な女子生徒からの僅かに細められた厳しい目を受けながら、件の『オシアナスガールズ』のラナの、長い睫毛に飾られた碧眼は、ジッとクロウを見つめていた。

 

「?」

「む……」

 

 見られている。それに真っ先に気づいたのは当人と、その後ろの席にいた凪沙。気づいた反応に、ラナは目と唇をにっ、と微笑の形をした。

 

「先生、私、ここの席でいいですか?」

 

 彼女が要望したのは、笹崎教師が指定した委員長オブ委員長の甲島桜の斜め後ろにある空席ではなく、南宮クロウの右隣の席、今、シンディこと進藤美波が座っている席位置。

 

「んー、席は生徒たちの自由だったり」

 

「そう。ね、譲ってくれない?」

 

「え、あ、私?」

 

「はいー、そうですお願いします。私、ここがいいんです」

 

 転校してきたアイドル美少女に頼まれるだけでもプレッシャーを感じるものなのに、相手を頷かせてしまう高貴な気配。その声は甲高くはあるが最初の挨拶のように甘ったるくはなく、むしろ密かに圧迫するような威圧感を覚える声だった。ディフェンスの戻りとレイアップの切り込みが得意な女子バスケ部部員は、足は速いが、押しには弱い。このゴール前センターと密着して抑え込まれてるようなプレッシャーに負けて、委員長の下へ向かった。

 

(ひょっとして、彼女が狙っているのは先輩だけでなく―――)

 

 あのヴァトラーが最愛の吸血鬼といった<第四真祖>、その“エサ”として送ってくる相手なのだから、高い霊媒素養を持つ。そして、人質であるが、その実は王族。

 これは、同級生の<禁忌契約>が二つも適用されるのではないか。

 つまり、

 

(―――アルデアル公から送られてきた、クロウ君――<黒妖犬>への『楔』)

 

 

 

 実際、この姫柊雪菜の推理は結構当たっていたりする。

 違うのはこれがヴァトラーの意図したものでないということだ。彼は有望な敵対者を強くしようと育てることはあるが、その逆に縛るような真似はしないのだ。

 だから、これは『オシアナスガールズ』たちの独断。反逆のために力を得ようとする彼女らは<第四真祖>暁古城に注目したが、そこからその後続機である南宮クロウにも目を付けた。<禁忌契約>のことを知り、高い霊媒素養と王族である自分らに、<黒妖犬>は絶好な駒。しかも、『あのアルディギアの第一王女の誘いを蹴った』ということから、ラ=フォリア=リハヴァインをライバル視する最年長(19歳)のヴィカ――アッセントのヴィクトリア王女は、『これで<黒妖犬>を従えれれば、あの世の中を舐めきった腹黒な姫君よりも上』といって燃えている。というわけで、年齢上、古城のいる高等部へは入学できず省かれていたが、しかし都合のいいことに<黒妖犬>と同年代であることから、最年少のラナがその攻略を任された。

 そんな背景があって、メンバーから離れてひとり、『黒妖犬の服属』のミッションにやってきたラナだが、実は内心わりと緊張していたりする。

 

(相手を屈服させたいのなら最初が肝心、そうヴィカが言っていたわ)

 

 いつも年長者として先頭に立つヴィカ、ヴァレリア、マルーシャ、ミスリナらに任せて、ひとりで動くことがなかったラナ。そして、それが籠絡せよと与えられた標的は、<黒妖犬>……

 契約に縛られて、こちらに手出する危険性はほとんどない。そう聞いている。だが、『波朧院フェスタ』のとき、あの『魔人』となったクロウの気に当てられて、泡を吹いて失神して、そして、失禁しかけた記憶がラナを縛ってくる。

 最初が肝心。そう、最初にあの『魔人』と遭遇さえしてなければよかった。これはラナと同じように<黒妖犬>を恐れた他四人の王女らから最年少のラナに押しつけられたような形だともいえる。

 だが、『オシアナスガールズ』は下剋上を誓う王女集団。そのためにアイドルの真似事をしたり、自らも戦えるよう銃器の練習に情報工作のハッキングまで習っているのだ。ここでラナが見事に<黒妖犬>を支配下に置くことができれば、それは『オシアナスガールズ』の中でも一気にトップに立つことになるだろう。そう考えると燃えてくるものがある。

 

(今はヴィカが年上だからリーダーやって仕切ってるけど、おかげで年下ってだけで<第四真祖>暁古城様の子種優先権で私が一番最後にされた。でも、ここでラナが<黒妖犬>を駒にできれば『オシアナスガールズ』はラナの天下布武になる。ううん、アルデアル公をぶっ殺して、私を売った祖国に復讐もできるかも)

 

 がっちりと『良い子』の化けの皮を被りながら、打算的な考えをする最年少。しかしそれは捕らぬ狸の皮算用であった。

 

「隣同士、よろしくね♪」

 

 と可愛らしく作った、ぶった笑みで差し出した右手。一応、ラナの席位置からして反対側にはアピールしてる高清水君がいるのだが、そちらには完全に背を向けている。

 だが、その手は、

 

「―――うん! よろしくねラナちゃん!」

 

 クロウの後ろから、机より身を乗り出して伸ばされた暁凪沙の手に、掻っ攫うように掴まれた。ぶんぶんと握手を上下に振りながら、にこやかに笑顔を交わす。アイドルの登場に興奮した女子生徒が飛びついたとも見える図。だけど、やはり周りが戸惑うくらい無理があったもので、

 

「え、っと、あなたは……」

 

「私は凪沙……あ、ごめん。なんか邪魔しちゃったみたいで。ごめんね」

 

 パッと手を離された。無意識の行動だったのか、凪沙自身も戸惑っているようで、あれ? どうして私こんなこと……と首を傾げている。

 して横槍を入れられて、出鼻を挫かれたラナだが、営業スマイルは保持しており、根気よく再度握手を求めようとした―――ところで、

 

「はーい、自己紹介も終わったみたいだし、次は体育だから早めにSHR終わらせてみたり」

 

 時間切れ。

 手を差し出したポーズのまま固まっているラナ。そこへ、

 

「初めまして、私クラス委員の甲島桜。案内するからついてきて」

 

「へ、あ、私は折角ですからこの方にお願いしようかと……」

 

「残念だけどクロウ君は男子だから女子更衣室の案内はさせられないわね」

 

 クラス委員の甲島桜がまだ慣れてない転校生の世話係を買って出て、更衣室へ付き添おうかと声をかけ、断り切れずに連れていかれた。

 

 

 

 一方、蚊帳の外?であったクロウは、教室を出ようとしていた担任教師を捕まえていた。

 

「? どうしたのクロウちゃん。ひょっとして、先輩から何か伝言だったり?」

 

「師父、やっぱり凪沙ちゃんの体調が悪いぞ。すぐ病院に連れて行った方が良いのだ」

 

 

MAR

 

 

 暁凪沙が絃神島に来たのは、事故が原因だと聞いている。それがトラウマとなるほどの魔族がらみの事故で重傷を負った彼女の治療は、皮肉にも『魔族特区』の技術を利用しなければならないものだった。

 

 一年生の時は半分くらいしか学校に来られず、普通に通えるようになったのは、去年の秋ごろから。

 ―――それから間もなくして、先輩は、突然、<第四真祖>の力を手に入れた。

 

 世界最強の吸血鬼の力を一体どのようにして手に入れたのかは、その当人さえも憶えていないようだが、妹である凪沙の快方と何らかの重要な関わりがあった可能性が高いと剣巫の直感が告げる。

 あの『波朧院フェスタ』で会話を交わした、凪沙に乗り移っていた謎の霊体。操られていた<黒妖犬>を単身で押さえると豪語した彼女に、強大な魔力の波長を覚えたのだ。『旧き世代』の最強クラスか、あるいは真祖の眷獣に比肩するほどのものを、だ。

 どうしてかは知らない。だが、無関係ではないはず。

 そして、その答えを、おそらく、“彼”は知っているのではないだろうか。

 

 

 

 SHRの後、暁凪沙は状態をいち早く察知した南宮クロウに、マグナ(M)アタラクシア(A)リサーチ(R)社の医療研究所付属病院へ運ばれた。

 暁家の母親である暁深森――医療部門の研究主任で愛娘の主治医が、診断されたところによると、危うく意識が昏倒するくらいに体調が悪化していたとのこと。ただし、倒れる前に処置できたことで、問題なく、即日で退院できるのだそうだ。

 

 凪沙が病院に運ばれたことを雪菜から、そしてその後の経過報告を研究所についてすぐ深森の助手スタッフから聞いた古城は、ほっと胸を撫で下ろす。

 特別医療棟に運び込まれているため、直接見舞いはできないけれど、専門家がついているのならば安心できる。

 

「すみません……私が一緒にいたのに、凪沙ちゃんの体調のこと、言われるまで気づけなくて」

 

「いや姫柊を責めるわけないだろ。それを言うなら、俺の方がもっと悪い。あいつが寝坊した時点で、体調が悪いのを疑っとくべきだったんだよな。あいつが身体が弱いのは、今に始まった話じゃないんだし」

 

 不注意でしたと責任を感じている雪菜を慰めつつ、古城も自戒する。

 寝坊したこと、登校中にふらついていたこと等、妹の不調に気づく機会は何度もあったのに、家族である古城が気づけなかったのは怠慢であるに他ならない。口数が多いくせして、滅多な事では泣き言も弱音も口にしない妹であることを、古城は知っていたはずなのに。

 

「まあ、クロウがすぐ凪沙ちゃんの不調に気づけたみたいだし。そうそう、この前も口臭嗅いだだけで、食事の献立を言い当てたのよ。健康のためにも一家に一人は欲しいわよね」

 

「クロ坊は、病気探知犬以上に『鼻』がいいし、聴診器を当てるよりも確実だ。頼れる後輩が同じクラスで儲けものだったな。あとで何かご馳走してやれよ。なんなら、金を貸してもいいぞ」

 

 消沈する古城らを気遣うような声をかけたり、明るく茶化そうとするのは、浅葱と矢瀬。

 彼らも凪沙のことが心配で午後の授業をサボって古城たちと一緒に病棟へ来たのだ。他に二名ほど、今日、学園にネットアイドルグループ五人組と一緒に留学してきた吸血鬼の『貴族』二人組がついてきているが……

 

「俺は自分の役目を果たしているだけだ。おまえの妹を見舞いに来たわけじゃない」

「はい。ですから、自分たちのことは気にしないでください」

 

「気にするわ!」

 

 ったく、と関係のないギャラリーの多さに古城は乱暴に舌打ちしたが、それでも彼らを追い返す真似はしなかった。吸血鬼のふたりは除くとして、浅葱や矢瀬が凪沙だけでなく、古城のことも心配してついてきたのだということに薄々勘付いたからだ。

 

「でも、凪沙ちゃんの怪我って……完全に良くなったわけじゃなかったの?」

 

「ああ、普段の生活には支障はないんだけどな。定期的にチェックが必要だって言われてる。まだ薬もいろいろ試してるみたいだし」

 

「そっか……大変だね」

 

 それでも退院してからは、倒れることはなかった。何度か今日のように倒れかけたことはあったが同じく『鼻』のいい後輩にフォローされた。感謝しても仕切れない。

 

「……んで、クロウはどこに行ってるんだ?」

 

 妹の見舞いに足繁く通い、見慣れた病院待合室のロビーに後輩はいない。スタッフの人にも訊いたが、凪沙をここに届けてから、どこかへ行ってしまったようなのだ。

 

「特別医療棟は、家族でないと立ち入り禁止のはずですし……」

 

「あいつが単独行動してるって何か不安になるんだよな」

 

「先輩に言われると、そんな気がしてきました」

 

 頼りになるけど、目を離していると不安になるのは何だろうか。

 連絡手段も携帯電話をアスタルテに預けてしまっている。大声で名前を呼べばどこからともなくやってきそうな気がするものの、それは最後の手段に取っておきたい。とりあえず、後輩が行きそうなところは古城に心当たりがあるのだ。

 

「食堂に行ってみるか」

 

 昼休みになってすぐ学校を飛び出したせいで、古城たちは昼食を済ませていない。当然、後輩もだ。南宮家のエンゲル係数に大きく貢献している『鼻』の良い大食漢ならば、美味しそうな食い物のある場所をすぐ感知するだろうし、このMAR医療部門付属病院にはここのところ週一で通っているのだろうから確実に知っている。

 そう、このMARの社員食堂は……

 

「え!? もしかして奢ってくれるの古城! MARの社員食堂って、絃神島のグルメガイドにも隠れた名店として紹介されてるのよね」

 

 と目を輝かせる情報通な浅葱の言うとおり、ここのメシは結構うまい。古城も部活帰りに凪沙の見舞いに寄って帰りが遅くなったら、この隠れた名店のお世話になっていたりする。

 

「いや、クロウには奢るつもりだが……まあいいか、どうせうちの母親のツケになるしな」

 

 他人の奢りとなれば容赦なく本気で注文しまくる痩せの大食いの浅葱は、ファミレスのランチプレートくらいなら、4、5人分くらいは余裕で食べる。その美食家で大食いな女子高生と張り合えるほど胃袋ブラックホールな後輩男子との組み合わせは、破産確実となるので回避一択ではある。が、ここは母親の職場で息子の古城も顔パスで通じるくらいなのだから、融通が利くはず……

 

「ふん。貴様と馴れ合うつもりはない。オレたちは別行動させてもらおう」

「すみません。自分も失礼させてもらいます」

 

 その際、吸血鬼のふたりとは別れた。

 彼らは先に言っていた通り、失踪した主人ヴァトラーの命で、古城を護衛している。

 後輩とは違う意味で、ヴァトラーの単独行動は不安だ。無限の近い寿命を持つ吸血鬼の貴族は、最高の暇潰しとして、自らの命を脅かすほどの強敵をとにかく欲する。その周りにははた迷惑な性質が、あの男は誰よりも強く、その欲求に素直だ。

 そんなヴァトラーが姿を消す。戦いそのものを娯楽とする戦闘狂には、似つかわしくない行動。<第四真祖>という『世界最強の吸血鬼』の脅威となるほどの者がいるのならば、部下に護衛などさせず、自らが真っ先にそいつに戦いを挑むはずだ。

 それから、腹の調子が悪いと矢瀬も吸血鬼たちに続いて別れたところで、浅葱が訊いてきた。

 

「……ねぇ、いい機会だし、そろそろ教えてくれない? 古城と姫柊さんがどういう関係なのか? 古城は何を隠してるのか? ヴァトラーさんと古城って、ホントにそういう関係じゃないのよね?」

「―――そういう関係ってどんなだ!?」

 

 ここが病院内であることを忘れて大声でツッコミを入れる古城。あの『波朧院フェスタ』から浅葱は古城とヴァトラーの関係を疑っているらしい。一方通行な片思いで、それも古城ではなくて古城の流れる世界最強の吸血鬼の血にヴァトラーは執着(こい)しているのであって、完全に誤解だと言い切れないのが、少々厄介だが……

 

「俺にそういう趣味はないって前にも言っただろ!」

 

「だって、古城、さっきのキラさんと何か見つめ合っちゃってるし」

 

「それは喧嘩を売ってくる相方(トビアス)と比べて温和で、趣味(はなし)が合うからだけで、そんなトキメキはない!」

 

「それに、ここ最近、古城×クロウが流行ってるってお倫が言ってるし」

 

「築島ァ! やっぱあいつとは一度話し合った方が良いようだな!」

 

 勘の良いヤツだとは思っていたが、ひょっとして彼女は腐っているのだろうか。もしそうだとすれば、なんていやな新発見だ。とかくそれ以上根も葉もない誤情報(デマ)を流されるのはたまったものではない。

 眉間を指で押さえて古城が大きく鼻を鳴らすと、雪菜が浅葱の視線を真っ向から受け止めて言う。

 

「わかりました。藍羽先輩が知りたいことお話します」

 

 お、おい、と彼女の意外な返答に古城は驚き戸惑う。

 以前、浅葱に打ち明けるか相談した際に、それに難色を示したことはなかったが、雪菜の口からそれを言うとは思ってなかった。獅子王機関はれっきとした政府機関であり、雪菜も国家資格を持つ功魔師なのだからバラしても問題はないのだろう。その身分を隠していたのは、どちらかと言えば古城の立場に配慮してのことだ。

 

 古城が最も気に掛ける凪沙――重度の魔族恐怖症(トラウマ)を抱える妹に、兄の正体が吸血鬼であることを知られないように。

 

「でも、その前にひとつ、私のお願いを聞いてもらえませんか?」

 

「へぇ、いいわよ。何よ言ってみなさい」

 

 目に見えない火花を散らして睨み合う雪菜と浅葱。

 重々しい圧を発する両者に挟まれた古城は、頭の中で危険警報がけたたましく鳴らされている。

 

「藍羽先輩に調べて欲しいことがあるんです」

 

 藍羽浅葱はその華やかな外見からは想像できないが、その正体は<電子の女帝>などと呼ばれる世界有数のハッカーだ。その気になれば、北米連合(NAU)情報局の最重要気密ファイルにも平然とアクセスしてみせるだろう。

 雪菜はその浅葱にひとつ頼みごとをする。

 

 

「4年前の事件。

 先輩と凪沙ちゃんが遭遇したというテロ事件、それが本当にあった出来事なのかどうか。そして先輩たちが本当に巻き込まれていたのかどうかということを」

 

 

回想 人工島北地区 研究所街

 

 

 気高き領主の最後の血族として、姉様の遺志を継ぐ者として、この『宴』を勝ち抜き、あの男を殺す―――

 そのためならば、何でもする。そう決めたのだ。

 

 

 黒いコートを翻して疾走する見た目の年齢は17、8の女性。その真紅の瞳は、吸血種の証。絹のように艶やかなブルネットの髪を振り乱しながら、恨み言を上げる。

 

「話が違うわよ、暁深森! 警備を甘くしておいてくれるんじゃなかったの……!?」

 

 密約を交わした共犯者の手引きで侵入し、“真祖殺し”をもって『妖精の柩』に閉ざされた『眠り姫』の封印を解いたところまでは良かった。だがその際に侵入者警報が鳴り、防衛設備が作動。次々と迫ってくる警備ポットは、眷獣で払っても払っても数が減るどころか増えている。何故、ちょっとした軍隊並の武装兵力を有することを許可したのか、一領主の娘だったものとして、この人工島の管理公社に文句を言いたい。

 

「上手く連れ出してよ、暁古城……あの牙城の息子なんでしょ!」

 

 自分は“陽動(おとり)”。これからの『宴』に肝心な『十二番目(ドウデカトス)』は、偶然に居合わせた少年に任せている。だから、果たすべき役目はここで暴れて、注意を引きつけること。

 

「―――お願い、<ガングレト>、<ガングレティ>!」

 

 全身3m近くに達する魔犬が二頭。炎を撒き散らす三つ首の魔犬(ケルベロス)双頭の魔犬(オルトロス)。これが自分の従えている切り札の眷獣のすべて。

 そして、三つ首の魔犬に機銃弾をばら撒いてくる設備の防犯警備への壁役をさせ、双頭の魔犬に対魔族の結界が張られている研究所の防護塀をぶち破らせ脱出のための突破口を開かせる。

 そして、敷地を出たところで追跡はされなくなった。

 とはいえ、生まれて百年にも満たない、『旧き世代』と呼ぶには未熟な吸血鬼に二体同時使役は酷なもので、おかげで霧化して長距離を移動するだけの魔力はない。

 二体の眷獣召喚を解除し、ぜえぜえと荒い息を吐きつつも、『無事に『王』の覚醒――『宴』への参加資格を得られたのだ』という達成感が胸を満たす。

 だが、まだだ。

 名門貴族である自身の生家が管理してきた、世界に三本しか存在しない『メトセラの末裔』のみが扱える『天部』の遺産――魔力を無効化し、ありとあらゆる結界を切り裂く聖槍を用いて、ようやく立てたのは、スタートライン。

 これから、『十二番目』を除く、11の『王』すべてを打倒しなければならない。

 

「魔族登録証なしじゃ、店にも入れないし……『魔族特区』ならそのへん憂慮しなさいよ。これだから“昼側”の人間の街は……

 あー、それに暁古城と合流場所も決めてなかったわね。

 けど、リアナ姉様、私は必ず一族の無念を晴らして―――」

 

 『戦王領域』カルアナ伯爵領主――故フリスト=カルアナの娘にして、最後の生き残りヴェルディアナ。

 参加資格を得た彼女の最初の一歩目は、

 

 

「施設襲撃。市街地での眷獣召喚に魔族登録証の不携帯。

 ―――魔族特区条例法に基づき、オマエを逮捕するのだ」

 

 

 いきなり躓くことになった。

 

 

 

「きゃ―――!?」

 

 いきなり声を掛けられて、慌てた女吸血鬼だが、走り疲れた足がもつれて、バランスを崩す。そのまま尻餅をついて、尾骨あたりを打った、痛々しい音を立てる。

 

「痛たたたたた……!」

 

 後頭部を押さえたまま上体を起こす、涙目な女吸血鬼。三歩分――5mほど距離を置いて、目の前にいたのは、耳付き帽子に首巻に手袋にコートと完全防備な少年。『戦王領域』出身の女性としては比較的小柄なヴェルディアナだが、そんな彼女と同等くらいの、おそらくこの日本の中学生くらいの身の丈で、しかし息を呑ませる気配を漂わせている。

 で、その位置はちょうど、尻餅をついたヴェルディアナのスカートの中身が見える、丸見えになるところであった。ヴェルディアナは気づいてすぐスカートを押さえて、

 

「見たわね!?」

 

「う。見たけど、なんだ?」

 

 その中学男子には少々刺激の強い黒いレースのガーターベルトに、少年の方は無反応。じーっと声を掛けただけでずっこけた女吸血鬼の様子を見てるだけ。

 

「な、なんという、カルアナの娘である私に、なんという恥辱―――! というか、ちょっとは目を逸らすとかしなさいよ!」

 

「んー、いきなり声をかけて、びっくりさせちまったのは謝るけど、犯罪したヤツから目を離すなんて真似をするわけないだろ?」

 

 ごもっともな正論を返されて、顔を真っ赤にして全身を震わせるヴェルディアナ。そして、この顔も見えぬ厚着な少年は、こちらを捕まえようとしてることを理解する。つまりは、障害。

 

(この島の警備隊っていう雰囲気でもないし、こうなったら眷獣を喚んで、脅しかけてやるわよ)

 

 ついでに鬱憤も晴らす!

 こんなところで捕まるわけにはいかないヴェルディアナは、眷獣の召喚を決め、疲れた身体に鞭打って腕を振りかざす―――そんな感情を先読みしたかのように。

 

「お願い―――」

「だめだぞまた召喚するのは」

 

 振りかざして腕を掴まれた。こちらが腕を動かすよりも早く、5mの間合いを潰した脚力。吸血鬼の動体視力でも挙動を見逃す。そして、驚きに動きが止まってしまっている間に、少年は腕を取ったのと逆の手で、ヴェルディアナの顎を掠るように叩く。

 

「あがっ!?」

 

 ぐらり、と視界が揺れた。苦痛は思ったほどないが、酩酊したように平衡感覚が失われる。脳を揺らされたのだと理解する。直接的な負傷が与えられたわけではないだけに、吸血鬼の回復能力も役に立たない。

 

『“蝙蝠”はまずは本体。できるのなれば、その頭を揺さぶってやれ』

 

 ―――ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱっ!!

 主人より魔族狩りを仕込まれた少年は、一度だけでは終わらず、そのピンポイントで顎先を狙う軽めに手加減したおうふくビンタで徹底的に揺らす。連打で揺さぶる。ヴェルディアナは抵抗することもできずに遠のきかけた意識を必死で繋ぎ止めようとするも、眷獣を召喚するための気力までは持てなかった。

 

「ん。このへんでいいか」

 

 そうして、自分で立つこともできず、またもこてんと倒れる女吸血鬼。女性を相手にグロッキーに目を回すまで攻め続ける容赦のなさ。一応、多少頬を腫らす程度に抑えるくらいの手心は加えたつもりではある。

 

「ああ……いけません。いけませんねぇ、嘆かわしい」

 

 そして、ヴェルディアナを揶揄するように、どこからともなく芝居がかった声が聞こえてきた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 獣人至上主義『黒死皇派』の<死皇弟>ゴラン=ハザーロフから、『十二番目』の<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>を、命を賭して護った姉のリアナ=カルアナ。

 だから、カルアナの一族、その最後のひとりであるヴェルディアナ=カルアナは『十二番目』に賭ける権利がある。

 それがこんなところで―――それも一族の仇に嗤われるなんて……!

 

「落ちこぼれたとはいえ、『戦王領域』の貴族たる吸血鬼のご令嬢が、そのような無様を晒してはいけません。その散り際も優雅に振る舞わなければ」

 

 声の主は、カイゼル髭を生やした痩身の中年男性。肌は土気色しており、目元は線のように細くその感情は読めない。狡猾なキツネを連想させる男。

 両脇には黒装束に全身を包んだ不気味な男たちを控えさせている。

 異常なほどに手脚が長く、肩の筋肉が不可解に盛り上がっている。獣の頭骨を模した仮面で顔面を覆い、剥き出しの分厚い唇からは、異様に巨大な乱杭歯が生えている。

 

 『匈鬼』。極東の魔族特区にはいないはずの吸血種の出来損ない。

 

 眷獣を召喚できない下等な吸血鬼一族は暴力的で略奪を繰り返す、純血の吸血鬼らには侮蔑の嫌悪の対象。そして、ヴェルディアナの一族は『匈鬼』と領地を巡り数百年に及ぶ争奪戦を繰り広げており、ヴェルディアナの父親は、奴らとの戦闘で命を落とした。

 

「しかし、まさかあのくだらない噂が本当でしたとは。いや、ね。戦場での、あまりの不甲斐ない死に様故に、戴くべき王はおろか、領地すら失ってしまった間抜けな貴族の末娘が、未練がましくも新たな<焔光の夜伯>を蘇らせて、『焔光の宴』に参加するつもりなのだとか―――いや、実に滑稽だ」

 

「……黙れ! 薄汚い『匈鬼』ごときが、父上を侮辱することは許さぬ!」

 

 その時のヴェルディアナの怒りは、混乱を蒸発するほどの沸点に達していた。激情に任せて召喚された三つ首の魔犬(ケルベロス)が炎を吐き散らしながら、カイゼル髭の男に襲い掛かる。

 しかし魔犬の攻撃は届くことはなかった。

 左右に控えていた『匈鬼』が動き、腕や肩に内蔵されていた刃で魔犬の突進を食い止めたのだ。

 下等とは言えれっきとした吸血種である『匈鬼』は、眷獣が血に宿ってはいないにしても、その魔力の容量は魔族の中でも上位にある。『匈鬼』は魔力を増幅させる魔器を体内に埋め込むことで、自らを武器にして戦うのだ。

 そして、魔力を帯びた刃を、消耗しているヴェルディアナの眷獣では弾き返すこともできない。

 

「どうしました? ご自慢の眷獣の力はこの程度ですか?」

 

 愉快そうに首を傾げて訊いてくる男に、女吸血鬼は歯軋りさせる。

 

「実を言えばね、我々はあなたに感謝しているのですよ。ヴェルディアナ=カルアナ。あなたが『十二番目』を復活させてくれたおかげで、我々は新たな殺神兵器を手に入れることができる」

 

 『匈鬼』を従えるカイゼル髭の男の目的は、『十二番目』――アヴローラ=フロレスティーナの強奪。ヴェルディアナが目覚めさせるのを虎視眈々と待ち、そして用済みなった今、こうして処分しようとしている。それに抗う力はもう、今のヴェルディアナには残されていない。

 そうして、膝をついて屈する女吸血鬼を見下ろすと、男は右側の『匈鬼』に目配せする。『匈鬼』は無言で頷くと、手首に埋め込んだ銃口をヴェルディアナに向ける。

 

「あなたの役目はもう終わりです。せめてもの感謝の形として、ご両親や姉上と同じところに送って―――「おい」」

 

 そこで、厚着の少年が声を上げて、『匈鬼』の腕銃の射線上に割って入った。しかもそちらに背を見せて。そして、ヴェルディアナを見て、

 

「オマエ、街中での眷獣の召喚はダメだって言っただろ。二度も警告させるのはレッドカードなんだぞ」

 

 こんな状況の最中に注意する少年。ヴェルディアナは、思わず呆気を取られて、ぽかんと口を半開きで呆けてしまう。そして、わなわなと顎を微動させながら、震える声で、

 

「あ、あなたねぇ……状況、解ってるの?」

 

「う。わかってるぞ」

 

「わかってないわよ! あなた、今殺されるかもしれないのよ!」

 

 巻き込まれた少年に、ヴェルディアナは怒声を浴びせて、そして、カイゼル髭の男は大きく笑い声を発した。

 

「はーはっはっ! ―――しかし、部外者である一般人を巻き込むのは『宴』の(ルール)に抵触するのでね。『采配者(ブックメーカー)』に介入されるのは面倒です。

 少年、一度だけ警告してあげましょう。その女吸血鬼を置いて、ここから立ち去りなさい。さすれば、命は助かるでしょう」

 

 振り向いて、ヴェルディアナを背に庇うよう、立つ少年は、その警告を無視して逃げようともせず、そこに立ち続ける。

 

「ちょっと、あなた、こいつは本気で―――」

「? 何を言ってるのだ。オマエらも、魔族登録証持ってないし、武器まで携帯してる。オレが見逃すわけがないだろ」

 

 失笑して、男は、構わずやれと少年に向けて指を振る。

 『匈鬼』の魔力を塊にして撃つ気硬銃弾。当たれば、人間の体を微塵の肉塊にして吹き飛ばすだけの威力がある。それを迷うことなく照準し、少年を目がけて立て続けて発砲する。

 パパン! という乾いた音と共に、真っ赤な滴が弾けた。

 鮮血。

 少年の右の太腿から腹にかけて、巨大なミシンでも走らせたように幾つもの穴がその厚着に空く。

 でも。

 だけど、

 

「……、なに」

 

 表情一つ、変わっていなかった。

 その人体を破壊する弾丸は、背後にいたヴェルディアナまで届いてない。少年の肉体を貫通できていない。

 

「痛かったぞ」

 

 一言。

 吸血鬼の肉体も撃ち抜く銃弾を浴びて、それだけ。その厚着の下に何か防弾チョッキを着こんでいたのか? いやそれにしても、全く直立不動で銃撃に姿勢がぶれもしてないのはあまりにも……

 

「街中での発砲も罪状に追加で、スリーアウトだな」

 

 『匈鬼』は、撃つ。大量の魔力を注ぎ込んで放った、雷鳴のように薙ぎ払う銃弾の雨。このフルオートの圧倒的火力に不意を打たれれば、ときに熟練の兵士であっても士気を挫かれて判断力を奪われる。

 だが今度の銃弾は火花を散らし、あらぬ方向へと跳弾して消え失せた。目にも留まらぬ早業で揺らいだ、少年の両腕の仕業だった。少年は冷や汗ひとつかくこともなく、冷静に状況を推し量っていた。

 ここで殺気の針に串刺しにされてるのを勘付けていない鈍感ではない。

 

「かるあな?って吸血鬼(ひと)

 

「な、なによ」

 

「ちょっと、こいつら黙らせるから、オレの後ろに隠れてろ」

 

 これまで盾としてそこから動かなかった少年。

 一度屈み、それからバネ仕掛けの機械のように飛び跳ねた少年の体が、腕銃を仕込まれた『匈鬼』目掛けて猛然と突進する。怯むことなく発砲する『匈鬼』。

 だが少年は両腕で頭をガードするだけで、避けようとすらしなかった。その肉体を貫通できずとも、秒間10連発で叩き込まれる凄まじい運動エネルギーは、まさに金属バットの猛打のように少年の総身を殴り続けたのだが、少年が“眷獣の攻撃にも耐えうるレベルで”相当に鍛え込んだ筋肉の鎧は、その衝撃から骨と内臓を完全に護りきっていた。

 

 対象の脅威度をクラスBに修正。対魔族装備(オプション・ブラボー)の使用を許可。

 

 少年の総身に生半可な攻撃が通用しないと見て取るや、別の『匈鬼』がその腕より肌を突き破って埋め込まれていた数本の刃物を出現させる。刃渡り30cm近い両刃のナイフだ。魔術文字を刻んだ刃が赤く発光し、魔力の炎を噴き上げる。

 そして、躊躇うことなく少年の心臓めがけてナイフをその針の穴に通すかのような精密な挙動で突き出す。

 噴き出す鮮血。

 

「―――」

 

 二人がかりで女吸血鬼を制止させた『匈鬼』の膂力……など、どうってことなかったのか。

 少年は、無造作に左手を伸ばし、突き出した『匈鬼』の刃腕を掴み。

 

「まずひとり」

 

 一瞬にして、握り潰した。

 

「ぐおおおおおおおおっ!」

 

 怪獣の咢の如き少年の五指は、まるで空気を握るかのようなスムーズさで、止まることなく骨肉から内蔵された鋼刃まで粉砕、圧縮。

 肘から先、もう存在しない腕を引いてよろめく『匈鬼』。

 どろどろと零れていく濁った黒い血。

 今や巨大なホースと化した腕は、凄まじい勢いで身体の中身を噴出している。

 

「何をしてる! 動きを封じろ!」

 

 カイゼル髭の命令が飛び、片腕をもがれた『匈鬼』は残る片腕で少年にしがみつく。

 怒号する気硬銃。仕留めたその直後の隙を狙う。少年の回避は間に合わない―――そのはず。

 撃発の先んじて、少年は右腕を振りかざす。それ自体が凶器である肘先から螺旋を描き、竜巻を生まんばかりの勢いで唸りを上げる。そして神速で閃いた腕が、先よりも至近で放たれた気硬弾と衝突。鎬を削って、物理法則の断末魔の如く発する怪音。そして、一発に魔力を集中させた『匈鬼』渾身の弾丸は、屈服する。

 服の袖が破れながらも、硬化した腕に受けた弾丸を搦め取り、その弾道を捻じり曲げて、あらぬ方向へと振り流した。

 

 そして、少年は体にしがみつく『匈鬼』を軽く左の肘打ちで叩き、沈めると、第二射を与える間もなく、姿を消して。

 ―――風切り音を伴って、それは発生した。

 

「―――」

 

 視認など間に合わない、気づけば目前にそれがある。

 少年は何の工夫もなく、当然と言わんばかりに、銃を構えていた『匈鬼』の骨仮面をかぶった顔めがけて必殺の魔手を打ち出していた。

 

「ふたりめ」

 

 びしり、など。

 めぎり、などとも。

 そんな半端な、生易し音などではなかった。

 全ては一瞬。

 もとから『匈鬼』の肉体に硬度などなかったかのような横暴さで、その五指は『匈鬼』の仮面を粉にし、鼻骨から乱杭歯を砕いた。

 先ほどのおうふくビンタが如何に手加減されていたのかと、女吸血鬼は理解した。

 ただ突き出されるだけの少年の腕は、暴走する列車そのものの圧力であった。刃物ではなく、腕という単純な鈍器で『匈鬼』らを叩き伏せていく。

 

 所属不明戦闘員(アンノウン)、脅威度Aに再度修正。

 

 女吸血鬼の眷獣である魔犬を押さえていたのも含め、一斉に他の『匈鬼』が襲い掛かるも、遅い。真実、火花を散らして暴走する列車が衝突するかのごとき衝撃を伴って、少年の魔手が振るわれる。

 暴走機関車みたいなデタラメな腕など、『匈鬼』でも受けることなど不可能だ。

 そして、次々と『匈鬼』らが一撃で下されるのを目撃する女吸血鬼は、不意にその気配を覚った。

 

(あれは……狼)

 

 同じ系統の眷獣を血に宿すからわかった。

 姉様の使役する二体の眷獣、自分のとは比べ物にならない力を秘めた<日蝕狼(スコル)>と<月蝕狼(ハティ)>―――それら二体合わせても敵わないほどの潜在的な圧が少年の体から滲み出ている。

 あれは、少年の形をした眷獣だ。

 その時のヴェルディアナはそれが『生体障壁』と知識としてその技法を知ることはなかったが、彼女には少年が強大な魔狼の影を纏っているように見えたであろう。

 『獣の皮を纏う者(バーサーカー)』が、戦場を破壊する。それに対抗する術は―――ひとつ。

 

「ザハリアス卿。今すぐ撤退を進言します」

 

 部隊長を任されている『匈鬼』の言葉に、ザハリアスと呼ばれた男は、フム、と思案するように自分の髭を撫でつけた。

 ヴェルディアナ=カルアナひとりを始末するために一部隊壊滅させても構わないかと言われれば、それは否定。

 今すべきことは『十二番目』の確保。このままではそこに送る別働隊も割けられなくなる。

 ―――だが、この少年は危険だ。ヴェルディアナ=カルアナ側につくのならば、

 今のうちに吸血鬼ごと始末した方が良いだろう。

 

「……いえ、撤退はしません」

 

「ですが、奴に我々の武器では……!」

 

「―――『九番目(エナトス)』を使います。『匈鬼(あなた)』たちは離れなさい。巻き込まれますから」

 

 

 

 空気が、変わった。

 

「少年。その孤軍奮闘を讃え、ひとつ提案します。我々の陣営につきませんか?」

 

 『匈鬼』らを下がらせたカイゼル髭の男が笑みを作って、少年と視線を合わせて言う。

 

「そう、報酬は10億でどうです?」

 

 パルタザール=ザハリアス。

 『匈鬼』が支配する独立国家ネラプシの暫定自治政府の議長にして、死の商人。第四次匈鬼戦争の立役者である兵器商。

 戦士ではなくて、商人。

 腕っぷしの強さではなく、積み上げた札束の高さで相手を屈服させる。

 

 まずいわ……!

 ヴェルディアナは焦る。14年前も、あの武器商人の資金力でカルアナの騎士団と『匈鬼』の大勢は傾いた。あの男のせいで父カルアナ伯は死んだと言ってもいい。

 だが、それを止めることはできない。今の自分には人を雇えるほど捻出できる金銭などないのだ。

 

「?」

 

「ふむ、ではその倍を出しましょう。なにしろ『匈鬼』が束になっても敵わない人材です。高く評価しましょう。私は人を見る目は確かなのですよ」

 

 首を傾げてる少年の反応の薄さを、不服と受け取ったのか、ザハリアスは苦笑して、値を釣り上げる。

 

「私だって、それくらいのお金……! 姉様が、『黒死皇派』に殺されなければ……!」

 

 ヴェルディアナが悔しさに歯噛みして、俯く。

 わかっている。これはいつまでたっても過去の栄華が抜け切れない没落貴族の悪癖だ。暁牙城に救い出されていなければ、この絃神島に来ることも叶わなかっただろう。

 

「ふふ、『戦王領域』で一領土を任されていたカルアナ家も、傭兵ひとりも雇えぬとは。本当に惨めで」

「や。何か、また勝手に話進めてるけど、オレ、オマエのとこにはいかないぞ。オレはご主人の眷獣(サーヴァント)だからな」

 

 あっさりと断わりを入れる少年。ヴェルディアナはハッと少年を見る。そして、ザハリアスはすっと目を鋭くすると、背後より何かを呼ぶようにその手を挙げる。

 

 

「残念です。ならば、あなたはここで始末してしまうしかなくなる」

 

 

 瞬間、凄まじい風が一帯に吹き荒れる。

 小規模な竜巻にも匹敵する暴風だ。

 大気がうねって、激しく軋む。それは標的たる少年に向けた敵意と、あるいは得体のしれないものの恐怖が、そのまま形を与えられたかのような強烈な衝撃波だった。

 撒き散らされる震動が、破壊的な超音波となって無差別に周囲を破壊する。

 激しい耳鳴りと頭痛に、少年は耳を押さえた。

 そして、ヴェルディアナは、感情を喪失した表情で呆然とその到来を予感した。

 

「この風……『九番目(エナトス)』―――王が、私を……」

 

 ザハリアスの隣に現れたのは、妖精めいた儚げな容姿の、年若い少女だ。

 手足は幼い子供のように細く、肉付きも薄い。素肌に張り付く強化繊維製の防護服が、その華奢なボディラインをいっそう強調していた。

 瞳の色は氷河のような薄い青。髪の色は淡い金髪で、見る角度によって虹のように色が変わっていく。

 西洋の絵画から抜け出してきたような、人間離れした美貌の持ち主である。本能的な畏怖を感じさせる種類の美しさだ。

 

「それでは冥土への土産に『九番目』を紹介させていただきましょう。『戦王領域』旧カルアナ伯爵領に囚われていたものを、我らネラプシの手で解放いたしました。『九番目』の<焔光の夜伯>です」

 

 そのまた侮辱するような物言いに、ヴェルディアナは噛みつくこともしなかった。そうするだけの余裕がないくらいにその幻想的な少女に怯えていた。

 

「―――<焔光の夜伯>とは、新たなる真祖を生み出すための計画、そしてその計画によって作られた<第四真祖>の素体(プロトタイプ)の総称です。3名の真祖たちと『天部』の技術によって生み出された、至高の殺神兵器ですよ」

 

 兵器として規格外。

 一切の血族同胞を持たない災厄の化身にして、世界の理から外れた冷酷非情な化け物―――それが<第四真祖>。

 最古の吸血鬼である真祖をも超える、世界最強の吸血鬼は、世界の均衡を崩し、秩序を乱す。故に<焔光の夜伯>は封印された。あるものは嵐の砂漠の中に、またあるものは氷の棺の中に。

 そして、『九番目』は、本来ならば『戦王領域』が――ヴェルディアナの一族が管理するべきであった<焔光の夜伯>……

 

「その強さ、身をもって体験しなさい」

 

 呼吸が、止まった。

 金縛りにあったかのように体は止まり、指先さえ反応しない。

 おそらくは麻痺。身体も心も麻痺して、真っ白な状態になってくれたのだろう。

 

「アアァァァァ―――ッ!」

 

 悲鳴と共に頽れるヴェルディアナ。

 狂う暴風に飲まれた素体が、緋色の鬣をもつ双角獣を召喚する。

 眷獣と喚び出した以上、容赦などしないだろう。

 それでも女吸血鬼とは違って、少年は冷静でいられたのは理解していたからだ。

 <第四真祖>のことなど知らない。その『九番目』とやらがどのような能力を持っているのかもわからない。

 ただ。

 本能で、その強さは理解した。ここで何もしなければ、女吸血鬼が幻視している破滅が現実のものになるだろうことぐらい、一目で―――

 

()られる前に、()りなさい》

 

 それは、理性に反して少年の“陰”よりせり上がってきた、目前の敵へ対する、ありったけの創造主からの呪詛(エール)だった。

 少年の手が首巻の下に隠れていた、その枷のような首輪に伸ばされ、止まる。

 

『今の馬鹿犬ではその力は御しきれん。暴走に呑まれたくなければ封印(くびわ)は、死んでも外すな』

 

 主人の戒めが蘇った。それで、点火された闘争本能だとか、破壊衝動だとか、そんな余分なものは燃え尽きた。

 

「……ああ、オレはご主人の眷獣だ」

 

 ―――瞬間、少年の姿が、銀の体毛を持った人狼に変身する。

 

「でも、オレはこの“戦争”をやらくちゃいけない気がする。そうだ、やると決めたのだ!」

 

 凄まじい風圧が五感に突き刺さる。

 震動する双角より放たれる衝撃波。

 

「ぐぉおおおお……!!!」

 

 十倍以上に引き上げられた全身の力という力を右足に集中させて、足だけの力で身体を横に流した。

 火事場の馬鹿力の急加速に、それを殺す急制動。

 ばつん、ばつん、と限界を超えた挙動に筋肉が断線していく。

 その引き換えに、コンマの差で目の前を死の突風が通り過ぎていく。

 

「は、ぁ―――!」

 

 躱した。

 いくら殲滅兵器のデタラメな力を持っていようと、当たらなければ意味がない。

 攻撃を寸前で避けたことで垣間見えた、相手の隙。

 こちらは右足を壊してたたらを踏んでいる。

 

 ―――まだ、狙えない……!

 

 突き出した双角がそのまま横一線に振るわれる。

 

「……く、ぬぅ―――!」

 

 更にもう一度地を踏み締めてる足に全体重をかけて横に跳ぶ。

 それがトドメとなり、右足の感覚はそれで消えた。

 

「―――!?」

 

 同時に、辺りの路面アスファルトがめくれ、巻き上がっていく。

 余波が掠っただけで、地形が破壊されていく。

 まさに、災厄。

 双角獣の死角に入るために、姿勢を低くして獣の如く四足で伏せていた銀人狼は―――

 

「っ―――!」

 

 目が、合っていた。

 辺りに破壊を撒き散らしながらも、双角獣はそれを意にも介さず、こちらだけにその眼光を送っている。

 

「ぐあぁああああ……!」

 

 喉から気合を絞り上げて、体を反らした。

 真正面から最速で繰り出された双角の一突きを躱すために、体は海老ぞりになり、そのまま反った腹の上を超音波が過ぎていく。纏っていた生体障壁の防護も一気にごっそりと削り取られた。

 無理な命令に従っていた右足は、これ以上踏ん張れず、姿勢が崩れてしまう。

 

「く……!」

 

 体が右側に沈む。

 力が入らなくなった右足が滑って、体はそのまま地面へと倒れ込む。

 ゴン、と受け身もとれず背中を打って、一回転び回る。

 顔を上げると、頭上には。

 もはや逃げる場も間もない獲物を狙う、死神の姿があった。

 

 終わった。

 

 己の力に枷をつけたまま、完全に解放しようとしない獣に、素体でありながらも、災厄の力を御している相手は無理であったか。

 

 ―――破滅が迫る。

 双角にまとめて圧縮し、鉄槌と化した暴風。受ければ、この肉体はフードプロフェッサーに入れられた食材と同じ末路になるだろう。

 

 

 

 

 

 ―――いや、まだだ!

 落ちる災厄。

 それを迎い打つ形で、一点、防御に回していた生体障壁を左腕に纏わせ、その一瞬に神獣の如き爪へと獣気が変化した剣指刀掌を突き伸ばした。

 

 世界の時間が停止したかのような、衝突。

 

 神獣の爪拳が暴風の双角と鬩ぎ合う。

 

「がああああ―――っ!」

 

 銀人狼の爪が、双角のひとつを折った。

 倒れたまま、左足首だけの力で、それこそバネのように立ち上がりながらの交差。

 それは、銀人狼の少年にしても神がかった一撃であった。

 だが、その奇蹟に昂っている余裕はない。

 

 今の常軌を逸した運動で、右足と、左腕も骨にひびが入り、その手の指はあらぬ方向に曲がり、爪も剥がれている。けれど、双角の片側を折ったことで共振動ができなくなり、バランスが崩れたのか、眷獣の暴風が弱まる。

 ここが、最後のチャンスだ。

 驚いたように、こちらを見ている『九番目』。左足で限界を超えた一足飛びで迫り、右腕を叩き込めば―――

 

(―――ぬ、かるあな!)

 

 その時、加速していく視界に気絶している女吸血鬼の姿が過り………

 

 

人工島北地区 研究所街

 

 

「さすがはヴァトラーの側近といったところか」

 

 

 人工島北地区(アイランド・ノース)の研究所街。人工島らしさを色濃く残した、未来的でメカニカルな街並み。

 中でもひときわ背の高い灰色の電波塔の上に立つ、白いフードを被った少女。

 彼女がまるで獲物を追う狙撃手のように監視していたMARの附属病院より、二つの影が飛び出す。

 

 ひとりは、摂氏数万度にも達する高密度の魔力の炎に包まれた巨大な猛禽<妖撃の暴王(イルリヒト)>を従え、吸血鬼の中でも希少な<魔眼(ヴァジエト)>を持つ『魔眼使い』トビアス=ジャガン。

 

 もうひとりは、霧化も空間制御も封じる高密度の魔力で溶岩の網を編む琥珀色の蜘蛛<炎網回廊(ネフイラ・イグニス)>を忍ばせながら、相方と訓練された連携を見せてくる『幻影使い』キラ=レーベデフ=ヴォルティズラワ。

 

 『戦王領域』の苛烈な炎と麗しき闇の貴公子たちは、『旧き世代』に比較すれば若いが、『旧き世代』にも劣らないだけの実力を持っている。そして、その主人である<蛇遣い>同様に強者、それが己よりも実力が上の存在であろうとも戦いを貪欲に求む戦闘狂のきらいがある。

 しかし、やはり若い。

 

「警告する。少しでも妙な動きを見せれば、眷獣をぶつける」

「あなたが<第四真祖>を()けていたことはわかっています。理由を聞かせてもらいますか。ついでに、あなたの名前と所属も」

 

 くふっ、と少女は肩を揺らして苦笑する。

 <第四真祖>を脅かす敵の出現を予見していたと思われる主人(ヴァトラー)より、暁古城の護衛を任された彼らに囲まれながらも、その余裕は崩れない。

 

「この私が、<第四真祖>を尾けていた、だと……お前たちは何も知らされていないのだな。ヴァトラーは教えてくれなかったのか?」

 

 主人との信頼関係を揶揄するような口ぶりが気障りで、殺気立つジャガンだが、それでも少女は穏やかな声で続ける。

 

「察するに、貴様たちはヴァトラーが派遣した護衛であろう。あの<第四真祖>を護りたいのなら、貴様たちの敵は(ワタシ)ではないぞ。せっかくのヴァトラーの配慮を無駄にする気か?」

 

 主人の行動をすべて知悉している物言いでの忠告に、冷静に感情を押し殺していたキラが戸惑いの表情を浮かべる。

 この少女は、失踪した主人の居場所を知っているのか? そのキラの問いかけに、不安な幼子をあやすような表情で少女は彼らを眺めて言う

 

「案ずるな。殺してはおらぬ。さすがに彼奴を完全に滅ぼすのは、余の力をもってしても楽ではないのでな。用が済めば、解放してやろう」

 

「貴様如きが閣下を捕えただと?」

 

「信じられぬか? むしろヴァトラー如きが余に敵うと信じられる根拠は何だ?」

 

「あなたは一体……!?」

 

 ジャガンは戯言をと吐き捨てるも、キラと同様にかすかな迷いを表情に滲ませる。

 <忘却の戦王(ロストウォーロード)>直系の吸血鬼である自分たちを―――まして主人であり『真祖に最も近い』ディミトリエ=ヴァトラーを凌ぐほどの力を持つと少女は言っている。なのに、この底知れぬ自信は無根拠なものではない、と戦場慣れした吸血鬼の本能が警告を発している。

 それほどの強大な力を持った存在は、限られている―――

 

「もういい。女が知ってること、すべて吐かせるぞ、キラ!」

 

 荒々しく言い放ったジャガン、その業を煮やした相方にキラも動く。

 ―――瞬間、二人を絶句させるほど凄まじい魔力が少女の身より放たれる。

 『魔族特区』の空を揺るがし、青白い雷光で染めていく、その巨大過ぎる魔力より出現する眷獣は、キラやジャガンはおろか、ヴァトラーの融合眷獣をも凌駕している。これほどの力を扱える存在は―――最強最古の吸血鬼たる真祖しかいない。

 

 

「少々段取りが狂うが、やむを得ぬか。いや、こうなることを見越して護衛を置いていたか、<蛇遣い>め―――余に牙を剥いた報い、側近らにも受けてもらおうか」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <過適応者(ハイパーアダプター)>矢瀬基樹は、張り巡らせた<音響結界(サウンドスケープ)>が拾う音でそれを視ていた。

 

 MARの付属病棟を襲撃する謎の少女。

 この昨夜未明にディミトリエ=ヴァトラーと衝突したと思われる彼女と、そのヴァトラーの直属で、暁古城の護衛を任されている吸血鬼の二人組、トビアス=ジャガンとキラ=レーベデフ=ヴォルティズラワが衝突するのは、想定内。しかし、謎の少女の力は予測を大きく上回るものであった。

 

 トビアスとキラ、およそ200歳――吸血鬼の中では若い世代であるものの<蛇遣い>の腹心に相応しい、『長老』とも渡り合えるほどの実力を備えた貴族を二人がかりで相手にしながらもなお圧倒する濃密な魔力、そして、ヴァトラーの融合眷獣すら凌駕するほどの強大な眷獣を召喚する。

 『真祖に最も近い』と言われるヴァトラーを超えるとなれば、それはもう最強最古の吸血鬼たる“『真祖』だけ”だ。

 

『入島記録なし。魔力波形は計測限界を突破して測定不能。完璧な未確認魔族(アンノウン)だ』

 

 矢瀬が持つスマートフォンと繋がっているのは、藍羽浅葱によって『モグワイ』と名付けられた人工知能(AI)――絃神島を管理する五基のスーパーコンピューターの現身(アバター)

 『魔族特区』を管理する公社に記録される全情報を覗けるモグワイが、機械的な人工知能らしからぬ、妙に人間臭い口調で分析を述べる。

 

『映像の骨格から解析したが、該当サンプルは一個だけだな。98.779%の相似率。

 ―――サンプル名は『十二番目』の<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>アヴローラ=フロレスティーナ』

 

 馬鹿な……!

 あの逆巻く炎のような虹色の髪に焔光の瞳。妖精めいた幼い美貌―――そのすべてが、かつてこの島にいた、そして矢瀬自身とも因縁浅からぬあの少女の特徴と一致していた。人工知能の分析もほぼ100%と回答している。

 しかし。

 しかし!

 ありえない。ありえるはずがないのだ! それをこの人工知能は理由を知っていながらも、面白がってるように言ってくる。

 

『ケケッ……じゃあ、『十二番目』でなかったら、『戦王領域』の貴族をあっさりぶちのめすあの化け物は何者だろうな?

 ま、あの嬢ちゃんが偽者だとしても、それでどうする?』

 

 幼馴染(あさぎ)の言うとおり、全く性格の悪い現身だ。

 天与の<過適応能力(スキル)>と人工島管理公社の支援(バックアップ)をもってしても、あのような超越した怪物どもの戦争に割って入れるだけの実力すらない。いつも通り、これらを指をくわえてただ監視するのが『覗き屋(ヘイムダル)』矢瀬の仕事なのだ。それを自覚してるが、他所から指摘されるのは腹立たしい。

 

『おっと……どうやらのんびりと見てるのは無理そうだぜ』

 

 そのとき、モグワイから忠告が飛んだ。矢瀬がその意を問うよりも早く、予期せぬ第三者の声が掛けられた。

 

「そうですね我らが王。少々厄介な能力を持つ『覗き屋』はここで退場していただかないと」

 

「な―――俺に気づかれずに近づいた……だと!?」

 

 いくら謎の少女に気を取られていたとはいえ、ここまで相手の接近を許すなどありない筈なのだが、その矢瀬より数歩分の距離を置いて、そこに立つ一人の男。

 眼鏡をかけ、繊細そうな面立ちの青年は、ゆったりとした中華服をきており、滲ませている雰囲気はどことなく古代の仙人を連想させるもの。

 視野に入れても、そこに実在するのが不確かと思えるほどに存在が希薄。こうして警戒するほど意識してなければ見過ごしてしまう。

 ―――それは能力によって増幅された超聴覚――数km離れた人間の足音すらも聞き分けられる矢瀬の耳をもってしても、“生きているのならば必ず発している心音すら男から感知できない”。

 

 そして、矢瀬にここまで近づいた相手の目的は何か。

 ニコリともしない物静かな表情、視線、声、言葉遣い。だからか、好意的な様子には見受けられない。

 わざわざ感情を読まずとも、その手に持った黒槍の凶器を見れば明々白々。

 

「矢瀬基樹。傍観者はひとりだけでいいのです」

 

 長さ1mを僅かに超える程度の全金属製の短槍。穂先から柄までその色は黒一色。それを両腕の袖口から一本ずつ計二本を取り出して、接合する。

 短槍二本合わせた両刃槍を構えるその青年に、ようやく矢瀬はその正体に気づいた。

 

「そうか……<監獄結界>からの脱獄者は全部で7人だったな。お前が7人目か!」

 

 『波朧院フェスタ』に起きた魔導犯罪者脱獄事件。

 あの時、<書記(ノタリア)の魔女>仙都木阿夜とともに<監獄結界>から抜け出した囚人は7人いた。

 図書館(LCO)総記(ジェネラル)仙都木阿夜。

 亞神の末裔シュトラ=D。

 堕ちた龍殺し(ゲオルギウス)ブルード=ダンブルグラフ。

 炎精霊遣い(イフリート)キリカ=ギリカ。

 クォルタス劇場の歌姫ジリオラ=ギラルティ。

 美食家(グルメ)摩義化歩兵(ソーサラスソルジャー)ソニー=ビーン。

 そして、罪状能力共にすべての記録が抹消されているこの黒衣の青年。唯一データに残されたその名は、

 

「―――絃神冥駕!」

 

 この絃神島の設計者であり、矢瀬基樹の父である管理公社の名誉理事で矢瀬顕重と盟友であった絃神千羅と同性……

 『聖殲』と関わり深い可能性が高い!

 

「気軽にその名前を呼ばないでもらいたいのですが……まあいいでしょう」

 

 ここで死ぬのだから―――とその死の宣告を、爆風がかき消した。

 青年は、『覗き屋』の周りにある空気全部が粘度の高い液体になり、意志をもってこの場を泳ぎ回るかのような、奇妙な感じを察知する。

 そして、次の瞬間には、超能力を400倍にまで高める増幅薬(ブースター)のカプセル錠剤を噛み砕いた矢瀬が作り出す、光の屈折で暴風の巨人が出現した。

 <重気流躰(エアロダイン)>。数十気圧に濃縮された気流(かぜ)の肉体は、局地的な竜巻にも匹敵する破壊力を持つ。そして、中身は単なる空気であるため、魔術的な防御では防げない、獅子王機関の剣巫の『七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)』ですら打ち消すことのできないのだ。

 

「面白い能力です。ですが……」

 

 それが、消滅した。

 その漆黒の両刃槍が放つ、闇の中で揺れる鬼火に似た、仄白く禍々しい輝きに暴風の巨人が触れた―――それだけで、矢瀬の身を削る一撃は、まるでなかったことにされたように霧散し、微風になる。

 

 <重気流躰>を無効化した、だと……!?

 

 巨人を破壊したのではない、攻撃を防ごうとすらしていない。青年がしたのは、矢瀬の<過適応力>そのものの存在を消したのだ。

 

「その槍……『七式突撃降魔機槍』じゃないな!? っ……! まさか!?」

 

 驚愕に息を詰まらせる矢瀬は、黒槍の正体に勘付く。

 あの『波朧院フェスタ』の日、『キーストーンゲート』にある小さな博物館に銘も来歴も記されずただ展示されていた、死蔵の槍が何者かに盗まれた。

 強固な封印が施されていたそれは、獅子王機関の廃棄兵器『零式突撃降魔双槍(ファングツアーン)』―――その“失敗作”が、この青年の手に渡っている。

 

 矢瀬は理解した。この青年と戦ってはならぬと。

 微風となった暴風の巨人の残滓を掻き集めたわずかな気流に乗り、矢瀬は距離を取ろうとする。

 だが、その前に両刃槍の二の太刀を浴びせる―――寸前、

 

「―――っ」

 

 短い息を伴って、青年の身体が軽々と後方へ吹き飛んだ。

 屋上の柵に細身の肢体が叩きつけられ、体形に凹みをつくった。

 

 

『おっと、のんびりとできないのはおたくもだぜ『冥狼』』

 

 

 知恵の泉を掬う杯(ギャラルホルン)は、『覗き屋(ヘイムダル)』の戦いを始まる角笛―――そう、『神殺しの狼』の到来を報せるもの。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「な―――」

 

 矢瀬は何が起きているのかわからず、呆然と目を見開いた。一体、これは―――

 

「―――無事か、矢瀬先輩」

 

 と状況を理解しようと思考を回らせる矢瀬の鼓膜を、そんな声が震わせた。

 

「は……?」

 

 間の抜けた声を絞り出しながら顔を上げる。

 いつの間に現れたのだろうか、そこには今、『隠れ蓑』を羽織った後輩南宮クロウが、矢瀬を守るように背を向けながら立っていた。矢瀬の『音響過適応』に察知させなかったその『透化』と『園境』の気配遮断。そして、これまで獲物を取り逃したことがない嗅覚の気配探知でこの青年――主人の牢獄より逃した魔導犯罪者の“匂い”を嗅ぎ取ったのか。

 

「クロ、坊……?」

 

 矢瀬が掠れた声で名を呼ぶと、クロウは視線を矢瀬の方に向けて、『う』と頷いた。

 

「なんか気になる“匂い”がしたから探索(パトロール)してたけど、間一髪だったのだ。大丈夫か?」

 

「あ、ああ……」

 

 呆然と声を発する。というのも、矢瀬はその正体が“第四真祖の監視役”であることを、この後輩には教えていない隠し事。その主人の南宮那月は知ってはいるが、それをサーヴァントにまで浸透しているかどうかは定かではない。だが、おそらく知らされてないとみていた。

 と、クロウはその反応をどう受け取ったのか、ぐっと親指を立てるポーズを決め、

 

「ん。矢瀬先輩が、実は極秘任務を任されてる“忍びの者(ニンジャ)”だとご主人から教えてもらってるのだ。だから、オレは邪魔しないよう見ざる聞かざる言わざるするぞ」

 

 あー……あの担任教師、とっくに矢瀬が監視していたことに後輩が気づいていたことを黙っていたな。それで適当に誤魔化してくれたのはありがたいし、任務の邪魔をしないよう言い含めておいてくれたんだろうが、もっと他の説明の仕方はなかったんだろうか。

 中等部で所属していたバスケ部でも古城というスター選手の影に隠れて、あまり後輩らに憧れられたことのないしがない先輩としては、キラッキラとした尊敬の念出まくりな目で見られるのは慣れてないし、恥ずかしい。バレてないと思ってて実はバレてたことも含め、二重の羞恥だ。

 

「じゃ、矢瀬先輩は任務に戻るのだ。―――コイツを捕まえるのは、ご主人の眷獣であるオレの仕事だ」

 

 対峙するのは、<監獄結界>から二度目であり、脱獄犯最後の取りこぼし。主人の失態をのさばらせておく気はクロウにはない。

 

「―――絃神冥駕。オマエは、獅子王機関の攻魔師を13人殺害した獅子王機関の武神具開発者。

 特区治安維持条例に基づき、これよりその身柄を拘束する」

 

 抹消されたはずの個人情報。だがその罪状を、知っているのは当然。この青年を捕縛し、<監獄結界>にぶち込んだのは、主人の南宮那月なのだから。

 

「魔女に飼われ、真に仕えるべきが何であるかを知らぬ、愚かな欠陥製品が、私を捕えるなどとは度し難い―――」

 

 身を起こす絃神冥駕。

 矢瀬から引き離す際に、クロウはその身に一打叩き込んだ。ぶん殴った。そう、並の眷獣をブッ飛ばすその拳は、強靭な肉体を持つ魔族ならまだしも、普通の人間が耐えられるような衝撃ではない。少なくとも殴った胸部肋骨は、完全に粉砕されていることだろう。

 しかしながら、その立ち姿は、胸を押さえるようなこともせず、痛みを堪えているようにも見えない。

 腐敗した血液のようなドス黒い液体を裂けた唇から垂らしながら、南宮那月の眷獣であるクロウに見せる彼の表情は眉間に皺を刻んで険しく、構えた漆黒の槍からは瘴気に似た異様な気配を放っている。

 

「オマエ、オレと相性が悪いだろ」

 

 それを流し、銀人狼と化したクロウが不敵な笑みを作って告げる。

 

「“匂い”でわかったぞ」

 

 超能力により拡張され、獣化してさらに跳ね上がったその嗅覚が、“死臭”の意味を悟る。

 

「それを確かめるのだ!」

 

 すぅ―――胸郭を一回り膨らます深呼吸。

 

「―――忍法火遁の術!」

 

 狼の咢となった口元から一気に吐き出されたのは、灼熱の吐息(ブレス)

 本来ならば<神獣化>した獣人種のみが使えるそれを、獣人化の形態で引き出す。

 尋常ではないその熱量と篭められた魔力は『旧き世代』の眷獣に匹敵するものだろう。浴びれば、骨身残さず火葬される―――

 

「<冥餓狼>!」

 

 青年に振るわれた黒塗りの両刃槍が、灼熱の吐息を一閃する光を放つ。その仄白い輝きは、魔力を無効化し、ありとあらゆる結界を切り裂く『神格振動波』の閃光だ。

 それが魔狼の劫火を切り裂いて、霧散した。

 

「この『零式降魔双槍』は、失敗作ですが、『七式突撃降魔機槍』とは兄弟みたいなもの。同じく、歪なる魔力を無効化する―――」

 

 灼熱の吐息が完全に散らされるより早く、炎の壁を突き出した影。

 霊的回路及び戦闘に必要な生物的装置を全稼働。爆発的な戦意が点火。体温が急上昇。生体電流が神経で暴れ、血液が煮え滾り、細胞が沸騰し、筋肉の枷が外れ、ついに銀人狼の体表が金色に煌めく。床を蹴り飛ばし、突貫。重力無視の大加速。その運動エネルギーを腕力に乗せ、そして左手を拳に握るのではなく、指先揃えて伸ばす。姿勢の通った、全身をフルに使って、体幹を一直線に伸ばした、槍の如き渾身の一撃。

 

「―――忍法雷切の術!」

 

 その左手に纏うは生体障壁だけでなく、霊気を鋭利に尖らせて放つ霊弓術。矢として放たず、爪に添わせることで刃とする剣指刀掌。

 そして、<疑似聖拳>の発動。青白い電撃が迸る爪刃は、剣巫の振るう破魔の銀槍の如く魔を穿つ―――

 だが、その荒々しく弾ける輝きは、青年の身体に触れる前に鎮圧化される。

 

「―――残念ですが、打ち消すのは魔力だけでなく、霊力も等しく消滅させる」

 

 故に『零式突撃降魔双槍』は封印された。

 あまりに危険すぎるのだ。その武神具を扱うものに対して。

 霊力も魔力も遮断された状態で生きられるのか。

 万物に陰と陽があり、始まりと終わりがあるように、霊力と魔力の拮抗は生命の揺らぎそのものである。人間であれ、魔族であれ、霊力と魔力の双方から切り離された状態で生命は維持できないのだ。生とも死とも無縁というのは、存在しないと同義だからだ。

 

 故に『零式突撃降魔双槍』は絃神冥駕にしか扱えない。

 如何なる異能の力も影響を受けない、完全なる傍観者の肉体である青年にしか使えない。

 

 そう、<冥餓狼>を前にすれば、次の攻撃を予測する霊視や武神具の力さえも働かなくなり、強大な魔力の塊である眷獣も一撃で断たれる。

 

「だから―――」

 

 魔狼の劫火も神獣の聖拳も、その漆黒の両刃槍に呑まれるように無力化された。そんな理不尽を旨とする存在。

 

    「何をしようと―――」

 

 が、人狼は止まっていなかった。悩んですらいない。単純に物事を考える。“この相手は人間ではない”ことは理解している。ならば、容赦は無用。一片の欠片すら情けは不要。目前にあるのは、狩るべき獲物だ。

 

           「無駄―――」

 

 です、と青年が言い切る寸前、トラバサミのように大きく口を開いて設置し、踏み込んだ獲物に食らいつく闇色の刃にかかる直前、構わず、人狼は直進して、跳ぶ。消える。

 ―――『縮地』。わずか一歩分の空間跳躍。線ではなく点と点の移動は、罠を躱し、青年の計算を跳び越えて、人狼の右拳が、ロケット砲のような勢いで顔面を打ち抜いた。

 

 轟音が大気を震撼させるデタラメな、ミサイルの如き一撃。

 

 青年の耳朶に響くは、この世で最も近い炸裂音。

 外界から響く振動ではない。

 内側から振動が伝わっている。

 

 絃神冥駕の体が弾け飛び、トンデモナイ勢いで屋上のフェンスにぶつかり、突き破って、隣のビルの屋上に派手にバウンド。そして、またフェンスに突っ込んで、凹ませ、ようやく止まる。金属の網に半ば埋まった青年は、使い物にならなくなった眼鏡を床に落として、しばらく動かなかった。

 頭があることが不思議なくらいの一撃。原形は保てるだけの加減はできていたのか。

 静寂が流れる中、5秒ほど経過してから、起きる気配。まず指を動かし、次に足を動かし、顔を上げ、頭を左右に振るも、すぐに立てない。フェンスから身を剥がせず、顔に青黒い痣を作り、ドス黒い鼻血を流す絃神冥駕の前に、向こうのビルから八艘跳びしてやってきた人狼。

 

 侮っていた。

 そう、虎が何故強いのか? それは元々強いからだ。

 そして、今、己が対峙しているのは虎の中の虎だ。

 

 魔力霊力を消滅させようと、その者自体の膂力(ちから)が消えるわけではない。

これが身体強化に未来視に頼る剣巫ならばとにかく、これは素で人間を凌駕する生物。吸血鬼も上回る身体性能の持ち主である。

 あの五指に握られた瞬間、青年の頭は潰される。

 おそらく苦しみはないだろう。何しろあの怪力だ。タイムラグなどなく、一瞬で握り潰すのだろうから。

 が、突き出した人狼の手は死神の鎌ではなくて、

 

「今のでわかったことが三つあるぞ」

 

 三本の指を立てて、人狼は言う。

 

「まず、オマエの肉体は“もう死んでいる”。師父が言ってた『僵屍鬼(キョンシー)』だな」

 

 大陸の道教による呪法で蘇らされた動死体(ゾンビ)。いわば、『僵屍鬼』は吸血鬼の成り損ないだ。生きることも死ぬこともできない、不完全な傍観者。

 『零式突撃降魔双槍』の実験中の事故で一度死んだ肉体を、彼の祖父である絃神千羅が蘇らせた、それが今の絃神冥駕。

 死を知らず、体力も底無しの不死身。しかし所詮はまがい物に過ぎない『僵屍鬼』には、『旧き世代』の吸血鬼ほどの再生能力はない。壊れたままでもある程度動けるだろうが、完全に破壊されてしまえば終わり。失われた部位を、他の肢体から部品を奪って、繋ぎ合わせなければ直りようがない。

 

「で、オマエのその槍。魔力も霊力も消せるけど、同時には無理だろ」

 

 二本目の中指を折って指摘されるのを、青年は体の回復に努めながら黙って聞いていた。

 

 霊的中枢のリミッターを解放し、<疑似聖拳>で増幅された霊力を打ち消せたが、その獣化を弱めるまではいかず、また一歩分であるが空間転移の魔術発動を阻止できなかった―――

 

 そう。

 <冥餓狼>が、失敗作と呼ばれる所以は、それが死を知らぬ『僵屍鬼』にしか使いこなせない武神具だからではない。

 霊力と魔力を同時に消滅できないという欠点を持っていたからこそ、こんな不完全な武神具を開発者である絃神冥駕は自分の作品として認めたくなかった。だから、『廃棄兵器』と銘を打った。

 

「そして、オマエ自体はそんな強くない」

 

 三本の指を全て折り拳になったクロウに、『僵屍鬼』特有の虚ろな瞳で冥駕は見据える。

 人間であったことの冥駕は、攻魔師くずれの研究者だ。絃神千羅に蘇らされたのも、その『七式突撃降魔機槍』といった武神具開発におけるずば抜けた才能を惜しんでのことだ。

 冥駕の武術の腕前も、白兵戦に特化した攻魔師の剣巫やその影の六刃と言った本職の攻魔師に比べれば、劣る。護身術の域を出ない。

 彼の脅威はあくまでも『僵屍鬼』の肉体が持つ不死身性と、武神具開発者として自らが手がけた『零式突撃降魔双槍』の能力によるもの。

 そして、魔力と霊力の両方を扱える『混血』で、人間を上回る身体性能と剣巫を超える近接戦闘の武技を持ったクロウ。

 

「……認めましょう。相性が悪いということを。欠陥製品と言えど、あの御方が手がけた最終作(ラストナンバー)を完了させる器であることは変わりない」

 

 出るには時期が早過ぎた。

 せめて『零式突撃降魔双槍』の欠陥を補えるほど、世界を変容させる『聖殲』の力を引き出せるまでは、身を潜めているべきだったか。

 

「ですが、私は、私を裏切ったこの世界を―――私から温もりを奪った人々を許さない。それを果たすまでは死しても止まることはない―――」

 

 冥駕の虚ろな瞳が、怒りに染まる。表層を覆い隠していた仮面の余裕は剥がされ、その彼の世界に対する負の感情が露わとなる。

 それと真っ向から相対する金色の瞳には、憐憫の情が浮かんでおり、

 

「……いや、もう終わってるのだ」

 

「なに?」

 

 動作機能は修復した。すぐに起き上って逃亡用の空間制御の魔術を発動させようとして―――無様に転んだ。

 

「グ、ッ……!?」

 

 動け、ない。死体の肉体の特徴である、死後硬直が始まっているのだ。これは『僵屍鬼』そのものに働きかけなければ……

 

「オレはオマエを動かしてる術に覚えがあるのだ。だから―――止め方もわかった」

 

 そう。

 <黒妖犬>が、『冥狼』の天敵である最大の理由は、身体性能や白兵戦における技量の高さや、人間と魔族を併せ持つ特質ではない。

 彼が唯一、主人の大魔女よりも秀でる魔術―――“死体を操る”死霊術だ。

 

 このような噂が流れたことがなかっただろうか。

 かつて、ロタリンギアの殲滅師が言った、『<黒死皇>は、“完全なる死者蘇生”ができた』と。

 そして、『黒』シリーズの最高傑作にして欠陥製品の<黒妖犬>もまたそれが可能であると期待した。

 

「オマエは、もう動けない。さっきオマエの死体(からだ)を殴った時に、機能停止(コマンド)を打ち込んだ。術が解かれたら、オマエは死体と同じで固まっちまうのだ」

 

 死霊術を極めた技が、人工の吸血鬼『僵屍鬼』の復活。

 肉体の人格さえ蘇らせ、独立した意思を持ち、不滅―――それは、南宮クロウが、かつて兄姉(かぞく)にかけていたものと同じ。

 そして、その兄姉を、南宮クロウは自らの手で眠らせた―――

 

「<冥餓―――「もう遅いぞ」」

 

 冥駕が手放さなかった両刃槍より、仕込まれた魔術を打ち消そうと『神格振動波駆動術式』を発動させる―――より早く、今度こそ<疑似聖拳>の爪刃の手刀が漆黒の武神具を両断。魔力を無効化しようとした今、霊力を込めた一撃は防げない。光の速さの如き雷切の一振りに、霊力無効化は間に合わず、短槍の接合部から真っ二つに断絶させられる。

 さらにその熱した油をぶちまけるような放電音を上げる雷電一閃は、『僵屍鬼』の肉体に縫い込んであった呪符――『嗅覚過適応』で嗅ぎ取っていた空間転移の術式を切り裂いて、最終手段を封じた。

 そうして、くるくると宙に飛んだ『零式突撃降魔双槍』の片割れを掴み取ってから、冥駕が手に持っていた方も強引に取り上げた。

 

「ほい。これで、オマエの得物も魔術も使えない。再起不能なのだ」

 

 奥の手の緊急逃亡手段までも徹底的に無力化して、あとは、もう(ころ)すだけ。その不死身であろうと壊す毒をもって噛みつけば、全て終わる。

 ……しかし、クロウは、それ以上はしなかった。

 まともに覗き込んでしまった青年の仄暗い眼光。瞳の奥底に眠る暗い想念(におい)に臆したわけではなくて。

 主人の眷獣(サーヴァント)として、出来る限り獲物は殺さずに捕まえてくるよう躾けられていたのもそうだが、この青年は、兄姉とは違い『死にたい』と願われなかったから、躊躇った。『僵屍鬼』の兄姉と一緒に暮らしていた少年にとって、この生死の判別は曖昧で、確定できるものではないのだ。肉体が死んだものでも、その魂と心はそこにある。

 

 後は主人の<監獄結界>にまた放り込んでしまえばいいだろう。そう判断した。

 事態は、切迫している。この青年だけに構っていられない。この今もMARの特別病棟を狙い、強大な力を持った襲撃者が暴れている。ここで主人に直接引き渡さず放置しておくような真似はしたくはないが、そんな余裕があるような状況ではない。すでに衝突していた<蛇遣い>の腹心二人組は、襲撃者の圧倒的な力を前に退けられ、今ぶつかっているのは<第四真祖>――暁古城とその監視役の剣巫姫柊雪菜。すぐそちらの救援に向かうべくクロウは踵を返す。

 

「は……ははは……ははははははははははははは!

 『僵屍鬼』の機能を止め、私から<冥餓狼>を奪う……くくっ……主人と合わせて二度の屈辱……けして忘れません」

 

 

 

 南宮クロウは知らなかった。

 <監獄結界>から脱走した絃神冥駕がどうやって今日まで<黒妖犬>の『鼻』の追跡を免れていたのか。何故、7人目の脱獄犯を捜索捕縛せよと命が下らなかったのか。そうなるようにどこが青年を匿っていたのか。

 特区警備隊(アイランドガード)や攻魔局が、迂闊に手が出せない、人工島管理公社のの出資者でもある世界的大企業が後ろ盾にいることを。

 

 

回想 人工島西地区 高級マンション

 

 

 豪華な内装の部屋。インテリアも美しいアンティーク家具で統一されており、特注と思しく絢爛なカーテンを開いて窓の外を見やれば、『魔族特区』の美しい夜景。

 けして、ここは死した魂が導かれる天国などではないが、天国のような場所だ。

 目を覚ますと高級マンション最上階の一室に、ヴェルディアナ=カルアナはいた。

 

「ここは……?」

 

 恐る恐るあたりを警戒しつつ、置かれた状況を確認する。

 奴隷のように枷が嵌められているわけでもなく、監禁されているわけでもないようだ。

 着ていた服は脱がされて、代わりに体中に包帯がまかれている。警備ロボットより対魔族の特殊な弾丸を浴びたせいか、傷の治りこそ遅いけれど、その処置は的確なものだ。

 そう、ザハリアスから『九番目』の<焔光の夜伯>をけしかけられたはずなのに、信じられないほどの軽傷……

 

「気が付いたか?」

 

 弱っているとはいえ吸血鬼の五感に察知させずその背後を取る。その声は舌足らずではあるものの、奇妙な威圧感があった。怪我人の容態を確認するというよりも、連れてこられた罪人を問責する女帝の如き、圧倒的な威厳がヴェルディアナの背中を圧している。

 振り向けば、そこには幼い少女。長い黒髪と白い肌、そして西洋人形の如き豪奢のドレスを着飾ったのは、

 

「く……<空隙の魔女>!?」

 

 幼女の正体に勘付いたヴェルディアナは激しい恐怖に突き動かされ、横になってたベットから飛び降りた。

 <空隙の魔女>南宮那月。日本政府に雇われる国家攻魔官であり、そして、14年前に欧州の魔族を大量虐殺した恐怖の代名詞。ここは天国ではなく、無慈悲な獄卒がいる地獄だ。

 逃げなければ、終わってしまう。

 とにかくこの虐殺者から逃げなければという闇雲な思いに囚われたヴェルディアナだが、虚空より伸びていた銀鎖が首に巻き付いており、それに引っ張られてベットへと倒れこむ。

 

「やれやれ、起きたばかりで元気のいいことだ。その様子なら傷の具合も大丈夫なようだな」

 

 逃亡を阻止されたが、魔女の声音には溜息が混じっており、多少呆れている感じはあるものの、攻撃的な響きはなかった。

 彼女の目的が、読めない。

 そもそもなんで自分がここにいるのか。

 

「ええ、もうどうだっていいわ! 煮るなり焼くなり好きにしなさいよ、魔族殺しの<空隙の魔女>!」

 

 わからないことが多すぎて、もう一周回って逆に冷静になった。やけっぱちになったともいえる。

 そんなヴェルディアナの様子を観察していた魔女は、その下着と包帯だけしか身に着けていない身体を眺めてから、持っていた扇子で面倒くさそうにクローゼットを指す。メイド服がずらりと並んだ。

 

「その偉そうな物言いは不愉快だが、私は寛大だ。そこのクローゼットに入っているのから替えの服を選べ」

 

「え? 私の服は?」

 

「ああ、あの趣味の悪い服なら捨てた」

 

「捨てた!?」

 

「銃で撃たれて穴だらけだった上に血まみれだったからな。ボロ雑巾にも使えん。だから、腐る前に捨てておいた」

 

「ど……どうしてくれるのよ!? あれは私が有り金はたいて手に入れた一張羅だったのよ!?」

 

 貧困にあえぐ没落貴族の涙の訴えに、魔女は鬱陶し気に見返す。

 

「クレームの多い蝙蝠だな。わかった。なら、選んだ奴はくれてやろう。元からやるつもりだったがな」

 

「え、本当に? ……って、メイド服しかないじゃないの!?」

 

「当然だ。そこにストックしてあるのは使用人用の制服だからな。そもそもお前の体格では、私の服は着られないだろうが。なんなら馬鹿犬用に用意していた執事服があるがそっちがいいか?」

 

 平坦な口調で魔女から選択を迫られては、沈黙して頷くしかない。泣く泣く服を選ぶヴェルディアナ。スカートの長さや袖の形など種類こそ豊富であるも、残念なことにすべてメイド服である。

 

「……うう、カルアナの娘である私がなぜ使用人の恰好を……」

 

「ところで、そろそろ自己紹介をしてくれないか」

 

「は?」

 

 着替え終えたところを見計らっての問いかけに、ヴェルディアナは、リボンを結びかけた姿勢のまま唖然と固まってしまう。

 

「私のこと知っててここに連れてきたんじゃないの……?」

 

「知らんよ。

 まあ、貴様がMAR襲撃の容疑者で、ついでに市街地での眷獣召喚に魔族登録証の不携帯してることは聞かされたがな」

 

「そ、それは……」

 

 と、そこで、ふと気づく。

 

「あ……ひとり、少年。厚着してたからわからなかったけど、たぶん、少年も巻き込まれて……その、知らないかしら?」

 

 ヴェルディアナを捕まえようとした少年。ザハリアスから庇ってくれて、そして……―――『九番目』の登場から気絶してしまい、記憶があやふやで、けれど、無事では済まなかったはず。

 ヴェルディアナが控えめがちに訊くと、魔女は長い睫毛に縁取られた瞼を伏せて、

 

「馬鹿犬なら、自室で眠らせてある。“お前の趣味の悪い一張羅よりもズタボロだった”が、まあ、病院に送らずとも勝手に治るだろう。あいつは、吸血鬼(こうもり)ではないが、体力だけは馬鹿みたいに有り余っているからな」

 

 ぞくり、と。

 天鵞絨(ビロード)張りのチェストに腰かけた魔女が、ただ細く目を開いただけだが、それだけで部屋の温度が下がったと錯覚する。

 

「このまま特区警備隊に突き出してしまえば面倒がなさそうだが、“私の眷獣(サーヴァント)”が拾ってきたお前の事情に興味がある。話せ」

 

 

 

 口を閉ざすことなど思いつかない。歯向かえば、地獄を見せられる予感が声帯を震わせてくる。

 ヴェルディアナは、<空隙の魔女>に死の商人バルダール=ザハリアス、『焔光の宴』について話す。

 そして、知る。

 自分をあの死地から救い出した少年――南宮クロウは、<空隙の魔女>が飼っていると噂される<黒妖犬(ヘルハウンド)>……

 ―――姉リアナ=カルアナを殺した仇である『黒死皇派』、その長であった<黒死皇>の血筋を引いている『混血』であることを。

 

 

 

つづく

 

 

 

とある施設

 

 

「―――許さない! ……すんっ……ええ、許さないわ南宮クロウ! ……すんすんっ……私を二度も放置したことを……すんっ……絶対に悔やませてあげるんだからっ!!」

 

「……ねぇ、キリハ、何をしてるの?」

 

「あら、結瞳(ユメ)……ではなくて、莉琉(リル)かしら」

 

「キリハが今持ってるのって、いうか、息継ぎしながら顔を埋めてるのって……タオルじゃなくて、体操服だよね? 男子の」

 

「ああ、これのこと。学校に置き忘れていたのを取ってきたのよ」

 

「盗んできたの……?」

 

「莉琉。これは調達したっていうの。警戒心を解くために、標的(ターゲット)の体臭のついたものを現地で見つけ、その匂いをつけることが野生動物の狩猟(ハント)の基本。

 今回の相手は鼻が特にいいから、呪的迷彩(ステルス)だけではすぐにバレてしまうのよ。だから念入りに……」

 

「そうなんだ。てっきり私の魔力に当てられちゃったのかと思った」

 

「安心なさい私は正気よ。それに、フェロモンに慣れるためでもあるの……すんすんっ……嗅いでないと落ち着かなくなるわね。中毒性でもあるのかしら」

 

「……獣王の監視役って、ストーカーじゃないんだよね」

 

「違うわよ。あのねぇ、これでも獅子王機関の剣巫よりはずっとマシ……すんっ……向こうは、四六時中張り付いているのよ……すー……しかも、あの小娘、嫉妬深くて思い詰めるタイプ……すすーっ……思い込みの激しいみたいだから、いつか<第四真祖>を背中から刺すわよアレ」

 

「うわぁ……なんだか同情しちゃうな……」

 

 

 

つづく



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焔侊の宴Ⅱ

回想 りあな号

 

 

 純血の吸血鬼は言う。

 

 あなたには“彼女”を護る義務がある。

 あなたの妹凪沙の衰弱は医学ではけして治せない。凪沙を救うことができるのは“彼女”だけ。

 

 考古学者の親父は言う。

 

 お前は“彼女”の『血の従者』だ。

 凪沙の衰弱の原因は霊力の暴走。3年前の事件で死亡した兄の生き返りを“彼女”に願った代償をその身体で支払っており、また“彼女”は記憶がほとんどない不完全な状態に陥っている。

 

 死の商人は言う。

 

 600億で、“彼女”を私に譲りなさい。

 世界最強の吸血鬼、その十二の素体のひとつが“彼女”。その力は戦争を制するもので、“彼女”たちを巡ってこれより絃神島で『焔侊の宴』が始まる。

 

 

 

 親父が用意した白いプレジャーボート。全長14、5mほどの小型クルーザーの名は『りあな号』。過酷な航海を潜り抜けてきたからか、あちこち外装は古びているものの、船内は意外に整理整頓が行き届いている。停泊してる港から電気も来ていて、冷蔵庫や電子レンジ、キッチン等、生活に必要な設備が一通りそろっていて、風呂やトイレの心配もない、寝泊りするには十分な生活環境だろう。下手に安いホテルを借りるよりずっと快適だ。

 そして、古城の手を取りながら、その備え付けられたベッドに眠る少女。

 

『わ、我が魂の安寧のため、汝の掌に契約の軛を』

 

 金髪の髪を持つ妖精のような少女。ずっと独りで氷の棺で眠り続け、そして、また眠ってしまえばまた孤独になって、二度と目覚めることがないのでないかと不安を抱える『眠り姫』

 その少女を見ていると古城は右脇腹の肋骨が鈍く疼くのを感じる。

 

(アヴローラ……)

 

 “彼女”は、『十二番目』の<焔光の夜伯>、その名は、フロレスタン王の娘オーロラ(アヴローラ=フロレスティーナ)

 

 これから、古城と一蓮托生で『焔侊の宴』へ参加することになった、『王』。

 

 古城は、その一切の血族同胞を持たない世界最強の吸血鬼の『血の従者』

 つまりは吸血鬼によって造り出される疑似吸血鬼。主人である吸血鬼の肉体の一部を受け入れることで、人間は吸血鬼の従者の変わる。忠実な部下として、あるいは伴侶として、主人と共に生きるために永劫の命を与えられたもの。限りなく魔族に近い“人間”。

 アヴローラの封印が解かれた今、魔力の供給ラインが再開され、吸血鬼の特性を発揮できるようになっている。

 ただし、人間の寿命を超え何百年も従者として生きれば、後戻りはできなくなるが、古城はなり立てであるために、主人である吸血鬼が死ねば、『血の従者』の資格を失い、元の人間に戻ることができる。

 

 ……だけど、それはいい。

 古城にとって、重要なのは古城自身のことではない。

 

 凪沙……

 父方の祖母から受け継いだ霊媒の素養と、母親から受け継いだ過去透視能力(サイコメトリー)を併せ持つ、極めて稀少な混成能力者(ハイブリット)という桁外れに優れた巫女である暁凪沙が、暁古城を救うために、遺跡に封印されていた<第四真祖>を憑依させた。

 しかし妹の肉体そのものは、脆弱ない人間の少女のものであり、吸血鬼の眷獣――それも<第四真祖>の破格の力を憑依するのは相当に無理なことだ。

 だから、凪沙は今も入院生活を送っている。

 

 そして、ここにいる『十二番目』も、暁凪沙に力を憑依されているため、記憶喪失となっていて、不完全。持っているのは、人格の一部。親父曰くに余り物、もしくは搾り滓。暁凪沙が<第四真祖>の全てを受け入れることができず、体に意識の一部が残ってしまって、そうなっているのだと。

 

 そう……つまりは、凪沙に憑いている<第四真祖>の意識を本来の体に戻せば――アヴローラが吸血鬼としての能力や記憶を取り戻せば、凪沙は助かるのだ。

 少なくとも、能力の暴走が収まれば、これ以上の体力の消耗は控えられ、後はリハビリをこなせば凪沙の容体は今よりも安定するだろう。

 

 ……今、この展開になるよう親父は仕組んでいた。

 凪沙を救うために家族と離れて世界を駆けずり回って、アヴローラの封印の解き方を見つけ出し、

 また母親も計画に絡んでいるだろう、何故ならば、彼女の助手である遠山が、“研究所が襲撃される”という都合のいいタイミングで通行証を与えてくれたおかげで、『血の従者』である古城はMAR内に研究対象とされていたアヴローラに遭うことができたのだから……

 

 そして、MAR研究所から、『十二番目』を連れ出たところで、親父の手引きでこの拠点まで来て……死の商人ザハリアスに連れられた『十二番目』と同じ顔をした『九番目』と会った。

 <第四真祖>の兵器としての強大な力を見せつけられ、ここで『十二番目』を売り渡さなければ、『焔侊の宴』という災厄同士の戦争に巻き込まれることになるだろうと脅される。

 『十二番目』は古城には御し切れず、疫病神と変わらない。ならば、一生遊んで暮らせるほどの大金と交換しようではないかと。

 

 それを古城は断る。

 短い間だが接してわかった。“彼女”は疫病神でもないし、兵器でもない。

 『十二番目(アヴローラ)』は、いや彼女だけでなく、『九番目』と呼ばれる少女もそんな扱いをしていい者ではないのだ。きっと甘い氷菓(アイス)に舌鼓を打ち、大いに喜ぶ、女の子と変わらない。

 たとえ、真祖に至ったのだとしても……

 

(そういや、ヴェルさんと別れたっきりだけど、大丈夫なのか……?)

 

 囮役を買って出てくれた純血の吸血鬼のおかげで研究所からの逃避行が無事に済んだのだが、そういえば、合流場所とか決めてなかったことをいまさら思う古城。

 共犯者と思われる親父は、ザハリアスが身内(なぎさ)に手を伸ばさないかと警戒してその安全確保のために出ていったためここにはいない。アヴローラも古城におまかせだ。連絡の取りようがない。

 

「あ、暁古城……我の眠りに淫らな視線を向けるなど、汝は夢魔か……!」

 

 と、手を握ったままのポーズで考え事に固まっていた古城に、『眠り姫』が顔を赤らかに弱々しい抗議をする。言葉遣いは難解というか高圧的というか、怯えたような頼りない口調のせいで、<第四真祖>なのにあまり偉そうではない。これは幼い見た目というより、内面が問題だろう。古城の担任も彼女と同じくらいの低身長(ちび)であるも、人を平伏せさせるカリスマがあった。

 

「はあ? 何言ってんだアヴローラ、別にお前の寝顔とか見てないからな」

 

「う……うう~……忌まわしき不浄の瞳が魂の安寧を妨げる! やはり、淫らなる血脈を継いでるな……!」

 

 どうやら、寝るところを見られてると緊張すると。そして、それがイヤらしい。

 呪われよ、と吸血鬼の真祖に睨まれるのは、中々の破壊力である。それにこの見た目幼い少女の寝顔に欲情されてると思われるのは精神的にショックが地味に大きい。

 勘弁してくれ、と古城は唇を歪めて弁明する。

 

「ちょっと考えごとしてたんだよ。ほら、ヴェルさんって、悪の女幹部っぽい服着てたけど、あんまり怖くなかったろ。なんとなく育ちは良いってのはわかるけど、それがむしろ甘っちょろいというか、隙だらけで、特区警備隊にあっさり捕まってそう」

 

「―――抜けてて悪かったわね、このド平民っ!」

 

 いきなり背後から痛烈なキックを喰らって、もんどりうって壁に激突する古城。

 視界の片隅に映るのは、ブルネットの髪をなびかせた、たった今話をしていた件のMARで出会った純血の吸血鬼――『第四次ゴゾ遺跡調査団』に属し、『黒死皇派』から身をもって、この少女と、古城と凪沙を護って死んでしまった女吸血鬼の妹。

 ヴェルディアナ=カルアナが、仁王立ちして古城を見下ろす。どういうわけかメイド服を着て。

 

「ぐ……痛ててて……ヴェルさん? あんた、なんでこんなとこに……!?」

 

「牙城から連絡があったの。アヴローラをここで保護してるって。そもそもこの船は私が牙城から借りてたのよ。それなのに私がいないのをいい事にアヴローラになにを迫って!」

 

 突然の女吸血鬼の登場に困惑してるアヴローラを抱き寄せて、古城より引き離す。

 ああ、そう言うことか、と古城は納得。この船内が片付いていたのも、女物の香水がしたのも、やはり女がらみであった、と。

 

「てか、なんでメイド服なんだ?」

 

「うるさい!」

 

 メイド姿になったのはつらい事情があるのか、わなわなと肩を震わせ、憤りを露わにするヴェルディアナ。

 

「よりにもよってこんなド平民が『十二番目』の『血の従者』だなんて。こんなことではカルアナ家再興の夢が……いえ、諦めてはダメよ、ヴェルディアナ! 姉様の為にも私がしっかりしないと! アヴローラは私が護るのよ!」

 

 自分の世界に没頭しているヴェルディアナ。そんなぶつぶつと何かを呟く彼女を不安げに眺めてると、その背後より新たな闖入者、それも見知った人物が登場してきた。

 

「ん。やっぱり、暁先輩もいるな」

 

「その声は……クロウか?」

 

 耳付き帽子首巻手袋コートの完全防備の厚着を、どこか騎士風に着こなす後輩が、ひょっこりと船内に入る。見知らぬ人物にアヴローラがびくり、と震え、またヴェルディアナもどういう表情を向ければいいのかわからないような複雑な表情を作って、胸に抱いたアヴローラと距離を取った。

 

「え、っと……お前、何やったんだ?」

 

「それはどっちかというとオレが暁先輩に言いたい台詞だと思うぞ」

 

 後輩も古城がここにいるのが意外そうに驚いてみせると、ヴェルディアナとアヴローラの方を見て、

 

「カルアナを捕まえたのだ。カルアナ、研究所で眷獣だして暴れてたんだぞ。それに魔族登録証もつけてないからな」

 

「……やっぱり、捕まったのかヴェルさん」

 

「やっぱりって何よ! 私だって、魔力が切れかけてなかったら、<黒妖犬>にやられて、<空隙の魔女>のところまで連れて来られてなかったわよ!」

 

 というが、女吸血鬼の戦闘能力はあまり高そうには見えない。古城の担任であり国家攻魔官の仕事を手伝う後輩は、見た目は小さいが相当な力を秘めている。これまで数度、その街中で魔族の犯罪者と戦っているところを偶然に目撃したことがあったが、吸血鬼の眷獣をワンパンチでブッ飛ばしていたこともあった。真っ当にぶつかったら、秒で叩きのめされるのが目に見えるように予想がついた。

 とはいえ、

 

「クロウに捕まったのはラッキーだったな。警備隊だったら普通に牢屋入りだったろうし。まあ、那月ちゃんに借りを作っちまったぽいけど」

 

 古城の担任であり、後輩の主人である南宮那月は警備隊方面に顔が効く。彩海学園でも校長室よりも上の階に自室を構えてるなど、影の権力者のようなポジションにいるカリスマ教師なのだ。

 

「……そうね、助かったわよ」

 

 言葉少なに肯定するヴェルディアナに、古城は訝しむように眉を顰める。彼女の性格からして、ここは噛みついてくるとは思ったのだが。

 

「それで、カルアナの事情はわかったから、ご主人が見逃すことにしたのだ。でも、また面倒事起こすと庇えなくなるからな。オレが保護観察についたんだぞ」

 

「そうか……」

 

 これは、ヴェルディアナにつかせたと見せて派遣した、那月からの遠回しな古城への援助、援軍か?

 南宮クロウは、この『魔族特区』でも稀少ない<過適応者(ハイパーアダプター)>であり、その『芳香過適応(リーディング)』は探知(レーダー)に優れた能力だ。

 もし近くにザハリアスが兵を忍ばせていようとも、後輩の『鼻』はすぐに嗅ぎ取る。加えて、腕っぷしも強い。この人材は、能力が知れたら争奪戦を起こしてもおかしくないくらいに優秀だ。

 

 古城は真剣に後輩を引き込めないかと考える。

 元伯爵令嬢だか何だか知らないが、ヴェルディアナ=カルアナという吸血鬼は高飛車だし、その割に貧乏そうだし、精神面も未熟で、戦闘力も高くなさそうだ。しかし彼女は本気でアヴローラを大切に思っているし、自分の身を危険にさらしてでも、アヴローラを安全に逃がそうとしてくれた。

 

 しかし、安心するには、戦闘力を有した確かな戦力が欲しい。

 後輩がアヴローラの味方につけば、うまく危険を回避しながら、この『焔侊の宴』を切り抜けることができるかもしれない。『十二番目』を警戒して、しばらくザハリアスは手を出してこないと親父は予想していたが、それでも不測の事態に備えて味方は作っておくべきだ。アヴローラも真祖の素体ではあるものの、記憶がなくて不完全で『十二番目』の力を発揮できるか不安だ。

 

「し、紹介せよ、暁古城。その小童は汝の何か?」

 

 アヴローラを背に隠すヴェルディアナ。そのヴェルディアナの背中に抱きついたまま、アヴローラが探るように後輩を見る。

 

「む。お前の方が小っちゃいぞ。それに……何かいろいろ足りてない気がするのだ」

 

「ぶ、無礼な。我の体躯は凍てつく呪にて時の理を止めてる故に……」

 

「やっぱり、『九番目(アイツ)』と比べると怖い感じが全然しないなー」

 

 後輩に率直な第一印象を述べられ、アヴローラは泣きそうな顔で女吸血鬼の陰に隠れる。恐る恐る伺い見て、そこで目力を入れて、我が威厳に畏怖せよ、と睨むも、その大きな金瞳にまっすぐ見つめ返されれば、人見知りな彼女はまた隠れてしまう。

 やれやれ、と古城が仲介に入ることにする。

 

「アヴローラ、こいつは南宮クロウ。俺の後輩だ」

 

「コウハイ……古城の下僕であるか?」

 

「違う。同じ学校に通ってる、学年(とし)が下の知り合いだ」

 

「な、ならば、我のコウハイか?」

 

「あー……そうなる、のか、一応」

 

 アヴローラの年齢はわからないが、見た目通りというわけではないだろう。吸血鬼で真祖であるからには、古城よりも相当年上である。

 

「それでクロウ。こいつは、アヴローラ=フロレスティーナ……まあ、吸血鬼の少女だ」

 

「う。よろしくだぞ」

 

「……で、那月ちゃんから事情(はなし)は聞いてるんだよな? 『十二番目』の<焔光の夜伯>のこととか」

 

「う。ご主人から大体のことを聞かされたのだ。『焔侊の宴』というので、11人倒して最後まで勝ち進んだら、<第四真祖>とか言うすっごいやつになるんだろ?」

 

「ああ、大体そんな感じだな。それで、お願いがあるんだが、クロウもアヴローラのことを護ってやってくれないか? お前がついてると心強いからさ」

 

 隠れているアヴローラを引き寄せて、古城は真剣な表情で頼む。

 孤独に怯えて、眠るのも恐れる少女。彼女をひとりにしてはならない。

 

「ちょっと古城……!」

 

 と引き込むことに反感を示したのは、アヴローラではなく、ヴェルディアナ。

 おそらく、保護観察が味方に付くのはあまり快いものでもないだろう。ただ、その揺れてる瞳を見れば、それが確かな戦力となるのは理解しているようだ。『焔侊の宴』――ザハリアスに勝つには、出来る限り多くの力と人の協力が必要である。だから、明確な反対の言葉は口にしていない。

 ―――それでも、ヴェルディアナには、この少年を味方に入れるのには抵抗があることがその態度にありありと出てしまう。

 

「ヴェルさん、魔族と人間の『混血(ミックス)』ってことで、誤解されちまうけど、クロウは良いヤツだ」

 

 古城は、落ち着いた声音で説く。しこりがあるのはすぐにわかった。その反応は古城にも覚えがあるもの。初めて、妹がこの後輩を触れた時、悲鳴を上げ、怖がった。古城もまたそれを見て、後輩に怒りをぶつけた。

 でも、それは勘違いだったのだ。学年は違えど、もう3年近く同じ学び舎で過ごせばわかる。ただ、妹は重度の魔族恐怖症であるため、『混血』の後輩を今も近づくことはできてはいない。

 ……もしも、最初の出会いをやり直すことができれば、あの時自分が落ち着いた対応を見せていれば、こうはならなかったのかもしれないと古城は思うのだ。

 だから、ヴェルディアナが一体何を怖がっているのかは知らないが、後輩が怖がるような相手でないことを古城は知っている。

 

「……それは、わかってるわよ」

 

 そのしこりはまだ完全に解きほぐせはできないが、ヴェルディアナに古城の言いたいことは伝わったようだ。

 そして、

 

「……わ、我の手と契約の軛を」

 

「? 握手か?」

 

 アヴローラが右手を差し出す。それが彼女の意思であるのならば、ヴェルディアナは消極的にであっても賛成する。そして、後輩はその手を取る前に、少し考える間を置いて、ひとつ訊いた。

 

「なあ、アヴローラは、戦いたいのか?」

 

 そもそも兵器として見れない古城に、殺神兵器に戦いは運命であり避けられるものではないと当然のことと受け入れているヴェルディアナは、見落としていた、最も重要と言えるもの。

 そう、後輩の問いかけが求めるのは、彼女自身の意思表明だ。

 

「『十二番目』ってことは、オマエがたぶん末っ子なんだろ。オレも殺して壊すために創られた兵器で、兄姉(かぞく)の中じゃ一番下だったけど……オレは、兄姉(みんな)と本気でやり合うのは、やっぱりイヤだ」

 

「我は……………まだ、わからぬ。長き封印の眠りより目覚めし直後故、我が記憶は未だ混沌の中に、だが、我が下僕は護りたい」

 

 たどたどしい口調で懸命に説明したアヴローラの希望する方針は、専守防衛、と言うことなのだろう。それについて古城は文句ない。賛成だ。そして、ヴェルディアナは一瞬眉間に皺を寄せるも、一呼吸を置いて揉み解し、異議ははさまなかった。

 

「ん、それならオレも手伝いをするぞ」

 

「! か、感謝する!」

 

 そして、後輩はアヴローラの手を握った。取ったその手をアヴローラは左手も合わせ、両手で包む。

 

「よかったな、お姫様」

 

「うむ」

 

 古城もアヴローラの頭を撫でながら、優しく笑ってみせる。金髪の吸血鬼の少女は、はにかむように下を向き、消え入りそうな声で頷くと、小さく幸せそうに微笑んでくれた。

 

 

回想 道中

 

 

 アヴローラは、ヴェルディアナに任せ、古城は自宅へと帰宅することにした。

 彼女らは人間以上の力を持つ吸血鬼であって、古城もほとんど初対面の異性と一緒に一夜を明かすことには抵抗がある。それに、今はまだ必要以上に警戒するべき時期でないと考えたのだ。

 

「本当にありがとうな、クロウ」

 

「ん」

 

 そして、後輩がその帰り道に同行している。

 ザハリアスが去ったとはいえ、古城がひとりのところを狙って闇討ちを仕掛けて来ないとは限らない。親父は、妹の安全を優先して、古城の方は放任してるため、古城は襲われれば自力で対処しなければならなかった。

 

「ザハリアスの“匂い”はこの近くにはしてないけど、夜は魔族たちが元気になるからな。夜中にほっつき歩いてるとケンカを売ってくることもあるから、危ないのだ」

 

 先輩としてはやや情けないが、この担任の使い魔であり、警備隊の仕事の手伝いをしている後輩が、身辺警護についているのならば安心して夜道を歩ける。感謝してもし切れない。アヴローラのことも警備の仕事が本業であるためパートタイムではあるがそのボディガードを請け負ってくれたのもそうだが、彼女と似た境遇にある後輩が側にいてくれるのは、いい刺激になると思うのだ。

 

「それで、アヴローラのヤツ、どうやら記憶を失ってるみたいなんだ」

 

「む。そうなのか。それは大変だな……オレに何かできることはないか?」

 

「なら、アイツに話しかけてやってくれないか。話題なんて何でもいいからさ、それが回復させてやるための刺激になると思うんだ」

 

 今日一日でわかったのは、その妖精そのものな見た目のわりに、アヴローラは中身はポンコツ以外の何者でもない。記憶喪失という条件を差し引いてでもだ。

 だが、それは暁凪沙が、<第四真祖>の意識を憑かせているせいで、その一部しか残っていないからだ。だから、本来持つはずであった吸血鬼としての能力やら記憶やらをアヴローラに戻さなくてはならない。

 凪沙が体力を消耗するのは憑依させてしまっている『十二番目』の魂が負担となっているからであって、またザハリアスに狙われるアヴローラも『十二番目』の知識や能力を取り戻すことができれば彼女の安全を確保することができる。

 そのもっとも確実な方法は、アヴローラ本人が、失っている『十二番目』を自身の中に受け入れること。そして、その下地を作るには、色んな人と接したり、会話させたりしてやるのがいい……

 道中、古城自身もその考えをまとめるためにも、考古学者の親父、暁牙城が話してくれた自論をかいつまんで後輩にも話す。

 

「ふむぅ。暁先輩が、アヴローラを護りたいのは、暁の為なのか?」

 

「まあ、それが全部じゃないが、重要ではあるな。ああ、もちろん、アヴローラを護ってやりたいって思ってるのは本当だ」

 

「う、それはわかってるのだ」

 

 かくんと小首を傾げる。

 

「んー、でもなんかそれ違うと思うのだ」

 

「何がだ?」

 

 目の前の信号が赤くなった。人の流れが寸断され、たちまち横断歩道の前には登録証をつけた夜の住人(まぞく)たちの人だかりができる。その中で話すことを憚ってだろう、後輩は答えない。横顔を見たが、むーむー、と唸っているその様子は、まだ彼の中でも確かなものとなっていないようだった。正直言って、もう今日これ以上、頭の中に情報量を詰め込むのはパンクしてしまう。普段は怠惰にやり過ごす自分にしては脳みそを働かせ過ぎた……しかしこのまま半端に気になってると、寝付けなくなるだろう。

 信号が変わり、人の波が動き始めるところで、古城が再度促すと、

 

「暁が、アヴローラの力とか記憶とか取っちまっている、って暁先輩の父さんが言ってたんだな」

 

「ああ」

 

「んー……と、だな」

 

 首を戻すと、後輩の視線はこちらを外れて宙をさまよった。珍しくも迷ってる。ややあって、慎重に言葉を継ぐ。

 

「あいつの“匂い”嗅いでみた時、アヴローラは『空っぽな棺』みたいな感じがした。中身が足りてないけど、“『棺』自体はほとんど欠けてない”。オレ、アヴローラは記憶のほとんどを失くしてるというより、忘れてるだけだと思うのだ。だから、アヴローラの中にアヴローラの記憶はあるぞ。

 ―――つまりだな、アヴローラは力とか記憶とかを暁に取られちまってない、のだ」

 

「……なんだって?」

 

 前提を覆す発言に驚き見てくる古城に、後輩は自身の鼻に指をあてる。人よりも鋭い感性を持ち、同じ造られた人造魔族である後輩。その純粋な様は、やはりアヴローラと似ており、彼ならば気づける点があるのだろう。

 

「暁先輩、オレの『鼻』が『嗅覚過適応(リーディング)』っていう超能力を持ってて、『過去透視(サイコメトリー)』ほど精度が高くないけど、それの感情や記憶と言った情報記録(におい)を嗅げるってことは知ってるだろ?」

 

「ああ、知ってる。クロウがその力で那月ちゃんの仕事を手伝ってることは知ってる。

 けどな、アヴローラは凪沙に『十二番目』のこと押しつけちまってるのをかなり責任感じていたんだぞ」

 

 あの青い瞳から透明な滴を迸らせて、子供のように泣きじゃくった少女の様。あれは嘘ではない、そんな不純なもので結晶化された涙ではなかった。

 無理やりに遺跡の封印を解かされ、しかも絃神島で研究対象とされて立派な被害者である彼女に負うべき責はない筈なのに、それでも泣いた。

 

「んー、確かにアヴローラはウソを吐いてない。でも、オレの『鼻』は、“それがウソだって自覚がなかったら”、気づけないのだ。

 アヴローラは、暁先輩の父さんの言ったこと、まんま真に受けちまったんだと思うぞ」

 

「―――」

 

 そういえば。

 記憶が回復していないというアヴローラに、その原因を憶測で語ったのは、親父だ。それを信じ、アヴローラは凪沙のことを謝罪した。

 だから、その情報は親父からもたらされたもの。ならば、親父が嘘を言っていたのならば?

 

 親父は、娘のことに関しては真剣だ。何が何でも救ってやりたいその意思、それは古城も認めている。

 しかしながら、親父の性格はあまり信頼できたものではない。

 

「……今度、あのバカ親父と会ったら、ウソ発見器(クロウ)にも同席してもらった方がいいかもしれねぇ」

 

 もし隠してたり、騙してたりしてるのがあったら、それを無理やりにでも吐かせてやる。

 

「ん、でも、暁のことは真剣に考えてるんだろ? なら、何か意味があるんじゃないのか? さっきは、違うって言ったけど、オレには解決の仕方まではわからないのだ」

 

 余計な口出ししてややこしくしちまってごめん、とそこで謝る後輩の頭を古城は、気にするな、といって上げさせる。

 

「意見を聞かせろっつったのは俺の方だ。それに、クロウのことは信用してるし、信頼してる……まあ、そんなの“あんなことしちまった”俺が言えるセリフじゃないけどな」

 

 この後輩を怪物と怒鳴り散らしてしまった。そのせいで、後輩は一年近くも学校で忌避されるものとなった。それは、古城の罪だ。そのことを棚に上げるのは、恥知らずと蔑まれても仕方のない事だろうが、

 頭を上げさせた後輩の前に、古城は頭を下げた。

 

「もう一度、頼むよ。俺のことは護らなくていいから、アヴローラのことは護ってやってくれないか。凪沙も、助けられるかもしれないんだ」

 

「……別に、暁先輩を恨んじゃいない。あれは間が悪かったのだ。

 むしろ―――そうだな。家族が大事、ってことが分かったのが、オレには嬉しかった」

 

 今度は後輩が古城の頭を上げさせて、そして、眉をハの字にしてから、率直に言う。

 

「でも、オレは、暁先輩が期待するくらいの働きがやれるのか、わからない」

 

「いや、お前は俺の期待以上のことができる奴だぞ……なあ、この前、凪沙を助けてくれただろ」

 

「ぬぬ、」

 

「この島で、厚着してる男子生徒なんて、お前しかいねーよ」

 

 先日、凪沙が急に体調を崩して、病院に運び込まれた。

 路地裏で倒れていた凪沙を担ぎ、病院まで届けてくれた人物は、届けてすぐに病院から去ってしまったそうだが、その後すぐ駆けつけた古城が病院の看護師(スタッフ)から恩人の容姿を聞けば、耳付き帽子首巻手袋コートと言う随分な厚着をしていたことを教えてもらった。それに該当する人物は、古城が知る限り、ひとりしかいない。

 

「ごめん。近づくなって、約束破っちまったのだ」

 

「ばーか、んなの気にしてんじゃねェよ。俺は感謝してるんだ。お前がいなかったら、今頃凪沙はもっと大変な目に遭ってたかもしれねぇ……

 だから、悪いがお前への期待を撤回するつもりはないからな」

 

 これまであまりこういう台詞は口にしたことがなかったので照れくさいが、指で鼻を磨りながら、古城は後輩に言っておく。

 そして、ちょうど、古城が住んでるマンションが見えたところで、

 

「なあ、少し部屋に寄ってかねーか? まだ夕飯食ってねーんだろ?」

 

「お……―――いや、止めておくのだ」

 

 古城の誘いを、一瞬乗りかけたが後輩は断る。その反応に訝しんで、すぐ古城は気づいた。

 玄関口に、妹――凪沙が立っていた。

 

「―――あ、古城く」

 

 きっと帰りの遅い兄を心配して、待っていてくれたのだろう。実際、彼女は古城にすぐに気づき、手を振ったかと思うと―――その隣に、後輩がいることに気づき、固まった。

 

 同じクラスメイトではないとはいえ、同学年で、顔は知っている。兄やその級友から話を聞かされ、妹と後輩の共通する友人が間を取り持とうとしている。

 

 けど、ダメなのだ。

 

「……っ」

 

 こちらに駆け寄ってきそうだった凪沙は、踵を返し、マンションの中へ駆けていった。避難するように。一言挨拶をするどころか、人懐っこい妹がその姿を認識しただけで、背を向ける。去っていく。走っていく。

 何も罵詈雑言は口にしていないし、悲鳴絶叫で喚くこともない。ただ、その行動で。

 それだけで、世界が凍りついたようだ。

 たった今、後輩に掛けた言葉の熱が、止まる。

 急激な温度変化に耐えられず亀裂が生じてしまうよう。嘘など欠片も吐いたつもりのない本心からの言葉であったのに、古城は今それがひどく痛々しいものと思えてくる。

 

「じゃあな、暁先輩……」

 

 そこで引き止める言葉など、古城は口が裂けても吐けやしなかった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 夜の暗闇を裂く、青白い雷光。

 

 暁古城を無事に送り届けて、自宅へと帰還しようとした南宮クロウの前に“彼女たち”が立ちはだかった。

 

「お前らは……!」

 

 クロウが身構えると同時、眩い閃光が視界を染めた。回避できず、クロウの知覚を超える速度で叩き込まれる雷撃。焼けつくような肌の痛みと共に、クロウが吹き飛ばされる。オゾンの異臭が鼻を突き、帯電した大気に着ている衣服が焼き焦がされる。

 

「ぐ、ぬ……っ」

 

 隠していた手袋が破られて、包帯が巻かれた左腕が露わとなる。先の『九番目』との戦闘で負った、左手の負傷がまだ癒えていないのだ。そこへ神経系を過電流が激痛となりて走り抜けた。痺れる。

 油断した。これほどの敵意を、接触されるまで気づかないなんて。

 コンディションは、最悪。そして、シチュエーションはそれに輪をかけてさらに最悪だ。

 

「我は『五番目(ペンプトス)』」

 

 ひとり前に出たのは、稲妻を纏っている、14、5歳程度の小柄な少女。男子のように短く刈り込んだ髪は金髪。瞳は焔のような青白い輝きを放っている。

 そして、

 

「我が名は、『三番目(トリトス)』」

 

 空間をも抉り取る漆黒の球体を左右の掌に載せる少女。長い髪をツインテールに結び、蛇のように緩やかにうねって揺れる。その瞳は、左右で色の違う金目銀目(ヘテロクロミア)

 

「『四番目(テタルトス)』」

 

 銀の濃霧と重厚な鎧でその小柄な身体を包み、兜で美しい顔立ちを半分以上覆い隠す少女。

 その二人が斜め後方左右にクロウを挟んで、退路を塞ぐ。

 

 “彼女たち”の、全身を覆っているのは、金の縁取りを施した白金の鎧だった。明らかな戦装束である。

 そして、その顔は『九番目』と同じ―――この三人とも、災厄に等しき殺人兵器<焔光の夜伯>の素体だ。

 “彼女たち”に囲まれる渦中にあって、なおかつ敵意を向けられる状況、心臓の悪い者であればそれだけで止まりかねない。が、

 

「オレに何のようだ?」

 

 大げさな話ではなく、クロウはこの類の理不尽をイヤというほど体験していた。

 なにしろ島にやってきてからこっち、理解できなかった事は一度や二度、両手の指で数えるには足りないくらいだ。

 最初、物の売買と言う仕組みすら知らずに人間社会に放り込まれた彼は、自動車が行き交う横断歩道や通勤ラッシュで混雑する駅のホームで何度か取り乱しては、主人より叱られながらそのルールを学んでいった。

 クロウにしてみれば、それとこの状況はそう大差のないものなのである。

 彼はまだ命も恐怖も知らない、無邪気な幼子ではないし、一個の人格を持った生命として、時間をかければ全く違う文化圏にも適応できる順応性は持ってると自負してる。

 だから、いきなり雷を浴びせられても、落ち着いて他人の話を聞くだけの対応はできた―――ただし、根気よく何度も言い聞かさなければ、理解できない馬鹿犬だと主人は語る。

 

「―――警告する。『宴』に関わるな」

 

 それは美しい鳥の囀りのようで、無慈悲な機械音声にも似た声音。突然に宣告してきた鎧の少女は、焔の双眸がクロウを見つめ、異を唱えるのならば即座に打ち抜かんと魔力を込めている。

 

「『王』を擁護する『選帝者』でも『血の従者』でもない、参加資格のないモノなどが立ち入っていいものではない、と言っている」

 

 鎧の少女が再度告げると、その全身を包む稲妻が輝きを増す。

 理不尽。力も掟も何もかも理不尽な存在。クロウは慣れている―――だからと言って、それに屈することが習慣となっているわけではない。

 

「オレがすることはオレが決める! オマエに言われる筋合いはないぞっ!」

 

 『五番目』に対抗するよう、その獣気を昂らせる。が、まだ体が硬直しており、その意思は伝わらない。全身の神経がほぼ麻痺状態。強大な災厄の化身でありながら、膨大な戦闘経験を持った<第四真祖>の素体。遊びがない。最初の一撃で、クロウの戦闘力を奪っていたのだ。頷くことしか体の自由が許されていない。

 

「反抗するとは……愚かな」

 

 常夏島の夜闇を瞬いて出現したのは、雷光を纏う巨大な獅子。

 その時の雷光の獅子の巨体は、優に十数mを超える威容をクロウに見せつけ、空一面を覆い尽しているような錯覚をも与えてくる。

 その獅子の前脚の一撃が、跡形もなく消滅させんとクロウに迫る。

 

(これは、まずい……!?)

 

 脚は動けず、生体障壁を展開させて身を護る術しか選択できない。

 眷獣とは実体化し、自らの意思を持つにいたった濃密な魔力の塊だ。だがこれは、あまりにも強大過ぎる。これだけの魔力が無秩序に解き放たれれば、最悪、絃神島の半分は焼き払われて消滅しかねない。

 そしてそれほどの脅威がまともに南宮クロウ一体に降り注ぐ。

 

「………がっ…く…ぐぅ…」

 

 視界が明滅する。頭が焦がされそうに痛む。それでも、ここは一撃を受けてなお五体欠けず原形を保てた少年を賞賛すべきではあろう。

 だが、そんなものはあってもこの場では何の役には立たない。

 

「『九番目』に一矢を報いたと聞いたが、この程度か」

 

 あまりの期待外れに落胆とした表情を浮かべる『五番目』が右手で、ぷすぷすと肉臭い白い蒸気を上げているクロウを指差し、雷光の獅子にさらなる追撃を命じる。

 

 立て、動け、理不尽に抗え。どれだけ命じようと、クロウの体は応えなかった。

 

 そして、一帯を蒸発させる熱衝撃波が、クロウを襲う。

 

「がァあああああああッ!?」

 

 反応する、という選択肢すら頭に浮かばない。もう今度こそは、踏ん張ることなどできなかった。

 ふわりと足の裏が浮いた。そのあとに遅れて、まるで地球の重力が数倍に増したようなダメージに襲われ、クロウは地面に落ちる。そのまま体は何mも転がされ、路上に植えられていた街路樹の一つに背中をぶつけて、ようやくその動きを止めることができた。

 

 ケタが、違い過ぎる。

 

「かはっ、げほっ……」

 

 あまりの痛みに全身が痙攣し、このままでは危険だと本能は警告を発している。

 これまで、この絃神島で狩ってきた魔族、その眷獣など比較対象にならない。

 それでも。

 クロウは何とか立ち上がっていた。痛む身体を無理に動かし、のろのろとしていたが、立ち上がろうとしていた。まだ足腰に力が入らない。まともに歩くことすらできそうにない。

 そこへ容赦なく。

 

「そのまま寝ていれば楽になれたものを、ならば、もう少し現実を知ってもらおうか」

 

 開いているとも閉じているとも取れない、まるで壊れたオートフォーカスのように半開きのまま停止しているその輝きのない瞳。それに雷撃迸らせる獅子の前脚が映るも、反応なし。雷光の獅子は、よろめいているクロウの背中を上から踏み潰した。

 ドゴォ!! という轟音と共に、少年の躰は地面に埋まる。

 暴力的な音と共に、彼の手足から力が抜ける。少しの間、意識が断絶していた。

 

「ふん」

 

 改めて、雷光の獅子が少年の頭上に前脚を上げる。

 まだ終わっていない。

 全身を焼かれ、障壁を裂いて肉を削ぐ獅子の爪、体の芯までダメージが蓄積し、意識を失っていたはずのクロウが、どろどろの手を動かして地面を突き、現実感を喪失させてくるこの神経が引き千切れそうな痛みに悶えながら、またも体を起こそうとしている。

 

「ぐっ、がっ、ォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 内臓を震動させるその叫びはまさしく死力であった。今のクロウはもう勝算など考えていない。血走った眼を見れば、そんな余裕は残っているわけがないのは容易に想像がつく。

 負けたくない。

 立ち上がりたい。

 そう、自分に掛けてくれた期待を裏切りたくない。

 そんな想いを燃料にして。

 口から血の塊を吐き出しながら、その瞳にこれまでにない粘ついた眼光が宿る

 

「この短時間で動けるほど回復した点といい、この耐久力といい、身体は文句なしに頑健だ」

 

 初めて、鎧の少女が称賛の言葉をかけた。

 けれども肝心のエンジンがない。元から備わっていないのか、それとも点火し切っていないせいか、兵器としては未完成故の、なんてアンバランスな在り方だ、と酷な評価を下す。

 だが、それ故に、この未完の大器の完成形はこちらの想定を上回る可能性があった。

 そう、

 

 

《ほうら、『九番』、あれは、あなたが壊すべき相手よ》

 

 

 その足元。存在しないはずの、影の向こうより。

 ゾゾゾゾゾゾぞゾゾゾゾゾゾゾざザザザザザざザザザザザザザザザザざザザザザザザ!! と、陰が這いずり上がっていく。

 

 なに?

 

 鎧の少女は眼球だけを動かし、得体のしれないものを洞察する。

 影に潜み、封じられるのは、“創造主(オヤ)”の魂を喰らった、八つに別れた第八大罪の分体がひとつ。

 

 まさか、これは自分たちと同じ殺神兵器か!!

 

 獣の如くでありながら、さながら闇の如くに影より拡散する莫大な力の渦をもって場を呑んでいく。

 怯んだ。あの<第四真祖>の素体が。これまで一方的に叩きのめしいた相手から感じる……『■■』にすら届きうる牙の気配に慄く。

 異質であり、歪、だけれど、純粋。餓狼がそこにいる。この長い年月、喰らうべき獲物を待ち続けながら、ずっと封印されていた魔物が、今、起きようとしている。

 

「『三番目』、『四番目』」

 

 『五番目』の呼び声に応じ、左右後方。控えていた二人の<焔光の夜伯>が動く気配。

 『四番目』。その力は、相手を雲散霧消にして消失させる。

 『三番目』。その力は、相手を次元食いでこの世から消滅させる。

 生体障壁などと言う物理的な防御ではけして防げず、そして一撃で必殺となりうる力。

 『■■』が、それを恐れる理由を理解した今、まだこれが未完成である内に、殺す。二度と『■■』に近づけぬよう、今ここでその命以外のすべてを奪うのではなく、万が一にも危険が及ばぬよう、命も奪っておくべきだ。

 『十二番目』の『柩』の解放を許してしまった故に、何としてでもこの脅威は除く。

 

「■■■■■■―――!!!」

 

 皮膚を染めていく影が、その下の筋肉にまで浸透する。ズゾゾゾと空っぽの器に大量の水が注ぎ込まれていくような異音を発して、裡なる魔が膨張する。

 それは一撃で大地に地割れを起こし、果ては世界まで喰らわんとするほどの力を秘めて―――しかし、拡張していく存在を、首に嵌められていた枷が押し留めていた。そして、

 

「――――――――――――だめ、だ」

 

 自らの首を絞めるように『首輪』に手を添える。

 噴出する莫大な力がこれ以上出ることはないよう、その栓を塞ぐように手に力を込めている。唇を噛み切った血を垂らして、堪える。

 

 枷を解かなければ破滅。

 だが、枷を解いても破壊される。

 

 自分が、自分でなくなる。

 六年周期で細胞が入れ替わる。何一つ、いつまでも続く自分なんてないわけで、当たり前のことだ。

 それでも、この狂熱を冷ますくらいに忌避感があった。そして、その代償を払う以上に―――

 

「……これは、ダメだ。使っちゃ、ダメなのだ」

 

 ずるずるずるずる!! と発せられる湿った音。描くように絡みついていた影紋様が、重力に引かれるよう足元に帰っていく。あれだけの莫大な力を使わずに押し戻してしまった。

 

(何故、だ……?)

 

 『五番目』は問おうとして、言葉が出ていないことに遅れて気づく。

 ただ口にされずとも勝手に回答が出てきた。

 

「オレには、オレが正しいと納得できる、この力の使い道が、まだわからないのだ」

 

 大人びた、静かな声で、幼稚な答えを口にする。

 <第四真祖>の眷獣に匹敵し得るほどの力を、そんな理由でやめたと言ってくる。<第四真祖>の素体の前で。

 

「なあ、お前たちは、どんな理由でそんなすっごい力を使うのだ?」

 

「そんなことを問う時点で、汝は、兵器失格だ」

 

 『五番目』はあえて蔑むように返答した。

 殺神兵器に、力を使うに悩む人間性など必要がないのだから。

 だから、自分らが正しく、この“後続機(コウハイ)”が不良品である(まちがっている)……そう、言い聞かせるよう。

 

「ああ……お前らも、わかってないのか」

 

 あまりにも未熟なクロウの発言は、的確に『五番目』、『四番目』と『三番目』の逆鱗にも触れまくった。

 獅子吼と共に雷撃が弾けて、銀霧が拡散し、空間を喰らう球体が放たれる―――よりも早く、その銀鎖が巻き付いた。

 

「―――そこまでにしてもらおうか、人形ども」

 

 いつもの舌足らずでありながら高圧的な声が、クロウの頭上から聞こえた。

 ゆらりと波紋のように虚空を揺らして、音もなく現れたその人影。豪奢なゴシックドレスに身を包んだ人形のような美貌を持つ、長い黒髪を持った小柄な女性。

 

 それに構わず、『三番目』の少女が空間を削ぐ球体を投げるが、銀鎖を巻き付かせたクロウを連れて、女性はまた虚空へ姿を消し、別の地点に現る。

 そこへまた、『四番目』が全身を霧としてクロウごと包むが、背後より現れた黄金の篭手が掴む。機械を思わせる駆動音を響かせながら粘土をこねるように手指を動かし、霧化した『四番目』をその時空を震撼させるほどの魔力で強引に実体化させて、白金の重装鎧に身を包んだ素体を一度握り絞め、投げる。

 

「魔女か。黄金の悪魔と契約した<空隙の魔女>……」

 

 <焔光の夜伯>の素体二人の攻撃を軽々と凌いだ乱入者の正体に勘付いた『五番目』。天災の化身そのものという彼女たちでも容易ではない、この絃神島に君臨する大魔女。

 

「貴様らがよってたかって私刑(リンチ)しているのは、私の眷獣(サーヴァント)主人(マスター)としてそれ以上は、流石見過ごせんのでな。それに、そろそろ人目も集まってくるぞ、ここらで手を引いておけ」

 

 邪魔をされた少女たちは、憤怒の眼差しで<空隙の魔女>をしばらく睨みつけるが、その力をどう読んだのか、クロウが一向に動く気配がないのを確認してから『五番目』は雷光の獅子を退去させた。

 『五番目』は雷光の速度で飛び去り、『四番目』は霧となって大気中に溶け込んで、『三番目』は巨大な球体に自らの身体を呑ませて異空間へ入り、何処かへと飛び去って行った。

 それを確認してから、南宮那月も自らの拠点へと跳んだ。

 

 

回想 人工島西地区 高級マンション

 

 

「一日で二度もボロ雑巾になるとは貴様は学習能力だけでなく運までもないのか馬鹿犬」

 

 自室に空間転移して、ベッドの上に投げ出される身体は異様に軽かった。

 神経を焼かれたからか、肉をこそぎ落とされて身軽になったのか、感覚がなくなったのか。

 だが軽い筈の体が、今の自分には重い。鉄になってしまったようで、立つこともできない。

 クロウは、那月の愚痴をぼんやりと聞きながら、身体を柔らかなベッドに埋もれさせていく。

 

「いったいどこの馬鹿が、人形どもを放し飼いしている。あれは火薬庫に、爆弾を抱えた猛獣を投げ込むようなものだ」

 

 『三番目』、『四番目』、『五番目』の素体を預かるは、『戦王領域』の貴族。

 そう、脅威なのは、武器商だけではない。『選帝者』として参加する吸血鬼たちに、この『魔族特区』を盤上として認め、『采配者』として『焔侊の宴』を仕切る獅子王機関の『三聖』もだ。

 だというのに、人工島管理公社より、一般市民に被害が及ぶまでは国家攻魔官らはそれを静観しろとお達しが来た。

 人の手には負えぬ災厄は、通り過ぎるのを待つのが上策というのだろう。

 そして、

 

「ヴェルディアナ=カルアナの監視までは許したが、<第四真祖>の復活の儀式に深く関わるなと言っておいたはずだぞ馬鹿犬」

 

 堂々と主人の命を破った自らの使い魔にも那月は怒りの矛先を向けて、『五番目』と同じことを告げる。

 

「お前が戦う必要はない。『選帝者』でも『王』でもない。これで馬鹿犬でも、『宴』が終わるまで大人しくしているのが賢い生き方だというのがわかっただろう」

 

 愚かな教え子を諭すような声音で説いてくる。

 その言葉に、頭が真っ白になる。

 そう、この主人に頭が来たのだ。

 

「やだ!」

 

 クロウが起き上がろうとする瞬間、ベッドに縛り付けられた。これ以上の反論は口にするのも許さぬ、と全身を雁字搦めに巻き付くのは、神々が打ち鍛えた封鎖<戒めの鎖(レーシング)>。本調子で全力であれば抗えるこの拘束に、今のクロウは押さえつけられた。

 

「づ―――!」

 

 視界が赤色に反転する。

 絞めつけをじわじわと強めていかれて、声が、出せなくなる。それにいくら自然治癒でも一日かそこらで完治しない重症の身で鎖に圧されている。ただ吼えただけで、全身の筋肉が引き攣ってしまうというのに、死にはしないが死にそうになる痛苦が虐める。

 

「ほう、もう戯言を吐けるくらいに回復していたとは驚いたぞ。体力だけはあるな。まったくつくづく躾甲斐のある馬鹿犬だ」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべる那月。かつて魔族を虐殺した大魔女であれば、<焔光の夜伯>よりもうまくその戦意を奪って見せるだろう。

 そう、たった一言囁くだけで。

 

 

「いや、今のお前は、“負け犬”だ」

 

 

 熱が消える。

 天啓の如くに真実を突き付けてくる、冷徹なその言葉に、煮え立った頭の中でさえ、凍りつく。

 思考が凍り付けば、身体まで震えてきた。

 そして、目に涙を滲むのを瀬戸際で堪えている使い魔の無様を、冷ややかに見下ろす魔女は、静かに扇子を畳み、紅い唇を小さく歪める。

 

 

「今の貴様がなんとほざこうが、そんなものは全て“負け犬の遠吠え”に過ぎん」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『頼む先生、ガキどもを守ってくれないか』

 

 

 盗掘屋からの依頼。

 あの『十二番目』の<焔光の夜伯>が発見され、『黒死皇派』が猛威を振るったゴゾ遺跡から、『聖殲』がらみの因果に巻き込まれた兄妹をこの極東の『魔族特区』まで連れてきたのは那月の采配だ。

 欧州から遠く離れた太平洋上に浮かぶ人工島、日本政府が管轄する特別行政区であり、そして、<空隙の魔女>の本拠地である。ここならば、『十二番目』や暁兄妹に対して、『戦王領域』や、他の真祖たちの『夜の帝国(ドミニオン)』もおいそれとは手出しができないだろう―――そう、那月は踏んでいた。

 

 しかしながら、『焔光の宴』などというまったく面倒なことに巻き込まれてしまった。

 

「……<死都帰り>め、これが子供たちを預けて、貴様が見つけてきた救うやり方か」

 

 暁凪沙を救うために、封印されていた『十二番目』を起こす。それは『焔光の宴』という戦争の呼び水となった。しかも、『夜の帝国』や獅子王機関までも巻き込んだ戦争だ。

 それ以外に娘を救える方法がなかったにしろ、暁牙城はそのリスクを知っていて、事を起こしたに違いない。

 

 そして、カルアナ伯爵の最後の生き残りであるヴェルディアナ=カルアナは、共犯者ではなく、利用されたといってもいい。『妖精の柩』を破壊するための『鍵』を彼女の一族が有しており、その在処を唯一知りえたヴェルディアナに、カルアナ家再興と一族の仇であるザハリアスへの復讐の機会をエサにして、この絃神島に引っ張り出してきた。

 しかし、ヴェルディアナは、『焔光の宴』に『選帝者』として参加できない。領地を失っている彼女にその資格は認められないのだから。

 

 ここまで来れば後は状況から推察して、上の思惑は知れた。

 まず、MARほどの企業が、貴重な『十二番目』の<焔光の夜伯>を手放したのか。そして、何故それを武器商ザハリアスが知りえたのか。

 答えは仕組まれていたのだ全てが。

 MARには兵器の製造部門があり、武器商人であるのならば何らかのつながりは持ってるだろう。そして巨大企業のMARを挟めば日本政府を動かすのも難しくはない―――またそれは逆に日本政府がMARを挟んで武器商人の行動を誘導させることも可能ということ。

 『鍵』をもったヴェルディアナに最も罪を被る実行犯をやらせ、目覚めた『十二番目』は『選帝者』としての資格を持てない故に、日本国政府が絃神島を開催地に差し出して、その『選帝者』の権利を勝ち取った。獅子王機関に『宴』を仕切らせる『采配者』をやらせているのだから、それはもう出来レースだといってもいい。

 

 そう、暁牙城の真の共犯者であり、この裏で糸を引いているのは、獅子王機関。この絃神島管理公社も一枚噛んでいるだろう。武器商人や『夜の帝国』を誘導して素体たちを集めて『焔光の宴』をやらせて、この絃神島で<第四真祖>を復活させようとしている……

 万、いや最悪この島の住人数十万の犠牲も容認して。

 

「……ふん」

 

 那月は思索を止めた。

 これ以上考えたところで、自身がやるべきことは変わらない。

 それに、ひとりにさせた部屋から聞こえてくる声が耳についてくる。

 

『……っぐ、……うぅっ……』

 

 あれが泣いたのはいつ振りか。おそらく、森で見た以来だろう。少なくとも、この島では見た記憶が一度もない。

 

「……こうも夜泣きが酷くては眠ることもできん」

 

 『宴』に利用されたのは、ヴェルディアナ=カルアナだろうが、最も巻き込まれているのは、己の眷獣だ。

 『九番目』から辛くも逃れたかと思えば、『三番目』、『四番目』、『五番目』に絡まれるという運のなさ。何が原因か、それは那月にもまだ憶測でしかできないが、このままだと死ぬだろう。

 だが、

 

「……言って聞くようなら、私も苦労しない」

 

 今日のサーヴァントは、負け犬だ。しかし、それは戦ったからこそ負け犬になれたのだ。端から尻尾を巻いて逃げるものは負け犬にすらなれない。

 

 

「覚悟しておけ。本気の私と一昼夜殺し合ったが、アレは負けてから相当しつこいぞ」

 

 

回想 獄魔館

 

 

 この島に来てから、しばらくの月日が経ち、11月の第一週目に入る。

 

 極東の『魔族特区』絃神市は、東京の南方海上330万km付近に浮かぶ人工島。

 樹脂や金属、そして魔術で造られたまがいものの大地。亜熱帯の強烈な陽射し。見渡す限りの広大な海。東欧の内陸部で育った身としては、どれもが物珍しい光景で。

 それでも毎日のように眺めていれば飽きが来る。

 もちろん悪い土地ではない。聖域条約が発効して40年以上が過ぎたとはいえ、人間と魔族が、ごく自然に共存できる都市は少ない。

 建物は清潔だし、治安もまあ悪くない。そして、何より食事が美味い。

 もっとも、暮らしやすいかと問われれば、素直に首を縦に振ることはできない。

 何故ならば、食糧自給率の著しく低い人工島は、物価が高過ぎるのだ。遠く離れた故郷とは軽く6倍以上はある。その理由は理解できても、理不尽と思っても仕方ないだろう。

 そんなわけで……

 

 

「フハハハハ! 哀れなる仔羊たちよー、恐怖に彩られた惨劇の館へよぉぅこそ! その肉をこの獣王の贄として捧げるがいいぞー! さすれば汝の願いを叶えてやるのだー!」

 

 

 がおー! と両手を上げるポーズを取る少年に、キャーキャー、と悲鳴……ではなくて、歓声が沸く。注文を取ってるテーブルの客だけでなく、その周囲の客らからもカメラのフラッシュが瞬く。

 

「いいわよ、クロちゃん。ちゃんとうちのコンセプトを掴んでるわ。わざわざ『魔族特区』に来てくださった濃ゆーいお客様のご要望に応えられてる。

 ―――わかったかしら、カルアナちゃん」

 

 黒のタキシードを着こなし、襟の高いマントをなびかせる(オネエ言葉を話しているが)中年男性。その左手首には魔族登録証の腕輪を嵌めており、自身よりもさらに高位の『旧き世代』の吸血鬼は、この絃神市にオープンしたばかりの魔族喫茶『獄魔館』の店長であり、ヴェルディアナの雇用主だ。

 

「え……と、あんなやり方で注文を取るんですか……?」

 

「ええ、そうよ」

 

 黒ずくめのゴス風メイド服に身を包んだヴェルディアナは、紅いルージュで濡れた唇をひくひくとさせる。

 お嬢様育ちの彼女にとって、接待業は未知の領域だ。しかし学歴も職歴も特技もない彼女を雇ってくれる職場となると、必然的にこの手のイロモノ系となってしまうのは避けられない。ただ、それにしても、『中世暗黒時代の封建魔族領主』をイメージしたこのお仕事は想像以上の痛々しさであり、見世物にされてるあの保護観察の少年は自分よりも馴染んでいないかあれと突っ込みたい。

 

「……カルアナの娘である私が……なんでこんなことを……!」

 

 屈辱に打ち震えるヴェルディアナ。

 近頃就職難の『魔族特区』で、正式な就労ピザをもらえたのはよかった。

 ただし、予定から大きく外れてしまっている。

 『十二番目』の<焔光の夜伯>アヴローラ=フロレスティーナを手に入れれば、それだけで父や姉の仇を討てるような気がしていた。<第四真祖>として覚醒したアヴローラの家臣として新たな『夜の帝国』を統治し、カルアナ伯爵家を復興する―――それが、ヴェルディアナの思い描いた未来予想図だ。

 だが、現実は、アヴローラは<第四真祖>として覚醒せず、獅子王機関の『采配者』からは正式な所有者である『選帝者』として認められず、建国するどころかその日の食費を稼ぐために下っ端アルバイトに明け暮れる毎日。しかも、姉の仇の血筋を引いているという保護観察付きで。

 

 ……いや、それを不幸だと感じているわけではない。

 自分が少しずつ今の暮らしに慣れつつあることをヴェルディアナ自身も自覚しているし、彼もとても<黒死皇>の血統とは思えない。

 そう……今の彼を見ればとても。

 

「どうしたのだー、カルアナ?」

 

 今や、店長より接待業の“看板娘(エース)”を任される彼。

 着ているのは、店長が着る黒のタキシードとは違い、ひらひらしている。

 ゆったりとして、ウィッグまで付いて、そして可愛らしかった。

 そう、それはヴェルディアナと同じゴスロリチックなメイド服であった。

 

「あなた本当に、<黒妖犬>なの?」

 

「? そうだけど?」

 

 保護観察が、オレっ子メイド(男の娘)……顔立ちは整ってはいても、低身長のせいで店長ほどの迫力が出ないと考慮された結果、こうなった。小柄な体つきに厚手のタイツまで着ていて、店長にされた軽いメイクで多少カムフラージュされているが、ちょっとばかりがたいがあり過ぎ、仕事の端々が角ばった異様なメイドさんである。だけど、これはこれでキャラが立っているので人気が出ている。

 

「犬耳まで付いてるし……」

 

「う。オレはワンちゃんメイドなのだ」

 

 メイドさんが被る頭飾り(プリム)を改造した犬耳風のシルエット。自分だったらもう罰ゲームもので、付けるのが義務だったら、もう職場には来ないだろうが、当人は特にこれと言った文句もないよう、そもそも女装を受け入れている時点でアレだ。

 

「クロちゃーん、こっちに来て一緒に記念写真をお願い!」

 

「む。愚かなる仔羊め。オレの肖像を求むとは、なんと欲深きものよ。その肉、食ろうてやろうか」

 

 何故これがフロア成績第一位なのだ。そして、こんなのに私負けたの!?

 ヴェルディアナはもうやけくそ気味な笑顔を浮かべた。ちょうど館の玄関ドアを開けて、学生と思しき四人組の客がご来店。

 アレでできるんだから私だって、と食器置き場から銀のナイフを4、5本まとめて掴み取り、それを扇状に恰好よく構えてみる。そして、スカートを翻しながら勢いよく振り返り、唖然と立ち尽くす客たちに哄笑。

 

「フ……フハハハハ! 哀れなる仔羊どもよ、き、恐怖に彩られた惨劇の館へようこそ!」

 

「ひうっ!?」

 

 怯えた少女の悲鳴。つかみとしては中々いいインパクトだろう。ただし、その声は聞き覚えがある。

 見ればそこには、デパートの紙袋を両手にぶら下げた男子中学生と、妖精のような金髪の吸血鬼の少女が立っている。暁古城とアヴローラである。

 

「あー……どうも」

 

 反応に困った末に打った曖昧な相槌をする古城、その背中にアヴローラは隠れて小刻みに全身を震わせている。

 

「なに? 古城の知り合いなの?」

 

 して、その後ろから顔を出す小洒落たファッションに身を包んだ暁古城の友人らしき少女に、ヘッドフォンを首に掛けた矢瀬基樹までいる。

 思わぬ知人たちの遭遇に狼狽したヴェルディアナが思わず、ぽろり、と落してしまったナイフ―――を横からインターセプトする犬耳オレっ子メイド。

 

「貴様ら四人、生贄の祭壇へと案内してやろうぞ。オレについてまいれ!」

 

「い、生贄の祭壇……!?」

 

 完全に怯えきった表情で、弱々しく呻くアヴローラ。無垢な彼女はその口上を本気で信じてしまっているらしい。

 涙目になった金髪の少女に、看板娘(男の娘)は、目線を合わせるよう跪いて、

 

「この呪文書(グリモワール)(メニュー表)にあるスペルを詠唱(注文)するがよいのだ。さすれば、汝は災禍を免れ、馳走を目にするであろう」

 

「ま、(まこと)か?」

 

「うむ。しかし、努々忘れるな。スペルの代償(金銭)が払えぬ時はそれ相応の罰が下されよう」

 

「!?」

 

 こくこく、と頷くアヴローラはすっかりこの店の世界観に取り込まれたようで、こちらからは注意は逸れてくれた。店長の方も今は厨房にいて、ヴェルディアナの監督の目は外れている。アヴローラがテーブルに連れて行かれるのを見送りながら、残った三人へヴェルディアナは改めて顔を向けて、小声で怒鳴るという器用な真似をしてみせた。

 

「(古城!? なにやってるの、あなた、こんなところで……!?)

 

「あー……ほら、買い物の途中だったんだけど、服とか。そしたらアヴローラのやつが、ヴェルさんが働いているところを見てみたいって言い出したから」

 

 赤貧にあえぐヴェルディアナが、昨日、皿洗い見習い研修期間を終えて、制服が支給されたことを、ついついアヴローラに自慢してしまったことが裏目に出てしまったようである。

 落ち込む没落貴族の女吸血鬼に、空気の読める浅葱が明るい調子で、

 

「ねぇ、さっきの子って、もしかして、クロウ?」

 

「……ええ、そうよ。うちの看板娘だけど」

 

 へー、結構いけるわね、と感心するように頷く浅葱。言われてから確信した古城が、微妙な感じの笑みをこぼす。そして、二人がテーブル席へと案内したところで、こっそりと顔見知りの矢瀬基樹が声をかけてきた。

 

「いやぁ、さっきのヴェルさんはノリノリだったな。流石は本場の貴族様。その衣装もよく似合ってるし、本気でやれば看板娘になれんじゃね?」

 

「基樹……あなたねぇ!」

 

 茶化すように笑いかけてから古城たちの後に続く矢瀬。ヴェルディアナはふて腐れた顔でその背中を睨みつける。

 彼女にとって矢瀬は、MAR襲撃する前に助けてもらった恩人であり、そして、矢瀬もヴェルディアナがこうして絃神島で働けているのを安心してる気配がある。

 

 そう、予定とは外れてきているけれど、ヴェルディアナは不幸ではない―――そのことにかすかな罪悪感を覚える。

 カルアナ伯爵家唯一の生き残りである自分が、安らぎを覚えていることに……

 

「ええ、私はこんなことをするために、『魔族特区』に来たわけじゃないの。違うのよ」

 

 これ以上目の前にある光景を見ていられず、それより目をそむけたヴェルディアナは逃げるように店を出た。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 店の裏に出たヴェルディアナは、誰もいないことを確認してから、それを取り出して、振るえる手でその針を制服の袖をまくりあげた腕に当てる。

 ハアハアと過呼吸のような荒い息を吐き、親指に圧す力を篭めんとする。

 何もできていないこの状況。

 アヴローラの純真さが煩わしく思えてしまう。幼いころの無知な自分を思い出してしまうから。

 そして、それが八つ当たりでも彼を憎みたいのに、憎ませてくれない。

 だから、“これ”に頼るしか、私は私を保てない―――

 

 

「それはダメだぞ」

 

 

 投擲された銀食器の――先ほど取った――ナイフが、ヴェルディアナの手に持った注射器に命中し、落とす。その弾みに中にあった液体が零れ、路地に吸い込まれてしまう。

 

「―――っ! あなたねぇ!」

 

「その“(ドラッグ)”は、いくら上位の吸血鬼のカルアナでも、保護観察として見過ごせないのだ。それは最近、『魔族特区』でも中毒者が多発して問題になってるってご主人に教えられたヤツだ。“匂い”を覚えてるから持ってるのもすぐにわかるぞ」

 

 びくり、と叱られた子供のような表情で、ヴェルディアナは体を硬くし、それから、

 昏い光をたたえた瞳で、クロウを睨んで、呪詛のように黒ずんだ言葉を吐き出す。

 

「……あなたに何がわかるっていうのよ」

 

「カルアナが楽しんでたのはわかった」

 

 金色の眼光が射貫く。

 ヴェルディアナの顔からほんの一瞬、僅かに表情が消えたが、次の瞬間には元に戻っていた。

 

「そう、それがあんたの『鼻』の能力ってわけね。人の感情を盗み見て、最悪よ―――」

 

 蔑むように、ヴェルディアナ=カルアナは蔑むような、かつて傲慢であったころの仕草を返そうとするが、

 

「貧乏で大変だけど、アヴローラといて、笑ってたカルアナは本物だった。本当の家族みたいに思ってる。それは幸せなんじゃないのか?」

 

「………………」

 

 突きつける言葉に、ヴェルディアナ=カルアナは、下唇を噛んで口を閉ざすしかなかった。

 おそらく自分でも顔の筋肉をどう動かしていいのかわからないのだろう、ヴェルディアナの頬が壊れたように引き攣っていた。

 

 わかっている。

 そんなことは、言われなくてもわかってる。

 そう、『魔族特区』の暮らしは悪くない。贅沢ができなくとも、ちっとも気にならない。アヴローラのことを家族のように思えるし、幸せだって感じる。

 

「でも、私は復讐を忘れるわけにはいかないの! 私だけが、こんな縁もゆかりもない土地で、奪われた家名や領地のことも忘れて幸せになるなんて、姉様に申し訳が立たないわ!」

 

「なあ、お前の姉さんは、妹に復讐を望んでいる奴だったのか?」

 

 ぎりっと歯軋り鳴らす。

 

 お前が、姉様を口にするか。

 何も知らないくせに。姉様を殺した怪物と同類の癖に。

 

「うる、さいわよ。アンタ」ヴェルディアナは、震える口を動かして、「アンタなんかにわかるもんか。人間にも、魔族にもなれない造られた怪物兵器に、私や姉様のことなんかわかるはずがない、二度とそれを口にするな!」

 

 叫びながらクロウへ迫ったヴェルディアナは衝動的に腕を振るう。その細い指先で人肉を裂く、野蛮で力任せな一撃。見た目はほっそりとした女性でも、ヴェルディアナの筋力は吸血鬼のものだ。

 

 ただし、半分が人間ではないクロウは、その吸血鬼を軽く捻れるほどの獣王の血が半分を引かれている。

 そう、ヴェルディアナの姉リアナ=カルアナを葬ったのと同じ類いの怪力。

 

 

 だから、ヴェルディアナは自分の指先が血塗られたのを見て、放心した。

 

 

「え……」

 

 当たるはずのない攻撃が、その肌肉を切り裂いたのだから。

 

「そうだな。オレにはわからなかった」

 

 破かれた服の下は、包帯が巻かれ、痛々しい火傷の痕。いつも厚着をしてその肌を見せることがなかったから気づけなかった。おそらく、全身に傷痕があるだろう。それを曝しながら、少年は語る。ヴェルディアナが引っ掻いて、また開いてしまった傷口など頓着せず。

 

「ご主人とオレが遺跡についたころには、カルアナの姉さんは死んでたからな」

 

 『十二番目』が眠るゴゾ遺跡を、襲撃した『黒死皇派』。それを狩るよう依頼されたのが、<空隙の魔女>。そして、その使い魔<黒妖犬>が、リーダーであった<死皇弟>を討伐した。

 

「そう」

 

 ヴェルディアナはグッと奥歯を噛み締めた。

 

「じゃあ」

 

 ヴェルディアナが苦しげに、無理矢理言葉を絞り出す。

 

「あなたたちがもっと早く来ていれば、姉様は死なずに済んだかもしれないってこと」

 

「そういうことになるな」

 

 ヴェルディアナの理不尽な言いがかりを、クロウは一言で受け入れた。

 クロウに頷かれて、ヴェルディアナの方が動揺していた。

 

「私は、あなたのこと、恨んでもいいのよね?」

 

「そんなの本人の自由だろ?」

 

 これが意味のないやつあたりだと重々承知した上で訊ねる彼女に、答えるクロウの声は、淡々としたものだった。

 そこに罪悪感は一切ない。力不足と後悔の念は懐けても、クロウが罪悪感まで懐く謂れなどないのだから。それが道理だ。それでも、見せかけてもいいから頭を下げて謝辞を示さないクロウが、どうにも薄情な態度にしか見えず、怒りを禁じえなかった。

 

「―――<ガングレド>!」

 

 純血の吸血鬼が召喚するのは、炎を纏う三つ首の魔犬(ケルベロス)だった。クロウへ飛び掛かり、燃える巨体がのしかかる。赤熱した岩石に潰されれば、人間は生きていないだろう。それと同じくぺっしゃんこに……はならず、小さな『混血』は思い切り真上に蹴り飛ばしていた。

 そして、重力に引かれて落ちてきた眷獣の真ん中の犬頭の眉間を拳が穿つ。爆散。

 

 勝負は一瞬で終わった。

 

 魔力となって弾け飛ぶ三つ首の魔犬の中心にあるのは、巨大な魔狼の影を羽織るような、『混血』の姿。

 眷獣を失い、半ば放心したようにその場に頽れるヴェルディアナ。

 

「負け、たわ」

 

 負けを認めた―――それ以上に、これで鬱憤が晴らせないことを悟ってしまったヴェルディアナの目から涙があふれ出す。彼女は体育座りになって、俯いたまま嗚咽を漏らした。

 警報が鳴り響く魔族登録証の腕輪を止めると、クロウはヴェルディアナが泣き止むまで、彼女の前に立っていた。

 その間、数秒とは言え警報が鳴ったというのに、何故か誰も来なかった。

 

「……女の子が泣いているんだから、ハンカチくらい出しなさいよ」

 

「お前、女の子なのか?」

 

 その物言いにカチンときたヴェルディアナはその脛を蹴っ飛ばす。確かに見た目は17、8歳くらいで、実年齢は少年の主人より倍はあるはあるが、吸血鬼の中ではまだ百にも満たない若者なのだ。

 眷獣の一撃もものともしなかったクロウが、泣き所を蹴られたくらいで痛がるわけもなく、とはいえご要望通りにヴェルディアナへハンカチを差し出した。

 

「なるほど。カルアナは、永遠の女の子ってやつなんだな」

 

「そんなこと言ってないわよ!」

 

 ヴェルディアナはクロウから受け取ったハンカチで涙を拭い、鼻をかみ、それだけで足りなかったのか制服の袖で目を擦った。

 

「……あんなのありなの? 眷獣は、獣人種だってどうにかなるものじゃないのよ」

 

 文句を言い始めるヴェルディアナ。

 

「眷獣みたいに熊よりも大きなヤツは森でも見なかったけど、島に来てから結構経つしな。最初は驚いたけど、もう慣れっこなのだ」

 

「本当に、魔族の血は半分なのよね。だったら普通は力が半減してたりするものじゃないの」

 

「ん。むしろ純血のよりも身体性能(スペック)が高いとかご主人が言ってたぞ」

 

「何それ反則じゃない」

 

 ヴェルディアナが眉を顰めて嘆く。その姿は、いつもの彼女に戻りつつあった。

 彼女は泣き腫らした目で、全てではないけど憑き物がいくらか落ちたようなすっきりとした眼差しでなぞるように、その露わとなったクロウの胸元、吸血鬼の眷獣をぶつけても無傷な『混血』に刻まれた傷痕を見て、問う。

 

「あなたそれ、誰にやられたのよ」

 

「これか? 『五番目』だな」

 

「はぁ!? あなた、『王』に襲われたの!?」

 

「むぅ、最初だけは『三番目』と『四番目』もいたんだけどな。ここ最近は、ひとりになると『五番目』が喧嘩を吹っ掛けてくるのだ」

 

 仰天するヴェルディアナ。

 <焔光の夜伯>に遭遇した経験のある彼女だから、それは死を覚悟するものだとわかる。生涯で一度経験すれば十分すぎるほど不幸だといえる災厄の化身。しかも聞くところによると、そんな生きるか死ぬかの瀬戸際を何度も何度も行き来しているようで、

 

「よく生きていられるわね……」

 

「う。十に六回は、殺されかけてる。三人に囲まれた時は九死に一生を得たのだ」

 

 <焔光の夜伯>に何度も殺されかける状況なんて、ヴェルディアナにも想像がつかない。

 

「でも、おかしいわ。だって、あの時、『王』に襲われた時も『采配者』が介入してきたし、『宴』の(ルール)からも外れてるわよ」

 

「さあな。たぶん、何か気に障ることをしちまったんだと思う。虎の尾を踏んじまったんだな」

 

 ホントに何言ったのよ……その状況は恐れ戦くのを通り越して、呆れ果ててしまう。そして、頭に来た。心の底から。

 

「何で、それを今まで言わなかったのよ」

 

「訊かれなかったからな」

 

「『王』も、それを放し飼いしてる『選帝者』も、見逃してる『采配者』もおかしいけど、あなたもおかしいわ! <死皇弟>を倒した<黒妖犬>だって、『王』には敵わない。『王』には、『王』をぶつけるしかないの!」

 

 アヴローラ=フロレスティーナ――『十二番目』に何故頼らないのか。対抗できるのは彼女だけだというのに。どうして、それがわからないのか。

 

「や。アヴローラは、姉達(あいつら)と戦いたくないって言ってただろ」

 

「何を言ってるのよ。あの子は殺して壊すために造られた―――「オレには、兵器(どうぐ)には見えないぞ」」

 

 ヴェルディアナにそれを間違っても口にさせぬよう、被せてクロウは言う。

 

「『五番目』たちも、自分は兵器だって言いながら、『宴』のためじゃなくて、多分、アヴローラと同じで何かを護るためにやってるんだと思う。じゃないと、あんな“感情(におい)”はしない。

 ―――だから、オレは何とかして認めさせてやりたいのだ」

 

 実際、彼女たちに『十二番目(アヴローラ)』と同じく話は通じるとクロウは思っている。

 問答無用で実力行使してくるが、それでも戦闘の最中、こちらを見ている。『三番目』と『四番目』が来なくなったのも、自分のことを認めてくれたのでないかとクロウは勝手に期待していたりする。だから、追いかけ回しているのは、最も気性の激しい『五番目』だけになっているのではないか。

 などと語るクロウを、ヴェルディアナは絶句したまま見つめた。

 ……頼りがいがある姿というか。単純な負けず嫌いな性格というか。でもきちんと芯の通った振る舞いというか。不覚にも、少しだけ尊敬してしまったほどだ。

 

「カルアナの言う通り、『十二番目』がすっごい力を持ってるのはわかってるけどな。これは負け犬を撤回させるためにも、オレひとりでやらないと意味がない。それに、『十二番目』が入ると問題が複雑になるのは目に見えてるのだ。そんなワケで、こっちには構わないでいいぞ」

 

「………本気?」

 

 試すようなヴェルディアナの問いに、クロウは気軽に頷いた。

 事の深刻さを過剰なくらい理解しているヴェルディアナと、それほど深刻な事でもないと語るクロウ。

 路地裏に差し込む陽の光が、目と目を合わせて話し合う二人を光と影とに別けている。

 どちらが光に照らされているのか、どちらが影に佇んでいるのかは、語るまでもない。

 短かな、ほんの数秒ほどの沈黙。

 ヴェルディアナはクロウを真顔で見つめて、

 

「……それで死んだって、私は知らないから」

 

「オレも死ぬ気はないぞ」

 

「口ではなんとでもいえるのよ。じゃあ、明日になるといなくなってるかもしれないから、今のうちに言っておくわ。

 ……姉様の仇を取ってくれて、ありがとうクロウ」

 

 とヴェルディアナはクロウから背を向けた。

 結局、彼女は八つ当たりをしたことについては、謝らなかった。

 クロウにも謝罪を求める気はなかった。

 ただ、

 

「そういえば、オレが死んだら、このメイド服はヴェルディアナが全部弁償するのか?」

「え゛」

 

 

 

 で。

 休憩でもないのに接客中に店を抜けたヴェルディアナと、店長渾身の作品であるメイド服をボロボロにしたクロウは二人仲良く店長から今日の給金無しという説教の雷を落とされることになった。

 

 

回想 道中

 

 

『また、見てました』

 

 

 親友(かのちゃん)が、もう両の指では数えられなくなるくらいの指摘をする。

 

『凪沙ちゃんは、クロウ君のことを気になっているのに、どうしてそんなに避けようとするのでした?』

 

 彼女はそうは言うが、私はそんなに彼を視線で追うつもりはなかった。ただ、どうしてかここ最近の彼の動きが違うように見えた。どこか怪我をしているのではないか? けど、室内でも厚着をしているので誰も気づいてない。きっと周りで勘付いてるのは私だけなのだろう。でも、私はそのことを誰にも言えないし、彼に声をかけることもできない。

 

『一度、話し合ってみませんか?』

 

 私と彼の間を取り持ってくれる彼女は何度も根気強くそう提案してくれるけど……

 前に古城君も、『魔族が怖いのは仕方ないけど。そろそろクロウのことを避けるのは止めにしたらどうだ?』と言ってきたりするけど……

 

 

 

 部活が終わり、彩海学園から帰宅する。

 今日は冬休み前の学期末テストの部活停止週間前ということでミーティングが長引いて、いつもよりもだいぶ遅い。遅くなると古城君にメールした際も『迎えに行こうか』と心配されたけれど、もうそこまで子供のつもりはない。ここのところ体調も良いみたいだし、人気のない坂道を吹き抜けていく夜の風は涼しくて心地いい。

 ただ少しだけ、暗くて不気味に感じるけれど。

 ここ最近、絃神市で原因不明の爆発事故が多発している。狐の嫁入りならぬ雷様の嫁入りだとかで突発的に落雷が発生しているみたいだ、ってこの前、検査入院した際に深森ちゃんに言っていた。

 ヘソを取られぬようお腹に手をあてつつ、調子の外れた鼻歌を口ずさみながらテンションを上げて、暁凪沙は駅へ向かって歩き出す。

 部活帰りの同級生たちと一緒だったのだけど、ひとりまたひとりと急にいなくなり、不自然と思う間もなく、凪沙はひとりになっていて……

 見知らぬ女性に呼び止められるまで、そのことに気づけなかった。

 

「暁凪沙さん?」

 

「あ、はい」

 

 名前を呼ばれ咄嗟に応えた凪沙はそこで、自分を取り囲むように10人近い人間が立っていることに気づいた。

 

「―――――ッ」

 

 何で今まで気づけなかったのか、と凪沙は思う。

 まるで道端のアンケートの質問をしにきた調査員ぐらいの距離。まるでかごめ歌で取り囲むように、10人近い人間がじっとこちらを見ているのに少しも気づくことができなかった。

 考え事をしていたにせよ、これは異常。異常なくらいに気配の消えた、暗殺者じみた連中だった。

 

「……、」

 

 皆同じような目立たない地味なスーツ姿の男女。見た目の印象も世代もバラバラの、よくわからない集団。ラッシュ時の満員電車の中にいれば、顔と名前もわからなくなるほど無個性に見える彼女たち。だが、そのやけに画一化された目つきは迷いがなくて、怖い。けして風景に溶け込むことなどできないように見える。

 

「心配しないで。私たちは人類救済機構『楽園の護り手』の闘士よ。善良な市民の生活を護るために魔族を根絶する活動をしているの」

 

 口元だけの笑みを浮かべて、最初に声をかけてきた女が言う。

 油汚れと同程度に魔族根絶を語る彼女に、生理的な恐怖と嫌悪を覚えてしまう凪沙はその正体を悟り、それをおそるおそる口にする。

 

「差別……主義者……?」

 

「そんな風に私たちを非難する連中もいるわね。でも、ね、正直にあなたは魔族のことどう思っているの? 彼らが怖いとは思わない?」

 

「そ、それは……」

 

 怖いと思う……けど、頷かない。確かに怖い、怖がってしまう、でもそれは彼らが怖いことをしたわけではなく、凪沙の過去の体験に根差した魔族恐怖症(トラウマ)がその過去と重ね合せてしまうのが原因で、彼らを弾圧していいなどと思ったことは、ない。

 ただ、凪沙が口を開くよりも早く、その返事を待たずに女は一方的な主張を続ける。

 

「聖域条約が締結されて魔族による凶悪犯罪は減ったって言うけれど、それは政府による印象操作の大嘘よ。彼らは本当のデータを隠蔽して、捏造した資料を流しているの」

 

「あの……あたし、早く家に帰らないといけないから」

 

 女の言葉をこれ以上聞く気にはなれず、この場から逃げ出そうとする凪沙だが、しかし彼女たちは腕を広げ、その行く手を遮る。鳥籠に閉じ込められたような凪沙へ、女は作った顔で微笑みかけながら、スーツの懐に手を入れて、

 

「ごめんなさい。大丈夫よ、時間は取らせないわ」

 

 取り出した“それ”を凪沙に突きつける。“それ”はレディースタイプの掌に隠し持てるほどの小さな拳銃。

 

「私たちの用事はすぐ済むから。<第四真祖>の復活を阻止するために、お願い。死んで」

 

 それは女だけでなく、十人全員が短銃身のリボルバーの銃口を凪沙に向けている。皆、その瞳に凪沙への同情も憐憫もなく、ただ己の正義だけを猛進するものに特有の昂揚感だけが浮かんでいる。

 凪沙は彼女らに震える声で、

 

「人間が……人間が殺すの?」

 

「同情を惹こうと演技をしても無駄よ。異端の巫女が人間を名乗るなんて厚かましい!」

 

 問い掛けた凪沙へ、初めて女の顔に敵意が浮かんだ。

 その唐突に叩きつけられた猛烈な悪意、理不尽に、凪沙はどうしようもない絶望を覚える。

 おそらく彼女たちが求めるのは、暴力を振るっていい免罪符が与えられたサンドバック。今は偶々魔族に対して敵意を抱いているが、その矛先が他のものに向けられてもおかしくはなくて、つまりは最初から話が通じるような相手ではなかった。

 

(―――誰か、助けて!)

 

 

 

「抵抗しなければ、楽に死なせてあげるわ」

 

 形式的な手続きのような文句を無感動に言い放つと、女は引き金に指を掛け、無表情で連射。―――寸前、凪沙は十人の間をすり抜けて割って入ってきた誰かに抱きかかえて地面に伏せられた。銃声の震動が凪沙の鼓膜を揺らす。何者かが割って入ったことに気づかず、または異端の巫女を構うものであるのならそれ自体が罪人であると断じたのか、引き金を引き続ける。

 そして確実に仕留めたと判断できる、いや死体蹴りと言えるほど十人が銃弾を撃ち込んだところで、ようやく乱入者を確認する。異端の巫女を胸に抱いた厚着の学生が地面に倒れ、その背中には無数の穴が開いていた。この様子だと、下にいた暁凪沙も撃たれているだろう。女は撃ち尽くした拳銃を懐に仕舞いながら、隣の男に命じる。

 

「ふん、邪魔が入ったわね、『人払い』はちゃんとしてなかったの。まあいいわ、そいつ、どかしてちょうだい」

 

 男は何の感慨も込めずに凪沙と、それを庇った学生に近寄ったが、凪沙の目が開いていたのを見て驚く。

 

「異端の巫女の方がまだ―――」

 

 男がすべてを言うより早く、突然立ち上がった厚着の少年の裏拳がその顎を打ち抜いた。衝撃で男の首が曲がり、白目を剥いて崩れ落ちる前に少年は跳躍。疾風のように振り抜かれた右足の蹴りが、並んで立っていた男3人の鼻を削ぎ落とし、さらに蹴った勢いのまま捻転した左足の踵蹴りが、続けてその隣に並んでいた男女3人をドミノ倒しの如く蹴り飛ばした。着地と同時に、少年は別の男の眉間を人差し指と中指を嘴にした指突で突いて、さらにもうひとりの股間を師父直伝の禁じ手で潰す。

 ―――そこでようやく、最初に反撃を喰らった男が地面に倒れる。

 その9人が気絶し、あるいは地面に倒れ痛みにもがいているのを確認してから、少年――南宮クロウは、『楽園の護り手』のリーダー格の女にゆっくりと顔を向けた。

 

「『人払い(まじゅつ)』はちゃんと張られてたぞ。でも、これよりもっとすごいカルアナの姉さんの眷獣のヤツでもオレの『鼻』は誤魔化せなかったのだ」

 

 暁牙城からの頼みごとを受けた主人より、南宮クロウは『嗅覚過適応』の“匂い”さえ覚えれば広範囲で現在地を特定感知できる位置追跡の応用で、対象の動きに合わせて移動し、その周囲にある敵意といった“負の感情(くさいにおい)”に敏感な探知網を暁凪沙に敷いていた。

 だから、凪沙へ銃口を向けたその殺意が本物であることを悟っているクロウは、本気で頭に来ていた。この前の『匈鬼』ではなく、ただの人間であるから手加減こそいたが、躊躇なく撃った弾がすべてクロウの背中で防げずに、もし一発でも凪沙に当たっていれば、果たして自制ができたかも怪しい。少なくとも、この場にいる全員五体満足では済まないくらい破壊されていただろう。

 予想外の事態に、女は撃ち尽くして空の拳銃を震え出しながら向けてくる。

 

「あ、あなた、魔族なのね……!」

 

「半分はな。オマエら、全滅したくなかったら、大人しく特区警備隊に捕まっておいた方が良いぞ」

 

「は、はぁ!? 捕まるのはあんたの方よこの魔族め! 私たちは清浄なる世界のために異端の巫女を排すのであって、裁かれるのは―――」

 

 クロウが近寄ろうとすると、女は尻餅をついて後退。目の前で同志たちを一蹴された女は、口答えはしていても戦意は失せている。それ以上の耳が汚れるような罵詈雑言を聞く気にもならず、軽いデコピンでクロウは女を昏倒させる。

 

「暁?」

 

 クロウはすべてを終わらせて、凪沙を見たが、彼女の眼差しは伏せられていた。その手はクロウのコートの裾を掴み、唇を引き結ばれる。遭遇した暴力沙汰で、自分に向けられた殺意をどう処理したらいいのか、混乱しているようだった。

 もっと、早く駆けつけるべきだったな、とクロウは己を恥じる。

 ここのところよく力不足を痛感するが、それは何度もあっても麻痺す(慣れ)ることのないもの。

 

「ああ、」

 

 凪沙の感情(におい)が、一段と乱れが大きくなる。

 

 

『そうか……妹を庇ったのか。その気概は賞賛するぞ、少年』

 

 

 そこで、クロウはそれが魔族恐怖症(いつもの)とは違うことに、気づく。

 

 

『無謀で愚かだが、勇気ある行動だったことは認めよう。だが、所詮は脆弱な人間の身体。残念だったな―――』

 

 

 自分を庇い、一斉射撃を浴びたその背中。

 それはあの時、自分を庇って、死んだ兄の姿と同じで、たとえそれが無事であっても、重なってしまっている。

 

 

「―――暁! 落ち着くのだ!」

『―――案ずるな娘。今度こそ楽にしてやる!』

 

 

 そして、また別のものに、重なった。

 

「おい、暁!」

「―――こっちに来ないでッ!!!」

 

 近寄る“死皇弟(クロウ)”へ、拒絶の言葉。

 その何かの蓋が外れた予感に、クロウの心臓が、大きく跳ねる。塗り替わっていく圧倒的な気配、存在感、オーラ。或いはそれだけで敵対者を捻じ伏せ、平伏させかねないほどの暴力。神経をスタンガンで焼かれるような感覚を浴びながら……その少女の顔を見た。

 

「暁、お前……」

 

 固まるその同級生の顔を見て――金瞳から鏡映しに自分の顔を見て、ハッと正気に戻る凪沙は、その場から――少年から離れる。逃げるように。

 走り出した少女に手を伸ばそうとして……

 クロウは愕然とする。

 何故ならば、力を入れようとした両足は震えていた。

 力を入れようとした両足が、震えていた。ブルブルと震えていた。

 進むことを拒むように、震えていた。

 

「オレは、まだ、ダメなのか……」

 

 『首輪』の下――“創造主(オヤ)”に付けられた絞め痕が、■されかけた記憶が、疼く。

 その場から動けず、その振り返ることのなく小さくなっていく背をその歪む視界に映すしかできなかった。

 

 

 

 同じ、だ。

 私は今、差別主義者(あのひとたち)と同じことをしようとしていた。

 彼を、この手で■そうと―――

 

 

 

 

 

 そして、第二真祖<滅びの瞳(フォーゲイザー)>直系の第九王子イブリスベール=アズィーズ殿下を降し、ネラプシ解放軍率いるバルダザール=ザハリアスは、『滅びの王朝』が所有する二体の<焔光の夜伯>を奪う。

 半数――計六体の<第四真祖>の素体を手に入れたザハリアスは、絃神島にて、『焔侊の宴』最後の支度を始める。

 

 

 開催は、四の月の満月の時……それはちょうど、中等部三学年に進級した少年少女が同じクラスとなってから、十日後であった。

 

 

 

つづく

 

 

 

とある施設

 

 

 修行の成果、見せてあげるわ<黒妖犬>

 

『ぬぬ!? な、なんなのだ、妃崎の姿が見えなくなったと思ったら、気配まで感知できなくなったのだー!?』

 

 『鼻』に頼るからそうなるのよ。ほうら、隙ありよ!

 

『うわっ!? なんだ、今オレは何をされたのだ?』

 

 ふふ、これは何かしら?

 

『あ、それはオレの帽子! いつのまに!?』

 

 すぅ……はぁ……―――では、お次は手袋をいただこうかしら。

 

『っ!? また消えた、“匂い”までしないなんて、どこにいるかわからないぞー―――わっ!? またやられたー!』

 

 すぅ~……はぁ~……―――これは攻撃でなくてよ。そう、あなたと私の差を教えるためにしているデモンストレーション。

 

『ダメだ、今の妃崎には敵わないぞ。逃げるのだー!』

 

 はぁはぁ……―――逃がさないわ。その身ぐるみを全部剥いであげる!

 

『きゃー捕まったー!? こうなったら、喰らえ、忍法おいろけの術!』

 

 あぁん、っぐ……―――ふ、残念、それはもう克服したのよ! <霧豹双月>!

 

『うわー……参りましたのだー霧葉様ー』

 

 

 

「………何か違う気がするけど、まあ、良いわね」

 

「えー、っと、今のは何なのキリハ」

 

「イメージトレーニングよ莉琉。あらゆる事態を想定して、それに自分ならどう対処するかを考えるの。標的を狩る前に三回ほどすれば、未来視の精度も上がったりするのよ」

 

「そうなんだ。てっきり、私……」

 

「じゃあ、まだイメージトレーニングをしておきたから、しばらくひとりにしてもらえないかしら莉琉」

 

「うん、邪魔しないよキリハ」

 

 

 

つづく



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焔侊の宴Ⅲ

???

 

 

 牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座、獅子座、乙女座、天秤座、蠍座、射手座、山羊座、水瓶座、魚座―――

 黄道十二星座。しかし、黄道上には、本来ならば位置的にその蠍座と射手座の間の九番目に入るであろう“十三番目”が存在する。

 

 

 

 真夏の島―――

 血のように赤い海に取り囲まれた人工島。

 夕日が沈んだ直後のように紅い空を背景にして、巨大な建造物の残骸が屹立し、また周囲の建物も原形を留めぬまでに破壊され、焼け落ちている。

 巨大な災厄に襲われた直後か、さもなくば戦火に焼き尽くされたかのような風景。

 いや、ような、ではない。

 『一番目(ブローテ)』の神羊、『二番目(デウテラ)』の牛頭神、『三番目(トリトス)』の双頭龍、『四番目(テタルトス)』の甲殻獣、『五番目(ペンプトス)』の獅子、『六番目(ヘクトス)』の戦乙女、『七番目(ヘブドモス)』の三鈷剣、『八番目(オクドオス)』の人食い虎、『九番目(エナトス)』の双角獣、『十番目(デカトス)』の魚竜、『十一番目(ヘンデカトス)』の水妖、『十二番目(ドゥデカトス)』の妖鳥、

 ひとつとして同じもののない多様な属性、そのひとつひとつが災厄の如き力、そして、ひとつも救いのない兵器。

 それが、振るわれたのだ。

 創造主たる神より与えられし、唯一の友を抹殺するために。

 

 これより、『原初』の呪いに己を歪めた神に復讐する。

 

 黒い十二の翼を背より生やし、折れた槍を胸に抱く男は決意する。

 そして、反逆の前に、神の呪いを上塗りしてしまうほどの怒りが、この自我を取り戻しているこの一時に、ひとつの封を解く。

 

 唯一の友が、天により派遣されし監視者である己と友となってから封印した、そして己に殺されても使おうとはしなかったもの。

 

 人のために神に抗う未完成の抑止力よ。

 己を殺すために生まれるはずだった殺神兵器よ。

 そして、『(オマエ)後続機(コウハイ)』だと唯一の友が語った、未だ器なき忘れ形見よ。

 

 お前を解放する。

 

 完了するに相応しき器を見つけ、いずれは唯一の友に与えられた役目、お前の創造主(オヤ)を殺した己を壊し得る最終作(ラストナンバー)として成長することを望む。

 

 もし、叶うのならば……

 

 人の肋骨は十二対。

 獣の肋骨は十三対。

 獣より人に進化する際、肋骨の一対は不要となり、省かれた。

 そして、この造られた真祖にも、神より必要がないと判断され、与えられなかった吸血鬼の権能がある。

 

 そう……もしあれば唯一の友を救えたはずの―――『十三番目(トリトスカイデカトス)』の力を持ってくれることを願っている。

 

 

回想 りあな号

 

 

 四月の満月の前日。

 

 契約(やくそく)通りに『るる屋』のアイスを馳走した『九番目』より、ザハリアスからの招待状をもらった。

 

 その時までに試せることはしたが、上手くいったとは言えない。

 アヴローラと凪沙を直接合わせた。その接触で、凪沙に憑依した『十二番目』とアヴローラの人格が一気に統合すると賭けてみたのだ。成功すれば、アヴローラに記憶と能力が戻り、ザハリアスに対抗できる術を持てるようになるが、これは危険を伴い、失敗すれば逆に凪沙の体調が悪化する可能性もあった。これで魔力の暴走が起きれば洒落では済まない。

 だから、凪沙の体調が安定したころを見て、引き合わせようとしたが、しかし凪沙はアヴローラの接触自体を拒否した。

 

 魔族登録証をつけていないアヴローラの正体が吸血鬼だとすぐには勘付けまいと思っていたが、それは甘かった。たとえ霊能力を失っていても凪沙は巫女であり、普通なら気づかない程度のわずかな違いから、アヴローラの正体を一目で看破した。

 そもそも、アヴローラは妖精じみた容姿で、人外的な気配を臭わさぬよう誤魔化すことは無理がある。

 

 アヴローラに<第四真祖>の力と記憶を取り戻させることは叶わなかった以上、彼女を戦わせるような真似はできない。

 

 だから、明日の『焔侊の宴』には、行かない。

 

 指定してきた月齢は、相手に好都合であるのだから、むしろ積極的に避けるべきだ。一応事情を話し、相談した親父も、無視をしろ、と回答をもらった。

 まだ面倒な手続きが残っているそうだが、前に彼女のDNAサンプルを渡したことがあって、それでアヴローラが絃神島の登録魔族として認可されることになっている。そうなれば、特区警備隊の保護が受けられるようになり、ザハリアスにとって敵地(アウェー)である絃神島にいる限り、アヴローラにおいそれと手出しはできなくなるだろう。それに『滅びの王朝』に『戦王領域』と敵対しているザハリアスは首に賞金が掛けられており、時間さえ稼いでおけば、放っておいても自滅する。

 

 また、後輩を通して、その主人である学校専属の攻魔カウンセラーで、警察や特区警備隊にも顔が利いて、ザハリアスに対抗できそうな人材――南宮那月に力になってくれるよう頼みこんだ。

 近い将来、アヴローラは彩海学園の生徒になることを希望しており……そんな甘く優しかった平穏の日々を少しでも長く続かせることが、古城の望みであった。

 

 バンッ! とその望みを壊す音が、船室に響く。

 

「―――これを見てもまだ、招待状を無視するつもりなの」

 

 ヴェルディアナが、古城らの前に叩きつけた情報誌。

 それには今朝のテレビでワイドショー番組に放送されたニュースについて書かれている。

 

 『ネラプシ自治区で、大規模感染(アウトブレイク)の兆候』

 

 記事に掲載される写真には、異国の街にあふれだした暴徒の群れが、無差別に周囲の人々に襲っている様子が写されている。

第一、 第二、第三のいずれの真祖の型にも該当しない、新種の吸血鬼感染症。

 『吸血鬼に噛まれて吸血鬼になる』というのは迷信と知られているのだが、世界保健機構でもこの原因は特定できておらず、

 人間にも魔族にも無関係に感染し、発症した患者は理性を失って周囲のものを無差別に襲い始める。そしてただひたすらに感染者を増やしていく。

 症状そのものはG種(グール)と呼ばれる吸血鬼に近いようで、感染者は筋力や嗅覚などの身体能力が向上しており、襲われたら人間には敵わないし、逃げることも難しい。また、時間が経つにつれて感染者は記憶が欠落していき、やがては完全に知性を失い、生命活動の維持すら困難になっていく。

 単なる伝染病なのか、それとも未確認の新たな魔族の出現なのかも不明で、原因が特定できない以上、治療法も確立できない。このままでは世界的流行も視野に入れなければならない―――

 

 ―――古城は、その原因を予想できた。

 

「これをやったのは、ザハリアスよ。この吸血鬼感染症は、『焔光の宴』と関係してるものなのよ!」

 

 ヴェルディアナは泣き叫ぶように説く。

 『宴』の『選帝者』の資格は、“一定規模の領地を治め、十分な数の領民を所有する”こと。

 これは、<第四真祖>が完全覚醒を果たし、『選帝者』の領地を新たな『夜の帝国』として定めるため―――ではなくて、

 逆だ。

 『選帝者』とは、<第四真祖>を覚醒させるための儀式魔術の実行者であり、そのためには、“自分の領地に住んでいる数十万の人々を生贄にすることが必要なのだ”。

 

「ネラプシ自治区には魔法陣が敷かれていた。ザハリアスが『匈鬼』たちを使ってカルアナ伯爵家領に侵攻したのは、儀式魔術に必要な土地を手に入れるためだった」

 

 現在、ネラプシ自治区と呼ばれているのは、かつてカルアナ家が治めていた土地であり、そこに暮らすのは数百年間にわたって、先祖代々、カルアナ家に従ってきた忠実な領民である。むろん、その中にはヴェルディアナの顔見知りも多くいる。

 その彼らの命は、新型感染症によって危機に晒されており、そしてその状況を仕組むためにザハリアスは、領主である父様を殺し、領土をカルアナ家から奪った。

 

「それは、本当なのか?」

 

「本当よ……今日、牙城から返された姉様がまとめたレポートにそう書いてあったわ」

 

 情報誌と一緒にテーブルに叩きつけてあった、一冊の資料。ヴェルディアナの姉――リアナ=カルアナが記した、『焔光の宴』と呼ばれる儀式魔術についての真実。

 

「リアナ姉様は、『十二番目(ドウデカトス)』を手に入れようとしたのは、ザハリアスが敷いた魔方陣を逆に利用して、<第四真祖>を覚醒させるため……」

 

「おい、それじゃあ、ヴェルさんの姉さんは―――」

 

「そう……姉様には、ザハリアスから領地を奪還する手段が他に思い浮かばなかった。だったら……放っておいても、ザハリアスが儀式を強行するのだから、どのみち領民たちは生贄にされるのは避けられない」

 

 『焔光の宴』の正体は、<第四真祖>を完全覚醒させるための儀式魔術。その触媒となるのは数十万人を超える膨大な数の生贄、『世界最強の吸血鬼』に相応しい、壮大な覚醒の儀式であろう。

 姉はそれを知ったうえで、<第四真祖>の復活を望んでいた。

 信じたくはないが、姉は領民たちを犠牲にする覚悟を決めていたのだ。

 

「……でも、私は、止める。こんなことになるとわかっていたのなら、もっと早く姉様を止めたかった!」

 

 ヴェルディアナは、机に手をついて、激しく首を振る。滴が、紙の資料に落ちる。古城を睨みつけてくる濡れた瞳に宿るのは、使命感。一歩でも踏み外せば、狂気に落ちてしまいかねない、激しさを秘めている。

 今の、姉の真意を知ってしまったヴェルディアナは冷静でいられるかの瀬戸際にある。むしろ、ここで話ができるだけの冷静さがあるのが奇跡なほどだ。かつての領民たちに対する責任感と焦り、姉への憤り、そして仇への復讐心が彼女の視野を狭めてはいても、まだ強行な手段は取らないだけの自制は効いている。

 

「だから、私は止める。今はネラプシ自治区のあの土地は、私の故郷なの。あそこに住んでいるのはカルアナの領民だった人たちなのよ! 姉様も父様も奪われて、もうこれ以上何も奪われたくない! 最後の領主の娘であるこのヴェルディアナ=カルアナが、ザハリアスと刺し違えてでも止めるわ……!」

 

 ザハリアス主催の『宴』―――それは、その千載一遇の好機だ。第二真祖直系の第九皇子が陣取る城砦を陥落させるほどの戦力を有した死の商人が自らの居場所を明らかにした上で、警戒することなく懐に招き入れてくれるのだ。

 もちろんザハリアスの周囲には、護衛の『匈鬼』がいるだろうが、関係ない。ヴェルディアナは命を捨てて刺し違えようとしているのだ。後のことなど考えてはいない。

 だが、ザハリアスの目前にたどり着くには、招待状を受けなければならない。

 

「ねぇ、アヴローラ、私と一緒に来てくれないかしら」

 

 ヴェルディアナが、強引に彼女の腕を取ろうとする手を堪え、唇を噛みしめながら、アヴローラに乞う。

 

「こ、古城……」

 

 アヴローラが、こちらを見る。

 古城が召喚に応じるのは不要だとアヴローラに進言した。彼女もそれは望まない、行きたくないとそういっていた。

 けれど、アヴローラは、ずっと孤独に眠り続けた彼女は誰かに必要とされることを求めている。これまで共に暮らし、世話をされてきた、この家族のようなヴェルディアナの頼みを断り切るなど無理なのだろう。

 また、『焔光の宴』は古城たちだけの問題ではなくない、同じような災害が絃神島でも起こらないとは言い切れなくなった以上、それを見過ごしていいのかと葛藤する―――しかし、それは“力があって”の話だ。

 

「俺は、『宴』に参加するのは反対だヴェルさん」

 

 これで純血の吸血鬼の怒りを買うのを覚悟して、厳しい口調で古城は言う。彼女の想いは聞いた、彼女の警告も聴いた。なのに、承服しかねるという態度の古城を、ヴェルディアナは濡れた瞳で睨んでくるが、それでも首を縦に振ることはできない。

 

「絶対にこんなの罠に決まってる。アヴローラだって、まだ戦えない。俺たちが行っても、大勢の<第四真祖>を従えるザハリアスの野郎にやられるだけだ。ヴェルさんも、無理だと自分でわかってんだろ」

 

「無駄死にするからやめろってこと……」

 

「違う。そうじゃない、もっと別のやり方があるはずだって言ってるんだ」

 

「そんなの、ないわよ。<滅びの瞳>の直系であるイブリスベール王子だって、ザハリアスに敗れたわ」

 

 暁古城が頼りにしていた魔族大虐殺者(みなみやなつき)であっても、半数の<第四真祖>の素体を従えるザハリアスには勝てない、と。

 『後輩(オレ)より全然強いぞ』と後輩からその実力のほどは聞いたことはあっても、傍若無人のカリスマ担任教師の力を古城は直接見たことはないし、『九番目』と対峙した時にその圧倒的な魔力の発露を肌に感じ、脳裏に刻みつけられたように今も憶えている。

 だから、ヴェルディアナを止められるほど強い提案(ことば)は、古城の口からは出なかった。

 

「それに、やっぱり、ダメなのよ。今日まで抑えて来れたけど……ザハリアス(あの男)は私の手で復讐を果たす!」

 

 我慢が出来なくなったときにぶつけられる相手(クロウ)がいたから、何もかも忘れさせてくれる(ドラッグ)になど頼らずに、平静を保ててはいたが、この絃神島で平穏な日々にあっても、この胸の内の復讐心は燃え尽きることなく、燻り続けていた。

 何も知らない古城が、復讐など無意味だと言えない。言うことなどできない。言えば、ヴェルディアナは古城を見限り、アヴローラを無理やりに連れていくだろう。

 だから、そこで口を開いたのは、古城ではなく、

 

「時を……刻限まで、『宴』に参加するかを考える時を、我は求む」

 

 ヴェルディアナと古城は、アヴローラの希望で、その場は解散。古城は家へと帰らされた。

 明日、彼女はこの日常を終わらせる決を下すことを予感しながら。

 

 

回想 彩海学園

 

 

 昼休み。

 学年がひとつ上がり、新しくなったクラスに、まだ馴染めないでいる。同じクラスメイトだったものもいるけれど、クロウは休み時間になるたびに教室を出てしまう。

 今も、食堂にもよらず、中庭外れにある長椅子に座っている。

 校舎の陰が、人気を隠す。あまり人の視界に入らない、目につきにくいこの中庭外れの空間は孤独感を覚えさせるもので、人が寄り付かない。

 そこでひとりクロウは、悟りを開けぬ僧のように、かたちのない答えを導き出そうと懊悩している。

 

「……………………」

 

 やり場のない感情を持て余して、彼は力なく空を見つめている。

 思考はまったく定まらない。身体の震えはぜんぜん止まってくれない。

 心身がブレを抑えられないまま時間だけが過ぎていく。

 その様は迷子のようで、いつまで経っても目指した終着には至らない、見事に艱難辛苦に参っている。

 答えを出して抜けきることも、そして、答えを諦め捨てきることもできないでいる。

 

「やっぱり、ここにいたのはクロウ君でした」

 

「―――」

 

 突然の声に顔を上げる。……いつからそこにいたのか、声を掛けられるまで気づかないほど没頭していたのか。長椅子の前に銀髪碧眼がよく目立つ同級生の少女が立っていた。

 

「叶瀬、か……」

 

 校舎内の喧騒は、遠くに聞こえる。別校舎の高等部にもファンのいる有名な『中等部の聖女』がそこにいて、中庭外れが静かであるというのは、彼女自身が人目を避け、そして、何か目的があってここに来たというのだろうか。

 人見知りでなかなか声を掛けられず、その神々しい気配より近づくのを臆させてしまう彼女がまだクラスに馴染めずにいるのは考えられることだけれど、それでも自身のように何か逃げる理由ではないはずだ。

 

「クロウ君と挨拶するのは久しぶりでした。ここ、座りますがよろしいですか?」

 

 夏音はクロウと同じ長椅子を遠慮がちに指さす。

 それを拒むことなどありえず、クロウが頷くとその隣に腰を掛ける。ただ、その状態は、心ここにあらず、といったものであるが。夏音は気にしていないようだ。

 

「お昼はどうしました?」

 

「ん……今は、何か食べる気がしないのだ」

 

 クロウの回答に、夏音は驚いたように少し目を丸くする。膝の上にお弁当を広げようとした手を止めて、

 

「本当にどうしました!? クロウ君が食欲ないなんて、大変です」

 

「む。そんなにおかしいのか」

 

「はい、大変おかしいです」

 

 良ければ話してください、とギュッと拳を作って見せる夏音にクロウはぽりぽりと頭を掻いて、

 

「……実はな、叶瀬」

 

「はい、何でしたクロウ君」

 

「春休みの宿題、まだやってないのだ」

 

「……、」

 

 気合を入れて聴く態勢だった『中等部の聖女』は、ぴしりと固まる。

 こほん、とひとつ咳を入れてから、夏音はめっと指を一本立てて見せた。

 

「それはダメでしたクロウ君。宿題を忘れるのはいけないことです」

 

「や、オレちゃんと宿題やろうとしたし、サボろうとはしてないぞ。やってないのはひとつだけなのだ」

 

「でも、提出期限は一週間も過ぎてました」

 

「うぐぅ……おかげでご主人からお仕置きで、ここ最近、ご飯がドックフードになってるんだぞ。でも、割とおいしいのだ」

 

 説教されて、がっくり肩を落としてしまう少年。夏音はクロウがあまり成績がよろしくないことを知っており、テスト前にたびたびその面倒を見ていたりする。だから、赤点なんて取れば、主人からきついお仕置きを食らわされるとかで真面目に勉学に取り込んでいる彼が、宿題をやり忘れるなど、あまり考えられることではなかった。

 ひとつ、ここは彼の友人として、丸写しはダメだとしても、手伝えることはないかと夏音は訊いてみる。

 

「やれなかった宿題は何でした?」

 

「読書感想文だ」

 

 そういって、クロウは長椅子の脇に置いてあった袋から、一冊の本を取り出して見せる。

 

「ご主人が『今の馬鹿犬に合わせたものだ』って、渡してくれたものなんだけどな」

 

 今年度から中等部より高等部へと移った彩海学園のカリスマ教師が、自身が保護している少年に勧めたそれは、絵本。表紙に書かれたタイトルは、『ごんぎつね』。

 夏音は、ページを開いて物語の内容(あらまし)を読んでみる。

 

 

 

『ゴンは両親のいない子供のキツネで、悪戯好きで、いつも村人を困らせていました。

 ある日ゴンは、川に仕掛けられた魚を捕獲する罠を見つけ、そこにいたウナギを逃がすという悪戯をしてしまいます。

 その悪戯のせいで、村人の青年は病気の母親に好物のウナギを食べさせてやることができず、母親は亡くなってしまいました。

 

 青年の母親の葬式を見たゴンは反省し、同じ境遇の青年に同情しました。ウナギを逃がした償いとのつもりで魚屋からイワシを盗んで青年の家に投げ込みますが、その翌日にゴンは青年がイワシ泥棒と間違われて、魚屋から殴られたことを知りました。

 ゴンは自分の力で償いをしなければならなかったと悟り、後悔します。そして、今度は山にあるクリやマツタケといった食べ物を採ってきては、青年の家まで届けるようになりました。

 

 しかし、青年は知人からの助言からそれを神様からの施しだと思ってしまいます。

 そのことにゴンは寂しさを覚えましたが、めげずに栗を届けに行きます。だけど、またゴンに悪戯されると勘違いした青年に、鉄砲で撃たれてしまう。

 

 そして、駆け寄ったゴンのそばにクリがあったことが目に留まり、青年は最後の最後で、ゴンの詫びとその優しさに気が付く。

 

 『ゴン、いつも食べ物を届けてくれたのはお前だったのか?』と青年の問いに、ゴンは青年が最期に気づいてくれたことを知り、目を閉じたまま頷く……』

 

 

 

 それで、このお話は終わり。めでたしめでたしと締めくくることもなく、絵本は裏表紙を見せる。

 あまり文字量の多くない薄い絵本ということで3分もかからずに読めてしまう。ただ、夏音はこのなんてことはない読書感想文の宿題を、少年ができないのを納得することができた。

 普段、この少年はすぱすぱと物事を決めていくあっさりとした思考をしているけれど、一度考え込むと思考が行き詰ってしまうことを夏音は知っている。

 

「……クロウ君は、この本を読んでどう思いましたか?」

 

「ん……

 

 なんか……

 

 こう……」

 

 思うことがいっぱいあった、と続くところを、クロウは喉を絞めて押し伏せた。

 感情移入(かんがえ)させられることがあり過ぎて、彼はまだ自分の中で言葉にして固めることができなかったのである。

 夏音はそれが形になるのをじっと待ち続ける。

 

「ゴンは、悪いやつだ。やったことも悪いし、やり方も悪い、そして、間も悪い。でも、悪気はなかったし、青年(ひと)と仲良くなりたかったと思う」

 

「……では、この青年(ひと)のこと、クロウ君はどう思いますか?」

 

「気にするな、と言いたいぞ。オマエは悪くない。うん、悪くないのだ」

 

 夏音を見ずに、前を向いたままクロウは語る。

 迷いに満ちた、彼らしからぬ弱々しい声で、けれどひたすらに“青年”を弁護するように繰り返す。

 

「“ゴン”はやったことが、悪い」 遺跡に到着が出遅れたせいで、助け出せず、“業”を背負わせることになった。

 

「“ゴン”はやり方が、悪い」 この身体に流れる半分の“(ごう)”に無知なままだったせいで、怖がらせた。

 

「“ゴン”は……間が、悪い」 あの時、死を覚悟し―――だが、“彼女”はその引き金を引かなかった。

 

「でも、ゴンは、青年にわかってもらえた。だから、それでいいのだ。いいんだけど、なんかな。もやもやってするんだぞ。それがわからなくってな、感想文が書けないのだ」

 

「……たぶん、クロウ君は、ゴンに嫉妬しているのでした」

 

 あれだけ元気のなかった少年の顔が、夏音の指摘で蘇った。

 クロウは頭上に光が差し込んできたのを見たように、ぱちぱちと瞬きして夏音に顔を向ける。

 

「そうか。オレはたんに、わかってもらえたゴンが羨ましかったのか。オレはオレの中に、そういうのがあるなんて、気づきもしなかったのだ。

 む、でも、困るぞそれ……」

 

 懺悔のように呟くクロウに、夏音は目尻をほんの少し下げた穏やかな視線を送る。

 

「クロウ君は、凪沙ちゃんと仲良くなりたいのでした」

 

 だから、拒絶される彼女に近づこうとした、とこれまで二人を見てきた第三者の聖女は評す。

 

 自覚するには遅すぎるとは思うものの、ずっと前からその感情は根付いていたはずだ。

 心の傷がそう滅多に表に顕わさない鉄の心臓の持ち主の友人が、夏音のここぞとばかりに続けた指摘に苦虫を噛んだような表情を浮かべる。

 

「うー……なんというか、違うと思うぞ叶瀬。仲良くなりたいとかじゃなくて、ただ同情だけで近づいたんだとオレは思う」

 

 きっと―――ただ同情だけで彼女に近づいた。

 あまりにも重すぎる“業”を負った彼女を気に掛けたのはそれが理由。

 その気持ちは今も変わっていない。そうクロウは思っている。

 ……ただ、あの時、傷つけてしまったから、彼女を大事に考えるようになった。そして、今は……

 

「……!」

 

 反射的にこぼれる悲鳴を咄嗟に手で押さえつける。

 『楽園の護り手(さべつしゅぎしゃ)』らから助け出した少女に、クロウは、心底から臆した。

 殺されずに拒絶されたクロウが、殺されて理解してもらえたゴンを羨み、けれど、“あの理解しえない震え”をクロウは覚えている。そう、今も思い出すだけで蘇る震えを……

 

「情けないぞ、オレ」

 

「どうしてでした?」

 

 そんな震えるクロウに、夏音は首を傾げてみる、その青く澄んだ瞳に見つめられて、やがて根負けしたクロウは、腕を抱いて、あまり言いたくない己の恥を口にした。

 

「むぅ、今のオレは、暁を見ると震えちまうのだ。だから、何か、それが格好悪いんだぞ」

 

「震えるのは恥じることでもありません。

 クロウ君。人間は、怖いことがあったら震えました。ですが、哀しい時や、怒った時や、嬉しい時にも震えるものでした。

 人間は震えるようにできているのでした」

 

「……そう、なのか?」

 

「はい、そうでした」

 

 夏音が頷くのを見て、クロウも自然と頷いていた。

 こんなにもあっさりと肯定されるなんて、少年はそこまで単純思考であったのか、それとも聖女の言葉は自然説得力が宿るものか。この耳に馴染みある清らかな声が、どんどん心に染み込んでくるよう。

 

「―――う、叶瀬。ここは悩むところでも、迷うところでもなかった」

 

 よっと勢いよく席を立つクロウ。

 正直に言って、『暁凪沙』に恐怖を覚えているのは、間違いがない。あの時感じた“死”は、『九番(クロウ)』に最も刻まれているあの記憶と重なったのだから。

 でも、この“震え”は、きっとそれだけではない。

 

「結局、オレにできるのは進むことだけだったのだ」

 

 逸る気を抑えようと、腕を上げて、深呼吸。

 『焔光の宴』も、<第四真祖>も、どうでもいい。

 進む。彼女に近づく。この“震え”を受け入れられたクロウの頭にあるのは、それだけ。

 自分でも不思議なくらい、シンプルな答え。

 『ごんぎつね』を読み、文字として感想を書き込めないと思った時と同じよう、クロウは今この感情を何と表現すればいいのか、わからない。夏音もまた今のその表情を見て、口を開きかけたが、なんとなく野暮と思い、指摘はしなかった。

 言えることは、ひとつ。

 

「じゃあ、叶瀬、ちょっと会いに行ってくる」

 

「はい、いってらっしゃいクロウ君」

 

 

 

 

 

「その前に、ちょっと弁当くれないか叶瀬。なんか頭がすっきりしたら、お腹がすっきりしてることに気づいたのだ」

 

「いつも通りのクロウ君に戻ってくれて安心しました」

 

 ……訂正、ふたつであった。

 

 

回想 りあな号

 

 

『すまない。そして、楽しかった。ありがとう』

 

 

 置き手紙が、船室のテーブルにあった。

 

「―――くそっ!」

 

 机を拳で叩く。その威力に机に罅が入り、また指の骨から鈍い音。それも『血の従者』である古城には一呼吸で完治してしまえる。

 

「オマエは殺して壊すための兵器なんかじゃないだろアヴローラ!」

 

 予感はしていた。

 だから、学校を昼休みに抜け出し、ここまで息を切らして全速で走ってきた。それでも、止めてやることもできなかった。

 古城を巻き込まないよう、古城を置いて、もうあの二人は出立してしまっている。

 

 <第四真祖>の『血の従者』故に、今の古城は人間ではない。

 人間の時よりも身体能力が上がり、そして、“不死身”。

 だが、そうであっても、不出来な吸血鬼である『匈鬼』の兵隊にも敵うかどうか。眷獣を召喚できる純血の吸血鬼には瞬殺され、肉壁にすらなれない。

 間違いなく足手纏いであり、そして、彼女はその足手纏いを抱えて戦えるほど強くない。満足に戦えるかどうかもわからないのだ。

 ならば、犠牲は少ない方が良い。

 冷静な思考が、彼女の配慮を理解する。

 しかし、憤激する裡は、納得できないと吠え立てるように叫んでいる。

 

 行く先は覚えている。

 ヴェルディアナに連れられ、アヴローラが向かった先は、ザハリアスが指定した儀式会場の絃神島・旧南東地区(アイランド・オールドサウスイースト)だ。文字通り、絃神島本島の南東海上に浮かぶ、人工島の一区画である。

 実験的に構築された試作人工島として造り出され、島の領土を広げるための建設基地(ベースキャンプ)として利用されていたエリア。まだ人間や魔族と言った住人はいるだろうが、東西南北の四基の人工島が完成した今は、役目を終えて跡地であり、残り数年ともたない耐用年数に迫った廃棄エリアとなっている。

 

 この老朽化が進む廃墟の人工島が、死の商人たるザハリアスが主催する『宴』の開催地。

 

「『焔侊の宴』に……行くぞ」

「―――やめておけ、死ぬだけだぞ小僧」

 

 どこかふざけているような皮肉気な忠告が飛んできた。

 声の方を向けば、無精髭を生やした長身の日本人が、その長い脚で船室の出入り口を遮っている。身に着けているのは色褪せた革製のトレンチコートに中折れ帽。時代遅れのマフィアの一員か、売れない名探偵を気取ってる人物は、細長いゴルフバックを肩に下げて、古城ににやけ笑いを送ってる。ただ、その頬はこけて、目元にはしばらく眠っていないせいで隈が浮かんでいる。

 

「こっから先は根性(コンジョー)だけじゃどうにもならねぇよ、古城だけに」

 

 寒々しいオヤジギャクをぶちかまされて、忌々しげに男を睨みつけていた古城は頭の血管が切れるような幻聴を耳にした。

 

「今更何しにきやがった、クソ親父!」

 

 古城の父親――暁牙城という男は考古学者で、世界各国の紛争地帯を巡っては戦闘のどさくさに発掘品を掠め取ってくるような、火事場泥棒まがいのフィールドワーカー。

 それ故に、古城はまともに会話を交わしたことが数えるほどしか記憶にない相手だ。

 今は絃神島にある市立大学に研究所をもって、そこの客員教授をしているそうだが、これまでこの絃神島に行われている『焔侊の宴』には時折助言を送る程度で、アヴローラとは最初の顔合わせ以来会っていない。

 

「なにって、そりゃ勘違いしてるバカ息子を止めに来たんだよ」

 

「何?」

 

「ま、つい最近まで俺たちもそう勘違いしていたんだが―――古城、前にお前がいっていた後輩の意見が正しかった。

 凪沙が『十二番目(アヴローラ)』の記憶を奪ってるっつうのは間違いだったつうことだ」

 

 『妹(娘)を救うには、アヴローラに奪っていた記憶を返さなければならない』、と古城に教えたのは、牙城だ。それが、最初から間違っていたと手のひらを返す。

 そう、後輩が語った第一印象の通り、アヴローラは記憶も力も凪沙に奪われてはいなかったのだと。

 

「俺たちは最後の賭けに失敗しちまってることにようやく気付いたってことだ」

 

 牙城がつまらなさそうな口調で言う。古城は最初、何を言っているのか理解できなかった――この父親が抱いている絶望を共感したくなかった。

 だが、気づいた。ヴェルディアナに、姉リアナの<焔光の夜伯>の研究論文を渡したのは、父親。それが発火剤となることを知った上で渡したのならば、それは背中を押したのも同然だ。

 つまり―――この展開は、牙城が望んでいたものだということだ。

 

「気に喰わねーが、ザハリアスの野郎に『宴』をやってもらうしかなくなった」

 

「てめェは―――!」

 

 ブチ切れた古城が、父親の顔面を目がけて渾身の右フックを放った。手加減など考えていない。まともに入れば、牙城の頭蓋骨を粉砕しかねない。

 しかし疑似吸血鬼『血の従者』の腕力で放たれた息子の攻撃を、牙城は余裕の動きで回避する。

 

「おおっと……危ない危ない。怖い怖い」

 

「こんのクソ中年が―――!」

 

 暴れるには狭い船室内で、窮屈ながらも小刻みな左ジャブを連打する古城。その渾身の連続攻撃は、牙城の動きに翻弄されて虚しく空を切る。

 そして、牙城は人間にも回避できたそのパンチを鼻で笑い、

 

「ほらな、思ったとおりだ小僧。丸腰のお前じゃ、ザハリアスの『匈鬼』ひとりも相手にできねーよ」

 

「なっ!?」

 

 牙城の予期せぬ行動に、不意を衝かれた古城は反応が遅れた。いつの間にか牙城の手の中には、船室のキッチンに置かれていたタバスコの瓶が握られていた。

 そして古城の死角から、牙城は瓶の中身を思い切り息子の顔面へとぶちまけた。

 飛来する液体の全てを完全に避けるのは、『血の従者』の反応速度をもってしても不可能なタイミングで。

 タバスコをもろに眼球に浴びて、古城はたまらずのたうち回る。

 

「ぐおおおおおっ……目があっ、目がぁっ!」

 

 タバスコの飛び散った船室の惨状が、転がる古城の身体で更に荒れる。

 充血した目を擦りながら、よろよろと上体を起こした古城は突きつけられる。

 

「これで、チャックメイトだ」

 

 牙城がゴルフバックから取り出した銃のようなものを古城に向けていた。

 それは、折り畳み式の黒いクロスボウ。ライフルに似た銃身にはすでに矢が装填されている。霊力を封じ込めた長さ15cmほどの補助輪(エクステンダー)――三枚の小さな安定翼がつけられた、銀色に輝く金属製の矢。直径4cm近くにも達するそれは、矢というよりは杭というイメージに近い。表面には細かな魔法文字がびっしりと刻まれており、仄かに青白い輝きを放っている。

 それは怒り狂う古城の思考を一気に冷まさせるほどのものだ。

 

「こいつは、『柩』の鍵。魔力を無効化し、ありとあらゆる結界を斬り裂く、真祖殺しの聖槍だ」

 

 これをヴェルディアナに使わせて、アヴローラの封印を解いた。真祖でさえ殺し得るこの杭に撃たれれば、半端な吸血鬼である『血の従者』など、一発でおしまいだ。

 

「普通ならこの世界に三本しかない『天部』の遺産なんて、巫女でもない俺が使えるものじゃないんだが、呪式銃のカートリッジと同じ原理で、まあ、一回きりの使い捨てになるんだが、薬莢のおかげで“誰でも扱える”」

 

 つまり、それは牙城にだけでなく……

 

「けっ、半端な吸血鬼もどきの小僧に使うにはもったいなさ過ぎるシロモンだ。本当に大変だったぜ。この薬莢のために、アルディギア王宮に頼みに行ったんだが、そこで久しぶりに会ったポリフォニア王妃、深森さんと同じで見た目は変わってなかったし、中身もとんでもない跳ねっ返りで腹黒のまんまだった。しかも、その娘の王女も同じくらいじゃじゃ馬だった……まあ、母娘ともどもおっぱいばいんばいんな感じでいい女なのは間違いなかったけどよ」

 

「おい、その苦労話、母親にしてもいいか?」

 

「ぶっ!? ばっか、俺は妻一筋だ! 誤解されちまったら、深森さんに何を―――」

 

 ―――すべてを言い切る前に、古城は飛び掛かった。母(妻)の話を持ち出され、動揺した一瞬。これで終わったと虚を衝かれた牙城はそのスピードに身体がついていけない。人間の筋力で引き出せるような速度ではなく、並の吸血鬼を明らかに凌駕した身体能力で古城は、牙城に体当たりをぶちかます。

 牙城の身体が船室の出入り口の扉にぶつかり――ぶち破り、甲板に転がる。起き上がってくる気配がない。顔の上に乗ったその中折れ帽子に覆い隠されて、その表情は見られないが、どうやら一発KOで伸びているようだ。

 

「くそ……」

 

 船室から外に出てきた古城が、転がっていたゴルフバック、そして、聖槍である杭を撃ち出すための薬莢付きのクロスボウを拾う。

 古城はクロスボウを折り畳んで杭と一緒に、ゴルフバックに入れる。これで街中を歩いていてもカモフラージュになり、怪しまれることはない。

 それから、倒れている牙城を見下ろして、悪態をついた。

 

「……三文芝居させてんじゃねーよ、このバカ親父」

 

 

 

 

 

「……はっ、しょぼすぎる相手に合わせてるから大根役者になっちまったんだよ、バカ息子」

 

 息子は、行った。

 自分や妻は介入してはならない『焔光の宴』へと。

 その背中を見送ってやることはなく、目を瞑ったまま牙城は肋骨に罅くらいは入ってる胸元をさする。

 

「……まさか最後の最後でアイツに頼ることになるとはな」

 

 まだ少し頼りない息子だが、聖槍を突き付けられても動けたのを思い返して、牙城はクックと愉快そうに笑う。

 古城だけに、根性がある。この父親への対抗心からかもしれないが、それでも覚悟があることを確かめられた。

 牙城の役目はもう終わった。他にもいるかもしれないが、牙城が期待した、凪沙(むすめ)を救える可能性は、古城(むすこ)だ。<第四真祖>の『血の従者』と化した古城の存在は、『焔光の宴』の不確定要素(イレギュラー)だ。

 それはザハリアスにとっての不確定要素ではなく、裏から糸を引いている連中――獅子王機関にとっての不確定要素。

 最悪の場合、牙城は子供たち二人とも失うことになるが、それでも牙城は古城に賭けることにした。それにこの大博打の勝率を上げるためのプレゼントも今、渡してやった。

 そして、

 

 

「先生、すまねぇが、あのバカ息子を助けてやってくれ」

 

 

回想 彩海学園 

 

 

 校長室より上階にある攻魔師カウンセラーに与えられた一室。

 そこに、この執務室の主として、椅子に座す魔女と、それと相対する巫女。

 ヴェールのような薄絹に覆われ顔を隠すが、明らかにまだ若い。おそらく、学園に通う生徒らとさほど変わらない年齢だ。しかしながら、見た目が幼き魔女よりも大人、小柄な体つきに不相応な巨大な二つのふくらみが胸元を押し上げており、形といいボリュームといい張りといい、幼児体型などとはとても呼べない代物をお持ちである。

 その彼女が身に着けているのは、金箔と無数の宝石をちりばめた絢爛豪華な巫女衣装。そして、薄絹の間より覗かせるその髪の色は白い。ホッキョクギツネの毛並みを連想させる、神々しいまでの純白。

 

「永遠に膨らみ切ることのなく、眠り続ける蕾とは、中々風情のあるものよな」

 

 声が響く。

 場が蠢く。

 糸が震える。

 老練な重さを感じさせる主は、しかし空気に反して、この年若き巫女のもの。

 “魔族に似て真なる魔族に非ず”存在である彼女の一族が引き継いできたその力は、霊糸と接続させることで、数百人、或いは数千人と完全に同期して統率する能力。

 この現代社会において、直接的な戦闘力よりも、ある意味遥かに危険な、使い方次第では国家そのものを操ることすら可能な能力。

 <神は女王を護り給う(テオクラテイア)

 己の純白の毛髪を触媒とすることで、他人の霊体にすら自由に干渉することができる日本最強の攻魔師のひとりは、そこにあるがけして触れることのできない、湖面の月の如き魔女の幻像(みなみやなつき)をこの場に拘束していた。

 

「しかし、其方のような力ある不確定要素(イレギュラー)に介入されると、今後の世界情勢を左右する、大事な儀式が台無しになるかもしれんのでな。解放はできん。このまま愛でさせてもらおうか」

 

 濃密な魔力が通された霊糸を隙間なく張り巡らせた網の中では、空間制御の魔術は干渉されて使えない。

 空を飛べる翅があろうと、蜘蛛の糸に囚われた蝶に等しい。

 

「一応、自己紹介をしておこうか。

 当代の獅子王機関『三聖』がひとり、(くらき)白奈だ。何もできんと思うが、よろしくの」

 

 五本の指に入る実力者である国家攻魔官を封じながら、その見える口元が艶然とした笑みの形を作る巫女。

 国家公安委員会に設置されている魔導テロ対策の特務機関―――そして、この絃神島で行われている『焔光の宴』を仕切る『采配者(ブックメーカー)』である、獅子王機関。その頂点のひとり。

 

 その獅子王機関を“商売敵”と認識していたが、この事態を顧みるにそれは改めなければならない―――那月はこれまでこのノックもせずに突然現れた来客を無視して口をつけていた紅茶のカップを置く。巫女を怜悧な視線で見やりながらだったせいか、目測を誤りやけに力強くカップが置かれて、受け皿(ソーサ)に罅が入ってしまったが。

 

「裏で糸を引いて、武器商人と繋がり、没落貴族を道化師(ピエロ)にしていた“蜘蛛”が、この国の対魔導対策の捜査官の長とは、世も末だな」

 

「おう、言ってくれるな<空隙の魔女>。じゃが、これも『<第四真祖>の覚醒』という目的を果たすためよ」

 

 那月の非難を受けて、苦笑しながら『三聖』は語る。

 

「我々獅子王機関は、魔導災害の阻止のためにある。しかし、今回の任はいささか面倒でな。地震と同じで止めることのできない類い。ならば、出来るのは被害を最小限に抑えることしかなかろうて」

 

 『原初のアヴローラ』を起こそうとしたザハリアスの儀式魔術によって、もうすでに数十万人単位の大規模観戦(アウトブレイク)が発生している。

 しかし、それでもまだ被害は抑えられている方なのだ。

 

「我々の最優先目標は、覚醒した<第四真祖>が日本国外に流出するのを阻止すること。あれは、殺神兵器。いずれに国家が所有しても、世界の軍事バランスは崩れるじゃろう。辛うじて妥協できるとすれば、それは専守防衛を標榜とする我が国の『魔族特区』――この絃神島で管理すること。それ以外にはあり得ん」

 

 一流の攻魔師が束になったところで、歯牙にもかけずに一蹴されるだろう。歴史上、<第四真祖>の素体は時折覚醒しては、各地に災厄を振り撒いていたが、あれは人間がどうこうできる存在ではないのだ。

 たったひとりで一国と戦争ができてしまえる『世界最強の吸血鬼』という殺神兵器。

 その存在は、世界大戦の火種となりかねず、そして、君臨すればそこは如何様な新興勢力であろうと新たな『夜の帝国』の地位を手に入れる。如何なる国家勢力が手に入れても、<第四真祖>は世界を不幸にさせる。この世にあっていいモノではないのだ。

 

 だが、その例外的な安全地帯が、この絃神島だ。

 

 太平洋上に建造された人工島である絃神島に接する隣国もなく、また食料や生活物資の輸入が生命線である以上、<第四真祖>が自ら領地として支配したとしても、他国に戦争を仕掛ける心配もない―――少なくともそれで建前上、<第四真祖>の存在を恐れる他国を納得させる十分な説得材料とはなる。

 

「聖域条約に基づいて、あらゆる魔族の受け入れと政治利用の禁止を規定された『魔族特区』ならば、<第四真祖>を安全に“隔離”することができる、ということか。

 ―――それで、そのためにどれほどの犠牲を払うつもりだ?」

 

「ふむ。とりあえず、廃棄が決定された旧南東地区(オールドサウスイースト)に住んでいる2000万は巻き込まれるな。絃神島の全人口から算するに、五厘以下じゃ。『匈鬼』らの自治区の被害状況と比すれば、微々たる損害だ。まずまず上出来ではないか<空隙の魔女>」

 

 悪びれることなく、『三聖』は成果を述べる。

 

「そして、すでに『戦王領域』と『混沌界域』、残る5体の<焔光の夜伯>と一緒にその使者が来ている。それを交渉材料に<第四真祖>と我々は平和条約を締結させる。

 まあ、それで決裂するかもしれんが、そのときは、儂ら獅子王機関が<第四真祖>を抹殺する。『采配者』に選ばれたものとして、吸血鬼の真祖をも滅ぼし得る切り札はすでに確保してあるのでな」

 

 たとえ『焔光の宴』を中断しようとも、一度目覚めた十二の素体は世界のどこかで災厄の如き力を振るうことになり、こちらの管理外で無尽蔵の被害を人類にもたらす。

 ならば、こちらの管理下で覚醒させ、被害をコントロールし、そして二度と蘇らぬよう徹底的に抹殺する。それこそが賢明な判断というものだ。

 

「くっくっ……憤りを覚えたのが霊糸を通して伝わってきおったわ。存外、甘いやつよな<空隙の魔女>。いや、それが其方の本質か。青い青い。いずれにしても其方の出番はあるまいよ<空隙の魔女>」

 

 だから、『三聖』闇白奈は、世界平和という正義を掲げて、この絃神島の守護者であり、素体らを<監獄結界>に閉じ込め、獅子王機関が描く『焔侊の宴(シナリオ)』を台無しにしかねない<空隙の魔女>を抑えている。

 

 

 

「―――止めるべき相手を間違えたな」

 

 

 

 その正義に魔女は失笑を零した。

 

「貴様の言う通り、『聖殲』の遺産、<第四真祖>は殺神兵器と呼ばれるものだ。人間と魔族の始祖(かみ)同士の戦争で、相手の神を殺すために兵器(どうぐ)が造られたが、“現存する殺神兵器は<第四真祖>だけではない”」

 

 たとえば、七つの大罪を冠した規格外の魔獣や、『哪吒太子』の原型である超古代戦車(オーバーテクノロジー)は、神々が造り出した神話の時代の生体兵器。

 そして―――

 

「あの人形どもはわかっていたようだぞ。『焔侊の宴』から取り除いておくべきものは何なのか」

 

 この『焔侊の宴』は、下手に深入りすれば、『三聖』であっても巻き込まれかねないため、闇白奈の耳に入る情報は制限がかかっていた。だから、計画の全容は知っていても、進展の全てを報されてはおらず、現地入りしたのも今日。

 だが、それでもひとつ、『戦王領域』で独断行動を許している素体らが、ある特定の人物を追い回していると報告があった。

 しかし、

 

「知らんでも無理はない。馬鹿犬は、<第四真祖>と比べれば、犬ころだ」

 

 それは、“この<空隙の魔女>と関わりあるものだから”と見ていた。素体らの脅威となる魔女の有している戦力を削るため。だから、こうして『三聖』が直々に赴いて、『剣巫』や『舞威姫』では荷が重い<空隙の魔女>を抑えに来た……

 だが、もし、<焔光の夜伯>が脅威と見ていたのが、<空隙の魔女>ではなく―――

 

「……<黒妖犬>――其方の使い魔も、殺神兵器だと?」

 

「いいや。あれは中身が満たされていない“未完成な器”。

 ―――逆に言えば、それだけ“可能性”があるということだがな」

 

 それは、成長や変化と言い換えてもいいもの。

 そして、殺神兵器に備わる機能の中で最も危険視されるのは、学習能力(ラーニング)

 古代の生体兵器(ナラクヴェーラ)が、空間断絶の斬撃に斥力場を発生するようになった学習能力―――それを持っている。

 魔女との死闘の中で転移先を予測する勘が鋭くなっていき、古兵の獣王が編み出した奥義を体感して己に合った体技を学習していくなど……

 そして、雷光の獅子の一撃で行動不能に麻痺していた攻撃を、その次回には雷撃を受けながらも行動できるようになるほどの耐性を獲得していった。

 

 そう、今はまだ犬ころであっても、いずれは最強の存在を降す者に進化す(化け)る可能性があるのだ。

 

「魔族か人間か、どちらかの始祖(かみ)に造られたものかは、人形どもに追い掛け回されてることから容易に推察できよう。馬鹿犬には“いい刺激”になっただろう」

 

 巫女の白髪が、部屋に張り巡らされた霊糸が、ざわめく。

 

「……魔女が、殺神兵器を飼っておるのか」

 

「なに問題はなかろう? ここは“<第四真祖>の管理地としても”認められる日本国の『魔族特区』なんだからな」

 

「それは、あくまで獅子王機関(われわれ)の管理下にあっての話だ」

 

 霊糸を張り巡らせた結界の中で、身動きの取れない魔女へ巫女の手より霊糸が伸びる―――よりも先手を打った魔女の銀鎖<戒めの鎖(レーシング)>が、巫女に絡みついた。

 

「なに……っ!?」

 

「私からも言ってやろう。―――貴様の出番はない」

 

 神々が打ち鍛えた銀鎖が『三聖』の魔力に制限をかけ、霊体を直接干渉できる『闇』の霊糸が魔女を縛る。

 両者ともに、身動きができない状況だが、魔女は、空間転移による脱出など考えてはいない。

 

 

「“蜘蛛”如きに、私の眷獣(サーヴァント)の幉を引かせてやるとは思わないことだ」

 

 

回想 道中

 

 

『暁主任がお呼びです。凪沙さん、今すぐに早退してもらえませんか? 先生にはあとで私から連絡しますので。あ、荷物もスタッフが回収します』

 

 スーツ姿の背の高い女性は、遠山美和。MAR研究員で、医療部門主任である母暁未森の助手をしている人。常に無表情で、人間らしさを感じさせないとっつきにくい人物だけど、顔見しりで病院に行くたびにお世話になっている。

 だから、彼女からそう言われたとき、何の疑いもなく頷いた。途中、廊下であったクラス委員長の甲島桜にその旨を伝えて、学門前に停めてあった車――特区警備隊の装甲車両に乗り込む。

 分厚い鋼板に覆われた車内。座り心地の悪そうな平たい座席。車輪を駆動する電気モータから発する唸り声に似た低い騒音。この小刻みに揺れる車内に酔わないよう、車窓を開ける。

 

 そして、数分後。

 流れ行く景色を見ていると、ふと、移動しているルートが病院からは離れていくのに気付いた。

 

 研究所付属の病院があるのは、人工島北地区なのに、今通っているのは人工島南地区へ行く道路で真逆だ。

 さらには、武装した機動隊員や、対細菌・化学兵器用の防護服を着た人々の姿が見える。まるで内戦中の都市を見ているような物騒な光景。

 ―――ニュースで見た、そう、兄がとても気にしているようだった、遠い異国の地で起きた大規模感染(アウトブレイク)と重なる……

 その何かある先へと車は向かっている。

 

「遠山さん? ねぇ、どこにいくの? 深森ちゃんのいる病院はそっちじゃないよね?」

 

「………」

 

 運転する彼女は何も答えない。

 そして、

 

『人工島管理公社より、絃神島の皆様にお知らせします―――』

 

 開けた車窓から、聴こえる。上空を旋回する特区警備隊の無人広報ヘリのスピーカーより流し続けられる無感動な人工音声。

 

『本日、人工島・旧南東地区において、新型感染症の疑いのある患者が発見されました。感染拡大の恐れがありますので。予防措置として、安全が確保されるまで、旧南東地区への往来を禁止。連絡橋を封鎖いたします』

 

 え……?

 思わず、車窓から頭を出して、飛び去って行くラジコンヘリの行方を目で追う。だけど、繰り返される内容は同じ。目眩にも似た焦燥を抱く。

 このタイミングでの新型感染症――遠く、名前も聞き覚えのない土地で起きているのと同じタイプのものなのだろうか。

 この行く末を幻視した。世界が表層の皮一枚を剥ぎ取られて、その下の真っ赤な血肉が曝け出されるのを見せられるよう、平穏な日常の裏にあった真実に近づく悪寒。

 

『現在、旧南東地区への一切の渡航を禁止しています。また旧南東地区に立ち寄った船舶は、寄港せず沖合で待機。検査官の指示に従ってください。違反者には罰則が科せられます。繰り返します―――』

「遠山さん! そっちに行っちゃダメだよ! 早く引き返そう!」

 

 叫んで、訴える。

 けれど、彼女の返答はなくて、運転席からの操作で車窓は閉じられ、ドアにもロックが掛けられた。

 それでも危機感に突き動かされる凪沙は、ドアに体当たりを―――

 

「っ、この―――」

「―――暁深森が無事でいてほしければ、大人しくしていなさい」

 

 その脅し文句に、硬直する。

 深森(はは)に何をしたのか、と凪沙は鋭い眼差しを送る。

 逃がさない。

 ミラー越しからその怜悧な視線がこちらを刺す。

 

「彼女の身柄はすでに我々の手で確保しています」

 

 そして、目で抵抗を奪った彼女は、前を見て、その鉄仮面がわずかに揺れた。

 

「ぇ……………」

 

 常に無表情な遠山美和が、驚いている。

 何か思わぬものに遭遇したような、彼女らしからぬ思考停止。

 それが何であるかが気になって、自分も前を見てみる。

 

(………な、に?)

 

 遠山の視線の先、その遠くに、あるのは何か?

 この電波時計のように正確な女性を驚かせる想定外の事態とは何なのだろう?

 

 行く手に“彼”が、いた。

 

 あまりにも見事に、その少年は立っていた。

 耳付き帽子首巻手袋コートをどこか騎士っぽく着こなす彼の、背筋をしゃんと伸ばしている姿勢が、目を奪った。生物は、危険を感じると、身体を前傾するか後ろにのけぞるかする。なのに、彼は、“震え”を受け入れたというかのように真っ直ぐに立っていた。

 

「……っ!」

 

 アクセルを踏まれ、エンジンの回転数が一気に上がる。

 

「遠山さん!?」

 

 急加速する乗り物は、構わず、あの少年を轢こうとしていた。それを止めようと彼女の肩を掴むも、女児の腕力ではびくともしない。

 ―――だが、車はその男児の腕力で止められた。

 

 

 

 限界までアクセルを踏み切った装甲車両と衝突しながら、衝撃を受けたのは少年、南宮クロウではなく、車両の方だった。

 相撲のがぶり四つのような力勝負。バンパー下に入れられたその両手で抑えられ、数mほど擦過痕を足が引きながらも、車を吹っ飛ばすことなく、横綱の如く全てを受け切って、少年は停めた。

 ―――と、運転席から、遠山が飛び出す。

 その手には、魔族をも昏倒させる出力が出る電磁警棒。それを最大出力で振るう。

 

「ビリビリにはもうとっくに慣れた。オレを壊したかったら、こんな玩具じゃなくて、怪物を連れてくるのだ」

 

 白羽取りよろしく、手袋越しに片手で掴み取った電磁警棒を握り潰す。

 

「填星/歳破!」

 

 だが遠山は、武器破壊にも怯まずに、逆に懐へ潜り込んだ。そして人体の急所に向けての零距離からの一撃を放つ。火事場の馬鹿力とばかりに人間の限界を超えたその動きは、クロウの予測を上回っていたのか、攻撃をもらった。

 

 横隔膜を打つ掌。

 『八将神法』――獅子王機関の一点を穿つ暗殺拳は、魔族であっても一撃で仕留める。

 

「<(ゆらぎ)>よ!」

 

 対魔族用の凶悪な内蔵破壊技―――しかし、それは通らなかった。

 密着することで効果を発揮する技。その皮膚に触れるまで1cmほどのところで遠山の手は止められていた、不透明なものに侵攻を阻まれている。

 生体障壁。

 気を硬め、防御する。その濃密な生命力の鎧は、分厚い鉛のようで全ての衝撃を遮ってしまい、身体強化した攻魔師の一撃であっても内部まで威力が伝わらない。

 

 なんという硬さだ。

 人型でありながら、並の獣化した獣人種を超えている。

 武神具もなくこの相手をするのは危険。

 

「―――む、来たな」

 

 距離を取った遠山にクロウは反撃せず、それよりも弾かれた勢いのまま車に跳び、その中で固まっていた暁凪沙を引っ張り出す。

 同時、暴風と共に“彼女”が現れる。それから、隠すよう暁凪沙を背にし、前に立つクロウ。

 

「……『九番目』」

 

 他番号の娘とは何度か顔合わせているが、彼女とは一度目の顔合わせ以来。これで二度目となる対峙。灰色の防護服を着た、金髪の少女。防護服の肩には“Ⅸ”のマーキングが刻まれている。

 

「これより先は認められたものしか立ち入りは許されん。汝は呼ばれてはいない。命が惜しければ疾く去れ」

 

 高圧的な口調で警告を発する『九番目』。さらにその背後より彼女と同じ顔をした二人の娘が歩み出る。彼女たちの防護服に刻まれたマーキングは“Ⅱ”と“Ⅷ”―――

 

 第二真祖<滅びの瞳>が直系の第九皇子イブリスベールの砦を陥落させた面子と同じ、三人の<焔光の夜伯>。

 たった一人に送るにはあまりに過剰な戦力。

 

「……っ、……!」

 

 その登場に、凪沙は黙って胸を押さえる。

 心臓が激しく脈を打ち、呼吸が荒くなっていた。全身から冷たい汗が流れている。自分でも抑えきれない大きな力が、身体の中で荒れ狂っているのが分かる。これは魔族に対する恐怖だけではない。そう、もっと“自分が自分でなくなってしまう”感覚……

 

「―――待ちなさい。我々の目的は『宴』であって、それまでの無用な混乱は避けるべきです」

 

 制止を掛けたのは、遠山。

 その人間味の乏しい事務的な口調で『九番目』らを呼び止めながら、暁凪沙を背に庇うクロウを見る。

 

「<空隙の魔女>の使い魔、この一件には特区警備隊の介入は認められていないと通達があったはずですが」

 

 暁凪沙を誘拐するこの企てには、『九番目』らを有するザハリアスだけでなく、遠山美和の背後にある組織も噛んでいるのだろう。

 そして、そこはこの絃神島の治安機関にも命令を下せるだけの権力を持った上位組織。

 クロウは答える。

 

「そんなのご主人から聞かされていないし、オレには関係ない」

 

「関係ない?」

 

「オレは、暁に会いに来た」

 

「……何ですかあなたは? 状況を理解できていないのですか」

 

 落胆するように遠山は言う。その瞳の奥には、確固たる信念の光があった。

 遠山は個人の欲望で動いているのではない。全体の損得を見て働いている。だから、この大いなる正義たる大義を果たすためならば、何だってしよう。

 

「う。ちゃんと理解してるぞ」

 

 遠山が魔女の使い魔を見殺しにしようと判断を下すその前、呆気からんとクロウは言う。

 そして、遠山、<焔光の夜伯>の素体『九番目』、『二番目』、『八番目』から視線を外して、凪沙の方を向いた。

 

「―――そうか。どうしてふたつ魂の匂いがするのかと思ったら、やっぱり、暁は、『棺』の代わりなんだな」

 

 その他の誰でもない彼女に真っ直ぐ向けられた呼び声は、凪沙の瞳に消えかかっていた感情の光を拾い上げた。

 

「心配するな。オレは、『墓守』だぞ。暁が『棺』なら、守るのが役目。何があっても荒らさせはしないと約束するのだ」

 

 強く冷たい風に吹き消されそうに小さくなる灯を両手で包むように囲い、弱い火を守るよう……そんなただひたすらに大切にしようとする意志を一言一言に込める。

 

「どうして……?」

 

 それは少女には、とても理解しがたいものであった。

 

「どうして、あなたが、私を助けるの……?」

 

 彼に自分を助ける理由はない。あるはずがない。

 凪沙はあの少女たちの正体がわからずとも、それが天災に等しき存在というのは直感で分かっている。兄古城が引き合わせようとした『十二番目(アヴローラ)』と同じで、自分を終わらせてしまうものだ。

 なのに、なんで自分の前に立とうとするのだ。

 

「ひどいこと、しちゃったんだよ。凪沙のせいで、皆から怖がられたのに。ずっと避けてて、一度も凪沙から謝ったことないのに。どうして、凪沙を助けに来たの?」

 

 動き出した口はもう止まらない。

 

「わたし、心の中であなたのことこの島から出て行っちゃえって思ってたのに」

 

 ずっと今まで、溜め込んできた想いが、たった今、許容限界を超えてしまったように口から溢れ出してくる。

 

「いつか皆を傷つけるんだって、あのときみたいに私たちを襲って殺しちゃうんだって!」

 

 母を裏切り、自分をさらった遠山美和よりも、

 災厄の化身の如き強大な力を持った金髪の少女たちよりも、

 

「頑張ってるの知って違うんだって思っても、大丈夫だって思いたくても、ずっとずっとそんなひどいことばかり考えてたのに!! 何でそんな人間を助けるために、こんなところまで来ているの!?」

 

 この少年のことが凪沙にはわからない。

 

「ひどいことも何も、それは当然のことだぞ」

 

 己を否定する凪沙の言葉を肯定し、そして、少年は言う。

 

「え……?」

 

「魔女に造られたことも、獣王の血が半分流れていることも、皆事実だ。オレは、怪物だ。正真正銘の怪物なんだ。そんな化け物が人間としていることを、今の今まで黙ってみててくれたんだろ。むしろ我慢してくれたのを図々しいオレは感謝すべきだ」

 

 ただ真っ直ぐに、暁凪沙の顔を見る。

 

「オレが助けたいと思ったから、助ける」

 

 その声は、力強かった。

 その声は、頼もしかった。

 そして何より。

 その声は、優しかった

 少年が告げる。

 

「だから、あんまり難しいことは考えてないのだ。暁もあんまり難しいこと考えるな。お前はちゃんと助けられていい。オレの勝手なワガママに振り回されてろ」

 

 心底それが当たり前であるように、そしてどこか自信ありげにニカッと笑いながら。

 あ、う……、と凪沙は戸惑うように、混乱するように少年を見た。

 その目は、まるで道に迷った小さな子供のように揺らいでいた。

 彼は凪沙を助けると言ってしまった。たとえどれだけ薄汚く罵られても、それでも構わないと断言してしまった。

 だけどそれでは、この少年は踏み込んでしまう。自分の道連れに終わってしまう。

 なのに、

 

 もう、

 

 これ以上、拒絶することなんてできなかった。

 

 凍り付いていた凪沙の涙腺が、熱を帯びた。

 無理だった。凪沙にはこの少年を拒めなかった。理屈なんて知らない。正しい答えなんてわからなかった。だけど、もう限界だった。

 信じる。信じたい。この少年は何よりも強いものだと。

 暁凪沙は子供のように、ごしごしと瞼を擦る。

 涙の膜が晴れる。目の鱗が落ちる。

 そして、改めて、彼を見て、

 

「……暁じゃなくて、凪沙」

 

「?」

 

「もう、暁なんて呼ばれたら、古城君と一緒になっちゃうじゃない。ややこしいからちゃんと名前でお願いね」

 

「む。そうだな。わかったぞ、凪沙ちゃん」

 

 初めて、その名前を呼んで、彼の声で呼ばれて、感情の光が消えかけていた瞳に再びその明るさが戻った。

 

 

 

 

 

「……認めよう汝を」

 

 その様子を見ていた『九番目』が、その身より発散させていた威圧を止めた。『二番目』と『八番目』も、その決定に首肯する。

 それに難色を示したのは、遠山。

 眉を顰めたこの『采配者』に、『王』は眇めた視線を投げ、

 

「『王』よ……それはザハリアス氏の命に背いているのでは?」

 

「勘違いをするな、『采配者』。今宵の『宴』で終わらせる。ただ、ヤツもその参加者と認めたというだけだ」

 

「独断でこれ以上、不確定要素(イレギュラー)を入れるのはあまり感心しませんが」

 

「あれが“枷を外して”本気で暴れるとなれば、ここで我々<焔光の夜伯>は、一人二人が『焔侊の宴』に参加できなくなるな」

 

 ここで暴れさせていいのか? と。

 それは忠告であった。今、ここで冷静さを失い、状況を理解できていないのはそちらだと。

 

 

「ヤツは部外者ではない。『宴』に参加資格のある『王』であり、我々の“後続機(コウハイ)”―――『十三番目(トリトスカイデカトス)』だ」

 

 

 

つづく

 

 

 

彩海学園 保健室

 

 

「アスタルテ……ドッチボールするぞ!」

 

 

 その日の昼休み、仕事を終えて待機状態でぼーっと席に座っていたときのことだ。

 もう小学生を卒業し、来年度には高校生になるという男子が女子に仕掛ける遊びではないと思う。

 さらに言えば、自分とこの先輩の身体性能はあまりにも差があり過ぎてゲームにならない。

 なので、言葉を尽くしてそう諭そうとしたのだが、

 

「う。難しいことはひとまずやってみてから考えるのだ」

 

 と一蹴。

 この先輩に物事を理解させるには、昼休みの時間は短すぎたらしい。そのまま教官(マスター)より、『そこで待機していろ』と命が下されている保健室より、外に連れ出された。

 

「大丈夫だぞ。オレの魔球は、痛くないのだ」

 

 ……その魔球とやらが何なのかがわからなかったが、ドッチボールをした。男子学生が、女子型の人工生命体(ホムンクルス)と一対一で、校庭の隅っこでドッチボール。キャッチボールと言い直した方が良いのではないだろうか? なんというか、常夏の島だけど、寒い光景である。

 とはいえ、実際に先輩の魔球は痛くなかった。

 

「壬生の魔球『痛いの痛いの飛んでけー』!」

 

 そう、技名を叫んで投げてきたボールには、先輩の肉球(クッション)に加工された生体障壁が纏ってあって、当たった衝撃をほぼゼロに吸収してしまうのだそうだ……とこの痛くない魔球を身に着けるのに一日特訓したんだぞ、と苦労話と一緒に教えてくれた。

 仙術や気功術といった大陸系には疎いが、それが割と高等な技法ではないかと思う。自身ではなく他物に生体障壁を纏わせ、かつそれを絶妙な柔らかさでやる。魔球『痛いの痛いの飛んでけー』のために。当たってもダメージの与えられない……いったいそれをどんな用途に使うのか、才能とか資質とかいうのを無駄遣いしていると思ったが、少々持て余していた暇は、くしゃりと潰れた。

 

 

獄魔館

 

 

「ふはははーっ! 冥土より帰還して来たのだーっ!」

 

 

 『勝手に持ち場を離れた罰だ、その店の手伝いをして来い』と先輩共々無償奉仕命令が下された。この極楽とんぼな馬鹿犬(センパイ)を止められなかったのは自分の責任であると教官より叱られた。

 復活したオレっ子メイドクロちゃんの活躍により店はいつもよりも繁盛している。ウェイトレスの仕事は初体験ではあるが、普段から教官のメイドをしており、またこの店の店長より『無表情キャラもいいわね』とそのままの設定(キャラ)でいいと言われていたので、いつも通り教官を相手にするように仕事をする。

 

「災難だったわね」

 

 同情したのは、自分の教育係を任された、この魔族喫茶で暫定人気ナンバーワンのドジっ子ウェイトレスの先輩。その魔族登録証の腕輪をつけているのを見る限り魔族、それも純血の吸血鬼なのだそうだが、記憶と一緒に眷獣も失くしてしまったようで、『ちょっと力の強い夜型の人間』と変わらないらしい。『憶えてないけど後悔してないみたいだし、納得して誰かにやったんじゃない』と当人はさほど気にしておらず、今の生活を楽しんでいるようだ。

 

「ま、あれはあれで都合のいい奴よ」

 

 ……どういう意味か?

 今日バイトする経緯は最初に話したが、それで何故か、“後輩の自分よりもわかった風に”語る教育係に聞き返したのだが、彼女はテーブル拭きに精を出していてこちらに視線のひとつもくれない。そして、自分ではなく、向こうでファンたちに囲まれる先輩(女装)に向けて文句をぶつけるように話してるようだった。

 

「器用な奴なら失敗しないで生きられるよう賢い選択ができるけど、長く生きてると時に賢くない選択をしたくなる時がある。こういうのを魔がさすっていうんでしょうけど」

 

 それはもしかして、記憶にはないが、誰かに眷獣をあげてしまった行為のことを指しているのだろうか。

 

「そんなんだから、クロウみたいにバカを押しつけてくれる相手は時々、ありがたみを感じたりする。でもって、クロウは頼られると喜ぶ、まさしく犬のような性分だし」

 

 だから、何が言いたいのか?

 彼女の意図がよくわからない。ただ、なんとなく、とても不快であった。それでもう一度訊いてみると、あっさりと答えた。

 

「いえ別に。クロウの後輩役ご苦労様、ってことだけ」

 

 結局最後までこの教育係と目を合わせることもなく、何事もなかったように教官からの罰(バイト)を終えた。

 

 

道中

 

 

「う。じゃあ、星がよく見えるとこに行くぞ」

 

 

 それは、バイトが終わったその帰り道。労働後に夜空を見上げて『……きれい』と我知らずに唇が動いて、そんな言葉を作ってしまったことが原因。

 生まれたから空に輝く星々をじっくりと見たことがなかった。かつて殲教師に連れられ、深夜徘徊したり、教官の仕事で夜遅くに魔族狩りをすることもあるが、こうしてただ夜中に歩くのは初めてで、だからふと視界に入ったものをじっくりと見てしまった。

 そうして気づくと、先輩の視線を感じ、振り向いた。先輩は星よりもこちらを見ていた。

 直感したのは、先輩がずっと、自分の目を見ていたのだということ。だから、振り向いた時も、目が合うなどというものではなく、眼を通して頭の中を覗き見られたというのが正しい気がした。

 そして、前述に戻り、先輩はその理解しがたいものを目に宿してそういった。

 

 

 

 歩かされた。教官は特に門限を指定していないが、魔族喫茶からの帰り道とは逆方向に歩き出していた。

 正確には歩かされていた。そう、考えるよりも先に思い出した昼休みと同じ。教官の言いつけを守り保健室で待機している旨を伝えた自分を強引に引っ張り上げた。

 回想と現状は近似しており、これでは教官の説教を全く反省してないようではないか。でも、やんわりと手を引かれる自分は、今もまた逆らえずに、自分の足は先輩の後を追っている。

 

「アスタルテは、今日の星が綺麗だと思ったんだろ?」

 

 ……はい、と肯定の言葉を返すと、先輩は少しだけ、自分の手を握る指の力を強くする。

 

「だったら、今、見に行くのだ」

 

 一応、その後に説教された時の教官の言葉を一言一句違いなく復唱したのだが、それでも先輩の逡巡はわずかであった。その良し悪しはともかくとして、拙速を躊躇わないのがこの先輩の特徴である。褒められたことでないとわかっていながらも実行してしまうのだから、この先輩は危なっかしいのだ。

 

「う。ご主人に後で夜遊びは怒られるのはわかってるぞ。でもな、それでも引き返す気はこれっぽっちもないのだ。

 だって、せっかくアスタルテが綺麗なものを見られたんだから、もっと目一杯見ておくべきだって、思うのだ。じゃないともったいないぞ」

 

 その言葉には不思議と逆らえない説得力があって、また先輩の行動力は止めることができない。

 ……そして、そうなるのがくせになって、しまいそう。

 こうやって、手を取ってもらわれることが。

 自分では何も決めず受け身でいて、誰かに手を引いてもらうことに慣れてしまうのは、“人工生命体という道具”としては正しくとも、何故か、良くない、気がした。

 

 このままで良いのか? と先輩に問う。

 先輩は一端足を止めて考える素振りを見せたが、さほど悩むのに時間をかけることもなく、自分の手を離さないまま言う。

 

「オレなんかよく、ご主人とかから人の話を聞かないって怒られるぞ」

 

 それは、先輩はそうだろう。わざわざ言われなくても周知の事実に、自分が反応できないでいるうちに、先輩は再び歩き出してしまう。当然、手で繋がっている自分も歩き出す。

 

「まあ、オレもアスタルテもきっと、バランスが傾いてるんだな。

 だったらさ、アスタルテがダメだって思ったら、オレを後ろに引っ張ってくれ。そうすればお相子だし、いい感じにバランスが取れるぞ、多分」

 

 断言してもいいが、この先輩の発言はあまり深く考えていないで口にしたものだろう。その時に思ったことをそのまま口にして、それで自分が楽になったらそれでいいくらいしか考えてない。

 ただ、そんな言葉で楽になってしまったのも事実であった。

 

 

 

 そして、星を見て帰ったら、教官から本日二度目となる説教をいただいた後に、ひとつ尋ねた。

 どうして、今日は自分をドッチボールに誘ったのか? と訊いてみれば、特に隠したりせず、

 

 

「ん? この前、保健室から皆が体育してたの見てただろ? その時のアスタルテの顔が何かつまらなさそうだったから、それがオレはイヤだった」

 

 

彩海学園

 

 

 これまでのことを踏まえて、ひとつ結論を出した。

 

 あの先輩は後輩が管理しないとダメだ。

 

「―――ほれ、雪菜。坊やに全然効いてないよ。決定力を槍に頼ってるからそうなるんだ。もっと、気合を入れて打つんだ」

「はい師家様!」

 

 次の日の昼休み。

 許可なく学内に侵入した黒猫が、この屋上で行われる先輩相手に行われる剣巫の組手を看ている。

 一時期、この獅子王機関の師家が先輩を鍛えたそうだが、その理由の一つとして、使い魔(ネコ)にはできない、この剣巫の稽古相手を用意したかったためにされたものだろう。

 

「とりあえず、この坊やにダメージを与えられるようになるのが目標だね。ちょこまか動くサンドバックだと思って、思いっきりやりな」

 

「むぅ。一応、怪我しちゃいけない組手じゃないのか?」

 

 その二人が交錯する様子を第四真祖と一緒に自分は見て、チャックを入れている。

 

 先輩の行動力は行き過ぎていて不安になる。特に、単独行動で飛び出してしまうのは義憤すら覚える。

 あと、時々先輩風を吹かしたいのか妙に自分に過保護なことをするのも不満。前回、錬金術師の捜索も強権でこちらを待機させていたが、それで死にかけたのだからもう馬鹿らしい。

 そもそもちまちまとしたボタン操作が苦手だから携帯は自分にまかせており、ひとりで動かれたら連絡手段がないのだ。

 そして今も、ワイシャツがほつれて小さな穴が開いているのに繕わず、このくらい平気だと放置してるルーズなところにも首を傾げる。

 

 先輩に引っ張ってもらうのは楽で、助けてもらっているところも多いが、それに劣らぬほどダメな点が多い。あの教育係の吸血鬼は『都合がいいバカな犬』と評していたが、よくよく考えると『あまり都合の良くないダメな先輩』ではないか。やはり、きちんと後輩が管理(カバー)しなければならないだろう。

 

「なあ、アスタルテ、さっきから何を書いてるんだ?」

 

 と訊いてきた第四真祖に、自分は淡々と説明した。

 南宮クロウ(センパイ)は、思ったよりもダメな人なので、改善すべき問題点を思いつくままにチェックシートに書き留めている。観察すればするだけ見えてくるのでなかなかに遠大な作業と予想されるが、それでも先輩のダメなところを徹底的に収集するつもりだと。

 

「……何かよくわからんが、変な島に着地してないか……?」

 

 何故か、第四真祖が微妙な顔をしていたが、とりあえず今日の組手は区切りがついたので、先輩を回収する。その時、剣巫がまだ稽古したりない、今日は折角黒猫(せんせい)がいるからもう少しだけ、と嘆願するような顔をしてきたが、申し訳なくは思わない。先輩の手を引くことは、“自分の判断でしてもいい事”と言われたのだから。

 

「まだし足りないっつうなら、さっき雪菜のパンチラを見ていた第四真祖の坊やを相手にしな」

 

「先輩っ!?」

「なっ、おい―――」

 

 後ろが騒がしいが、振り向かずに保健室へと急ぐ。前まであまり考えはしなかったけど、昼休みは思っていたよりも短い。だから、早速問題点を改善するためにも、早く先輩のワイシャツのほつれを直しておくべきだ。

 

「んー……? 何か今日は楽しそうだなアスタルテ」

 

 

 

つづく

 

 

 

 アスタルテの評価

 

 聖者の右腕ⅡⅢ

 敵対していた自分を救おうとした不思議な人

 

 戦王の使者ⅠⅣ

 頼りになる先輩

 

 天使炎上Ⅱ

 頼りになるけど心配させる先輩

 

 魔女の迷宮ⅠⅡ

 頼りになるけど(おつむ)が少々残念で不器用な先輩

 

 観測者の宴Ⅱ

 何だかんだで頼りになる先輩

 観測者の宴Ⅵ

 保護しなければならない妖精獣(マスコット)

 

 錬金術師の帰還Ⅱ

 単独行動させると不安な先輩

 

 戦乙女の王国Ⅰ

 監視してないとダメな先輩

 

 総じて、現時点

 後輩(わたし)がついてないといけない先輩……!



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焔侊の宴Ⅳ

回想 道中

 

 

「……イヤなら、別に無理に行かなくてもいいと思うぞ」

 

「ううん。人質に取られてる深森ちゃんが心配だし、それにここで逃げても、何も解決するわけじゃないでしょ。だから、行くよ」

 

「そうか。わかったのだ」

 

「……それでね、クロウ君。クロウ君は、凪沙の味方になってくれる?」

 

「それはさっきも言ったのだ、オレは凪沙ちゃんの味方になる。誰からも守るし、絶対にひとりにしないと約束するぞ」

 

「うん! ありがとうクロウ君」

 

 

回想 旧南東地区 クォーツゲート

 

 

 穢れた土地より蘇りし死者の王。

 世界の理から外れた殺神兵器。

 無限の負の生命力を操る人造の真祖。

 

 受けた傷を呪い返す『報復』、死体を埋葬する『大地』、万象の原子結合を解いてしまう『霧化』、噛みついたものを己の力とする『吸血』、相手を己の虜とする『魅了』、存在が生まれる以前にまで回帰させてしまえる『再生』、永久に封印する『眠り』……

 吸血鬼の伝承になぞらえた十二の災厄を持つ<第四真祖>。

 

 それは、人間には成し得ぬ奇蹟を起こす権能がある。

 

「時間まであとわずか。ここはひとつ私の身の上話をさせてもらいましょう」

 

 6体の<焔光の夜伯>――<第四真祖>の素体の半数が揃い、『焔光の宴』の魔法陣が敷かれたネプラシ自治区の生贄から吸い上げた魔力も、覚醒の呼び水としては十分なほどに充填された。

 全ての準備は整い、“招かれざる客”も混じっていて、役者も全員が出揃ってはいないが、ずっと待ちわびていた主役が登場した。

 

「私の故郷のバルカン半島の小さな街は、今はもう存在しません。『戦王領域』と『滅びの王朝』、そして西欧教会の三つ巴の争いに巻き込まれ、もう70年も前に消滅しました」

 

 あれからの全ては、この『焔侊の宴』のために。

 不老不死の魔族からすれば短いものだろうが、人間にとっては半生以上の長い年月をかけてきたのだ。

 

「戦争を仕掛けてきた者たちの目的は、私の故郷に封印されていた『一番目』の<焔光の夜伯>―――

 そして、『一番目』を守護する巫女であった、私の妹ヴラスタは、吸血鬼どもに殺されました。私もヴラスタを護ろうとして、同じ場所で殺され……私だけが生き返った。

 ヴラスタが私を生き返らせたのです。『一番目』の『血の従者』として!」

 

 

 

 クォーツゲート。

 かつては絃神の市庁舎や人工島管理公社の本社が置かれ、極東の『魔族特区』絃神島の技術を世界中に知らしめた歴史的な魔術建造物。

 しかし、人工島管理公社の本社は島の中心地キーストーンゲートに引っ越し、旧南東地区の解体が決定したことで、クォーツゲートも廃棄されることになった。現在のクォーツゲートは、一般人の立ち入りが禁止された無人の廃墟。

 ―――この盛者必衰の理を体現する城、その中央の広場が、連れてこられた『宴』の舞台。

 

 母の深森を人質に取られた暁凪沙は、舞台の中心に立つ灰色の髪をした十代半ばの――兄と特徴が似た――少年に主役の登場に歓喜を身体全体で表すよう、大仰に一礼をされる。

 そして、MARの遠山美和に一言二言会話を交わすと、凪沙の隣に立つ南宮クロウを睨んだが、すぐに視線を外した。

 

 少年の傍には、凪沙たちを連行してきた『二番目』、『九番目』、『十一番目』と同じ顔をした『七番目』、『八番目』の少女たちが控えていて、

 背後にある二つの棺桶には、胸に抉られたような傷を持つ金髪の少女と、宝石の結晶に包まれた灰色の髪の少女。痩せさらばえて、骨と皮しか残っていない木乃伊となった遺体があった。

 

「<第四真祖>の『血の従者』バルタザール=ザハリアスは、暁凪沙嬢に今一度、あの奇蹟を再現してほしいのです。

 “死者の蘇生”という、あなたが、あなたの兄を不死身の怪物に変えたあの奇蹟を!」

 

 語り終えた少年――身体年齢が最盛期にまで若返ったザハリアスが、凪沙に真実を突き付けた。

 兄が、自分が恐れる魔族の従者であると。

 そして、そうしてしまったのは、自分のせいであると。

 突然に兄の名前が出てきたことに動揺していたところに、信じがたい話を聞かされた凪沙は、激しく首を振ってそれを否定する。

 

「嘘だよ……そんなの……! あたしが古城君を……」

 

「いいえ。あなたは覚えていないだけ。しかし、たしかにあなたがやったのです!」

 

 だが、ザハリアスはそれを許さぬ、蛇が一度食らいついた獲物をけして逃さぬよう、追及の手を緩めたりはしない。

 

「違う! そんなはずない! だって、あたしにそんな力なんてあるはず……ない!」

 

「ええ。そうでしょうとも。わかっています。いかに優れた巫女であろうとも、死者を生き返らせることはできない。それが可能なのは、世界最強の吸血鬼―――<第四真祖>だけだ!」

 

 舞台役者が観客にするよう、ザハリアスは大きく両腕を広げて、空を仰ぐ。

 覚醒の儀式の準備は整っている。後は暁凪沙が完全な<第四真祖>を目覚めさせるだけだ。そして―――

 

 

 

「いや、死者を生き返らせることならオレにもできるぞ」

 

 

 

 弁舌を振るい、場を呑んでいたザハリアスに投げかけられた、招かれざる客の言葉。

 絶やさなかったザハリアスが固まり、視線だけで“邪魔者”を伺う。興が乗っていたところに水を差された。憎悪の光に射抜かれた南宮クロウは目を点にして、何かおかしなことを言ったのか、と考え込む。

 思いつくのは、今の発言しかなく、クロウは不機嫌そうに眉をひそめた。

 

「わざわざ<第四真祖>?とかいうのを起こさなくても、それくらいオレにだってやれるのだ」

 

 戯言をとこの“邪魔者”を一笑に付す場面だろう。

 だが、ザハリアスがアクションを起こす前に、クロウは重い溜息を洩らした。

 

「あまりしたくないことだけど、凪沙ちゃんの代わりにオレがやってやる。

 ―――本当にそれがオマエの望みだったらな」

 

 それはありえないことなのに、不自然さを覚えさせない言い方だ。

 それに、“死者の蘇生”という奇蹟を何度か起こしてないと言えない台詞。

 

 ザハリアスは、この南宮クロウという少年をあまり調べていない。

 一度は誘いをかけて、その後、『十二番目』に付いていることだけは知っていたがそれだけ。<黒妖犬>という魔女に飼われている獣人であり、『匈鬼』の部隊を圧倒するだけの実力を持った戦闘員、という認識だった。

 それ以上も調べようと思えばできただろうが、『滅びの王朝』と『戦王領域』を相手取っているというのに、“『九番目』から尻尾を巻いて逃げた小物”に煩っている余裕などない。

 だが、協力者である遠山美和に連れられてこられた暁凪沙、と一緒に『焔光の宴』に現れ、『部外者を近づけるな』という命令を出した『王』らもそれを止めはしてない。

 

 もしや……この場で一番常識から外れているのは、こいつなのか。

 

 遠山――『采配者』である獅子王機関に所属する攻魔師を非難するように睨むが、彼女もまた<黒妖犬>については調査不足のよう。

 気を取り直して、凪沙から彼に視線を移し、用心深い蛇のような眼差しで一挙一動を観察しながらも、ザハリアスは薄く苦笑して見せる。

 

「ふっ、一体何のことを仰っているのかはわかりませんが、それ以上の戯言はおやめなさい。私は、私を救ってくれた私の妹を、同じ巫女である暁凪沙に救ってほしいのです。ただ、それだけ―――」

「―――違うな。戯言(ウソ)を吐いているのはオマエだ」

 

 同情を誘おうとしたザハリアスを、バッサリと切り捨てる。

 罪人を裁くように断言。

 邪魔をされなければ、暁凪沙を丸め込めたというのに、波風を立てる。しかし彼の言葉には揺るぎない確信が込められており、そして、それが神風のように場を荒らすトラブルになろうとしている。

 

「その死体(からだ)から香る“匂い”でわかる。凪沙ちゃんとヴラスタ(その子)は違う」

 

「クロウ君……」

 

 クロウは、この二人の巫女に差異があると断定。そして、鬼胎を抱く凪沙を背に庇う。

 もうすでに下腿から力が抜けかけて、気づけば膝を折りそうになっていた凪沙は、この中で唯一の味方である彼の背に倒れるように抱きつく。

 寄りかかっても揺らがない芯の通った体躯は頼もしく、小柄な割に大きく感じさせる安心感、しっかりとした体温、そして、不思議と落ち着く匂い。

 それは、森の中でご神木に体を預けるような感覚を凪沙にくれる。

 大丈夫。

 私はひとりじゃなく、頼れる人が傍についてくれる。

 

「凪沙ちゃんたちが襲われた遺跡にオレもいた。ご主人からも聞いた。古城君は凪沙ちゃんを庇って、凪沙ちゃんは古城君を救うために必死だったのだ。凪沙ちゃんは古城君を怪物にしたくてしたんじゃないし、古城君を助けたくて助けたのだ」

 

 彼も凪沙の記憶にないその事実を語るが、それはザハリアスのように悲劇に歪めて、非道と責め立てるものではない。理解し、弁護し、認めてくれる。そして、今度は、凪沙はそれを聞き入れることができた。驚くほどに安定していた。

 

「だから、オマエとは違う。そして、違うから、オマエは、凪沙ちゃんに嫉妬しているのだ」

 

「何が? 私がヴラスタを命がけで護ろうと―――」

「ウソだな。オマエは妹のヴラスタを道具としか見てない」

 

「ヴラスタが私を、命を賭して蘇らせようと―――」

「ウソだな。ヴラスタは兄のオマエに怒ってるし、ひどく哀しんでる」

 

「私はヴラスタを蘇らせてもらうために『選帝者』となった―――」

「それもウソだ。何だオマエ。ウソばっかりだな。前は容姿(みかけ)がウソっぱちだったけど、性格はそれ以上にウソ臭い奴なのだ。ここまで鼻が曲がりそうなのは初めてだぞ」

 

 今やザハリアスの顔からは、完全に笑みが抜け落ちていた。その代わりに明らかな動揺が浮かんでいる。クロウは理屈ではなく、理論でもなく、ただ直感のみでザハリアスの虚偽を看破しているのだ。武器商人として多くの人間魔族と接してきたザハリアスも、こんな『混血』の相手をするのは初めてなのだろう。

 これを敵に回すと恐ろしいのは戦闘だけではないことを、ザハリアスは理解した。

 <黒妖犬>は直感で真実を悟る。まやかしが一切通用しない。そして、今のクロウは容赦がない。

 

「もし、本当に蘇らせたいのなら、ヴラスタ(オマエの妹)についてる、“邪魔な小細工(トラップ)”を外しておいたほうがいいぞ。そいつは邪魔なのだ」

 

 誰にも明かしていない、協力者の遠山美和さえ隠していた、そして、“暁凪沙”に知られると計画が破綻してしまう。

 

 永遠の命を得るために、祖国を売り、妹を殺し、『一番目』より肋骨を簒奪した。

 そして、さらなる力を得るために、この妹の亡骸に魂魄捕獲の術式を仕込み―――なのに、この寸前で台無しにさせるなんて、絶対にさせない。

 

 握った拳に爪が立ち、皮膚が破れ血が滲む。今すぐこの餓鬼の口を封じてやりたい。そんな思いが、拭い難く湧いてきた。

 ザハリアスは棺桶の中に横たわる『一番目』と手を取り合って、静かに命令を下す。

 

「疾く在れ、<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)>―――」

 

 虚空よりザハリアスを守護する途方もなく巨大な眷獣が出現する。

 この凄まじい魔力の波動で、地鳴りのように大地を揺らすありえないほど強大な桁外れの怪物は、金剛石(ダイヤモンド)の肉体を持つ大角羊《ビックホーン》だ。大気が重苦しく密度を増して、標的の動きを縛ると、眷獣の周囲には数千、数万もの宝石の結晶が浮かび、そして、宝石の雨は弾丸となってクロウに撃ち放たれる―――ことはなかった。

 

(何故、攻撃をしない『一番目』!)

 

 喚び出したのに命令を聞かず、穢れなき絶対無謬の神の羊(アニユス・デイ)はそこを動かない。

 あの獣人の少年が『匈鬼』を圧倒したのを目撃しているザハリアスは、それを前にして一瞬の停滞が命取りになることを知っている。

 

 焦り、そして自身の目論見が暴かれていく死の商人はその口を封じるべき『混血』のことだけしか見ていなかった。

 

「くっ……!」

 

 ザハリアスは袖裏に隠し持っていた拳銃をクロウに向けた。相手は『匈鬼』の硬気銃にも耐え抜く頑丈な身体を持っている。だが、護身用のリボルバーといえども、装填された銀イリジウム合金弾は、獣人や吸血鬼と言った魔族に特に致命傷を与えるだけの破壊力がある。兵器商であるザハリアスだからこそ入手できた貴重な、それも高純度の対魔族用特殊弾。

 立て続けに銃声が鳴り響いて、撃ち放たれた5発の銃弾は―――

 

 ―――楯となった金剛石の結晶に阻まれて、ザハリアスの身体に跳ね返された。

 

「ぐ、ぐふぅっ……!?」

 

 ザハリアスの胸元に、パッと大きな薔薇が咲く。

 薔薇の正体は飛び散った鮮血。血と肉の花びらを撒き散らして、ザハリアスの身体がぐらりと揺れる。

 

 な、何故、『王』が私を裏切る……!?!?

 ザハリアスはその場に膝を突き、そのままゆっくりと倒れていく。

 <焔光の夜伯>は兵器(どうぐ)。命令を聞くのは、素体たちの『選帝者』であり、肋骨の一部を交換した『血の従者』であるザハリアスと……

 そこで、ようやく気付く。

 いた。

 その背中に庇われて―――その背後すぐに“暁凪沙”がいる。

 

(私としたことが、こんなことで……!)

 

 自滅したといってもいいザハリアスは、『血の従者』の恩恵で負傷を再生させようとするも、吸血鬼殺しの弾丸は疑似吸血鬼の治癒を阻害する。

 そして、

 

 

「死になさい、ザハリアス! 父様の無念と領民たちの苦しみ、思い知れ―――!」

 

 

 このタイミングで―――これまで虎視眈々と見計らっていた復讐者ヴェルディアナが、怒号と共に二体の眷獣を召喚した。炎を纏う三つ首の魔犬(ケルベロス)と凍える息を吐く双頭の魔犬(オルトロス)。今の彼女が扱える最大の戦力。

 

 肉壁となる護衛の『匈鬼』は、命惜しさに『滅びの王朝』へザハリアスを売ろうとしたので切り捨てたので、この場にはいない。

 協力者の遠山美和も、彼女の目的は『焔侊の宴』にあって、ザハリアスの身の安全を守る協定までは結んでいない。

 この距離で、ザハリアスの身体能力ではその攻撃を避け切ることはできない。

 その瞬間、神々による不死の呪いを受けた真祖の『血の従者』の肉体に埋め込んだ無数の刃を出現、『匈鬼』と同じ、そして、それ以上に強力な魔具で抵抗を試みる―――しかし。

 

 灼熱と凍結の眷獣の巨体がザハリアスにのしかかる。鮮血と肉と内臓を撒き散らして、ザハリアスは呆気なく潰れた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「はは……あははははは……やったわ、仇を討った。皆の仇を討ったよ……! あははは……あはははははははははは!」

 

 

 むっとするような血ににおいが鼻腔に飛びこんでくる中、頬に涙を伝わせて、着ているメイド服を血塗れにしたひとりの女吸血鬼が哄笑する。

 二頭の魔犬がいた場所は、“バルタザール=ザハリアスだったもの”が散らばって、血の池地獄になっていた。

 

「あの、クロウ君……」

「大丈夫だ。だから、終わるまで、目を瞑っててくれ」

 

 魔族恐怖症でなくとも、見ていた辛い光景だ。

 呪縛されて動けない凪沙を手でその目を覆い、耳と鼻も塞ぐよう腕を巻いて胸に抱きしめるクロウはその表情を険しくさせる。

 ヴェルディアナは両手でお腹を抱えながら笑っていた。堪えきれなくなったのか天を仰ぎ、そこで息を切らす。

 

「見てくれましたか父様、見てくれましたか母様ッ。私やりました。ひとりで倒したの。すごいでしょ!」

 

 ヴェルディアナは空に向けて両手を広げ、心の底から嬉しそうに微笑んでいた。

 その唇は艶やかな赤。瞳は興奮できらきらと輝いている。絹糸のようなブルネットの髪は乱れているも、それさえゾッとするくらいに美しく見えたことだろう。

 

『なるほどな、貴様は家族の仇を討つために『焔侊の宴』に参加したのか』

 

 主の声が脳裏に木霊する。

 ―――カルアナは、何も変わってなかったのか。

 クロウはこの血腥い空気の中、息を止めながら、まだ声を掛けずに見ている。ぐちゃぐちゃと何度も血溜りに沈む肉の塊を踏み潰すヴェルディアナに、悲しくなりながら。

 保護観察として、これまで一緒にバイトをしたりと共に過ごしてきた数ヶ月間が、まるで遠い昔のことのように思える。

 

『私は復讐を忘れるわけにはいかないの!』

「ああ、クロウ。ザハリアスの気を引いてくれてありがとう! 殺せたのは、あなたのおかげよ!」

 

「……別に、そんなつもりはなかったのだ」

 

 クロウはゆっくりと首を左右に振る。

 どこか非難するようなその態度に、ヴェルディアナが、死体蹴りをしていた足を止めて、鼻白んだ顔をする、

 そこへ、拍手が送られる。

 

 

「―――おめでとうございます」

 

 

 思いがけない遠山からの賛辞に、ヴェルディアナは不快気に眉を顰めた。祝福しながらも向けられるのは無感動な瞳の遠山を、ヴェルディアナは眇めた目で見やり、そして侮蔑するように吐き捨てた。

 

「今更何かしら。あなたがザハリアスと裏で繋がっていたことはわかってるのよ。『十二番目』を覚醒させたあの日、ザハリアスに教えたのはあなたでしょう」

 

 暁凪沙(と南宮クロウ)を、ザハリアスの下に連れてきた。

 証拠はなくても、状況証拠から少し考えれば、ヴェルディアナには察することができるのだろう。

 こいつは、自分を売った。

 あの時、助けられなければ、自分は死んでいたのかもしれない。

 だったら、自分の復讐の対象に入るのではないか。

 

 憎悪に細められた紅の瞳が、さらに鋭くなる。

 

 だが、それを受けても遠山はその鉄仮面を崩しはしない。純血の吸血鬼に殺意を向けられて、平然とする、それは彼女が単なる医師や研究者ではありえない胆力だ。そして、あの時、南宮クロウに見せた戦闘技能は、一般人というには無理があるもの。

 利害の天秤より、これ以上隠すのは不利に傾けることになると判断した遠山はあっさりと自らの身分を明かすことにした。

 

「私は、獅子王機関の攻魔師です」

 

 国家公安委員会に設置されている特務機関。遠山はそこに所属する大規模な魔導テロや魔導災害を阻止するための捜査官。そして、

 

「MARは、我々と契約関係にありました。獅子王機関はMARに対して、封印された『十二番目』の占有権を認める代わりに、監視役の受け入れと情報提供を求める―――その監視役が私です」

 

「そう……そういうこと、獅子王機関、『焔侊の宴』の『采配者(ブックメーカー)』が、『選帝者(ザハリアス)』と繋がってたなんて、吐き気がするわね」

 

 眷獣を召喚するために魔力を高めていくヴェルディアナ。その機先を制すよう遠山はその口を開いた。

 

「その不正、あなた達の血で贖ってもらおうかしら―――」

「『選帝者』の引き継ぎを行いますか?」

 

「えっ?」

 

「ザハリアス卿の権利を引き継ぎますか? ヴェルディアナ=カルアナ伯爵令嬢」

 

 訝しむヴェルディアナに、遠山は事務的な口調で言った。

 

「ザハリアス卿を斃した以上、既に暫定自治政府が崩壊したネプラシ自治区は、『戦王領域』カルアナ伯爵領主――故フリスト=カルアナのご息女であるヴェルディアナ=カルアナ伯爵令嬢の管理下に移ります―――これで、土地と人民を得たあなたは、これまでは保留にされていた『選帝者』の資格を得ました、と『采配者(わたし)』はそう判断します」

 

「……どういうことよ?」

 

「『焔侊の宴』を続けますか?

 ザハリアス卿に勝利した以上、ザハリアス卿が所有していた6体の<焔光の夜伯>も所有権はあなたに移っています」

 

 第二真祖第九王子よりザハリアスが、<焔光の夜伯>を奪った時のように。

 ヴェルディアナがザハリアスから、<焔光の夜伯>を奪い取ったのだと。

 

 だから、“続き”をするのか、と『采配者』は問うている。

 

「ふざけないでちょうだいッ! 『焔侊の宴』でいったい何人が巻き込まれてると思ってるのよッ!」

 

 声を荒げて、責め立てるヴェルディアナに、淡々と遠山は言葉を返す。

 

「ネプラシ自治区に居住する一般市民は約265万人。そのうちの約15%が、既に大規模感染(アウトブレイク)によって疑似吸血鬼化していると言われています。これで<第四真祖>を覚醒させる魔力の必要量に達したとみています」

 

「あなたね……それで、私に……領民の皆を犠牲にしろっていうの! 姉様がしようとしたことをやれっていうのかしら!」

 

「疑似吸血鬼化した人々の全てが、必ず死に至るわけではありません。おそらく数日中に感染症は沈静化します。『焔侊の宴』によって奪われるのは命ではなく、記憶だけですから」

 

 記憶……?

 <第四真祖>を復活させるために生贄を用意するのは理解できるが、必要なのが命ではなく、記憶……

 

「ご在知の通り、魔術の世界において、長い年月を経てきたものは、それだけ強力な力を持ちます。

 吸血鬼の真祖たちが強大な力を誇っているのは、彼らが最古の吸血鬼だからです。不老不死である彼らが蓄えた膨大な『固有堆積時間(パーソナルヒストリー)』が、彼らの力の源泉です。

 しかし、造られた真祖である<第四真祖>には過去の歴史の蓄積がありません」

 

 素体のひとりであった『十二番目』にほとんど記憶がなかったのは、何百年も、あるいは何千年も封印されてきたのが理由。

 だから、他者の記憶を食うことで、覚醒に必要な魔力を賄おうとしているのだと。

 魔力の源である『固有堆積時間』が欠けているという致命的な弱点を克服するために、他者の記憶を欲する、

 

「それが『焔侊の宴』の正体ってわけ……じゃあ、生贄になった人たちは……」

 

「記憶を、それも本人にとって大切な記憶の多くを失うことになるでしょう。それは疑似吸血鬼化したものでなくとも、<第四真祖>に接触した人間は、その思い出を足掛かりにして記憶を奪われてしまいます。

 <第四真祖>に関わる記憶のほとんどを失う、ということです。<第四真祖>が幻の吸血鬼であり続けた理由は、その記憶搾取能力が原因です」

 

「……なら、皆はただ<第四真祖>に関する記憶がなくなるだけってこと」

 

 今一度、ヴェルディアナは周囲を見渡す。

 ここにある強大な力は、すべてがヴェルディアナのもの。

 そして、管理していた『九番目』をザハリアスに奪われ、『匈鬼』に戦争で負けたことから、『戦王領域』より切り捨てられていたカルアナ領も『第四の夜の帝国』として独立できるチャンスを得た。

 今、『焔光の宴』で最も素体を持っているのは自身であり、またここには“ちょうど儀式のお膳立てが済んである”。

 ……代償も、<第四真祖>に関わる記憶だけ。

 そうか。だから、姉様はこの決断をしたのよ。かつて奴隷にされた忌々しい記憶を捨て去ることで、栄光を手にすることができるのだから。

 

 ヴェルディアナ=カルアナは、失くしたものを取り戻すことができる。

 『世界最強の吸血鬼』の従者になり、領民も、領土も、名誉も、かつて以上に―――

 そう、家族だって<第四真祖>の力で蘇らせてくれる。

 

「もう一度、訊ねます。

 ―――ここに『十二番目』を連れてきて、『焔侊の宴』を行いますか、ヴェルディアナ=カルアナ伯爵令嬢」

 

 遠山の声に誘われるように、ヴェルディアナは、念のために潜ませていた切り札の『十二番目』――儀式の鍵である素体のいる場所を見やる。

 頭が重い。疲れた。

 あまりにも、色んなことがあり過ぎた。もうわからない。

 復讐も果たして、自分がこれからどうしたいのかも、わからない。

 14年前のあの時から、自分はどうやって生きてきたのか。14年前のあの時、どうして戦争なんて起こったのか。何が狂ったのか。どうして狂ったのか。

 いったい何が狂わせたのか。

 

 『焔侊の宴』の実行。それもいいだろう。ヴェルディアナは、過去を取り戻したい。どうしても取り戻したい。きっと、その奇蹟を行うために自分は狂わされてきたのだと、そう思えてくる。

 この毒を呑み込み、自分は幸せを手にする。

 ヴェルディアナは、近くにいるはずの『十二番目』を呼ぼうと口を開けた。

 

「いいのか、それで」

 

 聞こえたのは少年の声。

 ヴェルディアナと遠山、両者の会話を沈黙して傍観していた、ひとりの少年。

 南宮クロウだ。

 暁凪沙を抱きながら、クロウは感情を堪えきれずに震える表情でヴェルディアナに言葉を投げた。

 

遠山(そいつ)が言っていることは、ウソじゃない。難しいことはわからないが、それでも嘘は吐いてないことはわかった」

 

「だったら」

 

「でも、それは、絃神島(ここ)で過ごしてきた、『十二番目(アヴローラ)』との思い出も失くすってことだぞ」

 

 ……本当に、イヤな子だ。

 考えようとしなかったものを、突きつけてくる。

 いっつもいっつも……私のことなんか放っておいてほしいのに……

 

「失ったモノを取り戻すために、また大切なモノを失ってもいいのか」

 

 ガリッ、と唇を噛む。

 さっきまで酔えていた血の味が、今はひどく(まず)い。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 やはり、あの『十三番目』は、邪魔だ。

 獅子王機関の筋立て(シナリオ)から、外れていく。今も修正をしようとしたのに、また邪魔をする。

 

 『柩の鍵』を持っているだけでそれを狙ってヴェルディアナが襲われた話を聞いて、<焔光の夜伯>の素体たちに余計な警戒されぬよう“真祖も殺し得る武神具”『第七式突撃降魔機槍』を持って来なかった判断を、悔やむ。

 自分では、槍の性能の真価を発揮できずとも、あの刃はあらゆる結界と魔族特性を貫くもの。それさえあれば、『九番目』に介入される前に、この不確定要素を排除できたのかもしれぬのに。

 今では、暁凪沙がいる以上、ここで下手な攻撃をするものなら、ザハリアスの二の舞だ。

 

 ならば、言葉で誘導するか。

 しかし、『十三番目』に交渉事は通じない。攻魔師資格(Cカード)も有さないから、国家機関としての政治的な強権を働かそうにも効きはしないだろう。その主人である<空隙の魔女>を抑えに行った『三聖』とも先から連絡がつけず、『十三番目』は自分だけで対処しなければならない障害。

 

 直感で感情を嗅ぎ分けてしまう『十三番目』がいる前ではウソが吐けない。如何なる時も鉄面皮でいられるほどに表面上の感情を完全に制御しようにも、あれはその気になれば深層まで読んでしまう。

 

 だから、ウソは付けず、真実のみで話をするしかない。

 ただでさえ、ヴェルディアナからの印象が悪い。ウソを吐いたのが『十三番目』にバレされて、騙していたとなれば、二度とこちらの言うことは聞いてもらえないだろう。それはこれまで彼女にしてきたこちらの行いを思えば当然であろうが、今ここで儀式を成立しなければ、きっと遠方からこちらの様子を見ているであろう『戦王領域』と『混沌界域』の『選帝者』は、絃神島から引いてしまう。

 『采配者』が、『選帝者』のひとりと繋がっていたことが公となってしまったのだ。審判役に不可欠な公平性が崩れていると知られた。交渉はこれまで以上に難しいものになる。

 だから、やらなければならない。

 我々獅子王機関は人類の未来を懸けてここに望んでいるのだから。

 

 

 できれば、暁凪沙を前に、この話だけはしたくなかったが、ここは無理やりにでも“自覚”させなければいけない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 クォーツゲートまでの道のりは険しいものだった。

 まず警備隊に検閲が敷かれた旧南東地区の港で、<アシュヴィン>という検疫船に忍び込むのに時間がかかり、そして港からクォーツゲートまでの、本来なら徒歩で一時間足らずの道のりを、『血の従者』と化した古城はその三倍以上の時間をかけた。

 大規模感染で、わずか半日足らずで街の中が数万人規模の疑似吸血鬼で溢れ返っていたのだ。人間離れした運動能力と特に嗅覚に優れた感染者たちは、次々に人を襲い、感染者を増やしていく。それ以上の感染拡大を防ぐため、感染者たちを隔離しようと警備隊が奮戦するが、それで更に大混乱となった。

 古城もまた、感染者らから逃げようとして、離れても離れても鼻の良い感染者らは追いかけてくるのでなかなか振り切ることができず、唯一の武器も一発限りで使えないのでお荷物でしかない。それでも親父から渡されたそれを手放さずに懸命に走り続けて、

 どうにか、このクォーツゲートにまで辿り着けた。

 そして、そこで、

 

「アヴローラ……?」

 

「ひうっ……!」

 

 建物の陰に膝を抱えて座り込んでいる金髪の小柄な少女を見つけた。

 急に呼ばれて委縮したアヴローラに、古城は駆け寄る。その姿を怖がりながらも、薄眼で確認して、古城と気づいたアヴローラはパッと見開いて、頼りなく唇を震わせた。

 

「古城……何故、汝がここに?」

 

「何故、じゃねぇ。勝手に人の約束破って置いていきやがって」

 

「ち、誓いはしてなかったぞ!?」

 

「最初にお前を護るつっただろ。だから、大人しく護られてろ」

 

 アヴローラの頭を古城はぐりぐりと撫でる。

 そして、周りを伺って、

 

「それで、ヴェルさんは? あともう『宴』は始まってるのか?」

 

 古城の質問に、アヴローラは建物の陰から中央広場の方を指差す。古城もそちらを見つからぬようなるべく低姿勢で見てみる。

 そこには、ヴェルディアナにMARの医者である遠山美和がいた。ザハリアスは、いないようだ。だが、<焔光の夜伯>の素体たちがいて、棺桶が並んでいる。そして、後輩のクロウと妹の凪沙の姿が古城の視界に入った。

 

「なんで凪沙が!? あいつは<焔光の夜伯>とは無関係のはずだろ!?」

 

 様子見などできず、古城は広場中央へ駆け出そうとした、その時だった。

 

 

「………このまま、『焔侊の宴』が行われなければ、暁凪沙は死ぬでしょう」

 

 

 ナニヲイッテイルンダオマエ。

 

 古城だけではない、その場にいたものの全ての視線が遠山美和に集まる。

 

 

「世界最古の『魔族特区』ゴゾ島で封印されていたのは、アヴローラと名付けられた“『十二番目』ではありません”。彼女はただの“監視者”に過ぎない」

 

 

 彼女は語る。今になって明かされたその真実を。

 

 

「遺跡に封印されていたのは『魂』。それこそが<第四真祖>の本体です。三人の真祖と『天部』の人々が協力して生み出した、人工の“呪われた魂”―――我々はそれを仮に“ルート”と。『原初(ルート)のアヴローラ』と呼んでいます」

 

 

 暁凪沙に取り憑いているのは、『十二番目』ではなく、『原初』

 古城は、ずっと間違っていた。勘違いしていた。

 おそらく牙城やヴェルディアナも正しく理解していなかった。

 ……そう、クロウだけが、直感でそれを捉えていた。

 

 アヴローラは記憶喪失などではなく、最初から何も知らされていない、赤子と同じ。

 本体にして統括者である『原初』を護衛、あるいは監視するために造られた、空っぽの人形だったのだ。

 

 十二体存在する<焔光の夜伯>の中で、何故アヴローラだけが、世界最古の『魔族特区』ゴゾに封印されていたのは、彼女が監視者であったからだ。

 本物の<第四真祖>の魂である『原初』の『眠り』を護るためにある、人の形をした道具、それが『十二番目』の正体。

 

 凪沙に憑いているのは、アヴローラの人格の一部ではなくて、“<第四真祖>の魂そのもの”だ。

 つまり、その魂を受け入れてしまった暁凪沙は、

 

 

「暁凪沙が<第四真祖>なのです。素体ではない、本物の<第四真祖>です。

 そう、完全な<第四真祖>として覚醒しなければ、暁凪沙は助かりません」

 

 

 古城は、後輩(クロウ)を見た。

 それが虚偽であるのならば、異議を唱えるはずの後輩は、沈黙している。

 それがどんな雄弁に言葉を尽くすよりも、真実だと教えてくれた。

 

「そんな、私、が……」

「「凪沙(ちゃん)!!」」

 

 それまで張り付いていた後輩から離れて、妹は弱々しく呟いた。

 それを見て、古城、それにクロウが追い、走り出そうとしたところで、眩い閃光が視界を白く染めた。

 そして光は衝撃と化して、不届き者たちを打ちのめす。

 

「―――愚か」

 

 それは問題を出した出題者が、勝手に解答を出してしまったような、定義からして崩してしまう浅ましい所業と、『宴』の『采配者』を蔑む。

 

「このような手段で我らを呼び寄せるとは。『采配者』よ、これは高くつくぞ」

 

 閃光と共に新たに現れたのは、鎧姿の三人のアヴローラ。

 『戦王領域』が所有する『三番目』、『四番目』、『五番目』の<焔光の夜伯>の素体。

 彼女たち三人、いや、ここにいた『二番目』、『七番目』、『八番目』、『九番目』、『十一番目』、そして、棺桶で眠っていた『一番目』も、ザハリアスの肉塊より、自身の肋骨を拾い上げて、

 その全員が、暁凪沙の前に地面に片膝をついた。

 まるで王女に傅く騎士のように、暁凪沙にその忠誠を誓う。

 

「あなたたちは、私を……」

 

 呆然としながらも凪沙は、不思議と恐怖を感じない。だが現実の出来事とも思えない。凪沙の下に恭しく跪いている、けれど、少女たちの身に秘めた力は圧倒的すぎた。彼女たちの存在は、まるで天災そのものであり、地震や竜巻がひとりの人間に隷属する、という発想はふつうありえない。

 だが、とても受け入れられるようなものでないそれを見て、不意に何もかも凪沙は理解した。

 

「そうか……ずっと……私のことを待ってたんだね……」

 

 凪沙の言葉に、少女たちが丁重に顔を伏せたまま、首肯する。

 それは凪沙に対する慈愛と畏怖も感じられた。天災の化身である『王』たちが、凪沙の存在を恐れているのだ。

 

 そして、始まる。

 

「ああ……ああ―――」

 

 思い出してしまった。

 気づいてしまった。

 目を見開き、両手で顔を覆う。

 

「あああ……!」

 

 今見えるこの世界がグルグルと暗転し、過去の光景が閃光のようにフラッシュバックする。

 自分を庇って、テロリストに殺された兄、二度と動くことのない古城を見て自失した。

 あの時、自分はこんなことを考えたのではなかったか?

 別れたくない―――

 こんなにも悲しい別れが、現実にあるわけはない。

 自分は、悪い夢を見ているだけではないだろうか―――

 目の前にある、避けられない運命を受け入れられなかった。

 ―――お願い、古城君を助けて。

 こんな運命が本当であるはずがない。だから、運命を捻じ曲げた。

 生まれて初めての辛い“別れ”を受け入れられず、孤独と不安に怯えた自分が、失われた命を諦められないというあってはならないものを抱いてしまった。

 

 そして、叶えられた。

 

 代償として、その将来に大きな負債を作って。

 

 自分が人間をやめて<第四真祖>の『器』となり、人々の記憶から消え去るという、“別れ”が、今、訪れたのだ。

 

「アアアアァァアアアァアアアアァアアアアアッッ!」

 

 人に忘れられつつある廃墟の大気を、高らかな咆哮が震わせた。

 怒りに打ち震えるような。

 歓びに打ち震えるような。

 哀しみに泣き出しそうな。

 獣の遠吠えにも似た絶叫が、古城の良く知る妹が放ったものとは思えなかった。

 暁凪沙という自分の妹は、そんな声で叫んだりはしない―――

 

 ビリビリと震動する大気に、クォーツゲートの建物が揺れる。

 古城だけでなく、アヴローラ、ヴェルディアナが絶句して、その光景の前に立ち尽くす。

 

「すべての<焔光の夜伯>が共振している……!」

 

 無感動なその瞳に間違いなく恐怖の色を浮かばせているも、冷静さをかろうじて残す遠山が、呟く。

 『十二番目(アヴローラ)』を除く、中央広場にいる九体全ての<焔光の夜伯>の素体が、凪沙に呼応するように膨大な魔力を発して、焔と化した黄金の髪が天を衝く。

 

 目覚める。

 真なる<第四真祖>が、今ここに。

 

「―――」

 

 咆哮を消し、暁凪沙が目を見開いた。炎のように青白く燃える焔侊の軌跡を描く瞳が、唯一自身に共鳴をしなかった『十二番目』を捉える。

 その反抗を、面白い、と“暁凪沙”は笑みを零す。

 そして、その背より、刃のように研ぎ澄まされた鉤爪を持ち、赤黒い血管をむき出しにした吸血鬼の翼が広がり、結い上げていた長い髪が解かれた―――

 

 

 

 

 

「誰が相手でもお前を守る―――オレは、そう誓ったはずだぞ」

 

 そして、この場で唯一、不遜にも戦意を金色の双眸に宿らす少年は、震える手を握り締めた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <第四真祖>の覚醒を果たした。大規模感染の犠牲者数も、最悪を想定した場合の半分以下にとどまり、絃神市内に限って言えば、全人口の一割にも満たないわずかな数字だ。

 ならば、次にすることは、交渉。

 迂闊に近づくことを許さない、圧倒的な威圧感。

 特別敵意を感じたわけでもなければ威圧されたというわけでもない。

 敢えて喩えるのなら、獅子の身動ぎで過敏に反応する小鹿のよう。

 

 生涯でこれほどに呑み込みづらい生唾を嚥下し、遠山はその前に立つ。

 

「<第四真祖>。あなたに取引を持ち掛けます」

 

 獅子王機関は、この世界を滅ぼしかねない兵器の国外流出を防ぐために、『采配者』を引き受けた。

 

「獅子王機関は、残る<焔光の夜伯>の素体を差し出す代わりに、平和条約の締結を求めます。

 なお、この交渉が決裂する場合は、実力行使であなたを殲滅させてもらいます」

 

 政府特務機関は、日本という国家の安全確保を最優先にする。

 故に、必要とあらば、脅威を殲滅すると吸血鬼の真祖に宣戦布告する。

 『三聖』という三人の真祖にも対等にやり合えるとすら言われる最強クラスの攻魔師と、真祖をも殺し得る兵器を備えている獅子王機関が総戦力でぶつかってくる。

 如何に、<第四真祖>と言えどそれに怯むか。

 ―――否、だ。

 

「我は世界最強の吸血鬼。『聖殲』のために造られし殺神兵器。不死にして不滅。一切の血族同胞を持たず、支配を望まず、ただ災厄の化身たる十二の眷獣を従え、人の血を啜り、殺戮し、破壊する者ぞ。我は何者にも屈せず、何者の支配をも受けぬ」

 

 凪沙の口から、凪沙ではない何者かの声がする。『原初』と名付けられた魂の声が。

 

「こうなるとわかっていただろうに、愚かなる『采配者』よ。そもそも、<焔光の夜伯>を賭けての交渉は成立せぬ。神の似姿として造られた人の肋骨の数は十二対。そして神が(アダム)の肋骨から(イブ)を生み出したのと同様に、我が十二対の肋骨から造り出された、眷獣の宿り木となりうる十二の素体」

 

 <焔光の夜伯>という計画の一部として生み出された分身。

 ただ危険すぎるという理由で封印された<第四真祖>は、その復活を恐れた『天部』の人々によって、十二体に分割された。『原初』の力の源を世界各地に分散して隠したのだ。

 <第四真祖>が従える十二体の眷獣を、『原初』が自由に招喚できないように、それぞれに人の形を与えて、この世界に繋ぎ止めた。吸血鬼の眷獣を封印できるよう、<焔光の夜伯>を人造の吸血鬼として生み出して―――そう、彼女たちは、“<第四真祖>の眷獣そのもの”であり、あの少女の姿は眷獣に操られた人形。

 そう、

 

「覚醒を果たした今、<焔光の夜伯>は、我のモノであって、貴様らのモノではない」

 

 交渉は、決裂。

 直後に、破壊があった。

 

「がっ、ばァ!? あぐゥゥゥああああああああああああああああああああああ!?」

 

 交渉役である遠山が、魔力で紡がれた黒い吸血鬼の翼に襲われて、ボールのように吹き飛ばされる。

 

 バキゴクシャ!!!!!! という鈍い音が後から遅れて炸裂したような気分だった。

 もちろん音を超えているわけではない。

 妹の顔をした者が、その妹を世話していた人物を壊す……なんていう光景を古城は見せつけられ、心の方が現実を認識するのが躊躇ったのだ。

 

「帰って貴様の組織の長に伝えよ。殺神兵器は、これより戦争を起こすとな」

 

 暁凪沙――『原初』は、遠山美和にもう一瞥すらせず、そう告げる。

 ぜひゅぅぜひゅぅ、と意識して拾わなければ聞き逃してしまいそうな、微かな息遣い。その全身が無残な傷に覆われている。

 寸前で防護結界を張れたのだろうが、漆黒の翼の一枚一枚に、真祖の眷獣とほぼ同等の威力が篭められているのだ。防げるはずがない。ひどい火傷と無数の裂傷、鮮血で紅く染まり、見るだけで痛々しい、いっそ視界に暴力的な状態。

 

 理解する。

 それが誰であっても、間違えば、ああなってしまう。

 

 それを理解して、暁古城は、その一歩を踏み切った。

 

「―――凪沙を返せ、『原初』!」

 

「……ふむ?」

 

 『原初のアヴローラ』と化した暁凪沙が、冷厳な瞳で古城を見た。見るだけで人の魂を凍てつかせる焔光の瞳。それでも古城は怯まない。今、この瞬間を逃してしまえば、妹は未来永劫に失われてしまう―――そんな予感が、古城を衝き動かす。

 

「お前が何者で、何のために造られたかなんてどうでもいい。だけど、その身体は凪沙のものだ。お前には必要ないだろうが!」

 

「なるほど。愚かではあるが、一理はある。この身体は、我のモノではない」

 

 『原初』は紅い唇を吊り上げて小気味よさそうに笑って、その要求を撥ね退けた。

 

「だが、貴様の望みは聞けんな。我が魂には『器』が必要だ。それに我は身体を貰い受ける代価はすでに支払った」

 

 ―――暁古城(あに)を蘇らせるために、その身体に憑依させた。

 

 あの時点で、もうこれは決まっていたのだと。

 絶句してしまうこの『血の従者』に、さらにそれを絶望で塗り上げんと『原初』は、ひとつの望みを囁いた。

 

「この暁凪沙(モノ)の魂が、『原初(ワレ)』を『同族喰い』で、上書き(オーバーライド)できる可能性はゼロではない」

 

 存在を喰らわれた吸血鬼が、自分を食った相手の存在を逆に奪い取る。本来は吸血鬼同士でしか発生しない現象であるが、同じ肉体を共有しているのならば、あるいはそれが可能か。

 そう、凪沙が『原初』に支配されることなく、逆に彼女の能力を奪い、意識を保ったまま<第四真祖>となることが、古城たちが望んだ最善の結末。

 しかし、奇蹟でも起きない限り、けして実現することのない未来だ。いくら暁凪沙が優れた巫女であろうと、たった一人で<第四真祖>の“呪われた魂”に勝てる確率など絶望的だ。

 

「せいぜい祈るがいい。貴様の妹が、どれだけ我に抗えるのかをな。半刻(一時間)ももてば、褒めてやろうか」

 

 終わりの宣告に古城は膝をつき、凪沙の姿をした『原初』は、大きく両腕を広げた。

 長い髪が翻り、彼女の背中に巨大な翼は生える。鋭い鉤爪を備えた吸血鬼の翼―――

 その数は五対十枚。それぞれが意思を持つ蛇のようにのたうって、その翼がこの場にいる<焔光の夜伯>の胸へと突き刺さった。翼の表面に浮き上がった赤黒い血管が、ドクドクと強い脈動を打ち始める。

 素体らは全身より光を放って、そのまま翼の中へとゆっくりと吸収されていく。漆黒の翼は端から徐々に鮮やかな虹色の光に染め変わっていき、その淡く美しい輝きは、まるで極光(オーロラ)のよう。

 

 引き裂かれた自分自身の分身を喰らって、『原初』が、仮初の器より眷獣の支配を取り戻し、完全体へと近づく―――

 

 

 “ただ一枚の翼を除いて”。

 

 

「……本気で我に逆らうつもりか、『十二番目』」

 

 一枚の翼が古城にめがけて刃のように伸びた。古城ではなく、その背後にいた『十二番目』を捕食するために、障害物(コジョウ)を薙ぎ払おうとした翼は、それを護るように地面から突き出た無数の氷柱によって弾かれた。

 <第四真祖>の眷獣、その傀儡であるアヴローラが、自らの意思で初めて力を使い、『原初』に逆らった。古城を護るために。

 

「アヴ、ローラ……」

 

 『原初』が不機嫌そうに、二度も歯向かったアヴローラを睨む。

 恐怖に足を竦ませながらも、瞳を焔のように輝かせてアヴローラは睨み返す。そして、古城を庇って、両腕を広げる。

 その思いがけない行動に、古城ですら驚きを隠せない。

 

「眷獣に操られた人形ごときが、宿主たる我に逆らうか―――」

 

 放つ鬼気の圧力を増大させる『原初』。解き放たれた魔力は暴風となり、辺りの廃墟を軋ませる。しかし、アヴローラは引き下がらない。

 

「ほう、良い。『十二番目』はよく育ってるようだ。単に長き時を過ごすだけでは無意味。強い感情と思いの積み重ねが力を増す。宿主たる我に逆らうほどの想いとなればそれはさぞ強いモノだろう。

 ―――しかし、逆らうのは許さぬ」

 

 従属を拒絶する『十二番目』にその暴威を振るう―――直前に視界の端でそれが過った。

 

 それは、先ほどズタボロにした獅子王機関の攻魔師遠山美和の身体。

 

 自ら動けず、投げられた遠山は、その先にいた、<第四真祖>の威に呆然自失していたヴェルディアナ=カルアナの下に届く。反射的にその身柄を受けたヴェルディアナは、その衝撃で意識が戻って、飛んできた方向の先にいた少年を見る。

 

「へ? な、なに……!?」

 

「カルアナ。遠山(そいつ)を連れて、逃げるのだ」

 

 下手人は、古城の後輩

 その正体や本質がわかってなお、僅かでも気を緩めれば素体でなくともその場に傅いてこうべを垂れてしまいかねないほどの、圧倒的な暴威。それを受けて、彼は行動していた。

 

「『十二番目』を手伝うって約束したからな。時間稼ぎくらいはしなくちゃな」

 

 五対十枚。漆黒の一枚を除いて、極光の翼を広げる『原初』の前に、後輩が言い放つ。立ち塞がる。

 

「それに、凪沙ちゃんをひとりにしないとも約束したしな」

 

 だから、ここに殿として残ろう、と。

 古城はそれに何と答えればいいのかもわからなかった。

 とにかく何かを叫ばなくてはならないはずなのに、言葉が詰まって何も出ない。

 行き場を失った感情の奔流は口からではなく、目からボロボロと溢れていた。

 逃げろ、も言えない。死ぬな、なんて言えない。

 

「任せたぞ、“後続機(コウハイ)”」

 

 泣いて何も言えない古城の代わりにアヴローラが言った。

 古城の右の肋骨が熱を帯びる。彼女の思いと魔力が流れ込んでくる。

 そして、放たれるのは、膨大な凍気。

 後輩とこちら側を遮るよう、巨大で分厚い氷壁を造り出す。

 

「行くわよ、古城!」

 

 遠山の身体を抱き上げたヴェルディアナに呼びかけられて、古城も動いた。これ以上、他人任せに無様は晒すことなどできない。アヴローラを拾い、担ぎ上げる。

 ここで、後輩の行動を無題にしないためにも、早くこの場から離れることだけを考えろ。

 

「―――よかろう、せいぜい我を愉しませよ」

 

 極光の翼が巨大な鞭と化して振るわれる。

 木っ端でありながら、『原初』と対峙できたことに一応の敬意として、背を向けた古城らではなく、クロウに目掛けて。

 

 

 ズン……ッッッ!!!!!! と。

 どうしようもない轟音が、クォーツゲートをさらに大きく破壊した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <第四真祖>を斃せるはずモノなどこの世にいない。

 だが、それでもあえて斃せるはずのない『原初』に挑む。しかしながら、その愚かしい行為こそが<第四真祖>の本質であった。

 <第四真祖>は殺神兵器。けして殺せない『神』を殺すために造られた特異点(イレギュラー)だ。そんな世界最強の吸血鬼を斃せる者がいるとすれば、やはりそれは、世界の理から外れた特異点であるはず。

 

 ―――しかし、これは期待外れであった。

 

 この『宴』における不確定要素(イレギュラー)――『十三番目』に対し、『原初』が召喚したのは、『一番目』の金剛の神羊、『五番目』の雷光の獅子、『九番目』の緋色の双角獣―――『十三番目』が、目撃した三体の眷獣だ。

 一体であっても十分なところを、同じ特異点である“後続機”というのを評価して、三体を向けてやった。

 

 なのに、『十三番目』はその枷を解こうとはしない。

 

 <神獣化>―――<焔光の夜伯>が眷獣の分身体であることから、素質は似通っている点がある。その力は龍族や鳳凰と言った神話級の怪物に匹敵し、吸血鬼の眷獣を凌駕する。そして、この南宮クロウの『(からだ)』は、『原初』の依代である暁凪沙(からだ)に匹敵するものがある。

 人造であっても、不老不死の真祖である『原初』には、強敵との死闘というのを最高の娯楽とする性質を持ち合わせていた。

 それがどれほどのものか。また、己に取り込めるだけの力があるか。それを試すために、最初は遊んでやった。

 だが、それでも『十三番目』はその首輪を取ろうとしない。先の獅子王機関の攻魔師遠山美和が瀕死の重傷を負った攻撃を何度受けようと、獣化すらしない。

 

『凪沙ちゃんが怖がるからな』

 

 と問うたこちらに返された言葉がこれだ。

 馬鹿げている。

 もうすぐ、この巫女は死ぬ。それはもう決定されている。

 それがわからぬのか。ならば、良かろう。

 何としてでも、貴様を<神獣化>させてやる。

 

 最硬の宝石による雨霰を浴びせ、天罰の如き雷霆と化した巨体の突撃を喰らわせ、気化爆弾(サーモバリック)の爆圧にも匹敵する、凄まじい衝撃波の弾丸で吹き飛ばした。

 それだけの攻撃を受けて、『十三番目』は五体が壊れず、また、首輪を外さない。悲鳴も洩らしそうになっても、寸前でそれを呑み込む。

 

 一方的な展開だ。

 だが、それが終わらない。潰しても壊れず、潰しても乞われず、動き続けるこの玩具。

 そう、一方的に攻められ続ける経験はこれが初めてではない。

 何せ、今の主人と最初は一昼夜も殺し合ったのだから。

 だが、『原初』にとって一方的な展開というものは飽き飽きとしたものである。

 

「もういい―――」

 

 

 

「っ……」

 

 双角獣の衝撃波に吹き飛ばされ、地面を転がるクロウ。

 クロウはそこで、これまで一歩も動かない、動かせなかった本体が高速でこちらに間合いを詰め、彼女の細腕がゆっくりと振り上げられたのを見た。

 死ぬ。

 南宮クロウは率直にそう思った。

 

 ゴギュッッッガ!!!!!! と壮絶な音が鳴り響いたのは直後のことだった。

 何の武器ももたない少女の細腕が、何の躊躇もなくクロウの生体障壁を貫通した轟音だった。

 真っ直ぐに突き込まれた五指が、迷わずクロウの胸板に吸い込まれる。

 肋骨をへし折り、中で護られていた筋肉の塊のような臓器を正確に掴み取る。胸郭の中、その滑らかな指の腹でなぞり、感触を楽しむようにして。

 つまりは。

 心臓を。

 

「えぶっ!? あごは! おばぼぶがあ……ッッッ!!!!!!」

 

「ふははははははははははっ……ははっ! ようやく哭いたわ!」

 

 ドッドッドッドッ!! と自身の鼓動をひどく他人行儀に聴きながら、哄笑するその顔をクロウは聴く。

 

「あはは!! あはははははは!! ――――つまらん」

 

 水溜りを……

 もっと粘質なものを踏んだような音。

 

「これが現代の殺神兵器、我の“後続機”だというのか。それが未完成であるのはわかっていたが、殺されるまで全力すらも出さんとは……興醒めだ」

 

 ずちゅり、と生々しい音。

 感触に飽いた心の臓を潰すことはせずに手を離し、拳大ほどの風穴を空けた身体より腕を引き抜いた。

 落ちたクロウの頬を打つのは、水溜りではなく。

 それはクロウの身体から湧き出るように流れている血溜り……

 

「不愉快だぞ。なんて無様な散り様だ。所詮は欠陥製品か―――」

 

 どんどん血溜りが広がってゆく……

 この身が、動くことはないただの肉の塊となりつつある……

 そして、もうすぐ物言わぬ骸となるクロウの首元――主人より課せられた『首輪』に、血塗られた手が取り、

 

「このまま死なせるものか。この欠陥製品のせいで、『十二番目(ドウデカトス)』を逃がしてしまったのだからな」

 

 外した。

 これまで、一度たりとも外したことのなかった戒めが、他人の手によって解かれる。

 

「これから、お前の“一番”の記憶()を喰らってやる」

 

 ぞくぞくぞくぞくう!! と最強の吸血鬼の『原初』は不規則に背筋すら震わせて宣告する。

 

「そして、疑似的な『血の眷属』にして」

 

 お前の心臓を握り潰さなかったのは、殺すだけでは己の欲求がそれでは満たされないため。

 

「獣のように我を襲えと命じてやろう」

 

 『原初』の身体が、極光の輝きに包まれ、囚われた獲物(クロウ)の身体よりは金色の光が溢れ出す。

 それを吸い取るかのように開けた口内へと黄金の光は極光の輝きとひとつに絡まりながら呑まれていく。

 そして、その“記憶(あじ)”に『原初』は感涙した。

 

「実に、いい味だ。酔ってしまいそうだ」

 

 蕩けてしまいそうなほど恍惚とした声音が、『原初』の口より零れる。

 

「強い感情が伴わぬ記憶は、水で薄めた酒のようなもの。我に記憶()を捧げた生贄どもの中でも、そなたのそれは複雑に濃厚な情動が入り混じった、実に味わい深い格別な『混血(カクテル)』であったよ」

 

 ごくん、と一欠けらも余さずに、呑み切った。

 もう、これで“一番の記憶”は戻らない。南宮クロウ――『九番』という人格を構成するに核となったものは、奪われた。永遠に、彼の下に還ることはない。

 

 

「さあ、我に殺神兵器の本性を見せてみろ―――!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「____―――― ̄ ̄ ̄ ̄ __  ―――  ̄ ̄ ̄」

 

 

 その遠吠えは休眠していた活火山が噴火したかのように、島の全土にまで震撼した。

 『原初』が表情を変えて、手放し、掴んでいたそれから距離を取った。

 その声には警戒に値するだけの高圧的な力と、身も凍らせるような研ぎ澄まされた魔力が篭められていた。

 

 『狼の冬(フィンブルヴェド)』―――北欧における最終戦争の前兆。

 極限にまで圧縮された獣気が結晶と化して、黄金の神狼を中心として雪霞のように舞っている。その景色は見るものに終末を予感させる。

 

「これほどに見違えるようになるとはな。これが、貴様が押さえ込んでいた本性か“後続機”」

 

 強大な圧力が場を震撼させる。その巨体は、通常時の神獣形態であれば、2mに抑え込めていたが、十数m。『原初』が見上げるほどの巨躯へと成長し、本当の意味で世界を見下ろす獣。

 

 あれは、<第四真祖>の眷獣に匹敵する。

 

 あれは、ただの<神獣化>ではない。

 

 『原初(ルート)』の『血の従者』となって、『首輪』を取ってしまった最厄の<神獣化>。

 

 疑似吸血鬼となった人間は、筋力や嗅覚などの身体能力が向上する。

 そう、筋力と嗅覚―――この“後続機”の得意を通り越して、特異と言えるほどに並外れて優れた長所を、限度を超えて増大させた。

 黄金の巨体に血管を浮き上がらせ、生まれ故郷であった極夜の森を連想させる暗緑色の刺青が走る。

 

「■■■■■■■■―――ッッッ!!!!!!」

 

 これこそ、人の手が加わったものではない、真正の『血に飢えた狂狼(ブラッディウルフ)

 

 怒号のような遠吠え。

 するとその刹那、巨大な影が旧南東地区を覆った。

 絃神島は太平洋上に浮かぶ人工島。中央の人工島管理公社に要石とし、四方位に聖獣を敷く陣を敷き、さらに超高度演算機(スーパーコンピューター)で波風と言った周囲の気候環境を計測し、それに合わせて、地下水路などの流出流入によって、調整している。

 それは、この捨て去られる旧南東地区も同じ。故に今日まで、絃神島を水害が襲ったことはほとんどなかった。故にこの旧南東地区にいた警備隊は、天に立ち昇る海象を見上げて慄き叫んだだろう。

 津波だ、と。

 そう、それは紛れもない津波だった。

 超高度演算機の予報にも出ていない、在ってはならない最大級の災害。ましてやこの一区画を呑み込みかねないほどの大津波など、誰も想像だにしなかったに違いない。

 この神話の大洪水は、クォーツゲートを覆い尽くすように迫っている。

 その水量は数千数万などという矮小な数字では表せない。

 都市を丸呑みしても余りあるだけの水量が、生き物さながらに唸りを上げて、<焔光の夜伯>の三体の眷獣たちを呑み込んでいく。ただでさえ水には魔力を減衰させる性質がある。それを神獣と成り、さらに先の遠吠えで、『血の従者』と化した魔狼の嗅覚を起点とした“魔力によらない”超能力『嗅覚過適応』が芳香侵透(マーキング)していた。初めは流されまいと耐えていた眷獣たちだったが、大渦のような激しい海流の前に奮闘も虚しく流される。

 それを六角水晶に似た背の高い時計塔、その尖塔の頂上より見ていた『原初』は、獰猛に表情を歪め、

 

「面白い。力比べと行こうか―――」

 

 暁凪沙の肉体に憑依した『原初』が、その瞳を爛々と輝かせ、背中の翼が輝きを増す。

 召喚したのは、琥珀色の巨大な牛頭神(ミノタウロス)。『大地』を支配する<第四真祖>の眷獣が、浸水した広場の地盤を盛り上げては、地下より溶岩を噴き上げて出現した巨大な戦斧を振り上げる。戦斧が帯びているのは、凄まじい魔力の輝き。それが真っ向からぶつかってくる―――!

 

 さあ、行け。

 

 命すら燃やす熱情がこの背を押し、滾る血が全身を通る。

 魔狼は、この力の意味を見出す時が来た。

 明らかな格上に挑む。

 そこに恐怖はなく、勝算もない。

 故に、この一瞬一瞬にも問い掛ける。この一瞬先には死が待つ中で模索する。

 あの牛頭神は、己を即死させるだけの攻撃力を有している。

 

「■■■■―――ッッ!!」

 

 戦斧が来る―――凶爪を払う。

 その衝突は、火花となって弾け散った。

 魔狼の腕に感じるのは、痺れ。鋼の刃を地殻に叩きつけたような衝撃を受ける。

 

 どちらも十数mの体躯を持ち、体格は互角。しかし、充実した無限の魔力で構成される戦斧は、牛頭神の巨躯よりも巨大であり、さらに数倍の質量が凝縮して秘められているのだ。まさしく地殻変動に比する威力が襲ってくる。

 擦過するだけの接触でも爆発するような負荷をこの身に受け、それを魔狼は削った命を注いで押し返す。そして、削った命の分だけ死から遠ざかる。

 

 凶爪が砕け―――再生する。

 もっと鋭く。壊れやすくなろうが、より薄く、透明になるほど研ぎ澄ます。

 そして、砕けて血飛沫を上げ、また爪を急激に生やして血を噴き出す手指に、奔る激痛を、猛る血潮と雄叫びで捻じ伏せた。

 

「■■■■ァァァ!!!」

 

 絶え間なく連撃する凶爪。振るう度に飛び散る鮮血。

 秒間数百発に及ぶ凶爪の嵐は周囲の大気に目視可能なほどの衝撃を放ち、足元の地盤は魔狼の踏込に耐えきれずに砕けて沈下している。形振り構わない魔狼の猛攻に、さしもの牛頭神の巨体がわずかに揺れた。

 牛頭神がどれほどの質量を抱えているかは定かではないが、魔狼の一撃は大抵の眷獣を必殺する威力だ。その一打一打を受け切っている牛頭神は、<第四真祖>の眷獣。

 

「ふははははははははははははははははははっ……ははっ!」

 

 『原初』が、青白く燃えるような瞳を揺らして笑う。

 攻撃する度に、魔狼の切り裂く凶爪の方が強い反動を伴って弾ける。

 破壊力を得る代償に、脆くなった。

 構わない。

 頑丈さではなく、切れ味を極限に追及した、諸刃の剣に等しい自壊の一撃。

 生涯一度きりの捨身の爪撃を、何度も何度も一度ならず繰り返す。

 

「ほうれ、『二番目』は足元にも注意せよ」

 

 足元より突き出た灼熱の溶岩の杭。それに胸元の肉を焼き削がれて、魔狼は後ろに押し倒される。

 

 存在自体が反則な相手との土俵に、反則などあるはずがない。

 この敵は、かつて『神』を滅ぼした魔狼の“先達者(センパイ)”。

 世界最強という絶対者

 ならば、限界を超えて無限に積み重ねる学習成果(ラーニング)によって解を得よう。

 

 反省と共に、受けたはずの致命傷が倍速になった治癒再生で塞がれる。

 それからまた。我武者羅に牛頭神に挑む。

 五指、左右で十指の凶爪を一度に戦斧に斬りつけて、破損させる。

 それを十度繰り返して百の凶爪を斬りつけ、

 それを百度繰り返して千の凶爪を斬りつけ、

 絶えず絶えず繰り返し、とかく万の機会を試すのだ。

 一指一指ごと再生していく凶爪は練磨されていく。

 敵の硬度性質を学習し、強固な殻を克服し、そして、その性質を特化させる。悠久の一瞬が過ぎ去って―――――――――――

 

 ついに一指爪のひとつが、戦斧に罅を入れた。

 

 まだ続ける。これで終わりではない。

 加速していく疑似進化は止まらない。

 進化とは必ず優れたものになるのではなく、その環境で生き残りうる資質を獲得するに過ぎない。

 だから、今、“<第四真祖>という災厄の如き環境”に魔狼は適応していく。

 この環境に対する天敵にまで至ろうと進化を加速させていくほど、より怪物となっていく。

 この闘争に特化する疑似進化は、当たり前な生態活動さえ放棄していくことを自覚する。

 災厄を一振りでかき消す爪撃など、他に使い道がなく、人の手など取れなくなる、そんな脱することのできない袋小路に陥る進化を続けていく。

 

「■■■■■■■ォォォォ――――ッッ!!!!」

 

 抜かれた底の栓より流れ出ていくように、命が消費されていく。

 10年分の量を、たった1分で失っていく。

 それでも、もう何も考えられなくなる。再生していけば再生するほど、この『血の従者』の恩恵に頼るほどに、人格構成する基盤たる記憶が奪われていく。

 しかし、それでも、ただ<第四真祖>を倒すことだけしか見えない。

 

 再び足元より琥珀色の溶岩杭が飛び出す。

 しかし、今度はそれを躱す。躱し、すぐさま凶爪を斬りつける。

 牛頭神は、戦斧を盾に構えたが―――防御ごと魔狼は袈裟斬りに両断。その余波は忽ちクォーツゲートの残骸を吹き飛ばして人工島の樹脂と金属で構成された地盤を斬り裂く。裂かれた大地は悲鳴を上げて断崖を造り出し、夜の海に通じるほどの裂け目を造り出した。

 そして、遅れて、核は外れたが深手を負った牛頭神は霧散され、『原初』の翼に戻される。

 

「ほう、<牛頭王の琥珀(コルタウリ・スキヌム)>を斃すか。

 ―――だが、次はどうだ」

 

 <第四真祖>の眷獣を一体屠ろうが、それらを統べる『原初』には指のひとつに過ぎない。

 

 『原初』は、すうと人差し指をあげる。

 天空へ。

 月の輝く、漆黒の天蓋へ。

 

 

「―――<夜摩の黒剣(キフア・アーテル)>!」

 

 

 ここで目前の敵より視線を外すという暴挙を取らされた。それほどの悪寒に襲われた魔狼は、天を仰いで瞳を凝らす。夜行性の猛獣と同じ瞳を光らせて雲間を探る。そこからはさほど時間がかからなかった。

 元凶は、隠し切るのが無理あるほど強大だ。

 そこにあるのは、流星。灼熱の炎に包まれた巨大な流星だ。いまだ雲の上にあるにもかかわらず、肉眼ではっきりとその姿が映る。

 流星の正体は、巨大な武器だ。三鈷剣と呼ばれる古代の武具。神々が使ったとされる降魔の利剣。優に刃渡り100mを超えるであろう巨大な剣が、高度数千mの上空から重力に引かれて落下してくる。

 

 単純な位置エネルギーを利用した一撃だが、音速を遥かに超えたその威力は核爆弾にも匹敵することだろう。

 更には重力制御を以て、圧倒的に弾着を速めた裁きの剣。

 

 

 天空(そら)から、今、<第四真祖>最上級の破滅が降り落ちる。

 

 

回想 旧南東地区

 

 

 それを、ヴェルディアナも見た。

 吸血鬼の紅の瞳は、天から降り落ちる三鈷剣を確かに捉えた。同時にその脅威をも察したのは、真祖を恐れる純血の吸血鬼の本能。

 

 刹那、魔狼がその着地点に向けて全力で地を蹴ったのが視界に入った。

 

 彼を殿に、自分たちは逃げた。

 途中、アヴローラを連れた古城と逸れてしまったが、強引に預けられた遠山を担いで、ヴェルディアナはなるべく遠く、そして、広場の様子が見える――ビルの屋上にまで来ていた。

 しかし、どうやらここも安全地帯とはいかないらしい。

 

「ホント……どうして、立ち向かえるのよ」

 

 しかし、どうやら魔狼は諦めていない。

 <第四真祖>の眷獣の一体に何度その腕を壊されようと、挑み続け、そして、破った。

 

「……。私は、あなたが嫌いだった。あの行動力と、あの鼻の良さに……そして、呆れるほどにしぶとい根性と大馬鹿な頑固さ。それを見せつけられるのがとにかく脅威で、不快で、……嫉妬さえ感じるものだった」

 

 それが姉の仇と同じ血を引いてるなんて、納得させるための後付けの理由。

 本当は、あの性格があまりにも眩しくて、太陽のように直視できないモノだったから、自分は目を背けようとした。

 なのに、今こうして見せつけられる。

 

「だから、それが正しくても注意とかされると反発とかしたくなって……後で思い返すと、なんとも自分がみじめなヤツに思えてならなかったわよ」

 

 だからこそ……南宮クロウに対し、ヴェルディアナはこれまで反目の意を抱くのがやめられなかった。彼が自分の眷獣をブッ飛ばしたのは腹立たしいし、『魔女に媚びうる半端者』と魔族の噂で流れる<黒妖犬>の悪評を聞いて、暗い喜びを覚えてたりもしていた。

 ……つくづく無様な心の矮小さだった。

 そんな自分の姿を振り返って、ヴェルディアナは遅まきながらも自らの過ちに気づく。

 

「正直……うんざりしてたのよ。私はなんで、こんな嫌な魔族(ヤツ)をやってるんだろうってね」

 

 残るすべての魔力を注ぎ込み、この血の中にいる眷獣の因子を全て噴出させて、この二体の魔犬を召喚する。

 

「―――最後のお願い……」

 

 復讐は終わった。もう、自分にこの力は必要ない。カルアナ家は、今日、終わりを迎える。

 ―――あのとき、彼の言葉で、この絃神島での思い出と、故郷での家族の過去を天秤にかけてしまった時点で、この答えは決まっていた。

 

「<ガングレト>、<ガングレディ>」

 

 『九番目』を所有していたカルアナ家が管理する『真の九番目』は、一族の血に宿っていくものだと、父様はよく語り聞かせてくれた。

 そして、それを継承した吸血鬼の眷獣には、ある特徴が表れるもの。そう、自分の眷獣には、姉様のにはない、そのひとつの特徴があるものだ。

 実際は、彼に一蹴されてしまう眷獣だったけど。

 これは、そんな小さな誇り。

 今の自分が賭けられる唯一のそれを―――捧げる。

 

「きっと眷獣(あなた)たちと相性はいいはず。だから……お願い。これからは彼の力になってあげて」

 

 二頭の魔犬は、主人の命に、少しの間、待ち、その手にすり寄ってから、行く。

 ―――魔狼に食べられに。自害しろという名に彼らは従ってくれた。

 

 『同族食い』。『血の従者』にして、狼犬の因子を持つ彼に、力を届けられる唯一の手段。

 

 きっとこれは愚かな行い。

 吸血鬼が、切り札である眷獣を譲ってしまうだなんて、馬鹿げてる。自分でも、笑う。でも、自分ができるのは今、これしかない。

 

「これで、クロウには貸しがひとつよ。それも、とんでもない貸しなんだから。後々、あなたがどんな大物になっても……今日のことで私には、頭が上がらなくなるでしょう。私としては、それで十分満足よ」

 

 忘れたりしたら、許さないんだから―――

 そう言って、どこか陰のあったヴェルディアナの顔に、まるで憑き物が取れたようなすっきりとした薄い笑みが浮かぶ。

 

 

「これでいい、これで、肩の荷が下りたわ。あとは、最後まで見届けさせてもらうわ」

 

 

回想 旧南東地区 クォーツゲート

 

 

 家族。

 友達。

 主人。

 思い出。

 あらゆる宝物が、たった一つの想いに詰まっていた。

 この想いさえあれば、やっていける。逆に、この想いが失われてしまえば、自分という存在は獣に堕ちることだろう。

 

「―――■■ァ■■■ッ!」

 

 魔狼の口から放たれる、自然霊をも狂乱させる、人にあらざる咆哮……それが、やけに遠くから聴こえた。

 喰らい尽くされていく―――

 主人に拾われて、この絃神島で育んできた大切な想いが、何かに蝕まれ、削り取られていく。

 『原初』の思う通りであった。

 今、魔狼の身体を衝き動かせているのは、魔狼自身ではない。

 この記憶を奪い、心を獣に堕としてなおも、喰らっていく―――

 “一番”でその味を占めた『原初』が、この『血の従者』にした繋がりから、力を供給している代わりに、いただいていく。

 痛くないのに、たまらなく痛い。

 胸が締め付けられて苦しいのに、頭が空っぽになったように何も考えられなくなっていく。

 

 ―――私の下僕(サーヴァント)になれ。

 

 死にかけていた自分にそう告げた、主人の魔女の傲岸不遜な顔が。

 

 ―――本当にありがとうな、クロウ。

 ―――はい、いってらっしゃいクロウ君。

 

 ここで出会ってきた先輩や友人たちとの思い出が。

 

 ―――ありがとう。

 

 そして。

 

 ―――でもね、誰かがひとりぼっちで泣いているような、そんな気がするんだ。

 

 まだ無自覚な、けれど、その有様を見て、初めての■をした少女の言葉が。

 

 身体が再生すれば再生するほど、再生された記憶が消費されていく。思い出が虫食いされるように穴が開き、真っ黒に塗り固められていく。

 今の■宮ク■ウを作る土台となる、かけがえのない記憶。

 それらがなくなってしまえば、ク■ウはク■ウでなくなる。

 ダメだ、これ以上、奪うな―――

 そう叫びたいのに、叫ぶことができない。

 

「■ァ■■ァ■■―――」

 

 魔狼の口から零れるのは、ひたすらに血を求める狂獣の鳴き声でしかない。

 痛みはない。

 それなのに、どうしようもなく―――心が痛い。

 抗うことができない苦痛は、大切な人たちの顔を欠けさせていき、そして彼らが見つめてくれた自分の顔までわからなくなっていく。

 自分が何者なのか、わからなくなっていく―――

 

 

 

 重力を至極へと増していく三鈷剣。

 雲が割れ、音速を遥かに凌駕する。

 落下すれば、この廃墟区画に致命的な破壊を及ばすだけに留まらず、人工島が沈みかねない。この究極の破壊を成すだけの単純極まる力、故にそれを防ぐのは至難。

 

 

 

 それに向かっていく魔狼の躰。

 その災厄を斃すという使命感が、ただの破壊衝動に塗り替えられていく。

 守りたいという決意が、強大な力を欲する飢餓に変わっていく。

 

「      ッッ!!!!!!」

 

 激突は、どれほどのエネルギーを生んだか。

 烈風が、旧南東地区はおろか絃神市全体を吹き払った。コンマにも満たない時間の中で、三鈷剣と魔狼は拮抗し、確かに動きを止めていた。

 しかし、さしもの<神獣化>を超えた『血に飢えた狂狼』もまた、ただではすまなかった。

 牛頭神と幾度もの衝突を経た身体がついに悲鳴を上げ、腕だけでなく全身、あらゆる筋肉が断裂したかのようだ。

 

 それ……でも……!

 

 魔狼の眼に、赤光が弾ける。

 断裂した身体を再生。破壊。再生。破壊。再生―――繰り返し、

 

 護りたいモノが……ある……!

 

 繰り返すたびに、魔狼は更なる力を練り上げる。

 すべてを費やしたはずの力を、さらに振り絞って、振り絞って、絞り尽くしてなお、引き千切らんばかりにまだ絞る。

 

 裁きの剣が吹き飛ばされる。

 破壊はできなかったが、落下の向きを変えられた三鈷剣が大気を裂いて、水平線の彼方へと消えていく。

 もはや三鈷剣が地上に落ちてくることはない。

 だが、三鈷剣によって生み出された衝撃波は、完全に消滅したわけではなかった。

 遅れて地表に到達した衝撃波が、旧南東地区に直撃する。

 剣本体が落下したほどの威力ではない。だがそれは、人工島の基底部を粉砕するのに足るだけの破壊力を持っていた。

 これまでの激突でなおも、この旧南東地区が一気に沈没しないのは、この人工島の基礎設計が優れていたからだろう。それでも沈むのは時間の問題。

 

 そして、魔狼も空中で一回転し、姿勢を整えて、地に降り立つ。

 

「これは驚いたぞ。<夜摩の黒剣(キフア・アーテル)>をその身に受けて、まだ這い上がるか」

 

 艶やかに嗤う『原初』

 這い上がった、と『原初』は言う。

 それが、違う。

 こうして身体は再生しながらも、ク■■は堕ち続けていた。

 記憶を奪われ、心を引き摺りこもうとする闇色の海で、必死に藻掻いている。

 大切な想いが、あったはずだ。

 その想いを成就させるために、戦っていたはずだった。

 しかし―――

 ■■ク■■は、思い出せなくなっていく。

 護りたいと願った人々がいたはずなのに、顔が思い出せない。

 彼らが呼び掛けてくれた、自分の名前が思い出せない。

 ひどく悲しいのに、どうして悲しいかも思い出せない。

 戦う目的も、大切な人々の顔も、大事な約束までも、力を使う度に、記憶が食われていく―――

 

「だが、哀れ。汝の敗北は必定。我が眷獣はまだいる。

 ―――<蠍虎の紫(シヤウラ・ヴイオーラ)>、欠片も残さず喰らってやれ」

 

 翼を引き抜いてまた新たな眷獣を召喚する。

 それは紫の炎に包まれた怪物だった。鮫の歯と獅子の胴体、蠍の尾と蝙蝠の翼―――人食い(マンティコア)の名で知れた幻獣。

 吸血鬼の相手の生命力を奪う『吸血(ドレイン)』を象徴とする<第四真祖>の眷獣。その牙が魔狼に喰らい尽く寸前―――

 横から二体の魔犬が飛びこんだ。

 

「なに?」

 

 人食いの脅威から逃すように、炎を吐き出す三つ首の魔犬と冷気を纏う双頭の魔犬は、魔狼の巨体を咥えて引き摺る。

 

 ―――そして、霧散した。

 

 灼熱と凍気が入り混じり、蒸発してしまったように、自壊した。

 何故?

 木端の雑魚であっても、それは純血の眷獣。

 それが、喰われやすいように自ら赤い蒸気になった。あの『血の従者』である『血に飢えた狂狼』に『同族食い』されていく。

 

「己の眷獣を食わせるだと……!? こやつ、純血から『匈鬼』に堕ちる気か!?」

 

 純血の吸血鬼が、蔑まれる『匈鬼』に堕ちる覚悟で眷獣を捧げる。

 とても、『原初』には理解ができない愚行。

 

 ―――クロウっ!

 

 あまりにも血を失い過ぎた肉体に、純血が浸透する。満たしていく。魔狼の眼に光が戻る。理性。自我。そして、記憶。この純血が、喪っていったものを蘇らせる。

 クロウ。

 南宮クロウ。

 そう、呼ばれる名前はそう! ―――『血に飢えた狂獣』のものではない。

 『原初』に喰われ、穴の開いた記憶が、狂う前に呑まれた“一番”を除いて、魔法をかけられたように形を取り戻していく。

 

 でっかい借りができちまったな。

 

 飢えた血の渇きが、満たされ、

 魔狼――南宮クロウの瞳が、赤色から金色へと戻っていく。

 色を取り戻した世界で、『原初』を見て―――宣言するように、唱えた。

 

 

 

「<焔光の夜伯(カレイド・ブラッド)>ノ血脈ヲ外レシ者、我ガ肉体ヲ汝ノ器トスル」

 

 

 

 “一番の記憶”と引き換えに拾った、少女との誓いと、『原初』が切り捨てた“情報”。

 人間の肋骨は十二対だが、四足動物の犬に類人猿といった獣の肋骨は十三対ある。つまりは、これは『原初』が不要と捨て去ったモノたちの残滓。獣であるから受け入れられたもの。

 これだけでは不足であった。欠けている箇所が多すぎる。

 しかし、今、欠損部分が埋められる。

 三つ首の魔犬より変じた熱気と双頭の魔犬より変じた冷気。二つを吸い込み、体内で混在させる。

 この“純血の記憶(におい)”は元の“残滓の情報(におい)”とは異なるが、『嗅覚過適応』で読み込んだ魔狼は、己の『混血』に宿らせて、復元させた―――

 

 黄金の魔狼、その身体に走る刺青と同じ暗緑色の尾が、蛇頭に変生される。

 伝承に曰く、三つ首の魔犬(ケルベロス)双頭の魔犬(オルトロス)は、“蛇頭の龍尾”が生えていた―――つまり、これはヴェルディアナ=カルアナの眷獣を『鍵』として形作ったもの。

 そして、体内に収まりきれずに、背中より余剰に排出される熱気と凍気、相反する熱量が対消滅されて純粋なエネルギーの塊――『炎の氷柱』と言い表せるような形にまとまっている。

 

 

 

疾ク成レ(ヨミガエレ)、『十三番目』ノ眷獣、<蛇尾狼の暗緑(マルコシアス・テネブリス・ヴィリディ)>―――!」

 

 

 

 それはまさしく、悪魔の中で月の女神に仕えていた地獄最強の魔獣(マルコシアス)

 

「行クゾ、“先達者(センパイ)”」

 

 それは秒にも満たない瞬間。

 加速装置(ロケットブースター)の如く、『炎の氷柱』より魔力放出。神獣の脚力に、その後押しは魔速へと至らせ―――

 人食い(マンティコア)の視界より、蛇尾狼(クロウ)が消え―――反応すらさせずに、魔爪に斬り裂かれる。

 

 災厄の化身と称される真祖の眷獣―――だがあり得べからざることに、風切り音よりも静かな断末魔と共に、原形を保てずに人食いは霧散した。

 

「ぬ!?」

 

 アクションは人食いを屠っただけに留まらない。

 魔狼が暗緑色の蛇尾を揮って、『原初』の胴に蛇頭を咬みつかせた。吸血鬼の翼が濃密な魔力を篭めた斬撃を放ってくるが、それを弾いて、暁凪沙の体と接続させる。

 <蛇尾狼の暗緑(マルコシアス・テネブリス・ヴィリディ)

 その失われた『十三番目』の<焔光の夜伯>の力は、“死者を蘇らせる”という『蘇生』の吸血鬼の伝承を象徴化したもの。

 蛇と犬を聖獣とする蛇遣い(アスクレピオス)と同じ、神の定めたこの世の摂理に反する“完全なる死者蘇生”。

 それは、『人工的な吸血鬼『僵屍鬼』や『血の従者』として、魔族に転生させるのではなく、人間を人間のまま蘇らせる』

 とても、災厄の如き破壊になど成りえない。

 それを<黒死皇>の悪行と同じく、駒として動死体を操るのではなく、自由意思を持たせたまま、死体ではなく、生者として蘇らせてしまうのだから、『神』はこの力を<第四真祖>より外させた。

 ―――しかし、その失われた残滓だったものが、『原初』を追い詰める。

 

「貴様、巫女を―――!」

 

「言ッタダロ。“死者蘇生クライオレニモデキル”ッテナ」

 

 暁凪沙の身体をした『原初』は、鬼気迫る形相で、『十三番目』の蛇尾狼を睨みつける。

 『原初』の“呪われた魂”に合わせて、十枚の翼を生やした真祖の肉体へと変わりつつあったものが、人間の少女のものに逆戻りしていく。

 無限の“負”の魔力が、“正”の霊力へと(かえ)っていく。

 ―――死んだはずの『暁凪沙』の魂が、抵抗しているのだ。

 

「ソレハ、『原初(オマエ)』ガ蘇ッ()テモイイ肉体(ウツワ)ジャナイ。暁凪沙ノモノダ」

 

 混成能力者(ハイブリッド)の巫女である暁凪沙であっても、『原初』の“呪われた魂”に打ち勝つのは不可能だ。

 “ひとりでなれば”。

 死の淵に堕ちかけていた暁凪沙の魂を、その蛇尾が捕まえ、冥府魔道より手繰り寄せる(よみがえらす)。この命綱の支援があるのならば、『同族喰い』を以て肉体を取り戻せるか―――

 

「おのれ、調子に―――」

 

 また、ひとつ翼を千切る。

 

「乗るな、“後続機”―――!」

 

 生み出される巨大な幻獣。

 美しい女性の上半身と、巨大な蛇の下半身。流れ落ちる髪も無数の蛇。青白き水の精霊――水妖だ。

 その力は、吸血鬼の『再生』を示すもの。

 水妖が撒き散らす水流に触れただけで、クォーツゲートの残骸が砂のように崩れ溶ける。硝子は珪砂や水や炭素へ、コンクリートは土塊に、そして、鉄骨は、人の手に加工される前の―――原子レベルにまで分解還元される。

 時間を巻き戻したかのように、全ての文明を無に還す怪物。それが起こした津波が、蛇尾狼に迫る。

 

「グッ!」

 

 動けない。

 今、『原初』と繋がった蛇尾を外せば、二度と『暁凪沙』の魂は救い出せないかもしれない。

 だが、ここで水妖の攻撃を避けなければ―――

 

 

 

「「疾く在れ(きやがれ)、<妖姫の蒼氷(アルレシヤ・グラキエス)>!」」

 

 

 

 全長10m足らずの美しい眷獣が、膨大な凍気を従えさせて降臨。上半身は人間の女性に似ているが、下半身は魚。背中には透明な翼を生やし、指先は猛禽のような鋭い鉤爪になっている。

 氷の人魚、または妖鳥(セイレーン)―――これが、『十二番目』の眷獣。

 受信機たる肋骨の一部を預けた『血の従者』の暁古城と手を繋ぎ、アヴローラが自分の中に封印されていた眷獣を召喚。そして、激流を纏う『十一番目』の水妖とぶつかる。

 

「従者の分際で、眷獣を従えてまで我に抗うか!」

 

 激流を凍気が氷結させ、その氷が還元され水に戻らされる。

 同じ<焔光の夜伯>の眷獣の能力は互角で拮抗している。ただ、膨大な魔力の余波だけがこの人工の大地を揺らしている。

 

「待たせたな、クロウ」

 

 覚悟を決めて、時間稼ぎした間に勝算を見出して戻ってきたのは、その荒々しく犬歯を剥いて笑っている様からわかった。

 その手に、真祖殺しの聖槍を装填したクロスボウを持ち、暁古城は蛇尾狼の隣にアヴローラを連れて、駆け付ける。

 それに、『原初』と生死の綱引きを行っている後輩は、途切れ途切れに最低限のことを伝えた。

 

「凪沙チャン、魂、繋イデル―――今ノウチニ!」

 

 後輩からのバトンタッチを受けた、古城は頷いて、

 

「ああ、わかってる。凪沙は取り返す。アヴローラは食わせない。吸血鬼化した人たちも解放する。あれが世界最強の吸血鬼だろうが、殺神兵器だろうが知ったことか!

 ―――ここから先は、俺の“戦争(ケンカ)”だ!」

 

「貴様ら……!」

 

 格下の相手にこうまで喧嘩を売られるとは……!

 激昂する『原初』は、全ての眷獣を喚び出す。

 海流に流されていた三体も、深手を負わされた牛頭神に人食い、弾き逸らされた三鈷剣まで。

 

 そして、完全な再生はまだ終わっていない人食いが、蛇尾狼に逆襲をしかけ―――

 

「な!?」

 

 驚きの声を洩らしたのは、古城ではなく、『原初』。

 ゴウッ、と凄まじい爆音を起こして突き抜けた衝撃波が、人食いに直撃し、そのまま数十mも吹き飛ばす。

 

「<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>……!」

 

 凄まじい震動波を全身に纏った緋色の双角獣が、古城たちを庇い、人食いを退けさせる。

 そして、

 

「<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>……!」

 

 半壊した戦斧を振り上げ、古城ら目がけて叩きつける牛頭神を、銀色の霧が包み込む。

 

「<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>……!」

 

 神羊が金剛石の身体より散弾のように撃ち放った宝石が、次元ごと呑まれる。

 

「<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>……!」

 

 今度は地平線に平行に沿った薙ぎ払いで迫ってきた長大な三鈷剣が、雷光に弾かれる。

 

 双角獣に続いて、濃霧に包まれた銀色の甲殻獣、次元を喰らう双頭龍、雷光を迸る獅子。

 姉妹の末妹であるアヴローラが驚いたような表情で、姉達の名前を呼んだ。古城もまた驚愕する。

 <焔光の夜伯>の眷獣が、古城たちを護るように同じ<焔光の夜伯>の眷獣と相対したのだ。本体であるはずの『原初』の命に逆らって。

 

「な、何故、我に逆らう、『九番目』、『四番目』、『三番目』、『五番目』……!?」

 

 予期せぬ状況に『原初』が唇を歪めて狼狽する。『十三番目』によって『暁凪沙』が蘇らされたせいで、『原初』は眷獣たちの支配権を完全に掌握し切れなくなっていた。そのことが、四体もの<焔光の夜伯>の離反を招いてしまった。

 

 しかし、制御が外されただけで、『原初』に反抗して古城たちに味方をするものか?

 古城は、そこで『原初』を――暁凪沙の姿をした少女を見る。

 

(凪沙……か!? こいつらも凪沙を救おうとしているのか!?)

 

 理屈もないし、理由にもならないだろうが―――もしかすると、凪沙本人の自覚がないだけで、彼女たちは凪沙に懐いているのかもしれない。

 それで、凪沙を護る“後続機(コウハイ)”から刺激を受けたのかもしれない。

 だから、凪沙を護る。凪沙を救おうとする古城たちの味方をする。

 古城は、そう信じた。とりあえず今はそれだけで十分。

 ちょうど五対五で数は同じ。しかし、損耗しているのは『原初』側の<焔光の夜伯>

 

「―――後ハ、任セタ……!」

 

 とっくに限界など過ぎ去っていた後輩が、最後の最後の力を振り絞って、『原初』に咬みついて離さないでいる蛇尾を時計塔より引き寄せる。

 そして、まだ途中で力尽きたことを悔しそうに歯噛みしながら、蛇尾狼の状態が解かれて、元の南宮クロウの姿に戻って、倒れる。

 それを後にし、古城とアヴローラは地上に引き摺り下ろされた『原初』へ疾走した。暁古城がバスケ部時代に得意だった戦法は、カウンター。この後輩が繋いでいてくれたチャンスに、電撃戦の速攻で終わらせる!

 

「―――終わりだ、『原初のアヴローラ』!」

 

 眷獣がおらず、無防備な『原初』の妹と同じ華奢な体に古城が抱きついて、無理矢理に押さえつける。

 

「従者ごときが! 弁えよ!」

 

 そのクロウの身体を貫いた鋭い刃の如き『原初』の魔手が、古城の脇腹へと突き入れた。

 メキメキと骨の軋む音が古城の身体を震わせ、肋骨を握られる。

 『血の従者』の肋骨は、<第四真祖>の魔力を受け取る、触媒(アンテナ)の役割を果たしている。つまり、この肋骨が奪い取られれば、古城の不死の呪いが解けて、ただの人間に戻る。

 だが、

 

「効かねェな!」

 

 魔手に貫かれた古城は、構わず『原初』の腕をがっちりと押さえ込む。

 

「一度死にかけたくらいで怯んでんじゃあ、先輩として後輩に申し訳が立たねェんだよ!」

 

 魔力はともかく、単純な力比べに持ち込めば古城でも『原初』の動きを止めることくらいはできる。

 しかし、完全に密着される前に、『原初』の吸血鬼の翼が広がる。攻魔師を容易く撃退した強力過ぎる攻撃が、古城に振るわれる―――寸前で、とまった。

 

『もう、あたしの体で勝手はさせない!』

「巫女か!」

 

 身体の制御にも干渉できるほどに、その魂の意識が蘇ってきていた。

 完全に身動きが封じられ、抵抗まで許されなくなった『原初』の表情に焦りが浮いた。そんな彼女の背後にアヴローラが迫る。

 

「『十二番目』!? 貴様―――!」

 

 『原初』が首だけ振り返って絶叫する。アヴローラはそんな本体に背後から寄り添い、白く細い暁凪沙の首筋に唇を押し当てて、鋭い牙で柔らかな肌を刺し貫く。

 

 古城たちの『原初』を斃す策―――それは、『同族喰い』

 吸血鬼が吸血鬼の血を吸って、相手の“血統”や“能力”や“眷獣”を、自分の中で取り込む。しかし、相手を自分の中に取り込むというのは、逆に自分自身を乗っ取られる危険性がある。存在を上書きされてしまうのだ。

 あの時、『原初』は、上書きができれば凪沙(いもうと)は助かる、と自分で言っていた。

 『原初のアヴローラ』の存在を乗っ取り、暁凪沙の人格を保持したまま、<第四真祖>になる、と。

 だが、それが実現できる可能性は限りなくゼロに近い。『死者蘇生』の援助があっても、人間の暁凪沙には“呪われた魂”に呑まれぬよう現状維持に状態を保つので精一杯だった。

 でも、もし上書き(オーバーライド)するのが人間ではなく、魔族ならば?

 それも<第四真祖>の監視者として造られた封印の器ならば―――?

 

 これが、古城たちが見つけ出した『原初』を打倒する勝算、凪沙とアヴローラの両方を救いうる、たった一つの可能性。

 

(アヴローラ……!)

 

 古城がクロスボウに装填した銀の杭を、ゆっくりとアヴローラの心臓に合わせる。

 真祖殺しの聖槍。<第四真祖>を滅ぼす最後の切り札。

 もし、アヴローラが『原初』の魂を上書きできず、逆に彼女が『原初』に喰われたら、その時は古城が彼女を撃つ―――そう、アヴローラと約束した。

 それができるか、古城はわからない。

 『原初』を野放しにしてしまえば、『焔侊の宴』に大勢の人々が巻き込まれて、いくつもの屍の山が出来上がる。そして、後輩が瀬戸際で繋ぎ止めてくれた妹も助からない。

 だから、古城は撃たなければならない。たとえ撃てなくても撃つしかないのだ。と、

 

「くくっ……」

 

 ちょうど時計塔の鐘が鳴った時、それまでアヴローラと凍りついたように動かなかった暁凪沙が、笑う。凪沙本人の笑い方ではない、あからさまな嘲笑。

 内側の心象世界で、支配権を激しく争っていた『原初』が、アヴローラを返り討ちにしたのか―――

 そう、古城が焦った時、笑い続けていた凪沙の声が次第に落ちていく。

 

 

「おまえたちの……勝ちだ……」

 

 

 凪沙は――『原初』は、満足げにぼそりと呟いて、そして眠るように目を閉じた。

 

 

回想 彩海学園

 

 

 蛇遣い(アスクレピオス)が『死者蘇生』で『神』が敷いた世界の理に背いたせいで、天罰を受けて死ぬこととなった。

 それと同じように、あまりにも力を使い過ぎた南宮クロウは、その反動で天罰を受けたようにボロボロと塩の柱のように身体が朽ち果て、崩れゆく。

 ―――けれど、それを真祖の『再生』が、命を救う。

 

 その後にあった、暁古城が<第四真祖>となることになった、アヴローラ=フロレスティーナとのやり取りを知ることはなく、南宮クロウの『焔侊の宴』は終わった。

 この戦闘で負った傷が完全に癒えるまでは、南宮クロウは主人の南宮那月より、<神獣化>はおろか獣化の変身も数ヶ月間……夏休みが終わり、二学期に入るまで禁じられる。

 

 

 

 そして、四月の満月のころから、八月の最後の月曜日。

 

 

 

「馬鹿犬。暁――サボリ魔に追加の課題を届けてこい」

 

「う。お使い了解したのだご主人」

 

 

 

つづく

 

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 ―――ピロロン♪

 

 

 先輩こと南宮クロウから預かっている――実質、アスタルテが管理している携帯電話に着信が入った。

 

 現在、先輩は教官(マスター)の部屋でお説教中。

 何でもここ最近、先輩の所有物(特に体操服とか帽子といった衣類)を失くすことが多く、一体どこに置き忘れたのだとお叱りを受けている。

 心当たりがないものの、そういう抜けていることを一応は自覚している先輩は言い訳せずに、思い出すまではしばらく正座しながらここ最近学校での生活について話してみろ、と言われ、素直に教官に語っている真っ最中。

 同居人の叶瀬夏音は心配して気になっていたようだが、彼女よりも早くここに世話になっているアスタルテは、あれはこの主従なりのコミュニケーションだと理解した。

 とりあえず、説教は長引きそうなので、メールの内容を見てみると、送ってきた差出人は、暁凪沙。

 

 

 >クロウ君クロウ君! 今週末さ

  どこか泳げるとこに遊びに行かない?

  折角新しい水着を買ったのに

  古城君、補習とか課題ばっかりで

  今年、海に連れてってもらえなかったんだよ

  元気になったらって、約束したのにっ!

 

 

 暁凪沙とは、アスタルテも面識がある。彼女が、重度の魔族恐怖症を患っていることも知っている。けれど、半分が魔族の血が流れている先輩と親しく、また、準魔族指定の人工生命体(ホムンクルス)のアスタルテにも怖がることはせず、良く話しかけてくる。叶瀬夏音も合わせ、三人で付き合うことが多い。

 して。

 ちまちまとしたボタン操作が苦手でこれまでに何台かを潰してきた先輩の代打ちをアスタルテは任されてきた。

 メールが来たときは、いつも先輩がそれを見て、返信内容をアスタルテに伝えて送っている。だから、ある程度の思考模倣(トレース)はできる。

 説教もまだまだ長引きそうだし、返信も待たせるわけにもいかない。ので、ぽちぽちとアスタルテは返信メールを打った。

 

 

         それは残念だったな凪沙ちゃん<

         それで、もう体調はいいのか?

         この前、退院したばっかだろ?

 

 >心配してくれてありがと

  でも、もう大丈夫。元気だよ

  これもクロウ君が気づいてくれたおかげだよ

  だから、クロウ君についててもらえると

  凪沙はすごく安心できる―――

  って、深森ちゃんからのお墨付きもらったよ!

 

                    そうか<

  凪沙ちゃんの体調はちゃんと気にかけてるから

           深森先生にそう言ってくれ

             むぅ、でも今週末には

     『青の楽園』ってとこで仕事があるのだ

 

 

 後輩としてアスタルテは、抜けているダメな先輩のスケジュールもきちんと把握している。

 ホテルや遊園地、それに9種類のプールに『魔獣庭園』を目玉とし、正式オープンは来年とまだ先だが、ここ最近注目を集めている新造の増設人工島(サブフロート)青の楽園(ブルーエリジウム)』、通称ブルエリから教官ではなく、教官を通して先輩をご指名に依頼が入った。

 

 

 >ええっ!?

  それってあの話題のブルエリ!?

  今月から完全招待制の仮営業してるって

  この前ニュースで聞いたことあるけど

  一泊何万円もするあの高級リゾートの!?

  クロウ君、どんな仕事任されたの?

 

 最近、『魔獣庭園』の様子がおかしいらしくてな<

    時々、魔獣たちが暴れたりするそうなのだ

      それで魔獣と意思疎通がとれるオレに

       相手してくれって、頼まれたんだぞ

 

 >へぇ、そうなんだぁ……

  すごいね、クロウ君!

  ……でも、ちょっと残念だなぁ……

 

 

 落ち込んでいるのが、直接見ずとも文章を読むだけで伝わってくるよう。

 仕事なので仕方がないことだが、それでもこのアスタルテとも親しい付き合いである暁凪沙が消沈するのは、あまり好ましいものではなく、

 少し考えてから、またぽちぽちと文章を作る。

 

 

                   う。オレも<

    凪沙ちゃんの水着姿を見れないのは残念だぞ

 

 

 と、先輩の思考模倣(トレース)からは外れてるものの、教官より渡された年頃の学生相談マニュアルに記載されていた男子生徒の会話一例を参考にし、それを先輩口調風にアレンジして、差し障りのない言葉を添えてみた。

 

 

 >み、見たいのあたしの水着姿……?

 

 

 そして、こちらの返信を待たずに、写真画像が添付されたメールが届いた。

 開いて見てみると、アヒル柄のワンポイントが入った白いエプロンと、水着だけを身に着けた水着エプロン姿の暁凪沙の自撮り写真……

 

 一応、状況説明の文章もあった。

 マンションの変圧器を交換するため、現在家庭用の配線は停電中で、冷房の効かない部屋が蒸し暑い。そのため、なるべく涼しい姿をしているのだという。

 それで水着を着たら、海に行きたくなったから先輩にメールしたと。

 そして、最後の隅っこに『どうかな?』と控えめに感想を求められた。

 

 ……………どうしよう。

 見せるべきかどうか。いや、先輩の感想が必要なのだから、見せるべきだろう。アスタルテもそこまで先輩の思考模倣(トレース)はできない。

 しかし、見せてはいけない……あまり、見せたくないと思う。だが、これが先輩の携帯である以上、保存していればいつか見られるだろうし……

 

 携帯電話を持ったまま固まり、長考に入るアスタルテ。

 そこへまた着信音。

 びくっ、と反応し、ひとつひとつのボタン操作を丁寧に、なるべくゆっくりとメールを開封……すると、

 

 

 >クロウっ!

  さっき凪沙が送ってきた写真はすぐに消せ!

 

 

 その後、長々と送ってきた状況説明の文章によると、暁凪沙が水着エプロン姿を自撮りしていたところをちょうど帰宅してきた第四真祖が目撃。

 そして、兄妹で激しい口喧嘩の応酬があったそうで、どうにか暁凪沙がこちらに写真を送ったが、その後すぐに第四真祖が妹の携帯を奪取して、この文章を打ち込んで、送り付けた、と。

 

 命令受託(アクセプト)

 頷いて、アスタルテは画像記録を速やかに消去する。

 それから、何となく第四真祖に感謝をしたい、どうやってそれをさりげなく伝えるべきかと考えつつ、アスタルテは返信文を作成した。

 

 

             ん。ちゃんと消したぞ

                   古城君♡<

 

 

 その後、『この『♡』についてなんなのか!?』と第四真祖は暁凪沙と、監視役で付いていた姫柊雪菜から追及があったそうで、

 ブルエリの招待話を持ってきた悪友の矢瀬基樹が来るまで、正座だった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 主人の説教、それと今週末の打ち合わせが終わり、自室に戻るとそこに置物の人形のように後輩のアスタルテがいて―――

 

「ん?」

 

 いつもと違うことに気づく。

 肩紐のないレオタード状の、バニースーツのような衣装。袖はないのに袖口のカフスがあり、スカートをはいてないのに、ガーターベルトをつけている。

 いつものメイド服姿ではない。寄生型の眷獣を召喚するため背中を大きく開いていたそれよりも肌面積の多い―――そう、あれは主人が収集しているメイド水着だ。しかし、何故それに着替えているのか?

 

「どうしたのだアスタルテ、そんな恰好して?」

 

「……いえ、その……反省です」

 

 果たしてメイド水着が反省になるのかはクロウにはわからないが、この自分と違って真面目に堅実に仕事をこなす後輩が自ら反省をするというのを不思議に思ったクロウは、しばらくアスタルテを観察する。

 じろじろと見られて、アスタルテが内股になりもぞもぞと身体を揺らし、心なしか頬も赤らんでいるように見えるも、やはりクロウにはよくわからない。

 とりあえず、先輩として言うことは言っておく。

 

「水着だからはしゃいじゃってるんだけど、いつもより薄着なんだから、風邪引かないように気をつけろよ」

 

 ピタリ、とその言葉に、後輩の身動ぎが止まった、それから半分開けたジト目で、淡々と宣告する。

 

「……やはり、先輩は想定以上にダメな先輩です」

 

「ぬ?」

 

「おかげで気持ち楽になりました。そのままの先輩でいてください」

 

「ぬぬぬ!? なんなのだ、オレはダメなのかいいのか、どっちなのだ!?」

 

「査定。今のは差引合算で、+40ポイントです」

 

 だからそれは一体どういうことなのだー!? と頭をガシガシと掻いてからクロウは、気を取り直して後輩に伝達事項を話しておく。

 

「今週末、ブルエリに行くから、アスタルテも準備しておけよ」

 

「……………私も?」

 

「? そうだけど。ご主人は来ないし、アスタルテが補助(サポート)についてないとまずいだろ。オレひとりじゃ連絡もできないし大変だぞ」

 

 あっさりと頷かれ、それから同行することを告げられて、アスタルテの半目が見開く。そこに気づくことも、気にすることもなく、クロウはぽんと手を叩いて、

 

「あ、そうか、だから、アスタルテ水着きてたんだなー。相変わらず、仕事の速い後輩だぞ」

 

「当然。先輩がダメな先輩だというのは承知していますので」

 

 クロウに向かって首肯する人工生命体(ホムンクルス)の後輩は、週末を心待ちするように、ほんの少しだけ、笑みに表情を緩めた。

 

 

 

つづく

 

 

 

 南宮クロウの現在の変身形態まとめ

 

 妖精獣←人型→銀人狼→神獣→蛇尾狼

         ↓   ↓

        金人狼→魔人

 

 

 



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人形の伴侶Ⅰ

一章と二章の間の時期

アスタルテの先輩呼びイベントと強化フラグ




回想 人工島北地区 スヘルデ製薬社付属研究所跡地

 

 

 とにかくその男は、『永遠』を求めた。

 

 

 琥珀色の液体が満たされた調整槽。

 ポンプと濾過フィルタが静かな駆動音を響かせる。

 そして、ゆらゆらと溶液中を漂いながら眠り続ける、藍色の髪をした人工生命体(ホムンクルス)の少女。

 その肌には、電子回路のような複雑な文様が、青白く輝きながら浮き上がっている。

生体組織に転写(プリント)された、魔法術式の術紋だ。

 

『アスタルテの調整は進んでいますか、『人形師』』

 

 聖職者のような法衣を纏った男性――依頼者の殲教師の呼びかけに、『人形師』は、経過を報告する。

 

『術紋の書き換えは済んでいるよぉ。なあ、スワニルダ』

 

『肯定。上書きした術紋が肉体に完全に浸透するまで、残り4時間15分です』

 

 『人形師』の言葉を補足するのは、彼の“お気に入り”。

 精巧な人形(コッペリア)に恋をした男を愛し、その精巧な人形に扮装して、人形師から魂を抜き取られそうになった男を救った少女(スワニルダ)。そんな人形に恋をした男と結ばれた少女の名をつけられた、人工生命体(ホムンクルス)

 人工生命体の肉体に、精密機械の骨格を埋め込んだ、世界に一体だけの生体人形、『人形師』が手掛けた生きた芸術作品であり、忠実な僕にして、愛玩物―――そして、彼の伴侶。

 

 殲教師は、その視認したものを分析する片眼鏡(モノクル)より、この“お気に入り”が、先日一戦を交えたあの獅子王機関の剣巫に迫る戦闘力を有していることを理解している。『永遠』を欲する『人形師』の意向により寿命を削ってしまう眷獣を植え付けられることはないが、その完成度は“使い捨ての不良品(アスタルテ)”よりも高い人形だ。きっとこれまでに主人の命令で多くの人間魔族を殺めてきたであろう殺陣人形。

 しかし、構わない。

 人間に近しい人形を造る

 原初の人間の創造は神の御業にのみ許された行為であり、それに反するのであれば誅罰すべき対象であるが、これは“道具”。『人形師』が創っているのは、有限の命しかない人間ではなく、永遠に美しい人形である。

 依頼した、この罪悪の蔓延る人工島の中枢を破れる、強力な結界で護られた隔壁を突破するための“道具”さえ、造れればいい。今はこの背教者よりも、この背約の土地から聖人を救うことを優先する。

 

『依頼した術式は、完成したのですね』

 

『当然さ。俺を誰だと思ってる?

 とはいえ、あんたが持ってきた『七式降魔突撃機槍(シュネーヴァルツァー)』の戦闘データは役に立ったよ。良くあんなものが手に入ったなぁ? 獅子王機関の秘奥兵器だろ? 神様のお導きってやつかい?』

 

『背教者である貴方が、神の意思を語りますか?』

 

『そう怖い顔しなさんな。んで、もうひとつの“お土産”があったな』

 

『<黒妖犬(ヘルハウンド)>ですか』

 

『ああ、流石は『魔族特区』だ。あれほどの作品を拝めるとはな。『黒』シリーズを生み出した魔女、方向性は違うが、同じ作り手として尊敬しているんだぜぃ。おかげで、創作意欲が湧くってモンだ。できるなら、生きてるうちに魔女に会いたかったけどな』

 

『異端同士通じ合うものがあるようですね……しかし、あれは、私の戦利品(モノ)です。アスタルテの術式に使えないのであれば、こちらで有効活用させてもらう。

 “完全なる死者蘇生”。『死者を魔族に転生させず、人間のままに蘇らせた』という噂が真ならば、我らの貴き主の復活が叶うでしょう。それに、ここにある貴方の失敗作を再利用できる。だから、これ以上(ころ)さずに連れてきたのです』

 

『違ぇな。“壊せなかったんだろ”? ま、壊さなくて正解だが。ちっと視たが、封印(せいげん)がかけられている状態でも、並の獣人種を軽く上回る身体性能だ。下手すりゃ、俺が創った人工眷獣よりも硬ぇ身体してやがる。しかも、半殺しにしても半日と掛からずに自然治癒しちまうんだからな。

 ああ、本当に解剖してぇなぁ。けど、あの『首輪』が邪魔だ。ありゃ、魔女の<守護者>と繋いでるモンだ。それもとんでもねぇ化け物。もし死んじまうか瀕死に近い状態、それか施されてる魔術解除もなく他人がそれを外すものならそいつが出てくる。悪魔付きの救難ブザーってヤツだ。<空隙の魔女>ってのはひょっとして、過保護なんじゃねぇか?』

 

『魔女の考えなど理解したくもありません。ですが、<空隙の魔女>とやり合うのはできれば回避したい。<監獄結界>の噂が真実ならば、敵に回すのは愚かだ』

 

『それで朗報だ。この『首輪』を解析して、<空隙の魔女>を誘き寄せる警報(アラーム)と同じ波長を出せる小道具を作った。こいつを、人形に持たせて島の外にやっちまえば、<空隙の魔女>は、『<黒妖犬(ペット)>がそこで死にかけている』と誤認させられるかもしれねぇ。ま、釣れるかはわからんけどな』

 

『異端であっても、仕事はできますか』

 

 密入国と同じルートで小道具を持たせた人形たちを島の外――欧州ロタリンギアへと送り出す手配を進める依頼主に、『人形師』はニヤリと笑い、

 

『なあ、死んじまったら、<黒妖犬>の屍を俺にくれないか』

 

『報酬はすでに十分すぎる額を支払ったはずですが』

 

小道具(こいつ)の追加報酬だ。構わねェだろ、ヘマを打てば『魔族殺し』を敵に回すことになるんだ。

 壊すしか能のない殲教師様にはわからんだろうが、<黒妖犬>は俺みたいな作り手には垂涎モノなんだよ。世界にたった一つしか存在しない<血途の魔女>の最後の遺産にして、最高傑作。レア中のウルトラレア。だから、死体でも回収できればしておきたいのさぁ』

 

 笑ってはいるが、その目はどこまでも飢えた獣の如き眼光を放つ。人形の方も、主人の一動ですぐ行動できるよう構える。この『人形師』の執着に火を点けるとは、厄介な拾い物を連れてきてしまったと依頼主は、肩をすくめ、

 

『死肉を漁るハイエナの事情など、今の私にはどうでもいい。土に還る前に、拾いたければ拾えばいいでしょう。しかし、すでに支払った報酬分の働きを怠るのは許しません』

 

『そんじゃあ、もらった金額分は働かせてもらいますよ。ほれ、シミュレーションの結果だ。気になるだろ』

 

 『人形師』が素っ気なく右手を上げるポーズを取れば、人形は、滑らかな動きで制御卓(コンソール)を打ち込み、調整槽の端末に“商品”のデータを表示させる。

 体内に寄生させた人工眷獣の、最新の能力値、つまりは改造後の状態を示したものだ。

 

『やはり魔力の完全無効化は無理ですか』

 

『人工眷獣の膨大な魔力で無理矢理補っちゃいるが、素体になってるのが人工生命体(ホムンクルス)だ。獅子王機関の剣巫のようにはいかないさ。

 だがまあ、完全無効化は無理でも、魔力を反射するだけなら何とかなるだろ。あとは力で押し切ることだな』

 

『十分です。キーストーンゲートの結界を破れるなら、それでいい』

 

『もったいねぇ。折角こいつには、普通の人間の何十倍もの寿命を設定してやったのにな。このまま眷獣を使い続ければ、保ってあと2、3週間ってとこだな』

 

『問題ありません。それだけあればこの島を完全に沈めてもまだ余裕がある』

 

『やれやれ。ものの価値のわからない男だな』

 

 依頼主であるも『人形師』とは価値観を共有することはできない。

 聖職者である依頼主にとって、神の摂理に逆らって生み出された人工生命体は、忌むべき魔族の同類であり、使い潰したところで良心の呵責など憶えるはずがない。

 『人形師』にしてみれば、人形の人工生命体は人間よりも価値があるべきものだ。使い捨てるしかない、眷獣寄生型人工生命体(アスタルテ)など唾棄すべき“欠陥製品”。法外な報酬をもらった依頼でなければ、けして手がけようとも思わない。

 

『人形ってのは、『永遠』に生き続けるから価値があるんだぜ。所有者である人間が滅びても、な。そうだろスワニルダ』

 

『肯定。私は人形師様(マイスター)と『永遠』に寄り添う伴侶です』

 

 無表情なまま静かに頷く最高傑作(スワニルダ)を愛おしげに自らの懐に抱き入れる『人形師』は、結局、最後まで欠陥製品(アスタルテ)と接することもなく、起動と同時に『人形師(じぶん)』の記憶はすべて消去するよう設定してから、捨てたも同然に売り払った。

 

 

人工島北地区 スヘルデ製薬社付属研究所跡地

 

 

 それは、西欧教会の司教でありながら、魔族を駆逐する高位祓魔師の技能をも身につけた特殊な聖職者――ロタリンギアの殲滅師、ルードルフ=オイスタッハが起こしたキーストーンゲート襲撃事件から間もない、事件の後処理の話。

 

 

 眩い人工の証明が照らす、何層にもわかれた無機質な街並み。

 最も『魔族特区』らしさを感じさせる未来的な風景。企業や大学の実験施設が建ち並ぶ、広大な研究所街があるのは、人工島北地区。

 そんな殺風景な街の片隅に放置される建物は、欧州ロタリンギアに本社を置く大手薬品会社、スヘルデ製薬の研究所跡地だ。

 

 スヘルデ製薬は人工生命体を利用した新薬の臨床実験を行うため、この『魔族特区』絃神島に研究施設を持っていた。ただし景気低迷と採算の悪化を理由に、研究所は閉鎖。この建物はその成れの果てである―――そして、先日、世界的にも深刻な話題となったキーストーンゲート事件を起こした実行犯が隠れ家としていた場所。

 

 その前に、小柄な少女と、その少女へ日傘を差す傘持ちをしている厚着の少年。

 豪奢なドレスと長い黒髪。人形のように整った顔立ちは幼く、美女というより美少女という文句が似合う。あるいは幼女という形容がしっくりくるか。

 そして、少年は、耳付き帽子、コートに手袋、それから枷のような首輪を隠している首巻と制服の上に厚着を重ねている。

 帽子は兜に、手袋は籠手に、外套は鎧、と服ではない趣を漂わせるというどこか騎士風に着込なしている。

 傍から見れば、小さなお嬢様と小さな従者という彼らは、彩海学園の英語教師にして、特区警備隊(アイランドガード)の指導教官をも任されている国家攻魔官――<空隙の魔女>南宮那月とその使い魔(サーヴァント)<黒妖犬>南宮クロウである。

 

「なあなあ、ご主人。今日、古城君が風邪引いて学校休んじゃったんだろ? 古城君、未登録だけど、病院に行かなくても大丈夫なのか?」

 

 クロウが尋ねるは、主人が担任と受け持ってる先輩。

 それが体調不良で学校を休んだそうだ。クラスメイトで先輩と兄妹である暁凪沙が表面的に明るく装っていても内心は心配していたり、先輩と合わせて学校を休んだ姫柊雪菜もその看病を努めてたりしている。クロウもまた仕事がなければ、藍羽浅葱や矢瀬基樹と先輩たちと一緒に見舞いに行っていただろう。

 

 不老不死の吸血鬼が、風邪。

 あまり知られていないが、魔族特有の感染症というのが存在する。特に絃神島は世界各地から多くの魔族が集まっており、人工密度も高いため、知らないうちにどこかで保菌者(キャリア)と接触していてもおかしなことではないのだ。

 

「問題ないだろう。暁は真祖だ。病気で死んだりはせん。それに“蝙蝠”が罹るヤツは数少ない。おそらく、吸血鬼風邪だろうな」

 

 そのまんまであるが、これは医学論文にも登録されている立派な病名である。

 吸血鬼風邪は、吸血鬼ならば誰でも一度はかかる病気だ。子供のころに経験してれば免疫ができて、それ以降はそう滅多に発症することはなくなる。

 

「暁は吸血鬼になって、この前吸血童貞を捨てたばかりだ。免疫がなかっただろうし、ちょうどいい。あれは大人になってから罹患すれば、重症化する可能性があるものだ。最悪、子供が作れん身体になるくらいだ」

 

 吸血鬼風邪は、人間で言うおたふく風邪のようなものだ。大人になって発症すると、高熱が何日も続いたり、情緒不安定になって奇行に走ったり、そして、生殖機能に後遺症を残してしまうかもしれないもの。

 大人しく治療に専念させておくのが正しい。

 かといって、未登録魔族の生徒を、カリスマ教師は特別病欠として処理してやることはない。出席日数や単位の危ういところに、さらに休んだ分の補習課題を上乗せしてやるつもりである。

 

「うー、やっぱ風邪って大変だな。オレ、一回も病気?ってのになったことがないからよくわからないけど」

 

「ひとつ勉強させてやろう馬鹿犬。『馬鹿は風邪を引かない』という俗説は、迷信だ。あれは『馬鹿は風邪を引いても、それに気づかないくらい鈍感だ』というのが正しい解釈だ」

 

「う、そうなのかご主人」

 

「といっても、致死クラスだろうと病毒(ウィルス)など通じない馬鹿犬はその俗説が罷り通ってるかもしれんがな。だから、馬鹿犬は馬鹿犬だ」

 

 と、見た目で侮られる二人であるが、揃って現場に望めば、難事件だろうと半日かからずに解決してしまえるこの絃神島でも“最恐の主従”。

 それ故に、ここ最近は眷獣の経験値稼ぎに単独行動をさせることが多かったのだが、今日は久しく共に行動している。

 これは、それほどにこの事件は警戒すべきものである。か、先日、連絡手段(けいたい)保険(くびわ)を壊してくれた眷獣を放し飼いにするのが危険だからか。

 先日の事件で、南宮那月は、たとえ能力があってもこの馬鹿犬には冷静なサポーターが必要だと痛感した。

 そんな思い出しては眉間に手に持った扇子をあててる那月に、その悩みの種は、

 

「ご主人、今回の獲物は何なのだ?」

 

「ここに来る前に教えたはずだぞ?」

 

「だって、そいつ名前が長いぞ」

 

「ザカリー=多島=アンドレイドだ―――先日、“小細工”が施されていた軍用機械人形(オートマタ)を、ロタリンギアで私が回収したが、奴の作品である可能性が高い。あの生臭坊主の協力者で、眷獣共生型人工生命体の作成者として最有力の容疑者だ」

 

 ザカリー=多島=アンドレイド。

 欧州ヒスパニア国籍の日系人。国際指名手配中の魔導犯罪者。通称、『人形師』。

 特に生体操作を得意とする凄腕の魔術師。この男が調整した人工生命体は“芸術品”と呼ばれ、今でも凄まじい高値で取引されている。

 

「セビリアの大学で医療魔術の教授を任されていた奴だ。そこそこ腕は立つのだろう。だが、決定的に頭のネジがぶっ飛んでる」

 

「馬鹿なのかそいつ?」

 

「ああ、馬鹿犬とは違う意味でな。『人形師』は自分の研究のために、20名以上の人間と魔族を違法な実験で殺してる。人工生命体の犠牲者は、その十倍は軽く超えるだろうよ」

 

 素っ気ない主人の説明に、む、とクロウは眉根を寄せる。

 単なる猟奇殺人犯と呼ぶには、あまりに多すぎる犠牲者の数。大量虐殺者だ。

 

「まあ、私ほどではないがな」

 

 と欧州にて『魔族の大量虐殺者』と今も震撼される<空隙の魔女>は淡々と続ける。

 

「しかし、『人形師』は魔導犯罪者として指名手配されたあとも、仕事を依頼する連中は後を絶たなかった。こいつが造りだす人工生命体や機械人形(オートマタ)には、それだけの価値があるってことだろう。人工生命体に眷獣を植え付けるような器用な真似ができる設計者などそうはいないからな」

 

「そいつ、<監獄結界>に送るのか?」

 

「さあな。『人形師』の持ってる技術やその顧客リストは、公社の連中も欲しがるだろうし、送るのだとしてもそれからだ」

 

 まずは捕まえる。そう方針を打ち出すと、那月は扇子を少し開かせて口元に当てる。

 

「(眷獣共生型の人工生命体を生み出す技術か。人工島管理公社の連中にくれてやるのは癪だな……)」

 

 どうしたものかな、と那月が珍しく考え込む。

 殲教師の依頼で『人形師』が手がけ、この隠れ家の調整槽にでも使われた情報(データ)が残されている眷獣寄生型人工生命体の危険性は、キーストーンゲート襲撃事件で実証されている。だから、それを他の魔導犯罪者の手に渡る前にデータを回収するようにとも依頼されている。

 最優先の依頼は、『人形師』の捕縛であるが、眷獣寄生型人工生命体はその次の優先度。『人形師』の足跡を辿るための“残り香”を得るために隠れ家へ来たが、その際についでにデータ回収もするようにと。

 確かに眷獣を使う人工生命体が量産されて軍隊も造ってしまえる可能性がある以上は、残しておくわけにはいかない。かといって、それを人工島管理公社に任せれば安心できるというわけでもない。魔導犯罪者は論外だが、公社の連中でも、その技術を悪用されないという保証はどこにもない。

 無論、『人形師』も自らの秘蔵のデータを流出させないように、消去処理を徹底してるだろうが、那月の教え子である、<電子の女帝>という公社の雇われ天才ハッカーは、ハードウェアさえ残っていれば、僅かな電子的痕跡からプログラムを復活(サルベージ)させることくらいできてしまえる。

 那月としては、この隠れ家にある調整機器を物理的に破壊してしまうのが手っ取り早いのだが、それを“那月自らが”直接手を下し破壊するような真似をするのなら明白な契約違反。正式に依頼を受けた以上、施設を破壊するにはそれに足るだけの何かしらの大義名分が必要だった。

 そのあたりをどうするか具体的な策はまだ思いつかないが……

 

「さて、おまえが調整されたのは、この建物で間違いないな、アスタルテ?」

 

「肯定。最終調整終了日は、私のキーストーンゲート襲撃実行日と同一です」

 

 主従についてきていた、藍色の髪を持つ人工生命体の少女――先日の事件の襲撃者である眷獣寄生型人工生命体アスタルテが、抑揚の乏しい無機質な口調で淡々と答える。

 脆弱な人工生命体の肉体に、眷獣を寄生させている。驚異的な技術の産物であり、同時に貴重なサンプルでもあるアスタルテの身柄は、現在、人工島管理公社の厳重な管理下に置かれているのだが、その破壊活動及び付随する多数の罪状に対する処分の一環として、後見人である南宮那月と行動を共にしている。

 

「そうだぞ。オレも、ここにいた気がする……ん―――どうしてオレに確認しないのだご主人!」

 

「そんなの馬鹿犬の残念な頭が頼りにならんからに決まってるだろう」

 

 ざっくりと言い捨てられた主人の言葉を受け、ぐぬぬ、と唸るクロウ。

 

「やれやれ、不服ならば今一度訊いてやる。今回の標的の名前を言ってみろ」

 

「うぐぅ……ざ、ざ、ざ……ザッカレー……た、た……たまご……あ、アンド、ドレッシング! カレーにトッピングにたまごで野菜にドレッシング付きが、今日の昼食(ランチ)なのだ」

 

「意味が解らん。どうして“匂い”は覚えられるのに、五文字以上の単語を一発で覚えられん。ほれ、アスタルテ答えてやれ」

 

「解答。ザカリー=多島=アンドレイド」

 

「ぬぬぅ、暗記物は苦手なのだ。でも、ご飯の内容だったら、一ヶ月分は自信あるぞ!」

 

「それで、アスタルテ、お前を調整した『人形師』について覚えていることはあるか?」

 

否定(ネガティブ)。起動前の記憶はすべて消去されています」

 

 首を振るアスタルテ。無感動な薄水色の瞳から、彼女の内心は推し量れない。

 名前を聞いても思い出せない、“創造主”のことを忘れられている。

 証拠隠滅は当然の処置ではあるが……

 那月は静かに息を吐き―――で、その使い魔は、

 

「そっか、アスタルテもあんま憶えてないんだな」

 

黒妖犬(ヘルハウンド)……」

 

 と肩を軽く叩かれながらそう言うクロウを、アスタルテはその無感動な瞳を揺らして見つめる。

 

「む。その黒妖犬(ヘルハウンド)ってのはやめてくれ。それは、獲物(てき)によく言われる奴だからな」

 

「疑問。先日、私とあなたは敵対していたはずでは?」

 

「でも、今はオレと同じでご主人の世話になってるんだろ? ほら、あれだ、『昨日の敵は今日の友』ってやつだぞ」

 

「では、ミスター・クロウ、と」

 

「んー、もっと、こう上下意識ができてる感じの呼び名がいいぞ。う、ご主人をマスターっていうみたいに特別感が欲しいのだ」

 

「ならば、最適な呼称についての意見を求めます」

 

「そういわれてもなー、何がいいのかオレもわからんぞ」

 

「面倒だから、適当に馬鹿犬とでも呼んでやれ」

 

「む、それをご主人以外に呼ばれるのはオレも流石にやだぞご主人」

 

「だったら貴様も、いい加減にご主人様と呼べるようになるんだな」

 

 那月が扇子を振るって、空間制御の応用でクロウの頭に衝撃を叩き込む。

 

「ところで、アスタルテ。おまえのその服装はなんだ?」

 

 使い魔(クロウ)が、人間なら頭蓋が陥没しかねないきつい一発に蹲っているのを無視し、落ちた日傘を拾いながら那月が訊いてきた。

 アスタルテが今身に着けているのは、就職活動中の女子大生を思わせる紺色の地味なスーツだ。サイズが合っていないのか、袖回りがぶかぶかで、可愛らしくはあるが、正直あまり似合っているとは言い難い。

 

「質問認識。人工島管理公社からの支給品と回答」

 

「地味で無個性な服を与えておけば、お前の正体を隠せるとでも思ったか。美意識に欠けた公社の職員どもが考えそうなことだな」

 

 フンと鼻を鳴らす那月に、アスタルテは微かに首を傾げて、訊き返す。

 

「“美意識”についての情報が不足。この服装の問題点についての補足説明を要求します」

 

「そんなの簡単だ。おまえの服には、“可愛さ”が足りん。つまり、“攻撃力(パンチ)”が弱い」

 

 唇の端を吊り上げて笑い、持論を展開する那月に、地面から異議の声が上がる。

 

「うー、オレ、ご主人が“可愛さ”を追求したとか言う“妖精獣(あれ)”になってると全然力が出ないぞ?」

 

「それは、馬鹿犬が馬鹿だから主人の“美意識”が理解できんだけだ。だから、サーヴァントのくせに私の執事服(コレクション)を着せてやっても、馬子に衣装になるんだ。アスタルテ、おまえの服は、後で私が直々に選んでやる。アシスタントとしてそれ相応のヤツをな。覚えておけ、『可愛いは攻撃力』だ」

 

命令受託(アクセプト)―――」

 

 アスタルテが馬鹿正直な態度で頷くを見て、那月は満足げに頷いて。

 

 

 ―――そして、三人は隠れ家の研究所跡地へと足を踏み入れた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ロタリンギアの殲教師の依頼で造り上げた眷獣共生型人工生命体。

 何週間も生きられないような欠陥製品には、正直、興味はなかったのだが―――あれが“『永遠』を手に入れた”という。

 あの欠陥製品に膨大な魔力が送り込まれている。おそらく、吸血鬼によるものだろう。

 以前に、軍用機械人形の改造を依頼されたことのあるメイガスクラフトで、それと似たような『血の従者』となることで疑似的な<神獣化>を可能とした獣人を見たことがある。

 あれならば、本来は吸血鬼にしか使役できないはずの眷獣を埋め込ませてやった試験体でも、寿命を削らずに眷獣と共生ができるだろう。一体どこの物好きがあんな欠陥製品を『血の従者』としたのかは気になるが、

 

 とにかく、欠陥製品(アスタルテ)を連れ戻す。

 

 そして、至高の芸術作品を生み出すために、最高傑作(スワニルダ)の部品とする。

 

 そう、考えて、準備を進めていた時に―――管理公社に囚われているはずの欠陥製品が、この隠れ家にまで()ってきた。

 しかも、おまけを連れて、だ。

 『黒』シリーズの現在唯一の最高傑作(ラストナンバー)の<黒妖犬>が、欠陥製品と共に行動している。

 この美味しい状況を、この国では、『カモがネギを背負って来た』というのだろう。

 また、あとひとり、11、2歳ほどの小柄な少女。顔立ちは作り物のように端整で、恐ろしく豪奢なドレスを纏っている。それもスワニルダの表皮の張り替え時であったからちょうどいい。

 

「スワニルダ、この施設に仕込んであるすべての人形を使っても構わない。あの“素材”を、なるべく傷つけないように仕留めろ」

 

「命令受託―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――研究所跡地へと入り、その建物内へと進んだ時、南宮那月は足を止めた。フロアに残る異臭に気付いて細い眉を寄せる。

 

「フロアの入り口で待機していろ、アスタルテ。この建物に近づく者がいた場合の対応は任せる。おまえの判断で行動して構わん」

 

 これは、那月のアスタルテへのせめてもの心配りであった。

 感情を制御された人工生命体といえども、この仲間の残骸が漂っているような場所を見るべきではない。

 と、それに先頭を進んで、那月よりも早く、そして深く“匂い”を嗅ぎ取っていた使い魔のクロウが異議を唱える。

 

「ご主人。ここに誰かいるぞ。待ち構えてる“匂い”だ。ひとりにさせるのは、危険なのだ」

 

 常とは違う、注意を喚起させる声音を発するクロウ。彼もまた、主人の考えを悟ってるだろう。それを理解して、言う。

 

「……それに、ここに眠っている仲間たち(やつら)は、アスタルテも見てやるべきだとオレは思う」

 

 那月はしばらく無言でクロウの訴えを咀嚼するだけの時間をかけてから、口を開く。

 

「変更だ。ここで待機するか、ついてくるかはお前が決めろ。ただし、ついてくるのなら私の傍につけ、クロウより先行することは許さん」

 

「……命令受託(アクセプト)

 

 那月、それからクロウを見たアスタルテは、後者を選んだように通路を戻らずに那月の側に寄った。

 それに、やれやれとひとつ嘆息し、那月は制御端末の前に移動する。機器の状態を見たところ、研究所の電源はまだ生きている。調整槽の状態がモニターに表示されているも、やはりその数値はすべてデタラメ。プログラムが正常に作動しておらず、またそうなるように手が加えられている。しかしながら、これも那月の教え子ならば復元してみせるであろう。

 

「………」

 

 そして、モニターを見る那月に対し、アスタルテはその調整槽の中を見ていた。人工眷獣を植え付けられた人工生命体のなれの果てたちを。

 アスタルテは、何も言わない。ここにいる彼女の“先行作”は、もう死んでいる。

 

「なあ、ご主人。こいつら外に出してやれないか? ここで眠らせるのはなんかイヤだぞ」

 

「やれやれ、今日の馬鹿犬はやけに口応えが多いな」

 

「むぅ」

 

「馬鹿犬。おまえにとって、生きてるか死んでるかは、起きてるか眠ってるかとさほど変わらんのだろう。だが、おまえはおまえの正常が異常だと理解してるし、何を優先すべきかもおまえは理解できているはずだ。感情移入はするな」

 

「むぅむぅ~」

 

 唸るのをやめないクロウに、口出ししたのは、那月ではなく、アスタルテ。抑揚の乏しい声音で、その行為を咎める。

 

否定(ネガティブ)黒妖犬(ヘルハウンド)、あなたが南宮降魔官の使い魔(サーヴァント)であるのなら、教官(マスター)の方針に逆らうのは間違っています。ここで優先すべきは、依頼された任務を果たすこと。我々の目的は彼らではありません」

 

「だから、黒妖犬(それ)はやめろって言ってるぞ」

 

 機械的な口調で、“正しい回答”を述べるアステルテにクロウはふくれっ面からしかめっ面を作り、

 

「命令だからって何でもかんでも納得できるわけないのだ。お前は、もっとワガママになってもいいと思うぞ」

 

 ぷんすか、と先を行くクロウ。

 彼がなぜそこまで憤りを覚えるのか理解できず、口を噤む人工生命体に、その監督者は言う。

 

「気にするな。馬鹿犬は、人工生命体(ホムンクルス)の定められた習性と言うのを理解してはいない。

 だから、よっぽどおまえが我慢しているように感じたんだろうよ」

 

「私は……」

 

「それと、あれでも馬鹿犬は、私の眷獣(サーヴァント)だ」

 

 けして真似をしろとは言わんがな、と。

 従者としては失格な、飼い犬なのに主人の手を噛むような真似をした黒妖犬を、認めているような教官の訂正に、アスタルテは無言のまま、彼らについて施設の地下へと向かう。

 金属製の隔壁をくぐると、鼻に突いていた不快な臭気が一層強まる。

 薄暗い地下研究所の内側には、無数の医療機器やベットが墓標のように立ち並んでいる。

 

機械人形(オートマタ)か……趣味の悪い真似をする……」

 

 診療台の上に無造作に打ち捨てられているのは、バラバラに解体された人型の骸。

 剥き出しにされた傷口からは、錆びた金属製の骨格や、プラスチック製の人工筋肉を覗かせており、

 まるで人形の部品を使って生み出された、醜悪極まる芸術のようだ。

 

 やはり、この手口は、見覚えがある。

 ロタリンギアで回収した囮とこの診療台の残骸は似てる、同じ人物が手がけたものだ。生きているかのような精巧な機械人形を生み出しては、それを容赦なく部品として使い捨てる冷酷な技師。

 その人物――ザカリー=多島=アンドレイドならば、人工生命体に眷獣を植え付けるような凶悪な真似を平然とやってのけるであろう。

 そう、馬鹿犬の“創造主(おや)”と同類の狂人ならば―――

 

(だから、今日の馬鹿犬は反抗期になるんだが……)

 

 那月は小さく唇を歪める。

 ここ最近は主従で同行することがなかったが、この案件については那月はその幉を引き締めてやる必要があると判断した。

 

「む……」

 

 先頭のクロウが停まる。そして、ギシリ、と金属の軋む音。診療台に横たわっていた、またはこの診察室に打ち捨てられていた機械人形たちが動き出す。

 

 真紅に輝く瞳。

 肉体の各部位から刃物や銃口が迫り出す戦闘態勢。

 

 三原則により、自律型の機械人形は人間を攻撃することはできない。

 

 市販されている機械人形の起動コアには、『第一非殺傷原則(ひとをきずつけてはならない)』という強固な安全装置(セイフティ)が施され、それにより行動が縛られているはずだ。

 

 しかし、機械人形のコアを弄れるほどの魔導技師がいるのならばそんな制限など外してしまえるだろう。

 そして、ただ与えられた命令だけを忠実に実行する機械人形は、痛覚を持たず、自らの肉体が壊れようがお構いなし。完全に破壊されて停止するまでは、戦い続ける。

 

 それに、<空隙の魔女>は、獰猛な笑みに歪む口元を黒いレースの扇子で隠し、悠然と命を下す。

 

「貴重なサンプルだ。一体は残しておけ―――」

 

 犬の躾に『待て』の戒めを外すような気軽さで。

 アスタルテもまた出ようとしたのだが、それより早く、

 

「了解したのだご主人」

 

 飛び出して、その群れに突っ込んでは、機械人形を、黒妖犬は簡単に解体していく。

 1体。2体。3体。4体。さらに奥からわらわらと入ってくる機械人形を、躊躇なく壊していく。そこには無駄が一切ない。

 すぐに診察室は残骸で埋まっていく。

 ―――強い。

 圧倒的でさえある。人間のように精巧に作りながらも、部分部分が欠損し、まるでゾンビのような機械人形、しかしその動きが緩慢なわけではない。むしろ人並み以上の激しさで襲い掛かってくる。

 だというのに、黒妖犬は眉一つ動かさずにあっさりと始末する。頭部や人体の急所を壊そうが動き続ける機械人形だが、黒妖犬はそのコアをコンパクトに穿ち、または四肢を砕いて行動力を封じていく。武器を持っているが、向けてくる銃口を握り潰し、刃物を打ち砕く。

 6体も抱き着かれれば、並の獣人は獣化をしても身動きができずに押し潰されるだろうが、人間のまま黒妖犬は10体以上の物量作戦も軽々と蹴散らしていく。

 

「ほう、死霊術(ネクロマンシー)を使って、『第一非殺傷原則(プロテクト)』を外しているのか」

 

 使い魔が暴れる中で、那月は四肢を壊され、身動ぎしかできない機械人形の一体から、精巧な回路に埋め込まれた鉱石の結晶――機械人形の起動コアを空間制御の魔術によって体内から転移。起動コアに刻まれている術式を読み上げており、まったく加勢する素振りを見せない。精々流れ弾に注意を払うくらいだ。それに顔に感情を出さずとも、アスタルテは惑う。すぐに眷獣を実体化できるだけの魔力を高めながら、召喚せずにいる。加勢しろとは命令は出されていない。しかし判断を任されているのならば出るべきかと。

 そんな人工生命体の少女に、教官は適当な調子で口を挟む。

 

「あれくらい手出しは無用だ。馬鹿犬は、拳銃の弾を目で見て避けられる」

 

「……補足説明を要求します」

 

「雷と同じだ」

 

 那月は呆れたように息を吐く。

 

「拳銃が発射されると、銃口からマズルフラッシュの火花が散るだろう。光と弾の速度は一緒じゃない。必ず光の後に弾が来る。だから、馬鹿犬は銃口の光を見てから首を振れば、その後にやってくる弾丸を回避できる―――そんなバカげたことをほざいていたのだあの馬鹿犬は」

 

 未来視だとかそういうのではなく、素の性能、動体視力で反応できてしまえる。

 

「さて、そろそろこのような歓待をしてくれた主催者には挨拶に来てほしいところだが」

 

 ひとりで50体ほど機械人形を破壊した――機械人形では相手にならない、また那月がその手の内を明かさないことを、まざまざと見せつけたところで那月がそう嘯いた。その直後―――

 

 

 

対象(ターゲット)の制圧及び試験体の回収を開始」

 

 

 

 天井を突き破ってそれが現れた。

 

 

 銀色のドレスを身に着けた、ほっそりと美しい影。

 それは美しい純白の髪を持つ、十代半ばの少女である。

 完全に左右非対称の美貌は、アスタルテによく似ており、アスタルテを少し成長させた姿、またアスタルテの姉妹と言っても通用する。

 

「ぬ……!?」

 

 人間が注意を外してしまう真上より奇襲。それも機械人形たちを狩り終えて、意識が弛緩したその一瞬のタイミングを狙って。

 だが、黒妖犬がここにきて初めて後れを取ったのはそれだけが理由ではない。

 この整い過ぎた人外の美貌を持つ少女は、殺気を放たない。彼女からは何の感情も感じない。ガラス玉のような緑色の瞳でこちらを見て、ほぼ無味無臭の“匂い”しか嗅ぎ取れない、

 まるで意思を持たない機械人形のように―――

 

執行(エクスキュート)―――」

 

 無表情のまま少女の唇が紡がれる声音は、決められた手順をなぞるような無機質なもの。

 黒妖犬へと彼女の伸ばした左腕が、上下に大きく割れる。そして、腕の中から山刃(マチェット)に似た巨大な刃が現れる。

 刃と化した左腕で、黒妖犬を斬りつける。咄嗟にその腕を盾にしたが、初めて黒妖犬の体に切り傷が生じた。あの殲教師の強力な退魔の力が施された戦斧と素手で打ち合った鋼の肉体に、傷を。それだけで凄まじい威力だとわかる。

 

 ―――構わず、黒妖犬は、銀の少女を蹴り抜いた。

 

「―――っ!」

 

 肉を裂いて、骨を砕く、捨て身のカウンター。

 機械人形を粉砕した腕力、その三倍はあるという脚力の打撃をまともに食らって、少女の体が軽く吹っ飛ぶ。

 しかし彼女が壁にぶつかることはなかった。少女の右手から伸びた透明な糸が、彼女の体を空中に繋ぎ止めたのだ。

 室内、いや、この建物内には、無数の糸が、蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。糸で結界を張り、<空隙の魔女>の空間転移に干渉している。さらに彼女はその糸を利用して、うまく衝撃を殺すように体を受け止めさせた。

 

 強靭な獣人種をも上回る膂力で蹴り飛ばされたというのに、少女が苦痛を感じている気配はなかった。動きに支障が出ていても、人間の関節では不可能な動きで糸を手繰り、自らの体を操り人形のように操作して補う。

 

 だが、驚かされるのは少女のことばかりではない。

 

「ご主人、アスタルテ、あいつの刃には毒が塗られてるぞ」

 

「進言。至急、撤退することを推奨します、黒妖犬―――」

 

 アスタルテが呼び戻そうとするが、黒妖犬はこちらを振り向きもしない。アスタルテは繰り返し、

 

「重ねて進言します。黒妖犬、撤退して治療を」

「馬鹿犬の肌に傷をつけるとはな。中々鋭い刃物だ。それで、問題はないな?」

 

「う。問題ないのだご主人」

 

 腕の筋肉を締めて、斬られた傷を塞ぎながら、黒妖犬は教官に答える。

 ぐーぱーぐーぱーと手指を動かし、特に支障がないことを確認。

 人工生命体の肉体とは比較にならないその身体性能に、少女は硬質な声で淡々と分析を述べて、警戒する。

 

「対象の脅威度判定を更新。毒に高い耐性を持つと推定」

 

 微量でも鯨一頭を即効で麻痺させる毒を食らいながら、平然としている。今、少女の“身体に仕込まれている”兵装では、捕獲するのは難しい。

 

 そして、明かりのない室内にかろうじて光を届けている部屋の入口に、また新たな人影が立っていた。

 意思のない機械人形や、機械のような少女とは違う。

 白い石碑と錯覚するほどの塊は、薄汚れた白衣を着た男だった。

 ぼさぼさに長く伸ばした髪、手にはスキットル。

 上半身は白衣以外着ておらず、擦り切れたジーンズを穿いた長身の男は、研究者というよりは時代遅れのロック歌手か、反社会的な芸術家に見えた。

 

「カモがネギを背負ってやってきたかと思えば、予想以上に処理がいる素材らしいなぁ。いや、頑健であるのは予想していたから、スワニルダを対獣人使用に装備を固めてるのだが。ここは俺の芸術(アート)にはそぐわないが、偉大な先人たる<血途の魔女>を敬おうじゃないか」

 

 その声を聴いた瞬間、アスタルテの意識は凍り付いて、糸が切れた人形のように指先一つ動かなくなった。

 起動する直後に消去された記憶が、その声紋を(キー)として甦らされた。自らに人工眷獣を植え付けた『人形師(マイスター)』の情報を。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 南宮那月は、正面に対峙した男と、それに付き従う純白の髪を持つ美貌の少女。彼らの正体を一目で看破していた。

 

「……人工生命体(ホムンクルス)に、機械人形(オートマタ)混ぜ物(ヘル)か『人形師』」

 

「どうせなら、『人造人間(ヒューマノイド)』と呼んでほしいねぇ<空隙の魔女>。スワニルダは、そこらの量産品の人形とは違う。俺が心血注いで造り上げた、最愛の女性(ヒト)だからさ」

 

 男――『人形師』ザガリー=アンドレイドはそういって、この世界で唯一の少女スワニルダを抱き寄せる。

 それに対するスワニルダの反応はごく自然で、とても人形とは思えない。むしろ普通の人間よりも、より完全な人間に近く感じられるほど。

 

「人工生命体を素体とした機械人形の製造は、聖域条約で禁止されているはずだが『人形師』」

 

 那月が不機嫌な声で指摘した。

 まるで生きているかのように自然な機械人形――スワニルダの完成度の秘密は、彼女に本物の生命が宿っているからだ。

 先に小手調べで押しかかってきた機械人形も死霊術(ネクロマンシー)により起動コアに疑似的な生命を与えて、動かしていた。

 死霊術も含む生体制御に秀でる『人形師』が、その技術の総結集させたスワニルダは人工生命体の細胞を機械と融合させた機械化人工生命体(サイバネティクス)。すなわち、文字通りの『生ける人形』なのだ。

 だがそれは、スワニルダというひとりの少女を切り刻み、単なる機械(モノ)へと近づける行為に等しい。

 『アメリカ連合国(CSA)』の特殊部隊『ゼンフォース』の兵士たちに施される<魔義化歩兵(ソーサリスソルジャー)>の処置と同じ。今の彼女はもはや生物とも機械とも判別できない、どっちつかずの不安定な存在。聖域条約に加盟している国で<魔義化歩兵>の改造手術があまりにも生命を冒涜しているとして禁止されているように、そんなものを創り出すことが道義的に許されるわけがない。人工生命体の機械化は、魔族と人間の共存を目的とする聖域条約でも、絶対の禁忌とされているのだ。

 しかし、『人形師』は法則になど縛られず、己が目的だけを追求する狂人。

 

「聖域条約、か……ハッ、芸術の価値を理解できない凡俗どもに、『永遠』すら生み出す俺の才能を縛れるとでも?」

 

「……才能、だと?」

 

「そうさ。彫刻家が石から作品を彫り出すように、俺は人工生命体から芸術を創り出す。俺の死後も生き続ける『永遠』のアートをな」

 

 その実例ともいえる『人形師』の作品が、機械化人工生命体(スワニルダ)と、眷獣共生型人工生命体(アスタルテ)

 

「だから、そのためにアスタルテを返しにもらいに来たのさ」

 

 『人形師』は美味そうに酒を舐めながら語る。

 何週間も生きられない欠陥製品(アスタルテ)に興味はなかったが、<第四真祖>暁古城が、彼女を『血の従者』とし、<第四真祖>の魔力で眷獣を動かせるように、無理矢理に契約を書き換えたことによって、その評価は変わった。

 

「今のアスタルテに送り続けられる『永遠』に尽きることのない無尽蔵の力。これこそ俺の芸術に相応しい。欲しいねぇ。是非、このスワニルダの部品にしたい。至高の芸術作品を生み出すためになぁ」

 

「そうか。狂人の感性など欠片も理解できんが、アスタルテは現在、私の管理下にある。残念だが、貴様には引き渡せんな」

 

「何を言う。依頼者がその権利を放棄したのなら、道具の所有権は『人形師(マイスター)』に返却されるに決まってるだろう?」

 

「―――それは、違うぞ!」

 

 黒妖犬が、前に出た。

 それまで教官の会話を邪魔しないように、口を閉ざしていた彼が、『人形師』に噛みついた。

 

「アスタルテは、アスタルテのものだ。オマエのものなんかじゃない!」

 

「おいおい。突然、何を言い出すのかと思えば、わけのわからないことを。吠え癖くらい矯正したらどうだ? それとも<空隙の魔女>は、道具の躾もできないのか?」

 

「道具なんかじゃない! オレはオレだ。アスタルテはアスタルテだ!」

 

 そこで『人形師』が黒妖犬を見る目に、初めて落胆の色が浮かび始める。

 

「ったく……これは、<黒妖犬>も欠陥製品なのか? <血途の魔女>は失敗したのか、それとも<空隙の魔女>の調整の仕方が間違ったのか、どっちにしてもがっかりだなぁ。

 いいか、アスタルテは人形(どうぐ)だ。忠実な僕として俺が手掛けたんだ。間違いない。だから、人間に言われたことを何でもする。そう、『命令受託(アクセプト)』ってな」

 

 空になった酒瓶を投げ捨て、『人形師』がそう揶揄する。

 人工生命体(ホムンクルス)は、人間に逆らうことができないように造り出される。だから、人形としてふさわしい―――

 

「それは違うぞ」

 

 それは、感情のままに吠えたてるのではない、ひとつ自分の中で理屈の通ったものを言い放つ、芯を響かす声音であった。

 

 

 

「いくら命令されてもやりたくないことは誰だってやりたくない。でも、アスタルテは『命令受託(アクセプト)』って、魔法の呪文(ことば)を唱えるだけで何でもやれるようになるすごく意志の強いヤツなのだ」

 

 

 

 人工生命体に入力された人格設定など何も知らない彼が、語るその文句は、なぜかアスタルテの無感動な瞳を揺らした。

 そして、『人形師』は落胆から心底から蔑む、殺意さえ孕んでいる眼差しで、これだけ語ってやっても己の芸術性を欠片も理解できない愚鈍な“駄作(クロウ)”を見る。

 

「スワニルダ、黒妖犬は生け捕りを考えなくていい、()れ。その残念な頭を斬り飛ばして、肉片に変えるんだ」

 

命令受託(アクセプト)―――」

 

 『人形師』の命を受け、スワニルダが右腕を上げた。

 彼女の指先から伸びた透明な糸が伸びて、『人形師』が持ってきた革製の大型スーツケースに接続される、ケースの蓋が開いて、中から新たな人形が現れる。

 その数は2体。

 球体関節を剥き出しにして、鋭い刃のような四肢を持つその姿は、スワニルダのような生々しさはない。そう、これは稀代の才能を持つとされる『人形師』アンドレイドが用意した、特殊な魔術装置を内蔵する完全な戦闘用の機械人形(オートマタ)なのだ。

 

「ヘルシリア、スアーダ、戦闘出力で起動。統合演算開始。執行せよ(エクスキュート)―――」

 

 スワニルダの指揮で、昆虫のような複眼を輝かせた2体の人形が左右から黒妖犬に迫る。

 一瞬のズレもない完全な同時攻撃。刃と化した四肢が大気を裂き、人体ではありえない角度から襲い掛かる、

 凄まじい速度、そして、殺気のない無感情な攻撃は読み難く、回避のタイミングをつかませない。そして、息切れすることもないため、猛攻は絶え間なく続く。

 

「ぬ……っ!?」

 

 ガガガガガガガガガガガガッ!!!

 金属と骨がぶつかるような、鈍い激突音が続く。

 人形の攻撃を捌いた腕が、線を引いたような傷ができる。先の山刀にも劣らぬ斬撃。戦闘用にチェーンされた人形たちの攻撃は、速く、そして、重い。威力の一点のみならば、『人形師』の最高傑作(スワニルダ)にも匹敵するであろう。

 二体連携を取って攻め立てる。攻撃を終えた一瞬の隙をついて反撃しようとすれば、対となる人形が攻め込んでくる。

 互いの隙を補い合って相手の反撃を防ぎ、そして、司令塔のスワニルダの指揮で、一個の精密機械のような完全な連携攻撃を可能とした自らの意識を持たない2体の人形は詰将棋のように逃げ道を塞いでいく。

 そう、この二体はスワニルダの両手に等しいのだ。

 

「はっ。性能だけはいいみたいだな<黒妖犬>」

 

 本気で感心するように『人形師』は呟く。彼にしてみれば、人形たちの攻撃を凌いでいるほうが、むしろ驚きなのだ。

 

「なるほどな。奴の体内には『傀儡創造(メイク・ゴーレム)』と同様の効果を持つ魔具を埋め込んでいるのか。傀儡の複数同時精密動作のフィードバックに人間の術者では脳や神経が焼き切れるだろうが、機械人形の演算能力ならば耐えられるだろうな。

 しかし、人形に人形を操らせるとは、噂通り悪趣味な男だ」

 

 種を看破した那月は、呆れたように息を吐いた。

 『傀儡創造』は、無機物に仮初の生命を吹き込んで、意のままに操る物質操作系の魔術である。物質編成などの錬金術の要素を含むために、魔術としては難易度が高い部類に入るが、力押しの戦闘以外には、ほとんど使い道のない術であった。動かないはずの無機物を無理やり動かすには大量の魔力を消費するし、複雑な命令を処理するには高度な思考能力を要するのだから。実用性はない。

 故に、『傀儡創造』の魔具を半人半機械の自律兵器になど取り付けたのは、この作り手の趣味としか言いようがなく、またその思想がよく表れているといえよう。

 

「なんとでも言え魔女。読み合いで機械人形(オートマタ)の演算能力に勝てるわけがない!」

 

 たん、と純白の人形が軽く足元を蹴る。左腕の巨大な刃物を構えたまま、黒妖犬をめがけて加速する。

 人形2体の猛攻を受けているところに、3体目の攻撃を防ぐ余裕はあるか―――

 

「さあ、どうする<空隙の魔女>。おたくの使い魔が死ぬぞぉ」

 

 不安を煽る『人形師』

 この絃神島で五指に入る実力者である<空隙の魔女>と相対しながらも、委縮した様子は微塵もない。ここで使い魔を庇おうものならば、その隙に魔女を仕留めると爛々と光らす目が無言のうちに語っている。

 3体の人形がそれぞれ散開して、黒妖犬を包囲する。歯車(ギア)発条(バネ)の音を軋ませて、変形。胸部が大きく左右にばくんと割れた。胸元を蝶番にして開く宝箱に似ている。

 そして、その中身は武骨な回転式多銃身型機関砲。

 機関砲の弾丸として装填されているのは、長さ10cmほどの聖別された銀製の杭だった。対獣人用の聖銀杭投射銃(ニードルガン)―――何十年も前に製造が禁止された、非人道的殺傷兵器だ。

 

教官(マスター)―――」

 

 那月の斜め後ろより、感情のこもらない静かな声が発せられる。人工生命体の少女が、未だに動く気配を見せない那月に言う。

 

「進言。即急に対応が必要だと判断します。先行の許可を」

 

 ふ、と那月は微苦笑を漏らす。どうやら那月の命令を律義に守っているようだ。しかしながら、それを撤回してほしいと嘆願する。それは先ほど眷獣(クロウ)を批判した行為と同じであるにかかわらず。

 しかし、だ。

 

「必要はない」

 

 この状況に、那月は眉一つ動かさずに、扇子を閉じた。

 

 

「―――『手枷』を外せ。それと人形は壊してもかまわん」

 

 

 その許可に、黒妖犬は身に着けていた手袋――手加減の不安な使い魔に<空隙の魔女>が力を抑制するよう、十本指を締め上げる呪を施した“拘束具(ゲルギャ)”を外す。

 それがまるで騎士の籠手のように身に着けているその手袋は、防具などではなくて、神獣を禁ずる『首輪』と同じように獣化を抑える『手枷』なのだ。

 しかし、それで制限をかけても、加減を誤ってしまい指圧で携帯電話を壊すことが何度もあるのだから、

 

「<空隙の魔女>、あんた一体どれだけガチガチに自分の使い魔を束縛してやがる!?」

 

「この程度縛ったうちに入らん。だいたい、主神を食い殺すような狼を、鎖だけで抑えきれるわけがないだろうに」

 

 獣化。

 獣性を開放した黒妖犬――疲労困憊の状態であっても、切り札の聖戦装備<要塞の衣(アルカサバ)>を発動させた殲教師と互角以上に打ち合えた銀人狼。

 その制限が外されて、目に見えて濃くなった生体障壁を両腕に纏う気爪が―――霞んでは、毎分数百発の速度で飛来する聖銀杭のすべてを叩き落し、

 

 ―――スワニルダは、足元からしがみつかれた。最初に出した戦闘用の機械人形に。

 

「……っ!?」

 

 銀人狼の常軌を逸した凄まじさ―――それに目を取られている内に、傑作を生み出すために、使い捨てられた道具がスワニルダに襲い掛かる。そう、この起動コアを『第一非殺傷原則』を書き換えるのに使われたのは、死霊術。命令通りに、主人のコレクションを確保するために死霊術を上書きして止めていた機械人形の一体を、今、動かしたのだ。

 そして、統率の起点となる糸を伸ばす右腕に抱きつかれ、スワニルダの手である2体の人形の動きが止まった。

 

「使える駒の数も質も劣ろうが、“使いどころ”はどうやら馬鹿犬の方が巧いらしい。いや、それとも宝の持ち腐れと言ってやるべきか。着飾る服のセンスは認めてやってもよかったのに、実用性を無視したオタク趣味に走り過ぎたな『人形師』」

 

「オタク、だと?」

 

 冷静な一言は、けれどこの上なく挑発的な侮辱だった。

 芸術家を自称する『人形師』にとって、自分を素人同然のコレクターと同列に扱われるのは、許されない侮辱なのだろう。

 しかし怒気を孕む『人形師』の眼光を受けながら、そちらを見もせず那月は挑発的に軽く鼻を鳴らし、

 

「なんだ“人形オタク”、私の顔に何かついてるか?」

 

「俺は、芸術家だ! そこらの俗物どもと一緒にするなっ!」

 

 クセの強い長髪を鬱陶し気に振り払って、その憎悪の顔を露わにするアンドレイドは叫ぶ。

 

「何をしてるのだスワニルダ! 早く立て直せ! この愚図め! それでも私の最高傑作か!」

 

 『人形師』の喉を壊しかねない勢いで浴びせられた罵声に、それまで無表情だったスワニルダの瞳に、初めて動揺の光が浮かんだ。

 そして、行動を立て直すよりも早く、銀人狼は動く。

 

「愚図はおまえだ“人形オタク”。判断が鈍いのも当然。魔具を詰め込み過ぎたせいで、選択肢が多すぎる。メモリの無駄遣いだな。まったく極めて単純思考(バカ)な私の眷獣(サーヴァント)に一秒は時間のやり過ぎだ」

 

 人型時が目にも止まらぬものであるのなら、銀人狼は目にも映らぬ凄まじい敏捷性と跳躍性を見せた。機関砲を構えた人形の懐まで、一気に間合いを詰めて潜り込むと、一撃で戦闘用に調整されたヘルリシア、また移動し、スアーダを木端微塵に粉砕する。

 スワニルダの演算能力をもってしても、銀人狼の動きはとらえられない。

 

「―――ヘルリシア、スアーダ、両機損傷率60%オーバー。再起動不能」

 

 勝敗は決した。

 スワニルダが右手を振るい、透明な糸で銀人狼を拘束しようとするも、鎖ではないたかが糸に拘束できるはずもなく、あっさりと振り切られる。

 左腕の山刀も一合で気爪に左腕ごと斬り飛ばされた。さらに気爪の一振りは、左腕より衝撃を全身に伝播させ、左顔面にひび割れを生じさせる。

 

「スワニルダ!」

 

 絶叫する『人形師』は、床を無様に転がる純白の機械人形のもとへと駆け付け、拾い上げる。その左半身をほとんど台無しにされている状態に、クソが、と吐き捨てるようにうめくが―――まだ、終わっていない。

 

「さて、そろそろ終わらせるとしよう」

 

 互いの使い魔同士の決着がついたところで、主人がようやく動き出した。

 

「優れた芸術家の大半は死んでから名を馳せるものだ。

 ―――喜べ、監獄という墓場に入れて、おまえを巨匠にしてやろう『人形師』」

 

 『人形師』の視界に銀色の輝きが横切る。

 金属同士がぶつかる澄んだ音色が、薄暗いフロアに鳴り響く。

 その正体は、鎖。神々が打ち鍛えた銀鎖だ。

 どこからともなく出現した銀鎖が、槍のように降り注いできて、檻のように『人形師』を囲む。

 空間制御の術式を使った奇襲は完璧なタイミングで、<戒めの鎖(レーシング)>による包囲網に死角はない。

 そして、竜巻のように渦を巻いた鎖に絡みつかれて、鳥籠に囚われた雛鳥も同然に、確実に『人形師』とスワニルダは捕縛される。

 

 

 

「甘ぇ。あんたが<空隙の魔女>と分かってるのに、迂闊に出てくるわけがねぇだろ」

 

 <戒めの鎖>は、魔力をも縛る。魔術も使えず、搦み付かれた銀鎖から逃れるのは不可能だ。

 ―――第三者に破ってもらわない限りは。

 

「俺の人形は優秀だ。顧客も大勢いる。けど、そん中には俺の人形を独占したいやつもいるのよぉ。だから、万が一の保険を仕込んでおくのは当然だ。

 ―――それが欠陥製品であってもなぁ」

 

 鎖が、弾けた。

 人工生命体の背中から生えた虹色の翼が、『人形師』らを封じる銀色の縛鎖を断ち切ったのだ。

 

執行せよ(エクスキュート)執行せよ執行せよ執行せよ執行せよ……!」

 

 壊れたラジオのように延々と繰り返すアスタルテ。

 透き通った光の翼から巨大な腕と化した眷獣<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>がのたうち回るように無造作に振るわれる。

 

「俺がピンチになるのを視認したら、発動するように仕組んでるんだが、これを使うと、人形がぶっ壊れちまうからなぁ試作品(アスタルテ)はできる限りそのまま回収しておきたかったんだが、こうなったら仕方がねぇ。諦めるか」

 

 チッ、と舌打ちした那月が扇子を振り下ろす。空間に目に見えない無数の亀裂が走り、銀色の鎖が撃ち出された。それらは暴走する人工眷獣を完全に包み込み、そして四方から一斉に搦め捕る―――

 

 しかし、銀鎖は弾き飛ばされた。

 

 『人形師』がアスタルテに植え込んだ人工眷獣には、『神格振動波駆動術式(DOE)』が刻み付けられている。獅子王機関の『七式突撃降魔機槍(シユネーヴァルツァー)』を解析して得られた、極めて高度な魔術機構だ。それは剣巫ほどに真価を発揮することがかなわなくても、魔力を完全に反射することで、魔術攻撃に対して無敵ともいえる防御力を発揮する。

 それが暴れられては、空間制御の術式を組み立てられることも難しく、また“魔力に干渉する”攻撃を南宮那月は受けるわけにはいかない。

 

「ご主人!」

 

 那月に振るわれようとした人工眷獣の腕を、割って入った銀人狼が受ける。

 <薔薇の指先>の攻撃は、物理的には何の干渉がない。素の馬力が尋常ではない、獣化した黒妖犬は、真っ向から打ち合って、その主人を守護する。

 

「アスタルテ、どうしたのだ!?」

 

執行せよ(エクスキュート)執行せよ執行せよ執行せよ執行せよ……!」

 

 そうして、手古摺っている合間に、『人形師』の周囲に炎の紋様が浮かび上がる。

 足元に撒いた強い(アルコール)を触媒にして、魔法陣を描いたのだ。

 スワニルダの体を抱えたまま、『人形師』の姿が消滅した。

 練達者級の魔法使いでなければ制御できないといわれる、空間転移の術式である。退廃的な外見に反して、『人形師』の正体は、凄まじい技量を持つ高位魔術師であった。

 そして、那月たちはアスタルテの暴走を止めるために逃亡を見逃すしかない。

 

「いったい何が起こったのだご主人?」

 

「―――そうか、あの“人形オタク”め、人工眷獣だけでなく<論理爆弾(ロジックボム)>も埋め込んでいたな。反乱防止のための安全装置(プログラム)――いや、魔術的なウィルスだ」

 

 監督する人工生命体の少女を見つめて、那月は言う。

 この暴走は、眷獣共生型人工生命体に仕組まれた魔術的なウィルスによるものだ。『人形師』が、自身の作品に襲われないようにする保険なのだろう。

 流石の那月も管理公社の精密検査をも潜り抜けるほどに潜ませていたこの<論理爆弾>の存在は見抜けず、予想外であった。

 

人工眷獣(あれ)に空間制御は……無駄か! どうする? <輪環王(ラインゴルド)>の封印を解くか……それとも、馬鹿犬の<神獣化>を許可するか……? なんにしても、一刻も早く止めないとアスタルテもまずい……!)

 

 使い魔(クロウ)の<神獣化>もそうだが、那月自身の<守護者>の封印も無闇に解けない。<輪環王>は強力過ぎて、迂闊に解き放てば、絃神島に甚大な被害をもたらす可能性だってある。それにあの人工眷獣は宿主と一体になるタイプの眷獣。力加減を微尿にでも誤れば、身体が貧弱な人工生命体のアスタルテごと消滅させかねない。

 封印した状態の不完全な<守護者>や『首輪』をした獣化の使い魔の力があれば、とりあえず押さえつけることはできるが、<薔薇の指先>だけを斃し切るのは難しい。

 

「なあ、ご主人」

 

 葛藤する那月に、使い魔がふと(疑問)を投げかける。

 

「魔術的なウィルスっていうけど、アスタルテの眷獣は、姫柊の槍と一緒で魔力なら何でも打ち消しちまうものじゃないのか?」

 

「違う。あの聖槍は、獅子王機関の小娘だから力を発揮する代物だ。たとえ同じ術式だろうとアスタルテでは選ばれた小娘には及ばん。

第四真祖(あかつき)>の『血の従者』になって、人工眷獣を使役する魔力をもらおうが、『神格振動波駆動術式(DOE)』を真に働かすには、霊力が必要なのだからな」

 

 獅子王機関でも、現役は、30名にも満たない剣巫。さらにその中から、秘奥兵器たる<雪霞狼(やり)>に選ばれた姫柊雪菜だからこそ、破邪と魔力無効化の効果を持つ高次エネルギーの神気を生み出すことができるのだ。

 いくら調整をしようが、土台、人工生命体には無理な話だ。

 

「う。わかったぞ、ご主人」

 

「なに?」

 

 銀人狼の拳と虹巨人の拳が衝突。

 純粋な膂力で眷獣を吹き飛ばす銀人狼の一打が、巨人の眷獣を仰け反らせ―――跳び込む。

 

 

「ご主人、ちょっと<薔薇の指先(こいつ)>を止めててくれ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 私は、『人形師様(マイスター)』の『永遠』。

 けれど、今、私は壊れかけている―――

 

 <黒妖犬>の一撃で半身を打ち砕かれたのだ。

 人工生命体の肉体に埋め込まれた精密な機械の骨格に罅が入り、いびつに歪んでるせいで、関節を動かすたびに不快に軋む。

 美しい顔も、左半面が割れてしまい、絶え間ない苦痛が苛んでいる。

 

 それでも、絶望はしない。

 『人形師様』の最高傑作。だから、すぐに壊れている箇所を直してくれるだろう。動かなくなった機会を取り換え、醜く割れた肌も張り替えてくれる。

 

「『人形師様(マイスター)』、私の修理と、破損した装備の補充を要請します」

 

 あの欠陥製品(アスタルテ)がどれだけ時間を稼げるかはわからない。

 試作品が幸運にも手に入れた『永遠』を回収できなかったのは残念だが、ここで終わりではないはずだ。『人形師様』は、絶対に『永遠』を諦めないのだから。また別の方法を探す。そのためには、まずここから逃げなくてはならない。だから、『人形師様』の伴侶であるスワニルダの力が必要になるはず―――

 

 ……………と、『人形師様』は、スワニルダを柩型のベットに横たえさせたまま、放置している。こちらに目もくれず、何よりも最優先であるべきはずの最高傑作(スワニルダ)の復元を後回しにして、工房の奥にある調整槽の制御盤を操作していて―――ようやく、振り向いてくれた時、『人形師様』の瞳に浮かんでいたのは、侮蔑。

 

「修理しろ? ハハッ、ずいぶん面白いことを言うようになったなぁ、スワニルダ」

 

「……『人形師様(マイスター)』?」

 

 困惑しながら訊き返すが、『人形師様』は愉快そうに口元を綻ばせる。それは、『人形師様』が壊れた玩具に向ける時と同じ表情。無感動な冷たい眼光が、スワニルダを差している。

 

「何度も教えてやっただろぉ? 人形ってのは、『永遠』に“美しいまま”生き続けるから価値があるんだぜ。所有者である人間が滅びても、な」

 

 『人形師様』の体が横にどいて、そこでようやくスワニルダにもそれが見えた。工房の奥にある調整槽の中に浮かんでいる見慣れない生物。直径1.5ほどの、奇怪な卵型の人工生命体(ホムンクルス)

 それは琥珀色の培養液の中を漂いながら形を変える不定形生物(スライム)―――あんな奇怪な球体に、『人形師様』が、“スワニルダだけに”向けていた優しげな眼差しを注いでいる。壊れかけたスワニルダを無視し、新たに生み出された人工生命体へ笑いかけながら、それを言った。

 

「俺が生み出した最高傑作だ。まだ未完成だがな。だが、きっと美しくなる。『永遠』に」

 

 最高……傑作……?

 おかしい。『人形師様』の最高傑作、『永遠』に寄り添う伴侶は、スワニルダのはずだ。なのに、なぜ、そんな奇天烈なものに―――?

 

「こいつは人工生命体を取り込んで、相手の形質(ちから)を継承する。要は、他の人形を喰らって“奪う”ってことだ。吸血鬼の『同族食い』と同じだ。こいつに欠陥製品(アスタルテ)を喰らわせて、本物の『永遠』を手に入れるはずだったんだがなぁ」

 

 私は……私のために、していたのではなかったのですか……?

 試験体を捕獲しようとしたのはスワニルダに『永遠』を与えるためで、どうしてそれを他の作品に―――

 

「あんな“駄作”如き壊されるお前にはもう価値はねぇよ。お前があんな無様を晒さなきゃ試験体(アスタルテ)を回収することができたっつうのに。クソッ、今のお前は欠陥製品以下の廃棄物(ゴミ)だ」

 

 怖い。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い―――そして、何故??????

 

 『人形師様』が、これまで何百もの人工生命体を弄っていたのを知っている。見ている。そして、どんな末路を辿るのかも、わかっている。

 

 でも、それはスワニルダには無関係のはずで―――

 

「ナタナエル、起きろ。食事の時間だ」

 

 琥珀色の培養液が排出され、ナタナエルと呼ばれる不定形の人工生命体が覚醒する。蓋が開き、蛞蝓のようにずるずると調整槽の外へ這いずり出てきて、不気味に蠕動しながら言葉のようなものを発する。

 

『I…I…accept your order……Meister』

 

 工房の床を腐臭を放つ粘液で汚しながら、スワニルダに近づくナタナエル。

 ベットから逃げようにも、ベルトを巻かれて拘束されているため、身動きできない。かろうじて動く右手を『人形師様』に伸ばす。

 これから喰われる恐怖より、何故主人に棄てられた不理解が心情を占めている。存在意義が揺らぐ、揺らぐ、大きく揺らぐ。身体ではなくて、心が壊れていく―――

 

「『人形師様』……私は……私は、『人形師様』の『永遠』の伴侶では、ないのです、か……」

 

「違うよぉ。おまえは、廃棄物。ナタナエルに部品をくれてやるしかできない廃棄物。だから、大人しく処分されてろよ」

 

 そして。

 廃棄物(スワニルダ)は、新型最高傑作(ナタナエル)に喰われた。

 全身が焼けるような激痛。体内に埋め込まれていた、『人形師様』に与えられた機会が奪われて、何度も何度も美貌を保つために交換してくれた生体組織も食われていく。奪われていく。何もかも。存在意義であった、『永遠』という伴侶の称号までも略奪される。

 

「まあ、こんなものか」

 

 想定通りの性能だ。

 この新型最高傑作(ナタナエル)は、試作品(アスタルテ)に植え付けた人工眷獣<薔薇の指先>の『接触した対象の生命力を奪う』と言う特性と同系統であり、さらに高めたもの。

 生命力だけでなく、知識や経験の『固有堆積時間(パーソナルヒストリー)』に、そして戦闘能力や姿形まで取り込んでいく。

 無制限に。

 このまま人工生命体や機械人形、魔族や人間を喰らい続ければ、新型最高傑作(ナタナエル)はいずれ最強の生体人形へと至るだろう。“駄作(ヘルハウンド)”になど負けない。

 その未来を想像して、『人形師』は満足げに笑う。

 

「そうだな。この研究所に残ってる他の廃棄物(ゴミ)も喰らわせてやるかぁ。人工眷獣を植え付けた程度で潰れたが、これなら有効活用ができるだろう。全個体喰らえば、<空隙の魔女>や<黒妖犬>にも負けない―――」

 

 廃棄物(スワニルダ)の質量分だけ身長が増大して、姿形も単純な卵型より、人間らしい輪郭へと近づいていく新型最高傑作(ナタナエル)

 やがては、『人形師』ザガリー=多島=アンドレイドが理想とする『永遠』の伴侶へ―――

 

 

「―――命令拒否(ディナイ)

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ご主人、任せた!」

 

 暴走するアスタルテの前に立ってすぐに、獣化を―――解く。

 拘束具の『手枷』を嵌め直し、人間に戻った使い魔(クロウ)。当然、宿主の懐に潜り込まれた<薔薇の指先>は、それを狙うも、阻まれる。

 虚空から出現した二本の腕――黄金の鎧に包まれた機械仕掛けの巨大な腕が、虹色の人工眷獣の腕を抑えられる。

 それは魔女の<守護者>と呼ばれる、悪魔の眷属の腕。

 那月はただの魔術師ではない。悪魔との忌まわしき契約によって、超常の力を手に入れた魔女なのだ。契約を破れば、たちどころに彼女の魂を刈り取る監視者でもあるが、契約の対価として与えられた<守護者>の力は凄まじい。それが一端の腕だけの限定顕現であっても人工眷獣を抑えきるだけのことができる。

 

「どんな思い付きかは知らんが、私に<守護者>まで使わせたんだ。失敗すれば承知せんぞ馬鹿犬」

 

 獰猛に笑う主人の叱咤を背に受けた黒妖犬(クロウ)は、人工眷獣の両腕を抑え込まれて、無防備な宿主に―――

 

「―――捕まえたぞ」

 

 しなだれるアスタルテがその肩に乗せるよう顔を預けられると、ひやり、と硬く冷たいものが頬に当たる。

 黒妖犬の首に巻かれた、拘束具の『首輪(かせ)』だった。

 そう、抱き着かれたのだ。

 

 港で敵対した時も、同じ台詞で、軟な首を掴まれたことがある。

 でも、今回は、その腰に腕を回されて、華奢な体を抱きしめられている。

 それは前回よりも息苦しくはないものの、しっかりときつく、そしてより密着して、息が止まるよう―――

 

「遠慮するな。存分にもっていくといいぞ」

 

 黒妖犬が、何を言っているのか、理解ができない。けれど、説明要求する間でもなく、その行動ですぐに理解する。

 その身体より、金色の光が漏れ出す。神狼の高純度の精気(オド)だ。人間のとは格が違う、神格さえ帯びているその霊力、それが眷獣共生型人工生命体の肌に転写されている魔法術式の術紋に染み透っていく。

 

「アスタルテの眷獣は、接してる相手の力を奪えるものなんだろ?」

 

 元々の<薔薇の指先>の能力は、力の略奪。

 

「だから、オレのを使ってみろ。それで、姫柊みたいにやってみるのだ」

 

 つまりは、足りない霊力をあげるから、『神格振動駆動術式』を働かせろ、と。

 

 かつて、幾多の魔族の魔力を強引に食らってきた。そして、瀕死になって彼らを昏倒させてきた。

 ―――ダメだ。

 暴走する<薔薇の指先>は、宿主の人工生命体を無視して、彼の身体よりその霊力を貪っていく。

 ―――ダメなのに。

 それでも彼の腕が解かれることはない。依然、力強くあり続けている。

 

「ぐぬっ……」

 

 耳元に黒妖犬の苦悶が漏れる。されど、芯を削っていく脱力感を覚えながらもその場に踏みとどまった。猛烈な負担がかかっているが、だからこそ、彼は彼自身の答えが正しいと手応えを感じた。その手応えを、さらなる意思の力に変えて、自分を離さない。

 

 何故?

 あの時のように、神獣となれば、暴走した自分など一撃で葬れるはずだ。

 ここで人工生命体の自分を助けようなんて、まったく合理的じゃない。

 そもそも無茶だ。たとえ霊力が足りても、剣巫でない人工生命体に神気を作り出せる保証もないのに。

 だから、早く“障害(アスタルテ)”を破壊し、標的を追うべきなのだ。

 

「遠慮するなっていってるのに……仕方ない、後輩なのだお前は……」

 

 苦笑して、それから小さくだけどよく通る強い声音が耳朶を打つ。

 

 

「―――命令だアスタルテ。自分にかけられた枷をぶち壊せ」

 

 

 人間の命令ばかりを聞いて、自分に意思のない人工生命体(ホムンクルス)

 命令されれば、何でもする。

 

『オレの勝ちだ。降参しろ』

 

 港で、捕まってなお抵抗する。

 

『死にたいなら止めはしない。だが、生きたいなら止めろ』

 

 キーストーンゲートで、警告を無視する。

 

 人間に命令されれば、逆らえない。

 そう、考えていた。

 なのに、抵抗され、警告も無視された彼はこう言ったのだ。

 

『いくら命令されてもやりたくないことは誰だってやりたくない。でも、アスタルテは『命令受託(アクセプト)』って、魔法の呪文(ことば)を唱えるだけで何でもやれるようになるすごく意志の強いヤツなのだ』

 

 

 この時、初めて、自分はこれでいいのだ、と思えた。

 

 

命令(アク)受託(セプト)―――」

 

 

 意思の抵抗、遠慮をやめる、存分にその霊力をいただいていく。

 流れ込んでくる霊力量は膨大。こちらの肉体の魔術回路を満たすどころか、ショートさせかねないほどに。ひょっとすると、それはあの獅子王機関の剣巫と同等かそれ以上なのかもしれない。それも今は獣化を抑えた人間形態で、魔力量分を閉ざしているのだ。

 根本的に、人間とは比較にならないエネルギーを貯蓄していると見るべきだ。

 

 『第七式突撃降魔機槍』より複写したものが、この身体には書き込まれている。

 回路はできていて、霊力が足りても、届かない。

 けれど、『枷を壊せ』と命じられた。

 

 その言葉が蘇った時、かあっと熱が込み上がった。身体の奥から湧いて、胸へと、肩へと、手足へと――全身の細胞へと行き渡り――世界へと跳ねた!

 

 回路の限界など初めからない。

 せき止めているのが壁ではなく闇であるのならば―――その闇の先に、この身体(かいろ)の限界がある。

 そして、それを突破した先に『神格振動波駆動術式』は真価を発揮する。

 

 一の回路に満ちた十の霊力は、その逃げ場を求めて基盤を壊し―――百の回路をもって、千の霊力を引き入れる。

 

 

 瞬間。

 何もかもが壊れ、あらゆる物が蘇生する。

 

 

 アスタルテの電子回路のような複雑な魔法術式より、青白い光が迸り、弾ける。

 虹色の巨人の腕が、金色に染め上げられ、天使の翼のように展開。魔力を無効化し、ありとあらゆる術法を打ち消す、真なる神格振動波の輝き。

 

 カキン、と。

 内側で何かが外れた幻聴を耳にする。

 

 人工生命体を強制する<論理爆弾>のプログラムが解けて、アスタルテは自我を取り戻した。

 

 

 

つづく



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人形の伴侶Ⅱ

人工島北地区 スヘルデ製薬社付属研究所跡地

 

 

 研究所跡地。

 その真下に存在する窓も扉もない秘密の地下室。空間跳躍(テレポート)で出入りをすることにしたこの機密区画には広く、研究所内にあった実験室と同規模。高価な実験機材が設えて、人が生活できる程度の簡易な家具も備わっている。

 ここが、『人形師』の工房。

 開発中に廃棄された無数の機械人形に、保存液に浸された奇怪な人工生物の標本などが飾られて、まともな感性を持つ人間ならば半日ここにこもるだけで精神に不調を起こすであろう。それほどまでに異様で不気味な、狂気に彩られた部屋。

 そこで、

 

「ア……ウア……アアア……グアアアアアアッ!」

 

 絶叫するのは、“純白の髪を持ち、左顔面がひび割れた少女”。

 不定形の新型最高傑作(ナタナエル)がその輪郭を歪めて、融合されたはずの廃棄物(スワニルダ)に成っていく―――戻っていく―――壊れていく。

 

「何をしてるナタナエル!? やめろ、元に戻れ! 廃棄物(ゴミ)を吐き出せ!」

 

命令拒否(ディナイ)……命令拒否……命令拒否命令拒否命令拒否命令拒否……命令拒否!」

 

 否、もうとっくに完全に壊れている。

 主人である『人形師』に捨てられ、その命令に逆らったとき、この心は壊れた。

 ただ一つ残っているのは、目的を果たしたいという欲求。

 存在価値の照明。

 そのために、自分を取り込んだナタナエルを食い破り、乗っ取って、蘇生した。

 

「馬鹿な、こいつもぶっ壊れて、廃棄物(ゴミ)になっちまったのか!?」

 

「―――否定。私は廃棄物ではありません」

 

 哄笑する生体人形を呆然と眺めていた、『人形師』が後ずさる。

 ナタナエル――いや、スワニルダの変貌はまだ留まることがない。その下半身が、蜘蛛に似た怪物の八本脚へと変わっていく。

 護身用の魔術を発動させんと咄嗟に机の上のウィスキーボトルに手を伸ばすも、その瓶を取った『人形師』の手首に、糸が絡み付く。肉眼では視認できないほどに細い傀儡使いの糸だ。しかしその材質は強靭で、ナイフを使っても容易に切断することはできない。そのまま自由を奪うと、『人形師』を吊り上げる。人間体の上半身と相対するように。

 まるで、それは『絡新婦(アラクネ)』のよう。『人形師』は恐怖に顔を歪ませ、口角泡飛ばして喚き散らす。

 

「この化け物! 出来損ない! 狂った人形め! 俺をやれるとは思うなよ! お前にも<倫理爆弾>は仕込んであるんだからな―――!?」

 

「―――否定。私は化け物でも、出来損ないでも、狂ってもいません」

 

 『人形師』の腹部に、刃が刺さる。

 『絡新婦』の左腕に埋め込まれた絡繰り仕掛けが発動し、山刀(マチェット)に似た巨大な刃を、何の抵抗もなく、そして、一切の躊躇なく突き入れたのだ。

 

「なっ……」

 

 がふっ、と『人形師』の口から鮮血が吐き出される。

 それを見つめるスワニルダの人工の瞳には何の感情も浮かばない。壊れてしまい、『絡新婦(かいぶつ)』へとなってしまった伴侶は、埋め込まれていた魔術的なウィルスでさえも制止が効かず、主人を殺すことができる。

 

「私はザガリー=アンドレイド様製作の生体人形――個体名『スワニルダ』です。

 存在意義は『永遠』に美しいまま生き続けること。たとえ所有者の人間が滅びても―――」

 

 『人形師』は、動けない。

 

「―――『人形師様(マイスター)』の伴侶です」

 

 その山刀には、対獣人用の麻痺毒が塗られている。微量で鯨を動かなくさせてしまうほどの強力な毒だ。

 

「待て……止めろ……スワニルダ……」

 

命令拒否(ディナイ)

 

 『人形師』の必死の嘆願に、『絡新婦』は冷淡に拒絶し―――『人形師』の唇を吸う。麻痺で痙攣する口を容易くこじ開け、蹂躙するように舌を絡める。半面が歪に割れた顔を鼻で触れるほど至近で直視する『人形師』はあまりの恐怖に失禁し、舌を噛み切らんとばかりに内心狂うも、やはり麻痺で動けない。

 瞬間、『人形師』の視界がぐらりと揺れた。

 精気が奪われていっている。

 他人と融合し、その生命力を奪う―――ナタナエルの能力を奪ったスワニルダ。今のスワニルダは他者の生命力を吸蔵し、さらにそれで自らの魔力の増幅すら可能となっている。

 そして、カサカサに干乾びていく『人形師』は―――虚空より伸びてきた鎖に巻き付かれた。

 

「―――!」

 

 『人形師』の身柄を引き上げんと―――『絡新婦』より奪おうとする鎖。渡さない。スワニルダの両腕で、ザカリー=アンドレイドを引き寄せるも、そこへまた虚空より、今度は異様な物体が落ちてきた。

 仄明るく輝く獣の集団が、秘密の地下研究室『人形師』の工房に雨霰と大量に降ってきた。見た目は小さなクマやイヌのぬいぐるみに似ている。が、その数は二桁を超え、三桁に届く―――

 それらが一斉に『絡新婦』に向かって、短い手脚でしがみついてくる。

 

 魔女の『使い魔(ファミリア)』。

 魔力で紡がれた半実体の獣たちの体長は、30cmにも満たないが数が数で、瞬く間に『絡新婦』を埋め尽くす。それはミツバチが、自身よりも巨大なスズメバチを圧倒する物量でおしくらまんじゅうで蒸し殺す光景にも似てる。

 わらわらとしがみついてくる『使い魔(ファミリア)』。それに視界を塞がれ、『人形師』を手放さされて、虚空へと鎖に釣り上げられて―――

 

「魔力感知。捕獲吸収。執行せよ(エクスキュート)―――」

 

 『絡新婦』は、吸収。彼女にしてみれば、これらはエサ。魔力の塊である『使い魔(ファミリア)』を次々と体内に捕食。そして、視界は開けたところで、虚空に引き込まれていく『人形師』へと手を伸ばし―――

 

 バカめ、と舌足らずな声が聴こえた気がした。

 

 その『使い魔(ファミリア)』の特性は、自爆。威力は、手榴弾数発分に相当するだろう。

 これだけの数で一斉に爆発すれば、家一軒くらいは楽に吹き飛ばす威力があるだろう。無論、それが爆弾と知らずに取り込んでしまった怪物は多大なダメージを負う。

 

 秘密の地下工房。

 そこに窓も扉もなく、空間転移を前提にした入退室―――そこに、逃げ道などない。

 

「戦術オプションC9を選択。執行せよ(エクスキュート)執行せよ執行せよ執行せよ―――」

 

 その背中が大きく割れて、そこから無数の副腕が翼のように広がる―――と同時に、百を超える『使い魔(ファミリア)』が、自爆。

 『絡新婦』は爆発に呑まれ、その地下工房ごと押し潰された

 

 

人工島北地区 スヘルデ製薬社付属研究所跡地 前

 

 

 ―――立て籠もった『人形師』の工房を重点的に研究所ごと標的を殲滅。

 

 

 “好都合にも”研究所の地下に引きこもってくれたので、

 この扱いが厄介な眷獣共生型人工生命体の調整データと共に処分することにした。『人形師』の捕獲が最優先であるために、“その戦闘の結果で消失してしまった場合は仕方がない”。

 

「随分と派手にやったのだご主人」

 

「ふん。いずれは解体される建物だ。壊してしまっても構わんだろ」

 

 冷え冷えとした殺気を漂わせ、『魔族殺し』の異名を持つ小柄な魔女は美しく静かに微笑んだ。その横には、干乾びた木乃伊のような、かろうじて息がある『人形師』が転がっている。

 空間を自在に操る<空隙の魔女>にとって、敵との距離や障害物は問題ではない。そして、<黒妖犬(サーヴァント)>の『嗅覚過適応(リーディング)』というどこに敵が逃げようとも位置情報を覚知できる。この主人が従者と感覚共有することで、敵の現在地を把握し、そこに銀鎖(レーシング)爆弾(ファミリア)を空間制御で送り込む―――なんていう、逃げようがない反則的な戦法が可能であるからこそ、絃神島で『最恐の主従』と言われている。

 

「でも、アイツまで動いてるぞご主人」

 

「だろうな。おまえの一撃に耐えたんだ。あれくらいで壊れはせんよ」

 

「それと、こっちに近づいてきてる」

 

「なら、ここで待つとしよう。発掘作業の手間が省けた。主人を斬り込むほど病み狂った殺人人形は放置できんからな。あれは特区警備隊(アイランドガード)の強襲部隊でも手に負えん」

 

 崩壊した研究所の瓦礫の隙間から濛々と立ちこめる白霧。

 明らかに自然ではありえない、凍てつくような冷気の霧は、邪悪な純白の闇。

 それは大気中の熱と生物の精気を奪う濃霧。これにより、爆発の高熱の勢いを減少させ、ダメージを和らげるだけでなく、エネルギーも補充した。

 魔力の供給源である『人形師』からの魔力パスが途切れた今でも存分に、内蔵された魔具兵器を行使できるほどに。

 そして、この霧は魔術の伝達物質の役割を果たす。

 

 ―――わずか数十秒で、辺りが白霧に閉ざされる。

 

 数m先も怪しいほどに白く滲む景色。

 ごおっ、と瓦礫が巻き上がった。

 現れたのは、打ち捨てられた機械人形。それも、一体ではない。いくつもいくつも崩壊した建物の下から起き上がり……視界を埋め尽くすほどの百を超える群をつくる。

 廃棄物を、霧を媒介に『傀儡創造』で生命を与えて、動かしているのだ。

 軍隊蟻の群にも似た機械人形の集団は、禍々しい濃霧を纏いながら、こちらへ荒々しく殺到してきた。

 

「やれやれ、また物量作戦で来るとは学習してないな」

 

 嘆息する魔女。そこへ一斉に機械人形たちが弾けた。

 あるいは虎の如く大地を駆け、あるいは鷹さながらに空を跳んだ。けして人間には反応できない速度と、僅かでも触れれば精気を根こそぎまで奪う霧を纏い、機械人形たちは襲い掛かったのだ。

 

「数合わせの戦術など、所詮は烏合の衆。馬鹿げたパワーを持った個にはまったく意味を成さないというのに」

 

 虚空より放たれた銀鎖が、弾丸のように宙を跳んでいた機械人形を撃ち抜き、伏すような低姿勢で迫っていた機械人形は、銀人狼が爪先を地面に刺して蹴り上げ、大量の巻き上げられた土砂に呑まれる。

 

 

「ちまちまやるのも面倒だ。まとめて薙ぎ払うぞ馬鹿犬」

「う。了解なのだご主人」

 

 

 ビウン!! と空気が裂く音が炸裂する。それは銀人狼の四方八方から虚空より伸びてきた銀鎖の束から発せられたもの。魔女から受け取った銀鎖を銀人狼は掴み取ると、手を回し、腕を回し、体を回し、挙動に釣られて鎖も蠢く。その場で一回転する頃には、空を泳ぐ大蛇の如き鎖に、複数の輪ができていた。

 まるで西洋劇の保安官のロープアクション、または新体操のリボン演技のように鎖を操り、そして、東洋圏にあるコマ回しのような輪の形を作って―――

 

「―――縄張り展開(マーキング)、開始なのだ!」

 

 ギュルン!! と銀人狼が、高速回転。

 さらに倍速で、常人離れの馬力をもった獣王の本領発揮とばかりに。白霧で姿を捉えず、魔力を攪乱しようが、その嗅覚は正確に敵軍(におい)の位置を把握しており、そこへ向けて放つ。狙った地点に届いたところで、神々が鍛えた銀鎖に複雑な力が加わる。

 ぐん!! と。

 銀鎖が力強く引かれ、多数の輪がその直径を狭めながらも中にある物体を回転させるようにベクトルを加える。

 輪の中にいる機械人形を縊り―――ではない。鎖は確かに白霧に潜む機械人形のいる地点に飛ばされたが、輪には捉えていない。惜しくも外れ、軍の中心辺りで、空を切る。

 そう。

 “空を、切る”。

 

「ウラァ―――ッ!!!」

 

 白霧が、収束する空気の流れに寄せられる。

 竜巻が生じた。

 空間を縊る。物理の数式だけ考えれば不可能ではないはずだ。何故なら、空気にも抵抗は存在する。摩擦だって起こせる。だから、空間を掌握して独楽のように回転させることだってできるはずだ。

 ただそこにある空間を掴んで、強大な力で回し、衝撃波の渦に変換して掃除機のように標的を吸い寄せる―――なんという荒技。であるが、成すのは馬鹿げた腕力だけでなく、その鎖を通して“匂付け(マーキング)”する『芳香過適応』が発動させている。

 高位の精霊遣いと同等の現象を引き起こせる発香側を、捉えた空間に働かせているのだ。

 それが本来であれば意識もしないほど小さな“空気の引っ掛かり”を、ここまで力強く再現する。

 

 ただ。

 摩擦で高温に熱し、『匂付け』で効果を高めて上昇気流を生じさせることによって、竜巻を発生させる。凄まじいがそれまで。標的を渦の中心に引き寄せるが、破壊し得るほどではなく―――

 

「ほい、集まったぞご主人!」

 

 この主従の基本戦法は、猟犬たる従者が標的を捕捉して―――主人が裁くという方針だ。

 

「さて、霧が消えた時に、何体が残ってるかな」

 

 煉獄の門が、開く。

 吸い寄せる竜巻の中に、地獄の業火が出現。<空隙の魔女>の本領は、空間制御。神々が打ち鍛えた銀鎖を通して術式設置をこなし、空間そのものを変質させて、魂をも焼き払う焼却炉を造り出した。

 

 

 

 白霧が、竜巻に払われ、機械人形が、業火に焼却される。

 視界が元に戻ったとき、百以上はあった機械人形は、両手で数え切れるほどしかなかった。

 圧巻だ。初めて見る、魔女と黒妖犬の狩り。

 

「残り物を片付けろ」

「おう!」

 

 かろうじて難を逃れた機械人形らも、那月がとんと軽く日傘で地面を突いて、一帯を空間制御で脱出不能の漆黒の沼地へと変えられて身動きができない。そして、銀人狼は、『右足が沈む前に左足を上げ、左足が沈む前に右足を上げる』という力技理論で水上さえ疾走する脚力によって、沼に沈まずに動けぬ獲物を狩っていく。

 主人を動かさず、実動するのは猟犬のみ。フリスビードックのように翔る黒妖犬と、指示する魔女。

 その主従の姿に、胸が疼いた。

 

(……私も……)

 

 <論理爆弾>からの解放。

 その無茶に、『神格振動波駆動術式』が刻まれた肉体の回路に負荷をかけ過ぎたせいで、ショート。膝から地面にへたりこんだままでいるアスタルテはぎゅっと拳を作った。

 ―――その背後より、それは現れた。

 

「見ツケタ」

 

 容疑者『人形師』を見張っているよう言いつけられていたアスタルテ。『人形師様(マインスター)』と『永遠』を手に入れた試験体(アスタルテ)が両方傍にある状況を、それは見逃さなかった。

 

「生体組織損耗率34%。武装稼働率25%。接続中の傀儡(ゴーレム)総数は7。魔力供給ラインも断絶。至急回復を要します」

 

 透明化(ステルス)の魔具。機械人形の大軍を陽動させて、標的の相手に接近。魔力を得ていた白霧が払われて、透明化も維持できなくなって姿をさらす。蜘蛛に似た八本脚の下半身を持つ、純白髪の人形。アスタルテと似た人工的な美貌、ただし半分だけ。その半身は砕かれている。復元されて尚、割れてる身体は黒妖犬の脅威が心情に深く刻まれた証左であるか。

 スワニルダはゾッとするような妖しい笑みを浮かべている。『絡新婦』の作り物の眼球を濁らす、妄執めいた禍々しい感情は、アスタルテへ一点に注がれていた。

 

「融合する。あなたと融合する。そしてあなたが手に入れた『永遠』を、私のものに。それが『人形師様』から与えられた存在意義。欠陥製品の試験体ではなく、『人形師様』の最高傑作の私にこそ相応しい―――」

 

 錆びた歯車の軋みにも似た不快な声。それは無感情なアスタルテであっても理解できるほどの、自分に向けられた怒り、そして妬みだった。スワニルダが、アスタルテに嫉妬している。<第四真祖>から魔力の供給を受けることで『永遠』を手に入れた――世界初の眷獣共生型人工生命体という“名誉”を得ることになったアスタルテに。

 

「さあ、私のものと―――」

「否定。私はあなたのものではありません」

 

 人工生命体の少女は、自分自身に驚愕した。

 道具として造られた自身に、自身に対する執着などありはしないのだと思ったから。

 ただ、港、キーストーンゲート、そして、ここ研究所で、この身をすでに三度も救われたとなれば、無抵抗になることだけは考えられなかった。

 

「理解不能。理解不能。あなたは廃棄物。最高傑作の私に食われ、糧になることしか存在意義はない。ないはず」

 

 アスタルテの人工的な美貌には、何の感情も浮かんでないように見える。しかし、スワニルダを見る彼女の瞳には、強い意志の光が宿っているようにも感じられた。

 

「肯定。私は、この島を破壊しようとして、できなかった。与えられた任を達成できなかった欠陥製品です。

 ですが、私は私であると教えられました。そしてそれはつまり、それはあなたはあなたであるとも考えられます。私は私と、そしてあなたの存在意義を守るために、あなたと混ざり合うわけにはいきません」

 

「理解不能理解不能理解不能『永遠』は欠陥製品ではなく、最高傑作の私に―――!」

 

「スワニルダ。私は、あなたを、止めます―――執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先>」

 

 山刀を展開したスワニルダの左腕を向けられて、アスタルテは背中より広がる透き通った光の翼で―――しかし、それはノイズが入る映像のように揺らぐ。

 『絡新婦(スワニルダ)』は、眷獣の実体化を阻害(ジャミング)する特殊な電磁波を発しているのだ。今の弱り果てているアスタルテに妨害されながらの召喚は難しい。

 力を揺り起こそうにも……ダメだ。呼べない。全然固まろうとしない。膨大な魔力が、実体化できない。

 

「不可能。欠陥製品が、最高傑作に敵うはずがありません」

 

 蔑むような冷ややかな声を送り、スワニルダはアスタルテへと毒の刃を振り下ろす―――より、早くその声は届いた。

 

 

「―――眷獣を霧散させるのだアスタルテ」

 

 

 迷わず、アスタルテは力を抜いた。

 脱力した宿主に、眷獣もまとまらずに靄のように―――それを飛び込んできた銀人狼が左手で綿飴を搦めるように取る。

 

 

 

「そうか、この機械人形の大軍は、こちらの意識を誘導するのは狙いか―――だが、残念だ。一秒もこの作戦では時間稼ぎできなかったな」

 

 向こうで、日傘を無造作に振った魔女、陽動の機械人形すべてを叩き潰した直後に、自分の使い魔をこの離れた場所へと移動させた。空間を操って一瞬にて跳ばしたのだ。

 

 

 

「これで、終わりだぞ」

 

 眷獣の濃密な魔力(におい)を己に付かせる『香纏い』。

 『絡新婦』は試作品(アスタルテ)を庇う銀人狼に、即座に首を刎ねんと山刀を振るう。だが、それは金属質な音を響かせ、弾かれた。破れた首巻の下にある、その枷の『首輪』に。

 急所を狙った攻撃を、余裕を持って受けられた。

 完全に、見切られている。

 『獣の皮を纏う者(バーサーカー)』は、虹色に輝く巨人の腕を重ね纏わせた左腕の気爪を振るい、宙を泳ぐ山刀を粉砕すると、『絡新婦』の八本脚を切り払った。

 

「あああああああああああああ―――っ!」

 

 絶叫する『絡新婦』。自身を“最高傑作”から“廃棄物”へと堕とした“駄作(クロウ)”は、肉体を破壊された恨みよりも『人形師』に切り捨てられた精神的な恐怖が勝っていた。

 その恐怖に衝き動かされたように逃走しようとするも、脚はたった今切り払われた―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 スワニルダの腹部が大きく割れた。その中から大口径の機関砲が現れる。最後に残された武器で、無差別に乱射させようとする―――が、それも銃身を真剣白刃取りよろしくと挟み取った銀人狼が、そのままぺしゃんこに潰す。この心ごと。

 

「……全武装使用不能……戦闘続行は困難と判断。『人形師様(マイスター)』、指示を……『人形師様』……」

 

 大きくガラス玉のような瞳を見開いたまま、スワニルダは呟き続ける。それは、スワニルダの先にいた『人形師』に向けられているが、何も返らない。当然だ。肉体が麻痺して動かせないせいでもあるが、何よりその心が壊された。他でもない己の作品(スワニルダ)によって。

 

 それでもスワニルダは歩いて、歩いたつもりで、倒れた。

 足がない。

 頭もぼうとして、眼球も曇っていく。

 起動コアを動かすに必要な魔力も、尽きるのが近い。

 “止まる”、と人形は思った。

 だって、もう力が湧かない。

 これではとても無理だ。こんなのでは『永遠』になど届きはしない。いや、もうこんな美しくない時点で、生きる価値などない。

 

「―――ごふっ」

 

 うつぶせに倒れ込んで、ぼんやりとする。

 地面に寝そべって、白くなっていく視界で、腕を伸ばそうと―――して、動かなかった。

 

 ああ、と内心で零れる落胆。

 これが―――自分がしてきたモノの正体。

 人工生命体や機械人形を解体して、この身に取り込んできた。その事実が、今は何より痛く思う。

 自分が犯した罪、自分が奪った命の価値が今は解る。

 価値は重すぎて―――吐き出す言葉もない。

 もう、終わりだ。『人形師様』に捨てられ、壊れた人形を抱え上げてくれるものなど、どこにもいはしない。

 びくん、と身体が痙攣した。

 喉元から逆流する体液が、最後の力の源だと理解する。

 その衝撃で、光さえ失った。

 もう、自分の中にあるものしか感じされない。いや、それさえも吐き出してしまいそうになっている―――

 けれど、人形は口を開く。

 消えていく孤独に我慢できず、紅い体液と一緒に吐き出す。

 

「否定……死にたく、ない……」

 

 スワニルダは、初めて、とても強い意志で願った――――――――――――――――――――――――――

 

「生きたいのか」

 

 苦しみの果てに、黒い影が視界に入る。

 その手は、スワニルダを壊した凶手。

 スワニルダは身体を仰向けにされて、黒妖犬と向き合う。

 

「馬鹿だな。助けてほしいなら、助けてって言えばよかったんだ、おまえは」

 

 黒妖犬は、最後にそんなことを言った。

 ……そんな言葉、『人形師』には一度も言えなかったけれど、

 たしかに、と人形は思う。

 たとえ今からでも助けを呼べるのなら―――自分は、『永遠』と言う蜃気楼に迷走しなかったろうに、と。

 その限りある、けれど正常な世界が走馬灯のように浮かぶ。

 けれどダメだ。自分は罪を重ねすぎた。自分は多くを殺めてしまった。

 ―――自分の『永遠』のために、多くの命を贄にしてしまった。

 スワニルダは、穏やかに自ら活動を止めた。

 今、胸のコアに突き入られた手の痛みも、感じないくらいに。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 瞼を閉じる純白の髪の人形。

 それは彼女が求めてやまなかった『永遠』の眠りについたようにも見える。

 けれど―――まだ、生きている。

 

「スワニルダを、“壊さなかった”のですか」

 

 アスタルテは、その止めを刺さなかったことに意外そうに、瞳を揺らして見つめる。

 

「壊さなくても止めることくらいはオレにもできる。死霊術で動かせるコアみたいだしな。ちょっと病院まで保つように生命力もあげたけど、武器も全部壊したし、『第一非殺傷原則』のとこをちょいちょいと書き換えを元に戻せば、悪い事もできないだろ?」

 

 黒妖犬は、スワニルダを壊さなかった―――キーストーンゲートで、アスタルテを壊さなかったように。

 と、今度は黒妖犬がこちらへ向けて意外そうに首を傾げさせた。

 

「何だ? アスタルテは、こいつを止め(たすけ)たかったんじゃないのか?」

 

 言われてみれば、そうなのかもしれない。

 この『人形師』については何の感情も浮かばないが、スワニルダには同情ができた。

 アスタルテは静かに黒妖犬へと会釈した。

 

「感謝します、黒妖犬―――」

「むぅ!」

 

 感情を表に出すことができない人工生命体の、精一杯の感謝の表現だったのだが、思いっきり不満そうに睨まれる。

 

「だから、黒妖犬(ヘルハウンド)はやめてくれって言ってるだろー! まったく、アスタルテはそんなことも命令しないとダメなのか?」

 

 なんだか拗ねたようにそう口をされる。

 

命令拒否(ディナイ)

 

 咄嗟にその言葉がアスタルテの口から飛び出す。

 人間から命令が与えられなければ何もできない人工生命体に、彼が言ってくれたあの言葉は不思議と記憶に残る。

 あれはきっと、嬉しかったのだ。

 でも、

 

「ぬぅ、それはオレの命令は効きたくないってことなのか?」

 

「一部肯定。

 命令で決定されてしまえば、それは私が考えたものとは言えません。

 もう少し、時間をください。……命令ではなく、私の意思で決めたい。非合理的ですが、なるべく早く答えを出しますので……

 ……待って、もらえないでしょうか?」

 

 最初の一言にがっくりと消沈したクロウであったが、たどたどしくも続いたその語りで、顔を上げて、

 

「いいぞ。よくわからないけど、なんだかとってもいいと思う」

 

 

 

 それから、一日が経って、南宮クロウはようやくアスタルテより『先輩』と呼ばれるようになった。

 

 

彩海学園

 

 

 『人形師』ザカリー=多島=アンドレイド及び『絡新婦』スワニルダは、依頼を受けた<空隙の魔女>に捕縛され、絃神島管理公社へ引き渡される。その際、『人形師』は精気枯渇状態であり、またその所有者(にんげん)に斬りかかった『絡新婦』も精神状態が危ぶんでいると見なされ、MARへと搬送されることとなった。

 今回の捕縛の際の戦闘で、『眷獣共生型人工生命体の情報』が研究所の倒壊に物理的に破損となってしまい、また作成者である『人形師』が人工生命体と機械人形を見るたびに錯乱する人形恐怖症(トラウマ)がかかってしまったため技術情報の抜き出しが困難。

 予測以上に精神状態が安定している機械化人工生命体スワニルダより、治療を進めながら、『人形師』の技術が解析されているという。研究が進めば、いずれは融合した略奪式人工生命体ナタナエルを分離させ、元の体に戻るであろう。

 

 そして、失敗した眷獣共生型人工生命体の先行作たち。解剖すれば何かしらの情報が入手できた亡骸もまた戦闘に巻き込まれて消失した、と―――

 

 

 

「お。古城君、元気になったのか?」

 

 監視役の後輩の姫柊雪菜に看病され、同級生の親友の藍羽浅葱や矢瀬基樹らの見舞いであわや下級生の女子を自宅に連れ込んでいるところを目撃されそうになったりと色々と大変であったが、翌日に吸血鬼風邪を克服した<第四真祖>暁古城。

 昼休み、なんとなく外の空気を吸おうと教室を出ると、中庭の花壇で花弄りをしていた後輩のクロウに声を掛けられた。

 

「クロウか」

 

「学校来れてるけど、大丈夫なのか?」

 

「ああ、問題ない。悪いな、何か心配掛けちまって」

 

 体調は、もう悪くない。熱もないし、喉の痛みも感じない。ただ、眠っている間に何かがあったようで。目覚めた時、意味深に顔を赤らめていた雪菜……それで、『病気で学校を休んでいた兄が、自宅で自身の同級生に手を出した』と妹の凪沙に誤解されてしまったが。

 とにかく、今は元気である。

 

「う。見舞いに行けなくてゴメンな古城君」

 

「いや、仕事があったんだろ。別に無理して……そういや、浅葱たちが渡してくれたけど、薬ありがとな。あれ飲んだらすぐ眠っちまったけど、目覚めたら気分が楽になってた。一体、なんなんだあれ?」

 

「これだぞ。『冬虫夏草(コルジセブス)』なのだ」

 

 クロウが指差すは、ちょうど水をあげていた花壇のつつましやかに咲いてる白い花。

 その数枚の花弁を垂らす花に―――古城は、ぞくりとした美しさを覚えた。

 まるでその白さは、骨のよう。

 

「大陸系の漢方薬にも使われてるヤツだぞ。ご主人からも魔女のお薬を作るときにもすっごく重宝されてるのだ」

 

「そうなのか……あれ? たしか冬虫夏草って、キノコじゃなかったか? なんかこれ花が咲いてるけど……」

 

 冬虫夏草は、古城も聞いたことがある。

 しかし、あれは昆虫とかに寄生して育つ、300種類以上のキノコの総称であったはず。

 

「これは、オレが咲かせた特異品種(ヤツ)だからな」

 

「クロウが咲かせた……?」

 

 通常の冬虫夏草は、寄生した昆虫が死ぬか、蛹になってから発芽する。

 しかし、これは、違う。自然物に“匂い”をつける超能力と、死者の念を蘇生させる死霊術の混成技法によって発芽する。動物にして植物。胞子にして種。そして、死んで生まれる。あらざる花を咲かせ、あらざる栄養を吸い上げる魔なる花。

 

「この『冬虫夏草』は、残り香――死んだ奴らの念が花になったものなのだ」

 

「記憶が……」

 

「命のエネルギーってのは記憶なのだ。『固有堆積時間』ってご主人が言ってたな。でも、肉体が死んでもそれが残ってるケースもあるぞ。オレは、その記憶と言う生命力を花の形にして咲かせてみせることもできるのだ」

 

 つまり、死んだ者の記憶を吸って咲かせた花。故に白と言う死の色でそれは咲くのか。しかしながら、古城はその話を聞いて、気味悪がる気は不思議と起きない。

 死霊術なんていう、屍を操る不道徳で不気味な術の才能がある後輩は、命を無碍には扱わないことを古城は知っている。

 

「うー、昔にご主人から皆のお墓に花くらい手向けろっていうからそうしようとしたら、偶然、それが『冬虫夏草(はな)』になったのだ」

 

「花咲爺さんかよ。っつか、大丈夫なのかそれ」

 

「う。おかげで、花の香りを嗅いでると皆のことがよく思い出せたし。災い転じて、福と為すってヤツだな。枯れちまっても、それをご主人が魔女術(ウィッチ・クラフト)で薬にしてくれたのだ」

 

 その土地に眠っている骸を持ち運ぶことはできないが、記憶から咲いた花なら持っていける。遺骨遺灰から炭素を抽出し、それをダイヤモンドにする技術があるというが、それと同じだろう。

 と、それで、この世界でも混成能力で生る特異な『冬虫夏草』は、呪物の材料としては極めて貴重である。うちのMAR医療部門に勤めている母の深森には垂涎ものに違いない。そして、なによりも家族の形見。

 それを古城は、知らず特に気にせず頂いた薬を呑んで……

 

「……なあ、クロウ。その『冬虫夏草』って売ったらどれくらいするんだ?」

 

「ん? 確か、前にご主人が、kgあたり数百万で売れるって言ってたぞ。薬にしたら万病に効いて、あと精力がものすごくつくみたいだから、死人にやったら蘇りかねない秘薬だってなー」

 

 死者の残留思念を肥料とした咲かせた花と聴いた時は平気だったというのに、金銭的な話になると一気に血の気が引いてきた。それに見合うだけの効果があるのだが、つい先日に港を眷獣の暴走で破壊し、正当防衛が実証されなければ多額の借金を負うことになっていた古城に、これほどに高額な貢物は心にどしんと重くくる。

 そんなものをポンと気軽に人にあげてんじゃない! とツッコミたくもなるのだが、それを飲んでしまい、そのおかげで吸血鬼風邪が改善した古城の言えることではないだろう。

 

「……クロウ、今度なんかメシ奢ってやる」

 

「いきなりだけど、いいのか古城君!」

 

「ああ、腹いっぱい食え」

 

「おおー、何か太っ腹だな!」

 

 それはこっちの台詞だというのを古城は飲み込んだ。

 この病気に罹ったことがない健康優良児に『冬虫夏草の秘薬』の価値はわからないのだろうし、気にしない。後輩にしてみれば、薬は副産物でできてしまったものだ。主人の魔女が見かねて、再利用したともいえる。彼はあくまでその残り香を懐かしむために花を咲かせたのだから、薬の方は人にあげても構わないのだろう。

 

「今度また風邪引いたら教えてくれ。また薬を届けるぞ。でも、今咲いてる新しいのは、アスタルテから許可を取らんとダメなのだ」

 

「いや、あんまり世話にならんようにするからな」

 

 風邪はやはり罹らないように予防するのが大事だと。

 吸血鬼風邪にかかった不老不死の<第四真祖>は健康に気を遣うようになった。

 

 

 

つづく

 

 

 

彩海学園

 

 

 『伝説のフェンス』

 それはこの彩海学園の七不思議のひとつにして、都市伝説。

 伝説の武器や防具などではなく、たかがフェンスに伝説もへったくれもないだろうと思われるが、女子の間ではここ最近、有名なっている話だ。

 

 校舎の裏庭にある、小さな建物。変電室か倉庫のようなその四角い小屋は、校内に電力を供給するための、受容電設備が入っている。そこは立ち入り禁止で、周りをフェンスで囲ってある。

 ―――そのフェンスの隙間にラブレターをお供えすると恋が成就するのだ。

 

 普段あまり人通りのない裏庭の変電室前のフェンスには、よくゴミなどが挟まれていたりする。近くのゴミ箱がいっぱいだった時に、捨てられなかった空き缶などをフェンスにねじりこんでいく生徒がいるらしい。ある意味、フェンスそのものがゴミ捨て場扱いされているのである。そんなところにラブレターを突っ込んで、恋愛が上手くいくのだろうか(ジンクスにしても場が悪すぎる)。

 

 しかし、それを覆すだけの実証例が出てるのだ。

 

 彩海学園高等部魔族研究会に所属する二年のイマイ女子。

 夏休み明けに、サッカー部二年生のコサカ男子に告白しようとして、ラブレターだけでなく、手編みのマフラーも用意。(この平均気温は真冬でも20度を超える絃神島でそれはむしろ嫌がらせではないかと話を聴けば思うものもいるだろうが、とにかく)イマイ女子は真剣であった。

 だが、彼女は見てしまった。憧れのコサカ男子が他の女子と仲良く歩いているのを。

 そうして、イマイ女子は告白できないままマフラーを捨ててしまう。そう、裏庭変電室のフェンスに。ゴミ箱がいっぱいだったので、フェンスに引っかけたそうで(不法投棄)―――

 

 そしたら、その数日後、何とコサカ男子のほうから、イマイ女子に突然告白して、二人は付き合うことになったという……

 どうやら、以前、仲良く歩いていた女子と言うのはコサカ男子の妹であるらしい。そのマフラーに意味があるかどうかは謎であるが、実際に上手くいったカップルがいるという事実は、おまじない、の信憑性を高めるには効果的である。

 

 そんなわけで、彩海学園ではそのフェンスに神社のおみくじのようにラブレターを結びつけるのが流行っている。

 『意中の相手の方から、高確率で告白される(無論、効果には個人差があります)らしい』と女子の間で広まっている噂話。

 

「そういうわけだから、浅葱もちょっと『伝説のフェンス』を試してみたら?」

 

 長々と先輩から聞いた実証例を語ってくれたのは、魔族研究会に所属する一年生の築島倫。悪戯っぽく微笑みかけながら、こちらの顔を覗き込んできたお倫に、話の途中途中でツッコミを入れていた藍羽浅葱は、ハッ、と鼻で笑って、

 

「冗談でしょ。なんであたしが古城に手紙なんか書いてやんなきゃいけないのよ」

 

「あれ? あたしは浅葱の意中の相手が暁君だなんて、一言も言ってないんだけどなー?」

 

 うぐっ、と声を詰まらせる浅葱。すっとぼけた表情で訊き返してきた倫へ、努めて冷静に指摘する。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい。さっきのイマイ先輩の話って、夏休み明けの出来事だったんでしょ。まだ何週間も経ってないじゃない。なのになんでもう伝説になってるのよ?」

 

「ああ、それは、ほら……あのフェンス、受変電設備の隣にあるから、“電設のフェンス”、なんて」

 

 くっだらない。

 親父ギャクかと叫ぶ気力も萎えるほど。

 

「真面目に聞いて損したわ……まあ、いいけどさ。最初から、そんなオカルト信じてないし」

 

「浅葱は頭が固いなぁ。『魔族特区』の住人のくせに」

 

「『魔族特区』の住人だからよ。誰かが催眠系の呪術を仕掛けたっていうのならまだしも、何の理論的な裏付けもない縁結びのフェンスなんて信用できないわ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「手紙……ね」

 

 放課後。

 校庭の植木花壇の向こう側、フェンスに覆われたプールの裏にある、裏庭の変電室の周囲に張り巡らされた、安っぽい金属製のフェンス――『伝説のフェンス』の前に立つ浅葱。

 浅葱と古城はこの彩海学園中等部からの長い付き合いだ。あの男に何かを伝えるのに、今更、手紙なんて回りくどい方法を選択するなどあり得ない。

 ……とはいえ、男子の方から告白してくると言う『伝説のフェンス』の効能(ジンクス)は、正直、魅力的であった。

 

「そりゃまあ、あたしとしても、古城の方から告白してくるなら、話を聞いてあげなくもないけどさ」

 

 ちょうど先客がいたらしく、そのフェンスには淡いピンク色の封筒とマフラーがある。浅葱も手紙はすぐに用意できるが、流石にマフラーは―――いや、今回はあくまで様子見。

 そう、『魔族特区』育ちとして、何の実証もないオカルトは看過できない。それだけ。

 

「―――えっ!?」

 

 と、自分に言い訳を言い聞かせていると―――フェンスの前に影が過った。

 目の錯覚ではない。その無人であるはずの変電室の中から、小柄な人影が現れたのだ。黒っぽいドレスを着た美しい少女だ。作り物めいた白い肌と、藍色の髪。左右対称の人工的な美貌。どことなく現実離れした、幻想的な佇まい。

 ―――あの雰囲気は……人工生命体(ホムンクルス)

 

 浅葱は困惑しながらも目を凝らすと、人工生命体の少女は、フェンスに挟まっていた手紙とマフラーを取り上げていた。

 

「……ど、どういうこと!? まさかあの娘と『伝説のフェンス』に何か関係が……!?」

 

 流石に興味を惹かれた浅葱が、隠れていたことも忘れて、身を乗り出す―――その瞬間、手紙を回収していた人工生命体は、ぐるり、と首を巡らせた。感情のない大きな青い瞳が、浅葱を見る。

 

「あ……」

 

 見つめられ、見つめ返した浅葱は呆然と声を洩らした。そう、如雨露とシャベルを持った、この黒っぽいドレス――フリル塗れのメイド服を着た人工生命体の少女を、浅葱は知っている。ある場所で襲われそうになった相手だ。

 

「あなた……こないだ、ロタリンギアの殲教師と一緒にキーストーンゲートを襲ってきた……」

 

「肯定。眷獣共生型人工生命試験体、固有名『アスタルテ』と回答します」

 

 この抑揚に乏しい声音は、間違いない。

 ロタリンギア正教の殲教師によるキーストーンゲート襲撃事件で、殲教師ルードルフ=オイスタッハが、強固な魔術が何重にも施された防御隔壁を破るために使用したのは、人工眷獣を寄生させた試作型人工生命体アスタルテだ。

 ―――と、戸惑い固まる浅葱へ、人工生命体の少女は会釈して、

 

「遅ればせながら、謝罪します。先日のキーストーンゲート襲撃の際、危険な目に遭わせてしまったことを」

 

 機械的な口調で言うアスタルテに、硬直が解けた浅葱は首を横に振った。

 

「ああ、それはいいのよ。わかってるから」

 

「わかっている、とは?」

 

 人工生命体の少女に、そのあっさりとした浅葱の反応は意外であったのか。怪訝そうに問うてくるアスタルテに浅葱は、

 

「あなたは命令されてただけなんでしょ。それにオイスタッハさんだっけ……殲教師の人の言い分も、納得できない話じゃないしね」

 

 人工生命体が、管理者権限を持った人間の命令に逆らえないことを『魔族特区』育ちである浅葱は当然知っている。

 それに、オイスタッハと言う人物は、後に調べてみたところによると、西欧教会の敬虔な信者であり、魔族殲滅を主な任務とする殲教師として名高く、司教区では大勢の人間を救ったとして英雄視されていた。

 魔族に対しては冷酷であり、信仰の為ならば苛烈な手段を取るが、それでも理由がなければしない。普段は穏やかな性格の人格者と言われている。それ故、人情味の篤く、<要石>――西欧教会の『聖人の右腕』を供犠建材として利用されていたからこそ、その怒りは絶大であったのだ。

 

「感謝します、ミス―――」

「藍羽よ、藍羽浅葱。それよりも、えーと、アスタルテさん? あなたはなんでこんなところにいるわけ?」

 

 緊張が緩み、浅葱にも疑問を抱く程度の余裕が戻ってきた。

 キーストーンゲート襲撃の実行犯であるアスタルテの身柄は、人工島管理公社の厳重な管理下に置かれているはずである。どうしてそんな彼女は、彩海学園にいるのか?

 アスタルテはその事情を黙秘せず、淡々と回答を述べる。

 

「現在の私は南宮攻魔官の保護観察下にあります」

 

「南宮攻魔官、って那月ちゃんの事?」

 

 国家資格を持つ攻魔官であり、未成年を監督する教師である那月が、アスタルテの後見人を引き受けるのは、それなりに理にかなっている。そのメイドの服装も、担任の趣味だと思えばすんなり腑に落ちた。

 そして、キーストーン襲撃事件の処分の一環として、彼女は働いているのだと。それで、

 

「あの、その手紙は……」

 

 たった今回収し、エプロンに挟み込んでいる封筒とマフラー。そのピンクの封筒は、『伝説のフェンス』にお供えされていたものだ。

 浅葱意の指摘に、アスタルテは淡々と返答した。

 

「遺失物と推定します。受変電設備のフェンスに挟み込まれていたものを回収しました」

 

「どうするの、それ?」

 

「宛先が書かれているので、配達します」

 

「え……じゃあ、もしかして今までの手紙もあなたが届けてたの?」

 

「肯定。あの通路を日常的に通行するのは、私と先輩だけだと回答します。プール裏の倉庫に人工生命体用の調整槽を設置させてもらいましたので」

 

 校長室より上の最上階に執務室を構え、花壇とか生物室の薬品棚とかを私物化しているカリスマ教師のことだ。学園内に保護した人工生命体の体調管理のための設備を設置することくらいできるだろう。

 で、そうなると、『伝説のフェンス』というのは、ポスト代わり。供えられていたラブレターは、この人工生命体の少女によって本来の宛先に全て配達されていたことになるだろうか。

 

「イマイ先輩のマフラーも……?」

 

「肯定。その差出人は記憶にあります」

 

「あー……そう……そういうことね……」

 

 これ以上は抑え切れず、くすくすと浅葱は笑い出す。

 

 フェンスに突っ込まれたラブレターは、本来受け取るべき人物の手元に届いていた。そして、ラブレターを受け取った人物が、その差出人に交際を申し込むのは、特別おかしな話ではない。つまり、これが『ラブレターをお供えすると意中の相手が告白してくる』という『伝説のフェンス』のメカニズムだ。

 もちろん手紙を送った女子全員が上手くいったわけではないだろうが、所詮はおまじない。返事がなかったからと言って、女子たちが落ち込む理由とはならない。

 要するに、『伝説のフェンス』は、このアスタルテが恋のキューピッド役を務めていた。それだけの話。

 

「まさか『伝説のフェンス』が、そんなしょうもないオチだったなんて……」

 

 伝説の舞台裏が解明されて、思わず笑ってしまう浅葱。それに、きょとんと首を傾げる恋のキューピッド。

 少しだけ残念だが、それ以上にすっきりして清々しい。アスタルテにはいっさい悪気はなくて、実際、彼女の働きのおかげで幸せになったカップルもいるのだから、しばらくは謎のままにしておこうか。こういう七不思議ならあってもいい。凛にも内緒にしておこう。

 ひとしきり笑って、落ち着きを取り戻した浅葱。そこへ、浅葱はこの恋のキューピッドから、意外な相談を受ける。

 

 

「質問。これは一体どうやって編むものなのですか?」

 

 

港湾地区 倉庫街

 

 

 無味乾燥なプレハブ倉庫が延々と連なる倉庫街。

 不法入国魔族の武器取引。その現場へ突入する特区警備隊(アイランドガード)

 その取りこぼしを処理するのが、今日の仕事。そして―――教官主人抜きで初めて二人だけに任された任務である。

 

「先輩、これを―――」

 

 ん? と振り返る厚着の少年クロウ。

 そこへ、目の前で爪先立ちしたメイド服の少女アスタルテはそれを頭から被せ、首まで通した。

 

「何なのだ、アスタルテ?」

 

首巻(スヌード)です」

 

 首巻(スヌード)。マフラーの端をなくしドーナツっぽく輪っかにした形状の防寒具。

 “犬の耳カバー”なんて呼ばれていたりするファッションアイテムでもあり、

 少年はそれを自身の首に巻いている枷のような『首輪』を隠すために付けている。

 けれど、最前線で戦闘する彼に衣服の損耗は激しく、前回の『人形師』の捕縛でも首巻を破ってしまっていた。

 

「以前、先輩の首巻を破損させた弁償です」

 

「そうか? じゃあ、もらうぞ」

 

「教官より『匂消し』の呪は施し済み、と捕捉します」

 

「ん。ありがとな、大事にするのだアスタルテ」

 

 結構大判で、『首輪』を隠すどころか、伸ばせばケープっぽく使えそうなくらい。

 

「ん? んんー? ……こうか? 違うな……こんな感じ?」

 

「先輩」

 

 クロウがダラリと下がってしまってる首巻をどうにかいつもの感じにしようと四苦八苦していると、またアスタルテが爪先立ちで前に立って、布を手に取り、ぐるぐると巻いて8の字状に。それから軽く梳かすように細い指先で布を叩いて微調節。

 アスタルテはよく理解できなかったが、男性相手に贈るのなら絶対に長い方が良いと。巻くのに手古摺ってるのを手伝うのがポイント高いのだと、首巻作成に手伝ってくれたセンスのいい心が乙女な女子高生は語る。

 

「う。いい感じだぞ」

 

 ちょうどいい感覚に整えられて、ふんすとご満悦なクロウに、一歩下がったアスタルテが、エプロンドレスのポケットに手を入れて、

 

「ご武運を」

 

 カチッカチッと取り出した火打ち石を鳴らす。なんとも古風な縁起担ぎで、それに厄除けがあるとか理解できていない、はたから見ればままごとのようなやり取りであるが、それでもその行為に先輩への気遣いをクロウは感じ取る。これは無感情な人工生命体なりの不器用な感情表現の仕方なのだろう。

 その後輩から向けられた期待に応えるよう、胸を張り、力強く、大きく頷いて、

 

「よし。じゃあ、先輩の後についてくるのだ」

 

命令受託(アクセプト)―――」

 

 

 

つづく




生存したキャラもいますし、ここは彼らを加えて、暗部組織を作り、再登場させるべきでしょうか……

過適応者の覗き屋 矢瀬基樹

蒼の魔女 仙都木優麻

半人半金の錬金術師 天塚汞

機械化人工生命体 スワニルダ

なんていう感じで。


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彩昂祭 昼の部

たぶん「波朧院フェスタ」後の原作とは少し時期がずれてますが、「課外授業」の後、第五章と第六章の間です。


彩海学園

 

 

 彩昂祭 一日目

 

 

 猪八戒。

 『西遊記』に登場する豚の半人半獣のキャラクター。

 本名は猪悟能であり、八戒とは、大陸系の呪教で忌み嫌われた八つの食材への食事制限を守ったことから付けられた渾名である。

 翠蘭という金持ちの末娘と夫婦の契りを結ぶのだが、“どうしようもない大食らい”であった猪八戒。それゆえ、その父親から、ちょうど旅をしていた三蔵法師と孫悟空にその婿養子の退治を頼まれた。

 それが、三蔵法師との出会いであり、それから猪八戒も一行に加わるのである。

 

 

 ―――ぎぎぎぃィんンッ!

 

 

 激しく鳴る衝突音。

 学生たちのものとは思えないド迫力に、観客は息を呑む。

 もはや殺人的な速度で迫る豚鼻をつけたカンフースタイルな道士服の“青年”の竹製の熊手を、ミニスカートのチャイナドレスの少女がモップの柄で巧みに衝撃を殺し完全に無効化した。身体能力では青年。武器を操る技術では少女が。この二人―――おそらく、現状での戦闘力はほぼ互角だった。中等部が誇る男女それぞれの最強が一触即発に睨み合う。

 そのままの姿勢で、互いに小声で確認を取り合う。

 

「(……なあ、姫柊、これって演劇なんだよな?)」

 

「(ええ、そうですよ、クロウ君)」

 

「(どうして、マジで戦ってるんだオレたち)」

 

「(知りませんよ!)」

 

 少女がモップに力を篭める。その迫力に押され、青年の上履きが舞台の床を磨り滑る。ぎりぎりぎり。少年の熊手と少女のモップが軋みを上げる。たかが掃除用具のぶつかり合いとは思えぬ威圧に体育館の壁が露骨に震撼した。

 

 二人の争いが、メインではない。

 あくまでメインは演劇の物語『西遊記』。

 猪八戒が孫悟空にやられて、三蔵法師の弟子となるシーンなのだ。

 だから、猪八戒役の青年が、孫悟空役の少女にやられればいい。それが予定調和。

 ……なのだが、

 

 

旦那様(マスター)、私を捨てないでください」

 

 

 と猪八戒役の青年の背後で、祈るように両手を組むポーズをとるなぜかメイド服な、翠蘭役の少女。その手に物件の所有権を主張するかのように、青年のつけてる首輪と繋がったぶっとい鎖をか細い指が握ってるが……

 

「(だいたい、どうして、クロウ君が鎖に繋がっちゃってるんですか!)」

 

「(う。『魔導書の影響を受けてる先輩のために』ってアスタルテなりのフォローなんだと思うけど、正直言ってちょっと窮屈だなこれ)」

 

 確か、翠爛(よめ)を監禁していたのは猪八戒の方だったのでは……?

 

 頭痛に加えて、眩暈までしてくるくらいに症状が悪化。

 時々、いや、ここ最近は結構な頻度で思うことだが、彼が自分の頭を悩ますことを、ひょっとしたらわざとやってるんじゃないだろうか? と疑うことも多々ある。

 

(いえ、そんな考えは全っ然ないことはわかってるんですけど、だから困りものというか)

 

 太さ1cmほどのO字型の金属環を連鎖式に繋いだ10mはありそうな長鎖拘束具(チェーン)……見るからに重そうなのに人工生命体の少女も、繋がれた青年も特に無理をしている様子はないようだ。というか、その鎖は風にたなびくリボンのように、チャラチャラと擦り音を立てて空中に浮かんでたりする。ほんのりと魔力の光が灯ってるし、やはりこれは主人である魔女ご自慢の神々が打ち鍛えた代物ではなかろうか。なんかもう頭の痛い光景であるも、繋いだ方も繋がれた方も、納得はしてるみたいだし。

 ―――いろいろと思うことはあるけれど、とりあえずそこから視線を外して、

 その健気な声援に、『あれ? 『西遊記』ってこんな話?』とか『なんかこれじゃあ三蔵一行が無理やり夫婦を引き裂こうとしてるように見えるような』とか首をかしげる者たちが続出している。

 猪八戒が(やられ)役でいいのか、と予定調和が揺らぎかけており、それに舞台上の二人も演劇進行に惑っているわけなのだが、

 

 

「悟空ちゃん、は・や・く、八戒君を倒してね」

 

 

 と孫悟空役の少女の背後から、猪八戒役の青年を睨んで、いろいろと籠ったセリフを送る三蔵法師役の少女。

 その表情は、まさに菩薩の微笑。……こめかみに張り付くように浮き上がる、おおきな×。ちなみに笑みというのは野獣が牙を剥く表情から発展したものという説があったりなかったり。

 体育館内の温度が、1、2度ほど下がったような、この常夏の島ではありがたい冷房いらずの、凍てつく波動のようなプレッシャー。

 負けられない。と言うか、早く決着付けないと氷河期に突入する予感すらする。今のところ大盛り上がりで観客らを飽きさせていないが、とっととこの猪八戒を三蔵法師の弟子(もの)にさせないと、物語も進まない。

 

「(次で決めます)」

「(う。了解だぞ)」

 

 危機感を共有した二人はアイコンタクトを交わすと、青年の熊手を少女はモップがかち合上げ、青年は大げさなまでに懐を露わにする。

 

「ぶひーっ! しまったきーっ!?」

 

「今じゃ、トドメさせちゃるきっ!」

 

 色んな鬱憤が篭められ、若干強めに、モップを胴に打ち込もうとして―――

 

「旦那様に危害を加えさせません」

 

 ぐへっ!? と首輪に繋がった鎖を“半透明の腕のようなもの”が引いて、後逸。間一髪で攻撃を回避、してしまった。しかも空振った勢い余って、すっころぶ少女。スカートが捲れ上がり、スパッツを穿いていたものの臀部(おしり)があらわに晒す。

 

 そのとき、この日、一番の熱狂的な歓声が上がった―――同時に、舞台上の温度は氷点下に入った。

 三蔵法師だけでなく、プルプルと微動する孫悟空もまた冷気のような覇気を放って……

 

「(クロウ君っ! どうして避けるんですかっ!)」

「(今のオレのせいじゃないぞ姫柊!?)」

 

 どうしてこうなった?

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 彩昂祭 前日。

 

 

 薄刃の歯車をでたらめな勢いで駆動させるような噪音が、蒼く引き締まった空に響き渡ってはさんばらと校庭に振り落ちる。

 そのギザギザした音色は、体育館の放送室で練習に励む軽音楽部のものだろう。つい先ほどまでは、ブラスバンドの力強い音色がオーロラのように校舎上空を席巻していたものの、ミーティングに入ったのか、今はただ音楽室の方角から遠い嵐に似た動的な質量だけが届けられていた。

 そのほかにも無数、殺気のような活気が放課後の校舎の至る所に満ちている。

 

 『彩昂祭』。

 

 島全体で行われた『波朧院フェスタ』とは違う、彩海学園の全生徒が催すもうひとつの祭典―――つまりは、学園祭。

 規模も学園内で、資金もさほどかけたりはしないのに、毎年異常に盛り上がることで知られる彩海学園の学園祭は、娯楽の乏しい人工島で暮らす生徒たちにとっては、数少ない非日常な行事。

 溜りに溜まった鬱憤的なエネルギーを発散する、絶好の機会である。

 正規の開催期間は二日間であるものの、事前の準備やら後片付けやらで授業のほとんどが休みとなるため、実質的には1週間近くが学園祭期間となっている。

 そして今日は祭り開催の前日。彩海学園の校舎は華やかな飾りつけを終えており、敷地内のあちこちで前夜祭的なイベントが始まっている。生徒会有志のチャリティバザーなどはすでに出店してたり。

 が、中には準備が遅れて最後の追い込みに駆り出される生徒も少なくなく、たとえば……

 

「どう、浅葱実行委員、使えそう?」

 

「そんなわけないでしょ。なによこれ、無茶苦茶じゃないの。こんなOSでこれだけの筐体を動かそうなんて―――」

 

「贅沢言うなって。廃棄予定だった試作機をタダ同然で借りてきてやったんだから」

 

 VRMMO――『|仮想現実大規模多人数《バーチャルリアリティ・マッシブリーマルチプレイヤー》お化け屋敷』を企画している高等部一年B組はその渦中にある。

 なにせ最先端のバーチャルリアリティシステムと『魔族特区』で開発された幻術の融合によって、かつてないリアルな恐怖体験を生み出す体験型ホーンテッドハウス。その中核を担うシステムである幻術サーバーは、とある企業で研究されていた実験機を、島の中枢を運営する実家のコネを使って、無理矢理に借り出したものなのだが、

 イベント用のアミューズメント装置とは言え高度な魔導化学製品。

 本来ならば一介の高校生に使いこなせる代物ではなく、それどころかこの筐体は、開発企業の技術者たちですら実用化を断念した未完成品なのである。

 

「これじゃ最初からカーネルを作り直した方が早いわね。モグワイ、ちょっと手を貸して」

 

『やれやれ、仕方ねーな……ったく、バーチャルリアリティを使ったお化け屋敷なんて、このご時世には子供だましが過ぎるんじゃねぇか?』

 

「文化祭の出し物なんだから、これくらいでちょうどいいのよ……はい、これで再起動、と」

 

 とはいえ、それを即興でプログラムを組んでどうにかしてしまえる、異名持ちの凄腕ハッカーのおかげでどうにか形になりそうではある。

 

 

 一方で、準備を三日前に完了されたクラスもいる。中等部三年C組。先日の宿泊研修が台無しとなった分だけ余裕と鬱憤があってか、怒涛の勢いで演劇の準備を終わらせた。中等部の姫を主役に抜擢して、まるで実戦のような素晴らしいアクションを魅せるとリハーサルを監修した、武術研究会の顧問を務めている担任より太鼓判が押されている。

 そんなわけで、体育館舞台の使用権が回ってくるまでは、実行委員の相方認定される高等部男子生徒が雑用を押しつけられるのを見かねて、監視役の女子生徒がそれを手伝ったり、

 ―――主人からの連絡で、番犬が校舎内に侵入しようとした魔女姉妹を捕まえたりする余裕があったりした。

 

 

 

 人工島北地区(アイランド・ノース)の最下層。魔導犯罪者を収容するための特殊拘置所。

 ここは、機械人形作成や人工生命体調整に優れた腕を持つ『人形師』ザカリー=多島=アンドレイドや魔導技術が盛んな北欧の宮廷魔導技師の『賢者』叶瀬賢生などと、“犯罪者であっても眠らせるには惜しい”技術を持った人物を管理公社が預かったり、

 または檻に入れておくだけで十分な魔導犯罪者を入れる施設。

 ここの特殊拘置所より出られるほどの実力者であれば、“異空間の監獄”に放り込まれる寸法だ。

 拘束具だけでなく、魔術を妨害(ジャミング)する結界が張られており、魔術展開はほぼ不可能。また音響、感圧、赤外線などの電子的センサーもあり、自力での脱出は無理……

 

 そこから、<守護者>を失った魔女姉妹が、あまつさえ管理公社で保管していたある事件の“証拠品の一部”を持ち出して逃亡した。

 一切痕跡を残さず脱獄させた外部からの協力者は不明で、魔術を使えなければただの人間も同然の魔女が、どうして証拠品の在り処まで知り得たのかも不明。

 とはいえ、その証拠品を持ち出した魔女姉妹の目的は明らかだ。

 復讐。

 ある事件――『波朧院フェスタ』で起こった『闇誓書事件』で自分たちを捕まえたものたちへ―――

 

 

 

「「げ、げぇっ!?!? 黒妖犬(ヘルハウンド)!?!?」」

 

 

 

 彩海学園へやってきたところを待ち構えられた。

 

「なんだ。オマエたちが、脱獄してきた奴らなのか」

 

 クラスでやる演劇の宣伝用広告チラシを手にした少年が、呆れ顔でそれを見る。

 いつもの厚着ではなく、大きめのぶかぶかな道士服を着る南宮クロウの前にいる人影がふたつ。

 一人は赤い装束をまとった女、異国の踊り子のような露出度の高い衣装。魔術師のローブを連想させる長い頭巾と言い、全てが血のような緋色で統一されている。

 もう一人は漆黒の女、鍔広の三角帽子と闇色のマント、そしてボンテージ衣装のような黒革のライダースーツで、全身を隈なく覆っている。

 ……ただ、この脱獄犯ふたりとも顔面は真っ青である。

 

「た、助けて、お姉様……!」

「お、おね……お願いよ、<黒妖犬>! 私たちはあなたに復讐する気なんか……」

 

 抱き合う二人。この緋色と漆黒の魔女姉妹は、<図書館>第一類『哲学(フィロソフィ)』所属のエマ=メイヤーとオクタヴィア=メイヤー、組織屈指の武闘派と恐れられたメイヤー姉妹。

 彼女たちが胸に抱くのは、『闇誓書事件』の証拠品――<図書館>の『総記(ジェネラル)』だけが閲覧を許された禁断の書物『No.014』。かつて、主人を幼児化させて一時無力化にした『固有堆積時間操作』の魔導書だ。<守護者>と魔女の力を失くしたとはいえ、十分脅威な魔導書を有している。

 

「……そういえば、オマエらに借りを清算してなかったっけ? 20発くらい?」

 

「「ひぃぃぃっ!?!?」」

 

 であっても、自分たちを容赦なくぶん殴り、また<亜堕魂>しても叩きのめされた恐怖(トラウマ)は、拭えるものではないらしく、<黒妖犬>を前にしただけで魔女姉妹は腰を抜かしてしまっている。

 

「お、お姉様……無理よ……<黒妖犬>に襲われたら、一発で死ぬわ……」

「ま……待って、魔導書を渡すわ! 渡すから、許して!」

 

 ……主人とは違って他人をいたぶる趣味もないし、そのつもりはないのに、何だかいじめてるみたいで、萎えるクロウ。

 がっくりと肩と一緒に溜息も落として、

 

「なあ、オマエら、ご主人も気になってたけど、どうやって拘置所から出たのだ? 独房の結界とか電子ロックとかどうやって破ったのだ? しかも重要証拠品なんて持ち逃げして……どこかに協力者とかいるのか?」

 

「そ、そんなもの知りませんわ。私たちが気づいた時には、鍵が開いてましたの。魔術の妨害装置も止まっていましたし。ねえ、お姉様」

「ええ、そうね。『No,014』の保管場所と王女がこの彩海学園に来ると、拘置所のスピーカーから声が……そう、妙な笑い方をする声でしたわ。ガガッとかギギッとか、お下品な……」

 

 ……二人は、ウソを吐いている“匂い”はしない。

 本当に、脱獄の手助けをしてくれた人物の心当たりがないらしい。

 まあ、なんにしても、そのあたりは特区警備隊が調べることだろう。

 

「クロウ君、そろそろ体育館も空くから、リハーサルするよ」

 

 とりあえずこいつらを捕まえるか、とクロウがメイヤー姉妹に迫ろうとした時、誰かが声をかけてきた。それは僧侶の袈裟を着たクラスメイトの暁凪沙。役者のひとりであるクロウへ体育館がもうすぐ空くと報告しに来たのだろう―――と、

 

「ちゃ、チャンスよ!」

「お姉様!?」

 

 魔女姉妹の片割れが動いた。ここで<黒妖犬>に捕まり、刑務所へとんぼ返りするなど真っ平御免。それに、まだ復讐する北欧の第一王女の顔すら拝めていない。

 暁凪沙。<第四真祖>の妹であって、この<黒妖犬>の抑えとなるもの。それで前回は人質に取ったのだ。だから、今回も―――

 

 

「―――凪沙ちゃんこっちに来るな!」

「え―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 彩昂祭 一日目。

 

 

「お……終わった……」

 

 教室の片隅でぐったりと床に突っ伏する暁古城。

 昨日は、大変だった。

 出し物の根幹を担うサーバーの設置は学園一の才女におまかせであったが、教室の飾りつけやら衣装の製作やら、肝心のお化け屋敷の準備が遅れに遅れ、結局、昨夜は学校に泊まりこんで徹夜で作業する羽目になったのだ。

 『彩昂祭』は、クラス企画だけでなく、部活や有志による出し物も多いため、クラスメイトの半分ほどは出払っており、人手も少ない。

 そんなわけで古城は余裕で軽トラック一台分くらいにはなりそうな、どう考えても一人で運べる量ではない買い出しへと行かされることになった。それを見かねた監視役の姫柊雪菜にも手伝ってもらい、またその帰り道に“ちょうどよく”店の前に停車していた高級リムジンに乗せてもらった。

 古城の知り合いの中で、国賓か大富豪でもなければ、一生乗ることのなさそうな黒塗りの高級リムジンを気安く学祭の荷物運びにしてくれる人物などひとりしかいない。

 

『来賓として国際会議に出席したついでに、休暇を兼ねて立ち寄ったのです古城。彩海学園のスクールフェスティバルのことは、ユスティナの報告書にありましたから』

 

 日本語に堪能な美貌の姫君。この前も、王族両親と一緒に絃神島で『戦王領域』との停戦条約の更改をした、北欧アルディギア王国の正当な王女――ラ=フォリア=リハヴァイン。

 心優しく(たまに腹黒く感じたりするが)聡明で(頭が良過ぎて何を考えてるのかよくわからない)、国民からの絶大な人気を誇るという、絵に描いたようなお姫様(プリンセス)

 こんな世界的な有名人が、ごく普通な学校の文化祭に紛れ込んだらパニックになるだろう、と古城は言ったのだが、

 

『お祭りの期間中、生徒の関係者は自由に学園に出入りできるとパンフレットに書かれていましたが?』

 

 色々とややこしい事情があって、ラ=フォリアは血縁上、彩海学園中等部の叶瀬夏音の姪と言う立場にある。それも夏音は前国王の隠し子から正式に王族と認められたばかりだ。つまるところ、彼女はれっきとした生徒の関係者。

 素性に気づかれないよう、きちんと変装していく、と自信気にラ=フォリアは言ってくれたが、古城には悪い予感しかしない。なにしろ『美の女神(フレイヤ)の再来』とも讃えられる美貌の持ち主に、ちょっとやそっとの変装でその輝きを誤魔化すことができるのか。

 で、問題人物は王女だけでなく、その護衛役に抜擢された……

 

『雪菜! 明日の学園祭で、主役で劇をやるんでしょ!』

 

『さ、紗矢華さんどうしてそれを……!?』

 

『師家様から聞いたわ。師家様は南宮クロウから聞いたって』

 

『クロウ君!?!?』

 

『もう、暁古城、どうしてそんな大事なことをもっと早く教えてくれなかったのよ!? ああもう、席の予約が間に合わなかったらどうしてくれるのよ! それにこっちにだって、準備が……まず、カメラを買わなきゃ……いえ、ここはプロのカメラマンを雇うべき!?』

 

 かつての『高神の社』で訓練生時代のルームメイトで雪菜のことを溺愛している獅子王機関の舞威姫こと煌坂紗矢華。

 身内バレをしないよう必死に、雪菜は古城に紗矢華へ劇の情報を流出するなと厳重に口止めされていたわけだが、どうやら後輩がやってしまったらしい。

 しかも、この王女護衛の任務(しごと)はまさに渡りに船なのだろう。明日は諦めるしかない。

 

 そして、高級リムジンに送られ、学校に到着した時……

 

『―――古城君! クロウ君、クロウ君が!?』

 

 

 

「こら! なにサボってんの、寝るなっ!」

 

 疲労感に身を委ねながら、前日の回想に浸っていると古城は、彩昂祭実行委員として準備を取り仕切っていた浅葱に乱暴に叩き起こされた。

 

「なんだよ……! 客なんか、まだ誰も来てないだろ」

 

 叩かれた頭をさすりながら、小声で反論する古城。

 時刻は間もなく午前10時。学園祭の開場時刻ギリギリだ。

 

「だから、お客さんを集めて来いって言ってるのよ。はい、これ。看板と被り物」

 

 そういって浅葱は古城に客引き用の小道具が押しつけられる。

 彼女はすでに古風のセーラー服を着て、黒髪ロングのウィッグを被り、額にべったりと血糊を塗り付けていて、幽霊役の準備が気合い万端で整っている。その特殊メイクに、古城は抗議する気が一気に失せた。頭でわかっていても、血塗れの女子に仁王立ちで睨まれるのはかなり怖い。

 

「あたしだって幻術サーバーの調節で、昨日は一睡もしてないんだからね!」

 

 とにかく人手が足りない。この段ボール一杯のチラシを捌いてきなさい。それまで自由時間はないから。と古城は絶望の溜息を吐く。

 その時、彼らの背後で教室のドアが開いた。生徒ではない誰かが中を覗きこんでくる気配を察し、浅葱が営業スマイル(血塗れ)を向けて、

 

「あ、いらっしゃいませ。今でしたら11時からのツアーにまで空席がありますよ」

 

「わー、お化け屋敷なんて何年ぶりだろ。楽しそー」

 

 その笑いを含んだ人懐こい女性の声に、古城の眉が寄る。

 聞き覚えがある。すごく聞き覚えがあるけれど、今日はここに来られないはずの人物のものだ。

 そして、その声の主を見た浅葱は、驚愕に目を見開いて、ちょうど古城の脳裏に浮かんだ該当者の名を告げた。

 

「え……!? 深森さん!?」

 

 なに!? と顔を上げる古城。

 しわくちゃの白衣を羽織って、朗らかな表情でこちらに手を振ってる女性。

 年齢は今年で33歳。しかし二児の母とは思えない童顔で、美人と言うよりは可愛らしい顔立ちをしている。背は高からず低からず。開き切らない瞼のせいで、どことなく眠そうな印象を受け、また伸ばした長い髪はぼさぼさ。

 そんな私生活がだらしないタイプの大人だと、一目でわかる風貌の女性は間違いなく、古城たちの母親、暁深森だ。

 

「あー、いたいた古城君。浅葱ちゃんも元気だった?」

 

 普段着が推奨されているにしても、三者面談や授業参観程じゃなくても、見た目には気を遣ってほしいと切に思うだらしない恰好の母親は、息子の同級生たちに必要以上に愛想を振りまきながら、こちらへ近づいていく。古城もそれに耐えかねたように、母親を無理やり廊下に追い出した。

 今なら、昨日、身内バレを極端に恐れた姫柊と共感できる。

 

「どうしたんだよ、急に。仕事があるから彩昂祭には来ないって言ってなかったか?」

 

「んふー……これも仕事と言えば仕事なのよねー」

 

 息子に問い詰められた母親は、何やら思わせぶりな口調で言う。

 イヤな予感がする、と古城。

 

「ほら。MAR(うち)って、いろいろ作ってるでしょ。お菓子から大量破壊兵器まで」

 

「……だからなんだよ? あんたがいるのは医療部門だろ?」

 

 こう見えても、母親は東アジア地区を代表する巨大な魔導産業複合体に雇われる医療部門の主任研究員だ。

 しかし、それが一体何だというのか?

 訝しむ息子へ、深森は悪戯っぽい微笑を浮かべ、こうのたまってくれた。

 

 

「うんうん。その医療部門で実験段階だった薬品が、間違ってこの彩海学園に出荷されちゃった♪」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『彩昂祭』の期間中、校庭は飲食系の模擬店がずらりと並ぶ屋台村が彩海学園の伝統である。祭りの縁日のように運動部がそれぞれの特色に合わせて食べ物の屋台を出している中で、焼きそばと兼任している野球部の射的ならぬストラックアウトの出し物。

 ストライクゾーンを九分割した的にボールを当てて落とすというもので、全ての的を落とすと景品としてこの屋台村《運動部》限定で何でも引き換えできる特別券がもらえるのだそうだ。

 木材や古くなったホームベースなどを材料に自作した的は中々の出来栄えで、明快かつ手頃なゲームだからか盛況な様子である。殊に今は、盛り上がりの最高潮のようであった。

 

「あいつすげぇな……残り1球だけど、あと2枚まで来たぞ」

「しかも、球が速ぇ……スピードガンで測ったら100マイル出んじゃねぇか」

「ていうか、あの恰好はなんだ……? あんなのでよく投げれるな」

 

 順番待ちの人たちが言うように、今まさに九枚抜きの偉業に指がかかったところであった。現在落ちているのは7枚、ただし残り2枚は隣り合ってるので中間に当てれば同時に落とせるだろう。

 そこまで漕ぎ着けたのは、的から十数m離れたピッチングスペースで仁王立ちになっている、青年。

 褐色の肌に赤胴の髪。手足の長い細身のようで体軸の芯が通った筋肉質な肉体。そして、何故か礼服……黒を基調とした、執事服だろうか?

 袖は捲ってあるものの、あの動き難い窮屈な格好でボールを投げてあそこまで的を落としたというのは驚異的であった。

 

 

 

 校庭に設えた特設ステージでこれよりチアリーディング部のチアダンス、ここ最近有名な『オシアナス・ガールズ』を模倣した演目が始まろうとしている。

 雄叫びに似た靴音を響かせながら、校庭中に生ゴミに群がる銀蠅の如く制服だったりジャージだったり何かのコスプレだったりする男子生徒たち――男性教諭や保護者の方も混じっていたが――が、特設ステージ前の観客席に雪崩れ込んでいく。

 集客効果は抜群。けれど、チアリーディング部のクレープ屋台には流れていかず、チア部の高等部の先輩たち目当てで特設ステージと言うダムに堰き止められている模様で、いまいち売り上げに貢献しているとは言い難い。

 

「はい! アーモンドチョコクレープお待ち! トッピングのアイスはサービスだよ」

 

「ありがとなのだ、凪沙ちゃん」

 

 屋台の中でクレープを焼いていたのは、エプロン姿の暁凪沙。

 それを受け取ったのは、先ほど的当て全制覇して、早速、景品で手に入れた『屋台何でも引き換え券』を使いに来た執事服の青年――南宮クロウ。

 

 昨日、彼は魔女の呪いを受けて、“成長してしまった”。

 『固体堆積時間操作』――呪った相手より経験値を奪い赤子にしてしまえる『No.014』の魔導書であるが、それは『総記』という大魔女クラスに使うことが許された禁書の力。あのとき、魔導書を使おうとしたのは、妹ひとり。姉妹でやるのならば、魔導書も制御できただろうが、単独で行使するには無理があった。結果として魔導書は暴走し、逆流反転した呪いを受けた南宮クロウは、赤子ではなく少しだけ大人になった。

 

 宮廷魔導技師クラスの高位魔術師であっても、禁書クラスの魔導書の呪いを解除するのは容易ではない。

 また『神格振動波駆動術式』の魔力無効化能力をもってしても、呪いによって生じた結果を無かったすることはできない。魔導書そのものを攻撃で切れば話は別であるが、その魔導書は大事な証拠物件であり、貴重な禁書であるからに、破壊するのはあまり好ましいものではなく。

 そして、禁書を読み解ける大魔女が呪いを解除して、元通りとすることができたのだろうが、残念ながらこの禁書の暴走はそうはいかない。まだきちんと制御し得て相手を幼児化できていたようならば、『No.014』の機能を停止すれば済む話であった。

 『分相応を弁えない未熟者が乱雑に扱うから七面倒なことになる。……まあ、『No.014』は停止させたのだから、じきに呪いは解けるだろう。どれほど長引くかは定かではないがな』と使い魔の状態を診た主人は語る。

 とりあえず放置していても戻るだろうが、1、2日間――ちょうどこの『彩昂祭』の期間中は、このままだろうと。

 

 急に体が成長しているのでいつもとは勝手が違い、動かすのに若干の不慣れはあるものの、記憶も失っていないし、大した問題ではない……と“本人(クロウ)は”思っている。

 

「いやー、クロウ君が来てくれたのは嬉しいけど、チア部の先輩たちの方を見に行かなくていいの? ウルトラスペシャルなコスチュームでサービスしてるよ」

 

 とクレープ生地を混ぜる仕事に、さりげなく彼から視線を外す凪沙。青年クロウは、さして舞台のチアダンスには興味がないようで、チョコクレープを頬張るのに夢中である。

 

「ん? 向こうでもクレープがもらえるのか? それともアイスがトッピングされるのか?」

 

 身体は少年から青年に成長していても、中身は純朴な少年のまま変わっていない。

 

「いや、そういうサービスじゃないけどさ……」

 

 ごにょごにょと言葉を濁す凪沙。

 思春期に旺盛な男子の性欲、それを必死に否定しようとしてバレバレな兄とは違って、彼は、性欲はおろか男女の区別がついているのかも疑わしい。

 だから、男性客をほぼ独り占めにしているステージをチラ見もしてないし、美味しそうな食べ物を作るこちらに夢中―――いや、彼の視線を独占できるのは気分が悪い事じゃないし、家庭的なアピールになるのだし、別に悪い事でないと思うけれど、こう“大人になった彼”が視界に入るとそちらに意識が割かれて、いろいろと思い出してしまうことが多々あって、まともに顔を合わせられない。

 ……それに、庇ったせいで魔女の呪いを避け切れなかった罪悪感も……

 

「ぅ~~~~~」

 

 かっかっかっかかっかっかか……

 段々と作業がまごついてる凪沙は、後ろからひょいとクレープ生地を混ぜ立てるボールを掠め取られた。

 

「やっほクロウ君」

 

「う。やっほなのだ棚原先輩」

 

 現れたのは、兄のクラスメイトでもあり、このチア部の先輩でもある棚原夕歩。以前に球技大会の男女混合(ミックス)バトミントンの練習に付き合ってくれた人。彼氏持ちの彼女は派手できわどい衣装を着ることになるステージには立たず、凪沙と一緒にクレープ屋台をしていた。そんな後輩の凪沙から仕事を奪い、クレープ生地を鉄板の上に広げながら、ほほう、と夕歩は好奇の表情を浮かべつつ、青年になったクロウをじろじろと不躾に眺めて、

 

「へー、呪いをかけられたって話は聞いてたけど、クロウ君成長したらこんな風になるんだ……これは将来有望だね。早くものにしないと浅葱みたいに大変になるよ、凪沙さん」

 

「ふぇ!? も、ものにするって、なにを……!?」

 

 冗談めかした夕歩の言葉に、不意を衝かれた凪沙が激しく動揺する。

 その間に、『何でも引き換え券』を摘まみ上げた夕歩は何か思いついたように、にやりと口端を上げ、

 

「じゃ、クレープと一緒にうちの凪沙さんもお持ち帰り(テイクアウト)しちゃいなよ」

 

「?」

「ええええぇぇぇっ!? いきなり何を言ってるの棚原先輩!?」

 

 首を傾げる青年に赤面して悲鳴を上げる少女。それに、チア部の先輩は大笑いする。

 

「くすくすくすくす! う~ん、仕方ないのよねぇ。この『“何でも”引き換え券』って、食べ物だけでなく、屋台の看板娘とのデート券であるのが、彩海学園の伝統なわけで~。

 伝統は守らないと、ね?」

 

「そ、そんな……!」

 

「それに―――」

 

 こしょこしょと凪沙に耳打ちを入れてから、

 

「―――はい。私には遼君がいるし、今屋台には私たち二人しかいない。と言うわけで、凪沙さん、先輩命令」

 

「ぅ、あ、う……りょ、了解であります……」

 

「屋台の方もこの分だと私一人で十分だし、確かあなたたちのクラス、昼に演劇やるんでしょ? だから、もう午前シフトは抜けちゃって楽しんできていいわよ。私たちのクラスはお化け屋敷―――と、古城がいるから、寄らない方が良いかも……あ、そうだ。美術室に行ってみたらどうかしら」

 

 じゃ、頑張ってね、とエプロン姿のまま凪沙は先輩に背中を押されて、倒れ込むように青年の胸へと飛び込んでいった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 外部からのハッキングが原因で、MARの医療部門から間違って彩海学園へと出荷されてしまった実験段階の薬品、通称『B薬』

 服用しても人体に害はないから、せっかくの機会だし、薬を飲んじゃった生徒を見つけて効能を観察したい―――と語るは、狂気的(マッド)と言うより泥沼(まっど)なトラブルメーカー研究者の母親。

 しかし、『B薬』の“正体”を知った古城はそんな静観できるものではないと深森に突っ込む。あれは思春期の学生にはアブない代物だ。それを手に入れようと騒動が巻き起こっても不思議じゃない。

 というか、そもそもなんで“あんなブツ”をMARが研究するのか!?

 

「―――だって、昔から世界中で使われてきたポピュラーな魔術薬品だもの。『魔族特区』の企業が研究するのは、むしろ自然でしょ? これまでは、調合に専門的な知識や特殊な材料が必要で、量産や保存が難しかったのよね」

 

「いや、それはそうかも知れないけど……」

 

「元々は、『危険な魔獣や猛獣を安全に飼育するために』って『魔獣庭園』からの依頼で試作されたものよ。だけど、ちょっと効き目が強過ぎちゃって、かえって危険ってことで現在調整中と言うか」

 

「待てコラ! やっぱり普通にやばい薬じゃねーか!」

 

 本来は魔獣用に開発された薬品。しかも効能が強過ぎて発売中止になったような代物を人間相手に使ったらどうなるのか、想像するだけで恐ろしい。

 一度、“そうなった”ことのある古城にしてみれば、その危険性は命にかかわらなくても相当なものだ。

 そんな息子の訴えに、深森はようやく事態を理解して、愛想笑いを浮かべるようになり、

 

「あー……でも、ほら、少子化対策になるかも……!」

 

「アホかっ! 間違って凪沙たちが飲んだらどうする気だ!!」

 

 その真っ先に一歳年下の妹の身の安全を心配する古城のシスコンぶりに、浅葱、それから話が聴こえてこちらにやってきた矢瀬は生温かい視線を送る。

 何にしても、早めに『B薬』は回収した方が良い。それもパニックにならないよう、少数精鋭で。

 だが、

 

「それで『B薬』の特徴はなんだよ? 粉末か錠剤か、それで、どんな容器に入ってるんだ?」

 

「それは、これこれ。これと同じ」

 

 深森が取り出すのは、銀色に包まれた焦げ茶色のプレート。表面に凹凸の模様が入った手の平サイズのその見慣れた固まりは、まさしく………

 

「板チョコじゃねーか!」

 

「試作品だし、適当な型枠がなかったのよ。サイズ的にもお手頃だったし、食べやすいと思って。ほら、お菓子から大量兵器まで幅広く手掛けているのがMAR(うち)の売りだから!」

 

「ふざけんなっ!」

 

 色艶や形と言い、感触と言い、匂いと言い、どこからどう見ても普通の板チョコである。これでは仮に手に取ったとしても、危険な実験薬だとは思うまい。

 しかも、マズいことにこの『B薬』は、『彩昂祭』の実行委員が製菓用にまとめて買いつけた板チョコにそっくりで校内のあちこちに出回っている。実行委員に所属している浅葱が確認を取ったところ、倉庫に新品未開封の製菓用チョコが、まるっとダンボール一箱分余ってるということから、模擬店で使われているチョコは高確率で『B薬』と入れ替わっているということ。

 

 

 

 方針は、大まかに二つに固めた。

 まず、『B薬』の迅速な回収。そして、『B薬』の解毒剤の作成だ

 

「2、3時間でできると思うけど」

 

「1時間でやれ! 今すぐ作れ!」

 

「えー……でも、貴重な人体実験の機会が……」

 

「やかましいっ!」

 

 くわっ、と目を見開く古城の剣幕に圧倒されたのか、拗ねた子供のように頬を膨らませながらも深森は、仕方ないなぁ、と肩を落とす。

 そんわけで、やる気なさげな足取りで深森が向かうは、高等部校舎内にある生物準備室。偶々鍵が開いていたのをいい事に、無断でずかずかと教室の中へ入っていく。

 高校の理科室で作れるとは、なんてお手軽な解毒薬か。

 けれど、この母親は薬剤調合の腕は確かであって、また『魔族特区』の教育機関ということで、彩海学園の生物室は一般的な高校に比べて薬品棚は充実している。

 

「ふんふー……良い感じに揃ってるわねー……んん?? 私も見たことがないのもあるわね。ちょっと、お触りして―――おおっ! なにこれすごくほしいわちょうだい古城君!」

 

「俺のじゃねーし、やらねーよ」

 

 “白花を詰めたガラス瓶”を頬擦りしながら目に☆でも輝かせんばかりの母親に、古城は若干腰を引けさす。

 彩海学園は一般校よりも素材が贅沢なのだろうが、それにしても研究で貴重な薬品など見慣れてるはずの医療主任が感激するほど薬品棚の中身が充実してるのはいささか度が過ぎてるものと思われる。見るからに毒々しい薬草や、魔術の材料まで無造作に陳列されている。何故ならば、ここは―――

 

「―――それらの薬草には、危険な成分が含まれていると警告。不用意に触らないことを推奨します」

 

 抑揚の乏しい人工的な少女の声。

 準備室の奥の扉を開けて、現れた藍色の髪の小柄な少女。ホウキとチリトリを持った、メイド服姿の人工生命体(ホムンクルス)は、アスタルテ。

 

 そう、この生物準備室に置かれているのは、アスタルテの教官である南宮那月のコレクションだ。

 

「アスタルテ? そうか、これって、那月ちゃんの……」

 

「肯定。現在は私が管理を任されていますと回答」

 

 古城たちの担任教師である南宮那月は、この絃神島で五本の指に入る国家攻魔官であり、<空隙の魔女>と畏れられる世界的にも最上位の大魔女だ。その彼女がこの生物準備室の薬品棚を、自分用の保管庫として私物化して使っている。

 そして、保護観察対象として、助手のような仕事を押し付けられているアスタルテはその管理を任されているのだ。

 

「あらあら。これはこれは……」

 

 んふー、と低くうなる母親。

 アスタルテと初めて遭遇し、注意された深森は、研究者としての興味が惹かれたように、人工生命体の少女に歩み寄り、ごく当然のような態度で―――ぐわし、とアスタルテの胸を鷲掴みに。

 

「なるほど、大発見よ古城君! 今ドキの学校には、こんな可愛いメイドが雇われているのね。ふむ、これは意外に」

「いきなり初対面の人工生命体の胸を触るな母親!」

 

 頼むから、新法則を見つけ出したような真剣な眼差しで、こんなしょうもないことを熱く語らないでほしい。

 恍惚とした表情で胸をもみしだく母親の後頭部を古城が乱暴に張り飛ばすと、アスタルテは暁親子を感情のない瞳で見比べて、

 

「状況把握」

 

「なぜそこで納得する……!?」

 

 冷静に対応され、古城は傷ついたように唇を歪めて呻く。そこで落ち込む古城の代わりに、浅葱がアスタルテに拝む。

 

「―――ってわけで、『B薬』の解毒薬を作らなくちゃいけないの。那月ちゃんには、あたしたちが後で説明するから、ここにある材料と道具を使わせて。お願い、アスタルテさん」

「それから、この保存された花弁も売ってくれない。領収書とかMARでつけとくから言い値で結構よ、アスタルテちゃん」

 

 余計なものも拝んでいたが、『B薬』の正体と非常事態の訴えに、アスタルテは表情を動かさずに、

 

「―――命令受託(アクセプト)。私も手伝います。ただ……それはダメです」

 

「ふんふ?」

 

 じっとアスタルテが見つめる。古城の母親、が先から胸に抱いてる白花の瓶詰。どうやら古城たちの要求は通ってくれて、それも協力してくれるのは助かるが、浅葱に混じっての母親のお願いは却下されたらしい。

 人間の要求には基本肯定的な人工生命体の彼女が否定されたのに、深森、それに古城たちも意外に思う。アスタルテは、巨大企業の医療部門主任さえ知らないその白花の名称を淡々と告げる。

 

「その『冬虫夏草(コルジセブス)』は、先輩のもの。認可のない勝手な使用も譲渡もできません」

 

 『冬虫夏草』、そして、先輩のもの。アスタルテの先輩――つまりは、古城の後輩である南宮クロウということであり、古城はその白花の正体を思い出す。特異的な条件で発芽したそれは、稀少で価値が高く、しかしながら金銭的な売買では取引ができない貴重なものであると。

 

「あらー……だめかしら? できれば、保存用実験用試薬用と欲しいし、もし栽培とかしてるのなら、その花畑を専売契約しておきたいんだけどな。あ、アイス食べる?」

 

 ウエストポーチタイプの小型携帯式クーラボックスに手を伸ばす深森は、取り出した棒アイスをアスタルテに向ける。

 いつも適当な母親にしては、珍しくしつこく食い下がってる。が、今はそんな問答をしている場合ではない。古城は、白花の瓶詰を深森から取り上げて、

 

「……なあ、それは『B薬』の解毒薬の調合に必要なのか」

 

「必須じゃないわねー。他の材料からでもちょちょいっと作れちゃいそうだし。むしろ、もったいなさ過ぎて使えないわよ」

 

「じゃあ、いらないよな」

 

 古城は薬品棚に戻す。それに、ああぁ、と落胆する母親を首根っこを掴んで神妙に頭を下げさせる。

 

「じゃ、こいつが逃げ出したり、余計な事をしないように見張っといてくれ」

 

「―――命令受託」

 

 楽観はできないモノの、これで一応解毒薬のアテはできた。

 あとはなるべく早く、『B薬』を回収する。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『―――しっかりと見張っておかないとマズいかもよ彼』

 

 

 あの時見た、『魔人(あれ)』ほど大人ではない、兄よりも年上な高校二、三年生といったところだろう。

 ただ、それでも低身長な彼が成長期を迎えた姿に成ってるだろう。

 そんな成長した南宮クロウは、いつぞや母親が警告した、また先輩が忠告した通り―――モテる。

 ルックスもいい。執事服を着ながらもどこか野性的(ワイルド)。そして、見た目はオオカミだけど、瞳は純朴そのもので純粋な感情を表す好青年。

 女性というのは賢いもので、自分にとってマイナスである人物かそうでないかは、ほぼ一瞬で見分けることができるという。つまりは初対面で女性の眼鏡にかなうような男性は、まず毒ではない。薬かどうかは定かではないけれど。

 そんな観察眼からすると、この青年は極上の出物である。もし誘われれば、断る理由がないというくらいに。それと言っては何だが、人を騙せるほどの器用でもなさそうだし、異性恋しさにナンパするほど成熟していなさそうである。逆に、どう調理してくれよう的な嗜虐心を肉食系なお姉様方に抱かせてしまうだろう。

 

 おかげで高等部の校舎に入ってから隣に侍っている凪沙は、お姉様(せんぱい)方の視線が痛い。

 

「おー、おいしいものがたくさんあるのだ! なあ、凪沙ちゃんも何か食べるか?」

 

「え、ううん、ちょっと今は胸がいっぱいというかなんというか、何も入らないと思うから、遠慮しとくよクロウ君」

 

 パクリ、とチョコバナナを頬張りつつ、凪沙を伺う青年クロウ。

 匂いに釣られながらも、視線はすぐに自分のところへ戻ってくる。案外、食欲に素直に動くものかと思いきや、夢中になることなく相手に気に掛ける。

 『紳士は、エスコートする女性から目を離さない』と、どこかで聞いたことがあるけど、彼の保護者である南宮先生は、余程そのあたりに躾を徹底したものと思われる。

 うん、ますます大人になると危険だ。

 

「くんくん! チョコワッフルにチョコドーナツ。揚げ餅にかき氷。あ、あっちにはたこ焼きに焼きそばにフランクフルトソーセージに、綿飴もあるぞ! 

 ―――まふまふ! う、おいしいのだ! 凪沙ちゃんも一口どうだ?」

 

「……あ、うん、じゃあ、ちょこっとだけ」

 

 学園祭の名物、『安くて早くて量が多いB級な売店』。それを食べ歩きする彼を見ると、本当に不思議に思う。

 綿飴をぱくつく姿まで絵になる男、なんて、そうはいないだろう。

 これはけして、自分の贔屓目じゃない。その証拠に、教室や廊下にいる女性客や女子生徒のほとんどの視線を、独り占めしている。執事服なんて目立つ装いのせいもあるだろうけど、それを野性的な彼が着てるギャップがより魅力値を引き立たせているようで。そんな視線を綺麗に無視して食事を楽しむ彼をちらちら見ながら、自分も綿飴に顔をうずめるようにパクつく。

 

「……クロウ君は、彩海学園の七不思議って知ってる?」

 

「? なんだそれ? 学校に七つも不思議があるのか?」

 

「うん、そうだよ。『伝説のフェンス』や『後夜祭のフォークダンス』とか……………」

 

 凪沙のセリフは、最初はフォルテシモ。しかし段々とデクレッシェンドがかかり、ついに最後は耳を澄ませても聞き取れないくらいに……

 

「ん? どうしたのだ?」

 

「あ、うん、何でもないよ!?」

 

 どうもダメだ。

 さっきから、滑らかに話せたかと思うと、急に言葉が出てこなくなる。

 やっぱり意識しまくってしまってるのだ、ということを認めざるを得ない。

 もっとも、自分の話が切れると、疑問と拾う形で自然に言葉を継いでくれるので、今のところ気まずい沈黙はない。精神面まで大人にならなくてよかった。とはいえ、大人になっても彼は無邪気なままだと思うけど。

 

(少し落ち着けるとこで小休止したいかな……―――っ、そうだ!)

「ねね! クロウ君、さっき棚原先輩から美術部で展示会してるみたいだって教えてくれたけど……行ってみない?」

 

 と少しだけ不安になって、そっと彼の顔を窺えば、

 

「美術部か。絵を描くのは苦手だけど、見るのは好きだ……うん、いいな、行こう!」

 

 にこっと笑顔で彼はそう言ってくれて、凪沙の不安を吹き飛ばしてくれた。

 

 

 

「(うわぁ……これ、本当に写真じゃなくて絵なのか?)」

「(そうみたいだね……すごい)」

 

 美術部と言う場所柄、耳がくすぐったくなるような囁き声で凪沙と彼は会話(はな)しながら、少し暗くした室内を巡っていく。

 だが、相槌を打ちながらも、正直凪沙はあまり絵の方に集中できていなかった。

 場所柄なのか、美術室は、家族連れよりもカップルが多く、彼らは皆、ごく自然に手を繋いでいた。

 こうして肩を並べて歩き、同じものを見て、同じ時間を過ごせるだけでも十分嬉しい。

 でも、周囲のカップルがちらちらと視界に入り、彼らの繋がれた手がどうしようもなく羨ましくなってしまう。

 ひとつ望みが叶えばもうひとつ―――どうにも人を欲張りにしてくれるもの。だけれど、それに流されてはならないと、凪沙はその欲求を抑え込むべくゆっくりと呼吸した。しかし、昔に祖母に養われたはずの平常心は、中々訪れてはくれない。

 そんな風に凪沙は内心で葛藤していたのだが、

 

「ううん?」

 

 そうとは知らない彼は不意に足を止めると、小さく唸った。

 凪沙が見上げる眼差しで問えば、彼は黙って目の前の柄を指で示して、その指先を追って凪沙は、彼が何に疑問の覚えたのか理解した。

 

「(点描画だね……確かにこの位置からじゃ何が描いてあるのかわからないかも)」

「(う。そうなのか)」

 

 そして、凪沙がそういうと彼は頷いて、二人はどちらからともなく、数歩後ろに下がる。

 そうやって見れば、描かれているものは判然としたのだが、凪沙は、『おお! 見えたぞ!』と感嘆する彼の横顔を見て、すぐに顔を背けた。

 

 それは“男女が仲良く手を繋いでいる”―――まるで凪沙の願望をそのまま表したような絵で、それを前に凪沙の頬は瞬く間に赤く染まっていた。

 

 このままでは自分が何を考えていたのか、語らずとも彼に知れてしまう。そう思って凪沙は何とか落ち着こうとしたのだが、思えば思うほど、却って冷静さは失っていく。

 落ち着けるために、美術室に来たのにこれでは逆効果ではないか。ああ、もう、こうなったら―――

 

 

 

「―――クロウ君!」

 

 美術室から出ると、凪沙はクロウを呼び止めて、静かに右手を差し出す。

 手の平を、上に向けて。

 ああそうか、と納得したように頷き、少女と向き合う青年。

 いつもよりも、視線の角度が高い。

 青年が少女を見下ろす。少女が青年を見上げる。

 

「あ、凪沙……に、クロウ君?」

 

 その絡めるように見つめ合う二人に、ちょうどそこを通りかかった魔術師風の黒いローブを羽織った天文部占い師をしているクールな雰囲気の眼鏡少女――クラスメイトの甲島桜は声を出そうとして、出せなかった。

 

「(ダメだよ、邪魔しちゃ)」

 

 耳元で囁かれる爽やかな声。桜と同じく偶々そこに居合わせた一般客。黒いジャケットにルーズなネクタイ姿の、ボーイッシュな雰囲気の女子。息を呑むほど端正な顔立ちの男装少女だ。それが肌と肌が触れかねないほどに傍にあって、胸の高鳴りが抑えきれない。

 男装の少女は、こちらがパニくる前に、人差し指を唇に添えて、しぃ、とポーズを決めて見せる。それがあまりに似合っていて、放心してしまうくらいに。

 そして、言われて気づく。

 迂闊に触れたら、それだけで切れてしまいそうな、張り詰めた空気。

 窓より差し込む陽の光が眩しいその光景は、まるで一幅の宗教画にも似て……

 

 やがて、

 

 少女の差し出す手の平に、

 

 青年は静かにそっと自分の手を重ねる。

 

 

 

 とんっ、拳を。

 

 

 

「へ?」

 

 先ほどとは違った意味で声の出ない桜に、男装の女子。

 この儀式の結果に、少女の方も固まってしまう。

 そして、青年は爽やかな笑みを浮かべてのたまう。

 

「? “お手”じゃないのか?」

 

 どうやら乙女が全力で投げた投球を、場外ファールした模様。

 言われてみれば、何か愛犬と少女のやり取りの風景が幻視できなくもないけれど!

 この40点の朴念仁クラスメイトの天然ボケに、桜は眉間の皺を揉み解す。痛む米神を押さえる。脱力しそうになる膝を懸命に叱咤激励する。

 男装の少女も額に手を当てて、深く息を吐く。

 

「(あちゃぁ……あの人は、彼にどういう教育をしてるんだ? 古城よりも頓珍漢じゃないか)」

 

 とりあえず、彼らは自分の占いの館に引っ張り込んで、反省会もとい相性占いをするか、それとも隣室の『中等部の聖女』が行っている懺悔室にでも放り込もうかしら。

 と眼鏡を光らせた委員長オブ委員長が声を掛けようとしたところで、

 

「―――ひゃっ!?」

 

 凪沙が変な声を出してしまう。そう、どうやら“お手”から急に手を握られたのだ。

 初球でとんでもない特大ファール(天然ボケ)をかましてくれた彼は、緊張の糸が途切れた二球目にきっちりホームランを打ってくれたらしい。

 それを見て、甲島桜は納得する。修学旅行での暁凪沙の批評通り、あれに振り回されるのは大変だと。

 

(ご愁傷様。お願いだから、これ以上凪沙をストップさせるような真似は止めてよクロウ君)

 

 そうして、ごく自然に手を繋ぐ彼、繋いだ手からきっといつもの倍以上の鼓動がその手に伝わってしまうとわかったが、凪沙はその手を拒めず。

 頭だとか、心臓だとか、何か真っ赤なものに支配されてパンク寸前の凪沙はされるがままに、犬系男子に腕を引かれていく。

 

 

「―――う! 向こうからすごくスパイシーな匂いがするのだ凪沙ちゃん!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 まず、真っ先に(なぎさ)のいるであろうチア部のクレープ屋台へ行ったが、そこでクラスメイトの棚原夕歩から、すでに休憩に入ったと伝えられる。

 どこへ行ったか心当たりはないかと訊けば、微妙に言葉を濁した感じで、この屋台エリアのどこかにいるんじゃないかな、と。

 ぐるっとチェックを入れながら、周ってみたが、凪沙とは出会わなかった。心配であるも、他に飲食系列を周ってる矢瀬や浅葱からの連絡がないということは、『B薬』が混入した飲食物を口にしていないということだろうか。便りがないのは無事な証拠と言い聞かせ、古城は気を落ち着けさせる。

 

「そういや、一年A組はカフェをやるって言ってたな」

 

 新聞部が配布する『彩昂祭』のガイドブックにチェックを入れながら、矢瀬や浅葱らと校舎を忙しく駆けずり回って、問題の『B薬』をいくつか回収した古城。

 彼が最後に向かうのは、校庭に面した校舎の一階教室。

 校庭側の扉を解放して、屋外テラスとし、パラソル付きのテーブルを並べている。教室の立地条件を生かしたオープンカフェだ。店員の衣装も、欧州のカフェをイメージしたギャルソン風で、生徒や保護者から好評なようだ。

 

「げっ、あいつら……」

 

 混み合う店内に見覚えのある少女たちの姿を見つけて、古城が表情を凍らせる。

 遠目からでも、異様に目立つ二人組。

 一人は銀髪碧眼の外国人、もう一人は、栗色の髪をポニーテイルにまとめた長身の少女。

 ―――北欧アルディギア王国の王女ラ=フォリア=リハヴァインと、その護衛役の煌坂紗矢華である。

 どうやら『彩昂祭』の見学のために、こっそり公式行事を抜け出してきたらしい王女たちは、そのテーブルの上の皿に盛りつけられたチョコチップクッキーに手を伸ばし、

 

「ストップ! そこまでだ、二人とも!」

 

 洗練された仕草でクッキーを口に運ぼうとしたラ=フォリアを、古城がギリギリで制止する。

 

「あら、古城」

「あ、暁古城!」

 

 古城を見上げ優雅に微笑む王女と、抱えていた楽器ケースから咄嗟に剣を抜こうとする舞威姫。

 

「うおっ!? いきなり物騒なもんを抜こうとすんな、おまえ―――!?」

 

「いきなり、はこっちの台詞よ! 気安く声をかけてくれるけど、この御方がどれだけの人物かわかってないの!?」

 

 隣にいるラ=フォリアを指さして、大声で怒鳴りつける紗矢華。

 その言葉を聞きつけた周囲の生徒たちが、ざわざわと一斉に騒ぎ出す。高校の学園祭如きには不似合いな銀髪美少女の正体には、誰もが興味津々だったのだ。

 

「……誰だ?」

「あの銀髪の美人、古城の知り合いか?」

「アルディギアの王女様に似てね? ほら、この前調印式で来てた……」

 

「(おい! 護衛役(おまえ)がばらしてどうすんだ煌坂!)」

「あ……」

 

 周りの群集の反応を見て、紗矢華がさっと青褪めた。何しろラ=フォリア=リハヴァインは世界中に熱狂的なファンを持つ正真正銘のプリンセス。その有名人が学園祭に来てると知られたら、押し寄せてくる野次馬で大混乱に陥りかねない。

 そんな下手をしたら外交問題にも発展しかねない不祥事に、紗矢華が焦りで思考停止してしまう中で、ラ=フォリアはむしろ愉快そうに微笑んで、

 

「ふふっ、どうです古城。わたくしのコスプレ、似合ってますか?」

 

「あ、ああ……うん! すっげぇ、そっくりだな。ラ=フォリアのコスプレに……」

 

 咄嗟のことで一瞬、戸惑ったがすぐ意をくみ相槌を返した古城。それで、『あ、なんだ、そういうことか』と無頓着に納得する回り。

 毒気を抜かれた紗矢華は、ほっと息を吐いて、

 

「そんなので納得しちゃうのね……」

 

「ふふ、日本の文化を学んでおいた甲斐がありました」

 

「誰が教えたんだよ、その無駄知識……」

 

 得意げに胸を張るラ=フォリアに、古城は呆れたように首を振る。

 そこで、紗矢華が古城の胸ぐらを掴み上げ、

 

「暁古城、あなた雪菜をどこにやったのよ! 折角、ビデオカメラを用意したのに、全然見当たらないじゃない!」

 

「知らねぇよ! お前がそんなことするから姫柊も隠れてんだろ」

 

「なんですって!?」

 

 獅子王機関の剣巫は、現在、演劇まで精神統一と、知り合いの『中等部の聖女(かなせかのん)』の懺悔室にて隠蔽結界を張って隠れている。

 そんな護衛任務を建前にお忍びで来たのに出会えずに溜りに溜まっていくその怒りの矛先をなぜか向けられた古城は、涙目になっている紗矢華を見て途方に暮れていると、

 

「それよりも、古城。何をそれほど慌てていたのです? まるでこのチョコチップクッキーに手違いで何か薬が混入していたかのような慌てぶりでしたが?」

 

「あ、いや……その通りなんだけど……」

 

 鋭すぎる、と言葉をなくす古城。流石は切れ者で知られたアルディギアの腹黒王女である。あの『戦王領域』の貴族ディミトリエ=ヴァトラーですら、姫御子には一目置いている理由がよくわかる。

 

「それで、一体どんな薬なんですか?」

 

 もう九割方答えに行き着いているような満面の笑みを向けられ、古城はふいと視線を外す。

 『B薬』の正体をあまり大ぴらにするのは危険であるものの、紗矢華も含めて、彼女たちは信頼できる。ならば、伝えても問題はないと古城は考え、そのためにはまず王女ではなく、先ほど騒ぎを起こしかけた直情傾向な舞威姫に即武力行使に出ないよう言い聞かせなければならない。

 

「煌坂、これから俺がどんなことを話しても絶対に剣とか抜くなよ」

 

「はぁっ!? あなた一体何を……!」

「わかりました。紗矢華、古城の話を最後まで聞きましょう」

 

 ラ=フォリアに制止されて、渋々、腰を落ち着けさせる紗矢華。それに古城は一呼吸おいてから語り出す。

 

「俺にも詳しい事情は分からないんだが、MARの研究所で開発された試作品が彩海学園に流出しちまったらしい」

 

「MARって……確か暁古城のお母様が働いている会社よね?」

 

 真顔で何やら考え込む紗矢華。

 けれど、世界的な魔導複合企業が関わっているにしても、事態はしょうもない。

 そう、『B薬』とは……

 

 

「それで、その試作品タイプBって名前なんだが……ぶっちゃけて言うと―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「む、オマエら―――」

「―――貴様は、<黒妖犬>!」

 

 

 白い三つ揃い(スリーピース)のスーツを着た青年、平凡な公立学校には不似合いな、金髪碧眼の美男子。

 それも若者を付き従える。まるで少女のような繊細な美貌を持つ青年貴族に、そして、こちらに威嚇する鋭利な刃物を連想させる貴公子。

 『戦王領域』から派遣された全権大使――そして、戦闘狂(バトルマニア)として世界的に知られた――<蛇遣い>のディミトリエ=ヴァトラーと、その配下の吸血鬼、キラ=レーベデフとトビアス=ジャガン。

 凪沙と手を繋いでいた青年クロウが校内の廊下を歩いているところをばったりと遭遇。その咎めるような視線で刺してくるジャガンから庇うように、震え出す凪沙を背にするクロウ。

 そこへ金髪の青年貴族は配下を諌めるよう言葉をかける。

 

「よさないか、トビアス。彼はこの前の調印式でボクを救ってくれた恩人だヨ」

 

「お言葉ですが、閣下。あの程度の魔導兵器、私でも撃退できました」

 

 張り合うようにクロウを睨むのをやめないトビアス。

 それを愉快そうに笑ってヴァトラーはやれやれと首を振り、

 

「今のその子がどれだけ美味しいのカ。確かめてみたくもあるけれど、“ボクからは”手出しはできないからね」

 

 獰猛な蛇のように伸ばした舌で唇を舐め、口端を吊り上げて華やかに微笑む主人、その言葉の意を汲んだトビアス、それに、キラもまた目を細めて―――

 

「まあ、ここはボクらの本拠地(ホーム)じゃないわけだし、スクールフェスティバルを台無しにしてしまうのは、“彼”に悪い。

 ―――まあ、古くて邪悪な気配がこの会場に漂ってるようだけどネ」

 

 

 

 去り際に意味深な言葉を言い残し、ヴァトラー達はその場よりいなくなる。

 しばらく、その場で立ち竦むクロウ。その背中に、ぽすん、と額が当てられる。

 

「……どうして、あたしを庇うの」

 

 それはいつか忘れ去られたやり取りの焼き直しか。のめるように、噛みつくように、その背中に密着して剥が(はな)れない。この距離でいることが、当たり前でありたいと願うように。

 

「うん……なんというか、大切にしたいからなんだと思う」

 

 彼女に苦しい想いをしてほしくない。危ない目に遭ってほしくない。もし暁凪沙が酷く悲しんだり強く傷ついたらと思うと、頭が無茶苦茶になって暴れ出したくなる。

 いつからか根付いたかは知らないが、それは確かに己の大事な芯となっている。だから、これがわがままで、押しつけるような行為で、醜い保護欲だろうが、押し付ける。

 結局、がりがりと歪に削れて正体を留めなくなったとしても、強引にそれを押し通すしか生き方を知らないのだ自分は。

 背に額を擦りつけたまま俯く、凪沙は、小さな声を出した。小さな声だけれど、はっきりと聴き取れる。

 

「……もっと、乱暴にしてくれていいんだよ」

 

 ゆっくりと振り向いて、目が合う。こんなに顔を近づけたのは初めてだろうか。だからか、その目の端に小さな涙粒が浮かぶのにすぐに気づけた。

 その涙はこぼれそうで、こぼれずに、ただこの猛暑の中にもなお熱っぽい息がこの胸元に落ちて―――滴を指で掬い取ってしまう。

 

「それはちょっと難しいのだ……」

 

 彼女の言葉に応えるのは無理そうだ、と。

 今まさに、暁凪沙を大事に想う気持ちがいや増していくのが判ってしまうだから。

 首に巻かれた、枷に指をやる。

 『もう付ける必要はない』と創造主(おや)の呪縛を克服してからしばらくして、主人はそう言ってくれたけれど、それに頼み込み、まだ身に着けている。

 今度こそ、自分の意志で、この『誓い』を体に刻んでおくために。

 この絃神島に連れてこられた。それは受動的であって、自分の意志ではない。

 だが、もう違う。

 自分は空っぽでもなく、停滞してもしない。してはならない。

 それを示してくれた主人や、傍にいてくれた人たちに報いるためにも、南宮クロウは『人』であらねばならない。『人』であろうとして、肝心の『人』であることを見失った錬金術師と相対してから、それはなおさら強く意識するようになった。

 

 だから、この『誓い』は、自分の能動的な行為で、大きな指針となっている。

 自分は、『人』になる。

 主人に胸を張れるように、今、この腕の中にいる少女を、慈しめるように。

 

 

 

 染み入るようにそれを聞く。

 目を瞑りながら少女は、森森の空気のように澄んで温かな、気配を感じている。

 別に、肌を合わせたからではなく。

 彼の考えていることが、不思議と、分かる。

 おそらく、彼は自分とは一線を引いているのだろう。

 

(……ほんとうに、莫迦だね)

 

 引っ掻くように、その戒めの象徴たる首輪に触れる。

 こうして、乱暴にしても構わないと言おうとも。

 倫理観や道徳心―――そんな、人間社会で持て囃されているものより大切な、『人』が『人』を思う『真心』で己を縛り、自分を思いやることをやめない。

 

 いつか、彼が、この日常の中でも自身の意思で『首輪』を外したままであれるまで、誰かを壊れるほど強く抱くなんてしないだろう。

 それは、正直に言って、寂しいことだ。

 もし、“『人』でないことを恐れる”自分の為であるのなら、それは絶対にやめてほしい。

 そうだ。

 『人』であるとそうでなかろうと、そんな些細なもので、彼の――南宮クロウの本質は、きっと、まったく変わることはないだろうから。

 彼が、どんなに街の暮らしに慣れていったとしても、彼が持つ温かさや純朴さ、お莫迦なとこまで、いつまでも不変であるだろう。

 なぜならそれは、削り落とすことの出来ない、“朴念仁”な彼の根幹であるのだから。

 

 だから、待ち続けよう。

 彼が、自ら首輪を外し、自身に自信を持てるようになるまで。

 

 

 

 ……でも。

 正直、それまで抱かれることがないというのは、ちょっと不満だ。

 好きだと告白した(凪沙の中ではの話で、彼が異性のお付き合いとして捉えてくれるかどうかは定かではない)のに、まったく返事もなくこれまで通りの関係性であるのは、ちょっとどころではなく腹が立ってもいい、訴えてもいい待遇ではなかろうか。

 彼は『誓い』で己を縛っていても、それは自分には適用されないものだ。なら、こちらから抱きつくのは問題はなし。

 

 というわけで。

 

「えいっ!」

 

 細身ながらも逞しい腕に抱きつき、頭をその位置が高くなった肩にあてる。

 

「凪沙ちゃん? いきなり何なのだ……? そんなにくっつかれると歩きづらいぞ?」

 

 彼が、目を点にして戸惑うのがわかる。

 それから、彼が自身の腕から離そうとする気配がしたので、凪沙は言ってやった。

 

「リハビリ! あたしのリハビリに付き合ってくれるって約束したでしょクロウ君?」

 

 もう、ほとんど形骸化してる文句ではあるものの、まだ魔族に恐怖を抱いてしまうのは治ってないのは事実のために、通じるはずだ。

 

「……う。そうだったな」

 

 その『誓い』に抵触してるかもしれないけれど、それくらいは妥協してよ、と睨んでやる。

 それに、彼は苦笑とともに、その抵抗する身動ぎをやめてしまう。

 相手との触れ合いを拒絶してしまえる強さまで、『人』は持たないし、また、持つことは、不自然なのだから。

 

「……ん♪ そうだよクロウ君」

 

 してやったり、と。

 肩に頬をすりながら、思わず微笑んでしまう。

 

 

「ん。じゃあ、もうすぐ演劇の時間だから、その前にちょっと腹ごしらえに行くのだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『お腹空いたー、お腹空いたよ。お願い何か食べられるものを持ってきてー、アスタルテちゃん』

 

 

 と暁深森女史の要求で、差し入れを買いに生物準備室を出るアスタルテ。

 そこで調理実習室の前のベンチで、カレーを食べてる先輩と、暁凪沙を発見した。向こうもこちらを見つけたようで、咥えていたプラスチックのスプーンを上げた。

 

「お、アスタルテ」

「あ、アスタルテさん」

 

 どうやら、そののほほんとした声から察するに、この両名は暁古城らとは出会っていないようで、事態は知らない様子。

 とはいえ、こうして女子を隣に侍て、祭を満喫してる先輩に、(まなこ)に半分ラインより下に瞼が落ちる――つい、ジト目となってしまうアスタルテ。

 人工生命体(ホムンクルス)として、感情表現が抑制されているにしても、なんかイラッと来た。

 

「んん? なんか機嫌悪くなってる感じがする」

 

 え、そうなの? と驚いたように言う暁凪沙。表面上、無表情の状態を維持はできているようだが、先輩の『鼻』はどうやら誤魔化せないらしい。

 

「ん。わかったぞ、お腹減ってるんだな」

 

「否定」

 

 ただ、そこからの推理力が残念な頭の先輩である。この察しの悪さは減点対象である。

 いらっ、から、大層めらっとしている後輩人工生命体。この分だと鎮火するのは中々難しく、またこのままできなければ今日の夕飯は先輩の分だけポテトサラダが蒸かし芋に変わると言う感じで雑なものになる―――

 そんな後輩の機嫌直しと言うわけではけしてないだろうが、

 

「そんな遠慮しないで、アスタルテも食べてみろ。こういう時はお腹いっぱいになればイライラも消える。師父が作ってくれたカレーだぞ、美味しいのだ」

 

「そうよ。武術研究会で屋台出してるんだけど、すっごくイイ感じの出来って自負してみたり」

 

 大鍋を抱えながら暁凪沙の皿にカレーをよそっているのは、教官の後輩であり、先輩の師父である<仙姑>の笹崎岬。今日はいつものチャイナドレス風の私服ではなく、一流シェフを思わせる白いコック服を着ていて、パフォーマンスなのか巨大な鍋を軽々と抱えてみせてることからも、結構目立っている。

 

「ほれ、味見だ。あーん」

 

 ……カレーに、『B薬(チョコ)』は無関係だろう。

 第四真祖らもすでにチェック済みと推測。

 また、先輩も食べているようだが、平気なようであるし。それに先輩が勧める酒ならぬ飯を断るのは後輩としてどうであろう?

 と、このカレーを暁深森女史に届けようと考え、そのために一応の毒味をしておくべきだと、人工生命体の少女は理論武装を済ませると、

 

「あーんしろ、あーん。ちゃんとフーフーして冷ましてから大丈夫だぞ」

命令受託(アクセプト)

 

 まさに親鳥の気分でその口にカレーを運ぼうとする先輩に促されて、アスタルテも当然のように目を閉じ、口を開けて、スプーンを入れられる。

 

 

 ただ、ここで教官(マスター)がいれば、こう指摘しただろう。

 何でもかんでも“薬毒の通じない”この先輩(サーヴァント)を毒味役にして、はたして当てになるのだろうか、と。

 

 

 カレーを咀嚼しながら、今後の調理の参考にと味の分析に努めているアスタルテの横で、担任教師と女子生徒の会話を耳が拾う。

 

 

「うん、このカレーすごく美味しいです笹崎先生」

 

「でしょ。隠し味に、ちょこっとチョコレートを使うと、コクが出て美味しくなったり」

 

 

 ―――この先輩は、やはり後輩が管理しておかないとダメだ。

 

 

 生物として優れている、耐性やら胃腸が強過ぎるというのも減点対象にいれておいた方が良いかもしれない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ちょっとあんたら何やってるのよ。古城、基樹、あんたらもう全部の店チェックしたんでしょうね!?」

 

「あ、浅葱!? なんでこんなときに……!?」

 

「? どうして古城を隠そうとしてるのよ基樹―――って、ああ!?!?」

 

「あ、暁古城。こんなところで襲うなんて……人に見られてるのよ……」

 

「そうか? 俺には煌坂のことしか見えないぜ」

 

「な、なによこれ!? 基樹、アンタ古城の親友でしょ、止めなさいよ!」

 

「いや実は、古城のヤツが例の『B薬』を……な」

 

「飲んだの!?」

 

「まあ、飲んだっていうか、そこの王女様に飲まされたというか」

 

「ふふっ。走り回ってお疲れのようでしたので。喉がお渇きではないかと、ホットチョコレートを古城に勧めたのです」

 

「はぁ!? なにそれ!?」

 

「あら、日本では、ココアと呼ぶのでしたね。欧州では、チョコレートと言えば、かつてはこちらの飲み物の方を指す言葉だったのです。もちろん今でも人気がありますよ」

 

「いや、あたしが訊いてるのはそうじゃないから! 何でそんな喉に突っかかるようなドロドロとしたドリンク勧めてるのよ!? しかも、ホットって!? おかしいでしょ!?」

 

「チョコチップクッキーに『B薬』が入っているということは、このホットチョコレートも危険ではないかと予想してみたのですが」

 

「だ、だからって古城で試したわけ!? っていうか、あなたの狙いってまさか」

 

「きちんとわたくしが責任を取るつもりでしたのよ。ただ、効果の発動までにタイムラグがあったのが誤算でした。まさか、紗矢華に掠め取られるなんて……」

 

「お、王女、私は別に掠め取るとかそんなことは……ええ、こんな状態の暁古城を野放しにしてしまうのは危険ですし、私が抑えるしかないというか……だから、役得とか全然考えてなんか……」

 

「では、古城。今度は、こちらのチョコチップクッキーの方をいただいてみましょう」

 

「お、王女ぉぉぉ―――っ!」

 

「ちょっと、古城!? あんた、大丈夫なの!?」

 

「浅葱……」

 

「え?」

 

「わ、悪い。おまえの顔を見てたら、ちょっと照れるっていうか、何だこれ……」

 

「な、何よアンタ。まるで出会ったばかりのような初々しい反応して……」

 

「どうやら薬による効果は上書きが効くようですね」

 

「あー……浅葱。それで解毒剤はどうするんだ?」

 

「ああ、うん。そんなに急がなくてもいいかなって。ほら、人間、焦ってもいいことないし」

 

「いや、そうゆっくりしてられる場合じゃなさそうだぞ。ほれ、向こう……」

 

「え?」

 

「カレーを食べた生徒たちが、ちょっとおかしくなって、他人(ひと)の彼女を奪おうとしたとか、いきなり知らない子を口説き始めるとか―――って、おい! あそこで野郎に迫られてるのって、ペーパーノイ……じゃなくて、緋稲先輩!? ふざけんじゃねぇぞテメェ! 俺の先輩に言い寄ってんじゃねェ!」

 

「あ、基樹。あー、もう、こうなったら早く解毒剤を取ってきて」

 

「はい、古城、もう一個、チョコチップクッキーをどうぞ。今度はしっかりとわたくしを見て」

「だ、ダメです王女! ここは護衛である私に任せて」

 

「何やってるのよアンタらは!? ―――って、古城も、落ちてるチラシなんかじっと見て、どうしたの、よ?」

 

 

 

「決まってるだろ。恋人の俺が、“ハニー”の晴れの舞台を見に行くのさ」

 

 

 

「ああ、行ってしまいました……困りましたわね。紗矢華がチョコを食べさせ過ぎて、暴走してるみたいです」

「ち、違っ……だって、王女が何度も上書きしようとするから……!」

「ああ、もう! 古城に『B薬』――“惚れ薬”なんて、飲ませるから!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ここまでや、妖怪! 逃がさんぜよっ!」

 

「げ、げぇっ! 貴様ッ、斉天大聖ッ!」

 

 体育館のステージ上。

 女子生徒――姫柊雪菜が裂帛の気合いと共にモップの柄を振り下ろし、その先端を突き付けられた青年――南宮クロウが、やや大げさにバックする。

 中等部三年C組による演劇『西遊記』は、ちょうど中盤のクライマックスを迎えるところだった。雪菜は主役の孫悟空役、そして、クロウは猪八戒役。体育館の観客席は詰めかけた観客たちでほぼ満席状態である。

 

「おんしゃぁ何もんなが? なしてわしの名前を知っちゃうがか?」

 

「ち、訊かれたからには答えてやろう。我が名は猪剛鬣(ちょごりょう)、酒に酔った罰で月の嫦娥様にこの地上に落とされたが、かつて天界にあっては天蓬元帥と呼ばれた者よ! 弼馬温(うまかい)如き、我が馬鍬(まぐわ)の錆にしてくれるわ!」

 

「ほたえなや、ブタ公。返り討ちにしちゃるき!」

 

「ぶひーっ!」

 

 何故土佐弁? と観客たちは疑問に思う中で、役者二人は互いに手にした得物、モップと竹製の熊手を打ち合う。

 

 ちなみに、雪菜が着ているのは、担任の笹崎岬の普段着と同じ、ミニスカートのチャイナドレス。頭に付けた金の輪っかと腰の尻尾をオプションに付けることで孫悟空要素を取り入れている。当初はサルの着ぐるみを着てやる予定だったものの、それでは客寄せにならないと急遽変更になったのである。どちらにしても恥ずかしいことに変わりなく、ならば動きやすい方がマシだと、雪菜も敢えて文句は言わなかった。

 で、問題は伯仲した殺陣を魅せる孫悟空(ゆきな)猪八戒(クロウ)ではなく、その脇にいる……

 

「悟空ちゃん、早くその浮気者の八戒君を成敗して、三蔵法師の元に連れてきてほしいかな? かな?」

 

 演技とは思えぬ、真に迫った演技をする三蔵法師のお言葉。

 三蔵法師役は、暁凪沙。ちなみに、本当ならば三蔵法師役は僧侶の袈裟を着て、坊主のかつら(ハゲヅラ)を被る予定であったが、役者から乙女的な事情で修正されて、金冠をのせるだけとなっている。

 

旦那様(マスター)は、私の下に帰ってくださると信じています。何故ならば、旦那様は嫁の管理が必要な方ですから」

 

 常と変わらない無感動な瞳で、そんな声援を送る人工生命体(ホムンクルス)の少女。

 本来ならば、中等部三年C組に属さないアスタルテが舞台に上がるということはありえないのだが、どういうわけかどれだけ言っても頑固には傍を離れようとしないので、むしろ鎖をつけるまでエスカレートしたので、猪八戒の嫁である翠蘭役で押し通すことにしたのだ。メイド服のままであるも、そこは旦那の趣味という設定にする。準魔族な人工生命体の出演とあって、『流石は『魔族特区』』と観客受けもよかった。

 

 そうして、三蔵法師と翠蘭に挟まれながら、孫悟空と猪八戒が争っていたのだが、なかなか決着がつかず……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――百錬自得が成す、空間を抉り抜かんと唸る棍術。見るものの呼吸が止まり、相対する青年が奔る。

 

 

 交錯は、ほんの一瞬。

 青年が手にした竹製の熊手を少女は弾き落とす。が、青年はそれを足で拾い、器用に浮かして熊手を蹴り出した―――飛んだ先は少女の膝頭

 

 少女は、これを跳躍で躱す。足を狙ってくるのを一瞬先の未来視で判っていたなら、それを確実に避けられる。それから、左右に避けたり叩き落としたりして流れを止めては舞台上の躍動感が死ぬという判断もあった。

 しかし、そこでは終わらない。

 

 青年は跳んだ勢いのまま突っ込んでくる少女をあっさり避けて、あまつさえ、すれ違いざまに手刀を後頭部目がけて振るう。普通に考えれば、熊手を蹴り出した青年は小さからず体勢が崩れて回避は困難だったはずなのだが、この場合の身のこなしは格が違った。上半身の重心移動と片足のステップだけで、少女の斬り込みを悠々躱して見せたのだ。天性と呼ぶほかない、天狗じみた離れ業であった。

 そして、どちらかといえば、武器を使うより無手の方が断然強い青年。熊手を振るった時よりも圧倒的に速い手刀は―――霞んだ少女の幻影を払った。

 

 この青年との組手で、少女が身に付けざるを得なかった『精霊相撲』の如き、幻術の組み合わせの受け流す合気術。まるで仙法と言わんばかりに指一本触れずにして、青年を投げ飛ばした。舞台天井の照明近くまで高く、それも錐揉み回転しながら飛んで―――新体操選手ばりに青年は見事な着地を見せ、た……

 

 猪八戒ローリングスペシャル。10点。

 

「(どうして、今ので倒れてくれないんですかクロウ君!?)」

「(今のちょっとやり過ぎだぞ!? 受け身とれないぞアレ!?)」

 

 レベルの高い攻防に大盛り上がりの観客。しかし、決着がつかない。ついてくれない。

 

 この時、クロウも、そして、演劇までの時間、叶瀬夏音の懺悔室の手伝いをしていた雪菜も、『B薬』――MAR製の“惚れ薬”が出回っていたことを知らない。

 しかも、その“惚れ薬”は、あらゆる魔術に対して強い耐性を持つことで知られた吸血鬼の真祖もあっさり支配してしまえるくらいに効果がある代物。使いようによっては、世界のパワーバランスを崩壊させかねない、恐ろしく危険な薬品である。おそらく生半可な方法では、この強力な“惚れ薬”を無効化するのは不可能に近い。時間が経てば効果が切れるのかも怪しい。

 そして、その“惚れ薬”が混入したカレーを食べたものがふたり……(本当は三人であるが、“惚れ薬”が通用しない例外なので省く)。

 

「八戒君、どうして私のトコに来ないのかなぁ? ……そんなにイヤ、なの……」

 

「お、オレもそっちに行くべきだとわかってるんだぞ。台本忘れてない。本当なのだ!」

 

 身も凍るような恐怖を覚えさすその声音を出すは、三蔵法師。徳の高い説法でもこうはいかないだろう。近寄りがたいが、逆らうわけにもいかないという。真祖も落とす“惚れ薬”に内なる何かにも影響が出てるのだろうか。でも、そちらに傾こうとすれば、引き留める声。

 

「それはつまり、私を捨てて行ってしまうということなのでしょうか……だとすれば……私の存在価値は……私は……」

 

「お、落ち着くのだ! そんな追い詰めるようなことじゃないぞ!」

 

 自分の両手を見つめて震え始めた翠蘭(アスタルテ)を、猪八戒(クロウ)は懸命に宥めようと声をかける。

 なまじ表情が乏しいだけに、アスタルテ自身も“惚れ薬”による感情の乱れを上手く制御できずにいるらしい。このままでは最悪、精神崩壊を起こして、暴走する危険すら考えられる。

 

(う~、どうすればいいのだぁ……これって、オレが悪いのか?)

 

 行くことも退くこともできない現状。下手をすれば、両方とも闇(病み)側(ダークサイド)に堕ちかねない。肉体は成長していても、中身は子供のまま。ちょっと青年(クロウ)にはレベルの高過ぎる修羅場に内心泣きが入った、そのとき―――

 

 

「―――ったく、もう見てられねェなあ!」

 

 

 稲光のような閃光が瞬いたかと思えば、停電。

 そして、すぐ再点灯すると舞台上に、アメフト風のマスクを被った、マッチョなシルエットの変身ヒーローがいた。

 

 そうこれは、前日からやっているチャリティバザーで、偶然、売られていた『ナイトジョックス』の舞台衣装。

 テレビでやっている特撮ヒーローで、普段はひ弱なオタク少年が変身して、世界征服を狙うタイバッツ帝国のシゴキ獣と戦う特撮アニメ『ナイトジョックス』。『ナイトジョックス』の相棒(サイドキック)の覆面姿の女性ヒーロー『キューティビッチ』という、普段は清楚な優等生だけど実は猟奇殺人鬼で『ナイトジョックス』のストーカーが、チアガールをモチーフにした衣装は不安になるくらい露出が高くて、おかげで子供たちだけでなく、年齢層の高い大人たちにも人気がある。

 で、そのアメフト風のマスクを被り、派手なスーツに身を包んだ『ナイトジョックス』が、『西遊記』の舞台に乱入。

 孫悟空役の少女を背に庇うような立ち位置で現れた怪人は、もう変装してても明らかに、彼――雪菜の先輩にして監視対象の暁古城だ。

 

「あ、あの、先輩……」

「―――下がってろ」

 

 ここは俺に任せろ、と背中が語るよう。赤い手袋を嵌めたその拳が、漏れ出した魔力で、青白い稲妻に包まれており、その気迫が透明な壁をぐいぐい押し寄せるかのようなプレッシャー。

 まさか雪菜も参っていた、混乱したこの事態を解決せんとして先輩は颯爽と参上して―――

 

 

 

「俺は牛魔王! 猪八戒――恋人(ハニー)をいただきにきた!」

 

 

 

 ……彼が先ほど見た宣伝チラシは、孫悟空役と三蔵法師役の女子が写真出演するのは恥ずかしがって、ドーン、となぜか“猪八戒役の少年が大見出し(メイン)”であった。

 

 

「さあ、スイートハート! ここから先は、俺の“正妻戦争(ケンカ)”だ―――ぐはっ!?」

 

 

 と猪八戒(ハニー)へ飛び掛からんとする『ナイトジョックス』改め牛魔王。であるが、背後から後頭部を強襲したモップの先端が激突。舞台奥へと吹っ飛ばされた

 

「いいえ、牛魔王。あなたはすっこんでてください!」

 

 <第四真祖>である牛魔王から噴き上がる魔力は濃密であったが、今の宣言で一気に茫然自失して―――神懸った(スイッチ入った)剣巫はそれすら払拭せんとする霊気を放っていた。

 そして、舞台を混乱から更なる混沌に陥れて退場した先輩のおかげで、怒髪天を衝くモードな孫悟空(ゆきな)。最大のライバルは、この“ダークホース”だったのかと、霊力を纏わしたモップを狼狽える猪八戒(クロウ)へとむける。

 

「……なあ、よくわからんけど、やっぱりこれってオレ悪くないと思うのだ」

 

「ですが、これも先輩を正道に戻すためです。―――ここであなたを斃します!」

 

「ものすっごいとばっちりだぞ!?」

 

 ヤる気満々な孫悟空。身内にばらしてくれたり、恥ずかしい真似をさせてくれたり、あまつさえ、先輩にあれだけ強く求められるなど―――許してはおけない!

 武神具もなしの霊力開放に、空気全体が硬質化していった。直接に鬼気をぶつけられていない観客たちまでも気圧されたように騒めくのをやめる。避難しようにも、まともに手足を動かすことすらままならない。

 果敢に攻める孫悟空と逃げる猪八戒。一方で、他の舞台役者たちは。

 

「……そっか、古城君。そんなにもクロウ君のこと……」

 

 斜線を引いたように俯く顔に暗い陰のかかる三蔵法師。その電撃とかどうやってド派手な演出をしたのかは不明であるも、凪沙もまた雪菜と同じく、あの牛魔王の正体が兄だと勘付いた。勘付いたけれど、まさかあれほど大胆な告白を妹の目の前でしてくれたのは予想外であった。まさか母親お手製“惚れ薬”が原因によるものだと知らない凪沙はあまりのショックに、くわんくわんと左右に頭を揺らしながら、もう半ば現実逃避気味である。後々に説明があったのだとしても、彼女の誤解(トラウマ)がまた一段と深まったことは間違いない。

 

「いいえ、先輩は私が管理(まも)()ます。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>―――」

 

 孫悟空から庇うように、猪八戒の前に割り込んできた翠蘭。メイド服を着た人工生命体の少女の背中に、虹色の巨大な翼が広がった。それは一対の巨大な腕へと変化して、雪菜の行く手を遮ろうとする

 

「ダメなのだアスタルテ!? 眷獣使っちゃメッだぞ!?」

 

 舞台だけでなく体育館全体が激しく揺れる中、巨人の腕を抑えながら、剣巫の武技を躱すクロウ。敵味方に挟み打ちされる奇怪な状況で、アドリブでカバーできる許容限界を超えてる。この三つ巴の争いが続けば、待ち受けているのは確実な破滅だけだった。そして、何より最悪なのは、この乱闘の原因が、クロウを中心として発生した(ただし、彼は全く関与していない)事実だ。そんな馬鹿げた理由でこの彩海学園が壊滅したら、ある意味伝説に残るかもしれないが、正直たまったものではない。

 ―――そんな彼に救いの手は差し伸べられた。

 

 

 

「―――<(ル・ブルー)>」

 

 

 

 舞台上に涼やかな少女の声が響いて、青い甲冑を纏った騎士の幻影が現れる。無貌の騎士(フェイスレス)。古びた空っぽの鎧の中に、地獄の業火を封じ込めた悪魔の眷属。

 青騎士の抜き放った大剣が盾となり、半ば神懸って暴走気味な剣巫の一撃を受け止める。

 

「魔女の<守護者>!? あなたは―――!」

 

「やあ、久しぶりだね。正気に戻ってくれて何よりだ。君まで暴走してたら困りものだったよ」

 

 青騎士の登場に、驚愕の声をあげ、その拍子に神懸りが解けた雪菜。そして、その青騎士を従える、男物のジャケットを着た美しい少女。一応、舞台に上がるために顔を隠せるつば広の帽子を被っており、優雅な男役を演じるよう、大げさなほどに格好つけて、息を吹き返したように再びざわめきだす観客席の方へ振り返って、

 

「そうだね。ボクは、通りすがりの沙悟浄かな」

 

 人懐っこい笑顔で、ウインクまで決める。

 先ほどの牛魔王登場で混沌とした場の空気を、颯爽とした涼風が吹き抜けたような清涼感に、観客たちは呆けたように彼女を見つめる。

 そして、高く手を伸ばし―――その空間が揺らぐ。

 

 <蒼>は、元々戦闘向きの<守護者>ではない。だけど、空間制御の精密さには秀でており、例えばこんな芸当ができたりする。

 

 何もない虚空から沙悟浄が取り出したのは、フラスコ。そう、少しまでに完成したばかりの『B薬』――“惚れ薬”の解毒剤の入った。

 演劇の舞台である体育館から、解毒剤作成していた生物準備室の空間を繋げる。高難度魔術であるはずの空間制御を、魔女である彼女は、自在に操ることができるのだ。

 

「これは常温で気化する性質があるから、吸い込むだけで効果があるらしい。だから、これを大きく散らせるかな?」

 

「おう、わかったぞ!」

 

 転がっていた竹製の熊手を拾い上げる猪八戒。

 沙悟浄が放り投げて、床に落ちて割れたフラスコ―――そこにめがけて猪八戒は、生体障壁を纏わせ団扇と化した熊手を振り払った。

 

 ゴォッ!!! と。

 猪八戒の鈀は、『一振りで竜巻を起こす』といわれる武器。

 その伝承を猪八戒役の青年は“力業で成す”。

 

 フラスコから飛び散った液体は、不快な異臭が鼻に突く白い蒸気となって立ち上ったかと思うと、強烈な突風に煽られて、一気に体育館内、そして、彩海学園全体へと拡散していった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 “惚れ薬”騒動も沈静化し、『西遊記』の舞台もどうにか演劇の形で終わらせることができ、観客から『アクションもさるものながら、まったく予想のできない展開に次ぐ展開で、もはや『西遊記』の枠組みを超えた劇』と好評を頂いた。

 

 

 で、牛魔王の古城が正気を取り戻したのは演劇が終わって間もなくのこと、

 

「ハッ……俺はいったい何を……」

 

 舞台裏で目覚めた古城は、少し遅れて走馬灯のように脳裏を巡った“やらかした記憶”に頭を抱えた。“惚れ薬”に支配されていた間の出来事は、朧げながら覚えているようだ。

 

「あ、暁先輩……」

 

 傍で倒れた古城を看病していた後輩が、そんな古城に気付いて恐る恐ると声をかけてきた。ショートカットの快活そうな中等部女子は、暁凪沙のクラスメイトの少女で、

 

「ああ、おまえ、女バスの……」

 

「はい、進藤です。お久しぶりです。あの、その、頭、大丈夫ですか?」

 

 それはどういう意味で訊いてるのだろうか?

 

「あ、いえ、雪菜がだいぶ強く打ったみたいでしたし、ヘルメットみたいのつけてましたけど大丈夫かなと」

 

「ああ、そうか。いや、大丈夫だ。全然平気。心配かけちまって悪かったな」

 

 軽く頭を回してみせる古城に、進藤美波はほっと胸をなでおろす。彼女は雪菜の友人でもあるのだ。一方で、古城は彼女らに申し訳なさで胸がいっぱいになる。

 

「悪かったな。お前たちの劇、台無しにしちまって……」

 

 “惚れ薬”のせいではあるものの、それで古城が勝手に乱入してしまったことは変わりない。そんな気まずい表情を浮かべて頭を下げる古城に、わたわたとかつての後輩女子は手を振って、

 

「いえ、ちょっとアドリブ盛り過ぎちゃった感ですけど、成功しましたんで。はい、大好評でしたよ。それに、わたし、ちゃんとわかってますから……」

 

「そうか……」

 

 あの時、古城が正気でないことをわかってくれていた。

 理解力のある後輩女子に、古城は少しだけ救われたように胸に溜まるものを吐いて、

 

 

 

「先輩が、あんなにもクロウ君のことが好きってことが……」

 

 

 

 続くその言葉に、ぴしりと固まった。

 

 今回の『惚れ薬騒動』、情報を漏らせばパニックになると想定して、『B薬』については解決後も公表していなかったりする。

 で、『後輩の演劇舞台に飛び入り参加して、公衆の面前で高らかに告白した』―――そこに“惚れ薬”という極めて重要なキーワードが抜けた結果、後輩女子が行き着いたのは……

 

「待て、進藤。違う、お前が考えてるのは絶対に違うからな!」

 

「ごめんなさい、先輩。なんかちょっと涙もろくなっちゃって……」

 

 『憧れだった、ひょっとしたら初恋であった先輩が、最近気になりかけていた同級生を恋人(ハニー)と叫ぶ』なんてものを見せつけられれば、誰だってその幻想をぶち壊し。乙女として涙が出てしまうのは仕方がない。

 しかし、泣きたいのは古城もだったりする。

 

「……でも、先輩、あまり凪沙や雪菜を悲しませるようなことはしないでくださいねっ」

 

「おい! 頼むから話を聞け、勘違いしたまま行くな進藤ぉぉ!」

 

 涙の滴を散らして、離れていく後輩女子に手を伸ばすも、届かず。もう誰の言葉も耳に入らない乙女ワールド独走状態。煤けた抜け殻のような笑顔のまま、古城は、またぱたりと倒れる。

 

「忘れよう、ああ、今日のことは……全部忘れる」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ちょっと藍羽、今まで何やってたのよ?」

 

 

 『惚れ薬騒動』の後、ほとほとの体で教室に戻ってきた浅葱を出迎えてくれたのは、お化け屋敷の受付をしていた築島倫の叱責であった。すでにVRお化け屋敷ツアーの開場予定時刻は、30分ほど過ぎている。

 

「あんたがいてくれないと、ツアー始められないんだけど。お客さんも、ずっと待たせてたのよ」

 

「ごめん、お倫。こっちもいろいろあってさ」

 

 言い訳したい気持ちをぐっとこらえて素直に頭を下げた浅葱に、その顔がよほど疲れ果ててひどくみえたのか、築島もこれ以上は浅葱を責めたりはしなかった。

 客引きの甲斐もあってか、来場者数もそこそこ。教室の前には順番待ちの長い行列ができている。

 

 高等部一年B組の出し物は、仮想現実大規模多人数お化け屋敷(VRMMO)。暗幕で仕切られた教室内は、それだけではちゃちな“お化け屋敷ごっこ”に過ぎないが、

 しかし教室に設置された幻術サーバーが起動すれば、それは一変する。

 『魔族特区』の技術で投影される幻影の世界は、現実とほとんど見分けがつかず、そこで体感できる妖怪幽霊たちの存在感や恐怖も実物同然。入場者たちはそれぞれが、広大な廃墟に迷い込んだ探索者の気分を味わうことができるのだ。

 

 ただ難点なのは、幻術サーバーを動かせるのは浅葱しかいないということ。

 

 浅葱は幻術サーバーのオペレーター席に座り、ヘッドマウントディスプレイを装着。そこに映る――やや黒い靄のようなものが染みついているのが気になるけど――不細工なヌイグルミの形をとった相棒の人工知能(AI)に呼びかける。

 

「じゃあ、頼んだわよ、モグワイ」

 

『ああ……わかってる。わかってるぜ、嬢ちゃん』

 

 ギギッ、とどことなく邪悪な低い笑い声が浅葱の耳朶を打った。

 

 

 

つづく



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彩昂祭 夕の部

???

 

 

 終わっていた。

 根本的に、絶対的なラインで、救い、と言う言葉が浮かんでこない。そもそも、これまでの流れで誰かが死ぬなんて予兆はひとつもなかったはずだ。

 

「う、う……」

 

 吐き気が込み上げる。目眩が生じるのは、極端に赤い色彩の為か。

 それでも前方に目は釘付けになる。離せない。鉄が錆びたような濃密な臭気が、死体と同じ空間に自分がいる、繋がりを持ってしまってることを嫌でも自覚させてくる。

 

 見知らぬ洋館の一室。

 嵐の雨風に容赦なく打たれる薄暗い廃墟のような建物の中、光源は頼りなく揺れる蝋燭の火と、激しく瞬く稲妻の閃き。

 照らされる室内は荒れ果て、豪華な家具のほとんどは何者かに叩き壊され、床や壁には重い刃物で斬りつけたような無数な傷痕があった。

 

 そして、中央には折り重なって倒れる制服姿の学生たち。

 その中に見知った少女の顔。

 両目を大きく見開いたまま、仰向けに倒れて、古風なセーラー服の胸元にべったりと鮮血をこびりつかせる彼女は、      藍羽 浅葱。

 

「ウソ、だ」

 

 カラカラに乾いた喉の奥から、絞り出されるような声。それが自分が出したものだと自覚がなかろうと、状況は理解する。させられる。

 

 奇麗にマニキュアを施した十本指にも。

 滑らかな曲線を描く背中のラインにも。

 ゾッとするほど頭の中の記憶や思い出と合致する。してしまう。

 

「浅葱! しっかりしろよ、おい! 浅葱!」

 

 名前を呼んだのは、返事が欲しかったからかもしれない。

 何でもいい、自分の呼びかけに答えてくれ。

 でも、抱き起したときの弛緩した身体の冷たさ。そして、蝋のように白い肌に、生気は感じられない。これならば、まだ人形(マネキン)を抱いた方がマシであったか。

 

「死んでる……ウソだ……ウソ、だろ……」

 

 思わずその場にへたり込もうとして―――浅葱の死に顔がこちらを向いた。

 ギョロッと白く濁ったその瞳がこちらを睨み、死体であるはずの肉体が獣じみた唸り声をあげて牙を剥き、襲い掛かってきた。

 

「う、うわあああああっ!」

 

 凄まじい怪力で押し倒された古城は為すすべもなく悲鳴を上げ、そして床へと倒れ込む直前―――何かに、優しく抱きとめられた。

 

 

 

 

 

「―――ちょっと、古城、大丈夫?」

 

 その声と共に揺れる視界。

 暁古城にかけられていた3Dメガネ風のスマートグラスが乱暴な手つきで毟り取られる。

 徐々に覚醒しつつあるぼやけた視界の中で古城が見たのは、不安そうな顔で覗き込んでくる制服姿の、“死んだはずの”、浅葱だった。

 

「あ、浅葱?」

 

 ()の次に蘇ってきたのは、(みみ)

 あまりにも不自然な静寂の幕が取っ払われるのを確かに感じた。音。自分以外の人がそこにいる音。それが復活している。微弱だが、それでも自分の近くに人が生きている音を感じる。

 それも真正面。

 つまり、こちらを覗きこんでいる、血塗れもない、顔も白くない、いつも通りの華やかな顔立ちをした女子高生は、

 

「い、生きてるのか……?」

 

「当然でしょ。たかが学園祭のお化け屋敷に何を期待してるのよ?」

 

 そう、お化け屋敷。

 ここは廃墟の洋館などではなく、暗幕で仕切られた教室。そして、窓の外は『彩昂祭』の真っ最中。

 あのリアルな恐怖の館の風景は、スマートグラスをかけた人間の脳内にだけ投影される幻影―――つまり、古城たちのクラスの出し物である『仮想現実お化け屋敷』の幻術サーバーによって脳に疑似感覚を直接投影されたものであった。

 

 そして、幻術サーバーのプログラミングをひとりで担当したのはそこにいる浅葱であり、あの洋館や死体のデータを作製したのは彼女の仕業であることが導かれるわけだが、

 

「お前、趣味悪過ぎだろ」

 

「はいはい、あたしは大丈夫だからさ。ほら、よしよし、泣かないの」

 

「泣いてねーよ。ちょっと吐きそうになっただけで」

 

「何で吐くのよ!? ていうか泣け!」

 

 浅葱に理不尽にも頬を抓られる古城。

 けれど、先ほどのが夢であった本当に安堵したのは事実である。口になど絶対にしたくないが。

 

「まあいいわ。お腹空いたから、何か食べに行くわよ。古城も付き合いなさいよね」

 

「俺はいいけど、幻術サーバーってヤツの調整は大丈夫なのか?」

 

「一回起動させちゃえばね。モグワイに監視させてるからしばらくほっといて大丈夫よ」

 

 地道な宣伝活動が実を結んで、行列を作るほどの一般客も、サーバー管理者が持ち場を離れても人工知能(AI)におまかせで大丈夫だと。

 そう、すまし顔で答えてさっさと歩きだす浅葱、と彼女に手を引かれて、暁古城の『彩昂祭』午後の部が始まった。

 

 

彩海学園

 

 

 彩昂祭 一日目

 

 

 華やかに飾り付けられた彩海学園の校内は、島内外から訪れた関係者や、他校の生徒たち、中には超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)が混じってたりもしたが、とにかくごった返している。来場者を奪い合う各クラスの客引き合戦も次第に激しさを増しており、

 学園祭開幕直後の『惚れ薬騒動』も、結果的には、お祭りムードを盛り上げるのに貢献してたりもしている(ただ、少ないながらも犠牲はあり、ある兄は払拭しかけていた疑惑が再熱し、その妹は兄の衝撃的発言に同じクラスメイトの姫と讃えられる親友と一緒に『中等部の聖女』のいる懺悔室へと相談しに行ったり、またある人工生命体の少女は裏庭に借りた調整槽へと引き籠ったり……)。

 

 そして、先輩男子から衆目の面前で恋人宣言された(一応、後に事情は説明されている)肉体的に青年になっている少年は、身体を張ったアドリブでどうにか大盛況で終わらせた『西遊記』の後、歌劇団で主役を張れそうなほど麗しい男装の少女と共に行動していた。

 落ち着けそうな場所にと、彼らがやってきたのは校舎4階にある高等部3年生の教室。袴姿の古風な装いで女子学生が給仕をする、大正時代風の小洒落た装飾を施した正統派カフェである。

 

「それでお前はどうして『彩昂祭』に来たのだ? 古城君か凪沙ちゃんに会いに来たのか?」

 

 もぐもぐ口いっぱいにケーキを頬張る、青年ながらわんぱく少年の在り方を失わない食事風景。難しい話に脳の活力糖分摂取は重要である。

 

「まあ、個人的にはそれもあるけどね。もちろん、知人として親交を温めたい相手には、君も入ってるよクロウ君」

 

 南宮クロウの疑問に、仙都木優麻は残念そうに首を振る。

 

「<図書館(LCO)>残党の捜索を人工島管理公社に依頼されたんだ。それがボクの罪を不問にする代償ってわけ。曲がりなりにも元『総記(ジェネラル)』の娘として、それなりに組織の内情にも明るいしね」

 

 『真理の探究』という契約の対価に縛られた<書記(ノタリア)の魔女>仙都木阿夜が企てた『闇誓書事件』

 <書記の魔女>の娘にして、『闇誓書事件』の犯罪計画に加担した優麻は、公社預かりの身となっていた。

 

「それで、メイヤー姉妹のことだけど」

 

「?? ああ、昨日やってきた魔女のことか……?」

 

「そう。メイヤー姉妹の脱獄を調査するのが今回、ボクに与えられたお仕事だ。彼女たちの脱獄を手引きした協力者の正体が、まだつかめてなかったからさ。

 そこで脱獄犯の第一発見者にして、身柄確保した君にこうして会話をする機会を設けたわけだけど」

 

 そこまで言って、優麻は小さく溜息を吐く。特区警備隊(アイランドガード)に身柄を拘束されていた二人組の魔女<アッシュダウンの魔女>が脱走騒ぎを起こしたのは昨日。結局、何も起こせずして逮捕されたのだが、二人の脱走を手助けした人物については、今も謎のままであった。

 苦いコーヒーにぽいぽいとお砂糖にミルクを入れながら(茶の嗜みにこだわりをもつ主人がいれば説教もの)、青年クロウは首を捻る。

 

「んー……オレがあいつらから聞いたことは全部、ご主人を通して公社の方に伝わってると思うぞ」

 

「そうだね。メイヤー姉妹を出したのは誰なのか、それを推測できるだけの判断材料はない。でも、その協力者が、この彩海学園にいる可能性がある。それを確かめにここに来たんだ。こうやって目立たぬように、男装をしてね。まあ、ついさっき、ちょっと舞台に立ってしまったけれど」

 

 演劇に飛び入り参加する以前に、それが逆効果ではないだろうか。似合いすぎる優麻の男装は、老若男女お構いなしに人を惹きつけるだけのものがある。

 

「……それで良ければ、調査に協力してくれないか?」

 

 口に含んだ紅茶のカップを置くと、優麻は“前科”を引き摺っているような引け目ある声で、

 

「今回は君の主人に許可もとってあるし、君の希望もとるつもりだ。祭を楽しみたいのであれば、この話は断ってくれても構わない。だから」

「う。いいぞ」

 

 ごく素直に青年は頷いた。

 ぱくぱくむしゃむしゃ! とクロウはテーブルに残る食べ物を全部平らげると、早速、席を立つ。

 

「ん? 優麻、行かないのか?」

 

 魔導書で無理矢理操られ、主人を裏切る真似をさせられたというのに、この対応だ。あっさりし過ぎだ。ここまでされると、緊張感ある空気を持ち込んだ自分がアホらしくなる。心地良くもあるけれど、逆に心配になってしまうくらいの純粋さだ。

 

「いや、行こうか。……凪沙ちゃんに申し訳なくあるけど」

 

 只今、幼馴染(妹)は、懺悔室で親友たちに『幼馴染(兄)が、クラスメイト(男)に関係迫ってるんだけどどうしよう』と相談中。雪だるま式に周りを巻き込んで膨らんでいく誤解の連鎖。その最初のドミノ倒しの一押しが、まさか自分がかつてした行い――『幼馴染(兄)と入れ替わりしてからの脅迫勧誘』だとは魔女も思わない。

 

 優麻が残るお茶を飲み干そうと口に付けたカップを傾けた―――そのとき、

 

「曲者!」

 

 だんっ!! と言う鈍い音。

 教室の天井に、手裏剣に似た気刃が突き立っている。

 半物質化に固めた霊力を飛ばす霊弓術だ。

 

『ちゅ、ちゅぅ~』

 

 客に店員の学生らもざわめく中で、クロウが睨みを利かすと天井から鳴き声が。

 それにクロウは緊張を解いて、肩を落とす。

 

「何だネズミか」

「いやいや」

 

 少し見ぬ間に、霊弓術なんて言う高度な技術を要する芸当ができるようになっていたのは驚きであったけど、やはりその能天気なとこは変わってなかった。

 この子の幉を引くのは、予想以上に、と言うか、予想できないほど大変なのでは? と思い始める優麻。一応、会話が聴こえないようテーブル席を覆うよう結界を張ってあったけれど、これだけ目立っては意味がなくなる。

 

「コテコテな時代劇であるまいし、それで誤魔化されるとかないよクロウ君」

 

「こういうのお約束なんだろ?」

 

「そういうお約束は守らなくてもいいんだ。現実に、あんなふうになくネズミは存在しない」

 

「でも、獅子王機関の師家様も、ネコだけどあんな感じだぞ」

 

「知らないよ。もう……少し、借りるよ」

 

 嘆息し、熱でも測るようにクロウの額に手の平を当てる優麻。

 舞威姫が式神を飛ばして、そこから遠隔視するように感覚を術により共有(リンク)する。かつて、暁古城――<第四真祖>の肉体と空間制御の精密制御にて感覚互換させていたこともある<蒼の魔女>ならば、この程度の感覚共有は朝飯前だ。

 

(やはり、すごいな。彼の『嗅覚過適応(リーディング)』は、空間制御との組み合わせに適している。これだけ相性のいいのが使い魔(サーヴァント)としているなんて、同じ術を得意とする魔女として南宮那月が羨ましくなるね)

 

 感覚共有により、優麻はクロウの『鼻』が捉えた相手、その位置座標まで把握。そこに優麻が空間転移の『(ゲート)』を作り上げ、下手人を天井から教室へと落す。

 

「はうわっ」

 

 そして、優麻たちの目の前に現れたのは、純白のローブに全身を包んだ若い女。

 銀色の装飾を施した長剣を背負って、純白の頭巾で顔を隠す。ローブの下に着ているのは、ノースリーブに改造したミニスカートの軍服で、彼女の第一印象を簡潔に表現するのなら、間違った忍者のコスプレをした外国人、と言うべきか。

 そんな面白外国人が、教室の天井裏に潜んで優麻たちの様子を探っていた。

 

「へぇ……魔術迷彩」

 

 忍者モドキであるも、その装備は魔女の優麻も興味を引く。諜報(スパイ)が羽織っていた白いローブは、表面にびっしりと一読では難解な魔方陣が刻まれている。

 魔術的に人々の認識を阻害して着用者の姿を隠す、という極めて高度な軍用迷彩服。それも、そこからさらにひとつ機能を加えられている。

 

「むむっ? やっぱ、“匂い”が変と言うか、嗅いでるとよくわからなくなる」

 

 鼻を抓むクロウ。

 どうやら、『嗅覚過適応』の対策まで施してあるよう。これはますます警戒を高めなければと優麻が視線を険しくした、ところで諜報が慌てて弁明する。

 

「お、お待ちを! 自分に貴殿らを害する意図はありません!」

 

 そういって毟り取った頭巾の下から現れたのは、銀髪を短く切り揃えた軍人風の若い女性。20代の前半と言ったその顔に、隣でクロウが、あ、と声を上げた。

 

「ユスティナだ! もう怪我治ってたんだな!」

 

「はい。この通り。忍!」

「忍!」

 

 諜報とクロウが挨拶のように指を組んだポーズを取り合う。

 なにこれ? とそれを見ていた若い魔女は置いてけぼり。それを見て、忍者女は優麻に、懐から取り出した名刺を渡す。

 

「あ、アルディギア『聖環騎士団』所属ユスティナ=カタヤ要撃騎士であります<蒼の魔女>殿」

 

「これはご丁寧に……」

 

 本当に、アルディギア王家の紋章が刻まれ、そこに仕える騎士と名刺にちゃんと書かれてる。

 

「おー、流石グローバルなニンジャなのだ。オレもご主人に名刺が欲しいってねだったんだけど、『そんなの学生のお前には早い』ってくれなかったぞ」

 

「はっはっは、クロウ殿ならいずれ名刺を主より頂けるようになりましょう」

 

「う、頑張ってニンジャになるぞ!」

 

 ……本当、何だろうこれ?

 まるで憧れのスポーツ選手に出会ったかのような、瞳のキラキラ具合は?

 魔女にはついていけない世界であるも、彼らが知り合いであることだけはどうにかわかる。

 

「にしても、その服の匂いのせいで、ユスティナの“匂い”だとわからなかったのだ」

 

「そうでありましょう。これはクロウ殿の対策として調整された<隠れ蓑(タルンカッペ)>でありますから」

 

「ぬぬ、そうなのか。すごいな!」

 

「以前、酒宴の席でクロウ殿が『詩の蜜酒』に酔ったと聞きましてな。新たに『悪酔い』をさせる魔法陣を組み込んだのですよ。度数は70度前後の、グラス一杯も煽れば象でも倒れる。元々、追跡用の猟犬を撒くための魔術式としてありましたから」

 

「おー、道理でなんか酒臭いと思ったのだ。酔っ払いになるなんて、やっぱニンジャって、すっごい。参りましたのだー、ははーっ!」

 

「いえいえ、そう頭を下げないでくださいクロウ殿。こちらも認識は阻害できても位置まで誤魔化せぬとは、恐れ入ります。

 あと、私が酔ってるわけではありませんよ。職務中に飲酒するような真似はしてませんからね」

 

「そろそろいいかな?」

 

 コツコツと人差し指でこめかみのところを小突く優麻。

 なんか頭が痛い。ついさっき<黒妖犬(ヘルハウンド)>をサーヴァントにする先達が羨ましいとか思ってたりしたけど、それなりの苦労があるんだなと理解した。

 

「それで、カタヤさんはどうして、ボク達の会話を盗み聞きしてたのかな?」

 

「我が主からの命であります。昨日、主を狙う輩に、プライベート情報を横流しした黒幕をひっ捕らえよと。それで、公社より派遣された<蒼の魔女>殿に……」

 

 なるほど。

 メイヤー姉妹は、アルディギアの第一王女のラ=フォリア=リハヴァインに恨みを持っていた。そして、牢獄より出された彼女らが、その際に『北欧の姫御子が彩海学園へと向かう』という情報を与えられた。目的は未だに不明でもこれは、“ラ=フォリア、もしくは王族を狙った犯行”と、騎士団が警戒するのも無理はない。

 

「なので、出来れば私もご同行させてもらいたく」

 

「おーっ! ニンジャが仲間になってくれるのだ! 千人力なのだ優麻!」

 

「いや、そのクロウ殿? あまり、そう評価が過剰な……」

 

「オレもあれから分身だけでなく、隠れ蓑術とか、口寄せの術とか、手裏剣術とか、おいろけの術とかできるようになったけど、ニンジャのユスティナはきっともっとすっごい術がたっくさんできるのだ! なあ、ユスティナの忍法、優麻にも見せてやってくれ!」

 

「え、ええ、と……ニンジャの術とはそう見せびらかすものでは、ありません故に……」

 

「うぅ、そうなのか……残念だぞ」

 

「う……申し訳ありませぬ、クロウ殿……」

 

「うん。わかったわかった。そうだね。ニンジャのカタヤさんにも協力してもらおう」

 

 第一王女により高められた純粋な期待が、無茶ぶりであっても、その夢を壊さないようにするくノ一騎士。そんな苦労性なとこを見て、優麻はユスティナがきっと性根は悪い人間ではないのがわかった。

 で、周囲は依然ざわめいている。

 認識阻害の結界でも誤魔化せる限度がある。つまりは、認識阻害の結界によって、中途半端に会話が聴こえてしまっている場合もあったりする。

 そう……

 

 

 

「ネズミだとかネコだとか酒臭いとか聴こえた気がするけど、お話は終わったのかしら? それなら申し訳ないけれど、後のお客様がつかえてるから、早く出ていってもらえるかしら?」

 

 

 

 学生が営業する飲食店には、NGワードなそれらを静かな口調で並べていくのは、袴姿の女子高生。分厚い文学書ではなくケーキの作り方を解説した料理本を携える、三つ編みに小柄な女子生徒の眼鏡越しから来る、感情を圧し殺したような眼差しは、どこか同級生の姫柊雪菜を彷彿とさせるものがあり、クロウは無言でこくこくと首肯してしまう。そんな萎縮したところへ、クロウの知る先輩――矢瀬基樹が慌てて駆けつけてきた。

 

「緋稲先輩!? 落ち着いて! こいつは別に先輩の作る物がダメとかそんなこと全然言ってないから、穏便に……」

 

「あら、いきなり飛び出してきてどうしたのですか矢瀬くん。あなたの方が落ち着いた方が良くなくて?」

 

 恭しい口調で、矢瀬基樹の顔面から血の気を引かすこの目立たない女子生徒の正体は、獅子王機関の『三聖』のひとり。<静寂破り(ペーパーノイズ)>の異名を持つ日本最強クラスの攻魔師であったりする。

 

「ふふっ、このブラウニーでも食べて……あら、ごめんなさい。これは先ほど矢瀬くんが薬物混入してるだとか、“ダメだとか”騒いだものでしたね」

 

 そして、『惚れ薬騒動』に巻き込まれてたりする彼女は、いつもよりも少し?機嫌が悪かったりする。

 

「いや……だから、違うんだって、先輩! MARから流出した魔術薬品が製菓用チョコと入れ替わっていたのは本当だけど、それは……」

 

「つまりこれは人工島管理公社(あなたがた)の、獅子王機関(わたしたち)に対する嫌がらせと考えていいのですね?」

 

「なんでそうなるっ……!?」

 

 冷え冷えとした彼女の問いかけに、矢瀬は世にも情けない表情を浮かべて首を振る。

 そこで申し訳なく頭を下げていた優麻たちから、クロウもおそるおそる伺いながら、二人の会話に割って入る。

 

「う、なんか、ごめんなさいなのだ。でも、オレ、そんなこと言ったつもりじゃなくてな。ここで作ってくれたケーキは美味しかったのだ」

 

「……ええ、それならよかったわ。どう? これ、“矢瀬くんが食べてくれなかった余り物”だけど」

 

「いいのか! わーい」

 

「ちょ、クロ坊―――」

 

 ぱくり、と一口でいただくクロウ。美味しそうに緩んだ満面の笑みを見せる。薬毒耐性に関して、真祖をも上回る彼の胃袋ならば、“惚れ薬”も効かない。して、その周りに伝播するような純粋な喜びに、女子生徒の方も気を緩めたようで、眼鏡の位置を直したときには、発していた静かな鬼気もきれいさっぱりに失くしていた。

 で、

 

「矢瀬くん、後でふたりきりでお話ししましょう。私とあなたの今後の関係について」

 

 一方的にそう言い残して、三つ編みの少女が去っていく。それを為すすべもなく見送るしかない矢瀬。

 

「矢瀬先輩。もしかして、あの人が先輩の―――」

 

「はっ……ははっ、大丈夫さ。俺と先輩はラブラブだからな。このくらいで壊れたりするような絆じゃないはず」

 

 虚ろな笑みを浮かべながら、掠れた声でそう言う矢瀬。それは見るからに憐憫を誘うようなもので、後輩のクロウが気遣うように言葉をかける。

 

「ん。そうだな、あのひと、怒ってるというより、残念がってた感じだったな。きっと本当は、矢瀬先輩に食べて欲しかったのだ。むぅ、ますますごめんだぞ先輩」

 

「いや、いい。良い助言だったぜクロ坊。別れ話を切り出されるのかと冷や冷やしたが、おかげで希望が出てきた」

 

 こっちはいいから頑張りな、と後輩を不安がらせぬようとする先輩の矜持を見せて矢瀬はクロウ達を送り出した

 

 

彩海学園´

 

 

 『ベストカップルコンテスト(BCC)

 

 彩海学園で最もお似合いのカップルを決めるという趣旨の、一般参加型のステージ。

 カップルコンテストと言っても、あまり真剣さを求めてるものではなく、仮装OK性別不問で同性同士でも構わないゆるい企画である。

 

 おかげで集まっている参加者の大半は、受け狙いの同性カップルだったり、企画の趣旨を勘違いしているとしか思えない謎のゆるきゃら軍団だったり、つがいのニワトリを二羽を連れてきた生物部員だったり、はては美少女フィギュアを大切そうに抱えた模型部員まで、

 何と言うべきか……とにかくバラエティには富んだ顔ぶれである

 

「なによこれ。参加者はイロモノばっかじゃない!」

 

「しょせん中学高校の学園祭だしな……」

 

 腹ごしらえをしたり、店を冷やかしたりした古城たちは出場者が足りなくて困ってるという彩昂祭BCC推進委員会に誘われ、この『BCC』に参加することにした。

 しかし、やってきた出場者控室を見渡せば、ご覧の面子である。恥を忍んできちんと男女カップルでやってきたこちらが阿呆みたいではないか。

 

「ま、ベストカップルって言っても普通こんなもんだろ。どうする? やめるか?」

 

「やるわよ! 絶対に優勝賞品を手に入れてやるんだから!」

 

 優勝賞金は、学食の食券3万円分。更に並ばずに注文できるファストパスと優先ボックスシート付きである。

 予想を遥かに上回る豪華な賞品であって、それも食にこだわりを持つ学生を狙い撃ちしてきている。浅葱には喉から手が出るほどに欲しいものなのだろう。

 

「それにここまで来て、後に引けるわけないでしょ!」

 

「まあいいけど、この恰好じゃインパクトが弱くないか? ほとんどコスプレ大会だぞ?」

 

 浅葱の付き合いで参加したような古城は、あまりやる気がない口調でそれを指摘する。

 ウケ狙いが目的なのだから当然と言えば当然である。参加者のほとんどは趣向を凝らした衣装を纏い、女装や男装は当たり前、アニメやゲームの有名キャラに扮した連中も多い。逆に本気で優勝を狙っているガチなカップルの大多数は、互いの衣装を合わせたペアルックを決めてラブラブぶりをアピールする作戦を立てている。

 何にしても、制服姿の古城と浅葱では武器がなく、圧倒的に地味である。

 それならば、参加をしない方がマシではないか、と―――その時までは、古城はそう考えていた。

 

 

「うー、このBBQに参加するんだな凪沙ちゃん」

「違うよクロウ君。それはバーベキュー。あたしたちが出るのはBCC――『ベストカップルコンテスト』だよ」

 

 

 その聞き覚えあり過ぎる声に、古城の厳しいチェックが飛んだ。180度首を捻ったかと錯覚するくらいに古城の頭が、その声が飛んできた真後ろへと向く。

 そこにいたのは、マントもつけた如何にも王子様な服装をした青年と、華やかな水色のドレスを着込んで、ティアラまでのせたお姫様な少女。

 まるで『美女と野獣』の王子様と『眠り姫』のお姫様な組み合わせの仮装で現れたこの初々しい青年少女のカップルは……古城の妹と、後輩―――暁凪沙と南宮クロウだ。

 

 

「これで優勝したら食堂で使える3万円分のチケットがもらえるんだな」

「そうだよ。それから、『古城君×クロウ君』なんていう噂も吹き飛ばせるはず!」

 

 

 食にこだわりを持つ大食いキャラは、浅葱だけではなく。

 それから妹の心配は古城も共有するところだ。ここで男女カップルとして優勝すれば、75日待たずともこの変な疑惑も払拭できることだろう。疑惑を助長させてしまった古城も、それはとても助かる。

 

 が、

 

 

 

 つまりそれは、“妹と後輩がベストカップル”と言う噂で上書きするということだ。

 

 

 

 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あ。

 

「ヴぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!?!?!?」

 

「ちょっと古城……いきなり全力の泣き顔で叫んでんのよ? しかも、さっきの肝試しよりも反応デカくない……?」

 

 思考がほとんど真っ白に塗り潰される古城。だけど当然、思考を停滞させている場合なんかじゃない。

 訝しみながらも心配する浅葱を振り切ってダッシュで、ベストカップルコンテスト参加希望の中学生カップルの前へ立つ古城。

 

「お、古城君なのだ」

「え、古城君?」

 

「クロウ、お前が立つべきなのはBBCじゃなくて、BBQ。焼肉大食いコンテスト(BBQ)の会場はここじゃない」

「何なのだその素敵イベントは! どこでやってるのだ古城君!」

「ダメ、クロウ君! あたし達はBCCに参加するの!」

 

 ちっ、と耳を引っ張って相方の後輩の方向修正する妹に舌打ちする古城。

 しかしながらも、古城のでまかせな言葉に、耳をピーンと立ててブンブン尻尾を振る後輩の様子にひとまず安心。花より団子な後輩からして、どうやらガチのカップルと言うわけではないらしい。衣装には中々気合が入っているようだが……

 

「……それで、古城君も参加するんだ? もしかして、矢瀬くんと?」

「ちげーよ! どうしてこんなイベントに野郎二人で参加しないといけねェんだ! 浅葱とだ」

 

「ふぅん。浅葱ちゃんとかー。なるほどなるほど」

 

「あー、凪沙ちゃんにクロウ……それで、古城が……」

 

 暴走した古城のあとからやってきた浅葱を見て、凪沙は意味深に頷いてみせる。その妹の視線から逸らしつつも、相方暴走の事態を納得した浅葱は深く息を吐いた

 

「てなわけで、凪沙は出なくてもいいぞ。俺と浅葱でちょっくら優勝してくるから。そしたら、変な噂も消えんだろ?」

 

 その場合、古城と浅葱がベストカップルと言う噂が流れるだろうが、そんなのは矢瀬とか築島とかに事あるごとに冗談で言われてるので慣れている。

 

「えー……そりゃ古城君と浅葱ちゃんが仲良いのは知ってるけどさ、優勝するかわからないじゃん。だから、あたしもクロウ君と参加する!」

「ダメだ。コンテストに参加するだけでも妙な噂が立っちまうかもしれねーんだぞ! 絶対にダメだ!」

「いいじゃん別に。そのくらいあたしもクロウ君も平気だし、それに……うん、参加するのはタダだし、古城君にストップかけられる権限なんてないはずだよね」

「ある! 俺は凪沙の兄だ! だから、反対してもいいんだ!」

「そんな理屈は横暴過ぎるよ! いくら古城君でもそんな口出しは許されないよ!」

 

「―――あー、はいはい、二人とも落ち着いて」

 

 暁兄妹の口喧嘩に、やれやれと割って入る浅葱。

 

「古城、凪沙ちゃんとクロウが参加するくらいいいじゃない。学園祭のイベントなんだし」

「いやけどな浅葱」

「あんたがシスコンだってのは解りきってるけど、これはいくらなんでも心配し過ぎ。これ以上やるとしばらく口きいてもらえなくなるわよ」

 

 俺はシスコンじゃない、と言う古城の戯言を無視し、浅葱は反対側の凪沙らの方を向く。

 

「その衣装どうしたのよ? なかなか似合ってるじゃない。サイズもピッタリみたいだし。

演劇部から借りたの?」

 

「え、これは、演劇の衣装を作った時の余りを使わせてもらって作ったというか……」

 

「ふぅん。BCCが決まったのって『彩昂祭』の三日前だったらしいけど……随分と準備を頑張ったのね、凪沙ちゃん」

 

「も、もういいでしょ浅葱ちゃん!」

 

 ほらクロウ君いこ! と相方の後輩の手を引いて、ニヤニヤ笑う浅葱から凪沙は離れていった。

 それを見送ってから、今はこちらの忠告が効いて、歯軋りしながらも踏み止まってる古城に、浅葱は片目を瞑るポーズを決めて言う。

 

「確かにインパクトは大事よね。こんなこともあろうかと、あたしも用意しておいて良かったわ」

 

 思わせぶりにそういって、浅葱は教室から引き摺ってきたスーツケースを開ける。ケースの中にあったのは、豪華なレースをあしらった純白のウェディングドレスである。

 どこからそんなものを持ってきたのか、と一瞬驚く古城であったが、すぐに心当たりが思うかんだ。

 

「これってお化け屋敷用の仮装じゃねーか! 花嫁の幽霊役が着る予定だった……」

 

「ウェディングドレスはウェディングドレスでしょ。黙ってみればバレないわよ。それにこれくらい派手な衣装じゃないと、あのプリンスとプリンセスに負けるわね」

 

 ほら、古城の分、と浅葱は新郎が着るタキシードを無理やり押しつけてくる。

 確かに、BCCにブライダル衣装で出るというアイデアは効果的だろう。他の個性的なメンツにも負けないインパクトが出るはずだ。

 

「本気で凪沙ちゃんとクロウ君(あのペア)の優勝を阻止するにはこれくらいのことをやらないとね」

 

「……ったく、わかったよ―――この“ケンカ”、絶対に勝ちに行くぞ浅葱」

 

 負けられない“戦い(ケンカ)”がここにある!

 やる気が出てきたのは古城だけでなく、そこに火を点けるように挑発気に流し目を送ってくる浅葱もまた強力なライバル登場に燃えてきていた。

 

 

彩海学園

 

 

「きゃああああああ―――っ!」

 

 

 悲鳴が上がる校舎内。

 突然、現れた、ボロボロの布きれを纏う白骨死体。どこかの出し物の仮装ではなく、魔術によって仮初の生命を与えられた怪物だ。死体から漂う強い魔力は、常人ならば卒倒してしまいかねないモノ。

 『骸骨兵士(スケルトン)』。

 死体を媒介にした式神の一種だ。

 

「<鳴雷>ッ―――!」

 

 しかし、その程度、『剣巫』の姫柊雪菜に敵と感じるほどの脅威はなかった。呪力を纏った雪菜の蹴りが、『骸骨兵士』の頭部を粉砕。『高神の社』にて、『師家様』の縁堂縁が披露してくれた、『剣巫』並の戦闘力を有する『骸骨道士』ほどではない。多数で押し寄せようとも狭い空間に引き込んで一対一で相手できるよう戦術を考えれば雪菜一人でも捌けないわけはない。

 だが、問題は、誰が何の目的で怪物を送り込んできたのかと言うことと―――怪物は、『骸骨兵士』だけでない。

 

(くっ……『悪魔像(ガーゴイル)』!? そんなものまで……!?)

 

 全長4、5mにも達する金属製の彫像に『骸骨兵士』と同様に生命を吹き込んだ『悪魔象(ガーゴイル)』。

 雪菜の唇から血の気が引いた。素手での近接格闘を得意とする雪菜にとって、金属製の『悪魔像』は相性が悪い。また『骸骨兵士』たちに邪魔されて、『悪魔像』を無力化できるほどの強力な呪術を使う余裕もない。

 また他にもミルクを大気に溶かし込んだような霧状の魔物『亡霊(レイス)』に宙に浮かぶ火の玉『鬼火(ウィルオウィスプ)』まで、物理衝撃の通じない怪物が、次から次へと絶え間なく出現しており……

 

(<雪霞狼>さえあれば……っ!)

 

 この怪物騒動が起こる予兆を察知した時、雪菜は夏音や凪沙らと叶瀬夏音が行っている懺悔室にいた。彼女たちに付きっきりで警護するべきか迷ったが、それでも篭城戦をするにしても手元に武神具がなく、またこの状況で確実にトラブルに巻き込まれるであろう<第四真祖>こと先輩の様子も気になる。雪菜は懺悔室の前に怪物たちが中へ入らないよう自動迎撃するよう式神を置いて、助けを呼びに行くと言って懺悔室を飛び出した。

 焦る。

 置いていってしまった夏音と凪沙も、そして先ほどから常時貼り付けていた式神の反応が途絶えている先輩のことも。

 雪菜を急かす。ここで不利な『悪魔像』と戦闘するのは時間の無駄と考え迂回するか、それとも―――

 

「うわあああっ!?」

 

 またも悲鳴。

 それも今度は、同じクラスメイトの、高清水。尻餅をついた彼に、『悪魔像』が無造作に踏み躙ろうとする―――それに迷いを振り切り、雪菜は飛び出した。

 

「高清水君、逃げて!」

 

 クラスメイトを庇い『悪魔像』の巨体に打ち込む雪菜だが、彼女の素手の攻撃では『悪魔像』は微動だにしない。『悪魔像』がゆっくりと足を踏み下し、雪菜の表情が絶望に歪む。

 

 剣―――閃。

 

「忍!」

 

 強靭かつ疾風のように迅速な刃が鋼の巨体を抉る。抉る抉る抉る抉る抉る! 一撃二撃三撃四撃―――雪菜にも数えることはできない。舞うが如く、嵐の如き剣を振るう。

 剣鳴。響鳴。音楽のように。

 抉る。

 抉る抉る抉る抉る!

 恐竜さえ切り刻む卓越した剣技に、『悪魔像』を料理するのは容易いか―――その爆撃の如き剣の威力に、鋼の巨体は豆腐のように抉れ、見る間に小さく窪んでいき、

 

「イヤアッ―――!!」

 

 ぐっしゃあァ―――ッンっッ!

 

 壮烈な音ともに、身を削りに削られた『悪魔像』は脆くも崩壊した。

 

「大丈夫でありましたか、剣巫殿」

 

「は、はい……」

 

 『悪魔像』を屠ったのは、『波朧院フェスタ』で雪菜と会ったアルディギア『聖環騎士団』の要撃騎士ユスティナ=カタヤ。

 凄まじい。

 元より彼女は、『剣巫』の雪菜よりも高い剣術の技量を持っていた。それが今では、技量の鋭さだけでなく、非力な女性にはない野獣のような力強さまで備わっている。

 

 北欧の神話にて主神も策を弄して盗むほど極上の酒と言われる『詩の蜜酒』。それには、『飲めば誰でも学者や詩人になれる』という伝承がある。

 <隠れ蓑>にあたらに彼女に組み込んだという『蜜酒』の魔方陣は、猟犬の追跡を誤魔化すためだけに活用できるものではなく、伝承になぞらえて、“術者の願った才能を与えられる”ことにも応用ができた。

 『あれは、自分にできる』、とある種『神懸り(トランス)』のような自己暗示を強くする。これにより、本来は持ち得ないスキルも、短期間だけ女騎士は獲得できる。

 これにより、ユスティナは獣性のあるもののみが持ち得る攻撃特性である怪力を発現して、一時的に筋力を増幅していた。肉体面の付加は真似できないため、“模倣相手(オリジナル)”ほどの無茶はできないが、それでも瞬発的に使っていくことで、一刀一刀ごとの剣戟の威力を高めている。

 続けて出現する『悪魔像』もその怪力乱麻の剣閃で薙ぎ払い、『亡霊』や『鬼火』も『宝剣』の聖光に浄化される。雪菜もまた残る『骸骨兵士』を打ち倒していき、

 

「―――お望みの品はこれかな、姫柊さん」

 

 目の前の虚空から、教室に置いてあるはずの黒いベースギター用のギグケースが現れる。

 空間制御で雪菜に、この『第七式突撃降魔機槍』を届けてくれたのは、つい先ほど演劇の舞台で会った、無貌の騎士を従える<蒼の魔女>仙都木優麻。

 ユスティナの剣技が猛威を振るっている間に、気絶した高清水ら学生らを空間転移にて怪物のいない安全な場所へと送っている。

 

「優麻さん……」

 

「話をするのは、こいつらをどうにかしたあとにしようか」

 

「はい―――<雪霞狼>!」

 

 優麻の言葉に力強く頷くと、取り寄せられたケースの中から、雪菜は槍を引き抜いた。全金属製の銀色の槍だ。獅子王機関の秘奥兵器。魔力を無効化し、ありとあらゆる結界を斬り裂く破魔の槍。それ故、『骸骨兵士』や『悪魔像』のような魔術によって駆動する疑似生物の天敵である。

 

「いきます!」

 

 流れるような動きで槍を構えた雪菜。

 銀色の槍が放つ閃光が、凄まじい速度で『悪魔像』を刺し貫く。

 この場一帯の怪物たちがすべて撃破されるまで、それから数秒と掛からなかった。

 

 

彩海学園´

 

 

「お互いのことをどれだけ知っているかクゥゥーーーイズッ!」

 

 

 異様なハイテンションで絶叫するステージ上の司会者。

 校庭に集まった観客たちはそれにつられて高々と拳を突き上げる。

 そんなヤケクソ気味の光景を無表情で眺める新郎新婦、の仮装をした古城と浅葱。

 

「パートナーに対する深い理解は、理想のカップルの最低条件! と言うわけで、相方の身長、体重、生年月日に好きな食べ物、趣味や過去の恥ずかしい体験などを悉く暴露して、決勝の舞台に勝ち上がってきたチャレンジャーの皆様がこちらです!」

 

 タキシード姿の古城に、ウェディングドレスの浅葱。

 古城の予想以上に、ウェディングドレスと言うのは大胆に肩や背中を露出している。おまけに今の浅葱は髪をアップにしているので、白い首筋が思いきり露わとなっている。

 着替えの際、手伝いで浅葱が手の届かない背中のリボンを引っ張った時なんてグッと来た。激しい渇きを覚えて喉を鳴らし、直後に鼻の奥が熱くなり、突然の息苦しさ―――いつもの鼻血。そして、“いつもであれば”、冷静でいられなくなる衝動が襲い掛かっていたと確信するくらいにウェディングドレスの浅葱は奇麗で、艶やかだ。

 

 なわけで、最初のファッションショーのようなアピール対決でのインパクトは負けていない。

 

 だが、次の嫁運び競争のようなレース対決、相方を抱えてグラウンド3周走らされるのには、獣王子(クロウ)眠り姫(なぎさ)ペアのぶっちぎりのトップであった。古城も浅葱を抱えて懸命に走ったのだが、普通にグラウンド3週はきつい。当たり前にクロウに一周遅れされ、あわや二周遅れされるところであった。これでも凪沙のことを考慮してだいぶスピードを落としてくれていたらしいのだが、それでもあの後輩に体力勝負で勝てるのは、魔族や攻魔師も含めてこの絃神島に誰もいないのではないかと思える。

 

 そして、最後の相方の理解力が試されるクイズ対決では……

 

「な……何なのよ、このコンテスト……」

 

「勝ち残るために、大事なものをいろいろ失った気がするぞ……」

 

 勝ちに行くぞ、とイベント前に宣言した古城と浅葱はどんよりと虚ろな目つきで顔を見合わせながらボソボソと呻く。

 ガチで優勝を狙いに行った彼らは、コンテストに勝ち残るために、互いの知ってる相手の秘密を、群衆の前で晒しまくった。最後の方は質問に答えるというより、単なる暴露合戦となってしまったが。

 なまじ友人としての付き合いが長いのが、完全に裏目に出てしまった。

 とはいえ、多くの犠牲を払った甲斐あって、決勝に勝ち残ったカップルの中では古城浅葱ペアの成績は見事に逆転し、断トツの首位に立っている。二位の獣王子眠り姫ペアに30点差をつけて、三位以下にはもう100点以上の大差をつけて、優勝はこのままいけば固い。

 

 が、これはゆるい企画。

 なので、会場を盛り上げるために古今東西こういうイベントごとのお約束事をしたりする。

 

「それではいよいよ最後の問題、決勝に残った全ぺアへの質問です! ズバリ、彼女が今、キスをしてほしいと思っている場所はどこでしょう? 彼氏はその場所に実際にキスをしてお答えください!

 

 ちなみに、こちらの問題はラストチャンスと言うことで正解者には200点のボーナスポイントが与えられることになっております!」

 

「「はぁっ!?」」

 

 想定外のきわどい質問。

 一応、事前に質問の回答を提出していたけれど、まさかステージ上でこんな真似をされるとは思ってもみなかった。

 

「『まあ、お互いの合意の上ならいいんじゃない?』と言うことで、生活指導の笹崎先生の許可は頂いております」

 

 中等部のチャイナ教師は適当過ぎるのではないか?

 ああやはりあの人も担任のカリスマ教師の後輩でそれに通じるところがあるんだな、と妙に納得してしまう古城。

 

 いくらなんでも、3万円分の食券のためにこんな衆人環視の中でキスするとか抵抗があり過ぎるだろ。

 しかもこれまで恥を代償に積み上げた得点もほとんど意味がないとか。

 トップの古城たちと最下位ペアとの点差は、100点以上はあるものの、200点もないのだ。つまりこの最終問題を落としただけで、いきなり最下位転落の可能性すらありうる。

 これでは無難に手の甲あたりにしといて、わざと回避する選択肢も取り辛い。

 

「う。よし、じゃあやるのだ凪沙ちゃん」

「う、うんクロウ君……」

 

 なんて古城と浅葱が迷ってるうちに、二位は覚悟を決めた模様。腰に腕を回し、顎先に手を添え角度を微調整―――ロマンチックにも眠り姫の物語通りに唇にするつもりか獣王子!

 

「さあ、残り時間、15秒です。答えをどうぞ!」

 

 古城たちが猛抗議しようにも司会者はさっそくカウントダウンを始めてしまう。

 ここは空気をぶち壊しにしてでも、殴り込むべきか。

 いや、ここで二位ペアの回答を実力行使の手段以外でストップさせるのは簡単だ。首位がどこよりも早くこのラストチャンスをものにして、回答の意味をなくしてしまえばいいだけだ。キスしても勝てないとわかれば、向こうも流石にやめるだろう。

 しかし……

 ぐぬ、と奥歯を鳴らしながら動きを止める古城。

 そんな古城の両頬を、浅葱がガッと鷲掴みにする。そして、グイッと力任せに古城の顔を自分に向けると、彼女はゆっくり顔を近づける。

 

「お、おい……浅葱……」

 

 緊張でかすれる古城の声。

 目を閉じた浅葱の長い睫毛が揺れている。ほんのりと桜色に染まる白い頬。そして、息がかかるほどの至近距離に、柔らかそうな彼女の唇がある。

 

 なにも、これが初めてじゃない。

 そう、あの『黒死皇派事件』が終わった直後に、古城は浅葱にされた。少し耳のピアスを見てくれ、と顔を近づけたところを不意打ちで……

 『じゃあ、そういうことだから』とした後に、彼女は言った。それは『仮面憑き事件』の終わった後にその意味を問いかけた古城に、あんなのは挨拶だと返してくれたが……

 もし、ここで二度目をするのならそれは、もう挨拶ではなく―――

 

 

 

 

 

 しかし、唇に触れる寸前で、浅葱は止まる。ぱっちりと目を開けて、古城から離れた。

 

「なーんてね」

 

 どこか満足げな口調でつぶやく浅葱は、大げさに肩をすくめる。その浅葱に古城は混乱したような表情で見返す。

 

「あ、浅葱?」

 

「もういいわよ、古城……“これって、現実じゃないんでしょ”?」

 

 気づいていたのか!?

 そう、この『彩昂祭』は現実じゃない。それを古城が確信したのはこのイベントに参加を決めてすぐのことだ。

 まずウェディングドレスに着替えている浅葱を見たとき、鼻血を出すほどの興奮に見舞われながらも、吸血衝動が起きなかった。その時に古城は、自分の体に起きた異変を悟る。

 そして、次に浅葱を抱えてのレースで、全力を出しても一人の少女を抱えてグラウンド3周がきつかったことに古城は、確信した。

 

 今の古城の肉体からは、吸血鬼の力が失われている。

 

 そして、これと同じ現象を古城は前にも一度体験したことがあった。

 

「何驚いてるのよ。うちのクラスの幻術投影サーバー、誰がプログラムしたと思ってるの? そこそこ楽しめたから、まあいいけどさ―――ただちょっとそれはやり過ぎ」

 

 驚く古城を見上げながら、尊大に笑ってみせる浅葱。きっと彼女は古城よりも早く異変に気付き、事態を推理し終えていたのだろう。

 古城から離れた浅葱は、同じく寸前でキスをやめた凪沙とクロウを見やる。

 

「あんたの仕業にしちゃ、こんな失態を犯すなんてね。ま、あれを計算しろというのはあたしでも無理があるけど」

 

 また、あの後輩は、都会に住んでいるのに原始的。触っただけで電子機器がショートしてしまうこともありえるという相性の悪さ。今時の学生にしては携帯機器を常に持ち歩くようなことをしないというのだから、“あいつ”には接点が少ない。だから、情報の更新が遅れてしまうのも仕方がないだろう。

 

「? さっきから何を言ってるのだ浅葱先輩」

 

 コンテストの司会者や観客たちも静まるこの状況においてなお問いかけを投げてくる後輩―――いや、“クロウ”は、推理小説に出てくる追い詰められた犯人役のようだ。だとすると、古城は間抜けな助手役であり、そして、探偵役は、間違いなく藍羽浅葱だ。

 

「あのね。クロウは“昨日、青年に(でかく)なったのよ”。成長期に入ると随分と大きくなるものね。それで、“三日前の少年だったころの体型で作った仮装(ふく)”が入るわけないじゃない」

 

 『西遊記』の道士服は、猪八戒という肥満体の役作りの予定で、中に詰め物をするので、ゆったりとした服装であった。だから、すぐに調整して合わせることができたという。

 しかし、王子様の礼服なんているかっちりとしたものにそんなすぐできる余裕があるわけがない。

 服は短く合わせるより、丈の足りないものを長くする調整は至難だ。長すぎればそれを切って合わせることもできるが、短いのならそれはできない。繋ぎ合わせて伸ばす、しかしそれはとてもうまくやらなければ不恰好になってしまう。

 暁凪沙は、確かに家庭的な女の子だ。裁縫も得意だ。けれど、衣服を縫う仕事をする職人(プロフェッショナル)にはとても及ばない。

 今、“クロウ”の来ている服は、縫い痕のなくそれでいてサイズがぴったりの、完璧なものだ。

 

「それから、今のクロウが凪沙ちゃんにそんな強引な真似は出来ないわよ。あの子は私たちが思ってる以上に大切にしてるの。いくらコンテストでもそんな風に流されるのは不自然極まりないってわけ―――だから、それ以上はいくら何でも見ておけない。あの子たちの尊厳を汚すのは、許さないわよ」

 

 『惚れ薬騒動』で校舎内に『B薬(チョコ)』を探し回っていた浅葱は、偶然にも“そのやり取り”を目撃した。

 乱暴にしてもいいといった少女の告白にそれでも固辞したあの子の想いを浅葱は見ているのだ。

 

 だから、こんなにも浅葱の好都合で進むわけがない。

 

 あの子は優しいとは少し違う。

 優しい、とは言い換えれば、自分にとって都合のいい、問題を起こさない、使い勝手のいい人物を指すものだろう。

 で、あの子は、間違いなく都合がいいわけなく、問題もたくさん起こす問題児で、その主人で担任の頭もしょっちゅう悩ます、使い勝手なんて言ってられないくらい面倒で手間のかかる子だ。

 ただ、純粋で利害の計算する必要のない、肩の荷を下ろして本音で話せる貴重な相手である。

 

 だから、この浅葱に優しい“クロウ”の正体は―――ひとりしかいない。

 

「この世界、さすがに都合がよすぎるものね。まるであたしの望みを、そのまま実体化させたみたいに。あたし以外にそんなことができるとしたら―――それは、“モグワイ”、あんただけよ」

 

「『ギギッ……』」

 

 “クロウ”が、邪悪な笑いを返す。それが答えのようだ。

 浅葱に“優しい”その相棒なら、引き時を見誤ったりしないのだろう。

 答え合わせしてすぐ、周囲の景色が変わった。

 ステージ上の司会者も、校庭に集まっていた観客たちも、そして、強力なライバルにして後押し役(サポーター)だった獣王子眠り姫ペアも消える。

 

 

 結局のところ、最初の肝試しから暁古城は“夢”から覚めていなかった。

 覚めたと勘違いした古城が、浅葱と回った『彩海学園´』は、すべてがこのモグワイが仕込んだ“夢”。

 そして、まだ……

 

 

 世界が崩落するようにすべてが消え去って、残されたのは、出入り口のない、完全密室の教室。

 教室の中央正面――教壇の上に置かれた作動中の大型コンピューター。その隣で見知らぬ仮面をつけた少女が、古城と浅葱を見下ろし立つ。

 

 

『ギギッ……』

 

 

彩海学園

 

 

 リディアーヌ=ディディエ。

 『北海帝国』の属州のひとつネウストリア出身の孤児であったが、欧州の軍事企業ディディエ重工に引き取られ、そこの養子として英才教育を受けたエリート・チャイルド。

 そうして、まだ小学生ながらも、ディディエ社の試作品である対魔族用一人乗り戦車<膝丸>の専属プログラマー兼テストパイロットに選ばれた。重度の広所恐怖症であるリディアーヌ=ディディエには、それは好都合であった。四六時中この有脚戦車に騎乗していると、その正体を見た者はいない雇われハッカーと噂され、いつからか『戦車乗り』と呼ばれるようになり、

 その防御と迎撃に優れたハッキング能力を買われて、この『魔族特区』絃神島の人工島管理公社保安部にてハッカーのアルバイトをすることになった。

 ―――そこで、彼女は出会う。

 自分のように造られた天才ではない、<電子の女帝>という本物の天才に。

 

 

 

「不覚を取ったでござる」

 

 赤い装甲に覆われた超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)。車内で膝を抱える推定年齢十二歳前後、燃えるように赤い髪を二つに結んだ外国人の少女。身体にぴったりとフィットした彼女のパイロットスーツには、『でぃでぃえ』と書かれたゼッケンが縫い付けられている。

 彼女は、リディアーヌ=ディディエ。同じアルバイト仲間の藍羽浅葱が通う学園祭を覗きに来て、彼女が手掛けた幻術投影サーバーの技術を盗みに来ようとした彼女は、“制御不能の”車内に閉じ込められることとなった。

 この状況を打開するには、ハッキングして制御権を取り返すか―――いや、それは不可能だ。自分がこの状況で、彼女には勝てないことはやる前からわかっている。

 ならば、残るは、この市街戦用の超小型有脚戦車にして、対魔族戦闘用の試作兵器を、電子世界ではない現実で、物理的に撃破するしかない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 窓の外の景色は夜に変わり、一日晴天の天気予報だったのに激しい雨風が吹き荒れる嵐に見舞われる。

 

「―――シンディ、いいんちょ、伏せるのだ!」

 

 暴風雨に襲われた夜の廃校舎。怪物に囲まれる女子生徒に飛び込む人影。

 阿鼻叫喚の混乱の最中、彼は収束のため迅速に働いていた。

 

「オマエら、お祭り騒ぎもほどほどにするのだ―――」

 

 『骸骨兵士』の群れを一蹴し、『悪魔像』を粉砕する。剣巫に素手での白兵戦では分が悪い、まともに殴れば拳が割れるといったその鋼の巨体相手に、その豪力は“触れずして壊す”。

 

 パン! パパン! パパパパパパン!! とすれ違いざまに弾ける衝撃。

 ある方向にかかる力は必ず逆方向に同じ力が働く。『作用と反作用の法則』だ。強大な力の反作用はいずれ身を滅ぼす。

 故に、クロウは一点に集めた力を、それだけを一瞬、“置く”――“切り離す”。

 打撃力を加算する衝撃変換の攻魔師の白兵戦術を身につけた末にできた、全力の寸止めが生み出すのは、あえて言うなら、力の残像。

 銀人狼となってから可能な獣王の四つの秘奥そのひとつの空を断つほどの遠当ての、簡易版のバリエーション。飛ぶこともなく射程範囲は狭く、破壊力も劣るけれど、人間時にも連発ができ、肉体への負荷衝撃も少ない。

 また攻撃しても反動がないためノータイムですぐに行動できる。つまりは、移動しながらもスピードを落とすことなく物理衝撃を叩きこむことができる。

 

「忍法手裏剣術! ―――<火雷(ほの)>!」

 

 時に、『亡霊』や『鬼火』といった物理衝撃を透過してしまうような相手でも、霊力を固めて飛ばす霊弓術手裏剣と魔力を咆哮にして発して吹き飛ばす。

 

「今のうちにあっちから学校から出るのだ。オレが通ってきた方は片づけてきたから、怪物(あいつら)も少ない」

 

「でも、クロウ君は……?」

 

「オレは、このお祭り騒ぎをやめさせる」

 

 助けられた女子生徒、クラスメイトである彼女たちについているのが一番なのだろうが、事態を解決するには個人に張り付いてるわけにはいかない。

 

「大丈夫、なの……?」

 

「う。いいんちょ、シンディ、こいつらは怖がらせるだけで、あまり襲おうとはしてこないみたいだ。でも、攻撃とか威嚇したら、反撃してくる。だから、余計な刺激を与えなければ逃げられる、捕まっても暴れたりしないでじっと我慢するのだ。いいな?」

 

「う、うん。わかったよ、クロウ君……その、頑張ってね」

 

「ん。まかせとけ」

 

 女子生徒の避難誘導が終わると、クロウは一度鼻で深呼吸。そして、強く異臭を放つ方角へと険しい顔を向ける。

 

「……やっぱり、この“匂い”はあの時と同じだぞ」

 

 事態の早急な混乱収拾のため、足の速い南宮クロウは一時優麻たちと離れて単独行動を取っていた。

 それでも優麻と連絡を取り合って、意見を交換して、この事態の原因に結論を出している。

 

 これは、『波朧院フェスタ』の夜に起きた現象と同じ。

 <闇誓書>によるものだ。

 読み手の思いのままに、世界を書き換えるという強大な力を秘めた魔導書。

 かつて優麻の母、仙都木阿夜がこの学校を起点として世界を自分の望むままに書き換えようとした。

 十年前の光景を再現したり、ありえたかもしれないIFの可能性の世界を実体化したりなどと。現存する数多くの魔導書の中でも、破格の威力を秘めた危険の書物。

 

 とはいえ、<闇誓書>はもうその原本は存在しない。他でもないクロウの主人である<空隙の魔女>南宮那月が十年前に焼き捨てた。その内容を知るのは、主人の記憶野しかにしか残されておらず、それを『固有堆積時間操作』の禁書級の魔導書『No.014』により回収した<書記の魔女>が複製(レプリカ)を再現した―――だけど、それも消滅させたはずだ。

 何より動かすには、多大な魔力が必要で、そのため星辰の配置に気を配らなければならなかったはず。だから、<書記の魔女>は十年もその<闇誓書>を動かすに最適な時期を待ち続けたというのに……

 

 だけど、こうして現に世界は書き換わりつつある。

 

 そう、『恐怖の館(ホーンテッドハウス)

 先ほどクロウが進藤美波や甲島桜に忠告した通り、危害を加えずに怖がらせるだけで生徒を傷つけることを目的としていない。

 まるで、遊園地のアトラクションのお化け屋敷のよう。そうだ―――

 

「む。そういえば、向こうは古城君たちの教室がある方なのだ。確か、ぶいあーるえむえむおーとかですっごいお化け屋敷だったけ?」

 

 思い出そうとうんうん頭を捻りながらも、クロウはその答えに近づいていた。

 夜の廃校舎。そして迷い込んだ生徒たちを脅かすためだけに、不規則に出現する怪物たち。その構造は、まるで、ではなく、お化け屋敷そのもの。

 どうやら<闇聖書>の所有者(オーナー)は、『お化け屋敷を現実空間で再現すること』。何とも奇妙な話ではあるものの、この説明が一番しっくりとくる。

 

「とにかく、こっちの方だな」

 

 不気味な模様替えはされてるけれども、校舎の構造は元の彩海学園と変わっていない。

 実体があろうとも、“匂い”のしないこの幻影世界の怪物にクロウは惑わず、また怪物程度では足止めにならない。このままいくと単純明快の思考で、最短距離で答えに行き着きかねない。そのため、黒幕は手を打ってくるのは早かった。

 

「む……? これもお化け、か?」

 

 薄暗い廊下を走り出すクロウは、その突き当りで待ち構えていた金属の塊を視認する。

 全身を赤い走行で覆った、見慣れないお化け、ではなく、乗り物。

 全長はせいぜい軽自動車程度で、全体的なシルエットはリクガメに似ている。太くて短い四本足の先端は滑らかな球体になっていて、それらが回転することで、360度自由な向きに移動できるようになっているようだ。

 そして頭部にあるべき場所に装備されているのは、大口径の榴弾砲。

 

「前に見た<ナラクヴェーラ>になんか似てる気がするけど……ん」

 

 して、その強化プラスチック製の真紅の装甲板、そのリクガメの甲羅に当たる位置に拘束用ワイヤーで縛られ、張り付けられているのは、クロウが探そうと思っていた人物。そう、VRMMO用の特殊なゴーグルを装着した暁古城がいた。

 

「……また古城君が巻き込まれてるぞ」

 

 さすがの後輩も呆れた独り言をつぶやいてしまう。

 囚われた古城は、心ここにあらず、身動ぎもせず、まるで眠っているよう―――そう、<監獄結界>にその本体を眠り続けている主人と同じように、暁古城の意識も幽体離脱の如く別の場所へとあるのだろう。

 そちらの意識の方も回収しないとならないだろうが、なんにしても、その本体も確保しておかなければまずい。

 

『ギギッ』

 

 しかし有脚戦車はその思考に行き着くのを待ち望んでいたように、クロウが結論付けた直後、四脚の車球が回り出す。

 

 市街地における対魔族戦闘を想定して設計された、有脚戦車<膝丸>。

 その機動性は高く、多少の段差や障害物は余裕で乗り越えるし、場合によっては垂直な壁すらよじ登って見せる。瞬間的な最高速度は、120km/hにも達し、建物の密集した都市圏において、この機体に追いつける者はいない―――そう、ディディエ重工の開発者は豪語する。

 

「む。廊下をそんなに速く走っちゃダメなんだぞ!」

 

 囚われの姫ならぬ先輩を追いかけようとするクロウに、戦車の外部スピーカーから警告が飛んだ。

 

『ダメでござる! 今、<膝丸>は拙者の制御から外れておる! 迂闊に近づけば迎撃されるでござるよ!』

 

 時代劇の侍を連想させる、奇妙な言葉遣い。

 ぬ、まさかこれはサムライなのか、と頓珍漢な方へ思考が飛んだクロウへ、主砲の照準が合わせられる。

 

『くぅ! 武器の安全装置もすべて外れているでござるよ! 拙者にはどうすることもできないのでござる!』

 

 人間、または人間社会に生活する魔族にとって、銃弾は恐ろしいものだと認識されるものだ。

 未知だから有利に不意打ちできるのではない。既知だから戦わずして威圧できる。

 使わなくても、わかる。

 だけど。

 クロウは無視して追いかける。

 

「警告してくれてありがとな。でも、古城君は返してもらうぞ」

 

 簡潔に。

 目的を、宣言する。

 

「それに壊すのは得意だし、オレの体は結構頑丈だ」

 

 言葉はない。生身単身で兵器に挑む、青年に気を呑まれた。

 そうして、始まるのは戦車と人間の追いかけっこ(デットヒート)

 

 一歩分近づく。

 狭い校舎内といえど、有脚戦車は速度を落とすことなく、加速し続ける―――それに迫る青年。

 二歩分近づく。

 戦車の脚部に内蔵された走行用モーターは、赤熱し始めるほどに速度を上げる―――それでも青年から逃げ切れない。

 

『相対速度マイナス86.6m/s。接触まで推定7秒』

 

 速い。

 この小回りの利く高速機動可能な有脚戦車に追いつこうなど、冗談みたいだが、車外カメラに映る映像に、その青年の像は小さくなるどころか、大きくなりつつある。

 いや、近づくだけでなく、実際にその体が大きくなっているのだ。

 人型から、銀人狼へと。

 獣化を果たして跳ね上がった脚力は、有脚戦車にさらに接近を許す。

 

 三歩分近づく。

 そこで、ついに動いた。

 ドンッ!! という腹に響く強烈な破裂音。

 接近する相手へ榴弾砲。避けきれない。戦闘補助人工知能(AI)が導き出した最適解。

 そのはずだった。

 だというのに、カメラ越しの画像に、銀人狼の身体が揺れたかと思った時には、既にその体が消失していた。人型を倒すのに適した面で制圧する榴散弾全ての射線から逃れる。獣化となってその獣性を解放した、その強靭な肉体でもって強引に受け止めるような真似もしない。ただ避ける。

 つまり、いくら砲撃しようにも相手の身体は“停滞しない”。

 停滞することを厭う疾風のように銀人狼は疾駆する。

 

『な……?』

 

 お飾りだけの騎乗者(ライダー)は、砲撃しても止まらない銀人狼に唖然とさせられる。

 

 どうやって避けた?

 砲口の向きから射線を先読みした―――いや、それは無理だ。ランダムに飛ぶ散弾を咄嗟に予測することなど不可能。それに砲口を向けても、どのような種類の砲弾を使うかはわからないはず。だから、絶対に初撃に対する反応は遅れなくてはおかしいのに。

 それでも避けた。

 一発も当たらなかった。

 

(つまり……つまり、先読みして避けたのではない。実際に飛び出た砲弾を、目で見てから避けたとでもいうのでござるか!?)

 

 何をどうしたらそんなことができるのか! そんなのいくら獣人種でも無茶苦茶すぎる!

 ようやく認識の周回遅れを脱したと思い込んでいた少女であったが、やはり彼女は経験不足であった。

 今、この場において重要なのは、細かい理屈の検証ではない。

 常識外れの化け物に追われているという事実。どうやって逃げ延びることができるのか、ということへ全思考能力をフル稼働させなければ無理な相手。

 つまりは。

 現在、自身から操縦権を奪われている<膝丸>に、この相手は務まらない。

 

 そして、この砲撃でさらに学習能力を働かせたか。ただ直進するイージーな標的では、次からは榴弾砲が捉えるたびに、次の瞬間には消失している。有脚戦車に搭載れた四門の対人機関銃が火を吹かんとするも、補足すれば、見失い、捕捉すれば、見失い……その繰り返し。合計五つの砲門が、一度たりとも安定して照準を続けることを許さず、引き金を引くチャンスを与えない。速いだけではない、むしろこちらの動きが読まれている。

 

『―――発煙弾投射。<電撃地雷(スタンマイン)>、装填(ロード)。散布開始』

 

 人工知能が選択した兵装。

 そのディディエ重工・絃神島ラボで開発された発煙弾は、呪術による追跡や獣人種族の嗅覚を阻害する特別製。そして、<電撃地雷>には平均的な魔族を半日程度、昏倒させる威力がある。いかに並外れた身体能力を持った追跡者といえども、そうたやすく乗り越えられる妨害ではないはずだ。

 

 ―――それを振り切る。

 

 攪乱煙より飛び出したところを、校舎内で弾けた電雷に呑まれた銀人狼。

 その全身へ容赦なく直撃した、オゾン臭を漂わせる<電撃地雷>。

 けれど、半日どころか、半秒ももたない。

 

「ビリビリには慣れてるのだ」

 

 理解したのは、ひとつ。

 人間の身体構造を基準にすべての生物を測られてもそれは無理があったということ。

 

 この有脚戦車という狭い世界に閉じこもっていたエリート・チャイルドが、外の住人によって世界が広いと思い知らされたのは、これで二度目だ。

 

「―――捕まえたぞ」

 

 その声は外部の音を拾うマイクからではなく、天井越しに聴こえた。

 ついに、有脚戦車の直上に乗りかかったのだ。

 突然にかけられた荷重に有脚戦車の球体ホイールが、路面のグリップを失ってスピンする接地した腹部装甲が、廊下を削って火花を散らした。

 

 有脚戦車は強引に回転して、振り落とそうとする。普通の人間ではけして耐えられないであろう急激な加速。だが、銀人狼は平然と有脚戦車の背中に張り付いたままで、暁古城を車体に縛り付けている鋼線(ワイヤー)をぶちぶちと引き千切っている。

 そこで、銀人狼は車内より少女の苦悶の声を拾う。

 

「ん。おい、大丈夫か?」

 

 こんこん、と装甲をノックする。返ってくるのは、微かな息遣い。

 暴走する戦車の中に閉じ込められている少女は、かなり消耗しているようだった。他人の無茶な操縦に振り回されているのだから無理もない。早めに助け出さなければ、彼女の体調も心配だ。

 それでも、彼女は小さな小さな声で言う。

 

『早く……彼氏殿を助け出してくだされ。さすれば、拙者が自爆装置で<膝丸>を止めるでござるよ……』

 

 今、<膝丸>が攫っているのは、<電子の女帝>の大事な方。それ故に巻き込むわけにはいかなかったが、ここで外してもらえるのなら、気にすることはない。

 弱っていても、自爆装置のボタンを押せるだけの気力は残っている。暁古城を解放し、周囲に学生らがいないのを見計らって、自爆装置を起動させる。

 リディアーヌは、兵器産業の名門企業、欧州ディディエ重工に育てられたエリート・チャイルド。そして試作有脚戦車の開発者兼テストパイロットとして『魔族特区』に派遣された。

 しかし、元々は『北海帝国』で明日の命も保証できなかった孤児。

 ここで命を落とすことに、多少の口惜しさはあるものの後悔はない。リディアーヌが侍口調にこだわりを見せるのは、死を恐れない彼らの高潔な精神性に、憧れを抱いているからだ。

 

 と。

 

 

「その介錯、壬生狼(みぶろ)一番隊隊長南宮クロウが務めさせてもらうのだ」

 

 

 言ってすぐ、返答待たずに、クロウはその有脚戦車の脚ひとつへ<火雷>の魔力咆哮――魔咆で撃つ。

 

「頭をしっかりと守ってろよ!」

 

 旋回中に機動部へ衝撃波をぶつけられた有脚戦車は、バランスを崩して廊下の側面に激突。そのまま突き破って、外へ―――校舎三階から落ちる。

 

「よし、落下地点には誰もいないぞ!」

 

 外は嵐。庭に出てる学生はいない。念のために嗅覚で人の“匂い”がないことは確認している。

 そして。

 銀人狼は。

 小脇に暁古城先輩を抱えたまま、落ちる有脚戦車の落下地点へと飛び込み、片腕で受け止めた。

 

 ドンッッッ!!! と庭に波紋上の大きな凹みができる。

 されど、銀人狼は有脚戦車を片腕一本で持ち上げた、直立不動の姿勢を保っていた。大地に根強くある大木のように、一本芯の通った姿勢はぶれず。

 小型と言えど、戦車。その落下の重量加速を支える膂力。だけでなく、その衝撃を吸収する肉球型生体障壁まで展開している。

 

 なんという馬鹿力に、無茶苦茶な行動力。そして、破壊力。

 

「―――壬生の魔拳『ねこまたん』弱!」

 

 ぽん、と屈伸して巧く勢いを飲み込むと、真上に腕を突き上げ、同時、気功砲を放って有脚戦車を天高くに打ち飛ばす。

 そして、落ちてくる間に、戦車の四脚を、銀人狼が狙う。

 

「騎士道は誰かを護るために死ぬものだけど、武士道は自分のために死ぬものだぞ。だから、お前はこんなところで死んじゃいけないのだ」

 

 有脚戦車の装甲材は、特殊な呪術強化プラスチックだ。耐衝撃性能に優れたその装甲は、20mm砲弾や対戦車ロケット弾の直撃にも耐える。

 ―――しかし、こちらは、地殻硬度に達する牛頭神(ミノタウロス)を切り払った。

 

「―――壬生の魔拳『ガン()レード』!」

 

 ドォ!! と暴風が吹き荒れた。

 

 それを気分身の応用術でその身に捻りながら重ね、血肉とした純血の眷獣(ガングレト)の魔気を纏う。三面六臂の阿修羅―――否、三つ首魔犬(ケルベロス)の阿修羅と化した銀人狼、六つに手数を三倍にして、燃え盛る魔犬の爪気纏う。紅蓮の手刀(ブレード)が、脆いと見抜いた関節部へ斬りかかった。

 まさに『天部』の末裔の魔導犯罪者が<轟嵐砕斧>と名乗った念動による不可視の衝撃波のよう、しかし、その恐るべき六つの太刀風は、溶けた硝子のような赤熱を伴っている。分厚い装甲版に覆われた超小型有脚戦車は、その機動部分(よつあし)を溶断されて、甲羅の中心部だけになる。

 

 そして、脚がなくなった戦車、それも逆さにひっくり返ったところを受け止めて、最後はコクピットへ通じる甲羅部分をこじ開け、中で目を回していた赤毛の少女――リディアーヌ=ディディエが転がり出たところをキャッチする。それから、ぽいっと抜け殻の戦車を投げ捨てる。

 

「ほれ、カメはひっくり返ったら何もできないんだろ? これで介錯終いなのだ」

 

 確かに、脚を破壊され、上下逆さまとなれば<膝丸>も動きたくとも動かせないだろう。方法は力任せであっても、理にはかなっている。

 

(できれば、もう少し優しく救助してほしかったところでござるが……)

 

 青年の姿に変わっていたのですぐに気づかなかったが、言われてみれば収集した情報にその面影があった。

 これが、現在、公社の非常勤(アルバイト)ではなく、請け負った依頼主の執着する相手―――

 

(この<膝丸>に記録されてる筈の獣王殿との戦闘記録……売れば、きっと高い値で買い取ってくれる筈でござろうが―――いや、一日に二度も武士道に反することはできぬな)

 

 暴走した有脚戦車は、壊れた。そういうことにしておこう。

 そして、武士(もののふ)を教えられた異性に抱き留められたこの経験も、胸にしまっておくとしよう。

 

 

 

 腕の中で眠るように気を失ったリディアーヌ

 無事、戦車を撃退し、暁古城の身柄を確保したクロウ。

 しかし、また新手が彼の前に現れる。

 

 

「ぬ!?!? お前は―――」

 

 

彩海学園´

 

 

 出口のない教室の中央にある幻術サーバー。

 それを守護するように立ちはだかる少女。

 藍羽浅葱によく似た外見だが、彼女は表情のない仮面で顔を覆い隠している。仮面の下から漏れ出すのは、ギギッ、というノイズ混じりの合成音声だ。

 

「あいつが……モグワイか?」

 

「え……と、多分ね」

 

 古城の疑問に、言葉を濁した返答をする浅葱。

 浅葱が相棒とするモグワイは、ぬいぐるみの姿で画面に出てくる。その本来のデザインからかけ離れている、またしかも自分に似せていることに少々困惑しているらしい。

 

「で、ここから脱出するにはやっぱりあれを何とかしなくちゃならないようね」

 

「そうだろうな。けど……」

 

 完全密室の空間。そして、今の古城は何の力ももたない一般人。“世界”そのものを書き換える人工知能(AI)が相手では、おそらく歯が立たないだろう。

 こうして、古城はしかめっ面を作るしかない。

 仮面の少女モグワイもそれを理解しているからこそ、古城たちをどこか勝ち誇ったように余裕の態度で見下している。

 

 だがそんな少女の姿が、不意に怯えたように激しく揺らいだ。

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――」

 

 厳かに詠われる祝詞が、この異空間にまで響く。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 少女の背後で閃光は煌めき、空間が地割れのように引き裂かれていく。そう、この暗い『夜の世界』へ現れたのは、光り輝く槍を携える乙女――姫柊雪菜だった。

 

「―――先輩、無事ですか!?」

「姫柊!?」

 

 槍を抱いたまま教室の異空間へと着地した雪菜は、まず驚く古城を確認し―――それから、古城と浅葱が揃ってブライダル衣装を着てることに気づいて、ムッと眉を寄せる。

 

「先輩方、その恰好は……」

 

「あ……いや、違うぞ。これは仮装だからな! そう、お化け屋敷用の!」

「そ、そうなの。学食の食券3万円分のために仕方なく……!」

 

「はあ」

 

 そうですか、と古城たちを眺める雪菜の瞳に感動の色はなく、無機質。

 そんな雪菜のすぐ背後に、波紋のように空間を揺らして男装の少女と軍服の女性が現れる。

 

「これはこれは……」

「やれやれ。相変わらずだな、古城は」

 

「ユウマ? それにユスティナ? どうしておまえらが……」

 

 面を喰らう古城。『西遊記』の舞台で登場した時、古城は気を失っていたので気づかなかったので、ここで初めて幼馴染が文化祭にいたことを知ったのだろう。

 しかし優麻は旧交を温めることはせず、真面目な顔で仮面の少女を睨む。

 

「話はあとだよ、古城! あいつはまだ諦めてないみたいだ」

 

 空間の裂け目より現れる怪物の群。

 『骸骨兵士』、『悪魔像』、『亡霊』、『鬼火』―――浅葱がお化け屋敷用に幻術投影サーバーに情報入力(インプット)したものたちだ。

 それらが仮面の少女、そして幻術投影サーバーを守護するように陣取る。

 

「どうなってんだ、浅葱!? モグワイって、おまえの相方の人工知能だろ?! なんでそいつが俺たちを攻撃しようとしてくんだよ!?」

「あたしだって知らないわよ! そもそも人工知能が実体化してる時点でおかしいでしょ!」

 

 咎める古城に、逆切れして反論する浅葱。

 そんな浅葱を庇いつつ、古城は、雪菜とユスティナが前線で槍を振るい、剣を薙ぎ、雪崩の如く押し寄せる怪物の群を捌くのを見てるしかない……そのことに己の無力さを歯噛みする。<第四真祖>の眷獣がいれば、数だけの大軍など軽く殲滅できるのに。

 優麻が召喚した<蒼>の背後に隠れて、彼女らの邪魔をしないように忍ぶだけだ。

 そんな古城に、隣に屈みこんだ優麻が冷静な口調で事情を説明する。

 

「<闇誓書>だよ、古城」

 

「<闇誓書>? だけど、あれは消滅したんじゃなかったのか?」

 

「いや……残ってたんだよ。人間の目には見えない形でね」

 

 <書記の魔女>の能力は、『魔導書の複製』だ。その能力を使い、彼女はかつての盟友<空隙の魔女>が大事にしていた場所――彩海学園の校舎に<闇誓書>の内容を書き記した。そう、“彩海学園を巨大な魔導書へと変えたのだ”。

 その<闇誓書>の複製は、古城たちが消滅させて、もう存在しない。

 あの時の全ての魔力が失われていた絃神島にて、<闇誓書>を盗み出せる者がいるとは思えない。しかし、<闇誓書>を奪った“人間(もの)”は存在しなかったが―――記録してしまった“物”はあった。

 

「監視カメラだよ、古城」

 

「カメラ……?」

 

「仙都木阿夜がこの彩海学園に書いた<闇誓書>の断片は、監視カメラに映像データとして記録されていたんだ」

 

 もちろんデータだけでは<闇誓書>は起動しない。

 しかし、その機動のためのピースが目の前にある。それに気づいた浅葱が、そうかと表情を引き攣らせた。

 

「幻術サーバー……! 魔術を実行するために造られた、『魔族特区』製コンピューターの性能(スペック)なら……」

 

 つまり、コンピューターが<闇誓書>に汚染されていたということだ。

 

 それがこの異変の原因。

 監視カメラの映像記録に姿を変えてしぶとく生き残っていた<闇誓書>の情報が、古城たちのクラスの出し物で使われる幻術サーバーを利用して、再び魔導書の呪いを実行した。人工知能のモグワイも、<闇誓書>に乗っ取られて暴走してしまっている、犠牲者なのだ。

 

「だったら、その幻術サーバーをぶち壊せば、この異変も直るんだな」

 

「ああ、そうなるね。けど―――」

 

 優麻が口を開こうとした、その時、また虚空より何かが現れようとしている。

 

 ドサッ、とそれが古城たちの前に落ちた。

 そう、ぐったりと倒れた銀人狼――南宮クロウ。しかも、その怖いものなしと思われた後輩が、ブルブルと震えて悲痛な声を上げた。

 

「うぐぐ……こっ、怖いのだ。オレ、やっぱり敵わないぞ」

 

「おい! どうしたんだクロウ!?」

 

 ただごとではない感じを受けて、古城らは慌ててそちらへ駆けつける。

 だが、そうするにはこの怪物の大軍と、そして、

 

『ヤラセナイ……!』

 

 敵意を剥き出しに咆哮する仮面の少女。

 その彼女が喚び出すのは、対魔族兵器の有脚戦車を撃退した銀人狼(クロウ)をも屈服させた最強の刺客―――

 それはぐてんとうつ伏せに倒れた後輩の背中にちょこんと座る、黒いゴシックな衣装を纏う6歳くらいの長い黒髪の幼女で、その名は……

 

 

 

「―――ナー・ツー・キュン♪ 奇跡のふっかーつ!」

 

「う、うう……ご主人がぁ……何か、見てるだけで、心がぐらぐらするのだぁ」

 

「もう、クロロンもちゃんと歓びのポーズをするのー! クロロンは那月(ナツキ)ュンのサーヴァントなんだから、那月(ナツキ)ュンを讃えなきゃダメー!」

 

「でも、お前、本当じゃないし……」

 

「なにー! 口答えするのクロロン! まったく、また勝手にご主人様より大きくなっちゃって、もう! お仕置き! ぺんぺん!」

 

「あぐっ! 痛くないのに、なんかイタい! イタいぞ!?」

 

 

 

 古城と浅葱は、ちょっと反応に困った。そして、初めて見たであろう雪菜、優麻、ユスティナの三人はものすごく困り果ててることだろう。

 ええと、つまり、これはどういう状況なんだっけ? 何か目の前で後輩が幼女相手に一方的に苛められてるみたいだけど、これって助けた方が良いのか? できれば、古城は関わり合いたくないんだが。

 

 このボス登場の強制イベントは、どうにも無視は許してくれないようで、泣きながらお馬さんする後輩に乗る、幼女――『幼い那月ちゃん』を略して、通称『サナ』の姿で現れた、『固有体積時間(パーソナルヒストリー)』を奪われ、幼児化してしまった主人が保険と用意した、復旧のためのバックアップ用仮想人格『那月(ナツキ)ュン』は、

 後輩の腰の上ですくっと立ち上がると、何故だか両手を腰に当ててこちらを見下して(には踏み台あってもまだ身長が足りてないけど)、反応を返してくれない古城たちへもう一度(リテイク)してくれた。

 

 

 

「―――ナー・ツー・キュン♪ アー・ンド!」 「クロロンだワン!」

 

 

 

 もう、だめだ。

 これ以上、無茶ぶりに付き合わされる後輩を古城は見てられない!

 

「クロウ殿が、これまで見たことないほどにダウンしてるであります! それにあれは<空隙の魔女>でありますか!?」

「ああ、そうみたいだ。信じたくないけど、クロウ君があそこまでやり篭められるのは彼女しかいない……!」

 

「で、でも、偽者なんですよねっ? あの子は南宮先生じゃなくて、この幻術サーバーが作り出した……」

「そう、ね。そういえば、この仮想人格(バックアップ)が出た時、<オシアナス・グレイブⅡ>に侵入してたモグワイも見てたのよね。そこから再構築したんでしょ、対クロウ用の肝試しに」

 

「そんなことはどうでもいいだろッ! 早く、早くクロウのヤツを助け出してやろうぜ! じゃないと、これ以上はあいつのメンタルが耐えられない!」

 

 幻術投影サーバーが召喚するのは、あくまでも“怖がらせるだけで危害を加えないもの”。

 この魔(法少)女もこれまでの『骸骨兵士』とかに比べればまったく攻撃力のないものだが、後輩個人を狙い撃ちしたその脅威は凄まじくある。

 

「はーい、だから、この世界を壊そうとか考えちゃダメだニャン♪ さもないと、クロロンにもっと罰ゲ―――じゃなくて、もっと可愛がってあげるブー!」

 

「罰ゲームだろ!? お前のサーヴァントなんだから人質になんかしないで、もっと大切にしてやれよ! それから語尾とかキャラ設定をちゃんとしろ!」

 

「じゃあ、そうする。クロローン、いいこいいこしてアゲルにゃあよ♡」

 

「なんか怖い!? ご主人のいいこいいこすっごく怖いぞ!?!?!?」

 

「うふっ♪ そんなにも反応してくれるなんて面白いなークロロン。じゃあ、今度はぎゅぎゅっとはぐはぐしてみよう!」

 

「やめてくれ!」

 

 傍目からでは、普通に後輩が幼女に可愛がられる図にしか見えないだろう。しかし、その後輩は思いっきり震えてる。ガクブルとこんなに怯えてるのは古城も初めてだ。

 これが『まんじゅう怖い』みたいに、実は褒められてるのは嬉しい―――なんて、事は一切なく、叱られることに慣れていても、主人に褒められるのに耐性がない後輩は、ガチで、この不可解な現象に怖がっている。

 

「那月ちゃん、偶には素直に褒めてやってくれよ……」

 

 後輩を想い、ほろりと涙が出てしまう古城。

 

「こ、じょう君……オレのことは……いいから……はやく―――」

 

「クロウ、おまえってやつは……!」

 

 なんだか熱くなってる男子二人のやりとりに、まったく、と深い溜息を吐く浅葱は、愛用のスマートフォンを取り出す。

 

「『恐怖の館』なんか無視しとけばいいのよ。要は幻術サーバーを起点とした、汚染されたモグワイの支配から、解放してやればいいんでしょ」

 

 浅葱は自作のハッキング用アプリを起動して、怪しげなコマンドを次々に入力。幻術サーバーへとハッキングを仕掛ける。

 

「<闇誓書>だか何だか知らないけど、電脳世界(こっち)はあたしの縄張りよ。好き勝手はさせないわ」

 

 獰猛な笑みを浮かべながら、次々と新たな携帯電話やタブレット端末を取り出す浅葱。一体ウェディングドレスのどこにそんなものを隠していたのかと、古城は驚くよりも先に呆れ返ってしまう。

 

「……君は、本当にそれでいいのかい?」

 

 浅葱を気遣うように優麻が言葉を投げかける。

 これは、最低でも“ここにいる彼女”に説明しておかなければならないもの。

 

「力を貸してくれるのは嬉しいけど、ボク達はキミに伝えなきゃいけないことがある。もし君が幻術サーバーを<闇誓書>の支配から解放してしまったら―――」

 

「今のあたしは消えてしまう、ってこと?」

 

 しかし、優麻が説明しなくてもすでに“浅葱”は悟っていたようだ。

 

「浅葱が消えるって……どういうことだよ!?」

 

「つまりさ、ここにいる藍羽さんは、本物じゃないってことだよ。古城、もちろん君もね」

 

 優麻は、今度こそ古城に全ての真相を種明かしする。

 

「今のキミたちは、“<闇誓書>が創り出したニセモノの世界の一部”なんだ。この世界は藍羽さんが見てる夢なんだよ。きちんと確認したわけじゃないけど、キミたちの本体は、今も<闇誓書>に汚染されたコンピューターに接続されたままだと思う」

 

「夢……って、だけど、どうしてそんな……」

 

「<闇誓書>を起動するためには、“幻術サーバーを起動するオペレーター”と、“<第四真祖>の魔力が必要だからだよ”。<闇誓書>は古城の魔力で起動して、藍羽さんの願いのままに、この世界を創り出した。藍羽さんが望む理想の世界をね」

 

「……まあ、そう言うにはちょっと認めがたいのがちらほらあるけど、そのあたりは断片だからってことなんでしょ」

 

 世界を望みのままに書き換える<闇誓書>の能力も、所有者(オーナー)本人には効果がない。かつて仙都木阿夜が絃神島から異能の力を消し去った時も、阿夜だけは存分にその魔女としての力を振るうことができた。

 <闇誓書>が浅葱の願いを叶えるためには、彼女に夢を見させるしかなかった。

 

 しかし、それでも古城には納得できないものがある。

 

「そんな馬鹿な……だって、俺たちは普通に『彩昂祭』を回ってただけだぞ? なんで浅葱がわざわざそんなことを望むんだよ!?」

 

「えーと……いや、だからさ……」

 

 言葉を詰まらせてしまう優麻。

 ここで、『古城と一緒に『彩昂祭』を回ることが彼女の願望だったのだ』とズバリ言えたら楽だろうが、流石にそれは教えられない。

 雪菜もまた同情するように浅葱へ目を伏せる。

 

「先輩……」

 

「そういうヤツよね、この男は」

 

 不機嫌そうに鼻を鳴らす浅葱。

 して、

 

 

 

「べたべたー、クロロンベットー♡ ごろごろーにゃーにゃー♪」

「あれ、なんか蕁麻疹っぽいのが出てるぞ!? オレ、病毒(ウィルス)には無敵なの、に!?」

「まあ、大変! じゃあ、那月ュンがお布団になって、温めてあげるワン♪」

「―――ぐはぁっ!?!?」

「クロウ殿ー!? 気を確かにー!? 病は気からでありますよー!」

 

 

 

 向こうはそろそろマズい。

 浅葱は吹っ切れたように明るく笑って、

 

「だけど、古城の言う通りよ。こんなまやかしの記憶……クロウには何か悪夢になってきてるけど、まあ、消えたってどうってことないわ。現実の世界で、もっといい思いをすれば済むでしょ。『彩昂祭』はまだ一日あるんだし」

 

「さすが……手ごわい人だね、藍羽さん」

 

「ありがと。褒め言葉だと思っておくから」

 

 優麻の賞賛に、浅葱は誇らしげに目を細めると、無造作にスマートフォンの画面に触れた。

 

「浅葱……!」

 

「またね、古城」

 

 その瞬間、幻術サーバーの筐体より、光が溢れ出し、世界が白く染まった。

 ギギッ、と弱々しいノイズを残して、仮面の少女は消滅。

 古城の意識が残っていたのはそこまでで、明滅する電子の光に呑まれて、仮想人格(ナツキュン)、それに浅葱の姿が消えていく。

 

 

 そして、世界は夢から醒める。

 

 

彩海学園

 

 

「先輩。起きてください、先輩」

 

 

 すぐ近くで聴こえてくる雪菜の声に、古城の意識はゆっくりと浮上する。

 焼けつくような不快感も覚えるも、それは今が夜ではなく、午後の陽射しが頭上より降ってくる夕方で、そして、古城が吸血鬼である証左。

 

「姫……柊……?」

 

 自分を見下しているのは雪菜。

 そして、視点を彼女から横に巡らせると、今自分がいるのは中庭で、近くには半壊した戦車のような物体が転がってたりするも、大勢の生徒や一般客が盛り上がる『彩昂祭』はまだ終わっていないようだ。

 

 長い、夢を見ていたような気分。

 そう、『惚れ薬騒動』で『西遊記』の舞台に乱入して、後輩に向かって何か叫んだところで記憶は途切れてる。うん、あれは忘れた方が良いものだ。

 それから、後は……そう、『ベストカップルコンテスト』に浅葱と出た体験が、夢の中とはいえ地味に効いてきた。それに、後輩と妹がペアで出てきたのもまた含めて。それから、後輩が小さい担任に可愛がられてる(いじめられてる)のを見て、すごく胸が締め付けられるようだったのも、やけに生々しく記憶に焼き付いてる……なんだか、後輩が結構な頻度で出演してるような気がする。

 

「でも、夢か……」

 

 妙にリアルな夢で、精神的な疲労が全身に重くのしかかってるよう。

 耳に引っかかっていた3Dメガネ風のスマートグラスを投げ出して、古城はのろのろと上体を起こす。別に雪菜に膝枕されてたからではないと思うが、不思議と寝心地は悪くなかった気がする。

 それを確認したうえで、古城は安心して壁に手を突こうとして―――ふにょん、と。

 

「って……なんだ、この感触? え……!?」

 

 指先に伝わってきた柔らかな弾力。一見控えめなようでいて、意外に豊かな胸の膨らみが掌にすっぽりと収まってるようで、この実感は夢ではない。表情を引き攣らせる古城に、少し照れたような声がかけられる。

 

「さすがに恥ずかしいな、古城。姫柊さんが見てるのに……」

 

「ユ、ユウマ!? おまえ、なんで!?」

 

 一気に覚醒した古城の前にいるのは、頬を染めて目を伏せる男装少女の幼馴染。

 その本来この場にいるはずのない彼女の存在が、バラバラだった古城の記憶の破片を結び付ける。

 優麻の服装は、古城の記憶(ゆめ)と完全に一致。

 雪菜が<雪霞狼>を剥きだしているのもそう。

 となると、さっきまでの出来事は、古城の夢なのではなく……

 

「あれは現実だったのか? <闇誓書>は……浅葱はどこだ!? それから、クロウは無事なのか!?」

 

 古城は目つきを険しくして、首を振って周囲へ視線を走らせる。

 この体はすでに<第四真祖>の力を取り戻してる感覚がある。

 古城は吸血鬼だと浅葱が知らない以上、ここは彼女が想像した願望の世界ではなく、なのに、浅葱の姿は見当たらない。彼女だけが、この現実世界にいない。いや、まさか―――まだ、終わってないのか。

 

「うぅ、古城君、呼んだか……?」

 

「クロウ殿、そう無理はなさらずに……」

 

 ふらふらと弱った後輩が女騎士の肩を借りている。

 間違いない、夢であった後輩の苛めは本当にあったこと。それを思うとなんだか涙が出てくる古城で、ついっと歩くのもおぼつかない後輩から視線を斜め下へ外すとそこに、赤毛の小学生くらいの少女。あれは、浅葱の友人で『戦車乗り』とか呼ばれてた娘だ。どうして、彼女がここにいるのかは知らないが、おそらく巻き込まれたのだろう。

 

「浅葱先輩なら、向こうだぞ」

 

 それでも健気に、探し物(サーチ)が得意な特殊スキル持ちの後輩が、指をさす。彩海学園の敷地の外―――絃神島の中心部キーストーンゲートと呼ばれる建物がある地点を。

 四基の人工島を連結し、すべての都市機能を掌握する、文字通りの絃神島の中枢部―――だが、その毎日必ず目にしていた巨大なビルの姿が変わっていた。

 城に。

 それも、近づくものを拒むような険しい断崖と深い森に囲われて、上空には邪悪な黒い霧に覆われた……まさにRPGゲームに出てくる魔王城のよう。

 

「なんだ、ありゃ……」

 

「え、っとですね先輩」

 

 呆気にとられたように声を震わせる古城へ、雪菜が言いづらそうに目を伏せながら説明する。

 

「<闇誓書>がモグワイさんと融合して、自我を持ってしまったみたいなんです。それでどうやら藍羽先輩を人質にして、あの城の中に立てこもってしまったみたいで……」

 

「……ってことは、これはモグワイが望んだ世界ってこと……」

 

 ああ、それでこんな電子遊戯(ゲーム)の世界になっちゃってるのか……納得するが、頭を抱えたい古城。

 

 古城たちの教室にある幻術投影サーバーはストップさせたが、キーストーンゲートの内部には、モグワイの本体であるスーパーコンピューターがある。浅葱は今日の『彩昂祭』にクラスの出し物を間に合わせるために、相棒の力を借りてたので、それでネットワークのラインができてしまっていたのだろう。

 そして<闇誓書>に汚染されたモグワイはその回線を経由して、キーストーンゲートに移動して、ああなった、と。

 

「まあ、そんなわけで藍羽さんを助け出さないとね」

「行きましょう、先輩」

「う。一緒に事件解決するのだ」

 

 さしずめ、囚われの浅葱姫を、魔王の(ダーク)モグワイから救い出せ、ということになってる展開。

 そして、古城は、魔法使い(ユウマ)僧侶(ユキナ)武闘家(クロウ)のパーティを連れる勇者か……

 

「勘弁してくれ……」

 

 学園祭一日目の夕の部は終わり、これより場外へと足を運ぶことになる夜の部が始まる。

 

 

 

つづく



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彩昂祭 夜の部

イトガミクエスト

 

 

 トウキョーの南方海上330km付近に浮かぶ、極東の『魔族特区』イトガミ。

 その機械仕掛けの巨大都市の中心に栄えるは、禍々しい漆黒の城塞、キーストーンゲートと呼ばれる魔王城。

 魔王城の下に眠る、巷で『あの御方』と畏れられるモグワイが禁書の力によって魔王と化し、このサイカイ学園より攫われたターコイズ姫がそこに囚われている……

 

 

「―――さあ、立ち上がるのだ勇者コジョー。冒険の夜は来たのだ!」

 

 

 ここまでのあらすじをナレーターしてくれた後輩に、勇者(真祖)コジョーが言えるのはひとつ。

 

「ダメだ。今イチ状況が把握できないんだが……」

 

「えー、何でなのだ古城君。すっごくわかりやすい説明したと思うぞー」

 

 片頬だけを膨らます不満顔を作るも、適当に売店でリンゴ飴でも買い与えてやれば、『西遊記』の舞台衣装のままカンフースーツの武闘家(獣王)クロウはそれを頬張りながらぴょんぴょんとご機嫌に跳ねてる。

 先ほどまでグロッキーだった後輩は、売店ゾーンを通り抜けた時にはすっかり元気を取り戻していた。出費はかなりデカかったが、美味しいものを食べると元気になる性格であった。

 

「本当に、ターコイズ姫、じゃなくて、浅葱があの城に連れて行かれたのか?」

 

 もうすぐ陽が落ち、『彩昂祭』の一日目がもう終わる直前。

 しかしながら、厄介ごとはまだ終わってないらしい。

 

「連れ去られたのは藍羽さんだけじゃないけどね」

 

「なに? それってどういうことなんだユウマ」

 

 黒いジャケットにルーズなネクタイ姿の、息を呑むほどに端整な男装少女な、魔法使い(魔女)ユウマが、勇者の疑問にお答えする。

 

「正確なことはわからないけど、藍羽さん以外にも攫われた人は大勢いるみたいだ」

 

「そうか……モグワイは魔力を使えないんだよな」

 

 そうだ、故に、<闇誓書>の起動に必要な魔力を確保するのが目的だろう。これまで魔力源であった<第四真祖>が目覚めてしまった今、その代用がなくてはこのような世界の書き換えは起こらないはずだ。

 

「たとえ<闇誓書>と融合したとしても、人工知能は<闇誓書>を動かす魔力を供給できない。逆を言えば、魔力源さえ調達できれば、<闇誓書>の力を引き出せるということでもあるけどね」

 

「……ってことは、やっぱりこれはモグワイが実体化させた世界ってことか」

 

 あの人工知能(モグワイ)は、一体何したいんだ?

 

 勇者コジョーは激しく困惑する。

 

 現実世界を所有者の思うがままに書き換えるのが、最悪の魔導書と呼ばれる<闇誓書>の力。その力で、人工知能は、島の中枢を魔王城へと変貌してしまった。

 とはいえ、現実世界が改竄されているのは、キーストーンゲートの周辺のみで、この学園を含めて、島の他区画に変化はなく、電力水道などのライフラインも問題ない。

 それに外観が変わる程度の異変など『魔族特区』の住人にしてみれば慣れっこで、交通網やインフラも普通に動いてるみたいだし、命にかかわるような実害がなければ普通にスルーしてしまえるので、パニックになってない。

 

「何をしたいのかはボクもわからない。人工知能が<闇誓書>に汚染されたこと自体、そもそも前代未聞の出来事だしね」

 

 今のところ人間に対して直接的な危害を加えてないのが幸いだ、と魔法使いユウマは肩をすくめる。

 

「ん? モグワイもお祭りで遊びたくなったんじゃないのか?」

 

 人工知能にそんな意思はあるのか、と武闘家クロウの意見に勇者コジョーは首を傾げる。

 とかく、モグワイの行動原理は不明であり、

 

「なんにしても、このまま放置しておくわけにもいきませんよね」

 

「そりゃまあ、そうなんだろうけどな」

 

 懺悔室手伝いでシスター服を着ている僧侶(剣巫)ユキナが、硬い表情で結論をまとめる。

 

 いくら実害がないとはいえ、それは現状に限った話。

 あの世界最高水準の人工知能の真の目的が謎である以上、あらゆる可能性を考慮に入れなくてはならず、となると将来的に<闇誓書>が人類の脅威になる恐れが出てくる。

 とはいえ、人工島を管理する五基のスーパーコンピューターの現身(アバター)である以上は、島外の環境では実態を維持することができないだろうし、それが足枷となり無制限に<闇誓書>が拡散することはないが。

 また、連れ去られた浅葱たちのこともある。事態がこれ以上ややこしくなる前に、魔王と化した人工知能を止めるべきだろう。

 

 

 

 さて、魔導書と融合した人工知能をどう対処するか。

 それに答えてくれたのは、

 四脚が破壊されたとはいえ、それで損失したのは兵装のみで、電子演算機能はほぼ無事な超小型有脚戦車を使い、コジョー達の支援をしてくれる『戦車乗り』の異名を持つ少女ハッカー――リディアーヌ=ディディエ。

 

『<闇誓書>に汚染される前のモグワイ殿のデータは、人工島管理公社にバックアップされてる筈でござる。故に現在動作中のモグワイ殿を強制終了(シャットダウン)をすることができれば、バックアップデータより汚染前のモグワイ殿を復旧(リストア)することができるでござる。然らば<闇誓書>のデータも自動的に消滅するでござろう』

 

 ようは、途中のセーブデータからゲームをやり直すようなものである。

 ただし、それをするにはやはり問題がある。

 

『ただ、先ほどから人工島管理公社のサーバーにハッキングを仕掛けているものの、防壁に阻まれて侵入できないのでござる』

 

 面目次第もござらぬ、と消沈するリディアーヌ。

 そう、<電子の女帝>と同業者に畏怖される天才的なハッカーの驚異的な能力は、幼いころから軍事企業で英才教育を受けたエリート・チャイルドをも凌駕する。

 その藍羽浅葱の力を利用、知識や経験を借りて、外からの侵入を防いでしまえば、こちらからの攻撃は通じない。

 だから、人工知能は、その主人の浅葱を攫って行ったのだろう。

 逆に言うと、囚われの女帝(ひめ)を救出できさえすれば、『戦車乗り』にまかせることができる。

 

 

 

 攫われた人質たちの追加報告。

 それを伝えてくれたのは、

 絃神島に在住している『聖環騎士団』と連絡を取り合ってくれた要撃騎士のユスティナ。

 

『連れ去られた者の中に、姫様に王妹殿下、それに舞威姫殿と、第四真祖殿の妹君も……』

 

 浅葱以外に誘拐されたのは、ラ=フォリア=リハヴァインに叶瀬夏音、煌坂紗矢華、そして、暁凪沙……

 <闇誓書>を起動するためのエネルギー確保のために、学園内にいた人々の中で突出して強大な霊力の持ち主であるラ=フォリアに紗矢華、夏音を攫った理由は解る。しかし、凪沙はそうではないはずだ。夏音と一緒にいたところを攫われたのか、そうでないとするのなら、何かしらの“悪意”があってのことか。そう、まるで古城たちの知り合いだけを、狙い澄まして連れ去ったとでもいうような。

 他にも被害者がいることも考慮に入れて、ユスティナは消息を絶った王女たちの痕跡を調査するために学園に残る。『聖環騎士団』の組織力を使えるのは、現状要撃騎士のユスティナだけで、

 またハッキングして人工知能を強制終了させようとするリディアーヌを恐れて、何かしらの妨害される可能性は高い。そうなると、有脚戦車の兵装を破壊されてほとんど無防備な少女への守護を固める必要が出てくる。

 もし、道中、姫様らを見つければくれぐれもよろしく頼む、と女騎士にコジョーらは頭を下げられた。

 

 

 

 して、

 

「どうやら、ここから先、空間制御系の魔術は封じられてるみたいだ」

 

 空間転移(テレポート)用の『(ゲート)』を開くような仕草をしながら、残念そうに首を振る魔法使いユウマ。

 

 眼前にあるのは、魔王城の麓にある深い森。

 魔女であるユウマ本来の能力ならば、全員を連れて一瞬で魔王城まで移動することもできるはずだが、ここから先は<闇誓書>の妨害があって、『門』が創りだせない。以前、叶瀬賢生が<監獄結界>には直接飛ぶことができず、その直前に『門』を設置するしかなかったように、ただでさえ高度な空間制御で、この<闇誓書>により異空間となり果てた場所を飛び越すのは無理らしい。

 

 近づく者を拒むような険しい断崖があり、どうやらキーストーンゲートへ行くにはこの“ダンジョン”を通ってこいと言うことなのだろう。

 

「嫌な予感がするね。ボクの気のせいかもしれないけど」

 

「気のせいじゃねーよ。どう見ても罠が仕掛けてますって気配ありありだろ」

 

「大丈夫。古城なら何とかなるよ」

 

 爽やかに微笑んでくれる幼馴染に、勇者コジョーはふてくされたように溜息を吐く。

 

「う。ここ、知ってる“匂い”がたくさんある。きっと攫われた人たちは森にいるんじゃないか?」

 

「でしたら、やはり森を通りましょう」

 

 武闘家に僧侶な後輩二人の意見もあって、この薄暗い茂みに足を踏み入れる。

 深い森と化したキーストーンゲート跡地は想像以上に不気味な場所だった。

 吸血鬼であるコジョーはもとより、霊視に優れたユキナもかなり夜目が利く。だが、そんな二人の目をもってしても、夜の森の中はほとんど見通せない。密集する木々の枝に加えて薄らと漂う夜霧が視界を遮る。しかもこれだけ魔力が充満していると、敵が隠れていても気配に気づけない。奇襲すれば、高確率で成功されてしまうだろう。

 けれど、視野だけでなく鼻もいい野生児に森は絶好のフィールド。深夜の捜索とのこともあって、念のためにユキナも懐中電灯を用意してきている。

 それで一応、少数とはいえ複数人での行動と言うことで、四人はフォーメーションを組んで動くことにした。

 

「じゃあ―――オレが先頭をやるぞ」

 

 と、武闘家クロウ。

 

「ちょっと“この霧が厄介”だけど、敵が潜んでても居場所を嗅ぎ分けるくらいはできるぞ。狩りの仕方も得意だけど、その逆の対処法も十八番なのだ」

 

「でしたら、前方はクロウ君に任せるとして―――私が殿を務めます」

 

 と、僧侶ユキナ。

 

「じゃあ、ユウマは、どうだ? 魔女ってのは夜目が効くものか?」

 

「まあ、普通の人よりは闇に慣れてると思うよ。でも、この中じゃ一番見えてないだろうね」

 

「だったら、ユウマはクロウの後についててくれ。俺がユウマの後について挟めば安心だろ?」

 

 結果、後輩を先頭にして、夜目の効かない人間のままのユウマを二番に置いて、コジョーが三番目で逸れぬよう彼女をクロウと挟むよう陣取り、殿をユキナに任せる。

 魔王城への道のりは、迷路のように蛇行する細い一本道のようだ。どんな罠が仕掛けられているか正直わかったものではない。

 クロウがしきりに鼻を鳴らしながら進む中で、古城たちも警戒を怠らない。

 すると、

 

「ん? なんかあるぞ」

 

 ひらけた場所に出るとそこに奇妙な人工物がお出迎えしてくれた。森の木々の代わりに立ちはだかるように、密集するこの四角い石の群は……

 

「これは、墓か?」

 

「みたいですね」

 

 見渡す限り、辺りに残骸と散らばるのは、無残に破壊された墓石。

 突然現れたのは、荒廃した古い墓地だ。周囲の雑草の伸び具合からして、放置されて数十年は経過してそうな具合で、中々に不気味。声と身を硬くしてしまう。

 

 人工知能が<闇誓書>で創り出したんだろうが、なぜこんな場所をわざわざとコジョーは訝り―――その墓石の背後に浮かぶ影を見た。

 

「―――っ!?」

 

「先輩?」

 

 全身を凍らせ、立ち竦むコジョーに最初に気づいたのは、そのすぐ後ろにいたユキナ。困惑の表情を浮かべる彼女に、コジョーは何も答えず、ただ目元を恐怖に歪めてる。

 

「どうしたんですか、先輩?」

 

「いや、そこの墓石の陰から、誰かが、俺たちを見ていたような気がして……」

 

 え? と驚いたように目を細めるユキナは、念のために持ってきていた懐中電灯を取り出すとコジョーが指差し方へ照らすも、そこに浮かぶのは、朽ち果てた卒塔婆と雑草。

 

「誰もいないみたいですけど……」

 

「だよな……悪い」

 

 真剣な対応をしてくれたユキナにコジョーは引き攣った笑みを返すしかなく、脅かしたことを詫びる。

 人の気配を察したと思ったのだが、単なる勘違いだったようだ。怖気ついていたつもりはないのだが、そう思われても仕方がない。

 コジョーは、そんな先輩として情けない気分で、落ち着きない視線を彷徨わせ―――今度こそ、確かにそれを目撃する。

 

「姫柊、後ろだっ!」

「え!?」

 

 怒鳴るような警告を発しながらコジョーに背後を指差されて、ユキナが銀槍を引き抜きながら弾かれたように振り返る。

 が、誰もいない。身構えた時には既にコジョーの見た人影は消えていた。

 それでもユキナは油断なく周囲を警戒してから、コジョーをジト目で見る。

 

「私の後が……何ですか……?」

 

「ま、待て……今、確かにそのへんに矢瀬がいたんだって……!」

 

 そう、矢瀬。矢瀬の幽霊をコジョーは見た。

 闇の中で一瞬だけ現れた人影は、間違いなく同級生の悪友。ただし、彼が身に着けていたのは血塗れの戦装束で、全身に折れた矢が刺さったままと言う壮絶な討ち死にした姿。まさに怪談で語られる『落ち武者』のイメージそのままだ。

 そう必死の形相で力説するコジョーなのだが、ユキナの半眼は変わらずこちらを責めるように睨めつけている。

 

「先輩。こんなときにふざけないでください」

 

「ウソじゃねェ! 今、確かに『落ち武者』姿の矢瀬がいたんだよ!」

 

「『落ち武者』の幽霊と言うことは、矢瀬先輩のご先祖ということなのでしょうか?」

 

「いや、そこはあまり重要なポイントではないと思う」

 

 冷ややかな疑惑の視線を向けてくるユキナに、コジョーはもどかしさを覚えつつ反論する。

 『落ち武者』と化した矢瀬に恨まれる理由は特に思いつかないが、何しろこの森は、一寸先は闇であり、何が起こるかわからない。油断大敵。そう、また―――ユキナの後に、矢瀬が、

 

「う、うおっ!? 姫柊、また後に矢瀬が!?」

 

 あまりにも生々しい『落ち武者』にたまらず悲鳴を上げてしまうコジョー。続けて何度もやられるとユキナも怯えるこの先輩へ呆れたように溜息を吐いてしまう。一応の義理で背後を確認するも、やっぱり誰もいない。

 

「先輩、もういい加減に―――――ひゃっ!?」

 

 振り返ろうとした瞬間、沿い太腿を撫でる、冷たく湿った感触。

 思わず、短い悲鳴を上げて、小さく飛び跳ねたユキナ。自分の太腿を見下し、表情を強張らせる彼女へ、コジョーはおそるおそる声をかける

 

「姫柊……?」

 

「まさか、先輩がイタズラしたわけじゃ、ないですよね?」

 

「いやいやいや!? そんなふざけたことするわけねーだろ!?」

 

「ですよね……でも、そしたら何が私の足を触って……」

 

「脚? そういえば、少し濡れてるな……」

 

 僧侶ユキナの前にしゃがみ込み、太腿を確認する勇者コジョー。その修道服、極力肌を隠す服だけれど、動きやすいようにスカートにスリットが入っている。そのちらりと見える白い肌が、しっとりと濡れて懐中電灯の光を反射している。

 ちょうど人間の掌が触れたように感じで、であると彼女は幽霊ではなく、物理的な刺激に反応したということに……

 

「そ、そんなにジロジロ見ないでくださ―――――ひゃうっ!?」

 

 確認作業を続けるコジョーに抗議しようとしたユキナが、また突然、電気に打たれたかのように背筋を仰け反らせたかと思うと悲鳴を上げる。

 

「っ、この―――!」

「うおっ、危ねっ!?」

 

 見えない悪戯魔に怯えたように僧侶は破魔の銀槍を振り回し―――それに巻き込まれ、前髪をはらりと斬りおとされた勇者は、青褪めながら地面に伏せる。しかしユキナはそちらを気にかける余裕はないようで、今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、

 

「こ、今度は背中に、何かヌルヌルしたものが……」

 

 それがよっぽど不快であったのか、やけに扇情的な動きで身をよじる僧侶。

 そんな涙目の訴えに勇者は、彼女の背後にゆっくりと回り込み、

 

「ヌルヌルしたものって……これか……?」

 

 彼女の首筋にあった物体。それは人の掌ほどの大きさの、ブヨブヨとした灰色の塊――スーパーで売られてる生の板コンニャクである。

 濡れたコンニャクを、目には見えないほどの細い釣り糸かなにかで、森の木の枝から吊り下げられていたのだ。

 おそらく、先ほどユキナの脚に触れたのも、別の木にぶら下がって板コンニャクだったろう。

 コジョーがそれを摘まんで見せてやると事情を把握したが、それでも混乱したようにユキナは首を傾げ、

 

「コ……コンニャク、ですか? で、でもいったいどうしてこんなものが……!?」

 

「あー、なんとなく話が読めてきたぜ」

 

「え?」

 

「モグワイは<闇誓書>の力を使って、今も忠実に浅葱のプログラムを実行してるんだよ」

 

 気怠く息を吐きながら、ぐったりとコジョーは項垂れる。

 

 <闇誓書>に汚染された人工知能だが、元々は『彩昂祭』で高等部一年B組の出し物でやる“お化け屋敷のために”呼び出されたのだ。それも、リアルな恐怖体験が最大の売り文句の。

 『魔族特区』の技術を応用した幻術投影サーバーによる、仮想現実大規模多人数(VRMMO)お化け屋敷。そのプログラムを担当したのがほかならぬ藍羽浅葱で、そして浅葱は『彩昂祭』の期間中、サーバーの維持管理を人工知能におまかせしていた。そう、<闇誓書>に汚染された人工知能に、だ。

 

「まさか、これはお化け屋敷……なんですか? この森も……?」

 

「森というより墓地なんだろ。肝試しの舞台にちょうどいいからな。で、あの城がお化け屋敷の本体ってわけだ。よく見ればそれっぽいデザインだぜ……」

 

 夜空にそびえる魔王城。

 怪物の顔を模した城壁のチープなデザインは、遊園地にある西洋風の『恐怖の館(ホーンテッドハウス)』にそっくりだ。

 こうして創り出された奇妙な森や城も、お化け屋敷を運営するプログラムに沿ったもので、多少はやり方に歪んでいるけれど、人工知能はあくまでも命令を忠実に実行しているのだ。

 

「これが『彩昂祭』の出し物の一部と言うことなら、市民に被害がなかった理由もわかりますね」

 

「だな」

 

 ユキナの言葉にコジョーも頷いて同意を示す。

 

「そう言うことなら、幽霊なんか気にしても仕方ないから先に進もうぜ。もちろん警戒するに越したことはないけどさ」

 

「そうですね。わかりました」

 

「じゃあ、クロウ、ユウマも………」

 

 あれ?

 そういえば―――コジョーが悲鳴を上げた時、前のふたりから反応はなかった。まったくこちらに気づいてないのか。

 ちらり、と前方を確認した。

 誰もいなかった。

 

「―――っ!?」

 

 前には誰もいない。

 

「な……なん―――」

 

「落ち着いてください、先輩」

 

 ユキナが、その存在をしかと伝えるよう、コジョーの手を取る。

 その体温に、少し落ち着いた。コジョーが落ち着いたところを見計らって、ユキナもその手を離す。

 しかし、いったいどうやってクロウとユウマもいきなりいなくなった?

 

「やられましたね」

 

「ああ」

 

 『落ち武者』やらコンニャクでこちらの注意を引いてる間に分断したんだろう。学園で何人か攫ったようだが、ここでそれが起きないとは限らない。

 何せ相手は自在に地の利を変更できる世界書き換えの<闇誓書>。

 それでも、これは敵ながら見事と、天晴と言うべきか。

 いつの間にか、四人が組んだフォーメーションは、完全に崩れ去ってしまっていた。

 

「まさか、俺たちに気づかせずに、二人も攫うなんてな」

 

「いえ、先輩。どちらかといえば、私たちの方が分断されたんでしょう」

 

 勇者に僧侶が指摘(ツッコミ)を入れる。

 ユキナがこれまで来たであろう方向を向いて、地面を指差した。

 そこのぬかるんだ地面に、あしあとがくっきり、はっきりと、残っていた。

 二人分だけ。

 勇者と僧侶の、二人分。

 

「……おそらく、この墓地に入ってから。そして、これまでの間、前のふたりがいないことに気づかないなんてことは、ありえません。だから―――分断されたのは、私たちじゃないかと、思います」

 

 どうやら、コジョーは油断していた。警戒するのが遅すぎた。

 『落ち武者』を見つけて動揺して、言うならば、精神的に隙だらけであった。

 そして、ユキナもまた、

 

「私も、恥ずかしながら……なんていうか、背後ばかりを気にしてましたので、前の方の意識は、先輩以外は……外していました」

 

 <第四真祖>の監視役としての癖が出てしまったらしい。

 

「にしたって、前を歩いてたとはいえ、あのクロウを気づかせないなんて、相当難しいもんだと思うんだが。どうやらこれはレベルが高いお化け屋敷みたいだな」

 

 流石は<電子の女帝>が組んだプログラムか。

 『恐怖の館』としては、安心してしまう大人数での行動は許さないらしい。カップル二人で回るのが基準だと。

 

「それで、どうします? 先輩」

 

「どうしますって……」

 

「今なら、まだそんなに時間も経過してないでしょうから、この足跡を逆に辿れば、あわよくば合流できるかもしれませんよ」

 

「うーん……」

 

 クロウもユウマも心配なら、コジョー達を探しててくれるだろう。

 しかし、あの二人は、なんというか、自分を過大に評価してる節がある。この森に入る前も『古城なら大丈夫』と幼馴染は笑みで太鼓判を押してくれるなど。

 そうなると、逸れてるのに気づいても同じように判断する可能性が高く、して、合流するのならこちらから動かないといけない。

 

「いや……」

 

 勇者は、逡巡した末、僧侶の案は採用しないことにした。

 

「目指す場所は同じなんだ。まっすぐ歩いていけば、すぐ合流すんだろ」

 

 そして、一度目を瞑って深呼吸をすると、もうこれ以上逸れてひとりにならないよう、改めて僧侶の手を取って―――やけに、それが先よりも冷たく感じられた。

 

「……姫柊?」

 

 違和感を覚えるコジョーの手を、僧侶がそっと握ってくる。

 修道服を着た小柄な少女だ。背中には黒いギターケース。コジョーの手を引いて歩き出した僧侶が、くすくすと笑いながら振り返り、見せた。

 

 目の鼻も口もない、つるりとした顔を―――

 

「うおおおっ!?」

 

 のっぺらぼうと化した僧侶に驚き、勇者はひとたまりもなく絶叫する。

 その突然の悲鳴にすぐ傍にいた本物のユキナも驚いて、周囲へ細心の警戒をしていたところを味方撃ち(フレンドリーファイア)で不意をやられて、たまらず彼女もまた悲鳴を。

 

「きゃあああっ!」

「どわあっ!」

 

 そして、予期せぬ方角から聴こえてきたユキナの叫びにまた、勇者が叫喚。

 昏く広大な森の中に、二人の悲鳴が反響していく―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「おー、コジョー君、こんな序盤で別れてしまうとは……」

 

 

 一方で前方二人組。

 分断されたが、勇者の予想通り、大して心配はしていなかった。

 

「どうするか? 古城君と姫柊を探すのか?」

 

「いや、いいんじゃないかな。むしろ二手に分かれた方が、この森にいる誘拐された子たちをより早く助け出せるかもしれない」

 

 武闘家クロウは、この殺意と言う強力な害意のない“匂い”から直感的に、これがさほど危機的なものでないと覚ってる。魔法使いユウマもまた勇者の『お化け屋敷の法則』を森に入る以前から推理はしており、その危険性は低い、と。

 けれど、この仕込まれた魔術に関しては、感心するほどのものとユウマは見ている。

 

「うー、この霧、なんか酒っぽい匂いだ」

 

「そうなのかい?」

 

「昼のユスティナの時みたいに、そこに誰かいるのは解るんだけど、それが誰なのかまでは解らないぞ。もっと嗅げばいいんだけど、そうするとなんか酔っちまいそうでなー」

 

 この白霧は、猟犬除けのアルコールが混ぜ込んである。

 『音響過適応』が、高周波に弱いように、『芳香過適応』もまた、酒気を漂わされるとその精度が落ちてしまうのだろう。

 病毒には真祖以上の絶対の耐性を持つクロウであるも、病毒ではないと認識されている酔いには、人間とさほど変わらない。あまりに吸い込むと酩酊状態に陥ってしまうことは、前回に反省している。元々、香水とか強烈な臭気を嗅ぎ続けると、悪酔いしたように気分が悪くなってしまう性質なのだ。

 そのため主人より『匂消し』の呪が施され、後輩に編み込まれた首巻をクロウは鼻に被せるように位置を調整する。

 

「どうやら、人工知能はボクの空間制御だけでなく、キミのことも警戒してるみたいだ。まあ、そう無理はしない方が良い。この森も、先ほどの夜の校舎と同じ設定で世界づくりされたものだろう。だから、ボクたちがパニックにならない限り、大きな怪我をするようなことはないさ」

 

「う。お化け屋敷ってヤツだな。入ったヤツをびっくりさせてくる……うー、また、ご主人の偽者が出てくるのは勘弁なのだ」

 

「はは、あれは南宮先生の名誉のためにボクは忘れておくつもりだけどね。まあ、このお化け屋敷はどうやらバラエティに富んでるみたいだし、エンターテインメントのアトラクションとして、二番煎じはないんじゃないかな」

 

 先ほど森の影からちらちらと幽鬼の影が揺らいでいるのだが、武闘家と魔法使いはさして気にしてない。敵意がないとわかってる以上、警戒はするが必要以上に驚いたりはしないのだろう。もうこれはお化け屋敷で騒ぐカップルと言うよりは、普通に森の中を散歩する犬と飼い主のようなもの。

 魔女として本物の悪魔怪物を見慣れてるユウマに、主人の魔女よりこれ以上に不気味な拷問器具が飾られた監獄の中にお仕置きで閉じ込められたおかげで鉄の心臓を持ってるクロウ。この面子を阿鼻叫喚させるものなど、そう滅多に……

 

「ん」

 

 ―――コジョー達と別れても止まらなかったクロウが、足を止めた。

 

 ユウマもそれに反応し、止まる。

 この先のひらけた場所、常夏の島で雪原と凍りついた世界に、ちょこんと佇む小さな影があった。

 真っ白な、死に装束と間違いかねない色彩の着物に、常にショートカット風に結い上げていたのを解いてその長い髪を流してる少女。

 木々はペキペキと奇怪なラップ音を発し始める。凍りついているのか、木の材質に変化があるのか。ただ彼女がそこにいるだけで、世界が悲鳴を上げている。

 

「まさか、凪沙ちゃん、なのか……」

 

 信じがたいと言外に示す魔法使い、けれど、その小さな影が彼女の幼馴染であることは変わりない。のに、この魔女の心臓が軋みを上げる。

 そこにいた小柄な少女の正体は、暁凪沙。ただ、その瞳にあるのは、凪いだ水面のような無感情な光。常の彼女のものではない。そして、その気配は普通の人間のものとは思えない。そう、強大な魔力を秘めた何者か――真祖の眷獣にも匹敵する力を持った者が、少女に憑依してしまっているよう。

 

「―――話がある」

 

 恐ろしく肝を冷やし、そして本領を垣間見せるように凍気を孕んだ静かな声が、凪沙の唇から漏れ出した。ここでもし呼びかけを無視して逃げようものなら、世界ではなく、自分たちが悲鳴を上げさせられるだろうと予感をさせる。

 

「ん。わかった」

 

 無駄に逆らう真似はせず、得意とするフィールドであった森を出て、その雪原に踏み入るクロウ。ユウマもそれに続こうとするも、足が凍りついたように動かない。

 それを見て、クロウは、ユウマをそこに留めるよう手の平を向ける。

 

「どうやら、アイツはオレに用があるみたいだ。優麻はここで待っててくれ」

 

「いや、でも、今の凪沙ちゃんからは、ただならぬものを感じる。これが<闇誓書>によるものだとすれば、危険だ」

 

「いや、大丈夫だぞ。アイツはそうじゃない。それに、話をするだけなのだ」

 

 言って、武闘家は行く。瞬間、

 

 ガクン!! とユウマの膝が折れた。両足に、力が入らない。まるで伸びた発条(バネ)を上から押さえつけるように、最初からそう言う機構を持った可変式の遊具のように、彼女の身体はストンとその場に膝をつかす。正座で待つことを強制される。

 

「な……」

 

 驚きとも、抗議ともいえる感情を感情に任せて声を発しようとして、それさえできなくなってることにようやく気付く。

 カチカチカチカチ、と歯が鳴る。舌も唇も喉もまともに働かない。

 これは恐怖、それだけによるものではない、寒さだ。

 低体温症に陥っている。現在、ユウマの体温は34度―――あと、4度下がれば、その生命はほぼ100%失われる。今の彼女は雪山で遭難してるに等しい状況下にあった。

 

(これは、<闇誓書>の世界改変によるものなのか!? いや、肝試しと言う設定のセーフティがある以上、人体に危険を及ぼすようなことはできないはず―――)

 

 そんな極寒の雪原にて、クロウ――その身は、常人よりも寒さに強い、もともと北欧アルディギアの人里離れた氷森に生活していたことから考えれば、むしろ常夏の気候は過ごしにくく、ちょうどいい涼しさかもしれない。

 して、クロウは、暁凪沙の前に立った。ユウマもそれが辛うじて視認できるも、会話を拾うのは厳しい最中―――秘密の二者面談が始まる。

 

「なんか言いたいことがあるんだな?」

 

「ああ。我が起きるに負担をかけずに済める、いい機会なんでな。文句を言いに来たのだ“後続機(コウハイ)”」

 

「あう?」

 

「“後続機”が“少年”と仲が良過ぎるあまり、『このまま恋仲になるのではないか』と“娘”が気に病んでおってな……

 ―――本当のところはどうなのだ?」

 

「???」

 

 少女の詰問に、ますます武闘家は首を捻る角度を大きくする。

 

 ちょっとばかり、でないくらいに威圧をかけ過ぎるも、これは、胸の内に溜め込んでしまう女友達のために、彼女のガーディアンな女子が、その男子へ確認を取るような行為と同じ、であろうか。

 

「<蛇遣い>の例があるからに、“少年”が契る相手に汝を選ぶことも問題なかろう。しかしな、それは“少女”に耐えられん。契約外とは承知しておるが、我が言ってやらねば、“娘”は汝には口に出さんだろう。わかったか、“後続機”?」

 

「ごめん。お前の言うこと、相変わらず難しくてよくわかりませんのだ」

 

「……ここまで噛み砕いてやったのに、またこれ以上のことを、我の口から説明させる気か“後続機”」

 

 ピシィ!! と乾いた音を木立が発する。更に拡大した凍える女王の領域。

 物分りの悪い後輩に、彼女は機嫌をさらに悪くしたよう。

 

「うー、つまり、そんなに古城君と仲良くなったらダメなのか?」

 

 八の字に眉尻を下げるクロウに、彼女は嘆息し、

 

「そのあたりは我の関与するところではない。ただ、汝も少しは乙女心の機微に鼻を効かせたらどうだ? このままでは、本気で“娘”が“少年”に襲いかねんぞ。だから、汝も気を払え」

 

「う、よくわからんけど、頑張って注意するのだ“先達者(センパイ)”」

 

「ふん。『“娘”を泣かさぬ』という誓い、努々忘れるなよ“後続機(コウハイ)”」

 

 ―――それからこのことは誰にも内密にしておけ、と。

 

 彼女の瞼が、閉ざされた。

 その僅かな挙動を合図に、現実感がぶり返す。寄せた波が引くように、極寒に凍てついた世界に、元の常夏の気候が帰ってくる。

 全身を襲っていた急激な寒波は、すっかり消え失せていた。

 そして、腕には人の体温。少女の身柄が収まっている。糸が切れたように倒れる暁凪沙に、思わずクロウは抱き留めてしまった。

 

「終わった、のかい」

 

 硬直の解けたユウマが、声をかける。

 凪沙の格好も白装束から、懺悔室手伝いの修道服へと変わっており、またその華奢な身を起点とした強大な魔力の発散も止んでいる。

 

「う。お話は終わったぞ」

 

「そうか。それで一体、何を話したんだい?」

 

「ん―――」

 

 興味本位でユウマが尋ねると、少年は唇の端から端に、チャックを閉じるように指を沿わすポーズを返した。

 それに魔法使いは肩をすくめて、

 

「まったく、これじゃあ『雪女』だね」

 

 わりとメジャーである『雪女』の妖怪譚は『魔族特区』の住人でなくとも日本人なら知るところだろう。

 冬の雪山で遭難したところを遭遇した男たちの内、『雪女』は老いた者を殺す。若い者は見逃すが、このことを誰にも話してはならないと約束させられる。後にこの若者はある女性と結婚し、ついうっかり彼女とのことを話してしまうが、実はその女性と言うのが『雪女』で……と言う流れ。

 率直に話の展開の感想を述べれば、『雪女』は気紛れに見えるが、もしもその若者と結婚するつもりで姿を現したのだとすると、周到で計算高い性格にみえる。この話の中には明暗幾つもの約束が登場し、もしも化けた女が現れる前に若者が他の女と結婚してしまったら、『雪女』は牙を剥いてたかもしれない。

 

 つまるところ『雪女』の妖怪譚から得られる教訓は、『約束を破ったらタダではおかない』ということになるだろうか。

 

「何を話してたのかは訊かないけど、凪沙ちゃんを悲しませるような真似だけはやめてくれよ。彼女がボクの大事な幼馴染であるからね」

 

「う。凪沙ちゃんを大事にするのだ」

 

 ユウマの念押しに、目を見て頷き返すクロウ。

 約束を破ることは、この前、反省した。絶対にそんな真似をするつもりはない。

 

 そして、ケケッ―――と、どこからともなく聞こえてきたのは、きちんと教訓を肝に銘じた子供(クロウ)に満足したような皮肉めいた笑い声だった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 下手に動かさない方が安全だろうと判断し、眠っている凪沙を放置して、魔法使いユウマと武闘家クロウはそのまま先に進むことにした。凪沙に異変があればすぐにわかるようにと、ユウマが小動物の使い魔(ファミリア)をつかせている。

 

「………ん?」

 

 また少し進むと、クロウは顎を持ち上げて鼻を鳴らす。

 

「誰かいるのかい? もしかして、古城?」

 

「ん。違うぞ。これは……」

 

 微かにだが、どこからか漂ってくるいい匂い。

 これは、クロウの“舌に合う”おいしいものだ。じゅるり、と生唾が口内から溢れて出て、涎となるような……堪らない気持ちになってくる。

 自然と足は、匂いのする方向へ動き。

 鼻の向いた先にある、開けた森の空間に、お化け屋敷には場違いな真っ白いクロスが掛けられたテーブルが設置されていた。

 

「おお……! 森の中にごちそうが!」

 

 ぐぅと、腹が鳴る。並べられた料理には釣り鐘(ドーム)型の銀の覆い(クロッシュ)が被せられているも、テーブルから堪らん香りが漂ってくるのだから仕方がないだろう。胃袋が刺激されて、今にも暴れ出しそうだ。食わずにはいられない、こんな匂いを嗅がされたら……しかし、魔法使いから待ったがかかる。

 

「待ちたまえクロウ君。『ヘンゼルとグレーテル』しかり、森の中に食べ物がそう都合よく落ちてるはずがない。お菓子の家が獲物を誘き寄せて、肥えらせる罠だったように、怪しんでしかるべきだよ」

 

「んん。これにそんな“匂い”しないぞ。全部、旨そうなのだ!」

 

「だからね、ここは<闇誓書>によって作られた肝試しだと」

 

 言って、もう席についてる武闘家に、魔法使いはやれやれと苦笑を漏らす。今日の昼に『惚れ薬騒動』があったばかりだというのに、なんて無警戒な。それにきつく言い聞かせるべきか悩むも、うずうずと“待て”してる彼から取り上げる真似は忍びなく、ユウマも席に着いた。

 先ほどの『雪女』の例からして、このイベントも何か妖怪が関わっているのだろうが、さて。

 またあの極寒の世界のようなのはレアケースだと信じたいけど……

 

 

「―――お待ちしておりました、先輩」

 

 

 現れたのは、藍色の長髪をもつ、完全な左右対称の美を備えた少女。

 ユウマも彼女のことは知っている。ここにいる彼と同じく、<空隙の魔女>の預かりとなっている人工生命体(ホムンクルス)のアスタルテ。

 その彼女がいつものメイド服ではなく、旅館の女将のような着物姿で、いつものと変わらない淡々とした一定調子で出迎えてくれた。

 

「お、アスタルテ。お前も捕まってたのか、大丈夫か?」

 

「肯定。こちらに飯の支度は済ませてあります。お召し上がりください」

 

 とアスタルテは着物を払い、襟を正して、背筋をまっすぐに伸ばす。そして、ぺこりと丁寧に頭を下げる。

 

「う! いただくのだ!」

 

 早速と銀色の覆いを取り去ると、中の皿にでーんとあったのは、カラッと揚げたカエルが丸々一匹……

 

「おおっ! これオレの好物だぞ!」

 

「以前、先輩に連れて行ってもらった料理店の味覚データを参照しております……お口に合えばよろしいのですが」

 

 クロウの馴染みで、秘密にしていた穴場の料理屋。『波籠院フェスタ』の前夜祭に馳走されたこの後輩は、その入力されている味覚ソフトで記憶していたらしい。ただ、それが普段の食卓を囲う際には、教官(マスター)の意向を最優先するため、今日まで披露することがなかっただけ。

 そんな斜め後ろに三歩分離れたところから、控えめに様子を伺う後輩に、先輩は満面の笑みで、うまうまとその脚にかぶりついてる。これだけ嬉しそうにされたら調理甲斐があっただろう。

 そして、ユウマもここで料理に口をつけないのはアスタルテへ礼を失する、というよりは、武闘家を見てたら警戒するのが馬鹿らしくなった感じで、その野菜炒めを自身の皿に取り分ける。

 

「んっ、美味しい!」

 

 炒め物を口へと運んだユウマは、称賛する。

 多様な種類の野菜を使っているにもかかわらず、生焼けのものや火が通り過ぎたものもない。火の通りやすさを考慮して個別に炒めてある証拠だ。

 手間暇をかけて美味しく調理する。感情の薄い人工生命体の少女の、心のこもった料理である。

 肝試しから動き通しで空腹だったのも手伝って、飯を口へ運ぶ手は止まらなかった。

 その様子に、アスタルテはどことなく嬉しそうで―――ふと、真っ先に食いついたクロウが箸を止めた。

 

「どうしたのだアスタルテ? そんなとこに立ってないでお前も一緒に食べないのか?」

 

「いいえ、私はいりません。先輩方の取り分が減ってしまいます」

 

 テーブルにつかず、離れた位置で見守る後輩を誘うも断られる。

 

「そんな遠慮しなくていいぞ」

 

「私は、なにも、頂かなくてかまいません。そのお傍に置かせてもらうだけで十分です」

 

 頑なに固辞する姿勢。それに、ユウマはピンと来た。

 彼女にかけられている肝試しの設定は、おそらく『二口女』。またの名を『飯食わず女房』と呼ばれる妖怪だ。

 『飯を食わず、よく働いてくれる者がいてくれれば嫁に迎えたい』と願った男の前に現れたその都合のいい女性。嫁になり、男の望んだとおりに、飯も食わずによく働く。しかし、その正体は人間ではなく、頭髪に隠れるよう、後頭部の首筋あたりに大きな口があった。

 

 人間の都合のいい僕として造られた人工生命体(ホムンクルス)であり、背中より寄生させられた人工眷獣を展開するアスタルテには、『二口女』は適役であろう。

 

(でも、この妖怪譚(はなし)。正体がばれた『二口女』は、恐れた男から離縁状を突き付けられ、それで男を住処へと攫おうとする。つまり、ここで正体を見破ったことを悟られると、『二口女(アスタルテ)』さんは―――)

 

 男のために都合のいい女性像を演じた『二口女』が、拘束監禁も辞さない管理魔に豹変する。

 となると、この和やかな食事は、昼ドラのような修羅場となるだろう。

 

(確か『二口女』は菖蒲――魔除けの花に弱い。でも、この森の中にそれがあるか……)

 

 どう穏便に切り抜けるか―――そう魔法使いが作戦を考えることも知らず、武闘家は『二口女』をまっすぐに見つめる。

 

「アスタルテ。オレは一緒に食べてくれた方がお腹いっぱいになるのだ。ごはんの量が半分子になっても、そっちの方がおいしいのだ。だから、アスタルテも一緒に食べてくれるとオレは嬉しいぞ」

 

「……指摘。食器は二人分しか用意していません」

 

「なら、オレが食べさせてやるのだ」

 

「………………命令受託(アクセプト)

 

 先輩の勧めに、根負けしたか。それとも……

 クロウの隣の席に着くと、親鳥からエサを頂くのを待つ雛鳥のようにその口を開くアスタルテ。

 『惚れ薬騒動』のカレーでもそうだったが、特に気恥ずかしがることなく、むしろ後輩の世話を焼けるのが先輩冥利なのか嬉し気にクロウは箸を運ぶ。

 

「これは……凪沙ちゃんを置いてきといて正解だね。下手したらまた『雪女』になりかねない」

 

 それを対面の席から第三者視点で見てるユウマは、眠り姫となってる幼馴染を引き合いに出しながら声を震わす。けれどその言葉の意味を測れず武闘家が目で問うても、魔法使いは目を逸らし答えを拒んで、

 

「まあ、これでこのイベントは大丈夫かな?」

 

 『二口女』を受け入れて、ご飯を食べさせる。これはもう『飯食わぬ女房』とは呼べないだろう。

 

「………というわけで、魔王モグワイに攫われてる浅葱(ターコイズ)姫を勇者コジョー君たちと助けに行くことになったのだ。アスタルテから、ご主人に連絡しておいてくれ」

 

「命令受託」

 

 そうして、『二口女(アスタルテ)』と一緒に食事を平らげると、クロウはこれまでの事情を説明して、自身の携帯機器を預かっている後輩へ、主人への連絡を頼むと先へと進んだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『ようやく来たわね暁古城! こっちは待ちくたびれたんだけど!』

 

 姫路城の天守閣に隠れ住み、自在に人の心を読み透かし、未来の運命を占う。その正体は神通力を得た妖狐であるとも、邪神であるとも、八百匹の眷属を従えた妖怪の長であるともいわれ、

 また、大剣豪の宮本武蔵に名刀・卿義弘(ごうのよしもり)を授けた伝説があったり、

 そして、人間嫌いで、城主以外の人間が勝手に住処に立ち入ると身のたけ一丈ほどの鬼神になるという『長壁(おさかべ)姫』―――になった、十二単姿の煌坂紗矢華。

 ファッションモデル並みの長身で、しかも抜群のスタイルを誇る。しかし、当人は密かに身長を気にしてる、そんなコンプレックスを刺激する設定にお冠だった舞威姫に<煌華鱗>を持って勇者が追い掛け回されたり、

 

『にゃ、にゃおう。妖怪、『猫又』でした。にゃお?』

 

 強大な霊力を得て妖怪に化けた猫又―――になったのは、全身をぴったりと覆う革スーツに、猫耳をつけた叶瀬夏音。

 『中等部の聖女』に惹かれてか、数百匹の子猫が集まっていたけれど、こちらはさほど実害はなく、しいて言うなら『猫又』になった夏音の愛らしさは、同性の僧侶からして凶器的なレベルであったり。

 

『<雪霞狼>―――!』

 

 そんな<闇誓書>に汚染された妖怪役たちも、僧侶ユキナの活躍で元に戻った。

 魔力を打ち消す『神格振動波』の輝きを放つ、全金属製の銀槍。その<闇誓書>に対しても有効であった純白の閃光に当てられるだけで、『長壁姫』紗矢華も『猫又』夏音も無事に支配から解き放たれた。そして、彼女たちはその場に安置していた方が良い判断し、念のために式神を配置して、先を行く。

 

 

 

 がやはり、実害を被らない、安心安全のお化け屋敷なんて考えは甘かった。そのため、だだっ広い夜の森の中で、常時警戒してなければならず、

 すでに学園を出て、5時間は経過している。時刻はすでに深夜零時近く。真夜中だ。

 仲間たちと逸れてから、暗闇の中で様々なトラブルに巻き込まれて、肉体的にも精神的にも疲労のピークに達していた。

 けれど、着実に進んでいる。今、勇者コジョーと僧侶ユキナは、魔王城と化したキーストーンゲート前までやってきていた。

 

「ようやく……着いた……か」

「酷い目に遭いました」

 

 二人とも息も絶え絶えの有り様。

 立ちはだかるのは巨大な城門。そこはまだ閉まっている。となると、武闘家と魔法使いはまだここに来てないのだろうか。

 とりあえず、しばらく待ってみよう。その間は小休止ということで。二人は見合わせると、腰を落ち着けるところを探す。

 

「しかし、攫われた奴らが妖怪役になってるなんてな。比較的常識人の煌坂ですら、あんなになるんだ。ラ=フォリアは、もうなんか嫌な予感しかしないんだが」

 

「そうですね、先輩。夏音ちゃんみたいに大人しくしてるとは思いませんし、ラ=フォリア王女の相手はなるべく避けたいです」

 

 あの腹黒王女が<闇誓書>の影響を受けたらどんなことになるのか、想像するだけでも恐ろしい。

 戦々恐々とする勇者と僧侶―――そのとき、錆びた分厚い金属製の門扉が、軋み音を夜空に響かせながら、ゆっくりと左右に開いていく。

 すると、疲労困憊のこちらの神経を逆撫でするように、奥の方から奇妙な音楽が聴こえてくる。エスニック風の華やかな旋律。緊張感と無縁なその調べが、逆にコジョーの不安を増長させる。

 そして、魔王城の中より飛び出てきたのは、凄まじく豪華なパレードであった。

 

「姫柊、嫌な予感がする」

「同感です先輩」

 

 絢爛な黄金の輝きに目を細めながら、警戒を露わに牙を剥いて低く唸る。

 巨大な門扉より出てくるのは、生演奏に合わせて見事なダンスを披露している、露出度の高い踊り子たち。

 あまりに魔王城のイメージからかけ離れているこの御祭り騒ぎに、勇者と僧侶は唖然と立ち尽くすしかない。

 そして、そのパレードの最後に主役がやってくる。組んだ神輿の上に座すのは、妖美な衣装を着た少女。このたったひとり―――彼女の登場の為だけにこの豪華なパレードは催されたのだ。

 魔王城へ辿り着いた勇者たちを歓迎するように、銀髪碧眼の少女は気品溢れる麗しい笑顔を向けてくる。

 その威厳と存在感は、際立って豪華な衣装にもまったく見劣りすることなく、着こなしている。

 そんなのは当然。なにしろ彼女は正真正銘の王族――『美の女神(フレイヤ)の再来』とも謳われる、北欧アルディギアの姫御子なのだ。

 

「うふふふふ。わたくしは殷帝紂王が妃、妲己。またの名を白面金毛九尾の狐。またこの国では、玉藻の前と呼ばれし者」

 

 訊ねもしないうちに自ら役名を名乗り上げる、やはり、ノリノリであるラ=フォリア=リハヴァイン。もう<闇誓書>を利用して、王女が勝手に楽しんでいるのではないかと疑いたくなるような満喫ぶり。

 学園を発つ前に、要撃騎士のユスティナから、くれぐれも王女を頼むと懇願されたが、あれは是非見つけてくれ、ではなく、相手をしてほしい、とかそんなところだったのかもしれない。

 して、

 

「先輩、『九尾の狐』は―――」

「よく知らんがヤバいのはわかった。肝試しに出てくるレベルの妖怪じゃねェだろ、あれ」

 

 姫御子の纏う異様なカリスマ性は、今や勇者を軽く圧倒するレベル。

 『九尾の狐』の妖怪譚は、日本にだけに留まらず、世界規模に暴れる大妖怪。複数の化身(すがた)を持ち、その地の権力者たちを惑わし、数々の王朝を滅ぼしたとされる傾国の美女。このパレードも、酒池肉林の故事で知られる『九尾の狐』に合わせて催されたものであろう。

 そして、この大妖怪は八万余りの軍勢と渡り合ったとされる戦闘能力と狡猾な頭脳――即ち、腹黒さ。<闇誓書>が、『九尾の狐』の能力を完全に再現しているのだとしたら、今のラ=フォリアは真祖に比肩しうる危険な怪物である。悠長に様子を見ている余裕はない。

 

「―――<雪霞狼>!」

 

 有無を言わせず先手必勝。

 破魔の銀槍を構えた僧侶が飛び出した。これまで通りに、<闇誓書>の影響を『神格振動波』にて祓い清め、世界を正常な状態へと書き戻す。

 この疾風突きにて、『九尾の狐』を消滅させる―――と思いきや、

 

「えい!」

 

 楽しげに声を弾ませて、素早く右手を振った『九尾の狐』

 その手の中に握られていたのは、銃剣(バヨネット)を装着した黄金の装飾銃<アラード>。元々は前国王の書斎にあったものだが、勝手に持ち出して私物化されて、今は第一王女が愛用している。その特性は使用者の霊力の高さに比例して、威力を増すというもの。その銃剣が青白い霊力の光に包まれたかと思うと、剣が――姫御子自身を『精霊炉』とし、北欧の魔導国家が誇る対魔兵装<疑似聖剣(ヴェルンド・システム)>を発動。7、8mもの魔を引き裂く聖なる刃が、僧侶の銀槍を撥ね飛ばした。

 

「なっ!?」

 

 攻撃を防がれ、すぐさま体勢を立て直すユキナであるも、唖然とした表情で『九尾の狐』を見る。

 <疑似聖剣>は、『精霊炉』によって抽出された純粋な霊力の塊。その霊的な性質は<雪霞狼>の『神格振動波』と酷似しており、そのため、ユキナの槍でも消滅することは敵わない。

 ただし、生身で<疑似聖剣>を扱えるのは、通常は強力な霊媒であるアルディギア王族の女子のみで、おまけに『神格振動波』と同質であることは<疑似聖剣>の霊波は、<闇誓書>の支配も無効化にするということ。

 すなわち、<疑似聖剣>を発動できるということは―――

 

「ラ=フォリア! さては、お前、実は正気だな!」

 

「ふふっ、何のことでしょう?」

 

「とぼけんなっ!」

 

 正気であることは明々白々だというのに、コジョーらに向けて優雅な笑みを浮かべて見せるラ=フォリア。

 もう、彼女が素で、『九尾の狐の化身』と告白されてもコジョーは驚かないだろう。ああ、そうか……と納得してしまうかもしれぬ。

 

「こっちが<闇誓書>に振り回されて死ぬほど大変な目に遭ってるってのに!」

 

「ですが、雪菜だけが古城とペアで肝試しと言うのは、流石に不公平ではありませんか?」

 

 可愛らしく機嫌を損ねた表情を浮かべた第一王女に、非難の槍玉に挙げられた僧侶はびっくりして、慌てて首と手を振る。

 

「い、いえ、クロウ君や仙都木さんと一緒だったんですよ!?」

 

「しかし、今は古城と二人きり。おそらくここに来るまでに逸れたのでしょうが、その好機に肝試しで古城の手を握ったり、抱きついたりしたのではありませんか?」

 

「だ、抱きついたりしてはいません! ……手は、握ったりしてましたけど、それは先輩とまた逸れたりしないためで……!」

 

 反論する僧侶であるも、思い当たる節があるのか、引き攣った彼女のこめかみにはうっすらと汗が滲んでる。ウソを見破るのが得意な彼女だが、基本的に素直な性格をしてるので、ウソを吐くのは苦手なのだ。

 チラリと勇者を見たかとおもう、それで開き直ったかのように、再び銀槍を構える僧侶。

 そして、その様子を面白おかしく笑いながら見つめて、しかしまばゆく輝く聖なる刃を掲げる『九尾の狐』

 

「と、とにかく……! ここは実力で押し通らせてもらいます!」

 

「できますか? まだこれからが『九尾の狐』としての本領でしてよ」

 

 火花を散らして睨み合う二人を前に、半ば放心状態の勇者は舞台の主役ではなく、観客席から見守るような立ち位置であったろう。こんな無益な戦闘は、どうにかしてやめさせたいところだが、正直二人を止める術を持ってない。

 なにしろ、この僧侶の槍と王女の剣は、魔族であれば一太刀も浴びされてはならぬと本能で解する凶悪な兵装だ。迂闊に両者の間に割って入ろうとすれば、この身が不老不死の真祖であろうとも、命を落としかねなかった。

 だからと言って、このまま傍観者でいられるわけがない。

 勇者コジョーは、決死の覚悟を決めてこの二人の戦いに飛び出そうと息を吸った時、

 

「古城君、合流なのだ」

 

 背中にあたるその暢気な声。振り向けば、分断された二人、武闘家と魔法使いがいた。

 

「クロウ、ユウマも、無事か!」

 

「いろいろとあって遅れちゃったけどね。ああ、古城、凪沙ちゃんは無事だよ」

 

 安否確認に、ユウマはいつもの笑みを返してみせる。どうやら、そちらも肝試しイベントに巻き込まれたみたいだ。妹の無事を伝えられ、コジョーは胸がつかえていたものがとれたみたいに、大きく息を吐く。そして、

 

「それで、ここに着く前に、少し遠くから話は聞こえてたけど、どうやらお取込み中のようだね古城」

 

「だったら、話は早い。どうにかしてあいつらを止められないか、クロウ、ユウマ」

 

「う。わかったぞ」

 

 勇者の嘆願に、武闘家が『九尾の狐』たちの前に歩み出る。この状況を見ながら、物怖じせずに乱入できる後輩は頼もしい―――

 

「―――クロウ、“わたくしの邪魔をしてはなりません”」

 

「ごめん。オレには止められないのだ」

 

 が、契約の縛りがあった。

 <禁忌契約(ゲッシュ)>により、王族の頼みごとを二度続けて断れない後輩。また、有能な霊媒資質をもつ女児に三打もらうまで攻撃できない制約もあり、これを武力行使なく止めなければならない。

 それらの材料があれば、国の外交を任されるほどに弁舌の長けた第一王女は、戦うことなく口先だけで止めて見せる自信があるだろう。

 

「じゃあ、ボクがいこう」

 

 次に前に出たのは魔法使い。

 その口角をややあげた表情は、幼馴染のコジョーの目には、自信あり、と書いてあるようにみえた。

 

「何か思いついたんだな、ユウマ」

 

「まあね、少し見ててよ古城」

 

 ジッパーを下げるように腕を上から下に振る魔法使いは、何もない虚空から手品のように一冊の本を取り出して見せた。

 

「生半可な魔術では彼女たちには通じない。ボクは、戦闘系は得意ではないんだけど、動きを止めることくらいならできるかもね」

 

 そして、風に吹かれたように自然と本を開き、頁の上に掌を置く。そこに魔女の魔力を篭めると、“力ある書物”に書き込まれた文字は、この意味を世界に知らしめるように光を放つ。

 

「縛れ―――『No.343』」

 

 それは、『闇誓書事件』で、管理公社に回収された『No.343』――<蒼の魔女>と同じ『司書』の魔術師が所有者であった『法』の魔導書。

 その力は、『罪の重さだけ強力になる石化の魔術』。<図書館>にて、組織内の違反者に使われていたもので―――今回の事件捜査にて、ユウマに一時貸し出されたものだ。

 

「あら……?」

 

 魔法使いの宣告を向けられた姫御子は、その動きを鈍らせた。

 

「しかし、この護符(タリスマン)は、魔導書の呪いにも効果あるのですよ」

 

 胸元で揺れているペンダント。緑色の宝石を縁取る黄金のペンダントトップには、精緻な魔法文字が刻み込まれている。

 アルディギア王家に伝わる神器。持ち主の魂を呪詛や災いから守護すると言われる。つまり、この強力な御守りは、精神攻撃系の魔術を無効化する個人用防護障壁といったところだ。

 つまり、多少、動きを鈍らせることはできるが石化するには至らない―――そんなことは、魔法使いも承知している。

 承知して、それでも力で押し切れるとユウマは踏んでいた。

 

「けど、『九尾の狐』は、大罪を犯しているものだ。多くの国を堕落させたといわれるその罪業(カルマ)は、『法』の拘束力を最大限に高める。護符をつけた程度ではどうにもならないくらいにね」

 

 踊るように軽やかにステップを踏んでいた姫御子の脚が、止まる。石化しているのだ。

 これが北欧アルディギアの血筋を引く有能な霊媒資質を持った『美の女神(フレイヤ)』であったのなら、『No.343』で縛り付けるなど到底無理であったが、<闇誓書>により設定された傾国の大妖怪『九尾の狐』であれば、話は別。

 

「まあ、『九尾の狐』の最期は“殺生石(いし)”になったみたいだから、役にはピッタリだろ?」

 

「おお、流石、ユウマ!」

 

 決めてくれた幼馴染に、コジョーの歓声が上がる。

 

「……これは一本取られましたね、仙都木阿夜の娘―――いえ、仙都木優麻」

 

 腰まで石化され、もう完全に身動きのできないラ=フォリアは降参したというように、銃剣より伸びる聖なる刃を消し、装飾銃を降ろす。

 

「ですが、困りましたわね。わたくしとしても、石になっては、古城との夜の営みもままなりません」

 

「ぶほっ!? なにさらっと恐ろしいことを言ってんだあんたは!? そんなこと心配する場面じゃないだろ!」

 

「……それはつまり、古城は、彫像にも興奮を覚える、と言う意味でしょうか?」

 

「全然違うわっ! そういう危険な発言はやめろっ!」

 

 手も足も使えなくなっても、その口があるだけで人を振り回せてしまえる王女様である。真面目に付き合ったコジョーはぜいぜいと息を切らし、

 

「安心しなよ、ラ=フォリア王女。姫柊さんの『第七式突撃降魔機槍』を大人しく受ければ、魔導書の呪いも一緒に消える。『No.343』は、あくまで動きを止めるだけに使っただけだからね」

 

「仕方ありませんね。肝試しの追及はまたの機会にしましょう」

 

「うん。ボクとしても、古城と二人きりで回っていた姫柊さんにはいろいろと訊きたいことがあるよ」

 

「で、ですから、私は不埒なことは……決して……」

 

 何やら女性陣がごちゃごちゃとなってるものの、終わった、と古城は胸を撫で下ろす。だが、安心する間もなく、ラ=フォリアは悪戯っぽく微笑んで、

 

「ひとつ貸しですよ、古城。雪菜も」

 

「マジか、おい……」

 

 恩着せがましい王女の言葉に、古城はどんよりとした表情を浮かべる。

 よもや<闇誓書>に操られていた事実を逆手にとって、自分に有利な約束を取り付けるとは、その転んでもタダでは起きない交渉手腕には恐れ入る。さすがは外交相手から、警戒されるアルディギア王国の外交担当である。

 とはいえ、もし本気で抵抗すればこの程度では済まなかっただろうし、気まぐれで矛を収めてくれたのは助かった。

 

 

 

 そうして、第一王女も救出したことから、魔法使いユウマは『聖環騎士団』のユスティナに『戦車乗り(バックアップ)』のリディアーヌらと連絡を取り合い、またこれまで<闇誓書>から解放した人質も護衛をするためにも魔王城には入らず、森に残るとのこと。僧侶ユキナから夏音と紗矢華に張り付かせている式神の指揮権を預かると、勇者コジョー達のパーティを外れた。

 

「ん。この屋上に、浅葱先輩はいるぞ」

 

「屋上? モグワイの本体は地下にあるんじゃなかったのか?」

 

 人工知能の本体である五基のスーパーコンピューターは、キーストーンゲート地下13階の第零層――海抜0mの地点に設置されていると聞いたことがある。そこはキーストーンゲートの中枢であると同時に絃神島の中心地であった。

 てっきりターコイズ姫もそこに囚われているかと勇者は考えていたのだが、

 

「でも、“匂い”は上からするぞ。囚われのお姫様が塔のてっぺんにいるのはお約束なのだ」

 

 後輩の自論に、コジョーは苦笑する。人工知能の目的がアトラクション的なお化け屋敷の再現だとするなら、姫君は最上階にいるというのは、如何にもありそうな設定ではあった。

 

 

 

 魔王城へと入った三人は、蝋燭の明かりだけに照らされた薄暗い螺旋階段を上っていく。

 一人は減ってしまったけれど、三人となったパーティに安堵感は増して、気力も回復するよう。

 

「それに、ラ=フォリアでお化け屋敷のイベントは最後みたいだしな」

 

 移動の最中、勇者は、ホッと溜息を吐く。

 大事な人質であるお姫様(あさぎ)に、人工知能は妖怪役をやらせるとは思えない。先ほどの姫御子が最後の難関で、あとはお姫様を回収して、バックアップの『戦車乗り』に人工知能の強制終了(シャットダウン)を待つだけだ。

 しかし、安堵している先輩に、後輩二人の表情は揃ってあまり浮かないもの。

 

「そう……でしょうか?」

 

「姫柊?」

 

「いえ、ラ=フォリア王女が<疑似聖剣>を使ったことが少し気になって。<闇誓書>に魔力を供給しながら、高位精霊の召喚ができるとは思えなかったので」

 

 そう。霊力の塊である<疑似聖剣>は、その存在だけで魔力を消滅させるものだ。

 いかにラ=フォリアが優れた霊媒でも、<疑似聖剣>を召喚しつつ、<闇誓書>に魔力を供給することは原理的に不可能。この『混血』の後輩を除いて、魔力と霊力も自在に扱える芸当ができるものなどいないはず。

 それに紗矢華たちを<闇誓書>から解放されても、魔王城の存在は揺らいでいない。

 つまり<闇誓書>を動かしているのは、彼女たちではないということ。

 

 だとすれば、一体誰が<闇誓書>に魔力を供給しているのか?

 ラ=フォリアたちよりも強力な魔力源がいるのだとすれば、それは何者か?

 

 無論、藍羽浅葱だけで、魔導書を動かすのは無理がある。

 『闇誓書事件』では、星辰の力を魔力源とした、

 『彩昂祭』では、<第四真祖>を魔力源とした、

 では、この魔王城を実体化させているのは、星の地脈龍脈、不老不死の真祖に匹敵するだけの魔力の持ち主。

 そんな強大な存在が、そうそういるとは思えないが―――

 

「ん。ここに、あいつらがいるぞ」

 

 『鼻』の良い<黒妖犬(ヘルハウンド)>はすでにその存在を知覚しているのだろう。

 

「なあ、それって……」

 

 不安な胸騒ぎを覚えつつ、勇者が武闘家に問い掛けようとしたところで、屋上ひとつ前の階層に到達。

 途端、周囲の風景が変質。

 闇が蠢き、形作るのは、闘技場(コロッセオ)

 

 あまりに単純(シンプル)で、堅牢な世界。

 風が吹いている。まだ城内であるにもかかわらず、そして、床も硬い地面に。

 何も障害はなく、“ただ戦うためだけ”の空間。

 

 そして、このドームの向かい側に二つの人影―――

 

「お、お前らは―――っ!」

 

 タキシード姿で直立する青年二人組。この絃神島に滞在中の、第一真祖の血脈に連なる純血の吸血鬼。金属製のマスクでその顔を隠しているも、そんな変装では誤魔化されない。

 ジャガン卿トビアス=ジャガン。

 ヴォルティズラワ伯キラ=レーベデフ。

 

「暁古城、それに小娘もついでだ。通りたければ通るがいい。今日、我々が相手するのはお前らではない」

 

 冷たい刃物を連想させる青年吸血鬼ジャガン、そのいつもコジョーに嫉妬が混じった感情をぶつけてきた鋭い視線が今日は、その矛先を後輩(クロウ)へと向けている。

 それ以外に用はないと挑発的な口調で、コジョー達を先へ促す。して、二人が何か口答えするより早く、前に出た武闘家は行動で示す。

 

「オレに用があるみたいだな。古城君たちは上に行くのだ」

 

「待て、クロウ。あいつらと無理に戦うことは―――」

 

「や。アイツが持ってるの、取り返さないといけない」

 

 ジャガンの隣に立つ相方、中性的な容姿をした美青年キラがその腕に抱く硝子の密封瓶――白い花『冬虫夏草』を保管したそれは、後輩には大事な、家族の形見。

 攫われたのは、人だけでなく、物も盗まれた。そして、返して欲しくば決闘に応じろ、と言葉にせずとも状況で把握する。

 

「テメェ……」

 

「早く行ったらどうだ、暁古城。もう随分とこちらは待たされている」

 

「のヤロウ……!」

 

 この対応に苛立つが、このケンカを買ったのは、後輩。

 それにコジョー達にはコジョー達の相手がいる。

 

「クロウ、とっとと“あのバカ”ぶん殴って、こんな茶番終わらせてやる!」

 

「う。ここは任せて先に行くのだ」

 

 勇者と僧侶は、ここを武闘家に任せ、屋上へ向かう。

 

 この『旧き世代』にも匹敵する武闘派の若き吸血鬼らが腹心として、絶対の忠誠を仰ぐのはただ一人―――

 

 色々とおかしいとは思ってたんだよ!

 モグワイが単独(ひとり)で仕組んだにしては、やたら俺達を狙ったような嫌がらせばっかりだし!

 

 階段を登り切り、屋上に辿りついたその景色でまず真っ先に視界に飛び込んできたのは、スーパーコンピューターの複合体。

 空間がどこかでねじ曲がっているのは、魔王城の屋上に、地下にあるはずの、その漆黒の石碑を思わせる本体が置かれており、太い電源ケーブルと冷却用のパイプ、その他の無数の配線が、うねうねと血管のように伸びている。それらすべてが人工知能の本体なのだろう。

 この五基の石碑の中心には、制服姿で眠る浅葱の姿。まるで透明な棺桶を連想させる小さなベットに閉じ込められてはいたが、とりあえず無事なようだ。

 

「やあ、古城。いい夜だね」

 

「ヴァトラー―――っ!」

 

 そして、<闇誓書>へ無限の“負”の魔力を供給する白いスーツ姿の、そして、今日は配下と御揃いで目の周りだけを覆う変装用の仮面をつけた青年―――

 

「違うヨ。ボクは名もなきお化け屋敷の案内人サ。そうだな、ヘビのお兄さんとでも呼んでもらおうか」

 

「やかましい! いいから浅葱を返してもらうぞ!」

 

 瞬間、勇者コジョーは、この魔王代行へ、雷光迸らせて、自らの眷獣をぶっ放した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 欧州『戦王領域』の貴族でありながら、ディミトリエ=ヴァトラーは戦闘狂(バトルマニア)で有名である。不老不死で生きるのに倦んだ彼ら『旧き世代』の吸血鬼にとって、強敵との殺し合いは、残された数少ない娯楽なのである。

 そして、ヴァトラーが執心している遊び相手は、ほかならぬ世界最強の称号を持つ吸血鬼<第四真祖>。

 第一真祖の臣下であるヴァトラーが暁古城と戦うのは、政治的に多くの問題があるが、この魔王城の中ならば話は別だ。肝試しの名目で、好きなだけケンカを吹っ掛けることができるのだ。

 そんな、訊けばくだらないとしか言いようのない理由で、馬鹿げたイベントを仕組んだのだが、そのヴァトラーでも体はひとつしかない。

 実は彼にはもうひとり、味わいたい相手がいる。『十三番目』、と『宴』の『選帝者』らから称された逸材、愛しき<第四真祖>の後続機である最新の殺神兵器とも殺し合いたいところであるも、彼との死合いには、枷となる誓約がある。

 しかし、それはあくまでもヴァトラーから仕掛けられないのであって、その配下は誓約に含まれていない適用外だ。

 

 だから、今、どれほどに熟しているのかを閣下より命じられた。

 

「流石に二対一という真似はしたくはない。手出しはするなよキラ、ここは俺がいく」

 

「もう、勝手に……ズルいよトビアス」

 

 前に出たトビアスに、キラは独り占めされるのは面白くはないと批難めいた視線をやる。

 平和主義な優男に見える風貌であるも、キラもまた<蛇遣い>につき従う戦闘狂。数十年前に親族同士で領地の相続を巡る内乱があった際、叔父たちを皆殺しにして伯爵位を継承した経歴の持ち主だ。その様をヴァトラーに気に入られ、後見を受けることになった。

 そんな激しい気性を持つ麗しき闇の貴公子は、しかし、戦いの作法を知る。自身と同じく、アルデアル公を心酔し、強者との戦いを求める相方が、一対一での戦いを望むであれば、その邪魔はしない。自分でも邪魔をされ、互いに命を賭ける神聖なる殺し合いが穢されるのは、許せないものだから。

 この場を譲ってくれた相方に、無言の感謝を目配せで示すと、苛烈なる炎の貴公子は、クロウと対峙する。

 

「<黒妖犬(ヘルハウンド)>……『黒死皇派事件(あのよる)』、ヴァトラー閣下に爪をかけた貴様を、いつかは叩き潰したいと思っていた」

 

「最初に手を出してきたのは、オマエらだ」

 

 クロウは明確に、低い声で絞り出すように、その戦意に応じる。

 

「<闇誓書>の力で、この空間は完全に外部から隔離されている。好きなだけ暴れても問題はない。だから、貴様が『闇誓書事件(あのよる)』に引き継いだとされる<守護獣>を出すといい。召喚が苦手であると聞いているからな、それくらいの時間は待ってやる。閣下は、貴様の全力をお望みなのだから」

 

「<守護獣(フラミー)>が戦うかは<守護獣>が決める。オマエらじゃない」

 

「フン、自身の使い魔も御し得ぬ相手であったとは、不足だな」

 

「オマエこそ、眷獣を出さなくていいのか? 古城君たちを見逃してくれたからな、それくらいは待ってもいいぞ」

 

「舐めるな、魔女の犬―――!」

 

 合図はなく、開始して、零秒。

 一足飛びで間合いを詰めたクロウの拳が直進の最短距離で放たれて、左胸を穿たず直前に挟まれたジャガンの片手剣に阻まれる。

 

「吸血鬼の戦闘が、眷獣をぶつけるだけのものだとは思わないことだ!」

 

 ジャガンが虚空より取り出したのは、中世の貴族あたりが決闘で使う細身の片手剣。軽く折れてしまいそうなその細剣は、しかし見た目に合わぬ重量がある。クロウの剣戟を受け切って、尚折れないのがその証拠。

 トビアス=ジャガンは、『戦王領域』の獣人兵団ともやり合えるだけの剣の腕を持つ。

 

 不死身の吸血鬼とて、破壊された脳や心臓の再生には相応の時間がかかる。そして、意識が戻るまでは、眷獣の制御は失われることになる。実力が拮抗した相手との戦いにおいて、眷獣の暴走が生み出す隙は致命的だ。

 そんな弱点を放置することなど、強者であるのなら許されるべきではない。

 紅蓮の輝きに包まれたジャガンの姿が、クロウの眼前でかき消えた。吸血鬼の身体能力を最大限に引き出した超加速―――しかし、クロウの眼はそれさえ捉える。

 

「ここはオレの間合いだぞ」

 

 体中のあらゆる急所を狙う苛烈な連撃に怯ませ、攻撃させる間も与えずに攻め立てる。まさしく、相手を確殺するための貴公子の剣術―――ならば、こちらは野生の本能と人間の術理と複合体(ハイブリット)

 直裁に、そして最速で。それも二打。瞬間移動した先に待ち構えていたかのように頭部へ放たれていた拳。それはまさしく一撃必殺を体現したそれは、戦術のセオリーなど無視している。そう、後出しにくせして、先手よりも速く拳を叩き込んでくるのだ。

 構わず振り抜けたら、一太刀を浴びせることはできたであろうが、これは捨て身の拳骨。肉を断たせ、骨を砕くなんていう暴挙を目論んでいる。徹底的に二度も。

 

「くっ!」

 

 剣を振るうのをやめ、咄嗟に身を引くジャガン。

 されど、その膝をついた。そのワン・ツーと拳は避けていた。だが、確かな衝撃が頭を揺らしていた。それは力の残像。その豪力を持って繰り出した寸止めにより、純粋に衝撃のみを置き去る力技。<空隙の魔女>がよく問題児への仕置きに多用する空間制御の不可視の衝撃波と似ていたか。そのジャブ程度の威力であったろうが、空間地雷じみた不意打ちをもらい、体制の崩れたジャガンへクロウは止めを刺さんと迫り―――

 

「―――<魔眼(ウアジエト)>よ!」

 

 真紅に染まった貴公子の瞳が、妖しい魔性の輝きを放つ。それは『魔眼使い』と称される彼の不可視の眷獣の輝きだ。目を合わせたもの脳内に侵入し、その意識を支配する、吸血鬼の中でも希少な能力。

 

「ぬっ!」

 

 寸前、その貴公子の力が目に集う“匂い”を察知し、目を閉じて今度はクロウが後退。

 

「オマエの目、見るのやばそうだな」

 

「勘でこの『魔眼()』の脅威を察したか。しかし、目を閉じたままこいつを相手にできるか―――<妖撃の暴王(イルリヒト)>よ!」

 

 視界を閉ざしたクロウの頬を灼熱の衝撃が撫でる。

 それは閃光に包まれた巨大な猛禽の羽ばたき。ジャガンが召喚したのは、翼長数mに達する巨体を持った火の鳥――いや、摂氏数万度にも達する高密度の炎の塊が猛禽類の形をとったもの、と称する方が正しいか。

 

 ―――強い!

 

 それはかつて、殲教師が起こした魔族狩りの事件、その最後の被害者であった『旧き世代』の爆発のワタリガラスと同等以上の魔力。若き吸血鬼でありながら、『旧き世代』をも倒しうる戦闘力を持っているという評価はけして詐称(ウソ)ではない。

 

「強者と認めた以上、貴様に容赦はせん。灼き尽くせ!」

 

 ジャガンが右手を振ると、灼熱の猛禽が閃光と化して駆け抜け、闘技場を紅蓮色に埋め尽くす。

 

 ドォッッッ!!!!!! と凄まじい爆炎が発生し、衝撃波と共に大津波如き熱波が一帯を舐め回した。その周囲の客席もすべて山火事か何かのように炎で塗り潰される。<闇誓書>に改編された世界を、異形に歪ます。地表どころか、空の色までもが炎のそれへと上書きされていく。

 されど、ジャガンの眼光はより鋭くに細められる。

 眷獣の高熱に炙られた相手が一瞬で融解してきた様を、何度も見てきた炎の貴公子―――しかし、その逆に五体満足であるのは珍しい。

 

(この程度でやられるはずがない。キラの<炎網回線(ネフイラ・イグニス)>にも怯まんヤツだ。それにあれは、アルディギアの―――)

 

 闘技場の全てが轟々と音を立てて燃えていた。

 この炎を生み出したジャガンが常識外の怪物なら、その炎に押されず生身のまま直立する銀人狼――いや、金人狼もまた常識外の怪物か。

 炎の貴公子が眷獣を召喚すると同時に、獣化を果たしていた。

 

「やっぱり、オマエ、強いな」

 

 その身に纏う生体障壁に、金色の神気が混ざっている。

 体内の霊的中枢を一気に稼働させる金人狼になると同時、すべての物理衝撃に絶対的な防護性をもつ<疑似聖楯(スヴァリン・システム)>を発動。

 360度業火に取り囲まれた金人狼は、依然、瞑目したまま。心頭滅却と言わんばかりか。無関係に怯えさせるほどの唸り声も、強烈な気迫を出すこともなく。水を打ったように穏やかな雰囲気のまま、そこにある。

 して、その膂力は眷獣を打ち据え、撃退できるレベルに達している。

 

 ボッ!! という空を裂かれた風切り音と共に、紅蓮色の世界はジャガンの支配を食い千切る。

 

「―――ッ!!」

 

 もちろんそれはいつもの爪を縦横に振るっての攻撃であるも、その一撃一撃は重く、速く、鋭く。

 なにより一切の迷いが感じられない。

 それはサイレント映画でも見ているかのような、静かで、それでいて目が離せずにいる、神々しささえ感じられるような光景であった。

 そして、その腕を振るった軌道と共に、まるでねっとりとした水飴にも似た焔が絡みつく。万遍なく焼き尽くす、並の人間ならば脱水症状で百は死ぬ、一分もしないうちに酸素を食い尽くして火に耐えようが生物を窒息させるはずの焦熱地獄の風景は掻き乱され、ほんのわずかな安全地帯を作り出す。

 

 魔炎の流れとは、言ってしまえば空気の流れだ。風上から風下へ、密封された場所から出口を目指して、黙っていても勝手に流れる。炎それ自体が空気を膨張させて気流を生み出してしまうこと、ジャガンは<妖撃の暴王>という高密度の魔力が変じた炎を操ることから必ずしも状況は単純とはいかないが、基本は熱力学と言うよりは、流体力学。巨大な水槽の中に線香の煙を閉じ込め、棒をかき回して空気の流れを作ってやるのと同じ。視覚化された流体(ほむら)は意のままに動く。

 

 だが、今、炎がジャガンの意に背き、反逆の牙を剥く。

 

(相手の意を操る<魔眼>に対する意趣返しか!)

 

 金人狼がさらに二度三度と流れるように両腕を振るい、空気を引き裂くと、暴風と共に紅蓮色の塊は解き放たれ、逆に宿主たる炎の貴公子へと殺到していく。

 ジャガンは防御の構えすら取らなかった。

 直撃の寸前に、いっそ溶鉄めいた炎の塊を阻む、新たな眷獣が喚び出された。

 

「炎には慣れたか、だが俺の眷獣はこいつだけではない! <崩撃の鋼王(アルラウト)>よ!」

 

 それは全高4、5mにも達する鋼色の類人猿だった。濃密な魔力によって実体化した、鋼鉄の土人形(ゴーレム)だ。巨大な鉄塊に似た両腕が、返された炎塊を弾く。

 このジャガンの紅蓮の魔力で形成された土人形は、それ故に、極まった火力耐性を持つ。眷獣すら溶解させる業火の中でも、鋼の肉体は原形を崩すことは決してない―――

 

「<妖撃の暴王>! <崩撃の鋼王>!」

 

 これが、心酔する閣下の、『合成眷獣』に近づかんとする炎の貴公子が編み出した二体の眷獣の連携。

 

 ッッッドン!! と、鋼鉄の類人猿が消えた。その背中から紅蓮色の炎の翼のようなものを噴出した類人猿の巨体が地面すれすれを流星のようにかっ飛ぶ。炎の猛禽類を火力として、鋼の巨体を砲弾にして飛ばしたのだ。

 それは金人狼にも反応できない速度で迫り、その前倣えと合わせた両の鋼拳でクロウの胸板をどつく。

 そのまま、旅客機の不時着のように地面を一直線に抉り取る。

 

「がっ、――――――――――――――――――――!!!!!!」

 

 数十、いや闘技場の壁さえ突き抜け、そのまま数百m。

 人間サーフィンがようやく終わったその時、貴公子は見る。

 その胸元に、黒く焦げた痕を残しながらも、五体を欠けることなく、そして、その『首輪』に手を掛けている金人狼の姿を。

 

「……やっぱり、強い―――だから、殺すつもりでいくぞ!」

 

「俺は最初から貴様を殺すつもりだ、<黒妖犬>!」

 

 『首輪』が、外される。

 創造主の呪を克服し、主人よりついに許可が与えられた<神獣化>。

 

「―――契約印ヲ解放スル」

 

 人狼が、完全なる獣と化す。

 貴公子の眷獣に匹敵する巨体を持つ、そして、龍族と同格の最上級の存在へと。

 

 

 

 不老不死の吸血鬼。永遠の寿命をもつ彼らは、それ故に、無尽蔵の“負”の魔力を有して、それ故に、眷獣を血の中に飼うことができる。

 

 では、人超の生命力を持った吸血鬼に対し、人超の馬力を持った獣人は何があるのか?

 

 魔族に特異な能力は数あれど純粋に身体能力が増幅するのは獣人の特性だ。鍛えれば鍛えるほど、力が増す。獣人こそ迫撃において最強だ。そうかつての『黒死皇派』――獣人至上主義者は声高らかに謳う。

 

『あの子は、<空隙の魔女>が人間たちの社会に連れてきたからこそ、『黒死皇派』では得られぬものが育ったのかもしれないネ』

 

 ―――はたして、それが閣下(ヴァトラー)が確かめたい真価であるのか?

 

(<神獣化>できる上位種獣人は稀少だ。しかし、その程度ならば何度も屠ってきたぞ)

 

 『真祖に最も近き吸血鬼』と畏れられる閣下に付き従うものとしての自負。

 そして、『旧き世代』をも破ってきた己の眷獣への自信。

 

 砲弾として放った土人形を一度霧散させて、己の前に戻す。

 

 目を瞑り、的がデカくなった。

 頑丈にはなっただろうが、ならば、次は先よりも多くの魔力を篭める。

 

「もう一度だ! <妖撃の暴王>! <崩撃の鋼王>!」

 

 ッッッッッドン!!!!!! 鋼の類人猿が発射。

 そのロケットスタートは獣人の動体視力でも見切れず、これまで神獣をも轢き殺してきた威力があった。まともに受ければ破壊される。

 

 

 ―――それを金神獣は、目を瞑ったまま、回避した。

 

 

「な……」

 

 回避不能な攻撃速度。これまで避けれたものはいない。

 信じられないがしかし、ジャガンのこれまで積み上げてきた戦闘経験値が答えを割り出す。

 目を瞑っている以上、剣巫や舞威姫のような未来視を働かせない。視界という情報量を削ってしまえば、そんな芸当は無理なのだ。

 だが、その不可能なはずの、視界を除く五感だけで発射を予測できたとしたら?

 

 人と同じだけの脳力を持つ象は、巨体からくる力を生存に有利に働かせようとする運動や感覚の脳神経を割いているため、その分だけ人のするような知的活動にリソースを割く余裕がなくなっている。

 だから、けして象は人よりも愚鈍なわけではなく、ただ頭の使い方の方向性が違うのだ。

 

 

 南宮クロウは、けして愚鈍なわけではない。

 

 

「二度モ同ジ手ハ喰ワナイゾ」

 

 

 神獣という龍族クラスの巨体に、眷獣を一撃で霧散させてしまえる絶大な膂力。強力なメリットでもあるそれらの特徴は、しかし手を誤れば自身の骨格や筋肉を破断させかねないリスクを抱え、また完全に制御できなければ寿命を削ってしまえるもの。

 また全開でなくとも、彼の身体性能は獣人種と比較しても飛び抜けている。

 だから、制限を課すことなく奔放であれた森から脱して、この人間社会に移り住んだ南宮クロウは、何時(いつ)でも何所(どこ)でも高精度の計算を強いられながら生活している。

 自らの肉体の自壊を防ぐためでもあるも、何より脆い肉体である人間と一緒に生活、それも子供が大勢いる学校に通うという中で、人でありながらも象をも殴り飛ばせるだけの力を持っている南宮クロウは常に細心にして砕身の注意を払って加減を行っていた。そうでなければ、共にいることなどできないのだから。

 うっかりで携帯機器を指圧で破損してしまったり、『匈鬼』の腕を空でも掴むように抵抗なく握り潰せる彼にとって人の手を取る行為は、“人が蟻を潰さないように摘まむ”のと同じ。たとえ十指を絞め付ける『手枷(てぶくろ)』をつけていたとしても、相当量の情報処理が必要である。

 そうして、森を離れ人間社会に移り住んだ野生児が毎日欠かさず必死にしてきた頭脳活動が、彼の脳力を無限に拡張していく。鍛えれば鍛えるほど強くなる獣人種の肉体であるのだから、自然、脳も鍛えられている。もしも彼が何の加減も必要としない環境下及び制限補助してきた拘束具を外した条件下で、己の肉体の自壊を恐れずに思考活動に脳力を注ぎ込めば、“未来測定”すら実行できる。

 そう、世界の理さえも軽々と紐解いてしまう<電子の女帝>にも迫る演算能力を獲得していた―――

 

 簡潔に言うと、勘が鋭い―――直感で答えを導き出せてしまうようなタイプなのである。

 そして、その獣の直感こそが、閣下が期待したもののひとつ、吸血鬼の無限の“負”の魔力に匹敵する、獣人種の真に恐るべき特性。

 

 ゾクリ、と。ジャガンは業火の中、その威容を知らしめるように君臨する黄金の神狼を見やった。

 

 二体の眷獣を使った、最大最速の一撃は通じないのか。

 否、これは己の誇りを賭けた一撃―――

 

 

「<黒妖犬(ヘルハウンド)>ォォォオオオッ!!!」

 

 

 三度発射された赤熱した鋼の砲弾は―――――“ジャストミート”で迎え打った神獣の爪撃に破壊された。

 

 

 一度目は、喰らう。

 二度目は、避けて。

 三度目は、壊した。

 殺神兵器の最たる脅威である学習能力(ラーニング)が、炎の貴公子の必殺技を完封攻略する。

 

「コレデ、終ワリダ!」

 

 そして、主力二体を引き裂かれて、無防備なジャガンへ黄金の神狼が迫る。

 腕を振るい、その爪に当てぬよう張り手。肉球型の生体障壁を集わせて纏う。それだけは威力を減じさせた、神獣の豪力。力を完全に制御出来ようとも強過ぎる。

 

 

 ゴッギィィィン!! という轟音と共に、炎の貴公子の身体が薙ぎ倒された。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――トビアスっ!

 

 神獣の一撃をもろに喰らった相方に、麗しき影の貴公子キラ=レーベデフは、動揺した。

 仲間を護るためならば格上の相手と戦うことになっても厭わない彼は、しかし相方の一対一の決闘を穢すことなどできない。

 吸血鬼は不老不死であり、一撃を受けただけで殺されることはない。

 そして、強敵との戦いで死ねるのならば、それが本望、と。

 それでも飛び出しかねないキラの意識は闘技場へと向けられ、この外部から突き破ってくる存在への反応が遅れた。

 

「―――取り返します、執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>!」

 

 <黒妖犬>が相方を無視してこちらに襲い掛かってくることを想定し、<炎網回線>により、薄く細く密やかに、キラの周囲に張り巡らされた防衛網―――それを引き千切る巨人の腕。

 

「っ! まさか、閣下がお話しされた人工眷獣か……!」

 

 間一髪に、その腕から逃れたキラは身構える。今、現れたのはメイド服を着た人工生命体の少女、その背中より虹色の巨大な翼のような腕を展開している。

 人工眷獣共生型人工生命体、個体名『アスタルテ』。

 『戦王領域』の獣人兵団でも突破するのが難しいキーストーンゲートの防衛網を、その身に寄生させた人工眷獣を以て、ほぼ単騎で突破した戦闘力を有する。

 それがキラの眷獣を食い破らんと両腕を振るい―――邪魔な網を外した。

 

「君たちが盗んだもの、返してもらうよ、それは彼にとって大事なものだからね」

 

「<蒼の魔女>っ」

 

 キラが腕に抱えていた白花を詰めたガラスの密封瓶が消失、して、虚空より現れた魔女の手元に移る。

 <蒼の魔女>。

 緻密な空間制御を得意とする仙都木優麻。アスタルテにより空間制御を展開するに邪魔な眷獣の炎網を破られたことで、その技能が発揮できるようになった。

 そして、魔法使いユウマは天井へと視線をやり、

 

 

「さあ、これで肝試しの時間は終わりだ。そろそろ屋上(うえ)も決着がついたんじゃないかな?」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『こちらからも行かせてもらおうか―――<摩那斯(マナシ)>! <優鉢羅(ウハツラ)>!』

 

『くっ! 疾く在れ(きやがれ)、<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>、<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>―――!』

 

 魔王代行を務める<蛇遣い>の愛情表現(ケンカ)

 <闇誓書>の結界が張られているとはいえ、この魔王城が攻撃の余波だけで壊滅しかねない眷獣の応酬。

 さらには眷獣の争いに挟みこまれる吸血鬼同士の剣闘。

 

『先輩!』

 

 それを僧侶のサポートと、バスケ部で培われたフェイントや重心移動、チェンジ・オブ・ペースといったオフェンスの要領で、魔王代行の追撃(チャージ)を勇者は躱していき、

 しかしそれで眷獣の制御が疎かになり、相手に『合成眷獣』を許してしまう。

 ―――そこへ加勢。

 

『大丈夫、雪菜!? あとついでに、ホントにどうでもいいけど暁古城も―――』

 

 <闇誓書>から解放され正気を取り戻した舞威姫と姫巫女。

 叶瀬夏音や暁凪沙、それに彩海学園の生徒たちまで趣味に巻き込んだヴァトラーを成敗するという大義名分で、コジョーたちのパーティに加わる。

 しかし、魔王代行は獰猛な笑みをますます深くして、その真紅の双眸の色合いがより濃く染まる。

 

 援軍の到来に事態が収束することを勇者は期待したのだが、それが完全に裏目に出た。戦闘狂の<蛇遣い>にしてみれば、遊び相手が増えたという感覚なのだ。

 このままでは被害が拡大する一方。

 絶望感に襲われた勇者は呻き、しかし僧侶はそんな先輩を見上げて華やかに微笑んで見せた。

 

『いいえ、先輩。肝試し(ケンカ)の時間は終わりです』

 

 

 

 落雷のような閃光が世界を白く染める。

 硝子が砕け散るような音を残して結界が破れ、魔王城が消滅する。そして、闇の殻が剥がれ落ちるとそこは楔形の未来的な高層ビル――元のキーストーンゲートへと戻っていく。

 

「<闇誓書>の効果が消えた? サーバーに侵入されたのか……?」

 

 当惑するヴァトラー。

 人工知能の本体である五基のスーパーコンピューターは、今も屋上に残ったまま。しかし、そのうちの一基の電源が落ちている。

 まさか、『戦車乗り(リディアーヌ)』が、<電子の女帝>の防壁を突破して、強制終了に成功したのか―――いいや、違う。

 

「祭りは終わりだ、馬鹿共」

 

 虚空より現れたる小柄な女性。

 フリルまみれの豪華なドレスを着て、深夜だというのに日傘を手放さない、人形っぽいシルエットの持ち主。

 

「那月ちゃん!?」

 

 思わず彼女の名前を口にした古城は、次の瞬間、顔面に衝撃を受けて仰け反った。

 教師をちゃん付けで呼ぶな、と目が口ほどに言わんばかりに、南宮那月に古城は睨まれる。

 

「なるほど……キミの仕業か、<空隙の魔女>。まったくいつもキミはボクが盛り上がる直前に取り上げてくれるね」

 

「何度も言わせてくれるな。蛇は生殺しにするのが一番だ」

 

 <蒼の魔女>が、空間制御が領域内で使えなかったが、しかし那月はその強制を無視できる。

 何故ならば那月こそが、<闇誓書>の真の所有者であって、所詮、人工知能(モグワイ)が保有している<闇誓書>の情報(データ)は、彼女の記憶を元に<書記の魔女>が再現された単なる模造(コピー)に過ぎない。

 

「しかし妙だな。いくらキミ自身が<闇誓書>の影響を受けないとはいえ、どうやって人工知能(AI)防壁(ファイアウォール)を破ったんだい?」

 

 ヴァトラーの言う通り、魔術による妨害を無視できたとしても、電脳世界において敵なしの女帝が敷く鉄壁を崩せるだけのハッキング能力が、那月にあるとは思えない。

 その彼女が突き放すような口調でした回答は、古城たちをも唖然とさせた。

 

「関係ないな。AIだか何だか知らんが、要は<闇誓書>をコンピューターで再現しただけの代物だろう?

 だったらコンピューターの電源を切れば、<闇誓書>の効果も消えるはずだ」

 

「電源を切ったって……まさかコンセントを引っこ抜いたのか!?」

「そういう乱暴な切り方をすると、コンピューターにも悪影響が出るのでは……」

 

 人工知能の本体は、あくまでも絃神島の都市機能を維持管理するためのコンピューターだ。それに支障でも出たら、市民の生活にかなりの損害が出かねないのだが……

 

「知らん。システムの復旧とやらなんやらは、藍羽がなんとかするだろう」

 

 生徒たちの非難を、傲岸不遜なカリスマ教師は、他人事のように一蹴する。そんなことは百も承知の上で、コンピューターを物理的に強制終了させた。

 <闇誓書>をこの場にいる誰よりも知悉する那月からすれば、島が沈んでしまうよりはマシな処置だろうと。

 

「―――う、なんか全部終わってるみたいだぞ」

 

 とそこで、屋上に現れた後輩。下でヴァトラーの配下との激闘によるものか、その上着は全焼して、上半身が露わとなっているも、これといった怪我はしてなさそうで元気な様子。ついでに姿が青年から元の少年の姿に戻っていた。全力を出した戦闘の結果、『No.014』の暴走の影響が解けたのだろうか。

 古城たちは、その変わらず無事なことに安堵して、クロウは那月を見つけ、

 

「あ、ご主人!

 

 

 ―――クロロンだワン♪」

 

 ポーズを決めて、ご挨拶。

 

 

 ピキッ、とそのとき、唯我独尊の高貴なる女教師の不敵な表情筋がひくついた。

 

「……………馬鹿犬、なんだそれは?」

 

「ん? ご主人から教わったやつだぞ。これからは挨拶するときはこうしろーって。こう、手首をくいっとさせて可愛らしくやるんだろ?」

 

「私はそんな阿呆な真似をサーヴァントに強要した記憶はないが」

 

「んー……肝試しで出てきたご主人だから、ご主人じゃないけど、でもご主人にやれってオレは言われたから、こう……」

 

 ああ、まだそれ生きてたのか?

 しかしなぜそれをこの場面で甦らせてしまったのか。

 

 

「―――クロロンだワン、ナツキュン♪」

 

 

 あれなんか反応が悪いな、とリテイクして再びポーズをとる後輩。

 その死刑執行書に自らサインするような真似を、古城たちは止める間もなかった。(―――先輩、クロウ君がまずいです)(いや、ひょっとしたら那月ちゃんのツボに入ったかも)(いや、それは絶対ないわよ暁古城)と目で会話する雪菜と古城と紗矢華の三人。

 そして、

 

「ぷふぅっ! こ、これが日本の魔女っ娘文化なのですね! ぷっ、……わたくしの真似事では、お家芸に敵いません。ええ、負けを認めましょう、南宮那月」

 

「はは……ははははは……はははははは! ―――いや、なんて素晴らしいサーヴァントを持ったんだ、<空隙の魔女>―――あはははははは!」

 

 この場で笑えるのは、ラ=フォリアとヴァトラーのような胆の太い輩だけだ。

 

「うー、ひょっとして、ご主人も一緒にナツキュンやらないとダメなのか……?」

 

 一生懸命にうんうん考えてる後輩(サーヴァント)の前で、こちらを背にして立つ大魔女の顔色を窺う勇気は古城にはない。

 ―――大魔女の硬直が氷解するのにどれほどの時間が経過しただろうか。

 ふと、彼女の細い腕が挙げられ、そっと未だ稼働を続ける残りの四基のコンピューターを指差す。

 

「それを壊せ、馬鹿犬」

 

「ん? あれ? オレって機械とかにあんま触っちゃダメなんだろ?」

 

「だから壊せと言っている」

 

「え、なんかごちゃごちゃしてて、壊したらまずいっぽい機械だけど」

 

「壊せ」

 

「う、了解なのだ」

 

 主人の命に後輩が、コンピューターの電線ケーブルを、強引に片っ端から引き抜いていく。予備電源や無停電電源装置を使って、どうにかメモリ内容を維持しようとする人工知能だが、クロウの機械と最悪な相性のパワーは、それらを完膚なきまでに破壊した。

 圧倒的な防御力を誇る<電子の女帝>の防壁(ファイアウォール)も、物理攻撃に対しては為すすべもない。外部記憶装置まで破壊され、人工知能は完全に沈黙。

 こうして、最悪の魔導書<闇誓書>は、完全にこの世に消滅したのであった。

 

「まあ、こんなものか」

 

 コンピューターの機能停止を確認すると、那月は小さく鼻を鳴らし、

 

「おっと、モグワイとやらは、絃神島を管理する五基のコンピューターの現身(アバター)、という話だったな。

 ―――さて、そうなると、それを壊した馬鹿犬には仕置きをしておかないとならんよな?」

 

「え、ナツキュン―――!?」

 

 じゃらっ!

 

 虚空より飛んできた縛鎖が、後輩を雁字搦めにしたかと思うと一瞬で異空間へと引き込んだ。

 

「クロウ……」

 

 ほとんど瞬きの間に事は終わり、古城が目にしたのはさっきまで後輩が立っていた床に残る、焼き焦げにも似た、断末魔が滲む影だけ。

 今回の『恐怖の館』とは数段レベルが違う、本物の血塗られた拷問器具で飾られた監獄へと、後輩の肝試しは続くらしい。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『うわあ。ここはどこだ。ボクは今まで何をしてたんだろう。

 どうやらボクは<闇誓書>に操られていたみたいだ。自分が何をしていたのか、まったく記憶にないヨ。

 ―――だから、責任能力もないということで』

 

 と<闇誓書>暴走の共犯者なヴァトラーは、まったく悪びれもせずに暴論を振りかざして、逃亡。

 事件は解決したが、何ともやるせない気持ちになった。

 

 それから浅葱の救出やら検査やら事情聴取やら厄介な手続きが大量にあって、彩海学園に戻ってこれたのは明け方近く。

 これでも那月やラ=フォリアが裏から手を回してくれたので早く帰れた方なのだ。

 で、戻ってきてほとんど休む間もなく、『彩昂祭』の二日目の様々なイベント。結局、古城たちは一睡もしないまま、それらの準備や手伝いに駆り出され、全てが終了した時には疲労困憊で意識が朦朧としている有様だった。

 特に浅葱は、無茶な強制終了の影響でメンテナンス中で、仮想現実お化け屋敷用の幻術投影サーバーを営業時間が終わるまで、付きっきりで操作しなければならず、

 しかも、クラスの学園祭実行委員で、一番大変であった。

 ちなみに<闇誓書>に囚われていた間の出来事は、ほとんど覚えておらず、この記憶の欠落は<闇誓書>の方で辻褄が合わされているらしい。

 

 して、グラウンド中央の特設ステージでは後夜祭のイベントが始まっていた。

 コンテストの結果発表や、生演奏に合わせてのフォークダンスなど、希望者だけの自由参加だが、それなりに盛り上がっているようだ。

 

「本当に疲れたな今年の『彩昂祭』は」

 

「そうですね。どうにか無事に終われてよかったです」

 

 グラウンドの片隅。花壇の隅に腰かけた古城は雪菜と、祭に付き合う気力も体力も残ってないけれど、この祭囃子を聴きながら余韻に浸たり、今日までのことを思い返す。

 <闇誓書>に囚われていた古城の解放。そして魔王城からの浅葱たちの救出。彼女だけではないけれど、なんだかんだで今回も、雪菜には随分と世話になった。疲労で余計な気を遣う余裕のないけれど、礼のひとつも言わなければ罰に当たると考えて、古城はストレートに感謝へ感謝の言葉を送ることにした。

 

「ありがとな、姫柊」

 

「いえ。私も楽しかったです。こんな賑やかな文化祭は初めてでしたし。それに……せ、先輩と一緒に肝試しもできましたから……」

 

 古城の神妙な態度に少し驚いたように目を丸くした雪菜は、それから頬を赤らめて俯き、最後は消え入りそうな声で何かを言い足す。ちらちらと横目で聴こえてないかと反応を窺う彼女であるも、幸か不幸か、古城に最後の小言は耳に届かなかった模様、

 何故ならば、その前にほかの女子生徒――今回最も働いた藍羽浅葱が古城に怒鳴り込んできたからだ。

 

「あっ、いた! こんなところでなにサボってるのよ、古城!? 後片付けは!?」

 

「あ、浅葱。俺は自分の担当の分は終わらせたぞ。ポスターの撤去もさっき済ませたし」

 

「甘い。フォークダンスに参加する連中がごっそり抜けたから、人手が全然足りてないの。あんたも誰かと踊るっていうのなら、片付け免除してあげてもいいんだけど」

 

「いや、誰かって言われてもな……」

 

 無理を言うな、と古城は肩をすくめる。

 なにしろ『彩昂祭』のフォークダンスは、事実上、学園内のカップル専用イベントなのだ。

 しかも、“伝説”付きの……

 

「……先輩は、フォークダンスに参加しないんですか?」

 

 そこで躊躇いがちに、視線だけ窺うように雪菜が訊ねる。

 古城は当然のように気怠く首を振り、

 

「いや、俺はいいよ。今日はもう疲れたし」

 

「いいよ、じゃないんだけど。それなら片付け、手伝いなさいよ」

 

 ムッと眉を吊り上げる浅葱。今日もっとも働いた浅葱に古城としても、その命令には逆らい難いものがある。

 これを避けるとするのなら、フォークダンスを踊るしかない。片付けよりも、フォークダンスをする方が疲労度は少ないだろう。でも、そんな相手が古城にはいない―――

 

「あの、どうしてもイベントに参加したいのなら、私が先輩のお相手を……」

 

「ねぇ、古城。あたし、今年の『彩昂祭』はちっとも楽しめてない気がするんだけど。少しくらいいい思いをさせてあげたいとか思わないの?」

 

 ……何だろうか、この誘導されている流れは。

 これは、どうあっても、フォークダンスすることになりそうというか。

 左右挟むように雪菜と浅葱の視線が不意に古城の横顔に突き刺さる。

 どうして彼女たち二人が、そんなにやる気なのか、と困惑混じりに考えるも古城はわからない。

 ともあれ二人の妙な気迫に、たじろぐ古城は冷や汗を流し、

 

「そ、そんなに踊りたいなら、お前ら二人が踊ってきたらどうだ、って……」

 

「「はあ!?」」

 

 思い切り、凄まれた。

 

「先輩……いくらなんでもそれはありません」

 

「ほら、あそこに女子同士で踊ってるヤツらがいるだろ?」

 

「古城……後片付け、全部あんたひとりでやってみる?」

 

 謎の緊迫感を漂わせる雪菜と浅葱。こう、『先輩(古城)は誰と踊りたいんですか(の)?』と口にはされないが、古城自身に選ばせようとして、互いに牽制し合うような、ぎくしゃくとした空気が二人の間に流れている。

 これ以上、話がややこしくなる前にこの場を離れなければと、古城はそっと腰を浮かし、

 

「そ、そうだな。それじゃあ、俺は凪沙と踊ってくるわ」

 

 立とうとした古城。しかし、完全に立ち上がる前に、がっちりと両肩を左右それぞれ女子二人に掴まれ、座らされた。

 

「先輩!」 「古城!」

 

「だからなんで俺が踊ることは規定事項になってんだよ!?」

 

 そして、その後、『彩昂祭』をすっかり満喫した様子の北欧の第一王女、その護衛の舞威姫、たまたま近くを通りがかった中等部の聖女も混ざり、<第四真祖>の悲鳴が『魔族特区』の夜空に響いた。

 

 

 

 一方で。

 

「うー。助かったぞー、オレこの妖精獣(からだ)になると、風の吹かれて飛んで行っちゃうからなー」

 

「いいよいいよ、あたしもクロウ君と一緒に『彩昂祭(まつり)』楽しみたかったし」

 

 ぷかぷかと宙に浮く風船みたいな小さな獣と、その丸々とした胴体に巻きつけた紐を握る少女。

 今も後輩(アスタルテ)を助手に事件の後始末に駆り出されているという主人からのお仕置きで、妖精獣(モーグリ)にされたクロウは、『二日目』は、凪沙とほぼ一緒に行動していた。

 このマスコットな形態にも慣れっこになってきた凪沙は、少しだけがっかりはするけど、これもこれでまたいいと。こんなにも可愛らしくなってるのにちっともそれを誇りに思っておらず、不満な様子がいじらしくて仕方ない。ぬいぐるみ系なんだけど、愛くるしさとか無縁とか考えてる節があるので、媚びたりしないし思い上がらない。純粋無垢で無垢な可愛らしさを持ってる。

 

「まあ、それにクロウ君がこうなってるのは深森ちゃんのせいでもあるしね」

 

 クロウが、妖精獣となっているのは、何もお仕置きの為だけではない。

 『惚れ薬騒動』、そのことを何も知らずに凪沙と校内を巡る際中、彼は老若男女問わずに一目惚れ現象を起こしてたりしていた。執事服なんて目立つ恰好に、演劇のポスターの大見出しとその顔が学内で多くの視線を集めており、そして、『惚れ薬(チョコ)』をいただいた人たちは彼を目撃しただけで惚れてしまう。やたらモテると思ったら、母親の『惚れ薬』がその一助になっていたとは思いもしない(それでも成長した彼は十分に整っている美形だとは思ってる)

 で、事態を収束させた解毒薬には、個人差がある。

 まだ効能を潜伏させているものも少なからずおり、学内には虎視眈々と狙ってる学生(男女問わず)がいるようで、余計なトラブルを起こさないよう、『惚れ薬』が完全に消え去る『彩昂祭』期間中は、その妖精獣(すがた)で大人しくしていろ……と、主人の南宮那月から厳命されたのだ。

 けして、呼び名の矯正するお仕置きだけではなく。

 

(うん。絶対に古城君には会わせないようにしないと!)

 

 事情は深森から聞いたけれど、それでも納得しがたい乙女心。

 

「んー、しょうがないんじゃないか? 深森先生もわざと『惚れ薬(おくすり)』を流出(なが)しちまったんじゃないし、凪沙ちゃんが気にすることはないと思うぞ」

 

 なんて、人の良いことを言ってくれる彼。

 わりと大変な目に遭ったと思うのだが、彼には『お祭り騒ぎ』の一言で済ませられるモノらしい。

 

 詳しい話を聞いたわけじゃないけれど、彼がこの絃神島に来たのは、自分の意志ではないらしい。

 なんか南宮先生に故郷を追い出されて、それで仕方なくついてきたのだとか。

 けれど、持ち前の単純さ、素朴さで、必死になってその場に馴染もうと努めてきた。こんなまるっきり異世界で、それも異分子と拒絶される……それだけ人の輪の中に入れなかった環境で、愚痴の一つもこぼさずに続けてきたのは、並みの人の良さじゃないだろう。

 いやきっと、彼はそれ以上に絶望的な戦いを―――してきたはずで……

 

「……ねぇ、フォークダンス、踊ってみない?」

 

 

 

「あう? 今のオレ、踊れるような身体じゃないぞ」

 

 その身は小さい人形のようで、軽い風船のようで、とても人に付き合えるものじゃない。でも、

 

「いいから。ちょっと凪沙とあそこで皆の輪の中に混じってみるだけ……それだけでも構わないから」

 

 それは希うような、そんな錯覚を覚えるような、ひたむきな声と眼差しだった。

 そこから彼は何を嗅ぎ取ったのか、彼女の表情に一度、呼吸を止めた間を置くと、こくんと身体を揺らすように二頭身の頭を振る。

 

「ん。わかった凪沙ちゃん」

 

 この少女は、自分に対し、恐怖しか表さなかった。

 その後、何かしらの“きっかけ”があって、なんとか自分は、この少女と“親しい”といえるだけの関係を築けたのではないか、と思っている。

 とはいえ、この少年の“親しさ”とは、例えば朝、挨拶を自然に交わせるようになることや、休み時間に、世間話ができるようになったことや、そして、互いの行為に『ありがとう』と素直に言えるようになったこと。特別、男女の仲が発展したとかではなく、純粋に距離感の縮まりを指しているのである。

 そんな、他人が聞いたら呆れてしまうような、本当にささやかな温かみの上に成り立つもの。

 だから、『好きである』と伝えられても、残念なことに、“現状に満足している”少年はそこまでである。『好意』と、それ以上のものが未分化な彼には先に発展することはない。

 

 ……でも、今、この時、この少女は何を考えて、想って自分を誘ったのだろう?

 その未知を、少女のことを知りたいと思った。

 暁凪沙と言う少女のことを知って、それが何になるとか、そういう理屈はなしで、ただ心の底から、彼女のことを知りたいと思った。

 

 

 

「……ん。何か、やっぱ変だな」

 

「おっとと、チア部だけど、フォークダンスは練習してないからね。でも、適当でいいでしょ」

 

「違うぞ。なんか凪沙ちゃんだけひとりぼっちに踊ってるみたいに見えるのだ」

 

 輪の中に入ってみたけれど。

 やはり、踊れるのは少女だけで、少女は妖精獣の小さな手足をばたつかせることくらいしかできない。傍から見れば、マスコット風船を持った女子学生が、カップルたちの輪にひとり混じってる。悪目立ちしていて、ひそひそと囁かれる。中には、ひとり寂しく踊る凪沙に、誘いをかけようかと声をかけるものもいた。

 ただ、彼女はそれでもこのポーズを固持していて、

 

「ううん。あたしはちゃんとクロウ君と踊れてる気がするから!」

 

 言って。

 笑って。

 手をこちらに伸ばして、少女は踊る。

 彼女には、その目にも見えない自分の姿を、感じられていたのかもしれない。

 たとえ、そうであったところで、二人の手はけして重ならないし、触れ合うこともないというのに。

 でも、少年はその手を振り払うことはできなかった。

 

「なんかね。昔に、こういう『客人(まれびと)』さんってのに会った気がするんだ」

 

「……そうなのか?」

 

「それで、その『客人』さんにあたしは、お礼をしたかったんだけどね」

 

「ん……たぶん、きっとそいつはお礼なんていらないと思う」

 

 『雪女』の伝承よろしく、死にかけていた時、一番刻まれた記憶と言う“老人(過去)”を殺され、新たに“一番”を刻んだ“若者《未来》”は生きている。

 “創造主(おや)”との決別の際に、少年は少し思い出したけれど、それは全てではなく、また、それを誰かに言葉にして伝えるのはできず、それと、口に出せばそこから頭より漏れ出して忘れてしまう、なんて馬鹿げたことを思ってる。

 それから、“彼女”と約束もしてる。

 だから、内緒で。少年の口は意外に固い。

 

「そうかな?」

 

「そうなのだ。気づけてもらえるだけでうれしい。だから、凪沙ちゃんからもらってるものもあったと思うぞ」

 

 少年は、少しこの妖精獣(かお)であることに感謝した。腹芸があまり得意でない彼は、この時、どんな表情をしていいのかわからなかったから。

 ただ、同時に、

 

「うん! クロウ君にそう言われるとそんな気がしてきたよ!」

 

 えへへ、と少女ははにかむ。

 本当に、時が止まってしまえばいいのに……なんて、こんな小娘の願いなんかで、時間が凍り付くことなんてない。それでも、この一時を大事に胸に抱いてるようで。

 

(う……、ちょっとだけ、ご主人に文句を言いたくなった気がする)

 

 どうにも、なんというか、それを見て少年は、これまでにないくらいに、この妖精獣(からだ)でいるのがもどかしく思った。

 

 そして、二人はゆっくりと回り始める。踊りと呼ぶにはあまりに拙い、子供の遊戯みたいなそれを、二人は子供のように続けた。

 

 

 後夜祭のフォークダンスには、こんな伝説がある。

 『一緒に踊ったカップルは、かなりの高確率で将来結ばれて“幸せな結婚”をする』という。

 

 

 

つづく



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七章
黒の剣巫Ⅰ


六刃 装備追加


青の楽園 港

 

 

 ジャーダ=ククルカン。

 

 南北アメリカ大陸の『夜の帝国(ドミニオン)』――『混沌界域』を統べる第三真祖<混沌の皇女(ケイオスブライド)

 27体の眷獣を従え、無数の化身へと姿を変える無貌の第三真祖―――それが、MARを襲撃してきた“アヴローラの偽者”の正体。

 

 淡い緑色の長髪に、深い湖のような翡翠色をした瞳、野生の豹を思わせる、愛らしくも力強い美貌の持ち主は、

 その純粋な身体能力と武技で、真祖殺しの<雪霞狼>を操る剣巫の姫柊雪菜を圧倒するだけでなく、

 暗黒の雷雲、灼熱の奔流、そして、闇色の空間をたたえた骸骨の巨人――天災にも匹敵する過激な眷獣を使役する。

 『哀れなる『十二番目(アヴローラ)』の亡骸を弄んだMARとやらに、相応の報いを受けさせる』、と。

 MAR――暁凪沙が検査入院している――病院を破壊しようとした第三真祖を、古城も<第四真祖>の天災の如き眷獣を駆使して辛うじて渡り合い。

 駆け付けた後輩の南宮クロウと、第三真祖の眷獣に囚われていたディミトリエ=ヴァトラーが現れたのを機として、最終的に撤退した。

 実際のところは古城に本気を出させた時点で、『腕試しと顔合わせ』という目的を果たせたので勝手に帰ったという方が正しい。

 

 ―――そして、第三真祖の攻撃で露わとなった病院施設の奥――そこにいた『妖精の柩』と呼ばれる氷塊に閉じ込められた本物の『眠り姫』アヴローラ=フロレスティーナを目撃した暁古城は気を失った。

 

 南宮クロウに回収された暁古城は、監視役の姫柊雪菜の提案で、自身の失った記憶を確かめるため、主人の南宮那月が監督する<監獄結界>に、

 ちょうどアヴローラを目撃したところに居合わせて古城と同じく意識を失くして倒れた藍羽浅葱を連れていき、『固有堆積時間操作』の魔導書『No,014』にて、忘れた過去を追体験する。

 そして、夢の世界でアヴローラとの過去を断片的にだが、確かに思い出した古城は目を覚ました。

 

 目覚めた時には、“第三真祖襲撃事件はなかったこと”と処理された。

 億単位の被害総額であるものの、MARの敷地内で起きたので、証拠を完全に揉み消してしまうのも容易だ。

 しかし、第三真祖の腕試しも、アヴローラとの再会も夢ではないことを、過去を思い出した古城は理解している。

 人工島管理公社より正式な契約の下で、MARで管理されることになった地中海の遺跡で発掘された天部の遺産――『眠り姫(アヴローラ)

 それを研究している医療部門の主任――古城の母親である暁深森にその目的を問い質したが、結局、はぐらかされた。

 これまで、古城の正体を何もかも知った上で知らないふりをしてきたのだから、そう易々と口を割らない。

 ただ、それでもわかる。

 父親の牙城と一緒に、『凪沙を救うために』行動していることくらいは。昔から変わらないし、きっと子供たちの知らないところで危ない橋を渡っている。ならば、それでいい。

 古城も両親に隠し事をしているのは事実なのだから。

 

 ただ、<混沌の皇女>ジャーダは去り際に、後輩を見ながら、古城に言った。

 

『この『十三番目』の『蘇生(チカラ)』であれば、『十二番目』――『眠り姫』を起こすことができるかもしれんぞ』

 

 言われた時は何の意味だか分からなかったが、その後に追体験した古城は理解する。

 思い出す。

 『原初』の『血の従者』にされ、<焔光の夜伯>に匹敵する潜在能力を開花させ、そして、暁凪沙を『蘇生』した(すくった)―――あの蛇尾狼(クロウ)を。

 彼女の言う通り、<第四真祖>の失われし『十三番目』の力ならば、“古城が殺してしまった”あの少女(アヴローラ)を、生き返らせることができる―――そう期待してしまえる。

 

 しかし、あれはあの時の特殊な状況下であったから成れたモノだということも理解していた。

 後輩があの<蛇尾狼の暗緑>となれたには、<第四真祖>と“『血の従者』の繋がり”があったからこそ。

 つまりは、

 

 

 

『どうだ、暁古城。『十三番目』の血を吸ってみぬか?』

 

 

 

 第三真祖の提案に、その時その場にいた姫柊雪菜と藍羽浅葱は、ぎょっとした目で古城を見た。というか、睨んだ。

 『先輩(古城)、まさか、クロウ(君)に本気で……』と慄く女性陣から来る重圧。

 いや、古城もこの『眠り姫』のことを目覚めさせたいとは真剣に思う。それで、一瞬、ジャーダの提案に意志が揺れかけたのは認める。しかし、それでも自制は働いていた。いや、同性ではなく、異性だったら跳びついていたというわけではなくて、私利私欲で後輩を『血の従者』としてしまうのはどうかということで。

 

 しかし、そこで絶妙に空気を読まない第三真祖が、ヴァトラーに向けて、

 

『そうだな。『蛇遣い』の異名も、『十三番目』に()ったらどうだ?』

 

 なんて煽ってくるものだから、

 

『お言葉ですが、陛下。

 古城への愛は誰にも()るつもりはないので―――いずれ、その古城との繋がりを示す『十三番目』も含め、古城との愛を賭けた殺しアいで、“イタダキたい”と思っていますヨ』

 

 と戦闘狂で男色家の青年貴族もノリノリでそう返して、

 

『む。オマエに古城君の愛で負けるつもりはないぞ』

 

 なんて、そのときの『愛』というのがよくわかってない純粋な(あるいはお子様な)後輩が受けた。

 きっと親愛とか友愛という意味だと捉えてそう後輩はヴァトラーに対し答えたのだろうが、

 おかげで、『古城を巡って、『蛇遣い(ヴァトラー)』と『十三番目(クロウ)を争う』なんて言う男だけの三角関係が出来上がる流れとなってきた。

 そのときの女性陣の重圧はそれはもう第三真祖の覇気よりも燃え盛っていたと古城は述懐する。

 勘弁してくれ。

 ひょっとして『眠り姫』の目撃したショックで倒れたんじゃなくて、このせいで古城は倒れたんじゃないだろうかと今改めて思う。

 

 そうして、目覚めた後、女性陣の誤解をとくために古城は弁を尽くすことになった。

 男を『血の従者』にしろだなんて、無理だ。古城は同性に性的欲求など懐かないノーマルだ。人工生命体の少女アスタルテであっても、相当無理矢理に吸血衝動を起こして、『血の従者』としたのだ。

 それに、

 

『うー……オレは、ご主人の眷獣だ』

 

 だから、『血の従者』にはなりたくない、と悩んだ後に後輩から申し訳なさそうに言われた。

 古城も流石に嫌がる相手から強引に血を吸いたいとは思わない(たとえ異性であってもだ)。それに、後輩に手を出したとなれば……

 『ほう、私の馬鹿犬に狂犬病をうつすとはいい度胸をしてるな暁。ひょっとして貴様、戦闘狂と同類で、そっちの趣味だったのか?』

 と想像するだけで担任が怖い。あの隠れ過保護な主人の眷獣(サーヴァント)を無理矢理に襲おうものならば、<監獄結界>に今度は犯罪者として招待されるだろう。

 とりあえず、どうにか女性陣を納得させて、疑惑追及の矛を収めてくれた。

 

 ―――後輩からのメールで『♡』が送られてくるまでは。

 

 

 

 時刻は、午前9時を過ぎたところ。

 

 切り分けたパイナップルに似た扇形の小さな島――この増設人工島『青の楽園』は、絃神島本島から18kmほど離れた海上に建造されている。絃神島本島との間を往復している専用のシャトル船で、移動にかかる時間は、およそ20分。

 船に揺られながら第三真祖との会話を思い返している内に、到着した船着場では、まだ開園前だというのに、続々と招待客が押し寄せており、この冬が来ない常夏の炎天下で行列を作っている。涼みに来たのに、どうやら暑い思いをしなくてはならんようだ。

 

 『魔獣庭園』とプールレジャーが今の絃神島で話題を呼んでいる最新リゾート『青の楽園(ブルーエリジウム)』、そのマスコミへのお披露目とスタッフ研修も兼ねての正式オープン前の完全招待制の仮営業。

 その目新しさと稀少性から、一枚数万円で取引されるプラチナチケット。その入場長と宿泊費、それも二泊三日で、無料(タダ)で行ける―――と、この降って湧いたような魅力的な話を持って来てくれたのは、悪友の矢瀬基樹。

 はっきり言って胡散臭いし、この美味し過ぎる勧誘には絶対に何か裏があるという古城に、悪友は理由を述べる。

 

 完全予約制を標榜しているにもかかわらず、予約(ブッキング)ミスがあって急に欠員が出てしまった、それで施設の稼働率や、何かと問題があって、欠員のままにしておくのはあまり好ましくない。不安がる出資者も出るだろうし、予約部門の責任問題となってしまう。

 そこで『『魔族特区』の運営にも少なからず影響力を持つ名門の財閥』――この新造の増設人工島の『青の楽園』の経営にも手を伸ばしている実家から、どうにかこの予約の欠員を埋めてくれと頼まれて、

 欠員のまま放置するよりも、無料で誰かを泊めた方が良いと矢瀬は考えた。目先の利益よりも将来性を見込む宣伝を、つまりは悪評が出ないようその面目を優先した……と言う体で、親友の古城にサービスしてやろうと思ったのだと。

 

 古城もそれに渋々ながらも納得。妹を今年は海に連れてってやれなかった負い目もあってか、矢瀬の勧誘を受けることにした。

 

 そして、古城は、『青の楽園』に、監視役の姫柊雪菜と同級生の藍羽浅葱、それから妹の―――

 

「……ねぇ、古城君」

 

 ……さて。

 

 日射にやられ船酔いで弱って――見かねて雪菜が売店まで飲み物を買いに行ってくれている――船着き場のベンチでぐったりしている『世界最強の吸血鬼』こと、<第四真祖>暁古城。一足先に『青の楽園』に到着して、宿泊施設へのチェックインなどの面倒な手配をやってくれている矢瀬をぼんやりと待ちながら、どうしたものかと隣を見やる。

 

「凪沙の女の子としての魅力って、古城君に負けちゃうものなのかな?」

 

 水着エプロン姿の凪沙<古城のお願い。

 =頑張ってサービスしても凪沙は古城の魅力に負ける。

 

 どうやら、妹の頭の中ではこの方程式が成立しているらしい。

 

 古城は、普段明るい妹が、せっかくの最新リゾートを前にどんよりとテンションを落としてベンチの上で体育座りしているのが兄でも声をかけるのを躊躇うほどであるも、これ以上は無視できず、ひとつ咳払いをして、

 

「ほ、ほら、凪沙、あれは誤字だって。クロウのヤツ、携帯のボタン操作が苦手だって前に言ってただろ。だから、打ち間違えてだな……」

 

「あたし、毎日メールしてるのにクロウ君から一度も『♡』なんて送ってもらったことがないもん」

 

 そんなことがあったら、古城は後輩をちょっと呼び出さないといけなくなったが。というか、毎日メールし合ってるってどういうことだ! 兄の知らぬ間にこそこそと親密に連絡取り合ってたのか!?

 ―――と、問い詰めたいところだが、それは置いておいて……

 

「はぁ……現役女子中学生(JC)の水着なんて古城君の言う通り、照れるほどの魅力はないよね。むしろ、微笑ましいくらいなんだよ。あたし、ただでさえ幼児体型なのに、子供っぽいフリル付きビキニだし……古城君に負けちゃうのは仕方ないよね」

 

 どうしてこうなった?

 妹が同級生の男友達に風紀的に問題のありそうな写真を送った。

 それを注意した先輩の兄が男友達に画像消去を命じられ、写真を消した―――そこまではいい。

 それから、後輩からの報告メールに『♡』……監視役からのチェックが入り、疑惑追及が再熱、そして、それに妹がショックを受ける。

 妹、自身の女性的魅力の乏しさも相俟って自信喪失。

 兄、それを励ます。

 ……………本当、どうしてこうなった?

 

「なわけねーって、凪沙は美人だし、水着も似合ってて可愛いぞ」

 

 古城としては頑固反対ポジションでいたいのに、なぜフォローする側に回っている?

 いや、なんで強力なライバルポジションにいるんだ???

 妹はもっと兄以外の少女(あいて)に目を向けた方が良いんじゃないのか、と古城は思うも、そこまでお節介な忠告(セリフ)は口にするつもりはない。

 

「何、妹を口説いてるのよバカ古城」

 

 突然、古城の首筋にひんやりとした何かが押し当てられた。

 うお、と古城が驚き振り返ると、小洒落た私服姿の浅葱がにやにやと笑って見下ろしていた。首に押しつけられているのは、彼女が貼った熱冷まし用の白い冷却ジェルシート。

 

「船酔いくらいでなっさけないわね。これ貼っておきなさい。ちょっとは楽になるでしょ」

 

 きつい口調ながら、丁寧に古城の首の後ろとか額にシートを貼り付けていく浅葱。心地良い冷たさ体の芯にまで伝わってきて、耐え難かった船酔いの余韻がいくらか和らいだ気がする。

 

「おお、なんか楽になってきたな」

 

「でしょう?」

 

 古城が素直な反応をすると、浅葱は得意げに顎を逸らし……ぶふっ、と小さく噴き出した。

 

 浅葱は、この前の事件、また一緒に追体験をして、暁古城が『世界最強の吸血鬼』の<第四真祖>だということを知ってしまった。

 普通なら、そのことで動揺したり怯えたりするものだろうが、浅葱の態度はまったく変わらなかった。流石に最初は驚いたみたいだが、『魔族特区』で育ったからか、魔族には慣れている。むしろ真祖なのに船酔いしてるのを見て、そのあまりのギャップに面白がってさえいる。

 そして、魔族恐怖症への凪沙にも、そのことは言わないと固く誓ってくれて、古城としては、感謝するべきなのだが、こうも面白がられればあまり言いたくはなくなる。

 とはいえ、

 

「ありがとな、浅葱」

 

「どうしたしまして」

 

 とぶっきらぼうに言う古城に、浅葱は愉快そうな笑みを返した。

 

「と、凪沙ちゃんもこれで頭冷やしてあげる」

 

「わわっ!? 何するの浅葱ちゃん!?」

 

 落ち込んでる凪沙にも冷却シートを貼る浅葱。

 

「ちょっと話は聞こえてたんだけど、古城の言う通り、もっと自信を持つべきよ凪沙ちゃん」

 

「うぅ。でも、あたし、子供っぽいし……」

 

「というか、クロウの好みのタイプってわかってるの?」

 

 言われて、顔を上げパチパチと瞬きする凪沙。

 言われてみれば、と古城も、ニヤリと唇の端を吊り上げる浅葱を伺う。

 

「そういやしらねーな。だいだい、クロウに好みとかがあるのか疑問なんだが。一度もそういう話をクロウとしてこなかったし」

 

「木石じゃないんだし、あるに決まってるわよ。古城だって、巨乳特集のエロ雑誌を部屋に隠し持ってたじゃない。凪沙ちゃんが部屋を掃除した時に見つかっちゃったけど」

 

「うおおおおおおい―――っ! こんなとこで何暴露してんだ浅葱!? 大体あれは矢瀬が無理矢理に押しつけた雑誌だって知ってるだろ!」

 

 浅葱が古城の吸血鬼体質のことで弱みを握らないのは、それ以外の黒歴史を腐るほど握ってるからだろう。

 思わず頭を抱えて苦悩する古城を無視して、浅葱は話を続ける。

 

「だから、きっとクロウにもあるわよ。何か心当たりとかない?」

 

 頼れる年上の親友の言葉に考え込む凪沙。

 中等部で人気を二分する雪菜ちゃんや夏音(かの)ちゃんとも普通に話せる。クラス男子が、雰囲気がエロいとか、いろいろ手取り足取り教えてほしいとか、援交やってそうとか……思い出すだけで腹立たしくなることを言われている浅葱ちゃんのことも、『最初のころ学校生活で世話してくれた、優しくて格好いい先輩』と懐いている。

 あれは異性としてではなく、人間として惹かれているのだろう。雪菜ちゃんや夏音ちゃんとも綺麗な娘だからお近づきになりたいと言う下世話なものはないように見える。

 

「……そういえば、この前、綺麗なお姉さんを振ったって」

 

 そう、“どこか雪菜ちゃんと似た”雰囲気を持った女性。あれから凪沙は会っていないけれど、どうなったのだろうか? 気になる……

 それを聞いて、浅葱はあっさりと返答する。

 

「じゃあ、年上は好みではないのよ」

 

「そうなのかな?」

 

「ほら、年頃の男子は、母親に似た特徴を持った異性に興味持つっていうじゃない?」

 

「うん。聞いたことがあるかも。……はっ、だから古城君は深森ちゃんみたいな巨乳に惹かれるんだ!」

 

「おい! 兄を勝手にマザコンにしてんじゃねェ! っつか、あの母親は反面教師が精々で、とても憧れるもんじゃねェぞ!」

 

「で、那月ちゃんが親代わりで面倒見てるみたいだし。クロウも見た目は子供っぽい方がいいのよ」

 

 何も知らないものが見れば、小学生くらいにしか見えない担任教師。あの強烈過ぎるカリスマの下にいれば、自然、傾向もそちらに寄っていくものなのだろうか。実際、後輩は、主人である担任教師を絶対的なまでに特別視している。聞くところによれば、あの『波朧院フェスタ』までは、魔女というのを『旧き世代』の吸血鬼よりも格上の存在と見ていたそうだし。

 それを後輩に訊いて確かめたわけでもなく、根拠があるのかどうかは定かでなくても、浅葱の説得には妙な説得力があった。

 

「じゃあ、あたしも那月ちゃん先生のようになれば……!」

「それはやめてくれ」

 

 なんて、話をしている内に、凪沙も段々と明るさが出てきて、自信も復活してきている。

 

「結論、凪沙ちゃんは背伸びしないでそのままでいい」

 

「そう、だね……そうだよ! 前にクロウ君、一緒に大人になれたらいいねって言ってくれたし!」

 

 その代わりに、張り切る凪沙の姿に、古城は船酔いとは違うもので消沈していきそうである。

 ……実際、相談される前から、古城は凪沙の心配が杞憂であるのはわかっていた。

 

 あの追体験の中で、後輩は命懸けで妹を救おうとした。

 戦った姿は、見ていて、アイツならば任せられると思えるようなものだった。一体どれほどの覚悟があればあそこまでできるのか。またそれほどの覚悟をどうしてつけられたのか。

 だから、後輩は妹のことを……けして嫌いではない、と考えられる。

 

「はぁ……まぁ、いいか」

 

 兄としては複雑な心境であるも、元気が出てきたのでよかったとしよう。

 ―――ただし、認めるのはそこまでだが。

 

 

青の庭園 魔獣庭園

 

 

 吸血鬼や獣人種のように、人間と意思疎通できるだけの知性を持ち、聖域条約によって権利を保証された魔族とは違い、魔獣の保護はまだ出来上がっていない。

 世間では多くの魔獣がいまだ危険な怪物だと認識され、実際、魔獣の多くは高い戦闘能力を持ち、人を襲う種族も少なくはない。

 その素材を狙った密猟や狩猟(ゲーム)と称した虐殺事件が後を絶たず、それ故に絶滅しようとする種がある。

 ―――それを保護するために建設されたのが、『魔獣庭園』という水族館及び動物園。

 絶滅危惧種を含む魔獣を世界各地から300種2200匹を集め、それらを飼育繁殖しながら、魔獣の生態研究に必要な膨大な飼育費の一部を来場者からの入場料収入で賄うシステム。

 そう、『青の楽園』の観光名所が『魔獣庭園』、ではなく、『魔獣庭園』のために『青の楽園』が造られた。

 この成功いかんで、救える種が多くいるはずなのだ―――そう、運営母体『クスキエリゼ』は語ってくれた。

 

 ……しかし、それでも一部の魔獣が凶暴であり、その本能というべき性を矯正してまで飼い馴らすのは難しいのは事実。

 この世界最大級の魔族水族館。

 マカラと呼ばれる南アジアの怪魚。カエルのような胴体にトビウオのような翼を持つ海棲のウォーター・リーパー。それ以外にも、タコやウナギに似た名も知れぬ魔獣たちが、数えきれぬほど多くの大水槽内で回遊している。

 そして、馬の前半身と魚の後半身を持つ、海馬(シーホース)。鬣の代わりに銀色のヒレを伸ばし、それが水に濡れて陽を反射してるせいか煌めいて見える。その様は神々しさを感じさせるくらいに美しい魔獣。

 ヒッポカンポス。

 『北海帝国』の沿岸に棲んでいるのを一群保護した稀少な海棲魔獣。彼らを使って、世界初のヒッポカンポス・ショーを集客の目玉にしようと画策しており、魔獣の飼育員たちも気合を入れている。

 

 しかし、この大水槽にいるのは、ヒッポカンポスだけでなく、人を襲う魔獣もいる―――

 

「む! この“匂い”は―――」

 

 

 

 自分には“会わなくちゃいけない人”と“会っちゃいけない人”がいる。

 

『もし、私と合流できなかったら、この男に会いに行って』

 

 囚われていた自分を助け出してくれた獅子王機関の舞威姫(自称魔法少女)のお姉さん。その彼女が頼りにする、“馬鹿でイヤらしくてあちこちの女の子にすぐに手を出す真正の変態で馬鹿だけど、多少はいいところがある『暁古城』なるお姉さんの恋人”―――を監視してる天使のように可憐な女の子が、きっと助けてくれるから、と一度乱暴に引き裂いた後でセロハンテープで丁寧に繋ぎ合わせた、心境の変化と複雑な経緯を感じさせる彼氏の(なんか目線があってなくて隠し撮りっぽい)顔写真を預かった。

 余計なお世話かもしれないけれど、あのお姉さんはたまには自分の気持ちに素直になるべきだと思う。

 そして、しばらく待ってもお姉さんは現れることがなく、自分はこの『暁古城』と会わなくちゃいけない。

 

 それで、“会っちゃいけない人”は……

 

『うふふ、絶対に仕留めて見せるわよ』

 

 自分を閉じ込めていた人たちと一緒にいた黒いお姉さん。

 彼女が標的とする“監視対象”。

 以前に見慣れぬ耳付き帽子を被っていた黒いお姉さんが持っていた(こちらも隠し撮りっぽい)少年の写真を見て、それについてどんな人なのかと興味が少し湧いたので尋ねてみたら、言われた返答がこれ。見た感じ、お姉さんとは年下で、そう言えば、写真に写っていた彼の帽子がその時、黒いお姉さんがかぶっているのと同じであった。この時点で、直感的に、彼に手を出したり、興味を持ったら黒いお姉さんに恨まれるやばいと理解。週に一回はアタックをしているようだが、中々、屈服させてやることができずにフラれているので、これまでで最も攻略し甲斐のある面白い獲物、と黒いお姉さんは笑う。これ以上は怖くて名前も聞けずに話を打ち切った。

 ……これも余計なお世話だろうけど、黒いお姉さんはもう少し自分の気持ちを抑えた方が良いと思う。というか、アプローチの仕方がここにいる魔獣よりも野性的である。

 

 対人経験を避けていて少ないからあまり自信がないのだけど、自分よりも大人であるはずのお姉さんたちは、どうにもこじれた性格ばかりではないだろうか?

 

 なんて、小学生にしては大人びているようなことを考えていたら、やっと森を抜けて、開けた水辺に出れた。

 ところで、妙な音が聞こえた。

 

 

 ちゃぱん……ちゃぱん……

 

 

 水音だった。

 

「え?」

 

 背筋に走るのは、異様な戦慄。ずぐんと心臓が大きく跳ねて、あらゆる血管に鉛を注ぎ込まれた気分。

 息が、止まる。

 ここにきて、ようやくここが『魔獣庭園』ということに気づいた。

 そして、遭遇する。

 

 向こうの対岸から、水面を闊歩する四足獣。

 

「う……ぁ……」

 

 声が、出ない。

 大声でも出れば思考も巡るだろうに、それができないから脳髄まで止まりっぱなし。この事態を認識できず、脳内で情報は錯綜する。

 

 それは、(いなな)いた。

 水面を跳ねる。

 “水の上を跳ねる”というその道理を無視した行動は、魔獣であれば納得しよう。

 そして、四足で歩くそれは、飼育員に躾けられているヒッポカンポスではない。

 濡れた鬣を振り乱しながら、大きな鼻息をひとつ鳴らしてみせるこの、不気味に青褪めた馬は、『魔獣庭園』に放し飼いにされているケルピー。

 魚の鰭に酷似した形態の馬の尾に、沈まずに水面に立てる馬の蹄。後半分は魚ではないけれど、一見すれば、どこかヒッポカンポスに似ている。

 

 ここで閉じ込められ、ある程度の自由行動を許された際に、黒いお姉さんから忠告をもらった。

 

『いいわね。もし、後ろが尾鰭ではなく、四足であるのなら、すぐに逃げなさい』

 

 ヒッポカンポスとケルピー―――イルカとシャチに明確な区別がないよう、同じ馬種の水棲魔獣。しかし、その気性の荒さには違いがある、と。

 

『ケルピーは、あなたのような少女の肉を好む性質だから』

 

 穏やかな外観だが、ケルピーは危険な魔獣。

 水面を自在に闊歩して走っては、水際に立つ人間を引き摺りこんでは、喰らう。人の肉を好んで喰らう人食いの獣。

 

 その水霊馬(ケルピー)が、こちらを見た。

 

「………!」

 

 赤いふたつの瞳がこちらを睨んでいる。ごおごおと燃えるような瞳は、完全にこちらを捉えている。

 肉食獣が獲物を見据える―――そういう瞳だと、本能でわかった。

 

「あ、あ―――」

 

 がばあ、と開いた水霊馬(ケルピー)の口は、思わぬ馳走を前にして喜ぶようだった。

 助けて、と叫ぼうにも誰もいない。黒いお姉さんから逃げて、お姉さんとは別れてしまっている。

 間合いは、およそ8m。

 体格が2mほどの大型馬ならば、一秒で埋められる。

 

 水面に、ひときわ大きな波紋が広がった。

 

 四足を跳ねた水霊馬。

 映画や競馬場や、どんなところで見た馬よりも、数倍速い。

 そこに目が固定されていたのに、視認が遅れる、この猛速!

 そして、思考が完全に停止した―――その瞬間、別の影が割って入った。

 

「―――下がれ!」

 

 と。

 翻るジャージと、靡く銀髪が、網膜に焼きついた。

 手刀を叩き込むは、水霊馬(ケルピー)の首筋。人間の力ではとても小揺るぎもしないであろう大型馬が、どおと水槽(プール)に倒れ伏したのである。そのまま、自分を抱きかかえ、“彼女”は斜めに跳躍。水霊馬から距離を取る。

 

 その間にも、自分は“彼女”を見ていた。

 その染みひとつなく、儚げに白い生足を晒す短パン、そのホットパンツが見え隠れするくらいに大きめのサイズのシャツ、それから日焼け対策なのか、長袖のジャージを羽織り、帽子を被り、それからマスクをつけて、マフラーまで巻いている。

 ほとんど、その尊顔を確かめられないけれど、垣間見えるは、氷河を閉じ込めたかのような蒼碧の瞳と白銀の髪。

 まるで、お伽噺に出てくる『湖の乙女』のよう……

 

「あなたは、いったい……?」

 

「オレは、k―――ハンターK、でした」

 

 自らを“正義の魔法少女”と芝居がかった口調で語りながら、ドヤ顔で胸を張るお姉さんと同じ感じであったものの、そこは流した。

 

「ここを動かずにいるの、でした」

 

 口調にややぎこちなさを感じるも、そんなことも気にならないくらいの清澄な響き。

 ハンターKこと『湖の乙女』が一歩、前に出る。水上に降り立つ。けれど水面は揺らがない。魔獣のみが特権としていた水面歩法を、波紋をもたらすこともなく静かにする様……なんて、綺麗だろう。

 危機を忘れて、見惚れてしまう。

 

 そして、出会い頭に強烈な一打をもらった水霊馬が起きた。

 その体表は濡れている。ぬめりとした粘液で身を覆っており、このまま気絶してくれればいいなんて淡い希望を“ぬるり”と流してくれた。この魔獣の水膜は、打撃を“ぬるり”と流してしまえるものなのか。武器ももたない人間には敵わない魔獣の脅威。

 

 BRRRR……!

 

 素人目の自分でもわかるくらいに、水馬は怒り狂っている。

 水霊馬が立ち上がった勢いで、この『湖の乙女』へと牙を剥き、脚に力をこめる。

 ぞっとする。

 

 けれど、自分はそこを動かなかった。

 恐怖で足が竦んだのではなくて、それ以上の、もう大丈夫という安心感から。

 

「ここが、お前のテリトリーだというのはわかった、でした。けど、迷い込んだ人間を、襲うなというルールだったはず、でした」

 

 荒々しい鼻息で怒りを示す水霊馬の頭突きまがいの一撃―――その馬面に手を添える『湖の乙女』。

 見られたのは、それだけ。

 

 

 

「もし、それを破るようなら―――」

 

 

 

 寸前、

 水馬は、

 動きを止め、

 体を固める。

 

 そして、平伏すように前脚を折って、この謎のハンターKを前に、慌てて頭を下げる。

 怒りが、それ以上の畏敬に塗り替えられたよう。きっと自分が、魔獣の獲物だと本能的に察したように、この水馬も、“王”だと気付いたのだ。すぐに気づかなかったとはいえ、王に多くの無礼を働いてしまったことを、水霊馬は震えを抑え切れない。

 

「よしよし、後で飼育員にご飯多めにしてもらえるように言っとくぞ、でした」

 

 と人食いの習性を持つ水霊馬の頭を撫でる、その様子はまるで慈しみある聖女のようで。

 それから、水馬はこの場を立ち去って―――自分の緊張の糸はそこで途切れて、プッツンと気を失った。

 

 

 

「……む。名前を訊く前に、寝ちまったぞ、でした」

 

「先輩」

 

「あ、ごめんな、置いてきちまって。水霊馬(ケルピー)が荒ぶってるのを感じて……あ、こいつを診てやってくれ、でした」

 

「了解―――体温正常。心拍数若干の乱れはあるものの、落ち着いてきている模様。外傷はなし。背景脳波にシータ派及びデルタ派を検出。推定。睡眠深度ステージ2―――昏倒しています」

 

「ん。とりあえず大丈夫か。でも、こんなところで迷子になるなんて、変な奴だぞ、でした」

 

「意見。私の診断は簡易的なものであり、正確な検査ではありません。念のために、正規の医師による診察を推奨。彼女の身柄は救護室へ運ぶことを提案します」

 

「だな。確か、迷子センターも一緒にあったから、ちょうどいいな、でした」

 

「それと、先輩はやはり喋らないほうがいいと思います。印象が台無しです」

 

「うぐぅ、そんなにダメか? これでも特徴真似ようと頑張ってるんだぞ、でした」

 

「ダメです。全然。外見だけです」

 

 

青の楽園 プールエリア

 

 

 『青の楽園』の最大の売りである、海岸沿いの広大なプールエリア。国際大会も開催可能な室内競泳プールから、全長200mを超えるウォータースライダーまで、趣向を凝らした多数のプールが用意され、水着のまま一日中遊べるようになっている。

 さらに、観覧車やジェットコースターなどの定番アトラクションや、『魔族特区』の特性を活かした“本物のお化け屋敷”や魔族以外の生還は保証できないぶっ壊れ性能の絶叫マシンがあるアミューズメントパークが併設されているのだから、三日三晩遊んでも飽きが来ることがないだろう。

 

 で、レストランや売店が立ち並ぶショッピングモールを抜けた先にある宿泊エリア。『青の楽園』の象徴ともいうべき巨大な『ホテル・エリュシオン』を中心としたその区域のひとつにあった、二階建ての白いコテージに泊まる。

 真新しく、内装も想像以上に豪華。室内も広く、エアコンやキッチンだけでなく、風呂場にはサウナもあって設備も最新鋭で充実。冷蔵庫には、冷えた飲み物がぎっしりと補填されてある。

 

 いったいこれだけで何万円を取られるか。

 日本本土から遠く離れた絃神島では全般的に物価が高い。ましてや予約が殺到している人気観光地(リゾート)。正式オープン前の仮営業期間だとしても、利用料金は生半可な金額ではないはずだ。もしかすると、数万より一つ桁が上の数十万単位にいってるのではないか。

 それを予約ミスの埋め合わせだからって、入場料と宿泊費を無料(タダ)にする―――なんて、旨い話には当然裏があった。

 

『彼らが、基樹(もっ)君が連れてきてくれたバイトの子? うんうん、見た目もまあまあだし、助かるわー。この週末はギリギリの人数でシフト回してたからね』

 

 じゃ、さっそく今日の午後から仕事お願い、と。

 悪友(やぜ)の兄の友人というチーフは、古城達にそう言った。

 

 ……つまり、予約にミスがあって欠員が出たのは、アルバイトの頭数。

 冷静に考えてみれば、すぐに気づけることだった。

 年間来場者数を数十万見込んでいる『青の楽園』。この巨大施設で、予約ミスで客が一組減った程度では、影響もないも同然。わざわざ穴埋めに古城達が呼ばれるまでもない。

 必要とされていたのは、客ではなく、従業員。

 急な欠員ということで、普通の募集法でアルバイトを集められる時間もなく、また仮営業中であることから非公開の情報も多い。

 だから、矢瀬は、見知った顔で、信頼ができて、気軽に頼みごとができる古城達を連れてきたのだ。肝心な詳細は伝えずに。

 

 そうして、アルバイトはさせられない中学生の姫柊雪菜と暁凪沙は別行動で、普通に水着に着替えて『青の楽園』で遊び回ってもいいそうだが、古城と藍羽浅葱はスタッフTシャツを着こみ、売店『ラダマン亭ズ』へと出向となった。

 

 

 

「くっそー……騙された。これじゃ、配達だけで休憩時間終わっちまうじゃねーかよ!」

 

 持ち前の計算高さと記憶力のある頭脳を活かした浅葱とそれと息の合った対応でなんとか店を切り盛りしている古城。

 急な数合わせであったが、予想以上にできる古城達にチーフは機嫌よく、ちょうど昼時のピーク時を過ぎてから、彼らに休憩を言い渡した。

 浅葱が後でいいとのことだから、灼熱の日射という吸血鬼には地獄のような環境でばてていた古城が先に休憩に入ったのだが、

 そこでチーフからついでのように、『これを届ければ、余った時間は休憩してもいい』と配達品を渡された。

 Lサイズのドリンクが20人分とデラックス弁当20人前……一応、運びやすいようにカートが貸し出されているが、ひとりで運ぶとなるとちときつい重量。

 それも配達先は二ヵ所。1km近く離れたライフガードセンターとさらに遠い『魔獣庭園』のスタッフルーム。

 仮営業期間にもかかわらず、混雑するプールエリア。水の中で涼しげにはしゃぐ人たちを横目に焼けたコンクリートの上を歩くのはいったいどんな苦行なのか。そんなわけでライフガードセンターは後回しにして、『魔獣庭園』のほうへと向かった古城。

 途中に業務用の無人運転電動カートに乗れたからだいぶ楽ができた。でも、行きは良くても帰りがきついと考えるとがっくりとテンションは下がったが。

 

「ちわーっす……『ラダマン亭ズ』です! 弁当のお届けに上がりましたー!」

 

 体育会系特有の無遠慮な大声で、古城はスタッフルームの中に呼びかける。

 と、詰所から顔を出したのは、意外にも見知った相手だった。

 

「配達物資を受領。サインを」

 

「あれ、アスタルテ―――」

 

 藍色の髪の小柄な、メイド服の布面積を大きくカットしてバニースーツに仕立てたような水着を着た人工生命体(ホムンクルス)が、ひょっこりと現れた。世界で唯一の眷獣共生型人工生命実験体――アスタルテ。

 その主人が集めるメイド服コレクションの中でもひときわマニアックな服装に、古城は眉を寄せて困惑に二の句が継げずにいると、アスタルテはいつも通りの抑揚の乏しい平坦な口調で事情を説明した。

 

「『魔獣庭園』を監修している先輩の補佐です」

 

「ああ、なるほど」

 

 後輩の南宮クロウが、この『魔獣庭園』に派遣されたことは古城も知っている。そして、何かとおっちょこちょいな後輩に、古城の担任であり彼らの主人の南宮那月がその補佐として、この人工生命体の少女とセットで行動させている。後輩の斜め後ろのポジションでその影踏まずにアスタルテがついてくるのは、古城もよく見た光景だ。

 

(ああ、だから、弁当20人前か。最初はここの魔獣たちにやるのかと思ったが、クロウなら普通に10人前は平らげちまいそうだ)

 

 配達物資の多さに納得。

 で、古城はスタッフルームを見渡して、その後輩を捜してみる。

 

(あのメールの『♡』について問い質さねーと―――ん? あれは……)

 

 部屋の奥の方からパタパタと駆けつける音。そちらを見れば、そこに聖女のような優しげな雰囲気、といつもよりも何だか奔放な気配を漂わせる、銀髪碧眼の少女。

 雪菜と凪沙と同級生で、アスタルテと同居している叶瀬夏音だ。

 

「叶瀬までいるのか」

 

 古城が驚いた表情で、『中等部の聖女』を眺める。

 夏音が身に着けているのは、アスタルテとは逆に露出が少ない装い。前を全開にした蒼のジャージを羽織り、帽子を被り、マスクをして、ジャージと同じ色のマフラーを巻いている。その真っ白な肌を日焼けから守るための対策かと思えば、脚は剥き出し。やや大きめなサイズのシャツがワンピースのように隠せるくらいのホットパンツで、太腿が眩しく、ちらちらと視線をついやってしまう。

 無防備なのか鉄壁なのか判断のつかない姿の夏音は、旅先で気分が解放してるからか、マイペースなのは変わっていないが、おっとりとどこかとろさのあった普段よりもはしゃいでいるようにも感じられた。

 

「こじ「報告。叶瀬夏音は風邪で喉を痛めており、会話は控えています」」

 

 夏音が古城に声をかけようとしたところで、そこに古城たちの間に割って入るよう、アスタルテが駆け付ける夏音の前にやや強引に出てきた。

 

「そうなのか?」

 

「え「肯定。ですので、私が代行を務めます」」

 

 どこか不自然さを覚えるも、こんな常夏の島でマスクをしている夏音は、風邪引きと考えるのが妥当だろう。

 

「そっか。無理して喋らなくていいぞ。けど、ここって、すごく人気なリゾートだけど、風邪引きなら家で大人しくしとかねーとダメだろ」

 

「げ「同意。大人しくしておくべきです」ぐふっ!?」

 

 あれ? 今なんかアスタルテの開いた背中から何か虹色の指先が出てきて、叶瀬をどつかなかったか?

 アスタルテの体に隠れてよく見えなかったが、確かに魔力の波長っぽいのを覚えたような……

 それに、アスタルテの肩に頭を置くよう前のめりに、人工生命体の華奢な身体を支えにもたれかかってる夏音が、ぷるぷると強く胸を打たれたせいで窒息しかけて震えてるように見え……いや、気のせいだろう。

 なんとなく、これ以上突っ込むのはまずい気がしたので、古城は話題を変えることにする。

 

「ま、まあ、アスタルテがいるなら大丈夫か。医大生くらいの医療知識があるんだし……

 それで、クロウのヤツはどこにいるんだ?」

 

「現在、先輩は、庭園(パーク)内で、魔獣の相手をしています」

 

「ああ、仕事で来てるんだもんな」

 

 たしか中学生は年齢制限で働くことはできないはずだが、準魔族となると労働条件は違ってくるのだろう。それを言うとなると、アスタルテは医大卒業程の知識は入力されていても、実年齢は小学生以下になるのだから。

 

「伝達。何か言いたいことがあれば、先輩に後で伝えますが」

 

「いや、この前のメールについて訊きたいことがあっただけで。そんな大したことじゃねーよ」

 

「暁凪沙の画像データは消去しましたが?」

 

「あ、いや、そっちじゃなくて、あの『♡』が打ち間違いかどうかって」

 

「……肯定。特に深い意味はないと思われます」

 

「やっぱな。だろうと思った」

 

 安心して、古城は胸を撫で下ろし一息ついた。

 

 ……何故、アスタルテがクロウのメールの内容について把握していたのかが疑問に思ったが、そこは流す。

 

 それから、少し考えて、古城は『青の楽園』の刻印が入ったICカードを取り出した。

 

「これ、俺たちが泊まるコテージの鍵だ。渡しとくから、もし暇になったら来てくれ」

 

「これは、あなたのでは?」

 

「気を遣わなくて大丈夫だ。今は浅葱と一緒に行動してるし、俺が持ってなくても鍵なら浅葱のを使えばいい。部屋も結構余ってるしな、何なら泊ってもいいんじゃないか?」

 

 遠慮しようとするアスタルテの手に、古城は自分のICカードを押しつける。そして、返される前にスタッフルームを出て、配達の仕事に戻った。

 

「仕事大変だろうけど、せっかくだからみんなで楽しもうぜ」

 

「了解。……あとで必ず行きます」

 

 

青の楽園 魔獣庭園

 

 

 先輩たちがバイトに駆り出され、発起人の矢瀬も実家の家業の手伝いだとかでいなくなったため、取り残された後輩二人は、仕方なく自分たちだけで、この水棲魔獣の飼育数が世界一の規模を誇る『魔獣庭園』の大水槽へとやってきていた。

 

「うっわー……

 本当にでかいねぇ。流石世界最大級の魔獣水族館だね……」

 

 通路の手すりから身を乗り出して、暁凪沙が目を輝かせる。その機嫌の良さは、ショートカット風に短く結った長い髪をヒョコヒョコとリズミカルに揺らしてるのを見ればわかるであろう。時折、魔獣以外の誰かを捜すように、首を巡らせているせいもあるかもしれないが。

 

「んん? あの馬の人魚は?」

 

「あれは、ヒッポカンポスだね。『北海帝国』の沿岸に棲んでる海馬(シーホース)の一種かな」

 

 と解説をする雪菜もまた、獅子王機関養成所『高神の社』で、様々な魔獣の知識を教わったが、流石に稀少な海棲魔獣を間近で目にするのは初めてだ。人食いの水霊馬(ケルピー)と同類と見られて、それを恐れられて絶滅の危機に陥っている海馬(ヒッポカンポス)。この得難い体験に、冷静さを装うのは中々に難しい。

 

 餌付けしながら一芸を仕込もうとする飼育員の指揮で、水上・水面を駆けるヒッポカンポスは足跡に激しい水飛沫を飛ばしながらも、ビーチボールでお手玉をする。それが上手くいって、餌をもらう。

 それにうっとりと凪沙は相好を崩して、

 

「あの目が可愛いよね……あたしもエサをあげてみたいなあ。

 ぼんやりして、もさもさとご飯を食べて、やっぱりぼんやりしてるのだけど、奇妙に生命力を感じさせるような?」

 

 そう、ヒッポカンポスは、『海神の乗り物を引く騎馬』と言われている。力強く、雄々しく、荒れた海でも苦も無く進んでいく。

 そんな容易ならない鋭利さ―――まるで、時に妖精獣(マスコット)と可愛がられる彼のようで……

 

 夢中になって歓声を上げる凪沙の横顔を雪菜は黙って見つめる。その怪訝そうな視線に気づいた凪沙は、ん、と首を傾げて、

 

「どうしたの、雪菜ちゃん?」

 

 すると、雪菜は微笑んで首を振る。

 

「ううん。怖くないのかな、と思って……」

 

「あ、もう……! 古城君でしょ、あたしが『魔族恐怖症』とか余計な事、雪菜ちゃんに教えたの! もしかして、凪沙が事故で入院したことも話した?」

 

 両手を広げて怒りを表現する凪沙に、遠慮がちに頷く雪菜。

 その乱暴に息を吐く彼女だけれど、今の今まで、自分が『魔族恐怖症』だとばれていない、と思っていたのは意外である。以前に、『黒死皇派』に誘拐された時もパニックになった姿を雪菜は目撃している。

 ショックでその記憶を失ってるだけかもしれないが……

 少し沈んだ声で、凪沙はその心情を語ってくれる。

 

「差別するつもりはないんだけど、やっぱりまだちょっと怖いんだ。吸血鬼とか獣人とか」

 

 でも、と心配顔の雪菜を、真っ直ぐに見返し、

 

「でも、ちょっとずつだけど、『魔族恐怖症』を直そうと頑張ってる。……これのせいで、クロウ君にヒドいことしちゃったから、絶対直したい。じゃないと、多分、いつまでも凪沙と一線を引いてるまま……」

 

 彼が自分に優しいのは負い目を感じているから。それは触れられない優しさ。良く言えばお姫様のように大事にされている、しかし、臆した言い方をすれば、割れ物のように扱われている。

 それでは、ダメなのだ。

 

「だから、古城君が羨ましくなるの。男子同士の付き合いっていうのかな? クロウ君とすごく気兼ねなくお付き合いできてるから、時々、何だか嫉妬しちゃうんだよね」

 

「それは……」

 

 雪菜が何か言おうと開いた口、けれど、考えがまとまらないまま固まってしまうのを見て、凪沙は明るい笑みを作り、話を戻す。

 

「あ、でも魔獣は平気だよ。男性恐怖症の人だって、(わんこ)のオスなら大丈夫でしょ。あたし、動物好きだし、爬虫類も平気だし、でも昆虫系はつらいかな。海蜘蛛とか、ちょっと勘弁してほしいよねぇ」

 

「え、昆虫系……?」

 

 蜘蛛は昆虫系の分類には入らないと指摘すべきか聞き流すべきかと逡巡する雪菜、その顔を興味深そうにじっと見つめて、少しお節介に凪沙はひとつ問いかける。

 

「ねえねえ、雪菜ちゃんって浅葱ちゃんのことどう思ってる?」

 

「え……と、恰好いい人だな、と。度胸があって、優しくて」

 

「雪菜ちゃん……!」

 

 大好き! と感激して雪菜に抱きつく凪沙。唐突に抱きつかれた雪菜はわけわからずに目を白黒させるが、どこか興奮した様子の凪沙は同士を見つけたと言わんばかりに雪菜の両手を強く手に取る。

 

「雪菜ちゃん、すごいね。さすがだよ。わかってるよ。そうなんだよ、浅葱ちゃんは頭は良くて、優しくて、格好いいんだよね」

 

 絃神島に来た直後から、長い入院生活を送ることになった凪沙にとって、浅葱は貴重な同性の友人で、同時に数少ない外の世界とのつながりだった。それでなくとも、才色兼備を地でいく浅葱に対して、凪沙が憧れを抱くのはむしろ当然のことである。

 

 この篤い訴えに、最初は呆気にとられていた雪菜も、くすっ、と小さく零して、微笑ましく思いながら言う。

 

「藍羽先輩のこと、好きなんだね」

 

「うん。浅葱ちゃんが“本当のお姉ちゃん”になってくれたらいいよねぇ……―――でも、それは、雪菜ちゃんも同じなんだよ!」

 

「はい?」

 

 またも唐突に、今度は自身に矛先を変えて話を振られた雪菜は思考を一瞬停止。

 

「ちょっと頼りないし、雪菜ちゃんをお姉ちゃんって呼ぶのは抵抗あるけど」

 

「え、頼りない……?」

 

 割と真剣な口調から思わぬ低評価を下されて、軽く衝撃を受ける雪菜。

 彼女としては、しっかりとしているつもりだっただけにそのショックは大きい。

 

「でもね、雪菜ちゃんのことも好きだから!」

 

 下げてから上げる凪沙の弁舌に、雪菜はもう反論もできずに流されっぱなし。

 妹として立場は中立だけど、現在兄の両脇を固めている義姉候補はどちらももったいないくらいの良い子なので、しっかりと応援したい。

 

「というわけで、雪菜ちゃんの正直な気持ちを知りたいというか、でも、聞かないほうがいいかな。うわあ、悩むよう……」

 

「あの、いろいろと誤解があると思うんだけど、私は、その」

 

 頭を抱えて苦悩する凪沙に、しどろもどろに言い訳をする雪菜。

 雪菜としては、先輩と常に行動を共にしているのは監視役だからであって、けれど、そんなことを凪沙に話せるわけない。

 いったい、どう反論してこの誤解を解くべきかと葛藤する雪菜は―――――その時、強大な脅威を霊感が捉えた。

 

 

青の楽園 プールエリア

 

 

「―――その子は何? まさかナンパしてきたとか言わないでしょうね?」

 

 団体様をほぼおひとりで捌いて、お冠だった浅葱が、休憩時間を大きく遅れた挙句に“お土産”を持ってきた古城にひくひくと頬の表情筋を痙攣させる。

 

 いつの間にか、古城の背後に、“お土産”――小柄な少女がいた。『魔獣庭園』から監視員の詰め所に向かう際、迷子センターでふと目についた子だ。年齢の割に大人びた印象ではあるものの、顔立ちの幼さは隠しようがない。おそらく、まだ小学生で、11、2歳といったところだろう。

 身に着けているのはセパレートの青い水着と、その上に着たぶかぶかのナイロン製のパーカー。明るい色の猫っ毛の髪と、気難しい猫を連想させる大きな瞳が印象的。

 

 で、なぜ、彼女が古城についてきてるのだろうか?

 

 古城がそのことを女の子に訊いてみると、おずおずと会釈して答えてくれた。

 

「江口です。江口結瞳(ユメ)。結瞳なんて、子供っぽい変な名前だと思うかもしれませんけど……」

 

 硬い声で名乗る少女。その瞳は警戒心と期待が入り混じった複雑な感情が浮かんでいる。それに何か事情を察しつつも、古城の推理力ではそれ以上はわからないため、少し困惑しながらも思ったままに口を開いた。

 

「そうか? 普通にいい名前だと思うぞ。かわいいだろ?」

 

 もっと変わった名前はいまどきいくらでもいるだろうし、自分の『古城』という名前もあまり普通とは言えない。

 しかし、この古城の返事が、意外にも少女の好感を上げる。大きな目をぱちぱちと瞬いた後、頬を赤らめさせながら目を伏せ。それから、恥ずかしさと嬉しさが半分半分な感情を持て余して身悶えるようにもじもじと。

 

「そ、そうですか。お世辞でも嬉しいです」

 

「―――なに口説いてんのよ、あんたは。こんな小さい子を相手に!」

 

 スパン、と後頭部を浅葱にはたかれる古城。

 それに理不尽さを覚えつつも古城は、途切れ途切れに弱弱しく小さな声で語られる江口結瞳の話を聞く。

 

 あるところに閉じ込められていた結瞳は、背が高く胸が大きく髪をポニーテイルに結んだ――正義の魔法少女を自称する――綺麗なお姉さんに助けられた。

 その逃げる途中で、追いかけてきた人たちに見つかり、自分に先に行け、後ですぐに追いつくから、ってお姉さんと別れた。

 ―――その際に、お姉さんから暁古城の名前と教えてもらい、顔写真を渡された。

 それから、いつまで待ってもお姉さんは現れず、『魔獣庭園』のどこかに迷い込んだ結瞳は、人食いの水霊馬(ケルピー)に襲われ、

 そのとき、銀髪碧眼の――謎のハンターKを名乗る――『湖の乙女』に救われて、そこで気を失ってしまった。

 目が覚めた時は、迷子センターや救護室のある監視員の詰め所にいて、そこでライフセーバーの会話から、『古城』の名前を耳にして………今に至る。

 

(煌坂が、『青の楽園(ブルエリ)』に来てる?)

 

 謎のハンターKについてはわからないが、正義の魔法少女とやらには心当たりがある。

 背が高く、胸が大きく、髪型はポニーテイルで、弓にも変形する長剣ようなものを持っていたという特徴に該当する人物が、古城の知り合いにいる。

 獅子王機関の舞威姫、煌坂紗矢華。

 

 閉じ込められていた―――つまりは、誘拐、監禁、あるいは人身売買……とあまり想像したくもない不愉快な単語であるも、話を聞いてまずそれらが脳裏に浮かぶ。

 古城たちのような例外を除いて、この仮営業中の『青の楽園』に訪れているのは特別に招待された人々――金持ちや社会的な影響力を持つ人物の家族。人質にして金をふんだくろうと誘拐をもくろむ輩がいても不思議ではない。

 

 その誘拐事件に巻き込まれた結瞳を、紗矢華が救出した。魔導犯罪対策を担当する獅子王機関の一員として、少女を監禁した組織のことを捜査中だったのかもしれない。

 ただ、“獅子王機関がかかわっている”となるとこれは普通の警察機関では手に負えない“魔”絡みの案件となり、

 そして、この江口結瞳が“ただの小学生でない”可能性がある。

 事情を知っていそうな、紗矢華はいない。同じ獅子王機関に所属する古城の監視役である雪菜も、剣巫と舞威姫とは命令系統の違う部署であるため、彼女の任務内容については知らされていないだろう。

 

 なんにしても、紗矢華が古城を(監視している雪菜を)頼りにしていたのならば、結瞳は古城たちで預かっていたほうがいいだろう。

 

 と、結論付けるまで考え込んでいた古城が難しい顔をしていたからか、不安そうに結瞳が、

 

「ごめんなさい、古城さん。私のせいで、恋人のお姉さんが……」

 

「こ、恋人……!? どういうことよ古城!」

 

 それに真っ先に反応した浅葱。声を裏返して、ものすごい目でこちらをにらみつけてくるので、古城は慌てて首を振って、

 

「いやいや、なに勘違いしてんだ!? あの男嫌いな煌坂と恋人だなんてどうしたらそんな誤解をするんだよ!?」

 

「でも、お姉さんは……あ、そういうことですか。でも、余計なお世話ですけど、浮気はいけないと思います。二股なんて……」

 

 浅葱を見て、何か察した――誤解を加速させた結瞳。そして、ついに涙目になっていく浅葱に、古城は狼狽し―――

 

「ひぅっ―――!?!?」

 

 突然、結瞳がしゃがみこんだ。頭を抱えて、何かに怯えるよう、震えている。

 それに古城と浅葱は反応し、視線を合わせるよう結瞳の前に二人もしゃがむ。浅葱が、怖がる結瞳を安心させるよう背中をさすって、古城が肩に手を置いて、落ち着いた声で話しかける。

 

「おい、どうした? 何があった?」

 

「い、いえ……よくわからないんですけど、何かすごく怖い感じがして……」

 

 

青の楽園 魔獣庭園

 

 

 空間が絶叫をあげるような暴力的な震動。

 増設人工島を轟然と揺らし、足元を陥没させる錯覚を覚えさせる。

 

 そう、錯覚。

 地面は揺れていない。水面は波打つことはない。周りは笑顔のまま『魔獣庭園』の見学を続けている。

 異変に気づけるのは、強力な霊媒の素養を持つ者だけ。

 この肌に感知した不可視の衝撃は、おそらく魔力の波動―――『青の楽園』を震撼させるほどの爆発的な魔力。

 

 姫柊雪菜が、最初に頭に浮かんだのは、やはり先輩暁古城。

 彼は以前にも何度か<第四真祖>の眷獣の暴走をやらかしており、港に壊滅的なダメージを与えた前科《実績》がある。

 だが、違う。

 これは、先輩の魔力の質じゃない。

 それどころか、魔力の発生源は『青の楽園』の内部ではなく外側、深く、もっと遠い場所――深海底で発生した。

 それだけ遠くにありながら、<第四真祖>に匹敵する魔力の波動を感じさせた。

 ゾッと雪菜は戦慄する。

 これでは『世界最強の吸血鬼』以上の化け物がいるみたいではないか。

 

「雪菜ちゃん……魔獣が……!」

 

 恐怖に慄く凪沙の絶叫が、雪菜の思考を現実に引き戻す。

 

 激しく揺れる『魔獣庭園』の水槽。

 この強大な気配を感知し得たのは霊能力者だけでなく、むしろ霊能力者以上に敏感に魔獣たちも本能で覚っていた。恐慌状態に陥り、我を忘れて水中で暴れる魔獣たち。

 怪魚が水槽の壁に激突して、強化ガラスを不気味に軋ませては、ヒッポカンポスが荒れ狂っては飼育員を蹴り飛ばす。

 観客たちも異常に気づく。

 このままではパニックになる。

 

「くっ……」

 

 魔獣に攻撃の意思はない。彼らはただ怯えている。この強大な脅威をわからぬ一般客よりも怖がっている。

 しかし、その事情が分かったところで、魔獣を鎮圧する術は持たない。

 仮にここに<雪霞狼>があろうと、ひとりで水槽内の魔獣たちすべてを無力化するのは不可能であり、ただ怯えるだけの彼らを殺すのも忍びない。

 だが、このままでは水槽は崩壊して、『青の楽園』に甚大な被害をもたらすことになる。このモンスターパニックは水族館内に留まらず、地上の野外エリアにいる魔獣たちも同じく起こっているはずだ。それが檻の外に出てしまえば、一般人たちが危ない。

 事態の深刻さをわかりながら、どうすることもできないこの焦燥に、雪菜は下唇を噛んで―――――震えが、止まった。

 

「……え!?」

 

 雪菜の霊感は、この現象を正しく捉えていた。霊感を持たぬ一般人には悟りえぬ真実を、はっきりと感じ取っていた。

 まるで、力ずくで嵐を消し去られたような、この凄まじい違和感。

 そう、強大な気配が、それ以上の強大な気配によって、相殺されたことを。

 そして、怯えていた獣がその畏怖によって止まらされた。

 雪菜は新たに発せられた気配、それもこの増設人工島の内部で―――近い。

 この水族館内に、一体何が―――と己の直感が示す先へ視線を巡らせた雪菜は、それを見て、驚きが心底の驚きに塗り替わった。

 

「夏音、ちゃん……?」

 

 雪菜の視界に入ったのは、意外にも見知った人物であった。

 帽子を被り、マフラーを巻いて、顔が隠されているけど、その銀髪碧眼は目につく。ジャージを羽織っているあの少女は、雪菜の知る彼女だ。

 まさか、彼女が……?

 代々女児に強力な霊媒体質の宿るアルディギア王家の血統を引く叶瀬夏音は、訓練をしていないのにも拘らず、剣巫の雪菜と同等以上の霊力を有している。それだけの潜在能力の持ち主で、でも、それでも、<第四真祖>に迫るほどの魔力の波動を相殺してみせるなんて力技ができるとは、とても考えられない―――けれど、してみせた。

 またその横に、メイド服の部分部分を切り取って仕立てたような水着姿の人工生命体(ホムンクルス)の少女アスタルテもいたが、身に宿した眷獣を召喚させているわけでもない。

 

「え、あれ? 夏音ちゃん……? ―――おーい!」

 

 雪菜に遅れて、彼女たちに気づいた凪沙は、一瞬、違和感にほんの少し首を傾げて、それから彼女たちの下へと駆けつける。

 

「夏音ちゃんもブルエリに来てたんだ! すっごく奇遇だね!」

 

「ミス凪沙、ミス夏音は風邪を引いて、喉を傷めています」

 

「え、そうなの? 大変じゃん!? 病院に行かなくてもいかなくても大丈夫なの!?」

 

「症状は問題ありません。ただ、無理をさせぬよう会話は控えるようにと」

 

 遅れて混ざった雪菜も、心配そうに夏音を伺う。

 

「本当に、大丈夫なんですか夏音ちゃん」

 

「はい、問題ありません」

 

 アスタルテが応え、それに合わせるよう夏音が首を振る。

 

「そういえば、クロウ君もここに来てるんですよね?」

 

「肯定。先輩は、『魔獣庭園』の監視員を請け負っています」

 

「どこにいるかわかりますか?」

 

 先ほどの気配が気になり、戦闘以外、特に卜占系統の呪術が苦手な典型的な剣巫である雪菜は捜査系に優れた能力を持つ同級生に援助を求もうとする。

 

「……先輩はこの水族館エリアにいるはずですが……現在、携帯電話等は持ち合わせていません」

 

「そうですか」

 

 残念ながら、協力を取り付けるのは難しいか。

 隠蔽など命令がない限り、“人間の質問に虚偽なく応答するよう設定(プログラム)された”人工生命体(ホムンクルス)の少女の言葉に、雪菜は何の疑いなく受け入れて、首肯を返す。

 

「何か伝えたいことがあれば、伝言しますが……?」

 

「いえ、大したことではありませんので」

 

 これ以上は、一般人――凪沙のことを気にして、雪菜は話題を切り上げた。

 

 

 

「………ゥ君」

 

 そして、その間、凪沙はじっと夏音のことをじっと見ていた。

 

 

青の楽園 ???

 

 

 厚い金属のドアで仕切られた、コンクリート剥き出しの殺風景な部屋。ここは、負傷した魔獣を隔離するための治療部屋。

 でも、その部屋に閉じ込められているのは、魔獣ではなく、背の高いポニーテイルの少女。

 両手に手錠をかけられたまま、安っぽい簡易ベットの上で、獅子王機関の舞威姫――煌坂紗矢華は胡坐をかいて座っている。見たところ手足に小さな擦り傷はあっても、それ以外に目立った外傷はないようで、でも、ふて腐れている。監禁されたこの状況か、それともその足元に転がっている男が、彼女の機嫌を損ねたのだろう。

 

 これは、こちらの注意不足であった。

 獅子王機関の舞威姫は、呪詛と暗殺の専門家。意識を失っていようとも、触れてしまえば彼女たちが無意識に纏っている強力な呪詛をもらうことになる。邪な気配、または悪意をもっていれば、それを何倍にも増幅して返すのだ。幸いにして、息があるところを見ると殺してはいないようだけど、早めの解呪処置(ディスペル)をしてやらないと後遺症が残る恐れがある。

 だから、彼らの安全のために、捕えた彼女の存在は研究者たちにも隠していたのだけれど、ここの研究者にもオスとしてメスの匂いを嗅ぎつけるだけの獣性はあったのか。

 でも、彼女に触れられるのは彼女以上の呪術使いか、気を許した特別な相手か、はたまた精霊並に欲のないもの。

 

 さて、研究者たちを回収するのはついでとして、彼女に挨拶をしようか。

 

 電子パネルの操作盤をタッチして、扉の鍵を開ける。

 

「―――目は覚めて?」

 

 黒髪の少女。黒のセーラー服に、赤のカーディガンを着重ねた―――こちらを負かした相手の登場に、紗矢華の目は自然険しいものになる。

 彼女たち二人とも、呪詛を喰らってる男どもを一顧だにしない。

 

「その上着、魔族の細胞を植え込んでいるのかしら」

 

 紗矢華が対峙した時、『第六式重装降魔弓』の射撃で牽制を試みた時、武器を持っていなかった彼女の周囲の熱が上がった。明らかに人間業ではない。温度層の違う蜃気楼を何重にも仕掛けることによって、照準情報を誤認させる。そんな芸当を、魔力の兆候をこちらに一切感知させずにやってのけたのだ。

 そして、接近を許してしまった紗矢華は、彼女の『剣巫の技』に仕留められた。

 

 今、紗矢華が改めて見分したその装衣に、魔術術式が刻まれてる形跡は、ない。であれば、この相手が、『発火能力者(パイロキネシス)』の超能力者か、または、法を犯しているのか。

 

「魔族の生体組織の軍事利用は、聖域条約の禁止事項のはずよ」

 

 きつい目つきで睨みつける紗矢華の弾劾に、彼女はさして動揺を見せることなく、その赤のカーディガンを摘まんで見せる。

 

「ええ、魔族の生体組織なら違反でしょう。でも、この<火鼠の衣>に使われているのは、魔獣の細胞なの」

 

 魔獣の保護は、完全ではない。魔族に適用される聖域条約でも、魔獣は外れている。兵装への転用は罪とはならない。

 

「<火鼠の衣>、ですって」

 

 それは、『火鼠』と言う魔獣の毛皮で作られた衣で、火の中に入れてもけして燃えず、元の姿のままでいられるという、『竹取物語』に登場する難題の一例。

 そんな金持ちの王子でさえ贋物を掴まされるような逸品、その本物を有するなんて、彼女はやはり―――

 

「そんな御伽噺に出てくるものを引っ張り出せるなんて、流石は、太史局の六刃神官さんと言った方が良いかしら」

 

 獅子王機関の源流と同じ、陰陽寮から分かれた太史局。魔族と対峙にする獅子王機関に対し、彼女たちは魔獣を退治する特務機関だ。そして、そこに所属する六刃神官とは、剣巫の白兵戦術『八雷神法(やくさのいかずちのほう)』を使いこなす、魔導災害担当の攻魔師。故に『黒の剣巫』と呼ばれている。

 

「ええ、火を本能的に忌避する獣相手にこれは中々重宝するものよ。もっとも太史局から取り寄せるには苦労したけれど、“意中の相手”を落としたいなら、これくらい着飾らないとね」

 

 そして、獅子王機関の『第六式重装降魔弓』や『第七式突撃降魔機槍』などと言う対魔族の武神具を開発してきたように、対魔獣のスペシャリストである太史局は、魔獣の生体組織を武装に加工できる術を長年研鑽している。

 

「妃崎霧葉よ」

 

 静かに黒髪の少女は名乗りを上げると、取り出した小さなリモコンを、紗矢華に掛けられた手錠に向ける。何ももったいぶることなく、あっさりとロックを解除した。ばかりか、押収された銀色の長剣――舞威姫の<煌華鱗>も差し出す。

 

「騙すつもりではなかったのだけれど、一応謝っておくべきかしらね」

 

「……どういうつもり?」

 

「私はあなたの敵じゃない。あなたも気づいているのではなくて?」

 

「そっちも政府の命令で動いてるってわけ」

 

 ひったくるように己の武神具を受け取りながら、紗矢華は訝るように顔をしかめて見せる。

 今回、煌坂紗矢華が与えられた任は、『『クスキエリゼ』に監禁されていた江口結瞳の保護』。

 しかし、“同じ日本の特務機関”に属する妃崎霧葉は、その『クスキエリゼ』に協力し、舞威姫の仕事を妨害した。もしこれが太史局の命令に基づく行為であるとすれば、それは獅子王機関と真っ向から対立していることになる。派閥闘争が起こっているのか?

 

「政府の意見も一枚岩ではないということよ。立場が変われば、目的も変わるでしょう。でも、太史局が動く理由は変わらない。この国を……いえ、世界を護るために」

 

 そう言って、霧葉は肩に担いでいた黒いケースより―――全金製の細長い武神具を取り出す。穂先が回転し、スライド式の柄も変形して、長さ2mもの長槍へとなる。調律用の音叉によく似た二又をも先に持つ、二又槍(スピアフォーク)

 

 突然武器を抜いた六刃に対し、紗矢華も剣を構えようとする、も遅い。

 

「太史局の上層部が、獅子王機関とは話をつけたわ。六刃(こちら)への干渉をしない代わりに、この任務が終わったら、舞威姫(あなた)の身柄は解放する。

 でも、その前に少しだけ、“彼女”の器になってもらうわ」

 

 

青の楽園 魔獣庭園

 

 

 先ほど起きた、モンスターパニック。

 客は皆無事であったが、檻の中にいた従業員の何人かは、突然暴れ出した魔獣に怪我をしてしまい、医療技術を持つアスタルテが応急処置に回っている。それに夏音もついていこうとしたのだが、

 

「どこに行くつもりですか夏音ちゃん? まだ安全かどうかわかってないんです。ここで凪沙ちゃんと待っててください」

 

 と風邪引きを心配されて、雪菜に無理は禁物と言い聞かされた。

 

「――~~――?」 自分を指差す夏音。

「………」 コクリと首を縦に振るアスタルテ。

「~~~―――!?」 とても複雑な手振りで何か訴える夏音。

「………」 ふるふると首を横に振るアスタルテ。

 

 それに何故か慌てた夏音と、対照的に常の無感動なアスタルテはその目線を交わし、ジェスチャーを交えたアイコンタクトを取り合い、結局、雪菜の案に従うこととなった。

 労働条件に年齢制限があるとはいえ、先輩たちが働いているのに遊んでいることに、雪菜はやはり気を咎めていた。それに、この庭園内で監視員をしているという同級生(クロウ)ともコンタクトを取りたかったのもあるのだろう。

 

「では、二人とも。私がアスタルテさんに付き添ってもらい監視員室へ行き、情報を――話を聞いてきます。できるだけ早く戻ってきますので、それまでここにいててください。特に夏音ちゃんは無理しないで」

 

 念のために、式神も配置していった剣巫女子中学生。それを見送る、夏音と凪沙。

 

「ねぇ」

 

 して、雪菜たちがいなくなってから、二人基地となったところで、凪沙は口を開いた。

 口数が多すぎると言われる凪沙も、風邪を引いて喋れない少女が相手では自重―――

 

「その水着ってどこで買ったのかな? 前に“夏音ちゃんと”宿泊研修で買いに行ったのとは違うよね。また買ってきたんだ。しかもそれってあたしも見たことがないデザインなんだけど、うん、ちょっと活発的かな? 似合ってないわけじゃないよ。“夏音ちゃんには”。あ、そういえば、この『青の楽園』に、アルディギア王家御用達のブランドが日本に初上陸したって聞いたけど、もしかしてそれなのかな? なら、きっと似合うよね。“夏音ちゃんには”」

 

「………………ぅ、ぅん、でした」

 

 矢継ぎ早に飛んでくる言霊のマシンガン。滅多打ちにされた夏音は、凪沙の目を見ないように俯いて、彼の鳴くような声で応じる。

 その反応に、ニコニコとする、そんなどこかしら不安にさせるような笑みを浮かべる凪沙。

 ネコに袋小路に追い詰められたネズミのように夏音の顔には脂汗が浮いて、

 

「わかった、意地悪はやめる。やめるけどさ、色々と訊きたいことがあるんだ。だから、まずはその恰好から教えてほしいかな? ―――クロウ君」

 

「うぅ、バレたのだ……」

 

 観念した夏音――改め、クロウが地声でうめく。

 

「よく判ったな、凪沙ちゃん……この前の事件で囮やった時はバレなかったのに」

 

「うん、雪菜ちゃんはわかってなかったみたいだね。具体的にどこか怪しかったとか説明できないんだけど、なんとなく夏音ちゃんじゃないかなーって。そしたら、あれ、クロウ君? みたいな。それで、その変装ってどうなってるの? なんでしてるの?」

 

 クロウは、無言でマスクを外すと―――瞬間、その顔姿、着ていた服までも変わる。

 そう、マスクだったのは、耳付き帽子に新しくつけられている、透けた薄絹――踊り娘などが付けていそうな、フェイスヴェール。

 

「フォリりんがこの前くれたんだけど、これは、『雷神が花嫁に化けた』っていう伝承を、ヴェールにして篭めた『影武者』の変装術式―――つまり、変化の術(女子限定)なのだ」

 

 元の姿に戻り、口調で話せる反動からか、クロウの舌の回転は速かった。

 王妹殿下誘拐事件でも活躍したそれを『叶瀬夏音』に設定して使っていた理由。

 それは、夏音の為。

 何でも、この今週末、ラ=フォリア王女立案の計画で、夏音は専属護衛のユスティナ=カタヤと院長のニーナ=アデラート共にアルディギアに訪れている。

 ラ=フォリアは、それで極秘に事を運ぶつもりであるも、前回のことがないよう念には念を入れて、『叶瀬夏音は、絃神島にいる』ことにしておきたいのだとか。……実際は、敵というより、前国王――夏音の実父に気づかれないように、だ。

 そんなわけで、『青の楽園』を訪れてる印象をつけておくために、クロウは魔獣たちの相手をしながらも、夏音の『影武者』をしているのだという。

 それで、後輩から注意されて、ボロが出るから、あまりしゃべらないようにしていたのだが、凪沙にはあっさりとバレた。

 

「ふうん。何か大変だね」

 

「『魔獣庭園』の仕事を引き受けたのはオレだから、ずっと夏音ってわけにもいかないけどな。一人二役ってやつなのだ。でも、本当によくわかったな、凪沙ちゃん。この前の隠れ蓑術も見つかったし、そんなにオレの術は下手なのか?」

 

「あ、ううん、そんなことはないと思うよ。ただ、クロウ君だからわかるというか……うん、何にしても、クロウ君が女装趣味とかに目覚めてないで良かった。もし夏音ちゃんのままで古城君に迫ってたら大変……」

 

 と大きく深呼吸して、胸を撫で下ろす凪沙。それから、いきなりパンッと頬を両手で挟み打ったかと思うと、意を決したようにクロウを睨んできた。

 そして、訊く。

 

 この前、古城君に送ったあの『♡』は何っ?

 

「はーとまーく? ……ああ、これのことか?」

 

 宙に♡を描いてみせるクロウ。そして、それはどんな意味なのかと凪沙は詰め寄る。

 

「何でこんなこと訊いてくるのかよくわからないけど、『♡』って、心臓のことだろ?」

 

「心臓?」

 

 彼曰く、時々バイトの手伝いをしてる『獄魔館』なるところで、メニューにオムライスがあったそうなのだが、そこでパフォーマンスの設定が凝っていて、お客様の前で、オムライスの上に♡をケチャップで描くのだが、

 

『勘違いしないで。言っとくけど、これはあくまで綺麗に描けるよう何度も何度も練習台(あなた)にやってるだけで、特に深い意味はないのよ。それにそもそもこの記号の意味は―――』

 

 同じ時期にバイトに入り、現在、新店舗二号店の店長を任されている女吸血鬼が、その♡を描く練習に付き合っていた際、やや早口で教えてくれたところによると、それは『心臓を捧げる』という最上級の敬礼を示すものであるのだとか……

 

 ―――それは違うと力強く否定したい。

 

 その女吸血鬼は何をクロウ君に教え込んでるの? いや吸血鬼の文化ではそうなのかもしれないけど、違うよ! ていうか、その人、わかってるでしょ!

 『『♡』ってのは、好きな異性にするものなの!』と彼の脳の知識野に修正ペンを入れて、二重線も引いてやりたいと思ったけれど、流石になんか、凪沙の口から説明するのはこっ恥ずかしく……

 

(……つまり、あのメールはクロウ君なりの先輩の古城君へ対する敬礼みたいのでいいってこと?)

 

「それで、凪沙ちゃんたちは、『青の楽園(ここ)』に遊びに来たのか?」

 

「え、あ、うん! そうだよ、古城君たちと一緒に来たんだ。矢瀬っちがチケットもってきてくれて、それじゃあ、みんなでいこーって!」

 

「そうか。それじゃあ、モンスターパニック(これ)は残念だな……もっと、早く察知できてればよかったのだ」

 

 うん、とクロウは頷くと、口笛を吹いて甲高い音を響かせた。

 

「確か、凪沙ちゃんは、魔獣は大丈夫だったんだよな?」

 

 その合図に呼ばれてきたのは、ヒッポカンプス。

 その海馬は、蒼く引き締まった肢体をしており、海馬特有の背鰭は半透明な翠色をしている。水槽の水に濡れて陽の光が通過すると、燦然とした輝きが瞳に差し込んできた。全身の造形もさながら生きた彫刻のように完璧なバランスが保たれている。馬の種に問わず、凪沙はこんなに美しい馬を初めて見た。

 

「う。よしよし。やっぱ、お前は比較的落ち着いてるな」

 

 クロウは手を伸ばして、何度かその首筋を撫でると、海馬の方もそれを楽しむかのようにトロリと目を閉じた。

 

「こいつは、ここのヒッポカンポス達の群のリーダーだぞ」

 

 凪沙もクロウにバックマッサージされるヒッポカンポスに近づき、見惚れるような眼差しを向けた。

 

「凄い綺麗……!」

 

「綺麗だけじゃないぞ。水上を走るのは、速さでは負けないつもりだけど、巧さではこいつに敵わないのだ。う、人を乗せるのがすごくうまい」

 

 言いながら優しく背中を掻いてやる。海馬は気持ちよさそうにクロウに身を寄せている。その仕草だけで、信頼関係が築けているのだと感じられた。その絆を感じてると、不意にクロウが、

 

「こいつに少し乗ってみるか?」

 

 

 

 『海神の乗り物を引く騎馬』。

 それに倣い、飼育員が海馬を乗りこなす、というのが、現在、ヒッポカンポス・ショーのプログラムのひとつに組み込まれている。

 

 幉も鞍もなく、海馬に乗る。濡れている肢体は滑り、ギュッと掴むなどとてもできない。背中に乗ることはできたけど、凪沙はそれだけでもう前にユラユラ、後ろにグラグラするばかり。まるで足をつかずにバランスボールの上に座って、ふらついてるかのよう。その凪沙の前で人馬一体と言わんばかりの安定感ある騎乗を見せるは、クロウ。だから、振り落とされないように彼の背中に凪沙は両腕でギュゥッと抱き着いた。

 

「駆けだす瞬間は、浮き沈みが激しいから、しっかり捕まってるのだ」

 

「うん!」

 

 そうして、注意された最初こそアップダウンが凄くて、内臓が浮き上がるような浮遊感が来たけれど、その後の移動はクロウが評した通り、ほとんど揺れたりしなかった。水槽を軽く一周する海馬に乗りながら、凪沙は背中にしがみついてる右腕をそっと動かし、彼の背中にまで右手を移動(スライド)させると、指でなぞる。膨らみをつけて、なるべく左右対称になるように、一筆書きで……○でも△でも□でも☆でもない、その記号を―――

 

「ん? 何かしたか凪沙ちゃん?」

 

「内緒だよクロウ君っ♡」

 

 彼はその意味を誤解したままでいい。そう、今しばらくは。

 

 

 

つづく



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黒の剣巫Ⅱ

青の楽園 執務室

 

 

 無用な殺戮も破壊も望んでなどいない。

 ただ現在の間違った世界を正したい。

 戦争暴力、人種差別、環境汚染―――今の世界にはあまりにも問題が多すぎる。その中でも特に許せないのは、魔獣に対する扱いだ。

 世界で絶滅の危機に瀕している魔獣は、一万種とも二万種とも言われている。にもかかわらず、人々は魔獣の生息地(なわばり)資源の恵み(しょくりょう)を奪い、駆除という名の虐殺を続けている。そのような非道が許されていいのか。

 傲り高ぶった人類の目を覚まさせて、魔獣との平和的な関係を築く。その崇高なる目的を成就させるために―――人類の10億や20億が死んでも、これまで人類が積み上げてきた屍の山に比べれば、大したものではない。

 

 人類と魔族の共存を実現した聖域条約を実現させるために、第一真祖<忘却の戦王(ロストウォーロード)>は世界中に凄まじい戦乱を巻き起こした。だが、その無数の犠牲を払った先に、魔族の権利を人類に認めさせることができたのだ。

 

 これから、自分がすることも、その歴史に倣うもの。

 

 こんな間違った世界を正すために神より選ばれた“王”として、虐げられている魔獣のために戦う。

 

 

 

「―――<黒妖犬>。いいや、現代の『獣王』よ。君も“王”として、世界の正義のために、この聖なる戦いに身を投じてみる気はないかい?」

 

 『魔獣庭園』、その研究区画の最深部にある執務室。

 部屋の主は、引き締まった体つきの、30代後半あたりの中年男性。白皙と鋭い眼光、高価なスーツを着て知的、だが人間味に欠けた印象を与える男。

 魔獣保護団体『クスキエリゼ』の創業者、久須木和臣。

 数多くの社員を使い捨てる一方で、有能な人材には年齢経歴を問わずに重要なポストにつかせるという、苛烈な能力主義者。

 そんな彼が一から己の思想を語り聞かせ、長広舌をふるって、自らの陣営に引き入れたいと思う相手は、そう優秀である。それがまだ、中等部の学校に通う少年であっても、だ。

 

「君の力は、こんな小さな島で収まっていいものじゃない。もっと、世界を相手に活躍させていくべきなんだ。それこそ、『獣王』の使命!」

 

 久須木がその手を差し出すは、厚着の少年――南宮クロウ。

 今日の魔獣監督の仕事が終わり、その報告する際に、この『魔獣庭園』の支配人である雇用主に直々に話があると呼ばれた。

 向こうは、クロウと二人きりの対談を望んでいたようで、傍に相方の人工生命体の少女アスタルテがついてることに表情に難色を示したけれど、そこは口にされなかった。

 言っては何であるが、今、久須木は、その飼い主を通して借りた使い魔を、飼い主に無断で引き抜こうとしている。いささか無作法な真似をしているのだ。そのやりとりを飼い主に密告す(ちく)るであろう、目と耳(アスタルテ)―――とはいえ、所詮は、『人間に従順な準魔族』であり、『獣王(クロウ)』を引き込んでしまえばどうとでもなると考えた。

 

「お前がウソ吐いてない。真剣なのはわかった」

 

 少年は、久須木の言葉に頷き―――いつもの台詞を口にする。

 

 

「オレは、ご主人の眷獣だ」

 

 

 だから、断る。

 

 

青の楽園 道中

 

 

「……先輩?」

 

 執務室を出て、森林エリアを往く道中、アスタルテの前を歩くクロウがふと立ち止まり、木々の隙間より垣間見えるその空を見上げる。

 狼のように天に向けて遠吠えするのではないかと思うくらいに、目一杯首を反らせて。

 そして、そこに触れようと手を伸ばす。踵を上げて、背伸びをして、一生懸命に、空へ。

 

「何をしてるのですか?」

 

「ん。こうやって、森から空を見るなんて久々な気がしてな」

 

「そう、ですか……」

 

 もう日が傾きかけている夕暮れ。

 やはり、『青の楽園』という中心部より離れた、『魔族特区』の端の新造の人工島で、魔獣たちの棲息する人里離れた環境に近くするよう調整された『魔獣庭園』だからか。街で視るものとは違って見える。時期的に月はなくとも、綺麗な星が見られるかもしれない。

 

「家だと屋上に行っても、街の光が多過ぎるから、この森とは―――」

 

 言い差して、クロウは言葉を止めた。

 気づいた。まず真っ先に思い浮かんだのが今の家で―――故郷の空を、思い出さなかったことを。

 

 故郷を出てから今まで、空を仰ぐときは、いつも無意識に森のそれと比べていた。

 一生、あの景色と比較していくことになると考えたこともある。

 少しずつ、島の生活に慣れていって、昔の生活と今の在り方とを、比較することのないように、努めてきた。でも、空は―――天蓋に抱く月だけは、一生忘れることができないだろう。

 そう、思っていた。

 しかし、今。

 頭上にある空と比べていたのは、絃神島での空だった。

 

 どこまでも澄みきっていて、刺さるように光が綺麗で、そして、手を伸ばせば、本当に届きそうだった、空じゃなく。

 

 色の淀んだ、光もくすんでいる、人間と魔族が行き交う、そして、『混血』の自分が住む街の、空だった。

 

「―――ああ、そうなのか」

 

 そのことに、クロウは少しショックを覚えた。

 またひとつ、現在に埋められたのだと気付いた、喜びが。

 またひとつ、過去を上書きされたと気付いてしまった、寂しさが。

 この胸を、叩いてくる。

 

 以前に故郷の森を訪れた時、自分でも驚くくらいにそこへ執着を持たず滞在することもなかった。むしろ、早く里帰りを終えらせて、皆の下に帰ろうとも思っていたのかもしれない。

 そのことを改めて自覚させられる。

 きっとあの景色を自分は鮮明に覚えてはいても、その記憶はどこか遠く――まるでセピア色の古い写真を引っ張り出して眺めているような、感じ。

 そう。

 あの景色は、もう、自分の原風景では、なくなってきている―――

 だから、あんな薄情なことが言えたのだろうか。

 

「………」

 

 どこか心配そうにこちらをじっと見つめる、人工生命体の少女の眼差しに、気付く。

 大丈夫、と言うように頷きながら、この心配性な後輩へ笑みを送る。

 

「……久須木会長の誘いの件、本当に、よかったのですか?」

 

「ん。さっきのことか? 別にご主人に連絡しなくていいぞあのくらい」

 

「いえ……」

 

 アスタルテは、この先輩が感傷に耽ったのは、先ほどのやり取りが原因なのかと察していた。

 人間に住処を奪われる魔獣たち。森で暮らしていた先輩には、他人事とは思えないものだったかもしれない。ならば、それを助けたいと思わないはずがない。アスタルテが見てきた、この先輩が。

 

「古城君を見て、思った。強大な力を振るうのって、ひとりじゃ荷が重すぎるのだ」

 

 監視役の少女がその罪を共に背負うと約束したからこそ、世界最強の力を振るうことができる。それから、クロウの先輩は変わっていっているのだと、また前に歩き出したのだとクロウは思う。

 

「だから、魔獣たちを絶滅から救おうってのは立派な考えだと思うけど、あの人の口は正義を気軽に語ってる……ん、前の『黒死皇派』ってやつらと同じで、何と言うか……酔ってる感じがしたのだ」

 

 肩を落とす。

 久須木会長は、『獣王』などと称してくれたけれども、北欧のルーカス王との対談で、自分は“王”ではないと知った、思い知らされた。

 南宮クロウは、“王”ではなく、

 

「誰が何と言おうと、オレは、怪物だ」

 

 俯いて、先ほど、空に伸ばしていた手を見る。

 

「オレは怖い。結局、力で壊すことでしか終わらせない。それでもうまくいってるから、これでいいんだ、って思ってしまうかもしれない未来のオレ自身が。そうなったら、この手を振るうことに何の迷いがなくなる―――この街で皆からもらったものを全部捨て去ってしまうのが、オレは怖い。生きるために、食べるために、守るために……それ以外の理由で見境なく壊す存在となってしまうのが、とても怖い」

 

 その言葉を聞いて、アスタルテはわずかに目を細めた。そして、

 

「……否定。先輩は、先輩です」

 

 その言葉に反論するように。三歩斜め後ろに下がった距離を詰めて、横に寄り添うように隣に立って。その白く小さな手で、先輩の手を、アスタルテは取った。

 その位置取りに正確で、常に慎み深く遠慮していたアスタルテが自ら動いたことにクロウは驚いたように目を瞬きさせると、珍しく積極性を見せた後輩へと、こちらも先輩風を吹かせようと指を一本立てて、

 

「う。アスタルテの先輩として、最近、知恵の輪で頭を賢くしてるんだけど、あれって簡単だな。どんな複雑な奴でも、ちょちょいのちょいって簡単に外しちゃうからなー。どうだ、アスタルテ、先輩の頭脳はIQ200なのだぞ」

 

「訂正。それは誇張です。先日、部屋の掃除をした際にそれと思しき物を発見しましたが、先輩は知恵の輪を壊しています。見え張り、査定-10点」

 

「うう!? とっておきの先輩アピールしたのに下がっちゃったぞ!? アスタルテの中でオレはいったいどんな評価なのだぁ!?」

 

「解答。加点式ですと+になりますが、減点式では-をいっている評価です。差し引きの平均点(アベレージ)は、40点」

 

「いいのか悪いのかますますわからないのだ~?」

 

 

青の楽園 エリュシオン コテージ

 

 

 結局、江口結瞳はこちらで引き取ることにした。

 浅葱が人工島管理公社のサーバーにハッキングをかけて、個人情報を洗ったところ、彼女は絃神市に住民登録されていない―――つまり、保護者とも連絡がつかない。

 登録魔族の台帳も調べたのだが、そこにも該当はなし。偽名と言うのならば話は別だが、この少女はウソを吐けるようなことは思えない。『青の楽園』は、本土からの観光者がいてもおかしくはなくて、そして、結瞳の言通り、誘拐されたというのが事実だとすれば、それは警察の仕事……

 けれど、これは“魔導犯罪者を取り締まる舞威姫”が関わっていた案件だ。一般の警察には手に負えない可能性がある。なので、獅子王機関に所属する剣巫にも話を聞いておこうと、古城たちが泊まるコテージへと連れてきた。

 古城に会ったことで緊張の糸が切れた結瞳は、今、浅葱と女子部屋にいる。

 

「お、帰ってきたか」

 

 そして、古城は雪菜たちが戻るまでに、風呂へ入り、潮風と汗と焼きそばのソースの匂いが染み付いた体を念入りに洗ってると、二人が帰ってきた。

 

「あ、古城君。先に帰ってたんだ。アルバイト、お疲れ様」

 

 玄関へ出迎えると、100点満点の笑みを浮かべる妹が挨拶をくれた。もう浮き風船をつけるのではないかと疑うくらいにその身体は軽やかに、ぴょんぴょんと跳ねてる。

 ここに来たときは古城に心配させるくらいのローテンションだったというのに、ずいぶんとご機嫌のようだ。よっぽど、ここのレジャー施設は楽しかったとみる。

 

「先輩、バイト、ご苦労様です」

 

「姫柊も凪沙の相手をしてくれて、疲れただろ?」

 

「えっと、楽しかったんですけど、遊園地エリアでジェットコースター三回連続は、流石に……」

 

「いやあ、さすがブルエリ名物の水中突入型コースター『ハデス』だよねぇ。高さ97mから海面に向かって時速180kmで落下するんだよ。すごい迫力だったよ」

 

「凪沙……昨年あたりまで入退院を繰り返してて体力に恵まれているわけでもないというのに、そんな無茶すんなよ」

 

 悪びれない凪沙に、大きく嘆息して古城が叱りつける。も、むーっ、と拗ねた仔猫のように頬を膨らませ、

 

「だって、せっかくタダ券があるんだし、たくさん乗らなきゃ損だと思って。ほら、古城君と別行動じゃプールに行っても、水着を見せる相手がいなくてつまんないでしょ。雪菜ちゃんもきっと心ではそう思ってるよ」

 

「え……?」

 

 思わぬとばっちり、それも図星を撃たれたか。咄嗟に何も言い返せずにその場で固まる雪菜。しかし、古城は凪沙の発言などあっさりと聞き流している。

 

「そんなことどうでもいいから、つか、凪沙は普通に水着になってるじゃねーか」

 

「いや別に水着でいるのはおかしい話じゃないよ。結構濡れるアトラクションばっかりだったし」

 

 ……何か、誤魔化されてるような気がしないでもないが、しかし、凪沙は離したい。できれば、雪菜だけに結瞳をまず会わせたい。

 

「そんなことはどうでもいい、ですか……そうですか」

 

 なんだか監視役の瞳の色が急に色褪せているような気がしないでもないけれど。

 彼女にとって、舞威姫の紗矢華は姉妹同然の元ルームメイト。その紗矢華が危険な目に遭っているかもしれず、この話を伝えれば取り乱すことはなく振るまえてもきっと動揺する。

 さて、どうやって疑われず、自然な言い訳で、凪沙を外すか……

 

「お招きにあずかります」

 

 一定調子の声。藍色の髪を流す、メイド水着な人工生命体の少女と、銀髪碧眼で青色のジャージに短パン、マフラーに帽子とマスクをつけた中等部の聖女が、雪菜たちの後から現れた。

 

「お、アスタルテに叶瀬。来てくれたのか」

 

「肯定。教官より残業はしないよう言いつけられていましたので、定時で終わらせました」

 

 アスタルテは、この『青の楽園』より仕事を依頼され、絃神島の特区警備隊と連絡が付ける。最悪、担任の那月ちゃんの手を借りる事態になるかもしれないし、是非、彼女にも話を聞いてもらいたい。

 ―――ポン、と内心で両手を叩く古城。

 

「そうか、お客様なんだし、ここではゆっくりしてってくれよアスタルテ。あ、それで風邪は大丈夫なのか叶瀬?」

 

 コクコク。

 

「だったら、風呂に入ってさっぱりと汗を流してこい。―――凪沙」

 

「え? なに古城君?」

 

「お前、コテージの浴室のあるとこわかってるだろ」

 

 この……

 

「ちょっと叶瀬を案内して、そのまま凪沙も一緒に入っちまえよ」

 

 知らずのうちに自殺点(オウンゴール)を決めたかのような暁古城の思い付きのおかげで……

 

「風邪引いてる叶瀬のヘルパーさんがいた方が安心するし。二人くらいなら浴槽も大丈夫だしな」

 

 第一王女からの『影武者』ミッションの難易度がハードから、『バレたら真祖と戦争(ケンカ)』のヘルモードに突入した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 確かに、“夏音が”風邪を引いているのなら一緒に風呂に入るのも自分から率先してやっている。これは兄なりの気遣いであって、妹だから頼めたことなのだろう。

 納得する。

 彼の仕事は北欧の王女様からの極秘任務。それもこの成功のいかんによって、これまで顔を合わせたことがなかった父と娘の対面がかかっている。だから、バレるのはなるべく避けたい。

 理解している。

 ただ……

 きっと、すぐに真相を明かしてこちら側に引き入れてれば、こうはならなかったかもしれない。

 

 

 

 

 

 ……うん、割とすぐ、首を縦に振って、了承しちゃったけど。

 

 

 

 やって、きた。

 どこへ、と問われれば、答えはコテージの奥だった。

 凪沙が夢遊病のようにふらつきつつも夏音――いや、もうクロウと変換する――を連れて、一緒に入ったのは脱衣所。隣接してる浴室は曇りガラスの戸で仕切られている。……うん、細部はモザイクがかかって見れなくとも、シルエットとか肌色は見えるだろう。むしろ中途半端に見える方が色々と生々しいのではないか。でも、こうして一緒に入った以上、出るとき別々だったら怪しまれる。風邪引きという設定の親友を追い出すのも、置いていくのも問題だ。

 

 だから、この場を切り抜けるには、片方が浴室に入ってる間は、脱衣所で目隠しして待機するというやり方で交互にやる。

 それしかない!

 

「今のクロウ君は夏音ちゃんだけど、流石に一緒にお風呂はダメだよね……? 勝手とは思うけど、こっちを向いちゃダメ!! 風呂から出てもあたしが良いって言うまで動くのも禁止! 女の子の裸は絶対に視界に入れない!!」

 

「わかってるぞ、女子が風呂に入ってるときは、男子が入っちゃダメってのは、『波籠院フェスタ』の前夜祭で姫柊に教わった。面倒だけど、そう言うのがエチケットってやつなんだろ」

 

 と、クロウは、入ってきた脱衣所の扉の真ん前で相対するようあっさり背を向けるとバスタオルを目元に覆い隠して巻き付けてしまった。

 しばしその後ろ姿に睨みを利かせている凪沙だったが、彼がこちらを振り返る様子はない。

 と言うか、まったくない。

 あっさりし過ぎている。

 

 ………

 ………

 ………

 

 ポカッ!!

 

「!? な、何だ凪沙ちゃん、いきなりオレの頭ひっぱたいて……あう、また!?」

 

 ポカポカッ!!

 

「クロウ君、あたしは別に、覗きとか混浴とか言う痴漢行為を一切容認するつもりはないんだよ……………まだ」

 

「だから、オレはしないのだ。ちゃんと約束守るぞ」

 

「約束を守ってくれるのはいいことだよ。それにしても、こう……ね! いろいろあるんだよ女の子には! バーベキューで、残った野菜の芯みたいに見向きもせずに放置するのはダメなの!」

 

「う。オレ、ちゃんと野菜は芯も残さずバリバリ食べるのだ。嫌いなものなんてないぞ」

 

「だったら、もっと残念がらないとダメ! 男の子なんだから、ちょっとは興味を持って! もう古城君だったら、絶対そわそわして、こっち覗いてるよ!」

 

 わりと理不尽なことを言っている(兄にも)のは理解してても、今は女友達の彼の頭を、真っ赤な顔でポカポカと軽く太鼓打ちみたいに連打するのがやめられない凪沙。

 

「落ち着くのだ、凪沙ちゃん!? 何か言ってること支離滅裂でよくわからんけど、オレ、絶対に見ないから、安心するといいぞ」

 

「ぐずっ……ひっく……」

 

「うー? どうした、どこか痛いのか、もしかして胸とか打ったのか!?」

 

「わああーん! クロウ君の馬鹿っ! 朴念仁っ! 古城君っ! 凪沙だって脱いだらすごいんだからねー!」

 

 と止めを刺されたように、泣きながら浴室へ入った凪沙。

 その後、水着姿で浴室へ入った凪沙は、パッパッとシャワーだけ……と、それは何か逃げてる気がして、乙女のプライド的に負けられない事情でできなかった。こうなったら意地でも反応させたい。

 

 ――まずちゃんと、念入りに肉体を洗い

 ――時折、脱衣所の方を窺いながら

 ――しっかり髪の手入れもして

 ――ちらっと戸を開けて覗いても背を向けたまま不動

 ――浴槽に肩まで入り、脱衣所にまで聞こえる大声で十を数えて

 ――でも、それはフェイントで三秒のところでそっと浴槽を出て戸に耳を当てて

 ――『う、なんか良い匂いがする』と一人言にドキッとし

 ――思い切って、またこっそり戸を開けてみると

 ――『今日はバーベキューなのだ♪』と脱衣所扉の向こうへ鼻をスンスンさせる彼

 ――もう、イラッときてシャンプーボトルを朴念仁の頭に投げつけてやった。

 

 状況は、もうカオス。

 だいぶ騒いでるのだが、二階の方も二階で、ズバリ妹の言通りに古城が浅葱と結瞳の着替え途中をばったり覗いてしまうハプニングがあったりして気づかれなかった。

 

 凪沙が泣き疲れたようなダミ声で『い゛い゛よ゛』と、夕ご飯に想いを馳せるに夢中だったクロウが振り返った時にはもうなんか体育座りしてて、ほんとうにどうしたのかと心配したのだが、何故かそれ以上クロウが追打ちする(声をかける)のは憚れた。

 それから、その厚着装備を全解除してクロウも浴室へと入るのだが、カラスの行水とばかりにシャワーだけであっさり済ませて、泣き崩れてる凪沙が何かアクションを起こす暇はなく、初めての二人のお風呂はまったくもって健全のまま終わった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 夕飯は、バーベキューだった。

 コテージの庭に設えてあったバーベキューコンロで、今日単独行動していた(宣伝用の写真のため園内を撮り回っていた)矢瀬が大量に買ってきた生肉を焼く。

 

「ひゃほおお! 肉だ、肉だァ!」

 

 ハイテンションに騒ぐ悪友は、炭火係兼焼き係の古城の隣で、焼き上がった肉をこれ見よがしにがつがつと噛み千切りながら

 

「喰ってるか、古城。俺様が調達してきてやったゴージャスな高級生肉だぜ!」

 

「うるせーな、喰ってるよ! お前も少しは焼くのを手伝えよ! 熱ィんだよ! ていうか、何が高級生肉だ……思いっきり特売タイムセールのシールが貼ってあるじゃねぇかよ」

 

 本当にこいつは金持ちの御曹司なのか、と疑惑の眼差しを向けつつ、古城は空いた鉄板のスペースに新たな具材を載せていく。高級生肉(お得品)だけでなく、アスタルテが持ってきてくれた土産。クーラボックスいっぱいに買ってきた(または狩ってきたか)新鮮な魚貝類もあるのだ(ちなみに、後輩(クロウ)は、久しぶりの森での環境で心身リフレッシュしてて、もう帰ってきそうにないので、飯の用意はしておかなくていい、とアスタルテは言う)。

 海鮮系は生肉よりも火が通るまでに時間がかかるので、とにかく古城は団扇で炭をあおぐ。

 ……バイトで焼きそばを焼いたりと、リゾートプールに遊びに来たはずなのに、何で焼き専門な事ばかりやってるのだろうかと自問する古城。

 間近で浴びる炭火の熱は、こちらの日射に弱い肌を炙っては体力をすり減らしてくれる。

 しかし、古城はこの仕事を怠る余裕はない。何故ならば、

 

「お肉たっくさん食べておっきくなってやるんだからぁ―――古城君、おかわり!」

 

 なんかやけ食いしてる凪沙の食事を賄わなければならない。

 普段、彼女に食事を用意してもらっている兄としては、断りづらく、常に鉄板の上には自分のだけでなく妹の取り分を確保しておかねばらならない。

 

「おい、凪沙。あんまり食い過ぎると倒れるぞ」

 

「早くお子様体型を脱しないとダメなの古城君。とにかく今は体重なんて気にせず脂肪をつける。深森ちゃんみたいにおっきくならないとぉ……!」

 

 嗜めようとするのだが、メラメラと燃える妹が鎮火する気配はない。

 今日の妹のテンションは変動がやけに激しい。

 

「あの、凪沙お姉さん、もう少しお野菜も食べた方が良いと思います。お肉ばかりだと栄養バランスが良くないですから」

 

 そう声をかけたのは、可愛らしいワンピースに着替えた結瞳。

 体調も回復したようで、このバーベキューにも参加してる。一応、犯罪組織に攫われたとは紹介せず、『雪菜の友人(さやか)の連れで、連絡がつくまで預かる』という設定で通している(シスコンの(さが)で、ナンパしたのかと最初、悪友(やぜ)がほざいたが)。そして、凪沙は結瞳のことをいたく気に入っていて、こうしてやけ食いしながらも、彼女を片時も離そうとしない。末っ子であるところの凪沙にしてみれば、妹ができたみたいで嬉しくて仕方ないらしい。

 なので、この妹分の言葉は、兄の文句よりも効果的であった。

 

「う……しっかりしてるなあ。でも、そう言う結瞳ちゃんもニンジン残しちゃってるよね」

 

「それは……その、ニンジンだけは苦手なんです。すりおろしてカレーに入れてもらえると食べられるんですけど」

 

「か、可愛い……!」

 

 ちょっと意地悪く微笑んで指摘する凪沙に、バツ悪そうに俯きながら結瞳がその年相応の幼さを垣間見せる。しっかり者だと思いきやのこのギャップに、凪沙は目を輝かせて感動に打ち震えるよう……

 

「古城君、あたし今からカレー作る!」

「落ち着け。せめてカレーは明日の夕飯にしろ」

 

 精神的な疲労感に首を振りつつも、どうどうと興奮する妹を宥める古城。凪沙のことは結瞳がついてればまた元の元気な妹に戻るだろうと判断。

 して……

 

「浅葱、肉、焼けてるぞ」

 

「……(ぷいっ)」

 

 声をかけた古城とは思い切り反対方向へ向いてみせる浅葱。ベンチの端に座る彼女は、先ほどから全く食事に手を付けず、むっつりと海を眺めているだけ。時折、ううん、とちょっとわざとらしいくらいに声を上げて、悩ましく身体をくねらせるように身動ぎするも、それだけ。

 そんな態度をついに見かねて、古城は鉄板前の持ち場から離れて、浅葱の元に食器を届けることにした。

 

「これ、割り箸な。タレはこっちが甘口でそっちが中辛だから」

 

「ふん!」

 

 しかし、浅葱は無言で古城から箸を奪い、あっち行けとでも言いたげにまた反対方向へと向いてしまう。

 

「なんなんだよ、ったく」

 

「……まだ謝ってないんですか、さっきのこと」

 

 不満げに戻ってきた古城に、気遣うような口調で訊ねるは結瞳。

 そう。

 つい先ほど、浅葱と結瞳が着替え途中のところを女子部屋に、古城はノックもせずに入ってしまった。

 結瞳はほとんど着替えが終わっていて、後は頭からワンピースを被るだけのポーズで固まっていたが、浅葱の方は来ていた水着をちょうど脱ごうとしたタイミング。ビキニのブラを右手に持ち、左手だけで胸を隠す手ブラ状態。おかげで浅葱が蹴り飛ばした目覚まし時計を、古城は顔面シュートブロックしたのだが……それから何度謝っても彼女の機嫌が治ることはない。

 

「謝ったよ、何回も。なのにあいつ、いつまでも根に持ちやがって大人げねぇ」

 

「浅葱お姉さんは、本気で怒ってるわけじゃないと思いますけど。単に古城さんのフォローが下手なだけで」

 

「フォローって言われてもな……確かにノックしなかったのは悪かったけど、アイツだって部屋の鍵をかけ忘れてたんだし、俺に目覚まし時計をぶち込んでくれたんだからお相子じゃね?」

 

 納得いかん、と口を尖らせる男子高校生に、女子小学生は諭すように、

 

「そう言う態度がダメなんだと思います。あのとき浅葱お姉さんが着ていた水着、新品だったのに何も言ってあげませんでしたよね。今のお洋服だって何度も着替えてやっと選んだのに」

 

「……え? それって何か関係あるのか?」

 

 下半分しか着ていなかった水着にいったい何を言えというのだろうか。意味が解らず、真顔で訊き返す古城に、はあ、とあきれたように結瞳は深く溜息を吐いてしまう。そこに、ぽんと申し訳なさそうに肩に手を置いた凪沙。

 

「ごめんね。こういう“古城君みたいな朴念仁”に、乙女心ってのは全然わからないから。きっと精神年齢が小学生辺りで成長止まってるんだと思う」

 

「はい。本当に、なんか、残念です」

 

「お前らな……」

 

 二人から恨めしげな眼差しを向けられ、古城もふて腐れたように半眼となってしまうも、

 

「それと、着替えを見られたのは浅葱お姉さんだけじゃないんですけど」

 

「あ……えーと……す、すいませんでした。ごめんなさい」

 

「わかりました。許してあげます」

 

 そこは素直に頭を下げた古城に、結瞳は悪戯っぽくはにかむ。

 ……その目元は、まだ少し赤い。きっと泣きながら眠ってしまったのだろう。いくら大人ぶっていても、気丈に振る舞っていても、結瞳は子供で、その立場は今も確固としたものじゃない。

 古城の女子部屋生着替え乱入事件のせいで、彼女が監禁されていた事情について、未だ詳細を聞けていない。結瞳も、まだどう話していいか頭の中で整理がついていない状況のようだ。

 けれど、それでも何もやっていないわけではない。

 今、席を外している雪菜も、古城から借りた携帯で獅子王機関へ確認の連絡を取っており、また、アスタルテも教官(マスター)である国家攻魔官(みなみやなつき)の方に連絡をつけ―――

 

 

 ぎゅぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉきゅるるるるるるるるるるるるぅぅぅぅうううううううっ!

 

 

 地獄の亡者の嘆きを思わせる、けたたましい音。

 

「な、なんだ、今のはっ!?」

 

「お腹の虫……でしょうか?」

 

 にしても、お腹の虫のレベルがすごい。

 こんな耳を塞ぎたくなるような悲鳴をどうやったらあげられる?

 音の発生源と思しき方へ向くと、人工生命体の少女を連れた、聖女がいた。

 

 

 

「(質問。先輩は、叶瀬夏音のイメージを落とすおつもりですか?)」

 

 いつものよりも、数度温度の低い冷たい声音の人工生命体の少女。

 先ほどから何やら機嫌が悪い後輩は、夏音(クロウ)に向ける目線は厳しく鋭い。もっとお淑やかにできないのかと。

 

「(そんなつもりはないぞ。でも、お腹が鳴るのは仕方ないのだ)」

 

 小声で言い訳を述べるクロウ。

 最初、バーベキューにウキウキだったクロウだが、アスタルテから別メニューを用意された。古城たちから風邪引きと気を遣われてることから、おかゆやバナナなど消化しやすく、胃にやさしいもの(もちろん女子の食事量で)。まったく腹にたまらないのである。皆がバーベキューに舌鼓を打つのを見ているしかない状況。

 育ち盛りであり、同居人が増えても南宮家のエンゲル係数の過半数を占める食いしん坊に、この状況はつらい。

 

「(助言(アトバイス)。一口の際に百ほど咀嚼をすれば満腹中枢が無理やりにでも刺激されます)」

「(バナナとかおかゆなんて噛み応えがないし、そんなに無理なのだ。肉が食べれなくても、もっと量が欲しいぞ。具体的にこれの10倍くらい要求する)」

「(不許可。叶瀬夏音の食事量は、これが適正です)」

 

 いつもならさりげなくフォローしてくれた後輩なのに。ちなみに、凪沙の方も、ふん、とそっぽを向かれてしまってる。事情を知ってるはずのアスタルテ、それに凪沙も、前回の立食パーティの時のように、こっそりと取り分けてくれることもない。

 取りつく島がなく、泣く泣く我慢するしかない。

 そう、状況はもうバラしてもいいような状況でなくなっているのだ。元々、この変装術式には、『こちらからネタバレしちゃダメですよ。これ、一応、アルディギアの魔導技術の機密情報が詰まってますから』と第一王女に制約が掛けられてはいたが、

 今更、『影武者』だとばれたら、『妹と風呂に入った』と知った<第四真祖>が戦争(ケンカ)を仕掛けてくる。

 

「(じゃあ、今からちょっと隠れてから夏音の『影武者』やめて、元のオレで登場すれば)」

「(却下。すでに<第四真祖>に、先輩は森で遊んで帰ってこないと説明してあります)」

「(アスタルテェ……)」

 

 やっぱり、普段より冷たい後輩に逃げ道までご丁寧に塞がれてしまってる。

 いったい、何か悪い事をしたのだろうか。

 男子の先輩後輩が悩みを共有する中で、おずおずと焼肉等が乗った皿が、夏音(クロウ)に差し出された。

 

「あの……よかったら、これ食べますか?」

 

「ああ、せっかくなんだし。少しくらいなら、叶瀬も食べても構わないだろ?」

 

 結瞳だ。それに、古城も。

 どうやら先ほどの腹の音は聞かなかったことにしてくれたらしい。

 後輩と級友から冷たくされたところで、ほろり、とその温かな優しさに涙が出そうなクロウ。

 

「ありがとう、なのでした」

 

 流石に、先輩管理役(アスタルテ)も、止めはしないようで、少量ながらも香ばしい肉の味に、夏音(クロウ)はプルプルと微振動。うまいぞー! と大声で叫ばないように堪えてるのだ。

 そんなところへ、おずおずと結瞳(メシア)が訊ねる。

 

「もしかして……夏音お姉さんが、私を助けてくれたんですか?」

 

「え、叶瀬が……?」

 

 意外と驚く古城。

 てっきり、先ほど『魔獣庭園』にて倒れた結瞳を救護室へと届けたとアスタルテから先ほどされた説明から、彼女が助けたのだと思っていた。

 

「え、と……よく覚えてないんですけど、でも、気を失う直前にお姉さんみたいな人影を見た気がして……」

 

 おぼろげながらも残っている記憶より、『湖の乙女』と称するような銀髪碧眼の容姿にジャージ姿は覚えてる。そして、ぎこちなく語尾に『でした』をつける癖も。魔獣から助けてくれた恩人『謎のハンターK』は―――

 

「ミス・江口。あなたを助けたのは、南宮クロウ先輩です。叶瀬夏音ではありません」

 

 ……ウソは、ついていない。

 基本的に人間に虚偽ができない人工生命体のアスタルテのきっぱりとした証言に、ああ、そうだよな、と古城は頷く。結瞳もやや残念そうに視線を落として、

 

「そう、でしたか……助けてくれたお礼がしたかったんですけど。あの、でしたら、その南宮クロウさんに、ありがとうございました、って伝えてもらえますか」

 

 うん、と結瞳の言葉に、夏音(クロウ)は、しっかりと頷いて見せた。

 

 

 

「それと、『謎のハンターK』ってのはやめた方が良いと思います。あれは、ちょっと子供っぽすぎるというか……」

 

「う、……恰好良く決めたつも「了承。先輩にはよく言い聞かせておきます」」

 

 しっかりと指摘もしておいた。

 

 

青の楽園 魔獣庭園

 

 

 姫柊雪菜が、獅子王機関絃神島出張所にいる師家様に確認を取ったところ、煌坂紗矢華の代わりの舞威姫は派遣されてはいない――つまり、紗矢華はまだ任務中であり、少なくとも生きていることは間違いない。

 呪詛や暗殺といった潜入工作を主な仕事とする舞威姫は任務中、通信の一切を禁止されているので、どんな目的で『青の楽園』に訪れたかは不明ではあるも、任務続行不能であるのなら、獅子王機関はすぐに公認の舞威姫を派遣するはずだ。逆に言えば、代わりが来ていないというのは、紗矢華が無事だと判断することもできる。

 

 しかし、ならば何故、紗矢華は江口結瞳を迎えに来ないのだろうか。

 絃神島に甚大な損害を与えた前科があり、<第四真祖>の力を暴走させれば、この『青の楽園』を跡形もなく海に沈めかねない暁古城に預けたまま……はっきり言って、魔導犯罪組織よりも、<第四真祖>の方が危険で、はた迷惑で、脅威度は高いはずなのに。それを巻き込むなんて、普通はありえない―――と監視役。

 それに、大手を振ってこの溺愛する元ルームメイトの雪菜に会える機会を紗矢華が逃すだろうか―――と第四真祖。

 となるとやはり、紗矢華には何か結瞳とは合流できない事情があるのだろう。想像以上に厄介な立場に置かれてる可能性が高い。

 

 そこまで推理したところで、結瞳がある証言をした。

 もしかしたら、お姉さんは、一緒に『クスキエリゼ』の研究所に閉じ込められていた莉琉を救い出そうとしているのかもしれない、と。

 

 

 

「ご主人からの許可は取ったんだなアスタルテ」

 

「肯定。教官(マスター)より、捜査権は取っておくので、“きな臭い”ところを洗え、とのこと」

 

「了解なのだ」

 

 『影武者』から元の姿へと戻ったクロウ、それにアスタルテのコンビがこの半日ほど職場としていた『魔獣庭園』――その関係者以外禁止区域である研究施設へと立ち入る。

 

 『クスキエリゼ』―――それは、この『魔獣庭園』の運営を担当する『青の楽園』の出資者。そう、クロウを雇い、そして、引き込もうとした久須木和臣が運営する、産業用魔獣の輸出入や繁殖を手がける会社だ。

 有名企業である故に、確実な証拠もなしには踏み込めない。だから、暗殺技能を持ち、組織的な国際魔導犯罪を対応する外事部の舞威姫が秘密裏に捜査をしていた。

 

 しかし、獅子王機関はその結瞳の身柄を保護していることを、剣巫の雪菜から報告されたにもかかわらず、静観している。きっと彼女の両親も心配しているだろうに。

 もしかすると、これは江口結瞳を囮にしているかもしれない。

 獅子王機関でも施設内に入り込むのが難しい。だから、『クスキエリゼ』が逃げ出した結瞳を取り返しに来るのを待っている。関係者が施設の外に出たところを、偶然に保護した剣巫が、彼らを小学生の拉致容疑で逮捕すればいい、と。

 けれど、それはあくまでも仮説であって、獅子王機関の事情だ。

 結瞳の姉である莉琉はまだ監禁されていて、危ない目に遭ってるかもしれない。なら、早く助けに行かないとまずいのではないか。

 

「ただし、被害は施設の20%以内に抑えるようにと教官より忠告されています」

 

「う……こんだけ広いんだし、一棟や二棟、ちょっとくらい壊しても20%以内になるのだ。たぶん」

 

「否定。建物一棟でも少しではすみません。重ねて先輩は注意を」

 

「う……わかったのだ」

 

 獅子王機関に属さない、魔導犯罪を取り締まる権限を持つ――正確には彼らの主人の国家攻魔官が――クロウとアスタルテが、『クスキエリゼ』へ。

 雪菜と古城らは結瞳の傍についてる。救助任務が与えられていない剣巫に、監視役を必要とされる存在自体が戦争そのものの四番目の真祖、それに結瞳を取り返しに刺客が送り込まれることも考えるとなると、彼らはそこに待機せざるを得ない。

 いわば、オフェンスをクロウとアスタルテが担当し、ディフェンスを古城と雪菜がするという役割分担である。

 

「んー……」

 

「先輩?」

 

「いやな。その江口莉琉って、江口のお姉さんなんだろ? だから、それと近しい“匂い”を探ってるんだけど……どうも、鼻に感じ(つか)ないのだ」

 

 江口結瞳を保護した地点より、彼女が逃げてきたその足跡の“匂い”を『嗅覚過適応(リーディング)』で辿る最中、クロウが訝しむようにそうアスタルテへと答える。

 

「ミス・江口の証言によると、シスター・莉琉は『クスキエリゼ』の実験に最初から協力的であったとのこと」

 

 その実験の内容こそ結瞳は語りたがらなかったけれども、研究者たちに必要なのは結瞳ではなく、莉琉であるらしい。互いに友好的であって、莉琉が自ら隠れていることも考慮に入れないとならないかもしれない。

 ―――であっても、魔術的な隠蔽を無視して現在地を割り出せる、標的捕捉率100%の<黒妖犬>の嗅覚から逃れることができるのだろうか?

 

「う。とにかく、江口が攫われてたとこに行ってみるのだ。そこなら、お姉さんの手掛かり(におい)があるぞ」

 

 

 

 ……さて、真剣(シリアス)な空気を醸し出しているが、現在、彼らの絵面は、『森の中で、厚着の少年が、メイド水着な藍色の髪の少女をおんぶしてる』と割とカオスだったりする。

 この魔獣が放し飼いされてる庭園を抜けるには体力が心許ない、それにここで逸れるのは危険だと判断して、アスタルテはクロウに背負われている。ちゃんとした理由がある。

 のだが、肌色の多い、体のラインにぴったりなレオタードとほぼ変わらない衣装で、製造されてから一年未満という人工生命体の――『人形師』が求む完美な人形であれと調整された――産毛も生えそろわない柔らかな肌が密着している。会話の際も、自然と耳元に息を吹きかけるような恰好で囁いている。

 背中に篭っていく体熱。それを擽ったそうに、わずかに体を揺らし、クロウは口を開く。

 

「アスタルテ……」

 

 名前だけ言って、そこで言い難そうに喉元のところに押しとどめた。

 その気にさせてくる態度に、アスタルテは言葉で先を促したりせず、じっと後頭部を見つめる。先輩の顔は、前を向いていてこちらからは見えない。もし接触に恥ずかしがっているようならばこちらもそれを意識してしまいそうで距離を置きたくなるだろう、それでも先輩の言葉ならば聞き逃したくないという欲求の天秤が平衡に釣り合い揺れる。

 天秤がどちらにも傾ききらぬまま、続きを口にする。

 

「お前、小さいな」

 

 頭にきました―――と一瞬、人工眷獣を召喚しかけて堪えたアスタルテ。

 

「間違った。お前、軽いな」

 

 一気に機嫌が下がった気配を察したか、すぐ訂正を入れるクロウ。

 どちらにせよ、この先輩はこちらの発育不良を言っているらしい。後輩は感情の温度の低下を持ち直すこともなく、つっけんどんな口調で、

 

「それが何か?」

 

「ちゃんとご飯食べるのだ」

 

 ここでようやく、先輩は説教してるのだとアスタルテは気づいた。

 

「さっき、バーベキューでほとんど食べてなかっただろ。オレと同じでおかゆと果物だけだったぞ」

 

 見られていた。いや、隣についていたのだからそれも当然なんだろうけれど、そこを意識されていた。かぁっと何故かそれを恥ずかしく思い、茹ったように頬が熱くなる。

 

「なんでなのだ?」

 

 夕食のバーベキュー。

 十人前以上あった高級生肉に、野菜やエリンギなどのキノコ類や先輩が軽く素潜り漁して採ってきた魚介類なども、結局、藍羽浅葱に大半を食されてしまった。スレンダーな見た目に反して大食いキャラな彼女なら、その程度の量を腹におさめるくらいわけないらしい(焼き係で古城はほとんど肉系を口にすることができなかった)。

 それとは対照的に、クロウの指摘通り、アスタルテは風邪引きの夏音(クロウ)と同じおかゆと果物だけしか口にしてなかった。

 クロウの追及に、しばらくの時間をおいてから、アスタルテは小さな声で答える。

 

「……先輩が、食べられませんでしたから」

 

「ん」

 

「……後輩(わたし)が、いただくわけにはいきません」

 

 嘆息するようにクロウは鼻を鳴らす。

 

「アスタルテは、頑固者だな。オレに気を遣わずに食べたいなら食べればいいのに」

 

 やれやれと肩をすくめられる。この普段ダメな先輩にそういう態度をとられると、む、と無感情ながらアスタルテはわずかに眉間の幅をしわ寄せて狭めてしまい、普段口にしないようなことを訊いてしまった。

 

「質問。先輩は、体が大きい方が好みなのですか?」

 

 口に出してしまってからは、もう後の祭りで、アスタルテは後頭部より、背中の肩甲骨あたりまで視線を下げて、口を閉ざす。

 そして、待つ。しばらく黙っていると、うーん、と考えるような唸り声を上げて、

 

「そうだな。アスタルテはもう少し体が大きくて重い方が安心するぞ」

 

 それは先輩にとっての異性の好みかどうかには入らないだろう。持ち運びのしやすさについて語ってるようで、こちらの思惑には掠りも―――

 

「でも、アスタルテをおぶってると小さくて軽いのに実感するな。男の人とは違う、女の子の身体って、華奢で、やわらかくて、何かいい匂いで……」

 

 目をつむり、その無垢な笑顔で感じたまま述べる。

 入力された医療系の知識で人体構造について把握している。そもそも男と女の体が違うのは当然のこと。この先輩も、こうして触れてると、細身ながら筋肉の塊だというのがよくわかる。それと比較すれば、人工生命体の肉体など華奢で、やわらかく、いい匂い―――そう、この無関心と思っていた先輩が語る。

 全身が熱いを通り越して、痛痒いに変わる。先ほどの混乱とは比べ物にならないくらいに、アスタルテの思考がぐるんぐるん空転する

 

「……努力します」

 

 言えたのは、この一言だけだった。

 

「じゃあ、そろそろ建物に入るしな。そこで下すぞ」

 

 江口結瞳が渡ってきたと思しき、幅10mほどの水路に行き着いた。『嗅覚過適応』は、水に濡れようが、“匂い”の記録そのものを嗅ぎ取ることができる。

 向こうには切断された――おそらく、舞威姫が逃げ道をつくるために、破壊された銀色の鉄格子。魔獣の逃走を防ぐためのシャッターがある。クロウならばそこへたどり着くのに、水路を泳がずとも、アスタルテを背負ったままでも、いわば水切りの原理で、その脚力の疾走で渡ってしまえることだろう。

 

「ちょっとだけ本気で走るからしっかりつかまってろよ」

 

 ぎゅっと振り落とされないように腕に力を入れる。ゴールを見据え、後輩は少しだけ残念に思った。

 ……もちろん。

 何を残念に思ったのかは、気が付くほどの余裕はなかったけれど。

 

 

青の楽園 エリュシオン コテージ

 

 

 アスタルテ、それにクロウが、紗矢華と莉琉の捜索に『魔獣庭園』の研究施設へと向かい、そして古城は江口結瞳の傍について、雪菜とともに襲撃者の警戒にあたる―――といっても、ほとんどすることはなかった。

 バーベキューの後、叶瀬夏音はすぐに寝室へ休みにいったが、古城たちは花火をしたり、罰ゲーム付きのポーカーしたりと遊び続けた。後輩たちが仕事してるのに、遊ぶのは悪い気がしたが、古城と雪菜は彼らについていくことはできない。特区警備隊の捜査権限があるのは、担任の助手であるクロウとアスタルテだけであって、静観の構えを見せる獅子王機関に所属する剣巫と、真祖だけど男子高校生は勝手できないのだ。

 だから、防衛の役割をしっかりとこなす―――かつ、怪しまれないようにと、古城たちはみんなと遊んだ。

 遊んでいるうちに、夢中になり、そしてうっかり寝オチ。

 

「……ったく、やることないからって、気が緩みすぎたな」

 

 雪菜が、侵入者が立ち入った際にすぐ気づけるよう、警報を鳴らす式神をコテージの周囲に配置しているけど、寝てしまうのは油断だ。

 見れば、ソファには浅葱、凪沙に、そして、雪菜と女子組が熟睡。おそらく、先に寝た浅葱と凪沙に挟まれた雪菜は身動きが取れずに、寝息を子守唄に段々と意識が落ちてしまったんだろう。ずっと気を張り詰めていたのはわかるが、それだと疲れていざというときに力を発揮できなくなることだし、休めるときに休めていたのならそれは良い事だ。

 仲睦まじげに三人並んで眠っている、その妙にほのぼのとした雰囲気を壊さぬように、古城はエアコンの設定温度を少し上げてから、そっとリビングにあったブランケットを彼女たちにかけてやる。

 そして、欠伸を洩らしながらリビングから出て携帯を見るが、クロウ達とも、紗矢華とも連絡はない。時刻は午前3時過ぎ。最後に時計を見たのはもう短針は一周を回っていたので、3時間も寝てないだろう。

 

「でも、クロウ達は頑張ってんだ」

 

 うし喉も渇いたし、眠気覚ましのコーヒーでも飲むか、と廊下に出た古城は台所に向かおうとし―――その人影に気づく。

 

「……矢瀬?」

 

 二階で寝ている叶瀬夏音の小柄で華奢なシルエットではない、男子高生のもの。該当するのは、悪友しかいない。

 こいつも起きてたのか? と古城はこちらに近づいてくる短パン姿の悪友を眺める。

 

「……いな……さん」

 

 しかし、矢瀬からの返事はない。彼は、ぎこちなく唇を震わせて、何かを呟いてる、

 眉を顰める古城に、また一歩矢瀬は近づき―――そこでガバッと一気に両腕を大きく広げ、古城に跳びついてきた。

 

「緋稲さあああああん!」

「どわああああああっ!」

 

 いきなり絶叫を上げて襲い掛かってきた悪友。それに度肝を抜かれて硬直した古城は、押し倒された。

 明らかに寝ぼけているくせにその動作は機敏で、力ずくで押し倒した古城を抑え込む。

 確か、矢瀬の口から出てきた『緋稲』と言うのは、以前から、悪友が口説いていた年上の彼女の名前―――つまり、この野郎は、古城をその彼女と勘違いしてるのか。

 全身に鳥肌が立った。

 古城も必死に逃れようとするが、矢瀬は中々抱き着いた腰から離れない。

 

「ははっ、相変わらずつれないねぇ……だけど今日の俺は諦めない!」

「寝ぼけんな、この野郎! 起きろ! ってか、離れろ!」

 

 ここのところ同性愛疑惑に悩まされる古城は、これ以上の濡れ衣はごめんだと、矢瀬を思い切り突き飛ばした。

 ゴン、と勢い余って派手に吹っ飛んだ矢瀬の身体は、壁に激突。鈍い音を立て、そのままずるずると床に倒れ込む。

 ダメージがでかかったのか、起き上がってくる気配はない。

 

「だ、大丈夫か、矢瀬? すまん。だけど今のはお前も悪いだろ」

 

 心配して隣に屈みこんで様子を見る古城。しかし矢瀬はこちらに気づかず、唇を歪めて独り言のように呟いた。

 

「やられたぜ、畜生……精神、支配か……」

 

「お、おい、矢瀬?」

 

 古城がその意を問うも、矢瀬は答えることなく、前のめりに倒れて意識を失った。その力尽きたように眠るその顔は、苦悶に表情が歪んでいるよう。

 どうなってんだ、と困惑して古城は頭を抱える。眠気なんてもう完全に飛んだ。

 すわ敵襲か? しかし、雪菜が張っていた式神の警戒網に何の反応はないはず。あれば、彼女は飛び起きてるだろう。耳を澄ましても拾うのは、自分自身の心臓の音だけ―――

 

「―――先輩」

 

 唐突に背中から声を掛けられる。

 ビクゥ、と肩を震わせ、古城が振り返るとそこに、雪菜が気配もなく立っていた。

 

「ひ、姫柊、起きてたのか……!」

 

 矢瀬が最後に呟いた、精神支配、という言葉。

 もしやこの怪奇現象は奇襲によるものかもしれない。古城一人では手に余る事態だけれど、雪菜がいるのは大変心強い。先ほどの矢瀬の異変を見てたなら、何かに気づいて―――

 

「……先輩は、女の子より、男の子の方が良いんですか?」

 

 その声は、怒気のようなものが滲んでいるよう。聞き間違いか、と古城は改めて雪菜を窺う。逆光になった彼女の表情は見えない。だが、普段の物静かな雰囲気とは少し違うのがわかる。

 

「……姫柊?」

 

「やっぱり、先輩がクロウ君のことを……」

 

 ふらり、ふらり、と。メトロノームみたいに左右に身体を無造作に揺らしながら迫る雪菜。見上げてくる彼女の昏い瞳は、こちらともう30cmを切っており、それでも近づく。雰囲気に呑まれた古城は声を上擦らせて、

 

「は!? 何言ってんだ、姫柊。ふざけてる場合じゃないだろ!」

「誤魔化さないでください!」

 

「ええっ!? 俺が悪いのか!?」

 

 真顔で叱りつけてくる雪菜に、一瞬本気で悩む古城。

 そんな古城をさらに追い詰める雪菜は、間合いをゼロ距離に―――つまり、ピッタリと体を密着させた。

 

「先輩の監視役は私なんですよ。それなのに先輩は紗矢華さんや結瞳ちゃんのことばかり気にしたり、夏音ちゃんやアスタルテさんに優しくしたり、昼間はずっと藍羽先輩と二人でいちゃいちゃしたり……そして、矢瀬先輩とこんなところで……」

 

 寝起きと思しき雪菜は、かすかに甘い芳香を漂わせる。そして、薄いシャツ越しに伝わってくるやわらかな弾力に、露出される白い首筋。古城は思わず唾を呑む。

 

「姫柊、やっぱおまえなんか誤解して……」

 

「やっぱり、私ではだめなんですか……? 満足できませんか……?」

 

「いや、別に満足がどうとか、そういう問題じゃなくて……」

 

 なけなしの自制心を精一杯に働かせて、古城は雪菜の身体を引き剥がす。

 しかし、その対応はまずかった。

 

「不満ですか……そうですか……それなら監視役として先輩を殺して私も死ぬしか―――」

 

 大きな瞳に絶望の色を浮かべた雪菜はすっと右手を伸ばす。手に取るのは、壁に立てかけてあった黒いケース。海辺のリゾートで見かけても違和感ないようボディボード用の収納ケースにモデルチェンジした、入れ物。中身は、お馴染みの銀槍。

 『七式降魔突撃機槍(シユネーヴァルツァー)』―――真祖をも滅ぼし得る、獅子王機関の秘奥兵器だ。

 それを雪菜は、古城に突き出してきた。

 

「ば、馬鹿! こんなところで<雪霞狼>なんて持ち出したら……!」

 

 流石にもう、雪菜もまた矢瀬と同じように普通でない――異常状態に陥っていることに古城は気づいた。

 原因はわからない。しかし、無意識の欲望が暴走しているようだと見る。雪菜が普段から心の奥底で、こんな心中も辞さない破滅的なストーカー思想に染まっていたとすれば、それはそれで怖いが……

 

 そして、槍から後ずさる古城を、背中から突然抱き着いてくる三人目。振り向けば、そこに弱々しく微笑みながら上目遣いでこちらを窺う、華やかな髪形の少女。

 

「何してるの、古城?」

 

「え!? 浅葱!?」

 

 こめかみに冷や汗を伝わせる古城。

 浅葱が今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。瞳に涙を盛り上げて、透明な滴を流れ落とす。普段の彼女のあり得ない反応に、わけのわからない罪悪感を覚えて古城は言葉をなくす。

 

「あたしに黙って、こんな時間に二人で何をしてるわけ」

 

 途切れ途切れにかすれた浅葱の言葉を拾い、彼女もまた何か誤解してると理解するもそれまで。古城は涙目の浅葱に迫られては、頼りなく首を振るしかない。

 

「いや、これは……なんというか、その」

 

「またあたしに内緒で姫柊さんといちゃつくの? やっぱりその子の方が良いんだ……」

 

「……え!?」

 

「あたしだって、頑張ったんだけどな……恥ずかしいことも、いっぱいしたし」

 

 古城の背中にしがみつく浅葱が俯いて、その全身が嗚咽するように震える。俯く彼女に、古城は天井を仰ぐ。

 浅葱までおかしくなってるのかよ!?

 

「あたし不安なんだよ……あんたが何も言わずにあたしを置いてどこか遠いところに行っちゃうんじゃないかって。あたしは、あんたが<第四真祖>とかわけのわからないものになる前からずっと……」

 

「あ、浅葱……」

 

 弱々しく古城の背中を叩いてくる浅葱。不器用であるも、暴走している彼女の無意識は気弱で幼く、これが本音ではないと頭で理解するも、古城は無碍に突き放すことはできずにされるがまま、サンドバック役に甘んじる。そして、そんな古城に、浅葱が耳元に何かを囁こうとした、そのとき―――銀槍が通る。

 

「そこまでです、藍羽先輩」

 

 そういう大切な告白は正気の時にどうぞ、と。

 雪菜が浅葱の首筋に仄かに光る銀槍の腹を押し当てる。

 瞬間、青白い火花が散ったかと思うと、浅葱は糸が切れたように頽れた。その弛緩して倒れ込む彼女を雪菜が横から抱き留める。

 

「ひ、姫柊……!?」

 

「藍羽先輩の精神支配を解除しました。たぶんこれで正気に戻ると思います」

 

 生真面目な口調に冷静さ、いつも通りの雪菜の雰囲気に、古城は涙が出てしまうくらいに安堵した。何があったかは知れないが、とにかく追い詰めすぎてヤバい状態からまともな状態に戻ってくれた。

 

「やっぱり誰かに操られたのか。姫柊の様子がおかしかったのものそのせいか」

 

「も、もちろんです。<雪霞狼>のおかげで解放されましたけど。ですから、さっきの言葉は決して私の本心とかではないですから。違いますから!」

 

「お、おう」

 

 不自然に強張らせた、脅迫めいた表情で雪菜に詰め寄られて、古城は慌てて首を縦に振る。槍を持つ手が震えるほどその力強い主張を前に、ハイ、以外の何が応えられようか。

 とにかく、雪菜が正気に戻って、浅葱を鎮めてくれたところで―――あとは、ひとり。

 

「古城……君……」

 

 異常体験も三度続けば、慣れるし、薄々予想がついた。

 古城に声をかけてきたのは、凪沙。普段の雰囲気とは微妙な差異はあるものの、ほとんど変わっていないような印象。されど、今にもどこかに飛び出していきそうで……

 ともあれ、古城は、お前もか、と気だるげに嘆息する。

 

「クロウ君が、いないの……近くにいるならすぐわかるのに……」

 

 兄としてはあまり聞きたくない妹の無意識を遮り、古城は頼む。

 

「姫柊、頼む」

 

「……はい」

 

 そこに緊急性がないと判断、また体力のない凪沙に気を遣ったか。

 槍を使わず、凪沙の鼻先に雪菜は手を伸ばす。一種の催眠術か。彼女が指を鳴らすと、凪沙の全身から力が抜ける。その身を古城が支え、ソファへと横たえらせる。浅葱もその隣に寝かせてやると、ひとまず、息が付けた。

 暴走の原因はわからないが、しばらく放置しておいても問題はないだろう。

 混乱から立ち直り、落ち着いたところで、古城が捜すあの少女―――

 

「ハァ……ハァ……」

 

 誰かの苦しげな呼吸音を、吸血鬼の聴覚が捉えた。

 響き続けるかすかな吐息へ。そこは、コテージの二階へと続く吹き抜けの階段で、そして、途中でおねむになり脱落した、サマードレス姿の小学生がその踊り場にぺたんと座り込んでいた。

 

「結瞳?」

 

「古、城……さん?」

 

 気づくも、荒い呼吸は止められないよう。汗に濡れる結瞳の表情は、体の奥底から込み上げる衝動に抗っているようで、吸血衝動に襲われた古城の姿に重なる。

 

「ダメ……です。古城さん……来ないで!」

 

「いや、でも……」

 

 明らかな不調異変が見て取れる結瞳を放置できない古城は階段に足をかけ―――そのとき、少女の頬が歪む。抑え切れず、堰を切って溢れ出る羞恥と恐怖に。

 

「いやあああっ―――! 見ないで……見ないでください……!」

 

 接近する古城から後ずさり距離を取る結瞳。スカートの下、その太腿の間から、細い蛇に似た何かが顔を出し、自らの意思を持つように痙攣する。

 尻尾。そう、黒く、細く、先端の尖った獣の尻尾。しかし、後輩の獣人化とは、違う。具体的なことは言えないが、何か別種のものだ。

 そして、それを古城と見た雪菜は、正体に気づいて瞠目し、

 

「まさか、結瞳さんは―――」

 

 

青の楽園 魔獣庭園 研究施設

 

 

 地下道を抜け、上に登る階段を進むと、その隠し通路は研究室に続いていて。さらに先を行くと、開けたホール――突き当りに暗い陰のかかった檻がある。

 

『―――やあ、来ると思ったよ『獣王』』

 

 ホールに踏み入った瞬間、まるで校内放送か何かのように、建物のあちこちから同時に増幅された男の声――久須木和臣の嘲笑が響く。

 

「『クスキエリゼ』会長久須木和臣に、オマエに『トゥルーアーク』の出資者の容疑がかかっている。特区警備隊(アイランドガード)で立ち入り検査させてもらうぞ」

 

 研究所へ向かう前、先輩の藍羽浅葱に調べてもらった。

 『トゥルーアーク』――自称・環境保護団体。

 その実体は、環境保護活動を名目に破壊工作を行うエコテロリスト集団。魔獣保護を謳い、学術調査船を襲撃したり、魔獣対策用の防護柵を破壊したり、人里を襲う魔獣の駆除を邪魔したり―――そのすべてが犯罪行為。

 それを、魔獣を売り買いする『クスキエリゼ』の会長で、『魔獣庭園』の(オーナー)が援助している。

 

『幼いころから求め続けていた夢に、ようやく手が届くところまで来たんだ。邪魔はされたくないな』

 

「オマエがしたい理想(もの)は間違ってなくとも、そのやり方はおかしい」

 

 絶滅寸前の魔獣の保護は、意味のある行動だ。しかし、その目的のためなら何をしても許されるわけではない。魔獣を護るために人間を襲うなど論外で、ましてや、『クスキエリゼ』はその魔獣を捕獲して売り捌いたり、研究に使っている。

 それがテロ活動を支援するのは恐ろしく身勝手であり、論理が破綻している。

 正義という光に目が眩み、思想と行動が矛盾してることに気付かない、過激な魔獣保護主義者―――それが、久須木和臣の正体である。

 

『『燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや』―――小さな者に、大いなる王の思想を理解するというのは無理な話だ』

 

 独裁者のような口調で演説する久須木に、クロウは低い声で絞り出すように、告げる。

 

「オレには、やっぱりピンと来ない。でも、オマエは『黒死皇派』と同じだな」

 

『はは、あのような“負け犬”とは一緒にしないでくれたまえ。今日、私は“最強”を手に入れ、世界を制するのだから』

 

 パンパン、とスピーカーの向こうで、久須木は手を叩いた。

 

『“協力者(パートナー)”から、『獣王』を引き入れるようにと進言されていたが、私は考えを改めた。

 ―――“王”はやはり、一人だけでいい』

 

 ホールの照明が付けられ、檻が、開かれる。

 

予約(アポ)もなく、夜分遅くに訪れてくれたようだが、こちらは歓待の準備は済んでいる。

 ―――我が社の最高傑作を、『獣王』に披露するとしよう』

 

 中にいたのは、醜悪なゴツゴツとした体殻を持つ、魔獣。

 ホールを、激しい震動が揺るがした。

 この巨大な魔獣が、目覚める―――

 

『『淫欲』を司るとされる魔獣キマイラしかり、この国でいう鵺しかり、複数の遺伝子を持つ合成魔獣は存在する。そして、これは研究機関が、冬眠中のところを採取した『蛇』の細胞に、複数の魔獣の遺伝子を人工的に合体させた、いわば、“『蛇』の仔”だ』

 

 大きくホールを震動させるのは、覚醒から発散される魔力の波動。

 

『あまりの凶暴さに莉琉でなければ手が付けられなかったが、それも解決した。今では私の意のままに従わせられる』

 

 明らかになるその全容、

 雄々しい獅子の鬣と牡牛の角を生やした頭部、亀の甲羅に鋭い背ビレ、山猫の上半身、六本の足に蠍のような長い尾を持った、半獣半魚の竜。

 その咢が、侵入者(クロウ)らに向け、大きく開かれて、

 

 

『さあ起きろ。神々が生み出した最強の獣、その因子をもって人の手で創り上げた“王”の先兵――<タラスク>よ!』

 

 

 瞬間、獣化し銀人狼となったクロウが、アスタルテの前に飛び込んだ。

 爆発が起きた―――アスタルテが認識できたのは、ただそれだけだった。

 視界が真っ白に染まる直前に見えたもの、ホールに敷かれていた鋼板床。半獣半魚の竜を中心にすべてが歪み、捲れ上がっては吹き飛んだ。激しい衝撃に突き飛ばされ、前後左右の感覚が吹き飛ばされる。

 天地を激震させるような咆哮が、施設を突き抜けていた。

 それを生身で受けた銀人狼は、苦しげに歯を食いしばり、その顔面を血で真っ赤に染めている。対して、アスタルテは、ほぼ無傷。それはまさに、人工生命体の少女と半獣半魚の竜の間にいる銀人狼が彼女を庇ったためだろう。

 

「先輩―――!」

「アスタルテ。この“匂い”、あれと同じだ。あいつは―――」

 

 駆け寄ろうとする後輩を、背中より発する威だけで押し留める。そして、アスタルテにだけ聞こえるような、か細い声で今気づいた何かを呟く。その内容に、アスタルテの瞳がわずかに見開く。

 

「―――だから、作ってくれ。できるな?」

 

 その疑問ではない、“確認”に、一呼吸の間をおかずに首肯を返した。

 

命令受託(アクセプト)―――」

 

 来た道に引き返すアスタルテ―――そこへ、さらなる咆哮。解放の(とき)の声。

 だが大地震のような震動がホールを包むことはなかった。

 

 わんっ!!!!!! と。

 同時に銀人狼の人越の腹式呼吸からの発生、その逆位相の音で迎え撃たれて相殺。

 音に音をぶつけて消滅させる、つまりノイズキャンセリングならぬボイスキャンセリング。

 

「オレが遊んでやるから、あまり建物を壊してくれるな。ご主人に怒られるのだ」

 

 人の手でつくられ、人の手がつけられない合成魔獣。

 それをたったひとりで対峙する―――その様に、スピーカーから失笑が飛んだ。

 

『そうか。<タラスク>から、あの人工生命体(どうぐ)を逃がすために殿を買って出るとはね。まったく、“王”のすることではないな』

 

「『燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや』―――だったけ? オマエに、オレの考えはどうやらわかんないみたいだな」

 

 挑発に、ギリッと歯を噛む軋音をスピーカーが拾う。

 

『<タラスク>、<黒妖犬>を喰らい、『獣王』の称号を奪うのだ!』

 

「『獣王』なんてものより、バーベキューの方がオレは全然欲しいけど。生憎、これはそう簡単にあげてやれるものじゃないのだ」

 

 

 

つづく

 

 

 

『仮面聖女ミラクル☆カノン♪』

 

 

 あるときは、彩海学園中等部に通うごく普通の女子生徒

 

 またあるときは、迷える野良猫たちに救いの手を差し伸べるシスター

 

 しかしその実体は、魔導師ケンセイによって、改造された『仮面聖女』―――

 

 

「悪・即・斬―――壬生狼(みぶろ)三番隊長『ミラクル☆カノン♪』! 見参なのでした!」

 

 

 そして、『仮面聖女』には頼れる仲間たちがいる

 

 

「来て、フラミー!」

 

「みー!」

 

 

 相棒のドラゴン

 

 

「変身お願いなのでした、ニーナ様」

 

「ちちんぷいぷいのぷい! カノンよ、『仮面聖女』になーれ」

 

 

 お助けフェアリー

 

 

 しかし………

 

 

「さあ、皆の(心臓)をこの高貴なる純血の私に捧げなさい! おーっほっほっほ!」

 

 

 悪の結社『獄魔館』の幹部カルアナ!

 

 

「愛を知らない哀しき魔族に慈悲を―――我が左手より迸れ、聖なる(つるぎ)!」

 

 

 でも、『仮面聖女』は絶対に負けない!

 

 

「へ、それ―――ヴェルンド・システム!? 食らったらマズい―――いや、マジでやば―――」

 

「―――鉄拳聖砕カノン♪ブレード!」

 

 

 

 

 

「………どうですか、お父様、お母様。わたくしが絃神島で起こそうと思ってるアルディギアの宣伝企画(プロデュース)なのですが」

 

 雪原を思わせる銀髪と、氷河の煌めきにも似た水色の瞳。『美の女神(フレイヤ)の再来』とも讃えられる少女。北欧アルディギア王家の第一王女ラ=フォリア=リハヴァイン。

 その彼女――アルディギアの外交担当を任せている娘が、ここのところ頻繁に出かけてくる極東の『魔族特区』絃神島で撮ってきたという映像を見せられて、北欧アルディギア現国王ルーカス=リハヴァインは危うく手にしていたカップを落としかけた、

 

「ら、ラフォリア……これは、夏音なのか?」

 

「いいえ、お父様。彼――いえ、彼女は『仮面聖女ミラクル☆カノン♪』です。決して、叶瀬夏音ではありません。お間違いのなく」

 

「ならば、いったい誰が……!」

 

「この手のものは夢を壊さぬよう、正体をみんなに秘密するのが、お約束です。ええ、貸出許可を取る際、その主人から『絶対にサーヴァントだとバラすな』ときつく言いつけられていますので。ちなみにCG等は一切使っていない、リアルなファンタジックアクションが売りです」

 

 それは、わかっている。仮にも王座に就く者として、見間違いようがない。長い歴史に研鑽された我が国の優れたる魔導技術、それも対魔族兵装がド派手な演出で披露されている。いい宣伝になることだろう。いろいろと。色々と注意が必要であると言ってやらねばなるまい。

 特に、この映像の主役の立ち位置で、白い獣竜を乗り回したり、魔族を素手喧嘩(ステゴロ)殺法でやっつけたりした、娘と妻にそっくりな少女……目元だけを隠す猫をモチーフにしたと思われる仮面をつけてたけど、普通にわかる。バレバレだ。しかし、娘が頑なに否定するということは別の人物―――まさか、隠し子は夏音だけではなかったというのか!?

 思考そこに至り、動揺する現国王。わなわなとそのクマのような強面を両手で覆う。しかし、そんな夫を他所に、いつになく真剣な表情で視聴していたアルディギア王妃ポリフォニア=リハヴァインは、ここでその重い口を開いた。

 

「ラ=フォリア」

 

「はい、お母様」

 

「先ほどの場面、戦術面での優位性は評価しますが、敵前での装備の換装は無防備が過ぎるのでは? 相手がそれを悠長に待ってくれるとは思えません」

 

「問題ありません。この場合の変身は、単純な装備の換装ではなく、物質変換の一種――錬金術によるものです」

 

「なるほど、シスター服から、『仮面聖女』になるとき、『ミラクル☆カノン♪』の衣服は消滅しているわけではなく、形状を変化しているということなのね。それなら、一瞬で戦闘形態への換装が可能……しかし、それではその分の呪力の消費量が跳ね上がるのでは?」

 

「いいえ。予め変身の際の形状(スロット)を固定しておくことで、呪力の消費を抑えられます。ただ、要求される物質変換の精度を考えると、大錬金術師クラスの助力が必要になってきますが」

 

「ああ、それでお助けフェアリー・ニーナ様なのですね」

 

 納得。

 どうやら理解を得られた模様。現国王を表ではしっかりと立てながら、裏ではきっちりと入り婿な夫の幉を握る良妻賢母の王妃が認めれば、この企画も通ったも同然。

 

「ラ=フォリア。『仮面聖女ミラクル☆カノン♪』、楽しみにしてます」

 

「はい、お母様」

 

 

 

つづく



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黒の剣巫Ⅲ

青の楽園 エリュシオン コテージ

 

 

「―――キャハハ」

 

 肩のあたりで切り揃えた柔らかそうなクセっ毛、

 子猫のようにクリっとした大きな瞳、

 自分たちが知るその外見的な特徴は変わっていない。それに大きく反り返り、彼女自身の背筋をなぞっている黒い尻尾が生えただけで、少女そのものの変化はない。獣化ではない。後輩のように肉体全てが変身するのではない、部分的な変化。

 しかし、その内面は裏返ったように変わっている。そう一瞬で、切り替わった。

 

「あーあ、見られちゃった」

 

 結瞳は唇をほころばせた、

 それは幼いながらも、人の目を釘付けにする妖艶さを見せる微笑。

 淡く、ほの暗い、闇と月光を結晶させたような笑みだった。

 

「もっと楽しみたかったのに。その変な槍の力で台無し」

 

 と彼女は不機嫌そうに肩をすくめる。

 拗ねたように唇を尖らせて雪菜へ最初は視線をやり、それから流し目を古城へ移す。

 

「それで胸の内を曝け出せるように、ここにいる皆を素直にさせてみたんだけど、どうしてお兄さんだけあたしの支配が効かないの? 何者? そこらの魔族でも抗えないくらいに強力なのにな。なんだって、“レヴィアたん”も魅了できるって、キリハは言ってたんだよ」

 

 その声は、舌足らずで、聞き覚えのある。

 ただ今は、陶然とした響きに、淫蕩な色合いを加え、声の主は愉しそうにコロコロと表情を変えていく。

 やはり、違う。古城はこれが別人であると確信する。

 

「おまえ……結瞳じゃないな。誰だ?」

 

「あたしも結瞳ですよ。結瞳はあたしのことを“莉琉”って呼んでたみたいですけど」

 

 ―――莉琉!?

 それは、江口結瞳と『クスキエリゼ』に囚われている、結瞳の姉の名だ。

 だが、それを結瞳が、名乗っている。

 ここで、目の前の少女の変貌に、雪菜が思い浮かぶひとつの推測。

 それは、

 

「まさか……『解離性同一性障害』……?」

 

 つまり、多重人格。辛い体験をした人が、自身の精神安定のために生み出した、もう一つの人格。

 雪菜の推理に、結瞳――莉琉は他人事のように嘲笑を返す。

 

「ふふっ、そうですねぇ。当たらずとも遠からず、ですかねぇ。だって、結瞳、ずっといじめられてましたから」

 

「いじめ、って……」

 

「はい。同じ学校の生徒にも、実の両親にも怖がられて。だって、結瞳は『夢魔』なんですもん。だから、孤立していた結瞳を引き取ってくれた『クスキエリゼ』は、あたしの恩人なんですよぉ」

 

 こちらの問いかけに、何の気負いもなく答える。しかし、古城はその言葉の意味を咀嚼することはできなかった。

 

「先輩、彼女は、『夢魔』――サキュバスです」

 

「はい、正解。滅多にいない魔族なんですけど、よく知ってましたね。そ、精神支配が特技で、他人の心に入り込んで好き勝手に操ったり、欲望を刺激したりしちゃう、『夢魔(サキュバス)』です。

 ―――そんなエッチな小学生なんて、恥ずかしいですよねぇ。それはみんなに嫌われても仕方ないですよぉ」

 

 『夢魔』であることを否定したい江口結瞳が、『夢魔』の能力や欲望を切り離して創り上げた別人格が、莉琉。

 

「だからって、ずるいですよね。イヤなとこだけ他人に押しつけて、ひとりで清純ぶっちゃって。もー、結瞳のむっつりさん! こんな立派なモノを生やしちゃってるくせにぃ」

 

 言って、『夢魔』の証拠である黒い尻尾――魔力によって実体化した獣の尻尾を見せびらかすように揺らして見せる。

 となると彼女は、未登録魔族。『夢魔』と言うのがどれほど稀少な種族であるかは古城は知らない。しかし結瞳がただの小学生ではないのなら、『クスキリエゼ』が監禁する理由にも納得する。

 で。

 

「だから、どうした」

 

「……あら?」

 

 古城は呆れたように舌打ちする。

 正体を明かしたのに、その意外な反応に、莉琉は固まる。

 

「結瞳が『夢魔』なら、こっちは『吸血鬼(ヴァンパイア)』だぜ。散々いやらしいだのなんだのと言われながら、姫柊たちの血まで吸わせてもらってんだ。尻尾が生えるくらい可愛いものじゃねーかよ。そんなのうちの後輩だって生やしてるぜ」

 

「ふーん」

 

 その言葉に、莉琉は笑みを消した。幼い唇を不愉快そうに歪めて、

 

「お兄さん。いい人なんだ。なんか、ヤだな、そういうの。偽善者ぶってるっていうか、同病相哀れむっていうかぁ……それともひょっとして、ロリコン?」

 

「誰がだ! 言っとくが俺は、同性愛(ホモ)でも幼児趣味(ロリコン)でもない完全ノーマルだ!」

 

「そんなにムキになられると逆に怪しくなるんだけど―――ま、少しは気が晴れたし、これだけ時間稼ぎしたらキリハも迎えに来られるよね」

 

 凶悪そうに眉を吊り上げて、莉琉は階段の手すりを乗り越える。サマードレスの背中を破って、翼が生える。魔力によって紡がれた半実体の『夢魔』の翼。その翼をはためかせ、莉琉はガラス窓から悠々コテージから外へ出た。

 

「待て、結瞳……!」

 

「あ、そうそうお兄さん」

 

 古城たちが莉琉を追って外に飛び出すと、コテージ前に車が一台、そして、見慣れぬ赤のカーディガンを着た黒のセーラ服の少女と、もうひとり――銀色の洋弓を構える、すらりと背の高い少女、煌坂紗矢華が待ち構えていた。

 

 

「莉琉を捜しに、研究施設に行っちゃった人、早く呼び戻した方が良いですよ。だって、あそこ“レヴィアたん”の子供で、何度もホールを壊しちゃう暴れん坊の“タラちゃん”がいますから」

 

 

青の楽園 魔獣庭園 研究施設

 

 

『ゴォオオオオォオォォォァアアアアアアアアアアアッ!!!』

 

 

 巨大なスピーカーから合成された音声が流れてるような、不気味で暴力的な咆哮が轟く魔力波動。

 そして、空間に広がり、景色を数瞬塗り替えた魔力波動は、波が引くように戻る。半漁半獣の開けられた口より眩い魔力光が集い始め、口腔に蓄積されていく。エネルギーを充填していくように―――

 

「―――忍法雷槍の術!」

 

 それに臆さず飛び出すは、霊的中枢のスイッチを入れて、白銀から金色に塗り替わった人狼。その左手より迸らせる清浄なる霊力。神気に限りなく近しき<疑似聖拳>の聖光が、変形操作する霊弓術の応用で、剣と化した手刀。そこからさらに指一本に一点集中させて、槍状に捻じり伸ばす。

 そして、最後の一歩は、力を溜めるように、発条(バネ)が抑圧され縮んでいくように身を沈み込ませ―――解放。

 紫電一閃と突き伸ばされ、貫手を練り絞った指突が、<タラスク>の魔砲弾を穿つ。

 

 音と光の定義を丸ごと覆すような、圧倒的な衝突があった。一瞬で眼球の裏側までもが真っ白に染まるような錯覚に埋め尽くされ、どちらが上でどちらが下かの区別もつかなくなる。波間に揺れる小船のように床が小刻みに揺れている。

 

 その魔獣の意識に空白が生じたその隙に、人狼はその背に飛び乗っていた。

 

「<若雷(わか)>!」

 

 右腕を振りかぶり―――厳つい甲羅に、瓦割りを打ち下ろす。六本足で支える半獣半魚の竜の巨体が、床に腹をつけるほど沈んだ。それぐらいの衝撃が、ホールを震撼させた。衝撃変換を加算させた獣人の一撃に、拳の形にめり込んだ甲羅に血飛沫が散らばる。群青色の分厚い硬鱗が、粉砕されてバラバラと剥がれ落ちる。

 だが、瞬時に、拳骨(グー)の凹みのない、新しい硬鱗に生え変わった。そして、半獣半魚の竜はダメージを負った様子もなく身を起こす。

 魔力障壁。体表に薄らと、極めつきに強力な魔力のバリアが張られていた。この頑丈な魔力の楯に拳打の威力を削がれて、損傷も自然治癒で即座に修復できる程度の軽微に済んだ―――ところへ、また拳骨。

 

「<若雷(ワカ)>! <若雷(ワカ)>! ワカワカワカワカワンワンワンワンワンワンワン―――――!!!」

 

 右拳打に続けて、左の拳を甲羅に叩き込む。また手の皮膚が裂け、血が迸った。が構わず。

 間髪入れずに人狼は左腕を振りかぶる。

 左。右。左。右。と自己再生する間も与えず――かつ、まったく同じ箇所に打ち込む――鉄拳が甲羅を叩く音が、研究施設のホールに響き渡る。

 

 マウントポジションはこちらがとっている。そして、魔力障壁で物理衝撃を食おうと、その強靭な脚を六本、膝を突かせるだけのことはできていた。

 なら、話は簡単だ。<賢者の霊血(ワインズマンブラッド)>を相手にした時と同様、一撃でダメなら、通じるまで何度でもやる。

 そう、金槌で釘を打ち込んでいくように、少しずつだが着実にダメージを蓄積させている。立つ間も与えない連打に屈せられる巨体が、徐々に地面に埋まっていく―――

 

 

『ゴォオオオオオオオォオォォァアアアアアアアアアアアッ!』

 

 

 歪みまくった重低音が轟き、半獣半魚の竜が、廻る。六本の脚を引込めさせて甲羅内に収めると、竜の咢より、魔砲弾を放つ。その魔力放出を推進力とし、巨体を独楽のように高速回転しだした。甲羅に張り付いていた人狼を弾き飛ばし、邪魔な重石が除かれるとさらに速度を上げる。

 シュポン、というシャンパンのコルクを抜くような音が聴こえた。

 高速回転する巨体―――その肛門から、燃え盛る塊が発射された。糞が出た音だ。

 

「ぬ!? 糞!? いや、これ―――」

 

 弾丸のように射出された糞がホールの壁へと着弾し、大爆発を起こす。

 一瞬のうちに酸素を食うと、爆炎を躍らせる。そう、この糞は、魔力爆弾。

 

 

『ゴォオオォォオオオォオォォァアアァァァアアアアッ!』

 

 

 ポンポンポンポン……と半獣半魚の竜は、咢からの魔力放出で巨体を廻しながら、肛門から魔力爆弾をホール内にまき散らす。最終的に、ホール内は糞だらけに埋め尽くされた。そして、燃料気化爆弾の脅威には『広範囲への炸裂』とは別に『通常爆弾とは考えられないほど長期にわたる爆炎を使って徹底したダメージを与える』と言ったものがあるのと同じく―――この爆炎は、かなり“長い”。ひとたび呑み込まれれば相手がどれだけ歯を食いしばっても徹底して削り倒す、破滅の爆炎。

 

 

 カッッッ!!!!!! と。

 瞬間、ホール内が染まった。

 

 

 金色に。

 

 

 四股を踏むようにその場にどっしりと不動の構えを取った人狼の咢より洩れる、細く、震えた黄金色の息吹。

 『白鶴震身』。鶴の鳴き声を模倣することで、体内の精気を増強させる身体運用。覚者に等しき霊力が人狼の獣気と練り混じり、獣王の奥義のひとつ『朱雀飛天の舞』にて空間を圧す。

 

 魔力爆弾は、体内から排出されて、大気と反応し、爆発を起こす。

 

 今、この一瞬で、『嗅覚過適応』の発香側(アクティブ)にした人狼の香気(におい)がホール全体を支配圏に置く。つまり、魔を浄化減衰させる神気に近しき霊力に大気は満たされて―――それを酸素と一緒に取り込んだ燃え盛る糞は、封入されていた魔力を、消失されて、鎮火する。土砂を被せる消火法のように、爆弾に獣気を呑ませて、対処した。

 

 そう、これこそが、『六刃』よりスカウトされる、魔獣への対応力。

 

「だから、建物を壊すとご主人に怒られるって言っただろ」

 

 <タラスク>は、回転を止め、改めて対峙している相手を見る。

 これまでこのホールにて、数多の魔獣と戦闘させられ、全てを屈服させてきた半獣半魚の竜。“最強”の遺伝子を持つ魔獣。その必勝パターンを、対決してきた魔獣のどれよりも小さな人狼に、初めて崩された。

 その動きを止めた魔獣から、驚きの心情を嗅ぎ取ったか、かか、と人狼(クロウ)は笑いを噴き出す。

 重なったのだ。『井の中の蛙大海知らず』と、それまでずっと森から出なかった己が、生まれて初めて、主人たる大魔女に屈せられた時の反応と。

 今日、これまで研究施設に閉じ込められていた『蛇』の仔は知る。

 

 

「こんくらいで驚くなんて、糞の躾もなってないし、やっぱり、まだ子どもだなお前」

 

 

 世界の広さを。

 

 

青の楽園 道中 海岸線

 

 

『初めまして、<第四真祖>。私は、妃崎霧葉。太史局の『六刃』といえば、『剣巫』のあなたはわかるでしょう?』

 

 そういって、莉琉を攫った――迎えた彼女。

 整った顔立ちと、華奢だが、しなやかな強靭さを感じさせる体つきで、そして、カメラの三脚を持ち運ぶための黒いケースを肩にかけた、“同業者”。

 獅子王機関と太史局。その派閥は違えど、同じ国のために尽くす政府機関。ちょっとした政策(ポリシー)の違いがあっただけ、と『六刃神官』は、こちらと事を構える気はないという。

 

『煌坂は俺に任せていけ! こいつが姫柊を殺そうとしただなんて知ったら、正気に戻った時、死ぬほど落ち込むぞ!』

 

 遠くで、閃光。

 舞威姫の呪矢を用いた雷撃術式と、真祖に喚び出された雷光の獅子の眷獣がぶつかり合った余波が、ここまで離れても監視役を身震いさせる。

 しかし、そのおかげか、『青の楽園』を走る無人車の運転装置が、落雷の影響を感知して緊急停止。結瞳を連れる『六刃』に雪菜は追いつけた。

 

「―――結瞳ちゃんを、返してもらいます」

 

 莉琉を手を引く霧葉の前を遮るよう、銀槍を構える雪菜。

 剣巫に睨まれた六刃は、一端、莉琉から離れて前に出ると、嘆息交じりに首を振り、肩に背負うケースから槍を引き抜いた。音叉のように二又に別れた、鉛色の双叉槍である。

 

「わからないわね、姫柊雪菜。あなたには、莉琉を連れ戻す理由はないのではなくて」

 

 静かな声で述べるその主張は正しい。

 舞威姫と剣巫は別部署であり、姫柊雪菜に与えられた任務は、『<第四真祖>の監視役』だ。たとえ江口結瞳が何者だろうと、連れ戻す権利はないはず。しかし、

 

「洗脳した紗矢華さんに暁先輩を襲わせただけでも、私があなたを敵とみなすには、十分な理由だと思いますけど」

 

 そうだ。剣巫の監視対象である古城に、六刃は間接的に害した。そう、先ほどからここまで絶え間なく聴こえる巨大な破壊音は、精神支配した舞威姫と今、戦っているのは先輩が起こしているものだ。詭弁ではある。それに私情がないとはけして言えない。部署が分かれても親しいルームメイトを操られて、雪菜も怒りを覚えてる。

 だから、一応の戦闘する建前があり、断固たる理由がある。

 

「莉琉と<第四真祖>を接触させたくなかったの。彼はあまりにも危険すぎる不確定要素(イレギュラー)だから。それだけ。

 本当、別に<第四真祖>に興味はないのよ。剣巫が監視していることは知ってるけれど、それを邪魔するつもりはないわ。この件に<第四真祖>を巻き込んだのは、私ではなく煌坂紗矢華。そこのところはお間違いのないようにね」

 

「結瞳ちゃんを連れ戻して、『クスキリエゼ』は彼女に何をするつもりですか。どうして、太史局が彼らの手伝いを」

 

 霧葉の言い訳を無視して、雪菜は訊く。

 獅子王機関が表だって結瞳の保護に動けなかったのは、太史局が政治的に圧力をかけて押さえ込んでいたからだ。しかし、何故そこまでしてこんな犯罪も同然の所業に手を貸すのか。

 だが、霧葉はこちらを揶揄するように笑い、のらりくらりとその追及をかわす。

 

「ふふ。『クスキリエゼ』は法的に承認された江口結瞳の保護者よ、そして彼女は、自らの意思でそこに戻ろうとしている。獅子王機関といえど、それを止める権利はないはずよ」

 

「そうですね。結瞳ちゃんが、本当にそれを望んでいるのなら。ですけど―――」

 

 これ以上の問答は、時間の無駄。

 雪菜は前触れもなく地面を蹴ると、銀槍を霧葉へ叩きつける。銀槍が描く純白の軌跡は、六刃を斬り裂いた。

 しかし。

 手応えはなかった。

 

「幻影……なんて、ありきたりかしら?」

 

 かすかにシルエットを歪ませて、霧葉は失笑を零す。

 

「さて、これでいきなり襲われた太史局の六刃は、獅子王機関の剣巫へ、正当防衛ができるとみてもいいのよね?」

 

「っ、」

 

 ヒュン、と霧葉は双叉槍を無造作に旋回させる。先手奇襲を失敗した雪菜は後退する。

 

 狙いが読まれていた。

 

 まるで深夜に突然覚醒した莉琉の人格が目覚めた直後に、六刃は現れた。あまりにもタイミングが良い。それにいじめによって生まれた別人格が目覚めるきっかけとなる、刺激や体験もなかったはずなのに、結瞳は莉琉となった。

 つまり、目覚めたのではなく、外部から精神干渉して莉琉へ覚醒させた、と考える方が正しい。

 そして、舞威姫の紗矢華に掛けられるほど強力な暗示。

 導き出される答えは、今、<雪霞狼>で狙った双叉槍。

 太史局の『乙型呪装双叉槍(リチエルカーレ)』―――獅子王機関とは異なる技術体系によって生み出された調伏兵器<霧豹双月>。

 その能力は、蓄積した魔力を増幅し、そして使い手の意思に応じて放出すること―――

 それによって双叉槍の使い手は、人間には使えないはずの特殊な能力や、膨大な魔力を操ることができる――すなわち、『魔力を模倣(コピー)する』武神具。

 

 それを以って、江口結瞳の『夢魔』としての魔力を予め双叉槍に蓄え、そして、その能力を使い逆に結瞳を莉琉へ覚醒させ、

 そして、呪術と暗殺のスペシャリストである舞威姫をも己の手駒として催眠を施した。

 

 だから、魔力を打ち消す<雪霞狼>の『神格振動波』によって、<霧豹双月>に帯びていた魔力を消滅させれば、その影響を受けて覚醒した結瞳を、莉琉から元に戻せると雪菜は睨んだ。

 

「残念ね。この槍の正体に気づいてたみたいだけど、遅い……あの子と比べると、遅すぎるわ」

 

 この六刃は、“剣巫の雪菜でも五回に一回しか勝ちが取れない舞威姫を倒した”相手だ。

 『影の剣巫』とも称される『六刃』は『剣巫』と同じ『八雷神法』を使い、魔族を相手にするか、魔獣を相手にするかで違いはあるものの、戦法(スタイル)はほとんど同じ。

 つまり、それだけ実力差は覆すのは容易ではない。不意打ちでやられるような相手ではなかった。

 

「獅子王機関と事を荒立てるのは協定違反だし、するつもりはないのだけど、現場の判断と言うことで大目に見てもらいましょうか―――それに本音で言うと、私、あなたのことを叩き潰したいと思ってましたし」

 

「何―――ッ!」

 

 トン、トン、と左右交互にステップを踏む六刃、背後ろに流す長い黒髪も生物的に蠢く。まるで獲物をどう嬲るか思案する大蛇だ。

 そして、その笑みを作る口元から隠しきれない火の粉がちろちろと風に流れている。

 

「ふふ、うふふ! さっきも言ったけれど、<第四真祖>には興味はない。でも、お昼休みに<黒妖犬>と組手なんて―――羨ましいわぁ、ふふ!」

 

「見てたんですか!? いえ、だからって、あなたからどうこう言われる筋合いは―――」

 

「ふふ―――あるわよ。だって、私、南宮クロウの監視役なんですもの。だから、あの子に勘付かれないよう、遠くから、それも毎度毎度風下に位置を変えて、ずっと監視してたのよ。ずぅっと。ふふ、監視対象と四六時中ベタベタしてる本家とは違って、奥ゆかしいでしょう?

 なのに、一緒に鍛錬してるところを見せ付けてくれるなんて―――」

 

 すう……と一際大きく六刃の少女が息を吸い込んだ。

 大声を出すための下準備ではない。

 

 

 轟!! と。火炎放射のような炎を口から噴き出すためのものだ。

 

 

 瞬く間にこちらまで一直線に焼き払われる。ばら撒かれた熱波が下にある路面を融かす。その六刃の炎はそれ自体が蛇のように蠢き、枝分かれし、ミサイルの群のように剣巫へ飛び掛かっていく。

 刹那、標的が消失した。

 ストン、と一跳びで大きく避ける際に、幻術で翻弄。そして、安全地帯へと着地する。未来視で先読みした雪菜が先手を打って動いていた。そう、六刃もまた霊視で一瞬先の未来を視るが、剣巫の霊視の方が一枚上手であった。しかし、雪菜の顔には明らかな狼狽の色が浮かんでいる。

 

「さすがは、獅子王機関が、<第四真祖>の監視役に選んだ人材と言うことね……見た目の良さだけが取り柄の乳臭いお子様だと思ってたけど、あの子の言う通り、才能はあなたの方が上のようね。ふふ……でもこの程度で驚いているようじゃまだまだ未熟ねぇ……」

 

「今のは一体……?」

 

 人が口から火を噴く―――そんなの、まるで魔族ではないか。

 

「ふふ、正式な見習い卒業はしていないと聞いてるけれど、仮にも同じ流派を扱うものとして、『八雷神法』の由来はご存知でしょう?」

 

 『八雷』―――それは神道における八柱の雷神『火雷大神(ほのいかずちのおおかみ)』である。

 大雷神は、強烈な雷の威力を、

 火雷神は、雷が起こす炎を、

 黒雷神は、雷が起こるときに天地が暗くなることを、

 析雷神は、雷が物を引き裂く姿を、

 若雷神は、雷の後での清々しい地上の姿を、

 土雷神は、雷が地上に戻る姿を、

 鳴雷神は、鳴り響く雷鳴を、

 伏雷神は、雲に潜伏して雷光を走らせる姿を、

 つまり、それぞれが雷が起こす現象を指し示している。そして、『八雷神法』は、それをなぞらえた対魔の白兵戦術。

 しかし、

 

「『火雷大神』は、黄泉に堕ちた地母神から生まれたもの」

 

 神道の雷神とは、黄泉の住民となった女神の産物。

 

「だから、『八雷神法』を極めた者は、ある“裏技”が使えるのよ」

 

「つまりそれは、<神憑り>ではなく、<生成り>……!」

 

 霊的な高位存在を巫女の身に降ろす<神憑り>。<生成り>とは、その逆をいく。巫女の性質を鬼や獣、魔に限りなく近づけさせるものだ。もうあと一歩でも踏み出せば、完全に一線を越えてしまうほど、人でありながら魔のすぐ手前に身を置いている。

 人間が天使になる儀式も存在するのだから、人間が魔族になる例はなくはない。吸血された人間が魔族になる――二世代の吸血鬼『血の従者』だって、それに入るだろう。また魔女が悪魔に魂を捧げる<堕魂(ロスト)>も、人間を魔族にさせるもの。

 身近な例を挙げれば、人間から世界最強の吸血鬼になってしまった先輩がいるのだ。

 そう、日本にも、激しい情念が女の身体を巨大な蛇竜に変え、自分を捨てた僧を仏神に保護された寺ごと焼き尽くした『清姫』という伝承がある。

 

 そして、雷神とは、竜や蛇に関連付けられるものが多い。

 

「あら? 何やら非難がましい目ね、剣巫。本家には気に入らないかしら。あなたも性質的に男を焼き殺しそうな感じがするのだけど」

 

「<生成り>は、邪道です。自制を誤れば、般若と化す危険なものです」

 

「『七式突撃降魔機槍』なんて真祖をも殺せる秘奥兵器が与えられる本家は、言うことがお綺麗ね―――思わず、汚したくなるくらいに」

 

 二叉槍を逆に構える霧葉。

 その『夢魔』の魔力を蓄えている<霧豹双月>を、自分自身に向けている。

 

「何を……―――っ! まさかっ!」

 

 標的対象への執着心により、<生成り>の力を得た六刃。

 ならば、その女の情念を高めれば、それに魔性の力は比例する。

 ぎりと噛み締める霧葉の唇からは一筋の血が滴った。紅く赤く朱く、その顎から首元までを垂れていった。

 

「この前の舞威姫は、5分ともたなかったけど、本家の剣巫は今の私を相手にどれくらい頑張れるかしら?」

 

 六刃が顎を持ち上げ、ぐるりと回した。

 歌舞伎の見得にも似たその動きと共に、半透明なそれが額とこめかみから盛り上がったのだ。

 二本の、角が。

 

「『夢魔』の力を自己暗示に利用するなんて、キリハってやっぱり怖いわ。結瞳も注意してたけど、間違っても嫉妬を買わないよう、キリハの監視対象にはあまり近づかないようにしないとね」

 

 剣巫と六刃の決闘を愉しげに観戦する莉琉も、流石に恐れ戦くか。

 間近で向き合っている六刃の鬼気は、雪菜の想像を超えていた。一瞬でも気を抜けば、たちまち戦意を奪われかねないくらいに。

 

「ふふ、<火鼠の衣>でも着てないと私自身も燃やし尽くしてしまいそう」

 

 その生物としての特性で、表面張力を操作することで水上歩行と可能とする水霊馬(ケルピー)のように、けして燃えない魔獣である火鼠。

 その皮衣がなければ、焼身自殺して自滅しかねないほどに、霧葉の<生成り>の力は高められている。今や霧葉の黒髪は、魔性の赫色に染め上げられていき、

 

「でも、これならあの子を―――」

 

 これ以上絶句してはいられない。雪菜は魔を浄化する破魔の銀槍を構え、突きを放った。が、

 

「厄介な装備ね、獅子王機関の『七式突撃降魔機槍』―――でも、対『獣王』を想定してる私には遅い」

 

 <雪霞狼>の主刃が、六刃を貫き、<生成り>を祓い清める―――そう思われた瞬間、あらゆる魔力を断つはずの雪菜の銀槍が、横殴りの衝撃を受けて軌道を逸らす。

 <若雷>。掌打より衝撃変換の呪術を威力に加算させる『八雷神法』の一手。それで<雪霞狼>を殴り飛ばしたのだ。雪菜が放ったものの倍以上の威力がある<若雷>。

 そして、間髪入れずに炎の追打ち。咄嗟に後退して、雪菜は<生成り>の炎を回避するが―――それは追尾する。さらに勢いを増して。

 

「ふふ、避けるのは悪手よ」

 

「な―――!?」

 

 ズゴウッッッ!!!!!! と先ほどの倍以上の勢いで炎が吹き荒れる。喰いそびれ、捉え損ね、袖にされるたびに、女の情念は膨れ上がっていく。そう、<生成り>の炎は、狙った相手が逃げていくたびに、仕留められなければ仕留められないほど、強大に凶暴に変質していく精密誘導兵器だ。

 

「情念に比して膨れ上がる炎、ついには仏神に守護された寺社仏閣さえ焼き尽くすもの」

 

 大蛇のようにのたうつ情念の炎。躱しても躱しても追いかけ、そして逃げるたびに火力を強めるこれは防ぐしかない。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 ありったけの霊力を長槍に注ぎ込み、情念の炎を迎撃した。どれほど昂ろうが、所詮は魔力。魔力を無効化する<雪霞狼>の一撃は、炎自体を消滅させる。

 

「ええ、だから、あなたは『七式突撃降魔機槍』に頼るしかない。そうでなくて」

 

 ―――炎を突き抜け、飛び掛かる六刃。

 未来視では負けている。だから、選択肢をひとつにしか絞らせない袋小路へ、剣巫を追い込ませて、撃つ二段構えの策。

 

「<黒雷>―――!」

 

 <生成り>になり、さらに身体能力増幅。ロタリンギアの殲滅師とも互角以上に渡り合えた雪菜が、1、2年ほどしか自分と変わらない少女に一方的に追い詰められる。才能が上回ろうとそれを覆す執念に、呑まれる―――

 

「させない!」

 

 荒々しい一喝が響いて、猛然とそれが迫る。

 無人の電動カー、『青の楽園』の主な移動手段として使われるそれは、一度動き出すと目的地に着くまで止まらない。レールもないのに、決まった通りにしか走れないようにプログラムされている。

 それが今、猛牛のように霧葉へ迫っている。このまま雪菜へ攻撃すればぶつかる。獲物を仕留める直前に急制動を掛けねばならない霧葉は大きく体勢を崩してしまい、そこへ、

 

「はあ―――!」

 

 伸びてきた一条の銀閃。破魔の銀槍が、双叉槍の矛先に当たる。そこに蓄えられていた『夢魔』の力が、消滅。

 

「本当、厄介な装備ね、獅子王機関の『七式突撃降魔機槍』。こんな一当てで折角『乙型呪装双叉槍』に蓄えた力を消滅させられるなんて。それに……」

 

 力任せに雪菜を押し返した霧葉が、狩りの邪魔をした下手人を睨む。

 

「藍羽……浅葱……」

 

 雪菜の背後に、新たに駆けつけた人物。

 雪菜も振り返る。サンダル履きの浅葱が息を弾ませながら、ノートPCを開いて、険しい表情を向けている。その彼女の元に、先ほど猛然と突っ込んできた無人車が大きくカーブして、傍に停車。それはどこか忠実な牧羊犬を思わせる。主人の命令とあらば、狼が相手でも立ち向かう。

 おそらくコテージで意識を取り戻した浅葱が、古城たちの不在に気づいて捜しに来たんだろう。そして、剣巫と六刃の戦いに遭遇し―――それを止めさせんと、ハッキングして、制御権をものにした無人車をけしかけた。

 本人はさすがに息切れしてて、喋ろうにも喋れないようだが、それでもキーボードに指を乗せたまま、またいつでも動かせると言わんばかりに、無人車を前後に動かしアピールする。

 次は、直撃させる、と。

 

 そして、雪菜も唖然として彼女の横顔を見つめる。浅葱の膝はかすかに震えている。恐怖を感じてないわけではないのだろう。戦闘訓練など受けていない普通の女子高生なのだから当然だ。

 しかし雪菜の危機を救ったのは、そんな普通の女子高生に過ぎない彼女なのだ。

 

「本当に一瞬で、プロテクトが施されているはずの電動無人車をハッキングして、思い通りに操るプログラムを流し込んだなんて……なんて、デタラメなの」

 

 あれだけ好戦的に燃え狂っていた六刃が、今ではバケツ三杯の冷や水を浴びせられたよう。しかし、霧葉が浅葱に視線を向ける瞳には、憐れみと侮蔑、そして憤りの感情が浮かんでいる。

 

「そう……これが、『カインの巫女』の力ってわけね……」

 

「誰よ、あなた……」

 

 確かに勝負に横槍入れて水を差したけれど、見ず知らずの相手からそこまで憎悪にも似た視線を向けられては、浅葱も不愉快そうに睨み返す。

 霧葉も、殺意に駆られたように強く双叉槍を握ったが―――しかし、それは今、天敵ともいえる<雪霞狼>に、『夢魔』の魔力は消失されて、術もすでに破れている。

 

「雪菜お姉さん、浅葱お姉さん―――!?」

 

 莉琉―――ではなく、本来の人格に戻った結瞳が、助けを求めるように雪菜たちを呼んだ。

 槍を構えている雪菜を見ても、さほど驚いていないのは、莉琉として過ごしていた間の記憶が残っているからなのかもしれない。

 ともあれ状況は変化した。今の結瞳は『クスキエリゼ』への帰還は望んでいない。

 それでも強引に結瞳を連れ去ろうとするのなら、太史局の六刃は誘拐に加担するどころか、実行犯となる。獅子王機関の任務とは無関係に、雪菜は結瞳を助けることができる。

 

「これであなたを止める理由ができました。それともこのまま立ち去りますか、六刃?」

 

 今度は、雪菜が霧葉に警告を飛ばす。立場は逆転した。霧葉がこれ以上ここに留まり続ければ、太史局の面目を潰すことになる。

 しかし、それは実力が逆転したわけではない。

 

「まだ見習い風情の剣巫が言ってくれるじゃない。まさか、これで勝ったと思って?」

 

 無造作に振るった双叉槍。『乙型呪装双叉槍』の二本の刃が共鳴。魔力を増幅する槍が<生成り>の魔性の呪力を増幅し、制御し、強力な攻撃呪法として撃ち出す。『夢魔』の魔力は消したとしても、武神具としての機能が失われたわけではない。

 

「っ!?」

 

 六刃の一閃より放たれる破壊的な熱波は、浅葱の支配下に置かれた電動無人車を吹き飛ばしては、その金属の材質を水のように一瞬で融解させた。

 それに驚愕した様を見せる雪菜と浅葱に、霧葉は興奮したように息を吐く。

 アカく染まりつつある<生成り>の瞳には、高ぶる力に裡から擽られたように、陶酔した表情すら浮かんでいる。とはいえ、ひとまず、二人の反応に留飲を下げたのか、槍を下した。

 

「残念。もう時間切れみたいね」

 

「時間切れ……?」

 

 霧葉の唐突な発言に、かすかな戸惑いを覚えた雪菜。

 その答えは、すぐ覚る。

 夜が明ける。道路の先に広がる水平線を白く染める朝日。雪菜たちの横顔を、眩い輝きが照らし出す。

 その直後、増設人工島(サブフロート)青の楽園(ブルーエリジアム)』を、大地を震わすほどの爆発的な魔力の波動が襲う。

 

「―――っ!?」

 

 あまりの衝撃に踏ん張り切れず、地面に膝をつく雪菜。

 昨日、『魔獣庭園』で察知したものと同じ。この島の魔獣たちが怯える何か。そして、それは、前回より魔力の密度を上げて襲ってくる。

 

「この波動……いったい、なにが……!?」

 

 魔力の発生源は、おそらく海底。『青の楽園』からも遠く離れた海の底から、膨大な魔力が無目的に放出されている。

 そう、それは軍用潜水艦の放つ探信音に似た魔力波動。水底に潜む何かが、敵となるものの位置を知るために探査用の魔力波動を放っている―――

 

「行き、ます」

 

 雪菜たちが魔力波動に気を取られ、海の方へつい視線をやってしまった。

 その悲痛だが決意を感じさせる声に顔を向ければ、正気に戻り助けを求めていたはずの結瞳が、こちらに背を向け、まるでどこかに飛び立つように黒い翼を展開してるではないか。

 魔力で紡がれた幻影の翼。それは莉琉ではなく、結瞳自身が『夢魔』の力を引き出したもの。

 

「だから、戦うのは、もうやめてください。霧葉さんも、雪菜お姉さんも。もう、私が全部……終わらせますから……」

 

 寂しげに笑い結瞳はそういうと、黒い翼を羽ばたかせる。彼女の小柄な体は音もなく空へと舞い上がり、そのまま滑るように飛び去って行った。向かう先はコテージではなくて、『魔獣庭園』――『クスキエリゼ』の研究施設。

 

「……結瞳ちゃん……どうして!?」

 

 これで、剣巫も六刃も、彼女の望みどおりに、戦う理由をなくした。

 しかし、一瞬で取り残された雪菜には、疑問しかない。

 『クスキエリゼ』から逃げ出してきたはずの結瞳が、なぜ急に心変わりしたのか。あの海底から放たれた魔力波動は何なのか……

 その答えを知る霧葉も、なぜか少し不満げな表情を浮かべて、結瞳が飛び去った空を見上げている。半物質の角も消え、髪の色もすでに赫から、黒色に戻っている。そして、首を振ると雪菜たちへ背を向けた。

 

「そう、藍羽浅葱。あなたを責めるのは、筋違いだったわね。でも、ごめんなさい。悪く思わないで―――」

 

 さよなら。

 そう言い残して、無言で立ち去る霧葉を、雪菜と浅葱は為すすべなく見送った。

 

 

青の楽園 魔獣庭園 研究施設

 

 

「―――よし、こい!」

 

 

 空中を走る巨大な物体。

 円盤のように高速回転する半獣半魚の竜は、大きな弧を描いて、人狼へと突撃してきた。稲妻の如き強烈な生体電流を炸裂させながら激しく廻る甲羅。その突撃は、この研究施設にあるどの魔獣をも屠るであろう。人間が受ければ、間違いなく即死となる雷電の飛沫。

 

 それを体全体で受け止める。

 

 耳を聾する轟音。破壊などという言葉さえ生温い、魔獣の暴走。

 人狼に凄絶なエネルギーの塊がぶつかる。切れ味の悪い電動ノコギリのように、硬鱗で覆われた甲羅が火花を散らしながら廻り廻り廻り続ける。灼熱の魔砲弾も荒れ狂い、世界を蹂躙する―――しかし、その人狼を轢くことも、そして、退くこともできず、捕まった。半獣半魚の竜の突撃は、人狼に真っ向から受け切られ、止められた。

 

 回転突撃に轢き潰され、肉体を跡形もなくミンチに砕かれる。吸血鬼の眷獣だろうと、魔女の悪魔だろうと、一度蹂躙されれば壊滅は免れぬ―――しかし、その人狼は不壊。

 

「終わりか?」

 

 体格の大きさは象と人ほどあるというのに、それを逆転させた横綱相撲。

 <タラスク>の最後の攻撃手段をも、防がれた。獣にも理解させる、馬鹿馬鹿しいほどに単純明快な力の差を見せつけて、『蛇の“仔”』に思い知らした。

 上には上がいるということを。

 

『ゴォオオォオォォァアアァァァアアッ!』

 

 しかし、<タラスク>は止まれない。血を吐くように吠えながら、血が滲むように目を赤くする合成魔獣。

 檻から出されれば、標的を殺すまで停止する(やすむ)のは許されない―――!

 

『ゴア―――――ッッッ!!!』

 

 それでも、これ以上、動けない。喉を嗄らすほどの魔力放出を咢より吐き出し続けても、廻らない。

 一度勢いがついて動き出した石臼を廻すのは、容易であるも、完全に停止してるものを廻すには大変な労力がいる。

 そして、車輪にブレーキを噛ませるように、甲羅を挟み取っている人狼の両手が硬鱗に爪を立てて、抵抗されている。

 

「―――精製完了。お待たせしました」

 

「アスタルテ!」

 

 ホールに、逃げたはずの人工生命体の少女が帰ってきた。

 その手に研究室にある三角フラスコを持ち、半獣半魚の竜を抑え付けている人狼へ、急いで駆け付ける。

 

「先輩」

 

「ん。よくやったぞ―――じゃ、このまま抑えてるからアイツに投げてくれ」

 

命令受託(アクセプト)―――」

 

 人狼を振り切ろうと咢からの魔力放出を限界まで吐き出し―――しかし、円周の四分の一ほど動いたところで甲羅が止まった<タラスク>が、息切れしたときに、アスタルテがその大口にフラスコを投げ入れる。

 

『あいつは、『彩昂祭(まつり)』でばら撒かれた『B薬(くすり)』で正気を失ってるみたいなのだ』

 

 クロウが、その口臭から嗅ぎ取った、チョコのような匂い。

 『彩昂祭』、MARが間違って流出してしまった『B薬』―――すなわち、『惚れ薬』

 真祖をも狂わすほど強力な『惚れ薬』は、元々、『魔獣庭園』から魔獣を制御するために開発を医療部門主任の暁深森氏に依頼されたものだ。

 久須木和臣が、『夢魔』を介さずに、『クスキエリゼ』が創り上げた最高傑作を御そうとして、MARの『惚れ薬』が使われている。

 

 医学生ほどの医療技術が情報入力(インプット)されているアスタルテは、『彩昂祭』にて、科学実験室で『B薬』の解毒薬を作製していた暁深森の見張り役兼助手を務めていた。

 一から作り出すのは知識があっても経験が足りていない人工生命体には無理だが、アスタルテは一度薬剤精製の補佐を経験して、そのときの解毒薬のレシピを記憶している。

 先輩(クロウ)の命を受けたアスタルテは、ホールからその前に通りがかった研究室へと赴き、『惚れ薬』の解毒薬を作り、ここへ戻ってきたのだ。

 

 <タラスク>の口腔内に放り込まれ、割れたフラスコから拡散される解毒薬。揮発性が高く、吸引して速攻で効き目が表れた。

 半獣半魚の竜もまた、すぐピタリと暴れ回るのをやめ、そのままの体勢で固まり、やがて血走った眼の色も、穏やかな青色にと戻っていき、狂想から醒めた……

 

 

 

「じゃあ、後やることは躾だな」

 

 

 

 はい? と狂った夢見心地から目覚めたばかりの『蛇の仔』だが、人狼は正気に戻ってからが本番だと言わんばかりに。

 

 

「最初が肝心!」

 

 

 甲羅を掴んだ両腕を振り上げ、ちゃぶ台返し。タラスク仰向けにひっくり返る。

 

 

「悪い事したらダメだって!」

 

 

 尻尾を捕まえてジャイアントスイング。タラスク投げ飛ばされた。

 

 

「痛みで覚えさせるのだ!」

 

 

 宙に飛んでるところに飛び掛かってライダーキック。タラスク撃沈。

 

 

「特に糞はちゃんとトイレでするんだぞっ!」

 

 

 着地の際、どてっぱらにトドメのフライングクロスチョップ。タラスク白目を剥いて痙攣。

 

 

 ワン、ツー、スリー、とKO。

 流れるようにコンボが炸裂。そして、ついにホールが崩壊。

 

「子どもでもそこんとこはちゃんとしておかないとな。夏音から猫たちにまず教えるのはトイレの躾だと教わったのだ」

 

 『惚れ薬』で狂わされていたのはわかっているが、それとこれとは話が別である。このタラスクの今後のことを考えてのクロウなりのコミュニケーションである。

 ふー働いたのだ、と一試合終えて、獣化を解いたクロウが額の汗を拭うポーズを取る。そこへ、

 

「……先輩」

 

「う。お疲れ様なのだ、アスタルテ」

 

「報告。只今の攻撃で、建物の損耗率が20%を超えました」

 

「え゛……う、うぅ……あのラスクってのが結構バリバリ暴れてたからな、うん」

 

「訂正。ラスクではなく、タラスクです。菓子ではありません。そして、何にしても止めを刺したのは先輩です」

 

「あ、アスタルテ……オレはいろんなことを考えて、アフタフォローしたのだ。あいつがまた糞塗れにしたらボボーン! と爆発して大変だから、ちゃんと躾けとかないと……な?」

 

「理解―――では、厳重に忠告してもダメな先輩にもダメなものは痛みを伴う肉体言語(ボディランゲージ)で覚えさせます。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>」

 

昼御飯(ランチ)の時も思ったけど、眷獣使うのは反則―――ぶはっ!?」

 

 後輩(眷獣)のビンタがクロウに炸裂した。

 

 

青の楽園 魔獣庭園 中心部

 

 

 聖書にも記された海の怪物。神話の時代、神々が創り出した、最強の生物。『嫉妬』の蛇<レヴィアタン>。

 

 

 超古代より現代まで活動し続ける世界最強の魔獣は、今は休眠状態であり、龍脈に沿って深海の底を漂っている。

 その全長は、4000mを超えている。超弩級空母だろうが原子力潜水艦だろうが目じゃない、この地球上では最大クラスの生物種。その圧倒的な質量をもった生体兵器は、ただ泳ぐだけでも海水をメチャクチャに撹拌し、一帯の海流に変化を及ぼしてしまうだろう。海底で暴れ狂えば、災厄を呼び込む。海面に顔を出しただけでも、大津波が起こってしまう。一個体だけで人間たちの主要国家と同格である『夜の帝国(ドミニオン)』を築いてしまう真祖と同じで、もはや生物などと言うカテゴリには入らず、環境そのものと呼べるほどの規格外の存在だ。

 

 だから、手に入れる。

 魔獣の王国を、この世界に作り上げるために。

 

 『魔獣庭園』の中央部。海に面した岬の突端にある『クスキエリゼ』の研究施設。銀色の巻貝を地面に埋め込んだような、未来的なシルエットの建物は、森にある合成魔獣<タラスク>を研究する第二研究施設とは別の研究が進められている。

 そう、<レヴィアタン>の制御実験。世界最強の魔獣を飼い馴らすために建造された施設だ。

 普段は、絃神島本島に人員を移動させるための連絡船や魔獣や魔獣用の飼料を運ぶための輸送船が停泊する港。そこに今はたった一隻だけ、純白に塗られた、イトマキエイを膨らませたような奇妙なシルエットの潜水艇『ヨタカ』がある。

 その船体の全長は15mほどで、3人乗り。巨大な推進スクリューを船尾に二基搭載した、本来は軍用として試作された小型潜水艇を『クスキエリゼ』が買収し、改造。窮屈な操縦席の奥に、棺桶に似た影の透明な水槽が垂直に設置されている。

 この青色の液体を満たした水槽の中に、水着に似た服を着た――先ほど帰還した――江口結瞳が眠るように目を閉じている。

 それを整備用クレーンの上から感慨深げに眺めて、久須木和臣は呟く。

 

「―――これが、<LYL(リル)>か。意外に小さいものだな」

 

『正確には<LYL>の一部――制御モジュールで(そうろう)

 

 久須木の呟きにスピーカー越しで応えるのは、電子的に合成された野太い男性の声。時代がかった言い回しの端々に、外国人風の訛りが少し残っている。

 ゆっくりと振り返る久須木の視界に入ったのは、潜水艇『ヨタカ』と無数のケーブルで接続されている、全身を赤い装甲で覆ったリクガメに似た超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)<膝丸>。

 

『『蛇』の制御に必要な演算は、この研究所のメインフレームで行いまする。潜水艦に貧弱な電源では、必要な規模のシステムを運用できませぬし、不慮の事態にも対応できませぬ故に』

 

 演算自体は研究所で行う。宇宙船の制御と同じ要領だ。

 

「妥当な判断だな。システムの改良が進めば、『蛇』の単独運用もできようか」

 

 実力至上主義の久須木は年齢や性格をあまり人材登用の判断基準に入れない。

 広所恐怖症で有脚戦車に引き籠る小学生ほどの女子でも、それが通称『戦車乗り』と呼ばれる凄腕ハッカーで、プログラマーとしての実力は本物。この『クスキエリゼ』が<LYL>

と名付けた、特殊システムの要となる『人格を入れる器』を構築したのだから、その働きは称賛に値する。

 

 <レヴィアタン>と共に七つの大罪の象徴であり、楽園で(イヴ)を誘惑した『蛇』とされる<レヴィアタン>と同一視される―――それゆえか、最高の相性をもった存在。

 それが、世界最強の夢魔<リリス>。

 『夢魔』と言う種族はそれほど強力な魔族ではない。その精神支配が及ぶのは睡眠中の無防備な相手だけで、それも人間との交雑が進んで、純血の『夢魔』なんてほとんど残っていないだろう。

 <リリス>はその例外的存在で、凄まじく強力な精神支配力を持っている。吸血鬼のような不老不死性をもっているわけではないこの世界最強の夢魔は、転生という形で力を引き継がせる。先代の<リリス>が死ねば、『器』の適性を持った者に宿って、その彼女が次世代の<リリス>となる。

 そう、江口結瞳は、偶然、<リリス>に選ばれ、子供ながら『夢魔』に覚醒した者。人間から魔族になったその稀有な一例だ。

 

 元々、人間に迫害されやすい魔族である『夢魔』を魔獣調教に有効な手段として、久須木は積極的に確保(ほご)していた。その中に、偶然に両親から虐待を受けていた江口結瞳がいて、その彼女が<リリス>であると久須木に教えた“協力者”――太史局から、さらに『その<リリス>こそが、<生体兵器(レヴィアタン)>の制御装置として神々に生み出された存在である』という、推論を伝えられ、

 『クスキリエゼ』が総力を挙げて、この江口結瞳を核とした世界最強の魔獣の制御装置――<LYL>を造り上げたのだ。

 

「江口結瞳はどうなっている? 眠らせたのか?」

 

『半覚醒状態でありますな。リリス殿が意識をなくしては魔力の供給が失われてしまいます故。すなわち今の彼女は夢を見ておられるのでござる』

 

「なるほど、『夢魔』だけに、か。しかし、世界最強の夢魔が、こんな子供と言うのも皮肉だな。このような娘を生贄にするのを、心苦しく思わないわけではないが……」

 

『ですが、これはリリス殿が自ら望んだことでありましょう。そのために<LYL>は生み出されたものでありますので』

 

「そうだったな。ではせめて、彼女の犠牲を無駄にしないよう心掛けようか」

 

 この久須木和臣が“王”だとすれば、江口結瞳は“王”に力を与えるためにその身を捧ぐ“妃”といったところだろう。

 そう、不敵に唇を吊り上げた久須木へ、『戦車乗り』が仰々しい口調で訊ねる。

 

『そういえば、獣王殿の勧誘は失敗したようでござるな』

 

 途端、久須木は不敵な笑みを、不快気に歪める。

 

「あれは、“王”の『器』ではなかった。魔女の使い魔であることを許容し、誇りと言うのがない『獣王』などそこらのイヌと変わらんよ。今頃、『蛇の仔』<タラスク>のエサになってるだろう」

 

 <タラスク>の魔力波動により、第二研究施設のカメラは壊され、通信が途絶えてしまったが、その末路は想像できた。これまで何十と危険種の魔獣を屠ってきた世界最強の魔獣の因子を持つ先兵。それも薬により、死ぬまで戦い続けるように強制されている。それと一対一で立ち向かうなんて、先が見えてる愚行だ。賭け事(ショー)にもならない。

 

『ははぁ……六刃殿がご執心してる監視対象であります故、そう勝手をされると……恨まれますぞ』

 

「構うまい。我々に重要なのは<レヴィアタン>だ。それに監視対象がいなくなれば、妃崎攻魔官も楽ができるんじゃないか」

 

 再び、久須木が不敵な笑みを取り戻したその直後、『クスキエリゼ』の若いスタッフが駆け寄ってくる。タブレット型の端末を抱えた研究員の表情は、どことなく恐怖に引き攣っているように見えた。

 

「会長―――『蛇』の位置、補足できました。絃神島本島の南西、40海里付近。深度約400m。推定移動速度は毎時16Kt(ノット)だそうです」

 

 計画通りだ。

 やはり、<リリス>に誘惑されたか。神々の時代の生体兵器などと称されても、所詮は

魔獣(ケダモノ)。もっともそうでないと困るが。

 

「このままでは、30分以内に沿岸警備隊(コーストガード)の警戒網に補足される恐れがありますが―――」

 

「問題ない」

 

 不安げな研究員の忠告を一蹴すると、『戦車乗り』に確認する。

 

「『ヨタカ』の出発準備は済んでいるな?」

 

『モジュールの起動が終わり次第、何時(なんどき)でも』

 

 有能なハッカーからの頼もしい言葉に、久須木は純白の潜水艇『ヨタカ』へと飛び移った。

 『戦車乗り』も、電子演算を積んでいる有脚戦車との接続ケーブルを潜水艇から引き抜く。

 整備ハッチが閉ざされ、コックプット内に電源が入る。<LYL>のプログラムが起動(スタート)。核となる<リリス>を包み込むように配置された機械から低い唸るような音。水槽内に気泡が浮き、水着に似たピッタリとしたスーツを着た結瞳が苦しそうに身動ぎした。

 

 <LYL>とは、世界最強の夢魔<リリス>の能力を安定して引き出すために、江口結瞳の人格の一部を電子頭脳(コンピューター)に移植した人工知能。いわば、人工的に作り出した『仮想第二人格(ワイヤード・ドッペルゲンガー)』。

 そう。

 憤怒、憎悪、嫉妬、怨嗟、破壊衝動と自滅願望……受け継がれるたびに濃縮された<リリス>の負の感情―――その部分だけを取り出して電子的に濃縮した<LYL>が、江口結瞳を乗っ取ろうとしている。

 

「本当に自ら搭乗されるおつもりですか、会長? 十分な安全確認が、まだ―――」

 

「それは研究所に残るきみたちも同じことだろう? 40海里の距離など、奴にしてみれば、目と鼻の先だ。

 それに、“王”には“王”に相応しい乗騎というものがある。城の中に引き籠っている支配者に、民衆を熱狂させることはできんよ」

 

『相違ありませぬな』

 

 研究員を宥める、芝居がかった久須木の言葉に、『戦車乗り』が機嫌よく応じる。

 やはり、有能な人材は良いものだ。王国をつくるのに、絶対的な“王”の存在は必要不可欠であるが、それを支えられる優秀な部下がいなければ立ちいかないこともある。

 <LYL>のプログラム作成に大きく貢献した『戦車乗り』に、そして、<レヴィアタン>と<リリス>と言う貴重な情報をくれた協力者――六刃神官の妃崎霧葉。彼女たちは、今後も必要となるだろう。

 久須木は有脚戦車、それから接岸バースの奥からこちらを――冷たいほど――涼やかな眼差しで見守る、赤の上着(カーディガン)と黒の制服を着た若い女へ一瞥をやり、

 

「―――君たちの協力には感謝している。無事に『蛇』を手懐けることができれば、恩に報いることもできよう」

 

呵々(カカ)、気遣いは無用でござるよ、会長殿―――拙者には拙者の思惑があります故』

 

「正直だな。そう言ってくれれば、むしろ信用できるが。こちら側につきたいのならいつでも言ってくれ。私は、君たちを高く買っている」

 

 久須木が乗り込んだ純白の潜水艇は潜航を開始。青一色の世界が視界に広がり、そして、操縦席正面のメインモニタには、海中を悠然と泳ぐ『蛇』の影を映し出している。

 世界最強を、これから独占する。

 そうなれば、海上は久須木の絶対的な支配権となる。神々の時代の生体兵器に逆らえる存在などいるはずがなく、そして、島国である日本のライフラインすべてを久須木は抑えることができるのだ。

 その興奮にこらえきれず、つい久須木は獰猛な笑みを作り、独りごちる。

 

 

「では、行こうか、魔獣の王よ。かつての<忘却の戦王(ロストウォーロード)>に倣って、力を示せ。思い上がった人類に鉄槌を―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『………行ったでござるな、六刃殿』

 

 『戦車乗り』は、久須木和臣にシステム管理で雇われている、わけではない。正式な彼女の依頼主は、太史局。

 潜水艇『ヨタカ』が海中に沈み、視界から消えてから妃崎霧葉は、有脚戦車の傍に歩み寄る。

 

「ごめんなさいね、久須木会長の相手をさせちゃって。でも、私、“これから出荷される家畜(ブタ)”に、なんて言葉をかけていいのか思い付かなかったのよ」

 

 だから、せめてもの慈悲で、『本当の生贄が誰なのか?』という真実を最後まで告げずに、“束の間の”、良い夢をみさせてやった、と。

 

 太史局は、久須木和臣が<レヴィアタン>を使ったテロ活動を画策していたのを知っていた。そう、<レヴィアタン>や<リリス>のことをこちらから教えるまでもなく久須木和臣は知っており、そして、最初から<リリス>を手に入れるために『夢魔』を積極的に保護していた。太史局に無用な警戒をさせないように無知を装っていたが、『<リリス>は、<レヴィアタン>の制御装置として神々が造り出した』ことなど、多少でも魔術を齧ってる人間なら推理するのはさほど難しくない。だから、長年<レヴィアタン>を求めてきた久須木和臣がそれを知らないというわけがなく、そしてそれをこちらに隠そうとしている。

 本来であるのなら、それが判明した時点で、未然にその計画を防ぐのが六刃神官の仕事なのだが、訳あって太史局の上層部の意向でそれを利用することとなった。

 だから、久須木和臣は騙していたつもりで騙されていたのだが、向こうも自身の目的のために江口結瞳を生贄にしようとした。きっと恨まれるだろうが、因果応報と受け入れてもらおう。

 

『しかし、獣王殿の件は残念でござったな』

 

「別に。あの子を、そう簡単に手に入れられるとは思ってなくてよ」

 

 むしろ、こちらの誘いをずっと袖にしておいて、“王”を詐称する“小物”に靡くものなら、自制心が利いたか怪しい。

 

「それに、“子亀”程度にやられるわけがないわ」

 

 久須木和臣は、『蛇』の遺伝子より造り出された合成魔獣<タラスク>に、<レヴィアタン>が進撃できない地上部分の制圧をさせようと考えていたみたいだが、それはあまりに夢見過ぎだ。

 世界最強の魔獣の細胞が使われているのだとしても、あれにはそれ以外の――余計な――魔獣の因子を複数も掛け合わせている。そんなせっかくの最高の遺伝子を薄めてしまった雑種で、親と同等の生体兵器になれるわけがない。しかも、あれはまだ生まれて間もない子供。相手にできるのは同レベルの知性の低い野蛮な(けだもの)。そんなのに太史局が認めた天性の魔獣狩り(モンスターハンター)である『獣王』に勝てるなど大言壮語も極まったものだ。

 

「その証拠に、『魔獣庭園』が静かでしょう?」

 

『おお、それは先から気になっていたのでござるが……あの御仁、やはり只者ではござらぬな』

 

 <レヴィアタン>が放つ強大な魔力の波動は、敏感に察知する魔獣たちにすれば、死の恐怖に等しい。接近すればするほどその恐慌は酷くなり、完全にモンスターパニックとなることだろう。人食いなど危険な習性を持つ獰猛な魔獣種の檻には脱走を防ぐ設計がなされているだろうが、人間に危害を加える恐れのない温和な魔獣たちまでも自滅することも厭わず一斉に暴走を始めたら、『魔獣庭園』のスタッフに、完全に抑えきれるものでない。

 300種のすべてとは言わないまでも、その半数近くは、庭園の外に脱走し、観光客ら一般市民に被害が出てきた。

 しかし、その予測を外れて、庭園(もり)は静かだ。普段通りというわけではない、そこで息を潜めてるような雰囲気。けれど、どの魔獣も逃げ出そうとはしていない。

 ―――そう、魔獣たちは『蛇』を察知するのと同じく、『獣王』の存在を感じている。この庭園の主人である人間よりもずっと、彼こそが自分らの“王”だとわかっているのだ。

 そして、圧倒的な王の威厳(カリスマ)に、民衆は戦争が起きようとも平静を保てるように、騒ぎは起きない。

 

「礼を言っておくべきかしら。魔獣たちの暴走に対する対策を、私たちは用意することができなかったから。おかげで来場者を避難させる余裕ができたわ」

 

 そろそろ沿岸警備隊が、<レヴィアタン>の接近に気付く。そして、すぐに避難勧告が出るよう“根回しは済ませてある”。おそらく、あの子の――いちいち監視を邪魔してくる、姑のような――飼い主である<空隙の魔女>が陣頭指揮を執ることになるだろう。空間制御を操る大魔女ならば、避難民を一人も取りこぼすことはないはずだ。

 しかし、

 

「……できるものなら、あなたも避難させたいのだけど。思った以上に藍羽浅葱は厄介なのよね」

 

『呵々、女帝殿は正義感が強いお方でござる。必ずや妨害してくるであろうな』

 

 電脳世界において敵無しの藍羽浅葱に対抗する術――時間稼ぎができるのは、凄腕の迎撃屋(インターセプター)として管理公社に非常勤(アルバイト)で雇われている『戦車乗り』リディアーヌ=ディディエしかいない。

 しかし彼女は、『カインの巫女』――<電子の女帝>と友人と呼べる親しい間柄らしい。なのに、『戦車乗り』がこちらの『『青の楽園』を含めての絃神島の破壊』などという計画に協力しているのは、西欧ネウストリアに本社を置く大企業ディディエ重工が、太史局上層部に同意したからだ。

 エリートチャイルドと才を見込まれて拾われ、英才教育を施された彼女は、本社の意向に逆らうわけにはいかない。

 

『ご心配召されるな、六刃殿。拙者、一度依頼を受けた以上、裏切るつもりはござらん。最後まで任を全うさせてもらうでござるよ』

 

「……そう、助かるわ」

 

『それに、女帝殿と本気で矛を交えるという体験はなかなか得難いものであります故』

 

 いつもの調子で、不敵に言ってみせる『戦車乗り』

 一部の業界で伝説的なハッカーとして名を馳せる<電子の女帝>を撃退することができれば、『戦車乗り』の名は一躍有名になるだろう。だから、こうして彼女と本気で戦う機会を、むしろ待ち侘びてたりする。

 

『この前の『彩昂祭』で、偶然にも仮想女帝殿と模擬戦ができる機会がありましてな。その情報を下に対策はすでに構築済みでござるよ。女帝殿のパソコンに残っている恥ずかしいポエムをばらまいてみせましょう』

 

「ふふ、頼もしいわね」

 

 六刃は、笑う。獰猛に。

 優しい顔はもういらない。

 ただ任務を果たすことだけを考え、そのために討つべき獲物のことを想う。

 

 

 

「なら、私は、南宮クロウを屈服させて、六刃神官の(ペット)にしてあげるわ」

 

 

 

つづく



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黒の剣巫Ⅳ

青の楽園 魔獣庭園

 

 

 時刻は、午前7時を過ぎたあたり。

 

 『夢魔』の魔力に操られていた紗矢華は、胸を長剣で突き刺されながらも古城が“『真祖』の魔力で上書き(きゅうけつ)”して、正気に戻した。

 だが、雪菜が追いかけていた江口結瞳は、『神格振動波』で正気に戻したというのに、自ら、『クスキエリゼ』の元へ向かって行った。

 別行動を取っていたアスタルテとクロウ達も、『どうやら森の中の第二研究所に莉琉と言う人物はいなかった』と連絡があって、あの時の結瞳(莉琉)の発言の裏付けが取れた。

 

 そして、正気に戻った舞威姫の紗矢華の話と、結瞳が心変わりした強大な魔力波動―――それが気になり、浅葱に『クスキエリゼ』の企業内ネットワークにハッキングを仕掛けて調べてもらい、知った。

 神話の時代から生きる世界最強の魔獣<レヴィアタン>、そして、その生体兵器を操る世界最強の夢魔<リリス>―――江口結瞳のことを。

 

『結瞳ちゃんは、潜水艇に乗せられて<レヴィアタン>に向かってるわ。久須木も一緒よ』

 

 まずい。

 もし潜水艇で普段は深海に潜っている魔獣に取りつくつもりなのだとすれば、結瞳を取り戻したくても手が出せなくなる。

 

『<レヴィアタン>の制御システムの本体は、『クスキエリゼ』の研究所にある<LYL>ってシステムね。そっちをの取ってしまえば、とりあえず久須木の計画は潰せるけど』

 

 <リリス>の力を安定して引き出すための『仮想第二人格』<LYL>、それに乗っ取られることで結瞳は、莉琉になる。

 だから、結瞳を救い出すにはそのシステムを停止させなければならない。だから、<LYL>の方は浅葱に任せた。『戦車乗り』という同じ非常勤(アルバイト)の同僚が、向こう側についてて、早速妨害をしかけてきたというが、浅葱なら大丈夫だ。おそらく。マシンのスペックが足りないとか嘆いたけれど。

 ちなみに矢瀬は、『じゃあ、俺は、後輩の尻拭い―――ああ、叶瀬ちゃんの看病でもしてるか……』と浅葱や自室でまだ寝込んでいる凪沙たちと同じようにコテージに残るそうだ。

 

 そうして、江口結瞳を救出しに向かうのは、古城、その監視役で結瞳を連れ戻せなかったのを悔やんでいる雪菜、それと元々は彼女自身の任務であったと主張する紗矢華。

 そして、古城たちはまず無人運転の電動カーに乗って、『魔獣庭園』へと向かい、

 

「―――古城君、見っけ!」 「第四真祖、目視で確認」

 

「クロウ! アスタルテ!」

 

 設定されたプログラム通りに『魔獣庭園』に到着した無人車が停まったところで、昨日から野生に帰って森の人となっていた後輩が、古城たちと顔合わせ。背中に人工生命体の少女をおんぶしながら、木々から木々へとターザンアクションよろしくと移動して、古城たちに合流する。

 背負っているアスタルテから古城たちの現状を伝言されていたクロウは、話が早く早速“匂い”がする方へ鼻を向けて、

 

「ん、江口たちはこっちにいってる」

 

「案内頼むぜクロウ」

 

 こうして、世界最強の吸血鬼と世界最強の混血が揃った。

 

「ったく、ヴァトラーのやつがいなくて助かった」

 

 夢魔と魔獣も入れて、同じ称号を持ったのが四体もいるなんて、世界最強のオンパレードだ。

 どこかの<蛇遣い>が『青の楽園』にいたら、狂喜乱舞で、楽園を地獄に変えただろう。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 先ほどからあちこちで避難警報が流れてるせいか、到着した港と隣接した第一研究所付近に『クスキエリゼ』の職員は見当たらない。

 そして船も、なかった。

 

 現在、輸送船から連絡船まで全ての船舶は避難に回されているので、どうやって海の魔獣に近づくか。浅葱なら自動操船装置(オートパイロット)から遠隔操作して、こちらに一隻高速船を回せるだろうが、それで避難に遅れとか迷惑はかけたくない。

 

「くそっ! けど、どうやって、<レヴィアタン>のとこに行っちまった潜水艇を追いかければいい!」

 

 予備の潜水艇もない。紗矢華や雪菜を見るが、彼女たちが移動手段を持ってはおらず……

 

「流石にこの状況で船を用意するのは無理よね……」

 

「船以外の手段……クロウ君、人を乗せて海を泳げる魔獣を呼べませんか。昨日、凪沙ちゃんから、ヒッポカンポスに乗ったという話を聞いたんですけど……」

 

「んー……魔獣たち(あいつら)は今は大人しくしているけど、自分から<レヴィアタン>の方に向かっていこうなんてものはいないし、古城君泳げないし」

 

「お、泳げないとかそういう問題じゃないだろクロウ! それと別に俺は泳ぐのがただちょっと苦手なだけだ!」

 

 このまま結瞳を追いかけるのなら、巨大な生体兵器とかち合う可能性が高い。海という相手のフィールドに迂闊に踏み入れば、沈められてしまうだろう。

 古城たちが足踏みした、そのとき―――水を差すような静かな声、そしてそれと対照的な熱視線が特定の人物へ向けられた。

 

 

「避難勧告が流れてるの、聴こえてないのかしら?」

 

 

 古城は声のした方角へ振り返り、表情を強張らせた。

 二又の槍を構え、羽織る赤いカーディガンをゆらゆらと靡かせる、長い黒髪に黒い制服姿の少女―――太史局の『六刃神官』だ。

 

「妃崎―――!」

 

「港が混み合う前に、あなた達にも避難をお勧めしてよ、第四真祖」

 

 避難を進めてきた霧葉に、古城は困惑の表情を浮かべる。

 <レヴィアタン>から逃げろ、『青の楽園』から離れろ、と警告している。

 最初から、<レヴィアタン>がこの増設人工島を襲うことを承知しているような態度だ。

 雪菜が銀槍<雪霞狼>を引き抜き、紗矢華も長剣<煌華鱗>を取り出し、いつでも戦えるように身構える。

 しかし、戦闘態勢を取られているにもかかわらず、霧葉は動かない。彼女が本気で古城たちを気遣っているように見える。

 

「ふふ、南宮クロウ……」

 

 ただし、熱視線を固定される後輩(クロウ)ひとりを除いて。もしや、そのせいで剣巫や舞威姫が眼中にないのかもしれない。

 

「待てよ。どうしてブルエリにいる人間が避難しなくちゃならないんだ? ここには<レヴィアタン>の制御をやってる『クスキエリゼ』の研究所があるんだろ? だったら、久須木がそのブルエリを危険にさらすような真似をするわけがねぇだろ?」

 

 そう、おかしいのだ。

 もし魔獣たちが暴れていたというのならば、避難の理由はそれで納得できた。また超大型の生命体が接近してることを察知した沿岸警備隊が来場者らを避難させようとするのもわかる。

 しかし、この当事者である『クスキエリゼ』の研究員らまでも蛻の殻となっているのは変だ。彼らはあの生体兵器の制御装置を自分たちが所有していることを知っているはずで、襲われる心配などする必要がないとわかっているはずだ。そしてこの増設人工島は久須木和臣の城であり、今後の重要な拠点となるべき場所。

 

「ああ、それはあなたの思い違いよ、第四真祖。今、<レヴィアタン>を制御しているのは、久須木会長ではないわ。

 ―――莉琉よ」

 

 莉琉……!?

 思いがけないその答え。彼女は久須木に怪物の生贄とされる、と紗矢華が言っていたはずだ。なら、霧葉は冗談を言っているのか?

 一瞬の思考停止に陥った古城へ、霧葉は表面的には落ち着きを見せつける。それに古城は苛立ちながら、

 

「待てよ……莉琉はコンピューターで再現した結瞳の第二人格じゃなかったのか?」

 

「あら、その理解は、あながち間違いでなくてよ。

 江口結瞳の精神には、確かに<リリス>として受け継いだ邪悪な部分が含まれている。でも、それは独立した人格と呼べるほど完全なものではなかったの。<LYL>と言うのは、結瞳の悪意の部分だけを抽出して、彼女の『夢魔』としての力を安定して引き出すための補助(サポート)システムよ」

 

 不完全な人格のサポート―――それはつまり、結局、莉琉は今でも結瞳の一部であること。

 

 コテージで、莉琉は言っていた。

 結瞳が嫌なところだけを押しつけるために自分ができた、と。人工的に作られた第二人格と言う性質を考えれば、その時の莉琉の表現が間違いではないだろう。

 結瞳の中の邪悪な部分だけで構成された、人工の不完全な魂。それは今、結瞳を乗っ取り、<レヴィアタン>を支配している―――そう、浅葱は調べたはずで、

 

「『クスキエリゼ』のコンピューターを破壊すれば、確かに莉琉は消滅する。結瞳の一部に戻るだけ、と言う風に考えることもできるけど、莉琉にして見れば死と同じよ」

 

「そうなることがわかってて、どうして莉琉がブルエリを攻撃するんだ?」

 

 紗矢華の話や浅葱の情報で古城の知識は、霧葉とそう変わっていないはずだ。なのに、噛み合わないこの会話

 <レヴィアタン>を制御しているのは、久須木和臣ではなく、<リリス>の莉琉。

 それはいい。そもそも彼女は生体兵器を制御するために生み出された道具だと言われている。その人格が悪意を濃縮して固められた人工知能と言う問題点に目を瞑れば、異常事態と言うほどのことでもない。

 でも、莉琉が『青の楽園』を攻撃するのは理屈に合わない。霧葉の言う通り、『魔獣庭園』の第一研究所には、莉琉自身ともいえる<LYL>がある。それを彼女が世界最強の魔獣に破壊させようと誘導してるなんて、自殺と変わらないではないか。

 戸惑う古城。そこでようやく、先から霧葉からずっと熱視線を浴びてなんか居心地悪そうにしていた後輩(クロウ)が口を開き、その答えを言い当てる。

 

「それが江口の望みだからか」

 

「え……?」

 

 クロウの言葉を呑み込めず、ますます混乱する古城。けれど、霧葉は甲角を吊り上げ、笑みを大きくした。

 

「そうよ。世界から完全に消滅すること。それが莉琉の―――いえ、江口結瞳の望みなのよ。世界最強の夢魔として覚醒してしまった江口結瞳は、そのせいでたくさんの辛い体験をしたから」

 

 みんなに嫌われる―――あの時の言葉は、憶測などではなく、実体験から基づいたものだ。

 

「例えば江口結瞳の両親やクラスメイト達は、今も意識不明のまま病院で眠り続けているの。彼らの虐待から身を守るために、江口結瞳が『夢魔』の能力を暴走させてしまったせいで」

 

 アスタルテは、目を細めたクロウの横顔を見た。

 もし、みんなを滅ぼすことになるのならずっと眠ることにする―――『波朧院フェスタ』にて、ディミトリエ=ヴァトラーに問われて出した先輩の答えを、その時あの場にいたアスタルテは聞いている。

 だからきっと、ここにいる誰よりも先輩には江口結瞳が共感できる。だから、結瞳がこの選択肢を取ったのだと真っ先に気づく。南宮クロウもまた、もしもこの身の毒が周囲に害を及ぼすのならば永遠の眠りにつくことを望んだことがあった。

 

「そのことで、江口結瞳は自分を強く責めたはずよ。何度も自殺したいと思ったでしょうね。でも彼女は死ぬわけにはいかなかった。なぜだかわかって?」

 

「……まさか……結瞳ちゃんが、<リリス>だから……!」

 

 思わず、雪菜は呟きをもらした。

 <リリス>。そう、この世界最強の夢魔の特性は、転生。もし『器』の人間が亡くなれば、<リリス>の魂は、また新たな『器』に移る。吸血鬼のように不老不死ではないが、そうして代々受け継がせることでこれまであり続けてきたのだ。

 現『器』である江口結瞳が死ねば、世界最強の夢魔の力は世界を巡り、また新たな『器』の適格者を見つけ、乗り移る。

 そして、<リリス>を受け継げば、その適格者は、江口結瞳が体験したその不幸を繰り返す。

 だから、彼女は死を選ぶことはできなかった。

 

「そう。幼稚な自己犠牲だけど、感動的ではあるでしょ」

 

 目を伏せた霧葉は、その口調こそ温度を感じさせない冷ややかなものだけれど、江口結瞳の意志の強さに対して、彼女なりの敬意を篭めてあるような響きを感じさせる。

 

 久須木和臣が<レヴィアタン>によるテロを画策している―――それを太史局の上層部は“ある目的”のために利用することを考えた。

 そして、“人の心が読めてしまう”世界最強の夢魔は、それらの思惑をすべてお見通しであっただろう。

 だから、この状況から推察するに、彼女たちにはある種の協力関係―――“ある目的”の任務を受けた六刃神官と、江口結瞳は、『青の楽園』を<レヴィアタン>に襲撃させることへの利害が一致していたのだ。

 

「だけど、彼女が<レヴィアタン>の中で死ねば話は別。神々の生体兵器である<レヴィアタン>は、強力な魔力障壁にすっぽりと覆われている。肉体を失った<リリス>の魂は、障壁の外に出ることができず、やがて<レヴィアタン>に取り込まれて消滅するわ」

 

 江口結瞳の望みは、<レヴィアタン>を自分の――<リリス>の死に場所にすること。

 彼女は死ぬために、<レヴィアタン>の中へと入っていった。

 

 去り際に、自分が全部を終わらせる、そう結瞳は言った。

 彼女は、この彼女自身の命をもって、終わらせたかった。

 <リリス>の魂が生み出す永遠の負の連鎖を―――

 

 やり場のない怒りの衝動が古城らを襲う。

 

「江口結瞳は、そのことを自覚していなかったはずよ。だから煌坂紗矢華に連れられて、『クスキエリゼ』を脱走したりしたのでしょうね。だけど莉琉は知っていたわ。莉琉が『クスキエリゼ』に協力していたのは、結瞳の無意識の願いをかなえるためだったの」

 

 だから、霧葉は、『夢魔』の魔力を模倣した双叉槍で、莉琉の人格を目覚めさせた。コテージから連れ戻すために。

 

「だから、あの時言ったのは本当よ。あなたたちと争うつもりはない、って」

 

 あの時、彼はコテージにはいなかったしね、と相変わらず霧葉は視線を外さない。そろそろ後輩に穴が開くのではないだろうか。

 指摘した方が良いのではないかと古城は思うが、藪をつついて蛇を出したくない。

 

 とにかく、霧葉は、結瞳の敵ではない。その行動のすべては太史局の任務のためであり、結瞳の望みを叶えるためのものであった。

 

 ただし、その行動の結末に古城たちが納得できるかは別問題だ。

 

「すでに莉琉は、<レヴィアタン>を支配している。そして彼女自身を―――<LYL>を消滅させるために『青の楽園』を襲ってくるわよ。なぜなら<LYL>も、江口結瞳が殺したがっている自分自身の一部なのだから」

 

 <レヴィアタン>の姿は、まだ目視できない。

 しかしながら、その強大な気配は息苦しくなるような威圧感となって、水平線越しにもはっきりと感じられる。

 

「もしも<LYL>が破壊されたら、そのあと結瞳はどうなるんだ?」

 

「<LYL>のサポートなしでは、江口結瞳は『夢魔』の力を安定して引き出せない。<レヴィアタン>の支配を続けることは困難でしょうね。彼女の支配を離れた<レヴィアタン>は、再び海の底に戻って眠りにつくわ。絃神島本島に被害が出る前に、そうなってくれるといいのだけれど」

 

「結瞳を腹の中に入れたまま、か……! そんなことさせるかよ!」

 

 結瞳の目的は、分かった。だからそれ以上無駄な時間を浪費するわけにはいかない、一刻も早く彼女をあのデカブツから連れ戻さなければならない。

 

 そこで初めて、霧葉が固定させていた視線を移し、逸り立つ古城を呆れ顔で見つめる。

 

「<レヴィアタン>を止めるつもり? 相手は神々の時代の生体兵器よ?」

 

「ハッ、知ったことかよ、『世界最強の吸血鬼』なんて馬鹿げた肩書を名乗っておいて、こんな時に役に立たなきゃ、いい笑いものだろうが!」

 

「ん。じゃあ、古城君は早く行くのだ」

 

 獰猛に笑ってみせる古城の前に、クロウが前に出る。

 

「う。泳げる奴はいなくても、飛んで近づけるのならすぐに呼べるのだ」

 

 クロウが親指を少し噛み切って血を出すと、地面に手を置く。

 

「―――忍法口寄せの術!」

 

「みー!」

 

 召喚するのは、後輩が契約しているという『第八の大罪』と称されるものだが――二対四枚の翼とモフモフな毛皮をもって、爪も牙も小さくて丸っこい――とてもそうは見えない白竜<守護獣(フラミー)>。

 輝かしい金毛を生やす頭部に、蒼の美しいグラデーションで彩られる翼を持つこれまで見てきた中で最も美しい毛の生えた翼竜(ファードラゴン)は、この『魔獣庭園』の客寄せパンダとすれば、多くの客を呼べることだろう。

 体躯は2mほどだが以前に、古城、雪菜、クロウと3人乗せて悠々と飛空できた獣竜。そして、<レヴィアタン>と同じ大罪を冠するほどの格を持ち、世界最強の魔獣を前に臆することはない。

 

「戦うのは嫌いだけど、フラミーはビビったりしないぞ」

「みみー!」

 

「そうか。こいつなら、結瞳のところに行ける!」

 

 移動手段は、できた。

 

「フラミー、送ってやってくれ」

 

 そして、クロウは霧葉と対峙する。

 

「オレは、妃埼の相手をする」

 

「あら? お相手をしてくれるの?」

 

「古城君は見逃してもらえても、オレは何か素通りできなさそうだからな」

 

「ええ、<第四真祖>を止められると思うほど、自惚れてはないし―――私はあなたの監視役ですもの」

 

 ここで後輩にも監視役がついていたことに、古城は驚く。

 また面倒そうな相手に付かれたものだと同情をやる。その会話ぶりから初対面でないことはわかるが……果たしていったいどんなやり取りをしてきたのか。霧葉の目はギラついて、ヤる気満々だ。

 

「おい、大丈夫かクロウ……? あいつ、煌坂や姫柊も倒したような奴だぞ」

 

「ん。正直、今の妃埼に睨まれるとゾクッてくるけど、大丈夫なのだ。……多分」

 

 戦力分散させるのは痛いが、あまり長い時間ここに足止めを喰らっている場合じゃない。それに全長2mほどの獣竜にも全員を乗せられるほど定員に余裕があるとは思えない。

 

「―――行くなら早く行きなさい、暁古城」

 

「待ってください、先輩」

 

 なにやら吹っ切ったような表情を浮かべる紗矢華が長剣を構える。

 それに厳しい選択を突き付けられたような苦悩の表情を浮かべる雪菜が待ったをかけた。

 

「紗矢華さん……! 妃埼霧葉が、先輩を通す理由は……………クロウ君に執着してるだけではないと思います、おそらく」

 

「わかってる。だから、私がこっちを引き受けるわ。だから雪菜は江口結瞳をお願い。必ず助けてあげて―――」

 

 一瞬の目合わせで、互いの言いたいことを理解した紗矢華と雪菜。

 わかりました、と無言で目を伏せて、紗矢華に後押しを受け古城の傍へと駆け寄る雪菜に、こちらの先輩後輩も、意思疎通(アイコンタクト)をとる。

 

「う。アスタルテ、フラミーの乗り方わかるだろ。古城君たちと―――」

命令拒否(ディナイ)

 

 あう? と従順な(最近はチェックが厳しめになってるけど)後輩に、即座に首を横に振られ、ずっこけるように前のめりにつんのめるクロウ。

 

「私は、先輩の“管理役”を教官(マスター)より任されていますので」

 

 ―――ここは譲れません、とアスタルテは立ち位置(ポジション)を強く、口ではなく目でクロウに訴えてくる。

 こうなった後輩は頑固だと理解するクロウは、高神の社のルームメイト同士みたいにはいかないな、なんでだろうなー、そんなにオレ頼りないのか、とがっくり息を吐いて、古城に、一言注意を送る。

 

「古城君、フラミーは人を乗せるのがうまいし、眷獣から攻撃されてもへっちゃらなくらい身体も頑丈だけど、ひとつ注意があるのだ」

 

「なんだ、クロウ」

 

「う……フラミーは女の子だから、あんまりぎゅっと力いっぱいに毛を掴むのはやめてやってくれ」

 

「え? は? そうなのか?」

 

「みー!」

 

 竜の性別が見てわかるほど聡くない古城だが、<守護獣>は女の子らしい。というか、悪魔とか眷獣にそういう設定があるのか? と今初めて知ったくらい。いや、そういえば思い出した過去の記憶で、<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の眷獣の『器』は、全員が女子で活動できたようだったし……そんな古城の反応に目敏く気付く、獣竜が抗議するように鳴く。

 

「それと、血を吸いたくなってもちゃんとフラミーの同意を得て―――」

「お前はいったい何の心配をしてるんだ!?」

 

 まさか、後輩は自分を雌ならどんな血を吸う変態吸血鬼だと思っているのか?

 いや、いくら何でも龍族(ドラゴン)の血を吸うことなんて―――

 

「わかりました。私がしっかりそうならないように監視しますので安心してくださいクロウ君」

 

 と、<第四真祖>の監視役は後輩の注意をしっかりと胸に受け止めたように頷いた。

 何かもう悲しくなって、こんな時でなかったら泣きたいくらいだ。

 

「行きましょう、先輩」

 

「お、おう」

 

 雪菜と雪菜に腕を引かれ古城もフラミーに乗る。

 霧葉はそこに手を出さない―――視線を向けるは、クロウ。

 

 

 

「彼以外はお邪魔虫だったから行ってもよかったのよ」

 

「あなたが暁古城を見逃したのは、<第四真祖>がここで暴れて、<LYL>を破壊されると困るからなんでしょ?」

 

 苦笑してみせる霧葉に、紗矢華は溜息を零す。

 暁古城は完全に眷獣を従えているとは言い難い<第四真祖>、その災厄の如き力が暴走すれば、<LYL>が巻き込まれる可能性が高い。

 六刃はそれを恐れたのだろう。そう、莉琉(LYL)が破壊されれば、江口結瞳(リリス)、ひいては世界最強の魔獣(レヴィアタン)の目的は消える。

 

「江口結瞳は自分自身を憎んでいる。当然、自分の一部である莉琉のことも。だから彼女は、この島を襲ってくる。<LYL>を消失させるためにね。逆に言えば、他の誰かが先に<LYL>を破壊してしまえば、彼女が『青の楽園』を襲う理由はなくなるわけよね」

 

 ここで紗矢華が舞威姫の鳴り鏑矢の呪術を以って研究所を破壊してしまえば、問題は解決する。

 ただし、それは『青の楽園』を救うことだけを考えれば、だが……

 <レヴィアタン>は滅多に深海から上がって来ず、大人しい性格だ。だから、洗脳が解けてしまえば、おそらくまた深海へと帰るだろう―――それは、その中にいる結瞳を救出する機会を捨てるも同じことだ。

 だから、雪菜はあの時、古城に眷獣で研究所ごと<LYL>を破壊してくれとは言えなかったのだろう。

 

「でも、結局、あなたはギリギリまで<LYL>を破壊できないのではなくて?」

 

 紗矢華が、ここに残ったのは最後の最後を見極めるため。

 『青の楽園』が沈められる、古城たちの結瞳救出が間に合わないとわかれば、紗矢華が<LYL>を破壊し、<レヴィアタン>を海に還す。

 ―――そのためにも、<LYL>を守る六刃神官を倒さなければならない。

 

「……煌坂は、戦っちゃダメなのだ」

 

 しかし、クロウは紗矢華が前に出るのを許さなかった。

 

「何を言っているのかしら、南宮クロウ。ここは全員で研究所を守るあの女を1秒でも早く倒すのが先決。複数でかかるのが卑怯だとか言ってられないのよ」

 

「アスタルテ」

 

命令受託(アクセプト)

 

 紗矢華の正論に付き合わず、クロウは後輩に命じる。

 その内容は一言も口にされていないが、アスタルテはその意を酌むと、紗矢華の前に立ちはだかる。

 

「ちょっと―――」

「姫柊に必死に隠してたみたいだけどな。お前、全然本調子じゃないだろ」

 

 <生成り>の六刃神官に奇襲でやられ、そして、先ほどは<第四真祖>と全力の戦闘を繰り広げた。相当呪力を消耗しているはずだ。

 

「古城君と斬り合ったって話聞いたけど、それ、相当無理したんじゃないのか?」

 

 クロウは一度、舞威姫と戦って、一太刀を浴びせられた経験がある。

 だから、“暁古城が、紙一重で舞威姫の剣戟を避けれた”―――とその話をアスタルテから聞いた時、思った。

 対魔族戦闘の訓練を受け、養成所から卒業した超一流の攻魔師である舞威姫。その一瞬先を読む霊視と呪術と複合した剣舞は、魔族の中でもトップクラスの獣人種の身体能力を持つクロウにさえ斬り込めたはずなのに、真祖といえど身体能力では魔族の中で脆弱な部類にある古城に避けられるだろうか。実際、古城も、吸血鬼化した反応速度をもってしても、紗矢華の凄まじい斬撃を避けれたのを奇蹟だと述懐する。

 

 そう、紗矢華は抵抗していたのだ。

 

 古城が操られている紗矢華を大人しくさせるために霧化でその足場の物質的な結合力を奪い去り、海に落とした。<煌華鱗>が生み出す空間の亀裂が周囲の海水を巻き込んで、使い手さえも無事ですまない、だから海は紗矢華にとって剣を満足に触れない状況にある。そして、古城はその状況を上手く利用し、最後に心臓を―――わずかに外れて一刺しを喰らったけれど、紗矢華に跳び付いて―――洗脳を解いた。

 

 その間ずっと紗矢華は、古城を斬らないように『夢魔』の支配力に必死に抗っていた。それはひどく精神を削るものだったろう。それが『乙型呪装双叉槍』に模倣(コピー)された、本人(オリジナル)とは1、2ランク格が下がっているとはいえ、なにせ世界最強の魔獣をも魅了する世界最強の夢魔の精神支配の魔力だ。人が抗えるものではない。

 呪力の消耗だけでなく、精神的な疲労もひどい。

 その証拠に、クロウがいつも見る、姿勢の良いモデルのようにその一本筋の通った彼女の体軸が、今はふらついている。

 

「ん……それに、足もやってるな。右の方。挫いたんじゃないのか」

 

 図星を射抜かれ歯軋りする思いであるも、その観察眼に紗矢華は舌を巻く。

 その得物を見ただけで弟子の未熟具合を察する長生族(エルフ)の師家様同様、人ならぬものの人以上に鋭い眼、或いは直感をしている。

 そう。

 精神的な疲労だけではない。抗う紗矢華の意思と『夢魔』の強制の綱引きは、彼女の肉体に無理を強いて―――そんな心身の拮抗状態で、いきなり6、7mの落下すれば、海への着水も上手くいかず……やってしまった。

 

「そう、心配させちゃってるわけ―――けど、舐めないで、私は獅子王機関の舞威姫よ」

 

 負傷を隠していたのは、認める。しかし、これらはすべて自身の不徳が致すところ。

 最初に奇襲を仕掛けられたとき、霧葉は武器である双叉槍を持っておらず、丸腰の霧葉相手を斬るのに紗矢華は躊躇いが生じた。

 強過ぎる<煌華鱗>の威力が裏目に出て、本来の力を発揮できず―――しかし、今は事情が違う。『青の楽園』を訪れている多くの人々の命がかっているのだ。六刃相手に後れを取ったりなどしない。

 

「それにあなたは、巫女が相手じゃ―――」

「そろそろ私を除け者にするのはやめてくれないかしら?」

 

 それ以上の、彼女を無視しての、会話は許されなかった。

 空気が凝縮するような威圧感。

 霧葉は不愉快そうに、歯を鳴らした。

 

「そもそも彼以外は眼中にないのよ」

 

 クロウと紗矢華らの間を、巨大な炎の赤壁が両断する。結界。その高さは10m近くはあるだろうか。いくら攻魔師といえども、足場もなく、片足を挫いている状態で跳び越えられるようなものではない。

 

 

「負け犬と泥棒猫は邪魔をしないでちょうだい。私と彼の“二人きりの時間(デート)”なんだから。これを邪魔されたら火傷じゃすまないわよ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 これは、それを追っ払うにちょうどいい術を開発したころ。この監視役とクロウの戦績は、『三打もらうまで巫女に攻撃してはならない』というクロウが課した契約の縛り(ハンデ)があっても全戦全勝……

 ただし、それは双叉槍を持っておらず、そして、あんな魔に近しいものになっていない頃の話だ。

 

「……しばらくの間見ないと思ったら、何か随分と変わったのだ」

 

 指先が戦いの予感に打ち震えながら、呟く。

 炎の檻の如き結界内に閉じ込められ、漂う大気は熱を帯びて、チリチリと肌を焦がしている。

 風は死んでる。停滞した空気は腐敗し、変貌し、ここに魔となり真紅の縄張りを作る六刃神官は、銀人狼と化したクロウと同じように、半物質化した般若の双角が額に現れ、黒髪が血塗られていくように赫に染まっていく。

 <生成り>

 人間であることを半ば止めて、魔性の力を得るもの。

 一族郎党を皆殺しにされ、復讐を願った『滝夜叉姫』しかり、捨てられた僧を地の果てまで追いかけた『清姫』しかり、強過ぎる執着は時に人間を魔物へと変える。特に女性の情念ほど怖いものはない。

 

(あの双叉槍(やり)、か……)

 

 双眸が針のように細められる。

 魔族の魔力を模倣する『乙型呪装双叉槍』の所有者にまで染み込ませるようなその“匂い”。あれは剣巫の『七式突撃降魔機槍』が、『神格振動波』を使用する度に所有者へ浸透させていく武神具であるのと同じように、“人間であることを止めさせる”ものか。

 

「ふふ……うふふふ……」

 

 霧葉の笑い声が響く。

 それに応じて気温が上がっていた。

 

 熱くなる環境の中、頭の芯を氷で冷やすよう思考の温度は低く保ちつつ、クロウは自身と相手の間合いを目測する。

 距離にして10m。一足飛びでも腕が届く間合いに詰められるが、無理なく二歩で攻撃圏内に入れる。確実に仕留めるのなら三歩は考えておくべきだ。

 そして、港であるこの場に、遮蔽物もなく、大きく動いて身を隠すほどの広さもない。

 勝負は一瞬―――

 

「我が影は、霧にして霧に非ず、刃にして刃に非ず―――」

 

 蝶の鱗粉のように身の回りに火の粉を振り撒きながら、霧葉が詠いあげる。

 詠唱は、させない。させる前に、倒す。先手必勝。クロウはあえて、フェイントをかけず、真正面、最短距離―――人間の動体視力では捉えきれぬ、目にも留まらぬ速さで間合いを詰め、彼女の眼前――鼻前に左掌を伸ばす。

 

「―――忍法おいろけの術!」

 

 攻撃せずして巫女を倒すために開発した術。

 この『嗅覚過適応』の応用技は、ジャコネコ科獣人種の『異性であるのなら真祖をも魅了する』フェロモンから発想を得たもの。

 クロウ自身、それが性的なものであるとは意識してないし、そこまで理解はしてはいないが、これで何度も六刃を封じ込めてきた実績があった。

 しかし、今、これまでの焼き直しとはならない。むしろ、それは火に油を注ぐ行為であった。もし彼に異性の意識がもう少し強ければ、このような一手は取らなかったであろうが、監視対象への執着から成った彼女はより一層情念の炎を昂らせた。

 

「ぬ―――」

 

 左腕を突き出した―――そのがら空きとなった左脇腹に叩き込まれる、強烈な膝蹴り<鳴雷>。相手が必ずこちらに害せないとわかっていたからこそ、全力でカウンターを放つことができる。

 対魔獣を想定して訓練する六刃の一撃は、剣巫より重く、速い。呪力の篭った打撃技は、一般人の人間がまともに喰らえば、内臓破裂は免れない。

 

 だが霧葉は察する。この銀人狼がその容赦ない一撃を受けても多少怯む程度のダメージしか与えられないことを。魔獣のような巨体ではない、しかしその巨体を人間サイズにまで圧縮したような、超密度の骨肉を持ち、眷獣の攻撃にも耐えうる尋常ならぬ耐久性を持ってる。それだけでなく生体障壁と言う、魔獣の魔力障壁と同等の技をこの獲物は纏うのだ。全力の膝蹴りを叩き込んだところで、一瞬、その呼吸を止めるのが精々。

 

 ―――しかし、この『八雷神法』の一手は敵の攻勢を崩す、一瞬の、繋ぎに過ぎない。

 

 蛇のように速やかに手にした呪符を十数枚投じる。

 放られてすぐ折れ曲がり、張り付き、重なり合い―――フクロウに化ける。式神。その十数羽のフクロウが、銀人狼を中心に乱舞。それは、フクロウというより、一頭の獣を群れで

狩るハイエナが羽を生やしたという方が似合うかもしれない。全体で一つの生き物であるように有機的に連動し、両手で包むように獲物を取り囲んだ。

 動きを取り戻した銀人狼は爪拳を振るい、そのうちの数体を斬り裂いたが、残りが一斉に両翼を広げ、風切り羽を伸ばす。幾条もの鞭と化した翼が、銀人狼に覆い被さる。捕縛。すぐに破られるだろうが、この一瞬、彼の両腕を封じられる―――そして、銀人狼の注意が上に逸らされている。

 

「ぬおっ!?」

 

 予めこの地中深くに丁寧に匂消しの処置まで施してしこんであった呪符が式神と連動するよう、発動。対魔獣捕獲用のトラップが板挟みのように両側から銀人狼に喰らい尽いて、ドーム状に銀人狼を閉じ込めた。まるで釣鐘をすっぽりと落とされたかのよう。

 そして、完全に獲物の身動きを封じたところで、最後の一節を唱えた。

 

「斬れば夢幻の如く、啼哭は災禍を奏でん!」

 

 鐘ごと斬り払うよう双叉槍を振るう―――その軌道を追うように火の粉が舞い跳ぶ。

 直後だった。

 火の粉が何かを吸い込んだ。爆発的に炎が膨らむ。いいや、もはや火と言うよりは赤熱し、溶けた金属の洪水と言った方が正しいか。不可思議な業火は空気中の酸素を喰らいながら、

の全身を怒涛の勢いで丸呑みしていく。

 釣鐘の様々な角度から灼熱の業火を生み出す。そのまま取り囲むように赤熱色の洪水ですべてを押し流す。

 

 爆炎が晴れた時、大きく胴に横一線の焼き斬られた痕を残す、銀人狼が、いた。

 

「<霧豹双月>―――!」

 

 すかさず――容赦なく――音叉を思わせる二又の槍を、その人影を抉るようにして突き出す。

 ギッ、と悲鳴を上げる音。<生成り>の魔力を『乙型呪装双叉槍』で増幅し、指向性をもたせる。

 突きの一直線上にある空気が焦げていき、港の海面が沸騰する。余波に周囲の大気は焔のようで、吸い込むと肺が焼ける。霧葉の周囲にはユラユラと揺らめく蜃気楼。

 カウンターから術を駆使しながら敵を確実に仕留める六刃の雷、火、剣の三連撃―――最後の三撃目に脇腹を僅かに焦がさせて回避したクロウが、霧葉の右斜め後方で、膝を突く。

 

「ぐっ……はぁ、はぁ……」

 

「少しでも気を抜くと視界から消えるなんてどうかしてるわ……本当に驚嘆すべき逃げ足ね。身を隠せる遮蔽物なんてないのに、ただ速さだけでこちらの動体視力を上回るんだもの」

 

 霧葉の身体がこちらに向く。

 何気ない動作だけで大気が焦げる。アカい髪は蛇のように鎌首もたげていく。まるでそれ単体が意思を持つような邪悪さ。

 

「それで、最後のは“わざと攻撃を掠らせた”みたいね。これで、あなたとのハンデはなくなったのだけど―――一発、打ち込んでみる?」

 

 ―――今、彼は自分だけしか見ていない。

 

 三打の制限は、これでなくなった。だというのに、これはまだ序の口と言わんばかりに、霧葉の自信に満ちた視線と呼吸のリズム。相手の引き出しはまだある。むしろ、クロウがこちらを無視せざる状況に追い込めたことに身震いさせて、巫女の仮面を剥いだ戦闘狂の血を滾らせる。

 

「ああ、仕返しの分だけやらせてもらうぞ」

 

 初手は、見事にやられた。

 それでも気息を整え、内力を正す。痛みが薄れ、体の隅々まで力が漲っていくのを感じる。

 問題ない。まだ戦える。

 その確認を済ませ―――瞬時に霧葉との間合いを詰めた。

 

 

海上

 

 

『姫柊は(ここ)に残ってくれ。俺一人で十分だ』

 

 フラミーに乗る直前、古城はこちらについてきた雪菜に言った。

 これから巨大な生体兵器を相手にする。不死の属性を持つ古城ならともかく、生身の雪菜をそんな危険にさらすわけにはいかない。

 しかし雪菜は首を横に振って同行を固持する。

 

『一緒に行きます。先輩を一人で行かせるわけにはいきませんから』

 

『だからダメだって! 世界最強の魔獣に襲われるかもしれないんだぞ、危険すぎるだろ!』

 

『私は世界最強の吸血鬼の監視役なんですよ』

 

『でも、飛行機とか姫柊苦手だろ』

 

『っ、私、別に高いところが苦手とかじゃないですから! それにフラミーちゃんは飛行機じゃありません!』

 

『いや、でもな。前に乗ったときは、クロウがいたけど……』

 

『やっぱりクロウ君の方が良いんですか!?』

 

『おい、その言い方なんか誤解を招くぞ!』

 

『だいたい私がいなかったら海に落ちた時にどうするつもりですか。泳げないくせに』

 

『だから、泳げないとは言ってねーだろ! っつか、あんなデカブツが暴れてる海で泳げる泳げないとか意味ないだろ!』

 

 みみー!!! と獣竜が、こんなときに諍いをする(いちゃつく)二人に『いいから、早く乗ってよ、急ぐんでしょ』と怒りの鳴き声を上げた。

 第三者からの注意に気を鎮めた古城と雪菜は見合わせ、

 

『お願いです、先輩。一緒に行かせてください』

 

『……はぁ、好きにしろよ、まったく』

 

 妙にまっすぐな監視役の瞳から、根負けしたように目を逸らす第四真祖。

 幉とか鞍とか乗騎用の道具を親切に着けてるわけでもなく、古城たちはその獣毛を掴んで、背にしがみつく。そして、『行ってくれ』と声をかけると、毛の生えた翼竜(ファードラゴン)は飛翔する。

 

 そうして、海へと飛びだった。生体障壁を張り巡らせて、同行者(こじょう)たちの姿勢を保持していた主人(クロウ)がいないせいか、その飛行はいくらか前よりは遅いが、上体を揺らさないよう安定に努めてくれていた。

 そして、まず目標を確認せんと空高くに移動し―――古城たちはそれを目視でとらえた。

 

「先輩、あれを―――」

 

「島……じゃねぇよな、あれ」

 

 あまりの非現実感に思わず、喉から、驚嘆が洩れだす。

 

「……マジか、おい……!? いくらなんでもでかすぎるだろ!?」

 

 海面を割って浮上する、群青色の巨大な怪物。

 世界最強の魔獣<レヴィアタン>―――巨大すぎて正確な全貌は掴めない。全長4kmという数字を頭で理解していたものの実際に見て受け入れるには時間がかかった。何せこちらの獣竜はおよそ2mほど。4000:2=2000:1。比喩ではなく、クジラとアリくらいの差があるのだ。スケールが違い過ぎる。

 

「いえ、でもあれが<レヴィアタン>です」

 

 その姿は『蛇』に似ている。

 あるいは太古の地球に棲息していた魚竜や、伝説の龍そのものだった。

 同時に、その姿は兵器に似ていた。滑らかな流線型を描く胴体は、最新鋭の原子力潜水艦のようでもあり、また艦載機格納庫をもつ航空母艦のようで、半透明の鱗は装甲と見分けがつかない。

 何万年分の時を経てきたせいか、<レヴィアタン>の全身はフジツボで覆われ、幾つもの古傷が残っている。その姿は恐ろしく、しかしなぜか神々しい。

 

 そして、あそこに結瞳がいる。

 

「船じゃなくて正解だったな」

 

 <レヴィアタン>が少し動くだけで、絶壁のような高波が起こる。

 怪物にとってはかすかな身動ぎでも、その動きによって攪拌された海面が激しく渦を巻いている。あの荒れる海を渡るのは、転覆せずに済んだら奇跡とすら思える。

 波の影響を受けない空からの移動なら、安全に―――と期待を破り捨てるように、<レヴィアタン>が大気を歪める濃密な魔力波を発散する。天上にも届くそれに、古城はわずかに顔をしかめる。直接的な苦痛ではないが、ガラスを爪でひっかくような騒音を聴かされている気分だ。

 

「ぐ……なんだ、今の気持ち悪いのは!?」

 

「魔力波動―――! <レヴィアタン>は、この反響を使って周囲の様子を調べてるんです!」

 

 イルカが自ら放った超音波の反響を感じ取って海中で餌を見つける、ようなものだ。

 そして、世界最強の魔獣のそれは海中だけにとどまらず、空にまで知覚範囲を広げてる。

 

「―――っ!? まさか……!」

 

 眼下で、<レヴィアタン>の石油タンカーほどもありそうな胸ヒレが、海面を割って浮上。その表面には、クジラの噴気孔に似た深い穴がいくつも空いていて、それを取り巻く群青色のうろこが、電子回路のように次々と発光して―――そして、活火山の如く火を噴いた。

 

「ちょっと待て……!? いきなり、こっちを!?」

 

 世界最強の魔獣が放つ魔砲弾。そのすべてがこちらに向けて一斉に。

 並の戦艦なら一門発射するだけでも船体が大きく揺れて転覆しそうな大出力の破壊光線が、100門以上。

 もはや音の数を数えることに意味はなかった。

 ドジャーッ!! と。数千数万の轟音は重なり融合し、ひとつの巨大な爆音に進化する。オーケストラが全員ロックバンドを決めてるような騒音は、空にいる古城たちの耳を突いている。それも絶え間なく。

 ピッチングマシーンのように次から次へと砲台へ魔力の収束充填し、放っているのだ。

 連続射出される魔砲弾を、獣龍は二対四枚の翼を巧みにそれぞれ羽ばたかせながら、避けていく。右に左に旋回しながらも降下し、<レヴィアタン>に接近。

 

「うおおおおおおおっ!!!」

「きゃああああああっ!!!」

 

 『青の楽園』遊園地エリア名物の水中突入型ジェットコースター『ハデス』などとは比較にならない、ドラゴン・フリーフォール。

 一斉連続掃射でも攻撃が当たらない、不沈龍母。それに業を煮やしたように、<レヴィアタン>は新たな攻撃を放った。

 生体兵器の巨体から、無数の青い影が空中に向かって撃ち出される。

 それらは鮮やかな放物線を描きながら、フラミーに向かって加速した。クジラの背中に泊まっていった海鳥たちが、一斉に飛び立つ姿を連想させる光景だ。

 ただし、こちらに迫ってくるのは海鳥などではない、高速で飛来する生体ミサイルだ。

 

「対空ミサイル!? 神々の時代の生体兵器は至れり尽くせりだな!」

 

 大量の液体爆薬が詰め込まれている生体ミサイル。流石にこれは躱しても、爆発には巻き込まれる。かといって下手に撃ち落せば、その爆薬が撒き散らされて周囲に被害をもたらすことになる。

 ならば―――原子レベルにチリとする。

 

疾く在れ(きやがれ)、<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>―――!」

 

 <第四真祖>の眷獣が撒き散らす膨大な魔力は、確実に<レヴィアタン>を刺激するだろうが、他に最善策は思いつかない。

 銀色の霧に包まれた甲殻獣が、飛来する生体ミサイルを次々に霧化して消滅させていく。

 それでも<レヴィアタン>の攻撃は止まらない。生体ミサイルに摩砲弾と、さしもの<第四真祖>の眷獣も防戦一方で、<守護獣>もこれ以上は接近できず、回避に専念される。

 このまま集中砲火を浴び続ければ、いずれ数で押し切られるのも時間の問題。

 

「仕方ないか、畜生! <獅子の黄金(レグルス・アウルム)>!」

 

 二体目の眷獣を古城が召喚。

 こちらから攻撃を仕掛け、<レヴィアタン>の注意を逸らす。いかに世界最強の魔獣といえど、こちらも世界最強の吸血鬼の災厄の如き眷獣。この攻撃を無視できるはずがない。

 天空から爆発的な電流を纏った雷光の獅子が、稲妻と化してその巨大すぎる胸ヒレ――摩砲弾発射台に襲い掛かる。

 

 ギュバアアアアッ―――と、大気を割る悲鳴のような轟音。

 余波の雷光が海面を黄金に染める。かつて絃神島を構成する四基の人工島(ギガフロート)の一基をうっかり焼き払いかけた、暴れん坊といわくつきの眷獣であるが、相手が超巨大魔獣であるなら、多少暴走しても問題ない。手加減することを考えないで、存分に暴れさせられるので、むしろ制御が楽である。

 青白い閃光が<レヴィアタン>の巨体を包み込み、摩砲弾の速射が、止まった。

 群青色の分厚い硬鱗の装甲が剥がれ落ち、しかし攻撃は止んだものの<レヴィアタン>は悠然と浮かび続ける。胸ヒレも完全に破壊できたとは言えない。

 

「―――効いてないのか!?」

 

「魔力障壁で防いだんです……!」

 

 むしろ、<第四真祖>の眷獣だからこそ、一時的に怯ませることができたのだと雪菜は古城に言う。

 雷光の獅子の突撃(チャージ)を受けた胸ヒレには、噴出孔を削るよう深さ10m近い破壊の爪痕が刻まれている。普通の魔獣なら、それで十分致命傷だ。しかし、相手は4000mの巨体。その程度ひっかき傷に毛が生えた程度のダメージでしかない。

 ただでさえ規格外の巨体に加えて、頑丈な魔力の楯を張っている。核弾頭の直撃でも斃せるか怪しい相手である。

 

「こいつは……外側からじゃ、ラチがあかないな」

 

「どのみち結瞳ちゃんを連れ戻すには、中に入るしかないですよね」

 

 半ば呆れた声を上げる古城に、雪菜も開き直ったように同意を示す。

 もはや、平穏に着地は無理と判断。

 

「みーーーっ!!!」

 

 二人の意を酌んだフラミーが、攻撃が止まっている間に、<レヴィアタン>へ直滑降最短距離で加速する。

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――」

 

 古城に腕を抱いてもらって姿勢を保持しながら、雪菜が槍を構える。

 目を閉じて彼女は、<レヴィアタン>の周囲に張り巡らされている分厚い魔力障壁を、感じ取るように視る。

 その障壁を突破できなければ、近づくことはできない。だがら、あらゆる魔力の結界を斬り捨てる刃を以って、破る。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え―――!」

 

 カッと開眼した雪菜が、破魔の銀槍を獣竜より前へと突き出した。

 <雪霞狼>は、<レヴィアタン>の無敵の魔力障壁をも易々と裂いて、不沈龍母の空路を確保する。

 

「―――疾く在れ(きやがれ)、<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>!」

 

 そして、あらゆる次元ごと空間を喰らう『次元喰い(ディメンジョンイーター)』の水銀色の双頭龍が、その巨大な顎で<レヴィアタン>の強靭な鱗を食い破り、体内へと続く空洞(みち)をつくる。

 古城たちを乗せる獣竜はそこへ翼を僅かに縮めらせて、<レヴィアタン>の体内へと侵入を果たした。

 

 敵に侵入を許した巨大な生体兵器が、怒りの咆哮を天に放つ。

 それは、魔獣が支配する海域を荒ぶらせる、この世の終末を連想させる恐ろしい光景であった。

 

 

青の楽園 魔獣庭園

 

 

 ―――すごく、静か。

 皿の上の氷が溶けていくように、ゆったりと、時間が流れていく。

 その時が遅滞するとも思える中で、倍速の動きで踊るように打ち合う数十数百の攻防。

 

(おかしい……全然、当たらない!)

 

 拳打、爪撃、熊手、膝蹴り、前蹴り―――絶え間なく攻撃を続けるが、六刃には掠りもしない。本来ならば確実に捉えたと思えるタイミングの攻撃が、悉く外されてしまう。

 そして逆に、確かに躱したはずの攻撃がなぜか避け切れないのだ。

 こちらの攻勢から返す刀で、火を噴く刃の上段斬りをクロウは右に避けるが、振り下ろされるはずの霧葉の双叉槍は、そんな銀人狼を追尾するように真横へと軌道を変えた。

 

「ぬうっ……!」

 

 腕に集中させた生体障壁でその一撃を受けて弾き、距離を取る。

 その際、霧葉の瞳に紅い紫電が走っているのをクロウは見た。

 

「わかる! あなたの動きは全部お見通しよ!」

 

 純粋な力と速度ではクロウが大きく勝っているが、霧葉はクロウよりもあらゆる動作が一歩速い。

 地を這うような足払いを横に跳んで、銀人狼は回避し、追撃を仕掛けてくる六刃の双叉槍を斜め前に避けながら得物の間合いのさらに奥へ接近し、カウンターの肘打ちを放つが、霧葉はギリギリのところでそれを掻い潜って廻り込む。

 

「<拆雷>!」

 

「くっ! ―――<伏雷>!」

 

 体当たりに耐性が崩されたところに、袈裟懸けに斬り下された鋭い拳撃を転がるように避け、廻りながらもアクロバティックに雷電奔らせるサマーソルトキック……が、霧葉は首を屈めてそれを回避していた。霧葉の瞳から放たれる紅い残光が、鮮やかな軌跡だけを残して消える。

 

「<鳴雷>!」

 

 近接戦を制したのは、六刃だった。

 掌打をその胴に刻んだ横一線の焼斬り痕を目がけて、ずちゅり、と叩き込まれ、銀人狼が吹き飛ぶ。

 

 接近戦での打ち合いならば、誰にも負けない、ここが己の間合いであるという自負があったが、そのプライドを今、己の監視役に罅を入れられた。

 素質からして、妃崎霧葉の未来視は、姫柊雪菜に劣るはずだ。

 しかし、霧葉は、南宮クロウを研究していた。

 その拳筋、動き、間合い、呼吸、足運び、小さな癖に至るまで、集められるだけ集めたデータからクロウの戦い方を研究したのだ。

 それが、南宮クロウに限定して、本家の剣巫の霊視よりも精度を上げている。

 

 しかし、それだけではない。

 一手先を読める程度で、ここまで一方的に痛めつけられる展開にはならない。何か別の要素がある。

 

(ここまで攻め立てても倒れないなんて想像以上に頑丈ね。でも、所詮はそれも焼け石に水。あなたの攻撃は止まって見えるし、止まってしまう標的の防御をすり抜けるのも簡単)

 

 この<火鼠の衣>に這わせる火。特定の魔獣が防衛反応で展開する魔力障壁。対魔獣のエキスパートの太史局が使う獣除けの結界、それを<生成り>の力で応用したもの。

 火を動物は“本能的に恐れる”。

 動物は野生の中で生き残るために様々な特性をそれぞれ獲得していった。『火鼠』はその本能的な忌避感情を誘発させる火の魔力障壁で、天敵から身を守る。

 つまりクロウが霧葉に攻撃を仕掛けたとしても、無意識に攻撃を一瞬躊躇わせるのだ。それも本能に訴えかける<火鼠の衣>の火は、“獣に近いほどかかりやすい”。更に加えて、初撃で猛烈な火の脅威を印象付けた。

 つまり霧葉はクロウよりも一瞬先に動け、クロウは霧葉に一瞬動くのが遅くなってしまう。

 

「……どうして、妃崎は、こんなことをするんだ?」

 

「あら、口を開けば命乞いをするのかと思ったのだけれど―――」

 

「だって、今のお前の“匂い”、ぐちゃぐちゃで、良心の呵責に苦しんでる奴とそっくりだ」

 

 クロウの言葉は、最後の通信で莉琉に言い当てられた内容と同じことを言い当ててきた。

 

「さっき煌坂が、研究所を破壊されたくないから古城君を行かせたとか言ってたけど、本当は古城君が江口を助けることを期待したんじゃないのか?

 なのに、それでも、お前はどうして戦い続けなくちゃならないのだ?」

 

 圧倒的な優位に酔っていた霧葉が、表情を消す。

 本来排除すべき世界最強の魔獣を使い、『青の楽園』を沈めるというのは、太史局ならではの作戦だろう。しかし、そんなことをすれば当然、ここにいる霧葉も無事では済まない。多くの犠牲者が出る恐れがあり、そして、確実に一人は生贄になる。

 そんな貴重な六刃神官をも捨て駒にしてまで、太史局がこの島を沈めようとしているその理由。

 もはやそれを隠す理由もないと考えたのか、霧葉は静かな声で答えを零す。

 

 

 

「太史局の目的は、藍羽浅葱の抹殺よ―――」

 

 

 

 その答えにクロウは瞠目する。

 

「浅葱先輩、を……?」

 

 霧葉が嘘を吐いていないのは、クロウにはわかる。

 しかし、だとしても、理由はわからない。

 <第四真祖>の古城先輩とは違い、浅葱先輩はただの一般人だ。彼女ひとりを抹殺するために、完成したばかりの人工島を潰すのは、どう考えても割に合わない。そんなことをしなくても、霧葉の戦闘能力なら、彼女をいつでも殺せることができたはずだ。

 そんな風に抱く疑問の全てに、彼女はたった一言の答えを口にした。

 

「藍羽浅葱が、『カインの巫女』だからよ」

 

「カインの……巫女……」

 

「そう、奴隷であることを気づいていないのね……」

 

 クス、と小首かしげるクロウに、霧葉は小さく笑った。それが通常の彼女の毒舌はしかし、今だけ、クロウを本気で憐れむような響きが混じっている。

 この少年が、彼女のために身の盾(ぎせい)となる運命を負わされている不条理への憐れみが―――

 

「―――『カインの巫女』の存在は、いずれ『聖殲』の引き金になる。獅子王機関と人工島管理公社は、太史局は、それを危険だと考えた」

 

 政府の内部は一枚岩ではない。

 『カインの巫女』を利用するか、それとも抹殺すべきか。政府内の上級攻魔官の中でも意見が割れていた。そのことが獅子王機関と太史局の対立の原因。

 

「だから、この『青の楽園』を<レヴィアタン>に沈めさせる。絃神島にいる限り、藍羽浅葱は誰にも殺せないのだから」

 

 たとえ『カインの巫女』と呼ばれていても、肉体は普通の人間のものである藍羽浅葱。電脳世界では無敵でも、現実世界で六刃に殺せない標的ではない。

 しかし、これは実力だとかそういう次元ではないのだ。

 

「『青の楽園』を含めた、この絃神島は、自然の摂理に逆らって創り出された人工の都よ。大地に呪われた存在であるカインによって、この島は、それ自体が一つの巨大な祭壇なの。この島の全てが彼女の味方。ありとあらゆる偶然と必然が彼女を護るわ」

 

 絃神島は、『カインの巫女』のために用意された舞台。絃神島の上にいる限り、誰も藍羽浅葱を殺すことはできない。たとえ<第四真祖>でも、<第四真祖>をも殺す得る<雪霞狼>でも―――

 

「藍羽浅葱を殺すためには、まずは絃神島を破壊しなければならない。だから太史局は、<レヴィアタン>を利用する計画を立てた。幸いなことに、『クスキエリゼ』の会長がお膳立てしてくれたしね」

 

 世界最強の夢魔<リリス>もその力を引き出すための<LYL>も、すべて『クスキエリゼ』が用意した。

 後押しこそしたが、太史局は、何もしていない。久須木和臣さえ死んでしまえば、もはや何の証拠も残らないだろう。

 その罪を全部押しつけてしまうことに同情はするが、久須木がやろうとしたことを考えれば、当然の報いである。

 

「もっとも、獅子王機関は太史局の計画に気づいてたみたいだけどね。彼らが藍羽浅葱を『青の楽園』に連れてきてくれたおかげで、私たちも絃神島本島を破壊目標から外すことができた。このまま上手くいけば、被害は最小限に抑えることができるでしょう。

 ―――そのためには最大の障害となりうる<黒妖犬>を是か非でも除かなければならない」

 

「オレ、が……?」

 

 訊き返すべきではなかったのかもしれない。

 それは六刃が標的に憐憫の情を見せてしまうくらいに、少年にしてみれば、ある種の残酷な予言に等しい、事実。

 

「この絃神島と同じく、自然の摂理に逆らって生まれた『混血』の器。カインの残した大罪を継いでしまったあなたは、『カインの巫女』を守るためならば自らの命を擲ち、それが害するものであれば何であろうとすべてを壊す殺神兵器になった―――いいえ、『聖殲』に臨むために、そうなってしまうように運命づけられたのよ。あなたを本当に縛っているのは南宮那月ではなく、藍羽浅葱。彼女が居る限り、自由なんて決して訪れない。

 あなたは南宮那月の眷獣(サーヴァント)ではなく、『カインの巫女』の奴隷なのよ」

 

 これは、監視対象南宮クロウの情報を精査した霧葉の断言する推論。

 ロタリンギアの殲滅師に狙われた時、一太刀をもらいながらも『カインの巫女』を逃がした。

 黒死皇派のテロリストに攫われた時、真っ先に『カインの巫女』の救助にかけつけた。

 脱獄した魔導犯罪者に襲われた時、戦場に飛び込んで『カインの巫女』を守り通した。

 暴走した『賢者の霊血』に遭遇した時、身を挺して『カインの巫女』を救い、死にかけた。

 そして、故郷の森よりも、『カインの巫女』のいる絃神島をまず思い浮かべるようになったのも……

 

不確定要素(イレギュラー)だけど、これだけ偶然も続けば、『カインの巫女』の危機にやってくるのはもはや必然。だから、行動を予測しやすいようこちらから誘い込み、排除するのよ。『青の楽園』を破壊できたとしても、『カインの巫女』を始末できなければ意味がない。そして、藍羽浅葱の身柄程度を抱えながらでも、あなたは避難することはできるでしょう?

 でも、私はその運命から解放してあげるわ。ここで藍羽浅葱が始末されるまで、あなたを行動不能にして」

 

 絃神島にいる限り、クロウは『カインの巫女』のために動かされる。自身の幸福ではなく、彼女の幸福のために、あらゆる不幸を負わされる。これは押しつけられたどころか、理不尽な役割を決定づけられたもの。

 そんなの誰だって嫌だろう。ご主人を差し置いて最優先にされるなど、彼にしてみれば『カインの巫女』とは疫病神に他ならない。

 

「オレは……バカだから今の話を聞いても正直あまりピンとこない……」

 

 霧葉の言葉を呑み込んで、それでもふるふると首を振りながらそう言った。

 その言葉の端々に、困惑の色が見え隠れしていた。

 彼の中でもまだそれに納得してない、出来ないものがあるんだろう。

 しかし、それでも首を振る行為に霧葉は目を疑った。

 

「でも、浅葱先輩はきっと今も避難せず、頑張ってると思う。そういう人なのだ。

 浅葱先輩は、オレがこの島に来て、凪沙ちゃんに泣かれ、古城君に怒られ、そんな一番つらかったとき、一番最初に声をかけてくれた人なのだ。オレはそのことを今でも恩を感じているぞ」

 

「―――だから、あなたがそうやって迫害される状況さえ、藍羽浅葱に懐くように運命を仕組んだものなのよ……!!」

 

「そうかもな。それでも浅葱先輩を守りたいと思うオレはおかしいのかもしれない。でも、なんだとしてもオレはみんなを守りたいと思うことに変わりないぞ、そのみんなの中には浅葱先輩も入ってるし―――妃崎のことも助けられれば万々歳だぞ」

 

「……っ!!」

 

 クロウはそう言って―――動き出した。

 先よりもずっと速く。

 数体の分身と数十の残像を作っていくステップを踏み、攪乱―――そこからさらに、外套の透明化と気を合一する『園境』の気配遮断で、奇襲―――

 

「ええ、南宮クロウのことはすべてはお見通しなんだから!」

 

 双叉槍を旋回させ、情念の炎を噴き上げる。神殿の防御さえも焼き滅ぼす精密誘導兵器は逃れられず、防げまい。目晦ましの数多の像に目もくれず情念の炎は一直線に食らいついたのは、姿を隠した人狼―――ではなかった。

 

「な……っ!」

 

 銀の体毛が銀髪に、

 瞳の色も金色から雪原を閉じ込めたような蒼に。

 そして、人狼の強靭な肉体は、可憐で華奢な『湖の乙女』に。

 

 

 

「オレのパターンは読まれてるなら―――オレ以外(かのん)になってみるのでした」

 

 

 

 この監視対象で最も警戒すべきは人外の膂力ではなく、頓珍漢な発想力かもしれない。

 

 分身、隠れ身―――そして、別人になり相手を惑わす、変化(女の子限定)の術。

 『南宮クロウ』のリズムでは通じない。だから、『叶瀬夏音』に化けてみるという安直な発想は、しかし効果的であった。

 霧葉の<生成り>は、『執着できる相手なほど力が高まる』ものだ。しかし、相手が『嫉妬できる要素がない、心優さが雰囲気ににじみ出てる聖女』を前に、その力が振るえるのか?

 これが、標的のクロウであるとはわかっていても、いきなり姿形が変わって動揺しないはずがない。あまりにびっくりして情念の炎を制御する集中が乱れ、明後日の方向へ飛んでいった。

 

「こんなの六刃の霊視にもなかったのだけど―――!?」

 

 ……この同級生の意外性によく振り回される本家の剣巫も、『影の剣巫』の叫びには何度もうなずいて共感したことだろう。

 そして、変化ができたことなど知らない、情報不足。霧葉の視る未来には、ありえない光景。

 霧葉の双眸、紫電走らす六刃の霊視がブレるように、揺れて―――その隙を、夏音(クロウ)は逃さなかった。

 

「―――鉄拳聖砕カノン♪ブレード!」

 

「くっ!?」

 

 ふざけた必殺名だが、対魔族にはふざけた威力を誇る一撃であり、それは腕を振るう、という感覚とは離れたものだった。

 滑るように振るわれる白魚のような御手は、霧葉が赤衣に纏わす炎の魔力障壁を、大気ごと刈り取るように繊細で迅速過ぎた。

 聖なる刃を迸らす手刀が、魔性に近づきし<生成り>の六刃を袈裟斬りに打ち込まれる。

 効果抜群な一撃に、六刃は呻く。外見の姿形は変わっても、水霊馬を叩きのめすほど、中身の身体能力は変わってないのだ。

 

 六刃神官は元々対魔獣戦闘の専門家。魔獣は奇策など用いないが、<蛇遣い(ヴァトラー)>曰くに、人間は勝つために知恵を振り絞るもので、この『混血』の少年は“怪物でありながらも人間である”と青年貴族は称する。だから、面白い、と。

 対魔獣魔族の戦術だけでは、『混血』の対処には間に合わない―――!

 

「<黒雷>―――!」

 

 聖光に肌を焼かれながらも<生成り>は解かず、全身に通う呪力を漲らせて、霧葉が跳んだ。乱されたペースも切り替えた。どんな見た目であろうと、目の前にいるのは『南宮クロウである』と強く自己暗示を念じる。

 

「―――<霧豹双月>!」

 

 限界以上に筋力と反応速度を強化し、<生成り>の魔力を増幅し、炎獄を音叉の双刃に集わす、妃崎霧葉の必殺の攻撃。<生成り>に加えて、呪的身体強化(エンチャント)は、銀人狼に匹敵する身体能力を獲得させ、情念の炎を一点に集中した斬撃は一撃で相手を屠れるだけの威力があるはずだ―――

 

「壬生の秘拳―――」

 

 炎獄の刃を交差させた手首に挟み取るように受けた。双叉槍に合わせたその支点には赤い布きれ―――先の手刀で、六刃の<火鼠の衣>を切断したその切れ端がある。手刀で剥ぎ取ったかと思うと、クロウはその布地から“火を克服した魔獣”――『火鼠』の“匂い”を嗅ぎ取った。

 <生成り>の炎は神社仏閣を焼き滅ぼせる威力でも、『火鼠』の耐火能力は魔獣の中でも最上位。その特性を『香纏い(マーキング)』で浸透させた真紅の生体障壁は、情念の炎を受け切る。

 そして、飛び掛かっての兜割の勢いを、屈伸してベクトルをカウンターの威力に相乗させ―――

 

「―――『ねこまたん』!」

 

 <四仙拳>直伝の絶招の一手と獣王が開発した気功砲を合わせた返し技。それを武器解除に応用。

 双掌に巻き上げられてから、天高く肉球型の気功砲に弾き飛ばされ、六刃は『乙型呪装双叉槍』を手放した。

 

「これで、お終いなのだ!」

 

「……、」

 

 もはや、六刃は一歩も動けなかった。構えた両手を下す。今の一撃、直接霧葉の身に叩き込まれていれば終わりだった。武神具も手元にない。『火鼠』の耐火性を被られ、火を恐れなくなってしまい、六刃の霊視も未だ乱れている以上、肉弾戦に持ち込まれれば、負ける。それが予想できて、霧葉は笑みを浮かべた。

 

 

 

 勝った、と。

 

 

 

 <生成り>。あらゆる炎を操り、その数多の特性を使う。

 物を燃やす炎、酸素を奪う炎、呪毒を消毒する炎、獣除けの炎、神社仏閣も焼き討ちする炎―――そして、見るものを幻惑する催眠の炎。

 

 催眠術にもさまざまな方式があるが、その導入のひとつに『揺らめく炎を凝視させる』と言ったものがある。

 いわゆる『凝視法』。そう、百物語で蝋燭や行燈を使われるのもそのためだ。

 霧葉は戦闘の最中でそうした妖し火をひっそりと織り交ぜ、標的の脳をじんわりと冒していた。

 炎が通じないのならそれでもいい。それも予測していた。だから、物理的にだけでなく、精神的な攻め手も考える。

 

(勝った……獣王を、手に入れたわ!)

 

 焦点の合わない瞳。表情筋のありえない弛緩。いずれも標的が『普通に思考しているのとは異なる』状態を示すシグナル。

 今ならばどのような命令もうんと頷くだろう。彼のスイッチは、リモコンは、今や自分の手の中にあるのだから。あとは『宇治の橋姫』の伝承より組んだ『縁切り』の呪術で、南宮那月との主従契約を切って―――

 

 

 

「―――ん? 何だ、いきなり“ちょっと”ボーっとしちまったのだ」

 

 

 

 こくん、と頭が眠り落ちたかと思いきや、すぐ目に光が戻った。

 

 

青の楽園 エリュシオン コテージ

 

 

 彼女は、純白のコテージの屋根にひとりきりで座っていた。

 少し未発達な印象を残した十代前半(ローティーン)の少女――暁凪沙だ。

 長い髪を下してるせいか普段の快活な彼女とは、印象がまるで違っていた。

 今の凪沙は、氷の結晶を全身に纏わせているように冷やかに見える。

 虹彩の開き切った大きな瞳が見つめていたのは、水平線の彼方に見える巨大な影だった。

 

『女帝殿……最初から<LYL>ではなく、拙者の<膝丸>を狙って……!』

 

『喧嘩をふっかけてきたのはそっちなんだから、悪く思わないでよね。おかげで<LYL>には正面から堂々と入れるわ。武士の情けで、あんたのポエムをばらまくのは勘弁してあげる』

 

 コテージの中では、数分ほど前に、藍羽浅葱が、戦車相手に拳銃片手で挑まなければならないような、圧倒的な劣勢を覆した。

 既存の攻撃アルゴリズムでは、ハッキングが間に合わないと予想した彼女は、相棒の人工知能(モグワイ)に防御を任せ時間稼ぎをさせてる合間に、『戦車乗り』の防御突破用の“新しい”アプリケーションを、“即興で”つくる。

 あの<ナラクヴェーラ>を制御コマンドを手に入れるために、滅び去った文明ごときの書き付けをさして時をかからずに読み解いた、どころか、新しい停止コマンドを創り出せてしまえるのだから、このくらいはわけないだろう。だが、それがいかにこの現代ででたらめな能力であるかを彼女自身は理解していない。相手をしていた幼女は戦々恐々としたことだろう。藍羽浅葱が即興でつくったというアプリケーションには、世界各国の諜報機関が、死人を出して奪い合うほどの価値があり、そしてそのことに当人は自覚がないというのだから。

 眠っていた生体兵器を叩き起こしてけしかけられるのも無理はない。

 

『まったく、ちょくちょくとプログラムミスがあるわねこれ』

 

 ただ、今、藍羽浅葱は避難せず、パソコンに向かっている。『青の楽園』の来場者の避難誘導、沿岸警備隊の救難要請、付近を航海中の船舶への警告、それら『戦車乗り』が構築して、けれど穴があったところを見直(チェック)しては埋め合わせる作業を一人ですべてこなしている。<レヴィアタン>の接近に対して、『青の楽園』でパニックを起こさせないように、陰ながら働いている。

 たいしたものだ、と思う。

 その英雄的行為の代償として、彼女自身は避難するためのキップを捨てている。だが彼女はそこに頓着などしないし、自己犠牲とすら感じていないのだろう。彼女は今ここで自分の働きが必要であるからそうしている。それだけ。

 そう、かつて異国の『魔族特区』で、妹を救うために、自らを平然と銃弾の前にさらした、あの少年のように―――

 そして、あの“後続機(コウハイ)も……

 

「あれだけ言い聞かせたというのに……他の女にうつつをぬかすな、阿呆め……」

 

 “凪沙”はそう言って、別の方向を、半眼で睨む。

 “少女”と“後続機”が結んだ、“第一の誓約と制約(ゲッシュ)”。

 かつて“後続機”を暴走状態から自我を取り戻させたその恩恵は、“頭が冷やす”、というものだ。

 言ってしまえば、精神安定。

 自我を失くしかけるたびに頭が冷えるので、<神獣化>の暴走で我を失うことはなく、“『No.013』のような精神支配は通じないのだ”。

 以前に、剣巫へ“後続機”を鎮めてみせる、と約束した手前、それぐらいの恩恵を与えておかねば面目が立たないだろう。

 力自慢の相手に精神支配をかける戦法は間違っていないだろうが、

 薬毒でも、魔術でも、心を乱せるものはない“後続機”は、真っ向からの力勝負という土俵でやり合うしかほとんど選択肢が残っていない。

 

「とっととけりをつけろ。そして、我の“後続機”であるなら―――二度と歯向かわせないよう圧倒的な力を見せつけろ」

 

 あまり知らぬ女の影をちらつかせて“娘”の心を乱すな、と脅しかけるように“凪沙”は囁いた。

 

 

青の楽園 魔獣庭園

 

 

「――――――――――――――――――は?」

 

 

 『凝視法』で、支配下に置いたはずなのに、一瞬で正気を取り戻した。

 相手は一直線に、こちらへ迫ってくる。どう考えても、正常に妃崎霧葉を認識している。不可解な現象を前に固まる六刃へ、最初と同じようにクロウはその掌を前に突き出し、呪句を一息で唱える。

 

 

「<歳星(さい)太歳(たい)

 <太白(たい)大将軍(たい)>」

 

 

 その一句一句ごとに、限界突破(リミットオーバー)するほどの強化比率の呪的身体強化(エンチャント)を身体各部位に施す。

 『武神具も式神術もつかえない単純馬鹿なんだから、これくらい窮めなさい』と高神の社出張武術家庭教師の師家様は言う。

 

 

「<塡星(ちん)太陰(たい)

 <辰星(しん)歳刑(さい)>」

 

 

 『八将神法』は、陰陽道の方位吉凶を司る八将神を技の名に冠する。

 そして、その八王子の親は、『牛頭天王(ごずてんのう)』。彼の蛇龍殺しで有名な『素戔嗚尊』と習合される神格をもつ。

 だからこそ、『八将神法』を納めた舞威姫が、<蛇遣い>を“殺せる者”として、監視役として選ばれたか。

 しかし、『牛頭天王』はまた違う一面を持つ。

 

 

「<塡星(ちん)歳破(さい)

 <太白(たい)歳殺(さい)>」

 

 

 『牛頭天王』は祟りで都に病魔を流行らせた殺戮者であったが、それを病魔の制御――つまりは退散させる疫病神として祀り上げることで、その性質を“反転”させたもの。かの菅原道真が畏れられた怨霊から、天神と祀られるようになったように、人々が信仰することで荒魂を和魂へと変えた。

 暗殺と呪術の専門家である舞威姫が、『八将神法』の裏技である『牛頭天王』の強化反転を使ったとなれば、その身に宿している百の呪が転じて、千の不浄穢れを清める力になっただろう。負の力を知るからこそ正の力への転化を可能とするのだ。

 しかし、南宮クロウのケースは、舞威姫とは違う。

 

 

「<羅睺(らご)黄幡(おう)

 <計都星(けい)豹尾(ひょう)>」

 

 

 呪術を身に着ける舞威姫のように後天的ではなく、その“神さえも殺す疫病”は『混血』の先天的な特性。

 それ故に、これは根源的なものまで、自己崩壊させる。

 

 

「我が身に宿る“疫病”に命じる、転じよ―――」

 

 

 握り掴むよう掌中に納まる、漆黒の霞が純白に変わる。

 それは都に病魔を撒き散らした殺戮者から始まり、ついには最上位の神格を得て、属性を反転させた疫病神の模倣。毒素から血清が作られるように、この『混血』に宿る“壊毒”を“仙薬”とする。

 普通の使い方ではない。その内側から何かがガリガリと削り取られていくのがわかる。長時間、活用できない。数秒が限界で、それ以上は心身を滅ぼしかねない。

 だがその苦痛の一切を無視する。純白の霞を纏わす掌を振りかぶり、

 

 

「―――宣言通り、一発ぶん殴るぞ」

 

 

 歯を食い縛れ、と今度は寸止めではない。ただ狙いは考慮して顔面から外して、掌打をどてっぱらに叩き込む。横隔膜に打撃を受けた霧葉は腹をさえ、膝を突く。

 そして、打ち込まれた『牛頭天王』の白氣は、『火雷大神』の<生成り>の身体に浸透して、その赤い情念を撃ち抜いた。

 

「本当、たった一発でこれなんて割に合わないわね」

 

 <生成り>の変身は解かれて、角も消え、髪の色も元の黒に戻る。

 『不老不死をも殺す』“壊毒”を転化させたものに殺傷性などない。当然だ。それは世の理の歪みを破断し、人に打てば心の揺らぎを整える。それも、この上なく強制的に。並の精神であれば、2、3日は寝込みかねないほどに。

 まったくもって、“心を打つ”、もの。

 頽れながら自身の敗北を悟る霧葉は、そう言って無理矢理に微笑んでみせる。

 

「ああ、もう来てしまったわね。今更、<LYL>を壊しても、<レヴィアタン>は止められなくてよ―――」

 

 水平線の彼方には、すでに<レヴィアタン>の巨影がうっすらと浮かび上がっていた。おそらく直前で省かれた舞威姫が<LYL>を破壊したようだが、それで、あの怪物が『青の楽園』を見逃してくれるとは限らない。

 

 ただ、それでもなぜか、手遅れだとは口にできなかった。

 

 身体を抱き留めた、彼の顔を見上げる。

 任務のためとはいえ、無関係な大勢の人々の命を奪うことに、苦悩を感じなかったと言えばウソになる。ただ、その彼が真っ直ぐに世界最強の魔獣を見据える顔を見てると、表情は自然、安らかとなった。

 

「妃崎が起きた時には全部終わってる。だから、眠ってろ」

 

 そうやって、いつものように自分を置いていく監視対象。

 霧葉は背中を恨みがましく睨みながら、言葉にはせず、口だけを動かした。

 

 

 止めてくれて、ありがとう、と。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 クロウが六刃と戦闘している合間に、暗殺の達人でもある舞威姫は、妃埼霧葉が敷いていた炎の結界をすり抜け、<LYL>を第一研究所ごと破壊することに成功した。

 暁古城たちも、<レヴィアタン>内部に侵入し、<リリス>江口結瞳を見つけ次第その身柄を回収して、脱出するだろう。

 

 だが、<レヴィアタン>は、強大な咆哮で大気を震撼させる。

 

 怒っている。己を利用した者たちに怒り狂っている。

 <レヴィアタン>は、<リリス>の精神支配から自力で逃れていたのだ。

 世界最強の生体兵器は、精神支配に対する耐性を獲得していた。つまり、世界最強の夢魔の精神支配でも、止めることはできなくなった。

 

 少年が見据える、水平線上に屹立する巨大な『龍』の頭部。その巨大すぎる魔獣に、もし表情というものがあるのなら、きっとそれは憤怒の形相であったことだろう。一方的な精神支配という、さぞかし不快なことを強制されて、魔獣は怒っている。そして精神支配に逆らう力を身につけた魔獣が次に取り得る行動は―――報復だ。

 

「お前は怒るのはわかる―――でも、止めさせてもらうぞ」

 

 先輩に空を飛べる相棒(フラミー)を貸し出している。

 しかし、彼には、六刃との決着がつくのを待ち続けていた後輩がいる。

 

「アスタルテ」

 

 振り向かぬまま、自然、斜め後ろの立ち位置にいる人工生命体の少女を背中で呼ぶ。

 三歩前に出て、アスタルテがその隣りへ寄ると、

 

「先輩?」

 

「ちょっと耳を貸してくれ」

 

 クロウが顔を寄せて、形の良い耳に、ある言葉を囁いた。

 

「それ、は……」

 

「できるか?」

 

「……理論上は、可能です。しかし、わかりません。説明要求、それで一体何の意味が……?」

 

 アスタルテの回答は弱々しかった。

 その切ない声に、クロウが微笑する。

 

「今のオレひとりじゃ、できない……でも、アスタルテが協力してくれるなら、あいつを止められるのだ」

 

 人工生命体の少女が息を詰める。

 いつもの少年と変わらないのに、どうしようもなく惹きつけられて、忘れられなくなってしまうような―――そんな微笑だった。

 

命令受託(アクセプト)

 

 と、人工生命体の少女は後退した。

 なぜか、少年の横顔を見られなくなったからだ。

 

 

 

 第三真祖<混沌の皇女(ケイオスブライド)>は推察する。

 もし<焔光の夜伯>の『血の従者』の力を得れば、<黒妖犬>は再び『十三番目』に覚醒できるようになるだろう、と。

 

 

 

「預けてくれ」

 

 『首輪』を外して、露わとなったクロウの首を細い両手で抱くようにして背中に身を寄せるアスタルテ。

 

「預けてくれ、お前自身を」

 

「……与えます」

 

 人工生命体の少女の声が、獣王と唱和した。

 ひどく透き通った、静かな声音だった。

 その声を聞くだけで、クロウは少し楽にするように肩を下げる。

 

「このすべてを預けます。あなたに与えることこそが、私の喜びです」

 

 その言葉は、献身の極致であったか。

 ひどく重要な、重大な契約が、そこで成されたかのようで。

 柔らかな後輩の肢体に香る“匂い”を一体となるように纏い、少年は謳う。

 

 

「契約印ヲ解放スル―――」

 

 

 溢れ出す何かを抑えるように、少女はその背中により強く抱きつく。

 そして、熱に浮かれそうな意識を、すんでで繋ぎ止めながら、応答する。

 

 

「―――接続完了、供給開始」

 

 

 灼熱が、クロウの身体を駆け巡っている。

 二度目の経験。

 二度とはないだろうと思った感覚。

 その灼熱のうねりをこらえ、少年は拳を作る。

 いわば、『血の契約』を騙すがごとき所業である。

 本来、南宮クロウは『血の従者』ではない。しかしかつては仮初の疑似吸血鬼とされ、ラインは途切れていただけでまだ残っていた。

 今そこに、<焔光の夜伯>の『血の従者』であるアスタルテの魔術回路から『血の記憶』を『嗅覚過適応』により汲み上げることで、また疑似的に『血の従者』のラインを接続し、強引に“あの状態”に至らせんとする。

 

 

「<焔光の夜伯(カレイド・ブラッド)>ノ血脈ヲ外レシ者、我ガ肉体ヲ汝ノ器トスル―――」

「―――付与せよ(エンチャント)、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>」

 

 

 アスタルテが言いかけた通り、理論的にはともかく実際にできるかはわからない。天文学的な低さの成功率かもしれない。

 だが一度は至り、クロウの身体に回路は出来上がっているのだ。

 やってみせる。

 真祖の呪われた無限の“負”の生命力が注ぎ込まれ、まるで神経の一本ずつを舐め上げるかのような痛みが少年を苛んでいる。―――だけど、止めない。

 唇の端から泡が吹きこぼれ、がくがく、と大きく四肢が痙攣する―――しかし、その背に負っている。

 眼球が裏返りかけ、意識が途切れるのを必死で引き止める。―――そして、光が、世界を突き抜けた。

 

 

 

疾ク成レ(ヨミガエレ)、『十三番目』ノ眷獣、<蛇尾狼の暗緑(マルコシアス・テネブリス・ヴィリディ)>!」

 

 

 

 力が、集う。

 途轍もない質量を刹那に凝縮し、失われたカタチをここに再誕する。

 神狼を超える十数mの威容な巨躯を持つ、月の女神に仕える地獄最強の魔獣(マルコシアス)

 『炎の氷柱』の熱気と凍気の相反する力を放出する加速装置(ロケットブースター)を持ち、『血に飢えた魔狼(ブラッディウルフ)』の無限の力を循環させる巨体は、『蛇頭の龍尾』を生やす。

 

 そして、背中に、天使の如き虹色の大翼を展開している。

 

 

「―― __ ――  ̄ ̄ ―― __ ――」

 

 

 『虎に翼』の例えの通り、天使の翼を獲得した蛇尾狼は、世界最強の魔獣へ開戦の遠吠えを上げた。

 

 

 

つづく



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黒の剣巫Ⅴ

新たに召喚する眷獣を入れ替わりで変更


回想 彩海学園最寄駅付近 空き地

 

 

 異様な光景であった。

 ストリートバスケ用のボロボロのゴールで、二人の少年が一対一(ワンツーマン)で競い合う。

 片や転校してすぐバスケ部のエースとして認められた灰色の髪の少年。その相手は、一つ下の後輩で、ドがつくほどバスケ素人の厚着の少年。

 それが“真剣勝負”している。

 

『いくぜ』

 

 ド素人を相手するエースの表情に、嘲りの色はない。どころか、この常夏の温度の中にあってもなお熱を感じるほどの強い闘志を、真っ向からぶつけている。同じコート内にいて審判を任されているエースの悪友にもひしひしとそれが伝わるくらいだ。

 

『らッ!』

 

 チェンジ・オブ・ペース。刹那のうちに、全てが加速。エースの得意技。

 後輩の左側に向けて、大地を貫くように足を踏みだすエース。反射的に身体を入れて進撃を阻みにかける後輩。

 

『ぬっ』

 

 一歩前に踏み出したエースが、二歩目を、逆側に。

 ドリブルの開始と同期して、進行方向を後輩の右手側へと、瞬く間に切り替える。

 ―――ジャブステップ。専門用語を使わずわかりやすく言うなら『足踏みフェイント』。

 ある程度習熟したバスケ選手なら誰でも使えるような、ごく基本的なテクニック。だが、エースはその技ひとつで都内の強豪と渡り合ってきた。

 おそらくこれまでの公式戦でエースのジャブステップを運任せでなくフェイントを看破できた人間は、まだいない。踏み出しの大きさからは信じられないほどのスピードで繰り出される切り返し。ディフェンス側に決め打ちをさせないシュートレンジの広さ。そしてなにより、フェイントをフェイントと思わせない天性の迫力と言うか、絶対王者の威圧と言うか、凄み。これにかかれば、基礎技術がたちまち必殺のムーブとなる。

 チームの総合力が足りないせいで都大会で踏み止まっているが、エースは全国区でも活躍できる逸材だ。実際、都大会優秀選手にも選ばれている。

 彩海学園中等部が誇るエースを前に、崇めるように尻餅をついた選手は数知れず。バスケ素人の後輩相手にこれは容赦ない―――

 

 

『な……』

 

 

 まるで時代劇の決闘シーンのように、エースと後輩の身体が一瞬だけ交錯し、離れる。

 そして、一歩、二歩とフルスピードのまま駆け抜けて、エースはようやく気付く。

 自分がもうすでに、手元からボールを失っていることを。

 振り返れば、後輩がその右手一本でボールを掴んでいる。“拘束具”である手袋をつけたままの右手で。

 

 この一対一。

 劣勢に追い込まれつつあるのは、エースの方だった。

 必殺のジャブステップも一度目は躱せた―――しかし、二度目以降は通じていない。

 完全に十八番のフェイントを見破られている。

 

『はぁ……はぁ……』

 

 息は荒く、腰を下ろしたくなるも、そこは膝に手をついて、姿勢を立たせたまま維持させた。

 顎に伝う汗を拭いながら、エースは後輩を見る。

 コートに帽子に首巻をつけた厚着だというのに、少し呼吸が早い程度でバテた様子がない。そして、“この前、つけた学生の手指を捻じり上げた手枷”――手袋も取ってすらいない。そんな“ハンデ”もとらせることができないでいるのだ自分は。

 

『次は……お前の番だ』

 

『……う』

 

 後輩を促し、攻め手守り手の立ち位置を入れ替える。

 今、ストリートバスケ用のコートには、審判役の悪友と点数係のマネージャーの他に、呼んでもいないバスケ部の学生らが何人か観ていて、“耳の良い”悪友くらいしか気づいていないが、エースの妹も遠くから見守っていた。

 その女子の後輩たちから最初は黄色い声援が飛んでいたコートも、今は無言の悲壮感が漂っている。

 

『いくぞ』

 

 捻りのないダックインから、レイアップ。全てが終わるまで、エースは首を振ることしかできなかった。

 ネットを射抜くのを、エースはその場から一歩も動けずに呆然と見やる。

 

 最初は直接叩き込むダンクしかできなかった後輩。でも、今のはきちんとしたレイアップだ。

 体育でも集団競技になるとひとり省かれて、後輩の担任の国家攻魔師と拳法の組み手をしていると聞いている。バスケなんて、ボールを触ったことがあっても、ゲームしたことがないだろう。一対一をする前、エースがウォーミングアップしている間に、マネージャーから軽くルールを教えてもらいながら、シュートやドリブルの簡単な手解きをしてもらってるのを見ていたが、それでも実際にやるのは違う。

 

 だから、後輩は今、試合しながら先輩から見て学び取って、いやエースの技術を盗んで急成長しているのだ。

 

 そう、ただその常人離れした身体能力だけで、エースを圧倒しているのではない。

 

『……どうして、だ』

 

『ん?』

 

 よく妹に女心がわからない鈍感だと文句を言われるが、このコート――『よけいなものを持ち込むべからず』の聖域とさえ定めている自分の土俵の中では、違う。

 後輩はバスケに真剣に、夢中に、けれど、どこか遠慮されているのが、エースにはわかっていた。

 ……いや、そんなの、確認するまでもなく、こんな試合をする前から己を抑え込んでいるのはわかりきっていた。

 

『どうして、お前は怒らねぇんだよ!! こんなに力があるくせに、無抵抗に苛められてんだ!! なあ、悔しくないのか? あんなふざけたケンカを売られて、馬鹿野郎どもをぶん殴ってやらねーと、収まりつかないだろ!』

 

 

 

 学生生活最初の一歩を盛大に失敗したこの後輩は、この中高一貫校の学園で、『女子を泣かした怪物』になってしまった。

 被害者が年頃の少女ということで発奮した輩がいて、何かがあればそいつらが後輩を『怪物退治』と称して弁解の余地も与えずに“強硬策”を取ってくる。正義感丸出しの顔で、捕り物を見ていた学生らに笑みさえ振り撒いている。

 どうだ。怪物をひっ捕らえたぞ、と自慢したいのだろう。

 高等部の先輩方二人がかりで取り押さえたところで、後輩は軽く振り払えるだろうし、走って逃げるのも難しくないはずだが、そんな茶番に大人しく付き合っている。身に覚えのない罪で責められることほど不愉快なことはないというのにされるがままで、それでも口で抗議すれば、『怪物の癖に勝手に人間の言葉を話そうとするな』と暴力を振るわれる。

 なんて、理不尽だ。

 自分だったら押さえつけている高等部の先輩方二人を殴り飛ばし、さらに周りで囃し立てるその子分たちも殴り倒し、傍観してる野次馬も殴って、止める奴らもみんなぶん殴って、向かう敵すべてを全滅してやる、と思う。

 それでも、後輩はキレたことがない。

 だから、『魔族特区』暮らしで弁の立つマネージャーが論破して周りを黙らせる間に、自分と悪友らが割って入り高等部の先輩方を引き離すというやり取りがお決まりのパターン化して……警察沙汰となったことは一度もなかった(ちなみに彼の主人であるカリスマ教師は、一度も表立って止めたことはない。『獅子は仔を千尋の谷に突き落とす』のが調教ならぬ教育方針である主人は、子供のいざこざに大人が介入する気はないのだろう。見た目は子供であるが)。

 先日まで。

 

 事の発端は、バカげたものだ。

 

 『怪物退治』と言うのが如何に幼稚でみっともないお遊びだというマネージャーの論評が広まり、表だって殴って蹴っての暴力を使った“強硬策”で後輩を懲らしめることができなくなった。ストレス発散のサンドバックが取り上げられた形で、先輩方は面白くない。それで後輩ではなく、後輩の所持品を狙った。以前に、全校集会で校長よりも権威を持ってると噂される学園に派遣される国家降魔官のカリスマ教師より、『後輩の手荷物には絶対に触れるな』にと通達があった。今度はそれで『怪物から物品(おたから)を取ってきた』というつもりだったのか、それとも『返してほしければ自分たちに従え』と脅すつもりだったか。何にせよ、体育の間に、更衣室に忍び入って、後輩の制服やトレードマークとなっているコートや帽子に手袋を盗んだ。そして、なにを思ったのか、先輩方のひとりが後輩の手袋を付けてしまった。

 

 結果、彼は、しばらくの間、利き手で箸を持つことができない生活を送ることになる。

 

 後輩の手袋は、人間社会でいられるよう力を抑えるための『手枷』。あとで教えてもらったところによると、主人の魔女自ら強制ギプスじみた付けた手指を絞め上げる術を施した“拘束具(ゲルギャ)”だ。

 

 そんな『手枷』を自ら嵌めてしまった高等部の先輩方は怒り心頭。これを、『人間を嵌めようとして、怪物が仕掛けた悪質な罠』だと声高に叫んだ。

 学外にいる仲間たちを呼んで、これまでにない大規模な『怪物退治』が起こり―――ついに警察が来るほどの騒ぎとなった。

 そして、集団私刑(リンチ)を受けた後輩も『危険物の管理を怠った』と警察に連行される……

 

 後でその話を聞いたエースは腹が立った。

 停学処分を受けた先輩方にもだが、こうなった今も“人間を憎まずにいられる”後輩にも。

 

 

 

『お前がそこまで我慢して、どうあっても一線を踏み越えないように自分を抑え付けて、それで理不尽を味わらせてまでこんなところにいる必要があるのかよ!!』

 

 本物と紛うほどのフェイントではなく、気迫そのままに真っ向から。

 真正面にドリブルするエースは、思い切り後輩にぶつかった。試合であれば確実にファールを取られるほどの猛烈な当たり(チャージ)。しかし、ぐいぐいと反則無視して圧し込むエースに審判役の悪友は笛を吹かなかった。

 思いのまま叫ぶ親友の声を邪魔する騒音は、今はいらない。ぶつかり合う青春にそれは野暮というものだ(この理論のへったくれもないやり取りに、マネージャーは『泥臭いというか、汗臭いというか。もっと普通に話し合いでできなかったのかしら、あのバスケ馬鹿はもう……こういう体育会系のぶつかり合いって本っ当理解できないわね』と愛想はつかされてないけど、大きく溜息はつかされた)。

 

『確かに、ここに来てから窮屈だし、ずっと嫌な事ばっかだぞ』

 

 後輩は、そう言った。エースの体当たりを倒れずに受けながら。

 

『だけど、暁先輩はわかってくれたのだ。最初はダメだったけど、暁にすごく怖がられたままだけど、暁先輩はオレのこと弁護してもらえるようになったのだ。友達だってできたし、困ってると助けてくれる先輩もいる。だから、オレは馬鹿とか怪物とか言われたって、暴れてこの細い線なんか切りたくなんかない!!』

 

 見ず知らずの土地で迷子になった子供のように、顔をくしゃりとさせ感情のままに後輩は言った。

 

『オレはどうしてもそんなのできない……!!』

 

 後輩がこうなったすべてのドミノ倒しの最初のひとつを押してしまった自分も、彼にしてみれば仇と映ってもおかしくないのに。罵詈雑言をぶつけられるのだって当たり前であるはずなのに。

 そこまで言うのか。

 

『馬鹿野郎』

 

 エースはそこで吹っ切る。

 妹のトラウマほどではないが、この後輩から受けていた“獣人に殺されるイメージ”を、今こそ完全に捨て去る。

 

『俺がそんなことさせねーよ。俺はクロウの先輩だからな』

 

 後輩は馬鹿じゃない。怪物なんかじゃない。こいつは今、最も賢い答えを導き出したのだ。

 

 だったら、彼の先輩である自分が為すべきこと、導くべきことは、決まっている。

 一線を踏み越えたくないと震えて言うのなら、そっと押し戻してやろう。

 これからも先輩でいたいと願ってくれるのなら、やれやれと溜息吐きながらも面倒を看よう。

 それでこいつの居場所を守ってやる。絶対に受け入れさせてみせる。

 

『だから、先輩を舐めんな!』

 

 吼えたエースが肩からぶつかっていくようなパワードリブルで後輩をインサイドに押し込む。両足を踏み締め進行を拒む後輩であるも、しかし弱い。そのままリング下まで運ばれ、しっかりシュートを決めた。

 

『へっぴり腰じゃなくて、もっと思いっきりぶつかってこい。遠慮なんてすんじゃねぇぞ。お前の先輩はそんなにか弱くないわっ!』

 

 あっけにとられ、目を丸くする後輩に、先輩(エース)は不敵に笑って見せた。

 

『ほんとだ。全然か弱くなんかないな』

 

 泣き笑いと言うのは、今の後輩みたいな表情を言うのだろう。でも、泣いていてもとても嬉しそうだった。

 

 

レヴィアタン

 

 

 世界最大級の生体兵器、その内部は航空母艦の格納庫にも似て広大で、そして、護衛の小型生体兵器が待機している。

 この空洞を古城と雪菜は、毛の生えた翼竜(ファードラゴン)の背に乗りながら滑空する。

 ここにくるまで、獣竜は何度か攻撃をもらうも、“兵器に対する絶対的な耐性”を持つ皮膚だからか、さほどの損傷は負ってないように見える。常人離れした反射神経を持つ雪菜も突入時に無理をしたもののほとんど無傷で済んでおり、古城も全身のあちこちにダメージがあるが、死ぬほどでもない、ゆっくり竜の背中で休んで傷の回復に努めている。

 

 時間は、ない。

 数十kmなど手を伸ばせば届いてしまうほどの巨体、そして、先の攻防で視界いっぱいを埋め尽くすほどの攻撃範囲をみれば、世界最強の魔獣が増設人工島を今にも沈めてしまうことができるのだ。一秒でも早く、結瞳を連れ戻さなければならない。

 

 そんな余裕のない状況で、<レヴィアタン>がいきなり停止した。

 ありがたいが、原因がわからないから不気味で、そんな戸惑う古城のポケットで、携帯電話の着信音が鳴る。

 

『古城、聞こえる?』

 

 まさか怪物の体内でも電波が届くなんて、と通信アプリから流れ出した浅葱の声に、古城は少し驚く。確かここは超強力な魔力障壁で遮断されていて、外界とは隔絶されているのではないのか。

 

『『ヨタカ』って潜水艇の通信機器を使って中継してるのよ。そっちもどうにか無事みたいね』

 

 この世界最強の魔獣に侵入するために改造された潜水艇を仲介に挟んで、こちらとの連絡を取り付けたらしい。そして、潜水艇の設備が使えるということは、彼女は敗色濃厚の電脳戦で見事に逆転勝利を収め、首尾よく『クスキエリゼ』の第一研究所のハッキングに成功したらしい。あいかわらず、とんでもない奴だな、と古城は呆れた声を出す。

 これで、<LYL>は、浅葱がのっとった。浅葱は『仮想第二人格』を無理やりに騙して、<レヴィアタン>を大人しくさせた。長くはもたないから、この状態もせいぜい、5分か、10分程度……

 

『あたしが抑えておけなくなったら、『クスキエリゼ』の研究所にいる煌坂さんにシステムを丸ごと破壊してもらうわ。それで<レヴィアタン>が攻撃する理由はなくなるはずだから』

 

 今の負傷した状態で戦闘についていけないことを悟った紗矢華が、苦渋を噛みながらも、クロウひとりに六刃の相手を任せ、<LYL>のある第一研究所へと向かった。

 そして、舞威姫として、最後を見極めたその時に矢を放てるよう、弓を構えて待機している。

 古城もそれは理解している。こうして、助け出せるチャンスをもらえるだけでありがたい。

 そうして、浅葱が『ヨタカ』――結瞳が<レヴィアタン>に潜り込む際に使った潜水艇で、宇宙船の原理と同じで<LYL>との中継ポイント――高確率で<リリス(結瞳)>がいる場所を案内(ナビ)され、それを受けた古城がフラミーに指示を出して―――辿り着いた。

 

 

 

 生物的ではない、スポーツカーのボンネットなどの有機的にデザインされた工業製品に近い雰囲気を持つ、<レヴィアタン>の内部。

 体内に鎮座する明らかに人工的な白い輝きを放つ、潜水艇。

 『ヨタカ』と船体に刻まれた文字を確認する間でもなく、その正体は明らかだ。

 そして、ハッチが開いていた潜水艇の内部を雪菜が確認するとそこに、青い潜水服を着た中年男性が、何かに酷く怯えるようにきつく目を閉じていた。

 おそらく、彼が、『クスキエリゼ』の会長久須木和臣だろう。死んではいないが、この先目覚めるかどうかも怪しい。目覚めてからもまともな精神状態ではいられないだろう。

 

「こんなとこまで追いかけてくるなんて、しつこいですねぇ」

 

 そして、久須木に悪夢を見せている下手人である『夢魔』は生体兵器の集団を従えて、古城たちの前に現れた。

 

「結瞳!」

 

 魔力で紡がれた鋭く尖った先端を持つ黒い尻尾を揺らし、背中には黒い翼を生やし、身体にぴったりと張り付いた水着のような薄い服を着るのは、やはり、江口結瞳―――

 

「あは♪ 結瞳だと思った? 残念。莉琉ちゃんでした」

 

「……莉琉だと?」

 

 唖然とする古城へ、挑発的に両手を広げてアピールする少女。

 

 しかし、第一研究所内にある<LYL>は、浅葱に抑えられているはずだ。人工的に作られた『第二人格』の“莉琉”に結瞳を支配できるはずがない。

 だとするならば、彼女は……

 

「ねぇ、キリハは言ってなかった? ターゲットの男の子に夢中で言い忘れたとかしてないよね?」

 

 あの妃崎霧葉という六刃は、女子小学生にそんな心配されるほど、後輩に執着してるのか。今頃その相手を引き受けているのだろう後輩を想い、遠い目になる古城。

 

「時々、監視対象の衣服とか()ってくるんだけど、あれ、犯罪行為だよね? ……それでも、本家の雪菜お姉さんよりずっと控えめだって、言ってるんだけど……」

 

「姫柊!? お前も……!?」

 

「してませんっ! 何ですか先輩その目は!? いくら六刃が『影の剣巫』と呼ばれてるからって、一緒にしないでください! そんな評価はあまりに心外です!」

 

 いや、でも、姫柊だって、24時間体制で俺のこと見張ってるじゃん、と国家公認ストーカーに言いかけて、古城は呑み込む。これ以上口出しすると、槍を突き付けられそうだ。

 今度、後輩をどこかに誘って、パァーッと監視されることへの愚痴を言い合おうかな、という考えを思考の隅に押しやって、古城は話を戻す。

 

「いや、結瞳が怪物の中で死ぬのが望みだって聞いたぞ。それで、<リリス>をもう誰にも受け継がせないようにするんだってな」

 

「なーんだちゃんと聞いてるじゃないですか。それなのに無理やり連れ戻すつもり? そんなことをして古城さんに何の得があるの? 結瞳とエッチな事でもしたかった?」

 

「誰が―――!」

「先輩、ダメです!」

 

 少女に近づこうとした古城を雪菜が止める。

 今、この潜水艇を取り囲む生物の群。多少の個体差はあるものの、おおよその全長は2m前後。姿形は巨大なヤドカリで、本来あるべきハサミの部分は機関砲に取り替わっている。おそらくあそこから魔力弾を撃ち出せるのだろう。

 そして、この強固な殻に覆われた、小型生体兵器の集団は、ざっと数えてもその数は100体を超えている。

 

「<レヴィアタン>の中に入れば安全だと思った? ここにだってちゃんと武装はあるんだよ」

 

 だから、自分を置いて今すぐにここから立ち去れ、と。

 世界最強の夢魔は、古城たちに小型生体兵器の群を(けしか)けて、冷ややかに脅す。

 

「莉琉ってば、人の精神(こころ)が読めちゃうし、うんざりなんだよね。同情とか偽善とか。どうせあなた達も可哀想な子供を助けて自己満足に浸りたかっただけなんでしょ。それとも本気で結瞳に劣情を抱いてたりとか? やだ、古城さんのロ・リ・コ・ン!」

 

 少女の暴言を、古城は表情を消して聞いていた。

 途切れるまで、言い返したりせず。そして、終わってから、それを突き放すように溜息を吐く。わざとらしいくらいに大きく。

 

 コテージでその吐露を聞かされてから、少女を見ると古城は“罪悪感を思い出させる”。

 

 人の感情がわかってしまい、人の社会から迫害された―――重なってしまうのだ、いやでも。

 だから、少女の言う通り、これは同情で、偽善で、そして、『あの日の贖罪をしたい』と思う自己満足だというのを、古城は否定しない。

 後半は断固否定するが。

 

「誰がロリコンだ。勝手に他人(ひと)に変な性癖付けんな。幼児体型には興味はねーよ!」

 

「な……!? よ、幼児体型なんかじゃないです! 私だってもう、少しは―――」

 

 少女のプライドを逆撫でするように、あえて冷笑しながら挑発してみれば、世界最強の夢魔は、あっさりその“素顔”を覗かせてくれた。

 すぐ失言を悟って口元を押さえるももう遅く、その年幼い反応に思わず古城は苦笑を洩らす。

 

「やっぱりか。下手くそな演技をしやがって。そういうのはもういいから、帰るぞ、“結瞳”」

 

「え、演技なんて―――」

 

「莉琉は俺のことを、古城さんなんて呼ばねーんだよ」

 

 必死に取り繕おうとして反論する結瞳だが、古城に矛盾点を突かれれば、押し黙ってしまう。

 

「……どうして」

 

 ひくっ、と喉を震わす音。

 その目元から涙の滴が盛り上がる。

 

「どうして……なんですか……」

 

 泣き出すのを必死で噛んで呑み込みながらの、掠れた声。

 背中から翼は消えて、次に尻尾も消える。

 残るのは世界最強の夢魔でもなんでもない、肩を震わせて泣きそうな無力の少女がひとりぽつんとそこにいる。

 

「私とは知り合ったばかりじゃないですか。家族でも友達でもないのに、こんな危険なところまで私を迎えに来るなんて! 生きて帰れる保証なんてないんですよ!」

 

 結瞳は、<リリス>で不幸になる子供を二度と生ませないために、<レヴィアタン>を呼び出した。

 だがそこに無関係な古城たちを巻き込みたくはなかった。

 だから懸命に莉琉のふりをして、追い返そうとした。

 

 古城は嗚咽の混じった頼りない声で叫んでくる彼女の気持ちを理解していた。

 安らかな死こそが彼女の望みであることも。

 しかし、その願いは認められない。認められない理由があるからこそ、ここまでやってきたのだ。

 

「昔、後輩のひとりが苛めに遭ってたんだよ」

 

「え?」

 

 唐突な古城の告白に、結瞳は当惑したように目を瞬く。

 古城は、遠くを見るような眼差しを彼女に向けて、

 

「そいつは人の感情も読めて、力があった。周りから怪物だと言われ、それを本人も否定せずに受け入れてしまえるくらいにな。それで、どこぞの馬鹿兄貴がそいつが妹を泣かしたと騒ぎ立てれば、みんなに怖がれるようになった。後輩は何にもしてねーんだけどな」

 

 古城は自嘲するように苦しげに笑う。

 

「馬鹿なことしたヤツがひとり自業自得で病院送りにされちまったけど、そいつは苛めてきた奴らに何もやり返さなかったよ。犯罪した魔族を叩きのめせるくらいに強いのにな」

 

 そして、断片的で朧気な“彼女”の記憶。同じ学校に通うのを楽しみにしていた女の子。『世界最強の吸血鬼』の“呪われた魂”なんてものを押しつけられて、それを抱えたまま、勝手に死んだ―――自分たち兄妹を救うために。

 

「本当……何でああいうヤツらはテメェ自身を犠牲にできるようなやり方を選択できるんだ。周りなんて無視できるくらいの力を持ってるくせにな。それに納得できなくてぶつかったこともあるけど、結局、わかったのは、“俺はそいつらを救いたかった”ってことだけだ」

 

 古城はこの胸を衝き動かす、彼女たちの記憶の訴えのままに吼えた。

 

「お前の言う通りだ。俺がやってることは偽善だ。贖罪だ。自己満足だよ。俺がそいつらに顔見せできるようなヤツでありたいために、お前を救いたいだけだよ! それでも俺はお前を助けるぞ!」

 

 結瞳が悲鳴のような声で絶叫するも、その悲鳴をかき消すほどの大声で、

 

「世界最強の夢魔だろうが<リリス>だろうが知らねーよ。俺がお前が死んでもいいと思えるほど幸せな想いをさせてやる。お前がこれから死ぬまで幸せな一生を過ごせる場所だって作ってやる。それを邪魔する奴がいるのなら、太史局だろうが、<レヴィアタン>だろうが、俺が全部ぶっ潰す! もうお前はひとりじゃない。ここから先は俺の戦争(ケンカ)だ!」

 

「……古城……さん」

 

 古城の怒号に言葉を詰まらせた結瞳が、感極まったように鼻元を隠すように顔の前に掌を合わせる。

 ここに来るまでに当たり前の幸せをすべて捨ててきた彼女に、古城は拾い上げるように手を差し伸べる。

 だがそれでも、結瞳はすぐに首を横に振る。自分を認めてくれる人がいても、自分だけが幸せになるわけにはいかないと―――

 しかし、結瞳を受け入れているのは、古城だけではない。

 

「いいえ、先輩。“私たちの戦争(ケンカ)”です」

 

 優しく目を細めた雪菜も、結瞳に手を伸ばす。

 

「だから、一緒に帰りましょう、結瞳ちゃん」

 

「雪菜お姉さん……」

 

「ああ、帰るぞ、結瞳。俺や姫柊だけじゃねぇ、浅葱や煌坂、叶瀬にアスタルテに、たぶん矢瀬の野郎も待ってる。凪沙はお前のためにカレーを作るって張り切った。それにクロウに助けてもらったお礼を言うんだろ。昨日の花火だって残ってたし、プールや遊園地にもいかないとな。絃神島に戻ったら、那月ちゃんに頼んで、お前の住むところと学校を探してもらうから心配するな」

 

「古城さん……」

 

 ついに決壊する。こらえにこらえた結瞳の瞳から涙があふれ出す。古城と雪菜が、そんな彼女を迎えるように腕を広げ、そこに結瞳が駆け―――ようとした、その瞬間、

 

 

「ああ―――っ!」

 

 

 突然、彼女の小柄な体が電気に打たれたように仰け反った。

 意識をなくして倒れ込む結瞳を、古城たちがギリギリのところで抱き留める。ぐったりと動かない結瞳。古城が呻いた。

 時間切れか―――!?

 浅葱が<LYL>を抑えておけるのは、長くても10分程度。その制限時間を超えて、再び莉琉の人格が結瞳を乗っ取ったのではないかと疑うも、しかし、いつまでたっても目覚める気配はない。

 それに<LYL>が再起動したからといって、結瞳が気絶するのも変だ。

 結瞳の失神の原因はまた別にあるのか。あの現象はまるで、<レヴィアタン>を支配していたはずの『夢魔』の力が、結瞳に逆流してきたかのような……

 

「先輩、生体兵器たちが―――」

「みー!」

 

 思索に耽る時間など与えぬように、状況は動き続ける。

 荒々しく空洞内に響く銃声。それは取り囲む小型生体兵器群によるもの。飛来する紫色の魔力弾を防ぐため、雪菜が破魔の銀槍を一閃して、獣竜がその身を盾に庇う。

 

「まさか……」

 

 『夢魔』ではない誰かが、小型生体兵器の群を指揮している。そう、彼らの本来の支配者がだ。

 自分自身の足元を見下して、古城が唸る。

 怒りに震える<レヴィアタン>の咆哮が大気を満たしたのは、その直後。そして―――

 

 

 

 目が、覚めた。

 

『―――結合(ドッキング)の完了を確認しました。これより“莉琉”を起動します』

 

 『戦車乗り』が最後に調整し、勝手に動き出すはずのないモジュール。

 

『―――すべて想定通りでしてよ。お伝えしたはずです。“莉琉”を起動する、と』

 

 女狐の裏切りを知りすべてを悟った。

 悟ったが、世界最強の夢魔を、たとえ小学生の姿をしていても、人間の手に負えるはずがない相手。

 

『―――やだ、なに、その顔。泣いちゃうの、おじさん?』

 

 『夢魔』の精神支配に囚われる。

 <LYL>に濃縮させた<リリス>が継承してきた負の記憶―――憤怒、憎悪、嫉妬、怨嗟、破壊衝動、そして、自滅願望を悪夢で見る。

 ―――渦に、呑まれる。

 悪意の塊が、人間が持つ邪悪の意志そのものが、流転し増幅し連鎖し変転し渦を巻いて、呑まれる。

 この怨嗟と呪詛の渦の中で己を保てるか。万人の負の感情を見取ってきたこれまでの彼女たちの無念が万人余さず憎悪し邪とし醜いと断ずるが故に正気はなく受容はなくその重さに耐えられるはずもなく―――

 

 しかし、人格が潰される前に、それが、止んだ。

 

 世界最強の魔獣、神代の時代からあり続けるその自我が人類に対する悪意の塊を自力で破る。

 打破され<レヴィアタン>の魔力が<LYL>へと逆流。耐え切れずに、“莉琉は死んだ”。『仮想第二人格』の死亡に、<リリス>江口結瞳も疑似的な死を体験し、ショックで昏倒。―――そして、入れ替わるように、悪夢から目覚めた。

 

 ただ、それでも頭の中はほとんど空っぽだった。

 知識や記憶はぎっしり詰まっていても、それを能動的に扱うための知性や思考、もっと言えば性格や人格といったもの全般が希釈され、散り散りとなっていた。

 『クスキエリゼ』の会長だった、髪が抜け落ち目元がくぼみ一気に老け込んだその中年男性。

 

「……、ぁ……」

 

 未だ悪夢が脳にこびりつくように残るその中年男性はすでに自分の名前を思い出すのも難しい状況に陥っていた。

 しかし。

 だからこそ、か。

 唯一忘れなかったその感情だけはけして消えることはない。<リリス>の受け継ぎ、それをさらに電子的に濃縮した負の感情に溺れようが、そこに溶け込ませることなく、彼の中に焼き付いていた。

 復讐する。

 “王”を嵌めた輩すべてに悔いを抱かせて、この屈辱を雪ぐ。

 

「くひ……いたぞ……」

 

 潜水艇『ヨタカ』。軍用として開発された潜水艇の装甲板は、周囲に群れるヤドカリ型の生体兵器の紫色の魔力弾にもどうにか耐えれるだろう。

 ここが己の安全地帯。コクピットに籠ってる限り、護られる。そして、小型生体兵器を相手にするのに気を取られ、こちらに気付いていない、少年少女―――その少年の腕の中に眠るは、世界最強の夢魔。

 元々軍用の潜水艇には、当然、銃器が搭載されている。

 

「あは」

 

 人語など、とうの昔に捨てた笑みを浮かべて。

 ただ苦痛と惨劇だけを求めることだけを顔中どころか全身で訴えながら。

 

「あははははははは!! ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」

 

 哄笑とともに、久須木和臣は狂ったようにトリガーを引く引く引く引く引く―――!

 

 

「許さん許さん許さん許さん許さんっ! “王”を侮辱する貴様ら全員許さんっ! 処刑だっ! まずはお前から殺してやるリリスゥッ!!!」

 

 

青の楽園 魔獣庭園

 

 

 ―――なによ、この魔力波動!? <LYL>は破壊したはずなのに?

 

 轟音のスピーカーキャビネットが耳元で鳴っているかのような衝撃をぶつけてくるその強力な波動。

 魔力に対して鋭敏な紗矢華は、いち早くそれを察知し、絶句する。

 最後の最後まで迷い、機械から火花が吹き上げたところで、紗矢華は銀色の洋弓に番えていた矢を放ったがしかし、<レヴィアタン>は怒りの咆哮を撒き散らしている。

 

『煌坂さん、逃げて! そこから離れて―――早く!』

 

 連絡用に繋ぎっぱなしにしていた携帯電話から、藍羽浅葱の声。これまで聞いたことのないような狼狽えように、紗矢華は最悪の予感を覚える。

 

『<レヴィアタン>が、<リリス>の精神支配から自力で逃れたの―――』

 

 予感はしてたけど、言葉で聞かされると、全身から血の気が引いた。

 <レヴィアタン>は<リリス>の精神支配から逃れた。それも<レヴィアタン>の意志で、精神支配に逆らう力を身につけて―――

 そして、この無差別に撒き散らされる魔力波動は、まさしく怒りの咆哮。

 世界最強の魔獣は怒り狂っている。自分を支配していた世界最強の夢魔――江口結瞳と莉琉に対して。

 だから、報復をする。

 

 

 

「くっ、こ、<煌華鱗>―――!」

 

 神々の時代を生きた生体兵器。その背中より放物線を描いて、『青の楽園』に降り注ごうとするのは、誰に教えてもらうまでもなく一目瞭然。

 ミサイル。巨大な生体ミサイル。その数は全部で百発余り。

 すでに<LYL>は破壊されても、残骸すら微塵も残さんと、『青の楽園』のすべてを焦土と化しても余りあるほどの容赦ない火力をぶつけてきた。

 

 迷っている時間はなく。

 紗矢華は『六式重装降魔弓』を構えて、今ある手持ちの呪矢を次々と放つ。

 舞威姫の切り札――空間切断を活用した超遠距離狙撃も使う、確実に始末書ものの大盤振る舞い。空間の裂け目を通る矢は、瞬間転移した先で巨大な魔方陣を生み出し、雷と炎を吐き出しては、生体ミサイルを迎撃。その爆発が後続のミサイルを巻き込み―――撃ち漏らしたミサイルも新たな矢を放って、破壊。

 だが、第一陣を防いだところで、紗矢華の矢は尽きてしまった。

 

「これ以上はっ―――!」

 

 続けて、第二陣が放たれようとした。

 その一瞬前の出来事だった。

 

 

 ドゴァッッッ!!!!!! と。

 『七つの大罪』の一角、『嫉妬』を象徴する世界最強の魔獣<レヴィアタン>の怒り狂える頭部に思い切りぶちかまし、その4000m級の巨体を増設人工島から大きく退けた、別の影が現れた。

 

 

レヴィアタン

 

 

 危な、かった……

 

「先輩……!」

 

 大きく息を呑む雪菜。

 彼女が見るのは、古城の背中。あの一瞬―――突然、潜水艇『ヨタカ』の機関銃が火を噴いたそのとき、一番最初に気付いた古城が気絶した結瞳を、そして雪菜を庇い、身を盾にしたのだ。それで銃弾に穿たれた、いくつもの深い傷跡。

 無数の銃弾を浴びて血みどろの身体、特に胸部はズタズタで、高い再生能力を持つ吸血鬼でもその傷は治癒に時間がかかることだろう。

 むしろあの銃弾の嵐を身一つで彼女たちを守り切ったことの方が驚きである。

 

『私が“王”だ。何者にも臆したりすると思うなよ、<第四真祖>。最初からお前など、私の目的ではない。<第四真祖>なんぞただのハードルに過ぎんのだ!』

 

 歪んだ声が、響く。

 

『一度だけ言ってやる、<リリス>を差し出せ』

 

 ボロボロになりながらも結瞳を抱える古城。その彼を前から抱きしめるように支える雪菜は、依然機関銃を向けている潜水艇を睨む。

 

「あなたは……っ!」

 

『差し出そうが差し出すまいが、結果は何も変わらないがな』

 

 そして、再び銃弾の嵐が―――

 

 

 ドゴァッッッ!!!!!! と。

 突然、大きな揺れが生体内の空洞を襲った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 激動する足元に、潜水艇『ヨタカ』はバランスを崩して、転倒、そのまま落岩のように転げる小型生体兵器の群れに巻き込まれ、奥の方へと転がっていった。

 雪菜らは間一髪に、翼の生えた獣竜に抱えて飛んでくれたおかげで、揺れから免れた。

 そして、まだ体内が微動しているも小さく収まりつつあるところを見計らい、フラミーは地に降りて、雪菜が傷ついた古城の体を横たえらせる。

 

「先輩、先輩……!」

 

「……ああ、大丈夫だ。大した傷じゃねーよ」

 

 雪菜の呼びかけに意識を取り戻した古城がぞんざいに首を振ってみせる。

 

「ですが……!」

 

「心配するなって。こんなのすぐ塞がるし、それより早く<レヴィアタン>を止めねーと」

 

 古城は強引に話を切り上げた。

 実際、大した負傷ではない。古城は、不老不死の真祖だ。心臓をぶった切られても再生した実績がある。古城の体調が完全ならば、機銃掃射を受けてもすぐに塞がるだろう。しかし今日の古城は、少々血を流し過ぎていた。

 舞威姫の剣に腹を貫かれ、<レヴィアタン>に突入する際にも内臓を手ひどくやられたりする。じわじわと蓄積したダメージが、ここにきて古城の回復を妨げている。それでも今はそれを気にしている場合ではない。

 

 先ほどの魔獣の体内をシャッフルしてみせたあの激震の衝撃。

 なんとなく古城はその正体を勘付いた。というか、このでかすぎる世界最強の魔獣を相手に暴れられるのは、ひとりしか思いつかない。どうやら、先輩を差し置いて、もうとっくに戦争(ケンカ)をおっぱじめているみたいだ。

 

 だから、戦闘不能に追い込む決定的なダメージを与えるアタッカーは任せる。

 先輩として、そして『あいつらを守りたい』と強く望む古城は今、“矛よりも盾を”欲していた。

 

「ああ、くそ。血が足りてれば……“あいつ”を起こせるかもしれないんだが。煌坂の血を吸った時には、俺の方も腹に穴が空いてたしな」

 

 悔し気に歯噛みする古城。

 <第四真祖>が血の中に従えているという眷獣の数は、12体。だが、そのうち古城を宿主だと認めて召喚に応じるのは、未だその半分にも満たない。

 たまたま<第四真祖>の力を受け継いだだけの普通の人間である古城は、『世界最強の吸血鬼』としては激しく不完全であった。

 故に、気難しい<焔光の夜伯>の眷獣を宿主と認めさせるために、彼女たちを納得させられるだけの贄――すなわち、強力な霊媒の血を捧げなければならない

 

 して、ここに眷獣を掌握するための生贄としては申し分ない血をもった、獅子王機関の剣巫がいる。

 

「まったく先輩は……本当にしょうがない吸血鬼(ひと)ですね……」

 

「……え?」

 

 苦笑交じりに息を吐いた雪菜。

 古城が吸血衝動に襲われるような刺激を与えるために、仕方なく体を張ることを決意した監視役は、パーカーのファスナーを降ろす。

 細い肩、鎖骨の窪み、慎ましやかな胸の膨らみと、しなやかに引き締まった腰回り。そして太ももの付け根まで余すところなく、透き通るように白い肌色まであらわにする。

 凝視するような古城の視線に、雪菜は照れたように身をよじりながら、ちくりと言葉を刺すのを忘れない。

 

「どうせ、私なんかの“どうでもいい”水着では、先輩は喜びませんけど」

 

「えー……っと、姫柊さん、眷獣を目覚めさせるのに協力していただけるのでしょうか?」

 

「そうですね、約束しましたから。水の抵抗も小さいですし、先輩の吸血衝動には少ししか足しになりませんけど、これでどうか我慢してください」

 

 自分で言って傷ついたように、顔を背けてしまう雪菜。

 やれやれ、と古城は頭をかいた。こいつは自覚がないのだろうか。確かに浅葱のようなわかりやすい美人や、紗矢華のようなモデル顔負けのスタイルの持ち主が近くにいたら、不安を覚える気持ちも多少はわからないでもない。

 しかし、客観的に見ても、雪菜は反則的なまでに恵まれた容姿の持ち主だろう。

 いま改めて眺めてみて……そのパステルブルーのビキニ、よく見ればスカート付きで、最初の印象ほど露出度は高いわけでもないが、それでも普段は絶対に見られない彼女の姿は古城の視線を奪うに十二分の魅力がある。

 そんな見惚れて長い沈黙を続ける古城に、雪菜が不安げに、

 

「この水着、買ったばかりですから。まだ先輩にしか見せてないんです……やっぱり、変、ですか?」

 

「い、いや……似合ってるし、かわいい、と思う」

 

 喉が渇いて上手く喋れないものの、かすれた声で答える古城。

 紗矢華がいれば、美貌を崇めるのになんて言葉足らずで陳腐な回答だと小一時間ほど説教したことだろうが、それでも雪菜は嬉しそうにはにかんで、

 

「ふふっ……先輩が誰かの水着を褒めたのは初めて、ですね」

 

「あ、ああ―――」

 

 とそこで、言葉を詰まらせた古城。

 

 

『いや別に変じゃねーし、かわいいぜ叶瀬』

 

 

 昨日のバーベキュー、パーカーを羽織り、なんかマフラーまでつけてる厚着水着の夏音をなんとなく訝し気に見ていたら、『何か変でしたか?(音声アスタルテ)』と恰好をやけに気にされて、あわてて古城が褒め言葉を送ったのだが(嬉しそうにはにかんだりせず、ほっと一安心と胸を撫で下された)……あれを入れると女子の水着を褒めたのは、これで二回目になる。

 しかし、これまでの経験則から言って、それを素直に告げると何だか雪菜の機嫌が悪くなりそうなので、古城は一拍ほど唾を飲み込むほどの間を入れてから、

 

「―――そういえば、姫柊が初めてだな」

 

「私だけ、ですか……そうですか」

 

 すっかり機嫌を直し、満足気に呟く雪菜が古城に身を寄せてくる。

 ……あとで、夏音には口裏合わせるように言っておかないとまずいかもしれない。

 

 

青の楽園 魔獣庭園

 

 

 神々の時代に生まれ、現代まで生きる世界最強の魔獣<レヴィアタン>。

 

 膨大な数の生体魚雷やミサイルと、その材料となる生体爆薬を体内に保有し、また4000mもの巨体を維持する魔力の量も半端ない。魔力砲の威力は喰らえば、軍艦も一撃で葬り去る。

 そして、何よりも特筆すべきは防御力。

 真祖の災厄の如き一撃ですら堅牢な魔力障壁に削がれて、魔獣の戦意を喪失させるほどのダメージは与えられない。

 剣巫が放つ破魔の銀槍の一刺しでもその効果圏はせいぜい数mで、数千mもの魔獣の巨体には蚊に刺された程度のものだろう。

 

 

 

 ならば、“両方を兼ね備えた”ものならば?

 

 

 

 ゴン!! ドゴン!!!! ゴガツン!!!!!! と。

 立て続けに身体と身体の激突する轟音が、海を揺さぶり、島を震撼する。そのたびに衝突の余波で爆発めいた火花が飛び散り、暴風の如き衝撃波が撒き散らされ、千里眼の視野強化の呪的強化を施した鷹の目で、遠方に、無人の大海原へと離れていくそれを眺める舞威姫は思わず片手で乱れる長髪を押さえていた。

 

『なんとまあ、手に“冷や”汗握る押し相撲でありますな』

 

 紗矢華の横には、軽自動車にも満たないサイズの超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)が並んでいた。

 作業用のマニピュレーターで気絶したままの妃埼霧葉を抱きかかえる『戦車乗り』は、ひとり生体ミサイルの迎撃に奮闘していた紗矢華を援護または救護しようと、打ち負かしてくれた友人の藍羽浅葱の頼みでやってきたのだが、出番はなかった。

 

 天使の羽翼を持つ蛇尾狼が、縦横無尽に駆ける。単身真っ向から、4000mもの生体兵器に立ち向かう。それはもう、野生で互いの縄張りをかけて獣が一対一で争う、なんてものではなく、怪獣が島を押すようなものだ。それは喜劇な空想ではなく現実のものとして現在進行形で起こっている。

 すべてを灰塵にせんとする魔力砲を双翼を傘にして撥ね返し、滅多打ちにされる生体ミサイルを遠吠えで放つ拡散魔力砲で撃ち返し、海中に潜水する生体魚雷も鼻で察知するや大海を割る爪撃で伐り返し、世界最強の魔獣全ての攻撃を叩き潰し、またはロケットダッシュで回避していき―――白兵戦で押し返す。

 その体長から彼我の差を考えれば、蛇尾狼の攻撃など子犬が人の指に甘噛みするようなものかもしれない。だがあまりの膂力と速度は、体格差など無視していた。呪術とか、武器とかそういうのは使わない、純粋な打撃力でダメージを与えている。直径数mmの弾丸が人間の眉間に風穴を空けるように。神狼から狂化された蛇尾狼の身体能力は規格外のさらにもう一歩はみ出た領域に達しているのだ。

 

 それも、だ。

 どこかの動画で海辺をぴょんぴょんと跳ねまわる犬の映像を見たことがあるが、あそこは海上……

 蛇尾狼が戦っているのは、相手のフィールド。その大きな翼で戦闘機の如く飛んでいるのではなく、海の上を足場にして戦闘機を追い抜くほどの速度で飛び跳ねている……!?

 

「なんて、出鱈目よ……あれ、魔術や異能がどうとかじゃなくて……」

 

『至極単純な物理法則でありますな。水切りの要領でござろう』

 

 小石を水の上へ投げ放ち、何回跳ねるかを競う水切り遊び。これを一体どれほど大きなものでも可能か、と言う冗談めいた試みがある。

 結果、200km/hでスポーツカーが川に水平に突っ込めば、2、3回は跳ねるのだそうだ―――つまり、それと同じ。

 あまりの速度が、脚力が、水の上での足場を確保する。あの翼は空力抵抗の姿勢保持で舵を切っている。推進力は、背中にあるジェットエンジンみたいな凍れる炎のようなもの。その後押しがあって、蛇尾狼は何もない水の上を駆け抜け、時には<レヴィアタン>自身の巨体にさえ着地し、再び莫大な脚力の運動エネルギー+加速装置の魔力放出で水の上を跳んでいく。

 その元々極まっているものから限界突破した身体能力が、あらゆる奇蹟を超えた結果を出す。

 そして、それを更に肉弾戦へと効果的に攻めさせるサポート。

 

 <レヴィアタン>を守る堅牢な魔力障壁は、<第四真祖>の眷獣である雷光の獅子の突撃をも威力を減衰させてみせた。

 防御に徹してしまえば、<第四真祖>でも簡単にはやられない。

 

 ―――<薔薇の指先>、限界突破(オーバーフロー)

 

 双翼より迸る光が虹色から金色へと塗り替わり、凝縮した。

 野放図に垂れ流されるのではなく、光は一振りの翼剣となって、ふるりと柔らかな円を描く。

 生体兵器を防護するバリアは片端から、あらゆる結界を打ち払う『神格振動波』の後光に祓われ、消滅した。

 

 

 世界最強の魔獣は、丸裸のまま獣王のどつきあいを受けねばならなかった。

 

 

海上

 

 

 人工島から舞威姫らが、その攻撃に息を飲む中で、蛇尾狼(クロウ)もまた、自分の成した行為に驚愕していた。

 身体能力だけでなく、獣王の全ての知覚力が、飛躍的に向上していた。

 今やkm圏内で遠く離れた地表の、波に跳ねた水飛沫の動きまで把握できる。激しく荒れる海上であっても、確固たる足場のない水面を疾走することに何の躊躇もない。単純な演算能力だけではなく、『その計算された情報を元に何をすればよいか』という判断もサポートされているおかげで、知覚力が高まっているようだった。

 強力な魔力障壁を破った一撃だって、先に必要な動きが脳裏へ浮かび、自分はその奇蹟をなぞってみたに過ぎない。

 答えを一気に導き出せてしまう野性的な直感を、丁寧に補正する理知的な思考。二つが一体となって、精度を上げている。

 しかし、その代償は明らかだろう。

 

(……アスタルテ?)

 

 意識を裡に向けて、呼びかける。

 “匂い”で覚える限り、後輩は淡く微笑しているよう。

 しかし、そんな今も、蛇尾狼の血管を通る全身には、凄まじい熱が蠢いている。

 錆びた釘にでも貫かれたような痛みだった。

 アスタルテの身体もまた、悲鳴を上げていることだろう。

 後輩自身が訴えなくても、精神体をも密着していれば、ただならぬ苦痛にアスタルテが耐えていることはわかった。如何に『永遠』の魔力援助でその寿命が削られることはないが、それ故神経が麻痺することはなく、苦悶は絶えることがなく。<第四真祖>の『血の契約』を騙すという荒業は相当な無理を強いているのだ。『十三番目』を使う代償は二人を厳しく苛んでいた。

 それでも、クロウはやめなかった。

 必要な覚悟は、自分も相手も済ませた。

 戦う覚悟は、決まっている。

 ただ生き残るために……自分自身とアスタルテ、そしてみんなを守るために、その結果クロウがアスタルテを壊してしまってもいいという意味の覚悟を。

 半端な庇い合いではなく、互いが互いを壊してもよいと、受け入れてしまう決意のことを。

 その覚悟を、決めている。

 後輩の“匂い”も、揺るがなく。

 

(先……輩……)

 

 と耳元で囁かれるようなアスタルテの意思伝達。

 

(大丈夫……です、から……)

 

 大丈夫な、はずがない。

 だけど。

 

「分カッテイル」

 

 と頷く。

 

 火山の噴火や竜巻のような、手に負えない自然の猛威と対峙しているような重圧を発する<レヴィアタン>。

 しかし、彼が今回の件の最たる被害者であることをクロウは理解している。海底で何千年も眠りについていた、あまり好戦的な性格でない。なのに眠っているところを叩き起こされた挙句、好き勝手に操られれば、暴れたくなるのは当然のことだ。

 

 だから、許せとは言わない。

 恨んでも構わない。

 しかし、この島は、己のテリトリーだ。

 

「グオオオオッ!!!」

 

 増設人工島から十分離れたところまで押し出して、跳んだ。全長4kmの巨体を足場にして、魔獣の真上を、天高く。

 

 勝機を、焦ったか。

 『獣王』の跳躍に、『蛇』は密やかに驚喜した。

 その攻撃力は己の防御力を打ち破るものである。このままの攻防が続けば、いずれ自分が滅ぼされるかもしれない、そういう危機感さえ懐いていた。

 しかし、相手の防御力はこちらの攻撃力で殲滅できる程度のもの。あまりに疾走速度でこちらの攻撃速度が追い付けないからこそ、決定打を与えられなかった。

 それが空中に跳躍してしまえば、どうやっても動きは限られる。軌道を変える術があろうが、それで空を埋め尽くすほどの全攻撃を回避できるほど器用ではないはずだ。

 突き上げる歓喜と共に、<レヴィアタン>は魔力砲、生体ミサイルの全てを射出。これらの攻撃は優に万を超えただろう。それも迎撃されるのを計算して、時間差さえ備えて、あらゆる角度から解き放つ。

 広大な空は、天翼を持つ蛇尾狼にだけ死の三角領域(バミューダトライアングル)へと化した―――

 

 

「<焔侊の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――」

 

 

 『次元食い』で空けられた穴より飛び出す白い影。

 毛の生えた翼竜に騎乗するのは、無事、救助した江口結瞳を抱いている剣巫と、高々と右腕を掲げる<第四真祖>。

 その右腕から撒き散らされた鮮血が、閃光と共に巨大な獣の姿へと変わった。

 自らの意思を持つほどの、濃密に渦巻く魔力の塊。それは金剛石(ダイヤモンド)を与えられた、蛇尾狼にも匹敵する途方もなく巨大な大角羊(ビックホーン)だった。

 人間が罪を贖う『贖罪』の宗教的な表現である、穢れなき絶対無謬の神の羊(アニユス・デイ)

 

 

「―――疾く在れ(きやがれ)、『一番目』の眷獣、<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)>!」

 

 

 暁古城の命を受け、神羊は空に向かって咆哮を飛ばす。

 如何なる攻撃にも傷つけられることのない金剛石の神羊は、自分を傷つけた者にその傷を返す。吸血鬼の不死の呪いを象徴とするもの。

 

 空から、宝石の雨が降るよう。

 

 死の三角領域(バミューダトライアングル)が上塗りされる。神羊が生み出した無数の宝石の障壁が空一面を覆い尽くしたのだ。そして、その障壁を攻撃すれば、攻撃の威力はそのまま相手に『報復』される。

 自らの魔力砲、生体ミサイルがすべて返され。

 刹那。

 嵌められたことを、『蛇』は知った。

 

 自身が契約している<守護獣>から<第四真祖>が体内から脱出するタイミングも、そして、“匂い”から『一番目』が覚醒したことも察していたのだろう。

 神羊の脅威を体験したことのある蛇尾狼は、あえて空に飛んで、恰好の的となり、攻撃を集める囮となった。

 

「その巨体じゃ全部を避け切れないぜ、悪いな。<レヴィアタン>―――」

 

 最強の魔獣を憐れむように、古城が頼りなく微笑んだ。

 そして、爆発と閃光に、<レヴィアタン>の巨体が呑まれていく中、流星のように頭頂部に真上から降り注いだ<蛇尾狼の暗緑>が、全身全霊でぶちかます、

 まるで世界を縫い止める巨大な錨を打ち込むような一撃。

 全周へ莫大な水の壁が放たれるも、島に被害が届かないほど遠方にまで押してきた。

 

 そして。

 

 

 一噛絶滅。

 蛇尾狼は、いつでも神殺しの“壊毒”を滴らせられる牙を、深々と<レヴィアタン>の頭頂部へと突き刺していた。

 

 

 時間が止まっていた。

 あらゆる音が消えていた。

 そして、海の上で、世界最強の魔獣の頭の上に降り立った蛇尾狼は、しっかりと噛み痕をつけてから咢を放し、重低音の声で促す。

 

「オ前ノ負ケダ」

 

 『獣王』が、『蛇』の頭蓋骨をその足で踏みつけ、

 

「生存ノタメノ殺シハ仕方ガナイ。ダケドソレ以外ノ理由デアノ島ヲ落トスナラ、オレモオ前ニ報復スル」

 

 その降伏勧告に『蛇』は―――――――

 

 

 

 ぐるんっ!! と。

 そのままバク転でもするように真後ろへと跳ねた。

 

 

 

 大鯨が海面をジャンプするブリーチングという行動。

 それを全長4000mもの巨大な魔獣が行う。

 そう、全長4000m。

 つまり海面から垂直に姿勢を伸ばしただけで<レヴィアタン>は日本国の最長の富士山脈を悠々と見下せる位置に達せられる。

 その遺伝子を使った複合魔獣の仔<タラスク>と同じように、魔力砲の魔力放出を推進力とし、一秒未満のまさに一瞬、気圧差などお構いなし。そして水の入ったバケツをグルグルと振り回すのと同じく、遠心力で頭の上の蛇尾狼を張りつけにして―――天地逆さまに<レヴィアタン>は頭から海水に突っ込んでいった。

 

「うおっ!?」

「きゃあっ!?」

 

 圧倒的な質量に移動が、大海だけでなく大気をメチャクチャに撹拌させて―――爆音。小惑星の落着にも似た凄まじい水のクレーターが全方位へと展開される。

 古城たちを乗せる獣竜は逆らわないことでうまく突風の勢いを流し、

 

「くっ―――<獅子の黄金>! <双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>! <水精の白鋼(サダルメリク・アルバス)>!」

 

 そして、古城も雷光の獅子、緋色の双角獣、水の妖精―――計三体の<第四真祖>の眷獣を召喚して、この環境激変を相殺させるようにぶつけた。

 しかし、

 

「あ、ああ……<レヴィアタン>は、クロウ君を深海にまで引き摺り込んで―――」

 

 深度4000m。それは、かの有名なタイタニックの沈没船が眠っていたとされる深海領域。

 高高度から、一転して深海。<レヴィアタン>にしてみれば、それはブリーチングに過ぎないが、<蛇尾狼の暗緑>には違う。十数mと、人間から見れば怪獣、真祖の眷獣にも匹する巨体だが、圧力の影響を完全に跳ね除けられる全金属製の装甲潜水艇のような頑強さはあるのか。

 もし圧力に耐えれたとしても、そこは深海。一切光の届かない水の底。豪華客船の墓標でもあった暗黒世界。<レヴィアタン>がそこに置いてけぼりにすれば、自力で海面まで戻るのは不可能。単純に息が保たないだろう。それに仮に猛烈な筋力で極めて短時間に4km近い高低差を乗り越えようとすれば、今度は潜水病のリスクが急浮上する。血管内を流れる血液成分が崩壊しかねない。

 まさに八方塞り。

 『七つの大罪』の一角を占める『蛇』、大海を制する世界最強の魔獣。

 その本領を発揮した深海の牢獄が、『獣王』を取り囲み、呑み込んでいく。

 

「クロウ!! 畜生おおおおおおおっ!」

 

 古城が、叫ぶ。

 しかしそれすらも、大爆発のような怒涛の勢いで下から上に吹き飛ばされた大量の海水に呑まれて消えた。あまりにも膨大な水柱と共に顔を出したのは、4000mの『蛇』。そしてその頭部には蛇尾狼はいない。

 勝利したのは、『蛇』。

 暗闇の底へ引き摺り込まれた『獣王』はどこにもいない。

 

 

青の楽園 海浜公園

 

 

「ふん。まだ屈服させてないのに情けを見せおって」

 

 海の見える小さな公園のベンチ。

 そこに座るひとりの女。若い、と言うよりも幼い顔立ちの小柄な女性。見た目の年齢は、11、2歳にしかみえない。レースアップした豪華なドレスで着飾り、小さな日傘をさす。身動ぎもせず海を見つめている彼女の姿は、置き忘れられた美しい西洋人形を見ているよう。

 

「しかし、まだだろう」

 

 付き合いが最も長く、最初は一昼夜殺し合ったことのある魔女が、そう言った。

 

「この程度で終わる馬鹿犬ではない」

 

 

海上

 

 

 異変があった。

 勝ったはずの<レヴィアタン>が、突然、震えた。

 ドゴォッ!!! と轟音が“内側”から響いた。その巨大極まる胴体が、いきなり、“へ”の字に持ち上がった。かと思えば、みちみちと音を立てて、強靭な鱗で覆われた背中に裂け目が生じる。そこに『蛇』の意思はない。潜水艇『ヨタカ』を体内へ受け入れた時とは違い、体の内側から凄まじい力で強引に切り開かれていっているのだ。

 そんなことができるのは誰か。

 答えは決まっている。

 

「……まさか!」

 

 空を飛ぶ獣竜から見下ろす剣巫が期待感を込めた言葉を零した。

 高度や深度に伴う膨大な圧力差。平行して発生する酸素残量の問題。普通に考えればそこは逃げ場のない死地であったが、ひとつ活路があった。

 

「おい、姫柊。一体何がわかったんだ?」

 

「紗矢華さんが言ってませんでしたか。生体兵器である<レヴィアタン>の体内には、人間が生息できるスペースがある、と……」

 

「っ! それって―――!」

 

 普段は深海に潜み、深海圧力を武器とするような魔獣自身なら潰れる心配はないだろう。内部の圧力も保たれ、あれだけ広大な腹腔内なら呼吸を維持するだけの酸素も残されている。何しろ世界最強の魔獣は4000mもの巨体で、かつ、その重量で自己崩壊を起こさないほど強靭な骨肉に恵まれている。

 

「冷や冷やさせやがって……クロウのヤツ、一寸法師かよ」

 

 怯えて逃げずに、前へ突き進んだからこそこの特大のチャンスを掴んだ。

 しかし、それはそう簡単にできるものではない。

 言うは易し、行うのは難し。自らの意思で魔獣の口へと飛び込んで難を逃れるなどと。理屈でわかっていても、怯える本能的な感情を振り切り行動に移せるか。

 そして、

 

 <レヴィアタン>が絶叫を。怒りではなく、痛みによる訴えを上げる。

 

 どれだけ分厚い硬鱗を持っていようが、内側からの一撃はその硬鱗も骨肉も、そして、堅牢な魔力障壁も一切無視して臓腑に直接響かせる。元々、外側からでも物理的にブチ飛ばせるほどのパワー。体内には小型の生体兵器の群がいるだろうが、いくら束になったところで相手にならないだろう。

 しばらく、真上を旋回している毛の生えた翼竜から古城たちは様子を見下していると、<レヴィアタン>がついに、航空母艦が戦闘機を発射させるハッチを出すように、背中が開いた。

 その奥から蛇尾狼が顔を出す。全身を見事に外気に現したとき、古城はその『龍尾の蛇頭』が釣り上げたように何かに咬みつき、ずるずると一緒に外へ引き摺っているように見えた。

 潜水艇『ヨタカ』。投光器や安定翼が砕け散っていて、かろうじて本体は無事。どうやら後輩は脱出する際に、ついでに久須木和臣が閉じこもっている潜水艇も救出したようだ。

 

 と、蛇尾狼が完全に体外へ出たところで、背中は閉じる。そして―――まだ、その戦意を失っていなかった。

 

「―――あいつ、まだやる気なのか!?」

 

 手負いの<レヴィアタン>を睨んで、古城は奥歯を噛み鳴らした。

 魔獣の傷は浅くない。いや、どれだけ体内で蛇尾狼が暴れたかはわからないが重傷だ。しかし、それでもこちらが期待したように、このまま逃走する気がなかった。これ以上戦えば、死ぬことになるというのに。

 

「くそ、どうやったら―――」

 

 荒ぶる<レヴィアタン>。今回の被害者であるこの魔獣を、できれば殺したくない。

 しかし、おそらく次は死に物狂いで戦いを挑んでくるだろう、だとすれば、こちらもこれ以上恩情をくれてやることもできないし、手加減も無理だ。

 そのことは<レヴィアタン>も本能的に理解しているのだろう。

 真祖、獣王、魔獣は、力を溜めながら、最後の攻撃のタイミングを待つ―――

 

 そんな時、フラミーの背中から、突然、小柄な影が無造作に飛び降りた。

 

 

 

「なっ!?」

「―――結瞳ちゃん!?」

 

 古城と雪菜が同時に叫ぶ。<レヴィアタン>の目前に、黒い翼を羽ばたかせているのは、気絶していたはずの結瞳だった。

 彼女がぎこちなく両手を伸ばし、無言で巨大な魔獣へと呼びかけている。

 それに結瞳がやろうとしていることに気づいて、古城は彼女へ静止をかける。

 

「やめろ、結瞳! <レヴィアタン>にお前の精神支配はもう効かない」

 

 『夢魔』の力で<レヴィアタン>を再び支配し、深海へと帰す。

 確かにそれが可能であるなら、この無意味な戦いも避けられるだろう。

 だがそれはもう無理なのだ。生体兵器である<レヴィアタン>に、『夢魔』の力に耐性を付けている。結瞳の支配には従わない―――

 

「それに、<LYL>のサポートがないんじゃ―――」

 

 そもそも結瞳は単独では世界最強の夢魔の力を完全に制御できない。

 だから、<LYL>―――<リリス>の能力を扱うための『仮想第二人格』を用意したのだ。

 

「―――ワカッタゾ。手伝イガ必要ナンダナ」

 

 応、と声を上げる後輩。

 蛇尾狼が、『龍尾の蛇頭』が咬みついた潜水艇を持ち上げると逆さにして、中で気絶していた中年男性を落とす。それから、毛玉を作るように暗緑色の尾をグルグルと巻き付かせる。

 

「ナラ、“コイツラ”ヲ蘇ラセレバイイ」

 

 <焔光の夜伯>の失われた『十三番目』の眷獣、<蛇尾狼の暗緑>。

 それが吸血鬼の象徴とする能力は、『蘇生』。

 『人間を人間のままに死者蘇生する』―――

 その力で、まだ微かに“残り香(におい)”のある<LYL>と繋がっていた潜水艇『ヨタカ』より、代々の<リリス>の――人間から魔族になって苦しんだ少女たちの――負の感情部分を濃縮した作り上げたという『仮想第二人格』を蘇らせる。

 

「_____――― ̄ ̄ ̄」

 

 巻き付いた尻尾に絞めつけられて搾り出るように、その隙間より淡い光が漏れ出てくる。

 光は生体兵器の背を、そして、海域にまで広がっていき、世界最大の魔獣を包み込むまでに拡大していった。

 海域一帯、その各所から光がポツポツと浮いてきて、カタチを成していく。

 それはハッキリとしたものに形成されていき―――少女のカタチとなった。

 結瞳を囲むように現れたのは、ピンクのような淡い紫色の燐光を放つ少女たちの御霊であった。

 もしかして、彼女らは―――

 

「クロウ、お前……」

 

「死ンデモ、苦シムノハ『墓守』トシテ見過ゴセナイノダ。

 ―――ダカラ、安ラカニ眠レルヨウニ、解放スル」

 

 ―――――

 

 彼女らの魂が輝きを放ち出した。その光が結瞳を中心に眩しくなっていく。

 

「先輩、これは―――」

 

 照らされる結瞳の背中を見つめて、雪菜が呟く。

 彼女が伝えようとしたことを、古城も気づいている。

 かすかな声が頭の奥に響く。

 仲間を呼ぶクジラたちの鳴き声に似た響き。言葉になる前のシンプルな音色。切なく、そして優しい、重なり合う旋律―――

 

 歌、だ。

 

 無垢な笑顔に包まれ、結瞳は歌を口ずさんでいる。否、正確に言えばそれは歌ではなくて、<リリス>がもつ精神支配の波動。それが古城たちの脳で歌声と誤認しているに過ぎない。

 しかし、その歌声は、<レヴィアタン>にも届いている。

 彼女の―――いいや、彼女たちの合唱は、この怒り狂っていた世界最強の魔獣を、子守唄のように鎮めていく。

 後輩が『仮想第二人格』より引き出した残滓から生まれる世界最強の夢魔たちの――ただの人間であったころに蘇らせた、木霊。彼女たちはひとつの大きな光となり。神々しいとさえ思える優しい光が、結瞳を包み込んで、『蛇』の荒々しく撒き散らされていた魔力の波が収まっていく。

 

 そう、結瞳は、<リリス>は、神々の生体兵器を説得している。

 

 そして、海面が波打ち始める。群青色の<レヴィアタン>の巨体が、海面下に潜っていく。その動きにはもう、こちらに対する敵意はない。『蛇』は結瞳の説得を受け入れ、そして、最後に『獣王』の粋な計らいに、高く潮を噴き上げ、虹を作ることで応じた。

 

「……<リリス>が、『夜の魔女』だって……?」

 

 言っていた奴ら全員にこの光景を見てみろ、と古城は叫びたくなった。

 <レヴィアタン>が創り上げたその虹を架け橋にして天に昇っていくよう、<リリス>の木霊は大気に少しずつ薄れて溶け込んでいく。

 そして、<レヴィアタン>の説得に力を使い果たしたのか、『夢魔』の魔力で紡がれたその背中の翼が同じように薄れて消えていく。ふらふらと高度を下げていく結瞳を海に落下する前に、フラミーがベットのように柔らかな体毛の背に乗せる。

 それから、蛇尾狼を解いて、海にぷかぷかと浮いているクロウ、とその首にしがみついて背負われているアスタルテを主人と一緒に龍母は口で銜えて拾い上げた。

 

「よくやったよ、クロウ」

 

「ん。古城君も姫柊もお疲れなのだ」

 

 そうして、最後にまた古城は少しずつ薄らいでいく虹を名残惜しむように眺めながら、どこがだよ、と呟く。

 “光の女神”の方がずっと似合ってるだろ―――と。

 

 

青の楽園 港

 

 

 『クスキエリゼ』の会長久須木和臣は、テロの容疑で逮捕拘束。

 元々エコテロリスト『トゥルーアーク』の支援者として物議を醸していた男で、今回の事件でこれほどの証拠を曝け出したとなれば、弁護は不可能。

 ただし、テロの道具に使おうとしたのは、蛇は蛇でも遥かに小物の『大海蛇(シーサーベント)』に変更された。

 

 <レヴィアタン>は神々の時代の生体兵器。神聖不可侵の怪物。

 それが一時とはいえ人間の支配下に陥ったことが判明すると、また同じことを繰り返す輩が出てこないとは限らない。

 だから、真実は封印される。

 今回の騒ぎも、『大海蛇』が特区警備隊によって駆除され、かまぼこの材料として美味しくいただかれた……と言う事件概要で公式発表される。

 

 解体された『クスキエリゼ』、幸いにして損傷が軽微で済んだ『魔獣庭園』および研究開発された『蛇の仔(タラスク)』は、人工島管理公社の息のかかった企業が引き継ぐことになり、

 結果をみれば、『魔族特区』絃神市は、労せず魔獣の飼育設備と世界最強の魔獣の遺伝子を持った複合魔獣(キマイラ)を手に入れることができたことになる。

 しかし、これは騒動の思わぬ副産物に過ぎない。

 

「―――あの馬鹿どもを無理やりに巻き込んで、太史局の穏健派を嵌めることができたな<静寂破り(ペーパーノイズ)>」

 

 先日、連絡船から降りた、日射に弱い少年が休んでいたベンチ。

 そこに日傘の女性と、本を抱いた少女が並んで座る。

 

「ええ、助かりました<空隙の魔女>。<第四真祖>がいなければ、私たちは貴重な手札の多くを失うところでした。結果的に『青の楽園』も救われましたし」

 

 最初から<レヴィアタン>を<第四真祖>の力を以って撃退するつもりであった。

 

 裏で手を引いていた太史局の相手―――獅子王機関は最初からすべてを理解していた。

 太史局が久須木和臣を利用したことも、彼らの狙いが『藍羽浅葱の抹殺』であることも。

 だから獅子王機関は『クスキエリゼ』に舞威姫を送り込み、『覗き屋(ヘイムダル)』に案内役をさせ<第四真祖>が<リリス>と接触するように仕組んだ。被害を最小限に抑えるために、藍羽浅葱を『青の楽園』に連れてきたというのも単なる方便。

 

 そして、念のために『カインの巫女』の守護獣たる<黒妖犬(ヘルハウンド)>を、『クスキエリゼ』および太史局の誘いに乗り、『青の楽園』へ派遣させるよう、主人を説得した。

 

 過程はどうあれ、結果的に、事態は獅子王機関の思惑通りに決着がついた。

 

「今回の一件で、太史局には大きな貸しができました。政府内の政敵も多く失脚することになるでしょう。しばらくはこのような形で『カインの巫女』が狙われることはないでしょうね」

 

「そう願いたいものだな。可愛い教え子の命が狙われるのは、良い気分ではない。馬鹿犬も巻き込まれることになるらしいしな」

 

 ふん、と日傘の女は鼻を鳴らす。

 

「そういえば、その馬鹿犬が()ってきた『冥狼』はどうした?」

 

「『覗き屋(かれ)』から話は聞いております。<冥餓狼>を手にした絃神冥駕を“殺さずに”捕縛したことは大いに助かりました。優秀な武神具開発者であった彼のもつ技術と知識

を“眠らせておくのは惜しい”ですからね」

 

「手酷く咬みつかれたというのにまたヤツを利用するつもりか。悪い事は言わん。<監獄結界>に閉じ込めておいた方が良いぞ。あれはイヌではなく、オオカミだ。それも復讐に狂ったな。獅子王機関にオオカミを使役することはできん」

 

 苦言を呈された本を抱いた少女は、しかし、乱さない。

 反論はしないこそ、その程度のリスクは考慮済みで、手札に加えている。

 <監獄結界>の最後の脱獄犯『冥狼』絃神冥駕は、現在、<監獄結界>ではなく、獅子王機関からの希望もあって、人工島管理公社の独房に入れられている。元宮廷魔導技師であった叶瀬賢生の身柄を人工島管理公社と取引したアルディギア王国と同じように。

 

「さて……これで<黒妖犬>の監視役の権利を、太史局から手放させることができるようになりましたけど」

 

 クス、と少女は微笑を作り、

 

「ちょうど任務に空きができて、監視役に適した年頃の人材は剣巫と舞威姫にひとりずつ、どちらに六刃神官の引き継ぎをさせればよろしいですか?」

 

「どちらも結構だ商売敵。あれは私の眷獣(サーヴァント)だ。それに、オオカミ一匹の躾も満足にできん組織に、馬鹿犬の幉を引かせられるとは思えんのでな」

 

 クルクルと苛立ったように日傘を回し、殺気立つ視線をやる魔女。

 説得の材料として獅子王機関の長のひとりが挙げたのは、『太史局の監視役を自分の眷獣(サーヴァント)から外させることができるかもしれない』というものだ。

 『太史局の監視役を外して、代わりに獅子王機関の人員を派遣する』などとその“契約”を反故にはしていなくとも、その裏をかこうと欲張るというのならば、魔女は敵に回るかもしれぬ。

 

 いたく気に入られたのか、あの子は縁堂縁から手解きを受けているようだし、ならばこのまま縁堂縁に任せ、わざわざ監視役を送ることもない。

 『冥狼』を抑え付けられる貴重な人材を手のうちに入れておきたい気はなくもないが……

 

 膝の上に抱いた本の表紙を撫でながら、リスクを考慮した少女は現状維持を受け入れることにする。

 

 

「わかりました。<黒妖犬>の管理は国家攻魔官に任せ、我々、獅子王機関から監視役を送るのはやめることにしましょう」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 絃神島の住人は台風と同列とみなせるくらいに、魔導災害には慣れっこである。

 <レヴィアタン>が深海に帰ったことで、『青の楽園』に出されていた避難警報は解除。『魔獣庭園』の復旧には時間がかかるものの、プールと遊園地は、施設の点検が済み次第、営業を再開する。

 来場者の三割ほどは島外に逃げたが、残り七割は居座って、そのまま余暇を過ごすらしい。たとえそれが世界最強の魔獣の襲撃であっても、島の住人の日常はそう揺らがない。

 

 そして、その三割に続いて、島から出るものがここに。

 

「………否定。任務完了前に、私だけ帰還させる必要はありません」

 

 港に停泊する護岸警備隊の船へと向かう藍色の髪をもった人工生命体の少女と彼女を乗せた車椅子を押す厚着の少年。

 声が五割増くらいに硬い、さきほどからずっとこんな調子で抗議してくる後輩に、クロウは小さく溜息を吐いた。

 そんなにも“ひとりで置いていく”には心配される先輩なのだろうか自分は、とそんなことを思ってしまったからだった。

 

「アスタルテ……お前、今回の事件で無茶したんだから、かかりつけの病院行ってちゃんとメンテナンスを受けなきゃダメなのだ」

 

命令拒否(ディナイ)、問題ありません。私の運動神経機関並び内臓魔導器官、生命維持状態もオールクリアです。活動に支障はきたしません。なので、先輩に車椅子で運ばれる必要はなく―――」

命令拒否拒否(でぃないない)なのだ」

 

 ぐぐぐ、と車椅子から立とうとするアスタルテを、頭に左手を乗せて押さえつけるクロウ。

 実際、医大生くらいの医療知識があり、普段、自分で自分のメンテナンスをしているアスタルテは、自分の体調を把握し、そして自己診断であるも問題はないとみている。つまり、これは過保護だ。そう、アスタルテはみている。

 

「あのな。いくらお注射が怖いからってなー」

「否定、先輩と一緒にしないでください」

 

 4000mもの世界最強の魔獣を豪力で薙ぎ倒さんとして、しかも薬毒の類が一切効かない獣王が注射針一本に何を恐れているのだと、そんな先輩を微笑ましくも叱咤してやりたい気に駆られる。

 

「むぅ~……」

 

 つんけんしているというか、前を向いているのに背後の自分に向かってひしひしと妙な迫力を押してくる。

 あいかわらず無感情というか、今日は仏頂面とでもいうところなのだが。ありありと不服な“匂い”をさせる。

 

「ご主人がわざわざ迎えに来てくれてるんだぞー。それを無下にするのはダメなのだ。残ってる仕事も、『クスキエリゼ』から別の企業(とこ)に引き継がせる魔獣たちの面倒だけだし、オレひとりでもできるぞ。夏音の代役も、アスタルテと一緒に帰ったってことになってるし」

 

「………」

 

「ぅ、先輩命令! アスタルテは病院に行って診断を受けるのだーっ!」

 

「………」

 

 沈黙。いつものあの決まり文句がない。

 クロウはまたがっくり項垂れる。そんなに先輩の威厳がないのかオレ、と。

 

「う、わかったぞ」

 

 と、クロウは顔を上げた。

 

「アスタルテ、お前、なんか欲しいものがあるか?」

 

「………欲しいもの、ですか?」

 

 きょとんと小首を傾げて反応を見せてくれたアスタルテに、クロウはうんうんと頷く。

 

「今回はアスタルテには頑張ってもらったからなー。先輩として、後輩の頑張りには報いてやらなきゃダメだろ? う、特別ボーナスってヤツだな」

 

「生活管理に必要な出資は教官(マスター)よりいただいてますが」

 

「だから、先輩からのご褒美なのだ」

 

「………」

 

 しばらく、アスタルテは考え込んでいた。

 きっかり十秒で、答えが出た。

 

「ひとつだけ、望みがありました。よろしいですか?」

 

「う、何でも言うのだ。あ、でも、先に言っとくけど、オレにもできることとできないことがあってな。それから、できればお小遣いを超えるのは勘弁してほしいぞ。夏音たちに『青の楽園』のお土産買うって約束してるし」

 

「先輩の預金は全て把握・管理しております。……おそらく、先輩に問題なく実行可能と存じます。金銭にも関連しません」

 

「じゃあ、言ってみるのだ」

 

「肯定」

 

 うなずいて、人工生命体の少女は車椅子に座ったまま背伸びするように頭の位置を心持あげる。

 

「ん?」

 

「頭を撫でてください」

 

「う?」

 

「注文。キチンと手袋を外してお願いします」

 

 間抜けにもぽかんとするクロウ。

 頭を撫でる→『波朧院フェスタ』でご主人に倣い、クロウが先輩の威厳を見せようとした行為と同じ→つまり、アスタルテは下剋上を狙っている!? ―――いや、それはないか。

 かなり長い間、うんうん考えてみたが結局、

 

「わかったぞ」

 

 と、少し迷ったが、手袋とを取り、藍色の髪の間に指を差し込んだ。

 なるだけ丁寧に……したかったけど、乱暴にぐちゃぐちゃに嗅ぎ混ぜてしまう。

 それでも、人工生命体の少女はどこか嬉しそうに口角を緩やかにあげてくれた。

 

「痒いところがあったのか?」

 

「否定。床屋でも、毛繕いでもありません」

 

「んー、でも、なんか機嫌良くなってるんだぞ」

 

「……別に、何でもありません」

 

 言いながら、そっとアスタルテは瞼を閉じた。

 

 これはきっと、彼自身は意識してないことなのだろうが。

 この少年は、自分から誰かに触るという行為をあまりしない。

 ……でも、こちらから伸ばせばその手を取ってもらえることを彼の後輩は知っている。

 

「こうやって……先輩から……触れてもらうだけで……」

 

 そして、とても気持ちよさそうに、少年が押す車椅子に腰を深く、落ち着けさせ。

 そのまま、こっくり、と頭を下す。

 

「アスタルテ!?」

 

 血相を変えた少年が、すぐに呆然と目を丸くした。

 すう、と安らかな寝息が聞こえたからだ。

 

「ん……そういえば、昨日からずっと徹夜だったのだ」

 

 ふわぁ、と少年も欠伸をひとつ。

 そして、停泊する船を背景に仁王立ちする主人の姿を見つけ、ぶんぶんと尻尾を振るように手を振った。

 

 

青の楽園 エリュシオン コテージ

 

 

 アスタルテをご主人に預け、港からコテージに戻ると、そこに古城らはいなかった。

 

「古城君なら、遊びに行っちゃったよ! 今回の旅費って、古城君のバイト代から出てるみたいなんだけど、それをすっぽかしてアルバイトのチーフさんがもうカンカン! うん、すっごく怒ってたよー、でも、古城君が結瞳ちゃんに一緒に遊園地とプールに連れて行くって約束してて、それで結瞳ちゃんにお仕事ダメって駄々こねられちゃってね。だから、午前中は古城君、責任とって結瞳ちゃんに付き合うことにして、その間は、矢瀬っちに代理に任せることにしたの」

 

 とシスコンにホモ疑惑に続いて、ロリコンの称号を受賞した、実は世界最強の吸血鬼である兄の現状を、ニュースアナウンサーのように噛まずに早口でクロウに説明してくれたのは、たった一人でコテージに残っていた凪沙。どうやら、結瞳に付き合う古城、その二人が気になりついていった雪菜と浅葱という感じに、コテージから人がいなくなっているらしい(舞威姫は浅葱の友人である『戦車乗り』のところに休んでいる)。

 そして、ひとり凪沙がリビングのソファに座ってぶらぶら足を動かしていたところ、その姿勢ではっとクロウの訪問に気が付いて、ぴょこんと跳びはねて、パタパタと早足で出迎えてくれた。

 

「う、そうなのか。大変だったな。でも、凪沙ちゃんはどうしてここにいるのだ? 古城君と一緒に遊びに行ったりしないのか?」

 

「え、あ、うん……ほ、ほら、昨日はいっぱい遊んだから、起きたら急に疲れがどっと来たような気がしたようなしないような、お留守番することにしたっていうか……―――だから、待ってたらクロウ君が来るかなー、とか考えてないよ全然!」

 

 わたわたと手と頭を一緒に振る凪沙に、うんうんと素直に頷くクロウ。

 

「そっかそっか。凪沙ちゃんもお疲れなんだなー」

 

「うん……クロウ君にこういう変化球はダメだってわかってたけどね。

 それで、『凪沙も』、ってことはクロウ君、疲れてるの? 大丈夫?」

 

「うー、ちょっとおねむなのだ。だから、仕事を頼まれている昼頃まで、ここで小休止させてほしい、ぞ」

 

 クロウは口元に手を当てると、あむあむと寝息を噛むように口を動かし、涙が滲ませる目端を手の甲で拭う。

 

「―――よし!」

 

 グッと両拳を揃えて何やら気合を入れた凪沙が、ソファの端によると居住まいを正して、ポンポンと膝を叩く。

 

「良いよ、クロウ君。準備万端!」

 

「何がなのだ?」

 

「膝枕だよ」

 

「………あう?」

 

「あれ? クロウ君、膝枕って知らない?」

 

「いや、知ってるぞ」

 

 でもなんでそれをするのかが疑問に思うクロウ。

 疲れてはいるけど、別に二階の寝室に行くくらいの手間を惜しむつもりはないし、その気になれば床にだって寝れる。

 

「クロウ君は疲れてます」

 

「うん」

 

「そこで、膝枕です」

 

 紙芝居で拍子木を打ち鳴らすように、再びパパンと太ももを叩く凪沙。合いの手を入れるように聞き役のクロウは小首かしげて、疑問符を浮かべる。

 

「何でなのだ?」

 

「女の子の膝枕には、男の子を癒す力があるんだよ!」

 

 朗々と言われると、根拠とかわからなくても、なるほどと頷いてしまうクロウ。

 笑顔で――少々照れたように赤らんでいるも、こうなったらやけっぱちなテンションで押し切るように――さあさあ、と促す凪沙。

 まあそうなのか、と頷くクロウは、凪沙に手を掴まれ、導かれるようにして、その小さな膝の上に頭を乗せた。

 視界が自然と上を向く。そして、

 

「どう、クロウ君?」

 

 何だか嬉しそうにニコニコと笑う少女。

 そっとクロウの髪を軽く撫でながら、顔を覗き込んでいる。

 

「あたしの太もも、柔らかいでしょ。昨日、焼き肉をたくさん食べて太っておいたんだよ」

 

「ん。凪沙ちゃん、太ったのか」

 

「冗談に決まってるでしょクロウ君。本当に太るなんてダメだよ……そんなことして、見向きもされなくなっちゃうのはイヤだし」

 

 最後の方がゴニョゴニョとしていたけど……自然、瞼が落ちる。

 説明はできないけれど。頭の後ろに感じる柔らかさに、人肌の温もりが伝わってきて、ものすごく安心する。

 そのふわふわとした心地良さと温かさに、そして、少しだけひんやりとした手の平に当てられると心が落ち着いて……一気に睡魔が襲ってくる。

 

「うん、本当なのだ。すごいな膝枕」

 

「そうでしょ、すごいでしょ。昼頃になったら起こしてあげるから。ゆっくりおやすみ……」

 

 その言葉に誘われるように、クロウの意識は急速にあたたかな闇の中に消えていった。

 

 

 

 どこか遠くで潮騒の音が聴こえ、リビングに静寂が初雪のようにしんしんと積もる中、

 

「本当に……お疲れだったんだね……」

 

 顔には疲労が見えるものの、すぐ安らかな寝息を立てたのにホッとする。

 そっと頬を撫でる。慈しむような、優しい手つき。そこから彼を労わる気持ちが伝わってくるよう。

 

「クロウ君……」

 

 寝顔を見るのは、初めて。だけど、どこかで見た気がする……そう、修学旅行前に古城君が連れてきた赤ん坊に、似てる気がする。それと重なってしまうせいか、どこか幼く見えてしまう。

 

「クロウ君の……顔……おでこ……頬……♪」

 

 言葉通りに、額に頬、鼻筋……そっと撫でていく。

 

「唇……」

 

 そっと触れる唇。ぷにっとした柔らかなあたたかさが、指に伝わってくる。

 ちょっとくらい突いても起きない彼の寝顔を這わせた自分の指を見つめて、少女ははにかむような微笑を浮かべた。

 そして、その指を自分の唇の前に持っていき、当てるか当てないか迷うように寸前で留まり……

 

 

 

 バタン、と。

 

 

 

「―――っと、財布を忘れてきちまった。おい、凪沙。身体大丈夫なら、お前も一緒に……」

 

 近づく気配は、きっと兄。忘れ物して戻ってきたのだろう。

 どたばたと煩い兄に、凪沙は少し眉を吊り上げて、蛇睨みの如く視線で止めさせる。

 

「クロウっ!? おま―――」

「(古城君! 折角、クロウ君が寝てるんだから、静かに!)」

 

 しぃ、と―――唇に指を当てて―――注意を促す。

 

 妹から思いっきり凄まれた古城はたじろぎ、そして、その妹に膝枕されて眠っている後輩を見て、状況を悟る。

 ……普段であれば、おいこらテメェ! と怒鳴りつけて叩き起こしたところだが、この後輩は古城がうっかり寝落ちしたところを自分たちのために徹夜で働き、世界最強の魔獣にさえ立ち向かったことを知る古城は、あまり強く出づらい。それが枕にするのが妹の膝でなければ、休んでもらっても全然かまわないし、むしろ勧めるところなのだが……

 

 まあ、後輩(クロウ)にそんな色気のあるイベントが起こるわけがないか、と無理矢理に納得させて、荒ぶる兄心を抑え付けた古城。

 そして、これ以上、無に努めようとする心に刺激は与えないよう、リビングから視線を外して……だから、気づけなかった。

 

「………間接……しちゃっ、た」

 

 ぽん、と真っ赤に白煙を上げる妹の様子に。

 くうくうと少年の立てる寝息が、窓より差し込む眩しい常夏の光の中に、溶け込ませていった。

 

 

 

つづく

 

 

 

???

 

 

「………なあ、零奈。20年前にラスク連れてっちゃダメか?」

 

「無理でしょ。萌葱ちゃんがサポートしてくれるからって、<天球の蒼(エクリブティカ・サフィルス)>に限度があるわよ。20年前は眷獣くらいのちっちゃな赤子タラちゃんだったけど、今ではちょっとした丘くらいビックよあれ。今度、あの甲羅の上に『魔獣庭園』の移動式テーマパークを建造しようかって話があるくらいだし」

 

「でも、相棒のラスクと一緒だったら、今度こそ父ちゃんを倒せる!」

 

「それも無理無理。20年前のクロ君にはこの前の試験時間転移(テスト・ジャンプ)で会わなかったけど、今ではクロ君、『大罪制覇(グランド・ビースト)』なんて呼ばれる偉業しちゃったじゃない。古城君が、『凪沙叔母さんと結婚したければ、『七つの大罪』とケンカして勝ってこい』っていうから、本当にしてきちゃったんでしょ」

 

「うん。案内役を買って出てくれた師匠と一緒にいってきたらしいな」

 

「古城君、半分冗談で言っちゃったから、それでママたちに説教されて……結婚前なのに、『新婚旅行前に他の女と一緒に世界旅行に出かけた』って凪沙叔母さんも騒いで大変だったんだってね」

 

「ムツミ姉ちゃんが言うには、父ちゃんが帰ってくるまで王様は針のむしろで大変だったみたいだなー」

 

「一番クロ君が帰ってくるのを切望してたのはパパだったんだね」

 

「ぐぬぬぅ……そういう今も、父ちゃん、母ちゃん置いて出張してるんだ!」

 

「仕方ないんじゃない。クロ君、『暁の帝国(ライヒ・デア・モルゲンロート)』と結びつきの強い同盟国である北欧アルディギア王国の外交大使なんだし。世界最強の真祖の古城君は領主で動かせないから、その義弟で同じく世界最強の獣王が、どうしても海外派遣されることが多くなっちゃうわよ。といっても、実質的な外交業務は、秘書のアスタルテさんがやってるでしょうけど」

 

「ぐぬぬぅ……!」

 

「どうして、クロ君にそこまで反抗期になるのかねぇシロ君は。あたしのガチガチで口煩いお堅いママよりずっといいのに。

 ま、どっちにしろ前回、問題行動を起こしたシロ君はお留守番って決まってるから」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 ―――甲高い音を立てて、硝子のように砕け散る、刃……

 

 

 それは、獅子王機関の秘奥兵器『七式突撃降魔機槍』、銘を<雪霞狼>。

 <第四真祖>の監視役として派遣される剣巫に与えられた武神具―――

 これがなければ、監視対象である真祖を殺せない―――先輩の傍にいられる資格をなくすも同じ。

 

『………』

 

 結びつける絆ともいえる大事な武器を大破してしまった私を見る、先輩の目は、何も感じない。気怠い雰囲気だけど、その裏にはいつも何か強い感情を秘めていて……でも、今のそれは興味を失くしてしまったよう。

 

 待って!

 

 何も言わず、先輩はこちらに背を向けて、歩き出す。

 

 待ってください先輩! 

 

 必死に追いかけるも、先輩との距離は開いていくばかりで。

 

 私は―――

 

 そして、こちらに背を向けた先輩が行く先にいたのは―――いつも厚着の同級生の、男子……

 

 

 

「―――って、クロウ君っ!?!?」

 

 監視対象――暁古城のいる部屋の隣の705号室。

 家具も何もない殺風景な部屋だったけれど、ここ最近はかすかな温もりを感じさせる私物が増えてきている。

 そして、暁古城の監視者である姫柊雪菜は、カラカラに渇いた喉の渇きを潤すため、台所に一杯の水を飲む。

 

「今の夢……」

 

 霊視をもった霊能力者は、時に、その霊視能力が休眠状態に暴走し、一瞬先ではなく、近々起こりうる未来を視る―――『予知夢』をすることがあるという。

 それは大概、不吉なものが多く、よく当たる、といわれる。

 

 大破した銀槍、

 監視役でなくなった自分から離れていく先輩、

 そして、先輩が自分の次に選んだ相手が、同級生……

 

 不吉だ。ちょっと冗談じゃないくらい不吉過ぎる。

 普段、『女の子にふしだら真似はNG』と小言をよく口にしてるけど、それは別に『じゃあ、男の子にするのはOK』という意味ではない。むしろ、アウトだ。もし目の前で彼らの吸血行為なんて見せられたら立ち直れない、最悪、男子禁制の高神の社に一生尼になって引き籠るかもしれない。

 

「……でも、先輩が一番に頼りにしてるのはクロウ君なんですよね」

 

 男女の違いはあれど、同じ年代。

 けれど、武神具があったとしても、その実力の差は徐々に大きくなり始めている。

 

 この前、『青の楽園』であった六刃神官。<生成り>を身につけた『影の剣巫』に、トドメこそ刺されなかったけれど、剣巫の雪菜は敗北した。

 しかし、彼はその六刃神官を単独で撃退したという。

 他にも多くの強敵を打ち破り、また対象の位置を嗅覚で感知する超能力をもっており、先輩の助けとなっている。また、自分が絃神島に来る前から、先輩と付き合いがあって……

 そう。

 先輩が自分より彼を頼りとするのは当然のことでないか。

 

 水を飲み干して空になったコップを置く。

 

「そうですよね。私がいなくなったって、先輩は……」

 

 

 

つづく



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白の剣巫Ⅰ

姫柊雪菜強化イベント


???

 

 

 『暁の帝国』。

 魔族による自治を認められた世界で四番目の『夜の帝国(ドミニオン)

 かつて絃神島と呼ばれていた極東の『魔族特区』を首都として、日本政府との協議の上、独立国としての地位が認められている。

 『大戦』で発生した『遺産』のおかげで土地面積はだいぶ拡張されているようで、20年前の4倍に人口は膨れ上がっており、400万人を超えている。

 『最高技術顧問』の指揮の下で、かつての神代の時代の失われた超科学技術を回収しては蘇らせ、また彼の魔導技術大国北欧アルディギアとの交流もあり、世界的に1、2世代は進んでいる技術力を有し、保有している戦力も年若くも活躍し始める次世代の才媛たちを始めとし、領主を含めて『世界最強』の称号を冠するものが控えている……

 

「……『世界最強』なんて言われても、古城君もクロ君も普段は全然そうは見えないんだけどね」

 

 実験機器が円周状に設置された部屋。

 これは『暁の帝姫』の<天球の蒼>を、正確な時間と場所に移動させるよう、『電子の女教皇』が魔術的なサポートするために造られた実験室。

 

 そこで、出立前にこれから行く“過去”を思ってか、帝姫の何気なく零した呟きを女教皇は拾い、調整しながらも話しかける。

 

「どうしたの零奈? 何か考え事?」

 

「いやね、萌葱ちゃん、世界最強の真祖と獣王があたしたちくらいの頃はどうだったんだろうなって。ママたちに領主として立てられてるけど、古城君、家では尻に敷かれてもいるし、シロ君をデコピン一発でノックダウンしたクロ君も、歯を抜かれるだけでギャーギャー騒いでたって言うし」

 

「まあ、二人とも普段はそんな偉ぶらないから。でも、いざとなったら母さんたちみんな古城君に従うし、

 それと歯を抜かれるだけって、あれ、母さんと一緒にあたしも立ち会ったんだけど……那月ちゃんがわざわざ引っ張り出してきた拷問器具じみた魔具で締め上げてから、深森さんが解体器具としか思えない道具を使って喜々(鬼気)として引っこ抜いたのよ。『すごい金脈を発見したわ!』って大満足だったみたいで『またよろしくね娘婿君』って言われた時のクロ君にはあたしも目も当てられなくなったわ」

 

 育ての親な女王様に抑えつけられる義理の息子をマッドなサイエンティストは存分に堪能できた一時。口の中を弄りながら、モンスターハントゲームで超稀少な素材採取に似た歓声を上げる叔父の義母であり、自分たちのグランマ。それはそれは楽しそうに楽しそうに楽しそうに……満喫する感じは、論理で封殺できるものではなく、もっと体感的な快楽や達成感と直結していたことだろう。

 

「あー……なんかそのときの深森おばあさんが目に浮かんできた。うん、想像するだけで怖い」

 

「でしょ。でもね、きっと零奈の想像よりもさらに上をいってると思うんだ。真面目な話あれ、古城君のように殺しても死なないか、クロ君みたいに十二の難行でも壊せないくらいでないとお陀仏」

「やめて萌葱ちゃん! わかったから! これ以上聞かされると、昔のクロ君に会ったら涙なしに見れなくなっちゃう!」

 

 両手で耳を押さえてしゃがみ込んでしまう妹分に、女教皇はくすくすと笑う。

 ちょっとばかり脅かし過ぎたか。いや、実際にあった話で、事細かに情感たっぷりに語り聞かせ、恐怖体験を誰かと共有したいと狙った気もなくはないけど。

 

「いきなり泣いちゃうくらいならいいけど、クロ君には気をつけなさいよ零奈。わかってると思うけど鼻がすごく利くし、思ったことをポンポンと口にしちゃう性格だから」

 

「うん、ちゃんとわかってるよ萌葱。“ネタバレ”はNGでしょ」

 

 

モノレール

 

 

『さようなら、姫柊』

 

 

 そういって、槍を壊してしまった私から、先輩は背を向ける。

 そこで、いったい私は先輩に何を言うつもりだったのだろうか。

 でも……

 

 

『俺に必要なのはやっぱり―――』

 

 

 ひしっと先輩は、同級生と熱い抱擁を交わして……―――この図はいくらなんでもあんまりだと思う。

 

 

 

 

 

 天気は、快晴。時刻は放課後。

 海岸線を走るモノレールの車体を、真昼の太陽が眩く照らしている。

 

「あー……眠……」

 

 アルミニウム製の車両のドアにもたれて、暁古城は気怠げに呟く。

 市内を循環するモノレールは、絃神島を構成する四基のギガフロートのひとつ――人工島西地区(アイランド・ウエスト)へと入るところだった。小洒落たレストランやブランドショップが建ち並ぶ、絃神島最大の商業地区である。そこへ向かうモノレールの乗客たちも、心なしか、華やかなファッションに身を包んだ若者が多い。

 

「くそ、この島は秋冬になっても無駄に天気良過ぎるだろ……俺を焼き殺す気か……」

 

 しかし古城は、変わり映えのしない普段着のパーカーのフードを目深に被り、車窓から射しこむ陽光を恨みがましく睨んでいる。

 

「もう、古城君しっかりしてよ。吸血鬼じゃあるまいし」

 

 そんな古城を呆れ顔で眺めて、制服姿の凪沙が首を振った。冗談めかした妹の言葉に、古城がぎくりと顔を強張らせる。

 古城が成り行きで『世界最強の吸血鬼』の力を手に入れてしまったことは、実の妹である凪沙にだけは知られてはならない秘密。魔族恐怖症である凪沙がそれを知ったら、おそらく彼女はひどく苦しむことになる。

 

「それにしても古城君たちはどうしてわざわざ繁華街に行くの? しかも雪菜ちゃんを連れて。あ、もしかして、古城君がデートに―――」

 

「ちげーよ。ちょっとした気分転換だ」

 

 変な方向に推理を持っていこうとする妹を遮り、古城はやれやれと嘆息する。

 

「すみません、先輩。なんか付き合わせてしまって」

 

 二人のやり取りを聞いていた姫柊雪菜が、遠慮がちな口調でそう言った。

 凪沙と同じ女子制服姿、そして、背中に愛用の黒いギターケースを担いでいる。ただしその中に入っているのは、ギターではなく吸血鬼の真祖をも殺し得る破魔の銀槍――『七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)』と呼ばれる獅子王機関の秘奥兵器である。彼女はこう見えても日本政府から派遣された古城の監視役なのだ。

 

「ああいや、別に気にすんな。俺も偶には繁華街をぶらつきたかったしな」

 

 古城が投げやりの口調で言う。雪菜は絃神島の地理に不慣れだろうし、おまけに一般常識にも少々疎い。それに高神の社ではほぼずっと修行漬けだった彼女にひとりで遊べと言われても、なにするかわからないだろう。

 

「それより、凪沙がひとりで繁華街行く方が心配だしな。流石に菓子につられて知らない大人についていったりはしないだろうけど」

 

「またそうやって凪沙をすぐに子ども扱いして! どうせ心配するなら、ナンパされるんじゃないか、とか、芸能界にスカウトされるんじゃないか、とか、そっちでしょ!」

 

 古城の言葉に、凪沙は不満げに眉を吊り上げて反論。古城は妹の抗議に手をひらひらさせて適当に受け流す。

 

「はいはいそうだな。それで凪沙は、繁華街に何の用なんだよ」

 

「別に何でもいいでしょ、ふんだ!」

 

「拗ねるなよ……まさか、デートとかじゃないだろうな?」

 

「違うよ!」

 

「いやでもな、部活休んでまで凪沙がひとりで繁華街に行くなんて、そうないだろ……だから、ほら、チャットとかで顔も知らない相手に言葉巧みに誘われて今日会う約束したんじゃないかって心配……」

 

「もう、古城君は本当に凪沙を子ども扱いして! 出会い系のチャットなんてしてないし、古城君みたいにいかがわしいサイトなんて覗いたことないよ!」

 

「俺だってしてねーよそんなことっ! それと子ども扱いしちまうのは凪沙が子供だからだろうが。中学生なんて全然ガキだっつうの」

 

「もう、たった一年違うだけなのに高校生ってだけでそんな大人ぶるなんて。

 ……お買い物だよ。本土に行くための準備。服とか買うの。今年の正月は帰省するって昨日牙城君から連絡があったの」

 

「はあ? 親父から? なんだよそれ俺全然聞いてねーぞ」

 

「古城君はお留守番だから。絃神島の離島許可証はお安くないし、混雑するから年末の本土行きの航空チケットはお高いんだよ、よって、古城君の分は用意するつもりはない……ついてきたかったら自費でどうにかしろ大人な高校生って牙城君が」

 

「最後のはお前のアレンジが入ってるだろ」

 

「ふん。だから、繁華街に行って冬物を買い揃えるの。本土はきっと寒いだろうし」

 

「……この前、研修旅行に行くときにも、本土に行く準備したんじゃないのか」

 

「あれは秋。今は冬だよ古城君。一年中気候が変わらない絃神島にいると感覚鈍ってくるけど、秋と冬は大違いだよ」

 

「わかったわかった。……買い物なら買い物だって、最初からそう言えってんだ」

 

 ……と、兄妹のやり取り。いつもなら白熱する前に口を挟んでくれる少女が、蚊帳の外で、ぼうとしている。何か考え事しているのだろうが、ここまで無視しているのは珍しい。

 

「……なあ、姫柊?」

 

「え、は、はい何ですか先輩!?」

 

 心ここに在らずな調子をあえて古城は指摘せず、

 

「俺たちもなんか服を覘いていくか?」

 

「いいね! 雪菜ちゃんの私服姿ってあんまり見ないし」

 

「そういやそうだな。姫柊って、大抵制服だし」

 

「高神の社は全寮制だったので、外出着とかほとんど持ってなくて」

 

「ええー、もったいないよ。雪菜ちゃんならいくらでもオシャレな服が似合うと思うのに」

 

 ここぞとばかりにやる気に満ちた凪沙が、雪菜の服をコーディネイトに燃えに燃える。実際、凪沙がそう言いたくなる気持ちは古城もよくわかる。アイドル級の端整な容姿を持つ雪菜は、実に着飾らせ甲斐のある素材なのだ。

 しかし肝心の雪菜本人は、あまり服選びに自信がないらしく、

 

「今日、繁華街に行くって決めてから、美波ちゃんに雑誌を借りて一応色々と情報収集を。最近の流行も調べてみたんですけど」

 

 そう言って、ギターケースのポケットから真新しい雑誌を取り出した。今日の昼休みから短い時間ながらも、雑誌のあちこちに付箋を貼り付けたりして、雪菜の研究の跡を示している。

 古城は感心したように軽く眉をあげ、

 

「へえ。ちょっと見せてもらってもいいか?」

 

「はい。このあたりのはどうかなって」

 

 そう言って雪菜が指差したのは、白地にピンクの縁取りが入ったトレーニングウェアだった。

 

「おお! ルディダスのニューモデルか。いいよな、それ。軽くて動きやすそうだし」

 

「はい。UVカット機能のある生地ですし、強度と速乾性にも優れているそうです。それにリバーシブルなので一枚で二択着こなせるんです」

 

 感嘆の息を洩らして同意する古城に、雪菜は嬉しそうに説明を続ける。

 

「こっちのスポーツタイツも結構良かったぜ。俺が使ったのは一個前のモデルだけど、膝や腰の負担がだいぶ減って楽だった」

 

「そうですか。では、それも試してみます。私も少し気になってたので」

 

 と盛り上がる古城と雪菜。そこに微妙な表情を浮かべる凪沙が口を挟む。

 

「ちょ……ちょっと待って。ルディダスのニューモデルって、それ……ジャージだよね?」

 

 凪沙の疑問に雪菜は、きょとんと小首を傾げて、

 

「……え?」

 

「え、じゃなくて。外出着を買いに来たんじゃなかったの? なんでスポーツウェア一択? オシャレな服は?」

 

「だから、お出かけ用のジャージじゃないのか? 本土にいた時はオレも冬はジャージによく世話になったし。それに洒落てるだろ、これ?」

 

 不思議そうな表情で確認する古城。元バスケ部の古城にとって、外出着といえば当然ジャージ。冬物といえば断然ジャージである。そのあたりの感覚は、雪菜も同じだったらしいのだが―――

 

「いやいやいやいや、洒落てるって言っても所詮ジャージだから! 運動服だからね? 世の中には、もっと普通にオシャレな私服があるから! 二人とも思考が体育会系過ぎるよ……シンディもなんでジャージ専門の雑誌を雪菜ちゃんに貸し出しちゃってるの……きっと古城君が布教したりした影響なんだろうけど……」

 

 頭を抱えて大げさに嘆く凪沙。妹に自分のファッションセンスを諸悪の根源みたいに全否定された古城は、苦々しげに唇を歪めて、

 

「……別にいいだろジャージ。機能的に優れてて、シンプルで洒落てるんだから完璧だろ。この前、『青の楽園』のお土産選びに悩んでいたクロウにアニマル柄のついたのを勧めたけど、すっげぇ喜んでたぞ。那月ちゃんや叶瀬やアスタルテの分も色違いのを買って、壬生狼のユニフォームにするんだって」

 

 黒、白、青、と後輩自身の赤のを選んで戦隊ものっぽく。

 もっともそれは、『可愛いは攻撃力』という主張の下、ゴスロリファッションを貫き通すカリスマ女教師に却下されたが。

 

「え、クロウ君が……」

 

 と、数秒ほど何かを頭の中で想像する凪沙。

 自分も同じモデルの違う色のジャージを着て、一緒に草原を走る……………いや、これ普通に徒競走になった。途中から一気においてかれる想像ができちゃったよ!

 

「……ダメ。ジャージが初めてのペアルックなんて、なんかイヤ」

 

 ぶんぶんと脳内予想図(イメージ)を払うように頭を振り、ぐっと拳を作る凪沙。

 

「こうなったら、今度浅葱ちゃんにクロウ君のファッションチェックをしてもらおう。浅葱ちゃんなら、古城君に布教されたジャージ教からクロウ君を考え改めさせてくれるだろうし」

 

「なんでそんな異端宗派っぽい扱いされねーとなんねぇんだよ。大体、浅葱の服も、あれが普通ってことはないだろ。

 ついでにいうと、浅葱はクロウを『男の娘』に着せ替え人形にした前科持ちで、『波朧院フェスタ』の女装コンテストにエントリーさせたぞ」

 

「……たとえクロウ君がスカートを穿くようになっても、あたしは受け入れられるよ! 大丈夫! 問題ない!」

 

「やめろよ! それは絶対に間違った道だから止めてやれ! っつか、女装に理解できるくらい寛容さがあって、どうしてジャージはダメなんだよ!」

 

「とにかくあたしが一緒にいるからには、雪菜ちゃんには可愛い私服を着てもらうから。古城君だって、お洒落した雪菜ちゃんを見てみたいと思うでしょ」

 

「いや、俺は、姫柊の服なんかは別に―――」

 

 有無を言わせぬ凪沙の気迫に、うっかり、古城は本音を漏らしてしまい、その瞬間、こういうときだけ会話を拾っていた雪菜の口元が、ピキ、と引き攣った。

 

「私の服“なんか”……“別に”……ですか。そうですか……(私のこと可愛いとか、水着が似合ってるとか、言ったくせに……)」

 

 口の中で何やらを呟きながら、雪菜が冷え冷えとした気配を放ち始める。古城は底冷えのする悪寒を覚えながら慌てて首を振り、

 

「あー……そ、そうだな。折角だからジャージや制服以外の服も見てみたい……かな」

 

「そうだよねぇ。うんうん」

 

 無邪気に目を細める凪沙に毒気を抜かれたか、古城を差す冷気はやや穏やかになる。

 直後、古城たちの乗ったモノレールが減速を始める。次の停車駅――目的地に着いたのだ。車窓に映るのはショッピングモールの巨大な建物。十二月に入ったからか、屋上からぶら下がった垂れ幕には、『年末売り尽くしセール』、『王女御用達の人気海外ブランド』、『仮面聖女☆本日降臨♪伝説の幕開け!』の様々なキャッチコピーが躍っていた。買い物客で込み合う駅のホームを眺めて、凪沙のテンションが上がっていくのがわかる。

 

「……? 今、変なのがなかったか?」

 

「行くよ、雪菜ちゃん! 古城君も! 早く買い物済ませないと始まっちゃう!」

 

 モノレールのドアが開くや否や、凪沙は真っ先にホームに飛び出した。

 小さくなる妹の背中を見失わないよう目で追いながら、古城は深々と溜息を吐く。どうやら今日の買い物は、中々ハードなことになりそうだった。

 

 

 

「……あの……先輩は、もし私がいなくなったら……どう思います」

 

 凪沙が離れて、古城もホームに降りたとき、雪菜が躊躇いがちに古城へ訊く。

 

「? なんだよ唐突に?」

 

「え、っと……なんとなく、なんですけど……どうなんですか?」

 

 やや食い気味に、古城に詰め寄る雪菜。

 ただ今二人がいる場はモノレールの出入り口の前近く、他の乗客の邪魔になる。それに、先に行った凪沙のことも気になる古城は、深く考えたりせず、思ったことをそのまま適当な調子で答えた。

 

「あー……研修旅行なんかでいないときもあったし、いろいろ楽になっていいんじゃないか」

 

 お互いに、と最後は欠伸交じりに。

 その雑な対応に、むっ、と雪菜はしかめて、

 

「そうですか。いない方が良いですかっ。わかりましたっ」

 

 ふんっ、と古城を置いて早歩きで先を行ってしまう。

 

「おい、別に俺はいない方が良いとか言ってるんじゃなくてだな。毎日、仕事してる姫柊が大変だなとか」

 

「どうせ先輩はクロウ君と一緒にいる方が楽でいいんですよねっ!」

 

「なんかその言い方含みがあって聞き逃せないんだけどっ! そりゃまあ、あいつはいると気楽だが」

 

 ―――その分振り回されるから大変さは、姫柊とどっこいどっこりだ、と古城は続けるつもりだったのだが、そこで雪菜はすいすいと人を避けてとっとと先を行ってしまっていた。

 

「やっぱり、先輩は―――!」

 

「おい待て! ちょっと足を止めて真剣に話し合おうか姫柊!」

 

 早歩きの速度を上げる雪菜を人混みをかき分けて追う古城。

 その追いかけっこは、改札口前でちゃんと待ってた凪沙に見られるまで続いた。

 

 

人工島西地区 リディアン絃神

 

 

「ここが『リディアン絃神』……ですか」

 

 ショッピングモールの入り口に立って、雪菜は呆然と店内を眺めている。

 『リディアン絃神』は、人工島西地区の郊外に建つ大型商業施設だった。総店舗数は336。ガラス張りのドーム屋根に覆われたモール内には、各種飲食店と小売店、病院や美容室、家電量販店などがぎっしりと建ち並び、一個の街のような堂々たる威容を誇っている。

 

「こういう人の多いところは、普段あまり寄らないんだけどな」

 

 世間から隔離された獅子王機関の養成施設で暮らしていた雪菜にも、この未来的で華やかなショッピングモールは、異世界も同じことだろう。人混みが苦手な古城もあまり得意ではない。こんな騒がしい店内で、延々と女子の買い物に付き合わされるのかと思うと、それだけでドッと疲労が押し寄せてくるよう。

 一方、相変わらず元気なのは凪沙であった。いきなりテンションの下がった古城に、何やら沈む雪菜を励ますように、弾むような足取りで前を歩きだし、

 

「イマドキのショッピングセンターは、これぐらいは普通だよ。若者向けの服なら、ここが一番安くて品揃えが良いんだよね。西地区(ウエスト)の『テティスモール』なんかは、ちょっとお高いし、『キーストーンゲート』はセレブ向けすぎて論外だし」

 

 古城としては、おすすめスポットは通路脇に置かれたベンチで、買い物が終わるまでそこで休んでいたい。

 とはいえ、猫師匠に頼まれた手前、荷物持ちでもなんでも古城もついていかないといけないだろう。

 

「……つっても、女物の服の売り場とか、できれば近づきたくないんだが……」

 

「まあまあ、そう言わずに。あたしや雪菜ちゃんに来てほしい服があったら、リクエスト聞くだけ聞いてあげるから」

 

「ねーよ、そんなもんは。姫柊だって、服ぐらい自分で選びたいだろ。本人の好きにさせてやれよ」

 

「うーん……そうかなあ……」

 

 ノリの悪い古城の態度に、むーっと頬を膨らます凪沙。その凪沙に手を引かれて歩いていた雪菜が、何かに気づいて不意に足を止めた。

 

「あ……」

 

「どうした? 何かいい服でもあったのか?」

 

 驚きの表情を浮かべている雪菜に、古城が怪訝な口調で訊ねる。すると雪菜はキラキラと目を輝かせて頷いて、

 

「はい。限定発売のネコマたんTシャツが……! もう手に入らないと思ってたんですけど!」

 

「う……」

 

 彼女が見つめているTシャツに気づいて、古城は表情を険しくした。

 雑貨屋の店頭に置かれていたのは、マヌケなマスコットキャラを胸にでかでかとプリントした、どぎついショッピングピンクのシャツである。控えめに言ってもかなりダサい。

 しかし雪菜はそのデザインを、いたく気に入っているようで……

 

「―――ああ! 隣にあるのは、まさか、幻の黒ネコマたんホットパンツ!?」

 

 何かに魅入られたようにふらふらと歩きだす雪菜。それに不安そうな表情を浮かべて、凪沙が古城に訊く。

 

「古城君……ホントに雪菜ちゃんのセンスに任せても大丈夫だと思う?」

 

「そうだな……」

 

 俗世間より離れて育った、この監視役の感性は一般人とは多少ズレているのかもしれない。

 頼りなく肩を落とす古城を他所に、雪菜は早速のマスコットキャラの上下一式をもって、胸に抱きしめている。

 しかし展示されていた商品を見る限り、明らかに彼女のサイズよりも胸回りが大きい。買い物慣れしていない雪菜はそれに気づいてないようで(しかしそれを指摘すると変なレッテルを張られそうだ)、挙動不審になりながらも近くの店員を呼び止めて、試着室の場所を尋ねていて……

 

 

「……まあ、でも、少しくらいはしゃぐのもいいんじゃねーか」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『―――今日の姫柊は、気が抜け過ぎだぞ』

 

 

 言って、自分の眼前に寸止めした拳を引く厚着の少年。

 近頃、幻術を用いた『精霊相撲』も彼には効きづらくなってる。互いに同程度の実力を有した相手との実践稽古を求めて始めたこのやりとりも、今では差が付き始めている。普通の人間以上に優れた身体素質を、<四仙拳>の達人に鍛えられ、段違いの基礎能力の土台が組み上がっている彼は、それこそスポンジが水を吸うように相手から技術を吸収していっているのだろう。

 もちろん、全て学習しているというわけではなく、槍の演舞を見せても武器は振ったり突いたりくらいしかできず、特に式神の扱いは師家様がいくら教えても使い物にならないと匙を投げられているくらいだ。

 ただ、式神や武神具が扱えない分だけ、『八雷神法』や『八将神法』を磨いており、他にも多様な武技を取り込んでいっている。才能においては、剣巫よりも体術に尖っている、と師家様は評している。

 

『そうだね。坊やの言う通りさ。雑念が入ってる。こんなんじゃ稽古にならない。今日はもうやめにした方が良いね』

 

 加えて、集中を欠いてる状態で、彼の相手になるわけがなかった。

 この不甲斐のなさに申し訳なく、わざわざ昼休みに学校の屋上に来てもらってまで、稽古をみてもらっている師家様にも、組手相手の彼にも頭を下げる。

 

『……前に<雪霞狼>を預かった時にも思ったけど、大分、持て余してるねぇ』

 

 師家様の式神の黒猫が、顔を洗い擦るように手を顔にやったような、人にしてみれば思案するポーズを取ってみせ、何か思いついたのか尻尾を軽く揺らして、

 猫目の細めた視線を観客の先輩へやる。

 

『第四真祖の坊や。ちょいと、雪菜をデートに誘ってやってくれんかね』

 

 

 

「……はあ」

 

 深く、息を吐いた雪菜。

 まるで逃げるように、このひとりきりになれる試着室に飛び込んだ。

 不調の原因は、わかっている。今朝の夢。そう、これは自分の心の問題。なのに、心配されて、先輩にはこうして迷惑をかけてしまっている。

 早くどうにかしないと、とは思うのだが……

 

(でも、お互い楽だなんてっ。先輩、私が目を離すとすぐにいい加減な生活を始めてしまうくせに。それにしたって楽って何ですかっ。もう少し言いようがあると思うんですけどっ)

 

 

 バヂンッ! と考え事していたそのとき。

 

 

「―――っ!? 誰っ!」

 

 剣巫の霊視にも察せなかった突然の異変。背後で、何か気配。空間転移、とはまた違う、この『魔族特区』において五本の指に入る魔女のみせる、水面から浮かび上がるような感覚とは程遠い、空間を引き裂くに似た現象か。いずれにせよ、突然現出した物体が空気を押しのけ、凄まじい紫電の如き魔力の余波が生じて、こちらの背中を押して―――その物体が雪菜が振り向くよりも速く迫って、一気に撥ね飛ばしたことだけは事実だった。

 

「かっ―――」

 

 完全な、不意打ち。

 脇腹から抉り込む痛烈な掌打は、雪菜の意識を刈り取るに十分な威力があった。

 

 

「―――えっ! うわ、これって、限定発売のネコマたんTシャツ! 今ではビンテージものの超プレミア! しかも、幻の黒ネコマたんホットパンツまで!? お宝発見だよ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 キャーッ、という人々の絶叫。

 

 騒ぎが起きたのは、ショッピングモールの中央の屋内広場だ。仮設ステージに集まった群衆を中心に、どよめきにも似た悲鳴と歓声が上がっている。

 

「な、なんだ!?」

 

 通路の手すりから身を乗り出して、古城は広場の様子を窺った。

 いかにも悪の幹部が着てそうな黒のロングコートを着た女が、ステージの上に立っている。その吸血鬼の身体的特徴である赤い瞳に、絹のように艶やかなブルネットの髪は、古城がおぼろげながらも思い出す、ある純潔貴族の女吸血鬼の像と重なっている気がしなくもないが、本人かどうかは定かではない。

 そして、その背後には、全長2、3mくらいはありそうな大亀。獅子の鬣やら牛の双角やら様々な動物の要素を取り込んだような、自然には存在しえない魔獣……の張りぼてと思しきもの。この前、『魔獣庭園』にて本物を観てきたから、なんとなくあれが偽物であるとわかる。

 

『オホホホホ、動かないで! この広場は我々『獄魔館』が征服したわっ!』

 

 司会役の女性からマイクを奪って、女幹部が宣言する。それを聞いたステージの観客たちが、おおっ、と大げさにどよめいた。

 

『抵抗しても無駄よ。もし我々に逆らうものなら、この女の心臓をいただくわ!』

 

 わざとらしく悲鳴を上げる司会役の女性に、女幹部は銀食器のナイフを左胸にあてる。そして、指を鳴らすその合図に、ノリノリでステージの各所から全身タイツに骸骨風のマスクをかぶった戦闘員たちが観客を脅して回っている(ついでに魔族喫茶二号店の宣伝チラシも配りながら)。

 

「ったく……騒々しいと思ったら……」

 

 一瞬、本気で警戒してしまった古城は、がっくりと落胆して手すりに突っ伏した。何かと思えばショッピングモール主催のステージイベントだったらしい。

 中々盛況なようで広場に集まっている見物客は、500人を超えてる。そのうちの半数ぐらいが子連れのファミリー層である。通りがかりの買い物目的の客もいただろうが、スピーカーから流れるBGMの音量が大きいので、どうしても子供の目が向いて、足を止めてしまう。そして怖がらせようと、大きな身振り手振りに、高らかに台詞を語り奮闘する女幹部に、子供たちの反応は様々で、それを笑う者もいれば本気で泣き出す者もいる。我が子のそうした様子を親たちは後ろで見守っていた。大人たちは本当に広場が占拠されたと思っているわけではない。これが()し物に過ぎないことをきちんと理解している。

 『魔族特区』の住人にこの手でのものは慣れたもので……

 

「ああーっ! もう始まっちゃった! ごめん、古城君、ちょっとあたし行ってくる!」

 

「おい、凪沙!」

 

 呼びかける古城をおいて、走り出す凪沙。中央広場の観客席へ行ってしまった妹に、『ったく、中学生になってもこれだから、凪沙の奴は子供なんだよ』と古城は嘆息。しかし、妹がこの手のヒーローショーがそんなに好きだったとは思わなかった。今から無駄に体力を使って妹を追いかけるのも面倒で、小学生くらいの子供たちの騒ぐ観客席に混ざるのも恥ずかしい高校男子。手すりに肘をおいて、ステージ全体を見渡せるこのままの位置で、古城は待つことにした。

 そうして、ステージの上に戦闘員たちが幼い子供たちを連れてきたところで、いよいよヒーローが登場か。

 

 

『皆さんに乱暴をするのはやめてください!』

 

 

 ぶほっ!? と思いっきり古城は口から噴いた。

 たった今、ステージ上に現れたのは、シスター。修道服を着た、銀髪碧眼の神々しいまでの美少女だ。その神が自ら手掛けた至高の作品と言っても疑問を抱けないような、端麗な容姿に圧倒されてか、観客の大人たちまでも息を呑んで、場が沈黙する。

 そんな静寂が舞い降りた舞台に、シスターは懸命に、女幹部に訴える。

 

『お願いです、カルアナさん。皆さんを開放してあげてくださいでした』

 

『それは無理な相談よ、カノン―――いいえ、仮面聖女!』

 

 『私たちは争い合う運命にある』と謳い上げる女幹部との対決は避けられない。それでもできるなら平和な道を選びたいと話し合いを呼び掛けた修道服の少女は、『中等部の聖女』と呼ばれてる彩海学園の後輩で、彼女の親友である凪沙を通じて古城も知り合った、叶瀬夏音。

 何故叶瀬が!?!?!? と古城は混乱しながらも、『ああ、だから、凪沙が、今日ショッピングモールに来たのか』と納得。

 そうしてる間にも劇は進み、説得は無理だと悟らざるを得ない状況に、夏音は修道服の胸元に飾られたロザリオを掲げ、

 

 

『願い……思い……そして、私の信じる心を形にする―――院長様、お願いでした。仮面聖女☆変身!』

 

 

 カッ!!! と閃光が瞬き、観客の目晦ましをしたかと思ったら―――姿が、変わっていた。

 眩しさに細めた目を開けたら、少女は、修道女ではなくなっていた。

 肌を極力隠す白い修道服。

 その腕を手首まである袖がなくなったかと思えば、長手袋風の手甲に変わり、足元まですっぽりと隠していた裾が短く、フリル満載のミニスカートで、でも脚にはロングニーソ風足甲が装着されている。修道服は銀の胸当て付きのゴスロリ風ドレスになって、そして、顔は猫をモデルにしたマスクに覆われている。

 実際の露出具合は、修道服からあまり減ってなくて控えめなのかもしれない。しかし、ビフォー・アフターの衣装の布地面積が実際にはそれほど変わっていないのだとしても、心象的な防御率が著しく下がっているとでもいうか。なんというか、全体的に鋼の魔法少女ってうたい文句がぴったりっぽくなっているのだ。

 そして、ロザリオから変化した十字のステッキを構えて、ビシッとポーズを決める。

 

 

『ミラクル☆カノン♪ 行きます―――!』

 

 

 いったいどうやって一瞬で早着替えしたのだとかいろいろと気になる。だがそれよりもさっそく始まった夏音のアクション。てっきりそのステッキを振って何か演出するのかと思えば、本格的(ガチ)だった。普段おっとりとした彼女が三倍速で動いてるような機敏さで、強烈な体技(ステッキを使わず素手)で、戦闘員たちを次々と屠っていく。これは特撮マニアのテンションも上がることだろう。ヒーロー番組には興味のない古城ですら、今の彼女の動きには引き込まれるものがある。

 

 

『重く、鋭く、激しく! 拳を解放しました! ―――鉄拳聖砕カノン♪ブレード!』

 

 

 そして、『(ニン)! 人質は救出したでござるよ仮面聖女殿』と人質も謎の『ニンジャ・ナイト』によって救い出されると、最後に女幹部が背後の魔獣を出してきた。しかし、仮面聖女は高々と――ワイヤーもなく――古城のいる階層あたりまで跳躍すると(もうこのあたりになると古城も詳しい原理の理解は放棄した)、光迸る左手より手刀をその甲羅に振り切り、爆散。怪獣の張りぼてが、花吹雪のごとくに散って天井近くまで舞い上がる(結局、最後までそのステッキは未使用)。

 リアルなファンタジック・アクション(物理)が終わると、『くっ、次こそは見てなさい仮面聖女!』とお決まりの捨て台詞を吐いて、舞台から霧となって退散してくれた。

 

「うわぁ……夏姉(かのねぇ)、実はあんなに強かったの!?」

 

 とそこで感嘆の声が横から聴こえ、隣に誰かいることに古城は気づく。

 見れば、そこにはネコマたんTシャツと黒ネコマたんホットパンツを履いた少女――姫柊がいた。

 

「おい、いくら気に入ったからってその場で着替えたのかよ姫柊」

 

「だって、ネコマたんすごくいいじゃない、古城君」

 

「は? 古城、君……?」

 

 はしゃいだ笑顔を見せる雪菜は、そこで、あ、つい条件反射で、とでもいうかのように口元に手を当てる。

 そして、急いで背筋を伸ばし、改まって、

 

「すみません。失礼しました、暁先輩」

 

「いや、別に俺の呼び方とかどうでもいいんだけどな。まあ、それくらい元気が出てんならここに連れてきた甲斐があったもんだ」

 

「へ……」

 

 ぽかん、と固まる雪菜。

 

「どうした姫柊?」

 

「あ、いえ……聞いてた話と違うなー、って……」

 

 そう雪菜は前に両手を合わせ、こちらを上目遣いで覗くように、訊ねる。

 

「あたしたち、普段からこんな風に仲良くしてました?」

 

「ええぇー……」

 

 そういうのを当人に訊くのだろうか?

 微妙な表情を浮かべる古城に、雪菜は言う。

 

「だって、これって、デート……なんですよね?」

 

 流石にそろそろストップをかけた。

 雪菜の肩に手を置いて、古城は確認する。

 

「姫柊、本当にどうしたんだ? 監視役だっつって俺について回っているのは姫柊の方だろ」

 

「あたし、が……?」

 

 言わないが、任を真面目に取り組み、頑固なところのある雪菜は古城から目を離さぬようひとりで単独行動することはできないと思っている。こうして古城が繁華街に行かない限り、監視役の雪菜も行けないのだ。だから、古城が連れて来なければならなかった。

 

「……その、たとえば、一緒に登下校したり……とか?」

 

「今朝もこの放課後もそうだろうが」

 

「もちろん、血を吸わせたりとかもしましたよね?」

 

「そ、それは仕方がなかっただろ! 俺が死にかけたりとか、いろいろやむを得ない事情があって」

 

 そんなことは言わなくても監視役の雪菜にはわかっている話だ。さっきからこの奇妙な問答はなんなのだと古城が焦りつつも訝しんでいると、腰に手を当てた雪菜は鬼の首を取ったような笑みを浮かべていた。

 

「ほっほほう……まあそんなことだろうとは思ってましたけど。まったく、あたしには結婚するまで……(吸血)行為は禁止だって言っときながら、いやらしい人ですね」

 

「姫柊……」

 

 いきなり訳知り顔で呆れられてしまう古城。

 本当に彼女とはよく話し合った方が良いかもしれない、と考えたところで―――またスピーカーからテーマ曲と思われるものが流れ出した。どうやらショーは終わったらしいが、子供たちはステージ前から散る様子もなく、そうしている内に列ができ始めていた(記者会見でもしてるかのように、特撮マニアっぽい大人たちから途切れることなくシャッターフラッシュが焚かれている)。

 列の先頭には、戦闘衣装そのまま聖女が立っていて、握手会が始まった(その列の中に、妹の姿を古城は見つけた)。

 

「ふぁ~! 夏姉と握手会やってるんだぁ! どうしましょ先輩! 今から列に入ってもできますかね!」

 

「おいおい。姫柊までああいうのに憧れたりしてんのか?」

 

「だって、先輩、夏姉はすごく可愛いです! 美人だし! 綺麗だし! いい匂いがしそうで、美人だし! 本当に夏姉は昔からすっごく―――う……」

 

 何か妹を彷彿とさせる早口でテンション高く語り始めたかと思うと、唐突に、口元を覆って蹲る雪菜。青ざめた顔でその場に膝を突き、小さく肩を震わせる。

 

「おい、どうした?」

 

「すみません。ちょっと興奮してしまったみたいで……」

 

 呼びかけにこちらへ上げられた彼女の顔。それを見て古城は息を飲んだ。

 その口元を折った手の指の隙間に覗く、鋭く尖った犬歯。そして、隠しようのない、血のような赤色に変わった瞳。

 

 一瞬、古城は自分の目を疑った。

 しかし、この“生理現象”は確かに起きている、雪菜の身に―――いや、これは……

 

「っ!」

 

 気づかれたことに、気づいたか。途端に立ち上がった“雪菜”は古城の手を振り払って、駆け出す。

 

「待て、姫柊!」

 

 古城もすぐそのあとを追いかけた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 以前に、聞いたことがある話。

 それは確か、研修旅行が終わったあたりの時期だった。

 いきなり姫柊雪菜が、凪沙を『凪沙おばさん』、浅葱は『博士(ドク)』と呼んで、矢瀬に将来の頭髪に不吉な予言をした挙句に、騒ぎ過ぎて注意しにきた教師の南宮那月に『まるで成長してない』と喧嘩を売ってるも同然の発言をしたことがあった。彼女もそのことに気づいて、慌てて逃げ出したのだが―――その数秒も経たぬ内に、別のところから姫柊雪菜が現れた。那月が空間転移で飛ばしたわけではけしてない。『え、なにがあったんですか?』と今来たところの雪菜に、状況が把握できるわけがない。そして、この場でひとり、意味深気に目を細める那月より、『子供の不始末は貴様らの責任だ』と、雪菜、それから何か古城まで扇子で頭を叩かれた。

 その後、この話は『姫様のドッペルゲンガー』と彩海学園の七不思議のひとつに加わり……

 

 ショッピングモールの屋上。天気も良く晴れ渡り、溢れんばかりの人だかり。親子連れやカップルがほとんどを占め、とにかくここも活気に満ちていた。買い物を楽しもうという笑顔がそこかしこに見られる。その陽気からは外れた、人気のない場所にあるベンチ。そこに座り、貸したハンカチを鼻に当てた彼女は、どうやら衝動が去ったようで、そして、古城もようやく違和感に納得することができた。

 いつもと違う様子の姫柊。それも当然だ。何故ならこの少女は……

 

「すみません、先輩。もう落ち着きました」

 

「……吸血衝動」

 

 ぽつりと零した古城の一言に、彼女も悟る。

 観念したような、けれどどこか悪戯っ気のある笑みを浮かべた。

 

「あは、バレちゃいました?」

 

「お前、姫柊じゃないな。何者だよ?」

 

「一応、あたしも『姫柊』なんですけどね。え、と……旧姓『姫柊』みたいなかんじで」

 

 うまいこと言ったみたいなドヤ顔を浮かべられた。

 そんなので誤魔化される古城ではないが、それ以上の身の内は明かせないという雰囲気を察した。口数はやたら多いみたいだが、それも余計な一言ばかりで、肝心なことは何も言っていないことから、その口も堅いのだろう。

 どうするか、と古城が困ったところで―――きつめの声が飛んできた。

 

 

「―――先輩、下がっててください!」

 

 

 制服姿の雪菜が現れる。

 人目がつかない場所とはいえ、既に彼女は黒いギターケースから銀槍を取り出しており、こちらに向けて構えてこそいないが、その双眸は鋭い。

 間違いない。

 

「あっちが、本物の姫柊か」

 

「ご無事ですか、先輩」

 

 古城の容体を心配しながらも、意識は“偽者”から外すことはない。

 二人同じ場所に揃ったところで見れば、その違いもすぐ見分けがついた。

 彼女たちの容姿は、どちらともまだ幼さを残しているが整った顔立ちをしていて、細身で華奢だが、儚げな印象はない。むしろ鍛え抜かれた刃のような、しなやかな強靭さを感じさせる。

 しかし雪菜が穏やかな亜麻色の瞳に対し、“偽者”の目は、少し青みがかかっている。

 そして、スタイル……先ほど雪菜が着るにはサイズは胸元大き目と見ていたTシャツが“偽者”にはぴったり合っている。

 古城は一度、雪菜の方にも視線をやってから、頷いて、

 

「それでこそ、姫柊だよな」

 

「なんだかとても失礼なことを言われた気がしますけど、追及は後にしておきます」

 

 口にはしなかったのに視線で悟られたか。

 うげしまった、と古城がたじろぎ、それに同意するよう“偽者”の彼女も、

 

「あっちゃー、もう気が付いちゃったの?」

 

「離れてください先輩。彼女は私が相手します」

 

 やる気だ。

 数ヵ月過ごして『魔族特区』の環境には慣れてきたようだけれど、初めて会った時に雪菜が痴漢の容疑で魔族を吹っ飛ばしたことを古城は覚えてる。

 あの時と同じ、そんな物騒な気配が滲んでいるのだ。このままだとあの少女もやられてしまう。相手は同じ吸血鬼であるようだが、今度はホスト崩れの野郎ではなく、後輩によく似た少女だ。様子見などしてる場合でなく、また彼女のことをほうっておけない古城は割って入って、

 

「相手って、ちょっとお前のフリをしたくらいだろ」

 

「そのネコマたんTシャツと幻の黒ネコマたんホットパンツは私のです!」

 

「怒りのポイントってそこかよ!」

 

 そのマスコットへのセンスは古城に理解しえないものだが、こだわりが相当強いということだけは理解した。が、

 

「そんなので槍を持ち出してんじゃねーよ。売り場に行けばまだ在庫処理の売れ残ってるのがあんだろ」

 

「在庫処理の売れ残りってなんですか! 他のどこにも置いてなかったのを、ようやく見つけたんですよ」

 

「そうだよ古城君。このネコマたんTシャツと幻の黒ネコマたんホットパンツは、ファンクラブ『ネコマ団』でもなかなか手に入らない超プレミアモノなんだから!」

 

「しらねーよそんなの! つか、お前もなんで姫柊に同意してんだ!?」

 

 容姿だけでなく、センスまでも似通っている二人。

 しかし価値観が理解し合えたところで、事態は解決しないのだ。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 未展開に留めていた銀槍のロックを外す。

 槍の柄が勢いよくスライドして長く伸び、格納されていた主刃が穂先から突き出した。まるで戦闘機の可変翼のように、穂先の左右に副刃も広がる。折り畳み傘を開くように一瞬で、原始的な刺突武器でありながら、洗練された近代兵器の外観へと変形を終えた。

 そして、展開された銀槍を突き付けられた『自称旧姫柊』は、頬を引くつかせて、後逸する。

 

「ちょっと待って! ネコマたんのことは謝るけど、一応、事情があるの! だから、あたしの話を―――」

「問答無用です!」

 

 雪菜の攻撃的な目つきに睨みつけられ―――“偽者”はびくつくのをやめた。冷や汗をかかせる恐れよりも、このふつふつと温度を上げてくる怒り、反抗心、これまでマグマだまりのように溜め込んでいた鬱憤がここにきて爆発したか。

 

「………やっぱ、こうなんじゃん」

 

 両手を細い腰に当て、鼻から息を吐いて、雪菜の鋭い眼差しを真っ向から睨み返す。

 そして、視線は固定したままだが、話が通じないと雪菜の相手を諦めたか、彼女は古城に話しかける。

 

「ねぇ、古城君。そこの人が一回怒ると全然話を聞かなくなるのって、このころからずっと?」

 

「あー……まあ、ちょっとそういうところもあるかもな」

「先輩!」

 

 正体不明の輩に同意する古城に雪菜の叱責が飛ぶ。

 

「あ、ああ。でも、なんか事情あるっていうし、話聞くくらいならいいんじゃないか?」

 

 古城の説得に、しばらく槍を構えたままであったが、ひとつ嘆息すると雪菜は構えを解いた。けれど、冷ややかな眼差しはそのままで、淡々とした口調で詰問を始める。

 

「わかりました―――説明しなさい」

 

「なによ偉そうにっ。そんな風にいつもガチガチだから!

 ……今のうちに教えておいてあげる。『固いものほど壊れやすいし、周りも壊しやすい』んだからね」

 

 やや過剰に反発してるようだが、この少女の文句にはどこか雪菜を気遣うような響きをどうしてか古城は感じる。

 しかし、生真面目な性格で、今の頭に血が上っている状態にある雪菜にそのような感情的な判断はもちこまないし、感情的に吐いた言葉などうけとらない。

 

「……ご忠告、ありがとう―――言いたいことはそれだけですか」

 

 口調こそ丁寧であるも、剣呑な光を目に宿す雪菜。一方、険悪な雰囲気の少女の方も、喧嘩腰な態度を止めない。

 

「ま……まあまあ、二人とも、ここはとにかく冷静にだな―――」

 

 板挟みにある古城が困り果てた、そのときだった。

 

 空が唸る。

 暴威のような殺気が一帯に、そして突然、ばら撒かれた。

 

「なっ―――」

 

 ショッピングモール屋上の上空。

 快晴青空に、その黒々とした威容を晒す巨大な飛竜が、出現した。

 

 

「ちっ、やっぱり来たのね……!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 今日の昼頃から、違和感を覚えていた。

 他の誰も気づいていないようだが、地の底で、何かが無理矢理に押さえつけられ、牙を突き立てられて悶えているような、震えを察する。

 主人にはもちろん報告連絡相談(ほうれんそう)し、早めに切り上げた稽古のときに黒猫の師家様にも、そのことを伝えれば、『この前の任務で始末書物の大盤振る舞いをして、現在罰ゲームをやらせて、謹慎させている弟子に調査をやらせようか』といって……未だその連絡は来ない。

 

 けど、人間には聞き取れないかもしれないが、その超低周波の唸り声を、この近くに知覚した。

 

「ごめん、ちょっと行ってくる」

 

 わざわざ見に来てくれた同級生の直前でいったん抜け、“彼女”に後を任せると、急いでその発信源の下へ向かう。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 体高3m、全長8mはあろうかという巨躯。すらりとして、たくましい。無骨な手足、爪、翼には威厳すら備わっている。

 

「なんだあれは!?」

 

「おそらく魔獣です!」

 

 チロチロと舌のように、魔竜の咢から光がのぞく。魔竜が咆哮すると、大気が震え、突風が吹いた。その五体には膨大な力が漲ってる、圧倒的な力感を放つ強敵だと本能で理解する。

 そして、それを見る眼差しに動揺と緊張、そして敵意のスパイスを入れている姫柊雪菜に似た、謎の少女。

 

「おい、お前、アイツについて何か知って―――」

「危ない!」

 

 古城が謎の少女に問い掛けようとしたが、そのとき、怯えて逃げる他の客らを無視してこちらに――<第四真祖>という強大な魔力源へと向けられていた魔竜の赤い目が光る。

 その兆候を察してすぐ、少女はこちらを突き飛ばして―――古城は自分が救われたことをすぐに悟る。

 

 魔竜の尾の先端が、中途で、消えている―――同時、古城を咄嗟に突き飛ばした少女の腹が突き破られた。

 

「がはっ……」

 

 赤い。大量に赤い体液を吐き出す、姫柊雪菜とよく似た少女。

 

 その瞬間、比喩ではなく、古城の世界は暗闇に呑まれた。

 光も、音も、何もかもが消え失せる。肉という肉が鉛に置き換わったかのように、重く、ただひたすらに重く、古城の上にのしかかった。

 

 ずちゅり、と尾が腹から引き抜かれて、少女の身体が頽れる。

 

「―――」

 

 先輩! と後ろから叫ぶ声。

 それは聞こえていたが、考えられなかった。ただ真っ白、いや真っ赤になった思考の中で、血塗れに倒れ伏す少女の(からだ)を拾い上げることしか、古城は考えられなかった。

 しかし、そうしてわざわざ監視役から離れて、前に出てきてくれた恰好の魔力源(エサ)を魔竜は逃さない。

 

 再び、尾が途中で消失し―――古城の目前に先端が顔を出す。先端は蕾が花開くように割いては、人食触手と化して古城の肩に食らいついた。

 

「ぐぅっ!?」

 

 反射的な抵抗、すらできないほどに、体が弛緩する。

 がくがくと、膝が震える。

 いいや、それどころか、まるでフルマラソンでも終えたばかりのような疲労感が古城の身体をどっぷりと浸していた。

 吸われている。無限の“負”の生命力を持つ吸血鬼でなければ、秒で枯渇して干乾びるほどに、食らいついた尾より、<第四真祖>の魔力を吸収している―――!

 

 

 どごんっ、という爆発音とともに、青白い閃光が弾け飛ぶ。

 

 

 膨大な魔力の放出。爆風とも呼ぶべきそれを、全身から噴き出して、周囲の空気を吹き飛ばす。そして、撃発された弾丸の如く疾駆して、屋上へと駆け付けた影。

 

「え!? 夏音ちゃ―――」

 

 雪菜の目に飛び込んできたその人影の正体は、鋼の魔法少女をイメージしたようなコスチュームを着た、叶瀬夏音だった。

 彼女は雪菜が制止をかけるよりも迅速に、古城に食らいついたまま飛び立たんとする魔竜に迫る。

 

 

(ワシ)に任せろ。主の霊力をこちらに回せ。あれをやるぞ』

 

 

 突然の声。すぐに夏音は空へ羽ばたく魔竜へと“喋る十字の聖杖(ステッキ)”を向ける。

 その先端に生じた眩い輝きに、魔力を吸われながら古城は本能的な恐怖を覚えた。その輝きを古城は前にも目にしたことがあるのだ。

 それは単なる魔術の光ではない。錬金術の物質変換によって生み出される危険な輝きだ。青白く放電する稲妻が、巨大な砲身のように仮面聖女の眼前で螺旋を描いて―――

 

 閃光を放った。

 

 凄まじい熱量と膨大な電磁波を撒き散らす灼熱の光の刃は、重金属粒子のビーム砲撃だ。

 その砲撃は亜光速にも達して、魔竜に的中。その翼に風穴を開けて撃ち落とす。落下の衝撃に、尾に貫かれていた古城は解放される。

 

 また今の一撃は、古城を救出するだけでなく、屋上にいた客たちにも影響があった。泣き叫んでいた子供たちも、ドラゴンをビームで倒すという光景は、泣くのを止めてしまうほどの感動があったのだろう。また、パニックになっていた大人たちも一瞬とはいえ感情を上塗りするほどの感動にまた、落ち着きを取り戻していた。子供たちを連れ、すぐ屋上から避難する。

 

 そして、閃光の余韻が晴れた時―――その魔竜は復元していた。粒子砲に撃ち抜かれた深傷も、塞がっている。

 

「くそ……こうなったら―――」

 

 今のビーム砲撃以上の一撃となると、『世界最強の吸血鬼』が召喚する災厄に等しき眷獣の一撃しかない。

 しかし、それを古城を護るよう、そして制止をかけるように前に出た監視役が古城が腕を振り上げることを諌める。

 

「ダメです先輩!」

 

「けど……!」

 

「その状態で眷獣の制御ができるんですか? それに場所を考えてください。暴走しなくても先輩の力は周りを巻き込んでしまいます!」

 

 雪菜の指摘に、古城は押し黙るしかない。

 大量の魔力を一気食いされた状態で、ただでさえ力を抑えるのが難しい<第四真祖>を操る。それは人の身長よりも巨大な箸を、突き指した状態で豆粒をつまむような難事に等しい。そして制御を誤れば、今ここで避難している客たちを巻き込む。

 古城が召喚を踏み止まったところで、雪菜は少女を見る。

 

「院長様……」

 

「うぬ、これは……」

 

 古城を救出してすぐ、夏音は転がっていた少女を回収して、そのビームを放った十字のステッキが、オリエンタルな美貌を持つ人形のような小人へと変化した。

 さきほどの錬金術の大技を披露してくれたのは、やはりニーナ=アデラートと呼ばれていた、今は『霊血』という液体金属の身体を持つ古の大錬金術師。

 『賢者の霊血(ワイズマンズ・ブラッド)事件』で、肉体の大部分を失ってしまったが、その錬金術の理を極めた叡智までは失われていない。バラバラにされたはずの同級生を死の瀬戸際で生に留めさせたその技量ならば、腹を貫かれて瀕死の彼女を救えるか―――いや、余計な期待は懐かない。今は魔竜との戦闘に雪菜は全集中をかける。

 

「―――」

 

 魔竜の尾。

 瞬間移動。

 動きを追っては、ダメ。

 霊視にて、刹那の未来―――ただそれだけを見る。

 

 剣巫が、瞳に青い霊光を灯す。

 

 先読みした一秒先に、背後から空間を超えて自身に襲い掛かる魔竜の尾。

 それよりも一秒早く動いた雪菜は、その残像を置いていくような幻術を行使しつつ、魔竜の尾を銀槍で弾いて切先を己から外し、逸らされてもまたしつこく迫りくる尾を演舞するように回転をつけた一振りで薙ぎ払う。

 

「はあ―――!」

 

 攻撃を防ぎ、生じた絶好の隙。すかさず、止めを刺さんと魔竜へ銀槍を携える疾走(はし)る剣巫。しかし、一条の流星の如く青白い閃光の軌跡を描いた、その一突き――如何なる魔の権能をもってしても防げぬはずの破魔の銀槍は、竜鱗を穿てずに、弾かれた。

 

「な……っ!?」

 

 剣巫の霊力は獅子王機関の秘奥兵器が、その真祖をも滅ぼし得る、降魔の聖光を発動するだけのものであったはずだ。いや、いつもよりも過分なほどに『神格振動波駆動術式(DOE)』に霊力を雪菜は注ぎ込んでいた。

 なのに、あらゆる魔の結界を貫くはずの槍は、通じない。

 

 魔竜が、消えた。

 浄化されて消滅したのではない―――空間転移。

 それは食事の邪魔をして、魔竜を撃ち落とした少女――叶瀬夏音の下へと跳ぶ。

 

「叶瀬っ!」

 

 魔力を供給しているニーナと共に、少女の容体を診ていたせいか、魔竜の空間転移に夏音の反応は遅れている。

 彼女を救うとある男に約束した。いや、それ以前に、そんなのがなくても、夏音は守る。

 そう、古城は夏音を不老不死の己の身で庇わんと華奢な身体に抱き着いた。

 

 そして、すぐ状態を立て直した剣巫も動いていた。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る。破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 厳かに祝詞を唱え、体内で練り上げた呪力を、『七式突撃降魔機槍』で増幅。細く、鋭く、まるで光り輝く牙のように、『神格振動波』を銀槍の穂先一点に集中。

 純白の雌狼の如く飛び掛かった剣巫は、展開されている魔力障壁ごと魔竜の頭部を狙い穿つ!

 

 今度こそ、剣巫がその全身全霊をかけた破魔の一突きは、魔竜の魔力障壁と拮抗し―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――折れた。

 

 

 え……

 

 うそ……

 

 雪霞狼が……

 

 

 槍は、竜に、負けた。

 それが、今、生じた結果。

 

 果敢に、竜に立ち向かっていた少女は、槍の刃が欠片と散る光景を前に、みるみる表情が変わっていく。

 呆然と口は開けたまま、動くのを止めた。

 自分の四肢が砕けた方がよほどましというぐらいに、悲壮な顔をしていた。必死に実現しないようにと願っていた悪夢が、正夢に叶ってしまったみたいに見えた。

 

「姫柊―――!」

 

 そして、銀槍の主刃が砕け、中空で無防備になった雪菜に、頭部を突かれた魔竜は逆襲をする―――寸前に、その発するはずのない声音が屋上に響いた。

 

 

 

「おいで、<槍の黄金(ハスタ・アウルム)>―――!」

 

 

 

 稲妻が落ちた。

 古城たちの視界を残らず奪うほどの近さ。身体を余さず麻痺させる衝撃。夏音を庇い、本能的に耳を押さえて薄目を開けていた古城は、大きく見開いた。

 

 雪菜を庇ったのは、先ほど古城を庇ったのと同じ相手―――姫柊雪菜に似た少女。

 そして今度は、その手には黄金の槍。少女が天高くに手を伸ばした暗雲。そこよりたなびく雷霆が、幾重にも少女の傍らに激突し、そんな荒々しい祝福が形作ったように、姫柊雪菜の<雪霞狼>に似た金槍は現れていた。

 

「はあ―――っ!」

 

 まだ弾ける音をさせて、紫電が走っているそれを携え、少女は地面を蹴る。

 竜に挑むその気迫は、剣巫――姫柊雪菜にも負けず劣らず。凄まじいまでに速く、鋭い。そして見た目華奢な身体に合わぬほどの異様な重みを一撃一撃に備えている。槍一本で数倍の巨体を持つ魔竜とやり合う。決して退かない、とそういう不退転の強い意思の込められた槍であった。

 

「<槍の黄金>―――!」

 

 そして、尾に斬りかかった金槍が、“主の命に応えるかのように穂先を伸ばした”。

 尾からグルグルと蔓のように巻き付きその回避行動を封じつつ刃は、魔力障壁で護られている頭部を穿つ強烈な一撃を見舞わせる。

 

 金色で<雪霞狼>に酷似している色違いの槍は、『意思を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)

 稲妻を纏う黄金の槍の形をした眷獣は、自在に変形して攻撃ができるだけでなく、<雪霞狼>と同じ魔力無効化能力を備えているのだ。

 

 

 そして、魔竜は金槍の一撃に退散。瞬間転移して、何処へと消え去った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 魔竜が消え去った場所をしばらく見つめていた古城は、その少女に視線を向ける。

 

「おまえ……」

 

 いったい何者だ? と尋ねる古城に少女は槍を消して、特別でも何でもない事のように答えた。

 

「驚くことじゃないでしょ古城君。あたしも不死身の呪いを受け継いでるのよ。第二世代なんだけど、普通の吸血鬼(ひと)たちよりもちょっとばかり強めにね」

 

 遅れながらも、少女は自己紹介をする。

 それは竜と遭遇する前と変わらない、軽口だけれど、話せる一線(ライン)をけして踏み越えない態度で、肝心の名前は語らず。

 

「あたしは、あの魔獣を追ってきたの。このまま放っておくとこの島が大変なことになっちゃうのよ―――だから、魔竜(あれ)を狩るまでは帰れない」

 

「帰る? どこに……? お前は一体―――」

 

 はぐらかす彼女に古城が詰め寄ろうとした―――そのとき、自分たち以外に誰もいなくなった屋上へ駆けつける足音を耳が拾う。

 現れたのは……

 

 

 

「―――あ、お兄さん」

 

 

 

 修道服を着た、銀髪碧眼の少女――叶瀬夏音……

 その傍らに先ほど舞台でお助けキャラで活躍した『ニンジャ・ナイト(ユスティナ=カタヤ)』を連れて、こちらに挨拶する。

 

「「え……?」」

 

 またも同じ顔の少女(ドッペルゲンガー)との遭遇に、古城だけでなく、雪菜に似た少女まで唖然と固まる。

 古城は自分の腕の中に抱いている叶瀬夏音を見る。あの時、咄嗟に跳び付いて、勢い余って頭を打って気絶していた叶瀬夏音は、新たに現れた叶瀬夏音の声に反応してか目を覚まし、顔を手で覆い―――ヴェールを解く。

 

「……古城君、夏音はあっちだぞ」

 

 瞬間、鋼の魔法少女風の仮面聖女の姿が、耳付き帽子に、蒼銀の法被(コート)、手袋に首輪とそれを隠す首巻を付けた厚着の後輩――南宮クロウに成り替わった。

 その容姿だけでなく、服装まで変化する。北欧アルディギアの雷神の神話伝承から組まれた『花嫁の影武者』の術式。

 

「クロウ君、それに院長様も、大丈夫でした?」

 

「うむ。途中で気を失ってしまったが、その間にひとまず危機は脱したようだ」

 

「ん。とりあえず、今は問題ないみたいだぞ。それで避難はどうなってるのだ?」

 

「はっ! すぐカルアナ殿らと一緒に、施設の警備員と連携を取り、恙なく客たちの安全は確保したであります」

 

「那月先生にも連絡しました。アスタルテさんを連れてすぐに来るそうでした」

 

 同じ部屋に生活する彼らはすでに慣れており、また事前に承知していたからか、さほど混乱せずに情報交換をしている。

 驚きに未だ古城は後輩を抱きかかえたままなのだが、それも頓着してるのはさほど気にしてない。

 

「叶瀬?」

 

「はい、お兄さん。叶瀬夏音でした」

 

「……それで、クロウ?」

 

「う、南宮クロウだぞ古城君」

 

 双子現象も今日で二度目だが、流石にそれくらいで慣れない。古城は一度天を仰いで、気を落ち着けさせてから、

 

「なにそれ? なんでクロウが叶瀬に?」

 

「うー、話せば色々と長くなるんだがな」

 

「手短に頼む」

 

「フォリりんに頼まれて、劇をすることになって、夏音が普通の演技役をやって、オレが夏音のスタント役をやることになったのだ。それで夏音に変化の術ができる道具で夏音になってたんだぞ」

 

「はい。私になったクロウ君を見てると私までヒーローになった気がしました」

 

 わかっていたが、あの第一王女が原因だったか。

 王妹殿下(かのん)の誘拐事件で活躍した『影武者』をわざわざ使って、ヒーローショーって、どんだけだあの姫御子は!

 古城の脳裏に、とても愉快気に微笑を浮かべるラ=フォリアが浮かぶ。これは深い考えがあってのことか、それとも単純に面白おかしくしたいだけなのか古城には読めないが、途方もなく疲れて肩を落とした。

 そして……

 

「……………」

 

 ピシッと石像のように固まっている少女。

 彼女に向けて、クロウは鼻をスンと鳴らし、

 

「んー? それでオレにも訊きたいことがあるんだけど……お前、古城君の親戚か?」

 

「!?」

 

 ビックゥと後輩の一言に、跳び上がった少女。

 たらりと冷や汗を垂らす彼女を、また確かめるようクロウは、北欧王家のお家騒動で親子血縁の遺伝子判定を下した『嗅覚過適応(リーディング)』を働かせ、スンスンと“匂い”を嗅ぎ、

 

「おい、クロウ。普通そこは、姫柊の親戚か? っていうところじゃねーのか?」

 

「そ、そうだよクロ君。あたし、旧姓『姫柊』だから!」

 

「う、ちゃんと姫柊の“匂い”もするな。じゃあ、お前、姫柊と古城君の親戚なんだな」

 

「!?!?!?」

 

「いや、俺の親戚にこんな娘いないからな」

 

「でも、目の色が似てるぞ」

 

「そりゃ同じ吸血鬼みたいなんだし、同じ赤に決まってるだろ」

 

「や、赤くなる前の目の色の方なのだ」

 

 

「―――そこまでにしておけ馬鹿犬」

 

 

 前触れもなく虚空より現れた魔女が、扇子で自身の眷獣(クロウ)の頭を叩く。

 

「あう!? いきなり何なのだご主人」

 

「アスタルテ、馬鹿犬を黙らせろ」

 

命令受託(アクセプト)

 

 抗議するサーヴァントに、那月と一緒に連れてきていたメイド服姿のホムンクルスがエプロンドレスのポケットから小箱を取り出す。そして中からひとつ抓みあげて、包み紙を破るとあらわになるのは茶色の大粒、そうチョコレートだ。

 

「先輩」

「あむ」

 

 目の前に持ってきたのがお菓子だとわかる。それに後輩が用意したものなのだから無警戒に、クロウは口を開けて、アスタルテはその口の中に放り込む。慣れた作業なのか一粒だけでなく、アスタルテは手早く5、6個ほどポンポンと。口の中にいっぱいになったところで、クロウが噛むとアーモンドと―――強烈なアルコールの香りが鼻を突き抜けた。

 

「あうあうあう~……」

 

「お、おい、クロウ!?」

 

 薬毒に強いが酒には酔ってしまう後輩は、目を回す。酩酊状態でふらついて倒れかけたところで、アスタルテにしっかりと抱き留められた。

 

「クロウに何喰わせたんだよアンタ!?」

 

「なに、ボンボンショコラだ。欧州土産の缶詰は周りにも被害に出るんでな。馬鹿犬用で、アスタルテに作らせた。使った酒の度数は記憶にないが。まあ、火が点くやつだったと言っておこうか」

 

「それって相当度数高いやつだろ!」

 

 しばらく使い物にならなくなった後輩は、倒れかかった体勢をそのまま横にしてメイドに膝枕されて、教官(マスター)より借りた扇子で扇がれ介抱されているという罰ゲームなんだか、ご褒美なんだかよくわからん状況に陥っている。

 

「ふぅ……クロ君が、昔から下戸(ゲコ)みたいで助かったよ。というか、クロ君って古城君より小さかったんだなぁ、同じくらいのシロ君も期待できる?」

 

 汗を拭う仕草をする少女。そして、那月は鼻を鳴らして、

 

「この転校生の偽者の身柄は私が預かる。反論は許さん。いいな」

 

「那月ちゃん。いくらなんでも、いきなり現れておいて―――」

 

 古城の口元にすっと日傘の先を突き付ける那月。

 

「いきなり現れておいてなんだが、何よりもまずそこの転校生本人を何とかしたらどうなんだ?」

 

 目線で古城を誘導する。

 

 ……姫柊。

 わざわざ言われるまでもなく、古城は彼女のことに気づいている。

 魔竜との戦闘で『七式突撃降魔機槍』を大破してから、彼女はそこに頽れて動いていない。

 槍の主刃を砕かれた時の、悲壮な顔が脳裏にこびりついている。砕かれたのは槍だけでなく、彼女の中で彼女たらしめる重要なパーツまで壊されたのではないかと思えてならなかった。

 そばに膝をつく。

 強く、心臓が鳴った。なんて言葉をかけていいか、考えても口から先に出ない。耳を塞ぎたい衝動にも駆られる。

 それでも、彼女から、吐露されるのを、無言で待つ……

 

「<雪霞狼>が、壊れちゃいました」

 

 と、少女は開けられた口から零したように言う。

 事実をそのままに告げる―――だからか、それがひどく寂しげに古城は聞こえた。それこそ鋭い刃に、心臓を貫かれた気分だった。思わず、叫びたくなった。

 だけど、それは自分なんかじゃなくて彼女の方だと思うことで、やっと堪えられた。

 

「なあ、ニーナ」

 

「無理じゃな」

 

 古城が訊ねる前に、その言葉の先を予想していた錬金術師は無情にも告げる。

 製錬技術であれば、あらゆる金属を操れる錬金術。この全金属製の槍も古の大錬金術師の技術であれば蘇るのではないか―――しかし、そんなわずかな望みもないのだと。

 

「本当にどうにかならないのか、なあ、姫柊が―――!」

 

「至極残念だが、その武神具を武神具たらしめる核が砕かれている。そこが無事であるのなら妾にもすぐに修理ができたのだろうが、そうなってしまえば、数十年はかかるだろう。そして、直ったとしても二度と同じものには戻らない。妾にできるのは精々、槍を同じ形に整えてやるくらいだ」

 

 そして、そのくらい彼女自身もわかっている、と……

 

「……はい、言う通りです……核を完全に砕けてしまいました」

 

 これ以上、見ないでやった方が良い。そう考えたのだろう。

 心配そうで声をかけたそうな夏音や、そして、あの謎の少女も含めて、古城と雪菜を除く全員が<空隙の魔女>の空間転移でその場からいなくなった。

 

「あの子の言ったとおりですね。硬過ぎるものは脆くて、自分を、周りも壊してしまう」

 

 その後、古城は彼女が自分から立ち上がるまで、一緒にそこで待った。

 

 

 

 そうして。

 その日すぐ砕けた『七式突撃降魔機槍』を獅子王機関に返却する手配をして帰宅した雪菜が、その際に配達員から一通の手紙を受け取る。

 その内容は、『姫柊雪菜への高神の社への帰還命令』だった―――

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

『大丈夫よ、零奈。歴史にだって弾性があるの。許容範囲とでもいうのかしら。バタフライ効果のようにあらゆる些細な事象が全体の変動に関わっていたら、時空を跳躍しただけで世界は際限なく崩壊しかねないでしょう?』

 

 と『時越え』の眷獣を血に宿してる少女に、魔術的なサポートやアドバイスをしてくれるお姉さんは語る。

 

『つまりね、“零奈の方から”過度なネタバレをしない限りは、歴史の流れは変動しない。少しくらい派手に動いたって、それすらも正史に組み込まれる。コントローラーは零奈のひとつに固定されるように、あたしと母さんもサポートしてるわ。だから、無秩序に変化が拡散されることもない、安全性を考慮した丁寧な構成なの』

 

 ……でも、もしそうなのだとしたら。

 あの人の槍が壊れてしまうのも、正史として組み込まれてしまったのだろうか。

 

 

 

 その魔竜は、最凶最悪の戦略兵器として創り出された人造魔獣。

 目的は、絃神島を通る龍脈を喰らうこと。龍脈を食われた土地は魔力を失って霊的に痩せ細り、最悪、壊滅する。特に絃神島は魔術建材によって繋ぎ止められている人工島のため、魔力を失うと分解し、海に沈むことになる。

 

「………なるほど、絃神島をぶっ潰そうとする魔獣を退治しに遥々遠いところからお前はやってきた、それと、お前は姫柊じゃない、ということなんだな?」

 

「はい、そうであります!」

 

 ピシッと軍隊の教官にするように敬礼する姫柊雪菜に似た少女。

 夏音と洗いっこをした風呂上り、古の大錬金術師にお腹の破れていたネコマたんTシャツを補修してもらっていたとき、ちょうど酔いから醒めて復活したクロウに説明をする。

 

 先ほど、歴史的にピンチであったものの、彼の主人である南宮那月より『転校生(偽)の余計な詮索はするな』と命じてくれたおかげで、その危機は脱した(彼女の方にはもう正体を悟られているようであったが)。

 

「わかったのだ。そういうことなら、オレも協力する。島が変なのはわかってたしな。人造魔獣の“匂い”も追えるぞ」

 

「ありがとう、クロ君!」

 

 ネタバレ的な意味では恐ろしい相手であるも、将来の『暁の懐刀』が味方に付いてくれるのは頼もしい。それにガチガチなあの人とは違って、思考も柔らかいし、優しいし……時々常識から外れるようなことをしたりするけど。

 

「んー……」

 

「どうしたのクロ君?」

 

 何やら思い悩む彼に、明るい調子で声をかける。

 

「いやな。お前のことをなんて呼べばいいのだ? 名前はダメなんだろ?」

 

「あー……そうですね……」

 

 拳を口先に添える考えるポーズを取って、少女は、うん! やはりここは、と頷き、

 

「“新”帝国警備隊特“撰組”――新撰組壬生狼零番隊隊長のレイ―――でお願いします!」

 

「う! 壬生狼一番隊長のクロウ―――こちらこそよろしくなのだ!」

 

 がしっと握手を交わすクロウとレイ。

 うんうん。やっぱりこの人はこのノリが正解だったのか。

 

 そして。

 立ち踏みしてるこちらの背中を押すように、クロウはこう命じた。

 

 

「じゃあ、零番隊隊長レイは姫柊のことをよろしく頼むのだ」

 

 

 しばらく、固まった。なんて答えていいのかは、わからない。

 どうしてそんなことをいうのか、それを少女自身よりも少女の“感情(におい)”を察する彼は言う。

 

「お前は魔獣を斃すためにここまでやってきたみたいだけど、やっぱり姫柊のことが気になるんだろ? 姫柊に、言いたいことがあったんじゃないのか?」

 

「ぅ……」

 

「それに、きっと姫柊の力は必要になるのだ」

 

「いや、でも、そしたら魔獣は……」

 

「魔獣の相手くらいオレひとりでも大丈夫なのだ。それに、時間稼ぎをするのにも慣れてるぞ」

 

 ふふん、とやや偉ぶった――でも、やっぱりそういうのが似合わない――笑みを浮かべてみせる。

 ……本当に、頼りになる。

 そして、槍の折れたあの人を、信じてくれる―――

 

 自分のことでないことはわかってるのに、何かこそばゆくなる。

 だからか、少女はこの震えを誤魔化すように別の話題に切り替えた。

 

「あ、そろそろ電話しなくていいのクロ君?」

 

「でんわ?」

 

 きょとんとされる。

 それにやれやれと苦笑してしまう。この人は昔からおっちょこちょいで、忘れ物が多い。世話が焼けるなー、と思いつつ、リビングに掛けられてる、あと五分で九時にある時計を指しながら少女は教える。

 

「ほら、凪沙おばさ――凪沙ちゃんと毎日夜9時に連絡するって約束してるじゃない。それで前に、うっかり5分時間を間違えて、拗ねられて大変だったーって、クロ君、あたしに言ってたよね?」

 

 きっと向こうは今か今かと待ってるんだから早くしないさいよー……と親切に発破をかけたつもりなのだが、きょとんと反対側に首を傾げられた。

 

「あう? オレ、そんな約束してたのか?」

 

「あ……」

 

 しまった、と余計に滑らせてしまった口を手で隠す少女。

 時期が早かっただろうか。凪沙おばさん、よく『20年前ぐらいにしたんだけどね、まだ付き合う前からしてた習慣が今も続いてるんだよー♡』とかこの人との話題になるといつもの3倍増しの言葉数で耳タコできるくらいに惚気られてるから、てっきりあたし―――いや、20年前“ぐらい”だから、厳密にはまだ……

もしかしなくても、フライング、しちゃった……?

 

「うーん、オレ、覚えてないぞそれ」

 

「あはは、今のは冗だ」

「でも、握手会で途中抜ける前に目があったし、あれからちゃんと避難できたか気になるしな。ちょっと電話してみるのだ」

 

 よかった。本当によかったよ。

 この人、勘は鋭いけど、細かい事とか気にしない性格で……というかもしかして、これも正史に組み込まれちゃってる?

 ほっと胸を撫で下ろす。

 

 ……でも、

 妹との結婚の要求に神々が造り出した生体兵器らとの喧嘩という伝説級の無茶ぶりする義兄といい、

 新婦入場の際にバージンロードをエスコートしてきたとおもったら、『親父の重い一発を喰らいやがれ婿殿!』と愛娘より先に拳骨をくれた場面を映像ビデオに残している義父といい、

 貴重な研究材料を欲しがるマッドサイエンティストな義母といい、

 将来は待遇が厳しい家庭環境になるのかと思うと、ほろりと目に涙が。

 

 入れ替わりで今アスタルテが風呂に入っているため、慎重にぽちぽちと自分で電話番号を押しているクロウに、レイは精一杯の励ましの笑みを浮かべて、

 

 

「あの、クロ君……凪沙ちゃんとの付き合いは、いろいろ大変だと思うけど頑張って、強く生きてね!」

 

「う、レイに応援されたはずなのに、なんか将来がすっごく不安になった気がするぞ」

 

 

 

つづく



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白の剣巫Ⅱ

公園

 

 

 マンションから道路を渡った先にある高台の公園。

 およそ直線距離で1km近くは離れてるそこに暁古城と姫柊雪菜、そして、師家様の縁堂縁からの依頼で絃神島を調査しに派遣された獅子王機関の舞威姫――煌坂紗矢華が集まっていた。

 

「―――龍脈を喰らう魔獣?」

 

「そう。おそらく、そういう用途で創り出された魔獣なんじゃないかって、師家様が仰っていたわ」

 

 語尾の声調をあげる古城に、淡々と一定調子で答える紗矢華。

 ショッピングモールに襲撃される前に魔竜と遭遇していた舞威姫は、その霊視で“放置するには危険すぎる”相手と判断。一度は紗矢華も弓で遠くから射撃するように接敵したが、魔力の在り方に不自然さを覚えた。

 

「雪菜、実際に戦った感じはどうだった」

 

 遠近攻撃手段を取れる舞威姫に対して、接近しての白兵戦術に特化しているのが剣巫。

 きっと自身よりもより近くに接敵して戦闘し、自分が感じた違和感を強く覚えたであろう妹分の剣巫の意見を求める紗矢華。しかし、雪菜は心ここに在らずと呆けて、反応がない。

 生真面目な彼女が、人の話を聴いていないことを訝しんだ紗矢華は、もう一度名を呼ぶ。それでようやく、ハッと雪菜は顔を上げる。けど、やはり内容が頭に入ってはおらず、

 

「雪菜?」

 

「……あ、ごめんなさい。なに」

「ちょっといい雪菜」

 

 ついに黙って見てられなくなったか。

 言葉を遮り、雪菜の顔に、自らの顔を近づけさせる紗矢華。

 あ、おい、と反応が遅れた古城が手を伸ばしたその前で、紗矢華は雪菜に口づけを交わすよう―――額と額を押し当てる。

 

「少し熱っぽい?」

 

「はい、昨夜はあまり寝付けなかっただけです」

 

 この真面目すぎるきらいのある妹分は徹夜で何か考え込んでいたせいで無理が祟った。その悩みの相談を受けるよう、姉貴分とした和らげた表情を作った紗矢華に、安堵の息を吐いたお邪魔虫からの横槍が入れられた。

 

「って、なんだ、熱を計るだけか」

 

「何をすると思ったわけ、この変態吸血鬼!」

 

「へ、変態!?」

 

 幼いころから養成機関で家族も同然、倉庫の姉妹の一時を邪魔してくれた男に、紗矢華の鋭き舌鋒は容赦なく罵る。

 

「ったく、私たちは子供のころからの付き合いなのよ。会って半年も経ってないからそんないやらしい想像しかできないのよ」

 

 と。

 会話するのもイヤなくらい男嫌いな彼女が認めた相手にしかしない紗矢華節。その喧嘩口調に、張り合うように古城もまた反論する―――そう、思いきや、肩透かしをさせられる。

 

「……そうか、まだ半年も、よく考えりゃまだそれくらいしか経ってないんだな。ずっと四六時中姫柊が傍にいるもんだから、もっとずっと長く一緒にいる気がしてたよ」

 

 紗矢華の言葉を受け入れ、自嘲するように呟き零す古城。

 様子がおかしいのは、雪菜だけでなく、古城もまたそうであった。

 昨日の一件を雪菜から師家様に、そして師家様から紗矢華へと伝言ゲームで彼らが魔竜と戦闘したことを知ってはいる紗矢華。ただし、彼女はまだその詳細を把握してはいない。

 蚊帳の外にフェードアウトされる雰囲気に紗矢華が呑まれていると、悲壮な感情をひた隠しにしようとしてできていない表情を上げた雪菜が、古城に向かって言う。

 

「……安心してください。それももう終わりですから」

 

「終わりって、どういうことだよ」

 

 口にするのを躊躇う。しかし、この決定を告げることこそが最後の務めと言い聞かせ、雪菜は答えた。

 

「獅子王機関から帰還命令が届きました。……多分、私は監視者として見限られたのだと思います」

 

 大事な秘奧兵器を大破させただけが問題ではない。

 監視役なのに、存在自体が災厄そのものとされる真祖に戦争(ケンカ)をけしかけるような扇動をし、あまつさえ、本来なら滅ぼすべき対象だというのに、『世界最強の吸血鬼』に覚醒させるための霊媒の生き血を吸わせてしまっている。

 そんな監視役は、失格されて当然だ。

 

 でもあれは―――言いかけて、古城は口を噤んだ。

 

 彼女は何も悪くないと訴えたかった……でも、このまま自分の傍に居続ければ、いずれ彼女も昨日の少女のように死んでしまうかもしれない。魔竜の尾に腹を貫かれ、吐血した死に顔を真正面で見た古城。それが、少女と雪菜がよく似た容姿をしてるせいか、重なってしまう。これまで古城が想像しえなかった、最悪の結果というものに。

 

 さすがに第三者としてはいられず、二人に紗矢華は割って入った。

 

「ちょっと待ちなさい雪菜。本当に獅子王機関がそんな命令を出したの? ちゃんともう一度確認を」

「いいんです紗矢華さん」

 

 ゆるゆると首を振られる。

 

「これで私も先輩も、楽に、なれますから」

 

 途切れることなく清流の如く滑らかな語り口調が、今は電波の悪いラジオ音声のように濁る。

 

「もう、今日の午後に迎えが来るそうです。急なお別れですけど、大丈夫、ですよね」

 

 そんなつっかえつっかえに吐き出される別れの言葉。たとえ誰よりも妹分を知ると自負する紗矢華でなくても、本心からのものでないくらいわかる。それが向けられた当人であるのならなおさら。

 

「私がいなくてもちゃんと朝起きてくださいね

 女の子にあまりいやらしいことするのは、だめですよ。もちろん、男の人にも。

 死なないからって、無茶をするのもやめてください」

 

 最後までこちらを気に掛ける彼女の言葉に、古城は伸ばすのを躊躇い、強く握りしめた拳をとかず、一度は持ち上げかけた腕も重い。引き留める文句も、唇を噛んできつく閉ざされた口から一切零させず。

 ……古城は黙って、聞いてやるしかできなかった。

 

 

「それから、楽しかった、です」

 

 

 そういって、雪菜は走り去った。

 古城のもとから。

 

 

キーストーンゲート

 

 

 『魔族特区』として繁栄させんとして、人工の浮島は海洋上の龍脈(レイライン)の集束点に建設された。

 つまり、龍脈――地球表面を流れる巨大な霊力経路の基点は、この人工島の中心点と重なっている。

 力を得るため、また街を滅ぼすため、より多くの龍脈を喰らう地点を求めた最凶最悪の生体兵器が根を張った場所は、やはり絃神島の中央にあるキーストーンゲート―――海面下220mにある最下層で眠る、聖人の右腕という聖遺物を供犠建材にした要石(キーストーン)に空間を越えて尾を絡み付かせ、霊力経路を根付かせていた。

 

「―――あいつを見つけた、所定のポイントにまで持って来れば(ふっ飛ばせば)いいんだな、ご主人」

 

 島の中心地で、全体を一望できる最も高い摩天楼の頂点。

 そこで“巣作り”する魔竜、その周囲を飛び交う毛の生えた翼竜(ファードラゴン)。魔竜はその咢より、火炎の竜の吐息(ブレス)を放ち、純白の獣竜を撃ち落とさんとするが、四対の翼を羽ばたかせるその機動力は、速く、機敏。躱し躱し躱し―――主人をフォローする。

 

 キーストーンゲートの側面を蹴って、稲妻のように頂上を目指して、駆け上がる、“風”。

 気配を自然と一体化し、姿を透過したそれは今は“風”のよう。

 すでに地上は遠く、空に落ちていくように、この天地逆しまの自由落下は加速して高度を増していく。

 “風”に足場など必要とせず、壁を蹴る反動だけでより高みへと(のぼ)っていく。

 

(フラミー……!)

 

 <守護獣>が標的の気を引いて、注意を(うえ)に逸らしている隙に、魔竜に勘付かせることなく、終着駅(おくじょう)に至った。

 

 そして、速度を落とすことなく、一瞬で“風”――銀人狼は肉薄した。

 銀人狼はしつこく己の<守護獣>に攻撃し続ける魔竜の頭部を踏みつけざまに、ベクトルを90度真上に変え、宙に舞う。そのまま、銀の体毛に覆われる太ももを引き上げ、足を大きく振りかぶった。蹴り足のシルエットが、陽炎のごとく、揺らめく。

 

「<伏雷(ふし)>―――!」

 

 その足が、巨大な質量を感じさせるほどに、凄まじい圧迫感を放つ。

 それは、足刀踵斧での<疑似聖剣>の発動。加えて、魔力を衝撃に変換する『八雷神法』の一手。

 青白い光が黄金色に染まっていく。激しい霊力を神気の色に変色する炎色反応の如き燃焼。ガスバーナーのように、金色の炎光を噴き上げ―――渾身の力をこめて、踵を叩きつける。

 それは、神鳴りが炸裂したかのような轟音を生じた。

 銀人狼の先制攻撃は狙い違わず、魔竜の脳天を叩き潰し、巨体を摩天楼の頂上から、キーストーンゲート近くに自然公園へと蹴り落とした。

 

 

道中

 

 

 どうするつもり?

 と、妹分を追わず、古城の前に留まってる少女は問う。

 

『<第四真祖>がいなければ、姫柊が危険な目に遭わなくて済む』

 

 だから、これでいい―――そう、答えた古城に、

 パシンッ! と引っ叩いた音が脳を揺さぶる応じ手。

 

『なに腑抜けたことを言ってるのよ!』

 

 出会って早々に敵意を、いや殺意をぶつけ、今強く思い零した言葉を真っ先に突き付けた煌坂紗矢華という少女は、今古城を責めていた。

 

『私だって、雪菜が望んでいるのなら何も言うことはないわ。……でも、私、言ったのよ。配置換えを上申しようかって、そしたら雪菜、なんて言ったと思う?』

 

 ―――先輩とは約束しましたから。

 ―――あの人の負うべき責任を、一緒に背負うって決めましたから。

 ―――だから、絶対に私から先輩の傍を離れるわけにはいきません。

 

 姫柊雪菜と出会って、初めての事件。

 あの時、ロタリンギアの殲教師の“正義”を判りながらも、この島を沈める強行に及ぼうとしたのを止めたい―――そう思い、悩む。

 この<第四真祖>という『世界最強』の力を思う存分に振るいたい―――世界に戦争すら仕掛けられる力で何かを、救いたい、そう願い。

 その力が強大なほど大きくなる重責に、あと一歩を立ち止まってしまう古城に、背中を押してくれた。

 

 先輩が、この島の人たちを守りたいと思っているのなら―――

 ―――やりたいようにしてください。

 先輩ひとりでその責任を負いきれないというのなら―――

 ―――私も一緒に背負います。

 

 

 だって、私は先輩の監視役なんですから、と。

 

 

 彼女が、古城に自らの身体を捧げたのは、絃神島の人々を護るため、というよりも、むしろ古城個人のためであった。古城がいつか己の決断を―――<第四真祖>という『世界最強』の力を振るわなかったことを後悔することがないように、と。

 

 そして、今、古城から去ってしまった少女を、最初に少女を古城から離したかった紗矢華は、言葉をぶつける。

 

『たとえ望んでいなくても、<第四真祖>はあるだけで災厄を引き寄せ、周りを巻き込む。それが宿命よ』

 

 そこから目を離すな、と。

 

 忘れられた過去を思い出し、押しつけられたこの宿業の意味を知り―――いい加減に、暁古城は自覚する時が来たようだ。

 

 

『何があっても、その力で全部守るってそれくらい言ってみなさいよ! 暁古城!』

 

 

 雪菜の行く先は、空港よ、と教えて、背中をたたく。

 やっぱり、紗矢華は良いヤツだ。

 感謝を。多謝を。古城は送り、追いかけ始めた。

 

 自分は、世界最強の吸血鬼――<第四真祖>。

 そして。

 この力を持て余している半人前の真祖には―――姫柊。お前が必要だ

 

 

 

 去ろうとする少女を追い、走り始めた……しかし、途中で古城は足を止めた。

 魔力の波動を―――この島を沈めかねんとする魔竜が、暴れてるのを感じ取ったのだ。

 

 

キーストーンゲート付近 自然公園

 

 

 現在、絃神島は崩壊しかかっている。

 魔術建材に供給される魔力が途切れているのだ。

 今のところを大きなバランス崩壊は起こしていないが、決壊したダムと一緒。一か所綻べば、そこから一気に人工島は崩壊するだろう。

 

 人工島管理公社は、厳密にいえば、<電子の女帝>とその手の界隈で名を轟かせるアルバイト女子高生が、物理システムだけを使い、全人工島の浮力と潮流のリアルタイム調整をしている。

 しかし、これは所詮、応急処置に過ぎない。原因を打破しなければ、いずれ絃神島は沈むことになる

 

 特区警備隊では、その原因である龍脈を喰らう魔竜には敵わない。

 今の魔竜は、『四神相応』の理をもって配置される四基の巨大人工島の中央、要石と接続―――つまり、四神の長たる黄龍の恩恵を受けて、その霊格の階梯を上げているようなものだ。一体で街を滅ぼす『旧き世代』の眷獣、それ以上の力があると予測される。

 『覗き屋(ヘイムダル)』はそれを理解し、彼らを一体の避難誘導の人員に回している。

 

 魔竜は空間跳躍し、不利になればいつでも離脱することができる。

 その逃げ道を封じるため、超高難度魔術である空間制御を単独で行使する絃神島で五本の指に入る国家降魔官<空隙の魔女>は、この自然公園に勝手な空間跳躍を許可しない、異空間を敷く。空間制御がなす、ある種の逃げ場のない結界だ。

 できるものなら、龍脈からも遮断したかったところであるが、すでに霊的回路が接続されている。これは、いうなれば、絃神島が宿主で魔竜がその眷獣、というようなもの。召喚ではなく、眷獣の方から霊的回路に寄生されているわけなのだが、

 吸血鬼が“異世界から喚び出すというもの”が眷獣というのだから、その結ぶラインは世界を隔てた程度では断絶できないものだ。

 そして、魔竜を結界内に閉じ込める間、魔女は『異空間の維持』という繊細さを求められる作業に集中しなければならず、無防備となる。それ故戦闘には参加できず、また護衛にひとり、眷獣共生型人工生命体を傍に付かせている。

 

 

 お膳立てが整っていて、今、戦っているのはひとり。

 魔竜を戦場へと運んできた(蹴り飛ばした)、魔女の眷獣(サーヴァント)たる<黒妖犬(ヘルハウンド)>。

 

 

「―――オマエの相手は、オレだ」

 

 ぐわっと大顎を開き、魔竜が銀人狼に咬みついてくる。

 短剣のような牙がびっしりと並ぶ、逞しい顎。そして、人間をひとのみにできそうな大口は、一気に真祖が膝を屈するほどごっそりと魔力を奪う。

 しかし―――クロウは退かず、どころか素早く顎に飛び込み、その牙を両手で支えた。クロウの強度は鋼鉄に勝る。鋭利な牙が食い込みもしない。そして、この『混血』の力を吸収するのは、“身を滅ぼしかねない”と本能的に察したか。

 昆虫と同じ複眼、その硝子のような瞳が、ギョロリと蠢いた。

 目の前の獲物をどう料理すべきか、慎重に戦術を練り直すように―――そう、いまさら。

 

「むしろ、オレとしては」 クロウは挑発するように 「オマエがオレの相手になるかどうか考え物だぞ」

 

 魔竜の喉から光が漏れた。

 そして、放出。光の濁流が大気を貫く。それはクロウを掠め、向かいの自然公園に植えられていた梢林を消滅させた。咄嗟に躱さなければ、大きなダメージを負ったことだろう。

 

 着地と同時に飛び込む。頬より血を垂らしているも、しかしそれが赤の絵の具か何かのようにまるで頓着しない。

 魔竜の尾は、要石に巻き付いているために、使うことができない。魔竜の翼撃をかわして、側面に回り、腹を蹴り上げる。

 爪の一撃を潜り抜け、跳び越えざまに背中を蹴る。

 だが、次―――魔竜の咢より、光芒が飛び散る。そのひとつひとつが必殺の魔砲弾の連射だ。クロウは素早く躱したが、そこに前足がまっており、踏み潰された。

 

「<黒雷(くろ)>!」

 

 身体強化呪術を発動。銀人狼は両足を踏ん張り、魔竜の爪を受け止めた、

 魔竜が霊地龍脈からさらに魔力を吸い上げ、強大。

 圧力が強まり、銀人狼の足元がずぶりと沈む。

 だが、クロウは耐える。力比べで負けない―――だから、この状況を望んだ。

 

「今、オレが任されているのは“足止め”なのだ」

 

 戦況は、膠着した。体勢は魔竜に有利だが、自分の前足が邪魔で竜の吐息(ブレス)や魔砲弾が撃てない。迂闊に引けば、そのまま押し返され、銀人狼の攻撃が始まる。眷獣をも叩きのめす威力は、魔竜であっても無事では済まない。

 

 機が来るまで待ちに徹する。

 急いで島崩壊の原因である魔竜を仕留めなければならないのだが、ただ倒しただけでは即行で再生される。それも龍脈の魔力を吸い上げて、だ。つまり百壊したとしても、それは結果として、ただ多くの龍脈の魔力が消費されるだけで、島の崩壊を早めることになるのだ。

 

不死(オマエ)を壊すくらいできるんだがな、それじゃあ島を枯らしてしまうかもしれないのだ」

 

 不死をも殲滅する“壊毒”は使えない。

 この絃神島を支える龍脈を繋がっている魔竜に“壊毒”を流し込めば、その龍脈さえも枯れ果てる恐れがある。

 だから、決定打が来るまで、クロウは待つ。

 

 

空港

 

 

 肌を刺す違和感。

 この魔力の波動は、あの魔竜のもの。

 しかし、力のない自分には何もできない。

 

「……っ」

 

 このもどかしさを抑えんと空港の金網フェンスを掴みながら佇む雪菜。

 その視線はずっと魔竜の波動が出現したと思しき方角を睨んでいる。

 そこで雪菜は自分へ視線を向けるその気配に気づく。

 雪菜とまるで双子のようによく似ている、第二世代の女吸血鬼。

 

「行かないの?」

 

 それはもちろん、昨日会ったあの少女だった。

 

「っ、あなたは―――!」

 

 振り向いた雪菜は、その美しい顔がくしゃくしゃに歪んだ、泣き崩れそうな表情を一瞬、その少女に向けてしまう。

 だが、すぐさま雪菜は冷徹な無表情の仮面をかぶり直し―――それに少女は盛大な溜息を吐くと、もう一度訊いた。

 

「クロ君はもう戦ってるだろうし、古城君も、きっと向かってるよ。

 ―――なのに、あなたは行かないんだ?」

 

「なっ―――」

 

 行かないのか?

 その問いかけに、消しても消しきれない、先輩のもとへ駆けつけたい気持ちに駆られる。

 しかし、<雪霞狼>がない今、先輩との絆はもうなくなってしまっている。この衝動も噛み殺すしかないのだ。

 雪菜は口を『Λ』の形にした。同じ顔をした両者の視線がぶつかり、火花が散る。

 

「本当は行きたくて仕方ないくせに」

 

「だからっ! ―――だから、行っちゃいけない……行っちゃいけないんです!」

 

 雪菜は悲痛な叫びをあげた。

 じんわり目尻に涙が滲む。その滴は彼女の堪えきれない想いの発露も同然。それでも、雪菜は雪菜に雪菜の感情を爆発させるのを、許さない。

 

 わかったのだ。

 <雪霞狼>。<第四真祖>の監視役に与えられた全てを終わらせるための槍を、向けていたから、先輩と一緒にいることができた。

 それがなくなってしまったら、先輩との距離を今のままに保てていられなくなる。今のままでが我慢できなくなる。踏み止まっていた一線を越えてしまえば、歯止めが利かなくなってしまう。

 だから、だめ。

 だから、もう先輩の傍にはいられなくなる。

 

「本当に、あなたはいっつもそう……」

 

 しかし、そんな雪菜の内情など、少女にしてみれば、ここに来るずっと前からお見通しだ。

 だから、そんなもの、求めてここまで来たんじゃない。

 

「ええ、あたしはそんな建前を聴くためにここに来たんじゃないわ。

 

 あなた自身はどうなの?

 

 

 剣巫だとか、獅子王機関は関係ない!

 

 

 

 ただの女の子の姫柊雪菜はどうしたいのよっ!!」

 

 

 

 少女は、叫んで想いをぶつけた。

 そして、それが一拍遅れた鏡映しのように、触発された雪菜は内に秘めていた思いを思わず吐露した。

 少女と同じように、いや、負けないように、強く、叫んで。

 

「そんなの!

 

 決まってるじゃないですかっ!

 

 

 一緒に……!

 

 

 

 一緒にいたいに決まってるじゃないですかっ!!!」

 

 

 

 雪菜の、――の声を、ようやく聴けた少女は、ふっと笑みを零す。

 

「……………やっと素直になったわね」

 

 ここまで追い詰めないと本音が言えないのかこの人、と半ばその頑固さに呆れつつ、少女は真上にその手を掲げる。

 それは雪菜の記憶に強く残る―――苦境に立たされた時、いつも先輩がその力を振るうときの姿と、何故か重なる。

 

「じゃあ、古城君のところに帰れる“魔法のチケット”をあなたにあげるわ……どうせわからないでしょうけど、これを造るのに身を削ってくれたクロ君にはあとで感謝しときなさいよ」

 

 少女を中心として円状に広がり、そして、暗雲を貫いて世界の天蓋を超えた蒼い光。

 それは、時空を超える眷獣<天球の蒼(エクリプティカ・サフィルス)>。

 20年の歳月を超えて―――破壊されたはずの刃をこの手に掴む。

 

「もしかすると……あたしは、このために、過去(ここ)にやってきたのかもしれない」

 

 それは、彼女の時代の最先端技術で修復するだけでなく、伝説級の聖遺物である『古代の宝槍』に並びうるものを新たに加えた。人工島を支える要石として供犠建材にされた『聖者の右腕』、それ以上の“ある幻想級の素材”で核の補強改良したことによって、出力と霊力の変換効率の格段な向上を実現した―――剣巫の、いいや、“姫柊雪菜の銀槍”。

 

 

「あなたに、この新しい<雪霞狼>を―――『七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)(プラス)』を渡すために」

 

 

キーストーンゲート付近 自然公園

 

 

 膠着していた戦況は―――一気に、傾いた。

 

 

 ゴバッッッ!!!!!! と、至近で耳をつんざくような轟音と衝撃波が炸裂した。足で踏みつけながらも潰せない。足が邪魔で攻撃ができない。

 だから、最凶最悪の生体兵器は、“生物であることをやめた”。魔竜自身ごと、銀人狼を撃ち抜いたのだ。

 そう、不死身に任せた自爆戦法を取ってきたのである。

 

「がハ―――!?」

 

 下半身を吹き飛ばしてしまったが、それも龍脈から魔力を吸い上げて魔竜は再生した。そして、自爆の代償に銀人狼に一撃を喰らわせた。いくらか魔竜の足を挟んだので破壊力は減ってしまったが、それでも銀人狼を怯ませるだけの威力がある。

 魔竜は続けて魔力障壁を纏わせた翼撃を横から振るう。銀人狼はそれを受け止め、耐える。両者が止まった一瞬に、また魔竜は魔砲弾を放ち、翼ごとクロウを撃ち抜いた。

 

「ぐふっ!」

 

 二度目だけあって、生体障壁の防護が間に合う。しかし、その身体が勢いよく後ろへ吹き飛ばされた。

 ぱたぱた、と地面に血の珠がいくつも落ちる。

 そして、大きく息を吸った魔竜の喉から光が迸り―――容赦なく。

 

 

 ゴッ!! と。魔竜の殺息(ドラゴンブレス)が襲い掛かってきた。

 

 

 直径1mほどのレーザー兵器のよう。太陽を溶かしたような純白の光が襲い掛かってきた瞬間、クロウは精気を振り絞り生体障壁を厚く固めた。

 じゅう、と熱した鉄板に肉を押しつけるような激突音。

 衝撃を殺すために鋼鉄の全身鎧(フルプレート)を着込んだが、しかしその装甲が赤熱してしまったかのような、肌を炙っていく継続ダメージを喰らうクロウ。

 地面につけた両足がじりじりと後ろへ下がり、ともすれば重圧に身体が吹き飛ばされそうになる。

 

(まずい……このままこいつと我慢比べを続けるのは……………ッ!?)

 

 クロウは思わず両腕で顔を覆わせる。全身の皮膚がびりびりと痛みを発した。際限なく龍脈から魔力を注ぎ込んだ殺息(ブレス)が、少しずつ防御を削り、食い込んできている。

 単純な物量だけでなく、その魔力は、四神の頂点たる黄龍に相応する気質だ。龍族と同格たる神獣と成らなければ耐えられまい。しかし、『首輪』を外し、<神獣化>する時間を魔竜は銀人狼に与えない。

 

 

疾く在れ(きやがれ)、<神羊の金剛(メサルティム・アダマス)>―――!」

 

 

 突如、銀人狼の前に、金剛石(ダイヤモンド)の障壁が展開された。それはクロウを守るだけでなく、魔竜の殺息(ドラゴンブレス)を撥ね返す。自らの攻撃を喰らった魔竜は、その上半身を消し飛ばす―――しかし、また龍脈から魔力を吸い上げ、再生する。

 

「クロウ! 無事か!」

 

「古城君……ああ、大丈夫なのだ」

 

 駆け付けてきてくれた古城に、しかしクロウは膝を突いたまま。熱病のような汗を噴き出させている。後輩のひどく消耗した様子に、ぎちりと噛み鳴らし、犬歯を剥き出しにして、魔竜を睨む。

 

「どうやら、俺の後輩が随分と世話になったようだな……!」

 

 前に出た古城は後輩を背にし、腕を高く掲げる。

 

「―――疾く在れ、<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>、<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>ッ!」

 

 <焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の災厄の等しき眷獣それも二体同時召喚。

 しかし、それが現出される前に、魔竜は古城へ向けて咢を開き、摩砲弾を放―――

 

 

「―――獅子の舞女たる高神の真射姫が讃え奉る! 極光の炎駒、煌華の麒麟、其は天樂と轟雷を統べ、憤焔をまといて妖霊冥鬼を射貫く者なり!」

 

 

 祝詞を紡いで、銀色の洋弓から撃ち出される金属製の呪矢。呪力を帯びた鳴り鏑矢が、人間には不可能な超高速度の呪文詠唱を代行。魔竜の上に巨大な魔方陣が描き出されたかと思うと、数えきれないほどの稲妻の嵐、それと身体の自由を奪う高濃度の瘴気が降り注いだ。

 摩砲弾を撃ち出す寸前で魔竜は地面に埋まるほどに屈する。

 

「今よ! やりなさい暁古城!」

 

 制圧兵器たる<煌華鱗>を携える舞威姫――煌坂紗矢華の登場。

 高濃度の瘴気と雷撃を浴びせられた魔竜がしばし硬直して動きを止めた好機に、古城は双頭龍と双角獣(バイコーン)を召喚し、突撃させた。

 『次元食い(ディメンジョンイーター)』の双頭龍が、空間ごと魔竜の巨体を喰らい、残る肉片を双角獣の咆哮から放たれた圧縮された大気の砲弾が塵にする。

 

 

 しかし、魔竜は完全に消滅された状態からも再生した。

 

 

「死なねぇやつってのは、敵に回すとこんなに厄介なのかよ……!」

 

 一気に三連続、それも二体同時召喚の魔力消耗は大きく、古城の吐く息は荒い。

 それでも双眸の闘志は萎えることなく、燃え盛る。

 

「だったら、とことんやってやるぜ―――疾く在れ、<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>!」

 

 新たに召喚された雷光の獅子は咆哮を上げてその威容を世界に震わせ、空を駆けて魔竜へと突撃した。空を蹴る一蹴りごとに稲妻が炸裂する。落雷に匹敵する威力が、その度に迸る。直撃すれば、間違いなく魔竜の身体を炭化する紫電の飛沫。

 しかし、不死身の特性を最大限に活用する、捨て身の自爆戦法。雷撃に自ら首を突っ込んだ魔竜の咢が、焼かれながらも再生して原形を維持して、そして雷光の獅子の胴体に喰らい尽く。

 ―――そして、魔力を吸収する。

 

 

「グァァァああああああああああああああああああッ!?」

 

 

 不死身たる魔力吸収―――しかし、眷獣を通してその宿主の魔力までも奪えるとは!

 高密度の魔力の塊である雷光の獅子が霧散して、古城はまたも根こそぎ魔力を食われる。

 そして、膝を突いた古城に、味を占めた魔竜が、大きく咢を開いて猛然と迫る―――

 

 

 ざんっ、とその間に割って入る、何かが大地に突き立った。

 

 

「させませんっ!」

 

 降り立った少女は、構える槍より純白の光壁を展開。『神格振動波』を護りに転用して、その心に迷い・曇り・汚れなき意思がある限り、一切の敵意・悪意を寄せ付けない魔を弾く聖域を作り上げた。

 突貫した魔竜は、その光を浴びて肌が焼かれることを恐れるかのように、大きく退く。

 そして、魔竜に睨みを利かせた彼女に、古城は―――思わず、その名を呼んでしまう。

 

「姫柊……!」

 

 そう、去っていった姫柊雪菜が古城の下に帰ってきた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『七式突撃降魔機槍』は、姫柊雪菜の不注意で壊れたのではない。

 

 この絃神島に派遣され、急激に成長した姫柊雪菜の霊力に耐えられなくて、自壊したのだ。

 だから、獅子王機関と『暁の帝国』は、姫柊雪菜に合わせて、姫柊雪菜だけの『七式突撃降魔機槍・改』を造り上げることを計画する。

 20年という歳月を費やし、そして、『古代の宝槍』だけでなく、黄龍や鳳凰に同等以上の格を持つに至った、幻獣級の神狼――『大罪制覇(グランド・ビースト)の牙』をも核に加えて―――更なる強化が施されて、雪菜の下へ帰ってきた。

 

「ハア―――ッ!」

 

 より強く輝きを増した破魔の霊光。武神具の質が格段に上がり、何より自身の手によく馴染む銀槍を振るいて、雪菜は怯ませた魔竜に迫る。

 

 <雪霞狼>の強化は雪菜自身にも影響を及ぼすかのように、その霊視はこれまでの絶好調期以上に冴え渡る。連射される魔砲弾をひとつ残らず斬り捨てながらも、速度を落とすことなく。

 魔竜が近づく者を全て薙ぎ払わんとする魔力障壁の拡張放出が吹き荒れるも、しかしそれすらも。

 斬! と、姫柊雪菜の一振りは、軽々と横一線に斬り裂いた

 しかも、それでいて雪菜は振り抜いた銀槍の速度や重さに振り回されることもない。完全に、物にしている。

 

 だが、ここまでは試運転。真価を発揮したのは、最後に魔竜の腹に浴びせた一太刀。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 『三聖』クラスの腕前であれば、槍の担い手に選ばれていなくとも、“斬りつけた腕に楔を付ける”などと斬った相手に『神格振動波』の結界を貼り付ける芸当ができるだろう。

 しかし、姫柊雪菜が全力で霊気を篭めて振るう『七式突撃降魔機槍・改』は、“結界に留めるだけ”に留まらない。

 <雪霞狼>に過負荷を与え、込められた高純度の神気を漏出。本来であれば光の斬撃となる霊力をあえて放出せず、対象を斬りつけた際に解放する。

 

 魔竜の口から、苦悶の咆哮が響く。

 そして、腹部の傷痕から罅割れていくように、神気が全身へと広がろうとしている。

 

 斬られたものは斬りつけた部分から凄まじい破魔の霊光が迸り、そして周囲に伝播し浄化を続ける持続性がある『過重神格振動波』。

 つまるところ槍で一ヵ所切傷を付けるだけで、そこより『神格振動波』が全体へ伝わらせ、魔を雪霞の如くに散らせるというもの。急所を突かなくても、魔族に壊滅的なダメージを与える。

 

 そして、魔竜への逆襲を果たしたところで、残心。しかしながら、この逸る気を落ち着けさせるのは無理があって、鼓動は早鐘を打ちながらも、見かけ呼吸だけを整えたところで雪菜は振り返ってしまう。

 

「先輩っ!」

 

 魔力を大量に吸われて、ふらふらながらも帰ってきた彼女を迎えようと立ち上がる古城に、雪菜は急いで駆け付けて身体を支える。

 出会って早々に心配させてしまうことに古城は自嘲と苦笑が半々となるような表情を浮かべてしまう。

 

「姫柊が目を離すとすぐこれだな」

 

 しかしどうして姫柊が、と見つめる古城に、雪菜は静かに微笑んで、

 

「当然です。忘れたわけじゃありませんよね。私は先輩の監視役なんですから」

 

 涼しげな表情で言い切る彼女に、古城はしばし呆然と見惚れた。

 銀槍を地面に突き立てた雪菜が、制服の胸のリボンを解いた。

 そのままボタンを外して、胸元をはだける。

 白い肌と細い鎖骨。そしてほっそりとした首筋が露わとなる。

 見下ろす古城の視界には、彼女が身につけた清楚な下着と、控えめな胸の膨らみが否応なく飛び込んでくる。古城は軽く声を上擦らせ、

 

 これまで、もう何度とした行為に、互いに確認の言葉などとらなかった。

 

 古城に抱き寄せられて、熱い吐息を漏らす雪菜。

 古城は彼女の細いからだから、かすかな温もりと心地よいにおいを感じる。清潔な髪の匂いと、ほのかな甘い体臭。そして、血の臭い―――

 犬歯が、否、牙が疼く。吸血衝動の引き金(トリガー)となるのは性欲だ。吸血鬼が血を吸う対象は、魅力的だと認めた異性だけ。

 この実感が離れるのは惜しい、とこの時ばかりは古城は自覚する。

 

「あ、()……先ぱ……い……」

 

 彼女と一緒にいる間、古城は吸血衝動を抑えるのにいつも苦労する。

 そして、その彼女は行為に及ぶ際になると彼女なりに精一杯こちらを誘惑して、いつも初々しい反応を見せる。苦悶の声を上げても、抑えきるのは不可能で、嗜虐精神を煽りより昂らせるだけだ。

 古城の牙が、雪菜の体の中にそっと埋まっていく。

 雪菜はきつく目を閉じて、その痛みに耐え、やがては快感に変わるそれを堪える。雪菜の唇から弱々しい吐息が漏れる。

 やがて古城の腕に抱かれた雪菜の身体から力が抜けていく。まるでひとつに融け合ったような二人に―――

 

 

 過剰神気に侵食される部位を切り離して、消滅の危機を脱した魔竜が完全再生を果たす。

 

 

 早速、反撃の摩砲弾を魔竜は二人へ放って―――それを横から飛んできた紫電迸る白虎の気功砲が相殺させる。

 

「<槍の黄金(ハスタ・アウルム)>!」

「<煌華鱗>!」

 

 魔力無効化能力をもつ稲妻を纏わす金槍を振るう雪菜に似た少女――レイが、魔竜の身体を切り刻んで、追打ちする『六式重装降魔弓(デア・フライシュッツ)』の呪矢。

 魔竜を後逸させたところで、先ほど気功砲を放った銀人狼が、魔竜へ視線を固定しながらも、大きく嘆息してみせる。

 

「……こんなときに、こんなところで、まだ戦闘は終わってないのに。古城君たちは、TPOってのを弁えるべきだと思うぞ」

 

 レイは、あっちゃ~……と手で顔を隠し、ただし目のところは指を広げており、

 紗矢華にいたっては、ぼけ~……と頬を赤らめて呆けてしまっている。

 この場にいる全員を代表して注意したクロウに、古城は完全に復活した不敵な笑みを浮かべながら謝罪を述べる。

 

「わりぃなクロウ。だけど、もう大丈夫だ」

 

 力が、漲る。

 古城に帰ってきたのは魔力だけでない、この無限に魔力をこみ上げさせてくれる監視役も。

 

「さんざんやってくれたな―――ここから先は<第四真祖(オレ)>の“戦争(ケンカ)”だ」

「いいえ、先輩―――“私たちの戦争(ケンカ)”です」

 

 そして、そのやりとりに今はもう一人加わる。

 

「忘れないで、もともとあたしの“戦争(ケンカ)”なんだからね」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 20年後の世界で、とある実験によって生み出された最凶最悪の戦略兵器。空間を捻じ曲げる『時渡り』の能力に、土地の霊的経路(パス)を張り巡らせてから寄生するように魔力を吸い上げ、その霊血を壊滅させる『龍脈喰い』の特性。

 基本的にどんなものからでも無限にエネルギーを吸い取り、何度でも復活することが可能なため、対策を怠れば捕らわれた眷獣を通して宿主が魔力を大量に吸われる羽目に陥る。

 そして、『龍脈食い』の特性を攻略しなければ、何度でも蘇る。

 

「いい、古城君。あの魔獣は龍脈に霊的経路を張り巡らせてるの」

 

「霊的通路?」

 

「先輩と眷獣を繋ぐラインのようなものです。本来なら触れたり、ましてや壊したりできるものじゃないんですが」

 

 知識の少ない、一般の男子高生の古城に、同じ顔をした少女たちが説明して、補足を入れると―――彼女たちは銀槍と金槍を交差に重ね合せる。

 

 

「「私たちが力を合わせれば!」」

 

 

 壮烈に金銀絢爛な呪力が高まる。

 『神格振動波』の共鳴現象だ。それで二人の力を互いに増幅させ合い、相乗効果を生んでいる。

 

 魔獣の復活を阻止するためには、『龍脈喰い』の尾を切断する方法以外はない。そして。強力な破魔の効果を持つ武器でもない限りは、触れることすら叶わない。

 だが、今のふたりならば、絃神島の要石と魔竜とのラインを断つことすらできる!

 

 

 

 そして、自在に瞬間移動して、攻撃を躱す『時渡り』の対抗策の準備を進められる。

 

「<歳星/太歳>

 <太白/大将軍>

 <塡星/太陰>

 <辰星/歳刑>

 <塡星/歳破>

 <太白/歳殺>

 <羅睺/黄幡>

 <計都星/豹尾>」

 

 テンカウントのように詠唱が紡がれる。

 限界を超えた呪的身体強化術――『八将神法』を、獣のように大地に四肢をついた銀人狼が、その背後に立つ呪術のスペシャリストである舞威姫のサポートを受けながら、発動させていく、

 

「我が身に宿る“疫病”に命じる、栄えよ―――」

 

 地面に四肢をついた銀人狼の腰が上がる。

 その姿は、号砲を待つスプリンターのよう。

 『八将神法』の奥義たる『牛頭大神』

 今回は、呪毒反転はせず、『龍殺し』の一点に効果を絞る。

 

 

 

 不死身が通用しなくなる状況を判断したか。

 逃げようとする魔竜。しかし、<空隙の魔女>によりこの結界の中から外へ空間跳躍することはできない。

 ならば、この張られた結界内で跳躍を繰り返すか―――!

 

 

 しかし、その『鼻』は、100%の絶対確率で標的の位置座標を捉える。

 

 

 龍殺しの人狼が走る。

 残像さえ遥か、<黒妖犬>は神風となって、『時渡り』を繰り返す魔竜へ迷わず一直線に疾駆する。

 

 

「―――<(ゆらぎ)>ッ!!」

 

 

 『玄武』、『白虎』、『朱雀』、『青龍』の獣王四神の型を修めた今代獣王が、原点に帰って放つ総集奥義。

 ランダムに『時渡り』する魔竜の跳躍地点に時空さえ超えて、先読みして先送りして先手を打つひとつの究極形、今代獣王の編み出した『黄龍』の型。

 

 刹那にも満たぬ内にすべては決着する。

 

 

 ごっきいいいいいいいいいいいいいいいいん!!!!!! と。

 

 

 『竜殺し』の呪がかけられていたその一打。

 抉り込まれた魔竜は、墜落し激しく痙攣して動けない、ワンパンチKOが達成された。

 

 

 

「先輩」 「古城君」

 

 二人の呼びかけに古城は腕を構えて、魔力を集わせる。

 

「狙うは尾の付け根よ!」

 

 一言の助言だけ。それ以外のアトバイスもなく、極限まで力が高まった二つ槍をそれぞれ構えた二人は並んで疾駆する。

 そして麻痺する魔竜の直前でまったく同じタイミングで跳躍で左右に別たれて、それぞれ回り込む。

 

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る。破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 

 鋏のようにクロスする二つ槍撃。

 絃神島の要石と接続していた、中途で別の時空へ繋がっているその魔竜の尾が切り裂かれ、全体へ伝播する『過剰神格振動波』が霊地龍脈を浄化し、張り巡らされていた霊的回路が断たれる。

 

 

疾く在れ(きやがれ)、<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>―――!」

 

 

 そして、不死身でなくなった最凶最悪の生体兵器へ、天罰の如き雷光の獅子がぶちかまし、細胞一つ残さず蒸発させた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「私、やっぱりこの島にいたいです。先輩や、みんなのいるこの島に。……帰還命令、取り下げてもらえないか掛け合ってみます!」

 

 魔竜が対峙され、絃神島の崩壊が止まり、事件が解決した。

 そして、今回の件で、ひとつ振り切った雪菜が、古城を前に宣言する。

 

「姫柊……」

 

 監視対象と監視役の関係。しかし、互いに互いが代えの効かない存在だと自覚し、そして―――

 

「ストップ」

 

 見つめ合う二人に、割ってはいる紗矢華。

 盛り上がっているところ悪いとは思うのだが、それでもまず一つ確認しておかなければならないことがある。

 

「ねぇ、雪菜。あなたのところに届いた帰還命令ってもしかしてこんなのじゃなかった?」

 

 紗矢華が長剣を入れている黒い楽器ケースから取り出したのは、雪菜が配達員から渡せれたのと同じ手紙。

 

「紗矢華さんも!?」

 

 驚く一つ年下の元ルームメイトに、紗矢華は呆れと安堵の入り混じった嘆息を漏らす。

 

「違うわよ。忘れたの、これ帰還命令じゃなくて、定期検診の通知よ」

 

「へ?」

 

「吸血鬼と接触したことのある職員には、『血の従者』になったりしないように定期検診が義務付けられてるじゃない」

 

 吸血鬼に血を吸われたからと言って、すぐにどうなる、ということはない。吸われた人間は快感と恍惚を味わうことになる、とも言われているが、それはただそれだけのことだ。

 問題は、吸血鬼自身が、突き立てた牙から自分の血液を相手の中に流し込んだ場合である。

 吸血鬼の血を受けたものは、不死者であり、永遠の余生を共に過ごす伴侶たる『血の従者』に変わる。

 もちろん必ずそうなる、というわけではない。月齢や吸われた人間の体調や、呪的な抵抗力によっても確率は変わる。しかしそれは逆を言えば、必ずそうならないわけではない、ということでもある。

 いくら吸血行為に注意や予防をしていたとしても、個人では限界がある。簡易検査セットも支給されているが、きちんとしたそれ専門の施設での検査をしなければ完全に安全とは言えない。それを何度も繰り返していればなおさらだ。

 

 よって、職員の定期検診は、先輩攻魔師のおっしゃるとおりに、義務である。

 

「じゃ、戻れ、っていうのは……?」

 

「三日間だけよ。残念ながら」

 

 というわけで、帰還命令は定期検診のためであって、永遠のお別れではないと。

 

「おっちょこちょいなのだ」

 

 カラカラ、と笑うのは火事場の馬鹿力を発揮したおかげで、筋肉痛でバッタリ前のめりに倒れたままうつ伏せでダウンしてるクロウ。それを見かねて、もしくはこれ以上の説明は付き合ってられない、と古城たちから離れた紗矢華が彼の身体に鍼灸術を施す準備を始める。

 

 そして、勘違いは正され、また二人きりの時間に戻った。

 

「おい姫柊!」

 

「間違いは誰にだってあります! それに、そもそも先輩が悪いんですよ! 私がいなくなった方が良いなんて言うから!」

 

「はあ!? おい待てよ! いつ俺がそんなこと言った?」

 

 それを少し離れた位置で見守るレイは、言い合う古城と雪菜を眺めて、肩をすくめる。

 

「やれやれ、犬も食わないとはこのことね」

 

「だなー。二人は相変わらず仲良しだぞ」

 

 

「「違う(います)っ―――!」」

 

 

 頷き合う後輩と少女に図ってもないのに口を揃えているようでは、どちらに説得力があるかわかるもの。

 そして……

 

「でも、二人に会えて本当に良かった。こんな風に楽しそうな二人が見れて……いや、今とあんまり変わってないかも」

 

「こんな風って」

 

 問う古城だが、少女の周囲にまた空港と同じ蒼の光で包まれ始める。

 

「残念。時間切れみたい。もう帰らなくちゃ―――クロ君、ありがとね」

 

 少女はパチリと大人しく鍼を打たれているクロウへウィンクを送って、ひとつ小包を放る。

 

「それで……これ、槍と一緒に送られてきたんだけど、ケーキ?かな。ここ最近、菓子作りに挑戦してるって、ムツ姉言ってたし」

 

「ケーキ?」

 

 つい、と目を逸らすレイ。

 突っ伏しながらもクロウが片手でキャッチした包みの隙間から、ドロリ、と暗黒物質(ダークマター)の瘴気のようなものが出る。

 

「あう? なんかこれ黒いのが漏れてるぞ」

 

「呪毒の類じゃないと思うんだけど、なにかヤバいわよこれ」

 

 警戒を促す呪術と暗殺の専門家の声に、わたわたと手を振る少女。

 

「その、魔女鍋かき回したりしてたけど、毒とか劇物とかそういうものは入ってないよ……まあ、『『博士(ドク)』が作る母の味に負けないくらい』ってみんなから絶賛されてて……今回は来られなかったから、きっとその分作ってきたんだと思う。だから、食べてあげて―――そして、死なないでね!」

 

「なんか安心させたいのか不安にさせたいのかわからんけど、オレ、毒があっても毒にめっぽう強いからな。お酒がなければ、大丈夫なのだ。それにもらったものはちゃんと残さず食べるのだ」

 

「う、うん、クロ君……あんまり無理しちゃだめだよ、でも、一口だけでも頑張ってね?」

 

 やけにこの少女は、将来を不安にさせる発言をしてくるなー、と思いつつ、クロウの別れを済ませる。

 

「おい待てよ、おまえ、え、っと―――」

「あなた名前は―――」

 

「いつかまた会えるわ。必ず」

 

 そして、少女(レイ)は、最後までその素性を謎のまま空間転移して、“どこか遠い場所”へと帰っていった。

 

 

「それまでちょっとだけさよならね―――――――ママ」

 

 

 去り際にほんの少しだけのネタバレを口滑らせて。

 

 こうして、絃神島に平和が訪れた。

 それは束の間の平穏にすぎないのだとしても―――

 崩壊の揺れが収まった人工島の大地を、眩い太陽が照らす。

 きっと、この島の気候が暑いのは、20年先も変わることはないだろう。

 

 

 

つづく

 

 

 

孤島

 

 

 数年前に都市から離れた、島流しの流刑地のような人工島。

 とうの昔に廃棄されたその鋼鉄の大地にあるのは、ひどく、堅牢な建物だった。

 外側から見れば、連続した立方体の組み合わせだ。大小のサイコロを繋ぎ合わせたような形をあまりに真っ白な塗装には、デザイナーのこだわりといっそ執念めいたものを感じさせられた。

 この“記憶を辿()る”に、ここはどうやら『白夜島』と呼ばれているらしい。“眠ることを極端に恐れた男”が、夜を恐れてその名をつけたのだとすれば可愛くもある。残念なことに今は夜が来ているが。しかしそれにしても張り巡らせたセキュリティは異様であった。一見は何体かの警備ロボットが巡回しているだけだが、内側に張り巡らされた電子的な警戒網のレベルは、そこらの国の内閣府にも劣らぬものだった。それも島流しの流刑地のような人工島にあるため、都市主要のネット環境からは外れており、だから今日までかつては<電子の女帝>と謳われた『最高技術顧問』の目から逃れることができたといえよう。

 

 そう、ここは、20年前の過去に、『時渡り』と『龍脈喰い』の特性を持った最凶最悪の生体兵器を送り込んだ賊のアジトだ。

 

 

「しかし、我らが帝国にあだなす輩、その命運の灯は、今この瞬間にて吹き消されよう」

 

 

 今、その建造物をひとりの人影―――否、ひとつの災いが立ち寄っていた。

 いや。

 もう立ち入った後なのかもしれない。

 木の葉の落ちる音よりもなお密やかに、闇夜に落ちる影よりもなお暗く―――そして、蝋燭の明かりを吹き消すよう、ふっと息が吐く。

 そんな蝶の羽ばたきのような微風とも呼べないようなものを、建造物の外壁の壁を撫でた―――

 

 途端、その施設のあちこちに大爆発が起こった。

 それも同時にではなく、僅かずつずれて、瞬きほどの時間差を置いて。

 仕掛けられていた魔女の師と同じ、爆弾の如き使い魔(ファミリア)が次々と順番に連動したのだ。

 そう、最も建物全体が崩壊しやすいような順番で。次から次に。

 難攻不落とさえ思われた、万全のセキュリティが構築されたアジトは、たった10体足らずの使い魔(ファミリア)で力学的に崩落したのだ。

 巨大建造物の解体工事にて、当たり前に用いられる技法と同じことをしたのだろうが、そのものは事前に建物の情報を得ていたわけではない。測量器具もなく精密分析、頭脳に建物の設計図を発想して―――たった一人で事を成した。

 

 仕掛け人である使い魔の主は、少女であった。

 成年にはまだ達してはいないが、次世代の中では最年長に入るだろう。何せ学生時代の両親が付き合う前から産まれていた子供で、今やハーレムを築く『夜の王国』の領主がまだ(一応)独身であったころに育てられた。

 オリエンタルな和装にゴッシクのフリルをつけた、巫女と魔女の合作のような服装を好み、その獣人種の外見的形質が半端に発現していて常時形体で生やしている獣耳と尻尾に合わせて着飾り着付けた服装。

 今は母親がしていたのと同じように長い黒髪を短めに束ねたポニーテイルを作り、純粋ながらも妖艶な金色の瞳を(ラン)と夜行性動物のように光らせている。

 

 端麗な容姿である。しかし人間時でも獣耳と尻尾を生やし、完全な獣化もできないのは、獣人らにしてみれば、人間にも獣にもなりきれない“最弱”の類と見なされる。

 でも、父親から受け継いだこの獣娘的特徴は、彼女にしてみれば恥じるものでもないし、自身の個性を表す可愛いアクセサリーとしていたく気に入っている。

 そして、親から継いでいるのは、外見だけではない。

 

「さて。そろそろ顔を出したらどうだ。魂の波動よりここにいるのは(ぬし)らだけで、そして警備ロボットと同じガラクタに潰れておらんのは“わかっているぞ”。

 今日は我の父祖が『暁の帝国』におるのでな、疾く任を済ませ、家に帰りたいのだ」

 

 瓦礫を持ち上げて出てきたのは、いずれもまともな人間ではなく、また魔族とも呼べないような者たちだった。

 あるものは素顔もわからぬほどの獣毛を、あるものは鉄でも噛み裂けそうな剥き出しの牙を、あるものは羆にも似た巨大な爪を生やしていた。

 さしずめ、狼と、虎と、熊になるのだろう。

 

「臭い“匂い”だ。禁忌を破り、己があり方を歪めたか。祖よりいただいた器をそのようにして恥ずかしくないのか主ら」

 

 彼らは、獣人、ではない。

 人間ではないものの因子をその身に打ち込んだ、言うなれば、人造獣人。

 それらを侮蔑する少女、細められた目の眼光より射抜かれる圧力は本物。

 

 わずか数秒で、決着はつく。

 

「これでも、武者修行に出す前までは、我が未熟でヤンチャで可愛い弟と遊んでおったんでな」

 

 最初に接近した狼男が、カウンターのストレートを正面から鼻面に決められ、鼻血と共にもんどりうった。続く虎男が高く飛び掛かって、虚空より射出された神々に打ち鍛えられた銀鎖に、蜘蛛の巣にかかる蝶のように囚われる。一番身体の大きな熊男が猛烈な勢いでその爪を振り上げるも、ふっと直前で消えられて、勢い余って無様に地面に転がった。

 

「ッツ、マサカ、<空隙ノ魔女>―――イヤ、キサマハ<神通力>カ!?」

 

 まだ人語を話せるだけの理性を残していた熊男が驚愕の声を上げた。

 

 『その力、神に通じる』と書いて<神通力>。その異名は、『世界最高の混成能力者(ハイブリッド)』におくられるもの。

 

 『天耳通』――世の中すべての音を聞き分ける地獄耳の『音響過適応』

 『他心通』――相手の思考を読む精神感応の『芳香過適応』

 『宿命通』――自他問わず前世すら遡ってそのものを知る過去視の『接触過適応』

 『天眼通』――遠近大小関係なく、どんなものでも見ることができる千里眼の『光色過適応』

 それら稀少な<過適応者(ハイパーアダプター)>のスキルが四つに加え、

 『漏尽通』――母方の祖父の家系由来のケガレを把握する覚者に等しき巫女の霊的感覚と、

 『神足通』――思い通りにどこへでも到達できる、魔女の師より教わりし、単独での超高難度魔術である空間制御の行使による瞬間移動。

 

 合わせて、『六神通』とも呼べるような力を持っている。

 二人の優秀な混成能力者(ハイブリッド)から産まれた、まさしく『超過適応者(サラブレッド)』と呼ばれても仕方がない。

 

「しかし、我は味覚だけは普通だからな。ここのところ母君の味に近づかんと花嫁修業を受けている真っ最中だ。今日も帰っている父祖のために禁断の果実と進化の秘薬を隠し味に加えた至上の肉料理の饗応を振る舞おうと考え、試しに馳走したトウシロウが倒れてしまったわ。口に含んだ途端に宙返りしおって、出る前にもまだ昏倒しておる。味見で求めてるのは感想であってリアクションではないのに。まったく元気にはしゃぐのもいいけど、そろそろ落ち着きをもってもらわねば困る。

 とにかく、おかげで今回は連れて来れんかった―――しかし、貴様らのようなならず者を調理するのは容易きことよ」

 

 舞踏のようにステップを踏んだ。

 体勢を立て直した熊男と狼男が両横から走り込んで挟み打つ。油断したか、魔力の波動は覚えない。

 他に観客がいれば、さやかな灯の下で、真っ二つに断ち切られる少女の胴体を幻視しただろう。いかに遺伝改造された造られ、身体の一部しか化けれない不完全な獣人であっても、爪の鋭さも、膂力もそれに十分足りたはずだ。

 相手が、<神通力>でなければ。

 

「我は魔女だが、使うのは魔力に頼ったものだけではない」

 

 激しい音と閃光が木霊した。

 “閃光”。

 その意味は、すぐに知る。

 二人の人造獣人が、硬直。して、破けた服の下が、痛々しい火傷に覆われていた。

 この火傷は、今の、閃光によるものだ。

 いいや。

 雷撃と、言った方が良いだろう。

 

「国家攻魔師の資格を得るには、まず護身術が必須科目でな」

 

 <過適応者>――魔力を必要としない天然ものの特異な能力。

 今の電磁操作は、『光色過適応』によるもの。人間には見えるものでないが、動物には紫外線感知できるものもいる。念動力で拡張された視力は、遠距離の千里眼の視野だけでなく、その気になれば電磁波すら可視するというもの。そして、『光色過適応』を発光側(アクティブ)に使うことで、電磁波に干渉し、雷撃を放つことができる。

 眷獣のような一瞬で炭化させるほどの致死的なモノではない。

 それでも、人体を麻痺させられるだけの威力はある。

 そして、彼女がもっているのは。『光色過適応』だけではなく。

 

「使えるものを創意工夫して使いこなさなければならない。才能を持て余すなど、未熟な弟の手本としてあってはならん姿であるしな」

 

 左右それぞれ少女の両手より放たれた暴風が、動けぬ人造獣人らを打ち据える。

 『音響過適応』の発生側(アクティブ)で、大気振動に干渉することで、気流(かぜ)を操る。かつて『覗き屋』が使っていた能力と同じ。ただし、父より遺伝された人間より優れた五感をもっている彼女には、増幅薬(ブースター)を必要としない。

 

「師のように異次元の監獄へ直接引き摺り込めんのでな―――眠れ」

 

 鎖に縛れていた虎男をそっと撫でて、その触れた箇所から熱を奪う。

 『接触過適応』の発熱側(アクティブ)使用により、温度操作を可能とした彼女が、触れた相手の体温を略奪したのだ。急速な体温低下に、脳の活動が低下する防衛本能から、虎男は自ら眠りについた。

 

「やはり、こ奴らは『トゥルーアーク』のエコテロリストどもであったか」

 

 精神を氷漬けにすると同時に、『接触過適応』により過去(きおく)も読み取った。

 20年前に魔竜を送り込んだ輩であることは事前に承知していたが、構成員からの情報を抜き取り、さらなる裏付けを取る。そして、賊の首謀者が無謀なことを企んでいることも。

 

「して、その首謀者は―――ここか」

 

 建物が崩壊したが、その仰々しい金属の隔壁で守られた一室だけは破壊を免れた。

 それの前に立つとこじ開けずとも、扉が自ら開く。

 おそらくは、研究室であろう。

 『暁の帝姫』が時間跳躍する際の研究室と似た感じで、機械とモニターに埋め尽くされている。だが、違う。その差異点を詳細に語るのならば―――より雰囲気が圧縮されている。

 より濃く。

 よりに詰めて。

 内側の、本質を剥き出しにされた、おぞましき風景。

 たとえば巨人の外皮と内臓をひっくり返して露見させたかのような悪趣味な雰囲気が、その部屋からは噴き出していた。

 

「……これはまた一段と穢れているな」

 

 そこに佇んでいたのは、ひとりの男性。年齢は、50をいくらか過ぎたくらいだろう。細身の白いスーツ。膝には白杖を持たせかけており、しかしその顔の目元には、深い隈が染み付いている。

 『トゥルーアーク』の出資者であり、今はその首謀者となった、久須木和臣と呼ばれた男だ。

 その彼は今、機械にもたれかかるようにして、今にも倒れてしまいそうな風情で、天井に向かって醜く喘いでいた。

 そして、数少ない部下を倒され、なお嗤っていた。

 

「私を捕えに来たのが、『獣王』の息女だったとはな―――ついている」

 

 ひどく青い顔だった。

 目元の隈も相俟ってよりひどく真っ青に見え、呼吸も荒い。かつては精悍だった顔つきも今は骸骨にも似て、不吉な喘ぎと共に唇を異様に歪めている。

 床を突こうとした白杖を滑らし、転げかけた手が、機械につく。それでも起き上がろうとした。

 

「ふふ、私をそこの試験体と一緒にするんじゃないぞ。私は『世界最強の魔獣』である『蛇』の細胞をその身に打ち込んだのだ!」

 

 少しずつ男の表情が、尋常ならざるモノを帯びていく。

 狂気であった。

 ビーカーの底に沈殿していく拭い去れない汚濁のような、どうしようもなく悪寒をかきたてる感情。

 

「最強の力を、我がモノにした!」

 

 魔獣の開発から魔獣の力を人体に埋め込む。

 おぞましい実験の果て。

 饒舌に語るすべてを捨てて王を目指す男は、得体の知れぬ薄っぺらな笑みを張りつかせて、ついにその白杖を投げ捨てた。

 

「『大罪制覇(グランド・ビースト)』などと呼ばれていい気になっている『獣王』をこの手で殺すために! そして、私こそが“王”に―――!」

 

 少女は……笑ってしまった。

 男の歪んだ無様さにではなく、今やその世界に轟いている代名詞のような異名を耳にしてだ。思い出し笑いしてしまったのだ。

 

 

 

 『義兄である領主からの無茶ぶりで神々の生体兵器らと喧嘩にしに行った獣王』

 

 しかし、それは真実ではない。

 

 『咎神の遺産』の出現により、『七つの大罪』を冠する神々の生体兵器が『天部』に打ち込まれていた『咎神の抹消』という“過去の命令(プログラム)”――<第四真祖>の『原初(ルート)』にあったような<論理爆弾(ロジックボム)>が発動していた。

 生物として腐り切って化石になるほど、兵器として錆び切って遺物になるほど、長い時を経た『七つの大罪』は、創造主の命にも鈍くなっていた。

 ―――だがしかし、行動が疎くとも確かに『暁の帝国』を崩壊せんと動いていた。

 これを放置していればいずれ神代の生体兵器たちに襲撃される、かつての『大戦』以来の戦争が起きることになるだろう。

 

 そこで、その『七つの大罪』を鎮めに派遣されたのが、父祖であった。

 『結婚すると隠し事ができなくなるから』と式前に、婚約者に余計な心配をかけたくない父祖はそのことを内密に、そして、ひとりで行こうとした。

 義兄は領主として不用意に動かせず、主人も土地に縛られているので、動かせない

 無論、義兄は『ひとりで行かせられるか』と引き止める、いや、自分も一緒についていこうとしたのだが、彼は存在自体が戦争そのもの。また大勢で戦力を集めていくとかえって余計な刺激になりかねない。

 

 さらに言えば、当時は懐妊出産ラッシュで、身内がほとんど身重であった。自由に動かせる人材が不足している。

 だから、最低限の少人数、案内役の太史局の職員と父は『大罪』らを説得しに回った。それは過酷な旅であって、時に一戦を交えたこともあったが、しかしながら、魔獣たちとの“外交”であった。

 

 『獣王初めての外交大使』は極秘であり、真実は公表されることはない。裏話のすべてを知る者は、片手で数えられるくらい。

 義兄の領主、主人の魔女、太史局の案内人、そして、娘婿が何をしに出かけていったのかを悟り、娘のためを想いながらも身篭らせた娘を心配させたあんちくしょうをぶん殴った考古学者の祖父、

 それから、『暁の懐刀』やら『大罪制覇』などという異名を世界に轟かせて、英雄視されることになった、獣王の約半年にわたる初外交(しごと)を見ようと健気に後をつけていったこの娘。

 

 ただ、父が秘密にしていたように、母もまた式を前にして(おとうと)を宿した身重であることをサプライズで隠していたそうだったが。

 

 そうして、この一件のおかげで、『世界最強の義兄弟』は、『冗談半分で義弟に伝説級の無茶ぶりしやがった妹馬鹿(シスコン)』やら『婚約者を放置して他の女の世界旅行に出かけた浮気者』と女性陣からしばらく冷たい扱い……いや、『何か裏がある』とは察しながらも、感情面では納得がいかずに拗ねられた。

 『女性陣(じぶんら)には内緒にして、義兄弟だけでこそこそしてる。あやしい。色んな意味でアヤシイ』と。そこからかつて封印した過去の疑惑やらが再熱して、領主はしばらく涙目で、面白おかしいくらいに落ち込んでいた。

 

 しかし、それも無事帰還してから一月ほどで元の鞘に納まった。

 

 

 

 ―――と。

 そんな回想を終えた時、久須木和臣は変身を終えていた。

 

「あ、ああ、あああががががががぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぐぐぐああああ!!」

 

 人間のものとは思えぬ叫びが久須木の喉から上がった。

 稲妻に打たれかの如く痙攣し、ぶすぶすと全身から煙を上げて、天井を仰いだ久須木が白目を剥く。その途轍もない絶叫は聴くだけで、骨をヤスリで擦りあげられるような痛みを想像させる。

 しかし、その代償を払った分だけ、彼に力を与えた。

 

「ごごごごご、ごれ、が―――!」

 

 白いスーツを破るほど膨らんで、肌が群青色で鋼鉄の如き硬質な鱗に変じていく。

 理性と狂気の狭間で、久須木は言う。

 

「ご、ごれごぞが、“(オウ゛)”に相応じぎ姿だ!」

 

 歓喜と恐怖とが、ない交ぜになった叫び。

 

「見るに堪えん」

 

 刹那、その背後に清浄な白銀の鎧に身に纏り、すでに剣を抜いた戦乙女――少女の<守護者>が現出した。

 <守護者>の断罪の刃が振り落された。

 高い音が鳴った。

 しかし、目を見張ったのは少女の側であった。

 『蛇』――竜人となったその右腕が、<守護者>が渾身で振るった剣の一撃を阻んだのだ。

 

「がるい゛な゛! ぞの半端で最弱な見だ目の主人ど同じ非力だなぁ?」

 

 何とも人を食った笑みで、少女を嘲る。

 ぎり、と中間で鉄と刃の擦れる音がした。

 鍔迫り合いはどちらに有利か、戦乙女の剣と鋼鉄以上に硬い鱗で覆われた腕が互いの中間で火花を散らし、夜闇を飾り上げた。

 そして、漆黒の空に白銀の軌跡が舞う。

 

 <守護者>の剣が、竜人に弾かれたのだ。

 

「殺じばぜぬ! 誘きよぜる人質になっでもらう゛からな!」

 

 それでも、その身を盾にせんと立ちはだかる<守護者>に竜人は爪を尖らせた腕を振り上げ、

 

「我は、獣人からすれば半端者。“我自身が”トウシロウのように、父祖と同じ神獣への昇華はできない。

 しかしな―――これでも最年長の姉として、次世代の可愛い弟妹らのヤンチャを諌める“楔”であるつもりだ」

 

 その竜人の突進を―――真っ向から、受け止めた。

 

「虎の威を借りた狐ごときが、その程度でいきがるな」

 

 戦乙女が、大きくなる。そう、さきほどの竜人と同じように。身の内の獣性を解放するかのように。

 兜の隙間から牙が、籠手を突き出して爪が、そして巨大化しながら二足から四足に変化する体型に合わせて鎧装甲も変わっていき―――背中から妖鳥の翼を生やした。

 ―――<守護者>が、獣化したのだ。

 驚愕する久須木に、今度こそ思い出し笑いではない、彼自身に失笑を向けた。

 お前がやっていたのは、所詮この程度だろうと。

 

 

「殺しはせぬよ。しかし、王道から外れた愚か者が、王を二度と名乗るでない」

 

 

 戦乙女が妖鳥の翼をもつ雌狼へと獣化したその<守護獣>が、竜人と化した久須木和臣を、力を以って叩きのめす。

 

 そうして、『世界最高の混成能力者』――ムツミによって首謀者含め賊を全て捕縛され、20年前の絃神島を最凶最悪の生体兵器を以って崩壊させようとした『トゥルーアーク』は終止符が打たれた。

 

 

 

 

 

「では、疾く帰還し、父祖に愛娘として美味い手料理を振る舞ってやらねば―――!」

 

 そして、親族身内から『味覚過激応者』とも呼ばれる、『博士(ドク)』に負けず劣らずの独創的な調理センスをもった長女御手製の肉料理(ハンバーグ)により、獣王は食卓で三回宙返り捻りを記録した。

 

 

 

つづく



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八章
冥王の花嫁Ⅰ



オリキャラ登場

第三真祖の眷獣<シアコアトル>に『意思を持つ武器』の設定追加



混沌界域 森

 

 

 密生する木々が地上を覆い、余所者を拒む灼熱の熱帯雨林。

 空には死肉を狙う極彩色の鳥、地には死肉を漁る虫。

 高温多湿。強烈な日射。大気を満たすは、熟れた果実と、名も知れぬ絢爛な花たちの芳香。

 

 そして、硝煙と炎と骸の匂い。

 生々しく剥き出しの生と死の気配が、密林に色濃く染みついていた。

 

 石造りの神殿。その祭壇を守るよう、幾人もの神官たちの屍が山となる。この秘境に攻め込んできた軍属の兵士らに虐殺された。

 弱肉強食。

 この獣人の神官らは弱者であったから、対魔族兵装の軍人の前に屈した。

 ―――そして、兵士は強者によって屠られる。

 

 強力な銃器と魔術で武装した兵士たちが、密林ごと、骨身残さず焼き尽くされた。

 溶岩の網を張り巡らせる、蜘蛛の姿をした琥珀色の眷獣。

 しかし、<炎網回廊(ネフイラ・イグニス)>は、神殿を脅かす無粋な連中を始末するために召喚されたのではない。

 麗しき闇の貴公子が、その端麗な顔を歪ませ、見据える先に、それは立つ。

 

 

 

「――――――――温い」

 

 

 

 燃え盛る溶岩の上にありながら、その発言。相手の正気を疑うであろう一言。

 

「………」

 

 闇の貴公子キラ=レーベデフは、周囲の温度が急速に冷え込んだような錯覚を覚えた。

 

「なにを驚くか……太陽が、溶岩で焼ける道理のほうがありえぬ……」

 

 そんな空気の中、失笑を含んだ、低くそして力の篭った声が響く。

 

「斯様な蜘蛛の巣に捕まるは、余程の弱者か……ムシケラのみよ」

 

 2m半ばを越している身長、そして長い手足を持った体躯。

 腰布や下穿き、左脚には羽飾りのアクセサリを身に着けているが、上半身に何も纏っていない。その獣毛ではなく羽毛で覆われた身体を見せる。それだけでなく、両腕が爪羽、五本の鉤爪を持った翼であり、尾の代わりに風切り羽の尾翼を垂らす。しかし、嘴のよう尖った咢に歯と牙をもつ。

 まるで太古の始祖鳥の如き、半鳥半人の―――古代種である上位獣人。

 そして、居合一刀のように、『鳥人』は爪羽を振り抜く。

 

「<黒曜翼(マクアフィテル)>」

 

 灼熱の大地が、割れた。

 黒曜石に似た生体障壁を帯びた『鳥人』の翼腕から鎌鼬の如き飛ぶ斬撃が迸り、張り巡らせた結界を薄紙とばかりに破り、一刀必殺で琥珀色の眷獣を断ち切り、仕留めた。

 得物(けん)を持たない。だが、その者にしてみれば、羽のひとつひとつが如何なる妖刀魔剣よりも鋭利な刃である。

 そして、眷獣を屠ってから、『鳥人』は貴公子へ告げる。

 

「……そこをどけ。今、『混沌界域』を騒がす、災禍の原因たる『花嫁』を、一刻も早く葬らなければならない」

 

 若い世代にある吸血鬼の貴公子の背後には、ひとりの少女がいた。

 きめ細やかな褐色の肌と、蜂蜜色の髪。幼さを残した美しい顔立ち。純金で彩られた豪華な衣装は、花嫁が着る民族衣装と呼ぶ相応しいもの。

 しかし少女の表情は、恐怖と絶望に凍り付いていた。

 死の宣告を受けて、彼女は自分の意思では指先ひとつも動かせぬほど、全身を石のように硬直している。瞼を閉じることもできぬまま、猛禽類の瞳に射抜いてくる処刑人の圧に心が潰される。

 それ以上の猶予は無意味と悟ったか、また『鳥人』は翼腕を振るう。

 

「<投矢羽(アトラトル)>」

 

 飛来する黒曜石色の矢。それは、技術としては、霊弓術と同じ原理であって、ただし撃ち放された威力は人間の出せるものではない。

 風邪の速さを遥かに超え、音の速さすらも凌駕する。

 撃ち出された硬気の羽矢は、密林をレーザー光線のように一直線に駆け抜ける。

 空気を斬り裂き、音速越えの衝撃波を放ち、周囲に轟音を響かせた時にはすでに突き進んだ後だ。

 吸血鬼の貴公子ごと、『花嫁』を薙ぎ払い、細胞の一欠けらも残さず、消し飛ばした―――

 

「……ほう、私を欺くとは。我が身を囮とさせるその忠誠、なるほど皇女(ブライド)血族(むすめ)たちに見習わせたいというだけはある」

 

 身体を真っ二つに切断されながら、『幻影使い』の貴公子は笑みを崩さない。

 主より命じられた、キラの役割は、時間稼ぎ。

 『鳥人』に先ほど殺された少女は、“影武者”だ。

 鏡像と影を操る眷属<幻網影楼(ディオニカ・ノクス)>が作り上げた、『花嫁』に瓜二つの分身。それをこの処刑人に悟られぬよう、この強者と敵対する己が護衛をやり、そして殺されることを前提に貴公子は身体を張った。きっと今頃、もうひとりの公爵の部下で貴公子の相方が、本物の彼女を連れて、この土地を離れているはずだ。

 

「―――ああ、よくやってくれたねキラ」

 

 その証拠に我らの主人である、熱帯雨林には不似合いな、純白の三つ揃え(スリーピース)を着た男、金髪碧眼の美しい青年からお褒めの言葉をいただいた。

 神官を虐殺した兵士を、ひとり残らず食い尽くし、神官に頼まれた全ての用事を済ませて。

 

「第一真祖<忘却の戦王(ロストウォーロード)>の血脈に連なる吸血鬼(もの)が、皇女の『夜の帝国(ドミニオン)』に介入するとは……何を企んでいる<蛇遣い>」

 

 『鳥人』もまた、その緊張感のない優雅な足音と場違いに軽薄な声、そして、隠す気すらなく、背中に刺さる尖らせた闘争心の眼光。その存在を覚っていた。

 

「なあに大丈夫さ。『長老』には不興を買うだろうけど、うちの真祖(ジイ)はそんなの気にしないよ。それに、<混沌の皇女(ケイオスブライド)>もちょっと前に不法入国で暴れてくれたじゃないか。ボクが任されている『魔族特区』で、そして、愛しい<第四真祖>を相手にね」

 

「その意趣返しというのか」

 

 『鳥人』に睨まれるが、吸血鬼の青年はますます笑みを深める。

 

「それで、一族はほぼ全滅、『花嫁』もここにはいなくなった。“第三の夜の帝国で最も強い獣人”はどうするのかな? 横槍を入れたボクを捕まえるかい」

 

「舐めるなよ、“第一の夜の帝国で最も狂った吸血鬼”。『混沌界域』の屈強な戦士と、『戦王領域』の軟弱なイヌどもを同列に語っているのなら、その認識を改めることだ」

 

 上位獣人種は、資質ある霊能力者よりも稀少とされる。

 そして、『黒死皇派』によって有力な獣人兵は獣人至上主義者となって真祖に反旗を翻し、またこの<蛇遣い>によって、『戦王領域』の上位種一族のひとつは根絶やしにされた。おそらく今の第一真祖の獣人兵団には、下位獣人種しか残っていないだろう。

 一方で、『混沌界域』は、『(ジャガー)の戦士』、『(コヨーテ)の戦士』、そして、より稀少な“鳥人類”である『鷲の戦士』という上位獣人種が今も貴族として残っており、多くが獣人兵団に所属している。

 第三真祖は多様な化身になれる獣化能力を持った稀少な吸血鬼であり、隠居した他の真祖らとは違い顔を出し国民からの支持率が高い。『黒死皇派』などというテロリストを生んでしまった『戦王領域』よりも、上位獣人種が残っているのは必然と言えよう。

 <神獣化>ができず人間と同じ銃器火薬に頼る『戦王領域』の下位獣人兵団と、『混沌界域』の上位獣人兵団とは、質は段違いだ。

 

「それはどうだろうねェ」

 

 しかし、『混血』とはいえ、“第一の夜の帝国最強の獣人”の血を継いでいるものがいる。

 そして、その『混血』はここで『鳥人』を相手にした麗しき影の貴公子と同程度の実力を持った苛烈なる炎の貴公子を撃退するだけの実力をつけてきている。

 

「キミは強いのは確かだヨ。できるのなら、ここですぐ殺し合いたいくらいだ。

 ―――でも、やっぱりボクはあの子の方が()いかナ」

 

 挑発気な笑みを含んだ青年の評。

 茶化してる風だが、それは身贔屓しているものでない。強者との殺し合いに飢えているこの戦闘狂は、だからこそ、相手の実力を詐称して語るような真似はしない。強者には敬意を尽くすのが、彼なりの流儀だ。

 そして、その『混血』の話は、青年だけでなく、皇女からも聞かされている。逸材、だと。

 

「それで、キミのところの陛下とひとつ賭けをしたんだ。どちらが強いのかって―――」

 

「なに、皇女が……」

 

「そちらの第三真祖(ばあさん)とボクの愛しの第四真祖(こじょう)、尊き我らが真祖同士の戦いには今じゃあ色々と制約が多いけど。

 獣王(きみ)らとの戦いなら聖域条約に触れないだろう? まあ、この前中断してしまった不完全燃焼に始末をつける“代理戦争”ってヤツだヨ」

 

 当人もその主人にも話を通さずに進められた“賭け事”。もし魔女が知れば、自身の眷獣(サーヴァント)を蝙蝠どもの勝手な都合に振り回されることに、想像し難くないが想像するに恐ろしい反応を見せてくれたかもしれないが、

 強者との契約であって、今では願掛け。『自分に歯向かって来た時こそが食べ頃』という制限を課してしまって青年からは手が出せず、機会を作ってもいちいち邪魔してくる魔女に生殺しにされているのだから、『異種獣人王者統一戦』をマッチメイクするぐらいはいいだろうと。

 

 

「“代理戦争(しあい)”をするかしないかはキミたちが決めるといい。ただ、もう『花嫁』は絃神島に送っちゃったから」

 

 

 それを聴くや否や、青年貴族の前から姿を消す。

 一枚の風切り羽だけを残して、『鷲の戦士長』は極東の『魔族特区』へと飛び発った。

 

 

彩海学園

 

 

 北米・中南米大陸にて『空の王者』といわれ、太陽神の聖獣とされる鷲は、国の首都の起点となった伝承さえあり、『蛇を足で捕まえる鷲の絵』など国旗にもあるほど信仰が深いものだ。中南米には、『鷲の戦士』を従える太陽神が、敵対者である『(ジャガー)の戦士』を率いる夜の神に負けて、朝が来なくなることを恐れ、生贄として人間の心臓を生きたまま抜き取り、捧げ続ける『血の儀式』もあったそうだ。

 

 そして、生贄を捧げる儀式は世界中にある。

 

 神稚児でなくなってしまう7歳の誕生日を迎える前に、自分は神を召喚するための生贄として、殺されるはずだった。

 両親の思いでは、ほとんどない。

 最初から愛されてなかったわけではないだろう。細切れの映像に似た記憶の欠片には、午睡のような、微かな温もりが残っている。

 だけど、その幸福な期間はそう長くは続かなかったことは確かだ。

 自分の、制御できない強大な霊力は、両親を恐怖させるのに足るものであった。

 避けられ、見放され、虐げられ、そして、両親から引き離された。物心がついた時には、すでにひとり。

 その時には、強い結束と権力を持つ大きな呪術集団に、身売りされていた。

 

 それは、『狼を聖獣』とする、異邦の女神を信奉する一派だ。

 呪術の媒体、聖獣の生贄を求めていた集団にとって、この身の強大な霊力は、天恵にも思えたことだろう。彼らは即座に準備を始めた。女神を降臨させる儀式の準備を

 しかし、それは大規模魔導テロの予兆を察知した政府より、集団解体を命じられ派遣された、たった一人の対魔族戦闘の専門家(エキスパート)――獅子王機関の剣巫の活躍により、彼らの悲願は果たされることなく終わりを迎える。

 

 さて。

 

『……ふぅむ、なるほどねぇ。こいつの『神殺し(ぞくせい)』を新たに噛ませることで、性能を上げつつも、制止をかけたのか』

 

 獅子王機関の絃神島出張所。

 そこに現在常駐している黒猫の式神を通し、師家様に『七式突撃降魔機槍・改』をみせる。この新しい槍は自身に不備はないかと相談しに来たのだが、式神の黒猫は刃筋を見るだけでなく、その核のある穂先に肉球を聴診器のように当てて何かを感じ取る。

 

『まあ、使うには問題ない。むしろ、前よりも“雪菜の槍”になってる』

 

 本当ですか!? と聞いてきた自分に黒猫は尾を揺らして片目を閉じる猫らしからぬポーズをとり、

 

『なんだい、そんなの使った雪菜が一番わかってるだろう? 武器はその力を発揮させるに不足な担い手もそうだけど、その武器が自壊するほど担い手の力があり過ぎるというのも問題だ。ほれ、『壊し屋』の坊やが良い例さ。あの子が“全力で振るうと武器が耐えられない”。『七式突撃降魔機槍』でも、三日で壊すだろうね。才能より、馬鹿力の方が問題だ。

 とにかく、手入れは前の<雪霞狼>と同じように毎日きちんとやりな。……それから他に言うことがあるとすれば、『壊し屋』の坊やには感謝しておくんだね』

 

 同級生への感謝、それはあの自身に似た少女も言っていたこと。事件での彼の活躍にはいつも感謝している。でも、これはそれだけではない。この新しい<雪霞狼>に関わっているのだろうか。話を聞こうにもあの少女はおらず、また同級生も主人から少女について緘口令が出されているのか何も話してくれない。ただ、彼自身は何もやってないとは教えてくれた。

 それでもやはり日頃の感謝に何かをしたいとは思っている。けれども、それを一体どうしたらいいのだろうか。

 男子禁制の女子だけの戦闘巫女養成所である高神の社に同年代の男子はおらず、その手に関するものはなかなか思いつかない。すると、悩んだ様子で頭を捻る弟子に、師家様は助言をくれる。

 

『別にそんな難しく考えないでいいんだよ。そうだね、“お供えをするつもりで”坊やに何か美味いものでもやればいい』

 

 なるほど、とその師匠の言い回しはとてもわかりやすく、腑に落ちた。

 

『男子の胃袋を掴むいい練習台にもなるだろう。なんならその機会に“もう一人の坊や”を誘ってみたらどうだい?』

 

 早速、明日から実践することに決めた。

 ―――もちろん同級生に感謝するためで。先輩はついでである。

 

 

 

「―――クロウ君、これをどうぞ」

 

 昼休みの屋上。

 新しい槍を得てから一層動きに機敏さと読みに鋭利さが増した姫柊雪菜との組み手が終えると、南宮クロウは彼女から小包を渡された。

 

「あう? 何なのだ?」

 

「お供えです」

 

「オレ、神様じゃないぞ」

 

「ええ、分かってます。これはクロウ君への感謝の気持ちを込めたものです」

 

「そうか義理立てというのだな。んー、でも、オレからも姫柊に何か感謝すべきだよな」

 

「いえ、いりません。これは私が勝手にしたことですから……ただ、お口に合うかはわかりませんけど」

 

「心配しなくていいのだ。苦くて辛いケーキでも、ちょっと泣いたり笑ったりできなくなるだけで、お腹に入れば一緒」

 

「そんなひどいものは作ってませんよ!?」

 

 渡された神饌(べんとう)を開けると、やや大きめの握り飯が三個。形はやや不格好ではあるものの、十分に出来のいい部類に入るだろう。それに手作り感がある。

 クラス内で姫様と崇められるほどの美少女とお昼休みに皆に内緒で屋上へ行き(指導員、メイド、先輩がいて二人きりではないが)、二人触れ合って(というには激しい応酬だが)、そして手作りの料理まで用意されているとは、中等部男子に恨まれても仕方のないシチュエーションだが、不思議とこの男女にそういう雰囲気はないのだ。これは少年の人徳か、それとも少女がはたから見れば明らかだからであるか。

 

「あの、よかったら先輩もどうぞ。おにぎり、先輩の分も作ってありますので」

 

「お、いいのか姫柊」

 

「はい。先輩にも、その、感謝してますから」

 

「いや、こっちも助けられてる。ここ最近金欠気味で昼は菓子パンひとつだったからな」

 

 と後輩の実践組手の見張り役を引き受けてる先輩こと暁古城。雪菜から渡された弁当を受け取る。中にあるのは同じ爆弾おにぎりが三個。ただ何となく同級生のよりも若干形が整っているよう。中身は、定番のツナマヨネーズ、ウメとオカカをマヨネーズで和えたもの、そして辛子マヨネーズで味付けされた唐揚げ……こだわりがあるのか、マヨネーズがたっぷりの具材である。無言でもりもりと食べる古城と、それをチラチラとどこか緊張した風に伺う雪菜を他所に、パクパクペロリ、と食欲旺盛育ちざかりのクロウはあっという間にたいらげる。

 

「ん。うまいぞ姫柊」

 

「そうですかクロウ君」

 

 同級生の素直な感想にほっと安心する雪菜。それから二個目の握り飯を咀嚼しながら古城も頷いて、

 

「ああ、意外に美味いぞ」

 

「はあ。意外……ですか……そうですか」

 

「ええと……姫柊?」

 

「いえ、なんでもありません」

 

 褒められたけれど余計な一言の多い評に、微妙にむくれた雰囲気をついっと顔をそらす雪菜。

 そんな犬も食わないやりとりは自然、無視するものと学習したクロウは、二人に関わらず、こちらも自身の後輩を呼ぶ。

 

「アスタルテー」

 

 影のかかる屋上入り口扉に佇む人影。

 そのシルエットさえも、美しい。

 黄金律。

 人間が本能的に美しいと思う、数字の比率であって、生物にも適用される法則―――ならば、人影はまさしく黄金率の化身であった。そうなるように狂人ともいえる匠の手により、整えられた。

 かかる陰より光照らす先へ、さらりと翻る藍色のストレート。

 硝子水晶とも紛う両の瞳。

 メイド用の使用人服もつつましく、アスタルテと呼ばれた少女型の人工生命体(ホムンクルス)はゆっくりとこちらへ歩を進めた。見るものが見れば、その歩幅はミリ単位で同一だったことに気付いたことだろう。

 

「オレの弁当くれー」

 

「………」

 

 と先輩からの催促に、無言で三段の重箱を押し付けるように渡す。

 組み手の後は、水筒のお茶まで用意して甲斐甲斐しく世話をしてくれた後輩アスタルテが、クロウへの対応がどこか、つんと厳しい。かつ、そこに指摘できないような圧迫感のある雰囲気。突っ込めぬ、そうはさせぬまま、アスタルテは居住まいを正して、

 

「監視及び補給の任を達成。教官より命じられた任に戻ります。では、失礼します第四真祖、ミス姫柊」

 

「あ、ああ」

 

 とクロウではなく、言い合っていた古城と雪菜へ挨拶を述べて、屋上から去っていった。

 

「おい、クロウ。アスタルテどうしたんだ?」

 

「んー……なんか最近、ご機嫌斜めなのだ」

 

 

回想 人工島西地区 高級マンション

 

 

『………それで冬休みは帰省することになったの』

 

「そうか。凪沙ちゃん、本土に行くんだなー」

 

 九時に定時連絡することとなったその慣習。

 電話口の向こうからでも話すのが嬉し気と分かる少女の声、そして、彼女とのやりとりに応える楽しげな少年の声がよく耳朶を叩いてくる。

 先輩である少年の隣で、壊さぬよう代わりに携帯機器を持ち、彼の耳に当てる、恒例の役をじっと置物のようにこなす。二人の会話を邪魔しないよう、呼吸の音も立てず。感情も……気取られぬように、荒立てず。そう、努める。

 

「本土かぁ。ご主人の仕事でちょこっと行っただけだし、この前の宿泊研修も結局中断になったのだ」

 

『残念だったよねー。あ、それでね……お祖母ちゃんが、クロウ君に興味があるみたいで』

 

「凪沙ちゃんのお祖母ちゃんがオレに?」

 

『うん。牙城君からの又聞きだから直接は訊いてないから、詳しいことはわからないけどそうみたい。だから、もし、だけど、本土に行けるなら、冬休みに凪沙と一緒に……行かない?』

 

「んー、そうだなー……」

 瞬間、熱した鉄板に触れてしまったように、反射的に携帯機器を持っていた腕を引いてしまう。

 それ専門の固定器具のように、筋の震えもなかった姿勢が大きく動く。

 

「あう?」

 

 瞬きして、三度、少年が首を傾げた。

 不思議そうな傾げる仕草と、声の響き具合は見てわかる。

 これがこれまでにないイレギュラーな動きであると頭で理解している。

 けれど、それを修正して、音声を拾うマイクを彼の口元へ寄せようとは、体が動かなかった。

 基本、人間に命令されれば、その通りに奉仕するよう人格設定(プログラム)されている。でも、この携帯持ちの役割は、厳密に命令されているわけではなくて。

 ただ、そんな理屈の抜け道があったからといって、この行動に自身も少年にも腑に落ちるものではない。

 たじろぐ。意識して抑えこんでいた筋の震えが、またびくりとぶるつく。

 実に困ることに少年はいつも正面から人物を見つめてくる。ことりと首を傾げられても、その金色の瞳は、ただあるがままにこちらを映している。だからこそ、自身でも不可解なものを抱えている今の自分は退くも進むも次の行動に移せず。

 

『あれ? どうしたの? 何かクロウ君の声が遠くなってるような気がするよ?』

 

 少女の声に、やっと凍った時間は解けたように動き出す。

 

「ん。じゃあ、ちょっとご主人に相談してみるのだ」

 

 それから二言三言、会話をして、通話を切った。

 少女の声と耳がなくなったところで、微かに乱れた呼吸のペースを取り戻してから通話を終えた先輩へと接近する。

 後ずさったときよりも、大きく踏み込んで。

 結果、彼との間合いは、むしろ狭いくらいに接近する。

 互いの息のかかるほどの間合い。

 

「先輩」

 

「お、おお」

 

 少女と楽しげに会話してた声が、急激にすぼまる。

 自身との会話になった途端この反応。

 やや眉間に皺の谷が浮かぶも、これはこちらの妙な迫力に気圧されたのである。

 先ほどは少年から逸らした、感情の波がぶれにくい瞳が――今、ただならぬ意思に燃えて――少年を捕捉していた。

 そして、先ほどの自身の行動に疑問を持ち出さずに棚へ上げてしまうよう、一息に。けれど、一言一句と主張を間違えないようにゆっくり丁寧に。

 

教官(マスター)との相談とおっしゃいましたが、詳細は語らずただ指名するというのは、前回のように先輩は利用される可能性があります。ミス凪沙にその意図がなくとも、そのような誘いなど断わる方が望ましいと私は愚考します」

 

「そ……そうか?」

「肯定」

 

 ずい、とまた迫る。

 唇が触れそうな距離で、合わせ鏡のように互いに真正面から見つめ合い―――やがてカクカクと少年が頷くのを見てから、納得したように一歩下がった。

 

「分かっていただけましたら、風呂へ」

 

 家内のカースト的に一番後になる先輩の背中を押して、リビングの外――浴室へと追いやる。

 本来、腕力で言えば、少年にかなう道理はないのだが、その道理も今は引っ込ませた。

 

「あ、アスタルテ?」

 

「代行。先輩の代わりに、私が教官に相談します。その間、先輩は風呂にお入りください。きちんと湯船に肩までつかり、千を数えて―――」

 

「―――せ、千もか」

 

 言い切る間も与えず。

 呆然とした先輩を浴室まで押し切ると、ぴしゃり、と扉を閉ざして、しばらく前で見張るようにそこに立ち、それから『いーち、にー、さーん……』と律儀に一から数を数える声が聴こえてから、教官の部屋へと赴いた。

 

 

彩海学園

 

 

 彩海学園で最も高い部屋。位置的にも建築費としても、高度高級である国家降魔官の執務室。

 広々とした部屋には、柔らかな赤い絨毯を基調に、精緻な衣装の照明(ランプ)やクリスタルガラスの水差しなど落ち着いた調度が配置されている。そのひとつであるかのように、主に選択されたフリル付きの使用人服で着飾れた人工生命体の少女。

 “特別呼び出されたというわけではないので”、部屋の主人はおらず、かといって手持無沙汰でいることが好ましくなかったからか、反復行動で染みついた職務、執務室に入ると条件反射的に習慣づけられた紅茶の支度をする。

 

「……少し、おかしかったでしょうか」

 

 ぽつりと、呟く。

 自分の行動を、反芻する。

 人間よりも機械的な思考するように設定された人工生命体。経験したすべてを記録し、検索すれば、アスタルテはいつの記憶でもまざまざと再体験できる。

 

「………」

 

 ……やっぱり、無視した振る舞いに意味はないように思われる。あんな彼以外に挨拶をするというあからさまな行為。

 それはまあ、あの少年に命令されての行動ではないのだから、事が済めば退出しても問題はない。あの瞬間は、それが最善とも判断した。だけど、急いてその場を立ち去るほどの理由も見当たらない。

 何か、自分の論理回路にエラーでも生じているのだろうか。

 

(……どうして、でしょう)

 

 まだ、胸にざわつきが残っていた。

 振り返らず屋上からここにやってきたはずなのに、先輩である少年とのやりとりにこだわっていた。自責の念にかられているともいう。やってしまってから、振り返ってみるとあれはなかったというような。

 自分の論理にない思考で、少年を無視してしまったことにこだわっていた。

 あんな風に接するつもりはなかったのに。

 だけど、先輩は今朝方こんなことを言ってきたのだ。

 

 

『なあ、アスタルテも学校に通いたかったりするのか?』

 

 

 これはきっと不満げな自身の感情を読んで、彼なりに推理を働かせた結果なのだろう。

 しかし、現在、保険室勤務で用務員のような仕事をこなす待遇に不満をもっているわけではない。そして、先輩の思考はあまりに頓珍漢であった。

 

『もし、そうなら江口と一緒に“天奏学館に”転入(はい)ってみるか、ご主人に訊いてみるぞ』

 

 天奏学館とは、人工島西地区(アイランド・ウエスト)にある小中一貫教育の名門校だ。一般人が生徒の大半を占める彩海学園などとは違って、天奏学館には、登録魔族が多い。中には貴族級の吸血鬼や、上位種の獣人の子女も通っているという。他の生徒もそれなりの家柄や成績の持ち主ばかり。全寮制の超お嬢様学校というやつである。

 そこへこの前、『青の楽園』で出会った<夜の魔女(リリス)>の江口結瞳が、人工島管理公社と魔族総合研究院の推薦をもらい、魔族保護プログラムの特待生として入学した、と事件経過を教官の口から語られた。

 

 『魔族特区』である絃神島には、身寄りのない魔族のための支援政策が充実している。魔族統合研究員の特待生制度もそのひとつで、『世界最強の夢魔(サキュバス)』である結瞳は当然その資格を満たしている。

 そして、準魔族であり、同じように世界で唯一の眷獣共生型人工生命体のアスタルテも特待生制度の条件を満たしていることだろう。

 

 ただし、アスタルテが教官に身元を預かってもらっているのは、自らの意志でないとはいえ罪を犯した自身を3年間保護観察するためであって、彩海学園を離れてはならない。そもそも知識教養が大学生卒業程度に修めている以上、偏差値が高いとはいえ小中学校の授業で得られるものはない。

 なのに、わざわざ“別々の学校に”通わせるような勧めをするのだろうか?

 知識レベルや自身の年齢的に、たまたま話題に上っていた天奏学館が先輩の頭に浮かんだとしても、それは、ない。

 アスタルテは、学生でないことを不満などともっていないのだ。

 

 ただ、それならばそうと、きちんと口で説明をしておくべきだった。

 

 確かに、アスタルテにとって彩海学園で仕事をするというのは人工生命体としても有意義であって、先輩の考えというか気の遣い方が間違っている―――ただそれでも“自分と離れたがっているわけではない”、アスタルテのためを思っていることは、理解している。

 だというのにその誤解を解かずに、無視している。

 自分の行動は、まるで論理的じゃない。

 だから、悩む。

 何が、そこまで嫌だったのだろう。

 道具として造られた自分が悩むなど、それ自体がおかしいことにも気づかず、アスタルテは没頭する。ごくごく自然に、思考回路のリソースをあの少年に振り割ってしまう。

 だって、それぐらいに、あの少年は特別で……

 

「……考察、完了」

 

 いつの間にかティーポットを持ったまま止まっていた手を動かす。作業(タスク)と分割しながら、理論武装を固めていく。

 

 だって、こんなのは当たり前だ。

 あの少年は自分の先輩であって、教官より管理するよう任されているのだから、いちいち考えてしまっても無理はない。むしろあの少年が悪いのだ。もっと自分を理解して、もっと自分をうまく使うべきなのだ。だって、自身のすべてを捧げると彼に誓ったのだから、これくらいの主張は当然なのだ。

 そう信じて、無理矢理に自身を納得させる。

 

(先輩が悪い―――と判決します。もっと私の使用法を理解してくださるべきです。だというのに、お側から離そうなどと判断は間違っています。勘が鋭いのに、頭が鈍いのも減点対象です。料理のレパートリーを増やしても、何も感想言ってくださいませんし―――)

 

 うん。

 いろいろ問題がすり替わっている気がしなくもないが、やはり、自分の機能に問題はない。ここ最近の行動が何かの間違いだろう。ただ、次のメンテナンスでは精密検査を要するかもしれない。でもそれで、思考回路を乱す不可解な細波(パルス)も落ち着くはず。

 そう考えるだけで、かすかな安堵の念が小さな溜息とこぼれる。

 

 ―――と。

 

「そろそろ茶を淹れてくれないか、アスタルテ」

 

 入室に気付けない――虚空を飛んでいきなり現れるのだから、反応が遅れるのは仕方がないことだとしても、この部屋の主たる教官の到来を。声かけられるまでアスタルテは察知できなかった。

 

「あ……っ」

 

「アスタルテが呆けるなど珍しい反応もあったものだ」

 

「―――至急、用意します教官(マスター)

 

「急がなくていいぞ。私が資料を読み終わるまでには用意しておけ」

 

 瞬きしたアスタルテに、愉快気な笑みを浮かべるは、黒いゴシックなドレスに身を包んだ人形のような少女だった。

 見た目は小学生ほどであるも、実年齢は20代の後半。

 <空隙の魔女>と魔族より恐れられる絃神島五本の指に入る国家降魔官、南宮那月は、王座と思しい執務室の椅子にふんぞり返っている。いささかふざけた印象ではあるが、幼い見た目に不相応なカリスマ性からか、その景色に不自然さはなく当然としてそうあるような振る舞い。

 そうして、人工生命体の少女が差し出す紅茶のカップに口をつけてから、那月は机に上に広げられた資料に目を細める。

 

「先ほど、特区警備隊(アイランド・ガード)からの要請があった。未登録魔族の密入国の痕跡が発見された、とのことだ」

 

 つまり、それは『嗅覚過適応』を持った<黒妖犬>にその密入国者を追跡させる。

 密入国者を狩る任務は、先輩が適役であり、以前にも『黒死皇派』の残党捕縛にも駆り出されたこともある。

 そして、その時と同じように、任務に自身も帯同をさせる―――

 

命令受託(アクセプト)、では、先輩に」

「待て。早とちりをするな。アスタルテ、お前は今回参加しなくてもいい」

 

 教官の言葉に、愕然と硬直した人工生命体の少女。

 その扇子で口元を隠しての失笑からは、ある予感がした。そう……別れ際の心配そうな彼の顔が浮かぶ。

 

「つい先ほど馬鹿犬から報告があってな。『後輩の調子が良くない』と」

 

 だから、待機して、休んでおけ。

 その決定に、アスタルテは即座に先輩の言の否定と、自身の必要性を訴えようとする。

 

「否定。教官(マスター)、私の体調に問題はありません」

 

「私がここに来てから三分も気づけなかったところを見ると、残念だがその自己診断は説得力に欠けるな。そのような注意怠慢な有様では、馬鹿犬の言う通り、現場には連れていけん」

 

「否定。私は―――」

 

「ほう、主人の決定に異議を唱えるとは、反抗期かアスタルテ?」

 

「否定。しかし先輩だけで―――」

 

「私も付く。たまには馬鹿犬の散歩に付き合ってやらないとと思っていたところだしな」

 

 とん、と閉じた扇子で那月が机を小突く。

 その仕草は言葉にせずとも、返事を求められているのを悟る。これ以上の決定は覆られず、逆らえばそれを理由とし謹慎を言い渡されるだけだろう。ならば、あるまじき失態を重ねるべきではない。

 人工生命他の少女は、項垂れるよう首を振る。

 

 

命令(アク)受託(セプト)……」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 十二月の第三週。冬休み直前、最後の登校日。その放課後の帰り道に古城は遭遇した。

 

『おお、凪沙! 相変わらず可愛いな、おまえは! 天使かと思ったぜ! あとついでに古城も元気だったみたいだな』

 

 中折れ帽をかぶり、色褪せたトレンチコートを羽織り、だらしくなくシャツを着崩した中年男性。無精ひげを生やしたままで手入れもせず、しがない探偵のような風貌をした男は、牙城。暁牙城―――古城と凪沙の父親。

 

『絃神島についたのはさっきかな。遺跡の発掘調査にカリブ海の方に言ってたら、いきなり内戦が始まっちゃってなー、ハハッ、まいったまいった。んで、深森さんの職場に行ったら、大変興味深い話が聞けたんだけど―――うちの天使に手を出す野郎はどこのどいつだー? 三つ数えるウチに教えろ古城』

 

 会って早々にヤる気満々で、息子(こじょう)にボウガンを突き付けてきたけど、一応、血縁関係上の繋がりがあるクソ親父だ。

 

 世界中を考古学のフィールドワークで飛び回り、こっちが頼んでも帰ってきやしない父親は、明日の冬休み初めから凪沙を本土に連れて行くために絃神島へ来訪した。

 彼の母、古城たちの父方の祖母に、凪沙を祓ってもらうため。かつては国内でも指折りだった妹の霊能力の消失した原因を一度ちゃんと調べるために、祖母に見せるのだ。丹沢の奥地にある小さな神社にて神職のようなことをしている古城たちの祖母は、未登録(モグリ)の攻魔師で、獅子王機関の元首席教官の刻御門師範や攻魔師協会の志渡澤会長というベテランの腕の立つ霊能力者―――を弟子に持つ凄腕であって、正月になると彼らを丹沢にと呼びつけている。

 

 息子にはありとあらゆる弱み(特に女性関係)を情報収集して、散々からかってオモチャにしては、孫(女の子)を所望すると偶々傍にいた姫柊に子作りを推進してくる底意地の悪いエロ中年ではあるが、

 古城は牙城が凪沙のために世界各地を飛び回って、その人生すべてをかけてでも娘を救おうとしていることを理解しているし、信頼できる有能な霊能力者に調べてもらうのは賛成だ。

 だから、ここで凪沙をクソ親父に預けて帰省させることに納得している。

 が、

 

「おい、古城。今すぐ後輩を呼んで来い。凪沙が帰ってくるまでに蹴りつけるぞ」

 

「だったら、まず床に並べた銃器をしまえ! どこから出したが知らねーけど、そんなものウチに持ち込んでんじゃねぇよ!」

 

 ずらりと見本市をひらくようにリビングの床一面に並べられた物騒な道具。

 凪沙が、冬休みになってすぐにやってきた父親のために食材の買い出しに出かけているとき、

 息子の後輩を、銃火器一揃えして準備万端に出迎えようとする牙城に、古城は怒鳴り散らす。

 

「ただでさえ人様に紹介したくないっつうのに、そんな物騒な歓迎を企んでるクソ親父のトコに呼べるわけねーだろ!」

 

「ははっ、ちょっくら時期が早いけど“お年玉”を5、6発ぶちこんでやるだけだ。大丈夫、急所は外す」

 

「全っ然、安心できる要素がねェ! ここでライフルぶっ放す時点でアウトだ! つか、アイツは今仕事中で呼び出せるわけねーし、職質されてとっ捕まっても俺は弁護できねーぞ!」

 

「ちっ、後輩に気を遣っちまってそれでも俺の息子か。一緒にトラップに仕掛けるくらいの気概くらい見せろ」

 

「クソ親父をぶん殴る気概なら見せてやろうか」

 

 こいつは娘を迎えに来たのか、娘の気になる男子を狩りに来たのか。

 殴りかかっても弾丸より遅い息子の拳骨、実戦経験豊富で戦場を渡り歩く牙城はからかう余裕まで見せて躱して見せる。翻弄される古城は、歯軋りさせて悪態を吐く。

 

「クソ、こんな無茶苦茶なヤツに凪沙を預けなきゃなんねーのかよ」

 

「……先輩も凪沙ちゃんのことになると無茶苦茶になるくらい過保護というか、シスコン……いえ、なんでもありません」

 

 巻き込まれた隣人の雪菜が色々といいたそうな視線でこちらを見ていたが、古城はどうにか凪沙が帰ってくる前に牙城に物騒なブツを片付けさせることができた。

 

 

人工島東地区 空港

 

 

 『波朧院フェスタ』の特別解放時期ではないにしろ、冬季の観光シーズンに直撃した、空港のゲート近辺は相当な人でごった返していた。

 観光客、ビジネスマン、輸送業者、と大まかに人混みは全体的にいくつかのグループに別けられる。

 しかし、今日は飛び込みで要注意の赤線を引いて分類される一団が現れていた。

 

 

「―――全員動くな!! このルールを逸脱しない限り、我々は諸君を傷つけることはない!!」

 

 

 突然の凄まじい銃声と、逃げ惑う人々の悲鳴。

 

 見送りに来た息子とその嫁候補の美少女ちゃんと別れて。手荷物検査をゲートをくぐって、『魔族特区』特有の面倒な検疫検査を受けた。さあ、本土へ出立だと乗り込もうとしたその直後のことだ。

 

(……くっそ。せめて俺たちが島から出た後にしてくれたらよかったんだが。ついてねぇぜ、ホント)

 

 突然の空港襲撃事件。震える娘をトレンチコートの内側に入れるように抱きかかえる牙城。等間隔に並ぶ太い円柱に身を隠す格好で、低い声で呟いていた。

 

 空港のセキュリティは、ガードマン、バリケード、タイヤ用のスパイク……陸から押し寄せる脅威には万全、でも同じ空から降りてくるものはノーガード。これは空港の特徴。

 飛行機というのは相互信頼が軸になっているもの。向こうの空港で安全が確認されたから、こちらの空港に招いても大丈夫だろう。それが大前提になっている。

 

 つまり。

 内乱とか起きて治安の悪い国の飛行場が丸ごと買収済み。“お墨付き”のハンコをもらった旅客機の中には兵隊と装甲車がぎっしり。蓋を開けた途端にドバっと出てくる現代版トロイの木馬である。

 

 そう、装甲車。旅客機の貨物用スペースから這い出てきた八輪の装輪装甲車両が3台ほど。たったこれだけで、初陣の警備隊は逃げ帰る羽目になった。ジェラルミンの盾だので身を隠す程度でどうにかなる火力ではないし、威嚇射撃や警告で止まるような装甲ではなかったのだ。

 

(そりゃ20mmの重機にグレネードをばら撒く擲弾機関砲、挙句、一台は戦車と戦うための低圧ライフル砲を頭にくっつけてやがる。もう地上でパンパカ撃つんじゃなくて、攻撃ヘリとかマルチロールの戦闘機とか、上から狙い撃つ兵器がないと無理だ。そして、応援が来るまでの間にやりたい放題やっていくプロフェッショナルと来た)

 

 『魔族特区』絃神島は条例上、特区警備隊で空からの攻撃ができる戦闘機の所有が許されていない。空港に常駐している特区警備隊の戦力では止められないことを、襲撃者たちは自覚している。

 だから、死なない程度に負傷させるセオリーを遵守するだけの余裕がある。

 襲撃者の部隊が通り過ぎた後には、血塗れで倒れた警備員たちだけが残されている。

 全身が重傷を負っているのは間違いないが、殉職した警備員はまだいない。ヤツらはあえて急所を外しているのだ。

 それは敵に情けをかけたというわけではけしてない。

 苦しむ重傷者の存在は、敵軍の士気を下げ、搬送や治療のための兵力を浪費させる。敵兵をあえて殺さない。それが戦場でのセオリーなのだ。

 そして、それができるという事実は牙城にひとつの情報を与えてくれる。

 それはあのレッドシグナルな襲撃者の部隊が、単なる犯罪者として行動しているわけではない、ということだ。あの動きは軍人。絃神島への潜入は、『アメリカ連合国(CSA)陸軍』の作戦行動の一部。

 あの『血塗れアンジェリカ』のシナリオ通りにこの学芸会は進んでいる。

 

(『ゼンフォース』――アメリカ連合国陸軍特殊部隊の中隊長様のお出ましかよ……)

 

 先頭の装甲車から降りてきて指示を出しているのは、ブランド物の高級志向な毛皮(ファー)付きのコートを着た白人女性。

 セレブな若奥様で通用する美女は痩身だが姿勢がよく、手脚が長い。灰色の髪は短く切られており、そのせいでファッションモデルのような印象を受ける。しかし、視るものが見れば、すぐに気づくだろう。彼女の動きは、モデルのそれではなく、訓練された軍人の身のこなしだと。

 

 牙城が、彼女がいわゆる普通の魔導犯罪者でないことを知っている。

 アンジェリカ=ハーミダ。

 階級は少佐。4年前のアンデス連邦の内戦で、政府側に軍事顧問として参戦。44名の部隊を率いて、2000人近いゲリラを虐殺したといわれる。ついた異名(あだな)が『血塗れ』だ。

 たとえ丸腰であっても、その脅威は装輪装甲車両より勝る。

 

(『アメリカ連合国』か……『混沌界域』での発掘調査(おしごと)をドタキャンしてくれた例の内戦がらみかこりゃ)

 

 『血塗れ』の目的はわからない。しかし、他国の特殊部隊の人間が、用もなく極東の『魔族特区』を訪れるとは考えにくい。『混沌界域』のキナ臭い内戦が関係していると考えて、ほぼ間違いないだろう。

 

 中米『混沌界域』は、第三真祖<混沌の皇女>が治める『夜の帝国』。

 そしてこの絃神島には、牙城の息子である第四真祖<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>がいる―――

 

「牙城君……」

 

「ああ、心配するな凪沙」

 

 震える娘の頭をまた一度撫でてから、荷物検査を受けた直後である牙城が、手品のように懐から拳銃を取り出す。

 傭兵並みの戦闘スキルを持っていると自負している牙城。しかし、あくまで自身は民間人であって、『血塗れ』と敵対する理由はない。市街地に襲撃者たちが出ていくのを防ごうとする特区警備隊には悪いが、牙城は娘の安全を最優先に動かせてもらう。

 

 しかし、襲撃者は、警備隊だけでなく民間人からも“やられ役”を募集してるようだ。

 

 この太い円柱のすぐ裏側。娘のものではない女の子の声が響き渡る。

 

「やめてっ、やめてよ! お母さんに触らないで、何で連れていこうとするの!?」

 

「我々がルールだと最初に言ったはずだ。市街地に出るまで“魔除け”になってもらいたい。警備隊を牽制するために、車両に警備隊連中ではなく現地調達した民間人を何人か縛り付けておく。そうすれば『車両を爆破して殲滅』もできないだろう」

 

「やめてったら!!」

 

 その、金切り声を耳にして。

 牙城は方針を変えず、身を潜める。このまま、やり過ごす。

 しかし、暁凪沙の目つきが、身に纏う空気が、音もなく変わっていくのを牙城は感じていた。

 

「―――」

 

 遠くにいても報告で聞いている。

 凪沙が――娘が、その身の内に使えば寿命を削ってしまうほどの強大な力を宿していることを。

 

「(ダメだ、凪沙。気を落ち着けさせるんだ。これは民間人が関わり合わなくていい。だから―――)」

 

 牙城は慌てて凪沙の目と耳を塞ぐように抱き留め、そうこうしている間にも、円柱の向こうでは応酬が続く。

 『血塗れ』の指示で民間人を攫う軍人らに、家族を取り返そうとする少女は最初、その腹を機関銃の銃床で思いきり突かれ、床に膝を突けたところで今度は首の後ろをやられた。最後の最後には後頭部に銃口を押しつけられる。“魔除け”に使われそうになっている母親の方が悲鳴を上げるほどの状況だった。

 それでも、少女の声は止まらない。

 這いつくばったまま、彼女はなおも虚空へと手を伸ばそうとする。

 

「やだ、やだよ」

 

 襲撃者の指先が、機関銃の引き金にかかる。

 あえて殺さないことができるが、あえて殺して自分たちの言う通りにやりやすくすることもまた、特殊部隊は心得ている。

 その殺意が明確なものと察していて、少女はしかし口を開く。

 

「誰か」

 

 ああ、まずい。牙城はそう思った。このままだと少女が死ぬ。それもあるが、それより、必死に腕で抱き留めている娘が、力を解放してしまうのは決定的にマズい、と。しかし、少女の慟哭が、その崖っぷちの後押しに―――

 

 

「誰か助けてよお!!」

 

 

 ゴンッ!!!!!! という爆音が炸裂した。

 虚空から現れた人影が、少女の母親の腕を掴んでいた襲撃者を縛り付けようとした装輪装甲車にシュートして分厚い装甲に凹みを作るほどに叩き込んだ音だった。

 

 そして。

 

 それだけに終わらず。

 

 とん、と着地した直後。

 

 人影と共に虚空より伸びてきた銀鎖、

  惨劇の場にいた人たちに巻き付いて、

   また虚空へと引き込んでは回収する。

 同時。

  片足を軸にその場で回転する人影、

   全周囲に霊弓術の手裏剣を投擲し、

    軍人の反応より早く牽制を放った。

 

 ここまでで、一息。

 

 

 暁凪沙は、なにかを思い出す。

 同じ空港で初めて自分ら兄妹をスリから助けてくれた誰かと会ったことを。

 

 暁牙城は、それを思い出す。

 危機的な状況を、一瞬で覆してくれたあの主従を。

 

 

「―――その子から、離れろ」

 

 

 人間のリアクションタイムの平均記録は、15秒。

 奇襲を受けてから人間は数秒無防備であって、ゴドン!! という壮絶な轟音はまた響く。少女の後頭部へ銃口を突き付けていた男。秒もかけずに潜り込んだ銀人狼の、その顎をすくい上げるような徹甲弾の如き拳打が炸裂し、リーダー格である『血塗れ』の方へ殴り飛ばされた音だった。

 

「人狼―――っ!? この鎖は!」

 

 飛び道具にされた仲間を避けたアンジェリカ。その先に待ち構えていたように、足元の地面が波紋のように揺らぎ、銀色の鎖が吐き出された。神々が鍛えた捕縛用の魔具――<戒めの鎖(レーシング)>だ。この銀人狼の主人である魔女が操る無数の鎖が、アンジェリカ=ハーミダの長身を絡め取る―――瞬間、『血塗れ』の周囲の空間に、眩い紫色の閃光が弾けた。

 その輝きに銀色の鎖が吹き飛ばされる。

 

 同時。

 呪詛返し(カウンター)を喰らった魔女に、前触れもなく爆発が襲う。

 

「ご主人!」

 

 <戒めの鎖>に攻撃された時、丸腰だったはずの『血塗れ』より、『旧き世代』の吸血鬼にも匹敵する膨大な魔力が迸った。その魔力が鎖を逆流して、術者に襲い掛かったのだ。

 アンジェリカは無言で顔を上げ、その視線の先にいる管制室でこちらを見下している南宮那月を睨め上げる。

 『血塗れ』と『空隙』が目を合わせたのは一瞬。そして、その刹那の出来事で他の軍人らも動き始める。アンジェリカは鋭い声で指示を飛ばす。

 

「C隊は時間を稼げ。A隊とB隊は二手に分かれるぞ」

 

 乗車する『血塗れ』。

 主が害されたことにそちらに意識が向いてしまった銀人狼はそれを見逃す。そして―――

 ドガシャア!! と。

 一面の壁を覆う空港の透明なウィンドウが、一気にまとめて砕け散る。大量の破片が雪崩のように押し寄せ、それをかき分け、複合装甲の塊が屋内へと突っ込んでくる。

 八輪の装輪装甲車。

 それも屋根に戦車砲の砲塔のようなものを取り付けた特別仕様だ。

 外でその猛威を振るっていたC隊の車両がウィンドウを破って全速力で―――

 

「―――、」

 

 ヒィウ、という鋭い笛のような吐息があった。

 暴走する装輪装甲車はその突き進んだ先に、円柱がある。牙城が身を隠していた円柱が。

 それを牙城が目にし、咄嗟に取り出そうと銃器に手を掛けた時には、すでに銀人狼は恐るべき速度で駆けていた。白銀の獣毛が躍る。まるでレーザービームのように突き抜けた銀人狼は、途中ふたつに別れて、ひとつが装甲車の正面から側面へ一息に回り込むと、その一点へ合わせた掌打を叩き込む。

 

 

 ッッッズン!!!!!! という腹に響く轟音が炸裂した。

 直後に、20t以上ある装甲兵器が足をかけられすっころぶようにガクンと速度が落ちる。

 

 

 これが、<黒妖犬(ヘルハウンド)>。

 物理法則無視の怪物が当然のように闊歩する『魔族特区』の環境において、己の身ひとつで切り抜けていく怪物の中の怪物。

 いきなり鉄の棺桶に早変わりした装甲車。

 その状態を作った今の一撃は、<四仙拳>が『仙姑』が放つ打撃と同時に内部に気功波も撃ちこむ鎧通し、剣巫や舞威姫の対魔族戦闘に用いる体内に浸透系を(ゆら)がす寸勁と同じ。

 どんなに体を鍛えようが、生身の人間の拳で装甲車を撃ち抜くのは不可能。しかしながら、彼は半分人間ではない。人ではその拳骨を砕いても若干しか通らない衝撃でも、彼は違う。

 そして装甲車だろうが戦車だろうが、ベースとなるのが『自動車』であることに変わりないのだから、そのバッテリー部分のガソリンの匂いを嗅ぎ分けて、そこを狙い絞る。

 空気と液体の配合率が燃焼に直接かかわるエンジンにおいて、ガソリンの中にわずかな気泡が混ざるのは致命的であり、不完全燃焼が起こればエンストとなる。なおかつバッテリー液に浸してある電極を浸透勁にて破壊してしまえば、液中から電気を取り出す効率は極端に落ちる。

 つまりこれは、『対車両の心臓破り(ハードブレイク)』ということだろう。

 受け止めきれない、または街中で制限速度を超過する暴走車両もお手の物。吹っ飛ばして周りに被害を及ぼさず、かつ爆発させぬように安全に強制停車させる技として、南宮クロウが編み出した必殺技。というより『魔族特区』で現金輸送車を狙う犯罪者らの相手をしていたら自然とできるようになってしまった“力技”のひとつだ。

 

 そして、その元から備えた強靭さを更に鍛えた身体だけで、技ではなく、“力任せ”で止めれるには既に十分。

 

「だっ……らあああああああっ!」

 

 銀人狼は獣のように、いや、獣としての咆哮を上げる。

 息の根を止めた――エンストを起こし動力部が急停止した装甲車はそれでも勢いから滑っているも、寸前で別れて、そのまま待ち構えた方の気分身のもうひとつ――本体(ほんにん)が正面衝突。

 両手を前に突き出し、柔軟な肉球型(クッション)の生体障壁を展開。

 あとは腕力と、そして握力―――何より筋力をもって、その場から微動だにせず、装甲車にかかっていた慣性ベクトルを圧し殺した。

 

 

 

「……話には聞いていたが、随分とサーヴァントが成長してるじゃねぇか先生ちゃん」

 

 人間性と怪物性を併せ持つ、『混血』の少年。

 牙城が出会ったのは、ゴゾ遺跡の一件のみ。子供たちと同じ『魔族特区』の教育機関に通っていることも知っていたし、あの『焔光の宴』での活躍も直接見ることはなかったが把握している。

 だが、実際に見て初めて対峙した時よりも、彼の成長を実感する。

 『魔族大虐殺』な異名持ちの教師に、真祖になってしまった息子を預けるのに若干にも不安がなかったと言えばウソになるが、それでもこうして彼女の眷獣(サーヴァント)を見る限りは、それも杞憂のようだ。

 

 

 そして、装輪装甲車の車内にいたC隊を、撃退。

 しかし、その間にアンジェリカ=ハーミダを乗せたA隊の装輪装甲車両は逃亡。同じく空港の警備を強引に突破したB隊の車両は、南宮那月により制圧されるも、絃神市に『血塗れ』の潜伏を許してしまう。

 

 これが、極東の特区警備隊と北米の特殊部隊の前哨戦の経過であった。

 

 

人工島東地区 港

 

 

 第三真祖<混沌の皇女>が支配する『夜の帝国』、中南米エリアの『混沌界域』で内戦。

 『アメリカ連合国(CSA)』との国境付近に配備されていた軍の部隊が武装蜂起して、自治独立を要求している―――そう、この極東の『魔族特区』でニュースが流されているようだ。

 

 その反乱に覆い隠されたその内実は、国境紛争。

 現在、北米大陸は、カリブ海地域を支配する『混沌界域』、大陸中央部を版図とする『アメリカ連合国』、アラスカから五大湖周辺までの各州で構成される『北米連合(NAU)』―――それら三国の主要な国家で占められている。

 直接、『夜の帝国』と国境が接しているのは『アメリカ連合国』で、その国境近くには、大量の地下鉱物資源が埋蔵されていると言われている。それを欲して、国境地帯の帰属を巡り両国の間には幾度も衝突が起きている。

 『アメリカ連合国』の背後には強大な『北米連合』が控えているため、『混沌界域』と大規模な戦争を仕掛けるつもりはない。

 その代わりに、特殊部隊による工作活動が活発に行われている。吸血鬼に支配されることを快く思っていない獣人優位主義者や、自治独立を求める少数民族といった不平不満を抱く輩に資金援助や武器供与を行い、反乱を唆す。

 

 しかし、第三真祖が本気となれば、地方都市に駐留する程度の部隊など、単独で壊滅してのけることだろう。何よりも、『夜の帝国』の軍人が、真祖の恐ろしさを知らないはずがない。災厄の如き猛威に抵抗するのが如何に無意味であるか赤子でも悟ろう。

 

 それでも真祖への反逆が起こっている。

 

 つまりそれは、反乱軍、その黒幕に真祖に抵抗できる“切り札”があったからだ。

 『戦王領域』を支配する第一真祖に抵抗せんと、<ナラクヴェーラ>を手に入れようと画策した『黒死皇派』の残党と同じ。

 

 ―――そして、国境紛争に参加した閣下はその強大な力をもつ“切り札”がお望みであり、その鍵となるものを自身は預けられた。

 

「せめて閣下が戻ってくるまでは―――」

 

 空港内の展望スペースから確認できる、港湾地区の大桟橋。

 中央空港と並ぶ絃神島の玄関口であり、人工島東地区の象徴にもなっている巨大な国際客船ターミナル。

 その周囲には、数多くのクルーズ客船が停泊しており、中でもひときわ目立つのが、『戦王領域』から全権を任されている外交大使たる閣下が所有するメガヨット<オシアナス・グレイブⅡ>。個人所有の船としては破格の、軍用駆逐艦に匹敵する規模の外洋クルーズ船―――それが今、ない。

 荘厳な城のようなメガヨットの姿が、絃神港から消えている。

 そう、閣下は今、『混沌界域』の内乱の只中にいるのだ。

 

 そして、自身はひとり先に帰還し、ひとつの命を任された。

 業腹だが、閣下の命通り、『花嫁』の身柄は……

 

 

「―――『花嫁』はどこだ」

 

 

 左腕に魔族登録証を嵌めた銀髪の男。冷たい刃物を連想させる美青年は、トビアス=ジャガン。欧州『戦王領域』出身の吸血鬼の貴族。第一真祖<忘却の戦王>直系の、そして、アルデアル公ディミトリエ=ヴァトラーの側近。

 

 その前に立ちはだかる存在。

 

「もう来ていたか……!」

 

 人の枠を超えた体躯は、神が彫り上げた石像とでもいうべき外観。

 身の丈は2mに近く、この港で行き交う人間たちの中で一つ二つ頭が飛び抜けている。

 筋骨隆々とした偉丈夫であるが、その筋肉繊維のひとつひとつ、血管を巡る血の一滴一滴に獣気とでもいうべき野性的な精気が満ち溢れている。その肉体には生半な魔術は愚か、銃火器でさえ薄皮一枚を傷つけることもできないだろうとジャガンに思わせた。

 滲み出る雰囲気だけで場の空気を支配し、わずか数秒の立ち振る舞いだけで、視るものを屈させてしまうほどの存在である。

 だが、周りには騒がれていない。ほんの数秒もあれば、徒手空拳で視界内にいるすべての人間を虐殺可能であろう脅威に、誰も勘付くことができないでいる。それはこの国の人間が平和ボケしてるからではなくて、自身の肉体と魔力の圧力を隠蔽するよう、男がここ一帯に認識阻害の幻術をかけているのだ。

 そして、人間を遥かに超えた、魔族の中でも際立つ身体能力を持った超人が、石像のように無表情のままもう一度ジャガンに問い掛ける。

 

「質問に答えろ。私は<蛇遣い>の道楽に付き合うつもりはない。女皇に害するものは即刻始末する」

 

「………」

 

「『花嫁』をどこにやった、と訊いている」

 

「それに答えてやる義務も義理もない、自分の帝国(くに)に引っ込んでいろ獣人!」

 

 表情を消した超人から、重々しい声が響き渡った。

 

吸血鬼(きさま)らは、殺さぬとわからぬようだな……」

 

 言葉と共に、目に見える圧力が風となって周囲に駆け抜ける。

 魔力とも違う純粋な威圧、幻術の結界を敷いていなければ、周りの人間が発狂しても仕方がないほどの重々しい気配が苛烈なる炎の貴公子の四肢に枷を嵌めるよう動きを鈍くさせる。

 

「殺せるものならば……殺してみろ―――<妖撃の暴王(イルリヒト)>!」

 

 勢いよく腕を振るい、金縛りに遭う重圧を振り払う、強大な魔力をトビアス=ジャガンは解放する。

 全身より噴き出す、吸血鬼の無限の“負”の生命力は炎と化して、その温度純度を急速に高めていく―――それに対し、男は口元を凶悪に歪ませ、唱えた。

 

 

 

「―――藉す、“<シウテクトリ>”」

 

 

 

 炎の貴公子より放たれた超高熱の火の鳥が、『鳥人』と獣化した男の左脚より、迸った火山の噴火を思わせる爆炎流に呑まれて、灼かれる。

 ジャガンは目を剥く。

 自身の眷獣を焼き尽くす熱と炎の正体は、純粋な魔力の塊。それもあのMAR襲撃事件で遭遇し、相対した第三真祖の眷獣と同じ強大さ、いや“そのものだ”。その真祖の眷獣を、吸血鬼でなく、獣人種が召喚する―――!?

 そして、今その天を突き、焼き焦がす爆炎流の眷獣は無秩序に暴れ狂わず―――やがて、収束してひとつのカタチを造り出す。

 <混沌の皇女>がMARで見せた姿が、<シウテクトリ>のすべてではない。

 

 第三真祖の血族の吸血鬼はT種と呼ばわれており、その特徴は槍や鞭などの姿をした『意思を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)』の眷獣を従えるのが多いということ。

 

 二十七体を使役するという女皇より『鷲の戦士長』に拝領された爆炎流の眷獣のもう一つの姿は、災厄を一振りの得物とした―――

 

 

「望み通り、その心の臓を抉り抜いてやろう『戦王領域』の吸血鬼」

 

 

 空港の人間たちの前哨戦と同時刻で発生した、第一と第三の『夜の帝国』の魔族たちの激突。

 その吸血鬼と獣人の貴族同士の戦いは、数刻で決着がついた。

 

 

人工島東地区 空港

 

 

 南宮那月が、特殊部隊の暴れた現場に降りて、アンジェリカ=ハーミダが残した痕跡を調べていると、やけに馴れ馴れしく中年男性が声をかけてきた。

 

「おー、先生ちゃん、助かったぜ。危うくやられるところだった」

 

 一応、見知った相手なのだが、この無駄に良い声なのが余計に腹立たしい。

 

「………」

 

 那月は無感動に眉を寄せ、男を避けるように現場を検分する。

 だがこちらが無視しても、相手の方も今は他に話相手がいないせいかしつこい。

 

「おいおい、危ないところを助けてもらって感謝してるんだから挨拶くらいしてもいいだろ。それに、うちの馬鹿息子を世話してもらってる礼くらい言わせろよ」

 

「……何の用だ、盗掘屋。見ての通り私は忙しい。航空なら今日中に本土への運航が再開する。貴様らとの三者面談の予定も生憎入っていない」

 

 やれやれと長い溜息を洩らし、那月は冷ややかな口調で言い返す。

 この中年男性、暁牙城は、那月から見れば、教え子の父親という立場である。

 もっとも那月は、彼の息子が彩海学園に入学してくる以前から、暁牙城という人物を知っていた。<死都帰り>などと呼ばれる考古学者。世界各国の紛争地帯を巡って、戦闘のどさくさに発掘品を掠め取ってくるような、火事場泥棒と紙一重のフィールドワーカーだ。

 そして、噂によれば、暁牙城はつい先日まで『混沌界域』付近の遺跡に発掘調査に出かけていたというが。

 

「ちょっとした情報提供(タレコミ)だよ。まあ、裏付けの取れていない不確定なモノなんだが……『ゼンフォース』の様子から推測できる」

 

 その牙城が、珍しく真面目な態度で言う。

 露骨に警戒した表情を浮かべる那月。刺々しい声で、へらへらとにやけ面をする牙城にくぎを刺す。

 

「情報提供、か。過去の悪行を、貴様の嫁にバラされたくなければ冗談はやめておくんだな」

 

「オーケイ、わかった。単刀直入に行こう。『混沌界域』の獣人兵団長様を知ってるか?」

 

「なに?」

 

「中南米大陸で一番強い獣人――“第三の夜の帝国の獣王”だ。『ゼンフォース』の連中もおそらくこいつを警戒して戦力増強して強硬策を取ってきたんだろ。国に害をなす反逆者を、匿った村ごと焼き滅ぼしたっつうくらいヤバい―――しかも鳥類タイプで、飛行機を軽々と抜き去っていくくらい速いから、超音速戦闘機みたいなもんだ」

 

「……なぜお前がそんなことをいう、暁牙城」

 

 まるで見てきたかのような牙城の言葉に、那月が顔つきを険しくした。

 まあな、と牙城は真剣みのない態度で失笑し、

 

「『混沌界域』から絃神島に行く空の旅で、旅客機の窓からこっちを追い抜いて飛んでいく鳥人を見たからだよ。ありゃ多分、音速超えしてたんじゃねぇか」

 

 世間話のような何気ない調子のまま、牙城は言う。那月は不機嫌そうに唇を歪めた。

 

「貴様は、その密入国者を特区警備隊に報告しなかったわけか?」

 

「仕方ねェだろ。俺だってあれには目を疑ったんだ。それに客や機長さん、俺以外の民間人もいたはずだぜ。普通はちっとばっかがたいのデカい鳥としか思わねーよ」

 

 ちっ、と那月が乱暴に舌打ちする。

 

「それで、ここを襲ってきた輩どもから推察した、ということか」

 

「そうそう。俺たちはこれから島を離れるけど、まあ、頑張ってくれや」

 

 ありえないぐらい腹立たしいが、牙城は民間人だ。

 『仮面憑き事件』でもそうだったが、音の壁を超えて超高速で飛空する相手というのは、航空戦力を持たず、警備隊のセンサーである『覗き屋(ヘイムダル)』も“音速を超えて飛び回る相手には無力”であるため、非常に厄介だ。

 それも『仮面憑き』の娘たちとは違い、歴戦の戦士長であるのなら、戦略性のない空に真祖の眷獣をぶっ放す手段も通用しそうにない。

 相手に適しているは、空を飛べる龍を使役し、この前、アルディギアの最終兵器を撃墜した―――

 

「てなわけで―――おたくのサーヴァントを引き取ってもらえないか先生ちゃん」

 

 と、それまでポケットに入れていた右手をぶらぶらとさせる牙城。

 

『おー、君がクロウ君かー。凪沙ちゃんに手を出してくれちゃってるようで久しぶり、元気にしてたかいあんちくしょう』

 

『? 誰だお前?』

 

 先ほど、再会を祝し(ただし、むこうは覚えてない)、男と男の固い握手を交わして、思いっきり握り(潰さん限りに)締めたら、軽くこちらも手を(万力並の握力で)握り返された。

 涙が出るくらい凄まじい感動(いたみ)が走ったが、娘の手前、牙城は笑顔で堪える。しかしそんな父親の涙ぐましい頑張りも、娘は知らず……

 

 

 

「それで古城君が雪菜ちゃんに迷惑かけないか心配だから、クロウ君も時々でいいから様子を見てくれる? 雪菜ちゃんなんだかんだで甘やかしちゃうし、きっとミイラ取りのミイラになると思うんだ」

 

「ん。今日の夕方ごろにも寄ってみるぞ」

「ありがとうクロウ君。あ、でも、もし二人がいい感じになったらお邪魔虫にならないように気を付けてあげてね。それと凪沙にも報告おねがい!」

 

「う。いつもの九時ごろに電話すればいいか?」

「うん。本土に行っても毎日連絡しようね。あ、別にいつもの時間じゃなくても訊きたいことがあったらいつでも電話かけていいから……あたしもクロウ君の声、聴きたくなる時もあると思うし……」

 

 

 

 向こうで、明らかにガン付ける父親を省き、クラスメイトの厚着の少年とお喋りする娘。

 最初はちょっと自分でもうざいくらいに口を挟んでいたのだが、その度に凪沙に嫁を彷彿させる冷ややかな視線で睨まれては、牙城もすごすご引き下がるしかない。

 

「……先生ちゃん、昨日、古城にも確認したんだが。あれって付き合ってないんだよね?」

 

「さて、どうだろうな」

 

「お願いだから、そこはノーと言ってくれ! 深森さんも後押ししてるみたいだから本気でヤベぇんだよ!」

 

 嘆願してくる牙城に、少しは気が晴れたように、ふっと小さく笑みを零す那月。

 

「お前の息子と同じだ。精神年齢が男女のお付き合いができるくらいに成長しておらん」

 

「だよな。そうだよ、そういう性格(タイプ)だってわかってた……それで、先生ちゃんは飼い犬の去勢とか考えてない?」

 

「そうだな。どこかの盗掘屋のように手が早いようなら考えようか」

 

 あれはまだまだ花より団子だ。そのような色恋沙汰に悩むのは気が早過ぎる。

 

 しかし、今は仕事だ。賊を捕まえていないのに、いつまでも喋っていられる余裕はない。

 この馬鹿な父親を庇うためではないが、那月は眷獣(サーヴァント)を呼びつける。

 

「馬鹿犬!」

 

 那月の呼びかけに、厚着の少年はこちらを向く。

 そして、それにやや遅れて少女の方も那月の登場に気づいた。

 

 

 

「じゃ、行ってくる。古城君たちと見送りに行けなかったけど、凪沙ちゃんも本土に気をつけてな」

 

「うん。クロウ君もお仕事がんばってね……一緒に行けないのはやっぱりちょっと残念だけど……」

 

「う。オレは絃神島(ここ)を守らなくちゃいけないからな。凪沙ちゃんが安心して帰ってこれるよう襲撃者(あいつら)をとっ捕まえて、待ってるのだ」

 

「……うん! ちゃんと絃神島に帰ってくるからねクロウ君! お土産も買ってくるから!」

 

 ―――だから、次、会うときはお互いに元気でいようね!

 そう、少年と少女はその小指同士を絡める指切りげんまんをして、別れた。

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 空港で、魔女が指揮する特区警備隊と『血塗れ』が率いる特殊部隊(ゼンフォース)

 港で、『旧き世代』の吸血鬼『魔眼使い』と最上位種の鳥類獣人『鷲の戦士長』。

 

 人工島の空路と海路の玄関が戦場と化していた最中、本土へ行く妹を見送り、偶然にも争いに巻き込まれず東地区から南地区のマンションへ監視役の少女と共に帰ってきた<第四真祖>暁古城。

 帰宅後、彼の部屋に国際宅配便の伝票が貼り付けられた大型のスーツケースが届けられた。

 

 この吸血鬼化した古城の腕力をもってしても、持ち運ぶのが大変な100kg近い重さの金属製のケース、その送り主はアルデアル公――ディミトリエ=ヴァトラー。

 そして、冷蔵機能付きのやたら高性能なケースに入っていたのは、まさしく“箱入り娘”。

 

「お、女!?」

 

 呆然と呟く古城。

 雪菜が警戒して槍を使って開けてみるとそこに、小柄な美しい人影。

 きめ細やかな褐色の肌と、眩い太陽のような蜂蜜色の髪。しなやかな四肢と、幼さを残した顔立ち。そして引き締まった腰つきと、意外なほど豊かな胸の膨らみ―――

 そう、あの戦闘狂でここしばらく絃神島から離れていたヴァトラーが、古城に送ってきたのは異国人の若い娘。一糸まとわぬ姿の美少女だ。

 

「な、何でいつまでも見てるんですかっ!?」

 

「ぐはっ!?」

 

 まるで死んだように冷たく硬直してる少女を古城が注視していると、お目付け役から強烈な掌底(ツッコミ)が横っ面に飛んできた。

 鼻先を押さえて仰け反る古城は、あまりにも理不尽な雪菜の仕打ちに流石に頭に来るものがあった。確かに全裸の少女を凝視するのはまずかろうが、この状況ではやむを得ないと思う。どう考えても不可抗力だ。

 古城は抗議の声を上げようとした、その時鼻から、ぶぼっと……

 

「そんなこと言われても……あ……!」

 

 素っ裸でケースに横たわっている箱入り娘を前にして、それを見下ろす古城は鼻から赤い体液を噴き出してしまい、監視役の視線の温度がまだ一段と低くなった。

 

「先輩……」

 

「ち、違う。これは姫柊が俺を殴ったから―――」

 

 古城は必死に誤解をとかんと弁舌を尽くす。しかし、その間、だらだらと鼻血の勢いは止まることなく、なお盛んに噴き出し続ける。

 そんな監視対象(センパイ)の様子に、原子活動が停止する絶対零度域下に入ったように、雪菜の顔と声から感情の温度が消えた。

 

「いやらしい」

 

「なんでだあああっ!?」

 

 そして、軽蔑したように溜息をつかれて、絶叫する古城。

 

 

 しかし、ケースが開けられても眠り続ける異国の美しい少女の正体……二人は、絃神島で起こる争いの鍵となる『花嫁』を手に入れてしまったことを、このときはまだ知る由もなかった。

 

 

 

つづく



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冥王の花嫁Ⅱ

人工島南地区 マンション

 

 

 淡い褐色の肌と蜂蜜色の髪。様々な民族の血を引く人々に特有の、端整な顔立ち。しかし、その寝顔は年相応に幼く、何ら特別な存在ではないという印象を与えてくる。

 

 暁古城の私物であるTシャツと短パンに着替えさせた異国人の少女。

 配達されてから、今、姫柊雪菜の寝室のベットに昏睡している。

 魔術や薬物によるものではない。

 彼女を運んできた容れ物(ケース)―――生きたまま人間を封印し、開封後は瞬時に蘇生させる、という高度な技術で作られたシステム。蓋を開けられるまで彼女は仮死状態であった。

 

 患者の生体パターンは、既知の如何なる魔族とも該当しない。

 人間。

 人種的にはラテンアメリカ先住民族およびヨーロッパ系コーカソイド。

 肉体年齢は15歳。

 健康状態は良好。

 身長は161cm。

 体重は46kg。

 そして、伝票に記載された個人情報から、個体名『セレスタ=シアーテ』と推定。

 

「ありがとな、アスタルテ。お前が来てくれて助かった」

 

 そう診断結果を伝えると、気怠く肩を竦めながらも暁古城はこちらに礼を言う。

 自宅にて待機中だったアスタルテに、突然の呼び出し。詳しい話はされなかったが、とにかくひとり診てほしい少女がいるから来てほしいと。

 医学知識が入力されている元医療系の人工生命体であるところのアスタルテは、簡易的な診察をすることができる。

 

「謝辞は不要です。私の診断は簡易的なものであり、正確な検査はできません。念のため、正規の医師による診察を推奨します」

 

 と病院に勧めるところだが、話はそう簡単なものではない。それができないから、病院ではなく、アスタルテを呼んだ。

 まだ眠る少女――セレスタ=シアーテを眺めて、鬱陶しげに前髪をかき上げる古城。

 

「こいつがただの行き倒れだったら、迷わず病院に連れてくところなんだけどな」

 

 送り主が、ディミトリエ=ヴァトラー。

 己の欲求を満たすためならば、テロリストもうちに囲い込むような輩だ。そのヴァトラーが古城を名指しして送りつけた少女。

 99%人間で、見た目は無害な女の子であるも、送り主がヴァトラーというだけで羊の皮を被った狼でないという保証ができない。病院に連れ込んだことで、無関係な病院関係者や患者に被害が出る可能性がある。

 それを考慮して古城がセレスタを匿うことを決めるまで、ヴァトラーは読んでるだろう。

 

「本当、どうしたものか。ヴァトラーのヤツのことだから、間違いなく厄介ごとなんだろうが」

 

 ここで異国人の少女を見捨てる真似はできないし、となると、あの戦闘狂の青年貴族の悪事の片棒を担がされているような気がして不愉快だ。

 もうほとんど答えは決まってるのに葛藤する古城の背後から、不意にのんびりとした声。やけに尊大で、どこか浮世離れした口調がかけられた。

 

「ほう。ディミトリエ=ヴァトラー……『戦王領域』の<蛇遣い>か。懐かしい名を聞いたな」

 

 それから清らかな音色の少女の声も聴こえた。

 

「お知り合いでしたか、院長様?」

 

 聖女のような優しげな雰囲気を漂わせた、銀髪碧眼の少女。その膝の上に身長30cmほどのオリエンタルな美貌が、胡坐をかいて座っていて、おぼろげな記憶を辿るように首を傾げてる。

 そう、南宮那月教官の自宅に居候している叶瀬夏音とニーナ=アデラートがアスタルテに同行してきた。

 

「直接会ったのは100年ほど前に一度きりだがな……いや、200年前だったか……?」

 

「……で、叶瀬たちのその恰好はなんなんだ?」

 

 古城が指摘したくなるのも無理はない。夏音が身に着けているのは見慣れた彩海学園の制服ではなく、スカート丈の長い、純白のエプロンドレスだった。欧州大戦当時の従軍看護師を思わせる衣装。まさに、白衣の天使というイメージそのままな姿である。

 マイナスイオンのような、いるだけで癒される雰囲気を放つ夏音にはぴったりなコスプレ―――なのだが、古城はここ最近、夏音の『影武者』がいることを知った。

 

(流石に、これが普段着ってわけじゃねェだろうし……まさか、クロウか?)

 

 もう何度も上から下まで視線を向けているのにもかかわらず、古城は思わず、また一度この白衣の天使を眺める。

 

「……そんなに見ないでください。少し、恥ずかしいでした……」

 

 ナースキャップを押さえながら俯く夏音が目元を赤く染め、潤んだ瞳で古城を見上げる。

 

「あ、ああ。わるい」

 

 思い切り動揺してしまう古城。

 そんな初々しく恥ずかしがられる男殺しな反応をされると、逆にこちらは鼻に来てしまう。いや、古城でなくとも理性を蒸発させて狼に獣化するか、精神の耐久値を一気に削られていたことだろう。

 ただし、この聖女と平然と共同生活の出来てしまう例外な狼もいるが。

 

 しかし今のこの鼻に来た反応で確信した。

 彼女は本物の叶瀬夏音である。

 ……そうでないと今の血が上った感覚に古城は小一時間ほど自分を見つめ直さなければならなくなるのでそうであってもらわないと困る。

 

 そんな古城の思いを知らず夏音は照れたような小声で、この空気を誤魔化すように話を戻した。

 

「ア……アスタルテさんの助手でした」

 

「助手?」

 

 ただの中学生に過ぎない彼女に助手が務まるとは思えないのだが……

 思わず、はあ、と曖昧に頷いてしまう古城に、彼女の保護者から叱責が飛んできた。

 

「あまり責めてくれるな、古城。此奴は、アスタルテが往診を頼まれたと聞いて、てっきり主が倒れたのだと勘違いしてな。主の看病をする気でやってきたのだ」

 

「い、院長様!」

 

 身体が小さくなっても尊大さの変わらない偉大な育ての親の言葉に、夏音が、あうあうと激しく狼狽する。透けるような白い肌を耳まで真っ赤に染めて狼狽える夏音を、ニーナは怪訝そうに見上げて。

 

「なんだ? 真実のことであろう?」

 

 そう、真実である。

 南宮那月教官の自宅に連絡が来たとき、アスタルテに電話を取り次いでくれたのは夏音。それから横で会話を聞いていた彼女は、『アスタルテに大事がないか様子を見て欲しい』という言葉を拾い、急ぎ看病の支度を。その際に、ニーナ=アデラートに相談し、その場で古の錬金術師のマジカル☆ドレスアップが始まり、今に至る。

 早とちりをしてしまったドジっ子である。

 とはいえ、アスタルテが出かける前にそれを察して、古城ではなくて異国人の少女が、と誤解を訂正してあげればナースから着替えたかもしれないが、それでも彼女は気を失っている異国人の、見知らぬ少女のためにアスタルテと一緒に古城宅へ向かったことだろう。

 

 アスタルテとしても、叶瀬夏音の護衛は、教官から言いつけられていること。夏音には今もどこかに隠れているアルディギアの要撃騎士に錬金術を極めて、『霊血』の肉体を持つ院長がついていたのだとしても、アスタルテの仕事であることに変わりない。一緒に行動をしてくれるのならば、アスタルテとしても助かる。

 

「そうか……ありがとな、叶瀬」

 

「いえ、お兄さんの為……でしたから」

 

 縮こまって恥じらう叶瀬夏音に、素直に感謝する暁古城。

 きっと彼は、捨て猫を見捨てられない彼女だから、知り合いが病気になったのを放置できるはずがない、とかそんな理由で納得してることだろう。

 当たらずとも遠からずだが、わずかだが決定的な、意思疎通のすれ違いが生じてしまっている。

 それを客観的に見て、人工生命体の少女はどこか“もどかしい”―――そんなことを覚え始めた。

 アスタルテがそれを口にして出す前に、コホン、とわざとらしい咳払いが発せられる。

 

「それで、これから彼女をどうするつもりですか、先輩?」

 

 姫柊雪菜の問いかけに、暁古城は顔をしかめた。

 真祖の力はあるが、彼の立場はあくまでも学生だ。はっきり言って、この異国人の少女の扱いは彼には手に余る。家出少女くらいならば、少しの間、匿ってやることもできたことだろうが、アルデアル公が関わっているとなると、考えさせられる。もちろん、すべてを投げてしまう気はないが、信頼できるプロの攻魔官に任せてしまいたいだろう。

 しかし―――

 

「そうだな……この手の厄介ごとは、できれば那月ちゃんに任せたかったいんだけど」

 

南宮教官(マスター)は、特区警備隊(アイランドガード)の要請を受けて特別警戒任務中です」

 

 今、それに頼ることはできない。

 教官だけでなく、“わざわざ自分を任務から外した”先輩にもだ。

 

「……特別警戒任務?」

 

「肯定。未登録魔族の密入国の痕跡が発見された、との情報があります」

 

「密入国って……」

 

 まさかこいつのことか……? と古城がセレスタに視線を向ける。

 箱詰めにされて宅配便で送られてきたのだ。まともな入国手続きなど踏んでいないだろう。

 

「不明。データ不足につき。回答不能」

 

 しかしながらこれ以上判ることもない。

 セレスタ=シアーテが、特別警戒が必要なほどの危険人物とは判断できない以上、彼女が目覚めるまでは様子を見るしかない。

 

「アスタルテ、悪いけど、起きるまでセレスタの様子を見ててくれないか。それとヴァトラーの奴から連絡があるかもしれないし、那月ちゃんと連絡が取れたら取ってほしい」

 

命令受託(アクセプト)

 

 そう結論を出して、古城はアスタルテに特区警備隊の那月との連絡と、それから目が覚めるまで眠るセレスタの看病をお願いして、

 

「では、妾と夏音は、その間に晩餐の準備をしておいてやろう。この通り、材料の買い出しも済ませておいたしな」

 

 この暁宅への道中にスーパーに寄り、食材を買い出しをしていた夏音とニーナが食事の準備を立候補し、

 

大いなる作業(マグヌス・オブス)を極めし者として、主らに我が故郷パルミア料理の真髄を見せてくれるわ。200年ぶりに腕が鳴るわい」

 

 200年ぶりに料理に挑戦することに不安を覚えた暁古城がこの部屋の主で台所を任されている姫柊雪菜にその監視をお願いする。

 

 

 

 そうして、アスタルテ、夏音、ニーナは流れ的に暁家(隣の雪菜の部屋)に一泊することとなった。

 教官にも報告すれば、予想通り、暁古城の傍についていろと指示される。東地区の空港を襲った特殊部隊に、ほぼ同時刻に港で発生した強大な魔力反応。それらの調査に教官は手が放せない。

 アスタルテは、昏睡中、そして正体不明のセレスタ=シアーテの看護及び観察につく。

 

 寝室の外から騒がしい音。

 その発生源は、二人の中学生と一体の人形が調理中のキッチンだ。

 野菜の皮むきから、骨付き肉の解体、缶詰の開封をコンバットナイフ一本で済ませる雪菜。獅子王機関でサバイバル研修を受けた彼女は調理スキルというより、サバイバルスキルが高い。出汁取り用の牛骨を巨大なナイフで力任せに砕いている様は料理とは呼べない何かのよう。

 中学生平均レベルの調理スキルの夏音。現在、南宮家にて、食卓を任されているのはアスタルテで、それに夏音も手伝いをしてくれてその作業は丁寧だが、お世辞にも手際が良いとは言えない。はっきり言って危なっかしく、炒め物を任せればその鍋の重みに振り回される始末。ちなみにひとりエンゲル係数に大きく貢献する先輩は、電気を使うコンロやレンジなどの扱いが、もう呪いが掛けられているのではないかと疑うくらいにダメだ。この前も、炊飯器のスイッチを押しただけで煙を上げる計算不能の事故が起きた。最新鋭設備のキッチンに立ち入り禁止も当然だ。でも、飯盒炊飯での飯炊きはできるようで、機械的な道具を使わない、キャンプとかアウトドアな環境下では活躍できるのだろう。ただし、日常生活においてはやっぱり役に立たない。残念な先輩だ。

 そして、暁古城は幼稚園児のお使いをこっそり見守る父親にでもなったように、二人をハラハラしながら眺めている。時折、鍋を振れない包丁を持てない小人なニーナが、フグとナマズとアンコウとスライムを足して読んで割ったような、謎の深海魚を捌くように指示を出したりするのに突っ込んだりする。

 

 ピンポーン……

 

 不意に鳴り響いたインターフォンのチャイム。

 

「なっ!? 深海魚(こいつ)まだ生きてやがった!?」

「先輩さがって! ここは私が―――!」

 

「きゃあっ!?」

「落ち着くがよい、夏音。パルミア料理を極めたくば火を我が物とするのだ」

 

 どうやら間の悪いタイミングに響いたチャイムに驚き、向こうはパニックになっているらしい。

 そして、その喧騒を耳が拾ったアスタルテは、セレスタを一瞥する。

 

 睡眠継続中。

 急速眼球運動と骨格筋の弛緩を確認。

 脳波状態はシータ波が優勢。

 心拍数、呼吸数に乱れあり。

 

 以上の観察から推測。彼女は現在、夢を見ているものと思われる。

 唇を噛みしめているセレスタの表情は、悪夢にうなされているようにも、あるいは泣いているようにも見える。

 その彼女から離れることはあまりしたくないが、今、動けるのはアスタルテしかいない。

 

「私が、出ます」

 

「あ、ああ、悪いなアスタルテ。ちょっとこっち手が離せなくて―――うおっ!? まだビクンって!?」

「先輩! しっかり押さえててください! ナイフが刺せません! ―――アスタルテさん、すみません。判子なら玄関の脇に………」

 

 そして、一時、持ち場を離れる旨を告げるとアスタルテは玄関へと向かった。

 手早くに要件を済ませてセレスタの元に戻ろうと、訪問者の確認をせずに玄関ドアを開けると、そこに立っていたのは―――

 

 

「おっす。アスタルテ、なんだかそっちも大変みたいだな」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「先……輩」

 

 人工生命体の少女はドアノブを手に取ったまま、固まった。

 咄嗟に声を抑えたものの、青水晶(ブルークォーツ)の瞳は表情を隠せなかった。

 

「ん? どうしたのだアスタルテ。そんなにびっくりして」

 

 不思議がる、また心配するかのように、そっと抑えた、こちらに気遣う声音で呼びかけられる。

 しかし、それに対し、むしろ怒ったような気配を湛えて、言葉を返す。

 

「説明要求。なぜ―――先輩がここに来てるのですか」

 

「う? ご主人から話は聞いたけど、様子が気になるし、ちょっと休憩をもらって見に来たのだ。来ちゃまずかったのか」

 

「今、先輩は南宮教官(マスター)の下で、特区警備隊に依頼された任についています。南宮教官への報告にも、こちらへの緊急の増援は不要とそう伝えたはずです」

 

 アスタルテは、変わらぬ口調で続ける。

 

「報道より、襲撃者の危険性はこちらも把握しております。ならば、捜査に尽力し、それを一刻も早く捕らえるべきと判断します。先輩はここに来るべきではなかった!」

 

 しかし、段々とその声量は抑えていても大きくなり、やがて、噛みつくように言うアスタルテの声は、部屋の中にも響いた。

 

「私を先輩の補助から外したのは、教官です。先輩がそう進言したはずです! それが最善と判断されたから従ったのに。それとも今の私では、この場を任せることも不安ですか!」

 

 <黒妖犬>の『嗅覚過適応』の追跡に秀でた特殊スキルは、襲撃した特殊部隊を追うのに適している。そして、教官で主人である<空隙の魔女>の位置さえわかれば奇襲捕縛が可能な空間制御とも相性がいい。

 だから、事態の迅速な解決のためにこの主従を離しておくべきではなく、また、この主従だけで十分だ―――その判断に納得した。そこにアスタルテの手伝える余地はないとそう理解した。役に立てないようなら、せめて邪魔はしたくない。

 アスタルテが任から外れる、それが最も正しいことだと信じたのだ。

 特別、応援を求めなかったのも、彼ら主従の任務活動に支障をきたさないためだったというのに……

 

「う、ん。アスタルテも大声で怒ったりするんだな」

 

 と、実に的外れな言葉を、クロウはあっけからんと口にした。

 

「否定! 怒ってなどいません! 怒っているわけなど欠片もありません! これはただ言ったのではこちらの主張を聞かない先輩に対しての交渉上必要だと判断した示威行為です!」

 

「それって、怒ってることじゃないのか?」

 

「否定! 純粋に運用上の問題ですが、先輩は私の能力や性質やそのほかのことにも理解が足りていません。なのに、勝手に私の状態を判断するのは、差し出がましいにもほどがあります!」

 

「ま、待つのだ。オレはアスタルテがいつもと様子がおかしいから気になって、だからご主人に」

 

「私の活動状態は、先輩に気を遣われることなど一切必要としないと診断されています! メンテナンスを受け、すでに調整済みです! そうでなければ不完全な状態で外出などするはずが―――」

 

 そこで、アスタルテは言葉を切った。

 キッチンから足音。この騒ぎに向こうも気になって、見に行こうとしてるのだろう。

 アスタルテはその前に、ドンと両手で押してクロウを玄関前から突き飛ばす。

 

「お、おいアスタルテ!?」

 

「入室不許可。先輩は今すぐに任務へ戻るべきです。ここは私ひとりで問題ありません」

 

「でも、凪沙ちゃんにも古城君の様子を見てくれって頼まれ―――」

 

 それ以上、クロウは何も言えなかった。巨大な眷獣の腕に身体を掴まれ、肺を圧迫する握りしめに言葉が途切れさせられる。これ以上の問答に付き合う気のない宿主の意に応え、そのまま玄関から出て、マンションの外に面したところまでいくと砲丸投げの選手のように、大きく振りかぶって、

 

執行せよ(エクスキュート)! <薔薇の指先(ロドダクテユロス)>!」

 

 ゴッ、と凄まじい加速で、アスタルテはクロウを撃ち出した。どこに投げ飛ばすかなど考えず、とにかく、このマンションから――アスタルテから、遠くへ―――

 

 

 

 アスタルテが玄関に戻るとそこに、どのような表情をつくればいいか戸惑ってるように片頬だけをひくつかしている暁古城が立っていた。

 

「あー……アスタルテ、今のは誰だったんだ?」

 

「問題ありません」

 

 問いかけの答えになってない回答に、古城は何も言わなかった。

 内容をはっきりと聞き取れずとも、やりとりはキッチンからでも聞こえていたんだろう。後輩(クロウ)の声も、そして、人工生命体の少女が荒げた声も。

 ふぅ……と溜息をこぼす古城は、靴も履かずに出て行ったアスタルテを部屋に迎え入れると、その前に彼女から手を差し出される。

 

「提案。携帯電話の貸与を要求します。南宮教官(マスター)との通話の再試行の許可を」

 

「え? ああ、那月ちゃんにもう一回連絡してみるってことか?」

 

 首肯されて、しばらく何か言おうか迷ったが、結局は何も言わず古城はアスタルテに、自分の携帯を渡してやる。

 

「じゃあ、セレスタのことは俺がしばらく看とくから」

 

「感謝します、第四真祖」

 

 ぺこり、と頭を下げてアスタルテは携帯を受け取る。

 

 アスタルテはまた改めて教官に現状報告と増援(クロウ)を不要と重ねて進言を添えたメールを送った。それに対する那月の返信は、早く。まるでそうなることを予想していたかのように分もかからずに返ってきたメールは、『お前の好きにしろ』と一文だけ。

 その後しばらく、暁古城の携帯の電話帳にもある、いや何度も自身が代打ちして覚えている彼のメールアドレスをアスタルテは打とうか迷い、躊躇い、そして―――

 

 

「きゃああああっ!」

 

 

 悲鳴。初めて聴く声紋。すぐさまアスタルテが部屋に戻ると、

 

「……先輩……セレスタさんに何をしたんですか……?」

 

「ま……待て、姫柊。これは、違う……!」

 

 目にしたのは、手形をくっきりと頬に残した暁古城と、それを一切の感情が抜け落ちた瞳で見つめる姫柊雪菜、そして、涙目になって震えているセレスタ=シアーテ。

 

「お兄さんのこと信じてました……なのに……」

 

「よもや<第四真祖>ともあろうものが、下劣な性犯罪に走るとはな。これも若さゆえのリビドーの暴走というやつか」

 

 そして、ちょうど駆けつけてきた夏音が悲しげに首を振り、その肩にしがみついていたニーナが悟りを開いたような口調から息を吐く。

 続けて、アスタルテもそこに止めを刺すよう淡々とした口調で、

 

「反省。監督不行届でした」

 

「だーっ! 待て、お前ら! 黙って聞いてれば好き勝手に人を性犯罪者呼ばわりしやがって! 抱き着いてきたのはこいつの方だっての!」

 

 全員から非難の眼差しでハリネズミにされた古城から、指差して逆ギレ気味に怒鳴られて、セレスタはビクッと肩を震わせて怯える。

 それで、もう沙汰は決定した。

 

「抱き着かれたんですか……なるほど……」

 

「違う、冤罪だ……!」

 

 と訴える古城は頼りなく首を振る。

 この黒一点の状況下、もう判決を覆すのは無理と悟ったのだろう。

 古城は天井を仰ぎ、絶叫した。

 

 

「誤解だああああああっ!」

 

 

???

 

 

『誤解をとかなくて良かったのか、馬鹿犬』

 

「誤解も何もアスタルテは何も間違ったことをいっちゃいない」

 

『『十三番目』というお前らの合体を“世界最強の魔獣(レヴィアタン)を撃退するほどの脅威”と危惧され、管理公社が扱いを検討する間は、別行動を取らされることとなった……と教えてやらなくて良かったのか?』

 

「別に、アスタルテが責任を感じることじゃない。だから、保護観察を3年間から延長なんてさせないでくれ。アイツは頑張ってるのだ」

 

『そうやって甘やかすから後輩がつけあがることになるんだ、馬鹿犬。それで、どうする? このまま戻ってくるか? それとも』

 

「………任務に戻るぞ」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 ニーナ=アデラートが肉体を構成する<賢者の霊血>の一部を使い、作り出した銀のイヤリング。その表面に魔法文字を書き込んだそれは翻訳用の術式で、言語の通じないセレスタにその魔具を装着させた。

 その際に、ニーナ=アデラートからの推察でセレスタが使っていた言葉は『混沌界域』の公用語に近いが微妙に違うものらしい。これで大体の彼女の出身地を予測することができる。

 暁古城の疑惑も、『寝ぼけて、ヴァトラー様かと思って抱き着いたら、全然違くて騙された!』とのセレスタからの証言で解かれた。

 

 セレスタの方も、暁古城を始め、姫柊雪菜、叶瀬夏音、ニーナ=アデラート、アスタルテと自己紹介をされ、また彼らがディミトリエ=ヴァトラーの配下でないことを知りがっくりと落ち込まれた。暁古城には信じられないが、セレスタ=シアーテは、アルデアル公を大変慕っているらしい。見た目やその身分だけなら高貴な王子様で通用しそうだが、これまでやってきたその前科を思えば古城は敬意を欠片も払いたくなどない。

 そして、どうして箱詰めにされて見知らぬ男の下に送りつけられた理由は……

 

「おまえは、俺ん家に宅配便で送られてきたんだけど、何か心当たりはあるか、セレスタ?」

 

「知らないわよそんなの! あたしだってどうして、こんなやつのところに……ねぇ、ヴァトラー様はどこにいるの?」

 

「どうでもいいだろそんなこと。それより今はヴァトラーのことよりお前のことだろ―――」

「だからっ、様をつけなさいよ。ヴァトラー様を呼び捨てにしないで! 本当に、あたしが言ってること理解してないの! 言葉が通じてもこれって、馬鹿なの、あなた!? 馬鹿なのね!」

 

「ああっ!?」

 

「ストップです! 待ってください、先輩―――! ステイ!」

 

 話を聞いてる途中で暴言にキレかけた古城を、監視役が宥める。飼い犬を躾けるような口調であったものの古城はひとまず制止して、それから聞き役をバトンタッチした雪菜がセレスタに確認するように厳かに訊いた。

 

「セレスタさん……もしかして、記憶がないのではありませんか?」

 

「っ……!?」

 

 瞬間、セレスタの表情がはっきりと強張った。

 何も言わずに俯き、唇を強く噛み締める。その反応から今の雪菜の指摘が図星をついてるものだとは明らかであった。

 

 セレスタ=シアーテは、記憶をなくしている。自分の名前さえも彼女は知らない。

 古城に対する攻撃的な態度も、彼女の不安の裏返し、記憶喪失であるのを隠すための、彼女なりの精一杯の虚勢と言われれば腑に落ちる。

 そう、セレスタには、たったひとつ――ヴァトラーの存在を除いて、記憶がないのだ。

 

「あー……その、なんか……悪かったな、すまん」

 

「な、なによそれ。なに謝ってるのよ、気持ち悪い。それで優位に立ったつもりなの?」

 

 古城が渋々と頭を下げると、セレスタは居心地悪そうに顔をしかめて、拗ねたような口調でそう言った。きつい言い回しであることは変わってないものの、刺々しさは抜け落ちていた。

 

「ふむ、なるほど……」

 

 夏音からセレスタの頭上によじよじと登る錬金術師は、原因を推察する。

 

「記憶の欠落の原因は、間近で強大な魔力を浴びたせいだな。ディミトリエ=ヴァトラーに出会ったのが、主の最古の記憶と言うわけか?」

 

「あの方は助けてくれたのよ。神殿で殺されそうになっていたあたしのことを」

 

 どこかの神殿で殺されかけていた時にヴァトラーと出会い、そして目覚めたら絃神島にいた。それが今のセレスタの状態だ。

 

「アスタルテ、こいつの記憶を戻せないか?」

 

「頭部外傷や薬物使用の痕跡が認められないため、原因は心因性のものと思われます。魔術や催眠療法による強制的な記憶回復は、危険を伴うため推奨できません」

 

 無表情のまま首を振るアスタルテの回答に、古城は沈鬱な表情を浮かべる。

 暁古城もまた、記憶を喪失していた。この前、<監獄結界>にて、南宮教官から魔導書で記憶を再生させるまでは、<第四真祖>となった理由もわかっていなかった。

 だから、記憶がない彼女のことを心配したのだろう。

 しかし、その真剣な古城の態度に、意表を突かれたのかセレスタは戸惑い、やや高音の声調で、

 

「な、なによ? 別にあたしはヴァトラー様の記憶があれば十分だし」

 

「いや、ちょっとな。俺も似たような経験があるからさ……どんなにつらい記憶でも、自分のことを思い出せないのは苦しいよな」

 

「あ、あんたと一緒にしないでよ。あたし、同情なんて求めてないんだから……」

 

 懸命に強がるもその頬は仄かに赤らんでいく。それにセレスタの表情にあった険しさも解きほぐされていくようにも見えた。

 と緊張が解けたところで、彼女の腹部から異音が発生する。

 ぐぅ、と言う健康的で、空腹を訴える音を―――

 羞恥に俯くセレスタにまた視線が集まるも、夏音が柔らかく提案した。

 

 

「あの、ご飯にしませんか?」

 

 

???

 

 

「本当に『花嫁』を引き渡せば、俺たちを相応の待遇で迎えてくれるんだろうな」

 

「少佐はその働きに必ず報いてくれるお方だ」

 

 黄金の刺繍を施した民族衣装を着て、様々な装飾品や宝石を身につけた、褐色の肌を持つ若者たち四人。

 皆一様に報酬に飢えたように、目を血走らせている。

 

 その前に立つのは、地味なグレーの衣服を身に着けている男二人。

 どちらも身長2m近いスキンヘッドの大男。片方は髭面で、もう片方は機械化した両目にサングラスをかけている。

 その髭面の男の方が彼らの前に出て、交渉している。挑発するように口を歪めて言う。

 

「それとも、邪神憑きの小娘の世話のために、密林の奥地に一生縛り付けられることをお望みか」

 

「ふざけるな。老いぼれどもと違って、俺たちはもうあんな生活うんざりなんだよ」

「ああ、吸血鬼が治める国も気に喰わん。獣化能力を持とうが真祖と我々は違う」

「我々こそ真の『(ジャガー)の戦士』、他の豹の貴族連中や第三真祖に媚びる鷲どもと一緒にしてくれるな」

 

「ああ、少佐は上位種であるお前たちの能力を大変高く評価しておられる。しかし、結果が出せぬのであれば、働きに応じた報酬をこちらも出すことはできない」

 

 血気逸る反応に、まあまあ、と髭面の男が宥めるようにジェスチャーを返す。

 

 殺されても命令実行を続ける『死兵』を用いて、獣人の秘境を攻め落としたが、『戦王領域』の吸血鬼連中にその『死兵』を殲滅されて、『花嫁』を逃がされた。

 絃神島の到着時、特区警備隊の妨害に遭い、三分の一にまで兵士の数を減らした。

 少佐も魔女の奇襲に負傷。痛み分けに終わったそうだが、今は潜伏してる拠点で、身を休めている。

 

 しかし、まだ特区警備隊は、『花嫁』の存在に気づいていない。

 彼女の匂いを覚えており、鼻の良い上位獣人種をこちら側に引き込んだことで、他の連中よりも早く、見つけ出すことができた。これ以上、邪魔をされる前に『花嫁』を拉致し、少佐の下へ連れて行く。

 そして―――念のために“仕込み”も入れておく。

 

「わかっている。『花嫁』を連れて来よう。だから、高待遇で我々を迎えてくれ」

 

「約束しよう」

 

 契約を交わしたところで、今度はサングラスの男が前に出た。

 

「おっと、それでは同士に迎え入れるための儀式をしよう」

 

「なんだ?」

 

 疑問の声を上げた若者のひとりに、サングラスの男は、それを見せる。

 

「それは、薬か……? それとも毒か?」

 

 またひとり若者が訝しむ。

 それは豆粒ほど小さな、錠剤。サングラスの男の掌に、ちょうど四粒。ひとり一粒ずつある。

 

「違う。これは、毒じゃない。『ゼンフォース』が開発したナノマシンだ」

 

「なの、ましん……?」

 

 これまでの生涯、文明レベルの遅れた密林の奥地に住んでいた獣人にはナノテクノロジーは見てもわかりようのないものだ。このカプセル錠剤の中には、細菌や細胞よりも極少のウィルスサイズの機械装置が封じ込めれている。

 

「これをひとりずつ飲んでくれ」

 

「……我々を謀るつもりはないだろうな」

 

「我々は同士を騙すような真似はしない。これは、“生きている内に害を及ぼすものではない”と断言しよう」

 

「飲まなければ、どうする?」

 

 買収して引き入れたとはいえ、それは身を犠牲にできるほどの真の仲間になったわけではない。

 だが、それならば、交渉の仕方を変えるまでのこと。

 

「君たちは我々を信用していない、と少佐に報告するしかない」

 

「なに……!」

 

「無論、任務を果たしたのならば『アメリカ連合国』で高い地位を約束しよう。しかし、万が一のときは……」

 

「俺たちを見捨てるつもりか!?」

 

「我々も、同士でない者を守るために戦力を割く余裕はないのだ」

 

「ふざけるなよ! 俺たちはもう……」

 

「ああ、君たちが部族を裏切り、もう後がないことはわかっている。もし、それが知れたら、ヤツは君たちの存在を許しておくことはないだろう」

 

 激昂から、その“処刑人”の存在をほのめかした途端、彼らの顔は青褪めた。

 第三真祖への忠誠が非常に高く、力こそ絶対的なものと考える『第三の夜の帝国の獣王』。『混沌界域』に害するものは全て力で捻じ伏せてきた。敵味方関係なく。

 つまり、彼らは裏切ってしまった時点で、取るべき道は決まっていた。

 

「だが、もう一度言うが、我々の少佐は必ず報いてくれるお方だ。兵一人とて無駄にはしないお考えの持ち主。ナノマシンも、同士のためを思って用意したものだ」

 

「っ……」

 

 ここまで言葉を尽くしても、若者たちは動かない。

 部族を裏切ったことから、こいつらは自分本位であることはわかっている。

 とはいえ、あとがない状況は重々承知しており、身震いするその様から察するに、まだ判断を迷っているのだろう。ならば、あと一押しで傾く。

 

「もし、まだ毒だとお疑いなら、ここで私が一粒飲んで見せよう」

 

「!」

 

「ただし! ……ここで貴重なナノマシンがひとつ減ることは、君たちのうち誰か一人分のチケットがなくなってしまうことになる。それでもいいかね?」

 

 サングラスの男はそういうと、手の平のカプセルをひとつ摘まみ、見せつけるようにゆっくりと自分の口へ持っていき……

 

「わ、わかった! 呑もう!」

「ああ、俺も呑むぞ!」

「ま、待て俺も……!」

「俺にも寄こせ!」

 

 口の中に放り込まれる直前に待ったをかけられた。

 若者たちは、死に物狂いで奪い合うようにナノマシンを取ると、勢いのまま全員それを呑んだ。

 間違いなく呑み込んだことを横で観察していた髭面の男に確認を取れば、頷き返した。

 

「これでいいんだな! 俺たちを同士だと認めるんだな!」

 

「もちろんだ。『ゼンフォース』は、君たちを勇者だと歓迎しよう。ナノマシンはきっと――力になってくれるはずだ」

 

 準備はすべて終えた。

 そして、時刻も太陽が沈む、夜となった。

 

 

「さあ、陽は沈んだ。もはや徒に慎重になる必要はない。たとえ『獣王』と対決する羽目になろうとも恐れる必要はない。速やかに『花嫁』を確保しろ」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 赤青緑と色とりどりの、と言う形容は、プラスの意味合いに物事を高めてくれるものなのだろうが、それが料理であった場合。

 食卓に並べられた山盛りの大皿。無数の未知の料理達が皿一枚に一緒くたにしたパルミア伝統料理は、どれもこれも異様にカラフルで、その完成図からどのような調理過程を辿って、あの得体の知れない食材たちを処理したのか判別できないくらい混沌してる。

 それでいて食欲を誘ってくる香りが強烈なので、箸は進む。

 そして、美味なのだから、二口目以降も進む。

 やや香辛料が強めでクセがあるが。舌触り良く、絶妙なコクと旨味が口の中に広がっていく。

 しかしながら、人工生命体の少女の箸のペースは途中から落ちてしまっていた……

 

「先輩、よかったらサラダのおかわり、よそいますね」

 

「ああ、悪い……サンキュ」

 

「いえ。あと、先輩、顎にソースがついてますよ」

 

「え? そうか?」

 

「はい、取れましたよ」

 

 家事上手な妹の凪沙が、絃神島から去ってから一日目。

 彼女は見送りに来た雪菜へ忠告した、『ミイラ取りがミイラにならないようにね』と。

 それに対し、雪菜は自信を以って、『私がしっかりと先輩の管理をします』と任された信頼に応えた……

 今、まるで新妻のような甲斐甲斐しさで古城の世話をする雪菜。凪沙は『けして兄を甘やかさないように』とも注意していたのだが、果たしてそれは親友の要求に応えているのだろうか。

 それをしらーっと半眼で客観視するセレスタは、二人の仲睦まじい姿に辟易したように息を吐いた。

 

「ねぇ……地味女。あんたって、そこの変態とどういう関係?」

 

「へ……?」

 

 不躾なセレスタの質問に、声を裏返らせる雪菜。

 実はこの24時間前にも、古城の父親の牙城からほぼ同じ内容の質問をされていた。して、焦る雪菜とは対照的に、二度目でうんざりとしている古城はセレスタを見返し、勘違いを訂正する。

 

「そんなわけねーだろ、箱入り娘」

「そうです。私はただの監視役ですから!」

 

 気怠く、慌てて、と声調は正反対。

 しかし、そのタイミングは息ピッタリ。

 

「なにそれ。わけがわかんない」

 

 とセレスタが感想を零すのも無理はない。

 傍からそれを眺めていたニーナも、うんうん、と彼女に同意したように無言でうなずく。

 

「まあどうでもいいけど……あんたたちってヴァトラー様の家来なの?」

 

「何で俺があいつの家来にならなきゃなんねーんだよ。冗談でもやめろ」

 

 全身に鳥肌立てて抗議する古城に、ムッとセレスタは不快そうに唇を尖らせる。

 

「違うの? だったらどうしてヴァトラー様はあたしをあんたに預けたのよ?」

 

 それはこっちが知りたい、と古城は苦々しげに独りごちた。

 箱入り娘(セレスタ)が目覚めたのが良いが、彼女の記憶はなく、未だにヴァトラーからの接触(コンタクト)もない。那月も現在忙しいからそちらに付き合ってやれない状況。

 セレスタの正体や『戦王領域』の貴族の真意とやらは依然と謎のままである。

 とその煩悶する古城に蒙を啓いたのは、この中でぶっちぎりに年長の賢者であった。

 

「常識的に考えて、古城の手元に置いておくのが、一番安全だからであろうな」

 

 ニーナの発言に、『安全? この変態の傍が?』とボケを疑うセレスタだが、雪菜はその意味に気づき、自ずと答えに行き着いた。

 

「そうです。アルデアル公が先輩にセレスタさんを預けた理由。第一真祖<忘却の戦王>を除けば、あの方が、御自分と同格以上の戦闘能力の持ち主だと認めているのは、おそらく先輩だけ―――ですよね」

 

 あまり認めたくないが、ここは古城も首を縦に振るしかない。

 ただ“力”だけが、戦闘狂(ヴァトラー)の興味を引くもの。

 敵味方になどさしてこだわらず、強いものがいれば戦いを挑むことを生き甲斐とし、

 善悪などどうでもよく、戦うことに価値のあるものに敬意を払う。

 故に、暁古城が受け継いだこの『世界最強の吸血鬼』――<第四真祖>の血を彼は何よりも愛しているのだ。

 

「だから、アルデアル公は先輩にセレスタさんを任せたんだと思います。先輩以外には、セレスタさんを護れないと考えたから……」

 

 『強さこそが信頼』などとシンプルだが、その方がヴァトラーの思想、らしい。真剣な口調で告げた雪菜の仮説は十分に説得力があった。

 ただし。

 

「それって、セレスタが誰かに狙われてるってことか?」

 

「はい。あくまで仮説ですけど」

 

 そして、忠実な部下を大勢抱えている一国の領主であるヴァトラーが己の部下ではなく、あえて古城に託す理由とは、それは古城だけがもつ特別な力――存在自体が戦争そのものとされる<第四真祖>の力であって、

 相手は『世界最強が必要なほどの難敵』と言うことになる。

 

「そんな、あたし……」

 

 重々しく頷いた雪菜に、セレスタの顔色が見てわかるほどに青褪める。雪菜の推理は冗談ではなく、思い当たるのだ。

 彼女の残されたヴァトラー以外の記憶には、頭蓋を砕いても自分を殺そうとする兵士と自分を守って血塗れになる神官。

 そして、殺されかけていたセレスタを、ヴァトラーが救って―――古城に預けた。

 おそらく、セレスタを護衛させるために。

 

「大丈夫です。お兄さんは私のことも助けてくれました」

 

 怯えるセレスタを励ますように、夏音は控えめに微笑みながらそう言った。

 ハリネズミのようにほぼ全周囲に攻撃的なセレスタであっても、おっとりと微笑む夏音には強気に出れず、照れたようにそっぽを向く。

 

「べ、別に心配してないし。そこの変態なんかに護ってもらわなくても平気だし」

 

 ゴニョゴニョと歯切れ悪く言いかえして、それからセレスタは話の矛先を変えんと、ん、んっ、と咳払いをしてから背筋を伸ばす。

 

「夏音だっけ? あんたは、その男のことどう思ってるの?」

 

 憧れのヴァトラーが信頼する相手、ということ知り、情報を集めたいとも思ったのだろう。セレスタの中では古城は今のところいきなり抱きついて胸を触ってきた変態である。

 夏音はいきなりのことに小首を傾げつつも、そんな質問に深い意図があったかどうかなど特に気にすることなく素直に答えた。

 

「お兄さんのことは、ずっと好きでした」

 

 ごふ、と古城が食事を喉に詰まらせ、雪菜が握っていた箸を落とす。

 

「そ、そうなの?」

 

 とても分かりやすい回答をいただいたが、その思いがけないくらいにまっすぐさに、セレスタは毒気を抜かれてしまう。

 そして訊き返された夏音は爽やかに頷いて。

 

「はい。お兄さんも雪菜ちゃんも凪沙ちゃんもクロウ君もアスタルテさんも大好きです」

 

「あ……そ、そういうこと……紛らわしいことを言わないでよ」

 

 へなへなに脱力するセレスタ。

 夏音の言う『好き』と言うのは広義的なものだったらしい。セレスタがヴァトラーに抱く狭義的なものではなくて。

 

 

 

 そして、今のセリフは、妙にアスタルテの琴線に触れた。

 アスタルテ自身も入っていた(呼ばれなかったニーナが『妾は? 妾はどうなのだ夏音』と不安がっているが)し、彼の名を読み上げられたのも共同生活してるのだから気心が知れた仲だというのは理解しているから納得がいく。

 実際のところ夏音を助けているのは、暁古城よりも彼の方が多かったりする。しかしそれでも『好き』と言い切ったことに、何故だかアスタルテの思考に予期しないノイズを与えたのだ。

 それは、アスタルテにはとてもそこまですんなりと口にできる言葉ではないのだと突きつけられたようで。

 

(疑問。何を……私は考えているのでしょう)

 

 自分の葛藤を判じかねて、アスタルテは箸をおき、机の下、エプロンドレスの前で自分の手を擦り合わせる。手の平に汗など掻いていないのだが、そのことが余計に今の人工生命体の少女には寒々しく思えた。

 しかし、これからの激動に比すれば、それは大津波の前に引いていく潮のようなものだ。

 にこにこと笑う夏音を改めてみて、内心で一息つく。

 そして、遅ればせながら、アスタルテも無感動な声で追随する。

 

「心配は不要。第四真祖があなたを護る……南宮クロウなどという増援は必要ありません」

 

 と、最後に余計な文句も添えて。

 多分、それが最大の過ちだった。

 きっ、とそこでこれまで常に微笑んでいた夏音が笑みを崩して眉をしかめる表情を作ってから、こう注意したのだ。

 

 

 

「そんなことを言ってはダメでした。アスタルテさんは、クロウ君のことが大好きなんですから」

 

 

 

「……は」

 

 ぴたり、と。

 アスタルテが停止(フリーズ)した。

 全機能が津波に巻き込まれたように遮断(シャットダウン)し、感覚器官が次々と閉鎖。同時並列で進めていた思考タスクが片端からエラーの嵐に巻き込まれ、脳神経回路は熱暴走(オーバーヒート)

 ―――――無論、それらすべては錯覚だ。

 人工眷獣を寄生させるための器とその機能は、それほど柔ではない。

 だけど、そんな錯覚に真実味を持たせてしまうほどに、アスタルテの衝撃は鮮明で、鮮烈で、圧倒的であった。

 これに比べれば、世界最強の魔獣(レヴィアタン)に戦いを挑んだ方が、遥かに容易いと断言できるほどである。

 

「せ、説め、い要求……もうしわけ、ありません。今の、言葉を、理解、できません、でした」

 

 返す言葉までもが、暴走寸前でつっかえつっかえ。

 人工生命体として完璧な姿勢制御を取るように設定入力(インプット)されていたが、椅子に腰を落ち着けさせている状態にもかかわらず、アスタルテはぐらぐらとふらついていた。

 して、夏音は祈りを捧げるように手を組みながら、思い返すように語る。

 

「今日、お料理をしてわかりました。毎日、その人のことを思いやって料理を作るのは、とても大変です。好きでもないとできません。だから、クロウ君のお弁当を欠かさずに用意しているアスタルテさんはクロウ君のことが大好きでした」

 

 ばおうっ、と、まるで電子レンジが爆発するみたいに、人工生命体の顔の表面が爆発的に温度を上げた。

 

「食事……ハ、HA、は、先輩は、え、栄養管理で、輪、私も、仕事ですから。そ、そそそ、義務で、あって、好……と言う感情で、くくる、相手で、は、ないと、考え、ままま、ます」

 

 瞳を彷徨わせながら精一杯に答えるのが、ろれつどころか、てにをはさえも怪しい。

 そのあまりの惨状に古城らは固まってしまう。

 だが、そんな逡巡は許されなかった。

 ずい、と人工生命体のあまりの動揺ぶりに興味を持ったセレスタが踏み込んだのである。この場で唯一相手(クロウ)を知らない彼女に遠慮はなかった。

 

「じゃあ、なんなのよ。あんた、そのクロウ、ってやつのことどう思ってるのよ」

 

「ど、どう、って……言われ、まして、も……」

 

 ぱくぱくと口を開く。

 視界のほとんどを、迫ったセレスタの顔が覆っている。

 明るい茶色の大きな瞳が、人工生命体を見つめている。どんな些細な挙動も見落とすまいとする、鋭く力強い視線だった。

 

「さあ、さあ、さあさあさあさあ!」

 

 あたかも歌舞伎の大見得の如く、ぐいぐいと力ずくの問いかけ。

 そんな迫力に逆らう、または受け流す術は、アスタルテにはなく……

 だから。

 ある意味では、救いだったかもしれない。

 雪菜がセレスタを止めようとする―――よりも早く、監視者が現れた。

 

「―――忍!」

 

 何もない空間から現れる――透明化を解いたその人影。

 銀色の装飾が施された長剣を背負い、純白のローブに身を包んだ若い女性。

 王妹殿下――叶瀬夏音の護衛についているアルディギア聖環騎士団のユスティナ=カタヤ要撃騎士だ。

 その彼女が訓練された軍人の顔つきで告げる。

 

 

「至急、第四真祖にご報告があります―――」

 

 

人工島南地区 マンション付近

 

 

 奇襲で先手を取ることが、狩りの鉄則。

 密林で生きてきた獣人の若者たちも、戦場で生きてきた軍人たちも、相手に警戒させる前に一撃で仕留めることこそが至上と言うのは共有した理解である。

 警戒されれば、対策され、

 警戒されれば、反撃され、

 警戒されれば、防御され、

 相手に自分の存在を意識されているだけで狩りの成功率は著しく下がる。だから、狩りとは狩りをする前から始まっている。相手に気取られず絶好の位置をとる。それができればもう展開は決まったようなものだ。

 だから。

 獣人の若者は、狩りのポジションにつくまでは緊張して事に臨んでいたが、いざそこについてしまえばその糸は弛緩し切っていた。そもそも、原始生活から豊かでのびのびと楽のできる環境へ行くために部族を裏切った不良狩人だ。最後まで真面目にやり通す、なんて当たり前の感覚がすでに消失しかかっているのだから、仕方がないのかもしれない。

 しかし、長達からこうも教わらなかったか。

 狩りをするとき、獲物に注意を向けてしまうときこそが最も周囲への意識が薄まるから、けして警戒を怠るなと。

 

 ―――最初、風が吹いた。

 

 ―――次に、雲でもかかったのか、頭上が影に覆われた。

 

 ―――そして、(うえ)から落ちてくる銀の狼が紫電迸らせる腕を振り上げていた。

 

「え?」

 

 なにをする暇もなかった。

 この人間達の街で、狩人である自分たちが獲物とされているという。ありえない状況に思考をすっかり空転させていた獣人の若者だったが、彼が頭を回せたのはそこまでだった。

 

「<若雷(わか)>」

 

 メタァァァァあああああああああああああああああああッッッ!!!!!! と。

 対策も、反撃も、防御もさせない先制攻撃に、若者の全身がアスファルトの下まで埋まる。

 

 

 

 『アメリカ連合国(CSA)』の歴史は、戦争の歴史だ。

 そもそも『アメリカ連合国』そのものが、欧州『北海帝国』に対する独立戦争や、『北米連合(NAU)』との武力衝突の末に成立した国家だからだ。

 戦争の直接の原因は経済問題だが、その背景には魔族に対する差別がある。人間と魔族の共存を目的とした『聖域条約』に、『アメリカ連合国』は調印していない。人類純血政策を掲げる『アメリカ連合国』にとって、魔族とは淘汰されるべき下等な存在なのだ。

 過激な差別政策によって国際的に孤立した『アメリカ連合国』では、軍事力の整備こそが最優先の課題であって、

 国家を存続させるために、世界各地の紛争に常に介入し、軍事パワーバランスの調整をし続けた。

 その主力となってきたのが、アメリカ連合国陸軍所属・第十七特殊任務部隊分遣隊。アンジェリカ=ハーミダが率いる特殊部隊(ゼンフォース)―――

 

 作戦行動に入る直前に、獣人と軍人は動きを止めた。

 息を飲む。

 たった今、上位獣人種に何もさせずに一撃でダウンさせた銀人狼に。

 その事実が、冷静な戦闘機械であるはずの軍人たちを、僅かに動揺させた。

 

「オマエら、この建物をずっと見張って何をするつもりかは知らないけど―――ここを襲うのなら、オレの敵だ」

 

 隠密していたこちらを察知していた相手。

 膨大な戦闘経験を持つからこそ、彼らは直感的に理解したのだ。この相手は、部隊の任務を妨げる障害となることを。

 

「貴様は、空港で……」

 

 サングラスの男――ブイエは、一気に二部隊を壊滅させられたあのとき、A隊の装輪装甲車の運転手を務めていた。だから、目の前の銀人狼が少佐に歯向かった敵だと知る。

 

「くそ、この異邦の同族め―――!」

 

 こちらが指示を出すよりも速く、血気盛んな若者のひとりが豹頭の獣人へと変身して、銀人狼に飛び掛かった。

 襲い掛かってきた豹の獣人を、銀人狼は爪拳で迎え撃つ。しかしカウンターの一撃は、手応えもなく虚しく空を切った。

 

「かかったな間抜け!」

 

 今、銀人狼に襲わせたと見せたのは呪術によって生み出された幻影だ。幻影の背後に立っていた本体が、空振って体勢を崩した銀人狼を嘲るよう、荒々しく牙を剥いた。

 

 極めて高い戦闘能力を持つ獣人が、魔術を扱う事例は稀だ。だが、ごく一部だが先天的に呪術の素質を備えた種族がいる。

 それが上位種。通常の獣人とは桁違いに強大な力を持つものたち。

 

 隙を逃さず、豹の獣人は巨大な鉤爪で、銀人狼を薙ぎ払う。

 ―――そして、同じく手応えもなく虚しく空を切った。

 

「え?」

 

 奇しくも、最初に仕留められた仲間と同じことを最後に呟く。

 

「“匂い”でバレバレだ。オマエより、姫柊の方が使い方が巧かったぞ」

 

 それは、そこにいると錯覚させる“残り香”の陽動(フェイント)

 鼻が良い――嗅覚の情報量が大きい獣人種だからこそ、よりかかりやすい。

 “匂い”を残して、跳躍。

 呪力が電火となりて散らせる踵蹴りの断頭台(ギロチン)に、まんまと体を泳がせて頭を差し出すような恰好となった豹の獣人に、銀人狼は容赦なく。

 

「<鳴雷(なる)>」

 

 

 ッッッズン!!!!!! という重たい震動が二人目を黙らせた。

 

 

「……、」

 

 卑怯姑息な不意打ちではなく、真っ向からの近接戦闘で上位獣人種を迅速に沈黙させた銀人狼の凶悪な瞳が、残る獣人軍人それぞれ二人組へと向けられる。

 

 呪術を使う上位種。

 しかし、この銀人狼は呪術だけでなく、呪力に頼らない超能力まで使える、特異種とも呼べるような存在。

 

「貴様らは行け! このイヌは俺たちが仕留める」

 

 軍人たちの判断は早かった。

 隠密行動はすでに見破られていた。しかし、それでもまだ対策を取らせるだけの時間はなかった。だから、今のうちに攫うしかない。

 軍人の叱咤に、豹人たちは動いた。

 一瞬、視線だけ銀人狼は豹人らに視線をやったが、止めに動かなかった。

 できるものならば、ここで全員を仕留めておきたかったが、この軍人二人組は無視できない。

 

「オマエたち、空港で暴れてたやつだな」

 

「魔女のイヌめ。貴様を民間人の餓鬼などとは思わん。覚悟しろ」

 

 サングラス越しから殺気混じりの視線をやるブイエは無言で己の服を裂いた。彼の両肩の筋肉が割れて、体内に埋め込まれた、放熱フィンに似た銀色の物体が露出する。金属ブレードを無数に縦に並べたそれは、<焔扇>。

 

「―――マティス。俺がやる。援護してくれ」

 

 そして、サングラスの男ブイエともうひとりの髭面の部隊員。

 手袋を脱ぎ捨てた男の腕は、武骨な金属製の義手だった。そして、両腕の義手に埋め込んだ魔具を、すでに起動させている。マティスの周囲に出現したのは、空中に浮かぶ16個もの籠手(ガントレット)だった。籠手に握られているのは、様々な武器だ。剣や斧、槍や鎌、そして大口径の拳銃や、機関砲まで―――

 <神託照準器(オラクル・ボムサイド)>。個人で一部隊の兵器火力を有する魔具だ。

 

(こいつら、スワニルダのヤツと似てるな)

 

 まだ十数年と生きてないが、様々な魔族人間と戦闘してきた経験値の引き出しから、対象と似た記憶を思い出す。

 機械人形と合成された人工生命体。肉体に多種多様な魔具を仕込み、人間を遥かに上回る計算頭脳を有した『人造人間(ヒューマノイド)』の戦闘力は当時の剣巫に匹敵するものがあった。

 そう。

 あの機械化人工生命体(サイバネティクス)と同じく、彼らは人工義体(サイバネティック)に魔具を融合した兵士。

 発動するにも相応の魔力と適性を必要とする、強力な魔具。肉体を機械化させることでその制限を外すことに成功したのが、『アメリカ連合国』陸軍の<摩義化歩兵(ソーサラスソルジャー)>だ。

 

「焼き払え、<焔扇>!」

 

 大陸系の仙人にのみ扱いが許された宝貝(バオペエ)がひとつ、『五火神焔扇』。

 その派生である<焔扇>は、虹色の灼熱の陽炎を生み出して、目標を消し炭の塵へと変える、魔族を殺すためだけに作られた戦闘用の魔具。

 人工義体からの魔力が集中し、両肩の金扇(ブレード)の周囲を業炎が取り巻く。

 

「ぐぬっ!」

 

 渦巻く、激しい焔。

 アスファルトを溶かし、爛れた火竜の如きねじくれた灼熱の陽炎が、一気に銀人狼に殺到する。

 極度の熱で空気中の水分が蒸発し、爆発した。その爆発で舞い上がった粉塵が、銀人狼ばかりか夜空まで覆い尽くす。

 

 しかし、その直前で銀人狼の足は、強く地面を蹴っていた。

 炎がアスファルトを灼くのと、銀人狼が跳躍するのはほぼ同時だった。

 

 ―――想定内。回避も織り込み済みでこちらは動いている。

 

 銀人狼が跳んだ先に、待ち構えていた無数の籠手が、彼を取り囲むように宙を舞った。

 

「死ね、魔女のイヌ!」

 

 銃機が火を噴き、無数の武器が次々に突き出される。その攻撃の威力と精度は、それぞれの武器の達人の動きに匹敵する。その波状攻撃から逃れられる者はいない―――

 

 パン!! パンパン!! という乾いた破裂音が連続した。

 

 360度を取り囲んで発砲を続ける。

 当然、標的にも銃弾を弾くだけの余裕はあるが、マティスは気に留めない。

 標的が銃弾を防ぐために労力を割いている間に、他の<神託照準器>がもつ剣や槍、斧を武装した籠手が急速に接近する。無数の刃でもって防御を斬り捨て、無防備になったところへ遠近双方から致命傷を叩き込む。

 それが、これまでマティスが標的を仕留めてきた必勝の戦法。

 つまり、最適解だ。

 そのはずだった。

 だというのに、銀人狼の身体が揺れたかと思えば、すでにその身体は消失していた。四方八方からの射線全てから逃れる。その強靭な肉体でもって強引に受け止める真似もせず、ただ避ける。

 停滞することを忌む。

 囲まれている状況で、足を止めるような真似はしない。もちろん手も。

 

 ―――マズルフラッシュを視認してから、回避する。

 

 かつて、ちょうど<摩義化歩兵>と似たような機械化人工生命体との戦闘で、その銀人狼の主人である魔女が呆れていったことだ。

 銃口の向きから射線を先読みしたわけではなく、実際に飛び出た銃弾を、目で見てから避けている。

 そして、

 

 

 ズパン!! と。

 銀人狼が、上段から振り下ろされた剣を白刃で掴み取った。

 

 

 人間の身体構造を基準に計算していては、銀人狼に追いつけない。

 達人の動きで振るわれた、超高速の剣戟の機動を正確に捕捉する動体視力、瞬時に肉体を動かす筋力に恵まれた反射神経、鋼をも裂く刃を掴んでも斬れないほど強靭な皮膚を備えていれば。

 飛んできた武器を手掴みで捕まえることは、不可能ではない。

 

 そして、手に執った得物(けん)で、間髪入れずに飛来した槍を籠手がついたまま振るって打ち払う。ただし、彼に武器を扱うのには致命的な欠点がある。強引に振るったその剣は、たった一振りで砕け散った。銀人狼の力があり過ぎるあまりに、耐えられないのだ。

 しかし。

 今はそんなことは気にしなくてもいい。一振り砕けても、まだ向こうから得物はやってくるのだから。

 剣や槍ばかりではない。斧がある。鎚も矛もある。掴み盗りし放題だ。

 

「―――」

 

 上位獣人種を一撃で叩きのめすほどの膂力。下手をすれば、自分の力で自分をバラバラにしかねない馬鹿力を、制御するには相当な情報処理を常時働かせていることになる。

 銀人狼は、そのリソースを僅かに外に向ける―――霊視を発動させる。

 それだけで、数多に肉を貫く刃の群も、空気を裂いて骨を穿つ鉛の雨も。

 銀人狼を仕留めるには値しない。

 

 そして、十六の籠手を破壊した銀人狼は、無防備となった<摩義化歩兵>に迫る。

 

「この化け物め! <摩義化歩兵>を舐めるな!」

 

 振るわれる銀人狼の爪拳。当たると思ったはずの一撃。だがその攻撃を、義手の男はギリギリで回避する。見えない糸に操られてるような、人形めいた不自然な動きだ。

 自動回避機能。

 機械化された肉体が、本人の意思とは無関係に動いて、攻撃を避ける。それは吸血鬼の反応速度でも追い切れない、凄まじい速度での動き。

 

 そして、回避直後の好機を逃す軍人ではない。

 髭面の男が義手の掌を銀人狼の頭に向けた。掌の中央に埋め込まれていたのは、銃口だ。この距離で撃たれたら流石に逃れようがない。そして頭を完全に潰されてしまえば、致命傷。

 

 だが―――この時点でもまだマティスは、この銀人狼の脅威について見誤っていた。

 銀人狼が攻撃を外したのは、あくまで<摩義化歩兵>の緊急時の動作速度を見誤ったが故の間合いの読み違いでしかなく、けしてマティスの動きが捕捉し切れないほど速かったからではない。吸血鬼に見切れなくとも、銀人狼には追える。だから、倍速で動くとわかったならば、そう弁えた上で間合いを見測るだけの事。

 

 故に、舐めているのは、一度回避して安心したマティスの方だったと言える。

 おおよそ三歩分、万全の安全圏と見なしたその間隙を、銀人狼は何の足捌きも見せないままに跳んだ。

 ―――『縮地』。主人のとは比較にならない、ほんのわずか数歩分の空間跳躍。

 

「な―――」

 

 慄然となったマティスの内懐に、銀人狼が『黒妖犬(ヘルハウンド)』の如く入り込む。

 今度は避けられなかった。

 髭面の顎へ、銀人狼の突き上げる掌底が決まった。

 <摩義化歩兵>の身体が宙を舞う。

 人間の膂力ではけしてあり得ない距離と高さで義手の男が舞う。

 ―――しかし、改造されたのは回避能力だけでなく、その耐久性もまた頑丈であった。

 

「まだだ、魔女のイヌ―――!」

 

 上位獣人種を潰した『八雷神法』を使わずの純粋な物理的衝撃だったが、それでも耐えたマティス。

 <神託照準器>。この魔具によって生み出された籠手は、たとえ破壊されてもすぐに復活することができる。

 無数の籠手が再び実体化し、銀人狼の全身を拘束する。そして―――その籠手の中身には、爆薬が詰まっていた。

 

「今だ、ブイエ!」

 

 やれ、とマティスの唇が動くよりも速く、ブイエの肩の金扇が灼熱の陽炎を放った。十六の籠手に詰まった爆薬が炸裂し、その火力を上げる。

 凄まじい炎と爆風が銀人狼を包んだ。

 

「やったか」

 

 荒々しく息を吐くブイエ。

 魔族を撃滅させる焔―――その中で、人影は依然とある。焼き尽くされることなく、どころか“焔を吸い込んでいる”。

 

「すぅ―――」

 

 炎の渦が晴れるとき、その体毛が金色に変わっていた。

 七つの霊的中枢(チャクラ)を解放し、聖獣覚者に近づく。そして、焔を体内に吸い込み、己のものと『匂付け(マーキング)』して―――神獣の劫火(ブレス)にまとめてお返しした。

 

 

「―――   ッッ!!!」

 

 

 <焔扇>の灼熱の陽炎を呑み込んで放った劫火は、<焔扇>に絡みつき、半機械兵士の肉体に燃え移らんと逆走した。

 

「ぐああああっ!?」

「ブイエ!」

 

 マティスが籠手を飛ばし、猟犬が咬みついたように金扇にまとわりつく劫火からこれ以上燃え移させる前に仲間を離させるよう、その金扇<焔扇>を毟り取った。

 それでも背中は焼け爛れ、金属化された部品は皆、融解してしまっている。金扇の魔具も使えるような状態ではない。

 撤退の二文字が、マティスに浮かぶ。

 この魔女のイヌは、ここで確実に仕留めておきたい相手だ。しかし、ブイエの<焔扇>が使えなくなった。<神託照準器>だけで仕留められる相手ではない。

 しかし、ここで銀人狼から逃げ切れるか。

 そのマティスの思考を、ブイエもまた辿っていた。そして、彼はそのさらに先へと行きついていた。

 もう使えなくなった自分を犠牲にして、動ける仲間を生かす方法を。

 ―――いや、特殊部隊(ゼンフォース)は自分たち二人だけではない。

 

「―――っ!」

 

 不意に、銀人狼が強大な何かを感じ取ったように、軍人たちから視線を外してしまった。

 

 

 瞬間。

 銀人狼の胸の真ん中に、指先ほどの赤黒い穴が空いた。

 ッッッタァァァァァァァァァン!! という世界に風穴を穿つような轟音が遅れて響いた。

 特殊部隊の狙撃手ポーランド。

 そして、ブイエとマティスの通信機から、リーダーの指令が届く。

 

 

『撤退しろ。“処刑人”が来たぞ』

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「―――シアーテの娘を返してもらおう」

 

 

 玄関とベランダから、身長2mを超える豹人の侵入者。

 しかし、逸早くユスティナ=カタヤからの報せが届いていたことにより、古城たちはその奇襲に冷静に対応することができた。

 

疾く在れ(きやがれ)、『一番目』の眷獣、<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)>!」

 

 <第四真祖>の眷獣の中で最も守護に適した神羊。

 他の眷獣では攻撃の余波だけでマンションを崩壊させかねず扱いづらいものだが、この金剛宝石の障壁を造り出す神羊は、攻撃した相手にその攻撃を返すという『報復』の権能だ。

 叶瀬夏音、セレスタ、アスタルテ、ニーナを囲う宝石の壁を展開して古城が護りを固めたところで、剣巫と要撃騎士が後背を気にせず果敢に豹人たちに攻め立てた。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 対魔族の白兵戦術を修め、破魔の銀槍を振るう雪菜。その読みの鋭さは、運動能力を上回る豹人を相手に先手を突き、相手の攻勢に転じさせることなく攻め続ける。

 同年代の攻魔師で、自身より身体能力が格上の相手との経験値であれば、姫柊雪菜の右に出るものはいないだろう。

 

「王女より賜りし宝剣<ニダロス>。王妹殿下を害する輩に破魔を、そして、我らに癒しの加護を与えん!」

 

 そして、剣技ならば剣巫以上に猛威を振るうユスティナ。天使に近い属性を持つ叶瀬夏音の霊気を借りることで<疑似聖剣>を発動。斬ると同時に青白い炎を刻みつける剣戟を前に豹人は臆し、一方的な展開へともっていく。

 

 時折、幻術を使って、注意を逸らし、狙いの――セレスタへ向けて、破れかぶれの特攻を仕掛けようとするも、神羊の宝石障壁が割って入って、相手の身へと反射させる。

 

「二人とも、動かないでください」

 

 そして。

 膝を屈した二人の豹人へ、銀槍を突き付けた雪菜が舌鋒もまた鋭く叫んだ。

 

「これ以上の戦いは無益だと思いますが、まだやりますか?」

 

「………」

 

 『神格振動波』と天使に近き霊気。それら魔族には猛毒に等しき一太刀を浴びた豹人は、ぐふ、と苦悶の息を吐いた。聞き取りにくい嗄れた声で、彼らは言う。

 

「その娘は、我らが育てた<ザザラマギウ>の依代」

「シアーテの娘は我らのものだ」

 

「……っ!」

 

 豹人から血走った目を向けられた、セレスタが怯えて息を呑んだ。

 記憶喪失の彼女にとって、この獣人たちの襲撃は見知らぬ過去から迫ってきた恐怖そのもの。何故自分が狙われているのかもわからないままでは、不安と苦悩しか覚えることはない。

 古城は獣人たちの視線から庇うように怯えるセレスタの前に出て、挑発的に反論する。

 

「本人は、あんたらのことなんて覚えてないみたいだぜ」

 

 それにそもそも、セレスタの仲間であれば、こんな襲撃などせず堂々と正面から迎えに来ればよかったのだ。なのに、いきなり武力行使では、自身が悪党であると宣伝してるようなものだ。

 

「……調子に乗りおって。慈悲を与えたのは間違いであったか」

 

 ク、と低く笑う豹人。襲撃を待ち構えられ、失敗して追い詰められているはずの彼らが見せる奇妙な余裕。

 脳裏に、ある予感が過る。

 この潮が引いていくような感覚は―――とても、覚えのある前兆だ。

 

「―――防護モード。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先>」

 

 その予感を誰よりも早く察知したのは、アスタルテ。豹人たちが何かをするよりも速く、羽織っていた白衣を脱ぎ捨てて飛び出し、虹色の双翼を展開した彼女は古城たちの前に『神格振動波』の防護結界を形成する。

 

 瞬間、獣人たちの魔力が爆発的に膨れ上がり、その衝撃で部屋が吹き飛ばされる。

 

「これは、まさかクロウと同じ―――!?」

 

 目の当たりにするのは異様な、だけど古城たちには見慣れた光景であった。

 ただでさえ巨大な豹人の身体が、急激に二回り以上に膨れ上がり、体長5mにも達する禍々しい豹の姿へと変貌する。

 

「<神獣化>です!」

 

 巨大化する豹人の肉体がマンションの床や壁を破壊する。魔力の無効化能力を持つ<雪霞狼>でも、変化を止めることはできない。何故ならばそれは魔術によるものではなく、その者に許された特性であるからだ。

 

 獣人種族の中でも、一握りの上位種のみが可能な<神獣化>。

 完全に制御ができなければ寿命さえ削るほどの凄まじい消耗を代償とし、鳳凰や龍族に匹敵する格を備え、吸血鬼の眷獣を超える戦闘能力を有した神獣になる。

 

 そう変身した際に漏れ出した、暴れ狂う膨大な魔力だけでも、アスタルテが咄嗟に眷獣を召喚して盾にしてなければ古城たちは吹き飛ばされていただろう。

 

「クロウを二人分相手にしろってことか!?」

 

 そうそう滅多に拝めないはずの<神獣化>は、後輩(クロウ)のおかげで初見ではない。

 そう、神獣が真祖の眷獣にすらも耐えうるというのを古城は見てきたのだ。

 だからこそ、神獣に挟み撃ちにされた状況が如何に恐ろしいものか理解している。

 このマンションの崩壊を気にした、生半な攻撃で倒し得ることはできない―――

 

「否定。第四真祖、それはいくらなんでも失礼です」

 

 頭を抱えたくなる古城へ、その淡々とした声が響く。

 自身は脆弱な人工生命体の少女に過ぎないが、それでも体内に植え付けられた人工眷獣をもって、神獣二体の圧力に耐えているアスタルテは、言う。

 

「先輩とは、違います。これは、魔力と膂力(パワー)図体(サイズ)が増大しただけの、“張子の虎”。見たところ<神獣化>を御し切れていないようで、虚勢が長続きすることは、決して、ない」

 

「貴様ァ! 人形の分際で、我ら上位種を愚弄するかッ!」

 

「事実を述べているまでです。あなた方二人合わせても、先輩には遠く及びません」

 

 アスタルテの言に、激昂した豹の神獣が、体内で巨大な魔力を循環させる。魔力の炎を凝縮させた爆炎(ブレス)を放って、このマンションを崩壊させて古城たちを押し潰すつもりなのだろう。宝石の障壁に妨害されているが、足場が崩れてしまえば必ずや隙を見せる。目当てであるセレスタも、もちろん無事では済まないが、未熟、と侮辱された怒りで神獣は我を忘れてしまっているらしい。

 しかし、それを前にしても古城はふっと笑みを零した。

 

「ええ、クロウ君と同格と見積もるのは過剰評価でしたね」

 

「張子の虎とは言い得て妙ですなアスタルテ殿」

 

 爆炎を放つために大きく息を吸い込んだ、その隙。

 臆さずに前に飛び出した雪菜とユスティナが銀槍と宝剣、それぞれの得物を神獣たちの膨らんだ胸郭に突き刺した。

 

「があっ!?」

 

 魔力を浄化する聖なる霊力を纏った刃は、神獣の体内で高まろうとしていた魔力の炎を鎮圧させる。<神獣化>は生態的な形状変化であっても、神獣の爆炎(ブレス)は膨大な魔力によるもの。ならば、それを清浄な霊気で打ち消し、爆炎を中断させることができるはずだ。

 

「全員、結界に入ってくれ!」

 

「先輩!? なにを―――!?」

 

 古城はそう呼びかけると障壁の外へ飛び出した。今は雪菜たちの攻撃に怯んだが、それでも神獣の巨体に踏み潰されてしまえば、致命的なダメージを負うだろう。あまりにも無謀な行動―――だけれど、前を踏み出すのに足は竦まない。雪菜はその蛮勇ぶりに目を剥くも、ユスティナとアスタルテに引っ張られて、神羊の結界内へと避難させられる。

 それを確認すると同時、古城は宝石の障壁を天井から壁床まで部屋全体に包み込むように張り巡らせる。

 

「ああ、テメェら二人束になったところで俺の後輩の方がすげぇよ。だったら―――ビビる必要はねぇよな!」

 

 真祖の膨大な魔力を制御するのは手一杯だが、それでも着き出した両手の間に集中させる。神羊の幉を引きながらも、圧倒的な魔力を誇る<第四真祖>の眷獣を、部分召喚させる。アスタルテが<薔薇の指先>、その巨人の眷獣で腕だけを現出させて翼とするように。

 

疾く在れ(きやがれ)、<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>!」

 

 古城の両手から喚び出されるのは、荒れ狂う衝撃波の眷獣。

 本来の姿は、全長十数mにも達する巨大な双角獣であるも、その魔力だけを抽出して、高密度の衝撃波として拡散させる。理屈の上では可能なはずだが、ぶっつけ本番。失敗すれば、自滅することは間違いないが、それでもここでビビることは古城にできなかった。

 

「喰らいやがれ―――!」

 

 古城が爆裂させた魔力の衝撃波が、<神獣化>した二体の獣人をまとめて打ち据える。そしてさらに衝撃波は、白く透き通った宝石の障壁にぶつかると無数の結晶を散らせながら反響する。二体の神獣を、結界に密封された空間に幾度も跳ね返る衝撃波が滅多打ちにし、そして跳ね返る度に暴風に含まれる結晶の欠片は数を増して切り刻む。

 今この瞬間、雪菜のリビングは、まさに災厄を閉じ込めたパンドラの箱の如き、キリングルームと化したのだ。

 

「くっそ……完全に制御するのは、まだ無理か!」

 

 血管が破れて血塗れになった古城の両腕。反響した際の計算が追い付かずに、眷獣の攻撃に巻き込まれて、全身にも切り刻まれた痕がある。それに強引な魔力制御の代償で、脳の奥が沸騰したような苦痛に見舞われて、古城は荒々しく息を吐いた。

 

「なんて無茶をするんですか、先輩……!」

 

 眷獣の実体化を解いて、ぐったりと尻餅をついた古城に、真っ先に駆け付けた雪菜は眉を吊り上げて叱責する。

 宝石の結界を維持できずに、古城の眷獣が暴走したら、このマンションを含めた周辺一帯が世界から消滅しかねなかった。その危険性を知っている雪菜が、怒り狂うのも当然だった。

 

「こうするのが一番手っ取り早かっただろ」

 

「だからって、こんな自滅するような真似をして……自分の眷獣で死にかけるなんて、先輩くらいです!」

 

 ついやってしまった感があるので古城も、雪菜には言い返せない。

 何と言うか、ここは先輩として負けてやれない気がしたのだ。

 

 して、<第四真祖>の眷獣の猛威を喰らった二体の神獣は、まだその形態を保つことはできているようだ。しかしながら、最初ほどの魔力の昂りはなく、弱ってきている。深いダメージを負ったのもそうだが、やはり<神獣化>を制御し切れていない獣人は、数分程度が限界のようだ。

 

「ぐっ……まだ、我々は……『花嫁』を……」

 

 それでも、立ち上がろうとする豹人たち。

 いったい、何が彼らをそこまで衝き動かすかは知れないが、今の状態であればもう一撃を加えるだけでも―――

 

 

「見苦しい」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「……え?」

 

 ベランダにそれが降り立つと同時に発せられた低い声。

 古城が顔を向けると、そこにいたのは、筋骨隆々たる偉丈夫。古代の始祖鳥が二足歩行に進化したようなその者は、獣化した鳥類種の獣人――鳥人だ。神獣が大きすぎるだけで、その鳥人も巨漢と呼ばれるだけの体躯を有している。

 

 そして、見るものが見れば、一瞥だけでわかる。

 

 肉体のサイズは<神獣化>している豹人の方が大きい。

 だが内包しているエネルギーは、鷲の獣人の方が一段も二段も上だ。単に体が大きいだけでなく、そのうちに戦うための力を秘めており、戦うためだけに鍛え上げられた肉体である。

 

「クアウテモク戦士長……」

 

 豹の神獣が、現れた“処刑人”に呼び掛ける。いや、思わずその名を呟いただけだろう。

 

「ここにいるということは―――なるほど、“裏切ったな”」

 

 それに対して、『鷲の戦士長』クアウテモクの台詞は、明確に相手へ呼びかける、宣告。

 体格であるのなら、神獣と成っている豹の獣人の方が圧倒的に勝っている。そして、今は夜――豹の時間だ。

 そして、何よりも、豹の獣人は、若かった。

 

「ウガアアアアアアッ!!!」

 

 大きなダメージを負っている身体。それでもここは身体を壊してでも動かなければ―――死ぬ。

 相手に全力を出させる前に仕留めかかろうと、古城たちのことなど目もくれず豹の神獣は飛び掛かり、神獣の爪を『処刑人』に振り下ろした。

 

「……、」

 

 神獣の爪撃を、戦士長は自身の翼腕で盾にして防ぐ。分厚いゴムを叩いたような感触。そして、ブロックされただけでなく、押し返された。

 

 <神獣化>した獣人が、獣化のままの獣人に力負けした……!?

 

「お、俺の力が……」

 

 思いがけない強い反動と精神的な衝撃に、豹の神獣はたたらを踏んでバランスを崩して、そのまま<神獣化>を解いて、元の人型へと戻ってしまう。

 

「なんだ、あれは……?」

 

 古城が瞠目するそれは、生体障壁。

 本来ならば、半透明であるはずが、“黒ずむほど”の密度と硬度の生体障壁だ。その羽先まで浸透してるように漆黒。その羽が乱れ波紋と飾り付けられる、妖刀の如き翼と化している。

 

「見苦しいが、同胞を始末するのは後だ―――それより」

 

 鳥人は、セレスタを見る。瞳孔が研がれる鷹の目で、射抜く。

 

「ひ―――」

 

 逃げたいのに、金縛りに遭ったように体が硬直する。そのセレスタの前に立つ雪菜。銀色の槍を構えて、それ以上の接近を拒む。

 

「その槍……そうか、貴様が<第四真祖>の監視のために派遣された、『七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツアー)』の使い手か」

 

「獅子王機関の剣巫、姫柊雪菜です」

 

 鳥人の傲岸な言葉に、雪菜は気丈な口調で答える。

 間近で向き合ったこの男の獣気は、雪菜がこれまで対峙してきたモノたちでも最上位にあるもの。一瞬でも気を抜けば、たちまち戦意を奪われそうだ。

 その肌が焼けそうなほどの威圧感を前に、雪菜は槍の構えを解くことをしない。その意気を称賛してか、鳥人は会話をできるくらいに威圧感を緩めた。

 

「動かないで。獣化を解除して、私の指示に従ってください」

 

「私に指図をするか。相手との格の差を弁えぬその無謀さ、なるほど皇女(ブライド)が好みそうな性格をしている」

 

 口元に荒々しい笑みを刻み、目を眇める。

 

「だが、私が王と掲げるのはそこの第四真祖ではない。皇女ただひとりよ。貴様らが敷く法にも、私が聞く道理はないのだ。聞かせたくば力を見せるがいい」

 

 大きく翼腕を羽ばたかす。

 ただその一動作で、疾風が、突風が、暴風が―――熱風の嵐が、室内で吹き荒れた。

 

「なっ!?」

 

 室温湿度があがる。まるでこの場が熱帯雨林と化したように、鳥人より高熱が放散される。

 

「私がここに来たのは『花嫁』を処刑するため。それが果たせば島から去ろう」

 

「っざけんな! いきなり現れたかと思えば、そんな勝手、許せるわけがねーだろ!」

 

「貴様の許しなど乞うてはいない。どけ、第四真祖」

 

「この―――」

 

 ただ羽ばたくだけ。それだけで起こる強風に、古城たちは近づけず、立っていることすらままならない。体重の軽い雪菜や女性たちはこの強烈な逆風にリビングから吹き飛ばされていく。古城もまた先の戦闘での負傷で、眷獣を召喚するには危険な状態。

 

「セレスタ=シアーテの保護のため、自衛権を行使します。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先>」

 

 アスタルテがひとり。背中に魔力の翼を広げ、それを更に巨大な眷獣の腕へと変えて、鳥人からセレスタを護るように彼女を抱く。

 魔力を反射する『神格振動波』を纏う虹色の巨人。その防御は鉄壁で、かつて<第四真祖>の雷光の獅子でさえも打ち破れなかった。

 しかし、それは“完璧”ではない―――

 

「ほう。先ほども見ていたが、そこの豹の若僧よりはマシらしい」

 

 構わず、鳥人は巨人の腕へ向けて、豪風を纏った『鷲の戦士長』の翼腕が薙ぐ。

 黒曜の生体障壁を妖刀と研がせた<黒曜翼>―――その手刀の斬撃に、<薔薇の指先>が、破れた。

 そう、あの時と同じ。

 純粋な力で、打ち砕かれた。

 

「しかし、力があるからといって、戦士になれるわけではない。その心身と魂すべての問題だ。貴様には力以外の全てが足りんわ」

 

 刹那の呼吸で戦士長は踏み込んだ。

 一動作で、腕翼が旋回する。

 斬撃の余波の羽ばたきに吹き飛ばされて壁に打ち付けられたアスタルテは、呼吸が止まっていて、動けない。

 <薔薇の指先>が腕半ばから断たれ、宿主の人工生命体も体勢を崩した。いまだ被害評価(ダメージ・リポート)さえ終わっていない。

 それでも懸命に、人工眷獣が拡散するのを留めて、

 

「弱い。所詮は人形―――」

 

 古城が、戦慄する。

 斃される、と思った。

 これまで何度となく強大な相手との戦いをしてきた故の直感。

 無意識に古城の身体が動く。

 しかし、遅い。

 立ち上がってからすでにもう。

 まだかろうじて形を残す巨人の眷獣ごと断栽する格好で、重厚なる黒曜の刃が走った。

 

 

 

 そして、乱れた。

 人工生命体を断とうとした足取りから、即座に反転。跳び離れながら振るった刃は、全方位から入り乱れる霊弓術の手裏剣を悉く斬り落としていた。

 それでも構わず、再度、処刑を続行しようとする鳥人へ、

 

「オマエ―――!」

 

 牽制を投擲しながらも駆け抜け、間に合うかどうかなど考えもせず、玄関口からセレスタとアスタルテを襲おうとした鳥人との間に割り込むようにして、我武者羅に飛び出してきた銀の人影。そして、その無理矢理な体勢から身を捻って―――

 

「<黒曜翼>!」 「忍法雷切!」

 

 垂直に頭頂へ振り下ろされた戦士長の左手刀。それに人影――銀人狼は下から突き上げよう、同じく爪を揃えた左手刀を繰り出し、戦士長の左手刀を迎え打った。

 

 銅鑼を鳴らしたような衝突音が轟く。

 しかし、その大きさに反して、衝撃の余波は驚くほどなかった。

 古城らを襲ったのは、微風。

 威力が、相殺されたのだ。

 

「ぐっ」

「ほう」

 

 一度として邪魔をされたことのない処刑を、止めた。

 処刑人の両眼が燃え盛る闘志を映して爛々と光る。

 対して、銀人狼は―――停まらず。

 

「<伏雷(ふし)>っ!」

 

 相手の攻撃の威力を利用した踵蹴りをそのどてっぱらにお見舞いする。

 呪力を帯びた打撃をまともに喰らって、鳥人の身体は吹っ飛ばされた。ゴールのベランダへ豪速球でシュートされて―――しかし、翼腕を羽ばたき、空中で姿勢を水平回転させた戦士長が、銀人狼を一瞥して、上昇をする。

 

「グル―――ッ!」

 

 そして、“頭に血が上っている”銀人狼――クロウは、突然の登場に戸惑う古城たちに声をかけられるよりも早く、鳥人を追って、ベランダを出て、その目的地の屋上へと跳躍した。

 

 

 

「先輩っ!」

 

 遅れて、アスタルテも血相を変えて玄関へ飛び出した。

 見たのだ。

 自分を庇ったあの瞬間、銀人狼の背中に赤い………

 

 

 

つづく



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冥王の花嫁Ⅲ

人工島南地区 マンション 屋上

 

 

 太陽光発電のパネルに覆われたマンションの屋上。

 そこに、銀人狼を待ち構えていたのは、鳥類の獣人種の男。

 

 ゾン!! と。

 辺り一面に、死の前兆の如き不吉さを覚えさせる獣気が充満する。

 

 それは敵を視認した瞬間に銀人狼から放たれたもの。ここ一帯を重圧で押し潰してしまいそうな、ただ確かな敵意の感情。戦士長が処刑を中断し、場所を移す。『第三の帝国の獣王』であっても注意を向けざるを得ないと判断する相手。

 

「……なるほど」

 

 鳥人クアウテモクはわずかに呟き、そして笑った。

 首輪をつけた銀の体毛を持つ人狼。そして、己の処刑を阻むだけの実力がある。すべてが皇女より伝えられた情報と一致する。

 

「そういえば、<蛇遣い>に“代理戦争”を仕組まれたのだったな」

 

 クアウテモクは満足そうに頷く。

 上位獣人種であろうと、その力を完全に己のものとする者は、軍属の戦士団においても珍しい。素質に頼り、潜在能力を引き出そうと鍛えることもしない輩を多く見てきたが、これは違う。

 戦士長は、黒曜色の生体障壁を改めて全身に張る。

 女皇やあの『戦王領域』の戦闘狂(ヴァトラー)の口ぶりから多少の期待はしていたが、確かに“勝負が出来る”ようだ、と言外に語っている。

 

「しかし、<蛇遣い>の誘いをこれまで断り続けている話からして戦闘狂ではないのだろうが、私と戦う度胸があるか」

 

「ああ」

 

 銀人狼は、

 

我慢(まて)ができるようになったと思ってたんだけど、どうやらオレはオレが思ってるよりもずっと抑えが利かないみたいだ」

 

 南宮クロウは、

 

「古城君たちを襲って、アスタルテを殺そうとしたのを見たばっかりだからな。しばらく自制は無理だ。ご主人から口酸っぱく“獣になるな”って躾されてたのに」

 

 <黒妖犬(ヘルハウンド)>と呼ばれる魔女の眷獣(サーヴァント)は、屋上の太陽光パネルを吹き飛ばすように、

 ただ鮮烈に君臨する。

 

「ぐだぐだと考えるのはやめにするぞ。今はオレの後輩の意思を無駄にしない。それだけでいい」

 

 理不尽な暴力の権化が、これ以上、皆を不条理な暴威で蹂躙するのならば。

 止める。

 彼もまた身の内から滾って溢れ出す生体障壁を纏う。

 

 

「どれ、同じ土俵に立ってやろう。そうでなければ、“勝負(かけ)”にならんのでな」

 

 

 二人―――いや、二体の『獣王』の眼光が、正面から激突した。

 それが合図。

 真なる最上位種の怪物と怪物の戦いが、ここに始まる。

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「待て、アスタルテ―――!」

 

 古城の制止を聞かず、後輩に続き飛び出したアスタルテが、非常階段を駆け上っていく。

 行く先は、屋上。

 つい先ほどのぶつかり合いで生じた、世界が破裂したのではと錯覚する衝突音を轟かせているその発生源が古城たちの真上にあることを感じ取っている。

 それは爆音や衝撃波の領域すら超えていた。人間に聴き取れる範囲を遥かに超えた、世界が放つ苦痛の悲鳴。悲鳴の余波の余波、その切れ端になって初めて爆風と化している。悲鳴の木霊は鉄筋コンクリートの階層をビリビリと振動させ、如何に戦場が凄まじいものかを物語る。

 この古城のいるところに届いているのは、あくまでも戦いの切れ端。

 あの後輩と、同格以上の『獣王』。

 人間と魔族の混在する街の中、二体の『獣王』の激突だけが、深夜の南地区にあるすべてだった。

 

 たった今、屋上の危険地帯レベルは跳ね上がっている。

 そこに飛び込むような真似をすれば―――

 

「姫柊、俺が行ってくる!」

 

「待ってください、先輩! 私も―――」

「ダメだ! 姫柊は、セレスタと夏音たちのことを頼む!」

 

 それ以上の問答をせずにこちらの要求だけを押しつけた古城は、人工生命体の後を―――そして、後輩の下へ駆け出す。

 その背中へ、叶瀬夏音に抱かれたニーナ=アデラートが言葉を飛ばす。

 

 

「―――古城、光を奪うのだ! 今は鳥人(ヤツ)の時間ではない!」

 

 

人工島南地区 マンション 屋上

 

 

 王族との誓約との制約により、得られた<疑似聖剣(スヴァリン・システム)>。

 その変形発動の聖拳が、銀人狼の爪拳に黄金の加護を纏わす。

 

 開始の合図もなく始まり、それからの言葉はなかった。

 沈黙は、強大な敵との彼我戦力差をはかるための、極度の集中でもあったろうか。

 

「―――」

 

 刹那。

 地面が、爆ぜた。

 銀人狼の姿が、消失する。

 銀人狼の身体に許された、高速機動であった。

 単に、人狼の四肢のみによるものだけではない。攻魔師(にんげん)身体強化呪術(エンチャント)を発動させるクロウが為し得る、絶対的な速度の結界。北欧の魔導技術で強化との効率性を高めた外套によって、神速はさらに増幅され、魔族の知覚能力すらも完全に凌駕する。

 速く―――!

 速く、速く、速く、なお迅く!

 思考と同じ速度で、銀人狼は鷹の目の死角へと回り込む。

 対して、戦士長はどうしたか。

 

「……、」

 

 『鷲の戦士長』は、その場を動かなかった。

 ただ、下段に構えている、漆黒の硬気功を浸透させた両腕翼が、何度となく霞んだ。

 火花が、散った。

 黒曜の翼刃と、金銀の爪剣が相打つ火花。

 ガガガガザザザザギギギッ!! と。

 瞬く間にその数は膨れ上がり、相打つ剣(拳)撃の音は連続する楽器の音のようだった。漆黒と金銀の光が乱舞し、時折、分身を別けて翻弄しようとするも、それらは即刻、漆黒の軌跡に斬り裂かれる。

 

「魔でありながら、聖気を扱うとは、これが『混血』か。魔族である私からすれば天敵のようなものだが、当てても通らなければそれも意味がない」

 

 銀人狼の攻撃の全て逃さずに斬り払いながら、戦士長は皮肉気に口角を上げた。

 

「地上での速さは、私の負けだ。この状況は私にいささか分が悪い。しかし、これで終わりならば、勝負はすぐにつくぞ」

 

 翼刃の結界から聞こえてくる声には、何の力みも焦りもない。

 その身体のみが戦闘に適応しており、精神状態に左右されることがない。

 『鷲の戦士長』は至っているのだ。この戦闘の最中にも、思考と行動をほぼ完全に切り離せる領域へ。

 

「―――シャアッ!」

 

 銀人狼が、鳥人の脇から地を蹴った。

 白い三日月。

 背を反らし、世にも美しい弧が描くムーンサルト。

 半回転しつつ、銀人狼の爪先より伸びる<疑似聖拳>は、鳥人の頭蓋へ滑り落ちる。殺戮機械として育てられて、染みついていた技巧のひとつであるのに、流れるような跳躍の鮮やかさに、つかの間月明かりさえも凝固したようだった。

 豁然、黒曜の刃が月明かりの色を吸った。

 澄んだ音が、常夏の大気に響いた。

 長く、それは響いた。

 銀人狼が数mも離れて、屋上に着地した後も、しばらく二人は動かなかった。

 動けなかった。

 

「……捨て身、か」

 

 と、こぼした鳥人が、糸が切れたようにだらりと両腕を下げる。

 その首筋近く肩から、しとどに血が垂れた。

 空中からの爪撃は、戦士長の一薙ぎと相打って無益に終わり、しかし相殺の瞬間、銀人狼はもう片手から新たな聖拳を展開したのだ。それも指一本に絞り伸ばす“聖槍”。

 無理矢理に身を捻じって翻した刃は、今度こそ戦士長の虚を突いて一太刀を浴びせた。凄まじい高速戦闘に相手の目を慣らし、突然三次元的な動きへ移ったのも、クロウが組み立てていた戦術だったのだろう。

 そして、対する銀人狼は―――

 

 

 

 ―――先輩っ!

 

 屋上に駆け付けた少女は、それに叫びそうになった。

 銀の人狼が、片膝を付き、蹲っているのである。呻きひとつ零さぬのがこの場合なおさら痛々しい。銀の体毛はあちこち切り刻まれ、とりわけ風穴があけられていた胸元からの鮮血が酷く、赤色に濡れている。

 銀人狼の乱舞を、戦士長は、単に斬り払っているだけではなかったのだ。今の跳躍は、まさしく戦士長の言う通り、捨て身の一撃だったろう。

 

「……、はぁっ……、んぐ」

 

 必死に、息を継ぐ。

 喘ぐ。

 まるで水面を飛び出した魚が、懸命に酸素を取り込もうとするよう。

 

「ダメだ、アスタルテっ!」

 

 何もかも忘れ駆け寄ろうとしたアスタルテが背後から肩を掴まれ、止められた。

 

「今、あそこに行くのは危険だ」

 

 そんなこと、理解している。

 振り返って目を合わせた暁古城は、アスタルテにその危険性を説く。

 あそこに行けば殺されるのは自身だ。止めることなどできるはずがない。

 ここは力ある真祖に任せるのは冷静な対処だ。

 彼を助けるために自分が死ぬのは、あまりにも望まれない行為であると理解している。

 

 ―――だが、そんなのは知らない。

    自分には、彼を無視してはおけない。

 

「だから、ここで―――」

命令拒否(ディナイ)

 

 脳裏を占めたものはそれだけ。

 振り払って、アスタルテは行く。その予想にし得なかった犯行に、古城の反応が遅れる。

 

 ここに来る前から、負傷をしていて万全ではなかった。

 その状態で、自身を庇うためにさらに無理をさせてしまった。

 このままでは、壊れてしまう―――ならば、壊されてしまう前に、対象を破壊する。

 

 躊躇うことも、迷うことも、これ以上考える余裕もなかった。

 死なせたくない。

 奪われたくない。

 立ち向かいたい。

 ただそれだけで動いていた。

 屋上を蹴った眷獣共生型人工生命体は、これまでに持ち得なかった強い破壊意志を抱いて、虹色の巨人を喚び出した。その瞳はこれまでにない粘ついた眼光を宿す。

 

執行せよ(エクスキュート)! <薔薇の指先(ロドダクテユロス)>ゥッ!!」

 

 片腕しか現出できなかったが、その分一点に絞り込んで魔力を回せる。とにかく今、求めているのは一撃で標的を破壊する威力。この身に刻まれた本来の“兵器機構(システム)”へと成り果てるべきは今。

 『神格振動波』を纏う巨大な腕が、大槌(ハンマー)として叩き込む。

 判断は、迅速。

 そして、相手は自分のことなど視界にさえ納めておらず、無防備に背中を晒している―――

 

「っ! ダメだ、アスタルテ!」

 

 動いたのは、銀人狼。

 立ち上がって、すでに振りかざしていて、勢いの止められない人工眷獣の拳に、合わせるように受け止めた。

 

 な、ぜ……!?

 

 先輩が破壊される前に、標的を破壊しようとしたのに、先輩がそれを邪魔をする。

 理解不能に、人工生命体の思考が、止まった。

 ―――そして、その声が、別のところから響いた。

 

「人形風情が! 女皇より任された、我ら『獣王』の戦いに割って入るな!」

 

 前に立つ鳥人、しかし、その憤怒を滲ませた声音は横から、まったく別の方角から聞こえた。

 

 幻術……その答えにアスタルテが気づいたのは、“終わってからだ”。

 

 呪術において、幻術は多岐にわたって利用される汎用術式のひとつである。特定の場所を隠すためや、特定の場で方向感覚を惑わせるためにもの、あるいは攻防の駆け引きに使うフェイント、暗示の強化や修行のために己にかけるタイプのものまで多種多様。

 生半ば幻術はある程度以上の霊視能力や魔力抵抗を持つ相手には無効化される場合が多いために、“汎用の便利な呪術”以上にそれを極めようなどというものはそれほど多く存在しないだろう。

 

 しかし、身近にその“極まった一例”をほぼ毎日かかすことなく目撃している。

 

 <空隙の魔女>――南宮那月教官が、眠り続ける本体の、代理に作り出したその空蝉。

 見て、触れて、存在の気配まで感じ取れ、紅茶の味を嗜む繊細な感性まで持っているそれは、

 色彩や輪郭だけを写し取っているのではなく、材質や質量や構造に至るまでの情報を形作った―――幻影。

 それと同じ。

 五感だけでなく、物理的な光と音と同様に知覚する霊感さえ、この目に映る鳥人の身体は、確かな実体であると認識していた。

 間違いなくそこにいる―――と錯覚していた。

 本体と全く同一の形と音と熱を本体からずらしていた位置に置いていた。

 

 そして、その虚像を超感覚でもって把握するのはこの場でただひとり。

 

 主人の幻影を幻影と正しく感じ取り、“匂い”で現在位置を見破る<黒妖犬>のみ。

 つまり、この鳥人とまともに戦えるのは、霊感さえ惑わす高度な幻術に騙されない彼しかいなかったのだ。

 

「ネコマたん弱―――」

「<投矢羽>!」

 

 見当違いの方へ攻撃し、隙を晒してしまっているアスタルテを人工眷獣ごと受け流して投げ飛ばそうとする銀人狼。

 鳥人がそれを許さず、追って“代理戦争”に割って入ってくれた人形へ羽ばたきを振るい、無数の黒曜の羽矢を放つ。

 羽吹雪の如き無数の霊弓術。

 一枚ずつが複雑性妙なる軌跡を描いて、標的(アスタルテ)を追尾。

 無作為と思える、不規則な弾道。

 しかしそれは詰将棋の如く相手の逃げ場を塞いでいくよう、全方位から迫る羽矢の嵐。

 同じ霊弓術でも牽制程度にしか使えないクロウのとは、操作も威力も段違い。

 

 ―――避けようがないと獣特有の第六感が警鐘を鳴らす、

 ―――このまま投げ飛ばすと仕留められると判断した銀人狼は、動作を中断して、

 

「―――!」

 

 ―――最適解を瞬時に割り出す直感に従い、

 

「ッア! 何で―――」

 

 投げ飛ばしを中途で止め、人工生命体の身体を掴まえると地面に叩きつける。

 

 ……………

 

 一秒を幾度も刻んでいくように思惑が交錯したその一瞬。

 人工生命体の少女はその詳細を見取ることはできず、予想だにしえない方向から攻撃されたことも気づけていなかった。彼女にはこの一瞬は床に叩きつけられたことしかその時は理解できなかった。

 先輩に攻撃を止められたことで、思考は真っ白になり、

 自分を屋上に押し倒した先輩に、視界が真っ黒になった。

 

「危な、かったのだ」

 

 投げ飛ばす動作から瞬時に切り替えて、床に抑えこむ。それを成功させた銀人狼は薄い笑みを浮かべて、アスタルテを見下していた。ゆらゆらと、おぼつかない四肢を懸命に踏ん張っている。その口の端から血液が一筋垂れた。

 視線をずらし―――息を止めた。

 愕然と見開いたその瞳に、映ったのは針鼠。人狼の身体に突き刺さる黒い羽根。

 背中後ろが隈なく矢羽を受けて、もはや奇怪なオブジュにしか取れない形で、血塗れの銀人狼はいるのだ。

 

 

 

「ありがとうな」

 

 

 

 アスタルテを金縛りにさせたのは戦士長の殺意ではなかった。

 それは彼女の頭を撫でるようにそっと置かれた、毛深くも弾力のある肉球のついた手の平だった。

 アスタルテの小さな体が、その一言にビクリと震えた。

 彼女は、もう置物のように、そこを動けない。

 頭を撫でるその手、腕にも矢羽は刺さっている――ボロボロのはずだ。

 だがアスタルテの目前に浮かんでいるのは、ただ優しい顔。

 

「オレの事、守ろうとしてくれたんだろ。嬉しくて、ちょっと元気が出たぞ」

 

 そんなの、違うはずだった。頽れていた彼は、アスタルテの行動の結果で、それ以上の深手を負っているのだ。

 実際、人狼の声は絞り出すように小さなもので、声域も頼りなくふらふらと揺らぎ、今にも消え入りそうに感じられた。

 にも拘らず、その短い言葉には温かさがあった。

 

「じゃあ、先輩もまだまだ頑張るのだ」

 

 立ち上がろうとする人狼。

 アスタルテは依然と戸惑い、思考停止に陥る最中で、しかしこの直後に彼が何を考えているのかを知り背筋に悪寒が走る。

 

 彼が尖って極まったたった一つ、主人よりも得意な魔術――死霊術(ネクロマンシー)

 それを自身に掛けることで、死に体でも無理矢理に蘇生させて死ぬまで100%の力で己を動かそうとする。

 

 そう、まだ、戦うつもりだ。

 いくら頑丈でも、ダメージを負い過ぎている状態で、勝ち目の薄い戦いに挑む。その真意は。

 

「アスタルテ。お前は、間違っちゃいない」

 

 だから、それを正しに行く。

 失態を冒した後輩の、尻拭いをしようとしている。

 今、ここで、この戦士長を倒すことで。

 

「待―――ッ!!」

 

 声を出す暇もなかった。

 手を伸ばすよりも早く、すでに頭上に置かれた手に身体を押さえつけられていたアスタルテは起き上がることもできなくて―――芳香(フェロモン)を嗅がされている。

 おいろけの術などと技名が付けられた、ジャコウネコ科の獣人種の専用スキルを模倣した、『嗅覚過適応』の応用。

 意思は遠く、この一際に思考を放棄させてくれる。

 ボロボロの身体を動かし、鳥人の前に立つ人狼の背中を、アスタルテは止められなかった。中途半端に意思を壊してくれたせいで、体の力が抜けてしまったのだ。

 ただ、彼がその戒めたる『首輪』を外すのを見ることしかできず……

 

 

「―――契約印ヲ解放スル」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「クロウ!」

 

 古城は、ふらつきながらも立ち上がろうとする銀人狼。

 

「人形を庇って終わるとは……甘いが、これではケチがついてしまうではないか。神聖な決闘を穢しおって」

 

「テメェ……!」

 

 もはや死に体な後輩――しかし、それがどれだけに頑固かを悟る――古城は、戦士長へ叫ぶ。

 

「もう止めろ! こんな戦いに意味なんてあるのかよ!」

 

「ある。これは<混沌の皇女(ケイオスブライド)>と貴様の“戦争の続き”。全力を振るうことが許されぬ真祖に代わって、我らが覇を争う。そうお決めになったのだ」

 

「なにっ、あのジャーダが?」

 

 <混沌の皇女>。

 翆玉(エメラルド)色の髪と翡翠色の瞳を持つ美しい吸血鬼は今でも古城の脳裏に浮かぶ。公式に存在を認められた、わずか三人の真祖の一人――ジャーダ=ククルカン。常軌を逸した彼女の戦闘能力と、凄まじいまでのカリスマ性は身に染みてよくわかっている。

 しかし、第三真祖は、暴君でも戦闘狂でもない、真祖を名乗るのに相応しい圧倒的な威厳と力を備えていたが、話の通じない怪物という感じはしなかった。むしろ計算高さと茶目っ気さを感じさせる人間味のある吸血鬼だったという印象だ。

 魅力的な人格と表現しても、そう的外れではないだろう。

 その彼女がこの戦いを仕組んだのか―――?

 

「<蛇遣い>との“賭け”で仕組んだものだそうがな」

 

 あの野郎……!

 脳裏に気障ったらしい青年貴族の顔がこちらに笑いかけてくるのが思い浮かんだ。

 第三真祖は人間臭いが、それでもやはり吸血鬼だ。血腥い戦いもお好みだろう。不死故に尽きぬ生に飽きぬよう、常に彼らは刺激を求めている。誘いをかけ、それが面白そうとわかれば乗ってしまっても不思議ではない。

 

(ヴァトラーのヤツ、本っ当にアイツは余計な事しかしねェな!)

 

 異国人の箱入り娘は文句を言うだろうが、やはり古城はあの男を一生様付けなどと呼べる気がしない。

 

「ふざけるな! 第四真祖(オレ)はそんな“代理戦争(ケンカ)”は認めてねェ!」

 

「取り決めたのは、<蛇遣い>だ。第三真祖(ブライド)もお認めになられた」

 

「聞く耳持たずってことかよ。だったら、その“代理戦争(ケンカ)”、第四真祖(オレ)がぶち壊す!」

 

 古城は腕に魔力を集わせる。

 これ以上、自分の後輩がこんな勝手な死闘遊戯に巻き込んでしまうのならば、実力行使も辞さない。

 

 

「邪魔をしたければ邪魔をするがいい。私は全霊をもって、皇女(ブライド)へ勝利を捧げることに変わりない。若き獣王ともども未熟な真祖、そしてこの階下にいる『花嫁』も葬り去るまでの事よ」

 

 

 空へ、飛ぶ鳥人。

 まるでロケット発射のような飛翔。空中の一点と化した鳥人クアウテモクは、両翼を横に広げ、この魑魅魍魎の跋扈する魔天で支配者であることを疑いもせぬかのように。

 

「ふっ!!」

 

 一瞬、ふわりと言う妙な感覚が古城を包む。

 それは『鷲の戦士長』が空の王者に相応しき姿に変生するための“溜め”を行ったのだと気付いた瞬間、その周りの大気は、みるみる黒く染まり始めた。

 ここまで侵食は届いていないというのに、視界に入るだけで古城を四方から取り囲むように寒気が包む。戦局と言う全体の流れが大きく揺らいだときに垣間見える、物質的には存在しないシーソーの傾くのような何かが。

 そして、その生と死のリズムを傾かせるのは―――<神獣化>。

 

「慈悲だ。一撃で終わらせてやろう」

 

 豹の神獣とは違う、完全に制御された、最上位種の変生。

 

 およそ20mにも達する翼開長、頸の長さは麒麟を超えて体高は6mを上回る。まっすぐに伸びる長くなった嘴は槍のよう。セスナ機と同サイズ大型の翼竜へと変じた鳥類型獣人種。

 その神獣形態は、北米大陸に生息していたとされる魔獣を除けば現代においても“史上最大級の飛翔動物”ケツァルコアトルス。

 まさしく天と地の距離差があっても伝わってくる魔力の波動は、真祖の眷獣にも匹敵するものがあり、この龍族鳳凰も同然の威風こそが、完全に制御した真なる<神獣化>。

 

「ッ!!」

 

 古城は即座に迎撃せんと眷獣を喚び出そうとして―――惑わされる。ほんの瞬き、その一瞬で、戦士長の姿は四つに増え、次の瞬間には、十六に別れた。

 幻術。

 本物かどうか、近くで見ても、霊視であっても判別できぬほど精巧な幻像、それが点としか見えぬ空の果てにあるのを果たして見破れるか。闇雲に攻撃したところで、これだけの距離があれば悠々と避けれるだろう。

 本物を見破り、それを最速で打ち破るしかない―――それができるのはやはり。

 

 

「古城君、一瞬デイイ、隙ヲ作ッテクレ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 翼竜の両翼は、上段から漆黒の流星を迸らせる。

 虚空を断ち切る斬撃は、ありえぬ巨大な剣圧を生じさせる。本来の翼長たる十m弱を無限倍に増大させて、上空より急滑降して降り落ちる翼竜の一撃は、夜よりはるかに暗い漆黒の奔流とせしめることだろう。

 『魔族特区』の建造技術で頑健なビルディングを断てぬと見るのはあまりに楽観。

 あれは、まさしく天より振り下ろされる巨人の剣。

 または、審判を告げるダモクレスの剣。

 欠けた満月さえ斬り捨てんばかりに双巨翼より伸びたる黒曜の氣刃が、一切の遅滞なく、一切の容赦なく、一切の油断なく、あまりにも優美な弧を描いた。野蛮な獣でありながら、その理想的過ぎる軌跡を流れた双巨翼は、逆に緩慢にも見えて、死にゆく人にわずかな悔恨の時間を与えるようでもあった。

 獣王の決着をつけ、真祖を葬り去り、花嫁を処刑する、その断罪刃が、南地区のマンションを鮮やかに両断しようとして―――

 

 

 

 ―――次の刹那

    夜の帳が、視界を閉ざした。

 

 

 

「―――ッ!?」

 

 閃光が瞬いた後に訪れる絶対的暗闇。

 自身の目を閉ざしたのではなく、世界が光を閉ざされた。

 

 そう、南地区が停電したのだ。

 

 <獅子の黄金(レグルス・アウルム)>。その真祖の眷獣の雷電を天にではなく、古城は地に向けて振るった。

 かつて暴走して、港湾地区に多大な損害を与え、一帯から電気を喪失させた雷光の獅子。

 その力でもって、絃神島南地区一帯を停電した。

 

 人間の住まう都市は、電気からの人工の光によって、夜でも暗闇となることはない。

 そう、熱帯雨林にある秘境の昼間よりも明るい事だろう。

 それが今、完全な暗闇になった―――

 

 

『―――古城、光を奪うのだ! 今は鳥人(ヤツ)の時間ではない!』

 

 

 飛行という絶対的なアトバンテージを持つ鳥類型獣人種の、魔族でありながら魔族らしからぬ弱点。

 夜盲症が、『鳥目』などと呼ばれるよう、大体の鳥類は夜の活動を控える。夜になるとまったく見えないわけではない。昼夜休まず飛び続ける渡り鳥、夜中に狩りを行う夜行性のフクロウがいる。ただ、それでも鳥類の眼というのは、仕組みとして暗所より明所の方が能力を発揮する昼行性である。

 それと同じく、鳥類型獣人種もまた、鳥目――夜盲症のような夜間視界不良で見えなくなるというほどではないけれど、ただ、魔族の獣人種でありながら、暗所においての視界は人間とほぼ変わらない。夜の王とも称される吸血鬼や豹や狼のような夜行型の獣人種と比べれば、夜は不自由なのだ。

 

 戦士長の目は暗闇でもある程度は見通すことができるが―――しかし、落陽から闇夜に刹那の内に切り替わるがごときの突然の明暗差には―――さしもの戦士長も視界を喪失して、対応が遅れてしまう。

 

 ほんの一瞬、意識も身体も、止まってしまった。

 ―――その刹那に、不可視の壁と激突。

 

(しまっ……―――)

 

 黄金の神狼。夜行性の獣類であり、幼少から絃神島に来るまでを、昼間でも暗闇にある極夜の森の中で暮らしていた、また、見えなくても“鼻が利く”。

 

 そして、最高速に達した勢いにブレーキを掛けたものと、最高速のまま捨身で当たってきたもの―――どちらが勝つかは明白。

 

 ごっ、とロケットミサイルの如き突貫。

 重力の枷を一気に振り切る零から最高速に至る加速で、自由落下をする翼竜の距離を一瞬でゼロに詰めんとする。天蓋の先、(ソラ)の果てにある“月”を目指さんとする狼に、“天と地程度”の差など届かぬはずがなく。

 ならば、その威力を形容するならば、星をも穿つ隕石か。

 

「オマエヲ、落トス!!」

 

 突如生じた激突は、エネルギーの嵐を巻き起こした。

 断ち切らんとする絶大な力が、匹敵するだけの斥力と衝突してねじくれ、蛇を思わせて蠕動。

 激しく、巨翼の断罪刃は“ぶれた”。

 真なる神獣同士のぶつかり合い。

 互いの中間で留め置けなかった圧が、余波となって四方八方へと散る。

 その余波だけで、マンションとその周囲の建造物はあちこちに亀裂をつくっていった。『魔族特区』にて吸血鬼の眷獣の攻撃にも耐えられるよう、入念に健在を選択され、魔術理論を取り込んで設計されたビルだった。たかが人間如きの智慧は、所詮天と地の最上位者には及ばぬと嘲笑うように、亀裂はいくつもいくつも増えていった。

 それでも。

 跳ね返された斬圧は、その大半をビルではなく天空へと逃がしたのだ。

 

「―――ヨウヤク、捕マエタゾ」

「っ!?」

 

 そして、激突を制止、跳びかかった勢いそのままに怯んだ翼竜に爪を立ててのしかかる金狼が吼えるように、大声で要求した。

 

「今ダ、オレゴト狙イ撃テ! ―――」

 

「っ―――<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>!」

 

 この好機。古城の命令よりも疾く、雷の眷獣が動いた。

 金狼は、翼竜が逃げぬように四肢でしがみつき抑えている。

 一度雲を突き抜けて(うえ)に昇って神鳴りとなって飛び掛かる雷光の獅子。

 避ける術などない。

 受ける余裕などない。

 幻術で躱そうとするのも無理。

 目印(クロウ)が付けられた翼竜へと、夜気が奔騰する。

 轟音は、もはやそれ自体が兵器に等しかった。

 

 そして、後輩ごと戦士長に、古城の眷獣が直撃。雷に姿を変えた眷獣の魔力が、中空で激しく弾け散って、神獣の肉体に迸る。

 

「シャアッ―――!」

「ガルウッ―――!」

 

 しかし、二体の神獣は真祖の眷獣の圧倒的な魔力による雷撃を受けながらも麻痺することなく揉みくちゃに暴れ続けていた。嘴で肉を抉り、爪で骨を砕く。そこに技や知性などない、原始的な獣同士の争い。そのまま錐揉み回転しながらマンション近くの公園に墜落した。

 

 

公園

 

 

 濛々と砂塵が立ちこめた後は、クレータのように大地が陥没。辺りに揺れが襲った。

 

 暁古城が、荒れ果てた公園に駆け付けた時は、二体の神獣は、鳥人と人狼に戻っていた。

 辺りの様子を見る限り、撃墜されてからもこの公園で物理的応酬が繰り広げていたのだろうが、古城が来たころにはすでに終わっていたので“血塗れの泥仕合”については想像しかできない。

 古城が見たのは、人狼は地面に両膝をついて脱力していて、鳥人は公園に植えられていた樹を背に座り込んでいた。二人の身体は血で真っ赤に濡れ、お互いに重傷。もはや自力では立ち上がれぬ、酷い有様。客観的に見れば、両者KOの引き分けが妥当。

 それでも戦闘意志だけは衰えを見せることはない。

 この敵を斃すまでは、おさまりがつかぬと猛っていた―――それを古城の登場を視野に入れると冷静に認め、先に終了を宣言したのは、意外にも戦士長の方であった。

 

「……っ、今夜は退くとしよう。これ以上の消耗は、任務に支障が出るのでな」

 

 戦士長には、果たさなければならない任務。それに支障をきたしてまで戦闘続行するのは、もはや私情が入る。特区警備隊に、特殊部隊(ゼンフォース)のことを考えると、ここは余力を残したまま引いて、体を休めるのが最善という判断。

 ここで先に引き下がるなどと言う“忘れ難い屈辱”を味わっても、優先順位は決まっている。

 

「しかし―――!」

 

 起立した鳥人。その羽爪の五指が、前に突き出される。

 

「勘違いをするな。私は、負けを認めぬ―――!」

 

 鳥人の手に当たるよう、地面から火柱が立ち上る。

 

「まだ、全力を出していない―――!」

 

 そして、引き抜かれる。

 まるでそれが合図だったように、灼熱の火柱はあっけなく、常夏の大気に拡散して溶け込む。

 

「この<シウテクトリ>を鞘に抱く―――」

 

 引き抜きざまに横薙ぎに振るった腕に連動するよう、爆炎流の大蛇が―――

 

「―――させるかっ!」

 

 古城が吼えた。

 地面が、弾ける。

 古城に向けられた鷹の目が、すうと細まる。

 これ以上何かをさせられる前に、“処刑人”へ眷獣をぶつけようとした古城―――の上半身が、その半ばで泳いだ。

 もはや物理的に暴風といえる膨大な魔力放出で守られていた暁古城の肩から胸にかけて、ピシリと一筋の紅い線が走り、血が噴き出したのだ。それも吸血鬼には最悪な、太陽の如き熱量を斬り痕に焦げ付かせて。

 

「―――っ!?」

 

「そう、この<シアコアトル>に誓って、敗北は許されぬのだ」

 

 火柱の鞘から抜くと同時にすでに放たれていた、数珠繋ぎに刃が連結した蛇腹剣が大気を裂いて踊る。

 刹那のみ伸張した刀身、爆炎流の熱すべてを刃一筋に集中させたその切先が身体を切り裂いたのだと、頽れてから古城は気づく。

 蹲る古城に、剣を掲げて宣告する。

 

 

 

「女皇より賜りし、<シアコアトル>が、最大の真価を発揮する昼の刻―――『花嫁』、それが貴様の最期だと伝えておけ」

 

 

 

 <火鉢石(シウテクトリ)>の配偶神たる<トルコ石の蛇(シアコアトル)

 火蛇の女神は、日の出の時に東から昇る太陽を、正午に天頂にまで運ぶ役割とその力があるという。

 そうそれは、太陽を纏った剣。太陽光に左右されるその性質故に、この陽が沈んだ真夜中に放った斬撃は、相手を燃やす程度で“温い”。しかし、太陽が真上にあるときの剣は、“『旧き世代』の吸血鬼(トビアス=ジャガン)を跡形もなく消し飛ばして、長時間行動不能にしてしまえるほどのもの”。

 それに比べれば、古城の負傷は軽く、行動不能にされたほどではない。真祖の再生能力であればいかな重傷を負っても無効とする。それでも直感で思う。もう手の中をすり抜けられた。

 

「そして、必ずこの決着はつける」

 

「……、」

 

 『鷲の戦士長』は、この短いタイムラグを利用して的確に距離を離し、この場から確実に逃げ延びるだろう。会話もできぬほど意識がもうろうとする銀人狼は、まだ回復が間に合わない古城をおいて行くことはせず。そうして、幻術がかけられてその姿はこの場から溶け込むように消えていた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『―――古城!? 無事なの!?』

 

「何だ、どうした浅葱、そんな慌てて……」

 

『なんだ、じゃないわよ! あんたん家のマンションの近くに隕石直撃したって聞いたわよ! 監視カメラで見たら、なんかバカでっかい穴が空いているし!』

 

「またハッキングしやがったな……まあいいや。とにかく俺は大丈夫だ。でも、クロウがな……」

 

『え!? クロウが? ちょっと、なによそれ? なにがあったのよ?』

 

「俺たちにもよくわかんねーよ。いきなり変な獣人やら怪物じみた鳥人に襲われて、結局そいつらには逃げられちまったし」

 

『……獣人に鳥人ですって……あんたたち、また妙な事件に首を突っ込んでるんじゃないでしょうね?』

 

「好きで巻き込まれてるわけじゃねぇよ……そうだ、浅葱。“ザザマラギラ”って知らないか?」

 

『え? なに? “ザラララギ”? ゲームの呪文?』

 

「悪い、違った。<ザザラマギウ>だ。たぶん『混沌界域』……中南米あたりが関わってるご神体の名前なんだが」

 

『聞いたことないけど、それがどうしたの?』

 

「いや、ちょっと知りたかったんだけどな……ネットで検索しても出てこなくて」

 

『ふーん……あたし、午後から公社のバイトだから、必要なら調べるけど?』

 

「悪い。ああでも、できれば昼前に情報くれると助かる」

 

『早めに出勤したところで問題ないし、いいけど、それなりの見返りは覚悟しといてよね』

 

「へいへい……」

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 神獣二体が暴れ、真祖の眷獣がその迎撃に猛威を振るい、トドメに獣王同士の怪獣合戦。

 自身の部屋の方は窓ガラスにヒビが入ってたり、物がしっちゃかめっちゃかに散らかったりしてたりするけれど、まだ寝食できる。むしろお隣で大乱闘が起きていたのに比較的軽微で済んだのは奇跡だ。

 フローリングの床は捲れ上がり、壁はヒビ割れ、窓枠とベランダの手すりは跡形さえも残っていない。数少ない家具はすべて破壊され、残骸となって床に散らばっている。巡航ミサイルを撃ち込まれた廃墟のような有様であるお隣の部屋と比べれば、住めるだけで十分、そんなのは掠り傷だと言える(ちなみに、獅子王機関の手配で、すぐに修理されることになっているらしい。金に糸目をつけない突貫工事によって、凪沙が本土から帰ってくるまでにはマンションは元通りに修復されるそうだ)。

 しかし、“隕石落下事故と処理された一件”で、屋上の太陽光パネルが全滅し、地区全体の大停電。おかげで、ライフラインの復旧は大変であり、今頃、管理公社で缶詰にされている女帝様が悲鳴を上げていることだろう。

 

 そして、押しつけられた(かくまった)異国人の少女が、洒落にならない相手に命を狙われている。

 

 そんなわけで……

 

「見慣れない天井、か……」

 

 冬休み二日目の朝―――

 暁古城は、担任教師の家宅にて、目を覚ました。

 

「最上階ワンフロアを丸ごと自宅って、もう羨ましがる気も起きねーな……」

 

 古城の教師、南宮那月の自宅は、人工島西地区にある八階建ての建物。一目見ただけで庶民が住むと事は違う高級マンション。それは全て、カリスマ教師の所有物であって、その最上階は住まいとして活用されている。エレベーターで八階まで上がるとそこはもう玄関であった。なので、急な来客であっても部屋は余っている。

 

 しかし予想に反して室内の装飾はシンプル。ここが客人用の部屋であるだからではなく、壁や天井にはガラスが多用されているので、明るく未来的なイメージ。置かれている家具もどれも小ぶりで背が低く、内装の感じも玩具屋に売られているお人形の家(ドールハウス)をそのまま人が住める程度に大きくしたような。きっと最上階は特注で、主人の体型に合わせたデザインとつくりなのだろう。

 

 そして魔女の住処とあって、張られている魔術結界は、獅子王機関の剣巫の頬が引き攣るほどである。『昨日、私の部屋をメチャクチャにしてくれたように、先輩が暴れても大丈夫です』と監視役から太鼓判を押され、正しい手順を踏まない限り出入りはできず、罠にかかり下手に迷い込むと永遠に帰ってこられない、と忠告された魔境じみたセキュリティが敷かれている。

 ここならば自宅よりも安心はできるのだが、寝泊りするには危険である。またあの担任教師に借りを作るのは遠慮したいところなので、できる限り早く退散したいところである。

 

「先輩。おはようございます」

 

 時計を確認して肩を落とし、のろのろとベットを降りる古城の耳朶を叩くノックの音。

 ドアを開けて、顔を出したのは、隣の客室でセレスタと就寝した姫柊雪菜だった。珍しい私服姿である。髪型もいつもとは違う。ヘアゴムで束ねただけの無防備な髪形だ。

 

「あの、昨晩は休められましたか」

 

「あ、ああ……少し窮屈な感がするけど、あのままあそこで寝るよりはずっと快適だったな。姫柊の方はどうだ? セレスタの奴もちゃんと寝れたか」

 

「はい、最初はやはり落ち着かないようでしたけど……」

 

 雪菜の口ぶりからして、どうにか彼女は休めることができたらしい。

 古城たちは、セレスタと一緒に那月のマンションへと一時避難をすることにしたのだ。部屋の主人は特区警備隊の仕事で手が離せないらしく帰ってきていないようだが、とりあえず許可は頂いた。古城があまり頼りにしたくないけど、こういう裏の事件で最も頼りにできるのはやはり担任であって、彼女の庇護下に入れたのはとても助かることだ。

 ―――でも、もうこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。

 

「……それで、クロウは?」

 

 雪菜は視線を落とす。

 昨晩の一件で、最もダメージを負ったのは、後輩だ。はっきり言って普通の人間なら病院で緊急治療を受けて絶対安静。火傷に銃痕、全身に痛々しい切傷とあれが如何に死闘だったかを物語る。

 それでも、後輩は頑なに病院で治療を受けるのを拒んだ。負傷は全て己の未熟さが招いたものであって、まだ自体は解決していないのに途中退場はできない、と。この高級マンションにつくまで古城たちの警護をして、寝ずの番までしそうだったところをどうにか酔い潰させて眠らせたくらいだ。

 

「本当なら、病院で治療を受けて欲しいんですけど、クロウ君の自己治癒能力は高いです。それに、ユスティナさんの<ニダロス>と、夏音ちゃんが看護しながら、霊力を供給したおかげで怪我ももうほとんど治っています」

 

 破魔の力と癒しの加護を与えるアルディギアの宝剣<ニダロス>。それは退魔だけではなく、治癒にも活用することできる。この絃神島でも最高ランクの霊媒資質である夏音が供給源となって、治癒の術式をかけ続ければ、病院で治療を受けるよりは早期回復が見込めるかもしれない。

 ただし、それでも失った血液や体力までが戻ってくれるわけではない。

 客室から出た古城は、リビングではなく後輩の部屋へと足を向ける。

 

「話ができれば、一言でも謝っておきたいところなんだがな」

 

「今は得策ではありません。せっかく眠らせたところなんですから、今は起きるまで休ませてあげるべきです」

 

 それに何より、と雪菜はそっと音を立てず、わずかに戸を開けて、その隙間から窺うようにと古城を言葉ではなく目で誘導する。

 後輩の部屋は、客室よりも余計にシンプルだった。でも、調度品とかは客室にあるものよりも高めで、主人より後輩に合わせて整えられているものとわかる。その陽が射しこむ窓際に置かれているベットに、銅髪褐色肌の少年が横たわっている。

 古城は雪菜に促されるように部屋の中に目をやり、そこでわずかに表情を曇らせた。

 ベットに寄り添うように、あるいは床に跪くように、ひとりの少女が佇んでいた。後輩の掌を両手で包み込むように握っているのは、メイド服の上に白衣を着込んだ人工生命体(つくりもの)の少女。

 アスタルテだ。

 

「……ああ、そっとしておくのが正解だな」

 

 古城は感情を消したような顔で、先にこの光景を見ていた雪菜に同意するよう頷く。

 後輩の重傷の一因となっている古城に、あの中に割って入るだけの度胸はないし、それは責任感の強い雪菜にも同じことらしい。

 黙って雪菜が扉を閉めると、古城は後輩の部屋から一歩だけ身を退いた。

 本当に悔しいが、後輩に対してできることは何もなかった。古城の眷獣はどれも危険で治療には使えない。『再生』の力を持つ『十一番目』がいるが、あれは制御を間違えれば存在が生まれる前まで回帰させかねないもの。せいぜい全快を祈るぐらいが関の山だが、それにしたって、祈るだけの資格があるかどうか。

 

 第三真祖と第四真祖の“代理戦争”なんて理由で決闘、あの<蛇遣い>に八割方悪いのだとしても、古城にも責任がないとは言えない。“戦闘”ではなく“戦争”に特化している<第四真祖>の力、それも未熟な古城には、追いつけない領域。あの鳥人とまともに相手ができたのは、後輩だけだった。

 

「……、くそったれが」

 

 古城が奥歯を噛む。

 どれだけ打ちひしがれようと、敵は待たない。去り際に、次は不利な夜にではなく、力を最大限に発揮する昼に仕掛けると宣告してきた。まだ戦いは終わっていない。

 そして、事態を解決するための情報が決定的に不足しているという。

 古城たちは、今もセレスタ=シアーテが狙われている理由と言うのがわかっていないのだ。

 

「先輩が、そんなに責任を感じることはクロウ君も……」

 

「わかってる。けどな、ボロボロになった後輩が必死に繋いでくれたんだ……それを無駄にして、犬死なんて結果にはさせねぇ。馬鹿が馬鹿を助けて馬鹿をやったなんて終わりには絶対に認めねぇぞ」

 

「そうですね。でしたら、私たちはいざというときに動けるよう、しっかり食事をとりましょう」

 

 その決意を新たにした古城に、ふっと雪菜は微笑を浮かべた。

 指摘はしないが、雪菜はセレスタのことをずっと気にかけているようだった。昨晩、依代だと獣人たちから呼ばれた時からは特にそう。地味女とか呼ばれても、忍耐強くセレスタに付き合っていた。そして今も、自分のことのように嬉しそう。

 

 それから朝食の席に誘う雪菜の後に続いて入った、広く開放的なダイニングルーム。

 ちょっとしか晩餐会ができそうなやたら長いテーブルの上には、多数の料理の皿が並べられている。魚介類のスープとマリネ、肉や野菜を詰め込んだトルティーヤ、ありあわせの材料で拵えたにしては、手がこんでいた美味そうだ。

 でも、

 

「この料理、誰が作ったんだ?」

 

「セレスタさんです。朝一番に起きて、皆さんの分の朝食を用意したんですよ」

 

 驚く古城に、口元に手を当てて苦笑してる雪菜が答える。

 

「セレスタがか? いや、すごいけど、アイツ記憶は?」

 

「なんとなく、作り方を覚えてらしたようで。一泊の礼にと、せめて食事くらいは作るって。まあ、アルデアル公への練習台とも言ってましたけど」

 

「俺たちはあいつの毒味役かよ」

 

 今イチ釈然としないが、ということはこれがセレスタの出身地の料理なのだろう。

 スイッチひとつで火が点くコンロや、レバーを捻るだけで水が流れる蛇口、それにトイレから水が噴き出してビックリした昨日の様子からして、この最新鋭の台所で調理するのは大変だったろう。

 ガス電気水道もない不便な土地で暮らしていたからか、それとも記憶がないからかは知らないが、それでも慣れない調理器具を使って見事な料理を作るあたり、おそらく雪菜がサポートしたのだとしても、セレスタの調理スキルはかなりのものだと認めざるを得ない。

 そのことに素直に感謝しつつ古城は食卓に着いた。獣人たちの乱入で夕食を中途で切り上げていた古城は、猛烈に腹が減っていた。雪菜も古城の隣に着席して、それからここに居候している夏音が――おそらく那月が見立てたと思しき――控えめなフリル付きのワンピースを着て現れた。少し古風なデザインが、聖女めいた夏音の雰囲気によく似合っている。

 昨晩は状態が安定するまで後輩(クロウ)への治癒に霊力を送り続けていたので、いつもよりお寝坊してきっとまだ眠いことだろう。それでも欠伸をすることもなく、こちらへぺこりと丁寧に頭を下げて、朝の挨拶をする。

 

「お兄さん、雪菜ちゃん、おはようございました」

 

「夏音ちゃんもおはよう」

 

「おう、邪魔してるぞ」

 

「うむ。そう畏まらずとも良いぞ、自分の家のように寛ぐがいい」

 

「何であんた()でもないのに偉そうなんだよ、ニーナ」

 

 腕に抱かれてる居候と言うよりペットサイズな院長様がツッコミを入れられながら、古城の隣、雪菜とは逆側へと夏音も席に着く。すると感激したように用意された料理に目を輝かせて、

 

「まあ、この美味しそうな料理。どなたが作ったのでした?」

 

「セレスタが作ったみたいだぞ」

 

 そうですか、と夏音は感謝を捧げるよう手を組む。

 そんな侵すべからず神聖ささえ漂わせる祈りのポーズを見守っていると、ふとポケットの中の携帯が鳴った。

 

「ったく、誰だ、こんなときに……」

 

 舌打ちしながら、古城は食卓を立って廊下に出る。震える電話機を引っ張り出してみると、画面に表示されていたのは、見慣れたクラスメイトの電話番号。

 

『古城、わかったわよ! <ザザラマギウ>の正体!』

 

「―――本当か浅葱!」

 

 まだ頭の中に残ってた眠気は一気に吹っ飛んだ。古城は慌てて携帯を耳に当て直した。

 

「教えてくれ。なんだったんだ、ザザなんとかの正体は!?」

 

『<ザザラマギウ>は、神様よ』

 

「は? 神……?」

 

 浅葱が口にした突拍子もない単語に、当惑したように眉を寄せる古城。

 しかし学園きっての才媛は至って真面目な口調で続ける。

 

『信仰する人々の絶えた、忘れ去られた神。別名は『(くら)き神王』―――いわゆる邪神ね。殺戮と破滅をもたらす冥府の王よ。今から1200年以上前に、中米の小さな都市で信仰されてたって記録が残ってたわ』

 

 よくわからないが、誰も覚えていないマイナーな神様と言うことだろう。

 <ザザラマギウ>なんて言う噛みそうな名前が本当に神のものだとするのなら、セレスタがその依代―――いわゆる、神降ろしの巫女と呼ばれていた理由として納得がいく。中米の都市国家では、さまざまな神が信仰されていた。『冥き神王』も、それら数多の神々の中の一角だったのだろう。

 

『ただ問題は、そのマイナーな神様のデータが『魔族特区』の凍結書庫(アーカイブ)に厳重に封印されたってことなの。どうやら<ザザラマギウ>は過去に一度、現出したことがあるみたいなのよね』

 

 神の召喚―――

 人間の領分を大きく超えた、にわかに信じられる話ではないが、荒唐無稽と切り捨てることもできない。

 古今東西、世界各地の文献に、人々の祈りに応えて神が降臨した伝承が記されている。そして、何よりも古城はかつて、人工的に生み出された『天使』と戦ったことがあるのだ。

 “模造”とはいえ天使を実体化させられたのだから、『神』の実体化が不可能と断言することはできないはずだ。

 

『正確な情報は残ってないから、詳しいことはわかんないけど、なにしろ<ザザラマギウ>が現出したせいで、彼を信仰していた『シアーテ』って都。現在の地図だと『混沌界域』の辺境あたりね。それで『混沌界域』が成立する前なんだけど、その都市国家を中心に、半径500km以内の街は全て滅びたらしいわ。200万人以上が一夜にして死に絶えたって……』

 

 “シアーテ”の都……!?

 <ザザラマギウ>の依代と呼ばれていたのは、セレスタ=“シアーテ”という名前の少女。

 これは偶然などではない。きっと繋がりがある。

 神殿。依代。巫女。邪神―――バラバラに切り離されていた情報が、ようやくひとつのカタチにまとまり始める。

 

 豹の獣人たちは、セレスタを自分たちが“育てた”と主張した。それはつまり、邪神の巫女として特別な処置を施したという意味なのではないか。

 そう、もしセレスタが『冥き神王』の依代だとするのならば、彼女を狙っていた獣人たちは、<ザザラマギウ>信者の末裔かもしれない。だとしたら、ヤツらの目的は、『冥き神王』の復活。だから、ヤツらはセレスタを欲した。ただの巫女ではなく、邪神の召喚に必要な祭具―――

 そして、鳥人は、その復活の阻止に依代を抹殺しようとしていた。『花嫁』というその取り換えの利かない“生贄”を失くすことで、獣人たちの目的であり、現出すれば『混沌界域』が壊滅しかねない邪神召喚の儀式を阻止しようとしていた。

 

「わかった。浅葱、サンキュ。助かった」

 

『それで、古城はなんでそんな邪神の名前を知ってたの? あんた―――』

 

 セレスタの存在を知らない浅葱はのんびりとした口調で説明を続けてくれていたが、しかしもう十分だ。

 問い質そうとする浅葱を無視して、古城は雪菜たちがいるリビングへ戻る。

 早くこの情報を報せ、セレスタにもそのことを自覚させなければ、身が危うい―――

 

 しかし。

 古城が部屋に入った時、夏音からの第一声で、事態にようやく気付いた。

 

 

「あの、お兄さん。セレスタさんはどこにいるのでした?」

 

 

人工島西地区 高級マンション 前

 

 

 ヴァトラー様は、暁古城や姫柊雪菜が自分を護れるものだと信頼したから預けた。

 しかし、昨夜の襲撃で、彼らは無事だったけれど、彼らの仲間である少年が瀕死の重傷を負った。

 自分を殺そうとした“処刑人”と戦ったばっかりに。

 そして、自分はそれをただ見ているしかできない。見殺しにした。

 そんな人間がなんでのうのうと彼らの中にいられるのか。

 自分さえいなければ、あの姫柊雪菜と言う少女は先輩を独り占めできただろうに、

 自分さえいなければ、あのクロウと言う少年は死にかけることもなかっただろうに。

 

 ―――“処刑人”は、必ず来る。

 

 こうしてグダグダ考えてる間にも、タイムリミットは確実に迫っている。

 一秒の無駄が、ただでさえ低い幸福の確率をより一層に引き下げるのだ。

 だったら、早く逃げる―――彼らの下から離れるべきなのだ、と……

 

 

 

『……さあ、セレスタ。『冥き神王』の『花嫁』となり、その身を捧げるのだ』

 

 呼ばれた、気がした。

 誰か、とても懐かしい声だった気がした。

 夢の中でははっきりとわからないけれど、忘れ難い――記憶の核ともいうべき場所に刻み込まれた――使命感のような何かが胸の中に灯る感覚があった。

 

 

 ―――だから。

 ―――唐突に。

 

 

 セレスタ=シアーテは、目覚めた。

 

「―――魔女の住処に籠られた時は、面倒だったが、念のために<魔眼(ヴァジエト)>をかけておいて良かった」

 

 聞き覚えのないその鋭い声がセレスタの目を覚まさせるよう耳朶を叩いた。

 え? と一瞬呆けてしまったが、すぐ棒立ちだった自分に気づき、即座にセレスタは身構える。この場所が、“絶対に出てはならない建物”から出てしまっていることに気づき、悲鳴を上げそうなくらいに焦った。

 でも、目の前の銀髪の男。冷たい刃物を連想させる美しい少年は言う、

 

「俺は、トビアス=ジャガンだ。ディミトリエ=ヴァトラー閣下の配下だ」

 

 その一睨みと共に発せられた言葉に、焦燥、そして他の感情や思考を、全て奪い去った。

 彼が、本当に頼るべく御方の部下。

 それが自分の目の前に現れたということは―――

 

 

「閣下がもうすぐお帰りになると報せが来た」

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

「姫柊、セレスタは?」

 

 見つかったか、と聞く古城に、一夜を共にした部屋の中を確かめた。雪菜は表情険しく首を振る。

 

「すみません。どこにも……」

 

 同じくこのワンフロアを捜し回ってくれた夏音もふるふると首を横に振る。

 そして、古城はこのテーブルに並べられた皿の下に隠されていた、メモ用紙を見つけた。そこになんて書かれているかは古城は読めない。しかし、ニーナが読解してくれた。

 

「『ごめんなさい』、じゃな」

 

 それは夢遊病のように自意識を喪失しかけたセレスタ=シアーテが、そうなりながらも古城たちに残した置手紙。

 

「こんなことなら、彼女にも監視用の呪術を掛けておくべきでした」

 

「あいつにも……って、もしかして俺にはかかってんのか、その呪術!?」

 

「先輩、今はそれよりもセレスタさんを―――」

 

 セレスタにはここが安全な避難地であることを教えた。

 ここに留まっている限りは、獣人たちも手出しはできないであろうことも理解してもらえたはずだ。

 なのに、一言も告げず勝手に出ていったセレスタに古城は自分でも意外なくらい虚しさを覚えた。

 落ち込んだ、といってもいい。確かに古城はセレスタの信頼を勝ち得ているわけではない。だが、それなりに打ち解けてきただけに裏切られたというダメージがでかい。

 つまり、彼女の行動は自分たちでは“頼りにならない”と見限られたということなのだから。

 しかし、それでも―――暁古城は決めていた。

 

「ああ、助けるぞ」

 

 圧し殺した声で古城は呟く。

 

「俺はただの高校生(ガキ)だし、<第四真祖>の力なんか知ったことじゃねーし、ヴァトラーのヤツは迷惑だし、古代の邪神にも興味はねーよ」

 

 ギリ、と奥歯を噛み鳴らす。

 今、古城の脳裏に過るは、少女たちの幻影。

 氷の棺の中で眠っていた小柄な吸血鬼、

 液体金属生命体の監視者にされた自称大錬金術師、

 人工の天使にされそうになった聖女な後輩。

 

 ――彼女たちの幸福を願った。

   これは、神頼みなんかではない。

   独善的で、

   矮小で、

   どうしようもなく愚かな自分に向けた、

   ――誓いだ。

     もう二度と、

     彼女たちのような犠牲者は出さない。

     そのためになら暁古城は、

     ――神すら敵に回しても構わない。

 

「だけどなそれよりも何よりもむかつくのは、依代だの生贄だのって、何も知れない小娘(がき)を道具扱いしてる奴らだ。そして、一方通行な謝罪だけして出ていった馬鹿だ! 手を貸せ、姫柊! セレスタの馬鹿を助けるぞ! 絶対にだ!」

 

「はい、もちろん!」

 

 瞳を輝かせて勢い良く頷く雪菜。

 まるで古城のその言葉を望んでいたかのよう。だが流石に立場上その発言はまずいと思ったのか『あ……ち、違……今のは、あくまで監視者として同行する、という意味ですから』と焦って取り繕った顔で、ごびょごにょと口の中で呟く。

 そして、そこで夏音も、古城の前に立ち、抱きあげていたニーナを差し出す。

 

「あの、少しだけお手伝いさせてほしい、でした。院長様がお役にたちますから」

 

「ニーナが……?」

 

 半信半疑の表情でニーナの小さな体を見る古城。身長30cm足らずの液体人形が、この場面で役に立つとは思えないのだが、かくいうニーナ自身も、夏音がどうしてそんなことを言い出したのか、腑に落ちないという表情を浮かべている。

 しかし夏音は、大丈夫でした、と優しげに微笑んで、

 

「セレスタさんは<賢者の霊血(ワインズマンズ・ブラッド)>製のイヤリングをつけてましたから、彼女がどこにいるのか、院長様ならわかるはずだと思いました」

 

「……おお! なるほど、そうじゃな夏音!」

 

 指を鳴らして、夏音を褒めるニーナ。

 そんな言われるまで気づかなかった自称大錬金術師様を見下して、古城は微妙に不安を覚えるも、これで方針は固まった。

 

 

???

 

 

「―――少佐、セレスタ=シアーテがジャガン卿に連れ去られました」

 

「それは本当か、ポーランド」

 

「はっ! その進行先からして、港――<オシアナス・グレイヴⅡ>へと向かっている模様」

 

 <黒妖犬(ヘルハウンド)>に潜伏先を奇襲されたことで、部下二名が負傷。うち一名は、<焔扇>を大破させてしまう始末。しかし、狙撃に成功し、部下たちの回収も成功した。

 それでもまだ動けたことは驚愕したものだが、そのまま<黒妖犬>は我々を追わず、民間人たちに襲撃を仕掛けた『鷲の戦士長』の方へと向かった。

 結果として、『花嫁』の拉致には失敗したが、任務達成を困難にさせる障害のひとつである『鷲の戦士長』はしばらく行動不能にさせる損傷を負わされることとなり、至極厄介な<黒妖犬>もその相打ちとなった。特区警備隊のしつこい追跡の足も遅くなったことだろう。

 ジャガン卿も、『鷲の戦士長』、それから『特殊部隊(ゼンフォース)』が昨夜の激突で損耗が激しいと見たに違いない。急遽、この好機に『花嫁』を回収する。

 

 しかし、それはこちらにも好都合だ。

 わざわざ<空隙の魔女>の拠点から離してくれたのだ。そして、一応は軍属の身として民間人たちの相手は避けたかったところでもあった。

 相手は、吸血鬼の貴族が一体。思う存分にやれる。

 

「アルデアル公の下に行かれる前にセレスタ=シアーテを確保する。

 ブイエ、<病猫鬼(びょうびょうき)>の準備は済ませてあるな?」

 

「はっ、滞りなく、仕込みは終えてあります少佐」

 

 愚かな獣人たち。人類純血政策を掲げる『アメリカ連合国』が、魔族を同士などと高待遇で迎えるはずがない。

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 南宮クロウの瞼が動いた。

 それは自分の意思で動かしているとは思えないほどわずかなものだ。ほとんど痙攣に近い感覚で、ゆっくりと、ゆっくりと、瞼は細く開く。それでいて、数秒は視界が確保されなかった。フォーカスの遠近が揺らぎ、ようやくほぼ毎日見上げる自室の天井を脳が認識する。

 

(……オレ、は……)

 

 現在位置をまず把握させたのは視覚情報ではなくて、鼻から嗅いだ“匂い”であった。それから記憶の検索を始め、途中で中断されたところから察するにどうにか自宅へ帰れたところまで思い出した。

 それから現在の状況の認識をして―――ベッドの横にひっそりと座している後輩の人工生命体に気づく。

 

「あう?」

 

 ピクッと反射的に手が動きそうにあったが、寸前で留めた。後輩はクロウの手を両手で包むように握っていて、危うく寝起きで握り加減を間違えたら大変なところになるところであった。だから、クロウは眠っているときは基本、接触はしないよう彼女の教官でもある主人より言いつけられていたはず。

 はて、本当にどうしたのだろうか。後輩はそんな注意を無視してまで両手で自分の手を取ってるのだろうか。それも随分と長い間。

 

「なにをしてるのだ、アスタルテ?」

 

 だから、真っ直ぐにクロウは問いかけをぶつけた。

 クロウが覚醒してからも、しばらく再起動に時間がかかっているかのようにぼうっとしていたアスタルテもそれでかすかに顔を上げる。

 

「……解答。脈拍を計っていました。それ以外の他意はありません。状態は安定。覚醒を確認。以上、身体活動に問題はないと思われます」

 

 言いながら、その両手を離さないアスタルテ。元気というのならとっととクロウは起き上がりたいところなのだが、かといって後輩の手を振り解くわけもいかず、しばらく付き合うことにした。

 

「ただし、頭が無事かどうかは診断できません。元々アレな先輩の思考が、これ以上ズレていないかチェックしますので、質問にお答えください」

 

「なんだ? オレ、寝起き早々後輩にバカにされたのか?」

 

 まあいいや、とクロウは頷き返し、了承した。

 枕に頭をうずめて、気楽な姿勢を取る。

 そのまま、ふたりはしばらくの間、動かなかった。

 特に無理に促そうとはせず、ただゆっくりと時間に身を任せていた。

 

 

 

 勉強のとき、みたいですね……

 

 と、アスタルテは思った。

 ふたりでいるとき、この少年の学習は基本的に無口だ。

 おそらく机に向かっているときは無駄口を叩くなと主人から厳しく躾けられたのだろうが、わからないことがあれば『これってどういう意味なのだ?』と素直にそれを訊いてきて、解説してる間は終わるまで基本的に清聴を心掛けている。

 テスト前とかで大変なとき、以前までは教官が面倒臭げにも面倒見良く付き合ったのだろうが、現在、家庭教師のポジションは基礎学習知識を高校卒業分は修めているアスタルテのものとなりつつある。

 だから、このときだけは先輩後輩の立場は逆転したものとなって、

 そうした時間が、いつからかアスタルテにとってはお気に入りだった。

 そんな、ひどく暖かで―――触れているだけで、微笑してしまいそうな空気。

 ずっとそれに触れていたいようにも思ったが、アスタルテはかぶりを振って、こう切り出した。

 

「……あの、先輩、昨日のことですが……」

 

「ん?」

 

「ですから、その……昨日の……18時47分56秒に、ミス雪菜の自宅にて、先輩を追い出してしまった一連の出来事ですが……」

 

 息の詰まったような声で、アスタルテが言う。

 実際、人工生命体の少女は詰まらせていたのだ。

 息ではなく、思考を。

 

 ……どうして……制御できなくなるのでしょうか……?

 

 思考構造に、雑音(ノイズ)が混じっていた。

 生体部分の神経系を制御しきれず、不必要な電流が何度となく、人工生命体の高速思考を乱す。千々に乱れた電流(パルス)は心臓を主とした血流にも影響を与えていた。

 それでも、何とか口を動かした。

 

「昨日のことは……私の反応が過剰だったかと判断します。申し訳ありません」

 

「ん。そんな謝ることじゃないと思うぞ……」

 

 対して。

 一件を思い出したクロウは、きょとんと首をかしげてしまう。

 どうして、謝ってくるのだろうかと。

 

「だからな、アスタルテは」

「先輩!」

 

 不意に、耳元で怒鳴られて、クロウはベッドから上体を跳ね起こした。

 

「な、なんなのだ?」

 

「先輩は、どうして……」

 

 人工生命体の少女は、数秒可憐な唇を震わせたが、かぶりを振ってうつむいた。

 

「いいえ、なんでもありません。反応が過剰であったのは昨日の私であると判断しました。故に、同じ過失を繰り返さないよう努めます」

 

「う、ん、ああ」

 

「………」

 

 けしてこちらからは離さない、と。

 小さな手でこちらの手を握りしめて、うつむいたまま、じいっとアスタルテが沈黙する。

 その沈黙がやたらと重くて、クロウもまた口を閉ざした。

 ただ、自分の不用意な言葉がこの後輩を傷つけたのかと思うと、それが棘みたいに裡に刺さっていた。

 

(昨日……って?)

 

 アスタルテに叱られて、マンションから投げ飛ばされたのは覚えている。

 そのときは、この後輩が怒鳴ることもあるのかと単純に至極驚いたが、もっと別の要因もあったろうか。何かを見落としていたのか。

 やがて、躊躇いがちに口を開いた。

 

「質問……してもよろしいですか?」

 

「何だ?」

 

 質問というより、こちらからこの後輩の変調は訊ねたいところであり、自分に問題点があるのならそこをついてくれるのはありがたいことだ、とクロウは思う。

 少しの間口籠ってから、アスタルテはおずおずと言葉を紡いだのだ。

 

「確認……あ、あの……先輩は……ミス凪沙のことを……」

 

 続きは、言葉にならなかった。

 脳の記憶野より再生されたのは、昨日の夕食時で咎められた注意だった。

 叶瀬夏音が発した言葉。

 

 

 ―――『アスタルテさんは、クロウ君のことが大好きなんですから』

 

 

「凪沙ちゃんのことを?」

 

「い、いいいいえそのあのこの―――っ」

 

 アスタルテがぶんぶんとかぶりを振り、藍色の髪が激しく揺れた。

 かああっ、と顔の表面が異様なぐらいの熱をもっていた。自分の顔にそんな機能があったのかと、一瞬考えてしまったぐらいであった。ろれつも回らず、思考も暴走寸前の空回り、こうなったらベランダからこの先輩を投げてしまおうかという衝動に襲われるもしかしそこは宣誓通りに堪えた。宣誓してなかったら真剣に危なかったかもしれない。

 そんな人工生命体の少女の額に、すうと手が伸びたのだ。

 こちらが両手で握っているのとは逆のもう片方の手だった。

 

「熱でも出たのか? それとも、やっぱ無理してるのか?」

 

「……あ、わ、あ、うあ。ひ、否定! 問題ありません!」

 

 石像並の硬直。

 かろうじて、ふるふると子犬みたいに身をよじり、少年の手から逃れる。手袋越しでない実感に触れるのは珍しく、ひどくもったいないような気もしたが、あのまま触れられていると、本当に脳神経が熱暴走してしまったんじゃないかと思う。

 クールダウンと、深呼吸。

 自分の中の、優先順位を確認。

 小さく、頷く。

 結局、口をついた問いは、微妙に変更されてはいたが。

 

「……先輩は……何か、ミス凪沙のことで気にしてられることがありますか?」

 

「………」

 

 今度はクロウが口を噤んだ。

 本当に、驚かされるばかりである。

 暁凪沙が本土への同行を誘った時から、不意に予感したことがあるのだ。そう、クロウが契約を結んでいる<守護獣>から、何か、訴えられているようで。

 ただそれは誰にも――主人にも相談はしておらず、まだ自分の中でもぼんやりとしか形になっていないものだったが、それを指摘されるとは思っていなかったのだ。

 そこまで周囲に悟られるような真似はしてなかったはずなのだが。

 もしやこの後輩はそれで自分が悩んでいるのを見透かして、もどかしく思ってたりしたのだろうか。さっさと答えを出せと急かしたかったとか。

 何を言うべきか迷っていると、アスタルテは淡く微笑した。

 

「言えないようでしたら、そのまま、抱えていてくださってかまいません」

 

「う?」

 

 きょとんとクロウが瞬きすると、アスタルテはこう続けた。

 

 

「私は先輩のサポートをするのが教官より任された仕事です。ご自身の答えを出されるのに時間が必要であれば納得いくまで取るべきです。存分にお悩みください。そして、出した答えに、私は従います」

 

 

 そんなことを、大真面目に、いつもの調子で淡々と言ってきた。

 しばらく唖然として、クロウは後輩を見つめていた。

 

「……ん。わかったけど……それだけ、か?」

 

「……他にもありましたが、優先順位的に、最も確認をしておかなければならないことと判断しました。私の独断偏見にて、先輩の判断を変えてしまったということは、それは先輩をサポートする目的から違えてしまっています」

 

 この後輩は、暁凪沙の同行の件を無理やりに断らせたことを引き摺っていたのだろうか?

 なんだか、肩の力が抜けてしまうというか、そんなことを気にしていたのかと思ってしまうのは変だろうか。

 胸に溜まっていたものが吐き出せて、すっきりしたのか少しだけ背筋が持ち上がった後輩は、そのままじっとこちらを見つめていて。

 

「……、アスタルテ?」

 

「先輩」

 

 しばらくして、後輩は唇をへの字にして呟いた。

 

「……ダメです。いろいろと想定してみましたが、やはりこの権利を手放すことはできません」

 

「?」

 

 眉をひそめたクロウへ、人工生命体の少女は彼にしか聞こえないよう慎重に声を潜め、しかしはっきりと告げたのだ。

 

「先輩は―――ご自身を優先順位の下に置く傾向があります。昨夜もそうでした。私を庇うために、先輩の身を盾とするような真似。私はその判断だけは認めることはできません」

 

 依然と手を繋ぎ止めたまま、人工生命体の少女は少年を見据える。

 青水晶のはかない色の瞳は、少年の素顔をすがるように映していた。

 

「ですから、以前、先輩からいただいた、『先輩が間違えていると判断したときその行動を引っ張らせてもらう』、その権利を放棄しないことを許していただけますか?」

 

「………」

 

 虚を突かれた風に、クロウが言葉に詰まる。

 少しして、なんとなく合わせてこちらも声をひそめて言う。

 

「その権利はアスタルテにあげたんだから、アスタルテの好きにしていいと思うぞ」

 

「了解」

 

 と、アスタルテが頷いた。

 その了承が何よりも嬉しかったというように。

 

「……私の好きに、します」

 

 と、もう一度、今度はとても小さく頷いたのであった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 少年は、考えた。

 考えて、やはりこの結論に達した。

 

 彼は生まれて初めて、己以外の『獣王』と呼べるような存在に遭遇した。

 しかし、あれは絶対の敵。

 あの圧倒的な暴力に頼る在り方は間違っているのだと、あれはあまりに傲慢だと、だから、認められず、怒りを覚えた。

 それを正すために相応しい選択、己の正義を主張できる在り方は何か。

 ひとつ解ければ、あとは全てが連鎖的に紐解かれていく。

 しかし、きっとこれは矛盾していることだろう。

 大切と思うものを守るために、その大切なものを壊してしまいかねない方法。一度は取ったその手段にまた一度―――いや、これから何度も手に染めることとなるのに、不思議と躊躇いはなかった。そうであることが彼女への礼儀だと。

 

 休息の時間。そして思索にこれ以上耽っていられる余裕もない。

 起き上がった少年は、ささっと手伝ってもらいながらいつもの戦装束に着替えると、己で出した答えを後輩に言う。

 

 

「じゃあ、アスタルテ、行くぞ」

 

 

 その言葉を。

 最初、アスタルテは、何を言われているのかわからなかった。言葉の意味を脳が処理しても、それが自分に向けられているものとは思えなかった。

 だが、少年は自分の名前を告げ、確かに自分へ言葉を放っている。

 呼びかけている。

 協力を求めている。

 自分が必要であると訴えている。

 しかし、そこで冷静に淡々と反論してしまう自分は、偏屈であるか。

 

「質問。先輩は、ハンデを課す趣味でもあるのですか?」

 

 力があってもそれ以外の全てが足りていない。戦場に出るべきものではない。そして、戦争を穢してくれた。

 そうあの『獣王』に悉く否定された。一緒にいるべきでない、それが正しいと思った。

 

「一緒についてこないで、どうやってオレの間違いを正すつもりなのだアスタルテ」

 

 ――――――――――――

 

「背中を任せるんだから、来い」

 

 ――――――――――――――――――――――あ。

 

 いつの間にか、自身の身体が震えてることに気づく。

 さらに遅れて、涙を流していたことにようやく気づく。

 体も、心も、魂も足りてないと言われた自身を、この『獣王(センパイ)』は認めてくれた。

 単なる重荷としてではなく、背中を預けられるものと。

 

「……ぁ……。……、命令受託(アクセプト)

 

 胸が詰まって吐き出すのに時間はかかってしまったけれど、しかりと応じられた。

 拒む理由などなかった。

 怯えることもなかった。

 それ以上に裡を占めるのは、喜びだ。力になることができると、ただそれだけの事実が生み出す純粋な喜びだ。

 

 ぴん、と人差し指を立てて、

 

「う。それに、ハンデじゃないぞ。アスタルテは……ハーネスなのだ?」

 

「こちらに疑問で返されましても……提案、ハーネスでしたら、こうしたほうがよろしいですね」

 

 うまいことをいったのだ、とドヤ顔する少年に、アスタルテは冷静に返しつつ回り込んで背中に寄り添う。

 そして、跳び付くよう、首に腕を回し、肩に顎を乗せ、胴に脚を挟み、密着。

 胴輪というのなら胴輪らしく、背中に抱きついたのである。

 

「ん。そうなるのか?」

 

「……肯定」

 

 小さく、切なげな息をアスタルテは飲み込んで、ぎゅっと抱きしめる力を強くする。

 

「それじゃあ、しっかりと掴まっているのだ」

 

 そう告げたとき、すでに戦士の目をしていた。

 

 

 その日、西地区で最も高い建物から港へ一直線に向かう、虹色の天翼を持った飛空物体が確認された。

 

 

 

つづく



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冥王の花嫁Ⅳ

人工島東地区 港

 

 

 港外れの埠頭から見える一隻の船。

 まだ沖合にあるそれは、個人所有としては破格の規模の大型クルーザー―――船名<オシアナス・グレイブⅡ>。『戦王領域』の貴族アルデアル公ディミトリエ=ヴァトラーの拠点とする船だ。

 

 自分を救ってくれた彼に会いたい。

 血みどろの神殿で、絶望の中から救い出してくれた恩人。

 彼が現れなかったら、村の皆は全滅していて、間違いなく自分は殺されていたのだから。

 

 しかし、会いたくない、とも思ってしまう。

 彼に会ってしまえばすべてが終わる、そんな予感がするのだ。この短くも幸福だった夢のような平穏が、忘れていた過去に塗り替えられてしまうのではないかと……

 

 少しだけ、思い出してきたのだ。

 暮らしていた村。

 自分は攫われ、護ろうとした村人は殺された。

 森の奥にある壊れかけた神殿に連れて行かれて、自分を生贄にされようとしたところで―――

 

 

「そこまでだ、ジャガン卿」

 

 

 その声に、セレスタ=シアーテの“血塗れ”の恐怖が蘇る。

 セレスタの腕を引く、冷たい刃物を連想させる美しい顔立ちの少年。その前に立ちはだかる複数の人影。女が一人と男が二人。

 身長2mもの大柄な男、サングラスをかけたものと髭面のものを左右の侍らす、女性。

 モデルような身長とマネキンのような人工的な美貌。毛皮付きの豪華なコートを纏っているも、その下の硬質なまでに鍛え抜かれた肉体が隠されているのが素人目にもわかる。

 

「アンジェリカ=ハーミダ。『アメリカ連合国』陸軍の特殊部隊のお出ましか」

 

「名を憶えてもらって光栄だ吸血鬼。そして、協力を感謝しよう」

 

 双眸鋭くするジャガンに、アンジェリカは不敵に笑む。

 

「感謝、だと?」

 

「民間人の餓鬼の相手は気が重い。それに魔女の巣からセレスタ=シアーテを連れ出してくれたのはこちらの手間が大いに省けた。あとは『戦王領域』の貴族を始末するだけだから簡単な任務だ」

 

「ほざくな、下郎が!」

 

 アンジェリカの言葉に侮蔑の響きを感じ取ったジャガンの表情が怒りに歪む。そんな射殺さんばかりの視線を流し、アンジェリカは左腕を挙げてブイエ、マティスと呼び、部下に、『セレスタ=シアーテを確保しろ。私は、そこの吸血鬼を駆逐する』と命じる。それから左手を無造作に振り下ろす。

 瞬間、ジャガンに、目に映らない巨大な刃が襲う。

 気配を察したが、反応が遅れたジャガンには避け切れない。しかし不可視の斬撃が彼の身体を引き裂く直前、濃密な魔力によって実体化した鋼鉄の土人形(ゴーレム)がその間に現出する。その身を盾にしたゴーレムの鋼の身体が、アンジェリカの攻撃を弾いた。

 

「<崩撃の鋼王(アルラウト)>よ!」

 

 冷ややかに声を響かせるジャガン。突然の不意打ちにも、ジャガンの表情に変化はない。彼の目つきがわずかに鋭さを増しただけだ。

 

「それが、人工義体に魔具を融合させたご自慢の<魔義化歩兵(ソーサラスソルジャー)>の力か。だが、しょせん脳は人間のままなのだろう? <魔眼>よ!」

 

 ジャガンの真紅の瞳が、妖しい魔性の輝きを放つ。それは彼を『魔眼使い』と言わしめた、不可視の眷獣。目を合わせた生体の脳内に侵入し、その意識を支配する。

 だから視線を通わせた時点で、チェックメイト。

 特殊部隊の頭を支配されてもう終わり。

 そのはずだった。

 

「遅れているな。我々の技術はもっと先に進んでいる」

 

 振り下ろした左手―――それを合図に現れた二つの人影がなければ。

 

 

 直後。ザン!! と空を断ち切る音とともに、『血塗れ』の前に何かが立つ。

 

 

 <魔眼>と真っ向から睨み据えるそれは豹頭の獣人であったか。

 

「“魔族を材料にした新兵器”――<病猫鬼>」

 

 <病猫鬼>。

 それはかつて一国の皇帝が使えば子孫四代まで罰すると勅令を出すほどに怖れ、けして陽の目を見ることのない大陸系の禁呪だ。

 虫や獣をひとつの器の中に放り込んで煮詰めるように最後の一匹になるまで殺し合いをさせて“負”の想念を醸造させていく『蠱毒』。

 その中でも最も恐ろしいとされたのが“猫”を材料とするものだ。

 

「光栄に思えジャガン卿。こいつの試験者第一号は貴様だ」

 

「ちっ……人間どもが!」

 

 魔族を材料にする『アメリカ連合国』のやり方に、舌打ちをするジャガン。

 <魔眼>は生体の脳へ干渉して支配する。しかし、あの豹の獣人二体は生きているものに非ず。

 死体。不完全な吸血鬼である『僵屍鬼(キョンシー)』と同じ、死ぬことができずに彷徨う亡骸だ。脳は死んでおり、術者の命にしか従わない。

 人間たちが研鑽してきた技術。その中には道理を踏み外してきた外法がある。

 霊核を食わせていくことで高位の存在へと進化させる<模造天使>も『蠱毒』の儀式。

 高度な自己増殖機能を有する融合型の液体金属生命体<賢者の霊血>に意識を感染(ダウンロード)させるための『錬核(ハードコア)』。

 だが、これは人間から『天使』への昇華でも完全なる『神』の創造でもなく、純粋に兵器を造り出したもの。

 人工義体で改造することで魔具の使用条件をクリアするその考え。

 “村で殺害した同族の死骸を粒状にまで圧縮して固めた核”を食わせることで、『蠱毒』の条件をクリアさせ、<病猫鬼>に感染(ダウンロード)させる。

 

「『豹の戦士』の種族を苗床にしたのだ。腐っていても上位獣人種の潜在能力は人間よりも高い。油断していると貴様も“仲間入り”だぞ、吸血鬼」

 

 騙してはいない。

 この裏切者の若者たちは、『特殊部隊(ゼンフォース)』が戦力として買収したモノ。『アメリカ連合国』のために兵器と改造される『特殊部隊』の同士として迎え入れたのだ。

 

「そんな……っ!?」

 

 セレスタが思わず口元に手を当てて、瞠目する。

 <病猫鬼>の二人、そのただでさえ血の気の薄い青白い顔が、ますます白蝋の如く色を失くしている。息を吐くように開いたままの口から漂う闇色の霧のような魔力も相俟って、その姿は大陸における鬼―――つまりは死者の如く、あまりに精気が乏しかった。

 

 だが、その動きは生きていたときよりも数等早かった。

 港の桟橋で幅を利かせてとうせんぼうをする鋼のゴーレムに迫ると、両手より噴き出すように長大で歪に曲がった鉤爪が生える。肉体の一部でありながら、金属の鋭さと光沢をもったその爪は獣人の腕よりも長い。

 ぐん、と巨爪が振るわれる。

 凄絶なるサイズとそれに似合わぬスピードは、吸血鬼さえも反応できぬほどだった。振り回した余波で港の桟橋が割断され、眷獣の鋼の巨体を大きく抉り飛ばした。

 

「ふざけるなよ」

 

 ぽつり、と鋼の巨人を迂回して躱したもう一体、その眼前に火の粉が落ちた。

 小さな一粒の火の粉が、また一粒、さらに一粒と増えていき、次の瞬間―――爆発的に炎の矢が空から降り注いだ。

 罪深き街ソドムとゴモラを灼いた、天空の火。

 聖書にある大災厄の如き爆撃の雨が、押し迫る豹の獣人を駆逐し、そして特殊部隊をも巻き込んでいく。

 

「獣人の抜け殻になんぞ後れを取るつもりはない! <妖撃の暴王(イルリヒト)>よ!」

 

 頭上にあるのは閃光の化身の猛禽。摂氏数万度の炎熱の魔力。

 燃え盛る火の翼を持った巨体を、上空にすぐに召喚できる状態で待機させていた。『獣王』らに苦杯を舐めらされている炎の貴公子は容赦なく、眷獣を襲わせたのだ

 

「雑魚は消えろ」

 

 ぼた、ぼた、ぼた、と赤黒い何かが落ちる。

 腕だった。

 足だった。

 首だった。

 眷獣の爆裂に吹き飛ばされ、バラバラになった身体のパーツが転がる。

 ―――だが、それにアンジェリカが返すのは失笑。

 

「その程度では、<病猫鬼>は消えん。いや、何人にも消すことはできない。標的を撃滅するために必要な質と量を自動で生産する『不死』と『増殖』が、この兵器の仕様だ」

 

 ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ!! と、泥を啜るような音ともに、それぞれの部分が不気味に脈動すると屹立して―――それぞれのパーツから逆再生した動画のように豹頭の獣人の身体――豹人の影が作り上がった。まったく同じ外観を持つ<病猫鬼>たちが、ジャガンらの周りを囲う。

 貴公子が介入する暇もないほどの、数瞬のことだった。

 

 祀る術者によって使役され、呪った相手に取り憑いては内腑を食い破り、その財産(すべて)を奪い尽くす猫の『蠱毒』<病猫鬼>の呪法だ。それも、虫獣ではなく魔族を、しかも魔族の中でも最上の生命力と感情を有する上位獣人種の『豹の戦士』を嬲り殺しにし、その怨念を呪詛の核としている。単なる『蠱毒』より制御が難しいが、こうして機械化改造技術を用いることで使役に成功し、極めて強力な、いや、“最強の蠱毒”として活用できるのである。

 『旧き世代』の眷獣が猛威を振るった分だけ、<病猫鬼>は数を増やし、物量で押し流す。この呪われた爪牙で斬り裂き押し流せるまで無尽蔵に増殖するのだ。

 

「貴様ら吸血鬼が、魔族の頂点でいられたのはその使い魔に頼る部分が大きい。本人が最強である必要はない。あの<空隙の魔女>も『獣王』を飼い育てたみたいだからな。私にはその時間が取れないので、改造し(つくっ)てみたんだよ」

 

 使役する術者たる『血塗れ』が笑う。

 笑いながら、指を鳴らした。

 

「食わず嫌いはするなよ、獲物は残さず喰らえ、<病猫鬼>」

 

 どっ、と破裂するような音がした。

 いや。

 実際に、破裂したのだ。

 豹人の肉体が、内側から弾け、そこから怒涛の如く尖骨が噴き出した。

 

「ちぃっ!」

 

 先ほど歪に鉤爪を伸長させたように、骨を伸ばす。己の身を破壊する自殺行為であっても構わず、そして、その弾けたパーツから『増殖』することだろう。

 長大した肋骨に咬みつかれるように捕まった炎の猛禽が、無数の骨に串刺しにされる。

 豹人たちの身体より皮膚を突き破って、噴水の如き量で全身の骨を生長させ、一気に針鼠と化した。それも、呪毒が纏わりつく骨槍衾は形のない炎の眷獣をも刺し貫いて、どくどくと脈動している。

 その脈動のひとつずつが、意思を持つ濃密な魔力の塊である眷獣にとってひどく根源的な部分を削っていることも、ジャガンは即座に理解できた。

 

「く……」

 

 焼いても潰しても増え続けて、こちらに死兵の如く迫る『蠱毒』の呪詛に、ジャガンが表情を引き攣らせる。

 魔族でも魔術師でもない兵士が、これだけの使い魔を用意しているのは想定を超えていたのだ。

 肉体を弄繰り回し、兵器に改造する忌まわしい邪法。

 ジャガンは力に神聖も邪悪もないと考えている。所詮どこまで言っても力は力であって正邪は結果によって決められるもの。それも各々が下す価値判断であって、そこに絶対的な正義も悪もない。それが彼の考えだった。

 しかし、貴公子は今、この宗旨に反して、『アメリカ連合国』の技術を邪悪なものと感じていた。ここまで魔族を、踏み躙っていいはずがない。元々、<魔義化歩兵>も気に喰わないものだったが、この<病猫鬼>は無条件の否定と拒絶を『旧き世代』に懐かせるものだった。

 これほどに怒りを覚えさせられるのは、そう、ない。

 

「喰われる前に訊いてやろう。ディミトリエ=ヴァトラーの部下よ、セレスタ=シアーテの身柄をこちらに引渡し、大人しく降参する気はあるか?」

 

「そんな理由はない。ただひとつたりとも」

 

 まだ、この吸血鬼の肉体は一度殺されて再生したばかりで、万全には程遠い。

 されど、どんな状態であろうと、相手が何であろうが、座して死を待つつもりはない。

 鋼の土人形が鉤爪に切り刻まれながらも、炎の猛禽が尖骨に磔にされようが、敵を薙ぎ払い、焼き払う。

 

「清々しい。そこまで忠ある者は、魔族と言えど、一兵士として尊敬に値しよう」

 

 それを、『血塗れ』は純粋に、本当に純粋に、讃えるように拍手を送る。

 しかし、と付け足した上で、

 

「それでも『不死』と『増殖』の物量は、全てを押し流す」

 

 十を、いいや百を。

 呼応するように桟橋を埋め尽くす使い魔の群を従え、『血塗れ』は小部隊の隊長から一軍の将へと切り替わる。

 必要なだけ必要な戦力を増強する。どれだけ眷獣を召喚したところで、膝を屈する定めは決まっているのだ。

 

「使い魔を不能にされた吸血鬼と言うのは翼をもがれたチキンのようにひどく狩り易い獲物だ」

 

 ―――ジャガンの隙を衝いて、十六の籠手が出現する。将棋で相手陣地に持ち駒を多数置いてしまうかのような、攻め手。<神託照準器>。『花嫁』の拉致を命じられた『血塗れ』の部下が、<病猫鬼>の陰に隠れながら機を窺っていた。無論、ジャガンはそれも警戒していたが、しかし『不死』と『増殖』の魔族素材の『蠱毒』は彼をしても手に余る―――

 

 

「<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>!」

 

 

 その瞬間、前触れもなく出現した巨大な稲妻が、眩い獅子の姿に変わったかと思うと、籠手の魔具を蹴散らして、セレスタ、そしてジャガンを救い出した。

 

 

 

「セレスタ―――!」

 

 息を切らしながらも、眷獣を喚び出したその人影。セレスタはそちらへ振り返り、固まった。

 

「なんで……」

 

 もしかしたら追ってくるんじゃないかと思っていたが、まさか本当に助けに来てくれたなんて。

 それに余程必死に自分を捜し回ってくれたことがわかる。ほんの少しだけそのことをうれしく思ってしまう自分がいることを、不本意ながら認めないわけにはいかなかった。しかし今はその感情に蓋をしてセレスタは、この闖入者――暁古城を睨む。

 

「なんできたのよ!? ストーカー!? あんたって本当に変態よね!?」

 

「うるせぇ! おまえこそどういうつもりだよ!? 一人で勝手にどっか行って、こんなピンチになってるじゃねーか!?」

 

 刺々しく叫ぶセレスタに、古城が怒鳴り返す。

 

「あ、あんたには関係ない事じゃない!」

 

「関係ないことあるか、馬鹿!」

 

「ば、馬鹿……!? 今、馬鹿って言った!?」

 

「俺は俺が助けたいからお前を助けに来たんだよ! いいから黙って助けられろ!」

 

「なにそれ!? わけわかんない!」

 

 吹っ切れた様子の古城の剣幕に気圧されながらも、セレスタは先に目を逸らしたら負けと睨みつける。それにやれやれと気怠く嘆息を洩らして、セレスタ以上に鋭く、屈辱に震えながら睨んでいる苛烈なる炎の貴公子へと目を向けた。

 

「暁古城、貴様!?」

 

「箱入り娘を押しつけてきたかと思ったら、今度は無断で拉致しやがって。文句があり過ぎて困るくらいだが、今は助けてやるよ、ジャガン」

 

「俺は貴様らに護衛を任すなど最初から納得がいってなかったのだ! むしろ貴様の助力など邪魔だ! そんなものがなくとも俺ひとりで……!」

 

「負け惜しみかよ、人攫いの口先男……」

 

 暁古城――新たな吸血鬼の登場。

 アンジェリカ=ハーミダは、首に埋め込んだ通信機に向かって、密やかに命じる。

 

『新手の吸血鬼だが、民間人の餓鬼だ。会話に気取られている今が好機だ。やれ、ポーランド―――!』

 

 『特殊部隊(ゼンフォース)』は、火力支援のため狙撃手一名を後方待機させている。

 眼前の『旧き世代』よりも、濃密な魔力。その宿主たる民間人の少年には、心当たりがある。世界最強の吸血鬼―――<第四真祖>。

 しかし、こちらには魔具の他に『不死』と『増殖』の特性を持った最強の蠱毒<病猫鬼>がある。

 それに、不滅の真祖を滅ぼすことはできなくとも、一時的に力を削ぐことができる。それを知っていたからこそ、『特殊部隊』は彼を敵に回すことを恐れず、民間人の餓鬼扱いをすることができた。狙撃によって彼の心臓を潰してしまえば、力は封じることはできる。

 この吸血鬼潰しはもう何度も任務でこなしており、もはや作業も同然だ。ポーランドならば、あの間抜けに突っ立っている吸血鬼の心臓をピンポイントで撃ち抜くことだろう。

 だが、魔弾の射手の心臓を撃ち抜く精密狙撃が、暁古城を仕留めることはなかった。

 

「テメェらのことはクロウから聞いてるよ。俺の後輩を狙撃してくれたようだな」

 

 古城の周囲に、光が生じた。それは美しくも巨大な宝石の壁だった。

 狙撃手が放った魔族殺しの弾丸は、白く透き通ったその壁に触れた瞬間、鏡映りする光景の向こうに吸い込まれるように消滅した。同時に宝石の壁も砕け散り、弾丸ほどの結晶へと変わると、数百mの弾道距離を逆戻りして、埠頭の先にある灯台―――そこに潜んでいた狙撃手を撃ち抜いた。

 不死の呪いの『報復』を司る大角羊――『一番目』の<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)>だ。

 <第四真祖>が従える眷獣――破壊的で傍迷惑な災厄の化身の中でも、“比較的”温厚な手段が取れ、守護に向いた絶対防御。

 後輩が撃たれたことを聞いた古城は狙撃されることを警戒して、あえて最初に自分だけが前に出て“カッとなって飛び出してきた民間人”という恰好の的役(おとり)を演じることで、どこから来るかわからない―――しかし、“来るタイミングはわかっていた”狙撃を誘った。そして、狙撃を撥ね返し、厄介な狙撃手を無力化することに成功したのだ。

 

「セレスタさん!」

 

 古城のすぐ隣に張り付いていた槍を持つ少女。

 その一瞬先を視る――霊視能力にて、狙撃の瞬間を古城に教えた姫柊雪菜。

 雷光の獅子が蹴散らして、また数を増やした<病猫鬼>の群に、獅子王機関の剣巫は破魔の銀槍を前に突き出し駆け抜ける。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 『不死』と『増殖』の最強の蠱毒。

 それを薙ぎ払う一閃は、あらゆる魔性を消し去る清浄なる神気。単純なる破壊力では『旧き世代』の眷獣に劣っていても、蠱毒を祓う属性とその純度は、数段凌駕する脅威であった。

 不死の真祖をも殺し得る『神格振動波』は、<病猫鬼>の絶対の計算を崩し得る。

 実際、アンジェリカの顔も、『蠱毒』の天敵と認めざるを得ずに歪んだのだ。

 

「邪魔をするな、小娘!」

 

 アンジェリカが放つのは最初にジャガンに攻撃したものと同じ、不可視の斬撃。

 目に映らぬ巨大な刃を、雪菜は銀色の槍で受け止める。魔力で紡がれた『血塗れ』の刃は、魔力を無効化する『神格振動波』に触れた瞬間、霧散。されど、斬撃が生み出した運動エネルギーまでは消し切れず、防御した反動で雪菜はそのまま数m近く吹き飛ばされてしまう。

 どうにか着地し、すぐさま体勢を立て直した。でも銀槍を握った両手は痺れたまま。透過する相手は同級生との組手訓練で慣れているにしても、霊視をもってしても見切れなかった不可視の斬撃は驚異。しかもその威力は、単純な投げナイフなどの投擲武器とは桁違いだ。処刑人が振り下ろす、斬首の斧のような重々しい一撃だった。

 

「ほう……私の刃を防ぐか。民間人にしては、中々やる」

 

 雪菜に思考させる時間を与えず、アンジェリカは続けて斬撃を放つ。

 見えない攻撃を<雪霞狼>の結界で捌きながらも、反撃までは行かず、殺し切れなかった衝撃で、雪菜の軽い体が再び弾き飛ばされた。受け身こそとれていても、じわじわと全身にダメージが溜まっていく。

 雪菜の経験の中にこれとよく似た技を使う相手がいたが、その共通した雰囲気をもつ『轟嵐砕斧』と呼ばれていた攻撃よりも、『血塗れ』の左腕の斬撃は威力が格段に上だ。直撃すれば真祖の先輩でも危うい事だろう。

 

「姫柊っ!」

 

 真祖の牽制を任された籠手使いのマティスが指揮する<神託照準器>に邪魔をされて、思うように身動きができない古城。吸血鬼の動体視力を上回る速さで動き、人工義体の自動回避によって攻撃が避けられ、そして、隙を見せれば弾丸を全方位からいつでも放ってくるいやらしさ。高校生にはない、歴戦の兵士が身に着けた、敵を斃すのではなくその行動選択に制限が掛けるための戦術だ。それに、ここで眷獣を突撃させれば、雪菜をも巻き込みかねない、また、せっかく減らした『蠱毒』がより数と力を増しかねない。

 ジャガンも<病猫鬼>の相手で手一杯だ。

 

「ブイエ、やれ!」

 

 もうひとりの特殊部隊の兵士、サングラスの男がこれまでの戦闘ぶりから雪菜に剣巫の霊視能力を持っていると理解して、小型のサブマシンガンを向けた。

 一瞬の先を視る相手には、狙撃で不意打ちを狙うよりも、先読みできても避け切れない弾幕を浴びせるのが効果的な戦法だ。『神格振動波』の結界も、魔力によらない実弾は防げず、たった一発でも当たれば、人間の巫女には致命傷となりうるのだから―――そこで予期せぬ行動に出たものがいた。

 

「待って!」

 

 セレスタが大きく弾かれた雪菜の下へ駆けつけて、彼女を護るように両腕を広げた。彼女に直撃することを恐れて、ブイエはサブマシンガンを構えたまま動きを止めた。

 

「やめて! あなたたちの目的は私なんでしょ!? だったら―――」

 

「セレスタ! 戻れ!」

「ダメです、セレスタさん!」

 

 傷つくのも構わず古城が籠手の包囲網を強引に押し破る。同時に雪菜もセレスタの前に飛び出そうとした。

 瞬間―――

 

 

「防護モード。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先>」

 

 

 人工生命体を背負う銀人狼、というような増援二人組が空から降って参上した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――着地をする直前、吼える銀人狼。

 大気を震わせ、衝撃が走り抜ける。

 

 古来、犬の咆哮には魔を祓う力があるという。

 

 銀人狼の咆哮には指向性を帯びた『神格振動波』が含まれている。その神気に打たれ、<病猫鬼>の群がラグが走ったように像が揺らいで、退く。

 そうして、空いたスペース――セレスタ=シアーテと『特殊部隊(ゼンフォース)』の間に割って入った。

 

「クロウ! ……それにアスタルテも!」

 

 背中にぴったりと言うかべったりと蒼銀の法被(コート)の下に潜り込んで密着して――いわゆる“二人羽織”で張り付いているメイドに驚きつつも、増援に古城に余裕が生まれる。

 それとは反対に、『特殊部隊』には焦燥が生まれた。

 

「<黒妖犬(ヘルハウンド)>、またしても……!」

 

 サングラスの男ブイエはサブマシンガンの引き金を引く。

 ずば抜けた身体能力の情報から推測して、相手は銃弾程度見て躱せてしまえるだろうが、避けようとすれば、背後の剣巫の少女へ当たる位置だ。

 硬い音が鳴った。

 人狼の肌に、弾丸が弾かれた音だった。

 その身に纏うは、生体障壁。しかし、今のそれは虹色に揺らいでいた。

 

「アスタルテ、忍法花吹雪の術なのだ!」

 

「批評。アドリブを要求された上に具体的な指示とはとてもいえるようなものではありませんが、しかしながらわかりやすい先輩らしいセンスの技名です。減点5にしておきます」

 

「うぅ~、何か気が抜けるから、ダメ出しは後にしてほしいぞ」

 

「ならばシリアスな対応を心掛けてください―――付与せよ(エンチャント)、<薔薇の指先>」

 

 言いながら、霞んで見えてしまうほどの迅さで縦横に手を動かす人狼の腕。

 放たれるのは、霊弓術。だが、いつもの棒手裏剣と尖った形状ではなく、薄く、丸みがある、花弁のようで、それも虹色に煌めく。

 それも花弁は、最短距離(ストレート)ではなく、色付けされた影響か直進だけでなく横にスライドしたり、上に上がって落ちたり、大きく斜めに曲がって見せたりと七色の変化を魅せる。それぞれが異なる軌跡を描き、<魔義化歩兵>の逃げ場を抉り取る。必中ではなく、三次元的に標的を追い詰める変化をつけた投法。けれど、人工義体の自動回避機能が反射的に変化を見切った機動を見せ―――直撃した。

 

「なっ!?」

 

 花弁が、他の花弁にぶつかり―――ベクトル軌道が変わり、さらに加速/減速したのだ。まるでスーパーボール同士が当たったかのように。<魔義化歩兵>の軌道予測の計算結果を覆す。三次元的に追い詰めるではない、タイミングまで不規則に狂った四次元的な制圧だった。ライフル弾程度の攻撃には余裕で耐える<魔義化歩兵>であるが、花弁の威力はその兵士たちを怯ませるだけの威力はあって、それよりも『神格振動波』を帯びている霊弓術は、銃火器とは違い、不浄な『蠱毒』にも決定的なダメージを与える。

 その場から一歩も動かず只管に花弁を放つだけのワンパターンな攻めだが、着実に『特殊部隊』の戦力を削り取っていく。

 

「ちっ、ふざけた真似を!」

 

 アンジェリカが不快気に唇を震わせた。

 これ以上の戦闘は無益。そう判断した『血塗れ』は、即座に戦術目標を修正した。

 敵の殲滅及び目標の奪取から一時撤退へと。

 

「撤退だ。ブイエ、マティス。<病猫鬼>を“封呪解除(シールパージ)”する」

 

 部下たちにそう命じて、アンジェリカ=ハーミダが跳躍する。

 機械化した肉体の身体能力にものをいわせて、港外れにある倉庫の屋根へ着地して、すぐ彼女の姿は見えなくなった。彼女たちの部下もすぐ撤退を始める。

 そして―――

 

「これって、まさか―――!?」

 

 ッッッボン!!!!!! と言う轟音が炸裂した。

 <病猫鬼>の足元が溶け出したように広がり、全方位へ漆黒の闇が舐めた。港の桟橋、だけに留まらず海にまではみ出しては瞬時に呑みこみ、己がテリトリーへと変貌する。ざわざわ、がさがさ。まるで海そのものが不快な陰口をたたくように不自然な波を起こして蠢き始める。

 真っ黒な波飛沫を上げて、脈動する世界の中、豹人の影、“そのすべてが巨大化を始める”。

 上位獣人に許された、<神獣化>。

 

 <病猫鬼>は、危ういからこそ、制限が掛けられていた。

 その肉体はプラナリアのように別れたところから復元して、内側から突き破るほどに骨が伸長してはそれを攻撃に転用することができているが、『不死』と『増殖』の特性は“過剰すぎて”、どれくらいまで制御できるかわからないのだ。

 特性が暴走した挙句は、存在の維持ですら難しくなり、最悪は術者に牙を剥く可能性がある。制御不能というのは、兵器として失格。だから、増強される“量”と“質”の内、“量”に枷はしないが、“質”は、御せると判断していた獣化形態にまで成長を抑え込んでいた―――封を今、外した。

 

 百もの神獣が暴れる。想像するだに恐ろしい地獄の如き光景が、ここに現出しようとしている。

 

「―――いや、こいつらは脆い。オレと姫柊で攻撃すれば、膨らみ過ぎた風船みたいに簡単に割れるのだ」

 

 銀人狼がセレスタを庇う剣巫の横に立つ。

 しゅう、と呼吸を整える。

 独特のリズムに変じた呼吸と共に、銀人狼が一段大きくなったかのように見えた。

 

「古城君、こいつらを外へ出さないように囲ってくれ」

 

 いつもの能天気な口調と打って変わった、静かな声だった。

 言いながら、ゆっくりと腰を落とす、

 ありとあらゆるベクトルを、己の中で飼い馴らす。

 アスタルテの人工眷獣から『香纏い』する『神格振動波』をより研ぎ澄まされる。

 

 目指すべきは、あの“黒ずむほどに”圧縮して固められた生体障壁のよう。

 “匂い”を纏った巨人の影を、銀人狼のサイズにまで圧縮して固めて―――<薔薇の指先>を己の生体障壁へと練り込ませる。

 やがて不安定な虹色に輝いていた生体障壁が、色を変えて、安定した白金色(プラチナ)に成り変わる。剣巫が振るう<雪霞狼>の『神格振動波』と同等の純度にまで神気を濃密。

 

「<神羊の金剛>!」

 

 クロウの意図を察して、<病猫鬼>が流出しないよう、宝石の障壁で囲う。それを見て、

 

 

「姫柊、フォーメーション雪月花なのだ」

 

 

「はい?」

 

 ……銀人狼の発言に背負わされている人工生命体は、大きく零した嘆息をその耳の内に吹きかけた。犬的にふぅっと耳をやられるとぴくぴくっとくすぐったさに条件反応で身が震えてしまい、折角、薄皮一枚にまで絞った硬気功が乱れた。

 

「アスタルテいきなり何をするのだ!?」

 

 抗議してくる人狼を無視し、ぽかんと唖然させて、あれ? そういう取り決めをした覚えはないような……と真剣に考え込んでしまっている雪菜へアスタルテは謝辞を述べる。

 

「先輩の代わりに謝罪します。ミス雪菜、大変に申し訳ございません。別に緊張を解そうとかいう意図は皆無で―――ご在知の通り、これが素なのです、残念ながら」

 

「やっぱりそうですよね。いえ、やりたいことはなんとなく伝わったんですけど」

 

「重ねて謝罪」

 

 先輩が間違えたら後輩が正す、という権利と言うよりもはや義務として、真面目なアスタルテ。

 後輩が自分だけに辛口な気がする、と人狼は先輩の威厳の行方についての悩みを抱えて唸る。

 こうして間にも、影たちの<神獣化>は続いており、ついに3mにまで達しようとしている。

 

「ねぇ、あなたたち、どうしてそんなに落ち着いていられるのよ!?」

 

 たまらずセレスタが叫んだ。

 頽れているジャガンは苛立たしげに睨みつけていて、古城も同情するように嘆息して、アスタルテが淡々とした口調で昨日来たばかりの少女へ教える。

 

「質問解答。それは、この程度の危機が“日常茶飯事”だからです」

 

 そして、急ぎ改めて『神格振動波』を薄皮一枚にまで練り絞って展開したクロウは、雪菜の祝詞に耳を傾けて、呼吸を合わせる。

 

 狼の獣王と狼を獣祖とする異邦の宗派の生贄にされた巫女。

 その力の親和性は―――この上ない相乗効果を生むほどに相性がいい。

 

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る。破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 

 『神格振動波』同士の共鳴。そして、『七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)(プラス)』に古代の宝槍とともに核に埋め込まれた“牙”が、銀人狼と共振。

 限度など知らず留まることなく高まる力は、粉雪を舞い降らすよう、花弁を舞い上げるよう、神気の結晶を場に散らして、闇に塗られた空間を漂白。やがてはその刃と爪へ『過重神格振動波』を纏わす。

 そうして、白い軌跡が唸り、黒い病原を断ち切る。始まった銀槍と銀人狼の無双乱舞に、砂時計がすべて落ちる頃には、“神獣の影”の百人斬りを達成していた。

 

 

 

 港に停泊した船舶デッキより、拍手が響く。

 

 

「おみごとだよ、僕の“恋敵(ライバル)たち”。いつ出番が来てもいいように張り切ってたんだけど、助けに出る幕がなかったネ」

 

 

回想 混沌界域

 

 

 その日、その時、一羽の“鳥”はまさに死にかけていた。

 実際、朽ち果てた地方都市の残骸、その往来で仰向けのままであれば、“鳥”は日射に炙られて干からび、いずれその生涯は幕を下ろしたことだろう。

 ただ太陽だけを仰ぐ。生命を育み、そして今、己の命を奪おうとする元凶を、睨む。

 指一本も動かせないのに、目玉とか鼻とか肌とかの感覚がとろけて消えていく、その寸前に、陰がかかったのだ。

 

 いや、これは新たな太陽が現れたというべきか。

 

『ほう……これほどの逸材がこんなところに転がっていたとは。太陽を射殺さんばかりに目を離さぬ姿勢は実に面白い』

 

 渇き切って黄色く霞む視界に、突然ひょっこりと顔を覗かせたのは、妙に人懐こい笑みを浮かべた一人の少女だった。朦朧とする意識の中でその少女の朗らかな声だけが遠く、しかしはっきりと響く。

 

『ここで果てるのが貴様の望みとあらば無理強いはせんが、このまま骸にするのも忍びない。どうじゃ、(ワタシ)のものにならぬか?』

 

 “鳥”はそれに応えようとしたが、声を出すことはおろか呻き声を発することさえできない。ひび割れた嘴がほんの微かに震えるだけだ。

 

『よいよい。ただその(まなこ)を見せるがいい。それだけで貴様の心中は知れる』

 

 少女の声はあくまで穏やかで、超然としていた。

 そして“鳥”はただ強く目に力を篭める。

 

 ―――生きたい。

 

 その途端、“鳥”の目からなけなしの涙が一筋零れ落ちた。

 

『よかろう、ならば貴様は今より余のものだ』

 

 少女はそう言ってにやりと笑うと、天を覆い隠す暗雲を喚び出して、“鳥”へ慈雨を降らす。

 

『余の望むことはひとつ。強くなれ。強く、強く、強く、そして、いつか余の心臓を抉り抜くほど強くなって……余を満足させよ』

 

 程よい雨水の冷たさを全身で感じながら少女の言葉を聞き届けて、“鳥”の意識はぷつりと途切れた。

 

 

 

 災厄と破壊をもたらす邪神<冥き神王(ザザラマギウ)>。

 その正体は、実体を持たないエネルギーの塊で、この極東の『魔族特区』やとうの昔に滅んだとされる『シアーテ』のような“龍脈の要”に生まれるもの。

 龍脈の力は、都市を繁栄に導くといわれているが、過剰な力というものは、時として災厄を招く。その龍脈という強大なエネルギーが地形の問題で流れ出すことなく“瘤”のように蓄積される。

 これをそのまま破裂させてしまえば、はたしてどうなるか? 実例を挙げるとすれば、一夜にして海に滅んだとされる大西洋の王国(アトランティス)。たかが外れた力は暴走し、栄えた文明を滅ぼしてしまう。

 その大災厄を防ぐために、古代中米の都市国家『シアーテ』を統べていた、獣人神官の末裔――世界で最も旧い獣人種族のひとつが、龍脈のエネルギーを実体化させる魔術装置を組み込んだ神殿を築き、龍脈の力を制御する儀式を取り仕切ってきた。

 吸血鬼の眷獣と同じ。濃密な魔力はそれ自体が意思をもって実体化して、宿主の命に従う。つまり、制御されるのだ。

 獣人神官たちは、邪神の召喚を望まない。役目は邪神の封印。熱帯雨林の奥地で、千年以上、誰に知られることも讃えられることもなく、荒ぶる神を鎮めてきた。

 かつては神の使いと崇拝された獣人―――しかしそれを地に堕とした賊がいる。

 

 『アメリカ連合国』、敵国の人間兵。『混沌界域』の内乱に関与し、反乱軍に武器や資金を与え、民衆を扇動し―――

 

 

『『鷲の戦士長』が、反乱軍のリーダーだ。『黒死皇派』と同じ、『混沌界域』を獣人至上主義で支配するつもりだ』

 

 

 ―――『獣王』に嫌疑をかけた。

 

 『アメリカ連合国』がどれほど裏工作に長けようとも、皇女(ブライド)がいる。きっと愛すべき国民に血を流させる事態となれば、皇女は混乱をより大いなる混沌で呑み込んで、賊を一人残らず全滅させてしまうことだろう。

 しかし、かつて数百万人を虐殺した邪神<冥き神王>を、吸血鬼の真祖への対抗手段として、戦争の道具に使われてしまったのならば?

 第三真祖は古の邪神になど、負けはしない。大災厄が相手であろうが、皇女は天災そのものの破壊力を備えた27体もの眷獣を操る。だが、その強大な災厄同士がぶつかれば、余波だけでも国に大打撃を与えることだろう。

 そうなれば、国民を愛する皇女はお悲しみなる。

 国政はすでに評議会に任せてしまっている皇女であるも、他の二真祖とは違い、市街に出ては、民と語り合うお方だ。そのような事態には断じてさせてはならない。

 

 そのために、<冥き神王>に見初められた『花嫁』――セレスタ=シアーテを処刑する。

 孵化の時を待ち侘びている邪神の『卵』を『花嫁』は抱いている。『アメリカ連合国』はそれを狙っている。

 そして、横槍を入れてきた『戦王領域』のアルデアル公が、『アメリカ連合国』の殲滅に集中するために、龍脈から切り離されると『花嫁』と共に自己崩壊する『卵』を、『花嫁』を仮死状態にすることで、極東の『魔族特区』へと避難させた。

 戦闘狂(バトルマニア)の行いは結果として、『混沌界域』内の賊を殲滅することに繋がり、こちらとしても好都合な展開となった。

 

 だから、あとは<冥き神王>の降臨を阻止するために、『花嫁』を処刑する。

 

 邪神の依代であるセレスタ=シアーテを狙う『アメリカ連合国』のような輩がまた出ないとは限らない。そして、『花嫁』が生き続ける限り、いつか必ず『卵』は孵る。何年先か、何十年先か不明だが、龍脈の破壊的なエネルギーを限界まで溜め込んで破裂する。

 しかし、今ならばまだ“『花嫁』を殺す”ことで、蓄積された神気を龍脈へと還すことができる。

 獣人神官が邪神を長い眠りにつかせてきた方法は、『花嫁』の生贄だ。

 “過去の記憶を奪い”、『卵』という“邪神の素体”を受け入れる依代として純粋培養で獣人神官は歴代の『花嫁』たちを育て上げて、偽りの幸せだけを思い出に抱かせて―――殺す。

 異世界――高次空間に存在する『卵』には手は出せないが、『花嫁』ごと殺してしまえば、殻が割れてしまうように『卵』の中身は限界にまで溜め込まれる前に放出させることができる。

 その際に、『卵』の中の神気が溢れ出してしまうだろうが、世界への影響も、精々大規模な火山噴火程度で済み、またここは海上に浮かぶ人工島だ。『混沌界域』が滅ぶことも被害を受けることもない。処刑場には好都合な場所だ。

 

 『花嫁』も、このまま放置したとしても『卵』が孵って<冥き神王>が出現すればその衝撃に耐えきれずに消滅する、それ以前にどれほど優秀な霊能力者であろうと神を受け入れるほどの器は持ちえないので、肉体よりも先に精神が崩壊する。

 どのみち死ぬ定めであるのならば、自我を保っている今のうちに『花嫁』を殺してやるのが慈悲だろう。幸福な幻術(ユメ)もかけてやることができる。

 獣人神官は、今はもう部族として壊滅し、裏切り者まで出る始末、もはや邪神封印の儀を任せることはできない。

 故に“処刑人”が代行し、大災厄の封印をもってして、己が潔白であることを証明する。

 

 

人工島東地区 港

 

 

『やあ、古城。期待通りセレスタを護ってくれたようだね。流石は僕の愛した“吸血鬼(ヒト)”だ』

 

 ディミトリエ=ヴァトラーの帰還。

 アンジェリカ=ハーミダの襲撃を退かせた後に堂々と現れた黒幕に、巻き込まれた<第四真祖>古城は説明を要求した。すると、ヴァトラーは自身が所有するクルーズ船<オシアナス・グレイブⅡ>へと場所を変えようと提案する。戦闘の痕で損壊した桟橋は不安定なことこの上なくて、長話を聞くには不適切な場所であった。

 それにアンジェリカ=ハーミダに狙われているセレスタにとって、恩人の拠点でもある<オシアナス・グレイブⅡ>は、絃神島で最も安全な場所であるはずだ。『波朧院フェスタ』にて、『竜殺し(ゲオルギウス)』の魔導犯罪者と死闘を繰り広げてデッキの一部が破壊されていたはずだが、もうすでに補習は終えており、より絢爛な装いとなっている。それに『真祖に最も近い』と言われ、誰もその評に異を唱えない『戦王領域』の<蛇遣い>の拠点だ。いかにアメリカ連合国陸軍特殊部隊であっても迂闊に攻め入ることはできない。

 して、彼に憧れを抱いていたセレスタはというと、装いとか髪とかが乱れてるのを気にしたり顔を真っ赤にするほど恥ずかしがったりと前に出ることができず、古城を壁にして隠れながらも尊顔を窺う……と突然の登場に心の準備が間に合わなかったようである。

 

 そして、逃してしまった『特殊部隊(ゼンフォース)』。

 『アメリカ連合国』の情報部が絃神島に有する、民間企業に偽装した拠点は昨日のうちに粗方場所を特定してあり、主人の<空隙の魔女>が率いる特区警備隊(アイランドガード)が潰しているはずだ。

 これでもう彼女たちは長続きはしないが、任務を果たせぬまま絃神島を離れることはないだろう。

 また、太陽はもうすぐ頭上に昇る……

 

 

 

「そろそろだな」

 

 ―――逃げた『特殊部隊』を追う。

 クロウとアスタルテは、特区警備隊を指揮する主人教官のサポートとしてこの行動を選択し、セレスタについていくのは、暁古城と姫柊雪菜に任せた。

 でも、アンジェリカ=ハーミダの“匂い”を辿って、『特殊部隊』を追い掛けずに、彼らは港の大きな桟橋の上にいた。

 

 ヴァトラーの部下の誰かが、人払いの展開をしているせいか、それともアンジェリカたちが、事前に通信を妨害するなどの対策をしていたのか、あれだけ派手な戦闘が行われたにもかかわらず、特区警備隊が埠頭に駆けつけてくる気配はなくて、ふたりきり。

 

「戦力確認。あちらは真祖の眷獣を有し、そして、それは昼の刻に最大限の力を発揮するものと?」

 

「自己申告だけどな。夜中でも古城君をぶった切って回復にしばらく時間がかかったくらいだったぞ」

 

 結果としては、あれは引き分けであったのだろうが、<第四真祖>と結託しても仕留めきれなかった。それも切り札を温存されたまま。

 戦闘力、武技術、経験値の三つすべてが、こちらの上を言っているだろう。あれは戦士としての心技体の完成形のひとつに至っている。

 

「敗色濃厚ですね。どうもありがとうございました。先輩との月日は短い付き合いでしたが、

その分、経験値的にはかなり濃密なものだったと思われます。加点と減点のアップダウンの変動は特に」

 

 背負っていて見えないが、おそらくまだ見ぬあの世でも夢想するかのように目を閉じているだろう。

 遺言のような愚痴をこぼすとは何とも悲観的と言うか、

 

「うー、勝手に敗北を決めつけないでほしいぞ。ちゃんと勝てる要因はあるんだぞ」

 

「説明要求。その勝てる要因とやらを教えてください」

 

 そうだなぁ、としばし考えて、

 

「うん。オレの方が足は速いみたいだぞ」

 

「逃げ足が速いのはいいことです」

 

「ぐぬっ。じゃあ、オレの方が探し物が得意なのだ」

 

「でしたら、すぐ必勝策を見つけ出してくださいませんか」

 

「……なら、オレの方が必殺技名がセンスある。フォリりんのお墨付きなんだぞ。恰好よく叫ぶと気合が入るのだ」

 

「……………吃驚。添削を入れ過ぎて朱墨塗れな頓珍漢な発言に、そこまで自信があったとは思いませんでした。こちらは毎回気が抜けてしまうのですが」

 

 言の葉により、見事な三段突きである。背中より心にズバズバと刺さる刃に、クロウは消沈して肩を落とす。

 

「こういうときって、後輩は先輩をよいしょして励ましたり応援したりするものじゃないのか?」

 

「現在、先輩への対応は模索中ですが、全肯定するより、否定を入れた方が先輩のためになると判断しています。これが私なりの先輩への発破(エール)です」

 

 調子に乗らないように戒めるスタイルを確立したようだけど、こちらの言を否定するのをひょっとして楽しんでないかこの後輩。

 

「アスタルテはオレのこと嫌いなのか?」

 

「…………………………否定」

 

 溜めが長いのがクロウは不安になる。

 背中を任せた。なのに、こう背中を押すのではなく、(けつ)を蹴ってくるような対応を不満に思うのは、贅沢なのか。

 しかし、その後輩からすれば、こうして逃げずに密着している態度から察してほしいと文句を言いたいところである。

 

「きたな」

 

 呟いた直後だった。

 ざざざ……と、港周囲の木々が揺れるような音が聞こえた。

 いいや、厳密には違う。

 地下鉄のトンネルの中を列車が通るとき、駅のホームに人工的な風が発生することがあるだろう。あれと同じだ。あまりにも巨大な運動エネルギーが近づいているため、周囲の景色そのものが揺さぶられているのだ。

 ざざざザザザザザざざざざざざざざざザザ!! と。

 巨大な気配に応じるように、メイドを背負う銀人狼は気息を整えた。

 

「アスタルテ、お願いだから最後にちょっと励ましの言葉をくれ」

 

「―――ご武運を。先輩の勝利を信じております」

 

 相変わらずの無感動な口調だけれど、不確定な情報を口にして応じてくれたのがクロウは物珍しくて、つい眉が上がって、微かに笑う。

 だが、後輩への返答を考える時間は残されてなかった。

 莫大な気配の正体が。

 人狼と同じ『獣王』が、容赦なく襲撃にやってくる。

 

(遠距離からの、攻撃か……ッ!?)

 

 第一射。

 それは、狙撃というよりももはや砲撃に近かった。

 ドッゴォ!! という轟音が炸裂する。

 人工生命体の反応速度では間に合わぬ距離に、小さな点として『死』が迫りつつあった。もはやどう動こうが、迫りくる音速越えの羽矢を避ける術などなかった。

 彼女には、だが。

 

「―――ふん!」

 

 左腕が霞んだかと思うと、振り抜かれた人狼の爪拳に必殺となるはずだった一撃を直前で宙に四散させた。

 だが、衝撃波で波飛沫が立ち、突風が二人羽檻の法被の裾を煽る。相殺しきってもなお揺さぶってくる、並大抵の破壊力ではなかった。

 

 ゴッ!! と、

 巨大な砲弾矢(バリスタ)が、再びクロウたちの元へ突っ込んでくる。

 しかし、クロウの目は慣れていた。

 最初の一発目を凌いだことによって、相手がどの方角から砲弾矢を放ってくるか、大まかな情報は入手できた。速度についても同じ。そして、それらの事前情報があれば、意識を集中させることで、飛んでくる砲弾矢に対応することができる。

 獣人としての腕力と動体視力があれば、向かってくる砲弾矢を弾くことすら不可能ではない。あるいは反撃に転じるなり身を隠すなりのアクションをとれたかもしれない。

 ……いや、むしろ二射目は前よりもだいぶ遅―――

 

「―――ッ!?」

 

 一気に爪を振るう直前で、ビクリとクロウの身体が硬直した。

 そう。

 その時、銀人狼の二つの眼球は知覚した。

 飛んでくる砲弾矢が一射目とは違うのが。

 

 

 それは、人間。つい先ほど三者別々のルートで逃亡した、ブイエと呼ばれ、『特殊部隊(ゼンフォース)』の<魔義化歩兵>であるサングラスの大男だ。

 

 

 両手足を折られ、片目を潰され、脇腹を青黒く変色させた男の体。気功でコーティングされ、背筋をまっすぐに伸ばして固められた格好で飛んでくる砲弾矢は、正真正銘の人体だった。

 破壊などできるわけがない。

 かろうじて腕の動きを静止させ、手首を返し手の平を向けて、肉球型の生体障壁を展開したクロウだったが。

 

「ぐゥゥぬううううううっ!!」

 

 受け止めた。

 がバヂッ!! とクロウの身体を大きく後退させ、もろに受けた肋骨がミシミシと嫌な音が響く。骨肉を鋼製の部品と入れ替え機械化された大男は、見た目以上の重量がある。重量×速度=破壊力。その破壊力に、一切の加減はなく、咄嗟に張った生体障壁をも突き破ったほど。足の爪を立てた桟橋が剥がれ、勢いに押されてそのまま港から海へと落ちかけたが、寸前で止めた。

 そして、クロウがその方角へ睨み、

 

「まずは自分の心配をしたらどうだ」

 

 声が、すぐ前から聞こえた。

 今度は砲弾矢は飛んでこなかった。

 代わりに、その爆発的な飛行力を使い、襲撃者本人が物凄い速度でクロウの元へと突っ込んできた。かろうじて音速を超えていなかったのは、けして襲撃者の力量不足なのではなく、余計な衝撃波を発生させることで、敵に判断材料を与えないように工夫した結果なのだろう。

 『鷲の戦士長』。

 夜の死闘で、相手のキャパシティは、こちらよりも上だと判明した。

 されど。

 一撃で倒されてしまうほどの戦力の差が開いているわけではない。

 先日の邂逅と同じく、両者の手刀が交錯した。

 ガッキィィイイイイイイッッッ!! という甲高い音が炸裂する。

 クロウの爪剣はクアウテモクの翼腕を正確に叩いた。戦士長の翼腕の軌道が横向きの円だったのを、下から上へ突き上げ翼の側面を叩き飛ばしたからだろう。どちらの腕も破壊されることはなく、火花と共に大きく弾かれる。

 まるで小規模の爆発だった。

 戦士長は飛空のベクトルを相殺されて押し下がり、海へと吹き飛ばされた銀人狼は背後に停泊していた船体を壁蹴りして桟橋に着地する。

 両者間の距離は、数m。その程度は彼らにとって目と鼻の先だ。

 一挙動で必中し、一動作で必殺する間合いである。

 わずかな油断どころか、息を吸って吐くタイミングの一つで死を導く状況で、それでも戦士長の面相に揺れはなかった。一方で、若い人狼の方はカッと沸騰している。

 

「偶々獲物の一匹を見つけたので、再戦の挨拶代わりにと趣向を凝らして投げつけてやったが、貴様には刺激が強すぎたか」

 

「オマエの遊びは度が過ぎてるッ!」

 

 サングラスの大男の身体を適当なヨットの船体へと放りながら吼える人狼。それに鳥人はさして気に留めていないような調子で、逆にクロウの態度を注意した。

 

「戦士であるのなら、敵を同じ人間(もの)と思うな。それは罪もない者を何百と殺した。たとえ死んだところで問題はあるまい」

 

「この……っ!」

 

 唸り、牙を剥く。

 そして、その首に巻かれる腕に、力が籠められ、

 

「先輩」

 

 と、一定調子の声が耳元で囁かれた。

 アスタルテであった。

 

「否定。違います、先輩」

 

「アスタルテ?」

 

「いつものあなたであれば、あの程度で押し負けるはずがありません。その強さは、常の先輩であってこそ発揮するものだと私は思っています……落ち着いてください」

 

 どこか切なげに、アスタルテが訴える。

 それにクロウは無意識のうちに強張っていた肩の力が抜けてくれた。

 対し、今度は戦士長が双眸を鋭く、不快気に細める。

 

「背中に乗せている人形を退けろ。それくらいならば、剣を抜くのを待ってやろう。また、決闘を邪魔されるのは御免だからな」

 

 この場一帯を圧し潰してしまうよう知らしめる獣王の存在感。刺々しい緊迫感が充ち満ちる。常在戦場。自然体ですでに臨戦態勢の戦士長が布く緊張感は見えない壁のように、資格なき弱者の立ち入りを拒んでいた。魔獣の魔力障壁のように本当に壁が形成されているわけではないのだが、ただそこに君臨するだけで、人工生命体という矮小な存在など容易く消し飛ばしてしまうのではないかと言う、本能的な恐怖に身を強張らせる―――

 いや。

 ここに、アスタルテの前には、自身が信じる獣王の背中がある。

 

「何を言ってるのか、わからないな」

 

 あっけからんとクロウは不敵な笑みを湛えて、

 

「なに?」

 

「ひょっとしてオマエの目は節穴か。お人形によく似てる見た目だけど、オレの背中にいるのは、アスタルテ、っていう名前の、後輩なのだ」

 

 一言ずつ噛むようにクロウが言うとアスタルテが『肯定』と頷く。

 

 “壊す”覚悟を、今改めて確認される。

 相手を倒そうとするなら、自分のみならず、自分の大切なものを壊されるかもしれないという覚悟―――そして、それを覚悟しなければ、大切なものを守れもしないという矛盾。

 その矛盾を、受け入れる。

 

 人狼と鳥人、二体の『獣王』がそれぞれに強い感情(におい)の篭った視線を合わせ、ぶつけ、通わせる。

 

「で、オマエ、第三真祖の婆さんから(チカラ)を借りてるみたいだから、オレもアスタルテに背中を預ける胴輪(ハーネス)になってもらった。

 ―――これで、オマエととことんやり合えるぞ」

 

「……この、期に、及んで、私を、侮辱するかァァアア―――アアアアアアッッ!!!」

 

 絶叫と共に熱風が吹き荒れ、あたりの地形が変形して、海水が蒸発する。

 

「そのような人形と皇女から賜った力を一緒にするな!! 力なき弱者が、戦場にあること自体が間違っているというのに、それを理解していないのか貴様!!」

 

 戦士であることに絶対の誇りを持ち、そうではない弱者には戦場に立つ資格はないと断じる。

 

「すべてを凌駕する強き戦士こそが価値がある。皇女も、絶対なる強者として、『混沌界域』に君臨しているのだ。弱肉強食、強さこそが絶対だ」

 

「それはどうかな。第三真祖の婆さんは他を侮ったりはしなかったぞ。いくら強くても、相手を見下して侮るような奴は、足元を掬われるのがオチなのだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「戯言を。万死に値するな、イヌ」

 

「戯言かどうか試してみろ、カラス」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「<黒曜翼(マクアフィテル)>!」

 

 人狼へ、横殴りに流れる漆黒の刃。

 人狼の身体も、それに応じた。

 <疑似聖剣>を発動させた黄金の爪剣で食い止める。

 しかし、

 

「おおおおおっ!」

 

 鳥人の翼撃は、一撃ではなかった。

 ただの一撃で人狼を葬ろうと思うほど、鳥人は浅はかではなかった。

 

 

 黒翼刃、六連。

 

 

 間断さえおかぬ、音無しの連撃。

 かろうじて煌く聖拳を纏う両手で受けても、もはや衝撃は殺せなかった。人狼の身体が地面と平行に吹き飛ぶ。途中、姿勢を無理やりに直して、地面に四肢をついて―――見た。

 (うえ)に向けられた視界の先、自らの吹き飛ばした人狼の実力のほどを残酷に、冷静に見定めるふたつの瞳。

 

「―――『獣王』ならば、この程度で沈んでくれるなよ」

 

 人狼を見下ろし、低く嗤った。

 

「<投矢羽(アトラトル)>!」

 

 黒ずむほどの濃密な獣気を風切羽に纏わせ撃ち放つ無数の矢。

 一本一本が真空の渦を巻く矢羽の雨が、人狼目がけて降り注いだ。

 雨霰と降り注ぐ暴威の竜巻。

 ぼっ、と血煙が噴いた。

 生体障壁などまるで紙切れの如く抉り穿ち、しかし、その一撃は人狼の命脈を断つには浅かった。

 天と地の両者の間に割り込んだ、傘となった虹色の翼のためだった。

 

「―――自衛権を発動。“手出し”させてもらいました」

 

 ふぅ、と一息吐くクロウ。

 『まずはひとりでやる。目が慣れるまでは自衛だけに集中』、『アスタルテの出番は眷獣(けん)を出してから。それまで手出し無用』、と二点、事前に言い含めてあった。

 しかしながら、後半のは戦略性のない単純な“後出しの意地”と見破っている後輩は、“後ろに引っ張る”権利を行使したのだろう。

 

「意見。私は“お荷物(ハンデ)”ではないはずですが?」

 

 この二人羽織の状態で、ずば抜けた脚力による高速機動を“遠慮をしていた”のを、暗に指摘されて、しっかりと管理把握されている“胴輪”に人狼は苦笑を零す。

 

「何でもお見通しだな、アスタルテ」

 

「否定。“何でも”ではありません。先輩の、ことだからです」

 

「むぅ。そんなにわかりやすいのかオレ」

 

「……肯定」

 

 一矢破軍の豪雨が、再び撃ち放たれる。

 人狼は、自然に足を進めた。

 

「―――動くぞ。大船に乗ったつもりでいるのだ」

「泥舟であっても構いません。どうかご存分に私を引っ張ってくださいませ」

 

 華奢な少女を背負っているからか、移動に変化をもたらす。

 いつもの身体能力任せの、残像を残すほどの急発進急加速(チェンジ・オブ・ペース)ではない、丁寧に心掛ける。負担がかからないよう生体障壁で二人羽織ごと覆っているにしても、なるべく動かないように、いや、もっと最小限の見切りと動きで済ませる。

 長生種(エルフ)の師家様が見せてくれた妖精の舞(フェアリー・ダンス)のような緩急自在な歩法を、雑にだが真似ることはできていた。

 そこに無意識の改革―――力があるからこそどうしても力に頼りがちであった少年が、その無駄を作ってしまう癖を矯正する、技と昇華させるに足りなかったピースが埋まり始める。

 

「なに―――!?」

 

 瞬間、空からの制圧射撃を己の制空圏内で不自然に避けた。

 それは、身を()()()、ような行雲流水の歩法。これまでのように思い切り踏み切り足元を爆発させるような加速もなく、降ってくる雨水に濡れないよう、全弾を回避した。その非合理な機動に戦士長の矢羽も対象を見失い、射撃は桟橋の残骸を木端にして吹き飛ばすにとどまったか。

 されど、それで足場はなくなり、人狼は海へ落ちることになる―――はずなのだが、海面に着地した。正確に言うのならば、小石ほど海上に顔を出す残骸に爪先立ちして、だが。人一人を背負っているとは思えないそのバランス感覚は、完璧な制御を誇るバランサーが内蔵されているかのように、人狼の姿勢が良かった。

 そして、スケートのターンのごとく、海上の移動は滑らかな半円を描いた。

 

(動きが、変わっただと……?)

 

 外れた――躱された矢が海に水柱を次々と突き上げていく。

 そう、当たらない。

 絶えず空中から矢羽を放ち続ける最中、人狼は昂ることなく――まるで、常に一定調子の人工生命体の静かな情動に息を合わせてるよう――表情はかわらない。

 死線を踏んでなお不敵に笑い、ますます優美に舞い踊る様に近づいていく。たったひとつ対処を間違えれば、たちまち黄泉路を辿るというのに、一動作の度に洗練――滑らかになっていく身のこなしに曇りひとつとてない。むしろ、ますます磨きかかっていると言ってもいい。

 これが、皇女と蛇遣いが絶賛する逸材か。

 一目で、これは強いとわかる。それも先天的な資質から手軽に手に入れた強さだけではなく、訓練し、経験を重ね、強固な意志を積み重ねた強さを持っていた。何かを失うことで得たものでも単純な才能による強さでもないそれは、途中で折れるということを知らない。

 それでも、己の方が長い年月を訓練し、多くの戦場を経験し、絶対の意思を持っていると自負している―――

 ちら、と視線が合った。

 鼻を一度スンと鳴らして、人狼の動きが変じた。

 いっそ緩やかな円の動きから、鋭い剃刀の如き直線へ。

 

「―――ッ!?」

 

 身をのべる。

 しかし、これまでのはまだ“試運転”だったのだと、“一瞬標的を鷹の目から見失った”鳥人は思い知った。

 矢羽の弾幕を突き抜ける。もはや純粋な体技による瞬間移動に等しいそれ。時空をねじまげたごとき錯覚と共に、人狼がこれまで力を練り上げて弾数を溜めていた腕を霞む速さで振るわれた。

 

「アスタルテ、忍法花吹雪の術―――」

「―――了解。付与せよ(エンチャント)、<薔薇の指先>」

 

 幻術を常時展開する『鷲の戦士長』

 『嗅覚過適応』で、“その位置は”把握できる。

 しかし、逆に相手も人狼の超能力を把握しているのだ。

 周囲に光の点滅を起こして、視線の焦点を誘導する、

 幻像をダブらせた位置に描き気配が乱視のように朧と化す、

 逆風を起こし敵の刃や弾の勢いを後押しし制御を乱す、

 一つ一つがもたらす“ズレ”は小さくとも、その積み重ねが、急所が狙わせないだけの誤差へと広がっていく。

 あの昨夜の戦いで、“匂い”で位置を気取っても、当てた攻撃が半分以上も通らなかったのはそれが要因であった。

 

 ―――ならば、その幻惑(まやかし)を破る。

 

 『特殊部隊』を壊滅させた百花乱舞の霊弓術。

 複雑なる軌道と変速する機動で四次元に攻め立てる花弁の嵐が、鳥人を呑み込み―――幻術を食い千切った。

 

「―――っ!」

 

 守りを固めていた幻想の帳が剥がされ、クアウテモクが呻く。

 

 <薔薇の指先>は、『神格振動波』の属性を持つが、その神気の純度は<雪霞狼>には及ばず、完全な魔力の打消しではなく、『反射』。そして、『神格振動波』は互いに『共鳴』して力を増幅させる。その性質を霊弓術に組み込んで放ったのが今の遠距離攻撃であり、そしてそれがあらゆる魔術に干渉して、魔族の脅威である『神格振動波』を帯びている、

 致命傷にならぬとはいえ、『反射』と『共鳴』による四次元的で予測不能(ランダム)な弾幕は目で追うことはできず戦士長の集中を削ぎ、飛行姿勢を崩して余裕を削り落とす。

 

「一気に決める。手数を増やす―――」

「―――充填完了(トリガー・オフ)変形せよ(トランスフォーム)、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>」

 

 共鳴(シンクロ)する掛け声。

 瞬間、その姿が消失する。

 もはや身をのべた―――と考える時間も与えず、鷹の目の死角たるその背後へと跳び越えて、人狼の背より千手観音の如く無数の手が飛び出した。

 生体障壁にて、薄皮一枚にまで圧縮することができたからこそ可能な、巨人の腕の変形応用。

 

 

「壬生の秘拳仏陀叩(ぶっだた)き!」

 

 

 ―――刹那。

    掌底の壁が、鳥人の全身を包んだ。

 

 

 そうとしか思えぬ、手数を極めた超高速の連打が全弾直撃にしたのだ。

 飛ぶ鳥を落とす勢いの苛烈な滅多打ち。空の王者は海へ叩き落とされる。

 

「―――抜いてきたな」

 

 桟橋の残骸に着地する人狼が、墜落した衝撃に高々と昇る水柱を見据え―――それが内側から爆散した。

 噴き上がったのは海面を一気に蒸発させる爆炎流。その鞘より処刑人が引き抜く。

 

 

「藉す、<シウテクトリ>―――我が手に<シアコアトル>を!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <シアコアトル>。

 火の蛇のような、伸長変化する機構により、剣としての剛性と、鞭の柔軟性を備えた得物。

 斬るものを全て爆炎で灼き尽くす、豪火の『意思を持つ武器』

 

 海面が、沸騰して泡立つ。

 喉がひどく渇き、湿潤の大気が乾く。

 絃神島の水が、静かに、少しずつ消えていっているのだ。

 

 爆炎流の熱量をすべて刃筋に集中させる。太陽が頂に近づき、眷獣の力は最高潮へ達しており、その威力は、ただ触れただけで跡形もなく消し飛ばすほどに高まっている。

 だからこそ、昼の刻に剣を抜くほどに追い詰められたとは思わなかった。

 

(……読み違えたか)

 

 人狼を侮っていたわけではない。昨夜に戦闘して手合わせした手応えから、いずれは己と同じほどの『獣王』としての実力を身につけたことだろう。しかしだ。成長すると見ていたが、たった一晩でこれほど練度が上がっているものとは思わなかった。

 戦術性の増した霊弓術といい、生体障壁の濃縮した練り上げ方といい、はっきり言って見違えた。そう、己の技を見倣ったのだ。異常なまでの学習能力(ラーニング)としか思えないが、それしか急成長の要因が思い当たらない。認めがたいが、あの爪は今やあと少し伸ばしさえすれば己に届きうるところまで来ている。

 一度の殺し合いで、ここまで化けるなんて……

 いや、“代理戦争”を持ちかけた<蛇遣い>は、これも狙っていたのか。己の戦闘スタイルが、『混血』に適合するものと見て、戦わせ、学ばせた。

 将来、“自身の命を奪えるほど”に成長する見込みのある有望な“敵”を育てるために―――

 

(ふざけるな! 私の魂も、骨肉も、翼も、術も、一挙手一投足、そしてこの命さえも、女皇(ブライド)のために存在しているのだ。“踏み台”になんぞなってたまるものか!)

 

 そう易々と追いつかれてたまるか。それも人形(ハンデ)なんて背負っている青二才に。

 いずれにせよ―――剣を抜いた以上、敗北は許されない。

 

 

 

「弱肉強食―――ここで喰らうのは貴様ではなく、私だ」

 

 炎だ。

 これまで感じたどれよりも高い、太陽のような熱量……

 生体障壁を張っていなければここにいるだけで灰となりそうな、そして、このままでは絃神島が燃え尽きてしまいそうな、魔力の圧。

 強大で濃密な力は、真祖の眷獣と証明するに足るもの。

 そして、やはり似ている。

 これまで戦闘した第三真祖系列の血族であるT種が召喚した<蛇紅羅(ジャグラ)>や<ロサ・ゾンビメイカー>は、伸縮自在で自動追尾する鞭状の『意思を持つ武器』だったが、その例にもれず、あの<シアコアトル>も蛇腹剣(むち)状の得物。

 一太刀でももらえば致命傷。一太刀も浴びずに、回避し切って戦士長を倒すのはほぼ不可能だ。

 

「弱肉強食、か……」

 

 過酷な生存競争を強いられる厳しい自然と共存(くら)してきたからこそ、クロウに世界が弱肉強食であるのは至極当然のことだ。弱ければ食われて強ければ生き残る。

 でも、その自然から離れ、都会に移ろった時、世界と言うのはひとつではなく、無数にあるものだということをクロウは悟った。

 

「オマエ、電化製品を扱えるか。ちなみにオレはすっごく苦手だ」

 

 不思議と凪いだ気持ちで告白するよう、クロウは口を開いた。

 

「でも、電脳世界ってところじゃ、浅葱先輩にかなうものなんかいない。絶対王者なのだ。キーボードも満足に触れないオレじゃ逆立ちしたって勝てない、勝負にすらならない」

 

「貴様、何を……」

 

「古城君は世界最強の吸血鬼って呼ばれてるけど、実は泳げないのだ。バスケは強いんだけどなー、何でだろ?」

 

 訝しむ戦士長に、ふわ、と笑みを作る人狼は自慢するよう、

 

「機械音痴でも代打ちしてもらえば携帯を壊さないし、浮き輪があればかなづちでもとりあえず海に浮ける。

 ―――未熟者(オレ)でも頼れる相棒(アスタルテ)がいるなら、完成された戦士(オマエ)に届いた」

 

 心と体を切り離せて戦闘できるほど、クロウの精神は完成されていない。三つ子の魂百まで。殺戮兵器として創られ育てられたからか、“自身の身命に対する優先順位が低い”ところにある。

 それでも心身を支えてくれるものがあれば変わるのだと。

 『己が破れれば後輩も危ういという』この二人羽織の体勢は、彼なりの“背水の陣”の意思表示(あらわれ)であったか。

 

「アスタルテのことを弱者と言い、人形と言う、そんなひとつしか見えないオマエは強いかもしれないけど、やっぱり世界(しや)が狭い。オレよりずっと完成されていても、オレがなりたい『獣王(みほん)』じゃない。だから、負ける気はしない」

 

 七つの霊的中枢(チャクラ)を開門。

 『混血』潜在能力を解放する。固く閉じている蕾が満開の花を咲かせたかのような、銀から金色の昇華。

 <神獣人化>の金人狼が仄かに纏うのは、防御系魔術の最高峰たる聖護結界――<疑似聖楯(スヴァリン・システム)>の青白い光。

 そこに加えて混ざり合う、<薔薇の指先>の純度を高めた『神格振動波』の金色の光。

 <模造天使(エンジェルフォウ)>と関わり深い『神格振動波』と北欧の聖剣聖楯システムは極めて親和性が高く、合わさり、その生体障壁は、白金(プラチナ)と化す。

 

「ほう……」

 

 鳥人は、その一心同体の白金の輝きにわずかに目を細める。

 すべての物理攻撃を無効化する聖護結界と、すべての魔力攻撃を浄化する神格振動波。融合したその防御性に、絶対と付けても過言ではないだろう。

 避けるという選択肢を捨てて守りを固めてきたか。

 潔いというか、よくも思い上がったというべきか。

 

「それが貴様の全てか。いいだろう」

 

 ギチリ、と蛇腹剣を握る『鷲の戦士長』の手に力が籠る。

 思考も行動も殺意と憤怒に塗り固められているというのに、本能ともいうべき部分が、冷静にこの会話のやりとりの間も相手の隙を窺っている。言うなれば、そう、静かに、キレている。

 

「我が手にあるのは、太陽。何人にも<シアコアトル>を阻めるものなどありはしない。血肉も、心も、魂魄も髄さえ残さず灼き滅ぼそう!」

 

「やってみろ」

 

 戦いと言うのは、最後まで平常心を崩さなかったものが勝つ。

 

 完成された孤高か、それともまだ補助を要する未完成な青二才。

 どちらの爪が、敵に届きうるか。

 

 ―――――

 

 そのまま、時間を二人は待った。

 二人の間で、世界が消えていくかにも思われた。

 異能でなくとも、魂を直接鑢に掛けるかのような対峙であった。一瞬ずつ互いに生と死が交錯し、ありとあらゆる可能性が削ぎ落とされていった。すうと体軸を傾けさすたった数角度の合間に、何十と言う攻撃と防御のイマジネーションが生まれては消えていった。

 煮え滾る海が、それでも残骸の桟橋に波打って、雫を飛ばした。

 それが地面に落ちるまでの、まさに刹那。

 二人は同時に動いた。

 

「<シアコアトル>!」

 

 ぞん、と空気が裂けた。

 鳥人が振るう一撃爆散の蛇腹剣が、大蛇と化して見切れぬ変則軌道の斬線を見舞いする。

 人狼の体が、自然と横へ流れた。

 半身になり、すれすれに海面を滑空し、うねる剣先から逃げる。

 続けて追い迫る灼刃が、下段から人狼の顎元を狙う。

 それも、首を動かして紙一重で避ける。

 

 そして―――その姿が、水壁に隠される。

 

 『嗅覚過適応』の『匂付け(マーキング)』を用いた畳返し。

 足で思いきり海面を蹴り上げて、天高く巻き上げた水の防壁―――しかし、その程度、薄紙にしかなりはしない。

 

「この程度が盾になると思うな!」

 

 水壁は、蛇腹剣が触れた瞬間に蒸発した。水が物凄い勢いで蒸発し、爆風のようになって吹き荒れた。

 もうもうと水蒸気が立ちこめ―――姿を消す。

 姿を自然と一体化する園境に、装束の透明化。それで、『意思を持つ武器』の自動追尾を免れたか―――否。

 

「姿を隠そうが、見えている!」

 

 蒸発した白煙で色付けされたよう、視覚化された空気の流れで、標的の動きを察知。盾にもならない水壁を起こしたのは悪手であった。

 

(殺った―――!)

 

 対して、人狼は囁いた。

 

「殺ったぞ」

 

 飛翔した鳥人―――その頭上から太陽を背にして迫る白い影。

 寸前、戦士長が振り仰いだのは、研ぎ澄まされた直感の賜物だったろう。

 

「みみーーーっ!!!」

 

 美しい青のグラデーションの四対の翼。輝かしい金の頭髪。全身を包む柔らかな白い獣毛。

 『鷲の戦士長』との戦いを見据えて、戦闘前、いや、この桟橋に来る前から“上空でずっと待機していた隠し札の正体は、<守護獣(フラミー)>”。

 天空より突撃する翼をもつ獣龍は、爪にも牙にも攻撃性は絶無と言っていい。

 ただし、その身を砲弾とし、大気圏外から音速を超える速度で一気に急滑降し、流星の如く突撃する、単純な位置エネルギーを加算させた体当たりの威力。

 

(これが、狙いか―――!)

 

 食らえば戦闘不能。受けても大きなダメージを負う。敗北は、免れない。

 ―――ならば、その龍母を消し飛ばす。

 

「はァッ!!!」

 

 攻撃を中断。蛇腹剣を引き寄せ、その弾性の勢い(ベクトル)を殺すことなく手首の返しだけで刃先を真上へ飛ばす。

 <トルコ石の蛇(シアコアトル)>と<翼をもつ獣龍(フラミー)>の激突。

 とぐろを巻くように螺旋で迫る灼刃に、龍母は捕まり、骨身残さず霧散―――せず、弾いた。

 

「な……っ!」

 

 爪や牙と言った自らの攻撃性をも拒絶してしまうその特性。

 夜闇を照らす火や発展した技術と言った叡智を教授し、より良い文明をこの地に広めた文化英雄。中南米にて文化英雄に該当するは、『羽毛のある蛇(ククルカン)』―――

 ならば、それは叡智によってもたらされた文明を拒絶する特異点たる神獣魔獣。

 人類最初の殺人の罪咎であり、武器を否定する呪い。

 <守護獣>の武器殺しの特性は『意思を持つ武器』にも適用される。

 第三真祖の眷獣が通じなかった、という絶対的な心柱を大きく揺さぶってくる驚愕にクアウテモクの精神が絶え、ただ事実のみを漠然と理解し―――心と切り離されても身体は反射的に身に纏う黒曜の生体障壁を厚くした。

 

 激突。

 空が吼え、地が震えんばかりの衝撃。それに撥ね飛ばされた鳥人は、激しく廻って……海上の残骸に膝をつく。

 

 耐えきった。

 ぎりぎりで龍母の突撃を鳥人は片翼を犠牲にすることで受け流してみせた。妖刀魔剣の如き翼腕が、骨芯まで砕かれている。しかし、蛇腹剣を持つ腕は守り切った。そして、今のダメージに心身が未だ揺れる最中に、その声は響いた。

 

 

「―――契約印を解放する!」

 

 

 人狼は攻撃の手を緩めない。

 龍母の一撃で終わると判断していない。

 当然だ。

 敵を斃すまで、獣王の死合いは終わりではない!

 

「―――はァァァァァッ!!!!」

 

 闘気が噴き上がる叫びは、相手と、そして不甲斐ない己への激怒であったか。

 その一振りの速力は、初手の比ではなかった。

 濛々と立ちこめる水蒸気の白煙で、完全なる獣と化すそのシルエットを捉え、視認と同時に灼刃を襲い掛からせる。

 二重の防御も灼き斬って見せよう。一瞬後の青二才は、嵐の前の濡れた紙切れと同じく、無残に八つ裂きになるだろう。

 しかし、

 

 

「―――獣祖(ビースト)モード。限界突破(リミテッド・オーバー)、<薔薇の猟犬(ロドダクテユロス・アルタ)>」

 

 

 咢に、火蛇の頭たる白刃を噛み取られた。

 白霞が晴れるとそこにいたのは、人工生命体の宿主に鎧われる白い人工眷獣。

 しかしその形状は、巨人ではなく、巨狼――完全なる獣。薄皮一枚にまで圧縮できるからこそ、瓜二つの形状(シルエット)変化が可能となった。

 熱や衝撃の物理衝撃に対する聖護結界と完全なる魔性を祓う神格振動と二重の守護に覆われた<薔薇の猟犬>。

 

 そして、刃の切れ味が、火の温度が、削ぎ落とされていた<シアコアトル>。

 

 武器殺しの特性は、龍母の肌は斬られることに絶対の耐性を持つだけでなく、“肌に斬っ(ふれ)たその刃さえも溶かし切る”というもの。

 真祖の眷獣であるからこそ、それはまだ武器(けん)という形質を保っている。しかし、一、二段階、力が弱体化――最大限に発揮する昼の刻から、夜の刻にまで威力が下がっていた。

 それならば、耐えられる。そして、今の鳥人は片腕しか使えない。

 まるで綱引きするよう、両者は蛇腹剣を引き合い、拮抗する。

 

「人形なんぞに、皇女の剣を……!」

 

「否定。私は人形ではありません―――そして、先輩の勝ちです」

 

 意識の改革は動きにだけでなく、考えも変えた。

 レベルが上がった―――と言う以前に、戦い方から異なっていた。

 あくまで正面から対峙しようとする傾向が多かったが、今の彼は相手の行動を見極め、戦闘の展開を見通し、予め用意した策に嵌めるかのように動いている。その精度たるや、文句のつけようのない、完璧な布陣であった。

 ある意味、これが彼の狩りの本領だろうか。

 事前に仕込んでいた龍母の奇襲の為、まずはこちらで注意を引き、それで仕留めきれぬと見込んで二段階先の展開まで有利に運べるよう、水壁から姿形を朧とする白霧を立ちこめらせ、アスタルテの人工眷獣に『匂付け』して仕立てた影武者と誤認させる確率を高め、フェイクの詠唱まで入れてみせる。

 そうして、この状況に運んでみせた。

 剣を押さえられ、両腕が使えず、空にも飛べない。完全な無防備。

 ―――その機を逃さず、“胴輪(ハーネス)”から離れ、海中より潜行するその影が、戦士長の真下から飛び出した。

 

 

「―――地べた(ここ)はオマエの縄張りじゃない。だから、威張るな空の王者」

 

 

 弱肉強食。

 絶対であり覆すことのできない(ルール)は、この世に多々あるという戒めであり教えだ。

 従い、今いる世界の掟が自身に不利と悟れば、また別の掟が敷かれる世界へ移るのだ。海での競争を避け陸へ進出したり、陸の上で生きられぬものが空を飛び始めたり、また地の中を潜ったりするよう、環境に適応して進化してきた。中には“共生”することで生きるものもいる。

 

 狼は天空を飛べない。

 だから、空を飛ぶ鷲には手の届かない相手だろう。

 しかし、勘違いしてはならぬ。

 それは互いに棲み分けして、衝突を避けている結果だということ。強さではなく、環境の違い。それ故、鷹は屍骸か弱った相手にしか近寄ることはない。何故ならば、空の王者でさえ翼が折れて飛べなくなって地に堕ちれば、狼の餌食となるのだから。

 

 たったひとつの世界の掟に妄信的であり、この絃神島に無法を働いた鳥人へ、人間と魔族と獣と多様な掟を知る混血が鉄槌を下す。

 

 

「―――壬生の秘拳、夢想阿修羅拳!」

 

 

 懐に飛び込んだ金人狼が放つは、『八雷神法』と『八将神法』の極み合わせ技。

 阿修羅即ち悪魔。<空隙の魔女>の『首輪』を媒体にし、一瞬、“夢想(ユメ)阿修羅(アクマ)”を<生成り>に憑かせて行使するは、空間制御。主人のように完全には使い切れないが、時間差を縮めるため、限界を超える身体強化で極限に高めた身体運用が、到達する時間を限りなくゼロに近づけさせる。

 拳打、貫手、掌底、膝蹴り、踵落とし、靠、手刀、咆哮《魔力砲》―――

 鳥人の身に、ほぼ全く同時に異なる八の手が襲う。

 連続した音は鳴らなかった。

 連なるではなく、重なる。

 八連撃ではなく、八重撃。

 音は数をなくした塊となる。

 

 

 バァン!!! と時空間を巨大な腕で引き千切るような轟音。戦士長の身体が、物凄い勢いで海面を水切りして、遠く沖合の彼方にて沈んだ。

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

「キミがセレスタ=シアーテの面倒を見てくれている間に、『混沌界域』に入り込んだ『アメリカ連合国』の勢力はボクが排除した。このまま邪神の現出がなければ『混沌界域』の内戦はすぐに終わる。<混沌の皇女(ケイオスブライド)>が出るまでもなくね。

 さあ、あとはキミ次第だよ、古城。セレスタ=シアーテを殺して、<冥き神王(ザザラマギウ)>の復活を阻止するか。それとも絃神島(ここ)で邪神の降臨を待つか―――まあ、どのみち神を受け入れることなんてできないのだから、セレスタ=シアーテは死ぬしかないけど―――キミが好きに選べばいい」

 

 楽園に住む人々を堕落させた蛇の笑みを浮かべるヴァトラーが、選択を迫る。

 セレスタの生い立ちは聴いた。

 この船にいた数人の豹の上位獣人――豹人の神官たちが住まう村で、生贄と捧げられるように育てられたことを。

 その『花嫁』が、この絃神島を壊滅させかねない邪神を封印する手段であることを。

 

「……ヴァトラー……様……」

 

 そして、不安と孤独の中に残された最後の拠り所で、彼女が告げられたのは、どうしようもなく救いのない絶望。

 想い人(ヴァトラー)は、その絶望から産まれる邪神を求めていて、自分には興味がないという……

 目から光を消して、頽れてしまうセレスタを、気丈に震えを我慢する雪菜が支える。

 

 ふざけるな!

 

 必死で思考する。

 何か方法が残されているはずだ。

 騙されるな。

 どこかに解答(こたえ)があるはずだ。

 セレスタが死なず、邪神による大災厄もない―――そんな理想的な解答が。

 

 アンジェリカ=ハーミダの目的。

 獣人神官たちの正体。

 すべて教えてもらった。

 この期に及んで、ヴァトラーが偽りの情報を寄越す理由はない。けど、何かが引っ掛かる。

 

 そうだ。

 マンションを襲ってきた獣人たちは何者なのか。

 鷲の戦士長に裏切者と蔑まれ、それでもセレスタを殺さずに生きたまま回収しようとした……いや待て。それは、おかしい。

 獣人神官たちの目的は、セレスタの抹殺であるはずだ。ならば、そこで彼らが決別する理由とはならないはず。

 そもそも自分たちの都を龍脈の暴走から護ることが目的ならば、セレスタが国外に出た時点で目的は果たされている。それが好都合であるから、戦士長は処刑を強行しようとしているのだろう。

 つまり、獣人神官たちは、村を救ってくれたヴァトラーへの義理立てで、『花嫁』を。それとも―――

 

 それ以上、暁古城に、推理する時間は与えられなかった。

 

「いヤ……チガう。異邦の吸血鬼ドモヨ。ソウデはナイ」

 

 嗄れていて、どこかイントネーションが狂った、聞き取りにくい声が、船上に響いた。

 神官たちの中で最も若い男が、姿形を獣に変貌しながら笑う。笑わされる。

 ボキボキボキ!! と大きくなる巨体、それ以上に伸長する骨爪。パンパンに限界まで水を入れられた水風船が破裂するように、内側から突き破ってくる、それはどれほどの激痛を伴うことか。

 いや、こいつらはもう何も感じていない―――生きるための危険のシグナルたる痛覚を喪失した、死兵だ。

 

「キサマらニハモトヨリ選択Shiがナイのだ―――」

 

 その奇襲に、ここにいる誰もが反応が遅れた。

 <神獣化>をした死兵は、その鉤爪でヴァトラーの肉体を抉り、肉片に変える。タールのような黒紫の汚泥が、灰も心臓も頭蓋も、飛び散った細胞の一片すら残さずに食らい尽くす。

 

「……ヴァトラー!?」

 

 <蛇遣い>の最期を目の当たりにして、古城が叫んだ。

 その注意が逸れた瞬間に、もう一人。神獣の爪撃が横殴りで、古城に襲い掛かり、右半身をごっそりと薙ぎ払った。抉られた左半身になった古城はバランスを崩して床に転がってしまう。

 

「先輩!?」

 

 悲痛に表情が歪む雪菜。あまりの突然の出来事に、彼女でさえも動けず。

 そして―――

 

 

「い……や……あ……ああ……ああああああああああああああああああああああああああああっ……!」

 

 

 そして、セレスタの口から絶叫が迸った。

 邪神を呼び覚ます、絶望した『花嫁』の声を。

 

 

人工島東地区 港 跡地

 

 

「……アスタルテ、大丈夫か?」

 

「はい……『匂付け(マーキング)』による<薔薇の猟犬>の遠隔無線接続時間は、180秒が限界と推定……現状、概算で消耗は、68%に抑えられていますので……まだ、いけます」

 

 どこか切なげに、アスタルテが告げる。

 <薔薇の猟犬>の限界突破以外にも、<薔薇の指先>を多用したためか、アスタルテの立ち姿は頼りなく震えていた。

 その華奢な身体を背負い直しながら、クロウは謝辞する。

 

「悪い。今ので仕留めきれなかった。だから……」

 

「了解」

 

「う。なるべくすぐに終わらせるぞ……でもな、これを使っちまうと、アスタルテの保護観察の刑期が伸びるかもしれないのだ」

 

 と、あとになって悪化したと知るのは不誠実と判断し、クロウはその隠し事をバラした。

 言葉足らずな説明かも知れないが、青水晶の瞳が、静かに、大きく見開かれ、理解の色が浮かぶ。人工生命体の少女は全てを悟る。これまでの、心配性の理由も。

 

「……そう、いう、こと、ですか」

 

 それに嘆息してしまうと同時に、ほっと安堵もする。

 そして、少しの怒りも覚えた。

 

「……。問題ありません。教官の世話になる保護観察期間を延長するのは心苦しいですが、私のすべてはもうすでに先輩に捧げてあります。3年後は先輩に責任を取ってもらう予定です」

 

「そうか。なら……ん? その予定、オレ初耳だぞ」

「―――ですので、ここで先輩と共に危険指定となっても後悔はけしてありません」

 

 いつものペースより若干乱れが生じて、やや早口で述べるアスタルテ。

 意図は掴めずとも、意思のほどは伝わってきたのか、背中に座する後輩の圧に狼狽えるクロウ。しかし問うてもこれ以上の言葉は返ってこず、ぎゅっと抱きしめる力が強まった行動で示され、反論を封じてきた。

 

 

 

 ―――沖合の海域が、爆発した。

 

 

 

 直後に押し寄せてきた熱風と轟音は、天変地異のようだった。

 海面に巨大な円形の穴が穿たれたからと思えば、そこから海底火山が噴火したように灼熱を帯びた突風が吹き上げ、一体の神獣が天まで突き抜けた。

 

 

「「「 ■■■■ 

        ■■■■

             ■■■―――――――ッッ!!!!!!」」」

 

 

 空間そのものを震わせる絶叫。

 それは、翼竜の姿からは変態していた。

 真祖に貸し与えられた眷獣を解放した状態で、<神獣化>を発動したからなのか。

 翼以外の全身から羽毛が焼き落ちて赤熱した鱗に生え変わり、嘴に牙が生え揃う。

 

 

 

 変化は、ひとつだけでなかった。

 

 

 

 クルーズ船からもうもうと立ちこめてきた煙のような黒い塊。

 それは鏡映しのように、対象の脅威度に合わせて、量と質を増強させる最強の蠱毒<病猫鬼>の<神獣化>。際限なく半実体の黒煙の身体を、巨大な豹に形作った。

 

 羽毛のある蛇竜(ケツァルコアトル)に、煙を吐く黒鏡(テスカトリポカ)の化身の如き神獣。

 

 そして……ここに地母神(アスタルテ)の名を冠する少女を抱き、大鰐のような咢を持つ大地の主(トラルテクトリ)の如き神獣に変生するもの。

 

「接続完了。供給開始―――私のすべてをあなたに」

「―――確かに、受け取った」

 

 間髪入れず応じる少女の声は、少年の意思を確固たるものにした。

 

 

「契約印ヲ解放スル―――」

「―――獣祖(ビースト)モード。限界突破(リミテッドオーバー)

 

「<焔光の夜伯(カレイド・ブラッド)>ノ血脈ヲ外レシ者、我ガ肉体ヲ汝ノ器トスル―――」

「―――融合せよ(コアレス)、<薔薇の猟犬(ロドダクテユロス・オルタ)>」

 

 

 たとえ自分の目で見ずとも、柔らかな微笑はすでに少年の脳裏に刻まれていた。盲目となろうが、記憶が風化しようが、けして消えることのない微笑と頬を添わせる。

 

 

 

疾ク成レ(ヨミガエレ)、『十三番目』ノ眷獣、<蛇尾狼の暗緑(マルコシアス・テネブリス・ヴィリディ)>!」

 

 

 

 最初の時よりも、より力強く咆哮を轟かせる。

 邪神誕生より先駆けて、蛇竜、豹蠱、魔狼―――真祖の眷獣以上の怪物が、三竦みとなって、絃神島に君臨した。

 

 

 

つづく



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冥王の花嫁Ⅴ

本島 遊園地

 

 

「う~~~っ、全っ然連絡が来ないよ!」

 

 一度本島に寄ったら行ってみたかった世界的に名の知れ渡ったテーマパーク。

 家族サービスとして連れてこられた、ネズミをモデルにしたというマスコットキャラが誘う夢の国、そのレストランのひとつで、携帯機器(スマートフォン)を握った暁凪沙が不機嫌に唸っている。

 空港の遅延で鬱憤を溜まっていたのもあったのだろうが、そこへ『今日、連絡取れないかも』と九時前に来たメール。それから凪沙は携帯へ猛烈な勢いで打ち込みはじめ、マシンガントークそのままな文字数の返信をしたのだが、音沙汰無し。

 アトラクションとかは楽しんでいるようだけど、何か待ち時間があるとこうしてスマホの画面とにらめっこしているという。そして、それを見せつけられる父親の心境。

 

「クロウ君、やっぱり何かあったのかな。昨日の空港テロが関わってるよねやっぱり。大怪我してて……ああもう! 古城君にメールしても返ってこないし!? ちょっとすぐ絃神島に帰りたい!」

 

 まだ離れて一日もたたずにホームシックになってしまう娘。牙城は何だか今なら、未成年の娘を嫁にもらった義父と深酒の付き合いができそうな気がする。

 

「待てって、凪沙。年寄りは気が長いんだから少しくらい待たせたって問題ないけど、さすがに約束無視して神社に行く前にUターンしちまうのはマズい。本土行きのチケットを再発行してたら、年末には間に合わねェ。本当なら去年にお呼ばれされてたはずなんだから、(ババ)あに折檻されちまうよ」

 

「うぅ、お祖母ちゃんに会わなきゃいけないのはわかってるけど……」

 

「それに、ほら、便りの無いのは良い便り、っつうだろ? 俺が世界中飛び回ってずっと連絡がつかなくなっても、凪沙は心配なんかしてなかったろ」

 

「いや、牙城君とは違うよ。牙城君は信用してるんじゃなくて、心配しても無駄だっていう諦めだから」

 

 ぐさり、と娘の辛口な批評が、胸にくる牙城。心配されるうちが華だというが、どうやら父親のそれはすっかり枯れ果ててしまってるらしい。これは放任主義が行き過ぎたからか。

 しかしながら、こうも目の前で娘に遠く離れていてもずっと心配されるのが、羨ま―――いや、心労をかけさせるのは許せん。なんにせよ、このまま後ろ髪引かれているのは解消せねば。

 

「もしかすると可愛い女の子と楽しくやってるから電話に出れなかったんじゃねぇか。メイド服とか着て、ご主人様、とか言われちまうと男ってのはコロッと……」

 

「何それ牙城君の体験談? へぇ、そういうお店に行ってるんだ……あとで深森ちゃんに教えておこうっと」

 

「いや、ちょ、待って、凪沙ちゃん!?」

 

 ごふ、と明らかに冷たくなった視線で睨まれ、また左胸を抑える牙城。女の子は精神的に成長が早くて、彼氏(おとこ)ができると男親に容赦なくなるというけど、心の準備をしてない牙城にはこれは早かった。

 ……いや、普段の行いというのが原因かもしれないが。

 

「ま、まあ。『アメリカ連合国』の怖いお姉ちゃんなら先生ちゃんがどうにかしてくれるだろうし、クロウ君もきっと無事だ。暴走車をぶん殴って止めちまう小僧には、テロリストも形無しだろ。あの装甲車よりデカい怪獣が二体挟み打ちにされているような状況でもなきゃピンチとは言えねぇし、んで、そんな状況は現実的じゃない。だから、心配するな」

 

 牙城も何の根拠もなく励ましているのではない。

 『特殊部隊(ゼンフォース)』やら『鷲の戦士長』やらで大変なようだが、それ以上に大変な『焔光の宴』で、『原初(ルート)』から次々と災厄の如き眷獣をぶつけられて生き残ったような奴だ。それに息子もそうだがああいうのはそう簡単にやられるようなタマじゃない。

 

「うん……」

 

 と説得が功を奏したか、やっと凪沙はスマホをしまい、そこでちょうど注文した品がやってきた。

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

『ヴァトラー……様……古城……』

 

 感情が抜け落ちた虚ろな表情。

 記憶を消され、最後の拠り所は目の前にあっても遠くて、消えてしまった。

 セレスタ=シアーテの精神は決定的に破壊された。その絶望をトリガーとし彼女の頭上に現出するのは、およそ直径1mの虚空に穿たれた穴のような奇怪な物体。

 おぞましい斑紋様に描かれた表面が、生物の内臓のように不気味な蠕動を繰り返す。そうしながら、空間を貪るように成長する―――異界より生じた、異形より生まれた、邪神の『卵』であった。

 

『すべてはディミトリエ=ヴァトラーの思惑通りか……口惜しいが、我ら一族の役目が終わりだ。<冥き神王>の現出は止められぬ……』

 

 最年長の獣人神官である長老が、虚空に浮かぶ邪神の『卵』を見上げて“終わり”を悟り、それから、“今や醜い怪獣となり果てた”若者を憐れむ。

 獣人たちに『アメリカ連合国』へ神殿の位置や『花嫁』の存在といった情報を売る――内通していた裏切者がいた。

 そして、その裏切者たちは……利用されていた。兵器として、利用された。

 

 もう、セレスタ=シアーテは、絶望してしまっている。邪神の『卵』が世界に現れてしまっている。

 ならば、やれることはひとつ。邪神を鎮める神官として、神王召喚の儀式を執り行う。

 まだ完全に成長し切る前に邪神を降臨させる。この異境の『魔族特区』絃神島で実体化したとこで、<冥き神王(ザザラマギウ)>は本来の神威を発揮できない。滅ぼすことができるのだ。

 ……あの<蛇遣い>は、『どうせなら、より完全な邪神の相手をする方が愉しい』と残念がるだろうが、『真祖に最も近い吸血鬼』ならば、<冥き神王>を屠ることができよう。

 ああ、強者との“戦争”を何よりも欲する戦闘狂の筋書き(シナリオ)通りの展開であろう。

 ……いや、村が滅んだ時からこうなるのは定めであったか。

 ならば、躊躇うまい。

 

 必要なのは、『花嫁』の絶望と、そして“強き上位獣人種の贄”。

 長老ら神官たちは、全員が一斉に、躊躇なく、自らの心臓を抉り出して、『卵』へ捧げた。

 

 

 

 獣人神官たちの心臓を喰らい、鞭のような緑色の触手――蔓草を表面から生やす『卵』。

 一気にその直径は1mから7mと七倍に肥大し、クルーズ船を覆い尽くすほどにまで成長している。

 あれは怪物の種子であって、異界へと通じる(ゲート)

 そこへ自我を喪失したセレスタ=シアーテの身柄が、絡みついた蔓草より引き摺り込まれて―――球体の内部に取り込まれた。

 

『先輩、あとのことはお任せします!』

 

 邪神の触手であれ、それを実体化しているのは魔力。そして、少女の銀槍は、魔力を斬り祓うもの。

 少女は、こちらに触手を伸ばして真祖の血までも貪ろうとする無数の蔓草を破魔の銀槍の一線でまとめて切断すると、傍らに着地して、こちらの容体を診た。

 半身を吹き飛ばされた傷。

 真祖の超回復であれば、それは致命傷とはなりえぬ。けれど、それでも、傷の治りが遅かった。

 神獣に負わされた傷、ではない。あれは神獣ではなく、豹蠱。獣人神官の若者を材料にした“最強の蠱毒”だ。

 じぃわあああああああああああああああああ!! と。

 あの時、爪撃で抉られると同時に傷口からまるで中華料理店の厨房のような、凄まじい音が炸裂した。真祖がここまでダメージを残すほどの呪毒を浴びるなんて……『波朧院フェスタ』で、操られ狂暴化した後輩以来の経験だろう。

 剣巫の少女も意見は同じ。

 あのクルーズ船から飛び出していった豹蠱を放つのは、危険だ。『不死』と『増殖』、そして、臓物を食い破るほどの負が煮詰められた呪毒。市街地にでも暴れたら被害は尋常なものでは済まなくなる。

 

 だけど、事態は豹蠱だけでない。邪神――セレスタを内部に攫った邪神の実体化を止めなければならない。

 だから、姫柊雪菜は単身で臨む。

 その行為が棒切れ一本で、決壊し始めているダムの放水を止めようとするほど無謀なものだと知りながらも。

 それでも時間稼ぎすればきっと―――助けてくれると信じて。

 この被害を食い止める術がないと無力さを歯噛みする古城に、高純度の霊媒たる自身の血を、回復(ちから)の足しになればと口移しにて呑ませて―――『花嫁』の後を追い、球体の中に飛び込んでいった。

 

 

人工島東地区 空港

 

 

 炎の色に空に暴風が逆巻いて絃神島を炙り、

 黒紫色の高波が押し寄せて絃神島を揺らし、

 そして、大地を踏みしめ外敵を拒む遠吠えが空海に轟く。

 

「壮観っすね……この記録映像、怪獣大決戦ってタイトルの特撮映画にしたら大ヒットするんじゃないんすか」

 

 空に、蛇竜。

 海に、豹蠱。

 地に、魔狼。

 

 怪獣と呼ぶに相応しいそれらが三つ巴で対峙するのを眺めて、ツンツンに短髪を尖らせて、首にヘッドフォンを引っ掛けた少年――矢瀬基樹が苦笑交じりに呟いた。

 今、彼がいるのは絃神島中欧空港――先日、特殊部隊(ゼンフォース)特区警備隊(アイランドガード)が一線を交えた場所。その建物の屋上だ。

 もはや原形をとどめず、港として機能しないであろうかつての巨大桟橋までは、直線距離でも2km近く離れているが、あの怪獣のデカさは望遠鏡無しの肉眼でもはっきりと見える。

 

 虚空に穿たれて、膨張する奇怪な穴も含めて。

 

「随分と余裕だな、矢瀬。この状況は、公社(おまえら)にとっても想定外(イレギュラー)だろうに」

 

 声の主は、日傘をさした人形のように小柄な、魔女。

 矢瀬の隣に前触れもなく虚空より現れた南宮那月が、苦虫を噛み潰したような不快な眼差しを投げかけてくる。

 お前らがもっと早く手を打っていればこうはならなかっただろう、と。

 隠れ過保護な担任教師の八つ当たりをされるのは御免被ると矢瀬は、直接の手出しは禁じられる監視者『覗き屋(ヘイムダル)』としての言い訳を語るとする。

 

「まあ、古代都市(シアーテ)を滅ぼした<冥き神王>は情報価値が高いって思ってるやつらもいて、それで復活するまで事態の様子見をすると議会で決定して……」

 

「ふん。それで尻拭いは下っ端にやらせるとは、良いご身分だな」

 

「いや、本当に申し訳ない。でも、そういう立場なもんでね。しゃーないッス」

 

 矢瀬としても、不本意なのだ。

 『暁古城の親友』という表向きの立ち位置を築き、しかしその裏側は『第四真祖の監視役』というポジションという面倒な役目を担わされている矢瀬。そんな彼にとって、今回のセレスタ=シアーテを中心とした騒動は完全に寝耳に水な不意打ちであって、監視者として与えられた権限では手に負えない。

 『戦王領域』の貴族ヴァトラー。

 『アメリカ連合国』の陸軍少佐アンジェリカ。

 『混沌界域』の戦士長クアウテモク。

 人工島管理公社の保有戦力では、そのうちの一人だけでも手に余る化け物揃いだ。

 だから、セレスタの正体を知りながら教えてやることもできず苦悩する古城を眺めたり、神獣化能力を持つ上位種の獣人部族や機械化改造された特殊部隊の相手を後輩に任せたり、そして、彼らの手助けもできない自分自身に嫌悪感に吐き気を催しそうになるのを堪えたり……

 

 けれども、その一方で矢瀬は、この騒乱が貴重な“予行練習(リハーサル)”になりえることも理解していた。

 

 那月は無感動に息を吐くと、己の使い魔とその管理役から視線を外して、

 

「―――で、公社の人工知能は、あの丸いやつをどう分析している」

 

「あー、<冥き神王(ザザラマギウ)>とやらを降臨させるために形成された、保護フィールドって感じすね」

 

 超電子演算頭脳の化身たる『モグワイ』が分析するに、あれは『卵』であり、その中に十中八九、邪神の“(コア)”があると予測している。

 

「邪神の実体化を止める方法は―――?」

 

「今んとこ、不明。他の『魔族特区』にも情報を調べてもらってますけど、何せ古い記録しかないもんで。一応、今、レーザー攻撃衛星を準備してるっすね」

 

 ただし、あと90分ちょい、時間がかかる。

 人工衛星搭載型の対地レーザー砲は、人工島管理公社が隠し持つ切り札の一つであるが、そのシステムは未完成なもの。発電能力と軌道高度の関係で、絃神島への精密射撃が行えるのは約3時間おきに一発だけ。

 邪神の実体化までに間に合うかは微妙なところであって、そしてレーザー砲撃で、あの『卵』を破壊できるかどうかは、また別の問題だ。

 

「てなわけで、それまでは、邪神の対応は姫柊ちゃんに期待するしかないみたいです」

 

「獅子王機関の『七式突撃降魔機槍』か―――無謀だな。棒切れ一本で、ダムの放水を止めようとしているようなものだぞ?」

 

 眉を顰める那月。

 魔力を無効化する人工神気を放つ<雪霞狼>も、神気を帯びた敵とは相性が悪いことは、『仮面憑き』との戦闘で実証されている。<冥き神王>が完全に実体化したら、もう為す術無しだ。

 

「自分が時間を稼げば、古城がどうにかしてくれるって信じてるんでしょ。実際、そのおかげでこっちにも対処する余裕ができたわけだし。健気な子ですからね」

 

「ああいうのは、思い込みが激しいというのだ」

 

「まあ、否定はしないっすよ。うちの幼馴染も似たようなもんだから」

 

 今頃、問答無用でキーストーンゲートの中核を担う<C>に閉じ込められている幼馴染の顔を思い浮かべ、矢瀬は薄く笑う。

 

「完全に実体化した場合、絃神島にどの程度まで影響が出る?」

 

「『卵』だけなら、大した影響はないっすよ」

 

 あの“怪獣大決戦”はないものと考えて、と前置きして、

 仮に『卵』が現在のペースで膨張を続けたとしても、人工島(ギガフロート)の機能に影響が出るまで96時間――4日以上かかる試算だ。呪術迷彩を使っていれば、その間、市民の大半が『卵』の存在に気付かせないのも可能である。

 

 そして、『卵』は、完全に実体化する前に自らの霊力を使い尽して自己崩壊する。

 

 もともと存在するべき神殿から切り離されて、まともな供物も儀式もない状態での召喚。本来の力を発揮できる方が、異常なのだ。

 

「だが、ヴァトラーは球体が飢えることなど最初から織り込み済みだろうな。ほれ、あそこにいる“阿呆鳥”と“銅鑼(どら)猫”、それと“馬鹿犬”……“獣人(けもの)生贄(ちにく)がお好み”の邪神には、恰好の馳走(エサ)としか映らんようだぞ」

 

 煩わしげに唇を歪める那月の視線の先、そこには“三体の極上の栄養源”のうちまずどれにしようかと食指を彷徨わせるよう、緑色の触手を揺らしながら伸ばしている邪神。

 長い年月をかけて醸成された“阿呆鳥”、

 人が壺で煮詰めて加工された“銅鑼猫”、

 遺伝子改良された素材である“馬鹿犬”、

 と、邪神にはテーブルに並べられた料理としか見えないだろう。

 あんなのを口にすれば確実に腹を下すか胃が焼けるだろうが、飢えている邪神には残さず平らげる腹積もりに違いない。ただし、最初は楽に喰らえる、脱落したものを狙っているようで、迷っている模様だ。

 そして、このお膳立てを整えたのは誰か?

 

 昨夜のこと、“代理戦争”の企画人がヴァトラーであることは、アスタルテより報告されている。

 奴の口車で絃神島に“阿呆鳥”を連れてきたことも大体は予想がつくし、あの豹頭の獣人神官どもを匿っていたことから、“銅鑼猫”の存在にも勘付いていたことだろう。

 騒動の種は『花嫁』セレスタ=シアーテだろうが、その『花嫁』を含め、更に絃神島に他所から火種を持ってきたのは、まぎれもなくヴァトラーだ。

 あの血に狂った戦闘狂は完全体の<冥き神王>を本気で望んでいる。そして、それが強き獣たちの死闘饗宴から産まれたのならば、存分に“愛で(ころし)甲斐”が出てくるというものだ。

 

「那月ちゃん……いますぐクロ坊を避難させた方が良いんじゃないか」

 

「そんなことをすれば、あの球体は絃神島との融合を早めるぞ」

 

「融合……?」

 

 真剣に後輩の身を案じた矢瀬は、那月の言葉に困惑する。

 <冥き神王>の正体は龍脈が生み出すエネルギーの集合体。『シアーテ』の神殿に構築された巨大な魔術装置によって、それに実体を与えたものに過ぎない。

 龍脈の集積地点である霊地との融合など、邪神本来の機能に含まれていないはずだが……

 

「あれは飢えていると言っただろう。馳走を目の前から取り上げてみろ。どこぞの“蛇”と同じで堪え性のないあの利かん坊は、本腰を入れて絃神島の住人全てを供物にして、不足分の魔力を補うだろうな」

 

「供物って……じゃあ……」

 

「そうだ―――この絃神島の全てが、喰われる」

 

 平然と那月は言い放つ。その言葉に矢瀬は息を呑んだ。喰われる、と彼女が口にするなら、本当に絃神島の全てが食われる。南宮那月と言う人物はこんなときに冗談を言う性格ではないのだ。ましてや、あの少年の命がかかっているような状況で……

 

「……邪神に喰われる以前に、島が壊れるかもしれんがな」

 

 身動ぎもせずに立っていた那月が、唐突に日傘を揺らして歩き出した。

 彼女が目指すのは、地盤が砕け、球体の触手が根を張り始めている港湾地区。そこを走り抜ける長身の女。大柄な男をひとり従える、毛皮付きコートの美女だ。

 

「対魔族装備すべてをもってしてもあの球体を倒し切るのは力不足だ。公社連中には、急ぎ東地区から市民を避難誘導するよう伝えろ。

 怪獣退治は趣味ではないのでな。私は私の仕事をやらせてもらう―――」

 

「待ってくれ、本当にクロ坊を放っておいていいのかよ!」

 

 背を向けたまま、那月が立ち止まる。

 監視役として矢瀬が彼女をここで引き止めるのは失格かも知れないが、ここは抑えが利かなかった。あんまりにも薄情だ。ここで何もせずに離れてしまうのは、絃神島と使い魔(サーヴァント)の命を天秤にかけて、前者を優先することを認可したようなもの。公社とすればそれを黙認するのが正解だ。しかし、そんな住民が食われないよう、邪神の気を引く、馬のニンジンをやらせるようなことを、認めていいのか。

 

「絃神島が危機なら、“馬鹿犬の行動は定まっている”のだろう」

 

「……っ」

 

 ケケッ、と矢瀬のズボンのポケット――そこに収まっている携帯機器(スマートフォン)より笑い声が聞こえた。“その通りだ”と言わんばかりの人工知能(AI)の癖に人間臭い合成声音。

 矢瀬は、これ以上引き止める言葉など吐けず、沈黙する。那月は嘆息を零して、その去り際に呟く。

 

 

「怪獣退治の管轄は、私の眷獣(サーヴァント)に任せている。『神殺し』に不完全の邪神程度など“役不足”だ。むしろ、絃神島の心配をするべきだと私は思うがな」

 

 

 そう言い捨てて、那月は姿を消した。彼女がそれまで立っていた場所には、ゆらゆらとした波紋だけが残されている。

 矢瀬はゆっくりと立ち上がりながら、今の捨て台詞を頭の中で咀嚼して、ついにやけてしまった。“力不足”と判断した相手には、その仕事を任せようとしないであろう天下の国家降魔官が、“役不足”と言い切った。即ちそれは全幅の信頼を置いているという……

 

「誤用、ってわけじゃねーだろうし……那月ちゃん、姫柊ちゃんのこと思い込みが激しいなんて言えないんじゃねェか」

 

 カリスマ担任教師が前にいてはとても吐けない言葉を出しながら、矢瀬は肩を竦める。

 ズボンのポケットから取り出した、見慣れない型の携帯機器(スマートフォン)の画面に浮かぶ不細工なマスコットキャラが“同意だ”とでもいうように、ククッ、と笑う。

 

 

人工島東地区 港 跡地

 

 

『―――やあ、古城、ようやくお目覚めかい?』

 

 雪菜の血を飲んだおかげでどうにか意識を保ててはいるが、体の芯に蓄積している負傷のダメージは完全に消えたわけではない。不老不死の真祖の肉体は、自己修復を続けてはいても、まだ戦えるレベルには程遠い。

 それでも、ここで立ち止まってなんかいられなかった。

 トビアス=ジャガンは、邪神の結界内に入った主に牙を剥いた『アメリカ連合国』アンジェリカ=ハーミダを追っていき、雪菜はそれよりも先に『花嫁』セレスタを救いに飛び込んでいる。

 古城はそれらを為すすべもなく見送った。

 

 “死んだふり”をしていた金髪碧眼の青年貴族もまた。

 

『ご苦労だった、キラ。もういいよ』

 

『はい、閣下―――』

 

 側近の眷獣で『影武者』を表に立たせて、獣人神官たちの中に裏切者がいることを知りながらも見逃す。

 そして、わざと自身の鏡像をセレスタの目の前で殺させた。

 邪神の『卵』が現出するトリガーとなる『花嫁の絶望』のための演出。

 それを理解した瞬間、古城は我慢できなかった。その涼しげな笑みを浮かべたヴァトラーの横っ面を思いっきりぶん殴る。

 ヴァトラーはそれを避けなかった。骨と骨のぶつかる鈍い音が鳴り響く。殴られた頬を摩りながらも、悠然と笑って見せた。

 

『―――痛いな、古城。そういうのも、嫌いじゃないが。キミには最初に伝えたはずだ。セレスタ=シアーテを殺して、<冥き神王(ザザラマギウ)>の復活を阻止するか。それとも絃神島(ここ)で邪神の降臨を待つか―――選択肢はふたつだと。状況は何も変わっていない。時間制限(タイムリミット)がわかりやすくなっただけさ』

 

 しかし、安心するといい、と。

 不完全な邪神ならば、簡単に滅ぼせる。何ならキミの代わりにボクが始末をしよう、そう浮き立つような口調で告げる。

 

 ―――それは、許さない。

 

 歯を食いしばったまま古城はヴァトラーを睨む。

 

 手を出すな!

 セレスタも姫柊も俺が連れ戻す!

 これ以上お前の好き勝手にはさせない!

 

 ヴァトラーが『花嫁』を古城に預けたのだ。ならば最後まで黙って見てろ。

 

『ふふ……キミならそういうだろうと思ったよ。いいだろう、ボクとしても、どうせなら、より完全な邪神の相手をする方が愉しいしね。それにボクには“代理戦争”を見届ける義務がある。彼らの死合いでしばらくは無聊を慰めるとしよう』

 

 と聞き分けのない弟をあやすような口調で、ヴァトラーは古城の物言いを聞き入れた。

 堪え性がないようでいて、妙なところで律儀な男だ。

 ただし、『邪神が実体化したら、セレスタ=シアーテも姫柊雪菜も、この世には存在しないだろうから、ボクが食べても構わないだろう?』と忠告じみた宣告をしてきたが。

 でも、不愉快ながら、その言葉は正鵠を射ている。

 邪神が降臨すれば、セレスタも雪菜も、そして絃神島も終わりだ。そうなれば、何もかもが手遅れである。

 

 そして、古城が止めなくてはならないのは、邪神だけではない。

 

『心配しなくても大丈夫だ古城。ボクは<黒妖犬(かれ)>に賭けているからネ』

 

 もう一発、後輩の分もその頬を力任せに殴った。

 

 

 

 天空より飛び掛かってきた蛇竜に、魔狼は真っ向からぶつかり、絃神島から突き放させて、続けて迫ってきた豹蠱を蛇尾で捕まえては噛み千切って飛ばす。

 

「グォォオオオオオ―――ッッ!!!!!!」

 

 100m以上離れているのに、その風圧だけで大きく姿勢が崩れた。一般常識と言うのを根本から突き崩してしまうほどの、凄まじい威力。何の技術もなくとも、圧倒的な質量と速度があれば、それだけで絶対的な脅威となりえるといやでも悟ろう。風圧どころか、その圧倒的な迫力だけで目にした者の精神(こころ)も砕きかねない。

 それは、人と人の戦いではないのだ。

 怪獣と怪獣、純粋な力と力がぶつかり合い、その度に大地を鳴動させる。巨大な獣たちが織り成す荘厳な神話を目の当たりにするかのようだった。

 

「く……」

 

 ヴァトラーの船から降りた古城を歓迎したのは、十数mもの三体の怪獣(うち一体が後輩)が暴れ出す渦中。

 

 そして、それらを虎視眈々と窺うよう、ひっそりと触手の根を張り巡らせながら膨張を続ける球体――邪神を降臨させるための魔術装置。

 

 虚空に穿たれた巨大な空隙は、邪神の力で生み出された異空間へ繋がっている。降臨するため、実体化に必要な魔術装置を、自ら構築したい空間の中で再現しようとしているのだ。

 邪神と言えど神のはしくれだ。固有結界を構築することくらいやってのけるだろう。

 このイメージに近しいもので思い浮かべたのは、南宮那月の<監獄結界>だ。那月の夢の中に構築された、異空間の監獄。あれはあれで凄まじい魔術の産物であったが、この球体はそれよりも桁違いに規模がでかい。邪魔をされずに成長を続けていれば、遠からず絃神島をも完全に呑み込んでしまったことだろう―――

 そう、邪魔をされなければ、だが。

 

「■■■■■ァァ―――ッッ!!!!!!」

 

 空を焦がし、海を荒らし、島を揺らし、と三体の怪獣の乱闘の余波の物理的な衝撃波で、蔓草が吹き飛ばされている。現実空間を呑み込もうにも、こんな異空間を構築してもすぐ破壊される争嵐では無理があったか。賽の河原で積んだ石を鬼たちが情け容赦なく壊していくよう。おかげで邪神の降臨は遅れており、セレスタを救う時間が稼がれている。

 ただし、邪神の『卵』との融合を阻害しようとも、怪獣たちの大乱闘で絃神島が沈みかねない。さらには異空間の中には、雪菜たちがいて、『卵』本体まであれに巻き込まれたら彼女たちの安全などない。

 なんて、累卵の危うきだ。

 だったら、ここは奮戦している魔狼――後輩を支援して一気に“代理戦争”に決着をつけさせる―――!

 

 まず、狙うのはあの豹蠱。

 ひどく大雑把に粘土を捏ねて造ったような肉体で、その顔もまるで仮面。目も鼻も単なる空洞と盛り上げ(モールド)の集合体だ。彫刻家ならずとも、そこらの小学生でももっとましな形を砂場で作って見せるだろう。

 しかし、二体の『獣王』を相手しながら、邪神の脅威に曝されるという、この上なく危機を鏡映しして、その力は先の対峙よりも格段に上をいっている。

 

「―――疾く在れ(きやがれ)、<水精の白鋼(サダルメリク・アルバス)>!」

 

 回復し切っていない体力を振り絞って、古城が召喚する眷獣は、水流のように透き通った肉体を持つ水妖。美しい女性の上半身と、巨大な蛇の下半身。流れ落ちる髪も無数の蛇。

 紫黒に染まる海面を割って現れた、水用の巨大な蛇身が、激流を起こして穢れを洗い流して、さらに鋭い鉤爪を備えた織手が、津波と一体と化したような巨大な豹獣を引き千切る。

 

 <第四真祖>の『十一番目』の眷獣は、吸血鬼の超回復能力を象徴する水の精霊。まるで時間を巻き戻すように、触れたものを修復する。高度な機械を原子に分解し、生物を生まれる以前の姿に還すのだ。

 『不死』と『増殖』―――その<病豹鬼>の特性に近しかった<賢者の霊血>で構成された鋼竜を塵屑と化したその力は、呪毒に侵される領域ごと豹蠱を呑み込み、本来あるべき蒼い海へと戻していく。効果的だ。鏡映しのように脅威に対して増強される<病豹鬼>でも、その増強(しんか)を許さない水妖。

 

 しかし、この行為が、この三つ巴の拮抗を崩してしまった。

 

 消滅しかかっている豹蠱。

 そして、それを警戒して、海面近くには飛び込まなかった蛇竜が動く。

 羽毛を焼き焦がし、赤熱した鱗。吸血鬼の如き牙を生やしたその嘴は鋸のよう。羽毛を持つ蛇は、己が身から太陽の如き熱量を発しながら、虚空を穿つ球体へと急降下する。

 

 『鷲の戦士長』の目的は、獣人神官たちと同じで、邪神の被害を食い止めること。

 だから、完全に降臨する前に、<冥き神王>の『卵』本体を破壊するつもりなのだろう

 しかし、それは今、雪菜とセレスタのいる異空間を抹消することを意味している。

 

「やらせるかよ! あそこには姫柊たちがいるんだ!」

 

 古城が水妖を蛇竜に迫らせる―――しかし、それは太陽に近づきすぎたせいで蝋の翼が溶けるよう、流体の身体が崩れていく。

 物質は還元できるが、あの爆炎流の灼熱まで還元はできない。

 

「邪魔ヲスルナ!! <第四真祖>!!」

 

 その蛇身に猛き炎が渦巻いた。

 狂化されたその<神獣化>。

 豪炎を収束させ、第二の太陽と言わんばかりの熱と刃で神すらも断ち切らんとする蛇竜。上を通過するだけで、海水はもはや煮え滾りさえせず瞬時に蒸発し、その炎刃の翼腕が、海と溶け込んでいる水妖の流体をいともたやすく溶断し、意思を持つ魔力の塊が霧散した。

 

「ぐあああああああっ!?」

 

 斬撃の余波を、古城は浴びた。

 熱波をもろに受けた肉体は、全身火傷の重傷を負い、網膜が光に押し潰される。

 

「誇リ高キ『豹ノ戦士』ガソノ命ヲ捧ゲテ作ッタコノ好機ヲ邪魔サレテタマルモノカ―――ッ!?」

 

 蛇竜が<第四真祖>の身を灰と化そうと嘴を大きく開けた―――その瞬間。

 気配を察知した蛇竜は、ほとんど反射的に、炎迸る双翼を羽ばたかせ、急上昇する。

 刹那、ごお、と飛び掛かってきた巨獣が腕を振り落としていたのだ

 

 獅子の頭を持つ地母神(アスタルテ)との結合で地獄最強の魔獣(マルコシアス)の伝承に記載された幻獣の想像図と同じく鷲獅子(グリフォン)の翼と竜蛇の尾を持つ魔狼は、凍れる炎(ブースター)からの魔力放出で加速しては、神獣の爪撃を振りかぶり、破城槌となって蛇竜の燃え盛る蛇身に雪崩れ落ちた。

 

 北欧の神話には、太陽を喰らう日蝕狼(スコル)がいる。

 

 触れれば火傷では済まされないだろう羽毛のある蛇の赤熱した鱗を、魔狼の爪は大きく削り、肉を裂いてみせた。

 

「グゥ―――コノ青二才ガ! 今スグ邪神ヲ殺スベキダトワカラナイノカ!」

 

「古城君モ、姫柊モ、セレスタモヤラセナイ!」

 

 魔狼と蛇竜の対峙。

 その衝突で巻き起こった暴風に古城は煽られ―――急に張り詰めていた糸が切れたように力が抜けて、吹き飛ばされる。

 あの両者――両獣の間に、生身で割って入るなど、自殺も同然。

 そして―――弱ったものを待ち構える邪神がいる。

 

「ぐぉっ!?」

 

 全身の血が流れ出すような苦痛に、古城は起き上がれなくなる。

 その原因は、密やかに這いより、古城の足に絡みついた、球体から吐き出される蔓草状の触手だ。

 それが、魔力を喰らう。

 かつて遭遇したあの『龍脈喰い』の魔竜。それと同じく、邪神の『卵』が侵食するのは、霊地龍脈だけでなく、蔓草に巻き付いた対象からも膨大な魔力を奪えるのだ。

 

「く……! 俺の魔力を遠慮なく喰いやがって……!?」

 

 両手を頼りなく地面に突いて、古城は荒い呼吸を繰り返す。

 蛇竜の攻撃で、まだ視界全体が光量調整の失敗した写真のように白みがかっていて、周りがよく見えない。激しく転がったせいもあってどの方向を向いているのかさえもわからなかった。

 夏のスイカ割りでもないのに視界不良前後不覚の状態で、残っていたなけなしの体力が、ごっそりと奪われて目減りしている。

 これでは眷獣の制御は不可能、召喚するのは危険。

 <第四真祖>の強力過ぎる眷獣は、古城にとっても諸刃の剣で、一歩間違えば絃神島そのものを消滅させかねない。それにたとえ召喚したとしても迂闊にぶつければ眷獣からも相当の魔力を喰らうだろう。

 

 求められるのは、一撃必壊の攻撃。

 

「しまっ―――!」

 

 しかし、いずれにしてもそれ以前に、脚に絡みついている蔓草の触手を破らなければ、枯渇してしまう。どころか、追加で蔓草状の触手が頭上と左右からの同時攻撃。弱り目に祟り目。どうやっても回避し切れない。そもそも捕まって吸精(ドレイン)されている古城に、避けるだけの体力が残ってない。

 

「ッ!」

 

「お兄さん!」

 

 捕らえられた古城を救ったのは、蔓草を撃ち落す苛烈な閃光。弱った真祖を喰らおうとする邪神を次々と撃ち抜きながら駆けつけてくるのは、ひとりの少女。

 

「叶瀬!?」

 

 古城は呆然と彼女の名を呼んだ。

 目はまだ白ずんでいてよく見えないが、その清らかな声調は間違いない。また、耳朶を叩いてくるのは彼女の声だけでなく、

 

(ワシ)もいるぞ」

 

 彼女の胸には妖精めいたサイズの液体金属生命体。自称『古の大錬金術師』ニーナ=アデラートがいて、無尽蔵に近い夏音の霊力を借りて、重金属粒子のビーム砲撃を放っている。

 純粋な物理攻撃である粒子ビームが相手では、触手の魔力吸収能力も役には立たない。灼熱の閃光の刃を受けて、緑の触手が次々と焼け落ちる。

 

「お兄さん、無事でしたか?」

 

「おまえら、どうしてここに―――!?」

 

「ごめんなさいでした。やっぱりセレスタさんのことが心配で見に来てしまいました」

 

 夏音は困ったような表情を浮かべて、言いつけを破ったことを告白する。

 そうして、ニーナの出鱈目な攻撃力によって一時制圧をすると、夏音は、立ち上がれずにいる古城に躊躇せず肩を差し出した。自分の服が、古城の血で汚れることすら一瞬たりとも厭わない。そして、火傷するほどではないが第二の太陽に炙られたその身はまだ高温を保っていて、けれども、熱がっていても夏音は古城から離れようとはしない。非力で、華奢な身体で古城を懸命に支え、そのまま安全そうな場所へと引き摺って行こうとする。

 

「いや……助かった。ありがとな」

 

 弱々しくそう告げる古城に、夏音は無言で首を振り、照れたように俯いた。

 けれど、食事の邪魔をしてくれた攻撃の源である夏音たちをめがけて、新たな触手が更に倍に増量して鞭のように撃ち出された。

 

「危ない!」

 

 古城は暴発覚悟で眷獣を喚び出そうと構え―――それを横から掻っ攫う白い影。

 

「みー!」

 

「フラミーちゃん!」

 

 触手の包囲網から古城たちを救い出したのは、後輩の<守護獣>だ。爪も牙も攻撃性はないが、攻撃性を拒絶する防護性から壁役として有能な白き龍母。主人(クロウ)より安全に避難をさせるべく古城へ寄こしたのだろう。しつこく球体からの触手が迫ってくるが、四枚の翼を器用に操る獣竜は、それを危なげなく切り抜けていく。

 そして、古城の視界が回復したころに、無事着したのは、<オシアナス・グレイブⅡ>だった。全長が2mほどと眷獣と比較して小柄で小回りの利く毛皮の翼竜(ファードラゴン)だからそのまま船内に入り込めた。

 ヴァトラーが退避させたのか、目と鼻の先にあった邪神の球体からは距離を置いて、なおかつ怪獣決戦を観戦できるような位置取りにそのクルーズ船は移動していた。そのせいか浸食からは逃れており、移動できる分、下手に建物の中に逃げるよりは安全であった。

 また船内には乗員たちの姿は見えず、本人が降りてくる気配もない。あっけなく逆戻りした無様な姿を見られずに済んで、古城は少しだけ安堵する。

 

「雪菜ちゃんとセレスタさんは、どこに?」

 

 船内の通路に古城を降ろして、夏音が心配そうに訊いてきた。

 

「あいつらはあの中だ。今から行って連れ戻してくる―――」

 

 窓越しに見える球体、そして、それを巡って争う怪獣二体。

 それら戦況を一望した古城は表情険しく答えた。

 夏音は碧い目を驚いたように見開いて、慌てて古城の身体を押さえつけた。

 

「今のお兄さんでは無理でした」

 

 ふるふると首を振る夏音を見返して、古城は唇を噛み締める。

 焼かれた全身も、それより前に豹蠱に吹き飛ばされた心臓も再生を終えているが、それはあくまでも機能だけの話だ。古城の胸部半分は焦げたように、または毒に冒されているように黒ずんでいる。魔力体力を根こそぎ奪われ、ここで夏音の支えから離れれば立っていられるのかも怪しい。彼女が心配するのも当然だ。

 

「大丈夫。このくらいの傷は、すぐに治る―――」

 

 それでも古城は強引に立ち上がる。しかし何歩も進まない内に、目眩に襲われてよろめいた。遠のきそうになる意識を、危ういところで繋ぎ止める。

 

「やめておけ。自分であることもままならん奴が、あの場にいってもクロウらの足手纏いになるだけだ」

 

 それを夏音の手出しを制して、見下すニーナが、無情な言葉を投げつける。

 今の古城は戦えない。悔しいがそれを認めざるを得なかった。でも、このまま黙って見ていることなんて、とてもできない。不甲斐なさに歯軋りさせる古城は、苦しげにも言葉を吐いた。

 

「だからって、あそこで後輩たちが戦ってるのに、尻尾を巻いて逃げられるかよ」

 

「言っても聞かんか。まあ、わかっていたことだ。貴様が金属生命体の妾でも困らせる石頭であるのはな」

 

 嘆息するニーナ。ちらりと夏音に視線をやり、

 

「しかし、同感だ。あそこに孤軍奮闘するのは妾と夏音を居候と受け入れた身内。妾はこう見えても義理堅い。何せ金属生命体だからな。

 ―――だから、貴様が男として、きっちり責任を取るというのなら、ひとつ策がある」

 

「なんだそれは!」

 

 一にも二にもなく話に食いついた古城。

 でも、それに答えたのはニーナではなくて、院長様のアイコンタクトを受けて意味を悟った夏音からだった。

 

「はい。今度は私の番でした」

 

「よいのか、夏音?」

 

「大丈夫です。セレスタさんに言ったことは、ウソではありませんでした、から」

 

 吸血鬼が失った魔力を回復させ、未だ血の中に眠る眷獣を覚醒させて状況打開させる新たな力を得るのに、最も効果的な手段。

 それは恐ろしく強力な霊媒の血を飲むこと。

 そして、今目の前に、古城のすぐ前に、アルディギア王家の血を引き、極めて純度の高い霊気を持つ、最高級の贄がいる。

 

 頬に朱を入れ恥じらいながらも、視線を伏せることなく真っ直ぐに古城へ向ける夏音が告白する。

 

 

「お兄さんのこと、ずっと好きでした……」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「我ハ太陽ヲ賜ッタ」

 

 それは、まさに真紅の織物であった。

 真祖の眷獣と蛇竜の神獣が、一本の紐に編み込まれるように一体となったその姿。恐るべき第二の太陽を体現する怪獣であった。

 あまりの熱量と膨大な炎によって、もはや神気と聖護結界を相乗していつもの倍する防御性をもった白金の生体障壁で覆われている魔狼の身に突き刺さるような痛苦が走る。

 

「故二、コレハ天罰ト心得ヨ」

 

 蛇竜が燃え盛る双翼を羽ばたかせ、火の雨を降らす。

 羽毛の蛇神が、人類を滅亡させたという伝承の一節さえ思わせる、神話的で破滅的な光景だった。

 

「クゥ……ッ!」

 

 海が抉られるように蒸発し、一瞬遅れて渦になって巻き戻っていく。雨霰と無数の火矢羽に、海が穴だらけとなる光景。

 これが、『混沌界域』で最強の獣王の本気か。

 事前に嗅ぎ取り予想し得た情報を、改めて鼻腔に入れる。そうすることで、ようやく今自らの降りかかっている現象を呑み込める。

 しかし、それでいて魔狼は正気を保っていた。

 ここでこの身を穿たれるのは、少女を道連れにすると知っているからこそ。

 そして、少女は―――

 

 

 

 なぜ人間が自分の腕を器用に扱えるのか。

 それは単純にそういう機能になっているからではない、赤ん坊がグーパーぐらいしか手を操れないことを考えればわかるだろう。

 実際の理由は、そこに伝達部位(シナプス)が形成されているためである。

 習慣付けられ、反復して行使され刺激された結果として、しわを深く刻み込むように脳神経が最適化されるのだ。

 赤子のころからの訓練が、人間の脳に腕という機能を刻み付けていると言ってもいいだろう。余談だが、幻肢痛(ファントム・ベイン)と呼ばれる『事故などで欠損した手足が痛む現象』も、最適化した脳が四肢の喪失を受け入れられないために引き起こされるものである。

 

 つまりは、同体となったところで、本体と翼の連動に齟齬が生じてしまうのはどうしようもないことだ。

 しかし、それはどうあっても一人で走った方が早い二人三脚を強いられるようなこと。

 

 この人工生命体の身に寄生させた人工眷獣を、器用に動かすことなどできない。巨人に拳法の真似事をさせるなど叶いはしないのだ。思考制御をできてはいても、それはあくまで『こんな感じで動いて対処してくれ』というひどく大雑把な指令を与えているに過ぎない。

 

 だが、自らが変身する獣人は違う。

 使い魔という外部から新たに魔術回路を接続するのではない、体内にある伝達組織をそのまま延長させるからこそ、倍以上の身体に成長しようが、思うがままに自在なのだ。

 

 だから、どうしてもこの二つは勝手が違う。

 差が出る。

 世界最強にして世界最大級の魔獣は、動作が緩慢で、行動が遅いためについていくことができた。

 だけど、超高速戦闘が繰り広げられる『獣王』同士の戦いは速い。ついていけなくなり、差が広がっていく。

 

 また、判断速度も違う。

 機械的な完璧な分析ができるようにも、言語化できない直感や第六感といった範囲では、科学の粋より動物の原始的な能力の方が勝る。

 だからこそ、獣の本能を宿している彼は、機械の計測よりもあっさりと最適解にたどり着いてしまう。

 

 結果、動きを鈍らせてしまう。

 本当は、もっと加速できるというのに……

 

 ―――だから、二人三脚では、間に合わない。

 

 降ってくる火矢羽を避け続ける。

 数秒ごとどころか、コンマ秒ごとに試験問題を突き付けられるようなものだ。

 アスタルテは頭が、ひりひりしだすのを覚えた。

 相当、思考制御に無理をかけている。

 

(私は―――)

 

 アスタルテは、思考する。

 徐々に速くなる加速領域。

 “たったひとつ”を除いて、糸を引いていくようにしか見えなくなる世界の中で、その“たったひとつ”に集中する。

 

(私が想うのは―――)

 

 徐々に、魔狼の動きが鋭さを増していく。

 未来を予知するかのように、火矢羽の細い細い隙間に、蛇尾狼という大きな針を通していく。どんどん、移動範囲が狭められていく。レトロゲームのラストシーンで、崩壊した洞窟を飛ぶ、頼りないプロペラ機。ひとつでも動きを間違えれば、いいや間違えなくても少し運が悪かっただけで、自分の躰など簡単に圧し潰される。

 想像した。

 神気聖護混合二重障壁が破られ、自分の華奢な身体ごと魔狼の肉へ食い込む場面。あっさりと骨が砕け、内臓が焼かれる痛みを錯覚する―――

 

 

 

 ―――アスタルテ、心配するな。

 

 ひどく、世界は緩やかだった。

 スローモーション。

 脳内処理に、現実が追い付かない。雨霰と世界の終末を連想させる猛攻撃の中を、魔狼の躰がすり抜けていく。

 どこか夢でも見ているような、ここにいながら、まったく違うどこかにもいたような、ひどく不思議な感覚。

 

 ―――オレが、絶対に死なせやしない。

 

 思考制御も、翼の操作も考えなかった。ただ、彼の念話(こえ)だけに意識が傾く。

 連続する難題をクリアし続ける。数はわからない。時間もわからない。延々と続こうが目の前にあるのは常にひとつ

 ただ、無我夢中で、彼の背中を見る。この景色が線状になる加速世界の中でも、彼の背中だけは変わらず前に固定されている。そのアスタルテに見えるたったひとつだけを、いくつもいくつもいくつもいくつも解いていった。

 もはや、考えていない。

 すべては、思考以上の自分と彼に託す。

 

(そう、私が想うのは……先輩の動きやすいように、することだけ)

 

 それが、答えだった。

 

(私に見えるのは―――私がわかるのは―――私を想うのは―――先輩だけ)

 

 超高速戦闘についていくことはできない。

 でも、彼の考えていることはわかる、そしてどんなに速くなっても預かった背中は前に見える。

 ならば、彼の動きだけを予測すればいいのだ。魔狼自体の行動を想像し、予想し、彼の背中に追随させればいい。辺り一面に災厄が降り注ごうとも、自分の視界一面に映るのは、彼だけ。

 そうすることで、無駄な力は消える。思考は一点に研ぎ澄まされる。鷲獅子の翼の挙動を、もっと目的そのものへと活用できる。

 

 そう。

 これは。

 理屈などではなく。

 彼と何もかもともにしたいという、ただそれだけの覚悟が決まった。

 

 人間がコンピューターの特性を得た場合、『自分とは誰なのか』を不安に思うことだろう。

 人工生命体の思考回路は人間の手で設定される。つまり、簡単にコピーできるものを、自分と認識できるだろうか。性質も性能も性格もすべて、学習装置のクラウドに置いて、いつでもバックアップから再生できてしまうのなら、一体ここにいる自分とはなんなのか。

 同じ思考回路を持って大量生産される人工生命体に、唯一性(アイデンティティ)などないということなのだろう。

 

 だからこそ、大事なのだ。

 

 人工生命体の身で、どうしてこのような人間性を持つに至ったのか、それはアスタルテ自身にも判然としていない。

 人間に従順な性格であれと望まれ、感情など設定されていなかった人工生命体が、そうしたいと初めて思ったことに、高い優先順位(プライオリティ)をつけた。

 この優先順位のつけ方を、人間は“心”というだろう。

 

 <第四真祖>の魔力供給だけではダメだ。

 同体しただけでは、二人三脚。

 だから、アスタルテはこの“心”も与える。

 二人三脚ではなく、一心同体こそが求めるもの。

 

 

(私が想うのは、標的ではなく、先輩だけ―――)

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「<シアコアトル>―――!

 

 

 蛇竜の双翼が、合わせられる。

 光が集う。

 天空が、紅蓮に染まる。

 水分どころか、空気中の成分すべてを蹂躙し、沸騰させて、逃げ場のない魔狼へ急直下する。

 あらゆる風は、その一合双翼の前に燃やし尽くされた。炎の形状をしているが、それは炎とは似て非なる何かなのだと、クロウは直感する。

 魂さえ、その業火は灼き尽くす。

 断罪炎は、魔狼の頭上へ振り落されて―――豁然、その両手が霞んだ。

 

 

「壬生ノ秘拳―――」

 

 

 刹那にも至らぬ虚空の間に、“四足形態(ケモノ)である”魔狼の両腕、と二人羽織と添わされる鷲獅子の双翼―――二つが溶け合うような重合掌となったところを、果たしてその鷹の目は視認できただろうか。

 真剣白刃取り―――!

 それも、“魔狼が二足歩行で”腰を落とす沈墜の動作で蛇竜の渾身の一撃の勢いをもわがものに吸収するという、理合いにも術理にも反した人外の体術。挟み捕ったふたつの手が、しかも疑似聖拳と神格振動波を同時に発動させ、合掌したところで共鳴増幅させるという離れ業さえやってのける。

 いかな最上位の怪獣であってもできることではない。

 天才という言葉さえ愚かしい、規格外(バケモノ)の所業。

 なにせ。

 神獣と化した完全なる獣である魔狼が、あの瞬間に、両手が自由な二足歩行に進化した巨大な魔人狼になるなどと、誰も想うまい。前代未聞だ。

 

 

「―――ネコマダンクッ!!」

 

 

 地獄最強の魔獣(マルコシアス)は、“比類なき戦士の姿を持つ”といわれる。

 

 野生の獣型から、知性を得た人型。

 万人の――“代理戦争”を観戦していた<蛇遣い>でさえ想定外な――斜め上の変身をしたが、魔人狼は気迫も技術の冴えも、いささかの濁りもない。

 挟み捕った双翼をそのまま圧し潰して、蛇竜の胴腹に返し技(カウンター)の双掌を叩き込みながら巻き込む。一回転。天高く飛ばすのではなく、海へ叩きつけるよう方向修正を行い、百花散らす気功砲が炸裂した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――蛇竜の変身が解け、蛇腹剣を手放して霧散させ、鳥人は海へ失墜した。

 

 

 勝った、のだ。

 後輩が、あの『鷲の戦士長』を倒したのだ。

 

「ったく、負けてられねェな」

 

 暁古城は、強気な微笑を“代理戦争”を制した、怪獣を超えた怪物の魔狼――魔人狼へと向ける。目眩も苦痛も感じない。失われた魔力が回復して、全身に異様な昂揚感が漲っている。

 

『―――みんなのことをお願い、でした』

 

 リネン室で、吸血されぐったりとした夏音より託された願い。

 わかってる、と古城は、彼女の目を見て頷き返して、甲板デッキに立つ。

 

 見据えるのは、斑模様の卵に似た巨大な球体だ。嵐が去った。怪獣決戦が鎮まったのを見計らっていたのか、一気に球体から滝のように溢れ出した無数の蔓草が、絃神島の人工の大地に絡みつき、その建造材を侵食し始める。

 戦いの余波で散った魔力を吸収してたからか、球体の直径はすでに100mを超えていた。

 

 だが、膨張を続けていたはずの球体の様子は、どこかおかしい。

 球体内部で渦巻いていた濃密な神気が乱れ、通常空間との境界面が苦悶するように震える。邪神の結界の内側で、何か異変が起こっているのだ。邪神召喚の魔術にとって、想定外の致命的な異変が。

 

 それは古城たちにとって歓迎すべき幸運の予兆だ。

 ならば、と古城は頭上に向けて右腕を掲げる。

 ここで『卵』への魔力の供給を完全に絶つ―――

 

「<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――」

 

 古城の右腕から撒き散らされた鮮血が、天空へ閃光と化して昇る。

 <第四真祖>の膨大な瘴気が空間を歪め、虚空に生み出したのは剣。

 刃渡り100mを超える馬鹿げた大剣―――『意思を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)』だ。

 

 

「―――疾く在れ(きやがれ)、『七番目』の眷獣、<夜摩の黒剣(キファ・アーテル)>!」

 

 

 高度数千mの高さにありながら肉眼でくっきりと全容が捉えられるそれは三鈷剣と呼ばれる古代の武具の形をしていた。そう、神々が使ったと言われる降魔の利剣である。

 かつて、『原初のアヴローラ』と呼ばれる少女に使役され、絃神島の一部を沈めた最凶の眷獣たる裁きの剣―――

 それが古城の右腕を振り下ろす動作に連動して、破壊するという、たった一つの目的に特化した眷獣が落下を開始する。

 

「俺が邪神(オマエ)をブッ倒す。ここから先は、俺の戦争(ケンカ)だ―――!」

 

 灼熱の炎に包まれ、重力に引かれて加速する刃は、まさしく天から堕ちてくる隕石そのものだ。大気を轟然と震動し、また新たな太陽が出現したかのように空が明るくなる。

 古城はこのただ落とすだけの眷獣の制御に神経を尖らせる。

 加速する剣を誘導する際は、絃神島の岸壁と、斑模様の球体が接する狭間。

 

 

「「「■■■■■■■■■■■■―――ッ!!!!」」」

 

 

 その狙った境界上より、噴出する巨大な獣。

 それは先ほど、古城が完全消滅し切れなかった豹蠱。球体が吐き出していた触手たちに絡みつかれた怪獣は、邪神の守護獣となって甦っていた。

 

 巨大な衝撃波を生む超音速の落下。

 しかし、それすらも物量で押し切った。

 <冥き神王>の守護獣と化した豹蠱は、億千万の軍を為す個へと爆発的の増強。まさに無尽蔵。夥しい数の豹蠱は互いに咬みつき合い、黒紫の血飛沫を散らしながら融合を果たす。

 吐き気を催すほどに穢らわしい粘液に濡れ光る、集合体の豹蠱毒は<第四真祖>最大の破壊力をも防ぎ、またその大きく半分まで断ち切られた傷痕からさらに膨張を繰り返して、より巨大化しようとしている。

 

「なんだと……」

 

 最凶の一撃を弾いた、そのおぞましくも圧倒的な異様に、古城は息を呑んだ。

 『増殖』と『不死』は、<病猫鬼>の機能として備わっていたものであり、驚嘆するほどのことではない。だがなにぶん今回の大怪獣は規模があまりに大きすぎた。

 脳天を叩き潰しても風船のように膨れ上がり、みるみるうちに損壊部分を覆い潰してしまうため、どこをどう破壊されようとも弱点と呼べる核はないだろう。桁外れの再生能力がある以上、総体を一撃のもとに消し飛ばす他ない。

 だが、古城も天を突く数百mもの超巨体を相手にするのは初めてだ。

 

 そこに気を取られて、気づくのが遅れた。

 大豹蠱に弾かれた100mもの黒剣の行方を。

 

 しまった!?

 

 絃神島への影響を防ぐためにも海面に激突する直前に、古城は召喚を解除するつもりだった。それほどにあれはデタラメな眷獣。あんなのが市街地に堕ちたら、またも島の一部を破壊させかねず……と、黒剣の落下地点に回り込んでいた、十数mの巨大な影。

 

「イイヤ、古城君。オレタチノ戦争(ケンカ)、ダ―――!」

 

 

 そう、戦士長を撃退した魔人狼が、黒剣をその手に掴んだ。

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

「―――ああ、なんて素晴らしい! やはり成長させるには強敵との死闘が一番だ。そして、ボクの期待に応えてくれるなんて、育て甲斐のある子だ。ますます張り切ってしまうヨ。ああ、でも、ダメだ、これ以上は我慢ができなくなる」

 

 獣王同士の“代理戦争”に絶頂したように歓声を上げる金髪碧眼の青年貴族。

 けど、まだ事態は解決していないし、邪神と言う親玉が残っている。

 青年貴族の背後より戦況を窺い見る、妖精めいた美貌を持つ二人の少女。

 零れ落ちる二人の淡い金髪は、見る角度によって虹のように色を変えていく。

 その双子のようにまったく同じ容姿をした彼女たちのうち一人が、ほう、と息を零す。

 

 『七番目(ヤツ)』を『六番目(ワレ)』以外が使うつもりか……いや―――

 

 

「船を下げろ、<蛇遣い>―――さもなくば、原初の地獄に巻き込まれるぞ」

 

 

邪神内部

 

 

 朝焼けにも似た炎の色の空。

 四方を密林に囲まれた広大な遺跡。

 石柱が無数に建ち並び、その中央を石畳の道が走っていて、遺跡の中央には半壊した石造りの神殿が建っている。

 建造されて、千年以上の時間が経っていることだろう。神殿の表面は風化が進み、苔むした柱は蔓草に覆い尽くされている。降り注ぐ陽射しも、常夏の絃神島よりもさらに強烈な熱帯。

 

 <冥き神王>の『卵』の中にあったのは都市国家『シアーテ』を魔術的に再現した仮想現実(イミテーション)

 

 龍脈のエネルギーを制御するため、魔術装置によって生み出された人工の神に過ぎない<冥き神王>は、それゆえに、完全に実体化を果たすには、魔術装置である『シアーテ』の神殿が不可欠だ。

 だから、神殿から遠く離れた絃神島で召喚された邪神は、この箱庭の中に神殿そのものを再現しなければならなかった。

 自らを召喚するための魔術装置を、自分自身で構築しようとする邪神。

 

 だから、まだ間に合うはず……!

 

 見たところ、遺跡の姿はまだ完全ではない。これだけの規模の質量をゼロから生成するには、邪神の力をもってしても不可能で、ならば、不足した質量を、絃神島と融合することで補おうとするだろう。

 でも、それには相応の時間が必要であって、“外界の状況は相当荒れている”。

 こうして、紛れ込んだ“異物”の妨害がおざなりになってしまうくらいに。

 邪神にここまで手を焼かせるものなど、自身の親しい知人の中に、該当するものが二名ほどいるのが頼りにもなるけど、実に頭の痛いところである。

 

 想像したよりも遥かに広大な遺跡を駆ける。

 神殿に近づけば近づくほど、邪神の影響力が増していき、遺跡を覆い尽す蔓草だけでなく、大気や重力や、それらを含む世界のすべてが敵となっていく手を阻もうとする。

 この空間そのものが、邪神を生み出すために造り出された結界であるのだから、そのような防御機構の存在もあって当然。

 だから、こちらにも対処策を切らせてもらった。

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――!」

 

 眩い人工神気を放つ、『神格振動波駆動術式』を刻まれた<雪霞狼>。

 その輝きは強力な防護結界となって、雪菜に対する遺跡からの攻撃を阻害した。

 幸いにも龍脈から生成される邪神の神気と、破魔の銀槍の神格振動波は、極めて近い属性を有しており、相手の力を無効化することはかなわないが、同属性であるので敵と認識されることがない。いわば環境に適応したウィルスに近い形で、この固有結界内を動き回ることができたのだ。

 

 そして、槍で切り込んで神殿の内部へ侵入。

 

 床だと思っていた場所が壁で、天井だと思っていた方角が床になる……そんな、上下感覚の狂った奇怪な空間。

 眺めているだけで正気を奪われそうな空間、その中央に置かれた黄金の祭壇に蜂蜜糸の髪を持つ少女がいた。ここは邪神に捧げられる『花嫁』だけが入室を許可された寝所。ならば、当然そこにいるのは決まっている。上下逆さになった姿で、祭壇の上に浮かんでいるのは、姫柊雪菜の捜し人の、セレスタ=シアーテだ。

 

「セレスタさん! 起きてください、セレスタさん……!」

 

 『神降し』に入った状態のように茫然と自我を不能にしているセレスタに雪菜は呼び掛けて覚醒を試みる。

 素質は『花嫁』として磨き育てられたみたいだけれど、雪菜のように訓練された巫女ではなく、『神降し』という高度な技法が上手にできるとは考えにくい。おそらく“かかり”は甘い。外部からのちょっとした刺激で解けてしまうくらいに。

 

「地味……女……」

 

 瞼が痙攣し、それからゆっくりと眼が開かれる。

 雪菜は確信した。

 セレスタはまだ生きている。その精神も人間のままだ。

 でも、その声には絶望と諦観の響きがある。当然だ。自分の定められた運命を知り、信じていた恩人は振り向かず、そして、死んだ。絶望しかない。こんな憎まれ口を叩けるだけで上等なのだ。

 

「あんた……何やってんのよ、早く逃げなさいよ……見てよ、あたしはもう……」

「いえ、ダメです。あなたを連れて帰ります」

 

 そう拒絶されるのを予想していた雪菜は間髪入れずに断りを入れる。

 拒否権を与えない雪菜の真っ直ぐな笑みに、セレスタは、ひくっと喉を鳴らした。

 

「あたしがどうなろうと、あんたたちには関係ない事でしょ!? あんたは古城と二人きりで家でいちゃいちゃしてなさいよ」

 

「言われなくてもそうします。だから、そのためにもあなたを連れ出さないとダメなんです」

 

 思いの丈をぶつけてきたセレスタに、雪菜も胸の内をひらく。

 先輩とのことは余計なお世話で、まずその前に、セレスタが救われないとダメなのだ。

 

 雪菜とセレスタは、古くからの友人でもなんでもない。むしろ雪菜たちにしてみればセレスタは厄介ごとを持ってきた迷惑な存在でしかないだろう。

 そも邪神の降臨を防ぐのが目的ならば、声をかけずに槍をかけてセレスタを殺すべきであった。こうやって無理に祭壇に辿り着かなくても、あの取り込まれる直前に、仕留める機会はあったはずなのだ。

 それができなかったのは、二人の境遇が似ていたからだ。

 

 姫柊雪菜は、7歳の誕生日を迎える前に、神を呼び出すための生贄として殺されるはずだった。

 

 邪神の『花嫁』として命を捧げるセレスタ=シアーテと同じ。

 でも、雪菜は殺される直前に、獅子王機関から派遣された剣巫に儀式場から救出された。

 おそらく当時、今の雪菜と同年代であったその剣巫は、『助けるのに理由は必要ない』といって何の迷いもなく手を差し伸べてくれ―――そして、その女性(ひと)と同じことを言う先輩と出会った。

 雪菜はその女性に憧れ、剣巫となり、先輩たちとこの島で暮らす内に、ここでの生活が大事なものとなった。

 

 それが、雪菜がセレスタを救う理由となる。

 

 そう、先輩にも隠してきた秘密を打ち明ける雪菜に、それでもセレスタは絶叫を上げて拒絶する。

 

「無理よ! あんたひとりで神に勝てるはずがない! そんなこともわからないの―――!?」

 

「そんなこと、最初からわかってます」

 

 この会話の間にも、異物を排除せんと蔓草の触手が物量で雪菜を押し潰そうとしているが、それを銀槍で斬り裂きながらも、懸命にセレスタに言葉を投げかける。

 

 雪菜に、邪神の実体化を完全に止めるだけの力はない、それは雪菜自身も認めるところだ。

 それでも祭壇に辿り着いた雪菜を妨害せんと、『卵』は折角構築した魔術経路を自ら破壊しなければならない状況に陥っている。

 だから、ここで雪菜が槍を振るって暴れ続ければ、それだけ邪神は神気をそこに割り当てなければならず、儀式場構築に供給する分が少なくなる。すなわち、実体化が遅れることになる。そうやって、一秒でも多く時間稼ぎをするのが雪菜の狙いだ。

 そう、彼らの準備が整うまで―――

 

「私ひとりで勝てないことはわかっています。でも、ずっと監視()てきたからわかるんです。あなたを助けようとしているのは私ひとりじゃない。私以外にも、必ず助けに来てくれる―――」

 

「雪……菜……」

 

 雪菜の訴えに、ついにセレスタの瞳に、失われていたはずの意思の光が復活する。

 逆さになって浮かんだままセレスタは、ふるえる腕を前に向かって伸ばし―――縛り付ける祭壇の外へその指先が届く。

 瞬間、ずぐん、と神殿全体が揺さぶられたように震えた。同時に、雪菜を苦しめていた重力のねじれも消失して、神殿があるべき姿へと還る。

 床がただの床に。壁はただの壁に。

 そして、重力に引かれてセレスタは落下し、祭壇の外へ転げ落ちた。

 

「痛った……」

 

「セレスタさん!」

 

 触手も消滅し始め、残らず銀槍で刈り取ってから雪菜は、倒れているセレスタへと駆け寄った。『神懸り』の状態は解けており、自力では立てないほど消耗しているが、セレスタは無事だ。

 ただし、それは邪神にとって最も重要な、代えの利かない要が外れたということ。

 

 神殿が――いや、この固有結界そのものが、大きく揺れる。

 

 結界の中枢を担うはずだった『花嫁』を失い、神殿の儀式場が、機能不全を起こしているのだ。それまでかろうじて制御されていた莫大な神気が、不規則に乱れ始めており、このままでは邪神として実体化することもできないまま、溜め込んだエネルギーだけが解放されるだろう。

 結果、最低でも半径数十kmに甚大な被害を出す神気の暴発が生じる。

 絃神島は確実に消滅だ。

 そのことを雪菜よりも早くに悟ったセレスタは、自らの意志でまた祭壇へ戻る。

 

「セレスタさん……!?」

 

「大丈夫よ……地味女。あたしがなんとかしてみせる……」

 

 心配いらない、と唇の端を吊り上げるセレスタ。

 最初、息を呑んだ雪菜だが、それでも行動の意味を理解し、手を伸ばしかけた姿勢のまま引き止めるのをやめた。

 邪神の『卵』を召喚したのは、『花嫁』のセレスタ。彼女の絶望が切っ掛け(トリガー)となり、<冥き神王>の実体化は始まった。逆を言えば、<冥き神王>の実体化を阻止できるのは、『花嫁』である彼女だけだということだ。

 もちろんうまくいくという保証はないし、ぶっつけ本番の難事にセレスタも不安を覚えているだろう。

 しかしわずかでも可能性が残されている以上、今はセレスタのことを信じてみる―――そう、雪菜は祈るように考えた。が―――

 ガン、と祈りを踏みつけるように雪菜たちの眼前で黄金の祭壇が砕け散る。

 

「―――なっ!?」

 

 祭壇と、そこへと続く階段が割れる。

 ちょうど雪菜とセレスタを分けるように、石を敷き詰めた神殿に“見えない斧を叩きつけたような”巨大な亀裂が生じた。

 この圧倒的な破壊力を持つ不可視の斬撃は、戦術魔具によるもの。

 そう―――つい先ほど、雪菜と交戦した―――

 

「よくやってくれた―――と言っておこうか、民間人。貴様のおかげで、生贄の間に入れた」

 

 聴こえてきたのは、無感情な機械に似た、冷酷な声。

 神殿の入口に見えたのは、毛皮付きのコートを着た長身の女。

 いつでも攻撃を繰り出せるよう左腕を頭上に振り上げた姿勢で、こちらを冷ややかに睨んでいる。

 アメリカ連合国陸軍特殊部隊少佐―――

 『血塗れ』アンジェリカ=ハーミダが、静かに雪菜たちの前に登場した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「獅子王機関の剣巫と言ったか。セレスタ=シアーテを渡してもらおう。なるべくなら民間人を殺したくないのでな……」

 

 即座に構えた槍を向ける雪菜。

 見えない斬撃を振るってくる女兵士。研ぎ澄まされた剣巫の霊感が、目の前にいる敵の危険性を伝えてくる。気を抜けば、凄まじい重圧に押し潰されることだろう。

 いかなる魔族とも違う、人間の兵士。雪菜がこれまで戦ってきた敵とは異質な存在。

 <雪霞狼>でも完全には防ぎきれず、霊視でも見切れない不可視の攻撃を左腕を振り下ろすだけの一動作(ワンアクション)で放ち、それでいてまだ奥の手を隠している疑念を持つ強者。

 それでも雪菜は退くわけにはいかない。今ここでセレスタを護れるのは、雪菜しかないのだ。

 

「セレスタさんを、どうするつもりですか?」

 

「その疑問への回答が、貴様からの要求であれば答えよう。

 回収し、『混沌界域』へと移送する。貴様たちにとっても望ましい条件のはずだが?」

 

 爆弾に等しい邪神と共に『花嫁』を連れ出す。

 だが、龍脈に縛られている『花嫁』を霊地から離そうとすれば、神気は暴発することになり、アルデアル公はセレスタを仮死状態にすることで一時龍脈からのラインを中断したみたいだが、今はもう『卵』が現出してしまっている状態ではその方法も取れないだろう。

 

「そんなことできるはずが―――」

 

「可能だ。だから私はここにいる」

 

 事務的な口調と必要最低限の言葉。それは女兵士の任務達成への自信の表れであって、その突き放すような声音は、言外に交渉の終了を宣告している。

 

「五つ数える。その間に私の視界から消えろ。さもなくば、貴様は死ぬ」

 

 5(ファイブ)……

 

 雪菜の背後からセレスタが叫ぶ。自分のことは見捨てて逃げろ、と言いたげな悲痛な声。

 ―――それが雪菜の迷いを振り切った、

 

 4(フォー)……

 

 神殿の床に穿たれた亀裂のせいでセレスタとは分断されている。彼女を庇うことはできず、ならばとれる手段は一つ。

 やられる前にやる―――アンジェリカへに対する先制攻撃だ。

 

 3(スリー)……

 

 全力で床を蹴りつけて、雪菜は跳んだ。

 ―――しかしその渾身の攻撃を、女兵士はあっさりと躱す。

 

 2(ツー)……

 

 無情なカウントは続いている。

 すでに答えは出した、それでも雪菜に与えたわずかな時間の猶予を守る。すなわち制限時間を過ぎれば、容赦なく攻撃を仕掛ける、という意思表示。

 

 1(ワン)……

 

 女兵士は、その身を改造された<魔義化歩兵>。

 おそらくは、体内に未来予測が可能な魔具が埋め込まれており、生半可な攻撃はすべて避けられるのだろう。

 戦闘中一瞬先の未来を霊視することで、魔族を上回る速度で動く―――それは、獅子王機関の剣巫が持つ、異様な戦闘能力の秘密でもある。

 アンジェリカ=ハーミダがそれを同じ能力を持っているのならば―――雪菜はさらに先を視ればいい。

 それを実現するには、自身の霊視が、<魔義化歩兵>の魔具の力を上回らなければならないが、しかし、雪菜はこの絃神島に来てから、科学の粋よりも先読みが鋭い野性的な同級生を相手に訓練を積んできたのだ。

 

「<雪霞狼>!」

 

 新たな『七式突撃降魔機槍・改』を持ってからますます冴えわたる霊視と武術。

 風が花を散らすような至近距離での連撃は、一瞬で刺突を七度繰り出されて、危険と感じた左腕の手首を刺し貫いても気が付かせなかったほどの鋭さであった。

 

 ―――そして、雪菜は見た。

 女兵士の背中に隠れていた、“もう一つの左腕に”。

 

 

「残念だ」

 

 

 表情一つ動かさずに、アンジェリカは呟く。

 彼女の周囲に八個もの左籠手が、出現。

 “新たに我が身の一部として接続した”のは、部下の一人マティスの<神託照準器(オラクル・ボムサイト)>の魔具が埋め込まれた左腕。

 

「三本目の……腕?」

 

「より正確に言うなら、私の左腕が一本と八本あるといったところだ。そして、私の左腕は、<斬首の左腕>という」

 

 無数の籠手を自在に操る<神託照準器>、

 不可視の重い斬撃を放つ<斬首の左手>、

 それら魔具を複合させた、八方からの殲滅―――!

 

「対獣王に、マティスから腕を一本獲らせてもらったが……さて、避けきれるかな剣巫」

 

 

 

 しかし、その左腕が振り下ろされても、何も起こらない。

 戦術魔具を発動させようと意識しても、うんともすんとも言わない。

 <斬首の左手>も、<神託照準器>も。

 不発。

 何か決定的な、不具合が生じている。

 

「なに……!?」

 

 アンジェリカは、刺された左手首を見た。

 手首から先の感覚が喪失した左腕には、魔術文様のような奇妙な傷跡があった。

 それは結界を生成するための術式。姫柊雪菜は、初めから女兵士を斃すことではなく、神格振動波を応用することで、女兵士の魔具を封印するつもりだったのだ。

 魔力を打ち消してしまう結界を刻み付け―――さらにその傷跡から<魔義化歩兵>の肉体全体へ人工神気を伝播させる『過重神格振動波』によって。

 魔力を喪失した魔具は、もはやガラクタと変わらない。

 宙に浮かんで包囲していた八つの籠手も静電気が散ったような衝撃と共に、地に落ちて転がる。

 事態をすぐ察したアンジェリカは、これ以上、<魔義化歩兵>の肉体に人工神気が行き渡らないよう結界を刻まれた左腕、もはや楔としかならないそれを懐から抜いたナイフで切り落としたが―――そこへ、雌狼の如く、一気に懐へ飛び込んでいた剣巫。

 

「<(ゆらぎ)>よ!」

 

 密着状態からの打撃技。雪菜が最も得意とする剣巫の基本攻撃だ。本来は、対魔族用の凶悪な内蔵破壊技だが、この密着攻撃ならば硬い金属質の皮膚で覆われた<魔義化歩兵>であっても素手で衝撃が通る。

 吹っ飛ばされて神殿の壁に叩きつけられたアンジェリカは、信じられないという表情で雪菜の顔を凝視したまま、膝をつく。

 

「よくも、やってくれたな剣巫……! ―――来い、四番!」

 

 ナイフの投擲で牽制しながら姿勢を立て直した女兵士は最後の四体目の<病猫鬼>を喚び出す。黒く煙るようにアンジェリカの影から現れた影の豹人に、雪菜も破魔の銀槍に霊力を篭めて、白い輝きを放ち始め―――そこで、セレスタ=シアーテは感じ取った。

 

 

『アアアアアアアアアアアア!』

 

 

 神殿が――結界が――邪神が、咆哮した。

 外界で起きつつある異常に、かの<冥き神王>は五感ならざる何かで悟った。ぞぞっと核が泡立つのを覚えた。

 恐怖だった。

 邪神は、初めて恐怖を覚えたのだ。

 

 

人工島東地区 港跡地

 

 

 すぅ―――と。

 

 ひとつ、魔人狼は息を吸った。

 蛇竜の制圧攻撃で焼けた空気は、未だに熱かった。その空気を大きく取り込んだ巨躯はさらに一回り大きくなったようにも見える。

 

(―――――)

 

 思考までも空白のまま、一歩、前に出る。

 それだけで、何かが軋み、歪んだのが古城に見えた。

 蛇尾狼から魔人狼へ変わり、ゆっくりと歩み出るその姿は、もはやヒトガタの天災に等しい。未開花の邪神さえも、その圧に押されて後ずさるよう。

 鋼の大地を踏み締め、その巨躯をもっても身長の五倍以上はある黒剣を、魔人狼は、一度ぐるりと回して肩に乗せて構えた。

 

 <夜摩の黒剣>―――『原初(ルート)』でさえも、ただ空から落とすしか扱うことのできない一発限りの破壊兵器。

 そして、暁古城の後輩、南宮クロウが武器を扱えないのは、後輩の全力に耐えられるものがないのが理由……

 それゆえに、武器の扱いに関する経験が圧倒的に不足しているのだが、両手で握りしめる『意思のある武器』―――『嗅覚過適応』でその意思(におい)を感じ取り、剣が思うがままに剣を振るう。

 

「っ!? ―――疾く在れ(きやがれ)、<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>!」

 

 剣が振り抜かれる寸前に、眷獣の召喚が間に合う。

 <第四真祖>が従える『四番目』の眷獣――吸血鬼の『霧化』を司る甲殻獣。その能力は古城だけでなく、森羅万象に及ぶ。制御を誤れば一度霧にされたものが完全に元に戻るという保証はなく、災厄の化身たる<第四真祖>の眷獣に相応しい―――破壊的で傍迷惑な眷獣。

 そんな、かつて『波隴院フェスタ』で、絃神島全土を霧の都としたその力で、急遽、絃神島の四分の一東地区を、物理干渉をすり抜けさせる霧と化す。

 

 いったい何が古城をそこまで急かしたのだろうか。

 

 剣を振り抜かんとする巨人狼の足下が、地盤が蜘蛛の巣のように罅割れ、いや、カーボンファイバーと樹脂と金属で造られた超大型浮体式構造物(ギガフロート)を、魔術によって固定された絃神島が“傾いていたのだから”。

 

 これから振るわれる一撃は、かつてないほど強大なものになる警報(よかん)が、鳴った。

 

 

「アア―――コレデ、全力ガダセルナ―――」

 

 

 剣撃と共に、巨人狼が念じる。

 ごおっ、と剣身を中心軸とし、周囲のあらゆる存在を捻じれ取り込む。

 <第四真祖>の『意思を持つ武器』の力は、重力操作。

 100mもの長大な黒剣はそれだけで高層ビル一棟ほどの重量だというのに、重力を収束・加速させることでさらに重量を増大させる。その空間を歪めてしまうほど異常なまでの密度。その奔流。それはもはや、重力崩壊の結果できるとされる強力な重力場を持つ天体(ブラックホール)が『剣』のカタチとなったよう。

 

「「「■■■■■■―――――ッッッ!?!?」」」

 

 空が哭いた。

 啼く。

 貪食し、破壊し、千切り毟る。

 空の境界に沿う横一線は、重力加速は止まることなく、破滅の渦を巻いて、逃げようとする豹蠱そして邪神を掃除機のように強引に引き寄せ、逃さない。

 

 

 そうして、傾国の一閃は、世界に巨大な空隙を刻み付け、この刹那に天と地を分けた。

 

 

邪神内部

 

 

 ―――その一刀は、豹蠱と邪神の触手を切り払うだけにとどまらず、固有結界にも影響を及ぼした。

 

 

 炎色の空が堕ち、密林の大地が砕け、神殿も何もかもが無に帰す。

 今や邪神の内部は、罅割れ、砕かれ、まるで砂時計の終わりのように崩壊していく。

 これで現実世界への浸食や<冥き神王>の実体化を防げたが……やりすぎだ。

 一歩間違えれば、蓄積された龍脈のエネルギーが暴走したかもしれないというのに、いや、その龍脈のエネルギーごとごっそりと吹っ飛ばしてくれたのだが、

 

 私とセレスタさんが『()』の中にいるのをわかってますよね……!?

 

 ああ、こんなことだから、目を離したくないのだ!

 どっちだ?

 こんな破天荒な真似ができる下手人は二名だけど、ああもうなんか、二人とも正座で説教フルコースだ!

 

 なんて、憤慨するだけの余裕はなかった。最後の<病猫鬼>が雪菜に襲い掛かった。それを<雪霞狼>の天敵たる神格振動波で切り祓ったが、使い魔を失くした女兵士は、なぜか満足げに微笑んだ。

 

「お前がそう動くことは、視えていたよ、剣巫」

 

 雪菜の表情が強張った。アンジェリカの目的は、雪菜をセレスタから引き離すことだったと気づいたのだ。

 <魔義化歩兵>の強化改造された脚で、女兵士は凄まじい加速で跳ぶ。

 その先にいたのはセレスタだ。恐怖に立ちすくむセレスタを、アンジェリカは乱暴に抱き寄せた。<冥き神王>の『花嫁』を、『血塗れ』の右腕が―――

 

 

「<抱擁の右手>―――これが『アメリカ連合国』が誇る魔具の真の力だ」

 

 

 アンジェリカの右腕が輝きを放ち、その光がセレスタを呑み込んでいく―――

 

 

人工島東地区 港跡地

 

 

 <抱擁の右手>――アンジェリカ=ハーミダの右手に秘められた力は、『彼女が望んだものすべてを彼女の肉体の一部へと変える』というもの。

 『特殊部隊(ゼンフォース)』とは、<抱擁の右手>を有するアンジェリカのためだけの編成された部隊であり、隊員たちの肉体はすべてアンジェリカの予備部品(スペアパーツ)に過ぎない。もう一つの左腕も、忠実な部下から任務遂行に必要なプロセスの一つとして奪い、そして、アンジェリカの体内に埋め込まれた機械が、独立した生物のようにめきめきと蠢いて、部下の体内の人工臓器に接続し、回路を繋ぎ変えていく。単なる融合魔具の効果だけでなく、全身を機械化した<魔義化歩兵>であるからこそ可能な連携。

 敵も味方も一様に殺す―――ゆえに彼女は『血塗れ』なのだ。

 

 そして、この<抱擁の右手>という融合魔具で、『花嫁』ごと<冥き神王>を文字通り、“我が物”とした。

 

 『シアーテ』の神殿に刻み込まれていた魔術装置の“源本(オリジナル)”をそっくり自身の体内に移植してあったアンジェリカ。

 魔術装置としての『シアーテ』の神殿は、千年以上前の技術で造られたものだ。現在の魔術集積技術を遣えば、あのような大掛かりな装置は必要ではなく、人ひとりの体内にすべて埋め込むことが可能であった。実際に、1cm四方の集積チップにまで圧縮できた。

 ゆえにアンジェリカは邪神の依代である『花嫁』さえ手に入れば、任務達成となる。

 

(生贄の回収は成功した。犠牲は出たが、想定内だ。任務は問題なく遂行されている―――)

 

 邪神を実体化させるための固有結界は崩壊。

 しかし、アンジェリカの体内に魔術装置があるためそれも問題はなく、必要としない。

 通常空間に還ったアンジェリカは、神を支配したその威容を知らしめる。

 <冥き神王>と化したその姿。

 夜闇のように暗く染まった肌。

 人間の輪郭を失った身体が、膨張しながら形を変えて、巨大な鳥のようであり、同時に蛇のようでもある、あるいは禍々しい卵から孵ったばかりの、凶獣の雛のようにも感じられた。

 人間だったころの面影は黒曜石の鱗に包まれた三本の腕にしか残っていない。

 そして、翼を広げたその姿の全高は7mを超え、なおも成長を続けている。

 全身を覆う黒い鱗には、精緻な電子回路に似た黄金の魔術文様が浮かんでいて、その回路の中枢にセレスタがいた。

 怪物の胴腹に四肢を埋め込まれたような姿で、『花嫁』は恐怖に目を見開いたまま彫像のように固まっている。

 

(しかし<冥き神王>の降臨に対する我が国の関与が公表されるのは、望ましくない。故に目撃者の抹消を行う)

 

 <冥き神王>は死を司る夜の神。

 黒曜石の鱗に覆われた邪神の腕が、漆黒の炎に包まれた。

 凝縮された魔力が放つ冥き太陽の業火は、この地域一帯を焼き払うのに十分すぎる熱量を持っている。黒い輝きが大地を焼き、海面を白く泡立たせて沸騰させるだろう。

 だが、その破壊的な高熱が、絃神島に降りかかる前―――現実世界に帰還した開幕早々、異形の怪物に陰がかかった。

 

 

 天を突くような漆黒の摩天楼が、太陽を叩き落さんと迫っていた。

 

 

「先手必勝ナノダ」

 

 それは巨人狼が100mもの三鈷剣を異形の怪物めがけて兜割に振り落としたもの。

 “匂い”で邪神の出現ポイントを把握していた巨人狼(クロウ)はそこに待ち構えるように振り抜いていたのだ。

 ―――甘い。

 邪神化したアンジェリカは、<冥き神王>の力を完全に引き出しているわけではない。

 本来の地脈から遠く離れた場所での実体化、そして魔具による強引な融合などの不完全な儀式が原因で、邪神本来の力をごくわずかにしか再現できていない。セレスタが人間の姿を保ち、アンジェリカの自我が残っているのがその証拠だ。今ならば、セレスタを救い出すことができる可能性はある。

 だがそれも止められなければ意味がない。

 アンジェリカの身体に埋め込まれていた未来予測の魔具で、黒剣の軌道は完全に先読みしている。欠伸が出てしまうくらいに鈍いので、攻撃を回避するのは簡単で―――

 

「逃ゲラレナイゾ」

 

 ぐんッ! と空を舞う異形の怪物が、黒剣へと堕ちていく。

 まるで世界のあらゆるものが堕ちていく―――ブラックホールに捕らえられて、光さえも脱出できずに堕ちていく重力半径を想起させるこの危機感。

 強力な重力で相手を引きつけ、回避不能にする一撃―――

 全力で羽ばたいても逆らえずに喰らった獣王が振るう<第四真祖>の『意思を持つ武器』の攻撃に、アンジェリカの甲高い絶叫を放った。

 そう、これは、邪神でさえも恐怖したものだ。

 感情のない戦闘機械であるはずの女兵士が、初めてこの理不尽に恐怖を抱いた。

 

 しかし、これが全力で剣を振るった経験が少ないことを感謝するべきだろう。

 一度目で自重して加減して振った二振り目。

 もし熟練して、また全力でフルスイングをかましていれば、その身が邪神であろうがアンジェリカは死んでいた。

 

「上出来だが、やりすぎだ、馬鹿犬―――」

 

 巨人狼に続いて、少し舌足らずな女の声が響く。

 豪奢なレースの日傘を傾けて、念願の邪神へと変貌したところを蠅叩きされた女兵士を哀れむように見つめているのは、主人の南宮那月だ。

 足元の影の中から、戦艦の錨鎖(アンカーチェーン)にも似た、巨大な黄金の鎖を撃ち放って、漆黒の邪神を捕縛する。神々が鍛えた黄金の魔具<呪いの縛鎖(ドローミ)>に繋がれ、身動きができなくなったところで、アンジェリカを追って疾駆する槍手(ランサー)

 

「ええ、後で先輩と一緒に説教ですね」

 

 祝詞を紡ぎ、破魔の銀槍の膨大な霊力を流し込む姫柊雪菜は、神格振動波の刃にて、黒曜石に覆われた邪神の肉体を貫いた。

 狙うは、一点。

 アンジェリカの体内に埋め込まれた魔術装置のチップだ。邪神体内の神気の流れから、チップの位置はわかっていた。針の穴を通す正確な槍捌きで、雪菜は1cm四方の小さな集積回路を一撃で破壊。

 その瞬間、邪神を実体化させていた力は失われ、異形の怪物の姿が揺らいだ。

 邪神と融合していたアンジェリカの肉体も外に吐き出されて、同時にセレスタも解放される。

 空間を揺るがすような咆哮と共に、邪神の力が暴走を始める。

 凝縮されていた膨大な神気が、無差別に解放されようとしているのだ。

 

「なんで俺まで説教されるんだよ! むしろ、クロウをカバーしてたんだぞ!」

「連帯責任です先輩」

 

 そこで、古城が新たな眷獣を召喚した。

 <龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>。水銀色の双頭竜が、暴走直前の邪神の肉体へと食らいつく。二つの竜の咢に食われた邪神の肉体が、ごっそりと空間ごと削り取られたように消失する。邪神の神気がすべて解放される前に、『次元喰い(ディメンジョン・イーター)』の能力を持つ双頭竜で、神気そのものを、どことも知れない異世界へと飛ばすのだ。

 肉体を喰われ続ける漆黒の邪神が、苦悶の咆哮を上げながら荒れ狂う。残された最後の力を振り絞り、自らの下半身を切り捨てて、双頭竜の咢をどうにか振りほどいた邪神は―――

 

「ムゥ、オレ頑張ッタノニ」

(再確認。先輩が張り切り過ぎるとよくないのが改めてわかりました。胴輪(パートナー)として、より厳しく管理していく所存です)

 

 <夜摩の黒剣>の重圧に捕まり、またジャストミートを喰らった。

 ピッチャー返しとばかりに、双頭竜の咢へ戻された邪神は、今度こそ欠片も残さず食い尽くされた。

 

 

 

 そして、邪神が完膚なきまでに消滅されたそのとき。

 邪神の侵食で大破した岸壁で、『花嫁』の定めから解放された、蜂蜜色の髪の少女が、弱々しく上体を起こそうとした、その前に海より現れる影。

 

「グォォオオオッ! 『花嫁』ェッ!」

 

 海に叩きこまれた戦士長クアウテモク。

 両腕が折れて、どてっぱらが黒ずんでいる、肉体を凌駕する執念で動いている鳥人はもはや飛ぶこともできないだろうが、それでも人一人を蹴り殺してしまうことくらいできるだろう。

 

「なっ!?」

 

 すでに完全に決着がついて終わったものだと気を抜いてしまった古城たちは反応が遅れた。

 だが、そんな表情に焦りが浮く古城たちの面前で、そのものは現れた。

 

「え……!?」

 

 セレスタとの間に割って入るよう黄金の霧が美青年へと形を成す。

 そう……それは、<蛇遣い>の異名を持つ貴族――アルデアル公ディミトリエ=ヴァトラーだ。

 

「ヴァトラー……あいつ……」

 

 セレスタを庇うかのように、『鷲の戦士長』と対峙する青年貴族に、古城は無意識に顔をしかめた。

 

「そこをどけ! <蛇遣い>! それとも貴様も殺されなければわからぬか!」

 

「殺し合いは歓迎だけど、キラとトビアスのお礼参りってのもガラじゃないし……なにより、今のキミじゃ食べ応えがない。とりあえず、まずは落ち着いたらどうだい?」

 

 ヴァトラーは、戦士長が手負いのところを見るとがっかりしたように溜息をこぼして、セレスタの方へと振り返る。融合された際に衣服を失った彼女は何も身につけていなかった。少女の艶やかな褐色の肌には、目立つような大きな怪我はない。

 ヴァトラーは優雅に微笑みながら、そんな裸のセレスタの肩に、自らのスーツの上着をかけてやった。

 

「無事だったようだね、セレスタ=シアーテ―――おめでとう、と言わせてもらおう」

 

「ヴァトラー……様……」

 

 驚いたように顔を上げた蜂蜜色の髪の少女は、半ば無意識に青年貴族の名前を呼ぶ。

 そして、ヴァトラーはそれ以上何も言わず、ただもう一度、戦士長を流し目で一瞥を交わすとそのまま立ち去ってしまう。その背中を熱い視線で見つめ続けるセレスタ……

 映画のワンシーンにも似たその光景を、呆気にとられながら眺めていた古城はぼそりとこぼす。

 

 ……なんで、あいつがセレスタを助けたみたいなことになってんだ……

 

 最後の最後に戦士長を制止した以外、ヴァトラーはほとんど何もしていない。それどころかあの男は“代理戦争”などという火種を放り込んだだけでなく、セレスタを見捨てるつもりだったはずだ。

 セレスタ=シアーテに同調(シンクロ)していた<冥き神王(ザザラマギウ)>の神気は、実体化したことで『花嫁』から離れ、双頭竜に食い尽された。セレスタはもう『花嫁』ではないのだ。

 だからああして近くで観察して、そのことを確認したヴァトラーは彼女に対する興味を失くしたのだろう。セレスタを庇う優しい振る舞いは、彼の無関心さの表れだ。戦士長も最初はその反応を訝しんだみたいだが、すぐセレスタが『花嫁』でないことに気付き、邪神が葬られたことを悟って、闘気を消火させている。もっとも、セレスタ自身がそれを理解しているようには見えないのだが。

 憧れとは、理解とはもっともかけ離れた感情なのだろう。

 

 納得いかねぇ……

 

 やるせない気持ちに肩を落とす古城は、そのあと、じっと半裸のセレスタを見つめ続けたために監視役の少女に説教をもらうこととなった。

 そんなやりとりを見て、救われた少女は小さく噴き出した。

 目の端に浮いた涙を拭って美しい笑みを浮かべるセレスタの横顔を、絃神島の夕日が明るく染めて、

 

 助けてくれて……ありがとう……

 

 強い海風に攫われたそのつぶやきは、誰の耳にも届かないまま消えていった―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「先輩……なんでいつまでも彼女を見ているんですか……?」

「え……ええ!? ちょっと待て、今のは、ただ、あいつのことを心配して……!」

 

 

 犬も食わないやりとりを他所に、すでに魔人狼の変身を解いた、クロウ。

 よほど疲れたのか、クロウはほとんどうつ伏せでわずかに上体を背反らすくらいが精いっぱいな困憊気味で、それでも頑張って主人へ向けて起こそうとするクロウ。

 不意に、頬に違和感が生じた。

 

「あう?」

 

 きょろり、と眼球を動かすと、綺麗な白い指が少年の頬をつまんでいるのだ。

 

「アスタル、テ?」

 

「いえその」

 

 その腕の先を目で追ってみれば、なぜか合体が終わっても背に乗っかっているアステルテ。

 

「なんで頬を?」

 

「あの」

 

 短く言って、アスタルテが俯く。

 背中に乗ったまま、頬を指でつまんだまま。

 

「このまま顔を持ち上げられると……痴漢罪に該当されますので、制止しました」

 

「そうなのか?」

 

 確かにクロウが顔をまっすぐに持ち上げると、その視線の先にはヴァトラーからの上着を羽織っただけのセレスタがいるわけだが、

 

「ぬぅ、でも、このままじゃオレ起き上がれないぞ」

 

 今の体力がほぼ底をついている状態でアスタルテを背に乗せたまま身を起こせない。だから、アスタルテに起き上がってほしいのだが、後輩は一向に背から離れず、また指も頬から離さない。

 

「現状把握……しているのですが、なんとなく……第四真祖の二の舞になるのを想定すると、処理できないノイズが発生しました。その……エラーの一種だと判断しますが……それに背中(ここ)胴輪(わたし)定位置(ポジション)であると思いますと……

 ―――あああ、あとで自己メンテナンスを行いますので、ご心配なく」

 

 珍しくも、口籠るアスタルテ。

 そんな後輩の様子に、クロウは頬をつままれたまま―――ぐるんと180度引っ張り回された。

 

「あぐ!? 今、お腹が思いっきり擦れたぞご主人!」

 

「まったく、後輩に尻に敷かれているとは情けない眷獣(サーヴァント)だな。そうだ、このまま犬ぞりでもしてみるか」

 

「それって、オレは引っ張るイヌ(ほう)じゃなくて、ソリになるのか!?」

 

 思いっきり嘆息してみせる那月。

 首に銀鎖を巻き付けたまま、数体の使い魔(ファミリア)の人形を喚んで引っ張らせる。

 周りは戦闘で荒れて、雪原のように滑らかでない凸凹を、後輩(おもり)をつけたまま引き回されるのは軽い罰ゲームだ。市中引き回しの刑である。

 

「やり過ぎた罰だ馬鹿犬。あのまま調子に乗ってデカブツを振り回してたら絃神島が沈んでいたぞ。そのまま家に帰るまで犬ぞりだ。地面と直に触れ合って、そのありがたみを確認しろ」

 

「うぅ……オレの身が磨り減る気がするぞ……でも、引っ張ってもらうのは楽ちんだからいいや」

 

「そして、アスタルテ―――お前は、馬鹿犬を見張っていろ。そのまま背に乗っかってな」

 

「あ……」

 

「私はそこの“泥塗れな軍人”を連れて行かなければならないんでな。いつまでも馬鹿犬の躾に付き合ってられん。―――悪いが、面倒を任せる」

 

「はい……命令受託(アクセプト)。お任せください教官(マスター)

 

 那月は、倒れているアンジェリカに鎖を巻き付けると、空間転移で飛び出した。

 そして、残されたクロウは、アスタルテを背に乗せたまま使い魔たちに引っ張られる。どこからかドナドナのBGMが聴こえてくるようで、

 その前に立ちはだかる大きな人影。

 何とも言えない微妙な表情を浮かべている戦士長クアウテモク。

 

「……私は、これに敗れたのか」

 

「む。なんだオマエ、まだやる気か」

 

「戦う理由もなくなった以上、戦う気はない。邪神は消滅した。『花嫁』ではなくなったセレスタ=シアーテを処刑する必要もなくなった。ならば、もう絃神島(ここ)に用はない。セレスタ=シアーテを本国へ移送するのがこれからの私の仕事となるだろう」

 

 内戦はこれで終了した。

 第三真祖<混沌の皇女>の出陣するまでもなく、『混沌界域』の反乱軍が鎮圧されたのだ。

 戦闘はあっけなく終了し、市民の犠牲者もほとんど出なかった。そのことで第三真祖は、逆に為政者としての評価を上げることになるだろう。

 『アメリカ連合国』の軍部による、謀略工作の証拠も公表される予定だ。その中には負傷して捕虜となった、特殊部隊の女将校も名前を挙げることとなるはず。

 結果、『アメリカ連合国』は国際的な非難を浴びることになり、『混沌界域』に多額の賠償を請求されて頭を悩ませる―――というオチがつく。

 そして、国籍上は『混沌界域』の臣民であるセレスタは、治療や今後の生活について、『混沌界域』からの支援を受けるようになる。

 セレスタ=シアーテが核となった今回の事件のおかげで、結果的に『アメリカ連合国』に多大なダメージを与え、莫大な賠償金を得られたのだから、そのぐらいの待遇は保証しよう。

 

 しかし、『鷲の戦士長』は、これを完全勝利などとは思えない。

 

「……“代理戦争”、負けを認めよう。―――しかし、貴様個人に負けたわけではない」

 

「ぬ」

 

 背を向ける戦士長。そのクロウから視線を外した際、一瞬、アスタルテに視線をやって、

 

 

「―――次にやるときは、一対一で決着をつけるぞ極東の獣王」

 

 

 そうして、戦士長が立ち去った後、入れ替わるように夏音と彼女に抱きかかえられたニーナがやってきた。

 そこで打ち明けられた夏音の初体験に、監視役からの古城の説教がさらに延長されることとなり、今夜の南宮家の食卓はお赤飯に決定した。

 

 

 

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……―――――

 

 

「お、やっと繋がったのだ」

 

『………』

 

「結構時間がかかったぞ。『神縄湖』? ってとこ、電波が入りにくいとこなのか?」

 

『………』

 

「昨日はごめんなのだ。ちょっと強いヤツに手痛くやられちまってなー。あ、でも大丈夫だから心配はしないでくれ」

 

『………』

 

「それから、古城君のことだけどな。マンションが大変になったけど、それで姫柊と一緒の部屋に暮らすみたいだぞ。姫柊と一緒なら安心なのだ」

 

『………』

 

「ん……そっちはどうなのだ? さっきから全然お喋りしてないみたいだけど……長旅だったみたいだから疲れたのか?」

 

『………』

 

「おーい、何か返事してほしいぞー。もしもーし………もしかして、何かあったのか凪沙ちゃん?」

 

『―――凪沙は、無事です』

 

「誰だお前?」

 

 

 ツーーーーー………

 

 

 それから一週間、南宮クロウは定期連絡を続けても繋がることはなく、暁凪沙とは音信不通となる。

 

 

 

つづく

 

 

 

???

 

 

 

「凪沙を助けに行きたいんだ。だから、そこを通してくれクロウ―――!」

 

「―――……オレは、ご主人の眷獣(サーヴァント)だ。だから、古城君を絃神島から出さない」

 

 

 

つづく



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九章
逃亡の真祖Ⅰ


回想 人工島西地区 藍羽家

 

 

 三年前

 

 

『う、お前、あずーる、というのか』

 

『バウ!』

 

 鋭い牙とつぶらな瞳。ボクサー種の血が濃いのだろうか、ふてぶてしい面構えをしているが、その目の輝きからか、陽気で知的な印象を受ける。

 そんな体重30kg以上はありそうな、筋肉質な大型犬と相撲でもとるようにその猛烈な突進じみたじゃれつきを受け切った帽子、手袋、首巻、コートと厚着完装備の少年は、でーん、とひっくり返す。仰向けにさせたその腹を撫で擦り、それに気持ちよさそうに、この人懐こい番犬は尻尾を振る。

 

 人工島西地区(アイランド・ウエスト)の東岸。絃神島では珍しい一戸建ての邸宅が多く建ち並び、緑の木々に囲まれた高級住宅地である。

 そのひとつのコンクリートの塀に囲まれた和洋折衷の屋敷。

 人工島である絃神島では本土と比較にならないほど時価が高く、一戸建てというだけで相当贅沢だったりする。その中でも鉄製の巨大な門扉まで構えるこの邸宅の敷地は群を抜いて広大で、屋敷の造りにも明らかに金がかかっていた。

 ここのセキュリティもまた厳重。

 電子的なそれと、魔術的なそれが仕掛けられた結界。機械的なものは把握し切れないが、かなり高度な侵入者除けの呪術に呪詛返しも施されている。

 

 そんな絃神島の評議員、『魔族特区』の為政者の家。

 その庭の、広大というほどではないが、眺めていて飽きない程度には豪華な枯山水の日本庭園で、転げまわる番犬と少年。

 何かしら犬同士で通じ合うような儀式でもした後、ああしてはしゃいでいるのだが、それを見るその保護者の魔女は、深く溜息をつかされる。

 

『わびもさびも理解せんで、庭を荒らしおって……馬鹿犬め』

 

『はっは、構わんよ。アズールも喜んでいる。番犬のつもりで飼っているのだが、あそこまで(なつ)いているのは初めて見るよ』

 

 その隣で、低く落ち着いた声を発するのは、着流し姿の中年男性。

 さして身長が高いわけでもなく、物腰はむしろ穏やかだ。しかし独特な雰囲気を纏っているよう。初対面の人が見れば、ヤで始まってザで終わる三文字の単語を連想させられることだろう。強面のボクサー犬よりも、この男の方がよっぽど恐怖だった。

 

『魔女が禁忌を冒して生み出した最高傑作……そう、話に聴いた時は、もっと近寄りがたいものだと思っていたのだがね。ああしてみると子供と変わらない。とても警戒心を(いだ)けるものではないほど、純粋だ。百閒は一見にしかずとはこういうことを言うのか』

 

 外見の印象に反して優しげな口調で、男は所感を述べる。

 

『犬と同レベル扱いされない程度の自尊(プライド)(いだ)いていてほしかったところだがな。俗世と離れたところで純粋培養されていた。あの世間知らずは、都会にあるものが何でも物珍しく、慣れるまではしばらく魔術と科学の区別がつかないだろう。同じように人間と魔族の違いもな』

 

 だから、人間と魔族の住まう『魔族特区』で生活させる。

 そう絃神島の評議員、藍羽仙斎に告げる。人工島管理公社に友人が多く、起こり得る危機について、最低限の予備知識――『聖殲』に、この前に回収した<第四真祖>と深く縁の繋がった兄妹など――を持ち合わせる為政者。

 この絃神島でも有力な国家攻魔官であり、華族の一員でもある魔女は、それだけに見合った高い権限を有するが、この最新の殺神兵器と成り得る可能性を持つものを抱えるとなっては、呼出しにも応じざるを得ない。それほど『魔族特区』の為政者には強い権力がある。

 と、仙斎は空を仰ぐよう上を向くと深く目を瞑り、

 

『……彼を、お譲りくださいませんか』

 

 薄らと目を開き、表情は動かさず、物静かな口調で淡々と続ける。

 

『先生は、浅葱のことをご在知でしょう』

 

『ああ。だから、私が担任を任されることとなった』

 

『ええ。あれはいささか厄介な運命を背負って生まれた娘だ。そして、あの子はその娘の運命に大きく巻き込まれることになろう。それはきっと避けることはできないものだ』

 

 予言に似た確信に満ちた口調で、仙斎が言う。

 その見開かれた瞳には、揺るぎない気迫のようなものが感じられる。

 

『だから、今のうちに、お側付きの護衛(SP)にでも仕立て上げる、か……』

 

『私は浅葱の父だ。出来得る限りの手を尽くしたいのだと思う。娘を護る盾とするのが、どれだけ酷なものかは私にも予想がつかない。だが、それで彼の立ち位置は確固たるものと保障される。どうせ避けられぬ運命。ならば、その方がよろしいのではないか?』

 

 一政治家として問い掛ける、ひとりの親として乞い願う彼に、国家攻魔官は、す、と席を立つ。

 

『いいかどうか、それを決めるのは私ではない』

 

 と主人の魔女は言い切った。

 この世のすべてを見下したような普段の彼女の冷笑ではなく、歳の離れた弟を慈しむような優しい微笑を、ふ、と浮かべ、しかして強い眼差しを番犬と遊んでいる少年へと向ける。

 

『森を出ることも、私の眷獣(サーヴァント)となることも、ヤツ自身の意思で、選ばせた。この先どうなろうが、あいつの意思を私はでき得る限り尊重させてやるつもりだ。貴様の言う運命に殉じようが、逆らおうが、あいつの勝手であって、私や、誰の意思に振り回されるものではない』

 

 この『魔族特区』の防衛装置として縛られることとなった彼女は、揺るぎない意思を以て、宣告するようその誓い立てを口にした。

 

 

『私は、縛らない―――そう、約束したのだからな』

 

 

人工島西地区 藍羽家

 

 

『『人間として造られなかったとしても、人間らしく生きようと足掻こうとするものは人間である』―――それについて君はどう思うかい?』

 

 対面の牢獄、そして、同じ人工生命体(ホムンクルス)と近しい存在であった

 血のように赤い髪、そしてその両腕は液体金属を模したもの。機械人形(オートマタ)と複合した人工生命体である自分と似ている。

 『人形師(マイスター)』と『賢者(ワイズマン)』――互いに創造主の操り人形でしかなかった境遇も重なる。

 まるで歪な鏡でも見せつけられるような同族嫌悪を覚えて、しかし、男が飽きることなく傷を舐め合うのではなく、抉り合うように問答を続けているうちに、いつからかまた別のような感情が芽生えた。仲間意識とは違う、何か……

 

『師匠は気前が良過ぎる。僕に腕二つはやり過ぎだ。だから、これまで愚痴に付き合ってくれた隣人へとお裾分けしようじゃないか』

 

 融合した略奪式人工生命体(ナタナエル)とはもう分離された。

 でも、黒妖犬(ヘルハウンド)に破壊された左腕は戻ってこない。『人形師』は依然と使い物になることはなくて、人工生命体を見るたびに怯えてはその腕の振るいようもない。機械化人工生命体を、『人形師』以外の誰も直すことはできない。

 だから、完璧なバランスで創り出されたはずの肢体は、片側だけ欠けて、不協和音のように歪。

 『永遠』になんて、手を出した報いか。

 この姿を曝すのを恥じて、条件付きの釈放にも応じず、この牢獄に留まっていた。

 

 そんな踊らなくなった人形へ、一体何の気まぐれか、半人半金の人工生命体は、その片腕を移植させようかと申し出た。

 

 不滅の肉体と無尽蔵の魔力―――そんな『永遠』の可能性をもった『霊血』。

 『人間の限界を超えて、“神”に近づくこと』を目的とした錬金術の究極的なその産物を、手に入れた。

 その時に覚えたのは、喜びよりも驚きが勝り、とても理解できるようなものじゃなかった。かつてないほどに理解不能な事態に見舞われる。

 そんな自分に、片腕となった錬金術師の弟子は、してやったりと意地の悪い笑みを向け、教え諭すような厳かぶった口調で言う。

 

『なんで君にそんな勿体ない真似をしたのか―――その答えを探し続けて、人形から人間になるといいさ』

 

 

 

「浅葱さん、ちょっと」

 

 和服の女性に呼び止められて、そちらを向く。

 

(すみれ)さん?」

 

 藍羽菫。浅葱の父親の再婚相手、つまり浅葱の継母に当たる人物である。母親が病気で亡くなった直後、元要人警護(ボディガード)サービスの会社に勤務するプロの運転手(ドライバー)であった菫と、政敵の罠により危機に陥った父親が、命がけの逃避行を続けているうちに恋に落ち、結婚することになったというのが、娘に語って聞かされた馴れ初めのエピソードである。割とフレンドリーな継母なのだが、浅葱と菫の関係は微妙で、仲が悪いわけではないのだけど、どうも浅葱はこの年齢の近い継母のことを一方的に苦手と思っている。

 

「あなた付きの新しいメイドさんを雇ったから」

 

「はぁ!?」

 

 若い継母から決定事項を告げられ、浅葱は口を開けて瞠目する。

 

「ちょっと、あたし、そういうのは遠慮したいんだけど」

 

「でも、これは仙斎さんが決めたことなの。浅葱さん、バイト先でいろいろとごたごたに巻き込まれてたりするから心配して」

 

「そ、それは……」

 

 あまりそういうお嬢様っぽいのは性に合わないというか、とにかくつっぱって拒否しようとするのだが、これは決定事項。不思議な押しの強さを発揮する菫に、浅葱の反論は却下されて、その少女が浅葱の前に連れ出される。

 

「はい、浅葱さんに自己紹介して」

 

命令受託(アクセプト)

 

 現れたのは、和服にエプロンドレスと女給スタイルで着飾った、清楚で儚げな容姿をした少女。

 穢れなき純白の長髪。

 しなやかな体躯と、真珠のような艶やかな肌。

 完全に左右対称の彼女の面差しは、精密な工業製品を連想させた。

 『魔族特区』暮らしの浅葱は一目で、自然ではありえざる姿から彼女が準魔族の人工生命体(ホムンクルス)であると悟る。それにしてもこれほどに美しく仕上がっているのは、そうそうない。

 

 

「<水銀細工(アマルガム)>のスワニルダと申します、お嬢様(マスター)

 

 

修道院

 

 

「不許可! それは先輩の分です!」

 

「ぅん?」

 

 その声にびっくりして、修道院内を清掃中の叶瀬夏音は振り返った。

 蒼穹を写したようなその眼に、浮世離れした白皙の美貌。陽光を弾く銀髪が揺れる。

 あと三日で年末であっても、変わらぬ眩しい陽光。

 常夏の空気に、凛と咲き誇る百合と薔薇。

 アデラート修道院と呼ばれた跡地―――様々な事件に関わったその場所を、過去を乗り越えたことをきっかけに、かつての思い出の情景に蘇らせようと時には人の手を借りながらもなるべくできるところは自分の手で復旧作業をしている夏音はその日、大掃除にとやってきていた。

 

(えっと……今のは、アスタルテさん?)

 

 ぱちくりと瞬きをして、目を凝らす。

 少し前まで半壊した修道院は今では、北欧アルディギアの支援から屋根や壁が直されており、廃墟というイメージを払拭しつつある。

 そんな、修道院の裏口から、人影が現れた。

 見た目の年齢は、夏音と同じか下に見えるだろう。

 今にも折れそうな細い肢体に、居候先の主人から貸与されているというメイド服を纏っている。

 白いうなじに零れるのは、陽光に透ける藍色の長髪。瞳は淡い青水晶の色を秘め、長い睫毛は慎ましげに伏せられていた。整った容貌は人形と紛うばかりの美しさで―――そんなここのところ感情が豊かになってきている彼女に、この大掃除を手伝ってもらっているわけなのだが、その足元に目がいく。

 というのも、藍髪のメイドの足元から、小さな毛むくじゃらの動物がランチボックスを咥えて走り出たのである。

 

「主張。待ってください。それはあなたの取り分ではありません」

 

 子犬を、メイドが追う。

 意外と機敏な動作で修道院の窓際へと追い込み、しかしその子犬を拾い上げるでもなく、きっかり1m半の距離を置いたまま人工生命体(ホムンクルス)は硬直した。

 

(………?)

 

 しばらく、メイドは動かなかった。

 それから、尻尾を立てて威嚇する子犬を前に、可憐な唇を開いた。

 

「―――否定。そのランチボックスの内容は、あなたが摂取する栄養には不適切であると判断します。空腹(うえ)は理解しますが、強奪は条例に違反し、十戒にも背く罪です。合理的にも、道徳的にも、早急に返却してくださるよう依頼します」

 

 堅苦しいような、それでいて自然のような、不思議な口調で、子犬へと説得を開始する人工生命体(ホムンクルス)

 無論、イヌの側がそんな説教を斟酌するはずもない。ランチボックスを咥えたままで、ぴいんと短い尻尾を立てて、ぐるるる……と唸りを上げたままだ。そんな子犬を見つめたまま、メイドは微動だにせず立ち尽くしていた。

 

「……強硬な手段に出たくありません。どうか、今のうちに返却してください」

 

 整った美貌は、眉一筋動かない。

 言葉も大真面目で、見事に無表情のままだが、打つ手なしと困り果てた様子でもあった。

 少しの間そんな姿を見つめて、夏音は何となく苦笑を洩らしながら、持ってきていた袋からジャーキーを取り出す。

 夏音は子犬の前にしゃがむと、そのペット用のおやつを差し出した。

 

「―――はい、おいで」

 

 初めての動物と触れ合うコツは、目線の低さだ。

 同じくらいの視線に下がった夏音へ警戒心を緩めて、おどおどと近づいてきた子犬が、あんぐりとジャーキーに噛みついた。

 

「よしよし」

 

 そのついでに落ちたランチボックスを拾い上げ、夏音は子犬の頭を撫でる。

 

「これでいいですか?」

 

「肯定。……ありがとうございます」

 

 ランチボックスを受け取って、メイド――アスタルテは深々と頭を下げた。

 それに、やはりどこか変わったな、と思いつつ夏音は訊ねる。

 

「クロウ君は、今頃どうしているのでした?」

 

「そうですね」

 

 ランチボックスについた土を払いながら、アスタルテは小さく頷いた。

 

「長期休暇の最中ですので、特区警備隊からの任務を優先しているようです。学業中にはできない泊りがけも可能です。……もっとも、予定通り、真面目にしているのかは怪しいですが」

 

 国家攻魔官の助手をしているのも凄いことだが、実際に結構頼りにされているのを聞くと自分のことのように嬉しくなるもの。

 感心した夏音を前に、アスタルテはギュッとランチボックスを胸に抱く。

 無感情というよりも、いっそ水や金属に似た無機質さ。

 そうしていると人間離れした美貌も相俟って、彼女は人間を模した人形のように思えるのだった。

 

 ……でも。

 でも、夏音は別の印象も覚えていた。

 ここ最近、あの夏音の大事な家族のような少年について話すときは、いつもほんの少しだけ、人工生命体の表情に変化が生じたからだ。

 よく注意しないと見逃してしまいそうな、ささやかな波紋。

 まるで、しんと凪いだ湖の底で―――かすかに揺れる花弁のような、密やかな感情。

 じいっ、と見つめて。

 

「やっぱり、いないと寂しいでした?」

 

「な……っ!」

 

 人工生命体が言葉を失う。

 雪花石膏(アラバスター)のように白い肌が、さあっと耳の先まで朱に染まったのだ。

 

「ななななななな何を、理解不能な発言をされて……ひ、否定。第一前提からして先輩がいてもいなくても、私がそんな特別な感情を抱くのはまったく意味不明であり得るはずのない仮定でありますし、このように食事を用意するのもただ単に先輩が昼をどうするか予定をはっきりと伝えてないがための念の準備で寂しいとかどうとか一緒に食べられると少し楽しいとかそういう考えとは何も関係が―――」

 

 立て板の水どころか、滝を流すような勢い。

 可憐な瞼も口もぱくぱくと開閉し、言い訳しながら激しくかぶりを振った拍子に、ランチボックスをすっぽ投げてしまった。それが偶然、夏音のちょうど目の前辺りに落ちてきたのでキャッチできたのだが、よもや、そこまでの効果があるとは思わず、あのおっとり夏音もまた慌ててしまうぐらいであった。

 

「あ、あの、その……私、クロウ君のことだなんて、言ってないんですけど……」

 

「……っ!」

 

 硬直。

 沈黙。

 欧州では、会話途中に発生した沈黙をさして『天使が通り過ぎていった』というのだが、この場合、通り過ぎた天使も苦笑いを浮かべたことだろう。

 アスタルテは、メイド服の手首袖のカフスを掴んだまま、深く俯いて、

 

「……先輩は、私の中で優先順位が高いというだけです……それ以上の他意はありません……」

 

 やっとのことで、呟いたのである。

 

「ご理解いただけましたか?」

 

「はい。わかりました」

 

 夏音もそれ以上はツッコミはせず、小さく何度も頷いた。

 

 

人工島東地区 空港

 

 

 海上に浮かぶ絃神島の貴重な外部からの玄関口である空港は、年末里帰りのシーズンと大変混雑する時期では、警戒レベルが上がるというもの。また、ここは先週にテロ事件が発生したところだ。

 学校が冬休みに入った南宮クロウは、空港の修復工事が終わるまでの間、一端絃神島の見回りは中断し、そこに四六時中と張り付いていることとなった。

 主人は先輩の補習を監督しているためここにはおらず、また学園の用務員のような役を請け負っている後輩も主人の補佐についている。時折、後輩が主人の代わりに様子を見に来てくれたり、何かしらの差し入れを持ってきてくれたりするも、基本的にクロウは単独行動している。

 常駐している警備員はいるものの、攻魔師資格(Cカード)がない国家攻魔官の助手が彼らに指図ができる権限はなくて、また彼自身も一匹狼を好むところも性質であった。

 独りを寂しく思う時もあるが、独りでありたいと思うこともあるのだ。

 

「……、」

 

 腹の具合からして、そろそろ昼時。

 ちらと確認した時計を見る限り、この腹時計は正確なようだ。それから、ふ、と無意識に誘導されるよう時計のすぐ近くにあった本土行きの便の時刻表を見つめて―――その“匂い”を感じる。

 

「ん?」

 

 人通りの激しい、意識を昼食に向けていても、本分を怠らない。

 その嗅覚は、麻薬犬よりも正確迅速に、犯罪者を感知する。

 この国際線ターミナルは、日本国内で唯一魔族の自治領(ドミニオン)への直行便がある。『夜の王国』から空路で日本に入るには、いったん極東の『魔族特区』絃神島を経由しなければならない。

 それ故に、クロウは“嗅ぎ慣れぬ匂い”――絃神島に立ち寄る外部からの魔族に特に気を配っていた。

 

 感じたのは、濃密な血の鉄臭さ。

 

 風に流れてきたその残滓を拾うだけで、鼻腔内が血一色に充満するほどの濃度。

 視線を向ければ、そこにいるのは、12、3歳ほどの年若い少年だ。

 少年はゆったりとした白い衣装(カンダーラ)をまとい、全身を黄金の装飾品で華やかに飾り立てている。

 黒髪に褐色の肌。そして闇を見通すような金色の瞳。顔つきはまだ幼さを残しているが、その風貌には、若き獅子を思わせる圧倒的な威厳が滲んでいた。

 

(吸血鬼……それも、すごく強い)

 

 遅れてる成長期か、ここ最近背が伸び始めたが、まだ小柄なクロウと同じくらいの背丈。

 しかし、その小柄な体躯に纏う鬼気の圧力は、あの『戦王領域』の実力者であるディミトリエ=ヴァトラーや『混沌界域』の第三真祖のジャーダ=ククルカンに劣るものではない。

 真祖にも匹敵する、最上位の吸血鬼。

 その力が猛威を振るえば、それは先日の『アメリカ連合国』陸軍特殊部隊が起こした事件とは比じゃない被害をもたらすだろう。

 クロウが、少年へ警戒意識を高める。それに、向こうの少年も気づいたか、こちらへ威厳さえ感じられる不敵な笑みを返した。

 

「やれやれ……このような極東の僻地、平和ボケして警備がザルかと思い、試しに魔力を昂らせてみれば、雑種が釣れるとはな」

 

「お前が強いし、偉いヤツなのは分かった。でも、オレもここを護る仕事がある。挑発以上の狼藉は看過できない」

 

 金色と金色の瞳が真っ直ぐに相対する。

 いつでも対応できる間合いには、まだ半歩程遠い。

 前傾に重心を寄らせたクロウに、少年はニタリ、と―――

 親愛ともとれる微笑を浮かべて、邪悪ともとれる敵意をクロウに向ける。

 

「俺に歯向かえばそれは命を賭す戦い(モノ)になるだろうとわかっていながらも、退くつもりはないか。この屑鉄と魔術で生み出された紛い物の大地。こんなガラクタがそんなに大事か?」

 

「う。住めば都と言うだろ?」

 

「だが、雑種には都など相応しくない。ここに縛られているとは思わぬか?」

 

 この初対面であるはずの少年は、こちらのことをわかったような口調で、問いを投げかける。

 

 運命を歪め、不幸や被害を肩代わりさせてでもその身の安全を守らされるものに、その自覚はない。

 

 自覚がないからこそ譲歩は不可能であり、当人がやめると言ってやめられるものではなく、安寧の未来は閉ざされ、その命がいくつとあっても足りぬ戦いに巻き込まれるよう決定されている。この定めから解放するためにはもはやひとつしか道は残されていない。

 少年は、こう質問を投げかけてきたのだ。

 貴様は、その生涯を誰かの都合よく振り回されていると思ったことはないのか?

 こうして絃神島の防衛戦力のひとつに頼りとされるようになった経歴も、現在の殺神兵器としての成長も、本当にそれは己自身で歩みたかった道であり、また分岐点に戻りたいと思ったことは一度もないのか?

 そう。

 あの時、南宮那月に故郷の森を追い出された時に。

 

「そんなことを訊いてどうするのだ?」

 

 純粋無垢な言葉が、張り詰める空気を一薙ぎで切り裂いた。

 

「ここ最近、色んな奴からそんなこと言われるけど、ちっともわからん。ぶっちゃけ、どうでもいい。結局、オレ自身の意思で決めたものだとか、誰かに勝手に決められたものだとか」

 

 クロウは、ごく当たり前のようにそう答える。

 

「オレのことを認めてくれるみんなの側にいられるなら、オレはそれでいいよ」

 

 それは、何の飾り気もない言葉だった。

 この雑種と呼ぶ、人間と魔族の混血であって、しかし己がままにある少年の一番奥から汲み出されたような、ひどく純潔な言葉だった。

 ふむ、と少年は鼻から息を吐いた。

 何か気に入らないらしい。

 

「人間に随分と飼い馴らされているのだな、雑種よ。それだけの力があればひとりで覇を唱えることも可能だろうに。愚かしいことだ」

 

「あう?」

 

 ところが、ここでクロウは首を傾げてしまった。

 その予想外の反応に片眉だけを上げて訝しむ少年に、彼は続けてこう言ったのだ。

 

 

「お前も、何でもひとりで問題ないとかいう『賢者(わいずまん)』と同じようにはみえないし、馬鹿なんじゃないのか?」

 

 

 …………………

 美しい黒髪に褐色の肌をした、異国人の少年は頭が真っ白になった。

 

「ふはっ」

 

 そして、笑う。

 場違いにも、公衆の面前で何も憚ることなく、少年は盛大に笑う。

 永遠を生きる不老不死の吸血鬼にとって最大の敵とは、退屈だ。この世の快楽のほとんどを味わい尽した彼らは、生きるということに倦み疲れているのだ。

 それでも、すべてを自己完結するほどに終わっていない。むしろひとりであるのに飽きている彼らは、外部との刺激を積極的に欲している。

 

「はははっ!! 面白い、気に入ったぞ! 不老不死という位の長生に飽きることもあれど、こういう“心地良い侮辱”あるから死に切れん!! あのような屑鉄が、烏滸がましくも賢者を名乗るのなら、なるほど、俺は愚者であろうよ。流石の俺もそこまで枯れ切ってはおらんわ」

 

 己と対顔して、恐れもせず、媚びへつらいもしない。そこに来て、不遜な発言。王族として釈明の余地なく刑に処しても構わないだろう。

 されど、今、少年が浮かべるのは、涼やかな顔だ。

 

「我が名はイブリスベール=アズィーズ――第二真祖直系の第九王子にして、『滅びの王朝』北方八州を統べる者よ。見知りおけ、雑種」

 

 イブリスベール=アズィーズ王子殿下。

 中東を支配自治領として統べる『第二の夜の帝国(ドミニオン)』の真祖(おう)滅びの瞳(フォーゲイザー)>の血統である『旧き世代』。その見た目は少年であっても、実年齢は、数百をいく吸血鬼であり、王族が従える眷獣は、巨大な戦艦をも一撃で沈められるほどの力を持つという。

 

「第九王子なのか。オレも、九番目に創ら(うま)れた末っ子だ。一緒だな」

 

「ほう、それは奇遇だ。同じ九の誼だ。無礼を赦すとしよう。それと俺のことは、イブリスで構わん」

 

「そっか、イブリス。あ、俺はクロウだ」

 

 何とも軽い自己紹介。

 クロウはきょろきょろと周りを見て、いつのまにか視線を集めてしまっていることに気づく。普段ならあまり気にすることはないが、今は吸血鬼の王子がついているのだから、流石のクロウも気を遣う。気を遣うが、それは特別、外交レベルと呼べるような畏まったものではないだろうが。

 とりあえず、場所を移そうかと提案する。

 

「そろそろ、お昼時だし、時間に余裕があるならご飯食べに行かないか? この国際線ターミナルにある闘将軒は、浅葱先輩から寄ってみる価値があるって教えられたのだ。だから、今日のお昼はそこのラーメンと決めてたんだぞ」

 

「無礼講で良いと言ったが、やはり変わっているな雑種」

 

 王子であると紹介されても、対応が変わらず、どころか気安く庶民の食堂へ誘う男子中学生。しかしながら、その気兼ねない反応が珍しく、興味を誘うのだろう。

 ―――そして、王子が強いと察せられたように、王子もこの混血の獣王が己に届きうる牙を持つことを覚っている。

 

「そういえば、にんにく大丈夫かイブリス? オレはもう大丈夫だけど、臭いが嫌いな吸血鬼って多いからな」

 

「それは軟弱な『戦王領域』の連中だろう。我が王朝では気にする者は少ないからな。むしろ鼻ならば貴様の方が敏感であろうが」

 

「じゃあ、問題ないな」

 

 とっとこ先導するクロウ。

 そこへまた一度、王子は問いを投げかける。

 

「雑種。貴様は、<第四真祖>の眷獣と戦ったようだな」

 

「ん。それがどうかしたのか?」

 

「俺も『焔光の宴』には参加していた。あの忌々しい成り上がりの兵器商にしてやられたが、それで<第四真祖>の眷獣と戦って敗れたことがある」

 

 イブリスベールが、独り言を語り聞かせるよう、クロウの反応を待たずに言葉を続ける。

 

「ゆえに俺は『原初(ルート)』の復活を恐れた」

 

 かつて殺神兵器として猛威を振るった“本物の”<第四真祖>――『原初のアヴローラ』

 クロウは、完全な復活を遂げる前の彼女とすべてを賭して戦い、そして暁古城が<第四真祖>を打倒する一助となり、彼が現在の眷獣たちの支配権を獲得することに貢献した。

 

「そして、雑種と今の<第四真祖>と知己であることは知っている」

 

 とイブリスベールは、鋭く尖った白い牙をのぞかせて、皮肉るように嘲笑う。

 

 

 

「それで、どうだ? 今の<第四真祖>に、貴様は恐怖を覚えるか?」

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――監視役を辞任せよ。

 

 

 『世界最強の魔獣対策』の任務―――その裏の『カインの巫女の抹殺』の任務もまた失敗し、『青の楽園(ブルーエリジウム)』から帰還した自分に下された命がそれだった。

 納得ができない。

 <リヴァイアサン>をも撃退するほどの力を持った『獣王』を、なぜ放置するのか?

 この国を守護するために幾多もの魔獣に立ち向かってきた太史局が、まさか臆したとでもいうのか?

 いいや、そうではないのだ。

 この任務失敗のせいで、太史局の上層部が、別派閥であり敵対している同じ国防組織の獅子王機関との抗争に敗れ、彼の監視権限を自分から取り上げたのだ!

 

 今回は破れてしまったが、それでも『獣王』をあと少しのところまで追い込めるほどに実力をつけて、対抗策も編み出してきたというのに……! このまま再戦の機会も与えられずに、負けっぱなしで終わるなんてありえない!

 そもそもその任務失敗と『獣王の監視役』はほとんど関係がなく、なのになぜそれを止めさせられなければならないという……

 

 ……こうなったら、新たに派遣されてくる獅子王機関の監視役――剣巫だろうが舞威姫だろうが、いいや三聖であろうと、闇討ちし、実力で監視役の権限を取り返してやる―――そう意気込み、『橋姫伝説』の呪術を用意して、獅子王機関の動向を探っていたのだが、一向に彼へ監視役が派遣されるということはない。

 最も有力な候補で、諜報部に監視しつぶさに報告するように言いつけてあった『第二の剣巫』羽波唯里と『第二の舞威姫』斐川志緒は、別の任務へと派遣された―――しかし、この行いが無駄に終わりはしなかった。

 獅子王機関が隠蔽している秘事に辿り着くことができたのだから―――

 

 

 

「そうね、まずは<第四真祖>を焚きつけに行きましょうか」

 

 空港から出た若い外客が、眩い青空に目を細めた。

 ほっそりとした痩身に、ひどく怜悧な美形の顔立ちをしている少女だ。

 彼女が着ているのは、古風な黒いセーラー服に赤いカーディガン。左の肩に背負っているのは、大型の三脚ケースだった。

 制服と同じく古風な長い黒髪が、強い海風に吹かれて揺れている。

 太史局より正式に『乙型呪装双叉槍(リチエルカーレ)』を与えられた攻魔師――『六刃神官』妃崎霧葉である。

 

「ふふ、ここに着いた途端、すぐ近くに彼の気配(におい)を感じたのだけど、流石に空港にはいないわよね。ダメね、少し昂ぶってるみたいだわ」

 

 逸る気を落ち着けさせるよう、胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。

 彼女が地に足をつけるのは絃神島。東京の南方海上330km付近に浮かぶ、常夏の『魔族特区』。カーボンファイバーと樹脂と金属と、そして魔術で造られた人工の大地が、亜熱帯の強烈な陽射しに炙られて、年末間近にも拘らず、島の気温は30度代後半をいっていた。

 アスファルトの路上には、陽炎がゆらゆらと揺れている。

 本土から到着したばかりの観光客の体力を、この蒸し暑く湿った大気がじわじわと奪っていくところなのだが、“この程度はまだ温い”とばかりに涼しげで、視線が通過するだけで切れると錯覚するほど鋭利な細い双眸を、バスやタクシーといった交通機関を探しに巡らせる。しかし、人が多いせいか中々どこも埋まっている。

 とそれが、案内役(ガイド)がいなくて戸惑っているように見えたのか。

 

「ねえねえねえ、きみ、一人? 魔族特区初めて?」

「もしかしていくところわからないの?」

 

 そんな霧葉を左右から挟むように、出入りの激しいこの時期を狙っておのぼりさん目当てで空港前に待ち構えていた二人組の男たちが、唐突に声をかけてくる。普段からナンパ慣れしているのか、やけに馴れ馴れしい態度である。

 

「………」

 

「あ、俺たちって魔族だけど、全然乱暴な真似とかしないから」

「本土から来る娘は見慣れてないかもしれないけど、ここじゃ普通よ普通。むしろ輪っか付きは安全な証拠だから」

 

 手首に装着された金属製の腕輪を見て、表情を硬くした霧葉に、慌てて男たちはフォローを入れる。

 魔族登録証と呼ばれる装身具。『魔族特区』の正式な住人であることを示す身分証であり、同時に生体センサーを内蔵した監視装置だ。すなわち彼らは普通の人間ではない。絃神島の全人口の約4%を占めているという登録魔族なのである。

 もちろん魔族だからといって、彼らが人間に危害を及ぼすようなことはめったにない。むしろ魔族登録証によって監視されている分、一般人よりも安全という考え方もある。

 とはいえ、相手が魔族だろうが人間だろうが、しつこく付き纏われれば迷惑な事には変わりなかった。それでなくても霧葉はこれから監視役奪還のための任務で単独行動中なのだ。魔族と関わり合いになって下手に目立つような真似は、狩人としても失格であり、絶対に避けなければならない。

 

(盛った魔獣を相手する方がまだ楽そうね……)

 

 霧葉は眼中にないというように視線を合わせることなく、彼らを無視して、そのまま歩き去ろうとした。しかし魔族の男たちは、素早く回り込んで、霧葉の逃げ道を塞いでみせる。

 

「おおっと、どこ行くのさ? ちょっと俺らと涼しいところ遊んで行こうぜ? 案内するからさ」

 

「どいてくれないかしら。急いでいるの」

 

「またまた、ちょっとくらい寄り道しても大丈夫でしょ。でいうか急いでいるのなら送ってくよ。すぐそこに俺たちの車があるから」

 

「結構よ」

 

「ねえ、ところで、君名前は? 荷物持とうか?」

 

「………」

 

 強引に会話を続ける男たちに内心うんざりしながらも、霧葉は“にっこりと笑みを作っている”。

 如何に登録魔族といえども、相手は単なるナンパ男。魔族よりも屈強な魔獣を相手にする六刃が、本気を出すような相手ではない。そうなれば確実に病院送りされる。……こちらとしてもできれば穏便に彼らをやり過ごしたいところなのだが、しかし向かってくるのを叩きのめせばいい魔獣とは勝手が違い、法律で彼らは守られている。自衛権がない限り、手出しをするのはマズい。そう、自衛権がない限りは……

 

「……あなたたちって、本当に魔族なのかしら?」

 

「え、何それ疑うの? ほら、これ魔族登録証」

 

「でも、それが本物かなんて私にはわかりませんもの。魔族と仰るなら、是非、証拠を見せて欲しいのだけれど」

 

 彼女の意図を察した、かのように男たちは互いに相槌を打ち合う。

 『魔族特区』に来たおのぼりさんが、本物の魔族を見たいとせがんでいるのだろう、と。

 

「しょうがねぇな……じゃあ、ちょっとだけ」

 

「まあ」

 

 近くに車は止めてある。

 魔族の力を使えば、登録証に嵌め込まれたセンサーが作動するが、それでも現行犯でない限りは厳重注意で済むはず。すぐさまここから離れて腕輪を破損したとか適当にでっち上げた理由を保安部に言えばお咎めなしで済ませられるかもしれない。それに、この目を(ギラリと)輝かせる、“魔族に憧れを抱いているような上玉”を逃すわけにはいかない。

 

「俺は獣人種―――実は巷で、『獣王』に最も近い獣人と言われているんだぜ」

 

 吸血鬼の眷獣召喚よりも、獣人の獣化の方が目立たないだろうと判断したのだろう。

 相方よりもこのアピールチャンスをものにしようと、大げさに話を盛ってしまったけれど、どうせおのぼりさんにはわからない―――と獣人のナンパ男は目論んだのだが、それがまさか彼女の逆鱗に触れるとは夢にも思わなかったであろう。

 

「<鳴雷>!」

 

「へ!?」

 

 獣化しようと魔族登録証を外し、警報が鳴るや否や、霧葉の身体は動いていた。

 男の顔面へと押し当てられた掌底が、紫電を発して強烈な一撃をお見舞い。獣人種が大柄な体躯をしていてもそれは魔獣ほどの重量ではない。剣巫と六刃が操る白兵戦術で軽々と吹っ飛ばしてみせた。

 

「な……!? お、おまえ、攻摩師か―――!?」

 

「あら、仮にも『獣王』を口にするなら、今の一撃くらいでのびないでほしかったのだけど」

 

 魔族登録証を外した―――自衛権の口実ができたところで、容赦なく。その仲間の男もこれ以上何かをさせることもなく、同じ掌底を撃ち込んで仕留める。

 

「子犬じゃ肩慣らしにもならなかったわね……業火で焼いて、剣で斬り裂いて、それでも壊れない身体でないとサンドバックには不合格」

 

 落胆した息を零すと、遠くからサイレンの音が近づいてきた。

 おそらく特区警備隊の保安部隊が、魔族登録証の異常を感知して駆けつけてきたのだろう。自衛権発動しても構わない状況であるのだけど、太史局の攻魔師が、登録魔族相手に暴力を振るうのは問題行動である。そして、問題となれば、獅子王機関に面倒な理由を与えてしまうことになる。

 横暴にして美貌の黒き魔槍使いは、そそくさと透化迷彩の呪術をかけてこの場を後にした。

 

 

 

つづく

 

 

 

邯鄲の夢枕X

 

 

 

人工島西地区

 

 

 マンションから十分以上走り続けて、古城たちは駅前の繁華街に出た。

 ショッピングモールでは年末のバーゲンが行われており、大晦日とはいえ、人通りはかなり多い。流石の魔女も、こんなところで戦闘を仕掛けてくることはないだろう。そう思って古城は足を緩める。そろそろ体力の方も限界だ。

 

「ここまでくれば大丈夫か?」

 

「はい、多分。追跡妨害の術式を使えるだけ使っておきましたし」

 

 式神用の呪符を握ったまま、雪菜が古城に答えてくる。

 『七式突撃降魔機槍』を、機関へ預けている彼女だが、それでも剣巫としてのスキルが失われたわけではない。

 空間制御の魔術を使う魔女には、たとえどんなに離れたところで、一瞬で追いつかれる可能性がある。しかし彼女が古城たちを見失っている間は、おそらく安全なはずだ。

 

「けど、参ったな。まさか“あの<空隙の魔女>に”目をつけられるなんてな」

 

 乱れた呼吸を整えながら、古城が弱り切った口調で呟いた。

 

「ええ、それほど管理公社は、先輩を――<第四真祖>を絃神島から出すわけにはいかないということなんでしょう」

 

 生徒の安全確保のため『魔族特区』内の教育施設には、攻魔師免許の保有者を一定の割合で配置することが義務付けられている。古城たちが通う彩海学園には各学年に一名ずつ、中高一貫であるから計6人の兼業攻魔官が雇われている。

 しかしながら、あの<空隙の魔女>は、彼らの中でも少々特殊な立場にある。何故なら国家攻魔官としての実力が突出しているということで、現役で犯罪捜査にも関わっているのだ。

 その魔導犯罪者の捕縛率は、100%―――狙われれば、逃げられたものはいない。

 

「それでどうやって本土に行くつもりですか先輩」

 

「島を出る方法なら、ひとつ心当たりがある」

 

「<オシアナス・グレイブⅡ>―――アルデアル公のクルーズ船ですね」

 

 古城の思考を読んだように、雪菜が先に答えてくる。

 不本意そうに口を歪めて、古城は溜息交じりに頷いた。

 絃神港に停泊している巨大な外洋クルーザー<オシアナス・グレイブⅡ>の所有者(オーナー)は、欧州を広く支配する第一の魔族自治領の『戦王領域』出身の吸血鬼ディミトリエ=ヴァトラーだ。特命全権大使の肩書を持つヴァトラーには、魔女もおいそれとは手出しできないはずだ。

 絃神島から本土までの所要時間は、長距離フェリーで約半日。

 流石に飛行機の速度には及ばないが、この際、贅沢を言っていられない。

 

「あいつの船の中は治外法権で、人工島管理公社も手出しできないんだろ? どうにか頼み込んで本土まで運んでもらうさ。正直、この手だけは使いたくなかったんだけどな」

 

「随分高くつきそうな手段ですね」

 

「しょうがないだろ。他に手なんて……ねぇんだから!」

 

 苦悩するように歯を剥きながら、古城は呻いた。

 そもそもの問題はあのヴァトラーが、古城の頼みを快く聞いてくれるかどうか、ということだ。<第四真祖>に愛を捧げた、などと口先ではふざけたことを言っているが、基本的にヴァトラーは単なる戦闘狂であり、強者との殺し合い以外には、ほとんど興味のない男である。そんな奴に願い事をすれば、代償として、どんな無理難題を吹っ掛けられるか予想もつかない。

 一回古城と喧嘩をさせろ、程度で済めばマシだが……

 

 

 暁古城たちの意識は、すでにヴァトラーとの交渉へと向いていた。

 それがどれだけ夢物語であったのか、そのゴール寸前に辿り着いてようやく二人は知る。

 

 

 港へ着くと、島の様子は一変していた。

 明かりは途絶え、人間の気配がしない。

 無人の港には、しかし、強い波長を感じる。

 

 

 “■■■、■■■、■■■、■■■―――!!!!”

 

 

 囁きにも似た不安を煽る遠吠え。

 

「―――」

 

 警戒態勢に気を尖らせる。

 空気に混じった獣臭のせいだろう。

 まだ見てもいない相手に、激しい恐怖を抱いた。

 

「……先輩、港に、何かがいます」

 

「ああ、さっきから何か声が聴こえるな」

 

「声、ですか? いえ、私にはこれといって―――いえ、確かに何か聴こえますね。これは……犬の鳴き声、でしょうか」

 

 聴き取り辛そうに目を細める雪菜。

 魔族の古城とは違い、人間である彼女にはまだ拾えない距離か。それとも人間には聞き取れない、可聴域外の周波数で声を出しているのか

 

 

 “■■■、■■■、■■■、■■■―――!!!!”

 

 

 しかし、声はだんだんと大きくなる。

 キンキンと、頭蓋と脳の隙間に反射して本能を刺激する。

 

 引き返せ―――そう叫ばれてるようで。

 

「先輩、何かあったのですか? 顔色から血の気が……まさかすでに攻撃を受けて……!?」

 

 ああ。

 確かに、耳内の螺旋を掻き乱すほどの重圧は、平衡感覚を狂わせる。

 

「……いったんここは引き返しましょう。また別の手段で本土行きを……」

 

「いや、俺は大丈夫だ。それより先を急ごう。どの道、本土に行くにはこれしかないんだ!」

 

「せ、先輩!」

 

 先だって走り出す。

 自分には彼女が一緒にいてくれている。

 そして、自分は世界最強の吸血鬼の力がある。

 この先、何が待ち構えていようと、遅れを取ることはない―――

 

 

 “■■■■■―――ッ!!!!”

 

 

 遠吠えが咆哮に変わった。

 

「―――」

 

 ここに至って、雪菜と言葉を交わす必要はない

 

 今宵は、月は昇らない。

 星も見えない暗雲の静寂の中、二つの人影が古城たちを待ち構えていた。

 

 ひとりは、幼い少女の見た目をした、魔女。

 そして、もうひとりは―――

 

「―――逃避行もそこまでだ」

 

 感情に乏しい声。

 その出で立ちから、無機質な人形を連想する。

 

「―――<空隙の魔女>―――」

 

 剣巫は瞬時に反応する。古城を守るように前に踏み出し―――でも、今の彼女の手にはあらゆる魔術を破る槍が、ない。古城は、

 

「■■■―――!!」

 

 愕然と、魔女の隣に侍る“三次元に盛り上がったような影”を凝視していた。

 

「術式で追跡妨害していたのに……」

 

「転校生の腕が未熟かどうかそれ以前の問題で、その手の魔術はまったくの無駄だ。あんな子供騙しにしかならない小細工で、貴様らが逃げ切れるなど万にひとつもあり得ない」

 

 つまり、自分たちを逃がしたのではなく、人気のない場所に移動するのを待っていた。

 隠密に行動していたつもりが、結局、この魔女の掌の上で踊らされていたのだ。雪菜にしてみれば、ひどくプライドを傷つけられる展開だろう。

 そして、魔女は暴れても被害が少ない場所にあればいつだって捕まえられると余裕がある。獅子王機関の剣巫だとか、世界最強の吸血鬼だとか、まるで気にも留めていない。たとえ相手が真祖であろうが、これまで悉く監獄にぶち込んできた魔導犯罪者と同じであると、言葉にせずとも思い知らされる無関心な態度だ。

 

「……まだ、抵抗する気か。懲りないなお前らは―――何にしても私が言えるのはひとつだ。倒さぬ限り先へはいけない」

 

「!」

 

 雪菜の双眸に蒼い火花が走る。

 溢れん出さんばかりの戦意は、今の言葉にウソはないと感じ取ってのことか。

 

「先へはいけない……この港はすでに封鎖されているということですか?」

 

「……港、というより“ここ”がだな」

 

 空間制御に長けた魔女であるのなら、空間置換で出入り口を繋いでしまうことで脱出不可能の結界も即興で作ってみせることも可能なはずだ。

 何にしても追跡妨害が意味をなさない相手であるのなら、ここで倒さなければいつまでも追ってくるだろう。

 雪菜の戦意は、すでに敵意へと変わっていた。

 あの者たちを完全に敵と認識し、背中越しに古城の決断を待っている。

 だが、古城は生憎と思考が停止してしまっている。

 呼吸も忘れて目前の光景を見つめている。

 

 

 ―――俺は、これを知っている……!

 

 

 ヒュン、と魔女が左腕を一閃した。

 その直後―――声もなく、雪菜の身体が背後へと飛ばされた。激しい砂塵を噴き上げながら、4、5mほど吹き飛んで、彼女はコンテナへと叩きつけられる。

 

「姫柊ッ!?」

 

 力無くふらついて、ばたり、と崩れ落ちる雪菜を、古城は信じられない気分で眺めた。

 <雪霞狼>の魔術無効化能力がないとはいえ、霊視による未来予知で気を張り巡らせていた雪菜をここまであっさりと倒すなんて、古城はこれまで見たことがない。

 霊視でさえも見切れない―――霊視に頼りがちな剣巫には、まず防げない不可視の衝撃波。

 雪菜の視界が、ぐらりと揺れた。霊視で迸っていた目の光も消える。苦痛より衝撃より、ピンポイントで脳を揺さぶられたことで平衡感覚が酩酊したように失われた。

 たった一撃で、相手の抵抗を奪ってみせるその技量の高さ。直接的に負傷が与えられたわけではないだけに、吸血鬼の回復能力も役に立たないだろう。

 あれは、古城にも通用するのだ。

 古城の意識が魔女へ向いた―――

 

「テメェ、よくも……!」

 

 本気でやらないと、まずい。

 

 信頼していた監視役の少女を倒された古城は、自重を止める。

 全身から、溶岩にも似た濃密な魔力の奔流が噴き上がった。これで四方から不意打ちをされようが、爆発にも似た魔力の放出で弾き返してみせると古城。そして、固く栓をしていた<第四真祖>の力を解放し、眷獣を召喚す―――

 

「遅いな。何もかも」

 

 もうすでに火蓋は切って落とされている。

 そして、対峙しているのは魔女だけではなく。

 

 膨大な魔力放出により、迂闊に近寄れない暴風域と化した古城の周囲―――それを突っ切る影。

 

疾く在(きやが)―――!?」

 

 古城が一瞬視界から外したその影が、視界を覆い尽くす近距離に迫っていたのだ。

 慌てて後退しながら、距離を取る。

 だけど、それは無意味であった。

 相手は魔族の吸血鬼以上の身体能力があり、すでにここは相手の間合い。

 距離を取ろうとした時点で、もう終わっていた。

 吸血鬼が切り札である眷獣を喚び出すよりも早く仕留めるのが鉄則だと、主人の魔女にされた教訓(しつけ)。まったくその通りに、眷獣がなければ、肉体が不老不死であるしかとりえがない吸血鬼に、切り札を出させる前に終わらせる先手必勝はこの上なく効果的だ。

 

「■■■■■―――ッ!」

 

 慄然となった古城の内懐に、影が死神の如く滑り込む。眷獣の召喚が成功しても間に合わない至近距離。

 踏み込んだ震脚がコンクリートの地面を雷鳴のように撃ち鳴らし、繰り出された山をも引っ掻く虎の如き猛然とした爪拳を獲物(こじょう)の右腕に喰らわす。停滞せ(とまら)ず。素早く身を寄せながら寸勁をこの身に打ち通し、最後は体当たりをぶちかますように肘を抉り込む。

 淀みのない一連の流動。目にも留まらぬ連撃は、頑健な城門すらも打ち破る絶招の一手『猛虎硬爬山』というものであった。

 反応、できなかった。

 受け身など、望むべくもなかった。

 血を噴出させ、眷獣召喚の起点となる右腕が、一撃目で引き裂かれた。続く連撃で心臓に杭を打つかの如き貫通した衝撃が襲い、もはや胸元で手榴弾が炸裂したも同然の破壊力に呼吸ができなくなるどころか肺が爆散。完全に息の根を止められた死に体が、先の雪菜よりも無残に、藁屑のように宙を舞い、コンテナのひとつに叩きつけられる。

 ほんの一瞬、注意を怠っただけで、利き腕をなくし、肺と心臓をもろとも粗挽き肉へと変えられた。

 

 勝敗は、一瞬で決した。

 秒殺、という表現があるが、現実時間で10秒もかかっていない。

 そして、戦争(ケンカ)にすらならなかった作業で、勝者は喜悦もない。

 ただ淡々と、為すべきことを成したという無感情な顔を魔女は浮かべる。

 

 

今回の夢物語(チャプターX)は、失敗だ……」

 

 

 抵抗や反撃なんて、考えるだけで無駄。

 身動きのできないところに虚空より放たれる鎖が古城たちに巻き付いて、異空間へ引き摺り込まれた。

 来年へ越せず、夢から覚めることもないまま……

 

 

 

つづかない

 

 

 

 

 

彩海学園

 

 

 世界最強の吸血鬼の力を、成り行きで受け継ぐことになってから八ヶ月。

 将来のためにも、高校を留年なく卒業できるだけの教養が必要だ。

 正直、今もまだ自覚に乏しいのだが、一応、<第四真祖>と呼ばれる吸血鬼である。そして吸血鬼の真祖というのは、永遠に近い寿命が与えられているもの。

 そこでまず頭を悩ませるのは、職業選択の問題である。

 吸血鬼だからって、霞を食って生きられる仙人ではないのだから生物的欲求で空腹を覚えるし、世俗を捨てるつもりはないのだから衣類や住居も必要となる。貴族社会に生きる華麗なる吸血鬼男爵など似合わないしするつもりもないが、一般庶民の吸血鬼としては、働かなければ食っていけない。広大な領地を所有し、豪華なクルーズ船で悠々自適に道楽に生きるディミトリエ=ヴァトラーとは違うのだ。かといって、『世界最強の吸血鬼』なんていう馬鹿げた肩書きが、就職活動の履歴書に書けるわけがない。

 そんなわけで、教養を身に付けようと古城は考えた。

 

「暑ィ……」

 

 たった一人の教室。難解な英作文の問題を相手に苦悩の表情を浮かべる暁古城、その額に大きな汗の滴がひっきりなしに伝い落ちていく。

 不老不死の吸血鬼だからこそ、学歴や知識はあって困るものではないだろうし、あとは就職に役立つ資格や、手に職を身につけるのが望ましい。そのためには、何かと厄介な事件に巻き込まれまくったせいで減らしてしまっている出席日数を留年しないよう補う、この長期休暇を潰す補習授業を合格せねば―――

 そんなことを考えてせっせと補習に向けて、予習をするくらいに頑張っているのだが、それでもきついものはきつい。

 湿った手首にベタベタと答案用紙が張り付いて鬱陶しいは、季節外れのセミたちが騒々しく鳴いて集中力を掻き乱すは、と頭がぼうっとなってしまうのも無理はなくて。

 年がら年中真夏のように澄んだ青空が広がる光景に、日付感覚まであやしくなってくる。

 

 あれ?

 今日って、12月の何日? っつか、年越しまであと何日だ?

 

 ちょっと携帯機器で確認する。

 ……ああ、もう明日で大晦日になるじゃねぇか。

 

 情けを掛けられたのか、今年最後の日の前日に当たる今日で、無断欠席しまくって追試で赤点を取りまくったどこかの馬鹿の補習授業は最後となる。

 でも、こんな年末のどん詰まりに近くまで追い込まれるなんて、本当に余裕がない学生生活だ。

 

「テスト時間終了。答案回収。採点します」

 

 と見張り役と立たされた人工生命体(ホムンクルス)に、古城はどうにか全部埋めれた答案を差し出す。

 教卓にて採点するアスタルテは、彩海学園の用務員のようなことを任されている。英語担当の教師ではないが、彼女の代役を任されているらしい。こんな暑い最中に、補習に付き合わせてしまって申し訳なく思う。でも、その職員室から運んできた扇風機を独占しているのなんとなくジト目で見てしまうのだが、しかしながら扇風機ももってきたのは彼女であるので快適さをお裾分けされないからって恨みがましく思う権利は古城にはない。

 テスト中、ずっとセミの鳴き声をバックコーラスに『ああああああああああ』と扇風機の前に座り込んで発声練習していたのだが、きっと興味深かったのだろう。

 

(あー、大掃除どうするか……)

 

 年末といえば、やはり一年を清掃する大掃除。

 正直、そんな気力もない。今はクソ親父に連れられて丹沢の祖母の家に帰省しているのでいないが、凪沙が時々掃除してたし構わないかとか考えてたりする。

 でも、それでしなかったのがバレたら妹は『あたしがいないとどうしようもない』と兄的に不名誉な文句を言われることになるだろう。

 

「採点完了。百点満点中六十六点。補習クリアです」

 

「ほっ……」

 

 妹の顔を思い浮かべている間に、速やかに赤ペンを答案に走らせたアスタルテから、可もなく不可もないとりあえず赤点セーフした微妙な点数を告げられる。

 とはいえ、これでも予習の成果で古城としては高得点な部類である。客観的には精々落第生が人並みになった程度だとしても、真面目に頑張ったのである。

 胸を撫で下ろした古城に、アスタルテは相変わらず淡々と、

 

「では、よいお年を第四真祖」

 

「ああ、お前もな、アスタルテ」

 

 投げやりに返事をした古城は、教室を出ていく教師代行(アスタルテ)を見送ってから、筆記用具を片付けようとすると、入れ替わるように教室のドアを軽やかに開けて現れた新たな人影。

 スポーティな装いをした体育教師の笹先岬だ。

 

「じゃ、次行くよ。英語の後は体育の補習だったりして。とりあえず護身術研修の分を武術研究会のみんなとやるから、着替えて体育館に集合ね」

 

 慢性的な出席日数不足の古城にとって、受けるべき補習授業の科目は英語だけではなくて……

 いつも通りのテンションの高さで、古城に中華拳法の達人が行う講習へ強制参加を告げると体育館と行ってしまった。

 

 

 

 

 

「…………………あれ? 今日って本当に大晦日の前日で良かったのか?」

 

 

道中

 

 

「あの……大丈夫ですか、先輩?」

 

「なんとか、な……ああくそ、本気で吐きそうだ……」

 

 護身術講習と称した軽いサンドバック。

 軽い技の手ほどきを受けてから、暴漢役を演じるからとにかく逃げ続けろ、と。

 そんな大雑把な感じで体育教師とほぼワンツーマンで行われた補習は、吸血鬼の古城であっても目で追うのがやっと。笹崎岬は、彩海学園に6人いるという兼業攻魔官のひとりであり、剣巫の雪菜と舞威姫の紗矢華が訓練生時代であるも、指一本も触れることができなかったという仙法と拳法の達人<四仙拳>のひとりだ。最後なんて、八極拳の奥義だとかを寸止めでやられて、心臓とか肺が爆散するイメージが古城を襲った。

 思ったよりもいい反応するから興が乗っちゃった、と体育教師の弁。

 いくら不老不死だからって、胸郭がブッ飛ばされる想像をされては精神的損耗が凄まじくて、これならば常夏の炎天下で10kmマラソンというデスマーチの方がまだよかったくらいだ。

 

「とりあえず水分補給してください。あと、これ。レモンの蜂蜜漬けです」

 

「ああ、サンキュ」

 

 手回しの良い雪菜に感謝をしつつ、古城はスポーツドリンクのボトルとレモンをいただく。

 ああ、なんだかバスケ部にいた頃を思い出さされる。

 古城と雪菜は、世界最強の吸血鬼とその監視役として日本政府から派遣されてきた剣巫であって、運動部のエースと敏腕マネージャーという関係ではない。傍から見ればそうとしか見えないのだが。

 と、わずかながら元気を取り戻したところで、古城はまた一度雪菜に謝意を示す。

 

「悪いな、姫柊。大晦日も明日なのに学校に付き合わせちまって」

 

「いえ、先輩の監視が私の任務ですから」

 

 予想していた通りの返しをされて、古城は思わず苦笑する。

 年度末の武神具検査とかで『第七式突撃降魔機槍・改』という<第四真祖>の対抗手段を獅子王機関に預けている以上、雪菜が無理に古城に付き合う必要はないのだが、なんだかんだで生真面目な彼女にいつも通り世話になっているという具合だ。

 そこで、ふと、古城は記憶の光景と今の在り方が重なり、感想をこぼす。

 

「なんかこうしてると姫柊に会ったばかりのころを思い出すな」

 

「え……?」

 

 唐突なその発言に、雪菜が警戒したように表情を硬くする。制服のスカートの裾を押さえながら、古城の視界から逃げるように後退する。

 

「な……何を思い出してるんですか!? 忘れてくださいってお願いしましたよね!?」

 

「……え? あ! ―――いや、違うぞ!」

 

 ぼん、と突沸したように顔を赤らめる雪菜に、古城も顔に焦りの冷や汗が浮いた。

 出会いがしらの不幸な事故というか、神風は二度吹くというか。

 雪菜との初遭遇で、古城は彼女のパンツを二度も拝んだことを思い出したのだ。

 でも、違う。

 古城が言いたかったのは、補習で登校していた時に雪菜と会った時の事。顔合わせしたのはその前日であるが、まともに会話をしたのはその時だ。

 この日と同じように古城はひとりきりで学校を訪れて、補習授業を受け、そしてその帰りに中等部の転校生であった雪菜が古城の前に現れた。

 

「あんときの姫柊の印象は最悪だったけどな。なんか知らんが、いきなり槍を向けられたり」

 

「そ、それは先輩の責任だと思うんですけど! 思うんですけど!」

 

「いや、でも、無抵抗の魔族をいじめるのは、攻魔特別措置法違反だろ」

 

「よく知ってましたね、それ……でも、先輩は未登録じゃないですか」

 

「ちょ、いくらなんでもそれはひどいだろ!?」

 

「けど、先輩だってひどいじゃないですか! だって世界最強の吸血鬼だって聞いてたのに妙に頼りないし、何を企んでいるのかよくわからないし、こそこそと逃げるのが上手だったり、記憶がないって話も胡散臭いし、いやらしいし……そんな人のことを信用できると思いますか!」

 

「いやらしくねぇよ! あんときパンツ見たのだって完全に不可抗力だっただろ!」

 

「だからそのことは忘れてください!」

 

 あの頃の刺々しい言動は、雪菜にとってもあまり思い出したくない恥ずかしい記憶らしく、珍しくムキになって言い返すと雪菜は、古城を残して速足で駅に向かって歩き出す。

 そこで古城も追いかけようとするが、運悪く横断歩道を踏み出す前に、赤信号に捕まってしまった。手持無沙汰となった古城はこの待ち時間、携帯電話を取り出して、黙々とメールのチェックを始める。

 

 ひとつ、古城は気になることがあった。

 これを言うと周りからシスコンとか言われるかもしれないが、凪沙からの連絡がないのだ。

 この前、セレスタ=シアーテを中心とした『邪神怪獣騒動』が終わった直後、だいたい午後八時あたりに連絡して『祖母さんの実家にもうすぐ着く』と報告があったが、それっきり。以来一切音沙汰なしだから、流石に古城も不安になる

 確かに、帰省先は携帯電話の届かない場所であって、連絡が途切れているのも特に不自然ではないかもしれない。古城たちの祖母は、人使いが荒いため、メールをする暇もないくらいに手伝いをされている可能性もある。

 そもそも中学生の妹が、用もないのに兄にこまめに連絡をしてくる方がおかしい、そういう定期報告は彼氏とやるものだ、という世間の常識も、一応は自覚している。

 

「………」

 

 でも、古城は、青信号となってもそこから動こうとせず、空っぽのメールボックスを最後にもう一度未練がましく確認する。

 結局、二度のチェックの甲斐もなく、携帯電話をポケットにしまう古城は、そこでこちらに駆け付ける人影に気づく。

 

「古城! お願いちょっと匿って!」

 

「はぁ? いきなりなんだ浅葱!?」

 

 視界に入ったのは、華やかな髪形の同級生の浅葱―――とその背後に迫る割烹着姿の白髪の少女。

 意外と運動神経の良い浅葱の俊足につかず離れず、三歩後ろ斜めに張り付いていることにまず古城は感心して、それに何かと重なるその整った人形めいた顔立ちが目に留まる。

 

「まさか何か事件か?」

 

「え、っと、そういうのじゃないんだけど……」

 

「哨戒開始。半径50m圏内に危険対象と該当する魔族は一名―――排除しますか、お嬢様(マスター)

 

「しないしない! そんな物騒な真似しないでいいから! もう大人しくしててちょうだい!」

 

命令受託(アクセプト)―――待機状態に移行。何かあれば何なりとご命令を」

 

 古城にガラス玉のような無機質な瞳を向けた割烹着の少女は意味深に左腕を挙げてみせたが、そこへすぐさま浅葱が制止した。

 未だ、状況を上手く呑み込めていない古城だが、とりあえず面倒な奴に絡まれていることはわかった。

 

 

 

つづく

 

 

 

???

 

 

 ―――漆黒の裂け目が生じた。

 光が差し込んでいくのではなく、内側の闇が外へ染み出していくかのようであった。

 どろどろとした、嘆きや怒り、怨念と負のものを醸造された闇の成分。

 

「見つけました……」

 

 と、眼鏡をかけた文学少女が喉から声を洩らす。

 扉の裂け目から、淡い影が浮かび上がっていた。

 明かりの一切ない、冷え切った地下室。

 壁という壁に呪術式が描き込まれた、魔封じの空間。

 その牢獄の中に―――

 

「……おや、もうお時間ですか」

 

 じゃらりと、鎖の擦れる音。細い体を包んでいる灰色の囚人服。かすかな音に反応して顔を上げる青年の姿。

 そう。

 頭しか、動かせないのだろう。

 

 

「ええ、出所のお時間です」

 

 

 その双眸を目隠しによって閉ざされ、鎖に雁字搦めにされて椅子に縛り付けられる。拘束椅子に座らされる男は、その四肢の動きを完全に封じられ、“この身体”となった時から触覚や味覚というのがすでに死んでおり、音しか拾えない。

 だからこそ、絞られた感覚の精査は、表面上の誤魔化しが通用しないのか。

 

「……(しずか)、ではありませんね」

 

「おや……機械の声紋照合さえも誤魔化せたのですが」

 

 内心で舌を巻く。ここに閉じ込められてから、腕が鈍るものかと危惧はしていたが、それは杞憂であったらしい。

 

「しかし、自意識まで保っているとは……」

 

「ええ。本物の閑は『三聖』の中ではわりとお行儀の良い方だと思いますよ。単なる苦痛や薬の投与、催眠暗示の呪術では意味がないことを知っていますので、最初からそっち方面は諦めていましたし。両手両足を切断したり、防腐処理をされて人造吸血鬼(キョンシー)の標本にされたりしなかっただけでも、ありがたい限りですね」

 

 くっく、と笑みを零して、ようやく誰何を投げる。

 

「それで、あなたは誰なんです? 生憎と、声に覚えはありませんし、このように目も見えませんから」

 

「貴様の同士だ、『冥狼』」

 

 最下層の囚人――絃神冥駕の目隠しを外し、その仮面を取った侵入者の正体――右腕のない人影を晒してみせる。

 

「これまで名は捨てていたが、折角魔女が付けてくれたのだ。―――『人狼』、とでも呼ぶといい」

 

 この右腕を斬り落とされた相手からの忌々しい蔑称をあえて名乗る。

 そして、冥駕はその『人狼』が手にした、血のように赤い髪をした人型へ目をつけた。

 

「ああ、これはここに来るまでに見つけた“道具”だ。ちょうど失った右腕の代わりと、ここを出るまでの間、最下層の囚人の身代わりとなる“情報”が欲しかった」

 

 仮面を翳すと、すでに左腕のない人型の残っていた右腕――師より錬金術師の弟子天塚汞へ分け与えられた最後の、生命線であった『霊血』が、溶けた銀のような一筋の輝きとなり宙に浮く。一瞬何の形もなく捩れるように動いていたが、やがてそれは、また人の手の形になり、月明かりのように仄かに光を振り撒きながら舞い下りて、『人狼』の新たな右腕へと収まった。

 『人狼』は目を細めて、銀の右腕を見つめた。まるで輝く銀の手袋をはめたように、その手は継ぎ目なく腕についていた。『人狼』は輝く指を曲げ伸ばしして、これが己のものとなった手応えに満足したように笑みを作る。

 

「『霊血』……目をつけていた素材だったが、いいものだ。実に馴染む」

 

 両腕を失くした人工生命体(ホムンクルス)をもはや用済みと、拘束椅子に座る冥駕の足元へと蹴って転がす。

 

「これから本土であの御方が我々に授けし遺産の封印を解く。そのために有能な人材はひとりでも多い方が良い。協力するのならば、貴殿をここから出そう」

 

「なるほど、『聖殲派』の方でしたか」

 

 物静かな青年の風貌が、ほんの一瞬、魔性の凄みを帯びた。

 

「ええ、構いません。私をここから出してくださるのであれば、誰の手でも取りましょう。『聖殲派(あなたたち)』であれば私の目的とも合致しますしね」

 

 二人の“狼”は笑みを交わした。途端、拘束椅子へ縛る封鎖がほどけ、自由となった『冥狼』の手に、『人狼』は両刃槍――獅子王機関の廃棄兵器である『零式突撃降魔双槍(ファングツアーン)』を持たせる。

 瞬間、霊力を無効化する“失敗作”の力を起動させた冥駕は、拘束から完全に解放された。

 

「これはこれは、閑も大目玉を食らいますね」

 

「本物の『三聖』がどうなろうと一向に構わない。その顔を捨てた私にはもはや関係のないのだから」

 

「後で恨まれますよきっと」

 

「そのころには獅子王機関も我々の下についていることになっている」

 

 

 

つづく



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逃亡の真祖Ⅱ

人工島西地区 高級マンション

 

 

 最上階すべてを居住地とした南宮那月の邸宅。

 元旦に向けて、門松や鏡餅などの正月用品が玄関のそこかしこに飾り付けられている。世界有数の魔女の自宅でありながら、この純和風の装いには、知るもののイメージが台無しとなるかもしれない。

 大晦日。

 もう大掃除を終えて心置きなく年明けの準備は済ませてあり、夏音を中心とし、脇を要撃騎士と大錬金術師が固める居候ご一行は、北欧(アルディギア)風おせちの製作に足りない材料があったとかで、年末最後の買い出しに出かけている。何でもまた極秘に第一王女(ラ=フォリア)が年明けの挨拶に来日するとかで張り切っているらしい。

 

 そして、空港の警護に派遣されていた南宮クロウが年始年末の休暇で数日ぶりに帰還し、まっすぐに呼ばれている主人の部屋に赴いて報告をしている。

 

「………それで、登録証を外したって騒ぎがあったけど、そいつら常習犯だし特区警備隊に身柄を預けたのだ」

 

 密入国密輸等といった犯罪者もいたようだが、それらも逃さずにひっ捕らえた鼻のいい魔女の猟犬。テロから完全に警備機能が修復し切っていないとみていたのだろうが、その見通しは甘い。むしろ、眷獣(サーヴァント)ひとりを置いているだけで警備レベルは、前以上に上がっているだろう。

 すでに警備隊の方から届けられた報告書に目を通し、例年以上に犯罪捕縛率を挙げているその活躍ぶりについては把握しているも、那月は思い出しながらたどたどしくも数日分の出来事を話すクロウへ耳を傾ける。

 そして、報告書に記載されていた案件が終わったところで、手を組んだ那月は口を開いた。

 

「それで、他に変わったことはなかったか?」

 

「んー……イブリスとラーメンを食べたのだ」

 

「イブリス?」

 

「う。『滅びの王朝』の王子様だぞ」

 

 あっけからんとしたクロウの発言に、那月は頭痛を堪えるように眉間を指で押す。すぐさま脇に控えていたアスタルテが、教官へと用意していた紅茶を差し出す。

 それを鎮静剤代わりに一服すると、感情を抑えた口調で確認を問う。

 

「馬鹿犬、それでヤツをどうした?」

 

「あう? 他のラーメンも食べてみたいとか言って、少し絃神島を観光していくらしいけど、なんかまずかったか?」

 

 いや、まずくはない。

 しかし、那月が伝え聞く『滅びの王朝』の第九王子イブリスベール=アズィーズは、『焔光の宴』で兵器商ザハリアスを手引きして自治領へと侵入を許しただけでなく、家督の競争相手を始末しようと謀略を企てた裏切りものの第二王女マウィアを、一年足らずの間に追い詰めて復讐を果たし、それから<蛇遣い>の専売特許ともみられている『同族喰い』でさらなる力を得たという。そんな苛烈で誇り高い吸血鬼の王族は、機嫌を損ねれば、真祖一歩手前の第二世代の眷獣を解放し、一帯を更地に変えてしまうのに躊躇はないだろう。

 屈辱を晴らすためなら、血を分けたものであっても容赦はない。

 そんな相手に、あろうことかこの馬鹿犬はラーメン屋に誘ったという、外交官が一目で顔面蒼白になるような対応をした。それで穏便に何事もなかったのであれば、結果論で問題はなかったといえるだろう。だが、それならば万が一に備えて第九王子を確認した時点で、那月への報告連絡相談(ホウレンソウ)を徹底しておくべきだった。一体何のために連絡手段(けいたい)を持たせているのだこの馬鹿犬は。

 何と言うべきか、しかし言葉の出ない様子の那月に、きょとんと首を傾げるクロウ。

 そんな教官の代わりに動いたのは、ここ最近先輩の扱いが板についてきた後輩メイド。

 これまで主従の語り合いを邪魔しないよう調度品のように大人しかったアスタルテはつかつかと大股で、少年の側へ詰め寄った。

 これ以上ない迫力で、青水晶の瞳が睨みつけてくる。

 

「アスタ、ルテ―――?」

 

 思わず声がくぐもったところへ、つけ込むように訊かれた。

 

「説明要求。先輩―――要注意危険人物をその場で見逃したのですか?」

 

「え? あ、あう……別に、悪い事とかしてないし、それにメンラー好きに悪い奴はいないのだ、って、前に浅葱先輩に教えてもらったぞ」

 

「………」

 

「………」

 

 今度は、沈黙。

 さして長くはなかったが、あまりに重苦しいそれに少年が耐えかねて―――突然、来た。

 

「断定。先輩が悪い」

 

「うぬ!?」

 

 前置きなく、判決を言い渡された。

 きゅっ、と蒼銀の法被の胸元(コート)を掴まれる。

 

「大事な事なので復唱します。先輩が悪い。情量酌量の余地なく先輩が悪い。どうして、常に先輩は私を伴わないのですか?」

 

 少年の法被を掴み、精一杯背伸びまでして、実に一生懸命にアスタルテが言うのである。

 

「私は先輩の相方(パートナー)胴輪(ハーネス)であるはずです。なのにそれを置いて、どうして単独行動するのですか。食事を用意していたのに外食ですませるなんて、後輩としての屈辱で、先輩の怠慢と判断します。今回真祖直系のG種との戦闘は回避できたようですが、それにしても運否天賦に違いないでしょう。一体どれだけしたら、学習するのですか! 復唱しますが、どうしてもっと頼らないのかと私は抗議します! もう少しぐらい私の扱いを心得てほしいと切実に思います!」

 

「それは、そのだな……」

 

 一方的にまくしたてられて、クロウは瞬きする。

 気のせいかもしれない。

 後輩の顔が―――その人形のような顔が真っ赤に染まって、唇までへの字にしていて、今にも泣き出しそうに見えたからだった。

 

「う、ん……わかった。悪かったのだ」

 

「……ご理解いただけて何よりです」

 

 視線を逸らして、拗ねるみたいにアスタルテが口にした。

 それから、二人して目を丸くした。

 

「………」

 

 くっくっく、と那月が背を屈めていたのである。

 

「ん、どうしたのだ……ご主人?」

 

「いやなに、こちらの予想以上に縦の繋がりがしっかりとしているようで何よりだ」

 

 那月が叱りたかった点とは、微妙にずれているような気がしないでもないが、こちらの方が、反省が効きそうだ。

 そうして、この身柄を預かっている先輩と後輩へ退室を促して、その背中を細めた目で那月は見送った……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 教官の部屋を出てから、アスタルテは先日、教官の部屋で話をされたことを思い出していた。

 

(本当に……もう、気にしていないのでしょうか)

 

 アスタルテは、思う。

 教官の口から通達された、“暁凪沙に関する”その決定事項。

 正確には、『神縄湖』で行われようとする国防のための計画について。

 あれから、自分に預けっぱなしがままあった携帯機器を、先輩が常に持ち歩くようになった、そして、警備任務であるも何かを待機するように彼女と別れた空港に半日以上も居付くようになった。

 彼自身さえもそれに気づいていないのだとしても、やはり自分には気になっているように思えた。

 不自然とは言えない微妙な差異で、不確定な情報。

 実際、彼の口から彼女の名前は一度も言われたことはないので、これは印象だけのことではある。

 だから、そのことは一度も訊ねかった。

 だけど。

 

「………」

 

 アスタルテは、そっとメイド服の胸に手を当てた。

 心臓が、ずっと高鳴りを止めなかったのだ。

 専用となった人工生命体用の調整槽で精神安定の薬品注入でそれを止めることもできたが、アスタルテはそれをする気になれなかった。

 

(……私は……おかしくなってしまったのでしょうか)

 

 胸に手を当てて、しばらくアスタルテは動かなかった。

 その気持ちを不安と呼ぶことを―――学習装置で最初に教え込まれたりはしていなかった。

 

「どうした?」

 

「え?」

 

「変な顔してるぞ、腹でも痛いのか?」

 

 こちらに気遣ってか声調をおさえた小声で――いつも通りの表情で眉をひそめたクロウの手を――アスタルテは黙ってきゅっと握った。

 驚いたのかもしれない。

 嫌だったらどうしようと、すごく心配になったけれど、少年は握り返してくれた。

 ひどく優しい、こちらを労わるような握り方だった。

 そのことが、アスタルテには嬉しかった。

 

「やっぱ変なのだ。どうかしたのか?」

 

「……何でも、ありません」

 

 だから、ほんの少しでもクロウの体温を感じていたくて、アスタルテはその腕をとても大事そうに抱きしめたのだ。

 

 ―――先輩に、どこにも行かないで欲しいと、私が思ってもいいですか?

 

 そんな言葉は、とても口にできなかったけれど。

 せめて今だけは、引っ張らせてください……

 

 

 

 ピンポーン、と来客を告げるチャイムが鳴る。

 

 

 

 大晦日、今年最後の日に参上したのは―――このささやかな願い()も解いてしまうもの。

 灰かぶり(シンデレラ)の魔法が解けてしまう時の音と同じように……

 

 

「いきなり悪いな。那月ちゃんに話があってきたんだけど、会えるか?」

 

 

 余裕のない表情の第四真祖と、黒のギターケースを左肩に背負った剣巫が、教官の邸宅に訪れた。

 

 

人工島西地区 ???

 

 

 監視のスポットとして用意していた拠点のひとつ。

 そこから完全に室内を見通すことは、あの難解な過保護な魔女が敷いている結界のせいで無理であったが、それでも大まかな流れは推理で補うことができた。

 

 彼らが、事情を知る国家降魔官を頼るのは予想できていたこと。

 彼女が協力してくれる可能性も五分五分のところであった。

 ―――しかし、こうして彼らが出てこなくなったところを見ると、ヘマを打ったようだ。それも最悪の結果で。

 

「フォローしてあげたいけど……これは、あの子を応援に呼ぶ必要があるかしら」

 

 できるのなら、手を借りたくはない、引っ張りたくはなかったけれど、自分はどういうわけかあの建物には立ち入りを禁止されている。マンションの玄関口に入った瞬間、出入り口を繋いだ空間置換で外に出されるのだ。透明迷彩をしようにも誤魔化しようにない生体の魔力の精気を感知されているようで、どうあっても通ることはできない。部屋はすでに引き払っているけれど、元住人にこの仕打ちはあんまりだと思う。撤去後も密かに残していた、部屋に仕込んであったはずの盗聴器具等もすべて取っ払われているようだし。

 だから、自分にあそこの内部への干渉はほぼ不可能。

 ならば、目には目を。魔女に対抗できる力を持つのは、やはり“魔女”だろう。

 

「解放できても一筋縄じゃ行かないでしょうけど、あそこから出てきてもらえば、私にも手出しができるわ」

 

 明かりのない室内。

 その中で、刃を研いでいた黒の剣巫は、『乙型呪装双叉槍』の二つの刃先の間に挟むように円光盤(ディスク)を取り付ける。

 

 

 

「『鬼道術用追加モジュール』―――<神獣鏡>。太史局の秘奥兵器で、絃神島最強の主従の看板は下ろさせてもらうわよ」

 

 

 

つづく

 

 

 

邯鄲の夢枕X

 

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 十日ほど前の神獣襲撃に眷獣解放トドメの獣王激突の強烈すぎる三連コンボで、爆心地となった705号室はボロボロになっていて、未だに修理の目途がついていない。隣室にも少なからず影響はあったものの、そちらの修理は終わっている。

 そんなわけでやむにやまれず、姫柊雪菜は暁古城の704号室で半ば居候しているような状態である。

 傍目には同棲していると勘違いされるような状況なのだが、職務に真面目な剣巫はこれでより<第四真祖>の厳密な監視が可能になった、と述べている。一人当たりの家事負担が減るので、古城としても積極的に彼女を追い出す理由がないところだ。

 でも、ここで自宅にクラスメイトを招いて、愛の巣とか誤解されるのはたまったものではない。

 

「当然のように古城ん家に入るのね……」

 

「いえあの、凪沙ちゃんが帰省中でいないので、代わりに先輩のお世話をするのは好都合というか」

 

 慌てて言い訳する雪菜に、この現状を知りながら今日まで見逃していたことを悔やむ浅葱。災い転じて福をなすというのか、自宅に住めなくなり家なき子になったと聞かされたときはご愁傷さまと思っていたのだが、これを機に着々とポイントを稼いだなんて……!

 

「古城……あたし、絶対に家には帰らないから、年末年始泊めさせて! どうせ新年は基樹と結瞳ちゃんと一緒に初詣に行くんだし、いいでしょ!」

 

「んな、馬鹿な家出に協力するわけねーだろ」

 

 危機感に急かされた浅葱の懇願を、古城は一蹴して玄関に鍵を差し込む。と、そこですでに鍵が開いていることに気付く。訝しげに眉をひそめながら部屋に上がり込むと、古城たちは驚愕に息を呑んだ。3LDKのマンションすべての部屋が乱雑に引っかき回されていたのだ。箪笥の中身が残らず床の上にぶちまけられて、クローゼットの扉も開いている。

 すわ、空き巣か―――と即座に身構えたが、部屋を荒らした下手人は呆気なく見つかった。

 普段は締め切ったままあまり使われていない、両親用の寝室。

 そのベットの脇に屈み込んで、こちらのふりふりと頭隠れて尻を振る間抜けが一匹。

 30代前半と中高二児の母親には若すぎる歳、よれよれの白衣を着て、寝癖の付いたままのぼさぼさの髪とだらしのない大人代表。こちらに気付いて顔を上げ、その開ききらない眠そうな瞼の童顔を古城たちに見せる女性は、

 

「わー、古城君。浅葱ちゃんに雪菜ちゃん、それに可愛い家政婦さんまでいるの!」

 

「げっ……」

「深森さん?」

 

 ふんふー、と眼福に機嫌よく鼻歌を鳴らすこの女性は、暁深森。正真正銘、古城の母親。

 通勤が面倒臭いという理由で、職場の宿泊施設を事実上の第二の自宅にしていて、こっちの正当な所有権があるはずの自宅には週に1、2度しか帰ってこないのだが、流石に年始年末のシーズンになると研究室から追い出されたか。

 で、それでいったいなぜ、この母親は空き巣まがいの真似をしているのか。

 家事能力皆無の深森は、典型的な『片付けができない大人』であり、彼女が今奥に手を突っ込もうとしているクローゼットは、もう寄木細工のようにみっちりと隙間なく多種多様な代物が詰められている。

 

「ようやくスーツケースを見つけたんだけど、荷物が邪魔で出せないのよ。ちょっとこの辺、抑えてて古城君」

「ま、待てっ!」

 

 なので、そのクローゼットの中から、スーツケースなんて言うデカくてかさばるようなものを強引に引き出したりすれば、どうなるのかは火を見るよりも明らかである。

 ドサドサドサッ、と母親のフォローに飛び出すもあと一歩のところで及ばずに、頭上で崩壊した荷物の雪崩に呑まれる古城。

 『んふ、よかった。これでようやく荷造りができるわ』と大惨事の元凶である深森は、お目当てのものが手に入れられたことに満足している。

 さっさとスーツケースに荷物をまとめる深森は、崩落した荷物の壁の防波堤とならんとし、残念ながら残骸の下敷きとなっている息子には気にも留めず、それよりか新顔の家政婦に研究者として興味津々である。

 

「ねね、それでその子は何なの?」

 

「あー、この子は……」

「個体名『スワニルダ』―――藍羽浅葱様をマスターとする人工生命体(ホムンクルス)ですと回答」

 

 全身あちこちにあざを作る古城を心配そうに窺いながら、微妙な表情で浅葱が答えようとするよりはやく、深森にスカートの端をつまむ一礼(カーテシー)を返す家政婦。

 物差しで測ったようにきっちりと会釈する動作に穢れなき白髪がさらりと流れる。眉宇と鼻梁の長さを形作る黄金律。陶磁器のように白く滑らかな肌には、翡翠(エメラルド)色の瞳が儚い美しさを演出していた。

 純粋な美貌だけならばここにいる藍羽浅葱や姫柊雪菜も劣らないが、この家政婦にはどこかつくりものめいた不思議な印象が強い。

 それも、当然だろう。

 実際に、スワニルダは“人形でもある”のだから。

 

 それについに荷物の整理をしているスーツケースまでほっぽり出して、人工生命体の少女に接近。んふー、と低く唸りつつ、挨拶でも交わすようにごく自然に、唐突にスワニルダの胸を鷲掴みにする深森。

 

「なるほど、浅葱ちゃんは、こんな可愛い家政婦を雇ったのね。ふむ、これは中々」

 

「挨拶代わりに胸に触れる癖をいい加減に直せ!」

 

 荷物に埋まっていた古城が、母親の悪癖を察知して跳び上がる勢いで起き上がると、その後頭部を乱暴に張り飛ばして、ピンク色な脳細胞を死滅させんとする。

 除夜の鐘でも聴いてこの煩悩を清めてほしいと息子は毎年切に願う。

 そして、スワニルダは感情のない瞳を、自分の胸を触って恍惚の表情を浮かべている深森に向けて、

 

「……こちらの女性は?」

 

「古城の母親よ。一応怪しい人じゃないから」

 

 渋面を作り息子の口からとても言いたくない古城に代わって、浅葱が説明をする。

 

「状況把握」

 

「頼むからそんなあっさりと受け入れないでくれ……!?」

 

 傷ついたように唇を歪めて項垂れる古城。

 それを気にせず、家政婦はこの惨状、寝室だけでなく、リビングやキッチン、そして古城たちの部屋まで平等に散らかっている、まるで局地的な竜巻が吹き荒れたかのような光景をぐるりと視認。これを元の状態に復旧するのは、並の大掃除よりも遥かに手間だろう。

 

「にしても……あちゃー、これは大掃除が大変そうね」

 

 と嘆きに反応し、淡々とスワニルダは浅葱に確認を取る。

 

命令認識(リシーブド)お嬢様(マスター)、部屋を片付けますか?」

 

「できるの?」

 

「肯定」

 

 こくり、と首肯する家政婦。

 思えば、彼女の能力のことを知らないし、継母も『すごく優秀な子』としか聞いてない。その白髪白肌の整った美貌からして、愛玩用としても十分通用するだろうが、政治家の父親が見目の良さで娘のお付にするとは考えにくい。

 なら、その腕試しにちょうどいいかと浅葱は考え、

 

「じゃ、やっちゃって」

 

命令受託(アクセプト)

 

 お嬢様の命令に頷くと、人工生命体の純白の絹糸のような白髪が、揺れて―――

 

 散らかった物たちが動き出して、元あった場所へと帰り始める。

 そう、ひとりでに。

 ばかりかリビングには、掃除機がにょっきりと立ち、雑巾も持つはずの手は見えないのに宙に浮き、お伽噺よろしく自立して動き掃除をし始める。

 その働きぶりは大したもので、みるみるうちに荒廃した家の中で床に散らばる荷物はいなくなり、どころか、床が輝くくらいに磨かれる。そこらの家政婦を十人雇っても、これほどの功績は望めまい。北欧の伝説に名高い、家守りの妖精(ブラウニー)さながらだ。

 

「これは、『傀儡創造(メイク・ゴーレム)』……!」

 

 驚きに声を洩らす雪菜。

 無機物に仮初の命を吹き込んで、自らの忠実な従僕に仕立てる魔術。おそらく、その伸長した白髪を接続経路にして、繋いだ物体を動かしているのだろう。

 

「魔術? それって、こんな物にも有効なのか?」

 

「理論的には、意思のない無機物であれば可能です。けれど、これだけの数の傀儡(ゴーレム)を同時に操るのは、人間の術者には不可能です。傀儡(ゴーレム)からのフィードバックに脳や神経が耐えられません」

 

「人間には……って、それじゃあ、人間とほとんど変わらない人工生命体(ホムンクルス)でも無理なんじゃねぇのか……!?」

 

 古城が戸惑いながら訊き返すも、雪菜にその明確な答えはわからない。

 この数百の傀儡を、たった一人で指揮するなんて、彼女の体内に『傀儡創造』と同じ効果を持つ魔具が埋め込まれていたとしても、難しい。

 ……おそらく、そのように“改造されている”としか予測が……

 

「そうねー。あの子、体の半分は、機械人形(オートマタ)だったわね」

 

 そう、さりげなく核心をついたのは、深森。

 先ほどのボディタッチで、『接触感応能力者(サイコメトラー)』からスワニルダの身体構成を()ったのだろう。

 人間を超える演算能力を持つ機械人形であれば、数百の傀儡操作も可能だろう。

 しかし、

 

「人工生命体を素体とした機械人形の製造は、聖域条約で禁止されているはずです」

 

 雪菜が感情を圧し殺したような声で、それを口にする。

 自然ではありえないほどの整った容姿の人工生命体で、まるで生きているかのように自然な機械人形―――スワニルダの完璧な人形の美貌を持ちながら、その人間よりも完全な人間らしいその矛盾した完成度の秘密は、人工生命体の細胞を機械と融合して生み出した機械化人工生命体(サイバネティックス)。すなわち文字通りの『生ける人形』なのだ。

 

 しかしそんな真似は、雪菜の言う通りに、絶対の禁忌とされているものだ。スワニルダという一人の少女の肉体を切り刻み、単なる機械へと近づけるようなその蛮行を、魔族と人類の共存を目的とする聖域条約が許すはずがない。

 この生物とも機械とも判別できない、どっちつかずの不安定な存在である彼女は、違反製造されたものである。

 

「たぶん、『彩昂祭』の時に会ったアスタルテさんと姉妹機(しまい)なんじゃないかしら。同じ感触がしたし」

 

 最後の手をにぎにぎとしながら零した戯言は無視して。

 なるほど、と古城は、その顔立ちを見てからこれまで抱えていた違和感が氷解した。そう、今日の補習授業で代行教師を務めた人工生命体と彼女は似ているのだ。

 そして、納得する。

 人工生命体に眷獣を植え付けるという生命を弄べる人間ならば、人工生命体を機械化させて魔具を埋め込ませるなんていう非人道的な実験を行えただろう。

 

 それで、声を潜めていないその会話は、当人の耳にも当然入り、

 

「肯定。私とアスタルテは、同じ『人形師(マイスター)』の作品です」

 

 憤りを覚えたこちらに反して、感情の起こりのない一定調子の声音で、深森の言を認める。

 機械化されたことに対し、スワニルダ本人は何も思うところはないようで、その辺りは人工眷獣を役立てるアスタルテと変わりないようだ。

 そんな生い立ちを気にする過去よりも、現在の状況に彼女は集中しているようで、

 目を糸のように細めて、部屋の汚れを見回っている。

 その眼力たるや、嫁を家に入れたばかりの姑の如し。

 きゅきゅきゅっと指で擦る代わりに、『傀儡創造』で白い布を窓枠に擦り付け、しばらく観察した上で、

 

「制圧」

 

 と汚れてないのを確認し、次の戦場へ掃除機と雑巾を引き連れていく。

 凄まじい勢いだった。

 片付けのできない大人が空き巣とばかりに荒した室内が、あっという間に前以上の清潔な異空間へ改造されてしまいそうだった。

 騎馬よろしくぴいんと駆ける掃除機。

 兵隊の雑巾たちが悉く空を飛び、窓や棚等の埃被ったところに貼り付く。瞬く間に捕虜にされていく荷物たちは元の場所へと避難させられた。

 そうして、数分と掛からず、

 

命令完了(コンプリート)

 

 能力の無駄遣いしてる気がしなくもないが、遺憾なくその性能を発揮した今日からお付の家政婦人工生命体に、浅葱は胸の内を吐き出すように深く嘆息をする。

 彼女は優秀であり、そして、一般には出回ってはならない違反物。製造はもちろんだが、所有もそう簡単に認められるものではないだろう。

 だから、こんなピーキーな機械化人工生命体を引き取れるのは数限られ、『魔族特区』の評議員の家クラスでもなければ迎え入れることはできないし、

 だから、ここで浅葱がお付なんていらないと訴えれば、彼女は路頭に迷うか、またはその高度な技術を暴こうかと解体されるのがオチだろう。

 となると、彼女の幸せを考えた身の振り方は、浅葱の傍に置いておくのがいい、と……

 

「よくやってくれたわ、ご苦労様……これからも、よろしくね、スワニルダ」

 

「はい、お嬢様」

 

 

 

 そうして、北海道の社員旅行への荷支度を整えた深森は、大掃除をしてくれたお礼にMARの『ζ9』――自社の最新機種のデジタルカメラを贈ると出かけていった。

 それで折角だからと記念写真を撮って、その写真を自分の携帯端末に送るよう古城にノートPCを借りる。

 深森からのおさがりで、暁兄妹が共有で管理している。といっても、実質、凪沙が専有しているノートPCを、キーボードの上に張られた付箋に記入された、凪沙が設定したと思しきユーザー名とログインパスワードの通りに打ち込んで開いた……ところで、浅葱が気づく。

 

「このアカウント……凪沙ちゃんのスマホと同期してるみたいなんだけど……」

 

「同期?」

 

「スマホとパソコンで互いにデータのやり取りできるように設定してあるわけ。受け取ったメールやらカレンダーに入力した予定やらは、両方で確認できた方が便利でしょ」

 

 とはいえ、これは便利でもプライバシー的には危険な機能ではある。

 携帯機器に入っているデータの一部を、このノートPCを経由することで閲覧できるのだから。

 

 そこで、一枚の画像ファイルを見つける。

 

 データは半壊している。しかし、これは暁凪沙が撮影したもの。

 記録日時は、ちょうど凪沙が丹沢にある祖母の地元に到着した日で―――そして妹からの連絡が途絶えた直後の日付である。

 画像の下半分のデータは破損しており、モザイク状の模様になってしまっている。そして、上半分に映っているのは、夜空。

 おそらく車窓越しから撮った写真で、山の稜線に切り取られた冬の空。雪も星も映っていない、深い海底のような暗闇の夜空。

 でも、その暗闇に、奇妙な模様が点々と浮かび上がっている。

 内側にびっしりと魔術文字の羅列が埋め尽くす円。それが幾重にも同心上に重なり、光が焼く巨大な文様となって、夜空をすっぽりを覆い尽くしている。

 

 

 まるで凪沙たちを閉じ込める檻のように、“魔法陣が展開されていたのだ”。

 

 

 これが、起点。

 幾度となく挑ませる、暁古城のハジマリであった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「落ち着きなさいよ、古城。まだ凪沙ちゃんに何かあったって決まったわけじゃないんだし」

 

「分かってるよ。俺はメチャクチャ冷静だろ」

 

「そんな必死にメールを送り続けてて、どこか冷静なんだか」

 

 夜空を満たす巨大な模様と、空中を乱舞する人工的な輝き。

 その意味で、この光景は花火のようである。

 だが、その可能性を迷いなく却下する。

 

 デジタルデータなんていくらでも改竄できる。

 仮にこれが魔法陣だとしても、凪沙を狙ったものとは限らない。

 だが、逆にそうではないという保証もない。

 

「これがどういう効果の魔方陣かはわかりませんけど……紗矢華さんの<煌華鱗>によく似てますね」

 

 『六式重装降魔弓(デア・フライシユツツ)』より、鳴り鏑の呪矢を利用して展開する大規模魔法陣と類似するものがある、と雪菜は控えめに注解を入れる。

 細かな模様や形は違っているが、上空に描き出す性質やあの巨大な規模はほぼ同じだ。

 

 しかし、<煌華鱗>は起動に必要な呪力量が桁外れに多い上に、相性が物凄くシビアだ。そんな取り扱いが難しい『六式重装降魔弓』をまともに扱えるのは、獅子王機関に所属する呪詛と暗殺の専門家である舞威姫の中でも煌坂紗矢華のみだという。

 

 ……ただ、これまでの<煌華鱗>のデータを基に、構造を『剣』と『弓』に分けて簡略化した量産モデル『六式降魔剣(ローゼンカヴァリエ)(プラス)』と『六式降魔弓(フライクーゲル)(プラス)』が開発されているという噂がある。

 それを使えば、優秀な舞威姫である紗矢華以外にも、同じように武神具を扱える可能性がある。この夜空の写真の通りに空中で魔法陣を描くことは、ありえない話ではない。

 

 ―――だとしたら、それは獅子王機関の関係者が、凪沙を事件に巻き込んだということになる。

 

 古城が唯一、雪菜以外で連絡先を知る紗矢華に連絡を取ろうとするも、繋がらない。

 雪菜もこの絃神島の出張所を通して、獅子王機関の本部に問い合わせることはできるだろうが、この凪沙の写真だけでは誰に何を訊けばいいのかわからない。

 

 

 

 それから、古城たちは浅葱の家にお邪魔する。

 浅葱の自分用のノートPC――絃神島を制御する五基のスーパーコンピューターと繋がり、世界最高水準の演算能力を持つ補助人工知能(AI)モグワイの支援を受けて、本腰を入れて調査するために。

 <電子の女帝>と情報世界では右に並ぶものが存在しない浅葱のハッキング能力で、空港の監視カメラや絃神島で撮られた顔写真といった牙城と凪沙の映像と照合しながら、二人の移動経路を追跡。

 飛行機の搭乗記録は残っているのだから、そこから足取りは追える。

 クレジットカードの履歴を辿れば、どこで何を買い物したかを探ることもできる。

 

 公共の建物や信販会社のサーバーに侵入し、データを奪い、さらにそこからたった二人の個人を特定するという、気が遠くなるような作業であるも、浅葱とモグワイは瞬きする間もなく進めていく。画面では絶えずウィンドウが開いたり閉じたりしており、古城の感覚ではついていくことはできない。

 しかしこのまま追跡作業を続ければ、確かに凪沙の現状の確認ができるだろう。

 

 

 ・暁牙城、偽名でレンタカーを借りる。

 ・その際に、通行データを残さないようナンバープレートも交換。

 ・車ナンバーではなく、搭乗者の画像データからこれを追跡。

 ・都内で、買い物や遊園地、凪沙の小学校時代の友人と会ったり、久しぶりの本土を満喫。

 ・ホテルで一泊(暁牙城、その際、ホテルを抜け出し、ストリップ劇場に赴く)。

 ・新しいレンタカーに乗り換えて、移動再開。

 ・高速道路に設置された各種カメラに測定機器によって、追跡。

 ・特にトラブルに巻き込まれることなく目的地『神縄湖』に到着する。

 ・ただし、移動があまりに順調(スムーズ)。道が混み合う年末の時期に、一度も交通渋滞に引っかかっていない

 ・念のために別のところを調べてみるが、主要な幹線道路には大渋滞が発生している。周辺の道路地図はどこも混雑しており、場所によっては歩いた方が早い。

 ・二人が移動した丹沢方面――『神縄湖』に向かう道程だけが空いている。

 ・これは他の者たちは無意識にその道を通るのを避けているとしか思えない。他の道路が異様に混んでいるのは、その分のしわ寄せによるものと思われる。

 

 

 ……あの親父は、犯罪組織のボス並みの用心深さを持ちながらも、キャバクラ巡りをしたり夢の国で頭に猫耳をつけて年甲斐もなくはしゃいでいたりと、息子としてはどんなだけ後ろ暗いところがあるんだと呆れたり、恥辱を感じずにはいられない行動ばかりだが、それでも確実に裏があった。

 

 この渋滞のシーズンに不自然に空いた道。これは、おそらく人払いの結界が張られていると推定。牙城と凪沙を除くすべての人々が、本人たちの知らぬ間に『神縄湖』に近づけないという呪を掛けられた。逆を言えば凪沙たちだけが、結界の中に差し込まれたということ。

 これが正しいとなると、凪沙が撮影した魔法陣が、すべての始まりではなく、『神縄湖』に近づく前からすでに呪詛は発動していたことになる。

 もはや疑いの余地なく、これは牙城か凪沙のどちらかが狙われたもの。

 

 そして、『神縄湖』周辺をまるごと覆う結界を敷くには、それだけに見合った大掛かりな準備とかなりの数の術者を揃えるのが必要になる。

 人払いの結界は、最も基本的な呪術のひとつである。極端な話、『通行止め』と書かれた道路標識を一つ置くだけで最低限の結界は成立する。

 しかし、原理がシンプルであるだけに規模が大きくなればなるほど、結界の維持に必要な人員と労力は指数関数的に増大する。『神縄湖』周辺から無関係な人間をすべて排除しようと思ったら、個人ではまず無理。相当な規模の集団が必要になる。

 そんな大規模の人払いの結界を張れるほどの統率された組織となれば、存在は限られており、検索はそう難しいものではない。

 関係者が増えれば増えるほど、痕跡を消すのは難しいのだ。

 食料、休息、移動、通信―――集団行動を維持するために行われた様々な二次的な活動の痕跡を拾い、金の流れを辿れば、組織の正体を自ずと絞られる。

 

 

 ・『神縄湖』周辺に、降雪と土砂崩れが原因で通行禁止ということになっている。

 ・災害救助の名目で自衛隊が派遣されている。

 

 

 だから、もう無理があった。

 あの夜空の写真で、真っ先にその類似点に気づいてしまった時から彼女は追い詰められていた。

 その、疑問に思えばすべての筋が通ってしまうその点を、思考から無意識に外してる。

 愚かしいほど無知ゆえの信頼感。

 それは何の根拠もないからこそ、理知的に並べられていく真実を前にしては、弁護するのは難しくて、

 

 

 ・ただし、実質的に自衛隊を指揮し、呪術結界を張っているのは、『魔導災害管理局(SDC)

 

 

 妄信的とすら思える、自分を育ててくれた組織への忠誠。

 でもこれ以上目を逸らすのは無理だった。

 落ちた。

 血の気を引きながらも、これまでの信頼に縋るように抑えていた少女は。

 その組織名を聴いて、

 剣巫としての仮面を、落としてしまった。

 

 

 ―――その、『魔導災害管理局』は、獅子王機関が所有しているダミー組織のひとつです。

 

 

 これまで新しい情報がひとつ挙げられ、真相に近づくたびに顔を青褪めていった雪菜が、その情報についに口を開いた。

 魔導災害の被害防止の研究と、政府機関への情報提供が主な任務とする、獅子王機関の組織の一部門であると消え入りそうな声で説明した。

 けれども。

 きっと今でも、それが間違っていると、そうであってほしいと、少女の目は揺れる。

 

 大規模な魔導災害や魔導テロを防ぐために組織された獅子王機関。

 だからこそ、凪沙たちを覆う魔法陣の画像を見せられても、その時までは、それはないと古城も思考から外していた。

 しかし残された痕跡は、獅子王機関の関与を認めてしまっている。

 言葉をなくす雪菜に代わって、浅葱が冷静に結論をのべる。

 

「自衛隊と獅子王機関ってとこが共謀して、『神縄湖』を封鎖してるってことでしょ。魔導災害の被害を防ぐために。凪沙ちゃんとの連絡が途絶えたのは、つまりそれが原因ってこと」

 

『あるいは魔導災害を引き起こすために、妹ちゃんを呼び寄せたのかもな』

 

 ケケッと悪意を滲ませた口調で笑う人工知能。

 ぞくりと言い知れぬ不安を古城は覚えた。

 過去に凪沙は、数万人を巻き込み、結果として人工島のひとつを沈めた巨大な魔導災害の中心にいたことはあるが、それはもう終わった話のはずだ。

 あれは凪沙の責任ではないし、今更妹が魔導災害に関わる理由などあるはずがない。

 そう言い聞かせて、古城は平静を保とうとする。

 

「獅子王機関が……そんな……どうして……」

 

 そして、転落した。

 浅い呼吸をつづけ、目眩を起こしたように倒れ込む。

 確固たる精神的な基盤のひとつであったものが、大きく揺らいだ少女は、慌てて抱き支えた古城の腕の中で怯えたように小刻みに首を振りながら―――そのまま、ぷっつりと意識を失った。

 

 

 

 人工島である絃神島とは違い、『神縄湖』周辺は色濃く自然が残り、ハッキングして乗っ取れる電子機器はほとんど存在しないことから、これ以上のネット回線からの情報収集は断念した。

 

 その後、少し休んでから浅葱家を出て、古城たちは師家様こと縁堂縁の式神(ねこ)が常駐している獅子王機関の出張所へと向かう。

 しかし、詰所に張られていた結界は、雪菜にも解呪(デコード)できない形に術式を変えられていた。

 剣巫である彼女にも、入れない。

 

「どうして……そんなこと……!」

 

 悔しそうに雪菜が肩を震わせる。

 真面目すぎるほど真面目な性格が災いして、雪菜の思い込みは人一倍に激しいところがある。凪沙を心配し、そして、獅子王機関から除け者にされて、接触すら避けられている。

 剣巫の肩書を与えられていても、組織の末端に過ぎない雪菜に、本部のある高神の社は外界から隔離されているため直接連絡はできず、他の支部の連絡先も教えてもらっていない。

 

 凪沙の撮影した写真は、偶然、手に入ったものであって、獅子王機関は雪菜に徹底して情報を遮断して、こちらを隔離しようとしている。紗矢華との連絡がつかないのも単なる連絡ミスとは考えにくいのだ。

 焦燥に駆られる雪菜に反して、古城はむしろ雪菜を気遣えるくらいには落ち着いていられることができた。

 獅子王機関が凪沙を事件に巻き込んだかもしれない、というのは雪菜には相当ショックなものだろう。

 でも別に古城の方は元から獅子王機関を大して信用していないから、そこまで裏切りのショックは少なかった。

 獅子王機関が、常に正義であるとは限らない。

 組織の中で派閥や勢力争いはきっとあるだろう。

 基本、性根が真っ直ぐな雪菜には、同じ組織内でも信頼できる人間とそうでない人間がいるなんて発想は思いつかないのだろうが、

 だから獅子王機関に雪菜の知らない一面があったとしても、雪菜が責任を感じる必要ない。少なくとも、あの妹分大好きな紗矢華が雪菜を裏切るわけは絶対にありえないのだから。

 だから獅子王機関の全てが雪菜を裏切ったわけではない、と。

 

 そうやって、古城が言葉を尽くして、雪菜を宥めているとき―――古城たちがこれからどうすればいいかと立ち止まったそのとき、穏やかな声が響いた。

 

 

「お困りのようね、<第四真祖>―――」

 

 

 極上の墨を思わせる黒髪を風に流すセーラー服の少女。世を拗ねたような目つきで、こちらの様子を眺めていたのは、妃崎霧葉。

 政府太史局の六刃神官―――対魔獣戦闘の専門家(エキスパート)であり、獅子王機関の剣巫とは、同じ術を使う表裏一体の関係。

 『青の楽園』で起きた魔獣騒動の事件で、雪菜は彼女にあと一手で負けのところまで追い込まれた。

 しかし今の霧葉には、その時ほどの戦闘の意思は感じられず、背負っている大型の三脚ケースにも手を伸ばす気配はない。

 

「久しぶりね、姫柊雪菜。酷い顔ね、捨てられた子犬のように見えてよ」

 

 戸惑う本家の剣巫を見返し、揶揄する黒の剣巫。特別、喧嘩を売っているつもりはなくて、こういう物言いしかできない性格なのだ。

 そして、霧葉は古城たちに言う。

 

「獅子王機関が『神縄湖』で何をしているのか、知りたいでしょう? 違って?」

 

 その思いがけぬ、また狙ったような発言に驚く古城を見返して、霧葉は嘲笑する。

 内務省参加の特務機関である太史局は、獅子王機関と組織の目的が重複するため利害の対立することが多い。だからこそ、獅子王機関の動向を把握しており、また獅子王機関が暁古城に伝えると都合の悪い情報を聞かせるのは、太史局としては得になるものだ。

 そういう意味では、信頼できる情報筋だろう。それに、浅葱から偶然手に入った写真の画像が間違いなく真実であると裏付けが取れている。

 太史局・霧葉の目的は、獅子王機関の行動を妨害するために、古城たちを利用すること。それはつまり、この情報を教えることで古城が獅子王機関と敵対することを確信しているということでもある。

 

 

「知りたいのなら、すべて聞かせてあげる。後悔することになると思うけれど―――」

 

 

???

 

 

「本土へ行きたい。手を貸してくれ」

 

「役所に行って査証をもらってくるんだな。

 発給手数料は3300円。ただし査証の申請には魔族登録が必要だ。貴様が未登録魔族だとばれることになるが、構わんか?」

 

「だからそういう話じゃなくて! ちんたら手続してる時間がねーから、あんたに頼みに来たんだよ!

 あんたなら、審査をすっ飛ばして俺たちを絃神島の外に出すくらい簡単だろ」

 

「仮にできたとしても、私には貴様のためにそこまでしてやる義理はないはずだが?」

 

「人の命がかかってると言ってもか?」

 

「なに?」

 

「『神縄湖』―――現在、神緒田ダムがある土地には、かつてひとつの村がありました。人口300人にも満たない小さな集落です」

 

「ダム建設の犠牲となって、湖の底に沈んだ村というわけか。悲劇的だが、よくある話だな」

 

「そうですね。村がなくなったのが、ダム建設のせいであれば、ですが」

 

「ダム建設の3年前に村人は全員失踪してたんだ。痕跡すら残さずな」

 

「原因は?」

 

「沈んでしまった旧神緒田村には、『犀木シャーマニクス』という企業の研究施設がありました。これは推測になりますが、神緒田地区には、先の大戦中の軍用機の残骸が多く残っていたようです。おそらく、その機体に積まれていた物資の中に、強力な呪物が含まれていたのではないかと」

 

「その呪物が小さいとはいえ300人もの村民を失踪させた原因、とでもいうのか。陰謀論としては悪くないが、説得力には欠けるな」

 

「ですが、その呪物が、『聖殲』の遺産、だとしたら、神緒田ダムが封印のために造られたとしても大袈裟とは言い切れないではありませんか?」

 

「どちらにしても、40年以上前の話だろう」

 

「ですが、もしも、その遺産が活性化する要因があったとしたら―――」

 

「それが、暁凪沙、か?」

 

「え……!?」

 

「『聖殲』は、確か暁牙城の専門分野であったな。そして、暁凪沙はその封印のひとつを破った」

 

「なんで……なんでそれを知ってるんだよ……!?」

 

「それはこちらのセリフだ。獅子王機関が隠蔽しているはずのその情報、お前たちはどこで手に入れた?」

 

「っ、それはこの写真からだ。凪沙のスマホに残ってたデータを偶然見つけて、でもって浅葱が、こいつの裏を取ってくれた」

 

「藍羽か。それだけではないようだが、まったく余計な真似をしてくれたものだ。

 まあいいさ。心配しなくても貴様の妹には、暁牙城がついているのだろう? お前が出ていっても話が拗れるだけだ。大人しくヤツに任せておけ」

 

「それができたら苦労しねーよ。

 他はともかく『聖殲』の遺産はダメだ。あれはあいつの手には負えない。それに今回のことを仕組んだのは親父じゃねぇ。ヤバい予感がするんだよ。

 だから、頼む。力を貸してくれ」

 

「断る」

 

「なんで!?」

 

「教え子の違法行為を止めるのに理由が必要か?」

 

「そうか。わかった」

 

「……先輩?」

 

「もういいよ。あんたの立場も考えずに、勝手なことを言って悪かったな」

 

「待て、暁。どこに行く気だ?」

 

「他を当たるよ。邪魔したな」

 

「駄目だ」

 

「■■ちゃん!?」

 

「お前たちを行かせるわけにはいかない。ここで大人しくしてもらうぞ」

 

「っつ、させません! <雪霞狼>―――」

 

「遅いな、転校生。もう、終わっている―――■■■」

 

「古城君、姫柊、眠ってもらうぞ」

 

「ク■■―――!?」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「う……ん……」

 

 わずかに身動ぎをして、古城は目を覚ました。睡眠時間は3時間足らず。目を覚ましてから、自分が今まで眠っていたことに気づかされる。そして、何か夢をみていた気がするのだが、夢というのは大抵目を覚ました時には忘れてしまうものだ。

 不思議と頭はすっきりしている。

 覚えている。

 これから何をすべきなのかを自分はわかっていて、その覚悟も固まっている。

 

 『神縄湖』

 

 南関東の丹沢にある人造湖。今は観光地として知られている。

 その神緒田ダムがある土地には、40年以上前ひとつの村があった。

 ダム建設の犠牲になって、湖の底に沈んだ村―――それは、表向きの理由。

 ダムが完成するその3年前に、村は消滅していたのだ。当時の村人が、痕跡すら残さずに全員失踪して……

 原因は、わからない。公表されていないだけなのかもしれないが、沈んでしまったその旧・神緒田村には、『犀木シャーマニクス』という呪装品機器を扱う企業の研究施設があった。

 奇しくも、『犀木シャーマニクス』は神緒田ダムが完成した年に倒産しており、当時の経営者や従業員たちの記録は散逸し、彼らの行方は一切知られていない。倒産の原因もまた不明。

 しかし、ある程度の推定はできた。

 何故、こんな辺鄙な土地に研究所を構えたのか―――それは、その近くに莫大な価値を持つ研究対象が眠っていたからだ。

 神緒田地区には、つい託した軍用機の残骸が多く残っており、それらに積まれていた物資の中に、何らかの強力な呪物があったのではないのか。

 そう、先の大戦中で使われるはずであった呪物が。

 村人の失踪もその呪物が原因だとしたら、あながち大袈裟とも言い切れないし、あるいは神緒田ダムそのものが、その呪物を封印するために造られたものなのかもしれない。

 この貯水量6万5000tの人造湖で封じなければならないほどの呪物―――それは、おそらくは『聖殲』の遺産ではないだろうか。

 

 これは、40年以上も前の話。

 だが、近年、その遺産が活性化する要因があったとしたら―――そう、そこで暁凪沙が関わってくる。

 『聖殲』は、父の牙城の専門分野で、そして凪沙はかつて『聖殲』時代の遺跡の封印をひとつこじ開けたことがある。

 蝶の羽ばたき(バタフライ)効果で、それがこの『聖殲』の遺産にも影響を与えたのではないか。

 

 妃崎霧葉が教えてくれた情報は、それほど多くない。

 

 

 ・『神縄湖』の底に、『聖殲』の遺産と思しき呪物が沈んでいる可能性があること。

 ・獅子王機関が何年も前から、その呪物に興味を示していたこと。

 ・そして、凪沙の来訪と時を同じくして、獅子王機関の政府向けの窓口である『魔導災害管理局』が動いたこと。

 

 

 自衛隊に封鎖された神緒田地区で、現在起きている事態については、まだ太史局も把握できてはおらず、だが、袋小路に陥った思索の突破口となり、古城の箍を外すには十分なものであった。

 

 今回の件を仕込んだのは、親父じゃない。

 そして、『聖殲』の遺産と凪沙を接触させるのは、まずい。

 

「―――よし、いくか」

 

 シャワーを浴びて軽く寝汗を流し、服を着替える。この常夏の気候では着る機会があまりない、彩海学園の冬の制服。ブレザーのジャケット代わりに、少し厚手のパーカーを羽織る。

 これからの事態が想定できないことから、持ち出す荷物はそれほど多くない。自宅の鍵と携帯電話、そして浅葱から借りた改造スマホと専用の充電機。

 必要なものがあればその都度現地で買い揃えるとして、となるとその分出費はかさむことになる。手持ちの現金だけでは、正直頼りないのでキャッシュカードと預金通帳も持っていく。深森の研究室の掃除や牙城の使いっ走りといった中学時代に稼いだバイト代で、預金通帳には14万9289円はある。元々は部活の遠征費の足しにする予定だったのだが、バスケ部を止めたことで使い(みち)がなくなっていた金だ。

 そして、軽めの荷支度を整えて、自宅を出る。その直後、

 

「……どこに行くつもりですか、先輩?」

 

 ひやりと冷たい声が、古城の背中に突き刺さる。

 びくっ、と身体を浮き上がらせて古城が振り向けば、そこに気配を殺して無表情で背後に立っていた雪菜がいた。

 

「ひ、姫柊……!?」

 

「……どこに行くつもりですか、先輩?」

 

 と抑揚の乏しい声で二度同じことを復唱する雪菜に、古城は、うっ、と一瞬言葉に詰まって、

 

「いやこれは、そう、大晦日だし、今年最後の大盤振る舞いでパーッとやろうかな、と」

 

「制服の冬服を着て遊びに行くんですか……」

 

 年下の少女にジト目で睨まれて、硬直したままだらだらと冷や汗を流す古城。

 監視役である雪菜には気取られないようにと、細心の注意を払って準備を進めていたのだが、どうやらもうこれバレバレらしい。

 

「本土に行くつもりなんですね、先輩」

 

「まあな」

 

 降参、と強張った肩から力を抜いて、がっくりと落しながら首も縦に振る。勝者の雪菜に笑みはなくて、むしろますます不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。

 

「私に黙ってこっそり、ですか?」

 

 責めるように雪菜から言われて、古城はもう開き直った態度で言い返した。

 

「だって姫柊は止めるだろ」

 

「そうですね。先輩は吸血鬼の真祖ですから。『魔族特区』の中ならギリギリ許されても、本土を好き勝手に歩き回られたら大問題になると思います。見逃すわけにはいきません」

 

「えーと……そこんところは、なんとかならないだろうか」

 

「なりません」

 

「ですよネ……」

 

 唇を歪める古城に、雪菜はため息をついた。

 怒っている。

 怒っているのだ。

 “きっとこうなるだろう”と思った。

 この怠惰な先輩は、時に溜め込んでいたかのようにやる気を爆発させることはあっても、行動はあまりに杜撰であると。きっと、部屋をしっちゃかめっちゃかに散らかした母親の適当さも受け継いでいるに違いない。

 雪菜は頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てながらも、幼児に教え諭すように、あくまで冷静に言葉を続ける。

 

「先輩は、どうやって絃神島から出ていくつもりだったんですか。『魔族特区』への出入りには、厳重なメディカルチェックが義務付けられているのを忘れたわけじゃありませんよね? 先輩が<第四真祖>だって確実にばれますよ」

 

「あー……まあ、そうなんだけどな」

 

「仮に何らかの方法で本土に渡ったとして、戻ってくるときはどうするつもりだったんですか? 言っておきますけど、絃神島への入島審査は、外に出るときよりもチャックが厳しいんですよ」

 

「それについては臨機応変に対応しようかな、と」

 

 ヤケクソ気味に堂々と胸を張る古城。

 それを雪菜は一蹴。

 

「なにも考えてなかったんですね」

 

「まあ、最悪、吸血鬼だって言えば、絃神島に強制送還されるんじゃないかと思ったんだが」

 

「その時は凪沙ちゃんにも先輩の正体がバレますけど、それでよかったんですか?」

 

「そ、そうか……それはまずいな」

 

 頭を抱える古城。しかし、雪菜の方こそ頭を抱えたい。

 『魔族特区』の人間でありながら重度の魔族恐怖症である凪沙に、実の兄が吸血鬼であることなどが知れたら、彼女は凄まじい苦悩を抱えることになるだろう。それでは本土に行けたとしても余計な問題を作るだけだ。

 

「まったくもう……私に黙って一人で本土に行こうとするから、そうやって大事なことを見落とすんですよ」

 

 いやそれはあまり関係ないと思うが……と弱々しく反論を零す古城だが、キッと細めた視線をやられれば、その切れ味の鋭さに沈黙を選ぶしかない。

 どことなく理不尽な理屈を押し通した雪菜は、コホン、と小さく咳払いをして、

 

「だから、私も行きます」

 

 古城は雪菜のその言葉に逆に驚いたように、唖然と呆けてしまう。この監視役の少女は古城の無謀を止めに来たのではないのか?

 

「まさか、姫柊も一緒に付き合う気なのか?」

 

「私が獅子王機関に与えられた任務は、先輩の監視です。先輩が本土に行くというのなら、当然私も同行します」

 

 そのための監視役ですから、と得意げに胸を張って雪菜は言う。

 

「いや、でもさっき見逃すわけにはいかないって……」

 

「私の目の届く範囲から出すわけにはいかないという意味ですけど」

 

 言われてみれば。雪菜は一度も古城に行くな、とは言っていない。古城のあまりの考えなしに呆れていただけだ。

 雪菜も獅子王機関が自分の知らないところで、凪沙を事件に巻き込んだことを相当根に持っているのだ。古城は雪菜の監視対象だが、凪沙は違う。純粋な友人に近い存在だ。

 

 

「凪沙ちゃんのために仕方なく先輩の不正行為を黙認しているだけですから! そもそも先輩が私に何の相談もなく島を出ようとするのが行けないんですからね!」

 

 

道中

 

 

「それで、どうやって本土へと行くつもりだったんですか?」

 

「……前に、叶瀬が言ってたんだよ。この正月に、ラ=フォリアが絃神島に来るって」

 

 本土へと行く方法は、古城も考えてあった。

 プライベートなので、詳細な時刻までは解らないが、北欧アルディギアの姫御子ラ=フォリア=リハヴァインが、血縁上は叔母に当たる夏音に会いにやってくるという情報を古城は思い出した。

 第一王女は、古城が<第四真祖>である事情を知り、彼女が搭乗しているであろう飛空艇は、『魔族特区』の警備隊から身を隠せるだけの治外法権。出島審査も、王族の権威とやらで押し通してクリアさせてもらって、そして島を出てしまえば誤魔化しも利くはず。

 

「つまり、王女様に密航の手伝いをさせるつもりだった、というわけですか」

 

 そんな真似をするのは、先輩くらいなものだろう。

 呆れ果てたように言う雪菜に、古城は重々しく頷いて、

 

「解釈次第ではそう捉えられても仕方ないな」

 

「他に解釈のしようがありませんけど」

 

「非常事態なんだから仕方ねーだろ! もっと穏便な方法があるなら俺だってそうするわ!」

 

 逆ギレ気味に叫ぶ古城。

 他にもヴァトラーのクルーズ船に乗せてもらう案もあったが、それにはいったいどんな見返りを要求されるかわかったものではない。その点を言うなら、ラ=フォリアの見返りとやらも怖いのだが。

 まあ、それでも戦闘狂よりもマシなはず。

 

 ―――それに、港はダメだ。

 

「それに、ラ=フォリアさんがいつ来るかもわかりません」

 

「だから、大晦日(いま)から行って、空港に貼り付くしかない」

 

「そうですね。こちらからコンタクトが取れれば、きっと……」

 

 そして。

 方針が定まったところで、

 

「じゃあ、行くぞ―――」

 

 マンションを出てから、すぐに古城は走り出した。

 全速力だった。

 

「先輩……!?」

 

 どうしてそんなに急ぐのかと雪菜が戸惑いの声を挙げるも、立ち止まることはない。

 駅近くの繁華街に入ると、年明けカウントダウンにイベントのBGMが流れていた。

 街を歩く誰もが幸せそうで―――たまにあまり幸せそうじゃない人もいたが、そんな人達でさえ、楽しそうな今年最後のイベントの光景を見ると思わず微苦笑してしまうのだった。

 古城が共感する相手は、どちらかといえば後者であったが、少なくともこの光景が嫌いではなかった。

 今は、それもろくに意識へのぼらない。

 

「……はっ、はあっ!」

 

 息を切らせて、走る。

 駆ける。

 雪菜も何も言わずについてくる。

 どうしてこんなに焦って、目的地(ゴール)へ急ぐのか、古城にも説明できなかった。

 そう。どこへ向かおうにも待ち受ける相手を出し抜くには、全速力で駆け抜けるしかない、と―――そんな根拠ない望みは、早々に潰えることになる。

 

 

 “■■■、■■■、■■■、■■■―――!!!!”

 

 

 聴こ、えた。

 空港の最寄駅を降りた直後だ。

 突然、雰囲気が変わるのがわかった。

 まず、電車を降りたのが自分たちだけであったこと。キラキラ光るライトアップされたカウントダウンを前に、人影がさっぱりと消え失せていた。

 ショーウィンドウや店内は、通常営業のまま電気を灯されているのが、なお不気味だった。

 

 人払い。

 凪沙たちが誘い込まれたのと同じ、空間から余計な部外者を排他し、獲物を狩る場を整える。

 それに気づいた時にはもう―――捕まっていた。

 

「―――っ!」

 

 視界に“あるもの”を認めて、一瞬、息を止めた。

 それは、ごく平凡な、絃神市内にいくつか支店を持つオープンカフェであった。

 そこにいたのは、幼い少女の見た目をした、そのくせ脇に“三次元に盛り上がった影のような獣人”を従える世界有数の、魔女。

 

「……お、前」

 

 古城の唇が強張った。

 いいや。

 心臓が止まったのではないかと、疑ったほどだ。それほどに目の前の光景は悪夢のようで、どうしようもない現実だった。

 

 

「お前、とは年上に対する言葉遣いがなってないな暁古城」

 

 

 悠然と座ったままの、漆黒の衣装。

 ゴシックな人形に着せるような装いを纏う、<空隙の魔女>。

 この魔女が座ると、ただの椅子が玉座に変じるようだ。長い髪は夜の威厳を湛え、瞳は世界を映す鏡となって、あらゆる者を足元に跪かせる。

 

「“今回は”、<蛇遣い>に頼るのを止めたのか。しかし、残念だが、あの腹黒王女は年が明けても来ない―――そして、貴様らが年を越すことはない」

 

 と、彼女はこちらの行動を採点し、落第再追試を言い渡すように宣告する。

 表情はあくまで無感情に固まっているままなのに、その瞳には一切の油断がなかった。

 実際、この魔女が恐ろしいのはそうした心性だ。単純な強さや能力ではなく、行動や思想の隅々に至るまで油断がないのだ。意識と意識の断絶がなく、いかなる瞬間にも全力を傾けられるということの恐ろしさ。

 夢幻の監獄に閉じ込められたその友である魔女が、その隙を衝くのに長い年月をかけて精緻巧妙なる計画を組み上げ、己の分け身たる娘を犠牲にしてようやく一太刀を浴びせられたという。

 その恐怖は、古城は身をもって知っている。

 忘れるはずもない。

 忘れられる、はずもない。

 なのに、どうしてこれまで思い出すことができなかった?

 

(……空隙の、魔女)

 

 勝算を、はかる。

 この魔女と戦った場合の、自分が逃げ切れる方法。

 何も……思い浮かばなかった。

 いや、考え付くのだが、“それらがもうすでに攻略された”という想像図(ビジョン)が脳裏に過ぎるのだ。

 ここにこうして、アルディギアを頼りにすることも、見抜かれている。

 ―――そして、警戒すべきは魔女だけでなく、あの“影”もだ。

 

「来るぞ姫柊っ!」

 

 魔女が左手に持った扇子を翳す―――それを見た古城は、雪菜に警告を発する。振り降ろし、不可視の衝撃波が、雪菜に撃ち込まれる。

 華奢な身体が吹き飛ばされ、中空で翻して着地した。

 

「ほう……避けるか。いや、“覚えているか”」

 

 一撃で仕留めきれなかったことに、魔女は小さく舌打ちをする。

 古城が注意を促したことで、霊視では見切れない攻撃を堪え切れたのだろう。

 と、そこで“影”を見失ってしまったことに気づく。

 

 ああ、そうだ。

 あいつは、姫柊を相手にするのを避けている。

 だから、一瞬でも動きを封じればよかった。

 そう、一瞬でも目を離すとこれだ。

 だが、来るのは“体が覚えている”。

 

「■■■―――ッ!」

 

 十数mもの間合いを一種でゼロにして、護衛するように前衛に出た剣巫を置いてけぼりして、“影”は古城へと右腕を突き立てる。その指先からは凶悪な鋭爪が伸びている。

 

「こいつ!」

 

 “影”の攻撃は避けられない―――直感でそう判断した古城は、反射的に眷獣を喚び出していた。古城の全身が霧に変わり、それを刺し貫こうとした“影”の右腕も霧化せんとする。

 吸血鬼の『霧化』の象徴である<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>。

 

「霧の眷獣、か―――悪くない選択だが、迂闊だな」

 

 “影”の右腕を消滅しようとした霧が、爆発したように弾き飛ばされる。その衝撃に古城の霧化を解除され、焼き焦がされた左胸から蒸気のような血飛沫が噴く。あらゆる物質を霧に変えて消滅させる古城の眷獣も、その高純度の霊気を纏う聖拳の輝きには晴らされてしまう。

 

「ぐお……ッ……!」

 

 “影”の金色の光を放つ右腕を睨んで、古城が呻いた。あの獣人のシルエットをしながら、<疑似聖剣(スヴァリン・システム)>なんて魔族の天敵じみた力を振るうその腕を―――

 

「先輩っ!」

 

 昏倒まではいってないが、まだ意識のふらついている雪菜が、強引に奮い立たせて駆けつける。駆け付けた勢いそのままに、渾身の一打を“影”へと叩き込む。同時、“影”もまた雪菜の顔面に手を伸ばし―――それが届く寸前に、剣巫の掌底が打ち抜いた。

 

「―――<(ゆらぎ)>よ!」

 

 “影”の分厚い筋肉を貫通し、内臓へと直接衝撃を送り込む近接戦闘での雪菜の切り札。

 だが、掌から伝わるのは異様な手応え。

 肉体へダメージが通っていない。

 この薄く練り込まれた、強靭な生体障壁が、雪菜の掌打を防ぎ切る。

 ―――そして、雪菜の意識が揺らぐ。

 

「ぇ―――」

 

 戦闘状態に思考を忘却の彼方へと飛ばしてしまう、この陶酔感。

 鼻腔を満たすは、呪的耐性など意味を成さぬ、生物の本能を衝き動かす芳香。かつて、ジャコウネコ科の獣人種が、真祖をも夢中にさせた特技(スキル)を、“影”が使う。

 そして、一瞬の意識の空白が致命的。

 

「とらえたぞ、転校生。49本の時間差攻撃、今の貴様に躱せるか?」

 

 魔女がセンスを振り降ろす。空間に目に見えない無数の亀裂が走り、銀色の鎖が撃ち出された。それらは目標である剣巫を完全に包み込み、そして四方から一斉に搦め捕る―――

 肉体と精神が切り離されたように、雪菜は動けない。いや、動けたとしても、この一瞬先の未来を先読みしても回避不能な制圧から逃れる術はなく。

 

 

「さて、これで残るはひとりだ」

 

 

 虚空へと引き摺り込まれようとする雪菜に、古城の意識が蒸発するには十分だった。

 まだ身体が完全に再生されていない。それでも雪菜を救おうとする古城の前に、立ちはだかる“影”。

 

「―――そこを、どけっ!」

 

 力任せに殴りつける古城の拳すら、“影”は軽く頭を振るだけで躱し、同時に右足を古城の側頭部に叩き込む。

 鋭く、重く。そして、紫電が迸るのは、剣巫の技である『八雷神法』。

 頭がトマトか何かのように吹き飛ぶのを、想像させられるほどの衝撃。

 吹き飛ばされた古城が起き上がった時に光が揺れるその瞳に映したのは、雪菜が異空間に呑まれる光景。

 大切な仲間を失い、孤立無援。もう……

 

「暁古城。貴様が不完全な<第四真祖>であるのは知っている。だが、未完成の殺神兵器でさえ私とやり合って一昼夜はもったぞ。

 その私に<守護者>を、眷獣(サーヴァント)に<神獣化>を使わせるまでもなく、何度も秒殺で沈められる雑魚が、『聖殲』の遺産を相手に何ができる?」

 

「……っ」

 

 冷ややかな視線で見下す魔女に、古城は言い返せる言葉を持たない。

 彼女たちは手を抜いていない、油断なんて欠片もされていない、だけど、手加減されているのがわかった。

 最後の獲物を狩り取るべく疾走する魔女の猟犬。

 

「■■■■―――ッ!!!」

 

 人を超える、魔族においても頂点(トップクラス)の身体性能。

 しかし、その初動作のない最短の軌跡を行くそれは、人間の格闘技術。

 拳と足、膝や爪先に衝撃変換の呪術を用いた白兵戦術、その基本となる体裁きは人間が魔族に対抗するために練り上げられた術理だろう。

 力に酔いしれて本能に任せて暴れ狂わせる獣とはわけが違う。

 獣王として創り込まれた骨と肉に、人々が積み上げてきた血と汗の遺産が染み付いている。

 そんな殺戮機構(キリングマシン)にとって魔族は狩る対象。それが不完全な真祖であっても。

 

 あれを止めなければ、今度こそ古城は仕留められる―――!

 

「疾く在れ、<神羊の金剛(メサルティム・アダマス)>!」

 

 古城が眷獣を召喚する。金剛石で構成された大角羊。それは数千数万もの結晶を辺り一面に敷いて、攻撃を反射する障壁を築き上げる。

 だが、『報復』の障壁を張るが、その守りを固めようとする古城の思考(におい)は読まれていた。

 突っ込んできたところをカウンターで撥ね返すはずだったのに、“影”はその障壁を前に急停止し、扇子を振るった魔女が不可視の衝撃波が、障壁を無視してピンポイントで古城を撃ち抜く。

 脳を揺さぶられ、眷獣の操作から気が抜ける。

 

「ぐ、っ―――!?」

 

 “影”の姿がない。

 その主人の魔女が古城の意識を飛ばした一瞬で、古城の視界から消え去り、障壁の隙間

に獣体長身を滑り込ませ、古城の心臓のある左脇に潜り、掌で腹を殴る―――さらに刹那の拍子に手首を返した爪が臓を破り―――連鎖は止まらず、稲妻迸る左右の脚で、古城の身体を容赦なく蹴り上げた。

 

「―――は、が……!」

 

 光瞬く軌道が大気を焦がし、磨った地面に火が走る。

 電光石火な左右の蹴り上げ。

 肉体と一緒に意識が完全に、トブ。

 一体、何m突き上げられたのか。胴から首を引っこ抜かれてもおかしくない衝撃。いや、それを言うなら腹臓を叩き破った爪拳ですら、行動不能とするには十二分な威力があった。

 そして、そのまま中空で古城の肉体は虚空から撃ち出された封鎖に搦め捕られ、異空間へ引き摺られる。

 

 

今回の夢物語(チャプターX)は、失敗だ……」

 

 

 ……ああ、意識が暗闇に呑まれる。

   手を伸ばした夜空に、(ひかり)はなくて。

   繰り返される初夢は、こうして。

   目覚めることなく、同じ終着に堕ちるのだ。

 

 

 

つづかない

 

 

 

 

 

彩海学園

 

 

 ―――微睡みから、覚める。

 

「お……っと」

 

 この吸血鬼殺しな常夏の日射にやられて、英語の追試中に、意識が飛んでいたらしい。

 古城は慌てて、答案用紙を見て、それが一応全部埋められていることを確認し、安堵する。

 それから、残り時間を確認しようと時計を―――見ようとしたところで、目を見張った。

 

「なんで……お前が、ここにいるんだ……?」

 

 教壇にいたのは、教師代行の人工生命体でも、英語担当のカリスマ教師でもなく、中高一貫校に入るはずのない小学生。

 白いワンピース姿のセーラ服。明るい色の猫っ毛の髪に、学校指定と思しきペレー帽がよく似合う。気難しいネコを連想させる、大人びた顔立ちの可愛らしい少女。

 

 

「古城さん、初詣は一緒に行くって約束したでしょ?」

 

 

 そう、華やかに笑って言ってのけたのは、江口結瞳。

 魔族総合研究員の特待生である、世界最強の夢魔(サキュバス)―――<夜の“魔女”(リリス)>だった。

 

 

 

「もう、ずっと待ち惚けでしたから、こっちから“夢の中に来ちゃいました”」

 

 

 

つづく



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逃亡の真祖Ⅲ

太史局関係のオリキャラひとり追加。




太史局

 

 

『『力』ってのは結局のところ、どういう理屈でも『力』。清浄な風だろうが、澱んだ風だろうが、風車は動く。そんだけの話。使い手の資質や取り込んだものの清濁を問わず、『力』を振るえるのが、霧の字。わっちがあんたにやった『乙型呪装双叉槍』――<霧豹双月>だ』

 

 

 獅子王機関に高神の社の訓練生に武芸百般や退魔の武術を教授し、一騎当千に鍛え上げてきた特別指導教官を務める長生(エルフ)族の『師家様』がいるように、太史局にもまた優秀な技能を買われる魔族がいる。

 調伏兵器の開発に携わる矮人(ドワーフ)族の『作鏡連』。

 あの工房に引き籠りな、和装の枯れた女の矮人は、刀でも槍でも、あるいは魔獣でも、要は何でも構わず、彼女が竈に放り込んでよく熱し、丹念に金槌で叩いたものは全て怪異が宿る。例えば一騎当千の霊刀に、あるいは人語を話す使い魔に。鈴鹿御前の引き合いに出すまでもなく、時には浮遊し自動的に標的を切断する武神具を製作したこともあるという、超常の兵器設計で、『乙型呪装双叉槍』の開発者。

 

『方向性の違いっていうのかね。わっちから見れば、獅子王機関の武神具は、性能は優秀でも、兵器としては落第点。特に『七式突撃降魔機槍』は、毒が強過ぎる。ありゃ、使い手を『力』の虜としちまう妖刀の類さね。己を律してないとすぐに呑み込まれちまう』

 

 武神具は、兵器でしかない以上、使い手によって性能を左右される。さらに言えば、人を選ぶ。

 『六式重装降魔弓』は、最も優秀な腕を持つ舞威姫でなければ、扱えない。

 『七式突撃降魔機槍』は、腕よりも槍と相性のいい剣巫でなければ、真の性能を発揮できない。

 獅子王機関の武神具の力は凄まじいものだろうが、使い手によって性能は上下するので不安定で、また担い手が限定されてしまうというのは、兵器としては欠点であり、失格だ。また、いくら手足の延長のように武神具を使えるようになったところで、それはあくまで延長であって一心同体ではなく、微妙な差異(タイムラグ)はけしてなくならない。

 そして、限度を超えようとしあまりにのめり込み過ぎれば、所有者は武器に自我を呑まれる。

 所有者を選ばず、安定して最高の性能を出せるというのが、最高の兵器―――

 この理念からするに、殺神兵器という『命令に自立行動し、学習能力を持たせた兵器』は、ひとつの完成形だろう。

 所有者の腕に問わず、兵器自身が担い手である以上、最高の性能で安定している。

 しかし、それには重要な点がある。

 素材の強度や技能の練度は言うに及ばず、兵器でありながら担い手であるために、精神が重要になる。

 兵器として設定された能力や性能を100%ではなく、120%に引き出せるだけの精神力を得てこそ、殺神兵器は完了する。

 <ナラクヴェーラ>という殺神兵器もあったが、あれは学習できる知能があっても、心がない。故にあれは、殺神兵器としては未完了な試作品であって、それらの試行錯誤で研鑽してきた果てに『四番目の真祖』という“心を持った殺神兵器”が生まれた。

 

 

『わっちが太史局にいるのは、『天部』の残した魔獣――殺神兵器を、わっちの武神具が征するため。霧の字は、言葉遣いはいくら丁寧でも目つきが悪い。行儀の良い娘とはとてもいえない。けど、そんな“いい悪い肝っ魂”をもってるからわっちは買ってるんだ。だから、『力』を呑んでも呑まれるんじゃないよ』

 

 

人工島東地区 空港

 

 

『藍羽浅葱さん、おひとりですか?』

 

『はい』

 

『滞在先は?』

 

『東京です。都内で大学生をやってる姉に会いに』

 

『発熱、嘔吐、下痢などの症状は?』

 

『ありません』

 

『3ヶ月以内に吸血鬼に血を吸われたことは?』

 

『へ!?』

 

『もし、心当たりがあれば、四番窓口で再検査を』

 

『あ、いや、ないです。全然なし!』

 

『………』

 

 

 係員に疑われたがなんとか愛想笑いでごまかして検問を突破し、無事に出頭許可のスタンプを手に入れられた。

 大丈夫、ウソはついていない。

 姉は現在、大学進学を機会に絃神島を離れて、都会暮らしで、最後に会ったのは半年近く前のこと。

 それに、吸血行為は……されていない。まだ吸血鬼と正体を知る前、妙なテロ騒ぎに巻き込まれてからその変な勢いで口付け(キス)したことはあったが、もうそんなのうやむやになっててないようなもの。

 

『健気だねぇ嬢ちゃん。チューチューと血は吸われてなくても舌を絡めてベロチューした古城の兄ちゃんのために、本土まで行くなんてよ』

 

「別に古城たちのためってわけじゃないから―――って、ベロチューなんてしてないわよ! つか、なんであんたがキスのこと知ってるのよ!?」

 

 コートの胸元にしまったスマホのスピーカーから勝手に流れてくる妙に人間臭い合成音声。相変わらず、こちらの個人情報(プライバシー)を侵害してくれる性格の悪さ、でも使い勝手は良い相棒の人工知能(AI)だ。

 ケケッ、と絃神中央空港の面倒な手続きを済ませたばかりの浅葱に挑発的に笑ってみせる。

 

「それから、凪沙ちゃんのことを心配してるのはあたしも同じなの」

 

『ん』

 

「どうせ古城の馬鹿も、今頃どうやって本土に渡るかで悩んでることでしょうし。いつも通りに、あたしひとりを蚊帳の外に置いてね」

 

 それがむかつくのだ。

 妹に対して過保護な古城のことだから、本土まで凪沙を捜しに行く、と遅かれ早かれ間違いなく言い出すに決まっている。

 すると監視役を自称する雪菜も、当然のように古城についていく。

 それで浅葱の方は、情報だけを調べさせたらあとは迷惑をかけたくない、などともっともらしい理由をつけて手切れにする。これまでの経験から言って予言できる。確実に置き去りにされる。

 ―――そんなの冗談じゃない。

 浅葱にとっても凪沙は大事な存在だ。それにこの真実を知りたいという欲求もある。大体未登録の魔族である古城とは違い、こちらは合法的に絃神島から出られるのだ。凪沙の行方を調べるのは、どう考えても自分がやる方が適している。

 もちろんこれが危険であるのは承知している。だけど、最初からその心構えさえできていればそれなりの対策もできるのだ。

 向う見ずに行動して、あっさり罠に落ちてしまうようなドジ古城とは違う。

 

(そうよ。だいだいあいつは、バスケの試合で何度もマークされても独りで突っ込むんだから。パスプレイとかやりたがらない、スタンドプレー野郎だったし)

 

 目を瞑りながら脳内で愚痴をぶつけていると、

 

『嬢ちゃん嬢ちゃん』

 

 モグワイからの呼びかけに、なによ、と浅葱は鬱陶しげに応える。

 またくだらない冗談を言うものなら、電源を切って放置してやる―――と意識を内から外へ向けて気づく。

 

 ……あれ? 搭乗口って四番じゃなかったっけ……? 何だか妙に空いてるような……?

 

 今日は元旦ということもあって、空港の利用客が少ないのはわかる。でもこれは、無人というのはありえない。職員の数までいなくなっているというのは、さすがに異様な光景だ。

 壁の電光掲示板を見上げても、事故が起きたというニュースは流れてないし、予定時刻もいくつかの便と発着と搭乗ゲートがズレているだけ。これと言って異変とは呼べない、どこの空港でも見かけるありふれた風景である。

 

 だが、変わった兆候はないこの状況に、浅葱は本能的な違和感を覚える。この空港という巨大なシステムに隠れて、何らかの処理が行われているという、浅葱ならでは直感だ。

 そして、その感知した違和感を具体的に示してくれるのは、警告を発してくれた最高の電子演算頭脳の持ち主。

 

『まずいぜ、嬢ちゃん。ここを特区警備隊が囲っている。武装警備員が16名を、3班に分かれて職員通路を移動中だ。あと1分40秒で完全に包囲されるぞ』

 

「は? まさかあたしが狙われてるの!? 冗談でしょ!?」

 

『とにかく捕まりたくなかったらこのまままっすぐ走って60m先の階段だ。そこを降りれば誘導路に出られる。その先は新年さっそく運試しになるが、建物中には逃げ道はないな』

 

「ああもう! なんで正月早々こんな目に遭うわけ!?」

 

 どうやらこちらも想定を上回る事態に陥っているようだ。

 呆けている場合ではなく、現実に迫る危険から逃れるため、人工頭脳の案内(ナビ)通りに、キャリーバックを抱え上げた浅葱は走り出す。

 

「そこの女の子、止まりなさい! 止まれ!」

 

 背中から呼びかけられる制止を振り切る浅葱。

 それに黒ずくめの防護服で装備を固めた男たち――特区警備隊の空港警備隊が空港内の連絡通路を通ってこちらに走ってくる。その足音を聞きながら、階段を駆け下りた浅葱だが、相手は対魔族用の銃器で武装した攻魔班である。

 そんな連中に狙われる心当たりはないが、しつこく追跡してくる彼らを振り切る術を魔族でもない一般庶民は持たない。

 

「警告に従わない場合は、魔族特区条例に基づいて武力を行使します!」

 

「え!?」

 

 思わず振り返った浅葱の頭上を、何かが通過して、ガラスが粉々に砕け散った。今反射的に動いてなかったらあたっていた。やたら正確な照準の威嚇―――というより、これはもう武力行使に入っちゃってる!?

 

「ちょ……どうなってるのよ、モグワイ!? あいつら本当に撃ってきたわよ!」

 

 女子の悲鳴にかまわず連射。降り注ぐガラス破片の雨から逃げながら、浅葱は若干キレ気味、八つ当たりのように相棒の人工知能へ怒鳴り散らす。

 こんなピンチの状況もむしろ面白いとでもいうようにクックと笑ってみせるモグワイ曰く、

 これは魔族捕獲用の粘着ポリマー弾。つまり、接着剤の塊であって、まあそれでも高速で発射された物理的な衝撃は軽く窓ガラスを割るほどはあるみたいである。

 そして、これまで何の問題を起こしたことのない浅葱が狙われている理由については、『浅葱を絃神島から出したくない連中がいるということ』と簡単に推察を語る。

 

 本土行きの飛行機に搭乗直前となったところで『待った』がかかって、それまで誰かに狙われてたという事実はない。

 絃神島内の監視カメラを掌握するモグワイが、主人(あさぎ)に対する備考に気付かないはずがない。

 

 となると、これは暁凪沙が関わっている事件がらみか?

 

 これは思ったよりも相当ヤバい案件―――そして、藍羽浅葱(じぶん)にも関わりがあることなのかしら?

 

『次の角を左だぜ、嬢ちゃん』

 

 立ち入り禁止区域の駐機場横の貨物積み下ろし口を息を弾ませながら駆け抜けていく浅葱は、不幸中の幸いで事前に特区警備隊の連中が追い払って空港職員もいないため咎められる面倒はなかった。

 あとはモグワイが警備隊の動きを先読みして指示を出してくれれば、何とか逃げ切れるか―――

 

「―――って、行き止まりじゃないのよ!?」

 

 浅葱の行く手を遮るよう、絶望的なまでに高い鉄柵が待ち構えていた。

 現在地がわからず、相棒の案内のままに走ったというのに、そこは袋小路。柵の頂上部には何重にも張り巡らされた有刺鉄線があり、どうやっても乗り越えられそうにない。

 これから引き返そうにも、すでに特区警備隊は距離を詰めており、包囲網を完成させている。

 

『いや、こっちであってるぜ』

 

 こんなこともあろうかと、ちゃんと待機させていた護衛を呼んどいたんだ、と。

 

 黒光する銃口を一斉に向けられてチェックメイトを迫られる状況下において、人工知能は勝ち誇るように笑ってみせる。

 

 直後、鉄柵の障害を突き破る炸裂音が、浅葱の背後で轟いた。

 

 思わぬ不意打ちの衝撃で、浅葱はその場でへたりこんでしまうも、行き止まりを粉砕して現れるその見覚えのある多脚の物影(シルエット)。噴煙が晴れた時、見えたのは真っ赤に輝くド派手な装甲。そうそれは、市街地戦を想定した対魔族用の超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)だ。

 まるで生き物のように照準用のカメラをぐるりと旋回させて、浅葱に合わせて、

 そこですかさず特区警備隊の武装警備員が応戦。

 けれど、対人用のサブマシンガンでは、この戦車の装甲の前では豆鉄砲も同然だ。おかえしに前脚に仕込まれた対人機銃が掃射されて、警備員たちを薙ぎ払う。低致死性のゴム弾とはいえ、威力は絶大の7.62mm機銃。警備員たちは防弾装備語と吹き飛ばされて悶絶する。

 そして、第一陣を制圧したところで、誓ン社外部スピーカーからその個性的な口調の声が流れ出す。

 

『どうやら間に合ったようでござるな、女帝殿』

 

「あんた……<戦車乗り>!?」

 

 この舌足らずな声と、それに似合わぬ時代がかった暑苦しい言葉遣いは間違いない。

 リディアーヌ=ディディエ。浅葱のバイト仲間にして稀代の天才ハッカーだ。

 この前は敵対したこともあったが、なんだかんだで浅葱に懐いているリディアーヌは、浅葱のピンチを見捨てては置けないだろう。

 

『いかにも。しかし、モグワイ殿の要請により推参仕ったのは拙者だけではござらん』

 

 有脚戦車から腰の抜けてる浅葱の前に、飛び降りたのは、和服にエプロンドレスで着飾った真っ白な少女。

 しなやかな体躯と、真珠のような艶やかな肌。完全に左右対称の彼女の面差しは、精密な工業製品を連想させてくる。

 

お嬢様(マスター)、お求めの品はこちらでよろしいですか?」

 

 数十のお守り袋を浅葱に差し出すのは、浅葱がわざわざ時間のかかる無茶な命令――絃神島内の全神社仏閣にお参りしてお守りを買ってきてとパシリをさせて引き離していたはずの、お付きの人工生命体のスワニルダ。

 

「っ、撃て! 決して逃すな!」

 

 そこで射撃の雨が襲う。

 咄嗟に抱きかかえられた浅葱だが、重荷を抱えるスワニルダの動きは鈍く、盾にした左腕が皮膚が裂けて、ちぎれ飛ぶ。

 そして浅葱は絶句した。

 スワニルダの左腕が床に落ちて、流れ出した体液が血だまりを作った。その血だまりは、鏡のように反射して、美しい銀色に輝いていた。スワニルダが左腕から流れた血が銀色だった。

 とろりと粘性を帯びたその液体―――独特のその光沢は、水銀と同じ液体金属のたぐいだ。

 そして、その金属質な体液は、時を遡るように元の腕の形へと巻き戻る。

 

 

「―――人工生命体保護条例・特例第二項に基づき自衛権を発動。武装制限(リミッター)を解除します」

 

 

 こちらに銃口を向けていたのは、空港設備に配置されたドラム缶に三脚がついたような10体もの警備ロボット。

 生体人形スワニルダは、人造の肉体に機械人形の部品を組み込んだ、いわば人工生命体版魔義化歩兵(ソーサラスソルジャー)だ。彼女の体内には十徳ナイフのように複数の魔具が搭載されている。

 その戦闘力は、スワニルダの捕獲に出向いた魔女の見立てでは、対魔族層の特殊兵器で武装を固めた強襲部隊でかかっても、まず相手にならない。

 

「ちょ、危な―――」

「―――ここで待機してください、お嬢様(マスター)

 

 避弾性を高めるために曲面を多用した有脚戦車に浅葱を乗せると、抑揚無く言って、<水銀細工(アマルガム)>が振り返る。

 消えた。

 次の瞬間、重力の束縛など無視するかのように、『スワニルダ』と個体名をつけられた人工生命体は、警備隊の第二陣と共に現場急行する警備ロボットの頭上へと飛翔していた。

 

「……っ!」

 

 浅葱が息を飲む。

 揃った両足を空へ、純白の髪をなびかせた頭を地面へ向けた宙返り(ムーンサルト)

 その頂点で、左手が振るわれた。

 同時、左腕が銀色に変色し、また形状が伸長する。

 その正体は、浅葱は見知ったものだった。

 やはり、あの液体金属は、あのとき、後輩(クロウ)を瀕死の重体にまで追い込んだ『霊血』と呼ばれる錬金術の産物。生体人形が搭載する電子演算脳が、<錬核(ハードコア)>の自己保存を代用を果たす。変幻自在な液体金属は、機械人形の神経と同化した電子コードを受けて硬化。単分子刃に匹敵する鋭さと、日本刀の粘りを備えた、美しい白銀の剣の顕現。

 生体人形の跳躍を感知して、警備ロボットの射線もまた上方へ流れた。

 しかし、さかしまにひた走る白銀の左剣は迅雷であった。

 

 ―――硬い音が鳴った。

 

 その場で、小さな音を立ててばらける警備ロボット群に、警備隊も浅葱も瞠目した。

 何という早業だ。

 少し遅れて、生体人形も着地し、自らの成果を冷たく見据えた。

 その有脚戦車にも劣らずの性能を誇る警備ロボットの特殊合金装甲が、今、生体人形の剣を前に一斉に両断されたのだ。

 指揮していた警備隊はその現象に凝固し―――すぐさま、銃器を危険度の高い生体人形へ向けようとする。

 そんな彼らの足首に、不意に糸が絡み付く。肉眼では見えないほどに細い傀儡使いの糸だ。しかしその材質は強靭で、ナイフを使っても容易に切断することはできない。

 その糸に意識を向けるが、すでに遅く―――直後、警備隊の第二陣は順々に逆さ吊りにされていく。

 警備ロボットを無力化する解体作業と並列して、この仕事人は迅速に罠を張り終えていたのだろう。

 

「ああもう、どうするのよ、これ!? 完璧にテロリストの所業じゃない!?」

 

 警備隊を壊滅していく凄惨な光景に、浅葱は頼もしさも覚えるが、やはり一般人の感性からして心配する。

 モグワイが救援で呼んだ新年紅白めでたい助っ人たちは優秀であったが、優秀過ぎる。まず戦車の主砲で鉄柵を吹き飛ばし、複数の魔具を持つ十徳ナイフじみた生体人形が警備戦力を不能にする。これ、もう護衛の範疇を超えている。

 しかし紅の助っ人リディアーヌは、そんな浅葱の心配を朗らかに笑い飛ばす。

 

『問題ござらぬ。この場さえ無事に切り抜けてしまえば、後でいくらでも揉み消しが効くでござる。ことが公になって困るのは、おそらく先方も同じ故。

 ―――そんなことよりも、女帝殿。南側404駐機スポットでござる』

 

 戦車の胴体部に内蔵されていた作業用のマニピュレーターが器用に指差すのは、誘導路脇の駐機場。そこには、大きな翼の両端にやや小さめのプロペラを掲げ、まるでヘリコプターと飛行機の合いの子のような風情を醸し出している――ティルトローターの多目的輸送機が止まっていた。

 ローター自体を傾けて空を飛ぶ、垂直離着陸機(VTOL)は、ディディエ重工製『パンディオン』

 

『僭越ながら、拙者の判断で輸送機を待たせており申す。このまま本土へと高飛びするでござるよ。()ぐるを上と為す、でござる』

 

 そりゃあ、確かにこのまま飛行機に乗せてもらえるとは浅葱も考えていない。今更空港ターミナルビルに戻ったところで、何事もなかったかのように予約してあった旅客機で本土にわたる、というわけにはいかないだろう。

 かといって、このまま絃神島に残るのは危険であり、揉み消し工作が終わるまでは、ほとぼりを冷ます必要がある。

 それを冷静に認めつつも、この特攻野郎みたいな展開には浅葱もがっくりと肩を落としてしまうというもの。

 

 しかしそこへ辿りつく前に、ガクン、と急停止する有脚戦車。車体を支えていた四肢の関節が張力を失って、地面に激突した走行が火花を散らす。

 

『ぬっ!? がっ……!?』

 

 今度は何!?

 <戦車乗り>から操縦権を奪い、戦車制御が失われる。

 その原因は、有脚戦車の足元の地面に浮かび上がる光輝く文様。そこから呼び出されて、戦車の関節部にしがみついている半実体の使い魔たち。

 

『『邪妖精(グレムリン)』だ。特区警備隊の攻魔官だぜ』

 

 冷静に分析する人工知能。

 『邪妖精』とは、機械や電子機器の動きを狂わすことに特化した特殊な軍用妖精。攻魔師同士の戦闘ではほとんど役に立つことはないが、有脚戦車のような最新兵器が相手ではその効果は絶大だ。

 

「なんでこの善良で清楚なバイト女子高生を相手に攻魔官が出てくるわけ!?」

 

『善良で清楚かどうかはともかく、戦車相手に魔術ってのは正解かもな』

 

 この電子機器を狂わせる『邪妖精』は、浅葱を電子ネットワークから切り離して、本当に無力な女子高生にしてしまえる、天敵。

 『邪妖精』に捕まってしまったこの絶体絶命の窮地―――それは、あっさりと抜けられる。

 

「対象属性把握。戦術オプションB5を選択。執行せよ(エクスキュート)―――」

 

 テレビ画面に強力磁石を近づけたかのように、戦車の脚にまとわりついていた軍用精霊の像が、ブレる。同時、リディアーヌの戦車が再起動を始める。眷獣実体化を阻害(ジャミング)する魔具。魔力の塊であるところの眷獣に、魔力の結合を弱める特殊な電磁波を放つものであり、侵食されれば、吸血鬼の眷獣は怯み、低級な使い魔であれば形を保つのが困難となる。

 そして、白の助っ人スワニルダは白霧を発生させて、型崩れしかかっている半透明な『邪妖精』を呑み込んでいく。

 

「対象制圧完了」

 

 所有者(マスター)からの魔力供給がなくとも単独行動ができるよう魔力を自給自足する吸収魔具。それは、気温や体熱といった熱量を魔力へ転換、および蓄積するもの。

 また阻害魔具の電磁波により、魔力結合を弱め、やがては空気に溶け込ませてしまうおかげで、余剰の魔力残滓を効率よく吸収し溜め込めてしまう。

 条件を整えれば無限循環すら可能とするこれは、『永遠』を求めた『人形師』が『花嫁』に組み込んだ、疑似的な第二種永久機関だ。

 加えて今は、“八つ裂きにされた少年を瀬戸際で引き止め死なせなかったように”、魔力を生命力に変えて命を繋ぎ止める“命の水”をも生産可能とする永久不滅の液体金属―――『霊血』を左腕としているので、蓄積の量に応じて肉体が強化され、ダメージ修復も迅速に行われる。

 

『助かったでござる。女帝の家政婦殿』

 

 素早く巡らす熱感知スコープ付きのカメラ。

 被写体の熱パターンをとらえて画像表示する電子装置は、術者が魔術回路を発動させた際の体温変化を読み取る。サーマル映像の熱分布から、リディアーヌはたった今魔力を使った術者の位置を特定。

 ギュルン、と枷が外れた戦車は旋回すると『邪妖精』を操っていた攻魔官がいる方角に照準を合わせる。魔術を破られた反動でよろめいているところに、機銃弾を放って無慈悲に打ち倒した。

 こうして完全に『邪妖精』の気配が消失したところで、スワニルダはリディアーヌの有脚戦車の上に飛び乗り乗車する。

 

「スワニルダもついてくるつもり?」

 

「肯定。お嬢様の旅路は危険が多いと判断しました。お供します」

 

 冷静に、マスター優先で判断する人工生命体。

 浅葱としては、準魔族であって、さらに前科持ちで機密情報の塊であるところの彼女には『魔族特区』で大人しくお留守番してほしかったところだが、

 

『時間がないぜ、嬢ちゃん。5分以内に特区警備隊の増援がつく』

 

「わかってる。行って、<戦車乗り>」

 

『御意』

 

 相棒に急かされて、浅葱は溜息交じりに指示を出す。

 リディアーヌが準備したティルトローターの輸送機はすでに離陸準備が完了しており、浅葱たちが戦車ごと乗り込んですぐ、下降気流(ダウンウォッシュ)と爆音を大地へと叩きつけ、絃神島の青空へと急浮上したのだった。

 

 

(本土に行くだけで大脱出劇したあたしが言うのもなんだけど、あまり問題を起こすんじゃないわよ古城!)

 

 

道中

 

 

「貴様らが“遺産”とやれるかみてやろう」

 

 

 想定がまだ甘かった。

 手を抜いて勝てる相手ではないと思っていた。

 油断をすれば一瞬で狩られるのはわかっていた。

 だけど。

 神代の生体兵器を、

 天使の模造を、

 図書館の総記を、

 不滅の賢者を、

 第三真祖の皇女を、

 世界最強の魔獣を、

 異邦の邪神を、

 それらすべてを退け下してきた自分たちが本気で相手をしたら、いくらこの魔族特区で最強の主従であっても、倒せないはずがない……とも、思っていた。

 

 

「我が名は空隙。禁忌の茨をもって墓守の猟犬と主従の契約を交わす者なり」

 

 

 ―――月の出ない夜に月の女神は、不気味な遠吠えをする眷属の犬の一団を連れて、生者たちを冥府へと引きずり込むという。

 

 

「今宵は暗月、闇夜を監視する目はなく、封絶された災禍は金狼の叫びに目覚め、現世を悪夢へ誘わん」

 

 

 ああ……

 なんて、抽象的な光景だ。

 街ひとつをその影で覆うほどの巨大な屍の山が雪崩の如く動き出す。

 この際限がなく湧き上がる億千万の百鬼夜行に巻き込まれれば、その仲間のひとつに引き込まれるだろう。

 

 

 

「一匹残さず狩り尽くせ―――<魔女の騎行(ワイルドハント)>!」

 

 

 

 大魔女が禁書の力で、邪神が祭壇を築き上げるために世界を変動させたように。

 天地を異界に塗り潰す大結界。世界そのものが襲い掛かる。

 

 

 生徒への追試でこれは大判振る舞い過ぎるぞ―――!

 

 

 

つづく

 

 

 

邯鄲の夢枕X

 

 

 

彩海学園

 

 

 簡単にこの現状あらましを言うとね、と少女は前置きして語るところによると。

 

 この延々と年越しできずに繰り返される世界は、起きうる可能性を全て内包した箱庭。

 暁凪沙を助けに最初に頼った南宮那月に、暁古城と姫柊雪菜は眠らされました。

 そして、<空隙の魔女>の催眠に対抗すべく<夜の魔女>が参った。←NEW

 

 ……古城は天井を仰ぎ、眉間を揉む。

 長期休みを削っての追試中、高校の教室に小学生が現れて、『ここは夢の世界です』と言ってきた。

 この少女は頭がおかしいのではないか、と思うだろう。

 そして、これを何の抵抗もなくすっと信じてしまった高校生はさらに輪をかけて頭がおかしいのか―――それとも少女の言う通りにこの世界がおかしいのか。

 

 古城には、これよりも完成度は落ちるものの、世界を想うがままに作り変えてしまう禁書<闇誓書>を取り込んでしまった人工知能(AI)が見せた仮想現実に落とされた経験がある。

 精神衛生上、どちらが望ましいかは甲乙つけがたいものはあるが、やはり大変だと思うのは、断然に後者だ。

 

「現実世界の古城さんたちは、南宮那月先生のお家でずっと眠りっぱなしです。寝正月はだらしないですよ」

 

 小学生――明るい青緑色の生地に、宝尽くしの模様を描いた可愛らしい振り袖姿の江口結瞳。

 

「那月、ちゃんが……俺と姫柊を……」

 

「はい」

 

 結瞳にその名を口にされるまで、古城は随分とお世話になっているはずの担任教師の名前を忘れていた。

 そうであるようにと設定操作されていたのだろう。

 これは身内だと敵対しても油断してしまう素人への配慮だろうか。

 そして、もうひとつある差異点は、『『七式突撃降魔機槍・改』が獅子王機関に預けられている』ということだ。

 それは、この世界を壊させないため。

 かつて、<書記(ノタリア)の魔女>が<闇誓書>で創り上げた“ある可能性のある未来(IF)”を、<雪霞狼>に祓われたようにはさせないために。

 

 ならば、あの人は、古城をこの夢の中から出したくないのか?

 いや―――そうなのだろうが、おそらく違う。

 眠らせておくだけなら、わざわざこんな夢を見せて付き合ってやる必要ではない。<監獄結界>にぶち込んでおけばいい。

 

 これ以上は憶測で進めるには期待があり過ぎると判断する。思索を中断して、上向いていた古城は視点を元に戻すと、教壇に立って、扇風機の風に当たり、涼しげに目を瞑っている結瞳を見る。

 

「結瞳、お前はどうして俺たちの現状を知ってるんだ?」

 

「お姉さんに教えてもらったんです。古城さんたちが魔女に捕まってしまった、ってキリハお姉さんに」

 

 古城たちにも情報を提供した太史局の六刃神官。どうやら彼女は古城たちがまず誰を頼るのかも、そして、それに失敗して躓いていることもお見通しであったようだ。

 しかし。

 『青の楽園』で、<レヴィアタン>を操作する<夜の魔女>の力を六刃に利用されていたというのに、そんな言葉をあっさりと信じられたな……

 口にはしないが古城の懐いてる思惑を感じ取ったのか、結瞳が弁護を入れる。

 

「あ、別に私はキリハお姉さんのこと恨んでません。研究所に監禁されてた時、『夢魔(サキュバス)』の――莉琉の私を、キリハお姉さんだけが親身になってくれたんです。表には出しませんけど、私のことを心配してくれてたんですよ」

 

 だから、お姉さんには感謝してます、と自然な微笑で結瞳は言う。

 『お姉さん』と今もつけていることから、そこにウソはないのだろう。

 

「そうなのか」

 

「ウソつきですけどね。でも、悪意のあるウソは吐きません」

 

 古城としては霧葉の信用はまだ半々ではあるものの、結瞳は信頼してる。

 結瞳は視線を落とすと少し沈んだ声で、

 

「本当なら、<夜の魔女>の力で目を覚まさせたかったんですけど、こうして自覚させることはできても起こすのは無理だったみたいです。ごめんなさい、私の力不足です」

 

「そんな、結瞳が責任感じることじゃねーよ。それよりも初詣のことや、心配掛けさせちまったみたいで、悪かったな」

 

 古城さん……と結瞳はまた真っ直ぐに見つめ、そして、眼差しを真剣なものとする。

 

「古城さんが目を覚ますには、みっつ方法があります。

 ひとつめは、この世界の主を倒すことです―――でも、それは何度やっても失敗しています」

 

 『魔族特区』から出ていこうとすると必ず現れる狩猟者。

 以前の仮想現実とは違って、忠実に『世界最強の吸血鬼』の眷獣(ちから)を再現されている。それでも古城は突破できない。

 力の差だけを、思い知らされ続けている。

 

「ふたつめは、このまま絃神島を出ようとせずに新年を迎えること―――ただし、その場合、大晦日とその前日の記憶を夢の中に置いていくことになります。つまり、目が覚めても凪沙さんのことを忘れてしまいます」

 

 敗北宣言みたいなものか。現状を受け入れれば、これまで挑戦を受けさせ続けてきたその代償として、古城の記憶はそうであるように改竄される。

 だけど、古城は凪沙を救うことを絶対にあきらめることはない。それだけはけして手放すわけにはいかない。

 

「悪いが、ひとつめとふたつめは却下だ。みっつめを聞かせてくれ」

 

 脱出を諦めない。

 その意を目に込めて古城は伝えると、結瞳は胸の前で小さな拳を握りしめ、覚悟を決めたようにうんと頷く。

 

「はい、みっつめは……」

 

 言いながら教壇から古城の机の前に立った結瞳は腰を締めた帯を緩め、纏っていた振袖がはだけさせた。襟から鎖骨ががばりと薄桃色の幼い柔肌が覗いて大変目のやり場に困る有様だ。着物だからなのか、下着もつけてない模様。

 幸いというべきか、なんというべきか。あられもなくたわむ襟元の奥には、発育の兆候はあまり見受けられない。早い話、結瞳の胸は年相応に平坦に近かった。だからこちらからちらっと見えたのは鎖骨だけだと言い張ることもできるのだが、しかしそれはつまり襟元と結瞳の素肌とのマージンがとても広いことを意味している。

 なので、成長期の少女の根源に至ってしまう前に古城はこの社会的立場を吹き飛ばしてしまうような地雷をとっとと処理するべきである。

 

「ど、どうしたんだよ? 暑苦しかったかもしれないが、服はちゃんと着とけって」

 

 古城が最初は驚いたものの、すぐに落ち着いて注意をしながら自ら開きかける襟元を咄嗟に押さえつける。のだが、その紳士的な対応に結瞳は不満を全開にぷっくり頬を膨らませる。

 

「えーいっ!」

 

「は、はあっ!?」

 

 身構えるより早く、猫のような身のこなしでいきなり古城に結瞳が正面から抱きついてた。

 

「っく……ゆ、結瞳……!?」

 

 うっかりバランスを崩し仰向けに倒れ込んだ古城の上に跨り、ぐいぐいと腰を押しつけてくる少女。その侵攻は留まることを知らず、驚きで腰を抜かしている男子高生の身体をコアラのように抱きかかえ、顎先で上半身の敏感な部分をツンツンと刺激してくる。

 マタタビに酔った子猫にべったりとなつかれてるよう。

 しかし、非情に危険な構図の体勢をしているのは、妹よりも年下の、女子小学生である。

 『犯罪者呼ばわりされるのも、あと十年ばかりの辛抱だ』と息子に助言を贈ったクソ親父の無精髭面が脳裏をよぎった。

 

「本当はあと5年待ってほしかったんですけど……古城さんを助けるために頑張りますから!」

 

「何を頑張る気だ!?」

 

 自分の世界に入り込んでしまってる様子の結瞳の力強い宣言に、古城は強く制止を呼びかける。

 

 

「みっつめは、夢への抵抗力をつけることです、古城さん」

 

 

 ピキリ、と固まる男子高生暁古城。

 

 江口結瞳は、<夜の魔女(リリス)>である。

 夢魔(サキュバス)の力は、精神干渉であり、その世界最強の力は世界有数の大魔女の夢の中にでも通用する。

 

 つまりは、『波朧院フェスタ』で、<闇誓書>の力に対抗するために、幼馴染の仙都木優麻の血を吸わせてもらい、耐性を作ったのと同じこと。

 この夢の世界を脱するために、結瞳の血を吸うのだ。

 

「そういうわけですから。はい、大丈夫です。私だって、いつまでも子供じゃありませんから!」

 

「問題だろ! 社会的に俺が死ぬぞっ!」

 

「これは夢の中ですから、法律なんてありません。それに起きたら忘れてます!」

 

 これは、夢だ。

 だから、現実の彼女の血を吸うわけではなく、夢の中に入り込んだ幽体離脱のような霊体からその魔力をいただくわけだが。古城的には直接するのと何ら変わらない。

 それくらい実感があり過ぎる精巧に創られた夢なのだ。

 しかもいつも自分が通ってる学校の教室で、小学生の女子と致すなんて誰かにみられれば一発通報お縄ものだし、古城は自主退学間違いなしだ。

 そもそも、吸血行為には性的衝動が必要なわけで、世界最強の夢魔といえど小学生の結瞳の、言ってはなんだが貧相な肉体で誘惑されることはありえない。

 

「そんな無理するなって。いいから、落ち着け結瞳」

 

「……はじめてはひとりだけが良かったんですけど」

 

 密着する身体を離させて、何か別の方法を考えようと説得を試みる古城だが、結瞳は意を決したように、一度深呼吸して、

 

「まあ、夢ですし予行練習ということで、見本してくれる助っ人が必要ですね」

 

 助っ人……?

 

 くっつかれて人肌で温まっているからだが、激流のような冷や汗で凍りついていくのを感じる、その足音。

 

 

 ……以前にも似たようなことがあった。

 どうしても、その血を吸わなくてはならないという状況下。

 かといって、吸血衝動の引き金(トリガー)になる性的興奮が湧くのが難しくて。

 なので、ひとりの少女に当て馬になって協力してもらった。

 

 ―――そして、古城は彼女に槍でぶち殺されかけた。

 

 

「ま、待て結瞳」

 

「ごめんなさい。いつまでも私がこうして夢の中に関わっていられることはできませんから……」

 

 教室の扉があけられる。

 入ってきたのは、次の補習予定の体育教師ではなく、放課後まで待っていたはずの、監視役。

 

 

「―――先ぱ、……い……」

 

 

 雪菜が真っ先に視点を合わせたのは、監視対象の古城であって、それから半脱ぎの結瞳がその腰の上に乗っている全体図を視野に入れる。

 

 ………

 ………

 ………

 

「……結瞳ちゃんに、何してるんですか?」

 

 痛い沈黙を破ったその第一声。『鬼気』という曖昧な言葉の実体を見た気がする。

 スイッチオフで瞳から光を消した雪菜の顔を絶望的に見上げながら、一瞬、もう一度単独で島脱出チャレンジする方がマシだと古城は真剣に考えた。

 そんなふたりが見つめあったまま固まっている中で、帯を締めることなく軽く手で整え前を閉じた結瞳が、雪菜に頭を下げる。

 

 

「もう、時間がないんです。雪菜さん、お願いします。古城さんに私の血を吸ってもらうのを手伝ってください」

 

 

 

おわり

 

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

「アスタルテさん、あけましておめでとうございます!」

 

 

 予定になかった来客。

 江口結瞳。現在、矢瀬家で預けられる夢魔の少女。『青の楽園』で出会い、彼女とは知らない間柄ではない。

 それでも、この新年にわざわざここまで挨拶に来るとは思えない。……おそらく、挨拶とはまた別の目的があるものと思われる。

 

 ただ。

 しかし。

 

 現在、応接室にて警備隊との協議中で教官に確認は取れない。

 けして起こすな、と命じられた。でも、この少女を警戒しろとは言われていない。

 だから、室内に通した。

 

 おそらく。

 いや、きっと。

 

 これからの展開は予測しえた。

 

「はじめまして! 江口結瞳って言います。あけましておめでとうございます!」

 

 リビングにいた全員と初顔合わせになる江口結瞳が、はきはきとした声であいさつをする。

 

「……江口結瞳殿……おお、クロウ殿から話に聴いてましたな。実に大変な境遇であったようで……アルディギア聖環騎士団ユスティナ=カタヤ要撃騎士であります。めでたく新春をお迎えのことと謹んでお喜び申し上げる」

 

 ジャパニーズ・オセチ料理の準備手伝いをしていた、銀髪ショートカットで袴姿の女騎士が仰々しい挨拶をし、

 

「ほう、主が<夜の魔女>か……よし、ここは古の大錬金術師たるこの妾、ニーナ=アデラートがお年玉をやろうではないか」

 

 ほとんど愛玩動物に近い立場にある、身長30cmにも満たないオリエンタルな美貌の人形が尊大な口調で、偽造硬貨の錬金を始めようとし、

 

「新年おめでとうございました、結瞳ちゃん」

 

「夏音お姉さん!」

 

 キッチンの奥からお雑煮を載せたトレイを運んできた、青地に銀通しの花柄の生地の振り袖姿の銀髪碧眼の少女が、最後に朗らかに新年の挨拶を送る。

 そうして、新たな客人を迎えて、正月の饗宴を楽しむ。

 コンソメスープで煮込んだお雑煮。

 一年を通してまめに働けるように、と願いを込めた正月料理定番の黒豆、その代役のチリビーンズ。

 伊達巻と同じ形に巻いてあるロールケーキ。

 栗きんとんと同じメイン食材であるモンブラン。

 コハダの粟漬けに似たアルディギアの伝統食のニシンの塩漬け……気密性の高い缶の中で発酵させることで旨味の増した――先輩が裸足で逃げ出す――世界一臭い食べ物。

 など純和風とは趣が違うが、東洋と北欧の郷土料理の共通項をまとめてみた感じのおせち料理を若い来客に振る舞う。

 

 ―――そして、一通り舌鼓を打ったところで江口結瞳は、さりげなく身を引くように席を外す。

 

「暁古城は、部屋を右に出て突き当りの客室にいます」

 

「っ、……はい」

 

 彼女が部屋を出ると、それまで朗らかであった叶瀬夏音の表情が不安げに曇らせ、ニーナ=アデラートは面白そうに目を細め、ユスティナ=カタヤは忽然と姿を消していた。

 

 やはり―――そう。

 

 こうなってしまうのか。

 ここにいた誰もがその全容を知らず、自分の口でそれを語るのは封じられている。

 でも、そんなことを言わなくたって、彼らが何のためにこのような真似をしているのか、わかるはずなのに……

 もし、これを見逃してしまったら―――

 

 そのやりとりを思い返す。

 

『アスタルテは、馬鹿犬が大切か』

 

 今や去年となる昨日の大晦日。

 教官を頼って訪ねてきたその両名を昏倒させた彼が、先日の邪神騒動の際に泊めさせた客室にそれぞれ運んでいく際、教官が深く椅子に腰を落として、紅茶を淹れさせる自分に不意を打つように水を向けた。

 

 ―――。

 一瞬動きが止まった。

 その微細な隙を見定めるかのように、教官は続けて口を開く。

 

『そうだな。ずっと健気なくらい一途に、あいつを支えている。そうでないと否定する材料がないな』

 

 命令認識。先輩の補助を優先するようにと命令したのは、教官です。

 

 そんな、押し付けるかのような言葉の返しに、くくっと教官が喉を鳴らす。

 

『ほう、マスターの命に忠実なホムンクルスのプログラムだからなんて言い張るのか? 可愛いものだ。だが、それはないな。ここのところのお前を見る限り、行動の中心は教官(わたし)ではなく先輩(あいつ)のようだ。教官の命通りに馬鹿犬のサポートを考えるなら、見るのは馬鹿犬ではなく、その周囲だ。それくらい、いちいち説明されるまでもないだろう?』

 

 差し出された紅茶を一口含んでから、教官は口元に手を当てて、

 

 

『―――知らないようなら教えてやろう。それは、恋、というものだ』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 警備隊の協議が、終わった。

 暴走を抑え込めている現状を崩すことは望ましくないと、決が下された。

 しかし、それでも抑え切れない事態に備え、常時作戦行動可能な状態で隣室に待機をさせ、覚醒をしたのならばそれらを警備隊が捕縛する、と上層部の意向が通された。

 完全に、任されていない。

 

「まったく、問題児の生徒を受け持つというのは、面倒なことだ」

 

 下駄を預かることが認められず、不満げな声で愚痴を洩らす主人。

 教育者であるからか。意外と思われるかもしれないが、傲岸不遜のようで、面倒見がいい。

 

「それで、馬鹿犬。お前のことだ。暁凪沙の件について、完全に納得しているわけではあるまい?」

 

「う……昨日の古城君たちの話を聞いて、思うところがあるぞ」

 

 認める。

 まだ言葉にすることはできないが、認めるしかない。

 ああ、そうだ。

 ここのところ、腹腔から、ふつふつと温度を上げていくものがある。

 かっかとした先輩の姿を見て、震えている己を自覚させられた。

 でも、膨れ上がり、気管をつきあがって喉を熱くする感情(こころ)。その感情を何と呼べばいいのか、わからないでいる。

 

「古城君が島を飛び出してでも凪沙ちゃんを助けたいという“匂い”。―――オレは間違ってないと思う」

 

 ならば、絃神島に封じ込めた自分は、間違っているのか?

 

「姫柊が組織の意向に逆らってでも自分を貫きたいという“匂い”。―――オレは間違ってないと思う」

 

 ならば、組織の意向に従う自分は、間違ってるのか?

 

 きっとあの二人は、彼女のことが好きだからあんなにも必死になっているのだ。何もせずに構えていられる余裕などないのだ。

 

「ご主人。オレはご主人の眷獣(サーヴァント)でありたい。―――これはオレが決めたことだ」

 

 そう。

 初めから、ずっとそうだった。

 この街で、何もかもがわからないことだらけの環境で、生きていくために。

 どうせ自分でもわからないのなら、せめて、迷わないように。

 自然に浮かんだ気持ちだけは貫くのだと、もうずっと昔から決めていたこと。

 結局、過去(あと)未来(さき)も思うことはない。自分はその時その時のことしか考えられない。今したいことをする、などと、動物のような思考回路。

 

「でも、ご主人。―――それ以外のことを望んでしまうのは、ダメなのか?」

 

 あの二人の“匂い”で動かされた未熟な衝動に、胸の裡の何かの殻が割れたように。

 だけど、それはあの二人の“匂い”とは似て非なるもの。

 何かをしたいのではない。自分はただ、彼女に会いたいと思った。会って問いかけたいものができた。

 

『クロウ君のこと、好きでいてもいい?』

 

 彼女は自分に向けてそう願った。

 自分を好きになろうと、なぜ乞うのか。

 “こんな怪物は”、ここにいさせてくれるだけでも十分に報われているのに。

 どうして、これ以上、近づこうとするのか。

 わからない。―――その理由を今、自分は知りたくなった。

 

 心配や助けなんて浮かばず、それだけしか思えなかった―――これは、“間違っているのか”?

 

 それは情欲など馬鹿馬鹿しいくらい存在しない、殻のついた雛のような無垢さで、南宮クロウは問う。

 

 

 

「ご主人……オレは好きになっちゃいけないのか?」

 

 

 

 大きく、那月は目を瞠った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 随分と長く繰り返されていたはずの元旦の初夢は、邯鄲の夢のように現実では数百分の一に時間が圧縮されていたようであった。

 目が覚めた古城は、“力の使い過ぎて”ぐったりと動けない、自身の腕を抱き枕に添い寝をしていた結瞳をそのまま寝かせて、部屋を出る。

 目指すのは隣室。そこに雪菜が眠っている。

 

「槍を握らせればいいんだな……?」

 

 ベットの脇に旅行荷物と一緒に置かれていた黒のギターケース。それを開くと、眠り姫な後輩に握らせる。

 夢魔の吸精によって耐性を得られたのは、古城だけ。だけど、雪菜にはあらゆる魔術を打ち破る破魔の銀槍がある。あとはそれを展開できさえすれば……

 

 バチッ、と静電気に触れたように、古城は手を離す。

 その手が槍の感触に情景反射で握り締め、折り畳み傘を開くように長槍を展開する。途端に、吸血鬼の古城の手を弾く仄白い霊気が発散されて―――押し倒された。

 

「―――」

「うおっ!?」

 

 ぐるん、とベットに身を乗り出しているような形で脇で様子を見ていた古城は、入れ替わるようにベットの上に寝かされてマウントを取られた。剣巫に仕込まれた無意識の組打ち術。

 

「ぐへっ!? ちょ、おい、寝ぼけてんのか姫柊!? 俺だよ俺!」

 

「………ど」

 

 腰の上に乗った少女が最初は無言で、やがてぐんぐんと上がっていく温度計のように顔を耳まで真っ赤にすると、吠え立てる。

 

「ど、どうして先輩が私の寝顔を覗いたりなんかしてるんですか!? まさか、寝込みを襲おうと……やっぱり先輩はいやらしい人ですね!」

「ちげーよ! 起こしに来ただけだっての!」

 

 必死に、この槍の刃先を突き付けっぱなしの状況から抜け出さんと状況説明も兼ねての説得を試みた。

 簡潔に述べると、『那月先生に援助してもらおうと思ったら、あっさりと捕まってしまった』という感じで。話を聞いてるうちに、思い出したのか槍を収め、雪菜は古城を解放する。

 と、

 

「それとは別に、ものすっごく先輩を追求しなくちゃいけないことがあった気がするんですけど……夢の中で、先輩が小学生といやらしいことをしていたような……」

 

「な、何を言ってるのかわからないけど、んな現実的にありえないことよりも現在(いま)のことを考えるべきだろ姫柊!」

 

 夢は起きたら大抵は忘れてしまうもので助かった。

 やや強引に話を切り替えた古城は、雪菜にここを出ることを促す。

 

『古城さん、キリハお姉さんが………』

 

 最後に話してくれた伝言(メッセージ)が正しければ、おそらく、迎えが近くに待機しているはず。ただし、建物に掛けられている防護結界で中まで行くことはできないので、外に出なくてはならない。

 

 しかし、“反則(ズル)”をして、目覚めたことは当然、魔女には知られている。

 

 トントン、とノックをして、客室の扉があけられる。

 顔を出したのは、藍色の髪の人工生命体。

 今日は晴れ着に身を包んでいるアスタルテは、こちらの覚醒状態を確認すると、折り目正しく一礼する。

 

「謹賀新年」

 

 年始の挨拶を抑揚の乏しい口調で告げる。

 古城と雪菜はそれを見て、今日が元日――去年の大晦日を乗り越えられたこと――であるのを実感した。

 

「あ、あけましておめでとうございます」

 

「アスタルテ、那月ちゃんは……?」

 

 慌てて頭を下げながら、どこか決まり悪げな気分でそう答えた。

 

「お二人が目を覚ましているようなら、腹ごしらえと準備を済まさせてこちらに連れて来い、との命令を受託しています」

 

 そういって、アスタルテが持ってきた重箱を客室のテーブルの上に並べる。古城は雪菜と顔を見合わせ、アイコンタクトの頷きを交わすと、とりあえずまずは出された独創的なおせち料理を大急ぎで平らげ始める。

 そんな様子を監視し()ながら、口からつい(まろ)び出たようにアスタルテが呟いた。

 

「……教官(マスター)と先輩は、けして暁凪沙を見捨てているわけではありません」

 

 急いて食事する手を止めて、古城は揺れる淡い水色の瞳と目を合わせる。

 

「そんなの、思い付いてすらいねーよ」

 

 最後の一口を口に放り込むと、古城と雪菜は立ち上がる。

 腹は決まった。

 結瞳の伝言で送られた霧葉の意見は、目が覚めたら一目散に建物から出ろ、であったが、やはり、逃げるのは性に合わない。

 

 

「それじゃあ、那月ちゃんに会わせてもらえるか?」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 古城たちを出迎えるのは、昨日と同じ、彩海学園の教室よりも広大な応接室。

 窓ひとつなく、照明器具も最小限。四方を取り囲む壁は艶やかな黒曜石のように光を吸い込む。昼であっても極夜のように薄暗いその空間に、ぽつんと置かれているアンティークの椅子がひとつを除いて、家具はない。

 そして、主は深々と椅子に座り、自らの眷獣(サーヴァント)を脇に侍らせる。

 

「来たか、暁古城。てっきり顔を合わせずに逃げ帰るかと思ってたぞ」

 

 それは愚行であるとせせら笑いながら那月が、挑発的に言った。古城は自分でも馬鹿だと思いながらも、気怠げに首を振り、

 

「ああ、ここを出る前にきちんとあんたに言っておかねぇとな」

 

「ほう、話すことなどもう何もないかと思っていたが?」

 

 真剣な古城の顔を見返して、那月は頬杖を突いたまま、言いたいことがあるなら言ってみろ、と続きを促す。古城は静かに呼吸を整えて、体内の空気の入れ替えと同時に意識を切り替えてから、問う。

 

「俺を絃神島から出すわけにはいかない、と言ってたな……」

 

 古城は拳を固め、全身からかすかな怒気を滲ませ、

 

「だから、俺と戦う気なのか!? なあ!?」

 

 夢でもう何度となく行われたとなれば、流石の古城とて覚悟を決めていた。

 本気で妨害されるのであれば、こちらにも戦う意思ができている。それであっても、問い掛けずにはいられなかった。

 

「別に貴様らと戦闘ごっこがしたいわけじゃない」

 

 那月はひどく素っ気なく答える。

 

「私はあの<蛇遣い>と違って、好き好んで面倒な思いをする趣味はないからな。今度は<監獄結界>に入れてやろう。大人しくしていれば痛い思いをしなくて済むぞ?」

 

「そんなことが……できるわけねーだろ……!」

 

 ギリギリと歯を軋ませながら、古城が荒々しくその案を撥ね退ける。無論、那月がそれに臆することも、驚くことなどなく、冷酷なまま、

 

「ひとりでいるのが寂しいなら、そこの転校生も同伴させてやってもいいが……それとも藍羽の方がよかったか?」

 

「そういうことを言ってんじゃねぇよ!」

 

 古城は宣戦布告とばかりに吼えた。

 

「俺は凪沙を助けに行く。その後なら補習だろうが<監獄結界>だろうが付き合ってやる。だから今は見逃してくれ! それともあんたが、俺の代わりに凪沙を連れ戻してくれるのかよ!?」

 

「暁凪沙を連れ戻す……か。この期に及んでまだそのようなことを言うとはやはり言っておかないとならないか」

 

 嘆息した那月は、古城に冷厳な眼差しを向ける。

 

「暁凪沙は無事に帰ってくるはずだ。貴様が余計な事をしなければな」

 

「なに!?」

 

 “何も知らされておらず”戸惑う古城を、那月は哀れむように目を伏せる。

 

「危険なのは貴様の方だ、暁古城」

 

「どういう意味だよ」

 

 問いかけに、間を置くことなく那月は告げる。

 

「もし『神縄湖』の底に沈んでいるのが、獅子王機関の期待通りのものだったとすれば、そいつと接触すればお前の無事は保証できない」

 

 悲しげな微笑を浮かべて吐かれた那月の言葉には、ただ脅迫では説明がつかない真剣さがあった。

 かすかな動揺を覚えながらも古城は噛みつくように言い返す。

 

「何でそんなことが言い切れる?」

 

「わざわざ言うまでもなかろう。『聖殲』の遺産とはそういうものだからだ」

 

 それは古城も経験しているはずの事。

 記憶は忘れたのだとしても、記録は憶えている。

 灼けつく陽射しに炙られた岩だらけの大地。

 遺跡の最奥に鎮座された氷の棺。

 その中に浮かぶ虹色の髪の少女。

 脳裏に過ぎるは、断片的で、血塗られたように紅い映像。那月の言葉をキーとして、それらが前触れもなく怒涛に押し寄せてきた。

 

「ぐ……お……!?」

 

「先輩!?」

 

 思い出すたびに苦しめてくる。強烈な頭痛に襲われて呻く古城を、雪菜が咄嗟に抱き支える。

 記憶を“喰われてしまった”ことの後遺症である、失われた記憶の断片(フラッシュバック)

 だが、今はその痛苦を噛み締めて、古城はまたも咆える。

 

「ふざけん……な……! <第四真祖>の存在と、『聖殲』ってやつが繋がっているとして、獅子王機関はどうしてそんなものに凪沙を巻き込んだ!? あいつは関係ないだろうが!」

 

「関係ない……か。本当にそう思うのか?」

 

 歯を食いしばった古城の反論に、那月は嘲笑を返しながら意味深な口調で逆に問い返す。

 古城は、答えられない。その意味が解らない。

 

「凪沙は、吸血鬼じゃない。混成能力(ハイブリッド)だって、今は失われている。<第四真祖>とも、もちろん『聖殲』とも無関係だ。無関係のはずだ!」

 

「……先輩」

 

 古城の訴えに、声を上げたのは那月ではなく、雪菜。

 古城を支えてくれている雪菜の肩がかすかに震えていた。

 数秒経ってもその震えは留まることなく、むしろその強さは増すばかり。

 そう、その横顔に浮かぶのは、隠しきれない恐怖の相だ。

 そして、そんな雪菜の狼狽を見逃すことなく、静謐な口調で那月は追及する。

 

「心当たりがあるという顔だな、転校生」

 

「………」

 

 そう。

 気づいては、いた。

 勘付いてはいたけれど、関係がないと信じていたくて、目を逸らしていた。

 そして、その無言は、百の問答を交わすよりも雄弁に古城に隠そうとしていた真実に辿りつかせてしまった。

 

「まさか……アヴローラ……か?」

 

 『十二番目』の<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>――アヴローラ=フロレスティーナ。

 彼女より古城は<第四真祖>の力を受け継ぎ、そして古城の前からいなくなった。『原初のアヴローラ』と呼ばれる邪悪な魂より凪沙を救うために、自らを犠牲にして死を選んだのだ。

 

 だが、もしも、いなくなったと思っていたはずの魂が、今も残っていたとしたら―――?

 

 強力な霊媒である誰かが、その身に宿すことで彼女の魂を繋ぎ止めていたとするなら、それはありえない仮定ではない。

 昔の暁凪沙のような異能の霊能力があれば、だが。

 

 そう、アヴローラが凪沙の中に残っていた―――!

 

 薄々気づいていた、わけではない。だが、そこに気づけば、納得できることが多い。

 強力な霊媒としての資質があったのに、凪沙が霊能力を失ってしまった理由。加えて、原因不明の衰弱。

 それらがアヴローラの魂を繋ぎ止めるための代償なのだとすれば、いくつかの疑問は氷解する。

 おそらく、これは凪沙も知らない、無意識下の能力行使だろう。

 だがその結果として失われていたはずのアヴローラの魂にかすかな希望が出てきたというのであれば、古城は責めることはできない。むしろ安寧をもたらしてくれた妹を誇りにすら思う。

 だからこそ、

 

「獅子王機関は『聖殲』の遺産ってやつを調べるために、アヴローラを利用するつもりなのかよ!?」

 

 許せることではない。

 それが誰であろうと、凪沙とアヴローラの魂を勝手な都合で利用するのなら、それは暁古城の敵だ。

 

「ひとつだけ保障してやろう。獅子王機関に暁凪沙を危険にさらす意思はない。その逆だ。自分たちの目的を果たすためにも、連中は死に物狂いで貴様の妹を護ろうとするだろう」

 

 古城の怒気を真正面から受け、なお那月は淡々と告げてきた。

 それが真実である保証はない。だが、きっと言葉少なな彼女はこの手のことでウソをつかないと信じられた。

 

「そうか……安心したよ」

 

 無意識に古城は小さく笑う。

 

「凪沙が危険な目に遭わないとわかっていたから、獅子王機関に協力したんだな」

 

「当然だ。貴様の妹も、私の教え子であることに変わりはないからな」

 

 予想通りの答えを、躊躇なく答えてくれた。

 その言葉は妙にくすぐったくなるくらいに嬉しいものだった。

 

「それに姫柊も、獅子王機関に裏切られたわけじゃなかった……だろ?」

 

 あ……! と大きく目を見開いて雪菜が古城を見た。

 獅子王機関に対する忠誠心と、凪沙への友情の板挟みとなっていた彼女にとって、この種明かしは救われるものだろう。

 獅子王機関は凪沙を犠牲にしようとは考えていない。それがわかれば雪菜も獅子王機関を信じられる。苦悩する理由は半減するのだ。

 それまで翳りを差していた瞳に、雪菜本来の強い光が灯り始める。

 

「そう、ですか。だから、獅子王機関は、私を先輩の傍に残したんですね。たとえ先輩がどこに行こうと、最後まで一緒に行動して、先輩の暴走を止められる監視役が必要だったんです。それが結果的に、獅子王機関の障害となったとしてもです。だから私には何も知らされなかった。私が先輩に敵とみなされることがないように―――」

 

「随分と都合のいい解釈だが、確かにありえない話ではないな。あるかどうかもわからない『聖殲』の遺産と違って、<第四真祖>は今現実に存在する危険物だからな。野放しにはできまいよ」

 

 段々と調子の上がっていく雪菜の声音に、那月の唇は微苦笑を浮かばせる。

 見限られたのではなかった。

 むしろ、世界最強の吸血鬼を制御可能な切り札であるために、あえて監視役をすべての情報から隔離させたのだ。

 それが獅子王機関で満場一致の総意でなくとも、雪菜ひとりに任せても十分に役割を担えると信頼があったという見方もできる。

 また別の思惑があったのだとしても、雪菜はそれだけで苦悩から解き放たれた、華やかな笑みを浮かべることができた。

 

「それがわかったところでどうする?」

 

 ほとぼりが冷めるまで大人しく島に残るか? という那月の無感情な眼差しに、古城は犬歯を剥いて応える。

 

「話をしてよかったよ。おかげであんたを尊敬したままでいられるぜ、那月ちゃん。今からあんたをブッ倒してでも、俺は本土に行かせてもらう―――違う、行かなきゃなんねーんだよ!」

 

 那月は、誰でもない古城のために、古城を止めていてくれた。

 そんな彼女だから古城は信頼できて、矛盾しているかもしれないが、だからこそ、罪悪感なく戦うことができる。

 

「『聖殲』の遺産ってやつを手に入れるために、<第四真祖>の力が必要だというのなら、その役目を果たすのはアヴローラじゃねぇ。この俺だ。どんな理屈をつけようが、凪沙やアヴローラを勝手な都合で利用する奴は俺が潰すぞ! ここから先は、俺の戦争(ケンカ)だ!」

「いいえ、先輩。“私たちの戦争(ケンカ)”です―――!」

 

 ふん、と那月は鼻を鳴らし、

 

「結局、そうなるか。ここまで身の程を弁えない教え子(ガキ)どもとは思わなかったぞ。二人がかりで何度となく敗北した貴様らに、どうして『聖殲』の遺産――殺神兵器が存在するところにやれると思うか?」

 

 正論を、なおかつ女王の貫録で言われては言葉で覆す術もない。実力で勝ち取ってやるしかないのだ。

 古城たちは、これまで驚くほど静かに、主人の話に口を挟まず、沈黙を保っていた厚着の少年、クロウを見やる。その一挙一動に気を払う。

 しかし、仕掛けてきたのはその背後からであった。

 虚空で起きる波紋の揺れを感知し、古城が振り返れば、広大な応接室の中に無数の人影が現れる。

 これまでこの二人以外に戦闘に立ち入ることはなくて、増援もなかった。というより、那月が後輩以外を使うなどとは思わなかった。その予測しえない闖入者の登場に、何が起こったのか、状況を理解するのが遅れた。

 古城たちを包囲するこの集団は、武装警備員たちだ。

 対魔族戦闘用に防護服(プロテクター)と、最新鋭のサブマシンガン―――特区警備隊特殊部隊の装備で身を固めた大人が8人。左右から挟撃するように展開している。

 彼らを一瞬でここに送ったのは、<空隙の魔女>の空間転移(テレポート)に他ならない。そうだ、既に彼女は完全に古城の敵に回ったというのはわかり切っている。

 

「動くなよ、暁。獅子王機関の剣巫でも、毎分600発のサブマシンガンの弾幕は避け切れん。低致死性のゴム弾だが、当たり所が悪ければ怪我では済まんぞ」

 

 冷ややかな口調で告げる那月の言葉に、雪菜が眉をしかめる。

 吸血鬼の肉体である古城にとって、弾丸の嵐など我慢すればいいだけのもの。しかし、生身の人間であるところの雪菜は別だ。たった一発の弾丸でも彼女には致命傷になりかねない。

 つまり、この状況は、雪菜を人質に使われているということ。

 これは紛れもなく侮蔑。

 雪菜は自分の存在が<第四真祖>の足かせとなっていると指摘されたも同然だからだ。

 

「殺神兵器どころか、現在の量産兵器で封殺される貴様らは、やはり島で大人しくしてた方がいい」

 

 人形のように無表情のままこちらを睥睨する那月が、右腕を上げる。

 瞬間、全身に凄まじい衝撃を受け、古城は息を詰まらせた。そしてすかさず虚空から撃ち出された銀色の鎖が、意思を持つ蛇のように古城の全身に絡みついた。

 

「………」

 

 そして、石像のように直立不動の姿勢で、その様子を見ていた古城の後輩は、落胆したような目の色を浮かべる。

 

「くそ!?」

 

 陽炎のように揺らぐその歪み。古城の背後で開かれるのは、虚空の(ゲート)。遠い蜃気楼のようにその先に浮かぶは欧州の監獄島を思わせる巨大な建造物の輪郭。

 あれは、凶悪な魔導犯罪者を幽閉する、南宮那月が自らの夢の中に構築した牢獄の世界<監獄結界>だ。

 夢の世界である故に、収監された者たちは那月の許可なくして能力の使用は封じられる。それは世界最強の吸血鬼であっても例外ではない。

 そこに引き摺り込まれてしまえば、今度こそ脱出不可能。しかしそれがわかっていても、古城はどうすることもできない。

 ネックレスと大差ない細さであるも、巻き付く銀鎖の強度は凄まじい。吸血鬼の持つ腕力を全開にしてもびくともしない。しかも魔力を封じる力があるのか、眷獣召喚の行使も禁じられている。

 

「先輩!」

 

 背後より迫りくる門の魔力に瀬戸際で抗う古城を、雪菜が焦りの表情で呼ぶ。

 しかし、8挺のサブマシンガンに狙われている状況にあっては、雪菜も手も足も出ない。一瞬先の未来を視る霊視をもってしても、すべての攻撃を回避するのは不可能であり、僅かでも抵抗すれば、武装警備員たちは躊躇なく引き金を引く。

 そして、ここで雪菜が倒れれば、古城を<監獄結界>から解放する者がいなくなるのだ。

 雪菜は動けない。

 古城は焦燥に歯軋りする。

 

 その直後に、余裕めかした尊大な声音が部屋に響いた。

 

「神々が鍛えた<戒めの鎖(レーシング)>か……流石は那月だ、珍しい魔具を持っているな」

 

 瞬間、古城を捕縛していた銀色の鎖が、突然、飴細工のように溶けてちぎれ飛ぶ。

 反動でバランスを崩した古城の肩に、古城の旅行鞄に潜んでいたそれがよじ登ってくる。視界に入ったその正体は、液状化した金属塊。ちぎれた銀鎖を呑み込んでいくそれは、やがて小さな人型へと姿を形作る。

 

「物質変成……ニーナ=アデラートか」

 

「正解だ、<空隙の魔女>」

 

 挨拶代わりとばかりに、自称古の大錬金術師は、液体金属の腕を無数に枝分かれする触手のように伸ばして、武装警備員たちの銃を次々に搦め捕っては、金属部分を食い尽くす。対応する間も与えない早業で、特区警備隊の精鋭たちは武装解体された。

 これで膠着状態を余儀なくされた弾幕の包囲網から雪菜は自由になった。

 

「ニーナさん!? どうしてここに……!?

 

「夏音が主らのことを気にかけておったのでな」

 

 銀槍を構えながら雪菜が訊けば、得意げに顎を上げながらニーナが答える。昨日から不自然にも眠り続ける古城たちを心配した夏音が、こっそりとニーナに偵察を頼んでいた、ということらしい。そして、古城たちの手荷物の中で変態させた小さな身体を潜ませていた、と。

 

「話は聞かせてもらったぞ。ここはひとつ大人として、古城たちの心意気を買って、気持ちよく送り出してやるのがスジであろう、<空隙の魔女>?」

 

居候(ペット)風情が偉そうな口を利く……身の程を知らない井の中の蛙を導いてやるのが、責任ある大人の対応だ」

 

 十倍近い年長者からの諌める言葉に、苛立つ那月が刺々しい文句を吐き捨てた。

 

「違うな、<空隙の魔女>。何が起きても責任を取る。それが、正しい大人のあり方だ。貴様のやり方は、若者の可能性を縛り付けることになるぞ」

 

「弟子の幉を誤った骨董品(アンティーク)が、よく語ってくれるものだな」

 

「それを突かれると妾も耳が痛いが、こ奴らが間違いを犯さんのは貴様の目にもわかるだろう?」

 

 不機嫌そうに唇を曲げる那月に、液体金属の肉体とは違い主義主張を曲げることのないニーナは訂正の意見を語る。

 どちらも頑固な意見の対立させる間、特区警備隊の隊員たちはそれを暢気に聴き入っていたりはしない。防護服に付けられている電磁警棒を抜き、あるいは素手で古城たちを抑え込もうと襲い掛かる。

 

「くっ!」

 

 即座に対応しようにも、数が多い。魔族すら圧倒する雪菜の近接格闘能力をもってしても、この一瞬で8人もの武装警備員を無力化するのは不可能だ。

 警備員は4人がかりで剣巫の足止めし、残る4人で古城を狙う。対魔族戦闘の訓練を積んでいる彼らに、素人である古城が格闘技でかなうはずもない。

 まずい、と古城が表情を強張らせた、そのとき―――

 

「忍!」

 

 突如として現れた袴姿の女騎士が、背後より警備隊員たちに不意打ちをかます。光学迷彩の術式が描き込まれたコートを着た彼女は攻撃の瞬間まで、それを覚らせることなく、かつ一人一打で仕留める。

 

「ユスティナさん!?」

 

「ご無事ですか、古城殿。不肖このユスティナ=カタヤ、王妹殿下の命により、助太刀いたします!」

 

 唖然と立ち尽くしてしまう古城の下に跪いて、慇懃に一礼をするユスティナ。

 そして、相手に何かアクションを起こさせるよりも早く、振り向きざまに着物の袖から手榴弾のような金属球を投擲する。床に叩きつけられたそれから、真っ白な煙が噴出する。

 

「『魔力攪乱幕』か……姑息な真似を」

 

 不愉快気に、ギリッと奥歯を鳴らす那月。

 要撃騎士が撒き散らした煙幕は、魔力の伝達を妨げる効果があるもの。遠隔操作系の魔術は特に影響を受け、南宮那月の得意とする空間制御には絶大な妨害効果を発揮する。

 

「ニーナ殿!」

 

「ふふん、任せよ」

 

 一番の難関を封じたこの絶好の隙、逃さずニーナの指先から放たれる眩い閃光。

 重金属粒子砲―――いわゆる荷電粒子ビームだ。

 灼熱の閃光はビルの外壁を突き破って大穴を開通させ、非常階段までの脱出経路を無理やりに造り出す。

 

「古城殿! 剣巫殿も今のうちに!」

 

 特区警備隊の残存兵力を足止めするユスティナが古城たちに呼びかける。

 

「悪い! 助かった!」

「ありがとうございます!」

 

 一時的に空間転移(テレポート)を封じられた今の那月に、追跡は不可能。ユスティナに礼を言って、古城と雪菜は非常階段へと走る。

 それを目で追いながら小柄な魔女はむくれたように片頬を上げて、静かに溜息をつく。

 

「新年早々、派手に部屋を散らかしてくれたな、ニーナ=アデラートとそこの愉快な外国人」

 

「ふふん。家主に弓引くのはちと心苦しいが、見逃せ、那月。どうしても戦り合うというなら相手をするのも吝かではないが、主の魔術と妾とは少々相性が悪いぞ」

 

 倒れ伏した武装警備隊の背中に胡坐をかいて、勝利宣言をするように獰猛に笑いかけるニーナ。

 だが、那月はその挑発を歯牙にもかけず、椅子から立つ気配もない。余裕のある声音で逆に問う。

 

「いいのか、ニーナ=アデラート。私だけを警戒して―――貴様らが特区警備隊の特殊部隊を潰してくれて助かったのはこっちの方だぞ」

 

 彼女にとって、<第四真祖>を封じる策は、特区警備隊の包囲などではない。南宮那月の鬼札は、今、苦しげに呻いている武装警備隊などではないのだ。

 むしろ、それらは邪魔な足枷だ。

 

「人工島管理公社の顔は立ててやろうと援助したが、結果はこのざまだった。制限(ハンデ)を付けてやる必要はもうないな。手柄惜しさに馬鹿犬に手出し無用と注文を付けてきた貴様たちの上司にもそう伝えろ」

 

 ここからは好き勝手やらせてもらう。

 那月の全身から凄まじい威圧感が放たれて、警備員たちの表情が恐怖に竦む。

 

 そして。

 

 これまで古城たちに口を挟まず、

 これまでニーナたちの介入を見過ごし、

 これまで主人の命を待っていた、魔女の猟犬が解き放たれた。

 

「行かせない」

 

「っ、クロウ!?」

 

 その怪物じみた運動能力が、確定したはずの勝利を覆す。

 警備隊を鎮圧した要撃騎士が疾風だとしたら、それは、魔風のような速度であった。

 非常階段につく寸前に、一気に追い抜かれて回り込まれる。

 

 

「凪沙を助けに行きたいんだ。だから、そこを通してくれクロウ―――!」

 

「―――……オレは、ご主人の眷獣(サーヴァント)だ。だから、古城君を絃神島から出さない」

 

 

 特区警備隊の上層部より<第四真祖>との親しい仲を疑われ、捕獲の任から外すようにと要求されていた<黒妖犬(ヘルハウンド)>は、先輩である古城の頼みを一蹴して、その疑念を払拭する。

 

「それに、やっぱり、古城君たちは島から出さない方が良いな。警備隊(あいつら)を自分でどうにかできないんじゃ、本土に行っても大変なのだ」

 

 主従の意見は同じ。

 立ちはだかった後輩が古城たちへ向ける落胆の目の色は、晴れていない。

 認めさせなければならないのは、那月だけではない。クロウも、古城たちの障害となりうるもの。

 そして、この呼吸を許さぬほど空気を凍らせる強烈な重圧(プレッシャー)を放つ後輩は、先ほど訓練された武装警備隊8名が束になっても敵わない猛者。それはこれまで幾度となく頼りにしてきた古城たちはよく知っていることだ。

 前門の虎、後門の狼。

 『魔力攪乱幕』で魔術を妨害しているものの、魔女相手にどこまで効果があるかはわからない。そして、いつまでも煙幕が室内に立ちこめているわけがなくて、荷電粒子ビームで大きく風穴を開けてしまった以上、完全に換気されるのにそう時間はかからないだろう。

 そして、万全の主従が動き出せば、もはや止めるのは不可能と断じてもいい。

 つまり、ここで煙幕が晴れるまでに、後輩を打ちのめさなければ、夢と同じ末路を辿ることになる―――

 

 

「“お願いです”。お兄さんたちを通してあげてください!」

 

 

 そのとき、清澄な声音が空間を打つように響いた。

 聴こえてきた方を見れば、そこにいたのは、振り袖姿の銀髪碧眼の少女。

 

「王妹殿下!?」

 

 残り一人の武装警備隊を無力化した要撃騎士が驚き声を上げたその最後の乱入者は、叶瀬夏音。

 王族の血を引く前王の隠し子が、古城たちを足止めするクロウに“願う”。

 それを聞き届けたクロウは嘆息して、構えから力を抜いた。相手を金縛りに遭わせていた重圧も、緩める。

 

 南宮クロウは、<禁忌契約(ゲッシュ)>を課している。

 

 第二の制約『存在を知覚した巫女には、三撃を受けるまでは攻撃してはならない』

 第二の誓約『半日、人間としての力である超能力を含めた五感を麻痺し、霊力魔力の一切を練れなくなる』

 

 第三の制約『王族からの頼みごとを、二度続けて断ってはならない』

 第三の誓約『一日、獣王としての力である死霊術と獣化を封印する』

 

「ごめんなさい、でした……でも、私も……」

 

 止まってくれた家族も同然である少年に、少女は頭を下げるように俯く。こんな真似をするのが、ひどく心苦しい、と。

 古城と雪菜は、その行為に助かるも、とてもお礼の言葉を送ることができなかった。

 だから、まず口を開いたのは、止めさせられた少年だった。彼は特別恨み言をぶつけるようなことはなく、いつも通りに自然な対応で話しかける。

 

「何も間違ったことはしてないぞ、夏音。“我儘を押しつけたくらいで”いちいちそんなに気にするな。それが正しいと思ってしたんなら、そんなに悔んじゃダメだ」

 

 顔を上げた夏音とクロウは視線を通わせて、微苦笑する。

 

「通してやれクロウ―――どうせ逃げ切れんよ」

 

 主人からの許しも出て、クロウは非常階段の前から立ち退く。

 それは、逃げれた、というより、逃がされたという印象だ。

 

 こうして、古城と雪菜は、マンションから脱出することができたが、睡眠学習で何度となく味あわされた、苦い敗戦を思い出さされた。

 

 ゾッとする。

 特区警備隊の相手をさせたのは、人工島管理公社が絃神島脱出を阻止するために動いている―――その事実を見せつけるために、あえてぶつけさせた。

 これは、警告の次は本番。

 特区警備隊の包囲を破ったことで、人工島管理公社は、この主従に頼らざるを得なかった。

 すべての裁量を任された魔女と猟犬は、今度こそ誰にも邪魔されることなく、古城たちを捕まえることができるのだ。

 

 

 どこまで行こうが、魔女の掌で踊るだけ。

 決して逃げることのできない鬼ごっこが始まる。

 

 

 

つづく



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逃亡の真祖Ⅳ

道中

 

 

「は―――はあ、はあ、は―――」

 

 呼吸が乱れ、視界が点滅する。

 走れば走るほど血の流れが加速するのか。喉元までせり上がる吐き気を抑えながら、歯を食いしばって、とにかく足を止めない。

 そして、振り向かない。

 振り向けば、この人工島西地区で群を抜いた高さにあるその高層マンションは視界に入ってしまうのだから。

 追手が―――自分たちを捕まえに来るのがあの主従であるなら、この島から脱出するまで何だっていいから、最短最速で走り抜けるしか逃げ延びる術はない……!

 

「―――交渉はすでに決裂しているのだから、早く出てくるべきだと忠告したわよ」

 

 ランナーズハイに全力疾走し続ける古城と雪菜に、突然、聞き覚えのある声が掛けられた。

 一瞬、光が射す。

 大型の目立たない紺色のバンが、二人のすぐ近くの車道へ停車したのである。

 その後部座席のスライドドアを開け放ったのは、古風なセーラー服とその上に赤いカーディガンを着た黒髪の少女。膝の上に三脚のケースにカメラバックのようなポーチをつけている彼女は―――

 

「妃崎霧葉……!」

 

 咄嗟に身構えた雪菜が、怒りの視線を霧葉に向ける。

 古城も無意識に警戒する。

 出たら迎えに来るとは聞いていたが、それはつまりこちらを監視していた。

 そして、結瞳を派遣させたということは、交渉が決裂することも読んでいたに違いない。

 およそ五分五分の確率で終わる賭け事を、止めもせずに送りつけたのは、南宮那月と人工島管理公社に『神縄湖』で進行している計画について事前通達があったか否か、獅子王機関とのつながりがあるかどうかを見るための、一石を投じてみたかったからだろう。

 結果は、藪を突いて蛇が出るような事態に陥った。古城たちが。

 

「姫柊雪菜、あなたは別にここでお役目ご苦労で構わなくてよ。獅子王機関の一員としては複雑な気分でしょう?」

 

 憐れむように小さく首を振りながら、霧葉が雪菜に視線を向けて言う。

 対し、その冷たい刃を含んだ言葉に、雪菜は屹然と言い返す。

 

「その必要はありません。獅子王機関が私に何を隠しているのであれ、<第四真祖>の監視役の任務に変更はありません」

 

 自棄になっていない目の輝きに、霧葉は少し驚いたように片眉を上げる。先日、獅子王機関にはぶかれて取り乱していたはずの雪菜が、ここまで立ち直ったことが意外だったらしい。

 

「そ、腑抜けになってないようで何よりだわ。この前みたいにヒステリックになってはたまらないもの。今の私達は呉越同舟、仲良くやりましょう?」

 

 乗りなさいな、と霧葉に促され、まず古城が半信半疑に警戒を解くことのないまま搭乗し、続けて雪菜も乗り込む。古城を挟んで少女二人がサンドイッチするような形で後部座席が埋まった。

 何だかんだで、こんなところで捕まりたくないのは、古城も霧葉も同じだ。そして、体力を消費して走るより、車による移動が効果的である。

 

「ニーナたちが時間を稼いでくれてる。思い切り飛ばしてくれ。とにかく島から脱出しないと、スターターピストルの号砲が鳴った時点でアウトになる」

 

「だそうよ。目的地に急いでちょうだい。どうせ攪乱なんて無意味でしょうから、最短距離でね」

 

 運転席に座っている、灰色の作業服を着て帽子を目深に被った、どこにでもいそうな男。おそらく太史局のスタッフは、六刃の指示に車を発進させる。

 

「一応聞いておくけど、本土への渡航手段はあるのかしら?」

 

「あるっちゃあるけど、そっちで用意してあるんだろ」

 

「ええ、こちらに用意してあってよ」

 

 霧葉は古城と雪菜の眼前に、一通の封筒を差し出す。その中身は古城と雪菜の顔写真の入った書類と各種証明書。

 

「これは?」

 

「太史局のビジネスジェットを一機用意したわ。絃神島中央空港ではなく、企業用の民間飛行場をつかうから、出島手続きも最小限で済む。これは偽造の身分証と必要書類」

 

 暁古城、電気工事会社に勤める18歳の会社員。

 暁雪菜、旧姓姫柊で暁古城の妻29歳。

 

 れっきとした政府機関である太史局が用意した身分証というのであれば、それは事実上、偽造ではなく正規の書類と同じ価値がある。さりげなく嫌がらせっぽいのが混じっているがこれさえあれば、もはや密航などという不安定な計画に頼る必要はない。

 そして民間所有のビジネスジェットがあれば、行動の自由度は大きく広がる。人工島管理公社といえども、民間機相手に好き勝手なことはできないだろう。

 偽造証明書の作成に、ジェット機のチャーター―――それには相当な労力と金銭が動いているだろうに、それでも古城と雪菜を本土に送り届けるために太子局は犠牲を支払った。

 敵の敵は味方。

 古城たちが獅子王機関と対立したのであれば、支援は惜しまないということなのだろう。

 

「つかさ、ジェット機を用意してくれるなら、最初からそう言ってくれればよかっただろ。そしたら俺たちが那月ちゃんたちに襲われることもなかったのに―――」

 

「その場合、あなた方は私の話を信じられて?」

 

 悪意の滲む笑みを向けて、霧葉は古城に訊き返す。

 

「南宮那月が敵に回ったから、太史局に頼る気になった。違って?」

 

「かもな……だけど、それは……」

 

「ええ、当然の判断ね。理解できるわ」

 

 他人事のように、古城が気に掛ける罪悪感など一蹴して肩をすくめる霧葉。

 目論見が失敗したとはいえ生体兵器<レヴィアタン>を利用し、絃神島を沈めようとした太史局と妃崎霧葉に100%信用を預けることを古城はできなかった。

 南宮那月を敵に回してようやく、仕方なくこの協力を受け入れることができたのだ。

 そのことは霧葉もわかっているはずなのに、これといって特に責めようとはしない。

 

「遠慮はいらないわ。あなたが『神縄湖』を訪れることを、獅子王機関は極度に恐れている。だったら、それを利用しない手はないでしょう? 気が合わない隣人の家に、汚物を投げ込むみたいなものよ」

 

「俺は汚物と同じ扱いなのかよ……!?」

 

 獅子王機関と太史局は同業であるが、それ故に何かと利害が対立してしまう同族嫌悪な関係。しかしながら、現在の太史局は先日の『青の楽園』での失態が未だに尾を引いており、正面切って獅子王機関とやり合うことができない。

 だから、今度はこちらから獅子王機関の弱みを握ろうと画策しているのだ。

 古城と太史局の利害は一致している。

 とはいえ、当然、汚物扱いされた古城はあまり気持ちの良いものではない。

 クスクスと失笑する霧葉に、この一件が如何に厄介であるかを嫌がらせ込みで古城は教えてやる。

 現在、古城たちが相手にしなければならないのは、<空隙の魔女>だけではない、何度となく霧葉に煮え湯を飲ましてきた存在がいると暗喩で……

 

「でもその隣人の家に近づくと番犬まで迫ってくるぞ」

「望 む と こ ろ よッ!」

 

 食い気味に反応を返されて、若干古城は雪菜に寄せるように身を引いてしまう。

 

「あら失礼。任務に邪魔は少ない方が良いのは理解してるのだけど、個人的に借りは一秒でも早く返したい性格なのよ。ふふ、うふふふ……」

 

 一瞬垣間見えた攻撃的にギラつく眼光は錯覚ではないかと思うくらいに、瞬きの間に余裕のある微笑に切り替えてみせた霧葉であるも、決して見間違いではない。元来、笑みとは動物が威嚇の際の表情であったという説を、何故か今古城は思い出す。目つきが尖り過ぎる彼女が、そう温和な表情をさせられるとこの上なく違和感があって、逆に不気味なのだ。

 本当に一体何をしたんだ後輩は……!

 『青の楽園』の時とは、敵味方が逆転している状況はすぐ慣れるようなものではないが、今はそのやる気と不敵さが頼もしいと納得しておこう。

 

 

 

『■■■■■―――ッッッ!!!!!!』

 

 

 

 何か異質な音が、人工島を震わせた。その咆哮は、車内にいる古城たちにも届いた。

 始まって即終了の鬼ごっこの号砲が撃たれた。

 

「まあだだよって、延長お願いしたいんだけど、聞いてくれねぇかな?」

 

「先輩、お遊びしてるんじゃないんですから。南宮先生もクロウ君も、真剣で私たちを捕まえに来ますよ」

 

「わかってる。手加減なんてしてくれるような優しい性格じゃないってのは。でも、サービスタイムはもうおしまいか那月ちゃん……!」

 

 この咆哮は、時を数えるのを止めた、鬼ごっこ開始の合図と同じ。

 間違えようがなく、狩りの狼煙である。

 これから獲物を追うぞ、と。

 親切で無慈悲な狩人と猟犬が、逃げ惑う脱獄犯に言い放つ死の予告そのものだ。

 

「―――来るわね」

 

「ああ」

 

 思考が戦闘態勢に切り替わる。

 来る、と。

 これまでのように頼れる救援としてではない、今や脅威の象徴と化した到来の予告に、細胞という細胞から余裕が絞り出されていく。

 

 

 そして、人工島北地区の産業飛行場に向かう途中、交通量の少ない海岸沿いの道路―――“おあつらえ向き”に何もない路上の空間に差し掛かったとき、姫柊雪菜の霊的な直感が警告を鳴らした。

 

 

「止めて! 車を止めてください、早く―――!」

 

 

 困惑した運転手がすぐブレーキペダルを踏もうとしたが、遅い。

 すぐ前の路上に同心円状の巨大な網が浮き上がる。

 蜘蛛の巣によく似た、幾何学的な美しい網、そしてそれを構成するのは虚空から吐き出される細い銀鎖。

 アクセルペダルを踏み切っての全速力をすぐに殺し切れない紺色のワゴン車は、その前触れなく設置されるという反則じみた罠に正面から突っ込んで搦め捕られた。

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 逃亡している古城の支援として、ここで彼らの足止めをするのが最善だ。

 せめてこの『魔力攪乱幕』が効果を発揮している内に、魔女の方を封じ込めなくては―――しかし、そこに『魔力攪乱幕』の通じない猟犬が立ちはだかる。

 

「ニンジャマスターでも、ご主人を狙うのなら容赦しないぞ」

 

「くぅ……クロウ殿っ!?」

 

 二個目の手榴弾を投擲しようとしたところで、ユスティナに繰り出される拳の五月雨。

 神鉄の如き強度と重さを以て、厚着の少年の拳は要撃騎士をつるべ撃つ。

 その弾幕から逃れようにも、反応速度が、違う

 根本的に、人は大型の肉食獣に太刀打ちできない。

 鞭のようにしなる腕は、しかしこちらの反応を見て直角に変動する。

 放たれる速度が閃光ならば、そこからさらに変化する二の腕は魔人の業か。

 視認することさえ困難な一撃は、遊びなく相手を狩り取る。

 

「が―――!」

 

 肩口。右の鎖骨に、クロウの拳が掠っていく。

 

「は、ぐ―――!」

 

 鉄鎚の如く。そのまま肩ごと利き腕を砕き落とされたような感覚に、ユスティナは手にした電磁警棒を落としかける。

 

「―――っ」

 

 踏み止まって耐え、握り直した電磁警棒で眉間に繰り出される拳を弾く―――ことはできず、掴まれ、握り潰される。

 

 これが、宝剣<ニダロス>であれば……と悔やまずにいられない。

 しかし、この袴姿――晴れの席の衣装で帯刀することは憚れて外してしまっていた。無手でやり合うのは不利と見て、警備隊が落とした得物の電磁警棒を拾ってみたが、それではやはり無理であったか。

 ユスティナは、クロウから距離を取ろうとし―――嵌った。

 

「こちらに下がるでない! そこは―――!」

 

 ニーナ=アデラートの警告虚しく、だが、猟犬の重圧には下がらずにはいられない。

 ずぶり、と足が沈むそこは、床ではなく、沼に変質していた。

 

「ふん。このような煙幕だけで完全に封じ込められるなどとは思ってはいまいに」

 

 煙が充満した室内。

 しかしだとしても、足元の床にまで煙幕の攪乱作用は効果を発揮することはない。

 

「魔術の相性云々を語る前に、まずはそこに足が着くようになってから言え」

 

「ぬぅ、抜かったわ。終末の泥まで喚び出すとは……!」

 

 ニーナ=アデラートが下半身を埋めるそれは全ての元素を不活性状態で練り込んだ完全秩序(コスモス)の沼。“何物にも変化しない”以上、錬金術に取り込めるものはなく、底無しの虚無に囚われた錬金術師はそこから脱出することは不可能である。

 ましてや体長30cmの小人の体型では。

 

「どすこいだぞ」

 

「しまった!?」

 

 そして、片足を一機に膝まで沼に呑まれた要撃騎士は大きくバランスを崩してしまい、そこを厚着の少年がドンッと軽い感じの突っ張りで押して、尻餅をつかせ、余計に泥沼に嵌める。

 勝負あり。足止めもここまで―――いや、まだ、ひとりここにいる。

 

「まだ、不服そうだな叶瀬夏音」

 

「はい……どうしても、お兄さんを、見逃してくれるわけにはいきませんか?」

 

 切実に訴える身元を預かる少女に、那月は真剣な表情を作り、告げる。

 

「ここで行かせれば暁古城を失うことになる、と言っても反対か?」

 

「え……失う、ですか……」

 

 その言葉に夏音は呆然と固まる。そこで知識不足で話についていくことのできない夏音に代わって、ニーナが口を挟んだ。

 

「あの坊主は、神々により不死の呪いをかけられた吸血鬼の真祖ではないか」

 

「殺神兵器と読んで字のごとく、その神をも殺す存在だ。それに不死身が通用するとでも思うのか?」

 

 ふん、と面白くもなさそうな口調で、那月は説明を続ける。

 

 神と言っても、世界というシステムを造り出した造物主、という意味ではない。

 すべての人類の始祖、という意味での神。つまりは、神話にハジマリの人間として登場するものだ。

 吸血鬼の真祖と同様に不老不死の存在として設計され、そして、地上に生み落された『原初』の人間は、自分たちを造り出した神に命じられて、あるいはその神を殺して、新たな世界の支配者となる―――世界各地の神話で多く見られる類型である。

 

 しかし、その始祖たる神は、必ずしも人間側であるとは限らない。

 

 人間と魔族、その二通り存在するのだ。

 どちらが優れているという話以前として、人間と魔族はあまりに異質だ。

 同じ言語を解し、交配して子をもうけることも可能でありながら、生物としての性質が違い過ぎている。

 ならば、二つの種族が同じ神の子孫であると考えるのは不自然ではないか? 人類と魔族、それぞれ別物の始祖(かみ)が存在したのではないかと考えるのが自然ではないか?

 同じ造物主から生み出された兄弟であるかもしれない。

 

 そして、異質なもの同士が同時に存在すれば争いが起きる。神といえどそれは変わらない。

 

 始祖同士の戦争――それが『聖殲』。

 だが、その正確な実態は那月も掴めてはいない。共に滅びたか、封印されたか。或いは殺されたのかもしれない。

 ―――そう、神々を殺すための兵器によって。

 

「アヴローラ=フロレスティーナの記憶の中で<第四真祖>は殺神兵器と呼ばれていた。神々が争っていたのだ。神を殺すための兵器が造られたとしても、おかしくはあるまい? そして現存する殺神兵器は<第四真祖>だけではない」

 

 聖書にも記された海の怪物。『嫉妬』の蛇。神々が造り出したとされる最強の生物。全長数kmにも達するあの規格外の魔獣は、神話の時代の生体兵器と呼ばれていた。

 そして、ここにいる現代においてようやく完了したとされる『原罪』を負いし者。

 故に、本土に眠っているのが、そうでないとは限らない。

 

「『神縄湖』に沈んでいる『聖殲』の遺産が、その殺神兵器の一種であると?」

 

「それはまだわからん。それがどちら側か、というのはおおよそ予想がつくがな」

 

 『聖殲』の遺産には二種類ある。

 魔族の始祖を殺すためのもの。そして、人類の始祖を殺すためのもの。

 どちらにしても危険な存在であるには変わりないが、人類が人類の始祖を滅ぼすための兵器を手に入れるのは、まだましな状況と言える。

 加えて、獅子王機関は『聖殲』の遺産を掘り起こしたいと考えているわけではない。

 

 有史以来絶え間なく続く人類と魔族の争いが、数十年前に締結した聖域条約で一応の平和が実現し、最近になってようやく曲がりなりにも両種族が共存できるようになった。

 第一真祖<忘却の戦王(ロストウォーロード)>の功績や、長い戦いに人類が疲れてきたという事情もあったが、聖域条約締結の最たる現実的な理由として挙げられるのが、人類の持つ科学技術や魔術の進歩。人類の技術力は魔族との戦力と拮抗し、“今や殺神兵器まで人の手で造られるようになった”。

 だが、そのぶつかり合いが起き、共倒れとなればどうなる? ―――その結果なんて想像する間でもなく明らかだ。

 

 だから、どちらかの陣営が、パワーバランスを大きく崩すような強力な兵器(ちから)を手に入れることを、両陣営ともに回避したいのだ。

 

「獅子王機関の目的は封印だ。『神縄湖』の底で目覚めかけている『遺産』を、今度こそ完全に凍結する」

 

「なるほど、主が古城を『神縄湖』に行かせたくなかった理由はそれか。<第四真祖>の魔力と反応して、『遺産』の覚醒が早まるかもしれぬ、というところか」

 

「そうだ」

 

 獅子王機関は政府の特務機関であって、その活動目的は大規模な魔導災害や、魔導テロの防止。ならば、『神縄湖』でそんな事件が起きようとしているのなら、未然に防ごうと彼らが乗り出してくるのは、ある意味、必然である。

 

「しかし……ロクに正体もわからん殺神兵器を封印するような術式を組み立てられるのか?」

 

「そこで連中が目に付けたのが暁凪沙―――そして、殺神兵器の封印するための術式を知っているアヴローラ=フロレスティーナだ」

 

「なに?」

 

「貴様は知らんだろうが、ヤツは『原初のアヴローラ』を封印するために造られた器だ」

 

 アヴローラ――人工の吸血鬼である『十二番目』の<焔光の夜伯>は、正確には本物の<第四真祖>ではなく、殺神兵器としての呪われた魂『原初(ルート)』を封印する器である。

 『焔光の宴』を結果的に勝ち抜いたアヴローラ本人の行動にとって、『原初』の魂は消滅して、そのお役目から彼女は解放された。しかし、封印の機能が失われたわけではない。

 

「獅子王機関は、『原初』を封印するための術式を、『神縄湖』の『遺産』に使うつもりなのだな。しかし、そんな真似が本当にできるのか……!?」

 

「確かに分の悪い賭けではあるな。だが、成功すれば犠牲を出さずに済む。それに暁凪沙に憑いているアヴローラ=フロレスティーナは、肉体を持たない残留思念だ。『遺産』に与える影響は、おそらく最小限で済む」

 

「失敗すれば、どうなる?」

 

 感情を殺したニーナの問いに、那月は皮肉っぽく笑って見せた。

 

「そうだな……前例はあるのだし、上手くいけば、手懐けられるかもしれん。―――だが、最悪の場合は、戦争だ」

 

 那月の返答はひどく単純(シンプル)であって、異様な説得力があった。

 そして、その最悪の事態を想定して、獅子王機関は動いているのだ。

 

 この結論を聞き、そこに至る過程を院長様との問答でおおよそ理解した夏音は、それでも躊躇いがちに那月に訊ねる。

 

「……どうして、それをお兄さんに話さなかったのでした?」

 

「言って、本土行きを我慢できるようなヤツではないからだ。そして、それは身内も承知している。この件の黒幕は、暁緋紗乃――あいつの祖母だ」

 

「え?」

 

「暁緋紗乃は、獅子王機関が提示した『アヴローラ=フロレスティーナからの暁凪沙の解放』という交換条件を呑んだ。おそらく獅子王機関には、孫娘を救うための、何らかの策があるのだろうな。

 だが、それでたとえ暁凪沙が救われようと、アヴローラ=フロレスティーナが助かることはない」

 

 那月は冷ややかに首を振る。

 

「仕方がないことだ。あの娘はもういない。暁凪沙が命を削りながらも繋ぎ止めていようが、ただの残留思念。すでに失われた魂の一欠けらだ」

 

 夏音は、口を閉ざす。

 彼女はアヴローラのことを知らない、けれど、凪沙の体調不良のことを知っていて、それが改善するようにと祈っていた。

 でも、それが叶えられるとして、けど犠牲が出るのなら、手放しで喜ぶことはできない。きっとそれはアヴローラを知っている暁兄妹はより強く想うだろう。何か救える方法がないかと願い、一欠けらの魂であってもなくなってしまえば後悔するに違いない。

 

 だけど、暁兄妹の祖母は、それでも孫たちが救いたいと願う。

 

 ……誰も犠牲になることのない、みんなが救われる方法があってほしいと思うのは、夢想であるのか。取捨選択ができないのは、子供の我儘だとされるものなのか。

 

「クロウ君は……どうなんですか?」

 

 夏音からの問いかけに、クロウは己の中に決まっている答えを口にする。

 

「夏音。オレは、生きている方が大事だ」

 

 己の中にある絶対の優先順位に従い、クロウは暁古城の正義の悪になると決めた。

 南宮クロウは、アヴローラ=フロレスティーナを知っている。

 暁古城から、アヴローラ=フロレスティーナを守ってほしいと頼まれた。

 個人としても、アヴローラ=フロレスティーナに救われて欲しいと思う。

 だけど、やはり、生きている暁凪沙の方が大事であって、そして、暁古城が殺神兵器と戦争になって殺されてしまうのは避けることを優先する。

 すでに答えを出している者を、迷っている者が引き止めていいものではなくて、夏音にそれ以上口出しする権利はなかった。

 そんな夏音を痛ましく思ったのか、また『賢者』を封印するために犠牲となった自身との境遇に重なることがあり思うところがあったのか、ニーナは最後にもう一度だけ問うた。

 

「<空隙の魔女>よ……もし『遺産』との戦いになるのだとすれば、古城の力は必要になるのではないか?」

 

「それならば最低限、私たちの相手ができるようでなくては話にならんな」

 

 会話はそれで終わり、足止めも封じた。

 狩りを止めようとする者はいない。

 あとはこの邪魔な『魔力攪乱幕』を晴らすのみ。

 

「さあ、狩りの合図だクロウ」

 

「おうご主人」

 

 魔女が王座より重い腰を上げ、猟犬の咆哮が煙幕を吹き飛ばした。

 

 

人工島北地区 道中

 

 

 右腕を雪菜に、左腕を霧葉にガッチリと抱えられ、間一髪で古城たちは車内から脱出して、鎖網から免れた。

 しかし、これで移動手段は取り上げられてしまったわけで、そして、虚空に釣り上げられたワゴン車の屋根に音もなくそれは現れる。

 

「なにを驚いた顔をしている。逃げられない、と言っていたはずだぞ」

 

 日傘を差した豪華なドレスの女とその厚着をどこか騎士のように着こなす少年。

 

「那月ちゃん……! クロウ……!」

 

 人形を思わせるあどけない美貌を持った那月が闇色の魔力を空間に滲ませ、その脇に侍る従者の如きクロウが人狼となって戦闘態勢に移行する。

 もはや問答は無用。

 これ以上発する警告はなく―――

 

 

 真昼の空が、鈍色に染まった。

 

 

 灰色の雨雲が突如として発生した、わけではない。

 それは、空を埋め尽くすほどの鋼の豪雨だ。

 射線上の全てを捕縛すべく迫る無数の鎖。

 捕まえた相手の魔力を封じ込める<戒めの鎖(レーシング)>と名付けられた天部の遺産。

 

 絶叫を思わせる甲高い轟音が鼓膜を震わし、銀色の火花が網膜を刺激する。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 真っ先に飛び出していた雪菜が無数の鎖と相対し、槍を振るって撃ち落す。

 鎖の鋼がもたらすわずかな光の反射、わずかな風切り音に集中し、その情報を基に精密な未来を見通す霊視が開眼。

 基本的には足捌きで躱し、回避し切れないものは破魔の銀槍で斬り裂いて、しかしそれでもこちらに来るものまで含めるとすべてを迎撃するのは無理があった。

 

「跳びなさい、<第四真祖>!」

「う、うおっ!」

 

 雪菜ひとりでは、那月の攻撃を全て防ぐことはできない―――咄嗟にそう判断した霧葉が、古城の背中を押して突き飛ばし、路肩にあったコンクリート製の堤防の向こうへと送りやる。

 古城を追って跳躍しながら、三脚ケースから自身の双叉槍を引き抜き展開した霧葉が、古城を狙っていた、雪菜が取りこぼした銀鎖を払い飛ばす。

 それから遅れて鎖を槍で打ちながら後逸した雪菜が砂浜に着地。

 樹脂製の白砂を敷き詰めた人工の海岸へと舞台を移した古城たち三人は―――そこで、ワゴン車の上から消えている人物に気づく。

 

「っ、クロウか―――!?」

 

 空間転移(テレポート)の魔術によって、三人の背後、一番奥に逃がされた古城のすぐ近くに出現した。

 白銀色と蒼色の法被(コート)を羽織る、頸に枷のような大きな首輪をつけた銀人狼が、獲物(こじょう)を仕留めようと忍び寄り―――そこで、予め古城の衣服に仕込まれていた式神が飛び出た。

 

「<(かぎり)>よ!」

「<(とよみ)>よ!」

 

 剣巫と六刃の合唱に反応して、其々が古城に貼り付けていた金属製の呪符が、銀狼と黒豹へと姿を変える。

 それぞれ五体で計十体の護り。

 それも銀人狼は一薙ぎで数体を斬り飛ばす。だが、その足止めが稼いだ数秒で二槍が割って入った。

 

「先輩は、やらせませんクロウ君!」

 

 自動迎撃に設定した式神を展開させると同時に後退した雪菜と霧葉。

 クロウが『三打まで巫女への攻撃することを禁じられている』ということを知る三人は、戦法として、彼は雪菜か霧葉、もしくは二人が請け負うことにすると決めていた。

 剣巫が、破魔の銀槍を振り回しながら遠心力を味方につけ、ほとんど独楽のような体勢で連続的に斬り掛かる。さらに霧葉が、右側から加わった。妖焔なる魔性を揺らめかせる斬撃。

 まさしく嵐。

 申し合わせもしないのに、左右からの完璧なコンビネーションであった。派閥は違えど、流派は同門であるからこそ結実する、両面攻撃。

 しかし、

 

「ん」

 

 迎撃ができない以上、まともに防ぐことはできず、回避一択しかない―――そのこちらの事前予想が裏切られる。

 

 蒼銀の法被の裾をさばき、少女たちの剣さばきを前に、銀人狼は一切の躊躇いもなく踏み込んだ。

 刃圏の内側に悠々と入り込み、少女たちの動きに合わせてその手首に触れたのだ。爪を立てるのではなくその裏。軽く触れたとしか見えない手の甲が、大陸拳法の化勁を用いて雪菜のベクトルを誘導し、槍の切先を躱しつつ少女の身体を半回転せしめる。

 誘導された雪菜の身体がそのまま盾となり、一緒に斬り掛かったはずの霧葉さえ制御して退けたのは、凄まじいまでの手際であった。

 

 忘れてはいけない。この後輩もまた『八雷神法』を修める弟弟子である。

 体さばきや呼吸を把握し、武神具の得物の扱いはできずとも理解している。

 そして、師家様ではない、もうひとりの師父が基礎たる重厚な屋台骨を練り上げている。

 

「捕まえた」

 

 こちらの手首と相手の手の甲が触れているだけなのに、まるで体に力が入らない。拳法の達人が指先に小鳥を乗せたのならば、ほんの些細な指の浮き沈みで、鳥が飛び立てないようにできるというが、雪菜を操縦しているのはその逸話の再現であった。

 これは、かつて訓練生時代に<四仙拳>の指導教官に雪菜がやられたものと同じだ。

 

(ただ(はや)くて強いだけじゃない。合理的思考と直感の爆発的伸長……これが、『現代の殺神兵器』の実力(チカラ)……!?)

 

「そこをどきなさい剣巫! 彼が刺せないわ!」

 

「っ、……!」

 

 果敢に斬り掛かろうとする六刃だが、その前に立つように剣巫が誘導させられ、それで上手い具合に六刃の三撃を掠らせ(うけ)ることに成功。霧葉に対する攻撃条件を解除した。

 霊視で雪菜が操縦から逃れようとするも相手はさらにその先を読み、またその特異な嗅覚が感情まで嗅ぎ取っている。人間の術理とセンスを受け継いだ上で、別次元の演算能力と特殊能力を見せつけた。

 そして、サーヴァントが作り上げたこの隙をマスターの魔女が逃すわけがない

 

 ゴッ、と荒々しく風を巻いて虚空より撃ち出されるのは、新たな鎖。

 ただしその鎖に太さは、先の<戒めの鎖(レーシング)>より倍以上ある直径十数cm。鋼鉄の錨鎖。それはもう人間にというより怪獣の捕縛用に使われるようなサイズ。そんな大砲の砲弾に等しき巨大な(リング)が、散々二人を振り回した銀人狼が離れた直後に放たれた。槍で迎え打つには厳しい、<呪いの縛鎖(ドローミ)>の重量と速度、破壊力。

 ―――その前に、宝石の障壁が張られた。

 

疾く在れ(きやがれ)、<神羊の金剛>!」

 

 煌めく結晶の破片を散らして、撃ち放たれた巨鎖を撥ね返す。『報復』の象徴である大角羊で魔女へ逆襲―――しかし、それもあっさりとワゴン車から人工砂浜にいるクロウの肩に乗るような形で空間転移されて躱された。

 

「油断するな馬鹿者」

 

 畳んだままの扇子の先端を無造作に向けてくるそのポーズに、本能的な恐怖を覚えて古城は無意識に両腕を上げる。

 直後、顔面を不可視の衝撃波に襲われる。

 鎖により圧倒的な制圧と猟犬の奇襲ときて、息を吐かせる余裕も与えず死角からの一撃を見舞いする。

 

「ふん……少しは学習したか?」

 

 どことも知れない空間へと鎖を巻き戻し回収しながら、那月が感心したように言う。

 

「体罰反対……だぜ……くそっ」

 

 ぜえぜえ、と荒い息を吐きながら、那月を睨みつける古城。

 これまで何度となく苦汁を舐めさせられたピンポイントの空間座標で撃ってくる衝撃波を防げたのは、ほとんど偶然の産物。顎をガードして、揺れないように両腕で頭を挟んで固定していなければ、確実に脳震盪を食らって行動不能に落とされただろう。

 魔術による神出鬼没の奇襲に後方支援も得意とする魔女(マスター)と、超能力の探査と格闘による白兵戦を得意とする眷獣(サーヴァント)

 鉄板な組み合わせだが、それ故に強い。

 このまま防御一辺倒では、この主従を倒せるイメージが湧かない。

 ならば、無謀でも攻撃を仕掛けるしか活路はない―――

 

「そういや……ここにいる那月ちゃんの身体は、魔力で造った分身なんだっけか」

 

 荒く吐かれる気息を整えながら、古城は思い出す。

 南宮那月はただの魔術師ではなく、悪魔と契約した魔女だ。

 膨大な魔力を自在に操る代価として、魔女は例外なく代償を支払っている。

 彼女に課せられた代償は『眠り』だ。

 <監獄結界>の管理人として、未来永劫、『自らの夢の中で眠り続けなければならない』。

 成長することも年老いることもなく、他人と触れ合うことすらできないまま、ただ夢を見続けるだけ―――

 そう、今、古城たちの前に立っている南宮那月は、彼女が魔力で造り出した操り人形。

 すなわち<空隙の魔女>の夢の一部に過ぎない。

 

「だったら、どうした?」

 

 いまさら何を言っているのか、と那月は平然と訊き返す。

 ここにいる那月は分身体。だからこそ彼女は無敵である。物理的な手段で斃すことはまず不可能であって、分身をいくら破壊したところで、南宮那月の本体には傷一つとして付けることはできない。

 <書記の魔女>の仙都木阿夜ですら、<空隙の魔女>の本体を攻撃するためには、絃神島全土を巻き込むような大異変を起こして、<監獄結界>をこじ開ける必要があった。

 無論、古城にそんな真似はできないし、する気もない。

 要はこの分身体を破壊して、彼女を一時的に無力化できればいい。その間に後輩を説得或いは行動不能にさせ、空港に辿り着き、さっさと島を抜け出すだけだ。

 

「一応確認しただけだよ。つまり手加減の必要はないってことだよな」

 

「まるで手加減しなければ勝てるとでも言いたげだな」

 

 暁古城――<第四真祖>の力は、災厄の化身の如き眷獣で、その凄まじく傍迷惑なくらい過剰な破壊力のせいで使う状況を限定してしまうもの。

 だが、この天災に巻き込んでも問題のない相手であるなら、召喚を構うまい。

 

「悪ィけど、こっちもいろいろと背負ってるものがあるんだよ!」

 

 本気を出す―――と宣告してきた古城を、那月は、一呼吸分嘆息して、蔑むように見下した。

 

「どうやらこの期に及んで、私の場数と殺神兵器(おまえ)の性能を理解できてないようだ」

 

 その肩を椅子に腰かけている己の眷獣(サーヴァント)の狼頭に那月は肘をかけるように手を置く。

 

「解禁だ。墓守としては不本意だろうが、この馬鹿の追試に付き合ってもらうぞ」

 

「ああ、サーヴァントは、マスターに従うもの。そうだろ、ご主人」

 

「ふっ、様付けを忘れなければ上出来だったな」

 

 『魔族大虐殺』と怖れられ、<監獄結界>の番人たる『鍵』の<空隙の魔女>の夢幻に繋がれる空間制御。

 斃してきた相手を軍勢に加える悍ましき<黒死皇>の資質を継ぎ、『完全なる死者蘇生』が可能とまで称される死霊術。

 

「貴様らが“遺産”とやれるかみてやろう」

 

 主従が織り成すその魔術が、この一帯に敷かれる。

 空間を塗り替えられて広がるのは、悪夢。

 

 

「我が名は空隙。禁忌の茨をもって墓守の猟犬と主従の契約を交わす者なり」

 

 

 呪句が、女の唇から大気にほどけていく。

 その意味を聴き、呪的回路が繋がって、付随的に遠吠えを響かせる銀人狼が淡く、そして昏く、闇色に発光しだす。

 

 

「やらせるか!」

「させません!」

 

 

 少女たちが疾走し、武神具にて術の発動を妨害しようとするも、まず根本的に人狼に速度で敵わない。霊視においても、先を読まれ、感情まで読まれている。心理戦の虚構(フェイク)が通用しない。

 そして、同門だから息の合ったように見えるその連携も、人狼からすればまだ拙く粗い、ほころびが見えた。その穴を縫うように避けて、主人の詠唱を邪魔させない。

 

「そこから離れろ、姫柊、妃埼!」

 

 膨大な魔力が古城の身体より発散されるのを視て、攻魔師の二人は異世界から眷獣が現出されるぎりぎりまで粘ってから、後退した。

 

疾く在れ(きやがれ)、<双角の深緋>!」

 

 引き継いだ<第四真祖>の血より喚び出されるのは、暴風と衝撃を司る緋色の双角獣。その音叉のような双角より放たれる超振動は、学園ほどの面積内の空間を激しく震わし、一瞬で壊滅的なダメージを与えられるもの。

 南宮那月が放つ不可視の爆風も、空間そのものを震わすことで、衝撃波を二次的に発生させる単なる物理現象だ。それと同じように空間を震わし攻撃する双角獣。その力は人一人の意識を奪えるどころか、周囲全体に破壊をもたらす。

 そして、原理が似ているのならば、より力の強い方が場の支配権を奪えるというのは当然の理屈である。

 

 双角より伝播した超振動波は、魔女を肩に乗せる人狼に直撃し、霧散した。

 蜃気楼のように像が揺らいで、霧散した。古城は愕然と息を呑んだ。いくら災厄の如き力とはいえ、後輩を一撃で跡形すら残さずに消滅させるほどの破壊力はない。同じく瞠目している雪菜は、その答えを口にする。

 

「幻術―――!?」

 

 直前まで至近で槍を交えていたはずの剣巫の霊視も欺くほどの、幻像。

 いったいいつやられたのかさえも覚らせない技巧が、自身だけでなく、猟犬も含めて振るわれた。

 

「っ、やられた! 隠れられたわ!」

 

 常に目を凝らしていた六刃の霊視から消えるほどの、透化。

 北欧の装身具に書き込まれた呪的迷彩で、自身だけでなく、主人の身をも覆い隠していた。

 

「くそっ、どこだ!」

 

 それは吸血鬼の五感にさえ拾わせないほど密やかに、世界と一体化するかのような気配遮断。

 闇雲に双角獣が暴風を撒き散らすも、掠ることもなく。

 

 

「今宵は暗月、闇夜を監視する目はなく、封絶された災禍は金狼の叫びに目覚め、現世を悪夢へ誘わん」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 刹那。

 世界は、変容した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 変化は急激だったか。

 いや、むしろ“最初からそうだったか”のように自然極まりなかった。

 真昼が反転したかのような(くろ)の色が、この人工砂浜を含め、市街地から離れた一帯を埋め尽くしたのである。

 暗月の夜が訪れた。

 あまりにも静かな玄色の夜が、人通りの少ない海岸沿いの直線道路を塗り替えていくのだ。まるで電灯のスイッチを切ったように、いきなり落陽の刻を迎える。

 それは暗いというより、昏く。単なる光の有無ではなく、ある種の重ささえも湛えて、古城の肩にどっしりとのしかかってくる。この場の闇は何らかの物理的な意味合いさえ帯びているのだと、なんとなく古城も悟っていた。

 

「先輩」

 

 常夏の島であって、寒そうに二の腕を摩って雪菜が言う。

 

「ここ、時空が歪んでます」

 

「時空が?」

 

「『壺中天』と似たような一種の結界です。物理的な面積以上の広さが折り畳まれている。しかし、これほどの空間制御は……」

 

「流石は<空隙の魔女>といったところかしら」

 

 極夜の招くまま、暗月の領域はその範囲を広げていく。どうやら距離や面積といった概念さえも悪夢じみた空間制御によって騙せているらしい。

 

 そして。

 大きな明源が絶えて、常夜灯のような仄かな光しかないこの世界の輪郭、闇が盛り上がるように音もなく何体もの夜の住人が起き出す。

 見渡す限りの海一帯を、大小無数の群れが埋め尽くす。

 使い魔か。

 いいや、違う。

 地より這い上がるヒトガタは、曖昧模糊とした『影』だった。

 

「影?」

 

 雪菜が眉をひそめ、対する魔女が答えた。

 

「これまで<監獄結界>で眠らせてきた魔導犯罪者共の影、<闇誓書>の力で殻だけを再現した『ゾンビ』のようなものだ」

 

 『ゾンビ』というのは、制裁である。

 村落などの閉鎖された共同体において、罪を犯したものを罰するための一種の刑罰であった。毒薬や麻薬を使うことで、生きた人間の思考力を奪い、安価な労働力として使役する。魂魄の内の魂を奪われ、魄だけで動いている状態―――それが、『ゾンビ』

 死刑でもあり、懲役刑である。

 

 

「一匹残らず狩り尽くせ―――<魔女の騎行(ワイルドハント)>!」

 

 

 『ワイルドハント』

 妖怪、精霊、魔物、死者といったこの世のものならざる魑魅魍魎が『猟師』として、下界を駆け狩りを行う。

 戦争や疫病といった、大きな災いの前兆。

 死霊の大軍を目撃したものは、死を免れない。

 その群に加わる夢を見たか、『猟師猟犬』に狩られた者は、魂が肉体より引き離される。

 率いるとされるのは、世界を一周した海賊、騎士たちの王、北欧の主神、最初の咎人、そして、月の魔女。

 

「クロウ!」

「う。甦らせるぞご主人」

 

 古代欧州では、犬狼は守護神であり、亡霊を食らうもの。

 死体は肉が骨と切り離されるまでは、魂は解放されないと信仰があり、犬狼たちは、その肉体を食らってその者を自由にするとされた。

 北欧に伝わりし神話においては、狂戦士(バーサーカー)と犬狼は、いずれも死を表現するものであり、放浪者や犯罪者のような社会的に“死んだ”者と同義であり、『ワイルドハント』の一因であるといわれている。

 

 ここにある『影』は魂のない罪人たちの抜け殻(ゾンビ)を、現代の殺神兵器たる金狼の号令によって軍勢の一員である『猟師猟犬』と化す。

 

 <空隙の魔女>が自身の夢の異世界の中で眠らせてきた<監獄結界>の囚人の身体を<闇誓書>の力による再現を、『嗅覚過適応』で情報(におい)を嗅ぎ取った<黒妖犬>が死霊術の力でもって不足している魂――『固有堆積時間(パーソナルヒストリー)』を補強して、抜け殻の器を満たす。

 

「まずはおさらいだ」

 

 影の軍勢の先頭に立つ5人。

 老人。女。甲冑の男。シルクハットの紳士。小柄な若者。全身が黒く、色付けこそされていないが、それらはおそらくかつて古城が対峙した、『波隴院フェスタ』の脱獄犯たちだ。

 <監獄結界>でしか閉じ込めておくことができない凶悪な魔導犯罪者。

 ―――そして、古城たちが降してきた、一度は乗り越えた壁だ。

 

「そんな搾り滓の二番煎じが復習かよ! ―――<双角の深緋>!」

 

 頭部に突き出した二本の角を音叉のように共鳴して放つ凶悪な高周波振動の砲弾。

 それが命のない模造体であるのなら容赦する必要はない、手加減抜きで振るわれる<第四真祖>の眷獣を前に戦闘など成り立たず、巨大な竜巻がすべてを薙ぎ払う天災じみた光景が繰り広げられるだろう。

 しかし。

 前の時はただ的であった複製品(レプリカ)の5人とそれに率いられる影の軍勢は、双角獣の衝撃波を前に分裂した。

 

「っ!?」

 

 古城の眷獣は確かに影の軍勢を捕らえ、その半数を蹂躙した。だが、そのすべてを一撃で葬り去ることはかなわなかった。

 

 侮るな。

 かつて<書記の魔女>が創造した複製品(レプリカ)とは質も量も何もかもが違う。

 所詮は魂のない幻影に過ぎない、と。たとえ同じ能力が備わっていても、脅威度は格段に差のついた劣化品だ、などと侮ることは許されない。

 

 それは正しく魂の篭められた、狡猾に標的を狩る『猟師猟犬』であるのだから。

 

「力を雑に振るい過ぎだ暁古城。それが通用するのは真っ直ぐ突っ込むしか能がない人形だけだぞ」

 

 空中で無数に枝分かれした荊の鞭が、緋色の煌めく鬣を持つ双角獣に絡みつく。

 惨劇の歌姫――第三真祖の血統である『旧き世代』の女吸血鬼が振るう眷獣は、『意思を持つ武器(インテリジェントウェポン)』。<ロサ・ゾンビメイカー>の力は、『支配』であり、人間だけでなく、吸血鬼の眷獣さえも操ることができる。

 幉を噛ませられたように縛り付けられた双角獣が、支配能力から逃れんと暴れ馬の如く辺りに破壊を撒き散らしながらもがく。

 

「<深緋の双角>……!」

 

 制御権を奪われぬよう古城は自身の眷獣を強い意思で引き止め、惨劇の歌姫と綱引きする均衡状態に持っていった。

 ―――警戒するのは、ひとりだけではない。

 

「先輩! 危ない!」

 

 双角獣の動きが止まった―――その絶好の隙を逃さず、二本の角めがけ、兜割を下す一刀。

 甲冑の男が叩きつけた巨刀<殺龍剣(アスカロン)>は、眷獣をも殲滅する斬撃を放つ。堕ちた英雄の豪力に角を砕かれ、脳天から両断された双角獣が、苦悶の咆哮と共に全身を震わせ、突風を吹き荒らして爆発四散した。

 そして、眷獣を失い無防備になった古城は、すぐ新たな眷獣を召喚しようとして―――固まる。

 

「なっ……!?」

 

 古城は眼前にたつ紳士服の男と、目が合っていた。

 『下から伺い見る魔牛(カトブレパス)』の邪眼を取り込んだ美食家。その眼光に射された対象は、あらゆる動作を“静止”させられる。

 圧倒的な魔力を有する真祖を完全に動きを止めることはできないが、重圧をかけることはできる。

 魔力を邪眼の抵抗に回してしまっている以上、迅速な眷獣の召喚は無理があり、さらに古城へ群が一個である毒蜂の眷獣と龍殺しの巨剣が襲い掛かる。

 

「そこをどいてっ! <雪霞狼>!」

 

 身動きの出来ぬ古城のピンチを見た雪菜は、相手――魔力無効化の通用しない念動力を操る『天部』の末裔から、ある程度の被弾覚悟で強引にその暴風域を押し通り、龍殺しの剣撃を銀槍で受けた。

 しかし、少女の細い体躯で堕ちた英雄の一撃必倒の豪力を完全に受け切ることはできず、吹き飛ばされた雪菜の身柄は古城が受け止めるような形でぶつかってもつれ込む。

 

「世話が焼けるわね! <霧豹双月>!」

 

 炎精霊遣いの老人を斬り捨てた霧葉が二人の前に駆け付けると、毒蜂の群を双叉槍から放った灼熱の魔力で焼却する。

 

「姫柊、無事か!?」

 

「先、輩……」

 

 槍を盾にしても馬鹿力をもろにぶつけられた雪菜は、震える声で応えると、あらゆる魔力を打ち消す『神格振動波』を発動させた銀槍を軽く当てて、古城にかけられた邪眼の効果を解く。

 

「休んでる暇はないわよお二人さん! 次が来てるわよ!」

 

 雪菜を抱きかかえる古城をその陰で覆うのは身長3mを超え、体重は400kgに迫る巨体の人型。まるで筋肉の壁のような、凄まじい威圧感を発する巨大な魔族。

 それは『魔族特区』や『夜の帝国』でも滅多に見かけることのない、稀少種の魔族。巨人(ギガス)種族だ。

 低音楽器の響きに似た太い声で唸りを上げて迫る巨人は、背中から武器を抜いていた。巨人にとっては単なるナイフでも、普通の人間から見ればその刃渡りは大剣と変わらない。

そして、巨大なナイフは、単なる鉄の塊ではない

 古城は咄嗟に雪菜を突き飛ばし、それで回避行動が遅れた。

 

「っ、そ! またか―――!」

 

 白砂の地面が古城の周囲だけ陥没したように歪んでいく。

 大気が重苦しく軋んでいるのは、急激な気圧の変化によるもの。その変化はやがて堤防にも無数の亀裂を入れていく。

 自らを亜神の末裔と称する巨人の特性は、精霊の力を操る武器の作成。

 巨人種族の武器となるのは、巨体を支える筋力だけではない。大自然の過酷な環境に適応進化した結果、その肉体は極めて精霊と相性がよく、巨人は先天的な精霊遣いであるケースが多いのだ。

 そして、その精霊の力を用いた鍛冶の技術はアルディギアの『疑似聖剣』の原型だとも言われるもの。

 即ち、その短剣は、武器であると同時に魔器である。

 重力を操る、凶悪な魔剣。数百倍の重力は古城自身の肉体に重さ数tの負荷を掛け、わずか十cmの落差を、高度数十mからの落下の衝撃へと変える。

 しかもその超重量の影響範囲は、攻撃対象である古城が立っている場所に限定され、他の『影』へ負荷に巻き込むことはない。魔剣の効果とは無関係に古城を攻撃することができるのだ。

 

(……まだ、俺は見誤っていたというのか……?)

 

 全身を襲う凄まじい重圧に耐えながら、痛恨の思いに、古城はかられていた。

 この最後の梯子を外されるどころか、足元を突き崩された錯覚さえ感じる中で、ただただ一心に奥歯を噛み締める。歯茎を伝わる血の錆びた味が、少しだけ冷静さを取り戻した。

 

 

「もう降参か?」

 

 

 『影』は次々に数を増やしている。

 極夜をさらにべったりと塗り潰す―――単なる光の欠落とは別の何かによって、ここに形成される実体を持つ『影』。

 二十や三十ではない。

 数百どころか、千にも至ろうかという数の暴力。しかも、全体でひとつの群体の如く連携戦術を取る。

 ただでさえ個で指名手配されるような危険な魔導犯罪の実力者だというのに、司令塔の下で指揮されているのだ。

 

「まだだ!」

 

 この圧倒的な戦況に古城は危うく押し潰されそうになるが、その恐怖を振り払うべく、身の裡の魔力を全開放する。その爆発的な威力は巨人の重力攻撃をあっさりと無効化し、巨人を打ちのめすだけでなく周囲を陣取る他の『影』の群を後逸させた。

 ここでやられてしまったら、凪沙を助けに行けない―――だから、立ちはだかるものを全滅させてでも―――

 高く掲げた腕より、真祖の血と魔力を迸らせて、古城は新たな眷獣を召喚する。

 

「<獅子の黄金>―――!」

 

 全長十mを超える荘厳な猛獣。稲妻を撒き散らす雷光の獅子だ。

 <第四真祖>の『五番目』の眷獣<獅子の黄金>は、かつて人工島の一区画を一瞬で焦土に変えたことがある。その力は今も健在だ。

 そして、電気は鎖に通る。この性質から、たとえ那月が攻撃を仕掛けたところで、雷光の獅子は、その鎖を伝って彼女にダメージを与えるだろう。

 巨大な稲妻と化し、『影』の軍勢を壊滅させる雷光の獅子の突撃を止めることはできない―――!

 

 しかし、これでも那月の表情を微動だにすることもできなかった。

 古城の眷獣を見据えながら、一言、轟然と自らの影に命じるのみ。

 

「―――起きろ、<輪環王(ラインゴルド)>」

 

 南宮那月の背後より現れたのは、優雅さと荒々しさを併せ持つ、金色の甲冑を纏った機械仕掛けの黄金騎士。

 禍々しい存在感が、本来干渉しえないはずの時空を震わせた。

 闇そのものを封入したような分厚い鎧の内部より、巨大な歯車や駆動音を怪物の咆哮のように轟かす。

 

 ―――これが、那月ちゃんの<守護者>なのか!?

 

 黄金の騎士像は<空隙の魔女>と契約を交わしし、悪魔の眷属。

 <守護者>の文字通り、魔女を護り、願いを叶える力を与える。しかし、契約を破棄すれば、魔女の命を狩り取る処刑者と変わるもの。

 いわば魔女の契約そのものを具現化した存在であり、その力の強さは契約の重さに比例する。

 南宮那月の代償を思えば、彼女の<守護者>が強大であることは予想できよう。

 だが、それでも黄金の騎士像の異様な禍々しさは古城の想像を遥かに超えていた。

 

 そして、黄金の騎士像は、真正面から雷光の獅子と激突。

 

 凄まじい爆発が巻き起こり、超音速の衝撃波が海を割り―――雷光の獅子が苦悶の咆哮を上げた。

 黄金の騎士像が放つ真紅の茨――<禁忌の茨(グレイプニール)>が<獅子の黄金>の四肢へ絡みついたのだ。

 思いがけない力によって身体を捻り上げられ、魔雷は夜天だけを突き抜けた。

 

「<第四真祖>の眷獣を……力で抑えつけた……!?」

 

 戦いの行方を傍観していた霧葉が、呆気にとられたような表情で呟いた。

 正確に言えば、黄金の騎士像だけのパワーで雷光の獅子を縛りつけたわけではない。真紅の茨―――それに、魔女の眷獣(サーヴァント)たるクロウが、『嗅覚過適応』で自身の獣気(におい)を浸透させてより強靭にする『匂付け(マーキング)』を行っていた。

 主従二人の力で、<第四真祖>の眷獣を封殺したのだ。

 

「ぐ……おおおおおおおっ!?」

 

「無駄だ、暁……この<禁忌の茨>は千切れんよ」

 

 必死で雷光の獅子を操ろうとするが、この強制力は先の惨劇の歌姫の支配とは比較にならない。唇を噛み切るほど歯を食いしばる古城を、那月は傲然と見下し、

 

眷獣(それ)より、まずは自分の心配をしたらどうだ?」

 

 と、那月が肩に乗っていた銀人狼―――それが霞んで大気に溶け込んだ

 先と同じ、幻像で攪乱して注意を逸らし、『園境』と世界と呼吸を合わせて気配を断ち、呪的迷彩で姿を透化させる。

 

 六刃は、動けない。『影』の軍勢を相手している彼女に他をフォローする余力はない。

 剣巫も、同じ。少なからずの負傷を負っている彼女に迅速な対応は無理だった。

 

 そして、攻撃の瞬間まで、人狼を捉えるものは誰もいない。

 

 

「壬生の秘拳、サボテン!」

 

 

 『仙人掌』あるいは『覇王樹』と漢字で書くサボテン。

 それは彼の武帝が、不老長寿の霊験を得るために、仙人の巨像を造り、その掌に皿を乗せて、そこに集まった甘露を玉屑に混ぜて飲んでいた。手の平を差し伸べる仙人像の様と、サボテンの形と似ていたことを字の由来とする―――その名で放ったそれは、一撃必殺の“不死殺し”の技。

 

「、―――――――――――――――――がばっ!?」

 

 人狼の重ねた両掌が、古城の胴体に当てられ―――七孔噴血と弾けた。

 

「先輩っ!?」

 

 両目・両耳・鼻・口より、サボテンの針のように血を噴き出した古城は、そのまま仰向けて倒れた。

 それは、『仮面憑き事件』にて、『血に飢えた漆黒の狂獣(ブラッディウルフ)』をも仕留めたものをさらに中華拳法の『无二打』の型を取り入れることで洗練させて、ひとつの技として昇華させたもの。

 『匂付け』――己の生命力を植え付ける発香側の超能力の応用と死霊術の併用で繰り出した魔拳にて、不死と再生力の強い相手の超回復をさらに刺激して、その身を“腐らせる”。加えて“負”の生命力を“正”の生命力で“呑む”ように打ち込んでいるのだ。

 過剰なまでに増幅された超回復により回復不能のダメージを負わされ、吸血鬼には毒にも等しき聖気が浸透されたとなれば、立っていることなどできない。

 

 

「身をもって知れ、殺神兵器とはなんであるのか。そして、真祖は殺され得る存在だとな」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 荊の檻に囚われた雷光の獅子が、宿主の昏倒により、霧散消滅する。

 眷獣の実体化が解除された。すなわち、今の彼にそれほどの余裕がなくなったということ。

 

「先……輩……!」

 

 血塗れの古城を目にした瞬間、雪菜の瞳から光が消えた。

 あんなにも血を噴き出した瀕死の重体で、しかもその傷が治らない。いや、再生能力はまだ働いているようだが、いつもと比べればその速度は十分の一以下で鈍すぎる。

 このままでは、本当に、死んでしまうかもしれない。

 

「あ……あああっ……ああああああああああああああああぁ―――っ!」

 

 声を振り絞る雪菜に、獲物(こじょう)を仕留めたばかりの猟犬(クロウ)が、初めて動揺する素振りを見せた。

 悲痛とも雄叫びともつかない悲痛な絶叫だ。<雪霞狼>が目の眩むような激しい閃光を放つ。

 

「ふん。これで我を見失うとは、出来の悪い教え子がもう一人か……」

 

 その光にかき消されるように『影』の軍勢を薙ぎ払う。

 魔力を無効化する『神格振動波駆動術式』が封印され、ひとたび起動すればありとあらゆる結界を斬り裂く『七式突撃降魔機槍・改』は、魔女である南宮那月の天敵と言える。単純な戦闘能力だけならば圧倒的に那月が上だが、ほんのわずか一刺でも届けば、たちどころに形勢は逆転する。

 もちろん那月も、そのことは理解しており、そのため、槍の防御はクロウに任せており、そして巫女を攻撃の出来ないクロウの代わりに、那月が牽制攻撃を行う戦法を取っている。

 

 ギュンッ、と大気を乱暴に引き裂いて、虚空から鎖が雪菜に向けて放たれる。

 しかし雪菜はわずかな動きだけで、その鎖のすべてを撃ち落す。まるで飛来する無数の鎖の軌道を全て知っていたかのような反応速度だ。

 

「獅子王機関の剣巫の霊視……未来予知か。なるほど、よく訓練されている」

 

 言葉で称賛するが、那月の表情は変わらず落胆としている。

 

「だが、思考があまりに単純でお粗末だ。こちらから動きが読まれるようでは意味がない」

 

 純白の砂を蹴り上げて疾走する雪菜が、古城を背に立ちはだかっているように見えるクロウへと接近。

 その前の大気が歪む。

 空間制御による衝撃波の砲撃だ。

 不可視の衝撃波は、霊視でも視えない。衝撃波が放たれることは予測できても、その軌道や発射のタイミングはわからない。

 そして、勢いをつけて槍を繰り出そうとする雪菜には、放たれる衝撃波を緊急回避するには無理があった。

 だが―――それを力技で切り抜ける。

 

「<雪霞狼>!」

 

 魔力を無効化する『神格振動波』の閃光。それが作りし結界で、衝撃波を生み出す空間制御の魔術そのものを消去することで未然に防いでしまう。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 クロウへ槍の連撃を見舞いながら、厳かに祝詞を口ずさむ。

 増幅された雪菜の霊力によって、『神格振動波』の輝きがさらに増した。それは<雪霞狼>の穂先に沿って収束し、一振りの巨大な刃を形成する。

 彼女の身長の数倍にも達する、光り輝く閃光の刃だ。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 ―――でも、当たらない。

 斬り払っても、それは分身か残像。限界に活性化させた霊視は翻弄され、雪菜が全身全霊で振るった槍撃は、悉く躱される。

 ならば―――

 

「<黒雷>―――!」

 

 裂帛の気合いと共に、雪菜は呪的身体強化(フィジカルエンチャント)を発動させる。人間の限界を遥かに超えた敏捷性で、無数の残像を従えてクロウに肉薄し、閃光と化した槍撃を放つ。

 

「<黒雷(くろ)>」

 

 だがしかし、雪菜と同時に、そして同じ呪的身体強化をクロウは発動させていた。

 ただ先までのやり取りが倍速となっただけで、攻撃が当たることはない。むしろ許容限界の違う強化比率から速度の差はよりつき始めていた。

 雪菜の高速連続攻撃も、絶対に槍の射程圏に入らないクロウには届かない。一定の距離感を保って、回避行動を続けられている。

 

(っ、ここで先輩を助けようにもクロウ君を止めないと―――!)

 

 古城が目の前で斃された怒りか、それとも血塗れの古城の姿から掻き立てられる焦りからか、いつもの手法とは違うやり方を雪菜は取らされていた。

 幻術で翻弄して、隙を鋭く突き通す、という師家様が仕込んだ身体能力に圧倒的な差のついた相手との戦法とは異なる。そのような悠長なことなどしていられない。

 とにかく、一撃。

 『過剰神格振動波』を身体に刻みつけて、クロウの行動を封じ込める―――!

 

 あらゆる魔術を打ち消す効果を持つ破魔の銀槍は、当然ながらそうした魔術に頼るものの天敵として機能するわけだが、戦うのが初めてか、二度目以降かで脅威度は大きく変わるだろう。

 平たく言えば、特性さえ理解していれば攻略法の組み立てようはある。

 

「はぁ―――はぁ―――!」

 

 考えなしに霊力を注ぎ込んだ結果、瞬発的に凄まじい猛威を振るった雪菜だが、問題は継続力。

 これほどの術式を、遮二無二になってずっと使い続けていられるのか?

 前提からして、雪菜よりもクロウの方が圧倒的に体力を有している。

 それで初めから攻撃の選択肢を取る気のないクロウが、戦闘力を全て防御・回避に回して、この猛攻に付き合えば、果たしてどれだけもつか?

 しかし全開の霊力を注ぎ込んで『神格振動波』の結界を張り続けなければ、不可視の衝撃波にて仕留められる。

 これでは分ももつのも怪しいくらいだろう。

 

「ん。ご主人」

 

 消耗具合を測ったクロウが、主人に合図を送る。

 虚空から周囲に落とされる小さな獣。見た目クマのぬいぐるみに似ている、二頭身の可愛らしい獣の群。

 それらは見た目に反した敏捷性を有し、かつ自爆戦法をとる魔女の使い魔(ファミリア)だ。

 使い魔たちが槍に振り回され始めた雪菜の四方を囲んで、爆発させ、衝撃波を撒き散らす。

 当然ながら、爆発地点から近ければ近いほどダメージは増す。距離を取った状態で行っても破壊力は減衰され、有効な打撃を与えることは難しくなる。

 しかし、それで構わない。

 大事なのは未来を先読みしても回避しようのない制圧を心掛けることで、小さくとも積み重ねれば、確実にダウンさせられるのだから。

 そして、霊力のすべてを攻撃に回してしまっている雪菜は、防御が華奢な女の子も同然の紙装甲に薄い。

 また、気づかせぬよう少しずつスピードを上げているクロウを速度設定(ペースメーカー)にして追い縋っていては、もうすぐに身体は限界を迎えるだろう。

 

「そんな(オモチャ)に頼っているから、肝心なことを見失う。未熟だな。養成所で一から鍛え直してきたらどうだ」

 

 無呼吸で長槍を振り続け、視野狭窄に陥りかけている雪菜がついに体勢を崩して転びかけたところで、虚空から銀色の槍が放たれる。膝が震え、槍を白砂について体を起こそうとしている雪菜に、その鎖を防ぐ力は残されていない。四肢を鎖に搦め捕られて、為す術もなく動きを封じられる。

 あとはこのまま、<雪霞狼>の能力をもってしても自力での脱出は不可能な<監獄結界>に連れ込んでしまえばいい。

 雪菜は必死に抵抗するが、今の荒い息を吐いている彼女には銀鎖から逃れられるだけの体力は残っていない。

 

「終わりだな」

「いいえ、まだよ」

 

 古風なセーラー服に赤いカーディガンを着た少女が鈍色の刃を振り抜き、雪菜の四肢を戒めていた銀色の鎖を焼き斬った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「邪魔してごめんなさいね。『黒の剣巫』とも呼ばれる六刃神官としては、見習いとはいえ本家・獅子王機関の剣巫に、あっさりと負けてもらっては具合が悪いのよ」

 

 口で謝りながらも悪びれずに微笑するのは霧葉。くるりと陽炎に穂先が揺らいでいる双叉槍を旋回させて、その切先を那月、からクロウに向ける。

 あからさまな宣戦布告の仕草に、那月は短く鼻を鳴らす。

 

「教え子に余計なことを吹き込んだのは貴様か。太史局の小娘」

 

「あら、そんなちんちくりんな見た目の魔女に小娘だなんて言われたくないわね。殺すわよ―――」

 

 本性剥き出しにした好戦的な口調で言いながら、霧葉は横目で雪菜を見る。

 拡縮を繰り返す胸を押さえ、懸命に息を整えようとしながらも、未だに立つ気配のない古城の容体を気にかけている雪菜を眺めて呆れたように嘆息する。

 

「それで、すぐに動けそう? 私ひとりでこの二人を相手にするのは命懸けなのだけど」

 

 現状、まだ余力を残しているたったひとりの霧葉に、雪菜は言いにくそうに応える。

 

「―――すみません、妃崎さん。三分、時間を稼いでもらえませんか?」

 

「は!?」

 

 あまりにも身勝手な雪菜の依頼に、霧葉が眦をつり上げた。

 

「ふざけてるの!? たった一瞬の攻防でも数年寿命が縮む綱渡りなのよ? それを足手纏いを庇いながらなんて、随分と無茶を言ったものね!」

 

「わかってます。でも、お願いします」

 

 抜き身の苛立ちをぶつける霧葉を、真っ直ぐに見返して言う雪菜。

 その頑なな雪菜の態度は、まだこの状況でも諦めていない。瞳に強い光を宿して、底をついていたはずの霊力がまた湧き上がってくる気配に、霧葉はまた一度嘆息して、

 

「あなた……存外いい性格してるわね。<第四真祖>に少し同情してよ」

 

 皮肉交じりの捨て台詞を残して、霧葉は構える槍に“それ”をセットする。

 

「鏡か……」

 

 那月はわずかに目を見張る。

 鏡を使った魔術は、洋の東西を問わずに存在する。

日本の各地から銅鏡が発掘されたりするように、三種の神器のひとつに選ばれるように、今も占い師が鏡を使うように、はたまた多くの都市伝説に合わせ鏡やお手洗いの鏡が登場するように、魔術の発展には鏡という存在は欠かせない。

 

「時間稼ぎはいいけど―――別に倒してしまってもいいんでしょう?」

 

 

 

 くるり、くるり、と指と手首の小さな動きのみで槍を二度ばかり回転させてみると、双叉の狭間に嵌めた円鏡(ディスク)が光を反射しては角度によって輝きの色を変える。霧葉の目には、包囲する『影』も、宙空でこちらを見下す魔女も、入っていない。少女の瞳、そして鏡に映るのは、真っ向で相対する彼ひとり。

 

「……ふふ」

 

 六刃は、微笑む。

 何らかの歓喜を込めた口元であるはずが、ひどく、歪んで。

 どんな感情によって導かれた表情であるのかは、とても認識し難い。

 敵意、憎悪、憤怒、いずれとも該当していそうで、外れている。

 敬意、親愛、憂愁、いずれとも該当していそうで、外れている。

 でも、いずれにしても―――対象に執着していることだけは確かだ。

 

「ふふ、ふふふふ」

 

 笑みが深くなり、足元で影が伸びた。

 炎が、周囲に立ちこめていた。おおよそ人の頭ほどの赤々と揺れる鬼火が、霧葉の影を伸ばす。連続的に出現した鬼火は、十を超え、二十に至っても止まらなかった。ずらずらと並んだ鬼火は、古めかしい灯籠にも似て、この極夜を妖しい光で照らしあげる。

 

『妃崎が起きた時には全部終わってる。だから、眠ってろ』

 

 あの時、敗北を喫したが、それを燃料としますます勢いは増すばかり。

 狙い定め一度■したものを逃すことのない、獰猛の刃として、完成されていた。

 

 その鱗に生え変わる手が、愛おしむように鬼火の表面を撫でた。じりじりと見るものの肌を焼くほどの熱量がそこから放たれているのに、少女の指は火傷どころかほんのりと熱くなることもなかった。

 

 この身の裡に抱える情念の方が熱いと言わんばかりに。

 

「ええ、終わってた。<レヴィアタン>も、“獣王(アナタ)の監視役も”、色々と終わっていたわね」

 

 ぞろり、と少女の額に、半透明の“二本から三本に増えた角”が生えた

 会えない時間に育まれた情念は灼き尽くす炎となりて肉体の外へと溢れ出て、六刃は般若の如き魔性の角を生やして<生成り>を発現する。

 

「……ご主人、オレ、何か妃埼がすごく怖いのだ」

 

「厄介なのに目をつけられたのは同情してやるが、男なら自分が撒いた火種くらい処理しろ馬鹿犬」

 

 若干引き始めた主従に構わず、霧葉は双叉槍を振るいその名を唱えた。

 

「<霧豹双月>ッッッ!!」

 

 ただシンプルに、そして確実に。六刃が双叉槍を横薙ぎに振るった直後、世界の傷口から鮮血が溢れるように怒涛の勢いで炎が殺到した。神社仏閣の鐘を融解させるほどの大火力が直線的な鉄砲水のように暴れ回る。呑み込まれたものを焼きつくし、ぐずぐずに崩し、原形すら奪う情念の煉獄。

 それが一筆書きのように白砂の地面に円陣を描いて、雪菜と古城たちを遮断する鬼火の結界を築き上げた。

 

「本気で、ひとりで相手をするつもりか六刃?」

 

「いいえ。私ひとりではないわ」

 

 振るった双叉槍から円盤が射出される。

 高速で回転するディスクから、立体映像(ホログラム)が浮かび上がるように、“それ”が現れた。

 

「―――<(とよみ)>よ!」

 

 それは、式神。

 “魔力を複製(コピー)する”太史局の調伏兵器に取り付けられたのは、式神用の魔具だ。

 

 体長2m近い銀の人狼。

 白銀色と蒼色の法被(コート)を羽織り、ただ、枷のような大きな――魔女の所有物(サーヴァント)だと示す――『首輪』はあえてつけられていない。

 そう、クロウの前に現れたのは―――

 

 

「誰だお前?」

 

「……<黒妖犬(ヘルハウンド)>」

 

 

 ―――『南宮クロウ』だった。

 

 

 

つづく

 

 

 

黒妖犬服属日記

 

 

 

 オシアナスガールズの元気一杯の最年少、イメージカラーは黄色のラナ。

 リーダーのヴィカの決定で、単身で『黒妖犬の服属』にするということになった。

 これも自分たちを『戦王領域』に売った祖国への下剋上のため、有能な駒はひとつでも多く必要であるとかで、『王族のものの命令に二回続けて逆らえず』、『三度の攻撃を受けるまで巫女に攻撃できない』という“いかにも自分たちに扱いやすい”黒妖犬を従えようという話になった。

 こちらから攻撃しなければ、安全。だから、ひとりでも大丈夫でしょ、とみんなは言うけれど、必ず反抗されないわけではない。一度の拒否権はあるのだ。そして、変に無茶な事を言って機嫌を損ねれば、契約を破ってまでこちらに害するかもしれない。ヴァトラー様の側近さえワンパンチKOしたというし、もしそうなったら、私は絶対に死ぬ。

 

 だから、諾否のラインを把握するためにも小さなことからコツコツと確認するという目標を掲げて、この仮初の学園生活を行うことにした。

 

 

 

 12月〇日 朝のHR後

 

 ミッション1『教科書を貸してもらおう』

 

 イメージカラーは黒なヴァレリアの案だ。

 メンバー内でも良心的な彼女は、無茶ぶりなんて振ってこない。きっと幸先のいいスタートを切れるようにと考えてくれたんだろう。これなら私でもいける!

 

「ねね、クロウ君、次の時間の教科書忘れちゃったの。だから、貸してくれないかな?」

 

 そして、席隣だし一緒に見よう、とごく自然に誘うのだ。

 これで、お願い事を受けやすくさせると同時に黒妖犬のパーソナルスペースに接近する―――一石二鳥の作戦だ。

 

「? 何だ、ラナ。お前って意外とドジなんだな」

 

「えへへー、ラナ、実はちょっとドジっ子みたいだったり」

 

 そんなわけがない。生き馬の目を抜く王族社会でそんな不注意を侵すなんてありえない。これはアイドルという鳴物入りで転校してきたところで完璧でないと演出して、あえて隙を見せて、親しみやすくさせるアピールなのだ。

 

「あ、それならあたしが教科書貸してあげるよラナちゃん! はい!」

 

「え」

 

 黒妖犬の席の後から、暁凪沙が、こちらに教科書を差し出してきた。

 自分たちが最もターゲットにしている<第四真祖>暁古城の妹であることから、あまり彼女には強く出づらい。無碍に断り辛くて対応に困る。

 

「あー、凪沙ちゃん。クロウ君とは、席が隣だし、机を寄せれば一緒に見れるし……無理に凪沙ちゃんから借りることはないかなー。凪沙ちゃんも教科書は使うでしょ?」

 

「そうだぞ、凪沙ちゃん。次の教科は凪沙ちゃんの苦手な奴だし、教科書なかったら大変だろ?」

 

 よし。

 これならあとは自然の流れで行ける―――

 

「それに、オレ、教科書は予備があるからな」

 

 と机の上に同じ本を二冊出した。

 ……あれ?

 

「え……クロウ君、教科書ふたつ持ってきてるの?」

 

「ん。ここ最近、なんか私物がなくなるからな。念のために予備を持ってくるようにしてるのだ」

 

 だからはい、と教科書を渡される。

 

「あ、ありがと……」

 

 命令は成功したけど、作戦は成功したとは言い難い結果になった。

 

 

 12月〇日 授業中

 

 ミッション2『保健室まで運んでもらおう』

 

 イメージカラーは青のマルーシャの案だ

 メンバーの中でも乙女なマルーシャは、この絃神島に来てから情報収集(少女マンガ)を怠らず、年頃の男子の扱いに詳しいという知恵者。弱っているところを見せて、頼りにするというのが男心をくすぐるポイントなのだとか。

 

「ごめんなさい……少し、気分が悪くて……クロウ君、保健室までお願いできる?」

 

「? そうなのか? 別にいいぞ」

 

 連れ込んだ(運んでもらった)保健室という密室空間では、イベントが発生するとマルーシャは豪語する。……原理がまったく理解できないけど、そういう法則があるらしい。

 

「それなら、あたしが保健室まで付き添おうか? お世話になってたから保健室のことならよく知ってるし」

 

 とまた妹様から立候補される。

 こちらからは断り辛いんだけどさっきと同じように、黒妖犬から『保健室に連れてくくらいオレにもできるから大丈夫だぞ』と言われると、引き下がってくれた。

 よし。

 それから、よよよ、と立ちくらみがしたように、黒妖犬にしなだれかかるように身を寄せて、教室を退場。ただその際、あからさま過ぎたか、同じ教室にいる古城様の将来の正室候補である姫柊雪菜に訝しんで視線を送られたが。

 

「風邪っぽい感じはしないんだけど、疲れてるみたいだなお前」

 

 廊下を歩く際、こちらの身体を支えながら、『あんまり無茶するなよー』と素直に心配される。そう、仮病ではないのだ。アイドル活動だけでなく、兵器の扱いや電子戦の練習とか王女生活だったころにはしなかったようなことを日夜してるのだから仕方がない。

 だから、正直保健室で休めるのはありがたかったりするのだ。

 ……しかし、この黒妖犬、どれだけ媚を売ろうにもまったく効果がないように見える。古城様は水着姿に慌ててくださったのに、少し胸を押しつけてもまったく動揺しない。年頃の男子は、狼だと。実際、黒妖犬は狼系の獣化ができるようなのだけど。まったく異性の意識がないように見える。『朴念仁』と情報収集した際に、クラスの女子からそう評されているのを聞いたことがあるけど、まったくその通りだ。

 

(……そういえば、黒妖犬は、古城様とただならぬ関係と聞いたことがあるわね)

 

 そう、『彩昂祭』という文化祭で、演劇中の舞台に乱入して愛の告白をしただとか。

 ―――まずいそれは!

 『戦王領域』の人質にされたけどアルデアル公が女性に対して興味がないので全く手が出されず、若くも行かず後家の心配をしているこの現状。

 これでターゲットにしている古城様までアルデアル公と同じだったら、自分たち全員死ぬまで生娘のままではないだろうか?

 だめだ。そこまで女として終わってしまうのは絶対にイヤだ。

 

(聞くところによると、迫っているのは古城様であって、黒妖犬はそれに流される受けだとか。古城様の好みがたとえアブノーマルであっても、黒妖犬がノーマルであれば問題はない)

 

 ならば、ここはもっと押すべきか?

 

 よし。

 この時間には保健の先生がいないことは調査済み。

 二人きりの空間で迫れば、流石のお子様黒妖犬でもこちらを意識するはず! かつて王女で今は仮にもアイドルなのだからしないとこちらの女子としてのプライドに多大なダメージを受ける!

 

「アスタルテー、ラナが気分悪いみたいだからよろしくなー」

 

命令受託(アクセプト)

 

 あれぇ?

 保健の先生はいないけど、代わりに白衣を着たメイド――人工生命体(ホムンクルス)がいた。

 そして、その白衣メイドはこちらを診察(観察)するように一瞥して、

 

「―――状況把握。ミスラナは私に任せ、先輩は教室にお戻りください」

 

「う、アスタルテに任せれば安心なのだ。頼んだぞ」

 

 ちょっと待って……と。

 こちらが制止をかける間もなく、黒妖犬はごくあっさりとこちらの身柄をその白衣メイドに預けて、一度も振り返ることも後ろ髪引かれるようなこともなく教室へと戻っていった。

 

 一応命令は成功したけど、作戦は上手くいかなかった……

 

 

 12月〇日 休み時間

 

 ミッション3『校舎裏に呼び出そう』

 

 イメージカラーは白なミスリナの案だ。

 メンバーの中でも肉食系なミスリナは、躾の進捗があまり進んでいない不甲斐なさにこちらを叱咤してきた。そもそも、この手の輩に変化球なんてまどろっこしいことは通用しないのだから、ストレートに言うのが一番手っ取り早いのだとか。

 人気のないところに呼び出して、『私のイヌになりなさい!』とか言ってやればいい。もしそれで断られても、戦王領域流のジョークだと言って誤魔化せば問題ない。

 いつも黒妖犬を手玉にできたのかとか、ヴァレリアやマルーシャは手緩いとか言ってせっついてくる。だけど、速攻で勝負を決めたいというのには賛成だ。

 

「ここに来てって言われたけど、なんか用か、ラナ?」

 

 来たようね、黒妖犬。

 パンッ、と頬を自分で叩いて気を入れ直す。

 ここはドジっ娘な演出とか儚げに媚びるとかいう弱々しい要素はいらない。そう、傲慢に、高圧的に、上から目線でやるのだ。今まで作ってきたのとはギャップがあって、その威力はきっとすごいはず……そう考えれば、これまでの作戦も無駄にはならないと思えてきた。

 

 よし。

 今度こそやるぞ。

 舐められないよう強気に、ビシッと黒妖犬に指差して、

 

 

「南宮クロウ、私のものになりなさい!」

 

 

 ―――言った。言ってしまった。

 でもこれが上手くいけば、『黒妖犬服属』完了で、一気に下剋上を―――

 

 

 どてっ、と物音。

 

 

「あいたたた……」

 

 見れば、そこに校舎裏のやり取りを立ち聞きしていた人影が尻餅をついていた。

 そう、それは……

 

「あたしが運痴だってこと忘れてたけど、咄嗟に、動けないなんて、どんだけ……」

 

「暁凪沙! ちゃん……!?」

 

 最もやりにくい人物――暁凪沙である。

 こちらに呼ばれて、慌てて立ち上がった古城様の妹様は服や足についた砂を払うと、わたわたと首を横に振り、

 

「あっ、あの、きっ、聞いてないからねっ。私のものになりなさいとかどうとか、全然、まったく、これっぽっちも聞いてないからっ」

 

 驚くくらいに嘘下手である。もう、思わず突っ込みたくなるほど、ぼろ出し過ぎである。

 なんか、もう瞳がグルグルしてて、物凄くパニくってるのがよくわかる。

 

「ごめんねっ―――」

 

「あっ」

 

 そのまま暁凪沙は逃げるように校舎裏から去っていった。

 

「凪沙ちゃん―――」

 

 そして、それを追い掛けていきそうな黒妖犬。

 それに慌てて待ったをかけた。

 

「ちょっと、まっ、待ちなさいっ。私、まだ答えをもらってないわ。今すぐ跪きなさ―――」

 

 “お願い”の効力が働いたからか、黒妖犬は立ち止まった。

 ここで何にも頷かれないままでは困る。こっちは命懸けの一世一代の大勝負のつもりだったのだ。だから、<禁忌契約>を逆手に取った強権を働かせてでも―――

 

「ごめん、お前の話、よくわからんから、あとにしてくれ」

 

 と言い残し、黒妖犬はスタスタ行ってしまった。

 何の躊躇もなく『王族の頼みごとを二度続けて破る』という誓約を破り、呆気なく『獣王』の力を封じられて―――“そんなことよりも”、暁凪沙が心配だというように。

 

 

 ……命令に失敗。作戦も大失敗に終わった……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「えーと、えーとえーと……ラナちゃんがクロウ君に私のものになれって言ってて……それってつまりラナちゃんはクロウ君のことが……」

 

「おーい、凪沙ちゃん」

 

「く、クロウ君……!? え、何で凪沙追ってきてるの!?!?」

 

「むぅ。転んだから大丈夫か心配して……なんか、まずかったか?」

 

「へ、あ、うん、あ、ううん! だっ、大丈夫だけど、そ、その、こっ、こっち来ちゃっていいの? なっ、何か大事な……話……してた……みたい……だけど……」

 

「……大事な話? そんなのしてたのか?」

 

「あ、あれ? だって、ほら、さっきラナちゃんが、私のものになりなさいって告白して……たよね……?」

 

「??」

 

「何で首を傾げちゃうのかなクロウ君っ!?」

 

「よくわからないけど、オレはご主人の眷獣(サーヴァント)だから、ラナのものになるつもりはないぞ」

 

「えっ!? そっ、そういう意味、だったのかなあれ……え、っと、じゃあ、あたしの勘違い……??」

 

「それよりも、やっぱり足を擦り剥いてるぞ凪沙ちゃん。ばい菌はいる前に消毒しないと大変だぞ。保健室まで連れてくから、背中に乗っかるのだ」

 

「あ……うん。よろしくお願いします……!」

 

 

 12月△日

 

 

 先日の『黒妖犬服属』作戦は失敗に終わった。

 でも、どうにか立て直すことはできた。

 言葉を尽くして、『私のものになりなさい』と言ったのを、『友達になってください』という解釈に曲げさせた。

 流石に無理があるかなー……と思ったけれど、そこは人の言うことを素直に受け入れてくれた黒妖犬のおおらかな性格に助かった。

 それと、暁凪沙より、『黒妖犬(クロウ君)のことを気にかけているみたいだけど……』と尋ねられたが、そこは、『肌の色が似てたから、つい同郷の人かと思って、話しかけやすかった』と答えて、ひとまず余計な軋轢を生まずに落ち着けたと思う。

 ただ、これは振り出しに戻っただけで、それと『黒妖犬服属』作戦がいかに難しいのかを思い知らされた。

 これはまず、あの<空隙の魔女>に対する忠誠心とやらをどうにかしないと引き抜きは無理っぽい。そもそもあの北欧アルディギアの王族から何度も勧誘されているのに断っているというのだから、没落した元王族の小娘の誘いに乗るわけがなかったのだ。

 結局わかったのは、自分ひとりじゃとても無理だということである。

 

「ねぇ、『黒妖犬服属』の作戦はどうなってるのかしら?」

 

 イメージカラーは赤。自称メンバー一の魔性の女で、年長(19歳)のヴィカが進捗を訊いてきた。

 とりあえず、何も進歩がないというのは、流石に言えないし、『友達になることはできた』と報告した。

 

「そ、まあいいわ」

 

 とあまり期待でもしてなかったのか、あっさり流すヴィカ。

 ……そちらもいろいろ(19歳)と誤魔化して学園に入学したのに、古城様との関係が全く進展していないようだけど。

 

「黒妖犬は、アルディギアとの結びつきが強いのよね?」

 

「そうらしいけど……どうしたの、ヴィカ」

 

「これを見てちょうだい、ラナ」

 

 前に投げ出された雑誌記事に掲載されているのは巷で『ドラゴンキラー』とか騒がれている『オシアナスガールズ』のライバル――『ミラクル☆カノン♪』の特集だった。

 

「この容姿、間違いなくあのラ=フォリアの関係者ですわ」

 

 まだ売り飛ばされるまでの王女であったころ、ヴィカが社交界のライバル視していたという北欧の姫御子。その世界的にも多くのファンがいるというお姫様と似ている綺麗な銀髪と蒼色の目は間違いなく、リハヴァイン家のものだとリーダーは言う。

 

「アルディギアと懇意にあるという黒妖犬なら、この新人アイドルともコンタクトができるはずでしょう」

 

「えー、っとヴィカは何を……」

 

「まだわからないかしらラナ? これはラ=フォリア=リハヴァインの策略よ。ええ、きっとまた何か腹黒いことを考えているに違いありません! だから、その活躍はなんとしてでも阻止しなければならないのよ!」

 

 口角泡を飛ばす金髪美女。

 こうなったらもうメンバー最年少のラナに逆らえるわけがなく、

 

 

「黒妖犬を通して、新参者と渡りをつけ、何としてでも、私達、『オシアナスガールズ』とイベントでアイドル勝負をすることを了承させるのよ! そして、ラ=フォリア=リハヴァインに似た『ミラクル☆カノン♪』をコテンパンに負かして公衆の面前でみっともない恥を晒させ、うなぎ登りな人気を幻滅させる! 『出る杭は打ち抜く』作戦ですわ!」

 

 

 

つづく?



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逃亡の真祖Ⅴ

回想 ラーメン屋

 

 

 イブリスが言うような“怖さ”とかいうのはないぞ。

 

 オレ、古城君をあまり怖いと思ったことがない。

 

 眷獣が暴れるのは大変だけど、古城君はあんまし強くないのだ。

 

 でも、すごいと思う。

 

 これは、古城君が第四真祖になる前から思ってたことなのだ。

 

 きっとああいうのを、“逞しい”って言うんだな。

 

 本気になった古城君を諦め(負け)させることはすっごく大変だ。

 

 だから、敵に回したくないけど、もし戦うことになったら、絶対に手は抜かない。

 

 遠慮するのは古城君に失礼だからな。

 

 

人工島北地区 道中

 

 

 まさしく瓜二つの様はドッペルゲンガー―――世界に三人といない二重存在、出会ったら、その死は免れないという……

 

 <霧豹双月>の『複製した魔力を基に対象を式神化する』追加兵装<神獣鏡>

 鬼道術を極め、古代の極東を治めた邪馬台国の女王が大陸より贈られた魔具は、ひとつの世界を図分化した銅鏡であった。

 その鏡の裏には、神像と獣像とを半肉彫したものを主として組み合わさった魔術的に深い意味を持った紋様が描かれており、それら稀代の女王に与えられた古代技術を現代に技術にて再現昇華させたもの。

 式神―――双叉槍で複製した魔力を元に創り上げた、鏡合せの式神。

 

「―――この数ヵ月、監視対象から採取した全てのデータに先ほど剣巫との奮戦をも投射記録して、たった今、完成させた」

 

 神殿ひとつを電子チップに封じ込められる現代の技術革新ならば、ディスク一枚に、媒体情報を書き込むことができるか。

 

「そうそう、実は私、前から言ってみたかったことがあるのよ」

 

 くすり、と手を口元に当てて、少し驚いたように瞼をわずかに大きく開く那月に向けて、細めた双眸を送り、霧葉は挑発する。

 

「―――これは、“私の式神(サーヴァント)”」

 

 それに対し、大人な魔女は、頬に触れる髪を片手でさっと梳いて払い流し、薄い薄い薄い――隣に立つ眷獣(サーヴァント)の頬が引き攣るほどの――笑顔を作る。

 

「調子に乗ってるな。一度尻を叩かなければ目上に対する礼儀というものを理解できないようだ。気が変わったぞ馬鹿犬。お前に女の手切れはまだ早いみたいだから、特別に私がやってやる」

 

「ご、ご主人、様……!?」

 

「あら、ご主人様だなんて堅苦しい呼び名でなくて構わなくてよ。霧葉、と呼んでちょうだい」

 

 那月は霧葉からクロウの方を見た。

 ギロリ、と擬音がしそうな勢いで、眼球だけをそちらに向けて、

 

 ぶんぶんっ!? ―――三面と分身するくらいの勢いで首を振るクロウ。とにかく主人の機嫌が急降下して怖い。

 

「玩具にはしゃぎたくなるのは理解してやるが。贋物でそこまで浮かれてるとは、お子様(ガキ)だな六刃神官」

 

「ええ、これは偽者。だけど、偽者が本物に敵わない、なんて道理はないでしょう? この私が創る『獣王』が、どれほどのものかを見せてあげる」

 

 ただ一声。

 咆哮が、轟く。

 『南宮クロウ』の式神の遠吠えで、包囲していた『影』の軍勢はピタリと氷結させられたかのように静止させられる。『影』を生み出すのは那月だが、抜け殻の『影』を蘇らせ、群を指揮していたのはクロウの死霊術だ。

 そして、その命令を打ち消せるほどに干渉が働いたということは、この式神はそれだけ真に迫っているものなのだろう。

 

「我が影は、霧にして霧に非ず、刃にして刃に非ず。

 斬れば夢幻の如く、啼哭は災禍を奏でん―――」

 

 式神を召喚すると、祝詞の詠唱を紡いで、霧葉はその姿を完全に消した。巫女の霊視をもってしても存在を感知させない、恐るべき完成度の呪術迷彩。

 それを探知できるのは『嗅覚過適応』をもつクロウ―――しかし、式神が霧葉を追わせる余裕を与えない。

 

「ん……本当にオレのそっくりさんだなそれ」

 

 自分と同じ姿をした鏡写式神を見つめる眼差しはただ静かで、怒りはおろか厳しさすらない。それが鏡に映る自身の姿なのだともわからないような知能指数の低い獣ではあるまいに、平然(けろり)とした顔をしている。

 

「寡黙で利口そうだな。池に落として正直に答えれば交換してくれるか?」

 

「ご主人、オレが本物なんだぞ!?」

 

 と少し眉を上げて感想を漏らす那月に、泣きながら訴えるクロウ。

 そんな自分の眷獣(サーヴァント)に、無関心であるような一定口調で那月は言う。

 

 

「なら、勝って本物だと証明してこい馬鹿犬」

 

 

 ゴッッッ!!!!!! と。

 規格外の両者の足元で、人工浜辺が爆発した。姿形が全くの同一の、『首輪』の有る無しでしか見分けがつかない、クロウと式神が最短距離で激突するべく超疾する。そうしながら、すでに戦いは始まっていた。クロウの咢から魔力砲が迸り、霊弓術の手裏剣を奔らせ、それらすべてまったく同じ動作で式神が撃ち落す。

 この正確無比な狙撃銃と弾数に物を言わせた散弾銃を打ち合うような牽制の応酬。

 烈火のごとく、火花散る。

 よくできた音楽のように響き合う同質の魔力。

 絶え間なく、際限なくリズムを上げていく。

 両者ともに一撃入れるごとに間合いを詰め、停止することを知らない―――否、敵を食らうには先に進むのみだと、炯々と眼光が線を引く貪狼の双眸が告げている。

 そして、ゼロ距離まで到着した直後に、パパン!! と鈍い音の交差があった。

 

「<拆雷(さく)>! ―――<若雷(わか)>!」

 

 薄皮一枚にまで生体障壁を絞り込んだ全身をぶつけるよう肩と肩で体当たりが激突し、感電したかのように光が肩から全身に走り抜ける。接触しただけで相手の身の裡に浸透するとんでもない魔力の込められた一撃。

 それから間髪入れずに、半歩分ほど弾かれ開いた間を抉り込むよう、または民謡曲の手遊びのように両者の軽い連打が全く同じ動作で相殺し―――渾身の右掌底も弾かれた。

 だが両者とも動きは止まらない。右掌底と同時、次の命令を脳から神経に発してあった。それが時間差で発効し、硬直していない左手でまた掌底打ちを放つ。

 がッ! とお互いの掌が打ち合わされ、光が――視覚できるほどの魔力の猛りが瞬き、その衝撃で意識がはっきりする。クロウは、そして式神は、反射的にお互いの手首を掴んだ。

 

「どうやら単なる見かけ倒しじゃないっぽいな」

 

 片手がお互いの腕を()って繋がれる。

 そこから、お互いを捉えたまま体幹を狙って熾烈な殴り合いが始まる。

 

「―――」

 

 今やそこは真空に近い。

 廻り渦を巻く撹拌し、周囲の空気を巻き込んで、近づけばそれだけで切り刻まれそう。

 普通ならあっという間に決着がつくはずの距離だが、巧みな重心移動で互いの姿勢を邪魔し、アクロバティックな体技で爪先をぎりぎり肌へ滑らせる。間断なく鳴り響く空を切る音さえなければ、自身の尻尾を追いかけぐるぐる回る犬のように見えたかもしれない。あるいは、狂おしく尾を食らい合う螺旋の蛇に。

 だが両者の身体は少しずつ傷つき、肉が削げ飛び血を撒き散らす。

 

「『力・技・スピードに、攻撃パターン―――どれも本物と互角。少なくとも相打ちは免れないわよ』」

 

 透化隠行にて自らの姿を隠すことで那月の動きを封じていた霧葉は不敵に笑い声をどこからともなく木霊させるように響かせる。

 戦闘パターンも実力もおそらく同等。

 ほぼ互角の打ち合いは―――本物と偽者、精神があるかないかの違いから均衡を崩した。

 

「そうか。なら、簡単だな」

 

 熊手同士が激突、指と指を挟み込むように組まれ、それまで自由にさせていた右腕を握手して捕まえる。

 がっぷり四つに組む。

 だが、膠着状態とはならなかった。

 

 ずおおおおおッ、と。

 巨大なジェットエンジンのような音を立てて、空気を吸い込む。

 胸が、まるでバルーンのように膨らんでいる。

 

 

 ―――           ッッッ!!!!!!

 

 

 それは人の耳には聞こえない高周波の遠吠え。

 人の肺活量では絶対に届かないゼロの爆音。それを一直線に超音波の形を整えて撃ち出した。

 “聞こえない”というのは、“存在しない”というわけではない。

 派手な効果はなかった。

 光も音もない。

 少なくとも、周りで見ていた雪菜や霧葉たち“人間の”五感では。

 

「っ!?!?!?」

 

 至近で真正面からぶつけられた、それも人より優れた五感を持つ獣人種の式神(クロウ)は、ぐわんっ!! と頭が、全身が目に見えない何かにかき回された。ケースの中で振られたゼリーのように、脳みそがぐらぐらとする。

 咆哮は耳ではなく頭蓋骨を骨伝導で揺さぶり脳震盪を起こす。<第四真祖>の超振動の化身である緋色の双角獣が、局地的に発生したようなものだ。

 

「<伏雷(ふし)>」

 

 クロウに引っ張られて体勢を崩し、反射的に伸ばされた式神の膝をクロウの蹴りが打ち据える。

 膝の皿を砕かれれば、生体的に動物は立てなくなるものだ。そして、この式神は生体構造までも無駄に再現されている。

 

「所詮こいつはさっきまでのオレなら、今のオレの方が当然強いのだ」

 

 屁理屈だが、要は気持ちの問題であった。

 脚の利かなくなった式神にクロウ必殺の爪拳が振りかぶり、『疑似聖拳』を発動させた手刀がその片腕を斬り裂く―――

 

「忍法雷切の術!」

 

 

 式神の右腕が切り飛ばされて―――クロウは弾かれたように真後ろに飛びずさった。

 

 

「『まだ、これからが本番よ』」

 

 

 片腕のない、完全なる黄金の獣。

 <神獣化>までも再現した式神が、巨大な金狼となり、その強靭極まる膂力で左腕を振り回されたらいったい何が起こるのか。

 

「    っ     、        !!!」

 

 記憶に空白があった。

 気が付けば、クロウは浜辺から浅瀬まで押し飛ばされていた。

 完全に神獣の爪撃を免れていたはずなのに、だ。強靭に圧縮された生体障壁と筋肉で固められる両腕から血が滴っていた。

 

「っ!」

 

 クロウはまた弾かれたように動いた。直後、吹き荒れる嵐のように片側が欠けた非対称な巨体が猛然とこちらに爪撃を連続で見舞う。金色の体毛に覆われる左腕の爪拳が閃光と化し、風の唸りよりも早く空気を裂き、海を割る。

 そう、切断。クロウがあの片腕を犠牲に(あきらめ)逆襲(カウンター)された際に負ったのは切傷だ。

 届かなかったはずの、空振りに終わったはずの反撃が一体なぜ―――その答えは同時に弾けた白い飛沫。

 この人工浜辺に敷き詰められている白砂が、飛ぶ斬撃の正体。砂をすくい、『匂付け(マーキング)』を浸透させて左腕を力任せに振るう。それだけで、工業用カッターのように横一線に風景を薙ぎ払っていた。

 

「馬鹿力なとこまでそっくりだな!?」

 

 犬の砂かけも極まると鋼も引き裂くブレード化するものらしい。

 我が身に受けてよりその出鱈目さ加減を身に染みて思い知らされる。鏡写式神の膂力というより馬鹿力は平素の常識を覆す域にあるところまでも模倣(コピー)されている。

 

 膝の皿を砕かれた片足が、巨獣を支えることはできても高速で移動することは敵わないと判断してか、その場から動かず固定砲台となって、式神はこちらに連続して砂塵の斬撃を放ち続ける。

 

「忍法畳返し!」

 

 一芸(わざ)として昇華させた『嗅覚過適応』の発香側応用編のひとつ。

 腰辺りまで沈めている海面を打ち、生じた水壁に『匂付け』で固めさせる。それも神獣の膂力で放たれる砂のブレードを前にしては易々と二等分断されるものだが、それでも水を吸った砂は泥となり、勢いはいくらか減衰してしまう。速度の落ちた砂塵の斬撃ならば見極めて回避できる。

 そして、今、戦っているのはクロウだけではない。

 

「偽者も手癖の悪い、躾甲斐のある馬鹿なところまで同じか」

 

 人ではなく、怪物を。

 そして、捕縛ではなく、殴殺する巨大な錨鎖<呪いの縛鎖>。

 直径十数cmに長さ数十mにも達する何百tもの重量による打鞭が、その左腕の届かない右側から迫って、不動の巨獣を打ち据える。

 

「調教に鞭打ちなんて、随分と古いのね魔女」

 

 これまで身を隠していた三つ角の鬼女が、式神の右肩に腰かけている姿を現し、砲弾の如き錨鎖に武器を持たない左手を向け、

 

「<火雷>―――!」

 

 <生成り>の高密度に凝縮した魔性の呪力を、陽炎の鉄槌のように叩きつけて、那月の一撃をはじき返した。

 

「こそこそと隠れてなくてよかったのか、小娘?」

 

「余裕をかましたその態度。剥ぎ取ってあげるわ―――どちらが彼をペットにする飼い主に相応しいかを証明してね」

 

 容赦なく、巨大な錨鎖を虚空から射出する那月だが、霧葉と式神が炎の渦に包まれる。

 そして、鬼火の幕が晴れたとき、そこにいたのは体長十mもの“角の生えた”巨狼であった。

 依然と式神の肩に座る六刃が、<生成り>の呪力を式神へ『嗅覚過適応』の吸引側応用編である『香纏い』をさせたのだ。

 

 鬼角もちの魔狼と成った式神が腕を地面に突く。

 これから放たれる一撃の反動に備えて。

 

 圧倒的な破壊力を秘めた神獣の劫火(ブレス)

 それに“標的を逃さない”情念の鬼火を混じえて放つ、精密誘導機能を搭載した核弾頭ミサイルと称すべき咆哮。

 放たれれば、避けようがなく、防ぎようのない、その災禍。

 

 ならば、息を吸い込む溜めの時間に仕留める―――!

 

 虚空より<呪いの縛鎖>と<戒めの鎖>が一斉掃射され、式神と六刃を封殺せんと迫る。

 大小すべての鎖は、三つ角の鬼女の炎獄にて融かされ、弾かれ、魔狼の身を縛りはしない。

 ―――やはり、神殺し凶狼を捕縛せしめるのは、真紅の茨か。

 

「私に<輪環王>を使わせただけでも誉めてやろう、六刃神官」

 

 白砂を巻き上げ、地中から発生した<禁忌の茨>。十mを超える鏡写式神に縛りかかると、地面にひれ伏せさせるように浜辺に縫い付ける。

 巻き上がった砂をかぶった霧葉を見下ろして、那月が淡白な口調で評定を下すに言い放す。しかし、たかが赤点を超えたくらいで満足していると思われるのは不服とばかりに、じりじりと真紅の茨に焔が纏わりつく。

 

「拘束した程度で勝った気にはならないでちょうだい! まだ―――」

 

 神社仏閣を焼き払う魔性の炎が真紅の茨を喰らわんとし、鬼角の魔狼もまだ完全に屈してはおらず、咢を開けんとしている。

 だが、<第四真祖>の眷獣をも封殺した<禁忌の茨>から逃れられるのは許されず―――また猟犬がいる。

 

「対魔獣戦闘の専門家(エキスパート)であるなら、飼い犬に火吹きの蛮行ではなく、これくらいの魅せられる芸を仕込んでみせるんだな」

 

 海を走り抜け、空を駆け昇る。

 獣そのものの速さと(しな)やかさをもつ脚の発条(バネ)を跳ばす。

 己の敏捷さを存分に(いか)す金人狼がいるのは地上ではない。だが、それ以上の自由度で彼は移動していた。

 

「まさか、衝撃波を足場に―――!?」

 

 空間衝撃を足場に、空中移動。

 サーカスの曲芸なんてものではない、八艘跳びの如き神業だ。

 巫女の霊視であっても、測りとることができない不可視の衝撃波の軌道やタイミングに万分の一の誤差なく阿吽の呼吸を合わせて踏みつけ跳躍する魔女の猟犬。

 この主従の連携は即興のものではない。覆しようのない年月があり、そして絶対の信頼の上で成り立っている

 先の同門の剣巫たちの即興で合わせてみただけのコンビネーションとは、比較にならない、その息の合いよう。

 

「ご主人!」

 

 まるでコマ送り、それこそ瞬間移動のように、真上を陣取り―――そして、重力を味方につけての急降下する金人狼。

 その振りかぶった右腕に黄金の騎士像が嵌めていた鎧籠手が装着される。

 『約を違えたときには片腕を喰らえ』と契りを結んだ主人より貸し与えられた力を纏いて、その籠手には標的の頭部と口に轡を噛ませる幉のように繋がれた真紅の茨が握られる。

 

 ギュンッ! と『匂付け(マーキング)』を通し、獲物の巨体を縛り上げる茨が更に刺々しさを増して絞め付けを強め、そして、限界まで伸び切って解放された逆バンジーのように急激に縮まり引き寄せる弾性の勢いも落下速度に加算される。

 

 瞬間最高速が音を超え、金色の閃光と化し、己の偽者に鉄槌を下す。

 

 鎧籠手に包まれた拳骨が魔狼の頭蓋――に生える角を狙い振り落とされた瞬間、それに追従するように雷撃が迸った。

 一点を中心に人工島北地区一区画を1m以上沈める。単に白砂の層だけではない、もっと根本的な固い地盤そのものを、だ。

 学校の敷地面積クラスで地盤沈下させる破壊力を一身に受け、さらに角を砕かれたままの勢いで肩から袈裟懸けに斬り裂かれた式神は、<神獣化>が解かれ、そのままぐらりと砂地に伏す。

 致命寸前、戦闘不能にする傷を与え、“血肉臓器体内構造まで精密に再現された”式神は、像がひび割れて、飛び散った。

 

 

 

 

 

「獲った!」

 

 霧葉の表情に満面の表情が浮かんだ。

 

 

 

 

 

「っ……!? う、ぐっ……!?」

 

 己の偽者を叩き潰したクロウが崩れかかる。

 膝をつきそうになる身体を懸命に堪えるクロウは、大きく揺らぐ視界の中で、霧葉の笑みを見た。

 

「これで止めよ―――<霧豹双月>ッ!」

 

 『乙型呪装双叉槍』の切先から収束された熱量が迸る。それこそ何千度という熱を一点に絞り込んだ―――鉄や岩でも構わずに溶断するほどの光だった。

 しかし、それがクロウの身を貫くことはなかった。

 黄金の騎士像がその身を盾にして受け、そして、放った拳圧で霧葉を吹き飛ばした。

 

「呪い――受けた傷を共有させる原呪術か……やってくれたな、六刃神官」

 

「ふ、今更気づいたのかしら」

 

 一撃を受けながらもなお口元に笑みを湛える霧葉の表情は、那月に一杯食わせられたのが、嬉しくてたまらないというよう。あまりの嬉しさに脳内麻薬が分泌され今受けた痛苦をも忘れさせた。

 

 本物に近しい偽者を使役して相打ちにさせる―――それは、虚偽の狙い(フェイク)

 <神獣鏡>の一度限りの奥の手。

 それは、本物と影響し合うほどに精度を高め、二重存在とした鏡写しの式神が負った傷を共有させる類感呪術。

 『丑の刻参り』にて、呪いの藁人形のような代物であった。

 

「完全に<神獣鏡>が破壊されては発動できなくなるから、タイミングを測るのが難点だったけど、成功だったみたいね」

 

 さあ、あとは魔女ひとり。

 霧葉は再び呪術迷彩を発動させて、その身を透明化する。呪符で魔獣用の罠を設置した策を練り。獣王を破った勢いで、魔女を仕留める―――

 

 

 

 

 

 とんっ、と。突然全く気取らせずに伸ばされた人狼の大きな手が、双叉槍を持つ腕を捕まえるように握りとった。

 

 

 

 

 

「え……」

 

 そこにいたのは霧葉と同じ、透明化し気配遮断して標的に忍び入る銀人狼。

 致命傷を類感させる原呪術で降したはずの霧葉の斃すべきと定めた目標が、霧葉を捕まえていた。

 

「―――」

 

 桁違いとはこのことか。

 これで斃せるとまだ常識に当てはめていた己の思慮を怪物殺しの専門家は呪う。しかし彼が普通じゃないのはわかっていたが、それにしてもこれは並外れていた。

 鏡映しの原呪術は発動に成功した。

 致命打を受けたダメージを返されながらまだ戦闘続行できるなんて矛盾してるではないか。

 

「早まったな。“一度倒したくらいで私の眷獣(サーヴァント)は壊れん”。注意を外すなら、完全に止めを刺してからだ」

 

 一昼夜、何度も致命打を叩き込み続け、『焔光の宴』にて何度となく<焔光の夜伯>の素体たちの災厄を受けきってきた、その“頑健(しぶとさ)”を飽きるほどに見ていた<空隙の魔女>は語る。

 まだ、終わっていない、と。

 

(しまっ……!?)

 

 如何に多大なダメージを与えられたからと言って、人が虎に密着すればどうなるか。

 魔獣の狩人はそれをよく知る。

 『乙型呪装双叉槍』を押さえられた腕が、ピクリとも動かない。赤いカーディガン――<火鼠の衣>も、海水でびしょ濡れの身体に抱き着かれていて濡れている。水をかけると弱まってしまう『火鼠』の特性上、その毛皮でつくられた装衣は乾くまでその効果を発揮できなくなる。つまり、火耐性のための魔具が働かなくなった以上、このまま<生成り>の炎を発言させれば我が身も火達磨になる危険性がある。いや、今、考えるべき今日はそんな自滅などではなくて―――

 

(すき)……(だらけ)……だぞ」

 

「―――っ!?!?」

 

 南宮クロウは、<霧豹双月>を封じたり、<火鼠の衣>を濡らしたり、なんてことは考えていなかった。

 未だ頭が激しく揺れている酩酊状態の彼が、狙っているのはひとつ。華奢な六刃神官全体、少女の身体そのもの。

 妃埼霧葉への攻撃はすでに三打を掠らせ、誓約の制限が外れている。

 だから、何の阻むものもなく。

 逞し過ぎる左腕一本で、腕を掴んだまま引いて背中から抱くような形で霧葉の身体を抱き寄せた。そして、“完全に捕まえてから”人狼は鬼女の耳元に(息も絶え絶えで小さくなってしまう)囁きを零す。

 

「信じてた、のだ。霧葉のこと……(絶対にただではやられないって)」

 

 だから、耐えられた。

 いつ来るのか、何をするのかもわからないが、とにかく恐ろしいのを知っていたからこそ、警戒し、致命打にも意識を備えることができた、と。

 そういう意味で信頼は築かれていた。

 

「ああ、本当に、強い……ご主人に助けてもらわなかった、ら、倒されてたぞ……霧葉は、すごいな」

 

「ぁ、だめ……なに……今更……そんなことを言って……!」

 

 心の底から恐れ(ほめ)ながら、抱き締める。

 強く強く強く、両者の距離を正真正銘の0mmにまで縮める。

 

「だめだ。……絶対に逃がさない……」

 

「ふぁ……だみぇょ、みにゃみやくりょう……これ以上は―――」

 

「いいや、油断しないぞ……霧葉は、オレが……全力で……仕留める」

 

 強い言葉。そして、あまりの締め付けの強さに喘ぐ霧葉は、大きく息を吸う。

 瞬間、このしばらく香断ちされた、癖になる匂い(におい)が、ここのきて鼻腔いっぱいに―――

 

 飢えをも強さに変えるその執念。

 しかしながら、それは一本の刀をより鋭く薄く鍛造していくかのように、守りを犠牲にして得たものであって、折れ易くなっている。つまり、折角ついた耐性が意味をなさなくなったということ。

 人は痛苦に虐げられることよりも、餓欲が満たされるような快楽には抗いがたく、弱いものである。

 また、前回通じなかった術を、負けず嫌いな性分のある彼はさらに磨きをかけていたりする。

 

 甘過ぎる快感だけではない、何の理由もなく胸中に湧き上がるもうひとつの感覚は、恐怖。言いようのない不安と戦慄が、霧葉の意識を混濁させ、前後不覚に陥らせる。

 

 

「忍法おいろけ改―――五車の術」

 

 

 喜怒哀楽に恐怖――合わせて五車の心理を突く忍術。

 異性フェロモンの甘い匂いで酔わせるだけではなく、その逆の不安な気持ちを煽る警報フェロモンをも交互に発生させる。

 いわゆる、飴と鞭――もっと詳しく語るなら、吊り橋効果も盛り込んだ感情操作の緩急を覚えた。ただ頑張って我慢するだけで防げるようなものではなくなったのだ。

 それを誰に教えられるまでもなく、雑学を特集していたテレビ番組から得た知識で、ジャコウネコ科獣人種の本家よりも効果倍増な発展技を思い付いたその天性は末恐ろしいものがある。それもあくまで“相手の動きを封じるためだけの実用面しか”考えていないから、ある意味たちの悪い発想力だ。

 

「あぁん、ああっ! んあっ! だみぇ! あぁぁぁ、こんなところで、ふぁぁぁんっ!?!?!?」

 

 それは一瞬で脳裏にフラッシュバックが駆け巡るような、肌寒い不安感の後にくるからより強く覚える、格別な陶酔感に達して―――ピンッと指先爪先を伸ばす一瞬の硬直の後、強張りが弛緩した。

 

 

 精神を落とした直後に。メキメキメキメキメキメキメキィ!! と物理的にも絞め落とす凶悪なサバ折り(ベアバック)の圧搾音が浜辺に鳴り響いた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「やり過ぎだ馬鹿犬」

 

「あぐっ!?」

 

 心身ともに腰砕けにされて、戦闘不能にされた六刃。以前、この状態で放置したのかと思うと、この眷獣(サーヴァント)の女難は、こいつ自身にも責任の一端があるなと理解した。このままいくとヤンデレ製造機になるんじゃないだろうか。

 那月は主人の責務として、軽くクロウの頭を扇子で叩いて躾する。

 

「いいか。その似非忍法は封印だ。命の危険がない限り、絶対に使うな」

 

「う~、霧葉には前に通じなかったから、五車の術を考えたのに……」

 

「本当に不純な動機が一切なくやらかすお前の将来が私は心配になってくる」

 

 そして、鬼火の結界は消沈して、そこにあった光景に主従は脇に逸れかけた思考を直ちに修正。

 いたのは、獅子王機関の剣巫。

 銀色の槍をだらりと右手にぶら下げたまま、ぼんやりと立ち尽くす姫柊雪菜は、瞳から一切の感情を失くして、凪いだ湖の水面のように那月たちの姿を映している。

 

 妃崎霧葉が命懸けで稼いだ時間を使い、雪菜は何をしていたのか?

 策を練った様子もない。罠を仕掛けてあるように見えない。ただ、放心したように無防備で立っている。

 美しい肌に艶やかな唇。常識外れに整い過ぎた顔立ちが異形の人外を想起させ―――芒と瞳に光が灯る。

 

「―――“それ”はすぐに止めさせるぞ!」

 

 雪菜の変化に気づいた主従が揃って、これまでにない焦りの感情を浮かべた

 舌打ちした那月は即座に、構えもなく立っている雪菜に向けて、弾丸のように銀鎖の雨を放った。

 前後左右上空と360度すべての方向から数十本の鎖が同時に撃ち込む。

 人間の反応速度で処理できる量を大幅に超えた完全包囲に、しかし雪菜は無言のまま、ただ身体を揺らすような最小限の動きで九割の鎖をすり抜け、破魔の銀槍を一閃させて、残り一割を斬り払う。

 文字通りの神業。

 

「やれやれ、<神憑り>に入るとは……あの堅物を追い詰めすぎてしまったようだな」

 

 魔女と猟犬の主従にもはや打つ手なしと詰んだ状況に、雪菜が選んだ打開策が、『神降ろし』だ。

 剣巫は魔を滅する剣士であると同時に、優れた霊媒資質を持つ巫女である。

 それが強大な神霊の器となり手身に宿し、人間の限界を超えた力を手に入れるという極限の裏技が<神懸り>。

 容易に使える力ではなく、わずかでも制御をしくじれば巫女の人格は破壊され、二度と正気に戻れなくなる。

 

 姫柊雪菜は、この主従を倒すため、そして先輩を助けるため、多大なリスクに迷わず<神懸り>を決断した。

 

「なんだ、これは……?」

 

 那月は驚愕に目を眇め、そしてすぐ息を呑んだ。

 空間制御の魔術が発動しない。実体化した『影』の軍勢も空に溶け込むよう薄らいでいく。

 この暗月の極夜に降り注ぐのは、花弁を連想させる白い雪―――その正体は、『神格振動波』の結晶だ。それらは見る間に数を増して、漆黒の天蓋を漂白させるように空間を覆い尽くしていく。

 <神懸り>によって膨大な霊力が流し込まれるだけでなく、同調率が人間に許された限界を超えてまで高められた<雪霞狼>が人工神気を結晶化させるほどに純度を増している。

 その純白の結晶は那月の魔力を無効化し、魔術の発動を防ぎ、この大結界を崩壊させんとする。

 

「この神霊は……そうか……これが<第四真祖>の監視役に貴様が選ばれた理由か……しかし―――」

 

 無の表情である教え子の気配に、反対的に那月は表情を険しくさせる。

 

「トランスが深過ぎて戻れなくなってるとはな……! 大馬鹿な教え子であるには変わりない!」

 

 <雪霞狼>を操るのではなく、<雪霞狼>に操られている。雪菜は<神懸り>で得た霊力を、自分の意思で使いこなしていない。使いこなせないほど力を求めすぎた。彼女は自らの中に降ろした神霊を、完全に御していないのだ。

 

 このままでは、この大結界が崩壊しても『神格振動波』の結晶は止まらず、この絃神島に掛けられている維持魔術までも打ち消し、住まう魔族たちも浄化させる。一切の不浄を許さない、魔族特区を壊滅させる破魔の災厄となりかねない。

 

 

OAaaaaaaaaaaa(オアアアアアアアア)―――!」

 

 

 人ならぬ慟哭をあげて、穂先に集う閃光の刃が一回り巨大化する。

 同時、『七式突撃降魔機槍・改』を掴む右半身の片腕と片足に電子回路のように浮かんでいた銀色の模様が、光り輝いた。模様の範囲が徐々に拡がっていき、全身へと染み渡ろうとしている。

 また右腕から飛び出した触手が分厚い翼となって、長槍の柄を滑っていき、武神具と一体化。侵攻は停滞することなく、異様な姿へと変わっていく同級生を見て、『混血』の少年は霊的中枢(チャクラ)七門を花咲くように開かせ、仁獣覚者に等しき霊核まで上げる<神獣人化>を発動。

 “天の御使いを滅ぼさんと”殺神兵器の機能を全開に廻す。

 

 正気に戻るまで、一秒でも長くこの結界を維持して、失敗した<神懸り>の被害を抑え込んでいなければならない以上、<空隙の魔女>に<守護者>を出す余裕はない。

 故に―――相手するのは<黒妖犬>ただひとり。

 

「馬鹿犬、あの大馬鹿娘を引っ叩いて、起こしてこい!」

 

「合点承知!」

 

 主人の掛け声を背に受けて接近する金人狼。

 それを迎え打つは、槍の刺突。

 親しい友人であっても、躊躇なく。確実に急所を貫かんとする高速の一刺。

 それは確かに恐ろしいが、しかし軌跡が点である以上、見切ってしまえば躱す手段はいくらでもある。

 正確無比に急所を貫きに来た槍の柄に手刀を打ち込み、わずかに軌道を逸らせばそれだけで踏み込む隙ができよう。

 

 ―――時間が巻き戻ったかのような奇蹟が目前に。

 

「迅いッ!?」

 

 弾かれた槍を、立て直すその動作。

 こちらが一歩踏み込むよりも先に繰り出された一撃は、最初の刺突よりさらに加速している。

 それもサイレント映画であるかのように、あまりに静かすぎる。一切の迷いの無駄のない、その集中力。

 “匂い”が限りなく希薄になり、感情を喪失させてることで、その技量は無我の境地に至るか。

 

「―――っ!」

 

 神懸った槍に戻りの隙などない。

 いや、そればかりか鋭さも威力も際限なく上がっていく槍突きは、空振りでさえもこの魔女が結界を敷く領域を侵犯する域に達している……!

 槍を突き出す動作が、その延長線上に『神格振動波』の結晶が吹き荒れて、地面と海を真っ二つに割いた。

 激しい地響きと水飛沫が人工浜辺を襲い、漆黒の天蓋にひび割れが生じる。

 

 人から更なる上位の存在に進化しようとする彼女に、人の定石など通用しないのは当然であったか。

 息もつかせぬ連撃を捌くことなど誰にできよう。

 金人狼はかろうじて後退しつつ弾き、結果として、両者の距離はわずかに開く。

 その間隙。

 離れた間合いをさらに助走とし、さらなる強撃を放つ―――!

 

Kyriiiiiiiiiii(キリイイイイイイイイイイ)―――!」

 

 喉より甲高い絶叫を迸らせて放つ嵐のような連撃は、槍を突き出す動作の繰り返しに過ぎない。

 だが、それも今や際立って、神域の技と昇華しつつある。

 もう十合。

 いや、実際にその数倍はいっているか。

 直線的な槍の豪雨は、なお勢いを増して金人狼を百殺せんと振り続ける。

 

「ぬぅっ!」

 

 苦悶の声を洩らす。

 先ほどは余裕ではないものの、通常時の剣巫の槍を捌くにさほどの労をかけなかった。

 しかし、この神懸る槍には駆け引きなど通用せず、瀑布のように圧倒する。

 もとより点に過ぎない槍の軌跡。

 それが、今では閃光と化しているのだ。

 迫り来る槍の穂先が獣の目をもってしても視認できるものではなくなった。

 得物を振るう腕の動き、その足捌きさえ、すでに不可視の領域に加速しつつある。

 

 そして、南宮クロウは三撃を受けるまで反撃すれば、制約を受ける。

 だが、このすべてが『過重神格振動波』の槍撃では、一撃その刃を掠らせただけで、魔の獣性が抑え込められることになる。そうなれば、もうこの次元ではついていけなくなるだろう。

 しかし、後退し続ける金人狼に、剣巫へ近寄る術はないのだ。

 

 攻撃こそ最大の防御と金人狼は何もさせられない。

 だがこの攻撃一極化に攻めているのは、向こうが『こちらは三撃まで反撃が誓約に許されない』ことを計算に組み込んでいるからこそ。

 

 

Kyriiiiiiiiiii(キリイイイイイイイイイイ)―――!」

 

 

 決定打を刺し込めないことに焦れたか、刺突を止め、振り払う構えを取る片翼の天使。

 長柄の利点は自由度の高い射程と間合い。更に閃光の刃を巨大として射程を伸長。

 身を引いて躱す、などという防御を許さぬ、長さに物を言わせた広範囲の薙ぎ払い。

 半端な後退では槍の間合いから逃れられず、かといって無造作に前に出れば、槍の長い柄の餌食になる。

 

 この槍の間合い―――旋風のように振り回される攻撃範囲に踏み込むのは難しい。

 だが、詰めなければ勝機は掴めない。

 

 

「ご主人ッ!」

「ちっ―――」

 

 

 空間衝撃の援護が放たれる。

 姫柊雪菜ではなく、己のサーヴァントである南宮クロウの背後に。

 強烈な後押しは、神懸った霊視の予測を上回る速さで金人狼をその懐に潜り込ませ―――暴走状態の彼女に左掌打を打ち込んだ。

 

「オレの目覚ましはきついから、歯を食いしばれ!」

 

 左の手の平に肉球型生体障壁を纏いて放ったのは、“気を呑む”一打。

 <四仙拳>の師父より学習した『二の打ち要らず』が、体内に浸透する人工神気を“喰らう”。

 

「―――ぁ」

 

 息を吹き返したように、感情を失くしていた雪菜の瞳に正気の光が戻る。

 自我が浮き上がるほどに神気の濃度が下がったからだろう。右腕より生える翼は剥がれて、普段の姿に戻っていた。人間離れした端整だった顔立ちも、年相応のあどけなさを取り戻している。

 そして、右腕から剥がされた片翼が、制御を失って暴走する―――

 そう思われた瞬間、

 

 

「―――疾く在れ、<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>!」

 

 

 飛来した巨大な二つの咢が、その余分な神気を欠片も残さず呑み込んだ。

 内と外と手に負えないほどの量があった神気が消失し、ついに雪菜の<神懸り>が完全に解かれて。

 ―――そこを狙い澄ましたように撃ち放たれた、不可視の衝撃波に揺さぶられて、彼女の意識を断ち切られた。

 

 

 そして、世界は夜が明ける。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 金属と樹脂を剥き出しにした岸壁。統一された規格による人工的な街並み。空は広く青い。見慣れた人工島の景色である。

 

 <魔女の騎行(ワイルドハント)>が解除され、<空隙の魔女>も『神格振動波』の結晶にて幻像を保てなくなったのか、この色の戻った白砂の浜辺にはいなかった。

 

 覚醒直後、無我夢中に眷獣を召喚して、回復してきた魔力もほとんど使い果たした半死半生。身体の状態も最低限動ける機能だけを残しての満身創痍だ。

 

 それでも。

 

 まだひとり、残っている。

 

「ク、ロウ……」

 

 目覚めたばかりで、状況を把握し切っていない。

 砂浜には倒れ伏した協力者の六刃と味方の剣巫が昏倒していて、そして古城が眠っていた間にも死闘を演じてボロボロの手負いの獣だけが目の前に立つ。

 

 

「……いつまでボケっと突っ立ているつもりだ」

 

 

 強い意思が篭められた声。

 主人がいない夜明けの世界で、その後輩――殺神兵器は、最後の障害として自分の前に立ちはだかった。

 利害も怨恨もない。危険な道を行く教え子/先輩を止める。そのためなら悪役でも買って出る。これまで相手してきたのはそんな主従だ。

 だから、暁古城はこれを避けては通れない。

 

 

殺神兵器(オレ)は、倒れてないぞ!

 後輩(オレ)は、認めてないぞ!

 眷獣(オレ)は、負けてないぞ!」

 

 

 クロウの筋肉に力が籠る。

 眷獣を喚び出せるほどの力もないが、向こうも獣化もできないほどに弱っている。

 自分たちにできることなどこの拳を相手に叩きつけることだけ。

 残されたのは技術も駆け引きもない、本能で生きる獣のように敵を叩き潰す殴り合いだ。

 

「来ないならこちらから行くぞ!」

 

 地を蹴り、一直線に敵は己を討ちに迫る。

 

「、は―――」

 

 こっちにはまだ歩けるほど足が回復してない。

 腰を落とし、正面から襲いくる敵の胸元を見据え、

 

「、らあああああ―――!」

 

 躱しようのないタイミングで、渾身の一撃を見舞わせる……!

 だが、白けるほどに単調な攻撃に過ぎないそれは身を沈めて躱され、突き出した右拳は宙を切って無防備に隙を曝したところを、逆に衝撃を胸元が穿った。

 

「ぐ、っ―――!?」

 

 瀕死の重体であるところに、致命打を受けた箇所に容赦なく。

 視界が真白に切り替わる。映像も意識も、白く。

 ―――しかし、追撃はなかった。

 

「……?」

 

 白みが抜けた視界に映ったのは、片膝を引き摺っている立ち姿。

 攻撃は避けられた。そもそもそんな足を狙ってなんかいない。

 これは、古城が倒れている間に負ったもの。霧葉と雪菜が彼に蓄積させてきたダメージ。それが今の上下の屈伸で響いたか。

 

「ハ■ア■ァ―――ッ!」

 

 噛み締める表情で古城を睨む眼光は衰えず。

 頽れた姿勢から猛獣のように地面に手を突き、鍛え抜かれた肉体は、一秒後の爆発に備えている。

 

 ここまでの展開に運べたのは、九分九厘彼女たちだ。古城ではない。

 万全ではないのは向こうも同じだとわかっていたが、これだけのいい条件(ハンデ)をもらっておいて、先にギブアップすることができるか……!

 

「は―――」

 

 目を背けず、火花じみた速度で真っ向から迫る敵を迎え入れた。

 地を擦る砂塵を撒く左アッパーが脇腹肋骨を打つ。腹に拳がめり込み、一瞬、古城を宙に押し上げた。

 だが、次は意識を飛ばさず、古城は咆えた。

 

「おおおオ、ォオオオ―――!!!

 

 拳を打ち込んだ直後の、後輩の顔面を我武者羅に殴りつける。

 しかし反射的にすぐ、

 

「っ―――、がは……!!!!!!」

 

 トんだ。

 カウンターを耐えて、強烈なのをぶち込まれた。

 

 くそったれ……!

 そう易々とサンドバックに甘んじるような奴じゃない。もうほとんど戦えない状態であろうが、獣の本能と人の術理はその芯まで浸透しているのだ。

 素人の破れかぶれの特攻なんて苦も無く捌いて反撃してくるなんてできて当然だ。

 

「ぎ―――。このお―――!」

 

 ああ、それがどうした……!

 

 これは、打ち合いだ。

 

 一方的な展開に運ぶわけがない。

 

 自分が認めた(オトコ)との“戦争(ケンカ)”で、死力を尽くさずにいられるか!

 

「クロウ、」

 

 死の予感と共に迫る影。

 ああ、これが殺神兵器。

 真祖(オレ)を殺し得る存在。

 そして、後輩。

 この上ない危機感が警報を鳴らす。言うことをきかない全くの死に体に、その“発破(こえ)”は、鞭を打って動かす。

 

「凪沙ちゃん―――暁凪沙を救うんじゃなかったのか暁古城!」

 

 ああ……!

 このまま終わってたまるか。

 こんな体では躱し切れない強敵の一撃。

 だったら。

 この一秒後にやってくる終わりを、全力で回避しようとするのを“諦める”。

 

 ―――打ち勝つ。

 避けず、真っ向から相打ち覚悟でこちらも全力で撃ち合いに臨む―――!

 

「お―――おお、オ―――オオオオオォ■■■■―――!!!!!!」

 

 敵の左拳を右腕のガードで受けて、そのまま体当たりでぶつかるように一撃を打ち込んだ。

 左で殴りつけ――相手の右腕のガードが上がらず――そのまま拳は顔面に通った。

 そして、止まらない。すぐに反撃が来る。だから、それよりも早くこちらが連打で押し切る!

 二撃。三撃。四撃。五撃。六撃。七撃。八撃。九撃―――! 殴って殴って殴りまくる……!

 

「は、はあ、あ、グ―――ゥォォォッッッッッ!!!!!!」

 

 この勝機を逃すな!

 千載一遇のこの好機にすべてをつぎ込め……!

 

 ただし、頑健な生体障壁に阻まれ、めり込みもしない。一撃が軽すぎるのだ。

 それでも、古城は連打を止めない。全身の魔力を絞り込み、その拳に、雷撃が、暴風が、重圧が―――これまで覚醒してきた眷獣の属性を発散させながら、ひたすら身体を動かし続ける。

 そして、ある一瞬に。

 生体衝撃を固めるクロウの身体から、赤い雫がひとつ、飛んだ。

 それは見る間に数を増し、ひらり、ひらりと宙に散る。

 <黒妖犬>の皮膚が破れ、肉が避け、傷がどんどん増えていく。

 血飛沫が舞い散る。あたかも花吹雪のように。

 しかし、古城の猛攻もそこまで

 水が涸れるように、古城の身体から、力が抜け、魔力の放出が止まった。

 徐々に動きが鈍り、そのまま突っ伏す古城。

 形勢逆転。

 クロウの反撃に今度こそ潰される―――かと思ったが、

 

「―――あ……」

 

 クロウは、動かない。真っ白に燃え尽きたように、仁王立ちのまま直立している。

 荒い息を吐く。全身、血だるま。だらりと垂れ下がったものは、破れた服か、それとも肌か。いずれにせよ、クロウは動くそぶりを見せない。

 

「―――」

 

 最後の障害は、海を見ていた。

 足元に倒れる古城ではない。

 この遥か遠い先にある本土のある――たった今目覚めた一人の少女のいる――方角を、ほとんど光の消えかかった眼で見ていた。

 その眼差しに、古城はこの後輩の裡を覗いたような気がした。

 

 

 オレの、負けだ―――

 

 

 そして、虚空から現れた鎖に引き上げられて姿を消す直前、掠れ声で、敵への勝利宣言を送った。

 

 ………

 ………

 ………

 

 やがて、時間をかけて起き上がった勝者は、一言、送る。

 

 

 ―――先に行ってるぞ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 絃神島最強の主従――最大の難関を突破した。

 古城がゆっくりと動ける程度に回復したところで、ちょうど気を失っていた雪菜と霧葉も目覚める。

 

「南宮先生とクロウ君はやっぱり手加減してくれていたんだと思います」

 

 開口一番、雪菜はそう言って無念そうに首を振る。

 古城は、彼女の髪についた砂をそっと払い落としてやりながら、

 

「まあ、こうして見逃してくれたってことは合格だってことなんじゃねーか」

 

「そうね。本家の見習いさんには随分と下駄を履かせてくれたんでしょうけど」

 

 ひとり立ち上がり、皮肉気に責める霧葉。

 暗に<神懸り>を暴走させてしまったことを詰られてか、雪菜は何も言わずに消沈して俯く。

 それを言うなら、一番最初に戦線から途中退場した古城も責任を感じるところだ。

 

 向こうは、本気ではなかった。

 戦闘中にも相手を叱咤してきた南宮那月はまだ余力を残していただろうし、クロウの方も最後まで『首輪』を外さず、<神獣化>に<守護龍(フラミー)>を使うことはなかった。

 言ってみれば、あれは本土に行くための試験であり、稽古をつけられていた。つまり、最初に言ったとおり、落第生たちへの追試である。

 

「と、とにかくだ。先を行こうぜ。また那月ちゃん以外に邪魔がしてくるヤツらがいないとは限らないんだし」

 

「……はい、もう二度とあのような失敗はしません!」

 

 落ち込んでばかりはいられない、と古城の言葉に勢い良く頷き、気合を入れ直した雪菜。

 霧葉もその様子に少し先達者らしくくすりと微笑を浮かべ、

 

 

「―――<空隙の魔女>も存外に甘いようですね。いえ……それが彼女の本質でしょうか」

 

 

 金箔と無数の宝石をちりばめた絢爛豪華な巫女衣装を身に纏い、ヴェールのような薄絹に顔を覆う、ひとりの女性。

 その登場に真っ先に気づいた霧葉は、恐怖に表情を歪ませる。

  そう、この自分たちとも、さほど変わらない年代の彼女は、三人の真祖が一目を置く超越者の一角。

 

「<静寂破り>……!」

 

 獅子王機関『三聖』がひとり、閑古詠。

 思い通りになる、存在しないはずの時間を、無理矢理挟むこむ―――『雑音(ペーパノイズ)』の使い手が、古城たちの敵として現れる。

 

 

「獅子王機関の総意として、御身をこの地に封じさせていただきます」

 

 

人工島東地区 空港

 

 

「―――さて、馬鹿犬。早速だが、お前に新年最初の仕事だ」

 

 

 治療という名目の(いじめ)を終えて、魔女は満足げに(かつ邪悪)に笑みを浮かべて言う。

 

「家出少女を連れ戻してこい、という依頼をお前名指しで頼まれた」

 

「うー……オレ、半日は絶対安静じゃなかったのかご主人」

 

 <神懸り>の暴走を止める際、<禁忌契約>を破り、超能力で拡張された嗅覚を含めた五感が麻痺―――耳は遠くなり、視界は白濁とした靄がかかり、温冷の刺激に鈍くなり、『嗅覚過適応(リーディング)』が働かなくなって、魔力霊力すらも練れなくなる。

 そして、妃崎霧葉の<神獣鏡>の呪詛で右腕を動かせず、満足に走れない、そんな致命傷に近いダメージを負わされており、最後の一撃の際にも姫柊雪菜の刃先を躱せず、『過重神格振動波』に獣化の力を封じられる。

 介添人(セコンド)が投げ込むタオル代わりに鎖を巻き付けさせて回収させたが、最後の最後の教え子との殴り合いはもうほとんどそれしかできなかったと言えるだろう。

 

 現在、南宮クロウは、ほぼ全身を主人お手製の――とてもよく傷口に染みる――魔女の軟膏を塗り込まれ、理論詰めで説教してくる後輩に一部の隙間なく包帯でぐるぐる巻きにされていた。

 完全見た目ミイラ男になったわけだが、制約の都合上もあり、およそ半日は万全の活躍は無理な状態である。

 

「その家出少女は、お前が住み込みで警備機能を立て直したこの空港で大立ち回りをやってくれたみたいでな。有脚戦車に人造人形を連れていて、普通の警備隊では捕まらんだろう」

 

「すごく厄介なヤツっぽいなそいつ」

 

「ああ、そいつの名は、藍羽浅葱―――なんと、私の教え子だ」

 

「っ!」

 

 無視できないその少女の名に、ぴくんと耳を立てるクロウ。

 

「藍羽浅葱は、どこぞの追試赤点ギリギリ合格者とは違って、真っ当に手続きを踏んで本土へ行こうとしたようだがな……まあ、そこはお前の考えることではない。

 とにかく、本土に行ってしまった家出少女を連れ戻してくるのが、仕事だ。まあ、“本土のどこに行ったのかは皆目見当がつかない”が、“お前の『鼻』ならすぐに見つけ出せるだろう”」

 

 <電子の女帝>と呼ばれているその先輩は、確か、先ほど別れた古城先輩に、暁凪沙の写真を見つけ、そして、“暁凪沙とアヴローラの関わる本土の計画”について探り当てて、情報提供した―――その彼女が慌てて、本土に行こうとした。

 

「管理公社から特別にお前の本土行きの許可が出た。飛行機のチケットまでは取れなかったが、快く飛空艇で本土まで相乗りさせてくれる暇人がいた」

 

 後半、不快そうに鼻を鳴らして那月が目線で誘導した、窓の向こうに見える発着場に、一隻の装甲飛行船が停まっている。

 金属製の硬殻に覆われた船体の色は、氷河の煌めきにも似た白群青(ペールブルー)。安定翼に刻まれているのは、大剣を持つ戦乙女―――北欧アルディギア王家の紋章だ。

 

 そして、まだ視力が完全に回復していないから直感的なものであるものの、その装甲船の看板には、先日見かけた白装束(トーブ)を纏い、華やかな黄金の装飾品で全身を飾りたてる少年と、数百mの距離を置いて視線が合い、彼が不敵に笑むのが見えた。

 来るなら早く来い、と語りかけてくるようで、

 

「いい、のか……ご主人、オレが……行っても」

 

「ふん。一体何を訊いてるのだ馬鹿犬。逆だ。訊かれているのは、お前だ。私はお前に依頼された仕事を話しただけだ」

 

 そして両腕を組んだ小さな主人は、鼻で笑ってこう切り捨てた。同時に、最後の一歩を我慢してしまう子供の背中を優しくさする母親のように告げたのだ。

 

 

「受けるかどうかは、クロウ、“お前が好きなように決めろ”」

 

 

 クロウは、動けなかった。

 

「……いっぱい、迷惑かけるぞ」

 

「ああ」

 

「本当に、いっぱい、いっぱい、取り返しのつかないことになるかもしれないぞ」

 

「ああ」

 

 いつもの傲岸不遜な表情で、主人は言い切った。

 少年は息を吐いた。

 まるで、自分の体の中の空気を全部入れ替えてしまおうとするような、深呼吸みたいな溜息だった。胸の裡に溜め込まれ、鬱憤に淀んでいた空気を、一気に解き放ってしまったような気分だった。

 津波か何かに、色んなしがらみとかを根こそぎさらわれてしまった気分だった。

 もう、迷わない。クロウは、那月と視線を通わせ、しばらくそのまま見つめ合い……そして少年は短く言った。

 

「やる」

 

「わかった」

 

 まったくの動揺もない。胸を持ち上げるように組んだ腕を解くこともなければ、瞬きのひとつさえも。

 

「そうだ。ついでに、“もうひとりの家出少年”に餞別を渡してこい。冬休みの残りの補習をサボるつもりなのだろう? だから代わりに課題を用意してやったとな。提出期限は次の授業初日だと伝えておけ」

 

 何もない虚空から丸めたコピー用紙を那月はクロウに手渡す。

 その際、ポン、と頭に手を置き、

 

「他の誰でもない自分で行くと決めたんだ。だったら覚悟を決めて全部を守り通して見せろよ、クロウ。私の眷獣(サーヴァント)なら、それくらいできるだろう?」

 

 

 

「……そのような予感がしてましたので、すでに準備は整えてあります」

 

 那月が『特別収容所で起きた脱走事件』へと応援を依頼された、といなくなり、見送りがふたりきりになったところで、アスタルテがクロウに荷支度した手軽な旅行鞄を渡す。

 

「ありがとな、アスタルテ。オレがいない間、ご主人のサポート頼んだぞ」

 

「はい、留守はお任せください」

 

 頼もしい後輩にニカッとクロウは笑みを作り、そこでぐいっと―――ぎゅっとまだ旅行鞄を握るアスタルテに、足を止める。

 

「ミス夏音に言われましたことを、思い出しました」

 

 そっと手を離して、アスタルテはかぶりを振った。

 そして。

 

「―――先輩がいないと、私は寂しくなるそうです」

 

 クロウが、息をつめた。

 発着場の離陸の際に起こる常夏の薫風にメイドは藍髪を押さえる。

 桃色の唇を、微かにほころばせて、精一杯に浮かべてみせた。

 

「だから、早く帰ってきてください、と私はお願いします」

 

 時間さえも止めてしまうような―――アスタルテが湛えていたのはそんな、透明極まりない微笑であった。

 

 

 

 斯くして役者は向かう。

 破壊の爪痕だけを残して、<第四真祖>がクルーズ船に拾われ、海を渡って。

 主人からの後押し()を受けて、<黒妖犬>が飛空艇に乗って、空を行き。

 ふたりの殺神兵器が、『魔族特区』を離れて、本土に。

 だがそれは、新たなる騒乱の序章にすら至っていない。

 真の脅威は絃神島から遠く離れた本土の湖底に、今もまだ眠り続けているのだから。

 神をも殺すとされる『聖殲』の遺産が、今もまだ―――

 

 

 

つづく



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前夜

絃神島

 

 

 『第七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)

 魔力を無効化し、ありとあらゆる結界を斬り裂く破魔の霊槍は、魔族の超再生能力を阻害し、彼らの肉体に致命的な崩壊をもたらす。不老不死の吸血鬼であっても、その例外ではない。それが世界最強の吸血鬼であっても、刺し貫かれれば滅びるしかない。

 だが、その魔族を殺すためだけに造られた、獅子王機関の秘奥兵器<雪霞狼>の刃を向けられて、世界最強の吸血鬼<第四真祖>は、笑っていた。

 監視役から取り上げた銀色の槍に無残に貫かれる瞬間、暁古城は、牙を剥き獰猛に笑って見せた―――

 

 

 ……緋………奈……

 

 

 そして、聴こえた。

 銀色の槍を無情に突き出したその瞬間にさえ、無視できない、できなかった声。

 でも、それはありえない。

 7年前、狼を聖獣とする異邦の女神を信奉する呪術集団の里に潜入し、供物として殺されかけていた幼い少女を救うため、たったひとりで戦って命を落とした、初代『第七式突撃降魔機槍』の使い手は、もういないのだ。『先代の閑古詠』――母親に見捨てられて……

 ―――その彼女の声が、銀槍から響いたよう……

 

「随分派手にやらかしたね、(しずか)。人工島管理公社の連中、今頃頭を抱えてるだろうよ」

 

 あの刹那の出来事を回想する娘。巫女装束――袖と緋袴が、わずかに引き裂かれた――の少女は、不意に足元から気負いの感じられない洒脱な口調で呼びかけられた。

 声の主は一匹の猫。大きな金緑石が埋め込まれた首輪をつけ、しなやかな体つきの美しい黒猫。その金色の瞳の輝きは明らかな知性の光で―――300km以上も離れた本土より術者と繋がってる破格の式神なのだ。

 

「……見ていたのですか、縁堂縁」

 

「獅子王機関の閑古詠を出し抜くとはね。<第四真祖>の坊やもやるじゃないか」

 

 喋りに驚愕な感情まで込める、縁堂縁の伝言の黒猫。

 『三聖』がひとり、<静寂破り(ペーパーノイズ)>の攻撃をしのげたことがよほど予想外だったのだろう。

 

 『存在しないはずの時間を、現実の世界に無理矢理割り込ませる』という、『閑古詠』に許された特権。

 時間を止めているわけでも、超高速で移動しているわけでもない。なのに、存在しないはずの時間の中で実行された、存在しないはずの攻撃の結果だけが残る。

 これが、偉大なる吸血鬼の真祖達すら警戒する、予測不可能な絶対先制攻撃の権利―――獅子王機関『三聖』筆頭の<静寂破り>の能力だ。

 そのとき、<空隙の魔女>との戦いにほぼ死に体であった<第四真祖>に躱せるはずがないもの。

 その不可能が、覆された。

 

 結界で仮死状態に至らしめんとした寸前で、<静寂破り>の力が、打ち消されたのだ。

 他ならぬ<雪霞狼>によって。

 

 『七式突撃降魔機槍』の魔力無効化能力は、使用者である自分にも影響を与える。少なくとも『神格振動波駆動術式』を起動させている間は、<静寂破り>の力は使えない。

 それは、最も注意を割いていたことだ。

 霊槍を突き立てることで、<第四真祖>の魔力を無効化し、『神格振動波』の結界に封じ込めるために<雪霞狼>を使う必要があった。

 

「あの坊やが戦闘の素人だと思って侮ったかい、<静寂破り>? 弱り果てていたとはいえ、“<雪霞狼>を使うタイミングが早過ぎたよ”」

 

 ―――違う。

 自分じゃない。

 あのとき、“まだ霊力を篭めていなかったのに勝手に”『神格振動波駆動術式』が起動した。

 まるで、<雪霞狼>が吸血鬼の武器型眷獣『意思を持つ武器(インテリジェントウェポン)』であるかのように―――そんなの、ありえるはずがない。

 けど、そうでなければ、あれは自分の失態ということになる。

 

「あの坊やは、無力な人間の分際で、『焔光の宴』を生き延びて<第四真祖>の力を手に入れた、正真正銘の規格外品(イレギュラー)なのさ。真祖の魔力や眷獣なんかよりも、その事実の方がよっぽどおっかないことだよ。本人に自覚はないようだけどね」

 

 そして、暁古城はこちらの失態(ミス)で得た好機(チャンス)を逃さず、右腕を犠牲にし、彼自身をも巻き込ませる相打ち覚悟で、眷獣を召喚させた。

 それが、<静寂破り>対策の最適解のひとつ。それを計算ではなく直感でそれを理解して、暁古城は躊躇なく行った。

 

 結果として、暁古城は『三聖』から逃れられた。

 海岸部の形を変えるほどの爪痕を人工島に残し、自らも傷ついたまま海中に沈んで――姫柊雪菜に太史局の六刃神官も一緒に巻き込まれ――戦闘にも外交上にも至極厄介な『戦王領域』の外交大使(アルデアル公)が所有するクルーズ船に拾われた。治外法権の拠点に入られてしまっては、獅子王機関も手出しがやりにくい。そして、『三聖』であってもあの<蛇遣い>との無用な争いはできる限り避けなければならない。

 ……不幸中の幸いで、規格外品な暁古城をどうにか制御できる姫柊雪菜も共に行動しているようなので、最悪な事態は免れたようだが。

 

「……縁堂。あなたには、聴こえませんでしたか?」

 

「なにがだい?」

 

 初代より手渡された魔除けのヒメヒイラギの枝をしるべに、高神の社まできた神狼の巫女が、二代目の使い手として初代から<雪霞狼>を継ぐ際に、

 薙刀から長槍へと武神具の形態は変わったものの、内蔵された古代の宝槍の核は変わっていないはず。一度、大破したみたいだが、それも新たに“親和性の高い素材”で補うことで大破される前以上の性能で“蘇った”。

 ―――もしかすると、蘇ったのは、<雪霞狼>だけでなく……

 

「あのとき……姉様の―――いえ、何でもありません」

 

 首を振って、古詠は薄絹(ヴェール)を脱いだ。

 <第四真祖>の捨身のカウンターから免れるために、手放さざるをえなかった<雪霞狼>。だけど、今も耳に残る“彼女”の声を、何故か幻聴と片づけることができないでいる。

 

「……どうやら、疲れているみたいだね、閑」

 

 黒猫が古詠を気遣うように金色の瞳を伏せて、提案する。

 

「管理公社の伝言役の坊や――矢瀬基樹は、百面相にやられた怪我から目を覚ましたようだし見舞いに行ってやったらどうだい?」

 

 この先日のこと。

 『暁凪沙の件で、獅子王機関の見解が聞きたい』、と接触してきた『覗き屋(ヘイムダル)』が、そのとき、『閑古詠』の顔に触れる―――“血塗られた己の面相を彼に触れられるのを極度に恐れている”ことを知っているはずの彼がありえないその行為。

 それで、それが『覗き屋の偽者』だと気付くも、しかし、“彼と全く同じ顔で触られた”その動揺したその一瞬の隙を突かれ、逃げられてしまった。

 その後、深手を負った本物の『覗き屋』は発見されたが―――『閑古詠』の“情報”を入手(コピー)した偽者は、人工島の特殊牢獄最下層より、絃神冥駕を脱獄させた。

 

「……いえ、そんなことに時間を割いていることはできません」

 

 獅子王機関の長として、とても、彼に顔を合わせられるような状況ではない。

 ―――そんなことは言い訳に過ぎないと黒猫も見抜いていた。『三聖』の肩書を与えられようと、まだ18歳。だが、それを指摘することはなかった。

 

「……縁堂。外事部に連絡を。すぐに動かせる舞威姫が、あと一人残っていたはずですね」

 

「うちの不肖の弟子の事なら、高神の社で謹慎中だけどね」

 

「今すぐ呼び戻してください」

 

「お安い御用だ」

 

 <蛇遣い>が本土に向かう、<第四真祖>を連れていくのが止められない以上、それなりの対策を講じる必要がある。

 また、問題は彼ら魔族だけではなく、

 

「この時期でのタイミングで脱獄、手引きした輩は絃神冥駕と、本土に渡る可能性が高い。早急に<空隙の魔女>へ―――」

 

「ああ、打ってつけの狩猟者(ハンター)の派遣ならもう済ませてるみたいさね」

 

 黒猫の視線が空を向き、古詠も顔をあげる。

 そこには地上を睥睨しながら、悠然と蒼穹を横切っていく飛行船があり、その甲板に包帯に巻かれたミイラ男のような少年がいた。

 『人狼』の百面相を嗅ぎ分ける鼻と『冥狼』を殺さずに捕まえる術を持つ、この状況において『三聖(じぶん)』よりも最適な鬼札(ジョーカー)―――<黒妖犬(ヘルハウンド)

 

「……お願い、します」

 

 その場から見送る古詠が、巫女装束の袖口を握り締めてこっそりと呟く。

 あの<雪霞狼>の違和感を知るためにも、絃神冥駕を、また一度、捕まえなければ―――

 

 

神緒田神社

 

 

 真冬の厚い雲に覆われ、月のない空。

 その手の界隈では呪術の関連深く歴史が古いとされているが、世間的に無名である神緒田神社はひっそりと静まり返っていた。

 

 先程までは。

 

 境内より離れた鬱蒼と樹木の繁る鎮守の森の奥。

 裏庭の木立の間を、高校生と思しき制服の少女たちが走る。

 

「『六式降魔剣(ローゼンカヴアリエ)(プラス)』、起動(ブートアップ)!」

 

 160cmにやや満たない身長で、清楚な雰囲気のミディアムボブの髪型にサイドに流した前髪をリボン型のヘアピンでまとめた少女は、全金属製の銀色の長剣より眩い閃光を放ち、

 

「―――認証申請! 『六式降魔弓(フライクーゲル)(プラス)』プロトⅢ、解放(アンロック)!」

『登録射手、斐川志緒を認証、『六式降魔弓・改』、起動(アクティブ)

 

 そしてもうひとり、背格好がほぼ同じ、両サイドだけを眺めに残したショートヘアの少女は、銀色に輝く洋弓に鳴り鏑の呪矢を番える。

 

 空間断層であらゆる物理攻撃を無効化する防御を備えた無骨な白兵武器を振るう前衛の羽波唯里と、広範囲に呪詛を撒き散らす呪術砲台の後衛の斐川志緒。

 まだ師家様より卒業を言い渡されていない見習いの身なれど、同じ高神の社でルームメイトであった『第二の剣巫と舞威姫』。互いの不得意な分野を違いの得意な分野で補う二人組(コンビ)がなす息の合った連携は、第一線で活躍するプロの攻魔師たちにも劣らない。

 

(志緒ちゃん、この人……)

(ああ、唯里。こいつは危険だ―――!)

 

 その獅子王機関の巫女たちが追うのは、現在、習志野の特殊攻魔連隊と獅子王機関が連携し、『三聖』のひとりが指揮して厳重な結界が張られているはずの『神縄湖』の敷地内に気配も悟らせず忽然と出現した若い男。黒衣を着た、繊細そうな顔立ちの青年だ。

 参加している自分たちにさえ作戦開始日時も知らされていない、上位の人間にしか情報が与えられないこの機密度の高い極秘プロジェクトが行われるこの地に、侵入した青年に不吉な予感を覚えた二人は、警告無しの全力で仕留めると目と目で意思疎通し、頷き合う。

 

「なるほど、それが<煌華鱗>の性能を二分化した量産モデルですか。私がいた頃とは、違う方向性ですね。興味深い。しかし―――」

 

 侵入者の男は、自身を捕えんとする彼女たちを一瞥して、薄く失笑した。握っていた左右一対の短槍を強引に接合し、一振りの長槍へと変える。

 

 

「一応忠告しておきますが、あなた方に私を倒すことはできません。優れた霊視力を持つからこそ、あなた方は私を傷つけることはできない」

 

 

 不出来な弟子に教え諭す師のように、唯里と志緒に淡々と告げられる。

 男は最初からこちらを敵などと見なしていない。

 事実として、こちらの霊視は、彼の次の行動を予測できず、標的固定(ロックオン)したはずの呪矢も、ただ、ほんの数歩、足を踏みだすだけで免れてしまう。あらゆる物質を切断する『疑似空間断裂』の魔剣の軌跡も、妖しい輝きを放つ漆黒の長槍に阻まれて流される。

 

「っ、舐めるな―――!」

 

 生まれつきの呪術の才能では、ルームメイト4人の中で見習いを卒業しすでに第一線で活躍する、“『六式重装降魔弓』に選ばれた”煌坂紗矢華に及ばなくても、積み重ねてきた修練の量では劣っていないという自負が志緒にはある。

 そして、この『六式降魔弓・改』は、そんな自分の能力を最大限に生かすために再設計された武神具。

 だが、その志緒が最も得意とする技である呪術標的の多重固定(マルチロックオン)が悉く外されるという結果に終わる。これがどれほど志緒の尊厳(プライド)に傷をつけたか。

 

「『六式降魔剣・改』が通じない……!?」

 

 また切り結んでいる唯里も遊ばれている。その動きを見れば、唯里が自分と共に長い修練を経て身につけた武技を奪われてわけではない。だが、白兵戦で魔族と戦う剣巫の反応速度を高めるはずの未来視が働いていないよう。武神具の効果が発揮していないのも疑問であるもあんな細腕で軽々と剣撃を受けられるなど呪術による筋力強化までも封じられているのか。

 

「獅子の舞女たる高神の真射姫が請い奉る! 雷霆(ひかり)、あれ―――!」

 

 先読みができないのなら、舞威姫の技で、ここ一帯ごとを制圧する。精密射撃を誇りとする志緒には、当たらないと認めるようなもので取りたくない手段だが、そんなものも相方の危機には曲げる。

 紡がれる呪句に気づき、唯里が下がる。そして、志緒が黒衣の男の真上に放った銀色の矢は、甲高い轟音で森を震わし、幾つもの多重魔法陣を描きながら空へと飛翔した。

 呪矢の先端に取り付けられた鳴り鏑が、人体には不可能な圧縮された呪文詠唱の効果を生み出して、大規模な呪術を形成する。

 無風の爆風が巻き起こった。

 志緒が生み出したのは、稲妻を模した濃密な呪詛の刃だ。それらは雷光の速度で地上へ降り注ぎ、黒衣の男を刺し貫かん―――!

 

「まだ、相性が最悪であることがわかりませんか?」

 

 避雷針とするように漆黒の両刃槍を天に掲げる。たったそれだけで舞威姫の雷霆が、霧散した。

 

「『六式降魔弓・改』の魔方陣を、こんな簡単に打ち消すなんて……!」

 

 志緒の技が防がれたことに、唯里は顔を引き攣らせながら相手の得物を見る。

 鳴り鏑矢の生み出す高密度の呪文を、あそこまで簡単に消せるのは、獅子王機関の秘奥兵器しか思い浮かばない。

 だが、あれは違う。

 一目でその歪な形の槍が、獅子王機関が開発する武神具と同種の技術で造られた代物であることはわかっていた。

 本当ならば<第四真祖>の監視役の第一候補であった唯里は、“自身を担い手に選ばなかった『第七式突撃降魔機槍』”を見ているし、触れて試したこともある。

 それにおそらくあれは、呪矢の魔力だけでなく、こちらの霊力までも打ち消している。<雪霞狼>は、魔力を打ち消せるが、霊力は打ち消せない。陰と陽の生命の成り立ちから、どちらとも消してしまえばそれは生命の否定となるからだ。

 使えば術者が死ぬような兵器なんて廃棄されるべき失敗作―――

 

「はっ! その槍、まさか―――」

 

「ようやく気付きましたか。『零式突撃降魔双槍(ファングツァーン)』―――獅子王機関の失敗作『廃棄兵器』です」

 

 動揺する唯里に、侵入者の青年は蔑むように見つめて微笑んだ。

 師家様より話だけは聞いていた、霊力も魔力も等しく消滅させる零式は、巫女たちの天敵。巫女としての力を封殺されている今の自分たちは、多少運動神経が良いだけの普通の少女も同然であって、このままではやられる。

 

「そこから離れろ!」

 

 立ち竦む唯里と志緒のすぐ背後で、荒々しい声が鳴り響いた。

 その声に無意識に衝き動かされて、二人はそこから飛びずさる。黒衣の青年の前に、それが投じられ、爆発。

 凄まじい閃光が鎮守の森を満たした。爆発とともに発生した轟音が大気を震わせ、剣巫と舞威姫を圧倒していた侵入者を怯ませた。

 

「魔力霊力を無効化するってんなら、物理攻撃(ドンパチ)は防げるか―――?」

 

 すかさず手にした短機関銃で躊躇なく掃射を食らわすが、こちらにも閃光音響弾(スタングレネード)の影響を受けたか必殺を逃してしまう。弾丸は命中したものの青年の肉体を貫通はせず、漆黒の道士服を破り、皮膚を抉り取るだけに留まった。

 しかし構うまい。フルオートの制圧射撃で侵入者の動きを封じ込める。暴れ馬のように荒れ狂う短機関銃(サブマシンガン)の反動を左手一本で御しながら、同時に右手の指は新たな手榴弾を取り出し、ピンを口で噛んで引き抜いた。世界各地の戦場を何度となく渡り歩いて会得した戦闘技能。

 そして、次に投擲しようと右手に握る手榴弾は、爆風の衝撃によって敵を無力化する、攻撃型の手榴弾だ。破片型の手榴弾に比べて殺傷半径は小さいが、そのぶん至近距離での威力は高い。

 

「やれやれ。これは参りました」

 

 木々の陰に身を隠して、大袈裟に肩をすくめてみせた青年は双槍の連結を解除する―――

 

「どうやら、ここは退散するしかないようですね」

 

 その瞬間、零式が消失させていた霊力と魔力が回復した。

 志緒と唯里が巫女の力を取り戻す。だがそれは、青年も同様に、呪術が使えるようになったことだ。黒衣を纏う彼の肉体の周囲に、墨で描いたような無数の文字が浮かび上がる。

 

「それは、空間制御術式―――!?」

「逃げる気か、お前!」

 

 手榴弾が投げ込まれた。だが、爆発の衝撃波は、青年が展開した呪術結界に阻まれる。結界ごと穿たんとし志緒も降魔弓を構えていたが、運悪くも爆風に邪魔されて照準が合わせられず、唯里が自身と相方の身を守らんと銀色の長剣を振るって空間の断層を生み出して盾を作った。

 

「剣巫と舞威姫、ここにいる『三聖』に伝えろ。私から、唯一の温もりを奪った報い……必ず受けさせる、と」

 

 静かな声で言い残し、黒衣の青年は姿を消していく。

 第二の剣巫と舞威姫は、それをただ茫然と見送ることしかできなかった。

 

 

 

「―――っと、嬢ちゃんたち無事か? 怪我はしてないか?」

 

 青年が最後に垣間見せた、あの純化されるほどに煮詰まれた憎悪に、気圧されて固まる二人に声をかけてきた――追い詰められているところを助けに来たのは、中年の男。

 日焼けした肌に、不敵な顔立ち。前髪はナイフで無造作に切ったように不揃いで、顎には無精髭が目立つ。本職は考古学者だと聞いているが、どう見ても時代遅れのマフィアか、流行らない私立探偵の二択―――そんな雰囲気の男の名は、暁牙城。

 唯里と志緒がここ数日見張っていた……そう、座敷牢で軟禁されているはずの暁凪沙の父親だ。

 

「なっ、暁牙城!? なんで外に出てる……!?」

 

「そりゃ、善良な一般市民として女の子の悲鳴が聞こえちゃ、引き籠ってる場合じゃねーだろ、志緒ちゃん」

 

 指をさして瞠目する志緒に、当然のように答える牙城。

 

「あ、あなたにちゃん付けで呼ばれる筋合いはない! ―――じゃなくて、どうやって座敷牢から!? それにあなた考古学者じゃなかったのか!?」

 

「どうやってと言われても、商売柄、あちこちフィールドワークに言ってるといろいろあるから、こっちもいろいろと身に付けなくちゃなんなかったってとこだ志緒」

 

 答えになっていない解答をいい加減な口調で述べて、カッカと血気盛んな志緒の頭をポンポンと牙城は左手で撫でて、戦闘で乱れた髪を整えてやる。

 

「触るな! 呼び捨てもするな!」

 

 手を叩いて退けられた牙城は、余裕ある大人の対応で苦笑しながら、もうひとりの子にも親しげな口調で声をかける。

 

「おーい、唯里ちゃんは元気かい? さっきからぼけっとしてるけど?」

 

 ひっ、と呼びかけられて、怯えたように牙城から後ずさった唯里。

 

「あ、その……すみません! 助けてもらったのに……」

 

 唯里は慌ててぺこぺこと頭を下げて、必死に謝罪する。幼いころから全寮制女子高で育った彼女にとって、男性への免疫は低い。だから、こう積極的に距離を近づけてくる牙城は、恐怖の対象であった。

 かといって、怖がっていては恩人への対応としてまずいだろうと言うのも理解していた。

 そして、そんな真面目で奥ゆかしい唯里のことを、志緒は一番に知っている。

 ぐいっと彼女を後ろに下がらせて、また牙城を睨み据える。

 

「唯里に近づくな、ケダモノ!」

 

「し、志緒ちゃん……!?」

 

「つれないねぇ」

 

「暁牙城、どうやって出てきた! ちゃんと答えろ!」

 

「それを言うなら、そっちはいつまで俺をあんなところに入れとけば満足なんだ? お前ら一応政府の特務機関なんだろ。一般市民を拉致監禁してもいいのかよ?」

 

「市民を保護するための緊急措置だ。問題ない。だから、脱出方法を言うんだ!」

 

「緊急措置……ね」

 

 ふむ、と牙城は唇を斜めにした。

 久々にストレッチしかできなさそうな狭い場所から出た反動からか、軽いジャンプをしながら、運動不足を解消するついでと言わんばかりな話を聞く態度に、ムカッと来る志緒。それをあわあわする唯里が止めて、牙城に問いに答える。

 

「それに牙城さんの拘束は、緋沙乃様の指示なんです」

 

「いまだに信じられないが、あなたはあの方の息子なのだろう?」

 

「ちっ……またあの婆か」

 

 唯里と志緒の弁明に、牙城はうんざりと舌打ちする。

 神緒田神社に訪れた牙城を不意打ちで気絶させて、座敷牢に放り込んだのが、ほかならぬ牙城の実の母親、緋紗乃である。

 それ以来は二人に監視を任せ、情報は一切与えない環境に閉じ込めた。孫娘を連れて帰省した息子への仕打ちとしては、まず最悪と言っていいだろう。その牙城の捕縛に駆り出された剣巫と舞威姫が同情に気遣う義理はないだろうが。

 

「いい歳こいて実の息子を虐待しやがって。あれはロクな死に方しねぇな。で、その婆さんは今何をしてるんだ? 賊が敷地内に入ったっつうのに。いくら、獅子王機関と習志野の特殊攻魔連隊がいても、人任せにする性質じゃねぇ。むしろ、自分から率先して年甲斐もなく暴れんだろ」

 

 何気ない口調で、こちらが隠し通してきた自衛隊との連携を言い当てた牙城に、志緒たちの顔が青ざめる。

 

「暁牙城、あなた……なぜそれを……!?」

 

「別に驚くこっちゃねーだろ。あの陰険眼鏡が、『三聖』のことを仄めかしてたじゃねぇか。長クラスが出張ってきてるってな。だったら、自衛隊も指揮下に入れられんだろ。で、妖怪蛇骨婆は、どこだ? 目的の神縄湖底の<黒殻(アバロン)>への本格的な作戦準備に手が離せないのか」

 

 すらすらと組織の末端とはいえ、自分たちにも知らされていないそんな重要な情報までも推察されていることに唯里と志緒は動揺する。そして、

 

「誰が妖怪ですか。相変わらず小賢しい上に手癖と口も悪いとは、牙城。そんな育て方はしたつもりはないのですが……」

 

「ひ……っ!」

「緋沙乃様!?」

 

 二人の背後より、合気道風の道着を身につけた老女が現れた。

 実際の身長以上に背が高く見えるのは、上着に物差しでも通したかのように背筋がすらりとまっすぐだからだろう。長い白髪は背中で無造作に結われており、頬には年輪を重ねてきたと思われる深いしわが刻まれている。しかしながら、その凛とした彼女の佇まいは、若かりし頃の美貌を懐古させるだけ面影が色濃く残っていた。

 牙城は老女の登場にふて腐れたように、ようやくお出ましかよ、と舌打ちを返す。

 老女の方も老女の方で、無断で外出している牙城に苛立ちを噛んでいるような渋面を作っている。

 そんな数日ぶりの親子のギスギスとしたご対面に、若い少女たちは息を殺して、不安げにたがいに身を寄せる。

 

 暁緋紗乃。

 彼女の表向きの役職は、神緒田神社の巫女たちのまとめ役の巫司だ。神職としてはそこそこの地位であっても、剣巫や舞威姫の直接の上司というわけではない。

 しかし、緋紗乃は数多くの魔導災害鎮圧に協力している経歴を持つ熟練者(ベテラン)であり、獅子王機関や太史局等の多くの組織で呪術教官を務めていた。そして、彼女の教えを受けた者たちの多くは、今でも現役の国家攻魔官として活躍しており、その中には高神の社の指導教官もいるのだ。

 具体例を挙げれば、獅子王機関の元主席教官の刻御門に攻魔師協会の志渡澤会長。

 つまり羽波唯里や斐川志緒からすれば、師匠の師匠に近い立場の人物である。本来なら末端の見習いには顔を合わせるのも憚れる雲の上な相手である。緊張するな、というのは無理であって、口出しなんてものはとんでもない難題だ。指導教官からもくれぐれも失礼のないようにと言いつけられている。

 組織の属さず、攻魔師免許(Cカード)も持たない非正規(モグリ)の個人攻魔師でありながら、鶴の一声で『三聖』と同等の影響力を動かせるような大物、それが暁緋沙乃だ。

 

 しかし、牙城は攻撃的な視線を向ける、不遜な態度を崩すことなく訊く。

 

「凪沙は?」

 

 座敷牢に囚われたから、一度も顔を合わせていない娘の安否。唯里と志緒は体調を崩したというわずかな情報しか与えていない凪沙の情報を求む牙城に、表情を変えずに緋沙乃は答える。

 

「もちろん無事ですよ。儀式場のある本殿には賊は来ませんでしたのでね。身体の方もようやく回復しました」

 

「そうか。なら、顔を合わせちゃくれねぇのか」

 

「必要はありません。……しかしやはり<黒殻>の存在を知ったうえで、凪沙を連れてきたのですね」

 

 却下して攻めるような視線を息子に向けてくる緋沙乃に、牙城は母親へ挑発的に笑ってみせる。

 

「あいつを救えるなら、何だってするさ。それはあんたも同じだろ?」

 

 一瞬、緋沙乃は息を詰まらせるように沈黙。そして、深々と溜息をついて、

 

「牙城、あなたはどこまで覚えているのですか?」

 

「覚えてる……? 何をだ?」

 

 眉を寄せる牙城の反応を冷ややかに見据えて、緋沙乃はさらに質問を重ねる。

 

「あの兄妹……古城と凪沙のことを?」

 

 似合わぬ穏やかな口調の問いかけに、ハッと牙城は笑ってみせた。

 

「一週間ぐらいでもうボケちまったと息子を心配してんのか。お生憎だが、可愛い娘とバカ息子のことくらい当然、知ってるに決まってる。古城の奴は<第四真祖>になっちまったし、そして、凪沙はアヴローラを憑かせているせいで命が危ねぇ。―――それをどうにかするために婆ァのとこに里帰りしてきたんだろうが!」

 

 啖呵を切る牙城は、さらに留まることなく言い募る。

 

「だってのに、この騒ぎは何だ!? 獅子王機関に自衛隊まで呼んで凪沙の警護は蟻の子一匹も通さない万全なんじゃねぇのか!」

 

 かつて、軍の警備を応援に寄越しておきながら遺跡発掘現場を襲撃され、息子と娘を危うくした暁牙城からして、この本陣近くまで忍び込まれて襲撃を受けるというのは怠慢であると責め立てなければ気が済まないのだろう。

 犬歯を剥き出しにして、怒鳴りつける牙城は腕を大きく振り払い、

 

「婆ァだけに任せちゃおけねぇ。もうこれ以上、座敷牢に閉じ込められるのはまっぴらごめんだ。俺は俺で勝手にやらせてもらうぜ」

 

 激昂する牙城は言うだけ言うと、緋沙乃から背を向けて、歩き出す。

 

「緋沙乃様……!」

「いいのですか? 彼を自由にして……」

 

 勝手な単独行動を取り始めようとする牙城を見かねて、唯里と志緒が同時に叫ぶ。

 緋沙乃はその息子の反抗に、すっ―――と眼を細く鋭くさせて、凪いだ湖のように平坦な声音で、

 

「斐川志緒、あなたにはこの男の監視を任せます。座敷牢に閉じ込めても無駄なようですから、ただし儀式場へはけして近づけないように。羽波唯里は、わたくしと一緒に来なさい。襲撃者についての情報を話してもらいます」

 

「「は……はい」」

 

 緋沙乃の迫力に気圧されて、唯里と志緒は諾々と頷く。二人の瞳には、困惑の色が隠しきれないようだが、それでも緋沙乃に従う。

 牙城は背を向けたまま、顔だけ動かし、

 

「おい、凪沙は本当に大丈夫なんだろうな……?」

 

「問題はありません。凪沙には『三聖』がついております」

 

 

神緒田神社 浴場

 

 

 木々によって窓枠のように形作られた円形の空。

 雪よりも白い花畑を枕にして仰ぎみる視界にいっぱいの星とおおきな月。

 

 目が覚めれば、すぐに忘れてしまうその幻想的な、綺麗で、そして、儚い光景(ゆめ)

 彼から記憶を奪った結果だろう。

 見たこともないはずなのに、見慣れた過去の光を観ている。

 

 ―――あなたは、何も望むことも、欲することもない。

    受け入れるだけの器として造られた、ただの道具なのだから。

 

 そして、いつも聴かされるこの子守唄(こえ)

 

 ―――生の喜びも、死の尊さも覚える必要はない。

    道具のあなたにそれは不要なものなのだから。

 

 ああ、そうだ。

 これは彼があまりにも無意味な一生、その最も奥にあった原点。

 

 ―――ものの好嫌すら感じるのは不可能。

    道具のあなたにそれは無理なものなのだから。

 

 彼にとって心臓に等しき核であったその原点を―――強引に―――根こそぎ―――

 

 ―――心を捨てなさい。器は空でなければ完成しない。

    道具(あなた)の純粋さは報いられることはないのだから。

 

 煩い、と不快な雑音しか流さないラジオから再生途中のカセットテープを無理やり抜き取るように、“原初”は――アタシは、奪い尽した。

 

 ……そんなの、ない!

 

 苛立った吐露を、子守唄を歌う主にぶつける。

 または、その子守唄に大人しく寝入ってしまいそうになる彼に対して、彼が道具(かれ)であるための“一番”を否定する。

 “影”の残滓は、驚きに息を呑んだ。

 ただ心のままに叫んだアタシを、憤怒の激熱に篭った眼光で貫く。

 

《小娘が、私の最高傑作を“欠陥製品”に(おと)すつもりか!》

 

 させない―――そんなことには、させない。

 子守歌は千切れるように音調を激しく乱し、壊れたラジオは息を引き取る間際にも彼の“創造主(おや)”は呪詛の一節を紡ぐ。

 

 

 ―――きっと、誰にも本当のあなたを愛されることはない。

《そう、この小娘は、あるがままの在り方を都合のいいように壊し(変え)たあなたを見ているのだから》

 

 

 否定は、させない。できるはずがなかった。

 “原初”は意のままに操らんとして、“自分(アタシ)”はそれまでの彼を否定せんとして、“一番”を奪ったことは事実なのだから。

 それは心を失くし道具であるようにした“創造主”の望みと何ら変わらない行為。

 ―――そう、この欠陥製品となり果てた彼は、“原初(アタシ)”が好きなように“人格設定(プログラミング)”した末路であったとすれば……

 

 あたしは、クロウ君を、好きになる資格は、最初から―――ない。

 

 夢から覚めれば、すべてを忘れるだろう。

 何を見てきたのか、何があったのかなど、記憶には残らない。

 所詮は、夢。

 罪悪感をも覚えず、無恥厚顔にも、彼を想うのだ。

 この夢の中でしか、彼に謝ることができない。

 

『違う! “後続機(コウハイ)”を壊したのは、汝ではない。我のみが咎を背負うべき』

 

 我がすべてを持っていく。

 さすればもう二度と夢見ることはなくなり、余計な罪業に苦しむことはなくなる、と。

 “彼女”からかけられる慰め(すくい)に、黙って首を振る。

 

 それは、ダメだよ……

 

 そんな無責任な真似はできない。

 『宴』の負債をすべて請け負おうとした“彼女”に、そんなことはさせられない。“原初”を喰らっただけで、“彼女”は“原初”ではないのだ。

 それに、せめて今だけでも彼に謝ることができなければ、合わせる顔はなくなる。傍にいられる資格さえ失う。だから、自分からこれを()らないで。

 

『……ならば、早くこの悪夢より醒めるが良い、優しき巫女よ。汝が汝自身を責め続けることを我も奴も望まぬ』

 

 そう“彼女”に押し出されるように―――夢から追い出された。

 

 

 

 自分が目を閉じていることに気付く。瞼が重い。眉に水滴を感じる。

 意志の力を総動員して目を開ける。不思議なことだが、目を開けて真っ先に感じたのは光ではなく匂いだった。何か薬草(ハーブ)のような、爽やかで少し甘い匂いだ。

 それからようやく、目が光を捉えた。だが、視界の情報は大して増えない。真っ暗闇が真っ白に変わっただけだ。

 間もなく、この白が霧……いや、湯気だと気付く。自分の身体が湯に浸かっていることを認識したことで思考が繋がった。

 

「―――温泉?」

 

 ぷかぷかと澄んだ水面に漂いながら、暁凪沙はまだ眠たげな呟きを洩らす。

 この広々とした浴槽の泉温はおよそ40度とややぬるめの温浴。リラックスできる副交感神経が働くちょうどいい適温だ。

 そして、噂によればこのお湯の効能は、筋肉痛や関節痛の治癒、疲労回復に美肌効果。それから、消耗した霊力まで癒してくれる優れた万能霊泉である。

 

「あ、そっか、お祖母ちゃんのとこに来てたんだっけ……」

 

 お湯の心地良さに少し微睡んでしまったが、現状を思い出した。

 数日前、神緒多神社に着くなり意識を失ってしまった凪沙。冬休みを利用しての4年ぶりの帰省であってものの、来て早々に躓いてしまう。

 おそらく、久しぶりの旅行に思った以上に疲れてしまったのだろう。それと未だに巫女としての力を失っている状態で、絃神島という巨大な龍脈から離れてしまったことも要因だ。

 そんな孫娘に、神社の巫司である祖母は、『ここの温泉で湯治をしなさい』と命じた。

 つまりは、時間が許す限り風呂に入って、体力を回復させろ、ということである。凪沙が意識を回復させたばかりの寝起き直後に、温泉に浸かっているのは、それが理由である。

 しかしながら、神緒多の霊泉は凪沙によく馴染む。きっと水が合うのだ。

 

「ふー……気持ちいいー……やっぱり温泉はいいよねぇ」

 

 ほぼ一日中ベットの上に寝かされる生活をしていたから、凪沙は寝たきりの辛さを知ってる。

 横臥中だるかった身体は、数日ぶりに立ち上がって歩こうとすると逆に硬く痛む。一歩前に出るだけで骨に痺れと痛みが響いたもの。

 それが暖かな湯に凝り解されるのは格別なものがある。

 

 一緒にくることはできなかったけど、雪菜や浅葱や夏音たちも一緒に来られたらよかった。

 そういえば昔は、兄の古城と一緒にこのお風呂に入ったのだ。確か、まだ互いに小学生だったころ、慣れない岩風呂がどういうわけか当時の凪沙は怖がってしまい、それで兄妹一緒に入ったのだ。

 流石に今は無理だろうが、その幼き日を懐かしんで……あ、と気づく。

 

「古城君、心配してるかな」

 

 絃神島に留守番中の実兄と、ここ数日全く連絡を取り合っていない。いきなり寝込んでしまった上に神社の所在地が携帯電話の圏外である。きっと今頃、凪沙に対して過保護な兄は、大騒ぎしているに違いない。焦りのあまり、無茶な行動に出ていないといいのだけど……

 

「あとで留守番電話サービスに事情を吹き込んでおかなきゃ。古城君と……それから、クロウ君にも」

 

 兄の暴走を食い止めてくれるであろう、頼れる彼を思い浮かべた凪沙は、そこでなぜか、まだお風呂中であることを意識してしまい……

 

「……クロウ君、この前の『青の楽園(ブルエリ)』のとき、カラスの行水みたいに出てくるの早かったなぁ。鼻がジメジメするから、あまり長風呂はいやだーって、言ってたっけ……となると、一緒に入るには―――って、何考えてるのよあたし!?」

 

 ―――先の思い出の中の兄の顔がぽんっ、と彼ののほほんとした人畜無害の顔と変わった想像図(イメージ)を、顔を真っ赤にぶんぶんと両手を何もない空にばたつかせて払う凪沙。

 一人ぼっちの入院生活が長かった反動で、やたら口数が多いのが凪沙の悪癖であるも、余計な一言で自爆して意識してしまうのはいき過ぎてた。

 これは顔を合わせない日々に募った弊害?

 またはあのチャンスに一緒にお風呂に入れなかった無念?

 ひょっとしてそこまで欲求不満なのだろうか自分は?

 湯面にぶくぶくと鼻まで沈めさせた表情をさらにゆだたせる凪沙。

 

「うん……なんかこのままだとダメになりそう、いったん温泉から出て頭冷まそう」

 

 んん、と上体を起こす凪沙。

 動ける程度まで回復してるが、完全にとは言えない。全身がひたすら気怠く力が入らない。それに、だいぶ長い間、丸みを帯びた石に身体を預けていたらしく背中が鈍く痛む。

 そのゆっくりと凝った思考と一緒に筋を伸ばし解している背中へ、不意にガッシャンッ、とド派手な騒音が叩いた。

 霊泉を独占して、警戒心の緩んでた凪沙は、ひゃあ、とびっくりして悲鳴を上げ、そして、跳ね上がった腰が思い切り岩風呂の床にごっつんと。霊泉場と更衣室を仕切る立て付けの悪い引き戸を勢いよく開けてしまった張本人から、おそるおそる声をかけられる。

 

「ご、ごめんなさい。驚かせてしまって、すみません」

 

 銀の鈴をまろばすような、甲高くも心地良い声だった。

 あたた……と腰を摩りながら頭だけ凪沙は振り返ると、濛々たる湯気の中にぼんやりと人影が浮かび上がっている。おどおどとした、気弱そうな雰囲気の、まるで小動物のように庇護欲を誘う人影だ。

 年の頃は凪沙よりも少し上だろうか。湯気に溶けてしまいそうに白い少女だった。肌もそうだが、髪の色も白い。愛らしいホッキョクギツネの毛並みを連想させる、神々しいまでの純白だ。ゆったりと落ち着いた双眸だけが、薄ら金色に光る。

 そして、見るからに大人しそうな反して、自己主張の強いその胸元。

 

 で、でかい……

 

 思わず見とれてしまってから、凪沙は慌てて目を逸らす―――ことはなく、がっつりと凝視。白髪の少女が纏っているのは薄手の浴衣のような着物で、肩や膝が湯気で湿って肌が透けていた。それは触れば壊れてしまいそうに華奢で、そのあまりの白さは、見ているだけで相手の身体を苛んでいるような罪悪感を催させる。

 けれど、前屈みでこちらと視線を合わせようとする彼女の、その氷河に彩られた美しいフィヨルドを連想させる深い胸の谷間は絶景で、凪沙は圧巻させられる。

 小柄な体つきには不相応に立派であるふたつのおもち。少女が頼りなさげに震えるたびに揺らて、弾んでいる。形といいボリュームといい張りといいあの美乳は、凪沙が思い描く理想形である。

 そうだ。

 あれくらいあれば、凪沙も……いや、いくらなんでもあれを目標とするのは高望み過ぎるか? 一時期、『クロウは那月先生のような幼児体型が好みなんじゃないか』というひとつ年上の親友がそう分析してくれたけど、でも、やっぱりあれくらいあれば……

 そんな身体から滴り落ちる雫が尽きてもなお凪沙のがっつりと観察してくる視線に、びくびくと少女は固まっていた。睨めっこをする準備のように両手で顔を覆って、ただでさえ小さな(一部分を除く)身体をもう一段階縮こめていた。

 そうして顔を隠す手の隙間から、彼の鳴くような声を出してきた。

 

「ぁ……あの……緋沙乃様より、お孫さんが湯あたりしていないか……様子を見に行くようにと頼まれて……その、どうですか……」

 

「あ、はい、結構なモノをお持ちで―――いえ、大丈夫です!」

 

 自分の世界から帰還した凪沙は半ば失言を洩らしかけたが、元気よく返事した。すると彼女は安堵したように大袈裟なくらいに胸を撫で下ろして見せる。

 しかし、神社の職員にしては随分若い。間違いなく凪沙とは初対面のはずだ。

 

「あのっ、お祖母ちゃんのことを知ってるみたいですけど、ここの神社の方ですか?」

 

「ち、違います違います。ちょっとした事情があって、今だけお世話になってるんです」

 

「ああ。だったら、あたしと同じですね」

 

 あわあわと首を振る白髪の少女に共感を覚えた凪沙はにこやかに微笑んだ。

 祈祷や憑き物落としのために、神緒田神社を訪ねてくる客は多い。きっと彼女もそんな訪問客のひとりなのだろう。

 そうして、そこで彼女はぎこちない口調で名乗りを上げる。

 

 

「わ、わたし、白奈といいます。(くらき)白奈」

 

 

パンディオン

 

 

 正月早々、大変な事態となった。

 

 最初は気軽な情報収集の手伝いするだけの予定だった。

 なのに、いざ行動に移したら、特区警備隊に追い回されて、半ば逃げ出すような形で絃神島を脱出。只今本州に到着したところで、横浜にあるディディエ重工の倉庫に隠れて、ディディエ重工製のティルトローター輸送機<パンディオン>の武器弾薬の燃料の補充、それから改修作業中である。

 暁凪沙の失踪には、国家レベルの重要機密が関わっていることはわかったのだ。その凪沙の行方を探ろうとしたことで無関係では済まなくなったこちらも相応に手抜かりなく準備を万全のものとしなくてはならない。

 このまま捕まれば、最悪、問答無用で拘束されてそのまま留置所行きである。

 

『ケケッ、管理公社は嬢ちゃんに“とびっきりの追手”を寄越してきたみたいだぜ』

 

 と相棒の人工知能(AI)が煽る煽る。こちらが探ろうとすればジャマまでしてくる調子に乗ったモグワイは『遭遇し(あっ)てからのお楽しみだ』とのたまう。こちらはもうお腹いっぱいでこれ以上のサプライズはごめんなのだけど。

 まあ、こいつが調子に乗っていられる余裕があるのなら、大して気にする必要はないということなのだろう、と前向きに考えることにした。

 とにかく、事件解決の糸口なり、政府と取引できる情報なりを自力で入手するまでは、藍羽浅葱は絃神島に帰れない。

 どうしてこんなことになってしまったのか、と嘆きたいところであるが、今はまず凪沙の捜索が最優先。情報入手の唯一の手掛かりが彼女だ。

 

「―――うむ。<膝丸>複座ユニットの接続、完了でござる」

 

 その窮屈な格納機内で、色々と並行して仕事をしている浅葱の元に、年相応に元気にはしゃぐその声。機体調整用の小型端末をもったリディアーヌ=ディディエである。12歳前後とまだ小学生であるが、華やかな赤い髪を持つ外国人の少女は、あのお嬢様学校である天奏学園に通っている優等生であり、浅葱の友人であって頼れるバイト仲間。<戦車乗り>の異名持ちと大変有能だ。

 その彼女の愛機である赤い超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)は、大規模な改修を終えて、大幅に見た目が変わっていた。

 まず兵装が、市街地専用から野戦向けに変更されたこと。加えて浅葱が乗り込むための副操縦席が増設されたこと。おかげで愛嬌のある丸っこい外見はそのままに、各種装備だけを追加したせいで、ゆるキャラが殴り込みに備えて武装したようなユーモラスな姿になってしまっている。

 して、浅葱が乗り込むこの複座ユニットは、あくまで後付けの簡易装備であるため、二つの操縦席はそれぞれ独立しており、通信機を使わなければ会話もできないのが不便であるものの、プライバシーという点では悪くない仕様だ。

 

「エネルギーパックの増設によって、稼働時間が飛躍的に増加。更に火力も増し増しでござる。あとは機能性の低下を補うための補助推進器(サイドスラスター)が、どこまで機能するかでござるな」

 

 己の仕事の出来に満足したように数度頷くポーズを取るこの神童に、浅葱はひとつ訊く。

 

「それはいいんだけどさ、<戦車乗り>。この服、本当に着ないとダメなのかしら?」

 

 浅葱が目線で指すのは、リディアーヌとお揃いのパイロットスーツである。

 その防護服は、素肌にぴったりと張り付く競泳水着風のデザインだ。ボディラインはくっきりと浮き出る上に、胸にはゼッケン付き。それもひらがな。付属品として、二の腕まで覆う長手袋に、太腿丈のオーバーニーソックス……

 

 どっからどう見てもただのスク水。

 

 はっきり言ってこの防護服を開発したディディエ重工の技術者にはもっとましなデザインにできなかったのかと浅葱は物申したい。まさか変態的な趣味に走ったわけではないだろうな?

 けれど、それを仕事着として着慣れている<戦車乗り>の少女は、きょとんと浅葱の訴えに首を傾げて、パチパチと瞬き。

 

「何が問題なのでござるか? ディディエ重工が誇る最新鋭のパイロットスーツでござる故。最高水準の防弾防刃耐衝撃性能に加え、撥水性と透湿性も抜群。家庭用の洗濯機での丸洗いも可能で、殺菌消臭効果も備えた優れものでござる」

 

 セールスポイントを語ってくれるディディエだが、浅葱が指摘しているのは、性能以前の問題だ。

 しかし、それを思っているのはどうやら浅葱だけのようで、

 

「同意。お嬢様(マスター)、何か問題が?」

 

 と浅葱の前でマネキンのように直立していた、見た目中学生くらいの人工生命体(ホムンクルス)の少女にも頷かれた。

 浅葱を主人とし、そして、脱出の際にも助けてくれるだけでなく、この危険な旅路に同行をしてくれる(融通の利かない)助っ人。和服メイドな家政婦スタイルを脱いだ彼女は今、『すわにるだ』と書かれたゼッケンをつけた防護服を装着している。元々人形じみた、人間よりも整っている容姿をしているのだから、もう1/1等身大のフィギュアのようだ。

 

「きっと女帝殿も似合うでござるよ」

 

「あたしが言いたいのは、似合うとかに合わないとかそういう問題じゃなくて……!」

 

 あんたら小学生と中学生くらいの外見だったらスク水着てても違和感ないんだろうけど、高校生で派手な金髪髪型も相俟って、浅葱が着たら痛々しいコスプレ少女にしかならない。

 

「大丈夫。皆で着れば、それはユニフォーム。一致団結して事に当たるには装衣を統一することが重要なのでござるよ」

 

「あー、もういいわよ。着ればいいんでしょ着れば……」

 

 降参、と項垂れる。

 どう考えても一般世間的に自分のセンスが正しいはずなのに、この中では多数決で少数派になってしまうというこの理不尽。

 ああ、もう、古城(アイツ)にさえ見られなければなんだっていい。どうせ戦車内に引き籠るんだし、見た目を気にしても仕方がない。

 で、内心で愚痴りながらも、<膝丸>の増設に加えてもうひとつを並行して進めていた浅葱は作業を終わらせた。

 

 

「―――個体名『スワニルダ』。追加(サプリメント)ユニット『イカロス』接続完了」

 

 

 有脚戦車は、増設しても二人乗りが限界だ。それに万事に備えてひとり遊撃できるのを外に配置しておいた方が臨機応変に対応できる。

 

「おお、それが<(うぐいす)丸>でござるか!」

 

「じゃ、ちょっとプログラムが上手くいってるか試してみてちょうだい」

 

命令受託(アクセプト)。テスト飛行開始します」

 

 スワニルダが機械的な口調で首肯する。

 飛翔プログラム用の簡易強化外骨格(エグゾスケルトン)『イカロス』――愛機に日本刀の名前を付けるくらい侍かぶれの神童命名<鶯丸>。

 これは、ディディエ重工でまだプログラムが調整中の兵装を、浅葱が小一時間で実用可能にまで手直しして、『人造人間(ヒューマノイド)』に合わせて調整までしたものだ。

 機械人形(オートマタ)との融合体であり、複数の魔具を肉体に内蔵されている機械化人工生命体。その特殊性は、神経系に制御回路を接続できるほど、機械電子系とは極めて相性がいい。

 

「揚力確保。出力演算及びバランサー良好。各機能、異常なし」

 

 形状は、ハングライダーに似ているだろう。まるで蝋を固めたように白い翼を広げ、都合二機用意されたエンジンノズルから炎を噴射し、細かくベクトルを切り返しながら、天井の高い倉庫内を器用に飛び回る。

 まさに鳥人、いや、天使か。

 未調整のプログラムを設定し直した浅葱もそうだが、初のフライトで問題なく追加ユニットを操作できる手腕もすごいものがあるだろう。

 ディディエ重工はこのデータを使い、一般人向けに仕立てれば、人間が自由に個人飛行できるような夢の商品が売り出せる。これだけで、浅葱の冒険に協力したおつりが取れるかもしれないのだ。

 

「うむ。合戦支度はこれで整った。では、いざ出陣でござる!」

 

 と気合を入れる<戦車乗り>だが、空飛ぶスク水少女なんてものを実現させた<電子の女帝>は、『プログラムは作ったけどあたしは特殊な感性持ち(アブノーマル)じゃないからね!』と内心で訴えながら、天を仰いで、

 

 

「古城は今頃どうしてるのかしら……多分、姫柊さんと一緒よね?」

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

 連続した時間の中に無理やり割り込んでくる獅子王機関の筆頭<静寂破り>の迫撃を、先輩――<第四真祖>暁古城は、自爆覚悟で眷獣を召喚することで難を逃れた。

 しかし、日本最強の攻魔師のひとりで、吸血鬼の真祖たちが一目を置くような化け物である『三聖』を相手にした代償は軽いものではなく、特に発動中の『七式突撃降魔機槍・改』を素手で受けた先輩の右腕はちぎれかけた。今はもう見た目上は傷が塞がっているように見えても、内部までそう簡単に回復してはいないだろう。きっと何らかの後遺症はまだ残っているはず。

 

「先輩……」

 

 未だに目覚めることなく昏倒している古城の右手を、姫柊雪菜は取る。

 いつも無茶ばかりするこのどうしようもない監視相手(センパイ)を叱ってやりたい。だけど、あのとき、あの場面で、眷獣による自爆攻撃は、最善に近い判断であったと雪菜の冷静な理性は判断を下している。むしろあれ以外に手段はなかった。

 むしろ、誰よりも責めるべきは、雪菜自身である。

 南宮那月たちの迫撃に、<神降し>をしたが制御し切れずに暴走してしまって足を引っ張り、そして、格上の超越者であったが<静寂破り>に自分の得物<雪霞狼>を奪われる始末。

 先輩がこうなっているのは、半分以上が自分の責任と言ってもいい。

 

「すみません、先輩……私のせいで……」

 

 祈るように古城の右手を両手で挟み取ったまま、そこに額を当てる雪菜。

 悪いのは、自分の技量。

 初代の<雪霞狼>の使い手であり、雪菜を救ってくれた剣巫――藤阪冬佳は、『三聖』候補にも選ばれる方だったと師家様から聞かされている。だから、雪菜も初代のように銀槍の性能を発揮できていれば、絃神島最強の主従にも日本最強の攻魔師にも後れを取ることはけしてなかったはずなのだ。

 この未熟さを、雪菜は歯噛む。

 

「どうすれば……冬佳様のように……」

 

 しばらく、古城の右手とくっついたまま動かなかった雪菜は―――目に強い光を灯して、傍に立てかけていた銀槍を手に立ち上がる。このまま徹夜で先輩を看病している場合ではない。もっと<雪霞狼>を手に取り、理解を深めなければ、この先についていけなくなる。

 それは、絶対に嫌だ。

 少しでも今、自分がぶち当たっている壁を越えられる兆しを得られるのならば、誰であっても教え乞おう。

 たとえ、それが頭を下げて頼みごとをするのが癪な相手だったとしても、己の尊厳よりも優先し、貪欲に雪菜は上を目指す……!

 

 

 

 現在、雪菜たちは溺れ時にかけたところを拾ってくれたクルーズ船<オシアナス・グレイブⅡ>にいる。なんでも主であるアルデアル公の粋な計らいで『ニューイヤーホリディ』という体で、本土の箱根――『神縄湖』まで20kmのところまで連れていってくれる。

 でも、それは翌朝のことになる。

 まだ本土に到着するまで時間はある、と雪菜は、同行してくれている太史局の六刃神官――妃埼霧葉を捜し………

 

 

「ああもうっ、酷いバカをしたわ! よりにもよって、あんな醜態を見せて負けるなんて……!」

 

 

 クルーズ船の甲板で、何やら悶絶している古風な長い黒髪の少女。

 

 あれは……妃埼さん?

 

 

「彼ってば動物のような単純思考で……普段は人畜無害でおっちょこちょいで、こっちの関心を引いたりちょっかい出して苛めたくなる小動物系で……でも戦闘になるとヒツジの皮を被ったオオカミのようなギャップで反則的に強いし……ああ、強引に屈服されるのって、なんか、すごく―――や、やだ! こんなの私じゃない―――私じゃないのよ!」

 

 

 雪菜お目当ての人物なのだが、ぶつぶつと独り言を繰り返してる。

 距離的によく拾えないが、何か聞くだけで体温上昇しそうなことを言ってそうである。

 

『妃埼は、打たれれば響くタイプだな』

 

 ふと、以前、『青の楽園』の帰りの船で同級生(クロウ)がそう彼女を評していたのを思い出した。

 そのたとえ方はどうかと思うが、なんとなく今の霧葉を見ていると的確であると思える。

 雪菜も一戦交えたときも、一太刀を浴びせたらより攻撃的に興奮してくるその性格。やられればやられるほど燃え上がって、相手を屈服させようと執着してくる彼女は、もしかすると普段の彼女とは真逆の性質を深層意識に持っているのかもしれない。

 支配の反転―――すなわち、隷属願望である。

 

『う。“匂い”と行動が違う、なんか屈折してる天邪鬼なところもあったぞ。結瞳のことも本当は助けたがっていたのに、太史局ってとこの命令にも従順なのだ』

 

 そう、誰かに支配されたかった。いつも気を張って、一部の油断もなく生きるなんて、疲れるだけだろう。心の底ではいつも楽になりたかった。

 人間は誰しも表と裏、陰と陽がある。

 大事なのは自分自身。自分が納得する生き方を送りたいだけ。

 そのために、妃埼霧葉はすべてを屈服させると決めて―――けど、その裏には、家畜のように管理される立場、自由のない毎日、誰かに命令される自分に、憧れていたのかもしれない。

 

 

「くっ、でも何あの『五車の術』とかいうふざけた技! あれってフェロモンが通じなかった私に、私のために編み出したっていうの……? でも、結局、止めを刺したら放置されてるところは変わってないし! ……あ、でもちょっと気持ちよかった、かも―――あ、ああ、あああああああ!」

 

 

 ……さて、大してする必要のなかった人物考察も済んだわけだし、ここを後にしましょう。

 とりあえず声をかけるのは半時間くらい熱冷ましの時間を取ってからにしよう。

 そう決めた獅子王機関の剣巫は、息を殺して一歩後逸しようとすると、影の剣巫はこちらの気配に気づいて振り返った。

 

「あ、……」

 

「姫柊、さん……」

 

 固まる二人。

 物凄く気まずくて、つい、と雪菜は視線をそらしてしまう。その反応はすべてを物語っており、勘付いた霧葉はもはや詮索に余計な問答を費やすのをやめた。

 

「……………なるほどね」

 

「あの妃埼さん? 何を納得されてるかはわかりませんが……きっと誤解して―――」

 

「<第四真祖>に張り付いて動かないかと思ったら、今は同じ陣営であっても後々に有利な展開にもっていくために相手の弱みを握ろうと情報収集とは、油断も隙もないわね。さすがは獅子王機関の本家剣巫様といったところかしら、姫柊雪菜」

 

「いえ、そんなつもりは全然っ!? 私は別に何も……!」

 

 もはやすべてを断定して決めかかってくる霧葉にたじろぐ雪菜。

 ゴトッ、と三脚ケースがデッキの上に無造作に落ちる。

 引き抜かれた六刃の調伏兵器は、柄の部分がスライドして伸長し、音叉上にわかれた二本の刃が螺旋状に回転しながら展開。そうやって出現した鉛色の双叉槍(スピアフォーク)を、霧葉は雪菜に向ける。

 

「十秒……槍を構えるぐらいは待ってあげるわ。無抵抗の相手をいたぶるのは趣味じゃないの」

 

 剣巫と実力行使による口封じにでた六刃神官との鬼気迫る実戦稽古(ケンカ)が始まった。

 

 

「なんかもう! 恨みますからねクロウ君!」

 

 

ベズヴィルド

 

 

 優雅に空を舞う装甲飛行船の船橋(ブリッジ)

 そこに銀髪碧眼で『美の女神(フレイヤ)の再来』とも称される北欧アルディギアの若き王女――ラ=フォリア=リハヴァインは、物憂げに頬杖を突いていた。

 “社交用の”慈愛に満ちた優しげな微笑を口元に浮かべ、しかしその隠し切れず透かして見える裏から、どこか恐ろしげな冷気じみた圧が滲んでいる。

 つまるところ、王女殿下はご立腹なのである。

 

「遺憾です。折角の休暇で絃神島まで来たというのに、肝心の古城が不在とは―――」

 

「そうだな。あと半日くらい早く来てたら間にあったかもしれないなー」

 

「クロウ。どうしてあと半日古城を引き止めなかったのですか」

 

「あと半日も古城君たちの相手をしたら絃神島が沈むのだ」

 

 ラ=フォリアから透き通った氷のような眼差しを向けられるも、座禅を組んだままのクロウは普通に受け答えをしている。

 正直、その視線に射竦められたら神妙に項垂れてしまいたくなるだろうに、と叶瀬夏音の護衛を兼ねて、絃神島に駐在しているラ=フォリア配下の密偵――ユスティナ=カタヤ要撃騎士は思う。

 この主人であるところの<空隙の魔女>曰くに、『馬鹿犬には、常識――何が危ないかを教えるのかがまず大変だったぞ。こいつは危険かどうか火傷するまで気づかない。と言うより、火傷しても『死ななければ問題ない』と本気で言える。だから、馬鹿犬なんだ』と、

 社交辞令とかその辺をよくわかってないその馬鹿犬は、やはり魔的ともいえる姫御子の視線を相対しながら、自論を述べる。

 

「ご主人は、どんな方法であれ<魔女の騎行(あれ)>を抜けられたら、補欠合格にしてやるつもりだったんだぞ。そうじゃないと島が大変になるからな」

 

「ならば、クロウは私が来るのが遅かったのだと、そう言うのですか?」

 

「う。フォリりんは残念ながら遅刻なのだ」

 

「クロウ殿!? その姫様はご多忙に付き、どうしても時間を取るのが難しいお方でありまして―――」

 

「なら、間が悪かったということだな。しょうがないぞ」

 

 現在王妹殿下との同居人に切腹覚悟でフォローを入れんとするユスティナであるが、残念なことに空気の読まないクロウは当然のように言い返してしまう。

 

「タイミングが合わなかった……ならば、それは仕方がないですね」

 

 ただ、このあっけからんとからからと王女に笑う。

 そんな嘲笑も皮肉等といった毒気のないクロウの対応に感じ入るものがあったのか、船内を支配していた重圧は目に見えて薄れていく。

 

 不思議な御仁ではある。

 互いに剣を合わせてからまだ一日と経ってないのに、ユスティナとしこりなく会話のできるその雰囲気は、とても森の悪魔と言われていたものとは思えないだろう。

 

 極夜の『鉄の森』にて、<血途の魔女>が生み出しし『黒』シリーズの中で最強とされ、『月の犬(マーナガルム)』と畏れられし森の悪魔。

 全ての死者の肉を食らい、月をも捕まえ、天蓋を血の色に染め上げて太陽の光を奪う……なんてかつて噂されていた『混血』の少年。

 曇りなき眼を見れば、その流言がどれだけ誇張された戯言であったと知ることになる。

 そのような人気のない森の奥地で遭遇したものを例外なく鏖殺するような怪物であったなら、死人に口なし、そんな噂立つことはなかったろう。

 陽光も届かぬ秘境で、ひっそりと毎夜月を望みながら、兄姉たちの骸を弔っていた『墓守』は、命からがらに逃げる者を追うような真似はしなかった。

 しかしながら、それが単なる利得ゆえの闘争ではないからこそ、交渉の余地はなく問答無用で、神秘が色濃く残る深森の霊地を狙った輩たちは門前払いを食らわされる。

 

 それでもやり方が暴威に頼るしかなかった狼は、いつか“赤ずきん”に退治(ころ)される運命(さだめ)であった。

 

「ですが、そのおかげで、意外な御方と誼を結べました」

 

 気を持ち直して、一先ず凍れる笑みが適温にまで戻したラ=フォリアが、ちょうど船橋に入ってきた白衣姿の少年へと顔を向ける。

 

「<ベズウィルド>に何かご不満はありましたか、イブリスベール殿下」

 

「よくできた方舟だ。贅沢をこらした装飾もまた見事だ。王族が乗るだけの格はある」

 

 現れたのは、中東『滅びの王朝』王家に連なる、純血の第二世代吸血鬼イブリスベール=アズィーズ。第二真祖<滅びの瞳(フォーゲイザー)>直系の第九王子もまたラ=フォリアの誘いを受けて、この絢爛な装甲飛行船に同乗していた。

 ラ=フォリアと軽い挨拶を交わすと、イブリスベールは椅子に座らず床に座禅を組んでいるクロウへとあっさり興味の対象を移す。

 

「クロウよ。随分と手酷くやられたようだが、調子はどうだ?」

 

「ん……まだ、だるいな」

 

 がっくりと肩を落として、クロウは弱々しく返答する。

 答えながら左手を何度か握り締めたが、指の動きは緩慢で、ぎこちない。身体がまだ不調であるのは明白だ。

 

「動けることは動けるけど、姫柊を殴っちまったペナルティがきついんだ。時計(これ)がピピピッてなるまで無茶するなと言われてる」

 

 言って、クロウは左手首に巻かれているタイマー設定された腕時計を見せる。

 それが鳴るまでは無茶しないようにと後輩に言いつけられているのである。

 イブリスベールは意地悪く口の端を吊り上げ、

 

「今の<第四真祖>は、かつてほど強いわけではなかったんじゃないのか?」

 

「力が強い方が勝つとは限らないのだ。絶対にやってやる、って考えている方がオレには厄介だと思うぞ。実力差以前に勝ち目がなくなる。古城君はその辺が逞しい。十回くらいぶっ殺しても降参しない。こっちの理屈が通用しない。大人しくさせるのは無理。それをご主人もオレもわかったから、負けを認めたのだ」

 

 強くない、とは評したが、馬鹿にしたつもりはない。

 恐れることはなくとも、嘲られるものではない。

 

「『原初(ルート)』よりも力が劣るからと侮るな。古城君は今よりもずっと力がなかったころに『原初』に勝ったのだ。その傲りは、高くつくぞイブリス」

 

 少しだけお怒り気味に睨むクロウ。

 それは先輩と言う親しい間柄だから、庇っているのではなく、そんなのとは無関係に純粋に古城のことをそう思っているから、クロウは言っているのだ。

 

 もしここで暴れれば飛行船が確実に沈没する存在に刺激をするような真似に王女護衛の要撃騎士は宝剣の柄に手を添えて警戒心を高める。

 一挙一動見逃さず、行動を起こそうものならその前に対処できるように。

 少し間をおいて、王子の表情が変化した。

 嘲るよう吊り上がっていた口端が、下がる。

 王子の思惑など読めるほどの付き合いはないが、ただ、身近な王女と当てはめるに、もし姫御子がああいう顔をしているときは、相手の言い分に筋が通っていたときなのであろう。

 

「この真祖直系の吸血鬼である俺を諌めるか。雑種は未だ万全とは程遠いというのに」

 

「ん? 力がなかったらお前に意見も言っちゃいけないのか?」

 

 クロウは首を傾げて、

 

「オレの知る王様というのはわがままだけど、相手のわがままくらい笑って聞いてくれるくらいはできたのだ」

 

 その文句を唖然と聞き入っていた『滅びの王朝』の王子は、しばらくしてたまりかねたように声をあげて笑い出した。

 

「やはりおまえは面白いな」

 

 それは普段の彼を知る部下たちがそれを目にしたらパニックになりかねないほどの晴れやかな笑顔だ。

 しかし、クロウにはもちろんそんなことはわからない。

 あれ? オレ、真面目に言ったつもりだぞ? と首の角度をさらに傾げるクロウ。そして、王子の心境と同意できるたったひとりの少女もまた、くすりと社交用ではない素の笑みを零した。

 

「アルディギアがこいつを欲しがるのがよくわかる。こういうずけずけと遠慮なく物を言う馬鹿者は、ひとりくらい傍に置いておきたくなるな」

 

「ダメですよ殿下。この子は私が先に目をつけたんですから」

 

 よくわからないが自分が笑われてることに気づいたクロウはむっと不満そうに唇を歪めた。

 

 

 

つづく



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咎神の騎士Ⅰ

11/2 最後のひとつ前に一場面、加筆修正しました。


神緒田神社

 

 

 ―――曰く、<蜂蛇(ホウダ)>とは災厄の前触れである。

 

 

 神緒田神社が『神縄湖』に置かれた理由は、その災厄を鎮めるため。

 古来、封印されし<蜂蛇>が覚醒の兆しを見せるたびに、歴代の社を仕切る神職は、開封はただ一度となくそれを悉く鎮めてきた。

 そう、霊力に優れた巫女を“人柱”とすることで、封印を強化してきた。

 人一人の犠牲で、数十年、一国の平和をもたらせるのだ。

 災厄を回避するために“人柱”を生きたまま湖に沈める―――同様の儀式は世界各地で行われている。

 この神緒田神社にいた過去の巫女たちは皆、その身を捧げてお役目をはたしてきた。

 そして、最後に儀式が行われてから70年後の今、現当主である暁緋紗乃もそれを果たさなければならない。

 

 しかし、緋紗乃に“人柱”は務まらない。

 

 歴戦の経験はあったとしても緋紗乃の霊感能は老齢に衰え、霊媒としての感性はすでに若者たちに負ける。

 そして、生贄に望まれているのは、“穢れなき処女(おとめ)”だ。

 だから、その“人柱”の第一候補に最も相応しかったのは、暁凪沙―――祖母譲りの霊力を持った強力な巫女である、緋紗乃の孫娘であった。

 息子の妻の深森と緋紗乃の嫁姑仲が悪いのは、それが原因だろう。

 もしも娘が誰かに嫁いで純潔を捧げる前に、封印に綻びが見えたならば、その時は彼女に“人柱”になってもらう―――そう女児が産まれてすぐに宣告した。孫娘に手伝いと称して巫女としての鍛錬を施し、“人柱”に相応しくあるよう調整する……その課せられた責を打ち明けることなく。義娘から鬼婆と陰口をたたかれても仕方がない。

 だが、それほどに暁凪沙の素養は凄まじかったのだ。義娘の深森から天然の接触感応力者(サイコメトラー)の資質まで受け継いでいる混成能力者(ハイブリッド)は、これまで歴代の巫女たちよりも遥かに上だろう。凪沙を捧げて神緒田の社に伝わる秘儀を行えば、数十年と言わず、百年以上もつ強固な封印に仕上げられるはずだ。

 

 ……でも、鬼婆にも、情はないわけではない。

 極めて優秀な巫女を生贄に捧げるのを神職として望ましくも、可愛い孫娘を生贄に捧げることを祖母としてはけして望めない。

 気の迷いか。八岐大蛇を退治し、生贄の娘を救った破壊神(スサノオ)の到来を願ったこともあった。

 ああ、“現存する『聖殲』をすべて破壊する”ための『最後の殺神兵器』を呼ぼうとしたのは、この“人柱”の宿命から孫娘を解放させたい祖母としての緋紗乃だ。

 しかし、計画を前に下手な刺激を控え、蜘蛛の糸のような最後の通話を切った。あの1分あまりの葛藤の末に制したのは、神職としての緋紗乃であった。

 

 そう。

 すでに。

 そのような不確定要素になど頼らなくても、災厄を鎮める使命を果たせ、孫娘を救うことができるのだから―――

 

 

 十二に裂かれた<第四真祖>の眷獣―――その一体を封印するために生み出された、人造の吸血鬼アヴローラ=フロレスティーナ。

 災厄を鎮めるための生贄に、彼女以上の適任はいない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 湖底に深く沈んでいてもなお霊感で捉えられる、ただ圧倒的に異質な霊気の集合体。現在進行形で上昇する魔力濃度はこのままいけば、十日以内に付近の生態系に深刻な影響を及ぼすだろう。

 連携を取っている自衛隊の科学的な水中探査機からも、その塊の存在を確認できる。

 陽炎のようにゆらゆらと形を変えるのが、貝殻の真珠層に似ていることからそれは<黒殻(アバロン)>と名付けられた。

 

 すべてを拒絶する黒い障壁に囲まれて、内部の様子はわからない。

 剣巫の鋭敏な霊視をもってしても、不吉な予感に胸がざわめかされるも、具体的な素性までを見透かせることはできない。

 それ故、この儀式は『三聖』の間でも意見が分かれてしまうほどに、危険な賭けである。

 

 だが、『闇白奈』は、国防のためではなく、『聖殲』の脅威を除くために動くもの。

 それは生存競争のような本能的なものであり、止められるものではないのだ。

 その原罪ともいうべき執念は、何世代にもわたって『聖殲』を撲滅させんとする『(くらき)』の意思を、『闇白奈』に襲名された当代の器へと引き継がせてきたほどだ。

 

 そして、目をつけた『十二番目のアヴローラ』は、もとは<第四真祖>の魂を封印する器として造られた吸血鬼。

 肉体がなくともその霊体は、未だに桁外れの魔力を残している。外部から生贄を供給して遺産を封じる<黒殻>を強化する目的であれば、彼女は暁凪沙以上に適役だろう。それももう死んでいるのだ。

 加えて『十二番目のアヴローラ』の魂が消滅すれば、彼女の依代から暁凪沙は解放される。肉体が衰弱するほどの霊力の酷使をしなくてもいいのだ。だからそれを知った緋紗乃は、孫娘である凪沙を救うためにも、この冷酷な計画に加担した。

 

「ごめんなさい」

 

 当代の『白奈』が、謝意を零す。

 腕の中には、眠らせた凪沙がいる。器の肉体に触れ、その中にある『闇』の意思まで見透かした凪沙は必死に抗うも、その霊体はすでに掌握した。

 

 魔族に似て真なる魔族に非ず。

 日本最強の攻魔師『三聖』のひとりである『闇白奈』の霊糸は繋げたものを駒に変えてしまう。幽体離脱されて霊体から切り離されたその肉体は、糸の切れた人形も同じ。

 そして、暁凪沙の霊体を離した暁凪沙の肉体に残るのは、アヴローラの魂ひとつ。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 頬に涙を伝わせながら、謝罪の言葉を繰り返し繰り返し……けれど、力の使い途を決めるのは『闇』の意思であっても、実行するのは力を持った器の『白奈』。

 その赦しは一体誰に向けているのか、それはどちらにもわからない。

 

 

神縄湖付近 作戦本部

 

 

 陽光に煌めく水面に、神楽の舞殿に似た小さな祭壇が浮かんでいる。

 小舟を連結させて造った木製の簡易祭壇。

 その祭壇上には、銀色の長剣を持った制服姿の少女―――なんと、暁緋紗乃ではなく相方の剣巫が対策を任されているではないか。

 きっと唯里の表情は緊張に強張っているだろうが、祭壇に横たえられた巫女装束を着せられた暁凪沙を守護する任をきちんと努めている。

 

(うん。こっちも負けてられない)

 

 弓手として鍛えた鷹の目で見届けた志緒は、己の任に意識を戻す。

 『神縄湖』を一望できる展望駐車場。

 今ここには無人偵察機を運用するための管制車や整備用トラック、軽装甲機動車などの偵察車両に大口径火器を装備した装輪装甲車といった自衛隊の車両で埋め尽くされている。

 これだけあれば、小さな都市のひとつふたつを制圧可能だろう。

 

 彼らは、防衛大臣直轄の自衛隊『特殊攻魔連隊』――魔導災害対策専門の攻撃的な特殊部隊だ。

 

 今回の作戦で『三聖』が率いる獅子王機関と連携を取り、<黒殻>の眠りを見守りまた鎮めてきた神緒田神社の神職・暁緋紗乃の采配によって動いている。

 そのちょうど『神縄湖』の様子がうかがえる場所に、斐川志緒―――と彼女が監視している暁牙城がいた。

 

「―――よお、安座真三等特佐殿」

 

 髭面をポリポリと掻きながら、気安く監視対象が声をかけた迷彩服の男性。

 見た感じ30代前後の年齢で、猟犬を思わせる風貌の、背の高い男は、この『特殊攻魔連隊』の部隊指揮官だ。

 牙城の斜め後ろにいた志緒に気づいて短く敬礼をするその対応は、こちらを小娘と侮る気配は微塵も感じさせず、そしてこちらも気を引き締め直される、若いが有能な指揮官なのだろう。

 で、

 

「どうよ、<黒殻>の現状は?」

 

 ちょ暁牙城!? とあまりの無遠慮さに慌てる志緒。だが、安座真の方は、大して咎めることもなく、低い声で受け答えする。

 

「活性化は進行しているな。殻内圧力は48時間で1.25%の上昇。表面の魔力濃度は基準値の774倍―――危険域に達している」

 

「そうか。このままだと、最悪、市街地にまで被害が出るかもしれねぇな」

 

「わかっている。そうなる前に事態を収拾する。そのために我々はここにいる。―――そうだろ、斐川攻魔官?」

 

「あ、はい、もちろん」

 

 この獅子王機関とは勝手が違う陣営の中で、安座真に呼びかけられた、借りてきた猫のように大人しかった志緒は頷く。

 

「暁師範(せんせい)にはお世話になってもらったことがあってね。その伝手で、暁牙城と知り合いなのだよ」

 

「そ、そうなんですか」

 

 本当にこの男は考古学者じゃないのか? 自衛隊にも顔見知りがいたとか、どれだけのコネを持っているのだろうか。と志緒は、この風来坊な男の脅威度を上方修正する。

 

「いやしかし、この子は真面目ちゃんでね。ちょーっと、凪沙の顔を見に『神縄湖』に行こうとするとすぐ邪魔しにくるんだ。本当に参ったもんだよ」

 

「当然だ。緋沙乃様からあなたの監視を任されてるんだからな」

 

「ちぇ、ちょっとくらいあの婆の言うことなんざ無視してもいいだろうが」

 

 あからさまにすねるポーズを取ってくる牙城に、ムッとする志緒。

 余程、娘の凪沙が心配なのだろうが、こちらがふと目を離した隙に、儀式場へと行こうとするのだから油断がならない。一体もうあれから何度止めたことだろうか。

 そんな大人げない牙城を、頼れる大人な安座真は苦笑して、諌める。

 

「こらこら。あまり斐川攻魔官を困らせる真似をするものではない。一応、君は一般市民なのだから」

 

「それで、昨夜の侵入者(ネズミ)はどうなってる? 一般市民として徹夜でガキの頃に遊び回った森の中を探してみたんだが、見当たらねぇ」

 

「こちらもまだ見つかっていない」 しかし、安座真は不敵に微笑を返した。 「相手の情報を得ている。霊力と魔力による攻撃とは相性が悪いみたいだが、我々の銃火器ならば問題ない。山狩りの最中にでも見つけたら、蜂の巣にしてやろうではないか」

 

「お、頼もしいねぇ。さっすが自衛隊様だ。税金分の活躍は期待してもいいんだよな?」

 

「もちろんだ。……ただ、『神縄湖』には入れなくてね。あそこは、今作戦のもっとも重要なポイントであり、巫女しか許されない神聖な儀式場。暁師範にも警備の進言をしたのだが、自衛隊にも立ち入りを禁じられている」

 

「ちっ、あの妖怪婆……」

 

 牙城が悪態を吐いてところで、安座真は志緒をテントの中へと誘う。

 

「そうだ。斐川攻魔官。昨夜の侵入者についての情報、暁師範と(くらき)卿から話を聞いているが、直接対峙した君からも伺いたい―――どうぞ、こちらへ」

 

「……はい、わかりました」

 

 曖昧に濁した返事をする志緒。

 羽波唯里が気づいた、あの黒衣の青年が振るっていたのは、『零式突撃降魔双槍』だ。『廃棄兵器』とも称されるその失敗作だが、あれは獅子王機関が開発した武神具であって、ならば、あの男は獅子王機関と関わりがあるのだろう。

 今は共同作戦をとっているが本来『特殊攻魔連隊』は別組織であって、政治的にこちらの恥部を曝してしまうようなことは避けるべきか。

 いやいや、ここは大事な作戦前で足並みは揃えておくべきか。

 この事情聴取で、どこまで話していいものかと悩む志緒は、無人のテント内に入り―――

 

 

神縄湖

 

 

 不死にして不滅。一切の血族同胞を持たず、支配を望まず、ただ災厄の化身たる十二の眷獣を従え、人の血を啜り、殺戮し、破壊する―――世界の理から外れた非情な吸血鬼。

 その怪物がこの国のどこかに出現し、獅子王機関の誰かが、彼を抹殺するために派遣されるのではないか、と今年の夏に入る少し前のころに、

 全寮制の名門女子高にして獅子王機関の養成施設でもある『高神の社』の生徒たちの間で噂立って、彼女たちを恐怖のどん底に突き落としていった。

 結局それは、根も葉もない噂である、とすぐに風化される花火のような一瞬の広がりであったが、羽波唯里はそれが真実であったと教えられた。

 そう、獅子王機関『三聖』、閑古詠から、<第四真祖>の正体が、絃神島に住む高校生であり、自身と同い年であること―――そして、彼の監視役として派遣される剣巫の候補に、羽波唯里の名前が挙がっていること。

 それに最初は驚き、そして恐怖したが、しかし同時にかすかな期待もした。

 つまり同い年の男子であるところの<第四真祖>を監視しているうちにラブコメチックなイベントが発生するのではないか、という甘い期待だ。これはルームメイトも知らないことだが、唯里の愛読書は少女向けのベタな恋愛漫画である。

 

 けれど、その話は『七式突撃降魔機槍』を上手く扱えなかったことで流された。

 獅子王機関の秘奥兵器は、使用者に合わせた調整ができないもので、使い手の能力(レベル)技量(スキル)ではなく、武器との相性が求められる。それは『三聖』であっても同じ。そして、<第四真祖>の監視役という危険任務には、この秘奥兵器の能力を完全に引き出せる者が望ましい、と。

 

 また、羽波唯里は、孤児ではない。

 

 全国から霊媒資質のある少女たちを集める、または保護する『高神の社』の中では珍しく、唯里には家族がいた。両親は獅子王機関の職員であって、また年の近い弟がいる。

 もちろん、親の七光りで剣巫になったつもりはないが、家族に配慮して監視役の第一候補から外されたというのは、考えられることだ。

 だから、一つ下だけど優秀で『七式突撃降魔機槍』の使い手にも選ばれ、そして、孤児である姫柊雪菜が<第四真祖>に監視役に派遣されて、そのことを唯里は今も負い目に感じている。

 

 

 そして、秋の中ごろ。

 

 

 人間と魔族の禁忌の混血。黒死皇の血統を引いた獣王にして、万象を破壊する凶狼―――現代最後に完了した殺神兵器。

 それについての噂が流れ、そして、それを獅子王機関が監視または獲得(スカウト)しようとしているという話も広まった。先の<第四真祖>のように有名ではなく、その異名も『高神の社』の女学生には知らないものばかり。ただ、存在が不確定ではなく、実在されている脅威とされていた。

 曰く、<第四真祖>の後続機(コウハイ)

 曰く、舞威姫に禁呪をかけられ、巫女たちに手を出せない。

 曰く、生粋の『壊し屋』で、師家様の後釜候補。

 曰く、『三聖』の『闇白奈』が欲している。

 と割と身近な人たちが関わっているようで、その中の寮で同室であって、謹慎中で帰還していた煌坂紗矢華が話してくれたところによると、『あの子は噂されるような人面獣心の怪物なんてものじゃないし、人畜無害なんだけど、すっごくヤンチャで、ちょっと目を離すと何をしでかすかわからないから心配させられる』とのこと。師家様こと縁堂縁にも気に入られており、剣巫の唯里や雪菜よりも白兵戦が上手だと褒めていた。

 この二人の全体評からして、唯里は、自分の年の近い弟のことを思い浮かべた。それなら、自分でも監視役ができるかもしれない。そう、今度こそ……と唯里は覚悟を決め、

 そして、禁呪をかけたとして英雄視された紗矢華をライバル視している、同じ舞威姫の志緒が『だったら、私が監視役をやってやる! 紗矢華よりも完璧に御してみせる!』と息巻いていたけど、結局、その話は太史局に任されることになった……

 

 

 そして、冬。

 

 

 今、唯里は、<第四真祖>の妹であり、<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の一体を憑依させている暁凪沙の護衛に大抜擢されていた。

 最後の会議まではその役は、彼女の祖母でもあり、伝説的な攻魔師である暁緋紗乃がするはずであったが、その緋紗乃からこの未熟な剣巫である唯里を代役にと推してきたのだ。

 見習いの唯里に、最高ランクの機密情報である『聖殲』に関する知識もなく、そもそも<黒殻>の正体や、今回の作戦の具体的な内容までも知らされていなかった。

 そして昨夜の襲撃者に対して、相方と連携を取っても手も足も出ずに追いつめられた。

 さらに上位層の人間たちが皆、あの中にあるのは『聖殲』の遺産、すなわち殺神兵器であると警戒している中で、『脅威というには少し違う。あの<黒殻>は災厄そのものではなくて。ただ眠っているだけというか、何かを護っているような感じがします』と一人見当違いな所感を述べてしまった。

 

 なのに、唯里は緋紗乃の鶴の一声によって暁凪沙の護衛役になった。

 

 唯里は緊張し、しかしそれに負けないくらいの気合いを入れていた。

 すでに同期には、真祖の監視をしている剣巫や、獣王に禁呪を施した舞威姫などと一線で活躍している者たちがいて、ならば、唯里もそれに続く貢献をするべきだ。

 

「あそこに……『聖殲』の遺産が……」

 

 下に目を凝らせばこの透明な湖の底に、巻貝に似た闇色の多面体が沈んでいる。

 黒い真珠にも似た表面、陽炎のように不規則に揺らぐ、生物と人工物の両方の特徴を兼ね備えた異質の物体。地上にある如何なる物質にも似ていない。

 あれがこの神緒田の土地に眠る災厄を封じるための結界――<黒殻>。

 

「でも……あれって、本当に……封印、なのかな?」

 

 拭えぬしこりのようなとっかかりを抱えたまま儀式が始まり、眠っている暁凪沙、その髪が変色する。光の加減で刻々と色を変える金髪、逆巻く炎のような虹色の髪へ―――

 

 あれは凪沙ではなく、アヴローラ=フロレスティーナ。

 かつての<第四真祖>であり、十二番目のアヴローラ。

 

 これまで優秀な巫女を“人柱”に捧げてきた神緒田の秘儀だが、今回は違う。

 生贄とするのは人ではなく、魔族。それも暁凪沙が現世に意識を留めさせているだけの、ほぼ死人と変わらないその魂をだ。

 

 薄らと朝霧に包まれ、静かに凪いだ水面を晒す『神縄湖』

 ここに小舟を足場の支えとし、注連縄を周囲に張り巡らせて供物を捧げた湖上の祭壇は、生贄の霊体を抽出し、湖底の<黒殻>へ送り込むための舞台装置。今の凪沙は、『三聖』の力により、霊体は肉体から一時的に切り離されている。生贄として使われるのは、彼女の肉体に残されたもうひとつの霊体――即ち、アヴローラの魂だけだ。

 

「これが、白奈様の力……!」

 

 湖底で内圧が高まり続けて今にも紙風船のように破裂しそうな<黒殻>を包み囲うよう、その枝根の威容を水中に拡張させていく樹木。

 それは巨大な樹木のように束ねられた霊糸だ。その『三聖』の白髪より伸びる一本一本は霊視にも覚れないほどに細く、けれど、この霊糸こそが他人の霊体を自在に操る能力の触媒であった。

 『闇白奈』は、千年以上もかけて記憶と霊力を受け継ぎ、力を高めてきた一族の末裔。生まれつきの呪いにも似た彼女たちの在り方は、不老不死の吸血鬼とも共通点がある。

 そして、積み重ねてきたこの力。

 災厄じみた力を有する<焔光の夜伯>の一体の魂を、人の技で掌握せんとするその無謀。だが、その不可能を可能にしてこそ、『三聖』は魔族の王たちも警戒する国内最強の攻魔師なのだ。

 唯里が見ている中で、祭壇から伸びた霊樹の幹は、<黒殻>へ到達。『十二番目』の霊体に残されていた魔力を吸い上げようと脈動を開始する。

 

「え―――」

 

 剣巫の霊視が、これまでに感じたことのない異変を捉えた。

 亀裂が走る<黒殻>。

 その隙間より這い出てくる無数の影。

 

 なに……あれ……?

 

 反射的に柄を手にした『六式降魔剣・改』を握る力を強める唯里。

 有機生命体のシルエットでありながら、人工物のような質感。頭部は蜂のような複眼で、鋼色に輝く肉体、尾は“蛇”のように長い。

 

 まさか、あれが<蜂蛇>―――!

 

 羽波唯里が確認できたのはそこまでだった。

 

 異変はそこでとどまらず、<黒殻>も、『三聖』の霊糸も、すべてを凍てつかせる濃密な魔力な波動が解き放たれた。

 そのあまりに膨大な魔力は、太陽を直視してしまったかのように、唯里の霊視()を眩ませたのだ。

 

 

『アヴローラ! 駄目えぇ―――――――――!』

 

 

 霊体だけの少女が、叫ぶ声。

 それに気を取り戻したか、唯里はまだ盲目なれど、骨身に沁み込まれた剣技を振るい―――

 

 

神縄湖付近

 

 

 神緒田地区の大地が揺れた。

 地震のような断続的な揺れではない、巨大な錘が間近に落ちてきたような、瞬間的な衝撃だ。

 震源はおそらく『神縄湖』―――たった今、儀式が行われているはずの方角。

 しかし魔力を含んだ霊気の霧が、そこで何が起こっているかの事態を隠蔽して、ただ漠然とした胸騒ぎだけしかつかめないでいる。

 気温も真冬とはいえ、一瞬にして景色全体に霜がつくという異様な寒波が襲い、続いて“それ”が現れる。

 

 鋼色に輝く異形の怪物。

 全長は3、4mほど、雀蜂に似た頭部と蛇の胴体、そして翼竜のような翼。

 その鱗は通常のライフル弾程度では貫通できるものではなく、偵察用の高機動車を主体とした『特殊攻魔連隊』の装備では、火力不足。

 その戦闘力は破格の強さというわけではないが、獅子王機関の攻魔師が手古摺る程度に厄介だ。

 それが1体や2体ではなく、視界に入るだけでも20以上の大軍で、空を埋め尽くすような勢いで迫っているのだ。

 陣を敷いている自衛隊の戦力では、今はかろうじて拮抗ができても、この強い魔力を帯びた霧のせいで、無線や呪術による通信は阻害されている。この状況下で、湖の周辺一帯に散らばる隊員たちを連携させるのは難しく、いずれは戦局は一方的なものに傾くであろう。このままでは―――

 

「硬い体ですか。化け蟹の類を相手にしていると思えば、なんとかなりますか」

 

 鋼色の魔獣が十体近くも暴れる渦中に、減速することなく飛び込んだ小さな影。その道着姿の老女は手にした長物を無造作に振るい、一伐必殺と魔獣の群を撃墜させていく。それも意識をなくした白髪の少女を背負いながら。

 冴え渡る薙刀の武技で無双するのは、暁緋紗乃。

 切先は演舞のように。

 魔獣たちは地に顔を擦りつけてから、ようやく切られたことを覚るだろう。

 現代兵器の通用しない怪物を、薙刀一本でズタズタにしていく快刀乱麻の活躍は劣勢であった自衛隊の士気を盛り返した。

 70歳近い老女とは思えぬ身軽さで極寒の戦場を駆け、時折、危機に陥った隊員を助けながら、中心地である『神縄湖』へ向かう。

 

 だが、鋼色の魔獣――<蜂蛇>は、『神縄湖』に近づこうとすればするほど、抵抗を激しくしていく。

 まさに巣を狙う外敵から護らんと集団で攻撃する獰猛な雀蜂のよう。功を競うかのように魔獣たちは襲い掛かる。

 彼女の迅速な武技を以てすれば、凶撃のひとつやふたつは容易く掻い潜って返す太刀で伐り伏せよう。だが、密度の増した群は、スクラムを組んだようにひとつの津波となっていた。飲み込まれず津波を払いのけるには、速さだけでなく、重い撃でなくてはダメだ。

 いくら一騎当千の強者であっても、やはり老体の身。体力の衰えは隠せず、そして、振るっている得物も鋼の鱗を幾度も斬りつけて原形を維持できていられるものではなく。

 

「やはり最後まで保ちませんか。歳は取りたくないものですね―――」

 

 薙刀の耐久性がついに限界を超えて、刃が欠けた。呪力の供給量が追い付かずに刃を強化していた術式が解除されてしまったのも刃毀れの原因だ。

 

「ですが、内部への打撃はそれなりに有効なようですね」

 

 と今度は素手で魔獣らを殴り飛ばしていく緋紗乃。また複眼の頭部を踏みつけ天狗の御業の如き跳躍を見せる。それは、鰐鮫を足場にして海を渡ろうとした因幡の白兎のよう。

 彼女の猛進を<蜂蛇>は止められず、『神縄湖』への防衛線を突破させられた。

 しかし、依然と緋紗乃の表情は険しいまま。

 

 あの娘――羽波唯里攻魔官の言葉通り。

 “<黒殻>は封印などではない”。人間たちは利用されていた。生贄の巫女から吸い上げていたのは霊力だけではなく、知識も。

 そして、花粉を虫に運ばせる植物のように、時を満ちるのを測っていた。

 

 この見立てが正しいとするのならば、今回の獅子王機関の作戦は、前提からして間違っていたということになる。

 『十二番目のアヴローラ』を生贄にささげた結果、彼女の知識を手に入れた<黒殻>は災厄を目覚めさせた。

 

 真に恐ろしいのは、この<蛇蜂>ではない。

 伝承には鋼色の魔獣たちは、災厄の先触れに過ぎない。ならば、まだ湖底に魔獣たちの主が潜んでいるのではないか。

 これらが真の災厄に寄生していた取り巻きに過ぎないというのであれば、これほどの数の魔獣を従えられる存在など、吸血鬼の真祖に匹敵するものだろう。

 

 一秒でも早く凪沙の下へ―――!

 

 

「―――お急ぎのようですが、その“荷物”、私が始末しましょうか?」

 

 

 瞬間、緋沙乃は声がした方向へ、攻撃用の式神を放っていた。

 ハヤブサに似た銀色の猛禽が、弾丸並の速度で襲い掛かる。呪術の専門家から見ても、寒気が覚えるほど見事な攻撃術式だ。

 だが20体を超える緋沙乃の式神は、悉く、砕け散るように消滅する。

 防御されたわけでも、撃ち落とされたわけでもない。式神としての機能を失って、完全に無効化されたのだ。

 

「怖い怖い。全盛期であったころのあなたでは、私など相手にならなかったでしょう。しかし、今は醜く衰えた」

 

 黒衣の青年は、緋沙乃を嘲笑し、構えた漆黒の双槍より霊力を無効化する力場を発生させる。

 途端、これまで魔獣相手に膝をつくことがなかった緋沙乃が頽れた。術で老体を身体強化していた呪力を剥奪されて、若かりし頃より半分以下に筋力の衰弱した老女は、少女一人の重さも支えきれなくなったのだ。

 

「っ、これが……<冥餓狼>ですか、絃神冥駕……!?」

 

「あなたは尊敬に値する伝説的な攻魔師だ。しかし、『零式突撃降魔双槍』で霊力を封じられれば、ただの人間に過ぎない。老いることのない私に敵う道理もない! ―――さあ、『三聖』の身柄をこちらに渡せ!」

 

 緋沙乃が、『闇白奈』を背負っているのは、護衛のためだ。

 儀式に霊糸の力を使っている間、自身の霊体まで幽体離脱して抜けてしまうので、器の肉体は無防備となってしまうのだ。

 だから、この瞬間が、襲撃者に最も狙われる。

 

「さもなくば、冬佳の師であったあなたであろうと容赦はしない!」

 

 振るわれた漆黒の刃が、緋沙乃が盾に構えた薙刀を甲高い音を立てて砕き、彼女の身体を地面に叩きつけた―――

 

「青二才にまだ後れを取るつもりはないですよ」

 

 ガッ、と打ち付けた双槍を抱きかかえるように押さえつける緋沙乃。道着の下に着こんであった帷子(かたびら)。それが致命傷となるのを免れた。

 そして、

 

 

「復讐者となるにはまだまだ甘いな、『冥狼』」

 

 

 狸寝入りをしていた『闇』が起きる。

 そして、すでに。その白髪から伸びる不可視の霊糸が一本、青年の背をついていた。

 

「『零式突撃降魔双槍』―――霊力も魔力も打ち消す厄介な武神具であるが、それが一度に両方を消すことのできない『廃棄兵器』であることは、造った貴様ならば当然知っていよう」

 

「ぐっ……クラキィ……!」

 

 出来損ないの人造吸血鬼――『僵屍鬼(キョンシー)』であっても、その霊体を縛られては、動きが封じられる。

 『零式突撃降魔双槍』は、霊力と魔力を両方一度に打ち消すことができないからこそ、失敗作。

 暁緋沙乃の霊力を封じようにも、『闇白奈』の魔力までを禁じることはできず、緋沙乃が双槍を受けた隙に不意を突いて仕留めた。

 

「もう、貴様は指一本と動かせぬ。儂が力を使っている間が恰好の隙ができると知ってそこを狙ってくるのが読めれば、罠にはめるのは簡単だろう?」

 

 緋沙乃の背から降りて、自らの足で立つ白髪の少女。

 抵抗を続ける冥駕に、『闇』はさらなる霊糸を繋いで屈服させ、『零式突撃降魔双槍』を手放させた。

 

「潔癖症の閑とは違って、儂は『聖殲』の知識を有する貴様は、排除すべきと考えている。飼い主の手を噛んでくるような『冥狼(イヌ)』は特にな」

 

 蜘蛛の巣にかかった獲物をどう調理しようかと嗜虐的な笑みを浮かべる『闇』は、そこで胸を押さえながら立ち上がる緋沙乃に細められた視線を向けられる。

 

「白奈……彼は殺さずに捕縛すると……」

 

「殺さずというが、すでにこいつは死人だ緋沙乃。それに儂の勘からして、『冥狼』は疾く葬ってやった方が良い」

 

 絃神冥駕という男の脅威度を高く見ている『闇』はこの好機を逃す気はない。

 そこでまた新たな足音を耳にする。

 

「緋沙乃様―――! 白奈様―――!」

 

 銀弓――『六式降魔弓・改』を手にする舞威姫――斐川志緒が、二人のもとに駆け付ける。

 

「斐川志緒……牙城はどうしたのです?」

 

 開口一番に、緋沙乃が監視を命じていた息子の不在を咎めると、志緒は深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません。この異常事態に暁牙城を見失ってしまい……それに、唯里がこの先に……!」

 

 昼行燈だが相手の隙を見つけるのが上手い息子ならば、小娘の監視からもたやすく免れよう。それが仲間想いであり、その危機に焦った心境であるのならばなおさら。

 

「失態だぞ、斐川志緒―――と言いたいところだが、ちょうどいいとこに来た」

 

「え、白奈様……?」

 

「昨夜の襲撃者だ。この男に止めをさせ」

 

 その命令に、瞠目して志緒は白奈を見た。

 

「今、こいつは儂の霊糸で金縛(しば)り動けぬ。『六式降魔弓・改』で一思いにやってやれ」

 

 息を呑む志緒。

 舞威姫は、呪術と暗殺の専門家。しかし、同時に志緒は年相応の少女であることに変わりはない。

 人としか思えない者を殺せ、と命じられて固まってしまうのも無理はなく―――しかし、一呼吸で、意識の切り替えを行い、銀弓に呪矢を番えた。

 

「最期に言い残すことはあるか、『冥狼』」

 

 冥駕は凍った地面に屈しながら、白髪の支配者を睨み、そして、称賛するかのように湛えてみせる。

 

「黒を白にするその忌々しい力。盤上の駒すべてを己のものとするそれは、一度術中にはまればこれほどに恐ろしいものはないでしょう。それでこそ、吸血鬼の真祖たちですら一目置く獅子王機関『三聖』だ―――」

 

 ―――矢が放たれた。

 

 

神縄湖

 

 

 その肉体は氷河のように透明。氷の人魚、あるいは妖鳥(セイレーン)

 人間の女性の上半身に、魚尾の下半身、そして背には翼を生やし、鋭い鉤爪をもった、吸血鬼の眷獣―――アヴローラ=フロレスティーナが封印する彼女の分身体<妖姫の蒼氷(アルレシヤ・グラキエス)

 

 環境をも激変させるからこそ、世界最強の吸血鬼の眷獣は天災の化身だと畏れられる。

 

 羽ばたきに吹雪く膨大な魔力は、『神縄湖』を瞬く間に凍りつかせる。

 水も空気も、液体も気体も、あらゆるものが固体と成り果てる真空零度の別天地。たった一振りの猛威で吹かれる突風に触れた湖全体、またそこに存在する全気体もまとめて固体化させてしまい、温度どころか気圧まで絶対の零に落としてしまう。重力自体は存在しても、感覚的にはほどんど太陽の光が届かない遠い宇宙に放り捨てられるようなもの。

 膨大な魔力を秘めた<黒殻>といえども、その凍気の前にはひとたまりもない。

 

 

 そして、青い光が閃き―――『神縄湖』と呼ばれていた場所はすべて、渦を巻く巨大な氷の結晶に変わる。爆心地からの余波は周囲の山々をも純白の霧と氷雪に覆いつくした。

 

 

「何だったの、あの力……『六式降魔剣・改』がなかったら絶対死んでたよ」

 

 単純に絶対低温による収縮と脆化により凍結するか、酸欠で果てるか、高山病のように血液成分が壊されるか、圧力差により体内から臓物を吐き出して悶死するか。

 この様々な死因が複合する白一色の地獄の中に唯里が生き残れたのは、ひとえに『六式降魔剣・改』の空間断絶にて熱をも真空遮断する絶対の盾に守られたからだろう。地獄が顕現したその一瞬に、あらゆる攻撃を防ぐ絶対的な障壁が張れたことで直接的に危機を免れることができた。

 おかげで唯里の剣がかろうじて薙ぎ払えた範囲と、その背後―――祭壇の一部と、そこに祀られた寝台に眠っていた暁凪沙は、護れたはずだ。

 これはここにいたのが獅子王機関から『六式降魔剣・改』を与えられた唯里でなかったら、ひとりも生存は叶わなかったろう。暁凪沙の護衛を唯里に命じた暁緋沙乃の判断が結果的に正解であったといえる。

 

「っ……凪沙さんは!?」

 

 すでに眷獣の脅威は消え去った。しかし、急激な気温の低下によって空気が白く凍り付き、魔力の余韻を含んだ冷気の霧に視界を白に染め上げられていた。

 この濃密な凍気と魔力のホワイトアウトに、中心地にいながら『神縄湖』の現状を把握しきれない。ただ、今、足場としているこの純白の平原の正体が、凍り付いた湖面であることだけはわかる。

 総貯水量6000万tを超える人工の貯水湖、その広大な水面がすべて完全に凍りついているのだ。

 凍結によって増加した体積の分だけ、湖面は氷山のように険しく盛り上がり、氷雪混じりの切り裂く寒風が吹き荒れるので、歩くだけでも困難な状況下。

 呪力を使い寒さに耐えつつ、唯里は必死に護衛対象である少女を探す。

 

「どこ!? どこにいるの……!?」

 

 360度を純白のスクリーンで覆い尽されたこの銀世界、距離も方角もわからないのだ。痕跡など見当たるまい。

 また魔力の暴発の影響により、湖面を覆う霧は強い魔力を帯びているため、剣巫の霊視は上手く働かず、探索用の式神も使うことができない。

 かといってこんな極低温の環境下に放置していたら、5分か10分で薄着の巫女服のまま無防備に眠り続ける少女の肉体は人間樹氷となってしまいかねない。

 

「そ、そうだ、無線機」

 

 唯里はコートのポケットに入れていたごつい無線機を取り出す。祭壇の護衛任務に就く前に、自衛隊から借りてきたものだ。慣れない機械に四苦八苦しながらも通話状態にしたが、しかしスピーカーから流れだしたのは、がりがりと耳障りな雑音のみ。

 応答も何もない。

 

「なんで……なんでつながらないの……!?」

 

 頼る術もない状況に、唯里は力なく立ち尽くしてしまう。

 きっと異変に、湖を監視していた自衛隊の部隊も巻き込まれてしまったのだろう。それに魔力を帯びた霧は電波障害も起こしていた。

 寒い。

 吹き付けてくる寒風に晒されて、思わず弱音を零したくなる。

 いずれにしても、今の状況では唯里ひとりで暁凪沙を捜し出すのは不可能だ。一度、自衛隊の作戦本部に戻って救援を仰ぐべき―――でも、どこに?

 視界不良の最中に、どうやって作戦本部の方角に見当をつける。勘を頼りにやるしかないだろう。

 だが、焦って周りを見るばかり足元が疎かになってしまったのだろう。うっかり足を滑らせて、唯里は見事にバランスを崩す。

 

「きゃあああっ!」

 

 深々と抉れた氷の斜面を滑り台のように滑落する唯里。

 氷の裂け目(クレバス)、その直前にまで滑り落ちた。巨大な怪物が這い出した痕跡のような、凄まじく深い裂け目(クレバス)で、深さはおそらく4、50mは超えており、それでも氷の底は見えない。

 半ば上体が身を乗り出してしまって、ゾッとする。

 そして、この人造湖に貯蓄されている水のすべてが、完全に凍結しているのは間違いなかった。

 それもあの秘儀の最中に出現した異界からの召喚獣―――真祖の眷獣の力。こんなかつてない規模の魔導災害に直面していることを改めて思い知らされて、唯里は怯えたように首を振る。

 

 そして、見た。

 

「魔獣!?」

 

 霧を撹拌する異様な羽音。

 慌てて身構えた唯里に迫ってきたのは、鋼の鱗に包まれた、蜂と蛇を掛け合わせたような魔獣である。あの湖底で垣間見た、<蜂蛇>と呼ばれる種族(タイプ)なのかもしれない。

 だが、放つ気配は人工的で、『高神の社』にて教わった魔獣のものとは違う。そのせいで唯里の反応が遅れた。『六式降魔剣・改』を構える余裕はない。ならば―――

 

「―――<伏雷>っ!」

 

 魔獣の頭を紫電と共に蹴り飛ばす唯里。呪力の篭った渾身の一撃は、しかし<蜂蛇>の硬殻に通らなかった。反動で蹴った唯里が逆に足首を痛める。

 

 硬い……!

 ―――でも確か、この手合いを倒すには、内側から……!

 

 体勢を立て直し、再度、<蜂蛇>の懐に潜り込み、内部破壊の剣巫の技を放つ。

 

「―――<(ゆらぎ)>っ!」

 

 唯里が叩き込んだ必殺の呪力が、魔獣の体内で炸裂。鋼色の魔獣の巨体が、一度微動して、沈黙した。

 

 効いた!

 これなら―――!

 

 この一瞬に、『六式降魔剣・改』を振り上げる唯里。

 空間ごと斬り裂く剣撃に耐えられる魔獣など存在しない。

 

「っ……!」

 

 だが、両断する直前に中断して、唯里は下がった。

 仲間の危機を救援する、新たな<蜂蛇>の群が、次々と唯里に殺到してきたのだ。

 その数は、70、いや80……ひょっとすると100を超えているかもしれない。空一面が鋼色に染める魔獣の軍勢。

 

「は―――ああ、あ……!」

 

 体力、霊力共に未だ半分を残していながら、剣巫は終着に追い込まれていく。

 無理もない。

 この圧倒的な数、過酷な環境下。味方となるものがひとつとてない孤独な戦場。

 体力の前に心が折れるのは、当然の帰結だろう。

 

「嘘……こんなの、無理……絶対無理……!」

 

 遠雷とも地響きともつかぬ終末の音が聴こえてくる。

 魔獣の群れだけでは飽き足らず、ついに氷結された湖底より、魔獣たちの将が現れるか。

 

「あ、ぁ―――」

 

 助けて、と形作る紫色の唇。

 こうして孤軍奮戦が荼毘に付す。

 願わくば、愚昧だった彼女の決意が、今際の悲鳴に貶められぬよう。

 

 

 そして、

 

 

「―――この騒動、止めに来た」

 

 

 その愚昧さは、新たな乱入者の参上に、心強いものに変わることを。

 

 

???

 

 

 あの子を使って、何をする気……?

 

 人柱……もしかして生贄ってこと? まさか、あの子を……!?

 

 ダメだよ、それはダメ……!

 

 違うの! そうじゃないんだよ!

 

 あれは封印なんかじゃないの。監視してたのは、あの子の方なんだよ。あの子を起こしちゃいけなかったの!

 

 ……ダメ……やめて……

 

 アヴローラ! 駄目えぇ―――――――――!

 

 

 

 ……ダメ、だった。

 救おうとした者たちに救われる、救いようのないのが、あたし。

 

(………)

 

 ……ああ。

 認識が、蘇る。

 記憶が繋がり、感覚が連動し、ひとつずつ蘇っていく。

 自分がどうなっているのか、やっとのことで把握する。

 

(……こ、こは)

 

 もつれる思考をもどかしく思いながら、周囲を探る。

 そこは、闇に包まれていた。

 透明な湖底の中に幽体離脱された霊体を鎮めていた―――一瞬で切り替わったように、そこが闇に染め上り、自分を包み込んだ。<黒殻>より溢れ出したものが、『神縄湖』を変化させてしまっていた。それを阻まんと、凍結させた“彼女”。

 まるで、湖がひとつの卵と化したかのようだった。

 あたしはまた、視ていることしかできなかった。

 あのとき、<黒殻(あれ)>が何であるかを覚り、そして、そこに“人柱”に捧げられんとした“彼女”に手を伸ばそうとして―――一緒に取り込まれてしまった。

 暴れてみたが、霊体は指一本ろくに動かない。

 『触覚過適応』と霊感には何ひとつ反応がないのに、体中が鎖で縛られているかのようだった。

 

(っ……!)

 

 歯噛みする。

 また、この有様なのか。

 ここまで来て、誰よりも早く真相に辿り着きながら、何もできないままなのか。

 

(お願い……

 

 誰か……

 

 止めて―――)

 

 誰にも届かぬはずのその思念(こえ)

 

 

『わかった―――待ってろ』

 

 

 それに応える思念に、肌が震えた。

 

 

ベズヴィルド

 

 

 ピピピッ、と腕時計から設定されたアラーム音が鳴る。

 同時、奪われた力が戻り―――“その声”を聴いた。

 

「わかった」

 

 南宮クロウは、立つ。

 もう十分、『待て』の時間は終わった。限界までしならせた弓のように、あとは矢を解き放つだけ。

 

「フォリりん―――悪いが、オレはもう行く」

 

 現状、装甲飛行船<ベズヴィルド>は、本土に到着したばかり。対地高度は約2500mで、そこから一応は丹沢山地を一望できるところまで来ている。

 そして、つい先ほど、高度な魔導技術を誇るアルディギア王国製の観測機器が、『神縄湖』に出現した巨大な魔力源の存在をはっきりとらえている。暫定的に<蜂蛇(ドローン)>と名付けられた魔獣の群の存在もだ。

 また『戦王領域』のアルデアル公のクルーズ船も東京湾に停泊しており、ネウストリア国籍のティルトローター機も『神縄湖』上空で目撃。ロタリンギアや『混沌界域』も目を光らせていることだろう。

 

 その注目を集める中心地点(グラウンド・ゼロ)

 そこへ行く、と客人(クロウ)は言う。

 

「理由を尋ねようか?」

 

 そして、それをイブリスベールが阻んだ。

 甲板に出ようとしたクロウの前に立ちはだかる、真祖直系の王子。

 

「教えてやろう。あそこは死地となる。全ての魔族を滅ぼそうとする賊が死に物狂いで来るぞ」

 

「なるほど……この展開は予想されていた、というわけですか、殿下?」

 

 瞳に好奇の光をたたえてラ=フォリアが訊く。

 状況を俯瞰する<ベズヴィルド>の望遠カメラには、<蜂蛇>だけでなく、『神縄湖』から数km離れた山中の空き地に展開する所属不明の部隊も捕捉している。大型トレーラーを含む装甲車両が全部で3台、兵力の規模こそ小さいが、霧に紛れるように隠れ潜んでいる不気味な存在だ。

 彼らは自衛隊(JSDF)の部隊ではない。

 『神縄湖』を包囲している『特殊攻魔連隊』の目的は、出現した魔獣の封じ込めのはず。すでに戦闘が始まった状態で、わずかな戦力を伏兵のように配置する理由はないのだ。

 彼ら所属不明部隊の指揮系統は、明らかに自衛隊とは別物。むしろ敵対しているようにも見える。

 そして、おそらくその答えを知る者がここにひとり。

 そちらに顔を向けず、クロウと対峙したままイブリスベールは淡々と答えた。

 

「『聖殲派』―――咎神カインを奉じる狂信者(テロリスト)だ。あの地に眠っている『鍵』を奪いに来たのだろうな」

 

 会話に参加せず聴衆である船員たちがその言葉の意味に息を呑んだ。

 大地を血で汚し、世界から追放された『咎神』の力を以て、魔獣魔族の存在しない、清浄で平等な世界を実現させようとする―――それが、『聖殲派』。

 

「この俺がわざわざこの僻地にまで出張ってきたのはそれが理由だ。<焔光の夜伯>の『十三番目』、<第四真祖>の“後続機”と呼ばれながら、咎神の殺神兵器である雑種には、余計な因縁が付けられるだろうよ。そもそも雑種は『魔族特区』以外の人間たちの土地に受け入れられるものではない。それでも赴くか」

 

 全身のいたる箇所に巻かれた包帯を解き、屈伸して準備運動をするクロウに再度訊ねるイブリスベール。

 

「ん。面倒なのはイヤだけど、それは今大変な凪沙ちゃんには関係のない話」

 

「<第四真祖>の妹か。ならば、その命懸けの働きに対し、娘子は一体何をして雑種に報いているのだ?」

 

 興味本位でイブリスベールは訊ねる。

 何がこの『混血』を動かしているのかを。

 

「何でそんなことを考える? 困っていたら助けたいと思うのは間違っちゃいないことだって、『魔族特区(しま)』で学んだぞ。だから、オレは助けたいと思ったから助ける。それ以上の理由がいるのか?」

 

「……間違ってはいない……か」

 

 打算の欠片もなく、そう言い切ったクロウの回答に、イブリスベールが失笑した。

 

「あそこがおっかないのはわかるぞ。絃神島の外は勝手が違うのもわかってる。でも、あのおっかないところに人がいっぱいいる。護りたいものを護ろうとするヤツらがいる。犠牲になる必要のない行為なら食い止めたい。せいせんは、とかいうのも半殺し程度で済ませたいのだ。オレはご主人にみんなを救ってこいと言われたからな」

 

「なるほど、どうやら俺は、いささか見誤っていたようだ……俺が思う以上に傲慢だな、クロウ」

 

 イブリスベールは呆れたような、そしてどこか感心したような晴れやかな表情で笑った。

 

「あう?」 ときょとんと思わぬ自己評に傾げるクロウ。

 

「無自覚か、雑種。特別な理由もなく、己の望むままに行動し、敵の生き死にすら己の裁量で決める―――それは絶対強者にのみ許された思考、王者の特権だ。とても飼い犬(サーヴァント)になどと収まらぬ大器よ。もしくは底抜けの愚か者か」

 

 ニィ……と。

 真祖直系の王子は、愉快極まりない笑みを浮かべながら、腕を組んで告げる。

 

「良いだろう、雑種。俺が協力してやる。だが、『獣王(おう)』を名乗れ。俺は並び立つと認めるものが道化(ピエロ)であることは許せん」

 

 二人のやりとりの決着に、王女もまた薄らと静かに微笑み、

 

「でしたら、アルディギアも一枚かませてください殿下。私もこのイベントに一石を投じてみたいと思っていたところなので」

 

 

 

空間跳躍(テレポート)チャンバー起動! 跳躍目標は『神縄湖』!」

 

 緊迫した声のオペレータに、中世の海賊(バイキング)を連想させるごつい風貌の船長が、ご機嫌な王女に苦笑を返しながら、

 

「準備は整ったようですが、姫様の無茶ぶりに応えるのは大変ですな」

 

 <ベズヴィルド>の現在地から、『神縄湖』までの直線距離は、まだ20km以上はあるだろう。

 それだけの長距離を空間跳躍で移動するのは、ほぼ不可能。空間制御に必要な魔術演算量は、移動距離に比例して指数関数的に増加するものだ。

 単独でそのような離れ業ができる空間制御に特化した<空隙の魔女>がいるが、あれは例外だ。

 しかし<ベズヴィルド>に搭載された戦艦級の精霊炉を利用し、演算精度の不足を復活した<黒妖犬>の魔力量で補えれば、強引に空間を安定させることはできる。精霊炉に加え、真祖直系の『旧き世代』の吸血鬼の膨大な魔力が後押しされれば、この不可能は可能となる。

 当然、その跳躍は一方通行であり、単騎の飛び込みとなるだろうが、

 

「―――覚悟はいいな、坊主。これだけの長距離をやるのは初めてだ。だから、何が何でも耐えろ」

 

「ああ、お願いだキャプテン」

 

 船体下部の空間跳躍チャンパーで待機しているクロウ。空間制御の魔術が彫り込まれた転送室(チャンパー)

 クロウは己を見送る皆、ラ=フォリア、ユスティナ、船長、そして見届けんとするイブリスベールそれぞれに視線を返して、転送装置が起動する。

 

 普段の南宮那月に付き添う空間跳躍とは比較にならないくらい乱雑な、凄まじい空間の揺らぎがクロウを襲う。

 全ての力は両の足に。

 爆発しそうな滾りに、床がたわむ。

 景色が歪んでいく。

 歪みが広がり、虚空に穴を穿ち―――そこへ一気に飛び込む。

 

 瞬間、全ての世界が後方へ流れ去った。

 

 急激な加速を行ったように、視界は暗転(ブラックアウト)―――空間認識を完全に剥奪され、天地も方角もわからない移動の直中に放り込まれる。

 因果律を崩壊させる一歩手前の極限速度、光速の数%に及ぶ瞬時のうちに空間上の異なる二点間を繋ぐ距離を突破し―――

 

 

???

 

 

 ―――その、瞬間。

 

 闇が砕けるのを、見た。

 強烈な光が闇を貫き、まるで硝子のように砕き散らしたのだ。

 同時に、自分を拘束していた重圧も解け、ぐらりと落下していく不安を覚えさせる浮遊感。ひどく頼りない感覚で、永遠にどこでもない場所へ落ちていくのではないかとも思われた。

 

(ああ……っ!)

 

 声が、でてしまう。

 恐ろしさよりも、心細さが強かった。

 凍てつく暗闇に囚われて、まだそんな感情(こころ)があったのか。

 それでも、信じた。

 待ってろと、そう言ってくれた少年を。

 光の中から、見覚えのある手が伸びた気がした。

 墜落していく少女の霊体は、その光の方へ、必死で手を伸ばした。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――その、瞬間。

 

 少年も見た。

 どこにいるか、観測機器でも座標位置はわからない。巫女の霊視すら騙し抜くような吹雪の結界だ。だから、覚えていた“匂い”を頼りに、願う。

 会いたいと思った少女、彼女を探しに、いや、必ず見つけなければならない。

 

 

 

『彼の優しき巫女の御魂は、此処だ“コウハイ”―――』

 

 

 

 凍てつく暗闇の向こうに輝く虹色の焔。

 

「…………!」

 

 声も出ないその空間の中で、少年は叫んだ。

 喉も裂けよと叫びながら、ひたすらに手を伸ばした。

 捕まえたと思ったその刹那、重力が再び自分の身体を捉えるのを感じた。

 

 

神縄湖

 

 

 視界が変わり、気圧が変わった。

 世界は突然に色を取り戻し、重力と共に正常へと復帰する。

 

「―――っ!」

 

 クロウが到達した瞬間、その周囲、半径4、5mほどに衝撃波が荒れ狂い、凍れる湖中が球体状の空間が穿たれる。更にその上数十m以内の凍れる湖面が罅割れ、外に出る裂け目(クレバス)の出口を作り出した。これは長距離空間跳躍の余波であったが、ここが通常の市街地なら、大惨事となるところだろう。

 しかしクロウは無事。強靭な肉体に瞬時に張った生体障壁。

 強烈な魔力酔いが脳内をかき回すも、しかし、それはすぐに抜けた。

 後は静かなもので、多少クラクラとはしたが、ダメージはまったくない。

 そして、闘争本能をもった獣の王であり、空間跳躍には慣れている。飛空艇から全く違う場所へと“跳ばされた”直後でありながら、その“匂い”を認識できた時点で、凍れる世界に取り残されている現状を、立ちどころのうちに理解した。

 

「―――クロウ、君」

 

「凪沙ちゃん」

 

 腕の中を見る。

 純白の巫女衣装をまとった少女は、そこにいた。

 プリズムのように光の加減で色を変える淡い金髪をなびかせ、ただ瞳だけは元の黒いままの瞳でこちらを見上げ、弱々しげに微笑んでいた。

 心配になるぐらい冷え切った、軽い身体であった。

 

「本当に……来てくれたんだ……」

 

 まだ一月と経っていないはずなのに、その声を聞くのはもう何年振りの事のように思えた。

 

「……約束したからな」

 

 強く抱きしめるのを、クロウはぐっと押し殺した。

 

「今度はちゃんと守れたか?」

 

「………」

 

 凪沙の声が、沈黙する。

 つい今までたくさん言いたいことがあったのに、直前に急ブレーキをかけられてしまったかのような、妙な躊躇い方だった。

 

「凪沙ちゃん!?」

 

「ぁ……」

 

「眠いのか、凪沙ちゃん! 駄目だぞ、こんなところで寝ちゃ!?」

 

「その……あのね……」

 

 言葉を淀ませる凪沙に、クロウが眉を寄せた。

 

「何だ? 何か、問題があるのか?」

 

 すると、

 

「……ごめんなさい」

 

 たまりかねたように、少女は言ったのだ。

 

「…………………………あう?」

 

「きっと今しか言えないから。眠ると忘れちゃうから! クロウ君から“一番”を奪ってしまったこと!」

 

「…………」

 

 今度は、クロウがポカンとする番だった。

 その記憶がないからわからない、だけどこの少女の慟哭は、ひどく胸にしみた。ポカンと口を開いてしまって、何度も瞬きをしてしまって、それから難しくしかめっ面な表情を作った。

 

「……わからん」

 

 と、思わず口にしてしまった。

 それが“一番”を奪い、それまでの彼を否定(こわ)してしまったことの有り様をまざまざと見せつけられたようで、

 

「……ごめんなさい」

 

 謝るしかない。

 蚊の鳴くような声。ほとんど可聴域の限界に挑戦するような、ひどくか細い声音。

 しかし、クロウにはハッキリと聞こえている。ただ、聴こえていても理解はできなかった。

 

「……どうしてそんなことを謝るのか、わからん」

 

 自分がどんな表情をしているのか、凪沙にはわからなかった。

 ただ、こんな状況だというのに、彼の声だけしか聞こえなくなった。突然、ふたりだけ真っ白な世界に放り込まれたような気がした。

 

「ごめん。理由をオレにもわかりやすく教えてくれ」

 

「だ、だから、クロウ君から、あたしが“一番”を奪ったの! それでクロウ君が壊れちゃったの! 道具のように扱われるのがイヤで、でも、そんなクロウ君を変えちゃったのは結局、あたしの都合のいいようにしたことと変わりないから! ―――だから、あたしが好きになっちゃいけなくて……でも、クロウ君のこと大好きなの!」

 

 少女の声は、支離滅裂な、まるで駄々をこねる子供のようだった。まだ夢見心地が抜け切らず、半分寝ぼけているような状態だから、大胆になれるのか。

 いつもとまるで違っていて、それでいて、いつも通りという気もした。

 

「…………」

 

 クロウも、ひとつ深呼吸した。

 なんか、顔が熱くなった。汗が噴き出るのがわかって、でも嫌な汗ではなかった。

 この動悸の原因もよく理解できていないが、まあこのままでもいいかと、そんなことをクロウはぼんやりと思った。

 ひどく間抜けな事をしているようにも、とても大切なことをしているようにも思った

 

「……凪沙ちゃん」

 

 とりあえず、深層が表出している今の彼女が悩み苦しむのを放置しているわけにはいかない。

 実際、たった一秒が黄金にもまして貴重なときだろう。

 だけど、その貴重な一秒を、今この時だけは彼女に付き合うことに優先してやりたいと思った。

 

「凪沙ちゃんが何を言っているのか。オレには思い出すべきなんだろうけど、思い出せない。でも、そんなオレでもわかることはある」

 

 少年は、心中で苦笑する。

 壊れたものに責任を感じてしまっている少女を見て、『壊れないものを欲した』なんていう、思い返すだけで笑うしかない幼稚な願望を不意に思い出してしまったから。

 そんなものは存在しないことを、神さえ殺す怪物となった己はいい加減に自覚している。

 世界には、ふたつしかない。

 壊れたものと壊れるもの。

 死者と生者。

 過去と未来。

 結果と素因。

 『自分は死者よりも生者を優先する』というこの感情は、壊れるもの――まだ壊れていないものは、『壊れないもの』であるかもしれないという希望を夢見ていたのが正体だ。

 その感情とこの身に宿す毒とを、ひそやかにクロウは精査するように。胸を深呼吸の吐息が胸を撫でて、その奥底に沈んだ慨嘆と諦観を一緒に拾い上げながら、クロウ自身の結論を語る。

 

「壊れないものなんて、ない。どんなに大事でも壊れるのは、しょうがないものだ―――だけど、生命(いのち)は、“卵の殻は壊れないと生まれてこない”ものだぞ。だから、オレは、あの時、もういちど生まれたんだ」

 

 これでいい、と肯定する。

 壊れないものがあるから愛着するし、壊したから生まれるものもある。

 とはいえ、これは屁理屈なようなもので、少女に納得させなければ意味のない。

 

「だから、そう気に病むな」

 

「でも……」

 

「オレは、今のオレが気に入ってる。だって、オレは凪沙ちゃんが好きになってくれたこと嬉しかったからな」

 

「………っ」

 

 腕の中で、息を止める気配があった。

 

「そんなの…………聞いてないよ」

 

「ん? そうか?」

「そうだよ! 全然、一っ言もそんなこといわれてなかったよ! 『うんそうか。ありがとう』だけだったからね!」

 

 怒鳴られた。被せるような勢いでやられ耳がキーンと怯んだが、

 

「それでも、まだ気にするようなら、凪沙ちゃん」

 

 クロウは続きを言う。

 力一杯に抱きしめるには脆い身体に、強過ぎる腕力。だから、少女の罪悪と後悔の混ざった戸惑いを否定するように、精一杯に抱き寄せようとしようにも、ぎこちなくて。

 こんな不恰好にしかできないとしても、格好つけて言えるような言い回しは思い浮かばずとも、これは紛れもなく本音を伝える。

 

「……は、はい」

 

 

「……オレが、お前を好きになってもいいか?」

 

 

 できるだけ、優しく言った。

 壊れないように意識して、どこか照れくさくて、でも今想う気持ちを篭めた。

 だけど、抱きしめる腕に少しだけ力をこめた。

 ただ触れあうだけでも。

 この宣誓は、堅いものであると少女の肌の触覚に訴えるように。

 

「………」

 

 それにどれだけの効果があったのか。

 あれだけ冷たく、頑なだった凪沙の方から力が抜け、体温が伝わってくる。

 ……何日ぶりかはもう忘れたが、やっぱり今までと何も変わらない暁凪沙だった。

 抱きとめた感触も、肌の熱さも、香る“匂い”も変わらない。

 少女は抱きとめた少年の腕を振り解こうと抵抗することはなく、一筋頬を濡らして―――

 

 ………

 ………

 ………

 

 沈黙が長く、感じる―――そして、その沈黙は、いつのまにか気まずいものに変わっていた。

 

「『……………すまん、巫女は眠った』」

 

 と。

 抱く腕の力を緩めて、顔を見れるだけの間を開けるとそこに、“焔光の”瞳を伏し目がちにする“彼女”。元の黒目から目の色が変わった今の少女は暁凪沙ではなく、

 

「あー……お前、“センパイ”か?」

 

 “匂い”が切り替わったことは気づいたが。クロウは一応確認する。

 “彼女”は、虹色の金髪を揺らしながら間の悪そうに首を振り、

 

「『そうだ』」 途切れ途切れの声で“彼女”は説明する。 「『“コウハイ”の顔を見たとき、巫女は汝へ贖罪せんと、無理に表出したが……汝の赦しに、その責が薄れた』」

 

「ん……気楽になってくれたなら、よかったのだ」

 

 若干、消化不良な感じが否めないが、急に矢面に立たされた“彼女”に文句を言っても仕方がないだろう。とりあえず納得したようにクロウは相槌を打つ。

 張り詰めていたものが緩んだせいで肝心なところで寝落ちしてしまったような感じというか。

 それともまた別の要因があったのか。

 とにかく、

 

「凪沙ちゃんは無事なんだな?」

 

 クロウがそう尋ねれば、“彼女”は口元に笑みを洩らし、

 

「『彼の優しき巫女の御魂は、此方に―――後は、任せた“コウハイ”』」

 

 大切なものを愛おしむような、儚くも美しい微笑のまま、自らの胸元に両手を当てて、“彼女”もまた意識を落とした。

 クロウの腕の中に残るは、目を閉じた白装束の少女。

 これといって、その安心し切ったように緩む少女の寝顔に悪戯してやろうとかいう気が少年には起きることはなく―――早速、行動を開始した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――雷に撃たれたかのように<蜂蛇>が、失墜する。

 

 

 羽波唯里が見たその光景、裂け目から跳び出したかと思えば、ついでとばかりに飛んでいる鋼色の魔獣をハエか何かのように叩き落としていき、凍れる湖面に着地した。その鮮やかで軽やかな手際は思わず見惚れてしまいそうになるほど。

 だが、魔獣はまだ大量にいる。

 耳当て付き帽子、首巻、法被に手袋と重装備なその人影へ襲い掛かる。

 

「    ―――っ!」

 

 何か警告のようなことを魔獣たちに発しながら、その人影の全身が――筋肉が膨れ上がったように見えた。

 <蜂蛇>渾身の突進までの、一秒にも満たない刹那の間に、“背負ったもの”を一端、地に降ろす。

 武器も呪術も使わない。ただ真っ向から迎え打つつもりであった。

 

 激突の瞬間。人影は拳を振り上げながら身体を弓形の如く捻る溜めを作り、鋼色の魔獣にカウンターを叩き込もうとする。

 <蜂蛇>の飛行速度は純粋に速い。しかし突撃という性質上タイミングを合わせての反撃は容易い。まして何の計算もなく真っ直ぐにぶつかってくるのなら反動は半端では済まない威力となるだろう。

 ただし、3、4mの巨体で勢い付けて滑空攻撃してくる<蜂蛇>に真っ向からカウンターを喰らわせるなど、人間の膂力では無理な話で、そもそもその高速の移動を見切れるだけのずば抜けた動体視力と反射神経がなければタイミングを合わせるのも無理だろう。しかも武器ではなく拳を使おうとしているのだから、腕が千切れても何らおかしい事ではないはずだ。

 どこからどう見ても無謀にして蛮勇。だがしかし、そのとき、唯里が霊感で一瞬先の未来に視たのは―――撃沈された魔獣の姿であった。

 

 ―――   ドゴンッ!!!

 疾風の如き目を瞠っても手が霞む速さに、迅雷の如しと表現するのが相応しい遅れて耳に轟く力強さ。

 まさに天から落とされる神鳴りと形容させる、とんでもない拳鎚であった。

 それしか浮かばないほどに、圧倒させる一撃。自分の蹴撃が通用しなかった魔獣の鱗を素手で粉砕する。そして、インパクトの余波が凍れる大地に粉塵を撒き散らしたこの大暴力。

 

 ―――魔獣よ平伏せ、ここにいるのは“王”だ。

 

「な―――」

 

 唯里の絶句も当然だ。

 <蜂蛇>の群が飛ぶのを止め、恐れ引き下がるよう距離を取ったのだから。

 退治するのではなく、その覇気がこれ以上の反抗の無意味を悟らせたのだ。

 低知能な魔獣たちでも、圧巻され、怖気づかせる迫力。

 

 でも、そこで唯里はその人影が背負っていたもの―――捜していた少女に気づいた。

 

「あれは、凪沙さん……っ!」

 

 白装束の少女―――しかしそれを阻む人影。帽子と首巻の隙間から見える金瞳が、唯里に合わされた。

 瞬間、強烈な圧迫感を叩きつけてくる気配に、ぞくりと唯里の背筋が凍る。やはり、今の目の疑う一連の出来事は夢ではなく、魔獣を叩きのめしたのは幸運ではなく実力。

 コートの袖口を握り締め、唯里は寒さではないものに震える吐息を零した。

 そして―――

 

「凪沙さんから、離れて……っ!」

 

 脳裏に思い浮かべる、ひとりの後輩。華奢で儚げの容姿の彼女が、屈強な獣人族すら打ち倒す姿を何度も見てきた。

 憧れてきた姿、唯里なりに特訓を重ねてきたイメージを投影(トレース)する。

 

 斬り掛かってきた唯里を観察するようにその場から動かない人影が、剣を見てピクとわずかに反応する。

 

「む。それを受けるのはダメなヤツだな。一度、受けて反省したぞ」

 

 その弟に似た、まだ変声期を終えていない声から相手が年下の少年のものと悟る。

 

「『六式突撃降魔剣・改』―――っ!?」

 

 銀色の長剣から繰り出されるのは、あらゆる物体を斬り裂く空間断層の一撃。

 だが、その間合いを詰める寸前―――唯里よりも先に、“身をのべる”ような移動で詰められた。

 ふっ、と。目前に迫った少年の右掌が、振り払う前の銀色の長剣―――その柄頭を上から押さえるように、剣技の動作を止める。

 

(あ……)

 

 斬撃を受け切れないのならば、斬撃を放たせない。柄頭から滑らし剣を握る唯里の手と重ねるように手袋を付けた右手で抑える。

 そして、底の見えない裂け目(クレバス)の深奥をたった一度の跳躍で跳び越えてしまうことを考慮すれば、その脚力移動力は予想してしかるべきだった。

 

「でも、まだ―――!」

 

 剣巫は魔族と肉弾戦を挑めるほど白兵戦を修めた攻魔師。

 元々、抑え込まれた事態の為、小手返し程度の合気、関節の掌握法は唯里は習得している。

 魔獣をブッ飛ばす相手では柔よく剛も制すもないだろう。

 でも、相手を投げ倒す必要はない。柄から手を離させればいい。一度でも剣を振り抜ければこちらにチャンスが生まれる。

 

「ぬ、待て」

「待ちません―――!」

 

 体当たり―――片手で押さえられながら同じ速度で後退される。

 上段蹴り―――片手で右から左に運ぶように逸らされる。

 内部破壊―――片手で止められて、内力相殺される。

 

 一連の攻防はまるで踊るようだが、完全に“合わされている”。

 組技を仕掛けようにも躱される、ひとつの失手(ミス)もなく対処する相手の手練に、唯里は戦慄する。うち数撃は明らかに視界の外から打ち込んだというのに、手袋に包まれた左腕はまるで見えているかのように確実に剣巫の打ち込みを防ぎ通す。

 聴勁。功夫が達人の域となれば、視覚で敵を捉えることなく、腕と腕が触れ合った刹那に相手の次の動作を予測することが可能だと、戦法と拳法の達人である指導教官から話を聞かされたことがある。

 だから、死角を攻めようがない。

 剣巫の株を暴落させる白兵戦技術だ。腕力だけではこうはいかないだろう。

 

「いい加減に落ち着くのだ。誰だか知らないけど、獅子王機関っぽいし。姫柊といい、煌坂といい、師家様といい、獅子王機関というのはみんな最初挨拶代わりに襲い掛かってくるのか?」

 

 何かを言ってるようだが、今の唯里はランナーズハイとなっている走者のようにもう必死で、我武者羅に任務を果たさんと奮戦している。

 

「むぅ、ご主人に『五車の術』は―――っ! おい! 後ろ!」

 

「ぇ―――っ! その手には乗りません!」

 

 敵に注意をするような相手が一体どこにいる。

 一瞬、その切羽詰った言い方に振り返りかけたけど。

 相手の方が上手だとわかっているから、なおさら余所見など油断は侵すまい。

 

「だから、後ろだぞ! もう顔出してるのだ!」

 

 そこでようやく唯里も気づく。大気がかすかに震えていた。硬く凍てついた路面が、不規則に揺れている。巨大な質量の塊が動いているような異様な震動だ。

 え、まだ何かいるの……!?

 背後から差す巨大な影。五里霧中の白銀世界に、大入道が現れたかのように伸び上がる大きな影が唯里を呑む。

 後ろに目がないからわからないが、湖面にかかるその影絵(シルエット)から大まかに姿を予想できる。

 歪な刃物に似た広大な翼。装甲車すら華奢に見えるほどの逞しい四肢。狂暴な肉食トカゲに似た頭部。そして、二つの真紅の眼光。

 

 もしかして、今、私の背後にいるのは……

 

 脳裏に過ぎったのは、誰もがその名を知る最強の魔獣の名―――

 嘘……と唯里の唇が、引き攣るように震える。

 

 

 グォォォオオオオオオ―――ッッ!!!!!!

 

 

 純白の霧を吹き飛ばすその雄叫びは、もう間違いなく(ドラゴン)のものだ。

 吃驚して思わず跳び上がった唯里は、大きく足を滑らしてしまいそのままバランスを崩して転倒―――というところを寸前で掬い上げるように軽々と拾われた。

 今さっきまで戦っていた相手に。

 その細いながらもしっかりとした腕に抱きかかえられる。

 

「きゃあああっ!」

「おっと」

 

 とん、と人一人を持ったまま後ろへジャンプする。

 この怪獣映画にまず真っ先に喰われる第一発見者な役柄(ポジション)ながら、何気なく少女漫画に出てくるお姫様だっこなポーズに気付いた唯里がバタバタと手足を振り回す。しかしがっちりと捕まっているのでビクともしない。暴れれば暴れるほど、互いの身体が密着していく。

 

「きゃーーっ! きゃ、きゃああああっ!」

 

「むぅ、こうなったら、禁じ手を使う―――!」

 

 じたばた暴れる唯里の面前に手が翳されて―――

 

 

高神の社《》

 

 

『―――この子をあたしの後継にするから。よろしく頼むよ』

 

 

 数年前にそう言って師家様が森から拾ってきたひとりの男の子。普通の学校に通わせられず、でも、『魔族特区』には送らないので特別に『高神の社』で師家後継者という名目で育てることとなった。

 同じ年代で、けど異なる性別。しかしながら、特別、異性という感じがしない不思議な、弟みたいな少年。過去の境遇から男性蔑視の強いルームメイトのひとりでも、触れられても不快を表すことなく平気であるから、その無欲ぶりは筋金入りで、無垢な有り様はマスコットとみんなから可愛がられている。

 でも、その実力は剣巫候補の自分やユッキーでも敵わないくらい近接戦闘力がずば抜けていた。それも当然。師家様に<四仙拳>の指導教官の後釜としてみっちりと鍛えられているのだ。だけど、式神や武神具(どうぐ)の扱いには残念であるとアンバランスな才能。まるで、己自身を“ひとつの兵器(どうぐ)”としているような、そんな印象を受ける。

 

「あ、……」

 

 井戸水を汲み上げ、その殺人的な冷たさに身を震わせることなく、汗を洗い流す少年。

 幼いころから全寮制女子校で育ったここの女子生徒には、男性の裸身を生で視るのは、物心ついて以来一度もないだろう。だから、その普段の厚着の下に隠された、小柄な体躯にこれでもかと詰まったような重厚さを覚えさせる筋肉に覆われた彼の肉体は、見るものには圧巻で、目を奪われる――見惚れるものがある……と噂さ(言わ)れてたりする。

 だけど、師家様に扱かれているのを見たり、また獅子王機関の長たる『三聖』から仕事を頼まれてたりする彼は、一目――距離を置かれていて、自分やルームメイトたち以外のほとんどは遠巻きに窺っている。

 

 で当人は、そのようなことに慣れているのか気にもしせず、ぶるぶるっ、とまるで濡れた犬のように全身をぶるつかせて水気を飛ばす。

 

「ああもう……っ」

 

「ん、唯お姉ちゃん、訓練終ったのか?」

 

「終わったのか、じゃないよ。ダメでしょ、ちゃんとタオルで拭かなきゃ。風邪引いちゃうよ」

 

 いつも通り暢気に――昔の弟の口癖がうつってから、今もまだそのままな呼び名――反応する彼に、羽波唯里は大きく嘆息してみせる。いつのまにやら携帯するようになったタオルを取り出すと、彼のぼさぼさの頭をやや乱暴に拭いてやる。

 

「むむー」

 

「むむー、じゃないの。ほら、大人しくして」

 

 学内で、反則的なくらいギャップな肉体や触ったら大人の階段に昇れそうな素肌と称されるその鍛え込まれた肉体美だが、今更なことに唯里は照れない。この少年の世話を焼いているのは今に始まったことではなく、もう何度となくその感触を知っている。

 硬いようで、それほど硬くなく。体温が高く、そして、森に囲まれるような芳香が薫る……居候の身体。

 高神の森で訓練はさせても、流石に男子禁制の女子寮に宿泊はさせることはできないので、唯里の家族のいる羽波の実家より通わせているのだ。

 だから、もうほとんど身内。ここ最近、ませて反抗期を迎えた実弟と比べればこの純朴な少年は可愛くて、ついつい可愛がりたくなる。よくズルいと言われてるけどそこは姉特権で。だいたい異性だなんて意識するのは……

 

「実際問題、煌坂に隠密行動なんて無理だろ」

 

「なんですって!? どういう意味よ斐川志緒!」

 

 向こうから騒がしい声。

 舞威姫候補生の訓練が終わったのだろう。そして、その中でもトップを争う優等生で、ルームメイトである二人がいつものように言い争いをしている。

 

「今日の試験で勝ったからいい気になってるの?」

 

「いや、だって煌坂は目立つだろ?」

 

「悪かったわね、でかくて!」

 

 こめかみを引き攣らせながら攻撃的に唸る煌坂紗矢華。彼女はその低身長な唯里には羨ましいくらいのファッションモデル並の長身が、密かなコンプレックスなのだ。

 だけど、斐川志緒が言いたいのは、背ではなく胸の事で、食い違いが生じてしまっている。

 

「けなしてるわけじゃない。少し羨ましいという気持ちはある」

 

「あなただって別に小さくはないじゃない」

 

 あなたの身長は160cm前後と羨まれるほど小柄ではない、と紗矢華は言いたいのだろうけど、それで志緒が視線を落とすのは胸元。言うなればスリムと称されるような志緒のボディラインだが、グラマラスな紗矢華と比較するまでもなく、その体型には圧倒的に起伏が乏しかった。

 

「それは嫌味で言ってるのか?」

 

「は? なにそれ、あなたこそケンカを売ってるの?」

 

 バチッ、と両者の中間で火花が散った。

 眇めて睨み合う二人はこのままエスカレートすれば、口だけでなく手も出るような争いになる。

 だから、止めよう―――そう、唯里が呼び掛けるよりも早く、放たれた喝。

 

「―――二人とも、訓練後もピーチクパーチクするくらい元気が有り余ってるようなら、居残りで稽古付けてあげようかい」

 

「「師家様!?」」

 

 萌葱色の髪と瞳に、長く尖った耳が特徴的な長生(エルフ)族の女性――『高神の社』の師家様・縁堂縁が、ふたりの耳を引っ張り、訓練所へと逆戻りさせていく。

 

 して、一連のやり取りを傍観しながらも、勝手に動いていた手はその耳の穴まで水気を拭き終ってる。解放された少年は、上半身は裸のままタオルを首に掛けたスタイルで―――すっとこちらの面前に顔を寄せた。

 

「ぇ―――」

 

 ルームメイトからこちらの意識が戻った唯里の視界を占めるその顔。見慣れてる筈なのに、こうも至近で注目すると新たな発見が出てくる。

 日本には異色な褐色な肌、野性味を感じさせる端整な顔立ち、金色の瞳は綺麗で……そして、その常に巻かれている包帯の下の傷は、女子生徒の中ではルームメイトたちも知らない、私だけが知る秘密―――

 

 

「どうだ、背、追い抜いたぞ唯お姉ちゃん」

 

 

 ぽん、と頭に置かれた手で、その数cmの差を自慢げに見せてくる。

 いつの間にか閉じていた瞼を開き、そこで唯里は彼が背比べをしていたことに気づく。きっと舞威姫たちの会話に触発されたのだろう。

 もうこれくらいの身長差があるんだ、と驚かされ、でも、成長期に入ってるんだから抜かされるのも当然と納得する。

 

 だけど、そう―――そう、この行動(アクション)に初めて彼が男の子だって意識し―――いや、そんなのもうとっくに手遅れなくらい―――

 

(……するのに、理想的な身長差って確か……)

 

 頭では参考書(少女漫画雑誌)で得た知識を検索しながら、唯里は“あくまで姉として”、この軽々しく不意打ちじみたスキンシップを取ってくる年下の男の子にまずは正しい異性感や倫理を切々と説くことにした。

 

「……あのね。クロ君、姉さん女房をもらった方が男の人は幸せになれるってものの本で読んだことがあるの」

 

「? なんか唐突だけど、そうなのか唯お姉ちゃんは物知りだな。でも、それ前にも言ってなかったか? 金の草鞋がどうたらこうたらって」

 

「クロ君、復習と予習は大事だって、前に勉強を教えたときに言ったでしょ?」

 

「そうだったな。うー、でも、唯お姉ちゃんが言ってるようなことが書いてある教科書がないし、予習は無理だぞ……」

 

「そうね……じゃあ、私の部屋の本棚に『あなたはペット』ってタイトルの漫…参考書があるから、それを一冊ごとに読んで感想文を書いてね。私がきちんと採点するから」

 

 こうして、羽波唯里の『逆光源氏計画』は着々と………………………………………………………………………なんて、もし(IF)を夢見てたり。

 

 

神縄湖

 

 

「ふぇ……」

 

 羽波唯里が目覚めたとき、彼女は“白いもふもふとしたもの”の上に横たわっていた。

 はっ、と腕時計を見て、2、30分程度時間が経過していることを知る。それだけあれば拘束するには十分な時間で、けど、特に手足を縛られているわけでも猿轡を噛まされているわけでもなく、『六式降魔剣・改』は、手の届く距離のある壁に立てかけられていた。

 

「これは、かまくら……?」

 

 吹雪く白霞を遮る空間。そう、ここは結構大きなサイズな防寒壕(かまくら)。その語源は意外にも呪術神道的な意味合いもあり、“神の御座所”――『神座(かみくら)』が転じたものだとも言われる。

 そして、かまくらというのは合理的で、雪の壁の中に空気を溜め込むから、ダウンジャケットのような断熱効果が出る。多人数であればお互いの体温が中の空間を温めてくれる。

 

「うわぁ、やわらかいし、あたたかい……まるで動物の毛皮のよう……」

 

 でーん、とかまくらの中央に置かれる“天然羽毛”。その熱効果で、唯里の冷めていた心身は解されて、許されるのならば、永遠のあと五分をここで過ごしたい。

 でも、寝ているのは唯里だけではなく、

 

「凪沙さん」

 

 眠る巫女。

 白装束の薄着に、今は頭を寒さから護るよう耳付き帽子と首巻がつけられている。

 その前には付けていなかった防寒具が、先ほど対峙した相手のものと気づくが、彼はおらず―――代わりに、

 

「ままぁ……むにゃ……」

 

「へっ!?」

 

 視界の片隅にうつるそれに、唯里の目が点になる。

 そこにいたのは低身長な唯里よりもさらに小柄な女の子が、真っ白な羽毛に顔を埋めている。蕩けるようにふにゃけた、人懐こい微笑を浮かべた、可愛らしい少女だ。

 足首のあたりまで達している、鋼色の長髪。

 そして唯里を動揺したのは、羽織らせている蒼銀の法被(コート)以外、何ひとつ衣服の類を――下着でさえ――身に着けていないということだった。それでいて、少女自身は気にしている様子はない。

 

「な……あなた……なんで裸……!?」

 

 わなわなと震える指先を少女に向ける唯里。正体不明――ひょっとすると先程戦ってきた相手かもしれない――少女に対する警戒心よりも、心配の方が勝っている。

 いや、この中暖かいけど、外の気温を考えて全裸でいれば、凍死してしまうのでないかと思う。

 驚く唯里の様子に、鋼髪の少女は顔を持ち上げてそちらを向き、パチパチと瞬きしてから、可愛らしく小首を傾げ、

 

「みっ!」

 

「……み?」

 

 つられて思わず訊き返してしまう唯里。そんな唯里の反応が挨拶を交わしたようなものであったのか、少女は嬉しそうに目を大きくした。

 その瞳は、美しい鏡鉄鉱(ヘマタイト)のような鋼色。

 

「と、とりあえず、前はちゃんと閉じないと!」

 

 唯里は全開にオープンしてる法被の前を閉じてやる。少女にはぶかぶかと大きめのコートは、膝下までしっかり隠してくれるはず。

 

「おおー」

 

 前のボタンを留めてくれて少女は嬉しそう。だぼだぼの袖口をきゅっと摘まんで、嬉しそうに両手をパタパタと上下させて唯里に反応を返す。

 それに少し和んで―――ちらりとかまくらの出口から見える景色が唯里の視界に入った。

 そして、寒風に負けない元気のいい声が聴こえた。

 

 

 

「これぞ、『魔獣庭園』で鍛えた調教術、なのだ―――!」

 

 

 

 鋼色の魔獣の群―――が、ずらっと整列している。ウェーブするように端から順々に低頭……

 災厄の前触れと言われた<蜂蛇>を、カリスマ(獣)を発揮して治める褐色肌の銅髪金瞳の少年。

 顎の関節が外れたように、あんぐりと開いた口が塞がらない剣巫。

 言葉にならない悲鳴が口から洩れる。して、それに気づいた少年が、かまくらから顔を出す唯里の方へ向き、

 

「お、起きたみたいだな―――オレの名前は、南宮クロウだ。凪沙ちゃんに会いにここに来たんだけど、ごちゃごちゃして情報整理できないのだ。お前から現状について話を聞きたい」

 

 ―――それはこっちのセリフっ!? もうツッコミどころが多すぎるよ助けて志緒ちゃん……! と獅子王機関の剣巫・羽波唯里の悲痛な叫びが凍れる湖に響き渡った。

 

 

 

つづく



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咎神の騎士Ⅱ

神縄湖

 

 

「おにぃ、おにぃ!」

 

「ほれ、今度はこれだグレンダ」

 

「なに……これ?」

 

「これは魔女のお菓子なのだ。ねればねるほどおいしくなるぞ。こうやって……ねるねる、っと、ほい、食べてみろ」

 

「おいしー!」

 

「そっか。じゃあ、今度は自分で練ってみるのだ」

 

「ねるー! ねるー!」

 

「そうだぞー、この調子で練るのだグレンダ」

 

「だー!」

 

 

 唯里の前で様々な化学反応を試せる知育菓子を、これでもかと満喫する少年と少女。

 童心に帰って……というか、童心そのものだろう。

 鋼髪の少女は口元を汚すも、それを銅髪の少年がハンカチで拭く。まるで兄妹のようだ。彼女の謎の言動には唯里も首を傾げるところだが、少年は普通に意思疎通が取れているようで、精神年齢が近いからかすっかりと意気投合している。

 

 今、唯里は大きなかまくらの中にいる。

 訊けば、彼がこのかまくらを超能力(スキル)でお手軽に造ったそうだ。はたしてこの“敷かれているふかふかの天然羽毛”はどこから持ってきたのだろうかと疑問は尽きないところであるも、まず気になるのはその鋼色の髪をした少女の事だ。その着せている唯一の服装である法被は元々彼のものであることから、きっと唯里が意識を失っているときに保護したのだろう。

 

「ん、お前もお腹減ってるのか?」

 

 似合わぬ古傷が刻まれたその童顔を、ぼーっと注視してるとこちらの視線に勘付いた彼がこちらを向く。

 弟と同じ年下の少年であるというのに、女子校生活の弊害からか彼と目を合わせると妙に慌ててしまうというか、別にこのかまくらが彼の部屋だというわけでもないのだけど、こう彼から薫ってくる匂いになんか緊張(ドギマギ)してしまう。

 

「え、あ……」

 

「じゃあ、これを食べるのだ。疲れたときは糖分摂取が重要だって、この前テレビで言ってたのだ」

 

 そういって、バックパックをごそごそと漁り、板状のそれを唯里へ抛る。

 

「おやつは500円までだからアスタルテあんまり入れてくれてないけど……チョコがあったぞ」

 

 間違ってもこれは遠足などではないし、わりと事態も切迫していたような気がする――“今も魔獣の群に囲まれている状況に変わりがない”――のだが、彼の落ち付きっぷりをみてるとそれほど大したことないんじゃないかなー、と思えてくるのがあら不思議。

 

 こうして改めて対峙して、強い、と認識し、息を呑まされる。

 きっとここまで心を落ち着けていられるのも、その纏う気圏が大地にしっかりと根を張った大樹のような安定感があるからだ。言動は無垢であるも、仕草や物腰はそれに反して心強さを覚えるものだ。

 

 そして渡されたチョコを一口齧り、段々と血の巡りが調子を取り戻してきたところで、唯里は状況を整理できるだけの余裕を持てた。

 

「えー、っと、南宮クロウ君、だっけ?」

 

「う。そうだぞ。お前はなんていうんだ?」

 

「あ、そうだね。私は、羽波唯里……それで、あなたがもしかして、あの<黒妖犬(ヘルハウンド)>?」

 

「ん。そんな風に呼ばれてるな」

 

 躊躇いがちに訊けばあっさり頷く少年。その正体は、現代の殺神兵器と言われる混血の獣王。しかし、実物を見ると禁呪で制限を課さねばならぬほど大層な怪獣(もの)には見えない。同じ人間。それも、何も言わず寒風が入らぬよう出口前を背で蓋をするように座っている、さりげない気遣いの出来る好青年である。

 

「その、謝って済む話じゃないけど……さっきは話も聞かずに斬りかかっちゃって、それも凪沙さんを助けてくれた恩人なのに、すみませんでした――!」

 

「ん、いいぞ。勘違いは誰にでもある。それに、姫柊は殴って、煌坂は蹴って、師家様は扉をぶっ飛ばしてきてきたけど、獅子王機関は一回喧嘩をしたらいい奴だってわかるのだ」

 

「その河原で喧嘩交流(ドラマチック)方式みたいで納得されてるのは気になりますけど、何か重ねてすみませんでした――!」

 

 がばっと頭を下げる唯里を、物珍しいものでも見たように二回ほど瞬きしてから、こくん、と頷く。そして、目線の高さまで低くなった唯里の頭にペタペタと触れる少女。

 

「だ? だー?」

 

「わっ!? なに!?」

 

 じゃれつかれた唯里はそのまま少女に押し倒されるように身を天然羽毛に埋める。

 埋もれながら、少女と目が合い、あどけない眸で見つめ返され―――瞬間、唯里は奇妙な幻視に襲われた。

 霊媒の感性が勝手にそれを読み取る。息が詰まってしまいそうな、強烈な悲嘆と悔恨を。

 

「……かはっ……!」

 

「羽波っ!」

 

 雪崩れ込んでくる生々しい感情に押し潰されかけたそのとき、ひょいっとクロウがコートの襟元をひっつかみ少女を唯里から離す。

 幻視から覚めた唯里は、時計の長針が一周半ほど回るくらいの時間をかけて、息を整える。呼吸が落ち着きを取り戻しても、凄まじい寒気と息苦しさは残り、まだしばらく全身を震わせる。

 

 世界そのものが大きく振り子となったように揺れる視界、異国の雑踏にひとり取り残されたように耳に入っても解せない雑音が脳を叩いてきて―――異様に鮮明な映像が脳裏にフラッシュバックする。

 

 地の世に赤い海に取り残された、小さな都市。

 カーボンファイバーと樹脂と金属と、見知らぬ異界の技術によって生み出された人工の島。

 この世界のものではない叡智により異常なまでに突出して発展した街並みは、この世界のすべてを敵に回した騒乱によって破壊され、荒れ果てた残骸が散らばる廃墟と化している。

 無残に崩壊した瓦礫の上に、ひとりの少年が立ち尽くす。

 彼は真紅に染まった空を見上げ、声も出ない慟哭を叫ぶ。

 胸を抉る傷口から、ドス黒い血を流しながら。

 折れた槍を握り締めたまま―――

 

「あんまり見入るな」

 

 パンッ―――! と眼前での拍手に、ハッと幻視()光景(もの)にめり込んでいた意識は現実に引き戻される。

 

「オレの目を見て、落ち着くのだ」

 

 唯里は猫騙しをかけた相手の円らな瞳に、未だ揺れる自身の瞳孔(ピント)を合わせた。

 邪念の濁りが一滴も視えない、曇りなき金眼。そこに鏡映しされる唯里の顔が段々と元の調子を取り戻していく。

 

 今の景色……この子の記憶……?

 

 混乱から立ち直り、そしてたったひとつだけ理解したこと。

 それは、唯里に見せた幻は、目の前の少女のもの。彼女に染みついた記憶の残滓を、霊媒としての力が拾い上げてしまったのだろう。

 

「ん。落ち着いたみたいだな」

 

「あ、うん……」

 

 そこから引き揚げてくれた少年の眼差しから、ついっと気恥ずかしげに逸らし、放心していた唯里を不安げに覗き込んでいる少女に合せる。少しだけ無理をした笑みを口元に浮かべ、

 

「あなたの、お名前は?」

 

「ぐれんだ」

 

 唯里が眠ってる間に行われたからか、二度目の自己紹介はスムーズに応えられる。

 

「グレンダ? それがあなたの名前?」

 

「だー、ぐれんだ」

 

 刻々と何度も頷く少女、グレンダ。

 名前を呼ばれるだけでもうれしいのか、目を細めて笑うグレンダ。その尻尾を振ってその嬉しさを表現する子犬を連想させてくるような純粋な喜びように、今度こそ自然に朗らかな笑みを浮かべられた。

 

「グレンダ、羽波はまだ病み上がりだから無理させちゃダメだぞ」

 

「だー、おにぃ……」

 

「おにぃ……この子は、あなたの妹さん?」

 

「ん、違うぞ。オレに弟妹(したのきょうだい)はいない。グレンダがそう呼んでくるのだ」

 

 言いながらも、先からのやり取りは、無知な妹を世話する兄という関係性に唯里に見える。

 精神的に幼げな彼らを見てると和む。好意を覚えるが、それよりも愛着が湧いてくるというか、母性のようなものを刺激される感覚だ。

 と気の緩んだところで、ぶるっと寒気が襲う。

 

「くしゅん」

 

 調子は復帰したけど、掌はしっとりと汗ばんでいて、まだ唇は青褪めているだろう。これは精神的によるものではなく、肉体的に感じる寒さのせいでもある。

 かまくらの中は、極寒の中心地点(グラウンド・ゼロ)の『神縄湖』でありながらも快適だが、衣類が濡れたままで、肌寒い。温かいからこそ、その冷たさは際立つようで。

 けど、その自分よりも薄着で身を風除け(ドア壁)にして寒波に曝されている人物がいるのだから、このくらい我慢しなくちゃ贅沢だろう。

 

「寒いのか?」

 

「え、ううん! ぜんぜん、大丈夫!」

 

「うん。寒いなら寒いと言えばいい。オレは慣れてるから平気だけど、羽波は大変だろ」

 

 唯里の強張った辛抱に呆れたように嘆息して、クロウは彼女の肩に手を置く。

 ジュワッ、と蒸気が噴く。なんと、制服コートの湿り気が乾燥したのだ。

 

「!? なにこれ!?」

 

「オレは<過適応者(ハイパーアダプター)>でもあるのだ。『嗅覚過適応(リーディング)』の発香側応用(アクティブ)で、服に染み込んでた水分に『匂付け(マーキング)』して、飛ばしたのだ」

 

「よくわからないけど、すごい……」

 

 自然物に干渉する高位精霊術と同等以上の現象を起こせるその超能力を器用にも操った。大したことのないように語るも、それは全然大したことではないだろうか。

 いや、そんなことよりも……

 

「これも飲むのだ羽波。オレの後輩(アスタルテ)が淹れてくれたお茶だ。身体の中からぽっかぽっかするぞ」

 

 とまたバックパックを探って取り出した魔法瓶の水筒。コポコポと一緒に取り出した紙コップに茶を注ぎ、はい、と渡される。両手で受け取った唯里は、まだ湯気立つ液体を口に含み、爽涼感が吹き抜ける葉の薫と共に嚥下。身体の内側から温められたように、ホッと一息つく。

 

「ほれ、グレンダも飲むといいぞ。ぽっかぽっかだ」

 

「ぽっかぽか! おにぃ!」

 

「ちょっと熱いから、ちびちびっと飲むんだぞ」

 

「だー!」

 

 一服しながら、唯里は思う。

 ……本当になんだろうか、ジェントルマン。

 なにこのすごい紳士っぷりは!? 年下なんだけどさっきから包容力がありすぎではないか!?

 この行動に他意の『た』の字もあるはずがない。そう、男性のそういう邪念の入った視線に敏感な女子校通いの巫女としてそういう察知ができない。間違いなくこれを素でやってるのだ。唯里よりも過敏なルームメイトも触れられて気づかないというのにすごく納得。

 それに彼が間近になると香る体臭は、不思議と心地良い。森の中にいるように爽やか。そして、唯里には比喩的にキラキラと煌めいているようで、まるで少女漫画に出てくるような―――

 

「ぁ……ハッ!? ぅぅ、だめだめ。なんでこんな時に何を考えてるの私!?」

 

「あう? いきなりなんだ、どうした羽波?」

 

 急に顔面を紅潮させたり、蒼白にさせたり、起きてから表情を二転三転とさせる剣巫の絵面に、“朴念仁”と称されている少年は首を傾げさせながら心配するのであった。

 

 

 

「よし!」

 

 パンパンッ、と頬を叩いて任務に余計な念を払う唯里。

 獅子王機関の剣巫として、気合を入れ直した唯里は、質問する。

 

「それで、先ほどの“影”はどうなったんですか?」

 

 気を失う直前に見た、巨大な影絵。

 神緒田神社の巫司・暁緋紗乃が曰く、この地には災厄が眠る。

 それが真ならば、“あれ”――おそらくは『龍族(ドラゴン)』がそうなのだろうか。

 本物の『龍族』は、攻魔師である唯里にもほとんど未知の存在だ。南米『混沌界域』や暗黒大陸(アフリカ)の奥地に少数だけ生き残っているとも、すでに絶滅したとも言われているが、その実態は不明。時として人類以上の知性を持つ彼らは、魔獣と魔族の境界線上に位置する種族であり、その戦闘力は『旧き世代』の吸血鬼をも凌ぐと言われている。“災厄”というには相応しいものだろう。

 もしその『龍族』が神緒田地区に出現したとなれば、獅子王機関や『特殊攻魔連隊』による包囲網だけで防ぎ切れるとは思えない。

 国防の一員として、それは看過できず、事実であれば早急な対応をしなければならない。

 

「南宮君。私たちを襲おうとしたのは、『龍族』でしたか?」

 

「? オレたちを襲おうとはしてないぞ。余所者から“護ろう”としてたのだ」

 

「え?」

 

 首を捻りながら、唯里の記憶が正しいと語り、けどそれは間違いと指摘される。

 

「『龍族』は、護るものだろ」

 

「護る……もの……?」

 

 衒いもなく一言で簡潔に説くクロウの言葉に、唯里は困惑する。

 

「ん。お宝を奪おうとするやつからお宝を護るのが『龍族』だとオレは教えられた。だから、余計な手出しをしなければ大人しくなる。退治する必要はないと思うぞ」

 

「でも、<黒殻>の中に封印されている『聖殲』の遺産があると言われています。殺神兵器(大きな力)を獅子王機関は放置することはできません」

 

「ここに在るのは殺神兵器じゃないのだ」

 

 剣巫としての解答に、足元の凍られた湖面に視線を落としながら黒妖犬はまた誤りを正す。

 

「センパイは早とちりしたみたいだけどな。もし、殺神兵器だったらもう眠らされているぞ。だから、ここにあったのは封印じゃなかった、って証明されるんじゃないのか」

 

 『原初のアヴローラ』を永遠の『眠り』につかせるために造られた『十二番目』であれば、殺神兵器を封印できる―――それが正しいのであれば、『十二番目』の魔力で封印できなかったものは“殺神兵器ではない”という筋立ては屁理屈などではなく、正論である。

 

 6000万tを超える人造湖の湖水すべてを氷結させるほどの膨大な魔力は、確かに『十二番目』のものだ。

 だけど、現実に獅子王機関が目論んだ<黒殻>の再封印は失敗し、魔獣の大量発生を引き起こしてしまった。

 

「<蜂蛇(あいつら)>は吃驚して暴れただけ。誰だって眠ってるときに、ぴたって冷たい氷を当てられたら驚くだろ。だから、一度落ち着けさせたから、“余計な真似をしなければ”すぐ悪さをすることはないぞ」

 

「確かにそうですけど……」

 

「だいたい獅子王機関が“なんで慌てている”のだ?」

 

 これまで獅子王機関の活躍を見てきた者は、言う。

 

「獅子王機関にとって魔導災害の封印は日常茶飯事なんだろ。剣巫の姫柊は、世界最強の吸血鬼と言われてる第四真祖(古城君)をひとりで斃せる監視役だし、世界最強の魔獣(リヴァイアサン)を対処させようと派遣させたのは、舞威姫の煌坂たったひとりだった―――世界最強(それ)くらい大変な脅威ってのは、オレもあんまり想像できないけど、ここには自衛隊もいるみたいだし、『三聖』とかいうすごいのもいる―――なのに、どうして、フォリりんの船で上空から見てた時に思ったけど、獅子王機関(おまえら)が<蜂蛇(あいつら)>にてんやわんやになってるのが、オレにはすごく不思議だ」

 

 素直な疑問を投げかけられて、唯里は言葉を失う。

 大きくても精々4m程度の<蜂蛇>。4000mもの『蛇』と比較すれば千分の一。数こそ多いようだが、それでも総量では世界最大の生体兵器の方が遥かに勝るだろう。

 そのときでさえ獅子王機関が派遣したのはたったひとりの舞威姫で、今回は出現を確認されてもいない魔獣に対し、剣巫と舞威姫、さらには『三聖』が獅子王機関から参加させている。言われてみれば、それは過剰な戦力だが―――“それで相応”と上層部が予測していたのだとすれば―――しかし、ならばこの魔獣の群に対してあまりにも脆すぎるし、対応も遅い。

 手を抜いているのか、と疑われてもいいくらいに不可解だ。

 

 殺神兵器と想定された正体不明の魔獣に対し、獅子王機関は破格な人員を投入し、自衛隊とも連携を取る。

 そこまでは納得できたのだとしても、群であっても一個体あたりの戦闘力が獅子王機関の見習い攻魔師で対処できる脅威度(レベル)の魔獣で壊滅している現状だ。対殺神兵器を設定した軍隊(むれ)でここに来ているというのに……

 逆に上層部が迂闊にも正体不明の魔獣を対魔獣用兵装なしで対処できるのだと予想していたのだとすれば、獅子王機関が『三聖』まで出張るのは聊かいき過ぎている。

 

 この浮き彫りにされてくる今回の作戦への違和感に唯里は、額に手を当てて考え込む。どうあっても、納得のできるような答えは出ない。もがけばもがくほど嵌るアリジゴクのように、考えるだけ深みに落ちていく。

 

 誰か……自分以外に関係者の意見を訊いて……と判断を迷う唯里の耳に聞こえてきたのは、彼女の心象の五里霧中に明るい光を差し込んでくれる同期の声だった。

 

 

 

「唯里ーっ! どこだーっ!」

 

 

 

「この声は、志緒ちゃん……!」

 

 きっと自分を捜してくれてたのであろう相方(パートナー)に、すぐその心配を払拭せんと唯里は出口に座すクロウを押し退け、かまくらから飛び出した。

 

「ここだよー! 志緒ちゃん!」

 

 

 

 ……ゆい……りー……!

 

 両手でメガホンを作り大声で呼びかけながら、しばらく声がしたほうへと走っていると、白霧の向こうから人影、声から想定した通りの斐川志緒が現れた。

 銀弓を携えながら辺りを警戒していた彼女も、こちらの姿を見かけると真っ直ぐに駆け寄ってきた。唯里も待たずに走って彼女の元へ―――

 

「唯里っ! 無事かっ!?」

 

「うん、私は大丈夫だよ。それより志緒ちゃんの方は?」

 

「ああ、あたしも問題ない。基地の方が魔獣にやられてたけど、いきなりどっかに行ったからな」

 

 抱き合い、互いの無事を全身から伝わる実感でもって確かめ合う。

 よかった。志緒が無事で。

 ルームメイトに怪我がないことを心底から喜ぶ唯里は。

 

 

 そいつから離れろ! と焦った声が耳朶を叩いた。

 

 

「え?」

 

 咄嗟に振り向く。

 視線は遠く、白霧の向こうでおぼろげに映る人影へと向けられる。

 

 ―――すれ違うように、軽い飛翔音と共に飛来する半透明の何か。

 それは真っ直ぐに唯里の方へ向かってきて―――

 

 ドンッと。たった今自分が迎えた少女の額を打ち抜いた。

 

「え―――」

 

 唯里は呆然とそれを見た。半透明で棒手裏剣のようなそれは、かつて師家様が見せてくれた霊弓術と似ていて、そして、それが相方を攻撃した。

 唯里は親友から目を離し、改めてそれが飛来した方向に目を向ける。見据えた先にいたのは―――

 

「南、宮君」

 

 険しい顔をした、<黒妖犬>だった。

 

 

神縄湖付近 渓谷

 

 

「―――自己診断(セルフチェック)実行中。駆動系、電装系共にクリア。破損したモジュールを切り離せば、おそらく再起動は可能でござろう。各種センサーの類は再調整が必要なれど、ソフトウェアで補正可能な範囲でござるな」

「オーケー、そっちはあたしがやるわ」

「かたじけない。では拙者はシステムの再起動プロセスを開始するでござる」

「超特急で終わらせるわよ―――それまで頑張ってスワニルダ! でも無理はしないでね!」

 

 神緒田地区全域に大規模な『人払い』の結界が張られていたが、欧州ネウストリアに軍事顧問としていた雇われていたという世界屈指の法奇門使いが監修した対結界のプログラムでそれを突破。

 しかし、軍事企業ディディエ重工製のティルトローター<パンディオン>が、突然、未確認移動物体(アンノウン)に襲撃を受けて墜落。

 上空1000mから投げ出された有脚戦車(ロボットタンク)は、姿勢制御用のブースターを吹かしながら、四基の非常用パラシュートを展開。落下速度は殺せたものの、降下先は気流の荒れる山間地帯。凄まじい横風にパラシュートが引き摺られて横転。脚部の衝撃吸収機構(ショックアブソーバー)と着陸用エアバックは、完全に役に立たない体勢に倒され、

 また着陸地点が、樹木の密集した山林であったころから、木々の弾力で有脚戦車はピンボールのように何度も撥ね飛ばされた。

 最終的に深い谷底に落下した<膝丸>は、あちこち破損していたが、大破には至らず、電源はまだ生きている。しかしながら、魔力を帯びた霧の影響で、電波障害も発生しているせいで、動かすには要修理点検だ。

 

 そして、この間にも飛空機体を撃墜した未確認飛行物体はこちらに迫っていた。

 

「―――命令受託(アクセプト)

 

 お嬢様の命令を受けた白髪の人工生命体の頭上で、太陽を翳る銀黒色の巨大な影。

 それは、魔獣。

 翼長14、5mにも達する巨大な翼、鎧のような鱗と、分厚い刃のような蹴爪で武装した日本の後ろ足。鞭のように伸びる太い尾と、肉食のトカゲに似た凶暴な顎。

 

 『飛竜(ワイバーン)』。

 

 天空から舞い下りてくる巨大な魔獣は、かつて戦争の道具として猛威を振るった『飛竜』であった。その戦闘能力は、飛行系の魔獣の中では文句なく最強クラス。本物の『龍族』には及ばなくても、他の魔獣とは一線を画す。

 魔獣退治の専門家である太史局の六刃神官であっても、『飛竜』を撃破するには集団でかかるほどの強力な魔獣。単独で挑むなど自殺同然。

 

(また、データーベースに検索されても該当なし。生体障壁の術紋及び魔力組成が通常の魔族とはかけ離れています。新種という可能性もありますが―――そして―――)

 

 さらに警戒を高めさせるのは、『飛竜』の背中に騎乗用の鞍が着用されている―――つまり、竜を御す乗り手が存在するということ。

 据えつけられた鞍上に、騎槍(ランス)を構える騎士。

 漆黒のマントを羽織った黒銀(くろがね)の竜騎士。

 

(危険―――あれは、お嬢様(マスター)に会わせてはいけない」

 

 相手の正体は不明。戦闘力も測れないが、その強さの性質が、どこか異常で異質。

 しかし、この環境はスワニルダに好条件。

 魔力の濃い霞は、周囲の魔力を吸引する疑似永久機関を持ってる彼女には、エネルギーに利用できるのだ。

 

状況開始(スタート)

 

 黒銀の竜騎士は、『飛竜』を自らの手足のように操り、不可侵犯の浅葱たちに襲い掛かろうとするが、ディディエ重工製の追加飛行ユニット<鶯丸>による小回りの利く高速機動で小刻みに切り返しながら、翻弄する。

 

「セット―――」

 

 『飛竜』の眼前に投じられた銀色の金属筐体に包まれたコンパクトな物体―――それは、大晦日前日に大掃除の報酬として暁深森よりいただいたデジカメだ。小型スマートフォン程度のサイズに、ごつい大口径のレンズがついている日本では未発売のMAR社の最新機種『ζ(ゼータ)9(ナイン)』。

 防水耐衝撃処理が施され、幾多のセンサーを搭載。ネット接続も可能で、撮像素子も高性能。そして、最大の売りは新型のDSP。独自設計の積和演算回路を積んでおり、コードの実行効率が概算で二桁上昇している。

 ―――その『ζ9』に極細の糸が接続されており、相手の面前で連写。秒間に60で焚かれたシャッターフラッシュの目晦ましを黒銀の竜騎士はもろに喰らう。

 

「っ!?」

 

 閃光に怯んだ隙に、宙空でこちらを見下す飛竜の背面に回り込んだ人造人間(ヒューマノイド)

 そして、その機翼に付属された発射砲より、網目状に広がる特殊粘液を、竜の飛翼へ浴びせる。

 

「戦術オプションD8を選択。執行せよ(エクスキュート)、<絡新婦網(ウェブシューター)>」

 

 暴徒鎮圧用に開発された特別性の粘液弾は、発射され空気に触れた瞬間に固まり、その耐久度は鋼鉄並。強力な接着性をもっており、どんなものにもくっつく。摂氏550度の高熱にも融解しない、数時間の時間経過による自然消滅でしか相手を解放させない、自然界・科学界問わず世界最強の繊維である蜘蛛の糸―――それで、スワニルダはまずは機動力を奪う腹積もりであった。

 

 大翼の羽ばたきに枷が張り付かれ、飛行に支障をきたし、乱気流の山間上空にてその巨体を支える強大な揚力を維持できず、失速し、錐揉みし、そして落ちる。

 

 ドッガシャアッッッ!?!?!? と渓谷の尖った岩肌に身を削るように火花散らして落ちる『飛竜』

 

 ―――だが、地に堕ちた『飛竜』は、まだ原形を保っている。

 

「対象の脅威度判定を更新」

 

 冷静に相手の戦闘能力を見極めんとする機械化人工生命体。

 いくら強靭とはいえ、単なる生物に過ぎない『飛竜』が、きりもみ回転しながら脳天真っ逆さまに渓谷へ墜落して無傷で済むとは思えない。

 ―――ならば、“対竜に特化した兵装”で仕留める。

 

変形加工(ディフォーミン)、<水銀細工(アマルガム)>―――執行せよ(エクスキュート)、<殺龍鍍金(アスカロンプレーティング)>」

 

 魔力生体金属である左腕を竜殺しの断頭刃(ギロチン)に形を変えさせ、渓谷に急下降しながら一気に『飛竜』へ振り下ろす。機械人形(オートマタ)の人工筋肉で強靭な膂力だけでなく、重力を味方につけたその一刀が、分厚い鱗で守られた竜の頭部めがけて―――寸前、黒銀の竜騎士が振るった騎槍によって、砕け散るように飛散した。

 

「な―――」

 

 拮抗は、刹那の事だった。左腕が変じた凶器が、騎槍に合わさった瞬間に、びしりと亀裂が入る。破損はそれにとどまらず、剣腕を構成する液体金属を血肉の如く噴きだしながら、まるで硝子のように砕け散っていった。

 

「無駄ダ」

 

 黒銀の騎士が、乱れて判別を誤認させる声紋で呟く。

 抑揚からは何の感情も窺えず、それ故に絶対的な響きを帯びて、極冷の大気に流れた。

 

「魔族ニ、我々ハ負ケナイ」

 

 真理のように。

 摂理のように。

 

 『霊血』は、不滅であり、“学習する生きた金属”だ。取り込んだ金属の特性を得る。

 かつて堕ちた英雄の巨剣を吸収した。原本(オリジナル)よりも純度が落ちる鍍金(にせもの)だとしても、それは『旧き世代』の眷獣を討伐する<殺龍剣>の性質を獲得している。

 なのに、特別に力を篭めてるわけではない、奇怪な波動を放つ騎槍の軽い薙ぎ払いに砕かれた。

 あまりに異質。そして、その異質さに対抗する手段がない

 

「あ、ああ―――これでは、また―――マスターに―――捨て―――」

 

 だがそんなことより、肉体的なダメージよりも、恐怖が思考を占める。

 腕はまた復元できるものなのだとしても、左腕を一撃粉砕されて―――“主人に捨てられた”彼女の過去はまだ拭えていない。スワニルダは、その恐怖に視界が真黒となる。

 

「ああああああああああああああっっ!!!」

 

 鋼鉄の強度の粘着網を『飛竜』は馬力でもって強引に引き千切り、両翼を大きく広げると、啼き震える人工生命体(ホムンクルス)を嘲笑うように咆哮する。

 

「……コイツ……使エルカ……」

 

 黒銀の竜騎士が、頭部(うえ)から爪先(した)まで憐れなお人形を品定めするよう睥睨した。音もなく飛翔した『飛竜』が、そのままスワニルダの方へと突っ込んでくる。

 騎槍の切先は、迷いなくスワニルダの心臓へと向けられていた。それでもスワニルダは動けない。理不尽な強者に敗北し、“出来損ない”と捨てられた過去の恐怖(トラウマ)が蘇ったせいだ。動くべきなのに、全身に力が入らない。

 自分の胸元へと迫る騎槍の輝きが、スワニルダの瞳にスローモーションで映っている。

 

「ソノ“情報”、私ガ役立テテヤル」

 

 ああ……

 また、自分は“エサ”にされるのだろうか。使えなければ、取り込まれるだけ。それは、前と変わっていない―――

 

 

『ちょっとウチの子に何してんのよっ!』

 

 

 怒声と共に、何かがこちらへ物凄い勢いで駆け抜けていく。

 『飛竜』の背後に真紅の有脚戦車が、残っていた最後のロケットブースターを使って猛接近し―――思いっきりぶつかって吹っ飛ばす。有脚戦車も激突で装甲にダメージを負うが、『飛竜』を撥ね飛ばして、スワニルダから距離を離すことに成功した。

 

『攻撃は最大の防御! いくでござる! 起動確認。全武装ロック解放、自律射撃管制装置(オートファイアコントロール)標的指定(ターゲットロックオン)!』

 

 次の瞬間、銃声と爆発音が山中の森に木霊する。有脚戦車に搭載されるすべての武装を一斉発射したのだ。

 純粋な射撃兵器による弾幕。同時に戦車背面ポッドより発射される戦車の正面装甲すら撃ち抜く対戦車成型炸薬弾頭(ロケットミサイル)は、『飛竜』の硬質な片翼をあっけなく風穴を開けると爆発四散した。

 

『効いているわ、<戦車乗り>!』

 

『火力を強化してきた甲斐があったでござるな! ―――おっと、女帝殿、警告が』

 

 と有脚戦車の主砲が『飛竜』の胴体を撃ち穿ったところで、停止。累積したダメージに無理矢理な突貫からの一斉掃射の反動が響いたか、操縦席のモニタは警告に埋め尽くされ、頼みの綱の射撃管制装置が停まった。

 

 そして、彼女たちの運の悪さはそこで終わらなかった。

 

「貴様ラ、ヨクモ私ノ“情報”ヲ……」

 

 『飛竜』が突き飛ばされた地点、そこはちょうどつい先ほど撃墜された浅葱たちの乗っていた多目的輸送機(ティルトローター)――ディディエ重工製<パンディオン>があった。

 不時着したがまだかろうじて原形を保ち、修理をすればまた動けるかもしれない。しかし、今は墜落した航空機の残骸に、黒銀の竜騎士は騎槍を突き刺し、

 

「……神ヨ、我ガ神ヨ、我ニ報復ノ力ヲ―――」

 

 なっ!? と浅葱とリディアーヌが、恐怖に声を歪ませた。自分たちを乗せていたティルトローターが、水銀のように融け崩れたのだ。小型とはいえ戦車を収納できるその機体は十数mと巨大な輪郭が融けた飴のように流動して、その質量が丸ごと、『飛竜』の巨躯に溶け込んだ。

 

『なに……あれ? 錬金術……なの!?』

 

 異様な光景に、誰もが混乱を隠せない。

 無機物を己のものとして吸収する歪な魔術―――それは一見、錬金術師が使う術理に似ているが、しかしまず錬金術の効果は、複雑な機械には及ばない。

 だが今、竜騎士が行ったのは、『飛竜』の受けた損傷(ダメージ)を埋め合わせるだけではない。補填するだけに留まらず、さらに『飛竜』は巨大化したのだ。

 多目的輸送機という人工物が持つ重量・速度・力強さ(パラメーター)までも取り込んだかのように、『飛竜』の姿形が拡張される。

 

 そう、あれはもはや『飛竜』などではない。

 体長は20mを超え、形態も太く肥大化する。鋼鉄と竜鱗が交わった合金の如き外骨格は、そう、魔獣を除き、地球上で最大の動物である鯨。欧州ネウストリアに伝わる神話に出てくる『化鯨(ケートス)』と化した。

 

『スワニルダ―――』

 

 そして、呆然と糸が切れたように動けないでいるスワニルダに、主人が告げる。

 

『―――あなただけでも逃げなさい』

 

 役に立てなかった人形は、それを最初は幻聴と捉えた。

 『人形師(マイスター)』から『欠陥製品』と烙印を押された罵声を、また己の都合のいいように解釈したのだと。

 

『ですな、女帝殿。我らが楯となっている間に撤退召されよ! 女給殿の<鶯丸>ならば逃げ切れるはずでござろう!』

 

 空を泳ぎ、辺りに暴風を起こす『化鯨』。

 その荒ぶ嵐除けの壁となるようスワニルダの前に有脚戦車は移動する。

 

『早く、此処から離れてスワニルダ!』

 

 震えて動けぬ人形を叱咤するお嬢様の声。

 その必死さにようやく、『彼女は自分を助けようとしている』ことを理解する。

 それを純粋に疑問に思った。理解できない。何故()が恐怖を塗り替える勢いで脳裏を占めていく。

 

「なぜですか、お嬢様(マスター)? あなたには私を助ける合理的な理由はないはずですが?」

 

『こんなときに何言ってんのよ! 知らないわよそんな事!』

 

「ですが、私は人工生命体(ホムンクルス)です」

 

『何言ってんの。それこそあたしがあなたを見捨てる理由にならないでしょうが!』

 

 ふんっ、と『馬鹿馬鹿しい』と言わんばかりに荒めの鼻息をマイクが拾う。戦車複座コクピットにいてみえないが、お嬢様が顔をしかめているのが予想付いた。

 

『あたしは保育園のころから絃神島で暮らしてんのよ。あなたが人工生命体(ホムンクルス)だろうが機械人形(オートマタ)だろうが魔族だろうが全然まったく関係ない。あたしが助けたいいと思ったら助けるの! 『魔族特区』育ちを舐めないでよね!』

 

お嬢様(マスター)……あなたは……」

 

 スワニルダの無機質な瞳がかすかに揺れた。

 

 

 

「やれやれ……そのようなガラクタを乗り回し、無様を晒しているかと思えば、人形を庇うとは、俺ですら罵倒を控えるほどだ、人間」

 

 

 そして、森閑を震わした浅葱の大声は―――ちょうどそこを散策していた凶王子の元まで届いていた。

 

「しかし、このような無礼(バカ)者を、これ以上野放しにしておけるものか」

 

 正面モニタが金一色に染め上げられたかと思えば、浅葱たちの有脚戦車の前に現れたのは、白衣姿の少年。

 ジャッカルの姿をした<ドゥアムトエフ>、

 ヒヒの姿をした<ハピ>、

 ハヤブサの姿をした<ケベフセヌエフ>、

 木乃伊(ミイラ)の臓腑を守護する天空神(ホルス)の四人の息子たちの名が付けられた、濃密な魔力に紡がれ絢爛な黄金の眷獣三体を従える、デタラメな力を持った吸血鬼。

 浅葱が知る限り、これほどの眷獣を従えている吸血鬼は、ディミトリエ=ヴァトラー、ジャーダ=ククルカン、そして、<第四真祖>暁古城だけ―――即ち真祖に匹敵する力の持ち主だ。

 

『貴殿……その姿、まさか……コーカサスの……』

『―――コーカサス……まさか『滅びの王朝』の……!?』

 

 リディアーヌの呟きに反応した浅葱はその正体を悟り驚きの声を発する。

 コーカサス地方は、中東を統べる『第二の夜の王国(ドミニオン)』の支配地域のひとつ。

 その出身であり、年端もいかぬ少年の姿をして、真祖に匹敵する力を持った吸血鬼で該当するのはただひとり。

 イブリスベール=アズィーズ。

 第二真祖<滅びの瞳(フォーゲイザー)>の直系の二世代吸血鬼。

 

「ほう、極東の僻地に、この俺の顔を知る者がいたとはな。まあいい、下がっていろ小娘ども。なに、元より我が『滅び』の命より、『咎神』の騎士を糺せと命は受けていた。このようなきまぐれも構うまい」

 

 凶王子が軽く腕を振り、眷獣たちに攻撃を命じる。

 純粋な魔力の塊である眷獣の攻撃は、生身の魔獣ごときに防げるものではない。そして、王族である凶王子の眷獣は、巨大な戦艦をも一撃で沈め、城塞に隠れようがそれごと消し飛ばすほどの破壊力を有する。とても個人相手に召喚するような眷獣ではないが、ひとたび命を受けたのならば、20m級の海獣であろうと肉片ひとつ残さず、この世から抹消するだろう。そう、本来なら、秒殺で蹂躙劇は終わってもおかしくなかった。

 だが、『化鯨』は耐えきった。地上に降り立った黒銀の騎士が漆黒のマントを展開して、闘牛士よろしく三体の攻撃をいなしたからだ。

 マントの裾が虚空を包み込むように展開されたその空域が、イブリスベールの眷獣の立ち入りを拒む。厚みを持たない薄膜だというのに、オーロラ状の虚無の障壁は、煌めく閃光と化した眷獣らの神々しい巨体であっても破れない。

 騎士が広げた奇怪なオーロラには、眷獣が放つ魔力を消滅させる効果が付与されているのだろうか。

 が、それを見ても、凶王子の嘲笑はますます深くなる。

 

「一瞬で楽に屠ってやろうと慈悲を与えてやったつもりだが、刃向かうとは、身の程知らずだな下郎! 臓物を引き摺り出せ、<雷酸の王蛇(メルセゲル)>!」

 

 新たに召喚されたのは、猛毒の瘴気を纏う蛇身を持った巨大な王蛇(コブラ)

 

 瞬間、それと真正面から相対した『化鯨(ケートス)』は、蛇女の首を直視して石化したかのように、硬直する。

 

 <雷酸の王蛇>は、元々イブリスベールの眷獣ではない。イブリスベールを謀略に嵌めた裏切りの第二王女を『同族喰らい』して、奪った眷獣だ。

 その力は、空気感染する強酸性の猛毒。長い蛇身で取り囲んだ結界内を、不吉さに身震いさせる薄紫に大気の色を染め変える。

 空を泳いでいた『化鯨』は失墜すると、陸に打ち上げられたかのようにのたうち、痙攣して微振動する合金の外骨格より白煙が噴き上げるた。

 蝋が高熱に炙られて融けていくように、型崩れしていく『化鯨』。黒銀の騎士がまた虚無の障壁を張るも、<雷酸の王蛇>はたとえ魔力を消滅させようとも、猛毒と変化した大気までも防ぐことはできない。

 そして、その脅威は『化鯨』だけに振るわれるものでなく、

 

「どうした、『咎神』の騎士よ。そこまでか? 苦しいのであれば介錯してやっても構わんぞ」

 

 猛毒に包まれた黒銀の騎士に、冷ややかな視線を向けるイブリスベール。

 黒銀の全身鎧に護られていようと、<雷酸の王蛇>はその防御も溶かすだろう。時間の問題だ。奇怪なオーロラで酸毒を掃うことはできず、『化鯨』もすでに動くだけの気力がない陸で窒息した魚類のよう。

 黒銀の騎士が、懐より取り出したものを『化鯨』の胴に押し付け、自らの騎槍をさらにそこへ突き立てる。

 モニタに垣間見えた騎士が手にしたのは、手榴弾。

 『飛竜』と多目的軍用機を合成させた時のように、この『化鯨』に手榴弾の“情報”を増せ合わせれば、果たして何ができるか―――そこまで考えて、最悪の予感が過る。

 

「貴様、まさか……!?」

 

 イブリスベールの表情が引き攣った。

 胴体より引き抜いた騎槍が、手榴弾のピンと重なり、全長20mを超える巨体が“爆弾”に変じたことを悟ったのだ。

 また脱皮するかのように『化鯨』の外殻を突き破り、『飛竜』が顔を出す。一度、合成させた組成を分離させたのか。『化鯨』の外骨格に護られ、酸毒に冒されていない万全の『飛竜』は黒銀の騎士を拾い上げるとそのまま飛翔し、上空へと逃れていく。

 

 そして、抜け殻の『化鯨』だけが残され、

 ―――真紅の物体が小柄な身体の凶王子の前に割って入った。

 

「ちっ、<ドゥアムトエフ>! <ハピ>! <ケベフセヌエフ>!」

 

 

 山間が爆発的な閃光に襲われた。

 校舎のように大きな置き土産を中心地に半径100m圏内が、一気に爆炎に呑まれた。

 

 

 山犬、狒々、隼、と三体の金色の眷獣が煌めく颶風と化して、爆風を相殺。

 それでも光と音――眼球と鼓膜から同時に衝撃が走り抜け、感覚が喪失。そして、騎士を乗せた『飛竜』は、この自爆戦法で生じる追い風を受けて魔獣の限界を超えた凄まじい加速で凶王子から離れていく。たちまち敵の姿は小さくなり、消え残る冷気の霧に紛れて消えてしまった。

 

「逃げた……いや、より有利に戦える場所を求めて撤退したか。小癪な奴よ」

 

 それから凶王子は、自身の前に壁となった有脚戦車―――とそれを支えようと粘着液の蜘蛛の糸を張り巡らせて、有脚戦車の横転を防いだ人工生命体を睨む。彼の口元に浮かぶのは、感心と呆れ半々の微苦笑だ。

 

「おかげで逃してしまったが、まあいい。浅慮とはいえ、身を挺して俺を庇おうとした心意気だけは褒めてやろう」

 

 イブリスベールは逃げた騎士を追わず、ひとまず、彼女たちの意識が覚めるまでは、負傷者満載の現場に留まることにした。

 

 

箱根 旅館

 

 

 すき……だぞ。

 

 信じてた、のだ。霧葉のこと……

 

 ああ、本当に、強い……ご主人に助けてもらわなかった、ら、倒されてたぞ……霧葉は、すごいな。

 

 だめだ。……絶対に逃がさない……

 

 いいや、油断しないぞ……霧葉は、オレが……全力で……仕留める。

 

 

「―――って、だから何を思い返してるの私っ!?」

 

 頭を抱えて身悶える古風な長い髪の少女。<第四真祖>を獅子王機関の計画に乱入させんとする六刃神官・妃崎霧葉は、太史局からの連絡を受け取った。

 

 南宮那月からお目こぼしをもらったような形で絃神島を出て、無事にとは言い難いが(剣巫と六刃はボロボロ)本土へ辿り着く。

 今は箱根の山中に位置する、温泉が有名な高級旅館――『戦王領域』のアルデアル公がまるごと貸切にした一棟――で、休んでいる。暁古城が『三聖』の槍撃で千切られた右腕の調子が悪いことと、あとは海に落ちてべとべとになった制服が洗濯中で外に行きたくとも着れるものがないことから、温泉でのんびりくつろぎながら、制服のクリーニングを待っている状況だ。<火鼠の衣>が濡れ鼠では問題なので霧葉もこの立往生に付き合っている。まあ、天然ぶった色気でたらしこんでいる本家剣巫と暁古城いちゃこらしてると言い換えてもいいが、そう考えてるとイラッとくるので精神衛生的によろしくない。

 

 箱根は『神縄湖』までの距離は20km足らず。徒歩でも辿りつける距離。

 足も、人身御供の姫たち(オシアナス・ガールズ)が、北米連合(NAU)製の装輪兵員輸送車を用意している。自衛隊所属の車両ではなく、取り付けられているのも外交官車両用ナンバー。おそらく異分子(イレギュラー)の介入を防ぐために敷かれている人払いの検問に引っかかるだろうが、太史局――国家魔導災害対策機関に属する攻魔師として通れるだろう。

 

 

 そして、たった今、組織の情報部より『神縄湖』に魔獣が発生したとの報告があった。

 

 

 獅子王機関の目論見が外れたか。しかしながら魔獣の群は人里を襲う前にUターンして戻っていったため、まだ太史局も様子見で本格的な介入を控えている。もし無秩序に暴れ回る魔獣であれば、霧葉は六刃神官の本来のお役目として、自衛隊の後衛(バックアップ)について『神縄湖』近辺に出現した魔獣の群を掃討に駆り出されていたことだろう。

 

「魔獣たちの急な鎮静化―――これは、『魔獣庭園』で起こった現象と似ている……いいえ、同じよ。そう、『神縄湖』にはきっと―――」

 

 ―――国家攻魔官名義で、“準魔族”の国内派遣の許可が取られた、と霧葉の耳に届けられたもうひとつの報告。

 

「ふ、ふふ、ふふふふ―――そう、いるのね、『神縄湖』に」

 

 この受けた快…屈辱を倍返しする……ッ!

 

 妃崎霧葉こと鬼女の体内エンジンを加速させる。咆哮する臓腑、加速する肺、吐息はニトロの匂いが漂い、標的がどこにいようと隠れようと超高々速追跡を可能とする―――逸る気持ちについうっかりと、もう一本増えてさらに最初の二本が鹿角のように枝分かれしつつある形態に変化しかけたが、気を落ち着けさせる。

 

「焦ることはないわ……ええ、『獣王』をやれるのは、私だけなのだから」

 

 『神縄湖』――強く感じる方角――を睨む霧葉が昂じるように頬を火照らせ、優艶に笑う。

 

 そう、先日の戦闘、結局、本家剣巫は一太刀を浴びせることは叶わなかったのだ。きっと同年代で彼を傷つけることができたのは自分だけだろう。

 つまり彼を倒せるのは自分だけであり、資格がある。万が一の時に討伐する力量が必要である監視役に最も相応しい……

 

 

神縄湖

 

 

「羽波―――!」

 

 ―――呼吸ができない。

 ―――目の前が真っ白になる。

 ―――どうして、と叫びたくなる気持ちを必死に堪える。

 

 

「そい は違 ッ!  く離れ ッ!」

 

 

 ああ、きっとそれは『裏切られた』と思えるくらいに、彼に心を許していた。

 それを理解し、自覚した途端、激情が噴火し、怒りに沸騰した溶岩が激流となって溢れ出す。

 温厚な性格の内に抑えられた感情を爆発させ、獣―――そう、ほとんど獣のような咆哮をあげていた。それは羽波唯里を知るものであれば誰もが、耳を疑うような肉声だったろう。理性ではなく、本能が表出した怒号。

 

 

「『六式降魔剣・改(ローゼンカヴァリエ)(プラス)』―――起動(ブートアップ)ッッ!!!」

 

 

 自分を避けて背後を狙うよう曲げる軌道で放たれた霊弓術。第三国の『獣王』との対決で更に鋭く練磨された手裏剣は、それこそ舞威姫の弓に匹敵する。

 それを一息に、腕が霞んで見える速さで振るって飛ばした数は実に十を超えた。

 

 そのすべてを事も無げに弾き返す剣巫の護り。

 

「―――」

 

 針の穴さえ通す手裏剣術を防ぎ切られた。

 相手の武神具(ぶき)は、剣一本。

 左右に振って投擲し、切り返す剣の隙間はあるはず。確実に相手の背後を抜ける手裏剣が、悉く弾かれる。

 

「これ以上は、やらせない!」

 

 剣巫の気配が変わる。

 ずっと鞘に収まっていたものが今となって解き放たれたかのような剣気。

 

 ―――前方を除いた八方から手裏剣が奔る。

 こちらへと踏み込もうとした剣巫に合わせた、迎撃(カウンター)となる高速掃射。

 

 それも防ぐ。

 躱すのではない、剣巫から避けて通ろうとしたものを余さず打ち落とす。軽く、ほんの僅か剣の刃先を揺らしたようにしか見えない必要最小限の隙のなさで、剣巫は目で追うには無理のある霊弓術を直感で捉え無効化する。

 

「―――」

 

 吼える剣巫に反して、黒妖犬は無言だった。

 牽制として放つ霊弓術は、その対応を観ることで、相手の力量を測る物差しでもある。

 投擲を放つ前の一呼吸、『鼻』で嗅ぎ取った“匂い”から経験値を測り、

 一度目の投擲が防がれたことで相手の運動性を測り、二度目の投擲で相手の行動法則を測る。

 

 この間合いを詰めるまでの刹那の内に、“感情で強さが確変することを知る”黒妖犬は今この時における相手の力量を推量するのだ。

 

 結果、理解したのは、飛び道具は通用しないこと。先ほど格付けして測った『羽波唯里』の強さは、“井戸の底”であって、けして“天井”ではなかった。

 牽制といえど相手の裏をかこうと計算している。それを凌がれたとあれば、無謀と悟るしかない。

 

(今の羽波は、姫柊よりも上……ユスティナ=カタヤ(ニンジャマスター)に匹敵するくらいだ)

 

 銀色の長剣で虚空を薙いだ羽波唯里は、これまでになく炯々と霊視の光を高め、“親友を討った敵”を凝視する。

 余計な情報は遮断(カット)した。

 音も色もない灰色世界の感覚。全てを未来の情報を取得することだけに尖らせる。

 そして、思考も余計な雑念は捨てた。

 標的に対し善悪好悪を持たない、純粋な目的意識だけがあればいい。

 

 三歩、だ。

 

 先程の立ち合いから、この間合いで三歩、踏ませたら自分はやられる。

 接近させてはならない。長剣が届き、相手の手の届かぬ距離で攻める―――!

 

「よくも志緒を―――っ!」

 

 本当であれば、<第四真祖>の監視役に選ばれるはずだった第一候補。

 そこから外されたのは『七式突撃降魔機槍』の担い手に選ばれなかったからだが、もうひとつ師家より挙げられたのが、彼女の“優しさ”である。魔族に対する苛烈なまでの拒絶感を持たないことだ。

 努力を積み、剣才を持つというのに、その一点で剣を鈍らせている。

 

 だがそれはつまり、“優しさ”という敵への配慮をなくせば、第一候補に相応しき力を発揮するということ。

 

「<黒雷>―――!」

 

 一歩―――長剣の制空圏に入るのを視認するより早く、ほとんど自動的に唯里の身体は動いた。

 

 振るえば断つ、空間断絶に力を篭める必要はない。

 求めるのは速さと正確さ。力で押し切らなくても、敵を断てるのだから、手数と緻密さで圧倒する。

 

 迷いのない瞳に付け入る隙などなく。冴え渡った武の術理が、少女の身体を旋回させる。呪的身体強化のブースと共に<黒妖犬>の脇、斜め前方の虚空へと滑り込んだ剣は、まるで風が花びらを散らす様を幻視()せられるような、至近距離の連撃を見舞いした。

 一瞬で、繰り出された斬撃は七度。

 

(くっ―――無理か)

 

 退かずにこれを処理するのは不可能。

 空間を断絶する太刀筋は物理的に防御不能。受けることはできず、振るわれたのならば、避けるしかない。

 ―――だが、後退する余裕はない。

 

(仕方ない―――諦める)

 

 跳躍。

 “前に”。

 強化も獣化もなく素でこの冗談じみた上昇は、砲台の弾丸そのものだった。

 力を溜めに溜め、限界まで引き絞った筋肉を開放し、相手との距離をゼロにするどころか、飛び越えんとする超人芸。

 空中に身を躍らせ、七つの斬線の隙間を縫うように、身体を捻り―――抜けた。

 

 

 

 その右腕ひとつを斬り飛ばされたが。

 

 

 

「なっ―――!?」

 

 『六式降魔剣・改』の連撃を“完全に”躱すのは無理と悟り、腕一本を斬り捨てられる(あきらめる)ことを計算に入れて飛び込んだ。

 くるくる、と回る自分が斬った相手の腕に――あの刹那に犠牲を払う覚悟を完了した<黒妖犬>の意思に――唯里は目を奪われ、接近を許す。

 そして、残った左手が唯里の顔へ突き出され―――こめかみを風が吹き抜けた―――

 

「                   」

 

 記憶に空白が生じた。

 気が付けば唯里は、凍れる湖面に押し倒されていた。

 そして、

 

「え……志緒ちゃん……っ!?」

 

 右腕を刃と伸ばした異形、そして、まるで日焼け痕を乱暴に剥がしたように、『斐川志緒』の皮膚の破片が少し残っている不気味な面相が、視界に入った。

 

 

神緒多神社 座敷牢

 

 

『暁牙城の顔では残念ながら行けないようだ―――新しい“手形(パス)”が欲しい』

 

 

 暁牙城に連れられて、『特殊攻魔連隊』の野営地に入り……そこで意識は途切れた。

 やられた。暗技を修める攻魔師として、こんな騙し討ちでやられるヘマを打つなんて、煌坂紗矢華に知れたら、どれほど笑われるか。いや、そんな個人的な事情よりも自分の失態のせいで今計画が台無しとなったとなれば、そして、唯里の身に危険が迫っているとなれば、大問題だ。

 どうにかして、自由の身になりたいところだが……動けない。

 暗殺と呪詛の専門家、数多の呪いをその身に宿す舞威姫の扱いは難しいだろう。だからか、この身に一切触れずとも身動きを封じてしまえるように、今、昨日まで暁牙城が閉じ込められ、自身も見張りをしていた牢獄の中で、斐川志緒は“壁に埋め込まれていた”。

 

「っ、ダメだ……全然、動けない」

 

 今の志緒は、きっと絵画より飛び出そうと上体だけが出ているように見えるだろう。

 見張りはいないようだが、それは相手にも予想外の事態が発生して人員を割ける余裕がなくなったからか、もしくは脱獄ができないから必要がないとみられているのだろう。はっきり言って舐められている。だが、『六式降魔弓・改』も呪符も奪われ、四肢も満足に動かせないこの現状を覆しようにないのは、悔しいが事実だ。

 

 誰かの助けがいる。

 壁を壊し、自分をここから出してくれる信用の出来る味方が―――

 

 

「よ、助けに来たぜ、志緒ちゃん」

 

 

 諦観に重くなる瞼を開くと、鉄格子の仕切を無視して登場した髭面の中年男性の顔がドアップで志緒の視界に映った。

 

「う、お、あえ!?!? な、こ、ここ―――ここで会ったが百年目だ暁牙城! よくも私を嵌めてくれたな!!」

 

「いやいや、嵌められたのは俺の方もだからな志緒。牢屋の中にいたらいきなり襲われて、逃げるのに大変だったんだぞこっちも」

 

「知らん! それから、呼び捨てにするな!」

 

 

神縄湖

 

 

 あれは、だれ……!?!?!?

 

「だから、あいつは“偽者”だ! 志緒とかいうやつじゃない!」

 

 空間断絶の斬撃で腕を切断した右の肩口と、強靭な<黒妖犬>の左腕から血が滴っていた。完全に意識外、背後を突かれた唯里が全く反応できなかった、そして、唯里の背後が見えていたクロウがその魔の手から唯里を庇ってまた傷を負った。

 

 停止した思考、手にした長剣を落としてしまう。

 

「あ   ああ     っ……」

 

 震えて動けない唯里の身体を抱いて、そして、落ちていた自身の片腕を蹴り上げて咥え、クロウは『斐川志緒』の偽者より距離を取る。

 

「……こうもすぐ変装を見破るとは……『三聖』を退場させたというのに、とんだ異分子(イレギュラー)が紛れ込んだものだな。しかし、『右腕』を斬り飛ばされたのは愉快だ。よくぞやってくれた剣巫よ」

 

 『斐川志緒』の声で嘲笑するのが、唯里にはひどく歪んで聴こえる。一秒たりとも聞くに堪えられない不協和音。また獅子王機関より与えられた武神具も手放してしまい、拠り所を見失っている彼女は、戦力面でも心理面でもとても戦えるような状態ではなかった。

 

「し……志緒ちゃんは!? 志緒ちゃんは無事なんですか!?」

 

「ええ、獅子王機関との人質交渉にも使えますし、それに“生餌”としても活用できますから―――まあ、無事だとは言いませんが」

 

 精一杯の震える声での唯里の問いかけに返されたのは、生存を保証しても安否は定かではないという血の気を引かす回答だった。

 

 して、クロウは拾った右腕の切口を肩口に当てて押さえる。生体障壁で覆い繋げることで見かけは固定されたが、流石に動かすことはできない。獣人種の高い自然治癒をもってしてもそうすぐに斬られた神経経路を復旧することは無理があった。

 つまり、クロウはこの通常の強さとは別次元の異様さをもった相手に、片腕が使えないハンデを負って、戦わなければならないのだ。

 

「我々が『神縄湖』に来た目的は、『咎神』の遺産であるが……<黒妖犬>、貴様の『鼻』が私には天敵であることを理解した。だから、ここで殺神兵器の“情報”を抜き取り、処分しよう―――ああ、あの魔女と人工生命体へ右腕と計画を奪った復讐となろうな」

 

「……そうか。オマエ、ご主人とアスタルテが逃がした曲者か―――だったら、なおさら逃がさない。ここで、確実に、狩る」

 

 <黒妖犬>の、宣告。

 クロウは鼻での呼吸とともに、源力(マナ)を取り込む。

 臍の下まで息を落とし、丹田にて吸い込んだ源力を凝縮。螺旋の想像図(イメージ)方向性(ベクトル)を与え、正中線の任脈を通してぐるぐると身体を巡らせる。

 <四仙拳>の師父より学びし、気功の技法がひとつ。

 より効率よくこの一帯に漂う冷霞の外氣――中心地点(グラウンドゼロ)の環境を激変させた<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の残り香(におい)――を取得し、体内に循環させ、増幅させ、クロウは変生する。

 

「―――っ!」

 

 身体を巡らせた源力が、突然点火したようだった。血液が残らず溶岩と化し、すべての神経が燃え上がった灼熱の感覚。悶えることもできず、同時にクロウは別のものをも認識した。

 臍の下で、巨大な焔が熾ったようだった。

 力が、漲る。

 途轍もない熱とともに、自分の身内から膨れ上がる。

 

(やっぱり、オレに関わりがあるのか)

 

 主人である<空隙の魔女>は危惧していた。

 『聖殲』の遺産は互いに共鳴し合う可能性がある、と。

 『神縄湖』に眠っていたものは、“これまでになく調子があがる”この反応からして、自身と関わり深いものと、クロウはそう判断した。

 だから、それについて考えるのは後回し。

 今は、この留まるところを知らぬ力を目前の相手に向ける。混血の裡に眠る獣性を起こし、白銀の人狼となり、臨戦態勢へと突入する。

 

「それで、オマエの“臭い変装”はオレに通用しないが、降参する気はあるか? 今のオレはちょっと手加減が難しい」

 

「それは、私が騙し討ちしか能がないと侮っているのか―――」

 

 触手と伸びる右腕を振るい、剣巫が落とした銀色の長剣を拾い、さらに左手に持つ銀色の洋弓を―――右手に喰わせる。

 

「生憎だが、私が模倣する“情報”は姿形(かわ)だけではない」

 

 武神具の材料にもされる稀少で高度な霊媒の金属が、『霊血』の純度を高めさせ、そして、“生きて学習する金属”は、この武神具の特性をも取得する。

 

「『六式降魔弓・改』と『六式降魔剣・改』は、運用の難しい『六式降魔重装弓』を二分化したことで難度を落とした量産兵器と聞いていましたが、ならば、二つをまとめるのならば―――それは、<黒妖犬(きさま)>を降して、禁呪を施した舞威姫の<煌華鱗>も同然だ」

 

 “『波朧院フェスタ』後に獅子王機関に送られた『黒妖犬に対処した舞威姫』の報告書”を知る『人狼』は、こちらに見せびらかすように右手を小指から順々に握ってみせ―――瞬時にすでに矢の装填された弓が生えた。クロスボウと一体化した右腕をこちらに向け、放つ。

 

 

「獅子の舞女たる高神の真射姫が請い奉る! 雷霆(ひかり)あれ―――!」

 

 

 傍観者の唯里は、耳と目を疑った。

 相方の声音で紡がれる呪句。そして、甲高く鳴く風切り音に空に描かれる多重魔法陣。人間の声帯には不可能な呪文を、鳴り鏑矢を用いて展開するあの技は紛れもなく舞威姫の――斐川志緒が才能と努力を重ねて行使できるようになった術だ。

 

 それに。

 銀人狼は。

 ただ上を向いて、凶悪な魔力が篭められた広範囲制圧術式を睨み。

 

 

「―――■■■■■■■■ッッッ!!!!!!」

 

 

 “人間の声帯には不可能な遠吠え”が迎え撃って、相殺する。

 凍った湖面に地割れが生じてしまうほどの轟音は、鳴り鏑矢が生み出そうとした高密度の呪文を掻き乱す。

 

 呪矢の音響魔法陣を大声でぶつける、こんな原始的な方法で破るなんて……!

 

「猿真似が、オマエの自慢か?」

 

「舐めるなッ! この『霊血(うで)』には、『殺龍剣(アスカロン)』とたった今、その腕を斬り飛ばした『降魔剣』の“情報”を取り込んでいる!」

 

 形状変化される右腕が、長大な刃と化す。

 模倣された龍殺し(ゲオルギウス)の絶技で、防御不可能の空間断絶の斬裂を放つ。

 ―――一採必殺。

 隼めいた一刀を腕が動かせないであろう右上段から。

 稲穂を狩る鋭さで、黒妖犬(クロウ)の首を薙ぎ払わんとする。

 

 

「忍法落とし穴の術」

 

 

 ドン、と震脚する銀人狼。

 

 瞬間、『斐川志緒』の視界が、一気に下がった―――いや、落ちた。

 周囲の凍った湖面が、一瞬で、水に溶けたのだ。

 衣類についた水分を飛ばしたものと原理は同じ。自然物に干渉する『嗅覚過適応』の発香側応用(アクティブ)匂付け(マーキング)』、それが氷結していた湖水に状態変化を起こさせて、水に戻させた。

 下半身が零度以下の氷海の如き湖面に落水する。

 地盤沈下して体勢が崩れた剣筋は乱れ、『霊血』の刃は湖面を割り―――そして、右腕を食い千切らんとする渦が発生した。

 

「師家様から聞いてる。空間断裂(それ)は、水に浸けちゃいけないもの」

 

 空間断絶は水に浸けては使えない。

 剣の軌道上に生み出された空間の亀裂が周囲の水を巻き込んで、使い手が自滅するからだ。

 キレ味が良過ぎる刃物は、扱いを誤れば自身に深手を負わせてしまうもの。

 

「オマエはやっぱり本物とは劣化した猿真似だ。技術は同じでも、それに対する理解が全然足りてないのだ」

 

 震脚の踏み込みを、真上の推進力へと変換。

 高く跳躍したクロウは背を反らし腰を捻りながら頭と足先を逆転させる。この総身の回転の力を含め右爪先に集わせ、蹴り放つ―――

 

「忍法飛雷針の術!」

 

 この身を“弓”とし、すべての力を集約させて解き放つ。手ではなく足で蹴り飛ばす霊弓術の秘技。腕力の三倍の脚力で放たれたのは、攻城弩矢(バリスタ)と呼べるサイズに長大化させた銛槍だ。

 

 曲芸じみた投擲フォーム(オーバヘッドシュート)ながら、“匂い”で常に相手の座標位置を把握している故、狙い過たず標的へ。

 溺れるように動けない獲物、その渦に呑まれる魔性の右腕を穿ち―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 無事着しても高々と上がっている水柱。

 そのまま湖底まで縫い止めんとする勢いで放たれた必中であるはずの霊弓術は、外れていた。

 衝撃音も悲鳴も、風の音すら聞こえない。完全な静寂だけがクロウを包み込む。

 その静寂を破ったのは、どこか現実離れした穏やかな少女の声音であった。

 

「舞威姫は役に立ちませんね。勿体ないので節約をしたかったのですが、仕方ありません」

 

 その声と同時に、世界に音が戻った。

 湖水を爆散させて雨のように天上から飛沫を降らす衝撃の余韻の中、被害を免れるようにその者は30mばかり離れたところにいた。

 クロウに気づかせず、一瞬で移動していたのだ。

 

「なん、だ……?」

 

 戦闘の最中だというのに、銀人狼は意識を空白にしてしまった。それほどの驚きがクロウを襲う。

 記憶が欠落したかような気持ち悪さを覚える。今のは空間跳躍(テレポート)ではない、と直感が答えた。そう、あれはコマ落ちした映画を観ているような不快感に近い。ページを破り捨てられた本のように、時間の繋がりが途切れている。

 

 そして、相手の姿形も変化していた。

 短めの髪をした気の強そうな印象を受ける少女から――一瞬、大人な男性のシルエットが浮かんだかと思えば――これといって特徴のない地味な印象の少女へ。

 文学少女というイメージの彼女は、しかし小脇に一冊の本ではなく、対物ライフルを構えていた。本来なら地面に固定して使うその巨大な銃を、強引に腰だめに構えて、引き金に指をかける。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 己の身にいったい何が起こったのか、数瞬、クロウは理解できなかった。胴に着弾したのは、濃縮した魔力を撃ち出す特殊で貴重な弾丸『呪式弾』。その凄まじい魔力を撒き散らして爆発し、銀人狼の喉は絶叫を放つよりも先に血反吐を迸らせていた。

 世界に音が戻ってきたのは、その直後だ。

 

「南宮君!?」

 

 視ていた唯里にも、何が起きているのかわからない。

 わかるのは……

 

 

「頑丈な肉体。『呪式弾』でも壊れないなんて―――とても、壊し甲斐がありますね」

 

 

 これより攻撃権の移らない、一方的な蹂躙が始まることだけだった。

 

 

神縄湖付近 森

 

 

「はぁ―――はぁ―――」

 

 孫娘の救難は失敗したが、危機を脱することはできた。

 神緒田神社の巫司としてこの地のことを誰よりも知る暁緋紗乃は、霊脈を潜って空間転移する『禹歩』を以て、戦線離脱に成功。緊急だったため距離は稼げなかったが、それでもヤツらの目から逃れることはできたはずだろう。いずれあの復讐者である『冥狼』は弱っているこの好機をそう易々と逃しはしないだろうが。

 

「っ、無理をし過ぎましたね」

 

 ぐらぐらする視界を、こめかみに手を当てて固定。奥歯を噛み締めて無理矢理に意識を賦活させんとする。

 緋紗乃の横には、白髪の少女が昏倒して横たわっている。もとより白い肌が、無残なほどに青褪め、息は荒く、白衣の胸が小刻みに上下している。

 こちらが離脱準備を整えるまで、あの二人を同時に相手取らなければならず、また霊糸の一部を『暁凪沙の繋ぎ止め』に振り分けていたのだから、衰弱の理由は痛いほどわかる。

 あれは狸寝入りなどではない、『十二番目』の暴走はこちらにも想定外だ。“何者か”に助けられる直前まで凪沙の霊体を彼女は守っていたのだ。

 かくいう緋紗乃も、消耗は酷い。如何なる術式・方法であろうとも、最も難度の高いひとつとされる空間を渡る魔術、それも余程の準備をしていてすら困難なのに、緊急避難的な術式ではさらに難度が跳ね上がる。

 それだけの悪条件の中で、なおここまで転移したことが、暁緋紗乃の並々ならぬ呪力を証明していた。

 

 して、不幸中の幸いか、<蜂蛇>が大人しい。“何者か”が制御に成功したのか。

 

「しかし、私たちは油断し過ぎていましたね」

 

 牢を出ていた息子、暁牙城……あれが“偽者”であることを緋紗乃は昨夜の内から疑いをかけていた。

 『子供たちのことを覚えているのか?』という質問に解答できたみたいだが―――牙城は“記憶を喰われている”。

 『焔光の宴』で起きた<第四真祖>の復活――真祖として不足していた『固有堆積時間(パーソナルヒストリー)』を補うための記憶喰らい――その後遺症で、暁牙城は自分の子供たちの記憶の大部分を失っている。自分がそれを失った理由すら、今の彼にはわかっていないだろう。古城や凪沙がそのことに気付いていないのは、牙城が事前に周到な準備を施し、そして必死の演技を続けてきたからだ。

 その思い出そうとするたびに、喪失した記憶との不適合(ズレ)で、幻肢痛じみた耐え難い頭痛が襲うはずなのだ。なのに、あれは平然と受け答えができていた。

 

 

『黒を白にするその忌々しい力。盤上の駒すべてを己のものとするそれは、一度術中にはまればこれほどに恐ろしいものはないでしょう。それでこそ、吸血鬼の真祖たちですら一目置く獅子王機関『三聖』だ。

 ―――ですが、元より白い駒(みうち)の反逆に対しては甘いところがあるようだ』

 

 

 故に、息子に対しての警戒心が強かった舞威姫の斐川志緒を張り付けさせ、影ながら本物の息子の捜索をして―――結果、このざまである。

 張り付かせていた斐川志緒は囚われ、変装される。

 それでも、近づいてきた『斐川志緒』に緋紗乃たちは一挙一動を見逃さず、警戒していたが……

 

 

「まさか……<静寂破り(ペーパーノイズ)>を使ってくるなんて……」

 

 

 『闇白奈』の霊糸による絶対操縦権と同じように、『閑古詠』に代々と継がれてきた絶対先制権―――獅子王機関筆頭の『三聖』にまで上り詰め、真祖にも致命打を与えられる血継淘汰の力―――その“情報”を相手は入手していた。

 

 

神縄湖

 

 

 カラン、カラン、と。

 『呪式弾』の薬莢が一体いくつ凍る湖面に転がっていることだろうか。

 

 滅多打ち―――そう、形容するしかない戦況。

 

 その全身に硬気功を張り、亀のように守りに徹する銀人狼。それを人型の的にして、対戦車ライフルを容赦なく撃ち込み続ける少女の顔をした相手。

 いつ照準を合わせられたか、

 いつ引き金を引かれたのか、

 いつ弾丸が着弾したのかさえ、理解が遅れるこの始末。理不尽に“撃たれた”結果だけを押しつけられる。

 

「このまま我慢比べを続けるとこちらが弾切れとなりそうだ、実に優秀な性能です。欠陥があれど我らが主の殺神兵器を完了させるための“部品(うつわ)”であることは変わりない。その“情報”だけでも欲しくなりますね」

 

 耐えるしかない。

 耐えて耐えて耐えて、打開する勝機を見つける―――しかし、“何もわからない雑音(じかん)”で起きていることをどうやって分析できるのだ。

 それにそう何発も『呪式弾』を耐えられない。

 

(どうすれば、助けられるの……っ!?)

 

 傍から見ている剣巫は、見ていることしかできなかった。

 絶対の護りを展開する『六式降魔剣・改』は相手に奪われ、そもそも、“すでに終わった結果”に割って入ることなど不可能なのだ。

 相手もそれをわかっているから、平気で無視できる。

 

 

 剣巫も、そして銀人狼も何もできず―――

 

 ―――百面相は頭上から影が差すまで気づけなかった。

 

 

 視界不良な冷気の霧、加えて一方的な的撃ちに引き金を引くのが快感(トリガーハッピー)に陥った視野狭窄で、気づくのが遅れた。

 空から鋼色の魔獣の群が集中豪雨の如く神風特攻と襲い掛かってきたことを。

 

「―――っ!?」

 

 <蜂蛇>は、『龍族』と共生する魔獣。象や水牛の背中に集まり鳥たちのように、強力な龍による庇護を求めて、<黒殻>の周囲に群を巣食っていた―――それ故に、新たな群の大黒柱たる『獣王』の危機に、<蜂蛇>に躊躇はなかった。

 

「おま、えら……!」

「今のうちに―――!」

 

 仁王立ちで動けないでいるクロウを唯里が回収する。

 鋼色の怪物の大軍に襲われればひとたまりもない―――しかし、暁緋紗乃の実証例がある通り、魔獣を鎧袖一触と薙ぎ払えるほどの実力者であればこの程度の有象無象でやられはしない。

 それでも、時間稼ぎにはなるはずだ。

 ―――そう、時間稼ぎとしかならないことを承知して、魔獣たちは飛び込んでいる。

 

「ちぃ! この程度の雑魚に『三聖』の“情報”を使えるか!」

 

 文学少女の姿からまた相方の『斐川志緒』に変わる。

 親友の顔で魔獣たちを蹂躙していく光景から背を向け、羽波唯里はクロウに肩を貸しながら懸命に戦場からひた走った。

 

 

 

つづく



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咎神の騎士Ⅲ

神縄湖

 

 

 ドゴゥアン!!!!!! と。

 いっそ衝撃波じみたド派手な発砲音が凍れる湖面を震撼した。

 

 

「考古学者の分際で、随分と不相応な兵装(もの)を揃えたものだ」

 

 『中年男性の考古学者』は、口端を歪めて冷笑する。

 その右腕は、神仏で扱われる法具の『金剛杵』を1m大にまで大型化したような兵器であった。枝分かれした先端には刃の代わりにそれぞれ大口径の銃口が取り付けられている。

 一斉掃射と火を噴けば、前方150度をくまなく埋め尽くす600発の弾幕が、鋼色の鱗を持つ魔獣を蜂の巣にする。

 

「しかし、剣や弓などより近代兵器の方が、我が<栄光の右手(ハンドオブグローリ)>には性が合っている」

 

 罪人の腕を斬り落として死朧化させて造られる、忍び入る成否を占うとされる魔術道具<栄光の右手(ハンドオブグローリ)>。

 軍用重機関銃に対戦車ライフル、ショットガンとグレネードランチャーなど強力な対魔獣効果を持つ琥珀金弾(エレクトラムチップ)や聖水を封入している、個人が有するには質も量も大き過ぎる非合法な武器。<死都帰り>『暁牙城』が半身を置いてけぼりにした『死都』、そこに貯蔵されていた兵装で使えるものを見繕い、霊媒に利用できる金属が含まれる弾薬をすべて徴収、そして、“情報”もあまさず『霊血』――<栄光の右腕>に取り込んだ。

 これで単独で一部隊の制圧力を手にしたといっても過言ではない。

 

 死屍累々と転がる<蜂蛇>の肉片。

 『呪式弾』はほぼ使い切ってしまったが、弾数と手数で攻撃力を補う。そうして数十の魔獣の群れを“片手間”で虐殺した。

 

「さて、邪魔な雑魚は排除しましたし、それでは逃げた猟犬を追いがてらお目当てのものを探すことにしましょう」

 

 『中年男性の考古学者』が、『男子高校生の超能力者』に変わる。

 『覗き屋(ヘイムダル)』として買われる<過適応能力者(ハイパーアダプター)>――魔術に頼らない天然モノの超能力者。それなりの条件さえ整えば、数km離れた場所からでも他人同士の会話を聞き取ることができるその“音を視る”『音響過適応』。

 『死都』を兵器庫と利用できる<死都帰り>の物質透過能力と同じく、それ単一では戦闘に活用できないが、この索敵能力はとても使い勝手がいい。この呪術電波が攪乱される魔力の霧の中でさえも、超能力であれば位置の特定が可能だ。

 

 

 そして、『音響過適応』は捉える。

 号火のような『龍族』の咆哮を。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――グレンダ、こっちに来てくれ」

 

 

 かまくらの中、“天然羽毛”に甘えるかのように蹲っていた鋼色の長髪をした少女は、『おにぃ』と呼ぶ少年の声に起き、とてとてと裸足のまま外に出る。

 途中から肩を借りず、自分の足で移動したクロウは、まだその身は血だらけで、『呪式弾』に滅多打ちされた傷跡もほとんど埋まってはいない。身体に埋まっていた弾だけは走りながら、自分で肉を抉って摘み取って、そして今も弱ったように見せて不安がらせぬよう不動の仁王立ちをしているが、やはり無理をするような状態ではない。

 

「南宮君……その、身体の調子はまだ……」

 

「ん……動かせるようになったけど、まだ万全じゃないな。でも、気にするな―――とか言っても、羽波は気にしそうだから、しばらく右腕の代わりをやってほしい。それでとんとん。頼めるか?」

 

「っ、はい! 是非!」

 

 そして、彼は短く『凪沙ちゃんのことをお願いする』と告げ、唯里は“天然羽毛”の上に横たえられていた暁凪沙の身柄を引っ張り出して背負う。

 

「だ? おにぃ?」

 

「これから、オレが良いというまで喋っちゃダメだ」

 

 目を合わせるよう腰を曲げ、グレンダの肩に両手を置く。

 肩からグレンダの首胸元に指を滑らせて、法被と唯里のコートを重ね着している内の法被の前を開け、二人羽織するように裾に腕を入れて背負う。

 

「<蜂蛇(あいつら)>に『グレンダを守る』と約束して、大人しくなっててもらっていた―――だから、筋を通す」

 

 瞬間、魔力を通された蒼銀の法被(コート)隠れ蓑(タルンカッペ)>がその機能を発揮させる。

 呪術迷彩が展開されて、この白一色の景色の中で、クロウとグレンダは完全に姿を溶け込ます。霊視で以てしても、透明化した彼らを見通すことはできない。今、動かずにそこにいるのだと知ってても見破れない。

 

「―――」

 

 ぎり、という音。

 

「……南宮君……?」

 

 唯里が凪沙を背負い出し、誰もいなくなったかまくらを見つめるクロウは、まるで悔いるように、強く歯を鳴らした。

 

「……フラミー、起きてるな?」

 

 静かな声で、目をそらさずにそう呟いて。

 

「―――少しでいい。グレンダの代わりをやって奴らを引き付けてくれ」

 

 自らの<守護龍(フラミー)>に殿を命じた。

 

「南宮君……いったい何を……グレンダの代わりって―――っ、え!?」

 

 かまくらが崩れ、天井を破って輝かしい陽の光を織り込んだような金髪を出す。

 続けて、蒼穹の色を映し出したかのような青のグラデーションをした二対四枚の翼が凝り固まった体を伸ばし解すように広げ、全容を晒す。

 唯里の前に現れた―――いや、いたのは、これまで体を冷やさず温める暖房具代わりに“天然羽毛”となっていた、真っ白な純白の獣毛を持つ龍母であった。

 

「え、え、『龍族(ドラゴン)』?? どうなってるの!?」

 

 慌てて身構えようとしたけど、注視してすぐその爪と牙が丸っこく、攻撃性がほとんどない気配を唯里は察した。

 『龍族』であるのだが、これほどに美しくて、怖くない魔獣は唯里も初めて見る。目を奪われ、溜息をつかされ、それからこの『龍族』がこの少年と契約を交わすものなのだと姿が見えずとも無言のまま疎通する彼らの目を見て理解する。

 

「だぁ、ママ、一緒―――」

「それはダメだ」

 

 背中でじたばたとするグレンダの意見を、クロウは背から降ろすことなく一蹴する。

 それは冷徹な、感情を殺した声だった。

 

「グレンダと凪沙ちゃんを安全なところにまで送る。それは絶対。わかったか?」

 

「おにぃ……」

 

 追手となる敵は、あの“偽者”ひとりではない。

 この『神縄湖』の中心地点(グラウンドゼロ)へと近づく“匂い”を複数クロウは嗅ぎ取っている。そして、相手の狙いがグレンダであることも把握している。

 

 ここで自らの<守護龍>に乗って移動することもできただろうが、目立ちすぎる。確実に一戦を交えることになる。そうなれば、<蜂蛇>が捨て身で稼いでくれたこの時間を無駄にすることとなるだろう。

 非戦闘員を抱えたまま接触を回避してこの死地を抜けるには、注意を引き付ける“囮役”が必要だと―――直感的にクロウは決断を下す。

 

 主の危機感を共有した龍母は僅かに首肯を返すと、クロウから少し視点をずらす、背負わされてるグレンダに向け、『みー』とあやすように鳴く。

 

「ぅ……」

 

 それで、だだをこねていたグレンダは口を閉ざす。

 どういう関係性なのか、と傍でそのやりとりを見ていた唯里は気になったが、それは今追及することではない。

 

「ん。じゃあ、とっとと逃げるぞ。オレたちが湖から離れれば、フラミーもびゅーんと飛んで逃げられるのだ」

 

 そして、五里霧中を突っ切る強行軍が始まり、その号火を上げるよう居残る龍母が咆哮を轟かせた。

 

 

神緒田神社

 

 

「ったく、あの野郎め。俺が貯めてきた武器弾薬をごっそりと盗り上げやがって……」

「危ない―――!」

 

 と愚痴る暁牙城と神緒田神社を出た直後に、菱川志緒は突き飛ばした。

 暁牙城が何者かに狙撃されて、倒れるのを志緒は確かに見たのだ。

 しかし、その事象が現実に発生する前に、弓を扱うものとしてこの神社境内での絶好の狙撃地点を割り出して、その射線上から牙城を逃す。

 志緒の未来視。高神の社で養成され、獅子王機関に属する攻魔師は、一瞬先の未来を視る―――

 

「ちっ、来やがったな!」

「なんだこれは!?」

 

 初撃は回避できた―――しかし、そこまでであったか。

 金属製の装甲をもった、車両ほどの大きさの甲虫に似た怪物が現れたのだ。

 

「志緒、逃げろ! 俺が足止めする!」

 

「―――<辰星(しんしょう)歳刑(さいけい)>!」

 

 牙城が警告を叫ぶが、志緒は無視した。

 魔獣専門家である太史局の六刃神官ではないが、舞威姫は呪術と暗殺の専門家。弓を取り上げられたら無能ではないのだ。同じく武器を徴収されて攻撃する手立てのない自称考古学者よりは対抗できる。

 残存する呪力を身体強化に回して、甲虫へと飛び掛かる。

 

「え!?」

 

 だが、甲虫を包む黒い膜に触れた瞬間、硝子が擦れ合うような不快な音を鳴らして、志緒の身体は弾かれた。舞威姫の火事場の馬鹿力じみた肉体限界(リミッター)を超えた瞬発的な呪的身体強化(フィジカルエンチャント)が無効化されたのだ。

 

「しまっ―――!」

 

 体勢を崩した志緒の眼前で、甲虫の怪物が起き上がった。巨大な前肢を振り上げて、志緒を踏み潰すべく襲ってくる。志緒は必死で後方に飛び退くが、怪物の動きは予想よりも遥かに速い。攻撃の射程距離(リーチ)が長すぎる。

 

 ゴッ、と鈍い衝撃があった。

 

 尻餅をつかされた志緒が腰を強く打ち、片頬だけひくつかせるよう顔を顰めた。

 そんな彼女の頬に、温かく、赤い―――鮮血がかかった。

 志緒が流した血ではない。志緒は傷を負っていない。

 それは彼女の盾となって、代わりに甲虫の肢に貫かれたものの流血。

 ふてぶてしく笑う無精髭の中年男が、鮮血の塗れて志緒の上に倒れた。

 

「う……あ……」

 

 志緒の喉から声が漏れた。牙城の目は瞑ったままで、背中からは壊れた蛇口がそこにあるかのように赤錆びた色の体液を流し続けている。志緒を庇って、甲虫の攻撃をその身を受けた牙城は、瀕死の重傷を負ったのだ。

 

「違う……違うんだ……私……こんなはずじゃ……」

 

 弱々しく首を振る志緒だが、しかし理解していた。この状況を招いたのは志緒自身だ。そもそも偽者から身を隠して逃亡中だった牙城が、その偽者にやられた――明らかに誘き寄せる生餌(エサ)の志緒を助ける理由はない。あまりに危険(リスク)に見合わない。

 それで、助けに来てくれた牙城を半信半疑で、事態を解決せんと暴走した志緒の独断が、こうして恩人を窮地に追い込んでしまった。

 なのに、牙城は志緒に向かってかすれた声で告げてくる。

 

「逃げ……ろ……志緒……おまえだけでも……!」

 

「っ!?」

 

 言葉にならない絶叫が、志緒の口から漏れ出す。

 助けたい、と本気で思った。この男を命を賭けてでも救いたいと願う。けど、今の志緒にできることはない。『六式降魔弓・改』があれば、いや、あっても、舞威姫の技は通用しないのだと、予感がする。

 ―――そう、諦めきれず、しかし、諦めるしかない状況に追い込まれた志緒は、この一瞬先の未来を視た。

 膨大な魔力の奔流が、重厚な殻を持つ甲虫を吹き飛ばす光景を。

 

「―――<娑伽羅(シャカラ)>!」

 

 その美しい声は、静かな威厳に満ちていた。

 同時に、天災を思わせるほど凄まじい魔力の衝突――未来視された再現が起こる。

 甲虫を攻撃したのは巨大な蛇――この正体は、意思を以て実体化した濃密な魔力の塊、つまり吸血鬼の眷獣だ。

 この異界からの召喚獣を血に宿す金髪碧眼の青年貴族が、神緒田神社の境内に降り立った。

 

「あなた……は……」

 

 青年を見上げて志緒が訊ねるが、しかし吸血鬼の貴族は応じない。

 興味がないのだ。力があろうが、戦う術を持っていないものには。武神具ももたない舞威姫に、戦闘狂の血が昂じることはない。―――それに、“遊び相手(オモチャ)”はまだ壊れてないのだから。

 

「キラ、トビアス―――折角の手掛かりだ。丁重にもてなしてあげようじゃないか」

 

 自らが吹き飛ばした甲虫、それは牙城たちが先ほどまでいた座敷牢に突っ込んで、瓦礫に埋まっている。その奥から怨嗟じみたタールのような粘ついた黒色の声音。

 

「化け物め……だが、我らの望みは、世界を真にあるべき姿に戻すことだ! 人間が頂点に立つ、清浄にして平等な世界にな!」

 

 

 ッッッズズン!!!!!! という大地を揺さぶる大震動が、このわずかな安息を覆さんとする。

 

 

「な……」

 

 思わず、そちらへ目をやった斐川志緒は、そこで目を見開いていた。

 

 座敷牢、そのもの。軽く見積もっても数十tに達する建築物が、恐竜のようにのそりと動き出す。

 『マヨイガ』という妖怪の名が脳裏に過る。

 

「<炎網回廊(ネフイラ・イグニス)>―――!」

「<妖撃の暴王(イルリヒト)>―――!」

 

 溶岩と灼熱。青年貴族の側近ふたりが召喚した眷獣二体は、柱一本残さず全焼させんと『マヨイガ』に迫り―――その壁に届く前に弾かれる。

 協撃の衝撃にもそれは不動に受け切り、その表面はほぼ無傷。焦げ跡ひとつもない。

 この異形な傀儡(ゴーレム)には、『七式突撃降魔機槍』とはまた別原理の魔力無効化する力が備わっているのだろうか。

 

 そして、この眷獣の力も通じない魔力無効化能力で、車両サイズの甲虫より数十倍の重量から繰り出される攻撃力。

 

 絡み付く溶岩の糸を引き千切り、灼熱の魔力の塊である猛禽を撥ね飛ばす。配下の眷獣たちが圧倒されるのを見て、青年貴族は笑む。獰猛に口角を吊り上げて。

 

「やはり、本物の『異境(ノド)』の力を操るか。面白い……」

 

 ―――そして、また新たな乱入者がやってきた。

 大規模な魔力発生が観測された『神縄湖』より、2km以上離れた神緒田神社で、精度の荒い戦車用の魔力センサーが警報を鳴らす尋常ではない魔力濃度―――それを追ってきた。

 長い階段を踏破してジャンプ台とばかりに飛び出した超小型有脚戦車が、境内に着地。

 

『魔力源観測!』

『―――え!? あのひと、もしかして牙城さん!?』

 

 境内の様子を把握し、その志緒に抱きかかえられている人物に(カメラ)が止まってすぐに、真紅の車体の副操縦席ハッチから身を乗り出す華やかな髪形の少女。読者モデル風の派手な顔立ちで、胸にゼッケンを縫い付けた、よくわからないエロい恰好している。きっとあの美少女は、自分とは別世界に住む人種なのだろうと、二転三転と、次々戦況に飛び込み参加されていく情報過多な状況に追いつけず呆然としながら志緒は思った。

 

 そして、有脚戦車の装甲上に無造作に座す少年の吸血鬼が、青年貴族の姿を視認して、顔をしかめる。

 

「この力……やはり『戦王領域』の<蛇遣い>であったか」

 

「これはこれは、イブリスベール=アズィーズ殿下……よりにもよって、『カインの巫女』を引き連れてのご来臨とは。さすがに驚かされました」

 

 

 

「『カインの巫女』だと……まさか……!?」

 

 吸血鬼の王子は、思わず動揺を露わにしてしまう。

 イブリスベールが攻撃的な視線を投げかけたディミトリエ=ヴァトラーがこちらの皮肉気に笑って口にしたのは、あまりに予想外なものであった。

 この油断ならぬ<蛇遣い>が、虚偽を申したのかと疑うほどに。

 だが、ここでイブリスベールを謀る意味がない。

 

 藍羽浅葱らは、『飛竜』に騎乗した『咎神』の騎士に襲われていた。

 『聖殲派』は、咎神カインを奉じる狂信者(テロリスト)だ。その目的は、『聖殲』の再現。すべての魔族を滅ぼし、魔族も魔術も存在しない世界と人間の本来あるべき姿を取り戻す―――

 

 なのに、この地に眠る『鍵』と同等以上に重要な、『聖殲』の要であるこの『咎神(カイン)の巫女』の存在を知らなかったのか?

 

 それは絶対にありえないとは言い切れないが、あまりにお粗末……いや、こうして『咎神』の騎士の面前で、あっさりと暴露してくれたというのに、奴らに動揺はない―――興味をまるで示さない。少なくとも戦闘に巻き込まないようにするという配慮は欠片もない。

 こうして会話している今も座敷牢の“情報”を取り込んだ傀儡を、猛禽と蜘蛛の眷獣にぶつけさせて暴れているのだから。

 

 ならば、彼奴らは藍羽浅葱の存在を重要視していない。死んでもかまわない、もしかすると殺そうとしている。そんな『カインの巫女』を『聖殲派』が襲った理由で、考えられる理由は―――『カインの巫女』が、“もうひとり”いる。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「これは思わぬ発見です」

 

 神社の境内―――それを生気なく、監視していた青年は微笑む。

 舞威姫を生餌にして『三聖』が来るかと協力者――『咎神』の騎士と見張っていたが、思いもよらぬ“大物”が現れた。

 あの“御方”が待ち続けていた『カインの巫女』―――それが、<電子の女帝>藍羽浅葱。

 

「……しかし、これで『闇白奈』を討つ機会は逃しましたか」

 

 今頃、最も策謀を繰り出す『三聖』は、こちらには見つからぬ安全地帯で陣取っているだろう。そして、ここに真祖一歩手前の吸血鬼らが登場してきた。魔族がどちらに着くかはまだ分からないが、どちらにしろあの時逃してしまった時点で『三聖』を斃す機会は失われた。

 

 ならば、これ以上、『聖殲派』に付き合う意義はない。脱獄させた分の対価(はたらき)はもう支払った。

 魔獣発生の異常事態(イレギュラー)に自身にかけられていた監視の目もなくなっており、あとは自由行動で構わないだろう。

 

 興味深い事態が発生しているようなのでそれを観察と―――あれを手に入れるまで、この地から離れるつもりはないが。

 

 

「心ならずとも未だご無音を打つこと、何卒ご容赦を『カインの巫女』よ」

 

 

神縄湖付近 自衛隊拠点

 

 

 ゆるやかな斜面になったコンクリート製のダムの堤防には、自衛隊の地上部隊が非常事態に備えて展開している。『特殊攻魔部隊』が一個小隊、隊員40名近い戦力。

 濃い霧の中で魔獣の群に襲われ、拠点は血と硝煙が充満し機材もテントも荒れ果てていたが、壊滅といえるほどの損害ではないだろう。

 それにすでに救護部隊が到着していた。衛生課の隊員たちが冷え切った地面に横たわる数多くの負傷者に応急処置を施しては、野戦用の救急車で搬送している。

 

「羽波攻魔官、ご無事でしたか」

 

 潰れかけたテントよりこちらに駆け寄ってきたのは、迷彩服姿の女性自衛官だった。事前の作戦会議にも出席した『特殊攻魔部隊』の部隊長である安座真の補佐を務めていた人物だ。

 無表情で唯里“ら”に鋭い目つきを向けて、やや近寄りがたい圧のような雰囲気を発してはいたが、暁緋紗乃の部下という肩書を持つ唯里の前で彼女は形だけでも敬礼を取る。

 

「第一中隊、沖山観影一等特尉であります。安座真三佐の所在が不明の為、代理で連隊の指揮を取っています」

 

「……安座真三佐が行方不明?」

 

「はい、状況から見ても殉職の可能性も―――」

 

 その報告に、唯里は表情を曇らす。

 指揮系統が寸断される濃霧であっては、航空機の支援も期待できない。予想外の魔獣発生で対処するにも戦力が圧倒的に足らず、今でこそ魔獣の暴走は収まったみたいだが、指揮官が消息不明となってしまうのも無理はない。

 

「こちらも暁巫司とは連絡が取れません」

 

「そうでしたか。あまりいい状況とは言えませんね―――それで、羽波攻魔官が背負っているのは、暁凪沙でしょうか?」

 

「いえ―――」

 

 やや弾んだ声で質問を否定する羽波唯里に、沖山は小さく眉を寄せる。その反応に対して、唯里は背負った巫女服姿の少女をゆっくり降ろすと、被っている耳付きの帽子を取った。

 

「彼女は、神緒田神社の巫女、緋沙乃様からの要請で不慣れな私のために今回の秘儀に協力してくれた方です」

 

 銀髪に白肌―――日本人とはかけ離れた異国の美貌をもつ眠り姫。と形容できそうな少女。日本人らしい黒髪の暁凪沙ではない。

 

「きっとあの異常事態で倒れたんだと思います。凪沙さんも探したのですが、私ひとりでは見つからず、この霧のせいか無線機も通じません。なので、すぐ救援をと作戦本部に……わたし、緋沙乃様より護衛を任されてたのに、見失ってしまうなんて……」

 

「そうでしたか。いえ、賢明です。個人の評価やプライドより人命を優先すべき、その判断は間違っていません。早急に部隊を立て直し、我々も暁凪沙の捜索に入ります」

 

 観影は唯里を責めはせず、むしろ判断を称賛する。それから親身に優しげな声音で、

 

「ですので、あとはこちらにおまかせください。ここで一線から退くのは心苦しいかと思われますが、あの中心地にいた羽波攻魔官の損耗もけして少なくないはず。凍傷の恐れもあるでしょう。そちらの要救助者と共に御殿場まで退避してください」

 

「そんな……」

 

「我々自衛隊にも負傷者がいるのです。なので、彼らの護衛を是非、羽波攻魔官にお願いできれば、暁凪沙捜索により人員を割くことができます」

 

 自衛官の弁舌に説得されて、唯里を小さく首を縦に振る

 と、不意に鋭い目つきをより眇めて唯里を見つめ、

 

「それで、『神縄湖』で魔獣の他に何か見ませんでしたか?」

 

「いえ、魔獣以外はなにも……意識が覚めた時には周りが霧で、こちらも何が何だか……」

 

 問答が終わり、羽波唯里らは負傷者を乗せた機材運搬用のカーゴトラックに乗り込んだ。

 

 

神縄湖

 

 

 かつて『天部』と呼ばれた超古代人類と、『咎神(カイン)』と呼ばれた異世界の神が争いを繰り広げた。

 これが神話として語られる争い、『聖殲』だ。

 歴史的な事実としてその学説は認められていないが、一方で、人類が使う魔導技術の多くは、『聖殲』の痕跡を根ざしているのは事実。魔術や呪術、錬金術、それに魔具。

 

 そして、戦争とは当事者のどちらかが死に絶えようとも繰り返されるものだ。

 『天部』は滅びたとされるが、この世界には魔術も魔族も残っている。

 そう、すべての魔族の創造主と言われ、人類に魔術と科学を与えたとされる『咎神』。その遺産がこの世界の法則を支配していると言っても過言ではないだろう。

 

 人間は神様となることはできないが、滅びた神を復活させ、それを“操る”ことはできる。

 

 『神縄湖』の<黒殻>に封印されているとされる『沼の“龍”』―――守護者たる『龍族』が護る遺産―――それを我ら『聖殲派』は何としてでも手に入れる。

 

「―――コード認証、“正統ナル後継者トシテ(49 72657175657374)我ハ遺産ヲ要求スル(72656c6963 6173)”」

 

 援軍と馳せ参じた同士の部隊にも牽制をさせながら、目前の『龍族』に暗号を唱える。

 しかし、『龍族』は大人しくなることはなく、こちらに猛進とぶつかり、包囲するよう陣を作る部隊を蹴散らす。

 だが、上空(あたま)は飛んで駆けつけてきた『飛竜(ワイバーン)』が抑えている。飛び立たんとするところに強襲を仕掛けて、地に落とした。

 

「“グレンダ(4772656e6461)!” “汝ノ使命ヲ果タセ(646f 796f7572)!”」

 

「みみみーーーっ!!!」

 

 苛立つように再度唱えると、それに怒鳴り返すように真っ白な獣龍は咆える。

 話とは違う。だが、何千年と眠り続けてきた遺産だ、多少の支障はきたそう。

 

「っ、これはいったい!?」

 

「なに問題はない。<蜂蛇>の発生と比べれば、これは想定内だ」

 

 銃撃でダメージを負わせようにも、『龍族』。脅威度が低いとされていようが、“情報”の『器』として頑丈に創られているのだろう。

 だが、『咎神』の遺産が抵抗することは織り込み済みだ。そのために、絃神島で幽閉される『聖殲』を知る優れた武神具開発者である『冥狼』を引き入れたのだ。

 

「対龍族隷属魔具――<竜封じの帯(ブルーリボン)>」

 

 気流を自在に操り暴風を巻き起こす力。気流(かぜ)を利用して、時速90km以上――100mを4秒台という驚異的な速度で凍結した湖面を滑走し、『龍族』の背後に回り込む『男子高校生の超能力者』。勢いよく突き出した右腕が、細長く伸びる。

 <栄光の右手>が変化したものは、武器ではなく、織物。

 <殺龍剣(アスカロン)>を取り込んで、その“情報”を入手していた『霊血』。それを材料に、『冥狼』の知恵を借りて術式構成を編んだ<竜封じの帯(ブルーリボン)

 『龍族』を犬のように従える腰帯。『殺龍剣』の“情報”より引き出されたその効力は、拘束対象を洗脳し、模範的たる僕に矯正するというもの。

 首に縄をかけるよう右腕が変化した帯に巻き付かれた『龍族』は、頭を垂れるように人間達の前に平伏した。

 

 

「これで人工島管理公社に対抗する術を手に入れたぞ。残るは、“狐狩り”だ。『棺桶(コフィン)』の『墓守』も屈服させる―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 どおっ! とその時、轟音が落ち、眩い光が視界を圧した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「『どこに潜伏してるかわからないなら、餌で釣ってまとめて潰すのが効率的だ』」

 

 

 山彦となって反響するように耳朶に伝わるそれは穏やかな声音とは裏腹に、強力な魔性を滾らせ、断罪するように告げてきた。

 

 この迂闊に人の立ち入れぬ状況下で、『神縄湖』に急いて行く者―――それ即ち、遺産(エサ)に燻り出されて馬脚を現した国防機関たる自衛隊の内部に潜伏する『聖殲派』と判断できる。

 

「『色々と小細工を弄して獅子王機関を嵌めた気でいたか、『聖殲派』』」

 

 濃霧に囲まれた『神縄湖』にいる者たちは、そのときまで気づけなかった。

 湖の上空、そこに文字通りに雲霞の如く、大量の霧がまた別に沸き立っていることを。

 それもごくごく薄い霧ではない、もはや霧というよりも、柔らかな粘土の如く、確かな実体を保持している。いや、実体と紛うほどの、圧縮された霊体(エーテル)を構築していたものだ。

 

「『甘い、甘いな。所詮は余所者の『聖殲派』が手に入れられる程度の情報、古より神緒田の社に仕える正当な巫司が知らぬはずもあるまい。そも、暁凪沙に類が及ぶやもしれぬ儀式を緋紗乃が認めるものかよ』」

 

 雷。

 あるいは神鳴り。

 夥しい落雷が、凍れる湖面を穿つ。

 まさしく千早ぶる荒御霊の怒り。

 不届きな人間を罰する、常世とこの世を切り分ける神剣。雷霆の瀑布を避け続けることなど不可能。思考の速度で落ちてくる雷など、人に回避できるものか。

 

 そして、何よりもこの局所的な雷撃は、魔力ではなく、“純粋な自然現象として”発生していた。

 

「『さて、“狐狩り”だ。罠にかかった獲物を狩り尽くしに行こうか』」

 

 天空から打ち下ろした万雷の刃は、魔性の冷霧さえも祓った。

 視界が晴れて、雷撃に打ちのめされた騎士たちは見た。この人造ダムの淵に横一列に包囲陣形をとる自衛隊を。

 そして、その先頭に立つ軍人が口から少女の声を洩らしながらこちらを嘲笑っている。

 

「我らは……『三聖』の掌の上であったと……」

 

 獅子王機関三聖、『闇白奈』の<神は女王を護り給う(テオクラティア)>―――

 不可視の霊糸を繋ぎ糸繰り人形(マリオネット)のように人体を無慈悲に一斉操作できるとされるその力は、この現代社会において、直接的な戦闘力よりも、ある意味遥かに危険視されるものだろう。

 暗殺、組織犯罪、情報収集、政治や経済の操作―――まさしく、“見えざる神の手”とも言えよう能力は使い方次第では、国家そのものを操ることすらできよう。個人に変装して煽動するようなものとは比較にならない影響力だ。

 これだけでも日本最強という肩書は誇大表現と呼べるものではないだろう。

 だが、『三聖』とは、『夜の帝国』を統べる三真祖にも警戒されるものたちだ。

 ―――この程度ではない。

 

 『闇白奈』が霊糸で操れるものは、人間の霊体に限ったものではない。

 そう、“土地の霊体”とも言える霊脈にも干渉ができる。黒を白の駒に変えるだけに留まらず、市松模様の白黒の盤上をも己の色に染め上げてしまえるのだ。

 

 災厄と破壊をもたらす邪神<冥き神王(ザザラマギウ)>―――その正体は、実体をもたないエネルギーの塊。凝縮された霊脈のエネルギーであった。

 蓄積されて溜め込まれた霊脈のエネルギーが爆発したことで災厄を引き起こす。それが酷ければ、一夜にして一国の文明を滅ぼす規模の大災厄となろう。

 

 それを防止するために、あるものを、ただあるがままに。

 山のものを山へ、海のものを海へ還すよう。

 その土地の霊脈に凝ったすべてを浄化して、虚空へ還す。それが、『神社』という場所の本来の機能だ。

 

 そして、その機能を用いれば、霊脈のエネルギーを『神』として実体化させる魔術装置として築かれた『シアーテ』の『神殿』と同様に、霊脈の力を制御あるいか活用することができる。

 

「『厄介な霧を掃うに減衰したとはいえ、<勧請>した『神』鳴りを受けて皆倒れておる。反応も許さぬ発生から時間差(タイムラグ)のない攻撃には『閑古詠』の力でも間に合わんのだよ、『人狼』……しかし、『冥狼』がおらんか。ヤツめ、勘付きおったな』」

 

 <勧請>

 それは神社から分霊をもらい、新たな『神』を顕現すること。

 その土地の霊脈に溜め込まれたエネルギーを『分霊』として一部切り取り、“制御された災厄”として喚ぶ<勧請>―――霊脈と繋がれる日本最強の攻魔師と神緒田地区の霊脈の管理監督する神社の巫司が揃えば、短期間にできない芸当ではない。元々、遺産を破壊するために準備を整えてあったのだからなおさら。

 

(『冥狼』……しくじったか……!)

 

 『飛竜』さえも失墜し、この場にいる騎士たちは皆行動不能。

 閉鎖された季節外れのキャンプ場に支援部隊が野営地を陣取っているが、隠れ家に篭っている程度の戦力では、『三聖』の相手にならない。

 なればこそ、折角に捉えた『龍族』を手離してたまるものか―――!

 

 

「『仮面』よ……汝の最奥に眠りし、“巫女”を我に―――」

 

 

回想 神縄湖

 

 

 ―――自衛隊を完全に信用することはできない。

 

 

 羽波唯里は、南宮クロウの純粋な第三者視点からの指摘に、疑念が生まれた。

 むろん、自衛隊のすべてがではない。だが、一部はそうだ。あの堤防前の野営地に着く前、『あの中に『斐川志緒』に化けていた相手と同じ“匂い”がする』と彼は注意を促した。

 軍事活動は常に予算に縛られ、計画には不確定要素がつきもの。異常事態に対応が遅れているのも、魔獣の大発生も想定されていなかったのだろう。

 だとしたら、何が出現すると想定していたのだろうか?

 末端の剣巫には知らされていなくても、自衛隊は最初から知っていたのではないだろうか。

 <黒殻>の中に何が――『龍族』が眠っているのを。

 そして、どこよりも早く出現位置を割り出し、その眠りし『龍族』を自分たちで捕らえるために、横取りされぬよう自衛隊の部下に対魔獣用の強力な武器を装備させていなかった。

 

 この推理が正しいと仮定すれば、そのような自衛隊に多数の犠牲を出させるような指揮が出せる――唯里らを襲ってきた百面相と繋がりがある――のは、やはり部隊長……作戦会議にも出席していた作戦指揮官の安座間三佐のみ。

 

 『神縄湖』より逃亡中。

 羽波唯里の中で疑心が膨らんだそのときを狙っていたかのように、背負っていた少女が口を開いた。

 

 

「『そうだ、羽波唯里。これは自衛隊の内部に潜む『聖殲派』を捕まえることを目的としている』」

 

 

車内

 

 

「『勧進帳の真似事をさせてしまったが、良い仕事だったぞ羽波唯里。暁凪沙さえ退ければ、儂は存分に『聖殲派』を撃つことができる』」

 

 

 そう、中にいる自分たちと運転手を除くすべての自衛隊員の意識を落としたカーゴトラックで褒めるのは、『(くらき)卿』――暁凪沙の肉体に接続されていた『三聖』の残留思念。

 糸が切れたが、それでも途切れた糸が独立した意識を持つことができたのだろう。それが眠る暁凪沙の中にとどまっていた。

 

「『暁凪沙……もっと詳細に言うなれば、『十二番目(アヴローラ)』を憑依させている暁凪沙は、<黒殻>の内に潜みし『聖殲』の遺産を覚醒するための生贄の条件を満たした貴重な人材であった』」

 

 <黒殻>に眠りし『龍族』は、『咎神』が残した遺産の守護獣。魔族でも魔獣でもなく、いわばシステムの一部にすぎないもの。ある特定の条件を満たしたときに目覚めるように定められたシステム―――それが、暁凪沙を生贄に使おうとした真の理由。

 彼女だけが持っている知識――記憶、『聖殲』の遺産を目覚めさせる鍵が、同じ『聖殲』の遺産――<第四真祖>だったからだ。

 

「『だからこそ、『聖殲派』は暁凪沙の身柄を狙っていた。『神縄湖』にある遺産が『聖殲』の“鍵”であることを知っていたからな。ほれ、宿泊研修が本土行きを取りやめになったのも<賢者の霊血>だけではない、暁凪沙を狙う『人狼』らの策謀が関わってるのが明らかとなったからよ。

 ―――早急にこちらから手を打たなければ、狂信者どもがどのような手段を取るかわからん。故に、“釣り”をすることにした』」

 

 『暁凪沙』が、遺産の鍵となるその情報を知る黒幕。

 <第四真祖>暁古城の肉親の情報を知り、この獅子王機関を動かせるほどの立場の人物は、政府内部にもそう多くない。そして、獅子王機関だけでなく自衛隊にも関与するその黒幕とを繋ぐ仲介者―――すなわち、安座真三佐の身柄を拘束すればその人物を探し当てるのは、そう難しい事ではないだろう。

 

「『無論、それは黒幕も危険(リスク)を承知していよう。しかし、『沼の龍』は『聖殲派』が是か非でも手に入れなければならない遺産だ。たとえ同士の大半を犠牲にしようが、帳尻が合うほどの、な』」

 

 だから、『暁凪沙』と『沼の龍』はこちらの内に抱えておかなければならなかった。

 

「『もう一度言う。よくやった、羽波唯里。『聖殲派』の包囲から見事に巫女と遺産を連れ出してくれたのだからな』」

 

「は、はい……!」

 

 老成した笑みを見せる眠り姫。

 今は、その帽子に仕込まれていた『影武者』の術式で白に似た銀髪の少女に変化しているせいか、暁凪沙のままよりも本体の『闇白奈』の容姿に似ている。

 して、剣巫の唯里の貢献を湛えた『三聖』は、そのまま視線を横滑りさせて、呪術迷彩を解いた少年に合わせる。

 

「『協力を感謝しよう、<黒妖犬>。縁堂縁より聞いてた通り、有能な駒のようだな』」

 

「感謝はいらない。オマエのために動いてるわけじゃないからな。だから、凪沙ちゃんから出てけ」

 

 その鋭く尖った印象を受ける声音に滲ませたのは、不快感か。敵意と言い換えてもいいようなもの。少年からそんな考えられないような態度を察した唯里はそれを諌めようとするも、彼の視線は“暁凪沙の肉体を使う『三聖』”に向けられており、『三聖』もその純粋な眼差しを心地いいかのように微笑を深めている。

 

「『くく、それほどに心配か。膨らみきらぬ蕾、熟れる前の果実のような瑞々しさはこたえられぬものがある。しかし、緋紗乃が大事に想う孫娘を害する気はないよ。これも安全のための措置だ』」

 

 言いながら、抱くように腕を抱いて、暁凪沙の指は暁凪沙の肢体を太腿から肩までなぞりながら、妖し気な目配せを送る。

 

「『儂は汝に興味があったのだ。『宴』のときに汝の主にさんざんと自慢話をされてな。一目拝んでみたいと願っておったのよ。この状況ではなんだが、少し儂と話をせんか?』」

 

「オマエと話をすることは、オレにはない」

 

 刺々しい対応に、ついに唯里は糺す。

 采配を振るう筆頭である『三聖』、彼女の意思ひとつで獅子王機関が、ひいては日本の攻魔機関が敵に回ることもありうるのだ。

 

「南宮君! この方は、獅子王機関の『三聖』で―――」

「こいつが姫柊や煌坂、羽波たちの偉い奴というのはちゃんと知ってる―――だけど、こいつがアヴローラとグレンダを殺そうと考えたこともわかってる」

 

「え……」

 

 固まってしまう唯里。戸惑う彼女を置いてけぼりにして、両者の話は続く。

 

「さっきオマエ、『暁凪沙を退ければ』と言ったな。それは、“グレンダは置いてけぼりにしても良かった”のか」

 

「『ほう……』」

 

「オマエが凪沙ちゃんを護ろうとしてるのはわかった。でも、話を聞いてるとそれ以外はどうでもいいって感じだな。凪沙ちゃんが守ろうとしているアヴローラが消えても、グレンダもついでに消しても、オマエには好都合なのか」

 

 まず、作戦会議で語られたこの儀式の趣旨は、『『聖殲』の遺産の封印』と『かつて<第四真祖>だった存在を殺す』ことだった。

 その裏に『国防機関に潜伏する『聖殲派』の発見及び捕縛』があったのだとしても、『『神縄湖』の脅威を取り除く』のはけして虚偽(ダミー)ではないのだ。

 そして、それを為すのに最も手っ取り早いのは、脅威を失くす―――(ころ)すことだ。

 

「『存外に賢しいな<黒妖犬>。だが、それは駒としては要らぬものだぞ』」

 

「オレは、ご主人の眷獣(サーヴァント)だ。オマエの駒じゃない」

 

「『しかし、『十二番目』は憑依させていれば、暁凪沙の寿命を削る、寄生虫のように害悪だ。それを汝は許容するのか?』」

 

「許容するかを決めるのは、オレじゃない。凪沙ちゃんがアヴローラを許容した。二人の問題だ。それを余所者(オレタチ)が口出しすべきじゃない」

 

「『『沼の龍(グレンダ)』は、『聖殲派』の鍵だ。潜伏する彼奴らには万の犠牲を払ってでも欲しいものだろうな。騒乱の火種に違いない。ならば、それは摘んでやるのが賢明ではないか?』」

 

「グレンダを守ると約束した。だから、オレはグレンダの味方でいる」

 

「『その保護欲が、『咎神』から設定された意思決定(プログラミング)されたものだとしてもか?』」

 

 『龍族』と共生する<蜂蛇>。それが即座に退散を悟るべき侵略者(きし)を前に、死に物狂いで『沼の龍』との接触を阻んだ。

 それはどう考えても、まったく生存本能の理から外れている。歪まされている。

 

「だ、おにぃ―――」

 

 ―――そのことを理解しながら、『龍族』の少女を抱き寄せた。

 

「お前の語る小難しい話はどうでもいい。はっきりいって馬の耳に念仏だ。誰が何と言おうと、グレンダは世界(ここ)に生まれた。なら現在(いま)を生きることは当然の権利だ。その生命(いのち)の使い道はそいつが決めるものだ」

 

 ぁ……と唯里は吐息のような掠れた声を出していた。

 グレンダという少女の正体を未だ見ていない、『沼の龍』を知らない彼女はその話に割り込むことはできない。

 ただ、獅子王機関に所属するものならば、『三聖』に賛同するべき立ち位置だというのに、視線はいつのまにか曲がらない少年の背中に向けられていた。

 

「オレはアヴローラを庇う凪沙ちゃんの意思を尊重することも、グレンダを守ることも正しいと思ってる。だから、自分で決めた選択が間違いでも、オレは後悔したりはしないな」

 

 きっと。

 これが少年から“揺らがない”と感じさせる大本なのだと、唯里は思い知らされた。

 

「『……儂は他の『三聖』が何と言おうと、『聖殲』の脅威を除くためなら手段を選ばぬ』」

 

「そうか。オレもオマエが何と言おうと考えを曲げるつもりはない」

 

「『汝は、百代目にしてようやく完了した、『聖殲』の支配を終わらすための殺神兵器。儂は神権政治を体現するものなら、汝は百王思想の体現者よ。その使命は、儂の思想に添うものではないか?』」

 

「だから、オレとオマエは、平行線になってるんだろ」

 

 果たさんとする目的とするものが同じであってもそれは境界線上にあるただ一点。目的を除き、両者の意見に接点はなく、前提を妥協する気はないならば、境界線上まで平行線は交わることはない。

 

「『くっ』」

 

 それを言われ、『闇』の意思は、笑った。

 嘲笑でも侮蔑でもなく。純粋な驚きと愉快さからくる頬笑。

 

「『ぷくくっ、あははははははははははははははははははは!!』」

 

 指揮する者と従う者。

 『宴』の采配者と『宴』の異分子。

 許しを請うてしまう器と非難を受け入れる器。

 『魔族に似て真なる魔族に非ざる存在』と『魔族と人間のどちらつかずの混血』は、同族のようであっても同胞というわけではない。

 

「『南宮那月に出会う前の汝と『白奈』を会わせてみたかったな。残念だ』」

 

「『(オマエ)』とは話すことはない。―――だから、いい加減に凪沙ちゃんから出ろ」

 

 黒妖犬がそっと暁凪沙の頬に手を添えて、髪についていた糸屑を摘まむように―――彼女の耳の穴から、白色の細い髪を抜き取った。

 古来、女性の長髪には魔力が宿ると言われるが、その長い白髪はそよぐ風もない車内でにょろにょろと蠢く。

 『闇白奈』の力の一端。この本体から途切れた霊糸が、暁凪沙に表出した残留思念の正体。

 クロウは、その仄かに香る“匂い”より、“もうひとりの意思”を嗅ぎ取って、糸の切れた糸繰り人形のように再び脱力して頽れた眠り姫(なぎさ)を受け止める。

 

「ごめんなさい、って謝るな……結局、目的は同じで、“お前”が凪沙ちゃんを助けようとしたことには変わりない。ただそれが無茶だから、とっととバトンタッチしてやると言ってやったつもりなのだ」

 

 人に謝られるのにあまり慣れてない少年は、これまでよりもやりにくそうにしかめっ面を作った。

 

 

「ああ、お前はきっと、……に器にされたオレなんだろうな」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「私が霊視()てもまったくわからなかったのに、よく仕込まれていた霊糸に気づけましたね、南宮君」

 

霊視()で見えなくても、“匂い”ですぐわかる。それに、オレも似たようなことを霧葉にされそうになったことがある。引っ越してきてすぐ髪の毛入りお菓子を渡されたぞ」

 

「え、そうなの……!?」

 

「まあ、こういう(位置探査と保険の式神)のは、姫柊も古城君にやってるしな」

 

「え゛、雪菜(ユッキー)、そんなことしてるの……!?!?」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――来たな」

「きた……」

 

 真っ先に感知したのは、黒妖犬。続いたのは、グレンダ。彼女が浮かべた険しい表情に唯里は少し驚き、黒妖犬がすでに行動に移っていた。

 カーゴトラックの幌を破り、車体の天井へと跳ぶ。頭上に濃霧に覆われた空が広がる。同時に、冷え切った風邪が舞い込んで、唯里たちの髪を掻き乱した。

 騒音が耳朶を打つ。

 そして、唯里も気づく。この地上から10m足らずの低空を、何かが飛んでいた。その姿が徐々に大きくなる。まっすぐこちらに向かっているのだ。

 

「あれは、『飛竜(ワイバーン)』!?」

 

 目を見開く。接近する飛行物体のフォルム――戦闘機のようなシルエットをした『飛竜』。その周囲を取り巻いている異様な魔力の流れに気づき、吐き気を抑えるかのように唯里は鼻と口元に手を当てていた。

 言いようの出来ない、この気持ち悪い感覚……

 蠢く毒虫の群を見せられたかのような、生理的な不快感が込み上げる。あれは、普通の魔獣とは、異なるものだ。

 そして、その背中には銀黒色のローブのような奇怪な衣装に身を包んだ人影。ローブの下は陰がかかっていてよく見えないが、金属製の杖を握ったその姿は、お伽噺に出てくる魔法使いのよう―――

 こちらが相手の姿を確認したように、向こうも破られた幌の穴から彼女を見つけた。

 

『見ツケタ……グレンダ』

 

 くぐもった声。機械で変調した女性の声。咄嗟に唯里が腕に抱いたグレンダがフードの奥から刺さる視線にビクッと震えた。それは当然の事。『飛竜』を従えて襲い掛かろうとする女が、グレンダの味方であるとは限らない―――だが、相手はまず真っ先に反応して飛び出した存在への対応が遅れた。

 

「グレンダに、近づけさせない」

 

 走行中のカーゴトラックの幌屋根の上に、足指で車体を跨ぐロールケージを掴んで直立していた黒妖犬。

 その左腕が霞む。薄く鋭利な刃を作りて放つ霊弓術。木の葉のように軽やかに、かつ機銃の如く激しく、滑空して迫ろうとする『飛竜』を撃つ。

 手裏剣の刃はすっと滑らかに、竜鱗に突き刺さった。恐るべき切れ味だが、本当に恐ろしいのは、その鋭利さではない。

 

 この『飛竜』を覆っている“闇色の暗幕(カーテン)”――『異境』を通り抜けることだ。

 

『邪魔スルカ、黒妖犬!』

 

 超低空のまま速度を上げて、『飛竜』がカーゴトラックの上を通過。吹き込む風を乱して、車を追い越し、前方――進行方向に出た。唯里が慌てて運転席へと通じる窓を覗いた時には既に何十mも先行していた。

 

「あ、あれっ?」

 

 てっきり攻撃するかと思ったが、『飛竜』は霊弓術の牽制に接近を中途して、そのまま真上を通過しただけだった。

 そのまま、『飛竜』は更に先行。そして、濃霧の向こうへ姿を消した―――

 

「車を止めろ! 来るぞ!」

 

 天井からの声に、パニックになっていた運転手の二曹がブレーキを踏む。その反動――ではなくて、自ら黒妖犬は跳んで、車両の前面に着地。

 

 ダンッ、

 と背中にバンパーを受ける体勢で、急制動に貢献。背後からの強烈な重圧をねじ伏せるように、大地を踏みしめ、また車全体に生体障壁を覆わせる。

 

 かつ。

 

 目前に待ち構えていた怪物、全高3、4mの骸骨に似た人型の巨大機械人形(オートマタ)の両腕を、真っ向から受け止めた。うおお、と雄叫びをあげる。そして、脇に放り投げた。乗用車を改造したかのような非自然な生物のオブジュ――傀儡(ゴーレム)が冗談のように転がっていくのを見送り、トラックはやっと止まった。

 

 脱帽、だ。

 

 車両と怪物の間に自ら飛び込んで挟まれ、ブレーキとクッションの二役をこなした。

 『飛竜』を見たときよりもとんでもないものを目撃したかのように、唯里の表情が強張る。しかし呆けている場合ではない。

 

「逃げて! 今のうちに逃げてください!」

 

 怯えるグレンダと眠る凪沙を庇いながら唯里は、荷台にいる自衛隊員たちに叫んだ。

 『特殊攻魔連隊』の隊員とはいえ、今の彼らは負傷者だ。転ばされただけで壊されていない怪物は起き上がろうとしており、それに『飛竜』と襲撃者はまだ諦めていない、戻ってくるはずだ。だから、此処が戦場となる前に彼らを避難させるのが、獅子王機関の剣巫としての役目である。『六式攻魔剣・改』は奪われた唯里だが、式神のための呪符は持っていた。唯里は犬型の式神を展開して、負傷者たちの護衛をさせる。

 

 そして、傀儡(ゴーレム)には、足元の地面を罅割れさせんばかりに踏み砕き、突っ込む黒妖犬。

 鉄杭を打ち下ろすような踏み込みに続き、しなやかに体を捻りながら、力を螺旋状に拳へ収斂させる。

 

「っらああぁぁあ!」

 

 わずか一撃。

 突き入れた左拳に漆黒に燃え盛る焔状の獣気が唸り―――怪物の剥き出しのまま脈動する機械めいた質感の内臓に、大きな風穴を開けた。『ひとつッ!』と拳を引き抜き下がった時には、傀儡は酸化と風化が同時に起きたかのように崩れ落ち、完全に消えていた。

 唯里は、また言葉を失った。

 その動作が剣巫の『八雷神法』の一手である<若雷>と重なるものがあるが、魔族を相手ならとにかく、怪獣を一撃必殺とはいかない。圧倒されるが、なんだかこのメチャクチャ具合に慣れてきたのか、頼もしさを覚え始めたのだが、これは末期か。

 

「ん。羽波は、式神を使えるのか?」

 

「え、あ、はい。苦手ですけど……」

 

「すごいな。オレ、師家様から式神の才能は欠片もないと匙を投げられたのだ」

 

 怪物を斃した黒妖犬から、純粋に称賛する眼差しを向けられて、唯里は何と言っていいかわからない感情を覚える。

 でも、それは悪いものではなく、身悶えるようなくすぐったいもの。『志緒ちゃんの方が私よりずっと式神の扱いが上手だよ』とは、どうにも言えず、この年下の少年にお姉さん風を吹かしたい気に駆られる。

 

「じゃあ、式神を空にばばーって、やってくれ」

 

 と彼が空を指差し―――その方向より、『飛竜』が現れる。

 滑空して、次こそは撃破せんと咆哮を上げながら、『飛竜』は迫ってきた。この空の怪物を、唯里の式神で打ち落とすことなどあまりに無理だが―――彼の無茶に衝き動かされるように、式を打った。

 剣巫の霊視が最適解を導き出した、というよりは、『右腕の代わりをお願いする』と言った彼の期待に応えたいがため。

 そう、なんとなくだがきっとこれだ、と唯里は彼の意図がわかったのだ。

 

「<(ゆらぎ)>よ!」

 

 ありったけの呪符を『飛竜』に殺到させた。舞威姫の相方、斐川志緒より教えたもらったコツを意識する。ばら撒かれた呪符はたちまち白鳥となって、空の怪物へ突っ込ませる。

 

「“カラス”より大きくても、空の『獣王』ほどじゃないな」

 

 その天に翔ぶ即興の階段を駆け昇る黒妖犬。空を自在に飛ぶ竜を―――それを上回る速さで式神の白鳥を足場に飛び跳ねて―――獲物に喰らいつく。

 

『サセルカ!』

 

 噴き出す獣気を拳に乗せて、砲弾のように拳を突き出す。だが、その前に『飛竜』の全身を漆黒のオーロラが包み込む。

 空の怪物を包み込んだ黒いオーロラの源は、黒銀の魔法使いが纏うローブだ。ローブの裾から洩れ出した闇が、『飛竜』の肉体を覆い尽くし、異能の力など最初から存在しない領域に世界を塗り替え―――

 

 しかし、その漆黒の暗幕を黒妖犬は通り抜けた。

 

 最後の白鳥の式神を蹴り、断熱圧縮が生じるような一撃が『飛竜』に直撃し、墜落した衝撃でクレーターを作る。大山鳴動を起こした剛拳、それにもまた漆黒の焔を纏っていた。

 

 

「<迦具土(かぐ)>ッ!」

 

 

 産まれたせいで神を焼き殺し、そして神に斬り殺された火産霊の名を冠する『神殺し』の業。

 昂る獣気に宿らす『混血』の“壊毒”――その希釈された芳香を一手に付加させる、いわば『毒手』。内部で花火とばかりに衝撃変換(ばくはつ)させ、勢いよく臓腑に拡散された迦具(かぐ)(香)わしい“匂い”は、その“情報”を破壊した。

 『飛竜』を灰も残さずに破壊し、同時、“壊毒”に浸透された手袋も跡形もなく消えて、その下に覆われた皮膚にも侵食が及ぶ。自喰する性質に見境はなく、己の手にも咬みつかんとする危険な毒。この二打を放っただけで手袋は自壊し、左手の表皮に焦げ痕のような黒い染みが滲む―――しかし、この諸刃の剣が、この生物の機能を持ちながら生物ではない構成体を壊すのに最適解だと直感的に判断した。

 

「どうなってるっ!? 『異境(ノド)』の侵食が通用しないなんて!」

 

 撃墜した『飛竜』の背中から飛び降り、上手く着地ができずに転げる黒銀の魔法使い。そのフードが捲れ、変声期が外れ、露わとなったその面相と声音は先ほど羽波唯里が見て、聞いて、会話した者―――

 

「沖山一尉!? やはり、あなたも―――!?」

 

 唯里は思わず絶叫していた。

 魔法使い風のローブの下に迷彩服を着た女性は、負傷者たちを後方に送るよう指示していた沖山観影一等特尉。『聖殲派』最有力の容疑者である安座真部隊指揮官、その補佐である彼女も狂信者(テロリスト)の一員だった。

 

「っ、グレンダ―――!」

 

 彼女はショックを受けている唯里を視ていない。唯里が庇うグレンダに視線は注がれ、それを阻む黒妖犬。

 

「させない」

 

「この、混ざりモノめ!」

 

 沖山観影は黒銀色に輝く(ワンド)を手の中で回しながら、クロウを睨む。

 この杖の魔具は、複製品(レプリカ)損傷品(ジャンク)ではないが、騎槍(ランス)模造(コピー)したその性能は、格落ちしている。

 

傀儡(ゴーレム)に『飛竜(ワイバーン)』を壊し、虚無のヴェールを破る貴様は、生かしてはおけない―――」

 

 宣告した瞬間、沖山観影の姿が唯里の視界の中で霞んだ。『異境』の侵食に覆われた彼女を、剣巫の霊視で見通せなくなったのだ。

 

「私は『特殊攻魔連隊』です。貴様のような怪物を屠るために白兵戦技術を磨いてきました!」

 

 凄まじい速度の跳躍。そして鬼気迫る勢いで刺突。杖の先端に装着された銃剣からの絶え間のない連続攻撃を、黒妖犬は半歩も退かず、逆に踏み込みながら躱した。

 生じた真空で目元の皮膚が裂ける。しかしまばたきもせず、クロウは熊手を返す。

 見切りというより、何と言う思い切り。見てる唯里は冷や冷やする。

 

「はぁ!」

 

 しかし、この杖は長槍と比べれば射程(リーチ)に劣るが、その分小回りが利く。沖山観影は銃剣を引き、相手の腕を叩き折ろうとした。それもクロウはきわどく受けては斜めに力を逃がし、その受け流しさえも一連の動作に組み込まれていたかのような痛烈なカウンターを見舞いする。

 

「ほい」

「っ、!?」

 

 銃剣術の優位性を最大限に活かすために、そして剣巫からの遠距離支援をさせないためにも超至近距離での打撃戦を挑んだが、それは徒手空拳の土俵でもあるのだ。そう、体格や腕力が剣巫に勝るものなのだとしても、それを黒妖犬に挑むのは無謀に過ぎる。

 杖に受けた衝撃が伝わり、手が痺れる。

 畳み掛けてくるクロウに、やむを得ず間合いをリセット。銃弾を撃ちながら手榴弾を放り、どうにか距離を取る。

 沖山観影は密かに呼吸を整えながら、クロウを睨みつけた。

 

(何て奴だ……! 武器も何もない原始的な蛮族に……人間である私が、研鑽した白兵技術と積んできた実戦経験が通用しないというのか……!)

 

 歯噛みする。これが対魔族の白兵術に優れた剣巫であっても、自身の銃剣術は負けない。そう、剣で思い通りにできない相手など、過去には師しかいなかった。

 

「やるな、オマエ」

 

 対し、クロウは暢気に称賛する。余裕ぶった態度は相手の勘に障ったみたいだが、しかし唯里は彼も楽はしていないことに気づいてる。

 こうして第三者の位置から見てわかる。幾度かの好機を逃している。やはり右腕はまだ戦闘についていけるほどの動きはできないのだろう。こめかみに光っているのは、まぎれもなく冷や汗であり、余裕はそれほどないのだ。

 彼も相手を脅威に思っている。―――そのくせに、少しも怯まないのだ。

 二度対峙して感じたことだが、黒妖犬には怯みというものがない。ひとつ間違えれば致命傷となるようなことを平気でやる。実際片腕を斬り飛ばされても僅かの動揺もなかった。その思い切りが、実戦では強力な武器となる。

 実戦では大胆に動ける者が生き、畏縮した者は殺される。技術も経験もその“大胆さ”を引き出すためのものではないか、と唯里は最も足りないところを痛感させられる。

 そして今、より大胆に動けているのは黒妖犬であった。

 精神的優位が欲しい。沖山観影は嘲笑を浮かべ、見下すように言った。

 

「右腕が使えないのはわかっています。片腕が動かせないそのハンデ。それを見破られて私と戦えるとお思いですか」

 

「っ!?」

 

 その言葉に反応したのは、唯里。右腕を怪我させた彼女は負い目があり、そこを突かれるのは顔に出てしまう。―――して、その当人は……

 

 

「そうか。じゃあ、左手を使わなかったら、もっと近づけるか?」

 

 

 あっけからんと言い放つと、左半身で、両腕をだらりとさげてきたのだ。

 なんて無防備だ。挑発だとすれば、お子様じみてる。実戦的な行動とは思えない。だが今、沖山観影の直感が、かつてない危険を告げていた。手負いの獣とはまた違う趣の重圧(プレッシャー)

 あるいはその戦慄が、沖山観影を衝き動かした。

 

「愚か者め! 護りを捨てるとは奢りましたね! 滅多刺しにしてあげます!」

 

 裂帛の気合いと共に、沖山観影は杖を突き出した。その先端の銃剣に、手、足、顔面の肉が次々に裂ける。直撃したのかと思うほど、クロウの回避は小さかった。攻撃に必要な腱だけつながっていればいい、という狂気じみた割り切りがなせる業だ。

 沖山観影が杖を振りかぶり、もう黒妖犬に肉薄している。ただし、振り下ろすことはできない。相手の間合いに入ろうとしたそのとき、不意に黒妖犬が足を踏み換え、左前の構えを反転させた。ついに怖れて受けに回ったかと思いきや、その足が内側から沖山観影の前足に絡みつく。そこから鮮やかな足捌きを引っ掻けて、まんまと体勢が崩された。

 

「別に右腕を使わないとは言ってない―――」

 

 黒妖犬の双眸から、壮絶な獣気が迸る。この瞬間、死の予感は飽和した。沖山観影程の剣達者が金縛りに遭ったように感じ、時間の流れが遅くなって、光が閃いた。

 

 手刀が転移してきた―――ように見えた。実際はこれまで動かさず、だらりと脱力した“右腕から”無拍子(ノーモーション)で振り払ったわけだが、それは沖山観影が知る、如何なる斬法よりも速かった。

 静から刹那に動に切り替わる抜刀術のようにその右手は見えなかった。杖の柄を捉えており、銃剣術に長じた沖山観影は終わったことを直感した。

 

「……っ!」

 

 紫電一閃、杖を真っ二つに。居合抜きの如き手刀は、“相手の得物だけを”割り切る。

 この杖こそが、沖山観影に与えられた魔具。それがなければ、彼女に魔族を屠るだけの力はない。

 そして、虚無の暗幕がなければ―――未来視は通用する。

 

 

 

「っ、頼んだ羽波!」

 

 完治もせずに無理矢理に振り切ったせいか、右腕の肩関節を押さえるクロウ。

 未だ1、2時間と経っていないはずの交流だが、その無茶の理由は唯里にわかった。きっと今の彼の力では、沖山観影を“壊さずに”行動不能に仕留める自信がなかったのだ。

 

「はい、南宮君―――」

 

 別に右腕を使わないとは言ってない―――そして、今の黒妖犬の右腕はひとつじゃない。

 

「<(ゆらぎ)>よ」

 

 杖の魔具を失った沖山観影に迫る唯里。武器を失くした彼女は、唯里の突撃に反撃しようとするが、それは剣巫の霊視で先読みして躱す。そして、ほぼゼロ距離の密着状態に持ち込んでからの打撃技。剣巫の基本攻撃だ。本来は、対魔族用の凶悪な内臓破裂技だが、素手で放つ密着攻撃だけに、手加減をしやすいというメリットもある。

 

「か、はっ―――」

 

 沖山観影は、信じられないという表情で唯里の顔を凝視したまま、ゆっくりと倒れた。

 きっと彼女は羽波唯里にやられたことを最後まで“まさか”と認めることはできなかっただろう。

 単純な実戦の経験だけなら、沖山観影は今回が大規模作戦初投入となる唯里よりも遥かに上回っていることだろう。だが、それだけだ。

 唯里はひとりではない。彼女を鍛えた高神の社と、共にあった親友、そして今日出会った彼―――そのすべてに支えられていた。それは組織と仲間を裏切り、テロリストとなった沖山観影には失った、捨て去った力だ。

 『聖殲派』の魔具は、他人の“情報”を奪い、使い捨てるというもの。そうやって、自分たち以外の存在すべてを敵だと可能性を切り捨てたときから、沖山観影の実戦経験は消耗品となり、自らの成長の機会を得られなくなった。

 

 初めての実戦で得るものすべてを糧にできる中で、さらなる成長の機会を得た羽波唯里は、この瞬間、歴戦の強者を上回る。

 

「やった、の……」

 

 実感の湧かない勝利に、おぼろげな意識で呟く唯里。

 

 

 

 

 

 異変が起きたのはその直後だった。

 

「おにぃ―――っ!?」

 

 グレンダの叫びに、夢見心地が抜けた唯里は見た。

 

 

「ぐ……ああああああああああっ……!」

 

 

 喉から血を吐くような絶叫を迸らせて、頼もしく、真っ直ぐな少年が倒れ、ぶしゅっ、と背中から鮮血が飛んだ。

 真っ赤に染まる光景を。

 

 

神縄湖

 

 

 『咎神』が残した魔具、その中でも複製品(レプリカ)損傷品(ジャンク)ではない稀少な『仮面(ペルソナ)』。

 顔を覆って隠す仮面には呪術的な意味合いがある。装着する仮面により、己以外の存在へと人格が変化をさせ、霊が宿らすと言われている。

 

 魔族特区の中でさえも稀少な<音響過適応>の力、

 地獄で仲間と半身を犠牲に得た<死都帰り>の力、

 血族で淘汰された長に継がれる<静寂破り>の力、

 

 それらの“情報”を基に化けた人格の力を振るうことができる。

 “情報”を取り込めば取り込むほど、己を切り捨てていくその代償に、自分は“人間”の力を手に入れてきた。

 なれるのは人間だけと決めていた。人間以外になるものかと禁じていた。そうして、祈るようにこの『仮面』に人間の力を結集にして結晶化させた力を取り込ませ続けてきた。

 

 不条理なまでに破格で、たやすく世界をゆがめる魔族の能力。

 たった一人の吸血鬼の気まぐれで、巨大な都市を壊滅させる―――そんな世界は正しくあるはずがなく、歪んでいるものだ。

 それに対抗する術を獲得するために、誰であったのか名前さえも忘れるほど己を殺して、『仮面』をつけてきたのだ。

 そう、世界を本来あるべき姿に戻す―――そのためならば、いっそこの歪んでる世界すべてを“更地”に変えてしまってもかまわないのではないか

 

 『仮面』の一番奥に眠っていた“情報”。

 この名も無き己が唯一捧げられるこの我が身を贄と捧げ、『聖殲派』の切り札―――<女教皇>を覚醒させよう。

 

 

 

「『仮面』よ……汝の最奥に眠りし、“巫女”をここに―――」

 

 

 

 その顔面(かめん)から滂沱の涙を流すかのように漆黒の暗幕(カーテン)が広がり―――現れ(ばけ)たは、醜い娘だった。

 血の気を失くした肌は死体のように青白く、布を巻きつけたような粗末なローブで申し訳程度に隠している。その隙間から全身の至る所に、縫い目のような深い傷痕が刻まれているのが見えた。まるで引き裂かれた肉体を、無理矢理に継ぎ合わせたような無残な姿だ。

 だが、それでも娘は美しかった。

 顔立ちは端整だ。すらりとした体つきは見事な均整を保ち、艶やかな黒髪を流す。

 そして、その魂も肉体と同じ、継ぎ接ぎされた“無念”の集合体である。

 

「『なに……』」

 

 『闇白奈』の失態は、最初に一撃で何もさせぬ内に『聖滅派』を塵も残さず抹消しておくべきであったこと。

 人命までは奪わぬ、と手心を加えて、<勧請>の威力調整などすべきではなかった。

 

「『―――』」

 

 虚ろな目が、開かれる。

 

「『d12はっ34fら3234じゃgr42はじぇ42へけ32あえお―――!』」

 

 それは、もはや言葉ではない。

 連鎖する叫びだ。

 連鎖する悲劇だ。

 『神縄湖』を席巻して、まるでドミノ倒しのように狂気が伝染していく。『仮面』をつけたものだけでなく、倒れる騎士たち、そして<神は女王を護り給う(テオクラティア)>の糸繰り人形の兵隊の誰もが、次々に言葉ならぬ叫びをぶちまけた。

 一滴の墨で、広大な海が隈なく黒くなっていくかのようだった。

 

 何、が……!?

 

 包囲部隊に霊糸を繋ぎ指揮していた闇白奈は遠い安全地帯にて巫女服の胸を押さえたまま、膝をついた。

 狂気の伝染は、『三聖』の胸も叩いたのだ。

 猛烈な心臓の鼓動(ビート)

 強烈な衝動は、『闇白奈』の身体すら蝕んで、おぞましい嘆きを口にさせようと内側から迫ってくる。

 

 ………っ!

 

 動けない。

 神経系だけではなく、『(くらき)』の意思までもその衝動は支配しようとする。

 がくがくと体が震える。肺から喉が焼けるように熱くて、横隔膜を開閉する。『叫べ』と強制されているのがわかった。自分もあの嘆きに続かねばならないのだと、異常な強迫観念が『三聖』を襲っていた。

 

「『122くぁひえん1y38へんか97uふあやいく435ioえちあ3eえろか63どふぁ84―――!』」

 

 止め処なく増していく叫びに合わせて、神緒田地区が震動する。

 霊脈にまでもそれは訴えてしまえるものなのか。

 叫びをあげる何人かの喉が裂け、血を吐いたのだ。それでも訴えを止めることはかなわず、大地の震えはますます大きくなっていく。

 次々と人が人でなくなっていく。

 

 騎士たちが変貌する。

 魔族に似て真なる魔族ではない何かへと。

 

 ここは湖面が凍った場所。

 使える兵器の“情報”が何もない『咎神』の騎士には、死地であるはずだった。

 

 

「『この世界に、永劫の呪いの烙印を―――!』」

 

 

 『もうひとりの巫女(シュビラ)』の周りに屹立する奇怪な影。

 ヒトガタの影であった。

 元はヒトガタなのが想像できるのに、むしろ巨大な蟻に酷似した姿であった。黒銀にぎらつく外骨格から異様な眼球を幾十となく露出させ、その半分以上の数がギョロリと頭を抱えて蹲っている『三聖』が操る包囲兵隊へと向けられる。

 

 痺れて動けない『聖殲派』の騎士たちに―――つい先ほど惨殺した<蜂蛇>の肉片―――その“情報”を喰らわせた。

 

 その場にいた、おびき出された自衛隊内部の『聖殲派』が、数十人、すべてがべったりとした黒銀―――闇に呑まれた鋼の色に塗り潰されていた。

 

 

「『永劫の悲嘆と怨嗟に染め上げてみせよう。忌まわしき『咎神』の巫女、そして“情報”の器よ。この近くにいるのはわかっている。汝らに我が血の呪い、思い知らさん!』」

 

 

 『黒髪の少女』の号令で、蟻の軍勢(レギオン)となり果てた『咎神』の騎士が進軍する。もはやその意識は『三聖』の指揮する『特殊攻魔連隊』には向けられていなかった。

 『特殊攻魔連隊』が軍用の個人防衛火器(PDW)を撃つが、魔獣の“情報”を得た騎士はそれを弾いて、強引に弾幕を突破する。

 

「『さあ、『咎神』の原罪よ。まずは貴様が(わらわ)たちの憎悪に染まれ―――!』」

 

 そして、『黒髪の少女』は青帯に囚われた龍母に、大きく歪んだ笑みを向けて、

 

 

「『―――コード認証、“正統ナル後継者トシテ(49 72657175657374)我ヲ“百王”ニ選定セヨ(7263756463 6173)”』」

 

 

道中

 

 

 ―――『百王』の資格を剥奪(カット)

 ―――『原罪』の契約を破棄(カット)

 ―――殺神兵器の霊力経路を遮断(カット)

 

 

 視界と知覚が、黒一色に染め上げられた。

 痛みがない、というよりは触覚がない。その気色悪い喪失感はまるで半身を失くしてしまったかのよう。

 いや、まるでではなく、半身を取り上げられた。

 しかし、半分を奪われただけだというのに、まるで全身がなくなってしまったと思えるほど、大きく何かが欠落した。

 そう、残る半身では、このありあまる力を制御し切ることができない。

 熱暴走(オーバーヒート)を起こして、このまま自壊――――――――――――――――――――外部干渉発生。全凍結(オールフリーズ)

 

 

 

 あまりに唐突に、血を噴き出す。

 どしゃどしゃと重たい音を立て、大量の血が地面を穢す。

 音が消え、時の流れが引き伸ばされたように感じる。その緩慢な灰色の世界で、<黒妖犬(ヘルハウンド)>は血の海に沈む―――

 

「―――――――――――っは、ぐ」

 

 間際、片膝を付く。

 意識は、まだ、ある。

 “大きな穴”を開けられたが、それを凍結して埋め合わせられた。多量の血と魔力を失ってしまったせいで貧血のようにまだ感覚が揺らいでいるが、まだ動くことができる。

 

「うっ……は、あ……!」

 

 立とうとすれば、酔ったように千鳥足で安定しない。

 

「南宮君、大丈夫!?」

 

 血の気を失ったような顔色で慌てて駆けつけた唯里。その前に、クロウは自分の足でまた立ち上がろうとする。彼女の肩を借りながら、その耳元に青褪めた掠れ息と共に短い忠告(ことば)を吐いた。

 

「羽波、またくる」

 

「え―――」

 

 霧の向こうに、巨大な影が映る。

 それは重装甲の爬虫類にも似た古代の『鎧竜(アンキロサウルス)』。『飛竜』のような飛行する機動能力はなくとも、その防御力は遥かにこちらが頑丈だ。少なくとも人の手に負える怪獣ではない。

 

『グレンダ、逃ガサン』

 

 『鎧竜』の背に跨った新手の『咎神』の騎士。黒銀色のローブを纏った大柄な体躯の男性は、中世の騎士の装備品であるガントレットと似た黒銀の籠手を天に突き出すように掲げる。

 クロウの身体を支えながら唯里は死を覚悟した。

 その時、グレンダに異変が起きる―――

 

「おにぃ、ゆいり―――――っ!」

 

 グレンダの甲高い声で迸る絶叫が、やがて獣の雄叫びに変わった。

 唯里が貸していたコートが弾け飛び、透明な鱗に覆われた皮膚が現れる。小柄な少女が、巨大な獣へと姿を変えていく。

 異形の翼、

 禍々しい四肢、

 鋼色の鬣、

 太古の恐竜を連想させる蛇身。

 その巨大な威容は、まさしく『龍族(ドラゴン)』。単なる獣化では説明のつかない、圧倒的な変貌だ。

 

 ……グレンダ……あなた、いったい……!?

 

 初めて目の当たりした正体に、唯里の思考は停止してしまう。

 そして、『鎧竜』と同格の、いやそれを上回る鋼色の龍の巨体は真っ向からぶつかりに行きそれを弾き飛ばす。どれほど頑健性を重視した“情報”に構成されていようと。<龍族化>したグレンダの相手にはならないだろう。

 

 しかし、黒銀の騎士に焦燥は感じられない。

 きっと向こうは最初からグレンダの正体を知り、それを捕える術を備えているのだろう。

 

 黒銀色のローブが意思を持つように広がり、龍の巨体にまとわりつく。

 途端、<龍族化>したグレンダが、苦痛を訴えるかのように戦慄いた。『鎧竜』に打ち勝った龍の四肢は奪力し、鋼色の巨体は地に倒れ伏す。

 虚無のヴェールは、『龍族』にすら有効であったか。

 そして、起き上がった『鎧竜』がグレンダにのしかかろうと迫り、それを見たクロウは『首輪』に手を掛けた。

 

 ―――ダメ! クロウ君、『首輪』を取らないで!

 

 グレンダを助けなければ。

 そう、自分は約束をしたのだ。

 

 ―――眠らせた(冷ました)ばっかりなのに、殺神兵器の力を使おうとしたら、クロウ君が、壊れる!

 

 それに、ここで動かなければ。

 ここにいる全員が―――

 

 聴こえる必死の嘆願を振り切り、クロウは『首輪』に掛けた手に力を入れ、制限をかけた契約印を解放する―――

 

 

 

 寸前。

 黒銀の騎士から伸びていた『龍族』すら縛る漆黒の薄膜を、銀色の閃光が断ち切った。

 

 次いで、自動追尾する炎獄が大柄な体躯をした『咎神』の狂信者を追撃する。

 

 

 最後に、眩い黄金の雷光が装輪装甲車二台分の頑健性と重量の“情報”を獲得していた『鎧竜』をグレンダから吹き飛ばした。

 

「これは……」

 

 そのときになって、揺らいでいた五感のブレが収まる。その“匂い”を深呼吸すれば、逸る気も落ち着いた。

 そう。

 青白い『神格振動波』の輝きを放つ全金属製の銀色の槍を抱き、しなややかな雌狼に似た華奢な美貌をみせる制服姿の少女。

 鹿のように枝分かれして成長している鬼角を生やし、獰猛な猫科の猛獣を思わせる気配を漂わせる古風なセーラー服姿の少女。

 そして、濃密な魔力の塊である雷光の獅子を従える、どこか気怠げな雰囲気をもつ、パーカー姿の少年。

 

「あ……」

 

 クロウと視点を合わせた唯里は、ぽかんと間の抜けた表情を浮かべて呟きを洩らす。

 

 

「ったく、先に行くと言っておいて、こっちが遅れてたんじゃ恰好がつかねェだろクロウ」

 

 

 世界最強の吸血鬼<第四真祖>暁古城たちが登場した。

 

 

 

つづく

 

 

 

次回予告()

 

 

「ちょっと、その右腕どうしたのよ」

 

「う。羽波に襲われて傷モノにされた」

 

「み、南宮君!? 別に間違ってないんだけど、その言い方だとちょっと!?」

 

「はっ!? 私以外に傷をつけられるってどういうことよ! それも剣巫に!」

 

 

 

 

 

「……ダメね、力が出ないわ」

 

「ぬ、お腹減ったのか霧葉」

 

「あなたが剣巫にやられたからよっ! おかげで<生成り>に雑念が入って……」

 

「よくわからないけど、オレは何をすればいい?」

 

「あ、あれをしなさい! 『五車の術』とかいうふざけた……」

 

「ん。それご主人に禁じ手にされてるからダメ」

 

「はぁ!? なにそれ! 責任取りなさいよっ!」

 

「でも、ご主人にピンチな時以外は使うなーって」

 

「わかったわ。だったら、あなたを半殺しにすればいいわけね」

 

「霧葉、敵はあっち! オレじゃないのだ!」

 

 

 



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咎神の騎士Ⅳ

長文です(;^_^A


七年前

 

 

 白く染まった世界。

 濃い霧に覆われた森。

 曇り空から降り注ぐ粉雪が、景色を純白に塗り替えていく。

 

 ―――乾いた空気が、急に粘性を帯びた。

 

 『七式突撃降魔機槍』を発動した時、いつもそんな風に思う。

 古代の宝槍を核にして内蔵された『神格振動波駆動術式』。その己の霊力を人工神気に変換して増幅させる疑似進化に、担い手の霊感も冴え、未来予測する情報が増大するためだ。担い手を高次元の存在に誘うこの疑似進化は、未来視の処理速度も強引に加速させ、刹那の時間をスローモーションに引き延ばす。

 何もかもが、遅滞した世界。

 先読みできる霊視があるからこそ剣巫は、動体視力や運動神経などの基本性能(スペック)の高い魔族と白兵戦で挑むことができ、実際に呪術強化があるにしても大きく魔族を上回るということではない。それでも、地上で走る生物で本気となった自分に追いつける者はいない。

 この疑似進化は音速を超えて飛翔することも可能という圧倒的な性能を叩き出している。

 最終段階に至らずとも、だ。

 必要な情報、つまりは最善の未来を迎えるための選択肢だけを取捨選択しながら、救出した少女を機関へ辿り着くまでの殿をこなす。

 侵入する前から、ここの地形情報は頭に入れている。

 

 滝口武者を源流とする獅子王機関より出撃を命じられたのは、源九郎義経が逃げ延びたとされる北の大地にある、異邦の女神を祀る呪術集団の里。

 

 音を立てず、木の枝に跳躍。

 気配を殺し、霊感に集中する。

 この瞬間も高次元への階段を上り続けている感覚と、人間の感覚との齟齬を調整しながらチャンネルを合わせる。

 切り替わる。上位存在と巫女との隔たりを、意識して踏み越える。模倣された神像を憑かせるだけの『器』に、望んで成り下がる。いや、そんな感傷は必要がない。不要だ。排除。―――コンマ数秒。引き伸ばされた霊感が、適応する。

 顔を上げた。

 山間の森中―――数百m先に息を潜めて疾駆する狩猟者の一団。

 彼らの祖先は女神と狼の間に生まれたこと言う獣祖伝説があるほど、狼を神聖な動物とする呪術者たちは、戦闘の仕方が狩りと似ていた。『千疋狼』の例えの通り彼らは集団という数の理を利用し、どこへ逃げようが必ずこちらを追い詰めてくるだろう。

 そして、個々の戦闘力も侮れない。

 呪術者は魔獣種だけでなく獣人種の細胞も植え込んだ外套、聖域条約の禁止事項とされている魔族生体組織の兵器利用をした武装で身を固め、鍔縁には雷神の化身たる龍、柄頭には狼の装飾をした『虎杖丸(いたどりまる)』と銘の神授の刀は、武神具のひとつと言えるだろう。生贄にされる少女を庇いながらの戦闘はまさに熾烈を極めて、武神具の薙刀は無数の刃毀れを作ってしまっていた。それでも、彼女を逃がせたのは数少ない幸運だったろう。

 そして、この幸運を不意にしないためにも、この先に呪術者たちを通すわけにはいかない。

 

「大丈夫、彼の造った<雪霞狼>は、どの武神具にも負けません」

 

 監視対象でもある稀代の武神具開発者が手がけた銀色の薙刀は、最高の得物だ。

 『三聖』のひとり『閑古詠』が今作戦を指揮する獅子王機関より援軍が派遣されるまで単騎で、呪術集団の追跡を食い止めることは十分に可能だ。相手の武器も高性能だが、こちらの武神具の方が性能は上だ。

 

 ……ただ、ひとつの予感があった。

 救った少女を視て自ずと悟る。援軍は、派遣されない、と。

 この『七式突撃降魔機槍』の性能をより引き出せるであろう次世代へ引き継がせるために、少女の救出を優先し―――“すでに末期”の初代はここで役目を終わらせ、次への糧とする。

 次代の剣巫も高神の社で育成されているが、あの少女は逸材だ。ごく少数の適合者が見つかっただけでなく、自分よりも相性が良い彼女ならば、この真祖をも殺し得る秘奥兵器を自分よりも強力に使いこなしてくれるだろう。

 そして、核となる古代の宝槍は片手で数えられるほど稀少な材料。獅子王機関であっても、造れるのは一本が精々。

 だから、

 機関は、

 『閑古詠』は、

 “どこまで人間のままに扱えるか”を初代であり秘奥兵器の試験者である自分を使い捨てて、確かめ―――それをより優秀な才能を持った継承者に役立てる。

 その方が組織の利になると判断して。

 そう、最早、霊力を増幅させる呪術も、『六式重装降魔弓』や『乙型呪装双叉槍』のような武神具を扱うのも、『副作用』の“侵攻”を早める。人間のままでありたいのなら、剣巫を引退するしか道がない。

 長命種の師家様にも、剣巫としては再起不能と言い渡されている。

 そして―――

 

『今のこれは廃棄兵器だが、この霊力をも打ち消せる『零式突撃降魔双槍』が完成すれば、余剰な神気を消滅させ、兄弟機である『七式突撃降魔機槍』の副作用を克服することができるはずだ! だから、それまで―――』

 

 技術者として買われているのであって、戦線に立つ戦闘者は護身術程度しかない彼が、“失敗作”と呼んでいる武神具の改良を手掛けていることは、知っている。

 でも、霊力を打ち消してしまう武神具というのは巫女の戦闘力をも奪い、対魔族で無効化する必要があるのは魔力だけだ。まして彼にしか扱うことが許されない『零式突撃降魔双槍』の開発を、獅子王機関が重要視することはけしてない。

 自分で自分の首を絞めてしまうような“巫女殺し”の兵器の開発を獅子王機関が許すはずがない。

 でも、彼はやろうとしている。他ならぬ自分のために。

 ああ。魔族に転生した彼は師家様のように優れた技術力を買われているというのに、その才能で獅子王機関に不利となるような武神具を造ってしまうなど、とても看過できることではないだろう。実際、『零式突撃降魔双槍』を改良させようとする彼を危険対象として討伐すべきだという声も高まっていると聞く―――この緊急任務の指令を言い渡した『閑古詠』が、そう自分に仄めかしてきたのだ。

 その不穏な空気を払拭させるのは、やはり成果を出すしかない。

 

「……待てなくて、ごめんなさい、でも、あなたの能力は、あなたの造る秘奥兵器の力は、組織に置く必要があるほど優秀なものだと証明しなければならないの」

 

 幼いころから過酷な訓練に明け暮れ、剣巫になるためだけに育てられた。

 剣巫であることしか自分は生き方を知らない。たとえ自分よりも優秀な才能をもった適合者を予感したのだとしても、自分は彼の造った武神具を自分以外の娘に引き渡すことなど、やっぱりしたくはないのだ。

 だから、止まらない。誰にも止められない。

 

(最後まで)

 

 静かに、しかし強い確信を胸に抱く。

 これより呪術集団の神授の刀は全て砕かれることになる。

 この疑似進化の最終到達点は、他のどの武神具にも及ばない成果を出す、秘奥兵器に相応しいものであると確かな実証として。

 

(最後までずっと、私はあなたの監視役でありたい)

 

 そう求めた。

 そう望んだ。

 この自分の最後が、次代に継がれる伝説となり、組織内での彼の立場を不動にすることを、ただそれだけを切に願う。

 

 

 初代の剣巫の孤軍奮戦の働きにより、呪術集団が壊滅し、『七式突撃降魔機槍』の秘奥兵器としてのブランドが確固たるものとなった。

 

 

神縄湖付近

 

 

『<第四真祖>……』

 

 『鎧竜』に再び跨る黒銀の騎士が苛立たしく見据えるその先にいるのは、少女二人を左右に侍らす少年。路上に散乱したゴミを見るような冷たい眼差しを送りながら、籠手を嵌めた腕を突き出すや否や、『鎧竜』が木々を薙ぎ倒しながら突進を仕掛けた。

 それに相手も自らの眷獣に反撃を命じる。膨大な魔力によって実体化した獅子の前肢が、『鎧竜』目掛けて振り降ろされる。

 だが、騎士の籠手より漏れ出した闇色の暗幕が、水面に落としたインクのように広がって、眷獣の行く手を阻む。

 雷光の獅子は構わずそれを引き裂こうとするが―――

 

『吸血鬼ノ使イ魔ナド相手ニナラン!』

 

 展開された虚無のヴェールは、音もなく獅子の反撃を弾いた。その巨体に迸らす閃光と稲妻も霧散させ、火花すら残さず。

 暗幕を纏う『鎧竜』は無傷であり、激突の衝撃で大きく姿勢を崩したのみ。

 濃密なエネルギーの集合体であり、本来ならば生身の生物が受け止められるような存在ではない眷獣。より強大な魔力をぶつける以外の攻略法はないとされているが、物事には何にでも例外がある。

 

 だが、それは全てに通じる道理である。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 体勢を立て直そうとする、『鎧竜』。

 銀槍、一閃。

 ズバッ! と何かの戯画のように真っ二つに虚無のヴェールが裂かれた。

 

 飛び出した少女に与えられたその銀槍は、『七式突撃降魔機槍』。魔力無効化能力を持ち、魔力を無効化するフィールドそのものをも無効化する『神格振動波』を纏う斬撃は、『咎神』の魔具が張った『異境』ですら破る。

 異能の力が全く存在しない世界で塗り潰して眷獣の一撃を無効化される―――その<闇誓書>で体験した一例があるからこそ、剣巫の行動は迅速であった。

 そして、『鎧竜』の表面を覆う漆黒の薄膜が消滅して、騎士が再度虚無のヴェールを張ろうとするよりも、<第四真祖>の行動は速かった。

 

「<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>―――!」

 

 自らの意思を持つほどに濃縮された魔力の塊、宿主よりさらに密度を増した魔力を注がれ、雷光の獅子は咆哮する。

 全長十数mを超える巨体が、まさしく紫電の速度で疾駆し、『鎧竜』を薙ぎ払う。雷光の獅子の一撃は重厚な外殻を瞬時に砕き散らし、古代の爬虫類を模した怪獣を残骸すら残さずに消滅させた。

 その余波は巨大な爆風となって周囲に吹き荒れ、神緒田地区の大地を地震のように激しく揺らす。<第四真祖>の眷獣の力は、たかが装甲車二台分の防御で耐えるには、あまりにも大き過ぎたのだ。

 叩きつけられた灼熱の衝撃波は騎乗していた騎士のみを地面に投げ出して、地に転げさして、正体を隠すローブを襤褸切れに変える。

 

「上柳二尉!? あなたまで―――」

 

 グレンダと暁凪沙――『聖殲派』に重要なものを確保する剣巫より悲鳴のような声が上がった。

 露わとなったのは、迷彩服柄の大男、『神縄湖』で行われた儀式の作戦本部で見かけた自衛隊『特殊攻魔連隊』第二中隊の上柳二尉だ。

 

「へぇ、獅子王機関が応援に呼んだ自衛隊に賊が紛れ込んでたってことかしら」

 

 動かず、様子見をしていたセーラー服の少女が愉快気に笑みを深める。

 

「ぐ……魔族ごときに、この俺が……」

 

 憎々しげに上柳二尉が、<第四真祖>の少年――暁古城を睨む。これ以上の戦闘が無理だろうに、彼は憎悪を募らせる。その矛先は古城だけでなく、真祖の監視役である姫柊雪菜にも呪詛は向けられた。

 

「魔導災害を未然に防ぐための国家機関に所属する一員でありながら、薄汚い魔族に組するのか、雌犬め!」

 

「テメェ、姫柊まで……!」

 

 歯を剥いて荒々しく咆える上柳に、古城は怒りをあらわにするように眉間を寄せ、しかし雪菜がそれを押さえるように古城に掌を向けて制する。そして、哀れむように首を振り、

 

「真に穢れた(こころ)の持ち主は、私欲や怨恨のために殺戮と破壊を望む過激派(テロリスト)の『聖殲派(あなたがた)』でしょう」

 

 そっと頭に掌を当て、男の意識を落とした。

 

 

 

 『戦王領域』の貴族であるヴァトラーの援助と<オシアナス・ガールズ>の先導があり、『神縄湖』へと移動していた最中に、逃げ出す負傷者の一団をみつけ、彼らが逃げてきた先にその姿を遠目で捉えた。

 

 血塗れに倒れ伏す後輩、

 それを庇おうとする監視役の元ルームメイト、

 それからさらに鋼色の髪の少女が『龍族』となって暴れ、

 そして、気色悪い黒いオーラを身に纏う騎士――<オシアナス・ガールズ>のひとりが忠告した『咎神』の狂信者『聖殲派』。

 それだけわかれば、もう戦う理由は十分だった。

 

「………っ!?」

 

 戦闘が終わり、協力者の<オシアナス・ガールズ>らに『聖殲派』の男女二組を任せて、一先ず張り詰めていた緊張の糸が緩んだ途端、古城の右手に激痛が走る。焼けつくような痛みに顔を歪める古城は、絃神島で<静寂破り>に、<雪霞狼>で刺された箇所をつい見てしまう。

 古城の右手の甲に浮かぶ、この亀裂のような傷跡は、さらに広がっているように見える。あれからもうすでに半日、真祖ならば心臓を祓魔師に抉り潰されても完治しているというのに、塞がる傾向が全くない。むしろ開いているという始末。正確な原因はわからずとも、この戦闘で症状は一気に悪化してしまった。

 

「先輩……その手は……」

 

 咄嗟に右手を隠してしまうが、監視役の少女にはもうバレバレだ。青褪めて駆け寄ってくる雪菜はきっとこの異変に気付いたことだろう。

 

「眷獣を召喚した反動ですか?」

 

「ああ、多分な。でも、たいしたことはない」

 

 万全の状態といえないのは、自分だけではない。あのやっと倒せた<黒妖犬(クロウ)>が、自力で立つのがやっとな重傷で、特に血を流している右肩の状態が酷い。余程無茶したのだろう。そうならざるを得ないほどに混迷を極める状況下であったことを物語っていた。それに出遅れた古城は、痛い痛いなどと泣き叫べるものか。

 接戦を繰り広げているバスケの試合、前半終わりまで遅刻してきたレギュラープレイヤーが、後半早々にバテバテで役立たずだったらあまりにも格好悪い。

 痩せ我慢であっても後輩には覚られぬようにしようと、強気な表情を作る古城。それを察した雪菜は、大きく息を吐いた後、もう先輩は……と呆れたような苦笑を作る。

 

「それより、姫柊、クロウ達は―――」

 

 古城が背後を振り返ると、そこにきっと太史局の六刃神官から応急処置をされている後輩の姿がいるはず―――で、

 

 

「ちょっと、その右腕どうしたのよ」

 

 

 怪我の具合を診ているのだろうが、剣呑な雰囲気を出しながら詰問は、何故かワイシャツに口紅がついた浮気の物証を見つけた場面を古城に連想させた。

 しかし、妃崎霧葉が指しているのは、上着を脱いで露わとなった後輩の右肩に刻まれた傷に対してである。

 先程思い切り腕を振るった時に、バリッと瘡蓋が剥がれたように塞がりかけた傷口が開いてしまって血が出てて、早く包帯でも巻いてやらねばならないのだが、六刃は治療の手を止めて、細目をさらに眇めて後輩を睨んでいる。

 

「う。羽波に襲われて傷モノにされた」

 

「み、南宮君!? 別に間違ってないんだけど、その言い方だとちょっと!?」

 

 あっけからんとぶっちゃけちゃう後輩に、慌てたのは巨大な龍から小柄な少女に戻った鋼色の髪をした女の子(グレンダ)に服を着せようと慌ててた剣巫。<龍族化>する際に貸していた彼女のコートが弾け飛んじゃってこの裸になっちゃってる少女、それも意識のない彼女をとりあえず抱いて、文字通り身体を張って肌色面積を減らしていたが、そこへ聞き捨てならない爆弾発言。

 

「―――っ!」

「~~~っ!?」

 

 物凄い目力で凄んでくる六刃に、動かせる首だけを必死にぶんぶんと振っている剣巫。

 雪菜よりもやや高い程度の身長で、妃崎霧葉よりは低く見下される重圧にますます低頭になる。

 

「ほい、グレンダ、着とけ」

 

 そんな中、直前で脱いで無事だった自身の蒼銀の法被を拾って、再び裸の少女に羽織らせる後輩は、紳士なのかそれとも当事者意識の薄い阿呆なのか。古城は、『裸の少女を放置するのも大変だけど、お前が導火線に火をつけちゃった爆弾処理を早急にやれ』と先輩として助言を送りたかった。でも巻き込まれるのがとにかく怖いので遠巻きで見守る。

 

「……あなた、剣巫よね? 姫柊雪菜から話は聞いてるわ」

 

「え、えっと雪菜(ユッキー)とお知り合いで?」

 

「そんなことはどうでもいいの!」

 

「ええっ!?」

 

「あなた、彼に一太刀を浴びせたのかしら?」

 

「それは、頭に血が上ってたと言いますか。志緒ちゃんが危ないと思って、その偽者だと気付かずに南宮君にすごく迷惑をかけて……」

 

「だから状況なんてどうでもいいの! 結果だけを言いなさい! 彼をやったのっ? やらなかったのっ?」

 

「は、はいぃ! やりました! 私が南宮君の右腕を斬り飛ばしました!」

 

 ここに駆け付けてくるまでに雪菜が語ってくれた高神の社でひとつ年上のルームメイトだった獅子王機関のすごく優秀な剣巫候補生、羽波唯里。見てる感じ獅子王機関の関係者にしては、随分性格がまともそうで、とても後輩を傷つけた(傷モノにした)とは思えないのだが……

 して、この気弱な対応に、六刃はますますお冠に。

 キッ! と刺すような視線を後輩に戻し、剣巫を指差しながら、

 

「はっ!? 私以外に傷をつけられるってどういうことよ! それも剣巫に!」

 

「霧葉が何を気にしてるかわからんけど、羽波はすごいぞ。今は剣ないけど、腕一本を捨てる覚悟をしないと踏み込めないくらい重圧(プレッシャー)を放ってたなー」

 

「なんですって!?」

「み、南宮君だから、そのね、あのときは……!?」

 

 後輩は素直に羽波唯里の剣の腕前を褒めたつもりなのだろう。ただし、それは犬が後ろ足を蹴って砂かけをして小火を消そうとしてるのだが、それが砂ではなく火薬で消火失敗というような。

 とかく、この燃え盛る昼ドラ展開に燃料(ガソリン)を吹っ掛けたような真似だ。

 

「意外だな。まともそうな人に見えるんだけど、やっぱり獅子王機関の人間ってこうなのか?」

 

「はい?」

 

 思わず漏れた古城の感想に、こちらにも飛び火が。

 ピキ、と頬を引き攣らせる監視役が今の監視対象の発言の意味を問う。

 

「あの、それは、私の性格に何か問題があるという意味ですか?」

 

 判断となって問い質してくる雪菜に、唇を歪めて頷く古城。

 

「だってなあ、俺の知ってる獅子王機関の人間は、だいたい初対面で俺のことを殺しかかってくるようなヤツばっかだろ。姫柊とか煌坂とか、あとはこないだの<静寂破り>って女とか―――」

 

「あ、あの時は先輩が私のことをいやらしい目で見るから―――」

 

「見てねぇ! あれは事故だ、事故!」

 

 声を荒げて怒鳴り合う古城と雪菜、そんな犬も食わないいつものやりとりを他所に、

 

「謙遜するな。あのときの羽波は、ニンジャマスタークラスだったのだ」

 

「いえ、誤解で怪我をさせてしまうのは、状況判断が未熟だったとしか……私の力不足です。本当にすみませんでした」

 

「むぅ、だから、もうこの件で謝らなくていいと言ってるのに。あの『三聖』とか言う偉い奴からも、羽波のことを褒めてたじゃないか」

 

「あれは、ほとんど南宮君のおかげだよ。私なんてほとんど……」

 

「オレだけじゃあの場を切り抜けることはできなかったのだ。凪沙ちゃんの護衛を任されただけでオレは十分羽波のことを認めれてるんだと思うぞ」

 

 負い目を引き摺り落ち込みがちな唯里を、どうにか励まそうと身振り手振りをしながら言葉を尽くすクロウ。その甲斐があってか、まんざらでもない調子で、『そうかな』と頬を朱に染める剣巫。

 で、

 

「…………………………………」

「っ!?!?」

 

 そんなある種の二人だけの世界を築いていくのを、放置されている()監視役は据えた目でじっと観察する。どこか遠くを見ているような光の薄い、仄暗い眼光は、先ほどよりも苛烈な激しさはないが、しかしちらと目を見た古城がゾッとする怖さがあった。

 

「………………………フフフ」

 

 ボッ、と妃崎霧葉の手に持っていた包帯が灰すら残さず燃え尽きた。

 その光景を目撃し、中学生の頃の化学の授業で勢い盛んな赤い炎よりも静かに揺らめく青い炎の方が高いという話を古城はふと思い出した。

 ここは木枯らしが吹く真冬の山間だというのに、何故か常夏の絃神島にいるように暑く思え、そして、悪寒が背筋に走り生唾を呑み込むような状況に、古城はひとつ頷いてから判断を下す。

 

「(姫柊、そろそろ止めないとまずいんじゃないかあれ。霊視とかそういうのはないけどこのままいくと山火事が起こるかクロウが刺されそうな予感がする)」

 

「(ええ、まあ、先輩が言いたいことはわかります)」

 

 離れた位置で傍観していた古城と雪菜は口喧嘩(じゃれ合い)をやめて、視線を通わせ(アイコンタクトで)危機感を共有し合うと介入せんと彼らの中に割って入った。

 

 

 

「だから、もっと自信をもつといい」

 

「そうだな。クロウの言う通りだ。凪沙を助けてくれてありがとう、あ、え、っと……」

 

「あ、はい、獅子王機関所属剣巫、羽波唯里です。<第四真祖>、挨拶が遅れたことを……」

 

「あー、そういう堅苦しいのはいいからな。妹のことを助けてくれたお礼が言いたいだけだし」

 

「いえ、本当、私がしたことなんてそんな大したことじゃ」

 

 顔の前で手を振り、謙遜する唯里に、古城は困ったように首を振った。

 

「おい、姫柊……この子、本当に獅子王機関か?」

 

「はい、私よりもひとつ年上で、すごく優秀な剣巫候補生でした」

 

「ええ、大変優秀な方なんでしょう。流石は本家剣巫ね」

 

 ルームメイトの後輩として評を語った雪菜に、反応する六刃神官。

 

「そんな私はまだ見習いの身でしてっ! 大きな任務も今回が初めてで……<第四真祖>の監視役を任されている雪菜(ユッキー)の方が全然っ―――」

 

「あら、そちらの剣巫は<黒妖犬>に本気で挑んで一太刀も浴びせられなかったのよ」

 

「ええっ!? それ本当なの雪菜(ユッキー)!?」

 

「はい……妃崎さんの言う通りです」

 

 霧葉に揶揄するように流し目を送られて、苦い表情で頷く雪菜。やたら真面目で几帳面で、成績も抜群、そんな多くの後輩たちから羨望を集めながらも近寄りがたい孤高の優等生である――そして、大の負けず嫌いな――彼女が、敵わないと認めるなんて素直に驚きを覚える唯里。

 

「で、でもあの時は状況が状況で……」

 

「謙遜が過ぎるのは嫌味になるわよ……そうでなくて?」

 

 薄笑いを浮かべる霧葉に、びくっ、と女豹に視線を当てられた草食獣のように身震いする唯里。メラメラと瞳の奥に再燃した焔を湛える六刃の視線を向けられて畏縮する剣巫との間に慌てて古城は割って入り。

 

「ま、まあまあ、とにかく俺は凪沙のことであんたには感謝してる。―――本当にありがとな」

 

 彼女たちの傍らで意識はなくとも安息している凪沙に視線をやってから古城はひとりの兄として頭を下げた。

 大事な家族を守ってくれたことを深く謝礼する古城をしばらく呆然と眺めていた唯里だが、やがて何か吹っ切れたようにクスクスと声を洩らして笑い出した。

 

「唯里さん?」

 

 雪菜が気遣うようにおずおずと声をかければ、唯里は笑いながら首を振って、

 

「ううん。やっぱり古城君は似てるな、と思って。牙城さんの息子なんだな、って」

 

 その発言に思わず、古城の口元が苦々しげに歪んだ。

 

「あ!?」

 

「わ、ごめんなさい。で、でも、苗字で呼ぶと牙城さんと混乱するかと思って、つい」

 

 馴れ馴れしく名前で呼んでしまったことを焦って謝罪する唯里。しかし、古城が反応したのはそこではなく、

 

「違う違う。いや、俺とあいつは全然似てないだろって話。呼び方なんか別に何でもいいんだけど」

 

「そ、そうですか? あ、いえ、そうですね。すみません。私の事も呼び捨てにしちゃってくれていいですから」

 

 誤解を解くとすぐに礼儀正しく謝罪する唯里。

 古城は、ああ、と曖昧に頷き、

 

「やっぱりまともだよな……クロウの件もわけありっぽいし……獅子王機関なのに」

 

「だからってどうして私を見るんですか? 私だって理由(わけ)もなく襲ったりしません!」

 

 しみじみと感想を洩らす古城を、雪菜がむっつりと睨んで訂正を要求する。

 これ以上、監視役の機嫌が悪化しない内に、と古城は咄嗟に目を逸らし、後輩―――と古城たちが自己紹介している間いつのまにか目覚めて、後輩に何かあやされている13、4歳ほどの、可愛らしい顔立ちの女子を見た。

 

「だぁ、おにぃ」

 

「ちゃんと服は前を閉じないとダメだぞー、グレンダ」

 

 完全なる神獣に化ける後輩を見慣れてるから、今更巨大な龍族程度では動じない。そんな鍛えられてしまった自分に少し絶望する古城だが、やはりこの世話を焼かれて嬉しそうにはにかむグレンダという少女、その正体が『龍族』とはとても信じられない可憐な笑顔だ。

 こうして無条件の信頼を後輩に寄せて、目が合えば古城たちに対してもにっこりと笑い返してくる。敵意がないことを敏感に感じ取っているのだろう。人懐こい小動物のよう。だから、ワンコ属性の後輩と波長が合うものなのかもしれない。

 とまあ、つらつらと分析してみたりもするが、結局真祖だけど知識は素人な古城には皆目見当がつかない。雪菜もグレンダの正体に関しては困惑や戸惑いといった色を表情に浮かべており、魔獣の専門家である霧葉もいくらか推論してもそれら全部憶測の域が出ず何も言えないでいる様子だ。

 ―――しかし、この少女は、『聖殲派』という狂信者に妹共々狙われている。ので、

 

「で、クロウ、質問なんだが、その子は一体何者なんだ?」

 

「グレンダだ古城君。『神縄湖(みずうみ)』でずっと眠ってて、“大事なもの”を守ってる。オレと同じ『器』として創られたものだ」

 

 クロウの説明に、唯里が捕捉する。

 『三聖』から語られたグレンダの正体。

 『聖殲』の遺産であり、最重要の“情報”の『器』。魔獣でも魔族でもなく、『咎神』のシステム。

 同じ『聖殲』の遺産である<第四真祖>の“情報”を『(きっかけ)』とし、覚醒した。

 

 そして、グレンダの存在を利用して、国防機関に潜伏する『聖殲派』を釣り上げようとしたこと。

 

「そうか……」

 

 話を聞かされた古城はしばし瞑目し、体内の空気の入れ替えをするかのように深く息を吐いた。

 まず、『聖殲』の遺産だとかはどうでもいい情報として処理した。重大な『宝』を抱えた龍族であっても、古城にはグレンダがそんな大層な存在には思えない。

 言えるのは、この渦中の人物でありながら、巻き込まれた犠牲者であることだ。妹は――アヴローラは、彼女を目覚めさせるための生贄と利用されたようだが、責める気は一切ない。

 だから、とりあえずそれは置いておく。

 それよりもまず、暁古城には頭を下げておくべき相手がいる。

 

「クロウ」

 

「ん、古城君」

 

「唯里にも言ったが―――凪沙を助けてくれてありがとう」

 

 状況を聞き、改めて古城は自身が遅刻したことを知る。

 そして、いの一番に妹の元へ駆けつけたのはこの後輩で、獅子王機関と『聖殲派』で様々な思惑が錯綜する中で、純粋に妹を護ろうとしてくれた。それだけで古城は感謝の念に堪えない。

 

「にしても、怪我し過ぎだ。もうちょっと自分の身体を大事にしろよクロウ。俺みたいに不老不死の吸血鬼じゃねーんだから」

 

「う。結構張り切ったけど―――まあ、凪沙ちゃんのことが好きだからな、無茶しちまったぞ」

 

 

 

 …………………………………はい?

 

 

 

「え―――ええええええええっ!?」

 

 さらりと口にした発言に、古城ではなく、雪菜が大きく目を見開いて悲鳴のような声を上げた。

 姫の危機に無理をして馳せ参じる王子様という少女漫画的な展開に唯里も動揺を隠せず、雪菜と反応をシンクロさせる。……元監視役である六刃さんの方は静か……古城と同じく固まってしまっているらしい。

 唯一、この場でショックを受けなかったのは、無垢なグレンダと昏睡している凪沙だけ。

 

 が、古城はすぐ冷静になった。

 これまでのこの後輩の心理行動を見てきた先輩は、落ち着いた――なるべく落ち着いた声音で、ひくつく表情筋を必死に取り繕いながら、確認する。

 

「そ、そうか、凪沙が好きか。まあ、そうだよな、“同じクラスメイト”なんだからな―――だろ?」

 

「う。凪沙ちゃんにはクラスで良くお世話になってる」

 

 ああ、そうだ。『好き』という発言は、きっと男女の仲がどうとかではないはずだ。朴念仁と言われてる性格からして、他意の『た』の字もないはずで、純度100%の混じりっ気のない好意―――つまり、友愛。

 そう、後輩にはまだそういうのは早いはず。それは妹も同じ―――だ。

 このように過剰に反応してしまったのは、きっと二人が異性であることが問題で、まったくの考えすぎ―――杞憂でないと古城は困るのだ。この後輩が本当にその気になれば、妹離れは目前も同然で……ひどく焦らされる。

 なら心の安寧の為にも早急に誤解は解いておくべき、と古城は、ひとつ尋ねる。

 

「クロウ……俺の事も好きだよな?」

 

「古城君のこと、オレ、好きになってもいいのか?」

 

 きょとんと小首を傾げるクロウ。

 いちいちそんなことは問うまでもないというように、がしっと古城は後輩の肩に手を置いて、真っ直ぐ見つめ合い、

 

「そんなの良いに決まってんだろ! ああ! 俺もクロウのことが好きだからな!」

 

「先輩っ!? そんな―――」

 

 大胆な発言に傍で見ていた雪菜がとんでもないショックを受けたかのように悲鳴を上げた。立ち眩みをしたように倒れそうになる雪菜を脇から唯里が支えるが、その唯里も『え、古城君、ってそういう……!?!?』と特殊な部類にある(アブノーマルな)少女漫画知識から索引される光景に驚き戸惑い―――だが、今の告白待ちの古城の目には入らない。

 

 色々とあったが、後輩の好感度はけして低くないはず。

 これで、もしも『好きじゃない』と断わ()られるようならば、すなわち、『好き』といった妹の方は消去法的にもう、アレだ。先輩ではなく兄として話し合いをしなければならなくなる。

 だから、ここは頷いてくれ! 頼む―――

 

「ん。そうだな……」

 

 こくん、と。

 

 首を。

 

 縦に頷いて。

 

「オレも古城君のこと好きだぞ」

 

「――――――――――――ィよしッ!!」

 

 バスケでブザービーターを決めた時のように渾身のガッツポーズを取る暁古城。

 しかし拍手喝采が送られることはなく、

 同級生への告白成功に体全体で歓喜を表現する監視対象に白い目を向ける監視役と頬を赤らめるその剣巫候補生の先輩。それから、ライバル的な六刃はまだ心の整理する時間を要するようで何やらお経のようにぶつぶつ独り言を唱えて自分の世界に耽っており、ドラゴン娘は『だ?』とぱちぱちと瞬きしていた。

 

 

神緒田神社

 

 

「古城が、凪沙ちゃんと合流した?」

 

 

 舞威姫の針治療による応急処置を負傷した暁牙城に施すため、一時境内で腰を落ち着けさせていた浅葱は、有脚戦車<膝丸>の外部モニタに表示される不細工なマスコットキャラのCG――浅葱の相棒とでも呼ぶべき人工知能(AI)現身(アバター)からの報告に耳を傾ける。

 

「なにそれ本当? っつか、やっぱり本土渡ってきたわねあのシスコン」

 

『ああ、嬢ちゃんがプレゼントした携帯端末が繋がった。古城の兄ちゃんの位置情報を喪失(ロスト)していたが、近づいたことで電波が届いたぜ。たった今、俺の分身(コピー)と情報を同期(マージ)した』

 

 妙な魔術を使う敵と戦ったらしく、付近のカメラを軒並み全滅させるようなド派手な戦闘を行った結果、予備の端末をもたせてあったのに消息が途切れていたのだ。

 しかもこちらを絶句させることに古城らは海に落ちたと。

 絃神島は太平洋上に浮かぶ人工島。周囲の水深は半端ではなく、潮の流れも相当速い。事実上、太平洋のど真ん中に放り出されたのと大差なく、いくら古城が不老不死の吸血鬼と言えども、さすがにまずいのではないかと思う。それでなくとも古城は水泳が苦手なのだ。

 妹に続いて、兄まで失踪とは、あの兄弟は一体何をやっているのだ、と思う。

 大丈夫でしょ古城ならきっと、と言い聞かせながらも、これまで内心で心配してきたわけだが、どうやら無事に海を渡れたらしい。

 

「……姫柊さんも無事なの? 古城と一緒?」

 

『ああ、槍使いの嬢ちゃんも一緒だ』

 

 ほっとまず安堵して、次に常に側にいることを思い、浅葱はもやもやとする。

 何にしても、古城だけでなく、獅子王機関の剣巫がいれば、バカなことはしでかさないだろうということにしておく。それにこれでこちらが父親の暁牙城を救助(確保)したと予備端末から情報が伝われば、真祖になったあの野郎も無茶をする必要がなくなるだろう。この『神緒田地区』に訪れた理由は、妹の安否確認であり、第一目標が果たされたとなればここに用はない。

 今ここで起こっている面倒な厄介事(トラブル)は回避するのが賢い選択……なのだが、義務や義理とかがなくても、一度でも火が点いたらあの馬鹿はそこに突っ込んでいくだろう。監視役で抑え役(ストッパー)であるはずの剣巫も、この手の騒動は見て見ぬふりはできないだろうし、絶対にいく。間違いない。賭けてもいい。

 

(まあ、あたしも絃神島に帰るにはここで起きてることを知って少しでも交渉に使える情報を手に入れないとまずいし……でも、古城は姫柊さんと二人きりで……)

 

 そんな主人の心情を読み取ってか、ケケッと笑い飛ばすモグワイがさらなる追加報告を口にする。

 

『安心しな、嬢ちゃん。槍の嬢ちゃんと二人きりじゃねーぜ』

 

「え? 古城と一緒にいるの姫柊さんだけじゃないの?」

 

 はて、他にも協力者がいたのか、しかし誰だろうか?

 最初に思い浮かんだのは、あの古城にやけに馴れ馴れしく協力的な『戦王領域』の青年貴族だが、アルデアル公とは先ほど遭遇し、拠点を潰しにいくだとかで別れた。

 

『『青の楽園』で嬢ちゃんも会った目つきの悪い嬢ちゃんもいる』

 

「はぁ!? それって、<戦車乗り>を雇ってた太史局の連中よね! 何で古城と一緒にいるのよ!」

 

『利害の一致ってとこだ。―――それから、『波朧院フェスタ』で嬢ちゃんが会った人質のお姫様たち五人組』

 

「はぁっ!?!? それ、ヴァトラーさんの船にいた娘たちでしょ!? 巷で<オシアナス・ガールズ>とかでネットアイドルやってる! 」

 

『古城の兄ちゃんの本土行きからサポートしてるみたいだ。―――それで、今、妹さんを保護した剣巫の嬢ちゃんたちと合流した』

 

「ああ、もしかして、さっき舞威姫の()が心配してた……?」

 

 牙城の治療をしている舞威姫の菱川志緒が、しきりに『神縄湖』の事態を気にしていた相方の安否報告は朗報だ。

 だが、

 

「ここまで全員男は出てきてないわね……あの馬鹿は行く先々で女の子を引っ掻けてんのかっ!!」

 

『いや、剣巫の嬢ちゃんと一緒に行動していたヤンチャ坊主もいるぜ』

 

 ヤンチャ坊主―――モグワイがそう語る相手は、浅葱の後輩。

 そうか、前に絃神島から追手が派遣されたとか言っていたが、それはこの後輩の事だったのか。頼れる助っ人だというのに、それを隠しているこの人工知能はやっぱり性質が悪い。

 

「そう、クロウも一緒なのね……剣巫の娘と一緒ってことは古城よりも先に凪沙ちゃんを見つけたのかしら。ふふ、やるじゃない―――」

『で、古城の兄ちゃんが、たった今ヤンチャ坊主に告白したとこだ』

 

「―――――は?」

 

 <電子の女帝>に深刻なエラーが発生しました。

 <電子の女帝>に深刻なエラーが発生しました。

 <電子の女帝>に深刻なエラーが発生しました。

 

 世界最高峰のハッカーの頭脳(OS)が悲鳴を上げる。

 そして機能停止してから、どうにか再起動した浅葱は震える声で、一言確認。

 

「冗談、よね?」

 

『いや、本当だ。思いっきり大声で、ヤンチャ坊主に『好きだ』って、槍の嬢ちゃんたちの前で堂々と告ったぜ。そんで今、盛大にガッツポーズを決めてるな』

 

 この相棒の人工知能は、隠し事は多いみたいだが、基本的に嘘は吐かない。それを主人として浅葱はよく知るところだ。

 しかし、これはウソであってほしかった。

 

「ちょっと本当にどうなってんのよ!? 美少女が側によりどりみどりいるのにどうしてクロウに告白してんの!?」

 

 思わず八つ当たりに画面をぶん殴る浅葱。

 モニタの現身は慌ててそれを避けるように身を捻ってみせながら、

 

『お、落ち着け嬢ちゃん!?』

 

「百歩譲って、姫柊さんならギリで納得……ううん、やっぱダメ―――って納得できるかは棚に上げるけど、それでも男は絶対に無理よ! 何アイツヴァトラーさんと結局同じ趣味なの!? 理解不能なんだけど! 有耶無耶にしちゃってるけど古城に告白したあたしの女のプライドはズタボロになるわ!」

 

 ガンガン! と戦車を素手でぶっ壊さんばかりに衝動をぶつける主人のご乱心を『これはまずい』とからかい過ぎたと反省したモグワイは、足りない(外していた)情報を報告した。

 

『………とまあ、妹さんへのヤンチャ坊主の発言で、シスコン脳が暴走しちまったってとこだ』

 

「そう……そういうことね。ええ、やっぱりそんなとこだと思ったけど、いや、それでも告白する思考回路は理解しがたいんだけど、本当何やってんのよバカ古城……」

 

 ふかーく溜息を零し、ぐったりと俯く頭を両手で抱える浅葱。

 あの後輩に対して焦ってしまう古城の心境はわからないでもないが、このままいくと『お前に娘(妹)を嫁にやらん!』みたいな感じで、<第四真祖>の力で戦争(ケンカ)しかねない。

 そんな馬鹿みたいだがありえそうな将来も心配だが、新年早々から鬼が腹抱えて大笑しそうな先の話よりも、今のことを考えないと。

 頭の準備体操な雑談は終わらせて、思考を切り替えた浅葱にモグワイは、ひとつの要望を出した。

 

『で、嬢ちゃんに頼みごとがある。有脚戦車(こいつ)に積んであるパッケージのプログラムを急ピッチで調整してくれねーか。ちっと地獄の釜からヤバいものが出やがった』

 

「これって、<戦車乗り>が<薄緑>って名付けた―――」

 

 

神縄湖付近

 

 

 ―――異変が、生じた。

 

 

 再会し、最低限の応急処置と情報交換ができるだけの小休止をし終えたその時、古城たちは目を剥いた。

 向こう―――ちょうど『神縄湖』のある地点、その上空数十mほどだったろう。

 そこで、空が捻じれていたのだ。

 光が収斂し、蜃気楼の如く空を歪ませている。厳しい冬の空はそこだけ陰鬱に淀み、細かな紫電を纏わせた上、強烈な風を地表へ吹きつけていた。

 

「………っ」

 

 自然現象としてはありえぬ出来事に、剣巫や六刃神官、そして霊媒としても優れた人質の王女たち――霊感を持つ少女たちは立ち竦む。

 単に、それが異常だからではない。

 異様だからではない。

 彼女たちが硬直させたのは、歪んだ空の下にあるナニカであった。

 光と音と風に飽き足らず、漆黒の闇そのものを吸い上げんとするような、その暴食の発生源からの波動に、少女たちは身震いしたのだ。

 

「あああああああああ――――――っ!」

 

「グレンダ!?」

 

 そして、真っ先に悲鳴を上げたのは、鋼色の髪の少女。

 激しく取り乱すグレンダを、呆然と動けないでいる唯里に変わって、クロウが必死で落ち着かせようとする。しかし、引き留めようとして掴んだ蒼銀の法被は、肩に羽織らせただけで、するりと脱げた。

 そして―――

 

「落ち着け、グレンダ! 目立ったら見つかるぞ―――っ!」

 

 恐慌状態の彼女に説得は届かず、凄まじい衝撃が襲った。

 グレンダの肉体が何十倍もの質量へと膨れ上がったのだ。<龍族化>だ。

 巨大な『龍族』となったグレンダはその龍の前脚でちょうど目前にいた、古城と雪菜、唯里と霧葉と片手に2人ずつと左右両手の指に捕まえられるだけ握り捕まえると、魔力を帯びた巨大な翼を大きく広げて、内臓を引き摺り出されるような強烈な加速で羽ばたいた。

 

 すぐあそこから離れないと―――と本能的な忌避感に従い、撤退する―――そんな間など与えず、『聖殲派』の“逆襲”は始まる。

 

 

 

 物理法則を無視した強烈な速度で、空へと舞いあがった<龍族化>したグレンダ。

 その叩きつけてくる暴風に息を詰まらせながら、遠ざかる地上を呆然と眺めていた古城は、ハッとして龍になった少女へ叫んだ。

 

「グレンダ、落ち着け! どこに行く気だ―――!?」

 

 しかしそれも興奮したグレンダの耳には届かない。恐怖に駆られた彼女は、行く当てもなくただ闇雲に、“追手”から遠く離れようとしているのだ。

 

 だが、どこへ逃げようとも安住の地はないだろう。

 すでに地獄の釜は開かれたのだから。

 

「ぇ……?」

 

 “追手”が何か。後ろを見て古城は、目を覆いたくなる状況を把握し、絶句した。

 龍が必死に逃げようとする方向には、空を埋め尽くすほどのモノが見えたのだ。

 

「何だ……あれは?」

 

 空を行く暗雲を、早回しで見ているようだった。

 あるいは、軍隊蟻の行進を目の当たりにしているような。

 その異様な光景を形作っているものの正体は、闇色の、生物だった。甲殻類を思わせるぬらりとした外骨格。3、4mの巨躯に、蝙蝠の翼を足したような、ヒトガタの生き物だった。そのシルエットのすべてが、膨大な黒い糸を束ねて作ったような、歪な怪物。

 ただし、どんな動物図鑑を紐解いても出てこないだろう。

 なにせ、魔獣と人間の“情報”を掛け合わせた合成生物(キメラ)であるのだから。

 ギョロリ、と。蛇にも似た縦長の瞳孔を持つ眼球が蠢き、脇目もふらず逃亡する鋼の『龍族』を一斉に捉える。“かつての共生関係であった<蜂蛇>の”、帰巣本能にも似た引き合う感覚に導かれるままに大群は追う。どこへ逃げようともこの引力は剥がすことはかなわない『沼の龍』特化の追跡者(ストーカー)―――

 

 

 そう、あれはまさしく悪竜が示す象徴だ。

 すなわち、異教異民族からの侵略者で、そして、悪に染まった『堕天使』。

 

 

「姫柊―――ちょっと行ってくる」

 

 そう言って、グレンダの前脚から身を抜け出す古城は、不安定な龍の背中の上へと昇っていった。

 古城がやろうとしていることに気づいて、雪菜が頬を強張らせた。

 

「先輩、ダメです。眷獣を使ったら、傷が、まだ―――」

 

「出し惜しみしてる場合じゃねェだろ―――疾く在れ(きやがれ)、<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>!」

 

 止めたいが、しかし急に掴まえられて<雪霞狼>を手放してしまった雪菜には、いや、この状況では槍があっても何もできないだろう。それは逆の手に捕まっている霧葉も同じで<霧豹双月>を落としてしまっている。

 対処できるのは、古城しかいない。

 絶え間ない震動と暴風に翻弄されながら、古城は右腕を合成生物の群へ突き出した。

 反動の痛苦に堪えながら、大気を捻じ曲げて現れたのは、緋色の双角獣(バイコーン)

 刹那、烈風が吹き荒れる。あたかも、無から有を生じさせた償いの如く、最大クラスの嵐が、その規模だけを圧縮されたかのように『堕天使』へと猛威を振るった。

 しかし『堕天使』は、古城の反撃を予測していたのか、取り乱すことなく羽ばたかせる双翼より、其々巨大な防御膜を展開した。

 緋色の双角獣の衝撃波は、しかしその正体は衝撃波の形をした魔力の塊。たとえそれが災害級の破壊力を生み出すものであっても魔力による直接攻撃であれば、虚無のヴェールは無効化にしてしまえる。

 

「やっぱり眷獣の攻撃は効かないのか……だったら!」

 

 眷獣の魔力を直撃させても、あの合成生物は倒せない。だが、一方で彼らが纏う漆黒のオーラが、かつて『賢者(ワイズマン)』が錬金術で生み出された錬鉄竜と同じ類のものであるのなら、ニーナ=アデラートが放った重金属粒子砲のような魔力によって発生させても魔力を伴わない攻撃ならば、ダメージを与えることができるか。

 思い至った古城の判断は早く、緋色の双角獣を『堕天使』の真上に位置取りをさせると、急降下を仕掛けさせた―――同時、眷獣の制御を完全に放棄して、濃縮された魔力を無制限に解放。

 

 ごおっ、と怪獣の雄叫びにも似た音が、世界をつんざいた。

 

 実体化を維持できなくなった眷獣は、巨大な震動と暴風に変化し、荒れ狂う無数の竜巻が、周囲の大気を撹拌する。

 鼓膜を軋ませるほどの気圧の激変に、地表を覆う木々は根こそぎ引き抜かれ、大量の土砂とともに宙を舞う。

 

 F5クラスのトルネードは、俗に『神の指』と称される。

 強固な建造物も吹き飛んでしまい、自動車大の物体がミサイルとなって100mを超過して空を飛び交う、そんな光景から、神が地球をその指で引っ掻き回すというイメージを覚えてこのような大仰な呼び名が付けられたそうだが。

 

 これはそれどころではない。

 

 まともな科学者なら、一笑に付して終わるはずの現象。

 現実に発生する確率はほぼ皆無とされる、F5を超えたF6クラスのトルネードという、桁外れの災害。未曾有の超壊滅的な被害をもたらすそれは神の指ならぬ鉤爪とでも喩えようか。

 稜線は削られて山々は形を変え、地形までも変えてしまう爪痕。都市ひとつに匹敵する広大な面積が、暴風に削られ掘り起こされていた。

 これが山奥の無人地帯でなければ、数万人規模の犠牲者が出たことだろう。そう、これが絃神島の上空で解放されていたら、人工島は跡形もなく消滅していたことだろう。

 この一個人にもたらされた天災以上の災害に、監視役の少女が顔面蒼白にし、改めて自身の監視対象の振り切れたデタラメさ加減を思い知る。

 それは久々に<第四真祖>の眷獣本来の威力を目の当たりにした監視対象の少年も同感で、言葉を失いながら、本当に普段から力をセーブしておいて良かったと、心から安堵する。

 

 して、この常識外れの暴風域に、合成生物の軍勢の半数以上は飛行困難となり失墜した。たとえ魔力の直撃を無効化する防護膜があっても、巨大な洗濯機に回されるかのように撹拌された大気までも対抗することはできなかった。

 しかし、3、4割ほど難を逃れた『堕天使』はおり、飛行姿勢を立て直しながら再びこちらへ迫ろうとして来る。

 

 加えて、最後尾より旅客機のような巨大な飛行物体が迫る。

 

「先輩! あれは……!?」

 

「なんだ!? 輸送機か……?」

 

 灰色に塗られたその機体は、軍用の輸送機によく似ていた。だが、機体側面には無数の砲門が設置されている。

 その只ならぬ巨大な機体は、『特殊攻魔連隊』の切り札『AC-2対地攻撃機(ガンシップ)』。

 輸送機として設計された機体に、大量の武器弾薬を積み込むことで、通常の輸送機にはあり得ない重武装と大火力が与えられた局地制圧用の攻撃機。

 今は『聖殲派』に鹵獲されており、禍々しい漆黒に塗り潰される。

 

 『聖殲派』は、兵器の性能をそのまま受け継いだ傀儡(ゴーレム)を造り出す能力を持つ。

 兵員輸送車は、骸骨の傀儡に、

 軍用戦闘機は、飛竜(ワイバーン)の傀儡に、

 装輪装甲車は、鎧竜(アンキロサウルス)の傀儡に、

 軍用輸送機(ティルトローター)は、化鯨(ケートス)の傀儡に、

 通常の生物にはあり得ないほどの堅牢さと攻撃力を持ち、そして、眷獣の魔力を無効化する怪物となった。

 であるなら、対地攻撃機(ガンシップ)を素体にして生み出された怪物は、一体どれほどの火力を持った怪物となるのか。

 

「くそっ―――!」

 

 対地攻撃機が咆哮した。

 巨大な機影は、最早航空機の体裁を捨てた。<龍族化>したグレンダを遥かに上回る巨体、そして九つの首をもつ『多頭龍(ヒュドラ)』と化す。対地攻撃機の“情報”をそのまま受け継いだ多頭の怪物が、必死に逃げる『龍族』に砲台照準(ターゲットロック)し、凄まじい勢いで漆黒の炎を吐いた。

 

「―――疾く在れ、『一番目』の眷獣、<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)>!」

 

 回避は無理と判断した古城が、右手を襲う激痛に耐えて召喚したのは、無謬の神羊。光り輝く眷獣は無数の金剛石(ダイアモンド)の結晶で、『多頭龍』の攻撃を防ぐための障壁を展開。

 この宝石の障壁に激突した物体は、必ず仕返し(カウンター)を受ける。<神羊の金剛>が象徴するのは、『報復』だ。

 

「黒い砲弾……だと!」

 

 だが、無類の硬度を誇る金剛石の結晶は、魔力無効化能力が付与されていた『多頭龍』の砲撃を前に悉く砕け散る。して、防護を破られたグレンダは、背中に漆黒の砲弾が直撃する。

 『龍族』の少女が苦悶に吼えた。

 

「グレンダ―――!?」

 

 唯里がグレンダを気遣うように懸命に呼びかける。その効果があったのか、グレンダがパニックに陥って、古城たちを振り落とすような最悪な事態は免れた。だが、このまま攻撃を受け続ければ、いずれグレンダは撃墜され、そして、古城に『多頭龍』の攻撃を防ぐ術はない。

 

「きゃあああああ―――っ!」

 

 第二撃目を喰らったグレンダは、ついに翼を羽ばたかせる力を失い、隕石のように山間へと墜落した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「間に合いませんでしたか……!」

 

 グレンダを止められず、置いてけぼりとなったクロウ。

 “先輩の落とし物”を拾うと、そこに息を切らして駆けつける小さな影。

 気配の方へ視線をやれば、そこには道着姿の白髪の女性がいた。気息こそ乱しているが、その立ち姿と歩法は、洗練されて綺麗だなと素直に思える。抜き身の薙刀を手に握りながら忙しなく首を回して視線を巡らす彼女は、自身の傍に眠る凪沙の姿を見つけて、大きく瞼を開いた。

 

「ん、お祖母ちゃんか?」

 

 それから、やっとクロウに気づく。

 視点を合わせた彼に、老婆は息を詰まらせた反応を見せたが、すぐ疲れたような溜息を洩らす。

 

「南宮九郎義経、でしたか」

 

「……………う、よく知ってるなオレの名前」

 

「ええ、あなたのことは調べましたので」

 

 久々にフルネームで呼ばれて、クロウはやや反応が遅れてしまったが、驚いたように大きく目を開いた。

 『南宮九郎義経』が、彩海学園の学生証や絃神島の住民登録で載せられている正式な名称である。

 ただし、長い名前が覚えられない当人は後半を以下省略で記憶に固定してしまっており、名付け親も基本的に『馬鹿犬』としか呼ばないし、担任も『クロウ君』で出席を取るので、知る者はまったくいない。少なくとも学内で呼ばれた記憶はなく、今もうっかり忘れかけてたほど、知る人ぞ知る本名だ。

 

「ん、その声、あの時凪沙ちゃんの電話に出たのはお前か?」

 

「よく覚えていましたね」

 

「オレは耳が良いからな。そうか、お前が凪沙ちゃんのお祖母ちゃんか」

 

 両者の確認が終わり、暁凪沙の祖母――暁緋紗乃は礼を述べた。

 

「南宮九郎義経……凪沙を助けてくれたのですね。礼を言います」

 

「オレは凪沙ちゃんを助けたくて助けた。それだけだぞ」

 

 感謝の言葉を告げてくる緋紗乃に、知人以外に感謝されるのに慣れていないクロウはその響きにくすぐったそうに身を揺らす。

 とにかく、これで暁凪沙の身の安全は、問題なくなったと判断した。

 

「―――じゃあ、行くのだ」

 

 『龍族(グレンダ)』の飛んで(にげて)いった方角へ、身を翻して蒼銀の法被を羽織りながら踵を返したのだ。

 

「っ、待ちなさい」

 

 と、慌てて緋紗乃が呼び止めた。

 一応足を止めたクロウに、彼女はわずかと言えども動揺を露わにした顔で訊ねてのである。

 

「それだけ、ですか?」

 

「それだけって?」

 

「いえ、あなたの介入を却下したのは私で―――この状況は我々の不始末です。こちらを批難する権利はあるかと思われます」

 

「どうでもいいよ、そんなの」

 

 あっけからんと、少年は言ったのだ。

 まるで、事故の賠償でも断るような、ひどく気軽な口調だった。

 

「だいたい、こうなったのをお祖母ちゃんが望んだわけじゃないし、凪沙ちゃんを助けるためにやってたんだろ。そんなの別に謝る必要も、謝らせる気もないぞ」

 

「……それは、そうですが」

 

 クロウの言い分を認めて、暁家の祖母は口ぐもる。

 対して、振り返った少年はふわりと唇をほころばせた。

 

「でもな、お前がどんな奴で、どういう“匂い”をしているのかだけは知りたかったのだ」

 

 瞼を伏せぎみにして、囁く。

 

「うん。それだけは知りたかったな。電話越しじゃわからないしな」

 

 にっこりと、笑ったのだ。

 空を覆い隠す暗雲の空模様なのに、まるで太陽みたいな笑顔だった。

 あの電話での会話以来、ずっと気にしていた、そう後輩(アスタルテ)にこのことを指摘されていた少年にとって―――それは久方ぶりに満開の笑みでもあった。

 

「お祖母ちゃんがいるなら、もうオレは凪沙ちゃんの傍にいなくても安心できる。―――これから、オレがオレであるために、オレのまま走り抜けるために、心置きなくできたのはよかった。それだけだな。だからありがとう」

 

 逆に頭を下げられて、暁家の祖母の方が狼狽えてしまう。

 二、三度大きく瞬きして、八雲の空を仰いだ。幾重にも折り重なった雲に陽の光は遮られる様は、この先に待ち構える困難を指しているようだが、その果てに光があることは決まっているのだ。

 そう、もう世代交代はとっくに済ませている、そんな己は巫女としての霊視も現役に敵わず、衰えて曇りゆく眼にはその光は見通せなくなっていくのだから、言えることなどそう多くあるはずもなかった。

 ただ、最後の心残りだけを口にした。

 

「……古城の事も、よろしくお願いします」

 

「ああ、わかった! 任せとけ、古城君にも好きだと告白されたからな!」

 

 踵を返した。

 思い切りの良い、何の未練も残さない返し方だった。

 

 

 

 

 

「……え、古城から告白?」

 

 息子の異性への手の早さの躾を失敗した緋紗乃は、まさか孫が別ベクトルの問題を抱えていたとは思わず、

 実際はまったくの誤解なのだが、あの息子を反面教師にした結果、衆道へと走ったのかと思い悩んだ祖母はしばらくそこで立ち竦むこととなった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 そして、少年は、自分と同じく置き去りにされた“兵器”達と相対する。

 

 

「今のオレに力は、ない」

 

 

 『波朧院フェスタ』で身に封じられた<守護獣>を奪われた時と同じく、<守護龍>が相手の手に渡っている。霊的経路は切断されず繋がっているままだが、それでも満足に戦える状態ではない。霊的経路は現在凍結されている状態と言ってもいい。

 

 

「そして、“お前”には器がない」

 

 

 地に刺さる二槍―――銀槍と双叉槍。

 霊力を吸い上げて神気へと変換する『七式突撃降魔機槍』は、疑似的な霊的中枢といえる。それも“担い手の肉体に影響を及ぼすほどの”極めて高出力な霊力回路。

 ―――これで、補う。

 

 

「だから、力を貸してもらう」

 

 

 槍二本をクロウは手に取り、

 

 

「代わりに、(オレ)を貸してやる!」

 

 

 かつて、<血途の魔女>は、死せた己の魂を宿らせようとしていた“器”。

 この昨日の暴走時で対峙した感じた銀槍に宿る意思を目一杯に吸い込み―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 デットヒートは、わずかに数十秒。

 しかし、当事者の体感は数十分にも勝った。

 

「………っ!」

 

 息が、できない。

 『龍族』の加速度(G)が、古城の内臓を押さえつけていた。肺腑が三分の一に潰され、骨肉が軋む。神経は残らず悲鳴を上げ、妨げられた血流が爪先に偏向し、視界の色調が失われる(グレイアウト)

 

「……きや……がれ……」

 

 呻き声さえ、風圧に持っていかれた。

 それでも、墜落速度は加速する。古城は竜の背鰭にしがみつく。だが、右手の手応えはない。感覚を喪失した右手が動かないのだ。<静寂破り>に貫かれた負傷が原因だ。

 やばい―――と頼りない浮遊感に襲われながら、古城は左手ひとつで背鰭に掴む。

 空気の壁は、ほとんど剛体と化している。

 要塞に、自らという槍を突き立てるようにして突き進んでいる。この状態でいつまで片手で姿勢を支えられるか。

 

「お……お……おぉぉぉぉ……!」

 

 地表が、近づく。

 近づいてくる。

 早く対処しなければマズい。『龍族』の質量を考えてこのまま頭から激突すれば、クレーターどころですまないのは明らかだ。そして、自分たちはただでは済まない。

 そう覚悟した瞬間、古城の身体に誰かに抱きつかれた。

 

「先輩!」

 

 この状況下で、龍の手から出てきた雪菜が、右手で背鰭を掴みながら半ば浮遊する古城の身体を左手で捕まえていた。呪力で筋力を無理やり強化して、そのまま力尽くでこちらに引き寄せる。

 

「しっかりつかまってください!」

 

 姫柊! 悪い、助かった!

 

 雪菜の支えにどうにか姿勢を安定させることができた古城は、視界に迫る地面を殴るように右腕を突き出した。

 

 

「―――<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>!」

 

 

 地表に激突する間際、暁古城は眷獣の召喚に成功する。

 この巨大な甲殻獣の象徴するのは、『霧化』。自らの肉体を霧に変化させて移動するのは、多くの吸血鬼が持つ特殊能力であるが、本人だけでなく周囲の物体のすべてを、まとめて霧に変える現象を起こせるほどのモノは普通はありえない。もし制御を誤れば、そのまま雲散霧消しかねない危険な綱渡りを、どうにか渡り切ることができた。

 

「来るわよ!」

 

 しかし、難を逃れたわけではない。

 人型に戻り、撃たれた痛みに呻いているグレンダ、彼女を抱く唯里は奇怪な魔力の群れが、こちらに近づくのを感じ、古城に肩を貸す雪菜に、呪符を構える霧葉も警戒を最大限にまで張り詰めさせ。

 そして、『堕天使』たちが舞い下りる。

 『堕天使』に周りを囲まれ、頭上をとっている『多頭龍』よりひとり騎士鎧を身に纏う『堕天使』、古城たちの前に降り立つ。

 

「安座真三佐……」

 

「ほう、私だとわかるのか、羽波攻魔官」

 

 この唯一騎士鎧の魔具を着込んでいる――唯一“自意識のある”『堕天使』に、唯里が呟く。

 『特殊攻魔連隊』の指揮官であり、『聖殲派』の隊長格。<蜂蛇>の“情報”を取り込んでしまっているようだが、猟犬のような風貌は上書きされてはいない。

 しかし、彼は奇妙な威厳を備えた、張りのあるバリトンの声を羽波唯里―――ではなく、古城へと向けた。

 

「暁古城……君と少し話がしたくてね」

 

「俺と?」

 

 初対面であるはずの安座真から思いがけない言葉に、古城は訝しげに眉を寄せた。

 安座真は重々しく頷いて見せ、

 

「ああ。立場上、私は君が<第四真祖>になった事情を、多少は知っている―――防衛省の幹部でもほとんど知りえない情報だがね」

 

「なにが言いたい?」

 

 渋面を作る古城。見ず知らずの相手に自分の過去を知っていると告げられて、心中穏やかでいられるわけがない。けれど、安座真は異様なほど真摯な眼差しで古城と相対していた。

 

 そして、安座真は、グレンダの正体。『咎神』の遺産であり、『聖殲』の鍵となるもの。世界を支配する力であり、滅びた『咎神』を蘇らせて、それを操る―――これが『聖殲派』の目的であると語る。

 カインを信奉しているのではなく、その逆、カインが生み出してきたものすべてを否定するために行動している彼らには、グレンダの“情報”がどうしても必要なのだ、と。

 

「これは君にも無関係な話ではない。暁古城、かつて人間だった君にはわかるはずだ。魔族の力が、如何に世界を滅ぼしうる危険なものであるかを。ならば、世界を歪ませる異分子である魔族を滅ぼさない限り、世界は本来あるべき姿へは戻らない」

 

 すべての魔族を滅ぼすために、魔族を生み出した神を利用する。安座真の真の目的は、歪であるものの確かに筋は通っているだろう。

 

「そして、世界が正しい姿に戻ることは、君自身にとっての福音になるはずだ、暁古城―――我々は君を不老不死の呪いから解き放ち、人間としての死を与えてやれる」

 

 冷厳な口調で告げる安座真は、要は『怪物として、たったひとりで何千年も生き続けるくらいなら、人間として死ね』と古城に伝えているのだ。

 バカげた理屈ではあるが、一方で、魅力的な提案でもある。

 永久の寿命を与えられた吸血鬼はいつかすべてに飽いて、程度に差こそあれど狂う。どこまでも強者との殺戮を望むヴァトラーは極まった一例であれど、少数派ではないのだ。これまで古城が会ってきた『旧き世代』は、誰もが戦闘を欲していた。

 そんな未来を予感し、また永劫の孤独がいずれ訪れるのを考えれば、解放されたいと願うのは古城も思う。そんなのは一人で抱え込むには、正直あまりに重すぎる。もとより不老不死の吸血鬼の力など、古城が望んで手に入れたわけでもなく、それを捨て去ることに抵抗はない。不死とはまさしく神が与えし呪いなのだから。

 

 その苦悩を取り除いてやるから、自分たちの邪魔をするな、と安座真は古城に言いたいのだ。

 

「考えようによっては、まあ、悪くない提案だよな……あんたの言うことが本当なら」

「先輩……!」

 

 安座真の主義主張の正当性を認めた古城に、雪菜は怒りを露わに反応した。

 彼女の眼には自暴自棄に古城の姿は映ったことだろう。<第四真祖>の抹殺任務を与えられて古城の監視をしている雪菜がそう反対するのは、理屈に合わないことだろう。

 しかし、古城は曖昧な苦笑を洩らしながら、彼女に申し訳なく思った。

 雪菜は監視役であるが、同時に、先輩が重責に押し潰されそうになるのなら<第四真祖>の重荷を背負うといってくれたのもまた雪菜であるのだから。

 ならば、怒るのは当然だ。これは道理ではない。それ以前の問題で、この少女の信を茶化すようなことした―――もっとも、古城はそんなつもりで呟きを洩らしたわけではないのだが。

 

「あんたの話は少しだけ魅力的だったよ、安座真三佐」

 

 “浮気”しかけたくらいに。

 

「だけど、ひとつ訊かせてくれ。今のあんた以外の『堕天使(ぜんいん)』が正気を失ってるみたいだが、こいつらはお仲間なんだろ。どうするつもりなんだ?」

 

「決まっている。グレンダを手に入れたのちに、“情報”だけを回収して介錯(ころ)してやるのだ。魔族に堕ちて戻れぬというのならば、いっそ死なせてやるのが慈悲だろう。これで同士の大半を犠牲にしてしまうことだが、まあ、グレンダを手に入れれば帳尻は合う」

 

 安座真の言葉に、雪菜らが表情を凍らせる。

 彼が本気であるのは、変わらない声調からわかる。『聖殲派』の信念を聴いていれば、その回答は十分に予想できたこと。

 

「話は終わりだな、暁古城。グレンダを置いてここから立ち去れ。このまま争っても無用な犠牲を生むだけだというのはわかっているだろう?」

 

 最終通告をする安座真に、古城は牙を剥きながら獰猛に笑った。

 

「やっぱできねぇ。『聖殲派(あんたら)』のせいで、負傷した無関係の隊員も大勢いたはずだ。それに仲間をあっさり切り捨てるようなあんたは信用できねーし、そんな相手にグレンダは渡せねぇな」

 

「そうか……残念だよ、<第四真祖>。だが、我らには『器』が必要だ。人工島管理公社に対抗するために」

 

「人工島管理公社……だと? 絃神島に何の関係が……!?」

 

 安座真が飛翔し、空中で待機している『多頭龍』へ向かう。

 そのときに吐かれた自らと関わりのある言葉に、声を張り上げて問う古城だが、返ってきたのは初めて生の感情をむき出しにした声音からの―――死刑宣告。

 

「魔族に堕ちたまま死ぬ貴様が何を知ろうと無駄な事だ!

 

 

 

 ―――<女教皇>、<第四真祖>に『聖殲』の呪いを」

 

 

 その時、霧に湿っていた空気が一瞬にして凍りつく。

 心臓は高く響きながらも、心拍数を下げていた。

 何か、よくないモノをこいつは今呼んだ。

 それとは遭遇してはいけない。

 そう、頭よりも身体が理解しているというのに、逃げようという命令を身体が拒否している。

 

 逃げるのは無駄だ、と。

 呼ばれてしまったからにはけして逃れられないと、逃走を拒否している。

 

 

 いや、これはもうすでに終わっていた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 誰もが反応できない差し込まれた“雑音”。

 このコンマ一秒もない刹那の出来事。

 古城の足元から、ばっくりと火のようにアカい牙が(あぎと)を開いたのだ。

 

「―――っ!」

 

 今日が晴天であれば、おそらくは古城の影が落ちていただろう地点。その深淵から古城の身体を圧し拉ぐように、大の男の数倍はあろうかという巨体が姿を現す。鉄の鑢を擦り合わせるような奇怪な唸り声を上げる、いくつもいくつも竜の頭を絡ませ合った緋色の怪物。

 

「―――お前、は」

 

 これ以上の声は、喉の外に出てこない。

 純粋に生理的な恐怖が、喉の奥からつきあがった。

 

「先輩―――!」

 

 咄嗟に突き飛ばそうとした雪菜は、逆に古城に押し出された。

 

「っ、下がりなさい姫柊雪菜!」

 

 押し出された雪菜の身体を受け止めるのは、霧葉。

 彼女たちが、驚愕に見開いた目に移ったのは、古城の全身に噛みつく緋色の龍頭。

 

「まま―――っ!?」

 

 この怪獣の正体を直視して、唯里の腕の中で、グレンダが泣き叫ぶように悲痛な声を上げた。

 

「ぐ……はっ……!」

 

 古城の吸血鬼の力までも奪われているか。自らの眷獣を喚び出すこともできず、声もなく鮮血を吐く。近くにいた雪菜を突き飛ばしただけで精一杯だった。

 

「こっちに、くるな……グレンダを連れて……逃げ……」

 

 捕まえる霧葉を振り払って自分に駆け寄ってきそうな雪菜を、古城は目の動きだけで制止する。迂闊に今の古城に触れたら、その者まで虚無に呑まれる。ならば、こうして“食事”に集中している間に、逃げろ、と。

 剣巫と六刃神官が揃っているが、彼女たちの手には『六式降魔剣・改』も『乙型呪装二又槍』もなく、なにより『七式突撃降魔機槍』、獅子王機関の秘奥兵器。真祖殺しの破魔の槍―――この『異境』に対抗できる手段である武器がない。

 

 『多頭龍』と『堕天使』に対抗はできずとも牽制はできた<第四真祖>の古城が倒れてしまえばもう逃げの一択しかないのだ。

 

「―――」

 

 闇色ではない緋色の『異境』に侵食される古城は、震える身体、麻痺した首を動かす。

 この怪物を使役する魔力のラインを辿り、視線を向ける。

 

 ―――そこに。

 

 その『巫女』は立っていた。

 

「―――」

 

 空間が歪んでいる。

 それが自分だけの錯覚、あるいは極度の緊張から来る平衡感覚の乱れなのだと信じたい。

 

 それは鮮血のシャワーを浴びたかのように全身を緋が覆っている。

 巫女が着ているのは、優美な法衣と化した、反転した魔獣の皮衣。

 少女自身の身体のラインを失わぬまま、ドレスにも似た緋色の胸甲(プレート)と滑らかな脚甲(グリーブ)が形成され、その右腕は手の代わりに乱雑に刺した生け花のように銃火器が生えていた。

 ほう、と悩ましげについた吐息さえも、その鎧の一部と見える。

 

「―――」

 

 誰も動けない。

 その戦慄から動きようにも動けない。

 深海に棲んでいた魔物。深淵に封印されていた怪獣。

 そして、『聖殲』による統べるべき神を失い、放逐された異世界より這い上がった巫女。

 

「『永劫の孤独の世界へ堕ちるがいい、<第四真祖>』」

 

 タールのような呪詛に、その血だまりのような緋色の影から這い上がってくるようにそれは全容を晒す。

 不倶戴天の、『赤竜(サマエル)』の威容。

 十本のねじくれた角と、七つの獰猛な頭。

 それぞれの角にそれぞれの王冠を掲げ、その火のように真紅の牙といい爪といい鱗といい、ありとあらゆる攻撃的な形態をその巨大な身で体現している。

 

 今、この時、この場は『異境』に侵食された。

 領域で彼女が神だ。反抗は死を意味する。

 

「『ク……クク……これでひとつ……ッ!』」

 

 己の影と一体化した『赤竜』を足元に敷きながら世界を侵し、血だまりの影に<第四真祖>を呑み込む。

 絶頂を堪えるように自分の身体を抱いて、<女教皇>は熱い息を吐いた。

 

 

 

 ―――その時、思いがけない行動に出たものがいた。

 

 

 

「うぅ―――――っ!」

 

 緋色の影、この<第四真祖>が呑み込まれた不知火の海に自ら飛び込んだのは、グレンダ。『赤竜』に対峙しながら臆さず、グレンダだけは古城の後を追っていった。

 

「グ……グレンダ!?」

 

「『なに……!?』」

 

 驚いたのは、唯里たちだけではなかった。『赤竜』を使役していたはずの巫女自身も、予期せぬ結末に呆然としている。

 

「『『器』が自ら『異境』に呑みこまれた……何故……こんな自殺まがいの真似を……!』」

 

 自失したような口調で、巫女が呻く。

 『赤竜』の影に喰われた存在を早急に“情報”を喪失させない内に取り出さんと<女教皇>が手を伸ばそうとするも―――それが、現れた。

 

 

 空間転移じみた音速を超えた速度。

 その飛翔するかのような疾走で、単なる移動で生じたソニックブームで邪魔な障害を撥ね飛ばしながら、突撃して、

 

 

「『<雪霞狼>―――!』」

 

 

 一息で練り上げた霊力を『神格振動波駆動術式』が刻まれる刀身に注ぎ込む。

 破魔の銀槍が眩い蒼白の光を発し、屹立する巨大な刃を形成して、この場を侵食する『異境(ノド)』をばっさりと斬り裂いた。バターでも切るようにあっさりと、淀みなく、空間そのものがぱっくりと断ち切られて。爆発する剣圧が残滓を払拭し包囲する『堕天使』を掃い飛ばした。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 剣巫と六刃神官、そして『聖殲派』までも、誰もが想像しえなかった現象が勃発したのだ。

 

 ―――な、なんだ、あれはっ?

 

 『多頭龍』より観測していた安座真は両目を見開いた。全身に冷や水を浴びせられたような―――それでいて、身体を内側から炙られるような錯覚がした。

 

 <女教皇>の支配を断ち切ったのは、ひとりの少年。

 銀槍と双叉槍を左右に飛翼の如く構えて、全身から凄まじい霊威を放っていた。

 

(あれは、まさか―――!?)

 

 力の強弱など超越した、圧倒的な霊的存在感。これまでに“たった一度だけ”、雪菜が触れたことのある、眩くも凍てつくような―――視ただけで畏怖の念に打ち据えられる感覚だった。

 荘厳にして峻厳な気配。そして、その神々しさは“人ならぬ者”。

 

「『死者の妄念、その写し身よ。死してなお世を騒がそうとするあなたは“有って”はならない』」

 

 そして、その者は一歩だけ前に出た。

 その足捌きはあまりに自然で、『雑音』を挟み込んだわけでもないのに、誰も反応することさえできなかった。

 何か違う、と。

 別のものだと感じ取る。

 そのただならぬ変化に息を呑む中で、彼はさらに歩いてくる。

 散歩するように気負いのない、自然な足取り。その中途で、『南宮クロウ』は静かやかに口を開けた。

 

「『神狼の巫女』」

 

 眠そうな、力みのない眼差しを向けられた少女が目を見開く。

 

「クロウ……くん……? ―――違う、誰……!」

 

 剣巫が瞳を険しくする。

 半ば動物的な直感が、その事実に辿り着かせたのだ。

 今、彼を動かす意識が、自らの級友ではなくなっているということに。

 

 その輪郭を清澄な青白い輝きで縁取り、神秘的に彩っている。金色の双眸は妖しくも直視し難い光を宿し、辺りにさっと流し見る眼差しは、それを受けた者の胸中を激しく掻き乱した。

 ただそこにいるというだけで周囲の霊体を束縛する、圧倒的なまでの霊的存在感。

 

 彼は“入って”いた。いいや、“入られて”いるが正しい。『七式突撃降魔機槍・改』より醸される人工神気が飛躍的に純度を増し始めている。しかも止まらない。霊威が増大し続けていく。これでまだ“途中”なのだ。そして、さらに“先”へ、踏み出そうとしている。

 

 

「『見ていなさい、<雪霞狼>の真髄と―――その末路を』」

 

 

 そして―――

 呆然とする霧葉と唯里を目配せで下がらせて、神気が爆発する。

 

 

「っ!?」

 

 <雪霞狼>の表面に浮き上がるものと同じ、複雑な魔術の紋様が、虚空に描き出される。それはあたかも翼のような姿となって、『南宮クロウ』の背中から広がっていく。彼の背後に重なる強大な存在が、『南宮クロウ』という殺神兵器を完了する“器”を媒体に、雪菜たちの認識内に――現世に顕現しようとしていた。

 

「ぁ―――」

 

 巫女たちに強烈な悪寒と、そして法悦が、霊媒の身体の芯を貫いた。

 彼は、“憑依”されている。

 そして、その使われているのは、人間ではなく、模造であっても世界に溶け込んだ意思たる者であるのなら、それはもはや、最も原始的で、最も根源的な―――そして、最も危険な呪術のひとつ、<神懸り>だ。

 

 もはや彼は完全にトランス状態にあった。

 世界の壁に穴が空き、異なる次元から流れ出てくるように、高次空間から彼の身体を起点とし莫大な神気が、止めどなく現世に溢れ出た。

 

「『<雪霞狼>、そして、<霧豹双月>。今だけ私に力を貸し与えなさい』」

 

 姫柊雪菜の銀槍と妃崎霧葉の双叉槍を構える二槍流。

 人造の天使となった者が放つ、神の威。まるで荒ぶる御魂の宴のように、平衡を保っていた『神緒田地区』の霊地にある陰と陽が、猛々しく踊り始める。

 

「何をしている! あのものを殺すのだ! <女教皇>に近づけさせるな!」

 

 安座真の怒号に、その立ち位置の一ヵ所へ雪崩れ込むように『堕天使』が一斉に襲い掛かり、上空より『多頭龍』が雨霰の砲弾をばら撒く。

 

 しかし、黄金の一閃が、この身を害するものの存在を許さない。

 

 腕一つで長物を振るう剛腕ぶり。その剣速は迅雷。切れ味など言うまでもなし。たとえ玉鋼でできていようが、薄紙同然に斬り裂くのみ。

 銀槍に『異境』が一刀の元で両断し、祓い清めると、続く双叉槍が光を放つ。

 備わっていないはずの『神格振動波駆動術式』の紋様が刀身に走り、その刃先より桁外れの霊力を迸らせ、二連撃の、眩いばかりの黄金で照らし上げる

 

 『堕天使』の軍勢、『多頭龍』の傀儡を鎧袖一触して、『巫女』に二槍の天使は迫った。

 

「『―――来るな!』」

 

 <女教皇>の右腕<栄光の右腕>は、片手間で一部隊の一斉射撃を可能とする制圧力をもった腕だ。彼女は飛ぶように二槍を大きく広げて疾駆する『天敵』の周囲の空間を睨み、そのまま光景ごと蜂の巣にする。そこに一切の逃げ場はない。

 幾重に合唱するように炸裂した銃声、緋色の『異境』に侵食させた魔力を無効化する弾幕に塗り潰された瞬間に、『天敵』の敗北は決定的である。

 だが。

 <女教皇>は見た。

 自身の叫びより遅く動き出した『天敵』が、自身の叫びよりも速く活動するするその異様を。

 銀槍を持った腕が跳ね上がる。それは閃光とさえ錯覚するほどの速度。上段に掲げられた槍は、なおもってそれ以上の速さで振り下ろされた。

 

 (バン)、という銃声が。

 (ザン)、という刃音に両断された。

 

 『異境』で塗り潰すはずの空間の侵食は、<雪霞狼>の一閃で、その侵食ごと壊されたのだ。

 破魔の銀槍はその軌跡通りに光を放ち、『異境』の影を消滅させる。

 そればかりか、視界を塗り替えたほどの莫大な光と熱は、弾幕の嵐を薙ぎ払い―――留まることを知らない斬閃の余波は、その延長線上にあった『巫女』の<栄光の右腕>を斬り飛ばして、先の山間に龍の爪痕のような裂け目が奔らせ、衝撃波を暴れ回わらせる。

 破壊力の乱気流。そんな壮絶な光の乱舞する嵐の中、斬り祓われて浄化された『霊血』の右腕が、眼前を横切っていくのを<女教皇>は見た。

 

 ……なんだ、これは!?

 

 『巫女』は内心に呟いて、額に汗が伝う。

 背骨から蜘蛛が伝うような、さわさわと内臓を染み入る寒気がある。

 それが吐き気というものだと亡者の念は思い出した。

 

「『っ、何を畏れる!』」

 

 自らの弱気を<女教皇>は叱咤して、相手を改めて見据える。

 カッ、と蒼く点る純金の双眸が大きく開かれた『天敵』

 視線を通わせたこのとき。

 ―――<女教皇>は憎悪からではなく、ただ純粋に、畏れからこの相手を殺さなければならないと直感した。

 

「『私には、世界を滅ぼしうる『百王』の力を手にしたっ!』」

 

 『巫女』を守るべく、足元に踏まれる影より『赤竜』が出る。

 『赤竜』の首が、『天敵』の動きを牽制する。しかし構わず大地を蹴って、<第四真祖>をも喰らった不知火の影の領域に飛び込む。

 波立つ緋色の影の津波は、銀槍の『神格振動波』に飛沫となって弾き飛ばされるも、続く双叉槍の刃を『赤竜』の首が防いでいく。

 <守護獣>とも言うべき、鉄壁の防御。驚くべきことに『赤竜』は、『天敵』の双槍乱舞の絶技を阻むほどの神速と精緻さも兼ね備えていた。

 

 ならば、こちらはさらに上げる。

 

「『獅子の巫女たる高神の剣巫が願い奉る―――』」

 

 『天敵』が囁く。

 激しい動きの最中にも拘らず、その声音には一切の揺れがない。

 鍛え抜かれたこの『器』の内攻は、臓器や神経からして常人とは別物に造り込まれ、『天敵』の神業を支えている。

 『意思を持つ武器(インテリジェントウェポン)』と化した武神具に染みついた想念を嗅ぎ取って憑依させるだけでなく、最高性能の肉体はとても“使い易い”。

 

「『破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!』」

 

 一息で呪句を唱えるとともに、霊的回路を深化し、もう一段階ギアを上げる。

 全力にならなければ、こちらがやられると、そう判断した。

 

 

 同じく致命な危機を予感した『赤竜』は七つの頭のうちひとつで<女教皇>自身を持ち上げて避難させると、三つの頭で二槍の撃ち込みをしのぎながら、残り三つの頭が嵐の如く空気を吸った。

 

 

 大地を蹴って、天空を舞い跳ぶ『天敵』。

 より強く、より速く、絶妙なる神気の流れに統御されて、<雪霞狼>の刃は不知火の『異境』に清冽な弧を描かんとする。

 

 

 『巫女』は、『仮面』に篭められた残り二回の“情報”量しかない切り札――<静寂破り>を使う。

 絶対先制権を行使し、攻撃される前に存在を消し飛ばす。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『赤竜』の三つ首より放たれた猛烈な吐息は緋色の炎となって、『天敵』の舞う空一面を容赦なく薙ぎ払う。その温度が如何なる次元に達したか、多重に炸裂した水蒸気爆発は『赤竜』に庇われた巫女の黒髪を、大きく垂直に靡かせた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『天敵』は、『赤竜』の炎を、そして、『雑音』を“すり抜けて”行動する。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 蜃気楼のようにあらゆる干渉を透り抜ける。

 それは、<模造天使(エンジェル・フォウ)>と同じ、現世よりも高みにある異次元の領域に立つ者が纏う『余剰次元薄膜(EDM)』の発動。

 

 

「『私が知る『閑古詠』はこの程度ではなかったわよ、泥棒猫(コピーキャット)』」

 

 

 絶対先制権を無視する『天敵』は、銀槍の一太刀を『巫女』に浴びせて、『赤竜』を双叉槍の一突きを見舞わせた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『堕天使』も、『多頭龍』も、そして、『巫女』さえも圧倒し……しかし、倒し切ることはできず、『南宮クロウ』の肉体(うつわ)を借りた『天敵』は立ち止まる。

 

「『時間、切れですね』」

 

 振り返り、立ち尽くす雪菜を、“彼女”は静かな微笑を湛えたまま見つめる。

 すべてを許し抱擁する菩薩のように、そして、聖処女に剣を与えた天使のように。

 

「『以前の暴走は、<雪霞狼>が完全にあなたのものではなかったから。『槍を渡したくない』という想念が邪魔をしたのです』」

 

 または、魔除けを施したヒメヒイラギの枝を渡してくれた最期のように。

 

「『しかし、私という残留思念は、これで槍から離れることとなります。これで、十全に<雪霞狼>はあなたのものになる』」

 

 銀槍を差し出し、穏やかに告げる。

 

「『あなたはもう先見()えていることでしょう。それでも覚悟があるのなら、振るいなさい』」

 

 同級生の姿で、しかし同級生ではないその意思。

 雪菜はもうその正体を悟っている。

 

「冬佳……様、なんですね……!」

 

 雪菜は薄らいでいく気配に縋るように。

 

「……私は! 私は、冬佳様に救われて、でも、そのせいであなたは―――」

 

 ぴと、と。

 これ以上の言わなくてもいい言葉を吐かさせぬよう、人差し指を当てて、少女の口を塞がせた。

 

 助けるのに理由はいらない、そう自身に最初に言ってくれた“彼女”は、やはりあの時と変わらぬ微笑を湛えて、

 

「『大きく、なりましたね。神狼の巫女―――いえ、姫柊雪菜……』」

 

 掠れいく声が、耳に届く。

 “彼女”の胸に残る未練はひとつあるがそれをおくびにも出すことなく、この少女に視線を真っ直ぐに、

 

「『この槍からずっと見てきましたが、あなたの成長が、私には誇らしい―――きっとあなたなら、初代(わたし)を超えていける』」

 

 それは、この上ない別れの言葉だった。

 ……担い手の末路は変わるかもしれない。

 自分と同じ槍に選ばれ、そして同じ道を辿っていこうとする少女に、違う未来があるのならそこへ至ってほしい。

 そんな希望が込められた、遠い言葉。

 

「――――――――冬佳、様」

 

 ……けれど、たとえそうなれたとしても、それでも―――既に現象に進化してしまっている彼女は、人間に戻るということはない。

 もう別の領域にある存在。

 如何様な救いも届きはしない。

 それを承知した上で、少女は頷いた。

 すべてを“彼女”からもらうように受け継いで、けれど何も与えられないからこそ、最後に、真っ直ぐな笑みを返すのだ。

 

「はいっ」

 

 このエールを送ってくれた“彼女”の信頼に、精一杯応えるように。

 

「『そう―――これで、やっと槍を渡せます』」

 

 忘れぬようその自分の憧れた理想を目に焼き付けて、ゆっくりと目蓋を閉じて―――ざあ、という音に目を開けた時、“彼女”はいなくなっていた。

 

 

 そして、<雪霞狼>は、次代の手に渡った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「あれは―――!」

 

 

 ……傍観者であった青年が見たものは少年ではない。

 それは、遠い記憶にある女。

 いつの時も色褪せずに心にいた、最初の銀槍の使い手の剣巫。

 ―――七年前。

 異邦の女神に祀られる少女を救う為、先代の『閑古詠』に見放されながらも奮戦し、現象へと昇華した唯一の温もり。

 

 

「冬佳! 君はまだ―――!」

 

 

キーストーンゲート 人工島管理公社保安部

 

 

 私の『眷獣(サーヴァント)』と誇りながら、どうあっても『怪物』と己を卑下する。

 それは仕方がない。

 その生い立ちと、性格が形成される環境が原因だ。人間と魔族の共生する『魔族特区』においても、向けられた後ろ指の数はこちらの予想だにしなかった、測り知ることのできないほど多いものだった。それであっても、拾い物したころから純真であることが変わらないでいられたのは、奇蹟のようなものだろう。もしひねくれた性格に歪むものなら叩いて矯正してやったものの、その必要がないほどにバカであった。したのは、時折、自信を失くしてひよった時にひっぱたいて躾けてやったくらいだ。

 

 だから、それにはひどく勇気が求められる。

 

 ―――好きになってもいいのか?

 などと訊いたのは、相手を自分よりも好いているからこそ、卑屈になる。そして、そんな胸の裡に抱え込んだ卑屈さを打ち明けられるほど、惚れた張れたなどと低俗な表現では言い表せない懊悩が、あのとき言葉にして溢れ出た。

 あれほどに回答を悩まされるものはなかっただろう。答えを言ってしまえば、馬鹿犬は『うんそうか』とそのまま鵜呑みして納得することだろう。だが、それはあまりに軽率な行為だ。下手に理解しやすいよう切り分けるような真似はせず、自分で噛み砕かせてきちんと消化させてやるべきだ。

 あれは、もう、口に食べやすく咀嚼したエサを入れてやるだけの雛鳥ではないのだから……

 自分自身で名前を付けるべきその想いに対し、迂闊に名状することはできず、結局は、具体的な説法は避けて『そんな馬鹿なことをいちいち私に言うな』といつもの叱りつける際の扇子からの空間衝撃による肉体言語(コミュニケーション)に走ってしまったが、

 それで、少しだけ吹っ切れたような面を見せて、うんうん、と納得したようにうなずいて、

 

『そうか、ご主人に言わなくていい。う、そうだよな。オレが、バカだったぞ』

 

 きっと叩きすぎた結果、チャンネルのつきの悪くなったテレビのように壊れたのだろう。

 

 

 

『英語の授業で習ったけど、こういう表現は日本語では『月が綺麗ですね』って言うんだろ―――なら、オレが見てきた“お月様”はいつも綺麗だからな』

 

 

 

 無言でこのとんでもなく馬鹿な眷獣(サーヴァント)を空間制御ではなく斜め45度から扇子によるおうふくハリセンで叩きまくった。

 

 

 

 かつて『仮面憑き』の少女たちを診ていた病院の手術室に似た部屋。その高度な医療機器と生命維持が用意された中央に置かれるベットに今は、両腕のない男が眠っている。

 最下層の牢獄にて発見された天塚汞。一先ず峠を超えた彼の身体を検分中、国家攻魔官の南宮那月は低い険のある声で呼びかけられた。

 

「私の許可を得ず、<黒妖犬(ヘルハウンド)>を本土へ出向させてくれたな、<空隙の魔女>」

 

 振り向いて(まみ)えたのは、眼光鋭い紋付き袴姿の男。

 年齢は50代の半ば。けして大柄ではないが、凄まじい威圧感がある。中世の剣豪を思わせる雰囲気の持ち主だ。

 長い黒髪の童顔の魔女は、その容姿をより人形に近づけさせる無表情で男を応対する。

 

「今は捜査中だ、矢瀬顕重」

 

 人工島管理公社名誉理事にして、多数の巨大企業を傘下に持つ名門矢瀬家の最高権力者―――矢瀬顕重。那月の受け持つクラスの生徒である矢瀬基樹の実の父親だ。

 

「そこの人工生命体(ホムンクルス)のことなど調べて何になる。それよりも、私に何か言うべきことがあるのではないか、南宮那月」

 

「息子の見舞いに行ってやらんでもいいのか?」

 

「ふん。『覗き屋(ヘイムダル)』なら問題はない。また“使える”。まんまと賊にやられおって……そんなどうでもいいことを訊いているのではない」

 

 顕重は実の息子の容体を瑣事と一蹴し、那月を恫喝する。

 

「以前、北欧に派遣したこともあったが、あの時とは状況は違う。<黒妖犬>は、『棺桶』の墓守に選定された。<監獄結界(きさま)>と同じこの絃神島に重要な装置となった。

 ―――わかるか? 貴様には預けているだけだ。本来であるのなら、我々理事会の手元で管理しなければならないのだあれは」

 

「絶対に裏切らない保障がなければ安心できないということか」

 

「鋼の忠誠は“兵器”であるなら当然のことだ。でなければ、置き場はないと思え」

 

 侮蔑の色を篭めて吐かれたその文句は、脅しではない。巨大組織を統帥する財閥の長であり『魔族特区』の名誉理事の権力は国家攻魔官に対抗できるものではないのだ。

 そして、矢瀬顕重のような性格の男が、自分の支配できない存在を、本気で認めることはけしてない。

 その冷厳な眼差しを見取った那月は、ふ、と息を吐き、虚空に手を伸ばし予め用意していた物を取り出す。

 呪字が書き込まれた硝子の瓶詰にされた拳大の赤い物体。それを顕重へ無造作に放る。

 

「これは……」

 

「“心臓の肉1ポンド”。ヴェニスの強欲な商人が用いたとされる、伝説的な契約法だ」

 

 切断するのではなく、空間を歪曲させた異界を経由して、繋がったまま手の内に心臓を置く。生き別れになるが、心臓は瓶の中で問題なく拍動している。

 

馬鹿犬(あれ)心臓(これ)を知らんが。だが、取り扱いには気をつけろ。知ったら何としてでも取り返しにくる。あのタフさは心臓を潰されても噛みついてくるだろうからな。だから、それは最後の手段だ。迂闊に出すなよ?」

 

 無防備に晒される心臓、この中々に洒落の利いた魔女の保険に、初めて矢瀬顕重は獰猛な笑みを浮かべた

 

「これで、<黒妖犬>も、こちらの手の内ということか」

 

「安全策はこれで十分だろう。飼い犬に手を噛まれる心配は余計だ」

 

「油断ならんな<空隙の魔女>。『首輪』以外にこのような奥の手を用意していたとはな。見直したぞ。これなら<黒妖犬>の監督は任せてもいい」

 

 瓶詰の心臓(グラスハート)を和服の裾に入れながら、愉快気に口端を歪め、

 

「しかし、何も知らない<黒妖犬>が哀れだ、心臓を握る真の主が誰であるかくらいは自覚させた方が良いとそうは思わんか<空隙の魔女>」

 

「用件が済んだなら失せろ、矢瀬顕重」

 

 と一瞥も見送ることなく、しかしその態度を許す。<空隙の魔女>は、有能であり貴重な人材だ。叱責はせず重厚な鼻息を鳴らして、矢瀬顕重は背を向けて部屋から出ていった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「油断ならんな南宮那月」

 

 那月のドレスに隠れていたオリエンタルな美貌をもつ小人が顔を出す。

 重体の弟子の報せを聞き、立ち会うことをせがまされたニーナ=アデラート。顔を絶対に出すなという約定を破ってこの第一声に、那月は不愉快に眉間を寄せる。

 

「錬金術師には、心臓を生き別れにするのがそれほど非道とみえるのか? だが、居候(ペット)に口出しをする権利はないぞ」

 

「そんなふうに言われると余計に確信を抱く。汝がクロウをああも簡単に手放すことは絶対にないとな。百年と生きていない若造が冷血だと言っていたが、これほどにわかりやすく血の熱い魔女を妾は他に知らん。以前、尻が青いと侮ったことを訂正し、謝罪しよう」

 

「熱いだと? 何を言うか、私は魔女だぞ」

 

「あんな命懸けな真似をしておいて、恍けるか。真っ直ぐな小僧は何も知らず、偏屈な主人は語る気はない。そして、余所者に汝ら主従の在り方に口出しする権利はない、まったくその通りだ、この世すべての真理を暴いた古の大錬金術師でさえそんな鉄面皮に語る口を持っておらんよ」

 

骨董品(アンティーク)のくせにどの口がほざくか」

 

「そういうな。妾は那月のことを知れてうれしいのだ―――それで、ちょいと汝のコレクションを漁らせてもらうぞ。何心配は無用だ、食客なりの働きをしようと思ってな」

 

 

神縄湖付近

 

 

 ―――身体(うつわ)を貸している少年は、夢を見る。

 

 

『汝は汝の失くした記憶の記録を手に入れた』

 

 焔色の髪を持つ“先達者(センパイ)は言う。

 『咎神』の遺産を覆い囲っていた、“情報”を取り込む<黒殻(アバロン)

 無理矢理な空間転移、そして強く強く強く彼女の“匂い”を求めて無我夢中に『鼻』を働かせた。その結果、偶然にも“それ”を吸い込んでしまっていた、と。

 これは“少女”の願いが天に通じたのか。

 彼の“一番”であった“情報(きおく)”を複製(コピー)された記録とはいえ、胸の内に取り入れられた。

 

 ―――そして、<黒殻>は記録であると同時に、『十二番目』の魔力をも浸透させている。

 

『<黒殻>の欠片は、あくまでも記録。汝が力を欲して、欠片を糧にしようものなら、それは夢幻と消え去るだろう』

 

 取り戻せる最初で最後の機会であるかもしれない。それを消費して(つかって)しまうのだがいいのか

 一度の戦闘で<黒殻>は確実に使い切るだろう。

 これは、戦う力を得るために、また“一番”を取りこぼしてしまうことになる、そう“先達者”は語っているのだ。

 

 その意を解し、硬直した。

 ひどく、長くそうしていた気がした。

 もっとも、時間が関係あったかどうかはわからない。硬直するような精神が存在するかも定かではなく、そも、身体においては、今は貸し出しているのだ。

 この場所は、空間と時間も存在しない、夢の中。

 だから、わずかな迷いも思念のさざ波となって、“先達者”は覚ることだろう。

 

 

 ―――ここで立たねば、オレは今、守りたいものを守れない。

 

 

 その声明は、凪いだ水面のように波立たず。

 

『ああ……』

 

 溜息のように、“先達者”の声はこぼれた。

 

『結局……汝は、どこまでも前を見ているのだな……過去に縛られることのない天衣無縫……』

 

 長く、長く、過去の重みに屈している自身へ苦笑するような溜息だった。

 そして、“先達者”は“後続機(コウハイ)”を見やった。

 

 

『兄妹を、頼む……『十三番目』』

 

 

 世界が湾曲する。

 すべてが排除され、すべてが閉じていく。

 すべてが遠ざかり、すべてが薄れていき、すべてが消えていく。

 

 

 ―――現実に、思考は(おき)る。

 

 

 『咎神の遺産(グレンダ)』は<第四真祖>の“情報”が鍵となり、覚醒した。

 ならば、同じく『咎神』の遺産たる殺神兵器は?

 

「―――」

 

 クロウが、胸を押さえた。

 ゆっくりと、自分の体の中に分解された<黒殻>――“情報”の欠片な『固有体積時間』が、魔力として消化されていくのが分かったからだ。一度として中身を覗くことなく燃料の糧とした。それを惜しむことはあっても、やはりこの選択への後悔はしなかった。そして、そこより得られたのはあまりに雄大で、あまりにも膨大過ぎる、この身にとどめてはおけぬ“力”。

 ―――ゆえに、相応しい姿(かたち)へと成長する。

 

「<霧豹双月>―――!」

 

 同時、凍結が解除された霊的中枢。

 しかし、一時的でも回せれば、またそこの火が点き、復活する。

 『魔力の特性を模倣(コピー)』する『乙型呪装二叉槍』で、奪われている『百王』の証である『赤竜』と同質の魔力を取得。

 双叉槍より放たれる魔力の波動を、切腹するかのように自分自身に打ち込んだ。

 

「契約印ヲ解放スル―――!」

 

 裡に消えかけていた灯が勢いよく燃え盛ったのを意識で捉えて、『首輪』を外す。

 そのタイミングで、“暁古城(センパイ)の落とし物”である改造スマホを基点に発射された、金属パックが到着し、身体を包み込んだ。

 巻き起こった煙が、すべてを覆い隠し、すぐに剥がれた。

 

『ケケッ、“お年玉”だ。受け取りな、ヤンチャ坊主』

 

 機械音声が、外耳道を震わせる。

 いくつもの装甲板を重ね合わせた鎧甲冑。籠手に腰や脚部にはコードやノズルといった機構が覗いている。<空隙の魔女>が貸し出した<輪環王(ラインゴルド)>と比べ、こちらは日本武士式の趣だ。

 

 鎧甲冑型強化外骨格(パワード・エグゾスケルトン)パッケージ<薄緑>。

 超小型有脚戦車をさらに小型化して『着る戦車』として設計されたその性能は、脚部や背部、それに両手の籠手部のノズルからガスを噴射し、アクチュエーターと人工筋肉を組み合わせた瞬発力強化。

 だが、それはあまりに制御にかかる負担が過多である。試験(テスト)した獣人の身体でさえ、その凄まじい機動には悲鳴を上げ、肉も骨も軋み、丸ごとミキサーにでもかけられたような拷問じみた失敗作であった。F1レーサーや戦闘機パイロットにかかる加速度(G)はおよそ9Gにもなるというが、この『着る戦車』にかかるのはその数倍は軽く超えていたと記録されている。内蔵だけを宇宙ロケットに乗せているに等しいものだ。

 ―――それの安全設定(リミッター)が外されていた。

 

「―――よし」

 

 だが、それでちょうどよかった。

 この『魔人』の形態にまで成長した肉体には、問題ない。

 

「凪沙ちゃんにグレンダ、それに古城君とフラミー……オマエら、色々とやってくれたな」

 

 『堕天使』に『多頭竜』、そして、『巫女』と反転した自身の<守護龍(フラミー)>――『赤竜』を見据えて、『魔人』は<黒殻>の残滓より組み上げられる『妖鳥(セイレーン)』の翼を背に生やす。

 

 

「―――オレは、怒ったぞ!」

 

 

 『百王』であり、『獣王』

 カインの殺神兵器でありながら、<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の『十三番目(トリトスカイデカトス)

 歴史的にありえざる掛け合わせ―――『混血』の少年は、『百獣の王』としてここに君臨する。

 

 

 

つづく



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咎神の騎士Ⅴ

お待たせしました<(_ _)>

そして、今話で終わらせることはできず、今章は次話に続きます。


???

 

 

 何もかもが血の海に沈んだかのようにアカい、真夏の島。

 

 絃神島によく似ていて、絃神島ではない。

 そして、この廃墟の瓦礫の上に一人佇むのは、漆黒の六対十二枚の翼を背に、胸には折れた槍を抱く男。

 哭いているようにも、歌っているようにも見える彼は、どちらにしても裡に留めおけぬ衝動を世界へ訴えていた。

 

 けれど、それを解する前に男、の残留思念は緋色の世界に溶けゆく。

 この過去の記録たる核が消滅したことで、廃墟の島は細かな光の粒子となって静かに壊れ始める。

 音は消え、色を失くし、形は崩れる………

 

「く……まずい……」

 

 暁古城は、その崩壊する間際の世界にいた。

 『赤竜』に喰われ、『異境』に呑まれたはずの自分はどうしてこんなところに? そんな自問する余裕もなく、とかく一秒でも早くここより出なくては巻き込まれる。『異境』の侵食は、たとえ吸血鬼の力でもってしても抗うことはできない。その唯一の対抗策は、破魔の銀槍が放つ『神格振動波』で―――

 

「なっ……!?」

 

 侵食が古城の肉体にも及ぶかというそのときだった。

 身体全体をシャボン玉に包み込まれるかのように、純白の光放つ透明な膜、指でつつけば割れそうなそれが侵食の波を弾いた。

 <雪霞狼>とその武神具を振るう自身の監視役の剣巫のイメージが激痛と共に脳神経を電流の如く走り抜けて、手の甲に埋め込まれていた見えない回路より発生した輝く泡で古城は護られたのだ。

 『異境』の対抗策は数限られるもので、すなわち容易に消去法で答えは導き出せる。

 そうこの泡の正体は、結界。何度となく見てきた古城にはこれが『七式突撃降魔機槍』によるものだとすぐに察した。

 けれど、その獅子王機関の秘奥兵器に選ばれた雪菜は傍にいないはず。ならば、この強力な『神格振動波』は、どうして古城の右腕にあるのか―――その理由はひとつ。

 

 <静寂破り>。

 古城たちが絃神島を出ようとした時、最後に現れた獅子王機関筆頭『三聖』の『閑古詠』。

 彼女が古城の右腕に刻み込んでいたはずの、奇妙な傷跡が薄らいでいく。まるで右腕に留まらされていたものが消費されていくよう。そしてその消耗は、これまで止められていた血流が通り始めていくように古城の右腕の感覚も戻してく。

 

 あの最後の激突で、『閑古詠』は、<第四真祖>を絃神島に留めておくことは適わないと悟ったのだろう。

 ならば、と彼女は古城の右腕に封印の術式を仕込んでおくことで万が一の“保険”を掛けたのだ。

 まさにこの事態―――『異境』を操る『聖殲派』という敵と遭遇してしまう状況に備えて、誰にも気づかれずに、この八方塞がりを打開する切り札を古城の手の中に入れていた。

 

 封印とは、外に逃がさないためのものとは限らない。時として内側にあるものを護るためにも使われるものだ。

 『閑古詠』はその後者。

 古城の右手の傷は、眷獣を召喚する妨げにはなってはおらず、しかし、『咎神』の魔具の波動を察知したとき自動反射で、刻んだ回路は発動するようにできている。

 このおかげで『赤竜』に喰われても消化されず、『異境』に当てられて侵食されず、古城は即時消滅だけは免れたが、だからと言って助かったとはいえない。元の世界に戻れるというわけではないし、せっかくの『神格振動波』の命綱もそういつまでも保つことはないのだ。

 右腕の封印結界が尽きるまでに、この消滅世界より脱出する術を見つけなければ……そうだ。元の世界に残されている彼女たちの事も気がかりだし。

 

「だー……こじょう……」

 

 必死にあたりを何かないかと探していた古城の頭上より、鋼色の鬣を持つ龍族が現れる。

 この虚無の闇を泳いで孤立したこの漂流者のもとへ巨大な龍――グレンダと呼ばれた少女は、『神格振動波』の泡を通り抜けて無事着した。

 

「グ、グレンダ!? まさかお前まであの怪獣に喰われちまったのか……!?」

 

 む、と可愛らしくふくれっ面を作る裸の少女の横顔を、古城は呆然と見返した。

 

「ママ、グレンダ、食ってない。ママがつかえるのは、みこじゃなくて、おにぃ」

 

「いや、ママとか言われても何の事だかわかんねーぞ」

 

 『巫女』や『(おにぃ)』というのが一体誰を指している個人名かはまだ知るところではないが、この『龍族』の少女が(ママ)と呼ぶのはどんな存在かを想像したが、できれば人間の姿であってほしいと古城は思った。

 どうしてグレンダがこの『異境』に現れたのかは、古城にはわからないが、これでますます消滅を待つわけにはいかなくなった。どんな手段を使ってでも、彼女を、元の世界に連れ帰らなければならない。

 

「ったく、何だってお前までここに来たんだ」

 

「こじょう、つれてかえる。みんな、よろこぶ」

 

 鋼色の髪の少女は、そう答えると、落ち込むかのようにやや俯き、

 

「グレンダがおにぃの言うこと守れなかったから、みんなにめいわくかけた」

 

 そういうことか、と古城は納得して、息を吐く。消沈するグレンダはこの事態を自分のせいであると思っているらしい。そんなわけがない。それは確かにいきなり龍に変身して捕まったまま逃避行されたのには驚いたが、あの状況で冷静に対応できるなんて古城だって無理だった。

 だから、責任を感じてこの虚無の世界に飛び込んでしまった彼女に古城は苦笑しながら、下を向いてる頭のつむじに手を置いて、

 

「迷惑なんかかけられたなんて思っちゃいねぇよ。そんなことよりもグレンダがこうして俺を連れ帰りにきてくれたんだろ? だったら、“ありがとう”しかいうことがないな」

 

 古城の感謝に顔を上げたグレンダ。その鏡鉄鉱(ヘマタイト)に似た美しい瞳が、古城の目を見返す。

 

「それで、どうやればここから脱出できる? グレンダ、わかるか?」

 

「わかる……しってる……グレンダ……“情報”のうつわ……みこにとどける……」

 

 ひどく断片的な言葉を零して、グレンダから人間味が消えて、ひとつの装置と化す。

 無邪気な表情からの無機質な美貌というギャップに驚くも、それ以上に仄かな輝きを周囲に包み込むとグレンダの輪郭が曖昧にぼやけて姿形を変え始めたのを目の当たりにした古城は目を瞠る。

 

 

『……オレの……血……オレの血を吸ってくれ』

 

 

 それは、『龍族』ではなく、小柄な人影……

 

 

『吸血行為で、古城君にもたらされる血の記憶……オレの中にある“情報”が、古城君(アナタ)に力を与える。『異境(ノド)』の虚無に抗う力を……』

 

 

 現れたその裸身(すがた)を見て呆然と固まる古城。それはどうもリアクションが麻痺している古城の手を取って、自らの胸元へとそっと導いた。

 しっかりとした肉感のある膨らみの下で脈打つ心臓の上へと。

 

 

『大丈夫だ、触れてくれ―――オレの中の“情報”を感じて……』

 

 

 いまだかつて触れたことのない滑らかな肌と柔らかな弾力は、極上の筋肉をしているのがよくわかった。昔、バスケの試合、ゴール下の押し合い(プレス)で幾人とも当たってきた古城だが、この肌感触は文句なしに一番の肉体だといえるだろう。本当に羨ましくなるくらい良い身体だ。

 ただし、犬歯は疼かないし、強烈な喉の渇きなど襲ってくるはずもないが。

 

「グレンダ……色々と訊きたいことがあるが……」

 

 古城は鼻頭……ではなく、目眩を覚えたかのように揺れる頭部を片手で押さえながら確認する。

 これまで聞いた話から、グレンダは“情報”の『器』。

 ならばグレンダに、その“情報”を注いだのは誰か―――それを推理したとき、刺激するのは今も耳に残るあの音。

 その唇から零れるのは、夕闇の中で折れた槍を抱き、慟哭していた少年の歌だ。

 そうか、彼女は―――――――――――――――とこの推測が正しいものかをグレンダに訊いてみたい気もするが、今はそんなことよりも追求しなければならないことがある。

 

 

「なんで、“クロウ”なんだ?」

 

 

 褐色の肌、銅色の髪と金色の瞳。大柄な体躯ではないけど、その分だけ詰まっているかのように絞り込まれた筋肉は、古城も負けを認める。うん、肉体美としては惚れ惚れするくらい綺麗に整っているといえるだろう。

 普段は厚着でガードされて中々拝むことのできないその肢体、それもその全容がこうして古城の前に晒されているわけであるが、しかしなぜこのチョイスなのかと古城はグレンダに訊きたい。

 と歌を止め、素の口調に戻ってグレンダは答えてくれた。

 

「? こじょう……おにぃのこと“好き”だと言ってた」

 

 あー……そんなことあったな。それと、『(おにぃ)』って後輩(クロウ)の事か。なるほどなるほど……

 

 天を仰いだ古城。それから持ち直して、いつになく真剣な口調で、

 

「チェンジで」

 

 早く元の世界に帰りたいという気持ちはもちろんある。

 封印もあと少しでなくなるところまで来ていて、えり好みしている余裕がないのはわかっているが、これで吸血衝動=性的興奮が起こったら、『異境』から出た後、古城は絶対に自殺したくなる。

 せめて変身するなら、異性が望ましいというのは贅沢なのか。

 

「……こじょう、おにぃ……好きじゃない?」

 

「いや、好きだぞ。だけどな、こういうのじゃなくて……―――っ、おい! だから、スリスリと抱き寄ってくるな!」

 

 そして、古城はわりと時間ギリギリまで、この世間知らずの無垢なドラゴンガールに常識的(ノーマル)な情操教育を切々と説いた。

 

 

神縄湖付近

 

 

「―――――」

 

 鎧甲冑を装着し、妖鳥(セイレーン)の翼を背に展開する魔人。

 復活を遂げた『十三番目』にして、『咎神』の殺神兵器は、『多頭竜(ヒュドラ)』に上空を押さえられ、<蜂蛇>の骸の“情報”を合成して生み出された『堕天使』に囲まれ、そして、『赤竜』と<女教皇>に睨まれる最中、不敵に笑む。

 

「ぶっちゃけると、バカのオレには何もかもさっぱりだ。凪沙ちゃんは利用されて、グレンダは攫われそうになって、それで古城君までどっか行ってる。うん、どうにかして帰ってくると思うけどな。まあ、だからこっちはこっちでやることやるしかない。ん、とそこで、ご主人がいつも口酸っぱくして言う合理的思考ってやつを意識して頭をちょいっと働かせ、オレなりの冴えた解決策を考えた」

 

 ……はじめ、羽波唯里は喉を引き攣らせて、圧倒された。

 つい先ほどの<雪霞狼>を現在の所有者(ユッキー)よりも遥かに性能を引き出して、『聖殲派』をひとりで相手取って無双したことも驚いていたが、“『彼』に戻ってからの”事態も瞠目する。戸惑いを隠せないでいる。

 今、目前に立つのは、今日初めて(まみ)えた天変地異を起こせるあの<第四真祖>に匹敵する鬼気を放つ―――こともない、どころか、“剣巫の霊視にまったく感じられない”のだ。

 はっきりいって魔力のない一般人と大差ない……そんな感覚しか覚えられない。もしこれが正しいとするのならば、あそこにいるものは自分よりも弱いということになるだろう。

 だがそれは、違う。けして霊視()が曇っているわけではないが、唯里はその強さを正しく測れていないだけだ。

 

 爆音とは、一定のラインを超えてしまえばむしろ静寂を呼ぶものだ。

 あまりに強烈な爆轟が、それまでチロチロと残っていた火を吹き消してしまうように。膨らみ切った攻勢が自分の重力に耐えきれずに大爆発を起こし、ブラックホールを生むように。

 

 初めての大規模な実戦で、今日は羽波唯里のこれまでの常識という枠をぶち壊す多くの桁外れな事例を目撃してきたけれども、あの『魔人』はそれとは一線を画す―――そう、巫女としてではなく、生物としての本能が悟らされる……

 

(南宮君……)

 

 ただ、まあ、

 

「まずはオマエらをブッ飛ばす。そんでもって、フラミーを解放させる」

 

 中身(せいかく)の方はあまり変わっていないようで安心した。

 それに……きっと『魔人(あれ)』が大人になった彼の姿なんだろうけど……うん、いい。

 少女漫画にも、玉手箱みたいなアイテムで一時的に大人になった少年に、これまでの弟のような見方を一新させられる場面があったけれど、まさにこれ。つまり、ギャップがあっていろいろと凄まじいのだ。

 己の欲求のままに動けるような余裕があったのなら、こちらを背に庇うその立ち姿をアルバムに保存できるよう写真に撮っておきたいところで、

 

 カシャ―――

 

 はっと横から聞こえたシャッター音に反応すれば、そこに旅館の土産コーナーとかに売ってそうな使い捨てのカメラを持った古風なセーラー服の女性。この太史局の六刃神官は、いったいどこにそんなものを隠し持っていたのか気になるところだが、それより一体こんな状況でよくそんな真似ができるなと呆れを通り越して逆に感心してしまう唯里。

 

「情報収集は大事でなくて? きちんと実体を記録していくことが今後の対策を左右するのよ」

 

 こちらの視線に気づいた彼女は、もっともらしいことを語りながらそそくさと写真をしまう。その際、ふっと何故か唯里に向けて、まるで勝ったような含んだ笑みの横顔であったが、なんか悔しい。これはあとで獅子王機関にも資料提供するよう交渉するべきだろうか。実に悩みどころで―――そんな視界に入らぬ背後で行われる、剣巫と六刃の静かな攻防を気配で察したのか、後輩の少女攻魔師が注意した。

 

「……おふたりとも、まだ気を抜けるような状況じゃないんですよ?」

 

「あ、う、うん! ちゃんとわかってるよ雪菜(ユッキー)

 

 唯里は慌てて、何か誤魔化すように雪菜に忙しく手を振ってみせる。

 けれど、それに対し、逆に霧葉は返された双叉槍の具合を確かめながら、前に出ようとする雪菜を諫めた。

 

「巻き込まれたくなければ、しばらくは様子見に徹した方が良いんじゃないかしら。そう滅多にないのではなくて? ―――“南宮クロウが(キレ)る”というのは」

 

 

 

 『異境』を蒸発させるほどの高純度の神気は、危ういものであった。『七式突撃降魔機槍・改』を基点として発動する高次元の力は<女教皇>にも脅威。

 けれど、それを振るっていた“残滓”は去った。

 もうあの『天敵』さえいなくなれば、この場で何も恐れるはずはない。

 

 だが、今も悪寒から生じる冷や汗を拭えていない。

 この『人狼』の身体は鋳型に入れられたようで、ゾッとするほど背筋が冷たい。

 

(おかしい)

 

 『百王』の資格、ある種の王権(レガリア)たる<守護獣>を奪った。中身のない『器』など抜け殻に過ぎない……はずであった。

 なのに、まだ動いている、立ち上がり、歯向かっている―――正統な後継者ではないにしても、『咎神』の殺神兵器が、『巫女』である<女教皇>に向けて。

 

(おかしい)

 

 制御権を奪い、使役している『赤竜』

 しかし、その実、“反転されていた属性を元に戻し本来の姿にしているはずなのに”二割も性能を発揮できていなかった。

 そう、あらゆる物質を全て砂塵に変え、エネルギーを喰らいて、万象を自然へ還す。神をも殺し、神代を黒歴史にしてしまえるほどの“壊毒(ちから)”をまったく使えていない。

 まさか。

 この『もうひとりの巫女(シュビレ)』の手で掬った力は、“上澄み”であったとでもいうのか。

 

(ならば、『器』ごと<女教皇(わたし)>に跪かせる―――!)

「『―――コード認証、“正統ナル後継者デアル(49 72657175657374)我ニ従エ“力”ノ器ヨ(7666c69873)”』」

 

 高らかに、『巫女』としての権利を行使する。

 だが、『魔人』は、暗証を唱える<女教皇>に対し、『?』を頭上に浮かべた。

 

「悪いな、オレは日本語と英語しかわからん。師父から大陸の言語を聴いたことはあるけど、意味はちっともだ」

 

 “欠陥製品”に、正規の『巫女』ではない、<女教皇>の命は効かず、

 そして、今更そのような行為をすることに、『魔人』は心底におかしく思う。

 

 

「―――だいたい戯言を吠えてどうする。怒る獣(今のオレ)に、“聴く耳があると思うのか?”」

 

 

 ごお、と風が巻いた。

 生温い、異様な臭気をはらんだ常世の風。

 手負いの獣に説得を試みる愚かさを、その魔風に煽られてようやく、<女教皇>は理解した。

 あれはいつでもこちらの手駒にしてしまえる道具などではなく、明確な敵だ。

 同じく、『聖殲派(むれ)』の中核たる<女教皇>を狙われていることを、『堕天使』たちも悟り、一斉に動いた。仮にも『特殊攻魔連隊』に属していた軍人として訓練された集団戦法で逃げ道与えず八方より、そして神獣にも匹敵する3、4mの巨躯である<蜂蛇>の強靭な爪が『魔人』めがけて凄まじい速度で振るわれた。

 

 それを。

 クロウは、その場から動かずに受けた。

 まるで、爪を受けることがせめてもの贖罪であるかのように、ただ立ち尽くしていた。

 瞠目する『堕天使』。

 視界には、爪を立てられ――しかし、その肌を破ること叶わず――見事無事に耐えた『魔人』が、そのひとりの竜鱗を撫でた手の平があった。

 そう、すでに断罪は成された。

 

「<蜂蛇(お前)>たちは、筋を通した」

 

 いつもとは異なる口調。

 だが、命じ、裁く、権威と共にあるその言葉遣いに、いささかの違和感もない。そこに相応しいだけの貫録を備えていた。

 『魔人』に襲い掛かった『堕天使』、そのすべてが全身を霜で覆われた彫像となる。

 

 異形に対抗するために骸の“情報”を合成された者たち。

 その破綻者が、眠るように凍り付いている。

 物理的にも―――精神的にも。

 その間合い一面、局所的に白い霜で覆われていた。

 『魔人』の立つ制空圏内、そこは今、この冬よりも極寒で静謐な『狼の冬』が到来していた。

 妖鳥の翼が羽ばたくたびに鱗粉のように白い霧が、渦を巻き流れる。

 霧は冷気で、できている―――この『神縄湖』という人工貯水湖(ダム)を一瞬で底まで凍結した災厄の如き魔性と同じ。

 『魔人』が右手をあげた。

 手甲(ガントレット)。人間のそれの何倍も大きな鎧の手甲の内に、現在進行形で塗り替わっていく髪と眼と同じ――『十三番目(コウハイ)』と認められた証――虹色の焔光を噴き上げ、頭上に掲げる。

 

「―――だから、後はオレに任せて逝け」

 

 焔光を握りしめるように五指が閉じて、拳を作った。

 一際巨大な手甲は、重厚な装甲とケーブルとが接続されていて、鈍重なイメージは欠片もない。真上より一息に振り落す様は裁きの雷霆さえ想起させる。

 自然の理に反する不遜な人間より力を剥奪するべく、鉄槌が降された。

 

 神獣の剛力を人の身にまで圧縮させた比類なき豪腕。

 ごおっと、その拳は大地へ叩きつけられる。

 瞬間、異変が―――いや、天変地異が巻き起こった。

 大地が鳴動したのだ。

 地震であった。

 ぴたりと、この制空圏内だけを、局地的な激震が襲う。

 その震動は凍れる『堕天使』に伝わり、鍍金の殻が割れるように<蜂蛇>の“情報(かわ)”が剥がれ落ちて、元の人間に戻った。

 

「『なっ!? 取り込ませた“情報”を壊した―――!?』」

 

 『異境』を破るのであれば、『神格振動波』でも可能だ。

 しかし、<女教皇>の力で、他所の“情報”を合成させた『堕天使』の改変を修正することまではできなかった。

 

 <黒殻(アバロン)>ごと“情報(におい)”を取り込んだ『魔人』は、この一時、“双極の超常”を振るう。

 

 殺神兵器の封印――眠らせる氷。

 完全な死者蘇生――蘇らせる炎。

 

 この『凍結』と『解凍』による“情報処理”で、“死した魔獣”と“生きてはいる人間”を分別したのだ。

 

(………)

 

 この作業で失われる熱量を感じ取り、思う。

 申し訳ない、と。

 すまない、と。

 この魔獣の一頭ずつは、己を『獣王』と認めて従えさせたはずだった。

 守護を約束して、暴動を抑えさせた相手のはずだった。

 今、その相手を守り切れずに自分は壊している。蘇らせるのが難しい死念より、敵であったが生者であるこの『聖殲派』の人間を優先して。

 

(……だから)

 

 ―――だから、謝らない。

 咄嗟には思ってしまう。

 反射的には考えてしまう。

 だけど、絶対に口には出さぬ。

 己の弱さを補ってくれた一体一体が、己の身代わりとなって守ってくれた一体一体が、今こうして壊している生命のすべてが無駄になってしまうから、謝罪は口にしない。

 かつての練習台にされた操り人形の兄姉の遺骸を壊したときもそうだった。あのときも許されるのなら一時でも蘇らせて、謝罪を乞うことができたなら、どれだけ楽だろうと思った。今も、この人間の身に取り込ませておけば、一先ずは“情報”は失われていないのだから、すべてが終わった後に先延ばしにしてしまいたいとも思う。

 だけど、延長の代償にこの無理な合成をされた『堕天使』のうちの何人かが、<蜂蛇>の死に引き摺り込まれることになるだろう。それがイヤでもわかった。

 だから、このすべての感情を封殺して、今、終わらせる。

 

「ああ……お前ら全員、オレが解放(こわ)してやる」

 

 せめて、誓う。ここにいるすべての『堕天使』を屠ることを。二度と“情報”に利用できぬよう塵も残さない。

 その取捨選択されて剥がされる一体一体の人間には余分な“情報(めっき)”――己らのために消費した命を、噛み締める。無理矢理に、歯を食いしばる。

 

 

 

(南宮君……)

 

 彼の宣誓を唯里は拾う。

 今日一日と共に行動した。初めての大規模な実戦は彼女にとって非常に“濃い”時間であった。だから、彼の気持ちが――“どこへ彼の怒りが向けられているのか”が、わかるような気がした。

 一体ずつ、きちんと見定めて破壊しているその姿は不自然であろう。しかし、そこに『魔人』の、少年の想いを見ているような気がした。

 そして、彼が突出して前に出た理由も、いやというほど伝わった。

 

(……こんなときまで)

 

 と、思った。

 南宮クロウが最前線に立ち、その一斉攻撃をひとつ残さず受け切ったのは……戦力外の剣巫(ゆいり)に被害が及ぶのを避けるためでもあろう。

 獅子王機関の武神具がない。また、『異境』に対抗する術をもたない以上、戦線に突入すれば足を引っ張るのは目に見えた末路だった。彼の判断は正しい。ただ、こんな時まで、あの少年に甘えなければならない自分が情けないだけだ。

 

「………っ」

 

 拳を、握り込む。

 そんなくだらないプライドを捨てる。

 この戦況に集中するのではなく、広い視野を意識。予測外の事態に備え、武器をもたない自分は警報の代わりと目を光らせ、羽波唯里は甘えることを選択する。

 

 

 

 凍らされながら解かされるその力。他所から“情報”を取り込んでいき強化している『聖殲派』にはいかに脅威であるのか。

 『巫女』は、『赤竜』と共に後方へ、爪による直接的な攻撃の通用しない『堕天使』も六と危険を悟り下がる。

 警戒された『魔人』は、しかし動かない。

 その場から一歩も。『聖殲派』を追いかけることなく、あくまでも専守防衛の構えを解かない。

 そんな不動の仁王立ちをする彼の足元には、血だまりのような紅の影がある。

 元は『赤竜』の広げた不知火の影。『門』の支配権を奪ったそれを踏んづけて、自身の下に固定させているかのように。

 

(早く帰ってくるのだ、古城君、グレンダ!)

 

 そう、これは黄泉平坂に等しき『異境』の入口。

 暁古城が堕ちて、グレンダが飛び込んだ基点である。この『門』が閉ざされれば、彼らは繋がっている現世の座標(ゴール)を見失い、永遠に彷徨うことになる。

 この場に降り立って、二人の姿がないことに気付き、現状と基点の重要性を“鼻”と“肌”で本能的にクロウは悟った。

 

「愚かな」

 

 その立ち往生の意味がわかったのか、制空権を取る『多頭竜』より戦場を見下ろす安座間は嘲笑いを零す。

 この戦況において動けないというのは、『魔人』であっても致命的だろう。こちらはいま有利な上空の位置を取っている。攻撃の届かぬところから一方的に滅多打ちにすれば、あの怪物も倒せるはずだ。

 

「境界を維持しようが、『異境』から自力で戻ってくる魔族(もの)などいないわ!」

 

 『咎神』を奉じる『聖殲派』にとって、『異境』とはすべての異能の力が存在しない世界でなくてはならない。そこから帰還する魔族など、けして存在してはならないのだ。たとえ<第四真祖>であっても、その例外に適用されることはない。

 きっとその行為は、無意味に終わる。

 それでも帰りを待つというのは勝手であるが、『聖殲派』に壊滅的なダメージを与えかねない障害を潰せるこの絶好の好機をこちらが見逃す手はない。

 

「防御もできず、回避もしないというのなら、そのまま帰らぬ待ち人と共に死に果てるがいい、『欠陥製品』よ!」

 

 重い砲声が、連続して轟く。

 竜に化けたAC-2(ガンシップ)の九つの砲台(あたま)が『魔人』へ一点集中で照準を合わせ、火を噴いたのだ。

 『異境』の薄膜にコーティングされた砲弾は、眷獣の障壁であろうと防ぐことはできず、また古城たちの蜘蛛の糸である『門』を護るために避けることはできない。

 

「なら、壊す」

 

 『魔人』は、五指の指先から爪のように鋭く伸ばす気の硬質化と並行して、焔光を纏い白霞が吹く双腕を振るい、

 『多頭竜』のばら撒かれた弾丸へ1mほどの巨大な苦無を放った。

 この身に滾る獣気を、先の尖った氷柱(つらら)のように固めた霊弓術。神獣の劫火炎を妖鳥の氷細工で凍らせたこの『炎の氷柱』は、砲弾をひとつたりとも地表への着弾を許さずに迎撃。

 

 <第四真祖>の眷獣の魔力も打ち消せる『異境(くろ)』の鍍金(ヴェール)が施されていても、雷光の獅子の突撃に押されたという事実がある通り、体当たりに生じた物理的衝撃(エネルギー)までもが瞬時にゼロにできるというわけではない。

 

 しかし、それでも空飛び回避する『多頭竜』を撃ち落とすことまでは叶わず―――また、攻撃したその隙を狙う地を這う不知火の影。

 

「『従えぬのであれば、<第四真祖>と同じ喰らうまで―――』」

 

 飛び出す『赤竜』の咢。

 頭上へ意識を向けられた『魔人』を、死角より襲い掛かる―――だが、それは一陣の白い竜巻に祓われた。

 

「先輩と同じ真似はさせません―――!」

 

 どっ、と大地を蹴る。消失かと思われる高速移動。

 一瞬先の未来で蹂躙されるその地点に飛び込みながら、白い手が霞む。

 呪術身体強化によってブーストを受けた槍は、まさに紫電の四斬撃。斬撃は四つに留まらず、絶妙な足捌きで、其々の『赤竜』の首の死角へと回り込みながら、その数倍の弧と刺突を描いた。

 <女教皇>の奇襲を防いだ姫柊雪菜は、油断なく<雪霞狼>を『赤竜』へと構えながら、クロウへ確認を取る。

 

「クロウ君、先輩はまだ“そこ”にいるんですね?」

 

「ん。グレンダが助けにいったみたいだ……だから、そのだな、呑むモノ呑んだら出てこられるはず、だ」

 

 最初の発言の通り、彼は希望をまったく捨てていない。そして、雪菜もまた同じ。

 実際、『異境』から帰還を成し遂げた者は、遥か遠い過去にひとりだけいうのだ。

 ……ただその微妙に濁した後半部分の意図まで正確に解した監視役は、やや荒ぶった調子で青白い輝きを纏った銀槍を――微妙に軌道をクロウの足で押さえつけている『(かげ)』を掠らせるよう――旋回させた。

 

「そうですか、わかりました。では、先輩とグレンダさんが帰ってくるまで、私が彼女の相手をします」

 

「姫柊、あんまり無茶はダメだぞ」

 

「それは私のセリフでもあるんですが、クロウ君。私のことを信じてください」

 

 ここで『巫女』を相手してくれるのは、『門』を維持しているクロウは楽になる。ただ彼の目の前で暴走してしまい、世話をかけてしまった前科がありながら不躾な話だろう。

 ―――だけど、一にも二にもなく、頷き返した。

 

「わかった、姫柊。お前のことオレ()は信じるぞ」

 

 応えて、左胸に手を当てる。まるでその仕草は“まだ胸の裡にいるであろう誰か”の分までも含めているようで、雪菜は場違いにも小さく笑ってしまう。

 

「ありがとうございます……」

 

 授業参観で親に見られていつもよりも張り切る子供な性格ではないと思っていたけれど、しかし確かにその動作は最良であった。槍を握る手に力が入り、より力が引き出されていく。

 

 

 

「『………っ!』」

 

 雪菜は『赤竜』に乗る『巫女』を見据える。

 先程、苦手意識を植え付けられたのか、『天敵』と同じ『七式突撃降魔機槍・改』を向けてくる剣巫に、臆するかのように<女教皇>は息を呑む。

 しかし、すぐに気を取り直し、虚ろな瞳で剣巫の眼差しと相対しながら、美しくも醜い少女は荒々しく嗤う。

 

「『愚か……愚かなり、メトセラの末裔よ。槍ひとつで、攻略するつもりか―――!』」

 

「ええ、私はまだ<雪霞狼>を完全に引き出せることはできません」

 

 けれど、雪菜の姿勢は冷静に、そして、静かに答えた。

 

「ですが、勘違いをしてはいません。撃退すると妄言しませんが退却するとも断言せず。互角で平等な足止めのみ、それだけならば、私にもできるでしょう」

 

 確かに『赤竜』が脅威だ。

 しかし、雪菜は眷属の一体一体が災厄の如き強大な力を持つ世界最強の吸血鬼の監視役だ。多頭であれど、たかが一体の竜の抑え役をこなせなくてどうする。

 それに『赤竜』の猪突は人の身に受けられるものではないが、師家様監修のもとで“眷獣をもぶん殴るほどの豪力をもった相手”との組手で受け流す術を身に着けている。

 

「―――しっ!」

 

 雪菜が、鋭く息を吐き出す。

 地を、走る。

 津波の如き、いいや津波以上の蹂躙劇。

 多方向より迫るこの四つの頭を、雪菜の槍が打ち払う。破魔の槍より放たれる連撃に構わず、『赤竜』は重戦車を思わせる突貫をしようとする。

 

 たちまち穿たれていく、不知火を纏う竜鱗。

 それでも、『赤竜』は止まらなかった。

 されども、剣巫の一意専心は乱れず。

 

「は―――!」

 

 銀槍、反転。

 そして、頸椎が、圧し潰された。

 

 その瞬間、

 シャチが獲物を玩具のように海上に突き飛ばして弱らせるように襲ってくる『赤竜』の頭を、槍の柄で受け止め、空中へと跳ね上がる。

 剣巫(ゆきな)より、その奥にある『魔人(クロウ)』を『巫女』は優先しており、一見、撥ね飛ばされたかのように見えた彼女を無視させて直進させる。その隙を狙って、宙空で身軽に身を捻りながら勢い付けて、<雪霞狼>を叩きつけた。『神格振動波』のカマイタチと化した雪菜の槍刃は、断頭台(ギロチン)にかけるかのように『赤竜』の四つの頭、その無防備な後首、すべてまとめて一気に斬撃を見舞う。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 全身を使っての渾身の一振りから繰り出された槍は、『赤竜』を切り分けることまでは届かなかった。だが、この叩きつけられた勢いに地べたを擦り、大きく勢いを削られる。

 攻撃は失敗し、迂闊に『魔人』へと近づけさせることを警戒する<女教皇>は、『赤竜』を引き下がらざるをえない。

 そして、これで姫柊雪菜という阻む障害を無視できなくなった。

 

(やはり……)

 

 巫女であると同時に攻魔師である雪菜は、気づいている。

 あの『人狼』――<女教皇>は、『咎神』の遺産を扱う資格を有する『巫女』であるが、戦士ではない。

 それ故に理解できない。

 たった一振りを、極限にまで練り上げる『担い手』の力を。

 

(勢いでこのまま、――から、離す―――!)

 

 同級生から―――その同級生が守る『異境』の(もん)から―――そして、その『異境』に囚われている先輩から、この脅威を突き放す―――!

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 あらゆる火力制限を解き放ち、“情報”を凶悪に改造された砲の大威力は、轟音だけで大気を破壊せしめる。これまでの戦闘で荒れ果てているこの地上を凶猛なる砲弾は大地を抉る。

 弾数に後先のことを考慮せず『多頭竜』は、ここぞとばかりに吼え猛った。

 

「すべて撃ち落とせるのならやってみせろ欠陥製品!」

 

 文字通りの、爆心地であった。

 激しい爆音が山間を蹂躙し、雪も土も樹木も、何もかもをごたまぜに撒き散らす。

 一秒ごとに崩壊していく景色。

 大地を抉る、砲弾のクレーター。

 たった一日前までは森閑としたこの土地の自然が、無残に踏み躙られていく。

 

「……ああ、世界を救うのだ我々『聖殲派』は―――そのためには、人工島管理公社が所有する殺神兵器は邪魔なのだ」

 

 安座真は重い声をひとりごとのように零す。

 彼が纏う漆黒の鎧は、複製品でも粗悪品でもない、本物の『咎神』の魔具。今回の『聖殲派』を指揮する長であるからこそ与えられたもの。

 数少ない本物を授かったものとして自己暗示(イメージ)するのは、現世の歪みを矯正するための聖戦に身を投じる偉大な革命家だ。

 轟く砲声を華麗なオーケストラと聴き、火薬の臭いを甘い葡萄酒の香りと嗅ぐかのごとく、瞼を閉じて昂る気分を落ち着けさせる。

 だが、弾幕と土煙が収まり、ゆっくりと目を開けて確認すると、指揮官の予想を裏切る光景が現れる。

 それは、無傷のまま身体についた砂塵を払う、一歩もそこより動いていない『魔人』と―――荒れ果てたその周囲。

 直撃するものだけを迎撃し、必要最小限でこの絨毯爆撃を凌ぎ切った。

 ガリッ、と安座真は奥歯を噛む。

 

 ああ、あれだ! あの理不尽こそこの世界の歪みであり、人間を絶滅させかねない脅威なのだ!

 

 

 

 バサッ、と妖鳥の翼は羽ばたき、反撃の狼煙を上げるかのように白霞の冷気を立ち昇らせる。

 

 

 

「むぅ……」

 

 砲弾は苦無で迎撃するも、苦無を『多頭竜』に直撃させるのは難しい。

 上空の機体に苦無が届かせられないというわけではないが、飛び回りながら撃ち込んでくるので当てられないのだ。

 遠距離攻撃は可能だが、やはり大雑把、細かな狙いが苦手だという自覚はある。

 波間に揺れる舟に立てられた扇を射落とすような難事。

 これを相手の攻撃を防御しながら成すには、やはり自分の手だけでは余る。

 

「なあ、ひとつ思い付いたんだけど、霧葉、バーッてド派手にやった昨日のあれを空にぶっ放せないか?」

 

 と傍らに避難していた六刃神官に援助を求める。

 軽く身振り手振りの入ったジェスチャーを無視し、そっぽを向いている六刃はそっと息を吐いた。

 

「(……昨日のね。ええ、憶えてるわよ。でも、あれだけ剣巫を褒めちぎっておいて、ピンチの時は頼るというのは虫が良過ぎるのではなくて。もっとお願いの仕方というのがあるんじゃないかしら)」

 

「おーい、何をぶつぶつしてるのだ」

 

「別に何も」

 

「ん、そうか。で、どんなお願いの仕方が良いのだ……?」

 

「しっかり聞こえてるじゃないのよォォ―――――――――――!!」

 

 

 叱られた。

 

 

「むぅ」

 

 上空からの絨毯爆撃を、焔光を閉じ込める氷柱の苦無で迎撃しているクロウは、どうしても対応は片手間となってしまう。

 けれど、こちらとしては、無理な相談なのかもしれないから、それ相応の態度を示すべきではないかと思い訊ねたのだが、どうやら何か尾を踏んでしまったようだ。

 とはいえ、向こうも攻魔師資格を有するプロとして戦況はきちんと読めており、打開する術を模索していた。

 が、先ほどから双叉槍の具合を確かめるように力を篭めている霧葉は、調子の悪そうに首を振る。

 

「……ダメね、力が出ないわ」

 

「ぬ、お腹減ったのか霧葉」

 

「あなたが剣巫にやられたからよっ! おかげで<生成り>に雑念が入って……」

 

 見れば、戦闘形態に入った証である角が生えていない。

 いったい羽波唯里との一件がどのように響いているのかはクロウもわからないが、こちらに原因があるというのであれば責任を感じるところではある。

 

「よくわからないけど、オレは何をすればいい?」

 

「あ、あれをしなさい! 『五車の術』とかいうふざけた……」

 

「ん。それご主人に禁じ手にされてるからダメ」

 

「はぁ!? なにそれ! 責任取りなさいよっ!」

 

「でも、ご主人にピンチな時以外は使うなーって」

 

「わかったわ。だったら、あなたを半殺しにすればいいわけね」

 

「霧葉、敵はあっち! オレじゃないのだ!」

 

 双叉槍の間に、頸を挟まれたクロウは、目配せで上にある『多頭竜』の傀儡(ゴーレム)を示す。

 わりと危機的な状況なのだと思うのだが、どうして呉越同舟とは行かずに、四面楚歌と背後より刃を突き付けられなければならないのか。

 

「いいから、私の言う通りにしなさい」

 

「でも、禁じ手は簡単に使っちゃダメだから禁じ手なんだぞ」

 

「あら、そんな危険なものだというのなら、なおさら太史局として看過できないわね。仕方がないから、私が練習台になってあげてもよくてよ」

 

「仕方ないなら、やら―――」

「やりなさいっ! 危険なものは完璧に制御して、完全に監視役の管理下に置かないとダメなの! いいわね!」

 

 鬼気散らす双眸に凄まれて、『あれ? 霧葉、監視役から外されたんじゃないのか?』という喉まで出かかった疑問を呑み込んで、こくん、とクロウは頷いた。

 

 して、六刃の口八丁に丸め込まれ、言う通りの体勢を取る『魔人』。

 大人時の姿にまで成長をして高身長となった身体で、細身(スレンダー)な体形の六刃を、背後から腕を回して抱きしめる。俗に『あすなろ抱き』と呼ばれるものである。

 

「これでいいのか?」

 

「(……いいわね。逞しい肉体に覆い包まれるこの密着具合。ああ、すごくいい。もっときつくしてほしいけれど、でもこれ以上、ダメ。昨日のことを思い出したせいで身体が火照って……)」

 

「おい、結局調子は良くなったのか?」

 

「ハッ!? ええ、よくてよ。ほら、早くやりなさい!」

 

 急かされて、『五車の術』を、今回は妃崎霧葉の身体に『匂付け(マーキング)』するように発動―――

 

 

「今だ! 撃てェ―――――!?」

 

 

 両腕を降ろしたその体勢、この隙を見せた相手に愚かしく嗤いながら、安座真は『多頭竜』の九つの頭を向けさせる。だが、真下で殲滅対象が浮かべていたのは、太々しい微笑。

 味方にとっては、頼もしい笑みだ、ただし、敵対しているものには、修羅に映る。

 その双眸に射竦められたかのように、いずれの竜頭も火を噴くことはなかった。

 

「いや、もう撃てないぞ」

 

 氷柱の苦無で砲弾を迎撃しながらも、上空へと煽っていた白霞の狼煙。

 それは、人造湖を瞬間冷凍させた妖鳥の力が篭められていた魔風。

 この火を凍りつかせるほどの魔力は、対象とした『多頭竜』の保有する熱量を一定レベル以下に抑制させる。

 つまり、燃焼を封じてしまう。

 弾丸というのは、突き詰めてしまえば、発射薬(ガンパウダー)――火薬の燃焼により生じるガス圧で飛ばしているものだ。発射薬を燃焼させる雷管の爆轟も、燃焼の一形態。

 そして通常の概念における燃焼という現象は必ず熱量の増大を伴うものであり、熱量の増大を禁じられた可燃物は、燃えることはできない。

 

「っ! 小癪な真似を……!」

 

 火薬爆薬を使用する火器の吐息(ブレス)、しかし、局所的に上空の気温を急激に下げられて芯まで凍てつかされた九つの竜頭、“情報”を取り込み、生体兵器に変形しようが、傀儡の装甲や機構は情報源と同じ。密やかに散らしていた極寒の狼煙を迂闊に吸い込んでしまい、沈黙を強いられることになる。

 

 

 そして、隙を見せた相手は容赦なく討つのはこちらも同じ。

 

 

「霧葉、今なのだ―――!」

「すぅ~~~……南無八幡大菩薩。―――行くわよ! しっかりと抱きしめてなさい!」

 

 『匂付け』された情念の炎は、情念の大火となりて燃え盛る。

 

「我が影は、霧にして霧に非ず、刃にして刃に非ず―――」

 

 角を生やした六刃から放たれる鬼気は、冬の冷気を夏の熱風へと変えていた。

 呪句と共に静かに周囲へと流れゆく鬼気は、抱いている『魔人』の肌をちりちりと焼くかのようだ。

 

「斬れば夢幻の如く、啼哭は災禍を奏でん!」

 

 そして、『乙型呪装双叉槍』より<生成り>の情念を具現化させた大火が、奔流となって放たれる。

 

「<霧豹双月>―――!」

 

 眩い光と音。そして、圧倒的な、熱。

 これまでのモノとは格の違う、共同作業で振るわれた炎魔は、『凄まじい』というより他に形容しようがない。

 真下の地上より噴き上げた熱波に煽られ、『くっ!?』と鎧に包まれた腕で顔を覆う。

 神社仏閣をも一息で全焼させる威力の込められた大蛇を形作る大火の化身。

 空を逃げるよう飛び回ろうが、逃げられない。火そのものが強烈な威力をもった呪詛構造体(しきがみ)の類なのだ。のたくりながら精密誘導兵器の大火は、『多頭竜』を貫き呑み込んで、まだ火勢は止まらず突き進んでは、深く、深く大気に焼き付けた、大文字焼き。

 

 

 彼の神話において、『多頭竜(ヒュドラ)』を滅ぼす際、聖火の松明で焦がすことで首の再生を防いだという。

 ―――だが、ひとつの頭は不死身であり、焼くことはできなかった。

 

 

「―――効かん! <第四真祖>の魔力であろうと『異境』を破ることはできない!」

 

 『多頭竜』を覆う漆黒のヴェールが紅蓮を塗り潰す。

 衝突に生じたエネルギーで機体は揺れたが、装甲は熔解することなく、また焼き焦がされることもなかった。

 これが、魔族を殲滅させる『咎神』の力。

 直撃を受けた情念の大火を、『多頭竜』は宙で旋回行動を取り、振り払う。

 魔力が通用しない以上、相手の手の届かぬ天の高みにあれば、そこは絶対の安全域だ。

 

「今ので邪魔な凍結は解けたぞ! 愚かな混血の忌み子よ! 策を誤ったな―――」

 

 安座真は『多頭竜』の復活した砲門(あたま)を、“天空(こちら)を指差す”『魔人』に向ける。

 

 

「いや、これでいい。この角度が最適だ」

 

 

 空気が、ビリビリと帯電したみたいだった。機内で避難していた安座真でさえ、凄まじい内圧に身体の震えを抑えるのが精一杯だった。

 これが終わりではないと、そのときになって悟る。

 狼煙に冷却され、大火に加熱される―――この一連の行動は、『多頭竜』の頭上に巨大な雲を生んでいた。

 

「勘違いしてるみたいだけど、これは、壊すんじゃなくて、“与える”ものだぞ」

 

 空に打ち上げられた狼煙も大火も狙いは、『多頭竜』ではなく。

 この“匂い付けされた熱量”を、『多頭竜』の周囲の“大気”に与えて、急激な寒暖の変化により上昇気流を発生させること。

 

 魔力を塗り潰す『異境』の護り、だがしかし、“魔力に頼らない”『芳香過適応(リーディング)』の自然干渉。

 

 狼煙にも、大火にも、『匂付け』を馴染ませて、『多頭竜』の――安座真の展開する『異境』の範囲外にある――周りの大気に伝播。

 高位精霊術に匹敵する干渉力は、『魔人』の意思で、熱上昇気流を起こして、積乱雲を作り上げた。

 

 狼煙で散布していた極寒の白霧が、情念の大火によって溶かされ、小さな水滴を生じる。それは同じ狼煙に含まれる『匂付け』された塵を巻き込み、

 そして、『異境』により<生成り>の大火が打ち消されて、再び上空の冷気をあてられ小さな氷粒、あるいは小さな水滴のまま雲を形成。

 

 さらに、精密誘導兵器の如く捕捉した目標に最短距離で突き進む情念の大火によってつくられた『多頭竜』までの一筋の上昇気流は、

 散々火器をばら撒いて燃え盛る地面近くの熱気をも上空へと運んでいき、雪だるま式に肥大化する。

 雲の中の水滴や氷粒は成長し、これらの衝突・摩擦する回数も増加、寒暖の対流に撹拌される速度も加速していき、静電気を貯蓄、地上との電位差が拡大―――

 

 それは通常であれば、時間をかけて行われる自然現象であるも、『匂付け』したものに自然干渉する超能力が、強引に工程を短縮させた。『魔人』の威に従って、雷雲は怒涛の如く渦を巻き、収斂した。

 どっ、と合図があれば“その真下にある傀儡へ雪崩落ちるのがすぐ予想つく。

 

「だから、あとは呼ぶだけだ」

 

 雷とはまず弱い先駆放電(ステップリーダー)と大地から迎えるように伸びる先行放電(ストリーマー)の両者が結合して、道筋を作る。

 そして、道筋が完成したその瞬間に、主雷撃という本格的な電流が流れるもの。

 この原理を応用し、雷雲を制御して稲妻の通り道をつくり誘導させることで、安全な場所へと落雷させるのが、誘雷の技術。

 これより行われるのはそれ。

 

 

「忍法稲妻落としの術」

 

 

 巻き込まれぬよう六刃が下がったところで、『魔人』の手が大きく柏手を打つ。

 神が鳴る。

 クロウの拍手は、正しく“かみなり”となった。

 増幅された生体電流を迸らせる『八雷神法』の技法を、桁外れな生命力を持つ『魔人』が行う。その虚空を割る衝撃音はそのまま呪力の断層を招き、イオン層の断裂を―――雷撃を招いて、『匂付け』された雷雲への呼び水(ストリーマー)となる。

 

 雷鳴が轟いた。

 『多頭竜』がどれほどのスピードで逃げようが遅く、顕現したその瞬間には捕えていた。

 眩い白熱の筋が刻まれ、上空が白光に引き裂かれる。『魔人』の召喚に導かれる激光はまるで怒り狂った雷獣だ。

 轟音と衝撃が大気を震撼して、直撃を受けた『多頭竜』は撃墜。制空権を独占していた傀儡の巨体が、大量の金属片を撒き散らしながらその化けの皮が剥がれていく。

 

 安座真の銀黒色の鎧は、現代兵器を魔獣へと変える魔具だ。兵器としての攻撃力を魔獣に取り込ませるが、同時に魔獣の防御力や性質も素体そのままだ。輸送機をベースに設計された対地攻撃機に、被雷に耐えられるほどの強度はない。雷獣に噛みつかれた時には、『多頭竜』はもはや瀕死の鉄屑と化していた。

 

「ぐっ……」

 

 地に堕ちた安座真が這いずりながら、『多頭竜』の骸より出てくる。

 落下の衝撃もあって、魔獣の“情報”を組み込まされた肉体と言えどもひどく消耗しているようだが、雷撃の影響はほとんど受けていなかった。

 金属などの電気を通しやすい物質に囲まれていると、その内部にいる者は、被雷の影響を受けない――『ファラデーの(ケージ)』と呼ばれる現象だが、おそらくそれと同じことが、安座真と対地攻撃機(ヒュドラ)の間にも起きたのだ。

 

「ハッキリ言って、オマエらはジャンケンでグーしか使わない頑固者だな」

 

 不動、それまでずっとその立ち位置を崩さない『魔人』は、倒れ伏す『聖殲派』の指揮官を見下ろす。

 

「『異境(それ)』に甘え過ぎだ。それだけで世界を変えようなんて、それは傲慢な考えだ」

 

「傲慢、だと? 欠陥製品ごときが、我々の崇高なる理想を愚弄するか……!」

 

「なにが大事かはそれぞれの勝手だろ。そいつが本気なら上も下もない。

 だから、オレが馬鹿やってると思うのは、オマエらの考えじゃなくて、行動なんだろうな」

 

 現実の法則を歪ませる魔力。そして、魔力を無効化する『異境』。しかし、『異境』は現実の前では無力だ。

 故に『聖殲派』は『異境』の力を振るっての殲滅(テロ)では、この現実の世界を変革することはかなわない。

 魔術と異境と現実、この三竦みで成り立つ力関係に、『聖殲派』はひとつしかもたないでいるその有様を指摘する。

 

魔族(チョキ)人間(パー)が揃った『聖域条約(ルール)』で作ったのが今の現実(せかい)だろ? なら、この現実(せかい)を相手に勝負(ジャンケン)したいなら、『咎神(グー)』以外を食わず嫌いするんじゃなくて全部を呑み込んでからにしなきゃ、土俵にも上がれないのだ。そんなのはオマエだってわかってる。でも、それが自分たちの主張(ワガママ)でできないといい、そしてこれでは負けるのが自分でわかってるから、土俵に立つこともなく、逃げてる」

 

 もはや、騎士は声すら出なかった。

 しゃっくりで喉が詰まったようにただ息だけを洩らし、しかしどこまでも冷徹な純性は躊躇いなく『聖殲派』の心臓(かく)に牙をかける。

 

「それで不戦敗して、それが不服だから駄々こね(テロし)てる―――オレにはオマエらがそんな風に見えるぞ」

 

 

 

(遊びに喩えるなんてあの子らしいと言えばらしいけど、幼稚ね。でも、真理はついているのだから言い返せない)

 

 すべてを出し尽くすほどの呪術の反動に足が震えながらも、双叉槍を地面に突いて弱った様を見せず、妃崎霧葉は騎士兜(ナイトヘルム)越しにもはっきりわかるほどに歯噛みしてるであろう安座真の顔を見透かすように笑って見せる。

 

(『聖殲派』はその強さを『咎神』の遺産という理想に頼り過ぎる。結局、あれは夢見がちで現実を直視できていないのね)

 

 『クスキエリゼ』の会長を見てきて思うが、『自分が世界を救う』なんて奴は信用しないし、『自分が導く』とガツガツした熱血が大嫌いだ。

 何故ならば、そういう人種に限って己の欲望むき出しであり、しかも口先ばかりなのだ。

 自分が自分がって普段調子のいい事を言っている割には困難にぶつかるとすぐへこたれる。そして、こうして自身でも気づかないふりをして、目を逸らし続けてきた真理を突かれて、最も柔らかなところを抉られた彼らは何も応えられず、口ではなく力で黙らせようとする。

 結局のところ、そういう人種は自意識と我欲でしか目的を持たない。

 でも、そこの『獣王』は違う。

 あの子は、平穏でのんびりしたい以外の目的なんて持ち合わせていない。

 だからいつも素直でいられるし、目的に縛られて自由とゆとりを失う事もない。

 それは逆に言えばいつでも自由な発想でなんでも出来るという事だ。

 誰しも欲望は満たされた瞬間、消滅する。半永久的に生き続けている『旧き世代』の吸血鬼は、粗方の欲望が満たされてしまい、大抵の輩が狂っている。

 欲のために生まれた目的が魔族の殲滅ならば、それを果たした後、その者はいったい何をしてくれるだろうか?

 何通りか予想はつくだろうが、きっとどれもろくでもない末路だろう。

 彼は何があっても彼でいられる。

 

(だから、あの子は今目の前にあることをあるがままに受け入れ乗り越えていくことができる。だから、私の監視対象は強いのよ)

 

 力云々の前に、懐の問題だ。

 

 仮面を被って正体を隠し、平和的な手段で世の中を変えられず、現実から目を逸らしてテロリストとなっている『聖殲派』。

 対して、吸血鬼の真祖は、人間と魔族の共存を目的に締結された『聖域条約』を強力な後押しをして、実現に貢献した―――そして、現実(せかい)を変えた。

 すべての魔族を滅ぼすしか世界を正せないと『聖殲派』が主張している間に、その他ならぬ魔族の盟主たちが平和に至る手段を形にしてみせた。

 その時点で『聖殲派』は、正義を語る資格を失った。

 そう、“すでに平和になった世界を一体どう平和にする”というのだろうか?

 だからこそ、この現実(へいわ)を乱そうとする『聖殲派』はテロリストであり、そして犯罪者とされたのだ。

 

 

 そして、それは今、同じ『聖殲』の遺産からも基盤を揺らがされる。

 

 

「やっと来たな」

 

 と今まで“影踏み”していた位置から、『魔人』はどいた。

 その行動の意図を探ろうとして、安座真の強張った表情が更に歪む気配があった。

 まさか。

 <女教皇>の制御から奪って、<黒妖犬>がこれまで門を固定していた『異境』の侵食が、ゆっくりと膨れ上がっていくのを見たのだ。

 まるで誰かが、そこにある見えない扉をこじ開けていくように―――

 この影の不知火を大きく波立たせる魔力は、けして『聖殲』の鍵(グレンダ)のものではない。もっと禍々しく獰猛な―――世界最強の吸血鬼の魔力だ。

 

 馬鹿な! 魔族ごときが自力で『異境』の境界を破るというのか!?

 

 混乱する安座真に、『違う』と短く否定の声。

 

「グーを揃えてきたのだ。だから、魔族(チョキ)の力しかなかったけど、今なら『異境(グー)』に負けないようになった」

 

 その回答は、安座真の全身を戦慄したように凍りつかせる。

 

 ヤツは『咎神』の記憶を食ったのか―――!? 馬鹿な、そんなことが―――

 

 安座真の声ならぬ声が漏れる前に、不知火は割れる。

 凄まじい魔力の奔流を海底火山の噴火の如く迸らせながら、現れたのはしっかりと抱き合った一組の男女だ。

 どこか気だるげな表情を浮かべた少年と、ぶかぶかの制服のブレザーを羽織った小柄な少女。

 ―――紛れもなく、<第四真祖>、そして、グレンダだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「古城君は、いつも遅れてくるな」

 

 無事生還を果たしたこの先輩に、後輩は素直な感想を洩らす。それに気づいた古城は『魔人(クロウ)』に気づき――一瞬、微妙に顔を逸らして――自発的に謝罪した。

 

「あー……悪い、クロウ。待たせた」

 

「ん? どうした、なんか様子が変だけど、まだ影響が残ってるのか?」

 

 さりげなく、しかし絶対に目を合わせぬ先輩を、クロウは不思議そうに心配そうに問うも、『いや、なんでもない』と古城は話を逸らそうとし、とりあえず、『ぅ……』と自身の背中に隠れて畏縮している鋼色の髪の少女を、後輩へと押し出した。

 

「ごめんなさい、言うこと守れなくて……」

 

「ん。あの時は大変だから大変になってもしょうがない。無事なようだし、古城君のことも助けてくれた。なら、言うことはひとつだぞ。

 ―――よくやったな、グレンダ」

 

「おにぃ―――!」

 

 ぶかぶかのブレザーの裾からはすらりとした太腿を覗かせて、非常に危うい、また眼福な恰好なのだが、大人な姿になっても中身はグレンダと同程度の無垢な後輩はこれといって特に慌てて気にすることもなく、ぽんぽんと頭を撫でた。

 

 そんな和むやり取りを他所に、話題に注意が逸れた第四真祖は、一息安堵しているところを見られた六刃神官よりネズミをいたぶる猫のように嗜虐的に目を細められて、

 

「―――お楽しみだったみたいね。グレンダ(その子)の血は美味しかったかしら?」

 

 状況証拠から明白な事実を告げられて、古城は声を上擦らせた。

 

「ち、違う。あ、いや、違わないけど、つまり、正確に言えば、あれはグレンダであってグレンダじゃなかったって言うか―――もちろんっ! クロウでもなかったぞっ! ちゃんとチェンジさせたからなっ!」

 

 だが、意味不明な古城の供述(かえし)は、六刃神官にも予想以上の動揺ぶりだ。

 その慌てぶり――それも何故かしきりに後輩(クロウ)のことを気にしている――は思いっきり怪しいのだが、今は詳しく追及してやる状況でもない。

 

「わかったわ、でも、この口止めは貸しよ。まあどうせ剣巫にはすぐばれることになるでしょうけど」

 

「高くつきそうな貸しだな。つか、すぐバレんなら意味がねぇじゃねぇか」

 

 軽い絶望感に目眩がする古城。それでも周りに獅子王機関組がいないことに気づいて、厄介事はまだ終わっていないことも把握する。

 

「なぜだ、<第四真祖>……なぜ『咎神』の“器”が貴様を選ぶ……!?」

 

 『赤竜』に『異境』に沈められながらも何事もなかったように大地に立っている古城を睨み、安座真は忌々しげに咆えた。

 それに、古城はあえて彼の神経を逆撫でするように言い放った。

 

「あんたが何を言ってるのかわからないな、安座真三佐」

 

 身勝手な正義を振りかざし、グレンダたちを危険に晒した『聖殲派』に、古城もいい加減に怒りを覚えているのだ。

 

「俺を助けてくれたのはグレンダだ。あんたが道具(モノ)扱いしてたあいつが、あいつの意思で俺に力を貸してくれた。それくらい言われないとわからねーか? 数式の足し算引き算みたいに損得で仲間を切り捨てられるあんたには!」

 

 過度な感情の昂りにブレーカーが落ちたかのように絶句した『咎神』の騎士を、古城は哀れむように見据えながら、冷ややかに言い放つ。

 

「たとえあんたが言うように世界が歪んでるんだとしてもな。世界をあるべき姿に正すという主張が堂々とできねーんだ? 理想が正しいなら、こんなテロリストにならなくて良かったはずだ! 世界を滅ぼせるくらいの力があるのに、吸血鬼の真祖たちは、聖域条約っつう平和的な手段で世の中を変えてみせたんだぞ!」

 

「どいつもこいつも……!」

 

「それができない今のあんたは魔族以下だ。種族も能力も関係ない、あんたは魔族の正義に負けたんだ。歪んでるのは世界じゃなくて、真実を直視できないあんたの方だろ!

 来いよ、おっさん。あんたがそれでも正義を名乗ってグレンダを狙うのなら、俺があんたを止めてやる! ここから先は、<第四真祖(オレ)>の戦争(ケンカ)だ!」

 

「<黒妖犬>も<第四真祖>も……貴様ら殺神兵器の分際でェェェェェェ―――ッ!」

 

 仮面を殴り棄てた、剥き出しの生の感情のままに吼える安座真。

 黒銀の騎士鎧から放たれる『異境』の侵食が、地中より這い伸びる。

 だが、それらが刃と化して古城を貫こうとしたその時、ドンッ、と『魔人』の足。

 

「いいや、古城君。オレたちの戦争(ケンカ)だって―――姫柊なら言うところだぞ」

 

 『異境』の侵食を踏み潰す。

 “『咎神』の殺神兵器”である<黒妖犬>に『異境』は通用しない。『聖殲派』にとって、<第四真祖>よりも天敵だ。

 そして、またひとり―――槍を手にした少女が現れる。

 

「先輩!」

 

 呼ばれた古城は右手を上げて応え―――――わずかの逡巡もせず唱えた。

 

 

疾く在れ(きやがれ)、『二番目』の眷獣<牛頭王の琥珀(コルタウリ・スキヌム)>!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 蟻のような甲殻をもつ『堕天使』らに囲まれながら、『赤竜』を妨害する。

 この死地で踊るような戦場を、獅子王機関の剣巫は槍ひとつで成す。

 

「ハァ―――ッ!」

 

 裂帛の気合いと共に、斬撃が舞い踊った。白刃が大気を裂き、刀身が漆黒を弾く。休むことなく回り続けて、優美な光の筋を引く。その筋が瞬く間に、次から次へと塗り替えられていく。

 “あの槍の切れ味”を体感してしまったことが、枷となり積極的に<女教皇>は前に出れず、また槍の担い手はそれを悟って牽制をしてくる。

 

「『忌々しい―――忌々しいぞ、メトセラの末裔!』」

 

 氷の眼光に射貫かれ、<女教皇>は声高に咆える。だがそれは犬と変わらない。

 戦士ではない、憚ることなく憎悪をさらす『巫女』の感情は読みやすい、それに操られている『堕天使』も同じ。

 

 行動を読み、合気で無理なく相手の勢いを利用する術ならば、この絃神島に来てから同級生を練習相手に師家様に叩き込まれた。

 

 その教えを頭の中で反復しながら雪菜は巧く攻撃のタイミングを外しながら戦う。

 けして一方的に攻め込まず、けして一方的に防戦に追い込まれず、ちょうど中間の位置を絶えず維持し続ける。

 相手が攻め込もうと踏んだ瞬間に雪菜は一歩だけ前へ出る。

 相手が一度引いて体勢を整えようとした瞬間に雪菜は一歩だけ後ろへ下がる。

 予想が外れて自然と拍子抜けしてしまう敵に集団は、その瞬間僅かに足並みが乱れる。『赤竜』の多頭も同じ。そこを狙って、雪菜は容赦なく槍を振るう。相手が慌てて漆黒のヴェールを張って防御したところで、『七式突撃降魔機槍・改』より迸る人工神気は容易く『異境』の護りごと敵を後方へ弾き飛ばす。

 雪菜はそこで追打ちを仕掛けない。一度攻撃を繰り出したら、再び根気良く後ろへ退く。攻めるでも守るでもなく、只管両者のバランスを保ち続けることで『膠着状態』という本来あるはずのない、見えない壁を意図的に築き上げる。

 

 拮抗する力と力が、両者の間の空間を軋ませている。攻撃の手を緩めないまま、雪菜は息を呑む。

 

(この方法はいつまでも頼れるものじゃありません……)

 

 できるだけ遠くに離してきた自身の背後を――先ほどから上空からの爆撃音が連続する苛烈な、同級生に任せてきた状況下――気にしながら、そんなことを思う。

 彼女は毅然とした優勢の態度を取るふりをしながら、しかし内心では緊張していた。今はここにいる『聖殲派』ら状況の分析ができるぐらい、心に余裕があるから付け入る隙ができているだけだ。虎の威を借る狐の例えがあるよう、“剣巫の次に待ち構える<黒妖犬>”を警戒して、戦力を温存しようとしている相手の思惑を、雪菜が上手く利用している。

 だが、<女教皇>が本格的に玉砕を覚悟し、心のバランスを失い、同士討ちも相打ちも覚悟で一斉に攻撃を仕掛けて来たら雪菜のプランは一気に崩れてしまう。

 攻撃にしても防御にしても、どちらか片方にバランスが偏ればその瞬間に心理的な壁は崩れ、雪菜は集団という巨大な波に呑み込まれる。

 この戦法は釣りみたいなもんだよ、と頭の中の黒猫が語るのを聴きながら槍を振るう。

 

 無闇に竿を引き続けても魚は暴れて糸を引き千切って逃げ出すだけ。上手に釣りたければある程度魚の動きに逆らわず、遊ばせ、相手に勝機があると思い込ませなければならない。

 

 

 だが、

 それ故に、

 この拮抗した状況下は、第三者からの予期せぬ介入に脆い。

 

 

「―――雪菜(ユッキー)っ!」

 

 雪菜の方へついてきていた羽波唯里の声。それに<女教皇>に視線を張りつかせて、『聖殲派』へ九割の集中を注いでいた雪菜の意識がほんのわずかにそちらに割いてしまい―――狭窄した視野の死角より迫る黒い刃に気づかせた。

 

 地中を這いずる『異境』の侵食。

 それらが刃と化して雪菜を貫こうとした瞬間、銀槍の一閃が虚無の薄膜を縫い止めた。

 青白い輝きを纏った<雪霞狼>が、間一髪でこの奇襲を凌ぐことができ、そして、その青年は現れる。

 

「救援が遅れましたことにお詫びを<女教皇>」

 

 黒衣を着て、繊細そうなその顔立ちは、十月末の『波朧院フェスタ』で雪菜が(まみ)えた者と同じ。

 

「あなたは、<監獄結界>からの脱獄囚―――!」

 

 『闇誓書事件』で死闘を繰り広げた凶悪な魔導犯罪者たちで、ただひとり免れたという……けれども、たしか第三真祖襲来のごたごたで同級生(クロウ)に捕縛したと聞いていた。

 

「………っ」

 

 黒衣の男――絃神冥駕は、雪菜を一瞥し、ギリッと歯軋りする。その常に冷静沈着な面持ちを崩さないであろう雰囲気の持ち主だと思っていたが、今はその仮面が剥がれかけてるよう。

 いや。

 あの男が見ているのは、雪菜ではなく―――槍だ。

 

「この場は私めにお任せを。<女教皇>は、“鍵”の奪還へ」

 

 恭しく頭を下げてくる冥駕に、<女教皇>は目を細める。

 この男が腹に一物を抱えているのは明白であったが、しかしこの状況は案に乗るほかない。完全に信用できるわけではないが、この邪魔な剣巫を押さえてくれるというのであれば、こちらは自由に動ける。

 『聖殲派』は何としてでも、“情報”の器(グレンダ)を手に入れなければならない。

 今は獅子王機関を退けることができたが、中核の『三聖』を殺し切れなかった以上、すぐ体勢を立て直し、逆襲を仕掛けてくるはずだ。

 時間の余裕は、ない。

 

「『絶対に生かすな、『冥狼』。メトセラの末裔をこれ以上成長する前に芽を取り除け、妾の前に二度と立たせるな』」

 

「無論―――言われるまでもなく」

 

 酷薄な<女教皇>の台詞に、青年は深々と低頭した。

 

 

 

 そして、<女教皇>はこの拮抗した戦線を抜けた。

 雪菜がそれを追おうとするも、妖しい輝きを放つ漆黒の長槍を見せびらかすように視界を遮らせて、行動を阻まれる。

 

「あれは、昨日と同じ……」

 

 絃神冥駕が手にするのは、昨夜に見た左右一対の短槍を強引に接合させた一振りの長槍。

 『零式突撃降魔双槍(ファングツァーン)』、獅子王機関の“廃棄兵器”であり、霊力を打ち消してしまう巫女殺しの武神具。

 

 ちょうど雪菜と唯里が挟み撃ちにしている間に青年は立っているが、その顔に怖れの色はない。

 この<冥餓狼>がある限り、巫女は巫女としての力が使えず、それにひとりは何の武器ももたない。

 彼女たちに不死身の『僵屍鬼(キョンシー)』の肉体を滅することなどできないのだ―――その<雪霞狼>を除いて。

 

「どうやら、また脱走してきたようですね」

 

 雪菜はそう言いながら、脅威対象に前線を抜かれて後ろ髪を引かれていた意識を、絃神冥駕に向けた。ジリジリと間合いを測りながらも身体の軸は微塵もブレることなく、そして武神具と一体であるかのように破魔の銀槍を構えている。

 

「ひとつ提案です」

 

 <女教皇>が立ち去ったのを見計らって、絃神冥駕は口を開いた。

 

「私は、この一件にこれ以上介入する気はない。見るべきものを見て、得るものは得ました。

 ということで、『七式突撃降魔機槍』を譲るのであれば、特別にこの場から退きましょう」

 

「断ります。脱獄囚である貴方を逃すわけにはいきません。それに、<雪霞狼>を誰にも渡す気はありません」

「―――<雪霞狼>は、貴様のものではないッ!」

 

 青年の鬼気迫る叫び。

 ただ雪菜が槍を抱いている―――それだけで男は泰然自若の面相などかなぐり捨てる。

 剥き出しの感情に驚き、あまりの怒気に呑まれかけたが、すぐ青年は眼鏡の位置を直して、気を落ち着けさせた。

 

「すみません。しかし、です。あなたがその槍を持つ限り、<女教皇>はあなたを脅威とし、そして殺そうとするでしょう。ならば、助かる道は槍を手放すしかない」

 

「………」

 

 霊視で視ずとも、それが雪菜を気遣っての事ではないことはすぐに見抜けた。

 最初からこの男が見ている――執着しているのは、槍。こちらに視線が向けられることはあっても、その瞳は無感動。情緒不安定で感情を読むのが逆に難しいが、それでも獅子王機関の秘奥兵器である<雪霞狼>を貪欲なまでに求めているのだけはわかる。

 

「かつて冬佳が救ったあなたを、私は死なせたくはないのです」

 

 その口より独り言のように吐露されたその人名(たんご)に、雪菜は目を瞠った。

 

「冬佳……様? あの人の名前を、あなたが、どうして……!?」

 

「神狼の巫女、槍を渡しなさい―――」

 

 雪菜への回答はなく、冥駕は漆黒の槍を無造作に構えた。

 その失敗作より『聖殲派』と同じ漆黒のヴェールを広げながら、真っ直ぐに心の臓のある左胸へ切先を突き付ける様から、断れば殺す、という意思が伝わってくる。

 だが、雪菜が心変わりすることはない。

 

「雪菜、気をつけて。その槍は霊感を封じてくるよ」

 

 忠告する唯里に頷き返しながら、ごくごくわずかに重心を前にズラした。その僅かな動きに、ピクリと『冥狼』が反応する。

 

「断ります。あなたに冬佳様に託された<雪霞狼>を渡すわけにはいきません」

 

 直後。

 雪菜から莫大な霊力が迸った。神速の踏み込みと同時に斜め下からすくい上げるような逆袈裟の銀閃が、ギラリと牙を剥いて漆黒の薄膜を斬り裂いた。

 『冥狼』が双槍を差し入れてガード。そのガードごと―――どころか、冥駕ごと呑み込んで、凄まじい人工神気の奔流が山森を駆け巡った。

 台風を無理矢理凝縮して解き放ったようだ。高密度の『神格振動波』の渦が、『廃棄兵器』の霊力無効化を振り切って吹き荒れる。唯里が直前に息を呑んだが、そんなものは瞬く間もなくかき消された。

 

 力を温存していたのは、<女教皇>だけではない。

 姫柊雪菜もまた、<雪霞狼>の力をセーブしていた。

 

「馬鹿な……まさか、これほどに力を……!?」

 

 『零式突撃降魔双槍』を発動させて、巫女の核たる霊力に制限をかけているというのに、神狼の巫女は『七式突撃降魔機槍』――『七式突撃降魔機槍・改』を発動させている。

 『ぐっ!?』と唇を驚愕に歪ませた冥駕はガードごと身体が、下からくる圧力に押され宙に投げ出された。その次の瞬間には、雪菜は躊躇なく、後を追って踏み出している。

 まだ人工神気の嵐と粉塵が吹き荒れる中、雪菜は一息に山間を突っ切り、冥駕との間合いを詰めた。

 

「認めるか―――認めてなるものか! その槍は! <雪霞狼>は冬佳のために―――!」

 

 跳躍。

 今この場は霊力に対して、空間全体に重石を乗せられているというのに、しかし剣巫は<冥餓狼>のプレッシャーを物ともしなかった。

 軽く10m以上を飛ぶように跳んで、襲い掛かる重力や風にも身動ぎひとつせずに、吹き飛ばした『冥狼』に追いついて銀槍を振りかぶる。冥駕が目を瞠ったところに―――

 二撃目。

 頭上から振り下ろした一撃が、回避する間もなく『冥狼』を直撃。不死身であるはずの彼の肉体より白煙を噴き上げさせ、隕石のように落下。ドゴッ、と地面に叩きつけられる。ミサイルが着弾したように、また新たな粉塵が舞い上がった。

 

「<雪霞狼>」

 

 ダンッ、

 と背中から羽翼を生やすように輝く紋様を宙空に描きながら、一直線に落下。全身のバネで衝撃を吸収し、爆心地前に着地した。

 電光石火の連続攻撃は、雪菜をよく知る者であっても、背筋を凍らせただろう。およそ並の魔族に耐えられるレベルではない。それでいて、雪菜は息ひとつ乱していない。その印象は冷淡ですらある。

 ひゅん、と雪菜は<雪霞狼>を振るい、発光を抑えた。

 

(すごい、これが本当の<雪霞狼>の力……)

 

 これに雪菜もまた驚いていた。

 “十全に扱えるようになった”というのはわかっていたが、それでも<雪霞狼>の真価は凄まじいものであった。そして、その末路もまた体感する。

 真祖をも殺す秘奥兵器という評価(ブランド)に嘘偽りなし。

 

 

「ふざけるな。そんなこと認められるとでも思うか! 私は冬佳のために造ったのだ! 彼女以上の担い手など存在するはずがない! 否、許せるはずがない!」

 

 

 そして、その猛攻を凌いだ青年。

 どこか異様な気配を発する冥駕に、雪菜は油断なく再び槍を構えた。

 戦闘で眼鏡を失われ、隠せるもののなくなった亡者の虚ろな瞳。左手に握った槍からは、今は力を感じない。

 だが、異変はそこではない。剣巫の直感が警鐘を鳴らす。今すぐここで止めを刺すべきなのだが、彼の口から洩れる『冬佳様』の言葉が雪菜の槍の切先を迷わせる。

 その僅かに躊躇した間に、冥駕は黒衣の懐よりそれを取り出す。

 

「まだ調整の済んでいない複製品ですが、安全装置(セーフティ)がないだけで本物とは変わらない」

 

 手にしていたのは、『仮面』

 『聖殲派』の陣営に確保されていた『仮面』の複製品だ。絃神冥駕は密やかにそれを入手していた。

 瞳孔の開き切った瞳で、冥駕は『仮面』を装着する。

 

「神をも滅ぼす真なる禁呪をお見せしましょう」

 

 瞬間、彼の全身に浮かび上がったのは、ぼんやりとした淡い輝きだ。その輝きの正体は、冥駕の肌を埋め尽くす奇妙な文様の羅列だった。

 存在が、変容する。

 淡い光の粒子に包まれて、世界を侵食し始めた。

 この光景に危機感を抱く雪菜だが、動けない、そのこれまで見たことのないような光景から目が離せなかった。

 攻撃魔術でもない。

 呪術でもない。

 もちろん通常の物理現象でもない。

 そして、『異境』の侵食とも違っている。

 ただその輝きに触れたものを、決定的に性質を変異させてしまう。

 同じ形でありながら、生者と死者が、異質な存在であるように―――

 

「ククッ―――」

 

 冥駕はふっと笑った。その瞬間、理知的な青年の底から、その克己心の原動力となっている核が――求める力の到達点が浮上し、表層に現れた。

 

「神狼の巫女。あなたは選択を誤った」

 

 それは、神の使いを堕したいという、強く、純粋で、剥き出しの欲望。

 その結集が具現化したかのように、周囲に生み出されたのは、無数の深紅の弾丸。

 それらが一斉に撃ち放たれて、四方八方から雪菜へと殺到する。

 

「―――!?」

 

 避け切れぬ、そう判断し、銀槍で祓わんとする。

 しかし、着弾したとき、銀のような輝かしい純白に、まるで希釈した血液を被せられたかのように。押し寄せる深紅の弾丸が、雪菜の纏う高密度の人工神気を侵食していく。

 

「っ―――、―――あ」

 

 このままではあと数秒で力が無くなる。

 この深紅は、神を殺すために生み出された禁呪だ。

 薄れていく思考より、身体がそれを嫌悪した。

 そう、たとえそれが『天使』であろうと、その攻撃は防げない。

 雪菜が辛うじてそれに耐えられているのは、冥駕の力が不完全であり、準備も『仮面』と『零式突撃降魔双槍』では万全とはいえないからだ。

 

「は―――あ、あああああ―――!」

 

 形振りなど構っていられない。

 残った霊力、そのすべてを使い切っても脱出しなければならない。

 けれど、深紅の禁呪に掛けられている状態では、これ以上の力を練ることはかなわない。

 そして、

 

「―――終わりだ神狼の巫女」

 

 対岸の火事の如く、深紅に浸食されていく雪菜を眺める黒衣の青年。彼は今、彼女に(とどめ)を降せる死神だった。

 

「っん……! あ―――つぅ、あ―――」

 

 息が詰まる。呼吸ができない。

 手先足先と端から、感覚が薄らいでいく。

 徐々に存在がこの世にあってこの世にないモノに変えられようとしていく。

 

「さあ、これが最後です。槍を手放しなさい。そうすれば、命だけは助けて差し上げましょう」

 

 最後通牒を告げる冥駕。

 やはり、彼は<雪霞狼>に執着していた。この深紅の侵食も、銀槍とそれを握る右腕だけは避けている。

 霞んでいく視界の中、剣巫は酸素を求めるように喘ぎながらも、しかと唱える。

 

「―――獅子の神子たる、高神の剣巫が、願い奉る」

 

 『七式突撃降魔機槍・改』に刻まれる『神格振動波駆動術式』にありったけの霊力を注ぐ。

 しかし、満足に槍を振るえない彼女にそんな真似は無意味だ。冥駕が深紅――『聖殲』の力を解かない限り、姫柊雪菜は自由になることはできないのだから。

 

 だから、雪菜は槍を手放すしかなかった。

 

 絃神冥駕―――

 

 

「破魔の曙光。雪霞の神狼。鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!!」

 

 

 ―――その背後にいた“もう一人の剣巫”へと。

 

「なっ!?」

 

 最後の力を振り切って、前のめりに倒れ込みながら投げ放たれた銀槍は、冥駕の頭上を通過。咄嗟に冥駕はそこへ手を伸ばそうとしてしまい―――両手で握る<冥餓狼>、その『聖殲』の力の制御が、緩んでしまう。

 そして、<雪霞狼>は、戦力外と最初から注意を外していた羽波唯里が受け取り、後輩から聖句を続けて振るわれた。

 

雪菜(ユッキー)から離れてっ!」

 

 力がない、でも、それでも、彼女は控えていた。

 少年に護られることに甘え、そして、後輩に危険な任務を押しつけることを心に悔やんでいた彼女はいつでも備えていた―――それを姫柊雪菜は知っていた。

 

 お願いします、唯里さん!

 

 だから、きっとこの(バトン)を受け取ってくれると信じられた。

 そして、最後に頼ってくれた後輩の信に何としてでも応じたかった。

 

 お願い、たった一度だけでもいい、私に力を貸して!

 

 『七式突撃降魔機槍』に選ばれなかった剣巫。

 だが、今、その意思に応えるかのように、『七式突撃降魔機槍・()』は、唯里の手の中で輝きを増して、

 不意を打たれた絃神冥駕も振り向きざま、

 

 刹那、『力』が迸った。

 

 

「<雪霞狼>―――!」

「っ、<冥餓狼>―――!」

 

 

 純白と漆黒。

 二つの『力』が、激しくぶつかり合った。

 羽波唯里の放つ破魔の銀槍を、絃神冥駕の漆黒の双槍が断ち切らんとしているのだ。現実の物理法則では定義できぬような力の余波は、あたかも天使と悪魔の翼の如く、其々の背部を黒白に飾った。

 しかし、その拮抗も数秒。

 結果は、すでに見えている。

 この銀槍に満たされる霊力は羽波唯里だけでなく、直前の姫柊雪菜の分も込められていた。剣巫二人分の霊力で紡がれる濃密な神気の刃は、『廃棄兵器』の力でもってしても無効化できない。

 

「……こんな、ありえない」

 

 青年の目が血走る。

 刃の切先が緩み、拮抗していたバランスが崩れる。

 すべての『力』が、冥駕に向けて突っ走る。

 

「………」

 

 その刹那、不意に銀槍の軌道が変わった。

 青年は、ふたりの剣巫が槍を手に取る幻―――その背後にもうひとりの面影を透けて見えた。

 その正体を悟るのには、一瞬さえ必要なかった。

 

「―――おォ、ォ―――」

 

 崩れた均衡は取り戻せぬ。けれど崩れた矛先を誘導することはできた。

 

 あまりにも純白の光が、漆黒の青年の身体を呑み込んでいく。

 もう何も見えない。

 幻影も、青年の血濡れた視界も、ただ真っ白に染まっている。時間も空間も何もかも食わんとするように光がすべてを埋め尽くす。

 

 

「冬佳、君を―――」

 

 

 感じられたのは、懐かしい温もり。

 ああ、間違いなく、この温かさだ。

 今でもなお憶えていた。修羅に堕ちて、夢幻の監獄に囚われようとも、過ぎし日の光だけは、誰に否定されることも、覆されることもなく、この胸の裡にあったのだ。

 いかなる神にも運命にも、けして奪えない、穢せないモノ……

 とうの昔に、あの時に枯れ果てたはずの、はらはらと流れ落ちる己が涙の清冽さに、呆然とさせられる。

 そして、全ての事象を彼方へ飛ばしていく壮絶な光の中に―――青年の意識も包まれていったのだった。

 

 

 

つづく



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咎神の騎士Ⅵ

神縄湖付近

 

 

「結局、あいつは何がしたかったのかしら?」

 

『数多の罪人を処刑し、数多の魔獣を討伐した、そして、このすぐ近くの箱根権現に奉納された。『蜘蛛切』に『薄緑』と幾度も改名をしてきた源氏重代の刀『膝丸』!

 しっかーし! その同名で、牛千頭の皮を用いて、『牛』の精を宿す“鎧”があるのでござるよ!』

 

 と侍マニアな<戦車乗り>がノリノリな長広舌で、自社製品の性能よりも、自らの超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)も含めた名付け由来を語ってくれた強化外骨格。

 これに浅葱の持つ予備端末――古城にも渡していた人工知能(AI)と繋がった携帯機器を取り付けさせて、指定の座標に飛ばしてくれ、と。

 理由を訊けば、これがあれば大丈夫、としか言わない。

 しかしながら、向こうがピンチなのは浅葱にもわかることで、そして、浅葱がそこに近づくことをこのモグワイは、有脚戦車の電子機器に干渉してまで『待った』をかけてきた。

 とにかく、『嬢ちゃんが行くのはヤバい』としか答えない。

 まったく、大した相棒をもったものだ。

 とはいえ、あそこが危険だというのは山岳が一気に消し飛ばされた暴風でもわかる。戦う力のない浅葱が行ってもしょうがないことはわかる。なので、渋々と相棒の依頼をチャチャッと仕上げて飛ばしてやった。

 

「―――これが、殺神兵器の力か!」

 

 吸血鬼の視力にて、この遠方より戦場を傍観していたのだろう。戦車の上に乗っていた異邦人の少年がクックッと喉を鳴らし、血がざわめいて彼の全身から尋常ならざる濃密な魔力が立ち昇る。

 

「ちょっとイブリス! あんたなにやってんのよ!」

 

 と一般人にも肌寒さを覚えさせる鬼気に浅葱が文句をつけると、『滅びの王朝』の凶王子は、ふっと笑い、

 

「空気に当てられて、つい昂ぶってしまった。許せ、浅葱」

 

 魔力の放出は控えてくれたが、それでも歯を剥いて獰猛な面を露わにしている。

 だが、『魔族特区』暮らしの一般市民は、荒ぶる凶悪な吸血鬼の王子にも大して臆すことなく、

 

「別にいいけど、何かあったの? 見てるんならこっちにも解説してくれない?」

 

 媚びたり怖れたりせず気軽に頼みごとをする浅葱に新鮮で面白くあるように微笑して―――されど、眼は興奮して血塗られたように赤いまま、

 

 

「そうだな。やはり俺の目に狂いはなかった。ヤツの牙は我らが真祖に届きうるものだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

疾く在れ(きやがれ)、『二番目』の眷獣<牛頭王の琥珀(コルタウリ・スキヌム)>!」

 

 

 天の神様は空の上に、反対に罪人たちは土の下に、という思想は世界各地にある。

 そして、『墓場から掘り出した呪われた土を、棺桶の中に敷き詰めて眠る』という迷信が流布するほどに、吸血鬼は『大地』と関わり深い魔族だ。

 

 暁古城の全身から膨大な魔力が噴き出して、実体化させた新しい眷獣は、この象徴だ。

 大地から無限に湧き上がる溶岩そのものが本体である、琥珀色に輝く肉体をもつ巨大な牛頭神(ミノタウロス)

 全長は十mを超えており、そしてその巨体をも超える重厚な戦斧をもつ。

 

「今度はお前か……」

 

 その威容を見て、クロウは懐かしむよう感想を洩らした。

 この牛頭神は『宴』で一対一の殺し合いを演じて、幾度も肉体を壊され、そして、その灼熱の戦斧を死ぬ気で切断した相手だった。

 真っ向からぶつかって最も己を砕き、そして初めて打倒した<第四真祖>の眷獣。おそらくこの勝利が、己の存在を<焔光の夜伯>に認めさせるきっかけとなっただろう。

 『二番目』の牛頭神もまた、あれから成長したこの『十三番目』の“後続機(コウハイ)”に反応するかのように真紅の目の輝きを点滅させる。

 互いに脅威だとわかる。だから、味方であるのを頼もしく思う。

 して、新たな眷獣と意思疎通させる一方で、

 

「せ、先輩!?」

 

 地底から噴き出した無数の杭が、姫柊雪菜を囲い、檻と為す。吸血鬼を象徴する物体である杭は、どれもが灼熱の溶岩であり、触れることはできず、わずかな隙間を抜けようとすれば焼き焦がされるだろう。脱出は不可能。そんな灼熱の杭に閉じ込められた雪菜が、古城へ叫ぶ。

 

「どうしてこんな真似をするんですか! 私は先輩が―――」

「下手な演技はやめろ。テメェ……姫柊じゃねェだろ」

 

 静かな怒気に双眸を、この灼熱の溶岩よりなお熱く滾らせる古城に臆したように、知人の少女と同じ顔を騙る“偽者”は黙った。

 クロウが自身よりも早くに反応した先輩に、驚いたように目を瞬きさせ、

 

「よく姫柊の“偽者”だって気づいたな、古城君」

 

「ああ、においっつうか、あそこまで不快な“血の匂い”だからな。……それに、姫柊の偽者は見たばっかりだったからな」

 

 以前に獅子王機関の出張所にて、卓越した術者である師家・縁堂縁が精巧に造り上げた煌坂紗矢華をモデルにした式神にも一目で違和感を悟ったことがあったが。

 機械反応さえ誤認させるほどの姿形に誤魔化されない、吸血鬼の超感覚か。それとも“献血行為”で最もお世話になっている少女だからすぐ違いがわかったのか。

 

 これまで暗躍を成功させ、最も多く標的を暗殺してきた『人狼』の騙し討ちがこんなあっさりと失敗した。

 ならば、もうできることは限られる。

 

「『ク……クク……ク……カ……ッ!』」

 

 影より不知火が噴き上げて『赤竜』が顔を出して、灼熱の杭檻を払い除け、『姫柊雪菜』の化けの皮が割れる。

 現れるのは、包帯塗れの身体。

 手足も胴体もその顔にも所々が黒ずんだ包帯を巻いており、虚ろな瞳がその隙間から覗いていた。

 だが。

 はたしてこの<女教皇>は……本当にヒトの“情報”に基づくものなのか。

 

「『楽に始末してやろうと慈悲を見せたのは間違いであったか』」

 

「姫柊はどうした!」

 

「『メトセラの末裔は、『冥狼』が始末している。貴様ら殺神兵器も後を追わせてやろう』」

 

 残りすべての『聖殲派』の兵『堕天使』を結集させ、鎌首をもたげる『赤竜』が気焔を吐く。

 

 

「『永劫の呪いの烙印を』」

 

 

 憎悪に塗れた呪詛が栓であったかのように、一言だけそう漏らした<女教皇>の口から、濁流のように黒い塊が噴出した。

 <女教皇>は、かつての地獄のような戦乱で滅ぼされた怨霊の集合体である。この『仮面』に複製された“情報”もまたこの複数の残留思念が個となったものといえる。

 そして、『仮面』は次々と新たな“情報”を取り込んでいく魔具だ。

 セーブしておけるストックは数限られていても、複製してきたそれまでの記録、すなわち『固有堆積時間』は失われておらず、澱となってそこに積もっていた―――怨霊の集合体に塗れての混沌の一部となってきた。

 今、『仮面』は蓄積されてきた残留思念の栓を解き放った。

 濃霧のような木霊たちは『赤竜』に、そして、『堕天使』らにずるりと内側に入り込む。血管に入り込む。神経に、骨に、内臓に、筋肉に、脳髄に。全身すべての部位に吸い込まれて、“情報”をより強大なものに改竄していく。

 

「『錬金術師、魔女、呪術師、それに魔族―――咎神の力を振るうものすべてを我が血の呪いに染め上げる。この世界を妾の悲嘆と怨嗟で壊すために、“『聖殲』より“情報”を溜めこんできた”! たかだか千年も生きていない程度の欠陥品ごときに覆せる『歴史』ではない!』」

 

 赤く染め上る『堕天使』たちに、喜びはなく、悲しみも憎悪もない。無機質な瞳は、虫のそれにも似ている。

 ある種の『神懸り』。アヴローラ=フロレスティーナの魂を憑依させた暁凪沙の事例に似て非なるもの。

 <女教皇>という『聖殲』の“被害者”は、誰でもあって誰でもない。名前も、顔もわからない、ただひとりの『巫女』の肉体に染みついた亡霊の群体。その膨らんだ憎悪と絶望で魂が変質した、ひとつの概念だ。

 『仮面』に登録された“情報”のなにもかもは消化されて、ひとりひとりの名前も忘却し、世界に個体としての存在が認められない、概念を構成するためのひとつの細胞に成り果てた。

 そして、<女教皇>という『歴史』は。

 『赤竜』のシステムを完全なものとするために、『魔人』を屠る。玉鋼と化した右腕に、刃と化した五指。『疑似空間切断』という取り込んだ武神具の物理的に防ぎ得ぬ属性も付加する。全身すべてをひとつの武器に変え、一撃で心臓を貫くべく、それ以外の思考を全て捨て去って、“静寂を破った”。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ズドン!! と。

 雑音を呑み込む轟音を生じさせて、『魔人』の手甲に纏った拳骨が、『赤竜』ごと<女教皇>と衝突した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 また『雑音(ペーパーノイズ)』が差し込まれた違和感を察した古城は、見た。

 ぐるんっ!! と『赤竜』の巨体がベクトル法則を無視して、空中で縦に二回転もしている光景を。山でお手玉をすれば、目を疑わざるを得ないだろうが、まさしくそれだ。

 でも、最も驚愕しているのは古城ではない。中途を飛ばされた彼には、全容を知らず、結果だけしか見れない、それ故に意味不明な事態に留まっている。

 繋がる影を切り離されたかのように、『赤竜』から落ちた<女教皇>は、最早自発的な呼吸すらもできなくなった。

 それは背中を打った肉体的な痛苦よりも、理解不能な現象に受けた精神的な衝撃があまりにも大き過ぎることによるものだろう。

 

「『ばっ……ァ!! がゥあ、げぼっっっ!?!?!?』」

 

「『聖殲』からの『歴史』だか何だか知らないけど、オマエはただ記録しているだけ」

 

 呆れ果てたようにクロウは呟く。

 体勢を立て直すところを追打ちに掛けたりはせず、好機を見逃して、常識外れの怪物はさらに言う。

 嘲るでもなく。

 ただの事実を。

 

「“情報”通りのオリジナルじゃないし、どれだけ手札を持っていてもそれを選ぶのは結局“オマエひとりでやってる”ことなんだろ?」

 

 だから勝てない。

 歴史の長さなど関係ない。

 そもそも『巫女』に軍隊を従える指揮官としての腕がなければどうしようもない。

 

「こういうのを『宝の持ち腐れ』というんだな」

 

 こちらにしてみれば、ヘタクソなゲーム用のAI相手にチェスを対局しているのと変わらないのだ。

 どれだけ多くの『歴史』を蓄積したところで、『巫女』の“匂い”は残る。『神縄湖』で滅多打ちにしてくれたときの戦闘経験からその輪郭は掴めていた。有体にいえば、虎の子の『巫女の歴史(デッキ)』を頼る前から『巫女の戦術傾向(パターン)』は分析することができる。

 だから何も問題ない。

 脅威にならない。

 『魔人』は狙い通りに『巫女の歴史』を迎撃できる。

 それにこちらには相手の山札の大半を捨て札にしてしまえる力を持っていた。

 

「『異境(これ)』を使えるのは『聖殲派(オマエら)』だけの特権じゃない」

 

 薄らと鎧<薄緑>より広がる純黒の光。

 自分らのよりも澄んだ色合いのそれに<女教皇>は目を剥いて、しかしそれは予想してしかるべきものだったか。

 

 彼もまた、『咎神』の創造した力の『器』だ。

 何かのきっかけがあれば、『聖殲』の魔具と同じ力を使えるようになってもおかしくはない。

 力の有り余る、手加減が難しい<黒妖犬>に、強化外骨格など不用だ。

 <薄緑>という現代兵器を“改造された魔具”は、筋力を増強させるためのものではなく、現代の殺神兵器としてその足りない“きっかけ”を補う(アップデートする)ためのものであった。

 

 それでも。

 こちらは絶対先制権を取っていた。

 

 獅子王機関筆頭『三聖』の『閑古詠』の最大の脅威である<静寂破り(ペーパーノイズ)>。

 予想はしていても反応はできない。

 直前に『異境』に<静寂破り>を無効化されたとしても、不意打ちは成功していたはずなのだ。

 この現実を受け入れられない<女教皇>の意識は、耳から滑り込んできた『魔人』の言葉に集中していた。

 

 

「そして、オレもひとりじゃない」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <黒殻(アバロン)>に取り込まれていた“情報”を『香纏い』した。

 けれど、そこに含まれていた“匂い”は、『十二番目(アヴローラ)』だけではなかった。

 

 暁凪沙――巫女と過適応者の混成能力者(ハイブリッド)の残り香もあったのだ。

 

 本来持っていた『嗅覚過適応(リーディング)』だけでなく、『触覚過適応(サイコメトリー)』も身についた『二重過適応(ダブルホルダー)』。

 魔力を無効化にする『異境』を<薄緑>より展開しても、魔力に頼らない<過適応能力(ハイパーアダプター)>は問題なく働く。

 つまり、あの静寂を破られた間隙に、感情の動きを鼻が嗅ぎ取り事前に張っていた『異境』の薄膜が『雑音』をかき消し、そして、肌の触覚から相手攻撃を予測する『聴勁』――『触覚過適応』ですべてを理解する。

 そして刹那もあれば『魔人』の反応速度は反撃が可能。

 超感覚からの超反応。

 この速過ぎる後出しが、この先手必勝を潰す後手必殺となった。

 

(……これが凪沙ちゃんの)

 

 過敏な表皮の感覚に言葉を出さず、心中でクロウは呻く。

 『接触過適応(サイコメトリー)』。それは、暁凪沙が先天的に有した特異体質。巫女としても優等である彼女は、文字通り接触するだけで、あらゆる魔性の実体を把握する拡張された超感性をもつ。

 同時に、クロウは知っている。

 この少女が異常なほど『魔族恐怖症(トラウマ)』を抱えるようになった理由が、この力も一因であることを。

 理解し過ぎるのだ。

 剣巫の姫柊雪菜や舞威姫の煌坂紗矢華といった幼いころより訓練を受けた巫女のように、単に霊視を有するというだけではない。この力は、あまりにも“すべて”を気づくのだ。愉悦を、快楽を、激怒を、悲哀をひとつとしてあまさず。

 情報過多で頭がパンクしようとも、その狂気を理解してしまうのだ。

 『魔族恐怖症』となった要因は、<死皇弟>――この<黒妖犬(クロウ)>の素材のひとつに使われた<黒死皇>の弟の襲撃(テロ)。あの時起こった、骸を弄び血に狂う獣の凶手にかかり兄の古城を目の前で失うというあまりの恐怖は、惨劇の記憶を凪沙から奪い、『魔族恐怖症』を抱えることになってしまったが、それだけで済んだことが奇蹟と言える。

 

 それを一時体感した少年は、強く拳を握った。何かを掴むように……

 

「呪いだの歴史だのじゃない。仲間というのはこういうものだ」

 

 視線を通わせ、後輩と意思を同調させた古城は、ああ、と力強く頷いた。

 その瞳が怒りに赤く染まっていた。

 

「目的のために仲間の命すら平然と使い捨てるあんたらは絶対に死なせない。自分がどこで道を誤ったのか、きっちり反省させてやる―――!」

 

 暁古城の右腕より<第四真祖>の魔力が迸り、命を受けた牛頭神が灼熱の戦斧を振り降ろす。

 瞬間、ゴバッッッ!! と噴き出す杭。吸血鬼の象徴である杭が大地から勢いよく飛び出しては、標本にするかのように『堕天使』らを縫い止めた。

 『異境』の力で護られているはずの『聖殲派』だが、牛頭神の力は大地を操るものであり、魔力によって大地を生み出すものではない。だからこそ、『異境』の力に対して、攻撃が通る。

 

 そして、牛頭神に続いて、魔人も両手を地面につける。

 

 

「合体忍法千本桜の術!」

 

 

 <薄緑>鎧籠手より大地に流し込まれる南宮九郎義経の『異境』。

 熊野の春の山を想いて名付けられたその由来の通り、この荒れ果てていた戦場の大地に冬というのに木々が生い茂り始めた。灼熱の杭が、枝葉を分岐させ、花実をつけた樹木に化け始めたのだ。

 

 先日、主人の<空隙の魔女>の放った<禁忌の茨(グレイプニル)>を補強したときと同じく。

 『大地』を操る力に『匂付け(マーキング)』した。

 殺神兵器の先輩後輩の合わせ技の効力は地形エフェクト。描画ソフトの塗り潰しツールのように、鼻の覚知範囲内の大地を自らのフィールドに作り変え、その領域内にある物体、現象、生命に情報干渉する。

 

「自然に還れ、『冬虫夏草(コルジセブス)』―――!」

 

 『堕天使』――その増強に使われた<蜂蛇>の骸らの“情報”――記憶を花にして咲き誇らす。

 魔獣と合成されていた『聖殲派』は融合解除されていき、そしてそのまま杭の樹木に埋もれて拘束される。

 

 そして、残り香を散らす花吹雪は、六刃神官に庇われている鋼色の髪の少女の視界いっぱいに埋め尽くした。

 

「だぁ……」

 

 それが、最後の別れの挨拶であるかのようにグレンダの周りで舞い踊ると、風に乗って彼方へと飛んでいった。

 颯爽と。

 後腐れなく消え去った。

 

 

 

「『咎神』の力……が……」

 

 化けの皮がはがれて、それでも杭の樹木の拘束を、『多頭竜』の残骸を盾にして免れた安座真に、古城が駆ける。

 指揮官である安座真にはまだ騎士鎧と騎槍の魔具が残っている。

 

「っ、第四真祖―――!」

 

 迫る<第四真祖>。眷獣に備えて騎士鎧で守りを固めるべきか、それとも騎槍で不死身の魔族の肉体を穿つべきか。

 騎槍(攻めるべき)騎士鎧(守るべき)、どちらの『咎神』の力に頼るべきか―――この二択の判断に迷い、逡巡した間に、暁古城は目前にいた。

 

「―――終わりだ、オッサンっ!」

 

 古城は跳んでいた。

 二択ではない、多様な真祖の能力を持ちながら、暁古城は迷わなかった。吸血鬼の筋力を限界まで引き出した強引な跳躍で飛び出し、その速度は選択が遅れる安座真には反応できなかった。

 真っ直ぐに相手に近づいて殴る。古城の突き出した拳は、思いつく限りの最もシンプルな攻撃。

 古城は生粋の吸血鬼ではない。吸血鬼の能力に対するプライドはない。だから、『聖殲派』の魔具が魔力を無効化するというのなら、魔力を使わずに殴ればいいと思考が行き着く。

 結果的に、その即断は安座真の意表を衝き、古城の渾身の一撃は驚愕と憎悪に歪む騎士の顔を打ち抜いた。

 安座真の肉体は音もなく宙を舞い、地面に叩きつけられて動きを止める。

 

「痛てて……やべぇな、ちょっとやりすぎた……か?」

 

 安否を確かめ、胸の上下に呼吸をしているのがわかると、古城は深々と溜息をついた。

 達成感はない。きっと古城は最初から最後まで、事件の核心から遠く離れた場所にいたんだろう。

 ただ安座真ら『聖殲派』を止めなければ、という考えで行動し、それをどうにかやり遂げた。それが正しい選択だったのかすらも今はまだわからない。

 だが、後悔はない。

 古城は最後の相手をしている後輩へ向いた。

 

 

 

「オレが、壊す。<女教皇(オマエら)>が、殺しても死にきれない亡念だろうと、あるのならば壊してやる。そうでなければ、休まらない」

 

 『魔人』の眼差しは強い意思を感じさせた。刃のように鋭く、鋼のように硬い意思を。

 

 呪われた魔具『仮面』の中に複製された本物ではない偽者。しかし、そのオリジナルまでも<女教皇>という、誰でもあって誰でもない概念だ。

 ただ、あらゆる魔術魔具、そして魔族――この世を歪ませる『咎神』の力を振るうというだけで呪い殺してきた<女教皇>という概念は、膨らんだ憎悪と殺した魔で変質している。

 だから、救うことなどはできず、このまま残せば、病原菌のように感染させていくことになるのが予想つく。意思に、思想に共感してしまえば、新たな『聖殲派』が生まれることになる。

 滅ぼすしかない。この残留思念が生み出した幻影に過ぎないものを。そうでなければ、解放されない。

 この創造主であった<血途の魔女>と同じく。

 

「戦う気があるなら、立て。オレはオマエらをこの土俵から逃がすつもりはない。これ以上納得できないと逃げたところで、オマエらが中途半端に壊れるしかないのがわかる―――だから、ここでオマエらを完膚なきまでに壊す。きちんと食い残しなく、喰らってやる」

 

 『最大多数の最大幸福』、そんな理想の楽園の守護者であれと望まれた最後の殺神兵器。

 それを完了させた少年は、頽れる少数派となった『聖殲派』、その最後のひとりである『人狼』――<女教皇>を、立ち上がるまで待つという。

 

(壊せるのなら、とっとと壊せばいいのに……本当……)

 

 呆れたように六刃神官は息を零す。

 正々堂々なんてルールはないのに、そんな無用な気遣いをする意味はないはずだろう。

 しかし、これは必要な作業なのだろう。

 次はもうないと宣告した。

 だから、今、すべてを出し尽くさせる。溜め込んだモノを吐き出させる。

 確かにこれで負ければ洒落にならないが―――きっと、だから負けないのではないか。

 本当の強さというのは、懐の深い部分に溜まっていく。

 

「『滅ぼす、この世界を妾が永劫の悲嘆と怨嗟に染め上げる―――!』」

 

 <女教皇>の肉体が、赤黒い光の粒と化して、『赤竜』に注ぎ込まれていく。

 『人狼』がつける、そして『巫女』を宿す『仮面』もまた、相手の“情報”を奪い、自らに融合させる『咎神』の魔具だ。

 

 ―――七つの丘にまた新たな骸の山(れきし)を積み込む。

 

 七つの頭に十本の角をもった『赤竜』、その深紅の巨体より新たな竜頭が突き出た。怪物と巫女が一体となり、八つの頭となったその姿は、伝説上の魔獣である八岐大蛇によく似ている。

 七つの丘を越えて、八つの谷と八つの峰に跨るほど巨大な霊威ある怪物は、正に山か何かと見紛うほどだ。

 

「―――いいや、これで終わらせる」

 

 山を引き抜くほどの強大な力と、世を覆い尽くすほどの圧。

 そして、抜かれたのは力だけではなく、その構えもこれまでの仁王立ちに近いものから、より自然体に近い形をとっていた。硬く拳を握っていた腕もダラリと下におろされており、一見すれば『構えのない』と見られてもおかしくない状態だ。

 しかし、その状態であっても、破壊神たる魔人の全身から放たれる抜山蓋世の覇気は天井知らずに昂る。並の魔獣ならば本能で平伏し、並の魔獣であれば見た瞬間に絶望にも近い恐怖に襲われるだろう。

 

 この比すれば矮小な体躯ながらこの世界において最上級の力の詰まった現代最後の殺神兵器へ、深紅の八岐大蛇は八方同時に襲い掛かる。

 その瞬間に竜頭のひとつになり果てた『巫女』は、受けた。

 ―――覚悟しろ、と訴える魔人の視線を。

 

 肌を震わす咆哮と鼻に刺す芳香。

 それですでに真理(かこ)心理(こころ)――<女教皇>の『固有堆積時間』を、『触覚過適応(サイコメトリー)』と『嗅覚過適応(リーディング)』の『二重過適応(ダブルホルダー)』は取得し(はかり)終えていた。

 

 だから初見であろうと、その攻略法は知悉している。

 相手の状態から行動までも把握予測し、現状の環境と合一するかのように適応する。

 その時その場その敵に“必ず捉える最適手”を狙う型―――それが、この自然体であったか。

 

「壬生の秘拳、夢想阿修羅拳―――」

 

 『移動する時間をゼロにする』空間魔術の補正で、全く同時に放たれる八つの技。拳打、貫手、掌底、膝蹴り、踵落とし、靠、手刀、咆哮(魔力砲)をそれぞれにぶつけさせて、真っ向から防いだ。衝突した竜頭は酩酊したかのようにふらついており、

 そして、体勢を立て直して、攻めに転じた魔人は、“重ねる”から更に“束ねる”、ひとつに一極集中した終わり(止め)を放つ―――

 

 

「―――壬生の秘拳、十束拳!」

 

 

 八つの雷神と八つの将軍の体法、四つの獣王の奥義と人間と魔族の極意を取り込み、己の中で噛み砕いて消化し、昇華させた混血必壊の技巧。

 一撃でも山岳を砕き崩し、海を二つに別つ力を、“十の拳を束ねる”ほど全く同時に放つことで十の一撃をひとつに内包させて、

 かつその一点に絞り込まれた狙いは、二つの超感性で状況対象に対し的確に吸い込まれるかのように相手の急所(かく)を打ち抜く、完成された秘拳(きせき)

 核を抉り込んだ十発の拳が同じ位置座標と時間に存在しており、一撃目を防いだとしても同じ位置を二撃目が打ち、三撃目が挽き、四撃目が砕き、五撃目が削り、六撃目が穿ち、七撃目が抉り、八撃目が肉を喰い、九撃目が気を呑み、十撃目が魂を壊した―――

 反動で手甲が壊れたが、この矛盾した打撃は最早殴るという概念ではなく、一点に絞り込まれた命中箇所で局所的に事象飽和を引き起こしており、吹き飛ぶより先に崩壊を始めている。

 

「返してもらうぞ―――っ!」

 

 ずぶずぶずぶずぶずぶっ。

 その尾の先まで風穴を開けられた八岐大蛇の魂なき骸より音を立てながら、核を破壊した腕を引き抜いて、それらが引きずり出される。

 憎念で膨らんでいた八岐大蛇の姿は、そのときに完全に消えた。

 そして。

 赤の反転した白き龍母を身体で受け止め、もうひとつついでに<女教皇>の『仮面』が砕かれた『人狼』を地面に投げ出す。

 

「おつかれさまだ」

「みー……」

 

 自らの<守護獣>を己の胸の裡に戻して、やっと魔人は―――元の少年の姿へと戻りながら、仰向けで倒れたのだった。

 

 

 そんな精も根も尽きた少年の、動きに耐えきれず自壊した<薄緑>の鎧より、ケケッ、と誰かが愉快そうに笑った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 絃神冥駕は、森を彷徨っていた。

 身体の中に空間転移の呪符を縫い込むという不死身の肉体ならでは裏技での緊急離脱だ。前回、<黒妖犬>に嗅ぎ取られて発動前に切り捨てられたが、脱獄した後で新たに張り直していたのだ。

 だがそれでも、あの膨大な神気を喰らっていれば逃げれたとしても、死体から生み出された肉体は浄化され、本来あるべき姿へ戻ってしまっただろう。

 

「冬佳……」

 

 だが、あの最後の瞬間、銀槍の軌道は、冥駕を避けた。

 避けて、『聖殲』の力だけを薙ぎ払うように振り斬られた。

 おかげで消滅は免れ、魔術的な加工の施された『墓場の土』と損傷した部位さえ交換できれば、また活動が可能だ。

 

「ああ、やはり君は、まだ―――」

 

 青年は、あの時見た幻影、そして感じた温かさを思い出すかのように、目を瞑り、

 

 

「―――いるのなら、必ず、取り戻して見せよう! 神の下から君を!」

 

 

 執着は、未だ薄れず。

 唯一の温もりをまた。盲目的な思考、狭窄した視野の青年が成さんとする復讐にどのような影響を与えたかは定かではない。だが、けして諦めていない、諦めることのできないことだけは確かであった。

 

「『七式突撃降魔機槍』だけでは、ダメだ………冬佳を降ろすための依代が必要だ………だが、あの剣巫では、ダメだ………そうだ、<雪霞狼>を最も使えるのは冬佳だけだからな………やはり、好ましいは―――」

 

 『完全なる死者蘇生』を可能とする<黒妖犬>。あれは、その身でもって彼女の意思をこの世界に顕現させてみせた。

 また、それに宿らせれば―――そして、今度は一時的ではなく、永遠に彼女の精神をその肉体を張り付けさせる。

 

「大丈夫。安心してくれ。この『僵屍鬼(からだ)』でも受け入れてくれたんだ。君が『混血』の身体であろうとも、愛してみせるさ」

 

 死者蘇生の理論を完成させなければならないが、困難なのは“依代”の調達だ。

 “依代”を庇護下においている忌まわしき<空隙の魔女>は不死身の肉体でもっても要警戒であり、また“依代”自体も冥駕とは相性が悪い。

 しかし、所詮はその程度。『聖殲』の力が完成すれば、この世に障害など存在しなくなる。

 どの道、あの主従を封殺しなければ完全な自由は手に入らないのだ。

 そのためにもこの本土から、『魔族特区』絃神島へ帰還しなければならないのだが、しかし、冥駕のような危険分子を手引きしてくれる酔狂な輩はそういるはずが……

 

 

「ご機嫌よう、絃神冥駕。何かお困りのようだね……?」

 

 

 その声に驚いて顔を上げた冥駕の前に、長身の男が立っていた。二人の側近を従える、純白のスーツを身に包んだ、金髪碧眼の吸血鬼の貴族。

 

「やはり。この地に来ていましたか、アルデアル公――ディミトリエ=ヴァトラー……」

 

 運が向いてきた、と冥駕は溜息交じりに苦笑した。

 ただしこれは女神の助けではけしてなく、悪魔の誘いだ。

 こちらの要望を全て見透かした上で、無償で青年貴族は冥駕に手を差し伸べる。

 

 

「これから絃神島に帰るんだけど、何なら相乗りするかい?」

 

 

???

 

 

『……凪沙ちゃん』

 

 彼は自分の身体を抱きしめる。

 そして、目前で、いつになく真剣な目で、精一杯の勇気を振り絞るだけの間をおいてから、口を開く。

 

『……オレが、好きになってもいいか?』

 

 その余計な装飾のない告白に驚き、そして、感激する。

 そして、その答えを示すように、目を瞑り、わずかに顎を上げた。

 

 

 ………

 ………

 ………

 

 

 あれ? クロウ君……?

 といつまでもやってこないことに、薄目を開けて確認をすれば、目の前に彼の姿はなくて、腕に抱かれた感触もなくなっていた。

 で、何かを取り合うような声が聴こえてくる。

 

 

『手を離しなさい、第四真祖。彼は『咎神』とその末裔(われわれ)殺神兵器(モノ)なのです』

 

『テメェこそ離れやがれ! クロウは第四真祖(オレ)の後輩だ!』

 

 

 彼はいた。

 左右の腕を引っ張り合われている大岡裁きの真っ最中だった。

 

 ああ、これは夢なんだとそのときに理解したけど、

 ドラマの最高潮(クライマックス)を迎えた場面(シーン)でチャンネルを変えられたようなあまりに消化不良な気分だ。

 しかも、変えられたチャンネルで行われていたのは……

 

 

『私は、彼の中にいる冬佳だけしか興味がない』

 

『ふざけるな! ヴァトラーみたいなこと言いやがって! そんな奴にクロウはやれねぇ!』

 

 

 気怠げで熱血な兄と見知らぬインテリ眼鏡の青年に奪い合いされる彼という構図。

 忘れたい悪夢を思い出すのだが、そのときよりもひとり配役が増えてパワーアップしてないか?

 もしこれが新年の初夢での将来の暗示なのだとしたら、きっとおみくじ引いたら恋愛運と家族(あに)運は大凶に間違いない。

 

 うん、忘れよう。それからお祖母ちゃんにお祓いしてもらおう。

 でも、本当に……なんだろう。彼は同性を惹きつけるフェロモンでも発しているとでもいうのだろうか。なら、きっとよくないものが憑いてるから、一緒にお祖母ちゃんにお祓いしてもらおう。

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 1月1日。

 元日。この新年最初の一日。

 そして、先輩が本土に向かってから一日。

 

 本土(あちら)がどうなっているかは気になるが、対して絃神島(こちら)に特筆すべき事件は起きていない。

 教官より先輩の代理に、つい先日に藍羽浅葱の巻き込まれた事件で防衛網の荒れた空港の警備を任された。

 ……ひとつ、気になったのは、多国籍魔導企業MAR社医療部門――『彩昂祭』で顔を合せたことのある第四真祖の母、暁深森を主任研究員とする――がチャーターした貨物機。

 その中身(コンテナ)は北海道より運ばれたものと情報記録には明記されていたが、しかしあれは“人道支援”として運ばれてきたものとされている。

 “人道支援”という建前であれば、国内を経由させれば『魔族特区』の検疫を通り抜けることは可能であり、また経済制裁対象国であろうと難病の患者の受け渡しは認められている。

 もしかするとあの出所はもっと北にあったかもしれない。

 そして、日本北海道の北にあるのはモスクワ皇国、ユーラシア大陸北部に位置するモスクワ皇国は、広大な領土と豊富な地下資源を持つ大国だが、日本との交流はほとんどない『聖域条約』の非加盟国だ。

 そして、人工島北地区にある医療研究区へ運ぶため、輸送機からトラックに移す際、コンテナの扉が開いて一瞬だけ中身を視認できた。

 

 それは、まるで氷の棺のような青い硝子の容器に収められていた、眠り続ける美しい少女であった。

 

 そして、この少女を保護する容器には、素性を示す単語として、一言刻み込まれていた。

 ―――『巫女(シュビラ)』、と。

 

 果たして、それを見逃したことは正しかったか。

 法律上、MARは密輸すれすれの行為ではあったものの、グレーゾーン。特区警備隊にも荷物を改める必要はない、と事前に話は通っていた。

 教官(マスター)にも報告したが、その判断で間違いはない、と引き続き空港の警護をするように、深入りすることを禁じられた。

 ただ、いやな予感がした。

 

 

 あの『巫女』を先輩に会わせてはダメだ、という。

 

 

 ………

 ………

 ………

 

 

 計算できない、理路整然とした説明のできない勘のようなもので、これは教官にも言えず、誰に話すこともできない。

 そのような不確定な報告をして悩ませるのは、人工生命体(ホムンクルス)として正しい在り方ではない。

 でも、先輩なら―――

 

 Purururu……―――その着信音を耳で拾った時、アスタルテは相手を確かめず、受話器を取った。

 

「もしもし」

 

『ん、お、アスタルテか?』

 

 耳朶を叩くのは、能天気そうな声。けれど、いつも悩みを抱える先輩の声。

 アスタルテは、ふっと一呼吸して、受話器を片手から両手に持ちかえてから、首肯をしながら、常の声調を意識して答える。

 

「……肯定」

 

 その声を聴いて思う。

 ……今日はいつになく時間の経過が遅く感じた、と。

 

『そっか、こっちは色々と大変なことがすっごくあって大変だったけど、頑張って解決したぞ。うん、すっごく大変だったけどな!』

 

 ふふん、とその頭の悪そうな報告に、似合わぬ自慢げなポーズを取ってるのが目に見えるようだ。

 

「確認。負傷はしましたか?」

 

『むぅ、ちっと右腕をぶった切られたりしたり、<守護獣(フラミー)>を取られたりしたけど、全部大丈夫だ』

 

 それは一般的には、ちょっとどころではない重傷。どこにも安心できる要素はないのだが、これもいつも通りの先輩だろう。

 体力おばけ(タフ)な混血なれど、斬られたところからトカゲのしっぽみたいに生えてくる不死身の吸血鬼ではないのだ。

 

「先輩は、自身の頑丈さ(スペック)を過信しています。もっとご自愛ください」

 

『いや本当、大変だったんだぞ』

 

「大変なのはよく理解しました。―――それで、終わったんですね?」

 

 うん、と受話器の向こうで頷く気配。

 それに少し深く息を吸って、胸の裡に積もっていたものを吐き出し、アスタルテはクリアになった状態で口を開く。

 

「無理に急がず、帰ってきてください」

 

『? 今から帰るところだぞ』

 

「忠告。負傷の状態は先輩が考えている以上に重傷です。最低でも一日、本土で休むべきと判断します」

 

 無事であるのなら、それでいい。こちらのわがままで、無理はさせたくない。

 すぐ帰ってきてほしいとお願いしたいけれど、やはりその時は怪我のない彼を出迎えたい。先輩の肉体性能の高い自然治癒力ならば一日も休めばきっと万全になるだろうから。

 

『う、わかったぞ』

 

「それで浅葱先輩を見つけることはできたのですか?」

 

『? 浅葱先輩なら近くにいるぞ』

 

「……確認。教官より任じられた先輩の命は?」

 

『それは……………う、うん、ちゃんと覚えてるぞ!』

 

 先輩は能天気そうで、けど、実は深いことを考えて―――いるようで、頭がぽわぽわしてる。後輩(こちら)がしっかりしないととよく思わされる先輩に、アスタルテは深い溜息を零した。

 

「浅葱先輩の連れ戻し、きちんと果たしてください」

 

『う、了解なのだ』

 

「返事は命令受託(アクセプト)

 

『アクセプト―――うん? これ先輩の威厳ある返事か?』

 

 それから、教官に伝達する現地事情を話して、通話は切れた。

 そして、ちょうどそのときに管理公社に出向いていた教官が帰宅。アスタルテは出迎えて、すぐ先輩の電話の件を報告。だがそれをする前に教官から愚痴るように、

 

 

「太史局から連絡だ。また監視役がつくことになるそうだ。本土でいったいどれだけ暴れたんだあの馬鹿犬は」

 

 

 それはもう“大変”暴れたそうです。

 

 今回で獅子王機関の失態を掴んだ太史局は、それを早速利用して、『青の楽園』での一件で奪われた獣王監視役の権利を取り返したのだとか。

 

(……管理するのは私ひとりで十分です)

 

 やはりあの問題児(センパイ)は、こちらの目を離すところにいられると大変だ。

 帰ってきたら、教官よりサポートを任せられた後輩として、より厳しく管理しよう、とアスタルテは誓った。

 

 

神緒田神社

 

 

「―――唯里!」

 

「志緒ちゃん! よかった、無事で―――」

 

「うん、唯里もね」

 

 昨夜より別れていた剣巫と舞威姫は、互いに手を取り合って、笑顔で再会を喜んだ。お互いボロボロの姿ではあったが、どうにかこの波乱を生還することができた。

 『神縄湖』の儀式の裏の事やら『聖殲派』の策謀を知らず、『滅びの王朝』の凶王子やら『戦王領域』の戦闘狂などの怪物と遭遇したりと、大変な状況であったことを思い返せば、本当に生き延びたことが奇蹟のような幸運であった。

 今だけは獅子王機関の攻魔師であることを忘れ、親友の無事を喜ぶ普通の少女たちの顔を出しても咎められはしないだろう。

 

「ゆいりー!」

 

 そんな志緒と唯里の抱擁を見て真似したくなったのか、鋼色の髪をした少女が二人に跳び付くように抱き着いてくる。初顔合わせの志緒は多少驚くも、不思議と不快とは思わなかった。それは少女の表情が、幼い赤ん坊のようにこちらが害や負の感情を一切起こさせなくさせるほどの無垢であったからだろう。

 

「こら、グレンダ! 靴! ちゃんと靴を履いて!」

 

 そして唯里はまるで保護者のように世話を焼く。

 グレンダも素直にその場に腰を下ろして、ブーツの靴紐との格闘を始めて、唯里は慣れない手つきながら彼女を手伝う。

 どことなく、ほのぼのとした光景であるも、志緒は彼女の正体を報告で聞いている。

 

「この子が『龍族(ドラゴン)』?」

 

「うん。たぶん」

 

 今回の騒動の種となった、『聖殲派』が狙いし『咎神』の遺産。

 でも、本当見た目通りの無邪気な少女にしか志緒には見えなかった。

 

「そっか。よろしく、グレンダ。私、斐川志緒」

 

 隣に屈みこんで彼女と目線の高さを合せた志緒に、グレンダは人懐こい笑顔になって、しおー、と歌うように返事をした。そんな志緒たちの様子を微笑ましく見守る唯里は、靴紐が結べたところで、互いにあった出来事を互いの口から報告し合う。

 

 志緒からは、暁牙城(偽者)を監視して、『聖殲派』の安座真のところに誘い込まれて捕まってしまい、それを暁牙城(本物)に助けられ、騎士に襲われた時も武神具を奪われた志緒を庇い負傷してしまい、そんな状態ながらも、凶王子との事情説明を代わりにしてくれたことなど。

 

 唯里からは、暁凪沙の護衛をしていたところで起こった異変に巻き込まれ意識を失い、そして目が覚めたら魔獣たちを打ち倒す南宮クロウと遭遇、勘違いから戦闘が始まってしまいその腕を断ち切ってしまったがそれでも彼はこちらを許してくれて、それから二人でグレンダや暁凪沙を庇いながら『聖殲派』の包囲網を抜けて、第四真祖と太史局の六刃神官、それから久しぶりに再会した姫柊雪菜と合流、そして、共闘して『巫女』らを撃退した。

 

 どうやら互いに濃密な事態であったようだ。

 そして、ふたりともひとりずつ名前を口にするたびに熱の入った人物がいたことに引っ掛かりを覚えた。

 

「性悪で失礼なセクハラ中年だったけどさ……まあ、牙城さんに助けられなかったら、私……」

 

 言いながら、病院に運ばれていった20歳ばかり年上の中年男性を気遣う志緒に、『志緒ちゃん、まさか……』と目を見開いた唯里。

 

「すごく素直で子供っぽいけど……本当に、クロウ君は頼りになる子だったよ……うん、成長した姿も恰好良かった……」

 

 言いながら、弟と同年代な年下の少年との冒険を思い出す唯里に、『唯里、まさか……』と声を震わせる志緒。

 

「ゆいりー、おにぃは?」

 

 互いの好みを知ってしまった剣巫と舞威姫。その『これ以上、この話題に突っ込まないようにしよう』と駆け引きをするような膠着した状態で目配せをして、そこでまた鋼色の髪の少女が割って入った。

 して、唯里は何を思ったのか、ほとんど無意識にその思い付きを口にしてしまう。

 

「……ねぇ、グレンダ。わたしのこと、おねぇ、って呼んでみて」

「唯里、やっぱり……!」

 

 すぐ唯里は自らの失言を悟るも、そこから『深い意味はないよ全然―――』と言い訳しても、直情なルームメイトの確信は深まるばかり。

 

「ちょっと、南宮クロウと話をしてくる……!」

「し、志緒ちゃん、落ち着いて……!」

 

 そして、純真律儀な剣巫は、気丈で純情な弓姫を引き留めるために、『気になる妻子持ちの中年男性』の件を持ち出すことになり、騒動は最終的に『年上・年下論争』に発展することとなった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 もうすぐ陽が沈む日没近く。

 帰りの手段に頭を悩ませていた古城たちを迎えに、獅子王機関が用意したヘリが到着した。事件の現場検証の関係で、出発までにはもう少し時間がかかるらしいが、それでも帰りの心配はしなくていいだけで非常に助かる。

 今回、迷惑をかけたお詫びということで不法で本土に渡った古城と雪菜をそのまま絃神島まで送り返してもらえる手筈だ。『魔族特区』からの密航も有耶無耶に処理してくれるそうで、古城たちには文句のない結果に終わった。

 ただ一つ問題といえば、その送迎ヘリに何故か凪沙も同乗していたことだ。

 

「ねぇ、だから聞いてよ、古城君。牙城君、深森ちゃんとこの病院に搬送(はこ)ばれるって言われた途端に、やめろ殺される、って暴れ出しちゃって、あれは絶対こないだ酔っ払って帰ってきたときのアレが原因だね」

 

 顔合わせなかったほぼ十日間。話題の種が溜まりに溜まった妹は、目が覚めてからこれまでの分の鬱憤を晴らすかのように物凄い勢いで一方的に古城たちに喋り続けている。これは軽く1、2時間は喋りっぱなしだろう。

 『聖殲派』との戦闘以上に疲れてくるのだが、それでもこうして凪沙の元気な様子を実感できるだけ、よしとすべきなのだろう。

 

 ちなみに凪沙には神社の風呂場で倒れて以降の記憶はないらしく、魔獣の出現やら騎士の戦闘について知らされていない。

 古城が本土にいる理由も、妹のことが心配で、いてもたってもいられず迎えに来た、という説明で通している。今イチ釈然としないのだが、神社の巫女にセクハラして、祖母の緋紗乃に折檻された、という無茶な言い訳で納得された父の牙城に比べれば、まだいくらかましだろう。

 ただ、やっぱりもう一時間以上の聞き役は辛いわけで、小休止を挟むためにも待機中の輸送ヘリの出立を見送りに来ている浅葱に話を振った。

 

「おまえも一緒に乗ってくか?」

 

「あたしは2、3日都内で買い物してから帰るわ。正規の出島手続きも済ませてきちゃったから、ちゃんとした飛行機で帰らないと、後々面倒だし」

 

 言いながら、早速スマホでブランドショップの検索をする浅葱。折角本土に来れたこの機会に、がっつり服やバックや化粧品を買いまくるつもりらしい。

 

 ちなみに協力してくれた<戦車乗り>は、ディディエ重工の回収機待ちで、今回取れた実に有意義なデータを役立てたいと息巻いており、

 異邦の凶王子はいつのまにか姿を消していた。

 

 それから獅子王機関の剣巫と舞威姫は互いの無事を喜び合った後、『龍族』の少女(グレンダ)を保護するための手続きまでの世話役を任され……今はなんか言い争いをしてる。

 で、古城たちの本土行きを手引きしてくれた太史局の六刃神官は、早速上層部に話をしたいと古城たちは獅子王機関に任せて『またね』と意味深なことを言い残してとっとと帰っていった。

 

 そして……

 

「クロウはどうするんだ?」

 

 ちょうど本土にいる主人に報告連絡をしてきた後輩に古城は訊く。

 何ならお前もヘリに乗ってくか? というノリで誘ってみたが、クロウは浅葱の方を見て、

 

「オレは、ここに残るぞ。浅葱先輩を連れ戻すのが本土に行く理由だからな。うん、確かそうだったはず」

 

「確かそうだった、って。まあ、いいんだけど」

 

 体裁を半ば忘れかけているワンコ系後輩にやや浅葱は呆れてしまう。

 

「そうか、それなら仕方ないか。面倒だと思うが、浅葱の付き添いよろしくな」

 

「ん、まかせておくのだ」

 

「あんたらね。あたしはそんな心配されるほど人使い荒くないわよ」

 

「浅葱、これまでの行いを思い出せ。よく俺に奢らせたり荷物持ちとかさせるじゃねーか」

 

「後輩に買わせたりなんて一度もしてないし。っつか、いくらなんでも重傷者を労働力にするほど鬼畜じゃないわよ。普通にピンピンしてるけど」

 

 と会話をする三人を、先ほどまでとは打って変わって静かに傍観している凪沙。

 

「……クロウ君、乗らないんだ」

 

「凪沙ちゃん?」

 

 ぽつりと呟くといそいそと手荷物をまとめて、

 

「それじゃあ、あたしもクロ――浅葱ちゃんたちと一緒に帰る」

 

「はぁ!?」

 

 直前になってヘリを降りた妹に、古城は慌てて真意を問うた。

 

「お、おい、凪沙も乗ってくんじゃないのか?」

 

「そういえば、あたしも浅葱ちゃんと一緒に正規の出島手続済ませてるし、ちゃんと飛行機で帰らないと後々面倒になりそうだよね」

 

「いや、確かにそうなんだろうけどな……」

 

 正論を語られれば、古城は頷く他あるまい。だが、それなら『浅葱が同乗を断った時』にではなく、『後輩の同乗を断った時』にヘリを降りたのか。

 凪沙の中の天秤が何をきっかけに傾いたのか、この行動で推理できてしまうのだが、しかしそれだと『兄<』という優先順位ができていることになってしまう。

 

「クロウ君、この神社にはすっごく霊験あらたかな温泉があるんだよ! もう人生に一度は入らないと大損だっていうくらい! お疲れのようなら、ここの秘湯でゆっくり湯治をするべき!」

 

「ん、そうなのか。身体を休めるようにって言われてるし……うー、でも、オレ、お風呂苦手だぞ」

 

「ダメダメ! 旅行疲れは甘く見たら大変なんだから! しっかり疲労はとっておかないと途中で倒れちゃうよ!」

 

「むぅ……で、でもな、オレは浅葱先輩の付き添いだしな」

 

「いいんじゃない。もうすぐ日が暮れそうだし、許可もらえて泊まれるなら神社(ここ)で泊まっておきたいわね。ちゃんとあたしは後輩を労わる先輩のつもりよ」

 

「よし! じゃあ、早速お祖母ちゃんに訊いてくるね!」

 

 ……後輩に温泉を猛烈に宣伝(アピール)している妹。

 古城の兄としての直感がざわめく。このお泊り(イベント)を見過ごすわけにはいかないと。

 

(そういえば昔にここに来たときは、凪沙と一緒にお風呂に入ったんだっけな……)

 

 互いに小学生だった頃が、慣れない岩風呂を怖がった凪沙が、古城に無理矢理に付き合わせたのだ。

 このことから『男女七歳にして同衾せず』という異性意識が凪沙は疎いと思われる。

 だが、流石に今となっては兄妹一緒に入るのは無理だろう。そのことを想い若干寂しくなるも、また常識ができてきているようで安心する。

 

 いや待て。水着着用ならありだという思考に行き着く可能性があるぞ。

 

「凪沙ちゃんならあたしがしっかり監督してるから心配しなくていいわよ古城」

 

 さっきから突っ込まないでいるが、今、浅葱は身体のラインがくっきりと浮き出た競泳水着風パイロットスーツを着ている。ご丁寧に胸にはゼッケンまで張り付けられていて、何でこのクソ寒いところで水着なんて着ているのかは古城にはわからないが、しかし、“スク水スーツ(あれ)の凪沙に合うサイズの予備”があったとすれば?

 古城は真面目に検討を始め、そして辿り着いてしまった結論はわなわなと目を大きく見開いて震える。

 

「せ、先輩……?」

 

 雪菜がその様を心配して声をかけるが、古城の耳には入らず、そして、

 

「だったら、俺も残るぞ!」

 

 凪沙とクロウを二人残して、湯治などやらせられるか!

 

 当然、監視役の雪菜も慌てた。折角、未登録魔族を正規のルート以外で帰還できるよう獅子王機関が計らってくれたのに、それを取りやめるのはマズい。

 

「先輩ダメです! 落ち着いてください!」

 

 ヘリを降りようとする古城を羽交い絞めにして雪菜は止める。

 

「姫柊、俺は落ち着いてる。凪沙に何かあるんじゃないかって本土まで来たんだ。だったら、不純異性交遊(これ)を看過していいわけねぇだろうが?」

 

「先輩が人のことを言えるとは思えないんですけど……」

 

 して、もみ合ってる男女は目立つもので、

 

「え、古城君も?」

 

 ちょうど職員に祖母を呼んでほしいと頼んで帰ってきたその凪沙の反応は、あまり歓迎してないようで、邪魔者が乱入してきたと顔に書いてあるのが見て取れる。それに古城はますます自身の推理の信憑性が高まった。

 

「ああ! 俺がクロウと一緒に風呂に入るぞ!」

 

 思い切って、思い振り切れて、境内全体に聞こえるほど大声で叫んだ古城。

 ぴきっ、とそのあまりにも必死な兄の様子に妹は固まる。

 覚えてないというより覚えておくと精神衛生上悪いので忘却(デリート)したが、とんでもなく夢見が悪かったような気がする凪沙は、兄に負けじと必死にブンブンと首を振りながら、

 

「だ、だめ! 古城君はクロウ君と一緒に入るのダメ! 絶対ダメ!」

 

 しかし、その反応は兄の危機感を煽るばかりで、

 

「何でダメなんだ?」

 

「そんな裸の付き合いなんて……不純だよ!」

 

「何言ってんだ。男同士で裸を見るのは変じゃねーだろ? 別にクロウのを見たって変な気は起きなかったし。なあ?」

 

 と同意を求めて、後輩に声をかければ、きょとんと首を傾げられる。

 

「ん? オレ、古城君の前で裸になったことがあるのか?」

 

「あ―――」

 

 思わず口の滑った古城は、ぱくぱくと口を開閉しながら視線を宙で一周させるよう彷徨わせて、そこでガシッと肩を掴まれた。

 古城がびっくりしてそちらを向けば、妙に殺伐とした、人工的な微笑があった。そして、古城にだけに聞こえるよう小声で、

 

「(そういえば、先輩―――グレンダさんの血を吸ったんですよね)」

 

 下手な嘘誤魔化しの通じない巫女の霊感。

 見て取れるほど動揺する古城は、徐々に握力の強くなる肩の圧迫を堪えながら、必死に冷静を装い、

 

「(ま、まあな、『異境』の境界だかどっかから戻ってくるためには、仕方なかったしな。それに、あのときはグレンダの奴が―――姫柊に化けてたから……)」

 

「(私に化けた……? 変身してたということですか?)」

 

「(ああ。まあ、そんな感じかな。俺の中の記憶を読み取って、姫柊の姿を再現したんだと思う)」

 

「(先輩の記憶……なるほど……―――でも、グレンダさんはあの時裸だったんじゃ……)」

 

「(あ、いや、そう、グレンダは<龍族化>してたから。裸といっても、あくまで龍族的に―――)」

 

「(そのグレンダさんが私に化けた、ということは……もしかして、先輩、見たんですか?)」

 

「(え?)」

 

「(見たんですか? 私の裸を?)」

 

「(あー……そ、それは……なんていうか……)」

 

「(見たんですか?)」

 

「(いや、でも中身はグレンダだし……)」

 

「(見たんですか?)」

 

「………」

 

「(先輩?)」

 

 もうこの沈黙でアウトであった。

 冷たい刃のような視線で雪菜に睨まれて、古城は硬直したまま脂汗を流し続ける。

 勘弁してくれ、という無意識の呟きが、冬の空に溶けて消えゆく。

 

 でも、ここで尋問官(ゆきな)は、わずかにだが肩を捕まえる手の握力を弱めた。

 そう、まだ問い質すべきことはある。

 

「(それで……私だけですか?)」

 

「(な、何をだ?)」

 

「(グレンダさんは変身能力を持っているそうですが、私以外に変身しましたよね?)」

 

 それは質問ではなく、確認であった。

 

「(い、いやな姫柊、グレンダのヤツ最初はなんか誤解してたみたいで)」

 

「(そうですか。だから、先輩はクロウ君の裸を知っていたんですね。私よりも先に)」

 

「(姫柊! 俺が望んでグレンダにやらせたとかそういうんじゃけっしてないぞ! 誤解はするな!)」

 

 頼む、と理解を求める世界最強の吸血鬼に、うんうん、と監視役は頷いて、手を離してくれた。

 

「凪沙ちゃん、先輩は黒です」

 

「ちょ、姫柊!?」

 

 理解は得られず。

 言葉を失ってしまう凪沙、それに浅葱までも固まってしまう。更にもうひとりにまで波及する。

 

「古城、あなたまさか……」

 

 と見送りにやってきた緋紗乃は、貧血となったように、ぐらりとふらついた。

 孫に対しても厳格であり、魔獣相手にも無双するスーパーお祖母ちゃんであり、日本の攻魔師たちの基盤を築き上げたこの冷静沈着の偉人が、大きく動揺したのだ。

 

「……古城、牙城を反面教師とするのは大いに結構ですが、あれは動物としては正常なのですよ」

 

「何を言いたいのかわからないし、つか、わかりたくないし、あのクソ親父を見習うところなんてねーけど、とりあえずそれは誤解だと言っておくぞ!」

 

 孫を諭そうとする祖母。

 久しぶりに顔合せた祖母に古城は理解を求めようとするが、瞳の憂いは拭えず。風前の灯というように目の光が弱まっている。

 ああ私が息子をしっかりと監督できなかったから孫にまで影響が……と深く、老け込むような疲れた溜息を零して、でも、まだ立て直してみせると祖母は奮起して、目の色を取り戻した。

 

「古城、今日、あなたをここに泊めることはできません」

 

「え?」

 

 まさかの里帰り拒否をされた古城。戸惑う孫に祖母は滔々と理由を説明する。

 

「部屋に空きがありません。凪沙たちを入れる部屋しかないのです」

 

「ここってお祓いしに来た客用の部屋は結構あった気がするんだけど」

 

「今日は、色々と訪問者が多かったものですから。残念なことにあって、1、2部屋です」

 

「だったら、俺はクロウと一緒の」

「なりません。客人に窮屈な思いをさせるわけにはできないでしょう。里帰りはまたの機会になさい」

 

 だめだ。

 もうこれ誤解が解けない限り、一切近づける気はゼロだ。

 なんかもう古城は泣きたくなった。誤解を加速させてしまう自分の言動にも問題はあったかもしれないが、それでも誰にも理解を得られないなんて……いや、まだひとり。

 後輩自身はきっと古城をわかってくれるはず―――そんな期待の眼差しをクロウに向け、視線を通わせると、目を瞬かせてから、あ、と後輩は、

 

「そうだ。古城君、はい、ご主人から届け物だ」

 

 はい、と古城に渡されたのは担任教師からの“お年玉”。

 

「げっ。こんなときでも課題のプリントとか、那月ちゃん……」

 

「ちゃんと全部やっておかないと進級を考えるとか言ってたぞ」

 

 ぱらぱらと用紙をめくり、内容と量を大雑把にだが把握。これは今すぐにでも絃神島に帰って、課題に取りかからないと大変だ。

 

「では、先輩。やることもあるようですし、帰りましょう」

 

 雪菜はヘリの扉を閉ざして、準備の整った操縦者に出立の合図を送る。

 もうこうなれば古城も諦めるしかなく、何も問題が起こらないようにと祈ることしかできなかった。

 

 

???

 

 

「あら、数日ぶりね、毅人(たけひと)、どこに行ってたの?」

 

「なに、昔の仲間(なじみ)を呼びに行っていた。三顧の礼を尽くしてね」

 

「へぇ、私から『宴』と“後続機(コウハイ)”の話を聞いて警戒度を上げたのかしら?」

 

「そうだな。それよりも私はあの那月が育てたというと事に注目している」

 

「那月? <空隙の魔女>のことかしら」

 

「ディセンバーが第三真祖に捕らわれてから加入した教え子でね、魔女になるきっかけを与え、多くの魔族を大虐殺したとびきりの優等生だった。だが、15年前にたったひとりで復讐を終わらせて、俺たちの前から消えた。

 この世界を変えられるだけの力はあったが失望したよ。『魔族特区』を護るためにせっかくの才能を使い潰す真似をするとはね」

 

「ふぅん、15年前。ちょうど“後続機”が生まれた年かしら。ふふ、運命めいたものを感じちゃうわね」

 

「すべてはヤツらの都合のいいように運命は回されている、か。那月もその歯車のひとつにされたのかもな」

 

「それを壊すための私達でしょ?」

 

「そうだ。『聖殲派』などという“お粗末なテロリスト”ではない、本物の魔導の探究者どもの野望を挫く。それが、我々<タルタロス・ラプス>だ」

 

 

人工島北地区第六層

 

 

 一年を通じて陽光が届くことのない地下深くの研究所街。

 その一画に建つ、灰色に薄汚れた小さなビル。

 すべての窓が鉄板で塞がれ、有刺鉄線で出入り口を覆われている。そして、傍目にはただの廃ビルにしか見えないそこは、魔術の心得がある人間ならば気づける、幾重もの結界が周囲に張り巡らされている。

 この普通の人間には近づくこともできないほどの強力な人除けの結界が施されたビルは、『魔族特区』の管理者――人工島管理公社の所有する隔離施設(セーフハウス)だ。

 訳ありの未登録魔族や、司法取引による協力を取り付けた犯罪者を隠匿し、保護するための施設。

 そこに捕らわれる囚人のひとりの牢の前に、ひとりの男が現れた。

 

「ザカリー=多島=アンドレイド」

 

 牢には、頭髪がすべて抜け落ち、頬の痩せこけた、かつては『人形師(マイスター)』と謳われた、生体操作に卓越した腕をもつ魔導犯罪者。

 彼が創る人工生命体(ホムンクルス)は億単位で取引されていた自称芸術家は、久方ぶりにフルネームを呼ばれたことに反応して、ゆっくりと項垂れた頭を上げて、その男を見た。

 五十代ほどの和服姿の男は、こちらを傲慢な目で見下し、

 

「貴様に依頼だ。断わるようならば」

 

 斬、と厳重な結界を施されているはずの牢内、その中の机が何の前触れもなく――そして魔術の結界を破ることなく――断たれた。

 言葉にするよりも明確な意思通達に、罪人は大きく震え上がり、その無様を嘲笑いながら、眼光の鋭い男は、

 

 

「だが、注文を果たせれば、理事長の権限で隔離施設(ここ)から自由にしてやろう」

 

 

神緒田神社 浴場

 

 

 滑らないように細工して磨き上げられた石の床に、柔らかな光沢を帯びた湯が薄膜になって揺蕩っている。

 この管理者の許可なくして立ち入りを禁じられた神聖なる秘湯に、少年と少女が二人きり。

 

 

「これが神緒田神社で管理している温泉だよ。ここで、禊を……水垢離をします」

 

 

 神緒田神社にご一泊することになり、そして、南宮クロウは暁凪沙と緋紗乃より強い勧めがあって、お祓いを受けることとなったのだ。

 そして、正月で帰らせているため(儀式に巻き込まれないようにするため)一般の職員は誰もいないので、凪沙が教官を務めることとなった。

 

「水を浴びてそのままだと風邪を引いちゃうから、禊したらすぐ湯船に温まってね」

 

 じゃ、これに着替えて、と凪沙から白い服を手渡される。

 随分と薄手のもの。光に翳せば透けそうなくらい。とめるのも紐で、細く何かの拍子にぷっつりと切れてしまいそうなくらい頼りない。

 

「凪沙ちゃん、これはなんだ……?」

 

「襦袢だよ。裸になる代わりにこれを着て、禊を行うの」

 

 そして、それを目の前の少女も着ていた。

 

「ん? 凪沙ちゃんも一緒にやるのか?」

 

「う、うん。その方が説明できるしね……クロウ君、口で説明してもわからないでしょ」

 

「む。それを言われると言い返せないのだ」

 

 クロウが納得したのを見たところで、凪沙は準備支度を整えるために先に浴場に入る。

 

「すぅ……よしっ」

 

 服を着てだが、一緒にお風呂。となれば、思春期ならドキドキもしてくるものだ、普通は。

 しかしながら、これから穢れを落とそうという時に何だが、この状況下でも邪な気配が皆無の少年である。

 出家してるわけでも、枯れてるわけでもないというのに、兄や父とは違い煩悩をどこかに置き忘れているこの異性を何としてでも意識させてみせる―――それが、暁凪沙の目標だ。

 ……本当、これから水垢離をするのになんだが。

 

「ご指導お願いしますのだ」

 

 襦袢を着て、浴場に入るクロウ。

 『首輪』だけは付けているものの、常時厚着の彼の肉体は、母からの遺伝なのか鼻の奥がつんとくるものがあった。

 鼻に力を意識しながら、凪沙は水垢離の説明を始める。

 

「こちらから水を汲んで、身体に掛けていくの」

 

 クロウと向かい合った凪沙が桶で水を酌むと、何のためらいもなく身体に掛ける。

 

「こうして、身を清めていくんだよ」

 

 水温は冷たいはずであるが、昔取った杵柄で幼いころのここでの巫女修行で慣れている凪沙は微笑を絶やすことはない。むしろ今は火照ってる身体を冷ますのにちょうどいいくらいである。

 わかった、と頷いて水を被るクロウ。

 

「ん―――」

 

 冷たい。冷たいどころか、身体が凍るほどの冷たさだ。

 やはり当然、冬場の水が冷たくないはずがない。

 喩えるなら噛みつくような冷たさ。

 けれど、生まれが北欧で幼少は年中アウトドア育ちな少年はけろりと平然としている。

 

「むぅ……」

 

 幼いころ、凪沙が最初にやったころは一杯目で心が砕けそうだったのに、初体験の彼は黙々と体に冷水を被る。それもこちらには無反応で。

 実は今も結構痩せ我慢してたんだけど……

 

「んっ……」

 

 それでも教わった通りのことを素直に――もちろん煩悩など持ち込まず――実践している彼の前で、教えている立場の凪沙がただ見てるだけというのも情けないので、表面上はにこやかに、けど歯を食いしばって水を被る。

 

「くぅ……」

 

 そうはいっても、常夏の環境で過ごしている凪沙はこの久方ぶりの冷水に体はガタガタで、歯はガチガチ。

 

「慣れれば、全然大したことないよね!」

 

 口先だけでも余裕を持っておかないと、すぐ目の前の温泉に飛び込みたい気になる。

 でも、まだ水浴びは続けないとならない。

 

「去年の自分のことを振り返って……反省しながらやるんだよ」

 

「わかったぞ……反省だな、反省……うぅ、たくさんあるな……」

 

 ざっぱんざっぱんとさらに倍速で冷水を被り始めた。

 言われたことを素直に実践する。でも、そんなに彼は反省することが多いのだろうかと凪沙はやや呆れつつ訊く。

 

「クロウ君、そんなに反省することがあるの……?」

 

「そうだな。去年は色々とわかったからな。壊すのは一瞬。でも、守るのはずっとだ。だから、オレはもっと反省して強くならないといけないし、守るって決めたモノはきっとオレにとって大事で、好きなものなんだ」

 

 と彼は、凪沙の目を見つめながら、頑張るぞ、と笑った。

 それってつまり……

 ぽー……と冷水を被っているのに湯あたりしてしまったかのように呆ける凪沙。

 で、そこで、ふとクロウは気づいた。

 

 目の前で水垢離をする少女は、普段はまとめてるが解けば豊かな髪も、長襦袢も水でぐっしょりと濡れていて。

 肌にぴっちりと張り付いた髪と布。

 薄手の布は凪沙の身体のラインをくっきりと見せてしまっている。

 肩に太腿に……『なぎさ』とひらがなで書かれたゼッケンも……

 

「な、ぎ、さ……?」

 

「へ!?」

 

 手桶を止めてポツリと呟いたクロウに、急に名前を呼ばれたかと思った凪沙は、その指摘をすぐ解して、羞恥に頬を赤らめる。

 

「これは、浅葱ちゃんが着ておきなさい、ってね……」

 

 この水垢離で一緒にお風呂作戦を実行前に相談したところひとつ年上の幼馴染は流石に水に濡れれば透けてしまう薄い襦袢装備でやらせるのは健全ではないと、競泳水着風パイロットスーツの予備を着るよう厳命したのである。

 二人の関係を応援する浅葱であるが、あの妹馬鹿の兄のこともきちんと配慮していた。

 古城の危惧は正解なのである。

 身も心も清める神聖な儀式に余分だろうが、凪沙としても襦袢の下は無装備というのは恥ずかしかった。ので浅葱の条件を呑んだのだが、でも、このコスプレチックな衣装もまた恥ずかしかった。

 全裸よりは羞恥分はマシだと自分で自分に言い聞かせていたが、襦袢の下に競泳水着とは傍から見ると相当特殊ではないだろうか?

 

「………」

 

 今更ながらそこに思い至って、真っ赤になっていた凪沙は無言で―――震えながらも、何事もなかったように水を被る。

 けれど、どんな空気も一瞬で壊してしまう少年は、ごく素直な感想を口にしてしまう。

 

「なんか変な格好だな凪沙ちゃん」

「わかってるよもう! クロウ君の馬鹿! こういう時は触れないのがエチケットだよ!」

 

 凪沙は目の前の空気の読めない、というかアピールの通じない少年に水をぶっかけた。

 ばしゃん! と思いっきり冷水を浴びせられれば、心臓が止まりかけてしまいかねないが、少年の身体は頑丈―――そう、身体、は……

 

 ぷっつん、と。

 

「お」

 

 元々力加減の苦手な指先で襦袢をいわいた紐の結び目もギリギリ。それに加え、これまで滝行並に物凄い勢いで被っていた水垢離の水圧のせいでもあったのだろうが、真正面から水をぶっかけられたのがトドメとなって、少年の着ていた襦袢の紐が切れてしまった。

 

 はらり、と落ちる襦袢。

 暁凪沙とは違い、下に水着など何も着てない。

 流石の<電子の女帝>も、この事態は想定外であったか。というか、普通、男性(こちら)の配慮など考えない。

 

 ()れるのは一瞬。

 でも、布が落ちるのは走馬灯のようにやけにゆっくりと。

 

「……………」

 

 あまりに衝撃的な出来事が起こると、人間というのは無口無表情になってしまうらしい。

 不慮の事故で、生まれたままの姿の、彼。

 しばらくの間、乙女の視線は上下を往復する。細いながらも筋肉質で引き締まった肢体に、局部……父と兄しか比較対象を知らないが比しても大きな……

 

「おい、凪沙ちゃん、鼻血が出てるぞ」

 

 大丈夫か、と訊かれて、ようやく乙女は正気に戻る。

 小高い鼻から、つう、と一筋の鼻血にも気づく。

 けれど、母遺伝の血の昇り易い体質は棚起きして、凪沙はこの不条理に叫んだ。

 

 

「どうして、クロウ君の方がサービスしてるのおおおおおおおおおっ!」

 

 

 頑張って作戦立てたのに。

 普通は男子が女子になのに、どうして女子が男子に鼻血を出すようなことをしてるのか。

 

「クロウ君の! クロウ君の馬鹿ああああああああああああっ!」

 

 ―――すこーんっ。

 桶が頭に的中した少年は、それからやっと前を隠しながらもなんとなくこの世の理不尽を嘆いた。

 

 

 

つづく

 

 

 

次章『奈落の薔薇編』予告(仮)

 

 

 常夏の人工島に、数多の魔族特区を潰してきた破壊集団が暗躍していた。

 

 ―――『狙撃手(カーリ)

 ―――『風水術師』

 ―――『放火魔(ロギ)

 ―――『電算機(ラーン)

 ―――『白石猿』

 

 そして、この五枚の手札を従える『十月(ディセンバー)』は第四真祖をも圧倒する特別な能力が―――

 孤立させられ、理事会にも襲撃されて、かつてない危機に陥る絃神島。

 破壊集団に対抗して、人工島管理公社も五枚の手札を揃えた。

 

 ―――『覗き屋(ヘイムダル)

 ―――『蒼の魔女(ル・ブルー)

 ―――『薔薇の指先(ロドダクテユロス)

 ―――『戦車乗り』

 ―――『黒妖犬(ヘルハウンド)

 

 そして、魔族特区という実験場の真実を知った第四真祖と監視役(ワイルドカード)―――

 この絃神島の命運(チップ)をかけたこの大戦、勝利するのはどちらの手役(ハンド)か。そして、最後に微笑むのは……

 

 



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十章
奈落の薔薇0


???

 

 

 ―――血統が劣化してきている。

 

 

 如何に知恵を絞ろうとも、純血も年代を経るごとに薄まるのはどうしようもない。

 忌まわしき吸血鬼(まぞく)のように血の記憶を引き継がせることなどできず、『閑古詠』に『闇白奈』のように世襲で引き継がせることもできない。

 生物科学的にどうしようもない。しかし正当なる力が弱まっている。

 かつての超古代人種の『天部』に匹敵するものは当主たる己を除いて存在しておらず、一族内に使えるのは、数限られる。今のところ正当な<禁忌四字(やぜ)>を名乗れる<過適応者(ハイパーアダプター)>は、妾腹の基樹のみ。

 そしてこの愚息も魔族と戦えるような強度(レベル)ではなく、薬に頼らねば満足に力も発揮できない出来損ない。

 まさに同じ始祖を持ち超能の血の流れる一族内でも己以外は皆見下されるべき劣悪種なのだ。

 我々が得た超能力とは、魔族魔術の一切ない世界においても魔力に頼らず超常を振るえる“選ばれた者の力”。この悲願が成就した世界で先導者(リーダー)となるものなのだ。

 だが、いくら多くの妾腹を用意し、多くの子供を作ろうが後継者には期待できず、いくら延命しても己の寿命は魔族よりも早くくるだろう。

 だから、己の代で成し遂げねばならぬ。自然資源を魔族より奪い返すだけではない、人間の在るべき世界を作り上げるために、己にはやらねばならないことがあり過ぎるのだから。

 

 そして、その礎を築く戦力を得るために我々一族は『魔族特区』で様々な試みをしてきた。

 己が手がけていたのは、獣人種の細胞を利用し、人間にも魔族に負けない身体能力を与える武装の開発。

 また他の『魔族特区』では、人工生命体(ホムンクルス)に<過適応者>を発現させようとした試みがあったが、ほとんどが失敗。先兵の量産は不可能という結論に達したという。

 ―――ならば、量産(かず)ではなく、品質(しつ)を求めた試みはどうであったか。

 

 『咎神』が未完成のまま遺し、現代の人の手でついに完成することができたが、『器』がなく、八つに分割するしか人には制御できず、<図書館>に死蔵された殺神兵器。

 人間に魔術を伝え、魔族をこの世に生み出したとされる『咎神』は、紅き龍――殺神兵器に力を与えられる獣の『器』を、『方舟』に雌雄(つがい)一組ずつ保管されていたすべての動物種から最も相性のいい選定を考察したが、

 最終的に『聖殲』から続く闘争淘汰で、現代にまでこの紅き龍に適合できる『器』の候補に残ったのはふたつの種族。

 

 あらゆる魔具に適応できるもっとも人間に近しい不滅の猴の末裔。

 

 魔具を使わずとも爪牙を使い戦える世界を食らう必壊の狼の末裔。

 

 これは在り方が対極的な一族であり、出会えば殺し合う犬猿の仲。

 どちらが『咎神』の殺神兵器を完了させる器たりえるか、最後の最後まで厳選に悩まされたが結局、魔女契約により禁断の叡智が与えられた、『咎神』の殺神兵器の完成を使命とする一族の外様は、破壊の遺伝子を『器』の材料とすることに決定した。

 

 決めてからは、自分たち以外に破壊の遺伝子が利用されぬよう、一族郎党を一匹残らず抹殺する計画を立てる。その血族が叛乱を起こすよう扇動し、世論を動かして世界すべてを敵に回すよう暗躍して『戦王領域』の<蛇遣い>までも動かした結果、テロリストとなれ果てた『獣王』と狼の末裔を狩り尽くし、残るは自分たちの手元にあるものだけとなった。

 

 破壊の遺伝子を独占することに成功し、すでに<過適応者>として廃れ、魔道に走るしかなかった傍流は、本家の遺伝子をも混ぜることで『咎神』が想定した以上の『器』を創り上げようと己にも協力を乞い実験出資を求める。

 当時ちょうど処理に困っていた――超能力の強度を高めるための試験の実験体(モルモット)となり過度の増強薬剤(ブースタードラッグ)投与で植物人間となり果てた――胎盤としてしか使い道のない親族の廃棄物(むすめ)をやり、

 品質のみを狂気的なまでに追求する<血途の魔女>はそれを『混血』を製造するための百獣母体という人工子宮に改造し―――過適応優良人造魔族(ハイブリット・コーディネイター)は誕生した。

 

 

回想 森

 

 

 血統には力だけを求めさせた――そこに■などあるはずがなく、

 

 環境には才だけを育てさせた――そこに■などあるはずがなく、

 

 運命には呪だけが与えられた――そこに■などあるはずがなく、

 

 

 けれど、■を知らぬ哀しき(どうぐ)は、■を持たない人形(どうぐ)のような魔女に出会う。

 

 

『オレは、(ここ)、出ないとダメなのか』

 

 

 霊地を去るその前に、『首輪』をつけられた獣は魔女に訊いた。

 怖れるような、太陽を見上げる土竜のような声だった。

 

『なんだ、お前の“お花摘み(わがまま)”を聞いてやったというのに、一歩も出る前から郷愁(ホームシック)か』

 

『違う』

 

 冷たく、獣は切り落とした。そうしなければ、立っていられないという風でもあった。

 ぽつりと―――こう呟く。

 

『見たく、ない』

 

『なに?』

 

『知りたくない、気づきたくない、お前なんかについていきたくない』

 

 拒絶しながらも話は聞いてくれる魔女を見つめ、獣は言い募る。

 感情を露わとするのがまだ苦手なのか顔は無表情、けれどもその声は激情に震えていた。それまで従順な道具のようだった雰囲気は跡形もなく消え去り、代わりにひどく人間的な―――怒りに似た感情が獣を支配していた。

 

 ギチリ、と嵌められた『首輪(かせ)』が鳴る。

 獣が、感情を抑え切れず、肉体を完全なる獣に変生しようとしているのだ。

 ただ獣気が零れ出しただけで、施した封を軋ませた。<神獣化>。獣の変生は『首輪』に抑えられているのだとしても、完全に遮断し切ることまではかなわない。

 

『……わからないままで、よかったのだ』

 

 獣は、吐露する。

 破壊しか能のない獣だから、“そんなもの”に縁はないと。殺戮機械(キリングマシン)が、“そんなもの”に触れれば壊れると。

 だから、この光ある世界の届かない極夜を抜け出すな。

 思っていた。

 思ったままで良かった。

 なのに。

 

『それは駄目だ。お前は私の使い魔(サーヴァント)となった』

 

 この森になかったものを、見せられることになる。それがわかる。わかってしまう。

 家族を弄び、創造主を見殺しにし、獣に成り果てるはずだったのに、今更、“当たり前”の世界に連れて行く―――それはきっと、自分の生きていた現実が、ただ単に不幸なだけだと思い知らされるだろう。この世界にはちゃんと幸福な現象があって、そこに自分は手が届かなかっただけなのだと認識させられるだろう。

 

 そう、どうあっても触れられない、触れてはならないはずなのに―――届くところになんてあったら、羨ましくて壊したくなるほどに手を伸ばしそうになるのに。

 

 だから。

 理不尽だろうが、不合理だろうが。

 横紙破りだろうが、出鱈目だろうが。

 必死で、ありったけで、魔女を批難する。そうしないと立ってもいられない。そうしないと意地を張ってもいられなかった。

 

()の先に―――』

 

 と、獣ではない、少年は口にした。

 

()の先に、オレがいてもいい“居場所”はあるのか?』

 

『………』

 

 無言のまま促す魔女に、獣の少年は言葉を続ける。

 

『オレは、(ここ)から、出ちゃいけない。だって、あるだけでみんな壊すオレが居ていい場所は、あるはずない』

 

 依然と目を逸らさず、離れもしない魔女から、少年は顔を背け、後ずさった。この手には、いくつものモノを壊してきたときの感触が、鮮明に残っている。

 迷いが蘇る。

 

『オレはもう、これ以上……イヤだ』

 

 自分の存在は、本当に許されるものなのだろうか?

 目の前の魔女に、従うだけの価値があるのだろうか?

 行く先々で外の世界を壊していくことになる―――この予感にさえ耐えられないというのに……

 

『壊すのは、イヤなんだ……』

 

 どれだけ強い肉体があろうと、心までは強くない。

 無菌室で純粋培養されたようなものが、外気に晒されて生きていけるほど強くないのだ。

 唇を噛んで俯く己の使い魔を見て、魔女は鼻を鳴らして告げる。

 

『森から出るぞ』

 

 端的に、先程と何ら変わりない口調で言う。

 

『私の任務は、この霊地にいる害獣駆除だ。お前がここにいては具合が悪い。『魔族特区』で管理するのが―――』

『イヤだって言ってるだろっ!』

 

 とうとう堪えきれず、少年は叫んだ。銀毛に生え変わる部分的に獣化した右腕で、魔女のドレスに掴みかかる。

 

『壊すのがわかってるのに、なんで連れてく! なんで、そんなことまでしてオレを……! オレは、このまま壊れてよかったのに!』

 

 魔女は抵抗しなかった。この前は捕まえたくても、捕まえられなかったのに。がくがくと華奢な身体を揺さぶられながら、酷薄な薄笑いを浮かべて獣を見つめ返す。

 

『壊すのがわかってる? ―――何を“当たり前”のことを言っている。自分を含めて誰も傷つかないまま、生きていけるとでも思っているのかこの井の中の蛙が』

 

『―――』

 

 目を見開く少年。

 

『そんなのは、ただの傲慢だ。お前も私も、神様ではない。どこへ行こうが、何を目指そうが、結局は何かを傷つけながら生きていく。

 奈落の底から抜け出し、ありふれた日常を望もうと、ひとりの親友を切り捨てるような愚か者もいるのだ』

 

 獣の手が、魔女のドレスを放した。唇を噛み締める。

 

『誰でも、どこにも逃げ場などない。あるのは精々、生きるための方法を選ぶ権利だけだ。そして、死んでしまえば……選ぶことさえ、できなくなる。

 ―――私は何も選ばぬまま死のうとするお前の目が気に喰わない』

 

『っ、オレは、(ここ)で』

『違うな。それは成り行きだ。お前がお前の意思で選んだものではない。ふん、世間知らずが生き方を選択できるようになるまで教える物事があり過ぎるな。そして、(ここ)では狭すぎる。なにより私が教える環境に相応しくない。だから、森を出るぞ。

 お前は世界の広さをその目で見て、壊す以外の感触を知ってみろ。そして、己の世界の狭さに気づけ』

 

 見たくない。

 知りたくない。

 気づきたくない。

 そう叫ぶ獣の少年を、それでも連れて行く。そして、教えると魔女は言う。

 

 俯き震える獣の少年をそれ以上、魔女は見なかった。踵を返し、背を向ける。そして、足は陽光(ひかり)が射す極夜(もり)の入口へ―――

 

『いいから、私についてこい。こんな馬鹿犬でも使い魔(サーヴァント)の面倒くらいみるつもりだ。そもそも子供(ガキ)が暴れたところで何を心配する必要がある。まったく杞憂もいいところだ。あれだけ壊そうと思っても壊せないのだ。子供の癇癪くらいで世界がそう簡単に壊れてたまるものか』

 

 獣の少年は押し黙ったまま、重い足取りで歩き出す。主人の魔女の後を追って―――一歩、森の先へ踏み出した。

 

 

街中

 

 

 太平洋のド真ん中、東京の南方海上330km付近に浮かぶ人工島絃神島。最先端の学究都市にして、人類と魔族が共存する国内唯一の『魔族特区』。

 

 だがその常夏の『魔族特区』は地域特性上、年間を通じて、ある脅威にさらされる。

 熱帯・亜熱帯地方の洋上で発生し、暴風や豪雨によって甚大な被害を及ぼす自然災害―――

 すなわち、台風である。

 

(……モノレール、停まっています)

 

 スマホの交通情報の画面を眺めて、少女はやや困ったように眉を寄せる。

 身長150cmに満たない小柄な少女だ。年齢は十代の半ばほど。ハンチング帽をかぶり、身につけた白いシャツと吊りスカートのせいで、名門校に通う小学生のように見えなくもない。

 顔立ちも幼く、気弱げだ。やや吊り目がちの大きな瞳が可愛らしいが、取り立てて目立つような容姿ではない。

 ただこの雨天に肝心な彼女は傘を忘れていた。

 この常夏の人工島に来たばかりの彼女は、予報を知っていてもここまで急に振ってくるものだとは思ってはおらず、またチェロ用の黒い運搬ケースという大荷物を持ち歩き、それから下見ついでに頼まれた『るる屋』のアイスを買うつもりであった。両手は埋まる予定であるため余裕(あき)を作っておかなければならず、あまり他に物を持ちたくなかった。

 

 このチェロケースをあまり濡らしたくはない。ケースは防水処理されているのだとしても、心情的に嫌なのだ。この中にあるのは、己の存在意義といってもいい、肌身離さず常に携帯するほど大事な仕事道具。

 けれど、

 

(……に連絡すれば、迎えに来てくれる。でも……)

 

 必要以上に仲間に迷惑はかけたくない。

 計画前に土地勘をつけておきたくてもう一度下見をしたいと申し出たのは自分、買い出しを請け負ったのも自分だ。天気予報を見て、低い降水確率ながらそれでも傘を持たずに出かけた自分。

 だから、これは自分の責任。

 

(でも、早く帰らないと心配される……)

 

 スマホに表示される時刻は午後五時を過ぎたばかりだが、空は真夜中のように暗かった。絃神島全域が、昼過ぎから、今年最初の台風の暴風域に入っているのだ。

 バスも全便運休、速報に流れてきたニュースによると幹線道路が通行止めになっているようだ。

 これでは傘があっても、強風に煽られ壊れてしまっていただろう。

 

(歩いて帰るのは、難しい。でも、迎えに着たら大変……)

 

 道路は冠水している。

 泳ぎはできるがチェロケースにアイスを両手にはさすがに無理がある。

 街路樹が物凄い勢いで揺れており、明らかに出歩くのは危険な状況だ。

 交通機関は麻痺しているし、雨風のピークはまだ越していない。やはり、仲間に迎えを呼ぶべきだろう。

 そんな自分にはどうしようもない状況だとわかっているのに、迷い躊躇って、スマホを握ったまま固まっている。滝壺に流れ落ちる激流のような音を立て、何かが斜面を滑り落ちてきたのは、その直後だった。

 無人の軽トラックが濁った泥水に乗って、かなりの勢いで押し流されてくる。

 水に浸かって動かなくなったため、坂の上に乗り捨てられていたらしい。雨を吸って柔らかくなった斜面が崩れ、土砂と街路樹と一緒に流れてきたのだ。

 軽トラックは斜めに傾いた哀れな姿で、ちょうどこちらが雨宿りする飲食店の店先の真ん前――車道と歩道を隔てる排水溝にはまって停止した。土砂に埋もれた排水溝から、流れていた泥水が溢れ出し、薄汚れた車体がたちまち沈んでいく。放っておいても危険はなさそうだ―――が、

 

(犬……!?)

 

 その光景を視認して、息を呑む。軽トラックの荷台の幌の上で震えている、小さな生き物に気づいたのだ。

 おそらく逃げ込んだ軽トラックごと流されてしまったのだろう。このままだとまずい。

 溢れ出す濁流は勢いを増して、軽トラックを再び押し流そうとしている。ただでさえ激しい風に晒されて弱った仔犬に、そこから逃れる力はない。

 それを直感的に理解した瞬間―――自分が拾われた境遇とふと重なった。

 

 この“中途半端な”肉体ゆえに、幼少時より苛烈な虐待を受け、無能と謗られ、暴力を浴びた。人間の社会でも魔族の共同体でも、常に異物で孤独。

 そんな両親からも見放され、飢えに苦しみ、寒さに凍えて死を待つばかりだったその時―――“彼女”が自分を拾ってくれた。

 

 だから、だろうか。考えるよりも先に体は動いていた。

 

「しっ!」

 

 重荷になる荷物を置いて、一気に軽トラックの上へと飛び乗った。雨水に滑る屋根にバランスを崩しながらも、無事に着地。そして素早く手を伸ばし、震えている子犬を抱き上げる。

 しかしここで不運に見舞われる。叩きつけてくるような暴風と濁流に耐えかねて、少女を乗せたまま軽トラックが横転。少女は犬を抱えたまま、濁流の中へと転倒したのだ。

 

「げほっ!」

 

 必死に戻ろうとするが、軽トラックすら押し流す濁流に抵抗できるはずもなかった。立ち上がることすらままならないまま、泥水の中に呑み込まれる。そして―――

 このままでは死ぬ、と他人事のように意識した瞬間、雨宿りをしていた店先より飛び出した人影を見た。

 

「今行くぞ―――!」

 

 それは執事服を着た少年。大きな枷のような『首輪』を嵌める彼は、先程の少女のように泥水の流れる道路へ躊躇なく跳躍し―――濁流の上をまた跳ねた。

 この急流を水面疾駆してそのまま子犬を抱いた少女を引き上げると、そのまま少女一人を軽々と片腕で抱えて、店先へと帰還する。

 

 

紅魔館二号店

 

 

「今日は外がこんな調子で、ぜんぜん客が来てないから良かったけど、うちの制服をもっと大事にしなさいよ! ものすっごく細かく意匠に凝って手縫いで作ってるんだから!」

 

 出迎えてくれたのは、先まで店先で雨宿りをさせてもらっていた魔族喫茶『紅魔館』二号店の女店長。

 ブルネットの髪をなびかせた若い女で、彫りの深い端麗な顔立ちをしている。女子大生くらいの年代だが、その右腕に付けている魔族登録証から察して、見た目通りの年齢ではないのだろう。

 悪の女幹部めいた服を着ているのだが、彼女からは暴力的な匂いがしない。箱入りお嬢様が世間にもまれて成長したけれど、それでも本質的な甘っちょろさは出てしまうというような感じだ。

 

「むぅ、悪かったのだ。とっさのことで着替えてる余裕がなかった」

 

「はぁ。緊急なのはここから見てたからわかってるけど……また面倒な客を連れてきたわね」

 

 制服をずぶ濡れにしたバイト店員を叱りつけると、同じく全身ずぶ濡れの少女を女店長は見た。正確には帽子が脱げてあらわとなった頭に生えている大きな獣耳―――それから、身体のどこにも魔族登録証がないことを確認した。

 それを相手の目の動きでこちらも判断して、少女は息を呑んだ。

 

 未登録魔族。

 人間と魔族が共存する『魔族特区』だが、魔族は管理公社の監視下で住民権が与えられている。その証である登録証がなければ、それは特区条約に反しており、違反者として捕まる。

 

(まずい……)

 

 早く逃げださないと、と女店長が回収しておいてくれた荷物の位置を目を動かさずに確認し、それから疾走するために腰を落とした―――ところで、腕から抜け出した仔犬が店内で濡れ鼠の身体をぶるぶると震わして水気を飛ばす。

 

「あー、もう……! ―――義経! あんたはとっとと着替えて、それから女性用の制服なんでもいいから持ってきなさい! 今すぐ!」

 

「了解だぞカルアナ」

 

「店長を呼び捨てにするな!」

 

 女店長は張り詰めた空気も吹き飛ばすかのように大きなため息をつくと、バイト店員を左胸元の名札に書かれてる源氏名で呼んで指示を出す。そして用意していたバスタオルを少女の頭の上にかぶせ、それからもう一枚で捨て仔犬を拭く。

 

「店内がビショビショよもう! あとでモップ掛けさせないと……何ぼうっとしてるのよアンタも、さっさと身体拭きなさい。風邪引くわよ」

 

「あ、……」

 

 ぷりぷりと怒りながらもどこかこちらを気遣ってくれるような女店長に戸惑う。

 

「あの、ごめんなさい……」

 

「別に謝らなくていいわよ。開けてたけど、ほとんど休業みたいなもんだったし。客だけでなく店員も臨時(レンタル)ひとりでふたりしかいないわ。本当、経営のやりくりが難しいのよね。ここが食料自給率が限りなく低い人工島だってのはわかってるんだけど、それにしても物価が高過ぎるし。かといってあまり値段をつり上げると客が来なくなるし、ま、だからそこは味以外のサービスを売りにして勝負してるんだけど、魔族喫茶の店員を教育するのがまた難しくて、ひとりひとりの持ち味(こせい)にあった武器(キャラ)作りをしないと一人前とは認められないって本店長から言われてるし……なのに、あの野郎は大事な勝負服のまま外に飛び出すんだから~~~!」

 

 怒りの矛先も、バイト少年に向けられているようで、あまり少女には気にしてないようだ。未登録魔族ということにも。

 

「まあ、この前の『滅びの王朝』の殿下を店に連れてきたときよりは全然マシだけどね。友達を連れてきた、って、普通は学生とかそういうものでしょ! しかもラーメンをご所望されたし! 魔族喫茶(こうまかん)のメニュー表にないわよそんなの! でもしょうがないから急遽裏メニューでトマトをこれでもかとふんだんに使った血の池ラーメンを作ってやったのだわ! 実質、汁だくのスープパスタだけどね!」

 

 ……よっぽど日頃の鬱憤が溜まっているのか、先から愚痴が止まらない。聴かされるこちらとしても反応に困る。

 ただひとつだけ、あきらかなことがある。この魔族(ひと)は、こちらの事情を話すことを望んでいない。止まらない愚痴は、いうなれば言葉のバリアだ。黙っていれば、沈黙に焦りを覚えたはず。だから、喋り続けることで、言いたくないことがあるなら言わなくていい、と不干渉の構えを見せているのだ。

 だから、少女は何も言わず、濡れた身体を拭く―――そこで、ちゃっちゃと着替えを済ませて戻ってきた臨時バイトの少年。

 

「カルアナ、これでいいかー?」

 

「これ私の舞台衣装じゃない! なんで『紅魔館(うち)』で一番重要な看板持ってくんのよ! ああ、もう良くないけどこれでいいわ!」

 

 替えの衣装を受け取ると、タオルで拭いた子犬を女店長はバイト少年に押し付ける。

 

「着替えさせるから、フロアから出なさい。それとガンクレ、……この仔犬()の世話と、あと温かいものを用意して」

 

「人使い荒いな、カルアナ。というかもう名前付けたんだな。でも、オレ、緑茶しか淹れられないけど、それでいいのか?」

 

「なに、いつも雛みたいに後ろに引っ付いてる人工生命体(ホムンクルス)はいないの? 呼んだらすぐ来るでしょあのメイド」

 

「ん、なんかオレが原因で新入居者が来てな。それで、機嫌が悪くなったご主人から言い渡された罰だから、後輩の手は借りちゃダメなんだぞ」

 

「無償で労働力が手に入るのはいいけど、あんたの飼い主、私の店を犬のしつけ教室と勘違いしてないかしら? というかあんた臨時でも一応魔族喫茶の店員でしょう。なのに珈琲紅茶の淹れ方がわかんないとかもう……」

 

「誰でも得意不得意はあるのだ。カルアナも最初はお塩とお砂糖を間違えちゃうドジっ娘だったぞ」

 

「ああ、わかったわかった、グリーンティーで良いわ。あと店長を呼び捨てにするな!」

 

 追い払うようにバイト少年をフロアから出させると、小声で、

 

「(バレてるでしょうけど、一応、あいつに未登録だってのは隠しておきなさい。突っ込ませると無理やりにでも管理公社に連れて行かれるでしょうから)」

 

「……!」

 

 咄嗟に逃げ出そうとした少女を、女店長は手首を捕まえて引き止める。

 

「(だから、余計なことして突っ込ませるなって言ってんの! 普通にしてれば別にアイツも見逃すでしょうけど、なんか妙な真似でもされると流石に見逃さないわよ!)」

 

 野生動物と遭遇した際、慌てて背を見せて逃げるのは悪手。余計な刺激をしないのが鉄則だ。

 

(そしたらもう逃げようとしても無駄。あんたが足に自信のある獣人種でも、アイツからしたらのろまな亀。一度突っ込んだからもう絶対に逃げられない。店の全財産を賭けてもいいわ)」

 

 やれやれ、と嘆息する女店長。

 こちらもあの少年の運動能力を理解していないわけではない。水面を走るほどの脚力にはさすがに敵わないのはわかっている。

 少女自身の筋力の最大値や敏捷性は、常人の精々五倍がいいところ。獣人種の中では際立って脆弱で、攻魔師など鍛えた大人の男性と力勝負で負けるくらいの筋力だ。

 完全な人間の姿になることも、獣の姿に変わることもできない、極めて力の弱い獣人。髪を長くのばしてみても、小型犬に似た大きな獣耳を、他人の目から隠すことができない。

 だから、人間にも魔族にも混ざれなかった―――

 

 ―――だが、人間だろうが魔族だろうがそんなことなど関係なしに、女店長は真剣な口調で、忠告する。

 

「(いい、訳ありなのはわかるけど、逃げようとしても無駄。アイツに見つかったらそれはもう運の尽きとしか言いようがない。だから、普通に大人しくしていなさい……まあ、でも、アイツに捕まるのは幸運よ)」

 

 たぶんね、と深い溜息とともに言葉を零す女店長。そんな妙に実感のこもった口調で語られて、それが忠告か愚痴なのか判断つかないが、少女は首を縦に振った。

 

「わかり、ました……」

 

 こちらとしても計画前に事を荒立てるような真似は控えたい。悪目立ちすればそれだけ成功率は下がるのだから。下手をすれば仲間達まで巻き込まれる。

 ここは大人しく、彼女の言うことを聞いておく。

 そして、着替え終わり、少女が着ていた――“彼女”が選んでくれた――服を乾燥機に入れたところで、緑茶を持ってバイト少年『義経』がフロアに戻ってきた。

 

 

 傍から見ると、奇怪な状況。

 早く荷物を抱えてお暇したいが、怪しまれるわけにはいかない事情を抱える少女。

 何だかんだで少年を信頼しているようだけど、少女にもなんとなく同情している女店長。

 そして、一応は命の恩人であって、けれど女店長に告げ口されて最も警戒されている少年。

 

 

 そんな中で、空気を読まず、自分の分のお茶を一服してから口を開いたのは、やはり少年だった。

 

「そういえば、お前も獣人なんだな」

 

「私、も?」

 

 共感を含むような言い方に思わず反応を示した少女に、んん~、と目を瞑り踏ん張るような唸り声をあげて、ぽん、と少女と同じように頭に獣耳を生やす少年。

 あの水面疾走の力技を目の当たりにした少女はやはりと納得することもあったが、それでも目を瞠る。

 獣人種の人と獣の割合――獣化率が、男性は女性に比べて高いと言われている。

 <神獣化>の完全なる獣を100%の獣化率として、獣人種の男性は高い獣化率が多いが、女性は50%から10%と部分的な獣化が普通なのだ。

 

 獣化率の低い女性は、力が弱いがその分だけ繊細で器用だ。

 あの獣化能力を持った第三真祖は、数多の変身が可能であるというように変身を極めれば多様な技が可能となろう。例えばジャコウネコ科獣人種であれば、フェロモン系統に特化した部分獣化を行うことで催眠効果を発揮する特殊技能。また『分福茶釜』のように鉱物として変化もできるものもいる。

 

 けれども、獣人種の男性はたいていが小細工など無用、万事力技で解決するのが手っ取り早くて一番と考えている節があり、腕っぷしが弱い、すなわち獣化率が低いほど劣等種という価値観が獣人種全体にある。

 

「ほれ、お揃いだぞ」

 

 だから、部分獣化をやれる男性というのは珍しい。

 相当な訓練を積まなければ、獣化率の細かな制御などできないし、そんな真似をする必要性がない。ゼロか全力(マックス)、それだけでいいのだ。

 

「本当、無駄なところで器用ね。普通の獣人種はそんなことしないわよ」

 

「『魔族特区』では加減を覚えるのが大事だからなー。う、力馬鹿の脳筋になるな、とご主人から厳しく言われてる」

 

「まあ、人間と暮らしていく上では必須のスキルなのかしらね」

 

「それだけじゃないぞ。力の制御は狩りにも重要なのだ。(もり)では必要最小限の力で動ける女性の方が狩りは上手だったしなー。う、兄たちよりも姉たちの方がお手本になったぞ」

 

 わしわしと仔犬を撫でながら、少年は女店長を見つめ、

 

「カルアナ、店長は、眷獣の使えない吸血鬼だけど」

 

「憶えてないけど、あなたにそれを言われたくない気がするわね」

 

「舞台で霧化の演出がすごいよなー。ぶわぁって、迫力があるとオレは思うぞ」

 

「ま、まあ、その辺はちょっと自信あるわね……」

 

「あとやられっぷりが良い、あれは主役が栄えるってフォリりんが言ってた」

 

「その王女プロデューサー、本当にいい度胸してるわよね。私、『戦王領域』の貴族で『旧き世代』だったのよ」

 

 少しだけ……興味が出てきた。

 眷獣の使えない吸血鬼など、吸血行為をしたことのない未熟者と同じ。この獣化率10%で固定されている少女自身の境遇と似ている。

 なのに、この魔族(ひと)は自立しているようだった。

 

(―――でも、私にはどうでもいい)

 

 命を救われようが、もう“彼女”に救われた。

 道を示されようが、もう“彼女”に示された。

 もう自分に必要とするものはなくて、満たされている。

 だから、それで十分。

 目的も復習にも興味はない、けれど、恩人も先人も、“彼女”のためとあらば―――撃てる。

 

 

人工島北地区 港

 

 

「……この先の座標にあるか」

 

 夜闇が溶け込むような暗い海を遠い目で見渡して言葉を零したのは、よれた灰色のジャケットを着た中年男性。その体つきは意外に筋肉質であるが、無造作に伸ばした長髪のせいで、芸術家のような雰囲気がある。彫刻家。或いは美術教師というような印象を受ける男だ。

 

 今、彼が見据える桟橋の先には、『魔族特区』においてもまことしやかに噂される都市伝説が眠っている。実際、『波朧院フェスタ』に現世にその威容を晒した。

 だが実在すると知るにしても、その座標位置を探すのに魔女たちは『遠見』の魔導書の補助を受けても一日以上の時間をかけていた。

 それを単独で、“ただこの土地を読み解くだけ”であっさりと辿り着いたこの男の正体は、かつて『東洋の至宝』と称賛され、欧州の魔術会を震撼させた天才風水術師。

 そして、都市伝説<監獄結界>の『鍵』たる魔女の―――

 

「海を見渡して呆けるとは、もう痴呆が始まったのか?」

 

 唐突に夜気に響いた辛辣な言葉に、男のくぐもった笑いが応える。

 

「いや、生徒がこの島でどんな生活をしてるのかを自分の目で確かめたくてね。安心しろ那月、私の老後をまだ心配する必要はない」

 

 長い髪を揺らすことなく、彼女は何もない虚空より現れた。

 まるで西洋人形のように、いとけない容姿の女。

 けれど、その凛とした彼女の在り方は、『旧き世代』の夜の王たちにも劣らぬカリスマを見せている。

 そう。

 この数多の凶悪な魔導犯罪者を異空間に閉じ込める監獄の番人は、夜気より深い闇を纏っていなくてはならない。

 港に吹く海風も、息を潜めるよう凪に。

 空間ですらその整った美貌を煽ることが許されない、そんな登場したこの人工島で五指に入る実力者<空隙の魔女>の威光から、男――千賀毅人は目を逸らさず、

 

「ここに探りを入れておいてなんだが、突然の訪問でまさか出迎えてくれるとは思わなかった」

 

「“まだ”ここでは何もしてないようだからな、多少は昔の馴染みに配慮してやる」

 

 千賀の言葉に、にべもなく女は返す。その口調こそ大人びているが、外見相応の舌足らずな声音。千賀はそれに懐古するよう目を細め苦笑を零す。

 

「南宮那月……15年ぶりか。変わらないな、おまえは」

 

「貴様は老けたな、千賀毅人。だが、中身は大して成長してないようだ」

 

 それに対して、蔑む色を含ませる怜悧な表情を那月は浮かべた。

 欧州で最後の邂逅では、千賀は二十代半ばで、那月はその見た目通りの年齢で普通の人間だった。

 

「変わらない、か……だが、それはお前も同じだろう? 『魔族殺し』の<空隙の魔女>―――」

 

 そして、那月に悪魔との契約方法を教授し、魔女となるきっかけを与えたのは、この千賀剛毅。

 

「<タルタロス・ラプス>――なんて御大層な名前を付けた『魔族特区』破壊集団で、今も子供たちを利用しているのか、千賀毅人」

 

「利用とは心外だな。俺は先生として彼らに力の使い方を教えただけだ。かつてのお前と同じようにな」

 

「『魔族特区』の破壊は、子供たちの意思だと?」

 

 那月の声にかすかな怒気がのせられる。

 千賀は認めるように重々しく頷いて―――古傷を抉るように唱えた。

 

「ああ。お前も、拾った子供を“立派な殺神兵器に育てた”じゃないか、それも我々に相応しい」

 

「なに」

 

「言葉には言霊がある。心がその名を受ければ名はやがて体を成す。面白い話だ。<黒妖犬(ヘルハウンド)>などと<奈落の猟犬(タルタロス・ラプス)>にあつらえたようにピッタリな異名で呼ばれている―――まさに傑作だ。偶然に出来上がったのだとしても、それは運命に呪われ(愛され)ていると言ってもいい」

 

 “奈落(タルタロス)”の暴風雨(さいやく)に等しき、狙った獲物をけして逃さない優秀な“猟犬(ラプス)”。

 これが、破壊集団(テロリスト)が代々掲げてきた組織名―――それと相似した『黒妖犬』という異名。

 

「15年前に俺たちの元を去ったが、やはり三つ子の魂は百まで変わらないものだ。<タルタロス・ラプス>は思想に洗脳されるのではない。思想を共有するものだから集った。抜けだしたと思っているようだが、<タルタロス・ラプス>に自ら入ったのならお前の根っこから破壊意思はあったのだ」

 

 風もないのに長い髪がさわさわと揺れ動く。

 

「戯言はそれで終いか?」

 

 幼い少女にしか見えない魔女から濃密な死の空気が噴き出す。琴線に無遠慮に逆撫でされて放たれるのは、見た者の眼球どころか心臓まで潰しかねないほどの漆黒の魔力。

 

「貴様がこの絃神島で何をしようとしているかは知らん。だが、ここで倒せばその計画は机上の空論に成り果てる」

 

 しかし、それを前にして千賀は薄く嗤う。

 

「いささか拍子抜けだな。俺を捕まえに来たというが、使い魔(サーヴァント)を連れてないとはな。―――もしやおまえの昔話を聞かせたくなかったのか?」

 

 揶揄するように口元を歪める千賀は―――反応さえもできない。

 

 

「……フン。必要ない―――が正解だ」

 

 

 それは一瞬の出来事。

 あまりにも自然に、目を奪うほど洗練されたその挙動。

 魔女は取り出した扇子を男に向けた。

 瞬時に、その空間ごと縫い合わせるよう虚空より伸びた銀鎖<戒めの鎖(レーシング)>が千賀毅人の全身に絡みつく。

 超高等魔術である、<空隙の魔女>の空間制御。

 彼女の使い魔の武力制圧が時代劇の居合抜きなら、

 主人の魔女の魔術捕縛は手品師の指芸のようだ。見る者の意識の隙を突いて、鮮やかに大胆に、何より気づかれることなく、目的を終えている。

 鎖は蜘蛛の巣が獲物を捕らえるよう男を縛り、そして―――“男の変身が解かれた”。

 

 

「ひひっ―――」

 

 

 喜色に歪む顔つきから、笑い声が転がる。

 

「変化か。化生の類いだな」

 

「油断はしてなかったが避けられなかったわい。惚れ惚れするタイミングじゃ。毅人の言う通り、魔術の腕は確かだのうお主」

 

 良い見世物じゃった、と拍手を送るのは、紫色の道着を纏う男。中肉中背、深い皺の刻まれた頭は老境に差し掛かった男のそれで、撫でつけた髪や太い眉も真っ白だ。

 ―――そして、肉体に食い込むほど縛りつけていた神々が打ち鍛えた封鎖がその指先に撫でられただけで、解けた。

 

「しかし、残念ながらあらゆる魔具は儂に跪く」

 

「ちっ―――」

 

 舌打ちをする那月。

 <戒めの鎖>を無用の長物とした今のは、<解鎖>。あらゆる封印拘束を無効化する術だ。<仙姑>後輩の笹崎岬のような<四仙拳>クラスの達人でようやく実戦で扱える術だ。

 それをさらりとこなすということは、あの技量は少なく見積もっても後輩拳士と同格か。

 

「ほうれ、分析してる余裕はあるのか」

 

 縛鎖を解いた翁は何もしなかった。

 指を動かさず、呪文も唱えず、触媒も取り出さず―――少なくとも外に見えるような仕草はないもなかった。

 なのに。

 空気が鳴った。

 雷鳴が響き渡り、ありえぬ紫の雷が翁と那月を繋いだのだ。

 割って入る鎖とぶつかり、雷がブレる。地中に落雷を流すアース線の役割を果たして、巧くダメージを逸らした。大きく火花を散らし、港の地盤は大きく裂け、焦げた臭いを発した。

 それでも神々が打ち鍛えた銀鎖の防御は魔女を守り抜き、熱量の僅か千分の一足らずが、魔女の首元を焼くに留めた。

 

「<舌訣>まで知っとるとは。若いに似合わず、実践豊富に育っているな、よいよい」

 

 舌を用いて行う術<舌訣>。

 口内で舌先を使い、一定の文字を描くことで、術を起動するやり方だった。

 詠唱もいらず、相手に見抜かれる心配の低いことから、実戦派のごくわずかの攻魔師が使う技術。

 那月はこれも笹崎岬に見せてもらったことがあるから、対応ができた。

 だが、<仙姑>でもこうまで挙動を悟らせないほどではなかった。

 

(大陸系とは面倒な……!)

 

 那月は相手の使う術を看破した。

 大陸に伝わる、つまりより高次の階梯に至ろうとする仙人たちの使う魔術だ。欧州魔女系が基盤とする彼女には専門外で―――相性が悪い。

 

「じゃが、仕事だ。まだ“量って”みたいが、ヌシを逃がすわけにはいかないのでな」

 

 指を立てた手印を向け、那月を捉えた。

 <定身>。標的を金縛りにする術。

 

 後輩の<四仙拳>を苦手とするのは、あれの道術が、物理干渉ではなく、精神的に責める―――つまり、この幻像の身体にも効くからだ。

 

「―――」

 

 那月は腕を上げることを意識したが、身体が指一本動かない。

 抵抗させる間も与えない、問答無用の仙法の金縛りだった。物理的な運動ではなく、行動それ自体を禁じる類いの精神に働きかける術理らしい。

 

 ……に、しても、巧い。

 術の速度ではない。こちらの呼吸、次の手に入る前の間隙を突く術の巧さは、魔術戦の何たるかを熟知しているものだ。

 

「詰み手は見えとる。そうそうに片付け(トドメと)させてもらおうかの」

 

 そういって、身動きのできない那月へ、翁は毛を抜いて、宙に舞い飛ばすよう息で吹き―――瞬間に変生する。

 

獣化(へんげ)を窮めた儂にとって、神々が打ち鍛えたとされる鎖もこの通り、“毛程の価値しかない”」

 

 自動補足して標的を斬り倒す、月のように刀身が反り返った曲刀。

 障壁貫通属性を持つ、両端が太い棒状の杵。

 一撃で山を半壊するほどの破壊力を有する棍棒。

 二刀一対で互いに引き合い、反射光で断つ夫婦剣。

 投擲すれば火炎を噴き上げる百発百中の手裏剣。

 

 抜き身の凶器はどれも目を奪われるほどの装飾に彩られ、のみならず隠しようもないほど猛烈な魔力を放っていた。明らかに尋常な武具ではなく、神造の<戒めの鎖>に勝るとも劣らぬ一級の魔具たる『宝貝(バオペエ)』に、翁の白毛が“変生した”のだ。

 

 そして、『宝貝』の切先が見据えるのは、金縛りに封じられた<空隙の魔女>である。

 

「鎖の返礼じゃ。余さず受けとれい!」

 

 喜々とした返礼と共に、『宝貝』が虚空を奔る。

 『毛程の価値もない』と謳うその通りなのだとしても、その魔具の扱いは無造作きわまる。魔術師・道士にとって切り札となりうるほどの一級品の魔具を、石礫も同然に投げつける異常性はなんと杜撰なことか。あれほどの神秘を分別なく大量生産してしまえるだけでも冒涜的だというのに。

 それでも、量産された神秘は現実を捻じ伏せる。一撃で使い捨てる『宝貝』は、爆撃の如く、木端微塵に港を砕き、視野を粉塵で覆い尽くす絶大の破壊力―――それを真空の空間制御で一掃する魔女。

 

「なるほど、『石猿(サル)』か。それも骨董品(アンティーク)以上の化石ときたか」

 

 手足はおろか指一本動かせないはずの魔女は、地の底――己の影より。

 地面を震撼させて、己が契約した黄金の<守護者>を喚んでいた。

 

「!」

 

 機械仕掛けの悪魔騎士が契約者の影より完全に姿を現す前に、翁――『石猿』はさらに今度は倍に数を増やして『宝貝』を追加量産する。第二波の多種多様な『宝貝』の群れ、だがもう、何もかもが遅い。

 

「起きろ、<輪環王(ラインゴルド)>」

 

 時空の乱れる魔女の領域。

 使用に制限が課されるほど凶悪な、黄金の<守護者>の魔力。これを解放。

 只ならぬ気配に、『石猿』は遊ぶ余裕なしと瞬時に理解する。

 

「《動くな》!」

 

 たまらず緊縛を狙う<定身の法>。片手で印形をつくり、刀を振り下ろすかのように魔女の切り札へ素早く振り下ろした。

 だがそんな小手先の技が、この巨大な身体と魔力を持つ悪魔に、どれほどの意味があるのか。

 

「釣りを返させてもらうぞ」

 

 魔女の動きを縛ろうが些細なこと。

 機械仕掛けの騎士は自由気ままに右腕を持ち上げ、足元の空間より伸びてきた茨に身動きを封じられた『石猿』に一片の容赦なく叩きつける。

 それをもろに受けた翁は完膚なきまでに粉砕された。

 魔女と石猿の戦いはこれで勝敗は決した………………

 

「……、」

 

「これで終わりと思うたか?」

 

 港のコンテナ、その陰より。

 ひたり、という音があった。

 ひたりひたり、とその音はどんどん増えて、膨らんで、一面を覆い尽くしていく。

 

「まっこと残念じゃが、<白石猿>は“不滅”、数の概念は通用せんのよ」

 

「……玩具は“貴様自身も含めて”いたか。大量生産して増殖するとはまさにゴキブリだな」

 

 すなわち。

 まったく同じ規格の『石猿』の群れ。

 無機質な猴の王達が、軽く見積もっても百以上で港に立っていた。

 魔術どころか、生命すらも冒涜するその在り方に、魔女はより険しく目つきを細め、だが動くよりも早く、

 

「しかし儂は準備を済ませるまでの前座よ。時は十分稼いだぞ、毅人」

 

 これより、技を競い合う戦いではなく、罠に囚われた鳥を羽まで毟るような狩りが始まる。

 

 

 

「本当に拍子抜けだな、那月」

 

 パチン、と指を鳴らす“本物の”千賀毅人。

 その合図に応じて、那月を黄金の<守護者>ごと囲うよう地面より柱のような巨石が八つ突き出てくる。そして、最後は『石猿』数体が寄り集まって化けた仙石が落とし蓋のように八柱の上へ落着。

 

「っ!?」

 

 瞬間、那月は信じがたい寒気に襲われた。

 これは、詰む。

 死の感触が背中を走る。

 機械仕掛けの騎士に命じ、鎧籠手の左腕を虚空に飛ばしながら、那月はかつての魔術の師を凝視する。

 

「時間稼ぎご苦労。ここの地脈は我が掌が握った。策は成れり、<石兵八陣(かえらずのじん)>の完成だ」

 

 龍脈の力を風水の術で戦争に活用する、『奇門遁甲』。

 これは個人を対象として、時間と場所が限られるもののそれだけ一点に集約させた究極陣地。

 

「っ……!」 苦痛に歪む吐息。もはや重圧は五行山の如き。

 

 天候を解読し、地理を利用し、人心を掌握する、綿密な魔力操作だけでなく天地人に精通していなければ不可能な閉鎖空間形成……!

 

「っ、っ……!」

 

 石陣の重圧はいまも増え続けている。

 内側からでは覆しようのないことを、那月は認めた。

 

「那月。お前は、これまで私が見てきた生徒の中で、最も完成されている。特に空間制御の精度は世界においても比肩するものはそういない。少なくとも私が知る限りでは存在しないだろう。先生として誉むべきかな。

 もっとも、その腕ゆえに恐れるに足りんが」

 

 淡々と言い、鳥籠に囚われた教え子が膝をつくのを見下す。

 

「昔に同じことを忠告したが、どんな劣悪な状況でも100%の力を発揮できるというのは、裏を返せば、どんな状況下でも100%の力を発揮してしまうということに過ぎん。選択肢が狭まれば、自然、計算はしやすいのだ」

 

 もっとも誤算ひとつないとはいわないが、それもすぐ修正できる程度のもの。

 そう、昔の、『魔族殺し』として最盛期であった教え子ならば、会話に応じることなく最初から問答無用で『千賀毅人』を殺していただろう。あそこまで挑発されながらも、あくまで千賀を生かして捕縛する姿勢を解かなかったところを見ると―――やはり、教え子は弱くなったのだと断定するしかない。

 

「………」

 

 那月は何も言わず、指を持ち上げる。

 だが嘲りはしても侮りはしない千賀はそれよりも早く魔女封殺の仕上げにかかった。

 

「まだ抵抗するつもりか。だがもう何もかも遅い―――幻は幻に。現実ではない、本の世界で夢をみるといい」

 

 取り出した本を開いた。

 それは深緑色の表紙の古い本だった。東洋風の紐綴りの装幀で、表紙には墨絵が描かれている。

 この深き緑の魔導書が起動させる一節を、千賀は読み上げた。

 その瞬間、南宮那月の姿が蜃気楼のように揺らいだ。

 幻で創られた現身が、風前の灯のように波打って、彼女の夢をその魔導書の中に閉じ込めようとする。

 

「っ、それは―――!?」

 

「大陸系統は専門外なところは変わっていないようだな、那月。久しぶりに教授してやろう。

 この魔導書は、<山河社稷図>。五感を剥奪し相手をこの魔導書の中の幻の世界に閉じ込める宝図。<図書館>にも存在しない、神話の時代に東洋の女神より授けられたと言われる仙界の魔導書だ」

 

 ぐるりと、世界が渦巻いた。

 まるで陽炎のように、石陣を形成していた呪力が那月のそれと混交し、ぐるりと螺旋を描いて千賀の掲げる魔導書へ。まるで、開かれたその頁にぽっかりと“穴”が生まれたようだった。

 その“穴”が、囚われた石陣ごと風景を切り取るかのように那月を吸い込んだのである。

 それも瞬き程度の時間。

 ほんの一瞬の後には、<空隙の魔女>も<石兵八陣>も掻き消えて、ぱたん、と魔導書は閉じる。

 

 かつての師がこの『魔族特区』の五指に入る実力者である要警戒対象へ用意したのは風水術と魔導書の二重封殺。閉鎖空間ごと魔導書の中に閉じ込める。

 南宮那月はこの現世から完全に消え失せたのだった。

 

「それでもいずれは出てくるだろう。しかし、そのころにはすでにすべてが終わっている」

 

 障害となりうるかつての教え子を除外した。

 そして、仕込みもとっくに済んでいる。

 <空隙の魔女>の注意を逸らしてくれた仲間の翁が、無数の分身を散らして千賀の傍に降り立つ。

 

「千賀よ。これでいよいよやるのだな。『東洋の至宝』が成す一世一代の大仕掛けを」

 

「6年前、『聖団(ギゼラ)』の本拠地に置かれた『イロワーズ魔族特区』以上の破滅を約束しよう」

 

「ほう、それは如何にして?」

 

「『四神』をただ召喚するのではない。『四神相応』で循環するこの地の龍脈を相克させ、“守護”の特質を反転させる」

 

「なんと『四凶』を招くか! それはここも終わりじゃのう! ヌシ、この島とは無関係ではないというのに、そこまでするとはな」

 

 翁の茶化すような文句に、千賀は沈黙した。未だ生々しい傷口に触れられたような表情を作り、首を振る。

 

「無関係ではないからこそ、許せないこともある」

 

「ひひっ、これは久方ぶりに面白いものが見れそうだ」

 

 瞳の奥に滾る憎悪を垣間見た翁は、喜々として笑みを深める。

 

 

「私の手で終わらせる―――この<タルタロスの黒薔薇>が成れば、この人工島は破滅しか残らない」

 

 

 そして、戦闘の騒ぎを聞きつけた特区警備隊(アイランドガード)が駆けつける前に、翁が毛を変化させた紫紺の旗を突き刺すと二人はこの場を歩き去っていく。それから数歩も行かない内に、気配は消え去った。風水術で自らの姿を風景に溶け込ませたのだ。

 

 残ったのは、潮風に揺れる紫紺の旗。

 それは、<六魂幡>。名前の書かれていた六人は呪い死ぬという死の宣告する『宝貝』の旗。

 そこに書かれていたのは、管理公社の上級理事五名と、そして、『南宮那月

 それも彼女の名前の上には赤線が引かれていた。

 まるで殺害(キル)(マーク)のように―――

 

 

 この挑戦状じみた理事殺害予告及び国家攻魔官の失踪に、人工島管理公社は特区警備隊の警戒を強める一方で、公社が手元で管理する人材に緊急招集をかけた。

 

 

 

つづく

 

 

 

とある船の会話

 

 

「はぁ!? 目的地が同じ? ふざけるんじゃないわよ!! すぐ真ん前の向かいに同じコンビニを建てるような行為も同然よ! 野生の動物だってテリトリーは守るというのに、獅子王機関は獣以下なのかしらあ!?」

 

「そんなことを言われたって、私はグレンダが住み良い場所に居させてあげたいだけで、それ以外に他意なんてないよ本当だよ? ね、グレンダはクロおにぃとママの傍が良いよね?」

 

 

 MARの内偵任務。

 日本唯一の『魔族特区』絃神島にある多国籍魔導企業マグナ・アタラクシア・リサーチ社の研究所が妙な荷物を運びこんだ形跡があり、その中身を調査することとなった獅子王機関の舞威姫・煌坂紗矢華。

 呪術と暗殺のエキスパートである舞威姫。現代では暗殺を実行することなど滅多にないが、それでも暗殺者としての技能を生かした要人警護やスパイ活動が重要な任務とされている。

 そのため、紗矢華は久しぶりに絃神島に行くこととなった。

 絃神島には、姉妹同然に育った紗矢華の元ルームメイトである姫柊雪菜がいて、突然サプライズで会いに行ったらどれだけ驚くだろうかと思うだけで口元が綻ぶ思いだ。で、ついでにいつも気怠そうなある少年――大親友の監視対象である世界最強の吸血鬼の事も懸想してしまったが……それはさておき。

 

 天候の問題で絃神島行きの飛行機の予約が取れず仕方なく船旅を選ぶこととなった紗矢華だが、これがまた想像以上に快適であった。

 この“さっきまで”寛いでいた絃神島行きの大型客船自慢の展望風呂は、広々としていて湯船を浸かりながら眺める海原は絶景だろう。ビジネスホテルの狭いユニットバスではけして味わえない感動である。

 

 で、

 

『あ、グレンダ……!? 待って! シャンプー、ちゃんとすすがないと……! ―――きゃあ!?』

『唯里! なにがあったんだ!? グレンダは……!?』

 

 床の濡れる滑りやすい浴場を走る見た目12、3歳で、鋼色とでも形容すべき不思議な光沢を帯びた髪を泡塗れにした少女。おそらく、洗髪中にシャンプー液が目に入ってパニックになってるのだろう。

 そして、それを追うのは、優等生っぽい雰囲気の女子。姉妹にしては似てないが、母親にしては若すぎる。

 それからその彼女がすっころんだ悲鳴を聞きつけ駆け付けた、気の強そうな顔立ちのショートヘアの少女。

 

 どちらも紗矢華と同年代―――というか顔見知り、元ルームメイトの羽波唯里と斐川志緒。獅子王機関の同期の攻魔師である。

 

 彼女たちの事情を聞くところによると、グレンダと呼ばれる少女の正体を調べるために魔術や魔獣関連の検査機関が国内で最も充実している『魔族特区』絃神島に移送護衛するのが獅子王機関より与えられた任務だそうだ。

 新人とはいえ獅子王機関の剣巫と舞威姫が二人一組でつくとは余程重要視されているのだろう。『聖殲派』の残党に狙われている可能性もあり、二人がかりで護衛するのはおかしなことではなく、それにグレンダが懐いているのは数少なく、その辺りも人選に考慮に入れられている。

 

 で、

 

『ちょっと何その話、聞き捨てならないわね』

 

 先程も述べたようにグレンダが重大な『鍵』を握っており、それを狙ってくる輩から警戒しなければならない。その相手は、獅子王機関の長である『三聖』でも侮れぬ実力者もいるそうで、二人とは言え新人だけに任せるのは不安―――ので、グレンダ本人の希望を入れて、この絃神島で最も腕の立つ国家攻魔官のお膝元で住居とした……という話をしたところで、これまで盗み聞きしていた古風な黒の長髪をした少女――太史局の六刃神官が現れた。

 紗矢華がかつて油断をつかれたとはいえ敗北した妃崎霧葉だ。同じ国防機関ではあるが獅子王機関とは別派閥の攻魔師の登場に、紗矢華は身構え、気の強い志緒もまた視線を険しくし―――だけれど、どういうわけか穏健派(ストッパー)であり、大人しい唯里が相手をしている現状。

 

(……うん、止めないとまずいわね。ええ、それはわかってるのだけど……)

 

 状況を整理するために心の中でさっと回想しながら説明してみたわけだが。

 

 

「良いか悪いか以前に、『龍族(ドラゴン)』なら住民街じゃなくて『魔獣庭園』に放り込んでおくでしょう! 常識的に! なに、それとも太史局にケンカを売ってるのだとしたら言い値で買うわよ! なんなら三対一でも構わなくてよ!」

 

「ちゃんとマンションの管理人さんからは許可もらったよ。だいたい監視役の本分は、監視であって独占するのは越権行為だと思うけど? それならいちいちあなたにお伺いを立てる必要はないよね?」

 

 

 なんだか脱線し過ぎて雰囲気が物騒になってきてるので軽めの修正を促しておくべき。

 でも、本音を言うとあまり巻き込まれたくない。どちらの言い分も正論で理解できるわけで、心情的に同じ獅子王機関の唯里の味方をしたいところ。けど、できれば事を穏便に済ませたい。だがそれには紗矢華ひとりでは無理だ。ひとり抑えても、もうひとりいるのだ。

 

「(斐川志緒)」

「(……わかってる、煌坂)」

 

 唯里から預けられたグレンダの目と耳を塞いで、教育上あまりよろしくない言い合いより遠ざけていた志緒と視線を通わせて頷き合う。

 同じ舞威姫で同級生の志緒と紗矢華は、仲がいいとは決して言えない好敵手(ライバル)とでも言うべき間柄だ。同年代の候補生の中でも、成績が拮抗しており、何かにつけて衝突し合っていた二人だが、ここにきて呉越同舟と互いの意思を共有させた。

 

 

「っ、南宮那月。私には、一週間も催促してやっと前の住居の利用許可を出したというのに!」

 

 

 不条理への憤りに爆発寸前の活火山のように微振動する霧葉。

 そこへ、ぼそり、と独り言のように、

 

 

「……信頼度、じゃないかな? たぶん、クロ君から話を聞いて南宮攻魔官はそう判断したんじゃないかな?」

 

「何ですって……!」

 

 

 ……ひょっとして、国家攻魔官の管理人はこうやって獅子王機関と太史局を突き合わせることで、面倒事を分散させようと画策してないだろうか?

 それを考えると近い将来、剣巫と六刃の近所付き合いで板挟みになりそうな斐川志緒になんとなく同情する紗矢華。

 

「ご愁傷様、斐川志緒……」

 

「おい、何そんな哀れんだ眼で私を見るんだ煌坂! お前もやるんだぞ!」

 

 紗矢華を引っ張る志緒は、そこで相方に見つかり、

 

「ね、志緒ちゃんもマンションが良いよね?」

 

「え、えと。そうだな」

 

「うん。古城君のお父さんって、まだ入院してるみたいだし、お見舞いするなら近い方が」

「ぶふっ!?!?」

 

 思い切り噴いた志緒は、早口で訂正を求める。が、

 

「何言ってんだ唯里、暁牙城は関係ないだろ!」

 

「志緒ちゃんを庇って怪我をしたのに?」

 

「う……ぐ……!」

 

 痛いところを指摘されて、何も言えずに押し黙る。

 先日の『神縄湖』の事件で志緒は、暁牙城の父親に何度か助けてもらい、命を救われていた。その際に暁牙城は負傷して、絃神島の病院に運び込まれたと聞いていた。島の端にあり、人工島本島まで数時間かけてフェリーで移動する『魔獣庭園』よりは中央区あたりの方が見舞いに行き易いだろう。

 

 で、

 

「はぁ……何やってんのよ、まったく」

 

 耳の先まで顔面を赤らめて、湯あたりしたというわけでもないのに。

 あっさり取り込まれた舞威姫候補生の好敵手に、紗矢華は呆れた半目を送る。すると、志緒はひとり我関せずと余裕ある態度を取る紗矢華に、死なばもろともと先ほど訊きそびれたことを問うた。

 

「そういえば、グレンダが懐いてると言ったところで反応したが、煌坂は<第四真祖>が気になるようだが、何でだ?」

 

「は……!?」

 

「<第四真祖>の監視役は姫柊雪菜だろ……? どうして煌坂が彼の動向を気にするんだ?」

 

 志緒の訝しげな表情を見て、今度は紗矢華が顔を真っ赤にして慌てて、言い訳を述べる。

 

「そ、それは……つまり、私の雪菜を危険に晒すような真似をするなってことよ!」

 

「ああ……なるほど」

 

 半ば自分自身に言い聞かせるような紗矢華の言葉を、志緒は疑いもせずにすんなりと信じた。紗矢華が、年下の元ルームメイトを溺愛しているのは、同室であった彼女にも知るところだ。

 

 と、そこで。

 

 これまで沈黙を保っていたひとりの少女が口を開いて、爆弾を放った。

 

「だー、こじょう、おにぃと一緒にお風呂入りたいくらい好きだよ」

 

「へ……」

 

 ……グレンダはこうしてみんな仲良く一緒にお風呂を楽しめるくらい仲がいいことを伝えたかったのだろうが、色々と誤解を招きそうな発言であった。

 

「そういえば、古城君、クロ君に告白して、物凄いガッツポーズを決めてたような……」

 

「わ、私の知らないところで……何やってんのよ、あの男は……!?」

 

 無垢なお子様からの発言だけでなく、常識的な元ルームメイトの言葉がさらに加速させた。

 

(別に暁古城が、誰を好きだとかどんなことどうでもいいし! そ、それにその方が私の雪菜は安全で―――でも、なんか納得できない良くわからないけどもやもやするーっ!)

「うがー!?」

 

 一時期だが<蛇遣い>の監視役を任されていた煌坂紗矢華はついに思考回路がショートした頭を抱えて浴槽の中をのたうちまわる。傍から見れば完全に危ない人間だ。しかし幸いなことに、紗矢華以外の少女たちも混乱しており、

 

「私にいったい何が足りないというの……!」

「クロ君は、おねぇの私がきちんと正しい道に……!」

「確かに義理はあるけど、暁牙城の事なんてそんな……!」

 

 でもやっぱり、事態は紛糾した。

 その後、なんやかんやとあって、武力行使はなしで話をつけようとサウナで熱さ我慢大会が始まった。

 

 

とある兄妹の会話

 

 

「やっと、おわった……」

 

 落ちそうな瞼を擦りながら、暁古城はちょっと洒落にならないくらい多めの課題を終わらせた達成感を欠伸と共に噛み締める。

 全身が、フルマラソンを走った翌日のようにずっしりと重い。積み重なった疲労のせいだろう。何しろ新年早々、本土まで往復して、絃神島に帰還した直後なのだ。

 それもその間、なぜか猟犬と魔女の絃神島最強の主従や獅子王機関の『三聖』、そして『聖殲派』なるテロリストに襲われ、何度も死にそうな目に遭った。いや何度か死んだけれど蘇ったという方が正しいか。とかくどうにか無事にこうして生き延びたものの、精神力の消耗はいかんともしがたく、そこへきて担任教師からの『やらなきゃ来年は妹と同じクラス』という兄的に致命的な脅し文句が書き添えられた補習代わりのプリントをこなさなければならず、冬休みだったというのに一度も休む暇もなかった。もうすぐ明日には始業式だというのに体力気力は底をつきかけており、正直、戦闘と勉学の両方をサポートしてくれたお隣の監視役がいなかったらゴールができなかったくらい疲労困憊である。

 もうこのままベッドに潜り込みたい欲望に必死に逆らい、古城は風呂場へ向かう。

 と自室を出て、リビングからまだ光がついていた。

 時間はもう深夜零時を回っている。

 覗いてみればまだ妹が起きていた。つけっぱなしのテレビに映る深夜ドラマに夢中になって眺めていて、こちらにまだ気づいてないみたいだが、夜型の古城とは違い早寝早起きの凪沙が起きているのは珍しい。

 

「凪沙……?」

「!?」

 

 夜更かししている凪沙に注意でもしようかと、古城が呼び掛ければ、びくっ、と飛び上がらんばかりにソファから跳ねて、慌ててチャンネルをニュースに変える。

 ……いや、べつに何を視聴しようが古城には構わないのだが。

 

「あ、こ、古城君。課題プリント終ったの? それとも眠気覚ましに珈琲を飲みに来たの? 淹れてあるからすぐ飲めるよ。夜食もご希望言ってくれればすぐ用意するけど」

 

「ああ、たった今な。あー、腹は減ってないからいいけど喉乾いてるし、せっかくだから一杯もらおうか」

 

「うん。じゃあ、これからお風呂だね。浴槽(バス)の中でうっかり寝落ちして溺れないでよ? あ、お風呂なら珈琲じゃなくて、牛乳にしようか? むー、でも、牛乳はあと少しで切れそうなんだよね。朝食のスクランブルエッグに使いたいし」

 

「そうか。じゃあ、帰りに買っとかないとな」

 

 どうやら課題をこなすのに大変な兄をサポートしようと頑張って起きてくれていたらしい。学校帰りの生鮮食品の買い出し以外の家事担当は主に凪沙だというのに、徹夜まで迷惑をかけてしまうとは。今も台所(キッチン)で珈琲を準備してくれる妹に、大変頭の下がる想いである。

 

「いつも苦労(クロウ)をかけて悪いな」

「!?」

 

 びくぅっ!? と凪沙の肩が跳ねて思わず手にしていたマグカップを落としかけた。

 

 古城としては普通に感謝の言葉を伝えただけなのに、一体どこにそんな反応する要素があったのだろうか。

 ……いや、なんとなく原因はわかってはいる。

 気になるのだが、凪沙は何事もなかったように珈琲の準備をしているので突っ込めない。

 

「あ、あたしが好きでやってることだからそんな気にしなくていいよ。それで、お砂糖とミルクは?」

 

「いや、いい。(クロ)で」

「!?」

 

 とまた、びっくぅっ!? と手元が狂い、あわやアツアツの珈琲を零しかける。

 家事の得意な妹には考えられないくらいのおぼつかさな。それで何でもないように振る舞おうとしているが、やはり様子がおかしい。というか、最初から顔が真っ赤のままである。

 兄としてはあんまり触れたくはないのだが、このまま特定の三文字(ワード)に過敏では事故りそうなので、マグカップを受け取ってからそこで、古城は慎重な声で―――けど前置きなく一気に核心の部分を問い掛けた。

 

「そういや、祖母(ばぁ)さんのとこでクロウがお祓いをしたみたいだけど―――」

「おやすみ! 明日も早いから凪沙はもう寝るね古城君!」

 

 慌てて逃げるように自室へ行く凪沙。その兄以外の誰の目から見てもあからさまなくらい過剰な反応を見送った古城は、一口、苦いブラックを飲み―――がっくんと落ちた頭を抱えた。

 

(俺が去った後にいったい何があったー!?)

 

 『聖殲派』の事件が終わってすぐ本土から移送された古城とは別行動を取り二日遅れで帰ってきた凪沙。それからずっとこんな感じである。

 別れ際に色々と危惧していたが、それでも古城は本気で何か起こるとは思わなかった。あの後輩の純粋無垢さというか精神年齢の低い鈍感さを信用していたのだ。

 そして、念のために同行していた保護者兼第三者な浅葱に定時連絡を取って報告してもらっていたのだが、これといっておかしなところはない、祖母の神社でお祓いをしてもらったり、本土で買い物や美味しいものを食べたりと実に健全なやりとりであったと聞いている。

 だけど、これである。

 いったい何があったのか?

 

 特区警備隊の補佐やバイトをして忙しい後輩とは会えていないが、明日の学校で顔を会わせることができるだろう。ちょっとそのときに校舎裏にでも連行しよう―――そう、古城は決めた。

 

 それで、もし。

 校舎裏に連れ込んで、『古城君、責任を取るから凪沙ちゃんをください』みたいなことを言われたら―――そんな想像が過り、

 

(いや、その前に浅葱から本土の話を聞いてからの方が良いか。うん、心の準備をしておかねーと)

 

 ぐいっとまだ熱い珈琲を一気飲みで煽って――一緒に色々なものを呑み込んで――から、口元を拭いてから古城は風呂場へ向かった。

 

 

 

つづく



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奈落の薔薇Ⅰ

人工島西地区 高級マンション

 

 

 それはまだ夜も完全に明けていない、午前四時ちょうど迎えたばかりの早朝。

 鎧籠手のように厚い手袋を嵌め、兜のような耳付き帽子を被る。そして、北欧の騎士団に支給されている特注の蒼銀の法被(コート)を颯爽と羽織り、準備支度(きがえ)を終えた少年は自室より出る。

 

「……クロウ君……」

 

 高級マンションの最上階を丸ごと占拠したその宅で、まだ寝起き直後でキグルミのような寝巻(パジャマ)姿の銀髪碧眼の少女、叶瀬夏音が控えめに声をかける。それに対し、南宮クロウは平坦な声で、

 

「何だ、夏音」

 

「……夏音が注意したくなるのもうなずける。気が立っているのはわかるがもう少し気を抑えろ、南宮クロウ。今のそなたがエレベーターなんて密室空間に籠っていれば、同乗する人間は窒息しかねんぞ」

 

 むっ、と無意識であったのかクロウは諭されてやっと気づく。同居人の少女の代わりに、その保護者の小人――大錬金術師ニーナ=アデラートの指摘に雰囲気を和らげたクロウは震え上がらせてしまっている夏音に頭を下げる。

 

「悪い夏音、なんかこううまく言えないけどイライラしててな。あ、全然、夏音のせいじゃないぞ」

 

「……はい、クロウ君のお気持ちはよくわかります。でも、さっきまでのクロウ君はちょっと怖かったでした。それで今日、学校は……」

 

「休む。ちゃんと公欠になると思うけど、みんなによろしく言っておいてくれ」

 

 そうですか、と沈んだ声を出す夏音。

 何事もなければ、今日は始業式。冬休み明けで最初に顔合わせする機会に、皆が揃わないことを寂しく思う。クロウもそれはわからないでもない。

 ただそれでも、何事にも優先して、己にはやるべきことがある。

 ……と、

 

「心配するな。学校はサボるけど、書を捨て街へ出よ、と何か偉い人が言ってたのだ」

 

「指摘。それは学業を疎かにしても構わないという意味ではありません」

 

「ぬ」

 

 クロウが騎士であればそれは女給(メイド)の格好で会話に割って入る無表情人工生命体(ホムンクルス)アスタルテ―――ただ、共に主人(マスター)はいない。藍色の髪を背に流す左右対称の容姿、その万年雪よりもなお温度の低そうな眼差しで、頓珍漢な先輩を見つめる。

 

「アスタルテ、お前もなんか尖ってるぞ。もっとリラックスしてだな」

 

「失礼。先日の臨時バイトと同じく、また私を置いていくのではないかと危惧していたもので」

 

「いや、あれはオレの」

「肯定。先輩の迂闊さで、これ以上教官(マスター)の気苦労を増やさぬよう、目を光らせます」

 

 ジトー……と視点を張り付かせるように見てくる後輩に、今代の『獣王』は叱られた子供のようにシュンと肩を落としてしまう。

 

「でも、アスタルテはちゃんとアスタルテの事も気をつけるのだ。絃神島は暑いけど、今は冬だ。陽が暮れると流石に寒くなるんだぞ」

 

 アスタルテは華奢と呼ぶにも細すぎる矮躯の持ち主だ。その分だけ薄く鋭く研ぎ澄まされているようで、けれどもやはり、脆そうに思えてしまう。その着ているメイド服も露出が多いので不安に拍車をかけていた。だから、視覚的な安心感の為にも厚着をしてほしいとクロウは思う。

 

 亜熱帯に属する絃神島の気候であるが、真冬の夜はそれなりに冷える。クロウは今回の事件が一日で片付かない長丁場になると睨んでいた。

 

「その……」

 

「なんだ?」

 

「……コーディネイトは、教官に任せていたので……この服装に合う上着の選択で二択にまで絞り込めましたが、判断がつかず。現在、教官代行の権限を持つ先輩が選んでいただけませんか?」

 

 後半を早口で言い切ると、遠慮がちにおずおずと上着(コート)を両腕に一枚ずつ差し出して、やや俯きがちに上目遣いでこちらの表情を確認する後輩。

 昔に比べるとだいぶ感情が表に出てくるようになったきているが、感性(センス)の方は着せ替え人形のままらしい。

 

「そうか、勝負服でお困りなのか?」

 

「指摘。その表現はいささか間違っていると言わざるを得なくもないと言いますが……」

 

 しりつぼみに小声になる後輩。

 まったく世話が焼けるなー、と少しだけ頼られたことに嬉しそうに頬をにやけるクロウは、教官代理(センパイ)として、率直な感想を述べる。

 ―――その直後、会話を聞いた聖女と錬金術師は天井を見上げた。

 

「ご主人は、『可愛いは攻撃(パンチ)力』ていうけど、実際の攻撃(パンチ)力は腕っぷしが物を言うとオレは思う。だから、装備するならアスタルテはなるべく生地の厚い方を選んでおくのだ。なんなら、二枚とも重ね着した方が防御力は高そうだぞ」

 

 うむ、ちゃんと文句の言われない実戦的な助言ができたな、と裡で密かに自画自賛する黒一点(だんし)は、皆が何も言わずにいることにうんうんと頷く。実際は、呆れてものが言えないという方なのだが。

 アスタルテは表情温度が一気に冷え過ぎた頬筋が固まったかのように、小さな△に開いた口が塞がらず、そして止め処なくなったので零れるように、

 

「(……理解。時期尚早というか精神年齢が子供過ぎる先輩にこの手の判断を任せるのはダメだとわかっていました間違っているのは先輩ではなく私でありしかし私よりも長く教官に薫陶を受けた先輩でありながら美意識が全く育っていないのはどうなんでしょうかと思わなくもありませんがそれを補佐するのが後輩である私の務めつまり私がしっかりしなければなりません)」

 

「出てる、何かいろいろと出てるぞアスタルテ後輩。なんかものすっごい無表情でそんな底冷えする声出すのは怖いぞ!! お、オレ、ダメなのか? 先輩として成長したことを噛み締めるように実感してたんけど」

 

「クロウ君。先輩どうのこうの以前の問題でした。ここで重要なのはアスタルテさんの可愛さです」

 

「でもな、夏音。アスタルテが可愛いかどうかなんて見ればわかるだろ。そんなことより防御力をn―――ぐほぉっ!!」

 

 ズドン!! と重たい音が響いた。<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>。眷獣共生型人工生命体の背中より、透明な半実体化のまま床に潜入し、クロウの真下から実体化した虹色の指先が鳩尾を狙ってつきあがった音だった。

 

「アスタルテっ、眷獣使うのは反則だぞ……」

 

「先輩には口で言っても反省しないと判断してのことです。どうですか、後輩の攻撃(パンチ)力は」

 

 胸元を摩りながら呼吸を整えるクロウを冷たい目で見下すアスタルテだが、結局上着は見た目よりも生地の厚い方を一枚選んだりしてるなど、実際のところは健気なくらいに彼へ追従している。一見してこちらが先導(リード)をしなければと下剋上精神旺盛にも見えるが、根底には“平常ではないとおかしいはずなのにいつも通りを振る舞っている”彼を気遣う心の動きがあるからだ。預けられたから半年も経ってはおらず、感情に疎い人工生命体のアスタルテでさえも心乱れるものがあるというのに。

 

 だから、気を放ち過ぎると注意されたからといってあっさりと立て直せるものではない。

 これまでの先輩の行動記録を照らし合わせれば、もうとっくに管理公社からの呼び出しなど無視して単独行動に飛び出しているはずなのだ。

 

「その……大丈夫ですか?」

 

「ん? これくらいじゃれ合いみたいなもんだから大丈夫だぞ」

 

「否定。そうではなく、教官の……」

 

 訊きたいが、自身でも整理がつかず言い難そうに口籠ってしまうアスタルテの頭を、ぽんぽんと手を置いて、その先を封じるように一言。

 

「大丈夫だ」

 

(大丈夫、か)

 

 人工生命体の少女が危惧するのもわからないでもない。

 これまで百年を超える年月で人を見てきた古の大錬金術師は、思う。

 今が“本当の意味で”魔女の枷が外れた状態ではないかと。

 

「ご主人は、オレにとって、“お月様”だ。だから、時々、隠れたりするものだ」

 

 古来、月は理性を失わせるという。

 だから、その狂気の道標である月が隠れる“新月”は、理性を取り戻す。

 

 これまでに<空隙の魔女>の手の届かない場所で戦いを強いられることはあったが、それでも後ろで見守ってくれるという気持ちはあったはずだ。

 だが、今、それはない。あの『波朧院フェスタ』で刺された時でも本土に渡った時でも例外なく常に側にあるように嗅ぎ取れた“匂い”がしなくなっている。

 だから。

 いつも後ろ盾として見守ってくれた存在がいないからこそ―――強く、思う。

 

「だから、大丈夫だ」

 

 そう、自分自身に言い聞かせるようにクロウは唱え、玄関を出た。

 

 

???

 

 

 道術とは、この国の陰陽道の元になった大陸系の呪術。

 風水の理から正しく埋葬されず、または現世に死してなお残るほど強い憎悪執念により、魂魄の内の魄が肉体から抜けきれずに動き出す大陸系の死霊術『僵屍鬼(キョンシー)』もこの系統に入るものだ。

 陰陽五行の概念を利用しているが、道術の道士はさらに深奥にあると言われる『(タオ)』に執着する。この思想の下、自らをより高次存在――『仙人』と呼ばれるそれに引きずり上げようとするのがこの魔術体形の目的だ。

 『人間を超えて神に近づくこと』を目標として、黄金の如き完全なる存在を造り出そうとする錬金術があるが、道術は不滅の真理である『道』を体現することで、“神よりも上位の存在”となるのを究極とする。

 しかしあまりに魂の階梯を上げてしまえば、<模造天使(エンジェルフォウ)>の昇天と同じく世界と一体となる境地にまで行き着いてしまう。

 それこそが道術の目的であるのだが。

 そのように、本物の仙人となるには、先天的に聖人としての資質を有するだけでは足らず、死して脱皮のように人間の肉体を捨て去る――『尸解』を行わなければならない。

 

 この登仙の方法の中でも最上のひとつとして、宝剣を肉体の代わりに現世に残して昇華する『剣解』がある。

 

 自らの肉体を肉体にあらざる依代に託して偽りの葬儀を行うことで、抜け殻の肉体を完全に捨て去り、依代に魂を宿らせ、そして、天使と同列以上の高位存在である仙人へ至る―――

 

 

 もし、武神具開発者にさえも意図していなかった事象であるが、彼女が『七式突撃降魔機槍』を触媒として『剣解』をしたとなれば?

 

 

 人間より上位の存在に霊的進化したとしても、肉体が消滅したのだとしても、まだ縁はそこにある。

 そして、代々と<夜の魔女(リリス)>の魂を引き継がせてきた世界最強の夢魔(サキュバス)や力を持った器に『(くらき)』の意思を憑依させる一族、そして、『十二番目』の魂を宿らせる巫女という生きた実例もある。

 

 だから、後は肉体に魂を永続的に定着させる方法を編み出せればいい。

 

 欲に溺れて超常の力を失った仙人は人間の格に落ち、羽衣を奪われた天女は地上で暮らせざるを得なかった。

 目印のつけた鳥を空から落とし、その翼の羽を根こそぎ毟りとれば、もう手の届かぬ高みに行ってしまうことはない。

 

「<雪霞狼>より『剣解』した魂を引っ張り込むには、あの『混血』の肉体が最適だが、それも些細な問題だ」

 

 さて。

 本土に帰還してみれば、何やらご老体が企みごとをしているようだが、それにさほど興味もないし、関わる気はさらさらない。

 今、この死してなお活動する頭脳を占めるのは、理論の完成のみ。それ以外のすべては瑣事だ。

 

「あらあら……逃走中の脱獄囚が、こんなところにやってくるとは、何がお望みかしら?」

 

 最新鋭の医療機器で埋め尽くされた研究所の地下室―――

 そこのガラス容器にホルマリン漬けされた実験標本のように、深紅の水槽に浮かぶ美しくも歪な少女。そして、それを鼻歌混じりで観察しているこの研究所の主任研究員の女性。

 よれよれの白衣を着た童顔の彼女は、こちらに気づいて視線をやるも、ひどくどうでもよさげだ。

 研究者というのは、自身が掲げる目標(テーマ)以外には、無関心なものだ。その招かれぬ来客への対応に苦笑するも、同意する。

 

約束(アポ)なしの訪問で警戒するのは仕方ありません。しかし、すでに“上”には許可を取ってあるので、警備員を呼ぶのはやめていただけませんか、暁主任」

 

 MAR絃神島研究所の主任、暁深森は、あっそ、と白衣のポケットにあった警報機より手を離す。

 どことなく古代の仙人を連想させる雰囲気がする、ゆったりとした黒い中華服。それを着るのは、五体万全に整った、眼鏡をかけた繊細そうな面持ちの青年に、けれども深森は心を許さない。

 

「邪魔をしなければ、見物はご自由に。でも、アイスはあげないわよ」

 

 脱獄し、帰還した訪問客――絃神冥駕に、深森は肩から下げているクーラーボックスを背中に隠す。

 

「邪魔なんてしませんよ。あなたの研究は私としても実に興味深い。僭越ながら主任が知りたいのであれば、この絃神島の設計者である祖父、絃神千羅の『聖殲』の知識を教授しても構いません」

 

 やけに協力的な冥駕を眺めて、深森は小さく眉を上げる。

 これから『聖殲派』が秘匿していた切り札――『もうひとりの巫女(シュビラ)』を、『接触過適応(サイコメトリー)』の過去視で調べるのだが、彼の有する『聖殲』の知識は研究者としては垂涎もの。

 

「ふーん、聴くだけなら問題ないし、言いたいことがあるなら言って。でも、こっちは親切に質問にお答えはしないから」

 

 だが、そちらから手を差し出すのは自由だが、こちらに踏み込む許可は与えない。

 

「ここでなら快適な逃亡生活が満喫できるでしょうけど、私たちは庇い立てを一切しません。妙な騒ぎを起こして居場所が知れたら、すぐとっ捕まるわよ。むしろ特区警備隊に突き出すから、それでもいい?」

 

「あの魔女だけは苦手ですが―――猟犬の方ならばこちらから望むところです」

 

 ますます怪しい。

 あの彼にあっさりと捕まったと話には聞いていたのだけど、二度目の脱獄で本土から帰ってきてから何かあったのか。それもこの青年に触れればわかるかもしれないが、狂科学者(マッドサイエンティスト)にも触りたくないものはある。

 

「……彼、将来の義理息子(むこどの)予定(かり))だから、変なちょっかい出さないでよ」

 

「ふっ、申し訳ありませんが、主任のお言葉でも聞けないものがあります。あなたも知っての通り、彼の肉体は大変魅力的です。それを欲するのは研究者(われわれ)のような人種にはどうしようもない」

 

「……今のは一応、娘の母親としての忠告なんだけど」

 

「ならばなおさら、私にも譲れないものがある」

 

 これ以上突っ込むと面倒なことになりそうだと直感したので深くは追求せず、背中を向けて実験に戻る。

 右手に嵌めていた白手袋を外して、傷だらけの娘の首筋に接続された金属プラグより水槽の外まで伸びているケーブルに触れる。

 

 

「さあ、“生き返ったばかりで”悪いけど、視させてもらうわ。あなたが体験した『聖殲』の記憶を―――」

 

 

人工島管理公社

 

 

 絃神島は本土から遠く離れた人工島という立地上物価が高く、生鮮商品はすぐ品薄になりがちだ。一昨日あたりに春一番よりも先駆けて今年第一号の台風がやってきたが、定期船の欠航や遅滞は日常茶飯事であり、荒天が続けば一週間近く物流が止まることも珍しい事ではない。

 

 だが、昨日より絃神島に到着予定だった船が一隻もついていない。

 まだ情報を精査している段階でニュースに流れてはいないが理由は多々あり、貨物船の衝突事故に座礁、それに船内で食中毒などといった偶然の事故が“偶然ではない頻度で”発生している。

 航空もまた乱気流の影響で欠航。

 

 現在、絃神島は、孤立している状況下にある。

 

 ―――そして、国家攻魔官ひとりが行方不明。

 

 何らかの前触れである可能性が高いと人工島管理公社は判断を下した。

 

 

 

「さて、お集まりいただいたところで早速始めようか。悠長にしていられる状況ではないみたいなんでね。自己紹介省かせてもらう。その必要ないもあるけどな」

 

 まず口を開いたのは、首にヘッドフォンを下げた男子生徒、矢瀬基樹。

 まだ先日闇討ちされた怪我から退院したばかりであるが、『覗き屋(ヘイムダル)』としての能力を買われ、また“将来のためにも人を扱うことに慣れてもらう”という異母兄からの推薦があり、メンバーに召集された。いわば彼は、管理公社との繋ぎ役を担う。

 

 この会議室に集められた五人は全員が個人的に、またはある人物を仲介に挟んで顔合わせは済んでいる。

 そして、特区警備隊(アイランドガード)に所属こそしていないが、非公式な治安維持に貢献してきている、攻魔師資格(Cカード)を持った獅子王機関や太史局の構成員ではなく、管理公社の持ち札であるという共通点を持つ。

 

「そうだね、このまま何事もなく終わることは考えられない。なんといっても『世界最強の吸血鬼(トラブルメーカー)』のいる人工島(しま)だからね」

 

 そう議長(まとめ)役の矢瀬に応えるのは、聴き心地良い声に合った快活な雰囲気の少女だった。

 髪型は毛先の撥ねたショートボブ。着ているのは男物のジャケットだが、それでも彼女だと舞台主演のように映えるほど格好いい。男装の麗人は、絵になるほど様になる所作で紅茶を嗜みながら、テーブルの上に広げられた紫紺の旗を見やる。

 

「それと、洒落た挑戦状も送ってきたみたいだしね。僕の趣味には合わないけど」

 

 かつて<図書館(LCO)>の『司書』であった<蒼の魔女>、仙都木優麻。

 昨年の秋に起きた『闇誓書事件』のあと、優麻は攻魔局に拘束された。

 禁呪指定された魔導書の無断使用と、魔導犯罪組織の『総記(ジェネラル)』であり、彼女の母親である<書記(ノタリア)の魔女>――仙都木阿夜の脱獄を幇助したという剣技が拘束理由。

 もっとも彼女は未成年であり、母親の傀儡であり情状酌量の余地のある被害者であった。そのため優麻自身が罪に問われるというよりは、貴重な証人として身柄を保護されている。

 

 それで、今回の招集された理由としては、空間制御魔術に長けた<蒼の魔女>の能力を買われてのこともあるが、何よりも彼女はかつて<監獄結界>に閉じ込められた<書記の魔女(ははおや)>を脱獄させるために、『鍵』たる番人である南宮那月<空隙の魔女>を出し抜くあらゆる方策を思案し、絃神島全体に混乱を引き起こした経歴を考慮されてのこと。

 

 そして、仙都木優麻はこの依頼を受けねばならない理由もある。

 

 悪魔との契約によって、加護と力を得た魔女は、その対価を必ず支払わなければならない。その契約に逆らえば、その者は悪魔の眷属により即座に命を奪われる。

 <蒼の魔女>が悪魔<(ル・ブルー)>とした契約は、『母親を、<監獄結界>より出すこと』。

 それ故に、彼女は母親の脱獄を諦めることはできず、現在、攻魔局との交渉の結果、『<図書館>を殲滅し、<書記の魔女>としての力を失ったとなれば、仙都木阿夜を釈放する』というところに落ち着いたところであった。

 だから、それを成す前に、母親の眠る異空間の監獄の『鍵』がいなくなってしまうのは何としてでも避けねばならないのだ。

 

「これが本物であると調査結果が出た時、上級理事は血相を変えた。……ひとりを除いてだけどな。そいつのおかげで、第二種警戒態勢(コード・オレンジ)は取り下げられた」

 

 たかが“予告状”ごときに慌てふためくなど、上に立つ人物のすることではない。

 大山鳴動して鼠一匹。国家攻魔官がひとり行方不明になったくらいで何を慌てるものがあるのか、と名誉理事の一喝で、今のところは過度な反応をする上級理事はひとりも出ていない。

 

「調べがついたということは、これが何なのかわかっているのかい」

 

「大陸系統の魔具だそうだ。名前を書いた人物を呪い殺すという、死神のついてそうなシロモンだとよ」

 

 会議室のテーブルに広げられている紫紺の旗。

 そこに書かれていたのは、管理公社の上級理事五名とそして、ひとりの国家攻魔官の名前。それも攻魔官の上には殺害(キル)(マーク)のように赤線が引かれていた。

 

「ご主人は、死んでない」

 

 矢瀬と優麻の会話に反論したのは、厚着の少年。

 室内においても帽子法被手袋を外さない重装備の彼は、行方不明となった国家攻魔官・南宮那月に飼われる使い魔(サーヴァント)、南宮九郎義経。

 この五人の中で、表立って特区警備隊の治安維持活動に最も貢献している魔女の猟犬<|黒妖犬《ヘルハウンド>であり、逮捕率が100%という類稀な捜査能力を持つ人材だ。

 

同意(シェア)教官(マスター)は存命です」

 

 その傍らに座る、先程までこの会議室のお茶出しをしていたメイド服の少女が、厚着の少年を支持する。

 <黒妖犬>と同じ南宮那月の預かりとなっている人工眷獣を寄生された人工生命体(ホムンクルス)、アスタルテ。

 後輩からの後押しを受けた南宮クロウは前に突き出した左腕に、『黄金の籠手』を現出させる。

 

「昨日、ふらっといなくなってから、しばらくしていきなりご主人から<監獄結界>の『鍵』代行を任された。空間転移で無理矢理な遠隔契約だったから、顔も見てない。でも、ご主人は『しばらく預かっていろ』とオレに言っていた。だから、帰ってくる。絶対に!」

 

 咬みつくように言うクロウを、優麻は宥めるよう落ち着いた声音で、

 

「僕も南宮先生が死んだとは思っちゃいないよ。彼女の攻略法に<図書館>は十年も悩まされたんだ。そう簡単にやられるはずがない。

 ただ嫌がらせとしては効果的だ。名前を書いた相手の命を奪う呪いの旗。万が一のことがないように、上級理事は一刻も早くそれを解呪させたいだろうね」

 

「ああ。それで俺たちが集められた。そして、現在、絃神島は攻撃を受けている可能性が高い」

 

 アスタルテに淹れてもらった紅茶を飲んで気を落ち着けさせるクロウ―――その隣にあるカップだけが置かれた無人の席、彼女の分の紅茶の横にあるノートパソコンより妙に堅苦しい口調で発言が為された。

 

『仕える主人の失踪に不安がる心中、お察しいたす、獣王殿。そこで拙者、早速ひとつ情報を発見したでござる』

 

 音声限定(サウンドオンリー)でパソコンに繋がっている送信先は、赤毛の少女が引き籠る超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)だ。

 欧州ディディエ重工創業者一族の令嬢、リディアーヌ=ディディエ。未だ実年齢は小学生ながら(それを言うなら仙都木優麻も急速に成長を早められたが実年齢は小学生)、博士課程修了者クラスの知性を誇るエリート・チャイルド。

 

 元々、この人工島管理公社の情報管理を任されている雇われハッカーだが、『蒼の楽園(ブルーエリジウム)』での一件で、絃神島転覆を狙うエコテロリストの計画――の裏で画策する太史局に雇われた協力者であった。『闇誓書事件』での貢献や太史局からの弁護があったとはいえ攻魔局には札付きとされており、現在、公社に身柄を管理されている人材だ。

 

『では、まずこちらの資料を見てくだされ』

 

 <戦車乗り>が会議室のプロジェクターに映し出した画像には、座礁や衝突事故を起こした船の写真、絃神島周辺で発生した船舶事故の被害状況を表にし、そして、発生地点を地図にまとめたもの。

 それもすべて本日のものだ。

 未だ午前五時を回っていないというのに、事件の総数は届け出があったものだけで十数件。機関または電装系の不調による漂流が五件。衝突及び座礁が三件。船員の傷病その他もろもろが六件―――

 

「これは思っていた以上に酷いな……」

 

 矢瀬が口元に手を当てて思わず声を洩らすのも無理はない。

 想定以上の事態の深刻さ。それも表の数字が更新されていくことから被害状況は現在進行形で増え続けている。

 そして、今、リディアーヌが作成した、其々の事故現場を赤チェックで指した人工島近辺の地図から、絃神島を中心に、かつ広範囲にわたってランダムに事故が発生していることが一目でわかる。

 どこにも偏りがなく万遍なく。やはり、これは偶然によるものではなく、何者かに意図されてのもの。

 

『被害にあった船に共通点は特にないでありますな。沿岸警備隊(コーストガード)の巡視船から、漁船まで見事にバラバラでござる。この分だと報告の数字に入っていない、海外船籍や密輸船も何隻か巻き込まれているでありましょう』

 

海難事故(そっち)の方には、国家攻魔官四名からなる偵察隊(チーム)を派遣したみたいだが、これじゃあいつ帰ってくるか期待できそうにないな」

 

『唯一挙げられるこれらの共通点は、事故に巻き込まれた船は、すべて絃神島行きということでござる。そして辿り着けぬまま往生するか、漂流から脱して本土に引き返しているのが現状でありますな』

 

 これは、人為的な攻撃である。

 絃神島に近づく船や航空機を狙って事故を起こし、輸送経路を遮断させて『魔族特区』を孤立させようと目論んだ、戦術よりも遠大な戦略性のある攻撃だ。

 これは即効で混乱を起こすものではないだろうが、補給路が断たれたままではいつか、『魔族特区』は存続が危ぶまれる状況下に陥ることだろう。

 

「絃神島に近づく船を片っ端から追っ払う、そんな“膨大な魔力を必要とする”真似ができる相手はきっと片手にも満たないだろうね」

 

 被害にあった船が一隻二隻どころではない、これは事故を装った破壊工作では無理がある。

 となれば、魔術的な結界によって引き起こされている可能性が極めて高い。

 絃神島に向かう移動手段に限定して発動する呪い、あるいは侵入者を攻撃する結界のようなものが展開されていると考えるのは自然だろう。

 

 ただその場合で問題となるのが、この結界の効果範囲だ。

 優麻の言葉を拾い、リディアーヌが効果圏内に入っている海域を円で囲ってみたが、半径百km以上を超えている。面積だけならば、首都圏をすっぽりと覆い尽くすほどの大規模だ。

 これだけ広範囲に結界を展開できるほどの魔力源となれば、吸血鬼の真祖――優麻の幼馴染に、実行可能な該当者が約一名いる――くらいなものだ。

 

「僕も絃神島を揺さぶるための魔力源――10万人の生贄の代わりとして、彼の肉体を借りたんだけどね」

 

「まあ、あいつじゃないだろうな、絶対」

 

 その優麻が思い浮かべた幼馴染であり、自身の親友である少年の関与を矢瀬は否定する。

 世界最強の力を持ちながらも、基本気怠いところが変わっていない少年が、このような疲れる真似をする気はないだろうし、その理由もない。『<第四真祖>の真の監視役』というお役目上、見張ってはいたが、ここ最近の彼は担任教師に課された強化プリントをこなすのに自宅に篭っており、結界儀式の準備など当然していない。

 そして、絃神島の総人口約56万人から10万人という、およそ5、6人にひとりが生贄にされる目立った事件など当然起こっていない。

 なれば、これほど大規模で展開する呪術結界は何によるものなのか。

 

『可能性のひとつとしておそらく、風水術――土地の力、龍脈を利用した<奇門遁甲>でありましょうな』

 

 現代で一般的に知られている風水は、置物の配置や小道具の色で運勢の流れを変えるという、つまりは占いとして広まっている。

 しかし、その源流である式占は、占いであると同時に大規模な呪術でもある。

 中でも特に兵法として発達した法奇門は、天候と兵の生死を司る大規模軍事術式だ。気象条件や戦場の地形、兵士たちの指揮や体調といった重要な戦術要素を掌握操作し、自軍を勝利に導く。

 風水術は、伏竜の軍師が東南の気象風を招いた赤壁の大火で下馬評を覆して大陸を三国に分けるなどと歴史を作り、現在でも世界中の軍事組織で大規模な研究がおこなわれているのだ。

 

「なるほど、この付近の海域を流れている龍脈(レイライン)を利用すれば、絃神島を八卦陣で覆い尽くすことも不可能ではない。けど、これほどの規模の陣を誰にも気づかれず制御できる術者は実在するのかな。『魔族特区』の龍脈の力を使って“人工の異世界”を造り出している<監獄結界>の『鍵』―――<空隙の魔女>は誰よりも早く異変を察知したはずだ」

 

 犯罪組織の首魁である母親の脱獄のために、優麻はこの地の空間を支配する大魔女の攻略法を考えさせられた。だから、それが容易でないことを我がことのように理解できる。

 

『ひとり、該当者がいますな』

 

 リディアーヌが画面を切り替え、ひとりの人物写真を映す。

 

『千賀毅人―――ディディエ本社のある欧州ネウストリアの軍事顧問だった、世界屈指の法奇門使いでござるよ。国内の軍事産業を担っていたディディエ重工とも関わり深く、その後の消息は不明でありましたが、6年前の目撃情報から推測するに、金で雇われて魔導テロを行う破壊集団―――<タルタロス・ラプス>に身を置いているようでありますな』

 

「<タルタロス・ラプス>だって!?」

 

 その名を聴いた途端、優麻は大きく目を見開いて、驚きを露わにする。

 

『欧州『イロワーズ崩壊事件』――表向き、都市内の発電プラントの老朽化と大嵐による洪水が原因で放棄された大西洋の『魔族特区』でありますが、それはあらゆる国際機関が必死に揉み消した偽りの情報。その真実は、人為的な破壊工作でござった』

 

 世界全体を見渡しても『魔族特区』と呼ばれる都市は少ない。その中のひとつが破壊されたとなれば相当な騒ぎとなるはずだ。

 だがこの六年前に起きた事件を一般社会で知る者はいない。

 ろくに名前も知らされていない結社未満の少人数の犯罪組織に、都市ひとつ破壊されるなどという情報が広まれば、世界中がパニックになるからだ。特に『イロワーズ』と同じ『魔族特区』は。

 

 だから、虚偽の情報が流されたが、その情報操作で都合のいいことに真実を知る人間も少なかった。

 

『ロタリンギア正教の少数派(マイナー)な分派であった『聖団(ギゼラ)』の本拠地が置かれていた『イロワーズ魔族特区』。その強力な戦士<修女騎士(パラデイネス)>に守護された都市を滅ぼした。それも『聖団』は全滅となれば、世間には隠したがるのも無理はなかろう。

 拙者のような隠し事は何でも暴きたくなる生粋のハッカーでもない限り調べられるものはおらんでしょうな』

 

 存在そのものが隠蔽処理された、攻魔局の一般捜査官にさえ閲覧権限のない重要機密指定の情報。ハッカーの腕を駆使して掬い上げても限りある少数の情報を基に<戦車乗り>は分析する。

 

『未だに手口は解明されてござらんが、ただ、『イロワーズ』崩壊の直前、周囲の海域で不自然な事故が多発した記録を先程発見したでござるよ。これは、現在の絃神島の状況と類似していよう。

 そして、6年前の『魔族特区』を壊滅させた首謀者の一人に、『東洋の至宝』と謳われた、元本国の軍事顧問の風水術士が確認されているでござる』

 

 <戦車乗り>の結論から言って、この人工島に八卦陣を張った壊し屋集団の介入が濃厚だ。

 そして、<蒼の魔女>は、彼の風水術士の名を聴いて無反応な<黒妖犬(ヘルハウンド)>らから何も教えられていないことを察して、けれどもその筋立てを捕捉するよう、躊躇いがちに口を開く。

 

「<空隙の魔女>が、真っ先にやられたのにもそれで納得がいく。千賀毅人、彼は南宮那月を魔女にした師だ」

 

 契約を果たすための難敵となりうる<空隙の魔女>は、その卓越した空間制御能力や時空を歪ませるほど強大な<守護者>だけでなく、経歴から人間関係まで調べていた。

 

 十五年前に『魔族特区』絃神島に渡りつき、<監獄結界>という舞台装置を完成させる『鍵』となることで籠の中の自由を得た彼女は、優麻の母親である<書記の魔女>と出会い、

 十年前の『闇誓書事件』で、同じ純血の魔女であり親友であった仙都木阿夜と決別する。

 

 そして。

 去年の『波朧院フェスタ』で、禁書により<書記の魔女>が魔女としての時間を奪ったあの“ただの少女(サナ)”。

 そんな“ただの少女”であった彼女に、<輪環王(ラインゴルド)>との悪魔契約を結ばせ、純血の資質を開花させる――欧州の魔族を大量に虐殺した稀代の魔女に仕立てた先生が、<タルタロス・ラプス>に所属していた千賀毅人……

 

「クロウ君……南宮先生が<タルタロス・ラプス>の一員だったと決まったわけじゃない。仮にそうだったとしてもそれは昔の話だ」

 

 教えられた主人の過去。言ってしまった優麻は気遣うようその表情を覗いたが、あったのは意外にも凪いだ面持ちだった。

 

「そうか……」

 

 荒立てることなく、落ち着いている。感情に疎い人工生命体の後輩の方が露わにしていると思えるほど、動揺が少ない。

 

「無理を、してないかい?」

 

「ん、何でだ優麻。まあ、驚いたけど、この千賀毅人とかいうのがご主人の昔の男なんだろ?」

 

「それはだいぶ意味合いが違ってくるね。いや、君がちゃんと話を理解してるのはわかるんだけど、その表現は誤解を招く。それだと今、僕たちは絃神島の危急存亡ではなく、痴情の縺れみたいな展開を真剣に会議してることになる」

 

「じゃあ、元カレってやつなのか?」

 

「君は南宮先生に殺されたいのかい?」

 

 この命知らずな天然ボケをどう修正してやるべきか、トントン、と自身のこめかみあたりを人差し指で小突きながらいたく頭を悩ませる優麻を他所に、わりとシリアスに進んでいた会議室に笑い声が響いた。

 

「あっはっは! 流石、クロ坊。恐れを知らぬ発言、那月ちゃんが聞いてたら、どえらい目に遭うな」

 

「謝罪。先輩が空気を壊して大変申し訳ありません。この件は、後に教官(マスター)に報告させてもらいます」

 

『かかっ、それならば拙者、この会議の発言記録を録音してるので証拠物件として貸し出すでござるよ』

 

 ひーひーっ、と腹を抱え机に突っ伏す学校の先輩と、ぺこぺこと頭を下げている従者の後輩。

 それに、むぅ、と小首を捻りつつ―――

 南宮クロウは参加した会議に耳を傾けながら、粛々と進めていた、己だけに出来る作業を、終えた。

 

 

「アスタルテ、この辺りだ。この魔具にあった“匂い”の大元がいる」

 

 

 『嗅覚過適応(リーディング)』で、紫紺の旗に残る“情報”を嗅ぎ取るクロウは、補佐するアスタルテに簡潔に結果を告げる。

 その探査呪術(ダウンジング)をも掻い潜る相手であろうと見つけ出す特殊技能で、この人工島の中央キーストーンゲートにある管理公社の会議室を基点として、方角と距離を感覚的に測り取り、机に広げられていた絃神島の地図の座標位置を指差す。

 

命令受託(アクセプト)―――」

 

 直感による推論を捕捉するよう、狙われている上級理事の行動予定(スケジュール)を秘書のように記憶するアスタルテは機械的に精査し、ひとつの当てをつけた。

 

「先輩が指定した人工島西地区(アイランドイースト)のポイント付近に、二名の上級理事が宿泊したホテルがあります。該当者名は―――」

 

 アスタルテが淡々と読み上げるよう告げられたその人物名に、『魔族特区』内の政治に詳しい矢瀬基樹は瞬時に悟る。

 

「っ! ヤツらの狙いは、公社(こっち)の指揮系統の攪乱か―――」

 

 該当したのは、人工島内の治安維持と登録魔族の管理を掌握している上級理事。

 ただでさえ特区が封鎖されている状況下だというのにもしも彼ら二人が不在になれば、人工島管理公社が所有する最大の戦力――『特区警備隊(アイランド・ガード)』の指揮系統が乱れる。

 そう、相手は『魔族特区』を標的にするテロ集団。まだ完全に警戒される前に、『魔族特区』の急所(あたま)を的確に突くつもりなのだ。

 

 

「やべぇぞ、何としてでも暗殺阻止しないと、主導権を一気に向こうへ持っていかれる!」

 

 

彩海学園

 

 

「おはよ、古城。久しぶり……でもないか」

 

「うーっす、浅葱。いてくれたか、ちょっとお前に訊きたいことがあってな」

 

「なによ」

 

「凪沙のことだ。最近、妙に様子が変というかだな、やっぱ本土にいる間に何かあったとしか思えないんだが」

 

「またその話? もう何回話させんのよ。普通に本土旅行を楽しんでたって言ったじゃない」

 

「けどな、浅葱。普通に本土で旅行しただけじゃああはならないぞ」

 

「じゃあ、どう様子が変なのか言ってみなさいよ。それ教えてくれたら、心当たりが思い浮かぶかもしんないし」

 

「あー……そのだな……特定の三文字(ワード)に過敏になったというか……」

 

「だから、その特定の三文字(ワード)が何なのよ」

 

「わかってくれ頼む。俺としてもいろいろ複雑なのがあるんだよ」

 

「そう、わかったわ。あんたが立派なシスコンだってのは」

 

「何でそうなんだよ!? 別に家族を心配するくらい普通じゃねーかっ!」

 

「あんたのそれはいくらなんでも反応が過剰だって言ってるの」

 

「そりゃあ、『クロウ』って聴くだけで凪沙が過剰反応するから仕方ねーだろ!」

 

「やっぱクロウね。どうせそうだろうとは思ったけど」

 

「なあ、何があったんだ? どんな些細な事でもいい、神社に泊まった時から教えてくれ浅葱」

 

「えー、っと、まずちゃんと部屋は別けたわよ。その辺りは古城のお祖母さんがきちんと配慮してたわね」

 

「祖母さんはそのあたりきっちりする人だからな。安心できる」

 

「それでクロウに良くないものが憑いてそうだからお祓いをすることになったんだけど、凪沙ちゃんがそのお手伝いをするってついてったのよね。そこからはあたしも目を離してたんだけど、何かあったとすればここかしら。

 ああ、そういえば、そのとき凪沙ちゃんからパイロットスーツを貸してくれって頼まれたわ」

 

「なに!? あの浅葱が着てたゼッケン付きでスクール水着っぽいやつか!?」

 

「余計なこと思い出さないでよ。忘れて!」

 

「っつ、あんなモンをわざわざ借りるってことは……―――まさかっ! 一緒に風呂入ったんじゃねーだろうな!」

 

「だから、そこまで知らないわよ……でも、クロウ。あんたのお祖母さんに気に入られてたわよ。孫娘をどうかよろしくとか別れ際に言われたわね」

 

「な――――――――――――――んだ、と!?!?!?」

 

「それからはずっと一緒に行動してたわよ。まあ、明らかにクロウのことを意識してたみたいだけど、それはもう今更というか―――ちょっと、古城! いきなり立ち上がってどうしたのよ!」

 

「そんなの決まってんだろ―――戦争(ケンカ)しに行くんだよ」

 

「ああ、もう! やっぱりこうなるわね! あんたのそれはシャレにならないから!」

 

「おはよう、浅葱。それに、暁くん。あなたたちは冬休み明けでも相変わらず騒がしいわね」

 

「おはよ、お倫。でも、騒がしいのは古城だけだから」

 

「築島、悪いがそこをどいてくれ」

 

「ダメ、今のそいつを通したら、中等部の教室まで突っ込んでいくから!」

 

「本当、いつになく元気ね。でも、そうね。暁くん、もうすぐHRだし、席に着いた方が良いんじゃないかしら?」

 

「? まだ全然、クラス全員来てねーぞ。矢瀬もいないみたいだし……あれ、もうこんな時間だったのか」

 

「暁くん、今朝のニュース、見なかったの?」

 

「見てないな。何かあったのか?」

 

「絃神島に到着予定だった船が昨日から一隻も着いてないのよ。故障とか座礁とか食中毒とか理由はいろいろあるみたいだけど。あー……おかげで、あたしが通販で買った荷物も届いてないんだけど。プリン専門店の新作スイーツとパソコン用の増設量子ナノメモリ……ううー、賞味期限がー……精密部品がー……」

 

「何そのよくわからない組み合わせ……まあ、浅葱らしいけど」

 

「なるほど。航空便も欠航してるから、本土に里帰りして絃神島に戻ってこれなかった連中がいるんだな」

 

「そういうこと。絃神島の飛行機なんて、一日に3、4便だしね。こういう時に人工島は不便よね。だから、最新情報(ニュース)にちゃんとアンテナ張ってないと大変なことになるわよ古城」

 

「しょうがないだろ、朝は、俺も三文字(クロウ)のことで頭がいっぱいになってたんだし」

 

「クロウ君のことで、頭がいっぱいに……暁くん、あなた……」

 

「あー、もう! だめだ! 抑えきれねぇ! 那月ちゃんのHRをサボるのはまずいが、それでも一秒でも早く確認しねーと―――やっぱ、ちょっと行ってくる!」

 

「古城! あんた―――」

「―――ダメよ、暁くん!」

 

「お、おう、ど、どうした築島。いきなり大声で」

 

「暁くん、ここは我慢するの。それは禁じられてる行為なんだから、そんな派手なことをするのはいけないわ。あなたのその気持ちは裡に秘めるものよ」

 

「そりゃ、まあ、校則違反なのも、自重するべきなのもわかってるんだけどな」

 

「会えない時間で育まれるものもあるわ。相手のことを想って、冷静に正しいかどうか、自分の気持ちを見つめ直す。それで出した答えこそが本当に尊いものだと私は思う」

 

「……そうだな、クロウにそんな気はないだろうし。強引に迫るのはなんか違うか」

 

「ええ、そうよ暁くん。相手のことを考えることこそが大事。でも、ちゃんと自分の気持ちを伝えるのは間違っていない。あなたが本気なら妹さんも理解してくれるはずよ」

 

「そう、だよな……ありがとな、築島、目が覚めたわ」

 

「お倫? 古城? 説得されてるところ悪いんだけどな、あんたらなんか絶妙に意見が食い違ってないかしら?」

 

 

人工島西地区

 

 

 人工島である絃神島には、地盤強度の関係上、所謂超高層ビルというものが存在しない。代わりに市街の中心部には、同じような高さの中層ビルが密集する形になっている。

 少女は、50万人以上の人間と魔族が暮らし、生活以上の経済活動が行われる『魔族特区』を見下ろす。冬であっても常夏の陽射しで炙るように照らされるビルの屋上は、風がなければ焦熱地獄だった。陽光の強い照り返しに目を晦ませながら、少女は吹き荒ぶ強風に感謝しつつも嘆息する。シャツやスカートがはためくし耳を隠す帽子も脱げてしまう。それはいい。問題なのは、どこから撃つのがいいのか、候補地(ポジション)の選定が厄介なところだ。長距離の射撃は、横風に流される。だから、肌で実感することで現在の風向きを計算して、仕事に適したビルの屋上へ渡らなければならない。

 それでもビルの屋上にこだわるのは、人目がないからだ。人口密集地でも都市の死角のひとつだ。下の街からは見えず、航空機や衛星による監視は定期的なため、いきなり襲撃を受けて追いつめられることはない。今までそうだった。

 

「ここにする」

 

 結局選んだのは、ビル群の中でも、特に目立たない地味な建物の屋上。屋上についてからも、この明るいはずの風景に、危険を探して深い影ばかりを見る。蒸し暑さすら上滑りして、常夏の炎天下の気配は不完全燃焼して毒気を生み出すようだ。

 

 この出来損ないの獣人種にもある本能的な部分を刺激してくる、重圧のある空気がこの西地区全体を覆っているようで……

 

 そうして場所選びが終わってからひとつ深呼吸をする。万が一にもなく必ず成功させる。この失敗の恐怖という毒に満たされる肺腑を一新してから、携帯機器(スマートフォン)に指をかける。少女は“彼女”に対してだけは、強張った声は聴かせまいと思った。

 

「聞こえますか、ディセンバー」

 

『こちら、ディセンバー。聞こえてるよ、カーリ』

 

 携帯機器からはすぐに返事があった。

 緊張感の乏しい、おっとりした口調。その声を聴いて安堵したように少女は張り詰めた表情を緩めた。

 

「カーリ、配置につきました。射視界、問題ありません」

 

了解(コピー)。対象を乗せる車両は、人工島西地区十四番大街路をホテル方面に移動中。300秒以内に予定地点に到着するよ』

 

「こちらも目視で確認しました。狙撃準備に入ります」

 

 カーリは提げていたチェロ用の運搬ケースを開けた。その中にあったのは楽器ではない。軍用の大型ライフル。プルパップ式の対物狙撃銃だ。

 

『はいはい。データ送るね』

 

「確認しました」

 

 携帯機器の画面に、ディセンバーが計測した、風向き、風速、湿度、気温、大気密度といった計測した様々な情報が表示され、カーリは己の鋭敏な五感で覚えたものと齟齬がないかを確かめ、そして、現在のターゲットの服装を記憶する。

 

『後は任せるよ。カーリの判断でやっちゃって』

 

了解(コピー)。感謝します、ディセンバー」

 

『どういたしまして』

 

 この明るい声に耳を擽られたかのように、“彼女”との会話は仕事前で程よくリラックスした状態にまで持ってきてくれる。これならば、外しはしない。

 伏射姿勢を取る。

 

 狙撃は、小物が大きな標的を倒すための戦い方だ。だから、ただ引き金を引けばいい単純な作業は、出来損ないの獣人種には相応しく、狙撃手として天性の才能であった。

 強烈な対物ライフルの反動に耐える筋力と、人間の武器を操る繊細さ―――脆弱な獣人という個性が、その最適なバランスを備えていたのだ。

 狙撃の技術を教えてくれた“先生”をも今や抜いており、仲間たちの中で最強の狙撃手として認められている。

 ―――これが、カーリが生まれて初めて手に入れた存在意義。

 

 照準器(スコープ)に切り取られたのは、乱立するビルとビルのわずかな隙間。だが、それで十分だ。

 集中する。高級ホテルのエントランス。

 およそ1km先に到着する黒塗りの高級セダンを、視界だけでなく人間離れした鋭敏な聴覚で気配を正確に捉えた。ブレーキの擦過音。ホテルドアマンの足音。この聴覚や嗅覚、暗視能力など、この獣人ならではの優れた五感も、狙撃手としての強力な武器だ。

 

 そして、ホテルよりまず二人の護衛が現れた。

 それから、小柄な老人がホテル玄関より現れる。

 

 狙撃のチャンスは、建物から乗用車に乗りこむまでのわずか数m。

 外せば、護衛が身を盾にして警戒する。狙えるのは、ワンチャンス。

 だが、<タルタロス・ラプス>において最強の狙撃手であるカーリにとって、銃弾で1km先にある人の頭をイチゴジャムにするのは、皿の上のイチゴを摘まんでとるくらい容易い。この憎しみも悦びもない、ただディセンバーのためにやる単純作業を成功できるイメージは、最早確定している。

 

 引き金に余分な力をかけて銃口がぶれてしまわないよう、一拍おいて、筋肉が弛緩してることを確かめた。あとは人を殺す引き金を、精密な機械装置のように、ゆっくりと絞るだけだ。あるべき場所へそっと置くように。

 

 驚くほど澄んだ銃声が、青く高い空へと、波紋が見えそうなほどきれいに広がっていく。

 

 マズルブレーキからガスが噴き出し、五十口径弾特有の鈍い反動がカーリを襲う。それでも獣人種特有の動体視力は、冷静に銃弾の行方を追っている。

 

「――――――――――――――えっ!?」

 

 狙撃対象(ターゲット)の頭部をザクロのように弾け飛ぶ瞬間を、見届けることはできなかった。

 引き金を引く間際の一瞬、狙撃手の確定した未来予想図に異物―――何の前触れもなく、虚空より現れたひとりの魔女と人工生命体と少年が挟み込まれた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――防護モード。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先>」

 

 

 相手の狙いがわかったのは、ほんの数分前。

 護衛を侍らすも、こちらから見ればあまりに無防備に外へ出た上級理事。その前に<蒼の魔女>の空間転移で連れられたメイド服の人工生命体アスタルテは状況を確認せず、真っ先に身に宿された人工眷獣を召喚し、小柄な老人の周囲を囲うように虹色の翼を展開させる。

 360度隙間なし。魔力を反射し、ロケットミサイルにも耐えうる鉄壁の守護。

 “こちらは相手が狙撃をしてくるかどうかも判断ついていない”が、ならば害すると考えつくものすべてから護ればいい。

 

 そして、濃密な魔力で創られた眷獣の羽は、間一髪、超音速の対物ライフル弾に着弾するも、貫通させず弾く。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――防、がれた……

 

 

「どうして……!?」

 

 狙撃失敗。呆然自失しながらも働く聴覚に、この銃声の後の静けさが、空気を針のように尖らせて、痛く心身を震わす。

 

「っ、まだ―――」

 

 でも、それは僅かな間だった。

 すぐ立て直し、照準器の中心に上級理事を合わせる。銃を構え、まだ狩りを諦めていない。簡単に撤退するわけにはいかないのだ。

 だが、相手はメイド服の少女が張る眷獣に護られている。これでは、撃てない。すぐ弾丸の種類を眷獣にも通用する退魔弾へ装填切り替えようとするも、向こうもそのまま路上で案山子のように立ちぼうけするはずもない。

 突然の事態に目を白黒させて、未だ命を狙われた、そして救われたことへの理解が遅れている上級理事が、癇癪(パニック)を起こして慌て狂う前に、一緒に空間転移してきた少年が老人の腕を捕まえ避難させる。

 狙撃の隙間のない、先程出たばかりのホテルへと引き返そうとしている

 

 即座に装填したカーリは引き金を引く。

 

 ―――突風が、横殴りに吹いた。

 

 銃声が、慟哭のように細く轟く……

 次弾も外れる。人差し指で引き金を絞る、この熟達した単純作業を二度続けて失敗させられた。

 

 風の動きが、変……!

 

 上級理事の周りに不自然な突風が発生して、狙いを逸らされる。聴覚で捉える風切音の強さで、風向きと風速を読み、己の感覚が5m強もあると告げていた。1kmも離れれば、余程の火薬量の多い弾を使っても射程距離の限界に近い。弾丸は、完璧に狙いをつけてすら発射から着弾まで2秒以上飛翔し、横風で4m以上も風下へ流される。

 

 だが、この悪条件を捻じ伏せてこそ、神域の技量をもった狙撃手―――

 

 

『―――カーリ! すぐそこから逃げて!』

 

 

 ライフルの横に置かれた携帯機器より、ディセンバーの聴いたことのない焦り声が耳朶を打つ。

 でも、それをカーリは無視した。

 まだ射撃機会は残ってる、このまま狙撃失敗したままじゃ、ディセンバーに顔を合せられない。存在意義を失くしてしまう―――!

 

 だが、カーリは引き金に掛ける指を止めた。

 ディセンバーの嘆願ではない、本能的な恐怖が彼女を強張らせたのだ。

 

 

「―――オマエか」

 

 

 静かな声が、熱に浮かされた常夏の大気を断ち切った。

 そして、厚着の少年が、貪狼の狩りのように一気に駆け抜けてくる。

 音もなく、砂塵の跳ねすらあげず、突風に煽られるビル屋上を風に乗るかのように駆ける。

 

 一気に現場まで跳べるのは、精々二人まで。

 だから、ディフェンスは仲間に任せて、オフェンスを担当する彼は空間転移ではなく、己の脚で、島中央から西地区まで移動し、捉えた獲物に喰らいつく。

 様々な臭いで紛れる街の空気の中で、この火薬の臭いを、その鼻は嗅ぎ取っている。

 

 それでもカーリは、伏射から立射姿勢に体勢を変えたものの、その場から動かなかった。

 相手に飛び道具を持っている気配はない。だから、落ち着いて到着するまでに相手を射殺するだけだった。外しようがなかった。

 一瞬ごとに近づき姿が大きく見えるようになってきた狩人へ、次弾の装填は終えている引き金を連射で引き続けた。だが、魔法のように、服の袖口を掠めただけで、この至近距離で命中しない。

 

 相手は、引かずに、一棟一棟、跳び越えてこちらへ最短距離で迫る。

 無謀だ。けれども、これと比較すれば、狙われてることを知った途端、右往左往とした上級理事が小物と見える。

 それは少女自身とも“ちがい”は意識される。銃器に頼らざるを得ない弱小な獣人と、己の身一つで標的を屠る、真正の猟犬。

 畏怖を覚えるように、肘がぶれ始めた。

 圧倒的に優位なカーリが、狙撃銃を構えたまま金縛りに遭っていた。厚着の少年は、銃口の照準機内、すなわち死の咢の中に入ったと知覚してる筈なのに揺らがなかった。

 

「あああぁあぁああぁぁぁあ―――っ!!!」

 

 カーリは取り憑かれたように引き金を引く。数打てば当たるなど、己の存在意義を著しく低める蛮行に走る。それでも、撃ち落せるイメージが全く湧かない。

 

 そう、向こうは超音速で飛んできた弾丸を、身を捻り首を傾げるそんな僅かな動作で紙一重であっさりと躱してしまう不条理の塊。

 

 ついにカーリの体が不自然に震え始めた―――その背後から抱きしめられる感触。

 

 

「そこまでよ、カーリはやらせないわ」

 

 

 それは通信機越しではない、生の声音だった。

 

 

 

 狙撃手の少女を腕に抱いているのは、同じくらいの身長の人影。

 幼い顔立ちの異国人の少女だ。分厚いラバーソールの靴を履いているが、それでも背の高さは160cmに満たないだろう。服装は、着古したスタジャンにデニムのミニスカート。キャップ型のヘルメットを被って、水中眼鏡のような風除けのゴーグルを嵌めている。

 そして、静電気のような独特な重圧、迂闊に近づけさせない強い魔力を秘めている。

 

 魔族。それも、濃い血の“匂い”からして、吸血鬼。ただし、魔族登録証はない。

 

「カーリ、落ち着いて、もう大丈夫だから、銃を下げて」

 

 未登録魔族の少女は宥めるようにカーリの獣耳へささやいて、震える腕で構えている銃口を降ろさせる。

 

「お前は……」

 

 彼女を認識し、厚着の少年――南宮クロウは初めて足を止め、彼女たちと同じ屋上で対峙する。

 帽子と首巻の間から垣間見える目には、驚きの色があった。それに彼女は苦笑を洩らし、

 

「驚いた。あの時から随分と成長してるのね。これは私も手を焼いちゃうかも」

 

 ちらりと可愛く舌を出しておどける少女へ、少年は警戒を解かず。

 

「ご主人をやったのは、オマエか」

 

「毅人の友達は私じゃないけど、仲間たちがやってくれたわ。悪いけど、事が終わるまで解放する気はないわよ」

 

 温い南国の湿気が、にわかに血のぬめりのような鉄の臭いを帯び始める。

 

「ねぇ、もう今回の狙撃は諦めるから、帰らせてもらえないかしら。お互い、全力でやり合ったら大変でしょう?」

 

「今見逃しても、この街を壊すまでオマエらはやめる気はない。だから、逃がさない。ここで何もさせないうちに捕まえる」

 

「そうね。やっぱり平行線になっちゃうか。できれば仲間に誘いたいんだけど、ハヌマンと約束したし。本当に残念」

 

 少女の背後で蜃気楼のようにゆらりと揺れる巨大な影が現れる。分厚い鎧に覆われたような透き通った獣の幻影だ。その凄まじい威圧感は、『旧き世代』を超えて、真祖級―――

 

 それで怯むような『獣王』ではない。

 

 

 吸血鬼狩りの鉄則。

 眷獣を完全に実体化させる前に、宿主である吸血鬼を迅速に仕留める。

 

 

「ディセンバーはやらせない―――!」

 

 そこで腕に抱かれていたカーリが腰のホルスターから武器を抜いた。護身用の予備兵装(サイドアーム)。大口径のオートマチック拳銃だ。貫通力より制圧力を優先した弾丸が、回避できる間隙を埋め尽くす。

 

 ―――真っ向から、弾幕を突き抜ける。

 

 <黒妖犬(ヘルハウンド)>は止まらない。対物ライフルでさえも貫通しない眷獣と生身で渡り合えるのであれば、その身に纏う生体障壁がそんな“豆鉄砲”が通用するものか。

 回避行動すらとらない理不尽の権化を目の当たりにし、神域の狙撃手は無力感に叩きのめされる。それでも、背後にいる己に存在意義を与えてくれた彼女を護るために、カーリはこの肉体を盾にする―――!

 

「ぬ」

 

 その気迫に押されてか。もしくはあまりに脆い壁に躊躇したか。

 ほんの少しブレーキがかかったそのとき、凄まじい炎が噴き上がる。

 空間そのものを燃やす灼熱の陽炎。前触れもなく発生した熱風熱波が厚着の少年を呑み込んだ。

 

「ディセンバーとカーリに近寄るなっ!」

 

 屋上の入り口に、慌てて駆け付けたのだと思われる息を切らした人影。細身の体に無数の留め金のついたコートを着た、中性的な美貌の少年だ。完全に左右対称の人工的な顔立ちと、自然界には存在しないはずの藍色の髪。それらの外見的特徴は、後輩と相似しており、その正体を示していた。

 錬金術と科学によって生み出された人工生命体(ホムンクルス)―――

 その彼の突き出された両手から鬼火のような蒼い陽炎が放たれていた。

 

 

「温い」

 

 

 その炎壁も障害とはならず。

 

「急に火が出たのは吃驚したけど、それだけだ。カラスと比べれば温すぎる」

 

 炎は突貫の阻めるものではない。だが普通なら、生物的本能で怯み、肉体を丸焦げに蒸発させられるはずだ。

 だが、この身は、生物でありながら同時に兵器として造られたもの。

 この程度の“火遊び”で臆するようにはできていない。

 

 な、何だ……アイツは一体なんなんだっ!?

 

 瞠目させて、慄く。

 人工生命体の少年は、この忌まわしき実験の果てに手に入れた力を使い、一片の容赦もなく、己の出来得る最大火力で焼き尽くしたはずだ。

 人間に放てば骨身も残さない焼却炉と化した―――だがそれも、魂をも灼き滅ぼす蛇竜(カラス)には及ばない。

 これは不壊の肉体だけではなく、精神力。己よりも格上の相手と戦い、そして打倒してきた経験値が、戦いをせず単純作業(テロ)しかしてこなかった<タルタロス・ラプス>の構成員二人を圧倒する。

 

「ありがとう、カーリ、ロギ。おかげで時間は稼げたわ」

 

 それでも、目晦ましにはなった。

 身を盾にしようとする獣人の狙撃手を抱いたまま後ろへ跳躍し、吸血鬼の少女は、距離を取った。

 

「逃がすか―――!」

 

 弾幕も炎壁も突破した<黒妖犬>の獣気が、さらに一躍、グッと膨れ上がった。

 音を立てて屋上を踏み砕き、クロウが一気に突っ込んだ。スピード勝負。速攻で片をつけにかかる。

 だが―――

 

 ガクッ、とクロウがつんのめり、失速した。そればかりか、地面に膝を突き、突っ伏した。

は虚を突かれたように、唖然として目を疑った。

 

「……な、に?」

 

 クロウが慄き、信じられないという呻き声を零した。

 まるで突然体が言うことを効かなくなった様子で、蹲ったまま動けない。

 

 

「“跪け、『アンディシンバー』”―――」

 

 

 膨大な威圧感を撒き散らしながら、ゴーグル越しに焔のように青く輝く双眸が、クロウを射抜いて、その場に縫い止めたかのよう。

 唸り声が大気を震わせ、ガッとクロウは頽れていた上体を、力尽くで持ち上げた。

 しかし、それ以上は動けない。全身全霊で闘志を燃やしながら、どう足掻いても腕を振り上げることが叶わない。

 

「ふぅ……危なかったわ。あと一秒、早かったら私がやられてた。でも、たったひとりで飛び出してきたのは間違いだったわね。あたしには頼りになる仲間がいるのよ」

 

 安堵の息を零しながら、少女は笑み、そして、見下しながら訊く。

 

「ねぇ、ハヌマンに喧嘩しないでって説得するから、あたしたちの仲間になって」

 

 銀水晶のような輝きを放つ巨大な眷獣の影を背後で揺らめかせながら、妖しく煌めく眼光を強める少女。

 

「<タルタロス・ラプス>の目的を知れば、きっと理解してくれる。だって、あなたはあたしのコウハイ――“アンディシンバー”なんだから」

 

 嘆願するように言いながら、『■■』を強める。

 あまりこの力で矯正したくはないけど、彼の脅威は看過できない。でも、殺すに惜しい。ならば、仲間になってもらう。

 そう、この子は、誰よりも<タルタロス・ラプス>の看板を背負うに相応しい。

 だから。

 なのに。

 

 

 

 ズダンッッッ!!!!!! と。

 眷獣の支配を無視して、<黒妖犬>は砲弾のように前へ駆け抜けた。

 

 

 

「な、に?」

 

 吸血鬼の少女はけして、南宮クロウを侮っていたわけではない。だけど、これはもう詰んだ盤上であり、一時的にだけど“同機達”も制御できる絶対の自信のある力だ。

 

 だが、この“後継機(コウハイ)”は、その“末妹”と結んだ第一の<禁忌契約(ゲッシュ)>により、狂わず乱れず常に安らかでいられる『精神安定』の恩恵を得ている。

 

 でも、それはほんの一瞬の効果。

 直接介入してるこちらに対して、間接的な干渉では強引になるが出力さえあげれば押し切れるはず。

 

 であれば、この青き焔色を呑み込んでいく、その身に発せられる気質(オーラ)――黒真珠のように澄んだ深みある漆黒は何か?

 蒼銀の法被が捲り上がり、伸ばされた腕に、“肘当てのような装甲”が張り付いていることにようやく彼女は気づいた。

 

「ま、さか」

 

「ご主人を倒すような奴らに油断なんてするのか? できる限りの万全の準備でここにきているに決まってるだろ」

 

 北欧騎士に与えられる蒼銀の法被。

 その下に装備していたのは、脛当、鎖籠手という防護強化外骨格となる鎧甲冑部分を省いて必要最低限の機能だけを残して軽量簡略化した<薄緑>。

 ディディエ重工が、『神緒田地区』で得たデータを基に、かつて『聖殲派』の扱う具足を組み上げたが、今のところひとりしか使えないという代物。

 

『工房に持ちこんのですが女帝殿が組んだプログラムを解析するのは、拙者にも無理でござった。しかし、これは獣王殿に合わせて調整(チューニング)されたもの。外骨格は分解したが、中身が変わっていないのであれば、また利用できよう。ただし、発動時間は十秒と限られておりますが』

 

 本土にて、<第四真祖>の眷獣の猛威(ちから)すら拒絶した『異境(ノド)』の展開。

 短時間であるものの、それが相手の精神支配を打ち破る。

 

「疾く在れ、<()―――」

「―――遅い! 忍法五車の術!」

 

 パンッ―――

 今度は“後続機(コウハイ)”の番。

 体勢を立て直すよりも早く、眼前に拍手する相撲の猫騙しで少女の意識に空白を作りだしたところで、叩いた両手の内より薫る芳香が鼻腔を満たす!!

 

 かつて、<第四真祖>をも精神支配した、強烈な催眠香。

 魔力によらない故に、吸血鬼の持つ魔力抵抗が働かない、真祖でも抗いようのない獣人種の特殊技能(スキル)

 

「ぁ―――」

 

 ぷつん、と触れもせず、意識のブレーカーが落ちた身体がゆっくりと前に頽れて、それを<黒妖犬>は捕えた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「「ディセンバー!」」

 

 

 一番の障害となりうる少女を昏倒させた南宮クロウは残る二人に双眸の照準を合わせる。だが、彼らはクロウを見ていない。見ているのは、身柄を肩に抱えられている少女、ディセンバー。

 その荷物のような無造作な対応に、カッと来た人工生命体の少年が、青炎を握る掌を向けようとし、それを獣人種の少女に阻止される。

 

「離せ、カーリ! あいつから、ディセンバーを取り返す!」

「ロギ、ダメ! ディセンバーも巻き込まれる!」

 

 言われて、頭が冷えたか。ちくしょう、と舌打ちし、肌を破り血が出んばかりに拳を握りしめて、腕を下げる。

 それでもロギは、クロウを睨む敵意だけは抑えようとはしない。それは、カーリも同じだ。

 しかし、その敵意に混じって恐れがある。

 自分たちの攻撃が一切効かない。

 そして、圧倒的な力を有するディセンバーを見事に一撃で意識を刈り取った手腕。

 一対二だが、二人合わせても彼我の実力差は隔絶している。

 それは、クロウの方もよく理解しており、けれど、僅かな不審な挙動も許さぬ、油断のない眼光を走らせながら、問う。

 

「オマエら、大人しく捕まる気はあるか?」

 

「ふざけるな! 誰が『魔族特区』になんか降参するものか! 捕まるくらいなら、ボクはここで死ぬ!」

 

 吼えるロギ。その目から本気の色を見取って、はぁ、と深く息を零すクロウ。

 この状況で説得は無理だろう。彼らにとって大事な少女の身柄を握っていては、何を言っても脅迫にしかならない。それでは反発する。かといって、この首謀者と思しき彼女を解放するつもりはない。

 さてどうしたものか。

 ここで力尽くで相手を気絶させて捕まえることはできるが、それだと独房の中で焼身自殺をしかねない。

 それは、後味が悪い。

 

「そう簡単に死ぬとか言えるんだなオマエ」

 

「なに……っ」

 

「誰でも遅かれ早かれいつか死ぬ。でも限りあるからこそ喜んだり悲しんだりできるんだ。なのに『死』が怖くないなんて、そんなのもう死んでるのと変わらないだろ?」

 

 ついに獣人種の少女の制止でも堪えきれず。人工生命体の少年の周囲に陽炎が噴き上がり、熱風が吹きつける。

 それを受けて、大して暑がりもせず、微風がどうしたとでも言うように、鼻を鳴らし、

 

「オマエらの攻撃は躊躇いがないみたいだけど、なんか違うと思ってたけど納得した。死んだような奴らが何をしたところで、オレは怖くない。それはもう昔に超えたものだからな」

 

 ぎりっと歯を食い縛りながらも、縛られたように動けぬ子供たちから背を向け―――背後に現れた大人をクロウは睨む。

 

「―――で、オマエが、こいつらの保護者か?」

 

「そうだな。彼らから先生と呼ばれている」

 

 応えたのは、中年男性。よれた灰色のジャケットを着て、神経質な芸術家のように髪を長く伸ばしている。

 自らを風景に溶け込ませる風水術の隠行。されど、魔力の隠蔽を無視する『芳香過適応』を誤魔化すことはかなわず、男は手に握っていた拳銃を降ろす。

 支柱である少女の奪還するための奇襲は見事に失敗したが、子供たちとは違って、千賀にはクロウを好奇の目で見れるだけの余裕があった。

 

「<黒妖犬(ヘルハウンド)>。那月が育てたという君と俺は一度話してみたいと思っていた」

 

 敵意を上手く隠しているのか、感情の読み取れぬ平坦な声を出す男に、クロウは低音調の声で問い掛けた。

 

「……そうか、オマエが千賀毅人だな?」

 

「いかにも。そこにいるカーリとロギの先生であり、南宮那月の先生であったものだ」

 

 時間稼ぎかそれとも隙を作るのが目的か定かではない。だが、話し合いに応じるクロウに、千賀は銃口をしまってみせた。

 間合いに入っておきながら、一見無防備ともとれるその超然とした態度に、クロウはすう、と目を細める。

 

「どうやら、カーリとロギは君には全く太刀打ちできないみたいだ。<黒妖犬>に銃火器は通用しないとは予想していたが、ディセンバーまで倒すとは思いもよらなかった。だから、俺の教え子が一体どんなことをして、君を殺神兵器に育て上げたのか、今後の参考に是非訊いてみたい」

 

 無感情に淡々と訊いてくる主人の先生であった男。

 この使い魔(サーヴァント)の話から、昨夜は否定したがそれでも染みついているであろう、“かつての教え子の残滓”を読み取ろうとしているのだろうか。

 

「オレがご主人に教えられたのは、『朝、人に会ったら挨拶をしろ』、だ」

 

 クロウは、昔々だが今でも脳に染みついてる言葉を反芻し、そして淡く笑った。

 

「? なんだ意外か? でも、本当に教えてくれた。オレはまずそんなところから始まったぞ。常識のないオレは、一から当然のことを覚えておけと森を出てから口酸っぱくして注意された。でも多分、それが一番大切なことに繋がっていったのだ」

 

 それは、冷たい夜空の星座を見るようなやりとりだった。

 暗闇の中にあるほんの小さな光を探しては、それらの繋がりを線で結んでいき、出来上がった形から自ずと意味を悟らせる。

 

 本当に、小さなことから始まったのだ。

 だけど、大きな意味を生み出すために必要な歯車であった。

 南宮クロウが殺神兵器の力に溺れずに済んでいるのも、破壊の意味を考えるように戦えるのだって、きっと森を出てから一歩一歩、でも絶対に正しい道を進んで来れたからだ。変に色眼鏡をかけずありのまま世界を見る力をもらったからだ。

 その、ごく普通の当り前こそが、酷く冷めた匂いのする人々でもその奥にある微かな人間味に気づけるようになった。己よりも格上で圧倒的な力を目の当たりにしても、己の選択ができる強さへと繋がっていったのだ。

 

「オレがオレを怪物だと思うのはどうしようもないけど、それでもオレはオレを特別視しないで、皆の中に普通でいられることができる。力が怖くて逃げられずにいられるのは、間違いなくご主人のおかげだ。ご主人が当たり前のことを教えてくれたからだ」

 

 そうでなければ、屈していた。

 力に怯え、力に呑まれ、どこまでも歪んでいった。

 きっとこの恩恵は自分だけではない。世界最強の吸血鬼となってしまった先輩が、今でも自分を平凡の高校生だと意識していられるのは、変に特別視をせず居場所を守ってくれる大人がいたからだろう。

 

「……人殺しの技術は、どうだ? 『原罪』と悪魔契約させたんだろう?」

 

 何か期待するよう平坦な声調からやや上擦る。だが返ってきたのはそれに応えることのない答え。

 

「殺し方は生憎と教わっちゃいない。壊さずに倒すやり方は徹底して躾けられたけどな。契約も<守護獣(フラミー)>を暴走させないように制御できるようになるまで面倒を見てもらったくらいだ」

 

 その話に。

 くしゃり、と千賀は自身の髪を、強く、毟り取るかのように爪を立てて、かき上げる。

 

「人類史で人類が積み重ねた悪業の総集のひとつであり、人間の獣性から生み出されたも同然の殺神兵器―――俺が先生ならばもっと強くしてやることができた! それこそ<空隙の魔女>や<黒死皇>以上に……っ!」

 

 感情の篭らない声に熱が乗り、すぐに冷める。

 この教え子の使い魔の語りを咀嚼するよう、歯軋りさせ、主人の先生は断じた。

 

 

「よくわかったよ。結局、君は使い魔(サーヴァント)を名乗りながら、南宮那月のことを何も知らない」

 

 

 腕を振り払って顔を隠す掌がどけられた千賀毅人の面相には、嘲笑が貼りついていた。

 その歪んだ口から吐き出される呪詛のように首を絞めてくる言霊に、少年は、止まった。

 固まった。

 時間が、凍った。

 その解凍するまで、隙を見せてしまっている<黒妖犬>に、千賀はそれを取り出す。

 

「これは、<山河社稷図>。詳細な説明を省かせてもらうが、この魔導書の中に南宮那月は封じ込められている」

 

 そういって、千賀は環状石柱(ストーンサークル)に囚われている人形のような黒衣の女性の絵が載せられた頁を開いてみせ、クロウの瞳孔が大きく反応したのを見取ったところで閉じる。

 

 

 

「人質交換しよう。もっとも拒否権は与えないがね」

 

 

 

 返答を待たず、千賀は魔導書を屋上から高く放物線を描いて、投げ捨てた。

 その途中で、バラバラバラバラバラ、と頁をまとめる紐が解けたように紙片が舞い散る。

 

「ロギ、燃やせ」

 

 先生からの短い指示に、目標を訊かずとも悟った人工生命体の少年は、視線を走らせ、宙空の頁の紙片に火を点けた。

 

「魔導書に閉じ込められている魂は、実に無防備だ。燃やされたらただでは済まないだろう―――さて、<黒妖犬>、君はディセンバーを抱えたまま、那月が燃え尽きる前に拾えるかな?」

 

 その言葉に、ここで初めてクロウは、目を剥いた。火の点いた紙片は、突然吹いてきた強風に乗り、彼方へ飛ぶ。風水術の天候操作で突風を起こしたのか。三国に分けた赤壁の如く、風に煽られ火はより燃え盛る。

 クロウは青褪めながら、野獣のような形相になると、重荷となる吸血鬼の少女を投げ捨て一目散に疾駆した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「本当に、惜しい。俺はふたつの才能を逃してしまっていたのか」

 

「先生」

 

 <黒妖犬>が去り、カーリがディセンバーを介抱する。そして、ロギは千賀のところへ駆けより、その嘲りの混じる失笑を目にした。

 

「“あれが<白石猿(ハヌマン)>に用意してもらった贋作だとは気付かないとは”」

 

 まったく愚かだ、と千賀は懐にあるもう一冊――本物の魔導書を取り出す。

 策にて一切の力を争うことなく、手札を見せずに勝つ。この暗殺失敗を補う戦術として成功したと言えよう。

 なのに、

 

「………っ」

 

 なのに、こうも苦いのか。

 

「アジトへ帰るぞ。次の準備だ」

 

 千賀はそれ以上、自分の元から飛び出した背中を目で追うことなく、空間転移の呪符を放った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 上級理事の安全を確保したところで矢瀬と優麻にその場を任せ、アスタルテはバックアップのリディアーヌに位置情報を教えてもらい、クロウの元へ応援に駆けつけた。

 それで見つけて思わず目を大きくしたのは、場所が場所だったからか。

 燃えるゴミや燃えないゴミのゴミ箱が並ぶ一角のすぐ横に、幾つもゴミ袋が積み上げられていた。半透明の袋の中身は刈り取った芝や落ち葉のようで、少なくとも生ゴミじみた匂いはしない。

 とはいえ。

 

 そこへ青天で叩きつけられたかのように不時着してる先輩がいた。

 

 栄誉ある騎士の外套やら最新科学の軽鎧を汚しておきながら、焦げ目の点いた紙切れを大事そうに握り締めているその姿は何と称するべきか。ドブ川に大会で入賞したプラモデルの作品が浮かんでいるような場違い感のある有様。

 彼の衣服はアスタルテが毎日丁寧にアイロン掛けして、その専用ともいえる武装も無理を言って貸し出してもらったものだというのに。寝るのなら、きちんとシーツに皺なく整えた自宅のベットの上でするべき。

 ヤンチャ坊主、というのがこの上なく似合う先輩だ。

 

 ……それでも、アスタルテがお小言を洩らせなかったのは、空を仰いでいながら腕で目元を隠している彼にどう声をかけていいのかわからなかったからだ。

 

「ん、アスタルテか」

 

「……先輩、そこは寝入るには不適格な場所です。放置すれば収集車に回収されかねません。せめてベンチでお願いします」

 

「むぅ。でもなんかひさしぶりにこう枝葉に包まれるのは、寝心地が言う感じでな」

 

「私のベッドメイクにご不満があるなら今日から外で眠りますか?」

 

「アスタルテ!? 全然そんなのない不満なんてこれっぽっちもないぞ! う、そうだ! アスタルテは床上手なのだ!」

 

「先輩は、国語の授業をもっと真剣に取り組むべきだと意見します」

 

 とりあえず会話が始めれば、いつも通りのやり取りで、そして、腕を上げてみえた顔はやっぱり薄汚れてて……拭った跡など解らなかった。

 

 

 今、周りに人はいない。

 アスタルテは、朝からずっと、気になっていることがある。

 自分と彼以外誰もいないのを確認し、ひとつ訊ねた。

 

 

「質問があります」

 

「なんだ」

 

「―――怖い、のですか?」

 

 問いかけは直裁で、だからこそクロウの虚を衝いたのだろう。クロウはしばし呆然とした様子でアスタルテを見やると、意気消沈したようにぐてっとまたゴミ袋の上に大の字と倒れる。

 

「……うーん、出さないようにしてたんだけど、何でわかったのだ?」

 

「質問認識。先輩は顔に出る人ですが、教官(マスター)の不在に先輩は普段通りです。そして、理性よりも本能を優先する先輩が慎重に行動するのは珍しく、過去の記憶と照らし合わせると、メイヤー姉妹との初遭遇と相似しています。以上から、現在の先輩は余裕のない状態だと判断し、恐怖している心理状態だと把握しました」

 

「うぅ……まあ、いろいろ言われたけど本当によく見てるな。なんかうれしいぞ……いやまったくその通りだ。アスタルテ、オレは……怖い。先輩として残念だとがっかりするだろうけど、オレは怖い」

 

 ぼそぼそと、沈んだ表情でクロウが嘆くように呟く。

 

「それは、教官の庇護下がないからですか?」

 

「んー……そうだな。オレの身の心配というより、周りが怖い。みんなが目の前で助けられず死ぬのは、ダメだ。本当に、応えるのだ。ご主人がいたら、オレは思い切り無茶ができる。でも今はいないから、ご主人の分までいろいろ考えて、いろんなことを想像して、頭がいっぱいになる。……森を出る前は“新月”でも平気だったのに、今はとても駄目だ」

 

 朝に感じたその張り詰めた空気は、怒りではなく、恐れからのものだったのだろう。

 

「だからさっきも、“これが贋物(わな)だってわかってたのに”、万が一、“この中にご主人がいたら”、って考えたらいてもたってもいられなかった。……悪いな、アスタルテたちに護ってもらって、せっかくひとり捕まえられたのに、逃がしちまった。やっぱりオレは王様にはなれないな」

 

 アスタルテはクロウの手を取る。必死になって贋物を掴まされた愚か者の手を。そして、真っ直ぐ、透明過ぎるほど透明な眼差しで見据えた。

 告げる。

 

「疑問。幻滅する理由がどこにあるのですか? 私は先輩が、凄いと信じています。何故なら、あなたは私を殺せたはずの状況ですら、救ってくれました。多くの可能性を考慮しても、結局、同じことをしてくれたのではないですか?」

 

 握られた手に驚きつつも、クロウは曖昧に頷いた。

 そう。だからこれでいい―――と人工生命体の少女は思う。

 

「事実、これまでに四度、命を助けられています。ですから、四度まで好きにしても構わないはずです」

 

「アスタルテ、オレはそんな風に計算はできない」

 

「肯定。そのような計算のできない“馬鹿犬”だからいいんです。それに、私はすでにすべてを預けています。ですから、先輩は先輩らしくあってください。失敗して私、皆に危険が及ぶのを怖がるのも……すごく、先輩らしいと私は肯定します」

 

 ―――ほう、とクロウは溜まった胸の空気を吐き出す。

 それからまた一度、目をごしごしと拭ってから、よっと体を起こして立ち上がる。

 

「そっか、そっか。……うん、なんかよくわからないけど、話したらちょっとすっきりした。さっきからあれこれ考えてたのに、気分が落ち着いたというか。なんとかなるさ、って感じだな」

 

 先程までの沈んだ表情をすっかり忘れたクロウに、アスタルテは良かったと表情を緩める。

 

「よし。じゃ早速行動だ! まず、みんなと合流だな! 迷惑かけるだろうけど、張り切って頑張るぞ!」

 

 先程とは真逆に、クロウがアスタルテの腕を引っ張っていく。泡を食いつつも、彼がどうやら元気を取り戻してくれたことを理解して、ホッとする。

 それと同時に、『ちょっと』と言うのはやっぱりまだしこりが残っている―――という、人工生命体にはあるまじき直感だが、確信を抱く。

 まだまだ前途多難で、新月の夜を闇雲に進まなければならない―――でも、彼は足を動かすのを止めはしないだろうきっと。

 

 

 

 

 

「先輩、方向は違います。キーストーンゲートです。それとそちらに車を待たせてあります」

 

「あれ?」

 

 ただし、頓珍漢で猪突猛進なので修正(リード)が要必須である。

 

 

彩海学園

 

 

「暁凪沙さん」

「はい」

 

 船舶事故や飛行機の欠航の影響なのか。

 

「甲島桜さん」

「はい」

 

 冬休み明けの発登校日に、姫柊雪菜のクラスは、6人もの欠席が出た。

 

「進藤美波さん」

「はい」

 

 聞くところによれば、教師も何人か不在のようで、授業の半分が自習になるらしいと噂されている。

 

「姫柊雪菜さん」

「はい」

 

 ところどころ欠席で穴の空いたクラス席。

 それを一望できる教壇に立っているのは、雪菜たちのクラス担任で、彩海学園中等部の女性教師、笹崎岬。赤い髪をお団子ヘアーにまとめチャイナドレスを着た、特色のある女教師は、<仙姑>という異名を持つ仙術と武術の達人である、この学園で一学年ごとひとり在籍する武闘派の国家攻魔官だ。

 陽気かつ軽い性格をしている彼女は、とても生徒に親しく、堅物なところのある雪菜とも打ち解けられるフレンドリーな先生。この欠席の多い出席確認にやや気落ちしているようだった。

 ……ただ、いつもよりどこか戸惑っているようにも雪菜には見えた。

 

「え、っと……南宮クロウ君?」

「はいなのだ」

 

 となぜかクラスメイトの少年の名前を語尾に疑問符を入れて読み上げると、元気よく返事が返ってくる。

 それから先生は、一度目を瞑ると、再び出席を読み上げて、それが終わると彼を呼ぶ。

 

「クロウちゃん、ちょっときてくれる? お話したいことがあったり?」

 

「いやなのだ。久しぶりにみんなといたいのだ」

 

 えっ、と驚く雪菜。雪菜だけではなく、聞いていたクラスメイトは皆、彼が師父でもある担任教師の誘いをそう素気無く断るとは思いもよらなかったのだ。

 そして、岬先生も、それを咎めはせず、

 

「そっかそっか……そんなに学校が楽しみだったり?」

 

「そうなのだ。とてもとても楽しみにしていたのだ―――だから、邪魔をされると暴れちゃうぞ」

 

 冗談みたく言うが、彼の馬力で駄々をこねられるのは洒落にならない。というより、『南宮クロウ』が暴力に訴えてくるのは珍しく、岬先生は困ったように笑みをやや引き攣らせる。

 教師と生徒であり、師父と弟子である両者の視線を逸らさぬ睨み合い、この我慢比べにも似た静かな攻防を制したのは、いつになく笑う少年の方であった。

 

「じゃあ、満足したら来てね。いつでも、待ってたり」

 

「了解なのだ、シャオシー」

 

 

 

つづく



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奈落の薔薇Ⅱ

回想 人工島西地区 高級マンション

 

 

『はぁい、クロウちゃん、メリークリスマスだったり』

 

『? 師父、ご主人なら今部屋にいるけど何か用なのか?』

 

『今日の私は師父じゃなくてサンタクロースだったり! ほら、いつものチャイナドレスとは違うでしょ?』

 

『……?? さんた、くろーす?』

 

『あ、あれ?』

 

 チャイムを鳴らして玄関で出迎えてくれた教え子に明るく時期の挨拶をすれば、時間のかかる検索のように反応が鈍い。

 それに戸惑いを覚えた。

 まさか幼稚園児でも知ってる、この『魔族特区』でも広まってる世界で最も有名な行事を、まったく知らない、なんてありえないだろう。

 

『クロウちゃん、クリスマスって知ってるよね?』

 

『ん……………そういえば、前に叶瀬がそんなこと話してた時にそんなこと言ってたな。それに最近、学校でも街でもそんな話題が聴こえてくるのだ。でも、なんなんだそれ?』

 

 念のために確認してみると、記憶を探るように斜め上に視線をゆらゆらさせて、きょとんと首を傾げられる。

 この子は、単語としてサンタクロースやクリスマスを聴いたことがあるのだろうが、体験がないのだ。

 なんて非常識な事だろうか? と冷静に考え、すぐに答えを察する。

 仙境並に俗世から隔離された秘境の大自然で生まれ育ったのだ。そして、殺戮機械(へいき)として不要である知識など与えられる機会などありはしない。

 だからこの子は、先輩に拾われて覚えてきたことしか知らないのだ。

 そして、それはまだ一年と経ってはおらず、また、この一年は存分に学生(ひと)と関わり合えるような環境ではなかった。

 それを想い、奥歯を噛み締め、心の中で拳を握った。

 この子のせいでもないし、当事者のうちの誰のせいというわけでもないだろう。強いて言うなら運が悪かった。そして、火消しのできない大人(じぶん)が悪い。

 第一印象が大事といわれるが、入学したその日に、女子生徒を泣かしてしまったこの子は周囲から忌避され批難されるようになった。その日以降、あの子に対する苦情で、職員室会議にも話題が上ることもままある。盛大に失敗した学生デビューは中々に拭えるものではなく、残念ながらこの汚点(よごれ)は来年に持ち越しとなってしまう。それは、この子の担任としては忸怩たるものだ。そして、自分以上に―――

 しょうがないか……

 思考を一端遮断。今日は悲しむ日ではなく、もちろん哀れむ日でもない。彼の時間はまだ動き始めたばかりなのだ。そう、凍てつく森から外へ踏み出している。ならば、知らないというのであれば、そのつど教えていけばいい。

 

『……毎年、12月にはね、クリスマスってイベントがあったり』

 

『いべんと……『波朧院フェスタ』みたいのか?』

 

『そう、お祭りだよクロウちゃん。25日がクリスマス、24日がクリスマス・イブ、それから23日はクリスマス・イブイブって呼ばれてたり』

 

『おお! 3日も続けてお祭なのか! なんかすごいな!』

 

『そうだよー。でね、すごいのはサンタだったりするのよ』

 

 ぶんぶんと獣化はしてないのに尻尾を振ってるイメージが見えるくらいに興味津々なご様子。子供というのは騒がしくはしゃぐのが大好きであり、この子も例外ではない。ちょっと前まで野生児でも子供。いや、無知な分だけ無垢でより純粋だ。

 この穢れない目から出される期待に、大人は誠意をもって応えねばならない。世間一般的なサンタ像をやや装飾して語り、それが終わったら次は質問時間が始まる。

 

『そうか、最近、街にいるのはそのサンタなのかー……でも、あんまり(すご)そうには見えないぞ?』

 

『あれは、コスプレよコスプレ。衣装を真似ただけの別人。ほら、私と一緒だったり』

 

『じゃあ、本物はどこにいるのだ?』

 

『えっと……確か、欧州の北方にいたり』

 

『どんな格好してるのだ?』

 

『んー……太っちょのお爺さん、だったり』

 

『どうやって、一夜で世界中を回ってるのだ?』

 

『そうね……サンタさんは、空飛ぶソリを持ってたり。それを八頭の鹿ちゃんに引いてもらって、世界中を回ってるのよ』

 

『そうなのか。空飛ぶソリと鹿か。でも、オレが森で見た鹿は空を飛んだりしなかったけど……』

 

『そこはそれ。魔法だったり』

 

『うん、サンタは魔法が使えるのか。なら、納得なのだ。魔法で世界中を飛び回って、いいこにプレゼントを渡していくお爺さん……むぅ、ご主人でも空間転移(とべ)る限界があるのに、サンタはすごいヤツなんだな』

 

『うん、そうねー』

 

 やや強引にだが、夢を壊さずに子供の質問時間を凌ぎ切った。

 奇蹟的な純粋さと柔軟な思考は、サンタクロースの存在を受け入れたようで、その様子に安堵したが、それも次の会話で覆される。

 

『そうだな。欧州の北方って出身が近いところだけど、サンタに会ったことがないのも、しかたないぞ。オレは良い人間()じゃなくて悪い怪物(もん)だったから、近づいてこなかったからなんだな』

 

 と大して残念がってる様子もなく納得してしまうこの子の反応に、しまった、と説明の仕方を間違えたと悟り、すぐに訂正を入れる。

 

『それは違ったり。サンタさんはそこまですごくないというか、流石に森の奥までは行けなかったりするのよ』

 

『そうなのか?』

 

『そうそう、そうなの! だから、今年はクロウちゃんに先ぱ――サンタさんがきっと来てくれたり』

 

『オレのとこまで来てくれるのか?』

 

 輝く瞳で見つめられ、笑顔で頷き返す。

 

『もちろん、クロウちゃんは良い子だから当然よ。そこは絶対、先生が保障したり』

 

『じゃあサンタに会えるのか?』

 

『それはダメだったり。夜更かしするとサンタさんは恥ずかしがり屋さんだから来てくれないみたいだったり』

 

 寝入っていても途切れないこの子の覚知圏内で、存在を気づかれずに忍び入るのは、わりと不可能な仕事(ミッションインポッシブル)だけど、それはきっと何とかしてくれるはず。

 

 

『いったいいつまで玄関で駄弁ってるつもりだ馬鹿犬二匹』

 

 

 棘のある声を発するのは、見た目がお人形のようなこの住居と生徒の主人。

 放置されてふて腐れた子供のように膨れっ面こそ作ってはいないが、それでも機嫌の悪そうな雰囲気を滲ませる。

 

『しつこい訪問販売なら話を聞かずに扉を閉めて鍵をしろと言ってあったはずだが馬鹿犬』

 

『あー、あー! 挨拶遅れてごめんなさい! でも呼んだのは那月先輩だったり!』

 

 そうである。冬休みに入ってから、独身女教師の先輩後輩で飲み明かそうかと誘われてここに来たのだ。これで追い出されたら本当に寒空の下で独り寂しい聖夜をすることになる。

 これ以上気を損ねない内に、慌てて靴を脱いで中に入る。

 そして、リビングへ入ると、おおーっ! と驚く少年。

 

『師父を迎えに行ったら部屋の内装が変わってるのだ!? いつのまに!』

 

 去年の二人で飲み会した時にはなかった天井や壁に施された飾り付けにクリスマスツリーの置物まである煌びやかなパーティ仕様。

 おそらく空間制御の魔術を使って一瞬で作業を終わらせて、サプライズを狙ったものと思われる。先輩は口では大人アピールをするが、こういう茶目っ気というか、子供っぽい悪戯を好む。使い魔(ファミリア)も二頭身のぬいぐるみという趣味嗜好で、その見た目通りの童心を忘れていない。

 して、この子は見事に期待通りのリアクションをとったのだろうが、特に成功したことの反応を表に出したりはしないという。今も『何を部屋の入り口で呆けてる。とっとと入れ馬鹿犬』と素っ気ない感じに言葉を飛ばしている。

 素直じゃなかったり、と思わないでもないが、それを口にすればマンションの外まで飛ばされそうなのでしない。

 

『そういえば、ご主人、今日はクリスマス・イブっていうイベントなんだぞ』

 

『ふん、何だ貴様、そんな常識も知らなかったのか』

 

『う、さっき師父に教えてもらったのだ』

 

 ちっ、と舌打ちする先輩。こちらを睨む目に『余計な事を……』とありありと不満が見えるよう。ひょっとして、先輩は自分でこの子に教えたかったのかもしれない。学校でも文句を言いながらも追試補習者の面倒を最後まで見ている教師であるからに、その実、教えたがりな性分をしている。

 つまり、鳶に油揚げを掻っ攫われたようなものだろう。

 鳶は七面鳥にされないよう、少年の背後でわたわたと拝み謝って、どうにか溜飲を下げてもらう。

 そして、この会話の流れならば訊けると判断したか―――

 

『馬鹿犬は何か欲しいものはないのか?』

 

 それは、きっと契約上は不要だが、先輩自身が納得したいがためのもの。いわば、自己満足。

 この人里にこの子を連れてきたが、それでここまで迫害されるような状況になるものとは予想していなかったのだろう。予め窮屈な思いをすることになるとは言い含めてあったにしろ、先輩は表立ってこのいざこざに介入することはなかった。

 だから。

 褒美というよりも、見通しの甘さが招いた計算違いによる補填をしておきたいのだろう。

 対して、初めて人里に降りて比較できる事例のない以上はこの窮屈さを当然のものとみなす少年に、そのような先輩の胸の裡を汲み取れるはずもなく、首を小さく傾げてこう返す。

 

『サンタは本当に何でもプレゼントを用意できるのか?』

 

『叶えられる範囲はあるだろうがな』

 

『ふぅん』

 

 話に納得して。

 呆気からんと、大した表情の変化もなく少年はこう続けて言ってのけた。

 

『もしもサンタと話ができたら、オレのじゃなくてご主人のを用意してもらうように言ってみるな』

 

『……、』

 

 予想外の回答であった。

 

『ご主人にはたくさんもらったからな。少しでも返せたらと思ってるけど、オレにはご主人は何が欲しいのかよくわからないし、でも、サンタならできるのだ。サンタはご主人よりもすごいヤツみたいだからな。なあ、師父』

 

 そして、納得のいく返答であった。

 ……ああ、そういうこと。これほどの不自由な環境でも、この子にとっては充足であった。

 そして、満たしてくれた大部分は、先輩が与えてくれたものなのだ。

 たとえそれが、ただ朝に挨拶をしてくれるだけという、取るに足りない、些細なものに過ぎなくとも。

 きちんとあのときにした約束を果たしてくれていて、そんな彼女の眷獣(サーヴァント)であることが誇らしいと思っている。

 

 偶然なことに、この十代の前半にある思春期を区切りとして、この子は殺戮機械から少しずつ雪解けして人間になっていき―――先輩は当たり前の日常を捨てさり、少女時代の時間を凍結して魔女となった。

 

『……馬鹿犬、それはお子様の特権だ』

 

『むぅ、そうなのか。でも、ご主人、ちっこいし、サンタもセーフにしてくれるんじゃないのか』

 

『ほう、様付けを忘れるだけでなく、主人に向かってそのような戯言をほざくとは、どうやら躾が足りなかったとみる』

 

 とにもかくにも、この子が何気なく口にしたのは、予想外で、氷解させられる答えであった。この先輩の中で、古傷となってしまった何かに柔らかい刺激を与える程度には。

 

 

彩海学園

 

 

 時間にしてはまだそんなに経ってないという人もいるだろうけど、色々と思い募らされたこちらの体感として『大分』と頭についているといっても過言ではない、特にラッキーイベントを起こした当人の彼には反論は言わせたくない、久しぶりの顔合わせ。

 兄に心配されていたが、自身でも過敏になっているのに気づいており、だからこの感情の整理がつかない内にその姿を見れば想いが破裂しかねない、と危惧していた。

 

 だけど、朝、遅刻間際に彼と教室に入ったところで視線を合わさった時、思ったほどの動揺は現れなかった。

 

(あれ……? どうして……?)

 

 胸に手を当てて考え込む。

 落ち着いた? いやなんか冷めてる? 確かに千年の恋も冷めるような発言や行動をわりと頻繁にするけど、40点赤点ギリギリ上を通っている評価は相変わらずだけど、でもいつもついつい目で追って、それで目が合っただけで胸がときめいたり、何気ない仕草に一喜一憂したり、そしていざという時は王子様のように頼りになったりで……

 ―――なのになんだろうか、この“違う”という感覚は?

 それに、覚えたのは違和感だけでなく、

 

(ううん、なんでクロウ君のこと、“怖い”、って思っちゃってるの……!?)

 

 暁凪沙は克服したと思っていた、『恐怖(トラウマ)』を彼に覚えたのだ。

 

 

 

「悪いな、凪沙ちゃん。急に呼び出しちゃって」

 

「う、ううん、何かな、クロウ君?」

 

 昼休み。食堂に向かわず凪沙がやってきたのは、校舎裏。ゴミ焼却炉の近くにあるそこは学園七不思議のひとつである『伝説(電設)のフェンス』があるところで、最初はお供えをすれば想い人と結ばれるという話だったが、現在では告白にご利益(ジンクス)のあるとまことしやかに噂されている。

 それと今日は、偶然が多発する事故の影響から学園全体で教師生徒問わず欠席者が続出しており、人目はない。

 でも、凪沙は“一秒も待てない”緊張というよりも、“一秒でもここにいたくない”緊迫とした空気を覚えていた。

 

「用件は早くお昼食べないと時間がなくなっちゃうからさ」

 

「大丈夫。用件はすぐに終わるぞ。だから、そんな慌てないで、少しお話をしよう」

 

「う、ん……」

 

 無垢な子供っぽい語り調子から大人びた、というより老成した雰囲気をその余裕の微笑から漂わせる彼、南宮クロウ。

 上からくる威圧感ならぬ圧迫感が凪沙の頭に重石を乗せたように頷かせ、そのまま俯かせる。そして、喋りに誘われれば、余計なことまで吐いて、横道脱線がままある常人の三倍くらい忙しい凪沙の口から出たのは、言葉数が少ない返事。彼女の魅力のひとつでもある饒舌な賑やかさがやけに大人しい、この沈黙の違和感は半端ではなく、対峙した少年も数mmほど眉をひそめた。

 

 それでも凪沙が逃げずここに留まっているのは、ひとえに『彼をもう二度と拒絶する真似はしたくない』という意思だ。

 

「といっても、話をしたいのはヌシではないのだがな」

 

「え―――」

 

 暁凪沙の意識はそこで途切れた。

 全身から力が抜け、意識は抗えぬ眠りに堕ちていく。

 最後に凪沙が見たのは、獣性の滲み出た瞳。

 火眼金睛の妖仙の瞳だった。

 

 

 

()よう起きろ。さもなくば、宿主を喰ろうてやろうぞ」

 

 頽れた身柄を片腕で抱きかかえながら、脅し文句で急かす少年の皮を被る何か。暁凪沙の瞼がゆっくりともちあがる。同時、彼女の周囲に極寒の冷気が漂い、接触する敵を凍てつかさんとする。

 しかし、その魔性の冷気は、同じく、そしてそれ以上の空間干渉力のあるものに遮られた。

 少年の肉体より蒸気のように噴き上がる、吸血鬼の霧化とはまた違う、妖仙の霧。それは本来凍るはずの大気中の水分を取り込み、絶対零度の干渉を上書きしてしまう。

 

「無理じゃよ。真祖といえど分霊如きに滅ぼされるほど獣王は甘いものではないぞ。理解したのなら、無駄な抵抗を諦め大人しく話に応じるのが賢い選択じゃ。気が済むまで我慢比べに付きおうても構わぬが、これでは儂より先にその宿主が死ぬのう―――」

 

 指摘され、魔力の放出を止める。それでも凪沙は突っぱねるように腕を突きだし、だが、腰を抱く腕の拘束は解かれない。

 

 かつて、『宴』で力尽くでの吸血行為に及べたことからわかっているが、それが『原初』であろうとも肉体の性能(スペック)は少女のままと変わらないのだ。

 

 虹彩の開き切った虚ろな瞳が、『南宮クロウ』を険しく睨む。解けた長い髪が、ゆらりと流れ落ちていく。

 

「『汝は……』」

 

「安心せい。頼まれた伝言をするだけじゃ。ヌシの“同型機(しまい)”からのな」

 

 驚愕する凪沙を、依然と抱きとめたまま囁くように『南宮クロウ』は告げる。

 

「『これは、あたしの戦争。あなたは、微睡の中で何もしないで。それが“あたしたち”の願いでもあるのだから』―――確かに、伝えたぞ」

 

「『何故……現今(いま)になって……―――ここに来ているのかっ?』」

 

「ほれ、伝言はこれで終いじゃ。我らの姫は、ヌシと会うつもりはない。因縁を持たぬよう儂をつかわせて、自身からは遠ざけておるのだからな。夢へ堕ちるといい」

 

 這わせるように撫でた後頭部に、刺さるは一匹の眠り虫。その蚊ほどの麻酔針にやられ、かっくりと糸が切れたように身を弛緩させ、眠らされる。

 

 

「―――凪沙に手を出しやがったのかクロウ!」

 

 

 そのタイミングで、いつもの気怠さをどこかに置いてきた高等部の男子高生が乱入する。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 昼休み。

 心の準備を終え……てはいないのだが、とりあえず、当初の予定通り、昼休みに後輩を呼び出そうと中等部の教室へ。

 バレるとまた面倒になりそうなので、妹には内密に。つまり、古城の気配をいち早く察知してこちらに(注意しにやって)来てくれた、同じクラスメイトの監視役の少女に内通する協力者役をお願いして(大変呆れられ、最初は断られたがしつこく拝み倒して)、そしたらなんと教室からいなくなっていた。聞くところによると、古城が説得している間に校舎裏に誘われたと委員長と女子部活の後輩に教えられた。

 

(くそっ!)

 

 悔やむ。

 朝の親身になってくれた築島倫委員長に諭され、思い直したが、まさかこうも早く展開が進んでいたとは。世間体とか蹴っ飛ばして、教室に駆け込んでおけばよかった。

 

「―――凪沙に手を出しやがったのかクロウ!」

 

 慌てて校舎裏に駆け付ければ、そこに気を失っている妹を抱きしめる後輩の姿が。

 それは無理やり襲っているようにもみえ、せめて凪沙の意識があったのならばまだ説得できる余地はあったのだろうが、直感的に危機を把握した兄は問答無用で突っ込んだ。

 

 てめぇなら、って信じてたのによぉ―――!

 

「っ、先輩ダメです! 落ち着いて―――」

 

 ついてきた監視役の少女の制止を無視した古城は、魔力を滾らせながら、魔族の脚力で一気に踏み込む。

 反省して殴りかかりはしないが、それでも胸ぐらをつかもうと手を伸ばし―――

 

 

「なんじゃそれは? 力があっても鈍らか。動きに切れ味がなさすぎる」

 

 

 突き出した腕は空を切って、そして場面が切り替わったかのように古城は天を仰いでいた。

 な……っ!?

 驚きに呑まれる古城。カッとなったのはこちらで、向こうもただやられるだけのストレス発散のサンドバックではない。だが、反撃してくるとは思わなかったのだ。

 しばらく意識が飛んだほどの強烈な一撃。それは肘だったか、それとも膝だったのかもわからないし、攻撃された瞬間さえも覚えていない。

 

「あなた、クロウ君……?」

 

 仰向けから完全に立ち上がることはできずとも、揺れる頭を押さえながら上体を起こす古城を、駆け付け背中を支えて抱き起す雪菜は警戒の目をやる。

 何じゃ今更気づくのか、と剣巫の反応を嘲るよう一笑する後輩。

 

「南宮那月のおらん学園の対応が遅いのはわかっておったが、それにしてもここはヌシの領土だろうに。こうも容易く占領されてどうする<第四真祖>」

 

 後輩の身体より魔力が放出される。

 『旧き世代』の吸血鬼にも匹敵するような魔力量と、周囲の大気が濁って視えるほど濃密な魔力質が実感できた。いや、この氷山の一角に触れることができた。はたして、現実を変革する術にして放たずとも、この魔力で暴れれば、どれほどの被害を出すだろうか。

 対する古城、それに雪菜も、まだ完全に状況を理解していないというのに。

 

「テメェ、いったい……」

「はーい、ここから先は先生に任せてね、姫柊ちゃん、それに暁ちゃんのお兄ちゃん」

 

 古城が誰何を口にする前に、こちらを制止する声があった。この一片の油断も許されぬ空気、この張り詰めた弦によく響く声。

 おっとっとと転がり落ちるようにして、グラウンドの方からこの校舎裏へ、新たな人影が現れた。

 チャイナドレスに身を包んだ、朗らかな容貌。

 雪菜の担任教師である笹崎岬だ。

 

「先輩とは違って庇える余裕はなかったりするから、余計な手出しはしないでちょうだいね」

 

 中等部の教師は、凪沙を捕える『南宮クロウ』を、そして古城たちを見て、苦笑交じりの愛想笑いを浮かべた。

 

「笹崎先生、これはいったい……」

 

「説明してあげたいのはやまやまなんだけど、迂闊に刺激を与えると大変だったから。でもちょうどいいからそのまま抱き着いて起こさないで。暁ちゃんのお兄ちゃんが暴れたりしないようにするのが、姫柊ちゃんのお仕事でなかったり?」

 

 いつもと変わらぬ調子の言動であるも、それが担任としてではなく、同業者として注意を呼びかけることに気づく雪菜。

 そして、笹崎岬は彼らを背に置いて、一歩前に出る。

 

「いつでも待ってる―――つまりずっと見てたんだけど、校舎内では生徒を巻き込んじゃうから見逃してたり。それにこちらも見られてたみたいだから、公社に応援を呼んで騒ぎを大きくすることもできずにいたのよね。だから、こうしてひとり離れてくれたのは好都合。といいたいところなんだけど、凪沙ちゃんを連れられちゃうとはね。まあ、害する気はなさそうだけど」

 

 少年の皮を被った怪物へ、言い放つ。

 

「とりあえず、大事な生徒を置いて退場してくれたらありがたかったり」

 

 手品師の挨拶代わりの一芸の如く、細い手首をくるりと軽く捻ると手の平に目にふわりと咲く。

 それは鮮やかな桃色の花だった。

 息を吹き込むように掌の花に口づけすると鋭く腕を翻す。

 欧州における白手袋を相手に投げる決闘方式であるかのように、足元に放り捨て、花弁を散らせる。途端、舞い飛んだ花粉が妖仙の魔気で充満したこの場の大気を清め祓う。

 “毒性のある気を呑んで”、“無害な別の形(はな)にして吐き出す”。

 そんな技法で、息苦しいとさえ覚えていた魔力の圧を一掃する、剣巫が瞠目するほどの、鮮やかな手並み。

 蓮の花。

 泥水から凛と咲き誇る美しい花を目にして、化生の火眼金睛はくすりとも笑わなかった。

 

「儂を倒す、とな」

 

「彩海学園配属国家攻魔官、<仙姑>」

 

 すう……と笹崎岬の瞳が音もなく細められていく。

 保健体育を指導する無害で優しい教師のものとは、まったく別の異名が世界へ放たれた。

 

「……<四仙拳>と呼ばれてるけどその実、深山幽谷を物見遊山で渡り歩いてる内に見つけた桃を齧ったらあわや昇天しかけたお転婆娘だったり。まあでも、もう弟子卒業させちゃったけど、今では『獣王』とか呼ばれちゃってるクロウちゃんの師父だから、少なくともあなたみたいな手合いには慣れてると思うわね」

 

 姫柊雪菜は、見誤っていた。

 剣巫と舞威姫の訓練生を一気に相手取って楽勝した武術と仙術の達人……それと同じ称号が認められたのだから国家攻魔官に相応しい実力者であるのは理解していた。だが、それで測ったつもりでいたのは表層であったか。

 <第四真祖>の力を封殺できる南宮那月がいるからこそ、先輩はこの彩海学園を通うことができる。それと同じように、身の内に『十二番目のアヴローラ』――かつての<第四真祖>の魂を眠らせる暁凪沙を、監督できるからこその彼女の担任教師に選ばれた。

 

 裏の裏は表。本来であれば裏で管理しなければならない危険対象を、表の世界にいさせるためにその裏で支える、ひとりの女性であるのだ。

 人並みの手加減を覚えさせるまで、彼女は眷獣を殴り飛ばせる、一撃で人体を粉砕できる『獣王』に付き合ったその手腕。

 現在、<空隙の魔女>が不在であるこの彩海学園にいる人間側の最強。

 それだけの矜持をもち、だからこそ、笹崎岬は理解していた……

 

「所詮ヌシは、人仙の道士。修行はしたが俗世から解脱できず、オマケ程度の力で満足した半端者の分際でようほざきよるわ」

 

 蓮華とは、『荷花』。『八仙』の紅一点を示す暗八仙(シンボル)

 それだけに一目で力量を測り、己との差を妖仙はすでに悟っている。

 

「泥より出でて泥に染まらぬ蓮の花。儂の魔力を無害で清いだけの花に変化させるのは見事なものよ。じゃが花というのは命が短い。不滅の儂にいつまでも付き合えんだろうなぁ」

 

「命短し、恋せよ乙女ってね。ま、私はもう少女時代は過ぎてるし、これでも一応、仙女だからどうしても婚期は遅れそうになりそうだったり。それでも魔族と比べればまだまだ若輩者。けど先輩がいない、そして生徒がいる以上、逃げ込むわけにはいかなかったり」

 

「ひっひ、<空隙の魔女>は毅人に譲ったからちと遊び足りなくてのう。人間の道士がどれほどのものか久しぶりに見てやろうか」

 

 こいつが那月ちゃんをやったのか!? と古城は目を丸くする。

 朝のホームルーム、担任が学校を休んでいると報らされていたが、それは偶然に多発している海難事故の調査に駆り出されているものだとばかり古城は思っていた。

 だがこの二人の会話と態度から察するに、どうやらあれは古城の知る後輩(クロウ)ではなく、そして事態はこちらの知りえぬ水面下で起きているらしい。

 笹崎に制され、雪菜に抑えられ、そして、人質に捕まっている凪沙を見て、幾分か自重して思考の冷えた古城はそこで堪忍袋の緒が切れて飛び出しこそはしなかったが、それでも喧嘩っぽい突き放した声調で口を挟んだ。

 

「てめぇ……本当に那月ちゃんをやったのか?」

 

「ひっひ、儂は不滅にして、今世紀における『最古の獣王』<白石猿(ハヌマン)>よ。月を呑み込むことくらい造作もない。なんなら<空隙の魔女>を嫦娥のように蛙にしても良かったぞ」

 

 と、面白おかしく語る。

 無茶ぶりばかりしてくるがそれでも恩人といえる那月を虚仮にされたようで、カッと古城の頭に血が上るも、<白石猿>と間近に相対していながら、古城のように怒りや驚き、恐れといった感情の動きを、まったく表に出していない。学生時代から慕っていた先輩を相手の手中にあるというのに、その態度に変化はない。

 単に古城の眼力が、彼女に及ばないからかもしれない。しかし、古城だけではなく雪菜から見ても、笹崎岬に感じるのは、いつも以上に自然で、軽い態度だった。個人的感情を、見事に排している。

 『(タオ)』と呼ばれる思想のもと、自らをより高次の存在へ高めようとする大陸に伝わる魔術体系。

 その真髄を発揮しようとする道士に、人間味は限りなく希薄となる。感情や個性などという“生きた人間の持ち物”を手放しているのだ。

 今の彼女の階梯はもはや道士ではなく、『尸解仙』を超えた先へ、人間が生身のまま達成できる限界点である『地仙』に至るか。

 

「これは、<神懸り>……!? ―――いえ、それよりもこれは、クロウ君の……!?」

 

 信奉する高次存在を身に降ろす剣巫の禁じ手とも言える秘奥<神懸り>、人間性を喪失させるそれと似ている。しかしそれとは違い、外側からではなく内側から変化を生じさせていた。

 道術とは、神を宿らせるのではなく、“神を超える存在を目指す”のが術理。

 

「『師は弟子を育て、弟子は師を育てる』というし、先輩程じゃあないけど、私も結構、影響を受けてたり」

 

 存在を進化させる<神獣化>。その際に裡で起こっている気功の変動を参考にして洗練させたこれは、いうなれば、『真人化』とでもいうべきか。

 

「ほう……。昔に<四仙拳>は食ったことがあるが、『獣王』を弟子に取った変わり種は初めてじゃのう……」

 

 ようやく、<白石猿>は暁凪沙の身柄を手放し、脇へ横たえさせる。

 『真人』と化した笹崎の双眸にないを見たのか、口端に皺を作る後輩に似合わぬ老成した面貌で、クツクツと底冷えのする笑い声を洩らした。

 

「これは、童を抱いたまま片手間で遊べぬな」

 

 そして。

 相手はゆらりと揺れる構えを取り、腕をこちらへ差し向けた。

 古城に見えたのはそこまでだった。

 

 

 ズドッッッ!! と。

 笹崎岬の胸の中心に、腕に生えた獣毛が更に変化した分厚い刃が突き刺さる。

 

「な」

 

 意味が解らなかった。

 ただただ混乱する。

 

 一番槍をつけたのは、穂先の刃が紅々と燃え盛る槍の武具。

 だが一本に留まらない。動き出しすら許さず、道士の全身をくまなく抉り、貫き、引き裂くように、続けざまに大量の『宝貝』が飛び出していく。

 そうだ。

 一つ一つで効果が違う魔具を、束ねた状態で解き放ったのだ。

 ドガドガドガッ!! と鈍い音の乱舞だけが続いた。

 痛覚はまだ脳に届かず。出血もまだ身体を破らず。もとより他人の肉体なのだからそう知覚する方がおかしい。だが“滅多刺しにされた”という確実な事実だけが古城の視覚を眩ませてくる。

 何もないところから手品のように大量の魔具を吐き出したのも、そしてそれらが一斉にして一瞬に襲い掛かったのも、ちゃちな幻術ではなく、現実としてこうなっているのだ。

 そう、すでに終わってしまったこの結果。

 ただあまりの事態に理解が追い付いていないだけ。

 落雷から数秒経って轟音が聴こえてくるように。

 こんな“見るだけで痛苦”とも思えるものを目の当たりにして、リアクションが遅刻している。

 そして。

 どお、と音を立てて、女教師が倒れ伏す。

 明らかに、命を失った者の倒れ方だった。

 ようやく理解した脳が古城の口から叫びを放とうとし、

 

「―――っ!?」

 

 地面に伏したそのとき、肉体は一枚の紙人形となっていた。

 <紙兵>

 即席の使い魔(ファミリア)、剣巫がよく手が足りないのを補うために用いる式神の大陸系統版である。いや、術者自身の身体を模して、身代わりとなったのを考えると、遥かに高度な術だったろう。

 

 ―――続けて、<紙兵>は炸裂する。

 

 強烈な光が、校舎裏をつんざいた。

 

「っ!?」

 

 古城と雪菜が、共に呻く。

 光圧の凄まじさに網膜を焼かれたのだ。それは単なる光ではなく、霊視すらも晦ませる呪力の込められた爆光だと、理解した。

 そして、動揺がおさまり、回復した視界に映り込んだ光景は―――

 

「ひっひ。巧く隠れおったな。さて、どこにいるものかのう」

 

 隠れた?

 何を言ってるんだこいつは……?

 

「(……反応してはダメです、先輩)」

 

 隣から、囁くような声があった。

 姫柊?

 つい反射的に首を向けようとしたら、寄り添うように身体を抑えていた監視役から尻を抓られた。それから、人差し指を使って太腿裏をなぞる恰好でいくつかの文字が記されていく。

 

『こ え を だ さ な い で バ レ ま す』

「どうしたんじゃヌシら?」

 

 怪訝そうな顔を向けてくる後輩(クロウ)の姿をした怪物は、“すぐ目の前にいる”道士の存在に気づいていないようだった。

 最初、まだ光で視界がやられてるのではないのかと思ったが、視野の端にいた古城たちの様子にまで気づくとは、そういうわけではないようだ。

 すっ……と。

 笹崎岬は躊躇なく、意識しないと目を引いてしまうような奇怪な歩法で間合いを詰め始めたのだから。

 なのに、

 

「何でも……ねぇよ。もろに光を食らっちまってまだ目が変な感じがするだけだ」

 

 言って、不自然ないよう古城は目を瞑って、視線から気取られないようにする。

 

「そうかのう。いや、あれは中々に熟達した手際よ。儂も少々意識が飛んでしまったわい」

 

 ……身を隠せる障害物は何もないというのに、やはり<白石猿>には<仙姑>が“見えていない”。もう、ここまで言ってしまうと気配を断つとかそういう次元ではない。

 

 それは、仙術と武術の達人である<四仙拳>が、真人の境地に達してより極まった故に起こした現象。

 解脱した仙人が世界を乱さぬものであるように、仙人の振るう道術は世界の法則を安定させるもの。

 魔性を打ち消す『神格振動波』とは異なる、『道』という中庸を維持させるそれは性質中和をもたらす。

 消しゴムで絵を消せばその跡は目立つものだが、限りなく色を薄くして背景に溶け込ませてしまえば痕跡は見当たらない。それを『園境』という天地と合一するだけではなく、相手の気に溶け込み、相手の呼吸に合わせて相手の感覚野に限定して己の存在情報を中和している。

 笹崎岬が事前に剣巫(ゆきな)素人(こじょう)を抑えるようにと忠告していたのは、古城らの視線の動きから、この“知覚できない”はずの位置座標を<白石猿>に推測されるのを恐れたからか。

 まだかくれんぼとばかりに遊ぶ気でいる相手―――その“油断”を最大限につける、最初で最後の勝機(チャンス)を逃さぬため。

 大胆不敵にも、極限まで存在を中和させた<仙姑>は海底を歩くようにゆっくりと音もなく、浮雲のように踏み足の重圧すら感じさせず、<白石猿>の傍まで近づく。

 その気になれば、距離1cmまで自由に接近し、真正面から完全な不意打ちという不可能を可能とする。

 

 そして、今、彼女の踏み込む奇怪な歩法は、<禹歩>。伝承に曰く『<禹歩>して虎狼蛇蝮に擲てば、皆即ち死す』とあるように、この二の打ち要らずの仙拳に『獣殺』の属性を付与する。

 

 

 ズボァ!!!!!! と。

 笹崎岬の細腕が、後輩――に化けた<白石猿>の鳩尾から容赦なく突き抜けた。

 

 

「……お……が……?」

 

 不思議がるような声がこぼれ出た。

 結局、最後まで、気づけなかったか。自分の肉体に巨大な風穴を開けられてようやくだ。その女性の細腕で、後輩に変身した身体を貫かれる真似をされる光景に、古城は若干頬を引くつかせる。そうするだけの余裕が取り戻せたのだ。

 

「ぶっぶがぁ! びぼどじゃっ! ひっび!」

 

 風呂のパイプを掃除するときに生じる音でもこうはいかない汚い言葉を吐き出しながら、その妖仙の肉体は頽れた。

 

「……油断大敵、だったり」

 

 聴き取り困難な賛辞を受け取った<仙姑>は引き抜いた右腕を掃って血振りすると、汚れてない左手で気を失って倒れている凪沙の腕を取って、軽く息を吹きかける。

 東洋圏において魔術の基本とされる『吐息』。それは、ぼうっと昏睡の針で打ち込まれた妖仙の呪力を吹き飛ばす。これほど鮮やかに応急処置を施してみせるとなると、剣巫であっても驚嘆に値するものだ。

 

「うん。これで、凪沙ちゃんは、無事だった、り……っ」

 

「笹崎先生っ!」

 

 ガクッ、とよろめいて、膝をつく岬。

 <真人化>の反動だろうか。とにかく無茶をした国家攻魔官のもとへ、雪菜と古城は駆けつける。

 

「凪沙を助けてくれて、ありがとうございます、先生!」

 

「良いって、先生として、当然のことを、しただけだったり」

 

 途切れがちな返事だが、岬は健在だった。雪菜の目から見ても虫の息だったが、達成感を噛み締めるように笑って見せる。ぐっ、と立ち上がろうとして―――<仙姑>は目を剥く。

 

「―――っ!」

 

 刹那、女教師の身体が水平に吹き飛んだのだ。

 数mも飛んで、ほとんど一回転した形で、地面へと激突する。

 かは、と道士の肺から無理に吐息が押し出される。肺か気管が傷ついたのか、血が混じっていた。無理もない。まともな人間なら全身の骨が砕けるほどの衝撃であった。

 

「ひっひ、儂を一撃で倒すとは中々じゃったぞ。じゃが、油断大敵だわいのう。最初に言ったとおり、儂は不滅じゃぞ?」

 

 そして、現れたのは古城たちにも見知った顔であった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――」

 

 古城は、言葉を出すこともできなかった。笹崎岬に安否ももちろん心配しているがそこに視線を送ってやれる余裕もない。あまりに“異常”な何かを目の当たりにし、思考は完全に空転。身も心も痺れるように麻痺している。

 古城だけでなく、雪菜も驚愕のあまり思考を空白にしてしまっており、状況を呑み込めずにいる。

 何なんだ一体? 何が起こっている?

 

「何を驚く第四真祖よ。第三真祖に()うたのなら、変化(へんげ)など目新しいものではあるまい」

 

 そこにいたのは、姫柊雪菜のクラスメイトでもある高清水。

 以前、ちょっとした勘違いをしてしまった相手だ。それが、頬筋を歪ませて嗤っていた。

 

「まあ、儂は変化に加えて、分身(わけみ)もできるのよ。あまり遠隔には行動させられんがの」

 

 だが、この学園敷地内ならば問題ない―――

 

 ゾワリ、と。

 『高清水』の目の色が火眼金睛に塗り替わり、気配が悪意を伴って膨らんでいく。

 粘ついた愉悦の感情を滾らせ、<白石猿>は問う。

 

 

「さて、ひとつ問題じゃ、この学園の中に儂が化けた欠席者は何人おるか?」

 

 

 ―――ッッッ!?!?!?

 理解した瞬間、悪寒に総毛立つ。

 古城の背筋に電流のようなものが走り抜ける。

 だが、もう決定している。

 

「そういえば、ちょうど今は昼時じゃったな。儂は腹が空いておる」

 

「あなた、まさか―――!?」

 

 腹を擦りながら、さして選ぶのに大した理由のない、気まぐれな風に言った。

 

「たしか、ヌシの教室には、美味そうな女児がいたのう。たしか、藍羽浅葱というたか?」

 

「っ、やめろテメェ!」

 

 この学園校舎が弁当箱で、学生が食料(おかず)であるかのように見定め、勿体付けて食指を彷徨わせる。

 古城のイメージできる『日常を閉じ込めた箱庭』を喰らう、そう予告して。

 少年の頭の中で。

 細い細い線が焼き切れそうなのを、確かに感じた。

 

「やめろ……! やめてくれッ! やるなら、俺をやればいいだろうが!」

 

「そうは言うても、儂はヌシらには手が出さんようにと言われておるしの……」

 

「頼むっ!」

 

 その大事な一線、瀬戸際で最古の『獣王』は弄んでくる。

 なんと、白々しい事か。ここで変化の立ちの悪さを嫌でも理解させてから、分身を倒したところで無駄と悟らせる。そのために、わざと盾にもできない人質(なぎさ)を捨てて、負けてみせたのだろうか。そう、この展開はまさしくこの妖仙の望むところであるようにしか思えない。今や古城たちの心臓は見えない茨の蔓でもって雁字搦めに縛り付けられていると言えよう。

 無条件で相手の要求を呑むしかない、詰みの状況だ。

 

「頼むっ! これ以上、手を出さないでくれ……!」

 

 ケンカもせず、負けを認めるのも、こうして無様に土下座するのも古城には初めての経験であった。

 こんな奴に頭を下げるなど耐え難い恥辱だが、それでも古城は強く頭を地面に擦り付けて乞うた。

 

「そこまで頼まれたら、仕方ないのう……」

 

 この世界最強の吸血鬼がした対応に呆れたような『高清水』の声が響いた。それから、頭髪を一本抜いて、それを武具に変化させる。

 

「これは、昔に<ナラクヴェーラ>を仕留めるに鍛えた<化血刀>じゃ。この毒の刃は、常人ならば一刺しで即死、あの旧型も一撃で行動停止してしまう代物よ」

 

 カラン、と。

 音に反応して、視線が前方を流れて、無造作に投げられたそれを見つける。

 赤黒い刀身の柳葉刀を。

 そして、酷薄に告げた。

 

 

「―――これで自害せい。この国の形式で言うなら、人質を助けたくば切腹しろ、第四真祖。ヌシが自ら刃を受ける――これならば契約に背いたことにはならん。さあ、刺した刃の深さでヌシの甲斐性を計ろうぞ」

 

 

 息を、呑む。

 

「先輩ダメです! この要求を呑んではいけません!」

 

 まず真っ先に反応したのは、監視役の少女だった。

 雪菜は明らかに罠の予感に、古城へ冷静になるように呼びかける。しかし、古城は雪菜の制止を振り切り、毒の刃を手に取った。

 もう古城には、選択の余地はないのだ。

 

「心配するな、姫柊」

 

 そう気丈に振る舞いながら、古城は一度深呼吸をする。

 この肉体は、世界最強の吸血鬼、すなわち、不死身の真祖だ。

 たかが毒の刃を受けたところで死ぬことはない。死ぬほどの激痛は味わうことになるだろうが―――そんな死を覚悟した思考を読み取り、甘いと評定を降さんばかりに<白石猿>は口を開いた。

 

「やる前に言っておくが、この<化血刀>は、読んで字のごとく、“血を変える”毒じゃ。

 旧型とはいえ自己進化する<ナラクヴェーラ>を壊すのは手間でのう。だから、刺して組成()を“壊せるように”作り変えよう、と当時の儂は考えたわけじゃ。

 これがなかなかの思い付きでな。面白い副産物も見つかった。血に眷獣を宿し、夜王の魔力を有する吸血鬼も、その力の根源である血を変えてしまえば、なんともあっさり殺せてしまう。もともと旧型のために用意したものじゃが、今では邪魔な吸血鬼を虐めるのに使おうとるよ」

 

 それは、人心を惑わす悪魔の囁きのよう。

 

「ひっひ、安心せい。真祖ほど呪われた魂までは変えられんはずじゃ。おそらくな」

 

 説明以上、と口を閉ざす<白石猿>。

 

 吸血鬼としての力の根源である血を変えてしまう毒。それがもしも強力な魔力耐性を持っている魔族にも効能が及び得るものだとすれば、<第四真祖>もただでは済まない。

 監視役としても、止めねばならない。なのに、雪菜が動くよりも早く、彼の腕の震えは止まっていた。

 

「先輩―――!?」

 

 古城の背中より突き出た血濡れた柳葉刀が、後ろにいた雪菜の視界を真っ赤にした。

 

「悪い」

 

「っ!?」

 

「全然大丈夫じゃ……なかったみたいだ」

 

 ガクリ、と古城の膝が落ちた。

 そのまま、世界最強の吸血鬼の身体はあがらなかったのだ。

 

「先輩!」

 

「すまん……姫柊」

 

 声音さえ震え、(しわが)れていた。

 俯いた顔を覗き、雪菜は悲鳴を洩らしかけた。

 暁古城の顔は、およそ人間とは思えないほどに、どす黒く染まっていったのだ。

 

「せん、ぱい!?」

 

「だけど……これで、皆を―――」

 

 苦々しい声と共に、古城の頭がぐらりと傾いだ。

 不死身の真祖の肉体は、そのまま校舎裏の地面へ倒れ伏したのだった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 雪菜は見てやることしかできなかった。

 彼女の腕の中で、古城の顔は異様なほど黒く染まっていた。

 そう、強く『死』を想起させる黒さだ。

 眉間に皺を刻むほどきつく目は閉ざされ、苦しげな声を洩らす。

 先輩のそれは、彼女にとっては胃の腑どころか、骨の芯から絞り上げるような悲鳴であり、十秒と聞いてられない。いいや雪菜でなくとも、たとえ死に慣れた医者でも数分ももたずにこの場から逃げるように後にしたことだろう。

 細胞のひとつずつが腐っていくような、そんな錯覚をさせる苦悶。

 

 そんなこの上ない責め苦の中で―――この悲壮な空気に場違いなほど気軽に妖仙は言った。

 

 

「さて、藍羽浅葱を食うとするかの」

 

 

 脅しに屈して自害した先輩に一瞥すらせず、後ろ髪など引かれる素振りなど一切なく、校舎へと向かおうとするその態度を見て、姫柊雪菜の目が大きく見開いた。

 

「先輩と、約束したのに……っ! あなたは……っ!」

 

「おうしたのう。じゃが、破らんとは言っておらん。ひっひ、相手の言うことを素直に信じるのがド阿呆じゃ。これは、殺し合い(センソウ)じゃぞ? 奪う好機に、二度と歯向かわせぬように根こそぎ奪い尽くすのは当たり前だわいのう」

 

 罵声のように浴びせる雪菜の非難を、負け犬の遠吠えとばかりに聞き流して、妖仙は自論を語る。

 

「外道……! どうして、こんな真似ができるんですか……っ!」

 

「本能には抗えんからじゃ。憎しみでも恨みでもなく、ただあるのが許せぬ。関わりがあるだけで皆滅ぼすと決まっとる。彼奴の血がたとえ一滴でも混じった末裔が、守護(そちら)側についているというだけで、儂が破滅側(テロリスト)につく何よりの理由となろう。

 ―――そう儂らの本能に闘争設定(プログラム)したのが、『聖殲』の狂信者。『咎神』の試作品どもに何においても殺し合いを優先しろと願ったのが人間じゃ。故にこれはヌシらの不始末が帰ってきた結果よ」

 

「こ、の……っ」

 

「気に喰わんなら、ここで儂を刺しても構わぬぞ。どうせそれも毛一本程度の損失しかないじゃろうがな」

 

 思わず獣のように跳びかかろうとした剣巫に、無防備(ノーガード)に受け止めるよう両腕を広げて<白石猿>は挑発する。

 これも、分身。

 斃せたとしても、徒労に終わる。

 そこにひとつの丸薬を詰め込んだ瓶を見せながら、一本の蜘蛛の糸を垂らすように、邪悪に塗れた言の葉を唱えてくる。

 

「どうしても儂を説得したくば、まず<黒死皇>の血を絶やせ。<黒妖犬>が死せば、儂も本能に従うことなく一片くらいの情けを見せることができような。そうさな、<化血刀>の毒に唯一効く薬丹をわけてもよいぞ」

 

「な」

 

「死にたくても死ねん。永劫に苦しむとは哀れよのう。じゃが儂を除いて、この薬丹を作れるものはおらん。人間の医者になんぞ診せたところで匙を投げられるのは目に見えておるな。さあ、どうする剣巫。第四真祖の最後の命綱を手に取りたくはないか?」

 

「ああああああああああああああああああ!! あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 

 ひとりの少女は絶叫していた。

 叫び、咆哮し、慟哭しながらも、すぐ目の前にいる敵に、指一本も触れることができなかった。

 

「『獣王』に主人も、師匠も、弱者も必要ない。もつべきものは、宿業のみで十分よ」

 

 葛藤に苦しむ少女の声を、聴き心地が良いようにうっとりと目を細めて、その悦楽に水を差す硬い声が飛んだ。

 

 

「無様だな、暁古城」

 

 

 校舎裏を見下せる屋上に、全方位に攻撃的な雰囲気を纏う少年がいた。

 漆黒の軍用服でも銀色のタキシードでもない、彩海学園高等部の制服に身を包んだ、前学期に転入してきた『旧き世代』の吸血鬼。

 

「誇りと品性が欠片もないサル如きにここまでいいようにされるとは、なんて滑稽だ。愚かにもほどがある」

 

 その冷たい刃物を連想させる美しい顔立ちの少年は、『戦王領域』の苛烈なる炎の貴公子――トビアス=ジャガン。

 彼は屋上から校舎裏へ飛び降りると、苦しむ古城に侮蔑の視線を投げ、そしてより強い敵意を含んだ眼光を妖仙に向ける。

 

「だが、そんな貴様でも閣下がお認めになられた閣下の宿敵だ。その約定を破るというのであれば、それは閣下を侮るということだ。そのような真似、俺はけして許さん―――一匹残さずここから失せろ」

 

「青二才がようほざく。プライドなんぞイヌにでも食わせておけばいいのよ」

 

 息を呑む。『最古の獣王』と『旧き世代』と―――双方の魔族から、膨大な魔力が渦巻いているのだ。妖仙の魔力は汚泥のように澱んだ色合いで、貴公子の魔力は紅蓮の焔色に燃え盛っている。ここで迂闊に手を出せば、魂まで微塵に分解されかねないだろう。

 

「……<蛇遣い>には、<黒死皇>を食ったお礼参りがしたいと常々思っておったが、儂はとにかく、『戦王領域』まで相手に回すのは<タルタロス・ラプス>の計画にちと悪いのう。事が終えたら、次は儂個人が蛇を喰らうと貴様の主に伝えておけ」

 

「ふん、戯言を」

 

 そして、睨み合いの末、退くことにした妖仙は空間転移の呪符を投げ捨てて、その場から消え去った。

 吸血鬼の超視野でもって校舎内を見通し、妖仙の気配が完全にいなくなったことを確認して、それからようやくジャガンは、雪菜と視線を合わせ、

 

「閣下が出るつもりがない以上、これ以上、介入する気はない」

 

「あなたは……」

 

 言って、それ以上会話に付き合う気はなく、その身を霧と化して、去り際に、

 

「『ゼンフォース』での借りはこれで返した、と伝えておけ」

 

 

車内

 

 

『―――居場所を捉えた賊を逃すとは、失態だな』

 

 

 特区警備隊本部より、人工島管理公社所属の全攻魔師に、第二種警戒態勢(コード・オレンジ)が発令された。

 人工島管理公社の上級理事二名に狙撃未遂事件。それを受けて、警戒度が上がったのだ。

 命の危機を免れた二名だけでなく――一名を除いて――他の上級理事ら全員が管理公社の有する安全スポットへ避難してしまい、襲撃者(テロリスト)を捕殺するまではそこで引き籠るようになってしまった。邪神の出現や魔力消失が絃神島で観測された時とは違って、直接命を狙われたという衝撃が大きかったのだろう。

 トップが一斉に天岩戸(シェルター)に入ってしまったため、各部門が次々に機能不全に陥るという未曾有の事態に公社は騒然としており、

 また組織的な魔導テロと確証を得られたのはいいが、絃神島の外交は封鎖された鎖国状態であるため、日本政府に協力を頼むことができない。

 結局、島内に残されたわずかな戦力だけで、<タルタロス・ラプス>に対抗するしかなく、

 現在は理事長直轄部署である都市管理室長の矢瀬幾磨(かずま)を主導として対策を行っている。

 

 そして。

 この人工島が封鎖されて孤立してから後手後手に後れを取っている公社陣営の中で、唯一、相手の先手を取って襲撃を防いだ特別チームは、管理公社へ移動中、避難しなかったたったひとりで表立っている上級理事からの叱責を受けていた。

 

『暗殺者ごときを捕まえられんとは、貴様らは揃いも揃って無能か』

 

 車内に、上級理事のひとり、矢瀬顕重の声が響く。

 とはいえ、この移動車に、『魔族特区』の重鎮が直接やってきたわけではない。

 スクリーンに映ったライブ映像だった。

 

『ふん。それも他の理事連中と比べればマシだがな。組織を預かる立場の者がああも浮き足立っては、末端の指揮が乱れるのは当然のことよ。だというのに、神色自若に務められんとはな』

 

 侮蔑の相をありありと顔に表しながら、逃げ足を踏んだ上級理事らを軟弱と詰る人工島管理公社名誉理事。巨大複合企業を経営する名門矢瀬家の当主である矢瀬顕重は、この『魔族特区』の礎を築きあげた人物であり、それ故に<タルタロス・ラプス>という『魔族特区破壊集団』にいいように振り回されるのが気に喰わないのだろう。

 

「……そういう、あんたは今どこにいんだよ」

 

 画面越しの冷厳な眼差しに咬み付くように細めた目で睨み据えるのは、矢瀬基樹。矢瀬顕重は、彼の父親だ。ただし、基樹の母親は正式な妻ではない。当主の息子ではあるが妾腹である基樹は一族の者たちに蔑まれ、数少ない発現した超能力者であることだけしか利用価値を見出されていない立場だった。

 

『それをわざわざ教える意味はあるのか、『覗き屋(ヘイムダル)』』

 

「テロリストがたったひとり避難しなかった上級理事のあんたを狙うなんてもうわかり切ってることだろうが! だったら、こっちもあんたの状況をわかってねーと守りようがないんだよ!」

 

『守る? はっ、何を言うか。あのような賊に命を奪られるとでも心配してるのか?』

 

「んなのするわけねーだろうが。こんなテロで殺されるくらいなら、あんたはとっくの昔に何十回もくたばってなきゃおかしいからな。だが、あんたがくたばると相続争いに巻き込まれるから面倒なんだよ」

 

 地位と財産を独占しているこの上級理事が命を落とせば、息子である矢瀬も相続争いと無縁ではいられない。下手すれば、後継者争いで暗殺されかねないのだ。

 

『“出来損ない”の事情など知ったことではない』

 

 だから、こんな肉親でも守らなければならない。

 

『それに教える必要はない』

 

「だからな―――!」

 

『予定通りに私は、橋村市議の会議後にある、魔導協会の記念式典に向かっておるのだからな』

 

 矢瀬は驚愕に目を瞠った。多数の人々が出入りする式典会場は、狙撃犯たちにとって絶好の舞台だ。

 

「っ、あんた、今、特区警備隊に第二種警戒態勢が出てるのをわかってんのか!?」

 

『ふん、貴様も室長と同じで、私も他の軟弱な上級理事連中と一緒に、御簾の奥にでも引き籠っていろと言いたいのか? 愚か者め! そんな真似が上に立つ人間に相応しいと思うのか!』

 

 声を荒げれば逆に矢瀬が咎められた。

 テロリストに臆して、弱みを見せる気などさらさらないのだ。

 そして、一方的な通信は切れる。くそっ、と矢瀬は拳を叩きつけ、運転手へ指示を出す。

 

「式典会場だ! 急げ!」

 

 

 

 しかし、彼らが間に合うことはなかった。

 自動車爆弾。

 路肩に故障車と見せかけて停車させた自動車に爆薬を仕込む、そして標的が横ぎったところで着火させる。紛争地帯で民兵組織がよく用いる手口。その威力は至近で巻き込まれれば、防弾車両の装甲でも防ぎ切れない。

 式典への移動中に人工島管理局の公用車が襲われ、そして、矢瀬顕重の生命信号(バイタル)は途絶した。

 

 

 

つづく



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奈落の薔薇Ⅲ

彩海学園

 

 

 自動車爆弾によるテロ事件の映像は、その数分後にはインターネットを経由して、全世界に配信されていた。

 雲ひとつない青空へと濛々と立ち昇る爆煙。あまりにショッキングで映像あるため画像処理はされていたが、車内から飛び出た“中年男性と思しき肉片”……

 

 この自動車爆弾に巻き込まれた犠牲者は、運転手に秘書の人工生命体(ホムンクルス)、そして、人工島管理公社の矢瀬名誉理事。

 この身元は、特区警備隊の科学捜査――DNA判定で明らかなものとされている。

 

 

 

「……古城君」

 

 南宮クロウは、彩海学園の保健室にいた。

 登校のためではなく、調査のために。

 <タルタロス・ラプス>の構成員と思われる<白石猿(ハヌマン)>の襲撃。そして、上級理事殺害の方を受けて、すでに学園は授業を中止し、生徒たちを帰している。

 

『あの男がくたばるはずがない! 絶対に何かの間違いに決まってる!』

 

 矢瀬基樹は、ここにはいない。管理公社の室長であり異母兄である矢瀬幾磨と、<タルタロス・ラプス>と父である矢瀬顕重の死亡が本当であるかと情報交換をするため、キーストーンゲートへと向かった。自動車爆弾を警戒し、車での移動は控えるようにと決めたため、空間転移のできる仙都木優麻に付き添ってもらい。

 そして、本部で確認を取っている間に、南宮クロウは、アスタルテをお供にして現場へと赴いたのだ。

 

「―――心臓衰弱、神経及び骨格筋の麻痺、内臓機能低下、呼吸困難、弓ぞり反射、瞳孔散大、そして、急激な血圧の上昇低下が全身の各部位で無作為(ランダム)に発生……毒性の分析失敗。表出する症状の確認困難。

 ―――推定。この毒は被害者の肉体組成(たいしつ)に応じて、自ら性質を変化しているものと思われます。解毒剤を投与したところで、その解毒剤に耐性のある性質に自律変化するものと予測。毒の変化パターンを解析し、完全な解毒に至るには、変化以前の原液(オリジナル)が必要とします。

 ―――……現状を放置すれば、いずれ<第四真祖>すら致死するものに化ける恐れがあります」

 

「っ」

 

 その荒唐無稽な診断結果を聴き、笑うものはひとりもいなかった。

 『意思を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)』の細菌兵器版―――『意思を持つ劇毒(インテリジェント・ウィルス)

 死んでも復活する不死身の真祖ですら時間経過で自然治癒するどころか、悪化の一途を辿り、“死に続ける”事態になるという。

 

 この刻一刻と変化する毒性を相手にして、診断するアスタルテは視線を伏せ、記憶――記録の海へと、手を伸ばしている。

 元々医療用の人工生命体として生み出された彼女の記録回路から治療法を検索するもなにも掴めず。

 

 だが、解毒を諦め、目的を別に向けた時、細い細い糸のような吉報があった。

 

「―――対症療法の効果確認」

 

 どうしようもないほど細い呼吸―――それが少しずつ深くなり、

 止め処なく口元の端から拭き出していた泡―――それが少しずつ小さくなり

 一分間に何度となく起きた突発性の全身痙攣―――それが少しずつ頻度が減り、

 クロウらが到着した時には、聞くに堪えない呻きが反響していた保健室内は、今はくぐもった苦悶にまで落ち着いていた。

 最悪から最低になっただけのものでも、見ていられるまでにはなっていた。

 完全な回復は望めなくても、しばらくは延命できる。そう、判断した。

 

「古城は無事なの!? 助かるの! ねぇ!?」

 

「藍羽さん……」

 

 告げられた診断に、髪を振り乱して反応したのは、騒ぎを聞きつけて古城を探しに来た浅葱だった。

 

「古城は<第四真祖>じゃないの!? だったら、毒くらい、血とか吸えば元気に―――」

 

「現状、第四真祖は吸血行為にも及べぬほどその力を喪失しております。治療にはまず原液を入手し、一時的でも吸血鬼性を取り戻さなければなりません」

 

 そして、制限時間はおよそ半日。

 

「この薬が切れたら先輩は……」

 

 その展開を予期して言い淀む雪菜。

 心配するのは、薬の量。

 唯一、『意思を持つ劇毒』を抑えられたのは、彩海学園の半ば私有化されている理科準備室に保管されていた、『冬虫夏草』を材料に南宮那月の作り置きしていた万能薬(パナケア)のみ。

 その材料も稀少であるが、何よりも秘薬を作れるための魔女本人がいないのだ。

 

「どの道……オレのやることは変わってないってことだな」

 

 重く、呟きをこぼすクロウ。

 この現場で見るべきものは見た。この校舎内にあった“残り香”は嗅ぎ取れた。下手人を捕縛する。その際に下手人が有する薬丹を入手することが書き加えられただけのこと。

 

「アスタルテ、どのくらいまで頑張れそうだ?」

 

「……保って半日と推定」

 

 薬の量を逆算して、対処療法で維持できる時間を機械的に予測する。

 彼の取るだろう行動を、アスタルテは訊かずとも把握していた。

 この誰よりも真っ先に最前線に行ってしまうような先輩なら、きっと暁古城を救うべく、襲撃者たちを捕えようとするだろう。医学知識のあるアスタルテとは違い、治療面で役立てないことは彼自身が一番にわかっている。

 でも。

 果たして、それで間に合うだろうか。

 挑む敵は彼の主人に師父をも降すような相手だ。それもまともにやり合うことさえも至難。

 それでも行くだろう。

 可能とか不可能とか、そういったことは彼の足を止める理由とはならないのだ。

 故に、できるのであれば、先輩についていきたいが……そうではない。アスタルテは、この後輩として、入力(インプット)している限りの薬品と治療を検索する。まだ教官(マスター)の私物化してる準備室を探せば、役に立つものが見つかるかもしれない。

 

「他の薬剤を試験し、もう数時間、引き伸ばしてみせます」

 

「わかった。ここは任せたのだ」

 

命令受託(アクセプト)

 

 保健室から出ようとする、その前に、未練げに呼び止めようと腰を上げる雪菜をクロウは何かを言う前に制した。

 

「姫柊は、古城君の監視役だろ? なら、ここにいてくれ」

 

「クロウ君、ですが私は獅子王機関の剣巫として、この事態を看過しておくのは」

 

「うーん、別に姫柊が頼りないとか言ってるわけじゃないけど、今の姫柊はあまり集中できそうにないのだ」

 

 っ、と図星を突かれ、表情を歪める雪菜。彼女自身も、この場を離れることはできない、とわかっているのだろう。こんな苦しむ古城を放置するのはできない、と……

 

「こっちはこっちでやるから、姫柊は古城君のことを頼むな」

 

 そして、その判断を下す前に、クロウは雪菜を置いて部屋を出た。

 

 

 

 学園を出る前に、クロウは宿直室に寄った。

 覗いてみれば小部屋に最低限ではあるが、接客の形が整えられている。勝手知ったる我が家とばかりに、クロウの師父でもある笹崎岬がわざわざ最上階にある国家攻魔官(せんぱい)の自室よりティーセットを取り出し、人数分プラスひとり分の茶葉を入れ始めているところだ。

 笹崎岬、それからソファで眠っている暁凪沙――今も昏睡している彼女は実兄が苦しむ様子を伝えさせぬようにと配慮し、こちらに移されて――と彼女を看護する叶瀬夏音とニーナ=アデラートら、この四人分プラスひとり。

 

「お、ちょうどいいとこに来たり。お茶が入ったよ、クロウちゃん」

 

 見つかった岬に、クロウは勧められる。

 

「師父、オレ、ちょっと急いでるからあんまりのんびりしてられないのだ」

 

「まあまあ。めまぐるしくて大変だったでしょ。だから、ちょっとここらで一服するぐらいは必要だったり。心身の休息は取れるときにしっかり取るってちゃんと教えたよね? でも、今日はお昼ご飯を抜かしてたりするんじゃないクロウちゃん?」

 

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、ポットの蓋を置く。

 すぐに、いい香りが空間に広がった。

 きっと先輩の那月に後輩指導の一環で仕込まれているのだろう。岬師父の淹れるお茶は、いつも嗅ぐ“匂い”ととても似ていた。

 

 きゅぅ、と鼻腔が擽られて、気と一緒に内臓筋も緩んだのか、腹が鳴った。それを聴かなかったことにしたいように、そっぽを向きながら。

 

「……一食くらい抜かしても平気なのだ」

 

「だーめ。ね、叶瀬ちゃん、この子、朝ちゃんと食べた?」

 

「いいえ。いつもの半分も食べてませんでした」

「うむ。夏音の言う通り」

 

 この師弟のやり取りを邪魔しないようにしていた夏音も、めっとあまり迫力はないもののクロウを叱りつけるような目でみて、ニーナもそれに同意するよう何度も頷いた。

 

「やっぱり。これじゃあクロウちゃん、半分もチカラがでなかったり。ほら、今、レンジで肉まんを用意してあげるから、おいで」

 

 と、紅茶を淹れたティーカップを前に差し出して、『うん、上出来だったり』と岬は軽くその香りを楽しんだ。

 クロウも師父の誘いをこれ以上は拒み切れず、部屋に上がり、一口茶を口に含む。

 

「クロウちゃんは、那月先輩の先生とやり合ったんだって?」

 

 と、宿直室の冷蔵庫にある冷蔵肉まんの袋を開けながら、岬が訊いた。

 もう一口。

 紅茶を飲んで、言葉を考える時間を稼いでから、

 

「そうだぞ」

 

「感想は?」

 

「……すごそうなやつだとは思ったぞ。サンガシャショクズとか言う魔導書を使ってたのだ」

 

「そっかそっか、<山河社稷図>ねー……そんなものまで見つけてくるなんて、ちょっと驚いたり―――でも、それだけじゃないでしょ、クロウちゃん」

 

 クロウは言葉を窮する。ややふて腐れるように、

 

「師父は何でもお見通しだな」

 

「はっはっは、これでも教師やってるしね。それに弟子の考えてることくらい師父にわかって当然なのだよ。でも、クロウちゃんの顔が特にわかり易かったのもあったり」

 

 むぅ、と唸りながら、自分の顔を触るクロウ。

 そういえば、ここにいる夏音や後輩のアスタルテにも指摘されたがそんなに顔に出てるのだろうかと少し悩む。

 

「まあ、私はちょっとすぐに戦線に出れるような状態じゃないけど、悩める弟子の愚痴くらいは聞いてあげたり」

 

 岬は、<白石猿>との戦闘で負った怪我で、日常生活には支障はなくとも戦闘での動きには後れを取ってしまう、とみている。

 

「ほら、お食べ」

 

 チン、となった電子レンジから取り出した肉まんを前に出される。正直、紅茶の香りに混じる肉の香りは色々と台無しにしてしまってる感はあるものの、それでもそういうのに頓着しない育ち盛りの少年には大変いいものだ。

 師父に礼を言うと、肉まんを頬張り、口いっぱいにもぐもぐと咀嚼し、呑み込んでから、ぽつりと呟くように、

 

「なんとなく、“匂い”が気に入らなかったのだ」

 

「そんなに臭かったり?」

 

「違うぞ」

 

 そう。

 誰かと訊く前に、振り向く前から、南宮クロウにはわかってしまった。

 

 

「ご主人と、“匂い”が似てたのだ」

 

 

 この男が、主人の先生であると……

 どうしようもなく、よりにもよって、わかってしまったのだ。

 

「クロウちゃん、クロウちゃんがすごく便利で不便な超能力(ちから)を持ってるのはわかるけど、それがすべてじゃないってことも教えたよね……?」

 

「う、わかってるぞ。『鼻』にばかり頼っちゃダメなのは。でも、オレはオレの意思で選ぶためにも、オレがオレの感じたことをウソだってことにはしたくない」

 

 たとえそれがどんなにウソだと思いたくても―――

 

 そして。

 胸の裡をいくらか吐き出して、それでも結局迷いは晴れぬまま、クロウは席を立つ。

 

「夏音、ちょっと古城君が大変だから、凪沙ちゃんをこっちのマンションで泊めてやってくれないか? あそこは結界が張ってあるから安全なのだ。……ご主人がいないけど、ニーナなら稼働でき(つかえ)るだろ?」

 

「うむ。この大錬金術師であるニーナ=アデラートには造作もない。大船に乗ったつもりでいるとよい」

「はい、でした。クロウ君、あの……」

 

 夏音は呼び止めようとして、けれど言葉がまとまらず。喉が固まって、その先から声は出なくなってしまう。

 岬もまたこの<過適応者(ハイパーアダプター)>独特の感性にはそう易々と踏み込めるものではなくて、言葉を投げかけることはできないでいる。

 

 主人は捕まり、

 師父は倒され、

 先輩は苦しみ、

 

 後輩も同級生も頼れる状況状態ではなく、考えれば考えるほど、クロウは肩に重いものを感じる。

 

 心音は静かで、武者震いもない。

 この重圧を乗り越えたのでも押し潰されたのでもなく、何も感じていないからだ。これからどうするのか、自分は何を選ぶのか、まだ決めきれていないからだ。

 ただ、ここで勝たなければ破滅するというだけがわかっている。

 だが、これを戦う理由とするのは、森を出る前の“成り行きで”死に場所を彷徨っていたかつての『九番(おのれ)』と同じになってしまうような予感がする。

 でも、このまま憂いに沈んでいられる場合ではない。

 

 

「ぁ、ふ……」

 

 

 そんなときであった、小さなあくびをクロウの耳が拾ったのは。

 

「良い匂い……紅茶と、肉まん? ……それに……」

 

 うん? と思ったクロウの鼓膜を、もう一度、そのちょっと舌っ足らずな、子供っぽい発声が叩いてくる。

 振り向けば、寝惚け眼をくしくしと擦りながら、ソファから起き上がる眠り姫の少女。

 そのまだぼやけてる目の焦点が、クロウにあった時、

 

「やっぱり、クロウ君だぁ」

 

 ぱあっと、少女の顔が輝いた。

 あまりに嬉しそうな笑顔なので、クロウは驚いて足を止めてしまったぐらいだった。

 

「凪沙、ちゃん?」

「うん!」

 

 もう名前を呼んだだけで、こんな笑顔で祝福されるのは嬉しくも思うが、クロウはきょとんと瞬きする。

 

「ね、クロウ君、お隣来て」

 

 なんだか不安になるくらい精神年齢が低下してるというか、すごく頭がぽやぽやとしてるが、こちらは急がねばならない事情がある。

 そう立ち止まったままでいると、凪沙の顔が、くしゃりと歪んだ。

 

「来て、くれないの……?」

 

「むぅ……」

 

 その顔をされると、少年は眉をハの字にして困ってしまう。

 ついでにこの1:4の男女率でアウェーであり、視線が刺さって針鼠な状況。

 師父も、同居人も、大錬金術師も、『ここで行くのはダメだったり(でした)』や『据え膳食わねば男の恥じゃな』と目で訴えてくるのだ。

 だったら、側にいるくらいで満足するなら、もう少しぐらい腰を落ち着けてもいいようにも思えてくる。

 

「う、ん……ちょっと、だけな?」

 

「やったあ!」

 

 あっさりと、少女の表情が笑顔へ反転する。

 万歳して体全体で喜びを表現するその仕草は、ひどく幼く映る。高めに見積もっても、精々が、5、6歳の女の子の反応である。

 

「ね、クロウ君、お隣に来て」

 

 と、二人きりの空間ではないはずのだが、何も言わず女性陣はスペースを空ける。

 それから、どうぞどうぞ、とか、ファイトでした、など口ほどに訴えてくる眼力に誘導されて、退路を失ってるクロウは歩み寄り、ソファの近くに来たところで、袖を引っ張られる。

 蒼銀の法被の袖を掴む柔らかな力。しかしどうしてか、振り払うことは無理だなとクロウは思う。抵抗する以前にその選択肢も考えられないというような、力の有る無しに関係ない問題である。そんな優しい力に、ソファの隣にこてんと座り込まされた。もちろん、合気のような特別な技術など使ってはいない。

 それから腕に抱きつくようにしなだれかかり、肩に顎を乗せてべったりな体勢から、間近で見上げるようにして、凪沙が言う。

 

「クロウ君、背高くなってるよね?」

「そうか?」

 

 頭を掻く。

 そのクロウを、むー、と凪沙がジト目で頬をぷくっと膨らませて睨む。

 

「ん、オレも成長期に入ったんだなー」

「ダメ。私よりも先に成長期に入るなんてダメだからね!」

 

「ぬ。そ、そうなのか?」

 

 当然、と言わんばかりに、少女がこくんと頷いた。

 

「うん。不公平。クロウ君はまだ小さいままでいいの。大人になるとクロウ君は危険なんだから」

 

「よくわからんけど、なんか凪沙ちゃんより、オレの方が理不尽な気がするぞ?」

「だって、私は毎日頑張ってるのに、全然おっきくならないし、もう~~~っ!」

 

 ポカポカと駄々っ子パンチをやられる。

 理解はできていないのだが、不条理に嘆いているのはわかったのでクロウは甘んじてサンドバックとなる。

 

「わかってる? クロウ君、私の話をちゃんと聞いてなきゃダメだよ!」

 

「うんうん、ちゃんと聞いてるぞー」

 

 言いながら、ふと、自身の唇がほころんでいることにクロウは気づいた。

 なんだか、いつもと違うようで、根っこのところはさほど変わってないような気がする。わかるのは、きっと普段より素直になってるのだろう。

 ―――そう。

 素直になるということは、きっと難しいものだ。

 それも年をとればとるほど、どんどん難しくなっていく。

 分厚い仮面の上に、年々さらに仮面をつけ重ねていくのが、多分、大人になっていくことなのだろう。堂々と素顔を晒すのは、とても怖くて、そして恥ずかしいこと。今は何枚か仮面を夢の中にでも落としてしまっているのだろうが、この少女もそれは変わらない。それから、主人も……

 

 肉体の時間は止められても、それ以上の仮面をつけてきた主人は、どんな理由で重ねてきたのだろう?

 

 きっとこの『鼻』は素顔の本心まで暴いてしまうような、恥知らずな力で、それに頼るのをクロウは望まない。

 

「……何か、他の(ひと)のこと考えてるでしょクロウ君」

 

 むぎゅ、と横から頬を抓まれる。

 なんだかよくわからないが、やっぱり自分の顔はそんなにわかりやすいのだろうか、とクロウは思い、それから隣の少女がご立腹なのが“匂い”を嗅かずともわかる

 

「べつに私につべこべ文句言う資格はないけどさー。そういうの、マナー違反だと凪沙は思うよ」

 

「むぅ、そういうものなのか?」

 

 と置物のように傍観してる女性陣に視線を投げて訊けば、うんうん、と頷かれて―――ぐいっと、凪沙に両手で挟まれて顔の向きを真正面に修正される。

 それから、笑顔で。

 

「マナー違反、だよクロウ君」

 

「わかった、理解したのだ」

 

 よし、と頷く凪沙を見て、人間関係の難しさを悟るクロウ。

 と物分りの良いことに機嫌を良くした凪沙はにこにこ……とから、ぽやーっと熱に潤んだ視線を向けたまま、動かなくなった。

 

「凪沙ちゃん? 大丈夫か?」

 

「……ううん、なんでもないよクロウ君」

 

 クロウの身体に腕を回し、胸に顔を埋めて、この実感を味わうように目を瞑る。

 

「やっぱり、落ち着く」

 

 そうマーキングのように頬を擦りながら満足げに、凪沙は微笑んだ。

 童女のような笑みだった。ほんの5、6歳までの間の子供が、安心できるものにだけ見せられる、純粋な笑み。

 

「クロウ君は、怖くない」

 

「そうか」

 

「クロウ君は、温かい」

 

「そうか」

 

「だから、クロウ君は、強いんだね」

 

「そう、なのか?」

 

 相槌を打つのが固まり、疑問符を浮かべる。

 

「怖くないのに、強い? それなんかおかしくないか?」

 

 強いから怖い、怖いと思えるのならばそれは強い。この両立する比喩に、異論をはさむ余地はないはず。

 

「おかしくないよ。クロウ君は強い」

 

 その発音は、普段の少女のものだった。

 表情も、すっと大人びている。

 この今あるのは、年相応の顔で。

 でも、ひどく素直に、真っ直ぐにこちらを見つめてる―――それだけは変わらない。

 今よりもずっと多感で敏感な超感性に冴えていた幼い凪沙と、今の凪沙が、秒瞬の間に、交錯しているよう。

 

「クロウ君は、怖くなくて、温かくて……だから、強いの……私は、そう信じてる」

 

 ―――――かっくん、と。

 言い切ってから、凪沙は頭と目蓋が落ちて、クロウの膝を枕にまた眠りについてしまった。

 少年は言葉の意味に首を捻りながら、困った風に微笑んだ。

 安らかに寝息を立てているこの少女を、一体どうやってどかせばいいか。クロウはなるべくそっと動いて、今度こそ(ソファ)を立つ。

 

「良いこと言ったね、凪沙ちゃん」

 

 と、にやにやと笑ってる師父の岬は頷きつつ、

 

「クロウちゃん。すごく大変な相手なのはわかってるけど、それでも手加減を止めちゃダメよ」

 

『人類史で人類が積み重ねた悪業の総集のひとつであり、人間の獣性から生み出されたも同然の殺神兵器―――俺が先生ならばもっと強くしてやることができた! それこそ<空隙の魔女>や<黒死皇>以上に……っ!』

 

 主人の……主人と同じ“匂い”のした先生は、殺し技を教え込めなかったことを、大層悔やんだ。

 ―――だが、徹底して人並みの加減を仕込んだ己の師父は、それを鼻で笑った。

 

「手加減を止めて本気を出そうなんて、そんなのは逆効果だったり。殺戮機械(むかし)みたいにわかりやすい攻撃力を出そうと意識すればするほど、クロウちゃんはどんどん弱くなる。これは絶対。だから、間違っても暴力で張り合おうとしちゃダメ」

 

 そんな師父の言葉に、クロウは何も返せない。

 そもそも少年は自分の本当の価値に気づいていない。それを意識していないからこその強みなのだから当然ではあるのだが。

 

「きっとそれは先輩が望んでいるものだろうから」

 

「……う、わかったのだ、師父」

 

 そこまで言われれば、南宮クロウは頷く他ない。

 そして、それから、と弟子の背中に送る言葉を続ける。

 

 

「先輩はクロウちゃん以外を、“自分のもの(サーヴァント)”だなんて呼んだことはなかったり」

 

 

 

 で……

 

 

 

 “夢”を見ている(と思っている)少女。

 

「あ、目が覚めました」

 

 心の清らかさが声に表れているかのような聖女の呼びかけに応じ、意識を眠りから浮上させる。

 

「……んぁ、夏音(かの)ちゃん?」

 

 視界を傾ければ……何か微笑ましいものでも視るようにこちらを見ている親友の姿。

 それを訝しむも、“夢”を思い返して頬を緩める。

 とても、心地の良い“夢”であった。

 でもありえない“夢”であった。

 あんなにも“彼”にベタベタにくっつくなんて今の凪沙には無理で、三文字(なまえ)を意識するだけでも表情温度が上がってしまう。下手すれば鼻血を噴く恐れだってあるのだ。

 まあ、それができないとわかっているからこそ、ああ“夢”なんだなあと理解できたわけなのだが。

 

(……でも、いい“夢”だったなあ)

 

 そう、昼休みからの記憶が抜け落ちているのに、“夢”の内容は鮮明に覚えているくらいに。

 寝起きのぼんやりした頭のまま、凪沙は赤面した。思い返した“夢”の自分が、あんまりも幼いというか、ふわふわし過ぎていて恥ずかしくなったのだ。

 ちょうどこの部屋で、このソファで、“彼”にこれでもかと甘える―――そんな“夢”。

 

(今日のクロウ君は何か感じが変だったけど、夢の中のクロウ君はやっぱりクロウ君で―――)

 

 ほっと夢の余韻に浸りつつ安堵する笑みを零す。

 恥ずかしかったが、再確認できて安心した。

 じゃあ、そろそろ時間を確認して、どれくらい自分が眠っていたか―――

 

「凪沙ちゃん、昼ご飯食べてなかったみたいだからお腹減ってたり? はい、紅茶と肉まん」

 

 と前のテーブルに置かれたのは、温め直した紅茶とレンジで蒸かした肉まん。

 その葉の香りと肉の匂いでなんかか台無しにしてる感のある組み合わせは……………嗅いだことがあるような気がする。

 いや、厳密には何かひとつ大事な匂いが欠けているというか……でも、夢の中で見た光景と重なる。

 ……うん、そう。改めて思い返してみると、この部屋の内装、今まで眠っていたソファも、記憶と合致している。不思議なことに。

 

(う、ううん! 違う違うあれは夢だよ夢! だって、ここにクロウ君はいないし! ねっ―――)

 

 視界に、この四人しかいない部屋の、テーブルの上に、五人目の空のティーカップが、入った。

 答えに一気に近づいてしまった気がする。

 熱っぽくて、ふわふわした感じで、思い返せていた“夢”が急に醒めていく。

 できれば答えは知りたくないのだが、ここまで想像が進んでしまった以上は確認しておかないと気になって安心できない。だから、看護してくれた(みていた)と思われる夏音に凪沙は言葉少なに主語を省いて尋ねた。

 

 

「ね、ねぇ……………来てたの?」

 

「はい。クロウ君はもう行きました」

 

 

 かっちんと、時間が止まった音が聴こえた。

 温かみのある聖女のお言葉に、瞬間冷凍。もう早送り映像のように、“夢だと思っていた”記憶が高速で舞い戻ってきて、脳が処理落ちした。

 そう。

 あれは、“夢ではなかった”のだ。

 

「……………ぃぁ」

 

 再起動直後、小さな悲鳴が唇から零れて、

 

 

 

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああっ―――!」

 

 

 

 校舎内全体に響き渡るほどの絶叫を上げてから、卒倒。

 こてんとソファに三度倒れ込んだ凪沙に、まあ、と夏音は口元に手を当てて、

 

「凪沙ちゃん、また寝てしまいました。どうしましょう」

 

「仕方があるまい。これ以上ここの世話になるわけにはいくまいし、暗くなる前に家につきしな。今日は帰ってこんだろうし、小僧の部屋にでも放っておけばいいだろう」

 

 この古の大錬金術師の気遣いで、“彼”のベットの上で目覚めた凪沙は、禁句(クロウ)過敏症がさらに症状が悪化した。

 

 

???

 

 

 『魔族特区』は最先端の建築技術の粋をこらした超大型浮体式構造物(ギガフロート)であり、魔術的な意味を持つ『祭壇』である、絃神島。

 東西南北と四分割した四基の人工島で構成されており、それぞれが独立して可動することで暴風波浪の影響を上手く躱すように計算されて設計されている。

 そしてそれぞれの地盤には、四聖獣の属性が付与されている。

 北には玄武が座して、霊脈の力を引き寄せる。

 東には青竜が座して、霊脈の力を増幅する。

 西には白虎が座して、霊脈の力を制御する。

 南には朱雀が座して、霊脈の力を留め置く。

 すなわち風水における四神相応の理であって、それらを包括する絃神島はそれ自体が巨大な風水呪術装置として活用できるものなのだ。

 その絃神島の構造自体を利用して、法奇門の要とする。つまりは絃神島そのものが動力源となっており、だから半径百km以上という、途方もなく巨大な結界を展開することが可能だったのだ。

 そして、この八卦陣を呼び水として、『四聖』の守護の属性の対極である『四凶』の人類悪(ビースト)を絃神島に召喚するように改変(リライト)したのが、今回、絃神島で千賀毅人の描く<タルタロスの黒薔薇>―――

 

 

 

 その場所は、かつては多くの人々で賑わう商業施設であった。

 ポップな装飾やカラフルなワゴン車―――そんな楽しげな雰囲気の忘れ形見たちが、この寂れた広場に放置されている。

 そんな広場の片隅に積み上げられたゴミの山。動かなくなった建設機械や廃車の部品。テレビや冷蔵庫などの家電製品に粗大ごみ。これらは忘れ去られた『宴』の跡地――人工島旧南東地区(アイランド・オールドサウスイースト)が廃棄された後に、心無い人々に不法投棄されたものだ。

 

 その廃棄物の中に紛れて、真新しい発電機と通信機、そして防水処置を施された大型のコンピューターが稼働していた。

 

 ここが、破滅を祈願する儀式の基点――<タルタロス・ラプス>における『七星壇』だ。

 

 粗大ごみの下に隠してあり、そして、コンピューターに繋がるネットワークケーブルの一部が、地面に直に体育座りをしているひとりの少女と接続されていた。

 

「―――『特区警備隊』のセキュリティ、ハッキング完了」

 

 そこそこに整った顔立ちだが、無表情で目つきが悪い。首には長いマフラーを巻いて、だぶだぶの分厚いコートを着ている。

 

 彼女は、首と背中の端子(コネクタ)を経由して、脳が、直接コンピューターネットワークと繋がることができ、それにより並の技術者では比較にならないほどのハッキング能力を有している。

 ただし、戦略級コンピューター並の情報処理の能力を手に入れるために脳内で常人の16倍もの微細化された神経回路が張り巡らされており、無論、生きた人間の脳がそんな膨大な情報処理を行うのは無理だ。細胞の代謝だけでも神経は焼き切れる。

 ―――だから、彼女の肉体は、死霊魔術(ネクロマンシー)によって動く死体。いわば、『魔族特区』の違法な実験の果てに生み出された脳改造版人造人間(フランケンシュタイン)なのだ。

 ―――だから、彼女にも『魔族特区』に復讐する権利があり、<タルタロス・ラプス>の一員としての資格がある。

 

「ラーン、<タルタロスの黒薔薇>の楔は打てたかい?」

 

「カーリとロギ、ディセンバーの仇を討った」

 

 千賀の問いかけに、ラーンと呼ばれた少女は起伏の乏しい声だが、しっかりとVサインを作った。

 表情は相変わらず変化のない無表情であるものの、達成した仕事に誇らしげな風である。

 

「よくやった、ラーン」

 

「先生、ディセンバーは、無事?」

 

「安心していい。捕まったけど、傷ひとつないよ。まあ、子供たちの前で辱められたせいか、今はちょっと機嫌が悪いみたいだけどね」

 

 隠れ家を出る前に千賀が見たときは、状況を理解してから生娘のような悲鳴を上げたり、地団太を踏んでうんうんと魘されてたりした。顔は真っ赤だったが、元気な様子で問題はないだろう。

 

「……許さない、<黒妖犬(ヘルハウンド)>。よくも、ディセンバーを……」

 

 淡々としているだが、ラーンの声に深い憤りが篭っているのがわかる。

 代々と継いで『魔族特区』を破滅してきた<タルタロス・ラプス>の次世代の若者たちは、3人ともディセンバーの恩人であり、その人柄に惹かれている。彼女のために役立てるのであれば、その命さえも惜しくないだろう。

 ディセンバーが泣けば、ディセンバー以上に悲しむ。

 ディセンバーが喜べば、ディセンバー以上に嬉しい。

 ディセンバーが怒れば、ディセンバー以上に憤怒する。

 千賀も先生として尊敬はされているが、やはり優先するのは、恩人であり家族でありリーダーであるディセンバーの意思だ。

 

 つまり、理事長暗殺を阻止された以上に、ディセンバーを捕まえたことが彼らの逆鱗に触れたのだ。

 

「残念だが、ラーン、<黒妖犬>の『首輪』は、魔族登録証とは別物だ。君には干渉できない」

 

「わかってる。でも、許さない」

 

 やれやれ、と千賀は嘆息する。

 嫌な色を帯びた瞳。

 これはラーンだけではない、カーリもロギも、同じだ。

 

 人間と魔族のどちら側にもつけなかった半端者(カーリ)

 倫理を無視して超能力を植え付けられた実験体(ロギ)

 生物の限界を超え戦略兵器に改造された違法物(ラーン)

 

 同年代で、“同族”。

 教え子のどれにも当てはまる被害者の総まとめした経験をしながら、

 誰よりも<タルタロス・ラプス>であるべき在り方をしていながら、

 千賀たちと敵対する、この滅ぼすべき『魔族特区』の守護獣となっている。

 もしも千賀が教育できていれば、<黒死皇>のように強大な次世代のリーダー、そして、<タルタロス・ラプス>を率いるに相応しい復讐者(アヴェンジャー)となれていたはずだろう。

 

 だから、この素性を調べて、彼が歩んだ経歴を知ったからこそ、“どうして”、という想いが強くなるのだ。

 

 <黒妖犬>は、危険だ。

 ある意味で、『特区警備隊』や他の『魔族特区』の戦力が<タルタロス・ラプス>を危険視するよりも、遥かに根源的な地点であの少年は“毒”を秘めていた。

 これまでの生き方を、根こそぎ破壊しかねない“毒”。

 その“毒”は、絶対と信奉している価値観を大きく揺さぶり、後ろを向かず突き進んできた道のりをごくあっさりと台無しにしてしまう。『芳香過適応(リーディング)』という感性が子供たちの事情を嗅ぎ取ってしまうために、抵抗し難い甘さと浸透力さえ備えている。

 だから、許さない。

 この存在を許してしまえば、<タルタロス・ラプス>でしてきた自分たちの活動は意義を失いかねない。

 決して相容れてはならない在り方と相対して、ラーン、カーリ、ロギらははじめて己自身の憎しみに愉悦する。

 

「なら、そのためにも、ラーンはラーンの仕事を果たすんだ」

 

 それを千賀は特に止めたりはしない。

 計画に支障をきたすほど一個人に執着するのは問題だが、彼らはより懸命に任された仕事をこなしている。ディセンバーを害した怒りだけでなく、あの分からず屋の同年代で同族に負けていられるかとばかりに燃える対抗心が加算されている。

 そして、千賀にも、教え子たちの心中が我がことのように理解できるのだ。

 何故、気づかないのだ?

 何故、わからないのか?

 何故、自分たちを裏切ったのか?

 

 この街に護るべき価値などないことに、この街はいずれ世界を滅ぼすというのに、どうして護るのか。

 

「―――ひっひ、若いの、<黒妖犬>は儂の獲物だと最初に言うたであろう?」

 

 広場に音もなく現れる白眉白髪白髭の翁。

 別行動でディセンバーからの依頼と、“ひとつの仕込みをしていた”<タルタロス・ラプス>の同士。

 

「まあ、儂が喰うにはもうちょい“熟れて”欲しいがの」

 

「<白石猿(ハヌマン)>、やってきたのか?」

 

「おうともよ。きっと姫もお喜びになるだろう」

 

「そうか」

 

 千賀は笑みを翁と同調させる。

 これで我々は、計画を無視してでも『魔族特区』を破滅させる“隠し玉”を手に入れられたということなのだから。

 

「儀式の仕込みは済んだようじゃが、発動までにはまだ時間がかかる。じゃが、それまで休むつもりはないんじゃろう?」

 

「ああ。上級理事の首はもういい。次は兵糧を狙う」

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

『申し訳ござらん! 『特区警備隊』のネットワークがウィルス汚染されて、拙者そちらのサポートに回る余裕がないでござる』

 

 通信機から電子的に合成された野太い声での謝罪。

 対テロリストチームである<戦車乗り>だが、元々は『侵入者の撃退』を得意とする凄腕の『迎撃屋(インターセプター)』として人工島管理公社に雇われていた非常勤職員(アルバイト)

 だから、公社の用心棒は、軍事用の強力なウィルスプログラムにやられた『特区警備隊』のフォローに回らなければならない。ただでさえ自動車爆弾テロで指揮系統が混乱している最中に、治安維持組織本部の中枢サーバーをほぼ完全に機能を狂わされたのだ。

 

『もともと『特区警備隊』の電子防壁(ファイアウォール)はザルだというのをよく女皇殿と愚痴ってたでござったが、泣き所をやられたでありますな』

 

 迂闊にウィルスを処理しようとすれば、接続した途端に逆にこちらが感染してしまうため、作業は慎重にやらなければならない。

 

『ですが、拙者、『大規模食糧備蓄庫(グレートパイル)』内の防犯用監視カメラは制御を取り戻しましたでござるよ』

 

 そして、怪しい輩を映像に捉えたからそちらへ向かってほしい―――

 

 

 

「ここにいるんだね、クロウ君」

 

「う、あいつらの“匂い”はここでしている」

 

 もうすぐ夜闇の天蓋に切り替わろうかという斜陽がさす刻。

 再び集合したのは、人工島東地区の倉庫街。四ヶ月と少し前、絃神島で連続魔族襲撃事件が起きていた頃に、“とある真祖の災厄級の眷獣”が暴走して、あたり一面を焼き払われた地帯で、ようやく再開発が終わった場所である。

 なので、建て直されたばかりの倉庫は小綺麗だった。余計な“匂い”が染み付いてないせいか、“異物”をより強く感じ取れる。

 

「<タルタロス・ラプス>の狙いは、『大規模食糧備蓄庫(グレートパイル)』にある絃神島の食料か」

 

「そうだね。テロリストは基本的に住民の危機感を煽らせて、社会不安を引き起こすのが目的だ」

 

「まったく、イヤなところばかりついてきやがる」

 

 舌打ちする矢瀬。それに同意するように嘆息する優麻。

 船舶事故や自動車爆破事件がニュースに流されても、今はまだ島全体でパニックとはなっていない。

 元々『魔族特区』はテロの標的になりやすい街であり、特に絃神島は台風や高潮などの被害も多い。そのぶん治安対策や防災への備えも充実している。交易が封鎖されていても、食料や燃料の備蓄も十分だということを絃神島の住人は良く知っているのだ。

 だが、自分たちの生活に直接的な影響が出るとなると話は違う。

 もしも絃神島の台所事情を支える倉庫街がまたも更地となったとすれば、民衆で暴動が起きかねない。

 上級理事たちも頼りとならない状況下で、上も下もパニックとなればこちらも相当厳しいものがある。

 

「一応、動かせるだけの警備隊を倉庫街で動かしちゃいるが、あんまり当てにはならねぇ。ついでに俺も戦闘面には自信がない。だから、頼りにしてるぜ、二人とも」

 

「ボクも戦闘は本職じゃないけどね」

 

「ん、任せるのだ矢瀬先輩、優麻」

 

 上級理事を殺害した爆破テロだけではなく、他の破壊工作の影響もあり、今回現場に赴いているのは矢瀬基樹、仙都木優麻、南宮クロウの三人。

 アスタルテは暁古城の延命に、リディアーヌ=ディディエは中枢サーバーのウィルス処理にかかりきりのため、こちらには回せない。

 そして、相手に強力な支配能力や厄介な変化能力を持つ者がいる以上、それらを無効化および識別する<黒妖犬>の傍に固まって行動している。

 

『皆さん、その位置から左斜め前方、ポイントC-7の位置でござる』

 

「あそこだね」

 

 『迎撃屋』の仕事と並行しながらも、こちらの案内(ナビ)をしてくれる<戦車乗り>に従い―――

 

 

 次の刹那、三人は、炎に呑まれた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 倉庫街を瞬いたのは、自動車爆弾の閃光だ。

 高性能の爆薬を満載し、金属片を撒き散らす自動車爆弾。軍用装甲車の性能でも容易には防げない威力を誇る爆弾と化した車両を事前に配置していた。

 そして、“誘導”されてきたところを、爆破。

 3年前に先生から、<タルタロス・ラプス>に合流したロギが教わった、自身の固有能力を最大限に活かせる“人殺し”の技術だ。

 

 爆弾の取り扱いにおいて、もっとも困難なのは爆薬そのものではない。意図通りのタイミングで確実に爆弾を起爆させる装置の調達である。優秀な起爆装置さえ準備できれば、爆薬などそこらにある肥料や小麦粉でも十分なのだ。

 また爆発物の捜索や解体においても、起爆装置の存在は重要な手掛かりとなる。当然、自動車爆弾に隠された起爆装置を特区警備隊は探したことだろう。

 しかし、それは見つからなかった。

 何故ならば、“起爆装置はない”からだ。自在に炎を操る超能力をもった天性の放火魔に、着火に道具に頼るような真似は必要ない。

 

 ロギは、6年前に<タルタロスの薔薇>で破滅させた『イロワーズ魔族特区』で『発火能力者(パイロキネシスト)』として生み出された軍用人工生命体(ホムンクルス)の実験体だ。

 もちろんそれは違法な実験だ。

 聖域条約により人工生命体には、準魔族としての権利が与えられており、軍事目的の生体改造は、国際法に違反している。

 そのため、存在が暴露された軍用人工生命体は、危険な存在として廃棄処分が決定されることになった。

 ―――そのとき、ディセンバーが彼を救った。

 

「やった! やったぞ! 誘い込まれたことを知らずにノコノコと……これなら人間ごと<黒妖犬>を―――!」

 

 感情の変動閾値の低い人工生命体が歓喜の声を上げる。

 ディセンバーに害し、被害者(ロギ)たちの存在価値を破滅させる<黒妖犬>は、必ず屠る。自動車爆弾で、この『魔族特区』の上級理事を爆殺した時のように―――

 

 

「自動車爆弾の件は聞いてたからね。当然、警戒していたとも」

 

 

 炎の中から声がした。透明感のあるアルトヴォイス。自動車爆弾を至近で受けながら、三人は、無傷でこの爆心地に立っていた。

 

「―――カーリ!」

 

 ロギが通信機に叫んだ。彼の焦燥が伝わるよりも早く、チカッと一瞬、遠くのビル屋上が光る。かすかに大気が振動し、大気を切り裂いて飛翔する弾丸―――それをレーダーのように敏感な肌が捕捉。

 ―――来たな。

 

「<黒雷(くろ)>―――ッ」

 

 バチンッと生体電流が弾けて迸る音が響き、クロウの<隠れ蓑(タルンカッペ)>に刻まれた身体強化呪術増幅回路の補助が働く。

 

「―――<若雷(わか)>ッ」

 

 膂力が倍加し、拳速が加速。衝撃変換をさらに加算。クロウの拳打が神速で飛来する膨大な魔力を篭められた貫通弾を捉える。炸裂音に似たインパクト音が倉庫街に響き渡り、衝撃波が爆破の残り火を吹き飛ばす。

 捻じりながら繰り出された拳は、霊視でさえ肉眼で捉えきれぬ音速の二倍以上で約1kmを突き抜ける対物ライフルによる超長距離狙撃に反応して、迎撃した呪式弾を残らず砕き破壊する。多重魔力障壁の防御さえ突破し得る呪式弾を粉砕せしめたのだ。

 

「そこか―――」

 

 本来聞こえるはずがない、狙撃手が驚愕に息を呑む音を、耳に当てていたヘッドフォンを外した少年は聴いた。

 

「どうやら、この案内(ナビ)は偽者。まんまと一杯喰わされたようだ」

 

 と言いながらも、余裕あるよう軽く肩をすくめて優麻は“合成音声で”指示を出していた携帯機器の通信を切る。

 <戦車乗り(バックアップ)>は、管理公社のサーバーのウィルス処理で二次感染されたらしい。

 この分だと応援の特区警備隊も偽情報に踊らされ、あらぬ方へと誘導されている可能性が高い。

 

「いや、探す手間が省けたぞ」

 

 こちらの作戦にかかっておきながら、真っ直ぐに視線を外さない不屈な金瞳。

 

「っ―――」

 

 ロギは、震える唇を千切るほどに噛み締めた。

 何故、通用しない。何故、何故、お前が敵に回る―――!

 

 

「落ち着くんだ、ロギ」

 

 

 倉庫街に新たな声が現れる。

 彫りの深い、渋い顔立ち。枯れた喜劇役者のような雰囲気が付き纏っている。

 

「先生……」

 

「どうやら彼女は魔女のようだ。魔導書の扱いがなかなかうまい」

 

 先生、千賀毅人はすっと指をさして、教え子に示す。

 <蒼の魔女>、仙都木優麻が手にしている魔導書を。

 そして、語る。いつもの授業のように教え諭す。

 

「魔導書は専門外だがね。見たところあれは、人為的に起こされた現象を拒絶する『予定調和』のものだ。だったら、あるがままの自然で対抗すればいい」

 

「ご謙遜を。<図書館>にも保管されていない仙界の魔導書を収集してるだけあって中々の博識ぶりじゃないか、千賀毅人。こうもあっさり魔術(マジック)の種を看破するなんてね、『東洋の至宝』は伊達じゃないってところかな」

 

 <図書館(LCO)>第一類『哲学(フィロソフィ)』<アッシュダウンの魔女>が所有し、現在、絃神島管理公社に回収された『No.193』―――今回のテロリストを相手に優麻が借り受けた魔導書。

 その力は、『予定調和』。

 張られた結界は如何なる攻撃も傷つけることはできず、逆に相手の如何なる防御もこちらの攻撃を防ぐことはできない。空間制御系の魔術以外はほぼ完全に遮断する、特区警備隊の一個師団が総攻撃を仕掛けようとも傷をつけることさえも敵わぬ鉄壁の守りを読み手に与える。

 しかし、人間の肉眼には追えない、超音速の飛来物等といった術者が脅威という認識の間に合わないものや、光や重力、大気といった最初から世界に存在する調和を乱すことのない自然の現象を、結界は拒むことはできない。

 

「そういうことか、先生!」

 

 ロギは両手に魔力に頼らない、自然発生させた『発火能力者』の炎を灯す。

 手軽に爆弾で攻撃するのではない。人の手の加わらない、この自然発生させた純粋な火力でならば、『予定調和』を通り抜ける―――!

 

「そういうことだ、ロギ」

 

 風水術士の足元より、倉庫街の地面に光り輝く血管のような亀裂が無数に浮き上がった。この土地一帯に流し込まれる龍脈を掌握し、集めた膨大な呪力でもって人工の大地に埋め込まれていた石と金属の塊に仮初の命を与える。

 起き上がったのは、全高7、8mにも達する人型の怪物、巨大な巨石傀儡(ストーンゴーレム)だ。

 そして、出現と同時に、倉庫街は濃霧に呑まれ、優麻たちを囲うように竜巻が発生する。

 

「嵐と波浪を操る傀儡―――そうか、これは<石兵>か……!」

 

 と<蒼の魔女>は、判断した。

 『法奇門』の奥義。

 かつて蜀漢皇帝の軍師、諸葛亮が設置して、呉の武将率いる5万の軍勢を壊走させたという、これが戦争に利用された風水術。龍脈から汲み上げた呪力を使い巨石を操り、天候をも自在に変動させる。優れた風水術士はたったひとりで、数万の軍勢に匹敵するのだ。

 

「させないよ―――<(ル・ブルー)>!」

 

 <蒼の魔女>の背後に、無謬の騎士像が浮かび上がり、キン、と耳障りな音を立てて大気が軋む。人工的な空間の歪みが大気を圧縮し、不可視の衝撃波を作りだしたのだ。

 撃ち出された衝撃波の弾丸が、倉庫街を見下す巨石傀儡を襲った。

 降り注ぐ衝撃波の雨に滅多打ちされて、傀儡の堅牢な体躯をゴリゴリと削る。が―――

 

「失策だな。攻撃しようが<石兵>は、ただ数を増やすだけだ」

 

 削り飛ばされた傀儡の破片、瓦礫の塊が、それぞれ人の形となって起き上がる。<石兵>は龍脈の力がある限り、無尽蔵の動力源を得ており、そして、断片からでも再生できるのだ。破壊すればするほど、結果的に傀儡は数を増やしていく。

 これが、5万の兵を壊走させた力の正体。

 

「そして、<石兵>を動かしているのは、この大地の気脈そのもの。『予定調和』で防ぎようがない」

 

 <石兵>は、自然に属する傀儡であるために、『No.193』の魔導書の結界を通り抜けてしまう。

 そして、自然発火した焔もまた―――

 

「燃え尽きろ―――!」

 

 軍用人工生命体がトドメの第二陣と備えて、両手に大火を溜める。

 <石兵>を<守護者>で盾にしたとしても、次は『発火能力者』。今度こそ防げまい。結界の守りがない限り、骨も残さずに消失する!

 

 

「そうだね。『予定調和』は通じない―――でも、忘れたのかい?」

 

 

 若い魔女の唇を、淡い微笑が刷いた。

 

 

「あらゆる自然は彼に屈服することを」

 

 

 ぞんっ、と一体の巨石傀儡が跳ぶ。

 数mの巨体は、一切の鈍重さと無縁だった。

 真上から大木にも匹敵する剛腕が、戦車の砲弾の如く若い魔女の痩身へと突進―――それを片手で受け止めた、銀の狼。

 

「ふっ―――」

 

 短く呼気を発す。

 巨大な石の拳を真正面から受け止めて、獣化した銀人狼は歯を食い縛る。

 ぎりっ、と奥歯が、軋む。

 身長だけで8m、腕を振り上げれば10m以上の高さから、これまた百kgを超えていそうな拳を、渾身の力で叩きつけてきたのだ。潰れていない方が不条理だ。

 だがしかし。

 この強靭の肉体は、人間離れどころではなく、遥かに超越したところにある。巨石傀儡の鉄槌を止めたことで、若干、表情を顰める―――それにしてみれば、たった表情を変える程度の負荷で、受け切られた。

 

「<填星/歳破(しん・さい)>!」

 

 があっ、と銀人狼が牙を剥き出す。

 吼える。

 火事場の馬鹿力とばかりに高濃度の獣気が体内に充ち、獣化した肥大した体躯が、また一回り、二回りと、内圧に押されるように膨れ上がる。

 受け止められた巨石傀儡の拳が、徐々に持ち上がっていく。

 ばかりか、一定まで持ち上げられたところで、土塊の腕がごきりと捻り返され、総重量1tを軽く上回る巨石傀儡は、その場に倒れ伏したのだ。

 凄まじい量の土煙があがり、束の間轟音が倉庫街周辺を支配した。

 

 しかし、まだだ。

 巨石傀儡を退けたところで、まだ第二陣が控えている。

 藍色の髪をした軍用人工生命体は大火の津波を放って―――遠吠えの一喝で霧散した。

 

 

「■■■■■■■■―――ッッッ!!!!!!」

 

 

 ……かつて、『宴』において、<黒妖犬>は、倉庫一棟どころか旧南東地区と一区画を一気に呑み込んでしまうほどの大津波を起こしたことがある。

 『芳香過適応』の芳香付与(マーキング)は、高位精霊術士の自然干渉に匹敵するかそれ以上の支配力をもっていた。

 超能力で自然発火させた炎は、同じく、そして、それ以上の、神々と謳われた超古代人種『天部』の域にも達している超能力の自然干渉で“上書き”されたのだった。

 

「う、そだ―――」

 

 己の焔が、獣の咆哮に掻き消されて、呆然とする人工生命体の少年。

 これが、獣化した――その獣性を解放させた<黒妖犬>の力か。

 『予定調和』とこの『自然支配』、互いの穴を埋める異種の能力らの連携が、<タルタロス・ラプス>の罠を防ぎ切り、そして―――

 

 

「龍脈に干渉できるのが風水(そちら)だけの専売特許と思うな」

 

 

 銀の獣毛が婆娑羅髪のようにざわりと伸び、昂る獣の笑みを浮かべ、牙も露わに咆哮を放ち、その左手を、硬く、硬く、握りしめて―――

 大地に叩きつけた。

 ドンッ、とインパクトが龍脈を伝って周囲の地面を隆起させ、噴火爆発が起こったように衝撃が天高くへ噴き上げる、そして、それに巻き込まれた巨石傀儡らが吹き飛んだ。

 

「なっ、<石兵>が―――!?」

 

 地に墜落した<石兵>は、再生しない。どころか、難を逃れた巨石傀儡も形が保てなくなって自壊していく。傀儡の動力源である龍脈とのラインが断たれたのだ。

 

 『邪神の花嫁』という神という名の意思を持った龍脈に身に宿せる存在があるように、単身で龍脈に干渉することは、けして不可能ではない。

 だが、それはあまりにも特異な例であり、力業で龍脈を止めるなど出鱈目すぎる。

 戦乱の時代で活躍したのは軍師だけにあらず。人数的不利を覆す天下無双の猛将。その覇気は、山を抜き、世を覆うもの。その世の常識に留まらない怪力は時に、神算鬼謀の策略を覆し、軍師を青褪めさせる。

 

「カーリッ!」

 

 狙撃手に援護射撃を要請。

 だが、通信機から応答は返らない。

 

 

「狙撃手なら、もう潰している」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――どう、して!?」

 

 

 軍用人工生命体が炎を消し飛ばされた時と同じく、神域の獣人狙撃手は、超長距離射撃を拳ひとつで防がれたことに動揺した。

 この結果は、狙撃銃を己の半身とするほどの絶対的な価値観に大きな揺さぶりをかける。

 カーリは落ち着くまで数秒の時間を要してしまい、その間が、彼女に再び引き金に指をかける機会を与えなかった。

 

『スキアリダ……!』

 

 大気を裂くような叫びと共に、凄まじい暴風がカーリを襲った。

 衝撃で伏射姿勢のまま固まっていたカーリの身体は屋上を転がり、半身(じゅう)を手放してしまう。

 忘我してしまうカーリの視界に過ぎったのは、大気の屈折が生み出した奇妙な人影。

 その人影の輪郭は、<黒妖犬>と行動を共にしていた少年の姿によく似ている。

 

大気精霊(エア・エレメンタル)!? いえ、生き霊(レイス)ですか!」

 

 大気圧によって形成された少年の分身。

 もし、ここでカーリが冷静であったのならば、即座に分身を携帯している拳銃で撃って、術者本体に衝撃を逆流させようとしたことだろう。

 分身が破壊されれば、術者にも相応のダメージを喰らう、と彼女は先生から学んでいた。

 

 だが、今、不意打ちの強い暴風をもろに喰らい、その反動で重い対物ライフルを手放してしまった。そして勢いよく離れた狙撃銃は、屋上のヘリにぶつかって、そのまま地上へと落下してしまう。

 

「銃……が!」

 

 彼女はまだハンドガンを装備している。しかしあのライフルはカーリにとって、<タルタロス・ラプス>との絆の象徴だ。もしそれを失ってしまったらと考えてしまうだけで、ディセンバーとの繋がりも断たれてしまうのではないかと不安がってしまうくらいに、なくてはならない半身なのだ。その恐怖がカーリから冷静さを奪った。

 ―――この致命的な隙を逃す理由はない。

 

『オオオオオオ―――ッ!』

 

 少年の声で咆哮する暴風の塊より衝撃波が放たれた。屋上から落ちてしまったライフル銃を目で追う。余所見をしてしまった獣人の少女は反応が遅れ、不可視の(ハンマー)となった暴風が、彼女を弾かれたライフルの後を追わせた。

 狙撃地点として選ばれたビルの屋上から、獣人の少女が宙を舞う。

 受け身を取らせぬよう荒れ狂う大気は狙撃手を翻弄し、吹き降ろす強烈な突風に抱かれて、地面に垂直落下。

 小柄な身体が地面にバウンド。

 がはっ、と急き込む彼女の唇から鮮血が零れた。

 彼女のすぐそばに、落下の衝撃で壊れて部品がバラバラのライフル銃が転がっている。全身を襲う苦痛を無視し、必死にそれに手を伸ばそうとして、しかし届かず。途中で力尽きて、腕は落ちた。

 

「……ごめんなさい、ディセンバー……私……こんなところで……!」

 

 渦巻く風の化身が、狙撃手の頭上を通り過ぎて消え去った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 相手の位置から行動まで、音を使って知覚する<音響結界(サウンドスケープ)>と矢瀬自身が名付けた己の<過適応能力(ハイパーアダプター)>。

 生まれつき持っていた超能力を使い、1km以上も離れた狙撃手を捕捉。狙撃手の位置。銃口の向き。銃の作動音。そして狙撃手の心音や呼吸まで、その動揺した状態を正確に把握。そして、彼はそれを好機と覚り、能力増幅剤(ブースタードラッグ)を口に含んだ。

 そう、矢瀬基樹は、優麻とクロウに護られている間に、敵の後衛を叩いたのだ。

 

「クロ坊の出鱈目っぷりにショックを受けてる隙だらけのところをこっちで仕留めさせてもらった」

 

 能力増幅剤の過剰摂取で、一時的に限界突破した矢瀬の<過適応能力>が作り出す、音の振動を伝える大気で身体の輪郭だけでなく、筋肉から神経細胞まで再現された分身体<重気流躰(エアロダイン)>。

 霊能力者の幽体離脱と原理は同じであるが、そのために分身を飛ばしている間は本体の意識は極端に低下してしまう。

 普通ならば戦闘してる間に本体を捨てるような真似など命とりであるが、矢瀬には『予定調和』と『自然支配』の穴のない二重の守護があった。

 そうして、奇襲に成功し、狙撃手を仕留めた。

 

「ふぅ……荒事なんて慣れない真似はするもんじゃねぇな、ったく」

 

 能力増幅剤の過剰摂取が原因で、悪酔いしたように気持ち悪いが、これでひとり。三対三の状況だったから、これでノルマを果たしたと言ってもいいだろう。矢瀬は達成感に人心地をつく。と、

 

「おまえ、カーリをやったのか!?」

 

 そんな矢瀬を、軍用人工生命体の少年が睨む。

 中性的な整えられたその容姿は、今は歪んでいる。これは彼の『発火能力』が生み出した高温の大気が陽炎となって周囲に揺らめいているだけではない。ありありと表情に憎悪の面が浮かんでいた。

 

 隠そうともしない、殺意に満ちた視線を受けた矢瀬は、無意識に失笑を洩らした。

 この少年の正体には既に気づいている。

 矢瀬の父親を自動車爆弾で殺した<タルタロス・ラプス>の『発火能力者』だ。つまりは矢瀬にとって彼は父親の仇であり、そして今、矢瀬は彼にとって仲間の仇となったわけだ。

 ただ、矢瀬は彼とは違って、父親の死をさほども憤っていないわけだが。そんな温度差に矢瀬は思わず笑ってしまったのだ。もとより『魔族特区』破壊集団の一員と、その『魔族特区』に飼われた密偵(スパイ)―――どのような形であれ、出会ってしまえば殺し合うしかない関係だ。

 

 だが、ここでこの力を使い切った矢瀬を感情的に注視するのは間違っていただろう。

 

「おい、クロ坊を無視していいのか?」

 

 ひとり倒され、イニシアティブは<タルタロス・ラプス>にはない。

 

「くっ―――」

「させないよ」

 

 狙撃手の邪魔が入らなくなり、攻めに転じた銀人狼。

 倉庫街を、駆け出す。

 あまりにも大きな歩幅は、解き放たれた矢に等しい。

 千賀が木製の呪符を、教え子を内に入れるように周囲に巻く、だが呪符に刻まれた空間制御術式を見抜いた優麻が、同じ空間制御干渉をぶつけて逃亡を阻止する。

 ―――これで……

 局所的とはいえ儀式場に等しき龍脈を荒らされたことは風水術士にとって、精密な計算に齟齬を生じさせる。たった一個の小石が歯車に挟まっただけで止まってしまう機械時計のように、龍脈の流れを再計算している間は、いかに『東洋の至宝』といえど<石兵>のような大規模呪術を発動することはできない。また、軍用人工生命体の『発火能力』もすでに格付けは済んだ。

 そして、真っ向からぶつかれば、<黒妖犬>は神をも殺せる逸材だ。逃げ道を封じた時点で、こちらの勝利はほぼ確定していた。

 ―――行ける!

 そう、矢瀬が思ったときだった。

 すべてを叩き潰す重撃が、クロウを掠めて、鋼の大地を割った。重撃の余波で、クロウが矢瀬たちのいる後方へと圧し返された。優麻も、突風に煽られたように髪を振り乱し、背後によろめいた。

 

「……なっ」

 

 と矢瀬が呻き声を洩らした。

 あの銀人狼の進撃を、止めた。突進してきた眷獣をも殴り飛ばせる後輩を、逆に殴り飛ばすその威力はどれほどのものか。これまでに親友の事件を監視し()てきたが、なかなかそう拝められないものだった。5mは超える長大な棒を携えて倉庫街に乱入したのは、ニンマリと不吉な笑みを湛えた、波乱の白翁だ。

 

「―――ひっひ、会いたかったぞ、<黒死皇>最後の末裔」

 

 白翁がふてぶてしい笑みを浮かべながら、後輩をねめつけ、

 DNAに刻み込まれた本能からか、一目でその正体を悟った、後輩は唸る。

 

「オマエが、古城君たちをやったんだな―――」

 

 最新と最古の『獣王』が、今この時、邂逅した―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――相対した両雄に、これ以上の言葉は必要なかった。

 

 

「グオオォォォオオォォォ―――――!!!!!!」

 

 常に細められていた火眼金睛の双眸が猛々しく見開かれていた。ドロリと滴るような魔力が、白翁<白石猿(ハヌマン)>から漂わせて、獣化する。老いぼれた人の皮を破り、白い獣毛に生え変わる肌と石のように硬質な筋骨に化けた。1m半としかなかった老体は、ひと回り、さらにひと回り、もうひと回りと、内側から溢れる力に圧されるように膨れ上がっていく。

 現れたのは、2m近い鍛え抜かれた巨躯を持った白猿人。両端に金環のついた棍を肩に乗せ、僅かに前のめりになる白猿人は歯を剥き、銀人狼をねめつける。

 

 そう。

 これは、わかっていたことだ。

 宿敵が死して、その末裔が残さず屠られたと知り、呪縛から解放されようが不滅の己は永劫の孤独を味わうものと諦観させられたときに、この懐かしき馳走が目にすれば、抑えきれぬ、などと。

 枯れ果てていた身体に、水を与えられたかのように、瑞々しさが蘇る。

 

「辛抱たまらん!」

 

 お気に入りの『宝貝』まで取り出して、それはまるで子供のはしゃぐ姿と似ていた。

 秒速数千の勢いで棍を振り回して、銀人狼へ襲い掛かる。

 縦に、横に、上に、下に。常人にはもはや動きが霞んで見えただろう。武術の達人であれ、ここまでの手数と速度を作り出せない。人間には。

 だが、この程度では、臆しない。

 

「―――」

 

 銀人狼は躊躇なく前に出ると、生体障壁を両腕に集中させて、白石猿の棍撃を捌こうとする。

 

 みしぃ―――と。

 

 銀人狼の左腕に、白猿人の振るう棍が炸裂。

 クロウは、呪式弾も巨石傀儡も受け止めた自分の腕が痺れる感覚を味わった。それを意識するほどの間を与えず、ひとつの暴風が収まる前に棍の金環の装飾が着いた末端を地面に突き刺し、白猿人は身体を複雑に捻って回し、バネの力を蓄えて、シームレスに次の一撃へ移る、冴え渡る武技。

 その一撃が重いのは、最初で知れている。まともに応対すれば、反撃の隙なく削り殺されるだろう。だが、こちらも“まだだ”。

 

「―――っ!」

 

 呼吸と共に、外気を取り込む。

 臍の下まで気息を落とし、丹田にて凝縮する。廻りながらも上昇する螺旋のイメージで方向性を意識し、正中線の気脈を通してぐるぐると体を巡らせる。

 七つの霊的中枢(チャクラ)全開(フルスロットル)に廻して、仁獣覚者に等しき金色の獣毛に生え変わる<神獣人化>。その踏みこみで倉庫街の舗装を砕き、大出力の獣気が風を巻いて唸りを上げた。その余波を浴び、優麻は思わず<守護者>を風除け(まえ)に出し自らを庇う。

 薄皮一枚にまで圧縮させた生体障壁、そこへ神気を練り込んで重ねるは<疑似聖楯(スヴァリン・システム)>。北欧最高峰の防護性能を誇る結界は、物理衝撃を隔絶してしまう。

 

 抉り込むように直線的に迫る棍を、金色に瞬く右手が掴む。

 

「ぐ、ぬ―――」

 

 衝撃波、殺した。はずだが、重い。想定以上に重すぎるインパクトは、クロウをしても阻み切れず、圧し飛ばされた。

 

「ひひっ、これを受けても壊れん肉体とはな―――ますます嬲り甲斐のあるものよ!」

 

 金環棍を携えた白猿人の手が、奇術師の手管で操られるステッキのように、軽々と横に流れた。

 

 ―――巨棍が、唸る。

 

 いや、振り回される過程で遠心力に引っ張られていくように伸長し、建物の大黒柱を連ね束ねたかのような巨棍と化したというべきだろう。

 その異常な光景は、日本人でもある武器の名前に辿り着くことだろう。

 

 

「海底をならすこの<如意金箍棒>! ヌシの身は星よりも硬いか?」

 

 

 『海の重り』として製作された、地殻を潰す『宝貝』。

 その重量は、1万3500斤――現代の単位になおせば約8tである。変幻自在に伸縮する神珍鉄の棍棒をもって、超質量の重撃がこの倉庫街ごと銀人狼を薙ぎ倒そうとする。

 総戸数棟を吹き飛ばしながらも、勢いが微塵も留まらぬ一閃―――その暴虐を、迎え撃つは神殺しの剛腕。

 

「―――忍法、雷切の術!」

 

 ダメージを承知で、神気の防護を攻撃に転じる。<疑似聖拳>の左手刀を横合いから打ち込み、そのまま下に鍔迫り合いながら滑り込ませた手の甲に『如意棒』を乗せる。そして、神狼の豪力でもって強引に払いのけて、軌跡をずらす。

 その大胆さと繊細さの入り混じる衝突は、闘牛士と闘牛のそれを連想させた。

 あれだけの力を誇る<黒妖犬>が、真っ向から力をぶつけるのを回避して、そして、それでも、被害は免れなかった。

 白猿人が振り回した扇状の範囲にあった全ての建物が打ち砕かれ、その軌跡を逸らした銀人狼の腕もまた骨が折れてしまう。

 しかし、

 

「次はこっちだ」

 

 振り回した、あとに大きく開いた身体、その隙を見逃さない。

 戦意は依然と衰えぬ金人狼は、白猿人へ、無数の気分身を作りながら疾駆。

 それに、猿の翁は懐かしむように目を細め、

 

「ほう、彼奴の拳法かそれは」

 

 さらに繰り出してはなった紫電迸らせる気功砲。

 ―――それを、<白石猿>はあっさりと躱す。

 

「型は正しい、力も十分―――じゃが、“意味”がない。『四聖』を冠しておる“意味”を理解しておらん。

 そのような“猿真似”がこの儂に通じるものか!」

 

 <石兵>とともに発生し、そして、“<石兵>の術式が破壊されてからも”残っていた濃霧。それが渦巻いた。

 濃霧は、風水術で呼び込んだのだけで敷設されたものではなかった、とようやく悟る。

 異様なまでに凝縮された霧は、ありえないほどの干渉力を持つに至り、その“小賢しい”分身を悉く、圧し潰していく。

 

「な……っ!」

 

 残像だけではなく、己の気を別けて固めているはずの分身らが、この凝集した霧に捻り潰されていく。そして、本体の自身でさえも、疾走を半減するほどに鈍らせる。まるで海中にいるかのように、空気が重くさせる濃霧の圧。

 

「じゃが、血を継いでる。力もあるのは確かよのう。なら、あとは肝心な破壊衝動さえ育てば、彼奴との殺し合いの続きができるか」

 

 にんまりと白猿人は、嗤う。それがあくまでも“老婆心めいた親切から”でてきた“匂い”だと覚り、クロウは身体だけでなく表情も強張らせてしまう。

 

「そのためにわざわざ“隠し玉”を用意したのだからのう」

 

 ひひ、と白猿人は笑った。

 ひひひ、ひひひ、ひひひひひ。

 ケラケラケラケラケラケラケラケラケラ。

 ケラケラケラケラケラケラケラケラケラ。

 ケラケラケラケラケラケラケラケラケラ。

 

 深く覗いてはならないものを孕んだ嘲笑。

 その危機感に突き動かされ、一秒でも迅速にこの標的を仕留めようと獣気で濃霧を吹き飛ばした刹那―――稲妻がこの身を貫いた。

 

「な、んで―――!?!?」

 

 濃霧から現れたその人影。

 雷撃に痺れ動けぬ人狼は、ただそれを拝む。

 

 

「見てわからない? ちょっと強引だけど“彼”、私たちの仲間になったの」

 

 

 旧いスクーターによりかかった小柄な少女が、脇に従える“少女と同じアカい目の色をした少年。

 ヘルメットを頭に被り、スタジャン姿の少女は、微苦笑しながら、少年の肩に手を置いて、その名を呼んだ。

 

 

「ね、暁古城?」

 

 

彩海学園

 

 

 それは、『大規模食糧備蓄庫』突入前に遡る。

 

 唐突に、保健室のベットに寝かされていた暁古城が、目を見開いた。

 薬が効いてきたのか、苦鳴が小さくなり、看護していたアスタルテらは症状が落ち着いたと思ったその時のことだ。

 

「先輩―――!」

 

 ごふ、と開いた口からこぼれ出た嫌な音とともに、粘っこい血の塊が、少年の口元から胸元を滴った。

 瞳孔が収縮して、眼球が裏返る。それからほとんど人体の限界まで背筋を反り返らせ、何度となく少年の身体が痙攣し―――強張ったまま、横倒しに崩れた。

 

「第四真祖!」

 

 その頸動脈へ触れ、アスタルテは表情を強張らせた。

 

「心停止を確認……!」

 

 すぐさま、白衣が翻った華奢な身体が予めいざという時に薬を用意していたテーブルへ向かう。

 そこで背を向けた判断は、誤った。

 アスタルテが目を外したその時、ずっとそばに張り付いていた姫柊雪菜へベットから伸びた手がその腕を掴んだのだ。

 

「え、……っ!」

 

 細腕を握り掴まえられて、雪菜は呻いた。

 けして、先輩が回復したのではなかっただろう。

 だが、この力。

 訓練された剣巫でも振り解けぬほど強い握力。

 上半身をもたげた監視対象の、瞳孔を収縮させた目が、虚ろに監視役を映している。虚ろなままで、今や万力の如く雪菜の細腕を握り潰さんとしている。それは少女の骨格だけでなく、暁古城の指や腕の筋骨もまた、ぎちぎちと嫌な音を立てていた。

 今も、この真祖の心臓は止まったままだ。

 毒にやられてか吸血鬼の再生能力が働かず、わずかに―――細胞が壊死しない程度の微かな脈動こそあるものの、止まっていると判断しても間違いない状態だ。

 それがこんな筋力を出せるはずもなく、

 

「先輩、どうし―――――あ……っ!?」

 

 掴んだ腕から、電撃が走る。

 宿した眷獣の力を一端を引き出して、雪菜は気絶させられる。その騒ぎを察知して、アスタルテが振り向けば、目に映ったのは、正気を失い、無残な涎を唇の端から垂らした暁古城の姿があった。

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

「古城!?」

 

 優麻らもまた、濃霧から少年の人影がくりぬかれたのを視認した。

 間違いない。古城だ。

 でも、瞳の焦点は定まらず、首も斜めに傾いでいる。肌の色も灰色にくすみ、その横顔からは壮健な少年の面影は失われている。歩いているその動作もまた、まるで壊れたロボットのようにぎこちない。

 

「彼に何をした!」

 

 明らかな異常に優麻が強い言葉で問い質す。

 白猿人は、にたりと嗤いながら、応える。

 

「実はのう、第四真祖が自害した<化血刀>は、血を変えて、『僵屍鬼(キョンシー)』とする毒じゃったのよ。いわば、『ゾンビ・パウダー』というやつじゃな」

 

 元来、動死体(ゾンビ)とは、映画に出てくるような“死体の化け物”ではなく、“死体のような従順な僕”のことだ。

 猛毒にて仮死状態に追い込み、自意識を失わせた上で好きに操るという呪法。この呪法で用いられる毒素を、『ゾンビ・パウダー』と呼ばれている。

 その毒を投与した昼から陽が落ちるまでの時間をおいて、<第四真祖>――暁古城は、限りなく意思の抵抗力が落ちており、この状態であれば難なくとディセンバーに支配するに足りた。

 

「オマエ……っ!」

 

 その意気通りに比例して強まる、濃霧を蒸発させんばかりの滾る体熱を発している人狼に、飄々と肩をすくめて、最古の『獣王』は言う。

 

「何を憤るか、この程度はまだましじゃろう? ヌシに流れる血――<黒死皇>は殺した上で骸を弄んだからな」

 

 白猿人の言葉はあくまで軽く。

 続く台詞は、クロウの過去を抉った。

 

「はて、ヌシも家族を人形としたのは聴いておるのだがの。カエルの子はカエルということか」

 

「―――っ!」

 

 抉り抜いた。

 瞠目と共に、クロウは硬直してしまう。

 

 そこへ、そんな動揺する姿を憐れんでか、優しく囁きかける少女。

 

「アンディシンバー、あなたが批判したい気持ちはよくわかる。私としても不本意なのよ。もっと彼の意思で私たちについてほしかったんだもの」

 

 黙ったままの古城の頬を、ディセンバーは愛おしむように撫でた。

 

「でも、手段は選んではいられないみたいだし」

 

 暁古城の肉体を、支配することはできた。

 だがしかしだ。

 『世界最強の吸血鬼』の象徴である、純粋で濃密な魔力の塊であり、それぞれが自立した意思を持つ眷獣までもが従えるだろうか。

 かつて、その10万人分の生贄にも勝る膨大な魔力をもった肉体を借り受けた<蒼の魔女>は、眷獣の召喚までも自在にすることは不可能であった。

 

 しかし、先程、金人狼を撃ち抜いたのは、まぎれもなく雷光の獅子の一撃。

 そして、ディセンバーは白い牙を剥いた、吸血鬼特有の鋭く巨大な牙を。

 

「“お願い、<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>”―――!」

 

「な……に……!?」

 

 彼女の呼びかけに応じて、暁古城の全身の血液が沸騰したように膨大な魔力が放たれ、虚空に巨大な獣を顕現させる。荒ぶる雷霆でもって、“かつてこの倉庫街を破壊した”、黄金の鬣を持つ獅子。凄まじい勢いで宿主の生命を喰らう。召喚し、使役できるのは、無限の負の生命力を持つ吸血鬼のみ。それ故に、吸血鬼は最強の魔族として周知され、その中でも、この災厄に等しき怪物は、世界最強の吸血鬼――<第四真祖>の眷獣である。

 

「―――やらせるかっ!」

 

 人狼は、震える感情を噛み砕いて、強引に呑み込む。

 今は、迷っている場合ではない。

 相手が、先輩を死霊術に類するもので操縦しているのであれば、<黒妖犬>にその呪縛は解ける。

 クロウは走る。

 雷光の獅子が完全に実体化する前に、これを止めるため。

 

「本当に、私の後輩は敵に回すのは厄介よね」

 

 困ったように言って、すべてを魅了する少女はぽんと手を叩く。

 

 

「仕方ない。もうひとりの子に頼りましょう」

 

 

旧南東地区 回想

 

 

『……我は、汝の望みを叶えた……次は……次は、古城の番……』

 

 

 え? と少年は息を止めた。

 彼女の言葉はなにをいっているのか理解できない。だが、恐怖した。

 

 

『アヴローラ!?』

 

 

 少年の右腕が、少年自身の意思に反してゆっくりと持ち上がる。その手に握られていた金属製のクロスボウ、装填を終えていた銀色の杭が、彼女の心臓へと照準が合わせられる。

 間違っても、そんなこと少年は望んでなんかいない。

 

 

『やめろ……!』

 

 

 輝く彼女の瞳で、少年は全てを悟る。

 少年は彼女の――『血の従者』だ。そして、主人である彼女には、従者の少年の肉体の支配権がある。

 こんな展開を望まずとも、彼女の意思ひとつで、少年は彼女を撃つ。

 

 

『やめろ、アヴローラ!』

 

 

 そう、どれほど必死に抵抗しようが、血の呪縛には逆らえない。

 彼女は望む。

 この絃神島を、少年の世界を守るために、『原初(ルート)』の完全なる抹消を。

 

 

『兵器として造られた“呪われた魂”は、我と共に、ここで消える……だが……』

 

 

 そして、この『原初』から解放された<第四真祖>の“力”を少年に。

 

 そのために、彼女は、『原初』とともに消滅する。

 

 

『<第四真祖>の力のすべては汝に託そう。受け取れ』

 

 

 やめろ、アヴローラっ!

 少年は最後まで制止を呼びかけるも、その手は彼女――アヴローラの意思に導かれるままに、引き金に指をかける。

 クロスボウに装填された、真祖殺しの破魔の聖槍が撃ち出された。

 

 

『古城……』

 

 

 最後に少年の名前と、その想いの言葉を紡いで―――羽毛のような軽い音を立てて銀槍が突き立った左胸より、少女の鮮血が散った。

 純白の光が、視界を染めて、

 荒れ狂う魔力の奔流の中で、純白の雪が舞う。

 

 

 そして、少年――暁古城は、深い深い忘却の眠りへと誘われた。

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

「仕方ない。もうひとりの子に頼りましょう」

 

 

 そう言って。

 ディセンバーの唇はこう動いたのだ。

 

「古城、従者の娘に命じて」

 

 そして、深い濃霧をくりぬいて現れるその小さな人影。

 天使のような虹色の翼が羽ばたき、濃霧を振り払う。

 アスタルテだった。

 その身に宿した人工眷獣<薔薇の指先>を召喚している―――(まご)うことなく臨戦態勢。

 しかし、それが彼女自身の意思ではないことは、金人狼の視界いっぱいに映り込む表情から明らかだった。泣いている。感情表現の希薄な、人工生命体の少女が、涙をこぼしていた。

 

「本当、嫌がることはさせたくないんだけど」

 

 ディセンバーが心底残念そうに溜息をついた。

 

「でも、思ったより強いから仕方ないわよね」

 

 その焔色の瞳の輝きが、強まる。

 

 アスタルテは、暁古城の『血の従者』だ。

 人工生命体には養うのはあまりに寿命を削り過ぎる、人工眷獣の魔力を賄うために従者とした。

 だから、暁古城を支配すれば、アスタルテの服属も容易であった。

 

「せん―――ぱい―――」

 

 『血の従者』は、主人には逆らえない。

 その命令には、抗えない。

 どれほど泣き叫ぼうとも。

 

「く……そ……」

 

 <第四真祖>の眷獣召喚を阻むための最短距離に、立ちはだかる障害。

 魔力を反射する巨人の腕、それに抱かれる人工生命体の少女は、儚く脆い。

 力任せに、強引に薙ぎ払うことなど、できたとしてもできようがなかった。

 

 

「くっそ、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 

 結局、少年は、前回、この倉庫街で下したものと同じ選択をした。

 

 

 

つづく



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奈落の薔薇Ⅳ

人工島東地区 食糧備蓄倉庫

 

 

 獅子吼とともに。

 閃光(ひかり)が―――すべてを包み込んだ。

 

 

 高熱は、倉庫街の地表部を洗い流した。

 神の怒りの如く蹂躙する雷光の獅子は、それだけでこの場にある食料を焼き尽くすには十分すぎた。

 巻き上がった粉塵が落ち着くのに、数十秒ほどかかったろうか。

 

「……さすが、<黄金の獅子>。私とタイプは違うけど、やっぱり同じ同胞(はらから)は出鱈目ね」

 

 のんきな感想が、元倉庫街にこだました。

 いや、もう“元”という呼称でも符号すまい。

 高電離気体(プラズマ)の嵐が吹き抜けた部分は、あまりの熱に地面が抉り取られ、表面はガラス状と化している。港の隣接した海岸より巻き上がった水滴が当たるたび、じゅうっと音を立てて蒸発する有様だ。この一区画に範囲制限で御していた局所的な万雷はおよそ1kmほどで自然放散するようになっていたが、そうでなかったら、絃神市のどれだけを呑み込んだことだろう。

 見下ろせば、輻射熱だけで顔の産毛をちりちりと焼ける。

 

「私たちの“後続機(コウハイ)”は『五番目(あなた)』と顔合わせは済ませてるのよね。だから、あんなに判断が早かったのね」

 

 野獣のような形相で慟哭し―――そして、胸の奥から猛スピードでせり上がってくる、凶暴な感情を、呑み込んで、彼は撤退した。

 

 喉までこみあげてきたその錆びた鉄を舐めたような味、それ即ち憤怒の味を噛み締めた<黒妖犬>は天上に吼えた。

 

『<守護龍(フラミー)>―――ッ!』

 

 事前に上空で待機していた白き獣龍が急滑降して、<白石猿>と<第四真祖>、ディセンバーを巻き込む軌道で突貫。

 それで斃されはしないが、意識を上に誘導し、また眷獣召喚までの刹那の時間を引き延ばす。

 契約した龍母が場を混乱させると同時、全力疾走の突進から急制動して、タイムラグはほぼゼロで<黒妖犬>は切り返す。軽々とビルの屋上から屋上へと跳び駆ける『獣王』の脚力をもってすれば、吸血鬼の動体視力でもってしても油断すれば視界から消え失せてしまう。ぶちぶちと筋繊維が切れるほどの引き返しで、仲間の少年少女に二、三言をなにかを告げると、雷光の獅子の顕現を待たずに、単身で、空間跳躍した仲間たちとは別行動で、倉庫街から離れていった。

 もう召喚阻止が無理だとわかった以上は、倉庫街は守れない、戦ってもその余波で確実に荒れる―――ならば、切り捨てる。

 その判断は正しい。

 こちらも雷光の獅子に攻撃させる前に、千賀毅人にロギとハヌマンを連れて空間転移をさせなければ、巻き込まれたほどの圧倒的な蹂躙劇だ。嵐の中で無事なのと言えば、宿主の暁古城と、同胞のディセンバー、それから魔力に対して絶対の反射能力をもつ巨人の眷獣に護られた人工生命体の『血の従者』だけ。

 

「でも、危なかったわ。古城を連れて早く駆け付けなかったら、毅人とロギやられそうだったもの」

 

 だけど、“隠し玉”の投入で一気に盤上は逆転した。

 それほどに<第四真祖>の力は脅威なのだ。一体で、戦争の趨勢を決めてしまえる破格の存在。

 

「……でも、世界を変えるのは世界最強の吸血鬼でも難しいのよ」

 

 実感のこもった呟きを零すと、ディセンバーは通信機を取り出して、後衛の娘にも全員無事に作戦終了を教えようと―――

 

 

「作戦は成功。撤退するわ、カーリ……………カーリ……?」

 

 

紅魔館二号店

 

 

 新聞の一面にでかでかと写真が掲載されるのはやはり、絃神島の『食糧備蓄倉庫(グレートパイル)』で発生したテロ事件。

 瞬く間に、雷光が閃いて一帯が焦土と化した超常的な災害によって大手食品会社の倉庫に人工島管理公社が失った備蓄食料は、絃神市民一人当たりに換算しておよそ60日分にもなるという。

 停電したのは二万世帯を超えて、そのうちの半分近くは今朝になってもまだ復旧の目途は経っていないという。幸いにして、東地区の倉庫街と隣接する西地区の連絡橋とモノレールの軌道は無事、それから死傷者は出ていないようで、状況が落ち着けばすぐに復旧工事に移れるだろう。

 して、損失を金額に換算すれば百億から二百億円、間接的なものまで含めると五百億はくだらないといわれている。

 

「ん、と―――」

 

 バイト先に押しかけて、店住まいの店長に無理を言って、ここで休ませてもらった。ほんの2、3時間のことだが英気を養えたクロウは、椅子を並べたベットから立ち上がる。

 慎重に身体をチェックする。

 腕と足をゆっくりと曲げ、伸ばし、ついでに肩や腰、背中の筋肉なども入念に確かめる。最後に右手、左手とをぐーぱーと握り開き。自分の身体がどの程度使い物になるか知っておくのは、基礎の基礎だ。たとえクロウが無茶に無茶苦茶を重ねるタイプとはいえ、むしろだからこそ、こうした点検は怠らない。

 数分ほど静かにストレッチを行い、次の数分は軽く跳び、シャドーボクシングみたいに手足を軽く振り回し始めた。師父からは擬獣拳法『象形拳』を教えてもらったりしたが、クロウが訓練したのはもっぱら手加減のためである。力いっぱいに振り抜きながらも、致命傷足りえない“みねうち”のようなものだ。

 動きは徐々に速く、鋭くなる。

 気を練りながら、かつて戦いの中で学び取った獣人拳法を再現。それは見ている者にも、彼の想定する相手が視えるほどだ。

 イメージトレーニングの相手は、ひとり。過小評価することも過大評価することもなく、昨夜に感じ取ったままに、淡々と少年はウォームアップを重ねる。

 そして、実際に動きながらこの“血の原本”が編み出した技術体系の中にある“意味”を深く噛みしめるように検討し―――

 

「どったんばったん、とついに皿だけでなく私の店まで壊す気!?」

 

 と二階にある自室からドタバタと駆け下りてきた女店長カルアナから怒られた。

 抗議され、ちょうど一通り終えたので、薄くかいた汗を拭ってから、ぺこり、と頭を下げるバイト少年。

 

「ごめんなのだ。いつもの日課をやらないと目覚めた気がしなくてな」

 

「それを毎日やってよくあんたの家は全壊してないわね」

 

「う、昔はよく、部屋の壁とかぶっ壊してご主人に怒られてたのだ。でも今は時々だぞ。月に一回くらいだ」

 

「月一でも十分被害が大きいわよ! うちでやったらあんたの飼い主に請求書送り付けるからね!」

 

 かりかりとご立腹な『紅魔館』の二号店の経営を任された女店長。

 ただでさえ、人工島強制鎖国状態に、昨夜の『食糧備蓄庫』の全焼で、食糧の物価がとんでもなく頭が痛いことになりそうだというのに、この面倒事(トラブルメイカー)が面倒事を持ってきたのだ。

 

「それで“また”拾ってきたみたいだけど……どうやらあんたの飼い主だけでなく、あんたも私の店を託児所か何かと勘違いしてないかしら」

 

「そんなことはない。あいつを子供たちのところと一緒にしたら、大変なことになる」

 

「それって、爆弾ってことよね。私の店を本当どうする気なのよ!」

 

「むぅ、でもあいつはカルアナのところ以外じゃ預けられない。ご主人はいないし、警備隊のみんなもピリピリしてる。それに、今のまま管理公社まで連れていってたら、自害しかねないのだ」

 

「ほら、やっぱりそうよね! そうだと思ったのだわ! ああもう!」

 

 きしゃー! と声をあげながらカルアナはブルネットの髪を掻き乱す。

 それから気の済むまで大声でシャウトした後、どかっと椅子に座る。乱れ髪を軽くに整えてから、クロウに見せつけるように思い切り嘆息してみせて、

 

「……わかった。いいわよ。ここで放り出したら、夢見が悪くなるじゃない」

 

「ん、カルアナなら引き受けてくれると思ったのだ」

 

「ふん……これは貸しよ。しばらくはタダ働きできつく扱き使ってやるわ」

 

 今のカルアナは眷獣が使えないが、『旧き世代』で『戦王領域』の貴族だった。それでも、このバイト少年の頼み事はどうも断れない。

 この少年に命を救われた、また、大事な選択を誤る前に踏み止めてくれた、と憶えてなくてもそう思える。

 そして、今も戦い続けているのがわかってしまう。

 ならば、多少の支援はしてやろうと。身元不明の少女を預かるくらいは―――

 

「でも、カルアナひとりに任せるのは悪いから応援を呼んでおいたぞ」

 

「え゛……」

 

 がちゃ、と『閉店』のプレートを下げた店の入り口が開いた。

 音に反応して振り向くよりも早く、その気配だけで思考も何もかもが凍り付いた。

 指一本に至るまで完全に硬直したのを、カルアナは感じていた。ああ、これが勘違いであったらどんなにいいか。そんな風に自分をだますことも許されない。なぜなら、一度会ったこの王者の重圧を間違うことなどあり得ないのだから。

 ぎこちなく、顔を向ければ、

 

「う、そ―――」

 

「来てやったぞ、クロウ。俺に頼み事とは何だ?」

 

 朝の静まり返った空気の中で、その落ち着いた声は厳かに響いた。何人たりとも木端には阻めぬ支配者の威。同族であるからこそ上位者であることを強く実感してしまう。

 

(……ああ)

 

 もしかして、今日が私の命日なの? と走馬灯のようによみがえる懐かしき故郷の情景に目を細めて、だが、気を抜けば、その気まぐれ次第で刈り取られてしまう。

 すぐここから去ってほしい、なんて、嵐の夜が過ぎるのをベットの中で震える女の子とシンクロするカルアナの胸中を察することなく、トラブルバスターにしてトラブルメイカーの少年はあっさりと頼みよった。

 

「ん、今日一日くらいここで店番してほしいのだイブリス」

 

 クロウが呼んだその、ゆったりとした白い衣装(カンダーラ)をまとう、見た目12、3歳ほどの年若い少年は、『滅びの王朝』の第九皇子。元でなくても貴族のカルアナには及びもつかない殿上人な真祖直系のイブリスベール=アズィーズ殿下である。

 

「ほう、この俺に『戦王領域』の没落貴族の下で働けというのか」

 

 流し目でやられて、カルアナは、あなた様の上に立つなど滅相もないと首を横にぶんぶん振る。この前は自棄になって、即興オリジナルメニューを出して、どうにか命拾いしたというのに。

 せめてその頼みごとをこの凶王子にする前に、自分の許可を取ってほしかった。そしたら絶対に、この馬鹿犬の頭に拳骨落として小一時間、いいや聞き入れるまで説教してやったから。

 最後の一線を捨て去ってしまうところを制してくれたにしても、この少年自身のブレーキの方が壊れてない?

 

「う、イブリスならきっとキャラ設定とかいうのしなくてもやれるくらい個性的だから大丈夫なのだ」

 

「(クロウ~~~っ!?!?!?)」

 

 ぐ、と拳を作って自信満々に言うクロウ。カルアナ涙目。イブリスベールもこの対応に慣れてか唖然とはしないものの、やや驚いたように眉を上げる。

 もうこの命の恩人だか疫病神だかわからないこの犬少年は、入店お断りにした方が良い気がしてきた。吸血鬼だけど清めの塩とかぶつけてやろうか。

 そんなあともうひと押しで『どうにでもなーれ』とやけっぱちモードに入りそうな、現在現実逃避中の女店長を他所に、話は進められる。

 

「慣れないことをさせるのはわかってるけど、こういう頼みごとができる魔族の友達は、イブリスくらいしかいないのだ」

 

「ふ……俺はお前の実力は認めているが、しかし、いつ友となったのだ?」

 

「ん、本気でぶつかり合える相手で、お互いに共通点があって、一緒にご飯を食べれるようになれば、それはもう友達だとオレは教わったぞ?」

 

 違うのか? と小首傾げる少年。

 この常識の通じないほど敷居(ハードル)の高い相手に、常識を説くこの非常識ぶりは没落してから庶民の感性を磨いた女吸血鬼には卒倒ものだ。

 なのだが、

 

「……………そうか」

 

 満更でもない様子で頬を緩める凶王子。

 

「分相応を知れ、と言ってやるところなのだろうが、それは野暮だな。特別、契約を交わす必要もない。正直、馬鹿なくらい素直な友が一人くらいは欲しいと思っていたところだ」

 

「今度、オレのおすすめのラーメン屋に連れてくのだ」

 

「よかろう。友の頼みで下働きをすることとなろうが俺の誇りに傷がつくことはない。しかし」

 

 と、イブリスベールが問う

 

「ならば、お前を傷つけた相手を誅罰すべきではないか?」

 

 ぞくり、とした。

 カルアナがのぞき見た視界に映った、凶王子の表情は最初と変わってはいないが、少年の内側まで切り込むかのような目の色。

 

「いや、いい」

 

「何故だ?」

 

 王子の寛容を断る真似をして、けれど、むしろ優しい声で呼びかけた。

 

「俺はクロウを傷つけた輩のことを知っている。<白石猿(ハヌマン)>。アレは、我らの真祖が支配する『夜の帝国(ドミニオン)』を荒らす第二の『獣王』。『滅びの王朝』を相手にして、『不滅』を騙る不届き者よ。そして、彼奴だけではない。賊の中には、この俺が恐れた、『宴』に参加し得なかった『王』がいる―――第一、お前の主人をも封じ込められている今、頼れる手が足りないのではないか?」

 

 少年は、己の裡まで射貫く眼差しを、その金瞳で真っ直ぐに受け入れる。

 

 ―――親指。

 

 森を出て主人と育まれた思い出を宝箱のようにしまっている頭には、まだ靄がかかっている。

 

 ―――人差し指。

 

 傷つけられた体は勝手に治るが、この手を握ってくれた後輩はここにはいない。

 

 ―――中指。

 

 己に成り済まして大事な場所を荒らし、師父と先輩を傷つけられて、背に寄りかかれる支柱を失う。

 

 ―――薬指。

 

 迷い、寂しさ、不安はある。押し潰されそうなくらい肩に重圧がかかっている。

 

 ―――小指。

 

 でも、心の鼓動はこの胸を叩いている。

 

 

 

「あいつらは、オレの手から大事なものを()った―――だから、これは、オレの手で奪い返すべき戦争(ケンカ)だ」

 

 

 

 確認作業をするかのように。

 左手の指を順々に、一本一本、握り締めて、言い切った。

 

「イブリスは、手を出さないでいい」

 

「ほう。俺の手を払うからには、それなりの勝機はあるのだろうな?」

 

「ん、それなりにな。ちょっと矢瀬先輩に頼んで用意してもらってる」

 

「では、此度は静観するとしよう」

 

 不思議なことに。

 格の違う王族だと思っていたが、その少年の言葉に同じ感想を抱いているような、そんな考えがカルアナに過ぎる。

 甘いかもしれないけれど、賭けてもいいとも思えてしまうような―――

 こほん、と咳払いをして、やりとりを終えたのを見計らって二人に割って入り、クロウに向けてつっけんどんにカルアナは言った。

 

 

「一日だけあの子の面倒を見ててあげるから、とっとと行きなさいクロウ」

 

 

動物病院

 

 

 冷たい部屋に、アスタルテは倒れていた。

 打ち出したコンクリートと思しい、床の上だ。

 藍色の長い髪が無造作に投げ出され、ほっそりとした白い手足は金属錠で拘束されている。

 もっとも、この身に宿している人工眷獣まで封じ込められてはいない。“許可”さえ解かれれば、<薔薇の指先>は通常通りに現出が可能である。手足こそ束縛されているが、眷獣共生型人工生命体の肉体に余計な手は加えられていない。

 しかし。

 別の理由で、人工生命体は動けなかった。

 微動だに出来なかった。

 

(私……は……)

 

 今にも自壊しかねないほどの膨大な思考が、人工生命体の内側で行われていたのだ。

 推理。

 計算。

 傾向。

 ああ、そうだ。

 自分の思考に、どうしようもない偏りがあるのだと、人工生命体は改めて認識してしまうのだ。

 

 ひとつずつ、アスタルテは思い返す。

 まずは、拾ってくれた教官への感謝。

 第四真祖・暁古城や姫柊雪菜、学内でよく関わり合う面々に抱いた親しみ。

 叶瀬夏音、ニーナ=アデラート、時々、ユスティナ=カタヤとのひとつ屋根の下で生活する喜び。

 それから、あの宿直室で扉の向こうから聴こえたやりとりに、暁凪沙に覚えた羨望……とほんのわずかな、感謝。

 そのどれもが、アスタルテに学習装置で入力(インストール)された知識では解せないものだった。

 そして、あの日の記憶が再生(リプレイ)される。

 

 ―――『先輩がいないと、私は寂しくなるそうです』

 

「っ……!」

 

 心臓が、跳ねた。

 思い出すだけで、人工生命体の思考が熱暴走(オーバーヒート)する。だから再生(リプレイ)は控えるべきだと思っているのに、脳内の検索事項にピン留めされている。

 

 ―――『ほう、マスターの命に忠実なホムンクルスのプログラムだからなんて言い張るのか? 可愛いものだ。だが、それはないな。ここのところのお前を見る限り、行動の中心は教官わたしではなく先輩あいつのようだ。教官の命通りに馬鹿犬のサポートを考えるなら、見るのは馬鹿犬ではなく、その周囲だ。それくらい、いちいち説明されるまでもないだろう?』

 

 去年の大晦日にて、教官が、指摘したこと。

 

 ―――『知らないようなら教えてやろう。それは、■、というものだ』

 

 ■。

 ■。■。■。■。■。■。■。■。

 禁じられた単語は、しかし人工生命体に仕込まれた思考回路によって補正され、

 

 

 ―――『それは、恋、というものだ』

 

 

 恋。

 それはありえるはずがないもの。

 人工生命体が第一に優先すべきは使命(プログラム)だ。そうあれかしと造られた。だから、こんなものはバグのはずで、一刻も早く、一秒でも早く修正しなければならない誤動作のはずだった。まるで出口で待ち構える猫に怯えて迷路から出られないでいる鼠のように、アスタルテは何度も何度もその言葉と自分の偏りを思考が往復し、検証してしまう。結論を出すことを怖がってしまう。

 ……しかしながら。

 結局、辿り着く答えが変わることはない。

 あたりまえのように……だって、それはバグでも、誤動作でもない。

 

(本当に、私は……馬鹿ですね……先輩のことを言えません)

 

 基準設定で引かれた一線より先をずっと意識しないようにして、一体なんだったのだろうか。

 倒れたまま、拘束された手で顔を覆った。

 目を開けられるようになるまでの、少しの間だけ。

 覆っていた手を降ろすと、露わになった水色の瞳は、かつてない決意に満ちていた。

 

「……動か……ないと……」

 

 ぎゅ、と拳を握る。

 この気持ちを、どう受け止めるのだとしても。

 暁古城を、この現状を打開しなければならないという、その行動は変わらない。恋だとしても使命だとしても、いいやその両方なればこそ、自分の動機はより強固なものとなるだけだ。

 ひとつ、深呼吸した。

 脆弱な内臓筋が伸縮して肺が効率よく酸素を摂取し、血管を通して脳へと送り込む。その一息を基点に、打開策の思索を開始する。自分を束縛する金属錠の素材と形状、部屋の建築材や重量構造といったデータ、自分の現状の身体能力と人工眷獣、それから『血の従者』のラインで大まかに悟る第四真祖の位置座標などと、可能な手段をすべて洗い出す。

 諦める選択肢などなかった。

 たとえ無為であっても関係ない。不可能だろうが問題ない。自分は挑戦し続けられる。延々と試行錯誤(トライアンドエラー)を繰り返そうが、思考を停止することなどありえない―――そういう人工生命体であることに、初めてアスタルテは心底から感謝した。

 

 壁に貼られたプリントに、デフォルメされた肉球のマークが印刷されている。『センガ・ペットクリニック』と記載されており、それが偽装でな(ただし)ければ、おそらくこの建物を示している。そのほかに記載されていた電話番号と住所から、ここは商業地区(アイランド・ウエスト)の裏通りにひっそりと建っているものと思われる。

 

 確かに病院であれば、見慣れない人間が出入りしようとも怪しまれることはない。危険類に分類される薬品も仕入れることができ、それなりの社会的な信用もある。

 

 位置はそれなりに知れた。次は外へ連絡できる手段を探す。

 

(……先輩)

 

 思う。

 あの少年は、自分の先輩は、無事でいるだろうか。

 無事で、いてくれてるだろうか。

 様々な予測(シュミレーション)が脳内の回路で構築され、その度に同じだけの種類の感情が人工生命体の胸に去来した。あるいは苦しく、あるいは甘酸っぱい感情でもあった。

 きゅ、と唇を噛む。

 自分が耐えられるように、この身が引き裂けて、バラバラになってしまわないように。

 一体、いつの間に、自分はこんな感情を覚えてたのだろう。

 覚えてしまったのだろう。

 そんな疑問を、脳裏に浮かべたときだった。

 

 ぎい、と扉が開いたのだ。

 一瞬飛び掛かろうとして身構え、その人影が複数であると認識した途端、アスタルテは息を止めた。

 

「へぇ、まだ反抗する意識があるなんて、驚いた」

 

「……っ」

 

 中性的な体つきの小柄な少年。アスタルテと同じ、自然界にありえない藍色の髪。男女の差異はあれど、見た目の年齢もアスタルテと同じ十代前半で、まるで鏡映しのような対面。そう、彼は、錬金術と遺伝子操作によって生み出された人工生命体であることを示している。

 

「ボクはロギ。安心していいよ、君のことはラーンが調べた、ボクたちは君を実験動物(モルモット)みたいな扱いはしない」

 

 変声期前の子供のような、澄んだボーイソプラノの声で、抑揚乏しく淡々とアスタルテに告げる。

 アスタルテの表情が顰める。

 尋問する気が向こうにあろうとなかろうと、アスタルテが尋問に答える気などない。だが、<タルタロス・ラプス>は“アスタルテの最もしたくないことをやらせた”。

 

「ディセンバーも、第四真祖も連れていない。君の自由意思を無視して、無理矢理に口を開かせる術を俺たちは持ち合わせちゃいない、と一応これでも誠意を見せたつもりなんだがね」

 

 人工生命体の少年の背後には、中年男性。

 よれた灰色のジャケットを着て、神経質な芸術家のように長く伸ばした髪。

 そして、男は興味深く目を細めている。“教え子の預かるもうひとりの(準)魔族”を測るような意図を感じ取ることができた。

 

「かつて、ロタリンギアの祓魔師とともに破竹の勢いでキーストーンゲートの最下層まで快進撃を続け、あと一歩で偉業(レコード)を残せたであろう君は、我々が敬意を受けるに値する」

 

 千賀は少しだけ笑みを含みながら、超然と賛辞を送ってきた。

 

「四基の人工島(ギガフロート)を連結するための要石が置かれたキーストーンゲートの最下層は、この『魔族特区』のいわば急所。当然その区画は厳重に封印されている、卓越した空間制御能力を持つ那月でも無断侵入が不可能なくらいにね。その強固な防壁と、何重にも張り巡らされた結界を解呪できるのは、絃神島の設計者である絃神千羅と、絃神千羅から封印術式の発注を受けた当時欧州の大学に勤めていた風水術の権威―――そして、そのデータを持った教授の弟子である私だけだと、思っていた。あの完璧な防衛を突破できるものなど、この片手にも満たないはずだった。だから、君の報を聴いて私は驚いたよ」

 

 思わず目を見開いて、反応を返せずに固まっていると、部屋の出入り口から、また新たに、ひょっこりと顔だけをのぞかせるだぶだぶの分厚いコートを着た少女が視界に入る。可愛らしい顔立ちをしているのに、無表情で目つきが悪い。

 そんな彼女がカップ入りのアイスクリームをトレイに乗せて、アスタルテの前にまで運んできた。まるで、栄光授与のトロフィーでも渡すかのように。

 

「すごい」

 

「………」

 

 マフラーの少女からも称賛を受けるも、アスタルテは閉口したまま。無論、蓋にマジックで黒々と『ディセンバーの!』と書かれたアイスをいただくことはない。

 打てど響いてこないアスタルテの様子を訝しんでか、マフラーの少女は少しだけ表情を曇らせて、すぐ、注意書きを気にしてると思ったのか。

 

「大丈夫。誰も気にしてないから」

 

「………」

 

 ただそれでも反応は返らない。“歓迎しているのに”、この無反応さにマフラーの少女は困ったように首を捻り、この中で大人の千賀を見やる。

 

「きっといきなりのことで驚いているのだろう、ラーン。でも、見ての通り、<タルタロス・ラプス>は、君と同じ子供が構成員の半分を占めている」

 

 千賀は、まるで転校初日の転校生をクラスに迎え入れる先生のような、柔らかな口調でアスタルテへ語る。

 

「だけど、俺はこの子たちに、『魔族特区』の破壊をやらせたことを一度たりともない。彼らは自ら望んで<タルタロス・ラプス>に入ってくれた」

 

 何も知らない子供たちに、テロリストとしての技能を植え付けたが、それは、この国の政府に拾われた少女たちが獅子王機関で戦闘訓練を施され攻魔師となるのと同じこと。二つの境遇に光と影の差こそあれ、鏡に映したようによく似ている。

 そして―――

 

「もう気づいているかもしれないが、このロギは、君と同じ、『魔族特区』の違法な実験で兵器として改造された人工生命体だ」

 

 眷獣共生人工生命体(アスタルテ)と似たり寄ったりの境遇だ。

 

「………」

 

 それでも。

 アスタルテの口が天岩戸の如く開くことはないが、千賀は構わず演説を続ける。

 

「だが、<タルタロス・ラプス>が絃神島を壊そうとしているのは、単に『魔族特区』に対する怨恨だけではない。確かに彼らは『魔族特区』に虐げられてきた存在だが、俺たちはすべての『魔族特区』を破壊するつもりはない。

 絃神島が破壊目標として選ばれたのには、特別な理由がある」

 

「………」

 

「絃神島の設計者――絃神千羅は、『咎神(カイン)』の復活を望み、その目的のためならば、どんな非道な手段でも実行する。アスタルテ、かつてこの人工島が何を土台にしていたものなのか、その供犠建材を奪還しようとした君ならば当然知ってるだろう」

 

 ロタリンギアの『聖人』の遺体。

 絃神島の設計時、不足した要石の強度を確保するために、絃神千羅は禁忌とされた供犠建材を解決策として選び、そのために、ロタリンギアの大聖堂より『聖人』の遺骸を簒奪した。

 ―――それを解放するためにアスタルテと彼女を使役した西欧教会の殲教師ルードルフ=オイスタッハは、要石のあるキーストーンゲートの最下層へと踏み込んだ。

 

「けして許されざる所業だ。西欧教会の殲教師の怒りは、正しい、単なる人工島の壊滅を望んだテロリストと批難されるものではなく、正義のある、『聖戦』と呼ぶに相応しい行いだった。惜しむのは、彼が単身でそれを行おうとし、そして、真実を知らなかったことだ。

 安置された『聖人』の遺体を土台としたような男が、目的もなく人工の『魔族特区』などというものを設計したと思うか?」

 

 いや、それはない、と千賀は断じる。

 

「証拠もなしに、俺たちの言葉を信じろというのは無理な要求だ。だけど、この絃神島が引き起こす惨劇の犠牲者は、<タルタロス・ラプス>がこれまでに殺した人間の数とは桁が違う。そうだ。絃神千羅はこの『魔族特区』を、『咎神(カイン)』を復活させるための祭壇として築いた。

 そして、絃神千羅が死去した後も、彼の思想を受けついた者たちが、絃神島の中枢に今も残っている。本物の魔導の探究者たちが、何十年もの歳月をかけて準備を整えてきた、『咎神』復活は何としてでも阻まねばならないのだ」

 

 だから、<タルタロス・ラプス>は、自らの手で実行する。

 自分たちがこれまでに滅ぼしてきた『魔族特区』の事実を公表されなくても、『魔族特区』を破壊したという実績は、自分たちの主張を裏付けてくれるものとなるために。

 

 これは、大義のある行為なのだ。

 そう、かつて、ロタリンギアの殲教師と同じように。

 

 

 

「………」

 

 

 

 それでも、かつて、そのロタリンギアの殲教師に連れられた人工生命体の少女は言葉を発することもなければ、賛同に頷くこともない。

 この先生の演説を聴いてるのに胸に響いたような反応もなく、無礼な対応を続けるアスタルテに、千賀ではなく、同じ人工生命体のロギが痺れを切らした。

 

「ふん……まさか、まだ『魔族特区』の連中に肩入れしてるのかい? あんなお前を置いて、尻尾を巻いて逃げたようなヤツらなんかを……」

 

「よせ、ロギ。世界最強というのは伊達ではない。あの状況では<黒妖犬>も逃亡を選択するのも無理はなかろうさ。<第四真祖>の眷獣に巻き込まれて生き延びるのは奇跡のようなものだから」

 

 千賀がロギを制止した。

 子供たちが対抗心を剥き出しにしているのはわかるが、それは今、吐き出すものではない。

 だがそんなお子様じみた行いが、口も利きたくないと閉ざした唇を震わせた。

 

「否定。撤回を求めます」

 

 同じ顔作りをしたロギを睨み据えながら、きっぱりと言葉を突き付けた。

 

「先輩は教官より、誠に残念なことに美意識を継いでいませんが、その現場における判断は、間違えたことがありません」

 

 アスタルテは淡々と言う。

 

「先輩は、あのとき、誰よりも状況を把握していたでしょう。ならば、行く先は訊かずともわかります。その結果も予想がつきます」

 

 彼らは聖人君子の正論を並べているつもりなのだろうが、アスタルテには開き直りにしか聞こえない。

 

「何を言って……?」

 

「あなた方の主義主張は理解しました。ですが、同意できません」

 

「なんでだよ!? お前だってボクと同じ、兵器として造られた実験体だろ!? なのに、どうして<タルタロス・ラプス>を受け入れないんだ……!?」

 

「肯定。私とあなたは同じです」

 

 その部分だけ、アスタルテはロギの主張を認める。抑揚の乏しい彼女の声に、かすかな哀しみの声が入り混じる。そして、それ以上に滲むものがある。

 

「私も、かつてこの島を破壊しようとしました」

 

「だったら―――」

 

「彼らが、先輩が、あのとき私を止めてくれたから、私は失われていたはずの大切な人々と出会えた」

 

 無感情なはずの瞳に、強い意思の光が宿っている。それは<タルタロス・ラプス>に対する怒りや哀れみの感情ではなかった。同類らにも揺らがしえない、断固とした想いだ。

 

「そして、先程、あなたが批難した先輩――<黒妖犬>は、私たち同類(じっけんたい)の中で最も過酷な人生を歩んでいます」

 

 このロギという人工生命体が、アスタルテと同類の実験動物であることは理解した。しかし、そのアスタルテとロギがかつて陥ったその地獄のド真ん中を今も昔も歩き続けている先輩は、迷いながらも、その流儀は確固たるものだ。如何なる理由があろうとも命を粗末に扱うものに容赦しない。

 

「あなたがどのような人生を経験してきたのかは知り得ませんが、それでも、彼の在り方と比較すれば、安い」

 

 悲劇の使い道は様々だ。胸に抱え込んでいるものもいれば、語り聞かせるものもいる。人生の指針とするものもいることだろう。

 だが、それを抱えたところで無関係な人間を巻き込んでいい理由とはならない。御大層な大義名分があれば民間人を死なせても構わないと思考が行き着いた時点で、掲げた言い分は底値をついた。

 

「っ、ふざけるな! あんな負け犬にボクたちが劣るなんて……!」

 

「では、確認します」

 

 昂る感情がそのまま熱量に変じたかのように室内に陽炎が現れるが、臆することなく。アスタルテは視線を逸らさず、真っ直ぐに問い掛けた。

 

 

「『食糧備蓄倉庫(グレートパイル)』の<第四真祖>の眷獣による破滅行為に、“死傷者は出ましたか?”」

 

 

 ロギの頭が沸騰しかけたが、ラーンはあっと声を上げた。

 ふるふる、と首を振る仲間の少女を見て、ロギは否が応でも悟る。

 

 <第四真祖>の暴威で倉庫街はメチャクチャになっていた。住民の食料を焼き尽くすにとどまらず、一帯を焦土と化したぐらいだ。

 だが、そこに足りないものがある。

 悲劇だ。

 予め倉庫街で働く民間人を批難させていたとはいえ、倉庫街にはテロリスト集団捕縛の為に特区警備隊の面々が詰めていたはずだ。だが、今朝のニュースで死傷者は確認されていない。先ほど千賀が生き延びるのが奇蹟と称するような大災厄に、確実に巻き込まれたであろうに、怪我人はひとりもいなかった。殲滅の雷光に呑まれる直前に、警備隊員を後光が包んだ。それはかつて錬金術師の襲撃を受けた船において聖護結界を張り巡らせた時のように。瞬時に生体を感知できる嗅覚とその土地一帯を覆えるほどの気量を誇るものだから可能だった“力業”だ。おそらく警備隊員だけでなく、調べれば見えざる手に救われた者はまだいるはずだ。

 

「結局、先輩が介入した現場で、あなた方は誰ひとりとして殺せてはいません」

 

 告げられた推測ではない事実に、ロギの喉が干上がった。

 

「先輩の強さは、あなたと同類だった私さえも奈落の底からすくい上げた、あの力強い腕にこそあります」

 

 圧倒的な世界最強の暴力で蹂躙される間際であっても、僅かでも気を逸らせばそれが致命的な隙となる戦場であっても、

 標的の捕縛よりも、要救助者の救助を優先する教官(マスター)の薫陶を受けている<黒妖犬>はそこの判断を間違えない。

 そして、それを自覚することがない。その程度は当然の所業だとばかりに、自賛と主張することもしなければ、自分で意識したことはないのだ。あのしょっちゅう先輩面で自慢げに振る舞おうとして失敗している彼にとって、世界最強の災厄を凌いでも、まだ大したことではない。ならばあの先輩が思い描く最善とは、はたしてどこまでのレベルが要求されているのか。

 

「先輩が求めているのは、世界最強の暴力などではありません。あなた方が数多の『魔族特区』を潰してきたのだとしても、世界最強の暴力をも包み込める、当たり前の最後の一線で踏み止まれる理性の力の方が、私の目には気高く映ります」

 

 アスタルテの先輩は、その判断を変えることはなかった。だから、自信を持って言える。<タルタロス・ラプス>の美辞麗句で並び立てた誘いを一顧だにしない。

 

「ッッッ!! それでも、ディセンバーだったなら、あのとき、お前を救っていたッ!!」

 

「ならば、あなたは何を救えるのですか?」

 

「―――」

 

「それが語れないのであれば、先輩に対する言動の撤回を求めます」

 

 支離滅裂となり始めた人工生命体の少年の主張を止めてしまう。その問いかけは、喉元に刃を添えるような圧迫感に言葉を窮す。

 

「ボクは―――」

「―――<タルタロス・ラプス>は、世界を救う」

 

 人工生命体同士の会話を打ち切らせて、割って入った千賀は、熱くなっているロギを下がらせた。

 

「いや、しかし驚いた。ロギもそうだが、実に多弁、自身の主張は持たないはずの人工生命体らしくない主張をするものだ。……那月は一体君に何を教えたんだ?」

 

「先輩と同じことを」

 

 それから、この胸の裡の感情の名を。

 

「もったいない……まったく、もったいないな」

 

 俯く顔を手で覆いながら、口からはっきりと落胆を滲ませた声音を零す。

 一応訊くが、と前置きを入れると、千賀は姿勢を正してアスタルテを見据えた。

 

「返事を訊こうか。かつて果たせなかった偉業を俺たちとする気はあるか? できれば、進んで協力してほしいと願っている」

 

「否定。私はかつての行為を繰り返すつもりもなければ、あなた方と行動を共にする気はありません」

 

 その回答に千賀は顔を顰める。同類の少年少女も拒絶の意思に無表情を崩す。

 

「なんでだよ……おまえも、ボクと同じじゃないのかよ……」

 

 項垂れるロギらの姿を、アスタルテは無言のまま見つめる。

 

 

「ひっひ、フラれたのうロギ」

 

 

 扉の向こうから複数の足音と共に聴こえてきたのは、その様を茶化す(ひず)んだ声音。

 

「この娘子はヌシに靡かんが、そう落ち込むでない、いずれヌシにもつがいは見つかろう。だから、あまりそう癇癪を見せるのは雄として格好悪いぞ?」

 

「ふざけるなッ、ハヌマン! ボクたちは真面目な話をしてたんだぞ!」

 

「ひっひ、儂は姫よりも<タルタロス・ラプス>の古株(OG)なんじゃが、呼び捨てとは悲しいのう」

 

「そんなのあんたが遊んでばかりだからだろう! もっと最初から真面目にやってれば……」

 

「<白石猿>は不滅であるからに儂は生涯現役よ。……じゃがのう、とうの昔に次代へ席を渡した。儂から見ればヌシらはひよっこじゃが、今の<タルタロス・ラプス>を仕切ってるのなら、流石にオムツの面倒まで見てやれねばならない赤子ではなかろうに。尻を拭くくらいヌシらでやれい」

 

 不真面目にも耳の穴を指で掘りながらであるが、二の句の告げなくなる物言いにロギは震える拳をより強く握りしめるしかできない。

 それをまあまあ、と宥めるのは、異国人の少女、ディセンバー。

 

「失恋して悲しいのはわかるけど、ロギ、私は大好きよ。なんなら、胸に飛び込んできていいわ、慰めてあげる」

 

「うるさい! ディセンバーまでふざけるなよ」

 

 そのやり取りはまるでお節介な姉に反抗する、大人ぶる弟のようで。しかし、すぐディセンバーは表情を沈んだものに変える。

 

「ディセンバー、カーリは?」

 

「ごめんなさい、ラーン。私たちも捜したのだけど、見つからなかったわ」

 

 置物のように静かだったラーンが訊ねれば、ディセンバーは沈痛な面持ちで残念な結果を伝えた。

 

「本当にごめんなさい。あのとき、カーリがやられていたことを知らなかった。きっと後衛(バックアップ)だから無事だって、そう思い込んでた……“私達”の力がそう簡単に制御できるものではないとわかってたのに……」

 

「っ、ディセンバーのせいじゃない!」

 

 落ち込む姿に反射的に否定の言葉が返るが、ゆるゆるとディセンバーは首を振る。

 

「儂もちょいっと手合せに昂じて気づかなんだ。悪かった。すまん。まあ、死体は見当たらんし、どこかへ逃げ込んでるじゃろ、多分な」

 

「あんたは黙ってろ!」

 

「ひっひ、姫と儂とでこうも態度が違うとはのう。これは、儂も老いぼれのままではなくか弱い女子(おなご)に化けた方が良かったか」

 

「ハヌマン、これ以上ロギをからかうのはやめてくれ」

 

 千賀が場を治めるが、アスタルテはその喧騒は聞こえていなかった。

 部屋に入ってきたハヌマン、ディセンバー、そして、三人目。未だに茫洋とした瞳の少年、<第四真祖>暁古城。

 彼を診ていたものとして、今の状態が気になり、それを見取ったディセンバーがアスタルテへ安心させるように言う。

 

「古城は、問題ないわ。毒で死んだりはしないもの」

 

「貴女の証言に信頼性が確認できません」

 

「そうよね。まあ、私としても彼を死なせてしまうのは本意じゃないし、<第四真祖>には毒を克服できる眷獣()がいるのよ。完全に目覚めてないけど、宿主は必ず守ろうとするはずだし、私たちが何もしなくてもいずれ克服できるでしょう。だから、大丈夫。むしろ、“オクトバー”がまだ眠っているから毒の効能が抜け切れずに操れてるんだけどね」

 

 妙に確信を持って語るディセンバー。

 <第四真祖>の眷獣にやけに詳しいみたいだが、いったい……その話題に深く切り込む前に打ち切るよう、千賀が話を戻す。

 

「では、今後の計画は、カーリをいないものとして行う」

 

 教え子がひとり行方不明であるが、千賀の目は落ち着いていた。それは先ほどまでの凪のような穏やかさというより、冷え冷えとした氷の世界を思わせた。

 この先生の決定に、教え子らは唇を噛みながらも異を唱えることはない。

 

「ディセンバー、ラーン、君たちは『七星壇』で<タルタロスの黒薔薇>の起動を」

 

「ええ、わかったわ」

 

 ディセンバーは応じ、同じくラーンも無言で首肯する。

 

「ロギ、お前はカーリと共に藍羽浅葱の暗殺を任せるつもりだったが……無理なら妨害でいい」

 

「問題ないよ。ハッキングが使えなければ、ただの一般人なんだろ。だったら、ボク一人で十分だ」

 

 人工生命体らしく表情を動かさず応答するロギに、千賀は短く『油断はするなよ』と告げる。

 

「して毅人よ、残る儂らは、本丸へ切り込むのか?」

 

「ああ、そうだ。キーストーンゲートには、穴熊を決め込んでいる上級理事どももいる。存分に暴れてくれ」

 

「了解した。おお、祭が楽しみじゃ」

 

 そして。

 最後に、冷徹な眼差しをこちらに向けた。

 

「赦せ、とは言わんよ。だが、こちらも余裕はないんでね。使えるものは使わせてもらう」

 

 ……意識は、残された。

 残されてはいたが、それはひどくか細い糸のようなものだった。

 その糸を引っ張っている間、かろうじて意識を保てるのだが、強く引っ張り過ぎればたちまち糸は断裂してしまう―――そういうジレンマに苛まれると同時に、抗いがたい支配が少女の感覚を押し潰していた。

 

「アスタルテ、命令だ―――」

 

 少人数で『魔族特区』に破滅をもたらさんとする<タルタロス・ラプス>にとって、捕虜の見張りに割く余裕はなく、一名の欠員でも大きく響いてくる。

 だから、新たに補充する。

 あの誘いが、きっと最後通牒であった。けれど、それはあくまでも彼らの自己満足のために。端からこちらに選択の自由はないのだから。

 

「我々と共に、キーストーンゲートに襲撃を仕掛ける。かつて果たせなかった偉業を再演せよ」

 

 ディセンバーが寄り添う暁古城の虚ろな眼差しを向けられる。それだけで、指一本も動かせない。『血の従者』としての支配意識か、それとも人工生命体に刻まれた隷属本能なのか。

 それでも、唇が動く。

 

「……デ」

 

命令拒否(ディナイ)……私は……)

 

 必死に、外界へ訴えかけようとする。何かひとつでも、抵抗を世界に刻みつけようとする。

 

「……ぅ……」

 

 それでも、呻きさえ、言葉にならない。様々な感情がない交ぜになって、体内でとぐろを巻いているのに出てこない。

 そして、この強制を阻むものはいない。大人たちは眷獣共生型人工生命体の有用性から利用したいのだろうし、子供たちも『事が終われば、きっと目が覚めて、仲間になる』と盲目的に自身らの価値観を信じている。

 

「―――」

 

 ああ、もういっそのこと。検証できる記憶にある、アスタルテの同型機であるスワニルダが『人形師(マイスター)』への執着で思考回路が狂ったように、自身も……

 

 

キーストーンゲート

 

 

 絃神島で最も天に近いとされる摩天楼。

 『魔族特区』の中心地であるその最下層には、人工島四基を連結させる要石が安置される。

 キーストーンゲート。その最上階の屋上。

 普通であれば立ち入り禁止とされる場所で、かつてこの絃神島の最高地点にて島全土を調べ尽くす魔導書の儀式が行われた。

 奇しくも、その中核を担ったふたりがそこにいた。

 

「クロウ君、<タルタロス・ラプス>の場所は掴めているのかい」

 

 強風に煽られる髪を直しながら声をかける少女に、望遠鏡もなくそれ以上の超人的な視野で注意深く観察する少年は、獲物の臭いを嗅ぎ取った肉食獣のようにひくっと鼻を動かして、

 

「ん、だいたいだな、優麻。さっきディディエに教えたから、今頃、特区警備隊が向かってる。それに――にも連絡したぞ。ホウレンソウは大事なのだ」

 

 <蒼の魔女>仙都木優麻と<黒妖犬>南宮クロウ。

 二人はキーストーンゲートの屋上で揃って、眼下にある街並みを見ていた。

 

「……いいのかい?」

 

「何がだ?」

 

「本当は助けに行きたいんだろう?」

 

「それを言うなら優麻も古城君が心配だろ?」

 

 上級理事らからお達しがあった。

 猟犬ではなく、番犬をやれ、と。

 上級理事らのまとめ役でもあった名誉理事・矢瀬顕重の殺害に、昨夜の一区画が消滅したという騒ぎに、より危機感を煽られ、簡単に蹴散らされたという特区警備隊だけで守りを固めたのでは不安になったのだろう。上層部は<タルタロス・ラプス>の撃滅よりも『魔族特区』にとって重要なモノ――即ち中枢であるキーストーンゲートと管理運営する上級理事たち自身――を護衛するように厳命したのだ。

 そのため、絃神島の重要なキーパーソンを連行しにいった矢瀬基樹を除いて、テロ対策チームは、このキーストーンゲートより離れることは許されていない。

 

「はっきりいって、この後手後手の対応は悪手だよ。<タルタロス・ラプス>は、この絃神島を滅ぼす気だ。どこへ隠れようとも逃れることはできない。だったら、相手の策を出させる前に先手を打つしかないのに……」

 

 嫌みのない人付き合いの上手い彼女が、こうも批判するのは珍しい。

 大事な幼馴染が敵の手中にあるというのに自由に動けないことに、優麻は苛立たしげにその端整な顔立ちに皺を作る。

 

「でも、その無理を聞いてるんだから、ちょっと俺の“わがまま”を通させてもらうぞ」

 

 とひとつ息を吐くと、頃合いと直感した厚着の少年は、主人より『鍵』の代行を任された際に引き継いだ『黄金の籠手』を左腕に現出させる。

 

「空間制御の結界は張った。ここでの魔力反応は外に漏れないよ」

 

『こちらもハッキング完了。しばし屋上を監視する衛星カメラには、同じ映像を繰り返して(リプレイで)流すように細工したでござるよ』

 

 そして、ここにはいない『覗き屋』矢瀬基樹にも、その名誉理事に連ねる権限でもって、しばらく警備の都合上と言い聞かせて、人員を屋上へ近づけさせないよう人払いをしてもらった。

 こうして、この一時、キーストーンゲートの屋上は、魔術と科学の両面、それから人の“目”から離された区域となる。

 

「―――<(ル・ブルー)>」

 

 優麻の背後より無謬の騎士が現れる。

 これからやる行為は、<黒妖犬>には不足した魔女の技量、すなわち<空隙の魔女>の代行だ。若い魔女には分不相応だが、“契約上”、悪魔は出資を惜しまないだろう。

 そして、<監獄結界>の管理者代行がその証である黄金の籠手を掲げ、

 

「起きろ―――」

 

 長い呪句は唱えず、短く告げる。

 その意に応えて、屋上に優麻が描いた魔法陣より、その人影が浮かび上がる。

 

 これから行うのは、大晦日に<第四真祖>とその監視役の剣巫を試した大技、<魔女の騎行(ワイルドハント)>。

 その固有結界の限定発動だ。

 『鍵』の権限を持つが、魔女ではない<黒妖犬>には呼び出せず、そして、<蒼の魔女>は<空隙の魔女>の技量には遠く及ばない。

 だが、個人。たったひとり、それも、契約した悪魔が全力で補助してくれるのであれば、一時、“面会”することが可能―――

 

 だが、それは<空隙の魔女>をして、決して出したがらない魔導犯罪者。

 

 クロウ達の目の前に、浮かび上がった立体映像のような人影が徐々に色付いていく。

 

「……ぁ」

 

 思わず、優麻の喉から声が漏れた。

 遺伝上は母である彼女は、優麻と双子の姉妹と間違えるほど見た目の年齢差はないように見える。

 違いといえば、髪の長さと、火眼金睛の人間離れした目の色。身に纏っているものは平安京に住まう女貴族のような十二単だが、それは華やかな重ね着ではなく、白と黒の二色だけで染められた死神を想起させる装い。

 顔立ちは若く美しくも歳を経た邪悪な、そして、<空隙の魔女>と同格の大魔女のはずであった。

 

「………母さん」

 

 幾多の感情を押し殺して、優麻はやっと口にした。

 

 

 

「………」

 

 それに視線すら反応を返すことはない。己が自由を得るために培養された複製体の娘(クローン)に一瞥も見向きすることなく、魔女の幻影は黙り込んでいた。

 眠りより覚めた直後からか、何度か瞬きして、周囲を見やる。数ヵ月ぶりに現世を視認する時差を埋めるための空白であるかもしれない。

 しばらく時間が過ぎた。ひとつ息を吸うごとに強固となるようなその沈黙を破ったのは、彼女の方だった。

 優麻ではなく、『鍵』の証である金籠手を左腕に付けたクロウと見つめ合い、仙都木阿夜は静かに告げてきた。

 

「よもや、この(ワタシ)を起こすとはな……思いもよらなかったぞ、那月の犬」

 

「急に呼び出して悪かったな。お前に訊きたいことがある」

 

 視線を交差させて、クロウは言った。

 

「答えてやる義理はないな」

 

「そうか。じゃ、情報交換の契約をするか。お互いに質問して答える。ウソとか言ってもいいけど、きちんと両者の対価がある程度釣り合うようにやる。話の価値はそれぞれの自己評価でな」

 

「……ほう、魔女に……契約を持ち掛けるか」

 

「オレは馬鹿だけど、魔女が契約を破らないくらいちゃんと知っている」

 

「ふん」 阿夜は小馬鹿にしたように鼻で笑った。「そのような古い作法を守るのは、純血の魔女……だけだ。生まれながらにして、悪魔に魂を奪われた純血の魔女は、どんなに些細であれ契約を破るのを忌避する。……犬には思いつかぬ狡い手だな。誰に入れ知恵されたものか」

 

 唾を呑む優麻。

 こちらの考えた交渉術も、所詮は子供騙しと。

 

 なればこそ、そう易々と果たせるつもりはない。

 阿夜の幻影が腕を軽く振るった。魔力のある無数の文字の羅列が宙を踊り、魔導書の一節を描き出した。

 仙都木阿夜――<書記(ノタリア)の魔女>の能力は、記憶の中にある魔導書の再現だ。

<図書館>の『総記(ジェネラル)』である大魔女の頭脳は万を超える蔵書を修めた書架の迷宮も同然。その悪魔の叡智を自在に複製(コピー)して、力ある魔導書を手元に投影現出してしまえる。

 

「しかし、“すでに全てを知る”我に値する情報があるのか?」

 

「っ、あれは『No,539』―――!」

 

 手には『遠見』の魔導書。

 幻影ながらも複写された『遠見』の魔導書の頁を捲るだけで、異世界に閉じ込められていようと現世の出来事を知ることができる。

 

「既知の出来事を語られても、無駄……そのような戯言は雑音と変わらぬ。耳にせぬ方がよっぽど良い」

 

 現世とは隔絶された異世界にいて十年間も、虎視眈々と<空隙の魔女>の背中を狙っていた悪辣の大魔女。それが情報戦で後れを取ることなど許せるか。<書記の魔女>が恐ろしいのは、戦闘だけに非ず、その一大組織を長としてまとめた政治の手腕の駆け引きはけして侮れるものではないのだ。

 痛恨の失態に、唇を噛む優麻。

 まずい、これじゃあ向こうにペースを持っていかれてしまう。

 『母の脱獄』という契約上、この“面会”に優麻は協力できるが、逆にそれは『母の脱獄』を邪魔することはできないので、この交渉にまで口出しはできない。

 

「ふん。那月め、侮ったな。あの程度の浅い策に嵌るとは……身内にはどうしても甘くなるのが、奴の欠点だ……しかし、千賀毅人は気に喰わん……まあ、こ奴が、この世界の歪みの象徴である人工の島を潰すというのなら、それを見物するのも一興、だがな……」

 

 つぅ、と流し目を送る。

 仙都木阿夜のみは深い。影色の魔力に輪郭を縁取られたその笑みは、妖艶とも、凄惨とも見えた。黒々とした髪、妖しく煌めく双眸は火眼金睛、捲れた唇から覗く米粒のような歯。

 

「我が一石を投じれば、那月を助けることもできる。仙界の魔導書で閉じ込められようと、我の智慧を授ければそれを打開するのも容易かろう……が。それには、<監獄結界>の『鍵』―――新しい解除(デコード)プログラムが対価に見合うか」

 

「いや、いい」

 

 ………

 ………

 ………

 

(………え?)

 

 しばらく固まった空気が解かれて、思わず優麻は少年を見やる。

 この時ばかりは、この同時に狼狽えた、同遺伝子の親子の反応はまったく同じだった。

 

「……状況がわかっていないのか……我の力でなければ、那月は助けられない」

 

「だから、いらない。オレは単に話がしたいだけだ。ボソボソとなんか小難しい単語を並べてたけど、力を貸してくれなんて一言も言ってないぞ」

 

「な……に」

 

 まるで、学校の推薦でも断るような、ひどく気軽な口調であっけからんという少年に、これは初めて動揺の色が魔女の面相に滲む。

 

「勘違いをするな。オレが訊きたいのは、そんなお説教じゃない。お前の知恵袋は別に必要としてない」

 

「………」

 

 ああ、これはきつい。

 なんかもうお気の毒だ。

 優麻は、視線を外してしまう。

 実はあまり口上手とは言えないのに、久しぶりの喋りに興が乗り口先で場を支配してみせた策士が上から目線で対等な交渉は望めない、一方的に値を釣り上げる、願いを叶えたければ悪魔に魂を売れと語ったところで、あっさりと一秒も懊悩せず、それも話しが合わないと指摘されて却下される。

 これをやられると立つ瀬がない。聴いてるだけで居た堪れない気になってくる。

 空気の読まない発言に固まった思考は隙だらけ―――そこに差し込まれる少年の問い掛けとは?

 

 

「お前の知るご主人を教えてくれ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――仙都木阿夜と話がしたい、と。

 

 最初にそう彼にお願いされた時は皆、協力してもらうのか、打開策を授けてもらうのかと思った。

 南宮那月もいない状況でそれがいかに危険なものかとは解ってはいたが、ここまで第一線で身体を張り続けている<黒妖犬>のために、できる限りの協力は惜しまないつもりだった。

 だから、それは彼らの予想を裏切るような展開で、同時に彼らしいものだった。

 

「それは……どういう……?」

 

「オレが知ってるのは、今だけだ。あまり過去は話してもらったことがない。たまに聴かせてもらうことがあるけど、それはいつも哀しい“匂い”がする」

 

 瞼を伏せぎみにして、囁く。

 

「だから、知りたかった。昔のご主人を一番知っていそうなのは、ご主人の友達のお前だから」

 

 つまり、<図書館>の『総記』としてではなく、南宮那月の親友であった仙都木阿夜の話が聞きたい、と。

 

「っ、犬風情が、那月を理解したい、だと……」

 

 空気が、張り詰めた。

 喚び出されたとはいえ、実体のない幻影。だがその静かな怒気は、この場を凍てつかせていた。

 そのように、非魔女が土足で踏み込もうとするような真似は、大魔女の琴線に触れたのか。

 その威圧に口を閉ざさず、クロウは言葉を紡ぎ続ける。

 

「純血の魔女が迫害されてきたというけどな―――オレはご主人に救われた」

 

 それは大魔女の虚無の眼差しにも凍てつかせない、仄かなあたたかみのあるもの。

 

「この島に来てからも何度もご主人には助けられた。オレがご主人を救えるかなんてわからないけど、ご主人はオレを救ってくれたんだ」

 

 それは、少年の始まり。

 

「だから、ご主人の力となれること自体は、すごく誇らしかった」

 

 呟きが、凍てつく空気に紛れる。それは徐々に温度を空気に伝わせて。

 瞼を固く閉じて、自分の内側を、クロウは掘り出していく。

 

「だから、そういう自分になりたかった」

 

 ふわりと唇をほころばせた。

 

「うん、最初は無理やり契約されて、横暴だと思ったけどな」

 

 かつては俯いていた少年は、胸を張り、揺るがぬ声で、

 

 

「―――南宮那月こそ、オレの主だ。ご主人の使い魔(サーヴァント)として仕え、尽くす。“お月様”のように導いてくれたから今のオレがあるんだから」

 

 

 真祖だろうと、咎神だろうと、仰ぐ主人は彼女以外には考えられない。

 

「これは、何があっても変わらない。だから、別に昔話とか聞かされないでいいと思ったけど、なんか、こうもやもやさせられる。それじゃあダメだ。だから、知っておきたかった。ただそれだけだ」

 

 ……そして。

 阿夜の瞳がじっとクロウを見据える。虹彩の色が、僅かに変わって見えた。阿夜は落ち着き払った声で独り言のように呟いた。

 

「そうか……」

 

 と、大魔女が何かを思い出すように首を捻った。

 和服の袖から覗いた指先で顎に触れて、遠い過去の思い出を語るかのように、口にする。

 

「……那月は、“太陽”を求めていた……あ奴を、眠りから覚ましてくれる、な」

 

 その言葉を、すんなりと受け入れてしまった。転がる石がすとんと落ち着く場所(あな)に入ったかのような、理由のない感情。偽りのないもの。

 そこへ上乗せするように、純血の魔女は続けた。

 

「春眠暁を覚えず……那月の使い魔であるなら、これ以上、惰眠をむさぼらせるな」

 

 それ以上、南宮那月の過去は語られない。

 そして、それ以上、必要はない。

 

「うん、ありがとう。それだけで十分だ」

 

 にっこりと、クロウは笑ったのだ。

 この頭上を照らす輝きにも負けない、まるで久方ぶりに曇りが晴れた時の太陽みたいな笑顔だった。

 今の文句は、クロウの胸を強く打った。

 打たないはずがなかった。

 

 かつて、忌み子と蔑んだのが仙都木阿夜であった。

 だが、誰もこれを変節とは呼ぶまい。

 この大魔女がどれだけ南宮那月に執着し、認めていたか。この世界でたったひとり、友と呼び合えるのが彼女であった。永い眠りについていようが想いは風化することのない、大魔女が告げた言葉の重みは、まさしく千金にも勝ろう。

 

 そんなすっきりした感じで、

 

「じゃあ、何が知りたい?」

 

「……いや、いい。……那月にあのときの賭けはこれでチャラだと言っておけ」

 

「む、なんか借りを作るみたいだから、お前もなんか言うのだ。魔女の契約なんだから言わないとダメだぞ」

 

「ちっ……」

 

 鬱陶しそうに舌打ちする大魔女。

 これ以上、このペースを狂わせる子供の相手をしたくないのだろう。だが、こうもまっすぐに見つめてくる相手はどうにもしつこい。“面会”を行使しているのがこの少年である以上、退去には彼の許可が必要であり、しかし何か要望を出すまでそれを許しそうにないという。最悪、こんなところで『南宮那月への主張大会』となりかねない。

 そんなのは、ごめんだ。

 深く――人間味のある――息を零すと、クロウの法被、そのポケットにある紙片を見つける。阿夜はそれを指差して、

 

「それを……寄こせ」

 

「ん? これか?」

 

「那月を封じた……仙界の魔導書とやらに……興味がある」

 

「でも、これ贋物だぞ?」

 

「構わん……どうせ、魔力のない、写本だろうが……“情報”はある。……偽ろうが、内容は透けて見えるものだ」

 

 あの時掴まされた魔導書の紙片。主人の姿が描かれているものもあるため捨てるに捨てきれないそれをクロウは、阿夜へ渡す。

 それをしばらく眺めていた大魔女は、ふん、と鼻を鳴らした。

 <書記の魔女>。

 魔導書に関して世界で右に出るものが存在しないであろう大魔女は、この短時間で、しかも写本から原典の内容を予想解読してみせたというのか。

 

「なんだ……<図書館>にも寄贈されていない、と……語っていたが……大したことはない……こんなもの、『No,121』で容易く破れる」

 

「?」

「―――っ!」

 

 きょとんとするクロウ―――とは対照的に、優麻は大きく目を見開いた。

 一方で、それでも、阿夜は彼女には一瞥すらしない。

 

「では……話は、これで終わりだ」

 

「ん、わかった」

 

 “面会”が終わり、その幻影が消え去る―――寸前に、前に出た。

 そして、前に回り込むと優麻は、阿夜へ挑むかのように、

 

「ボクはっ! まだ<監獄結界>からの脱獄を諦めていない! あなたが築いた<図書館>を解体すれば、魔女の力を失ったあなたを釈放することができる!」

 

 そのまっすぐな優麻の言葉を、阿夜は無表情で受け止める。

 そこに血の繋がった親子の情など、ありえない。

 『波朧院フェスタ』での一件が、初対面であるその二人に、そんな育まれる時間も何もない。

 (ぜつ)のない鐘と同じ。こんな主張は叩いたところで何も響いてくるものがないのだ。

 それでも。

 この少年にあてられたせいなのか。

 

「あなたがボクに契約させた魔女の呪い、必ず打ち破ってみせる!」

 

 優麻は意地でも、自身の存在を認めさせてやろうと、彼女らしくもなく吠え立てた。

 視線を通わせた二人は双子の姉妹のようで、

 赤の他人よりもなお隔絶した壁が間にある。

 

「だから……っ、母さん、首を洗って待ってろ! あの時、ボクを刺したこと、まだ許してないんだからな!」

 

 その宣戦布告を受けても、仙都木阿夜の火眼金睛が揺れることはない。

 遠くに霞む蜃気楼のように揺らいで、<書記の魔女>の幻影はいなくなった。

 

 

 

「勝手に、しろ」

 

 そう、一言だけ<蒼の魔女>へと送り。

 

 

人工島西地区 浅葱家

 

 

 絃神島封鎖。

 名誉理事の爆殺。

 キーストーンゲートのサーバーをハッキング。

 そして、暁古城の襲撃―――と失踪。

 <タルタロス・ラプス>の起こす一連のテロ騒ぎに、お手洗いの間に暁古城が拉致られたことに、堪忍袋の緒がブチ切れた藍羽浅葱は、自分にできることをと動いていた。

 苦しそうにする古城を放ってはおけず、バイトをサボってでも看病していたが、そんなのは自分らしくなかった。

 後輩(クロウ)が頑張っているというのに、何もせずにただ神頼みするのは浅葱の性には合わない。そして、電脳世界において敵なしとされる(不本意ながら)伝説を築いたハッカー<電子の女帝>が全力を出すには、手持ちのノートPCではパワー不足。自宅にある浅葱がバイト代のほとんどを注ぎ込んで組み上げた、デタラメに高性能なコンピューターでなければ。

 不幸中の幸いというのは不謹慎ではあるが、人工島東地区の『食糧備蓄倉庫』で起きた破壊テロの影響で、絃神市内の公立学校は、軒並み臨時休校になっており、彩海学園も例外ではない。

 交通網も麻痺してることから朝帰りで帰宅した浅葱は、早速自室に引き籠り、女子の部屋には似合わぬ無骨な業務用ディスプレイとラックマウント式のPCクラスタと相対し、相棒――絃神島を制御する五基のスーパーコンピューターの現身(アバター)の補助人工知能(AI)モグワイの尻を引っ叩いて、<タルタロス・ラプス>に関するあらゆる情報と古城の消息を徹底的に調べ上げる。

 昨夜の大停電の影響で出遅れてしまっているが、浅葱が本気を出せば十分に巻き返せた―――はずであった。

 

 

「―――敵襲です。お嬢様(マスター)、お逃げください!」」

 

 

 部屋に駆け込んできたのは、和装の給仕服にエプロン姿の―――しかし衣装はすでにボロボロの浅葱お付の白髪の人工生命体<水銀細工(アマルガム)>のスワニルダ。

 その様子からすぐに彼女が戦闘後、もしくは戦闘中であることを浅葱はすぐに察するが、何故……? と“心当たりがないため”、混乱して判断が遅れてしまう。

 

「えっ……!? ちょ、と、どうしたのよ!? スワニルダ、あんた怪我してるし、早く治療を―――」

「―――早くお逃げください、お嬢様!」

 

 無礼ながらお嬢様の言葉を遮って、復唱するスワニルダに圧され、浅葱は口を閉ざす。

 それだけ余裕のない、切迫とした状況。理解して、浅葱は顔を青褪める。全身の肌が粟立って、指先の震えが止まらない。

 <タルタロス・ラプス(テロリスト)>が、あたしを狙って……!? いや―――

 浅葱自身には心当たりがない。が、浅葱の父、浅葱仙斎は絃神島の評議員だ。上級理事を襲ったのだから、評議員を狙ってくる可能性は十分に考えられた。

 それで一先ず納得はして、意味不明(エラー)から脱却した浅葱は、その冷静で冴えた頭脳を回し始めた。

 

「モグワイ、通信は遮断されてないわよね―――」

 

 人質に身柄もしくは命を狙われているが、この最近の様々な事件で、この程度のトラブルは慣れっこになっているのもあるのだろう。すぐに落ち着きを取り戻した浅葱は、パソコン画面に向けて確認する。

 

『ああ、そこんとこは問題ないぜ』

 

「だったら、今すぐ『特区警備隊』を呼んで。それから救急車も!」

 

 帰り掛けに見かけたが、モノレールの駅やバス停には、武装した『特区警備隊』の隊員が配置されている。実際のところ、絃神島の島内には監視カメラやセンサーによる警備ネットワークが張り巡らされており、このような原始的な警備や巡視にはあまり意味がないのだが、

 それでもあえて人目につく場所に警官たちを立たせているのは、テロ対策というよりは市民の暴動防止の意味合いが強い。島外からの食糧供給が途絶えているうえに、『食糧備蓄倉庫』までもが破壊されたのだ。市民が不安や不信を抱くのはむしろ当然の流れだ。

 ―――でも、『特区警備隊』が非番の隊員や魔族傭兵まで総動員して、犯人を捜し回っていることに変わりない。だから、通報すればすぐに来てくれるはずだ。それまで時間を稼げば……

 

「島内監視ネットワークも取り戻したし、タルタルなんちゃらって連中も、目立つ真似をすればすぐに御用よ」

 

 浅葱の判断は、間違っていない。

 相手が、外敵(テロリスト)であれば、だが……

 

『いや……残念ながら『特区警備隊』は多分来ないぜ』

 

「は!? なんでよ……!? ウチのすぐ近くにいたのはさっき見たばかりじゃない!?」

 

『どうも家に押し掛けてきてるヤツらは―――』

 

 モグワイが素っ気なく返答する前に、それは現れた。

 

「<水銀細工(アマルガム)>防護モード。執行せよ(エクスキュート)―――」

 

 普段は家政婦として侍られているが、スワニルダは機械人形化された(オートメイルの)人工生命体。管理公社より条件制限が掛けられているが、多種多様な機能を搭載し、祓魔師より剣巫クラスの戦闘力を有すると評価された人造人間(ヒューマノイド)。素早くその魔力生体金属である左腕を変形させ、背に庇う浅葱ごと覆い包む膜を形成。

 ―――しかし、相手が手にした、6本の銃身を持つ機関銃を至近距離より撃ち放った弾丸は金属膜を突き破り、生体人形の身体を撃ち抜いた。

 着弾の衝撃で、軽い身体が錐揉みに転がるのを目の当たりにして、浅葱がついに悲鳴を上げた。

 

「スワニルダ―――!?」

「―――人工生命体保護条例・特例第二項に基づき自衛権を発動。武装制限(リミッター)を解除します」

 

 それでも、この身は華奢な人工生命体ではなく、人工筋肉などと機械化改造されたスワニルダはすでに痛覚を遮断しており、骨肉関節の不具合を無視して動く。攻撃されたことで条件をクリアしたものとみなすと、お嬢様(あさぎ)に仇なす賊へ一斉に武装を展開し―――

 

『―――個体名スワニルダ、我々ヘノ攻撃権ヲ認可シテイナイ。コレハ特例ヨリモ上位デアル』

 

 その電子音声に、スワニルダは停止した。展開途中で固まってしまう。

 <論理爆弾(ロジックボム)>。反乱防止のための安全装置(プログラム)が発動したのだ。

 

「あんたら、いったい……」

 

 護衛を沈黙させた相手を、浅葱は視認する。

 その人物は各部位に装甲を張り付けた黒いピッタリとした軽薄強化外骨格に身を包んでいた。アヌビス神のような犬頭の仮面をつけている。ふと、その第一印象からなんとなく連想してしまったように、それは浅葱の良く知る“ある後輩”をモデルとしているようにも見えた。

 浅葱の誰何にも、仮面を取らない。表情も見えない。

 電子光で炯々とした犬頭仮面の双眸(レンズ)を向けて、淡々と告げる。

 

『チョウドイイ。『バルトロメオ』、回収シロ』

 

 ずるずると廊下から床を粘液で汚しながら現れたものは、不定形の物体(スライム)

 

「ぁ……ぁぁ……ああああ――――!?!?!?」

 

 途端、機能を強制停止され硬直したままのスワニルダが怯え震えた。

 不気味さをもよわせるシルエットは、浅葱から見ても出来の悪いスプラッタ映画のモンスターのようであるが、それはスワニルダに強烈な嫌悪(トラウマ)を刻み込んだもの。

 それは正しく、『バルトロメオ』は“その改良版”だ。

 

『I accept your order』

 

 ………

 ………

 ………

 

 

『『カインの巫女』ヲ確保。即時撤収スルゾ』

 

 

人工島西地区 浅葱家 付近

 

 

「―――何なんだお前らは!?」

 

 

 あれは、なんだ……?

 高確率でテロリストに狙われるであろう幼馴染のために急いでいた矢瀬基樹は、その光景に全速で駆け付けた足を止めてしまう。

 灼熱の陽炎を躍らせ、大気を焦がす藍髪の少年。それは『食糧備蓄倉庫』を襲った<タルタロス・ラプス>の一味である過適応人工生命体だ。

 その姿は矢瀬自身もその目で確認している。

 爆弾の着火だけでなく、直接的な攻撃力も有する『発火能力(パイロキネシス)』は、強化薬(ブースター)に頼らなければ諜報系としか発揮できない『音響過適応』では相手にならないもの。真っ向からの勝負は避けたいところで、障害として立ちはだかるのならば、奇襲での一発勝負に掛けるしかない。

 

 それが、追い詰められていた。

 

「ちくしょう、燃えろよッ!」

 

 激昂した放火魔の少年が炎を放つ。

 高熱で路面のアスファルトが融解し、電離した大気が激しい爆発を引き起こす。しかし結果は覆せない。

 漆黒の軽薄強化外骨格を装備したその部隊は、消防の耐火服でも近づけない『発火能力』の大火でも怯まず、十字砲火(クロスファイア)で<タルタロス・ラプス>の構成員を撃退する。

 

「ぐっ、は―――」

 

 腕と腹部を撃ち抜かれ、地面に転がる少年。

 多数に無勢。加えて、武装性能が圧倒している。まったく勝負にならない。

 

(あいつら、『特区警備隊(アイランド)』の<魔導打撃群(SSG)>か!)

 

 人工生命体の少年を私刑(リンチ)するその部隊の正体に気づいた矢瀬が呻いた。

 <魔導打撃群>とは、『特区警備隊』の中でも最強と噂されるが、人工島管理公社は存在を認めていない秘密警察。

 この特殊部隊に所属する攻魔師の武装は、『魔族特区』における倫理を無視した――つまり、魔族の生体研究の軍事利用などという『聖域条約』を違反した最大の禁忌とされる研究成果で造られており、通常の『特区警備隊』のものとは一線を画す。だから、けして公に出ることはならない。

 

(この事態についに上級理事連中が動かしたのか―――いや)

 

 そして、公社理事会直轄とされる<魔導打撃群>は、実質、“ある人物”の私兵。

 

 もしも、この状況下で漁夫の利を取ろうとする、いやそうなるように筋書きした黒幕がいるとすれば、それは―――ひとりしかいない。

 

(まさか! ―――)

 

 黒の部隊の中でより映える白髪の少女。

 矢瀬も知っている。彼女は、幼馴染のお付となった人工生命体―――その皮を被ったモノ。

 矢瀬が事の真相に行き着いた時、戦闘にもならぬ狩りは次の工程(ステージ)へ進んでいた。

 そう。

 狩りで仕留めた獲物を喰らう―――

 崇拝者たちが裏で仕切っていた『魔族特区』の違法研究を“ひとまとめにする”作業。

 

 

「ウ……ウア……アアア……グアアアアアアッ!」

 

 

 絶叫。

 過適応人工生命体の生体組織を“丸ごと”喰われていくその恐怖。たとえそこに激痛がないものだとしても、その精神的衝撃は計り知れない。

 黄金律と整えられた容姿をした少女が、突然、その下半身の人型(かたち)を崩して、屈服していた放火魔の少年を呑み込んだのだ。炎を放って抵抗するが、それでも人工生命体に特化した捕食者は食事を止めたりはしない。

 もともと同型機であるがその白髪が端から徐々に少年と同じ藍色を帯びてきて、矢瀬の良く知る担任が子飼いする人工生命体の少女により近づいてきて―――と。

 

(っそ、だから、クロ坊らをキーストーンゲートに張り付けるよう命令しやがったのか!)

 

 もはや手を拱いている場合ではない。

 矢瀬の『耳』は黒の部隊に囚われた幼馴染――絃神島の重要機密<C>への入室が認められた正規ユーザーを捕えている。

 “あの男”の企みは、何としてでも阻止しなければ!

 

『命ガ惜シクバ我々ノ邪魔ヲスルナ、大人シク駒ノママデイロ、ソレガ賢イ選択ダ『覗き屋(ヘイムダル)』』

 

「―――っ!?」

 

 <重気流躰(エアロダイン)>発動に意識を集中していた矢瀬は、背後から聞こえた声にはっと振り向く。そして、理解した。

 すでに向こうが、矢瀬の存在に気づいていたことを。すぐ近くまで忍び寄っていたことを。

 獣人種細胞を組み込んだ軽薄強化外骨格を纏う<魔導打撃群>、その犬頭仮面をつけた隊長格(リーダー)が、銃口を向けて矢瀬へ忠告する。

 

「テメェら―――いや、アイツはそこまでして―――ふざけるなッ!」

 

 好奇心は猫も殺す。

 雉も鳴かずば撃たれまい。

 事の真相に至ってしまった少年の耳に響いたのは、一発の銃声だった。

 

 

 

つづく



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奈落の薔薇Ⅴ

彩海学園 回想

 

 

 俗世に降りた少年がまず覚えたのは、息苦しさだ。

 俗に、この絃神島という『魔族特区』が属している本国の空気には味噌と醤油の臭いがしみついている。しばらく海外暮らしして見れば誰でも感じるなどと言われているが、そんなレベルではない。

 獣以外はほとんど寄りつかぬ、自然だけの森の“匂い”は、いわば単調で薄味な、味気ないのかもしれないが、それに慣れていた少年にしてみればとても優しいものだった。

 それと比較すれば、人間と魔族、多種多様な感情がある人工島は刺激が強いし、慣れない。時に鼻が曲がるほど嫌悪する強烈に臭いものもある。魔導犯罪者らの捜索をする際は特に。

 だが、生きていく以上、呼吸は止められない、

 また何もかもが初体験で、これまでとは違う環境でまず相手を嗅ぎ分けなければ不安であり、

 となれば、この『魔族特区』に住まう以上、呼吸をするたびに否が応でも鼻腔から脳髄を侵略される生活に順応しなければならない。

 だけど、どうすれば、このあまりにも雑多な空気でも平気になれるのか、最初、少年は自信がなく、無意識の防衛本能からあまり慣れない“匂い”には近づかないようにしていた。

 

 

 

『ほう、珍しい。馬鹿犬が話しかけられるとはな』

 

 それは昔の彩海学園。

 銀髪の少女との初めての会話を終えて、ふ、と前触れもなく少年の主は現れた。

 おそらく、魔女の使い魔(サーヴァント)の様子を見ていたんだろう。少年クロウは立ち去ったばかりの、教えてもらった少女の名を復唱する。

 

『カナセカノン、だ』

 

『ふむ。聖女とか言われて騒がれてる小娘に叶瀬というのがいたな』

 

 ゆるゆるとクロウは頭を左右に振って、

 

『……でも、もう会わない方が良いのかもな』

 

『何故そう思う?』

 

『あいつ、オレのこと怖がってた』

 

『ふん』 と主人の魔女は同意を示さず、億劫そうに溜息を吐き、『お前はなまじ『鼻』で嗅ぎ“分けてしまう”から、無理もないが。だが、世の中の大半は馬鹿犬のように単純にはできてない』

 

『む、オレは“匂い”を間違えたことなんかないぞ』

 

『違う。よく聞け。感情の“匂い”だけでその人間のすべてを判断するな、ということだ。逆に言えば、その感情を相手から隠そうとする意志こそが、お前の知るべき人間の本質だ』

 

『むぅ、ややこしいな。そんなこと考えてたら、犯人を逃がしちまうぞ』

 

 混血の学生だけでなく、魔導犯罪者の捕縛に駆り出される猟犬としての顔をもつ少年は口を尖らせる。

 

『それに難しいことはぶっ飛ばしてから考えろ、って前に師父から教わったのだ。余計な考えに囚われてると動きが鈍くなる、って』

 

『そうだな』

 

 あっさりと認める。その上で主人の魔女は少年に注文を付けた。

 

『だが、おまえは鋭敏な感覚を持っているが故に、簡単なことも見落とす馬鹿犬だ』

 

 ―――貴様から逃げることを禁ずる。

 これは主としての命令だ、とわざわざ言いつけて、

 

『向こうから来るのなら話くらい付き合うのが礼儀だ。奇異な感覚などに頼らず、ありのままで接してみろ』

 

 不満を呑み込んでその命を受けた少年は、やがて知る。

 たとえ“匂い”が、こちらを警戒し、恐れていたとしても―――いいや、それだからこそ、懸命に、態度で訴えようとしてくれる叶瀬夏音(ひと)の気持ち。

 主人の言わんとしていたことが少女との付き合いの度に少しずつ理解していく。そして、ひとつ悟る。

 他人とのコミュニケーションを拒絶しようとしていたのはほかならぬ自分だった。そのときの自分は“匂い”に頼り過ぎて、傷つくのが――壊すのが怖くて、人の気持ちに触れようとしてこなかった。

 ―――難しいぞ……

 ひとりを知り、意識の持ちようで呼吸が楽に慣れたが、また悩み事が増える。

 “匂い”の判断法にだけ頼るのはどうも違うというのはわかったが、ただそうなると、いままでの単純な物事の見方が通じなくなった。

 この世は敵と味方、二極に分かれているものだけではない。

 好意を持ちながら敵意を抱き、その逆に恐怖する相手をも愛することもある。

 そこまで極端な例でなくても、人は誰しも、混在した“(におい)”を内側に抱えている。クロウはそれを知った。だから簡単に匂いと臭いで分別することができなくなった。

 だが、そうして怖がりながらもこの清らかな聖女の善性を始めとして様々な人間性に触れていくうちに、殺戮兵器として仕込まれて(そだてられて)きた野の獣は、多くの認識と共に人間味というのを獲得するようになる。

 

 だが、それとは引き換えにか、その特異な感性に鞘でも被せたかのように、香除けの首巻ではない、知らずのうちに少年自身の無意識で制限がかけられた。

 

 

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

 人工島管理公社からも見放されたその場所は絃神島と同じ人工の大地だが、その面積の大半はすでに海中に沈んで、三日月のような歪な姿を晒している。

 海上に残されたわずかな土地は、壊れかけたビルだけが建ち並ぶだけの、無人の廃墟。本島との間に存在した連絡橋は、今はもうなく、行くには船に頼るしかない。

 絃神島からわずか数kmの海上に存在する不気味な街。

 そこは初期の絃神島の跡地であり、かつて『焔光の宴』の中心地である、人工島(アイランド)旧南東地区(オールドサウスイースト)――通称、『廃棄区画』。

 

 かの蜀漢皇帝の軍師、諸葛亮は破滅の大火をもたらす東南の風を祈祷により起こしたといわれている。

 

「そう、ほんの9ヵ月前に沈んだこの場所で皆は戦い、あの子は呪いを破った」

 

 『廃棄区画』の退廃した風を浴びながらディセンバーは、ゴーグルを外し、ヘルメットを脱ぎ捨てた。

 今まで隠されていた長い髪が、解けてふわりと広がる。

 光の加減で虹のように刻々と色を変えていく、燃え上がるような金色の髪はここで果てた同胞(はらから)と瓜二つの容姿―――

 

 古代ローマにおいて、毎年三月が一年の始まりであった。

 故に、現代の暦とは二ヶ月のズレが存在して、今ならば『十二月』を意味する“ディセンバー”という単語は、『十番目の月』を表すものであった。

 

「そして、彼――暁古城が、あの子を聖槍で撃ち抜いて、終わり……こうして、古城は世界最強の吸血鬼<第四真祖>となった。それがここで起きた真実よ、聖槍使いさん?」

 

「先輩を、返してもらいます」

 

 くるりとステップを踏んで振り返って、ディセンバー――『宴』に参加できなかった『十番目』の<焔光の夜伯(カレイド・ブラッド)>はその炎のように輝く碧い瞳を、招かれぬ少女へ向ける。

 この忘れられた廃墟の人工島にある寂れた広場に、翼を持つ白き獣龍が着地し、運ばれた世界最強の吸血鬼<第四真祖>―――その監視役である獅子王機関剣巫・姫柊雪菜は背から飛び降りた。

 すでに楽器ケースより引き抜かれている銀槍の武神具『七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)(プラス)』を引き抜いている雪菜は、ディセンバーと数機の演算機体に囲まれる『七星壇』に座すラーン、そして、暁古城……ディセンバーの語る、かつてこの『廃墟区画』で、アヴローラ=フロレスティーナを殺した直後を再演するかのように固まっている古城を、雪菜は悲痛な目で見やる。

 

「残念だけど、それはできないわ。他の皆が認めたのだとしても、あたしはまだ彼を<第四真祖>だとは認めてないもの。だから、あげない」

 

「でしたら、力尽くでも先輩を奪い返して見せます!」

 

 これ以上、雪菜に対話をする心の余裕はなかった。

 先輩が操られ、そして、昨夜にその災厄の力でもって相当な被害を及ぼした。それは彼の意思ではないにしても、<第四真祖>の眷獣で行った以上、このままでは負わぬ責任を負う破目になる。

 それは監視役としても見過ごせず、またこの『宴』の終幕を飾った場所で今の先輩を見ていられぬ。

 担い手のより固くなった決意に応じて、破魔の銀槍に帯びる冴えた霊光にさらなる深みが増す。

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――」

 

 表面が幾重もの魔法陣に包まれる銀槍。

 青白く輝くそれはありとあらゆる結界を斬り裂き、魔力を無効化する『神格振動波』の光。

 

「大人しく眠っててもらえないかしら?」

 

 ディセンバーの瞳が輝きを増し、濃密な魔力の奔流が大気に溢れた。

 しかし、その間に張り巡らせる壁が、その妖光を呑みこむ。

 

「雪霞の神狼、千剣破の響きをもて盾と成し、兇変災禍を祓い給え!」

 

 ディセンバーの輝く双眸より放たれるその魔力を、青白く輝く『神格振動波』の光の盾が防ぐ。

 あらゆる魔術を打ち消し、魔力の干渉を遮断する霊槍は、ディセンバーの精神支配をも無効化し、打ち破る。

 

「やるね、さすが<第四真祖>の監視役」

 

 ディセンバーが称賛するように言った。ただの人間に過ぎない雪菜が、<第四真祖>の支配を振り払ったのだ。武神具の力を借りているとはいえ、中々できる真似じゃない。

 

「でも、ちょっと余裕がなさ過ぎるかな」

 

 自身の能力が通用しないことを悟ったディセンバーは即座に、不法投棄された廃棄物(ゴミ)の山に手を伸ばす。それを合図とし、廃棄物の中に仕込まれた術が起動。

 地鳴りのような震動と共に、廃棄物の山が盛り上がり、多数の金属の残骸で出来上がった人型巨人が出現する。それは法奇門によって生み出された傀儡(ゴーレム)だった。千賀毅人が事前に仕込んでいた、<石兵>だ。

 轟、と生命を持たぬはずの金属傀儡(スチールゴーレム)が咆哮。

 全身を金属の鎧で覆われた<石兵>が、巨体に似合わぬ敏捷さで雪菜へ襲い掛かる。

 雪菜はそれを『神格振動波』の刃を展開する<雪霞狼>で受けるも、その華奢な身体は大きく弾き飛ばされた。

 

「……っ!」

 

 体勢が崩れたところで、二撃目が剣巫に迫る。

 霊視の未来予測で見切っていても、身体が動けない。

 

「みみーっ!」

 

 そこを<守護龍>が身を盾にしてカバーした。

 そちらの現場にはかけつけられない同級生が先輩の単独捜索をする雪菜へ寄こした応援。そのおかげで雪菜は船での移動手段よりも早くこの場へ駆けつけることができた。金属傀儡と比較すれば、2mの体躯は小さなものだが、爪も牙もない龍母は、主人に似て頑丈な身体を張って雪菜が態勢を立て直すまでの壁役をこなした。

 

「ありがとうございます」

 

 だが。

 <石兵>の動力源は、大地の気脈そのもの。

 魔力を打ち消す『七式突撃降魔機槍・改』でも、金属傀儡と龍脈のパスを断絶するのは無理がある。つまり、相性が悪い。

 剣巫は、この5万の軍勢を壊走させ、刃の通らない鋼の身体を持つ巨人を相手に、槍術ひとつで渡り合わねばならない。

 

「“退け”―――!」

 

 白き獣龍を捉えたディセンバーの双眸が妖しく輝く。その背後で揺らめく、銀水晶のような巨大な影。彼女が召喚した眷獣が、銀色の魔力の輝きを放って、<守護龍>へ強制退去を命じる。

 

「なかなか幉を取るのが重いけどっ、宿主が近くにいないんじゃ綱引きは負けないわよ!」

 

 他者の眷獣・使い魔(サーヴァント)を操る眷獣―――

 その透き通った眷獣の魔力を浴びた白き獣龍は、現世より姿を消して、主の同級生の元へと戻ってしまう。

 退くだけでも<守護龍>を退去させた負担は、ディセンバーの肉体に悲鳴を上げさせ、全身の毛穴から鮮血が流れ出す。逆流した魔力の反動から苦痛に唇を歪ますディセンバーだが、すぐにそれは勝ち誇ったものへ変わる。

 

 これで、この場に姫柊雪菜を護るものはいなくなった。

 

「あなただけじゃ、毅人の術式は破れない。壊せてもただ数を増やすだけ。だから、そこで大人しくしてて。私たちも必要以上に害そうとはしないから」

 

 降参宣告を受けて、雪菜は割れんばかりに奥歯を噛み締め、槍を握る手に関節が鳴るほど力が入る。

 その先には、目の光を失ったまま立ちぼうけしている、蒼白な顔色の先輩があった。

 

「先輩……、せんぱい」

 

 雪菜は、金属傀儡の攻撃を激しく動いて全身で捌きながら、無酸素運動で息切れる喉から掠れ声を押し出した。

 

「先輩っ! いいんですか、このままでっ!」

 

 大きく退けられた雪菜だが、今度は、金属傀儡は追撃をかけない。ディセンバーたちのいる『七星壇』を護るように設定された<石兵>なのだろう。龍脈依存の法奇門なのだから行動範囲が限定されるのは当然か。

 こちらから仕掛けなければ、攻撃されることはない。だがそれは逆に、誘いにおびき出されることがないためにどうあっても雪菜を近づけさせないものだ。

 不動の守護は、まさしく鉄壁。

 それでも通る声に、思いの丈を篭めて少女は叫ぶ。力を精一杯振り絞り、絶叫する。

 

「けっしてこのようなことを看過したままで、世界最強の吸血鬼なのに相手にいいようにされたままで、先輩は満足なんですか!!」

 

 先輩がこの場所で受けた心の傷は大きい。思い出そうとするたびに抗いがたい頭痛が襲い、荒療治でもってしても全容を掬いだすことはかなわなかった。きっと、心の奥底に封じ込めていても、けして自身の意思によるものでなくとも、アヴローラを殺してしまったことを、悔やんでいるのだろう。あの『宴』の終わりからずっと。

 そう、すべてを思い出していない今でも心の多くを占める彼女は、先輩にとって大きな存在だったのだ。もしかすると、好き、だったのかもしれない……そんな相手を、あの彼は手にかけてしまった。

 でも。

 そのアヴローラと面影が重なる、同じ顔をした、同じ眼をした、同じ髪をした、同じ<焔光の夜伯>が相手なのだとしても。

 

「先輩は、私が半分の重荷を請け負ったとしても! 動けない吸血鬼(ヒト)だったんですか!!」

 

 旋回した銀槍を構え直し、再び果敢にディセンバーたちに挑む雪菜は激情のままに吼えた。

 

「世界を相手に戦争をできる<第四真祖>の力を、先輩が持て余してるのはわかります! だからって、<第四真祖>だと認められないと言われたままでいいんですか! どんな相手でもこの絃神島を護るために戦ってきた吸血鬼(ヒト)が……過去の後悔に囚われて、いつまで他の女のものに甘んじてるつもりなんですか! いいえ! 先輩にそんなことをしている暇はありません、それとも、こんなところで、先輩の、私達の“戦争(ケンカ)”は負けてもいいものなんですか!!」

 

 

 

 そのとき。

 ラーンの座る『七星壇』より、打ち上げ花火のように黒い何かが絃神島上空へと昇る。

 

 

 

 ざあ、と東南の風が吹いた。

 それはまるで天が、啜り泣くよう―――

 

「―――<タルタロスの黒薔薇>、状況開始(スタート)

 

 機械的に破滅の始まりを告げるラーンの声は、終末の喇叭であったか。つられて頭上を振り仰いだ雪菜は、絶句した。この場所の真上を基点として、暗雲よりもなお黒い染みが、解読不可能な幾何学文様を描いて広がる。それは一気に直径十数kmにまで達して、絃神島上空を埋め尽くした。

 舞威姫の鳴り鏑を用いた巨大魔法陣と似ているが、それとは効果範囲(スケール)がかけ離れている。それどころか、かつての<冥き神王(ザザラマギウ)>を凌ぐ膨大な魔力だ。その質も信じられないくらい高密度で―――不浄に汚染されている。

 これが対魔族撃退ではない、対魔族特区壊滅を目論んだ<タルタロス・ラプス>の儀式。

 

 いったい何を……

 

 オーロラが密集したかのような魔力の渦。あるいは、枯れた花弁。魔力によって生み出される漆黒の妖花。

 この幾重にも折り重なった複雑な文様の集合体であるところまでは解ったが、どんな現象を引き起こすのか。

 蒼白な顔で身構える雪菜は、気づく。

 魔法陣によって形成された黒薔薇から舞い落ちた数枚の花弁。

 それらは実体をもつほどに濃密な魔力の集合体であり、やがて意思が芽生える獣と成る。―――そう、眷獣へと。

 

「状況は刻一刻と悪化する。この盤上は、私達のものとなった。チェックメイト、ね」

 

 <タルタロスの黒薔薇>から生み出された眷獣が、魔力を帯びた咆哮を放つ。禍々しい黒焔を巻き散らし、絃神島へ降り注ぐ。

 

 

 

 

 

 ちり。

 

 少年の光のない双眸の奥に、遥か遠い恒星のように幽かに揺れる光。魂の熾火を思わせる弱々しさで、とくん、とくん、と脈を打ち始めた。

 

 

キーストーンゲート

 

 

 超小型有脚戦車<膝丸>。

 それは市街地戦を目的として設計構造されたディディエ重工の兵器であるが、リディアーヌには移動式の高性能電算機(スーパーコンピューター)という意味合いが強い。

 ひんやりとした空気の中、戦車内部はいくつものコンピューター画面が電子光を湛えていた。

 

 状況は、すこぶる悪い。

 

 至極、面目ないことに守護側(こちら)は情報戦で後れを取ってしまっている。

 『迎撃屋』として強いていた防衛対策を破ったサーバーのハッキングもそうであるが、修復作業でウィルスに感染されて、乗っ取ったこちらの回線より流された偽情報(デマ)に、特区警備隊とチームが踊らされて、敵の罠に嵌められるという始末。

 その窮地から島津の退き口とばかりに攻めの姿勢で脱したチームには大変頭の下がる思いだ。利用された電信音声ではない、そのままでは相手に舐められるということで仕事では滅多に出すことのない舌足らずな生の声音で彼らに謝罪をした。これでとても償えたわけではなく、これからの働きに汚名返上はかかっている。

 

「そうですな……まずは認めるでござるよ」

 

 ハッカーとしての尊厳をもっているが、認めよう。

 相手の情報工作は自分よりも上だということを。

 そして、改めてサーバーを洗い流し、そのウィルスを見つけ出し、相手の計略を自ずと悟った今、とても、とてもとても悔しいが、手遅れ。電子作業でもはや自分には手の付けられようがないことを。

 かつて自身を一敗地に塗れた<電子の女帝>であっても無理であろう。

 

(ですが、<C>ならば……)

 

 ルーム<C>―――キーストーンゲート第零層に設置された特殊区画。

 完全気密処理された空間内に、絃神島を管理する五基の超電算機(スパコン)のコアユニットが詰め込まれ、神経のように張り巡らされた島内ネットワークのすべてに接続。そして、それを核弾頭の直撃や、水深二万mクラスの水圧にも耐えれるほど頑丈な外殻で護られている。

 演算性能に防護性能も、このリディアーヌがカスタマイズして高性能電算機を積んだ超小型有脚戦車とは比べ物にならない。

 さらに、<C>経由の命令は、人工島管理公社が所有する全端末に対して、最優先のアクセス権を有している。

 当然<C>への入室は厳しく制限されており、人工島管理公社の上級理事や絃神市長ですら立ち入りを許可されていないという。

 そのために<C>は実在しない幻の部屋と噂されてたりするが、リディアーヌはすでに調べた。<C>は実在し、そこへの入室を許可された正規ユーザーは、『カインの巫女』―――<電子の女帝>藍羽浅葱……だと。

 ノートパソコン程度では『カインの巫女』としての能力を十全に発揮できず、事態を解決することはできないだろうが、もしも彼女が<C>に投入されれば、電子情報戦どころかこの『魔族特区』そのものさえも掌握してみせることだろう。

 

(そのような無い物ねだりをしてもどうしようもなかろう)

 

 いずれにしろ、リディアーヌには当然、場所は知っていても<C>に入ることは認められないし、乗っ取ることなど許されない。というか、とても無理だ。

 加えて、ノートパソコンだけの満足のいかない装備の<電子の女帝>に、<膝丸>完全装備で負けた<戦車乗り>。

 自社から最大限のバックアップを受けられる神童リディアーヌ=ディディエであるが、装備も、才能も足りていないのだ。

 

 <タルタロス・ラプス>の情報戦を担当する少女は、戦略級コンピューター並の情報処理能力をもち、直接コンピューターネットワークに介入する。

 

 才能を厳選され、英才教育を受けたデザイナーチャイルドと比べれば、生きたい人間には耐えられないほどの脳を改造され、人間の限界を超えたフランケンシュタインは技能も経歴も何もかもが格上なのだろう。

 この鬼才に敵うとすれば本当に、生身で人間離れしている<電子の女帝>という真の天才だけだ。

 そんな鬼才が、己の命さえも賭してでも戦いを挑んできている―――だが、その心構えでも負けているつもりはない。

 

『騎士道は誰かを護るために死ぬものだけど、武士道は自分のために死ぬものだぞ。だから、お前はこんなところで死んじゃいけないのだ』

 

 そう、己を介錯して、見事に救って見せた、真似事だけのリディアーヌよりもよっぽど武士(もののふ)らしいチームメイト。『彩昂祭』での事を忘れていない。

 『武士道とは死ぬ事と見つけたり』という有名な言葉があるが、それはけして死を恐れるぬものではなく、自分のために死ねるように、常に死を迎えても後悔せぬ生を謳歌することだ。

 

 して、その恩人である彼は、今回の相手と直接会い見えて、こう評価した。

『死んだような奴らが何をしたところで、オレは怖くない。それはもう昔に超えたものだからな』……と。

 相手はたったひとりのためにその命を惜しまずに捨てられる、ただひとりのためにすべてを尽くし、その正義に一切の懐疑も不満ももたない騎士道のよう……でそれは、否。

 

 彼らが想うのは、彼女であって、テロ組織でも、彼女の正義でもない。一度たりとも彼女の正義に関心を持ったことがないというであれば、騎士道をはき違えた思考停止だ。彼らは騎士道など意識したことがないのだろうが、それでも彼女のためを思うであれば、その在り方は間違っている。

 

 ああ、そうだ。

 義憤を覚えたのは、貸し出した<薄緑>に音声記録が残っていた会話。

 

 あの<黒妖犬>に身柄を捕えられた時、彼らは、“意識半分”昏倒していた彼女の前で、平気で、簡単に『捕まるのなら死ぬ』と問いかけに答えた。

 そして、彼女自身を助けるために命懸けの捨身でかかる姿勢であった。

 

 だから、相手は子供たちのためにもより手段を選んでいられなくなったのではないだろうか?

 それが、彼女の正義を曲げさせることとなっても、だ。

 

 たとえその身が死体であろうとも、心魂まで死しているわけでもないのに、死を容易く選べるその思考思想。きっとその大事な彼女から彼らの命を貴く、大切に思われているだろうに、そんな自殺志願も同然な考えが彼女にとってどれだけの重荷となるだろうか何故気づかない。

 それでは、彼女のために、ではなくて、彼女のせいで、死んでしまうと彼女は思うだろう。

 そして、それを彼らは気づかない―――

 

「そのようなモノに、拙者は負けたくないでござる」

 

 武士道というものをはき違えて、介錯されたリディアーヌ=ディディエは、二度も同じ失態はしない。甘んじて死を易々と受け入れる思考停止はしない。死に物狂いでやってやる。

 

 

「女帝殿にもない、拙者だけの秘策でお主の策を破ってみせよう!」

 

 

キーストーンゲート 前

 

 

 絃神市街は、かつてない大混乱に陥った。

 吸血鬼の眷獣が暴れ回り、巨人(ギガス)の精霊魔法が荒れ狂い、妖精(エルフ)が無秩序に自然霊を召喚し、獣人が獣化して本能のままに目につく物を壊す。

 至る所で火災が起き、人々の悲鳴や緊急車両のサイレンの音が、街中から絶え間なく聞こえてくる。

 『特区警備隊』が総出で事態の収拾にあたっているが、多勢に無勢。何しろ絃神島の魔族人口は全体の4%に過ぎなくとも、その数は2万人を超えている。そして、その9割以上が暴走状態なのだ。

 

 力の制御に失敗してしまうことは、必ずないとは言えない。コンディションが最悪であれば、事故を起こす魔族も出てくる。

 だが、その不運が一斉に見舞うなど、天文学的確率だ。これは、偶然ではなく、意図されたもの。

 

 『魔族特区』に住まう魔族がその装着を義務付けられる『魔族登録証』、それが今、金属製の腕輪に彫り込まれた幾何学模様の隙間より異様な紅い光を放っている。

 

 『魔族登録証』には、魔族の体調モニタリングや位置情報の特定のために、簡易的な魔術を発動するための回路が埋め込まれている。

 簡易的な回路と言えども、ほとんどすべての魔族が四六時中、直に身に付けているものであって、呪術の触媒とすれば相当強力なものだ。『魔族登録証』から遅効性のウィルスが流し込まれてしまえば、魔族の意識を乗ってしまう程度は容易だ。

 

 先日、『特区警備隊』の本部でハッキング騒ぎがあったが、それはサーバーを乗っ取るためではなく、絃神島内すべての『魔族登録証』を一斉にウィルス汚染するのが狙いであった。

 『魔族登録証』にかかってる防壁(プロテクト)は強固であり、装置のメモリ容量では複雑な魔術は実行できない。あくまで、暴走させるだけ。ハッキングするメリットもないから普通は誰も狙わない。だから、見落とした。

 そして、さらに今の『魔族登録証』は、『特区警備隊』のネットワークからも切り離された独立可動モードであるため、魔族らへのアクセス経路(ルート)はなく、駆除(ワクチン)プログラムを送り込むことも不可能。

 『特区警備隊』の遠隔操作にて、魔族らの暴走を阻むことはできない―――だが、“力技”で無理を押し通して、道理を引っ込ませるものが、ここにひとり。

 

 

 

「が■■■■■ァっっっあ!!!!!!」

 

 

 

 咆哮。

 まるで爆発したかのように、一気に解き放たれた発声。それだけだった。

 にも拘らず、吸血鬼が、巨人が、妖精が、獣人が、暴走した魔族たちが、動きを止めていた。いいや、彼らの身体は小刻みに震えていた。猪突猛進していた熊型の吸血鬼の眷獣はそれ以上前へ進むことも退くこともできず、精霊魔法を無造作に放っていた巨人は大きく腕を振り上げた万歳した状態のままから腕を振り降ろせないでいる。

 蛇で睨まれた蛙。または、泣く子も黙る。

 圧倒的な上位者からぶつけられた威圧、そこに下手な動作ひとつで命が危ういと本能に覚えさせることができれば、こうまで動きとは止まってしまうものか。

 はたして狂った、意識レベルが限りなく下がっている魔族からはどのように『獣王』が映っていたのやら。もしかすると、比喩表現ではなく彼らには押し潰しにくるそれが実際に“視えて”いたのかもしれない。大きな声に耳がやられて怯んだとかではなく、思わず魔族らの魂が超越者の畏怖より屈服した可能性もある。

 

 でも、これは虚仮脅し。初手の猫騙しで吃驚させられたのと同じ、刺激に慣れてしまえばもう通用はしない。停滞もほんの一時―――

 

 

 

「契約印ヲ解放スル―――」

 

 

 

 ドッ!! と、その人影は膨張した。

 この一時。彼らに猶予を与えたその一時。彼の『鼻』はこの一区画の勢力分布を一瞬で把握すると、“制限されていた”暴威を解放する。

 すでに標的は定めてあった。

 誰を、ではなく、場所を、という次元で。

 最も被害の大きい狂化した魔族らの密集している自然公園広場へ、それは軽々と高層ビルを跳び越える躍動をみせて、躊躇なく突撃していく。

 

 

 

 今度は、音さえ、消えた。

 隕石の直撃のように、千人規模の魔族が全方位へと薙ぎ倒された。

 

 

 

 ただ、ジャンプして、降り立つ。

 それだけで、一騎当千の無双を成す。暴徒と化した魔族の総数をゴッソリと削り取ってしまう。そして、これだけの破壊力で、死者がひとりも出ていないのは奇蹟を超えた人為によるもの。この少年の身体制御能力は、すでに完全なる獣の状態であったもこなせる域に達している。

 脳を揺さぶられ、誰も彼もがろくに起き上れることもできずに、倒れ伏す中、君臨した現在の殺神兵器は、その一瞬だけの、千の魔族を瞬殺で制圧した<神獣化>を解く。

 それから彼は轟々と燃える市街に目をやって、

 

「せー、のっ! ―――ふーーーーっっっ!!!!!!」

 

 技名すら叫ばない、間の抜けた掛け声とともに、思いっきり息を吹いた。

 

 ズァ!! と。

 圧倒的な烈風が、ビル群を支配する真っ赤な炎と灼熱を蝋燭の火のように吹き消してしまう。

 

 童話の中の悪食の狼が、豚が隠れる藁ぶき家屋を一息で解体した光景でも再現されたようだ。違うのは、建物は無事だということ。が、不満とでもいうかのように少年は、チラチラと残ってしまった残り火を見て、うーん、と眉をしかめる。

 

「一気に消せないとは、オレもまだまだなのだ」

 

 この結果に慢心せず、さらなる精進を胸に誓う。

 常識という壁を超えた強烈な存在感を持った者は、暴力をより圧倒的な暴威で上塗りしてしまうように、混沌とした騒ぎにもいても輝きが翳ることはない。

 

「なんだか再会する(あう)度に、出鱈目さ加減がすごくなってるね、キミ……」

 

 と騒ぎを強引に鎮圧した(かたづけた)クロウへ呆れた声をかけたのは、優麻だ。

 意識を奪われた魔族らへの対処をクロウに任せてる間、優麻は優麻で人間の要救助者たちを空間転移で安全な所へと送り飛ばしていた。

 

「う、成長期だからな。もっともっとすごくなる。背だって大きくなるぞ」

 

「ははっ、キミはやっぱり将来はとんでもないことをしでかしそうだ」

 

「でも、まだまだ暴れてる奴らはいるのだ」

 

「そうだね。リディアーヌさんが対処策に時間がかかってしまうとは言ってたけど……」

 

 『魔族特区』はこれまでにない大混乱に陥っている。

 だがしかし。

 魔族を催眠状態に落として、魔導テロの道具とすることが、テロリストの真の狙いではない。

 この無差別テロは、副産物で前座。本命は、空にある。

 

「薔薇の、黒薔薇の魔方陣か」

 

 短く、若い魔女は息を吐いた。

 そして、急に冬の風に当てられたかのように、二の腕を撫でたのだ。

 

 『魔族特区』の上空をべったりとした大規模な幻像がはりついている。これが夜でなければ、おおよそ空の三割ほどが漆黒に染め変えられているところを観察できただろう。そしてその異様を視界にとらえた一瞬、少年の知覚にも背筋をぞくりとさせる何かが走り抜けた。

 まるで、神経の上を蛞蝓に這いずられたような嫌悪感だった。

 

 それを実体化させるために、絃神島の登録魔族者二万人から魔力を供給させている。魔族たちのほとんどが意識を失って倒れているのは、魔力の暴走だけが原因ではなく、巨大な魔方陣を形成するために魔力を奪われているからだ。

 

「あれは、眷獣なのか……!?」

 

 そして、黒薔薇の魔方陣より生み出されて、絃神島に降り注いでくるのは、3mから5mほどの獣の輪郭をもった魔力塊。

 それは統率されず、無秩序に暴れ狂う眷獣。

 これが、『魔族特区』破壊集団と呼ばれる所以か。

 登録魔族から吸い上げた魔力による、無制限の眷獣召喚。加えて、敵対者の地盤を奪い去る戦略効果。人間と魔族が共生する『魔族特区』でなければ実現しえない究極の破壊工作だ。

 対抗できるものは、『特区警備隊』が保有する大型魔術兵装か、一部の国家攻魔官が持つ強力な魔具、そして同じ吸血鬼の眷獣かそれに匹敵する魔族の力。

 しかし現在、各地の『特区警備隊』の隊員は、こちらと同じように暴走した魔族の鎮圧と救助に追われており、眷獣に対処する余裕はない。それは国家攻魔官たちも同じだろう。

 そして登録魔族たちは、<タルタロス・ラプス>のハッキングによって、ほぼ全員は意識不明の状態に陥っており―――つまり、粗方片づけた自分らしかいない。

 

「優麻、あの空に『門』をあけてくれ―――」

「―――そういうことか。わかったよ」

 

 獣化した<黒妖犬>が、大きく息を吸い込む。<蒼の魔女>の影より無謬の騎士が現れ、前に出した両手の間の空間を歪ませる―――そこへ頭を突っ込んだ人狼が、咆える。

 クロウは大地にめり込ませるほど四肢を強く踏ん張り、高周波の咆哮を奏で立てる。

 

 そして、思い切り溜めを作って解き放たれた神獣の劫砲は、暗夜の如く黒薔薇の魔方陣が展開された上空を、火の海に呑み込んだ。

 

 天と地ほどの距離に勢いが減衰することなく、“射程外の空間を跳び越えた”<黒妖犬>の吐息(ブレス)は、絃神島へ振り落ちていた眷獣の群れを焼き払う。

 原理とすれば、獅子王機関の舞威姫が『六式重装降魔弓』に備わる二つの能力を同時使用することで成す、超遠距離狙撃と同じ。空間切断で生み出した空間の裂け目に、『鳴り鏑』の呪矢を射通す―――

 その一矢は瞬間転移して標的の至近の座標位置に現れ、魔方陣成型の呪句を奏でて、篭められた呪力を解放させる、という。

 舞威姫の中でも武神具の機能を分割させた量産モデルではない、『六式重装降魔弓』を単独で十全に扱える煌坂紗矢華にしか使えないような、空間制御魔術を応用した舞威姫の切り札を今、優麻とクロウは、<煌華鱗>の転移(けん)殲滅()を役割分担でこなしてみせたのである。

 幸いなことに『黒薔薇』の眷獣たちの力は、大したものではない。最新鋭の戦車と同等以上の戦闘力を有する『旧き世代』の眷獣よりは下の、比較的若い吸血鬼の眷獣クラス。それでも家屋を丸ごと吹き飛ばす程度の脅威であったが、その程度は『獣王』の息吹に灰塵と散る。

 これならばあと二、三同じことを行えば、ほぼ全滅に追いやれる。優麻がそう判断し―――すぐに否と変えた。

 

「だめだ。倒してもあれは復活する!」

 

 渦を巻く『黒薔薇』の花吹雪。

 全体でひとつの群体の如く、不気味に蠢動しながら、神獣の劫火に灼かれたはずの『黒薔薇』の眷獣たちは、蒸発霧散した灰塵が集まり再び獣の形へ戻っていく。

 術式本体を破壊せねば、『黒薔薇』の眷獣に魔力は供給され続け、怪物生産工場は活動を停止することはない。こちらの攻撃に刺激されてか、『黒薔薇』がより花弁を散らす。増殖速度が加速した眷獣たちはすでに桁違いの数に達している。

 二十や三十ではない。

 二ケタ(じゅう)を超えて、三ケタ(ひゃく)に届こうかというところだ。

 しかも、まだその数は途上だという。

 一部を焼き払われたはずの、しかし地上から供給される膨大な魔力によって再生してしまっていた『黒薔薇』の魔方陣より次々と眷獣の花吹雪は勢いを増していく。

 

「まずい、かな……どうやら、怒らせてしまったみたいだ」

 

 仲間を大勢焼き尽くしたことから危険対象とみて、落下の軌道を修正し、優麻たちを狙う『黒薔薇』の眷獣。

 そこに、巨大な蝙蝠がいた。

 そこに、巨大な蜘蛛がいた。

 そこに、巨大な肉食魚がいた。

 数は圧倒的。形姿も多種多様。完全な意思を持っていないからこそ、躊躇なく捨身特効。全身に魔力の黒炎をまとい、獲物を目がけて真っ直ぐに突っ込んでくる。

 

「でも、それだけだ」

 

 拳ひとつ(ワンパンチ)で『黒薔薇』の眷獣が吹き飛んだ。眷獣と比較すれば小さな爪拳ひとつが一番槍に飛び掛かった恐竜型の眷獣の鼻先を殴りつけると、巨体はコンクリートの瓦礫へと叩きつけられ、そのまま夢見るように霧と化した。

 

「生まれてるのなら、必ず死ぬ。それはどんなものにも当てはまる理屈なのだ。少なくとも、オレはオレの手で壊せないと思ったものはない」

 

 至って平静に、現代の殺神兵器はさばさばと言ってのけたのである。

 この、無限とばかりに生み出されていく復活と再生の『黒薔薇』の眷獣の群れに視界を埋め尽くされて、臆するところは微塵もない。

 

 そして、優麻の隣で人狼は、北欧の主神殺しよろしくとばかりに、その世界ごと喰らわんと『黒薔薇』の魔法陣へ咢を開き―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「っ、来たな!」

 

「え……?」

 

 刹那。

 ほとんど爆撃のような衝撃波が、地表を洗った。

 見えない巨人に殴られた如く、地殻の瓦礫がまとめて吹き飛ぶ。魔神の玉突き遊戯(ビリヤード)を思わせて無数の破片が散乱し、一帯の大地がズタズタに切り刻まれた。あまりの突然の破壊劇の中で、クロウの周辺だけが凪の如く静かだったのを誰が見ただろう。

 

「おお、と失敗してしもうたか」

 

 法奇門の気配遮断。

 魔女に勘付けなかったその隠密を察し、奇襲を防御した人狼は、邪魔をしてきた相手を睨み据える。

 

「すまんな、毅人よ。これならばヤツらを迂回した方が良かったかもしれん」

 

「いや、正解だ。今、阻止しなければ<タルタロスの黒薔薇>は破壊されていたかもしれない。そうなれば、我々の計画は破綻していた。やはり、ここで倒しておくべき障害だ」

 

 建物(ビル)の屋上よりこちらを睥睨するのは、『東洋の至宝』と謳われた風水術士と『不滅』を謳う最古の猿人。そして、その傍らに立つのは、虹色の巨体に取り込まれているかのような眷獣共生型人工生命体。

 

「……、」

 

 ひとつ迷いを解消した<黒妖犬>は、主人の師も血の宿敵も見ていなかった。

 天と地で、銀人狼と虹色の巨人は睨み合っていた。

 片や無表情に、一切の感情を露わにせず。

 片や歯を噛み締め、怒りも安堵もない交ぜになってる感情を呑み込んで。

 

「それが、オマエらのやり方なのか」

 

「そうだ、<黒妖犬>。これが、<タルタロス・ラプス>のやり方だ」

 

 教え子の使い魔を見下しながら、千賀毅人は主張を唱えた。

 

「カインが復活すれば大勢の犠牲が出る。だが、真実を公表しようが握り潰され、世界は何にも変えられない! 咎神復活の計画だけが着実に進んでいく―――ならば、『魔族特区』を滅ぼすしかない」

 

「―――いいや、オマエは止まっただけだ」

 

 迷いが晴れ、曇りのない無垢な眼差しが、男の瞳の奥底を射抜く。

 

「オマエは、優しい。ご主人のように優しい“匂い”がした」

 

「……な、に……?」

 

「だから、オマエの言葉にウソはない。だけど、オマエは信じられなくなった。頑張って訴えても誰も聴いてくれないって、信じることを止めた。街を壊すのは、オマエが求めた結論(こたえ)なんかじゃなくて、“しょうがない”と言い訳した妥協案だ。オマエは進むのが疲れて、そこが答え(ゴール)だと自分に言い聞かせて、歩くのを止めただけだ」

 

「っ、何も知らないくせに……私は十数年と考えて、この答えに至ったのだ!」

 

「十数年も考えたって、言うなら。なおさら、そんなすごい努力を、どうして無駄にしてしまう」

 

「それまでが無駄に終わったからだ! 何度も訴えようが誰の耳にも届くことはなかった!」

 

「いいや、無駄なんかじゃない。オマエの、教え子だった、ご主人は、オレを救った。『魔族特区(まち)』を滅ぼさず、犠牲になるはずだった人々を助けてきた。それがオマエの本当の理想(のぞみ)だった―――そして、オレはその理想に救われた。だから、無駄だなんて言わせない」

 

「なにを……っ」

 

「ご主人は、オマエのもとを去ったと言った。それは、違う。オマエが理想に走るのが疲れて、立ち止まって、ご主人に置いていかれただけだ」

 

 と、教え子の使い魔は断じる。

 

「オレはご主人のことを知らなかったけど、オマエはご主人を見ていなかった」

 

「―――黙れ!」

 

 激昂した主人の先生が拳銃を抜いて、射撃。だが、避けるまでもなく、弾丸は狙った相手より大きく外れてしまう。

 たとえ獣人の狙撃手カーリの先生であっても、ライフルではない拳銃で長距離の的に当てるのは無理がある。

 

「裏切ったのが他の誰でもないオマエ自身だと認めたくなくて、目を背けた」

 

「―――黙れと言っているのがわからないのか!」

 

 銃声は絶え間なく連発される。

 無駄弾を撃ち尽くしても、装填してまた引き金を引く。

 クロウの言葉に、滾っているのが優麻にもわかった。

 でなければ、そもそも<黒妖犬>を相手に銃火器に頼ろうなんて考えない。教え子の超長距離射撃を叩き落とした怪物に、銃弾が通用しないなんてわかり切っていたことだ。

 

「結局、オマエは『オマエに都合のいい南宮那月(ごしゅじん)』しか見ていなかった。そして、ご主人はそんなオマエに気づいていた」

 

『南宮那月……15年ぶりか。変わらないな、おまえは』

 

『貴様は老けたな、千賀毅人。だが、中身は大して成長してないようだ』

 

 それは、長年の再会への挨拶ではなく、その内面をそのままに指していた言葉だったとすれば。

 

「だって、ご主人は、ちゃんとオマエを見ていた。憧れていた。だから、気づかないはずがないし、“匂い”だって似てしまう。そして、オマエと同じように、先生、と呼ばれるようになった。

 ―――なのに、なんでオマエはご主人を見ない?」

 

 男は息を詰めた。

 彼の問いかけは、それほどにひどく切実だった。

 

「オマエも先生なら、教え子をちゃんと見送る――“卒業”できるようにしないとだめだ。自立できるようになるのは喜ばしいことなのだ。なのに、いつまでも教え子()離れができないで、それは先生じゃない。留年しそうでも、背中を蹴っ飛ばしてでも押してやる。それが先生だ。

 ご主人は、別れるのが、いつか忘れられてしまうのが寂しくても、ちゃんと教え子を見送ってきたぞ」

 

 ああ……

 きっと、彼は出会ってからの南宮那月をずっと見てきたのだろう。だから、わかった。そして、けして言えぬ主人の想いを代弁することができた。

 

「だから、今日、負けたら、ご主人をちゃんと見送ってやってほしい」

 

「―――」

 

 硬直した。

 その嘆願に、千賀毅人は呼吸を止めてしまう。今の言葉は、仙人の中でも達人がかける不動金縛りの術であったかのように。

 やがて、

 

「俺に……我々に、勝つつもりでいるのか」

 

 噛み締めるように、千賀がもらした。

 これまで破壊してきた『魔族特区』の経験から、もうこの状況は詰んでいる。『黒薔薇』は誰に求められずに、人工島は沈むことになる。千賀にはもうその未来が視えている。

 だが、おう、と頷かれた。

 

「よう言ってくれたわい、<黒妖犬>!」

 

 そして、それに喜々として応じたのは、千賀ではなく、

 

「もうさがっておれい、毅人。こ奴の相手は今のヌシには無理じゃ。これ以上、話に付き合う義理もない」

 

「ハヌマン……」

 

「そして、あれは儂の獲物よ!」

 

 壮烈な鬼気が、その身体から発散されていた。『斉天大聖』という異名のひとつに相応しく、その力は天災にも勝ると、嫌でも理解させられるほどの、ほとんど物理的な圧力で一帯が拉いでしまう。

 <白石猿>は、無駄弾を撃ち尽くした千賀をどけて、建物から飛び降りた。

 それを見やり、クロウは構えると、大声で“頼んだ”。

 

「ご主人を頼んだぞ、優麻

 

 

 

 ―――とアスタルテ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――!

 思わず耳を疑う。驚く。そう、驚くも何も、支配下に置かれ、これから防衛しているキーストーンゲートを破ろうとしているその自身を、頼みの綱とする。

 攫われて救うべく御荷物でも、

 操られて敵対する障害でもなく、

 この期に及んで、自分を頼りになる後輩として見ていたというのか。

 

 ドゴンドガバキドゴドンドングシャボキズドドドドドドドドド―――ッッッ!!!!!!

 

 昨夜の再演を行うかのように、

 まずは、墜落しながら手にした棍を振り落す白猿人と、それを両腕で受けて捌く銀人狼。

 一撃で止まらず、目まぐるしく次の手を次の手を、それをさらにすべて一撃必殺で繰り出し続ける。フェイントでさえも最大最速最高最強の精度で叩き込み合う。時速300kmで突っ走るレーシングカーでレース、次々高速で迫りくる状況へ一回でも失手を取れば事故を起こしてお陀仏となる。

 そんな最中に、争う両雄は会話をする。

 

「ひっひ―――――――――笑えぬな」

 

 しなった棍をフルスイングした重撃で、聖拳を弾きながら、たったの一言でその心情を丸ごとに晒してしまえる文句を吐いた。

 

「なにがだ」

 

「何じゃさっきの言葉は? 言い間違えたのならそういうてくれ」

 

「何だオマエ、耳が遠いのか」

 

「かっ、随分と詰まらないことばかりしてくれるではないか」

 

 退屈。

 いやこれは失望か。

 

「らしくない。まったくもって儂の望んだものじゃない。のう、<黒死皇>の末裔たる『獣王』。足並みを揃えるのは我慢が大変ではないか。何もこんなときまで弱者に遠慮せんでいいのじゃよ」

 

「……、」

 

「ひっひ。じゃろうのう!! そも、おヌシは何故これまで儂らの元へ特攻を仕掛けぬ? その鼻ですでに儂らの位置はわかっておったのだろうに!! たとえ、返り討ちとされる結果となろうが、その経験を糧とすることができるじゃろう!!」

 

 意図を把握できないクロウに対し、ハヌマンは勝手に話を続ける。

 

「それが、小物と行動している? つまらん。互いに役割分担で作戦を考えてる? ああつまらん。ようやくヌシから何もかも取っ払ってやったと思えば、人形に頼るじゃと? まったくつまらんなあ!! こんなにも面白くない冗談はそうないぞ!! これ以上、儂に戯言を聴かせてくれるでない! 早う儂のところへ追いついてこいと期待して待っておったのに!! 率直に言って、一番良かったのは最初に単独行動を取った時ではないか!! 姫を捕まえて、最も儂らは追い詰めてくれた!! ああ、なのに、弱い者に頼ってからは一気に鈍ではないか!! 小さくまとまって、縮こまっておる! ただ被害を少なくしようそっちの方に気を取られてばかりッッッ!!!!!!」

 

「何を……言ってる、のだ?」

 

 もう、そう返すしかない。

 それ以外の返し文句を、その憤りを共有できないクロウには無理であった。

 

「ヌシは守ることを意識し過ぎるあまり、尖った才能の切れ味を落としてしまっておると言っておるのだ。ヌシは堕落しておる。それも堕落していることにさえ気づいておらん」

 

 一端、大きくクロウを弾き飛ばして鍔迫り合いを中断。

 そして、息を整えて、決定的な一言を放つための(タメ)を入れた。

 

「ノロマな雑魚にいつまでも足を引っ張られているのでないわ、愚か者。おヌシの本気はまだそんなものじゃないだろうに」

 

 そのいちゃもんは、まだ建物の屋上にいた少女アスタルテにも届いていた。

 元より人工生命体の薄い感情を喪失した、操り人形である今だから、表情は変わることはなかった。でも、刃物でも突き刺されたように胸が痛かった。

 なぜなら、それはなんの悪意のない助言として、落ちていたゴミを拾うのとまったく同じ精神で語られているのがわかるからだ。

 

「いい加減に見限れ。あの倉庫街で、あそこの小娘が邪魔をして、止められんかったというのであれば、立派な戦犯じゃよ。そんなのとっくにわかっておったのだから、ヌシがわざわざ殺すことなどせずに、言ってやればよかったんじゃ。

 ―――邪魔をするなら舌を噛んで死ね! とな。死ねば今度こそ従順な人形として使えるじゃろう? それができる死霊術の才能がヌシにはあると儂が太鼓判を押してやってもいいぞ」

 

 呼吸が詰まり、意識が暗転しかねない言の刃だった。

 深く突き刺さるそれはアスタルテには抜けない――否定の文句が吐けないものだった。

 だって、彼女はわかっていた。

 今回の彼は、いつも通りとは違っていた。

 我武者羅で、効率や合理性なんて何もなくて、本能で正解を選んで行動するあの少年が、余裕がなかったその理由。その天衣無縫な個性を封じていた原因はなんであるか。

 それが、教官が不在だからだけではなく、アスタルテ自身を含むチームで行動することになったからだとすれば―――

 

「ヌシは、組むべき相手を間違えたのじゃよ」

 

 それは、残酷な真実を意味する。

 

「これならば、南宮那月を封じん方が面白かったろうなあ」

 

 もしも、教官が健在であったのなら。

 

 特区警備隊の指揮も、『覗き屋』より国家攻魔官が巧く、彼の邪魔にならないよう配慮できただろう。

 

 魔女としての技量、空間制御魔術は<蒼の魔女>では<空隙の魔女>には及びもつかない。

 

 ハッキング技術はなくても、情報の正誤に惑わされることなく、<戦車乗り>のように逆に乗っ取られて誤情報に振り回されることもなかった。

 

 そして、戦闘での息の合いようも、あの『人形師捕縛』のとき、初めて目の当たりにした――焦がれるように記憶野に焼きついた――絃神島最強の主従と見比べれば、<薔薇の指先>との連携は劣っている。励ますことも、自身の感情面でさえ上手く言い表せない人工生命体よりも、教官ならば一喝で立て直してくれたはずだ。

 

 そうだ。

 教官がいれば、彼は、まったく別の道を進んでいただろう。安心して背中を預けて、伸び伸びと腕を伸ばせて、思う存分己の長所だけを突き詰めて真っ向から<タルタロス・ラプス>と激突できただろう。

 だって、その組んだチーム4人全員合わせても、教官ひとりに劣るお邪魔虫なのだから。

 ならば。

 敵の手に囚われ、操られる自身は、お荷物以外の何者でないのだから、舌を噛め―――そうすれば、彼の負担はきっと軽くなる。

 震えながら口を開こうとするアスタルテは。

 

「なあ」

 

 視線は最古の獣王から逸らさず。

 けど、その声は上に向けて放たれる。

 

 

「返事は、どうした、アスタルテ」

 

 

 あの道理を説いた長広舌を。

 馬耳東風と聞き流して、改めて、こちらに。

 あの少年は、頼みごとを取り下げていない。

 

「わからんなあ!! あれが足手纏いなのは童でもわかるというのに、どうしてそこまで痩せ我慢する。そんなにもヌシにとって切り捨てるのは難しいものなのかのう?」

 

「難しいも何も、切り捨てる必要がどこにあるのだ」

 

 その返しに、頭の奥まで真っ赤に灼熱に盛る。

 カッ、と最古の獣王は目端が裂けんばかりに火眼金睛が見開く。

 そしてお気に入りの得物である棍を斜め上へ放ると一気に間合いを詰めた白猿人が、その勢いを殺すことなく銀人狼の側頭部に襲撃を見舞う。だが頭を刈り取るだけでは終わらない。上段蹴りで振り切ったまま回り、ほぼ逆立ちに近い状態で胸元の獣毛を毟り取ると、ありったけの暗器系統の魔具へ変化。真下から執拗にその“無駄口”を縫い閉ざせるように顎へと短剣を複数投げ放ち、雲の『宝貝』で一息に展開して、視界不良に嗅覚攪乱の、未来視と超感性封じの濃霧に包み込み、留まることなく逆立ちから姿勢を側転へと繋げて全身をぐるりと楯に回ると、その最中に猿人の手の元へ吸い寄せられるように最初に投げ捨てた棍が収まり、遠心力を借りて超重量で神珍鉄の剛撃を頭頂部に見舞う。

 これらの動作は刹那の停滞もなく、流れるように行われた。世界最古の獣王は、その気の遠くなるほどの年月の果てにただ武具を造り出すだけでなく、十全に扱えるだけの技量を鍛えていたのだ。

 

「ご主人がいたらよかった? 何を言う。オレはみんなといたから、ここまでやってこれた」

 

 だが。

 それでも。

 

「矢瀬先輩は、無理なお願いを聴いてくれた。パソコンなんて上手く使えないし、リディアーヌでなかったらそもそも勝負になんかなるもんか。優麻の事を空間制御だけで量ってるとしたらそれは烏滸がましいにもほどがある」

 

 血を出す額で如意棒を受けてなお、少年は口を閉ざすことなく当たり前を言い続ける。

 雲で相手の感覚を潰したことが、かえって少年のシルエットを大きくしてしまっているようにすら思えてくる。白猿人は様子見と一歩二歩と後退する素振りを見せ―――て、獣毛を飛ばし、一級品の武神具へと変じた刀槍を何本も直撃させ、同時並行で標的を自動捕縛する縄を振り回して投じる。両腕によるガードを許さず、完全に『宝貝』の縄で首を巻き絞め―――一気に手前へ引き倒す。

 猿人の剛腕を全開に引っ張った。

 だが、

 

「ぬおっ……!?」

 

 がくんっ!! と強い力につんのめったのは、むしろ縄を手に取っている白猿人の方だった。

 大きく息を吐いて、周囲を取り巻く濃霧を払い除ける。

 首に強く何重にも絡みついた縄を噛み千切り、額に血を滲ませながらも、その少年は一歩も動いていない。

 連撃の中には牽制を多く含んであったとはいえ、一体この秒間どれだけの『宝貝』を放ったと思っているのか。一発一発が並の攻魔師や魔族を屠れる威力だった。だというのに、防御らしい防御の構えもなく、両手は降ろしたまま、そして、その意思が向けている先は依然と変わってない。

 

「そして、アスタルテが後輩だから、オレは立っていられたのだ。アスタルテがオレの後輩になってくれたから、オレは先輩になれた。ご主人の眷獣だけのままだったら、オレはどうしても甘えが出ちまったな。ご主人がいなくなっただけで、もう何をしていいのか右往左往としてただろうな。アスタルテがいてくれたからだ。オレが今ここで立っていられたのは、アスタルテがオレをずっと見ててくれたからだ。むしろ格好悪いところも情けないところも見せても、愛想を尽かさないでアスタルテがオレの傍にいてくれたから、オレは自分の足で立てる。

 ―――なのに、オレの後輩を、邪魔だとか、間違いだとか、死ねだとか! オマエは一体何様だ!! オレのことをこれっぽっちも知らないくせにオレの理解者面して、オマエは何もわかっちゃいない!!」

 

 伸びた銀人狼の掌が白猿人の口を塞ぐように頭を掴む。

 

 

「オレは守りたいものを背負わないで、オレの命を賭けられるほど、戦いに狂ってないぞ!! エテ公!!」

 

 

 そのまま大きく振りかぶり、片手持ち(ワンハンド)脳天杭打ち(パイルドライバー)で白猿人を真下に叩きつけた。

 それから、倒れた白猿人を銀人狼が腹を踏みつける。

 

「訂正しろ」

 

 ……彼の怒りに、救われて、けど、納得できないものもある。

 南宮クロウは窮屈感を覚えていたのは、やはり事実なのだろう。けれどその上で、決して見限ることはありえないと宣言していた。教官より下なのは、当然だが悔しいものがある。

 

「オマエも千賀毅人(アイツ)と同じだ、オマエはオレを見てるようで、オレを全然見ちゃいない。そんな奴にあーだこーだと言われたくない!」

 

 でも、だから何だというのか。

 そこで応えない理由になどなるのか。

 

「矢瀬先輩も、リディアーヌも、優麻も、アスタルテも、オレをちゃんと見てくれるし、みんなすごいとオレは認め()てる。オマエとは違うし、オマエなんかがバカにしてもいいもんじゃない!!」

 

 防御(ガード)など頭から抜け落ちてしまうほど、がむしゃらに訴えるその少年の言葉が、アスタルテの胸に突き刺さり、様々な感情を呼び起こす。

 改善を望むのなら、ここは妥協してはいけない。絶対に。

 

「……弱者なんぞに満足しおって、強者(ワシ)を足蹴にするとは、どうやらヌシとは見えるモンが違うようだのう」

 

 心底残念そうにこの付き合いの悪さを嘆く。だが、まだ目には執着の色は消えていない。

 

「じゃが、儂の焦がれた願望は、譲れん。まだ風向きはこちらにあるのだ! よかろう、すべてを失ってから気づいた方が味わいはより深いものとなる―――毅人よ、行くがよい! この青二才の目が如何に曇ってるか、事実で教えてやれい!!」

 

「オマエ……ッ!!」

 

 踏みつけた銀人狼の足に抱き着き、仙石(いし)と化ける。片足を重石につけさせ、行動力を奪うと、援護する隙を狙い戦況を窺っていた同志に先へ促した。

 クロウもすぐ足を振り上げて、仙石を外そうとするが剥がれず、千賀は空間転移の呪符を取り出した。

 これで相手が二手に分かれてしまえば、その分だけこの立ち会いに集中ができなくなるだろう。

 それが視なくてもわかったから、少女の最初噛むつもりであった舌先は震えた。

 

 

命令(アク)……受託(セプト)

 

 

 その瞬間。

 焦りが浮かび上がりそうだったクロウの目の色がハッと変わる。

 それは、本当にかすかな声だった。風に掠れそうな、普通ならこの距離で聴こえようのないもの。だけど、自分の意思(こえ)を先輩の耳は拾ってくれた。

 

「よし―――!」

 

 そして、安心してくれた。

 

『いくら命令されてもやりたくないことは誰だってやりたくない。でも、アスタルテは『命令受託(アクセプト)』って、魔法の呪文(ことば)を唱えるだけで何でもやれるようになるすごく意志の強いヤツなのだ』

 

 あのとき、自分を認めてくれた言葉をアスタルテは忘れてない。そして、彼も変わってなかった。

 血が昇っていた頭が冷めた先輩は、獣化を一端解いて脱力。余分な力が抜けた脚から仙石の拘束はするりと抜けた。でも、すぐクロウは千賀を追うようなことはしなかった。

 

「そういうわけだ、千賀毅人はボクたちに任せたまえ。南宮先生は必ず助けるよ」

 

 と静観して見守ってくれていた仲間の魔女が銀人狼へ声をかけて、風水術士の後をすぐさまに追い掛け、空間転移した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 チッ、と白爺は明確に舌打ちした。

 

「……折角、あと少しで、熟した果実が、儂のいるところまで堕ちてきてくれそうだったのに……ッ!! ああ、そんなちっぽけな希望(みず)など与えず餓えに餓えさせれば、<黒死皇>となれたはずだったのに……ッ! 儂は、もう、我慢の限界じゃと言うとろうがァァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 ドス黒い色がついたような怨嗟の咆哮が轟いた。

 あれだけ、さんざんと言葉をつくし、煽りに煽ったというのに、あんな人形の小娘の言葉であっさりと立ち直られてしまっては、イラつくというもの。

 

「そんなの知るか」

 

 それを一蹴するクロウは、不敵に笑んで言った。

 

「喜べよ、これでオレはオマエとの闘争(ケンカ)を心置きなく、存分にやれるんだぞ」

 

「はっ、安心するにはちと早いのではないか? 毅人は特一級の術士よ。小娘ごときが相手をするのは高望みだのう」

 

 その一点も曇りない眼差しを、ハヌマンは鼻で笑う。嘲笑う。失笑する。

 

「そして、ヌシはまだ熟し切ってはおらん。足りんのじゃ、何もかも『不滅』の儂を脅かすには全然足りんッ! なんなら、その思い上がりの底を、砕いてやろうかッ!」

 

 ざわ、と白猿人の獣毛が逆立つ。

 建物の陰に控えていた何かが、音もなく出てくる。前からも、後ろからも、右からも、左からも―――

 次々と影がこの戦場へ密集していく。あっという間にこの広場の周囲を埋め尽くす。

 いや。

 まだだ。

 広場どころか、この一区画を呑み込む人海。見渡す限りの建物の屋上からぞろぞろとスロットの大当たりを出した時のように影が集っていく。

 びっしりと、と表現していいほどに、まったく同じモノがクロウを囲っている。

 そして、それらの色は、すべて白。

 <白石猿>……その最初期に開発さ(うま)れてから、この現代にまで生存する『不滅』を謳う最古の獣王は、数の概念が適応されない。

 

「儂ひとりにこうも手古摺るようでは、“数百体”の儂らを相手することなど夢もまた夢よ」

 

 だから、今回は、“育てる”つもりだった。

 宿敵と同じ道を辿らせて、同じ存在にまで至ってもらおう。そのはずだったのに。

 

「『魔族特区』を潰すくらい儂ひとりでも十分。毅人が<タルタロスの薔薇>を開発するまで、<タルタロス・ラプス>は、儂ひとりで『魔族特区』を滅ぼしたこともあったんじゃぞ」

 

 一個にして複数。この獣王の軍勢は、『夜の帝国』にも『魔族特区』にも怯むことなく、圧倒してきた。

 だが、この孤独を埋め合わせてくれる同族は、いなくなってしまった……

 

「なあ、オマエにも訊きたいことがある」

 

「ほう、なんじゃ?」

 

「どうして破壊“集団”(テロリスト)になってるのだ?」

 

 クロウはそう言って、鋭い眼差しを据える。

 

「それは、<黒死皇>の血を継いだ<黒妖犬>が絃神島におるからかのう」

 

「オレが理由なら、『魔族特区』を壊すとかいう面倒な手間を取る必要はないのだ。オマエこそ、何をおいて、オレのところに特攻を仕掛けるだけでよかった。それに、千賀毅人(せんせい)ディセンバー(せんぱい)のように義憤(いかり)も大して覚えてない。子供(あいつ)らみたいに心酔してるわけでもない。オレに散々窮屈だとか言ってたけど、それだけの力があるのにオマエは遊んで、楽してるようにしか思えないぞ」

 

「儂はもう古株(OG)なんでな。ちょくちょくと手伝いするだけで十分よ。あんまり甘やかすのはためにならん」

 

「余計なちょっかいしかしてないみたいだけどな」

 

 好々爺らしい緩んだ笑みで答えるハヌマンに、クロウは率直に切り込む。

 

「オレがさっき先生(アイツ)に言ったことくらい、オマエはとっくにお見通しだった」

 

「ひっひ、じゃから望みをかなえて、毅人の手元に管理できるようにしてやっただろう? <山河社稷図>ならば、今度こそ逃げられるようなことはなかろう」

 

「古城君のことも、ディセンバー(せんぱい)操り人形にする(あんな)のは不本意だったと言っていた」

 

「<第四真祖>は、説得しても通じんじゃろう。儂なりに姫へ気を遣ってみたのじゃよ」

 

「そういうのがテロリストらしいのかもしれないけど、あいつらのためになってないものだとオレは思う。それもオマエはわかって、やっているんじゃないのか」

 

 語調こそ静かなものの、クロウの詰問は一言一言が高密度だった。その場凌ぎや誤魔化しを許さない実直さがある。ハヌマンは返答に悩む風に指先で髭をかき、しばし言葉を選んで沈黙する。

 それから、

 

「そうじゃのう……儂がその気になれば、ヌシの考えるような“まっとう”に導けたろうよ。だか、それではつまらんじゃろう?」

 

 ピクリ、とクロウが目をすぼめた。

 

「さきほどヌシが責めてくれた毅人の様は愉悦でなあ。実に見応えがあったぞ」

 

「オマエにとって、あいつらは仲間なんかじゃないのか」

 

「だのう。じゃが、結局のところ、心底では儂に仲間など“どうでもいい”ものじゃよ。いずれ儂を置いて死にゆくもののことなど、どうして気遣えるという? 儂が本心から求めるのは、この『不滅』を埋め合わせてくれる(ころせる)宿敵だけじゃ」

 

 悪意なく、率直な口ぶりで白爺はそう言った。

 彫りの深い、皺だらけの面相には、枯れた雰囲気が染みついている。そこから臭ってくるのは、孤独と達観。それらの根底にある、常人では計り知れないドライさ。あるいはそれは、一種の悟りであるのかもしれない。

 しかし、クロウは、

 

「だったら、オマエが一番、最悪だな……あの<蛇遣い(ヴァトラー)>とおんなじだ」

 

 と語気を強めて吐き捨てるように言い切ると、クロウは今一度周りに視線を走らせ、

 

「数百、か……やっぱり、これを使うことになるぞ」

 

 一国を滅ぼせる総戦力の包囲網の中、独り言のように声を零す。

 この絶望するしかない光景を目の当たりにしてもなお、落ち着きを払う彼は、蒼銀の法被の内ポケットからその紙袋を取り出し、中からカプセル錠剤を、2、3個、掌の上に落とす。

 

薬丹(くすり)か。なんじゃ仙人にでもなるつもりか?」

 

「―――能力増強剤(ブースタードラッグ)、っていうものだ。能力を“数百倍”にもする効果がある」

 

 昨夜の手合わせで、その実力はおおよそ測り取れた。<白石猿>の方がまだ多くの手札を温存し、実力が上だというのを<黒妖犬>は正確に理解していた。何よりも主人を捕らえ、師父を倒したことを知っている。

 だから、矢瀬先輩に無理を言って頼んだ。

 

『いいか、クロ坊。これは、まだ服用許容限界(セーフティライン)がわかってなかったときの旧型試薬(プロトタイプ)だ』

 

 だから、無理だと思ったらすぐに吐いて捨てろ。

 

 試しに半錠舐めてみたが、いつになく先輩が真剣な表情で忠告した危険性はわかった。

 これは、かつて自ら実験動物を志願した、<禁忌四字(やぜ)>の一族の女性をひとり、廃人とした劇薬だ。

 だがこのハイリスクに見合うだけの効能はあった。

 不思議なことに、一族の者に合わせて造られたはずの増幅薬は、クロウの身体にとても馴染んだのだ。

 

 

 ごくん、と呑み込み、すぅ、と深呼吸―――

 

 

 途端、<白石猿>は、ごっそりと裡から持っていかれた。匂いが、感情が、記憶が、そこにある“情報”を読み取られた。いいや、嗅ぐ(みる)だけに留まらず、“()われた”。如意棒も手放した白猿人は、急激な失血時のように地面にしゃがみこんだ。

 ―――ぬぐっ!? これは、姫の―――いや、『原初』の―――

 <第四真祖>が、世界最強と謳われる割に幻の存在とされたその要因、唯一足りない『固有体積時間』を埋め合わせるために行われる、記憶搾取能力。

 すなわち、絶対強者に許された補食権能。

 まさか、爆発的に高められた『芳香過適応』はその領域にまで達したというのか。

 <黒死皇>のものではない、所詮は弱者(にんげん)超能力(ちから)だと軽視していたそれが。

 

「ああ、オレとオマエは経験値が違う」

 

 能力増強剤は、きっかけだ。

 かつての戒めで無意識に制限を課していた超嗅覚の“蓋”を外すための。

 

「だがな、それは現時点ではだ。この先の未来でもその壁は超えられないと思うほど絶対的なものじゃない。だったら、オレはオマエを踏み台にして、その伝説を過去の話に変えてやる」

 

 その高みに至るための第一歩を、前に踏む。

 これから昇る(いどむ)のは、神話の時代を知る生きた化石。

 

 

 

「いくぞ、世界最古の獣王(ロートル)―――オマエが積んできた“歴史”、呑み尽してもオレの腹を、この思い上がりの底まで満たせるか」

 

 

 

つづく



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奈落の薔薇Ⅵ

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

 真正面から跳躍した獅子の影法師が、人間には反応しようもない速度で、少女の頭部へと爪を振り落す。

 

「―――!」

 

 正面から降り落ちた獅子の爪が、硬い音を立てた。

 空を断ち割るような音だった。

 その音が響き渡った次の瞬間、姫柊雪菜は大きく背後へ飛び退っていた。

 霊視にて獣の行動を先読みした彼女は、銀槍の武神具の柄で、獅子の爪を受け止めたのだ。爪を迎え撃った獅子王機関の秘奥兵器は、『神格振動波』を展開する刃先ではなかったものの柄が真っ二つにさせるということはなく、少女が背後へと跳躍する隙を作ったのであった。

 

「っ、……!」

 

 喘鳴と共に、一先ず相手から距離を取った雪菜は目を険しく細める。

 嫌な汗と、一条の血が、こめかみを伝った。

 紙一重どころではなく、獅子の爪は少女の頭皮を切り裂いていたのだ。僅かに掠めただけで衝撃は脳を揺さぶり、ごく軽い脳震盪の症状まで引き起こしていた。

 

(……強く、なってきている)

 

 “脅威”を、噛み締める。

 発生しているのは、命の危機のある魔導災害だ。

 ただ国家の魔導対策組織で養成された剣巫に対処できないほどの威力があったわけではない。与えられた<雪霞狼>であれば、容易く一撃で滅することができる程度だ。しかし、数が数。槍ひとつ身ひとつで数体の眷獣を相手にしなくてはならないのに、加えて、相性の悪い金属傀儡を突破したい。

 だが、ディセンバーが宣告したように、状況は刻一刻と悪くなってきている。

 

「ほら、また追加よ」

 

 ディセンバーが、空に視線をやって言う。

 上空の魔方陣、その『黒薔薇』の花弁がはらりとまたひとつ影を落としたのだ。ひらひらと風に乗り揺れる中で、それは忽ち盛り上がり、新たなカタチを携えて、この廃墟区画で起き上がった。

 たとえば牛であり、たとえば豹であり、たとえば新たな獅子であった。

 『黒薔薇』の眷獣製造は止まらない。

 

「このままだと人間のあなたは体力切れ。それとも、対処できる限界が来ちゃうかも」

 

 ディセンバーが、好戦的に歯を剥きだした。

 鋭く尖った糸切り歯に焔色の長髪は、彼女を<焔光の夜伯>と呼ばれた伝説の吸血鬼と認めるに足る。<第四真祖>を独断で処刑する権限の与えられた監視役に、本気になればどちらが上であるか力関係を確かめる必要もないと、無言の内に主張している。

 しかし、

 

「いいえ……!」

 

 雪菜が否定し、

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 風前の灯とばかりに小さくなっていた銀槍の霊光が勢い増す。

 あらゆる魔力を断ち、高密度の魔力で肉体が構成される眷獣には天敵といえる力の一振り。剣巫の一閃に、一気に数体の影法師が霧散した。

 それでも。

 また次々と。

 蛇。

 鴉。

 馬。

 はたまた象と、<タルタロスの黒薔薇>より影法師の眷獣は追加生産されていく。

 もはや、この廃棄区画だけでもその総勢は数十でも足りぬ。ざっと見ただけでも百体以上……地上だけでなく、空中にはまだまだ落着していない漆黒の花弁は舞っており、しかも徐々に眷獣の強度と狂性が上がっていっている。最初、『神格振動波』の霊光があたるだけで牽制できていたのが、今では臆さず雪菜へ果敢に飛び掛かってくる。

 必然として呪力の消費量はあがり、また先輩との距離は遠ざけられていっている。切り札の<神降し>も眷獣を相手にしていては発動に集中できない。

 

「あんまりムキになると死ぬわよ。だってこれはまだ“前座”なんだから」

 

 ディセンバーが言う。

 ふるふると集まってくる猛獣たちは、その息遣いでこの世界を歪ませるようだ。無限の“負”の生命力を持つ吸血鬼が召喚したものではないにしても、眷獣の肉体を構成する魔力はさらに黒々と澱み、さらに濃密に深まっていく。

 

「これが、“前座”……!?」

 

 さしもの雪菜は、これに動揺は隠しきれない。

 この脅威度が中級にまで達した眷獣でもこれだけの多勢があれば、『魔族特区』に壊滅的なダメージを与えられるだろうに、まだ先があるのか。

 ディセンバーは、見渡す限りにある『黒薔薇』の眷獣を視界に入れた途端に支配下に置いている。

 ぞろぞろと『七星壇』を囲う眷獣の群は、少女に付き従う軍隊のようでもあった。

 

 でも、これはまだ“本隊”ではないという。

 

 雪菜の霊的直感もまた告げる。

 ひしひしと感じている嫌な予感の正体は、この恐るべき眷獣軍隊ではないと。

 あまりの穢れを見過ぎたためか、奪われていく気力のためか、朦朧とした視界に、

 

 

 

「―――獅子の舞女たる高神の真射姫が請い奉る!」

「極光の炎駆、煌華の麒麟、其は天樂(てんがく)と轟雷を統べ、噴焰をまといて妖霊冥鬼を射貫く者なり―――!」

 

 

 

 凛然とした声が、その意識を揺さぶり起こした。

 高速で飛翔する二条の軌跡より、人間には再現不可能な高密度の呪文詠唱が轟き―――凄まじい轟音と共に、巨大な閃光が絃神島上空を駆け抜けた。

 

 

「「雷霆(ひかり)、あれ―――!」」

 

 

 まさしく、それは天罰だった。

 『旧き世代』の眷獣にも匹敵するほどの圧倒的な魔力量が込められた鳴り鏑矢が、中空で破裂する。

 戦艦砲にも匹敵する威力を秘めた光の矢が、たちまち豪雨の如く抉り落ちる。たとえ濃密な魔力の集合体であろうとも、その礫にすれば紙も同然。半径数十mを打ち砕く天よりの裁きは、無尽の如く降り続いた。

 ああ。

 この術式は、魔弾の多重目標固定(マルチロックオン)

 一矢でさえ地表を破壊するに足る神鳴りの連続発生。

 途轍もない轟音と粉塵の渦が区画内を埋め尽くし、あたかも世界の終りの如き様子を現出させた。

 そして、この圧倒的な制圧の中でも、雪菜の周囲だけは外すという精度。眷獣だけを正確に射抜いて殲滅する。

 数十体の『黒薔薇』の眷獣たちが、その攻撃に呑み込まれて、悲鳴を上げる間もなく消滅した。

 

「雪菜―――!」

 

 雪菜は勢いよく顔を声がした方角へ向ける。

 視界に飛び込んだのは、鳥に似た小さな黒い影だ。それは獣龍の背に乗ってこの廃棄区画へとやってきた雪菜と同じように、大気を切り裂くようにして、海面スレスレを滑空していた。ちっぽけだったその姿が、絃神島に近づくにつれて、かなりの巨体であることに気づく。絶滅した太古の恐竜に似た蛇身と、片翼十mを超える巨大な翼を持つそれは、鋼色の鬣を持つ『龍族(ドラゴン)』だ。

 

雪菜(ゆっきー)!」

 

 そして、その『龍族』の背中には、四人の少女。

 銀色の長剣を構える剣巫に、双叉槍(スピアフォーク)を回す太史局の六刃神官。

 そして、今の呪術砲撃を行った二人の舞威姫。

 呪矢を放った魔弓<煌華鱗>を掲げて、こちらに手を振っている彼女の名を、雪菜は知っている。各々の武神具を展開し、臨戦態勢を取る彼女たちを、姫柊雪菜は知っている。

 

「紗矢華さん!? 唯里さんに、志緒先輩……それに、妃崎さんまで……!」

 

 雪菜が驚きに目を瞠る。

 『龍族』の背中にいるのは、雪菜が獅子王機関の攻魔師になるために養成訓練を受けた『高神の社』の同室の先輩(ルームメイト)たちだ。それだけでなく、獅子王機関と同じ魔導対策機関であり、別派閥である太史局の黒の剣巫までいる。

 『青の楽園』や『神縄湖』で獅子王機関と太史局の上層部は、互いに利権を取り合う政争をしていたはずなのだが、上層部ではない若手の攻魔師らは呉越同舟と手を結んでいた。

 

「あなたは、グレンダさんですか!?」

 

『だーっ!』

「わーっ! グレンダ待って待って!? すぐ私の上着着せるから!」

 

 無事、少女たちをこの場所まで送り届けた鋼色の竜は、雪菜へ挨拶しながら、人化。巨大な『龍族』から、髪の長い小柄な少女へと変身した。

 もちろん変身を解除した直後の『龍族』の少女は、服を着てない素っ裸なのだが、そこはすぐに先輩たちの中でも特にお世話焼きな羽波唯里が自分のコートを羽織らせた。

 

「ああっ!? 頭から血が……大丈夫、雪菜っ!?」

「紗矢華さ―――むぐっ……!?」

 

 そして、雪菜の元へ真っ先に駆け付け、飛び付き、ぎゅぅ~~~っ、と力一杯に抱きしめたのは、やはり煌坂紗矢華であった。

 大事な妹分の無事を確認、とついでに雪菜分を補充するかのようにその豊満な胸に雪菜の小顔を埋めさせるようにハグしている紗矢華……そんな絶賛狂乱中な訓練生時代からの舞威姫の好敵手(ライバル)を、冷ややかに一瞥するのは、斐川志緒。志緒はその自分にはない大きな脂肪の塊にぴくっと頬筋を強張らせながら、孤軍奮闘していた後輩よりお邪魔虫を無理やりひっぺ剥がして、

 

「鬱陶しいから下がってろ煌坂紗矢華―――姫柊雪菜、疲労しているところ悪いが、話を聞けそうなのが他にいない。状況の説明を頼めるか?」

 

「ちょっと、斐川志緒! 雪菜は怪我してるのよ! 今すぐ休ませないと!」

「ああっ、私なら全然大丈夫ですから紗矢華さん! はい、志緒先輩。でも、一体どうやって絃神島に……?」

 

 過保護っぷりに火が点いてる姉貴分を宥めて、雪菜が問うと、比較的冷静な志緒はこれまでの経緯を簡単に語る。

 

「八卦陣に妨害されて近づけなかったんだけど、元々絃神島の近くまで来てたんだ」

 

 獅子王機関、と太史局もそうだが、絃神島へ其々任務のために人員を派遣していたのだ。

 だが、ちょうど昨日の今頃、彼女たちを乗せた貨物船が、別の輸送船と衝突。

 急激な濃霧とレーダーの不調、操舵手の不注意が重なった不幸な事故だ。不幸中の幸いで負傷者は出ず、船体の損傷もすぐに沈没してしまいそうなくらい致命的ではない。ただ両船とも航行能力を喪失し、船内は浸水。結果、乗客は傾いた甲板の上で不安な一夜を明かす羽目となった。

 して、若い攻魔師たちは、すぐこの付近に同じように航行不能となり、漂流している船が30隻近くあることを知る。

 機関部の故障に障害物の激突など、そのどれもが突発的な事故によるもので、人為的な破壊工作の痕跡はないが、偶然で片づけるにはあまりにも事故が多発している。パッと海を見渡して、漂流している船が8隻も確認できるなんて普通にありえない。絃神島への海上交通は、ほぼ完全に麻痺しているとみた。

 そこに、組織本部より絃神島で要人を狙った暗殺未遂事件が発生しているとの報が入り、この現状が魔導テロに関わっている可能性が高いと結論付ける。

 そして、呪術の専門家である舞威姫が、漂流船多発事故が八卦陣の呪法にかかっていると推理。舞威姫の尊厳(プライド)にかけても、敵の呪いにやられっぱなしとはいかないので、八卦陣を内側から破ろうと解析を試みて……

 

「それで相手の呪法を解析したから、見つけた抜け道に沿ってグレンダに飛んでってもらって―――」

「八卦陣の術式を、内側から読み解いたんですか……!?」

 

 キラキラとした尊敬のまなざしを向けられて、志緒はややたじろいだ。

 

「あ、いや、まあ……私ひとりでやったわけじゃないんだが……」

「そうよ! というか、あんたあとからちょっと口出ししてきただけじゃない!」

 

 と雪菜から頼れる先輩だと崇められてるのが、大変気に喰わない紗矢華が二人の間に割って入る。

 

 そう。

 八卦陣の解析は、舞威姫二人の共同作業で導き出したものだ。が、顔を突き合わせるたびに張り合う好敵手との協力は口にするのが大変憚られる志緒である。

 だから、口籠ったのであって、別に評価を独り占めしようとか考えてない。

 

「私が雪菜に説明しようと思ってたのに、まるで自分の手柄みたいに言わないでちょうだい、斐川志緒!」

「そんなこと言ってないだろ煌坂! だいたい私が手伝わなかったら三奇六儀のところで計算式が止まってたじゃないか!」

 

 額を突き合わせていがみ合う先輩二人。

 唖然としてしまう雪菜の耳が、やれやれと嘆息が拾う。

 

「獅子王機関の舞威姫は、こんなときでも元気ね。だけど、そんなじゃれ合ってる場合でないのは、プロならば一目瞭然ではなくて?」

 

 皮肉気(シニカル)な笑みを向けるのは、妃崎霧葉。

 獅子王機関とは別派閥の構成員からのごもっともな指摘に、ぐぬぬ、と悔しげにする舞威姫たち。けれどそれも雪菜が、コホン、と一度咳払いをすれば、二人とも慌てて姿勢を正した。

 

「―――説明します。状況は、この通り絃神市全域を対象とした無差別攻撃です。首謀者は<タルタロス・ラプス>と名乗る『魔族特区』破壊集団。クロウ君から教えてもらった構成員は、発火能力を持つ人工生命体に狙撃手とハッカー、それから、古代猿人種の獣王、風水術士の千賀毅人―――そして、ディセンバーと名乗る<焔光の夜伯>のひとり」

 

 キッと視線を向けて、雪菜は示す。

 ゆっくりと粉塵が晴れていく中、『六式重装降魔弓』と『六式降魔弓・改』による制圧ですべてを吹き飛ばしたはずの儀式場に、依然と人影は立っていた。

 煙の向こうに炯々と瞬き揺らめく焔色の眼光を湛えて。

 

 

「あら、お話はもう終わりでいいのかしら?」

 

 

 そこに密集していた眷獣たちの八割は吹き飛んでいた。

 しかし、“無数の宝石の障壁に護られた”『七星壇』を破壊することは叶わず。

 

「え、どうして、暁古城が……!?」

 

 ディセンバーの隣に侍る少年――世界最強の吸血鬼<第四真祖>暁古城はその腕を振り上げていた。

 彼の前に君臨していたのは、絶対無謬の大角羊。

 その<焔光の夜伯>の『一番目』の眷獣は、<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)

 そして、その災厄の化身を血に宿し、たった今召喚したのは、暁古城。

 

 古城が敵側についているのを視認して、瞠目している紗矢華らを見やり、一度目を瞑る雪菜は、説明を続ける。

 

「その能力は、眷獣を含む相手を精神支配するものです。それで先輩は……」

 

「なんですって……!?」

 

 まさか、<第四真祖>が敵の手に落ちるなんて―――

 ……いや、無人島に置いてけぼりにされたり、真祖の肉体を交換されたりと割と隙が多いからそうでもないのだろうか。そうだ。世界最強の吸血鬼という物騒な肩書な前情報があったけど、第一印象は可愛い雪菜に迫る変態野郎で……吸血鬼なところを除けば、普通の男子高生であった。

 最初はショックだったが、これまでのことを思い返した紗矢華は冷静になり、持ち直した。

 

「あああっ! もうっ! 世話が焼けるわね暁古城!」

 

 ちょうどいいからこれまでの分の鬱憤をぶつけてやろうかしら! と容赦なく舞威姫は、呪矢をつがえた『六式重装降魔弓』をディセンバー、と古城のいる『七星壇』へ向ける。

 

「お願いします。私を先輩のもとに行かしてください。そうすれば、先輩を……!」

 

 他の三人も雪菜の説明でやるべきことを把握した。

 

「うん……わかったよ雪菜(ゆっきー)

 

 グレンダを下がらせた同じ剣巫の羽波唯里は、真っ直ぐに頷いて『六式降魔剣・改』を構える。

 

「本当、この島は退屈しないわね」

 

 狩るべき獲物が選り取り見取りな状況に妃崎霧葉は、好戦的な笑みで『乙式呪装双叉槍』を構える。

 

「私も全力でサポートしよう」

 

 <第四真祖>の監視役という重責を担う後輩に斐川志緒は、狙いに眼光を眇めて『六式降魔弓・改』を構える。

 

「行きなさい雪菜。私の分まであの変態真祖をブッ飛ばしてちょうだい」

 

「はいっ!」

 

 最後、煌坂紗矢華に送り出されて、雪菜は『七式突撃降魔機槍・改』を構える。

 

「ふふ、いいわよ。古城を奪えるものなら奪ってみなさい」

 

 五人の巫女攻魔師を受けて立つディセンバー。

 その頭上には『黒薔薇』の眷獣が降り落ちてきていて、『七星壇』を守護する<石兵>が鋼質な巨体を起こす。

 

 

キーストーンゲート 前

 

 

 絃神島全土に眷獣の脅威を落としていく<タルタロスの黒薔薇>。

 しかし、この『魔族特区』の基盤を支える重要な中央区画に、『黒薔薇』の眷獣の侵攻は及んでいなかった。

 この最新と最古の獣王同士の激突で発生する余波の影響で、舞い落ちる花弁が暴風域から弾かれるように、眷獣の悉くが近づくことができないのだ。

 

 

 優に三桁に届く群体に、中心と言う概念などない。故に、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それらもまた統合されている。昆虫の複眼を処理する脳のように有象無象の感覚器を統合する全体としての意識を持ちながら、同時に流れるように各々の個体へ意識を移すこともできるぞの感覚は、最早“ひとつの視点”しかもたない生物には共感不能なものなのかもしれない。

 あえて喩えるなら、もはや生物と言うよりもシステムに近い。

 無数のモニターが並ぶ遠く離れた警備室から、無数のカメラを切り替え、検索して、標的を常にとらえ続けるような感覚なのかもしれない。

 

「「「「ほれ、行くぞ」」」」

 

 <如意金箍棒>、だけではない、<九歯馬鍬>、<降妖宝杖>……とその手に各々の武器を構える。

 百を超える『宝貝』が、ただ放り投げるのではなく、一級の戦士に振るわれて、一斉に“人狼ではない、人間のままの少年”へ突きつける。四面楚歌。巨大な花や打ち上げ花火のように、南宮クロウを中心に据えて。

 たった一撃で眷獣を屠れる武具の真価が、人海戦術の津波と化して全方位から<黒妖犬>へと襲い掛かった。

 その数、威力もさることながら、感覚を共有している<白石猿>の群体に死角など存在せず、この包囲から敵を逃すことは、万が一にもありえない。

 

 すぅ……―――

 

 故に。

 右に左に生物的な流線型を描いて回避挙動を続ける南宮クロウだったが、その努力が報われることはない。

 グワッ!! と景色の一部が歪む。南宮クロウを巻き込んで、空間そのものを圧搾するために。

 

 

 

「甘いな」

 

 直撃の一秒手前、その身体が滑り寄る。まるで間合いを盗んだかのような、ぬるりとした接近。獣化もしていない身体能力からの白猿人が対応できぬ歩法をもって、クロウの左腕が唸りを上げた。

 

「それは、“(まえ)”に攻略されたものだぞ」

 

 クロウの拳が手近にいた白猿人の一体の胸板をまともにぶち抜いた。そのまま振り回す。白猿人自体の肉体を盾とするように。

 

「それに、たった今も、オマエは死霊術(さいのう)を保証してくれたな」

 

 <白石猿>は、獣化応用技術である<身外身>を極めて、身体の一部、その毛一本から武神具を生み出せるバケモノだ。だけど同時にそれは、その武神具はあくまでも化け物と比較すれば毛一本程度の価値しかない。材料が同じバケモノの身であれば攻撃を抑え込めるだけの性能を持った防御が可能だ。

 そう、矛と盾の話と同じ。

 

「だから、死んで盾にしてやればいい」

 

 この状況を整理して。

 百体以上、適当に腕をただ突っ張っただけでも当たってしまうくらいにどこにだって白猿人が存在する。

 つまり、選り取り見取り、補給し放題だ。

 

 まるで詰将棋の解答例を見ながら駒を打つように、<黒妖犬>が動く。

 

 敵群体は、間髪入れずに次々と襲い掛かってくる。

 命を奪い、死霊術で傀儡とする。傀儡の身を硬化するように命令し、盾とする。盾とした白猿人が原形を失ってぼろぼろに崩れるより早く、呼吸と間合いを盗み取るように疾走したクロウは次の白猿人に襲い掛かり、急所を一撃で貫き抉る。死霊術で道具とし、硬化させて新しい盾にして再利用。

 あとはそれの繰り返し。

 盾を使い倒すことで安全を確保しながら、同時に総体としての<白石猿>の数を減らしてジリジリと追い詰める。敏捷性が先ほどより上昇したのではない。“まだ人間形態”。むしろ獣化するよりも運動性能は下がっているだろう。ただ、判断速度に躊躇い(ブレーキ)がない、余計な思考感情をカットし、戦闘にのみこの極限の集中を注ぐ。

 悪夢のように残虐で、しかし一石二鳥の最適解。

 

 

 

「「「「甘いのう」」」」

 

 無数の<白石猿>の口から、示し合わせたように同じ言葉が溢れる。

 一撃必殺で処理される自身の死体を盾にされているが、それも見慣れているように、涼しい顔で。

 

「「「「それに儂はこう次の手を打ったはずじゃ」」」」

 

 警戒させるより早くに。

 乱闘に巻き込まれる<白石猿>の一体が、身体を膨張させる。一気に空気を吹き込まれた風船の如く。クロウは思い切り腕を振り回して、胸板を貫通した白石猿の盾を投げ飛ばして、異常個体を撥ね飛ばして遠ざけさせる。

 

「「「「<開天珠>―――接触すれば、爆発するぞ」」」」

 

 瞬間、獣毛すべてを“爆弾”と変じた白猿人の上半身は赤黒く、カボチャのような形に膨らみ切って、破裂した。腹から上が丸ごと爆ぜ飛んだ。血飛沫をあげて爆発四散し―――四方八方で次の爆発が続く。

 “爆弾宝貝”と化した異常個体は、一体だけではない。この群体の中に複数体紛れ込んでおり、そして、当たり(ババ)引いた(ふれた)ら、爆破する。これで迂闊に盾にはできなくなる。

 そして、一度でも爆発に巻き込めれば、あとは圧倒的数量で押し潰す。かといって臆せば、動きは鈍り、群体は捕まえられるだろう。

 これで、<黒妖犬>は詰んだ―――

 

 

 

「甘いな」

 

 はずだが。

 イソギンチャクのようにへばりつかせている自爆した個体の残骸を拭い捨てて、クロウは、迷いなく近場の白猿人を蹴っ飛ばして、カーリングのように複数の白猿人を巻き込む。

 パズルゲームのように連鎖爆発を誘発させて、個体数を減らしていく。自爆する個体を看破している動きであり、対処法も熟知したものだった。

 ―――上手な殺し方を教えてやろう。そう『混血』の中に潜む悪意の歴史が囁くのを聴いた。

 軍隊で包囲し、一斉に攻撃を仕掛ける。というのに、一度も致命打(クリーンヒット)がなかった。そして、白猿人を一体屠るごとに、気持ちの熱が冷めてゆくような、奇妙な感覚がした。それに身を委ねるように動くたびに眼光は鋭く、冴えていく。

 己の意思で、呼吸や筋肉の緊張まで100%に制御し続けることはありえない。だが、80%が限度とされるその不可能を成している別次元の肉体制御。

 爆弾と化した白猿人が複数体、それも別角度より迫る。だが、それを阻むのは、交錯の間に“心臓を抉り抜かれた”白猿人。度を越して合理的な挙動は熟達した奇術のように近くの隙間に潜り込む……と絶命したことに気づかず、人形とされたことにも気づかず、数体の左胸に風穴の空いた白猿人は死に動かされた遮蔽物として、自爆個体の進撃を阻む。接触すれば、自動設定で<開天珠>が発動するそれらは、操られた死体に抱き着かれて、誤爆を起こして周りを巻き込んで自滅した。原形を留めないほど損壊した肉体は、死霊術の支配からは解放される。先ほど、盾としてきた者と同様、胴体から外れる四肢がおおかた外れ、ほとんど一本の棒のような形状になった頃、ようやく地に倒れることを許されるのだ。

 

 

 

「……やられたのう。なんと30分と掛からず300体が皆殺しされるとはなあ」

 

 <黒死皇>

 幾千と屍の山を築き、死体を戦争の道具として利用した修羅。

 この記憶に焼きついた悍ましき情景が今ここに蘇っているようで―――<白石猿>は感涙の笑みを浮かべていた。

 同性能(スペック)の個体の群体が、屍の山となっているというのに、白爺の口調に苦いものはない。

 

「よい。実によい! これならば、あれからの“続き”ができよう!!」

 

 “準備運動”は終わった。

 本番はこれからだ―――

 

 

 

「―――」

 

 これまでズレていた周波数のチャンネルが直っていくような奇妙な充実感。

 

「―――」

 

 今、この意識が至っているのは、“知り尽くした”妖仙の武技仙法が、一切届かない高み。

 

「―――っ、呑まれるな」

 

 だが、クロウは、<黒妖犬>が辿り着いてしまう可能性のあるひとつの最終形(こくしこう)ではない。あの殺戮機械に戻るという選択は選ばない。

 能力増強剤(ブースタードラッグ)で数百倍に拡張された超感性は、<白石猿>からだけではなく、<白石猿>の闘争の歴史に感化されてか、クロウ自身からも血に宿る『固有堆積時間』までも取得させていく。そして、それはすでにこれまで生きてきた年数分を超えて、百年近くの量だ。だからか、取得した己の記憶を上回るほどの“情報”量の分だけ、『南宮クロウ』と言う自我が薄れていくような錯覚を覚える。

 

「だが、まだだ―――アイツの底には、まだ至ってない」

 

 “試運転”は、これで終いだ。

 この一気に引き上げられる感覚になれるまではと控えていた、“さらに感覚を鋭敏とする”獣化(アクセル)解放する(ふんだ)―――

 

 

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

 島の上空を覆い尽す『黒薔薇』の魔法陣からは、今の眷獣たちが召喚され続けている。

 降下を続ける眷獣の群れを、舞威姫たちの呪術砲撃が迎え撃つ。

 まず<煌華鱗>の性能を最大限に発揮できる紗矢華がこの一帯を覆う巨大な魔方陣を展開し、志緒が多重目標固定で狙いを定めた小型魔法陣を無数展開してその撃ち漏らしを消滅させる。

 これまでに互いに連携訓練を受けてなどいないが、その呼吸は知っている。協調性に多少の問題はあれど、やはりこの二人は優秀な攻魔師であり、相手の得意分野を生かす役割分担で合わせれば、その呪術砲撃に一部の隙間もなくなる。

 

「さて、姫柊雪菜は小娘だったけれど、こっちの“本家”はどれほどの腕をしているのかしら」

 

「あははー、あんまり期待しないで。雪菜(ゆっきー)はとにかく、“影”を踏まずに動ける自信はないから」

 

「へぇ……言ってくれるじゃない」

 

 ……なぜだか、ギスギスと刺々しい雰囲気を醸している剣巫の光と影。

 この二人に左右両脇を固めてもらい並走する雪菜は、ただいま居心地の悪い。好戦的な霧葉は雪菜にも挑発じみた真似をしたことはあるが、彼女とは正反対に人が良い唯里から対抗心を出しているとは後輩としても驚きである。

 ただそれは基本内気な姿勢の剣巫には、良い刺激であったのか。

 

「『六式降魔剣・改』―――起動(ブートアップ)!」

 

 これより先を阻む守護神たる<石兵>の金属傀儡へ、剣を携え果敢に唯里は前に出た。

 剣巫の技で振るった銀槍の刃を通さない鋼の巨体に、龍脈を動源としている<石兵>は、雪菜とは相性が悪いものだった。しかし、紗矢華の<煌華鱗>と同様、疑似空間切断呪法が刻印されたその剣は、眷獣にも通用する武神具だ。剣の軌道に生じた空間の断層は、あらゆる物理衝撃を遮断する。儀式場へと立ち入る敵を撃退する金属傀儡の突進は、唯里の剣が空を薙いで張られた絶対防御の衝撃に防がれ、動きを止められた。

 盾役として前衛に出た唯里―――その剣巫の影より現れたかのように後ろから追い越して、次に前に出て金属傀儡の背後に回り込んだのは、六刃神官。

 

「我が影は、霧にして霧に非ず、刃にして刃に非ず―――」

 

 魔族よりも、この巨大な<石兵>の体格(サイズ)の魔獣を相手する霧葉にはむしろデカブツの方が慣れている。

 そして、太史局が開発した双叉槍の武神具の効能は、『魔力の模倣(コピー)』だ。

 

「斬れば夢幻の如く、啼哭は災禍を奏でん!」

 

 今の『乙式呪装双叉槍』に霧葉が借りた魔力は、唯里の『六式降魔剣・改』に刻印された疑似空間切断呪法―――

 あらゆる物理衝撃を遮断する盾は、あらゆる物理干渉を切断する刃となる。

 

「<霧豹双月>―――!」

 

 金属傀儡の地に根を張ったようにどっしりとした重厚な両足が、物質の硬度を無視する空間切断で、切り払われた。

 巨体殺し(ジャイアントキリング)の対処法の鉄則は、足元を狙うことだ。その巨体を支える足を削れば、自然、態勢を崩すもの。

 また、<石兵>は、直接接続された大地から龍脈の力を得ているため、両足を切断されるというのは、同時に動力源を絶つということになる。

 

 そして、ただの石塊となった傀儡が地面に落下する前に、剣巫の光と影は素早く各々の得物を振るっていた。

 

 斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬―――――ッッッ!!

 

 鍔競り合うように、または光と影のように連動して、金属傀儡を前後挟む唯里と霧葉は一心に刃を交わす。

 両足を断たれて両腕までも斬り飛ばされてダルマとなった守護神を、容赦なく、フードプロフェッサーに放り込まれたように細切れとしていく剣と槍の乱舞。

 掠りでもすれば、疑似空間切断の反発が生じて、自身らも傷つけることとなるというのに、剣巫と六刃の刃は擦過ギリギリを通っていく。見るだけでも背筋の震えるその心臓に悪い交錯。だが、闘争心に火が点いている両者は、ミックスアップしているかのように、この打ち合いを禁じた斬撃の応酬を加速させ―――もはや無視されていた<石兵(サンドバック)>は、いつのまにか砂礫となって突風に飛ばされた。

 

 

 

 眷獣の影法師も、石兵の守護神も、なくなった。

 雪菜の疾走を阻むものは、あとひとつ。

 

「我が同胞(はらから)よ……“お願い”……」

 

 <第四真祖>・暁古城が、突き出した腕に従い、絶対無謬の大角羊が吼えた。

 瞬間、煌く宝石の魔弾が、雪菜へ放たれた―――だが、“神懸った”動きでそれを回避する。

 

「なに……!?」

 

 天災に等しき<焔光の夜伯>の猛威を、少女は躱しながら進んでいく。

 <神懸り>。高次存在を巫女の身に降ろすことで、その霊力の純度と霊視の精度を増す、姫柊雪菜が、<第四真祖>の監視役と選ばれたその資質を開花させたのだ。

 そして、何より、監視役―――ずっと、誰よりも先輩のことを見てきた彼女に、<第四真祖>の眷獣の動きを余さず未来予測している―――

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 神に勝利を祈願する剣士のように、

 勝利の予言を捧げる巫女のように、

 高純度の人工神気を纏う戦乙女は、高らかに呪句を謳い上げ、

 

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 

 宝石の魔弾を回避して、接近した大角羊を、『七式突撃降魔機槍・改』の一閃でその片角を切り落とした。

 真祖をも殺せる聖槍の真価。

 完全に消滅することはできなかったが、それでも切り捨てて雪菜は先へ急ぐ。

 ―――しかし、<第四真祖>の眷獣は一体だけではない。

 

「我が同胞――『二番目』よ、“お願い”!」

 

 <焔光の夜伯>として他の<焔光の夜伯>の力を知るディセンバーが、暁古城の肉体より喚び出そうとする(えらんだ)のは、牛頭神(ミノタウロス)の眷獣<牛頭王の琥珀(コルタウリ・スキヌム)>。

 大地そのものを武器とするこの眷獣は、<石兵>と同じく『神格振動波』とは相性がいい。

 頭上へと振り上げた暁古城の両腕より桁外れに膨大な魔力が解き放たれる。その衝撃は大気を歪め、噴出した濃密な血の魔力は渦を巻きながら、雄々しい牛頭神のカタチへと実体化しようとしているのを視て、一度目を閉ざしてしまう雪菜は―――たまらず、ディセンバーの声をかき消すように彼に向かって叫んだ。

 

「―――先輩っ!」

 

 召喚された琥珀色の溶岩の肉体を持つ牛頭の眷獣は、身の丈ほどもある戦斧を振り上げた。攻撃目標は、『七星壇』へ迫る姫柊雪菜―――

 しかしその振り下ろされた戦斧を阻む、宝石の障壁。自分を傷つけたものにその傷を返す、吸血鬼の不死の呪いを象徴とするその力が宿った、攻撃を『報復』する守護。

 そして、それを展開したのは、<雪霞狼>で斬られたはずの大角羊であった。

 

「『一番目』……!? まさか、古城、あなた―――!」

 

 『二番目』の溶岩の戦斧と『一番目』の宝石の障壁が、衝突。両者ともに<焔光の夜伯>の眷獣。力は拮抗し、相殺されて、実体化した魔力は霧散した。

 『十番目(ディセンバー)』も想定していなかったイレギュラーに大きく動揺し―――それを、雪菜は見逃さなかった。

 

「すみません先輩! ―――<(ゆらぎ)>よ!」

 

 素早く古城の懐に飛び込んだ雪菜が、その心音を確かめるように左胸に重ね合わせた双掌を当てて、打ち込む。

 不死身の吸血鬼であろうと『破壊ではなく、生態の機能を狂わせる』ことを主眼とした気を浸透させる打撃は、一時的に真祖としての力を発揮させないようにする。

 

「ぐっ……!」

 

 と剣巫の渾身の一打を受けた暁古城の肉体は頽れて、そのまま雪菜に寄り掛かるように倒れ込む。それを抱きしめて受け止めて、混乱から回復したディセンバーに邪魔される前に、雪菜は呼んだ。

 

「グレンダさん―――!」

 

『だー!』

 

 呼びかけに応じ、着せられた上着を豪快に脱ぎ捨てると鋼色の『龍族』へとグレンダは変身し、すぐ羽ばたくと地面スレスレの低空を滑空しながら、古城を抱えた雪菜を掻っ攫った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「やられたわ……」

 

 雪菜に古城の身柄を奪還され、『龍族』に拾われて逃避行するその様をディセンバーは見やるが、彼女たちを己自身の眷獣を使ってまで止めようとはしていなかった。どころか、妙に晴れた、小鳥の巣立ちを見送る親鳥のような面差しだ。

 

「ディセンバー……」

 

「問題ないわ、ラーン」

 

 心配そうに声をかけるラーンに、なんでもないように笑って見せる。

 ディセンバー個人として、古城は傍に置いておきたかったが、でも、<タルタロス・ラプス>として守らなければならないのは、<タルタロスの黒薔薇>の基点となる儀式場の『七星壇』である。

 もとより、暁古城を認め、“眷獣となった”同胞の<焔光の夜伯>の力にあまり頼るつもりはないのだ。<第四真祖>の力で、絃神島を壊滅させようと考えなかったのはそのあたりが理由。最終段階までの時間稼ぎとなれば儲けモノと言う考えだった。

 だから、計画に問題はない。

 

「できれば強引な手段はとりたくないの。魔方陣、止めてもらえないかしら」

 

 こちらに呪矢を狙い定めながら、紗矢華がディセンバーたちに投降を呼びかける。

 仲間のラーンがいるが彼女は電脳世界の情報戦は頼れるが、現実世界における戦闘はからっきしだ。<石兵>、そして、<第四真祖>はいない。その守護に頼るべく駒を失い、陣営を丸裸にされた王将に逃げ切れる術などない。

 霧葉と唯里に刃を向けられ、紗矢華と志緒に矢を向けられるこの状況下。すでにこちらが相手の精神を支配する能力が知れている以上、下手な動きを見せれば彼女たちは眷獣を召喚するより早く仕留めにかかるだろう。

 

「奇遇ね。あたしもよ」

 

 <石兵>も、<第四真祖>もいない。

 ―――だが、もう十分、お役目を果たした。

 

「何を言ってるの? 早く『七星壇(そこ)』から離れなさい」

 

「ねぇ、空模様、気にならないの?」

 

 からかうように上を指差すディセンバー。

 逃げる必要はない。何故なら詰んでいるのは、<タルタロス・ラプス>ではなく、そちらの方だ。

 

「待って、煌坂! 上を見ろ!」

「なによ!? 何か文句でも―――」

 

 志緒にも促され、条件反射で文句を言おうとした紗矢華が、、志緒の表情を見て言葉を呑み込んだ。

 志緒は頭上を見上げたまま、戦慄したように震えている。唯里と霧葉もまた注意の矛先を上に向けたまま固まっている。

 絃神島上空を覆う魔法陣に、異様な変化が起きていた。

 すべての薔薇の花弁が散って、四つの巨大な種子だけがそこに残っている。

 これが、<タルタロスの黒薔薇>の最終形態。萎びて枯れた漆黒の花弁が散り、新たに種が生み落されたのだ。

 空を埋め尽くす夥しい数の『黒薔薇』の眷獣らは、この四つの種子に魔力を奪われ、干乾びるように次々と消滅していた。そうして種子たちが取り込んだ魔力の量、そして濃縮された質は、もはや紗矢華たちの理解できるスケールを超えている。

 だが、ひとつだけわかるのだ。

 あれの誕生を許してはならない、と。

 

「<煌華鱗>―――!」

 

 ディセンバーへと固定した矢を即座に天上へ飛ばした。志緒の方も紗矢華と同じように条件反射的にあの四つの種子に狙い定めて魔弾を撃ち放っていた。

 二本の呪矢は、眷獣の軍勢を八割壊滅させた舞威姫の業をまた一度披露してくれた。絃神島上空を眩く閃光が染め上げ、一時、漆黒の魔法陣を掻き消した、かに見えた。

 だが、爆心地にあったはずの四つの種子は、依然、そこにある。眷獣を消滅させた破壊力を受けて、種の外殻に欠けたところはなく、罅ひとつもいれられていない。

 

 

 そして、何事もなかったかのように異常な魔力を内包した種子は、割れた。

 

 

 魔法陣の殻を破って出現したのは、四体の獣たちだった。

 どれも全長20mを超えるサイズで、吸血鬼と同じ濃密な魔力の集合体で出来上がった怪物。

 

「毅人の受け売りだけど、この絃神島って、『四神』に対応して造られた都市なのよね」

 

 巫女たちが息を呑む最中、ディセンバーは歌うように、または勝利宣言するように語る。

 

 東西南北――四基の超大型浮体式構造物で絃神が構築されているのは、風水術を応用して人工島の安定化を図っているためである。

 天の四方を司るとされる四体の幻獣――風水術における力の象徴『四神』の四聖獣に当てはめているのだ。

 それを卓越した風水術士の千賀毅人が知らないはずがなく、そして、<タルタロスの黒薔薇>の術式は、彼が手がけたものである。

 

「だから、その“島を繁栄させ、地盤を護る”ための『四神』が、属性を“反転”させちゃったらどうなると思う?」

 

 栄光守護の加護をひっくり返してしまえば―――それは、破滅しか残らない。

 

「っ、来たわよ―――!」

 

 そして、この『廃棄区画』へと怪物のうち二体が降り立つ。

 前門の虎、後門の狼、四人の巫女は危機を悟りそれぞれが背中合わせで状況を打開せんとする。

 

 

「人工島の構造を利用して、人工島の何もかもを破滅するものが実体化するんだから、あの『四凶』は、真祖の眷獣以上の化け物でタチが悪いわよ。早く絃神島から逃げた方が賢明ね」

 

 

キーストーンゲート

 

 

「―――『檮コツ(トウコツ)』」

 

 それは、東夷の始祖であり、四罪・(こん)が死後怨霊と変じた化身。東方にあって暴虐を起こす、猪牙を生やす人面虎の魔獣。

 

「―――『饕餮(とうてつ)』」

 

 それは、西戎の始祖であり、四罪・三苗(さんびょう)が死後怨霊と変じた化身。西方にあって万物を喰らう、捻れた角が持つ人面牛身の怪獣。

 

「―――『渾沌(こんとん)』」

 

 それは、南蛮の始祖であり、四罪・驩兜(かんとう)が死後怨霊と変じた化身。南方にて悪徳を歌う、盲目聾唖の熊犬に似た醜獣。

 

「―――『窮奇(きゅうき)』」

 

 それは、北秋の始祖であり、四罪・共工(きょうこう)が死後怨霊と変じた化身。北方にあって戦乱を呼ぶ、翼のある人食い虎の妖獣。

 

 『四神』を反転させ、『四凶』と見立てた魔の名を口ずさんだのは、千賀毅人であった。

 四神相応を冠する『四聖獣』と対照的に、四方の土地に存在すると言われた、四凶相克の大陸の怪物たち。

 今、ここに彼の計略は成る。

 毒を以て毒を制す、悪を以て悪を滅するがごとき、禁忌。

 千賀毅人という稀代の風水術士が、その生涯において持てる才のすべてを尽くして達成した、最高の呪法。

 

「我々の勝ちだ」

 

 <タルタロス・ラプス>の勝利の(いさおし)を静かにあげる。

 乾いた唇が、会心の笑みに歪む。

 

「これで君たちの勝ち目はなくなった。だから、早く去るといい。若者がそう命を散らすものではない」

 

「勝利宣言にはいささか気が早いんじゃないのかな」

 

 絃神島を支える要石があるキーストーンゲート最下層へと行く足を止めさせたのは、ショートカットの利発そうな少女だ。今、防護結界の張られたシェルターを破る虹色の巨人を背にして振り返った千賀は物事の道理を説くように撤退を進めた。が、仙都木優麻の返答は、魔女の<守護者>たる青騎士の一刀だった。

 

「彼にも南宮先生を取り戻すと言ってあるしね!」

 

 <蒼の魔女>と契約せし、<(ル・ブルー)>は対価とし、純血の魔女に与えたのは、空間を制する術だ。

 振り降ろされた青騎士の剣が何もない虚空に吸い込まれ、千賀の背後の空間から、その刃だけが出現する。空間制御を応用した奇襲攻撃。如何なる達人にも予測不能なその一撃を、千賀は予め見切っていたかのように回避する。

 

「感化されたか。だが、未だにあの世迷言に囚われていると己を滅ぼすぞ、若い魔女よ」

 

 続けざまに千賀が隠し持っていた拳銃を引き抜いて優麻に向けて弾丸を見舞いする。

 

「<(ル・ブルー)>!」

 

 拳銃を向けられるよりも早く、<守護者>に命じた優麻が青騎士と共にかき消え、千賀の頭上へと現れる。そして振り降ろした腕の先から、優麻は不可視の衝撃波を放った。

 完全な死角からの奇襲だが、それもあっさりと千賀は回避する。

 

空間跳躍(テレポート)と、空間の歪みが生み出す衝撃波か。まるで那月の物真似だな。おかげで、読み易い。多少の誤差はあるがそれも癖を把握すれば容易く紐解けるようになる。それで、そんな教え子の劣化版で俺に通用すると思っているのか?」

 

 <空隙の魔女>の師であった千賀に、<蒼の魔女>の術はわかりやすいのだろう。優麻は再び空間跳躍で千賀から距離を取った。この攻防で千賀が消費したのは弾丸一発であり、優麻は二度の空間転移と部分転移、衝撃波と魔力を多く消費している。

 

「ああ、そういえば、『予定調和』の魔導書を持っていたか。だが、魔力に頼っている防御では、これは防げない」

 

 優麻の背後、千賀と挟み撃つよう、半透明の巨人の腕が伸びる。

 

「<薔薇の指先>。あらゆる魔力を跳ね返す、『七式突撃降魔機槍』を除けば、これほど魔女と相性の悪い力はないだろう」

 

「―――っ!?」

 

 この場にいるのは千賀だけではない、操られ、彼の命に動く眷獣共生人工生命体――アスタルテ。最下層まで最短距離で結界破りを行っていた彼女は、千賀の指示で、優麻に向けて人工眷獣の剛腕を放った。

 優麻は反射的に青騎士に防御を命じる。しかし<守護者>の分厚い装甲を、人工生命体を身体に埋め込んだその巨人は障子紙も同然に殴り破った。装甲の破片が爆ぜたように砕け散って、青騎士が苦悶の咆哮を放った。

 優麻は舌打ちして空間を歪めた。空間転移で、千賀の死角へと再三回り込もうとしたのだ。が、

 

「そこか」

 

 すでに転移座標を見切っていた千賀がそこへ置くように銃弾を放っていた。風水術は、龍脈を利用する術だけではなく、占術にも秀でている呪術体系だ。巫女の霊視などもたなくとも、占うことで相手の行動を先読みすることも可能なのだ。

 <薔薇の指先>に破られた障壁を張り直す間も与えられなかった優麻は、銃弾を右肩にもらってしまう。

 それでも、優麻は自分の足で相手から距離を取り、片腕のない青騎士を従える。その目の光は、まだ強い。

 

「っ! まだ―――!」」

 

「……そうか、この後に及んで降参する気はないか。計画はもう仕上げの段階に入った。ここで俺が手間取ってるわけにはいかないのでね」

 

 早々につませてもらおう、と千賀はその仙界の魔導書を手にした。

 

「<山河社稷図>。この宝図から読み解けるのは『幻』の術理だ。幻像(なつき)を封じ込めるのに用いたが、これにはもっと別の利用法がある」

 

 キーストーンゲートの硬質な床が、地面に。そして、通路だった間は、広々とした石柱の並ぶ荒野へと塗り替わる。

 『彩昂祭』にて幼馴染のクラスが出店していた仮想現実(VRMMO)のように、優麻の視界だけでなく、肌を撫でる空気、風を切る音や風の匂いに風に含んだ砂の味などと現実のものと変わらない。錯覚と知らなければわかりようのないほどに高精度で再現されている。

 

「宝図に描かれた幻の地形を、現実世界に広げる。これは人間の五感だけでなく、世界をも騙してしまう『幻』だ。現実の地形と変わりがない。つまり、いつでもどこでも俺に有利な地形を張れることになる」

 

 ―――現実と同一の地形を自在に喚び出せる。

 かつて優麻と組んでいた<アッシュダウンの魔女>メイヤー姉妹は、森そのものを眷属とした悪魔契約を行い、悪魔と化したアッシュダウンの森を<守護者>にしていたが、地形を召喚することはありえない話ではない。

 だが、画像エフェクトで背景を変更するように、地形を思うがままに切り替えることができる魔導書を、地形の力を利用する稀代の風水術士が手にしているのは、悪夢じみた組み合わせだろう。

 地形に左右される特性故に、一国を滅ぼせるだけの力があっても準備と手間に時間を要する風水術だが、その工程を省略してしまえるのだから。

 

「子供相手に大人げないが、これも物分りが良くなるよう先達からの餞別だ」

 

 東洋風水界の至高にして『至宝』。

 彼の宣告は、短く。

 

 

「圧倒的な敗北を教授してやろう」

 

 

キーストーンゲート 前

 

 

 矢瀬基樹は、絃神島中心区にあるまだ原形は保っているビルの屋上で目を覚ました。

 

 空はまだ夜でもないのに黒く染められ、そこから吹いてくる魔風に肌寒いものを覚えた。猛獣の咆哮に、悲鳴はこの付近にはないみたいだが、この耳は確かに拾っている。血に濡れた制服がずっしりと重い。

 人工島西地区にある幼馴染の自宅近くで<魔導打撃群>と遭遇し、口封じに撃たれたことは覚えていた。気流(かぜ)を操って自ら背後に跳ぶことでどうにか致命傷を避けたのだが、記憶が残っているのはそこまでだった。

 

「気が付きましたか、基樹―――」

 

 横たわる矢瀬のすぐ隣で声がした。彩海学園の制服を着た少女が、矢瀬の目覚めた気配を感じ取ったのだろうが、開いた文庫サイズの本から目を離したりはしない。こんなときであっても、いつもと変わらぬ彼女の素っ気ない態度に、矢瀬は苦笑して息を吐いた。

 

 そして、ちょうどこの眼鏡をかけた地味な印象の女子生徒の周囲へ海鳥の群れが集まっていた。

 

 艶やかな光沢をもつ純白の海鳥たち――呪符によって生み出された式神の群れ。

 その数は二百羽、あるいは三百羽を超えているだろう。

 それら膨大な数の式神を、少女は、たったひとりで操っているのだ。

 目的は監視と、そして魔導犯罪者の捜索。

 けして今起きているテロ騒ぎの事態収拾に本腰をあげているわけではなく、彼女はもっと大きな視野で現状を見据えて動いている。

 絃神島全土に散らばっていた式神たちは、操り手である少女のもとに帰還するとそれぞれが一枚の呪符へと姿を変え、そして、少女が広げていた一冊の本へと戻っていく。

 やがてすべての鳥たちを綴じこみ終えて、彼女が本を静かに閉じたところで、矢瀬少年は声をかけた。

 

「あんたか、先輩」

 

 そう言って上体を起こし、全身を貫く激痛に悲鳴を洩らしかける。苦悶する矢瀬を無感動に眺めて、日本最強の攻魔師のひとり<静寂破り>――閑古詠は静かに口を開いた。

 

「まだ起き上がらない方が良いですよ。風穴を開けられた箇所は埋めておきましたが、応急処置です。退院したばかりで未だ癒えていない傷にも障るでしょうね」

 

「どうやらそうみたいだな」

 

 再び屋上に突っ伏して、矢瀬は乱れた髪を乱暴に撫でつけた。

 古詠はそんな矢瀬の姿を見ても、膝枕はおろか、彼の汗を拭おうともしない。まるで自分の血塗られた指先が、彼に触れることを恐れているかのような態度だ。

 

「もはやこれ以上、怪我人の出る幕はありません。前線に出るのは止めて、大人しくしているのが賢明ですね」

 

 こうして助けてくれたところを見ると、矢瀬の活躍も監視()ててくれたようだが、その評には厳しいものがある。それはそうだ、逃げ足には自信はあるが、戦闘力なんて一般人に毛が生えた程度のものなのだ。あくまで、監視と諜報。なのに、戦場に出ていた矢瀬のことを、ひょっとしたら、彼女はハラハラとした思いで視ていたのかもしれない。

 つまるところ、やるべきことはやった、もうあなたは休んでいてもいい、あんな危ない真似はしないでとても心配したんだから……と言ってくれている―――なんて意訳は少しばかり夢見すぎか。

 

 だが、矢瀬にこのまま眠るつもりはないし、眠れる気もしない。

 

「浅葱は……どうして浅葱のことは見逃した? 助けてもらった俺の言える義理じゃないが、あんたの能力なら、アイツらを止めれたはずだぞ!」

 

 傷の痛みも忘れて、取り繕う余裕もなく荒々しく詰め寄る矢瀬を、古詠はどこか満足げな表情で眺める。誰かの愛情を独占しようとする幼い子供のような、無邪気に残酷な表情で。

 

「今、手を出すのは得策ではないと判断したためです。彼らが奉ずる『カインの巫女』の命は保証されていますから」

 

 <静寂破り>と呼ばれた少女が、突き放すような口調で宣告する。

 

「獅子王機関の役割は、大規模な魔導災害や魔導テロから日本と言う国家を護ること―――彼らの行動は、今はまだ、わたくしたちの目的を妨げてはいません」

 

「先輩、あんたは―――」

 

 無感情に見える古詠の瞳が、かすかに潤んで揺れていた。彼女は理解している。自分の判断が、この先どれだけの不幸と悲劇を呼ぶのかを。そして、こんな自分に懐いてくれる彼を利用することになるのかを。

 それでも彼女は止められない。

 獅子王機関『三聖』の筆頭である彼女には―――

 

「獅子王機関は、咎神カインの存在が『夜の帝国』に対する抑止力になると判断しています。ですが、無意味にそれを実行するというのなら、見逃すことはできなくなるでしょう」

 

 古詠がそっと眼鏡に触れ、その仕草で自然に矢瀬から視線を外した。

 それは、目を合わせてられないほどに、恥知らずなことを口にすると思ったから、無意識の行動なのかもしれない。

 

「絃神千羅の盟友であった矢瀬顕重が爆殺され、そして絃神島そのものも破壊されようとしている。ですが、これら<タルタロス・ラプス>の行動までもが、彼らの計画の一部だとすれば見方は変わります。

 <タルタロス・ラプス>は何も知らないまま、彼らに利用され、計画を進めさせているだけなのかもしれない―――だから、先の事態に備え、矢瀬家当主の正統な後継者資格を持つあなたを手札に加えておく必要がある」

 

 矢瀬本家の当主は、古来より政財界に影響力を行使してきた、巨大資本グループの総帥だ。

 手に入る絶大な権力と引き換えに、求められる器量は並大抵のものではなく、老獪な一族の重鎮たちを黙らせるだけの政治力がなければ、たちまちのうちに押し潰されて、悲惨な末路を辿らされることとなるだろう。

 矢瀬基樹は、自身が当主の器ではないことをわかっている。それをいうのならば、同じ愛人の子であっても管理公社の室長にまで上り詰めた異母兄の矢瀬幾磨の方が跡継ぎに向いている。

 しかし、異母兄は<過適応能力者(ハイパーアダプター)>が発現していない。

 代々優秀な<過適応能力者>を多く輩出してきた矢瀬一族は、必然として、当主には<過適応能力者>であることが求められる。申し分ない実力がありながら異母兄は、矢瀬家の当主に選ばれることはない。

 ―――だから、優秀な異母兄よりも、矢瀬基樹の方が<禁忌四字(やぜ)>の一族の正統後継者に相応しいのだ。

 

 そして、傀儡としたいであれば、それは無能であるほうが好ましい。

 

「……残念だ、先輩」

 

 思わず天を仰いだ矢瀬。

 超能力者であり、政治力はない、そして、相続権を放棄すれば母親を守る術を失う。この矢瀬基樹の条件は、<禁忌四字>を管理するための“けして裏切らない駒”とするには最適である。

 獅子王機関の長として、矢瀬に近づく理由はこれで十分だ―――そんなことはもうとっくに矢瀬もわかっている。

 

「もっと洒落たプロポーズを俺からあんたに言うつもりだったんだけどな」

 

「―――」

 

 息を止めた古詠に、矢瀬は笑ってしまった。

 これまで告白(アタック)してきた中で、一番の手応えだ。内心で、してやったりとガッツポーズを取る。

 すぐ彼女は、そんな自分に目の温度を下げてしまったが、先よりは自傷気味な気持ちは和らいでくれたのかもしれない。そうであってくれれば望ましい。矢瀬はこんなことで彼女との付き合いに失望してしまう気なんて、さらさらないのだから。

 

「起きられるのであれば、すぐに行動した方が良いでしょう。ここは、“眷獣も寄り付かない”ようですが、安全地帯とは言い難いので」

 

 逸らすように話題を変えてきた古詠は、静かに状況を語る。

 これからの人工島管理公社を監視するには、絶好の場所にある屋上であるのだが、彼女は今、キーストーンゲートの方を見ていなかった。

 

「全盛期の<黒死皇>の所業は、お伽噺じみたものでしたが、これを見る限り、あながち誇張したものではなかったみたいですね。(くらき)と縁堂があの子を気にかけるのもわかります」

 

「なに……」

 

 まだ矢瀬たちの世代が生まれてくる前の、昔話でしか残っていない悪逆の限りを尽くした真祖への反逆者にして当時最強の獣王。

 それは『三聖』の中でも若い古詠には、直接はその脅威を知り得ないものなのだろう。

 そんな日本最強の攻魔師が驚きの感想を洩らしたことが物珍しく、矢瀬は彼女が向ける視線の先へ感覚を合せて―――――息を呑んだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「出し惜しみは無しじゃ。存分に振る舞おうぞ。全てを平らげてみせい! ―――<黒死皇>!」

 

 <身外身>を窮めた最古の獣王は、体毛より無数の実体分身を作り出して、また数多の『宝貝』に変化させる。

 数量で押しても無為と理解した<白石猿>は、実体分身に余分な集中を割くことを止めた。

 

「まずは、<金蛟剪>。これの使い方は簡単でのう―――」

 

 白猿人の“人さし指と中指が”変化したのは、黄金の鋏のようなものだった。

 それを、そのまま鋏で糸でも切るような恰好で、開いた二枚の刃を閉じた。

 シャキン、と。

 その空間に裂け目が生じて、そこより蛟竜が顔を出す。

 

 蛟竜を召喚する『宝貝』。

 貯水湖の堰を外した放流の勢いで、鋏で断ち切った異空間の出入り口より、次々と蛇竜が現れる。

 その形態は『神縄湖』で遭遇した『蜂蛇(ドローン)』と似ているが、翼を持たない蛇のよう。だが宙空を群泳するそれらすべてが10mを超える体長をしており、空気を引き裂く大音量に恐るべき重低音を付加している。

 怒涛と大洪水が迫り来るような猛威。

 対して、獣化をした銀人狼はその左拳を強く握りしめて構える。

 

 “匂い”で引き出すまでもなく、『竜殺し』の術はすでに学習している。

 

「<歳星(さい)太歳(たい)

 <太白(たい)大将軍(たい)

 <塡星(ちん)太陰(たい)

 <辰星(しん)歳刑(さい)

 <塡星(ちん)歳破(さい)

 <太白(たい)歳殺(さい)

 <羅睺(らご)黄幡(おう)

 <計都星(けい)豹尾(ひょう)>」

 

 詠唱をテンカウント代わりに紡いでいく。

 蛇竜の洪水を迎え撃つは、『八将神法』の極み―――

 

「我が身に宿る“疫病”に命じる、栄えよ―――」

 

 素戔嗚神と同一視される『牛頭大神』、この身に秘める毒性と引き換えとして、『竜殺し』の加護を得た拳打が、<金蛟剪>で異空間の堰を切った竜群の激流を真っ二つに割る。群れを割かれた蛇竜は、群体としての有利性を失い、勢いが半減。渾身の一打で仕留めきれずに、群れから逸れた蛇竜を一体一体を一撃で銀人狼の拳打蹴撃(しし)が雲散霧消していく。

 

「お次は<禁鞭>じゃ」

 

 ドンッ!! という轟音が炸裂した。

 皺だらけの指、その今にも折れてしまいそうな指が槍のように凄まじい勢いで伸長してさらに枝分かれする。先端の爪先が刃となり、たちまちのうち、<白石猿>の真っ白な獣毛に包まれた左腕全体が鞭を数十本まとめた『宝貝』へと変じる。爆発的な射出があった。より正確には、数kmも打ち据えられる長さに刃鞭が弧を描きつつ、様々な角度から一斉に銀人狼を取り囲んで襲い掛かったのだ。

 間にまだ残っていた蛇竜の隙間を掻い潜るように、ではない。

 易々と貫いていた。

 まるで昆虫。細長く鋭いピンで、壁に縫い止められた昆虫。そして、その肉の壁は人狼からは刃鞭を死角と隠しており―――だが、奇襲は成功することはない。

 

「だから、“前”と同じ手は食わん」

 

 霊視による未来視は、視認して得た“情報”より計算して未来を予測する高度な情報処理技能。

 であるから、その“情報”の量があればあるほどに、より正確な未来予想図を覚ることができる。

 目で捉えた情報だけではなく、超感性により目に見えぬ“匂い”を取得する<黒妖犬>は、剣巫(にんげん)よりも“情報量”が多い。それ故に<黒妖犬>の霊視の予測は、もはや測定とも呼べるほどに正確な精度を誇っていた。

 それが今、巫女を圧倒するその生まれ持った『芳香過適応(さいのう)』を、能力増強剤にて数百倍に高めている。

 相手がどのような手段をとってきた“過去”に、相手がどのような手段を取るつもりかという“感情”まで嗅ぎ取ってしまう鼻は、今は神懸った―――すでに死に絶えた亡霊に乗り移られたかのように、冴えていた。

 

 だから、視覚に入らないからと不意を打てるはずがない。

 この嗅覚で嗅ぎ取れる制空圏内にあるものすべてはとうの昔に暴かれている。

 

 迫りくる大量の刃鞭を逆に掴み取り、末端からの引力で吸い寄せられるように、無数の刃鞭は一気に千切れた。根元の<白石猿>の身体もビクリと震えた。

 

「では、最強の<雷公鞭>を見舞おうか!」

 

 最古の獣王、その右腕が変貌する。実体のある武具ではなく、眩い閃光そのものと化す。相当の高エネルギーを秘めているのか、まるで誘蛾灯の虫を焼く高圧電流のような音まで発しており―――

 

 ゴバッ!!!!!! と。

 あまりにも恐ろしい、白い光が噴き出した。

 何百、何千本もの光線が一斉に発射されたのだ。それも障害など貫通した最短距離で、<黒妖犬>を捉える。ロボットアニメのビームサーベルのように、白猿人本体の輪郭すら塗り潰す凄まじい光量が永続的に放出され続く。

 この光景を目撃したものがいるとすれば、その者の視界に凄まじい光の乱舞による残像が焼き付き、まともに機能しなくなったことだろう。鈍い頭痛すら誘発させる閃光の渦の中、その人影は依然とそこにあった。元素の塵にまで分解して、魂まで焼き尽くすほどの攻撃が、纏う金色に輝く護りが拒絶していた。

 物理現象遮断の聖護結界<疑似聖楯>を生体障壁に練り込ませた薄皮一枚の絶対防護。

 光が、光と鬩ぎ合う。

 最強の威力を誇る『宝貝』の光と、その精神力に比例して輝きを増す光とが激突し、拮抗する。現実にはあり得ざる光景は、熱量と言うよりも魔力と魔力、そして、意思と意思の拮抗であった。

 そうして―――やがて、光の放出は止まる。

 

「―――そろそろ、こっちから行くぞ」

 

 最強の攻撃を防ぎ切った―――

 攻防に一瞬の間が空いた刹那。

 ごお、と壮絶たる火炎が吼え猛った。

 

「ひっひ、これは対策済みと知っておろう<黒死皇>!」

 

 太陽のフレアさえ思わせる、見るものの眼球さえ焼け爛らせる劫火炎の渦。<黒妖犬>の口腔より放たれた神獣の焔に、<白石猿>は咄嗟に左手を扇型の『宝貝』へ変化。扇ぐことで風を起こし、災火を跳ね返す<五火七禽扇>。耐火炎に特化した逆風が、白猿人が炎に焼却させるのを免れさせる。

 

「ああ、知ってる―――」

 

 地面が爆発した。

 地面を蹴った自分の足が、余波で周囲の残骸を吹き飛ばしたのだ。

 疾駆する。

 走破も、覚知も、ただ全力で加速する。

 風景が色を失うほどに集中を高め、一切合切の力をこの数秒に圧縮する。

 

 ―――来るかっ! クるかクルかクルカァァッ!!

 

 過去、幾度となく鳴らした警報が、今、頭の中で再び鳴り響く。

 この存在の消滅させられる予感に、最古の獣王は、歓喜し、狂喜する。

 強襲を察し、そして、それからは逃げ切れぬことを承知している<白石猿>は防御を固める。

 <九竜神火罩>。籠の中に閉じ込めた対象物を、あらゆる干渉から隔絶させる最硬の『宝貝』。丸くなった白猿人は、全身の獣毛で編み込んだ籠の『宝貝』に包まれる。

 

『型は正しい、力も十分―――じゃが、“意味”がない。『四聖』を冠しておる“意味”を理解しておらん。

 そのような“猿真似”がこの儂に通じるものか!』

 

 かつての『獣王』が強敵との闘争の中で編み出した奥義を、このかつての宿敵との闘争の最中で憑依経験するかのように理解する。

 

 風水の概念である四神相応。

 

 北には玄武が座して、霊脈の力を引き寄る―――山となる。

 東には青竜が座して、霊脈の力を増幅する―――川となる。

 西には白虎が座して、霊脈の力を制御する―――道となる。

 南には朱雀が座して、霊脈の力を留め置く―――(いけ)となる。

 

 その幾百幾千と積み重なっていく蹴りは“山”であり、拳打が突き抜けた軌道には“川”ができる。

 師父から知識を教授されたその動作に獣の動きを取り入れた『象形拳』や、世界を構成する五つの要素を型に現した『五行拳』と同じように。

 風水的な“意味”をもたせて、<黒死皇>ではない、<黒妖犬>における完成形に至らせる。

 

「『玄武百裂脚・山(かめやま)』―――!」

 

 亀と蛇の顔を持つ『玄武』は、陰陽が合わさる『四聖獣』とされる。

 ただひたすらに多く分身を作るのではない。

 『混血』の魔力と霊力に二分するように陰と陽の気分身体を行う。

 疾駆する中途で、<黒妖犬>が別れた黒銀の人狼と金色の人狼による影に映らぬほどの速さで行われる挟撃。

 そのまったく同じタイミングで挟み撃つ無影脚は、白猿人が籠った殻にいくつもの凹凸を作り、蹴り込んだ残像を磁石のように貼り付けていた。分身体の陰と陽の性質から、対面に蹴り込んだ残像は互いに引き寄せ合い、それで間に挟まれた対象に貼り付いている。

 残像は実体がほとんどない残り香。されど、塵も積もれば山となる。百の挟撃の残像に挟まれた相手はその影を縫い止められたかのように一切の身動きを封じられ―――

 

 百の蹴撃を浴びせて歪ませても破れぬ堅牢な(から)から、距離を取ると陰と陽の分身体が合体し、一体となった金人狼は蹴撃の合間に力を溜めていた左腕をそこへ目掛けて昇竜拳(アッパー)気味に振り抜いた。

 

「『青竜殺陣拳・川(たつかわ)』―――!」

 

 っぱぁん!!

 

 音速超過の衝撃波。いや、音速の何倍何十倍かも知れぬ。それは掠めただけで、<九竜神火罩>の外殻を持っていったのだ。

 そう。

 かすめた。

 雲の彼方に消えた。空間に亀裂を生じさせるほどの威力。掠めただけで吹き飛び消滅するほどの威力だった。ただひとつ、すべてを消し飛ばすほどの範囲と命中には至らない、極一点に絞り込まれたもの……

 

 しかし。

 白猿人は、殻にこもったままだった。

 大振りで隙を晒しているというのに、絶対の守護から外へ出ない。

 まだ、終わっていない。

 むしろ、これはここからが―――

 

 傍観していた監視者の男女は、すぐ異変に気が付いた。

 遠当てが突き抜けたその軌道が、未だに目に見えて残っていた。(ソラ)の彼方、遥か先まで突き抜けた真空の軌跡ができていた。それはまるで天の川のように、煌めいて―――

 

 青竜の極みが至ったのは、日輪。光が降る。

 

 

 ッゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――!!!!!!

 

 

 直径数十mの光輝の柱が降り注いだ。それはもはや直視できるような光ではなく、暴徒鎮圧用の閃光弾のような、一瞬でも目蓋を上げられぬ輝き。

 黄道――太陽までの空間が短絡されていた。

 光の正体は、太陽光。

 空間を貫いた業は、太陽の間近にまでそれを直通させ、“流れ”を作ったのだ。

 “力業”で日輪まで届かせてしまうなど常軌を逸した怪力乱神だが、それはそう。全盛期の<黒死皇>が真祖を屠るために、弱点である陽光を利用せんとしたものなのだから。

 

 そして、日輪の大瀑布に呑まれた、九竜の火炎にも耐え抜く『宝貝』の殻が、ドロドロに熔解して原型が保てず―――一先ず距離を取っていた金人狼は、全身より金色の電気を迸らせながら、大地を踏みしめ、両手に気を篭める構えを取り、

 

「『白虎衝撃波・道(とらみち)』―――!」

 

 放たれた気功砲。

 それは龍脈(みち)の上に沿って、駆け抜ける。

 昨夜、<石兵>が吸い上げる龍脈を強引に封鎖してみせたが、今度の“力業”は龍脈を開拓していた。

 錐揉み回転する気功砲に、細い糸上なモノが巻き付けられていくように集まっている。

 龍脈の力を取り込んでいるのか、気功砲はより雪だるま式に巨大化し、最終的に直径十mの大玉サイズで獲物に喰らいついた。

 

「こりゃたまらんわい―――!?」

 

 羽化した蛹のように、溶解した鐘を内側から突き破って、複数体に実体分身を作り飛び出した白猿人。防御を捨てたその判断は賢明であった。最古の獣王が持つ最高の護りも、完成された奥義三発には耐えきれず、跡形もなく消滅している。

 

 だが、蜘蛛の子を散らしたように逃げようとも、最新の獣王は逃す気はない。

 

「『朱雀飛天の舞・澤(とりいけ)」』―――!」

 

 『黒薔薇』に属性を反転され、『四聖獣』なきこの『魔族特区』にて、我こそが守護神と吼え猛るように解放された獣性。

 それが呼び水の役割を果たしたかのように、引き込まれる。

 この殺神兵器の『器』は、今、力を留め置くための空の領域。そこへ流れ込むように金狼に霊脈が集う。<冥き神王>の依代であった『花嫁』のように身の裡に龍脈を取り入れ、高次存在に至るほど一時的に極大化した存在感で威圧する。

 この黒天体(ブラックホール)じみた神威が、場の空間ごと守りを捨てた白猿人を圧し潰す。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 しかし、それでも、『不滅』の異名は伊達ではない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「天晴じゃ。ここまで<白石猿(わし)>を殺してくれたのは久方ぶりじゃのう<黒死皇>」

 

「オレは、クロウだ。エテ公」

 

 たった今の戦闘に参加していた白猿人は、全滅させた。

 しかし、まだ予備がある。戦闘に参加せず、己がやられる様を喜々として観戦していたものが、一体。そして、一体あれば、ネズミ算式に、同時多発的に、個体を増やせる。

 数の概念に縛られず、偽者と本物の区別はない。

 全個体を同時に欠片も残さず破壊しない限り、この存在が消え去ることはなく、またそれを果たしたものは神代のころから存在しない。故に『不滅』。

 

「このまま殺し合おうとも、ヌシは体力を消耗するだけの徒労と終わろう。儂はいくらでも儂を増やせるのだからなあ。どうじゃ、ここらでお開きにしても構わんぞ<黒死皇>」

 

「オマエの底もそろそろ見切りをつけそうだけど、オレはまだ満腹じゃない。それとも、もうネタ切れか。だから、オレはクロウだ」

 

 逃す気はない。この存在を許す気はない。

 これの変化が厄介であり、己の生活を破滅させ得るものだとは、暁古城先輩を嵌めてくれた時に証明されているのだから。

 そして、この白爺は、どうあってもけして、己への執着を捨て去ったりはしないだろう。

 

 クロウの尽きることのない戦闘意志に、ハヌマンは会心の笑みを浮かべる。

 

 

「安心せい。新ネタじゃ」

 

 

 皺だらけの指が、絡み合う。

 まるで瀕死の蛇がそうするように、ぶるぶると震える指は悍ましくも甘美に、一定の法則を以て重なり合う。

 そのとき、白爺の傍らにそれが降り立つ。

 

「さあ、きたれい!」

 

 それは、20mもの巨体をもった、人面牛身の怪獣――西の『四凶』の『饕餮(とうてつ)』。

 真祖の眷獣と同等以上の破壊の化身を従えるのか。否。

 悍ましき『四凶』を目の当たりにして、じゅるり、と白爺の口から涎が垂れたのだ。

 

「ヌシは、『宴』の時に、吸血鬼の眷獣を喰ったようじゃな」

 

 喜色満面に、その顎が開かれる。

 そこより大量に溢れた涎は、明らかにありえない量となり、地面まで滴った。しとどに獣毛を濡らして、喉を伝わり、胸を流れ、足元を覆う。水溜りさえ作り上げた。

 

 ―――儂もそれを見習おう。

 

 止め処ない涎の代わりに、何かが口に吸い込まれていく。

 巨大で、膨大で、絶大で―――それでいて曖昧な流れ。

 クロウには、それがわかった。

 魔力、反転させられ穢れた龍脈、その『四凶』の怪物の身体を構成するものを吸い取って理うのだと。

 凶猛なる貪食の怪物が、枯れる、萎む、干乾びていく。根源的なものまで、最古の獣王に喰われていく。

 ―――そして、存在感が増す。人型の枷を外し、裡なる獣性を解き放つ。

 

 <神獣化>。

 

 完全なる獣に変貌した<白石猿>は、5mに肥大化した獣身に金属質な肌を持ち、四つ目牛角の異形の面貌。猿人種の<神獣化>とは形状が異なる、明らかに『四凶』を喰らった影響が出ていた。

 魔神がここに、降臨する。

 

 

「そうさのう、折角じゃから、この出し物(ネタ)は、<蚩尤>、とでも名乗ろうか」

 

 

 つぅ―――とそのとき、クロウの鼻元より、血が垂れた。

 

 

キーストーンゲート

 

 

 千賀毅人が宝図の頁をめくるたびに輪郭が歪む景色―――

 その土地の力を変換して、暴風に似た荒々しい魔力の奔流が吹きつける。気づけば、この幻の大地には複雑な魔方陣が浮かび上がっている。

 その前兆だけで、震えが走る。

 これが攻撃として転用されたのであればそれは<守護者>を盾にして防ぎきれるであろうか。

 

「南宮先生とは比べるのもおこがましいほど未熟なのは否定しないけど、間違ってるよ、千賀毅人」

 

 <蒼の魔女>は、足元の地面へと手を当てていた。大地の上に魔力を流し、表面の一部だけを変色させる。

 浮かび上がったのは、整然と並ぶ文字の羅列。魔導書に記された文字列である。

 そうして、完全に実体化していく文字の羅列は、強烈な魔力の波動を撒き散らしながら、一冊の本となる。

 

「ボクの力の本来の持ち主は、南宮先生ではなく、仙都木阿夜―――魔導書の扱いはお手の物なんだ」

 

 優麻は、自身が“複写”して投影した本を開いた。

 それは、東洋の言語で書かれた本。

 革の表紙に人間の目を象った図形が描かれている、異国の仏塔(ストゥーパ)に描かれたものと同じ、『真実の目(アイズ・オブ・トウルース)』と呼ばれる紋章だ。

 

「魔導書の『複写』!? 仙都木……―――そうか、おまえは、<書記の魔女>の娘だったのか……!」

 

 魔導書とは長い年月と人々の強い思念によって、自ら魔力を持つに至った“力ある書物”だ。普通ならば、その文章を写し取ったところで、それ自体が力を持つわけではない。

 にもかかわらず、彼女が描いた文字列は、魔導書へと変じた。

 

「生まれたから、『司書』となるために実家では様々な本を読まされてね。おかげで今でもナンバー三桁番のものは大体暗記してるんだ」

 

 複製体(クローン)として造り出され、家に仕えていた人工生命体らに純血の魔女としての教育が施された。<空隙の魔女>に対抗するべく空間制御魔術を磨くだけではなく、その才能の本質を鍛えていたのだ。

 『記憶の中にある魔導書の再現』という、<書記の魔女>の娘としての力を。

 

 魔導書に魔力を流し込んだ―――瞬間、ガラスが砕け散るように景色が揺らいだ。

 完全なる幻に支配されたはずの世界が、万華鏡のように波打って、元のあるべき姿へと帰っていく。

 

「その中でこの『No,121』は、アジア大陸西域より伝承された<実相儀教(ブッタ・タタータ)>――あらゆる邪悪を退け、幻覚を破る、失われた原始仏教の外典だ」

 

 風水術が失敗する。これまで一度たりとも失敗したことのない『至宝』の技巧が、この虚構の風景と共に崩れ行く。

 

「魔導書を自慢していたみたいだけど、あまり<図書館>を甘く見るんじゃない」

 

「……っ!」

 

 <蒼の魔女>の冷ややかな言葉に、幻の地形は消滅した。

 そして、魔導書に頼って、組み上げていた彼の戦術が、そこですべて瓦礫と化す。

 術が失敗した千賀は動揺し、だが、まだ彼に手札がある。

 

「アスタルテ―――!」

 

命令受託(アクセプト)

 

 <薔薇の指先>を展開している眷獣共生人工生命体。

 虹色の巨人は、兵火器では傷がつかず、あらゆる魔術を反射する。真祖の眷獣でさえも結局は単独では倒しきれなかった対魔力の人工眷獣が、その腕を振り上げる。

 

「大陸系の呪法を修めているあなたには、釈迦に説法だろうけど―――『実相』とは、飾らない真実の有様だ。あらゆる現象の仮の姿の奥にある真実の相で、一切の煩悩から離れて清浄であることのことをいう」

 

 つまり―――

 

「この『No,121』の力は、目を覚ます、ってところかな」

 

 巨人の拳が向かうのは、男の方。

 

 

「感謝します、ミス仙都木優麻」

 

 

 おかげで先輩からの命を果たせます―――とアスタルテは、アスタルテ自身の意志での感謝を述べる。

 

「いいや、王子様の目覚めのキスを奪ったみたいで悪かったね」

 

「否定。先輩に、王子様は似合いません」

 

 血の従者としての強制に、千賀が操縦するための服従の令呪を施していた、二重の縛りが利かされていたアスタルテが、自由意思を取り戻す。

 

「それに目覚ましは後輩(わたし)の仕事です」

 

 ドンッ! と。

 <薔薇の指先>の腕に千賀の身体が殴り飛ばされた。まさかの不意打ちに対処が間に合わず、もろに眷獣の攻撃を受けた千賀の腕から宝図が落ちた。

 

「ぐっ……!?」

 

「―――教官を、解放させてもらいます」

 

 巨人の手がカルタのように千賀の手を離れた仙界の魔導書――南宮那月を閉じ込めている――<山河社稷図>を叩き、魔力を喰らい尽して、圧潰した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「これでもうあなたに打てる手はない、千賀毅人。投降を進めるよ」

 

 アスタルテを解放し、<山河社稷図>を破壊した。なのに、優麻がわざわざ呼びかけるのは、何も単なる温情を出したわけではない。

 読み解き、策を崩し、少しでも相手のカリスマを折る。仙都木優麻とてこの男の威名は知っている。しかも人工島上空全体に魔法陣を描くなんて言う、これだけの大掛かりなことをやってのけた相手だ。こうでもしなければ足が挫く。母と同格の特一級の魔術師という最強像に呑まれてしまう。

 

「魔法陣を新たにしこうが、あなた自身が言った、魔術の天敵であるアスタルテさんがこちらについている。空間制御も呪符に頼らなければあなたよりもボクの方が早く展開できる。打つ手なしとみるべきだと思うけど!」

 

「威勢がいいのは結構だ」

 

 幾たびの戦場ですれてきたジャケットを揺らし、立ち上がりながら『至宝』が口を開く。

 

 

「だが、技ありを取った程度。まだ試合は終わっていないし、すでにもう手は打ってある」

 

 

 そう、『東洋の至宝』が誇る最大の技は何だ。

 仙界の魔導書に頼った戦術などではない、それはもうすでに外に出れば誰の目にも止まるものだ。

 <タルタロスの黒薔薇>。

 この絃神島そのものを利用した風水術で生み出された怪物、その一体を使役する権利が、術者にはある。

 

「魔導書から解放しても、新しい依代を用意しなければならない。那月が新しく幻像を拵えて戻るまでは、早くて半日だ」

 

 自らの夢の牢獄に囚われた<空隙の魔女>本体を傷つけることは容易くできることではない。だから、生かしたまま封じ込める策を取っていた。

 しかし、魔力の依代となるべき人形がなければ、現実の世界で動けるようにはならない。だから、再び活動するためには新しい依代を用意するしかない。

 

 そして、それまでに『至宝』と対抗できる術者はこの絃神島に存在しない。

 

「君たちを子ども扱いしたことをここに詫びよう―――だから、『四凶』をここに呼ばせてもらっても構わないな?」

 

 開き直りともいえるその態度で、男はこの場に呼び寄せた。

 キーストーンゲートに強襲を仕掛け、術者の下にはせ参じたのは、北の『四凶』。

 翼をもつ虎の眷獣『窮奇(きゅうき)』が、若い魔女と人工生命体に咆哮をあげた。

 

 

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

 北と西の『四凶』は、本丸を攻めるハヌマンと千賀毅人へ譲渡された。

 そして、東と南の『四凶』は、この旧南東地区にある『七星壇』を守護してもらう。

 

 

「ごめんね、この子たち、荒っぽいから、手加減できないわ」

 

 

 人面虎足の魔獣の『檮コツ(トウコツ)

 盲目聾唖の妖狼の『渾沌(こんとん)

 その暴虐悪辣な魔力は、霊視能力を持つ巫女らには視るのも辛いほどに穢れていた。

 

「くっ、<煌華鱗>!」

 

 魔弓の形態から長剣に切り替え、疑似空間切断の障壁を張る紗矢華。しかし、妖狼の一哭きで、自然は混沌に乱れる。絶対とされた法則そのものが、秩序を失い、空間切断の護りは破り捨てられた。

 

「煌坂っ! この―――!」

 

 紗矢華を救助しようと、志緒は呪矢を放つ―――しかし、『風を切れば音が鳴る』という常識とされている自然法則が混沌となっている空間にその鏑矢は圧縮呪句を轟かすことなく、妖狼の肌に制圧兵器としての力のない“ただの矢”は突き刺さることなく弾かれる。

 

「なっ!?」 「きゃあっ!?」

 

 妖狼の突進に防ぐ術なく、舞威姫は吹き飛ばされる。

 

 

 

「っ、<霧豹双月>!」

 

 模倣した空間切断の呪術付加を纏う双叉槍が、魔獣の肌を裂いた。しかし、怯まず。戦乱を好み、死ぬまで戦い続ける様は、六刃神官が臆す程の戦闘狂であり、猪牙の強襲で撥ね飛ばした。

 

「妃埼さん! はぁ―――っ!」

 

 疑似空間切断の刻印に呪力を通した長剣が、剣巫の技で脅威の猪牙へと振るわれる。しかし、その切先が不意に鈍った。その名にある『檮』とは『無知』を意味し、『難訓』という別名を持つ魔獣。その呪力は無差別にあてられた人間の技能を狂わせてしまう。まるで武神具の発動の仕方さえもわからなくなってしまったかのように、疑似空間切断の効力は消え失せて、猪牙に唯里も撥ね飛ばされた。

 

「この―――!」 「なんで―――!?」

 

 魔獣の暴力を止める力はなく、剣巫たちは膝をつく。

 

 

 

 『四凶』を斃すものなど存在しない。

 この『魔族特区』を滅ぼすまで、『四凶』は蹂躙の限りを尽くす―――

 

 

 

「<焔光の夜伯>の血脈が継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ!」

 

 だが、それを許さぬ、世界最強の存在がここに君臨する。

 災厄の化身である『四凶』に、同じ災厄の化身がぶちあたる。

 暴風を纏う双角獣と雷光が迸る獅子。膨大な魔力で構成された眷獣は、『四凶』の怪物を少女たちから引き離した。

 

「やっぱり来たわね」

 

 ディセンバーが、魔力の発生源である空を見る。

 そこに一時撤退した鋼色の『龍族』がいて、その背中に彼がいた。世界最強の吸血鬼――<第四真祖>暁古城が。

 

 そして、古城は上空を舞う竜グレンダの背から少女ひとりを抱えて飛び降りた。

 

 重力を制御し、落下速度を減速させることで無事着する。古城の全身は、渦を巻く漆黒の粒子に包み込まれており、<第四真祖>の『七番目』である<夜摩の黒剣>の重力制御の能力を限定発動している証左である。

 ただ復活したのではない。より眷獣の力を制御できるようになっている。

 それが隣の姫柊雪菜によるものだと推理するが、そこで確認を取るなどという野暮な真似は、ディセンバーはしない。

 問うべきことは、ひとつだけ。

 

「ディセンバー、今すぐ儀式をやめて、こいつらを消せ」

 

「あたしを止める気なのね、古城」

 

「ああ」

 

「『魔族特区』は滅ぶべき。虐げられた子たちがそう願うことは間違ってるとでも言うのかしら?」

 

「それを判断するのは、俺じゃない」

 

 意識を囚われていた間も、暁古城の意思は聴いていた。

 アスタルテに対して、彼女と同じ境遇の者たちが訴える理不尽を。

 

「確かにその子たちの怒りには、正当な理由があるのかもしれない。この島のせいで、大勢の犠牲者が生み出されるのかもしれない」

 

 その『黒薔薇』より生み落された『四凶』は、被害者らの破壊意志が宿っていると言っても過言ではないのだろう。

 『魔族特区』の悪行を知らない古城は、理不尽に戦い続ける<タルタロス・ラプス>からすれば、盲目聾唖と思われているのだろう。

 しかし、この憎悪と戦う者たちもいるのだ。

 

「だけど、お前らが絃神島を壊したいと思ってるのと同じくらい、俺はこの島で暮らしてる連中を護りたいと思ってんだよ!」

 

「あたしは認めない! そんな理屈―――!」

 

 ディセンバーが、古城の言葉を否定する。

 だが、この絶叫する少女と同じ顔をした彼女――アヴローラは、この島を、古城たちの居場所を護るために、戦ってくれた。そして、世界への破壊意志を引き受けて眠りについた彼女は、この世界最強の力を古城に託してくれた。

 

「いいや、認めてもらうぞディセンバー! 俺が<第四真祖>だ!」

 

「だったら、このあたしを倒して、証明してみせなさい! でなければ、<第四真祖>とは認めないわ!」

 

「ああ! 俺は、お前らを止めるぞ、<タルタロス・ラプス>! ここから先は、俺の戦争(ケンカ)だ!」

 

 ディセンバーの背後より浮かび上がるのは、眷獣の影。“まだ完全な召喚ではない”とはいえ、その妖しく輝く瞳より放たれる魔力は、古城の意識を捕え、血に宿る眷獣をも操縦してみせた。眷獣の精神攻撃に、古城の身体がぐらりと揺れた。しかし、堪えた。

 子供たちの憎悪を背負うディセンバーの強烈な意思に、古城ひとりでは振り払うことはできないかもしれない。しかし、ひとりではない。

 この世界最強の力の重責を半分、一緒に背負ってくれる少女が古城にはついている。

 

 両者の間に走った鋭い銀光の一閃が、<焔光の夜伯>の圧倒的な支配力を断ち切った。

 

「いいえ、先輩。わたしたちの戦争(ケンカ)です」

 

 破魔の銀槍を携えた姫柊雪菜が、古城の隣に立つ。

 そして、その後ろには、煌坂紗矢華、斐川志緒、羽波唯里、妃崎霧葉がいる。

 そして、こことは別の場所で、戦っている者もいる。

 

 

キーストーンゲート

 

 

 登録証をつけた魔族たちが、我を失い、魔力制御を暴走させる。

 絃神島で現在多発しているこの現象は、これまでの<タルタロス・ラプス>――ディセンバーとの交戦記録から検索した、眷獣の制御も乗っ取れる精神支配をされた状態と、酷似している

 おそらく関連性はあるのだろう。

 <タルタロス・ラプス>の眷獣の能力を解析して、それを再現する術式を構築したのだと推測する。

 ―――であるのならば、同じ精神支配の力であれば、この暴走ウィルスを相殺できる鎮静ワクチンとなることができる望みはあるはずだ。

 

 

 毒を以て、毒を制す。

 <焔光の夜伯>――“世界最強”の吸血鬼の精神支配に対抗できるのは、やはり同じく“世界最強”の力しかない。

 

 

「―――セッティング、準備完了したでござるよ」

 

 と“潜水艦の形をした電脳頭脳媒体”との接続コードを超小型有脚戦車から外した<戦車乗り>リディアーヌ=ディディエ。

 管理公社で『迎撃屋』を任されるほど凄腕ハッカーの彼女は、普段は全寮制のお嬢様学校でつつがなく学校生活を送る小学生である。

 その絃神市内きっての名門校として知られる天奏学館小等部にある手芸クラブというごくごく平凡な女子らしい部活に、リディアーヌと共に属する知己がいた。

 

「結瞳殿、お願いするでござる」

 

 リディアーヌが古めかしい時代劇口調にて呼びかけると、それまで待機していた、白いワンピース型のセーラ服に学校指定のペレー帽――名門小学校の制服を着た少女が立ち上がる。気難しいネコを連想させる、大人びた少女は、同じ小学校、同じクラス、同じクラブのリディアーヌの知り合い――江口結瞳だ。

 

「はい、こっちは大丈夫。いつでも行けます。とっくに準備万端ですリディさん」

 

 真面目な口調で、精神統一は済ませたと応じる結瞳。

 彼女は、今はこの管理公社の室長・矢瀬幾磨の預かりとなっている<夜の魔女(リリス)>――世界最強の魔獣(レヴィアタン)をも支配してみせた世界最強の夢魔(サキュバス)なのだ。

 そして、リディアーヌとは天奏学館よりも前に、『青の楽園』ですでに顔合わせを済ませていたりする。同じ場所に流れ着いて、たまたま趣味が似通っていて、互いの人格を尊重し合える知人。いわゆる、友人である。

 逆立ちしても敵わなかった<電子の女帝>藍羽浅葱にはない、リディアーヌの力とは、この人脈。

 そして、女帝にはない経験。

 

 リディアーヌ=ディディエは、『クスキエリゼ』――太史局――の依頼で江口結瞳が<夜の魔女>としての力を発揮できるようにする補助具<仮想第二人格(LYL)>の器を設計構築した技術者だ。

 当然、夢魔の力の解析はそのときすでに済ませており、また管理公社には、<黒妖犬>が正しく『蘇生(かんせい)』させた<LYL>が保管されている。魔族研究の分野に非常に興味深い物件として、幾磨が江口結瞳と一緒に回収していたものだ。

 

「もうお外は大変みたいですし、お兄さんもピンチだって聞いてます。早くやりましょうリディさん」

 

「流石に編み物と同じようにとはいかないでござるが、これでも超特急で<LYL>の改修を済ませたで候」

 

 一からまた補助演算電脳を組み立てるのはさすがに無理があるが、元々あったものをまた使えるように調整するのであればそれほど手間はかからない。

 

「では、結瞳殿、反撃の狼煙を、お願い致す」

 

「はい! 絃神島の皆に迷惑をかけた“莉琉”の力を、今度は護るために役立てたい!」

 

 電脳装置を積んだ潜水艇『ヨタカ』――それを基に改造したステージに見立てたような台の上に結瞳は立って、胸に手を添え、目を瞑る。この内なるものを呼びかけるように。

 

 

 そして、島に争いを眠らせる鎮魂歌にして、少女の精一杯の応援歌(エール)が響き渡る―――

 

 

キーストーンゲート 最下層

 

 

 『魔族特区』を壊滅させる『四凶』が召喚された。

 もはや破滅は免れない。しかし、それでも戦いを止めない子供たちがいる。

 <タルタロス・ラプス>は、破壊を止めない。だが、子供たちは諦めない。

 

「愚かだ……が、俺には眩しいな」

 

 かつて、理想を諦めてしまったものとすれば、土竜が太陽を見上げるように直視すれば目が焼かれてしまうくらいに。

 

 だから。

 だからこそ。

 あの子供たちを護るためには、一刻も早く、この絃神島を終わらせる、幕を下ろしてやるべきなのだ。

 千賀はそう自分自身に言い聞かせるように、通路を降りていく。

 『四凶』の一体を足止めに使って、千賀が向かっている場所は絃神島の中心。アスタルテが途中までしか防御障壁を破壊していないが、それでも封印術式を知っている千賀は単独でも、このキーストーンゲートの最下層へと至ることができた。途中までとはいえ、障害が破られているおかげで、大分、時間短縮(ショートカット)できただろう。

 

 そして、千賀はキーストーンゲート最下層へと踏み込む。

 懐かしい匂いがした。

 薄暗い空間、直線的な通路の奥へと進んでいき、見た。

 

「な……っ!? なんだこれは……!? どういうことだっ!」

 

 この絃神島で魔術的にも物理的にも最も堅固とされるその場所にあったのは、テロを恐れシェルターへと避難していたが絶命させられた、首なしの死体が四つ。

 どれもこれも、一介の職員とは思えないほど高級なスーツを着込んだ死体だった。そして、中途半端に残った首からは、最高ランクのIDカードがぶら下げられている。切り捨てられた頭部の代わりとでもいうように、カードの中の証明写真は皆不気味に微笑んでいた。

 壁、床、天井。

 そのすべてに、悪い冗談みたいに鮮血がこびりついていた。

 上層部、<タルタロス・ラプス>が標的とした上級理事の死。

 それもあまりにも鮮やかな切口で、首を落とされている。

 辺りに付着している血痕の乾いている色を見る限り、おそらくは半日以上すでに経過しているだろう。

 

 しかし。

 だとすると、不可解なことが浮かび上がる。

 

(俺たちが矢瀬顕重を爆殺してから上級理事連中はこぞってシェルターへと引き籠った。そこは厳重な警戒態勢が取られていたはずだ。『食糧備蓄倉庫』だって、あそこに派遣された人員もほぼ最小限だったとみてもいい。だが、この現場から察するに、もう昨夜の時点でこいつらは死んでいる!)

 

 <タルタロス・ラプス>は、特区警備隊に魔族管理局の部門を仕切る上級理事らを暗殺しようとしていたが、それは阻止されたはずだった。千賀毅人がこの場に侵入したのも、これが初めてのことだ。

 そして。

 この最下層から、特区警備隊にあの子供たちへと指示を出していたのは……誰だ?

 

(上層部連中が皆殺しにされている。だが、これをやったのは俺たちじゃない! 何故これが知られていないんだ!? そして、何故死体がここに在る!?)

 

 『魔族特区』を運営する憎き復讐対象が揃いも揃って首を落とされている。のに、こんな宙ぶらりんのまま歯車は回っていたというのか。

 そして、この最下層には、立ち入ることができるのは、絃神千羅とその盟友矢瀬顕重が死去した今、千賀毅人しかいないのに、何故死体がここにあるのか。ここまで通ってきたが、この空間転移すら侵入不可能な完全禁層区域まで、<薔薇の指先>のように強引に結界を破った痕跡など見当たらなかった。

 

「わからない。一体何が、誰が、何のために―――」

 

 カツン、と千賀しかいないはずの最下層で、足音が響いた。

 

 

 

つづく

 

 

 

眷獣(サーヴァント)としてある程度の窮屈さは知ってもらうが、本当に自由となりたいなら、その時は、お前を縛りはしない。それだけの権利を与えてやろう。もし破れば、その顎に差し入れた(貸してやった)片腕だけじゃなく、私の魂まで丸呑みして(喰らって)も構わんぞ』

 

 

『あまり失くすなよ。携帯と違って、首輪は他に預けてもしょうがないからな』

 

 

『お前は、私の…眷獣だ』

 

 

『馬鹿犬の前では絶対にこんなことは言わんが、獅子身中の虫を取り除けるとは、実に優秀なサーヴァントを私は持った』

 

 

『“蜘蛛”如きに、私の眷獣(サーヴァント)の幉を引かせてやるとは思わないことだ』

 

 

『怪獣退治の管轄は、私の眷獣(サーヴァント)に任せている。『神殺し』に不完全の邪神程度など“役不足”だ。むしろ、絃神島の心配をするべきだと私は思うがな』

 

 

『森を出ることも、私の眷獣(サーヴァント)となることも、ヤツ自身の意思で、選ばせた。この先どうなろうが、あいつの意思で私はでき得る限り尊重させてやるつもりだ。貴様の言う運命に殉じようが、逆らおうが、あいつの勝手であって、私や、誰の意思に振り回されるものではない。

 私は、縛らない―――そう、約束したのだからな』

 

 

次回予告

 

 

『こんな、聞いてないっ。契約(ヤクソク)だなんて、知らない、のだ。……そんなの、忘れた。う、全然、覚えてないぞ! そうだ、時効だっ! だから……』

 

 

 

 

 

『わか、った……その命令は、従えない……だから、オレ……サーヴァント、……やめる』

 

 

 

 

 

『だから……“卒業”、だ……、……ご主人様っ!』

 



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奈落の薔薇Ⅶ

キーストーンゲート 前

 

 

 斧、盾、矢をはじめとしたあらゆる武器を開発したとされる兵主神。

 それは、武器と魔術を人間に与えた咎神の大陸における別名であるか。

 とにかくその猛威は脅威であり、兵主神の首が化けたとされる名の眷獣を喰らった最古の獣王はその域に達したと自称する。

 

「「「「よい。実によい! 程よい命の危機感とは、どこまでも儂を興じさせ、高めさせてくれるっ!!」」」」

 

 『四凶』を喰らい、<神獣化>した<白石猿>。

 捻じれた魔王の如き牛角を生やし、火眼金睛が四つに分かれた。その5m大に膨張された身体は鋼質。

 そして、鬼猴は、81の分身体を作り出し、この場を雲霞の大津波に呑まれたかのように雨霧を張り巡らす。

 

「「「「さあ、続きをしよう! 永遠に死合おうではないか、<黒死皇>!!」」」」

 

 この五里霧中の四面楚歌で発せられた宣戦布告を、南宮クロウは中心で受け止めた。

 びりびりと、至近距離で落雷を見据えたかのごとき衝撃が全身を突き抜けた。それでも一歩たりとも退かなかったのは、魔女の眷獣としての気概ゆえだろうか。このいくら注意してもボケ続ける白爺の“戯言(こくしこう)”ではないことだけは確かだ。

 して、すぐさま最古の獣王に応じようとはしなかった。

 

「いいや、永遠なんてない」

 

 月を思う。

 欠けのない、真円の月である。

 観月法と言う、集中のための方法だった。

 それを昔に師父に教わったが、自分はその方法をあの暗夜の森のころから体得していた。

 道具にはあるまじき物心がついたころからずっと想ってきたそのルーティーンで、呼吸と意識とを整えると、垂れていた鼻血を手の甲で拭う。

 

「ここで終わらせてやる」

 

 雨霧が邪魔をして、先が見えない。

 周囲はすべて敵に埋め尽くされ、味方はいない。

 ―――でも、それは暗夜の森ですでに体験していたことだ。

 

 クロウは、懐に手を伸ばして握り取った能力増強剤の錠剤を数も確かめず適当に口に放り込み、歯軋りさせて噛み砕く。

 

「「「「ああ、もう逃がしたりはせぬ。<觔斗雲>よ―――!」」」」

 

 そこで、ゆるり、と81の鬼猴が同調して腕を持ち上げる。

 刹那、旋風が巻き起こった。風伯と雨師さえも鬼猴の指揮下に掌握したのではないかと思われるほどの嵐だった。

 それが創り上げたのは、半径1kmほど超自然の猛威たる暴風に囲まれたリング。

 外界の情報を一切遮断し、誰にも邪魔をされぬ、獣王だけの世界。嗚呼、これが求めていた、理想郷なり

 傲然と笑みを深め、ひとり前に出た先頭の鬼猴はその手にとった武器へ命じる。

 

「この<蚩尤>に相応しきカタチとなれい。<如意金箍棒>よ―――!」

 

 伸長自在の神珍鉄の棍が鬼猴の意に応えた。

 その先端へ、<九歯馬鍬>の熊手歯に<降妖宝杖>の半月刃が生やし、切斬、刺突、打撃の異なる近接武器の特徴をひとつに集約させた『方天画戟(ハルバード)』と化す。

 合体宝貝の斧槍の異様に、人狼は緊張を強くした。

 

「では、まずは一騎打ちから洒落こもうかのう」

 

 斧槍を回して出来具合を把握した鬼猴が、一気に、間合いを詰めてきた。

 滑るような一足が、十数mの距離を無に帰する。身をのべると言われる、古い武術特有の歩法だった。

 そこから、人狼の隙へ差し込む斧槍の冴えよ。

 一切の迷いも躊躇いもなく、これまで好打もなく猛攻を凌がれた人狼へ、鬼猴の斧槍が舞う。そのたび鋼色の婆娑羅髪が大きくたなびき、竜尾のごとく戦乱を飾った。鬼神の如き剛腕とは真逆を行く、かほどに流麗でありながら、人狼――能力増強剤で数百倍の超感性が高められているが、たった一度攻撃を掠らせることすら叶わなかった。

 これまでは“遊び半分”であったが、最古の獣王にして妖仙が積んできた功夫(クンフー)は、武術と仙法の達人たる<四仙拳>を上回るものであるか。

 

「壬生の秘拳、『夢想阿修羅拳』!」

 

 『八雷神法』と『八将神法』を窮め、大魔女に使役される恩恵で可能とする複合重撃。

 直撃する刹那を限りなく細かく刻む空間制御、蒼銀の法被<隠れ蓑(タルンカッペ)>の身体強化補助を借りて火事場の馬鹿力と高まった身体運用が、拳打、貫手、掌底、膝蹴り、踵落とし、靠、手刀、咆哮(魔力砲)の八手を重ねて相手に喰らわせる。

 それでも、好打はなかった。

 八重撃、そのすべてのコースを見切られ、逆に、斬り、突き、打ちの三重撃を返された(カウンター)

 

「ひっひ、これまで随分と分け身を殺してくれたが、儂もヌシの癖は十分観察させてもらったのよ。だから、その構えですべてが予想つく」

 

「っのお―――!」

 

 同時重撃は、その退路を薙ぐ軌道で振るわれて、クロウに見舞われた。

 わかっていたが、最古とは伊達ではない。神代から研鑽された技量は神技と呼べるもの。

 身体運用のレベルで、格が違う。

 人狼にはふたつの動作がかかることを、鬼猴はひとつの動作で成し遂げられる。こちらが神獣と化した鬼猴の二倍以上の身体能力で対応しなければ、追いつけない―――!

 

 練達した武技では敵わないのなら、野生に還る。

 攻撃を受けたが、怯まず喰らいつく。果敢に人狼は、その牙を剥く。狙うは5mの巨体の太い剛腕。余分な動作などない無動作でその得物を持つ腕へ大口を開けて咬み付かんとする。これならば向こうは一動作余分にかかり、こちらが先手を打てる。

 

「そうくるよな」

 

 と、悠然と肯定の声が流れた。

 

「わかっておるとも。なにせ、儂は<黒死皇>の理解者(ライバル)であるからな」

 

 あっさりと『方天画戟』を放し、鬼猴の手が反転したのだ。

 クロウの牙を(から)め捕り、ほんの少し力を加えただけで襲撃のベクトルは反転した。合気道の演舞の如くぐるりと裏返った人狼の身体は、まるで独楽のように回転しながら、背中から地面へと落下していく。

 

「ほれ、どうした? これで終わりではなかろう。わかっておるとも」

 

 笑いながら、さらに<白石猿>が突きを入れた。

 宙空で体勢を立て直した人狼の肩口から、血が噴き出した。聖護結界を練り込んだ生体障壁も貫かれた。

 耐えきれず、人狼は口腔より赤光が零れる咢を開いた。

 

「ガァ―――ッッッ!!!」

 

 その咆哮が灼熱の熱量を伴って迸る。<黒妖犬>の顎から集約された神狼の劫火が放たれたのだ。それこそ何千度と言う熱を一点に絞り込んだ―――鋼でも構わずに溶断するほどのレーザービームのごとき焔光だった。

 

「わかっておるとも―――<觔斗雲>!」

 

 しかし。

 鬼猴の掌中に集う雨霰が、複重する気盾となり防がれた。

 雲霞の宝貝が、<神獣化>と共に変じ、その制圧力はまさしく風神水神の域にまで達している。

 それでも体勢を立て直すだけの時間を稼ぎ、クロウは後方へと跳ぶ。

 

「「「「いいや、息を吐かせる間など与えんよ」」」」

 

「ぬぐ―――!」

 

 クロウが血相を変える。

 合体の次は、変形。

 八方埋め尽くす80の鬼猴より、数多の属性と威力を秘めた『宝貝』が、ただ投擲するのではなく、飛翔に適した矢の形状となり、放たれた。

 

 

 そして、そのとき、ぷっつん、と栓が切れたように、鼻から血が噴き出した。

 

 

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

「<双角の深緋>―――!」

 

 

 暴風と超振動の化身たる緋色の双角獣が、暁古城の声に応じて高らかに嘶いて、南の『四凶』たる妖狼『渾沌(こんとん)』を攻撃する。

 いつもと違って手加減をする必要のない敵だ。無制限に解き放たれた魔力の塊同士が激突し、すでに壊れかけていた人工島の大地を大きく揺さぶる。

 盲目聾唖で歌い上げる『渾沌』の悪徳。それに侵された空間に混沌を呼び込む。双角獣(バイコーン)は、その混沌とした自然法則を、さらに上書きして撹拌するかのように超音波の弾丸を放つも、その勢いは妖狼に直撃する寸前で掻き消える。

 『四凶』の干渉力は<第四真祖>の眷獣と互角―――

 

 

「―――獅子の舞女たる高神の真射姫が讃え奉る」

 

 

 双角獣と妖狼の狭間で、吹き荒ぶ拮抗の魔風。

 その風流を読んだ舞威姫ふたりは無意識に祝詞を口にした。

 

「極光の炎駆、煌華の麒麟、其は天樂と轟雷を統べ、噴焰をまといて妖霊冥鬼を射貫く者なり―――!」

 

 太腿に装着したホルスターからダーツを引き抜く。残りの呪矢すべてを手に握る。矢の形に伸ばして使うのが常套であるが、今回はこのままで十分。

 風を風で失くす、あらゆる自然を喪失させてしまう『渾沌』の呪歌。

 故に舞威姫の魔弾は、魔術を発動する触媒足りずに不発で終わってしまう。鳴り鏑矢が放つ音が呪文となって、人間の魔術師には詠唱できない強大な攻撃魔術を生み出すのが、呪術の専門家である舞威姫の真骨頂。

 『六式重装降魔弓』とその射撃の機能だけを分割した『六式降魔弓・改』が弓の形をとっているのは、鏑矢を鳴らすのに必要な風圧を得るためである。

 だが今は。

 魔力を相殺した拮抗―――つまり、『渾沌』の呪歌を掻き消してくれる魔風が目の前にあった―――

 

「今よ! 古城!」

 

 紗矢華とその意を理解した志緒が、ダーツをばら撒いた。

 

 眷獣の双角が、音叉のように震えて放つ超音波の弾丸。そこへ投擲された舞威姫の魔力を篭めた呪矢が、呪歌に侵されることのない魔風に乗る。そして、甲高い音を奏でた。

 妖狼の周囲に複数の魔方陣が展開される。

 灼熱の稲妻を撃ち出して、無差別の周囲を破壊する砲撃呪術。舞威姫の秘呪から放たれる閃光が『渾沌』の身体を焼く。

 

 無論、獅子王機関の制圧兵器と言えども、『四凶』を倒せるほどの力はない。それでもこの拮抗を崩すきっかけとはなり得た。

 

 緋色の双角獣が、盲目聾唖の妖狼へと突撃する。衝撃波の塊を正面から喰らって、呪歌をかき消された『四凶』は大きく吹き飛ばされた。

 

 それと、同時並行で、

 

「<獅子の黄金>―――!」

 

 天空より落雷が発生した。大気に滾っていた魔力が残らず暁古城へ集中したのではないかと思われるほどの稲妻であった。

 その雷自体が具現化したかのように、雷光の獅子は盛んに雷撃を迸らせ、咆哮を上げる。相手は、東の『四凶』たる人面虎『檮コツ(トウコツ)』。

 雷撃を浴びせようとも臆することはない、狂化極まった人面虎は、獅子に飛び掛かり、その首に喰らいつこうとする。

 あらゆる技能を『無知』とさせてしまう難訓の威圧を放つ戦闘狂は、力でしか圧すことは許されぬ。

 

 上等だ、と力勝負に、古城は獰猛に牙を剥く。

 

 首に咬み付いた『檮コツ』を、雷光の獅子は雷撃纏う爪で殴りつけ、人型の頭を地面に顔面から叩きつけて踏みつける。全開に解き放った雷光は、難訓の威圧を灼き、味方を鼓舞した。

 

「『六式降魔剣・改』―――!」

 

 雷電飛び散る獅子と人面虎の戦闘に、飛びこむは剣巫の光と影。

 古来より、気性の激しい土地柄である日本は、青竹を立てて注連縄で結界を張ることで雷神の加護を得たり、落雷を切断した刀剣の伝承が存在する。

 そして、剣巫と六刃神官が修めたる『八雷神法』は、まさしく雷神の名を冠する白兵戦術であり、つまるところ、流れ弾程度であれば、雷除けの呪法で逸らすことはできるのだ。

 

「『乙型呪装双叉槍』の真骨頂は、『魔力の模倣』。そして、太史局の六刃神官の専門は、魔獣退治―――無知(バカ)を惜しげなく晒すケダモノに屈するわけにはいかないの」

 

 <霧豹双月>の音叉状の双叉より魔力の衝撃波が放たれる。

 その属性は、『疑似空間切断』ではなく、先程の交戦で染め直した『難訓』――『四凶』自身の魔力だ。

 かつて、『青の楽園』にて、<夜の魔女>の魔力を使い、<夜の魔女>の人格を表出させたように、同魔力による共振現象は、その魔力に干渉する。

 霧葉の魔力共振で、一時、『檮コツ』の間合いにて、難訓の威圧が減じた。そこへ、『疑似空間切断』を発動させた銀剣を構えた唯里が飛び込み、人面虎の胴に剣を深々と刺し入れた。

 

「今だよ! 古城君!」

 

 剣巫の渾身の一指しでも、戦闘狂の人面虎は弱まる気配はない。蚊にでも刺されたようなものなのだろう。所詮は人間風情が、『四凶』へさしたるダメージは与えられない。

 しかしその剣は、今も人面虎の身体に深く突き立っている。

 核の近く、『檮コツ』の芯まで。

 『疑似空間切断』の効力を発揮できずとも、金属製の長い刀身の剣が、まるで雷を呼び寄せる避雷針のように―――

 

 『八雷神法』を修めた剣巫に、流れ弾を防ぐ雷除けの呪法も修得していれば、同時にそれはどうであれば鳴神が落ちるのに最適なコースかも心得ている。

 

 もはや古城が命じるまでもなく、光の速さで神鳴りの眷獣が動いた。

 唯里も霧葉もすでに、人面虎から離れている。

 そして、残された『六式降魔剣・改』の柄に、<第四真祖>の眷獣が牙を立てる。

 雷に姿を変えた眷獣の魔力が、『檮コツ』の体内へと流れ込む。

 真祖の眷獣の圧倒的な魔力が、『四凶』の眷獣を焼き尽くし、芯まで痺れさせた。

 

 

「“退け”、<双角の深緋>! <獅子の黄金>!」

 

 

 多大なダメージを負わされたが、仲間たちが造り出した成果である『四凶』の止めまではさせまい。

 ディセンバーの背に現す透き通った眷獣の全身が輝きを増す。眷獣の制御権を奪おうと精神支配しているのだ。

 だが今の古城は、霊力を帯びた強い巫女の生血を取り込んで、<第四真祖>の血に宿る眷獣たちを満足させ、吸血鬼としての力が強くなっていた。

 容易にこの綱引きで主導権を渡すことはない。

 そして、もう二度と他の女に取られぬよう監視役が目を光らせている。

 

「先輩はやらせません! <雪霞狼>―――!」

 

 あらゆる魔力を浄化する『神格振動波』を展開した銀槍が、古城とディセンバーの間で均衡を保っていた支配権、張り詰めた緊張と共に両者に結ばれた(パス)を切断。

 

「無事ですか、先輩」

 

「っ、助かった、姫柊」

 

 状況の不利を悟ったディセンバーだが、されど打開する術はもうない。<タルタロスの黒薔薇>以上の策は用意していないのだ。

 と、

 

「異常発生。異物に魔力が上書きされて―――!?」

 

 これまで戦闘に参加せず、ただ忠実に己の成すべきことをこなしていた『七星壇』に座す少女ラーンが、閉ざされていた口を開いた。

 首と背中の端子を接続することで、電脳世界に直接介入でき、並の技術者では比較にならないほどのハッキング能力を持ったフランケンシュタイン。<タルタロス・ラプス>の儀式を制御しているのは、彼女のシステムのおかげで、極めて重要な役目を担っている。

 しかし、彼女の想定を上回る事態が発生した。

 

「プログラム<タルタロスの黒薔薇>のネットワーク占有率、77%まで低下。魔族登録証4800個の反応をロスト」

 

 魔族登録証に感染させたウィルスが、近似しているが別の魔力――すなわちワクチンに駆除されていく。この侵透が進めば、上空に展開される『黒薔薇』の魔方陣への魔力供給は途絶え、『四凶』は実体すら維持できなくなる。

 

 いったい誰が……?

 要危険人物である『カインの巫女』藍羽浅葱は、ロギが殺害もしくは妨害しにいっているはずだ。藍羽浅葱の暗殺が失敗したのか。

 それとも別の誰か、思わぬ伏兵がいたのか……?

 ディセンバーの精神支配を参考に組まれたウィルスを、上書きしていくなんて、いくら<電子の女帝>でも無理だろう……

 いや、そんな原因を推察している余裕などない。

 

「わかったわ、ラーン。もういい、逃げて。あたしが血路を開くから」

 

 ディセンバーがマフラー姿の少女に呼び掛ける。

 戦況は不利であるところで、供給が止まるのは状況に拍車をかけるだろう。ならば、ひとりでも仲間を撤退させる。

 しかしラーンは、表情を変えないまま小さく首を振った。

 

「ごめんなさい」

 

「ラーン……?」

 

「逃げられない。離れたくない……気持ち……いい……」

 

 ネットワークに接続したまま、ラーンがうっとりとしている。声にも常に無感情な彼女にはなかった艶がある。その姿にディセンバーは動揺した。これは魔族登録証の制御を奪い返されているどころか、ラーン自身にも、ワクチン――精神支配を上書きする精神支配の魔力が届いているのだ。それも見る限り、ディセンバーと同様の『魅了』の属性。

 

「しっかりして、ラーン! 接続をすぐ解除するの! でないとあなたまで……!」

 

 ディセンバーが、ラーンの肩を掴んで激しく揺さぶるも、ラーンの目にディセンバーの顔は映らない。青白い肌を薔薇色に紅潮させて、酩酊したように視線を彷徨わせている。

 

「これ……なに……すごく、快感……あ……ああ……」

 

「ごめんね、ラーン」

 

 声も届かないと判断し、ディセンバーはラーンに繋がっていたネットワークケーブルを強引に引き千切った。

 その瞬間、ラーンの肉体は激しく痙攣し、糸が切れたようにその場に倒れ込む。

 

「ラーン……大好きよ。カーリ、ロギ……みんなのこともね……」

 

 魘される少女の身体を横たえさせて、乱れたマフラーもそっと巻き直し、優しく髪も梳いてやる。

 こうして、手札も使い切り、仲間も退場してしまい、<タルタロスの黒薔薇>は停止したディセンバーを、冷たく睨んで古城は告げる。

 

「終わりだ、ディセンバー」

 

 古城を見返すディセンバーは、吹っ切れたように微笑んでみせる。

 

「まだよ、暁古城! 『黒薔薇(はな)』が散っても、召喚された『四凶()』は残ってる。あたしの仲間が召喚してくれた―――絃神島を破壊する力は!」

 

「なに……!?」

 

 ディセンバーの眷獣が放つ魔力が、古城ではなく、『四凶』へと向けられた。

 魔力供給が途絶えた『四凶』は、魔力で構成される肉体に綻びが見られる。だが、まだ残存する7割でも『四凶』の魔力は膨大だ。それらが無制限に解き放たれれば、絃神島は壊滅的なダメージを受けるだろう。

 しかし、<タルタロスの黒薔薇>を失うということは、<タルタロス・ラプス>に『四凶』を操る手段を失くしてしまうということだ。

 だが、その常套を覆してこそ、災厄の化身と呼ぶにふさわしい。

 

 

「疾く在れ、<魔羯の瞳晶(ダビ・クリユスタルス)>―――!」

 

 

 <焔光の夜伯>『十番目』の完全開放。

 全長十数mにも達する巨大な眷獣は、半透明ではなく、その確かな色を実体に帯びさせる。銀水晶の鱗を持つ、見る者を“魅了”するほどに美しい魚竜だ。

 前肢は翼の形をしていて、頭にある山羊に似た螺旋状の角は光り輝やく水晶柱である。

 そして、眷獣が纏う禍々しい気配、大気を震わす存在感、濃密な魔力の威圧感、このどれもが古城の眷獣と同質のもの。

 だが、これは不可解ではない。なぜなら、ディセンバーの眷獣も、世界最強の吸血鬼<第四真祖>の眷獣であるのだから。

 

「『十番目の月(ディセンバー)』……『十番目』の<焔光の夜伯>か」

 

 勢いを増すディセンバーの魔力に気圧されながら、古城は唸った。

 <第四真祖>の正体は、神代に『殺神兵器』として生み出された人工の吸血鬼だ。『聖殲』と呼ばれた戦争が終結し、役目を終えた<第四真祖>は封印された。

 そして、<第四真祖>の復活を恐れた人々は、<第四真祖>の十二体の眷獣を、それぞれ異なる場所に封印したのだ。この眷獣を封印するためだけに造られた新たな人造吸血鬼――<焔光の夜伯>と名付けられた十二人の少女の中に。

 

「おまえはアヴローラと同じ、<第四真祖>の封印体だったんだな、ディセンバー……!」

 

「今更そんなこと訊ねるまでもないでしょ、暁古城。それともきみは、自分が何者かさえもわかってないのかな」

 

 クスッと悪戯っぽく微笑んでみせるディセンバー。その面影はやはり、かつてアヴローラ=フロレスティーナと呼ばれていた少女と重なる。

 

「そうかもな」

 

 古城は彼女の言葉を認めた。<第四真祖>の復活の儀式『焔光の宴』で、古城は記憶の大部分を奪われて、残っている場面もほとんど虫食い状態だ。それに<焔光の夜伯>に化けた第三真祖の例がある。こうやって眷獣を召喚されるまでは、半信半疑だったのも、そのせいだ。

 

「あたしは、『十二番目(ドウデカトス)』と違って、記憶も曖昧なくらい遠い昔に目覚めたの」

 

 そして、40年前に<タルタロス・ラプス>の存在を知って、彼らの仲間として三つの『魔族特区』を滅ぼした。

 

「<焔光の夜伯>に関わらなかったのは、その頃、<第三真祖>に捕らわれていたせい」

 

「<第三真祖>……ジャーダが、お前を匿っていたのか……」

 

「結果的には、匿ってもらったことになるわね。おかげでラーンたちとも再会できたわけだし、それに参加できなかったけど、『宴』のことも知れたしね」

 

 ディセンバーが笑うように目を伏せる。

 この『廃棄区画』を記録からも抹消した『焔光の宴』の結果、彼女と、まだ見ぬ『六番目(ヘクトス)』以外の封印体は、すべて消滅している。

 

「でも、残念。きみだけでなく、あたし達の後続機(コウハイ)にも勧誘失敗し(フラれ)ちゃったわ。本当、まだ力の使いどころで悩んでいた『宴』のころの『十三番目の月(アンディシンバー)』に出会えてたら、“救えたかもしれないのに”……」

 

「それは、一体……? クロウに何が……?」

 

「古城、あなたのおかげで、あたし達は、『原初(ルート)』の運命(のろい)から救われたわ。でも、きみと同じように『十二番目』のために戦ってくれた、あの子は『原罪』を負ってしまってるの……」

 

 だから、この絃神島があっては永遠に救われることはないだろう。

 それを解放してやりたかったけれど、どうやらそれを見ることはできない。

 これ以上、古城が問い返す前に、ディセンバーは視線を切り、

 

「あたしが解放されたのは、絃神島に行くと<第三真祖>に伝えたからよ。君は彼女に気に入られているのね、暁古城。その理由、少しだけわかった気がするわ」

 

「ディセンバー―――お前、身体が……」

 

 小柄な少女の肉体が、金色の粒子に包まれて、さらさらと崩れ始めていた。

 通常の吸血鬼の霧化とは違う、彼女の存在そのものが消滅しようとしている。

 

「あたしたち番号持ち(ナンバード)は、<第四真祖>の眷獣の封印そのもの―――封印を解けば、消滅するしかないわ。この島に来ると決めたときから、こうなることは覚悟してた。<タルタロスの黒薔薇>が最後まで保ってくれたら、封印を解かずに済んだのだけど。少し残念、かな」

 

 ディセンバーは晴れやかな表情で笑って、両腕を大きく開いた。

 

「あたしが封印していた―――そしてあたし自身でもある『十番目』の眷獣<魔羯の瞳晶>は、吸血鬼の持つ『魅了』の能力を司る眷獣よ。だから、こんなことだってできる」

 

 動きを止めていた『四凶』が、ディセンバーを庇うように彼女の前に歩み寄る。

 『四凶』は、魔術装置としての絃神島によって召喚された、宿主をもたない眷獣だ。<タルタロスの黒薔薇>が失われた今、彼らを制御できるものは存在しないはずだった。

 この銀水晶の魚竜は、そんな『四凶』をも支配することができるのだ。

 

「きみが絃神島を護るというのなら、このあたしを倒してみせて。それができたら、きみを<第四真祖>だと認めてあげる!」

 

「待て、ディセンバー―――!」

 

 制止せんと伸ばされた古城の腕はしかし届かず、ディセンバーの身体は糸が切れたように前のめりに頽れた。

 

 

キーストーンゲート

 

 

 北の『四凶』、翼を持つ人食い虎という『虎に翼』を具現化したような存在である『窮奇』が、絃神島の中心にして、最も高い建造物キーストーンゲートで、嵐神の如き猛威を振るう。

 

「防護モード。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先>」

 

 アスタルテの背より翼を広げるように展開される巨人の腕。それはあらゆる魔力を反射する鉄壁の守護。

 しかし、羽虎の羽ばたきから放たれる真空波は、自然現象そのものであり、鋼鉄をも裂く鎌鼬。

 巨人の腕は斬り飛ばされ、華奢な人工生命体の身体は壁に衝突。

 

「アスタルテさん!?」

 

 凹む建物の壁に体を埋めるアスタルテに優麻の注意が逸れる。だが、優麻の持つ魔導書の防護障壁に付加された属性『予定調和』でも、自然現象と同じ羽虎の鎌鼬を防ぐことはかなわない。

 

「っ、<蒼>―――きゃっ!」

 

 空間制御魔術の展開が間に合わず、咄嗟に青騎士を盾にするが、『四凶』の鎌鼬は<守護者>ごと優麻を吹き飛ばした。

 

 たとえ、大本である『黒薔薇』の魔方陣が停止しても。

 『四凶』とは破滅願望の化身。

 わざわざ幉など取らずとも勝手に地に災厄をもたらすもの。

 

 天空を震え上がらせる咆哮を上げる『窮奇』

 正義を喰らい、悪を敬う『四凶』は、大翼を大きく振るわす。

 

 このキーストーンゲート――人工島で最も空に近い摩天楼を斬り倒さんと、鎌鼬の竜巻を発生させる―――

 しかし、予想されていた衝撃や惨劇が、起こることはなかった。

 

「う……?」

 

 優麻がうっすらと目を開ける。その視界に映ったのは、翼をもつ人食い虎―――それが、蜘蛛の巣にかかった蝶のように、中空で茨の蔓に雁字搦めに縛られている光景であった。

 

「―――ずいぶん働いてくれたようだな、仙都木優麻。褒めてやろう。阿夜を出したことは不問にしてやる」

 

 驚く優麻の背後から、傲岸な声が聞こえてくる。虚空に波紋の揺らぎを落として、何もなかった空間から現れたのは、人形めいた容姿の小柄な少女。

 普段着とは違う、白いワンピースの寝間着(ネグリジュ)のスカートをふわりと揺らして、彼女は着地する。

 

「どうして……あなたが、ここに……?」

 

 全長20mもの北の『四凶』たるを縛るのは、<禁忌の茨(グレイプニール)

 <第四真祖>の眷獣すらも封じ切った茨を扱えるのは、人工島北地区に眠る<監獄結界>の『鍵』のみ。

 だが、彼女はまだ出てこられないはず。

 

「『窮奇(これ)』の影響だ。絃神島の守護を反転させた『四凶』が空間制御を乱してくれた。おかげで、私の封印にも支障が出て、<監獄結界>が現出している」

 

 そういって、舌打ちする。優麻も同じく顔をしかめる。昨年の晩秋の夜に、自身の行いの結果で、姿を晒したものものしい監獄を思い出す。

 絃神島でも特に危険な犯罪者たちを収監するための監獄ごと、自ら創りだした異空間に閉じ込めることで、この『魔族特区』を守護し、またそれが彼女が支払う代償である。

 しかし、この絃神島の龍脈で維持されている異空間が、<タルタロスの黒薔薇>で龍脈を利用されて属性を反転させられた余波で、不安定となっているというのだ。

 

 ただでさえ人工島管理公社が混乱しているときに脱獄事件までも発生してしまったら……と表情を硬くする優麻に、小さく鼻を鳴らし、

 

「だが、さして問題はない。異空間に送っているのは龍脈の力を借りているが、監獄としての機能は看守である私の魔力で賄っているのだからな」

 

「なら、魔導犯罪者たちが外に出ることは……」

 

「ないな。異空間に封印し直すには、面倒な儀式が必要だがな。それには『四凶(これ)』がいては大規模な空間制御が使えん。だが、そう悪いことばかりではない。都合のいいことに、“私は夢から醒めてしまっている”」

 

 千賀毅人は、新しい依代に半日はかかると予想していた。

 だが、新しい依代がなくても、外に出られるのであれば話は変わってくる。

 ……ただしそれは、彼女が有する無敵性を失ってしまっていることになるが―――<空隙の魔女>の力は、健在だ。

 

 

「では、とっとと片付けるとしよう。私にはやるべきことが多い。実体化を維持する魔力もないケモノにそう時間をかけてはられんのでな。

 ―――だから、置いてかれたくなかったら早く来い、馬鹿犬」

 

 

キーストーンゲート 前

 

 

 たったひとりきりで、虚空に投げ出された気分だった。足元がふらついているのも、<白石猿>によって痛めつけられた肉体的、精神的ダメージばかりが原因ではない。

 時間切れ。そして、反動。

 『鼻』が効かないのだ。あらゆる対象に付随して、好むと好まざるとに関わらず、呼吸する度に吸い込んできたはずの様々な“匂い”が、今はまったく嗅げない。

 

 この場を埋め尽くしている<白石猿>がどこにいるかもわからないほどだ。いや、すぐ近くにいるのはわかっている。さっきまでは確かに嗅げていたからだ。だが、クロウが<白石猿>を―――そして、遠くから感じていたみんなの気配を、今や感知することができない、という事実にこそ彼は恐怖を覚えた。

 

 本当に“匂い”がしないだけなのか? あるいは……

 

 最悪の予感に震える思いがした。

 こんな無味無臭の世界は、テレビの向こう側にあるようで、なんて孤独な世界に生きているのだろうかとも思った。いったん視界から消えてしまえば、もうその存在を感じ取ることすらできないのだ。

 

(くすり、を……そうだ……これ全部、呑めば……また……)

 

 矢瀬先輩に扱いに気をつけろと厳重に注意された代物。その危険性も今重々承知している。でも、それよりも、この孤独が怖いのだ。

 暗夜で独りぼっちだった時よりも、きっと自分は強度が脆くなっている。

 だから、力を求める。

 もっともっともっと強くならないと、この手からはみんな零れ落ちてしまう―――!

 

 

 

 《馬鹿か、貴様は》

 

 

 

 そのとき。

 声が、聴こえた、気がした。

 

 《阿夜を勝手に監獄から出したことと言い、千賀に勝手な戯言をのたまってくれたことと言い、いったい私が目を離してる間にどれだけの馬鹿を積み重ねるつもりだ馬鹿犬》

 

 都合のいい幻聴なのかと思った。

 ああ、でも。

 暗夜の森で一人きりだった時も、空には月が見守ってくれていた。

 

『まったく、おちおちと眠ってもいられん。これ以上、くだらんことで私に説教させてくれるなよ。私の眷獣(サーヴァント)であるのならな』

 

 そうだ。

 オレは―――

 

 

 

 “指南”という言葉の由来。

 『教え導くこと、またその人物』を差す意味だが、その語源は、『指南車』からきているといわれている。

 『指南車』とは、歯車の仕掛けで車の上に備え付けられた人形の指が常に“南”を指し示すように造られた絡繰りで、それはかの『応龍』を使役せし皇帝が、大陸における『咎神』の異名とされる<蚩尤>との戦争でこの魔神の霧に幻惑されていたところを、正しい方向に導いたという。

 

 およそ一日半ぶりだったが、この主従のパスを強く感じる。

 この感覚を噛みしめたクロウは、手元にあった薬袋を、握り潰して、中身の錠剤を粉々としてしまう。

 

「せっかく用意してもらったのに、ごめん、オレ、もうこれいらないんだ、矢瀬先輩―――それから、守ってくれて、ありがとうな、フラミー」

「みー」

 

 鬼猴の80の矢から、身を盾として庇ってくれたのは、自身の<守護龍>たる獣竜。

 その肌に傷ひとつとしてない体をクロウは撫でて、フラミーも宿主の彼に頭を擦りつけてくる。

 もう、大丈夫。

 そう、囁いた。

 

 

「ほう、それが儂らが求めさせられてきた、『原罪』であるか。儂の肌とは合わんようだな」

 

 

 <白石猿>が己の攻撃を防いだその現象から推察して、その特性を悟る。

 ありとあらゆる武器の拒絶。文明を否定するその絶対性は、<白石猿>には天敵と呼べるものであった。

 

「して、薬が切れたんではないのか<黒死皇>よ。早う飲まんでいいのか?」

 

「いや、もう、底をついた」

 

 表情を険しくする鬼猴。

 

「何じゃ、もう闘争を終わりとするのか」

 

「ああ、もう終わりだ。オレは早く行かなくちゃいけない」

 

「ふざけるでないわっ! 儂はまだ満足し切っておらんぞ! <黒死皇>も壊れるまで儂と付き合えい!」

 

 鬼猴は『方天画戟』を構え直し、相性の悪い獣龍を避けるように回り込んで、一撃を見舞う。

 合わせて、人狼の爪拳が走った―――瞬間、<白石猿>は自らの本能に従い、得物を引いて退いた。

 

「……っ!?」

 

 衝突は、なかった。人狼と鬼猴の身体が刹那に交錯したが、すぐ何もせず離れたはずだった。

 なのに、寸瞬遅れて、『方天画戟』が断ち切れていた。

 

 

「オマエの、底はもうついた」

 

 

 もう一度、今度は足りなかった主語を入れて、クロウは宣告する。

 今のは、クロウの手刀が鋭すぎて切り別れるのが遅れたとか、そんなものではない。明らかに時間差で斧槍が切断された。そこだけ映像のフィルムがコマ落ちしたかのように、時間差を飛び越えて、その過去ごと切り落とされたのである。

 

 ……だが、そんな真似は彼奴にはできなかったはずだ。

 

「ヌシ……<黒死皇>よ、いったいいつそんなものができるようになった」

 

「最後に、あと一回だけ言ってやる」

 

 その前に突き出した左腕に、その輝かしい黄金の日々の煌きが形作るように籠手となり装着される。

 

 

「オレは、南宮クロウ。<空隙の魔女>南宮那月のサーヴァント、<黒妖犬>だ」

 

 

 雨降って地固まる。

 などという言葉があるが、『神縄湖』にて、一度切り離された『沼の龍母』と再び結びついたその繋がりはより強固なものとなった。

 あるいは、打倒したことで正しく認められたか。

 『器』は、その内なる声に耳を傾けられるようになった。

 

 

「オマエの大罪(ツミ)をここに裁定する(さばく)

 

 

 咎神が時代へと残した、『最大多数の最大幸福』のための最後の殺神兵器の力。

 神々が絶滅した神代が終わった現代に神殺しの力は、あまりに強大過ぎるもの。

 ひとつの時代を終わらせた<焔光の夜伯>が、その力を十二に別けて封印されたように。力を制限する八つの枷が課せられている。

 解放する術は、ふたつ。

 咎神の巫女が願ったそのときと神殺しの力を振るうべきと見定めたとき―――

 

『其れは、連鎖する生命の循環から外れているか』

 

 鬼火を宿す南瓜の三頭が『暴食』に是と答える。

 

『其れは、何もかもを己とひとつにしようとしているか』

 

 幻惑する雲霞の淫魔が『色欲』に否と答える。

 

『其れは、手の届かぬものまで得ようとしているか』

 

 鉱山の化身たる鉄鬼(ゴブリン)が『強欲』に否と答える。

 

『其れは、他者の感情を狂わす烈しい意思があるか』

 

 月に吠える角獣が『憤怒』に是と答える。

 

『其れは、意味を持たず思考を停止しているか』

 

 火球と群れる不死鳥(フェニックス)が『怠惰』に是と答える。

 

『其れは、真実を無視し理想のみを妄信しているか』

 

 空を切る大翼をもつ合成獣(グリフォン)が『傲慢』に是と答える。

 

『其れは、己を卑下しすべてを壊したいほど羨んでいるか』

 

 凍てついた妖魚が『嫉妬』に是と答える。

 

『其れは、神が禁忌と戒めた叡智を欲するものか』

 

 七つの大罪を兼ね備えた人間が『原罪』に否と答える。

 

 裡より聴こえる声が告げた判決は、すべてではないが、半数を超えた、5つ。

 完全解放した赤き龍と比肩する終末の獣となるには賛成票が足りずに許されぬが、白きままで『沼の龍母』は力の解放を許される。

 

 

 そして、<守護龍>は紐解け、『裘』となりて、主を包む。

 

 

 神代から現代までの中で、選ばれた咎神の殺神兵器の器は、完全なる神獣の潜在能力を人間のままに凝縮させた『魔人』の姿へと変貌する。その覇気は、鬼猴をして容易に間合いに入れぬものがあり、しかしそれよりも悪寒が走り抜ける。

 

「“最後”、じゃと……」

 

 歯軋りが鳴り、81の鬼猴は各々の武器兵器を捨てて、拳を構える。

 

「何を言うか! 儂は終わらんっ! 『不滅』の存在なり―――!」

 

 魔神を名乗る最古の獣王、武器兵器の通じぬ特性だろうと怪力乱神と神代から詰まれた武錬は神技に達している。群体でかかれば、『魔人』だろうと殴殺して余りある。

 

「―――『不滅』なんて、ない。オマエも自然の一部。ならば、終わりは当然だ」

 

 一斉にその身体より獣気へ融け込ませて放散される、芳香。

 化学物質を受け取る感覚器である嗅覚、それが拡張された超感性(バイオセンサー)より過剰に増幅された感応波が、鬼猴たちを呑み込み、『匂付け(マーキング)』した。

 

「グゥウウウウウウウウッ!? なぜ、思い通りに動けん! その自然干渉(ちから)、儂の身体にまで御すか……っ!!」

 

 群体の制圧が、止まった。

 身動きが不自由となり、あらゆる護りを捨て去られる。支配を破ろうと抵抗するが、それよりも早く完全に無防備な状態である<白石猿>の前に、死の宣告たる影は接敵する。

 

 ドグンッ!! と。

 心臓に杭でも撃ち込まれたかのような衝撃が、最古の獣王の心を貫いた。

 

 身体の自由を奪うほどの強制力。

 つまり、それは“己のすべてを”『匂付け』したというころで、それは逆に、『底をついた』という発言が虚勢でもなんでもなく真実で―――

 

 とんっ、と。

 

 それと一拍遅れて、小さな音が。もうほとんど無音と言ってもいい。だが、不思議と最古の獣王の耳に、いや胸の真ん中に、深く深く浸透する、まさしく晩鐘の如き異音であった。

 

 

「<(ゆらぎ)>―――」

 

 

 音源は、『黄金の籠手』を纏う左腕。

 鬼猴が目線を下すと、自身の胸板、その中央部分に、完全に『魔人』の拳がめり込んでいた。ほんの2.54cm(ワンインチ)、だが致命的な圧。鬼猴の見ている前ですすっと手首が滑らかに回り、そして溜め込んでいた力のすべてが解放されていく。

 両足で地を踏む震脚もなく、腰を捻転して勁を螺旋に練る動作もなく、そして、腕力だけで闇雲に振り回す力業でもない。そう、徒手空拳が密着したまま鍵を開けるように胸板で捻られた、小さな小さなその一打。

 だが、渾身の一打は、会心の爆発を生んだ。

 バグンッッッ!!!!!! と。心臓への圧が全身の血管に膨大な圧をもたらす。胸骨肋骨が抵抗の間もなく砕け、裏側の背骨までも太い音を立てて壊れる。その間の心臓に関しては語るまでもなく。鬼猴の肉体は裡から弾け飛んだ。

 

「おっ、ぷ……?」

 

 驚愕が呼吸する余裕すら奪ったせいでか、一面に吐血をぶちまけることはなかった。

 だが、終わり―――その宣告が最古の獣王の脳裏を強く印象を刻み付けて過った。

 

 そう。

 まだ。

 これから。

 加速度的に状況は進んでいる。

 

 ざざざざざざざざざざざざざざざ!! と五感がアンテナチャンネルの合わないテレビのような砂嵐で埋まる。頭痛や吐き気がすべてを塗り潰す。上下左右前後の概念も消失し、混乱を整理するしこうすら掻き乱される。

 この砂嵐の中で、コマ送りで飛び込んでくるのは、過去の映像。走馬灯だ。

 

 どんなものであろうとも、いつかに“生まれた”という過去を持っている。

 

 そのハジマリを知り、そこに手を伸ばせるのであれば、はたしてどうなるか。

 

 真祖の眷獣であろうと、その発生源(ハジマリ)は、血滴に過ぎない。

 先の合体宝貝の『方天画戟』さえも、材料元(ハジマリ)は獣毛だ。

 もしも過去に干渉できるのであれば、現在が最強であろうと毛を切る程度の力で、切り伏せられる。

 

 空間を支配する術を極めれば、記憶を辿ることで、現在と過去の時空を連結させてしまうことは可能であり、

 その極みに至った『芳香過適応』は、ハジマリの記憶を記した過去座標も嗅ぎ尽す。

 

 そして、最新の獣王の破壊衝撃が逆行する拳が穿ったのは、最古の獣王の肉体などではなく、『固有体積時間』の底の底の零地点(ハジマリ)

 

 何千という年月で伸長し、無数に枝分かれた大樹も、その最初の地盤を根元から引っこ抜いてしまえば命脈も絶たれると同じ。

 風穴を開けられた一体が崩壊するのと同時、“過去(ハジマリ)”を干渉(こわ)された群体全てへ平等に崩壊は波及する。藁人形に釘を打つように、その全員の胸板に全く同じ風穴が開いていた。

 肉体(ハードウェア)のダメージではなく、ノートパソコンを床に叩きつけて内部のデータを破損させるような、魂魄(ソフトウェア)的な破壊であった。その史上最悪の『必壊』のコンピューターウィルスに侵された破損データが逆流して<白石猿>というネットワーク全体へ雪崩れ込み、深刻なエラーを撒き散らしているのだ

 

「言い残すことはあるか?」

 

 大罪を、裁いた。すでにここにあるのは、魂を打ち砕かれた骸。

 これは、<書記の魔女>が<空隙の魔女>の十年分の『固有体積時間』を奪った現象と似ているが、クロウがしたのは奪うのではなく、壊す。不可逆であり、『不滅』であろうともう戻りはしない。

 

「………」

 

 クロウの辞世の問いかけに、ハヌマンは開いた口を閉ざす。

 しばらく、無言のままに、その身体が白い砂のようにさらさらと溶けていく。風に乗って消えていく。『不滅』の終幕。神代から続いてきた伝説がここに、解放される。死ぬべき刻を逃した老兵は長く生き過ぎたが、それもここで終わる。

 

「ヌシは、<黒死皇>ではないのだな」

 

「そうだ」

 

「そうか……『不滅』の幕を下ろせるのは、彼奴だけだと……思っていたが、それは儂の望みであったか」

 

 ならば、道連れとすることもない。

 最後の望みである己の破滅も叶ったのだ。もうこの世に執着する未練はなく、あの世で今度こそ<黒死皇>に会おう。

 そうして、骸は目を閉ざし、今生に満足したと判断したクロウは死出の準備を整えさせる束の間の死霊術を解いた。

 

 

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

 眩い陽光が降り注ぐ。

 

 絃神島の上空に渦巻いていた魔法陣が、完全に消滅した。

 鳴動も止まり、澱んでいた大気も爽やかな海風で一掃される。日差しもまたもとの吸血鬼が苦手とする容赦なさを取り戻している。

 

「先輩!」

 

 常夏の暑さによろめいた古城に、雪菜が駆け寄ってきて脇を支える。不安げな顔の彼女に心配ない、と気怠くも笑ってみせる。

 最後の『四凶』との激突。

 魔法陣からの魔力供給が途絶え、その前に紗矢華たちとの協力で多大なダメージを与えていた『渾沌』と『檮コツ(トウコツ)』は、消滅間際まで暴れ狂っていたが、<第四真祖>の眷獣が最後の一片も残さず焼き払った。

 そして、『十番目(ディセンバー)』の『魅了』にも古城は抗い、雪菜が切り開いてくれた。

 決着はすぐについた。

 だがその一瞬にすべてを注ぎ込んだ古城は、疲労困憊の身体を重そうに起こして、進む。

 向かう先は、すでに半身を金色の霧となった少女。

 近づく勝者を見上げて、ディセンバーは儚げに微笑んだ。

 

「きみの勝ちだね……古城……」

 

「ディセンバー……」

 

「最後に、お願いがあるんだ」

 

 ラーンたち――ここにはいないカーリやロギのことを古城に頼むディセンバー。彼らは『魔族特区』を破滅させるために活動していたけど、『魔族特区』でなければ生きられないのだ。魔族としての特性を十全に発揮できないカーリは『夜の帝国』では除け者とされるであろうし、脳を改造された動死体(フランケンシュタイン)のラーンに超能力を植え付けられた人工生命体のロギは、メンテナンス調整を受けなければ長くは生きられない。そのためには『魔族特区』の設備の整った、ちゃんとした研究機関に身柄を預けるのが好ましいのだ。

 

「……わかった。約束する」

 

 改めて言われるまでもないと古城はディセンバーの目を見て、力強くなずいた。

 ディセンバーが消えてしまえば後を追いそうであるが、彼らをこのまま死なせるわけにはいかない。彼らはあまりにも多くの罪を犯した。その罪を償わせなければならない。

 そして、贖罪のあとにもう一度、魔族として虐げられてきた彼らに、幸せに生きる機会を与えるのだ。

 絃神島でなら、できるはずだ。この島は『魔族特区』で―――古城の後輩が生きられる場所なのだから。

 

「じゃあ、こっちの約束も果たさなきゃね、暁古城。きみに『十番目』の眷獣の力を与えてあげる」

 

「待ってくれ……ディセンバー……俺は、そんなもの……」

 

 もうほとんど薄れている少女の小さな体を古城は抱き上げる。

 古城が戦ったのは、この絃神島を護るため。

 ディセンバーの力を奪う為でも、彼女の消滅を望んだわけでもないのだ。

 けれど、古城の嘆願にも、ディセンバーの決意は変わることはなくて、最後まで笑って……

 

「そんな哀しそうな顔をしなくても、大丈夫。あたしは、ずっときみの傍にいるから……だから、あたしの意識が消える前に、きみの中に―――」

 

「ディセンバー……!」

 

 完全に金色の霧と変わったディセンバーが、古城の腕の中から姿を消えていった。

 

『『十二番目』の……アヴローラを護って、暁古城、あの子がきみの希望……だから……』

 

 唇を嚙む古城に、『十番目』の<焔光の夜伯>――ディセンバーの最後の言葉が耳に残響する。

 こうして、この場所で、同じ顔をした少女を見送ったのは、二度目。

 雪菜たちは天を仰いでその過去と現在を噛みしめている背中に言葉をかけることなく見つめていた。

 

 

キーストーンゲート

 

 

 『四凶』は退治され、<タルタロスの黒薔薇>の魔法陣も完全に消滅した。

 事態の復旧に<戦車乗り>リディアーヌ=ディディエは駆り出されており、負傷した<蒼の魔女>仙都木優麻と<薔薇の指先>アスタルテは病院へと搬送された。

 人員の過半数が退場となったことで、チームは自然解散と相成った。

 

「急げ、馬鹿犬! ブウウウウーン、ドドドド! キュイーン!」

 

「ご主人、オレは乗り物じゃないし、本気で走ったら振り落とされるのだ」

 

 寝間着姿の南宮那月が乗馬の鞭代わりに妖精獣(モーグリ)のぬいぐるみで叩いてくるのを、クロウはむぅむぅと唸りながらも要望に応えて速度を上げる。

 『特区警備隊』もようやく混乱に立ち直っていく最中、一日半ぶりに主従で行動するふたりは、<タルタロス・ラプス>最後のひとり、千賀毅人を追いかけていた。

 しかし、彼が侵入したキーストーンゲートの完全禁層区域は、空間転移が通じない。つまりは、<空隙の魔女>の行動力は大幅に制限がかかっており、そして、見た目通りの子供に戻ってる那月を置いて先走るのは、『眷獣にあるまじき行為だ』と叱られたため、クロウは那月をおんぶして急行しているわけである。

 

「で、馬鹿犬。お前には言いたいことが山ほどある」

 

 説教を受けながら。

 ぬいぐるみをクロウの頭の上に置いて、顎を乗せる枕とした那月が、すっと耳の穴に指を入れながら、嗜虐的に莞爾と頬を緩ませる。

 

「ご、ご主人!? 耳は敏感だからやめてくれ!?」

 

「断る。意外に感触と反応が面白いんでな。犬は耳に触られるのは嫌がるそうだが、どれ試してみよう」

 

「ゾゾッてきた!? ご主人、鼓膜に爪立ててるぞ!?」

 

「そうか。で、説教を始めよう。まずは阿夜を<監獄結界>から出したことだ。幻像とはいえ、あれが一度脱獄したことを忘れたとは言わせん」

 

「む、むぅ……でも、あいつに色々と話したいことがあったし―――あひゃあ!?」

 

「口答えはするな。私はそのためにお前に『鍵』を預けたわけではないぞ」

 

「それを言うなら、ひとりで勝手にどっかいってやられちまったご主人も悪くないか? いくら元カレに呼ばれたからって―――ぬおおおっ!? 鼓膜!? 今、鼓膜がガリッといったぞ!?」

 

「ふざけたことを抜かすからだ馬鹿犬。いったいどこでそんな単語を聴いてきた」

 

「うぅ、でも、一昨日のドラマでそれっぽいのがあったし」

 

「ませてきたかと思えば、テレビに影響されただけか……お前は文明の利器をてんで扱えんくせに、おつむまで弱いとは……まだ先が思いやられる」

 

「何だご主人、頭が痛いのか?」

 

「ああ、残念なことにサーヴァントが頭痛の種でな」

 

「そういえば、仙都木阿夜から『賭けは、これでチャラだー』ってご主人に伝えておけって言われたのだ」

 

「おい、馬鹿犬、お前、いったい阿夜にどのような交渉(はなし)を持ちかけた」

 

「んー、ご主人は寝坊助だーとか。だから、とっとと起こして来いって言われたな」

 

「主人が捕まっている間に随分と余裕な世間話をしてくれたみたいではないか」

 

「あとは、『太陽』がご主人ほしいんだってな。う、そうか。千賀は元カレじゃなくて、太陽だったの―――ぎゃーーっ!?!? ブチって!? 鼓膜、ブチって破れたぞ!?!?」

 

「阿夜のふざけた戯言に耳を貸すからだ馬鹿犬。千賀は、先生に過ぎん。それ以上でもそれ以下でもない。ふん、今はだいぶ落ちぶれていたみたいだったがな」

 

「じゃあ、『太陽』って何なのだ?」

 

「―――」

 

「? ご主人、何言ったかよく聞こえないぞ」

 

「それは、卒業したら教えてやろう」

 

「ぬー……鼓膜(みみ)の次は眼球()に手をやるのはやめてほしい。目潰しは本当にシャレにならないし、前が見えないと走りづらいのだ」

 

「私が注意するから問題ない。で、それより次だ。馬鹿犬、私の許可なく能力増強剤なんぞに頼ったそうだな」

 

「ぐぬぅ、それは反省だぞ。矢瀬先輩の言ったことも危うく無視するとことだったのだ」

 

「気をつけろ。薬に頼るのは悪いとは言わんが、馬鹿犬は自制が利かん。お前の『鼻』は、矢瀬基樹の『耳』とは性能が違う。倍率を高めればより刺激が強いのは自明の理だ」

 

「そうなのかー。んー、まだ『鼻』がムズムズと変な感じがする。調子もなんか悪いぞ」

 

「わかった。あとで診てやろう」

 

「お医者さんに行かなくてもいいのか?」

 

「古来、純血の魔女は、現代ではほとんど麻薬と呼ばれているものに近い植物や、動物から取り出した毒素などを儀式に利用していた。だからこそ、安全に行えるための手法も考えられている。体の中に溜まった毒素を抜き取って治療する解毒法(デトックス)もその一例だ」

 

「すごいな、ご主人。でも、鼓膜も診てもらいたいから、病院に行った方がよくないか」

 

「そんなもの唾でもつけとけば治るだろ。それとも、私の看病では不服か? あの人を胸で判断する変態医師(あかつきみもり)の実験動物となりたいのか? ん? なら、実験材料にお前の目玉も抉り抜いてやろう」

 

「わかったわかったのだ!? だから、ご主人、瞼の上からぎゅーっと押すのやめてくれ!?」

 

「ふん。まったく世話の焼ける」

 

「……なあ、今のご主人は、本物なんだよな」

 

「おちおちと眠ってもいられんのでな。なにせ、サーヴァントがこれだ」

 

「じゃあ、なんで―――っ!?」

 

 と。

 背負った主人と会話をしながら奥へ進んでいたクロウは、すん、と鼻を鳴らすと、ギアを一段階あげて、一気に―――その血臭を出す人物の下へ駆けつける。

 

「<黒妖犬>……それに、那月か……ああ、依代なしで来ることもできたか……それは、誤算だったな」

 

 血塗れで倒れた千賀毅人が、苦し気な呼吸を続けながら、こちらを見る。

 クロウの背から降りた那月は表情を変えず、努めて冷静に彼の負傷を確認した。全身に無数の裂傷と殺傷。その多くは内臓にまで達しており、出血量も危険域をとっくに超えている。まだ意識があるのが不思議なくらいの、確実な致命傷だ。

 

「誰にやられた?」

 

 千賀の目的はもう予想がついている。この最下層にある絃神島の『要石』の破壊だ。だが、それが倒され、阻止された。一体その相手は―――

 だが、千賀は愉快そうに、この様を自嘲するかのように言う。

 

「それを聞いて、今のお前に何ができる」

 

 それは、暗に、この先にいる――千賀を傷つけたのは、那月が手出しできない存在。名を伏せなければマズい。すぐここから引き返すべきだと判断を下すほどの、上位者だ。

 

「待っていろ、すぐに病院に運んでやる」

 

「構うな。もう必要ない。それよりも……」

 

 『魔族特区』の医療技術をもってしても、彼の命はもはや助からない。そのことは千賀自身が誰よりもわかっている。黙って見つめるクロウも、ここに漂っているのは紛れもなく死臭であることを理解している。

 那月の申し出を拒絶した千賀は、ひとつの頼みごとをする。

 

「<タルタロス・ラプス>の子供たちを、頼む。わかっているだろうが、あいつらは俺に道具として利用されていただけだ。彼ら自身に罪はない」

 

「貴様の証言として、伝えておこう」

 

 事務的な口調で応じる那月に、それでいい、と千賀は安堵した。

 この先、<タルタロス・ラプス>の裁判において、今の千賀の証言は、生き残った彼の仲間たちに有利に働くだろう。仲間たちに対する千賀の思いが、真実であるかどうかは別として。

 そして、

 

「約束だ。どうやら、俺たちは負けたみたいだからな」

 

 咳き込む彼の口元から、血の塊がこぼれる。それでも千賀は言葉を続ける。

 

「15年前―――お前が、たった一人で復讐を終わらせて、俺たちの前から消えたときには、失望したよ。だが、今にして思えば、正しかったのはお前の方だったな。

 俺はがきどもに人殺しの技術を教えることで、あいつらに依存していたんだ。共依存というやつか。お前はそれに気づいていたんだな、那月」

 

 一言一言告げるたびに、千賀の身体から力が抜けていく。

 

「お前の子供たちは、お前がいなくても、自らの意志で『魔族特区』を護ることを選んだ……いい、生徒に恵まれたな。俺には眩し過ぎるくらいだ」

 

 那月は千賀の語りを止めず、無表情に眺めている。

 

「負けたはずなのに、悪くない気分だ……俺を止めたのは、おまえたちで……よかった」

 

 笑みがこぼれた。

 吐息に誘われたのか、ずぶずぶに引き裂かれた肺から逆流する形で一気に口から鮮血が爆発する。それでも千賀毅人は笑うことをやめられない。いいや、目じりには歓喜の涙すら浮かんでいた。

 

「ああ」

 

 全身を切り刻まれ、とめどなく血の塊を吐きながら、一層強く喉に力を入れ。

 そのまま目を瞑って、断ち切るようにつぶやいた。

 

「那月、お前は俺から卒業できた、たったひとりの教え子だ」

 

 

 

 と。

 

「まだ、いる―――!」

 

 千賀に手を下した下手人。主人の先生を手にかけた相手。

 クロウはその“匂い”がまだこの奥にいることを覚ると、先生を看取る主人を置いて、その感情のままに突っ走っていった。

 

 

 

「ひとりで、行かせるな、那月」

 

 判断の遅れた那月は、千賀の後押しを受ける。

 ジャケットの襟の裏から取り出したチップ――データ保存用のマイクロメモリを血塗れの震える指先で那月に渡し、

 

「私は、後悔したぞ。お前を引き止めなかったことを」

 

 だから、この反面教師の二の舞はするな―――

 そう、先生からの最後の言葉を受けて、那月は立つ。

 

「さようなら、先生」

 

 そして、卒業した教え子は再び千賀の下を離れた。

 今度こそ後腐れなく。

 

 

キーストーンゲート 最下層

 

 

「おっと、今度は<黒妖犬>がおいでなすったか。完全禁層区域に千客万来だな」

 

 クロウがたどり着いたそこにいたのは、錆びついた、と形容してもいい、五体のすべてがくすんでいる白衣姿の男。整えることを忘れて久しい長髪はまばらに色の抜けた灰色に濁り、髪全体も艶を失って大きく広がっている。無精ひげにまみれた顔や痩せ細った肉体は明らかにがたつきがきており、退廃的な雰囲気が漂っている。

 そして、その目はドロドロに煮詰まっているように濁っていた。

 

「なんで……オマエが牢から出てるのだ……?」

 

 思わず口から出た風にクロウは驚きを呟いた。

 そう、この男は、かつてクロウたちが捕縛した、『人形師』ザカリー=多島=アンドレイド。何体もの機械人形に人工生命体を違法に改造してきた、クロウの後輩アスタルテに人工眷獣を寄生させた相手でもある魔導犯罪者が、どうして管理公社の完全禁層区域にいる?

 

「晴れてテロリストの魔の手から絃神島は救われた。それを祝して、特別に俺は恩赦で牢から出ることを許された。ってストーリーでどうだ?」

 

「知らん。よくわからん。またとっ捕まえた後で話を聞くことにする」

 

 ふざけた調子で、ふざけたことを語るザカリーに、クロウは眼光を強める。

 その期待外れな反応に大袈裟に肩を落として、嘆息してみせる。

 

「お気に召さなかったか。まあいい。俺は魔族殲滅の計画に賛同した。この世に人工生命体(ホムンクルス)は一体たりとも存在することは許しちゃならない。じゃないと、俺に安寧には来ないんだ」

 

「ふざけるなっ!」

 

 怒気と獣気を発するクロウ。

 <タルタロス・ラプス>との戦闘直後で疲労しているとはいえ、その威圧は、余裕ぶっていた『人形師』に息を呑ませ、たじろかせるほど。

 だが、その一歩を制止する低い声が、このキーストーンゲート最下層に響いた。

 

「ここで暴れるな、<黒妖犬>」

 

 ザカリーの背後、完全禁層区域の奥から現れたのは、眼光鋭い和服姿の男だった。

 50代半ばの年齢で、体躯も大柄ではない。だが、中世の剣豪を思わせる空気を纏う威容は、けして人に侮ることを許さない。

 

「オマエ、矢瀬先輩の、父親……なんで生きてるのだ!?」

 

 そこにいたのは、千賀顕重。移動中、自動車爆弾によって、死んだはずの人工島管理公社名誉理事だった。

 

「いいやぁ、一週間前から表立って行動し、昨日死んだのは、俺が造った記憶の一部だけを情報入力(インプット)した人工生命体(ホムンクルス)だ。同じDNAから造ったそっくりさんだったから、<黒妖犬>も誤魔化せたみたいだな」

 

 『人形師』の至高の技巧で用意された『影武者(クローン)

 それを一週間前から表舞台に立たせていた。だが、なぜわざわざ犯罪者の手を借りてまでそんな真似をする? <タルタロス・ラプス>が襲撃するなんてわかったのは、一昨日、ご主人が初めてのはずで……

 

「反対勢力の粛清だけは自ら手を汚さねばならなかったが、絃神島の封鎖、人工島管理公社の混乱と最低限の仕事はしてくれたみたいだ。おかげで、こちらも動きやすかった」

 

「な、に……?」

 

 矢瀬顕重は厳かな声で、<タルタロス・ラプス>の働きを評価した。それは彼が、テロリストたちの存在を知っていた。どころか、まるで利用した風にクロウには聞こえる。

 

 

「すべてのお膳立ては整った―――<黒妖犬>、貴様も“真の主”に仕える時がきたのだ」

 

 

 『神縄湖』で遭遇した『聖殲派』などというお粗末なテロリストとはなにもかも格が違う、何十年もの歳月をかけて準備を整えてきた、本物の魔導の探究者にして、咎神の末裔を名乗るもの。その矢瀬顕重が、この現代の殺神兵器に向けて見せるように、『瓶詰の心臓(グラスハート)』を掲げた。

 

「これは、貴様の心臓だ」

 

 “オレの”心臓……???

 クロウは首を傾げかけ―――瓶詰で密閉されてもその漂う、クロウにしか嗅げぬ“匂い”に、そして、先ほど覚えた、“密着していたのに鼓動がなかった”違和感が推測を加速させ―――至った答えにクロウは大きく瞠目した。

 

 つい先ほど、先生を看取った主人の光景が、最悪の予想と重なる。

 

「そうだ。<黒妖犬>、貴様は<空隙の魔女>南宮那月に心臓を奪われた、心ない怪物兵器(ハートレス)だ」

 

 宣告と同時。

 虚空より神々が打ち鍛えた銀鎖が、『瓶詰の心臓』を持った矢瀬顕重へ放たれた。

 だが<戒めの鎖(レーシング)>は、相手の体に触れる前に火花を散らして弾かれる。

 まるで目に見えない透明な刃に、悉く撃ち落とされたように―――

 

 <過適応能力者(ハイパーアダプター)

 今起きたこの不可解な現象はクロウがよく知る、そして、自身のものとは別系統の力。魔術や授受に頼らない先天的な超能力だ。呪文の詠唱を必要としないその力には、当然、発動までのタイムラグもない。

 顕重の周囲で、大気がゆらりと揺れる。矢瀬一族は、代々続く<過適応能力者>の筧田。一族の当主である以上、当然その能力を有している。消耗していたとはいえ千賀毅人を一方的に切り刻んだ、けして侮れない相手。

 

「呆けるな、馬鹿犬!」

 

 主人から叱責がクロウの背中を打った。

 置いてきてしまった那月が、その子供の足でここに息を切らして走ってくる。

 だが、相手は攻魔局の国家攻魔官など及びもつかない権力を持った、『魔族特区』の為政者側の人間だ。

 それに……

 

「真っ先に<黒妖犬>の心臓を取り返そうとするとは、今更惜しくなったか<空隙の魔女>」

 

 奇襲を防ぎ切った矢瀬顕重は顔色を一切変えることなく、嘲るようにニヤリと口元だけで笑みを作る。

 それに対して、この名誉理事との掛け合いに応じることなく、那月はクロウへ発破をかけた。

 

「最初に交わした契約(もの)を思い出せ」

 

 クロウは、見た。

 主人を、那月を、睨むように、乞うように、ふるふると頭を振りながら、途切れ途切れに言葉を吐く。

 

「こんな、聞いてないっ。契約(ヤクソク)だなんて、知らない、のだ。……そんなの、忘れた。う、全然、覚えてないぞ! そうだ、時効だっ! だから……」

 

 その下手な誤魔化しを鋭い目線で切り伏せるように一蹴して、那月は再度声を荒げた。

 

「いいから命令に従え! ここで矢瀬顕重を捕まえなければ、お前は―――!」

 

「攻魔官風情が、私に逆らうか。だが、飼い犬が手を噛むようならば、即刻、心臓を刎ねるぞ」

 

 矢瀬顕重と南宮那月は、クロウを支点にして睨み合っている。

 如何に強力な<過適応能力者>であろうと、純粋な戦闘力で<黒妖犬>には及ばない。『人形師』もいるが、<空隙の魔女>と組んだ主従は最強であり、ここで捕らえる自信が那月にはあった。

 

 だが、その分水嶺に立たされた己の眷獣(サーヴァント)は、体の向きを変えた。

 

「わか、った……」

 

 嫌な予感が思考を塞ぐ。

 捕まえるべき顕重に背を向け、那月と対峙するその態度。

 そして、その訴える目。

 どうしてこんな真似をしたのかと非難する眼差しに、知らずに那月の唇が震えた。

 

「―――やめろ」

 

 それは、やめろ。

 状況が悪くなるからじゃない。

 <空隙の魔女>の眷獣(サーヴァント)だ。

 だから、やめろ。

 ここで、勝手に『首輪』を外すのに―――どんな言葉を言えばいいのか、わから、ない。

 

「その命令は、従えない……だから、オレ……サーヴァント、……やめる」

 

 主従を結んだ『首輪』は、落ちた。

 

「く―――――はは、あはは、あははははははは! そりゃそうだ! 心臓を掴まれてるんじゃ、こっちに着くのが正しい。自業自得だ<空隙の魔女>!」

 

 裏切られたことに心底おかしそうに笑う『人形師』と、巌のように佇む矢瀬顕重。

 そして、童顔の魔女は。

 そのときだけ、見た目相応の精神年齢に戻った顔で、見つめていた。

 事実から、目を逸らすことなく。

 このまま震える足が崩れてしまいそうなのに、精一杯の強がりのまま、歯を食い縛って受け入れていた。

 

「さて、<空隙の魔女>。先ほどの無礼は許そう。お前は有能だ。殺すには惜しい人材だからな、一度だけチャンスをやろう」

 

 ……そこで、思考が冷えた。

 最悪な状況だろいうのはわかっている。1:3。そして、空間転移の禁じられた死地。

 だが、ここで首を縦に振ることはしない。

 

「使えない駒であれば、処分することになるが」

 

 強情な態度の<空隙の魔女>に、見限った顕重は、無表情で殺気を滾らせた不可視の刃をその首へ向け、

 

「―――いいや、待ってくれ」

 

 感情のない声で、魔女と相対する<黒妖犬>が場を制した。

 

「……道具に、発言権がないことぐらい躾けられてると思っていたのだが」

 

「道具でも危険なら警報くらい鳴らす」

 

「……危険、だと」

 

「そうだ。<監獄結界>はどうするのだ。今、あそこは外に出てる。オレは代行として監獄としての機能を維持できるけど、異空間に送り返すことはできない。このまま放置してると面倒なことにならないか」

 

 他人事のように言う怪物兵器。

 それを、童顔の魔女はまっすぐに見つめていた。

 

「だから、見逃せ、か。ふん、甘いな。有能であるのはいいが、反乱するのであれば害悪だ。邪魔は摘めるときに詰んだ方が良い」

 

「それで、<書記の魔女>が出てきたら相当面倒なことになるぞ。『波隴院フェスタ』のことを忘れたわけじゃないな。<タルタロス・ラプス>での混乱だってまだ落ち着いてないのに、これじゃあ今度こそ絃神島はおしまいだ」

 

 ちっ、と顕重は舌打ちする。

 指摘された通り、計画への影響を考慮すると、それはあまりうまい手ではない。

 

「<闇誓書>、か……島の住人は、所詮『聖殲』の威力を世に知らしめるために集められた人柱に過ぎぬ。何人死のうが些末なことだ。だが、祭壇たる人工島に影響が出るのは問題があるな。

 ―――しかし、<監獄結界>の『鍵』は、代えの利かない部品というわけではあるまい。新たな候補者が見つければ済むだけの話だ」

 

 海千山千の世界で生き抜いてきた矢瀬顕重は、獅子身中の虫の存在を、けして許さない。

 警告を聞いたが、結局は、<空隙の魔女>を処分する決定を取り下げはしなかった。

 

「……わかった。じゃあ、オレがやる」

 

 その発言に、少し驚いたように、ピクリと顕重は反応する。

 そして、顕重は試すように、たった今配下に降った怪物兵器へ命じた。

 

「では、やってみろ、<黒妖犬>」

 

「わかった」

 

 姿が消えた―――そう錯覚するほどの高速移動で、那月に迫ったクロウがその首に手を伸ばす。

 

「っ―――!」

 

 那月の顔が歪む。

 目の前で鞍替えされて反旗を翻された、その見通しの甘さを悔やんでいるのだろう。だが、そんなことに躊躇している性格ではなく。

 即、鎖を虚空から撃ち出すが、その思考を嗅ぎ取られて躱される。

 この最下層は、空間制御魔術に制限がかけられている、彼女にしてみれば死地だ。そして、幻像ではない<空隙の魔女>は容易に掴めることができた。

 呆気なく。

 あまりにも呆気なく、かつて殺されかけた『魔族殺し』を、クロウは押さえつけた。

 

「前に、出ていくときは好きにしろと言っていた」

 

「そうだな。私は止めはしない。それがお前の選択なら、な」

 

「だから……“卒業”、だ……、……ご主人様っ!」

 

 那月の首を左手で捉え、壁に押さえつけたクロウ。

 そのまま右手の人差し指と中指だけを伸ばした指突で、童顔の魔女の左胸を突き刺した。

 ずちゅり、と。

 指がすべて体内に入るほど深く、華奢な体を指突が貫く。明らかにそれは心臓を刺していただろう。

 

「―――」

 

 目の光が消えて、呼吸の音も聴こえなくなる。

 花を摘むように、命を摘み取った。

 それを看取って、左胸に突き入れた指先を引き抜く。

 あまり身体を壊すことなく、最低限の処置だけで綺麗なままに葬るのが、せめてもの手向けであるように。

 息の根を止めた<空隙の魔女>の身柄を、そっと抱きかかえる<黒妖犬>。

 この結果、命じた任務を忠実に実行したことに、顕重は硬い表情を緩めた。必要が亡くなった以上、最下層に満ちていた圧迫感のある殺気は薄れて消える。

 

「無様な最期だな、南宮那月。かつての飼い犬の手にかかって死ぬとは」

 

「……ここにある死体、片づけてきていいか」

 

 ぽつりと、首なし死体が散乱するこの最下層の惨状を見回して、少年は言う。

 反対勢力の上級理事。とりあえず、首を刎ねたのはいいが、彼らはここに避難していることとなっている。それも中には『特区警備隊』を監督する上級理事も含まれている。このまま行方不明となってしまうのは、面倒だ。顕重の私兵である<魔導打撃群>を除く警備隊連中の捜査の手が完全禁層区域に及ぶ口実となりかねない。

 これからやるべきことが山ほどある身として、余計な瑣事に、行動を制限されたくはないのだ。

 一先ず、<黒妖犬>の忠誠を確認できた顕重は、少し考えた上で、許可する。

 

 

「いいだろう。“貴様が”、『特区警備隊』に送り届けてやれ」

 

 

人工島旧南東地区 海上

 

 

 『廃棄区画』にいる古城たちの回収に来たのは、『特区警備隊』の警備艇だった。紗矢華たちが獅子王機関経由で手を回してくれたのだ。

 そのみんなで船旅にグレンダも最初ははしゃいでいたが、絃神島まで文字通り飛んできたのだから疲れており、途中、体力切れして今は唯里の膝枕で眠っている。

 『四凶』が消滅して、まだ三時間ほどだが、街は落ち着きを取り戻しているように思える。

 建物の被害は甚大だが、意外なほどに負傷者は少ない。都市の安全性が優れていたというよりも、市民の避難対応が異様なほどに素早く正確だったおかげである。

 凶悪な魔導犯罪者が脱獄したり、邪神が復活しかけたりと鍛えられており、この程度の非常事態に『魔族特区』の住民たちはもう慣れっこなのだ。

 

「やれやれ……ようやく戻ってこられたか……」

 

 ちょっとやそっとの魔導災害では動じない、このタフな絃神島の景色を海上から見上げて、古城は気怠く呟いた。

 警備艇が港に到着したのだ。

 拘束具付きの担架に乗せられ、最初に運び出されたのはラーンだ。

 彼女は意識不明のまま今も眠り続けている。肉体そのものに異常はなく、夢を見続けているような状態らしい。ネットワーク越しに感染した魔力の催淫が原因でしょう、というのが容体を霊視した雪菜たちの見立てである。

 

「あいつら、これからどうなるんだろうな」

 

 目を閉じたままのラーンを見送って、古城は長い溜息を洩らす。

 逆らえない相手に利用されていただけのアスタルテや優麻とは違い、彼女たち<タルタロス・ラプス>のメンバーは、自らの意志で絃神島を破壊しようとしていた。

 ましてや、<タルタロス・ラプス>は国家指名手配の重罪人。そして未登録魔族でもある。最悪、異界に存在する永遠の牢獄――<監獄結界>に永久隔離される可能性すらあり得た。

 そんな不安げな古城の呟きを拾ってか、雪菜がいつもの生真面目な口調で答えてくれた。

 

「もちろん彼女たちの罪が消えるわけじゃありませんけど、彼女たちの置かれていた環境には情状酌量の余地があります。

 それに、絃神島の全住人が証人です。『イロワーズ魔族特区』の時とは違いますから―――」

 

「事件をもみ消したり、一方的な処分はできない、ってことか」

 

「はい」

 

 それに獅子王機関経由で減刑を依頼する。表向きは獅子王機関と大史局の人間で『四凶』の半分を制圧されたこととなっているため、発言力はあるだろう。

 人工島管理公社と言えども、ラーンたちを勝手に裁くことはできない。ましてや彼女たちが獄中で暗殺されるようなこともない。

 ディセンバーとの約束は、とりあえず守ることができそうだ。

 そう雪菜に保証されて、古城はひとまず胸を落ち着けさせることができた。

 

「それで、先輩。他の人よりも、先輩がまた『食糧備蓄倉庫』を壊滅させたことの心配をした方がいいんじゃないんですか?」

 

「はぁ!?」

 

 が、その発言で急降下した。

 

「ちょっと待て、あれはたしかに<第四真祖>の力だったけど、操られてたわけだし!?」

 

「先輩には、倉庫街で力を暴走させた前科がありますので……その、操られてたにしても……完全にないことにはできそうにないです。無害ではないと証明されてしまったわけですし」

 

 あそこの被害総額は百億単位とシャレにならない。いくら不老不死の吸血鬼でもどれだけ長い間借金生活を送る羽目になるか考えたくない。

 真っ青になる古城はそんな未来予想図に、ふらり、と貧血気味に倒れそうになる。それを慌てて雪菜が支えて、

 

「私は現場にいませんでしたから、弁護できませんが、そこはきっとクロウ君が証言してくれれば……いくらかは罪が軽くなると思います」

 

「そうか……頼みの綱は、クロウにかかっているってことだな」

 

 元々、今回も色々と助けられたわけだし、何かお礼をしてやるつもりだったが、これは相当な貸しとなりそうだ。だんだんと後輩に頭が上がらなくなってくる先輩古城は、深く溜息をついて、そこでラーンの護送移し替えを済ませた警備隊の連中に呼び止められた。

 

「失礼ですが、少しお時間をよろしいでしょうか」

 

「えっ」

 

 すわ『食糧備蓄倉庫』での一件で追及されるのかと身構えた古城たちは、特区警備隊の職員から一つの聞き取り調査を受けさせられて、驚愕の報を知ることとなった。

 

 小一時間前、証拠物件として押さえていたはずの<六魂幡(よこくじょう)>を添えて、首なしの死体を五体、『特区警備隊』の署前に遺棄された。

 複数の首なし死体らは、なんと避難していたはずの上級理事であり、遺棄現場に目撃されたのは暁古城の後輩(ちじん)だという。

 

 そして、この事情聴取を受けたその日の夜。

 雪菜から古城へ獅子王機関で確認を取ったその情報が伝えられる。

 

 

 

 南宮九郎義経が、『魔族特区』の上級理事らの殺害容疑で国家指名手配されることとなったという最悪の一報を。

 

 

 

つづく

 

 

 

彩海学園

 

 

「必殺技のポーズ……?」

 

 それは、検査を受けに来た病院の帰り道。

 暁凪沙は、帰りに付き添ってくれる少年からひとつの相談を受けた。

 

「ん。そうだ。巷の話題で、こう、ダダダーッて、パンチキックしてポーズを決めるとすごい技が出せると耳にしたのだ」

 

「へぇ、そうなんだ。でも、あたしその話全然知らないんだけど。どこ情報なのそれ?」

 

「う、なんか、『ポケットサーヴァント』でやってるみたいだぞ」

 

「あ、それ、知ってる。ゲームでしょ。持っていないけど本土で流行してて、この絃神島でも流行ってる」

 

「ん、オレは携帯ゲームできないけど、高清水君に見せてもらってなー。で、オレもサーヴァントであるから、ご主人とひとつ『全力(Z)技』の『全力無双激烈拳』というのをやってみようとしたんだけどな」

 

「え……」

 

「『そんな恥ずかしい真似が戦闘中にできるか馬鹿犬!』って怒られたのだ」

 

「あー。うん。そうだね。残念だったね……流石にちょっと無理があったかな」

 

「そこで、オレはご主人にもできるオリジナルの『全力(Z)技』を考えたのだ」

 

「あ、考えちゃったんだ」

 

「うん、ご主人のサポートで行う『夢想阿修羅拳』ってヤツなんだ」

 

「……うん、クロウ君も男の子だもんね。そういう必殺技とか考えたくなるお年頃だよ。古城君も昔、バスケで必殺ドリブルとか叫んでたし」

 

「それで、オレの型が決まったんだけど、ご主人のやる全力ポーズがびしっとしたのが思いつかないのだ。

 ―――だから、チア部の凪沙ちゃんに考えてもらおうと思って相談を持ち掛けたのだ」

 

「そうかー……そういうことかー……うん、クロウ君が相談してくれたことはうれしいんだけど、それは必要なことなの?」

 

「全身! 全力! 全霊! マスターの思いをサーヴァントに重ねて互いの全力を解き放つことで炸裂する『全力技』―――きっとそれはすごいものになると思うのだ」

 

「うん、クロウ君はそんなことしなくても十分すごいと思うけどなー」

 

「むぅ、凪沙ちゃんもダメか……? やってくれないのか?」

 

「あ、ううん! 大丈夫だよ! せっかくだし、考えてみるね」

 

「そうか! よし! じゃあ、いっちょやってみるのだ凪沙ちゃん!」

 

「え、ここで!? 今やるのクロウ君!? すっごい羞恥プレイなんだけど!?」

 

「体を動かした方が思いつきやすいし憶えやすいのだ。さあ、凪沙ちゃん! 全力ポーズを決めてくれ! そしたら凪沙ちゃんの応援でオレがぐぐーんっとパワーアップするはずだから!」

 

「ああもう! わかったからクロウ君! ファイトだよ凪沙! これはあたしの――が試されてる! 恥とかそういうのは忘れて、周りのみんなは全部カボチャってことにするの! ―――よし! もう何も怖くない! いくよ、クロウ君!」

 

 そうして、街中で、全力で騒ぐ少年少女がいたそうだが、結果として、恥とかその他もろもろをかき捨てた末に出来上がった全力ポーズ案は、ばっさりと主人に却下され、女子生徒を辱めた馬鹿犬は折檻されたという。

 

 

 

 その後日。

 

 

「なあ、アスタルテ。ひとつやってみたいことがあるんだけど、手伝ってくれないか?」

 

「なんでしょうか?」

 

「メガ進化というパワーアップ方があるんだけどな」

 

 

 

つづく



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十一章
黄金の日々0


???

 

 

『お聴きの放送局はJOMW―――FM絃神。時刻は午後3時30になりました。

 これからの時間は、島内の出来事に関する最新のニュースをご紹介する『インサイド・イトガミ』のコーナー、本日もこちらキーストーンゲート最上階、人工島第三スタジオからお送りしています。

 

 さて。まずは『タルタロスの薔薇事件』――『魔族特区』破壊集団<タルタロス・ラプス>による魔族登録証の大規模ハッキング攻撃からちょうど二週間が経ちましたね。

 事件による破壊の爪痕は、絃神市内のあちこちに残されてますが、市街地の復旧作業は現在も急ピッチで進められています。

 開通の遅れていたモノレール環状線ですが、本日始発から平常通りの運行。湾岸道路は、一部区間を残して、この週末には通行規制が解除されるということです。

 

 ですが、未だ<タルタロス・ラプス>の残党――上級理事を殺害した<心なき怪物(ハートレス)>が捕まったという報は入っていません。この二週間で、一部の国際線を除いて全便運航を再開するはずでした空港に単独テロを行い、外部との絃神島の流通を妨げるなどとテロ行為を続ける<心ない怪物(ハートレス)>の存在に皆さん安心できることはできないでしょう。ですが、今この絃神島に徘徊する凶悪なテロリストに万が一にも遭遇しないよう、不要な外出は極力控えてください。莫大な懸賞金がかけられているという偽情報(デマ)が流布されていますが、目撃者は一人として無事なものはいないと噂されています!

 

 しかし! そのテロリストの脅威に晒されている絃神島で、立ち上がった聖処女(ジャンヌ・ダルク)が私たちにはついています! そう、<心ない怪物(ハートレス)>の行動(テロ)を予測する警報システムを開発し、絃神島の被害を最小限に留めている美少女すぎる天才ハッカー―――<電子の女帝>こと藍羽浅葱さんです。

 

 藍羽浅葱さんは現在16歳。絃神市内の高校に通う現役女子高生なのですが、実は彼女、知る人ぞ知る天才プログラマーとして、ハッカーの世界では有名人だったんですね。

 これまでにも予測警報システムだけでなく、数々の革新的なプログラムを発表して、付いたあだ名が<電子の女帝>―――

 そんな才能と実績を評価されて人工島管理公社でアルバイトしていた浅葱さんは、憎き<心ない怪物(ハートレス)>の破壊活動に義憤をかられ、独断で行動パターンを集積し予測警報システムを開発。これが見事にはまり、ここ一週間で、<心ない怪物(ハートレス)>の被害は激減しております。空港や港など人工島外周にある地域での予測はまだ間に合ってはいませんが、このまま浅葱さんがさらに予測の精度を上げれば、もう<心ない怪物(ハートレス)>は首にお縄もかかったも同然です。

 

 それだけでも凄いことなのですが、彼女を一躍有名にしたのは、芸能人顔負けのこのルックス―――特にテロリストに怯える島民を奮起させるように呼び掛けた彼女のインタビュー動画は、『奇跡の七秒間』と呼ばれてネットではすでに600万回以上も再生されているそうです。本当に可愛らしい方で、学校の制服もよく似合っていますね。しかもこれで皆様を勇気づける絃神島復興支援チャリティソングまで手掛けてくれているそうですから、いったい天は彼女にいくつ物を与えたのでしょうか。多芸多才がこれほど似合う娘は彼女以外いないのではないでしょうか。

 

 浅葱さんのお父様は現職の絃神島評議員、藍羽仙斎氏。浅葱さんご自身も、幼いころから絃神島にお住まいということで、以前から地元では美少女として有名だったとか。まさしく『魔族特区』が誇るアイドルだったわけですね。

 

 そんな浅葱さんですが、現在は慈善活動と並行して人工島管理公社の依頼で、絃神島復旧のための大規模プロジェクトに参加中とのこと。残念ながらこの放送を聴いてくださるファンの方たちと直接顔を合わせる機会を設けることができませんが、今この絃神島で最も<心ない怪物>に狙われている彼女を保護する名目でもあります。ですが、ご安心ください。この人工島管理公社で我らの聖処女は『特区警備隊』の特別チームが万全に守っております。

 

 そして、番組では藍羽浅葱さんに対する応援メッセージ、そして彼女に関する情報をお待ちしてます。浅葱さんの今後の活動へのリクエストにあなただけが知っている彼女のプライベートな情報などなど、番組ホームページよりお寄せください。

 

 それでは、ここで一曲聴いていただきましょう。先ほどちらと話題にも上がりました絃神島復興支援チャリティーソング『Save Our Sanctuary』のカップリング曲、藍羽浅葱さんのデビューソングでもある『片恋Parameter』です―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 このヘルメス=トリスメギストスの末裔にして、大いなる作業(アルス・マグナ)を極めしもの、偉大なる古の大錬金術師ニーナ=アデラートが、ひとつ『霊血』――またの名を『賢者の石(エリクシール)』についておさらいしてしんぜよう。

 材料は、年頃の女子の体重と同じだけの黄金と銀と希少金属各種、それに水銀が900l。あとは、供物となる霊能力者が、14、5人を見繕ってくればいい。

 それから制御するための<錬核(ハードコア)>があるのが好ましいのだが、これは、お主がコレクションに回収した弟子の作品<偽錬核(ダミーコア)>でも調整すれば代用ができよう。

 

 と、まあ、これはあくまで永遠の生を想定したもの。

 『心臓が破壊されるような致命傷も一瞬で治癒する』ための呪術触媒には、贄もそういらん。だが、やはりそれなりの量は要する。妾でも等価交換を原則とする錬金術を対価(たね)もなしにできんからな。夏音が、あれから毎日、負担にならない程度で採血に協力してくれたが、一月のスパンで考えると、十分とはいかない。せめて、もう一月があれば仕上がったろうに。

 ……二週間前に間に合わなかったのは悪かった。

 

 だが、計算が甘いのは主もであろう。

 付き合いの短い妾でも、あれがわりと無法者(アウトロー)なのはわかっておったぞ。でなければ、ああも平気に<禁忌契約(ゲッシュ)>を横紙破りできるものか。

 もっとも、破るには破るに足る理由があったがな。

 そんなことは主も百も承知していよう。理解できんとは言わせんぞ。

 結局、妾も主も展開がここまで急に進むとは思わなんだ。見通しが甘かった。

 

 で、反省はひとまずこれで済ますとして、話を続けよう。

 二週間前の一報より、妾は伝手を頼り、足りてなかった素材と高純度の霊力を工面してもらい……

 腹黒王女に借りができた? ―――そのくらいいいだろう。懐の小さいヤツめ。妾はあの浮気前王に頭を下げたんだぞ。

 少しくらい主は年長者である妾を敬ったらどうだ?

 

 何? なら校長の長話並にちっともためにならん講釈をやめろ? ―――まったく主は……まあいい、結論を言うなら、完成した。

 ただし、これが効力を発揮するのは、およそ1分間。つまり、致命傷を負ったその時のタイミングに使わなければ、九死に一生は得ることはできず、無駄に終わる。

 そして、造れたのもこれひとつ。一発勝負の保険だ。

 だが、出来は保証する。使いどころは難しいがな……

 

 ではな。

 妾ができることはここまで。あとは託したぞ―――

 

 

ストリクス

 

 

 極東の『魔族特区』へ向かい、ゆっくりと落着する一機の航空機。

 四基のターボエンジンを積んだ水陸両用の飛空艇は、全長・翼幅ともに40mを超える、民間所有では規格外のサイズの機体だった。そして、深紅に縁取りされた尾翼に描かれているのは、『飛龍に牽引された戦車の紋章』。

 すなわちこれは、欧州に君臨する第一の『夜の帝国(ドミニオン)』――『戦王領域』の飛空艇<ストリクス>―――

 

 カーボンファイバーと樹脂と金属と、魔術によって造られた人工島の港へ入った『戦王領域』の飛空艇を、歓迎するかのように真正面に位置取りしていたのは、一隻の外洋船。荘厳な城砦を思わせるクルーズ船。悪趣味なほど巨大な豪華な船のマストに掲げられた船籍旗にもまた『戦王領域』の紋章が印されている。その船名は<オシアナス・グレイブⅡ>――『戦王領域』の大貴族にして、アルデアル公国領主ディミトリエ=ヴァトラーの私有船だ。

 

 して、両船舶の主人であるふたりの『旧き世代』の吸血鬼が互いに剣と蛇を交えた、彼らなりの“挨拶”を終わらせると、早速、第一真祖の懐刀は、この問題児を飛空艇の甲板まで呼びつけた。

 

「―――ヴェレシュ=アラダール『戦王領域』帝国会議長殿、はるか遠方よりのご光臨を賜り、このヴァトラー、恐悦至極に存じます」

 

「嫌味のつもりか、ヴァトラー」

 

 夜目にも鮮やかな純白のコートを着た、金髪碧眼の美青年が恭しく首を垂れるのを見て、浅黒い肌を持つ長身の男は頬を歪める。見た目若い顔立ちだが、歴戦の戦士や政治家の雰囲気を纏っている。古風なコートを身につけ、長い黒髪が見るからに実直で聡明な彼の風貌とよく似あう。

 ヴェレシュ=アラダールは、この絃神島における外交の全権大使を第一真祖から任されているこの古き馴染み(ヴァトラー)に苦言を呈する。

 

「俺がこの辺境の島国まで来たのは、貴様が仕組んだせいだろうが。<第四真祖>に『カインの巫女』、おまけに<沼の龍(グレンダ)>ときて、そして、今は<心ない怪物(ハートレス)>か―――よくもまあ、これだけ厄介な状況を揃えたものだな」

 

 本来であれば、そうならないようにするのが、外交の第一線で立たせているこの金髪の青年貴族の役割なのだが、これが元老院からの任よりも己の趣味嗜好を優先する性質だというのはわかっていた。

 そう、その炎に似た獰猛な光を宿す瞳を見れば、過去(むかし)現在(いま)も、<蛇遣い>の願望は変わっていないことなど瞭然。

 強敵との死闘。そして、戦争。

 ある意味、最も吸血鬼らしく狂っているのが、ディミトリエ=ヴァトラーという吸血鬼だ。

 

「それは失敬した、アラダール。だけどキミがこの島に来たということは、議会の元老たちも、ようやく乗り気になってくれたと思っていいのかな」

 

「彼らとて見過ごすわけにはいかないのだろうさ。『棺桶(コフィン)』の開放を知らされてはな」

 

 それに、とアラダールは、ヴァトラーからその隣に侍ている小柄な少女へ視線をやる。逆巻く焔のように刻々と色を変えていく虹色の髪。唇の隙間には、吸血鬼の証たる鋭い白い牙がみえる。

 『六番目』の<焔光の夜伯(カレイド・ブラッド)>。

 <混沌の皇女(ケイオスブライド)>が匿っていた、最後の『宴』の鍵。

 現在、当代の不完全な<第四真祖>は、すでに11体まで解放されてしまっている。ここで12体最後のひとりを手に入れて、『世界最強の吸血鬼』として完成されたとき、いったい何が起こるのか。それは数百年を生きたヴァトラーとアラダールにも予想できない。

 ただひとつわかるのは、存在しないはずの第四の真祖の出現が、この世界の秩序と安定を掻き乱すということ。おそらくは、取り返すがつかないほど決定的に。

 

 だが、その確実に起きるであろう混乱を看過してでも、今起きている事態は元老院で問題視されている。

 

「我らが王より、完全な<第四真祖>を復活させる赦しは得た。そして、ヴァトラー、貴様にひとつ、任務を与える」

 

「なんなりと」

 

 表情を消すアラダールに、喜色満面に応えるヴァトラー。

 きっとこの男は、わかっているのだろう。そうなるよう望んで、そうなるように元老院へ報告したのだから。

 

「<黒死皇>と同じだ。『棺桶』の『墓守』を暗殺しろ。『聖殲』が完全に起動する前に、障害は取り除いておけ」

 

 芝居がかった仕草で胸に手を当てて、旧友はアラダールでなくともわかるくらいに白々しく嘆いてみせる。

 

「彼には先約があるのだけど、爺さんからの任務じゃあしょうがないネ」

 

 残念残念、と口では言いながら、その口元は馳走を前にしたようにとても嬉しそうに緩んでいた。まるでクリスマスプレゼントをもらった子供のような笑みだ。

 まだ時間を与えれば、成長してくれるかもしれない。でも、もう我慢できないくらいに“うまそう”なのだ。

 理由(いいわけ)ができてしまい、あと少しのところでお預けに(じゃま)してくれた魔女もいない以上、<蛇遣い>の我慢してきた衝動を抑えきれるものはない。

 

「あの子のこと、暗殺し(たべ)ちゃったら、古城はどう思うのかナ?」

 

 きっとこの上なく、ボクを“愛して”くれるに違いない。

 それを思うだけで青年貴族は身震いが止まらない。

 

 

獅子王機関絃神島出張拠点

 

 

 人工島ではあまりお目にかかれないレンガ造りの古ビルに店を構えるそこは、表向きは骨董屋であるが、上層部の通達に謀略工作のための支援物資の供給を行う特務機関の拠点。

 獅子王機関が、日本国唯一の『魔導特区』絃神島に敷いた出張所だ。

 そのとっくに店仕舞いした骨董屋の奥に、3人の少女とひとりの女性がいる。

 

「これは、上で決定したことだ。心して聴きな」

 

 特に気を篭めてるわけでもなく、言葉だけで3人の少女たちの背筋をピンと伸ばすその女性は、透き通るような白い肌、淡い萌葱色の髪と瞳。鼻筋の通った彫りの深い顔立ちをしており、耳は長く尖っていた。

 彼女は、『魔族特区』ですら遭遇できないであろう、極めて稀少な魔族、『長生族(エルフ)』。

 そして、白いマントを上に羽織り、下に着ているのはノースリーブにアレンジされた巫女装束風の白い衣装である。

 

「<黒妖犬(ヘルハウンド)>、改め、<心ない怪物(ハートレス)>は討伐対象となった。監視の必要はなく、獅子王機関は早急に目標を退治する」

 

 腕の中に寝ている、金緑石の飾りをつけた首輪をしている黒毛金瞳の愛猫を撫でながら、『長生族』の女が述べたものは、少女たちを瞠目させるに十分すぎた。そんな自分らの反応に目を細める『長生族』の女へ、恐る恐る唾を吞み、言葉を発するは、長髪を頭頂近くで結った少女――獅子王機関の舞威姫、煌坂紗矢華。

 

「師家様、上級理事五名の殺害は、南宮クロウには不可能です。『特区警備隊』で行われた検察結果から推定された殺害時刻には、『食糧備蓄倉庫』にいます。このアリバイは、同行していた警備隊からの証言もあります」

 

 紗矢華はこの2週間で、獅子王機関の舞威姫としての権限を使って独自に調査した。彼女がよく知るあの少年の性格もそうだが、理事殺害は不審な点が多過ぎる。これは明らかに何かの謀略に巻き込まれているとみるべきだ。

 

「それに、<タルタロス・ラプス>の残党なんて間違ってもありえません」

 

「煌坂紗矢華に同意するのは癪ですが、同意です。南宮クロウは、『四凶』退治に大きく貢献し、敵の首魁のひとりを撃退しています」

 

 紗矢華の言に頷くのは、同じ獅子王機関の舞威姫の斐川志緒。彼女は彼女で、紗矢華とは別角度からの調査を試みていた。

 舞威姫は、呪術と暗殺の専門家(スペシャリスト)。攻魔師養成機関『高神の社』にて、情報収集の訓練も受けている。

 現在、彼が主犯というものが一辺倒で流布された情報に惑わされず、真偽を見分ける。弓で矢を射抜く際、一工程ごとに心内で確認する射法八節の如く則った、丁寧かつ精密な作業は、百発百中で真実を射抜く。

 しかし。

 

「紗矢華、志緒、よーく調べてくれたみたいだけど、そんなことを論議する段階はもう過ぎてる」

 

 それは見当違いもいいところだ。すでに機関は“真犯人かどうか?”を着眼点とはしていないのだ。

 

「だいたい、潔白の身ならどうしてこそこそ隠れてたりしてるんだい? 堂々としてりゃいい。そうすれば、濡れ衣もすぐに晴れるだろうさ。だが、それをしない」

 

「師家様……ですから、それは……」

 

「2週間。この島であちこちと暴れてるみたいだけど、なんだい? それもニセモノかい?」

 

 <タルタロス・ラプス>の事件が終えてからも、依然と外交を妨げ、鎖国状態を強いている空港・船港の襲撃。それを実行したのは、間違いなく、南宮クロウだ。

 

「どうやら、2週間前に消息不明となったきりの南宮那月の制御から離れてるらしい。面倒な輩とつるんでいるだろうねぇ。それでそいつらにいいように使われてるんじゃあ、本人の意思に関係なく、害悪認定されても仕方がない。『壊し屋』の坊やの監視役は太史局の方に譲ったけど、一国家の魔導対策委機関としてそれを退治するのは当然の判断だよ」

 

「で、ですが、クロウ君はこれまで多くの魔導犯罪を解決してきました。『神縄湖』のときだって、彼がいなかったら……!」

 

 獅子王機関の剣巫の羽波唯里が最近の実績をあげて弁護しようとするが、鋭く細められた眼差しを返される。

 

「犯罪者をひっ捕らえてきたから、犯罪者となってもいい理屈は筋が通ってないよ。それに、あの坊やは、残念ながら攻魔師資格(Cカード)を持ってない。これまでの活躍は、あくまで無償奉仕(ボランティア)としか記録されないね」

 

 攻魔師資格を持ってなくても日本攻魔師界隈に大きな影響力を有する暁緋沙乃がいるが、あれは例外中の例外。非正規(モグリ)の活動は、正式に認められない。つまり、南宮クロウが解決に関わった事件も、記録に載せられるのは、主人の南宮那月か、獅子王機関の名である。

 

「さて、話を戻すが、弟子共の任を言うよ」

 

 討伐命令の撤回はできなかった。

 弁護できず、逆に論破される。けれど、紗矢華らは悔しそうに歯嚙みながらも、目に宿る意思の光は強い。こうなれば、あの少年を操る黒幕を捕まえる―――

 

「斐川志緒、羽波唯里、あんたら二人は、変更なし。<沼の龍(グレンダ)>についててやりな。……煌坂紗矢華はちょいとあたしから頼みたいことがある。姫柊雪菜の件でね、確認しておきたいことがあるんだよ」

 

 えっ……? と三人の巫女は異口同音と声を洩らす。

 別の任務が与えられる。それはつまり、<心ない怪物(ハートレス)>を退治する任から外されているということ。

 言い換えれば……

 

「なんだい? “戦力外通告”されて不服かい弟子共」

 

「師家様、一対一では難しいかもしれませんが、南宮クロウには『巫女(わたし)たちに三打もらうまで攻撃できない』ハンデがあります」

 

 異を唱えるは、志緒。好敵手(ライバル)である紗矢華と切磋琢磨で研鑽した弓の腕に、誇りを持っている。それに加えて、三手も攻撃権を譲られているに等しい相手。

 それで何もせず下がっていろと言われるのは、いくら師家様でも簡単に頷けるものではない。

 

「まったく……そういや、志緒はあの坊やが戦ってるところを直接視たことはなかったか」

 

「はい。確かにそうですけど……」

 

 やれやれと額に手を当てた『長生族』の女性に、弟子の志緒はやや不満げに眉根を寄せる

 志緒は、戦闘中の<黒妖犬>を伝聞でしか知らない。

 『神縄湖事件』でも顔合わせしたのは『聖殲派』が捕まった後であったし、『タルタロスの薔薇事件』では、戦闘した局面が中央区と旧南東区と離れていた。

 <第四真祖>暁古城のように、圧倒的な魔力を直に浴びせられた経験はないのだ。

 だから、『黒死皇派残党事件』で制止を求めた紗矢華に一太刀を浴びせながらも逃げ延びたことや、『神縄湖事件』で誤解から始まった戦闘で唯里に片腕を斬り飛ばされたことくらいしか身近で分かりやすい判断材料がなかったりする。

 して、それから察する実力は、自分たち三人でも十分抑えられるものだ。

 

「仕方がない。三つ、理由を説明してあげる」

 

 『長生族』の女性は、弟子らの前に三本指を立てて見せ、まず、ひとつ目を折る。

 

「あの坊やは巫女(あんたら)に相性がいいけど、その逆に向こうもお得意様だろうね。『八雷神法(けんなぎ)』の手も、『八将神法(まいひめ)』の手もよく理解している。あたしが後釜候補にと指導したからそうなんだけど、白兵戦じゃあ、弟子たちには相手にならないだろうね。実際、雪菜もあっさりと見切られたみたいだし」

 

 『神縄湖事件』の前日、『第四真祖逃亡事件』にて、獅子王機関の剣巫の姫柊雪菜と交戦したが、終始翻弄されていた。

 後輩だが、雪菜の腕前は志緒のそれを上回るものであり、霊視の冴えも『高神の社』では一番だったろう。だから、『世界最強の吸血鬼』の監視役を任せることができるのだ。

 その彼女がまるで相手にならないと師家の口から語られる。

 つまり、ハンデなどで侮れるような相手ではないということ。

 

 次に、と二つ目の指が折られる。

 

「『世界最古の獣王』<白石猿(ハヌマン)>、これを単独で撃破した。『邪神』のときに、『混沌領域』の獣王も倒したみたいだし、これで名実ともに『世界最強の獣王』だ。『<黒死皇>の再来』……と言っても、半世紀も生きていない若造(ひよっこ)たちにはわからないだろうけど、あれが全盛期だったころは本当に真祖の一角を崩せたかもしれないと言われたもんだよ。はっきりいって、今の“不完全な”<第四真祖>じゃあ、真っ向からぶつかり合えば負けるだろうね」

 

 息を呑む。

 圧倒される災厄の如き眷獣を使役するその姿には、『世界最強の吸血鬼』という称号も納得するものだと志緒は畏怖と共に深く心に刻み込まれた。

 だが、あの『四凶』二体を撃破した<第四真祖>であっても敵わないと告げられたのだ。

 それほどの脅威なのか。

 空の王者を、最古の獣王を下した、名実ともに『世界最強』の称号を冠するようになった獣王は、洒落にならない戦闘能力を有していると。

 いや。

 戦闘には、相性があるはずで―――

 

 最後に、とすべての指が握り込まれる。

 

「これがお前たちを外すもっともな理由。坊やを殺す気がまったくないだろう?」

 

 ぅ、と窮する紗矢華、唯里も視線をそらしてしまう。

 だが、とっくに弟子の思考など師はお見通しだ。いや、師でなくとも読み取れてしまうほど、最初の討伐命令を口にした時の反応でありありと顔に出てしまっている。

 

 初対面での戦闘で、本気こそ出していないが互角の勝負を演じた。

 その当時から南宮クロウは相当な成長速度で強くなっていっているのだろうが、こちらも攻魔師としての腕を磨き、実戦の中でさらに鍛えられて行っているという自覚がある。

 だが、それと同時に知ってしまっているのだ。

 南宮クロウの性格と性質を。

 それは男性恐怖症のこちらに触れても嫌悪感を覚えさせないほど無垢さであり、社会的な規範に縛られることなく当たり前の道理を通していく純粋さであり、とかく嫌えるものではなく、とても殺意の矛先を向けるにはあまりに無理がある。

 如何に心を殺そうとしても、彼の日常の姿が記憶の片隅にでも過ってしまえば、必ず破綻するだろう。

 

「ただでさえ実力不足なのに、情に鈍らされるんじゃあ、足手纏いにしかならないよ」

 

 と、弟子の参加を否認する理由を並べたが、ならば、いったい誰が相手をするのか?

 ひょっとして『三聖』が出るのだろうか?

 日本最強の攻魔師にして、吸血鬼の真祖たちも一目を置く獅子王機関の長。

 でも。

 <静寂破り(ペーパーノイズ)>という『絶対先制攻撃優先権』を持った『閑古詠』―――それを『仮面』に情報入手(コピー)した『人狼』による『三聖』の模倣攻撃を破り、

 <神権政治(テオクラティア)>であまねくを支配する『闇白奈』だが、『百王思想』の体現者に霊糸の支配は及ばない。

 ならば、三人目の『三聖』―――

 いや、すでに答えはもう目の前に出ている。

 

「それは……師家様が、南宮クロウを……」

 

「そうだよ、あたしが坊やをヤる。元々獅子王機関から坊やを見定める任を受けたのはあたしで、一時とはいえ弟子にしたんだ。なら、始末をつけるのは師の役目にも入ってるし、引導を渡してやるのにこの上ない適役だろう」

 

 死の宣告も常と変わらない洒脱の口調で語る『長生族』の女性。

 いつもこの出張拠点に置いていた黒猫の式神を腕の中に抱いている彼女は、契約した術者であり――暁古城曰く――ニャンコ先生当人なのだ。

 縁堂縁。

 煌坂紗矢華、斐川志緒、羽波唯里、そして、ここにはいない姫柊雪菜らを舞威姫や剣巫として鍛え上げた師匠にあたる人物。

 今でこそ第一線を退いて、養成機関で後進の指導に力を注いでいるが、その実力は『三聖』と同等以上。<静寂破り>や<神権政治>など一族で一子相伝される特異な技能こそ持たなくとも、剣巫や舞威姫が扱う基本的な技術力だけでその評価だ。

 これと近しいと言えば、薙刀一本で魔獣の群れを相手に一騎当千の無双をしてみせた暁緋沙乃が挙げられるだろうが、そのとうの昔に全盛期を過ぎた暁緋沙乃以上に生きており、『長生族』の特性上、彼女の肉体は依然と若々しくある。

 そして。

 縁堂縁が座す脇、畳の上に置かれている薙刀と太刀。

 楽器ケースに収容できるような収縮機構(ギミック)のないその前時代の得物らは、獅子王機関が源流とする滝口武者が振るった代物だ。『固有体積時間』が一定段階を超えて積み重なり呪力を帯びるようになった、いわば天然物の妖刀魔槍。

 『七式突撃降魔機槍』や『六式重装降魔弓』が稀代の武神具開発者によって設計される前のはるか昔、<雪霞狼>、<煌華鱗>、とかつて初めにその名を冠した薙刀と太刀を、千年を超えた今も愛用する得物を持って任務に挑むことから、師家様の意気込みは、本気であることなど、弟子であれば誰だってわかるだろう。

 そう。

 獅子王機関の師家・縁堂縁が表舞台に出てくる理由は限られている。

 彼女自身の口から告げられた通り、攻魔師として認められなくなった弟子に引導を渡す。養成機関の師範役で、出張拠点に式神を置く橋渡し役で、そして、罪を犯した魔族を裁く人間の組織が腐敗せぬよう“人間の攻魔師を粛正する魔族の監視者”。それは『三聖』であっても断罪は免れぬとまで言われている生きた伝説なのだ。

 

「……まあ、アヴローラと似ている坊やに思うところがないわけでもないけどね」

 

 だが、今この身は、国防組織に属している。

 あの力が破滅に転用されれば――そう、あの<黒死皇>の災厄を知るものとして、兵器として利用される現状を看過できない。

 

 

キーストーンゲート付近

 

 

 全長はせいぜい軽自動車程度。

 リクガメに似たずんぐりとした形の、超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)

 夕陽の斜光に溶けるように真紅の戦車は、街を疾走する。道路を直進するかと思えば、高層ビルの壁を垂直に昇って、向かいのビルへ飛び移る。自動車の車輪では不可能な、有脚仕様だからこそ実現できる高機動性。市街地戦における対魔族戦闘を想定して設計された有脚戦車の最高速は、時速120km。建物が密集した都市圏で巧みな操縦で速度を落とすことなく走り抜ける、この機体に追いつけるものは早々いるはずがないだろう。

 

『警告―――九時方向に敵影。距離30。総数3』

 

 それでも追手はやってくる。

 まともな集団とは思えなかった。

 高速で走る有脚戦車の真横に、並走する黒い影があった。いつの間に飛び移ったのか、垂直疾走するビルの屋上からも複数の影がこちらを見下ろしている。単に『特殊な訓練を積んだ』程度でどうにかなるとは思えなかった。その犬類の獣人種のようなシルエットは、もうほとんど都市伝説のような連中だ。魔族を相手に肉弾戦を挑んで撲殺しそうな相手で、実際、強化プラスチック製の深紅の装甲に無数の傷を刻み付けられているのだ。

 心当たりがあるとすれば。

 

(……『聖域条約』の協定に反して開発された、冷凍保存された<黒死皇>の細胞を移植させた機甲服(パワードスーツ)があると噂されていたが。あれが、その<犬頭式機鎧(レプロブス)>でござるか!?)

 

 救世主を支え、激流を渡った―――すなわち、一時だが『原罪』の重さを支えた偉業より、『背負う者(クリストフォロス)』と称された聖人がいる。その聖書の偉人の名を冠する<犬頭式機鎧(レプロブス)>の機甲服が、人工島管理公社の秘蔵の兵力とされる<魔導打撃群>に与えられている装備だ。

 

(ええい! これ以上は付き合っていられぬ!)

 

 絶え間なくコクピット内に鳴り響く警告音。

 バイクのような姿勢でそれに耳朶を騒がれる12歳前後の小柄な操縦者は、燃えるような赤髪を振り乱して、攻撃を決意する。

 体にぴったりフィットするパイロットスーツを着る外国人の少女は、その胸元のゼッケンにひらがなで名前が書かれているが、リディアーヌ=ディディエ。

 管理公社に雇われていた<戦車乗り>の少女だ。

 

 それが今、この管理公社からの追手へ向けて、安全装置を外した武装を向ける。

 

「機銃全門斉射!」

『了解。自動照準、銃撃開始』

 

 脚部の側面に内蔵された四門の機銃が、凄まじい勢いで銃弾を吐き出す。

 対魔族用の強装弾を浴びせられ、垂直走行する<膝丸>と並走していた追手が吹き飛んだ。地上へと落ちたが、難なくと着地を成功させる。銃撃を受けたダメージもさほどないようであった。

 そして、屋上からこちらに向かって、その弾幕の中へ飛び込む追手たちに、有脚戦車の機体に取りつかれてしまう。

 

 瞬間、叩き込まれた拳打の衝撃は、徹甲弾が炸裂したような音響を轟かせた。

 

「肉薄攻撃!? しかもこれほど―――!?」

 

 有脚戦車の装甲材は、特殊な呪術強化が施されたプラスチック。連続した攻撃を一点に集中されると脆いが、優れた耐衝撃性能を有している。20mm砲弾や対戦車ロケット弾の直撃にも耐える―――それが一撃で砕かれたというのは、敵の殴打は現代兵器以上の威力であったという証明に他ならない。

 想定外の荷重をかけられた有脚戦車の球体ホイールが、壁面のグリップを失ってスピンし、墜落。緊急落着プログラムが無事作動するも、殺しきれなかった勢いに腹部装甲は接地し、アスファルトを削って火花を散らす。

 そこへまた先ほど銃撃を浴びせて落とした追手たちもまた背面に跳び乗ろうと迫る。

 

『機銃弾、残弾数0。弾幕、展開できません』

「旋回! 振り落とせ!」

 

 リディアーヌは有脚戦車を強引に回転させて、追撃者の迎撃を振り落とそうとする。常人には耐えられぬ急激な加速。しかし、追跡者は平然と有脚戦車の背中に張り付いたまま、小脇に抱えた武装を向け、放つ、

 

「<膝丸>!」

 

 六本の銃身を持つ機関銃。それより放たれた銃撃は、有脚戦車の装甲を突き抉り、左の前脚を完全に破壊する。旋回中だった有脚戦車は、バランスを崩して道路側壁に激突。高機動性能を可能とするバランスを崩され、停止してしまう。

 操縦者のリディアーヌはすぐ修正対応する。

 

『左前脚部、大破しました』

「第四関節の連結を解除! そして、ワイヤーアンカー射出! 目標は―――」

 

 走行に不備ができたのならば、牽引してこの場から離れる。

 判断は迅速。神童の思考速度の切り替えは、常人には追い付けぬ。―――それを1、2手上回る追手たち。

 

 照準を合わせようとするところで、先手を入れるようにワイヤーアンカーの射出口が撃ち抜かれた。

 

 機甲服は、『人間の機能』を外から補強するための道具だ。単に機械を使って手足の力を増幅させるためだけのものではない。

 これが、『魔族特区』の禁忌とされる研究成果の一端。

 強化外骨格のモーターに化学性スプリングに、凍結保存していた『獣王』の生体組織による『外側』からの補助もそうだが、それだけではない。

 普通だったら、これほどの人外の怪力を持てばそれに比例して制御は至難となるはずだ。戦車装甲を凹ませる馬鹿力では、引き金に指をかけるだけで銃が壊れかねない。

 その事故がない。装備自体が『装着者の求めているのは何か、この場合の最適とは何か』を算出するための『計算のきっかけとなる柱』が、<魔導打撃群>の追手たちに与え続けられている。

 そう、『内側』からの補助もある。

 電気的な刺激や脳の温度分布などを利用して、人間と機械を繋げる『仕組み』が備わっているのだろう。

 <タルタロス・ラプス>のひとり、<戦車乗り>でもハッキング勝負では負けを認めるラーンは、『魔族特区』の実験で、脳を機械と直結できるように改造されたせいで死んでしまっている動死体(フランケンシュタイン)だった。その実験成果からさらに先へと進んだ成果がその犬頭仮面の機甲服に結集されている。

 機械補助を受けて高速で働く思考活動は、1cm以下の誤差で自滅しかねない作業も淡々とこなして見せるだけでなく、判断速度は神童を超える。

 そして、<魔導打撃群>は、狩った獲物にすぐ止めを刺さず、昆虫類の翅や肢をひとつひとつもいでいくように、この逃亡者の手段を封じていく。

 

『ワイヤーアンカー使用不能。射出装置、破壊されました。後脚部及び主電源ユニット大破。生命維持装置を予備電源に切り替えます』

 

 ここまででござるか……

 補助人工頭脳(AI)から次々と上がってくる損害報告。段々と消えていく操縦席の計器の電子光。

 それらに呆然となりながらも、頭の冷たい部分で終わりを悟る。

 この対魔族戦車は大手の兵器産業で最新鋭のもの。だが、相手の技術力はさらにその先へ進んでいる。勝ち目はない。このまま敵に嬲り殺しにされるのであれば、潔く自害した方がマシ……

 “幽閉されている友”を救い出すことができないのが後悔であるが―――とそのときだった。

 何人(なんぴと)にも止めることが敵わない<魔導打撃群>を、制止する呼びかけが聴こえたのは。

 

 

「そこを、離れろオマエら」

 

 

 攻魔師たちの動きが止まった。

 明瞭で、<魔導打撃群>の戦闘力にもたじろぐことのない、強靭な何かを秘めた声音だった。<戦車乗り>への攻撃を止め、ぐるりと犬頭の機甲服たちが振り返った。リディアーヌもまた久しぶりのその声に反応し、まだ生きている車外カメラを合わせた。

 鳴り響いた緊急警報ですでに一帯が無人となった街中、そのビルの陰から踏み出したのは、少年だった。

 その目元は、見ることができない。<魔導打撃群>の<犬頭式機鎧>と同じ、しかし特注の機甲服を纏っており、その頭部に被せられている兜じみたヘルメットのバイザーシールドで隠されていた。

 手首足首、それに胸部といった要所が罪人の枷のように分厚くいかめしい装甲やチューブに覆われているなどと攻魔師たちに支給されるものとは別の仕様があるのだと推察できる。

 

(クロウ殿……クロウ殿でござるか!)

 

 だが、それでも、先ほどの声は彼のものだとリディアーヌは根拠なくとも信じられた。

 

『―――邪魔ヲスルナ、<心なき怪物(ハートレス)>』

 

 だからこそ、すぐ彼の現状を理解してしまえた。信じたくはなかったその情報が正しいものであると。

 

『コノ<戦車乗り>ハ我々ノ計画ノ要デアル『カインの巫女』ヲ探ッテイル鼠ダ。処分シナクテハナラナイ』

 

 <魔導打撃群>は、この『世界最強の獣王』の畏怖を間近にして、ひとりとして怯える者はいない。

 当然だ。

 こちら側(みかた)なのだから。それに、それがいかに優れた狩猟犬であろうとも、首輪に繋がれた家畜と一体どう畏れろという。

 

 が。

 機鎧に覆われる怪物兵器は、攻魔師たちの反応に嘆息して、もう一度忠告を口にする。

 

「オマエら、死にたいのか」

 

 再度の警告に、ようやく攻魔師たちも息を呑む。

 冗談ではない気配。兵器が反抗するのか―――いや、違う。

 彼は、忠告しているだけだ。すぐそこに攻魔師たちへ迫っている脅威に対して。

 

 

「そこの王の気配にも気づかぬ、愚鈍な“鼠ども”まで慮ってやるとは、相変わらず優しいな、お前は」

 

 

 即座に警戒態勢を取る攻魔師たちの前に、威風堂々と現れる。

 今、声を発した主は、美しい黒髪に褐色の肌をした小柄な少年だった。

 幼さを残した顔つきに似合わず、少年の姿には不思議な威厳が感じられた。気性の激しい若獅子を見ているようだ。その威圧感に打たれ、動けぬ攻魔師たちを一瞥して、少年は侮蔑の色をその黄金の目に滲ませる。

 

「『聖域条約』から違反した軍事兵装とはな。小賢しい人間どもの思いつきそうなことだ。付き合う人間は考えた方が良いのではないか、雑種よ」

 

「………」

 

 無造作に歩みを進めながら冷ややかに語りかけてくる少年に、機鎧の怪物兵器は沈黙して答えず、不動のまま。

 

 なんと……

 傷ついた有脚戦車の中で、リディアーヌは言葉を失くしている。

 少年の名をリディアーヌは知っている。イブリスベール=アズィーズ。第二真祖<滅びの瞳(フォーゲイザー)>直系の第二世代の吸血鬼。『滅びの王朝』の凶王子だ。

 なぜかれがこんなところに、と訝るリディアーヌ。だがすぐその目的も悟ろう。彼がいま、その金色の視線を注いでいるのはただ一人。

 

『吸血鬼……『旧き世代』ダ。眷獣ニ警戒シロ』

 

 小隊長らしき男が仲間に指示を出す。正体に未だ気づけずとも、その身から放たれてる膨大な魔力と壮絶な殺気から脅威は自ずとわかるだろう。

 一切の乱れのない統率で包囲を迅速に完了すると、凶王子へ銃口を向ける。

 ―――それでもイブリスベールがそちらへ目をやることはない。もう初見で眼中にないと評定が降されているのだ。

 

『第二小隊、各自の判断で狙撃を許可する。撃て―――』

 

 <魔導打撃群>の小隊長の指揮で一斉掃射された弾丸が、透明な壁に阻まれたように失速する。眷獣を召喚するまでもなく、ただ魔力を放出しただけで物理的な重圧となり、弾丸を押し戻したのだ。

 な……!?

 驚愕に声が震える小隊長。動揺は隊員たちにも伝播する。なまじ腕の立つ攻魔師だからこそ、この『旧き世代』が、どうあっても乗り越えられない壁を越えた絶望なのだと気付いたのだ。

 まさか<滅びの瞳>直系の……

 

 して。

 この結果を予見できた者は、また一度、繰り返す。

 

「だから、下がってろ、オマエら邪魔だ」

 

 静かな、しかしけして無視できぬ声音。

 怪物兵器からの再三の忠告に、今度こそ攻魔師たちは従う。

 そう。

 相手は超越した存在なのだろうが、ここで自分たちが使役する道具も超越した怪物なのだと彼らは知っているのだ。

 

『<心ない怪物(ハートレス)>! 『滅びの王朝』ノ凶王子ヲ始末シロ! ソノ性能ガ本物ダト実証スル恰好ノ相手ダ!』

 

 これから始まる闘争に巻き込まれぬよう、<戦車乗り>をその場に残したまま後退した<魔導打撃群>らは、怪物兵器に戦闘許可を与える。

 

「やれやれ小蝿が鬱陶しい。そこに雑種がいなければ、切り刻めてやれたものを」

 

「………」

 

 静かに、イブリスベールは言う。

 凶王子と怪物兵器との間に、ひどく殺伐としたものが満ちていった。それは吹雪の如く凄絶に、業火の如く容赦なく、世界を変質させていった。

 強さこそがすべての無法地帯を、さらに地獄へと変えるかのように。

 

「にしても、今日の雑種はやけに無口だな。小蝿の翅音には付き合ってやるのに、俺の言葉を聞いていながら答えぬとは、不快だ。その(おもて)を見せぬのもいかな自儘を許そうとも無礼だぞ」

 

「………」

 

 それでも、口を開き、応じることはない。

 応答にさえも制限が課せられているのか、それとも、合わせる顔がない、というのだろうか。

 しかし、口は閉ざしたままだが、覆うバイザーシールド越しからも感じるほどの強い眼差しがイブリスベールの金瞳に合わさる。

 口ほどにものを語る目線に、ふん、と凶王子は鼻を鳴らし、

 

「……まあいい。今日は語り合いをしに来たのではないのだからな」

 

 金色の瞳が、血の色に変わる。

 緩やかに殺気に糸が両雄を繋ぐ。

 その直後、取り残された有脚戦車のメインモニタが、閃光で白く染まった。

 

「……っ!?」

 

 先ほどまで、あの少年がいた場所を映していた映像。

 そこを瞬きの前に蹂躙したのは、肌を焼き焦がすような濃密な魔力だ。

 それは巨大な刃と化して、容赦なく地上を薙ぎ払う。

 突然の衝撃に巻き込まれて、リディアーヌを乗せた有脚戦車は為す術もなく転がり吹き飛ばされた。周囲の建物が崩壊し、道路が抉れる。それはまさに天災そのものの光景だ。普通の人間なら、その一瞬で落命していなければおかしいほどの破壊力。

 

 だが、怪物兵器はそれを受けても原型を崩すことなく依然、そこに仁王立ちしている。

 

「今宵は、貴様と殺し合いに来たのだ、我が強敵(とも)よ!」

 

 魔力放出をぶつけたがそれでも歯牙にかけない有様に、我が目に狂いはなかった、とますます高揚とした笑みを浮かべ、イブリスベールはその魔力を解放させる。

 裏切った姉に報復し『同族喰らい』をした『滅びの王朝』の凶王子。その力は『最も真祖に近い』とされる<蛇遣い>と同等以上。

 この絶対王者に君臨する吸血鬼の王子が驕りの衣を引き剥がしており、純然たる『力』の奔流をみせている。

 

「切り刻め、<ケベフセヌエフ>―――!」

 

 その『力』の奔流が猛禽の姿を形作る。実体化するのは、翼長14、5mにも達する金色のハヤブサ。その巨大な翼の羽ばたきに生じるのは、無数の刃と化して渦を巻く死の風だ。

 災厄の如き眷獣の力。

 それが今、たった一人に対し、何の躊躇いもなく振るわれようとしている。

 

「お、お待ちくだされ!? クロウ殿にそのような眷獣をぶつけるのはあまりにもやり過ぎるでござる!?」

 

 思わず、リディアーヌは叫ぶ。

 先の魔力放出でうまい具合に戦線から離れられたが、これから始まるあまりに苛烈な衝突にどうか制止をと凶王子へ乞い求める。

 

「何かと縁があるな戦車乗りの小娘よ。寄ってたかって随分と嬲られていたようだが、もういいのか。ならば、疾く失せろ。今の進言は、一度目だ。許してやる。だが、俺たちの戦争を邪魔するのであれば、誰であろうと許さん」

 

 少女の嘆願を一蹴する凶王子。

 遊びや手抜きなどない。

 強者ゆえの慢心を消し去っているイブリスベール=アズィーズは、“まだ”、荒ぶる魔力の放出を留めはしない。

 

「それにこの程度で驚いては、彼奴に無礼だぞ」

 

 魔力の霧が、さらに二体の眷獣を実体化させ、

 

「俺は、それほど雑種を“過小評価していない”」

 

 こう告げたのだ。

 

 ジャッカルの姿をした<ドゥアムトエフ>。

 

 ヒヒの姿をした<ハピ>。

 

 そして、人間の姿をした<イムセティ>。

 

 先のハヤブサの眷獣を合わせ、木乃伊(ミイラ)の臓腑を守護する天空神(ホルス)の四人の息子たちの名を冠する、そう東西南北を守護する『四聖獣』に相当する眷獣が四体召喚されたのだ。

 すべての眷獣を視界に収めるだけで、人間を狂わせてしまうような鬼気がそこにある。

 

「<蛇遣い(ヴァトラー)>にとられるのは、業腹だからな。ここで片をつけさせてもらうぞ」

 

 四体の眷獣を意のままに御して巻き起こすのは、強烈な黄金の嵐。

 強敵(とも)と認めた怪物兵器の周囲を、ハヤブサが、ヒヒが、ジャッカルが、ヒトが踊るように流転しながら人工島の大気に魔力を浸透させる。

 荒ぶる嵐の中でさらに支配権を強固とし、圧縮されていく竜巻はやがて骸を封じ込める壺と化す。

 ただ力のままに破壊を撒き散らすのではなく、その一極に集中させる。

 物理的な限界を超えて尚も密度を高める嵐の層は、万物を切り裂く凶器であり、空間そのものを呑み込む虚無の領域。

 音や光すら歪みの中へと収束していき、静寂と闇に怪物兵器は覆い隠される。すでに有脚戦車の電子機器においても計測不能。言えるのは、あそこは完全な無だ。あの渦中にあったものは微塵もなくなっている―――そのはずだった。

 

 『壺』に、亀裂が走る。

 

 現在の、そして、最後の殺神兵器。それは正しく扱える正式な所有者の手に渡り、存分に使い潰されて、その真価を発揮させる。

 そう、正しく兵器として。

 

「■■■■■■―――ッッッ!!!!!!」

 

 理性を蒸発させるほど獣の姿に回帰した怪物兵器は、殺戮の咆哮をあげた。四体の眷獣をその壺の嵐ごと一喝で吹き飛ばす。

 露わとなる神獣と化した<心ない怪物(ハートレス)>の全容。微細な魔法陣を内包した真紅の粒子が煌く。アカイロに染まる完全なるケモノはまさしく『神よりも強い矢の如き狼(ウプウアウト)』か。

 装着された機鎧からは赤光が点灯している。それは、登録証を用いた<タルタロス・ラプス>の魔力暴走現象と相似していた。

 

「ちぃ、余計な真似を……」

 

 凶王子の目は険しい。

 狂暴極まりないが、求めているものと違う。感情を喪失させるほどの狂化させてくれるとは、この闘争に水を差されたも同然。

 だが、それを対価にして発現する力はけして侮れるものではない。

 

 

異境(ノド)干渉場、固定。虚数領域より五大主電脳(ファイブエレメンツ)のパラメーター注入。基点座標において、『聖殲』を起動―――『墓守』、障害の排除を開始します』

 

 

 そして。

 翌日、<タルタロス・ラプス>の残党が絃神島中央区で破壊(テロ)活動を行い、街数区画を壊滅させたが、これを警備隊が退けたと報道された。

 

 

 

つづく




お久しぶりです<(_ _)>

インフルエンザに罹り、しばらく投稿できませんでした。これから休んだ分の遅れを取り戻すまで、投稿が遅れることになると思いますが、頑張ってなるべく早めに投稿できるようにします。


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黄金の日々Ⅰ

キーストーンゲート 魔族特区博物館

 

 

 キーストーンゲートは巨大な建造物だ。建物自体が、絃神島の要となる大規模浮体式構造物(ギガフロート)の一つであり、一個の広大な街である。人工島管理公社だけでなく、絃神氏の市庁舎や『特区警備隊(アイランド・ガード)』の本部、飲食店街やシティホテル、高級ファッションビルのテナントまで―――それらが複雑な武特区のように組み合わされて、楔形の建造物を構成しているのだ。

 そのキーストーンゲートの内部には、小さな博物館がある。

 正式名称は『魔族特区博物館』。絃神島の設計者である絃神千羅の過去の業績や、『魔族特区』に関する歴史資料を集めた、観光客向けの施設である。

 しかし今はその施設内に、観光客の姿はない。『タルタロスの薔薇事件』以後、この博物館は閉鎖されているのだ。災害復旧中で、テロリストの残党がうろついているとされる絃神島を、わざわざ訪れるもの好きな観光客は少ないし、対外的には、この施設も、事件で被災したことになっている。

 

 そんな博物館の従業員区画に、見慣れない集団があった。

 最新鋭の対魔族機甲服と銃器で武装した屈強な武装警備員――『特区警備隊』の<魔導打撃群>の隊員たちである。

 この『魔族特区』にて最高クラスの兵力を有している彼らは、博物館の置物へ拳銃の試し撃ちを行っていた。

 

「我らが『聖殲』の正当性を確かなものとして実証するために、『滅びの王朝』から派遣された凶王子イブリスベール=アズィーズを殲滅しろと命じたはずだが、よもや取り逃がしたとは。無意識にブレーキが働いているのか」

 

 どすっ、ずどっ、と置物がわずかに震える。

 サイレンサー装備で甲高い銃声こそ轟くことはないにしても、豆鉄砲ではない。小型戦車にもダメージを与えられるだけの威力は昨日実証済みだ。

 

「実際問題、『聖殲』の補助(サポート)に問題はなかったはず。そもそも、世界最強と冠するようになった殺神兵器の本気はこんなものではないはずと思っていたが。それとも私の買い被りだったのか?」

 

 うっ……、という小さな呻きのような声があった。

 それを拾うと眼光の鋭い和服姿の男は、片手をあげて、自らを護衛するためには連れている警備隊員らに試し撃ちを止めさせる。そして、あげた片手を振り落とし、不可視の刃を置物へ無造作に飛ばした。

 

 いいや。吊り上げられて、的にされている褐色少年、南宮クロウの首筋その頸動脈を撫でるように。

 

 そもそも、吊り上げられているという表現も正確ではないのかもしれない。頭の上に重ね合わせた両手を不可視の刃がまとめて串刺しにして壁に縫い止めている。許可なく地面に足をつけば“瓶詰”を使うと言ってあるので、掌を貫通する念動力の刃に自らも握って宙づりの姿勢を保っている。そのサンドバック状態で、試し撃ちの的にしていた。

 その行為に消費した銃弾が勿体無いと言えるくらいに、意義を見出すのが難しい。それまで、何発か銃弾を浴びせていたがそれでも青痣を作る程度で貫通し得たものがないからだ。だが、それでも無防備な相手を一方的に的打ちするというのは、力がかけ離れた怪物であっても手駒の部下らに使役しているという意識を強めてくれる。

 だが、死の緊張の伴わないものに、隷属意識を刻み込むことができるかと言えばその効果は薄い。

 わずかでもズレれば、躊躇なく無抵抗の首元に深く念動力の刃を突き立てて。頬から首筋そして左胸元まで通る、“仮初(まえ)の主に刻まれた”古傷を塗り潰すように、透明の斬撃を見舞う。

 半分が獣王の細胞からの驚異的な生命力がなければとっくの昔に絶命していてもおかしくない。出血の有無ではなく、激痛のショックでだ。

 

「ぐふっ!? ふぅー、ふぅー……!」

 

「不満そうな顔だな。まだ立場というのを理解していないのか」

 

 部下の裏切りに常に備えてきた男は、反骨の相を見逃したりはしない。完全に屈服していないのがわかっている以上、教育は要必須だ。

 

「……それとも、心臓に電流を流してやった方が良いのか?」

 

「っっっ!?」

 

 ぎぢりっ!! と奥歯を噛むにしては壮絶すぎる音が博物館全体に響き渡る。だが、その本物の恐怖の色を見取って、男は一先ず満足する。

 

「欠陥品であろうと死ぬのが怖いか。わかっているのならば、成果を出せ<心ない怪物(ハートレス)>」

 

 磔にしていた不可視の刃を消し、その身柄が地に落ちる。

 完全に屈服こそはできていないが、けして逆らわないと確認作業は済んだ。

 これは、犬の尻尾を力一杯に爪立てて握り締めてそれでも噛まれないかどうかで、躾具合を測るという行為と同じ。

 

「接続装具をつけさせろ。不出来な道具に休む時間など必要ない」

 

 

 

 絶対的な支配者である男――矢瀬顕重は、博物館奥にある関係者以外立ち入り禁止(スタッフオンリー)と書かれた扉を直衛とされる隊員らに開けさせ、この地下へ行ってしまった。

 そして、残された警備員と研究員たちが修理された『墓守』のための枷を、少年へ装着させる。恐れる者はいない。先ほどの見せしめで、完全に彼らよりも下であると示された。

 昨日、超越者と常識外れの死闘を演じれるだけの力があったのだとしても、自分たちに刃向かう気概がないと証明されたのであれば、過剰に怖がる必要はないのだ。

 

「体ヲ起コセ。腕ヲ前ニ突キ出セ」

 

 人間扱いなどけしてされない。地に塗れて、この底辺のさらに下へ潜るように、少年は“息を止めていた”。

 呼吸はない。鼓動も無音。体熱は平常値の半分以下にまで下がっている。

 死霊術を極めたのであれば、生体活動を停止したまま自身の肉体を死霊術で動かすことくらいの芸当はできなくはない。脳改造されて自らの肉体を死霊術で操縦する動死体の少女の例と同じ。無理にでも体を動かさなければならないとき、死霊術で動かしていたこともあった。それとおかげで私刑(リンチ)に遭っても、痛覚はほとんど死んでいる。真冬の氷水に長時間手首を浸していれば指先の感覚がなくなってしまうように、半月の仮死状態は“それなりに”感覚が麻痺している。なので、痛がる真似をするが、苦痛と覚えることはなかった。それがけして不幸中の幸いなどと呼べるものではないのはわかっているが。

 まだだ。

 隙のない相手に、けして隙は見せてはいけない。自らの拍動すら許さないほどに、息を潜める。

 

(……、……じん)

 

 あれから、一睡もしていないが、この意識が落ちて、術が解ければ、“終わっ(バレ)てしまう”。

 だが、こんな仮死状態がどれだけ続けられるものかはわからない。

 それはどれだけ息を止め続けても問題ないかと訊いてるのと同じ。いつ本当の死体となるのか、制限時間がどれだけあるのか予想できないが、とにかく言えるのは、ずっとは無理だ、ということだ。

 

 ただ。

 それでも。

 もう自分は月のない夜を眠るのは、無理なのだ。

 

 

(だから、“奪われたままでは死にきれない”。絶対に―――!)

 

 

公園

 

 

 『タルタロスの薔薇事件』は、“終わってるはずだ”。

 今朝のニュースに流れたテロリストの残党<心ない怪物(ハートレス)が起こした中央区破壊事件。絃神島の救世主である藍羽浅葱を狙ったものと思われる昨日の事件は、今日得た情報の一面トップを飾った。

 

「違う……」

 

 世界最強の吸血鬼と呼ばれる少年――<第四真祖>、暁古城は、その匂いを嗅ぎながら、しかめ面で低い声を洩らす。今、そっと口に含んだ温かな液体が、思った出来ではないとでも言うように眉間に皺を寄せて瞑目している。

 

「どうしたの、古城君? 味付け失敗しちゃったの?」

 

「え、あ? 凪沙……?」

 

 それから思い切り溜息を吐いたところで、エプロン姿の凪沙がそんな苦汁を噛む兄を不思議そうに見つめていることに気付いた。

 我に返った古城は慌てて、

 

「いや、ばっちりできてるぞ……オリーブオイルで炒めたニンニクに、桜燻製チップで燻した自家製ベーコンを贅沢に使用、具材は新鮮な玉ねぎ、にんじん、キャベツにロンバルディア産のトマト。さらに隠し味としてハーブソルトを効かせた完璧なミネストローネ。まさに究極の逸品といえるものにな」

 

 自ら調理したスープに酔ったように自信たっぷりに語ってみせる古城に、妹は、ふうん、と鼻を鳴らして、古城の手にあるおたまをとって自らも味見をする。

 

「……うん。何だ本当によくできてるじゃん、古城君」

 

「だからそういったろ」

 

「でも、思いっきり古城君なんか渋い顔してたよ。だから、味付け大失敗しちゃったのかなーって心配したの。夏音(カノ)ちゃんも雪菜ちゃんも大変だから、凪沙がフォローはすぐしなくっちゃって。その必要も特になかったみたいだけど。もう紛らわしいことしないでよね」

 

 凪沙は両手を腰に当てて、園児を叱る保育士のような口調で古城に言う。

 今、古城たちがいるのは大きな公園の一角に置かれた屋台風の仮設テントの中だ。

 裏側に衝立で仕切った簡易キッチンを設えて、そこの業務用ガスコンロの上には古城作のミネストローネが煮えている。大鍋四つでおよそ三百人分と調理だけでも重労働であった。

 後輩の叶瀬夏音に頼まれてやってきたボランティアのお手伝い。

 二週間前、から現在進行形で発生していることとなっているテロ事件の被害者たち。“上級理事五名を除いて”、一般市民である彼らは『魔族特区』の高度な医療システムの恩恵もあって、奇跡的に死者こそ出てはいない。無差別に召喚された眷獣たちの暴走で市街地には大きな被害が出ている。住居を壊され、未だ避難所で不自由な生活を強いられている人々も多い。古城たちはその中でも特に被害の大きい地区へ訪れていた。

 なにしろ古城は、自らの意思ではないと断言できるとはいえ、『魔族特区』破壊集団<タルタロス・ラプス>に操縦され、<第四真祖>の力で絃神島の『食糧備蓄倉庫(グレートパイル)』を焼き払ってしまったのだ。それどころか<タルタロス・ラプス>の首謀者のひとりは、今や<第四真祖>の『十番目』の眷獣として古城の中で眠っていたりもする。古城としては絃神島の食糧危機を見て見ぬふりをするのはとても良心に呵責を覚えるので無理であった。

 そんなわけでテントでは上の空でぼけっとなどしてられないくらいボランティアスタッフが、順番を待つ人々に温かなスープと握り飯を配給するのに大忙し。でも、余計な考え事はしててもしっかり仕事をしてたのだから怒られることはないと思うのだが。

 

「悪かったって。ちょっといろいろ気になることがあってだな。でも、しっかり出来てただろ。それより列の整理はもういいのか?」

 

「駄目駄目だよ。昨日より人が増えてるかも。炊き出しの評判を聞きつけた人たちが、わざわざ遠くからやってきてるみたい。一応整理券は配ってあるんだけど、列の最後尾は公園の外まで伸びてるし。表に出てる鍋はそろそろ空になりそう」

 

 と途切れなく早口で凪沙が説明してくれたおかげでだいたい状況は把握した。衝立からちょっと顔を出し覗いてみれば、テントに並ぶ人々の行列は、ざっと数えただけでも200人は超えてるだろう。古城が少し前に見た時よりも、明らかに人数が増えていた。

 でも、あんまり暗い雰囲気はない。古城が予想していた実態とは大きく異なることに、食糧配布に押し寄せてくる大観衆は、どちらかと言えばお祭りやスポーツイベントのノリに近い。元体育会系の古城としても、この手の騒々しい雰囲気は嫌いではないのだが、ここに集まってきているのは、『やたら可愛い女子中学生が握ったおにぎりが無料で食べられる』といういつの間に広まっていた噂のせいである。絃神島全土からおにぎり目当てで被災者が大量に集まってきているという、なんとも言えない始末となっていた。

 とはいえ、それが良い宣伝になって、他の慈善団体の協力も得られたし、相当な寄付も集まっていて、被災者も助かってる。それに“情報収集(ついで)”をするにも人が多いことに越したことはない。

 

「ねぇねぇ、古城君は見なかった?」

 

 主語を省いたその問いかけに、もう慣れた対応で古城は首を横に振る。

 

「……いや、見てないな」

 

「そうだよね。古城君はずっと調理場にいたんだし」

 

 がっかりと肩を落とす凪沙。

 その手にはおにぎりを載せた紙皿。皿から余裕ではみ出すほどの巨大サイズのおにぎりがふたつ。まだ表には順番待ちの人たちがいるというのに、わざわざ取ってある。それが誰のためかというのは言うに及ばず。しかし、兄としては複雑なことに、それが意中の相手に渡されることはないので、毎度、この妹手製の爆弾おにぎりは古城が頂いている。

 

「……でも、全然いないなー、クロウ君」

 

 古城には会いたいのに、この半月一度も顔を合わせたことがない後輩がいる。

 落ち込んだ空気を入れ替えるように、古城は凪沙へやや声を張り上げて言う。

 

「よし! 凪沙のチェックで味付けも完璧だったのはわかったんだし、すぐに持ってくか」

 

「うん、よろしくね。あと手が空いたら、お皿の補充と雪菜ちゃんの手伝いもお願い!」

 

「あいよ」

 

 慌ただしく駆け出していく妹の後姿を見つめて、古城は我慢していた嘆息を吐き出した。

 忙しく働いている方が、余計なことを考えなくていいだろう。妹は知らない。未成年だから配慮されているのか、幸いにして、ニュースでも実名ではなく、通り名だけしか言われてないので、古城のように関係者として事情聴取されなければわからない。だから、彼女の中では、あの後輩は未だにテロ事件解決のために駆り出されているということとなっている。

 ので、学校では会えておらず、でも、こういう炊き出しの場でなら食べ物の匂いにつられ、ふらっと腹を空かせた彼がやってくるかもしれない、と内心期待しながらボランティアをやってるのだろう。

 

 だが、ここに集まってくる被災者たちに、現場で目撃した話を聴いているが、その実行犯の特徴はどれも古城の外れてほしい想像に沿ってしまうものばかりであった。

 今や<タルタロス・ラプス>という組織名ではなく、<ハートレス>という個人を指した通り名の方が恐怖の代名詞として世間に周知されている。

 

「悪い、遅くなった。スープお待ち!」

 

「あ、先輩。ありがとうございます」

 

 危なっかしい足取りで大鍋を運んできた古城に、雪菜が不安そうに駆け寄ってくる。三角巾で髪をまとめた給仕スタイルの彼女は、普段と違い新鮮でつい目につく。

 

「姫柊の方こそお疲れ。これ全部、姫柊が握ったのか?」

 

 背後のテーブルに所狭しと並んでいる、ラップをかけた大量のおにぎりを指して古城が訊ねれば、調理用のナイロン手袋を脱ぎながら雪菜は首肯で答える。

 

「はい。追加のおにぎりはこれで最後です。お米がもうなくなってしまったので」

 

「そうか。足りるといいけどな」

 

 空っぽになった炊飯釜に困ったように眉尻を下げる雪菜に、古城も少し心配になる。

 行列を作ってる人々の大半は、雪菜たちのおにぎり目当てなのだ。それが手に入らないとなれば、落胆するのは容易に想像できることで、暴動が起きてしまうかもしれない。

 ただ、目当てとされる雪菜当人は、このガスや水道の復旧がまだ終わっていない被災者たちは暖かい食べ物を心待ちにしていると思っているようで、自身の写真がネット上で話題となっていることは知らないので、ややズレてはいるが。

 とりあえず、それは心配のしすぎだと古城は思う。

 流通はまだ支障が出ているようだが、<タルタロスの黒薔薇>から二週間が経てばさすがに、絃神島の食糧事情も改善している。炊き出しの握り飯以外に食べ物にありつけないというような、危機的な状況ではないのだ。

 今回のボランティアの目的も、どちらかと言えば被災者のための気分転換や娯楽の提供が目的だ。その意味では雪菜たちは、自らの役割を十分に果たしていると言える。

 

 そして、これだけの“エサ”があれば探りを入れるには十分。

 

「じゃあ、この辺りにあるのをもらってくな」

 

 古城は手にしたお盆におにぎりを十数個載せる。美少女手ずから渡すのではないのでがっかりされるだろうが、きちんとお手製のおにぎりであることに変わりない。配給すれば、自然と人は寄ってくるし、見知らぬ相手でも話が訊き易い。早速、今朝のニュースで流れた中央区での事件について話してもらおう。あまり口を開きたがらないのもいるだろうが、そこはこの競争率の高いプレミアムな美少女の手作りおにぎりが役に立つ。

 古城はその日一日の活力となる朝飯よりも、この被災地だからこそ得られる生の情報をとにかく欲しているのだ。

 

「先輩もちゃんと食べてくださいよ」

 

「ああ、わかってるよ」

 

 あまり面白くなさそうに雪菜が古城に注意をする。そのやり口は理解していても、足りてない食糧で釣るみたいなのは、真面目な彼女には気に入らないのだろう……と古城は思う。どちらかといえば、わざわざ取り置きしてもそれを他人に渡してしまうのが雪菜には不服なのだがそんなことは言ったりしない。雪菜としても情報は欲しいのだ。

 

 そして、雪菜が配給に対応し、古城がテントから出たところで、人混みの中でもすぐわかるくらいに目立つ、鮮やかな銀髪碧眼の少女――叶瀬夏音を見つけた。

 

「あ、お兄さん」

 

 向こうもこちらに気付いたのか、大きな段ボール箱を抱えていた夏音が足を止めて振り返った。

 幼いころに修道院で暮らしていた夏音は、慈善活動の知識が豊富だ。今回の被災者支援でも、最年少のスタッフとしてみんなから信頼されている。日本人離れした美貌とも相まって、被災者からの人気も高い。けれど夏音は、よく言えばおっとりとした、悪く言えばマイペースで少々トロい性格なため、争奪戦も勃発するこの炊き出し場には明らかに不向きな人材であった。

 なので、この乱雑とした場所で無警戒に進もうとすれば、

 

「待て―――」

 

 と止める暇もなく、心配そうに凝視する古城の前で、予想通り夏音は何かに躓いてバランスを崩し、

 

「あ……」

「っとお!?」

 

 咄嗟に転びかけた夏音の身体を古城が腕を差し出して支えて見せる。危なかった。小柄な夏音だから、左腕一本で抱き留めることができた。落としてしまった段ボールも中は紙皿や割り箸で割れ物はなく、問題ない。

 

「大丈夫か、叶瀬?」

 

「あ、お兄さん、すみませんでした」

 

 古城に抱き支えられたままの姿勢で、穏やかに微笑む夏音。『中等部の聖女』という呼び名に相応しい、神々しくも清楚な微笑みに、一瞬古城は見惚れてしまう。

 それから、立て直した彼女は改めて恭しく頭を下げる。

 

「今日はありがとうございました。凪沙ちゃんにも、雪菜ちゃんにも、お手伝い感謝でした」

 

「あ、いや、俺がやったのはスープの用意だけだから。それにこっちはこっちで都合がいいのがあるからさ」

 

 涼やかな夏音の瞳に見つめられ、古城は照れたように目を逸らしてしまう。

 けれど、被災者とは別として、“彼女の保護下にある”夏音にも古城は訊きたいことがある。

 

「それで、那月ちゃんたちは、まだ帰ってきてないのか?」

 

 その問いかけに、夏音はそれまでの朗らかな笑みの明度を落とし、眼差しを伏せてゆるゆると首を横に振る。

 

 

「……はい。那月先生も、アスタルテさんも、クロウ君も、2週間前から帰ってきていません」

 

 

彩海学園

 

 

 彩海学園にて校長室よりも上の最上階に自室を構える暁古城の担任教師。

 国家攻魔官の資格を持ち、この絃神島で五本の指に入るとも言われる実力者。

 そんな難事件があろうとも無遅刻無欠席であった彼女、南宮那月はここ半月ほど彩海学園に来ていない。テロ事件にかかりきりとなっているのか、それとも溜まりに溜まった有給休暇を使っているのかとも噂されていて、それほど騒ぎとはなっていない。

 

 だが、同居している夏音曰く自宅にも戻ってはおらず、また古城は<空隙の魔女>が夢幻の中に閉じ込めていなければならないはずの<監獄結界>が、人工島北地区に未だに現界していることを確認していた。

 それが示すのは、あの傲岸不遜の大魔女が異空間を繋げるほどの余裕がないのか、それともすでにこの世からいなくなっているのか……

 また彼女が保護観察下に置いている人工生命体のアスタルテも、二週間前のテロ事件で負傷して運び込まれた病院からいなくなっていた。古城が事件後に話を聴きに行った時にはすでに病室は蛻の殻で、担当医からすでに退院したという。

 

 そして、暁古城の日常から欠けている人物は、まだいる。

 

「あ、来た、暁! こっちこっち!」

 

「棚原?」

 

 クラスメイトの棚原が、ボランティアから始業開始前に教室に入った古城に声をかけた。中等部からの同級生である、それなりに気心の知れた彼女は、いったい何の用だ、と訝る古城に、窓際にある空き机を指差し、

 

「ねぇ、暁。最近、藍羽浅葱と連絡取ってる?」

 

「浅葱? ああ……いや、取ってないな」

 

 古城は、なるべく努めて、平静を装って答えた。

 テロ事件以来、浅葱は一度も学校に来ていない。連絡しても返信は一度もない。心配になって直接自宅に赴いたこともあったが、『特区警備隊』に屋敷を取り囲むように検問を敷かれて立ち入れなかった。浅葱の父親は絃神氏の評議員を務める重要人物だが、その護衛にしても装甲車まで持ってくるのは明らかに過剰戦力だろう。『魔族特区』の治安維持を担当する人工島管理公社直轄の対魔の武装警備員らに結界も張られており、雪菜に頼んで式神を飛ばしてもらったが中の様子は窺えなかった。

 

「へぇ。浅葱が古城に連絡できないなんてよっぽど大変なのね。でも困ったな……小学生の従妹に、藍羽とのツーショット写真を送るって約束しちゃったんだよね」

 

 手に持った携帯機器を未練がましく掌の上で弄びながら、小さく唇を尖らせる夕歩。

 古城はあからさまに残念そうなクラスメイトに片眉だけをあげて、

 

「なんで小学生が浅葱の写真なんか欲しがるんだ?」

 

「そりゃ藍羽のファンだからでしょ。あたしが藍羽のクラスメイトだって言ったら、あの子、すっごく喜んじゃって」

 

「はー……まるでアイドル扱いだな」

 

 まったく心のこもってない返事をする古城に、夕歩はややムキになったように声を張り上げて、

 

「アイドル扱いじゃなくて、アイドルなのよ。なんたって国際指名手配にされてるテロリストの残党から絃神島を護ってる聖処女(ジャンヌダルク)なんだし、話題になるのも当然でしょ」

 

「違う」

 

 古城は、つい強めに否定してしまった。特に大声を発したわけではないが、圧されたクラスメイトが息を詰まらせたように、黙ってしまう。それを見てすぐ、反省した古城は気怠く息を吐き、

 

「今、テレビに映ってるのは偽者に決まってる。浅葱がそんなことするわけがない。だいたいあいつがアイドルになんて無理があるんだよ。おまえは浅葱に何を期待してんだ」

 

 古城の知る浅葱は美人な見た目に反して、色気とは無縁なタイプである。ちやほやされて喜ぶ性格でもないし、他人に媚びが売れるほど器用でもない。そして、平気で後輩を貶めることを発言できるような薄情な奴ではけしてない。そんなことを言わされるくらいならば舌を噛むだろうと断言できる。

 とにかく<心ない怪物(ハートレス)>から絃神島を護ってると英雄視され偶像(アイドル)扱いされるあの偽者が古城は気に食わない。だからといって、何も知らないクラスメイトにそれを言ったところでどうしようもない。

 

「そう言われれば、そうだんだけど。でも、浅葱って美人なことは確かだし。アイドル扱いされてもおかしくないというか……ほら、藍羽のプロモーションビデオ。本格的なアイドルみたいで、結構可愛くて好きなのよね」

 

「ああこれか」

 

 スマホを操作し、ネット動画サイトに接続した夕歩が再生したのは、ここのところ耳に馴染んだ歌声だった。

 この動画に流れてる曲目は、『Save Our Sanctuary』――人工島管理公社のプロデュースする絃神島復興支援ソングだ。

 ただ今島内のいたるところで耳にするこの流行歌を口ずさむのは、純白のサマードレスを着た浅葱。海岸沿いを裸足で歩く映像の中の彼女の姿は、確かにアイドルと言われても違和感はなく、世間の反応も上々なのも納得しよう。何も知らなければ古城もそう思えたかもしれない。しかし、はっきり言って古城はそのチャリティーソングはウソっぽくて、好きではない。

 折角、再生回数が断トツの動画を見せたというのに、思った反応ではないことに、おや、と夕歩は訝しみ、

 

「なに? 暁、気に入らないの?」

 

「まあな。さっきも言ったけど、これウソ臭いんだよな」

 

「そうね、それ良く撮れてるけど、偽者よ」

 

 とそのとき、古城の回答に同意する声が上がった。

 会話に割って入ったのは、大人びた長身の女子生徒だった。クラス委員の築島倫である。彼女は古城に見せているその動画を一瞥し、きっぱりと言い切ってくれた。その反対意見が妙に嬉しくて、古城は築島に好奇の視線を向ける。彼女は期待に応えるように、自論を述べてくれた。

 

「偽物?」

 

「うん。多分魔術かCGじゃないかな。浅葱が自分でそんなもの作るとは思えないけど。でも、このピアスの色が違うのよ」

 

 倫はすでに再生停止した画像でアップしている浅葱の横顔を素っ気なく指摘する。見れば、プロモーション撮影時の浅葱は、古城の知らない赤いピアスをつけている。いつもつけている浅葱色(ターコイズブルー)のではなく、高価そうな大振りの宝石がはまっているものだ。

 浅葱の親友である築島倫からすれば、それだけで偽者と断定できる十分な証拠なのらしい。

 藍羽浅葱が、普段愛用している青いピアスを外したり、ましてやそれ以外をつけることはありえない。

 古城からすれば、ちょっと首を傾げたくなるくらい納得のいかないそうな理屈なのだが、

 

「それに浅葱が歌って踊るなんてありえないし。あの子、隠してるけど実は音痴だから」

 

「お……おう」

 

 身も蓋もない指摘であるも、今度は古城も素直に首肯を返せた。浅葱のカラオケ嫌いは、古城も知るところだ。音感も声質も悪くないというのに、なぜか歌だけはダメだという。

 だから、いくら絃神島復興支援であっても、浅葱が人前で歌うなど考えられず、自分で歌うくらいなら音声合成ソフトを一から自作してパソコンに歌わせるようなタイプなのだ。

 そして、浅葱の歌が偽物だとすれば、彼女のプロモーションビデオすべてが偽物だとしても不思議ではなく、この半月で流される宣伝のなにもかもが本人のものではないということもあり得る話になってくる。

 古城にしてみれば、浅葱がアイドルかどうかの真贋などどうでもいいのだが、でも、“後輩を貶めるように訴える浅葱が偽者”だという声には少しだけ気を落ち着けさせることができた。

 浅葱はアイドルなどが本職ではなく、やや大食いの女子学生であり、<電子の女帝>とも呼ばれるほどの凄腕のハッカーだ。

 その彼女が世間からは情報操作され実名が流されていないのだとしても、<心ない怪物(ハートレス)>の正体が、南宮クロウであることも調べればすぐにわかることだろうし、上級理事らを殺害したこともすぐに真実を調べ上げて、その潔白を証明するだろう。浅葱は後輩の面倒見がいいヤツなのだ。特に、クロウはよく可愛がっている。クロウが怪物だと学園で苛めに遭っていた時も、そのような風評被害を理路整然と論破して黙らせてきたことを古城は知っている。

 

 だが、人工島管理公社はその偽者を持ち上げて、浅葱をみんなから崇められる偶像(アイドル)に仕立て上げようとしている。

 浅葱が学校を休んでいる理由は、絃神島の復興支援に協力しているからだと言われているが、その活動がそもそも偽りなのだとすれば。

 本物の藍羽浅葱は、今、どこで何をしているのだろうか―――?

 

「………」

 

 古城は不機嫌そうに唇を結んだまま、自分の席に脚を投げ出して座った。

 始業のチャイムが鳴っても、いやあれからずっと何度となく問いかけが繰り返される。

 この疑問を解消しようにも学生にできる範囲では届かず、かといって頼れる人物も音沙汰無しときている。

 そう、情報分析で頼りになる浅葱も、追跡捜査で頼りになるクロウも、そして、国家攻魔官である那月も、古城は出会えず、姿はおろか声も聞くことができないでいる。

 獅子王機関の剣巫である雪菜も、同じく特務機関の一員である舞威姫の紗矢華、志緒、剣巫の唯里らと連絡を取り合い、情報交換をしてくれているのだが、分かったのは後輩の無実くらいで、その消息は依然とつかめていない。

 また浅葱の幼馴染で、人工島管理公社の幹部職員に兄がいる矢瀬基樹も、実家の都合だとかで学校には来ていない。

 

 古城に残っているのは、やはり<第四真祖>としての力。

 <タルタロス・ラプス>の被害から立ち直ろうとする絃神島で、『世界最強の吸血鬼』の天災じみた暴威を振るうのはさすがに気が引けて、これまで遠慮してきたのだが、もうそろそろ我慢の限界ときていた。

 

 

(誰でもいい。俺に本当のことを教えてくれ……!)

 

 

キーストーンゲート付近 オープンカフェ

 

 

『―――教えて差し上げましょう<第四真祖>。あなたが知りたいと欲するものをね』

 

 

 放課後。校門前でいつも通り待ち構えていた雪菜と共に、古城は今日も行動する。

 だが、病院と言い、屋敷と言い、もうこの二週間で古城たちは情報が拾えそうなところは周り尽していた。被災地の方を巡ろうにも、そこはまだ交通情勢が安定しておらず、また警備隊に検問が敷かれている場所もあるのでそう簡単には立ち入れない。

 結局、古城が今日向かったのは、絃神島中央に位置する巨大建造物――キーストーンゲートの外縁部にある二階建てテラスに面したオープンカフェだった。そこは、キーストーンゲートの西側エントランスの真正面にあり、その出入り口よりシースルエレベーターで最上階にまで昇ったところに絃神島のローカルラジオ局である『FM絃神』の放送スタジオがある。

 今日、この『FM絃神』の放送中の番組に浅葱が出演することになっているらしい。もしも本物の彼女がラジオ局に訪れるのであれば、ここで待っていれば通りかかる姿がみられるかもしれない。

 もっとも古城と同じように淡い期待を抱いて、出待ちをしている浅葱のファンと思しき人々がざっと30人ほどエントランス前にいた。

 ローカルアイドルの人気ぶりを目の当たりにして少し驚く古城だが、偽者の彼女に熱を上げるあの一団に混ざる気にはなれず、こうして一歩離れたけれど見張るには絶好の位置取りにあるカフェに入ったわけである。

 

 そこで、遭遇した。

 

 正確には、古城と雪菜がそれぞれ注文したものを持って、適当な席についてしばらくして、特に回りが混雑してるわけでもないのに、『失礼』と一言入れてさりげなく相席について青年からコンタクトをとってきたのだ。傍目から見れば、中高生の男女カップルという入り込む隙間のないところへ潜り込んだその行為は目立つのだろうが、“術でもかけられているかのように”、周りの客は無反応だった。

 そして、古城たちもあまりに唖然としてしまったが、振り切れた針が一周回って逆に冷静となったように、大声をあげて騒ぐような真似はしなかった。

 

「お久しぶりですね、<第四真祖>、そして、神狼の巫女よ」

 

「絃神、冥駕……!」

 

 穏やかに話しかけてきた、黒い道士服を着た青年の名を、古城は犬歯をみせ、唸るように低音質の声で唱えた。

 古城たちが顔を合わせたのは、これで三度目。

 一度目は、<監獄結界>が破られた『波隴院フェスタ』の日に。

 二度目は、『神縄湖』にて『聖殲派』と<沼の龍(グレンダ)>の争奪戦をした新年早々。

 どれも直接的な敵対者ではなかったものの、けして味方ではなかった、そして、獅子王機関の職員を惨殺した凶悪な魔導犯罪者だ。警戒するなというのは無理な相談だ。一緒の卓について波乱もなく和やかにお茶をするなんてありえない。特に雪菜はこの男と槍を巡って命がけで争ったのだ。

 それでも。

 とにかく情報に飢えていた古城は、ひとまずは、話し合いの場につくと決めた。

 

「絃神冥駕、あなたは<雪霞狼>で消滅したはず……」

 

「いいえ、あのとき、あなた方が私に振るった刃はわずかに急所を外れていました。何の手違いがあったのかはわかりませんがね」

 

 席を立たない古城の思惑を悟り、問答無用に楽器ケースから破魔の銀槍を店内で展開することはしないものの、鋭い眼光を飛ばして詰問する雪菜に、それを思わせぶりに受け流す冥駕。

 

「先輩……」

 

「悪い姫柊。こいつと話をさせてくれないか?」

 

 本来であれば、この獅子王機関にとって危険な人物は見敵必殺の姿勢で捕らえるべきなのだ。

 

「……いえ、私は先輩の監視役ですから。それにこの場での戦闘は控えるべきでしょう」

 

 黒いギターケースを手に取りながらも、中を開く真似はしない。きっと周りに人がいる店内で暴れるのは被害が大きいと判断してのこともあるのだろうが、古城は我儘を聴いてくれた雪菜に感謝しながら、青年を睨む。

 

「そっちから話しかけてきたってことは、浅葱やクロウのことを知ってるんだな?」

 

 探るように問いかける古城の慎重な姿勢に、冥駕はうっすらと微笑みを浮かべ、

 

「ええ、『カインの巫女』も、<黒妖犬>も、大まかにですが把握しています。少なくとも、とっかかりがつかめず右往左往としてるあなたよりは知ってるかと」

 

「脱獄囚のクセにやけに情報通じゃねーか」

 

 小馬鹿にするような発言に、やや苛立つ古城だが、この程度で切れるほど堪忍袋は軟ではない。信用できるかどうかで判断すれば、首を大きく横に振る人物だが、それでもこの青年が垂らす細い蜘蛛の糸のようなとっかかりを古城は逃すつもりはない。

 冥駕は、ふむ、と心外そうに呟いて、

 

「そう敵対する気はわからなくもありませんが、どちらかと言えばあなたは私に近い側では?」

 

「うっせーよ。いいから知ってること全部教えろ絃神冥駕。このままだらだら関係ない話をするんなら力ずくでも答えさせてやるぞ」

 

 歯を剥いた古城。殺気のこもった眼差しで睨まれる冥駕は、ふ、と失笑を零す。

 

「正直、私もあなたと話をするつもりなどなかったのですよ」

 

「なに……?」

 

 古城の眉間に皺を刻んだ。冥駕はにこやかに微笑んで古城を見つめる。

 

「私は、あなたに対していかなる興味も抱いていない。脅威に感じていない、ということです。ああ、少しだけ親近感は抱いていましたけどね。かつての私と同じ、獅子王機関に騙されている哀れな子羊には同情を禁じえません」

 

「てめぇ……」

 

 その青年の瞳に憐憫の色が滲んでいることを見取り、古城は歯軋りさせる。安い挑発に乗る気はないが、それでもこの男に同情されるのは酷く気に食わないものだった。

 

「いい加減にしねーと、おまえがここにいることを那月ちゃんに報告す(ちく)るぞ」

 

 青年を捕縛し、異空間に閉じ込めていた、苦手意識のある南宮那月の名を口にした古城だが、それに対して動揺は起こりすらない。

 

「戯言をのたまうとはあなたの方が余裕ではないか<第四真祖>。<空隙の魔女>は、すでに死んでいるというのに」

 

「なっ……!?」

 

 言葉を失くし瞠目する古城に、冥駕はひとつひとつその根拠を語る。

 

脱獄者(わたし)がこうして表に出ていられることから察してほしかったものですが、<監獄結界>が、この二週間現界し続けていることはあなたたちもご在知でしょう」

 

「だが、そんなの『波隴院フェスタ』のときと同じ……!」

 

「いいえ。私の下に入ってきた情報によると、殺されましたよ―――自らのサーヴァントである<黒妖犬(ヘルハウンド)>の手にかかって」

 

「ふざけたことを抜かしてんじゃねぇ!!」

 

 古城の右手が跳ね上がり、冥駕の道士服の襟元を掴んだ。

 テーブルを挟んで向かいの席に座っていた青年を思い切り引き寄せ、正面から見据える。

 睨みつける。

 

「そんなこと! 絶対にありえるはずがあるか! そんな馬鹿げたことを言うんならこっちも大人しく付き合ってられねぇぞ!」

「先輩! 落ち着いてください!」

 

 まだ術が働いているのか、周囲の客らは無反応。しかしそれも怒りのままに<第四真祖>の魔力が放出されてしまえば覆い隠すのは無理があり、パニックとなろう。

 雪菜は目の色が赤くなっている古城を抑えようと呼びかけて、そんな最中で青年は平然としていた。

 怒声を浴びせても、顔色ひとつ変えなかった。

 その反応、その表情、その態度。何処にも動揺がないのは、青年が詭弁を弄しているわけではない証拠なのではないか。それとも本心から、南宮那月(たにん)の生死などどうでもいいと何も感じてないのか。

 『僵屍鬼(キョンシー)』。禁術によって甦らされた人造の吸血鬼。陰と陽からも隔絶した観測者。

 怒りに駆られ、古城は拳を振り上げるも、そこで停止。むろん、己の意思ではない。抱き着いた監視役の少女が伸ばす腕に掴まえられたのだ。人間と魔族。その気になれば強引に振り切れるものだが、そこで古城は頭が冷えた。彼女は剣巫としての本分を控えて、矛を収めてくれているのだ。なのにそれを無視して、お願いした古城が暴れてしまうのではその配慮に泥を塗るも同じ。

 すまん、姫柊……

 真祖殺しの槍――自らが手掛けた『七式突撃降魔機槍』を使わず、監視対象を諭すその様を、冥駕は表情筋が死んでいるような鉄面皮で見て、ふん、と鼻で笑う。

 

「信じるかどうかはそちらの勝手。私はただ私が知りうる情報をお話しするだけでして。本来であればその見返りとして、『七式突撃降魔機槍』をいただきたいところなのですが」

 

「冗談はそこまでにしろよ。そっちも利用できるから俺を“誘い”に来たんだろうが」

 

 ほう、と冥駕は目を細める。

 必要でなければ会う気がなかったと語るのであれば、それはつまり、古城たちに会ったのはその力を利用したいがためだ。

 幾分か頭の冷えた古城は、この青年の狙いも察してみせていた。

 

「よろしい。“共犯者”があまりに子供ではがっかりしていたところですが、多少頭は回るようだ。合格としておきましょうか」

 

「だが、こっちもこれ以上無駄話に付き合う気はねーからな」

 

 冥駕から古城は手を離し、再び席に着く。気を落ち着けさせるように、雪菜が渡してくれたお冷を古城はあおり、視線で話を促す。

 

「『カインの巫女』をキーストーンゲート第零層に幽閉し、<黒妖犬>を使役して、この絃神島の鎖国状態を維持させている。それは全て、人工島管理公社を支配する矢瀬顕重爺の悲願を成就するため」

 

 青年が口にした思わぬ人物の名に、古城はまた言葉を失くしてしまう。

 この『魔族特区』の管理公社の名誉会長であり、悪友基樹の実父である矢瀬顕重は、<タルタロス・ラプス>の自動車爆弾を使ったテロで暗殺されたはずだ。その現場の光景はニュースでも放映され、DNA検査でもその死体が顕重当人のものだと確認されていた。

 

「矢瀬顕重会長は、<タルタロス・ラプス>のテロで爆殺されたはずでは……?」

 

「いえ、あれは『影武者』です。己の遺伝子を基に作成させた人工生命体(ホムンクルス)。それを身代わりとし、“自ら呼び込んだ”テロリストを暴れさせている間に、顕重翁は暗躍していたようだ」

 

 信じられない。とても理解できるものではない。死んだ者が生きていたことではなく、その思惑が。

 だが。

 コップの水を溢れさせるのに、目一杯蛇口を捻るものは愚かだ。本当に賢い者は、表面張力ギリギリまで他人に水を注がせた上で、最後の一滴だけを自分で落とす。夜の王と称される真祖のような圧倒的な力など要さずに、愚か者に満杯の水を注がせるよう状況を整え、最小限の力だけで事を成す。そう、漁夫の利を狙え、最後に総取りできる勝者となれる環境を作り出せる、それがこの裏の世界で生き長らえる真の支配者だ。

 

「あの御方――咎神カインを降臨させるために設計された巨大な魔術装置である絃神島、その復活の儀式に不可欠な“寄坐(よりまし)”である『カインの巫女』に、それを守護する『墓守』を揃えた、本物の『聖殲派』――顕重翁の布陣はおそらく彼の望む万全の仕上がりに出来上がってることでしょう」

 

 信用できない人物から語られるにわかに信じがたい話。

 けれど、いくつか思い当たることがある。そう、『魔族特区』を襲撃した<タルタロス・ラプス>より、この人工島は咎神を復活させるための祭壇であり、『神縄湖』で遭遇した奴らとは違う、長い間潜伏し計画を組み上げてきた本物の『聖殲派』が裏にいると言っていたのだ。

 もしもそれが夢物語などではなく、『聖殲』の力がその話通り本物であったとするならば、世界中に億千万の被害が出る―――

 

「ですが、私には、顕重翁に対抗する手段がある」

 

 不敵な笑みを載せて、絃神冥駕は言う。

 我に状況を打開する策はあると。

 

「しかし、それを実行するには、『墓守』である<黒妖犬>が邪魔なのですよ。私はどうもあれとは相性が悪い」

 

 その死霊術で蘇った動死体である特性上もあるし、魔術によらず素で強い相手に所詮護衛術を修めた程度の武器で敵うわけもない。気配を隠蔽しようにも、あの嗅覚を完全に誤魔化せることなど不可能で、忍び入ることもできない。

 しかし、その身はひとつだ。

 

「……俺にクロウの相手をしろってことか」

 

「その通りです。私が零層で事を成すまで、<黒妖犬>の相手をしてほしいんですよ。不完全な<第四真祖>では敵わないでしょうが、それでもあなたが相手であれば躊躇することでしょう」

 

 古城の『世界最強の吸血鬼』の力というより、その関係からの情に頼ったところなのだろう。

 

「まあ、あれは主人を殺した<心ない怪物(ハートレス)>なので、期待できるかはわかりませんが」

 

「二度とそのふざけた汚名(モン)を口にするんじゃねぇ。次その戯言を聴かせたらぶっ飛ばすぞ」

 

 無知な同級生とは違って、せせら笑うこの青年に古城は一片の容赦を入れる気はない。

 

 状況はわかってきたが、この青年の目的(のぞみ)が、何であるかがわかってない以上、背中を預ける気にはとてもなれない。対抗する手段を持ってると自信を持って語るこの青年の力は必要となるのだろうが、共同戦線を張るには、まだ足りない。

 

「どうしてあんたがそんな真似をしようとするんだ。はっきりいって、『聖殲派(そっち)』側の人間だろ。何を企んでいやがる」

 

「企むも何も。私を蘇らせた我が祖父絃神千羅は、顕重翁の同志であった。いえ、祖父の方が主導者であったと言ってもいい。ですが、私と奴らの目的は違う」

 

 古城は雪菜の反応を窺う。視線に気づき、雪菜はごくわずかに首を振る。

 相手の真贋を見抜く巫女の鋭い感性では、その言葉に引っかかるものはなかった。

 

「つまるところ、私たちの望みは合致する。顕重翁の思い通りに事が進んでいるのが気に食わない。だから、囚われている彼らを解放してやりたいのです。今の私は、<黒妖犬>の肉体(からだ)にしか興味がありません」

 

「てめぇ、クロウに何をするつもりだ……」

 

「ふっ……私には必要なのですよ、あの温もりが。それをもう一度取り戻すためならば私は世界を相手にしてもかまわない」

 

「ふざけるな! クロウは俺の後輩(モン)だ。誰にも渡すかよ!」

 

 ………

 ………

 ………その会話だけ聞くと、クロウ君を巡って先輩が争っているように聞こえなくもない、いや、囚われの身には絶賛アイドルをしてる姫役にぴったりな『カインの巫女』こと藍羽先輩もいるのだが、それのヒロインのお株を掻っ攫ってる同級生の少年というシチュエーションはどうにも藍羽先輩がかわいそうというか、雪菜自身も―――姫柊雪菜はそれ以上考えるのをやめた。精神衛生上的によろしくない。なんとなく手にした楽器ケースの中で銀槍が震えたような気もする。今<雪霞狼>を手に取ったら簡単に<神懸り>ができそうな予感がした。

 

 なんとなく不機嫌となった少女は、青年と睨み合うこの先輩の足を思い切り踵で踏んづけた。

 

「っ!? ひ、姫柊、いきなり何すん……」

「あまり、店内で騒がないでください、先輩?」

 

 テーブルの下でぐりぐりと足の甲を踏みながら、差し込まれるその目力に、う、とたじろぐ古城。

 剣呑とした監視役の雰囲気に呑まれた世界最強の吸血鬼はいきり立った気を抑えて、顔色を窺う。―――そこで気づく。

 

「……なあ、姫柊、大丈夫か? 顔色、よくないぞ?」

 

 気遣うように古城が、雪菜の顔を覗き込む。今は目の前に気の抜けない絃神冥駕がいるからそれほど表には出していないが、ここ最近の彼女は少し弱っているように古城は感じられた。元々白い肌が、余計に青白く感じられるし、瞳も熱っぽく潤んでいるようにも見える。

 

「いえ。私は何ともありません。少し気温が低いせいだと思います」

 

「……気温が低い?」

 

 本気で言ってるのか、と古城は顔をしかめた。

 太平洋のど真ん中に浮かぶ絃神島は、温かな海流や湿度の影響もあって、真冬でもかなり気温が高い。常夏の気象なのだ。しかもこのオープンカフェは西日の直撃を受けるため、座っているだけでも汗ばむほどだ。

 それでも、寒気を覚えているのであれば、雪菜の体調は何か深刻な問題が発生しているということになっている。

 

「っ……!」

 

 深刻な表情を浮かべる古城の前で、雪菜が突然咳き込んだ。

 これまで我慢していたものが堰を切ったように、強く、何度も、胸を抑えて喘いだ。

 

「姫柊……?」

 

「大丈夫、ちょっと噎せただけです。本当に何でもありませんから」

 

 焦って立ち上がろうとする古城を、雪菜が苦しげな表情で制止する。しかしそうはいっても、どう見ても大丈夫という状態には見えない。粗い呼吸を繰り返す雪菜を見やった古城は、決断が早かった。ここで冥駕との話し合いを切り上げよう。

 と、そこで、

 

「………」

 

 その様子を観察していた冥駕は両の袖下に隠し持っていた漆黒の短槍を手に取った。

 

「あまり悠長にしている状況ではないですよ<第四真祖>。私が知る獅子王機関であれば、この状況を看過するとは思えません」

 

 ぞくり、と。

 その時、背筋を震え上がらせる冷気が古城を襲った。本能が危険を訴えてくるこの感覚は、殺気―――

 

 漆黒の短槍を連結させた目の前の青年からではなく、自分たちの後ろ、オープンカフェの出入り口からだ。

 

 続いて、見知らぬ世界に塗り替えられた奇妙な感覚が駆け抜けたかと思えば、避難誘導をしたわけでもないのに、店内から外へ一斉に客や店員が出ていく。

 そして、人波を逆流する人影がひとつ。

 

「え……?」

「下がってください、先輩!」

 

 脇に立てかけていたギターケースから、雪菜が銀色の槍を引き抜いた。金属製の柄がスライドして長く伸び、折り畳まれていた三枚の刃が戦闘機の翼のように展開される。

 その槍を素早く旋回させて、低く身構える剣巫。弱っていようが常在戦場の意識のある訓練された剣巫として、完全な臨戦態勢だ。

 

 こんな街の中心部で、白昼堂々、魔術攻撃を仕掛ける者。それだけで要警戒だがその狙いは? 古城か雪菜、それともこの冥駕か―――

 

「まさか、あなたが出向くとは……」

 

 皮肉気に片側だけ頬肉を吊り上げる冥駕も、霊力も魔力も打ち消す巫女殺しの『廃棄兵器』を構える。

 七式と零式の矛先が向けられる先より、静かに歩み出てくるその影。白いフード付きのマントで全身を覆った痩身の相手と、まだ間合いはおよそ30mほど離れているが、しかしそれだけ距離を取っていても異様な気配ははっきりと感じられた。

 

「先輩、気を付けてください……あの人は、危険です」

 

 そばにいる要警戒対象である絃神冥駕に刃を向けずにその白マントの相手へ向ける剣巫の腕は微かに震えている。

 すぐ、それは緊急の意思となって、古城へ警告の矢を放たしめた。

 

 古城もそれは同意だ。

 この街中で、包帯のような呪符を巻き付けてある薙刀と太刀を持つ、『魔族特区』で銃刀法を無視している相手だ。それよりも醸す雰囲気。

 殺意や敵意というよりも、大きな嵐が近づく前の、張り詰めたような静けさに近い。ほんの些細なきっかけですべてを薙ぎ払う暴風へと豹変しそうな悍ましさがそこにある。

 

「……っ」

 

 白マントの剣槍二刀流を見据える雪菜。腰はわずかに沈み、いつでも飛び出せるよう爪先が浮いていた。古流ならではの歩法。それでも槍を向けられた相手の余裕は崩れない。武器を持てども、太刀は鞘から抜かず、薙刀も肩にかけたまま。

 この格上が見下ろすような態度に、じりじりと押されていた剣巫は、堪え切れずに飛び出した。

 霊視でもってしても先の読めない。呼吸すら掴ませない。何をするかわからない得体のしれない相手に、先の先を、雪菜は選んだのだ。

 手の内の予想できない敵に対するに、最善の策はその手を出させないこと。基本にして効果的な作戦を、剣巫は電光石火で実現させる。

 

「<雪霞狼>!」

 

 破魔の銀槍が唸った。

 内蔵された術式が発動し放たれる青白い光は、ありとあらゆる結界を切り裂き、魔力を無効化する『神格振動波』の輝きだ。その輝きを粒子のように撒き散らしながら、間合いを詰める雪菜。勢いのままに突き出した槍の一閃は、瞬きの間に白マントに包まれた体を刺し貫くかと思われた。

 それは錯覚であった。

 次の瞬間、相手の身体は、槍のつくった風に押されるように軌跡の外へいた。

 

「な―――?」

 

 剣巫が、呻く。

 呻きながらも動きは止まらない。むしろ加速しながら、次々と攻撃を繰り出してく。

 それでも、剣巫の乱舞―――そのすべてを、相手は悉く躱していくのだ。

 まるで、神楽舞であった。

 ほんの一歩ステップを踏みだけで、槍は虚空を切る。

 避けるというほどの鋭さでもなく、足運びはむしろゆったりとした優美なもの。

 なのに、当たらない。

 

 まるで、最初からわかっているような。

 どこから、どんな攻撃が、どういうタイミングで行われるのか、未来視になど頼らなくても把握できるような。

 その手にした得物、その刃先に零れるのを見取れば、その担い手の実力を測れてしまう卓越した眼力を持つ達人。

 そして、そのまま彼女は何事もなく、雪菜の無数の連撃をすり抜けた。タン、と軽い音を立てて白いマントの影が跳ぶ。重力を無視したいような動きで、棒立ちの古城の前に着地。

 白マントが胸元へ揃えた指先を向けてきて、反射的に古城は身構えるが、遅い。

 

「―――っ!?」

 

 指先から、魔力で紡がれた透明な刃が捻れて飛ぶ。

 声にならない悲鳴と共に、古城の身体が吹き飛んだ。制服の胸元が派手に裂け、喉から鮮血が零れる。古城が不老不死の吸血鬼でなければ、絶命してもおかしくない衝撃だ。

 

「暁先輩!」

 

 傷つく古城の姿を見て、雪菜の瞳に怒りの色が浮かんだ。槍の意思月を地面に叩きつけた反動で一気に白マントとの距離を詰め、その背中へ体重を乗せた最速の一撃を放つ。

 貫く。

 しかし、それは高速の重心移動と足捌きで生み出す残像。

 振り返らずとも、槍を見ずとも余裕で躱される。絶望的なまでの力の差であった。獅子王機関の剣巫がこうもあしらわれるなどありえるのか。

 失望した、というふうに白マントがフードの下で首を振る。紗爛(シャラン)、と鞘に納刀されていた太刀が、鞘走りの言葉そのままに抜かれ落ち―――中空を飛ぶ。

 

「剣が……勝手に……!?」

 

 使い手の下から離れて、自動で戦う武器という逸話は世界各地にあるが、まさにそれは『意思を持つ武器』であるかのように、宙を泳いでいた。

 そして、驚きから平常に戻ってすぐ、古城は身をよじった。

 鮮血がほとばしった。持ち主の手から離れた太刀が、斜めに古城を裂いたのである。吸血鬼の反応速度をもってしても、目で追いきれない迅速な攻撃。

 かろうじて転がりながら距離を取るも、傷は浅くなかった。

 オープンカフェの床を、だらだらと赤い色が汚していく。

 

 動け、ない……!?

 太刀の刃先に、呪毒のような怨念がしみ込んでいたのだ。それは何千何万と殺した相手の血を吸って、やがて積もった『固有体積時間』が属性を得てしまった。真祖でさえも怯んでしまうほどの呪毒に、古城の身動きが固まってしまったのを見て、雪菜の表情が恐怖に強張った。

 

「その武神具、まさか―――!?」

 

 頭をすっぽりと覆ったフードの下で、白マントが赤く濡れた唇を吊り上げて、

 

「    」

 

 何を発したのか聞き取れない、しかし雪菜はそれが詠唱と知る。

 獅子王機関の呪術の専門家である舞威姫が、『六式重装降魔弓』を用いて展開する高密度の魔法陣を、武神具もなく白マントを中心に花開かせた。鳴り鏑による“人間の声帯と肺活量では”発声不可能、聴くことさえも至難な人間の可聴域外の音域で紡がれる圧縮詠唱。それが成す、喪われた秘呪の威力は眷獣の一撃に匹敵するか。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る!」

 

 雪菜の決断は早い。槍を構え直すと、瞑目して精神を統一する。厳かな祝詞を謳い上げ、呪毒にやられ動けない古城を護るため、魔力無効化の結界を張り巡らそうとしているのだ。

 白マントの圧縮詠唱がどれほど強力でも、それが魔力によるものである限り、眷獣の一撃であろうと『神格振動波』の結界は破れない。だが、

 

「がら空きだよ―――」

 

 雪菜が結界を展開させる基盤となる<雪霞狼>に、白マントが軽々と片手で振るった長大な薙刀がぶつけられた。

 刃と刃が相打ちした衝撃に、それとも魔術を打ち消す効力が働いたのか、薙刀の刃先に巻き付いていた呪符が弾け飛んだ。

 そして、見えた薙刀の刀身は太陽のように赤く輝く金属。

 巫女の感性で自ずと悟る。

 あれは、『緋緋色金』

 すでに原料の加工技術が失われている、太古の日本に存在したと言われる幻の合金属。

 金よりも軽量でありながら、金剛石よりも硬く、永久不変に絶対に錆びない性質を持つ。そして、エネルギーを増幅させる特性を有した、古代神具の材料だ。

 この『七式突撃降魔機槍・改』にも、核には古代の宝槍が使われていると言われているが、白マントが手にする薙刀は、古代の宝槍そのものなのだ。

 そして、雪菜が銀槍に注ぎ込んだ霊力を、『緋緋色金』に増強された霊力の刃に相殺。『神格振動波』の結界展開が阻止された。

 

 

「邪魔にならないようにと控えていたのですが、どうやら私の方が相性いいようですね」

 

 

 白マントを基点に広がっていた高密度の魔法陣が、かき消された。篭められていた魔力を無効化され、魔法陣が雲散霧消となったのだ。

 青年が手にする、両先端に穂先を持つ、いびつな形の長槍『零式突撃降魔双槍(ファングツアーン)』もまた、<雪霞狼>と同じく魔力を打ち消せる力を持っている。そして、魔力だけでなく、巫女の力の根源である霊力さえも無力化できてしまう。

 それ故に、霊視による未来予測も、呪術による筋力増幅も封じてしまえる巫女殺しの魔槍。

 

 絃神冥駕に邪魔な横槍を入れられた白マントは、一度距離をとって、思い切り嘆息してみせた。

 

 

「犯罪者とつるむなんて、不良になっちまったのかい、雪菜」

 

 

 それは、予想外に若い女の声だった。悪戯っぽく響く洒脱な口調に、気安く呼びかけるその態度に、古城は戸惑う。それに、何処か聞き覚えのある声だ。

 

「それに、南宮那月に『壊し屋』の坊やを相手に<神懸り>を暴走させたと聞いた時から、もしやとは思っていたのだけどね。懸念していた通りだったとは……これはちとお灸を据える必要がある」

 

 ふるふると軽く頭を振り手を使わずに白マントのフードを取って現れた面貌は、美しく整っていた。

 白い肌に萌葱色の目。瞳と同じ萌葱色の髪からは、人間の耳のではない長い耳が覗いている。『魔族特区』の住人である古城でさえも初めて目にする希少な魔族であるが、物語に頻繁に記載される身体的特徴と合致することからそれが一目で、『長生族(エルフ)』であると解った。

 その『長生族』の眼差しに射竦められ、雪菜が怯えた子供のように全身を硬くした。

 すぐ切り替えた古城は、キッと怒りの視線を白マントへ向けて、

 

「おまえ……姫柊のことをなんで知って……!?」

「師家……様……」

 

 古城の詰問を遮って、震える声で零れた雪菜の言葉に、『長生族』の正体を理解した。

 なんでいきなり攻撃してきたんだ……!?

 激しく混乱する古城であるが、雪菜が師家と呼ぶ人物はたったひとりしかいない。獅子王機関の縁堂縁。猫の式神を通しての会話しかしてこなかったニャンコ先生の本体であり、『高神の社』で雪菜を剣巫に鍛えあげた師匠にあたる人物だ。

 状況の理解が追い付かない古城と雪菜―――その二人を庇うように、漆黒の槍を携える冥駕が前に出た。

 

「お行きなさい、<第四真祖>。縁堂縁は私が相手をします」

 

 剣巫、舞威姫の技に精通する獅子王機関の師家だが、<冥餓狼>はその巫女としての技量を奪ってしまうもの。

 しかし、今の一連の動きを見てわかるが、術に頼らずともその武技の冴えは卓越している。この獅子王機関の師家を相手に、護身術程度しか修めていない武神具開発者が果たして敵うのか。

 

「なに、あなたたちがいなくなれば、私も空間転移の呪符で逃げますよ。―――神狼の巫女、縁堂縁が私ではなく“あなたに”真っ先に攻撃を仕掛けてきた理由はわかっているはず」

 

 冥駕の言葉に、雪菜はハッと胸元に<雪霞狼>を抱き寄せる。

 

「<冥餓狼>―――!」

 

 縁が腕を振るって放たれる『霊弓術』の矢を、霊力を無効化する場を敷く冥駕の『廃棄兵器』が防ぐ。

 味方であるはずの師家が敵に回り、敵であったはずの脱獄囚が味方となる。

 この場でただ一人状況を呑み込めない古城の耳元に、雪菜がそっと唇を寄せた。そして思い詰めたような早口で告げてくる。

 

「逃げます、先輩!」

「え!? 逃げるって―――」

 

 古城が説明を求めるよりも早く、雪菜は制服の裾から呪符をばらまいていた。

 チッ、と縁の舌打ちが聴こえる。さすがの彼女も、あの生真面目な弟子であった雪菜が、この期に及んで師である自分に逆らうとは予想し得なかったのだろう。それに、『冥狼』が邪魔をするとなれば、即座に止めるのは無理だと判断するしかない。

 

「<(かぎり)>よ―――!」

 

 雪菜が作り出した巨大な狼型の式神の背中に古城は乗せられ、逃走する。<雪霞狼>を持つ雪菜が本気で警戒するのならば、追跡魔術は通用しないと言ってもいい。縁の能力でもってしても至難。

 

「どうなるかなんてあんたにはわかり切ってるはずだというのに、邪魔をする気かい、『冥狼』」

 

「なおさら。冬佳から<雪霞狼>を引き継いでおきながら、途中で逃げることを私が認めると思っているのか、縁堂縁」

 

 師として止めるべきだった愛弟子を逃がされた縁堂縁は、この邪魔をしてくれた青年を成敗すると決めた。

 

「弟子の教育に余所者が口出しするんじゃないよ」

 

 『緋緋色金』の薙刀――<初代雪霞狼>に凍えるほど静謐な霊力を湛えさせ、同時に妖刀魔剣に仕上がった太刀――<初代煌華鱗>に灼熱に荒ぶる魔力を篭める。

 魔力と霊力を打ち消す『零式突撃降魔双槍』があろうが、一撃でその『僵屍鬼(キョンシー)』の肉体を滅殺するだけの威力。ジャンケンで言えば、グーとチョキを同時に出すもの。魔力と霊力を同時に無力化できない故に『廃棄兵器』では、この同時攻撃を防ぐことはできない。

 

「やれやれ、いつまでも<冥餓狼>を『廃棄兵器』のまま許しておけると考えているとは―――あまり私を侮ってくれるな獅子王機関っ!」

 

 世界そのものを侵食する闇の薄膜(オーロラ)が、青年を覆う―――

 

 

青の楽園

 

 

 雄々しい獅子の鬣を持ち、牡牛の角を生やす。亀の甲羅に鋭いビレを背に身体は六脚の山猫、そして蠍の如き尾のある半獣半魚の竜。

 この『魔獣庭園』でも、観光客らに見物させない秘蔵区で管理される魔獣、<蛇の仔(タラスク)>。

 かつてはあまりの凶暴性から、厳重に管理下に置かれてもヤンチャして施設をしょっちゅう半壊させていた世界最強の遺伝子を継ぐ魔獣は、今では大人しい、飼育員のいうことをよく聞く従順な子になっていた。

 

『あれが躾けたとは思えんほど、お行儀がいいやつだな』

 

 電話口の向こうから様子を察する彼女の声に、藍色の髪の少女は納得する。

 その時、先輩に同行していたこちらのことを覚えていたのか、こちらの数倍の図体をした魔獣はへこへこと頭を下げているように低姿勢で様子を窺っている。世界最強の生体兵器の子供以上に破天荒な、問題児とのコミュニケーションが思い切り後を引いている(効いている)。それとも、あのあとやり過ぎた先輩に突っ込みを入れて、はっ倒した自分は、獣の順位付けで上位者と認識されているのだろうか。だとすれば、不本意であるのだが。

 

「<蛇の仔(このこ)>は特に調教せずとも使い物になるわね。それでそちらの進捗はいかがかしら」

 

「問題ありません。すでに操作手順は情報入力(インプット)済みです」

 

 戦力としても数えていいと太鼓判を押す魔獣の専門家に、首肯を返す。

 今、協力者の彼女の背中越しに見える、港に停泊している全長15mで、三人乗りの船。巨大な推進スクリューを船尾に二機搭載した、イトマキエイを膨らませた奇怪な形態をした機体は、『ヨタカ』というかつて深海に眠る世界最強の魔獣に接近するために『魔獣庭園』で買い取られた軍用小型潜水艇だ。

 ここで起きた事件で破損していたが、兵器類を除いて、機能系はすでに修復済み。海中を航行するには問題ない。そして、直接的な火力も、この<蛇の仔>が担ってくれる。

 

 これより向かうのは、絃神島直下の海底――水深400mの地点。

 常人にそれほど深く潜水できるのは無理があり、深度400mの水圧に耐えられない。また水は魔力を減衰させる性質がある。それに加え、計画の肝である重要な装置には当然、空間転移等で釣り上げられないように魔術除けの結界が張られているだろう。実際、<タルタロス・ラプス>の幹部のひとり千賀毅人が託した情報源では、そのような防衛機構を取っているとされていた。

 

 自分に与えられた仕事は、それを破ることにある。

 そう、たったそれだけのために、これから海中に潜って、人間に害を及ぼさない人工生命体(ホムンクルス)に刻み込まれた人格設定(プログラム)を違反して“破壊活動”を行うのだが、これは子供でも分かる簡単な理屈だ。

 

 

 ―――やられたら、やり返す。

 

 

 この『魔族特区』の支配者であろうと、私から彼を奪ったのは許さない。

 

 

 

つづく



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黄金の日々Ⅱ

人工島中央区

 

 

 委員会に部活、それから家に帰れば、宿題や掃除、洗濯、夕飯の準備と忙しい放課後。週に1、2度気まぐれに帰ってくる母親の持ち帰る大量の洗濯物がある場合は大変で、それからたまに入院中の父親の見舞いにも行ってあげないと。兄は行きたがらないだろうし、ここのところなんだか忙しいみたいだ。

 そんなわけで暁凪沙は、正月に怪我をした牙城の見舞いに学校の帰りに病院へ寄ったその帰り道を急いでいる。早く帰って今日の分の家事を片付け、夕飯の支度を済ませないと遅くなってしまう。

 ただ。

 病院のある北地区から、自宅のある南地区。最短で帰宅するルートは、自然、中央区を通る。

 

「……大丈夫、だよね」

 

 まだ交通が完全に復旧していないため、一駅分だけ自力で歩く。父の牙城にも帰り際に、『絶対に今の中央区には寄らずに遠回りしろ』急がば回れと説かれたけど、凪沙は、ふ、と後ろ髪が引かれるような感覚に少し迷ったところで方向転換すると決めた。

 

 現在の絃神島で、最も安全だと言われている―――しかし、先日に激しい戦闘がおこったのが、この中央区。

 親友の夏音のボランティアの手伝いをする時にも、よく耳にする<タルタロス・ラプス>の残党<心ない怪物(ハートレス)>。それが暴れたテロで、建物や路面が激しく損壊してしまっており、鋭利さすら感じられるほどに澄み渡った空気の向こうには、血塗られたようにアカい夕空があった。

 かつてのこの場所を知る者なら、数度確認してもなお目を疑ってしまうほどの圧巻の光景だ。

 

 必殺技の練習だとかで赤っ恥をかいたけどはっちゃけた、路上も。

 風邪引きと間違われお姫様抱っこされながら蹴り跳んだ、ビルも。

 彼とたくさんおしゃべりをした、帰り道が。

 数ヶ月前に病院の帰りで彼に付き添ってもらった時のものすべてが罅割れていて、それが記憶と重なってしまうようで、この最短ルートを選んだことを少し、後悔する。

 

「……、今日も、会えなかったな」

 

 ちょっと前まで名前を聞くだけで、ぼふん、と熱が上がってしまうくらいに顔が合わせづらかったのだけど、二週間も声が聴けてないとさびしい、といよりも飢えている。一向に連絡をくれないことに少し腹が立っているのもあるし、半月もその匂いを感じてないのに……ちょっぴりと物足りない想いがあった。

 でも、それを思うたび二週間前の夢遊(あれ)が脳裏によみがえるので、ブレーカーが落ちないよう自重している。

 

 そんな甘酸っぱい思い出に耽る凪沙を、はっと目を覚まさせるけたたましい警報が鳴り響いた。

 

「え、これって、浅葱ちゃんの……!?」

 

 テレビのニュースで危機感を煽るこの音を耳にしたことがあったけど、実際にそれを耳にしたのはこれが初めてだ。

 もうすぐここが、戦場になる。

 “魔族の”戦闘が始まる。

 それだけで凪沙は顔が蒼褪める思いで、早くここから離れなきゃと思うのに足が動かない。

 

 どうしよう……!

 逃げないと巻き込まれるのに……!

 

「はぁ。はぁ。はぁ―――!」

 

 逸る内面とは裏腹に、少女の足は一向に前に進んでくれない。立ち往生であるのに、過呼吸となる。

 まだ、克服し切れない、トラウマ。それが少女の体を、心を縛り付けにする。

 近くにいた人達も、警報を耳にして我先にと駆けて、動けぬ自分を置いてけぼりとする。

 

 <心ない怪物>の到来。

 それは魔族恐怖症を患っている凪沙だけでなく、<タルタロス・ラプス>が首謀したテロ事件から二週間たった今も精神的な傷の癒えない島の人間にもトラウマとなっているのだ。

 

 助けて―――

 そう、震える少女の唇からこぼれかけた時だった。

 ゴッ!! と烈風が突き抜けた。

 頭上を暗い影が覆う。

 思わずそちらを見上げた凪沙は、そこで悲鳴を上げることさえもできなくなってしまう。

 

 巨大な怪物。

 紋章に描かれるような飛龍が、すぐ間近を滑空している。

 

 その赤黒い竜は、中央区の中心にそびえるキーストーンゲートへ突っ込もうとしていて、すぐ警報とほぼ同時に駆け付けた警備隊の一斉掃射で撃ち落とされた。

 人工島の地盤を抉るように墜落した飛龍という大質量の巨体は、路上へ巨大なクレーターを作り、そして膨大な衝撃波を撒き散らした。一体のすべてから凹凸が消失し、ただの更地に変わってしまうような強風に、遮蔽物など意味がない。逃げ遅れた少女の体は、その余波だけで大きく飛ばされ、地面を転がってしまう。幸いに大きな怪我はなくて、打ち身擦り傷程度。

 だが、

 

「ぅぅ、……っ!?」

 

 目前で起き上がった飛龍は、崩れゆくシルエットを無視して、再び羽ばたこうとしている。抉り抜かれたのは仮初の血肉。そうこれは、吸血鬼の眷獣だ。“魔族の”力の一端だ。退魔効果のある砲撃を浴びせられようとも、無限の“負”の魔力で復元する。

 頭のひどく冷静な部分でそれを理解し、体は倒れたまま硬直している。警備隊も逃げ遅れてる少女に気付いていない、もしくは眷獣撃滅を避難誘導よりも上に優先しているのか。そして、眷獣の飛龍も木端の人間の子どもに気遣う真似などしない。すべては、戦場で逃げ遅れたのは悪いのだと、構わず蹂躙しようとする。

 

(もうダメ……っ!!)

 

 凪沙が思わず目を瞑ろうとした時だった。

 別の動きがあった。

 それは、ひとりの少年のシルエットをしていた。

 サイズが大きめの機械的な兜鎧、枷にも似た重厚なパーツを四肢につけながら、無重力であるかのように宙空を蹴って走るその少年が、飛龍との間に割り込むように躍り出る。躊躇なく、飛龍はその巨大な顎で障害を嚙み千切ろうとした。少年は避ける素振りも見せなかった。空中にいる少年と飛龍とでは自由度が違うのか。胴体を挟み込まれ、躊躇なく破壊が実行される。

 まるで。

 自らそれを望んでいたかのように。

 

 直後―――

 

 

 ザンズバ!! と。

 飛龍の口から貫くように伸びた金色の光の爪が、二重三重と巨体を切断していく。

 

 

「あ……」

 

 暁凪沙は、思わず口を開けていた。

 覆う機鎧が邪魔だけど、シルエットに見覚えがある。

 眷獣の一撃を受けても壊れない頑健な肉体に、眷獣を一撃で壊してしまう鋭利な爪拳をもった存在そのものが兵器であるかのような―――けれど、それを自分の前では怖がらせないよう力は最低限にして、心臓に手をかけられても気遣うその少年を。

 

 飛龍をバラバラに分断することはしなかった。

 それではいくつもの塊になった高密度の魔力塊が、そのまま街中へ降り注いでしまうからだ。だから、無数に瞬いた斬閃は、飛龍の体を完全に分断しない。料理下手が野菜を切るように、繋げたまま切り刻む。

 単純な空気抵抗に煽られ、飛んでいる物体はバランスを崩す。

 姿勢制御がままならなくなった飛龍の巨体が、まるで見えない大きな手によって進行方向を捻じ曲げられたような格好で、空中で矛先をガラリと変える。

 ビルではなく無人の道路へ向かう飛竜は、ボロボロになった頭部から路面へと突っ込んでいった。凄まじい勢いでアスファルトが捲れ上がり、人工島の地盤もグラグラと揺れた。しかし被害はそれだけだ。先ほどの墜落のような、余波で巻き起こされる破滅的な事態には陥っていない。

 躾の行き届いた行儀のいい犬が皿の上から餌を食べ散らかさずにいただくように、獲物を仕留めて見せた猟犬は、何度か身を捻って方向を調整すると、ちょうどビルの二、三階に相当する10m以上の高さから荒れて砂利敷きの地面へ躊躇なく着地した。飛龍の眷獣は、今度こそ完全に霧散する。残心を取るように、ぴたりと合わせた手甲を纏う手刀の五指より伸びていた金色の光の刃がゆっくりと消えていく。

 そこで、恐怖の金縛りの解けた凪沙は彼に呼びかけようと大きく息を吸い込んだ―――ところで、背後より大勢の合唱したような悲鳴が上がった。

 

「クロ―――『<心ない怪物(ハートレス)>が出たぞぉぉ―――!』」

 

 …………………え?

 周囲に伝播する、凪沙の声だけでなく意識までも塗り潰してしまう悲鳴は、先に凪沙を見捨てて逃げた避難者から発せられたもので、続けて響いた重なる銃声は先に凪沙を見過ごした警備隊が、飛龍を始末した少年に撃ち放ったもので―――彼はそれを否定せず甘んじて受け入れている。

 

 どうなって、いるの……?

 

 足が固まるのではなく、足元が崩壊してしまうような感覚に陥る。でも、自暴自棄となろうがこんな歪んでいる“事実”など呑み込めない。

 理解があまりに追いつけず、そして説明を求めたい相手はこちらを振り向くこともしてくれない。

 かつて、学園内で大多数に警戒されていたその時と同じように、罵声や攻撃を浴びせられても動じることはなく、彼はその場を後にしようとする。

 

「ま、待って―――!」

 

 制止も届かず、警備隊の銃撃に尻尾を巻いて逃げるように猟犬は走り去っていく。

 それから、今更とばかりに巻き込まれて負傷した凪沙に駆け付ける人たち。足首を捻ってしまっているにも構わず、その後を追おうとする凪沙を、捕まえて引き止める。抑えられて暴れる少女を、まだパニックになってると判断してか、落ち着いた柔らかな声で、

 

「大丈夫だ。<心ない怪物>は撃退した。あとは我々に任せなさい」

 

「違うの! そんなのじゃない! 彼は私を助けて―――」

 

「どうやら頭も打ってるようだ。今、救急車を呼んだ。それまでここで大人しくしていなさい。いいね」

 

「だから、違うんだって―――!」

 

 喚いても、誰も聞いてもらえず。この手は、視界に小さくなっていくその背中を追い向けても触れるのは叶わず空を掴むだけ。大人たちの力に押さえられ、少女はそれを振り切ることはできずに、孤独に戦い続けるその姿を、見送ってしまう。

 

 そして、急行してきた救急車両に運び込まれ、少女の身柄は先ほど父の見舞いしてきた母のいる病院へと逆戻りすることとなった。

 

 

紅魔館二号店

 

 

 絃神冥駕との邂逅から、獅子王機関の師家縁堂縁の襲撃。

 キーストーンゲート付近から逃げ離れた古城と雪菜は、ひとまず、落ち着ける場所を探した。

 途中で、重傷を負わされた怪我は真祖のデタラメな再生能力で治癒しても制服が血塗れのままの古城は、雪菜に着替えを買ってもらった。でも、逃げれたことは逃げられたのだが、どうやって合流するかまではあの場で話し合うのは無理で、向こう待ちの状況。

 いくら相性がいいと言っていたとはいえ、獅子王機関の『三聖』と同等以上の戦闘能力を持つ師家様を相手に逃げられるのは難しいに違いない。

 それでも、絃神冥駕という人材は必要だ。

 あの脱獄囚の言を完全に信じているわけではないが、この絃神島の創始者の孫である青年の『聖殲』に関する知識で右に出る者はそういないはずだ。古城たちでは効果的な打開策を思いつくことはできない。

 

 そして、獅子王機関に頼ることはできない。

 冥駕が指摘していたが、あのとき、縁堂縁は、教え子である雪菜を真っ先に狙っていた。弟子の腕試しにしても過激で、そして近くにいた獅子王機関を裏切った魔導犯罪者よりも優先するべきことなどそうそうないはず。それについては雪菜自身も師の行動には心当たりがあるようで、詳しい理由までは古城に教えてくれなかったが、雪菜は獅子王機関から危険視されているらしい。……もしかすると、今の体調不良が原因であるかもしれない。

 

 つまり、古城たちは帰ることはできないのだ。雪菜が住んでいる部屋は元々獅子王機関が用意してものであり、鍵を得ようと思えば簡単に得られる。もうとっくに獅子王機関の追手に占拠されているだろう。そして暁家の部屋も隣室にあるので、騒動を起こせばほぼ確実に巻き込まれる。今頃自宅に帰っているであろう妹の凪沙を怖がらせてしまうような事態には古城はしたくない。だから、帰れない。

 

 そうなると、一体どこで絃神冥駕と合流すべきであるか。追手の追跡呪術を撒くため雪菜が<雪霞狼>の『神格振動波』を展開させているため、冥駕の方からもこちらの位置はわからない。向こうもまた逃げ延びたとすれば追跡呪術を免れようとしているはずで、式神卜占を苦手とする雪菜では見つけられないだろう。

 

 ……ひとつ、思いつくとすれば、やはりキーストーンゲートだ。

 でも、まだ獅子王機関の追手がいるかもしれないそこに迂闊に近寄るのは悪手であり、考えをまとめるためにも落ち着ける場所を古城たちは探している。

 

 そして、見つけたのが、ある喫茶店。

 浅葱の出待ちをしていたオープンカフェとは違い、開店しているのに人気があまりない、よく言えば、隠れ家のような場所。店側とすれば客が来てないのはよくないが、追われてる身である古城には好都合だ。堂々とカフェテラスに入ってきたが、師家様が動いているとわかった以上、あの脱獄囚も人気の多い場所では合流しにくいだろう。腰も落ち着けられて、ついでに食事もできる喫茶店に入り―――どうやら閑古鳥が悲鳴を上げていると気付く。

 

 

「いらっしゃい、ませ……手を、あげてください……」

 

 

 店内に入ると無愛想な、獣耳を生やしたウエイトレスが入口の前で立っていた。

 雪菜と同年代くらいの獣人種の少女だ。そして、何と表現すればいいのか難しいが、“預けられたけどいつまで経っても引き取りに来ず仕方ないからうちで飼い始めた”みたいな感のある警戒心旺盛の捨て犬系。

 それから腕にはメニュー表でもなく、サブマシンガン(のモデル銃と古城は思いたい)を抱いて、反射的に前に立った古城たちに銃口を構えている。中々素敵なWorking Styleなバイト少女である。

 

 ……いや、ここがちょっとやそっとじゃ埋もれない強烈な個性(キャラ)を売りとする魔族喫茶であることは古城もわかっているのだが思わずにはいられない。

 属性盛り過ぎだろ! つか、いきなり客に銃を向けるな!

 

 ……ーリ、あなたよく無事で……

 

 それを突っ込む前に、古城の胸の内、血を循環させる左胸の心臓が強く打った。この獣耳少女の無事な姿に、古城はなぜか安堵した。ところで、

 

「えい」

 

 ビュビュ―――ッ、と躊躇なく引き金を引いて、銃口から飛び出してきたのは、液体。それが古城と雪菜の上げた両手の平に的中し、揮発。匂いからしてどうやらアルコール、外から来た客の手を殺菌消毒してくれるサービスのようである。

 

「―――申し訳ありませんご主人様方っ!?」

 

 あまりの出迎えに戦闘訓練を受けたはずの雪菜も呆然と固まってしまってるようで槍を取り出してもいない。と店の奥から叱責が飛んてきた。

 

「カーリッ! あんた、ご主人様とお嬢様に銃を向ける挨拶するなら、やる前に必ず一言入れなさいって何度言ったらわかるのよ!」

 

「問題ありません。水鉄砲ですし……それにどうせ、私の銃は当たりませんから……」

 

「ああもう! なんて娘を押し付けてくれたのよ義経! 絶対に許さないんだから~~~!」

 

 何度も何度も狙撃弾を避けられ防がれて百発百中のスナイパーのプライドを壊してくれた誰かのせいでか、なんだかやさぐれてる獣人の少女。

 奥から早足で駆け付けた女店長にスパンと頭を叩かれ、銃を取り上げられる。バイトの娘を叱りつけてから、改めて古城たちに作った営業スマイルを向けて―――固まった。

 

「いらっしゃい、ませ……」

 

 っ!? とそのとき、古城は鈍い頭痛を覚えた。

 それは、記憶喪失――アヴローラのことを思い出そうとした時と同じ症状だ。

 

「先輩、大丈夫ですか……!?」

 

「ああ、問題ない姫柊」

 

 もしかすると、この女性はかつてアヴローラに関わったことのあるヒトなのかもしれない。けれど、今、古城はそれを訊く時ではないだろう。

 一方、向こうは客商売のプロであって、古城のように表情に出したりはせず、『どうぞ、こちらへ』と中へ勧める。

 

 そうして、店内に踏み入った古城たちは、すぐさま異様な雰囲気を察した。

 『紅魔館二号店』、そのいちばん奥にあるテーブル席で向かい合って座っている二人連れの客。

 彼らから異様な雰囲気を流す感じがしている。

 元凶である二人はどちらも外国人で、両方とも十代前半と思しき少年少女。

 少年は何故かこの店のウエイター服であるマント付きのタキシードを纏っているが、その何気ない所作の端々から、隠しきれない威厳と高貴さがにじみ出ている。彼のあふれ出るカリスマ性は衣の違いでぶれるものではなく、この魔族喫茶のキャラの濃い独特な空気さえ侵食し、店内を妙に居心地の悪い空間へと変えていた。

 そして少年の前に座っているのは、燃えるような赤毛の小柄な少女。幼い体形にぴったりフィットするスクール水着のような衣装を着ている。

 そんな少女が店に入ってきた古城を見るや否や勢いよく立ち上がり、手を振ってきた。

 

「彼氏殿! 彼氏殿ではござらぬか! 女帝殿の彼氏でござろう!?」

 

「え? なんだ?」

 

 獣耳バイト少女に席を案内されていた古城は隣にいる雪菜と顔を見合わせた。できれば、犯罪臭の漂う外見をしている幼女は、他に客がいないとはいえ誤解されたくないので、敬遠したいところなのだが、案内されてまで立ち去るという決断は降しにくい。

 そうこうしてる間にスクール水着の少女は、ずいっとその胸のゼッケンを古城に見せつけるようアピールする。

 

「拙者、リディアーヌ=ディディエでござる! 覚えておられぬか?」

 

「あ……! おまえ、浅葱の友達の……!」

 

 言われて、古城は思い出した。浅葱が<戦車乗り>と呼んでいたバイト仲間で、真紅の有脚戦車の操縦者だ。中々正体に気付けなかったのは、戦車に乗ってない状態の彼女をほとんど見たことがないからだ。『波隴院フェスタ』で浅葱を迎えに来た時に、ちらっと搭乗席から顔を出した時ぐらいだろう。

 と古城が思い至ったところで、リディアーヌはパイロットスーツの腹部の隙間(スリット)をがばっとまくり上げて見せた。

 

「無念でござる、彼氏殿。拙者の力が足りぬばかりに女帝殿らが……かくなるうえは、この腹を掻っ捌いて責任を―――」

 

「待て待て! こんなところで腹を出して、いったい何をする気だ!?」

 

 フォークを腹に突き立てようとするリディアーヌを、古城が慌てて羽交い絞めにして制止する。

 良かった。今、店に客がこいつら以外いなくて。いや、こいつらがいるから他の客が出てったのかもしれないけど。

 でも、案内してる獣耳少女が、銃口を向けてないけど、向けてる視線が犯罪者を見るような冷たいものになっている。

 

「騒々しいな、貴様ら。貴族から没落したとはいえ、一国一城を構えるここな店長に不敬であろう?」

 

 しん―――とその声音の響きに打たれたように、古城たちを除く皆が畏まるように息を呑んだ。この店内を静寂の場に塗り替えた声の主は、タキシードにマント姿の少年。金色に輝く彼の瞳が、古城を正面から見据えている。

 

「あ、ああ。そうだな、すまん」

 

 騒いでいたのは、お前の連れだろ、と文句を言いたいところなのだがそこはグッと気持ちを堪え、頭を下げる古城。それを見て、少年は軽く手をあげ、女店長へ言う。

 

「店長よ、もうこれ以上、客は来ないであろう。店仕舞いにしたらどうだ?」

 

 命じることに手慣れている少年に、女店長は何か言いたそうにしながらも応じた。今、場を完全に掌握しているのは、この呆れるほどのカリスマ性を持った少年なのだろう。生まれながらの王族のような威厳が、この命じた言葉を至上のものとしている。扉に閉店の札を下げられて、古城に前の席に相席を促すように視線をやる。

 

「さあ、これで人払いは済んだ。何警戒せずとも良い。ここは我らが会談する場所とすれば格が足りぬが、これでもクロウが働く場所であるからな。いささか気が立っていたとはいえ、潰してしまうような真似は極力控えるつもりだ」

 

「お、おう……って、おまえ、何者だ? クロウの知り合いなのか?」

 

「うむ。我が友だ」

 

 客であるのに魔族喫茶を我が物としている少年を、古城は薄気味悪げに見つめて訊いた。口ぶりから察するに後輩の知り合いらしいが、彼と異邦人の少年との接点は、生憎と古城には思いつかない。というか、ここでバイトしていたことも初めて知ったくらいである。友人だというし、ひょとして、魔族喫茶のバイト仲間なのだろうかと古城は推理してみるのだが、どうだ?

 

「先輩、言葉に気を付けてください。この方は、もしかしたら―――」

 

 口を閉ざし、警戒に集中していた雪菜が、まだ勘付かない古城を咎めるように囁いた。後輩の友人と言われ気が緩んでいた古城は訝し気に目を細め、

 

「こいつを知ってるのか、姫柊?」

 

「いえ」と雪菜は首を振り、「ですが、この方の力……弱っているようですが、おそらくアルデアル公と同等以上の……なのに、どこか異質な……」

 

「ほう」

 

 少年が面白そうに雪菜を見た。彼の金色の瞳の奥で、殺意に似た光が一瞬よぎるのに気づき、ようやく古城も少年の正体を悟る。

 彼は魔族。吸血鬼だ。それも桁外れに強大な力を持つ『旧き世代』の―――

 

「気配は隠しておいたつもりだったが、さすがは獅子王機関の剣巫。いい目をしているな」

 

「やはり、あなたは……」

 

「控えろ、剣巫。俺は『滅びの王朝』の王子として、<第四真祖>と話をしている。監視者ごときの出る幕ではないぞ」

 

 冷ややかに言い放った少年の無造作な呟きに、古城は表情を凍らせた。魔族の事情は一般人が知れる程度の情報しか持ち得ていない古城でも、常識として『滅びの王朝』の名前は知っている。第二真祖<滅びの瞳(フォーゲイザー)>に統治された、禍々しき中東の『夜の帝国(ドミニオン)』。

 

「イブリスベール……アズィーズ殿下……」

 

 そして、王子を名乗るこの少年は第二真祖直系の息子である。

 本物の魔族が仮装して驚かす魔族喫茶の中に、ボス級の魔族が客としてお茶をしていた。

 

 

人工島中央区

 

 

 中央区での『戦王領域』からの一団との戦闘は、キーストーンゲートから南へ一区ほど離れた方へと場所を移していた。

 いくつものモノレールの路線が通る駅が構える繁華街があり、多くの高層ビルがひしめく一帯だ。

 二週間前まで平日の日中は多くの会社員で賑わうこの街も、『黒薔薇』の眷獣による被害が大きく、まだ復旧作業に手がつけられておらず、夜になっても聴こえていた多くの自動車や電車が行き交う装甲音などの、主要区としての息づきは行われていない。

 しかし。辺りは今、静寂とは真逆の有様だった。

 腹の底から内臓を震わせるような、重さを持った衝撃音が連続して響いているからだ。街そのものが、まるで重低音を売りにした最新の音響設備の整った映画館のようなサウンドを奏でている。

 絶え間なく生まれるその轟音は、常に流動的に吹き抜ける、触れれば断つような鋭利ささえある風を伴っていた。

 それは『魔族特区』の街を駆け抜ける漆黒の影が生み出しているもので―――周囲の景色を置いてけぼりとする神速領域に身を置く獣王の血を目覚めさせる、機鎧纏う少年。

 

 キーストーンゲートを襲撃した眷獣及び吸血鬼の一団は、退けた。

 それが前座であり誘導するためのものだとわかっていたから、深追いするような真似はしないが、どうやら向こうから我慢しきれずにやってきたようだ。

 

「……やあ、久しぶりだネ」

 

 薄い笑みを含んだ声がした。黄金の霧が集い、自身の前にそれは現れた。

 

「ちょっと見ない間に随分と様変わりしたみたいだけど、元気だったかい」

 

 白々しく挨拶する金髪の青年貴族。

 返り血を浴びて装着された機鎧をまだらに汚すこちらとは違い、染みひとつとしてない純白のスーツを着ている彼の名は、ディミトリエ=ヴァトラー。

 アルデアル公国を管轄する『戦王領域』の貴族であり、<蛇遣い>との異名を持つ『最も真祖に近い』と言われる吸血鬼。

 そして、生粋の戦闘狂(バトルマニア)

 

「………」

 

「おやおや、お喋りに講じてくれないなんてさびしいねぇ」

 

 美しく微笑みながらも、その全身から立ち上る鬼気が、何よりの証拠だ。

 気障で皮肉で、この絃神島では暗躍に精を出していたみたいだが、顔合わせの時から特に隠そうとしないその素顔は透けて見えていた。その本性は、やはり酷薄で凶暴極まりないものだ。

 

「まずはおめでとう。君は今や名実ともに『世界最強の獣王』だヨ。期待してたけど、僕の望み通りの成長をしてくれて、実に嬉しい。ぜひ、賛辞を贈らせてくれないか」

 

 心の底から祝福して、拍手を送るヴァトラー。

 それを見据える少年の双眸は、険しいものとなる。

 

「ああ、本当に本当に本当に―――“美味しそう”に育ってくれた―――」

 

 溢れる涎の滴る舌先で、尖った牙を舐める。

 我慢できない。

 それは予想していたことだが、実際に(まみ)えてその思いはますます強くなる。

 

「キミには約束があって手出しできなかったけど―――爺さんの頼みだから、しょうがないよネ?」

 

 取る意味のない確認の問いかけ。

 強き者に敬意を払うが、誰よりも戦争を望む青年に、大義名分が与えられたのであれば、どちらに傾くかなど明白。

 

「<跋難陀(バツナンダ)>―――」

 

 真紅の霧が噴き出し、その霧は凄まじい魔力の奔流と化す。

 そして、ヴァトラーの前方に、巨大な眷獣の影が浮かび上がる。それは無数の剣の鱗を持つ蛇の眷獣。が完全に実体化する直前、機鎧の少年が動く。地面を踏みしめる足に力を篭め、肉体を前に飛ばすようにして蹴ることで生まれるのは、己の身を風にするような全力疾走だ。

 吸血鬼は、眷獣を出す前に仕留めるのが、鉄則。

 後手で動いたにもかかわらず眷獣が牙を剥くよりも早く、一瞬で近接の間合いに詰めた<心ない怪物>が基本の型にして必殺となりうる鉄拳を打ち込む―――

 着弾した穢れなき白いスーツが内側から爆ぜたように飛び散り、手応えは、軽い。

 

「くくっ、キミが相手では眷獣を出すのも大変だ」

 

 だからこそ、良い―――と大きく口が裂けた笑みを浮かべるヴァトラー。

 少年の抉り穿つ拳を受けた文字通り“薄皮一枚の抜け殻”を捨て、美しかった青年の姿は変貌していた。唇が裂け、二股に分かれた舌がのぞく。肌は硬い鱗に覆われ、ぞろりと首が伸びる。そして下半身はすでに巨大な蛇のそれへと変わっている。

 ―――そう、獣人化だ。

 

「っ……!」

 

 昂りを抑えきれずに笑う青年とは対称的に、バイザーの裏で渋面を作る少年。

 吸血鬼の中にも、獣人か能力を持つ者がいることは知っている。狼や蝙蝠の姿に変わる吸血鬼の伝承は珍しくないし、実際、第三真祖ジャーダ=ククルカンは、アヴローラに変装してみせたりもした。

 通常、眷獣の力は強力すぎて、格闘戦ではほとんど役に立たず、接近戦に持ち込まれた吸血鬼は弱いとされるが、獣人化がその欠点を補う。

 蛇の特性で、脱皮してこちらの攻撃を受け流して見せたヴァトラーは、眷獣を完全に実体化させ―――

 

「お―――」

 

 初めて笑みではない、驚きの顔を見せる――視界を覆うようにして、黒の色彩がすぐ眼前にまで迫ってきていた。それが<心ない怪物>の足であることを目が捉え、脳が理解するとヴァトラーの思考が状況を把握した。

 拳打に触れた皮を脱ぎ捨てることで回避したが、そこで相手は宙を泳がせてしまう真似はしなかった。空を切るままに体の動きを連ならせて腕の振りの勢いを加算させる、最初から二段構えで行うつもりであったのだ。踏み込んだ足を支点に己の身を独楽のように高速で回転。足がアスファルトの地面を焦がしながら、極限の速度まで研ぎ澄ませた攻撃を続ける。

 繰り出されたのは左足を振り抜く蹴撃。その左片足が陽炎のように揺らめいて見えるのは、吸血鬼の動体視力を上回っているからか。

 

 獣人化ができ、弱点を克服した吸血鬼―――しかし、ついさっき彼自身が口にしたように、対峙しているのは、『世界最強の獣王』だ。

 

 真っ向から肉弾戦をしたければ、まず獣人化のさらに上である<神獣化>ができなければ物足りない。そして力だけでなく、世界最古の猿人との戦闘経験値を得た今、最後に見た、ヴァトラーが知るときよりも戦闘技術が格段に向上されていたのだ。

 

 本来であれば回避不能のその攻撃に、霧化に転じても遅いと判断してか、<蛇遣い>は実体化途中の剣鱗の蛇をそのまま強引に間に入らせることで対応。戦車砲すら防ぐ高密度の魔力塊である眷獣の肉体に阻められれば、振り抜いた脚の軌道も変わるだろう。そして、剣鱗の刃に恐れることなく突っ込んだ足は切り刻まれる。

 漆黒に染まった機鎧の足甲がヴァトラーの眷獣の剣鱗に触れた瞬間、

 

「―――っ?」

 

 ヴァトラーが大きく瞠目した―――その理由が、両雄の間で起きていた。

 <蛇遣い>の<跋難陀(バツナンダ)>が、何の抵抗も与えることなく霧散したのだ。

 それは、<心ない怪物>の繰り出した蹴撃に『聖殲』の力が付加されていたことによる現象だった。

 そして、護りが破られ、勢いを止められない攻撃を今度はヴァトラーの心身を撃ち抜いた。

 

 勢いよく蹴っ飛ばされた(シュート)された青年貴族の身柄が、ビル一棟に激突してなお止まらずに突き抜け、その向かいにあったビルの壁面に埋まる。

 

「はは……」

 

 その姿は悲惨なものだった。蛇体と化した右半身の肉がごっそりと抉れ、脇腹があったところは大きく骨が露出していた。それでも出血が少ないのは、傷口の周囲の筋肉が、木乃伊のように干からびていたからだろう。

 その傷口に、光り輝く深紅の粒子が纏わりついている。自然の理から逸脱した異能を打ち消す『聖殲』の残滓が、吸血鬼の再生能力を阻害しているのだ。

 

「ハハハハハハハハッ!! ――――――最高だっ!!」

 

 それでも、笑う。

 だからこそ、戦闘狂は死の実感を覚えたことに狂笑する。

 

 改めて、認めよう。

 現在に完了された殺神兵器、それは己が愛する<第四真祖>の“後続機(コウハイ)”と呼ぶに相応しい性能であると。

 

 これまでに、二人の『長老』に一体の『獣王』を喰らってきた貪欲に戦いを求めてきたヴァトラー。

 

 灼熱の炎を纏う蛇<難陀(ナンダ)>、

 鋼の刃で覆われた蛇<跋難陀(バツナンダ)>、

 超高圧水流で構成された海蛇<娑伽羅(シャカラ)>、

 何千もの蛇が渦巻く集合体<和修吉(ワシュキツ)>、

 瞳からの閃光で焼き払う緑色の蛇<徳叉迦(タクシャカ)>、

 保護色で姿を消す狡猾な蛇<阿那婆達多(アナバダッタ)>、

 荒ぶる海のような黒蛇<摩那斯(マナシ)>、

 凍り付いた水面のような青い蛇<優鉢羅(ウハツラ)>、

 実際に見た者はいないとも言われる最後の九番目を除き、『八大竜王』の名を冠する<蛇遣い>の八体の強力な眷獣を操り、また融合させて生まれる絶大な力で圧倒してきた。

 

 しかし、この相手は眷獣を一撃で破壊し、融合させる隙など与える気がない。そして、眷獣を召喚するときに生まれる僅かな隙も見逃さずに強襲を仕掛ける。不死身の吸血鬼といえど、急所である頭や心臓を壊されれば意識停止は免れず、それから嵌め技を喰らえば徹底的に虐め潰すだろう。ましてや吸血鬼の再生能力さえも剥奪するような相手だ。

 そう考えれば、追い詰められているのだが、戦い方を吸血鬼のやり方から変えればいい。

 

「そうだネ。ここはキミに合わせよう―――」

 

 追撃を行おうと接近していた<心ない怪物>が、異様な気配を察し、足を止めた。

 無限の“負”の魔力の根源である血を体外に排出させて吸血鬼は眷獣を実体化させる。だが、ヴァトラーは血の魔力放出を止めていた。大津波の前に潮が引いていくような悪寒。なにもしていないのではなく、蛇の獣化をした体内で循環させ、昂る魔力を外に拡散するのではなく、裡へと集中させている。

 

 それは……っ!

 

 吸血鬼は、異世界より召喚された眷獣の力でもって相手を圧倒する魔族だが、吸血行為によって、相手の属性を吸収し、また耐性を獲得する特性も持っている。

 かつて<黒死皇>を喰らい、『獣王』の血を取り込んで見せたヴァトラーは、獣化の極み。吸血鬼でありながら、存在の格を最上位にまで至らせる、古代種の血族のみに許された<神獣化>ができるのか。

 ―――いや、違う。

 

「気づいたようだね。これは、<冥き神王(ザザラマギウ)>でのキミ()()を見て、思い至ったものだヨ」

 

 吸血鬼が、完全なる獣性を解放する。

 それは、自身が、“<第四真祖>の『血の従者』である後輩”を仲介してパスを繋ぐことで成す荒業と同じ。しかし、この自らの眷獣を融合し得る青年に余計なものを挟む必要もなく、単独で至ってしまえるのだろう。

 蛇尾狼の血に飢えた神獣の境地へと―――

 

 

「さあ、本能を解き放ち、存分に(ころ)し合おうじゃないか―――<世界蛇の化身(バララーマ)>……」

 

 

紅魔館二号店

 

 

 異国人の少年は、自ら後輩の友人であると言い、獅子王機関の剣巫はその正体を第二真祖直系の王子だと見破った。

 雪菜の言が真であれば、<第四真祖>の古城と魔力をぶつけ合えば、店は吹き飛び、どころか、絃神島が沈みかねない、今やこの場所は島の命運がかかった危険地帯となったのだ。

 だが、この王子はこうも言う。

 ここは友がたまに働く場所であるからあまり壊すような真似はしたくない、と。

 実際、古城を見かけて、争うように莫大な魔力を放つようなこともせず、大人しく茶を啜っている。

 

「こいつ本当に王子なのか?」

 

 古城に半眼を向けられた雪菜は自信なさげながらも答える。

 

「は、はい。この威圧感は確かに王族級だと……でも、それにしては……」

 

 なにやら雪菜自身にも消化できない違和感があるのか口籠る。

 とりあえず、王子様は、自分との会話を求めてるようなので、古城から口を開くことにした。

 

「ていうか、なんで第二真祖の息子が、クロウのバイト先でお茶をしてんだよ?」

 

「この俺としても不本意だが、あやうく死にかけてここへ避難していたのだ。ついでに殺されかけていたその娘を成り行きで保護してやったが、まあそれは気まぐれだ」

 

 言ってまた茶に口をつけるイブリスベールだが、そうさらりと流せる内容ではなかった。

 

「死にかけて、殺されかけた?」

 

 生死もかかわるような物騒な王子の発言に、古城は目つきを険しくさせて突っ込んだ。

 然様、とリディアーヌが声を震わして、俯いた。膝の上に握った両の拳を置いて、透明な涙が彼女の瞳から零れ落ちる。

 

「人工島管理公社でござる。彼奴らが女帝殿をキーストーンゲートに幽閉しておる故、拙者はどうにか連絡を取ろうと防壁内への侵入を試みたのでござるが……<魔導打撃群>に見つかり、囚われそうになった窮地にクロウ殿が……」

 

 悔しさを必死に堪えながら吐き出したリディアーヌの話は、先ほどの絃神冥駕が教えた情報の裏付けを取るものであった。

 古城は涙の伝うその小さな拳を、そっと掌で包むように手に取る。驚いたように顔をあげるリディアーヌに、古城はいつになく真剣な瞳で見つめながら頼み込んだ。

 

 

「―――その話、詳しく聞かせてくれ」

 

 

 目を何度も瞬かせたリディアーヌだが、すぐに古城の意をくんで最初からたどたどしくも話してくれた。

 それは今日のニュースにもなった中央区でのテロ騒ぎ。ここにいる魔族の王子と人間の神童という異色の二人組は、その渦中にいた。

 

 起こった出来事を簡潔にまとめれば、

 まず浅葱とどうにかしてコンタクトを取ろうとしていたリディアーヌだが、キーストーンゲート第零層に辿り着く前に、<魔導打撃群>という『特区警備隊』に見つかる。それから逃げ出したリディアーヌを追う彼らに、有脚戦車が半壊するほどのダメージを負わされ、行動停止と追い込まれたところで、クロウが現れた。

 

「しかし、クロウ殿は、彼奴らに服従させられていたようでござる……」

 

 警備隊とリディアーヌの間に割って入ったが、クロウは意見を出すことも許されないようで、まるで道具のように使役されていた。

 リディアーヌの処分を邪魔するなと退けられて、そこで現れたのが、ここにいる吸血鬼の王子だ。

 

「なに、俺には俺の要件があったのだ。人工島管理公社ではなく、雑種にな」

 

「クロウにか……?」

 

「何だ、暁古城、知らないのか?」

 

 少し呆れたように片眉をピクリと上げてみせながら、イブリスベールは、古城たちの頭を殴られたかのような衝撃が襲う決定事項を教えた。

 

「<黒妖犬>改め<心ない怪物>を、我々『夜の帝国』三ヶ国でも始末せよという話になったのだ」

 

「な―――」

 

 魔族の王子から告げられた思わぬニュースに、古城はぐらりと頭をよろめかせてしまう。それは雪菜も同じで、貧血を起こしたように顔を真っ青にしている。それを見て、イブリスベールはまた訝し気に、

 

「なんだ、剣巫も知らんのか。貴様ら獅子王機関もすでに<心ない怪物>の討伐に動いてると聞いてるぞ」

 

「そんな―――!? いえ、私、知りませんそんなこと―――!」

 

 悲鳴じみた声を上げ、首を何度も横に振る雪菜。

 おそらく、『神縄湖』で凪沙のことを隠していた時と同じく、<第四真祖>の監視役である雪菜に余計な情報を入れないようにされていたのだろう。

 

 だが、今回の件は、同じ獅子王機関の一員である煌坂紗矢華たちが動いて、すでにクロウの無実は証明されているはずだ!

 

「どうなってんだ!? クロウが何もやってないことはわかってるはずだろ!」

 

「さてな。獅子王機関(そちら)の事情は知らんが、我らの真祖(おう)が、クロウを危険視するのはわかる。実際に俺も殺されかけたからな」

 

 真祖直系の『旧き世代』が殺されかけた!?

 先ほども言っていたが、あまりにも信じられない話だろう。けれど、雪菜はその霊視で、不死身のはずの凶王子が致命傷を負い、昨日から今までの時間があっても完治し得ずに弱っていることを察している。<心ない怪物>との戦闘が原因だとすれば納得はいくが、しかし、

 

「本当に、クロウが、やったのか……?」

 

「ああ、俺とクロウは殺し合った。ふっ、やはり雑種は俺を殺し得る牙を持っていたな。あそこまで心胆が震えたのは、『宴』の時以来よ」

 

 と口元を綻ばせながら語るイブリスベール。その口ぶりから察して、強敵(とも)と認めた相手と死闘が行えて、楽しかったのだろう。長く生きた、また力が強い吸血鬼であるほど自らを殺せるほどの強者との戦闘への欲求がある。古城には未だ理解し得ぬ感覚だが、殺されかけたことにさして強い恨み等は抱いていない様子だった。謝罪さえ不要で、むしろ感謝までされそうだ。

 

「だが、クロウが自らの意思で俺に牙を向けたかと言えば怪しいところだがな」

 

「それはどういうことだ?」

 

「暴走、させられていたのでござるよ。彼奴らの思い通りに動かせる狂戦士(バーサーカー)として……」

 

 リディアーヌが推察するに<タルタロス・ラプス>が魔族登録証にウィルスを仕込んで行ったものと原理は同じ。装着させた機鎧より破壊衝動で意思を染め上げ、標的を蹂躙するまで止まらない殺戮機械(キリングマシーン)とする。

 

 ふざけるな―――ッ!!

 

 状況は古城が最悪と予想していたのよりも、さらに最悪だったらしい。

 思わず机でも力一杯に拳を殴りつけたい気分に駆られた。物にあたって、自分の手も怪我して、血を流したいと思った。だが、そんなのは結局、自己満足にしかならないし、格好悪い。古城は叩きつける寸前に制止し、歯軋りさせて我慢する。しかし、抑えきれず零れ出た魔力が、魔族喫茶の壁や天井を揺らす。

 

「ふん。俺とクロウの死合いに余計な邪魔をしおって……」

 

 決着がつく前に、クロウとの衝突で弱ったイブリスベールを、<魔導打撃群>が狙ってきた。『命懸けで争う強敵(とも)に殺されるのは構わないが、横からしゃしゃり出てきたこいつらの手にかかるのは許せない!』と久しぶりに充実した対決を、死肉を漁るハイエナのような行為に邪魔された凶王子は、いたく気分を害して、戦いを切り上げることとした。それでたまたま追われていたリディアーヌが近くにおり、嫌がらせにとついでに連れてその場を後にしたという。

 半日かけて鎮めてきた殺意がまだ浮上し、凶王子より放出される背筋が凍り付く魔力が店内を震撼するが、一度呼吸し、また呑み込んでから、

 

「……まあ、あのままやり合っていれば、俺は殺されていただろうよ」

 

 冷静に戦局を読み、敗北を認めるイブリスベールは、まだ処理しきれない憤りを噛みしめている古城を見やり、忠告を送った。

 

 

「気をつけろよ、第四真祖。今のあやつに身内だからと腑抜けた考えで前に立てば、殺されるぞ」

 

 

人工島中央区 シティホテル

 

 

 泥水に生きる蝮が五百年を経て蛟となり、

 蛟が千年を経て竜となり、

 竜が五百年を経て角竜となり、

 角竜が千年を経て応龍となり、

 さらなる時を経て、応龍は神の精たる黄龍へ至る。

 

 

 この四基の超大型浮体構造体(ギガフロート)からなる人工島にも適用されている東西南北の方位を守護する『四聖獣』。

 その長であり、中央を治める神獣が、『黄龍』。

 皇帝の権威の象徴ともされている『黄龍』は、五行の理のうち『土』を属性とするものと言われ、大地を走る龍脈に干渉する力を持ち、その土地の繁栄に大きな影響を及ぼしたり、活断層や火山でなくとも地震噴火などの災害を発生させられる絶対的な存在だ。

 そして、その範囲は、惑星規模。

 海底の底であろうと土がある、いわば地球そのものを指すものだからだ。

 また龍脈は、地球全体を走る血管のようなものだ。よってこの力を完全に制御できればそれこそ世界全土に及ぶ支配が実現可能となる。

 

 『黄龍』が力を与える者は、皇帝。

 神代から現代まで『固有体積時間』を積んできた沼の龍母が『百王』として認定したのは、<黒死()>の遺伝子を継ぎし、『獣王』であった。

 

(ついに……ついに、すべてを手中に収めるための手札が揃った、か……)

 

 キーストーンゲートの外縁部に立つシティホテル――その最高級スイートの応接室にて、人工島管理公社名誉理事――矢瀬顕重は、悲願成就を間近に控えて感慨耽るよう目を瞑る。

 『咎神』カインによって創り出された神殺しの禁呪を、電子的に再現したプログラム――かつて、『聖殲』と呼ばれた魔術。

 それを発動させるためには、巫女と棺桶、そして祭壇が必要であった。

 そのために造られたのが、科学と魔術によって組み上がった人間と魔族が共生する魔都絃神島だ。だが、盟友絃神千羅が設計した祭壇には当時ひとつの欠陥があった。

 この龍脈が集うパワースポットの海上に、四神相応の理で四基の人工島を配置したがいいが、中核にてそれを束ねるに相応しいものがなかったのだ。

 しかし、それは盟友が見落としていたわけではない。

 盟友のミスではなく、他が間に合わなかった。

 盟友の設計上に必要不可欠であった、『黄龍』を担う『墓守』がまだ完成していなかったのだ。

 祭壇を守護し、機能を最大限に発揮させるための道具『墓守』の開発が思った以上に難航し、こちらの計画通りとはいかず遅延していた。

 しかし、人工島を計画通りに建造してしまった以上は、祭壇を安定させる要石が必要であり、それを聖人の遺骸を供犠建材として、間に合わせた。仕方なく、代用品を使ったのだ。

 

 その代用品は、ロタリンギアからの抗議で、国際裁判へと発展したために手放すこととなったが、問題はない。すでに人工的に要石を開発できるだけの技術力があり、また代用品になど頼らなくても『墓守』はあったのだ。

 そう、遺骸を返却した当時には、まだ『墓守』の資格を得てはいなかったが、資質はあった。事実、『闇誓書事件』にてそれは覚醒し、『神縄湖』での一件で完全なものとした。

 よって、完了した『墓守』を祭壇の中央に据えた今こそ、この絃神島は真に完成したと言えよう。

 

 もうひとつの鍵である人間の限界を超えた天才的な電脳使い――『カインの巫女』を手懐けるのも問題ない。これまで発見された唯一の『カインの巫女』の適格者――藍羽浅葱の両親は、すでに人質として顕重の監視下にあり、藍羽浅葱と幽閉した『棺桶』と直通回線できるのは顕重だけ。顕重以外の人間が、巫女と交渉することはあり得ず、また巫女は両親の命を助けたくば顕重の指示に従う他ない。

 あとは禁呪を封印していた『棺桶』を解放すればいいだけだ

 いっそのこと藍羽浅葱も『墓守』と同様に心臓を握ってしまえば、人質を取る手間がなく楽だったが、『瓶詰の心臓(グラスハート)』の術式ができる<空隙の魔女>を始末してしまった。今でもあれは惜しいことをしたと思うが、しかし反骨の目をした人間を生かしておくなど、百利あったとしても一考の余地なく切り捨てるのが正しい。

 そう、すべてを支配する人間は、この矢瀬顕重ひとりで十分なのだ。そして、自身に支配できぬものは必要がない。

 

「―――お疲れですか、矢瀬会長。出直した方がよろしいか?」

 

 目を瞑る顕重に呼びかけたのは、来客用のソファに座った異国人の男性だった。

 年齢は四十代になるかならないか辺り、アジア系の人種であるが、白皙の肌をし、常に微笑みを絶やさない印象がある。

 眠たげに瞼を閉じそうになる、可愛らしい顔立ちをした、年齢不詳の童顔の女性を傍らに従えるこの男は、今後のための交渉相手である。

 

「失礼した、レン総帥。ここのところ忙しく動いているが、同時に喜びも感じる。我らが再現した『聖殲』の力を、完成させたのだから。ぜひ貴殿ともこの感動を分かち合いたい」

 

 矢瀬顕重は椅子を回して、ソファに座る男に向き直った。壁面のモニターに表示されたのは、中央区を監視する衛星カメラより送られてくる映像だ。

 

「『聖殲』―――『咎神』カインが、神々への反逆と復讐のために引き起こした究極の秘呪ですね」

 

 レンと呼ばれた男が、穏やかな口調で問い返した。

 MAR総帥、シャフリヤル=レン――世界有数の多国籍魔導企業複合体『マグナ・アタラクシア・リサーチ社』の創設者にして筆頭株主だ。この人工島管理公社の名誉理事にして様々な魔導企業に手を伸ばす矢瀬一族の当主である顕重が、同格と認める相手。

 未来の同盟相手であるシャフリヤル=レンに対し、矢瀬顕重は、不敵に笑む。

 

「ああ、現在交戦中の<蛇遣い>を相手に証明してみせよう」

 

「ディミトリエ=ヴァトラー……真祖に最も近い吸血鬼、ですか」

 

 感心したように眉をあげるレン。顕重は重々しく頷いて、

 

「然様。昨日、『滅びの王朝』の凶王子イブリスベール=アズィーズを逃しこそしましたが、記録映像をご覧になればお判りでしょうが、こちらが圧倒していた。そして、今日、『戦王領域』のアルデアル公ディミトリエ=ヴァトラーを殲滅すれば、我らが『聖殲』の正当性は疑いなきものとなりましょう」

 

「そうですね。仰る通りです」

 

 感情を読ませない優しげな眼差しのポーカーフェイスのまま顕重の目を覗き込むように見つめ、

 

「ですが、新たなる『聖殲』を引き起こして、あなたは何を得るつもりです、矢瀬会長?」

 

「ふ、欧州の『戦王領域』、中東の『滅びの王朝』、そして北米の『混沌界域』―――これら『夜の帝国』に共通するものが何か、貴殿にはお分かりだろう、レン総帥?」

 

 石油、天然ガス、稀少金属(レアメタル)―――豊富な地下資源。この人類の発展に必要不可欠なものを独占する魔族をすべて滅ぼし、『夜の帝国』に囚われた人々を解放する。そして、その土地の利権を手に入れるのだ。

 

「そのためには、我が財団とあなた方『MAR』が手を組めば、実現の可能性は高いと思うが、どうかね?」

 

「興味深いお話ですね」

 

 脚を組み替えたレンの乗り気な様子に、顕重は薄い唇を吊り上げる。

 

「ですが、それにはやはりまず私の目であなたの成果を見てみたいのですが」

 

「よろしいでしょう」

 

 顕重は、交渉する傍らでモニタを操作する研究員。己に長年仕え、絃神島の建造にも携わってきた、いわば忠臣とでも呼ぶべき腹心の部下たちに一言命じる。

 

 

「『墓守』を起動しろ」

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート付近

 

 

異境(ノド)干渉場、固定。虚数領域より五大主電脳(ファイブエレメンツ)のパラメーター注入。基点座標において、『聖殲』を起動―――『墓守』、障害の排除を開始します』

 

 

 『墓守』たる守護神として、『咎神』を祀る祭壇である絃神島を破滅させる脅威に対する抑止力が流れ込む。

 つまり、相手が強ければ強いほどに比例して力が増大する。学習し対応する自律進化を行う<神々の兵器(ナラクヴェーラ)>と同じく、相手に合わせて、強化されるもの。

 

「■■■■■―――ッ!!!」

 

 この身を兵器とする。獣性が解放されていた金色の肉体が、|赤い点灯《レッドシグナルを発する機鎧より染み出る『異境』の暗幕(ヴェール)に塗り潰される。

 

「イイネ」

 

 吸血鬼の異能の力を無効化する暗闇。それに迂闊に触れれば、<蛇遣い>と言えどもあっさりと殺される可能性が高い。その死の予兆を前にして、ヴァトラーはうっとりとした表情で眺めていた。

 

「ますますキミを食べたくなっちゃったよ……!」

 

 ヴァトラーが、牙を剥く。頭部にねじれた竜角が生えており、全身の皮膚はまるで爬虫類の鱗のように変質している。そして、下半身は蛇尾、上半身は青年貴族の麗しい人型を残すが、腹部より蛇の頭部が生えている異形の形態。

 無限の“負”の魔力を持った吸血鬼による<神獣化>――<世界蛇の化身>。

 眷獣を召喚するまでもなく、すでに身に宿す<蛇遣い>は一工程もなく、無拍子(ノーモーション)で力を発揮する。

 

「<徳叉迦(タクシャカ)>」

 

 腹から鎌首もたげる緑に変色した蛇頭の双眸が妖しく光る。

 眼光で焼き払う蛇睨み。一瞥で眷獣と互角の格を有した<守護者>の悪魔を滅ぼした灼熱の魔眼―――それを浴びせても、怯む気配などない。

 構わず、真っ向からヴァトラーの熱視線を睨み返し、暗黒に染められた金人狼は突貫する。『異境』を身に纏う<心ない怪物>に、魔力の波動など通用しない。

 

「ははっ! ボクに真正面から抱き着きに来てくれるなんて、怪物らしいキミも素敵だよ」

 

 蛇頭の顎が開く。その口から乱雑に錐揉み回転する光球が吐き出され、炸裂した。

 その一挙一動を注視していた狂化された獣に、それは最大限の効果を発揮してくれた。

 光球が破裂し凄まじい光と音を発したのだ。灼熱の閃光纏う炎蛇に急激な気圧変化を起こす黒蛇。二つの力を同時に行使した、その閃光と爆音に視覚を白一色に潰され、聴覚も麻痺してしまう。この状況で動くことができるのは、ヴァトラーのみ。

 獣化して得た身体的特徴である蛇の角膜を閉ざすことで自らの目を潰して自滅しかねない光を視界より遮断し、体構造を水流へと変ずる海蛇で液化することで音と振動を柔軟に耐える。

 一方、まともに受けた金人狼は意識を朦朧とし、漆黒の暗幕が揺らぐ。それを好機とみて飛び掛かる<蛇遣い>。

 両腕に生える鱗がすべて剣刃と化した突きは、金人狼の皮膚を貫くか。

 ―――いや、

 

「頂きます!! ―――っ!?」

 

 視覚と聴覚を潰そうが、金人狼の外部情報を入手する感覚器の最たるものは、嗅覚。

 その蛇影を絶つほどの高速移動で接近するヴァトラーの位置を正確に嗅ぎ取り、難なく強襲を交わして、逆襲する。返す漆黒に染まる神獣の爪撃が、蛇身を斬り裂く

 ―――だが、それはガワのみ。薄皮一枚を脱皮して、難を逃れるヴァトラー。

 

「危ない危ない。あまりに美味しそうだから飛びついちゃったけど、もっと弱らせないとネ」

 

 後退したヴァトラーの腹部の蛇より今度は無数の蛇が吐き出される。ざっと千頭。雪崩雲霞の如く大量の蛇に、金人狼は剛腕を振るい一薙ぎで大半を消滅させるが、その間に本体は保護色で景色に溶け込む透化で姿を消す。超能力で拡張された嗅覚を働かせ、位置を把握した金人狼はその地点に瞬時に爪拳を叩きこむが、それは残り香のあるガワ。保護色だけでなく、脱皮することでこちらの『(センサー)』を誤認させる。

 そして、隙を見せた一瞬で仕留める気か。

 幼少を極寒の野生の中で生きた金人狼。破壊衝動に染め上げられるウィルスを打ち込まれているが、狂化してなお失わない冷徹な本能がこの状況は危険だと告げる。

 

 

「――― ___  ̄ ̄ ̄ ッッッ!!!」

 

 

 遠吠えがこの中央区に響き渡り、黄金色の燎原が広まっていく。

 たった今、世界は塗り替えられた。

 その記憶の中にある鉄の森の極寒の気象が、ここに再現されたかのように、弱き者は小一時間ももたずに生命活動を停止してしまう過酷な環境へと突入。

 温度が急激に下がり、地面は美しく透き通った氷の結晶に変わっていく。

 

(ああ、これが『聖殲』の力なのか)

 

 世界すらも変容させてしまう禁呪。

 真祖が恐れるこの力を実感する。そして、より―――

 

 息を潜め、這い寄る蛇身の動きが、鈍くなる。

 

(それに<心ない怪物(ハートレス)>になるほどに堕ちても、まだ知恵は無くしてないようだ)

 

 蛇は、変温動物。気温が寒くなれば、冬眠してしまう爬虫類族。

 冬になれば活動休止を余儀なくされる体質は、獣化をした者にも適応される。

 

 獣化は、そのものに獣性を付与し強大な力を与えるが、同時にその獣種特有の弱点も増えてしまうもの。

 たとえば、鳥人種は、空を羽ばたく翼を得るが、暗夜に視野不良となってしまう鳥目の性質も負ってしまう。それが獣人種であれば、弱点を克服するなり対処策を講じるだろうが、己が戦わなくても強力な眷獣を召喚できる吸血鬼種ではその意識はどうしても低くなってしまう。それはヴァトラーであっても、蛇の獣化は隠し玉のようなもので、こうも蛇の体質をつかれる事態に遭遇したことはなかったのだ。

 

 状況を打開するには、炎蛇の力を発揮しなければならず、それをすれば、保護色と脱皮で攪乱させていた位置がバレる―――

 それを金人狼は逃さず仕留めるだろう。

 つまり、詰みに入っている。

 

「<難陀(ナンダ)>!」

 

 灼熱に燃え盛る蛇身。

 極寒の冷気に封じ込まれた街で、その姿は異様に目立ち、当然、金人狼に気配は察知される。

 蛇頭より再び閃光と音響で怯ます魔力球が吐き出されたが、その手のものが二度も通じるはずもなく、また灼熱に怖気づくこともなく、漆黒に染まる金人狼の爪拳が半人半蛇の胴体を捉えた。

 

「―――」

 

 空を裂き、地を割る剛拳を脱皮で躱すのも不可能な真芯で受け、宙を斜め下に角度をつけて飛ばされたヴァトラー。

 数棟建造物を破壊して、そのまま人工島の鋼の地盤へと衝突。

 舞い上がった砂埃が収まっても。ヴァトラーは地面に倒れ伏したままだった。吸血鬼の再生能力を無力化してしまう『聖殲』の力に呑まれ、ダメージを負った肉体が即時復元といかず、

 

「く、フフ……」

 

 だが口から零れるのは苦悶ではなく、喜び。俯せの体制で地面の上を藻掻く青年貴族だが、顔に浮かんでいるのは笑み。満面の笑みだ。

 

「愉しいよ。今の一撃は、魂まで震えが来た。素晴らしい。ならば、ボクもすべてを出し尽くして応えないとね―――」

 

 これまでとは比較にならないほどの膨大な血霧が、その死にかけている瀕死の体より放出される。

 この金人狼が守護統治しているはずの中央区の地が震えるほどの尋常ならぬ魔力。龍脈をも喰らいつかんとする眷獣は、ディミトリエ=ヴァトラー最後の九番目―――

 

「さあ、戦争を続けよう―――<原初の(アナン)

 

 

 

 そのとき。

 青年貴族の全身が光に包まれた。

 

 

 

 音もなく、巨大な爆発だけが巻き起こる。

 はるか天上より降り注ぐ、灼熱の死の閃光。それが地球周回軌道上から放たれたレーザー砲撃だと、果たしてヴァトラーは気づいたか。

 人工島管理公社の切り札、地球周回軌道上からの対地レーザー攻撃衛星。

 レーザー砲撃の余波が吹き荒れ、熱風が金人狼の機鎧の隙間に見える肌を焼き、人工島の大地には巨大な穴が穿たれる。

 

「………」

 

 そして爆心地にいたものは、跡形もなく消えていた。

 対地レーザーの砲撃速度は、光の速さとほぼ同等だ。

 視認したときにはすでに着弾している攻撃を防ぐなど不可能。

 決着を横取りされた形となったが、別に己の勝ち星などにこだわる気は一切ない。だが、消化不良を起こしたように戸惑いを覚える。そう、あの強者は、あえて攻撃を身に受けているふしがあった。まるで全身で『聖殲』を喰らい、負荷を味わうような気味の悪さが拭えない。しかし、上は<蛇遣い>を圧倒できた以上、長々と戦争に付き合う義理も何もなかった。会心の一撃を見舞いさらに追い打ちをかけようと判断したとき、金人狼の纏う機鎧より、通信が入った。

 

 

 至急、キーストーンゲート第零層直通の(ゲート)へ向かえ。侵入者を殲滅せよ、と。

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

「どらあぁぁぁぁぁ―――っ!」

 

 

 咆哮と共に魔力を解放。純白の閃光が、辺りを真昼のように眩く照らし出す。無差別に撒き散らされた稲妻は衝撃波と化して、第零層へと通じる地下通路への門、そこに配置された警備ポットの群れを薙ぎ払った。

 安く見積もっても一台2000万はくだらないMAR製の軍用警備ポット十数台が、“眷獣も出さずに”跡形もなく瞬殺。

 

 荒い息を吐く古城の全身に紫電が弾けて帯電している。

 眷獣を召喚せず、眷獣の魔力だけを引き出す。つまりは自らの意思で<第四真祖>の眷獣の力を制御しているのだ。幾度も優秀な霊媒を吸血してきたことで、眷獣に対する古城の支配権が強化されてきたからこそ、このような芸当が可能となった。

 だがそれは、古城の肉体が、少しずつ完全な吸血鬼に近づいているという証である。

 でたらめな魔力の使い方をしたせいで、全身の骨と筋肉が苦痛を訴えていたが、それも少し息を整えれば復調していた。段々と力を使う感覚に慣れていっているのだろう。

 もしくは痛苦など無視するほどに強い感情があるせいか。

 

「行くぞ」

 

 暁古城は、端的に言って、キレていた。

 それは、自分の級友らを良いようにしてくれた人工島管理公社の連中にか。

 それとも、どうして助けてほしいなどと言わずにひとり抱え込む後輩にか。

 それとも、この二週間、何も気づかず何も動かなかった自身の愚鈍さにか。

 頭の中がごちゃごちゃになって整理がつかないが、いずれにせよ言えるのはひとつだ。

 

 いい加減に、こんなことは終わらせてやる。

 

 できれば“共犯者”である絃神冥駕と合流して動きたかったところだが、その目途もないし、もう『待つ』のは無理なので、目的地へ向かうとした。

 

『第零層に辿り着くまでの経路は、拙者から指示を出すでござる』

 

 古城のスマホと<戦車乗り>の案内が表示される。

 戦闘能力を喪失し、機動系統が壊れても真紅の有脚戦車<膝丸>に搭載された軍用コンピューターとネットワーク機能は健在だ。そして、浅葱にも匹敵する天才的なハッカーであるリディアーヌが侵入を支援してくれる。心強いサポートで、古城は助かる。

 だが、自分らを手助けして、それが逆探知でもされたりでもしたら、リディアーヌの身が危ないだろう。この現状を我慢できないが、それでも知人を犠牲としてしまうのには古城も避けたいと思う。

 

『<蛇遣い>に我が友を喰われるのは業腹だからな。今の俺では満足に戦うこともできんが、後顧の憂いを断つことくらいはできる』

 

 そんな葛藤する古城へ、異国の王子が思わぬ申し出をしてくれた。

 傍若無人の吸血鬼に気遣われたのは意外であったが、おかげで古城は後ろ髪が引かれる心配をしなくて済んだ。

 

『私は先輩の監視役なんですから』

 

 雪菜には、体調不良や獅子王機関も関わっているということもあって、店で留守番でもしてくれた方が、古城は安心できたのだが、本人が頑固としてそれを拒否。

 最終的に、銀槍を突き付けてでも反対する彼女の気に圧されて、古城は同行にこれ以上文句はつけなかった。

 とにかく、まず第零層へ向かう。そこにいると言われている浅葱を助け出し、そして、第零層を守護する後輩を―――

 

 

「Stop」

 

 

 地下トンネルへ通じる門の奥から制止を呼びかけた人影が現れた。

 

『気を付けなされ! 拙者の潜入工作を最初に見破ったのは彼奴めでござる!』

 

 警備ポット以外の設備の防衛機構はリディアーヌが解除してくれたが、どうやら門番(ゲートキーパー)がいるらしい。

 地下の陰より外へ出た容貌が露わとなる。

 黄金律に整った左右対称の自然にあり得ざるシルエット。硝子玉のように無機質な眼差しに、非自然な藍色の長髪。一見すると、それは古城たちのよく知る彼女に似ているが、こちらは2、3歳ほど上に見える。

 

「お前は……人工生命体(ホムンクルス)か」

 

「Yes。―――個体名『バルトロメオ』と申します」

 

 秘書風のスーツを着た人工生命体は、折り目正しく侵入者である古城に一礼をする。

 ちっ、と古城は舌打ちする。

 先ほどの警備ポットは中に人間が入っていないと解ったからこそ強行突破ができた。そもそも<第四真祖>の眷獣を召喚すれば、対魔族用の小口径機関砲が搭載された軍用品であろうと、警備ポットなど物の数ではない。何百台押し寄せようが一蹴してみせるだろう。ただ、すぐ後ろにキーストーンゲートがあるわけで、加減を誤れば警備ポットだけでなくキーストーンゲートまでも消滅させかねないのだ。強力すぎる<第四真祖>の眷獣は、使いどころが難しい。

 だから、殺さずに敵を無力化する芸当など無茶な注文で、古城は困った。

 その心情を察した雪菜がギターケースより銀槍を取り出しながら、前に出た。

 

「先輩は、下がっててください。彼女の相手は私がしますから」

 

「待て、姫柊!」

 

 思わず古城は手を伸ばすが、雪菜の後ろ髪に指が掠るだけで、止められず。

 同行は黙認したが、彼女の体調が悪いのは変わっていない。この未知数の門番を相手に戦闘をさせてしまえばより悪化するのではないかと古城は心配しているのだ。

 そんな先輩の杞憂を払拭せんと意気込んでいるかのように、古城の制止を無視し雪菜は銀槍を構える。金属製の柄が滑らかにスライドして、三枚の刃が展開。

 

「行きます!」

 

 魔力を無効化し、ありとあらゆる結界を斬り裂く破魔の槍。<雪霞狼>と銘が打たれた獅子王機関の秘奥兵器だ。

 剣巫より銀槍の切っ先を突き付けられた人工生命体の少女は、その整い過ぎた人外の美貌を微動だにせず。

 雪菜へ向けている刺さるような冷たい視線に、殺気はない。彼女から何の感情も読み取れない。ただただ無表情。まるで意思を持たない機械のよう。

 硝子玉のような眼差しで照準を合わせる少女は、決められた手順(プログラム)を実行するだけの無機質な声音で淡々と、

 

「侵入者の排除を開始。Execute―――Shoot」

 

 瞬間、雪菜の立ち位置に火柱が昇った。

 巨大な火柱が空を焦がし、爆風が周囲の残骸を吹き飛ばす。

 

「姫柊……!」

 

 風に煽られながら、古城は叫ぶ。視線を走らせ、その姿を探せば、少女はいた。

 霊視による未来予測で間一髪難を逃れることができたのだろう。ホッと安堵したのも束の間、門番の人工生命体は、人差し指を立ててピストルの形にした手を構えている。

 

「Shoot」

 

 立て続けに雪菜へ火柱が襲い掛かる。門番は門前から動かず、前方を見たまま、両腕を交差している。その死角より迫ろうとする剣巫だが、ピストルのジェスチャをした両手の指先は、確実に雪菜の位置を捉えていた。

 

(これは、発火能力……!)

 

 魔力の波動もなく、前触れなく発生する火柱。その正体を雪菜は看破するが、近づけない。そして殺意も敵意もないため、そのことが逆に雪菜を幻惑させる。回避のタイミングが掴み難い。それで弾数無限で連射され、ロックオンから外れることもできない。古城も雪菜を巻き込んでしまう可能性がある以上、強大な眷獣の力を使えない―――だったら、使わなければいい。

 

「おおおお―――っ!」

 

 雪菜と門番が対峙する場へ、古城は跳んでいた。吸血鬼の筋力を限界まで引き出した強引な跳躍だ。乱入(アドリブ)は雪菜も反応ができないほどの速さで、勢いつけてぶん殴ろうとする古城。まっすぐ最短距離で間合いを詰めて殴る。思いつく限りの最もシンプルで、最も手加減できる攻撃だ。古城は生粋の吸血鬼ではない。吸血鬼の能力に対するプライドもないし、一対一の決闘では誇りなどよりも命を優先する。

 しかし、意表を衝いたかにみえた古城の判断は、す――と指を合わせられ、炎上に呑まれた。

 

「先輩っ!?」

「今だ姫柊!」

 

 悲鳴よりも大きな声で燃え盛る炎の中で古城は後押しした。

 雪菜との戦闘を見て大まかに予想したが、ただ近づく標的を燃やし尽くすよう設定付けら(プログラムさ)れた門番は、どんなに不意を衝こうとしても圏内に踏み入れば反応するのだろう。相手を見ていない。近づけば攻撃する。だから、古城に、この展開は想定内であり、第二希望だった。

 不意打ちに失敗したとしても、囮にはなる。連発できるようだが、それでも一瞬、時間差(タイムラグ)がある。

 そして、一瞬の隙があれば、姫柊ならやってくれる、という信頼があっての行為だ。

 

(どうして、あなたはいつもいつも……そういう無茶ばっかり……!)

 

 そんな古城の意図を正確に把握した上で、雪菜の瞳に、紛れもなく怒りの色が浮かび上がる。

 きっとあの先輩は発火されても不死身の吸血鬼であれば火葬とはならないとか考えているのだろう。それでも灼熱に焼かれる痛苦はあるだろうに。

 絶対に説教しよう。

 この相手を降した後で―――!

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 銀色の槍を旋回させて、雪菜が門番を強襲した。ありとあらゆる結界を斬り裂く『七式突撃降魔機槍・改』は、魔術防護など無視して対象を貫く。発火能力を操る人工生命体は脅威であるが、接近さえすれば自らも巻き込む発火能力は使えない。そして、その肉体は人間よりも虚弱であり、雪菜は一撃で昏倒してみせる自信があった。

 ―――門番は突き出された銀槍の刀身を横叩きし、躱してしまう。

 その人工生命体は剣巫の一撃を捌く。それが雪菜の眼前に突き付けられた事実だった。

 速い。

 単純に言ってしまうならば、それですべてが表現できる。

 人工生命体は人間の雪菜は愚か、吸血鬼である古城から見ても目を瞠るほどの速度と力を持ち合わせていたのである。

 関節のひとつひとつに火薬が詰まっているのかと錯覚させる瞬発力と力強さで、門番の体は獣人種に迫る“速さ”を生み出していた。

 そんな恐ろしい速度で白兵戦術を得意とする剣巫の槍の突きすら捌いて、雪菜へ反撃する門番。彼女はそのまま接近戦の間合いで、雪菜が次の手を打つよりも速く、腕を振るう。液体金属と融解して剣に変じた片手で返す太刀を繰り出す。

 

「―――ッ! <伏雷>!」

 

 雪菜はそれを槍ではなく、呪力を衝撃変換する蹴りを剣腕の関節部に入れて、直撃コースから軌道を強引に変える。

 先輩が身体を張って作ってくれたこの隙を、失敗に終わらせる気はない。絶対に仕留める。

 発火能力以外にも、身体性能強化に変形機構を備えている相手であるが、初手を凌いだ剣巫の未来視は、この攻防で得られた情報を元にさらに読みを深く、鋭くする。

 

「<黒雷>―――!」

 

 高速戦闘に入る。身体強化呪術をかけた剣巫にも、ついていく人工生命体の門番は脅威であるが、一手先を視ている。<魔義化歩兵(ソーサラスソルジャー)>の未来予知を行う魔具を体内に埋め込んだアンジェリカ=ハーミダと同じく、この門番にも先を読める能力を有しているのかもしれないが、今の雪菜の眼の方が冴え渡っていた。

 門番の攻撃を擦り抜けて、銀槍が剣と化した片腕を斬り飛ばす。

 続けざま、槍を片手に持ち替え、空いた掌を門番の薄い胸元に添え、

 

「<(ゆらぎ)>よ!」

 

 人工生命体の肉体が吹き飛んだ。芯を打ち抜く『八雷神法』の浸透勁をもらい、魔力循環に不調を起こす。門番は発火能力を発動させようとするが、電池が切れかけた電灯のように眼光が点滅し、不発。そして、止めに槍の柄で打ち込み、昏倒させる。

 

「先輩!」

 

 それから雪菜は振り返った。発火能力で燃やされていた火は鎮火し、古城の肉体はすでに再生している。これも吸血鬼の力が強まっていることの恩恵だろう。服までは修復できないのできわどく肌が露出しているが。

 

「もう、いきなりあんな真似をして……!」

 

「ま、待て、姫柊……落ち着け! 今殴られたら俺は泣くぞ! 本当に泣くからな!」

 

「……はあ」

 

 涙目になっている古城を眺めて、雪菜は脱力したように溜息をついた。無言でその場に屈みこみ、まだ熱のある古城の背中にそっと手のひらをあてる。そのひんやりと気持ちのいい雪菜の手の感触に、幾分か気が楽になった古城は、よし、と立ち上がり―――ぞくりとくる悪寒が背筋を走り抜けた。

 

「っ……!?」

 

 防衛本能で昂る魔力放出は、その姿を視界に入れた途端途切れてしまった。

 目を見開く。

 キーストーンゲート第零層へ続く地下通路の門前に現れたその人物を見て、震える声で言う。

 

「クロウ……なのか……?」

 

 だが、考えてみれば。

 暁古城は、『その可能性』を最も警戒せよと忠告されていたはずではなかったか。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「……何を、やっているんだよ」

 

 

 助けに来てくれたわけではないのはすぐに悟った。敵対していることも事前に教えられていた。だから、最悪、戦闘までは覚悟していた。

 しかし。

 それが、崩れかけた。

 以前に圧倒的な力で古城を一撃で叩きのめした、あの絶壁のような威圧感がない。

 古城の目に映っているのは、ペラッペラの抜け殻だった。残骸というのもおこがましいほどの、成れの果て。あまりにも生気がない。

 

 どこかで一戦を交えてすぐ駆け付けたのか、ぐらり、と後輩の上半身が揺れる。

 風が吹くたびにそれに煽られよろめく、よろよろと、よたよたと。こんなの古城の知るクロウではなかった。テレビの中でチャンピオンだったボクシング王者が、酒に溺れて汚い路地裏に転がっているのを目の当たりにしてしまったような、圧倒的な絶望感が古城の胸いっぱいに広がっていく。

 

「何をやっているんだクロウ!!」

 

 冗談だと言って欲しかった。

 これは演技で、まだ健在であるのを見せて欲しかった。

 そうだ。こんなのじゃない。たとえどれだけ怪我をしていたって、どんな条件(ハンデ)が重なっていたって、そんな痛ましい姿を一度だって見せたことがなかった。

 そして。

 開口一番で出てきた言葉が、これだった。

 

「……立ち去れ」

 

 掠れていたが、それは奇妙なくらい穏やかな声だった。

 

「じゃないと、ご主人様と同じように、お前たちも殺す」

 

 そして、決定的な罪を告白するように、宣告する。

 決定的な芯を失ったものの、あらゆる感情が暴落した声で。

 先ほど対決した門番の人工生命体よりも機械的に、後輩の口から言葉が垂れ流された。

 

 その破滅者が纏う特有の空気に、古城は膝を屈しそうになる。

 

 今、対峙しているのは、<心ない怪物(ハートレス)

 “心臓”を手放し、物になり果てた者。

 そして、信頼が裏切りによって憎悪へと転じるように、その柱がしっかりしているこそ、壊れたときの暴走に歯止めが効かなくなる。

 だから。

 これから古城の選択次第で及ぶことになる行為に情が挟み込む余地などなくて。

 

「ふざけんな……」

 

 ボロリ、と。

 暁古城の瞼から、透明な滴が落ちた。

 

「ふざけんなよ、ちくしょう」

 

 世界で一番苦く、そして情けない味のする涙だった。

 屈辱とは、きっとこんな味がするのだと直感で分かってしまうような。

 

 世界最強の吸血鬼のくせして、こんなにもボロボロの後輩に助けを求められないのに、いったいどの面を下げて先輩面をしているんだ暁古城!

 

 「ああ。わかった。テメェのその石頭をぶん殴って、わからせてやる! 姫柊は手を出すな! これは俺とクロウの戦争(ケンカ)だ!!」

 

 監視者からの返事もお咎めもない。

 だがもはや雪菜が何を呼びかけようと、頭に血が上っている古城に耳には入らないだろう。

 

疾く在れ(きやがれ)―――」

 

 

 

 しかし。

 上も一対一の果し合いになど付き合う義理はない。

 

 

 

「―――がっ!?」

 

 これまでにないほどの魔力を滾らせる古城が、鮮血を吐き出して地面に転がった。

 古城の胴体がぽっかりと抉れて、心臓が完全に吹き飛ばされていた。

 その衝撃で古城の意識が一瞬途切れ、眷獣の召喚が解除された。

 

「狙撃!? そんな―――!?」

 

 古城の負傷に気付いて、雪菜が呻いた。

 敵対しているのは、<心ない怪物>だけではない。有脚戦車を半壊にして追い込んだ<魔導打撃群>。犬頭の機甲服を装着する警備隊が要警戒の侵入者である古城を狙っていたのだ。そして、上からの指示で、戦うまでもない<第四真祖>の心臓だけを、剣巫の霊感能が察知できないほど遠距離から正確に吹き飛ばした。機甲服の補正が入り、凄まじい狙撃精度である。

 

「ぐ……お……!」

 

 後輩しか頭になかったところでの不意打ち。心臓を失った古城は、もはや立ち上がることができない。必死に上体を起こそうとするが、顔を上げるのが精一杯だ。そして持ち上げた眼前に飛び込んできたのは、漆黒――撃たれたと同時に駆け込んだ金狼の振り抜いた機鎧に覆われた前脚だ。

 

 

「■■■■―――ッッッ!!!」

 

 

 狂化状態を示す赤い点灯。機鎧を纏う金狼の一撃をもろに食らい、古城の身柄が大きくブッ飛ばされた。

 無残に、放物線を描いて地に墜落しようとしている古城の姿に、雪菜は吹っ切れた。

 

「うああああああああああああぁぁ―――っ!」

 

 感情の沸点に達した雪菜は背中より翼の如き巨大な紋様を広げた。

 人間の限界点を超えた、濃密な神気を銀槍に纏わせ、一閃。<心ない怪物>たる同級生を牽制するとすぐ、一目散に飛び立った。

 先輩の下へ―――!

 羽ばたくように駆け抜ける少女は音速の壁を破る超高速で移動し、落下間際に古城の体を、槍を投げ捨てて両手で抱きかかえ受け止める。

 

「先輩! 先輩!」

 

 限度を大きく超えた霊力の放出に、貧血でも起こしたように意識が白み始めている。それでも古城の体に縋り付いて呼びかける雪菜の声に、う、と瞼がピクリと動き―――怪物の遠吠えが耳朶を叩いた

 

「が―――」

 

 急激に増大された負荷に、起き上がりかけた古城、それを支えていた雪菜の体が平伏すように屈した。

 高位精霊術と同等以上の効果を発揮する自然干渉の超能、そして、自然現象を情報改変する『聖殲』。それが合わさり成す、環境操作(テラフォーミング)

 今、中央区に十倍を超える重力負荷が与えられたのだ。いきなり体重が十倍になってしまったら、人間ではまともに動けない。吸血鬼でも重傷を負った身では起き上がることも叶わないだろう。雪菜も槍を手放してしまい、霊力の消費が激しくて重圧に逆らえるだけの余力を持っていない。

 そして、キーストーンゲートより吹き飛ばされた古城たちのいる地点まで染め変える金色の力。黄金色の稲穂のように、超巨大浮体式構造物(ギガフロート)の鋼の大地が色づく。それはこの人工島に施されていた強化呪術をさらに補強したのか。船一隻に聖護結界を纏わせ、魔力を失い崩壊しかけていた人工島を支えてみせるだけの力を有していたが、しかし何故それをするのか。

 その答えは、これからの攻撃に絃神島が耐えられるようにするため。

 

 天地玄黄。

 天は黒、地は黄。

 まさにその言葉の通りの、中央の守護者からの天罰。

 

「な―――」

 

 重圧に地べたに屈しながら、わずかに開かれた目に映った光景に、古城は言葉を失くした。

 

 黒。

 超能力と噛み合った『聖殲』の世界変革で、何もなかった大気中に巨大な塊が創造された。それは100mクラスの<第四真祖>最大にして最強の威力を誇る三鈷剣の眷獣よりも大きな、漆黒の月だった。

 月堕し(ムーンフォール)

 一国を滅ぼすほどの破壊が、個人を狙って落とされる。

 

「<焔光の夜伯>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――」

 

 右腕を震わせながらも、黒月が迫る空に突きあげる。

 貫かれた心臓をまだ再生できず、不完全な状態のまま暁古城は世界最強の吸血鬼――すなわち<第四真祖>の力を振り絞った、

 

 

「疾く在れ、『五番目』の眷獣、<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>―――!」

 

 

 人工島の大地すら揺るがす圧倒的な魔力。

 その凄まじい黄金の閃光と衝撃波が、天より堕ちる月を砕く――――――ことはできず、弾かれた。

 <第四真祖>の眷獣の力さえ通じない『異境(ノド)』の漆黒の薄膜(ヴェール)を、月は纏っていた。

 牙を突き立てた雷光の獅子は霧散して、そして、古城たちは月を仰ぎ、

 

 

(っ!? 落ち―――)

 

 

 

つづく



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黄金の日々Ⅲ

申し訳ありませんでしたm(_ _)m
リアルでのことなので説明はできませんが、しばらくハーメルンに復旧することができず、失踪していました。
ブランクも長く、更新が遅れがちとなってしまいそうです。しばらく読み直して勘を取り戻していきたいと思ってます。


獅子王機関絃神島出張拠点

 

 

 それは、鍛錬の合間に気まぐれに差し込んだ問いかけ。

 人間とは勝手の違う弟子は、武器を頼る才能が致命的に無いが、小手先の技など弄さずとも十二分に強い、ありのままで完成されている。ただ思いっきり拳で殴ればそこらの眷獣は消し飛んでしまえるだろう。

 ならば、どうしてこの猫の戯れな指導をこうも馬鹿正直に従っているのか?

 

『ん? 従ってちゃまずいのか? 姫柊を強くしたんだろ? オレもそうなると思ったんだけど、弱くなっちまうのか?』

 

 この坊やは純粋培養されたせいか、会話のキャッチボールでホームランされることがままある。

 そんな戯言がほざけるようなメニューは組んでいないつもりだったが、どうやらまだ甘かったらしい。気に入った相手ほど意地悪したくなるいじめっ子な性格の魔女に鍛えられたこの小僧はもっと苛め抜いてやらないと物足りなさそうだ。

 とますますハードに吊り上がっていく構想だが、その前に確認しておきたい。

 意思を。強さを求める理由を。

 その辺りのことを訊いているのだと頭の上で尻尾をぺちぺちしながら説明してやってから、再度、質問すれば、あっけからんと答えた。

 

『う。オレの力はすっごい大変で、加減を誤ると何でもかんでも壊しちゃうからいつもご主人に制御(せわ)になってるけど……オレがもっと使えるようになれば、ご主人も楽ができるだろうし、誰かを助けられるはずだろ? 色々と迷惑を掛けちまってる分それで恩返しできればいいなーって思ってるんだぞ』

 

 ふっ、と。これを聞いて、彼女は静かに目を細めた。

 笑みの形に。

 

 当人ばかりが気付いていないようだが、すでに<黒妖犬>は多くの命を助けている。こういう人助けは自覚がないからこそ華かもしれないが、坊や自身が大切なものを見出したのなら祝福する他ない。そしてその気持ちがある限り、この弟子の伸びしろは青天井であろう。自分の力に呑まれて変質してしまうこともない。

 

 ―――それが、奔放さを捨て、ただひたすらに作業のように戦闘に没頭するという。

 さて、現状既に『世界最強の獣王』として君臨する在り方へ及ぼす影響はどれほどか。

 

「……あたしら『長命種(エルフ)』に寿命はないも同然だけど、心がとっくに死んでいるのに、肉体だけが生き長らえている屍みたいなやつらが大勢いる。ああも摩耗しているのをみると介錯してやった方が慈悲かもしれないね」

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

 ―――月堕とし。

 強大な質量をもって降される壮絶なエネルギーは、隕石の落下衝突と変わらない。

 しかし、漆黒の月が激突した地面が吹き飛ぶようなことはなかった。キノコ雲のように上がった巨大な砂煙が、魔族特区中央のキーストーンゲートを遥かに上回る高さにまで達していることから、どれだけの衝撃だったのは明らか。

 鋼の大地を海上に浮かばせる人工島が沈んでもおかしくない。にも拘らず、被害が生じていない。

 

 <心なき怪物>は、四方中央、五つの要所を担う象徴の中でも中核を任じられる『黄龍』の座に据えられた守護獣。

 “聖人の片腕”でも代理として支えることくらいはできていたが、この四神相応の『黄龍』の役割を成し遂げられる『墓守』であれば、“祭壇”は如何なる災難に見舞われようが沈むことはない。

 これが、この元凶にして、絃神島の支配者である矢瀬顕重の構想。真の『咎神派』なる者として盟友と思い描いた青写真。

 それだけ、森の奥地で創られた現在の殺神兵器は、鋼の大地を支える―――支配しているのだ。

 

 

 激しい音と、凄まじい衝撃。

 暁古城は、単純な上下の感覚も前後の記憶の繋ぎ合わせも、何もかもがあやふやな状態で意識を覚ます。

 悪戯で半透明のビニール袋を顔に被せられたように視界はぼやけ、呼吸も苦しい。かといって、どうすればその不快を取り除けるかまで頭が回らない。自分の心臓の音だけがはっきりと聴こえる、この生々しい実感がまだ自分が生存している証明になる。

 

 ここはどこだ? そして、何をしていた?

 思い出せ……と脳の一点へ念じるように命じ、集約された意識はパラパラ漫画のように記憶を脳裏に過らせた。

 それは、じんわりと、霜がついた冷凍品をドライヤーの温風を当てて解凍していくように、暁古城の意識を過酷な現実へとピントを合わせていく。

 

 キーストーンゲートを強行突破しようとして……

 人工生命体(ホムンクルス)と戦闘することになったけどどうにか撃退し……

 だが、ボロボロな後輩(クロウ)と遭遇して、手も足も出ずにやられた。

 世界最強の吸血鬼、<第四真祖>の力がありながら、喧嘩(はなし)にもならない。

 そして、瞬殺されたところを、さらなる追撃に姫柊共々潰される……はずだったが、助かっている。

 これは、古城が無限の負の生命力を持った不死の存在だからじゃない。あの『異境(ノド)』に覆われた漆黒の月は、吸血鬼すら殺し尽せるほどのものだ。

 

(あの時、いきなり地面が沈んで……)

 

 月が墜落する間際に起こった地盤沈下。この落とし穴に身を埋もれさせることで災厄から九死に一生を得ることができたのだ。

 

「先輩……っ!」

 

 そこまで自覚してようやっとこちらを揺する声に気付く。

 古城が眼を開ければ、そこには案の定、こちらを蒼褪めた顔で心配する監視役。

 

「姫柊、俺達……助かったのか?」

 

「はい」

 

「……助けられたのか?」

 

「……はい」

 

 沈んだ面持ちで肯定する姫柊。

 これは推測。だが、堕月の衝撃にも耐える不沈島であんなタイミングで、このポイントだけで地盤沈下するなど、何らかの介入があって間違いない。そして、その何らかは古城には考えるまでもない。

 

「くそっ! なんて無様だ!」

 

 あの場には、クロウだけでなく、最初に古城を狙撃した男たち、<魔導打撃群(SSG)>がいた。だが、月に潰された相手にわざわざ安否確認――トドメを刺しに来るなどするまい。この頭上を埋める巨大な障害物は、それだけインパクトのある監視者除け。

 この一体の吸血鬼を仕留めるのに派手な演出でもって、安全圏まで強制退場された。

 

「ダメです先輩! まだ体が完全に治ってないんですから!」

 

 つまりは、助けに来たはずなのに、逆に助けられる結果となったのだ。

 これが無様でなくて何なのだ。感情のままに落とし穴の(つき)をぶち破って、飛び出してやりたい。心臓をやられた直後だけあって力が入らない。おかげで、こんなあまりに不甲斐ない穴熊を決め込まざるを得なかった。

 

「それでも、このままジッとなんかしてられるか……!」

 

 雪菜は、その時の古城の表情を見とる。

 煩悶と、悲哀と、幾ばくかの悔恨。そしてそれらによって形作られた、決意の表情を。

 先程、“クロウを止める”という確たる意志を以て後輩と対していた。けれど、今の古城から感じるのは、それさえも超えた、微かな狂気さえ滲ませた悲壮な使命感だったのである。

それこそ、自分の命を捨ててでも、何かを救わねばならないと思い詰めているような。

 その双眸の奥に燃える輝きに、雪菜は一瞬圧されてしまったのである。

 

「もうあんな……アヴローラのときのように、助けられちまうなんて、許せるかよ……!」

 

「先輩……」

 

 触れれば砕けてしまいそうな痛ましさが、今の古城にはあった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「助、けろ、ハート…レス……! コイツを――ッ!!?」

 

 犬頭の機甲服の兵士たちが、瞬く間に倒された。

 最後のひとりが首を掴まれ、宙づりされて呻いている。

 <犬頭式機鎧>を装備しているというのに、全く抵抗ができなかった。彼女がひっさげたその太刀に斬り裂かれ、刀身に染み付いた呪毒に体を侵されている。それも念入りに麻痺の呪が篭められた針を刺されているので、指一本も動かせないだろう。

 

「っ」

 

 クロウは弾かれたようにそちらへ首を振った。

 

 視界の先には、萌黄色の髪の、美しい『長命種(エルフ)』。白いマントの下にノースリーブにアレンジされた巫女装束風の白い衣装を着ている。

 式神を介してではなく、直接相見えるのは初めてだが、“匂い”で正体を悟る。

 

 しかし、戦闘直後も残心を取り、常に気を張っていたというのに、これだけの距離を近づかれても気づかなかった。幽霊のように捉えどころのない存在は、不躾に道路を踏み鳴らして進む戦車よりなお恐ろしい。

 

「さあて、邪魔なのは片づけたところで、早速、弟子が世話になったお礼をしようかね」

 

 洒脱で艶のある声色。だがその声が途切れる前に、すでに彼女は仕留めた最後のひとりから放り捨てており、同時に、ひとつの気配がクロウの致死圏内まで踏み込まれていた。

 

 

「<蛇遣い>に<第四真祖>と連戦が続いたようだけど―――息つく暇もなく、楽にしてあげる」

 

 

 それは、縁堂縁が魔術で作り上げた分身体。<魔導打撃群>を仕留めたもうひとりが注意を引いたところで懐に潜り込まれた。

 

(笹崎師父の隠形と同じ……!)

 

 空港の麻薬捜査犬はビニールパッケージの外側を独特な刺激臭がするチーズ等で塗り固めたところで誤魔化されない。<黒妖犬>の『嗅覚過適応』はそれ以上。

 だが、無音暗殺術『八将神法』を舞威媛たちに修めさせてきた師家の歩法はそれさえ欺くか。

 

 後ろへ下がるどころか、声を放つ暇もなかった。

 その時、この獅子王機関の師家がそっと寸止めするように突き触れたのは指一本。

 用意した武神具を抜くこともなければ、その繊細な手のひらを拳の形に握り締めることさえなく、ただ爪で少し突っつく、そんな些細な動作だ。

 にも拘らず、

 

「<(ゆらぎ)>よ」

 

 ドンッッッ!!!!!! と巨大な太鼓を打ち鳴らすような轟音が街中に炸裂した。

 真祖に最も近いと言われる吸血鬼を力でもってねじ伏せた筋肉の塊が、あっけなくくの字に折れた。それも今は鎧で守られているというのに。

 腹から背中に向けてすさまじい衝撃が突き抜け、彼をその場に残したまま、背後にあった残骸が不可視の波を受けてまとめて一直線に薙ぎ払われていく。

 

「お……っ」

 

 体内で爆弾が破裂したかのような感覚――拳の雨を浴びる感覚にも似ている。しだれ柳の花火にも似た、血の雨が飛び散る。

 その鉄臭い雨の中、この絶招を打ち込んだ師家の口元が、ふっと緩んだ。苦笑い気味に。

 

「これを凌ぐかい」

 

 という他の誰でもなく技を放った縁堂の独白。

 

 守護を透徹し、体内を直接揺さぶりかける<響>の極み。抵抗の機会など一切許さず。クロウは二本の足で立つ力さえ維持できず、その場で崩れ落ちて意識を投げ出しそうになる。

 ―――だが、そうはいかない。まだ、自分は膝を屈するわけにはいかない。

 

 爪先の一点にまで絞り込まれ貫通する指弾、かつて経験したことのない衝撃だった。とても踏ん張れるものではない―――これを、噛み殺す。

 犬歯を口に突き立てるように食い縛り、気力で立て直す。明滅してる意識が、完全に暗転すれば、その瞬間に終わる!

 

「ちぃっ!」

 

 雪菜のこともあるから面倒なく初っ端で仕留めるつもりだったのにこりゃ、精神が肉体を凌駕してる。いや、とっくに散々無茶を重ねているようだから、していた、と言うべきかと悪態をつきながら一端距離を取ろうとする。

 

 会心の一撃を見舞ったと手応えがあった後だけに気が緩んでいたか。

 襲撃を受けたクロウが気息の整わぬうちに無理やりに放った、霊弓術。それも、第三の獣王と同じ、獣気を纏った超高出力の霊弓術。矢と言うより槍のようなそれは当たればひとたまりもない。光の尾を引いて爆発的に加速。疾風を沸き起こしながら、後退した縁堂へ突き進む。

 

「おっと」

 

 師家は目を瞠った反応を見せるが、即座に手から魔力を放出しその矢を包み込んだ。

 まるで空中に見えないレールが敷かれたかのように、霊弓術はグルグルと何十周も彼女の周囲を回り始めた。そして、合気の如く勢いを殺さぬまま、クロウの放った霊弓術はそのままクロウへ撃ち返される。

 

「……っ!」

 

 それを片手で握り潰して、わずかに目を細めるクロウ。

 特別な術を使ったわけではない、純粋な魔力の制御のみで、こちらの矢をいなしたのだ。

 

 手強い……!

 そんな感想を抱くと同時に、<心なき怪物>の兜に備え付けられた通信機より伝令。

 <魔導打撃群>を壊滅させた襲撃者を迅速に撃破せよ。すなわち、獅子王機関師家・縁堂縁を始末しろ、と。

 

 

???

 

 

 けしかけた<第四真祖>はあっけなくやられたが、こちらが侵入を果たせるに十分な騒ぎを起こしてくれた。それに、彼らがあっさり退場してくれたおかげでか、縁堂縁を表舞台へ引っ張り出すことができた。

 矢瀬顕重の手駒であった<魔導打撃群>は壊滅。

 <蛇遣い(ヴァトラー)>を屠るために使った人工衛星搭載型の対地レーザー砲があるが、あれは一度放てばしばらくの冷却期間(クールタイム)を要する人工島管理公社の鬼札だ。

 故に、『墓守』に、この獅子王機関からの“祭壇”への介入の排除は委ねられているのが現状。邪魔者同士がお互いに潰し合ってくれてますます好都合である。

 

 風向きは、今、自分に吹いている。

 

 そうして、地下トンネルの終点へ辿り着く。

 

 何もない、ただっ広いだけの空間。

 直径はおよそ10m。深さ15mほどの円筒形の空間。

 そして、地上でも地下でもない、この人工島において海抜0mの空間。

 

 ここが第零層――<咎神の棺桶(カインズ・コフィン)

 

 目前にそびえ立つ垂直の壁は、頑丈な金属で造られている。外壁や扉に継ぎ目はなく、よじ登るための足場すらない。塵ひとつない殺風景な空間だ。

 見かけが精々貯水槽くらいにしか利用できなさそうなところであるが、

 

「<カインの巫女>はまだここにはいないようですね」

 

 しかしいずれは来る。準備さえ整えれば浮上させるだろう。

 

 <カインの巫女>が幽閉されているであろう<C>は、今この絃神島直下の海底深度400m地点に沈んでいる潜水艇のことだ。

 キーストーンゲート第零層は、その潜水艇の整備や補給を行う基地といったところだ。

 

「……『咎神』を復活させるためには、『記憶』を保存した『棺桶』とキーである巫女が必要―――つまり、条件さえそろえば、()()()()()()()()()()!」

 

 そう、神縄湖で目撃したあの奇跡。

 これを実現させるには、“彼女”の記憶を保存している媒体――<雪霞狼>と、それを読み出せる依代――<黒妖犬>の身柄を用意すればいい。“進化”して、世界と一体となったとしても、世界を変容させる『聖殲』の力さえあれば、引き戻せるのだ。

 

「その為ならば、世界が滅んでしまおうと構わない」

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

 張り詰めた空気が両者の間に流れていた。煌く刃と爪を共に突き合わせる師家と<心なき怪物>は微動だにせぬまま睨み合って動かない。糸を指で弾けば今にも激しく攻防を打ち合わせそうな気迫を漂わせながら、全神経を研ぎ澄まして互いに互いの呼吸を探る。一見は穏やかな、しかし水面下では壮絶な読み合い。

 

 長期戦は避けたい。というのが、縁堂縁の心情。

 ああも“『異境』に過適応されている”<黒妖犬>の五感は、平素のよりもさらに破格なものだ。故に、縁堂が完全に不意を打って打ち込んだ揺らぎも、あれには知覚できていた。

 波動の広がる様、振動の振れ幅を感じた。だから、急所は免れた。

 

 そして、獣王はその膂力と共に、スパコンに匹敵する聡明な頭脳、情報処理能力を有する。

 相手の手を分析し、尋常でない速度で対応する―――この学習能力こそが、殺神兵器の厄介なところ。同じ手は二度も通じない。偽者とはいえあの『三聖』の<静寂破り(ペーパーノイズ)>すら破ったのだ。

 考えなしに無鉄砲な数撃ち当たるを実践すれば、持ち札は一気に減らされるだろう。

 仕留めるのなら、学習させる余地など与えずにやる。一切容赦なく、一気に畳み掛ける。

 

「―――<雪霞狼>」

 

 緋色の薙刀を振り抜く。勢いを殺さず、更に立て続けに振るわれた二の太刀、三の太刀。運動エネルギーを位置エネルギーが絶えず入れ替わるジェットコースターのように、師家の太刀筋には停止期というのが存在しない。

 それを霊弓術の硬気を纏わせた上で、連ならせることで斬撃のひとつひとつが三日月状の鎌鼬となり、刃先の先へ伸び放たれる。機鎧の人狼へと虚空を斬り裂きながら襲い掛かる。

 

 余人には、師家の武器が消えたように見えただろう。

 緋色の流線だけが空中に刻まれる。一つ、二つ、数えて三つの弧を描き襲い掛かる剣閃。

 業のみで繰り出されるとはとても思えないその鋭さに、クロウはわずかに硬直する。

 

 此れが雪霞の猛威ならば、此れが狼の牙であるなら、このような硬直をする兵器ではない。

 此れが雪霞の吹雪であるなら一喝で吹き飛ばし、此れが狼の牙であるならその頭蓋たる刀身すら砕いてみせよう。

 

 しかしこれは雪霞の狼。

 爪を立てても雪霞はすり抜け、咆哮を上げる喉笛に狼牙を突き立てる。

 その攻撃が囲うように放たれるのだから逃げ場はない。

 

 ―――ならば、足を止めるのは愚の骨頂。

 

 躱せないのなら、当たって、砕いて、押し通る。

 猪突猛進こそ単純明快にして正解であったか。

 体力魔力の損耗、負傷具合、長期戦は不利と見れば逃げ回る益などない。瞬時に最善手を選び取ることができるのは、本能故だろう。

 だがそれは同時に両者の技量の差を露呈させた。

 もしも<雪霞狼>の剣閃を払いのけながら突き進む技量があるのなら、堅実に突き進んでいただろう。

 この手合いの猪武者は格好のカモであると。

 業だけで押し切ろうとする縁堂は後退しながらさらに弧を増やし空間を制圧していく。

 

 しかしクロウの突破力は尋常ではなかった。

 そうこれは傑物にして怪物。

 <雪霞狼>の剣閃で網目を描こうが策を築こうがはたまた壁を造り上げようが構わず、四肢が千切れ飛んでも頭があれば噛み砕けるという死に物狂いの精神で襲い掛かってくる。

 それで実際に軽傷で済ませるのだから侮れない。

 

「っ―――!」

 

 そして、最後、一足飛びで間合いにまで踏み―――込もうとする出足に先んじる形で縁堂が閃光のように駆け、クロウに向かって緋色の薙刀を突き出す。

 師家の心眼は、機鎧の隙間を見抜き、密度(ガード)の薄い箇所を瞬時に探り当てることも造作もない。霊力を帯び、眩く輝くその刃は、<疑似聖剣(ヴェルンド・システム)>の如き魔を滅する強力な浄の属性を有しており、吸血鬼の眷獣さえ平気で貫く。―――はずだったが、クロウは自ら身を乗り出すよう、師家の刃を受けた。

 縁堂が驚き、しかし止まらず、刃を押し込もうとした。だが、刃は1mmも食い込まず、むしろ反作用で薙刀が弾かれ、縁堂の腕まで痺れた。装甲に覆われぬ地肌に薄らと纏う金色の生体障壁、あらゆる物理衝撃を遮る<疑似聖盾(スヴァリン・システム)>。

 己の肌よりも脆い鎧など、防具でも何でもないのだ。

 

 そして、隙ありと見て、クロウは反撃の蹴りを見舞う。これを薙刀の柄で柔らに受けて威力を削ぎ方向をずらそうとする縁堂。

 それでも完全に殺せぬ蹴撃の威力は薙刀をその手元から離させて―――翻る。蹴り飛ばされた得物のことなどまるで頓着しない縁堂の動き。

 ローブの裾を派手に翻し、師家の身体がぐるりと大きく回る。撓る蛇が如き足技、多大に遠心力を加算した上段回し蹴りが、2mを超えるクロウの鼻面ど真ん中を狙う。

 鎧装甲に覆われた太い両腕を盾に間に挟み、しっかりガードを固めたにもかかわらず、すべてが無駄に終わった。

 吸い込まれるように決まった蹴り込み、着弾点に発生した防御を貫通する衝撃は、踵側から解放されたひとつの方向性に収束されたエネルギーを真正面から受け止めたクロウの体躯に衝撃を走らせて、踏みしめた大地を罅割れさせる。

 

「……ッッッ!!!!!!」

 

 一瞬遅れてからの周囲へと放たれた圧力は、ビルの壁面の窓ガラスをも割り砕く。衝撃波(ショックウェーブ)

 

 ―――だが、好機!

 

 標的は得物を手放した。無防備に晒されている。

 呼吸がわずかに乱れている。致命傷ではない。

 ならば多少の損傷に過ぎない。

 膨大な魔力が供給される。獣王の肉体は堅牢に維持されている。傷は癒える。残るのは痛みだが、それは我慢すればいい。

 これまで幾度となく有形無形問わず受けてきた。そして、受け切って、潰してきた。

 蹴りを食らうとほぼ同時に、その蹴り足を叩き折るべく、顎の如き両手指噛み合った握撃を繰り出すが―――

 

「身も心も頑丈な相手とやり合うのはしぶといから疲れる。ちょっとは年配者を労わらないかね」

 

 するりと躱される。皮肉混じりに。まだ余裕がある。

 数多くの剣巫・舞威姫を輩出した獅子王機関の師家、対人戦闘によほど慣れているのか。

 

 スペックも技量もさることながら、何より駆け引きが巧い。

 端的に言えば場数や経験から来る試合運び。相当戦い慣れている。<白石猿>にも引けを取らない豊富な引き出し。

 特に舌を巻くのは虚実の技巧。

 フェイントから間合いの取り方、身のこなし、その一挙手一投足に至るまで、どれが本当でどれが嘘なのかとにかく読み辛い。相手はこちらが動きを読むことさえ織り込み済みで仕掛けてくる。

 わざとその気配を匂わせてから、次の瞬間にはその予測を裏切る攻撃を繰り出す。反撃しようにも、まずこちらが有利に運べる状況に移らせてもらえない。

 これを可能とするのは眼力、研ぎ澄まされた観察眼。一段階深化している師家の霊視は、対象の気配、その動きの機転を確かに感知する。微細な筋肉の動きから呼吸まで、全てを感じ取る。

 

 ―――ならば、力業で条理を覆すのみ。

 強引に、泥仕合(こちら)の土俵に引きずり込む。

 

 鋭い呼気。我武者羅に振るった剛腕。

 相手の足を掴まえられず、スカした両手の指を噛み合わせて握り込み槌とし、鉄杭でも打ち込むように地面に叩きつけられた。

 大気が破裂する。大地を打楽器とした震撼する波動、拡散攻撃だ。それはミルククラウンにも似て、この一区内で硬い鋼盤が捲れ上がって宙を舞う。スケールの凄まじい畳返し。必殺の威力はないが、地に足をつけている者には躱しようがなく、まともに当たればいくらかの隙も生まれよう。

 だが、今、縁堂縁は、二人に分身しているのだ。

 

「―――<煌華鱗>」

 

 木の葉のように吹き飛ばされた分身体を尻目に、もうひとりの、太刀を有する縁堂の手にした反った刀身の先端と鍔に糸が張られた。

 眩い光を放つのは、霊弓術。

 それは太刀弓を引くと集約されて一本の矢となり、そして無慈悲に放たれる。

 

 ガカッッッ!!!!!! と暴力的な閃光が空間を引き裂いた。

 この師家は、舞威媛が武神具に頼って行う圧縮詠唱を口笛のように軽く口ずさんで成立させてしまう。

 思わず身構えた機鎧の人狼に直撃し、弾こうとした両腕を逆に弾き飛ばす。大きく万歳するように持ち上げられ、無防備な胴体をさらしてから気づかされた。たまたまではない。相手は、まずこちらの腕を狙い、確実に次の一手で葬り去れるよう態勢を崩すことに集中していたと。

 

 そして、冷徹な声が響く。

 

 

「光あれ」

 

 

 反論も暴言も一切言わせず、さらにもう一射。

 速いだけではなく、執拗だ。閃光の鏃は空間中で曲線を描いて、標的の心臓を貫くべく襲い掛かる。まともな回避行動を取ってもそれ以上の鋭角さで軌道修正して急所を抉り取ってしまうだろう。

 

 ゴッキィィィン!!

 と、それでも、不規則な軌道を見切る獣王は、脚で閃光の矢を丸ごと薙ぎ払うかのように蹴り飛ばすのであった。

 

「手癖だけなく足癖も悪いか。まったく面倒極まりない」

 

 だが、関係ない。

 縁堂が真横に倒して太刀弓を引き絞った直後、霊弓術の矢は一気に十以上扇状に広がる。

 

 極太閃光が空間をまとめて引き裂く掃射。

 

 続けて縦に掲げて真上に放ち、∩ターンで極太閃光を降り注ぐ曲射。

 

 そして、最後となる三の矢は()()()()()()剛射。

 

 参考書などで、赤い文字で書いた答えを赤いセロハンを重ねて隠す教材がある。

 縦横に染め上げる、均一な光の弾幕(カーテン)の奥から、まったく同じ色彩に埋もれた攻撃は、それと同じだ。霊視()を焦がす程に過飽和した情報量が篭められた閃光の向こうから襲い掛かれたら、相手には攻撃のタイミングも軌道も読めなくなる。

 この優れた感応を逆手に取った師家の業に、幾人の巫女が棒立ちのままやられてきた。

 

 

 しかし、この縁堂縁の選択は誤っていた。

 

 

 主の傍で幾度となくその魔術を体感してきた使い魔(サーヴァント)に、空間制御を行使するなど、痛恨の失手である。

 

 ブラインドがあろうとも、ほんの僅かな違和感(ゆらぎ)、それだけで、狙いを看破できる。

 であれば、避ける必要さえない。

 

「■■■■―――ッ!!」

 

 空間制御が高等魔術だと言われる所以は、その座標計算にある。

 相対距離、相対速度、海抜の変化や、地殻の湾曲。月齢による潮汐力の変化。地球の自転や公転に伴う絶対座標のズレもある。

 彼の魔女は、悪魔との契約によって―――文字通り人知を超えた力で、術の過程で必要となる膨大で複雑な計算の答えを瞬時に割り出しているのだ。

 

 超遠距離の式神操作が可能で、千の術に精通している獅子王機関師家の『長命種(エルフ)』であろうと、この<空隙の魔女>よりも空間制御に精通しているはずがない。さらに言えばこの手の必殺必中は、北欧アルディギアの兵器『オーディーン』の投槍で経験済みであった。

 

 そして、<黒妖犬>の遠吠えは、<煌華鱗>の一矢の座標位置をズラさせた。

 

 この『地』を統べる守護者の過適応能力と現象を上書きする『聖殲』の力が合わさり獲得した、世界を書き換える<闇誓書>と似て非なる権能。

 この空間情報が変動する環境操作(テラフォーミング)が、『魔力攪乱幕』の如く空間制御に必要な計算を無茶苦茶にした。避けられない必中の矢を、外させたのだ。

 

 そして、外れた矢の行方を追った眼の瞬きをしたコンマ数秒の隙。

 次の瞬間、師家の懐に機鎧の人狼が潜り込んでいた。

 

「!」

 

 仙法武術と獣人拳法、そして、縁堂縁が教え込んだ神法体技が複雑に組み合わせた歩法。

 正面に対峙していたのに、完全に意識の外から現れるという矛盾めいた速度。

 そして、繰り出されるのは、鉄拳。

 極限の究極まで至った獣王の四肢。まともに掴まれ筋力で握り潰されれば、大金庫の扉さえ水あめのように毟り取る。超高比重な合金製の砲弾が、見た目の強度を無視してあたかもプリンを崩すように兵器の複合装甲をぶち破るのと同じなのだ。

 さらに、そんな埒外な握力で、赤黒く澱んだ闇を凝集する。その血にも似た薄膜(オーロラ)は、霊力の階梯を超えた神気の純度(レベル)でなくば対抗しようのない理不尽。

 

「っ―――<煌華鱗>!」

 

 渾身の一矢を外させられた縁堂が咄嗟に息を呑み、けれど即座に長弓としていた太刀を凄烈の気迫を篭めて斬り下ろす。それは天地に落雷が走り抜けるよう迅速であった。

 光りさえ喰らう黒天体(ブラックホール)の如き拳撃へ、煌きを曳く紫電の刃がぶつかる刹那、爆発的な衝撃が地区全体を襲う。残骸は粉々に砕け、周囲に粉塵が立ち込める中、苦笑にも似た乾いた吐露が吐く。

 

「ったく……まともに一撃を食らえばこれかい」

 

 粉塵を切り払いながら師家が姿を顕す。

 手にしていた太刀弓<煌華鱗>は刀身を砕かれていた。そして、態勢を崩し、得物を失った縁堂の手首を今度こそ人狼の手が掴み、半身翻すほど大きく振り回して叩きつけた。

 

「はぁッ!!」

 

 響く爆音。弾ける地面。

 鋼鉄の地盤に地割れが生じ、その衝撃音は地区全体を震撼させる。

 投げつけが極まった縁堂縁の分身体は、弾けるように霧散した。

 

 

人工島中央区 シティホテル

 

 

 『墓守』の戦闘を映し出しているモニタの前で矢瀬顕重は、表に出さないようにしているが内心苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。

 

 何を遊んでいるのだ! 早く駆逐しろ!

 長引けば長引く程に、焦れる想いが歯を軋らせる。

 

 <蛇遣い>、それに<第四真祖>を始末したところまではいい。こちらの期待値通りだ。むしろ神殺しの禁呪――『聖殲』の補助をしてやったのだから当然の結果だと言える。

 だが、それだけに、その後の獅子王機関との戦闘で手古摺っていたのはいただけなかった。手駒の<魔導打撃群>への奇襲に勘付けなかったのもそうだ。

 あんな吸血鬼でもない、たかだかエルフなど、奇襲を許さずに圧倒してしかるべきなのだ。これでは絶対守護と謳っていた『墓守』としての価値に泥を塗っている。

 MAR総帥、シャフリヤル=レンは是か非でも同盟を結んでおきたい相手で、我らの正統性を信じ込ませなければならないというのに……

 

(やはり、一度は『瓶詰(こいつ)』を使って躾けてやるべきか)

 

 煎じ詰めれば、原因は明白―――要するに<黒妖犬(アレ)>は、欠陥品なのだ。

 性能は問題ない。だが、兵器(どうぐ)として不要な心を抱えている。<心なき怪物(ハートレス)>を名乗らせるにはあまりに愚鈍だ。

 

(……いや、それなら一から造るか? 『墓守』を造り出すプロセスはすでにわかっているのだ。<黒死皇>の材料(DNA)もある。今度は魔女になど関わらせず、最初から儂が『墓守』として相応しい殺神兵器を……)

 

 <黒妖犬(あれ)>にこだわる理由などない。

 そもそも、『墓守』は防衛装置であって、『聖殲』の発動自体には関与しない。

 必要な条件は三つ―――

 ひとつは、『祭壇』である絃神島の存在、もうひとつは『棺桶』に封印されている禁呪の解放、そして最後の鍵は、『聖殲』発動の要であり制御ユニットでもある生贄――すなわち、『巫女』だ。

 人間の限界を超えた天才的な電脳使い、藍羽浅葱を手中に収めていれば、魔族大虐殺はできるのだ。

 もっとも矢瀬顕重からすれば、この『巫女』でさえもいざとなれば切り捨てられる替え玉の効く部品でしかないが。

 

 とにかく、()()な『墓守』に対して勝手を認める慈悲など微塵もありはしない。儀式の準備が整えればそこで用済みにしてもいい部品。走狗烹らるのだから壊れるまで使い潰す。それでまた“どのくらいまで耐えられるのか”という実験データも取れよう。

 矢瀬顕重は、自らの思うままにならない存在を許しはしない。

 だから、思いも寄らぬ展開など、ありうるはずがないのだ―――

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

 呼吸や間合い、目線と言った細やかな誘導で相手の反撃を封じ、一方的に押し込める状況創出。それはつまり無数のフェイントを仕掛け続けることに他ならない。

 しかし、ついにそれにアジャストされた<黒妖犬>の超感覚はその根底を嗅ぎ分けて、成立しなくさせる。

 この対応速度は、師家の予測を超えていた。

 

(<白石猿(ハヌマン)>をも上回った殺神兵器(ぼうや)の学習能力を甘く見てたか)

 

 二度。三度。四度―――幾度となく、霊力の剣閃が、花火のようにあたりに舞い散る。

 常人の動体視力では、光が煌いているようにしか見えはしないだろう。だが、それを美しいと判断し得るだけの眼力があれば、相手の身体が10以上の肉片に分割される様が幻視できるだろう。

 そんな目にも止まらぬ斬撃にでさえ止められぬ、あまりに凄まじい反射速度(スペック)

 

 薙刀の穂先が機鎧の人狼の横っ面を叩く。いずれも人間の反射では追い切れない速さで、決定打に見えたが、装甲についた傷跡は掠れるほど薄らとで、紙一重で躱しているのだとわかった。

 何と言う人外の反射神経。

 それに動きも妙。雲のようにふわふわと軽く、しかし速い。段々と加速している。

 獅子王機関師家の繰り出す攻撃を、完全に見測られていた。

 

 時間の流れがひどく緩慢に思えるほどの超感覚。

 <黒妖犬>が体感する世界は、ひどく静かだ。深い海の底にいるよう。

 現象の全てを微細に感じ取れる。相手の息遣い、鼓動―――いや、もっと細かい、細胞の揺らめきだとか、神経の帯電さえ―――その心の蠢きさえ嗅ぎ取る。

 死闘で磨かれ、そして、蓋を外された拡張感覚。

 はっきり情報量の次元が違う。敵の動きを見切るのは容易く、己が操る力の運用にも精緻に制御する。この状態ならば、瞬時に、無駄なく、力が扱える。

 

(<煌華鱗>を潰されたのが手痛い)

 

 遠距離からの殲滅・支援のできる分身体を潰されてしまった以上、こちらは<雪霞狼>による白兵戦で応じるしかない。

 廻って、蹴って、躱して、跳んで―――(つよ)さと(はや)さを併せ持つ<黒妖犬>、こと白兵戦においては無類の強さを誇り、この間合いでは剣巫すら凌駕する逸材だ。

 迷い(むだ)なくこちらの攻撃を見切れるようになった今、その動きは霊視すら振り切るほどの速さに至る。縁堂は断続的にその影を見失ってしまっており、それを経験で補うことで凌いでいる。

 

 それでも反撃が当たらない。かすりもしなくなる。秒ごとに研ぎ澄まされていく超感覚が、この師家の動きを精確に把握し“過適応”を深めていく。縁堂縁が有する経験値(リード)の底へ至ろうとしている。

 将棋で言えばもはやこの盤上は詰み手に入ろうとしている。鬩ぎ合いは、決着へと収斂していく。

 

 ……いや、この局面は既に詰まされてなければおかしい。

 

(やはり、この坊や、まだ……)

 

 攻撃がかわされるが、反撃はほとんどされない。

 ここで縁堂縁を仕留めてもいいのか―――という迷いを抱いているのが、対峙しているこちらにはよくわかる。

 向こうのようによく利く『鼻』はないが、鉄仮面(バイザー)に覆い隠された表情が透けて見えよう。

 知っているのだ。

 この弟子は、生きるため、食べるため以外に命を奪う行為を嫌悪する。

 余計な正義感や復讐心によって己を正当化しながら暴力を振るうようになれば、己が取り返しのつかない破壊の化身になってしまう事を理解している。世界最古の獣王を倒し、ついに世界最強を名乗ることが許された『獣王』は、それが怖くて怖くてたまらないのだ。

 そう。

 この闇にも埋もれぬ――この島での黄金の日々が育んできた――心性が、縁堂縁本体への攻撃の躊躇いを生じさせている。<蛇遣い>のように殺そうが死なぬ相手ではなく、かといって<第四真祖>のように強引な誤魔化しができるほどの実力差がある相手でもないし、あんな月を落とすほどの大がかりを許せるだけの力は、残っていない。

 <黒妖犬>も、詰んでいるのだ。

 

 

異境(ノド)干渉場、固定。虚数領域より五大主電脳(ファイブエレメンツ)のパラメーター注入。基点座標において、『聖殲』を起動―――『墓守』、障害の排除を開始します』

 

 

 ―――真なる『咎神派』はついに命じる。

 観戦し、監察し、宣伝しようとしているのに、怠慢な行いを許せるわけがない。

 故に、兵器(どうぐ)として正す。

 優しい願いや希望などを引き千切り、<黒妖犬>を、<心なき怪物>とするのがお望みだった。

 

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

 早急に結果を求められ、それまでより強い強制力が働いた指令。頭蓋骨に鉄杭を叩きこまれたような痛みであった。肉体的なものか精神的な痛みなのかも判然としない。これでは白と黒も判断できず、唯々諾々に通達を疑問なく受け入れてしまう。とにかく、それほど苛烈極まる強制命令(コード)は、ひとつのことに誘導する。

 白だろうが黒だろうが関係ない。

 こちらが断じれば、貴様は目標を赤に塗り潰せ。

 すなわち、“破壊せよ”と。

 

 器に注ぎ込まれる『聖殲』の力。背中から飛び散る紅い波動で、天が桜色に染まって見える。

 

 だから、そんな真っ赤になってしまった視界にそれを見落とす。

 

「あ―――――」

 

 さしものクロウとて、反応が遅れたようだった。

 複数の太い銀鎖が躍る。もっぱら打擲用に扱われる重厚なる呪われた鎖が、横殴りに機鎧の人狼の頬を叩く。打ち倒せるほどの威力はないが、それは完全に不意を突いて面を引っ張叩いてくれたのだろう。

 極限にまで張り詰められた状態は痛苦や怯懦さえ捻じ伏せてしまうものだが、反面、意外なほど容易く緊張の糸と言うのは切れてしまう。

 想定外の事態。

 誰よりも、クロウにとって想定外。予想できないのではなく、その到来はありえてはならないものであって、想像することさえも許されないものとして自粛していた。だから、放心して、空いた口から洩れるのは言葉にもならない。

 

 なので、殲滅なる後光を一掃してくれた嵐のようなその正体を口にしたのは、縁堂縁であった。

 

「空隙の、魔女……?」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 そして、『墓守』へのラインが途切れる―――

 

 

人工島中央区 シティホテル

 

 

「『棺桶』が、消失(ロスト)しただと……?」

 

「は、はい。通信、途絶しています。『棺桶』の反応が途絶えました!?」

 

 

海底

 

 

 ―――すべては水面下で行われた(はかりごと)

 

 

 海中でも活動可能な魔獣<蛇の仔(タラスク)>に()()()兼邪魔な障害を排除する護衛を任せ、潜水艦で捜索する。

 しかし目標物は備え付けられた索敵センサーにすら感知しえないステルス機能を有しており、探知系を拒む魔術除けの結界が張られている。それも水自体に魔力を減衰させる性質がある。

 事前に、風水術にて探り当てた『祭壇』たる人工島の機構の――『東洋の至宝』と謳われた男が遺した――情報より、それの大まかな見当はつけてはいる。

 

 それでも海は広く、昏い。

 水深400m……そこは、深海と呼ばれる領域。太陽光がほぼ届くことがなく、可視光線はほぼ遮断された、暗黒の世界。

 照明に当てられた箇所でしか目視の叶わぬ中で探すのは、至難の作業だろう。

 

 それでも私は、この任を全うする。

 

 <空隙の魔女>が<監獄結界>に眠りについている間、その現実にない本体には手が届かないように、『棺桶』を守護する限り『墓守』は、ありとあらゆる必然と偶然を操作して守られる『巫女』の恩恵にあずかり、敗北することが許されない無敵と化す。

 それはつまり、“止められようがない”ということになってしまう。

 だから、先輩を解放するためには、まず『棺桶』と『墓守』の呪縛(ライン)を断ち切らねばならない。

 

(早く、見つけ出さないと―――これ以上は、もう―――)

 

 青水晶の目を凝らし、昏い海を虱潰しに潜航していたそのときだった。

 その声が聴こえたのは。

 

 

    “こっち”

 

 

 それはこの人工生命体の記憶にある声で、だけど、こんな深海に聴こえるはずのない声。

 

 

    “こっちに……ちゃんが……いる”

 

 

 しかし“彼女”の声は、何度も示す。必死に、訴える。また、科学と魔術の探査でさえ捉えられぬはずのその影を、的確に掴んでいるような響きであった。

 

 

    “お願い! 浅葱ちゃんを……クロウ君を……助けて……!”

 

 

 消え入りそうな、だが、しかと託された嘆願はこの胸に抱く想い(もの)と共振する。

 あまりに都合のいい。根拠などない。普通の神経、少しでも理知的であればそんなのは幻聴だと処理をする。しかし、この時は理性よりも情動の働きに優先された。そう、何よりも信頼できる情報と定めたのだ。

 この導きが示した先へ急行し、そして―――

 

 

目標物(ターゲット)、発見しました。教官(マスター)、指示を」

 

 

???

 

 

 『棺桶』は『聖殲』の核となる装置。

 水深400mの海底に沈めており、他所からの干渉を防ぐために魔術除けの結界が施されている。

 これが浮上してくるのは、儀式の準備が整った時だ。

 ―――だが、そんな向こうの事情など考慮してやる義理はなく、そこまでいけばあの男は『墓守』を使い捨てるだろう。仕事がなくなれば走狗(イヌ)は始末するのが奴にとっては常套だ。

 

 

『―――命令受託(アクセプト)

 

 

 やれ、と繋がっている通信に向けて短く許可を出せば、端的な応答が返り―――結界破りの指先(ロドダクテュロス)が『棺桶』に届く―――そして、呑み込んだ。

 

 これで、芸能人気取りの教え子は回収した。人質にしていた両親、藍羽仙斎・菫もすでに救出済みだ。

 これで、『聖殲』の肝となる『巫女』を欠いてしまえば、大願成就を目前に控えて計画は破綻。

 

 やられたことをやり返したのだ。

 向こうもテロの襲撃で死を偽装し、裏で事を運んでいたが、今回はそれをこちらがやらせてもらっただけのこと。

 そう、気づいた時にはもう遅い―――

 

 ―――でも、これで終わりではない。

 

 ようやく、息を潜めるのを止めただけ。ようやっと、この水面下から顔を出す時が来た。

 意識を切り替えた途端、“それ”は音もなく湧き出してきた。胸の内から“それ”がふつふつと音を鳴らし、得体のしれない熱のようなものを発し始めたときには、もう制御不能になっていた。自覚症状が現れたときにはもう手遅れなほど深く進行しているガンのようなものだ。どうしてこうなった。いったい何が悪かった。そう思う心を止められない。さらには、わざわざ“それ”を抑え込もうとする意志さえも、もう彼女の中には存在しない。

 表情は動かない。人形であるかのように。

 獣のように歯を剥くことも、肺が破れるほどの咆哮を発することもない。静かだ。だがそれは、何の感情も抱いていないと示しているわけではない。彼女は、知っているのだ。絶対に失敗が許されない局面こそ、無意味な感情表現は控えるべきだと。前回、それができずに失敗した。あれから鉄仮面を付け直す作業に時間を要した。事の困難さと比例し、自分を押し殺さなくてはならない局面で、それが成功への道筋であると理解していたから。徹底した。

 冷静に個人など無視し、状況を俯瞰できる自身を、無情に、徹底した。

 そして。

 ポツリと。

 徹夜明けで無意識に零してしまった欠伸のようなものというよりも、それは宣誓のような形で、一度だけ彼女は唇を動かした。

 宣告する。

 

「さあ、戦争の刻だ」

 

 これ以上待ってやる必要も理由もない。

 誰に喧嘩を売ったのか、そいつを正しく思い知らせてやる。

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

「クロウ……?」

 

 撃ち抜かれた心臓が回復し切っていない状態ながら、吸血鬼の体力で穴から脱した古城が目撃したのは、ボロボロになった師家・縁堂縁(ニャンコ先生)と暴走し―――突然、停止したクロウ。

 赤い浸食に呑まれたかと思えば、潮が引くように消えた。

 

 一緒についてきた雪菜も、親代わりの師が常の涼し気な雰囲気を捨てて息荒げになってる姿に目を瞠って、状況を把握し切れていない。その対決していた縁堂縁に至っても、不明な事態で構えてる矛先を向けるか揺れている。

 

「おい、大丈夫かクロウ!」

 

 よくわからないが、これは絶対にまともな状態ではないはず。そう判断し、後輩の元へ駆け出そうとした古城。

 

 

「さわぐな、暁古城」

 

 

 ―――と、出し抜けに別の声がした。

 すたすたと軽い足取りで、この急制止された戦場に近づいてくる者がいる。

 直前まで気配がなかった。それでいて、急いで現れたふうでもない。初めからそこを歩いていたかのように、彼女は悠然とこちらに接近してきた。

 

「転校生、貴様の監視対象が勝手をしないようにきちんと見張っていろ」

 

 教師らしい口ぶり。それが誰の声か、雪菜もとっくに理解しているはずだ。

 それでも振り向けない。願望が見せた幻想ではないかと疑っている。

 

「那月ちゃん!」

 

 童女のような幼い顔立ちで、豪奢なドレスを纏った魔女。

 そう、<空隙の魔女>南宮那月が、現れた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 直前まで『鼻』にも感知し得ない、空間の揺らぎ。

 そんな真似ができる者は、ひとりとしか知らない。

 

 どうして、来たんだ……?

 

 部品を引っこ抜く無理やりな強制停止の反動からか、身体が思うように動かないでいたクロウもそれを知る。

 疑問が脳裏を占める。

 こんな表舞台(ところ)に出たら、すべてがバレてしまう。だから、自分が獲り返すまでは眠っていてもらわなければならないのに……!

 

「なんで、だ、ご主人……」

 

 心身を摩耗させ、感情を押し殺していた少年は、胸の奥深いところに押し隠したその単語が、漏れ出る。

 その時、被っていた兜より通信が入る。

 

 

 ―――直ちに、<空隙の魔女>を、やれ。

    さもなくば、瓶詰の心臓を握り潰す。

 

 

 ドクン、この“胸の内の心臓”に寸鉄をねじ込まれたような気がした。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <黒妖犬>によって、<空隙の魔女>は殺された―――

 と、絃神冥駕に聞かされていたが、今、目の前にいるのは紛れもなく、古城の傲岸不遜なる担任教師で、後輩の主人たる魔女だ。

 やっぱりデマだったじゃねーかあの野郎!

 

 ……だが、それにしては様子がおかしい。

 主の方へ顔を向けた後輩は、いつもの調子で呼ばれずとも駆け寄る気配など見せずその場に佇んだままで、それもどこか責めるように彼女のことを睨んでいる。

 一方で、那月ちゃんの方もいつもの皮肉は言わず、クロウからの口ほどに文句の篭った視線()を半ば無視する形で受け流している。

 古城の目には見えないが、両者にはまだ、歩み寄るのを拒む隔たりがあるようだった。

 

 疑問は他にもある。

 南宮那月は無事だった。だが、どうしてこんな二週間もクロウのことを放置していた。<心なき怪物>なんて真似を許した。こんなこと、彼女が最も許せないはずであろうに。

 

「古城、雪菜、それにそこのエルフよ。あの二人に手出しをするな」

 

「ニーナ、お前なんでここに? まさか那月ちゃんといたのか?」

 

 この半月ぶりの顔合わせに言葉もなく、対峙する主従を見つめていると、足元から制止の声。

 見下ろせば、そこにオリエンタルな美貌をもつ小人。錬金術を極めた大賢者にして、『霊血』なる魔導金属で体を構成しているニーナ=アデラート。

 これに縁堂縁は緋色の薙刀を肩に立てかけ、洒然と訊ねる。

 

「なら、説明を要求するね。<空隙の魔女>は、<黒妖犬>に裏切られてやられたと話に聞いてたんだけど」

 

「よかろう。偏屈な那月は絶対に語ろうとしないだろうから、代わりに(わし)の口から始終を話してやろう」

 

 大仰しく頷く古の大賢者。

 チッと舌打ちが聴こえた。

 余計なことを……と忌々しげな呪詛(オーラ)を覚える古城だったが、いつもなら口よりも早く襲ってくるだろう空間制御の衝撃波がない。

 それだけ目の前の相手に集中している。不眠不休とこき使われ続けてきた半死半生の身体の具合をつぶさに視察し、目を細めている。

 

「クロウは、那月を裏切った。だが、そこには裏切るに足るだけの理由があった」

 

 クロウが那月ちゃんを裏切るだと?

 ニーナの発言は古城にはとても信じ難いものであったが、続く言葉に閉口する。

 

「あ奴は心臓を人質とされておる」

 

 ニーナ=アデラートは語る。

 “心臓の肉1ポンド”という強欲な商人が用いた契約法を。

 

「那月先生はそんなことを……!?」

 

 語られる術式に息を呑む雪菜。

 かつて、『波朧院フェスタ』で起こった『闇誓書事件』で、仙都木優麻が、<第四真祖>暁古城の身体の神経系を空間制御で別々に場所に繋げてみせたことがあったが、生きたまま心臓を瓶詰に隔離させるなど残虐な振る舞い。看過できるものではない。

 

「咎めるのは当然のことだ。だがしかし、クロウが魔族特区に身を置くために絶対の保証できると思わせるだけの安全策が必要だったのだ。あまりに強すぎる、そして制御の出来ない兵器など置き場がない。那月が先手を打たなければ、『首輪』だけでは納得のしない管理公社はより徹底した管理をしただろう。学校に通わせることなど不必要だと処置されるだろうな」

 

 不遇なことに後輩は、この絃神島に多大な活躍はすれども、あまり評価はされない。攻魔師資格(Cカード)がなく、働きは無償奉仕(ボランティア)か、管理役の那月の手柄と処理される。

 実際、錬金術師・天塚汞の事件でのクロウの扱いを見ていた古城には納得などできないが、ニーナの憶測は的を射ているものだと頷かざるを得ない。

 古城は震える声で、

 

「クロウはそんなこと納得してたのか……? 心臓を誰かの手元に置くなんてこと……」

 

「いいや、クロウは皆目知らなかった。全て那月の独断でやった」

 

 な……っ!? と今度こそ言葉を失ってしまう古城と雪菜。

 理由があるとはいえあまりに横暴。生与奪権を預かり知れぬところで取引するなど、いくら主人でもやり過ぎた。

 

「だから、土壇場でそれを明かされたクロウは、納得せず、ああして那月を裏切ったのだ」

 

 クロウには、南宮那月を見限るのも仕方がないだけの理由があった。

 <()()()怪物>に追いやってしまったのは、他ならぬその主人であった。

 それでも、呑み込めない。悪足掻きでも、古城にはニーナの口から出る事実は受け入れ難くて、那月を見てしまう。でも、その小さな背中は、否定しなかった。

 

「なるほど、ね。道理で」

 

 と物言わぬ魔女を見つめている古城と雪菜の隣で、縁堂縁はあっさりと腑に落ちたように頷いた。老獪な長命族は呆れを含んだような声音を漏らす。

 

「にしても、冷徹な魔女というには、随分と、“使い魔(サーヴァント)想い”じゃないかい」

 

「師家様……? どうして、そんなことを……」

 

「何だい雪菜、お前さんも気づかないのかい」

 

 修行不足だね、とありありと呆れた調子な眼差しを向けられる雪菜は、委縮してしまうも、今の発言の理由を乞うように、萌葱色の瞳を見つめる。

 そして、古城ははっと口元を手で押さえる。

 ふと過ったひとつの憶測。それは古城の中で最も腑に落ちる可能性だった。その無根拠な想像を可能性のひとつから確定させるための問いをニーナへ投げる。

 

「……なあ、ニーナ。那月ちゃんは、()()心臓を瓶詰にしたんだ?」

 

「気づいたか古城。そうだ。汝の思っている通りだ」

 

 じゃあ、そういうことなのか。

 

 

「“魂に懸けてその自由を保障する”と契約を交わした。ならば、それは当然の筋だと言いおったよ那月は」

 

 

 そう、那月ちゃんは文字通りに命を懸けたのだ。

 

 驚くと同時に、胸が温かくなるのを感じた。

 南宮那月のことをもっと合理的な人物だと思っていた。冷静で冷徹な判断が下せる、“割り切った”人物だと。

 だが、その素顔は、皆が思っているほど、冷たくもない。

 

 けれど、彼女の思い通りにはいかなかった。

 予定よりも早くに事が進み、そして、クロウは最初に交わしたその契約を破って敵対した。

 

 あの時、“匂い”でそれが己の心臓ではない――主人の心臓(もの)であることを気づいた南宮クロウは、南宮那月の左胸を突き刺し抜いた。()()()()()空白を狙って貫いて、麻痺させる。暴走した『霊血』に襲われた際に、藍羽浅葱の生体活動を一時的に止めたことがあったがそれと同じ。それから徹底して、『嗅覚過適応』の応用発香側(フェロモン)で抵抗意識を奪い、<空隙の魔女>を殺したようにみせかけた。

 

「妾は那月ほど情に篤い魔女は知らぬ。だが、それだけの情を受けた相手が那月自身をどう思っているのかを測り間違えた。いや、きちんと向き合えていなかったというべきか。クロウの横紙破りは那月には考えられぬものであろうと、クロウにはそんな那月を無視することは絶対にできない事だったのだ。

 故に裏切り、裏切られた」

 

 結局、裏目に出てしまったということなのだろう。

 縛られないように仕組んだはずなのに、結果として、南宮クロウは兵器に成り果てることを自ら選んだ。

 だがそれだけ、『“ご主人”の死』というのは南宮クロウにとって自分を抑えられなくなる、耐えられなくなる境目だったということ。

 

 そうして、使い魔に裏切られて、契約を横紙破りされて……助けられてしまった彼女がきっと筆舌に尽くし難いモノを抱いたはずだ。

 

 矢瀬顕重が死を偽装して裏で企てていたように、南宮那月も動いていた。死人はノーマーク。潜水艦に搭乗させたアスタルテによって邪魔な結界を壊させ、『棺桶』の密室空間に閉じ込められた巫女である藍羽浅葱を救出し、肝心の『聖殲』を機能させなくさせる。魔族特区潰しのテロリスト(タルタロス・ラプス)時代に返ったかのように、『咎神派』の計画を破綻させた。

 そして、今、ここにいる。

 すべての準備を整えて、<心なき怪物>からクロウを解放するために―――

 

「じゃあ、那月ちゃんは心臓を取り返せたんだな?」

 

「いや」

 

 上り調子に希望的観測を抱いた古城に、ニーナは首を振る。縦にではなく、横に。

 

 は? と固まる。

 クロウは、那月ちゃんを助けたくて、<心なき怪物(ハートレス)>となっている。その為ならば、主さえも裏切る。

 なのに、その肝心の<瓶詰の心臓(グラスハート)>が奪われたままじゃあ、そんなの……

 

「矢瀬顕重は、那月の心臓を奪い返そうとしていたクロウがついぞその隙を見つけ出せなかった相手。相当に用心深い。奪還は無理だろう」

 

「おい待てニーナ! それじゃあ、那月ちゃんは……!」

 

 蒼褪める古城と雪菜。

 感情が先立ってしまう若者らへ、ニーナ=アデラートは強い語気で告げる。

 

「<空隙の魔女>は、決死の覚悟を決めて、<黒妖犬>と対峙しておる。妾はこれに手出しする部外者は何人であろうと許しはせぬ。たとえそれが世界最強の吸血鬼<第四真祖>であろうとな。

 ―――これは主従(ふたり)戦争(けんか)だ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 クロウには、もうどうすればいいのかわからなかった。

 

 主の心臓を取り戻すまでは、死んでも死にきれない、何としてでも取り返してみせる。

 その己に課した誓いで、今日まで生き抜き、戦い続けてきた。

 だが、奪還のチャンスには恵まれず、そして、唐突に終わりが訪れてしまった。

 

「ご主人は……出てきちゃ、いけないのに……!」

 

 堪えに堪えてきた激情をもはやかみ殺すことができず、表面張力がついに溢れてしまうように、クロウは震える声で怒鳴った。

 

「なんで、会いに来ちまったんだ……っ!」

 

 自分のその言葉が肺腑に染みた。

 下された命は、南宮那月を今度こそ始末すること。

 さもなくば、囚われている心臓を握り潰す―――

 

 どちらにしても結果は同じ。

 出会えば死をもたらす<黒妖犬(じぶん)>の存在がこの時ほど憎々しいと思ったことがない。

 混乱を極め、子供のように泣き喚く『墓守』へと、魔女はついに口を開いた。細波一つとて起こさぬ淡々とした声で、

 

「それが、私の生き方だからだ」

 

 外野などに逸らさず、彼女の眼差しは迷子のように震えるサーヴァントへ向けられる。

 

「最初に交わした誓いの……“魂を懸ける”という意味がわかるか?」

 

「っ! だから、オレは……」

 

「フン。やはり勘違いをしているな。あとで辞書を引き直せ馬鹿犬。いいか、魂とは、命のことではない。“誇り”だ」

 

 <堕魂>という死よりも恐ろしい、魂を堕とす禁術を知る魔女は言う。<心なき怪物>などと呼ばれるクロウへ、南宮那月は告げる。

 

「私は、“魂を懸けた”。―――故に、“誇り”を忘れた怪物に堕ちるのならば、約通り、私はこの命が死に果てようが、貴様を殺す」

 

 

???

 

 

 ―――混沌は闇に紛れて蠢く。

 

 

 『聖殲』を操るための要素は三つ。

 『棺桶』と『祭壇』、そして、『巫女』だ。

 

 絃神冥駕には、『神縄湖』で、『聖殲派』の騎士たちより回収した『仮面』――“彼女”の遺志を記録し、そして、本体の“彼女”の意思との精神感応(テレパス)を可能とする、『聖殲』の遺産がある。

 本来であれば正当な『巫女』である藍羽浅葱を懐柔しておかなければこの世界変容の力を振るうことはできないが、この魔具は『棺桶』に干渉し得る例外(イレギュラー)な制御ユニットと繋がっている。

 これがあれば、『聖殲』行使の全権はならずとも、絃神冥駕の個人的な世界変革が出来得たかもしれなかった。

 

 

 だが、彼の計算違いのことが起こった。

 

 

 その『巫女』の意思を送り込むべき『棺桶』に異常が発生した。

 『棺桶』の潜水艇は、その結界機能を破られ、“回収役”である巨大な魔獣<蛇の仔>に丸ごと呑まれているのだ。

 

 強力な魔力障壁を張り巡らされた<リヴァイアサン>の体内は、<夜の魔女(リリス)>の魂でさえも封じ込めると見込まれていた。

 

 『棺桶』は、『咎神(カイン)』の叡智を詰め込み、神の如き演算能力を誇ろうとも、機能それ自体は潜水艇の域を超えることがない。

 そして、魔獣体内環境は、それに即応された通信機器(アンテナ)で中継を挟まなければ電波でさえも断絶された空間なのだ。

 

 たとえ<咎神の棺桶>の内側は、<カインの巫女>以外の侵入を許されない、外界から隔絶された領域であったとしても、その『棺桶』自体を更なる隔絶された魔獣体内へ丸呑みにしてしまえばいい。

 

 これには専用の回線を持ち、唯一、外部から制御する方法を隠し持っていた矢瀬顕重でさえ、遠隔操作することなど叶わない以上は何もできない。当然それは絃神冥駕にも同じようなことが言える。

 

 第零層より呪詛(ウィルス)を流し込んだが『棺桶』に侵入できず、“もうひとりの巫女の意思”は行き場を失った。

 

 肉体など持たぬ残留思念のみの存在は脆弱で、受け皿がなければそう長く現世に留まることはできずにそのまま消えてしまうのが定め。

 

 

 しかし、そうはならなかった。

 

 

 ………、……

 

 “門番”、として置いていた捕食型人工生命体(バルトロメオ)

 剣巫の掌打にやられて機能停止に追いやられた捕食者の中で、“取り込んだ者”の意識が浮上した。その身が呑まれようとも呑まれぬ、強い意思が。

 

 ……a……

 

 “お嬢様(マスター)”――とそれは自己定義するための新たな主人を探す。

 <戦車乗り>のハッキングを感知しえた能力。その張り巡らした『霊血』の糸よりネットワーク回線に繋がれる機能を用いて、巫女が囚われた『棺桶』へ介入しようとした。

 

 だが、それは届かない。

 『棺桶』は<蛇の仔>に呑まれて、隔絶したところにある。

 それでも彼女は只管に『巫女(マスター)』を探し求めた。

 

 そして、“取り込んだ者”はひとりだけではない。

 

 ……Aa……

 

 復讐を――とそれは仲間たちとの誓いを果たさんとし、標的を探す

 魔族特区を恨み、これ以上の被害者を出さないために『巫女』を狙う。

 だが、“圧倒的な同類(ヘルハウンド)”に挫かれた彼は、復讐するために――己こそが正しいのだと証明するために、殺神兵器すら凌駕し、この世界を滅ぼし得るほどの力を欲した。

 

 

 ―――ここに、因果は結ばれる。

 

 

 Aaaa――! AAaaaaaa――!!

 

 『巫女』を求め、復讐のための力を欲した意思が、“世界への復讐を願う<アベルの巫女>”の遺志を呼び込み、そして、あらゆるものを取り込める捕食型人工生命体は、この転送量(データトラフィック)を余さず受け入れる(からだ)であった。

 

 

「『咎神』の力を振るう者に、永劫の呪いの烙印を―――」

 

 

 人工生命体の藍色の髪が、すべてを塗り潰すかのような黒に染まる。

 変化はそれだけに止まらず。

 

 

「この世界に、妾が永劫の悲嘆と怨嗟を―――」

 

 

 黄金比に均整のとれた美しい肢体に、聖痕の如く無数の傷跡が浮かぶ。それは縫い目のように深く、まるで引き裂かれた肉体を、無理やりに継ぎ合わせたような無残な様を表すかのよう。

 そして、硝子玉のように無機質だった瞳に、粘ついた怨讐の光が灯る。

 

 

「さあ、我が血の呪い、思い知らせてくれよう!」

 

 

 最後に、足元の影より発する、渦を巻く闇色の風が帯となりて、ローブのように全身に巻き付く。

 『棺桶』に弾かれた『女教皇』は新たな依代を得て、魔族特区・絃神島に顕現した。

 何もかもが裏目に出て裏返ったこの顛末を予測する者はおらず、陰謀が錯綜する最中にこれを把握する者はいない。

 

 ―――混沌は闇に紛れて蠢く。

 

 

つづく



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黄金の日々Ⅳ

大変お待たせしましたm(_ _)m


 呪われし黄金(ラインゴルド)の伝説。

 川の深くに沈められ、妖精たちに管理される魔法の、そして、魔性の黄金。

 この黄金から作れられた指輪は、持ち主に世界すら支配できる力を与えるという。

 

 ただし、呪われし黄金から支配の指環を作り、無限に等しい力と財を手に入れることができるのは、“愛なき者”のみである。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『――那月ちゃん』

 

 声変わりする前の幼い声の主は、黒目がちの大きな瞳を輝かせる少年。2歳年下の弟。

 

『ねぇ、那月ちゃんってば。たまには一緒に遊ぼうよ。退屈だよ』

 

 うるさい、と少女は鬱陶し気に手を振った。

 優し気な顔立ち。人懐っこい笑顔。自分にはない美点を備えた弟のことが、彼女は少し苦手だった。

 

『私は面倒な魔術暗号解読の途中だ。邪魔をするな』

 

 少女の邪険な扱いに、少年は少し悲しげな表情を浮かべ、しょんぼりと肩を落とす。が、このぐらいじゃめげなかった。

 

『じゃあさ、僕にも勉強を教えてよ。今、那月ちゃんはどんなのを解読してるの?』

 

『実の姉をちゃん付けで呼ぶな。お姉様と呼べと何度も言っているだろう』

 

 無邪気に微笑む弟は、それこそ尻尾を振って駆け寄ってくる仔犬のようだ。

 邪魔をするなと言っているのに、キャンキャンとうるさい仔犬(おとうと)の額を、ちょうど手元にあった扇子で乱暴に叩く。

 

『痛いよ、那月ちゃん……』

 

 額を手で押さえ、涙目になる弟。これに多少の罪悪感を覚えた少女は小さく溜息を吐いて、机の上に広げていた本を、見やすように横へずらす。

 

『今、私が読んでいるのは、ここだ』

 

『! うんうん、うん……』

 

『読めるのか?』

 

『わかんない!』

 

『はぁ……』

 

 元気のいい返事に、額に手をやり嘆息する少女。父から簡単な魔術暗号の基礎くらいは教わっているだろうに、弟の頭にはちっとも身についていないようだ。

 落胆とした姉の様子に慌てた少年は、パッと目についたところを指した。

 

『でも、わかるのもあるよ。これって、数字の“九”でしょ?』

 

『数字の読み書きくらいはできて少しは安心した。さて、“九”には単なる計算だけでなく、魔術暗号としての意味合いもある』

 

『どんなの?』

 

『『“九”は“新しい”を示す数字』という思想が東洋西洋問わずに広まっている。それは全てのものは九を周期にして桁を繰り上げるからだ。だから、“生まれ変わり”の象徴だと捉えるところもある』

 

『へぇー』

 

『実際、多様な文化圏でも“九”と“新しい”の単語は似ている。英語の“nine”と“new”、アルディギアなどの北欧言語の“neun”と“neu”、ロタリンギアで用いられるラテン語の“novem”と“nova”、それからサンスクリット語では“九”と“新しい”はどちらも“nava”と書く』

 

『そうなんだ。“九”にそんな意味があったなんて驚きだなあ……あ、そういえば、日本で最も有名な武士(もののふ)! “源九郎義経”! 義経の名前にも“九”の字が入ってるから凄いのかな那月ちゃん!』

 

『関係のない話に脱線するな。それと、お姉様と呼べ。解説してやらんぞ』

 

 まったく。

 この弟は頭の出来は悪くはないはずなのに、どうしてこう呼び方ひとつも直せないのは、姉としての躾けを誤ったからか。タイミングが肝要だったというのに、最初のちゃん付けを注意し忘れてしまったために、おかげで癖がついてしまった。

 姉である少女は、頭が痛そうに溜息を吐いて、それから仕方なしに、隣に座る弟が指さす文章の解説を始めた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <空隙の魔女>南宮那月。

 魔術暗号の専門家である南宮尚匡を父に持ち、聖域条約機構の職員である那々星(ななせ)を母に持つ。幼少時から魔術幾何学に非凡な才能を見せ、聖域条約機構と共に国際人身売買組織壊滅に貢献。

 ―――その報復として、魔導犯罪結社<血の天秤(イクリブリアム)>に両親と、弟を殺された。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『我が名は空隙。永劫の炎を以て背約の呪いを焼き払う者なり。汝、墓守の軛を解き、その身は我が下に―――』

 

 どうしてあんな契約を結んでしまったのか。

 始末せずに拾った以上は面倒を見てやるが、後々のことを考えれば面倒極まりないものを拾ってしまったと今でも思う。

 請け負った任からは逸脱した行為。今更振り返ってみても、正常な判断だったとは言えまい。いっそ退治してしまった方が、“犬”にとっても楽だったろう。

 それでも、主となった以上は、安易な選択など決して許す気はない。

 

 ………

 ………

 ………

 

 <監獄結界>の『鍵』となる契約を結んだ時、その代価とは“眠り”続けること。

 だが、それとは反対に、拾い物(サーヴァント)は、不眠症だった。

 

 夜闇が怖い。

 影より血濡れた囁きに苛まれる。

 一昼夜殺し合う以前から、“眠り”などとうの昔に忘れていた。

 朝でも昏い極夜の森、濃密な“負”の匂いが染みついている中に独りでいた時は、夢を見るほど深い眠りにつくことなどありえなかったという。

 ―――けれど、それはそれまでの話。

 

 子守唄なんて上等な真似などしない。

 主従の契約による繋がりから、“眠り”につく自分への代償を噛ませて、眠りへ落とす。

 片腕分を差し出している分の肩代わりであって、種明かしをすれば呪いであるのだ。しかしこれにそれは少しずつ眠り方を思い出していくように安息についていった。

 そう、『何だかご主人に手を繋いでもらっているみたいで温かいのだ』などと能天気なことを宣って。

 

 つくづく、おかしな話だ。

 こちらは、貴様がいるからおちおちと眠ってなどいられぬ始末だというのに。

 現世とは切り離された業の如き孤独、まさか使い魔などに影響されるなど夢にも思わないが、黄金の(そうぞうしい)日々は瞑っている瞼を透過した光にくすぐられるようではあって……冷え切った自分にはありえない熱を覚えた。

 

 ………

 ………

 ………

 

 これは契約をしてから知ったこと。

 魔女の工房を漁って調べた資料に記載されていた。『黒』シリーズの9号の製造日――誕生したのは、奇しくも、破壊活動から縁を切った年月日だった。

 その日に生まれたモノと縁を結ぶことになろうとは……とそのときは、皮肉な運命だと嘲った。

 だが、奈落の薔薇を飾るに相応しい背景を背負い、<黒妖犬>などと呼ばれるようになりながら、力の使い道に悩む、己の在り方を考え続けるそれは、その古巣とは相対する道を選んだ。

 そう。

 かつて、魔女が切り捨ててきたものを、どこまでも抱え込み、いつまでも引き摺って―――自分にはない輝きがあった。

 一日中、ソレが昇ることのない極夜の森で拾った子供には、ソレのような黄金(ひかり)があった。

 

 青臭さは抜けきれないが、気配は成熟しつつある。今では当初にはなかった種類の風格を得ている。単に歳と共に成長する以上に、短期間で、激しく変わっている。

 されど、その芯たる性根は変わらず、揺るがず。あの閉ざされた森だけしか世界を知らなかったころとはもう違う、様々な世界を知った今、むしろ骨子はより重厚に、確固たるものとなっている。

 

 既に自立する個であった。もう自分の足で歩んでいる。

 そして、己は、縛りはしないと約を交わした。

 ……いや、

 

『何故、裏切った、那月―――』

 

 先生()を切り捨て、盟友(とも)を裏切った己に、何かを縛ることなど出来はしない。

 愛着など持てはしない。

 執着など芽生えることもない。

 この身を刺すように冷たい永久凍土には、熱のある(もの)が芽吹くことなどあり得ない……そんな自然の理のように、いつか訪れる離別などで揺らぐことなどない。

 そう、<監獄結界>の管理者とは、『牢獄』で最も重い罪を背負った罪人。罰として永劫の無為を与えられた、哀れな生贄。

 感情を表に出すことも、誰か触れることも許されぬ幻として現世を漂う、“愛なき者(ハートレス)”、それが己の有様だ。

 なのに、

 

『私は後悔したぞ。お前を引き止めなかったことを』

 

 どうして、あの言葉が胸を衝くほどに強く反響したのか。

 師を残してすぐに動けなかったところを置いていかれ、ひとり先を突っ走る背中に、自分は手を伸ばして何を言おうとした。『首輪』を外され反抗されたときに、あんな弱々しく『やめろ』などと懇願を発した。そう、あの一瞬、世界から光が失われたように目の前が真っ暗になった。

 ありえない。

 ありえないのに、そうなった。

 認めざるを得ない事態を、招いてしまったのだ。

 

 ………

 ………

 ………

 

 夢ならぬ逆行現象(フラッシュバック)を終えた魔女は、開眼する。

 

 

「―――起きろ、<輪環王(ラインゴルド)>」

 

 

 過去(ゆめ)を振り返るのは、もう終わりだ。

 

 約を違えて喰われなかった(はなされた)その手は、冷たい無情な鉄鎖ではなく、通う血の色を示すような紅い、許されざるものを掴み直す。

 猫の足音、女の髭、岩の根、熊の腱、魚の息、鳥の唾液……と文字に起こせるもありえざるもの。そんな()()()()()()()()()()()()の総集でつくられている禁忌の茨(グレイプニール)は、決して途切れてしまうことはない。

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

 玲瓏たる声が響く。声量の大小に関係なく、威厳を漂わすその声音は大きくその場の空気を、否、空間を揺らした。

 

 途端―――

 空間が、軋む。

 時間が、歪む。

 ずっ、と重い音を立てて、時空に激震を走らせる機械仕掛けの黄金鎧。<空隙の魔女>が有する最大戦力である<守護者>。それが契約者の呼び声に応じて南宮那月の後背に現れ、観衆の古城たちは音を鳴らして息を呑む。

 

「古来より互いの意に納得できなければ勝負で雌雄を決するものと相場は決まっている。野蛮なのは趣味ではないが、口で言っても聞きやしない頭の悪い使い魔にレベルを合わせてやろう」

 

 古城は那月が、すっと目を細めたのを見た。同時にその眇めた眼差しから垣間見る瞳に魅入られるが如くゾクリと背筋に震えが走った。

 

 瞬間、宙空から数十の銀鎖で上下左右前後からクロウを挟み込まんと襲い掛かった。

 

(初っ端から微塵も容赦なしかよ那月ちゃん……!?)

 

 宣戦布告したが相手はまだ構えを取らない。迷っている。そんな最中にも悠長に待ってやる慈悲など芥も見せぬ。

 これは、戦争(ケンカ)だ。そのような甘えを期待する方が間違いだ。

 

「―――」

 

 『天部』と呼ばれる古代超人類の遺産であり、神代の怪物を捕らえるために造られた強力な魔具。同格以上の魔具をぶつけない限り、容易に破壊できる代物ではなく、ましてや力任せに引き千切ることは<神獣化>した獣人の膂力を以てしても困難な強度。

 ―――最新の『獣王』の性能は、この<戒めの鎖(レーシング)>を破れるだけのことはあるが、それでも動きは僅かに鈍る。

 <空隙の魔女>……<黒妖犬>の主人は、この僅かの隙を許せる相手などではない。

 ましてや、まだ、またも爪を立てることに、躊躇がある。

 故に。

 反射的にとった行動は、回避が必然。

 

 機鎧の人狼は知恵の輪でも解くように、複雑に入り組んだ縛鎖の陣を掻い潜る。

 

 まるで、<神憑り>をした姫柊雪菜のような反応。だが、それを神にも頼らず独力()でこなしている。速く鋭い有機的で多角的な動きが、魔女の封鎖をその隙間を縫うようにすり抜けていく。

 霊視だけでなく、超感覚に高身体能力もあるのだろうが、何よりも経験値の差だ。

 <空隙の魔女>の攻撃を知り抜いている。

 一昼夜の殺し合いを演じて、それから主従として側にあった。だから、知っている。主人自身ですら気づいていないような主人の癖も南宮クロウは知っている。

 

「…………イヤ、だ」

 

 ―――ズキン。

 頭痛。頭痛がするほどに苛む懊悩に歯噛み、この犬歯にも噛み砕けぬ反抗の文句が零れる。

 迷いは、晴れない。いいや、こんな決断迫られようとも選べるはずがない。むしろ考えれば考えるほど、自分が間違えていると思い込んでしまう。

 ご主人は、本気だ。本気で来ている。

 邂逅したときの、死に際まで追い詰められた闘争でさえ、ここまで激しく感情は揺さぶられていなかった。己で律することなどできるはずのない、閾値を超えた衝動が頭の中を暴れ狂う。

 それでも、たとえどれだけ感情のノイズに荒らされていようとも、動きの冴えは寸毫たりとも失われない。内心などとは寸断されているとばかりに、殺戮兵器として刻み込まれた反射だけが正確に機能し続けていた。

 そうして、体だけが独立して迫りくる危害に対応していたような状態から、心もまた沸々と浮上してくる。

 

「オレは、ケンカなんて、したくない……! こんなの、やりたくなんてないのだ……! だけど、だけど―――ご主人に、殺されるのは―――イヤ、だ」

 

 <空隙の魔女>が大魔女だからとか、自分を拾って育ててくれた恩人だからとかそんな陳腐な理由ではない。

 ただ、主と認められるのは、ご主人(南宮那月)だけだ。

 

「だから―――」

 

 ご主人を、やっつける! ……しかない。

 ―――もう一度―――自分の手で―――殺したようにする!

 

 五里霧中にして死中に活路を見出したのはそれ。

 ネタ晴らしもして、あの矢瀬顕重に二度も誤魔化しが効くなどあり得ないというのに、縋る。しかしそう強引にでも目標(きぼう)を設定しないと、思考停止した己はそれこそ無秩序に力を暴れさせる怪物となってしまう。果て(ゴール)の見えない砂漠を極限状態で歩き続けるとき、オアシスが先にあると信じ込まなければ足を止めてしまいかねないのと同じ。たとえそれが都合のいい蜃気楼だとわかっていてもだ。

 そんな心情を言わずとも、血滲む歯軋りで察知する魔女は一言で両断する。

 

「つくづく、甘いな。あのまま従順な飼い犬を演じてればどうにかなるなどと思っているのなら、度し難いド阿呆だ。まったくもって腹立たしい」

 

 パンッと扇子が音を鳴らす。

 同時、空間制御の魔法がより広く展開される。

 <黒妖犬>を取り囲む形で四方に展開された魔法陣が、まるで螺旋階段のようにうねり廻り昇っていく。そして、射出。数百の巨大鎖が360度を包囲して、しかも途上で鎖は枝分かれしてさらに数千と分裂拡散、空間を一切隈なく封鎖して機鎧の人狼へと雨が降り注ぐかのような勢いで伸び迫る。

 

「甘いのは、ご主人の方だろ! こんな戦争(ケンカ)なんてしてる場合じゃないのに……!」

 

 鈍色の集中豪雨に呑まれるその間際、人狼が身を屈め地面に手を突く。

 獣に還るかの如き四足態勢、である。

 

 ぎちり、と。肉体のギアを切り替えたかのように、圧が増す。筋肉のバネを縮めこんでいるにもかかわらず、身体が明確に一段膨らんだかと錯覚させられる。

 そして―――姿が掻き消えた。

 周囲の空気を劈くそれは轟音というよりもはや爆音。

 攻撃ではなく、ただ移動するだけでこの場に満ちた魔力が激しい風と化して掻き乱れた。

 機鎧の装甲表面を焦がすほどの大気摩擦を発する疾走。己の速度を爆発させた<黒妖犬>は刹那に鎖で埋め尽くされた空間を、置き去りにする。

 

 (はや)い……!

 『八将神法』による単純な身体強化だけではない。

 吸血鬼(まぞく)である古城の動体視力でさえ追いつかない、残像さえつくらぬほどの圧倒的な速度に至らせたのは、『八雷神法』。呪力を衝撃変換させる白兵戦術を打撃ではなく、加速(ブースト)に用いたのだ。器用にも足裏、それから手の平――獣には慣れた四足機動で次々に虚空を打つ。すると空間への打撃によって生じる反作用が、クロウを後押しする推進力に加算、また制限のない立体的な回避行動をもたらす。電光石火を体現した機動には精妙な操作が必要とされるが、今のクロウはそれを可能とするだけの技能が身についている。かつては技術より膂力の比重が強かった疾走だったが、今では傾いていたそれに釣り合いが取れ始めてきていた。

 

 そんな、明らかに<空隙の魔女(にんげん)>の眼球運動よりも速く動くその対象(クロウ)へ、照準など定めずに適当に放たれた鎖は、しかし正確に行動先を撃ち抜いていた。

 

「欠伸が出そうなノロさだな」

 

「くっ!」

 

 なんて言葉を零しながら、那月はその口元を扇子で隠す。斜め後ろの死角から潜り込もうとする影に視線も振ることもしない。

 霊視によって未来を予測しているわけでもない。だが魔女にはこの程度の対応は、“見るまでもない”。人間、たとえ視界が閉ざされていようが、自分の手足がどこにあるかを頭が把握している―――つまりは、使い魔の位置取りなど()()()()()に過ぎないことなのだと。

 

 

「こりゃ、まるで“躾”だね」

 

 そして、殺神兵器に相応しいだけの情報処理・学習能力を有する<黒妖犬>だが、電子演算機(コンピューター)などではなく、本質はあくまでも人、それも動物よりに大分傾いている。

 どれだけ成長しようとも三つ子の魂は百までか。卓越した技術に昇華されていようが根本の性格は変わらない。

 それでいて、クロウに那月を殺す意思などない。自然、その手は制限されている。身体が幻影でないからこそ、躊躇(ブレーキ)が大きく働く。

 飛車角落ちと言った具合で、読み合いにおいて格上に挑むなど圧倒的な不利極まりない。

 

 これらを知りながら、行く先々で先手を打つ主人のやり口を、縁堂縁は、“躾”と称する。

 

 犬の躾けは、きちんとそれが“ダメだ”と思い込ませることが肝要。

 叩くことも、怒鳴る必要もない。

 ただ、タイミングを間違えない。

 迅速に問題点を指摘する。直前か、あるいはその瞬間であれば望ましい。時間の経過はさせない。それで雰囲気を作る。間違っても笑みなど見せず、明らかに怒っているという態度でアピールする。

 

 これで勝手に行動は制限されていき、試行錯誤の果ては行き止まり。術中に嵌れば抜け出せない、出入り口のない迷宮に囚われたも同然。

 それは学習能力が高いが故に誘導される。自縄自縛に陥らせる。

 

 さながら跳弾のように跳ね飛び回る影を、尽きることなく追尾する鎖の豪雨は、やがて、回避しようがない、とわからせられた。逃げようのない盤面にまで詰めて、人狼は、逃げるのをやめた。―――反撃に、転ずる。

 

「だったら、そのままおネンネさせてやるぞ」

 

 両手の指先から、凝縮した呪力で鋼以上の硬度に『霊弓術』の刃を練り上げ、鋭く巨大な爪の形として左右の腕に沿わせるよう纏わせる。

 そして、双腕を振るう―――音速超過の速度域に塞がる大気の壁を、障子紙のように切り裂いてしまうだけの膂力で。

 紫電一閃の腕の一振りで五指と連動する五柱の爪も霞む。大地を三日月状に抉り飛ばし、鎖の束がそれに巻き込まれて砕け散った。

 豪雨を弾き飛ばす暴風は、神々が打ち鍛えた縛鎖の包囲網を裂き散らす。“隙間”なんて狭苦しいなんてものではない“風穴”をこじ開けた。

 

「袋小路に追い詰められれば力業に頼るとは、脳筋め。それならこちらも山盛りの“おかわり”をくれてやる」

 

 突破口より最短ルートで那月へ迫る、色のついた烈風と化した<黒妖犬>。

 それを迎え撃つ、より大きい――一本一本の太さが人狼の腕程もある――<呪いの縛鎖(ドローミー)>。

 容易く千切れる強度ではない。

 しかしそれでも、空間から単調に射出しただけで仕留められる弱者でもなければ理性なき獣でもない。

 そんなこと、南宮那月は重々承知している。

 だから、鎖のランクだけでなく、展開の仕方も変更する。

 

 先程のは空間を鎖一色で満たすように広げたが、今回は空間ごと捻じり込むように、四方から伸びる巨大鎖を一点に収束。そう、幾十幾百と寄り集めた紐から大きな注連縄を編むように複雑に絡まり合わせ、ひとつの大きなうねりとした。

 それを解き放つ。

 <戒めの鎖>の豪雨を露払いで一掃した『獣王』へ、今度は<呪いの縛鎖>から織り成す瀑布。圧倒的な物量を広範囲の制圧よりも破壊力・高密度に重点を置いて注ぎ込んだ鎖の激流葬が、激しいうねりを伴いながら迫る。

 

 だが、<心なき怪物>は、回避行動は取らず―――

 

「<響>―――!」

 

 眼前にまで突き進んできた巨大鎖瀑布の側面に拳を当てる。それは払うというより、感覚的に手の甲でチョンと触れた程度に見えたが、足腰から全体重がこの拳一点に集約されており、さらに()()されている。

 

 ッッッゴガン!!!! と弾ける鎖。

 どの分野においても真に達人と呼べる者は、基本を重んじる。例えば、料理人(シェフ)であれば誰でも作れる卵焼きひとつであっても心底客を驚嘆させるほど磨き上げた腕を有しているものだ。

 これは、基本にして真髄を突き詰めた―――そう、『長命族(エルフ)』が放つ一手と同じもの。

 

「恐ろしい才能だこと……雪菜らと同年代の若造があの域に到達するとは……」

 

 学習とは、単にその術技への対抗策を導き出す、または耐性を獲得するためだけではない。

 その技術を、己のモノにする。

 体技だけならば剣巫よりも尖った資質をしていると太鼓判を押されている全身凶器にして殺神兵器である獣王は、闘争の最中に獣人拳法の四大奥義を見様見真似で会得してしまったという前科持ち。

 一度目ですら対応する過適応の直感。

 二度もその身に喰らえば、真髄すら体得してしまう。

 殺神兵器の学習能力はそこまで出鱈目なものだった。

 そう、世界最強であろうが素人な<第四真祖>や本能的な力を暴れさせる怪物の<蛇遣い>などとは違い、獅子王機関・師家の術理は実に芳醇な“馳走”であったのだ。

 

 戦闘狂(ヴァトラー)が見出した通り、<黒妖犬>は戦闘での経験値でこそ、確実に着実に強くなる。

 主人の魔女(なつき)はこのたった一度の死闘で殻を破っていく成長比率を見誤った―――

 

 

 ―――いいや。

    <空隙の魔女>は、けして相手を過小評価しない。

    ましてや、己の使い魔に対して、油断慢心などという“空隙(すき)”など芥ほども存在しない。

 

 

「ではそろそろ、前戯(おあそび)は終いにしよう」

 

 

 もはや無音だった。何かの間違いのように、その一瞬は時間が伸びたかと錯覚するほどの静寂。そして、大砲の発射音にも似た轟音と共に吹き飛ばされる身柄―――それは魔女ではない。

 

「っっがあああああああああああああああああああああああああっ!?」

 

 何故と思う間もなかった。

 ハエでも叩き落とすように頭上からの強烈な衝撃に垂直落下、鋼の大地へクロウは背中から激突――激しい振動を伴う衝撃音と共に、巨大な蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 クロウが、やられた……!?

 信じられないような――否、考えられないようなスピードとパワーで鎖一色に占められた盤上を覆してみせた。

 しかし、その一秒後、倒されたのはクロウの方だった。

 吸血鬼(こじょう)の目にも止まらぬ急加速を、魔女は目にも映さずとも迎撃に成功させる―――獣人(クロウ)の目にも捉えられぬ一撃で。

 

「ぐぅっ……!」

 

 鼻の奥にツンとしたキナ臭さが広がり、頭の中で何かがジワリと溶けだすような感覚

 攻撃を貰う瞬間をまるで意識できていなかった、完璧なクリーンヒットだ。ここまで綺麗に決められたのは、『人狼』の<静寂破り>による強襲をやられたとき以来だ。

 

「どうした? 私を、おネンネさせてやるんじゃなかったのか?」

 

 煽るようにその文句を囁くも、魔女の双眸は緩むことがなく、空気が乾燥して、ひりついていくのをその場にいる全員が肌に覚える。音が溢れている空間で、魔女が纏う空気は固形みたいに凝っており、それは雑音さえ遮るようだった。

 

 

「グルルオオオオオ―――ッ!!」

 

 

 吠え猛る機鎧の人狼。

 その身体が、いくつにも分身する。呪力で半ば物質化させた分身。空間そのものが一瞬揺らぎ、まるで拡散した実体を獲得している幻像が蜃気楼であるかのような錯覚を誘発させる

 着弾を感知すらできなかった攻撃に、クロウは的を増やして攪乱を試みる。

 

 

 周囲に轟々とした風切り音が木霊する。かすかに地面が震え、一拍遅れて辺りに衝撃波が発せられた。空間の歪みが遅れて視覚化されたように無数の波紋があちこちで咲き乱れる。

 見守る古城らには、そんな周囲の変化でしか、それを感じ取ることはできなかった。それくらいに、速い攻防が繰り広げられていて―――

 

 

「無駄だ。ちょこまか動こうが、この空間内は私の掌の上に等しい」

 

 

 ミシミシミシミシッ!! と、鈍い衝撃音。

 その黄金騎士の籠手()が外殻の鎧に罅入れ中身の血肉を潰す。

 鋼の大地に受け身を取れずに跳ね、転々とバウンドする人狼の身体。

 

 状況は、目まぐるしい。しかし、目に見える結果は常に一方的な顛末の繰り返しだった。

 

 クロウはしつこく突進を繰り返し、その都度叩き飛ばされ、地面に投げ出されてる。そう毬つきのように何度となく。打破などできず無駄な足掻きに終わるのを繰り返す状況だった。

 

 <空隙の魔女>にとって、魔を束縛する鎖など付属に過ぎない。

 魔女の本領はその魔術。移動距離、射程範囲を0(ゼロ)にする空間制御。

 これは単に移動ではなく攻撃に転化すれば、<ナラクヴェーラ>を問答無用で殲滅させたそれと同じ。不可避の速攻。

 

 ―――いや、それだけじゃない。

 

 この一方的な蹂躙を演出しているのは、空間制御だけで成り立っていない。

 空間制御は、確かに一瞬で終わる。

 ただし、空間を省略できても、時間を停止しているわけではない。目的地――照準を合わせる前準備が、いる。複雑な座標計算式を個人で成立させようとも、それの計算速度は、零とはいかない。その分の誤差(ズレ)がある。常に超高速で動き続ける<黒妖犬>の位置を感覚的に捉えていようが、全弾必中させるほどの精度はありえない。そんな芸当ができるスペックがあるのならば、広範囲に鎖をばら撒くような無駄は省くだろう。巫女の霊視や魔族の超人的な動体視力でも追い切れない速度域、たとえ主人の那月でも、クロウの行動は把握できていても反応し切れていないはず。

 

「もっと、視野を広くしな雪菜」

 

 師家の言葉に、雪菜ははっとした。

 

 戦闘に集中するあまり気づくのが遅れたが、いつの間に景色が切り替わっていた。

 魔族特区の中枢で繰り広げられる仮初の戦場、その天蓋を彩る景色が変わっていたのだ。

 さらに、剣巫は連鎖的に、目には見えぬ違和感を肌が覚る。

 

「これは、まさか、<闇誓書>の……!?」

 

 この世界を体感したことのある雪菜が、逸早くこの正体を看破した。

 

 黄金の<守護者>が背負う虚空(そら)は、新月の星空。暗転し、星々が散りばめられる月なき夜空は、今の時期からは数ヶ月前の星座の配置をしている。アレはあの時と同じだ。

 

「<闇誓書>って、『波朧院フェスタ』の時の奴か……!?」

 

「はい! ですが、<闇誓書>をこんな大規模に展開するなんて、先輩ほどの魔力がなければ無理なはず……!」

 

 最初の所有者であった<書記(ノタリア)の魔女>仙都木阿夜は、『世界を思うがままに作り変える』<闇誓書>を使うために、『魔族特区』を流れる龍脈(レイライン)の霊力と、星辰の力を借りる必要があった。

 空間の法則(ルール)を弄る、そんな強大な効果に見合うだけの魔力が要求されるのだ。

 <闇誓書>を個人で扱えるなど、魔女でさえも無理、<第四真祖>や<蛇遣い>などの無限の魔力を持つ真祖級の吸血鬼でもなければ発動すらできずに魔力が枯渇する。

 この不条理を覆す絡繰りは何かと霊視()を凝らした剣巫は、魔女の手に、巻き物が一つ紐解かれていていることに気付いた。

 

「あれは、魔導書……!」

 

 人の手には余る力を振るうには、場所と時間が限定される―――その制限をこの東洋の幻書<山河社稷図>でクリアする。

 魔導書の完全幻覚は、獣人と過適応の混成能力(センサー)を騙し、世界をも騙る。

実際、法奇門の達人であった千賀毅人はこの『幻』を利用して多大な儀式準備を要する風水術の工程簡略化に成功していた。

 

 宝図に記されし『幻』の術理は、現実と全くの瓜二つとしか認識させない超精密な再現性。

 目に映る風景も、風のそよぐ音や無機物から発散される微かな気配(におい)さえも誤認させる

 画像エフェクトで背景選択するように、現実の地形天候と瓜二つの空間を作り出せてしまう。

 それだけに扱いの難しい魔導書であるが、南宮那月は、獣人種の鋭利な感性さえ誤認させるほど再現性の高い幻像を身代わりにできる。たとえ文献の文化圏が異なれども、専門外ではない。むしろ得意分野だ。十二分に触媒(ほん)を起用できる。

 世界を騙ることなど、彼女にとってみれば日々の延長線上に過ぎないのだから。

 

 原本(オリジナル)は<薔薇の指先>により破壊されてしまったが、<書記の魔女>の『記憶した魔導書の再現』という力を引き継いでいる仙都木優麻が回収した断片より書き上げた写本が、今、那月の手の内にある。

 そして、<闇誓書>の叡智は、頭蓋の中に揃っている。

 <空隙の魔女>は、およそ半日とはいえ、絃神島から所有者以外の魔力というものをなくした、“世界を上書き(しはい)する力”を手にしている。

 

「……………………………まさか」

 

 魔女が戦場に出された手札を知った雪菜は瞠目して呟く。

 

 徹底して。

 絶対的に。

 ()()()()()()()()()()、なんて正しくその通りの文句で、絶対者として魔女は君臨している。

 

 

 そう、世界を上書きする<闇誓書>で、“必ず勝利を約束された世界を設計した”のだ。

 

 

 それは、<黒妖犬>が、絃神島の『墓守』として選定されて預かった恩恵と同じ類。運不運さえも書き換えて、都合よく展開を進ませるその力は、たとえ山勘で撃ち込んだ当てずっぽうでもクリーンヒットにしてしまうほどに補正をかける。

 

「がっ、ふ!!」

 

 間合いの概念などなく0秒で繰り出される黄金の籠手は、すべての分身体ごとクロウを叩き潰す。(そら)の果てにまで飛びだったはずの斉天大聖が、結局は釈迦の手の上から脱し切れることはなかったように、<空隙の魔女>はけして逃さない。

 

 <守護者>で攻撃すれば必ずクリーンヒットになるよう自動的に調整する絶対有利の世界。

 相手の攻撃は一切届かず、こちらから一方的に嬲れる条件が整えられている。

 文字通り歯牙にもかけずに降せるのだ。

 誰が何をしようが、<空隙の魔女>はあらゆる攻撃は届くことなく迎撃する。

 すべての攻撃よりも速く、もっとも効率的(クリティカル)な方角と距離から迎え撃つよう空間を制御している。因果さえも矯正されている。

 

 だから南宮那月は<守護者>に攻撃を命じるだけで良い。滅茶苦茶にボタンを操作しても自動修正が働いてノーミスでクリアしてしまえるシューティングゲームのように、ただ時間の経過を待てば確実な勝利を獲得できる。相手がどう動こうが関係なく、コントローラーを持ってるだけですべてのことをうまく運ぶのだ。

 それはどうしようもなく無敵だった。

 

「絶対に負けられぬ主従の戦争(ケンカ)……那月は、確実にクロウを屈服させるための手札を用意してきておる。少々大人げない程にのう」

 

 だが、それでも友と師の切り札を布く魔女の目に侮りなど欠片もないとニーナ=アデラートは知る。

 古城たちが蒼褪めるほどに一方的に嬲られるのは、そのまま那月の使い魔に対する脅威、すなわち評価に直結する度合いなのだと。

 世界でさえも敵に回る戦況―――だが、世界でさえ敵に回す脅威こそが殺神兵器。

 

 

「ぐおォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!!!」

 

 

 咆哮に星辰(てん)が震撼。

 震脚に龍脈()が激動。

 大樹が根付くように踏み締めた足元より、世界は原初の姿に立ち返る。鋼の大地に在り得ざる木々が繁茂する。

 

 <黒妖犬>の<過適応能力(ハイパーアダプター)>。まるで世界の精神を魅了し、虜にして、直接支配下に置いているかのような、魔術とは、理を別にする超自然の法。

 師の<四仙拳>が目指す境地、天地と合一し、自身の気で満ちた空間を形成するように、超過適応で芳香付与(マーキング)した空間を“己自身”と再定義することで認識拡張した。最新の獣王は、そこから獣化の要領でもって環境操作(テラフォーミング)を起こした。

 <身外身>を得意とした最古の獣王の獣化応用とは違う、己自身に働きかける獣化応用。

 簡単に言えば、『マーキングした()()()()()()()()』のだ。

 

 己の生命力を浸透させる<嗅覚過適応(リーディング)>の、過剰発香(オーバーロード)

 

 『冥王の花嫁』のように単独で龍脈に干渉し得る者がいる。

 セレスタ=シアーテがもしもその特質を費やせば、龍脈に通る力に制限を掛けられるであろう。

 それと同じことがここに起こっている。

 新月の闇夜に罅が入り、禁書で書き換えた法則が乱れる。

 

「……っ!」

 

 <闇誓書>を魔力源から断たれて不能にされ、空間制御の計算式を乱す混乱が巻き起こった。

 万全に整えた布陣を、盤ごと覆してくるかのような所業に、南宮那月は一瞬の驚愕に囚われ、硬直。ほんの僅かな隙が生じる。

 

 

 ―――その刹那に、迫る。

 

 

 限界を超えて、無心で獲物を千切りに迫る捨て身の特攻。

 そのスピードはそれまでのとは比較にならない。

 そして、すべての力を攻撃へ一点極振りした拳。狙うは、魔女を庇う<守護者>の右腕。

 

 爆音すら、消えた。

 一点を中心に風景さえ歪んで爆散したかのように思えた。

 

 機械仕掛けの黄金騎士の籠手というよりも、突き抜けた先にある肩から胸部へと不可視の衝撃波が爆発した。<守護者>の真後ろにあった建物の残骸が立て続けに薙ぎ払われ、吹き飛ばす。

 

「―――<禁忌の荊(グレイプニール)>!」

 

 黄金鎧の損傷に構わず、那月が<転環王>の左手より解き放った真紅の茨がクロウの身体を包み込む。

 だが―――遅い。

 

 完全に動きを縛り切る前に、突き切った。縛り上げたとしても、この間合いでは那月を刺し貫いて、仕留める獣の爪の方が、真紅の茨よりわずかに速い!

 

 そう、あと少し心臓のない左胸へ伸ばすだけ。

 禁忌の茨も機甲の腕に絡まっている。

 首にも体にも茨が巻き付き、躊躇すれば次の瞬間に縊られると理解している。

 

「ぐぅ……っ!」

 

 肌に刺さる。全身に絡みついた茨、その棘が食い込んでいる。

 <嗅覚過適応>にほとんどを出し切ったせいで、視界が薄くなる。

 最後の一押しを入れるチャンスはこの瞬間のみ。

 全身を縛られようが、腕が自由なら、仕留めることはできる。それだけの間合いに踏み込んだ。

 

 

 ―――――ズキン。

 

 

 頭痛がする。頭痛が治まりはせず、酷くなっている。

 

 この期に及んでもどうしても、迷いは消えない。

 兵器失格。いいや、生物としても破綻している。

 相手は――南宮那月は、きっと、躊躇うことなくトドメを刺しに来る。

 だって、そういった。『怪物は、殺す』と宣告されたのだから。

 ならば、“殺される前に”仕留めなければならない。

 

 

 ―――ズキン。

 

 

 そう、だ。

 彼女を、助けれればよかった。結果、この身体をどれだけ摩耗することになろうとも。ずっとそばで見守っていてくれた、最も大切な人さえ無事であれるのなら。

 だったら、迷いなど噛み切ればいいのに。

 

『オレ……サーヴァント、……やめる』

 

 走馬灯のように刹那を刻む一瞬の中で、『首輪』を外した時、見た光景が脳裏に過る。

 震え上がらせる魔族殺しの異名を持つ魔女の主の顔が、激しく揺らいだのを。

 幼い少女のように泣き崩れそうになったのを

 彼女のパーソナリティーのひとつを、根底から揺るがした。

 何をしてしまったのかを、クロウはわからない。

 だけど、きっと自分のせいだ、と思った。

 自分が間違えてしまったから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と思い込んで―――

 

 

 ―――赤い鮮血の花が、戦場の空に高く高く咲き散り舞った。

 

 

「っぅぅぅ……!」

 

 突き出そうとした右腕に、左手の五指が噛みつく。肉に爪を突き刺し、骨が折れんばかりに握り締めて、無理矢理に、勢いを止める。

 震える腕に、血が滴る。南宮那月の左胸の前で寸止めされたまま、それはぴたりとも動かなかった。

 

 

「普段のお前なら、これが“(ニセモノ)”だと気づけただろうに」

 

 

 え……? と()()()()、声がした。

 答案のケアレスミスの見落としを指摘するような、教師然とした口調は、主のものだ。

 途端、目前に捉えた“南宮那月”が、ふぅ、と風に流されるように姿を消す。

 

 目の前の、ご主人は、幻……。

 

 東方の宝図、<山河社稷図>の完全幻覚。南宮那月との間合いを誤認させられていた。

 <闇誓書>の発動条件のために星辰を騙るほどに大規模に景色を塗り替えたのだと思っていたが、それだけじゃない。それと同時に用意していた。

 木を隠すなら森の中。

 “きっと最後は力業で盤上を覆してくるだろう”と読み切っていた<空隙の魔女>の本命は、“想像(創造)するのが実に容易い自分自身の幻像”だった。

 

 そして、真紅の茨が機鎧の人狼を完全に縛り上げてから、魔女は深い溜息を吐く。

 

 

「だから、お前は馬鹿犬なのだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

()()()()()()()

 

 深く、昏く、重い、<血途の魔女>が空想上でしか存在の許されぬ悪夢をデザインした極夜の森。

 焦げ付く妄執で闇を煮詰めたような澱んだ閉鎖空間は、陽の光さえも拒絶していた。

 奈落(タルタロス)氷地獄(コキュートス)陰府(ヨミ)、空中楼閣――世界各地に存在する異界の牢獄に並ぶような、新たな地獄だろう。

 

 そこで生まれ、育ち、過ちを犯した。

 

 八人の兄姉の骸を、魔女にいわれるがままに動かし続けた。

 

 その罪状の名は、『無知』。

 

 己の無垢さが招いた所業を悟り、罰を欲した咎人。

 果たしてその己の力の使い道に迷い続けている彼がこれまでの独断の行いに、頑固にも貫き通せる正しさなど見出せていただろうか。

 

()()()()()()()()()()()()

 

 クロウにとっては、“南宮那月と対峙している”、それだけでもう濁った泥沼の深みに嵌っている状況だ。そこで抗うのは他の何よりも疲弊するのは当たり前で。

 その様は、一歩も動けないほど心身擦り減らし、疲れ切った迷子だ。故にその吐露は、渇望と葛藤が入り混じる、喜怒哀楽全部備えた心ある者の降伏に違いなく。

 

「クロウ……」

 

 濃密にその感情が篭められた声音は、大声ではなかったが、聴く者に慟哭と錯覚させるものだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 力は、正しく使えず間違えれば、暴力、と成り果てる。

 そして、その正否を決めるのは己自身。

 『自分は本当に正しいことをしているのか……?』なんて小さな疑問を持ってしまえば、手は止まる。疑問が迷いを生み、迷いは動きを鈍らせる。あるいは迷いは恐れに転じて、動きを縛りつけてしまう。

 

 生き返らせて、“殺してくれ”と訴えられた。

 己の善意からなる行為を拒絶される恐怖。それがまんまこの南宮那月との対峙に繋がってしまっている。

 <禁忌の荊>に囚われた。

 それ以前に、戦意は喪失し、もはや抵抗はない。

 “きっと怪物である自分はここで始末される”、と理解しながらも、もう、動けなかった。

 

 

 ―――違うっ!!

    処刑刀の如く剣を振り翳す片腕の黄金騎士の前で、力なく首を垂れる後輩を見て、そう叫ばずにいられるほど暁古城は冷静でなどいられなかった。

 

 ニーナから事情を聞いた。

 『彼女のために髪に似合う髪飾りを買おうと時計を売り、彼のために時計につける鎖を買おうと髪を切った』なんて賢者の贈り物のお話のように、行き違って失敗してしまったのだ。

 結局のところ、主従互いにきっと互いを大事に思っていることに違いなくて。そして、古城はこの中の誰よりも付き合いが長く、二人の仲を知っている。

 だからきっと、那月ちゃんは―――

 

 

 ―――そして。

    この何の益のない闘争を最後まで俯瞰していられるほど矢瀬顕重は、寛大ではなかった。

 

 

人工島中央区 シティホテル

 

 

 ()()()()だな、<心なき怪物>……。

 矢瀬顕重の指令のままにならない。そして、敗北を喫した。

 ぷっつん、と限界以上に張り詰められた糸がついに切れてしまったように、力なく囚われるその様は、欠陥兵器。

 こんな無様を見せられれば、もはや何ら惜しくはあるまい。

 用済みは、始末する。ここで情などに絆され、あの魔女の走狗になるくらいなら、あだなす前に早急に処分した方が良い。

 南宮那月のように、“飼い犬に手を噛まれる”なんて無様を、矢瀬顕重は晒すつもりはない。反逆防止の策は仕込んであるが、これ以上、あんな欠陥兵器に付き合ってやる気はなかった。

 

「次は、もっと従順な兵器を造らせるとしよう」

 

 顕重の周囲で、大気がゆらりと揺れた。矢瀬一族は、代々続く<過適応能力>の家系だ。一族の当主である顕重も、当然その能力を持っている。いや、今では顕重しか<禁忌四字>に相応しい力が備わっていない。妾に産ませた矢瀬基樹が、己が血筋の中で超能力を行使できるが、それにしても能力増服薬に頼らなければならない欠陥品だ。

 そして、一族の者を母体として利用した<黒妖犬>でさえもこの体たらく。

 

「忌々しい」

 

 触れるのも汚らわしい、と。

 大気を操り生み出す不可視の刃でもって、矢瀬顕重は、瓶詰ごと、心臓を切り捨てた。

 

 

「さすが、咎神の末裔を自称するだけの傲慢さだ、顕重爺。だが、その傲慢さがその身を滅ぼすことになる」

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

「ご主人―――!!?」

 

 緩んだ茨の拘束を振り切り、振り返れば、飛び込んできたのは、クロウが最も見たくなかった光景だった。

 

 迷う曇りのない、漆黒の瞳。

 その人形のような生気のか細いからこその儚い美しさが一瞬で網膜に焼き付いて、怖気が走る。

 

「ご主人! ご主人!!」

 

 ご主人は、返事をしない。瞳孔が開き、古井戸のように真っ暗だ。

 これが、こちらを引っ掛ける冗談の悪い『幻』だったらと思いたかったが、己の嗅覚は倒れ伏しているのは正真正銘の本物だと告げている。

 

 ―――心臓が、壊された。

 

 胸に去来するのは、目前の事実への拒絶。あらゆる理屈などかなぐり捨て、この理性を塗り潰す、圧倒的な激情だった。

 

 胸の鼓動が耳朶を打つ。体の震えが止まらない。否定と拒否以外の何もが思考停止に陥る。

 

「やだ……」

 

 クロウは、この島で様々なことを学んだ。

 泣いたり怒ったり笑ったり、そういうことができた時間が、心の底から大切であると尊んだ。山ほどの感動と出会わせて、世界を壊さないよう、感動を植え付けた。それは呪詛だとも、祝福だとも人の見方により意見が分かれることだろう。

 こうして、癇癪のひとつも起こせぬほどに、共にあった黄金の日々で醸成された“鎖”にこのサーヴァントの行動と運命は縛られた。

 最後の一線を頑なに守らせてきたものであって、それがなければ自分は取り返しのつかない破壊の化身へと踏み外していただろうことを理解している。

 そう。

 そうだ。

 だが、もうどうでもいい。

 

 

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だァァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 “鎖”が、弾け飛んだ。

 今日、ここに至るまで。

 目には見えない“絆”というグレイプニールは引き千切られ、終末戦争(ラグナロク)を蹂躙する(マガ)ツ獣が解き放たれた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <瓶詰の心臓(グラスハート)>が、切り捨てられた。

 

「こ―――ふ」

 

 一度だけ、口端から吐血を漏らす。

 首筋を伝い、ドレスへ流れる血液が生地を染め、生温かな湯気を立てた。

 空間を超えさせて、全身に血を循環していた心臓(ポンプ)が向こう側で割断されて撒き散らしたためか、零れるはずの吐血は那月の想定以上に酷くはなかった。

 

 ……ようや…く、………手放し…た……か―――

 

 鼓動は死に絶えたが、肺はまだ生きている。ひゅーひゅーと呼吸音が五月蠅い。この五月蠅さを覚えなくなったらいよいよ危うい。

 

 急速に、視界が狭まる。

 “眠り”とは違う、死に行くための眠り。この眠気に靡けば、夢さえ見ない暗黒へ堕ちるだろう。

 

 予測していた。予想通りの展開だ。“『墓守』が使い物にならないと判断すれば矢瀬顕重は必ず心臓を握り潰す”とわかっていた。

 だから、後は―――

 

 

「ご主人―――!!?」

 

 

 ああ、まったく。

 七面倒なことになるだから意識を落とそうとしたというのに、最後に自分を庇う真似(あんなこと)をするから最後の最後で気を緩めてしまった。

 

「ご主人! ご主人!!」

 

 キャンキャンとうるさいぞ馬鹿犬。

 この期に及んでも、“ご主人様”と呼べないとは……あとで、説教して、やる―――

 

 

 

つづく



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黄金の日々Ⅴ

大変お待たせ致しましたm(_ _)m


黄金の日々Ⅴ

 

 

 

回想

 

 

 クロウは、絃神島に来た当初、夜、眠ることができなかった。

 

 特別目が冴えていたわけでもない。夜行性な気質はあっても暗くなれば、自然、眠気を覚える。ただし、眠りたくはなかった。

 森を出た環境の変化も考えられただろうが、それ以前として森にいるころから不眠症を患っていた。

 怖い。

 眠るのが、意識を手放すのが、ただただ、怖い。

 

『うっ、うぅぅぅ~!!』

 

 与えられた自室のベッドの上を忙しく悶える。犬がグルグルと寝床を回りながら、がしがしとひっかいてねぐらを整えるように。

 それから、目を瞑って……でもダメでばっちりと起きてしまい、またベッドメイクに勤しむ。

 それを何度となく繰り返した時だった。

 ぱんっ、と不意に頭を引っ叩くような衝撃がクロウを襲う。

 何事かと顔を上げれば、不機嫌な様子な魔女がいた。

 

『さっきからドタバタとうるさいぞ馬鹿犬。とっとと眠れ。学園生活初日で寝坊したくなかったらな』

 

『うっ、うー……でも、眠りたくないのだ』

 

 クロウは叩かれた頭のたんこぶを擦り、それからおずおずと白状した。

 

『なんだ、枕が変わると眠れん性質か? 図太いと思いきや繊細な奴だな』

 

『むー、オレ、枕なくても眠れるぞ。でもなー、この島、なんかジメジメしてて鼻がむずむずするし、それに暑苦しいのだ』

 

空調機(エアコン)の使い方は犬でもわかるように説明してやったはずだが』

 

『りもこん? てのをボタンをぽちっとしたらばきっとなったのだ』

 

『ちっ、原始人の馬鹿犬に電化製品は早過ぎたか。ふん、いいから寝ろ。夜更かしを許可した覚えはない』

 

『オレだって、頑張って眠ろうとしてるんだけどな、でも、眠りたくない。……眠るのが、怖いのだ』

 

 怖い夢を見る。

 と抱え込んできた胸の内を、ぽつりぽつりと話す。どうにかなるとは思ってない。誰にも相談をした経験なんてないのだから。だから、自分を森から連れ出した魔女が、話を聞いてくれているかも、期待できなかった。問答無用で、もう一発、拳骨代わりの空間衝撃を貰うと身構えてたりもした。

 けどその魔女は揶揄することなく黙って話を聞いてくれていた。

 そして嘆息ひとつして、震えるクロウの手を両手で挟むように握ってくれた。

 

『使い魔を寝かしつける面倒まで見ることになるとはな』

 

 世話の焼ける、と愚痴をこぼしながらだけど。

 それから、『使い魔の契約を使って~』やら、『“眠り”の代償を噛ませる~』やらと小難しい説明があって、クロウはそれをほとんど右から左へ聞き流(スルー)したが、その間、ずっと触れていた実物なき幻像から伝わる不思議な感触にくすぐったさを覚えた。

 

『……なあ、ご主人』

 

『今度は何だ?』

 

『さっき、『暑苦しい』って言ったけど……ホントは、ずっと寒かったのだ』

 

 また呆れられるんだろうなと思いながらも、ふわふわとした心地良さに緩む口は、もうひとつを白状した。

 

『ずっとずーっと……森でひとりになった時からな、寒くて―――でも、“温かいもの”なんてオレひとつも持ってなくて……だから、“温かいもの”がないのか、ひとりでずっと……探してた。きっとずっと探してたのだ』

 

 ここにいるのは実体のない幻。説明もされて、“匂い”でそれくらいの区別はついている。けど、クロウには十分だった。

 

『こうしてると、何だかご主人に手を繋いでもらっているみたいで温かいのだ』

 

 だから、眠るまで、このままでいいか? と少し不安げに訊ねるクロウに、彼女は人形のように無表情のまま。

 

『……勝手にしろ』

 

 許可を貰えた。

 傍にいてくれる。

 もう、ひとりじゃ、ない。

 クロウはそれが嬉しくて嬉しくて………何だか逆に目が冴えてきてしまった。

 

『ご主人ッ』

 

『………』

 

『なぁーっ、ご主人っ!』

 

『……なんだ』

 

『っへへ、ちょっと呼んでみたくなっただけなのだ、ご主人っ!』

 

『用がないなら呼ぶな』

 

『えーっと、じゃあ、ご主人、お腹空いたッ!』

 

『次、くだらんことで騒いだら()()に眠らせるぞ馬鹿犬』

 

『うー、これはどうでもよくないぞ! お腹減るのは死活問題だからな。だから、お夜食を―――』

 

 そうして、クロウは久方ぶりに、よく眠ることができた。

 最後は優しさなど欠片もない強烈な一発にベッドに沈められてしまったが、しかしそれでも、ぎゅっ、と小さな手は握り締めたまま離さなかった。

 

 きっとその時から思うようになった。

 この人は、自分にとって大事な、お月様なのだ!! と。

 真っ直ぐに背骨を支える芯であって、常に厳しく、偶に優しく、月明かりのように導いてくれた。

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

「ぐグ、ぐるルゥ……」

 

 記憶とは一様ではない。

 脳内に蓄えた情報は同じであっても、その時の感情によって印象は大きく塗り替えられる。

 今のクロウにとって。

 その真紅()に染められてしまった記憶が呼び覚ますのは、まさしく魔性の朱月の光に狂わされるが如き、原初の獣性。

 

 一瞬の沈黙の後、すべてを破壊するような咆哮を、叫び放った、

 

 

「――■■―――■■――――■――■■――■――■■■――――■■■■―――――■■――■――■■―――――――」

 

 

 獣祖の咆哮(ビースト・ロアー)。声は大気を震わせ、大気の震えは風となり、高密度の魔力の風が寄り集まって周囲の空間に攻撃的な竜巻を幾本も幾本も生み出した。

 衝動のままに吼え狂い、嘆きが入り混じった凄まじい怒号は、その場にいた者たちの脳髄を搔き乱す不協和音。この場にあるものすべてを狂騒させる。

 

 その様はまるで、黙示録にある“破壊者(アバドン)”。豊饒なる大地に滅ぶを蒔くために現れた怪物。

 

 怒りと哀しみに振り切れた感情が、『墓守』という“守護者”としての属性を反転する。

 すなわち、『咎神の祭壇』に災厄をもたらす“破壊者”と化す。

 

 そして、それに相応しくあるように姿形も変生する。

 ぎちぎち、と皮膚の下で蠢く骨が捻じり回りながら筋肉が巨大に膨張する。自壊すら厭わぬ自制(リミット)(こわ)れた<神獣化>。散々叩きつけられて罅割れた機械鎧が、一瞬で塵になって剥がれる。特殊な金属素材だった鎧装甲を破壊したのは、最凶の血。暴走した肥大化に、内側から皮膚が裂けて、鮮血が――『壊毒』が、溢れた。<黒妖犬>の自戒を破って全身から噴き出し、拘束具であった機械鎧を喰い尽したのだ。そして、血塗れとなって肌さえも蝕みながらも血塊が生体障壁に混ざり、魔獣の外骨格のように瘡蓋は固まっていく。まさに共食いする畜生道――『血途』を体現するかの如き()を纏う威容。

 

 それで、生体として危険域(レッドゾーン)であるほどに、血液を体外へ流出したが、行動不能とはならない。<心なき怪物(ハートレス)>として半死半生のままに活動を可能としてきた死霊術(ネクロマンシー)による自己操縦法が、体内に血が満足に行き渡らずとも支障なく身体を動かす。

 

 

 そして、『壊毒』を纏る腕は真下、この魔族特区・絃神島中央区へと振り落とさんと振り上げる―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――クロウッッッ!!!!」

 

 一帯に波及する狂騒に怯まず、その前に立つ者がいた。

 暁古城。一歩出遅れた形となってしまったがそれでも、足踏みはしなかった。誰よりも早く飛び出して、この凶ツ獣―――違う、馬鹿な後輩を止めにいく。

 

 気持ちは、わかる。わかるつもりだ。

 古城だって、自分のせいで、大切な人を失ったと思い込んだ時はそうなった。<賢者の霊血(ワインズマンズ・ブラッド)>から浅葱を庇った、クロウが死に瀕した時、我を失い、力を暴走させてしまった。“世界最強”などと銘を打たれたところで、それは決して零れ落ちていく命を拾い上げるものじゃないとわかって、自棄にもなろう。

 だから。

 

「お前は<心なき怪物>なんかじゃねぇ! もしも間違えちまうっつうんなら、俺が、止めてやる!」

 

 それがたとえ八つ当たりに過ぎないものだとしても、感情はもはや我慢することなどできずに世界最強の暴虐(ちから)をぶつけてしまう。

 ―――だったら、そんな行き場を失った激情を、先輩(オレ)が身体を張ってでも引き受けよう。

 

「<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――!」

 

 腹の底から吼えた。

 目の前の相手への怯懦など露ほども見せず、むしろこちらから果敢に拳を振り上げながら、古城が走る。

 雪菜や縁堂では近寄れぬ魔力圧が暴れ狂う暴風域に単身突っ込む。古城が発する高濃度の魔力……その奔流と相殺させて強引に打ち破ったのだ。

 

「―――疾く在(きやが)れ! 十番目の眷獣、<魔羯の瞳晶(ダビ・クリユスタルス)>!」

 

 そして、古城が召喚するのは、『タルタロスの薔薇』の事件より加わった新たな<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の眷獣(ちから)。銀水晶の鱗を持つ美しい魚竜、前肢は半透明な翼で、山羊に似た螺旋状の角もまた光り輝く水晶柱だ。

 その水晶柱の輝きが放っている輝きに篭められている魔性は、『魅了』。

 <第四真祖>の『魅了』でもって、その暴走を鎮めようとする。

 

「■■■―――ッッッ!!!」

 

 ―――だが、“後押し”を受けている赫怒は、それでも治まらなかった。

 

 

???

 

 

 堪えようのない悲しみと、ぶつけどころのない怒り。

 足元に無数に転がる犬頭の機甲服(パワードスーツ)を“食事中”だった手を止めた。

 絃神島全体に轟き渡った咆哮を、肉体(うつわ)を得た“彼女”も捉えた。

 

「クカッ……愚かで哀れな咎神の『墓守』よ。我が血も、汝の血もまた呪われている!」

 

 “彼女”の肉体が朽ちても永劫忘れぬ悲嘆と怨嗟が、共振する。

 

「同じだ。妾と汝は同じ。故に、復讐しなくてはならない。億千万の非道を為してきた、欲深き簒奪者たちを許すな!」

 

 “彼女”がもうひとりの『巫女』であるがせいで、その悪性情報を受信してしまう。

 

 同じ内容のことを何十回も、何百回も聞かされ続ければ、否が応でもその影響を受ける。洗脳される。最初は否定出来ていても、徐々に共感が芽生えてしまうものだ。

 その時の南宮クロウの思考は真っ赤に塗り潰されており、奇しくも“彼女”の憎悪と重なってしまっていた。

 “絃神島を滅ぼせ”という何十、何百もの呪詛と怨嗟を圧縮させた濃密な干渉に曝されて、

 

 

「傅け、傅け、傅け! この正統なる支配者たる妾に従い、忌まわしき島に破滅をもたらせ!」

 

 

 定まらなかった矛先に、方向性が与えられてしまっていた。

 

 

    《させ―――ない―――この子は……!》

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

 瞬間、クロウが消えた。

 

 代わりに赤の閃きがあった。まるで止まったかのような時間の中で、狩られる、と。

 古城は背筋にゾッと冷たいものを走らせていた。“それ”は血塗れた獣爪の輝きと判断したからだ。

 だが違った。

 “それ”はテールランプじみた殺神兵器の瞳の軌跡だった。

 

「あ―――」

 

 轢かれる、と。

 殴られる、ではない。

 

 一対一の白兵戦において戦闘技術の研鑽はその勝敗を左右する要素だろう。しかし、“技”とはそもそも同じ土俵に立たない相手であれば発揮する必要などない。圧倒的なパワーとスピードの前には、並大抵の攻撃などすべて児戯に等しい小細工に堕す。

 目前の相手は、その体現だった。

 元より魔族の吸血鬼と比較してすら、スペックがケタ違いだというのに、火事場の馬鹿力を発揮したように自壊防止のリミッターが外れている。

 そして、今その総身は真祖すら殺し得る自壊の血毒に塗れていた。

 

「―――先輩ッ!?!?」

 

 いつ攻撃を喰らったかわからない。だが、銀水晶の魚竜が、血飛沫となって霧散。そして、掠った余波で古城自身にも重い衝撃が突き抜ける。みしりと全身の骨格が悲鳴を上げ、内臓が弾けた。一拍遅れて、古城の身体は錐揉み状に回転して後方へと転がされる。

 

 涙が流れた。

 古城の―――ではない、こればかりは人間と変わらない、透明な雫がつうと零れたのを古城は見た。

 破損した部位の再生を待たず、古城は立ち上がる。

 ぐちゃ、と復元途中の肉体から気味の悪い水音がしたが、かまいもしない。無残極まりないその状態で、一歩も臆することなく古城は目を見開いた。

 

「まだだ、クロウッ!」

 

 もう一度、叫ぶ。

 何度だってそうしようと思った。

 この生意気な後輩に食い下がるならば、何度死のうが構うまいと本気で古城は思った。

 

(ああ、そうか)

 

 自覚する。

 思っていたよりも、遥かに自分は負けず嫌いなようだ。

 たとえ五体が千切れようが、この魂が砕けようが、不服な結果を不服なまま受け入れるなんてちっともできる気がしない。

 後輩の駄々を満足に受けられない先輩など先輩ではない、などと命知らずにも思ってしまう。結局、昔にバスケで一対一(ワンオンワン)をした時と同じなのだ。自分の本質はなるほどどうしようもなく傲慢なんだなと、自分で自分に呆れた。

 そして、不敵にも思う。

 アヴローラより継がれた『世界最強の吸血鬼』の力は、こんなものではない。

 

「俺を見ろ! いくらだってサンドバックにしてみやがれ! こんなの、ちっとも効いてねぇんだからな!」

 

 文字通り、死ぬほど痛いが、そんなの痛いだけだ。

 こんなの、我慢すれば我慢できる。なんて無茶苦茶なことを考えてしまう。

 たとえ痩せ我慢であっても、いくらでも付き合ってやろうと思った。

 

(そいつ)をぶつける先はこっちだ!! 俺にぶつけてこいクロウ!!」

 

 我武者羅なその声が。

 

「…………っ!」

 

 鋼の大地へ向けていた矛先(ベクトル)を変えた。

 

 古城が、唸る。

 痛みも何も忘れて、獣のように唸る。

 

 

    “お願い! 古城君に、皆の力を貸して……!”

 

 

 <第四真祖>の眷獣を召喚する余裕はない。だが、血脈に宿る彼女達(アヴローラ)の意思が宿主の奮起に応じた。

 

 一番目の大角羊の力が、古城の右拳に金剛石の手甲を纏わせる。

 五番目の巨獅子の力が、古城の全身に雷電を迸らせる。

 七番目の三鈷剣の力が、古城の周囲に重力場を発生させ重心を安定させる。

 九番目の双角獣の力が、古城の背中を衝撃波で後押しする。

 

 そして、全身の再生すら後回しにして、ありったけの魔力を一点(こぶし)に集約。

 漆黒に染まる腕が噴火のような灼熱の魔力の昂りに呼応し、溶岩(マグマ)の如くに真紅の血脈を浮かび上がらせていく。

 

「うおおおおおおお―――ッッッ!!!!」

 

 真っ向勝負上等! と弾丸のように飛び出した古城は、島を崩壊させる破滅(こぶし)へ向かって、思いっきり突き出す。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ドッッッボッッッ!!!!!! と、

 鈍い音と共に、その右手ごと、古城の右半身は粉々に破壊された。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 一撃、必殺―――

 <焔光の夜伯>の補助は一切合切食い破られたが、『血途』の外骨格を砕き吹き飛ばすことに成功した。だが、破壊力までは相殺し切れなかった。そのあまりの衝撃に痛苦さえ覚えずに吹き飛ばされた古城は、半分になった体のバランスを崩し倒れる。

 

「……っっっ!! 先輩っ!!」

 

 雪菜の頭がスパークする。鉄錆臭い匂いが肺の奥いっぱいまで満たす。視界に赤黒い液体が付着。それでも、彼女はコマのようにクルクル回りながら倒れそうになった古城の身体を受け止めることができた。

 幸いにも――或いは意図して――僅かに逸れた拳筋は急所の心臓からは逸れている。人間なら間違いなく即死だが、真祖ならば、十分復活できる。

 ただし、それは相手が追撃を待ってくれればの話。血毒の殻は破られようとも、暴走する破壊衝動は治まっていない。

 

 

 <雪霞狼>―――!!!

 槍を手に取る。護りたいものを護る為に今一度、深奥に手を伸ばさんとする。

 

 

 獅子王機関の剣巫は、戦闘の最中にも一瞬先の未来を視る。

 相手の行動を先読みし、致命的な未来を視ながら、有利な未来を選択する。だからこそ、身体能力に劣る小柄な雪菜が、魔族と互角に渡り合えるのだ。

 だが、今、その未来視の能力が雪菜に突き付けてきたのは、絶望だった。

 

『■■■■―――ッ!!!!』

 

 この先、ほんの一秒にも満たない未来、蹂躙される。

 ただでさえ、力のない人間には前に立つことすら許されないであろうという圧倒的な空気を身に纏い、世界に終末をもたらす獣を想起させる破壊者。それが再び咆哮をあげて、身体から莫大な魔力が解放されんとしている。

 全方位に拡散された分だけ、その威圧は希釈されたものになるはずだろう。だがしかし、<第四真祖>などといった真祖級の傑物は、それだけで天変地異を醸す状況を引き起こしてみせる。

 これに、半身の再生半ばの先輩が逃れることなどできない。

 そして、雪菜がこの先、如何なる行動を取ろうとも暴走する威圧は防げない。間に合わない、と己が剣巫の霊視が(あきら)めてしまっているのだ。

 だが、その絶望に雪菜の心が塗り潰される直前、誰かの声が聞こえた気がした。

 

 

 《未来は視るのではなく、切り開くものです、姫柊雪菜》

 

 

 懐かしい、けれど決して忘れない彼女の言霊(こえ)が奮い立たせてくれた。

 雪菜に視えた未来は絶望だけ。それを避ける分岐は選べない。

 ならば、自ら作り出すしかない。存在しないはずの未来を―――

 

「あああああああああああ―――っ!」

 

 霊視()に頼り過ぎるな、という縁堂縁の言葉が脳裏に蘇る。(クロウ)との組手指導の際に何度となく説かれてきたその教え。

 存在しない未来を視ることと、存在しない未来の中で動くこと。そこに本質的な違いは存在しないのだ。認識することができるのなら、それを実現することもできるはず。

 既に綴じられていた本の中に、存在しないページを無理やり挟み込むように連続した時間の流れの中に、存在しない一瞬を突き入れる。

 暴走を抑え切れなくなる前に、刻み込む。絶対先制攻撃の権利によって―――

 

「なっ……」

 

 縁堂縁が、弟子を呆然と見つめた。

 世界が破れるような雑音(ノイズ)が響き、時間の流れが正常に戻る。

 破滅的な魔力の嵐が、凪となっていた。そして、破壊者はシャボン玉のような、光り輝く透明な膜に包まれていた。

 

「正気に戻ってくださいクロウ君!」

 

 <神憑り>の暴走を止めてくれた、ならば、今度は自分が彼を止める番。

 暴走する魔力を打ち消すのは、『神格振動波』の結界だ。

 かつて、絃神島を暁古城が出ていこうとしたときに、『異境』の侵食に備えて、『三聖』の閑古詠が施した<雪霞狼>による封印と同じもの。

 だが、そんな真似をする時間などなかったはずだった。

 

「この絃神島(しま)にきてから成長が著しいとは思ったけど―――まさか、()()()()()()()()、雪菜」

 

 誰の目にも知覚できなかった所業。封印術式を刻んだという時間は存在しない。目の前にあるのは、『神格振動波』の封印を施したという結果のみ。

 これより推察されるのは、姫柊雪菜は更なる高みに至ったということだ。

 

 

 《―――まだだ、まだ止まるな!》

 

 

 だが、悪性の呪詛は途絶えず。

 猛り狂う復讐の焔はなけなしの理性を融かす。

 その赫怒が火移りされたかのように、再び真紅の眼光が灯った。

 

 

 《―――壊せ、壊せ、壊せ! すべてを壊せ!》

 

 

 その身体から汚泥の如き血塊が、暴走を封じ込めた泡沫を破って溢れ出た。それに触れた地面は、まるで水に触れた塩の山の如く、そして、底なしの泥沼の如く溶解していった。

 そう。

 拘束具の機鎧が砕け、瘡蓋のような血途の甲殻も剥がれている。狂う破壊者(クロウ)の額に、手に、足に、身体の至る所に傷が浮かび、そこから夥しい量の深紅の毒が氾濫してくる。

 邪念の発信源の肢体と重なるように、またはこれまでの兵器として受けた調教の傷を再演するかのように、幾つもの傷口が開いていく。その様は、敬虔な神の信徒の身体に生じるという聖痕を思わせた。

 

「そんな……っ!」

 

 止められない。

 古城が捨て身で真っ向からぶつかって、雪菜が<雪霞狼>で鎮めようとしたのに、まだ治まらない。止まらせない。

 

「■ァ……! ■■■ァァァ……!!」

 

 もういっそ息の根を止めた方が良い思ってしまうほど哀れになる様相。

 討つ覚悟を、決めるしかないのか、と雪菜の銀色の槍を握る腕が震える。だが、決断に迷う少女の傍で、血反吐を飛ばしながら吠え猛る者がひとり。

 

「まだ……まだ、だっ! 先輩後輩(おれたち)戦争(ケンカ)はまだ終わっちゃいねぇぞっ!!」

 

 歯を食いしばる古城が、再生途中のまま無理に立ち上がろうとする。

 諦めない。諦めてたまるか。もう二度と、世界最強の力を持ったせいで呪われたヤツを見捨ててなるものか!

 

「先輩……!」

 

 古城は左腕を伸ばす。が、それでバランスを崩し、傾きかけた姿勢を脇で雪菜が支える。

 何度だって立ち向かうその姿に、揺れた剣巫の覚悟も定まった。

 不甲斐なくも不死身で不屈の先輩に身を寄せながら、少女は右手に槍を構えた。

 もう一度。

 何度だって、止めてみせる―――!!

 

 

「―――いいや、これは私と馬鹿犬との戦争だ」

 

 

 暁古城と姫柊雪菜の二人が稼いだ僅かな間が、彼女の復活を間に合わせた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 暴走する“破壊者”を、頭上から下った衝撃波が叩き伏せた。

 それは北欧で語られる終末の獣を、顎を踵で踏み抜いて降す顛末の如く、空間の揺らぎは徹底して暴威を押さえ付ける。

 

 ビキビキ、と響く奇怪な音。

 鼓膜を震わせる、空気の振動などとは異なる。別物。これはもっと本質的に――そう、この次元ではありえない異次元の摩擦。そこに居る者らの魂に直接伝播するかのような擦過音。

 その音源の方へと首を振った時、視界に飛び込んできたのは、漆黒の闇。一寸先は闇などとは呼べるものではない。果てなど見えない。時間も距離さえもない、無間地獄。

 そして。

 

 

 ―――――その暗闇の底で、三つの炎を噴き出す目。

 

 

「なっ!?」

 

 暴走した“破壊者”から、意識を逸らされた。雪菜の頬が恐怖に固まり、そして、驚愕に両眼を見開いた。

 

「那月、ちゃん……!!?」

「南宮、先生……!!?」

 

 心臓を斬り飛ばされるなんて致命傷は、不老不死の真祖でもなければ助からない。<第四真祖>の古城にしても心臓ひとつを丸々修復するのは一瞬でとはいかない。

 

「なんだ? 死人でも見たような顔だな?」

 

 人形のような幼い美貌の魔女が不敵に笑う。

 今の彼女は幻などではない。ここにいるのは本物の南宮那月だ。

 

「ふん、どうでもいい。その命知らずの暁古城(バカ)を連れて下がれ。コイツの相手は、私だ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 那月の左胸は潤沢な魔力を帯びて、深紅の燐光が漏れ出ている。

 血、ではない。紅い光を放つのは事前に埋め込んであった、宝石―――<錬核(ハードコア)>。

 

「成功、したようだな」

 

 ニーナ=アデラートは、ふぅ、と安堵の息を吐く。

 その隣で、縁堂縁が目を細め、この絡繰りのタネを見破った。

 

「『霊血』まで用意していたとはね」

 

「うむ。元より那月は天塚より下地となりうる<偽錬核>を回収しておったし、夏音の協力もあった。そして、この(わし)、古の大錬金術師・ニーナ=アデラートがいるのだ。無茶であったが、不可能ではなかった」

 

 『霊血』の材料には、女子高校生一人分の体重と同じだけの黄金と銀と希少金属(レアメタル)各種。それに水銀が900L。そして、供物となる霊能力者が14、5人。

 流石に生贄など用意できようもなかったが、絃神島で最高純度の霊能力資質を持った叶瀬夏音が、そのアルディギア王家の血を提供してくれた。

 時間はかかったが、不老不死は無理であっても、限定的に心臓を創り出す程度の代物ならばニーナに創製することができた。

 

「那月は、用心深い矢瀬顕重より、<瓶詰の心臓>を奪還するのに見切りをつけておった。故に、取り戻すのではなく、自らの心臓を切り捨てることを前提として、また新たに心臓を創り出すことにした」

 

「決死の覚悟、というわけね」

 

 魔女は契約を遵守する。しかしその上で裏をかく。

 一度、己が“死を決める”ことなど、矢瀬顕重には読み切れないだろう。何せリスクが大きい。九死に一生を得る大博打だ。

 錬金術の秘奥をもってしても、死人を生き返らせることはできない。

 ただ絶命する前に命を繋ぎ止め、心臓を創り出した。一瞬の遅れで間に合わなくなる一か八かの賭けだ。

 他にも穴があった。心臓を創り出し、再活動するまでのクールタイムが必要だということ。それは先輩根性を発揮した暁古城らが場を繋いでくれたが、相当に綱渡りであった。

 

「魔女にしては、随分とやけっぱちな作戦ね」

 

「それだけ思うところがあったのであろう。何せ、那月は那月自身が思っている以上に情が深いのだからな」

 

 使い魔に命を懸ける―――

 こんな醜態が魔女の界隈で広まればそれこそとんだ笑い種になるだろう。

 だが、彼女を笑い者にする者はこの場にいない。

 自らの命よりも生き様を優先できる者は、強いことを長命の二人は知っていた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 あの場面で、使い魔の裏切り行為を予想だにできなかった自分が情けない。

 

 “縛りはしない”と誓っておきながら、“裏切ら(はなれ)ない”などと思ってしまっていた自分があまりに情けない。

 ああ、許せない。

 許せるものじゃない。

 ぶっつけ本番で臨む成功率の問題に矢瀬顕重が監視している最中で迂闊にばらせないという理由から黙っていたが、この趣向がある種の“仕返し”、または“名誉挽回”な意図も含んでいないとは言えない。頭が真っ白になってるのが一目瞭然なほどに瞠目する“馬鹿犬(クロウ)”を見て、傲岸不遜に言い放つ。

 

「それで、馬鹿犬、私が死んだと思ったか? ふん。貴様の世話になるなど真っ平ゴメンだ」

 

 ざまぁみろ、と独り言のように呟く。それは三割ほど、自嘲げな吐息が混じっていたが。

 しかし、胸はスッとする。心臓を壊された苦しみを、(かお)に出す寸前に呑み込むだけの余裕ができた。

 そうして、たとえそれが、後ろの二人組(ロートル)には強がりなどと思われようとも、唯我独尊にして高貴なる魔女は気高(つよ)く美しい微笑を浮かべる。

 

「―――<転環王>!」

 

 抑えつけろ、と<守護者>に命じる。

 しかし、機械仕掛けの黄金騎士の姿はない。<空隙の魔女>に応じて“破壊者”を圧すのは、巨大な闇の獣。深淵そのものを形にしたような、形なき虚無の怪物だ。

 

 <空隙の魔女>が契約した<監獄結界>の番人の真の姿。

 美しかった黄金の甲冑の役目は“防具”ではなく、“枷”だ。出現するだけでこの世界の時空を歪める力を抑えつけるための制限(もの)

 その内側には、あらゆる光の届かぬ固体である、完全なる闇が内包されていた。

 そして、この光さえも呑み込む暗黒の底より解放される絶望的なまでに凄絶な魔力。その本性は守護者などとは程遠い、闇の獣はブラックホールの如き凄まじい引力を発揮して、凶ツ獣を逃さず抑えつける。

 

 

「 ―――(いだ)けッッ!」

 

 

 ほとんど絶叫と言ってよい、古城らが初めて聴く南宮那月の咆哮。

 すべてを握り込むようにして、魔女は叫んだ。

 

 闇の獣がまるで融ける飴のように空に溶け込み、その空間がぐるりと螺旋を描く。時空を捩じれさせる渦の中心点には確かな穴――局所的な<監獄結界>――すなわち、“空隙”が、暴走しているクロウを抱いた。

 

 

           「 ―――<与えし転環(ドラウプニール)>!」

 

 

 <守護者>から外れていた“枷”――黄金の甲冑がそのカタチを崩して融解。液体となった金塊は、雫となってクロウの頭上に滴り落ちる。そして、滴る金の雫は、首輪のカタチへ―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 “もしも(IF)”の話。

 彼の伝説の呪われし黄金(ラインゴルド)は、最初から呪われていたわけではない。

 環の形になったことで世界を支配する膨大な力を得ることになった、いわば願望機だ。

 ただし、精霊の棲まう川底より金塊を取り上げ、指輪の形にすることができるのは、“愛なき者”のみという条件があった。

 

 黄金の指輪を手に入れた伝承の小人は、愛など持たなかった、諦めていた、捨て去っていた。他者に相容れることなどあり得ず、決して、愛など求めなかった。世界の支配者としてくれる黄金の指輪に、孤独な幸福(ただひとりのねがい)しか望まなかった。

 だから支配者の指輪が謀略によって奪われたとき、この願望機の力で自分以外のものに永劫の不幸を呪った。

 そうして、所有者の運命を滅ぼす“呪われし黄金”となった指輪は、神々を恐れさせ、英雄を破滅させ、怪物を生み出した。

 

 けれど。

 強奪されたのではなく、与えたのであるのなら。

 手放す際に黄金に願うのが、他者の不幸とはまた違った願掛けであったのなら、“呪われし”などとは、ならなかったかもしれない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <守護者>の鎧と同じ、月光を透かし込んだか如き金色の転環は、特別、締め上げるような強制力はなかった。

 

 

 《些末な縛などで抑え込まれるな! 憎悪のままに狂い、この血濡れた島を滅ぼすまで止まるな!》

 

 

 浮かぶのは、激痛に歪んだ、苦悶の表情。自らの血で真っ赤に染まったその貌は、まるで血の涙を流しているよう。

 そして、首に巻かれた黄金の()は、この緋色の()()われた。

 

 ―――だが、それでも黄金は依然として首にかけられている。

 

 全身に走る引き裂かれた傷跡から血が溢れ、辺りを澱ませ、崩していく。そんな(なまぐ)さい景色の中でも、黄金の光は失せなかった。

 あらゆるものを壊し、自壊でしか止まらない『壊毒』。

 泥沼に陥るように再び黄金は呑まれ、形も色も融解するのだが、紅の破壊衝動に蝕まれる傍で、それ以上の速度で新たな複製が出来上がっていた。

 決して、転環(ほうよう)は離れない。

 

「■ァッ―――」

 

 出血の速度が鈍っている。全身の傷が塞がっている。

 墳血させる間もなく。いくら復讐者の憎悪に触発されて開こうが瞬きするように傷が癒える(とじる)

 初めて出会ったあの時、森で負わされた致命傷を治したあの時のように。

 

 壊されても、新造する。

 傷つこうが、治癒していく。

 

 しかし、クロウは捉えていた。

 壊されるたびに、治していくたびに、それに合わせて、時空を揺るがすほどの存在感が薄れていく。

 力を失っている。そして、その失ったものを自分に与えられているのだと直感的に理解する。

 

 古代北欧の風習には、身内として認めるモノに、腕輪を授与する儀礼がある。己の財宝を分与し、その価値で以て、繋がりの深さを知らしめるのだ。

 <与えし転環(ドラウプニール)>。

 <空隙の魔女>の<守護者>、<転環王(ラインゴルド)>の一部を切り離し、分け与えることで、絶縁された経路(パス)をより強固にして結び直した。

 『波朧院フェスタ』で一度<守護者>の貸与は経験したことがあるから、接続は容易。

 だが、魔女の魂と密接に繋がりのある<守護者>を直に接続させる行為には、当然、それ相応の危険を孕む。上下関係を築く主従の立場上、干渉は一方的なものに抑えられたが、それだけ密接ともなれば、契約主の方にも影響が出てくるかもしれない。どのような副作用や後遺症が残るかは想像もつかず、反発すれば最悪、共食いで互いの存在が死滅することになるだろう。

 左腕ひとつだけでは済まない爆弾な要素―――しかし、彼女は、そんな魂を懸けることを受容する。

 

「……まったく、これほど馬鹿な真似をするとはな」

 

 ―――月が昇らない日があっても、“ソレ”が昇らない日はない。

 死んでも口に出すまいと決めている非合理的な(バカげた)動機。だがしかし、今この手を伸ばす“黄金(ひかり)”はそれだけの価値のあるものだ。

 

 荊のような蔓が足元の影から伸びて、磔刑のように幼い魔女の肢体に巻き付き始める。掴めば当たり前に傷つく、そんな棘のある“繋がり”を離さない。綱引きで最後尾が全身に縄を巻き付けて自らを縛り上げてでも、最後の一線を踏み止まらせるためにある立ち往生は、どんなに出血を強いても奪わせまいとする気概の顕れだった。

 

 そして、その命を共有するまでに深い繋がりは、ついに繋ぎ止めた。

 

 血が出なければ、毒とはならない。

 つまりは、傷つかなければ、何も壊さない。

 体の傷を癒さ(ふさが)れたのなら、破壊は身の内に収まってしまう。

 また、この黄金の転環は、暴走せぬよう力を封じ込める枷でもある。やがて、悪意ある邪念に誘発された破壊衝動さえも鎮めた。

 ―――だから、正気を取り戻した少年は惑うのだ。

 

 

「どうして、なのだ……?」

 

 人の姿に、戻ったクロウ。

 <心なき怪物>の拘束具(よろい)も、“破壊者”の呪いも剥がれ落ちている。“自由”となった彼は、だがしかし動けなかった。

 

「どうして、ご主人が、間違えるのだ……! オレは、怪物、なんだぞ……!」

 

 こんなの間違いだとクロウは噛みつく。

 こんな失態を、主がするはずがない。していいはずがない、と悲痛を通り越した、自己否定にも通じる問いかけは、胸の奥底、心臓から直接噴き出したような声だった。暴走は鎮まっても、心と体がバラバラに砕け散ったまま。

 

「オレはご主人がいたから、森を出れた。島でもやっていけた。ここが自分の居ていい場所(せかい)なんだ、って……思えたのだ! 全部全部、ご主人がいたから! でも、オレはご主人のサーヴァントを辞めたんだぞ! だから、オレはもう、森の頃と同じ、怪物なんだ……っ」

 

 “殺す”と宣告した怪物(クロウ)を、生かす真似をする。おかしい。

 これに対し、魔女(なつき)はまったくもって不服だとばかりに鼻を鳴らした。

 

「馬鹿犬。私は間違えたつもりなどない。私は、“怪物ならば殺す”と言ったんだ。貴様風情が怪物を騙るなど烏滸がましい」

 

 そんなの屁理屈だ、としつこく異を唱えようとしたクロウだが、喧嘩が決した以上は、負け犬の遠吠えすら言わせるつもりは那月にはなかった。

 問答無用。

 ガツンッ、と後頭部に空間衝撃。抗弁しようと口を開いたタイミングでの一撃に舌を噛みかけたクロウは前のめりに姿勢を崩され―――かき抱かれるように、頭を抱え込まれた。幻ではない、那月の体でもって口を塞がれる。

 

「言われるがままに家族の骸を弄んだ無知の咎が、お前に落とした暗き影は、極夜()の森よりもなお昏い」

 

 もっと言えば、生まれてきたことそのものが罪だとも思い込んでしまっている。

 

「だが、夜も眠れぬ自責の念が己の爪にどうしようもない恐れを抱かせ、懺悔も吐けぬほどに噛み締めた顎に理不尽に抗う反骨の牙を研がせたのなら―――それはもう、心を持たぬ怪物とはかけ離れている」

 

 結果論になるが、誰ひとりとして人を殺さなかったし、死なせていない。

 その命が“罪”なのだと指をさされようが、決して“悪”ではないと魔女は証言する。

 

「お前はあの日の“間違い”を糧にして、決して兵器に成り下がれぬ在り方を確立させることができていた。爪が砕け、牙が折れようとも意地でも譲らん馬鹿さ加減はただの怪物には無理なのだからな。

 この前提を“間違い”などと言うな。それはお前にとっての“誇り”を否定することなのだからな」

 

 クロウの表情がくしゃりと崩れた。その泣き顔を、小さな胸の内だけに押し留める。

 

「そして、キャンキャン吼えるのは弱い犬に許された権利だ。……強がりでもいい。私の眷獣であるなら、黙って呑み込め」

 

「……ぐぐゥゥゥうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!!」

 

 酷い有様だ。しかし――生きている。

 弱々しい音。しかし――生きている。

 抱き締める力は簡単に振り解ける。けれど、万の言葉よりも伝わる鼓動が響く。地が割れて泉が湧くように、クロウの胸に熱い感情が満たしたのだった。

 

 

「今は眠れ。寝惚けた頭が少しはましになった時に、お前の話を聞いてやる」

 

 ゆっくり、と眠らせる。

 “お月様”だなんて、無邪気にも、本当に欠片の悪意もない眼差しを向けてふざけた殺し文句をしてくれたあの夜のように。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――おやまあ、寝かしつけるのが随分と上手だこと。

 寝た子の髪を指で梳く。素っ気なくも手慣れている仕草に、魔女の心情を見た縁堂縁。

 元々、ギリギリだったか。あっさりと意識の幉を放して、泣き疲れたように<黒妖犬>は抱き着いたまま眠ってしまった。

 人工島の魔族特区、その要石たる『黄龍』の座に据えられたようだけれど、その様子を見るに、まだまだ熟し切れていない子供と変わらない。“黄龍”というよりは、その年若い頃の“応龍”とでも呼ぶべきだろう。

 何せ、最高位の神獣でありながら殺人を犯した咎で、故郷の天へ帰れなくなった“応龍”は、()方の地に棲むようになったというし。

 洒落になってしまうが、こちらの方が似合う。それで、落ち着くべきところに落ち着いたと見れるだろう。今、何よりも気を許している彼女の元が、あの子にとっての居場所。

 

 さて。

 

 

「―――じゃあ、こちらも不肖の弟子を取っちめようかね」

 

 

 その声に、ハッと雪菜が反応したが、遅かった。

 意識の間隙を突いた鋭い薙刀の一閃は、雪菜が反射的に構えた長槍を手元から弾いた。

 

 カンッ!! と硬い音がして、弾き飛ばされた雪菜の槍は、円の軌道を描き地面に落ちる。

 

 主従のケンカに区切りがつくまでは待ってくれてはいたが、古城たちはこの獅子王機関の師家・縁堂縁に追われていたのだ。

 そんな彼女が、隣の古城に倣って余韻に浸り、隙だらけな弟子を見逃すわけがない。

 

「師家様っ!?」

 

 古城も遅れながら咄嗟に身構えるも、縁堂の眼差しひとつで、気圧された。喉元に刃先を突き付けられたかのような感覚に、思わず息をのんだ。現実に薙刀の切先を突き付けられている雪菜も同じ。殺意は感じないにも関わらず、息をするのも辛くなる圧力。

 

「おっと、<雪霞狼>に近づこうとするんじゃないよ雪菜。これ以上、力に頼るとどうなるかは自覚しているんだろう?」

 

 細く眇められた目が、闇の中の獣の如く薄らと光を湛えている。この眼の前では、身動ぎひとつも許されないだろう。

 二度の逃亡は無理だと否が応にも悟る。またそれ以上に、今の発言に滲んだ心配気な響きに古城は気になった。

 どういうことだ?

 この長命種(エルフ)の攻魔師に追跡される理由を知らない。雪菜も、詳しくは語らず、自身のことは後回しとしている。それもあって、牽制の刃を向けられては雪菜を庇うように立っているものの、前に出て勇み足を踏むには後ろ髪が引かれてしまっている。

 そんな半歩引いている姿勢は縁堂にも、わかったのだろう。雪菜がまだ事情を打ち明けていないことを。

 縁堂から放たれていた威圧感が消え、古城は肺の中身をすべて出す勢いで息を吐いた。そして、息を落ち着けることができないままに、急いた声で古城は問うた。

 

「なあ、ニャンコ先生。どうして姫柊を狙うんだ。あんたの弟子なんじゃないのかよ」

 

「ああ、そうさ。雪菜の師だから止めるんだよ。後戻りが出来なくなる前にね」

 

 雪菜が顔を背ける。古城も視界の端に唇を噛む横顔を捉えた。それは、相手の言の正しさを後押しするような態度で、いよいよ雪菜への不信感を募らせるものだった。古城の中で疑念が大きく膨れ上がった、それに応じるかのようにある単語が刺しこまれた。

 

 

「―――<模造天使(エンジェル・フォウ)>です、<第四真祖>」

 

 

 生き物らしい気配も何もなく、姿を現した黒衣の青年。

 彼の左手に握られているのは、両先端に穂先を持つ奇怪な黒い槍である。先程、別れた絃神冥駕が、古城の疑問に答えた。

 

「<雪霞狼>が放つ高純度の神気により、剣巫の少女は人間から高次元の存在へと霊的進化するのですよ。……冬佳と同じようにね」

 

「絃神冥駕!」

 

 淡々と語りながら、近づく冥駕。いつもは“死んでいる”とも形容できそうな、冷え切っている面貌が、今は嬉々とした愉悦に緩んでいた。

 先程は、こちらを助けるように動いてくれたが、それでも古城も周りと同調して警戒した態度を取る。

 全員が構えるのを見ても余裕は崩れない。まるでこの瞬間を待ち望んでいたとばかりに笑みを浮かべている。

 

「縁堂縁が動いているところを見るに、彼女の状態は相当深刻に進んでいるのでしょう。おそらくその覚醒度は、普段は第二段階から第三段階あたりでしょうが、『七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツアー)』を使用した場合は、第五段階を超えている。これは<模造天使>とほぼ同格。この状態で人の限界を超えるレベルの霊力を放出すれば、天使化は一気に進行するでしょうね」

 

「な……姫柊が、<模造天使>にって……そんなはずがあるかよ!」

 

 古城が同意を求めるように、雪菜や縁堂らへ視線を振るが、逸らされ目を合わせてもらえない。誰からも欲した否定(ことば)が返らない古城は、冥駕を睨んで、八つ当たりのように荒々しい声で問い詰める。

 

「だいたい<模造天使>を造り出すためには、候補者同士を殺し合わせるような、面倒な儀式が必要だったはずだぞ!」

 

 その発言にニーナの顔が顰められる。

 かつて叶瀬夏音が参加させられていた模造天使量産計画。夏音の義父である賢生が監督する、その何人もの少女たちが互いに殺し合う蟲毒のような果てに、人間は天使へ至る。

 

「でも姫柊は、他人の霊的中枢を奪ったことなんて、これまで一度もない!」

 

「本当に何も知らないのですねあなたは……同情しますよ、かつての私と同じ、獅子王機関に騙された哀れな少年よ」

 

 激昂する古城に対し、冥駕はその虚ろな瞳に僅かに憐憫の色を浮かべたかと思うと、古城が知りたい(おそれる)真実(こたえ)明かす(かたる)

 

「その儀式を行ったのは、人体を強制的に天使化するために、高出力の霊的中枢が七人分必要であったに過ぎません。『七式突撃降魔機槍』の神格振動波は、<模造天使>と同出力の神気。担い手の霊力を吸い上げて神気へと変換する『七式突撃降魔機槍』は、疑似的な霊的中枢であり、極めて高出力な霊的回路とも言え、当然それを扱う者の肉体に影響を及ぼすでしょう」

 

 <雪霞狼>の、副作用。

 かつて<模造天使>とも渡り合えたのを古城は思い出す。<雪霞狼>と<模造天使>はそれぞれ同種の力。ならば、その代償が同じ末路であるというのは、攻魔師でもない素人の古城の頭でも簡単に結びついてしまう。

 だが、

 

「なんだよそれは!? まさか、獅子王機関はこのことを知っていて、姫柊にあの槍を使わせたのか―――!」

 

「<雪霞狼>を使いこなせるのは、ごく限られた適合者だけでね。剣巫としては未熟な雪菜が、お前さんの監視役に選ばれたのも、あの槍との極めて高い適性を持っていたからなのさ。だけど、そのせいで雪菜の天使化は、獅子王機関の予想より遥かに速く進行しちまった。あたしたちにとっても想定外だったとはいえ、師匠としては面目がないよ」

 

 縁堂が、少しだけつらそうに首を振りながら、獅子王機関の部外秘の事情を白状する。

 姫柊雪菜の状態は深刻。縁堂縁が使う霊弓術のような、霊力を増幅する系統の呪術からも遠ざけた方がいい。ましては『七式突撃降魔機槍』じゃなくても、『六式重装降魔弓(デア・フライシュッツ)』や『乙型呪装双叉槍(リチェルカーレ)』などと言った武神具さえも扱わせるのは論外だ。

 すなわち、もう雪菜を現場に出すことは認められない。<第四真祖>の監視役はお役御免となる。

 

「先輩、その……」

 

「……姫柊も知っていたんだな? ニャンコ先生が自分に会いに来た理由も、本当はわかってたってことだよな?」

 

「っ……」

 

 古城が圧し殺したような声で訊く。今更、縁堂縁たちを責めても意味がない。最もつらいのは雪菜自身だ。幼い頃から過酷な訓練に明け暮れ、剣巫になるためだけに育てられた彼女が、師より剣巫として再起不能だと宣告される。それがどれだけ残酷な事か。古城にもわかっていたが、だからと言って割り切れるものでもなかった。

 

「どうしてだよ。<模造天使>なんてわけのわからないものになって消滅しちまうかもしれないのに、なんでこんな大事なこと黙ってたんだよ」

 

 古城は、キーストーンゲート第零層に向かう途中の、雪菜とのやりとりを思い出す。あの時、彼女は自分の体調に問題ない―――そう、言っていた。そんなすぐにバレる嘘をついてまで、古城に同行することにこだわった。

 その理由が古城にはわからない。

 消滅するほどの危険を冒してまで、どうしてついてこようとしたのか。

 

「それ、は……私は……先輩と―――」

 

 言葉を途切れさす雪菜。

 剣巫を続けられず監視役を辞めさせられたところで、獅子王機関から追い出されるわけではない。

 以前から、簡易霊力検査キットで自分の状態は、師家様に言われるまでもなく把握している。

 『神縄湖』で、先代の担い手・冬佳様の末路を、思い知った時からずっと、その覚悟はあった。

 でも、高神の社に戻る選択肢を、拒否した。

 <タルタロス・ラプス>によるテロに絃神島が復旧していないのもある。あの日から帰って来なくなった藍羽先輩とクロウ君を助けたいのも当然。

 そして、何よりも、私にとっての幸せが―――と共にあることだから。

 

 だけど、その想いが口にはできない。先輩(かれ)を前にするとどうしても感情は千々に乱れて仕方ない。

 

 口を噤んでしまう雪菜。

 この沈黙を契機に、絃神冥駕は、むしろ穏やかな表情で、口を開いた。

 

「どうです? 私にその『七式突撃降魔機槍』を返しませんか? ―――私ならば、天使化を制御できる」

 

「馬鹿を言ってんじゃないよ。『七式突撃降魔機槍』は、獅子王機関の秘奥兵器だ。おいそれと触らせるわけがない。いくら製作者だろうがね」

 

 誰が反応するよりも早く、縁堂が槍を向けた。

 絃神冥駕は技術者としては優秀であったが、獅子王機関の職員を殺害し、閉じ込められていた<監獄結界>から脱獄した危険な人物。

 彼の目的が何であるかは知らずとも、達成させてはならない。倒すべき敵として、十二分に条件が揃っている。

 

「ノコノコと自分から寄ってくるなんて捕まりに来たのかい? 言っておくけど、見逃す気はないよ」

 

「いいえ。見逃すつもりがないのはこちらの方だ。私は、迎えに来たのだ!」

 

 虚ろな瞳に、異様な気配が熾る。

 揺らめく眼光を湛えて、見据える先にいるのは、雪菜、ではない。

 静かに、眠りについているクロウ―――!

 

 

「必要なものは手に入れた。あとは“器”の<黒妖犬>―――「煩い。寝た子を起こすな」」

 

 

 目標に焦点を合わせた視界が、ほぼ黄金一色に占められた(さえぎられた)

 ギンッと音を立てて大気を裂くのは、長さ数十mにも達する黄金の鎖。それが鞭のようにしならせて冥駕に叩きつけられたのだ。

 

「無駄なことを……<空隙の魔女>よ、如何に拒もうが、我が手の内にあるっ……!」

 

 だが、冥駕は無傷のままその場に立っている。そして、己が絶対性を謳う。その瞬間、絃神島が―――否、世界そのものが大きく揺れた。冥駕の全身を包む輝きが明度を増し、人工島の大地へと広がっていく。

 

「っぅ……!!?」

 

 予期せぬ現象に古城たちが戸惑う中、那月の身体は勢いよく弾き飛ばされた。

 

「『墓守』は、『棺桶』を守護するためにある者。―――それ故に、<咎神の棺桶(カインズ・コフィン)>の叡智の“バックアップ”としての役割も負っていたのです。守護者として物理的な守護だけでなく、情報的な保護も果たしていた。もっとも、その叡智は、資格なき愚かな咎神派には扱えない。『無知』である器自身にも、すべては振るえない。管理者権限を認められた『巫女』にのみ開陳を許される。

 だがしかし、いや、だからこそ、顕重翁は、『巫女』によらずに『棺桶』の外にある叡智を完全に支配するべく、『墓守』の身に細工を施した」

 

 ぐっすりと眠りについていたはずのクロウの両目が静かに開き、その眼は紅く光っていた。

 金瞳ではない。

 冥駕と同調するように、クロウの両目は恐ろしいぐらい深紅の輝きを迸らせていた。

 

「っ、そういうことか貴様!」

 

 瞬時に、“細工”を悟るや、叩きつけるように扇を振るう那月。

 再び空間を揺らして、那月は金色の鎖を槍のように射出―――

 

 

「こっちも忘れてもらっちゃ困るね」

 

 同時、縁堂縁もまた、気を消して潜ませていた分身より冥駕に、霊弓術の光矢を放つ。

 警告に留めずに一気に仕留める。

 『三聖』の<静寂破り(ペーパノイズ)>であれば、可能ならば討たずに生け捕りを試みるだろうが、絃神冥駕は、飼い慣らすことの出来ぬ復讐鬼。『零式突撃降魔双槍(ファングツアーン)』の相性からして、弟子たちには荷が重い相手。

 そう判断していた縁堂は、端から機があれば自らの手で葬り去ると決めていた。

 

 取り決めもなく、しかし、隙は無い。共通の敵を見据えた師家と魔女の攻撃は、互いの手を邪魔せず、確殺を狙ったものだった。

 常軌を逸した早業による挟み撃ち。しかし、冥駕は余裕を崩さない。

 

「嘘……!?」

「冗談……だろ……!?」

 

 雪菜と古城が呆然と呟き、縁堂がチッと舌打ちした。

 二人の攻撃は、彼の肉体には届かない。防がれた、というよりは完全に無効化されたのだ。まるで彼への攻撃など、最初から存在しなかったというように。

 絃神冥駕の存在は淡い光の粒子に包まれて、絃神島そのものを侵食し始めていた。

 攻撃魔術や呪術ではなく、もちろん通常の物理現象からも逸脱していた。

 その輝きはふれたものを、決定的に変えてしまう。同じ形でありながら、生者と死者が、異質な存在であるように。

 それが、どうしようもなく危険。理屈でも直感でもなく、<第四真祖>としての血の記憶が、それを古城に伝えてくる。

 

「『天部』の真似事をしようが、結局、その目論見は叶わなかった。顕重翁にしてみれば失敗、未完成のままの、まさしく“廃棄品”。それでも、『聖殲』を己がモノにしたい咎神の末裔共は完成を諦められなかったようですが、しかし、『巫女』がいればこれを御すことができる―――<女教皇>よ」

 

 禍々しい深紅の光は、やがて太古の魔法文字を象る。そして、文字は連なり文章、文章は巡り魔法陣へ。緻密に書き込まれたバーコードのような刻印の楔が絃神冥駕の周囲を包むように循環する。この元となる強大な呪力を秘めた粒子―――これを発しているのは、『墓守(クロウ)』の肉体。

 

「クロウ君から無理やりに引き出してる……! ―――これは、まさか<論理爆弾(ロジックボム)>っ!」

 

 雪菜にも見覚えのある現象だ。

 『<第四真祖>の秘密にアクセスしようとしたものを無差別に殺戮せよ』と設計され、『原初のアヴローラ』の中にも埋め込まれていた安全装置(セーフティ)

 寄生した暁古城の肉体より魔力を横領し、存分に振るった魔術的なウィルスは、宿主の意思など無視する令呪。

 そう、矢瀬顕重の元には、かつて己の作品である人工生命体(ホムンクルス)に、<論理爆弾(ロジックボム)>を仕込んでいた『人形師』がいた。

 『天部』がかつて<第四真祖>に施したように、咎神派も思うがままに兵器を起動できるよう<論理爆弾>を仕込んだ。

 絃神冥駕はこれを知り、このシステムキーを欲した。

 

 

五大主電脳(ファイブエレメンツ)外部副脳(バックアップ)六号機(アルコル)

非常稼働―――」

 

 

 冥駕の手には、犬笛のようなものがあった。

 <角笛杯(ギャラルホルン)>―――戦争を告げる笛であり、全知の泉を汲む杯の名を冠したその道具こそ、『墓守』の制御鍵(システムキー)

 

「<カインの巫女>と<咎神の棺桶>を押さえたようですが、甘い。―――『墓守』と『もうひとりの巫女』が揃えば、『聖殲』は行使できる」

 

 世界を変容させる『聖殲』の魔術。

 その能力は、明らかに個人が制御可能な情報容量を超えている。複雑な魔術儀式もなしに、そんな攻撃を実践できるはずがない。

 故に、絃神島という『祭壇』と、『巫女』の演算能力を発揮させる装置が必要だった。

 ―――その二つを、『墓守』は担えるのだ。

 

 『聖殲』の叡智を頭蓋に蔵し、その頭脳は肉体活動を停止させてフルに演算活動に割り振れば、世界の理すら紐解く。

 そして、絃神島という地の『黄龍』を任せられていた『墓守』は『地』の属性を司る。すなわち、絃神島の身代わりとして『聖殲』の魔力を供給減と見立てることができる。

 

 『墓守』にして『棺桶』であり『祭壇』―――このお膳立てしたが、結局、『巫女』を頼らねば無用の長物であって矢瀬顕重は持て余し、故に、南宮那月の手に渡る前に処分しようとした。

 そして、絃神冥駕には、もうひとりの巫女―――<女教皇>と繋がる伝手があった。

 

「ですが、私は顕重翁とは違い、無闇に『聖殲』を振るい、使い潰す気はありません。大事な器を壊したくはないので。ですから、手を引いていただけるとありがたいのですが」

 

 白々しくもそう宣う。

 それが“南宮クロウ”という個人の人格は一顧だにしないというのは、誰にだってわかった。

 

「ふざけんなよ! もうこれ以上、俺の後輩を利用されてたまるか!」

 

 これ以上、身勝手な言い分など覚える気はない。血を沸き立たせるほどに無制限に魔力を解き放たんとする。

 絃神冥駕(こいつ)を吹っ飛ばして解放する……!

 己の眷獣に攻撃を指示。緋色の双角獣が放つのは、高密度に凝縮された荒れ狂う大気の弾丸。

 

「<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>ッ―――!」

 

「―――」

 

 声高に命じる古城に対し、冥駕は何も言わずに嘲笑を浮かべるのみ。

 迎え撃つよう突き出された黒槍に、深紅の粒子を纏わせる。

 真正面から受け止められた暴風の弾丸は―――陽炎のように揺らめいて、終わった。天地災厄の化身たる<第四真祖>の眷獣の攻撃が、冥駕の前髪一本そよがせることも叶わず。

 この光景を呆然と見つめる古城。

 動揺さえない。それ以前に何が起こったのかさえ不明。たとえ冥駕の黒槍が眷獣の魔力を無効化しても、既に撃ち放たれた以上は物理的な衝撃波までは打ち消すことができないはずなのだ。

 なのに光の粒子を纏っている冥駕は酷薄に笑っている。そして、瞠目する古城たちを哀れむような、優しくも冷淡な笑顔で宣告する。

 

「『聖殲』には何人も敵わない。今の消耗した貴方達なら尚更挑むのは無謀」

 

 そう。

 半身を吹き飛ばされた古城は、まだ肉体が完全に治り切っておらず万全とは言えない。

 雪菜に至っては戦わせれば『天使化』が進行してしまう。

 槍を構えている縁堂にしたって、クロウと激戦を繰り広げて、得物をひとつ破損された。

 ニーナ=アデラートもそもそも戦える身体じゃない。

 

「<女教皇>よ。我に世界を統べる力を―――!」

 

 冥駕は、『仮面』を、装着する。

 あれは雪菜が『神縄湖』で見た、咎神派の遺産。遺人の“情報”を記録複製(コピー)しているその『仮面』。そこに封じているのは、もうひとりの巫女―――<アベルの巫女>

だ。これを完全に調整された<冥餓狼>で御す。

 

「―――そして、彼らに絶望を!」

 

 冥駕の前面に、集束する紅い粒子が、バスケットボールほどの大きさの正六面体を空中に生み出す。直後、魔術的な意味で土の属性を帯びるその立体を砲弾のように撃ち込んだ。

 吸血鬼の反応速度をもってしても回避が容易な弾速ではなく、古城はほとんど反射的に眷獣を召喚する。

 

「くそっ……疾く在れ(きやがれ)、<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)>!」

「―――馬鹿! 避けな!」

 

 出現した、美しい金剛石の肉体を持つ巨大な大角羊(ビッグホーン)は、自分を傷つけたモノにその傷を返す、吸血鬼の不死の呪いを象徴する眷獣。如何なる攻撃にも傷つけられることのない金剛石の神羊が纏う無数の宝石の結晶をもって、古城の前面に強固な防壁を築いた。

 ―――それとほぼ同時に横から割って入った、長命種(エルフ)が古城と雪菜を突き飛ばした。

 

「なっ―――なに!?」

 

 冥駕の深紅の砲弾に触れた瞬間、絶対無謬の防壁は、脆い砂糖細工のように音もなく粉々に砕け散っていた。

 圧倒的な魔力で押し切られたわけでも、古城の魔力が無効化されたわけでもない。まるで最初から存在しなかったかのように宝石の壁を消し去ってしまったのだ。

 そして、直前で二人を突き飛ばした縁堂に深紅の砲弾が直撃し、か細い身体が吹き飛んだ。庇った結果、自身は砲弾を回避し切れず。外套の切れ端が宙に舞う。

 

「師家様―――!!?」

 

 大きな風穴が貫通した縁堂を凝視して、雪菜が絶叫した。

 サァ―――と風に流されるよう、その姿が儚く散る。

 あれは分身。しかし、真に迫った分身(ワケミ)が、一撃で散らされる。術の反動に、本体の縁堂が胸を押さえて、うめく。

 

「大丈夫かニャンコ先生!」

 

 苦悶は一瞬。心配顔の雪菜らへ視線を飛ばす。

 あの赤い光に迂闊に触れるな、と言うまでもなく伝わった。

 縁堂に突き飛ばされなかったら、古城は確実に冥駕の攻撃を食らっていた。如何に不死身の真祖と言えども、あの砲弾を撃ち込まれては無事ではすまい。

 

 だけど、なんなんだ、あの力……?

 <第四真祖(おれ)>の眷獣の防御を一瞬で撃ち抜きやがったぞ?

 

 敵の能力が不明。迂闊に攻撃も防御もできない。これでは一方的に嬲り殺される。

 

「あれこそが、『聖殲』。咎神カインが創り出した、神を殺すための禁断の魔術にして、史上最悪の大虐殺を引き起こした禁呪だよ」

 

 その危険度を一目で看破した縁堂の口から正体が語られる。思いがけない言葉に戸惑う古城。

 名前だけは知っていた。でもそれは、もっと大規模な、歴史的な事件や、天災のようなものだと思っていたのだ。

 絃神冥駕の操る深紅の輝きは、そんな想像よりも遥かに静かで、極めて珍しい魔術の一種のようにしか素人目には見えない。

 だが、恐怖を圧し殺したような縁堂の声音は性質の悪い冗談だと思わせず、何より、この奇怪な能力こそが、<第四真祖>の眷獣の力を、封殺したのを目の当たりにした。

 あまりにも脅威。態勢を立て直すためにも、ここは離脱して―――

 

 

「無駄ですよ、<空隙の魔女>」

 

 

 突然、深紅の輝きが燎原の野火の如く一気に広がった。

 この場にいる全員を取り囲むのは、巨大な正四面体の檻。灼熱の監獄の如き炎の属性を持つその立体が、空間制御による離脱を強制遮断した。

 獲物を取り逃がさぬために冥駕が敷いていた結界だ。

 

「『墓守』を転移させようとしたみたいですが、この一帯の空間は、私の許可なく空間制御できない。そのように作り変えている。これが所詮真似事でしかない<闇誓書>とは次元が違う、本物だというのは言われるまでもなくわかっているはずだ」

 

 <闇誓書>は、世界を上書きする、けれど、絵画をインクで塗り潰しても、その下の絵が消えてしまうわけではない。

 だが、咎神(カイン)が創り出した、神を殺すための禁断の魔術は、世界そのものを変容させる。たとえるなら絵画を切り刻んで焼き捨てることも、美術館ごと消し去ることすらやってのける。

 世界に対する影響力が、不可逆なほどに強烈だった。

 

「それ以前に、貴方はご自分の心配をした方がよろしいのでは?」

 

「っ」

 

 そして、誰よりも那月は危うかった。

 先程の攻撃で限度だったか、その顔からは常にあった不遜な余裕(めっき)が剥がれている。

 

「無茶だ那月! 今の体力でそのような真似をすれば死ぬぞ!」

 

 顔面蒼白の那月を見て、ニーナは声を上げた。

 那月は控えめに見ても、体内の魔力はほとんど残っていない状態だ。今だって<守護者>を現界できないほどに弱り切っている。

 魔力の過剰行使で空間制御もままならぬほどに消耗しているのだ。魔力もだが体力も限界だ。ただでさえ成長しない幼い身体で、心臓を再生させるという荒行は無茶が過ぎるのに、瀕死の身体に鞭打って更に無茶を重ねようとしているのだ。

 立っているのが不思議に見える顔色のまま、酷使した体より精気を絞り出す。

 

「私は―――」

 

 言葉と共に喀血を吐いて、ドレスの胸元を紅く、しとどに濡らす。

 もはや隠しようのない、明らかな異常。完全に再生し切っていない心筋に無理が祟っていることを示す血液量だ。

 だが、この魔女は都合がいいとばかりにこの魔女(おのれ)の純血を“贄”にする。

 

 

「私はっ、もう二度と奪われる気はない! そして、コイツを隷奴とする権限など何人にも握らせるものか!」

 

 

 血だまりが、蒸発する。

 叫びに呼応するかのように湧いて出てきた細かな光の粒子。黄金の鎖が、螺旋状に渦巻く緋色の輝きに包まれる。

 内側に複雑な魔法陣を刻んだ、光り輝く無数の粒子―――その輝きが水を吸うように鎖を染め上げて、先程阻まれた冥駕の領域を打ち破る。

 

「なにっ!?」

 

 咄嗟に黒槍を盾としたが、それごと緋色の鎖は冥駕を吹き飛ばす。

 ありえない。『聖殲』は物理法則も魔術の原則(ルール)からも逸脱した権能(ちから)。<第四真祖>の眷獣でさえも無に帰す『聖殲』を、さらに上書きした変容させるなど、あってはならない―――

 そんなことができるのは、『聖殲』だけなのだ。

 

「何故、<空隙の魔女>が、『聖殲』を……! ―――っ、そうか! 『墓守』と結んだ縁で……!」

 

 本来ならばありえないが、『墓守』である<黒妖犬>と強い契約が結ばれている。不可能な道理を覆すほどの繋がりが可能とした裏技。

 南宮那月までも『聖殲』を振るうなど、冥駕には計算外だった。

 

「だが、それでも限界だ、<空隙の魔女>」

 

 そう、たとえ術式媒体と演算装置の代理を担える『墓守』の援助があったところで、自力で『聖殲』の発動するのは、尋常ではない魔力量を要する。たとえそれが一瞬のことだったとしても、<闇誓書>と同じく龍脈・星辰の力か、真祖級の吸血鬼の魔力量を保有していなければ、起動させるのも無理だ。

 それに重ねて、常人には個人発動自体が無茶な空間制御まで、同時に行おうなど、自殺行為も同然。

 今現在、彼女の左胸に手を当てるニーナが<錬核>を介して、活動を補助していようが、そうでもなければ呼吸すらも危うい。

 

 しかし、風前の灯火のような延命であっても、絃神冥駕が黒槍を向けるのは、他の誰でもなく南宮那月。

 瀕死であろうが油断なく、完膚なきまでに抹殺せんとする。それが、かつて己を監獄に封殺した魔女へ降す評価だった。

 

「これ以上余計な干渉をさせぬためにも最大の難敵であるあなたをここで排除する!」

 

 霊力と魔力の双方を無力化できる『零式突撃降魔双槍』が、魔力を禁止する。魔女の力の根源たる魔力を消滅されては、鳥から翼を奪うも同然。

 そして、同じく、助けに入ろうとした古城も<第四真祖>の無限の魔力を発揮できない。

 

「しかし、『零式突撃降魔双槍』が、一度に消滅させられるのは、どちらか片方だけ。同時に対処はできない、という欠点がある。だから、“廃棄兵器”なんだってことを製作者のあんたが忘れちゃいないだろう?」

 

 指摘しながら、薙刀を振り抜く縁堂。

 刃先に薄く研いだ鋭い霊力を宿らせ、『僵屍鬼』の骸を滅さんとする。魔力を禁じている今、封じることのできない霊力による攻撃に対し、冥駕は無防備だ。

 

「甘い。『聖殲』の世界変容の力と変容すれば、『零式突撃降魔双槍』の欠陥は補える。あなた方が付け入る隙などありはしない!」

 

 深紅の障壁が、師家渾身の一撃を防ぐ。

 そして、反射した深紅の閃光に薙刀の刀身に罅が入り、鋭利な先端が欠けた。

 さらに、次の瞬間、深紅の障壁はばらけて光の粒子に戻してから新たな形態に変ずる。弾丸ほどの大きさの正八面体――魔術的に風の属性を持つ塊が、十数発。

 直後、その光り輝く塊が音もなく一斉に射出。

 飛来する深紅の弾丸はそれぞれが物理法則を無視した不自然なカーブを描いて、回避する逃げ場なく、四方から襲い掛かる。

 空間制御もできない那月に、これは回避不能。そして、幻体ではない生の肉体である状態で、一発でも人体を塩の柱へ変えてしまう『聖殲』をもらえば、終わり―――

 

 

「『―――<雪霞狼>!』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 え……?

 姫柊雪菜は、その光景に、一瞬魂消たように呆けてしまった。

 あの時、雪菜は周囲の制止を振り切って、戦える力を、この苦難を切り開く力を求め、師家に弾き飛ばされた銀色の槍を求めた。世界を変容する『聖殲』の力にもきっと、『神格振動波』の輝きは相殺できると信じて。だが、手を伸ばし飛びつこうとした雪菜よりも早く、拾われていた。

 

 絃神冥駕より撃ち放たれた深紅の弾丸の全てを斬り落としたのは、横から割って入った、目を瞑る少年。

 そして彼が振り抜いた――ありえざる――眩い銀光の一閃だった。

 

「クロウ、君……?」

 

 ありとあらゆる結界を切り裂く破魔の槍をその手に取り振るうのは、選ばれた剣巫・姫柊雪菜ではなかった。

 そして、“南宮クロウ”でもなかった。

 

「まさか……」

 

 驚きと混乱で言葉ができない。この場にいる誰もが絶句して見つめている最中、構えた銀色の槍を、バトンのように鮮やかに旋回させる―――その様に、“誰か”が重なって見えたのは雪菜だけではなかった。

 そうだ。

 複雑な軌道を描きながら、高速で飛翔する正八面体の塊をギリギリまで引き付けて、<雪霞狼>で撃ち落とすなんて芸当、神業とでもいうべき超絶技巧は、有り余る力に武器の扱いが大雑把とならざるを得ないクロウではありえない。

 だから、今の彼の身体を動かしているのは、“南宮クロウ”ではない。

 これを悟り、誰よりも真っ先に、荒々しい哄笑を挙げたのは、復讐以外の感情が死に絶えていた不死者の青年だった。

 

「ハハッ……ハハハハハハハハッ! そうか、もうすでに“器”の中にいたとは、()()

 

 冥駕に名前を呼ばれた“彼女”は、これまで閉じていた眼を薄らと開ける。

 その眼に、血濡れた赤色は消えている。

 半眼になった双眸は焦点を結ばないまま、不思議な色を湛えている。

 

 <神憑り>を知る雪菜にはわかる。

 剣士の如き凄みと巫女のような神聖さが同居した立ち姿は、彼自身のものではないのは明白。今、クロウは、憑かれている。『十二番目』の人格が表に出た暁凪沙のように、ガラリと雰囲気が別人のものに切り替わっている。

 

「は? 何を言って……? 一体クロウに何が起こっているんだ……!?」

 

「……先輩、今のクロウ君はクロウ君ではありません」

 

 この中で最も事態に追いつけない古城が戸惑いの声をあげ、雪菜がなるべく落ち着いた口調で、わかる事実(こと)だけを簡潔に述べる。

 

「『―――はい、姫柊雪菜の言う通り、彼の身体を借りております』」

 

 クロウの声で、クロウの声音ではないそれが、雪菜の推測を肯定した。

 そうして、焦点が不安定だった瞳はやがて、受信チャンネルが合うと、細波はぴたりと定まる。

 一点の曇りなく澄んだ瞳。ただしその目の色が、陽光のような金色から変わっていた。遥か彼方の天の蒼穹を映す、蒼色の眼に。

 この場の霊脈がより高次なものへと移り変わり、辺りに光の粒が舞い、馥郁たる香りが漂い始めた。

 あの存在を評する言葉は、“神々しい”と言う他ない。

 

 

 元々、“そのように”造られていた。

 かつて、創造主たる<血途の魔女>は、『霊血』を制御するために人格を入力する<錬核>のように“情報”を保存する入れ物となるように仕上げていた。

 形無き“情報”を取り込める<過適応能力>の受信感度。

 獣王の頑丈極まる筋骨があれば、大抵のことは力業で抑え込める頑丈な器。

 素質は、あったのだ。

 それから、『神縄湖』にて、<第四真祖>、『十二番目』の魂を宿らせる暁凪沙の経験値を得ており、そして、影の中を占領していた<血途の魔女>がいなくなった。

 <雪霞狼>から憑依させてから、このスロットの空きに偶然にも入り込んでしまった人格(プログラム)

 拡散されていたその意志を――魂を、集束させる特異な体質、いや、“そうであれ”と製造された肉体は、現世を離れた者の魂を呼び戻す口寄せにも等しい所業を人知れずに為していた。

 

 

 南宮クロウの全身が、青白い輝きに染まる。<雪霞狼>の表面に浮き上がるのと同じ、複雑な魔術紋様が虚空に描き出される。そして、あたかも翼のような姿となり、背中から拡張されていく。

 

「冬、佳―――?」

 

 後光の如き輝きを放っている膨大な霊力は、古城や冥駕、負の属性を持つ者の肌をジリジリと焼く。高密度の神気によるダメージだ。

 当てられるだけでダメージを負う高密度の神気が、槍の穂先一極に絞り込まれていく。表面で弾ける雷光を見てもそこに尋常でないパワーが秘められていることが見て取れよう。

 それを向けられ、冥駕が笑みを消した。

 そして、青白い光が弾けた―――そうとしか認識・形容できない速度と衝撃で投擲された<雪霞狼>が、絃神冥駕に迫った。

 

「ッッッ―――」

 

 <女教皇>―――と声を発する間もなかったが、深紅の障壁は展開された。

 縁堂縁の薙刀の斬撃を寄せ付けなかった護りは、しかし、一瞬で撒き散らされた。その余波で、周囲を囲う炎の檻さえ吹き消すほど。『僵屍鬼』の身体を蒸発しかねかったが、『聖殲』を食い破るのに威力が減退していた。

 しかし、間断なく放たれた追撃の二の矢が、冥駕を貫いた。

 

「かっ……!?」

 

 それは閃光が、得物を模したように長槍の形をしたもの。

 霊弓術、などとは次元が違う。そうこれはかつて古城が相対した、<模造天使>と化した叶瀬夏音が使ってきた光の剣と同種のものだ。

 左肩に突き立った光は、苛烈な衝撃と炎を伴って、視界を真っ白に染める。貫かれたまま冥駕の肉体は吹き飛ばされ、向こうの瓦礫の壁に縫い止められた。

 全身が焼き付けられたように、白い蒸気を噴き上げている冥駕を、冷徹に見据える冬佳(クロウ)。『神格振動波駆動術式(DOE)』が内蔵された武神具を手放しても、依然として神々しい気配を維持している。

 

「ククッ」

 

 冥駕は、笑っていた。

 光の槍に貫かれ、その黄金に輝く神気が、“負”の属性を帯びる骸の肉体を、酸のように蝕み続け、ゆっくりと消滅させられているというのに、この事態を心底から歓迎する、狂った笑みを絶やさずにいる。

 

「ああ、“器”とそんなにも馴染んでいるみたいで、嬉しいよ冬佳。あとは定着させるだけだ。『聖殲』の力ならば、完全に“器”を君のものとすることができる!」

 

 冥駕が右手に持つ黒槍をかざす。その穂先より滲み出てくるのは、霊力を無効化する<冥餓狼>の闇色の薄膜(オーロラ)だ。これが、神気で象られた光の槍を呑み込み、消滅させる。

 神の御使いを堕天させるだけの力を備えた『零式突撃降魔双槍』。その真価を発揮すべきは、この瞬間だ。

 

 一年前、絃神島で起こった<焔光の宴>で、選帝者のひとりだった武器商バルタザール=ザハリアスが<第四真祖>の力を我がものにせんと目論んだ、妹の死骸を利用した魂魄捕獲の術式。

 『原初』に気付かれ、失敗に終わってしまったが、しかしそれは不可能な理論ではない。たとえそれが肉体の軛を捨て、この世から解脱したモノであっても、“器”に留めることはできるのだ。

 

「さあ、冬佳! 私の元に戻ってきてくれ!」

 

 世界変容の禁呪を振るわんと、冥駕は<角笛杯>を起動させた。

 

 

「『……私はそのようなことは望みません、冥駕』」

 

 

 深紅の光は、起こらなかった。

 何も、変わらない。<女教皇>の“情報”を入力された『仮面』で管理制御権を得ている冥駕は、『墓守』に、『聖殲』の演算代理、『棺桶』の機能代用、『祭壇』の供給代行を行わせようと命じた。

 だが、不発。

 今の天使化した藤阪冬佳が憑依している南宮クロウの肉体は、この世の外に置かれている。

 

「『余剰次元薄膜(DEM)』……だと!?」

 

 その身に纏う蜃気楼の如き光輝は、別次元にある天使の領域。この世のあらゆる干渉から隔絶された高みは、<角笛杯>の強制命令(コード)を遥か彼方に遠ざける圏外にある。

 

「どうして拒む、冬佳ッ……!」

 

 冥駕が制御鍵たる犬笛を握り締めるが、あの絶対的な権能が呼応することはない。

 

「『この身体は、彼のものです。私のものではない。そう、私はあってはならないのです』」

「ふざけるな冬佳! あってはならないなど……たとえそれが君であろうと―――そんなこと認められるかッ!」

 

 冥駕の瞳に暗い光が宿る。“温もり”を与えてくれた彼女の声さえも届かないとなれば、もはや彼の凶行は止めるには、討つしかない。

 

「『獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――』」

 

 祝詞を奏上するや、冬佳(クロウ)の手元に、初手に投じた銀色の槍が収まった。獅子王機関の秘奥兵器に展開される魔法陣も翼を広げるように拡張されている。

 あれこそ真祖殺しだ。これに穿たれれば、真祖であろうと死滅することが、古城は本能的に理解できた。

 

「『破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!』」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「必ず冬佳を私の元に取り戻す! その為ならばこの世界のすべてを犠牲にしても構わない!」

 

 冥駕は槍の神威に焼き焦がされた左腕を突き出すや、光の粒子に包まれる。

 『墓守』を介さない、自力での『聖殲』の発動だ。冥駕は『聖殲』の知識、咎神の叡智を記憶している。そして、不足する魔力を自らの腕を生贄に捧げることで補い、『聖殲』の力を喚び出した。

 先程のとは格段に劣る規模であるが、深紅の粒子は集いて盾に。

 それを前にして、先代の担い手は豪快に、それでいて華麗に旋回して体を捻り込んで勢いをつけ―――降魔の光を湛えた槍を横一文字に切った。

 

 ―――一閃。

 ただ一振りで大気に亀裂に走らせるほどの一撃に、矛盾の均衡はそう長くは続かず、盾の障壁が引き裂かれて霧散した。

 そして、<雪霞狼>より迸った神気を冥駕は浴びて―――姿を、消した。

 冥駕が自身の痩身に縫い付けていた呪符より、空間転移の術式を発動させた緊急避難。

 腕一本を犠牲にした障害に阻まれて、仕留めきることが叶わなかった。

 

「冬佳、でいいのかい?」

 

「『……はい、師家様』」

 

 残心をとる冬佳(クロウ)へ確認を取ったのは、縁堂。

 『高神の社』で多くの攻魔師を育ててきた師家の目から見ても、槍を振るう様はかつての教え子に重なっていた。

 

「なあ、クロウは無事なのか?」

 

 次に問いかけたのは、古城。

 事情の理解度は最も低く、藤阪冬佳なる女性についてもよく知らない。だからこそ、古城は真っ先に自らの後輩を心配した。

 冬佳(クロウ)は、そっと胸に手を当てて応える。

 

「『はい、この子は無事です。私が表に出ている限り、冥駕は彼に干渉をすることはできません』」

 

「そうか。よくわからねーけど、クロウのことを守ってくれたんだな」

 

「『いいえ』」

 

 古城の言葉を、ゆっくりと首を振って否定する冬佳(クロウ)

 

「『『聖殲』に囚われぬためとはいえ、無理をさせていることには変わりありません。それでもなお、この肉体に取り憑いているのは、我儘な未練です』

 

 再び、依代の少年の背中より、神気で形成された透明な翼が展開される。

 

「『冥駕を止めたい。それが監視役として果たせなかった私の任で、彼を狂わせてしまった私の責。―――それを全うするために、今しばらく彼と槍をお借りします』」

 

 待て、と制止する間もなかった。

 旋風を巻き起こすように閃光が迸り、その目が眩んだ一瞬で、目の前から姿を消した。神秘的な霊気の残滓をおいて、飛び立ってしまった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「他所にリードを奪られ易い性質でもあるのか、あの馬鹿犬は」

 

 淡々と、そう言葉を零すのは那月。

 古城にはわかる。これは、オブラートに包んだ控えめな表現をすると、機嫌が悪い(ブチ切れている)

 

「つくづく面倒な女に纏わりつかれる。これは貴様の影響か、古城?」

 

「いやなんでだよ!? いきなり俺のせいにするとか理不尽にもほどがあんぞ、那月ちゃん!」

 

「担任教師をちゃん付けで呼ぶな―――っ」

 

 体罰に厳しいご時世であろうと生徒を容赦なく引っ叩くのが傲岸不遜な魔女教師流。空間制御の衝撃波が来るかと、首をすっこめて身構えた古城だったが、何もない。

 扇子を振るう気力さえないのか、那月は膝をついて立ち上がれずにいた。

 

「古城よ、あまり那月を刺激してやるな。もう、本当に限界なのだ」

 

 ニーナの言に、忌々しい舌打ちが返ってきたが、反論は出なかった。

 無理が来ていることなど隠しようなどない。人形のように整った顔からは完全に血の気が失せている。体温も冷え切り、脈も微弱。呼吸も酷く浅かった。そして、半眼にまで落ちている双眸は焦点を結べずに、意思の光が少しずつ消えかけていた。

 

 “眠り”の戒め。

 時空を揺るがすほどの力と引き換えに、<監獄結界>と契約をした番人の責を負わされている。

 もう生身での現界は時間切れであって、これ以上の留守は許されない。強制的に夢幻の牢獄を維持するための要石(せき)へと誘わんと、背後の空間が揺らいでいる。意識が落ちた途端、彼女の身柄は引きずり込まれるだろう。

 

「那月ちゃん、もう無理をしちゃだめだ。心配なのはわかるけど、どこにいるのかわからない以上、今は休むべきだろ」

 

 取り憑かれた後輩のことは、古城も心配だ。

 でも、どうしても助けたいと思っても手掛かりも何もなく闇雲に動いては無駄に浪費するだけだ。だから、ここは自分の無力さを恥じながらも、力を温存するのが最善の策のはず―――と同情する教え子の顔は、那月にはいたく自尊心を傷つけられるものであった。

 おかげで、堕ちかけた意識が少し持ち直される。

 

「誰に向かって言っている? 私は馬鹿犬のことなど心配していない。それに私には奴らの出所くらい既に予測できている」

 

「いや、そんな見栄を張んなくても―――」

 

「見栄ではない!」那月は珍しくも鼻息を荒げに吐く。「人工島東地区の『大規模食糧備蓄庫(グレートパイル)』だ。海底に沈められた芸能人気取りの小娘を拾ったら、そこへ着くようアスタルテに言ってある」

 

「芸人気取りの小娘って、浅葱のことか? いや、テレビに出てんのはCGで作られた偽物で……―――って、そうか! そこで浅葱に調べてもらえば!」

 

 浅葱の情報収集能力さえあれば、すぐに行方が判明できるはず。

 けれど、那月は素っ気なく首を振る。

 

「違う。絃神冥駕は、今度こそ『聖殲』をものにするべく、代用品(バックアップ)ではない本体を狙うはずだ。浅葱が乗り込んでいる<咎神の棺桶(カインズ・コフィン)>をな」

 

 そして、藤阪冬佳(クロウ)は、絃神冥駕を追っている。

 

「……事が終わるまで海底に沈めておきたかったが、手っ取り早く邪魔な結界を破るのに、『棺桶』をアスタルテに殴らせたからな。潜水艇の機関部に支障があった場合のことを考えると、魔獣の腹の中に放置しておくわけにもいくまい」

 

「鬼か、あんた……!? それしかなかったんだろうけど容赦ないな怖ェよ!」

 

 ざっくりと話に聞くと恐ろしさに戦慄を覚える古城である。けれど説明がされれば理にかなっている方法で、それに教え子の安全を確保するように心配っていることがわかる。

 

「っ……ここまでの、ようだな」

 

 不機嫌そうに唇を曲げたまま、その瞳がついに閉ざされた。

 

「急、げ。……浅葱を、狙って、いるのは、絃神冥駕だけではない―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 眠りに落ちた契約者の身柄を、虚空が呑み込む。

 あるべき場所へと送られたのだ。ここから現実世界で動くための分身を創り出すにしても時間がかかる。それに時空を歪めかねない<守護者>の封印を修復しなければならない。おそらく、この先の戦いには間に合わないだろう。

 

 那月が消えていった場所を見つめながら、古城はしばらく無言で固まっていた。それはこれからの戦争を引き継ぐのに、偉大なる魔女にして先生の覚悟を少しでも多く背負うのに要した時間。

 そんな古城の耳に聞こえてきたのは、時代劇口調の騒々しい声だ。

 

「彼氏殿! 息災で御座ったか!」

 

 障害となる瓦礫を跳んで躱しながら近づいてくるのは、赤い有脚戦車(ロボットタンク)。甲羅のようなコクピットハッチを開いて、操縦席から出てきたのはやけに立派な制服を着た小学生の女子。特徴的な赤い髪に、愛らしいペレー帽をかぶっている。

 リディアーヌ=ディディエだ。

 浅葱のバイト先の同僚で、凄腕のハッカーにして戦車乗り。

 今搭乗している機体は、いつもの機体とシルエットは同じであるが、微妙に細分デザインが違っている。

 

「予備の戦車が届いたんだな」

 

「<膝丸弐號>にて候。近接戦闘に備えて装備されたドリルこそが、この機体の誉れでござる」

 

 戦車の前脚に取り付けられたドリルを指し示して、リディアーヌは自慢げに胸を張る。果たして実戦においてどれだけの活躍が期待できるかについては、古城は発言を控えることにした。

 

「そ、そうか。俺は格好良いと思うぞ、俺はな……って、それよりもちょうどよかったリディアーヌ。悪いが、今すぐに東地区の倉庫街へ連れてってくれ。そこに浅葱がいるはずなんだ」

 

「なんと、女帝殿が! おお、すでに救出されてござったか。流石ですな、彼氏殿」

 

「いや、俺が助けたわけじゃないぞ。それに、これからヤバい奴らに狙われる」

 

 だから、急いで向かいたい。

 その古城の頼みに、リディアーヌは胸を叩いて頷いた。

 

「お任せあれ。この<膝丸弐號>が暴れん坊将軍な彼氏殿の白馬役を務めさせていただくでござる」

 

「なんかもう色々と突っ込んでやりたいが、今は一分一秒が惜しい。よろしく頼む!」

 

 有脚戦車は個人用。小柄なリディアーヌが操縦できるだけのスペースしか中にはない。そこに標準よりも大き目な男子高校生が乗り込むわけにはいかない。ハッチの上にしがみつく形で古城は搭乗する。

 ―――そこへ発射直前に隣へ跳び乗る影。

 

「姫柊!? お前は残ってねーとダメだろ!」

「先輩、私も行きます! 絶対に、先輩の監視役として、お傍を離れませんから!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 結局、二人を乗せた有脚戦車は途中下車(とまる)ことなく走り去っていった。

 それを見送りながら、縁堂縁は溜息を零す。

 

 まあ、いい。

 本当はよくはないが、<第四真祖>が失った血液(ちから)を補充するためにも馬鹿弟子がついていた方がいい。途中で“ご休憩”を挟むにも相手がいなければ成立しない。流石にこればかりは女子小学生(リディアーヌ)には任せられない。

 

「行かせてしまって、良かったのかい?」

 

 やや愉快気な調子混じりに、声をかけてきたのはニーナだった。

 

「本人の決めたことだ。好きにすればいいさ」

 

 萌黄色の瞳を半眼にしながら、縁堂は乱暴に言い放つ。しかし拗ねたような口調とは裏腹に、縁堂の口元に浮かんでいるのは柔らかな微笑だ。

 肩に乗ってきた使い魔の黒猫を、ゴロゴロと喉を指で擦りあやしながら、

 

「先代も今代も監視役が、思い込んだらこうも一直線の娘たちだとは思わなかったよ。<第四真祖>の坊やもだけど、まったく好き勝手な事ばかりやってくれるね。年長者の苦労も知らずにさ」

 

「うむ、それが若い者らの特権だから仕方あるまい。そして、何が起きても責任を取るのが正しい大人の責務である」

 

 もっともらしいことを言うニーナに、ちっ、と憎々しげに舌打ちした。

 

「うちの馬鹿(まな)弟子にもしものことがあったら、死んだほうがましだって目に遭わせてやるよ」

 

「それには妾も同感だ。どこぞの国王のように無責任な真似をして夏音を泣かせたりするものなら、真祖であろうと物言わぬ彫像に変えてやろう」

 

 クッ、と愉快そうに噴き出してしまう。

 保護者組の意見は一致しているようで何より。

 

「できれば、この手段には頼りたくなかったんだけどね……」

 

 祈るように囁きを紡いだ縁堂の手には、『聖殲』の障壁とぶつかって、毀れた薙刀――『雪霞狼』と銘が打たれた古代の武神具。

 古代の宝槍としての核こそは無事であるが、柄にも罅が入っており、得物としては要修理。

 しかし、“素材”としては欠片であっても使える。刃毀れした欠片や柄の部分は、現在の『七式突撃降魔機槍』と同じ素材であったりする。

 そして、つい先ほど、採取したばかりの“コレ”がある。

 あとは、古の錬金術師であるニーナ=アデラートの手を借りられれば造れるだろう。“おまじない”みたいなものであるが、打開策となるやもしれない一手が。

 

「ニーナ=アデラート、ちょいと頼みたいことがある。いいかい?」

 

 縁堂は淡々と要望を伝える。

 話を聞き、縁堂の手持ちの材料を目算したニーナは、それが可能であると首肯を返してくれた。

 

「しかし、良いのか? 使うのが柄の部分や毀れた刃の欠片であるにしても、この武具は、大事な相棒なのだろう?」

 

「構わないよ別に。<空隙の魔女>に、情の篤さで負けたとは思いたくないのでね。パパッと躊躇わずやっちゃっておくれ」

 

 まあ、これでこちらもほぼ戦力外となってしまうが、大して変わらない。ロートルは舞台を降りて、裏方に回ろう。

 今回の一件は、この魔族特区の黒幕である矢瀬顕重や絃神千羅が企てた本来の計画から外れている。先程、絃神冥駕が起動した『聖殲』は、本来の能力の半分も発揮できていないだろう。

 そんな弱体化した『聖殲』にさえも、太刀打ちできなかった。

 もしも『聖殲』が完全な姿で発動すれば、それを阻止できる可能性があるのは、突っ走っていった“馬鹿共”だけだ。

 

「そう、過去の因習を断ち切るのは、いつだって今を生きる者たちだ」

 

「確かに。あいわかった。この妾、ヘルメス=トリスメギストスの末裔にして、大いなる作業(アルス・マグナ)を究めし大錬金術師であるニーナ=アデラートが、情に篤い師の頼みを請け負おう!」

 

「感謝するよ。それで無茶はわかってるけど、急いでおくれ。ここで元愛弟子の巻き添えで使い魔の坊やを昇天なんてさせたら、一生、おっかない魔女に恨まれることになる」

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

 先日のテロ騒動と合わせて二度の<第四真祖>の眷獣が振るった災厄の爆心地となったこの倉庫街は、瓦礫等が撤去されただけのほとんど手つかずの荒れ地のままだった。まだ絃神島全体で復興が進んでいる状況でこちらに手を回す余裕が確保されないのだろう。

 しかし、都合は良かった。

 そこまで強力な人払いの結界を張らずとも人は寄り付かず、この潜水艦を丸呑みできるサイズの魔獣が現れてもパニックにはならない。

 

 ―――誘導完了。教官(アスター)より指定された地点(ポイント)に到着しました。

 

 これより、周囲の安全を確認次第、救出した藍羽浅葱の解放を行う。

 搭乗していた潜水艇より降りた人工生命体の少女、アスタルテは薄水色の瞳を大きく見開いて視線を辺りに走らせる。

 未だ復旧せず、再建を後回しにされている土地。人の気配など感じない。けれど、どうしてかすぐに次の行動に移すことはできずに立ち止まってしまう。用心深いにしてもかける時間が長くなってしまうのは、それ以外のことに思考を割いてしまうからだった。

 

(……どうしているでしょうか)

 

 胸のざわつきが大きくなる。

 つい余分なことに、こだわってしまう。

 もう半月以上の時間、顔を合わせていないその姿を求めて、少しばかり時間を費やしてしまう。

 彼が<心なき怪物(ハートレス)>とされてから、聴かされる情報は伝聞しかない。それも心配や不安を煽るばかりのものしかない。

 教官が、“必ず”、連れて帰ると仰った。

 でも。

 アスタルテは、一秒でも早く先輩(クロウ)と対面し、その無事を、自分の目で見て確かめたかった。

 

「……何も、ありません」

 

 わざと口に出して、言った。

 大丈夫。問題ない。そう言い聞かせ、思い込ませる。冷静であるべき場面で、思考回路を乱す不可解な細波(パルス)をどうにかして落ち着かせる。精神活動の更新(マインドリセット)は、この二週間で幾度となく繰り返してきた行為だ。

 “もしも”だなんて思考は打ち止めにして考えないようにする。

 ―――と。

 

『ゴアアアアッ!!』

 

 不意に鳴く<蛇の仔>。甲羅からニュッと伸びる首の動きに釣られ、人工生命体の視線が空き地から虚空へ吸い寄せられた。

 

「………?」

 

 アスタルテの瞳孔が、微かに収縮した。

 遥か彼方より、接近している気配。教官、ではない。空間転移は、移動する気配など察知させない。それに、肌に刺さるこの魔力反応は異様。

 

「………」

 

 無表情に、アスタルテは自分の胸元を掴んだ。

 感情に疎い人工生命体にもわかるほどに、強烈な視線が睨めつけている。だが、それはアスタルテに、ではない。目標としてるのは、彼女を突き通してその背後――<咎神の棺桶>を呑み込んでいる巨大な魔獣(タラスク)

 どこから放射されているのかはわからぬが、魔獣が震え上がるほどの威圧の篭った視線。

 

「―――防衛モード。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先(ロドダクテュロス)>」

 

 アスタルテのほっそりとした背中より広げられる虹色の大翼。膨大な魔力を帯びた翼は、自らの意思を持つように自在に動いて、タラスクを覆い隠してみせた。

 敵影を掴めずとも、警戒は最大レベルにまで引き上げなければ。

 何が相手でも、任された任務を全うしなければ。

 

(先輩が……)

 

 彼が、無事に帰って来られるように。

 

「―――!」

 

 さわり、と何かに触れた手応え。

 自身の守護に一体化するのを省いてまで、限界に()を拡張させた眷獣の感覚が神経系を伝ってアスタルテ自身の脳が覚えた。そして、反射的に向いたその方へ注視した。

 

(糸?)

 

 光を反射して、至極細い何かを人工生命体の視界が捉えたのだ。

 それまで、アスタルテが気づけなかった、極細の糸。それも無数に、こちらを囲っている。

 

 いつから、網の目(ネットワーク)は張り巡らされていたのか?

 

 しかし、人工生命体にそれを考える時間はなかった。

 

 次の瞬間、地中から潜り込んできた、数十の糸が少女の胴体に絡みついたのだ。

 

「っぁ―――!」

 

 ごお、と振り回される。

 風にも千切れそうな細さでありながら、その糸が背に眷獣を展開する人工生命体を吊り上げ、ばかりか巨人にも匹敵する剛力でアスタルテの身体を風車の如く回転させた。

 即座に虹色の翼で振り払いはしたが、空中で振り回された慣性は打ち消せない。

 

「ッくぅ、あっ!」

 

 アスタルテの身体が、港向こうの海面へ墜落する。

 

 

「―――見つけた」

 

 

 それは、糸を撚り合わせるように形作られた。

 

「見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた! ―――そこにいたか、<電子の女帝>よ!」

 

 何本も何本も、この区画に散らばる瓦礫のあちこちから、撚り合わされた糸が這い出てくる。自ら動く糸というだけで十分怪異現象で、糸の動きは更なる結果をもたらす。

 それらはゆっくりと持ち上がり、緊密に絡まり合って、撚り糸細工の如くあるカタチを成したのだ。

 少女、だった。

 艶やかな黒髪を持った美しい少女だ。

 極細の糸として絃神島中に散らばらせてしまえば、この魔族特区に敷かれるセンサーとて掻い潜ってしまう。そして、絃神全土に張り巡らした覚知網は、目当てのものを見つけ出したのだ。

 

「魔獣の腸に隠れようが、私は必ず解き放つ。『咎神』の力を振るう者共に、地獄の苦しみを与える呪いを! さあ、その『箱庭』を明け渡せ、忌まわしき咎神の巫女よ!」

 

『ゴアアアァァアアアア―――ッッッ!!!!』

 

 倉庫街に咆哮轟かす<蛇の仔>。

 『棺桶』を呑み込んでいるのはただの隠れ蓑ではない。“世界最強”と称された魔獣の遺伝子から創り出された人工魔獣。その存在は、吸血鬼の眷獣クラスの脅威だ。

 何も武器を持たぬ少女一人、息を吐くだけでも簡単に蹴散らせよう。

 それが見かけ通りなのであれば、だが。

 

『ゴア―――ッ!!?』

 

 激しく回転しながら突撃した魔獣は、止められた。

 甲羅に沿えられた細腕一本に。

 

 新しく得た生身(からだ)は、際限なく力を吸収できる捕食型人工生命体。それが、『聖域条約』の協定に違反する機甲服(パワードスーツ)――<犬頭式機鎧(レプロブス)>を取り込み、植え付けられた『獣王』の細胞を“捕食”していた。

 個人(いっき)で有脚戦車を阻止し得る力を、数十人分(いくつ)も収集している。

 この少女の身に圧縮された情報量の密度。その純粋な馬力でさえ、巨大な魔獣をも凌駕していた。

 

「ククッ……! これは、『蛇』の因子を継ぐ生体兵器!」

 

 魔獣を力で抑え込んだまま、無数の糸を甲殻に突き刺していく。そして、その内部にまで触覚を伸ばした少女の顔が喜悦に歪む。

 

「さあ、傅け! 『箱庭』ごと汝もまた、我が血の呪いに染めやろう!」

 

 『獣王』に続き、『蛇』をも我が物に。

 巨大な魔獣を呑み込んでいく、闇色の侵食。<蛇の仔>はもがくも、抵抗できず。

 

 

「―――させません。<薔薇の指先>」

 

 

 虹色に輝く巨大な腕。

 海中から飛び出てきた眷獣の強襲。

 海面に墜落する間際に、眷獣は宿主であるアスタルテを体内に取り込んでいた。虹色に輝く完全な人型の眷獣の形態へと成った<薔薇の指先>が、復讐者の少女へ腕を叩きつけようとする。

 標的が、少女の見た目であろうが容赦なしの一撃。

 

「邪魔をするな、人形」

 

 突き付けた指先より迸る紅い粒子が、火の粉に変わる。

 そして、火の粉は瞬く間に荒々しく猛る炎へと燃え上がった。

 

「っ!?」

 

 巨人の眷獣が、焼かれる。

 アスタルテがその身に寄生させている眷獣<薔薇の指先>には、物理攻撃は通用しない。魔術を反射する能力をも保有している。

 業火程度でダメージを負うことはないのだ。

 だが、これは、『聖殲』の力を練り込ませた<発火能力(パイロキネシス)>、この世の一切の法則を無視する復讐者の業焔。

 

 

「これは妾の憎悪を示す怨嗟の炎! この世の全てを焼き尽くすまでは治まりはしない!」

 

 

 

つづく



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黄金の日々Ⅵ

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

 ―――ザザザザザザザザザザッッッ!!!

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 その瞬間、世界から音が消えた。時間が制止したかのような、一瞬の静寂。

 激しい雑音(ノイズ)とともに、真っ白な静寂は撃ち破られ、次の瞬間、<女教皇>に九発の弾丸が撃ち込まれていた。

 

 ―――絶対先制攻撃の権利。

 

 過程は省略され、結果のみが突き付けられる、獅子王機関『三聖』――<静寂破り(ペーパーノイズ)>の業。

 全身穴だらけとなった<女教皇>は呆けたように固まり、その一瞬に一陣の突風が舞い込む。

 それは復讐の業火を払って、眷獣を灼かれて護りを失った人工生命体の少女を包み込んだ。

 

「『聖殲』を払った……だと!?」

 

 『聖殲』の<発火能力>を吹き飛ばすことなど、数限られる。

 同じ世界を上書きする『聖殲』を除けば、『メトセラの末裔』の世界を縫い止める槍と、『咎神(やつら)』の末裔が有した<過適応能力(ハイパーアダプター)>―――

 魔術による干渉ではないために、如何なる結界でも防げない念動力。風を操ることで直接触れることがなく、炎の影響を受けない。

 それでその力は、<女教皇>がつい先ほど見たモノと同種。

 

「生きていたのか、<禁忌四字(やぜ)>ッ……!」

 

 怨敵を察知した復讐者の少女は全身から深紅の火の粉を舞い散らす。アスタルテの<薔薇の指先>を焼き尽くしたのとは比較にならないほど大規模に、爆発を起こすかのように瞬く間に拡大させる。

 

「うおっ!? おっかねぇ!?」

 

 炎の嵐による視界全土制圧攻撃が吹き荒れた。しかし()の内に捉えた獲物は霧散、手応えが消えた。

 

 

 空気を固めて、疑似肉体から血管神経系まで創り出した分身体、<重気流躰(エアロダイン)>。

 超感覚を実体にして飛ばす、矢瀬基樹の<音響過適応>の応用技だ。

 生身ではない。傷つけば精神的なダメージを負うが矢瀬自身の肉体は無事。それに、炎に呑まれる寸前で、分身体を解けば反動は最小限に抑えられる。

 

「それでも死ぬほどキツいけどな……っ」

 

 増強薬(ブースター)に頼らなければ、ここまでの出力は出せない。反動がかかるので可能な限り頼りたくはない奥の手。

 だが、この裏方回りの人材にその奥の手を出させなければならない無茶ぶりが、この『魔族特区』では頻発していた。

 

「っつても、これは今までの中でもとびっきりだ……! 手加減なしかよこん畜生!」

 

 今度は自分自身に(おと)を巻いて飛ぶ。

 ゴンッ!! と。

 空間を直接叩くような振動が炸裂した。

 人よりも遥かに過敏な受信機(みみ)がなければ察知するのが遅れただろう。人工島の鋼鉄の大地を、真下から引き裂くようにして、何か巨大な漆黒の触手が飛び出していた。

 戦線離脱を図る矢瀬を視界の端に捉えながらも、閑古詠は一瞬にしてその正体を看破した。

 

「『霊血』、ですか」

 

 <女教皇>が取り込んだ人工生命体に備え付けられた<水銀細工(アマルガム)>。

 触覚ともなり得るそれを薄く薄く延ばして、蜘蛛の巣の如く、絃神島に張り巡らせていたようだが、事態は『三聖』の見通しよりも深刻だった。

 

『逃さぬ! 欲深き末裔たちに呪いあれ!』

 

 糸電話のように『霊血』の糸に伝わる呪詛が反響する。

 狙われているのは、<禁忌四字(やぜ)>の血族だけではない。隠行の術を張っていた閑古詠は呪的身体強化(エンチャント)を施しながら跳んだ。

 相手はこの『魔族特区』を“己”で満たそうとしている。気配を断っていようが、存在している異物である以上は誤魔化し切れるものではない。

 ドンッ!! ゴン!! と立て続けに地中から鋭い槍のような黒の糸束が飛び出してくる。それは一瞬で、隙間なく、巫女の霊視には逃げ道など見えようのない制圧攻撃。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――絶対先制権を行使。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 静寂と共に存在しないはずの時間が挟み込まれて、まるでページを破り捨てた本のように、“攻撃を回避した”という結果だけが突然現れる。

 攻撃を未来視で予期し、必ず先手を打つ<静寂破り>で回避に徹すれば、それは『真祖』ですら容易に掴ませない。

 これが、獅子王機関『三聖』筆頭の実力。

 ついでとばかりに、息切れ気味の矢瀬基樹を回収した閑古詠は、依然と静かな面持ちのまま目を細める。

 

 地中からの、膨大な液体金属の糸を使った攻撃。

 それから推測されるのは、どうやら<女教皇>はこの場一帯を占領下に敷いているということ。

 やっていることは、<冥き神王(ザザラマギウ)>や『龍脈喰い』と同じだ。

 触覚である液体金属が、鋼鉄の大地を侵食している。それはこの人工の霊地に集う地脈や龍脈にも()を伸ばしているのだ。

 <女教皇>は、魔獣の腸の中にある『棺桶』だけではない、この『祭壇』すら手に入れようとしている。

 

「あまり悠長にしてはいられませんね」

 

 しかし、襲い掛かる火焔や鋼糸を掻い潜りながら攻撃するのは難しく、またできたとしても<女教皇>に通じる有効手段は手元にない。

 あれが“器”としている人工生命体は、<賢者の霊血>と同じ類。もろに喰らった弾丸でさえも食らう悪食。

 元より“器”を(なく)せば混乱も治まるなどとは思っていなかったが、それでも些か楽観視であったようだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 一方で、『咎神』の末裔(むこう)に集中砲火しているおかげで、こちらは会話の出来るくらいの余裕は保たれていた。

 

「あな、たは……」

 

「大丈夫かい?」

 

 人工生命体の少女を抱いている舞台の花形として映えそうな見目整った麗人は、仙都木優麻。

 矢瀬が炎を吹き払った一瞬で、空間制御でアスタルテの身柄をあの死地から回収していた。

 

確認(チェック)。身体各部位に支障はありません」

 

「どうやら無事なようだねアスタルテさん。彼らも……うん、自力で潜り抜けられているみたいだ」

 

 あれから顔を合わせることはなかったけれども、一時期、<奈落の薔薇(タルタロス・ラプス)>に対抗するために結成したグループメンバーのひとりである。

 

「僕が南宮那月に“協力”するのは難しいところがあってね。それでも、僕は、『彼が謂れのない誹りを受けるようであれば、弁護する』――そう誓っている」

 

 『<監獄結界>から母親を解放する』という契約を結んでいる<蒼の魔女>が、今、<監獄結界>が現出してしまっている原因――<空隙の魔女>が管理権を手放し、その管理権を<黒妖犬>が預かっているせいであるのだから、それが元通りになることを望むのは契約違反に抵触するやもしれず、何かきっかけがあれば裏切りかねない。『波朧院フェスタ』で、母の仙都木阿夜に介入されて、南宮那月の背中を刺してしまったように。もしも弱っているところを見れば、また繰り返してしまうかもしれない。

 よって、自身が爆弾であることを自覚する優麻は、主従を直接支援するのは危ういと判断し、距離を置くことを選択した。同じチームを組んでいた矢瀬基樹らと行動することにしたのだ。彼らも今の絃神島の状況を打開するために水面下で動いている。それが結実することは、矢瀬顕重が支配する真なる『咎神派』から<黒妖犬>を解放することに繋がる。

 アスタルテの先輩が、<心なき怪物>と呼ばれていることを見過ごしていたわけではない。

 

「それで、浅葱さんのいる『棺桶』というのを回収したいところなんだけど、何か情報はないかい?」

 

「報告。現在、藍羽浅葱のいる<咎神の棺桶>を呑み込んでいる<蛇の仔>の体内は、教官(マスター)により異空間化しております」

 

「なるほど、ね。―――それは()()()だ」

 

 簡単に取り出せるものではない。

 物理的にも、魔術的にも隔離されている。魂でさえ囚われる体内、『蛇』の因子のある<蛇の仔>を<女教皇>は掌握したようだ。それで時間の問題だろうが、しかしまだ『棺桶』にまで届いていない。

 恨みし一族の者を襲いながら、『アベルの巫女』はあの場から動けないでいるのは、支配率が完全ではないからだ。

 

 だけど、僕なら―――あそこを閉ざすものが<空隙の魔女>の異空間であるのなら、届くかもしれない!

 

 <蒼の魔女>の空間制御能力は、“<監獄結界>を破る”為に与えられたものだ。<空隙の魔女>が創った異空間に介入することにおいて、自らの<守護者>はこの上なく力を発揮してくれる。

 <女教皇>の侵食を拒む先へ繋げる―――仙都木優麻にしかできない“裏技”である。

 

「―――“蒼”の名において命じる! 切り開け、<(ル・ブルー)>!」

 

 朝焼けの蒼穹(そら)の如き青色の甲冑に身を包んだ騎士が、優麻の背後から現れた。

 青騎士は長剣を掲げて、己が破るべき空間へと狙い定める。

 忌々しい末裔共(矢瀬と古詠)に<女教皇>が気取られている内に、<咎神の棺桶>と<カインの巫女>藍羽浅葱を救出。本来の担い手が復活しその権限を行使すれば、『アベルの巫女』が振るう『聖殲』の力を制限、あるいは強制遮断(シャットダウン)もできるはずだ。

 

 

「いいや、<女教皇>の邪魔はさせない。―――<冥餓狼>!」

 

 

道中

 

 

    《ご主人を、みんなを助けてくれるのなら、その借りでオレの身体を貸す》

 

 あの時、裡にあった“私”は、この肉体の持ち主とそういう貸し借り(けいやく)の元で、表に出た。

 普通なら、自分でない意志に、この世に未練のある亡霊に、身体の支配権を奪われるなど拒絶する。

 しかし、彼と近しい少女(あかつきなぎさ)との親交の影響からか、そういうものがなく受け入れた。

 

    《だけど、お前が本当にしたいのは、監視役としてその槍でアイツを討つことなのか?》

 

 ・

 ・

 ・

 

 やはり、この子の肉体は便利だが、扱いにくい。

 力を存分に使えるが、超常の力を100%存分に振り回せてしまえる力は気を抜けば周囲に被害をもたらす。彼自身の肉体の馬力も含めて出力がピーキー過ぎるのだ。

 しかし、それは彼が“器”としてはこの上なく優秀である証。

 以前、『神縄湖』で借りた時もそうだが、<模造天使>で被昇天された自身を受け止める素質には驚くと同時に哀しくなる。

 土台作りとして、一体どれだけその全身が一新されるほどに骨肉を粉砕されてきたのだろうか。

 きっとそれは普通の人間では耐えられないからこそ、魔族との掛け合わせた『混血』として設計されたのだろう。ある種の奇跡のような、または規格外(イレギュラー)の存在。

 それに頼ってしまう身勝手な己が、その非運を嘆く資格などありはしないのだけれども。

 

 時間はかけられない。

 彼までも<雪霞狼>の進化に巻き込んでしまうわけにはいかない。

 故に、最速最短で、あの人を追う―――

 

「『っ!』」

 

 降り注ぐ常夏の陽射しの下、漆黒の霧が漂い始めたのを、霊視が捉えた。

 霧は構わず濃さを増し、人の形へと変わる。その手に、漆黒の刃を携えて。

 

「屠れ、<高慢者(スペルビア)>―――!」

 

 濃密な魔力によって実体化したその刃は、眷獣――自らの意思によって敵を切り裂く、『意思を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)』。

 

「判断が遅い。天上に至ったその身を傷つける術がないと奢ったか。それともこちらを侮ったか。いずれにしてもそれは高慢だぞ、人間」

 

 藤阪冬佳(クロウ)が展開する『余剰次元薄膜(DEM)』に、刃で断ち切ったような空間の裂け目が生じる。次元を超えてくる異空間からの斬撃。漆黒の刃が、南宮クロウの肉体を切り刻む。

 

「『く……はっ……! ―――<雪霞狼>!』」

「ふっ」

 

 鮮血を吐き出しながらも、銀色の槍を一閃させる。

 しかし純白の輝きを纏った刃の間合いに、襲撃者の姿はない。空間跳躍(テレポート)。こちらを攻撃した空間を切り裂く眷獣で、離脱していた。

 初撃を決め、欲を出して追撃する真似はせず、距離を取る。無理をして短期決着を決める必要がない向こうは確実に仕留めに来ていた。

 

 時間がないというのに……!

 歯噛みしても堪えようのない焦りを顔に出しながらも、冬佳は足を止めざるを得なかった。人間の頃とは次元の違う超常の存在となっても、無視できない。彼また同じ、人に畏怖される天災であるからに。

 

 浅黒い肌を持つ長身の男。顔立ちは若く端正であるが、全身に纏う静かな威厳が底知れぬ威圧感を醸し出している。

 間違いなく、年を経た『旧き世代』の吸血鬼、それも名実ともに限りなく『真祖』に近い存在。

 

「どうやら急いているようだが、生憎とこちらには関係ない。我が真祖<忘却の戦王(ロストウォーロード)>が下した命は、<心なき怪物>の抹殺」

 

 黒刃の眷獣を従えるのは、ヴェレシュ=アラダール。

 第一真祖の懐刀にして、『戦王領域』帝国会議議長―――事実上、『戦王領域』において真祖に次ぐ第二位の実力者と目される伝説的な吸血鬼からの、死の宣告。粗野で暴力的な印象はなく、むしろ穏やかで理知的な物腰をしているが、だからこそ空恐ろしさを覚える。油断なく敵を見据えるこの相手に、戦闘狂(ヴァトラー)にはあった隙が見当たらない。

 

「暗殺を任せていた<蛇遣い(ヴァトラー)>が失敗した以上は、俺が出るしかあるまい。そして、今の貴様が何者であろうとも、こなすべき任務に変更はない」

 

 対峙する<黒妖犬(クロウ)>ではないと知りながらも、そんな事情は考慮に値しない。

 黒髪の吸血鬼が纏う鬼気が、急激に勢いを増していく。それは物理的な圧力となって、周囲の大気を震動させた。魔力耐性の弱い人間なら、この場にいるだけで卒倒したことだろう。それほどまでに桁外れの魔力量だ。

 その凄まじい鬼気に対抗すべく、冬佳は背より展開する翼を拡張させて魔族の天敵である<模造天使>の神気を解放。敵を見据えるその眼差しに、慈悲は消えた。

 

「『そこをどきなさい! さもなくば、貴方を討ち滅ぼします!』」

 

「それでいい。無抵抗の相手を始末するのは趣味ではない」

 

 核心から離れた盤外にて、破魔の槍と暗闇の剣が衝突する。

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

 伝承というのは、絵空事のように見えて、当時の歴史を反映していたりする。

 たとえば、英雄が竜を退治した伝説の裏側には、治水事業によって川の氾濫を防いだ王様がいたという史実が隠されている。

 聖剣を手に入れた伝説は、製鉄技術の普及の暗喩であったりもする。

 

 であるなら、『聖殲』の―――『咎神(カイン)』の暗喩とは何か?

 その答えは、“人類による魔族の大虐殺”である。

 『天部』――または、古代超人類――あるいは、神と称された者たち。それは魔族のかつての有様だった。

 戦争に勝った陣営が、負けて征服された国の神々を悪魔だ、怪物だと呼んで貶めることは、世界各地で行われてきた支配者側の常套手段である。

 そして、『咎神』カインもまた同じ。

 かつて神であったが天部より追放されたカインは、下界で人類と出会い、彼らを手懐けた。

 人々の崇拝を集めることで、本物の神となり、異境の支配者となったカインは何を想ったか。

 それは、元の世界への帰還―――そして、自分を追放した神々への復讐。

 しかし、カインだけでは神々には勝てない。人類も神々に比してあまりにも非力。

 だから、カインは与えたのだ。人類に、神々と戦争するための知識と道具を。

 ひとつは魔術。

 もうひとつは、『聖殲』の魔具。

 だが、兵隊の数を揃えても、神々の力は圧倒的に強大。まともに戦えば勝ち目はない。

 だから、カインは考えた。

 人類に神々は殺せないのが世界の理ならば、その理を変えてしまおうと。

 

 それが、世界を変容させる究極の禁呪が生み出された背景であり、魔族へと変質された神々は、人類によって大虐殺を受けた。

 だから、カインは、原初の罪人であり魔族の祖なのだ。

 そして、人類は侵略者だった。

 

 だからこそ、“少女”は憎む。

 今もなお魔族を殲滅してその領土・資源を侵略せんとする欲深き簒奪者たちを許しはしない。

 

 

 過去に一度、『聖殲』に巻き込まれて命を落とした“少女”。

 それ故に彼女は、世界の変容に対して強い抵抗力を持っていた。伝染病に対する、免疫のようなものだ。

 だから、正当な『カインの巫女』ではないにもかかわらず、『聖殲』を制御することができる。

 しかしながら、彼女は、戦う者ではない。

 魔術の理を真に理解している専門家などではなく、ただ例外的に禁呪の一端を振るう資格を得ただけの――それでも物質を塩の柱に変え、世界最強の吸血鬼の眷獣を無力化してしまえる――言ってしまえば、“素人”だ。

 

 『三聖』閑古詠が、<女教皇>の攻撃を一度も当たらずに対処できているのはそれが理由。

 攻め手はないにしても、余裕はあった。

 

 ―――その膠着状態に陥った戦局を、ひとりの介入で覆される。

 ただ復讐に力を解き放っているだけの<女教皇>に、効率よく障害を排除する助言役(ブレーン)がつくのは戦況を傾けさせるだけのものがあった。

 

 突如、この倉庫街へ現れた黒衣の青年は、<女教皇>へ両手を広げながら歩み寄る。

 しつこく追い回していた閑古詠への攻撃の手を止めて、黒髪の少女は見やる。乱入者――<女教皇>の“情報”を入力した『仮面』を装着している絃神冥駕を。

 

 

「私は、“あなた”だ、<女教皇>」

 

 

 従え、などと命じない。逆に遜るわけでもない。

 能面のようにほとんど表情を変えない冥駕の瞳に浮かぶ強い感情の色。それは長い時間をかけて純化した、煮え滾るような憤怒と憎悪の色。

 それが、我々は対等な同士であると同調する。この世界の絶滅を願う復讐者なのだと強調する。その呪いに賛同する世界で唯一人の理解者なのだと主張する。

 <女教皇>は、残留思念。死体に染み付かせた復讐者の念。

 そして、絃神冥駕も裏切った世界に対する復讐者の死体である。

 相似する境遇、存在、そして、絶望。

 やがて、同じ陣営として与するに値する者だと認められたか。

 “彼女”の一刺しで壊れかけていた絃神冥駕の肉体が修復される。復元された左手で冥駕は、異形の槍、『零式突撃降魔双槍』を握り直すと、閑古詠らの方へと振り返る。『アベルの巫女』と同じ、狂気の微笑を『仮面』の下に宿らせて。

 

「何故、そこまで……絃神冥駕、何があなたをそこまで駆り立てるのですか?」

 

 閑古詠が、気弱にすら思える丁寧な口調で問うた。

 <監獄結界>からの脱獄囚である絃神冥駕を匿っていたのは、この人工島管理公社の出資者である『マグナ(M)アタラクシア(A)リサーチ(R)社』だというのは調べがついている。

 祖父・絃神千羅が遺した計画の全貌を対価に、特区警備隊や攻魔局もおいそれとは手が出せない世界的大企業の庇護下に入った。

 

 それでも獅子王機関が、閑古詠がこれを黙認していたのは、『咎神』の存在が『夜の帝国(ドミニオン)』に対する抑止力になると判断したからだ。

 なのに、『魔族特区』破壊集団<奈落の薔薇(タルタロス・ラプス)>を利用したテロ行為で混乱に陥れ、さらには無意味に『聖殲』を実行しようとしている。

 

「知れたこと」

 

 無造作に構えた槍が、ヒュン、と風を裂くような異音を放つ。

 

「先代の閑古詠――あなたの母親が藤阪冬佳を見殺しにしたことを、私は決して忘れはしない」

 

 冥駕が口にしたその名前に、古詠ははっきりと動揺した。大きく見開いた瞳を揺らし、怯えた子供のように唇を震わせる。

 

「緋稲さん!」

 

 矢瀬がそれを支えるが、己が無知を晒した古詠の無様を嘲笑うように、ハ、と冥駕は笑った。

 

「その少年は、随分とあなたに懐いているようだ。彼を殺せば、私のことが少しは理解できるようになるかもしれませんね」

 

「絃神冥駕、あなたは―――!」

 

 完全に立ち直り切れていないまま、閑古詠は叫ぶ。

 世界を突然の静寂が包み、轟音がそれを打ち破る。連続した時間の流れの中に、異質な瞬間が無理やり挟み込まれたような違和感。存在しないはずの時間からの絶対先制権―――<静寂破り>と呼ばれた絶技。

 

 “手にした軍用のオートマチック拳銃に新たな弾倉を挿入し、全弾撃ち尽す”という結果だけを突き付ける。

 存在しないはずの時間から撃ち込んだ弾丸は、目の前の復讐者の命を奪う―――

 

 

「<第四真祖>との戦闘であなたは<静寂破り>の弱点を露呈させた」

 

 

 冥駕に弾丸が着弾―――せず。

 焔の如き深紅の障壁が、攻撃の一切を融かし尽した。

 『聖殲』の力が込められた炎の障壁(ファイアウォール)は、如何なる攻撃を通さない。

 しかし、そんな防御が間に合うような<静寂破り>ではない。

 <静寂破り>が、発動できなかった。

 

「『七式突撃降魔機槍(とうかのやり)』に打ち消されたあなたの絶対先制攻撃の権利は、同じく魔力を無効化することのできる『零式突撃降魔双槍(わたしのやり)』の前に喪失されるのだと―――」

 

 封じるべくは、霊力ではなく、魔力。『閑古詠』の<静寂破り>は魔力で駆動する能力。

 『零式突撃降魔双槍』は、『異境(ノド)』の侵食を操る武神具である。振り翳した漆黒の槍より拡がる、世界そのものを侵食する闇の波動(オーロラ)

 絃神冥駕の黒槍<冥餓狼>を基点に敷かれた魔力絶縁区域(フィールド)によって、絶対先制権を剥奪する。

 

「そのようなことに気付かないとは、余程動揺したようですね」

 

 そして、黒槍の効果範囲は拡張されて、異空間をこじ開けようとしていた仙都木優麻の<守護者>――<蒼>の現界すら禁止し、端から紐を解くように青騎士を霧散させてしまう。<蒼の魔女>の空間跳躍による緊急回避もこれで頼れなくなった。

 

「さようなら、呪われた一族の娘。私から、唯一の温もりを奪った報い……思い知れ」

 

 世界を真紅に塗り潰す復讐の業火が、過去の因縁を呑み込んだ。

 

 

道中

 

 

 神魔の戦い―――それはまさにそう喩えるに相応しい闘争だった。

 

「<高慢者>―――!」

 

 黒髪の吸血鬼が、無造作に漆黒の一太刀を袈裟懸けに切る。

 その所作一つで大気に亀裂が入り、眼下の建造物が引き裂かれた。

 人体に向かって放つには、明らかに行き過ぎた暴力。その百分の一ですら人体を粉微塵にするだろう。

 

 絶望を称するような闇色の斬撃を受けるのは、芒と蒼い光をその目から放つ少年。穂先より複数の魔法陣を拡張させる霊槍だ。

 少年――その“器”に取り憑く剣巫は退く構えを取らない。背中より展開される神気の翼を広げて滞空し、その斬撃に呼吸を短く合わせて迎え撃つ。

 

「『ふっ―――!』」

 

 剣巫(とうか)は銀槍を緩く握り、その切先で僅かに触れる。そして銀槍を巧みに操り、大気に亀裂を生みながら奔る斬撃を銀槍の柄に滑らせ―――高慢の一撃を、その槍技でもって、傷ひとつなくすり抜けた。

 

「我が剣撃をこうも捌くとは……!」

 

 大きく目を見開いてみせるアラダール。

 未来視からの超反応で後の先を制する剣巫の動きに一切の乱れなく、間断なく次の動作へ移る。逃げる隙を与えない。呼吸と鼓動を重ね、身体の稼働領域を最大に生かすために背を僅かに沿わす。その姿はさながら、この一身を剣とするかのよう。

 少年(かのじょ)の構えからそれが投擲、繰り出される威力の凄まじさまで見取った吸血鬼だが、動揺はなく。

 

「『<雪霞狼>―――!』」

 

 虚空を裂いて突き放たれた銀槍の柄から更に枝分かれするように、蒼白い『霊弓術』が解き放たれ、数多の軌道を描いて吸血鬼に集中砲火した。四方八方、縦横無尽に駆け巡る稲妻の散弾。

 百戦錬磨の剣巫の槍技と<模造天使>の神気が織り成す必殺を前に―――吸血鬼もまた四方八方、縦横無尽に駆け巡る、膨大な数の短剣を召喚した。

 

「舞え、<暴食者(グーラ)>」

 

 銀色の長槍から派生した霊弓ひとつとっても、『戦王領域』の隣国、北欧アルディギアの<疑似聖剣>にも勝る光輝。

 だが、視界を埋め尽くす短剣の闇色はそれと相殺するだけの質と量だった。

 その全てを防ぐことは無理だったにせよ、渦巻く魔力が漆黒の鎧を形作る。無数の鋭利な刃物によって構成された、巨大な全身鎧(フルプレートアーマー)で、光輝く散弾を防ぎ、そして、紳士から悪鬼へと様変わりした武闘派の貴族は神気に身体を焼かれながらも、空間を裂く弐の太刀を見舞う。

 

「『っぅ―――!?』」

 

 投擲に武器を手放したその瞬間。肉を切らせて骨を断つかのような強引な戦法で、黒刃を振り切る。

 

 ―――『天使』の片翼が、切り裂かれた。

 

 バランスを崩した、剣巫が失墜する。

 その隙を逃す吸血鬼ではない。

 石突に結び付けた霊糸を手繰り寄せて破魔の銀槍を引き戻そうとしているが、間に合わない。

 

「事を急いて、勝機を逃したな。―――これで止めだ。屠れ、<高慢者>!」

 

 現世から隔絶された神域を断絶する一刀が、振り下ろされる―――!

 

 

「みみみみみーーーーっ!!」

 

 

 瞬間、冬佳――少年(クロウ)の身体を基点として出現したそれは、防御不能の異空間からの斬撃を跳ね除けた。

 吸血鬼の魔剣を防ぐのは、爪も牙もなき獣の龍。

 煌びやかな金髪の頭部、白く流れるような体毛。先端に蒼い美しいグラデーションを魅せる二対の翼。龍族でありながら哺乳類のように柔らかな身体を持つファードラゴン。<守護獣(フラミー)>―――

 

 南宮クロウの<守護者>が、藤阪冬佳を守った。

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫 離れ

 

 

「     ッ!?      ッ!」

 

 ダメだ……何も、聴こえない。

 

 矢瀬基樹は、道路の上で大の字になって倒れていた。

 

「   ッ!    ッ!」

 

 まったく。

 彼女に降りかかった“火の粉”を振り払うに支払った代償は中々にデカかった。

 

 力を封じられ、他に対抗手段がなく、難を逃れるには自分が死ぬ気を振り絞るしかない、と。

 どうにかこうにか第二波が来る前に超特急で(おと)に乗って、絃神冥駕(ヤツ)の能力圏外まで戦線離脱することができたが、そこでガス欠だ。

 格好悪いところを晒すことになったが、火事場の馬鹿力を無理やり引き出すなんて無茶をしたのだから仕方がない。

 

 30分と間を置かず、二度目の過剰摂取。

 それもこの前、クロ坊に渡した廃人仕様な増強剤(ブースター)である。

 <女教皇>の『聖殲』仕込みの<発火能力>を、その最大瞬間風速は振り切ってくれたが、その反動に矢瀬基樹の両耳からは血が噴き出しており、立ち上がることすらできないほど三半規管が狂ってる。聴覚などまともに働くわけがなく、先程から何を言われているのか口パクでもされているようにチンプンカンプンだ。こんな無音(しじま)は、ひょっとすると生まれて初めてかもしれない。

 はたして世界に音が戻ってくるのはいつ頃になることやら。

 

 それで、頭がぐらぐらとしているが、それ以上に取り乱している少女がいる。

 

 先輩……。

 

 さっきから傍らで必死にこちらに呼び掛けていた。肩が震えている。耳が正常なら声も震えていたかもしれない。そして、慌ただしく飛び去ったせいで眼鏡を落としてしまったその素顔は……どうにも……泣いているようだった。

 

「  ……!      っ!」

 

 安否を確認してくれているのか、それともこんな無茶したことを(しか)っているのか。判断がつかないのだが、出来れば後者であってほしい。

 それで、どちらであってもこのまま反応を返さないわけにはいくまい。

 あの野郎の“閑古詠”へ向けた言葉がどれくらい深く先輩の胸に刺さったのか察してやることもできやしないけど、こっちが日々悶々と募らせてきた“緋稲さん”へ言いたい言葉は山ほどある。

 

 

 ―――やっと、手を握れたぜ、先輩。

 

 

 言って、自嘲げに微かに口元を歪める。

 ああ、我ながら奥手過ぎて泣けてくる決め台詞である。幼馴染(あさぎ)のことなど笑えやしない。

 付き合いはそこそこ長いのにちっともその手に触れさせてくれないガードのおかたい彼女。そんな先輩との関係は、一歩一歩着実に、ではなく、警戒心が非常に強い野生動物を相手にするようジリジリとにじり寄って行くくらいの、実に遅々としたものだったのだから。距離が縮まっているのか大変分かりにくいのだ。

 

 そして、格好つけてみても、添えるくらいが精一杯。掴めるほどの握力はない。そんな矢瀬の手を、彼女は振り解こうとはしなかった。

 

 先輩には悪いけど、暫くの間、浸らせてほしい。

 こんな有様であるが、矢瀬基樹にもたった一つ噛みしめている実感があるのだ。

 この握った手から伝わる脈動(おと)は、ひとりの男が、大事な女を守れた勲章なんだと誇れるから。

 

 

 それで、ここで、追撃に来られたら非常に困ることになったが、それはないと確信があった。

 

(悪いな、こっちはここでリタイアだ。……けどよ、後は任せてもいいよな―――)

 

 何故なら、その矢瀬にとっては見るまでもない“騒々しい気配”を事前に察知し(きい)ていた。

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

 『聖殲』により、かつて神であった者たちは魔族へと堕落した。

 だが、唯一『聖殲』の影響を受けずに神として生き残ったはずの『咎神』は滅んだ。

 『天部』と呼ばれた超古代人類より、神を殺すために創り出された兵器――世界最強の“人工”の吸血鬼――<第四真祖>が、『咎神』を滅ぼし、『聖殲』を終わらせた。

 

 

「<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>―――ッ!」

 

 

 大地が震え、大海が渦を巻き、大空の暗雲を吹き飛ばす。世界を席巻する高密度の魔力が、眩い雷光が象る巨大な召喚獣を解き放つ。

 少年の猛々しい雄叫びと共に、前肢を振るった雷光の獅子を前にしても、冥駕の余裕は崩れない。『アベルの巫女』が生み出した深紅の障壁が、冥駕を包み、守護する。

 しかし、次の瞬間、冥駕が後方に吹き飛ばされた。『聖殲』に力を削がれたはずだが、眷獣の爆発的な魔力が生み出す、二次的な衝撃波までは消し去ることができなかったのだ。

 <女教皇>が張り巡らせた糸に受け止められたものの、冥駕の額から、どろりとした鮮血が流れ落ちる。

 世界を滅ぼす力を手中に収めているはずなのに、相殺し切れない。ダメージを受けた。

 

 本来の『聖殲』は、世界の理そのものを書き換えるほどの大魔術だが、<女教皇>は所詮『巫女』ではなく、しかも『棺桶』の奪取が上手くいかず大幅な制限を受けている。“全開になっている(フルスロットルの)真祖”の眷獣の力を防ぎ切るには、相当に無理のある条件だったのだ。

 

「お前らの復讐はここで終わらせに来たぜ」

 

 道中で“補充”させてもらい、目に見えるほど魔力を充溢させている『世界最強の吸血鬼』。その傍らには、その左手薬指に銀色に輝く小さな円環(ゆびわ)を嵌めた少女。

 

『それでは、後は任せたでござるよ彼氏殿!』

 

 他に超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)がおり、そちらはここまで運んだ二人を下すと、仙都木優麻とアスタルテを回収しに向かう。

 

「……冬佳ではなく、<第四真祖>ですか」

 

 古城を見た冥駕の声色は、落胆を隠そうともせず。

 目当てではない、眼中になどない、欲するのは彼女のみ。

 

「まあいい。余計な邪魔は事前に除いておきましょう」

 

 黒槍を水平に構える。

 魔力を無効化する『零式突撃降魔双槍』、『異境』の薄膜(オーロラ)を薄く広く引き伸ばしていく波動は、吸血鬼から魔力を奪う。真祖の無限の“負”の魔力を完全に無効化(ゼロ)にするとまではいかないにしても大きな制限(かせ)をかける。たとえ強引に実体化できたとしても眷獣の身体は魔力で構成される、つまりは『異境』の影響下にある以上、熱した鉄板の上にある融けかかった氷も同然。脆い。

 槍を突き刺した影より突き出す闇色の刃、張り巡らせた触覚(いと)をより合わせた無尽の槍、そして、視界内を埋め尽くす深紅の焔―――この三重苦を浴びせれば、いかな不死の真祖と言えども存在を抹消されるだろう。

 

 

 けれど、ここにもうひとり。

 

 

 暁古城に焦点が当てられているが、その視界に映っているはずの姫柊雪菜の存在をどちらも指摘することもない。

 槍がない今、『剣巫』としての役目を果たせない。力になれない。冥駕も戦力外だと見なしていた。

 

「先輩―――」

 

 しかし、古城の手を握り、一歩前へ引くのはその雪菜だった。

 幼少から戦う者として鍛えられたにしてもこの場面に怖れや憤りを感じないはずがなく、しかしそれ以上に奮い立った勇で踏み込む。

 

「ああ、行くぜ姫柊!」

 

 古城が迷いなく踏み出した。この瞬間、古城たちの中で何かがつながったような気がした。見えない糸が二人の神経を結びつけ、触れ合った肌が互いの意思を伝えてくる。

 古城と雪菜が同時に駆け出す。

 

 『零式突撃降魔双槍』は、魔力と霊力、どちらかしか無効化することはできない。

 魔力を無効化している今、霊力を抑えつけられてはいないのだ。

 

 武神具がなくても、剣巫の未来視は万全に発揮できる。

 

 戦闘中に一瞬先の未来を霊視することで、魔族を上回る速度で動く。それが獅子王機関の剣巫が持つ、異様な戦闘力の秘密。

 そんな霊視力などない素人にはわからない理屈だったが、古城は信じた。

 雪菜が視た、最善手を。

 そして、同じ目線に立ってくれる古城が隣にあるから、未来を切り開ける、と雪菜は確信している。

 

「―――<霞>よ!」

 

 二人の姿が朧に霞んで、分裂した。幻術と高速移動を組み合わせた分身。剣巫に、師家・縁堂縁が授けた一手である。

 幻で攪乱しながら、迫りくる攻撃を躱す、避ける、そして、超えてきた。吸血鬼の筋力を限界まで引き出した強引な跳躍。これに呪的身体強化(フィジカルエンチャント)を施して追随する雪菜も跳ぶ。身構えていた冥駕すら、その速度に反応できない。特に最後の一歩は、途中過程が消し飛んだと思えるほどに見えなかった。

 

 そして、息の合った動きで真っ直ぐに腕を突き出した二人の拳が、相手を殴り飛ばす。

 実にシンプルな攻撃。故に防げなかった。魔力を無効化していようが、魔力に頼らない相手には意味がない。

 結果的に、この思いきりは、冥駕の意表を衝く。古城と雪菜の渾身の二打一撃を顔と胸に喰らい、冥駕はもんどりうって吹っ飛んでいく。

 

「まさか、『閑古詠』が至っている境地に姫柊雪菜がここまで近づいていたとは驚きました。ですが、絡繰りさえわかれば、対処は容易い」

 

 既に肉体は死んでいる『僵屍鬼』であり、<女教皇>の支援がある限り、『聖殲』の力で元の状態に復元される。

 そして、冥駕は、黒槍を雪菜へ突き付けた。

 封じるのを、魔力から霊力へ切り替える。その霊視を、闇色の薄膜に閉ざさせる。

 ―――だが、その未来を視た雪菜は先んじて叫んでいた。

 

 

「今です先輩!」

 

 

 『零式突撃降魔双槍』が、封じるのはどちらか片方のみ。

 霊力を封じようとすれば、魔力の禁は破られることになる。

 霊視が暗転していようとも、雪菜の瞳に浮かんでいるのは、絶望ではなく信頼の光。

 

疾く在れ(きやがれ)、<牛頭王(コルタウリ・スキヌム)>―――!」

 

「なにっ!?」

 

 灼熱溶岩の杭が、冥駕の足元の地面を突き破って噴き出した。<第四真祖>の二番目の眷属、溶岩の肉体を持つ牛頭神(ミノタウロス)の攻撃だ。

 そして、数千度に達する溶岩の杭は、単純な物理攻撃。魔力を無効化できる『異境』の薄膜では防げない。故に当然、冥駕は頼るしかない。

 <女教皇>の『聖殲』の力に。

 

「くっ―――<女教皇>!」

 

 紅蓮の業火。『聖殲』の力を纏わせた<発火能力>が、灼熱溶岩の杭を、灰塵へと上書きする(もやす)

 辛うじて古城の攻撃を凌いだ冥駕は後退する。

 

「無駄ですよ。『聖殲』の世界変容の力を前に、貴方達など勝ち目などありはしない!」

 

「そいつはどうかな、絃神冥駕! 疾く在れ、<水精の白鋼(サダルメリク・アルバス)>! <双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>! <夜摩の黒剣(キファ・アーテル)>!」

 

 構わず、怯まず古城は掌握している眷獣を片っ端から召喚していく。

 巨大な蛇の下半身を持つ水の精霊(ウンディーネ)

 緋色の双角獣(バイコーン)

 重力を操る巨大な剣。

 一気に三体の眷獣が、無制限に魔力を解放する。

 

「愚かな……! 力の差がまだわからないとは……!」

 

 <女教皇>が放つ、復讐者の焔に水の精霊も、双角獣も、巨大な剣も焼かれていく。

 けれど、眷獣たちが放った魔力の余波で、倉庫街一帯に破壊の嵐が吹き荒れていた。人口の大地が裂け、倉庫が崩れ、港の地盤が沈んで浸水の被害が発生している。

 深紅の火炎が、この破壊の嵐に不安定に揺らぐ。

 

 接続(アクセス)した龍脈から無制限に魔力が供給されているが、『聖殲』の力を制御するための<咎神の棺桶>への接続(アクセス)は阻まれている。

 物理還元と暴風、重力―――それぞれ属性の異なる魔力を無効化するには凄まじい演算付加に耐えねばならず、『棺桶』の補助のない『アベルの巫女』の演算能力には限界がある。

 つまりは、こちらを攻撃する余裕はない。攻撃は最大の防御に繋がる。

 

(やっぱりだ。絃神冥駕、それからまた現れた『神縄湖』で見たアイツ(アベルのみこ)―――あいつらは『聖殲』を掌握してなんかいない)

 

 ―――『コノシマヲ……タスケテ……コジョウ……』

 

 街頭の広告スクリーンや家庭のテレビ、パソコンやタブレット、スマートフォン――ありとあらゆる画面から、今、彼女の声が流れ出している。

 華やかな衣装と端正な顔立ちはそのままに一切の表情を消した少女の声は、何度もそのSOSを繰り返す。

 壊れた再生装置のように。繰り返し、繰り返し―――囚われた自分自身ではなく、この『魔族特区』のSOSを訴える。

 それを耳にした人々は、誰かの悪戯や放送機材の故障などとは疑わなかった。それまでの“藍羽浅葱”が築き上げたとされる<心ない怪物>の襲撃(テロ)をいち早く察知する予報警報システムとは違うものだが、それでも人々は信じた。

 

 そして、移動中、リディアーヌが操縦する<膝丸弐號>にもこの映像が受信されており、この自らを名指ししたメッセージを受け取った古城はこれこそが浅葱本人からの意思(こえ)だと確信した。

 

(あいつらが操っているのは、『聖殲』の上っ面だけだ。何故なら浅葱が『棺桶』の中身を―――『咎神』の叡智を凍結(プロテクト)し続けていたからだ)

 

 『聖殲』の力は強力だが、本来の威力には程遠い。精々都市ひとつを壊滅させる程度のものだ。世界を滅ぼすには遠く及ばない。

 『聖殲』の能力を引き出せない理由を絃神冥駕は、『アベルの巫女』に『巫女』としての正統性が欠けているせいではないかと推察しているのだろうがそうではない。

 『魔族特区』を護る為に『棺桶』の中に引き籠っている浅葱が、『棺桶』への<女教皇>の侵入を拒んでいるからだ。

 だから、『助けに来い』などとは言わない。『絃神島を助けて』と言った。

 つまりは、そういうことだ

 さすがは絃神島の聖処女(アイドル)である。古城は誇らしく思う。そして、彼女の誇りにかけて、ここで全力を尽くす―――

 

「まだまだいくぜ! 疾く在れ(きやがれ)、<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>! <甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>! <神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)>!」

 

 怒濤の召喚ラッシュ。

 新たな属性の魔力攻撃が、四方から一斉に相手を襲う。<女教皇>にかかる負荷が飛躍的に増大して、紅蓮の火勢が振り回されるように揺らぐ。

 

 そうか、<第四真祖>の眷獣が持つ多様な属性は、『聖殲』に対抗するための力ですか……!

 

 情報過多で削り切れない余波に煽られながら、冥駕は唇を歪めて笑う。

 世界最強の“人造の吸血鬼(まぞく)”――<第四真祖>は、『咎神(カイン)』を倒すための殺神兵器だ。そんな危険な存在に、災厄の如き眷獣が十二体も意味なく与えられるわけがない。

 

 ですが、暁古城は<第四真祖>として不完全。それだけの眷獣の同時使用という多大な負荷に、どこまで精神が耐えられるか?

 それに、“我々”の憎悪はこの程度では止まらない。

 

 

「妾の復讐は誰にも終わらせない……!」

 

 

 傷だらけの復讐者が、怨嗟と呪詛を練り篭めた業火をより一層燃え盛らせる。

 『棺桶』に接続が叶わない『アベルの巫女』に、『聖殲』の本領を発揮することはできない。

 しかし、それだけではない。

 <女教皇>は、取り込んでいる。この『魔族特区』、咎神の末裔たちが犯した罪過の産物を。

 

「っぅ!」

 

 眷獣同時召喚の負荷に歯を食いしばっていた古城が眉間に皴を寄せ、表情を歪ませる。

 

 眷獣達の、像が、ブレた。強力な磁石を近づけられたブラウン管のテレビ画面のように。

 

 実体化の制御が手に余った、わけではないはず。倒すべき敵を知り、迸る覇気と共に噴き上がる魔力は古城に眷獣同時召喚を可能とする程に高まっている。それでも古城は明確に自分の呼吸が崩れていくのを自覚する。

 何だこの嫌悪感は……!?

 眷獣の実体の軋みがますます酷くなる。絃神冥駕が再び『零式突撃降魔双槍』で『異境』を拡げたのか。いや、違う。傍にいる姫柊の霊視力は復帰していない。視線を向けたが首を振られる。では何故?

 

 その答えは、<女教皇>が取り込んだ機械化人工生命体(スワニルダ)に搭載されている“眷獣の実体化を妨害(ジャミング)する電磁波”――これを『聖殲』に染め上げて放っているのだ。

 

「くそっ……!」

 

 ここで崩れかかっている眷獣の実体化を完全に放棄してしまえば、大波乱となる。

 『神縄湖』で、実体化を保てなくなった双角獣から、濃縮された魔力を無制限に解放させたことがあったが、巨大な振動と暴風の塊へと変わった。都市ひとつが収まる範囲で、地表にあった森をごっそりと抉り、山の地形を大きく変えてしまった。

 その時の天災以上の災厄をこの人工島で起こそうものなら、跡形もなく消滅するだろう。しかも複数も一気にそうなれば被害は絃神島だけに収まらず全世界に深刻な影響を与えかねない。

 それを喜ぶのは、復讐者のみだ。

 やむを得ず、古城は<第四真祖>の眷獣を霧散させる。

 

「やはり、我々の脅威足り得るものはこの世に存在しない。たとえ、世界最強の人造の吸血鬼であろうとも―――!」

 

 暴発する眷獣を無事に還そうと幉に意識を集中させた古城は、足元の陰から飛び出す無数の刃に反応し切れなかった。厚みを持たない闇色の刃は、吸血鬼が持つ不死の特性すら塗り潰す『異境』の侵食の具現化。古城の身体は、凍てつく氷の枷を嵌められたように端から徐々に活動停止へと追いやられていく。

 

「そして、無駄です姫柊雪菜。『七式突撃降魔機槍』を持たないあなたに、『異境』は破れない。彼は救えない」

 

「っ……!」

 

 そう、無力。

 先輩を助けるには、この絶望(みらい)を切り開くには、あの槍が必要。雪菜は何も持たぬこの手を、掌に爪を立てるようキツく握り締めた。

 その瞬間、闇が、砕け散った。

 

 

「『―――<雪霞狼>!!!』」

 

 

 中空から降り注いだ閃光は、破魔の銀槍から繰り出された神気の『霊弓術』。高純度の『神格振動波』をはらんだ浄化の矢は、世界を呑む『異境』の闇を薄いガラス板のように粉々に砕けさせ、その輝ける翼の羽ばたきは理を侵す呪詛(かげ)を一掃した。

 

 

道中

 

 

「―――舞え、<暴食者(グーラ)>!」

 

 数千もの魚群の如く、黒髪の吸血鬼の周囲を泳ぐ無数の短剣。それがひとつに収束。

 分裂された眷獣の魔力を一極集中し、焔を撒き散らす巨大な大剣と化した『意思を持つ武器』を撃ち放つ。意思を持つ大剣は、自ら砲弾の如く加速し、飢えたサメのように追尾して強襲する。

 しかし、轟然と大気を焼き切る漆黒の刃は、その身を刺し貫くことができなかった。

 

「みー!」

 

 弾かれる。その真っ白な羽毛一つに、断つことも焦がすこともできずに。

 

「―――抉れ、<嫉妬者(インヴィディア)>!」

 

 それに目を細めるアラダールは、暗い闇の色に彩られた大剣を左手に取り、続け様に右手を挙げる。

 

「―――覚醒(めざめ)ろ、<怠惰者(アチエデイア)>!」

 

 虚空から召喚された、鞭のようにしなる鋸刃の長剣。

 それは振り下ろした右手に連動し、見えざる巨人の腕で振るわれた。同時に振り切った左手の大剣と挟む形で。

 

「みみみ」

 

 だが、結果は吸血鬼が瞠目を禁じ得ないもの。眷獣同時召喚の挟撃すらその身には()が立たなかった。ただの斬撃ではない、強大な魔力を伴った斬撃だというのに。

 先の<高慢者>の防御を無視する異空間からの斬撃をも凌いだこの龍族(ドラゴン)は、驚くべきことだがアラダールの攻撃が通用しない。それどころか逆に、刃先が融かされたように潰れていて、切れ味が落とされているという始末。

 

「何百年ぶりか……いや、初めてかもしれん、ここまで斬れないモノはな……」

 

 七つの大罪を冠した強力無比の剣の眷獣。

 しかし、『原罪』を背負う<守護獣>は、()()()()()()()()()()()。それが吸血鬼の『意思を持つ()()』であろうとも例外ではなかった。

 アラダールには最悪の相性だと言えよう。

 しかし、目を見開いたのは黒髪の吸血鬼だけではない。

 

「『な、ぜ……?』」

 

 護られた藤阪冬佳(クロウ)は動揺と不可解が入り混じった声を上げる。

 彼の中にいたから知っている。

 この龍族は、契約を結びながらも、現界するかは使い魔自身の自由意思に任せている<守護者>だ。争いを好まず、理由もなく戦いの場に出る存在ではない。

 その<守護獣(フラミー)>が、契約者でもない冬佳を護る。

 肉体(うつわ)が契約者のものであるからか。いいや、そんなことはない。契約を結ぶのは、その魂にだ。

 そんな護る理由もない、ましてや契約者の肉体を奪っている“悪霊”とも呼べる自分をどうしてその身で庇うのだ?

 冬佳には、アラダールと対峙する獣竜の意思がまるでわからない。

 

 混乱する中、場をさらに搔き乱す荒々しい魔力が渦巻いた。

 辺りのものを吹き飛ばしながら集束する膨大な魔力の霧から垣間見えるのは、金色の瞳。この場の全てを圧倒して現れたのは、腕組みをした少年の吸血鬼だった。

 

 

「―――なるほど。それが、お前の意思か、クロウよ」

 

 

 張り上げたわけでもない、淡々としているが、存在感の塊のような声が、はっきりと聴こえた。

 威風堂々と佇む様からは、己が王者であることを疑わない態度が如実に表れる。灼けつく瞳は、黒髪の吸血鬼に向け、そして、獣竜と轡を並べるように冬佳側に立つ。

 

「イブリスベール……アズィーズ―――!」

 

 彼を知らぬものなどここにはいない。

 第二真祖<滅びの瞳(フォーゲイザー)>直系の第二世代の吸血鬼だ。

 『戦王領域』のヴェレシュ=アラダールと同じ勅命を受けているはずの『滅びの王朝』の凶王子が藤阪冬佳(クロウ)につく?

 何故? 何故? 何故―――?

 イブリスベールのこの行動に対し、アラダールは硬質な声で問う。

 

「それは、第二真祖の意思か?」

 

「いいや違う。これは俺の独断(いし)だ。我が友には命を救われた“恨み(おん)”がある。対等に心ゆく戦うがためにも、ここでその借りを清算しておこうかと思ってな。

 ―――故に引け、アラダール。こいつは俺の獲物だ」

 

 さもなくば、この俺を敵に回すことになるぞ。

 

 不敵な笑みと共に宣戦布告するイブリスベール。

 これを受けて、黒髪の吸血鬼は美しい面相に渋面を作る。

 アラダールも思い出したのだろう。

 この吸血鬼も、ヴァトラーに劣らぬ戦闘狂(バトルマニア)であることを。

 ならば、アラダールが良く知る<蛇遣い>に当て嵌めれば、理由は何であろうとも、こちらが矛先を向けたのであれば、嬉々として戦争に臨むことは容易に想像できる。

 そして、アラダールが躊躇する合間に、視線だけがこちらに向けられた。

 

「疾く失せろ。俺が殺し合いたいのは、貴様ではない」

 

 不愉快極まる形相で、イブリスベールが冬佳を睨む。

 ひとつ異なっていたのなら、向こう(アラダール)側についていた。

 それがこう少年吸血鬼を動かした理由は、冬佳にも理解できている。

 

「『ええ、わかっています』」

 

 この戦場から背を向けて、冬佳は飛び去った。

 この魂全てを賭すべき、彼のいる戦場を目指して。

 

 

???

 

 

 光と闇だけが存在する、時間の流れすらも曖昧な空間。

 夜空に映し出される星々のように煌くは、無数のバイナルデータ。この世界は、絃神島を制御する五基のスーパーコンピューターと、それを指揮する正統なる(カインの)巫女・藍羽浅葱の意識により生み出された仮想現実―――いわゆる、電脳空間である。

 『彩昂祭』でのクラスの出し物では事故的にそうなってしまったが、ここも通常の電脳空間とは違う。ひょっとするとあの時のイレギュラーは、この時のための予行練習であったかもしれない。

 魔術的な性質を帯びた電脳空間。

 キーストーンゲート第零層、<咎神の棺桶>に保管されていた“情報”を入力(インストール)したことで、人工島内のコンピューターネットワークは、魔術結界としての機能を手に入れた。そしてこの“電脳結界”は、今や管理者である『カインの巫女』の肉体をも取り込んで、結界内部に幽閉している。

 自分の肉体そのものが、電脳結界を維持する部品(パーツ)として組み込まれているために、少女は結界から出られない。

 原理的に言えば、<監獄結界>に取り込まれた、南宮那月と同じだ。

 いわばこの電脳結界は、彼女の意識が生み出した夢。彼女の肉体そのものを閉じ込め、現実世界にも影響を及ぼす危険な夢。

 とはいえ、魔術で生み出した自らの分身を遠隔操作することで、現実世界でも自由に動ける那月とは違って、素質は認められても魔術的には素人には同じような芸当は無理である。精々、隣接した同質の異空間を取り込んで自分の支配する領域を拡張、外からの侵入(クラック)に対する防備を固めさせるくらいである。

 

「精神だけとはいえ、あんたまでここに来ちゃうとは災難ね、クロウ」

 

 だから、浅葱は驚いている。

 この誰もいなかった暗闇に、ラグが走ったかと思えば、ポイッと放り投げられたように、後輩が転がり込んできたのである。

 

「んー。なんか眠ってたら、身体を乗っ取られちまって、浅葱先輩の所に来ちまった」

 

「そんな呆気らかんと言うもんじゃないでしょそれ。というか、来ようと思って来れる場所じゃないのよここは」

 

 自らの身体を眠らせ(おい)たまま、意識を幻像に乗せることのできる魔女の主人によって、この手のことは経験済みなクロウは落ち着いている。肉体(ハード)精神(ソフト)を分離されるのは、『波朧院フェスタ』でサナちゃん(スリープモードの那月ちゃん)にやられていた。

 しかし、落ち着いていても予想外(イレギュラー)侵入者(ハッカー)当人にすら、何がどうなっているのはわからない事にはわからない。きょとんと首を傾げられてる。

 やや頭を抱えるように頬に手を添え、こめかみ辺りを指でトントンとクリックするようなポーズを取って、浅葱は心の整理をつけるためにもこの状況に至った筋道を推理する。

 

 <咎神の棺桶>を取り込んだ<蛇の仔(タラスク)>の体内に広がっているのは、<監獄結界>と同じように南宮那月が創った異空間。今は浅葱の電脳結界で逆に取り込まれているにしても、主人の“残り香”のある場所である。

 そこに帰巣本能のようなものが働いて、この電脳結界に招き寄せられたのか。

 いや、ここは魂でさえ出入りできない<蛇の仔>の体内にあるのだ。物理法則を無視する精神体と言えどもおいそれと迷い込める領域ではない。……というのは、つい先ほどまでの話だったか。

 現在、こちらに侵食(クラック)を仕掛けている<女教皇>の世界変容の禁呪『聖殲』により手足を殻の内に引っ込めている生体防波堤(タラスク)の強度は弱まってきている。そこで、結局こちらを引きずり出すことは叶わなかったが、空間制御で外界と繋がった痕跡もあったりもする。

 それはほんの一瞬の話で、けれども、その空いた一瞬の隙に、二重の防壁を通り抜けてこれないことはない。

 一体どれだけ偶然に偶然を重ねた話になるのかは、もはや浅葱も確率の計算を導き出すのは面倒なので打ち切るが、とりあえずのところこれ以上考えるのは精神安定のためにならないし、無駄だってことはわかった。

 

「まあいいわ、ここに来た理由は何にしても、クロウがここにいても問題はないわけだし」

 

「いいのか?」

 

「いいわよ別に。だから、遠慮なんてしないでよ」

 

 浅葱は状況を受け入れた。

 この電脳結界が侵すべからずの聖域であろうとも(浅葱にしてみれば私室も同然であるが)、放りだすわけにもいかない。

 この子(クロウ)には負い目がある。

 

 浅葱はこれまでの事情は把握していたつもりだ。

 でも、把握していながらこれまで大したことができなかった。

 

 この電脳結界の内側では、浅葱は神のように自由に振る舞うことができる。

 好みの食事や雑誌を取り寄せたり、愛用の家具を生み出すことも簡単だ。メイクや服装も髪型も、イメージするだけで自由に変えられる。

 

 しかし、外ではほとんど無力なのだ。

 こちらも『棺桶』の実権を渡すまいとしていたが、『巫女』に『墓守』の支配権を奪われまいと手を打った矢瀬顕重によりコンピューターネットワークから独立されていた。そんな治外法権じみた『墓守(クロウ)』を保護したくてもできなかった。

 

 でも、ここなら、この子を脅かすものはない。あたしが守る。そして、助けよう。

 

「わかった。じゃあ、オレに何かできることはないか? 浅葱先輩、すごく大変そうな事やってる」

 

「いいわよ。あたしひとりで大丈夫。こんなの余裕よ余裕。食事の片手間でもやれちゃうんだから。あ、ここならクロウが望めばどんなものだって出してあげられるわよ。あたしもさっきこの『麺屋いとがみ』の濃厚魚介スープを堪能したし、実際にお腹が膨れるかはさておき、いくらでも出せるから、満足できるまで美味しい想いができるわね」

 

 手伝いを申し出るお人好しな後輩に、浅葱はヒラヒラと軽く手を振って断ると、キラキラとした粒子を振りまいて、独特な香気を放つ茶褐色のスープで満たされたどんぶり――生ニンニクと辛味増量した濃厚魚介ラーメン大盛りを歓待の粗茶代わりに出してやる。

 

「だから、クロウはのんびりと休んでなさい。ちょっと外では切羽詰まってるけど、ここの中なら望む限り時間は引き延ばすことだってできるし寝放題よ―――後のことは、あたしに任せない。ちゃんとクロウを自分(もと)の身体に(もど)してあげるから」

 

 浅葱は、クロウに頼る気などなかった。

 真なる咎神派に酷い目に遭わされ、望まぬ戦争に幾度となく兵器として利用され、挙句の果て、“藍羽浅葱”の偽物に扇動されて理不尽な汚名を被せられた。

 

 これで、どうして頼りにすることができよう。

 これが、『棺桶』、いや『巫女』の危難に引き寄せられる『墓守』の因果の働きであっても、こちらの頼み事ならうんと頷いてくれるのがわかっていても、関係ない。浅葱はそんなあまりにも不義理なセリフを吐くくらいなら舌を噛む。今だって先輩としての面子は丸潰れであるのだから。

 何でもできる電脳結界で、うんと甘やかしたところで万分の一の贖罪にもならない。

 

 

「―――いや、このまま戻ってもダメなのだ」

 

 

 と。

 それは彼の意思の程を表すような、固い声だった。

 南宮クロウは、己を甘やかす気など一切ないのだ。

 

「勝手な指図で、もう振り回されたくない。暴走するのも真っ平ごめんだ」

 

 死力を尽くしてでも守りたい人がいる。その彼女もまたクロウを救うために命を懸けてくれた。

 だからクロウはもうこの自分自身を、無為にはできない。自己犠牲を気取って自分の順番を一番下に持っていけない。それは、この身を助けてくれた人たちの奮闘をどぶに捨てるに等しい行いだと理解したのだ。

 我儘でいい。

 貪欲になれ。

 己の自由を踏み躙ろうとする者に、正しい怒りを向けろ。

 それが善き変化なのかどうかは知らない。生存のために無闇に振るわないと枷を嵌めたルールから逸脱する行為だろう。自分で自分を獣の道へと堕落させることにもなるかもしれない。

 だけど。

 もうあれこれ悩んでうじうじとするのはやめた。もう理不尽に対して遠慮などしない。

 

「オレはオレをオレのものにする。今度起きた時はもう揺らがないオレになってると決めた。……ご主人にもう、あんな顔はさせないためにも、強くならなくっちゃ戻れない」

 

 決意を固める。

 世界最強を己がモノにすると。

 

「―――だから、浅葱先輩、食べ物はいい。美味しいものを食べたいけど、それ以上にオレは満足するまで修行したい」

 

 この電脳結界は、何でもできる。

 

 世界中のグルメを食べ放題にもできるし、好きなものをいくらでも取り寄せられる。

 ―――だったら、修行相手にちょうどいい相手も用意できるはずだ。

 

 そして、夢と現実は時間の流れが違う。外界からは切り離されているこの電脳結界であれば、体感時間の刹那を久遠にまでだって引き延ばすことだってできる。

 ―――そう言ったのは浅葱である。

 

「いや待って!? あんたねクロウ、この大変な非常事態の最中にってのもあるけど、今の自分の状態が理解して言ってんの? 肉体のない精神体がどれだけ脆いものなのかそれくらいわかるでしょ!?」

 

「大丈夫だ浅葱先輩。ちゃんとわかってる。オレは、<心ない怪物>じゃない。()()()()。心を折らなければ、精神(オレ)は折れない。そう教えてもらったのだ」

 

 気合いだとか根性論だとか計算できない根拠を述べられても納得のしようがないのだが、これは止めようがないのはよくわかった。

 

「あー、もう! 本当にままならないわね。でも、クロウはそういう奴だったわ。もう一度訊くけど、本気? あ、やっぱ言わなくていい本気よね本気」

 

「う、本気も本気なのだ。でも、場所は借りるけど、浅葱先輩の手を煩わせないようにするぞ。自分で、自分の世界をコントロールするのも修行だからな。多分、今ならやれそうな感じがする」

 

 『墓守(クロウ)』は、<咎神の棺桶>の予備機――外部副脳(バックアップ)六号機(アルコル)”をも担う。それだけ能力がある。普段は莫大な筋肉によって自分自身を自壊させないよう制御に大半を割り割いているものの、その演算能力はスパコンに匹敵する性能を持つのだ。

 単純計算で、スーパーコンピューター五台で構成されるこの五大主電脳(ファイブエレメンツ)の1/5の出力くらいなら自力で賄える。

 ただし、『聖殲』を行使するための資格――『巫女』ではないだけで。

 

 だが、何事にも例外がある。現に、正当な(カインの)『巫女』でないのに『聖殲』を振るう存在がいる。

 ―――クロウは、“例外(ソレ)”に近づいていた。

 

「だから、もっともっとできるように! “これ”を()()()()()()()()()()()! ここならいくら暴れても、誰にも迷惑が掛からないしな!」

 

「思いっきりあたしが巻き込まれるわよ!」

 

「浅葱先輩に迷惑かけないように頑張るのだ!」

 

 言い直したけど、不安が拭えない。どうしよう。

 

「外は炎上してるけど、内も大嵐に見舞われそうね……」

 

 ファイヤー! と熱血に燃え上がらせるクロウを見てると、電脳結界の『箱庭』でどれだけ暴れても現実世界には影響は及ぼさない……はずだと言い切れなくなる。張り切り過ぎると大変だというのはこれまでの経験上から予想が出来てしまうのだ。

 これは電脳結界と絃神島のどちらが早く崩壊するのか競争(かけ)ができてしまうかもしれない。

 ちょっとこの子の保護者もといご主人様を呼べないものかと浅葱は真剣に考えた。

 

(とはいえ、大丈夫そうね。本当……この子は強い)

 

 電子演算(コンピューター)は、迷い(エラー)が生じれば機能停止するが、一度躓いて失敗を気に病んでいてもとにかく進める、それは人間の証だろう。

 南宮クロウは、何も恐れず、何も疑わず、如何なる命令にも逆らわない、単なる殺神兵器(キリングマシーン)ではなくなった。

 

「オレはもう弱音は吐かない。それに『負け犬に食わせる飯なんてない』がご主人のルールだからな。まずはお前ら全員を平らげてやる! 汚名返上なのだ!」

 

 そして、先程、浅葱が『麺屋いとがみ』のラーメンを出した要領を見て、『箱庭』の使用法を学習していたのか、早速、出した。

 

 液体金属の肉体を持つ賢者(ワイズマン)

 魔導大国がその技術の粋を集めて造り上げた巨大機動兵器(オーディーン)

 巨大な鳥の怪物に化けた異国の邪神(ザザラマギウ)

 八岐大蛇の如き赤竜。

 世界最古の獣王にして不滅の白石猿。

 

 “過去に対戦した強敵”を次々と創造していく。それも、もしも現実世界だったら流れ弾ひとつで街ひとつが吹き飛びそうな面子ばかり。

 そして、蜃気楼のようにその空間の大気が揺らぎ――時間が歪み出す。

 

「ちょっと、これは……あたしのSOSも送りたくなってきたわね」

 

 電脳結界の支配者である『巫女』は、一片の躊躇もなく難易度ヘルモードを超えるノーフューチャーモードを実行しようとするヤンチャな後輩に思いっきり頬を引き攣らせ、余計な介入(てだし)は諦めることにした。

 

 巻き込まれぬよう周囲の防壁(プロテクト)を強固なものに書き換えると、横から相棒の人工知能(AI)の呑気な声が。

 

『ケケケッ。まあいいじゃねぇか。かえって台風の目になるんだから、“他所(そと)侵略(ハッキング)”を寄せ付けなくなって、安全地帯になる』

 

「危険地帯と紙一重になってるのは、安全とは言わないの。モグワイ、“こっち”はあたしひとりで十分だから、あんたはクロウのサポートに付き合いなさい。あの子の気が済むまでね」

 

『オイオイ、それは酷だぜ。何の罰ゲームだよ』

 

「クロウを巻き込んでしまった罰よ。いいわね、モグワイ」

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

「ああ、冬佳! 私の元へ来てくれたか!」

 

 誰よりも真っ先にその到来に声を上げたのは、絃神冥駕だった。

 追われていた立場であって、自らの天敵、刃を交える戦いをするのだとしても、彼女との邂逅は何物にも代えがたいものだ。

 

 これに、クロウ――冬佳は、槍を、向けない。

 矛先を地面に向けたまま、俯いていた顔を上げる。

 

「『私も……―――会いたかったわ、冥駕』」

 

 胸の奥から搾り出したような吐露に、古城は愕然とした。そして、天上から福音の調べが舞い降りた信者の如く、冥駕の顔はこの上ない歓喜に満ちていた。

 

「そうか、冬佳もその“器”を奪うことを、望んでいるんだね?」

 

 古城の恐れた事態(まさか)言葉(かたち)にした冥駕に、雪菜に優麻とアスタルテ、リディアーヌの視線が、冬佳(クロウ)に集まった。

 これに、彼女の口からは否定も、肯定もない。

 そう、はっきりと、そう願っていたわけではない。

 だが“藤阪冬佳”は、無意識に一つの欲を抱いてしまったかもしれない。未練から膨れ上がった感情をついに隠し(がまんし)切れなくなるほどになってしまった。

 今の絃神冥駕の有様を見て……

 

「『冥駕、あなたの望みは何だったの?』」

 

 この問いかけに、冥駕は目を点にした。

 何を、訊いている……?

 答えるべくもない質問だ。しかし、冬佳がそれを望むなら応じよう。

 

「決まっている。冬佳、君と二人の世界だ」

 

「『私達が出会った最初の頃に、私に語ってくれた願いは、忘れてしまったの?』」

 

 けれど、返ってくるのは哀し気な眼差し。

 今度こそ冥駕は窮した。戸惑う。

 そう、彼女が“器”に宿ってから、一度も、笑ってくれたことはない。こちらを見つめるその貌にはずっと哀しみだけしかなかった。

 そして、その原点を思い出させるように、冬佳は語る。

 

「『死してもなお冥駕は、祖父・絃神千羅の思惑に縛られて、『僵屍鬼』として生き返された』」

 

「ああ、そうですね冬佳。我が祖父が、『聖殲』の禁呪(ちから)のみを欲し、私をその為の走狗(コマ)にしようとした。末裔を自称しながら、『咎神』カインの復活を望まない顕重爺と同じく、欲深き愚者だった」

 

「『だけど、冥駕は違った』」

 

「そうです。私は『咎神』カインを完全な姿で復活させる。『聖殲』など、そのための手段に過ぎない」

 

 我が祖父・絃神千羅が死体から冥駕を蘇らせたように、『棺桶』に残された『咎神』の“記憶”から『咎神』の精神と意識を再生する。

 そして、『巫女』ではない、本来の担い手である『咎神』の能力をもってすれば、『聖殲』は真の力を発揮できる。

 その結果、世界が滅ぶことになろうが―――

 

 

「『いいえ、冥駕。あなたの――“私達の戦争”は、そうではありません』」

 

 

 そういって、冬佳は、銀槍を前に出す。示す。これが、“原点”なのだと。

 

「『冥駕は、そんな祖父の企みを止めたかった。だから、造り上げた武神具には、その力があった。

 この『七式突撃降魔機槍』が、その証明。

 冥駕が目指す究極の武神具は、骨肉を切り裂いて命脈を断つ刃ではない。不浄を掻き消して魔性を滅す光ではない。世界にある、変えてはならないものを守るための力を求めた』」

 

 <書記(ノタリア)の魔女>仙都木阿夜は、真祖の能力すら無効化する威力に、それは魔力を無効化しているのではなく、“本来あるべき世界の姿に戻しているのではないか?”と推測を立てていた。

 そう、『七式突撃降魔機槍』は、『聖殲』の世界変容に対抗できる力があった。そうであれと望まれて、造り上げられたのだ。

 

「『しかし、『七式突撃降魔機槍』の力を振るう者は、世界から離れていく。武神具開発の研究者である冥駕はそれが予測できていた。だから、あなたはそれ以上の開発を躊躇した。この槍を使わせれば、誰かに世界から追放される孤独を味わわせる、変えてはならない者を変えることになる。自分自身、『零式突撃降魔双槍』の実験中の事故で人間として死んでしまった冥駕は、二度目の失敗を恐れて、『七式突撃降魔機槍』の完成を諦めた。

 ―――その背中を押したのは、私。私は、監視役として冥駕の傍につかされたのではなかった。真祖に対抗する秘奥兵器を完成させるための、<雪霞狼>の被検体を獅子王機関は送り出した」

 

 やはりそうか……! 私を利用し、冬佳を生贄にさせた……!

 彼女の告白に、冥駕の中の、燃え尽きることのない獅子王機関への憎悪が湧き上がる。

 

 しかし、憤怒に歪んだ面相は、次の一言で固まる。

 

「『そして、その礎になることを、私自身、受容していました』」

 

 決して、彼女自身が騙されたのではないと伝えたかった。

 これは、他の誰でもない、“藤阪冬佳”が望んだものであるから。

 

「『私も背負いたかった。冥駕がひとりでは背負いきれない業に膝を屈するのなら、私も一緒に背負い、共に歩んでいきたい。

 だって、あなたの言う世界を滅ぼす禁呪を終わらせるとしたら―――あなたの武神具の力しかない。『聖殲』からの宿業を解放するのは、あなたにしかできないと信じたから。

 だから……だから、私は冥駕と共に、この世界を守るための“戦争”に臨んだの』」

 

 美しく澄んだその瞳は、彼女自身の色しかない。他の意思など介在しない、本心なのだと。これを機関の洗脳教育などと否定することは、許されない事だ。彼女の意思を侮辱する。しかしそれでも冥駕の口は感情に震えながら吼えた。

 

「だが―――だがっ! 冬佳が獅子王機関に利用された犠牲者であることに変わりはない! こんな世界、守る理由など、あるはずがないんだ!」

「『でも、私達は、この世界で出会えた』」

 

 その時、冬佳は、この肉体を借りて初めて微笑んだ。

 

「『冥駕、それを変えないで―――』」

 

 静かな微笑に、青年はどのような表情を返せばいいかわからず、それを隠すよう仮面を抑えつけながらよろめくように引き下がる。

 

 ―――その迷いを許さぬものがひとり。

 

 

「『聖殲』を祓うモノを、何故、看過する?」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「何故、<冥餓狼(やり)>を向けない?」

 

 

 傷だらけの少女。絃神冥駕が同調した復讐者。この世界全てを焼き尽くす憎悪を抱く『アベルの巫女』。

 冥駕に絶対的な力、世界変容の禁呪たる『聖殲』を振るうための援護する<女教皇>は、必要な存在だ。『聖殲』の力で、“藤阪冬佳”の魂を“器”に定着させんとする冥駕にとってはなくてならない。

 だが、<女教皇>は追及する。

 この“復讐に邪魔な存在(ふじさかとうか)”を、滅ぼす気はないのかと。

 

「お待ちください<女教皇>。冬佳は―――その『墓守』の“器”は、『聖殲』をより強大に振るうには必要なものです。必ず、我々の同志に迎え入れてみせますので、どうか―――」

 

「やはり……温い」

 

 黒髪の少女はそう呟いて、静かに長い溜息を吐いた。

 

「やはり、妾以上の不幸は存在しないということ」

 

 死体に染み付かせた復讐者の念と、裏切った世界に対する復讐者の死体。

 符合するものが多かった。―――だが、重なるからこそ憎悪する。

 

 私にはそのようなものはない。

 この世に執着し(まもりたかっ)たものなど、とうの昔に絶滅した。

 

「そして、汝もまた、憎々しい『咎神』の末裔であった!」

 

 共感は、容易く反転する。同族嫌悪に変わるのだ。

 

「<女教皇>―――!?」

 

 獅子王機関を裏切り、祖父を裏切り、矢瀬顕重を裏切った絃神冥駕は、今、女教皇に見切りをつけられた。

 

「『冥駕っ!』」

 

 ぼおっ!! と。

 点火した音があった。

 青年の身を包む炎に包まれる……でいいだろうか。ただし、炎は身を焼くのではない。彼の左右に、巨大な紅い両腕が落ちる。背中全体から覆い被さるような格好で、巨人の上半身が躍り出る。その火焔は、背後から掻き抱くように取り込もうとしているのか。アスタルテの共生型眷獣<薔薇の指先>と同じ、焔の巨人は青年と一体となろうとしている。

 

 っ!? 『聖殲』が使えない……!?

 

 囚われる前に焔の巨人を振り払わんと、黒槍から『聖殲』を発動させようとした冥駕だったが、何も起こせなかった。

 

 掌握している。と思っていた。

 遺産である『仮面』に封入されし、『アベルの巫女』の“情報”を我が物にした。出力こそ劣るが、自力での『聖殲』の発動が可能だ。と思っていた。

 だが、それはあまりにも過信だったか。

 

 ぎぎぎぎぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎち、と。

 指先ひとつ動かせない中で、冥駕の意思に反して左手が動き出す。ぎこちない操り人形のように震えながら、右手で構えていた『零式突撃降魔双槍』を奪い取った。そう、先程、欠損から復元された左腕で。

 端から信用に値しないのだと警戒されていたのか。

 複製(コピー)された我が意思を、我が物と利用する輩など、『咎神』の末裔共と同じだと。

 

 『仮面』に糸が繋がり、“情報”は更新される。

 装着者の意思すら上書きしていく。

 

「さあ、滅ぼせ! 汝の望みは妾の永劫の悲嘆と怨嗟で染め上げよう! この世界に救いなどありはしないとその刃をもって証明するがいい!」

 

 鳥籠のような深紅の結界が、絃神冥駕と藤阪冬佳の二人を囲う。

 想い合う者同士を殺し合わせるショーのように、全ては強制される。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 目前には、『零式突撃降魔双槍』を突き付ける冥駕。

 <冥餓狼>を向けるのは、彼自身の意思でないにしても、こうなることは避けられなかった。

 

 ―――でもいい。

 

 地脈と接続している<女教皇>からの供給(バックアップ)を受けて、その霊力無効化の薄膜(オーロラ)は、先よりも濃密に、より穢れたものとなり、接触を拒んでいた『余剰次元薄膜(EDM)』が侵食され剝がされていく。

 

 ―――それでいい。

 

 地面に槍を刺し、そして、“器”を抜ける。

 

 ―――私の望みは冥駕と殺し合うことではなかった。

 

 ここにあるのは、肉体を解脱し、人間から昇華された魂。

 それは、剥き出しの自分。ありのままの自分。

 何物にも頼らず、彼と向かい合う。

 

《私がいなくなった後に、誰もあなたを理解する者はいなかった。誰かと共に歩むこともなかった。

 道を踏み外させ、歯車を狂わせ、冥駕を孤独へ追いやってしまったのは、他の誰でもなく、私のせい。

 あなたと共にその業を背負うと誓いながら、破った私のせいなのだから。

 ならば、その(やいば)を受けるのは、私であるべき》

 

 

 ―――漆黒の槍が、蒼白い御霊を貫いた。

 

 

 真っ直ぐから突き出された黒槍を、避ける素振りも見せなかった。

 肉体に護られていない霊体は、霊力を貪り喰らう、飢えた狼の(きば)に無残に引き裂かれる。

 

「――――――――――――――――――」

 

 刺し貫いたまま動けなくなる青年を、刺し貫かれたまま前に距離を詰めた女性の魂が、その腕で抱きしめた。

 

《でも、冥駕。私は、貴方の監視役―――ずっと傍にいるから》

 

 最後まで優しく囁きかけながら、その魂は温かな光と成り―――復讐の焔に呑まれた青年の全身を眩い輝きで包み、弾けた。

 

 

 カラン―――……と割れた仮面が地に落ちる音だけが響く静寂のみが残された。

 

 

「はーっはっはっはっはっはっはっはっは!」

 

 

 女教皇の、裂けさせてめいっぱいに拡げた口から発せられた哄笑が、その余韻を一息に塗り潰した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ふざけんじゃねぇ……!」

 

 女教皇の高笑いを掻き消さんばかりに、古城が言葉にならない叫び声をあげた。真祖でも再生し難い『異境(やみ)』の刃に貫かれたことも忘れ、昂るままに魔力を解き放つ。

 

 絃神冥駕……何もかもを裏切ってきた青年の末路は、地獄行きが当然だったかもしれない。

 しかし、古城は、絃神冥駕に僅かにだが共感めいたものを覚えた。

 きっとあの男は、『七式突撃降魔機槍』の担い手でなくても、監視役でなくても、特別なお役目なんて何もなくても、藤阪冬佳にずっと自分の隣にいてほしかっただけだった。

 ―――それを、このように貶めることなど絶対に許されるものじゃない。

 

「我が血の呪いは、世界を永劫の悲嘆と怨嗟に染め上げる! 全て全て全て! 嘆き苦しむがいい!」

 

「―――<獅子の黄金>ッ!」

 

 眷獣実体化の妨害(ジャミング)

 だが、同時召喚ではなく、一体の眷獣にその魔力と制御を振り絞った古城は、<女教皇>の妨害を跳ね除けた。そして、雷光の獅子は、『聖殲』を浸透させた深紅の電波を咆哮ひとつで吹き払う。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <第四真祖>と<女教皇>。

 『聖殲』を終わらせた世界最強の吸血鬼と、『聖殲』に全てを奪われた巫女が衝突する最中、姫柊雪菜は、目の前の、地面に突き立った銀槍を掴む。

 

 手に取って、改めて、実感する。

 この槍を打ち鍛えた人間は普通ではない。構造の隅々にまで凄まじい量の術式――いや、祈りが刻み込まれている。狂気か、あるいは純粋さか。壮絶な執念が宿っているのだ。

 それを染み入るように感じ取って、しかし槍を抜こうと手を引く前に。

 

「その槍を手に取る意味を、きちんと考えたのですか」

 

 この『七式突撃降魔機槍』の造り手たる青年が、こちらを見ていた。

 仮面の外れた素顔で。

 あの時、“彼女”に言ったように、雪菜へ問いかける。

 

「悪いことは言いません。止めておいた方がいい。<雪霞狼>を手にしたが最後、あなたは人間ではなくなる。世界から昇華した、報われることのない孤独に囚われるでしょう。……それは彼も望まない」

 

 淡々とした感情の篭らない言葉だったが、雪菜は一言一句漏らさずに静聴する。

 当然だ。青年は言葉ではなく、己が実体験を篭めて、実際にそうなるのだと忠告した。

 それは優れた巫女である剣巫の霊視力にもその未来(イメージ)は掴めたことだろう。

 青年がそう言うまでもなく、<第四真祖>の監視役を受ける際に、<雪霞狼>の危険性についての説明を受けていただろう。

 姫柊雪菜は、最初に槍を手にした時以上に、強い決意と共に答えた。

 

「私は、先輩の監視役です」

 

 ―――共にあると決めた。

 何があろうと、たとえ、その先に、

 ―――ともにあの人の罪を背負うと決めたのだ。

 避けられない、孤独な破滅が待っていようとも。

 

 

「そして、未来とは、視るのではなく、切り開くものだと―――そう、冬佳様に教えていただきました」

 

 

 槍が引き抜かれる。

 その瞳に、迷いはなく。凄烈の気配を伴った刃の如く、先を見据えている。

 

「なるほど」

 

 ゆっくりと冥駕は頷く。

 最高の生徒から最高の解答を得た教師のように、静かな誇らしさを込めながら。

 この最後の相手に相応しい“彼女の後継者”へ、刃を向ける。

 

「何を呆けているのですか、剣巫。その槍を手にしていながら、討つべき目前の敵を無視することはあってはならないはずですよ」

 

 武神具展開からの構えは、武技に長けたものが見れば失笑するだろう粗末な仕草であった。

 だが言いようのない不気味な剣呑さがある。死の気配。相対するものを屠るだけの自信、実力を備えているのだという確信から来る、獣の獰猛さ。『冥狼』の異名に相応しく、戦うための武芸を修めておらずとも、殺すための牙と爪を有しているのだという説得力の類。

 そして、口角を吊り上げた冥駕は、酷薄に言い放つ。

 

「もし、ここで私を逃すのなら、世界に更なる悲劇を招くことになる」

 

「もう止まることはできないのですか」

 

「私は決して許さない。この世界を―――私から温もりを奪った人々を許しはしない」

 

 漆黒の槍が淡い光を放ち始める。

 天使をも堕落させる霊力無効化のフィールドへと場が塗り替えられる。

 

「それが死者としての本分です。崇高なる理念も、心地良い正義も必要ない。ひとりでも多くの生者を道連れにして、地獄へと堕ちる。魔術とは、呪いとは、本来そういうものだ」

 

 しかし、それでも、流れ落ちるものがある。

 つう、と頬を伝って流れ落ちていくその赤色は、禁呪とは無関係の色だった。

 

「……なら、なぜ、涙を」

 

「いいえ。これは涙などではない。

 死した骸が涙など流すものか!!!」

 

 言葉とは裏腹に。

 深紅の涙は、止め処なく。

 

「こうも醜く! 間違った死人に容赦などあるものか……!」

 

 餓えた冥狼が絶叫するや、辺り一面が『異境(やみ)』に呑まれる。

 

「―――<雪霞狼>ッ!」

 

 銀槍。一閃。

 神気。一閃。

 

 光が―――闇を、引き裂く。

 『神格振動波駆動術式』を稼働させた銀槍によって描かれた輝きの弧が、黒槍からの闇を鮮やかに両断していた。真っ二つに裂かれた『異境』は急速に力を失い、影も残さず掻き消される。

 圧倒的なまでの神気。

 非常識なまでの威力。

 祝詞を唱えていないというのに、ただの一振りで、『咎神』の遺産でもある黒槍の力を完全に無効化したのだ。そして、剣巫は容赦なく、更にもう一閃を振り抜いて、『異境』展開によって完全な無防備状態となった冥駕へ一太刀を浴びせる!

 常態による攻撃にもかかわらず、『僵屍鬼』の肉体に致命的なまでのダメージを刻み込んだ。

 

「……これこそが」

 

 口から零れる呻きは、歓喜か。

 武神具開発者として目指した“原点”は確かに至っている。

 

「ならば、断ち切れるか!」

 

 『僵屍鬼(きょうしき)』の体内に備わった魔術回路と術式刻印が同時励起し、『零式突撃降魔機槍』と連結する。肌に光の文様が走っていく。過剰活動に伴う激痛が全身を軋ませはするが、どうということはない。この身も心も死に絶えているのだから。

 漆黒の槍に複雑な魔術紋様が浮き上がり、深紅の光を帯びる。

 世界を上書きする『聖殲』の光が、剣巫に襲い掛かる。

 

「私個人程度の『聖殲』を打ち消せぬようでは! 世界の滅びを阻止することは叶わない!」

 

 神気すらも剥奪するその槍は、<模造天使>をも斃し得る呪いの槍。

 それを突き付けられたとき静かに響き渡ったのは、少女の口から紡がれる荘厳な祝詞。

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――」

 

 銀色の槍を掲げた雪菜は舞う。神に勝利を祈願する剣士のように、あるいは勝利の予言を授ける巫女のように。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 神聖な光が辺りを満たす。

 汚れ無き純白に染め上げられた空間に、ただひとり、鮮やかな色を纏って天上界の住人が降臨した―――そんな光景を幻視してしまう。

 そして、漆黒の槍が放つ深紅の波動が薄らいでいく。

 

「……!!」

 

 術式に何らか不備があったか。

 いいや、違う。発動を果たしている。『聖殲』は実行されており、世界への浸食行為は為されている。単に、染め切れていないのだ。一滴の墨汁を垂らしたところで、海が黒ずむことがないのと同じ、甚大で膨大、力の質こそ打ち消し合うはずだが、彼我の力の差が離れている。

 

 何故、そこまでの力を、人であるままに行使できる……?

 その出力は、もはや人間を止める。冬佳と同じく、人の身ではあまりある力を暴走させ、存在が昇華されてなければおかしいほど。

 なのに、姫柊雪菜の『天使化』はこうも安定している?

 

 ! あの、指輪は―――そういうことですか!

 

 その答えは、姫柊雪菜の左手薬指にある。

 彼女の細い薬指に嵌っている銀色の指輪。指輪の中心に走っている細いスリットが、気のせいか仄かに赤く輝いている。

 

 かつて、<模造天使>と対峙したとき、<第四真祖>はどことも知れない異空間に吹っ飛ばしてしまう『次元喰い(ディメンジョン・イーター)』の眷獣がその神気を食らった。

 

 その指輪は、霊的経路(パス)を繋ぐ。

 主人である吸血鬼の肉体の一部を相手に与えることで、『血の従者』を創り出す原理を、<第四真祖>の肋骨の欠片を指輪に入れることで成立させていた。

 そして、『血の従者』と成った姫柊雪菜は、<第四真祖>の眷獣<龍蛇の水銀>の力を借りて、<雪霞狼>が生み出す余剰な神気を消滅させている。それ故に、『天使化』を抑えたまま、『七式突撃降魔機槍』の真価を発揮できているのだ。

 

「ああ……見てくれましたか、冬佳―――」

 

 そうして、あの日、彼女と共に目指した“原点”は、『聖殲』を切り払った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 雷光の獅子が、『蛇』の因子を持つ怪獣の上から、『アベルの巫女』を払い落とした。

 

 ―――よし! <蛇の仔(あさぎ)>から突き放した!

 <第四真祖>の眷獣はどいつもこいつも力が有り余り過ぎて、“加減”に神経を使う。

 眷獣同時召喚による多属性飽和攻撃の時も、制御に全力を振り絞っていたが、本気を出させてはいなかった。

 だが、ようやく相手を高みの見物から引きずり降ろした。

 これで、思い切りやれる。

 

「<獅子の黄金>―――ッ!!!」

 

 周囲の被害を考えないでもよくなった<第四真祖>の本気は、『聖殲』の処理能力を超える情報過多な一撃!

 眷獣実体化の妨害電波(ジャミング)など、余波だけで都市を停電させる雷光の獅子には通用しない。世界を呪う残留思念を跡形もなく消し飛ばす―――

 

 

「妾ハ世界ヲ滅ボス。ソノ為ナラバ、獣ニ堕チヨウ」

 

 

 雷霆の轟音が、絃神島全土に響き渡る。

 だが、先程以上の出力で噴き上げた業火は、雷光すら焼き尽くした。

 この瞬間、絃神島全土の気温は数度上昇することになった。

 

「―――」

 

 だが、体感はその逆。

 ゾッとするような妖気に、古城は反射的に首を縮める。極北の氷海に投げ出されたような、血の気が凍てつく脅威の気配。

 生命力を根こそぎ奪う致死性の毒でも嗅がされているかのような、強烈な圧迫感。人工島を支える鋼の大地までもが、怯えているかのように震え出す。

 

 天地を焦がした衝突に巻き上げられた噴煙の向こう。

 少女のものには非ざる巨大な影の体表が蠢動する。無数の歯車が回っているようにも、大量の虫が這いずっているようにも見える。その悍ましい動きと共に、そのシルエットは次第に大きくなっていく。

 直結した龍脈を貪り喰らっている魔力総量と共に、濃く、重たく、強大に――

 

 この悪寒は、古城にはよくよく見覚えがあって、そして、身に覚えのあるものだ。

 後輩(クロウ)が、完全なる獣へと成る時と同じ……だが、これは、それ以上に禍々しくて、暁古城を最初に殺した<死皇弟>の姿が脳裏に過って(フラッシュバックして)しまう。

 

「<神獣化>、か―――!?」

 

 改造人工生命体の超能力、機械化人工生命体に埋め込まれた兵器、そして、『獣王』の細胞を移植した機甲服(パワードスーツ)

 捕食し、我が血肉に変えた“情報”を『聖殲』で上書きし、取得した『獣王』の細胞の欠損部を補って再現される。

 ―――<黒死皇>の<神獣化>を。

 

「妾ハ獣! 世界ニ終末ヲモタラス獣!」

 

 全身を覆う漆黒の靄。双眸だけは炯々と深紅に灯る。その深紅の眼光に撫でられるだけで、肌に裂傷が生じるかのような錯覚さえ覚える。

 この終末の獣と称するに相応しい、深淵から発せられる、『旧き世代』すら遥かに凌ごうかという暗黒の魔力を前に、古城は息を呑む。

 

 これは、人に仇なすものだ。

 これは、人を喰らうものだ。

 これは、人を滅ぼすものだ。

 

 魔獣など目ではない、圧倒的なまでの魔力が集積されているのが見て取れる。

 <犬頭式機鎧(レプロブス)>より獲得した細胞情報から<黒死皇>の肉体を再現。

 <第四真祖>の眷獣よりも巨大で、禍々しくも美しいフォルムをした完全なる獣。無論、それはただの張りぼてではない。かつて、『第一真祖』に牙を剥いた獣祖の全盛期がここに蘇る。

 

 そう、それは“南宮クロウ”の獣性の起源。

 後続機(コウハイ)の遺伝子を内包する原型(オリジン)であり、最終的に行き着く極点のひとつ。

 すなわち、<黒妖犬(ヘルハウンド)>の『原初(ルート)』―――!

 

「な―――っ!?」

 

 時間とすれば、一瞬。いやその半分もなかっただろう。

 その全身に『聖殲』の業火を纏った黒狼は、爪先を一点に揃えて、削岩機のように腕を捻じり―――雷光の獅子を真っ直ぐに抉り抜いた。

 桁外れの力。

 これが『第一真祖』に戦争を仕掛け、世界最古の獣王と互角以上に殺し合い、世界にその異名を轟かせた獣祖の身体性能(スペック)

 腕を振り上げただけで、地盤は捲れて、古城は彼方へと―――倉庫街に積まれたコンテナ群へと吹き飛ばされた。

 

 

 <黒死皇>の力を持った<女教皇>――<黒死女皇>。

 だが、<黒死女皇>が引き出したのは、比類なき世界を滅ぼし得る力だけに留まらない。

 その魔力―――死した御霊を現世に喚び戻す『死霊術』。

 世界変容の禁呪を練り込ませたそれは、この世界に塗り潰された死すらも裏返させる。

 

「サア! 妾達ノ憎悪ガ、世界ヲ染メ上ゲヨウ!」

 

 狼煙を上げるよう遠吠えを轟かす黒狼の周囲から深紅の霧が湧き出したかと思うと、その霧の中から影だけの存在が現れる。

 それは、<黒死女皇>が復活させた『聖殲』の被害者――神であった古代魔族たちの影法師。己と同じ残留思念に『聖殲』の力で深紅の肉体を与えたのだ。

 数百、数千ではきかず、五桁に達するかと思しき数の亡者の群は、紅き海嘯(つなみ)と成って、『魔族特区』に迫る―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「……<女教皇>が、<咎神の棺桶>を手中にすれば、世界は滅ぶでしょう」

 

 『零式突撃降魔双槍』を真っ二つに両断され、『七式突撃降魔機槍・改』の神気を全身に浸透された。

 不浄なる魔力で動かされる死体『僵屍鬼』は、もう助からない。

 絃神冥駕は、ここで終わる。

 世界の最後を見届けることはなく。

 “原点”の完成を見納めて。

 ……心残りなどないはずなのに。

 まだやり残したことがある、と思ってしまう。

 

「私は、何をも思わない。たとえ空が悲嘆に染まり、地に怨嗟が響き、この世界が終ろうとも、私は彼らに何をも思わない」

 

 唇が、舌が、動いてしまう

 

「ですが……」

 

 この意思とは裏腹に。あるいは、意思の通りに。

 

「この世界には、冬佳がいた。冬佳と出会えた奇跡(じじつ)失くし(かえ)てしまいたくはない。そうも……思います」

 

 心から、そう願っている。思っている。

 思考は正常に、感覚は平静に保とうと努めながらも、胸から溢れ出てしまう。

 己は、狂っていたのだろう。どこまでも。己に、復讐に、愛に。

 

「―――そうか」

 

 ここにはもう、姫柊雪菜はいない。

 絃神冥駕の“禊ぎ”は終わった。藤阪冬佳の後継者である彼女は、監視対象である<第四真祖>の危機にすでに行ってしまった。

 だから、この最期を見届けているのは、ひとり。

 

「……これが『廃棄兵器』のままというのも、心残りでしたね」

 

 魔力と霊力のどちらか片方しか無効化にできないという欠点を抱えたままだった黒槍の武神具。

 しかし、冥駕は見た。

 そして、この今も感じている。

 彼らの力が打ち消し合うものでありながら支え合えるのだとしたら、“前の監視役と監視対象(わたしたち)”にもできるだろうか―――

 

「私の中の憎しみの感情は消えない。ですが、その憎しむ世界を、守りたいとも思う。正と負、矛盾したそれらを両方抱えるこの槍は、何に至るのでしょうか」

 

 武神具開発者は、最後の世界変容の禁呪を発動させる。

 銀槍に切り分かたれた黒槍の片割れを自らの身体に突き刺し、己を贄に捧げて。

 

 古代武神具がひとつ『干将莫邪』を鍛え上げた夫婦が、自らの身体を材料にその夫婦剣を完成させた故事に倣うように。

 この黒槍が喰らった魂、『天使化』して被昇天した藤阪冬佳と魄のみが肉体に残った『僵屍鬼(キョンシー)』の絃神冥駕自身―――二人の欠片を材料にして深紅の光へくべる。

 互いにかけた魂と魄は、この双極の槍を“器”として、ひとつの魂魄へと混ざり合う。

 

 そして。

 絃神冥駕の肉体からその血潮の代わりに噴き上がる深紅の粒子に彩られるように、黒槍の穂先に紅き亀裂模様が走り―――もう片割れもまた、黒槍から純白に染まった白槍に蒼き水波模様が浮かび出す。

 『陰陽太極図』や『天地自然之図』と呼ばれる紋様のように、森羅万象の交わりを示す白と黒の双刃を揃えた雌雄一対の武神具と成す。

 

「これが、私の最後となる作品―――『零式突撃降魔双槍(ファングツアーン)(プラス)』」

 

 “温もり”に餓えた狼は満たされて、『廃棄兵器』は上書き(かんせい)される。

 その銘は、<冥餓狼>から改め、<《冥/明(めい)》我狼>。

 

「しかし、この『廃棄兵器』だったものに、唯一適格であるのが、『欠陥兵器』と蔑まれた貴様だとはね」

 

 もう身体はほとんど残っていない。骸骨のように肉抜きがされ、頭部さえ半分ほど欠けている冥駕は、皮肉気に笑みをこぼす。

 もはや彼に槍を持てる手はなく。

 この陰陽の夫婦槍を手に取ることが許されるのは、覚醒した『混血』の少年。

 

「これは、あなたのために造った武神具ではない」

 

「ああ、わかっている。変えてはならないものを守るためだろ」

 

 絃神冥駕が、理想とした究極の武神具とは―――

 この世界にある、変えてはならないものを、守るためのモノ。

 

 かつて世界最強の人造の吸血鬼は、『聖殲』を終わらせた。

 そして、その“後続機”たる殺神兵器は、“狼”――壊してはならないものの守護者たる『真神(マカミ)』に至る。

 

 

「そうだ、それがお前の使命だ、<黒妖犬>―――いや、<真神相克者(ベナンダンテ・クライン)>」

 

 

 ―――殺神兵器、()完了

 最新の世界最強は今ここに更新される。

 

 

 

つづく

 

 

 

 おまけ

 人工生命体の後輩視点。

 

(状況確認。ようやく再会した先輩が女性の霊に取り憑かれているだけに飽き足らず、私との眷獣合体(マルコシアス)ではない強化パーツ(めいがろう)をもらっている。―――これは浮気判定か否か)



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黄金の日々Ⅶ

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

 進化とは、種が自然淘汰の中を生き抜くために、環境に適応していくための機能を獲得すること。

 つまりは、その時の最適化された生体を目指すものであって、必ずしも進化を重ねてきたからと言って生物としての戦闘的な強度が増していくというわけではない。むしろ、現環境下で不要と判断されれば、その機能に割り振らなくなり、退化する。

 

 古代超人種の『天部』は、現代の超能力<過適応能力>を優に上回る神通力を振るい、古代獣人種は、魔術が扱えて『龍族』にも匹敵する完全なる獣と化す<神獣化>が使えた。

 無限の“負”の生命力を有する吸血鬼種もまた、真祖という血統の源流に近しい『旧き世代』であるほど強力な眷獣を使役していると言われている。

 現代では、<神獣化>や魔術を使える獣人種はほとんど見られず、<過適応能力>の家系は代々その力が劣化していくと嘆かれている。

 

 世界変容の禁呪によって“神”の座から魔族へと堕とされた。

 下級種族(ニンゲン)の都合によって、都落ちの最下級へ引き摺り落とされた。

 その当時の――世界から抹消されていた、古代の死者達。

 『完全に復活を果たしている』と見るには、サルベージされた情報量がまだ足りない。

 実体を持った型枠(うつわ)描か(つくら)れても後は手抜きのように、深紅一色だけで塗り潰された―――そんな憎悪と憤怒のみを抽出した紅い影。

 意味のある言葉は話せないので獣のような唸り声しか上げられず、顔のつくりなど細部が不明瞭な再現度。無論、かつての力を発揮することも叶わない。

 

 故に、深紅の影法師の群は、魔族という泥沼に堕とし込まれたかつての至上種族としての格を取り戻すためにも、『棺桶』を目指す。

 

 

「―――待った」

 

 

 と<咎神の棺桶>に保存される叡智を求め、<蛇の仔>へ押し寄せる死者の軍勢の前に立ちはだかる少年がひとり。

 

「あそこは、お前らの眠る場所(おはか)じゃないぞ」

 

 まるで迷子に『こっちの道は違うぞ』とごくごく普通に指摘するような対応は、復讐に浮かれた熱狂に真っ向から水を差す。

 そんな日常会話レベルの交渉が成り立つ相手ではないとは、誰が見てもわかるだろうに、口より先に手を出さぬように躾けられたサーヴァントは、律義に確認をする。

 言葉だけでは止まらないはずの死者達。

 けれども、咆哮(こえ)ならぬ芳香が、足を止めさせた。

 

 特別に芳しいわけでも、蠱惑的な匂いと言うわけでもない。けれど遠い過去の記憶を呼び覚ますような、どこか懐かしい香り。

 その柔らかな芳香は、大事な何かをふと思い出させて、そして、黄金に輝いた日々の夢を与える、優しい風となって彼らの中を吹き抜けた。

 

 嗅覚は、感情や記憶と密接に繋がる感覚。そして、魂から浸透する芳香は、不完全に甦らされた死者達に、忘れていた原風景(こうふく)を引き出させる。

 

 狂騒を、ほんのひと時、縫い止める。

 憎悪と憤怒(アカイロ)しかなかった死者達に、無垢なる情動を取り戻さ(よみがえら)せる芳香。

 それに浸っている内に、言葉をもう一度投げる。

 

「この島には暮らしている人たちがいる。それでも、お前らはここを荒らすのか?」

 

 問いかけを、しかし、言葉ならない怨嗟が呑み込む。

 荒す? 否。滅ぼすのだ。復活を果たした暁には、魔族に堕とされた不名誉を、この『魔族特区』にいる生きとし生けるものの血で洗い流そう。

 

 この身は不完全。なれど、この質と量は国ひとつふたつ滅ぼしても余りある。

 次代を経るごとに劣化してきた現代種など、超文明に栄えた古代種(カミ)には敵わない。

 

 畏れよ、我々を!

 そして、知れ、怒りの日とは今この瞬間を指すのだと!

 

「……そうか」

 

 死者達は、一瞬とはいえ、全員の隙を晒させた、女皇の意に背かせたこの少年が危険な存在であると判断した。

 

 彼らにとっての同志は自分たちと復活をさせた王である<黒死女皇>のみ。

 この世界の一切が滅ぼすべき敵であると判断する彼らだが、それ故に、同族同士の結束は遥かに強い。軍隊蟻や蜂のような群体で一個とも呼べるような、死者の軍勢。

 起こされたばかりの彼らは、一斉に本能で理解していた。

 だからこそ、目の前にいる存在はただ一つの『個』であれど、自分たちに害なす凶悪な存在であると判断し、全力で叩き潰すと決めたのだ。

 そんな一()である故の結束力を持った古き神々(ひとびと)に対し、孤軍で挑まんとする少年は―――刷新された現代最新の殺神兵器。

 

「ああ、お前らの復讐はごもっともなんだろう」

 

 この太古の復讐者たちは、生命というより、存在でしかない。

 <黒死皇>の『死霊術(ちから)』を得ても100%に復活させることはできていなかった。いや、もっと言えば、復活などとは呼べない。素質は補強できても、<女教皇>は才覚が足りない。『死霊術』を本能的に理解している<黒妖犬>からすれば、『やり方が下手(ざつ)過ぎる』と酷評したいくらいのお粗末な出来。

 憎悪と憤怒(アカイロ)以外に入力(インプット)されていない彼らを説得するなど土台無理な話だ。

 だから、対峙する間際に訴えかけたのは、この戦争の意義を深めるための作業でもあった。

 

「社会で法を破ると罰せられる。だからって、無法で好き勝手やってれば、何があったって法に守ってもらえない。

 因果応報。やったらやりかえされる。

 でも、大切なのはその心だ。

 オレはその覚悟があるけど、お前らはどうなのだ?」

 

 返答はない。

 咆哮(ことば)芳香(におい)に惑わせる隙など作らない死者達に少年は障害でしかない。

 

「血も涙も流せないお前らに心はないんだろう。結局そういう無念は、誰かの血と涙を流したところで晴れやしない。慰めにもならない。むしろ余計にひどくなるんだ。誰かがいい加減に止めてやらないとキリがない。

 ―――だから、オレが受けて立つ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 最新の殺神兵器(みなみやくろう)は、“更新(アップデート)”されている。

 

 

 深紅に埋め尽くされんとする人工島に、陽の光が差し込むような――極光――そう喩えるに相応しい光景だった。太陽の光よりも煌々と輝き、満月の光よりも皓々と眩いは、まさに星光であり、それを纏う金色の人狼。

 <神獣人化>、だが以前のそれとは違う。

 神々しい色合いがより濃く、形容がより野生的に鋭く。そして、その力はより強く。それまでの<神獣人化>を遥かに凌駕する力がその身に集約されているのだ。

 

 ―――その腕の一振りで、真っ先に飛び掛かった死者の群、その全てが悉く、千切れ飛ぶ。

 

 ありえない。

 そんな単純な攻撃でやられるなどあるはずがない。

 何故ならば、この“身体(うつわ)”は、深紅の粒子――『聖殲』が浸透された魔力で構成されている。

 建物を塩の柱に変え、世界最強の吸血鬼の眷獣の力でさえ無効化する深紅の禁呪に、ブン殴るなど通用するはずがない。そのはずだ。

 

 『聖殲』を拒む『神格振動波』を纏っていたのか? ―――違う。

 これは、クロウが獲得した、純粋な、そして、絶対な“耐性”である。

 

「もうその『聖殲』の力(まっかっか)に慣れた」

 

 真なる咎神派・矢瀬顕重に『聖殲』を振るうための道具として酷使されてきた中で、徐々に、その身は世界変容の禁呪に順応していた。それが、『聖殲』により環境を構成される藍羽浅葱の電脳結界内で、完全なものへと仕上げられた。

 RPGのキャラステータスで言えば、耐性値がカンストしている。

 深紅の輝きを浴びようが、その世界最強の身体は不変。もう誰にも己が心を狂わ(かえ)せないために、それだけの免疫を得るまで――生物が新たな機能を獲得するまでの期間が一刻に凝縮された濃密な修行をしてきた。

 

「どれだけ時間が掛かったのかは覚えてないけど、オレが満足するまで体に叩き込んできて―――浅葱先輩が名付けてくれた『C抗体』っていうのを獲得してきた」

 

 『聖殲』が与えられている死者達は、その身を削るように魔力を絞り出し、深紅の弾丸を放つ。異能の力を奪う――かつて、死者達が神の座から堕とされた多面体の弾丸は、ハエでも払い落とすように、手で、払われて散った。当たったその手に何のダメージを与えることなどできずに。

 

「だから、もう『聖殲(それ)』のおかわりはいらない」

 

 『神格振動波』のように無効化するのではなく、『聖殲』の影響力を絶縁する――すなわち、『咎神(Cain)』の世界変容の禁呪に対する免疫――『C抗体』。

 

 そして、『C抗体』を獲得する過程で、世界変容の禁呪という環境の中でも変わらず存在することへの本能は、“生存し続けようとする進化”という副産物を産んでいた。

 『聖殲』に適応された結果、血の“情報”を高度に引き出し、潜在能力を極限まで発揮する。それが、<神獣人化>の形態をそのままに進化させていた。

 

 しかし、変化しているのはスタイルだけではない。

 存在自体が兵器であったためにこれまで持ち得なかった、武器があった。

 

「コイツの試運転もわかってきたしな。そろそろ上げていくぞ」

 

 金人狼の周囲を巡るように泳ぐ白と黒の夫婦槍。

 攻撃に転じる気配がまったくないが、それらは既に稼働している。

 

 ―――『陰陽魚螺旋転換術式』

 『陽極まれば陰となり、陰極まれば陽となる』という陰陽流転を形にした『零式突撃降魔双槍・改』――絃神冥駕が造った最後の武神具の力は、霊力と魔力の無効化ではなく、属性転換である。

 魔力を霊力へ昇華し、逆に、霊力を魔力へ昇華する。

 力を(ゼロ)にするのではない、()()を反転させてしまう。

 

 正を負に、負を正に。

 聖を魔に、魔を聖に。

 毒を薬に、薬を毒に。

 

 『陰陽魚螺旋転換術式』を攻撃に使えば、エゲつない威力を発揮するだろう。

 特に吸血鬼が“反転”されれば、無限の“負”の魔力は、“正”の霊力となり、己が力に焼かれる始末となる。

 そして、人間は魔族へ堕ちる。『零式突撃降魔双槍』の暴走事故の果てに、人工的な吸血鬼『僵屍鬼』となってしまった事例のように。

 しかし、完全な制御ができれば、『天使化』の段階を引き下げることができたかもしれない力。

 

 正の霊力と負の魔力を反転させても平気であり、存在からして清濁併せ持った『混血』だからこそ担い手となれて、真価を発揮することができる。

 

 雌雄一対で完成された武神具、<《冥/明》我狼>

 白と黒の双極は巡りながら、正と負の双方を兼ね備えた主を中心に渦を巻くように高まっている。

 万物に陰と陽があり、始まりと終わりがあるように、霊力と魔力の拮抗は生命の灯火そのもの。

 そう、“螺旋”とは、循環/転換するだけでなく、上昇/増幅する流れを指す言葉。

 『陰陽魚螺旋転換術式』により霊力と魔力は、属性を流転しながらも互いに共鳴し、永久機関の如く極限まで昇り詰めていく―――

 

 これこそが、『相克者(クライン)』。

 本来相反し打ち滅ぼし合うはずの双極の力を御すことにより、真祖と同じ理から外れた無尽蔵の生命力を引き出させる。

 どちらか一辺倒に傾いては、“器”の形を崩していただろう。<模造天使>の一例が示すように、力を極限に高め切ってしまえば世界にいられなくなったはずだ。

 だが、“正”と“負”の循環がバランスを取り、存在を中庸に安定させる。

 『世界最強の吸血鬼』の“後続機”は、同じ“無限”の――それも、“正”と“負”の両方の――力を、ここに得た。

 そして、

 

「オオオオオオオ―――ッ!!!」

 

 雄叫びに時空を震わせ、金人狼は漆黒を纏う。

 深く結びついたパスから引き出された、黄金鎧の裡に巣食っていた漆黒の獣の“皮”を『香纏い』する。単純に<転環王>の魔力が上乗せされただけではない。その時空歪ます<守護者>が鍵のひとつとして、<黒妖犬>は空間と一体となりながらもそれを御して自己を確立させる天人合一の境地――“器”が肉体に留ま(しば)らない“自由”な拡張に至らせていた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『!?!?!? <膝丸弐號>の魔力計測器(スカウター)が振り切ってしまったでござる!?』

 

 避難した超小型有脚戦車からの悲鳴のような実況を、優麻もその光景を見ながら聞いていた。

 加速度的に膨れ上がっていくその力は、『聖殲』で黄泉帰り(サルベージ)を果たした太古の軍勢全てを合わせた総力をも上回っている。

 しかし、あそこにいるのは、<第四真祖>となった幼馴染――古城ではない。無限の“負”の生命力を持った世界最強の真祖ではないのだ。

 

(末恐ろしいよ、古城。君の後輩は、本当に天井知らずに突き抜けていく……!)

 

 “更新(アップデート)”を果たした最新の殺人兵器。

 その三つの要因はまるで足りなかったピースが嵌ったかのように、理外の存在――<真神相克者>へと逸脱をさせたのだった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「どこからでもかかってこい。オレの全方位に隙無し」

 

 『棺桶』を守護する『墓守』を、深紅の軍勢は巨大な檻となって取り囲み、そして、一斉に雪崩れ込む。

 世界を鎮めた天罰に大洪水が、一極に集中されるかのような光景。

 

 その中心で、閃光が弾けた。

 

 無数に分裂した金人狼が、閃光と化して、太古の神々へと一斉に襲い掛かる。

 高速移動が生み出す残像や幻術などではありえない、すべてが本命。これは、『四仙拳』が繰り出す『神仙術』の一手、<真方二十四掌>。

 十干、十二支、八卦を織り合わせた二十四の要素で360度を分割した二十四の方位に分かれた多重空間からの完全同時攻撃―――

 

 いや、これを南宮クロウの師父であり、<真方二十四掌>を見稽古させたことのある<仙姑>の笹崎岬に見せれば、軽く手を振って苦笑されるだろう。

 『全然違ってたり』、とこの弟子の天災じみた天才ぶりに驚きを通り越して呆れ果てたに違いなく。

 

 何故ならば、まず金人狼が二十四よりもはるかに多いのだ。

 十倍よりも上――もし、全てを数えられたものがいれば、三百六十の多重空間(クロウ)を確認できたことだろう。

 二十四の真方に区切らぬ全方位から繰り出される多重空間同時攻撃。この<四仙拳>をして人間業じゃないと称する埒外な技を名付けるとするのならば、<全方三百六十掌>。 電脳結界内で、修行の効率を上げるために途中から多重空間に増やしていたクロウは自ずと思考の多量並列演算処理が磨かれていった。加えて、<空隙の魔女>とパスを、その魂を結び付けるほど深くに繋がった<黒妖犬>は、精神体の維持だけでなく、“空間(せかい)制御す(すべ)る感覚”をも獲得している。

 その結果、師父越えを果たしてしまった技。

 ―――そこから更に、『零式突撃降魔双槍・改』で増幅された正負の生命力でもって『八将神法』の限界突破の身体強化を施しながら、一打で終わらず『八雷神法』の八手を繰り出す白兵戦術混成接続。

 

 

「―――<万雷(よろず)>!」

 

 

 方位全てを網羅した雷光が精密誘導ミサイルの如く襲撃する。

 一対一の白兵戦において世界最強の獣祖が数百と増やして、数倍に身体増強して、一撃必殺を数度放つという出鱈目な攻撃。単純計算で仮定すれば、360×8×8=23040――と万を超える破壊力となる。しかも、魔力も霊力も通じない深紅の障壁に護られていようが、『C抗体』保有のその肉体は『聖殲』を絶縁し、お構いなく障壁を貫通してくる。防ぎようがない。

 成長を続ける最新の殺神兵器は、過去の栄光を求めた太古の神々を瞬く間に絶滅させた。

 

 

「―――行動推奨。合流するなら今です」

 

 

 その感情(いし)が表には見えない人工生命体の少女の号令に、ハッとして超小型有脚戦車の操縦手は発進させる。

 戦況に介入できる機会をうかがっていたが、今この瞬間こそ、事態のキーとなる藍羽浅葱の救出の好機(チャンス)だ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 太古の死者の軍勢を一蹴した。

 空白地帯となった後に駆け込む深紅の走行車両。

 “匂い”は既に把握しているし、向こうの接近を拒む理由もない。

 ちょうど人の手を借りたかった所でもある。

 手を挙げて彼女らに応えようとしたクロウ、よりも早く差し込まれた声。

 

「―――確認。……先輩は、先輩ですか?」

 

 第一声を発したのはアスタルテだった。

 感情が表情に出難く、自分が前に出るという習性がない人工生命体の少女が真っ先に訊ねる。こういう会話は社交的な優麻の分野かと思ったが、そういう彼女も少し驚いているようで、けれど、邪魔しないように口を閉ざす。

 クロウはジッとこちらを見つめる後輩に、こんな異常事態でなければ言いたいことは山ほどあるし、謝らなければならないと思っている。

 しかし、それよりも、今、安心させてやることが何よりの先決と判断した。

 何せ、ついさっきまで、この肉体に別人(とうか)が取り憑いていて、さぞ驚いたことだろうから。

 

「ちょっと様変わりして驚いたかもしれないけど、今のオレはアスタルテの先輩の……いいや、超先輩になったスーパークロウなのだ!」

 

「はい、先輩ですね。その発言は、間違いありません」

 

 ホッと胸を撫で下ろしたアスタルテ。それはいいのだが、どうにもこの後輩は自分の頼もしさよりも別の要因で確認を済ませた感じがして、クロウは『あれ?』とちょっと首を捻る。

 それはとにかく、クロウは背後の、両の手足と首を殻の中に引っ込めたまま固まってる<蛇の仔>へ視線を振って、

 

「リディアーヌ、優麻、浅葱先輩を助け出してくれないか? あっちに身体を置いてなかったオレはとにかく、身体を置いている浅葱先輩は自力じゃどうにもこうにも出れなくなっちまったみたいでな」

 

『なんと! それは女帝殿も大変でござるな!』

 

「タラスクの中は浅葱先輩がご主人のも取り込んで作った電脳結界があるんだけど、空間とか時間とかがしっちゃかめっちゃかになってるのだ。だから、入る時は気を付けてくれ」

 

 とんでもなく散らかったゴミ屋敷を指差すような物言いだが、清掃業者のような心構えではダメだろう。実際は呪われた王墓(ピラミッド)に挑む発掘隊くらい危険度があるに違いない。

 

「それで優麻、中のごっちゃになった空間をどうにかできないか。外に電波が繋がれば、リディアーヌが浅葱先輩から詳しい説明を受信できると思う」

 

「どうにか、ね。とんでもなく大変なのは、わかったよ。うん、何とかしよう」

 

 今現在の<蛇の仔>の内部は<空隙の魔女>の異空間であり、<電子の女帝>の電脳結界。<女教皇>にも深奥に手出しできないほど荒れているが、彼女たちは電子と空間制御のスペシャリストだとクロウは信じている。

 そして、己の役目は、守護―――

 

「こっちは、オレ」

「―――私も付きます。戦車内部の搭乗人数は二名と伺っておりますので、私はこちらに残るのが正解だと判断します」

 

 言って、了承など取る前に、人工生命体の後輩は戦車から飛び降りた。クロウの傍へと、定位置(とうぜん)のようにつく。

 内部の潜入は、困難だろう。だが、これから相手の本丸を落としに行くのと比較すれば危険ではない。

 『聖殲』の業火を<薔薇の指先>が防げなかったことを考えれば、アスタルテは戦闘行為を回避するのが正解のはず。

 

「何より、あなたには私の補佐(サポート)が必要です」

 

 じっと見つめられる。

 傍から見ると彼女の表情の変化はまったく読み取れるものではないが、その口ほどにものを訴えてくる目力に先輩は白旗を上げた。

 

「オレ、とアスタルテでばっちり十分なのだ」

 

「わかった。ここは君達に任せるよ。じゃあ、相乗りさせてもらうよ、<戦車乗り>さん」

 

『魔女殿、<膝丸二號>に搭乗されるなら是非ともこのほとんどスクール水着(パイロットスーツ)を着てくだされ! 窮屈な操縦席でも快適に過ごせるでござるよ!』

 

「はは、この土壇場でドレスコードを守る余裕はないかな」

 

 一人(やぜ)は除いてだが、揃ったチームはそれぞれの役割を果たしに行動を開始する。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「終ワラヌ! 我ガ憎悪ガコノ世界ヲ染メ上ゲルマデ!」

 

 巨大な質量と、獲物を襲う猛獣のスピード―――そこへ煉獄に熱せられた紅き爪の鋭さが掛け合わされれば、あらゆるものを切り裂く絶対の切断力が生まれるか。

 しかし、その特攻は、技とすればお粗末。猪突猛進を捌くのは、剣巫には容易い。

 昼休みに自分以上のパワーとスピードを持った同級生との組手で磨かれた感性は、黒狼の攻撃を一度も掠らせず。

 

「霞よ―――」

 

 幻術と体術を複合させたその動きは、復讐者を翻弄する。

 己の幻に飛び掛かった<黒死女皇>、晒された隙を逃さず、姫柊雪菜の<雪霞狼>は閃く。

 

「―――<雪霞狼>!」

 

 『七式突撃降魔機槍・改』―――この時代において、何よりも発展した技術の粋が積まれた未来からの武神具。根本の術式構造は既存の『七式突撃降魔機槍』と変わらなくても、相性の良い獣祖の牙によって補強が成された銀槍は、<模造天使>の過剰負荷(オーバーロード)にすら耐え切る。

 斬りつけたその瞬間に、解放した『過重神格振動波』の神気は、切断面から青白い光を溢れ出す。

 

 火達磨となったように全身に『聖殲』の障壁を纏っていたが、深紅の粒子は高次空間より浸透する清澄なる波動に剝がされた。

 

「―――疾く在れ、<牛頭神の琥珀>!」

 

 魔力も霊力も物理も無効化する邪魔な障壁も消えてるこの瞬間を逃すまい。

 牛頭神(ミノタウロス)が吐き出した溶岩が巨大な斧となって黒狼のどてっぱらを薙ぎ払う。

 

 最初は驚いたが、クロウとさっきやり合ったのと比較すれば、大したことがない。たとえ性能が同じであったとしても、その動きは大雑把。暴走している後輩にも劣る。つい先程、目にも止まらぬ暴威に滅多滅多に凹された古城には、目が慣れてしまってる動きだ。それは姫柊雪菜も同じ。『聖殲』さえ除ければ、<第四真祖>の力で圧倒できる。

 

「いえ、ダメです先輩。再生します」

 

「くそっ! これで何度目だ畜生!」

 

 『聖殲(アカイロ)』が『過重神格振動波(アオイロ)』を塗り潰して払拭すると、牛頭神で与えたダメージがなかったように修復された。

 それ以前に、まともに天災を集約させたかの如き一撃を食らったというのに、真っ当な苦しみや恐怖が存在していない。『アベルの巫女』の感情はドロドロの溶岩にも似て、それ以上に熱い。そもそもだ。復讐に狂う獣は、痛苦を自覚するような状態ではない。

 

「終ワラヌ。コノ島ヲ滅ボサヌ限り、妾は絶滅セヌ―――」

 

 協力して幾度となくダメージを与えようが、不滅なる<黒死女皇>。

 自動蘇生から状態回復に全回復まで完備された魔王(ラスボス)など、ゲームだったらコントローラーを投げているところだろうが、ここで匙を投げるわけにはいかない。

 

「姫柊、『龍脈喰い』の時みたいにできないか?」

 

「難しいです。『龍脈喰い』とは違って、一ヵ所からではなく、無数に網を張り巡らせて魔力を搾取しています」

 

 どこを切れば供給源が断たれるというわけじゃない。

 そして、古城たちにも限界がある。霊視力で後の先を取っていようが、最前線で相手の猛攻を捌く雪菜は特に体力の消耗が激しいはずだ。古城も実体化妨害(ジャミング)に曝されながらの眷獣召喚は相当に神経を使っている。

 

 なにか……状況を変えるなにかがないか―――そう思った時だった。

 

 ざわり、と古城の血――<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈が、訴える。

 真祖に匹敵する生命力の波長を覚えた眷獣が一斉に騒ぎ出したのだ。ともすれば、目前の<黒死女皇>など無視して向こうに脅威を覚えたほどに。

 

 そして、古城の背筋が粟立った次の瞬間。

 黄金の万雷に、深紅の大群は一掃された。

 

「ナニ―――!?」

 

 <黒死皇>の『死霊術』、<女教皇>の『聖殲』によって蘇らせた太古の神々。<咎神の棺桶>の叡智を略奪するために侵略する大群を、全滅。

 ありえない! 妾の――妾たちの憎悪と憤怒、それが蝋燭の火のように、一息で吹き消される真似などあってはならない!

 

 数多の属性を持つ『世界最強の人造の吸血鬼』、『聖殲』を打ち消す銀槍を携えた『メトセラの末裔』を第一に取り除くべき障害と見なしていたが、それ以外にそれ以上の存在がいたというのか―――

 

「許サヌ……妾ノ同胞(ハラカラ)ヲ二度モ絶滅サセルナド……!」

 

 絶叫と共に噴き上がる深紅の業火。

 荒ぶる激情に増した熱気に後ずさった古城たちの前で、<黒死女皇>は黒狼の形態から更なる変貌を遂げる。

 

 朧気だった漆黒の靄が圧縮されて凝固。

 頭上に角が七つ生えて、顔面に無数の亀裂が走ったかと思えば、七つの血走った眼球が見開いた。

 

 その様は、七つの角と七つの目を持つ、地上の王国の滅亡と神の国の到来を示す『黙示録の仔羊』。

 奈落の闇よりもなお深くて昏い、悍ましいその存在感。

 羊の皮を被った狼の形態は、羊飼いであったアベルを冠する『巫女』に相応しく、取り込んだ力をよりモノにしたことの体現であったか。

 

「来タレ!」

 

 雷鳴のような召喚(こえ)に応じ、三次元に盛り上がった影から氾濫するかのようにソレは来た。

 

 白い馬に跨り、弓矢を持つ『白い亡霊騎士(ホワイトライダー)』。

 赤い馬に跨り、大剣を持つ『赤い亡霊騎士(レッドライダー)』。

 黒い馬に跨り、天秤を持つ『黒い亡霊騎士(ブラックライダー)』。

 青い馬に跨り、呪詛を持つ『青い亡霊騎士(ペイルライダー)』。

 

 侵略、内乱、飢饉、死―――それぞれが人類の破滅を象徴する馬とその乗り手。

 大群ではない。たったの4騎。だが、この4騎は、復讐者が呼び寄せた無念をひとつにまとめた集合意識が、存在から現象と化した怨念。万に割いていたリソースを注ぎ込んで造り上げたのは、武器と飢饉と疫病と野獣によって、地上にいる霊長類の四分の一を殺害するだけの力が与えられた四騎士。

 

「っ!」

 

 一斉に駆け抜ける白、赤、黒、青の騎兵の突進(チャージ)は、破魔の銀槍でもってしても容易に払えぬ強度と密度。傍から雪菜が離された古城へ『黙示録の仔羊』の七つの目が紅く輝く。

 

 すべてを塗り潰せずにおかぬ禁呪の火力。

 迸る血のように深紅の業火は、空気中の一分子とて例外でないというように、圧倒的に徹底的に、全てを鏖殺する。

 真祖の肉体と言えども、これを喰らえば、血など一滴残さず蒸発して火葬されただろう。

 

「疾く在れ、十番目の眷獣、<魔羯の瞳晶(ダビ・クリユスタルス)>―――!」

 

 『黙示録の仔羊』が四騎士を召喚するのと同時に、古城もまた召喚のための魔力を練り上げていた。

 銀水晶の鱗を持つ美しい魚竜、その山羊に似た螺旋状の水晶柱(つの)の輝きに魅入られたかのように、仔羊と四騎士が動きを止めた。

 吸血鬼の『魅了』を司る<第四真祖>の眷獣。

 その力は、『アベルの巫女』をも支配した―――しかし、完全ではない。

 復讐者の想念は、『魅了』の魔力すらも焼き尽くさんと七つの目から深紅の光を、より強く迸らせた。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る!」

 

 しかし、この数瞬で雪菜が『七式突撃降魔機槍・改』で障壁を張るのが間に合った。

 

「雪霞の神狼、千剣破(ちはや)の響きをもて楯と成し、兇変災禍を祓い給え!」

 

 凄烈な声音で高らかに祝詞を唱え、銀槍を基点とした直径約5mほどの半球(ドーム)状の障壁を展開。

 人間の限界を超えた膨大な神気で築き上げた聖域は、苛烈な業火の侵略を阻む。

 

「姫柊!」

 

 境界線を敷かれてるかのように、一線を引いて鬩ぎ合う深紅と蒼白。

 無茶だ。いくら銀槍から神気を引き出せたところでその呼び水となる霊力は雪菜自身のもの。有限なそれを髄まで振り絞って、拮抗しているのだ。

 向こうは、龍脈からいくらでも無限に魔力を引き出してくる。ならば、この我慢比べで押し切られるのは決まり切っている。

 徐々に、徐々に、最終防衛線は押し込まれていき―――

 

 

「―――獣祖(ビースト)モード。限界突破(リミテッド・ゼロオーバー)、<薔薇の猟犬(ロドダクテユロス・オルタ)>」

 

 

 虹色に輝く()()が、拮抗状態の形勢を逆転させた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――提案があります」

 

 『聖殲』に、<薔薇の指先>は通用しなかった。

 対抗する術もないまま戦闘に突入する程、無謀なことはない。

 アスタルテは足手纏いになるつもりはない。

 ただし、思いついた打開策は、どうしても彼の助けを必要とする。

 

「現状、<薔薇の指先>では『聖殲』に抗するほどの力はありません。ダメージがあり、消耗しております。そこで、以前のように先輩の精気を補給させてくださいませんか?」

 

 淡々とした要求。

 じっと見つめる彼の瞳はこちらから逸らされることはなく、そして、彼なりに説明を頭の中で咀嚼してから彼なりの言葉に変換されて確認される。

 

「う。つまりは元気を分ければいいんだな」

 

「肯定。ですが、先輩に負担がかかる手段です。わざわざ私に分ける必要性は薄く、まして支障をきたすようでは意味がありません戦力差を比較しても補給した分に見合うだけの成果を発揮できるかは未定でハイリスクローリターンですので―――先輩自身の判断にお任せいたします」

 

 自分から要求しておきながら、それを否定するような言葉の羅列を並べていき、最後の方など、耳に早口になって打ち切ってしまった。

 

「何、そんな心配するな。今のオレは元気百倍なのだ。遠慮なく持っていくといい」

 

 と先輩はごくごく普通に受領した。

 汚名返上名誉挽回! とまったく不必要なことに燃える先輩は胸を太鼓のように大きく叩いてみせるアピールするが、逆に不安になる。

 本当にこちらの説明を理解しているのだろうか? と思うが、そこを指摘するような台詞は――少しでも心変わりをさせてしまいそうな言葉は、アスタルテの口からは出せなかった。

 

「それで、どうすればいいのだ?」

 

 精気の補充。

 それの代表的な一例を挙げるのならば、吸血鬼。性的興奮を覚えた異性に、吸血衝動のままにその血を啜る行為。それは、補給する吸血鬼の一方的な搾取であって、補給される側の気分の高揚までは必ずしもなくてはならない話ではない。

 だが、こうもどうぞどうぞとご親切な対応を返されては、それを表情に出すまでにはならないが、いささか、不満を覚えてしまう。彼にしてみれば補給行為で真っ先に連想されるのは、飲食行為――花よりも団子な性格は重々に承知済みだとしてもだ。

 いや、血の従者であっても人工生命体(アスタルテ)の補給様式には関係のない話であるが。

 

 アスタルテの眷獣<薔薇の指先>の『神格振動波駆動術式』は後付けで植え付けられたものであって、元々の能力は精気吸収(エナジードレイン)。接触した相手から精気を奪うもの。

 儀式のような手順は必要なく、決して感情に左右される行為ではない。

 

「……あの時のように、抱きしめてください」

 

「わかったぞ」

 

 ちっとも躊躇なく、だけど、そっと優しく抱きしめられる。

 小柄で華奢な身体はすっぽりと腕の中に納まって、全身に伝わる温もりが、彼の実在を確かに教えてくれる。

 もしかすると、この要求は、その無事を五感ではっきりと確かめたかったがためのものであったかもしれない。

 そんな心底の安堵を、敏感なる鼻は嗅ぎ取ったことだろう。

 今はまだ胸に仕舞ってあるその罪悪感を少し声にして耳元に落とす。

 

「アスタルテ、ごめんな。すごく、心配をかけたと思う」

 

「……全くです。一体どれだけ迷惑をかけたのか、わかっているのですか?」

 

「う、反省してる。これが終わってから、罰は受けるつもりだ」

 

「否定。先輩は、わかっていません」

 

「む……? ……??」

 

 特別な鼻があるのに、気づかない。

 この左胸の鼓動が高鳴る理由――その根源たる特別な情動には。

 これを芽吹かせた当人であるくせに、誠に残念ながらこの先輩は唐変木であるからに。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 そうして、ごっそりと――少しばかり罰の意味も込めてわりと遠慮なく補給した。

 植えられた寄生型人工眷獣は、『混血』という矛盾を孕んだ生命力に想定以上に活性化される。

 

 

「―――獣祖(ビースト)モード。限界突破(リミテッド・ゼロオーバー)、<薔薇の猟犬(ロドダクテユロス・オルタ)>」

 

 

 虹色はより色が鮮やかになり、形態が人型から獣のものへと変わった。

 

「アスタルテなのか……!?」

 

 そして、放たれるのは、古城が目を剥いて驚くほどの高純度の神気。

 アスタルテもまた、<第四真祖>の血の従者である。ならば、姫柊雪菜のように、過剰な神気を処理して『天使化』を抑えることができるだろう。

 しかし。

  “負”の魔力で構成される眷獣が、“正”の霊力の極致たる神気を身に纏うという矛盾した事例。それは<模造天使>というよりも、<黒妖犬>の<神獣人化>に近しい。名付けるとすれば、<模造聖獣(ケルビム・フォウ)>―――

 

 そして、<雪霞狼>に刻印された『神格振動波駆動術式』を参考にして完成された<薔薇の指先>の『神格振動波駆動術式』、また“とある獣祖の牙”が銀槍の核を補強していて<薔薇の猟犬>は『混血』の生気を吸収して進化されたものであるのだから、神気の親和性は極めて高い。

 銀槍と猟犬の障壁が、『黙示録の仔羊』が放つ深紅の業炎を跳ね返す。

 

「人形如キガ、懲リズニ妾ニ逆ラウ真似ヲ……!」

 

「否定。私は人形ではありません。―――執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の猟犬>」

 

 ばっふぉ!! と業火のカーテンを引き裂く空気の音と共に突き破ってくるのは、勢いそのままに迷わず真正面から反撃に出た虹の猟犬。

 全ての重さと速さを載せてクレーンの鉄球じみた勢いで突撃する。拮抗は一瞬。仔羊の皮を被る黒狼は、真後ろへ吹き飛ばされる。

 

「舐メルナ! 我ガ騎士達ヨ! ソ奴ラヲ滅ボセ!」

 

 白の騎士は、魔術的に風の属性を意味する正八面体(オクタヒドロン)を。

 赤の騎士は、魔術的に火の属性を意味する正四面体(テトラヒドロン)を。

 黒の騎士は、魔術的に土の属性を意味する正六面体(キューブ)を。

 青の騎士は、魔術的に水の属性を意味する正二十面体(イコサヒドロン)を。

 

 『黙示録の仔羊』の号令に、それぞれが深紅に染まった四種の大型元素結晶(エレメンタル)を造り上げて、超々大暴風、高熱火炎、金剛石塊、高圧水塊などといった『聖殲』に染まる災厄を解き放つ。

 

 

「―――ようやく、使い方がわかってきた」

 

 

 瞬間、迫り狂う風火土水の災害が、深紅の粒子となって霧散した。

 

「―――クロウ!」

 

 アスタルテに続いて、現れた援軍は、味方につくのがこれほど頼もしいことはないと実感した後輩だ。

 

「ん。オレにはこうする方がしっくりとするな」

 

 宇宙のように黒い影を纏い、太陽のように温かい金色の人狼は、その両腕に白と黒の短槍を添わせていた。

 その使用法から気配すら様変わりしている雌雄一対の武神具を見た雪菜が目を瞠る。

 

「あれは、『零式突撃降魔双槍』……?」

 

 二つの無機質な槍が金人狼の両腕につき、穂先に魔法陣を展開しながら結晶化された魔力と霊力が有機的な爪を顕現している。

 

「ああ、これは変えてはならないものを守るためにもらった力だ」

 

 『零式突撃降魔双槍・改』には、『陰陽魚螺旋転変術式』が組み込まれており、そして、世界変容の禁呪の知識を持ちながら、それを打ち破る手段を構築させた鬼才の武神具開発者の方式(いのり)が書き込まれていた。

 

 黒槍に走る亀裂より溢れる真紅の粒子が、穂先を揃えた手の甲から腕へ―――

 『C抗体』を獲得した『混血』の魔器・霊的回路(ぜんしん)を駆け巡り―――

 白槍の蒼き波紋から、透き通るような蒼褪めた白金色(プラチナ)の波動が放たれる―――

 

「アリ得ナイ……! 『聖殲』ヲ打チ消スコトナド!?」

 

 復讐者の深紅は世界を変容させることなく、煌々と凄まじい光量を放つ極彩色の波動を前に退色されていく

 この白金は、『神格振動波』から高次元に流入する神気ではない。

 『聖殲』の魔力のみに干渉して打ち祓う、逆位相の力。

 

 逆位相の魔力をぶつけて魔力を打ち消す『魔術消波(マジックミュート)』の原理は確立されている。

 しかし、世界中の軍事研究者や魔導技師が未だに実用化できずにいる技術で、その机上の空論を『聖殲』に対して行う。

 『陰陽魚螺旋転変術式』は、『混血』の永久機関というだけでない、あくまでそれは前段階。膨大な魔力を必要とする『聖殲』を行使できるようにするためで、そして、それから本命である『聖殲』を反転させた、逆位相の力の精製を成す。

 ―――『聖殲消波(Cain Curse Counter)』、絃神冥駕が残した“対聖殲”の力であり、<真神相克者(ベナンダンテ・クライン)>の真価である。

 

 ……いや。

 『聖殲』の逆位相となる魔力―――それは、『聖殲』の魔力を『陰陽魚螺旋転変術式』に通して精製するのだとすれば―――その元となる『聖殲』は何処から持ってきた??

 

「ッ、貴様、マサカ妾ト同ジ、『聖殲』ヲ御スル資格ガ……」

 

「ああ、オマエと同じだ」

 

 そう、過去に一度、『聖殲』に巻き込まれて命を落とした『アベルの巫女』は、世界の変容に対して強い抵抗力を持つようになった。伝染病に対する、免疫のようなもの。だから、『聖殲』を制御できる。

 であるのならば。『聖殲』に対して絶対の耐性を持つ『C抗体』を獲得した南宮クロウにも『聖殲』を制御する資格はあるのではないか。

 『墓守』として『棺桶』の代用ができ、『祭壇』の魔力を確保できている。『零式突撃降魔双槍・改』は、『咎神』の遺産が元となっている武神具だ。

 ―――足りなかった『巫女』の資格の代用となる『C抗体』を得た結果、単独で『聖殲』の魔力を行使する材料がすべて揃ったのだ。

 

「そして、この世界も同じだ。オマエのいた時代(ころ)とは変わってしまっていても、オマエが守りたかったモノと何ら変わらないモノがある。だから、オレはそれを守る」

 

 『アベルの巫女』の黒い殺意を湛える瞳は、まるで地獄に続いているかのようだった。

 奈落へ通じる深い穴が開いている。感覚的に彼女の中に、何かどす黒いものがわかだまっていた。ドロドロとして腐臭を醸し出すそれは、クロウが理由もなく敵対視されたときに感じる想いを、もっともっと凝縮したモノのようにも思えた。

 哀しい、と思う。

 

「浅葱先輩のようにとはいかないけど、それでもオマエの『聖殲』くらいは抑え込める」

 

「咎神ノ末裔ニ使ワレタ道具ノ分際ニ……! 妾ガ創ッタ騎士ガ劣ルハズガアルモノカ……!」

 

 屈辱に震える怨嗟の声。

 <黒死女皇>は、接続した龍脈から更に魔力を吸い上げて、<《冥/明》我狼>の『聖殲消波(C.C.C)』に対抗しようとしている。

 だが、それは悪手。

 四騎士の『聖殲』を消しているのではない。正常に発動している。『零式突撃降魔双槍・改』が、逆向きの魔力を全く同じ強さでぶつけているから、結果として、発動していないように見えるだけなのだ。

 喩えるなら、高級な耳栓を着けているせいで、スピーカーの音が聞こえていない状態だ。

 では、音が聞こえないからと言って、その状態で、スピーカーにかかる電圧を限界以上に上げてしまったらどうなるか―――

 

「人を呪わば穴二つ―――浅葱先輩も言ってたけど、力に振り回されるとロクなことがない」

 

 哀れむように呟いて、クロウが『聖殲消波(C.C.C)』を解除した。

 遮断されていた膨大な魔力が、四騎士が掲げる元素結晶へと一気に流れ込む。

 その凄まじい魔力量に、深紅の結晶体は耐えられなかった。結晶内部に封入された魔術の媒体が悉く吹き飛び、魔術配線の全てが焼き切られる。

 そして、逆流した過剰な魔力に、四騎士を構成する万の死者の“情報”が木端微塵に爆ぜた。

 

「貴様ァァァ―――ッ!!!」

 

 過負荷の逆流は<黒死女皇>にまで届く。『黙示録の仔羊』を構成する七つの角、七つの目の半分以上が爆ぜ散って、龍脈と繋いだ魔力回路までズタズタにされる。

 その隙を逃すクロウではない。

 

「<《冥/明》我狼>―――!」

 

 双槍両腕より結晶化されるほど濃密に圧縮された爪が閃く。

 最短最速で距離を詰めて、黒き(ツメ)が空間そのものを並行に引き裂くよう横薙ぎに。次いで、白き(ツメ)を縦に。まるで居合の達人のような、鋭い斬撃を孕む恐るべき陰陽交差。五指が描いた格子状に、白と黒が融け合わさった光が弾ける。

 ゴッ!!! という太い爆音が遅れて耳に届く程だった。

 漆黒の巨体が、分割。細断。

 

「―――! クロウ君ッ!」

 

 

 ―――そして、カタチを崩した。

 

 

「クロウッ!?」

 

 『アベルの巫女』が、“器”とする捕食型人工生命体(バルトロメオ)

 形無き粘体(スライム)の暴食機能は、取り込み、喰らった存在を、侵食して我が物とする力の簒奪。『聖殲』により上書きされて、対策不可能。

 本来であれば<咎神の棺桶>に囚われた『カインの巫女』に行使するはずの、奥の手の切り札である、番狂わせの大物喰い(ジャイアントキリング)

 

「許サヌ許サヌ許サヌ! 汝ノ力、全テヲ奪ッテヤル! 妾ヲ虚仮トシタ罪ヲ妾ノ中デ贖ウガイイ!」

 

 深紅の粘体が頭から金人狼を呑み込む。

 一瞬早く、霊視で察知した雪菜が声を発したが間に合わず。

 

「クロウを吸収しちまったのか!?」

 

「ソウダ! 『墓守』ヲ吸収シ妾ノ力ハ何者ニモ敵ワナイ! <咎神ノ棺桶>モ、<カインノ巫女>モ不要ダ! サア、咎神ノ末裔共ガ創リ上ゲタ殺神兵器デモッテ、コノ世界ヲ滅ボシテクレヨウ!」

 

 まずい!

 これまででも『聖殲』を行使してきた『アベルの巫女』が、『墓守(クロウ)』を取り込んでその権限を得たらいよいよ手がつかなくなる。<黒妖犬>を敵に回せばどうなるかなんて古城は身をもって知っている。

 だが、<第四真祖>の眷獣に吸収されたクロウを避けて、<女教皇>のみを討つような器用な真似は期待できない。

 

 

「問題ありません。―――先輩は煮ても焼いても喰えないことをお忘れですか?」

 

 

 焦る古城らへ、アスタルテが告げる。

 そして、揺らがずに見据える藍色の眼差しに篭められた期待を、裏切らない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 何もかもが黒く染まった世界。

 全てを一色に塗り潰した、自分だけの世界。

 奪い取ったものを皆、自分の色に染め上げた証。

 この永劫の悲嘆と怨嗟で満たされた闇を、『聖殲』の力でもって現実の世界に投影する―――

 

 

「―――見つけたぞ」

 

 

 ゾクリ、と震えた。

 自分の世界に、自分以外の声。気配に反応して振り向いた先に、一瞬の遅滞(ラグ)のあと、眩い光が走る。

 

「馬鹿な……。精神体となって……妾の中に侵入して来たというのか!!!」

 

 闇を――この永遠の夜を終わらせる、陽光の如き金色が、『アベルの巫女』を捉えた。

 

「ああ。このまま壊しちまったら、その“(からだ)”を道連れにしちまうからな」

 

 その鼻は、捕食型人工生命体が取り込んできた履歴(かこ)の一切を嗅ぎ取っていた。人工生命体の少年少女や自分を兵器としていいように利用してきた魔導打撃群まで。

 

 そして、クロウは己の精神を“匂付け(マーキング)”した。

 記憶と情動に深く結びつく『嗅覚過適応(リーディング)』の発香側応用。浸透させた“器”に精神体を潜り込ませる。

 コンピューターに感染したウィルスを除去するワクチンソフトのように。

 

「何故だ……!? 『聖殲』で妾のものとして、上書きされたはず……!」

 

「言ってなかったか。<《冥/明》我狼(やり)>とは関係なく、オレの心が、真っ赤っか(せいせん)は効かないって。―――オレはもう誰の道具にはならない」

 

 来る。

 来る。

 来る……! 狼が、来る……!

 

「これで、オレとオマエは同じ土俵同じ条件―――ハンデなしに思いっきり戦争(ケンカ)ができるぞ!」

 

 全身傷だらけの黒髪の少女は、全身に巻き付けた粗末なローブを引き延ばすように闇色の侵食を拡げる。

 

「来るな!」

 

 だが、金人狼はそれをものともせず引き千切ってくる。

 

「来るな来るな来るな! 妾に――私に近寄るな!」

 

 爛々と光る双眸は、暗闇に溶け込むこちらから決して離さず、最短最速で接近してくる。指一本ほどの距離まで近づいて、右手を振り上げた。

 

「お前は恐怖ってのを忘れてる」

 

 息を吸って、

 

「だから、拳骨(こいつ)で思い出してこい!」

 

 クロウは右手を突き出す。

 

「ウ・ガ・アア・アア・アアアア・アアアアアアァァァァ!」

 

 そして、原形を保てなくなったように、少女の姿はゆらゆらと掻き消えていった。

 砂でできた像が、風にさらされたようでもあった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――クロウ!」

 

 捕食型人工生命体はこの肉体を呑み込んだみたいだが、如何に『聖殲』であろうとも上書きできぬ『C抗体』を獲得した『壊毒()』は、喰らいつけば、逆に食らい尽される。吸収などできない。深紅の粘体は、固体から気体へ昇華するように、痕も残さず蒸発した。

 

 そして、盛大な血霞の中には、その手に捕食型人工生命体に取り込まれていた者たちの身柄をまとめて引っ張り出してきたクロウが立っていた。

 それから、もうひとつ。

 捕食型人工生命体を依代としていた、傷だらけの少女の亡霊が飛び出してきた。

 

 

「ほんと、大変だったわよ。でも、しっかり仕返しの準備は整えてきてるけど―――行くわよ、モグワイ!」

『ククッ、了解だぜ、嬢ちゃん!』

 

 

 猟犬に追い立てられて逃げてきた『アベルの巫女』は、ちょうどそのタイミングでやってきた超小型有脚戦車――無事に身柄を救出された藍羽浅葱に見つかった。

 無造作に開いたノートPCを、ネイルでカラフルに彩った指先で、滑らかにキーボードを打ち込んでいく。

 途端、“器”を抜け出した思念体の『アベルの巫女』は、その身体を構成する深紅の粒子がさらさらと崩れて形を変えていく。美しくも醜い少女の姿から、少し不細工なぬいぐるみ型のアバターへと。

 

「さ、やるべきことはパパッとやっちゃうわよ」

 

 続けて、モグワイと呼ばれたアバターから、深紅の弾丸がいくつも放たれて、破壊された倉庫街から絃神島全土へ流星のように深紅の欠片が降り注ぐ。

 次の瞬間、崩壊していた建物が、戦闘で残った破壊の爪痕が―――深紅の輝きに包まれて一瞬のうちに修復されていく。『聖殲』による世界の変容でもって、破壊された街を再生したのだ。

 人工島を侵略した『アベルの巫女』よりも遥かに速く、広範囲に。これこそが、正統なる『カインの巫女』の力であった。

 

 

「これで、やっと……一件、落着か……?」

 

 浅葱によって元通りになっていく街並みを見ながら、呆けたように古城は呟いた。

 捕食された人たちから手を放したクロウが、そのまま膝をつく。全てを出し切った、脱力。消耗し切ったその弱々しい様に、古城の心臓が、ドクン、と激しく脈打った。

 

「クロウ!」

 

 呆然と見つめる古城の前で、クロウの身体がふらりと揺れた。咄嗟に駆け込んだ古城は、こてんと倒れかけたところを腕で抱きかかえた。今回の事態でこの後輩が遭わされたことを思い出し、古城の背筋が総毛立つ。

 

「ごめん……なのだ……古城君」

 

 <黒死女皇>を圧倒した覇気がない。囁くような小さな声での謝罪に、古城はそんな後輩を必死で抱き寄せ、絶叫する。

 

「しっかりしろ、クロウ! お前はよくやった。本当によくやったんだ! だからもうゆっくり休め!」

 

「ごめん……でも、オレはもう、限界、なのだ……」

 

「こんな最後の最後まで無茶をしやがって、馬鹿野郎……! お前はもっと自分のことを大事にだな……!」

 

「お腹が、もうグーグーで限界なのだぁ~……」

 

 ギュルルルルルるるるるぅぅぅぅ―――!!

 ものすんごい唸りが、ペコペコに凹んだそのお腹から轟いた。

 

「……は?」

 

 この時、古城はおそらく、どうしようもなく間抜けな顔をしていたことだろう。

 いやしかし、考えてみれば当然なのか。矢瀬顕重に使われたときにまともな食事が出されたとは思えないし、今日この日は連戦に次ぐ怒濤の連戦で消費カロリーが凄まじいことになってるだろうし……

 

「報告。こちらにバナナを発見しました先輩」

「―――本当か、アスタルテ!」

 

 ガバッと古城の腕の中から飛び起きたクロウは、まっしぐらにバナナの束を抱えたアスタルテの方へ駆けていった。

 そう言えば、ここは大規模食糧備蓄庫。探せばどこかしらに食べ物を入れてあるコンテナがあるだろう。

 もっきゅもっきゅ! とリスみたいに口いっぱいに頬張りながらも両手にバナナ、それから後輩のアスタルテにもバナナを剥いてもらいながら、ものすごい速度でバナナの皮を山と積み上げていく様子を見て、古城は安堵と呆れが半々くらいの溜息を吐いた。

 

「大丈夫、なようですね、先輩」

 

「なんかもう色々と言いたいことがあったんだけど、無事ならいいか。―――あ、それで姫柊も体調はどうなんだ。ほら、ニャンコ先生がおまじないとか言ってくれたけど、『天使化』は本当に大丈夫なのか?」

 

「あ、はい……大丈夫、みたいです。霊力の暴走も起きてませんし」

 

「あれだけ派手に<雪霞狼>を使ったのに?」

 

「それはたぶん……指輪……が……」

 

 そういって、雪菜はチラと左手の薬指に嵌っている指輪を見る。

 決戦前の“精気補充”後に、ニャンコ先生こと縁堂縁が使い魔の猫に持たせて送ってきた指輪である。

 

 曰く、おまじない。

 何でも初対面時に採った古城の肋骨(事後承諾もいいとこだが)を核とし、師家様が持っていた古代の宝槍の欠片も使い、大錬金術師ニーナ=アデラートに頼んで指輪にしたもの。

 これを身に着けるとなんと『血の従者(あるいは花嫁)』――主である吸血鬼から不死の力を分け与えられた疑似吸血鬼になるのだ。

 吸血鬼に血を吸われたものは吸血鬼になる――なんてありがちな迷信は、あながち間違いではない。吸血鬼の肉体の一部を体内に受け入れた人間は、主人である吸血鬼と同じ、不死の肉体を手に入れるのだという。

 かつて、古城も先代の<第四真祖>であるアヴローラの肋骨により彼女の『血の従者』になった。それと同じことだ。

 

 古城はそんな疑似吸血鬼とするような真似は反対だった。

 疑似吸血鬼は必然的に、主人である吸血鬼と共に永遠の歳月を生きることになる。これは必ずしも幸せな事とは限らないのだ。

 一応、これは本物の“花嫁”になるわけではない。呪術触媒の指輪を介して、霊的経路(パス)を繋げるだけ。いうなれば、ただの“婚約者”というところ。完全な『血の従者』ともなれば、巫女としての霊力まで使えなくなってしまう(霊力も魔力も扱える後輩(クロウ)は大変稀少な例であるので参考にならない)。

 

 婚約者云々はさておいて、姫柊雪菜を『血の従者』としたい理由はある。

 『天使化』を抑えられることのできる恩恵に、古城――<第四真祖>の『血の従者』となれば預かることができるかもしれないからだ。

 かつて、<模造天使>となった叶瀬夏音の神気を浴びた時、『次元喰い(ディメンジョン・イーター)』の眷獣によって生還することができた。

 つまりは、この眷獣<龍蛇の水銀>の力を借りることで、<雪霞狼>が生み出す余剰な神気を消滅させるのだ。

 うまく機能するかについては実際に試してみるまではわからなかったが、成功すれば、姫柊雪菜は今まで通りの生活を送れることができるようになる。

 

 どうするかは、姫柊雪菜当人の一存に委ねた結果―――迷うことなくニャンコ先生から指輪を受け取った。

 古城からすれば、他人の骨が入ってる指輪(消毒して焼き固めてあるので汚くはないそうだが)なんて気持ち悪いだろうと思うのだが、雪菜はあまり抵抗感がなく、あっさりと指に嵌めた。薬指に。

 

 そして、指輪を嵌めて“婚約者”になった姫柊雪菜はこのぶっつけ本番のギャンブルに勝って、人間のまま<模造天使>の神気を制御することができるようになったのだ。

 

(結果オーライ、でいいのかこれ?)

 

 雪菜は自分の左手を何度も閉じたり開いたりして、薬指の指輪を満足そうに眺めている。彼女がどういう気持ちでそれを見ているのか、古城にはさっぱりわからない。

 

 

「―――へぇ、とても嬉しそうだね、姫柊さん」

 

 

 と突然、古城の隣から声。

 うおっ! と吃驚して横っ飛びすれば、そこには空間転移した幼馴染――仙都木優麻がいた。

 

「いきなりだなユウマ。つか、お前もいたのか」

 

「まあね。古城も相変わらず騒動のタネが尽きないようで。―――それで、あの指輪は、古城からかい?」

 

 にっこりと表面上爽やかな笑みを浮かべる幼馴染。古城は何故かたじろいでしまう。

 いやしかし、大して目立つデザインでもないその指輪の存在に優麻が目敏く気づいたことに驚きだ。

 それで浮かれてた様子の雪菜も、優麻の追求に慌てて応える。

 

「えと、これは、その、暁先輩に嵌めてもらったら抜けなくなってしまって……」

 

「ふうん。なるほどなるほど。それで、その指輪には魔術的な意味があるように見えるけど?」

 

 雪菜のたどたどしい説明に、頷いて理解を示す優麻。

 落ち着いていて、話しやすいように先を促してくれる。これがもし浅葱だったら感情的になって大変だったろう。理解力と社交性、落ち着きのある幼馴染で助かる。

 

「いや、こっちもいろいろとあって話すと長くなるんだけど、姫柊の『天使化』を抑えるために俺と霊的回路を繋げる必要があってだな。それでその指輪ってのが俺の肋骨を材料にしたもので、身に着けると疑似的な『血の従者』になれるんだよ」

「はい、暁先輩の“婚約者”になるおまじないでして……」

 

 だから勘繰るような深い意味はないのだ。

 その辺りをよくわかっていただきたいと古城は指輪の背景を説明するのだが……さっきから優麻の表情筋が1mmも動いていないように見えるのは目の錯覚か? いや、優麻はちゃんと変に誤解せずに理解してくれているに違いない。

 

「……それだったら、ボクも姫柊さんみたいに古城の指輪が欲しいかな」

 

「は? なんでユウマまで?」

 

「なに。いざというとき、霊的回路が繋がっていたら助かることが多いみたいだからね。ほら、クロウ君も那月先生と霊的回路を繋いでいるだろう?」

 

 こちらにわかりやすく具体例を挙げて、理解を求める優麻。

 今回の一件もそうだったが、あの『波朧院フェスタ』の時も、<守護者>が暴走分離して霊的回路が剥がれてしまったクロウを、那月は自らの<守護者>で補わせる応急処置で助けた。

 あの主従の支え合いを見ると、霊的回路を繋げておく利点はあるように思える。

 

「いやでも、そんな他人の身体の一部が入ってるものなんて気持ち悪いだろ? つか、俺も二度も肋骨を抉られたくないんだけど」

 

「何、それを気持ち悪いかどうかは相手によるさ。それにボクは魔女だからね。唾液とか髪の毛でも十分な触媒として活用できるけど。―――それで、()()()“婚約者”にしてくれないのかい古城」

 

 姫柊もそうだがさっきからその言い回しは妙に引っかかってくるんだが。

 声の調子は変わらないのに圧迫感に半歩後ろに退く古城だったが、圧迫感は正面の優麻の方からだけでなく、斜め後ろ――雪菜のいる方からもひしひしと感じる。

 あれ? 何だ、この状況は?

 詰将棋のように段々と逃げ場がなくなってくる感じ。

 

(なんか知らないが、この話題を逸らさねーと……!)

 

 古城は助けを求めて、視線を泳がす。

 ―――浅葱! いや、浅葱はマズい気がする。余計に炎上する予感がある。

 だとしたら……―――

 

 くるくる~……と可愛らしい音。

 焦燥に駆られる古城の耳が拾ったのは、腹が鳴った音だった。

 見れば、雪菜が恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いている。

 そうか。そうだよな。人間、誰しもある生理現象だ。恥ずかしがることではない。

 そして、古城は天啓を閃いた。

 

 いるじゃないか。空気をかき混ぜる天然児が!

 

「そうかそうか、姫柊もあまりたべてなかったもんな! ―――よし、クロウ! 食い物こっちにも分けてくれないか! 俺達も腹が減って!」

 

「バッチリ聴こえてたからわかってるのだ。バナナはたくさんある。いっぱい食べると良いぞ」

 

 先輩の前で羞恥心を覚える雪菜ではあったものの、空腹が勝ったのか、一本いただく。それから古城や優麻にも手渡してきて、100%の善意から来るお裾分けを断れそうにもなく受け取ってしまう。

 口を塞がれる食事に追求の勢いがそがれる結果になり、後はこの後輩に話を振ってけば場の空気を濁せるんじゃないかと古城が構想を立てた時、ぴくん、と反応したクロウが背後へ――誰もいない――しかし、前触れもなく現れた。

 

「……こんなところで何をしているんだ、馬鹿犬?」

 

「皆でもぐもぐタイムなのだご主人!」

 

 心配性な保護者が迎えに来た。

 数時間で<監獄結界>を再封印してきて随分急いだであろう那月が、現場に来てみれば、何かとやらかす問題児(クロウ)(女の霊に取り憑かれていた)が、のんびりとバナナを食べているのだ。頭を抱えたくなってくる気持ちは古城もわかる。

 でも、とにかく無事な姿は拝めたのだ。

 これは、那月ちゃんも一生に一度くらいの素直な気持ちを出してくるか、と古城は期待した。

 

「それで、ご主人、さっき古城君たちが話してたんだけど、霊的回路を繋いでると“婚約者”になるみたいで、だったら、オレもご主人の“婚約者”だったりするのか?」

 

 古城は自分の頭を抱えるんじゃなくて、後輩の頭を抱えて口を塞いでやるべきだったかもしれないと思った。

 

 ふう、と溜息ひとつ。

 

 で。

 バラエティ番組で、コメントもなく出オチで落とし穴に落ちる芸人のように、何のコメントもなくクロウは虚空に呑まれた。物語のエンディングを締め括るような感動の抱擁とかそういうのは一切なかった。

 

「馬鹿犬は今回の件も含めて、よぉく、躾けるとしよう。ああ、アスタルテ、あとで浴槽に放り込むから、その準備だ。馬鹿犬の血生臭い垢をデッキブラシでも使って徹底的に擦り落としてやれ」

 

「命令受託」

 

 風呂嫌いの後輩がますます苦手意識を持ちそうだが、古城たちは口を挟めない。

 そして、傲岸不遜なる魔女にして担任は、こちらをギロリと効果音がつきそうな視線を飛ばしてきて、

 

「―――で、馬鹿犬にくだらんことを吹き込んだのはどこのどいつだ? なあ、暁古城」

 

「なんで俺を名指しにするんだよ那月ちゃん!?」

 

 その後、『血の従者(仮)』のことを“婚約者”という言い回しは、誤解を招くことがあるのでNGワードとなった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ハッハッハッハッハ! 見たか、アラダールよ! クロウの奴め! また強くなったぞ! クロウの最盛期がどこまで行くのか見物であるが、これでは俺の方が相手にとって不足となってしまうな!」

 

 倉庫街を見渡せるビルの屋上。

 そこで喝采を挙げるのは、『滅びの王朝』の凶王子。この世の快楽のほとんどを味わい尽して生きていることに倦み疲れている不老不死の吸血鬼は、退屈を吹き飛ばしてくれる“友”に見た目相応の精神年齢に若返りそうなくらいに愉しそうだ。

 しかし隣に立つ『戦王領域』の第二位の吸血鬼は、イブリスベールのように愉快な気分にはなれないようで憮然としている。

 

「悪魔憑きにまで匿われるとは、面倒極まりない。討伐対象としては頭を抱えたくなる案件だ」

 

「討伐対象? 太古の神々でさえ、我らの真祖でさえも防ぎようのなかった『聖殲』に対抗手段を持ったことがどんな意味を持つのか、アラダール、貴様にわからぬわけがないだろう?」

 

 イブリスベールの言葉に、『戦王領域』の帝国議会議長は短く、ああ、と頷き返す。

 『聖殲』は真祖に近しい『長老』でも忌み嫌う力だ。それに対抗する“抑止力”ともなれば、何であれ易々と処分を決めていい存在であるはずがなく。場合によっては掌を返して保護も検討しなければなるまい。きっと獅子王機関も同様の対応を取るはずだ。

 

「出直せ、アラダール。クロウの処遇、そう簡単に決めていい案件(もの)ではなくなったぞ」

 

「……そのようだな」

 

 嘆息して、アラダールは認める。

 <心ない怪物>の暗殺任務は中断。あるいは撤回しなければならない、と。

 ともなれば、暗殺の任を命じていた『戦王領域の戦闘狂』にも話を伝えておかなければならないのだが……

 

「そういえば、貴様の所の<蛇遣い>はどうした? そう簡単にくたばるタマではなかろう?」

 

「知らん。連絡が途絶えた。ヤツの部下も見つからん」

 

 

路地裏

 

 

 小ぶりなナイフほどの大きさの古びた鍵。

 鋼色の金属の輝きは、『神縄湖』に現れた『咎神派』が振るっていた遺産の魔具と同質。そう、これは『咎神』の魔具。それも『咎神』の騎士と自称していた連中が持っていた劣化品(レプリカ)などよりもずっと高価な代物。

 これを持っていたおかげで、真紅に塗り替えられた窮地を脱することができた。

 

 ―――<女教皇>の襲撃。

 忌々しい復讐者の怨念に拠点の一切を焼き滅ぼされて、不可視の刃で応戦するが『聖殲』の業火はそれを呑んで襲ってきた。

 矢瀬顕重のみが持っていたこの時空移動用の(ゲート)を開く鍵でもって、どうにか難を逃れることができたのだ。

 

「忌々しい……! ええい忌々しい……!」

 

 何故だ。何故、思うようにならない。

 どこで読みを誤ったのか、顕重にはそれがわからない。取るに足らぬと切り捨てられた者たちが、顕重を脅かす力を手にし、絃神千羅と共に組み上げた計画を狂わした。

 ―――まるでこの『魔族特区』そのものが意思を持ち、己を排除しているかのようだった。

 

「そんなことはありえん。絃神島が抱える闇は、人類の闇と同義なのだ! <禁忌四字(ヤゼ)>の正統な末裔である儂以外の誰がこの『魔族特区』を仕切ることができようか!」

 

 儂しかいない。

 人類が、魔族共に奪われた資源と土地を取り戻すことができるのは儂だけだ。

 しかし、このままだと何もかもが終わる。『MAR』との交渉を失敗、『聖殲』を行使するための拠点も焼かれた。そして、この身も。

 

「ぐっ……!」

 

 全身の肉はごっそりと焼き爛れていて、仕立ての良い和服は見るも無残な有様だ。<女教皇>の深紅の火炎を浴びた火傷である。

 

「誰かいないか……! 誰でもいい……儂を助けろ……! 儂はこの『魔族特区』の王だぞ……!」

 

 生涯の中で最たる屈辱を噛みしめがら矢瀬顕重は荒々しく息を吐く。呼吸をするのも苦しい。耳もだんだんと遠くなる。もう意識も限界に近い。

 そんな顕重のすぐ近くから、愉しげな声が聞こえてくる。

 

「いいや、この屑鉄と魔術で生み出された紛い物の大地を統べる王は、キミではないよ、矢瀬顕重……」

 

「……っ!?」

 

 顕重は驚いて顔を上げた。路地の暗がりの奥に長身の男が立っている。純白のスーツに身を包んだ、金髪碧眼の吸血鬼の貴族だ。

 

「ディミトリエ=ヴァトラー、だと……!?」

 

 彼奴は、人工島管理公社の切り札である衛星からの対地レーザー攻撃に滅ぼされたはずだ。そう、矢瀬顕重がその発射ボタンを押したのだ。<黒妖犬>から『聖殲』を受けて吸血鬼の力を発揮できない瀕死の状態を狙って撃ったのだ。不死身の吸血鬼だろうが死んでいる。

 

「あの子と戦わせてくれたことは感謝するよ。久しぶりに“死”を覚えた充実した一時だった。―――けど、愉しい“戦争”に横槍を入れたことはいただけないナァ」

 

 芝居がかった大袈裟な口調で顕重に感謝を述べるヴァトラーだったが、最後に雰囲気を一転。牙を垣間見せる獰猛な笑みを向けてくる。()めつける美しき碧眼は、蛇が睨むかのごとし。

 だが、これで竦む顕重ではない。執念じみた意思の力で瀕死の老体を賦活させ、

 

「汚らわしい魔族風情が、この儂に立てつくとどうなるかわかっているのだろうな?」

 

「どうってことはないサ。一人では何もできないキミを恐れる理由はない。『聖殲』の力が使えれば話は別だけど」

 

 逃走も平伏も、この美しい吸血鬼の貴族は許すことはしないだろう。

 そして、傲慢なる男もまた魔族に対し逃走も平伏も、死んでもしない。

 こちらが死に体だと思って油断をしている<蛇遣い>は、ここで始末する。

 

「そうか。ならば、お望み通りその身に味わわせてやろう! 貴様ら魔族を滅ぼす力をな!」

 

 生の感情を剥き出しにして、顕重は吼えた。

 『巫女』も『棺桶』も『祭壇』も、そして、『墓守』も使えぬ以上、自腹を切るしかないが、相手は吸血鬼。ただ身体を切り裂くだけでは殺し切れない。

 『咎神』の遺産である鍵を握り締めて発動する。

 黒焦げとなり使えない腕を一本贄にし、光の粒子を不可視の刃に纏わせる。魔族の異能を封殺する、世界変容の輝き。これで切り刻んでやれば、たとえ『真祖に最も近い吸血鬼』が相手でも屠れよう。

 

 そして、ヴァトラーは、矢瀬顕重の深紅の刃によってバラバラに滅多切りにされた。

 

 途端、吸血鬼の貴族の全身は不意に厚みを無くし、どろりとした影のような染みに変わった。

 

「な―――」

 

 今、我が身を犠牲にして発動させた『聖殲』が切り捨てたのは、偽物(ダミー)の鏡像。<幻影網楼(デイオニカ・ノクス)>。

 

「不完全とはいえ、使えるようだね。吸血鬼の『真祖』を滅ぼし得る『聖殲』の力を」

 

 そして、背後から声。

 振り向こうとした顕重だったが、それよりも早く伸びた手に首を絞められた。

 

「ガハッ……!」

 

 喉笛に爪を立てるように握り込まれ、苦悶しか出ない。吊り上げられた顕重は、見た。

 顕重を捕まえた本物の金髪碧眼の美しい貴族の左右に、麗しき闇の貴公子(キラ=レーベデフ)苛烈なる炎の貴公子(トビアス=ジャガン)が控えているのを。

 

 まさか……! 部下の吸血鬼共に……!

 

 そう。

 矢瀬顕重に使われていた<黒妖犬>との戦闘を“監視”されていることは知っていたし、何かがあれば邪魔をされることが、予想がついていたヴァトラーは、二人の貴公子にその介入を阻むように指示を出していた。

 トビアス=ジャガンの<魔眼(ウアジエト)>。

 たとえ監視カメラ越しからでも、視線を伝染経路にする精神支配系の眷獣。精神干渉系の護符を用意していたところで突破する<魔眼>に寄生された矢瀬顕重は、衛星からの対地レーザー攻撃を、<蛇遣い(ヴァトラー)>にではなく、<黒妖犬(クロウ)>との間を遮るように撃ち込むように誘導されていたことに気付かなかった。

 

 そして、ここへひとり逃げ込んだことでさえも、眷獣に誘導されたものなのだとすれば―――

 そこまで思考が至れば、気づくだろう。

 

「そうか……<蛇遣い>……貴様が絃神島に来た本当の理由は、『咎神』の叡智……―――」

 

 矢瀬顕重を挑発し、攻撃をするチャンスを一度与えたのも見定めるため。

 喰らうに値する獲物かどうかを。

 

「矢瀬顕重。キミの能力と、『聖殲』の知識は、このボクが頂こう……!」

 

 顕重の身体に、ヴァトラーは牙を突き立てる。『戦王領域』の<蛇遣い>がそこから吸い上げているのは、<禁忌四字>の血統だけではない。矢瀬顕重の過去の“記憶”もだ。

 そうして、断末魔すらも上げられず。根こそぎその全てを吸い尽された矢瀬顕重の肉体は崩壊し、白煙を上げて跡形もなく消滅する。

 路地裏、絃神島の闇の中で、ヴァトラーは白い牙を鮮血でドス黒く染めながら、高らかに笑い出す。

 

 

「これで舞台は整った。さあ、最後の“宴”を始めよう。ともに美しく踊ってくれ、暁古城。美しく美しく美しく美しく美しく美しく美しく美しく美しく美しく美しく―――」

 

 

彩海学園

 

 

 ―――その日、藍羽浅葱は伝説になった。

 突如として襲った強大な魔族によって破壊された街を魔法のように瞬く間に復興。『テロ組織の残党なんて全くのデマだから。いい? <心ない怪物(ハートレス)>とかいうのもウソデタラメ、そんなんじゃないの。とにかく、これで終わり』と動画インタビューに応じて、この数週間続いた非常事態の終幕を宣言したのだった。

 その後、『絃神島復興支援チャリティーソング『Save Our Sanctuary』に次ぐ新曲の発表は!』という問いかけ(コメント)に対して、『ご当地アイドル活動(そういうの)ももう終わりだから』とこの魔族特区の聖処女(ローカルアイドル)の突然の引退宣言で動画は幕引き。その後一切音沙汰なく、ネット上でも藍羽浅葱のことを書き込もうとすると次の瞬間にはそれが消えているという謎の現象が起こるものの、しかし、この絃神島を救った少女のことはいつまでも住人の心に残り、この先もずっと語り継がれるだろう―――

 ……とある噂では、その衝撃の終了宣言をした日、聖処女様がとある同級生の少年に詰め寄っている姿は目撃されたという。『あんた、まさかあの指輪は、男としての責任を取るつもりで……!?』と胸倉を掴み上げて問い詰める聖処女様に、少年も『違うっ! 頼むから話を聞けっ! 誤解だあ―――っ!』と悲鳴を上げながら必死に声を張り上げ、(指輪が抜けなくて困っちゃってる?)婚約者と思しき少女が事情を説明するのだが火に油を注ぐ結果となって、大変人目を引く騒ぎとなった。

 そんな『アイドル活動中に彼氏(オトコ)を寝取られた』という痴情のもつれが原因でお隠れになったのではないかとまことしやかに囁かれている。

 

 ……ということがあって、藍羽浅葱は外ではしばらく顔出しNG、野球帽とマスクを着用せざるを得なくなった。

 

 またそれ以外にも、表には出回らない裏のニュースとして、大規模魔道テロの実行及び幇助、また特区治安条例に対する重大な違反が多数報告されている人工島管理公社の元上級理事にして矢瀬財閥の会長……消息不明となっている矢瀬顕重の死亡が長老会議で正式に認められることとなり、その後釜に、矢瀬基樹が選ばれた。

 <禁忌四字>の正統な末裔であり、獅子王機関『三聖』の長や、<カインの巫女>、そして、<第四真祖>の盟友でもあり、<黒妖犬>の先輩でもある。『MAR』のシャフリヤル=レン総帥の支持も取り付けられて、妾腹の子供であった少年は管理公社を担う矢瀬財閥の新統帥となった。

 

 

 そして、表にも裏にも取り上げられない、学級日誌に記録されるような小さなニュースに、中等部のとあるクラスでしばらく不登校……テロ騒ぎに巻き込まれたんじゃないかと心配されていた少年は、無事な姿を見せてクラスメイトに安堵されたという。

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

「おっす、皆、久しぶりだな、元気してたか?」

 

 あの『魔族特区』を襲ったテロ事件から、久しぶりに登校したクロウ君は、普通に元気そうだった。

 ただ、落ち着いて話をする機会が中々訪れない。

 朝のHR後の授業……早速、一時間目の授業から溜まりに溜まっていた宿題を出されたクロウ君は、授業後の休み時間はそれに掛かり切りに。見かねた雪菜ちゃんが勉強を教えて……私もそれに付き合ったりもしたんだけど、二人きりで話しができる状況じゃなかった。雪菜ちゃんよりも頭がいいわけじゃないし、出番なんてあまりない。

 その後もクロウ君は机に噛り付きで……昼休み前にやっと終わったと思ったら、今度は欠席分を巻き返すための補習が昼休みに組まれていて、一緒にご飯もできなかった。どういうわけか中等部の生徒(クロウ君)を高等部の先生(古城君の担任)が面倒を見るとのことで、チャイムと同時に鎖に引きずられて連れ去られてしまった。すぐ追いかけようとしたけど、担任の笹崎先生は頬をかきながら、『えーっと、ほら、素直になれない先輩なりのスキンシップ、愛の鞭だったり』と、邪魔をしないようにと止められた。

 それから昼休みの終了のチャイムギリギリで戻ってきたクロウ君は、プリントの束をもらってきていて……午後の休み時間も午前と同じように課題の山に四苦八苦するはめに。

 これはもう家に持ち帰ってやったらいいんじゃないかとも思ったけど、放課後は放課後でやることがあるらしい。

 

「バイト? ……あの、特区警備隊(アイランドガード)と一緒にお仕事するの?」

 

「う。そっちはしばらく顔出すなとご主人に言われてる。昔、お世話になった恩人のお店が人手不足でな。もうすぐ稼ぎ時のバレンタインデーなのに人が足りない! ってピンチみたいなのだ」

 

「ふうん。……どんなバイトなの?」

 

「魔族喫茶なのだ」

 

「魔族喫茶、かぁ……」

 

 日本で普通に暮らしてたら滅多に出会わない魔族との触れ合いを売りに出してる喫茶店。旅行者とかには大変喜ばれるけど、私はちょっと……

 魔族恐怖症(トラウマ)も少しずつ改善はしてきていると思うけど、まったく見知らぬ魔族はダメだ。怖い。良ければ一緒にバイトをしてみようかな、ってちょっとは思ったけどダメ……でも、特区警備隊と仕事をするわけじゃないようだ。

 

 昨日、警備隊の人たちから銃撃を浴びせられていた機械仕掛けの鎧に覆われた、金色の人狼……

 

 でも、私が気を失ったその次の日にクロウ君は登校した。

 それに、浅葱ちゃんもあれは全くのデマだと言っていた。

 だから、あの時、自分を助けてくれたのは――警備員に迫害されていたのは、クロウ君じゃない。

 ―――そんなはず、ないのに。

 

「先輩、お時間です」

 

 クロウ君と帰り支度をしながら話してると、メイド服を着飾った少女が迎えが来た。教室の引き戸前に、置物のように待つ彼女は、人工生命体のアスタルテさんだ。

 

「おー、今日のバイトはアスタルテも一緒なんだな」

 

教官(マスター)より、目を離すなと言われております」

 

「むぅ、そういうお目付け役は先輩の役目じゃないのか? まあ、アスタルテがいるとカルアナは喜ぶし、オレも助かるか」

 

 あ、行っちゃう……

 鞄を持ったクロウ君が教室の外へ。

 

「クロウ君っ!」

 

 離れていく背中に、つい呼び止めてしまった。

 

「ん? どうした、凪沙ちゃん」

 

「え、っと、あの、その……」

 

 けど、昨日、私を助けて、警備隊に撃たれてた? なんて訊けない。

 こんな人のいる教室であらぬ誤解を招くような発言――かつて、クロウ君を人の輪から弾いてしまった失敗を、二度もするわけにはいかない。

 

「んー……アスタルテ、先に行っててくれ」

 

「命令受諾。校門で待っております」

 

「いや、先にお店まで行ってもいいんだぞ?」

 

「なりません。道中、食べ物の匂いに釣られた先輩が寄り道してしまう可能性が高く、向こうから提示された時刻に遅刻しないよう私の同行が必須と判断します」

 

「何か、オレ、すっごく子供扱いされてないか?」

 

 訂正もなく、こちらに一礼して行ってしまうアスタルテさんと、がっくりと肩を落とすクロウ君。残念だけどそのフォローは私もできないよ。アスタルテさんの判断は正しい。クロウ君は中学生なんだけど、幼稚園児や小学低学年くらいの子供にはじめてのおつかいをさせるドキュメンタリー番組の企画に参加させたら、渡したお金を余計な買い食いに費やしちゃいそうな予感がある。

 とそんなありゃりゃと口から漏れ出てしまうような気分に浸るんじゃなくて、お話!

 折角、クロウ君が待ってくれたんだから、このチャンスで踏み出さなきゃ―――

 

「クロウ君!」

 

「ん」

 

「クロウ君は普通のチョコレートでも大丈夫なのかなっ?」

 

 でも、自分の中で踏ん切りがついてなかった意気地なしの私は、会話の出だしを盛大に踏み誤ってしまった。

 

「チョコレート?」

 

「ほら! さっきクロウ君が言ってたじゃん! お店でバレンタインイベントをするって! それでふと思ったんだけど、一部の獣人種はチョコレートを摂取すると、嘔吐や痙攣とかしちゃって中毒症状を起こすんでしょ! テオブロミン? だったけ。そういう犬猫にとって有害な成分を取り除いた獣人用のチョコレートが、『魔族特区』で開発されてるって聴いたことがあるんだけど、そう言えばクロウ君はどうなのかなって! ねっ?」

 

 教室内を私の言葉(こえ)で満たすくらいの勢いでまくし立てる。頭の中は『何やってるの私! いや、それも気にはなっていたんだけど! したいのはそういう世間話じゃなくて真面目な話でしょ!』でいっぱいいっぱい。多分、今の私の目はグルグルに渦を巻いてると思う。

 

「オレはそういうアレルギーはないのだ。食べ物なら何でもおいしく食べられるぞ」

 

 そうなんだ、と心の中のメモ帳に記録。

 そういえば、『彩昂祭』で深森ちゃんが流出させちゃった『B薬』を食べても全然平気だったっていうし。アレってチョコレートを原料にしてて……あと魅了や媚薬と言った魔術効果の入った第四種特定魔術食品だったはず。つまりはその手のものは効かない……―――いやいやいや何考えてんの私! それは絶対しちゃならない禁じ手だよ!

 

 パンパンッ! と浮かれた自分の頬を叩く。

 気合いを入れ直して、クロウ君を見る。

 でも、何をどう言えば伝わるのか、わからない。

 そんな言いたいことも言えない私に、クロウ君は私だけに打ち明けるようなひっそりとした声で切り出す。

 

「本当は……今朝にも、学校に行くか迷ったのだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「でもやっぱりな、凪沙ちゃんとこうしてられてよかったって思うぞ。我ながらワガママだと思うけど、この“普通”をどうしても切り捨てられなかったみたいだ」

 

 誰に何と言われようとも、街を害した罪悪はこの胸に抱えている。

 世界を滅ぼし得る力を持つ怪物(おのれ)は人の営みには害悪となり得ることを重々に理解している。

 それでも少年の心は、ここが居場所なんだと言っている。

 

「頭が真っ赤っかになった時、大事なことを思い出せた。だから、ありがとう、凪沙ちゃん」

 

「クロウ君……?」

 

 少女には、少年が感謝するいわれを理解できてはいなかった。

 暁凪沙との<禁忌契約(やくそく)>。

 力を暴走させても、南宮クロウが完全には我を見失わないでいられたのは、少女の願掛けが一助となっていたのもあるだろう。

 

「じゃあ、また明日な」

 

 また明日―――その何気ない言葉に、何の魔力もないのだけれども。

 胸の内にあったもやもやがウソみたいに晴れていく。<心ない怪物>には、こんな魔法になる言葉を出せるはずがないのだから、もう、いや、初めから何も訊かなくてもよかったと思える。

 手を振りながら教室を出ていった彼に、凪沙もまた手を振り返して……姿が見えなくなったところで、ふっと息を吐く。

 

「……もう。それはこっちのセリフだよ、クロウ君」

 

 言いたいことは全部言われてしまった少女は、少しだけ唇を尖らせてそう呟く。

 

 ―――お前の涙が欲しい。

    いつか先の未来で、辛い目に遭った時。

    きっと助けるから、泣き止んでくれ。

 

 そう、約束を守ってくれた。

 少女が泣かないでいられたのは、きっと少年の働きに違いないのだから。

 

 

紅魔館二号店

 

 

「……どうして、僕達は、ここで、貴様と一緒に働かなくちゃならないんだ?」

 

 声変わりする前の子供のボーイソプラノで、淡々とだがブツッブツッと区切りを入れて荒々しい気分が伝わる器用な語調で問い詰めるのは、中性的な体つきで小柄な少年。魔族喫茶の厨房に立つ彼は、自然界にありえない藍色の髪を持つ人工生命体だ。名札(ネームプレート)には、『ロギ』と書かれている。

 

 レジ打ちには、ひょっこりと顔だけを覗かせるだぶだぶのぶ厚いコートを、この常夏の島で平然と着こなす少女がいて、接客基本のスマイルは期待薄だが、お金を出されたらレジ打ちする前に計算を終えていて優秀だ。名札には『ラーン』と書かれている。

 

 そして、フロアでメイド服持参の先輩ウェイトレスの人工生命体と一緒に給仕をしているやや吊り目がちの大きな瞳をした犬耳の少女。アルコール洗浄液の入った水鉄砲を装備している。名札には『カーリ』と書かれている。

 

 計三名、魔族喫茶『紅魔館』二号店に入った新人達である。

 その指導員と思われる先輩は、時たまに、大金を落とす極太のお客を連れてくる看板息子(第二真祖直系の第九王子の到来に店長はちっとも嬉しくない方の本気な悲鳴を上げた)。

 

「んー? ロギは今日の午前中にしっかりメンテナンスを受けてるはずだけど、まだ働くのはダメだったりするのか」

 

「違う。僕が言いたいのはそういうことじゃない」

 

「じゃあ、ラーンの調子が悪いのか? オレが『死霊術』をかけてるけど」

 

「ううん。以前よりも快調。ヘルハウンド、先生よりもずっと『死霊術』が上」

 

「そっか。それは良かった。でも、店ではオレのことを『義経』と呼ばないとダメだぞ」

 

「わかった、義経」

 

「ラーンもそいつの話に乗るな! それから、僕達を呼び捨てにするなヘルハウンド!」

 

 捕食型人工生命体(バルトロメオ)に取り込まれて、更には『アベルの巫女』に取り憑かれていたロギ。検査入院と身体調整を受け、住民票代わりになる魔族登録証を嵌められた後に、ラーンと一緒にここへ連れてこられた。

 最初こそ、二週間前、倉庫街で別れたきりだった仲間のカーリに会えて驚き、それから遠い目をしたその店の女主人に『はいはい、着替えて』と制服を渡されて、今に至る。

 

「いいか? 僕達はテロリストなんだぞ? こんな店でバイトなんかできるか!」

 

「何だお前、テロはできるのにバイトはできないのか?」

 

「違う! そういう意味じゃない! バイトくらい難なくできる!」

 

「できるんならやるのだ。最初にも言ったけど、地域貢献。散々、島で暴れてくれたお前達は働かないと『魔族特区』の住民には認められないんだぞ」

 

「肯定。そして、先輩は、国家降魔官の教官代理を任されております」

 

 補足を入れるアスタルテに、チッと舌打ちをするロギ。あの時とは立場が逆になっているであろうことは、ロギにだってわかってる。でも納得がいかない。

 

「はっ! お前の命令をきいてまで『魔族特区』に縛られたいと思うか。魔族登録証の腕輪もラーンなら外せる。今すぐ僕達三人を解放しなければこの店を燃やしてもいいんだぞ、ヘルハウンド」

 

「だから、店では『義経』だって言ってるだろー。あと一回間違えたら仏の顔は三度までルールでデコピンだからな。あと、店を燃やしたらチョップなのだ」

 

 脅しをかけるが、対応が軽い。

 でも、指弾き(デコピン)の素振りで飛んできた空気弾が、ロギの顔面横スレスレをよぎった。耳を掠めた空気の擦過音に、ロギの強気な姿勢がビクッと跳ねる。子供のお仕置きみたいな言い方だが、馬鹿力(クロウ)の場合だと洒落にならない。デコピンでも加減を間違え(ミスれ)ば、一発で入院だ。

 

「……ねぇ、義経、今、物騒な発言が聴こえたのだけど」

 

 と面倒なのに巻き込まれまいと新人教育を押し付けて、クロウ達のやり取りを遠巻きに眺めていた女性が、ついに覚悟を決めて重い腰を上げてきた。

 

「一応ね。本社より管理公社からの紹介だから、ってことで履歴書審査なしでも通したのだけれど、カーリも含めてこの子たちの経歴をそろそろ教えてもらいたいわね」

 

「むー、カルアナは注文が多いぞ。この前、イブリスはダメだっていうし。ここは魔族喫茶じゃないのか?」

 

「ダメに決まってるでしょうが! 魔族だったら誰でも採用OKじゃないの! あなたのご主人様は勘違いしてるんでしょうけど、この店は託児所でもしつけ教室でもないのよ!」

 

 今日もブルネットの髪を(苛立たし気にガシガシと)靡かせる女性。見た目女子大生くらいであるが、この魔族喫茶『紅魔館』二号店を仕切る女主人であって、新人三人の雇い主である。悪の女幹部めいた制服で着飾っているのに、暴力的な気配が微塵もないことから、元箱入り娘の人柄というのがよく表れている。でも、腕に巻かれている登録証からわかるように彼女も魔族。眷獣を召喚できないが、由緒正しき純血の吸血鬼だ。

 

「大丈夫。ちゃんとオレがこいつらをオレみたいな一人前の看板店員になるよう指導するのだ」

 

 フスー、と鼻を鳴らして、胸を張るクロウ。溢れんばかりの自負が伺える。ものの……

 

「……それ、アスタルテにチェンジできない? 義経みたいのが3人も増えたらわたくし、店を切り盛りしていく自信ないんだけど。お願い」

 

「残念ですが、教官より三人の保護観察を請け負っているのは先輩です」

 

 両手を拝み合わせて切実に頼み込むカルアナだったが、アスタルテに断られて項垂れる。

 

「遠慮するなカルアナ。オレとカルアナの仲だ、ドンと任せてくれて構わないぞ」

 

 アスタルテの先輩であり、『紅魔館』でもこちらが先輩。カルアナと一号店のころから同時期に働き出した間柄、ともに苦しい時を乗り越えてきた、いわば戦友なのだ。もっと自分を頼ってくれてもいいとクロウは思う。

 

「むしろ張り切るのは遠慮してほしいのはこっちの方なのだけれど。はぁ……」

 

「だからっ! 僕達はお前の下で働くと決めたわけじゃない! 話を聞け、ヘルハウンド―――」

「ていっ」

 

 忠告を破ったロギを、容赦ないデコピンが襲う。

 ぐおおおっ!? と額を押さえて、床を転げるロギ。慌てて駆け付けたカーリに支えられるも、涙目である。肉体的に弱い性能しかない人工生命体の頑健度では、クロウが大分手加減してもきつかったみたいだ。

 

「オレのことはちゃんと義経、もしくはクロウと呼ぶのだ。<黒妖犬(ヘルハウンド)>と呼んでくるのは大体敵対してる奴だからな」

 

「だ、だから、僕はヘル――お前の敵だと言ってる。大体どうして俺達のことを構うんだ?」

 

「そりゃあ、話すと色々と長いんだけどな。まず、なんか情報操作されて、オレもお前達のタルタルソースの一員になっているのだ」

 

「訂正。<タルタロス・ラプス>です、先輩」

 

「そうそうそれそれ」

 

 <心ない怪物>は、<タルタロス・ラプス>の残党―――

 まったく当人の意思に関与しない、矢瀬顕重により付け加えられた設定(ストーリー)だ。

 

「まさか、そんなことで同族意識でも芽生えたのか。それで僕たちの仲間だと言いたいのか」

 

「まあそれもあったりするのかもな。ご主人が昔にいたところというのにも気になってたし。とにかく、オレがご主人や矢瀬先輩に頼んでお前らの身柄を引き受けた」

 

 ロギの焼けるような睨みに、クロウは首肯を返す。

 いつもと同じ声音で。

 敵対していた組織であっても、余計な感情は引き摺っていなかった。

 飄々と、淡々と、まったくもって平然と、南宮クロウは受け入れ認めている。

 

「お前……」

 

 と、ロギは口を開いた。

 クロウに対し、一時、個人的な感情は飲み込んだ濁った声音であった。

 

「お前は、どういう人生を経てきたんだ?」

 

「どういうことだ」

 

「とぼけるな。先生から聞いているんだ。<奈落の猟犬(タルタロス・ラプス)>の肩書を持つに相応しい存在だと。そっちの人工生命体もお前は俺達のような実験体の中でも最たるものだとな」

 

 給仕中のアスタルテを見るクロウだったが、『何か?』とばかりに首を傾げられる。

 

「……ディセンバーだって、認めてた。私達のコウハイ、『十三番目の月(アンディシンバー)』って」

 

 ロギ、ラーン、カーリを奈落から救い出し、三人にとっての世界の中心。『十番目の月(ディセンバー)』。

 そんな彼女が、自身の異名にあやかった名称を()けたのは他にない。南宮クロウだけだ。

 

「だったら、『魔族特区』に復讐したいんじゃないのか! そんなへらへらといい加減に笑ってなんかいられないはずだ!」

 

 それが当然だと腕を振り、実験体だった人工生命体は激しく問うた。

 身体の中を、黒々としたものがうねっている。

 昂りのような、ざわめきのような、どうしようもないものがロギの肌の下を巡っている。得体の知れない青黒い何かが、血管を蠢いている。その蠢きを感じるたびに、ロギの胸は激しく疼き、目の前の何もかもを壊したくてたまらなくなる。

 そう。

 あの復讐者の残留思念に同調して、伝染し、深く根付いてしまったものが巣食っているのだ。今もまだ。

 衝動というには、壊滅的過ぎた。

 欲望というには、破綻的過ぎた。

 こんな感情、人工生命体でなくても持て余す。

 

「オレは確かにいい加減かもしれない。明確にこれが正義だってピンとくるものはない。でも、何が悪いのかくらいは、わかっているつもりだ」

 

 この激情の前には、何者にも抗することなどできまいと思われ―――しかし、南宮クロウは微塵も臆さず、はっきりと言う。

 

「オレは、誰かを恨むよりも、誰かに憧れた。オレもいつか、オレを救ってくれたご主人のように誰かを救えるようになりたいと思った」

 

 普段のほほんとしてばかりいる瞳が、この時ばかりは鋭い光を湛えていた。鋭いのに、こちらを貫くのではなく、包み込むような光だった。

 そうだ。こんな瞳ができるから、苛立ってしまう。

 殺神兵器と呼ばれていながらも、まるで地に足をつけた―――()()()()()()()()()()()()

 

「だけど、オレだけじゃ、ご主人のようにうまくやれない。まだまだ未熟なのだ。昔のオレのような奴らを、今度は助ける側になるために、オレひとりじゃ足りないものが多すぎる」

 

 真っ直ぐに自分たちを見つめながら、言葉を続けていく。

 

「この世界は優しくないし、残酷な事ばかりだけどな。だからこそ、オレは周りに優しくありたいと思ってる。……できれば、()()()()()()()()()()()

 

 昔の自分達のような者たちを、自分達が今度は救う。

 独り生き残った自分だけでなく、もっと大勢の仲間が処分されてしまう前に、救い出せるかもしれない。

 そんな望みを乗せた言葉が、自分達に送られている。

 

「……っ」

 

 やっと南宮クロウの言う意味を理解できたように、ロギは一歩引いた。口が震え、声を発することもできない。

 何も言えなくなるロギに変わって、ラーンが普段は表情筋が活動しない瞼を二度、三度と瞬きし、乾いた声でこう尋ねたのだ。

 

「……まさか、私達を仲間に勧誘しているの?」

 

「おう。そうだ」

 

「本気で―――言っているの」

 

 カーリもまた確認する。

 

「『魔族特区』を破壊させる復讐なんて正義に共感してやれないけどな。だけど、お前達の憧れた原点は、オレと同じようにお前達を救ってくれた誰かなんじゃないのか。だったらオレ達には共有できるものがある」

 

 そんな、とんでもない綺麗事を返される。

 瞼を閉じて、あの時自分が視た輝きを思い返しながら。

 

「「「………」」」

 

 少しの間。

 沈黙した三人は、何とも言えない表情になって、そして、揃って誰かの言葉を思い出した。

 

 

『私達の誰もが運命に悲観するしかなかった『焔光の宴』で、私達のコウハイ、『十三番目の月(アンディシンバー)』はどうしようもないぐらい、真っ直ぐだったわ』

 

 

 『原初(ルート)』に立ち向かったあの一戦を見て、ディセンバーが感じ取ったこの『混血』の少年の本質を、今彼らは味わっていた。

 しみじみと、何かが胸に染み渡っていった。

 

「オレは、お前らにも、それから、『アベルの巫女(あいつ)』にも勝った。勝ったからこそ、オレはこの意地を貫き通す。復讐がダメだというのなら、ちゃんとそれを証明できなきゃダメだろ?

 お前らみたいな被害者を助け出す。『アベルの巫女(あいつ)』みたいな復讐者は作り出さない。

 だから、まずはお前達を引き入れることにした」

 

 そんな単純にして明快な道理を、平然と突き付けてくる。

 清々しく、勝者の特権と責務を受け入れて、ただ胸を張る。

 なんて、傲慢。

 なんて、強欲。

 それを下手に包み隠そうなんてせず貫いてくるのだから、なおさら傲慢も強欲も引き立つというもの。

 

「よし、というわけで、ビシバシ働こう!」

 

「ま、待て! 僕達はお前の仲間になると決めたわけじゃ……! だいたい、この店で働く理由は?」

 

「そりゃあ、お前、今日のご飯のためだろ。まずは自分が生き抜くこと。ここで働いて、自分の食い扶持くらいのお金を稼がないと暮らしていけないぞ、ロギ」

 

「資金なら、先生の資産が……」

 

「バカだなぁ。お前達の先生の財産は全部差し押さえられたに決まってるだろ」

 

 至極もっともなご指摘だが、コイツにバカだと言われるのはカチンとくる。

 

「ま、とりあえず、仲間になるだのは保留でいいけど、ここではオレがバイトリーダーだからペーペーの新人のお前達はちゃんと従うんだぞ」

 

 ぬけぬけと、そんなことを言ってのける。

 つくづく一筋縄でいかない相手だと思う。

 頬が、熱く火照る。少しムカついた。だけど、ずっと意地になって向けていた対抗心からなる苛立ちとは違う感覚でもあった。

 

「当面の目標は組織として最低限の活動資金を稼ぐこと! 頑張って、カルアナのお店を繁盛させるぞ。目指すは、決戦の日バレンタインデーで、売上地区最強なのだ!」

 

「うん、それはいいわ。それぐらいのやる気はバイトとして当然なのだけど……想像以上に面倒なことを始めそうね。頼むからわたくしの店を拠点だとかにしないでよ?」

 

 まずはお手本を見せるぞ! 先輩の勇姿をとくと目に刻むと良いのだ! と気合いバッチリな――若干空回り感のある――看板息子が、ちょうど来店した客への対応へ向かう。

 

「我が名は、九郎義経! 紅魔館随一の看板息子にして、世界最強の獣祖なるもの!」

 

 女主人はもう早速、色々と諦めたような遠い目をして、それから一体験者として、どう反応したらいいのか困っている新人(アイツの被害者)に、心底からの同情を篭めて語る。

 

「はぁ、あなた達、諦めなさい。……アイツに捕まったらもう悪いことはできないわよ」

 

 

 

つづく

 

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 不在にした間の特区警備隊の締め直し。

 消息不明となった人工島管理公社の統括理事長・矢瀬顕重の後任となった教え子の矢瀬基樹の着任。

 先生から預かった子供たちの引き取り手続き。

 と国家降魔官としてやることが多く、今日は家で少々やることがあるので、一部の仕事を持ち帰って家ですることにしたが、最も大きな厄介事は、“対聖殲の力”を完了させた馬鹿犬(サーヴァント)を巡って、各勢力がどのような対応を取ってくるのか。

 夜の帝国(ドミニオン)の連中もそうだが、国防機関の動向にも気を払う必要がある。

 油断ならない状況が続く。しばらくは馬鹿犬を大人しくさせておいた方がいいだろう。

 

「流石に昨日の今日で動いてくるとは思えないがな」

 

 全く面倒なのを使い魔にしてしまった、と深いため息が、液面を揺らす。

 とその時だった。

 

「はい。お客様でした」

 

 来客のチャイム。夏音が応対する。

 馬鹿犬が帰ってきた、のではない。そうだったら、チャイムは鳴らさない。

 このマンションは南宮那月の所有物で、最上階は全て住居区画としている。当然、勧誘は一切お断り。そして、迂闊に魔女の住処に踏み入るのなら、それ相応の報いを受けるだろう。

 

 ・

 ・

 ・

 

 

「あの! 家庭教師のお姉さんを雇いませんか?」

 

 

 とお手製のチラシを夏音に手渡すのは、関西の名門女子校の制服を着た、優等生っぽい雰囲気の女子高生。

 身長は160cmにわずかに満たない程度。髪型は清楚な印象のミディアムボブ。サイドに流した前髪を、リボン型のヘアピンでまとめている。

 直接会うのは、これが初めてとなるが、この娘、羽波唯里は姫柊雪菜と同じ、獅子王機関の剣巫。つまりは、那月の商売敵だ。

 

「教師である私の所へ売り込んでくるとは、いい度胸をしている」

 

 玄関前に設置した魔法陣が発動。

 家庭教師こと剣巫は、マンション一階出入口(エントランス)へ強制退去された。

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

「調教師よ。ペットの犬から獰猛な魔獣まで、完璧に調教してみせるわ!」

 

 

 でその五分後に、やってきたのは、古風な長い黒髪に、同じく黒いセーラー服を着ている。綺麗な顔立ちの少女であるが、世を拗ねたような目つきのせいで、どことなく近寄りがたい印象を受ける。

 これは初対面でないが、出禁にしたはずの太史局の六刃神官。つまり、この娘、妃崎霧葉も商売敵だ。

 

「結構だ。間に合っている」

 

 玄関前に設置した魔法陣が発動。

 調教師こと六刃神官は、マンション一階出入口へ強制退去された。

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

「まったく頭が痛いな」

 

 国家降魔官として、商売敵だが、この国の対魔族国防機関(獅子王機関と太史局どちらも)が心配になってきた。攻魔師資格(Cカード)の選定基準をもっと厳格にすべきではないかと進言するべきか。

 鎮静剤としてミルクと砂糖がたっぷりな紅茶を口に含んだところで、またチャイム。三度目だというのに、夏音は律儀に応対に出てしまう。

 

 

「だぁー、おにぃ!」

 

「あ、こら、グレンダ! 勝手に入ったらまずいって!?」

 

 

 とドアが開いてすぐ中に飛び込んできたのは、鋼色の髪の娘。

 年齢のよくわからない少女で、見た目の印象は13、4歳ほど。彫りの深い顔立ちは、それよりも少し大人びて見えるが、人懐こい無邪気な表情はむしろ妙にあどけない。

 そして、小娘に引っ張られるように入ってきたのは、先程出オチした剣巫の相方の舞威媛の斐川志緒。両サイドだけを長めに残したショートヘアの、やや勝気な印象の少女である。

 しかし、魔女の眼光を向けられた舞威媛は慌ててグレンダを抱き上げて、退出した。

 

「やれやれ。どいつもこいつも節操のない連中ばかりだ」

 

 『龍族(ドラゴン)』の娘、グレンダ。

 

 馬鹿犬に関係がありそうだから、面倒ごとはひとまとめにして管理しておきたい那月は、一階下に住まうことを許可はしていた。

 しかし、“オマケ”がついてきて、予想以上に面倒になりそうだ。

 

「千客万来だのう、那月よ」

 

「用がないなら、置物らしく大人しくしていろ、骨董品(アンティーク)。今の私は少々機嫌が悪い」

 

「いや、要件ならあるぞ。北欧アルディギアの第一王女より、クロウの件について話があるとな。汝の『霊血』の材料を工面した貸しがあるだけに無視をすると後々面倒になるぞ」

 

「明日にしろ。今日はこれ以上、馬鹿犬の面倒事に巻き込まれるのは御免蒙る」

 

 言って、那月は戻っていく。

 自室へ、ではなく、厨房へ。そこには、来客の対応で火を止めていた、ぐつぐつとスープが煮立てている、十人分くらいはありそうな特注の大鍋があった。

 

 

「くんくん! 今日のご飯はなんかすっごく良い匂いがするぞ! ―――って、うおっ!?」

 

 

 そして、チャイムを鳴らさずドアが開けられた。

 しかし、玄関に設置された魔法陣が発動。世界中を巻き込む渦中の人物となった少年はマンションの外へと放り出された。

 

 残念ながら、まだ主人の手料理(サプライズ)は完成前であったため。

 



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十二章
真祖大戦Ⅰ


長らくお待たせしました。
最近、というより、ここ数年色々と大変でしたが、少しずつ書き溜めていたのを投稿します。
楽しんでもらえたら幸いです。
続きは気長にお待ちください。


 異世界から召喚された絶大な戦闘力を有する獣、眷獣。

 物理的な実体を持つほどの濃密な魔力の塊であり、物理攻撃はほとんど通用しない。ひとたび召喚された眷獣は、都市や森林を焼き尽くし、地形を変え、敵味方問わずあらゆる生物を駆逐する。

 『天部』の技術が生み出してしまった、しかし、『天部』の神力をもってしても御し得ない、戦争の道具としてもあまりに強力過ぎる破壊兵器だ。災厄と称しても過言ではない。

 そんな眷獣が戦争に投入されてしまえば、こちらまで滅びるだろう。少なくとも、文明は崩壊するはずだ。

 

 俺達は自業自得だからしゃあねえが、とばっちりを食らう他の種族のことを考えたらほっとくわけにもいかない。なあ、どうすればいい?

 

 そう、直球で投じた言葉に、“アイツ”――この『天部』で一番の変わり者は指を二本立ててみせた。

 

 ひとつは、魔力と対になる高次元の霊力をぶつけて対消滅させる。

 たとえ眷獣同士を争わせても、どちらかが相手を食らって力を増すことになる。ならば、『神格振動波駆動術式』を組み込んだ、ありとあらゆる結界を斬り裂き、魔力を無効化する魔具の“(やり)”で滅ぼすことが、理屈としては最も簡単だ。

 ただし、『天部』や『天部』が造った魔族には『神格振動波駆動術式』は扱えない。使うことができるのは、聖人や聖女などと呼ばれる、『天部殺し』の人類の変異体達だけだ。

 いくら眷獣に対抗するためとはいえ、敵対している人類にそのような魔具を与えるのは、回り回って『天部』の首を絞めることになりかねない。

 

 人類に頼らず事態を収拾させる手段として提示されたもうひとつは、封印。

 実体化していようが、本質は魔力の塊である眷獣を、憑依させて取り込む。それは理論上は不可能ではないが、眷獣は、記憶を食らう怪物。取り憑かせれば、その負担に生物は破綻するだろう。『天部』の肉体をもってしても、眷獣の魔力の反動を抑え込むのは不可能だ。

 だが、“アイツ”なら、そんな存在しないモノを世界の法則を書き換えることで造り出せてしまう、禁呪がある。

 そして、社会活動を行う知的生命体は、いわば情報を生み出すために存在しているようなものであり、相性次第では眷獣も大人しく従うだろう。さらにいえば、その宿主とペアリングして新たに器を請け負う『血の従者』を増やすことで分配された力はその分だけ希釈される。そうして、力の弱くなった眷獣は、宿主が滅べば一緒に消滅するだろう。

 ただ、これにも難点があり、憑依した眷獣が完全に力を失うまで、宿主を絶対に死なせない。心臓を貫いても、高温で焼き尽しても、粉々にしても宿主は死なない。老衰さえも拒絶する。憑依した時点の記憶を頼りに、元の姿に再生する。眷獣の魔力が尽きるまで何度でも。

 完全な不老不死だ。特に最初に眷獣が取り憑いた真祖は、そうなる。

 世界各地で暴威を振るう眷獣をすべて浄化するには最低でも3人の生贄(しんそ)が必要だという。

 そんな、永劫の時を生きる怪物となることを受け入れる酔狂な性格の持ち主は、ちょうど3人くらい心当たりがある。自分も含めて。

 

 方針として、ひとつめの案を人類の手を借りていくことになるだろうが、“アイツ”の禁呪で真祖となった自分達が主導となって眷獣を封印することになるだろう。

 

 

 だが。

 それでも、対消滅も封印も敵わない“例外”が現れたとしたら?

 

 

『もし、その“例外”が現れたら、僕にはどうしようもない。殺されるだろうからね』

 

 

 “アイツ”は、その可能性を危惧していた。いや、予期していた。

 あまりにもあっさりと、己の死であるのに他人事のように、そう語ることに呆れたが、笑い事じゃ済まされない。

 “例外”に対する手段が何もなければ、世界は破滅するのだ。それなのに、“アイツ”が殺されてしまっては、本当にどうしようもなくなってしまう。

 

 

『うーん、そうなったら、キミに『鍵』を託すよ。ま、その時の僕に余裕があるとは思えないから、未完のままになるだろうけど』

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 そして、“アイツ”を滅ぼす為に、“アイツ”に地に堕とされた『天部』が、星辰の導きと、純粋な怨念でもって十二体の特別な眷獣を造り出した。

 ―――世界最強の人造吸血鬼、<第四真祖>。

 それが解き放つ星の眷獣は、真祖たる自分らにも受け入れることができず、神殺しの槍でも滅ぼし切ることはできない。

 “アイツ”も、予期していた通りに、この『原初(ルート)』の呪いが植え付けられた“例外”によって殺された。

 だが、ただでは殺されなかったようだった。

 

 “アイツ”が“ソレ”と一緒に送り付けた、最後に寄こした文にはこう記されている。

 黄道の十二星座を星辰の核とした星の眷獣であるが、実は、もうひとつ、『十三番目』が存在するはずだった。

 獣の肋骨は十三対、人の肋骨は十二対。

 その明確に存在を分ける境であるような一対を、“あの子”を素材とした人造吸血鬼には、受け入れられなかった。

 『天部』がその一対は殺神兵器としては蛇足、天災に非ざるパラメーターなど余分だとして、切って捨てられた<第四真祖>から外した星の眷獣があるのだ。

 

 “アイツ”は、その蛇足の可能性に期待した。

 

 十二体揃って完成体である設計を、根底から崩すバグ因子になり得る。

 不要な存在だと切り捨てられた欠片こそが、切欠となる。ウィルスの抗体を作る為に、そのウィルスの残滓を利用してワクチンを作り出すように。

 ただし、それはあくまでも机上の空論。夢想と言ってもいい。“アイツ”自身も、虚数のような仮定でしかありえない、そんな空想で空虚な可能性だと記し(いっ)ていた。

 そもそも、“アイツ”は、『十三番目』の“情報”をサルベージして、“ソレ”――『禁呪製の人造眷獣』を創ったはいいが、肝心の“情報”が不足していて、このままではワクチンと呼べるものには成り得ない。しかも、その多過ぎる欠損箇所を補った結果、当初の想定図から変異して別物に成り果てる可能性もあり得るという。

 そんな見切り発車された未完の計画を、こちらに引き継がせようなど無理難題が過ぎる。

 まず、既に72の眷獣を宿して飽和しているこの()に、新たな眷獣を受け入れることが難題だ。実際、73体目の眷獣として取り込もうとしたが、まったく血に馴染まなかった。これは他の真祖(ふたり)だって無理だろう。

 だから、この第一真祖の一番目から派する眷獣を宿す、信頼篤い血の従者に預けるしかなかった。

 

 それでどうなっていくのは予見できないが、“ソレ”は可能性だ。

 “アイツ”が、『十三番目』になれとその運命に(ねが)った『鍵』だ。

 血の従者から子へ眷獣は継がれていくだろう。その世代を巡り巡る中で、世界を変革し、運命に干渉する禁呪の力が真ならば、『鍵』の因子に過ぎなかった“ソレ”は怨念に抗する想念を獲得し、最後は相応しき『器』を得るだろう。

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

「しかし、これは予想していなかったな」

 

 人に非ざる十三番目の獣の因子の器となったのは、人と混じわった獣祖の末裔。それもこちらと因縁深い獣人の血縁だ。

 これは、あのバカのように星の眷獣は、この真祖(オレ)を殺しに来たりするのだろうか。

 人間の少年が世界最強の吸血鬼となったことといい、つくづくあの<焔光の宴>は予想外の結末になった。

 

「<第四真祖>がまだ不完全である以上、俺が絃神島(しま)に近づいて余計な刺激を与えるわけにはいかねーよな。ったく、<混沌の皇女(ケイオスブライド)>のババアは、上手くやったもんだぜ」

 

 <タルタロス・ラプス>の行動で、新たに10番目の眷獣の解放が確認されているが、不完全。12体揃ってこそ、<第四真祖>だ。

 『原初』の記憶は失っているが、それでも力を暴走させてしまう危険性がある爆弾には違いない。

 

 ――見極めねばなるまい。

 この先、確実に波乱が起こる。それも世界を巻き込む何かが、あの鋼の人工島を中心に起こるだろう。

 アラダールあたりが身内の恥と頭を抱えてるが、ディミトリエの小僧が何かをやらかそうとしている。

 

 『カインの巫女』が確認され、

 絃神島は『祭壇』だと承知しており、

 そして、もしも、『聖殲』の叡智を、同族の中で最も戦闘狂である小僧が手に入れたとすれば……

 

 ここから導き出されるのは、どうあっても、“大戦”だ。

 既に世界各国から結集した最強の軍隊――<聖域条約機構軍>の発動は決定されている。

 

「どこまでが“アイツ”の計画なのか、それとも、どこまでも“アイツ”の計画通りであるのかねぇ。アラダールが絶対に止めに来るだろうが、やはり試金石として一度直にその面を拝まなくてはなるまい。

 ――『十三番目』として覚醒した“アイツ”の殺神兵器、をな」

 

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 

「あ、古城君、明日の放課後、『テティスモール』に行くから付き合ってね!」

 

 と帰宅早々に兄の予定欄を決めるのは、凪沙である。

 暦の上では冬であるが、冷房が欠かせない常夏の人工島。

 片手にはタブレット端末を友達に、ポニーテールの少女はリビングのソファに寝転んでいる。液晶テレビでは午後のニュースが流れているが、それには目もくれない。

 うつぶせのまま、制服の黒い靴下を履いた足をぷらぷらと動かし、

 

「買いたいものがあるんだけど、ひとりじゃちょっと大変そうだから」

 

「荷物持ちかよ」

 

 かったるいなーと、正直に古城は思う。

 とはいえ、ふとした拍子に倒れることのある妹の遠出にはお目付け役が必須であり、頼まれれば同行は兄の義務だと心得ている。その兄にもお目付け役というか監視役を責務とするお隣さんがいるのだがさておき。

 

「何を買いに行くんだよ」

 

 と言いかけた古城だったが、そのタイミングでテレビのニュースから女性アナウンサーが明るい声でその文句を告げた。

 『もうすぐバレンタインデーです!』と。

 古城はピンときた。ああそういえば、そうだった。

 

 この絃神島でも、バレンタインイベントはある。

 本土から遠く離れていて、高温多湿の気候のせいで輸送コストが高くつく絃神島では、ギフト用高級チョコの入荷数が少ない。しかも、『魔族特区』特有の事情として、吸血鬼や獣人、人工生命体などの各種魔族の嗜好に合わせた商品を入手できるのは、日本国内でも絃神島だけであることから、この時期の島内の洋菓子店では血で血を洗う地獄絵図のようなチョコ争奪戦が繰り広げられているのだ。今、凪沙が挙げた絃神島最大の複合商業施設『ティティスモール』は毎年イベントを開催したりして、その激戦区だったりする。

 けど、律儀な妹はイベントごとには欠かさず参加する。兄を荷物持ちにして。

 

(ったく、何で凪沙があのクソ親父やクラスメイトにやる義理チョコを買うのに付き合わなくちゃなんねーんだ)

 

 古城は憎々しげに唇を歪める。

 たとえ“義理”であろうが妹が他の男のプレゼントを買うのに協力するのはあまりいい気分ではない。ただでさえ、この時期、男はただでさえチョコレート売り場に近づきづらいというのに。

 

(そういや矢瀬がごっそりとチョコを買い込んでいたな)

 

 業務用の袋で5kgのチョコの塊を買い込んでいた悪友の事を思い出す。

 一応彼女持ちなはずだが、相手は彩海学園の三年生。この時期、自由登校期間で学校には来ておらず、それに最近、妙に避けられている気がするという。そんな疎遠となりつつある状況を打破せんと、矢瀬が考えたのが、男の方から贈る逆チョコ。

 古城からすればあまり共感できないが、バレンタインは男女問わずに熱中させる魔力でもあるのだろうか

 

 やれやれだと肩を落として、喉が渇いていた古城は冷蔵庫を漁ろうとリビングを通り過ぎる、その際にチラリと見えた。

 凪沙がせっせと指で操作してるタブレット端末を。画面に映し出される『……感覚の鋭い獣人は味覚や嗅覚にも敏感であり……』という文面を。

 

「ふっ……―――」

 

 古城は冷蔵庫から取り出した冷えたアイスコーヒーを、氷を入れたコップに注いだ―――から、振り返った。

 一瞬スルーした凪沙が熱心に調べている内容を凝視。

 間違いない。

 『獣人用チョコ特集』だ。

 吸血衝動とは違うが、古城の喉がカラカラに乾いていく。

 

 凪沙は、魔族恐怖症だ。

 魔族を忌避してしまう妹に、そんなチョコを贈るくらい親しい獣人なんて考えにくい…………が、いる。

 正確に言えば、獣人種との『混血』だが、古城の後輩にいるのだ。

 

(ま、まあ、クロウはクラスメイトだし、凪沙も色々と世話になっているしな。“義理”でチョコを渡すくらいは普通だろ普通)

 

 納得のできる理由を並べ立てながら、腹の底から湧き上がる危機感やらを鎮火させるよう、苦いブラックコーヒーをぐいっと一気に煽る古城。

 大丈夫。俺はクールだ。何も焦っちゃいない。

 

「うーん。クロウ君は大丈夫だとか言ってたけど、やっぱりテオブロミンの含有量が少ないミルクチョコレートかホワイトチョコレートが良いよね」

 

 へ、へー……一部の獣人はチョコを食べると吐き出したりするのか。獣人の連中も苦労してるんだな……

 

「それに質だけでなく量もないと。だけど絃神島の気温で融けちゃいそうだし、たくさん用意するのは大変だし……」

 

 背後で百面相を作ってる兄の様子には気づかず、ブツブツと考えを呟きながら熟読する妹。

 とても“義理”を贈るものとは思えないくらいの熱意。

 むくむくと再燃する危機感。古城はアイスコーヒーをおかわり。コップに入れた氷も噛み砕いて飲み干す。

 あと深呼吸を2、3度やってから、古城は意識的ににこやかに(頬筋が引きつっているが)、

 

「俺はあんま甘くない奴が好きだな。あとナッツとか入ってるヤツ」

 

「……え? 古城君、チョコ欲しいの?」

 

 きょとん大きな目を瞬いて、凪沙は意外そうにタブレットから古城の方を見やる。

 熱心にチョコ作りを企画する相手とは違って、全く贈り先として予定表(プラン)に書き込まれていないことがわかる反応に古城はうろたえて、

 

「いや、だって、ほら……家族だし!」

 

「えー……でも、古城君、そんなこと言って、去年も一昨年も、浅葱ちゃんから、高いチョコもらったじゃん」

 

「いやまあ、たしかにもらったけど、だけど浅葱の奴、その辺のスーパーで余ってた賞味期限切れの特売品だって言ってたぞ? 高かったのか、アレ?」

 

「特売品って……もう、古城君はそんなだから……!」

 

 義憤に駆られたような表情で、凪沙は朴念仁な愚兄に説く。

 

「浅葱ちゃんが古城君にあげるチョコを特売で済ませたりするわけないじゃん! 賞味期限が短いのは高級品だからだよ! なんでそれくらいわからないかなあ……!」

 

「わかんねーよ! つーか、だいたい去年の奴は半分以上お前が食っただろ!」

 

「だって美味しかったし―――というわけだから、わざわざ凪沙が用意する必要もないよね? ……それに、気合いを入れなくちゃいけないし。なので、今年から古城君や牙城君の分の義理はなしだから」

 

 まさかの通告に、世界最強の吸血鬼は心臓に杭打ちでもされたような精神的衝撃を受けて頽れる。

 これはちょっと立ち直るのが難しいくらいのダメージ。けど、そんな兄のことなど無視して、再び『獣人用チョコ特集』を読み込む凪沙。

 

 まずい。

 妹の気合の入れよう、これはいよいよマズいかもしれない……!

 このままだと、妹は後輩に“義理じゃないかもしれないチョコ”を贈ることに―――さらにその先の―――いいや、早い! そんなのはダメだ! 絶対阻止せねば!

 

 しかしだ。ここで何かと理由をつけて明日の買い出しを辞退しても、絶対に彼用のチョコを作り上げんという凪沙の熱意を見る限り、一人でも激戦区に挑んでしまいそう。それは心配だ。

 それなら―――

 

「そういや、クロウの奴も、甘くないのが好きだって言ってたな」

 

「え、何それ本当に?」

 

 さっきより食いつきが良い。その反応の良さにまたダメージを受けた古城だったが、ここで屈するわけにはいかない。

 

「クロウ君、大の甘党だよ? 凪沙が甘いのと苦いのどっちがいいって訊いた時も甘い方が良いって即答してたし」

 

「そりゃあ、アレだよ。この年頃の男子は、大人っぽい味覚に変わっていくもんなんだ。女子にはわかりづらいかもしれねーけど」

 

「ふうん。確か、古城君も中三のときから、やたらとコーヒーをブラックで飲みたがってたけど……あれって単に大人っぽく格好つけてるだけじゃなかったの?」

 

「ちげーよ! 男は成長していくにつれて苦いのが好きになってくんだよ! だから、クロウも最近苦い食べ物に嵌ってて、この前だってコーヒーもブラックに限るって言ってたし!」

 

 と古城は言うが、そんな事実はない。

 助言という体で、まったくの出鱈目を吹き込まんとする古城。バレたら後で大変だろうが、まだ情報収集している段階の凪沙はこれに迷うはずだ。

 

「うーん。一理、あるのかな? でも、それならやっぱりもう一度クロウ君に確認を取って」

「まあ、待てって。そういう贈り物にはサプライズってもんが付きモンだろ? あからさまに凪沙が訊いてきたらそいつも半減しちまうんじゃねーのか。だから、俺が、さりげなく訊いてきてやるよ」

 

 このまま頼りになる兄としてアドバイザーに収まり、それとなく誘導していけば、古城の危惧する関係に発展することは防げるかもしれない。

 

「……なんか妙に協力的だね古城君」

 

「そりゃあ、凪沙には世話になってるし、クロウの奴にも喜んでもらいたいからな」

 

 その言葉は本心である。“バレンタインイベントに付き物な告白なあれこれ”は除くという但し書きがつくが。

 

 

 

彩海学園

 

 

 

 仙人とは、不滅の真理を体現せしもの。

 若輩ながらそれに属する者になるけれど、個人的にはやはり世界は移ろうもの。

 如何に変わらぬように見えても、必ずその内側は変化していく。

 そしてまた、その内側にいる者は、誰もが予感している。

 言葉にはならず、説明もできず、しかし切ない程に感じ入ってしまう。

 この平穏との離別のときが近づいてきていることを。

 

(まあ、最終学年の生徒らを受け持つ身としては、その感慨もひとしおだったり)

 

 ―――2月。

 本国の季節事情に当てはめれば、この時期は寒い冬になるが、そんな季節感など無視して、窓ガラスからは容赦なく強烈な日差しが照り付けている。常夏島の必需品であるクーラーがなければ、教室は天然サウナ状態を満喫できたことであろう。

 笹崎岬はまるで徒労感を先出しするように大きく深呼吸。

 年中無休でうだる暑さに眩暈を覚えたからではない。これから挑む“彼ら”に少しばかり心の準備を要したからである。

 

 担任教師としても一大イベント。ずばり進路相談である。

 国家降魔官である笹崎岬は彼女以外には請け負えないような生徒らを任されることになっているが、教師歴の中で今後更新されることはちょっと考えられない記録的な問題児が集った大変なクラスだった。兎にも角にも話題性やら事件性に事欠かない。今年から転入してきた獅子王機関の剣巫も自分から問題を起こすような性格ではないけど、時々、ひょっこりと奇行が顔出すこともあった。

 そんなクラスで、最も頭を悩まされ、手を焼かされた、他の教え子らとは一線を画す問題児を相手の面談。

 

「さあて、クロウ君は、どんな進路を希望するのかな。高等部へ進学? それとも別のとこに受験とか就職とか考えていたり?」

 

「う。進学を希望するぞ、笹崎師父」

 

「そっかそっか。ちょーっとこの最近休んじゃうことが多かったけど、出席率はセーフ。成績もギリオッケーだし、授業態度も問題なし。十分進学基準は満たしてたり」

 

 問題児だけど、他の子をイジメたりすることは絶対にないと断言できるし、むしろよく気遣い、助けたりする。苦手とする学業方面も、保護者に厳しく躾けられているおかげで、赤点を取ることはなかったりする。天真爛漫な性格と、意外に真面目な性質とあわされば、優等生と言ってもいい。

 問題は、やらかした時との規模が軽くこちらの手には負えないくらい半端ないことだった。

 ついつい大変だったなぁ、と意識が遠のきかけるも引き締め直し、ちょっと踏み込んだ質問。

 

「それでクロウ君は将来的に何かやりたいこととか考えていたり?」

 

 笹崎岬が予想した解答は、『まだよくわかんない』。

 中等部ではまだ将来設計は建てられていない子は多い。青春真っ盛りな今に夢中であるのだろう。

 それにクロウはこの絃神島、というか人間社会に馴染むことが大変だったろうし、先を見据える余裕なんてそうなかったはずだ。

 そんな担任教師の予想を裏切る返答がされる。

 

「オレ、国家攻魔官やりたい」

 

「はい?」

 

「ご主人みたいな国家攻魔官になりたいぞ。先生やりながら、悪い奴らをとっちめるグレートティーチャーになるのだ」

 

 聞き間違いじゃない。彼は確かにそう意思表示した。

 

 

「―――ふん、無理だな」

 

 

 で、それを一蹴される。

 真っ先に否定したのは、当然笹崎ではなく、笹崎の対面にいて、クロウの隣にいる彼女。

 クロウはむぅ、と不満げにそちらを向くも、涼し気な顔で扇子を扇いでいる彼女――笹崎岬の先輩教員にして、本日の()()()()の保護者として同伴しているはずの南宮那月は、情け容赦なくこき下ろす。

 

「馬鹿犬、貴様に国家攻魔官は無理だ。馬鹿には務まらない。教師に関しても同じだ」

 

「オレ、ご主人のように英語はペラペラだぞ」

 

「英会話ができるから教えられると考えている時点で話にならん」

 

 ま、まあ。先輩の言うことはもっともだったりするかもだけど。

 うん、体育教師でもこの子は体力とか人とはちょっと次元がかけ離れてるから勧められそうにはないけど。

 それでも、彼の中に芽生えたその意志を簡単に無下にしてはならないと教師としての使命感が声を上げさせる。

 

「でも那月先輩、クロウ君、先輩の手伝いとかやってる関係でそのあたりの事情も詳しかったり」

「笹崎師父……!」

 

「そんなの大したことではない。馬鹿犬には必要最低限度の事しか教えていないんだからな。だから、攻魔師資格(Cカード)だって有していない」

 

「そこはほら! クロウ君、実は結構物覚えがいいし、まじめに勉強さえ頑張れば攻魔師資格の試験だっていけるんじゃないかな、と」

「う! オレ、勉強頑張るぞ。姫柊みたいにちゃんとした資格を取るのだ!」

 

「はぁ、通信簿を付けているのならコイツの馬鹿さ加減もよくよくわかっているだろうに。岬、お前も担任なら、無理なものは無理とはっきり言ってやれ。下手に望みを持たせると調子づかせる羽目になる。そうして、調子づいた挙句に後悔する。……甘い考えで踏み込んではならない進路であるのなら尚更な」

 

「オレは、ちゃんと考えてるぞご主人。試験とか色々厳しいのはわかってるけど、それでも」

「いいや、わかっちゃいない」

 

 パチリ、と扇子を閉じて、強い言葉で。

 

「私が試験官であるなら、お前のような馬鹿は一番に落とす。だから、やるだけ無駄だ、馬鹿犬。お前は大人しく」

 

「―――それはどうかね」

 

 苛立ちが見え隠れし始めた先輩に、横やりを投げ入れたのは、黒猫。

 ひょっこりと教室の窓から入ってきた黒猫の式神はくしくしと顔を撫でながら洒脱な調子で物申してきた。

 

「そんな頭ごなしに否定してやらなくてもいいんじゃないかい。少なくとも、能力的には何ら問題ないね。試験官を任された経験のある私が太鼓判を押してあげる。何なら、師家(わたし)の後釜に推薦してやってもいいよ」

 

「―――そうやって、獅子王機関の手駒とする気か」

 

 と黒猫の発言を非難するのは、またまた乱入者。

 クロウの鞄から、にゅるっと机の上に出てきた水銀が人の形をとったのは、大錬金術師。

 

「組織なんてものに属せば、本人の意思など関係なくいいように利用してくるに決まっている。何せ、クロウは、“世界最強”という戦争をする上ではこの上ない看板を背負っているのだからな。じゃが、そんな真似、妾は絶対に許さんぞ!」

 

「確かに、(くらき)あたりがちょっかい出しそうではある。個人としてはそんな真似は反対さ。だからこそ、悪戯にちょっかいを出されない為にも組織の後ろ盾を得られる身分は必要だよ」

 

「そんなの首輪をつけて縛り付けようとするのと変わらんではないか。クロウがこれまでどれだけ辛い目に遭ってきたか、(ヌシ)だって知っていよう。あの<禁忌契約(ゲッシュ)>を結ばせたのだって主らだ。もうこれ以上、自由を侵害され、やりたくもないことを強要されるなどあってはならん! 妾は断固反対だ!」

 

「けど、何の対策もせず、このままこの子を放置してたんじゃ周囲を警戒させてしまうよ。名目だけでも組織に属しておくのは、対外的にアピールする上で有用な手段のひとつだとは思わないかい」

 

 と討論を伯仲させているが、彼女らは今この場においては部外者。渦中の当人(クロウ)もぽかんと黙ったままで、話についていけてない様子。

 そして、先輩がここまで二人の勝手を許しているのは奇跡である。既にお人形さんのような童顔に青筋がぴくぴくと浮かんでいるのがちらりと見えた。一後輩として彼女の堪忍袋の緒がそれほど長くないことはよく知っている。口よりも先に手が出る性格であることも。1秒でも早く止めねば乱暴に収拾をつける羽目になるだろう。

 

「えー。お二人はどうしてここにいたり?」

 

 笹崎岬は、黒猫の式神を介する縁堂縁と水銀を錬金術で手繰るニーナ=アデラートを止める。

 二人とも話が全く通じない相手ではない。長生(エルフ)種に古の錬金術師。仙人であるが若輩の自身よりも遥かに年上であり、ある程度の常識と協調性もある。理由を問えば、普通に答える。

 

「今ちょいと監視役につけてる子が別件に出てるから、代わりについてたのさ。獅子王機関としてもこの子の進路先は気になるところであるしね。最初は別にここに邪魔しようとは思ってなかったんだけど……ああも頑なに否定されてたんじゃ、指導していた立場として一言くらい物申したくなってついね」

 

「クロウとは同じ屋根の下で暮らし、家族も同然と言っても過言ではない付き合いをしておるのだ。将来を心配するのは当然こと。それに那月は素直ではないからな。なので、妾が那月の代弁者として馳せ参じたというわけだ」

 

 と弁明した後、自称代弁者のニーナ、それからついでとばかりに指導係の縁堂がどこかへと空間転移で飛ばされたが、簡潔にまとめれば両者とも心配でついてきたということ。

 うん、でも、やはり、彼の将来に一番に気を揉んでるのは先輩であることに疑いはない。ただ、先輩の性格上、それは絶対に口に出せないだけで。

 

 笹崎岬は知っている。

 実は、会長が不在となりちゅうぶらりんとなった<魔獣庭園>の株を買い占めたこと。

 筆頭株主の強権を働かせれば、“世界最強”の“問題児”でも受け入れさせられるであろう。あそこは造られたものだが自然があり、都会よりものびのびと過ごせるはず。それに人間より魔獣の相手をさせる方が気楽だろう。総合的に考えて、適職である。

 というわけで、たとえクロウが路頭に迷ったところでフォローできるよう将来設計は万全だったりするが、そんなの絶対に明かさない。

 笹崎岬の口からそのあたりの考えを話すこともできるが、そんな真似をすれば、絶対にこの先輩は怒る。拗ねる。一週間くらい口をきいてもらえなくなるかもしれない。クリスマスにサンタのことを先輩よりも先に教えちゃったとき、元気いっぱいの眷獣(クロウ)が夜中にぐっすり眠りにつかせるために激しい組手(うんどう)をさせられたことを笹崎岬は覚えている。

 で、クロウへの当たりがきつくなることも付き合いがあれば容易に予想がつくことだ。

 

 口は禍の元。

 吟味せず思ったことをそのまま口に出せば痛い目を見るのだ。

 

「ったく、ここは貴様の教室であるというのに部外者を乱入させるとは随分と脇が甘いな、岬」

 

「いやいや、確かに油断してたのもあったけど、二人とも結構な術者だったり」

 

「結界くらい張っておけ。二度とあのような部外者が出しゃばってこないような」

 

「結界って大袈裟な」

 

 二人を強制退場させた後も先輩の苛々が収まってくれないが、このまま説教に時間を取られるわけにはいかない。

 面談を続行させるために、クロウへ話題を振って修正を図る。

 

「それで、クロウ君。攻魔師になるかは一旦保留にして、第二希望とか考えてたり?」

 

「う。あるぞ、第二希望」

 

 おー、失礼だけどちゃんと考えてたり、と思う岬。

 周りが心配しているけれど、彼がきちんと自身の将来を考えている、そのことが担任として嬉しく、そして、信じて応援したいという気持ちが湧いて―――

 

 

「実は、フォリりんにおすすめされたんだけどな。北欧アルディギア王国の御庭番! ご主人のような国家攻魔官の次くらいにユスティナみたいなニンジャマスターに憧れるのだ!」

 

 

 と、肝心の生徒が(強制)退場となった為、三者面談はお開きとなった。

 そして、一対一となった先輩はこちらをじろりと睨み、

 

「ったく、あの腹黒王女め、くだらんことを吹き込みおって。それに乗せられる馬鹿犬も馬鹿犬だ。おい岬、いつまでたっても馬鹿犬がああも馬鹿なのは担任であるお前が馬鹿なせいではないか」

 

「えー、面談の対象(ほこさき)がこっちになってるっぽい」

 

「もっと厳しく躾けないから、あのような戯言ばかりのたまうのだ。反省しろ」

 

「それなら保護者である先輩にも影響あるっぽい。むしろ、先輩のような国家降魔官になりたいって言うんだから、先輩を見て育った影響の方が大きかったり」

 

「……ほう、なら、私も甘い対応はやめ、目上にふざけた態度ばかり取る後輩を教育的指導してやろう。徹底的にな!」

 

「うわ、藪蛇だったり!?」

 

 つくづく口は禍の元であると悟った面談であった。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 ―――空から、後輩が降ってきた。

 

 

 昨日約束した凪沙の買い出しに付き合う為、放課後、校舎内をうろついていた古城。

 本日の買い出しに同行を希望した姫柊雪菜――<第四真祖>の監視役を待っていた。何でも今日は中等部で今後の進路を決めるための面談があるようで、先輩方を待たせてしまうことに恐縮していた彼女だったが、やはり監視役として世界最強の問題児から目を離したくはない。凪沙もちょうど部活で済ませたかった用事もあったので、しばらく古城は一人時間を潰すこととなったのだ。

 それで自販機で缶コーヒーを買い、日陰で寛いだところで、ドッスン、と。

 

「う~……いきなり飛ばすのはひどいぞ、ご主人」

 

 空中に放り出されたが、そこは猫のようにくるっと身を捻って、両足で地面に着地。

 突然生徒が空から降ってくるなど普通は驚いたリアクションがあるのだろうが、古城は何事もなく缶コーヒーを煽る。

 日本にいたころだったら吃驚しただろうに、随分と『魔族特区』に染まってしまった。いや、これはこの主従のコミュニケーションに見慣れてしまったという方が正しいか。この絃神島でも空間制御で飛ばして高所から相手を落とすことをじゃれ合いで済ませるにはレベルが高い。

 

「あ、古城君だ」

 

「おう、クロウ。なんかいろいろと大変だったみたいだな」

 

 何にせよ、後輩とお話がしたかった古城には都合のいい機会だ。

 凪沙が来る前に、さりげなく、後輩の意識調査をしておきたかった古城はまずは世間話から入ることにした。

 

「あー、それでクロウ、確か今日は、三者面談だったんだよな?」

 

「う。そうだぞ古城君。ご主人と師父に高等部に進学してからのオレの将来設計について相談したんだけどな。ニーナや師家様もやってきて、色々と難しい話をしてたんだけど、ご主人が二人をどっかに飛ばしちまって、それでオレも飛ばされちまったのだ」

 

 何やってんだよ、と古城は頭を抱える。

 三者面談に乱入なんて真似をすれば、隠れ過保護な主人である魔女がお怒りになることくらいわかるだろうに。

 とはいえ、後輩の将来については、古城も気になるところではある。

 

「クロウは将来何をやりたいんだ?」

 

「第一希望は、国家攻魔官だぞ!」

 

 へぇ、と意表を突かれたことを口に漏らす。

 けど、それも主人の影響だと考えればそれにすとんと納得できる。

 

「第二希望は、北欧アルディギア王国の御庭番、ニンジャマスターなのだ!」

 

 なに吹き込んでんだよラ=フォリア、とがっくり肩を落とす古城。

 すぐににっこりとした笑みが思い浮かぶくらい古城もその下手人な王女様には振り回されている。

 

「うー、でも、ご主人を納得させられなかったのだ」

 

「まあ、とりあえず進学してから考えればいいさ。それで、クロウはどうして国家攻魔官になりたいんだ? 那月ちゃんが国家攻魔官だからか?」

 

「それもあるけど、それより今のオレには率いなくちゃいけない奴らがいる。昔のオレみたいな連中だからな、ご主人みたいに偉くならないと不自由にさせちまうし、アイツらにもオレと同じ夢を見せるにはもっとデカくならないとダメなのだ」

 

 そう志望動機を語るクロウが大きくなったように古城には見えた。

 一見能天気にみられる後輩は、人より物事を真剣に考えている。先輩としてそのことを古城は知っているつもりだったが、少し圧巻とさせられた。

 今や後輩は『世界最強の獣王』なんて評されるくらい暴威(ちから)を持っている。その個人では持て余す力の使い道に悩みながらも、将来(さき)のことを考えている。

 それだけで古城には気後れするところである。同じように『世界最強の真祖』でありながら、いまだに将来の展開図に線すら引いていない白紙のままなのだから。

 そうだ。<第四真祖>という存在が、学生生活という猶予期間(モラトリアム)にいつまでも甘んじたままでいいのか―――

 

「? どうしたのだ古城君、何か考え込んでるけど……」

 

「あ、いや、何でもねーよクロウ」

 

 首をかしげながらこちらを伺う後輩に、古城は軽く手を振って誤魔化す。

 

「あー……そうだ。クロウ、お前って、コーヒーをブラックで飲めるか?」

 

 ちょうど手元にあった缶コーヒーを見て、話題を変える古城。

 ちょっと強引な修正だったが、素直な後輩は、むぅ、と唸りながら、

 

「オレ、にがあいのは苦手。コーヒーを飲むんだったら、ミルクと砂糖が一緒がいいぞ」

 

 ペロッと舌を出してしかめっ面。ありありと苦手意識を顔に出す後輩。

 

「ご主人にコーヒーを砂糖だけで嗜めないようではお子様だと言われた」

 

 那月ちゃんもブラックダメじゃねぇか、と絶対に口には出さないが、内心で突っ込む古城。

 じっとこちらを見つめる後輩。正確には手元の真っ黒い缶を見ながら、

 

「古城君は、コーヒーを飲めるのか」

 

「ん? ああ」

 

「ブラックでか?」

 

「ああ」

 

 妹からは格好つけだのと思われているが、古城はコーヒーにはこだわりがある。

 自分で淹れるのもインスタントではなく、豆を挽くところから始める本格派。この慣習ができたのは吸血鬼となってからで、夜行性の吸血鬼が真昼間に学校に通うというのは中々に過酷なものでカフェインに頼るようになったというのが経緯である。

 

「すごい! 大人なのだ。ご主人よりも大人だぞ!」

 

「ま、まあ、俺はコーヒーにはちょっとこだわりがあってな。豆から淹れているんだが、やっぱインスタントのとは風味に違いがあって……」

 

 と、そんな話をするんじゃなかった。古城が、今日、この後輩に探りを入れたかったのはそこじゃない。……まあ、ビターはやめておけと凪沙に言っておこう。

 

「ところで、いきなり話は変わるんだが、クロウ。お前、バレンタインって知ってるか?」

 

「知ってるぞ。昔の偉い聖人を祀るお祭りで、仲良しと贈り物し合うイベントだろ」

 

 一般常識に疎いところのある後輩だが、バレンタインについて知っているようだ。

 では、そのバレンタインに対する意識はどうなのか。

 

 

「クロウは、そのバレンタイン、ってどう思う?」

 

 

 本命とも言える二の矢の質問をして、古城はクロウの反応を伺う。

 もしここで、昨日の矢瀬のように一大決心で何かに勝負をかけるというような気配があったのならば、ここでちょっと私的な緊急進路相談を開催しなければならなくなる。

 

「うーん、そうだな」

 

 ぐっ、と握りこぶしを掲げる後輩。

 

 

「―――バレンタインは、“大戦”、なのだ」

 

 

 “大戦”、だと……!?

 え、まさか!? 花より団子を地で行く、こういう男女の青春的なイベントには無頓着だと思ってた後輩が、そんな燃えるような目をしているとは予想外。これは古城の想定以上に進展してしまっているのか!?!?

 

「ク、クロウ、お前それどういう……!?」

 

「明日、ブルエリで、バレンタインのイベントがあるのだ! そこに紅魔館の皆で参戦するんだけど、今後の経営を占う“大戦”になるとカルアナが言っていたんだぞ!」

 

「は? あ、ああ……そうか。そういうことか。なるほどなるほど……よかった」

 

「?」

 

 そういえば、この後輩は国家攻魔官の助手だけでなく、知人が経営する魔族喫茶のバイトもやっていた。

 つまりは、その“大戦”とやらはお仕事に関わることであって、個人的に意識するような事態ではないということだ。

 やっぱりこの後輩には色恋沙汰とかそういうのはまだ早い。ひいては妹も同じ。

 やっと昨日から熾火となって燻っていた危機感を完全に鎮火することができた古城は大きく安堵の息を吐いて、朗らかな笑顔で後輩の肩を叩く。

 

「そっかそっかバイト頑張れよクロウ」

 

「おうよ、バレンタインの大一番は勝利してみせるのだ古城君」

 

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

 

 ―――さあ、“大戦”を始めよう。

 

 

 この屑鉄と魔術で生み出された紛い物の大地に訪れてからずっと夢想してきた。

 万事が計画通りに事が進んだ、とは言えない。予想外な事態もままあったし、愛しの<第四真祖>には多く驚かされてきたものだ。

 だけど、信じていた。

 いずれ、ボクと(ころ)し合える存在になることを。

 そして、ようやく、望んでいた展開へと実現をこぎつけることができた。

 

 だけど、それには無視できないモノがいる。

 

 

「さあ、お目覚めの時間だヨ」

 

 

 ディミトリエ=ヴァトラーが囁いたのは、培養器に眠る巨漢。

 筋骨隆々たる体躯は見るものにその存在の“でかさ”を認識させる。

 最期に対峙した時とは違うが、食らった『矢瀬顕重』の記憶にソレはあった。

 ()()()()()『墓守』を見て、その邪魔な心を外して一から創り上げた器で、博物館の地下に安置されていた。

 その源流とする遺伝情報は管理公社が保管しており、実際、作製されたその肉体は“第一真祖でさえ殺し切れなかった”最盛期の状態を再現したクローンだ。

 

 それで、矢瀬顕重は不要と断じていたが、ヴァトラーはその中身こそが“強度”に欠かせぬもの。

 そして、ヴァトラーはその中身の“情報”を持っている。あの存在を食らったのは他ならぬヴァトラーであるのだから。

 それに死人を復活させるための死霊術(ちから)も彼の血から得ており、矢瀬顕重の“絃神冥駕を『僵屍鬼(きょうしき)』とした”知識もある。

 そう、『世界最強の獣祖』を喚び起こす材料は、ここにすべてが揃っている。

 

 

「―――<黒死皇>」

 

 

 ヴァトラーが呼びかけるや、肉体に無数の傷が刻まれる。

 何もしてはいない。今、宿った彼の魂と順応し、彼の肉体が思い出しているのだ。

 顔も体も傷だらけとなった後、今度はその全身が漆黒の獣毛に覆われ、頭部は人のものから狗頭へと変化する。更に狗頭と両腕に白銀色の体毛が生え、王者の如き威容を添える。

 そうして、身長3mを優に超える漆黒の獣人に成ったところで、開眼。

 金色の眼が、己を起こした術者たるヴァトラーを射抜く。

 

 

「ワシを起こす死にたがりの阿呆は誰かと思えば、貴様か、<蛇遣い>」

 

 

 復活されたが、混乱はない。

 生前は、自身こそが死者を呼び覚ます墓荒しであったのだから。

 だが、己を起こすのは余程の阿呆しかいないと断言できる。

 

 黄金の眼光が閃いた瞬間、培養器は弾け飛び、漆黒の獣祖は降り立つ。

 ただ目前とあるだけで、焦がされそうな絶望が周囲の者達の皮膚に浸透する。

 ヴァトラーの左右傍らに控える側近、キラ=レーベデフとトビアス=ジャガンはその巨躯を一目して、本能で理解した。

 二人は“第三の夜の帝国の獣王”と対峙したことがあったが、ソレすらも霞む。

 それでも、主たる<蛇遣い>に牙を剥くのならば、死力を尽くして殺し合おう!

 

 その決死の覚悟を一瞥した獣祖は、虫でも払うように手を振った。

 

「いたずらに死者を起こすものではない。貴様程度の『死霊術』に縛られるワシではないと思わなかったか」

 

 握り込んだ拳から、人差し指と中指を弾き出した。

 圧縮した空気をぶつける、指弾。魔術でもなんでもない。

 炎と闇の貴公子は、眷獣を召喚することもできず、血飛沫となって上半身を吹き飛ばされた。

 

 『死霊術』で起こした死者は術者に服従する。

 だが、ここにいるのは『死霊術』を極めている存在であり、その支配から解放させる術を熟知している。

 故に、ここで今、術者であるディミトリエ=ヴァトラーに反逆するという選択肢が獣祖にはある。

 

「もちろん、わかっているサ、<黒死皇>の爺さん」

 

 配下達を一蹴されたが、ヴァトラーの顔は絶えず微笑を浮かべている。

 獣祖の指摘は当然ヴァトラーもわかっている。わかっていて尚、復活させた。

 最盛期の肉体に、老成された経験値と技術を併せ持つ獣祖を。

 

「そうか。貴様は蝙蝠共の中でも最も血に狂った戦闘狂であったな。望みはワシとの死合いか」

 

「うん、それは願ってもない機会だけど、ボクが爺さんと戦わせたいのは、ボクじゃあない」

 

 “協力者”は、“あの子”――最大の切り札たる『墓守』をこちらの陣営に参加させることを拒んだ。

 招こうとすれば如何なる障害があろうとその宿業が結んだであろうに、『咎神』が描いた設計図の完成形でありながら、『巫女』たる彼女は兵器として扱うことを徹底して厭う。

 そうでなければ、暁古城を裏切るような真似はしないのだけど。

 

 しかし、“あの子”は紛れもなく『世界最強』。

 この前、消化不良ながらも(ころ)し合ったからこそ、その実力は本物であり、そして、敵対すれば厄介な相手であると知る。

 暁古城と戦おうとすれば邪魔してくるだろう。

 “あの子”も食らいたいところではあるけれど、今回ばかりは、愛しの暁古城にすべてを費やしたいのだ。

 それに、“あの子”はまだ美味し(つよ)くなってくれるかもしれない。

 

 

「爺さんの血を継ぎ、世界最古の獣王を滅ぼした、現代最強の獣王と戦ってほしいんだヨ」

 

 

 これはそんな期待する彼に、ボクから最後の贈り物だ。

 

 

 

つづく



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真祖大戦Ⅱ

お待たせしました。

色々とありましたがどうにか生存してます。今回も楽しんでもらえたら幸いです。

続きは気長にお待ちください。

あと、簡単な作中設定のまとめも作りました。






MAR

 

 

 

 新たな<焔光の夜伯(カレイド・ブラッド)>――人工吸血鬼の創造は困難を極めた。

 現代において魔導研究の最先端を担っているMAR社が総力を挙げても叶わないでいる。

 理由は明白。

 『十二番目のアヴローラ』が、自身の肉体の完全な消滅を望んでいる。神々が生み出した<第四真祖>のオペレーション・システム――『原初(ルート)』と名付けられた“呪われた魂”を自ら体内に取り込んだ彼女は、『原初』を滅ぼす為、自ら殺されることを選んだ。

 十二番目(アヴローラ)は自らの死体を納める氷の棺を作り出し、『原初』が二度と復活できないように、自身を氷塊の中に閉じ込めた。何人にも触れられぬ、外部と一切遮断された『眠り』を司る真祖の眷獣の柩は、細胞のサンプルひとつの入手も許さなかったのだ。

 

 それでも手の出せない彼女こと『眠り姫』の肉体を残していたのは封印体(ナンバード)の中で貴重な例外であるから。

 <焔光の夜伯>と呼ばれた少女たちは、<第四真祖>の眷獣を封印するための人工吸血鬼であり、その数は全部で12体。けれど、六番目を除く十一体までは、すでに失われている。存在そのものが封印である彼女たちは眷獣を解放すれば、役目を果たし終えて眷獣の一部となって消滅する運命であるから。

 消滅を免れたのは、眷獣を完全に解き放つ前に、殺された『十二番目』のみ。彼女の胸に突き立った銀色の杭は、『眠り姫』を殺したが、同時に、『眠り姫』を現世に繋ぎ止めるための楔となったのだ。

 

 氷の柩に阻まれて、細胞のサンプルは得られない。

 それでも、<接触感応(サイコメトリー)>ならば、その肉体の情報をサルベージできていた。氷の柩越しで断片しか拾えず難航していたが、それもパズルのように繋ぎ合わせ、長い時間をかけてきてようやっと人工吸血鬼の設計図は把握しつつある。

 

 だから、あとはその複製体(クローン)の材料となる細胞。

 真祖の眷獣が憑いた魂を受け入れる器など、真祖でなければ不可能。だけど、いた。

 『混血』。

 『天部(かみ)』にも匹敵する技術を持った大魔女が造り上げた人工魔族であり、<第四真祖>の後続機とされる彼の細胞は、要求される強度に足るものだった。

 そこに実際に真祖の眷獣を受け入れるだけの高い親和性を有する我が娘の遺伝情報を掛け合わせれば、器は出来上がるだろう。

 それは決して表沙汰にはできない、最低な行いの果てに、だけど。

 哀れな彼女の亡骸を弄り、無垢な彼の細胞を無断で採った、狂った科学者だと後ろ指を指されても当然。だけど、子供たちを救えるのであれば、人としての倫理観を擲つことに躊躇いはなかった。

 

「先代の<第四真祖>――十二番目の<焔光の夜伯>の完全な複製は造り出せなくても、アヴロ-ラ=フロレスティーナの魂を移し替えられる器はできるの。彼女に憑いている眷獣も一緒に受け入れられる、ね」

 

 無論、罪人として裁かれるつもりでいる。

 でも、あと1年、器が完成するまでの1年、待ってほしかった。

 

 

「猶予はない。許せ、暁古城の母よ。汝の望みは叶わない」

 

 

 宣告するのは、小柄な少女。華やかな花柄の浴衣を身に着ける少女は、瞳が薄闇の中で炎のように青く輝き、結い上げた髪が淡い金髪で光の加減で虹のように色が変わる――この“柩の間”に安置される『眠り姫』と瓜二つの容姿。

 そう、彼女は、塵一つ残さず世界から消え去ることを望んだ末妹の遺志を叶える為に、今この“柩の間”に訪れた終焉の死者。

 

「でも……それでも……私は救いたいのよ、あの子たちを。ようやく光が見えてきたところなの。お願い……」

 

 微笑む表情の眼差しは真剣で、静かな声で懇願する暁深森。

 けれど、『六番目(ヘクトス)』――今やただ一人の完全な封印体の彼女は、首を横に振る。

 

「肉体の消滅こそが彼の者の遺志であり、我が望みもまた彼の者の滅びなれば―――」

 

 『原初』の復活を阻止する。

 そのために『十二番目』は“氷の柩”に眠りにつき、『六番目』は最後の一手を果たしに来た。

 だが、それは同時に、暁深森は<焔光の夜伯>の設計図を完全に把握できないままに失われること――複製体の創造が叶わなくなるということ。

 

「それに、不要だ。複製体はなくても、彼の者を受け入れるにふさわしい器はここにある」

 

 胸に手を当てる『六番目』に、深森は彼女の意思を悟り―――腰に下げていたクーラーボックスに手を伸ばす。

 取り出すのは棒アイスではなく、カプセル錠剤。

 

「不要、だなんて、聞き捨てならないわね」

 

 自身の行いは、かつて第三真祖<混沌の皇女(ケイオスブライド)>に見咎められ、企みを完膚なきまでに破壊されそうとなった。

 そのときは息子の古城が割って入って事を納めてくれたが、いずれはこの<焔光の夜伯>を知る者が警告しに来るだろうというのは、予想してしかるべきこと。

 だから、備えていた。覚悟を、決めていた。

 

「……汝、何をする気か?」

 

 “氷の柩”の『眠り姫』へ手を向ける『六番目』は、その無表情を僅かに崩す。

 二人にあった10mの間合い、それを暁深森から1歩、近づいてきた。魔力を昂らせようとした『六番目』に。完全なる解放はしない、一端でも“世界最強”を冠する真祖の眷獣の力。迂闊に近寄ればその余波でも人の身は壊れるだろう。

 たとえ研究所内すべての警備員を差し向けたところで、歯が立たないことは明白。

 攻魔師でも魔族でもない、軟弱な人間である彼女は避難するべきであり、間違っても近づいてはならない。

 なのに、最弱の人間である暁深森はこんな時でも朗らかに笑って、さらにもう1歩、最強の真祖が敷く境界線を踏み越えた。

 

 

「戦争よ。くだらない科学者としての意地と、みっともない大人の義務を懸けた、私の戦争(ケンカ)、受けてもらえないかしら?」

 

 

 

青の楽園

 

 

 

 『青の楽園(ブルーエリジアム)』。通称ブルエリ。

 絃神島本島の沖合に建造された、新型の増設人工島(サブフロート)である。

 『魔族特区』の一部であり、本土にはない特殊な施設が併設されている。世界各地の希少な魔獣たちを飼育して、彼らの生態を研究する大規模施設――通称<魔獣庭園>だ。

 とはいえ、世間一般的には、ここはホテルやレジャープール、各種アトラクション施設を満載した高級リゾートとして知られている。

 

 亜熱帯の絃神島とはいえ、二月の気温は、泳ぐには少し肌寒い。

 となると、このブルエリ最大の目玉である、大きな波が打ち寄せる造波プールや、全長200mを超えるウォータースライダーなど趣向を凝らした9種類のプールに客入りも鈍くなってしまう。

 だが、客足が少ないのはそれだけが理由ではない。

 

 今年に正式オープンしたばかりのブルエリだが、オープン前に<魔獣庭園>の運営母体であるクスキエリゼの会長が魔導テロとの繋がりがあり経営から退陣。魔獣の研究に必要な膨大な飼育費の一部を入場料収入で補うことを考えていたのだが、スタートダッシュを切る前にズッコケるような事態があり、『テロを支援する団体が経営するリゾート施設』などと世間的な評判はあまりよろしくない(下落した株は、とある国家攻魔官に買い占められたそうだ)。

 というわけで、想定していたよりも低調な『青の楽園』の経営状況を打破するため、悪評を払拭するために、この時期ならではのイベントを開催することになったのだ。

 

 その祭事に参加する褐色の少年。

 常夏の日射に焼けたというわけではなく、生来の肌色。

 普段は厚着に隠されたその肉体には、野生の獣を彷彿とさせる筋肉が見て取れた。しなやかで逞しい天性の発条(バネ)は、ひとたび解き放てば、抜群の躍動感を魅せる。

 そんな全身いっぱいに活力を溢れんばかりに漲らせて、唱えた。

 

 

「―――お前ら、今日は“大戦”なのだ!」

 

 

 腰に手を当てて、そう意気込むのは、クロウ。

 体躯そのものは小柄であるが、その立ち姿には堂々たる自信と気迫が満ち満ちており、彼の姿を勇壮なる狼のように見せている。

 聖域条約機構により、重要な兵器と認定された<黒妖犬>であるが、今ここに立っているのは、一党を率いて、打ち合わせを取り仕切るバイトリーダー『義経』である。

 

 魔族喫茶・紅魔館2号店。

 その女主人は、純血の吸血鬼にして、公爵令嬢ヴェルディアナ=カルアナ。最初は記憶喪失だった没落貴族のお嬢様は、世間の荒波に揉まれながらも看板娘として成長し、昨年バイトから初めて支店の経営を任されるくらいに出世したのだが、物価の高い絃神島での経営は大変であり、日々四苦八苦している。同期であるバイトリーダーの伝手で北欧の王女様プロデュースのショーに(無茶ぶりの多い)悪役出演したりして低空飛行ながらも黒字経営でやってきた。ところに、最近、従業員(食い扶持)が増えた。

 

「オレ達が売りに出すのは、今日のバレンタインイベントのために考案した特製チョコアイスパンケーキ! 二段の『ガングレティアイスケーキ』に、三段の『ガングレトアイスケーキ』なのだ!」

 

 大小のパンケーキの上にアイスを盛ってトッピングし犬型にしたこのバレンタインイベント限定で、ヴェルディアナが考案した2号店オリジナルメニュー。

 それらがバンッと真ん中(メイン)を飾るメニュー表を掲げて、皆に改めて叩き込んでから、

 

「そして、売り上げ1位を狙うためのベストな布陣を、カルアナが考えてくれたぞ」

 

 皆、心して聴くのだ! と一歩下がるバイトリーダー。

 代わって前に出るのは、ワンピースタイプの水着に悪役っぽいマントを羽織り、それから日差し避けの麦わら帽子とサングラスを付けた女主人。

 

「まず、ウェイトレスは、カーリ」

 

「は、はい」

 

 栗色の髪から自己主張するピンと立った大きな犬の耳。彼女も水着で、腰に巻いてるパレオから丸めた尾がちらりと見える小柄な犬人少女はおずおずと頷く。

 

「今日もびしっと百発百中の消毒撃ちを頼むのだ、カーリ」

 

「……あなたに、言われたくないです」

 

「うん。オレに言われるまでもなく決めてくれる仕事人だったなカーリは」

 

「もういいですそれで」

 

「おう、今日の看板娘は任せたぞ」

 

 バイトリーダーとして発破をかけるクロウに、プイッと顔を逸らすウェイトレスのカーリ。

 

「次に、ラーンは主にレジ担当ね」

 

「わかった」

 

 スクール水着のような水着を着ているが、首に長いマフラーを巻いている黒髪ツインテールの無表情少女。

 

「オレも計算は得意だけどレジ打ちが難しいから、ラーンが適役なのだ」

 

「計算も負けない」

 

「にっしっし、今度また浅葱先輩お手製の計算ドリルで勝負するか?」

 

「うん、する」

 

 表情はほとんど変化していないが、どことなくライバル心をメラメラと燃やしているような雰囲気がある。そんな一見無感情キャラの相手に慣れてるクロウはそれに応じるように歯を見せて笑う。

 

「ロギ、あなたはキッチンよ」

 

「………」

 

 無表情というよりは、不愛想な人工生命体の少年は、黙って頷く。それを見咎めるように絡むバイトリーダー。

 

「んー、ロギ、返事はしっかりとしないとダメだぞ。それとも、返事できないくらい緊張してるのかー?」

 

「緊張なんてしてない!」

 

「そっか。でも、パンケーキを焦がしちゃったり、アイスを融かしちゃったりしないように気を付けるのは大変だもんな。緊張するのはよくわかる」

 

「だから、緊張してないって言ってるだろ、ヘル…義経!」

 

「ん、そうだな、ロギは火加減が完璧だもんな」

 

 反抗的に噛みつくロギだったが、ちっとも曇らない目との睨み合いっこの末に、ちっと舌を打つ。

 “虹色”に煌めくあの瞳とは違うが、その太陽のような、輝き放つ金瞳。“彼女”が評した通りの、呆れるくらいに真っ直ぐな視線は、駆け引きの余地など一切なく相手へ焦がす程にその肯定的な気持ちを伝えてくるので、ムキになるのが馬鹿らしくなってしまう。

 

「そして、チーフは……」

 

 ウェイトレス、レジ、キッチンに続いてチーフの選考に、バイトリーダーにして一党を率いるクロウはふんすと胸を張って名前を呼ばれるのを待つ。

 が、ヴェルディアナはひとつ息を吐いて、

 

「アスタルテ、あなたに任せるわ。私が店を離れたときはあなたが指揮してちょうだい」

 

命令受託(アクセプト)

 

 選ばれたのは、アスタルテ。本来は不要なカフスやらカチューシャをメイドのように飾った改造水着を着ている人工生命体少女は、クロウの手綱を握る頼もしい後輩ではあるが。

 あ、あれ? と浴びるはずだったスポットライトを外された感を醸すクロウは、うろたえながらヴェルディアナを見る。

 

「か、カルアナどういうことなのだ? アスタルテはしっかりしてるけど、オレが一番の先輩だぞ。カルアナと同期だし、面倒だって見れるのだ!」

 

 てっきりチーフを任されると思っていたクロウが問うと、ヴェルディアナは淡々と応える。

 

「ええ、義経。あなたの働きぶりは私もちゃんとわかってます。そんな義経に任せたい仕事があるの」

 

「それは何なのだ?」

 

「客引きよ」

 

 ビシッと紅魔館の販売エリアの外を指さすヴェルディアナ。

 

「まず、義経は声が大きい」

 

「おう」

 

「そして、体力がある」

 

「う、体力には自信があるぞ」

 

「何より、元気があるわ」

 

「流石、カルアナ。オレのことをよくわかってる」

 

「そんなあなたからこそ、呼び込みをしてきてほしいの。たったひとりで、この島中に宣伝してくるのは大変だと思うけど、義経ならきっとできるわ」

 

 女主人の発破に、おーし頑張るぞ! とすっかりやる気なバイトリーダーを、しらっとした目で見る4人。

 その中でも付き合いの長い後輩アスタルテも、言っている内容が大体同じに水増しされた文句であっさりと乗せられた単純思考な先輩を半目で見ていたが、何も言わなかった。

 血統的には狼なはずなのだが、その扱い易い人畜無害さは犬だとしか評せない。

 実際、適材適所な割り振りだと評価できる。

 機械類とは致命的な先輩に、今回のフェスで『青の楽園』から貸し出されているレジやら注文を取るハンディーを任せるわけにはいかない。電子調理器具を揃えた厨房の中に入れさせないのが正解だ。

 とはいえ、言っている内容がほぼ同じなのはどうだろうかと思わなくはない。

 一応、<黒妖犬(ヘルハウンド)>は、自分()を率いるリーダーであるのだから。

 それで普通、一党の長を雑に扱われれば憤りくらい覚えるもの。

 けれども、今、そのような気持ちは不思議と湧かない。

 それは自身の感情が乏しいだからとか、彼を認めていないからとかでは決してなく。

 

「ん。確かにお店はお前らに任せておけば安心だったな。なら、外回りでここのすごいところをみんなに宣伝してくるのがオレのお仕事だ」

 

 それぞれの顔を屈託なく見つめてからそう言い切った彼を、

 ひとりは目を大きく見開いてすぐわたわたと首を振り、

 ひとりはぼうっと呆けたように見つめたまま動かず、

 ひとりはふんっと鼻を鳴らしそっぽを向いた。

 各々、受け取り方に違いはあるものの、送られたものに違いはない。

 そうして、一周して戻った彼の視線を迎え入れる。もう一度、視線がこの藍色の瞳と真っ直ぐに見つめあう。ほんの1秒もない出来事。途端、体温上昇および心拍数増を確認――日射等の外因的要因ではなく、精神的高揚によるものと分析はできても、この状態の説明はまだどうにもし難いが――後輩は、彼の金色の瞳から逸らさないまま、ただ頷く。しっかりと。

 

 そしてその様子を見ていた女主人は、深呼吸する魔を入れてから腰に手を当て、

 

「……よし、全員気合が入ったようね。いいわね、このバレンタイ戦線で、紅魔館がトップに君臨するわよ! そのためにも、お客様は、神――」

 

 と、そこでバイトリーダーをチラリと見る。

 『殺()兵器』に対してそれは縁起が悪いかと考え直した女主人は、吸血鬼なりのアレンジを加えた、この魔族喫茶に相応しいであろうスローガンを唱えた。

 

 

「お客様は、真祖様だと思いなさい!」

 

 

 おーー!! と1人で5人分の声をあげるバイトリーダー。

 ぐっと、拳まで振り上げて張り切る彼に女主人は、店の奥に積まれた段ボールの山……その一個一個にチラシが詰め込まれたそれらを指さし。

 

「じゃあ、義経、ここにあるビラを全部、お客に配ってくるか、目立つところに張ってきてちょうだい。一人で大変だろうけど、宣伝は大事だからそちらに専念して。たとえイベントが終わっても、ビラを捌き終えるまでは戻ってこなくていいわ」

 

 少し背をそらしながら傲岸不遜にも命じてやる。

 魔族喫茶で執事服を着せたところで自分の従者だと思ったことはないし、ましてや魔女のように主従関係なんて築いちゃいない。あくまでも雇用主とバイトの関係に過ぎない。

 それなのに、ただ人手が要るなら喚んで、遠慮なく扱き使ってやるし、相手にもそんな無茶ぶりを請け負ってくれると期待している。憶えちゃいないけど、そうしてもいい免罪符(かし)が自分にはあると思える。

 自分が失くしてしまった眷獣のように、“都合のいい相手”が、義経(クロウ)

 ……最近は、こちらが都合よく扱われている節がなくもないけど。

 

 何にしても、普通じゃ無理難題な仕事量であっても、サボらずやり通すという信用がある。

 ただし、店に置いておくと客以外にいらん厄介事を招いてくるトラブルメーカーでもある。

 第二の夜の帝国の第九皇子を連れてきた実績(ぜんか)があるのだ。店で働かせているだけで厄介事を招きかねない。

 今後の経営を占うであろう今イベントに集中するために、こちらに被害が及ばぬよう(かや)の外に出しておく、それが紅魔館2号店の女店主ヴェルディアナの作戦。

 

 

「カルアナ、心配するな。店のことは皆に任せておけば大丈夫だって言ったけど、皆の勇姿をちゃんと見届けたいしな。これくらいチャチャッと終わらせて来るのだ」

 

 

 これでも長い付き合いだ。

 彼の性格は熟知している。性格上、変に見栄を張ることはあるものの、できるできないを誤魔化したりはしない。

 有言実行。

 つまり、チャチャッと終わると言ったのなら、一時間足らずで(チャチャッと)終わるのだ。

 

「え……?」

 

 重労働でハブいてしまって悪い気もするけど、コイツなら大丈夫よね……と若干後ろめたい気持ちのあったヴェルディアナだったが、魔族喫茶の下働きを始めた一年前から、どれだけ成長しているかを厳密に把握はしていなかったりする。

 

「よし、頑張るぞ」

「よし、頑張るぞ」

 

 まったく同じ声が、まったく同じ調子でふんすとやる気のポーズをとる。『ここ最近、新メニューの開発で忙しかったし疲れてるのかしら』と眉間を揉むカルアナだが錯覚ではない。増えてる。

 

「カルアナ、ここにあるビラで全部か?」

「カルアナ、ここにあるビラで全部か?」

「カルアナ、ここにあるビラで全部か?」

「カルアナ、ここにあるビラで全部か?」

 

 おかしな幻覚だと思えるがそうじゃない。ていうか、また増えた。チラシの詰まった段ボールを抱える4人のバイトリーダーへ女主人は恐る恐る尋ねる。

 

「……義経、アンタ増えるの?」

 

「忍法分身の術なのだ! 結構上達してお喋りもできるようになったんだぞ」

「忍法分身の術なのだ! 結構上達してお喋りもできるようになったんだぞ」

「忍法分身の術なのだ! 結構上達してお喋りもできるようになったんだぞ」

「忍法分身の術なのだ! 結構上達してお喋りもできるようになったんだぞ」

「忍法分身の術なのだ! 結構上達してお喋りもできるようになったんだぞ」

「忍法分身の術なのだ! 結構上達してお喋りもできるようになったんだぞ」

「忍法分身の術なのだ! 結構上達してお喋りもできるようになったんだぞ」

「忍法分身の術なのだ! 結構上達してお喋りもできるようになったんだぞ」

 

「自慢したいのはよくわかったから、同時にしゃべらないで」

 

 分身、って……。

 わちゃわちゃと視界の八割程を占める状況に、軽く眩暈を覚えるヴェルディアナ。

 この手の知識には疎いが確か、分身は高等技術に分類されるものだ。それも実体を持ち、独自の思考能力さえ有するとなれば相当に高度だろう。

 実際そうだ。それ故に維持するだけで消費は大きく、併用するなど至難の業。卓越した式神術を有する師家さえも平常時に分身は一体までに留めている。

 持続性はないはずなのだが、このように平然と維持できてしまう埒外の体力と魔力がある。それに、<過適応能力>の応用補助もしている。

 同じ<過適応者>である先輩(やぜ)の大気振動で筋肉と神経細胞を疑似的に再現した分身体<重気流躰(エアロダイン)>から学習しており、自らの生命力を篭めた“匂い”を発香側(アクティブ)に使用することで分身の完成度を高めていたりもしている。

 尚、自分自身の分身体を操る実例を誰よりも近くで学んで(みてき)ているせいか、“頑張れば分身はできるものだ”と思っている。見様見真似で高度な分身ができたのもそのような背景があったりする。

 

「つくづく常識を滅茶苦茶にしてくれるわねアンタは。ていうか、余裕がありそうなんだけど、まだ増えるの?」

 

「んー、あんまり増えるのはよくない。この前、数を増やしたらその分ご飯も増えるかもと思ったんだけど、ご主人に『そんなふざけた考えが通用するか馬鹿犬』って、モグラ叩きみたいにされてなー」

 

 それは頭を痛めただろう。主人の魔女が。

 人形の如き相貌がピクピクと引き攣るのが、鏡でも見るように想像できる。

 

「それで、結局ご飯は一人分だし、なのに、分身増やした分だけお腹減るし、だから、分身の術はあんまり使わないようにしてたんだけど、でも、カルアナがもっと人手が欲しいって言うなら頑張って増やすぞ? う、もっと増やせばオレも皆と店の手伝いをやれるな!」

 

「いいえ結構よ。もうこれ以上増えないでちょうだい。義経は外回りに集中しなさい」

 

 倍々ゲームで増えていく問題児に囲まれて振り回されるなんて、女主人にとって悪夢である。

 個人で人海戦術を駆使するとか、非常識っぷりが加速度的にひどくなってきていない? いったいどこまで突っ切るつもりなのか、考えるだけで頭痛がする。

 がっくしと肩を落としながら、排気して無理やりにでも思考を立ち直らせた。

 

「じゃあ、カルアナ、この戦争(ケンカ)、勝ちに行くぞ! 勝って、みんなと楽しい思い出を作るのだ!」

 

 そんな呆れるくらいに真っ直ぐな眼差しを向けてくる。

 利益とかそういうのは度外視とまでは流石に思ってはいないだろうが、ここで最優先すべきは何なのかは最後の言に表れている。

 

 吸血鬼には辛い常夏の島。

 故郷より物価が高く、生活するだけでも大変な日々。

 なのに、ここに居付くことになったきっかけは、ちっとも憶えちゃいない。

 

 けれども、不思議なことに確信がある。

 きっとこんな風に理屈に合わない馬鹿に巻き込まれたんだろう、と諦観とは違う感情にほんのすこし思い耽る。

 

「……はぁ、わかったから、とっとといきなさい、義経」

 

 とひらひら手を振るや八方に飛び散っていくのを見送り、溜息ひとつ吐いてからヴェルディアナは切に願う。

 どうかお店にとんでもない厄介事を引き連れてこないようにと。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「フハハハハハー! 混沌渦巻く紅の館の到来を記した預言書(ビラ)であるぞー! この青き楽園にのみ捧げられる新たな供物を拝みたくば、代価を用意して馳せ参じるがいい!」

 

 びゅーん! という擬音が目に見えそうなほど疾風の如き疾走であちこちを巡る。

 きちんと魔族喫茶の役作り(半分天然)をしながら、目につく客に次々とビラを渡していく。

 あちこちに同じ顔が駆け回っているため矢鱈と目につき、来場客らから何かのイベントなのかと注目を集めている。

 期待通りの声の大きさと元気もあって、宣伝効果は抜群。

 

「ん。あれは」

 

 ひときわ歓声の上がる方へ視線を向ければ、そこに天高く跳ね上がる海棲魔獣。鬣の代わりに背ビレを持ち、蹄に水掻きを持つ海馬(シーホース)、ヒッポカンポスだ。

 そして、観客席に囲まれた大きなプールで行われているのは、この世界最大級の魔獣水族館の目玉にして、世界初のヒッポカンポスショー。

 古城たちと訪れたときは正式開業前で、飼育員たちがヒッポカンポス達に芸を仕込み中だったが、こちらの宣伝(こえ)を撥ね退けるくらい大きな歓声を聴く限り、どうやら成功しているようだ。クロウも魔獣との意思疎通能力を買われて、芸の練習に付き合ったこともあり、感慨もひとしおである。

 

(やっぱりアイツら泳ぐの上手いなー)

 

 “水上を駆け(はし)る”くらいは、自分にもできる。けど、ヒッポカンポスのようには無理だ。

 クロウのは水切りのように圧倒的な速度で水を蹴って成す力技であり、ああも優雅に、ゆっくりと水上を進もうとすれば沈んでしまう。

 まるで水の表面に拒まれるかのように柔らかく跳ね上がるヒッポカンポス。まるでトランポリンのように水面をバウンドするには、半馬半魚の生体構造が必須である。即ち人間には土台無理のある芸当である。

 

(うー、でも、動きは真似られるぞ)

 

 人非ざる獣の模倣には、自信がある。擬獣武術『象形拳』を仕込んだ師父から、『私よりも巧かったり』と最初に免許皆伝を言い渡されるくらい得意である。

 故に、海馬の動き方をよく見―――

 

 

「ウッヒョオオオ、メッチャイイ女がいるじゃん!」

「なあなあ、俺達と一緒に遊ばね!」

「野郎がいるが、そんなさえないヤツより、俺らの方が強ぇぜ!」

 

 

 フェスの喧騒に紛れた荒事の気配を察知。

 今日はお世話になってるカルアナの助けとなるため『紅魔館』のバイトリーダーとして『青の楽園』に来ているが、『魔族特区』の治安維持を担う国家攻魔官の眷獣である。その自負からして見過ごせない。

 すぐさま察知した方角へ急行し、現場を視認するや“()()()”と一目で悟る。

 

 

「待った、なのだ!」

 

 

 男女を取り囲む4、5人の男たちの前に割って入るようクロウは飛び込んだ。

 突如、真上(そら)から落ちてきて、音もなく着地したクロウに両者驚いて反応が止まった間に再度状況を整理する。

 

 背に庇うは、旅行客と思しき若い男性とその連れの女性。

 対して、そんなカップルを冷やかすのは、不良(チンピラ)。服装や外見に統一感はないが、全員、魔族登録証である腕輪を嵌めている。

 魔族だ。

 

「お前ら、今日はお祭りだからテンションが上がるのはわかるけど、ちゃんとマナーを守らないといけないんだぞ。他人に迷惑を掛けちゃダメなのだ」

 

 ビシッと指を立てて注意するクロウ。

 当然これに不良魔族らが素直に頷くわけがない。矛先をこの小生意気な乱入者へ変える。

 

「ああん、何言ってんだこのガキ、舐めてんのか」

「痛い目みたくなかったらとっととうせな」

 

「む。それはこっちのセリフだぞ。もっと状況と相手に気を配るべきなのだ」

 

 ガンつけてくるがまったく堪える様子もなく、落ち着いて忠告するクロウだったが、その態度がますます不良魔族達に血気盛んにさせた。

 魔族登録証で管理監視されている身であるが、それでも飼い慣らされてなどとは思っていない。思わさせない。

 檻の中にいようが絶対に襲わない魔獣が存在しないように、魔族と迂闊に接する真似をして理知的な対応がされる保証などどこにもない。

 今も他の人間の観光客らが遠巻きに見ているが、近づいては来ない。本能で忌避しているのだ。

 そうだ、恐れろ。恐れて然るべきなのだ。そんな舐めた真似は許されるべき振る舞いではない。

 

 不良獣人らは正論(ことば)などでは諭せない。

 彼らの思想や価値観の根底にはからして、善悪よりも、強弱こそ従うものだから。そして、それを他者に強いることにも慣れていた。

 

「だったら、俺らに気を配りやがれ、ガキ」

 

 不良獣人の対応はシンプル。

 ブン殴る。

 その空っぽな頭に、暴力を叩き込み、絶対の力の差というのを勉強させてやる。

 獣人化していないにせよ、魔族は人間を超える身体能力を有している。魔族の中でも獣人種の身体性能は上位。

 そう―――そのはずなのだ。

 間違っても子供の力で止められるようなものじゃない。

 

 

「ほい」

 

 

 止められた。

 注意するために突き出していたその指一本に添えられただけで、突き出した拳が進まなくなった。

 

「な、なあ……っ!?!?」

 

 それを見た仲間達は寸止めしたのだと思っている。何せパンチを受けたのに姿勢が小揺るぎもしないのだ。だが、断じてそんなことはしていない。その鼻面を狙って振り切ったつもりだった。

 

「力の差がわかったなら、引き下がるのが賢明だぞ」

 

 手を出したにもかかわらず、あっさりと促してくる。

 こちらの暴力を、まるで何事もなかったように処理された。

 

「ふ、ふざ……っ!」

 

 獣人のパンチが、指一本で止められるはずがない。なのに、突き指している気配すらない。

 ありえないことを覆すイカサマ―――そうだ、きっと魔術か呪術、人間どもが使う卑怯な小細工を使ったに違いない!

 だったら、こっちも使ってやる!

 

「お、おい! なに、頭に血が上って……」

 

 犬歯を剥き、裡から唸り声を発する。獣化の前触れを察知した仲間たちもこれが冗談でないことが分かり、慌てる。獣人の本性を表したら、魔族登録証が反応してしまう。魔族特区の警備隊連中がやってくるだろう。

 そうなれば、遊びどころではない。

 それくらいの計算ができる理性はあった仲間たちは制止の声を呼びかけるが、聞く耳持たず、腕輪の警報すら無視して、肝心の当人は荒れた感情のままに力を解放させんとする―――

 

「!?!?!?」

 

 だが、できなかった。

 

「やめろって言っても聞かないだろうから、金縛りの術をかけておいた」

 

 淡々と告げるクロウ。不良獣人の体表で微かに歪んで見える、蜃気楼のような違和感。

 

 拳を受け止めた瞬間に指先から迸った生体障壁が不良獣人に張り巡らせられていた。

 本来では自らの肉体に展開し、防護(よろい)となる生体障壁を、他者に着せて拘束服(ストレイト・ジャケット)とした。

 全身満遍なく纏わせた気功(オーラ)は注視しなければ気づかないほど極薄だったが、破れない。獣化しようとする肉体の膨張を強引に抑え込み、変身を許さない。主人の鎖と比べれば力頼りな面はあるが結果は同じ。指先一本も動かさせず、変化させない拘束力。

 

 ど、どうなっていやがる……っ!?!?

 

 指一本。

 なのに、巨大な手に全身丸ごと握り締められているような感覚。

 常夏の日射、うだるような暑さ、憎々しく思っていたそれらが一切感じられなくなった。いや、そんな余裕がなくなったが正解。停止した思考よりも敏い獣人の体は身震いが止まらず、呼吸が満足にできないほどに心肺が収縮する。1秒も早くこの状況から脱したいのに、意識が遠退き動けない。生死与奪の権でも握られた、そんな詰んだ事態に手遅れながらに気づく。

 

「じゃあ、ちょっとおネンネして頭を冷ますのだ」

 

 拘束服と化している生体障壁の強度を上げながら、内圧を強めて絞め落とす。

 不良獣人は、巨大な狼の顎に丸呑みされた自分の姿を幻視したのを最後に、暗転。泡を吹き、白目を剥いて、頽れた。

 

「お前らも、痛い目を見たくなかったら、オレの言うことを聞いておけ」

 

 これに動転する不良獣人たち。

 流石に狂言でも冗談でもないことに気づき、相手が得体のしれない存在であることを知った。

 再度降伏勧告をするクロウだったが、まだ彼らは挫けず、及び腰ながらも噛みつくだけの余力はあった。

 

「っ、おいおいやっぱ舐めてるぜ、このガキ、俺達は、絃神島で今最も恐れられてる最強の獣人チーム『狼愚(ローグ)』だ」

 

「ん」

 

「そして、『狼愚』のトップは、あの真祖すらも恐れた<黒死皇>の血を継ぐ、世界最強の獣祖!」

 

「ん?」

 

「<黒妖犬(ヘルハウンド)>が俺達の後ろ盾(バック)についてんだぞ! ビビったかガキ!」

 

「んん~??」

 

 口々に自らを鼓舞し、興奮する。その威勢の源は、ここ最近、絃神島で広まるとある世界最強の獣祖の存在。

 噂に尾ひれは付き物だったとしても、<第四真祖>のような都市伝説的な存在ではなく、目撃例があって実在していることが確かだとされているもの。

 直接その姿を拝んだことはないが、『狼愚』と敵対していた別の不良チームが一刻と経たずに壊滅させられたことは暴力の界隈では有名な話。

 そして、『狼愚』が幅を利かせるようになったのも彼の存在の威を借りるようになってからである。

 ……許可こそ取っていないが、同じ獣人。獣人至上主義を掲げた『黒死皇派』を率いた獣王の末裔なのだから、これぐらいは許されるはず。むしろ、彼の威光を宣伝する自分たちの振る舞いは評価されると信じている。

 だから、『狼愚』は絶対的な存在に守られているはずで―――

 

 

「ん~? 人違いじゃないのかー? オレ、お前ら知らないぞ」

 

 

 記憶を探るように少し瞑目。首を傾げた後、ゆっくりと目を開く。

 殺気も敵意もない。その双眸がただ閃いただけ。

 でも、金色の眼光に射貫かれただけで、『狼愚』の不良獣人らは戦慄した。

 視たのだ。

 先に倒された仲間と同じく、絶対強者たる怪物の姿を。

 文明社会に錆びついていた獣の第六感が慌ただしく訴えかけるが、もう遅い。

 

「お、おい! お前、『狼愚』に……<黒妖犬>に戦争(ケンカ)をする気か……!?!?」

 

「だから、お前らのことは知らないし―――ケンカを仕掛けてるのは、『狼愚(オマエら)』だ」

 

 こと穏便に済ませる最後通牒を破った者たちの末路は決まっている。

 説得が無意味であれば、迅速に無力化し、最小限の被害で処理する。それが主人たる魔女の言いつけ。

 

 既に不良獣人全員に生体障壁の拘束衣を纏わせた。

 この生体障壁の応用編である金縛りの術には、拘束以外にもう一つ、クロウにとっての利点がある。

 拘束服であるが、同時に防護鎧でもある。

 なので、たとえ手加減を失敗しても多少のケガで済ませられる。

 

「ちょっと、痛い目みてもらうぞ」

 

 人間より種として優れた獣人の目ですら、手が霞んだとしか視認できなかった。

 パンッと、乾いた音が人数分して、『狼愚』は最初に落とされた仲間の感覚を共有できた後、揃って気絶させられた。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「ヒュー! やるねぇ坊主、見事なお手並みだ」

 

 クロウは改めて気を引き締めなおして振り返る。

 声の主は、背に庇っていた旅行客風の男。

 見た目の年齢は20代の半ば。髪が短く、背が高い。190cm以上はあるだろう。細身だが、筋肉質な体型のせいか、ひ弱な印象を与えない。

 軍人か、現役のスポーツ選手を思わせる雰囲気だ。

 美男子というにはタイプが違うが、格好いい大人の男である。

 着ているのは、ぶかぶかのトランクスタイプの水着とサンダル。アロハシャツを無造作に肩に引っ掛けており、剥き出しになった左の肩には、竜の入れ墨(タトゥー)が施されていた。

 

「流石ね、面倒なのに絡まれたときはうんざりしたけど、坊やが来てくれて助かったわ」

 

 そして、彼の傍には連れと思われる女性もいる。

 太陽の輝きを思わせる金色に近い赤毛の、大人びた美女。

 ビキニ水着に、上半身にシンプルなシャツを着ている装いだが、彼女が着るとおそろしくゴージャスに見える。

 文句のつけようのない美形だが、媚びたようなウェットなイメージはない。男女問わずに惹きつける、からっとした陽性の魅力の持ち主である。

 

「むぅ」

 

 少し困った声を漏らすクロウ。

 どう対応するべきなのか。以前、似たようなことに遭遇し、その対応があまりに迂闊だったと方々にしかられた。

 できるなら、主人に判断を仰ぎたいところだが、今日は学園でお仕事のはずだ。進級するには現状単位が足りない教え子の面倒を見ている。

 どうしたもんかなー? と小首を捻るクロウに、男は少し声をひそめて

 

「いや、本当に助かった。実はここにきてるのはお忍びで、派手な真似をすれば面倒なのに見つかっちまってたからな」

 

「お忍び?」

 

 この前、浅葱先輩がうっかりと街中で声をかけてしまったことを思い出す。

 サングラスをかけ、顔下半分を覆い隠すほど大きなマスクをしていて、風邪を引いたんじゃないかと心配になって声をかけたのだがそれは杞憂で、その似合わぬ装いは変装だった。

 最近、ご当地アイドルとして有名になってしまったせいで、行きつけのラーメン屋に行くのも一苦労だという。

 だから、お忍び……人目を避けている有名人には、気づいても気づかないようにするという配慮をしてくれるのが正解なのだとラーメンを奢ってもらいながら滔々と説かれた。

 とても賢い浅葱先輩の言うことにまず間違いはない。

 

「ということは、ここにはこっそりと観光にきたのか?」

 

「ええ、遊び半分、ってところかしら。だから、ほかの迷惑になるようなことにはしたくなかったの」

 

「そうそう。物見遊山で寄り道してる俺たちがここにいるってバレたら、あいつは仕事をほっぽり出しちまいかねないからな」

 

 確認すると赤毛の女性はこちらを真っ直ぐに見つめながら答えて、それに同意するよう陽気な男も頷く。

 なるほど、とクロウは納得する。とりあえず、何か悪さをしようという気はないようだ。

 それに今朝のことが脳裏を過る。

 

「う、そうか! わかったぞ」

 

「? いきなり何がわかったんだ坊主?」

 

 合点の言ったクロウだったが、今度はカップルの方に疑問符が移る。

 クロウはここで果たすべき自分の対応として、彼らの目的を記した品を、はい、と渡す。

 

「ここに記されし約束の地に汝らの求める秘宝があるだろう!」

 

「え、これ、ビラ?」

 

「では、さらばなのだ、始まりの者よ」

 

 まだまだ配布すべきビラは沢山あるし、おネンネさせた不良獣人たちをここに放置しっ放しにはできないだろう。

 それに何より、ここで仕事に関係ないことにかまけるのは彼らの長(バイトリーダー)としてあるまじき振る舞いである。

 ほいほいと『狼愚』をまとめて担ぎ上げたクロウは、以前に勤めたことのある『魔獣庭園』のスタッフルームへ駆け出して行った。

 

 

「ちゃんと、宣伝しておいたからな、カルアナ」

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 地元とは勝手が違うことは承知していたつもりだったが、まさか絡まれるとは思っていなかった。

 対応に困らされたがアレでは、我が国の軍兵とはなれないだろう。

 目前にしながら彼我の力量差をわからない。

 その程度の嗅覚すらない。獣であれば必需品であるそれを、人間が築いた文明社会で過ごすうちにどこかへ置き忘れてしまっている。

 至極残念だ。魔族の中で最も野生の本能を備えていた彼らが、この魔性を管理する特区(おり)に飼い慣らされ、こうも堕落するものか。

 同胞の弱者が蔓延る現状など見るに堪えぬと憤り、それを打破する変革を促すためとはいえ、絶対王者の座を奪わんと戦争(ケンカ)まで仕掛(ふっか)けられた身としては、虚しくもなるものだ。

 一方で、あちらはちゃんと気づいていたはず、なのだが……

 

「行っちまったなぁ」

 

 どうしてあんなあっさりと見逃されたのかまではわからないが、きちんと状況を把握していたはずだ。

 その眉間にぎゅぅっと眉を寄せる顔から、こちらの対応に迷っているのが見え見えだったのが、素朴な印象をさらに強化していた。

 上手く乗せれば……じゃなく、下手をすれば、一戦を交える可能性もあり、こちらはそのつもりで気構えていたりもしたのだが、簡単な問答で勝手に納得されて去ってしまった。

 そういうこちらの予想を裏切る真似は、噂に違わず面白いとも評せてしまうのだが、折角の馳走がテーブルにつく前に皿を下げられてしまったというか、消化不良感は否めない。はてさて、どうしたものか。

 

「とりあえず、ここに立ち寄ってみない? せっかくお誘いを受けたんだし」

 

「ああ、お招きにあずかっちまったからには、行かなくっちゃあ、な?」

 

 ビラをひらひらと連れに、男はニヤリと笑みを返した。

 

 

 

彩海学園

 

 

 

「暑ィ……」

 

 つい弱弱しく言葉を漏らしてしまう。

 真夏のように澄んだ青空からはカーテンでも遮りようのない強い日射、窓は開いていても吹き込んでくるのは湿気を含んだ生温い風。

 日焼けが天敵な吸血鬼でなくてもうんざりするような環境の中で、暁古城が何をしているかといえば、補修だ。

 今年度は色々とあって散々授業をサボりまくったツケを支払われているのだ。

 このままでは進級の単位さえも危ういと宣告され、それで貴重な学生の土日休日を潰して課された難解な英作文の問題に励んでいる、といったところ。

 なのだが、

 

「ああ~……っそ、集中できねェ」

 

 頭の中を占めてくるのは、目前の課題ではなく、昨日の出来事。

 バレンタインに向けた(なぎさ)の買い出しに付き合い、一男子(あに)の意見として横から、あれやこれやと口出しした結果、『あー、もう! 古城君、うるさい! 買い物が終わるまで外の公園で待ってて!』と追放処分をされた時のことだ。

 当然のように同行していた監視役である少女(ひめらぎ)からも『何をやってるんですか先輩』と呆れた顔を向けられ、弁護もされなかったのだが、古城なりに気を利かせたつもりだったのだ。

 

 ああ、そんな甘いもんはダメだダメだ。もっとビターなヤツ、そう、このカカオ95%のダークチョコレート……は流石にまずいから、あのカカオ75%ぐらいがちょうどいいんじゃないか――……ってクロウは言ってたな。

 

 と、昨日の後輩から聞き出した話を参考にし、甘さ控えめというか、ほろ苦い感じのを推し、さりげなく買い物かごの中にチョコレート(砂糖微量、ミルク未使用)を取って入れたりするなど手伝いもした。

 なのに、二人からは怪しまれ、しまいには邪魔者扱いをされてしまった。

 

 くっ、あの後、どんなチョコを買ったのか訊いても教えてくれなかったし、買い物袋の中身をこっそり確認しようとしたら、凪沙から睨まれるし、そのまま姫柊の部屋でチョコレート作りをすることになったからどんなのが出来上がってるのかわからないからますます……

 いや、そんなことよりもだ。凪沙のことも気になるが、それだけでなく―――

 

「うがっ!?」

 

 ゴツン、と古城の眉間が見えない拳骨でどつかれたように火花を散らした。

 たまらず仰け反った古城の姿を、教壇から醒めた目つきで睥睨するのは、この補修の監督役の教師。

 アンティーク風の豪華な肘掛け椅子に着座する南宮那月は、冷ややかに鼻を鳴らし、

 

「集中できてないようだが、私が出してやった課題を解くのは退屈か? ならば、もっとレベルの高いのをさせてやってもいいぞ」

 

「やめてくれ、那月ちゃん!? ただでさえ今日は―――」

 

「担任をちゃん付けで呼ぶな、馬鹿者」

 

 もう一発、不可視の不意打ちが古城の頭を引っ叩く。

 涙目で顔をしかめる古城が、額を押さえながら、体罰反対の意を込めた視線を向けるものの、南宮那月は全く意に返さず。教壇の上の皿に置かれた、何やら丸っこい握り拳大の黄色い塊をフォークで突いている。

 何だあれは? 常習的に課題の監督している最中に優雅にティータイムをしているけど、今日の菓子は御用達の高級品には見えず、その凸凹とした出来具合から既製品っぽくないというか手作りみたいな……

 

「ん。そんな物欲しそうな眼をして。コレが食いたいのか?」

 

「ちげーよ。つか、それ菓子、なのか……?」

 

「ふん。こんな見てくれだが、チョコレートだ。月をモチーフにしたと馬鹿犬は言っていたがな」

 

「へぇ、クロウが作ったのか?」

 

「電化製品の類は触れさせられんからアスタルテに補助をさせていたというのに、大雑把で拙い作りだ。単に丸めただけではないか。まったく、馬鹿犬に繊細な調理センスはないと断言できる」

 

 もし当人がここにいればぺたんと耳が垂れそうな酷評しながら、フォークで突いては皿の上を転がしている。しかし唇を曲げながら弄ぶその様はどうにも古城の目には持て余しているように伺えて、実は内心どこから切り崩すべきかと悩んでいるじゃないかと想像を働かしてしまう。

 この素直じゃない那月ちゃんのことだからきっと―――

 

「……何だ、暁。何か私に言いたげな顔をしているな?」

 

 とほっこりとした生徒の気配を察知し、微笑まし気な顔が癪に障ったのか、じろりと那月が古城を睨みつける。

 うわ、まず……っ!?

 下手な回答をすれば、そのフォークの矛先がこちらに向けられるのはこれまでの経験上わかる。それも教え子に対する労りなんて欠片もなく突いてくるに違いない。

 だけど、古城の頭脳ではここで咄嗟にうまい躱し文句が出てくるわけでもなく―――

 

「―――そ、そうだ、那月ちゃん! 浅葱! 浅葱のことなんだけど!」

 

「藍羽?」

 

 慌てて口にしたのは、この補習中にも思考の大部分を占めたバレンタインに並ぶ古城の悩みのタネ。

 自身が受け持つ教え子の名前を出された那月は、片眉を上げて訝し気な表情を浮かべる。つい反射的に口にしてしまったが、これはいい機会かもしれないと勢いそのままに古城は訊ねる。

 

「昨日、浅葱がジャガンに会ってたんだよ! 俺たちに黙ってこっそりと!」

 

 そう、あれは古城が凪沙たちに戦力外通告され、店前の公園でたむろしていた時に見かけた。

 同級生の女子と、彼女と連れ立って歩く『戦王領域』の貴族トビアス=ジャガン――ディミトリエ=ヴァトラーの腹心ともいわれる『旧き世代』の吸血鬼の姿を。

 あまりに衝撃的な光景に固まってしまう古城。そんな古城に見向きもすることなく、彼らは停まっていた二人乗りの高級スポーツカーに乗り込み、荒々しい排気音にようやく呆けていた意識が復帰した古城だったが、止める間もなく走り出してしまった。

 

「おかしいだろ……! 浅葱がジャガンに付き合うなんて……!」

 

 トビアス=ジャガンはとある事情で一時期、彩海学園に短期留学したことがあったがその時に浅葱と特別親しくなったわけでもなく、会話をしてるのも古城はほとんど見たことがない。親しみやすい相方のキラならばとにかく、あんなとっつきにくい吸血鬼が浅葱をエスコートする姿など昨日まで想像することなどできなかった。

 

「電話して訊いたんだが、浅葱のヤツ、そんなこと知らないの一点張りで、そんなことないのに……終いには、しつこい! って言って、通話を切りやがった。なあ、那月ちゃん、これどう思う?」

 

「男の嫉妬だな。くだらん」

 

「は? 嫉妬?」

 

 那月の返しに、古城は思わず唖然とした。この危機感を共有できてないことに焦りを覚える古城。

 

「違ぇって! 那月ちゃんだってわかってるだろ、あいつ、吸血鬼なんだぞ!?」

 

 古城が浅葱の行動が不用心だと指摘したいのは、連れ歩く相手がトビアス=ジャガンだからだ。

 ジャガンはただの吸血鬼ではない。絃神島に幾度も危機をもたらした戦闘狂(バトルマニア)、ディミトリエ=ヴァトラーの部下なのだ。そんな危険人物と接触するなんて、どれだけ危ない橋を渡ることになるか、国家降魔官である那月には理解できるはずだ。

 しかし、那月は頬杖をつきながらチョコをフォークで突いて細かく砕く作業にいそしむ、視線をこちらに合わせる真似もせずに一言。

 

「お前だって似たようなものだろう?」

 

 恐ろしく端的な那月の指摘に、うぐ、と古城は言葉をなくす。客観的に見れば、『世界最強の吸血鬼』という馬鹿げた肩書を持つ古城は、ジャガンと同類、いやそれ以上に危険ではた迷惑な爆弾である。古城自身もそれは自覚するところである。

 那月はチョコの欠片を口に入れて舌の上で舐めるように咀嚼、教え子が己を見つめ直し、冷静になるだけの間を置いてから、

 

「ここは『魔族特区』だからな。恋愛は自由だ。たとえ相手が『戦王領域』の貴族だろうが、どこぞの野良真祖だろうがな」

 

「あのヴァトラーの手下でもか?」

 

「手下ではなく、対等の同盟者だ。もっともそんな大物が、藍羽のような乳臭い小娘(ガキ)を相手にするとは思えんが」

 

 いや、小娘って……

 かくいう那月の外見はある事情で成長が止まっていて、せいぜい11、2歳程度にしかみえない。見た目ではその評はどちらかというと教え子(あさぎ)よりも自身の方に返ってきそうだが、それを指摘する(つっこむ)ことは命知らずだと古城は呆れつつも閉口する。

 

「もちろん魅了(チャーム)を使って、無理やり藍羽を従わせているのなら犯罪だが、そうでなければ何の問題もないな。女を寝取られたくらいでいちいち取り乱すな」

 

「それが教師の言う台詞か!」

 

 冷たく突き放すような那月の言葉に、落胆のため息をつく古城。

 那月の伝手を頼って、人工島管理公社で把握しているトビアス=ジャガンの現在地を教えてもらおうと考えていたが、この様子では望み薄。

 

 

 ――ブー……ブー……

 

 

 とちょうどチョコの一欠けらを那月がもう一口口にしたところで、携帯のブザー音。

 古城の携帯に、ではない。

 国家降魔官として常に持ち歩いている那月の携帯に連絡が入った。

 那月が立てた指を縦一線に引くや、まるでジッパーを開けたように虚空に仕舞っていた携帯を取り出す。

 どうやら電話ではなく、メールのようだが、那月はその文面を確認するや、那月は眉間にしわを寄せた。

 

「あの、馬鹿犬……っ」

 

 古城にはその内容が分からないが送信先は後輩だというのはわかった。電子機器との相性はあの浅葱が匙を投げるくらいに致命的な後輩が携帯を使って連絡するというのはそうそうないことだ。

 チッと舌打ちして、すぐさま電話をかける那月。

 が繋がらない。

 携帯を耳に押し当てながら、フォークで皿をコツコツと叩く。一定のリズム――だったのが、30()程からしびれを切らしたように徐々に早くなり、時計の針が1周したところで、残っていたチョコの塊をぐさりと突き崩した。

 

「…………………」

 

 な、那月ちゃん……?

 連絡がつかず、ますます眉間のしわを深める。あからさまに苛立つ魔女に声をかけられないが、どうやら非常事態なことくらいは古城は察した。

 たしか、今日は『青の楽園(ブルエリ)』でバイトをしているはずだったが何があったんだろうか。

 通話を諦めた携帯を虚空へ投げ捨てて、フォークに串刺しにしたチョコの塊を口に入れて――裡に渦巻く情動もまとめて潰し呑み込むように強く一気に――噛み砕いた那月は、席を立ち、淡々と感情を排した声で古城へ、

 

「急用が入った。今日の補習授業はここまでだ、暁。今やっている課題は次までにやってくることだ。忘れた場合は、倍に量を増やしてやる」

 

「お、おう。那月ちゃん、その、クロウは大丈夫なんだよな……?」

 

「ああ、無事だ。……今のところは、な」

 

 そう最後に、美しくも妖しい、どこか嗜虐的なものが滲む笑みを浮かべる。

 思わぬ災難に見舞われたけれどケガはなく、ただしいつ事態が急変するかもしれず予断を許さぬ渦中に後輩がいることを暗示したものなのか、それともこれからその場に自ら赴き従僕(サーヴァント)をこの補習よりも地獄なメニューで徹底的に躾けてやることを予告したものなのか。

 

「那月ちゃん、心配なのはよくわかるけど、クロウは何も考えなしで動くヤツじゃないし、こうしてちゃんと連絡してくるんだから、そんな取り乱したりせずにもっと落ち着いて」

「別に、私は、取り乱してなどいないが、暁」

 

「で、ですよねー」

 

 すまん、クロウ、と心の中で謝る古城。

 先輩として弁護してやりたかったところだが、無理なようだ。

 ……とりあえず、頼りになる主人の魔女様が向かう――来てからの方が大変そうになりそうではあるが――後輩が無事であるのは確かであるのだから、古城は胸を撫で下ろしておく。

 

 

 

「さて、と……」

 

 そうして、補習監督役がいなくなり、教材等を鞄に仕舞いながら、古城は考える。

 この後の予定をどうするか。

 浅葱のことも気になるし、後輩のことも心配といえば心配だ。とりあえず、今日もわざわざ補修が終わるまで待機しているであろう監視役と合流してから決める―――

 

 

 ――ブー……ブー……

 

 

 とそのとき、再びブザー音。

 今度の発生源は、古城の胸ポケットからだ。

 なんだ? と確認すれば、母からのメール。

 

「そういや、今日、凪沙の面談だったけ」

 

 暁家の両親はどちらも予定が掴みにくい。

 片や世界を股にかけて荒事も滅法強い考古学者、片や世界的大企業の一部門の主任スタッフを任されている研究員だ。

 クソ親父は現在入院中であるし、母親が三者面談に出席することとなっていた。ここ最近は特に忙しいのか、平日はどうしても予定が空かず、それでもこの日にどうにか面談の時間を作った。

 だが、その出席予定がドタキャン。

 着信したメールの内容を簡潔に説明すれば、急な来客がありその対応をしなくちゃならないから今日の凪沙の三者面談に出られそうにない。

 なので、保護者代役(ピンチヒッター)を頼むと連絡。

 

 ……ピンチヒッターの選択肢にないクソ親父は哀れというのかなんというのか。

 兎にも角にも、折角、向こうもわざわざこの休日に時間を作って妹も学校にきているのだから、これを無視するという選択肢は古城にはなかった。

 

「仕方ねぇな。っと、姫柊にも連絡しとかねーと」

 

 

 

青の楽園

 

 

 

 依頼された個体の分析報告。

 彼女の細胞は人間とも、他の龍族(ドラゴン)の細胞と全く近似しない。

 推定される遺伝子情報の密度は、通常の生物の数十倍か、それ以上。<賢者の霊血(ワイズマンズ・ブラッド)>――錬金術により作成された“神”の細胞にも匹敵する。龍族を含めた如何なる魔族にも、これほどの遺伝子情報を細胞内に保有する生物は、現在は一例のみしか確認されていない。

 更なる詳細結果は2週間後となるが、現時点での結論を述べれば、彼女はこれまで存在が確認される、どの進化系統にも属さない新種であり、上記の類似例から遺伝子に分子レベルで魔術的に手を加えられた人工龍族である。

 

 

 『魔族特区』の一部である『青の楽園(ブルーエリジウム)』に併設される魔獣専門の研究施設――通称、<魔獣庭園>。

 世界各地の希少な魔獣たちを飼育し、生態を研究する施設で、謎に包まれる<沼の龍(グレンダ)>の解明を行った。

 しかし、希少な龍族の細胞は、もともとサンプルが少なく、個体差も大きい。

 魔獣関係の研究施設をもってしてもすべてを解明することはできず、誰かの手で、人工的に造り出された龍族であることしか判明しなかった。

 

(そうなると、ますます謎が深まるんだけど……)

 

 一体全体どういうわけか、現代科学的に天涯孤独の身であることのお墨付きがされたグレンダは、最近、自分たちの監視対象となった“彼”のことを“おにぃ”と呼び、あまつさえ彼の契約をした<守護獣(フラミー)>のことは“ママ”と呼んでいる。

 斐川志緒の相方である羽波唯里が言うには、最初からこうだったという。別に彼がグレンダに兄呼びを強要したわけではないのだ。

 考えられるとすれば、“同類”であると本能的に嗅ぎ取ったのか。

 グレンダと同じく、『黒』シリーズも今の技術ではとても造り出せない、分析報告にも比較検討のできる唯一の例として出されるくらい。

 彼の創造主である魔女は悪魔との契約で『天部』の科学力にも及ぶ叡智を得て、倫理感など無視した狂気的な研究と禁忌の実験の果てに現代の殺神兵器の創造が実現できたようなものだ。グレンダを解析した<魔獣庭園>の研究者たちからすれば、『黒』シリーズの成功例である『混血』の人工魔族は、一万年に一人の逸材なのだとか。

 

「ぷーる! おーたすらいだ!」

「待って待って、グレンダ! そんな走ってたら、転んで危ないよ!」

 

 

 明るく弾んだ声に、思考の海から引き上げられる志緒。

 仲良くお手々を繋いで研究施設から出てきたのは、<魔獣庭園>での検査が終わったグレンダと彼女のお着替えの手伝いをした唯里である。

 昨日初めて体験したプールでの水遊びをいたく気に入り、陽が暮れるまでウォータースライダーを滑り続けたグレンダは早く早くと唯里を急かし、ちょっと困ったような笑顔を作りながら唯里はそれに引っ張られている。

 

「お待たせ、志緒ちゃん」

「しおー!」

 

「唯里もご苦労さん。グレンダも検査お疲れさん」

 

 先に研究施設を出て自動運転の電動カートを用意して待っていた志緒に駆け寄る唯里とグレンダ。

 獅子王機関所属の舞威姫、斐川志緒。同じく、獅子王機関所属の剣巫、羽波唯里。

 傍目からは遊び相手にしか見えないけど、これも仕事。

 <沼の龍(グレンダ)>の監視と体調管理も二人に与えられた任務の一環なのだ。

 唯里はオーソドックスなフリル付きの水着を着て、志緒もシンプルなモノトーンのビキニ、それぞれ日焼け対策のパーカーを羽織っていて、プールに遊びに行く気満々の装いではあるが、これもこの高級マリンリゾート地に浮かないためなのだ。

 決して、レジャーイベントを満喫するためではない。

 グレンダの希望もあるが、獅子王機関がもう一人の監視対象として認定した彼――南宮クロウに接触(コンタクト)するためなのだ。

 

「グレンダ、今日はバレンタインのイベントがあるみたいだよ。一緒に楽しもうね」

「ばれんたいんー!」

「うんうん、それもなんとクロ君も参加してるんだって。ね? 志緒ちゃん」

 

「あ、ああ、南宮クロウもここにきてるみたいだぞ」

 

「わー! おにぃ! おにぃに会いたい!」

 

 おにぃに会えることにはしゃぐグレンダ。同調して満面の笑みを浮かべる唯里。ちょっと目を逸らしてしまう志緒。

 南宮クロウがここにいることは確かであるが、その情報は彼から直接聞いたわけではなかったりする。

 

 監視役として、監視対象の行動は逐一把握していることが望ましい。

 志緒は、諜報活動を得意とする舞威姫である。情報収集は得意とするところだ。それに白兵戦を担当する剣巫の唯里も率先してお手伝いをしてくれたのだが、彼の主人である<空隙の魔女>、南宮国家降魔官にそのことごとくを阻止された。

 

 彼の魔女の目を掻い潜るのは、相当に至難。そもそも彼が住んでいる高級マンション自体が、空間制御を得意とする魔女が作り上げた異空間じみた工房であるのだから、気づかれずに監視など無理難題なのだ。

 複数同時操作に自信のある式神を監視用に飛ばしたが、部屋に侵入することできずに迎撃されて叩き潰され、唯里がこっそり追跡術式を植え付けようと試みたが、それもその日のうちに解呪されていた。

 普通であれば、ここで冷静になって方針転換を考えるべきだったのだが、それを邪魔するものがいた。

 

 

『獅子王機関の剣巫と舞威姫、二人揃ってこの程度とは残念。監視役の任を降りて、島から帰った方がいいわね』

 

 

 同じ監視役の任を与えられ、属する組織の異なる競争相手。太史局の六刃神官、妃崎霧葉だ。

 普段は温厚な唯里だが、この霧葉を相手にするとムキになる傾向があって、彼女に上から目線で見下されながら煽られた相方の目にはごおっと火が点いてしまった。

 それからが大変だった。

 監視役としては先輩の姫柊雪菜にいろいろと話を聞きに行っては、親身に相談に乗ってくれた後輩の剣巫から、監視役という免罪符がなければ普通にストーカーになりそうな、手法を伝授され、それを実践。志緒もそれに巻き込まれて協力、というか、いつの間にか監視業務は唯里の方が主導になっていた。ライバルの六刃と切磋琢磨しているうちに監視の腕が上がってしまったのだ。

 そうして、ちょっと思い出すだけで遠い目になりそうな迷走の日々の果てに、南宮クロウの行動予定の把握くらいはできるようになったのである。

 ……こんな遠回りな真似をせずとも、彼に直接聞いた方が手っ取り早いじゃないかなあと志緒は思ったが。

 

「ゆいりー! 早く行こ! おにぃに会いに行こ!」

「もう、グレンダったら。ゆいおねぇでしょ?」

 

 もはや何も言うまいと志緒は決めた。

 何かちょっと殻を破りそうな相方から目を逸らしたいわけでは決してなく、彼女の意思を尊重した結果であって、一人になると何やらイメージトレーニングをしていても私は何も見ていないのだ。

 兎にも角にも、だ。

 自分たちは南宮クロウと行動を共にすることが望まれている。

 今、唯里は二つの楽器ケースを携帯している。

 一つは自身の得物である『六式降魔剣(ローゼンカヴアリエ)(プラス)』、もう一つの楽器ケースには『混血』である南宮クロウにしか真価を発揮できない『零式突撃降魔双槍(ファングツアーン)(プラス)』収まっている。

 元々は、獅子王機関が管理していた武神具だ。監視役の役割のひとつとして、この<《冥/明(めい)》我狼>の管理が任されている(師家様曰く、壊し屋の坊やに預けてたら、壊しかねないとのこと)。

 

「「―――!!」」

 

 電動カートに乗り込んだその時、周囲に張り巡らせた式神が陣形を作った結界に反応。恐ろしく強力な魔族の気配に、だ。

 唯里もまた剣巫の優れた霊感が嫌な予感を覚えて、反射的に構える。

 

「志緒ちゃん!」

「わかってる! なんだ、このでたらめな魔力……!?」

「グレンダ、こっちに! 早く!」

「だ?」

 

 そして、彼女たちの前に、漆黒の霧が漂い始め―――

 

 

 

彩海学園

 

 

 

 胸中にざわめく嫌な予感。

 

 暁古城には教えなかったが、現在、管理公社は<蛇遣い>ディミトリエ=ヴァトラーの所在地を確認できていない。

 あの日、使い魔(クロウ)と交戦をしたのが最後だ。

 戦闘の最中、矢瀬顕重の指示により衛星から対地レーザーを撃ち込まれたみたいだがそれくらいでは<蛇遣い>は死滅しないだろうし、クロウからも報告は受けている。

 

 戦争に横やりを入れた奇襲は、外れたと。

 

 あの騒動、火事場泥棒で何を目的に動いていたかは不明だが、表に出てこないということは、何か表沙汰となればまずいことを企んでいる可能性が高い。

 クロウに深いダメージを負わされ、その回復のため大人しくしている可能性もなくはないが、彼奴の性格上それはないと断定できる。

 しかし、自らの拠点である船に自身を狙う刺客を乗せてくるようなイカれた吸血鬼の企みなど考えるだけで時間の無駄だ。

 

 追跡捜査にはうってつけな使い魔がいるのだが、同日に人工島管理公社の総帥にして、『聖殲派』の黒幕・矢瀬顕重が行方不明となっている。死体が見つかっていないのだ。

 魔族特区テロリスト(タルタロス・ラプス)の襲撃の際に、自身の死を偽装し、先生を欺いたあの男は、自らの目でその死を確認するか、<監獄結界>に収監するまでは、決して気を抜けない相手だ。

 那月としては、ヴァトラーよりも矢瀬顕重を警戒し、未だに裏に潜んでいる可能性が捨てきれなかったため、この件に関して、使い魔の派遣は見送っていた。

 <禁忌四字(やぜ)>を継ぐ資格を有する教え子の矢瀬基樹がその後釜に収まったが、絃神島の暗部全てを掌握しているとは言い難い。

 先日、新統括理事長協力のもとで実施された捜索では、<黒妖犬(ばかいぬ)>より兵器に相応しく調整された複製体(クローン)の研究が発見されたのだが、肝心の成果である複製体はなかった。何者かが管理公社が処分するよりも早く回収したのだろう。

 那月は矢瀬顕重が第一容疑者だと睨んでいたのだが……

 

(だが、そうでないとすれば、疑わしいのは奴だ)

 

 統括理事長の権限がなければ、立ち入れない研究区画の最奥にどうやって侵入したのか断定はできないがいくつか候補は思い浮かぶ。

 忌々しくも動機も世に解き放てば面白そうだからですべてを片付けてしまえる戦闘狂。自身を瀕死に追い詰めた<黒妖犬>のことを殊更に高く評価しているに違いないし、匹敵する性能を有するであろう複製体にはそれだけの期待をかけていることだろう。

 

 そして、つい先ほどの古城の報告。

 <蛇遣い>以外の命には付き従わないだろう腹心が動いているとなれば、近いうちに――早ければ今日中にも――何かを仕掛けてくる。

 

 そこで、舞い込んだ一通の報せ。

 この件に関わってなくもなさそうなあのふざけたメール。

 

 

『ごしゅじんへ

 このまえのいぶりすよりもすごいきゅうけつきがまじゅうていえんにきてるぞ』

 

 

 この小学生並みの文章から察して、アシスト役のアスタルテがメールを打ったわけではないのだろう。ポチポチと人差し指でボタンを押してる姿が容易に目に浮かぶ。

 それで、詳細な確認を取ろうとしたのだが、繋がらない。

 思った以上に早くに来た返信に慌てて受話器ボタンをつい反射的に力を入れて、ボキッと折って連絡手段(けいたい)を壊したのか。繋がらない。あれは使い捨てにしていいような安い代物ではないというのに、こちらが電話をしても通じない以上は直接問い質すしかない。報告・連絡はしたようだが、相談ができないようでは落第であり、そのあたりも厳しく教育してやろう。

 

(……事は思っている以上に進行しているのか)

 

 馬鹿犬は馬鹿だが、その感性は馬鹿にしたものではない。間違いなく、信頼のできる情報。そこから考察をすれば以下のことが判明する。

 イブリス――第二の夜の帝国の凶王子イブリスベール=アズィーズ。真祖に最も近しい存在と言われる<蛇遣い>と同格の存在。

 それとの相対評価をして尚も格上だと判断できる吸血鬼なんて、片手で数えられるくらいに限られている。

 

「私が来るまで戦争(ケンカ)などしてくれるなよ、馬鹿犬……!」

 

 

 

青の楽園

 

 

 

「警告する、<心ない怪物(ハートレス)>。

 日本政府が無力化を失敗した<沼の龍(グレンダ)>を、我々『聖域条約機構軍』が回収する。

 ……それと、付け加えるのであれば、貴様も封印指定とするかまだ裁定は下されていないが、ここで邪魔立てをするのならば、重大な脅威と認定する」

 

 

「お前の見方はわかった。だけど、オレの見方はお前のとは違う。人によってそれぞれの見方が違うのはわかってるけど、だからこそ、オレは目を逸らさずオレの心と向き合う。なくそうとした心を皆が守ってくれたんだから、心を大事にすると決めてるのだ。

 オレをもう<心ない怪物>なんて呼んでくれるな」

 

 

「では、<黒妖犬(ヘルハウンド)>。貴様は愚かにも第一真祖<忘却の戦王(ロストウォーロード)>の決定に異議を挟み、この俺、『戦王領域』帝国議会議長、ヴェレシュ=アラダールと殺し合(たたか)うか」

 

 

「ああ。オレの力が我武者羅に振り回していいものじゃないとわかってるけど、グレンダに手を出すのなら、オレはそのケンカを買う。たとえ世界が相手でもその答えは変わらない」

 

 

 

つづく



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IF+NG SS
高神の社ルートⅠ


第一巻目が終わったころです。


 真夏の森―――

 社を包む結界のせいか、季節感を隔絶した冷えた清澄な空気。騒がしい蝉の声も遠く、ひとつの異空間と言えよう。

 その社の縁側に腰を下ろし、足をパタパタとさせる少年がひとり。首元に包帯を巻いているが、特に動きに支障があるわけでもなく、振る両足のリズムに合わせ、メトロームのように頭を揺らしている。

 同年代の男子と比すれば小柄だが、弱々しい雰囲気はない。むしろ見る者が視れば圧巻させられるほどに強大なエネルギーが、その小さな体に詰まっていることがわかるだろう。それでも、人畜無害な子供としか見えないのは、そのあまりにも毒気がない性分が表に出ているせいだろうか。

 さて。

 少年がいるのは、『高神の社』

 表向きは、関西にある私立の神道系の名門校。その実は、獅子王機関の下部組織。

 どちらにしろ男子禁制の女子校であることに変わりはないのだが、この少年はわりと行動の自由が許されている。銅色の髪に褐色の肌、それに曇りない金瞳と日本のものではない、異国人風の彼が、何故、この巫女らの学び舎にいることを許可されているのかと言えば、その養成機関の指導員が拾ってきた孤児(みなしご)であるのが理由の一つ。そして、その特性上、普通の教育機関に通わせることもできず、人里に降ろすには刺激が強すぎる。

 一年ほど前に、魔導犯罪者組織、<図書館(LCO)>の一部門『科学』の拠点をひとつほぼ単騎で潰したのだ。して、そこに死蔵されていたある召喚獣の欠片を回収した少年は、ひとつの時代を終結させる『百王』の資格を獲得していた。

 そういうわけで、この一般社会からは離れた場所にある『高神の社』で、管理される必要があった。

 もっとも、それは『高神の社』だけに限定されるものではないのだが。

 

「クロウ君」

 

 名前を呼ばれ、そちらをこてんと小首だけ傾けるように向ければ、少年をここに呼び出した人物がそこに。やや早足でパタパタと歩み寄ってくるのは、少年と同い年くらいの華奢な少女だ。しかし、動くたびに弾むだけの立派な二つの膨らみはそれだけに年不相応でインパクトが強い。

 けれど、女子校でペット的な存在として可愛がられる少年は、そういった性的な反応がまったくない。この歳まで、同年代の男の子との交流が皆無なのだ。唯一なのは、居候先の世話になっている姉な少女の弟くらいなものである。だからこそ、この男子に排他的な環境でも受け入れられているのだろうが。

 

「ご、ごめんなさい。お待たせしてしまったようで。すみません」

 

 と見るからにおとなしく、気弱そうな雰囲気の少女が申し訳なさそうに。そこで、ふと少年は、居候先の姉からの教育を思い出す。人間社会の勉強だとかで、参考書(まんが)の内容をよく実演させられるのだ。その中で、こういう時に言うセリフは決まっていた。

 よくマナーだとか言葉遣いとかがわかってない少年だが、とりあえずこの目の前の相手がすごく偉いのは知ってるので、粗相のない対応を心掛ける。

 

「いや、今来たとこなのだ」

 

 と軽く言う少年に、え、と少女は驚いて、

 

「え、っと、約束の時間は一時間前だった気がするんですけど……」

 

「う、本当は一時間半くらい待たされたぞ白奈」

 

「すみませんすみませんっ!」

 

 はうう、と目を><にして、少女はぺこぺこと低姿勢で頭を下げてくる。よく居候先の姉から口を酸っぱくして言われてるが、なんであれ女の子に謝らせてしまうのは男子としては減点らしい。気を遣わせず、自然な対応がやれるのができる男なのだと。

 だが、この少女は顔合わせの時から謝られなかったことは一度もない、女の子の取り扱いマナーでは最難度。

 常に泣き出しそうな、目元が潤んでいる相貌。

 先天性の体質からか、見た目的に全体が黒い印象の少年とは好対照に、彼女の髪は白く、肌の色素も薄い。愛らしいホッキョクギツネの毛並みを思わせる、神々しい純白である。

 

「別にこんなことくらいで謝らないでいいっていつも言ってるだろ。それで、何の用だ?」

 

「は、はい。絃神島への出向について、クロウ君本人の意思をお伺いたくて……」

 

 絃神島。

 日本唯一の『魔族特区』で、『世界最強の吸血鬼』が存在するとされる人工島。

 

「ん、ユッキーが重要任務とかで大変そうなんだよな。なんかすごく大事な槍を壊したって縁お姉ちゃんから聞いてるぞ」

 

 そこへ、『高神の社』から卒業を四ヶ月早めた剣巫が出向した。<第四真祖>の監視役は相当に大変なものだそうで、先日も切り札である秘奥兵器を壊してしまったと聞く。幸いにすぐ修理ができる程度の破損であったが、任務の過酷さは知れよう。

 本来、監視役の任を受けるはずだった第一候補の居候の姉は彼女に対してとても気にしているのを少年は知る。

 

「はい。ですから、クロウ君に姫柊雪菜を補佐するために絃神島にある出張所へと赴いてほしいのです」

 

 ……本当は、その少女を監視役の任ではなく、<第四真祖>の愛人とするために送り込んだのだが。いわば、眠れる怪物につけられた鈴。

 しかし、死んでしまったら元も子もないという。

 <第四真祖>自体は、その性格からあまり危険性はないのだが、その<第四真祖>の特性上、危険性の高い厄介事が舞い込んでくるというのが予想つく。

 だから、その応援ということで送り込まれる。

 

「う、いいぞ」

 

 そんな危険を承知で、少年はごくあっさりと了承する。

 

「いい、んですか?」

 

「ん。ちゃんと師家様やみんなにも相談して考えたぞ。紗矢お姉ちゃんからは、『雪菜に近づく男は容赦なく去勢していいから。たとえ<第四真祖>だろうとね』って、志緒お姉ちゃんからは、『めんどくさいかもしれないが、一日一回、最低でも二日に一回はちゃんと唯里に連絡してやれ』とか言われたのだ。縁お姉ちゃんからは『出張所に置いてる式神(ねこ)の世話もよろしく』ってなー。唯お姉ちゃんは、『お姉ちゃんは絶対に許しませんよ』って猛反対されたけど、おじさんやおばさんが、『魔族特区』なら普通に学校に通わせられるからいい経験になるって言ったら折れてくれたぞ」

 

 居候先で家族会議となったが、とりあえず同意をもらえた。

 この『高神の社』で一般教育は受けているものの、ここは世間一般的に女子校だ。学校には通っていないことになっているし、卒業もできない。つまり、履歴上、無学歴となるのだが、それだと将来は大変だろう。別に人間社会に混じらずとも自活だけのスキルは持っているにしても、最低限の学歴はあって損はない。

 

「だから、別に任務で文句は……うん?」

 

 不自然に言葉を途中で止めて、すん、と鼻を鳴らす。

 やや焦げた匂い。不機嫌な感情を示す“匂い”がしたのだ。

 

「どうした白奈? なんか気に障ったこと言ったか?」

 

「いえ、何も……ただ、私も……年上ですよ?」

 

「そうなのか。それがどうかしたのか白奈」

 

「……べつに」

 

 つい、と白髪の少女にそっぽを向かれる少年。

 むすっと小さく頬を膨らませているが、何を怒っているのか、少年はわからない。

 

 と唐突になるが、『高神の社』にて、“みんなの弟”や“わんこ系年下男子”などと呼ばれている少年は、校内の年上の女性は、お姉ちゃんと愛称付けで呼ぶようになった。これは居候の姉の教育の賜物であり、最初はその唯お姉ちゃんしか呼んでいなかったのだが、そこからルームメイトに話を聞かれて、そのまま全校に広まった。独占できないのは不本意であるも、基本的に人の良い彼女は黙認している。ちなみに師家様のことを最初、縁お婆ちゃん、と呼んだら、師家様監修のもと折檻じみた百人組手が始まった。

 

「白奈ー、やっぱりなんか不機嫌だろ? そういう“匂い”がするぞやっぱ」

 

「何でも……ありません。それと、みだりに女性の体臭を嗅ぐのは……失礼、です」

 

「そうかー。それはちょっと残念だなー、白奈の匂いはいい匂いだからな」

 

「そ、そう……ですか」

 

 顔を真っ赤にした少女は俯いて―――そして口元に妖しげな笑みを浮かべる。

 

「では、私もしたら、お相子ですね」

 

 すぅ、と足音もなく這い寄る彼女の腕が、少年を後ろから首に巻かれるように抱き着かれる。これといった抵抗もなく、その伸びた癖っ毛に鼻先だけをうずめるように少年の匂いを嗅ぐ。

 

「ふふ……クロウ君の匂い、いいです」

 

「むー、よくわからんけど、なんかこの前会った太史局の霧葉お姉ちゃんと同じ事やってるな」

 

「だめ。私といるときに他の女の名前を出したりするのはないですよ。それから、どうして別派閥の女性を姉呼ばわりしてるんですか?」

 

 かぷり、と耳を噛まれて、あぅ、と少年は全身を硬直させた。耳が敏感(ウィークポイント)な少年は、背筋に電気が流れたような感覚が這い上がり、脱力してしまう。普段は弱気でおどおどとしてるのに、何かの拍子でスイッチが入ると積極的となってしまうのだ。

 そうして、しばらく。

 まるで痕でもつけるように、ハムハムと耳を甘噛みして、むずがる少年の反応に満足したのか、つぅ、と線が伝う唾液の筋を袖で拭いて、白髪の少女はひとつ取り出す。

 

「お守り……です」

 

「? お守り?」

 

 白魚の手より小袋を渡される。

 

「姫柊雪菜とは違い、獅子王機関からあなたに渡す武神具(もの)はありませんから……」

 

「オレが武器を使ったら逆に弱くなると縁お姉ちゃんに太鼓判押されてるから、別になくていいぞ」

 

「ですから……その代わりに、と言っては何ですが……私個人から……」

 

「そうか。わざわざありがとなー。―――ん? 何か“匂い”が……」

「―――ああっ!? 中を開けないでっ!」

 

 興味津々に小袋を閉じる紐を解こうとしたら、耳元で甲高い悲鳴をあげられ、飛びつかれた。普段の彼女には考えられない劇的な反応である。

 

「じゃあ、中に何が入ってるのだ?」

 

「そ、それは……その」

 

「ぬ、あまり言えないようなものなのか」

 

「そう、ですね……でも、何か悪いものが入ってるわけではないので……」

 

「でも、中を見ちゃダメなのか?」

 

「う……う……」

 

 白髪の少女は唇を噛みながら、目を涙で潤ませる。恥じらいに満ちたその表情は、同性であっても嗜虐心を煽るものであるも、少年はたいして興奮もせず、純粋に疑問の眼差しで見つめ返してくる。その無垢な瞳に、ますます少女の羞恥は高まり―――表人格が逃げ込むように、切り替わった。

 

「『そのお守り包みの中には、白奈の大事な毛が入っているのよ』」

 

 表情を一変させ、クッと喉を鳴らして笑う少女。

 それまでの気弱げな彼女とはまるで別人のように力強い口調だ。声色も心なしか変化している。その年齢不詳な印象を受ける老人臭い口調に、いきなり臭いものを鼻に突きつけられたように少年は眉をしかめた。

 

「む、出たな。まっくろくろすけ」

 

「『くっくっ……そう邪険にするではないよ。儂もそなたも、魔族に似て真なる魔族にあらざる存在であろうに』」

 

「だったら、その霊糸(かみ)を刺そうとするのをやめろ。静電気みたいにビリッとくる」

 

「『儂とそなたの戯れではないか。それにそなたを操ろうとしているのは儂ではないよ』」

 

 少女の白髪が、意思を持つかのように蠢いて少年の身体に絡みつく。はたから見れば、一気に数十倍に伸長した女子の毛髪に雁字搦めにされている図というシュールなものだが、それを受け入れることはなくとも、平然としたままの少年に、彼女は滑稽に笑う。

 獅子王機関の長『三聖』、『闇白奈』。

 何世代にもわたって引き継がれる原罪『(くらき)』の意志と、<神権政治>を振るう力の器である少女『白奈』の意思、そのふたつが、彼女の中にある。

 そして、力の使い道を決めるのが『闇』であっても、実際に力を振るうのは『白奈』―――

 

「『にしても、『(くらき)』の精神干渉が効かんとは。これでも、日本最強の攻魔師『三聖』であるのだがな。もっとも支配したいものの心を奪えぬとは皮肉なものよ』」

 

「二人の問題なんだろうけど、その肉体は白奈のものだぞ。受け入れられてるにしても、もっと大人しくできないのか、まっくろくろすけ」

 

「『ならば、『百王思想』の体現者よ。そなたが『聖殲』の時代を終わらせてくれれば、白奈も『(くらき)』から解放されるであろうよ』」

 

 『『聖殲』の遺産を撲滅する』―――それが、『闇白奈』の存在意義に等しき使命。

 して、この少年もまた『聖殲』の遺産を継いだものであるが、『『聖殲』の遺産を壊すための『聖殲』』―――故に、最後の殺神兵器だ。

 神代を終わらせた『聖殲』、その『聖殲』に終幕を下すために選定された者。

 

「『絃神島には、(しずか)がいるが、そなたは政治的配慮など無視してよい。壊すべきと定めたのであれば、島を壊しても構わんぞ。同じ『三聖』である『(わし)』が許可する』」

 

「オレがあんまり人のこと言えないと思うけど、オマエは考えなし過ぎる。過激派だな」

 

「『心配なのじゃよ。『(わし)』も『白奈』も、そなたが『聖殲』の運命に囚われ心変わりしてしまうのでないかとな』」

 

 きゅぅっと、縛りつく白髪の締め付けが強くなる。『闇』が表に出たときの白奈の“匂い”は強く嗅がなければ掴めぬものでその内心を『鼻』では測り取ることはできない。

 ちくちくと少年の毛穴という毛穴に入り込もうとする毛髪。それは魂にまで繋がれる霊糸―――だが、それも魂すらも壊せる少年の毒性に侵入は阻まれる。

 その相性はわかり切っているのに、絡み付いて放れない。そのことにより執念深さを思い知らせてくるであろう白い髪を、少年は指先でそっと撫でるように梳く。

 

「まあ、心配されてるのはわかったぞ」

 

 少年の労りが伝わる感触に、白髪が震える。

 

「だからって、オレは不慣れなことはできない。だから、いつも通り。オレはオレのままここに帰ってこられるように頑張るぞ」

 

 するりと力の抜けた髪の束縛が解ける。

 解放された少年は、しかしすぐ席を立つような真似はしない。

 俯き、嗚咽する少女が落ち着くまで、その隣に居座る。

 

「違うん、です……私はただ……ごめんなさいクロウ君」

 

「だから、謝らなくていい。お前は謝るようなことをオレにやってないんだからな」

 

 そして、少年は立ち上がる。歩き出す。

 彼の運命が待つ絃神島へ―――

 

 

 

 

 

 その前に。

 羽波家。

 

「クロ君、向こうに行く際に気を付けないといけないことがあるよね」

 

「なんなのだ、唯お姉ちゃん」

 

「この前、太史局の人を、お姉ちゃんと呼んでなかった?」

 

「う、そうだけど。唯お姉ちゃんが、年上の女性は金の草鞋がどうたらこうたらで、とにかく尊敬するようにと言ってたんじゃないか?」

 

「そうだね。うん、後半があやふやだったみたいだけど意味は覚えてるのはいいことだよクロ君。でも、会ったその日にお姉ちゃん呼ばわりはちょっとどうなのかなーって私は思うよ」

 

「そうなのか? じゃあ、どのくらいから」

 

「そうだね。とりあえず、一年くらいの付き合いをしたら考えてもいいかな」

 

「むぅ、なんか難しいんだな、人付き合いというのは」

 

「だから、ちゃんと私に相談すること。その人がどんな子なのか、クロ君がどう思ってるのか事細かく。そしたら私が“適切な”助言をしてあげるから」

 

「ん、わかったぞ」

 

「それから、どんなに些細なことでも毎日報告すること。遠距離でも声を聴いて互いを意識するのは大事だからね」

 

「むー、オレ、携帯が苦手だぞ。式神も全然だし……月に一回くらいじゃダメか?」

 

「ダメ。絶対、定期連絡を怠ることは唯お姉ちゃん許さないから!」

 

 そうして。

 転校してから姫と崇められる美少女を、気安く愛称(ユッキー)で呼ぶ昔馴染みの少年の到来に、世界最強の吸血鬼はやきもきとしたり、そして、事件の調査でバッタリ遭遇して獲物を掻っ攫ってくれた商売敵の少年にここは私の領分(しま)だと、カリスマ女教師が“アイサツ”するのだが、それは後の話。

 

 

 

つづく?



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高神の社ルートⅡ

人工島北地区 スヘルデ製薬社付属研究所跡地

 

 

 極東の『魔族特区』絃神島を担当する国家攻魔官にして、世界最高峰の技量を持つ魔女、南宮那月。

 保護観察下に置かれることとなった眷獣共生型人工生命体を引き連れて、先日に起こった『キーストーンゲート襲撃事件』の事後処理で、ロタリンギアの殲教師と関係した魔導犯罪者を捕縛しに研究所へやってきたのだが……

 

「……誰だ貴様は?」

 

 『特区警備隊』に命じさせてこの付近は民間人の立ち入りを禁止している区域となっているはずなのに、自分たちよりも先にこの場にいるこの少年。なんか頭の上に黒猫を載せてるバカっぽい少年。

 そんな『火鼠』を材料とした真っ赤な狩衣を着こなす十代前半と思しき小僧の足元に、那月が捕まえるはずだった『人形師』ザカリー=多島=アンドレイドの身柄が転がっていた。

 つまり、このガキが、自分の獲物を掻っ攫ってくれたという。

 

「オレの名は、縁堂クロウ! 今時の流行り風に言えば、亜人(デミ)君なのだ」

 

 新しく転入することになるクラスで自己紹介するために練習したのだろうことがなんとなくわかる。亜人(デミ)ということは、半分は魔族で半分は人間だというのを伝えたいのだろう。簡潔に読み取れば、そうなるか。

 わかりやすい自己紹介であるが、ますますこいつなんかバカだな、ということがよくわかった。

 

「貴様がそこの男を捕らえたのはわかったが、ここは素人のガキが首を突っ込んでくるな。ったく、警備隊の連中は何をしている……」

 

「む。オレ、ちゃんと攻魔師資格(Cカード)を持ってるぞ」

 

「なんだと?」

 

 と狩衣の懐から証明写真付きのカードを取り出して見せる。

 那月は、驚いた。

 一国家攻魔官として、こんなバカっぽい子供が攻魔師資格を持ってるとは思わなかったのだ。つい先日に、これと同じように十代前半で攻魔師資格をもった女子中学生がいたが、あれはまだ利口そうに見えたから、納得できたのに……

 

「おい、それは本物か?」

 

「う、ちゃんと攻魔師資格(Cカード)だぞ。縁お姉ちゃんから、絶対に国家試験に受かれと言われて、ユッキーと一緒に試験を受けることになったんだけど、それで去年合格した唯お姉ちゃんが家でもつきっきりで勉強に教えてくれたり、志緒お姉ちゃんが頭が良くなるご飯(強壮剤(ドーピング))を作ってくれたり、紗矢お姉ちゃんが頭に良くなるおまじない(秘孔(つぼ)を突く)をしてくれたり、他のみんなもオレが知恵熱で倒れたら千羽鶴を送ってくれたりしてなー」

 

 話を聞けば聞くほど、こんなおつむの足りなさそうなあほの子を合格させたのかと、攻魔師協会に文句を言いたくなる国家攻魔官。

 

「あと、試験する直前に、白奈が、『白紙でなければ……どうとでもしますので……』ってアドバイスくれて」

 

 もしかすると盛大に下駄を履かせたのかもしれない。その疑いが濃厚になった。

 

「ふふん、そのおかげで、筆記試験が難しかったけど、実技では満点を取ったのだ」

 

 えっへん、と胸を張る少年。

 残念だが、今ので不正疑惑が出たので資格停止させてやると那月は誓う。

 

「だから、ちゃんと警備隊の人にちゃんと許可を取って入ったんだぞ」

 

「わかったわかった。―――そこの男と一緒にしょっぴいてやる」

 

 那月が扇子を閉じたその瞬間、少年の背後より虚空から放たれた銀鎖が襲う。

 神々が打ち鍛えた<戒めの鎖(レーシング)>。捉えた相手の魔力を封じ込め、無力化する、これまでに多くの魔族を捕殺してきた銀鎖は、

 

「ん―――」

 

 つい反射的に手が出てしまった風に、特にそちらを振り返ることなく、少年の裏拳で叩き“壊された”。

 <空隙の魔女>は、大きく目を瞠る。軽く放ったような拳打で、<戒めの鎖>を破壊する。そんな真似はそこらの魔族では出来はしない。那月の後輩である<四仙拳>の笹崎岬であっても難しいだろう。どうやらこの馬鹿な小僧は、素でとんでもない馬鹿力をしてるらしい。

 

「待て!? いきなり何をするのだ!?」

 

「抵抗するな。大人しくお縄につけば痛い目を見ずに済むぞ」

 

「だから、オレは犯罪してないぞ!? 何か飛んできたからつい壊しちゃったのはごめんなさいだけど、オレは獅子王機関からやってきた応援なのだ!?」

 

 この期に及んでも、制止を呼びかける少年。

 獅子王機関。それは国家攻魔官の那月からすれば、商売敵だ。つまり、那月の縄張りにのこのことやってきた余所者であり、那月の琴線を余計にかき鳴らしてくれただけであった。

 印象付けは最初が肝心。

 互いに格付けをつけるためにも、ここで容赦してやる理由はない。

 

「安心しろ。子供相手に本気を出したりはせん」

 

 と次に虚空から放たれたのは、<戒めの鎖>の倍以上の大きさのある<呪いの縛鎖(ドローミー)>。直撃すれば、自動車の衝突事故並のダメージがあるだろうそれを魔女は容赦なく、

 

「うわっ!? さっきよりでっかいのが来た!?」

 

 驚きながらも、普通に反応してみせる。くるりと回避しながら腰を捻って放つボレーシュートで、大鎖は蹴り砕かれた。

 <戒めの鎖>に抵抗するのはそこそこいるが、<呪いの縛鎖>を回し蹴りで壊してくれたのはさすがにこれが初めての経験だ。これは思った以上に、常識外れで厄介な相手らしい。

 

 ……そういえば、ここ最近、<犬夜叉>とかいう日本最強の攻魔師『三聖』お気に入りともされる獅子王機関の師家後継が暴れていると本国からの噂を耳にしたことがある。

 

「もうなんだかよくわからんけど、捕まるわけにはいかないぞ!」

 

 理不尽に徹底抗戦の構えを取る少年。

 彼には捕まるわけにはいかない理由がある。

 『その、お守りは……古式ゆかしい作成法で、特別な意味はありませんから……忘れてくださいっ!』と見送りに来てくれた『三聖』の少女は、社を旅立つそのとき、最後に儚い笑みでこう言った。

 

『それと……もしも、他のヒトのものになるなら、呪殺しますから……』

 

 『聖殲撲滅ガール』として職務に忠実だ。

 きっと『聖殲』の遺産に選ばれてしまった少年にも容赦してくれないのだろう。これには、『闇』も『白奈は冗談ではなく、本気だぞ』と洒落でからかったりせず真顔で気をつけろと忠告してくるくらいで、下手をすれば、その相手との血塗れでドロドロの愛憎劇を“神の手”で演出させかねないのだそうだ。

 そんな未来を回避するためにも、少年は大魔女の鎖から逃げる逃げる逃げる。

 

「だいたい、子供だっていうなら、お前だってなんか見た感じ子供だろ。オレよりも年下に見えるぞ」

 

 防戦一方で鎖を捌き続ける少年がビシッと訴えた。

 しかし。

 南宮那月は見た目が幼女であっても、実年齢は自称26歳である。そして、それを揶揄してきた相手は皆容赦なく叩き潰してきてやった。こんなバカっぽい子供に、子ども扱いされた魔女のこめかみにピクッと青筋が浮かぶ。

 

 彼に悪気はない。一応、彼もちゃんと『固有体積時間』を嗅ぎ取り、南宮那月が自分よりも年上であることは勘付いている。

 これは以前に、不老不死の吸血鬼並に長寿の『長生族』の女性を、その歳のまんまに『お婆ちゃん』と呼んだことから反省して、『女の人は若そうだと言った方が喜ばれる』と学習してしまったが故に起こってしまった哀しい事故なのだ。

 

「ほう……」

 

 ゴゴゴゴゴ……ッッッ!! と。

 大魔女の輪郭に滲むように闇色のオーラが漏れ出す。

 ただならぬ気配に、ようやく少年もこれ以上の説得は諦め、戦略的撤退も視野に入れ始める。

 

「前言撤回だ。図に乗ったガキに優しくしてやる義理はないな」

 

 そして、犯罪者の身柄を連れてきたアスタルテに任せると、魔女と少年はスヘルデ製薬社付属研究所跡地一帯が壊滅するほどの激戦を繰り広げることとなり、応援に駆け付けたはずなのに問題を増やしてくれた幼馴染に、剣巫の少女は頭を抱えた。

 

 

 

つづく



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高神の社ルートⅢ

彩海学園

 

 

 獅子王機関からの“増援”が来てから数日。

 一言でまとめるなら、彩海学園は大変だった。

 転校して早々にクラス内で姫と崇められ、ファン俱楽部まで作っちゃっている絶世の美少女姫柊雪菜を、気安く呼ぶ転校生の到来に中等部は大いに沸いた。すぐに彼女自身口から関係性を説明され、幼馴染だと知れ渡ったが、それでも中々『ユッキー・ショック』の熱は冷めやらぬ。

 そして、高等部でも何故か担任の、カリスマ教師の那月ちゃんに目の敵にされていて、休み時間となるたびに前触れもなく奇襲を仕掛けては、チャイムが鳴るまで執拗に追い立てる。それを躱して、逃げるのだから、カリスマ教師と転校生の追いかけっこは今や秘かに賭け事もされてくらい風物詩として溶け込んでいる。

 他にもバッタリ廊下で遭遇した悪友矢瀬基樹の彼女とされる先輩女子に『あ、やっぱりこの“匂い”は緋稲お姉ちゃんだ! やっほー』とあいさつしたら、神隠しに遭ったそうだが、古城としても気の休まらない思いだった。

 これは単純に監視相手が増えたからだけではない。

 それよりも妹と同じクラスに亜人君が転校してきたことが心配なのだ。

 

 

「ちょっと話がしたんだが、いいか?」

 

 

 放課後。

 ギターケースを持つ少女と並んで現れたバットケースを肩にかける話題の転校生に、古城が話し合いに誘った。

 

「どうしたんですか、先輩?」

 

「あー、いや、クロウと二人っきりで話したいことがあってだな」

 

 そうぼかした感じでいうと当然のように雪菜は眉を顰めて訝しむ。

 別に彼女のことを信頼していないわけではないのだ。ただこれはあまり人に言うものではない。

 下がってほしい、というような空気を出していると、その意を酌んだように縁堂クロウも雪菜に言う。

 

「ん。じゃあ、ユッキーは、来なくていいぞ」

 

「え……」

 

「ちょうど縁お姉ちゃんが、二者面談したいとか言ってたからな」

 

「師家様が……?」

 

「う。だから、監視役はちょっとお休みすると良い」

 

「ですが……」

 

 チラチラと古城を見る雪菜に、ドンと胸を叩き、

 

「心配するな。古城君はそんな危ないことしないし。それに、ユッキーよりもオレの方が監視役できると思うぞ」

 

「それは確かにそうですが」

 

 しばらく悩むように口元に手を当てるポーズを取り、それから大きく溜息をつく。

 

「……まあ、クロウ君なら、先輩の傍においても問題はないですよ、ね?」

 

 と古城に確認する監視役。

 ひょっとして彼女の心配事の中には、この幼馴染の少年の血を吸うのが入っているのだろうか。

 思わず、おい、と古城は突っ込みたくなる。

 間違っても、同性相手に吸血衝動に襲われない。古城はノーマルだ。そもそもこの前まで吸血童貞だったのに、興奮するたびに人を襲うような浅慮な真似はしていない。

 とかく、監視役は納得して、その場を後にしてくれた。

 国家公認ストーカーに四六時中見張られている古城が言うようなことではないが、たまには羽を伸ばすといいだろう。

 

 しかし、あの至極真面目に職務へ取り組む姫柊が大人しく下がるとは……

 <第四真祖>の監視役に選ばれるほど優秀な剣巫候補生が認めるくらいに、こいつは有能なのか?

 

 

道中

 

 

「ん? いや、オレ、式神とか呪術はてんでダメだぞ」

 

 試しに訊いてみると、全然と首を横に振られた。

 

「卜占とかその辺はユッキーも苦手ぽかったけど、オレよりは上手いのだ。同年代の中じゃピカイチだったからなー」

 

「そうなのか」

 

 古城は案内されるまま、あまり馴染みのない駅でモノレールを降りた。

 こちらの要件は特別場所に指定するようなことはなく、どこか適当なファーストフード店とかに入って話せればよかったが、向こうに古城に会いたい人物がいると頼まれればついていくのは吝かではない。

 

「ふんふふーん」

 

 古城の隣に居を構える雪菜とは違い、彼は別の拠点に寝泊まりしている。流石に気心の知れた幼馴染だからと言って、男女を同居させるようなことは獅子王機関もしないようだ。

 人通りは少ないが、静かな緊張感に満ちた坂道。隣を歩いていた古城は、だんだんと表情を引き攣らせることになる。

 

「おい、本当にここを通るのか?」

 

「ん、ここがオレの通学路だぞ。何か問題があるのか、暁先輩」

 

「いや……」

 

 言い淀んでしまったが、思わず突っ込みたくなるくらいに問題がある。

 近くに看板へと目を向ければそこに書かれていたのは、

 

『ホテル・ラビリンス 休憩4000円~』

 

 路地の風景を改めて確認して、古城は頭を抱えた。

 古城たちのいる狭く入り組んだ区画は、日中なのに薄暗い。たまに見かけるのはカップルばかりで、しかも、どのカップルも妙に俯き加減である。

 そう、この転校生の進学路には何件ものホテルが立ち並んでいたのだ。

 旅行者向けの宿ではなく、男女が愛を確かめ合うために入っていく類のホテルである。

 

「おい、どうした? 気分が悪いのか?」

 

「縁堂……むしろお前はこの周りを見て何とも思わないのかと訊きたいんだが」

 

「? 別にホテルがいっぱいあるけど、珍しいものじゃないだろ?」

 

 きょとんとされる。

 その純粋な反応に、古城は自分の感性が違うのかと疑いかけたが、やはりない。

 

「んー。あとちょっとなんだけど、もし疲れたんならそこらへんで休憩するか?」

 

「ぶほっ!?」

 

 思いっきり吹いた。

 いやこいつが日差しに弱い吸血鬼を歩かせたことを心配しているのだろう。だがその提案はない。思いっきり咳き込んだ古城を、労わるように背中を摩ってくれる後輩少年に一度、常識を教え込むべきかと悩むが、今はここから離れることを優先する。間違っても、この中のひとつに入るわけにはいかないのだ。

 

「大丈夫か? やっぱり日陰のあるとこで休んだ方が良いか暁先輩」

 

「いや、大丈夫だ。問題ない。それより先を急ごう。あとちょっとなんだろ?」

 

 そして、この堂々と道の真ん中を歩く転校生の後を、人目を避けるように道端を歩いて後を追うと決めた古城は、そこでがしっと腕を掴まれた。

 

「おいいきなり何を」

 

「ここからは手を繋いで歩くぞ」

 

「ま、待て、本当にもう大丈夫だから! つか、こんなところで手を繋いで歩くなんて誤解されるぞ!?」

 

 引き離そうとするが細身の体に似合わず力が強く、吸血鬼の古城が全力で抵抗しても振り払えない。

 

「誤解? よくわからんがそう、暴れるな暁先輩。意外とデリケートなんだぞ」

 

「繊細な野郎はこんな真似しない! いいから手を離してくれ!」

 

 狼狽する古城だが、その焦りは相手に伝わってくれない。手も軽く握ってるようにしか見えないのに、がっちりと噛みつき亀のように離れない。

 やはり早めにこいつに一般常識を説くべきだったか。

 

「でもなー、ユッキーの血を吸っちゃったんだろ?」

 

 だから、男の子(オレ)の血を吸っても変わらないだろう―――と言いたいのかこいつは!

 わかってない。吸血衝動になるのは性欲だ。つまり欲望が刺激される展開でなければ発生しないもの。だから、いかな手段を駆使しようが同性(おとこ)に興奮するものか!

 

「いやいや!? 確かに姫柊の血を吸ったけど、あれはいろいろと訳があってだな……!?」

 

「ん、ちゃんとわかってる。ユッキーからも言われたし……ただ、紗矢お姉ちゃんから問答無用で<第四真祖>を去勢(ちょっきん)しなさい、って言われたけど……」

 

「っ!?!?」

 

 その発言にこれまでにない寒気が古城を襲った。

 

 ホテル街。

 男二人。

 そして、去勢。

 

 古城に撃たれた三つの言霊(キーワード)

 

 そこから推理される展開はなんだ?

 これはいったいどうなってるんだ!?

 このままこいつについていったら俺は何をされるんだ!?!?

 

 古城は悔やんだ。自分が未だに霧化のできない未熟な吸血鬼であることを。

 

「うおおおお―――っ!!」

 

 もうなりふり構わず。

 たとえ切除された部位が吸血鬼の再生能力で回復しようが、男として精神的ダメージまで癒えてくれないのだ。確実にトラウマになる。

 古城は殲教師に食らわせた、雷光の獅子の力を限定顕現させた雷球をぶつけようとして―――そこで意識が途切れた。

 

 

獅子王機関絃神島出張所

 

 

 それはホテル街の中にエアポケットのように存在する、煉瓦造りの小さなビル。

 年代物のステンドグラスが嵌め込まれた窓。色褪せた古い看板が扉の上にある。どこか時代の流れに取り残された感のある、骨董店(アンティークショップ)

 

「悪いなー。ここ人払いの結界が張ってあって、すごく強い魔族が近くで暴れちゃったりすると結界が壊れちゃうかもしれないのだ。オレも最初に来た時にやっちゃったけど、デリケートな結界なんだぞー」

 

 なので、手を握って誘導しようとしたのだが、いきなり錯乱してしまったので昏倒させてもらった。

 

「そうか……いや、そうだよな……本当に、よかった」

 

 目覚めたら、古城ちゃん、になっていた展開ではなく、古城は胸を撫で下ろして、ぐったりと脱力してしまう。去勢云々の話も別にする気はないと安心するために言うつもりだったらしい。なんでも男性恐怖症の先輩が過敏に反応して大変なんだそうだ。それで雪菜本人から合意の上だったと聞いているけど、一応、彼女たちの保護者的な師家様に古城からも確認するために話がしたかったという。

 なんだか勝手な妄想で狼狽えていた自分が死ぬほど恥ずかしい。こういうのを自意識過剰だというのか。

 

「なんか、オレの説明が悪かったみたいなのだ。結構、言葉足らずだとか注意されるんだけど、ごめんだぞ暁先輩」

 

「別に気にするな。勝手に誤解したこっちも悪い……それで、ここは骨董店、だよな?」

 

 店構えをざっと見る限り、差し障りなく例えれば年代物の輸入家具を扱うアンティークショップ、遠慮なくぶっちゃけると流行らない雑貨店といったところか。

 けれど転校生はあっけからんと、

 

「そうだな。骨董店兼獅子王機関の出張所なのだ」

 

「獅子王機関の出張所……?」

 

「う。職員同士で連絡とか補給とかをする事務所だ」

 

 事務所か。国の機関なんだから、それくらいあってもおかしくない。

 

「でも、なんで骨董屋の看板が出てるんだ?」

 

「それは世を忍ぶ仮の姿だぞ。秘密結社なのだ」

 

 そういうと犯罪者組織っぽく聞こえるので、普通に特務機関と訂正した方が良いだろう。

 けれど、そのたとえは古城にはわかりやすかった。たしかに、『対魔導テロの謀略工作やってます』なんて堂々と宣伝しないだろう。拠点なのに目立つことをしてしまえば、テロ組織で真っ先に狙われる。それに骨董屋という名目なら、槍とか剣とかぶら下げた連中が出入りしても、それほど怪しまれることはない。

 

「身分を隠すための表向きの職場ってことか」

 

「あ、でも、ちゃんと骨董屋もやってるんだぞ。お代官様から差し押さえたお宝を、きちんとお祓いしたのを店に出してるのだ」

 

 現代にお代官様などいないが、まあいい。

 しかし骨董店として営業していても、普通の客筋を相手にしているわけでもなさそうだが。この『魔族特区』でどんな客層を狙っているのか。というか、ホテル街にぽつんとある立地条件は、この手の商売には相当不利だろう。

 

「もしかして、予算ないのか、お前らの組織って」

 

「むー、その辺オレはわかんない。でも、ここの売り上げが良かったらオレのご飯が豪華になる」

 

 ここがとても重要であるように真剣な表情をする後輩は、骨董店の扉に手をかける。木製の扉がギシギシと軋んで、古い建物に特有の埃っぽい空気が流れだしてくる。

 厳かなドアベルを耳にしながら、この清貧生活を送ってそうな転校生に何か援助すべきかと古城は思う。なんだかんだで、彼がこの絃神島へ来たのは監視役の増援であり、つまりは古城が原因なのだから。

 

「なあ、暁先輩。こういうのを蒐集するのを趣味にしてそうな、お得意様になってくれそうな人を知らないか?」

 

「そうだな……那月ちゃんとかが好きそうなんだけど」

 

「むぅ。那月先生、オレに『一国家攻魔館の先達として、なんちゃって攻魔師の貴様を指導してやる』って襲い掛かってくるしなー。何度もオレちゃんと試験に合格した、って言っても聞いてくれないのだ」

 

 そのあたりは相談に乗られても、古城にはどうしようもない。あの唯我独尊のカリスマ教師を諫めることなど誰にもできないだろうから。

 そこで、店の奥より声が聞こえてきた。

 

『―――なんちゃって攻魔師と呼ばれるのはしょうがあるまい。なにせ未熟者なんだからねぇ』

 

 気負いのない洒脱な口調。しかし触れ合う宝玉の響きに似た、艶やかに澄んだ声音。

 その声に気付いていた後輩は、よっと片手をあげ気軽に、

 

「縁お姉ちゃん、おかえりなのだ」

 

『まったく、人様の前では師家様と呼べと言いつけていただろうが、この馬鹿弟子が』

 

「むー、でも、ここオレの家だし。プライベートなのだ」

 

『口答えすんじゃない。ほれ、一回やり直しな』

 

 言われてすごすごと店の外に出てわざわざ扉を閉めてからリテイク。

 店に入り、片膝をついて首を垂れる。

 

「師家様、縁堂九郎義経、参上つかまつりました」

 

『よし。まあ、50点だけど、客人もいることだしこれで勘弁してあげようかね』

 

 ……さて。

 後輩が恭しく挨拶をするのは、ヒトではなく、黒猫。

 表情豊かで人間味のある、しゃべる黒猫である。

 古城が目を点にしていると、弟子を酷評していた黒猫はこちらに顔を向けて、

 

『ああ、一応、攻魔師協会の名誉のために言ってあげるけど、この馬鹿弟子は実力で試験に受かったよ。何やら企ててた『三聖』がいたけど、あたしが止めたからね』

 

「そ、そうか……って、お前、猫か?」

 

「この猫は使い魔だぞ。縁お姉――師家様は、高神の社にいるな」

 

 思わず零れた疑問に、くん、と鼻を鳴らして後輩が応えてくれる。

 

「高神の社って、関西か!? 本当(マジ)かよ……どんだけ離れてると思ってんだ……!?」

 

 絃神島から本州まで最短距離で300kmを超えてる。高神の社はそこからさらに数百kmは離れているはずだ。

 優れている魔術師であれば、物理的な距離などさほど問題にならないのだろうが、それにしても規格外だろう。

 

「師家様はすごいぞ暁先輩」

 

『別に大したことじゃない。馬鹿弟子もこれくらいできてもらわないと困るんだけど』

 

「人間得意不得意があるっていうのだ」

 

『ダメ。何せお前さんは他の弟子とは毛色が違うんだ、苦手のままにしておけないね。克服しな。―――ほれ、島に行く前にあたしが渡してやったもんを出しな』

 

 猫に指示される少年とシュールな光景だが、彼らはいたって真面目である。

 そして、後輩は肩にかけていたバットケースから、それを取り出す。

 

(やっぱり、姫柊みたいに槍とか持ってんのか)

 

 息を呑む古城。

 <第四真祖>の監視役をこなすために、剣巫の少女は秘奥兵器が渡された。

 であるなら、それに匹敵するような武器をこの少年は持っているのか。

 そして、増援の転校生がバットケースから抜き出したのは―――バット。

 

「は?」

 

 グリップエンドのところにお守りがついてる、バット。

 草野球とかで使われそうな、変哲もない木製バットである。それを颯爽と構えてみせる姿は、もはや野球少年としか見えない。

 

「……おい、縁堂、それなんだ?」

 

「『甲式葬無嵐罰土(ホームランバット)』なのだ。ちなみにまだ銘はないぞ」

 

 耳で聞いたらわからないがなんとなくそれっぽい難しい当て字を使ってそう―――でも、バットだ。名前もそのまんまバットだ。

 

 おい待て。

 『世界最強の吸血鬼』だとか自覚はないけど、俺はそんなバットで退治できると判断されているのか?

 姫柊が槍を見せたときは心胆冷める思いがしたが、何だろうこのやるせない気持ちは。

 

 凄まじく微妙な気分に落ち込む<第四真祖>に、師家様から説明が入る。

 なんでもこれはわざわざ弟子のために、『高神の社』にある御神木を基とし、(六刃神官にいつの間にか採取されていた)弟子自身の乳歯(きば)や爪やらを使って、太史局に属する古い馴染みに造らせた武神具だという。

 

 その力は、呪力適応変形機構。

 

 式神は、術者の呪力の質で形が決まっている。

 たとえばとある剣巫のは雌狼で、とある六刃神官のは黒豹であったりする。

 それと同じようにこの武神具(バット)も所有者の呪力によって形状を変えるのだそうだ。

 

『まあ、式神の呪力操作と武器の扱いがてんでダメな馬鹿弟子用の練習道具として造らせてみたけど、変身能力と組み合わせれば面白いものになるよ』

 

 と。

 いったん店の外に出て後輩がバットを構えたり、振るったりしてみせたりで鍛錬の進捗具合を見ながら、黒猫はそう締める。

 

「―――かっきーんっ!」

 

 ……でも、だめだ。

 普通に素振りをしてるようにしか見えない。これは古城が素人だからだろうか。

 

 獅子王機関というのがここに来てよりわからなくなった。

 

 そうして、師家様の軽い指導が終わったクロウは茶を飲みながら店の中で涼んでいる古城に話しかけ、ようやく本題へ入る。

 

「なんか待たせてごめん。いろいろと無理を聞いてもらったし、オレに言いたいことがあるなら遠慮なく言ってくれ。何でもはできる自信はないけど、できるだけがんばるから」

 

 そう。

 古城はどうしてもこの亜人の転校生と話し合いを設けなければならなかった。

 それは、あまり言い難いが、はっきりと最初に言っておかなければならない。

 

 

「凪沙には、できる限り近づかないようにしてくれ」

 

 

「……ん。わかった」

 

 古城が警戒――というより心配――していたのは、妹凪沙のこと。

 

理由(わけ)は、訊かないのか?」

 

「いやいい。言いたくないことは言わなくていいぞ。……それに、暁がオレのことをあんまりよくないというのはわかっているからな。……今も心配されてるみたいだし」

 

「あー、いや、お前のせいじゃないんだ。なんつうか、凪沙は魔族恐怖症でな。それでどうしても……」

 

「? でも、暁先輩は、吸血鬼じゃないのか?」

 

「そうなんだが。それも内緒にしてくれないか。まだ、凪沙にはバレてないんだ」

 

「わかった。オレも怖がらせるようなことはしたくない」

 

「悪いな」

 

 とりあえず、これで一安心か。

 今後のトラブルを避けるためにもこの話し合いは有意義だったろう。それに、今日一日付き合ってみて、この少年はどこか抜けてるところがあるが、純朴でいい奴だと古城はよくわかった。監視役の増援が来ると聞いて不安だったが、獅子王機関とかは別にして信用できる人物だ。そう思えた。

 

「あー……それと、なんだ」

 

 ぽりぽりと頬をかく古城に、小首を傾げてクロウが促す。

 

「どうした暁先輩?」

 

「それだ。お前とは長い付き合いになりそうだからな、今後俺のことは下の名前で呼んでくれ。暁じゃ、凪沙と被っちまうからな」

 

 バスケ部をやめてから、久方ぶりの先輩面をしてなんとなく気恥ずかしくなってしまう古城だが、この少年とは気兼ねない付き合いがしたいのだ。同じ監視役の雪菜とは違って、同じ男子だし、こっちのほうが気楽でいい。

 

「うんっ、古城先輩。オレのこともクロウと呼んでくれ。縁堂じゃ、師家様と被っちまうからな」

 

「ああ、わかったクロウ」

 

 その同じ言い回しに、先輩後輩は見合わせて笑ってしまう。

 

『なるほど……あの堅物の雪菜を手懐けるからどんな奴かと思ってみれば。腑抜けた面構えのクセに中々の誑しじゃないか。ふふん……』

 

 そんな親睦を深めるさまを見つめる黒猫。

 長距離で遠隔操作だけでなく、この式神を通してでもこちらの骨の髄まで見通すようなその眼力。心の奥底まで見通す、ではない、こちらの力量から性格まで一目で見抜く、達人の目利きだ。

 

『<第四真祖>の坊や。この馬鹿弟子は頼りにしてもいいよ。何せ、あたしの後継だからね。能力も用心棒(ガード)にはうってつけだ』

 

「う、師家後継なのだ」

 

 ふんす、と胸を張るクロウ。その肩にぴょんと乗った黒猫が肉球の手のひらをクロウの横顔に当てる。

 

『師家を名乗らせるにはまだまだ未熟者だけどね。体技以外がてんでダメな脳筋だよ、ったく。弟子の中で最も手のかかる問題児だ。

 ―――まあ、弟子の中で単純な強さでは一番とも言える逸材なんだけどねぇ』

 

「姫柊よりもか?」

 

 驚く古城。

 あの殲滅師相手に互角に渡り合った剣巫の少女の姿はまだ記憶に新しく、鮮明に今の思い出すことができるくらいだ。

 

『<第四真祖>でも今のお前さんがガチでやり合ったら、殺されちまうだろうね』

 

 不完全なれど『世界最強』を冠する存在を殺せる存在……その師家様の評に、息を呑む。

 そうだ。バットが武器だとか見せられて気が抜けてしまったが、つい先ほど古城をあっさりを意識を落として見せたのだ。それも一体何をしたのかわからない、いや攻撃されたことも気づかせないほどの早業で。それから、あの唯我独尊のカリスマ教師――<空隙の魔女>と呼ばれるこの絃神島で五指に入る実力者の南宮那月と逃亡戦を繰り広げて逃げ切っているのだ。それだけで実力のほどがうかがえる。

 

「……なるほど、普段の姿は昼行燈ってやつなのか」

 

『それは違う。この馬鹿弟子が馬鹿なのは素だよ<第四真祖>の坊や』

 

 恐れ入る感じに零した呟きを、あっさりと否定され、またがっくりと来てしまう古城。

 とにもかくにも、信頼できる相手であるのは変わらないのだ。

 

 後輩は、そこに長年積み重ねてきた信念を篭めるように力強く拳を握ってみせ。

 

「オレは、神々の兵器なんていうものを今の時代からなくすために強くなってきたのだ。じゃないと、白奈がいつまでも『闇白奈』だからな」

 

 ……古城に、その『闇白奈』という人物は知らないが、それでもこの少年の胸の中心にいる相手なのが分かる。

 なんて言えばいいのか……譬えるのが恥ずかしくなるが、古城も見入るほどに、重みのある(おとこ)の目をしていた。

 

『その結果、物理で殴って神々の兵器を壊せるようになった大バカ者だから、どうしようもない』

 

 呆れたように言う黒猫。

 しかし、攻撃はシンプルに力強くが実戦的。基礎力が極まったものの典型で、基本の型が必殺技と呼べるレベルに達している。

 姫柊雪菜が、真祖殺しの武神具を持っているのなら、真祖を物理で叩きのめすだけの力がある。

 そこのバットはおまけみたいなもので、その存在そのものが一個の武器なのだ。

 

 

 

 して、二者面談が終わり、駅まで案内されて、そこで待っていた雪菜と監視役を交代し、古城は自宅へ帰った。

 

 

 

 

 

 が。

 その翌日。

 なんだか妙に余所余所しくなった妹とは別行動で登校した古城は、

 

「古城、あんたそういう趣味だったの……?」

 

 彩海学園にて、今にも泣きそうなクラスメイトの浅葱に重大な話を聞かされた。

 

「お、おい、どうした浅葱? 様子が変だぞ?」

 

「どうした、って、こっちの台詞よ古城!」

 

 戸惑う古城に、浅葱は言う。

 昨日、“古城が”呼び出した後輩の少年と、二人、ホテル街へ向かうのを付けていったものがいる。ホテル街で手を繋ぎ、そして、抱き着いた(昏倒してもたれかかった)のを目撃し、あまりのことに胸の内に抱えられなくなってその場を後にし、自宅に帰るとすぐ一つ年上の幼馴染へ支離滅裂になりながらも相談した―――その人物は、

 

「凪沙ちゃんから全部聞いたわ」

 

「は、凪沙から??」

 

 自身が魔族恐怖症と知る兄が亜人君を呼び出したことを知った暁凪沙は、心配になった。古城君が危ないことをするんじゃないのかと。しかし、ついて行ってみれば別に意味で心配事ができてしまった。違う意味でアブない道を進んでいってしまった兄の姿を見てしまった。

 ああ、だから、昨日帰ってから凪沙に腫物のように避けられていたのか……と浅葱から話を聞いた古城は思わず遠い目になってしまった。そのうつろな瞳からは、ツー、と涙が伝う。しかし、このまま涅槃に旅立ってなどいられない。事態は最悪だ。即急に対処しないと、とんでもない尾鰭の付いた風評がつきそうだ。

 古城は何だかもう泣いてる浅葱の肩を掴んで、必死の形相で訴えた。

 

「………それで古城が、凪沙ちゃんが家についてから2時間くらいあとに帰ってきたっていうから」

 

「誤解だ浅葱! ちょっといろいろと話し合いたいことがあって、俺とクロウは何にもないから!」

 

「下の名で呼んでる! 昨日の今日でこれって、あんたやっぱり……!?」

 

 誤解が加速してしまった。もうこれは一度頭を冷やさない限り何を言ってもダメだろう。

 どうすればいいんだ、と頭を抱える古城。ここで誤解を解消せず泣き崩れてしまった浅葱を放置することもできないが、一刻も早く妹の凪沙と家族会議がしたい。今頃教室で亜人君と顔を合わせてるだろう凪沙がどうなっているのか気が気でないのだ。

 

『―――縁堂君! 古城君を変な道に誘わないで!』

 

『ん? よくわからないけど、暁。昨日、(話し合いに)誘ったのは古城先輩からだぞ?』

 

『……え?』

 

『そうだろ、ユッキー?』

 

『ええまあ、昨日は先輩から私を除いてクロウ君と二人きりで(話し合いを)したいと誘ってきましたね』

 

『ほ、本当なの、雪菜ちゃん……そんな、ことって……古城君、雪菜ちゃんじゃなくて縁堂君を―――』

 

 というやりとりがあったそうで、妹はHR前に卒倒してしまったそうだ。

 

 そして、それを後で事情を聴いた古城は卒倒した。

 

 昨日あんな頼み事したが、後輩を家に誘って、妹と同じ卓を囲み、三者面談を行い、古城はどうにか誤解を解いて、それから何だか亜人君に対する妹にあった隔意が薄れてくれた。雨降って地が固まるとやらというか、それとも苦手意識を払拭するほどに強烈なものだったのか。

 だが、学校内に広まってしまった『男子後輩をホテル街へ誘い、妹を泣かせた兄』という涙が禁じ得ない疑惑(レッテル)は75日間剥がれることはなかった。

 もう二度と後輩の住む拠点へお宅訪問はしないと古城は誓った。

 

 

 

つづく



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高神の社ルートⅣ

港湾地区 倉庫街

 

 

「糞っ、糞っ、糞っ、糞っ……やってくれたな人間ども! 許さんぞ、必ずや後悔させてやる!」

 

 完全武装の特区警備隊強襲班に拠点を制圧され、ひとり逃げる獣人。彼はテロリスト。“少佐”より使命を受け、この魔族特区に先行していたが、その企ても暴かれてしまった。これで捕まれば、面目の立ちようがない。

 しかし、こうなることも予期して、この拠点のある港湾地区には爆弾を仕掛けている。筋書きにはない路線だが、これを使って盛大な花火を地上で炸裂させてやれば、我らの計画の狼煙となりえるかもしれない。魔族の地位を貶めた呪わしき僭王への反逆の狼煙へと―――

 

「見っけ」

 

 ただしそれはこの緋衣の少年に仕掛けた爆弾を回収されてこうして先回りされていなければの話。

 信管を潰された爆弾を狩った獲物のように持った彼に、最初は呆然としたテロリストであったがすぐさま身構えた。

 

「貴様、何者だ……!」

 

「オレは、縁堂クロウ。獅子王機関の、んー、っと、攻魔士資格(Cカード)はあるけど剣巫でも舞威媛でもないし……う、師家見習いといったところだな」

 

 獣化した豹頭のテロリストの前に立ちはだかる小柄な少年は、血走った目を向けられ手も落ち着いていた。恐怖の感情が一切窺われない。魔族特区で馴れているのだとしても、好戦的な魔族を前にしてその態度はあまりに不可解だ。

 そして、一息をついてから、それを構える。

 木の棒。

 どこかで見たことがあるような……そう人間どもの遊戯(スポーツ)などで用いてる……そう、バットという道具だ。

 

 なんだ、こいつは……? あんな玩具(バット)獣人(おれ)を相手取ろうっていうのか? 舐めやがって……!

 獣化で肥大しているのもあるが両者の体格差は大人と子供。こちらが190cmは超えているのに対し、向こうは150か160cmくらいの背丈だ。さらに言えば獣人は、筋肉量も見た目相応以上に詰まっている。量だけでなく質でも圧倒的。あんなちっこい小僧がバットで叩きつけたところで小動(こゆるぎ)もしない自信がテロリストにはある。

 なのに、鋭い爪も牙もない小童は、

 

「手加減はちょっと苦手だが、安心しろ。お前には武器(こいつ)を使ってやる」

 

 ヒィウン、ヒィウン、と風を切る音。その棒切れを、手慰みに回してる音。軽い素振りは、本気でこれで相手すると態度で示す。挑発も同然。コケにされたと思った獣人の堪忍袋は決壊した。

 あの少年は直ちに殺す。

 この獣人の腕力で頼みのバットをあっさりとへし折ってやってから、泣き喚いたところを無慈悲に縊り殺す!

 

()けろ、『甲式葬無嵐罰土(ホームランバット)』」

 

 人の目にも止まらぬ速さで振るわれる豹爪の一撃は、その木端な得物(バット)ごと刺し穿たんとする直前の出来事だった。

 力を注ぎ込まれた武神具が、大いなる獣の爪牙の如き大太刀に化ける。まるで、武器そのものが獣化したかのように―――

 

 豹頭の獣人の全体重を乗せた一突きが、刀身の腹に受け止められた。ぐしゃあ、と鋭利な爪が砕け、五指が突き指。あらぬ方向に曲がる。

 

 そして、こちらの攻撃を受け止めて、小動もしない。見掛け倒しの真逆、見掛けを裏切る強靭さを備えているのだ。

 この時になって、テロリストはこれが人の皮を被った怪物だと悟ったが、時すでに遅し。

 

「―――かっきーんっ!」

 

 勢いを殺したところで容赦なく顔面に迫る、大太刀。刃ではなく峰を向けて振るわれているが、即死できないことが逆に無慈悲なその一撃を、果たして獣人の男には視認することができたか。

 ゴッッッ!!!!!! と。

 鼻っ柱が潰れた豹人の身柄が、真夏の月を掲げる夜空へとホームランアーチを描いた。

 

 

「ん。一丁上がりだぞ」

 

 縁堂クロウは、この絃神島に派遣された剣巫の補佐するのがお仕事。監視役が楽できるようにと事件性があると判断すれば、それを取り除く。庭師のような役割である。

 <第四真祖>という世界を滅ぼしかねない爆弾――もうすでに倉庫街を眷獣の暴走で壊滅させて被害総額500億円の前科持ち――を爆発させないようにする。そのために周りに余計な刺激を与えそうな危険物を率先して排除することで、姫柊雪菜が監視に専念できるようにするのだ。

 そんなわけで、クロウはテロリストを捕縛し、それを警備隊に送り届けようと―――したその時、どこからともなく銀色の鎖が伸びてきた。こちらの四肢を縛りあげようと絡み付いてくるそれを、咄嗟に掴まえていた豹の獣人を身代わりにして跳び退るクロウ。

 

「ちっ、<戒めの鎖(レーシング)>を避けるな馬鹿犬」

 

「むむ、やっぱ今のオレを狙ってたのか!?」

 

 舌打ちをしたのは、ビル屋上の給水塔に立つ見かけ幼い女性。この魔族特区を任せられている国家攻魔官である。

 相手にするのはマズいと重々に承知するクロウはすぐさま弁明を試みた。

 

「オレ、ちゃんと資格(カード)持ってるし、今回は特区警備隊にも話はつけてあるはずだぞ!」

 

「知らないのか。学生の夜遊びは処罰の対象だ」

 

 しかし残念ながら初対面で“獲物を横取りした無礼な商売敵”と印象付けられており、欧州の魔族を震え上がらせる<空隙の魔女>南宮那月にクロウは何かと目をつけられていた。

 

 

洋上の墓場

 

 

 常夏の人工島――魔族特区・絃神島に、欧州の真祖<忘却の戦王>の使者ディミトリエ=ヴァトラーが来訪。

 聖域条約に基づく、正式な『戦王領域』からの外交大使である。

 アルデアル公は早速、パーティを開催することを宣言。絃神港に停泊させたクルーズ船で、世界最強の吸血鬼とされる<第四真祖>を招いての大々的な催しである。

 

 それで、日本政府が、魔導テロ対策を担当する特務機関・獅子王機関に要請し、派遣されたディミトリエ=ヴァトラーの監視者は、煌坂紗矢華。『六式重装降魔弓(デア・フライシュッツ)』の所有を許された舞威媛。

 当然、監視対象(ヴァトラー)が主催する――天使のように可愛い後輩(ゆきな)に不埒な真似をしているに違いない変態真祖も誘われた――パーティに煌坂は出席する。

 

 ただ、欧州のパーティは、パートナーを同伴するのが常識だ。

 ので、矢文を届けた後で煌坂紗矢華は、自分よりも先にこの魔族特区に派遣されているもうひとりの後輩(クロウ)を頼ることにした。

 

「………そういうわけで、クロウ。私と一緒に出てくれるかしら」

 

「ん。いいぞ、紗矢お姉ちゃん」

 

 こちらの依頼に二つ返事で頷いてくれたクロウ。これに少しホッとする。もし彼が断わるのなら、多少浮くことになろうが独りでパーティに出席しただろう。

 

「ありがと、助かったわ」

 

 煌坂紗矢華は男性が苦手というか嫌悪しているが、全寮制の女子校である『高神の社』に特例として通っていた男子は、女子にいやらしい目線は向けたことは一切なく、そういう衝動的な獣欲に過敏な煌坂が触れても平気なくらいに邪念がない。それにルームメイトによる英才教育(知識の大部分は少女漫画で補填)で、女性に紳士である。『高神の社』でお姉様たちに人気な、ワンコ系後輩男子なのだ。

 紗矢華も最初は敬遠していたのだが、ルームメイトに紹介されて、師家のしごきに共に付き合っていくうちに、例外的な存在となった。

 

「そういえば、クロウ。唯里が心配してたわよ。ちゃんとここでうまくやれてるかって」

 

「ユッキーのサポートしてるぞちゃんとオレ。勉強も……頑張ってるのだ」

 

 あ、目を逸らした。

 雪菜と違って、この後輩はおつむの方があまり優等生とは言えない。国家資格試験の際には、ルームメイト全員で家庭教師をしたおかげでどうにか記述面でギリギリ合格点に達することができたのだが、それでも獅子王機関の攻魔師としては高校卒業程度の学力は最低限欲しいところ。中等部の授業でつまずいているようでは心配になる。

 あとで、勉学の進捗具合をテストしてやるとして、

 

「何か、国家攻魔官に追い回されてるみたいじゃない」

 

「うー……それはそうなんだけど。でも、悪いことはやってないぞ! 昨日のも夜遊びじゃなくお仕事だし、ゲームセンターとかにも行ってない。唯お姉ちゃんの心配するような不良になってないのだ!」

 

「はあ。とにかく、何か問題があったら師家様に相談しなさい。それと唯里との連絡は欠かさないようにね。この前、『監視役の補佐の補佐に!』って獅子王機関執行部に志願しようとして斐川志緒に止められてたし。そんな事が許されるのなら、私だって、監視役(ゆきな)の補佐につきたいわよ」

 

 そんなこんなで、監視役の補佐についているクロウから、監視役の雪菜のことを訊きながら(あるいは変態真祖への呪詛じみた愚痴を漏らしながら)、クルーズ船<洋上の墓場(オシアナス・グレイヴ)>へ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「……なあ、紗矢お姉ちゃん」

 

「なにクロウ」

 

 クロウに応じながらも、目線はそちらに向けないように顔を背けている紗矢華。

 チャイナドレス風の衣装に身を包んだ煌坂に合わせて、クロウの服装は漢服……それにプラスして、首輪とリード。

 

「紗矢お姉ちゃん、周りを見てみてだけど、コレなんかおかしい気がする」

 

 言わ(ツッコま)ないで。わかってるから。でも、これは上司命令で逆らえないの。

 

 本人(クロウ)から許可は取れたのだが、一体どこからその話を聞き付けたのか、急遽『三聖』から注文が付けられた。

 しっかりと獅子王機関が幉を握っているのだとアピールするためにパーティへはリード付きで同伴させなさい、と。

 決して、一緒にパーティに同席して、煌坂紗矢華が恋人や夫婦(パートナー)などと勘違いされるのが個人的に気に食わないからではなくて。

 あくまでも<蛇遣い>がほぼ確実にちょっかいを出してくるであろう<黒死皇>の血を引く<犬夜叉>の所属を対外的に喧伝するための配慮である。

 などと説明がなされてしまえば、舞威媛は頷くしかなかった。

 

「うーん、そういえば、夜遊びするなって鎖を巻き付けられそうになったし……魔族特区の中学生はこうやってお縄(リード)をつけてないとダメだったりするのか?」

 

 何か首を捻りながら頓珍漢な方向に行き着いてしまいそうになっている後輩だが、そんな条例あるはずがない。でも、紗矢華は止めなかった。『ならなんでリードつけるんだ?』と質問される展開が霊視持ちでなくても予想できたし、そしてそれに対する穏当な返答を持ち合わせていない。勝手に納得してくれるんなら、もうそれでいいやと投げやりに考えるのを放棄した。

 

 まあ、これはこれで紗矢華にとって利点はある。

 パートナーの少年にリードをつけて連れ回す奇異な振る舞いは、男除けとなってくれている。男性以外にも避けられてる気がしなくもないが、まあいい。そこは目を瞑る。

 ……ただ、雪菜には見られた時のことを思うと頭が痛くなるけど。

 

「そこは用心しないといけないわね」

 

「紗矢お姉ちゃん」

 

「クロウ、雪菜が近づいて来たらすぐに報せてちょうだい。いいわね」

 

「う。そうか、じゃあちょうどよかった」

 

「え?」

 

「あっちにいるぞ」

 

 とクロウが指をさした方向。そちらへ首を傾ければ、視界に天使―――いや、いつもと違う装いに身を包んでお洒落した雪菜がいて、紗矢華は一瞬で目を奪われた。

 

 ああ、なんて可愛らしいの雪菜! 元気そうで良かった! パーティドレスもとてもよく似合ってるわ! オーダーメイドで発注する際に、事細かに注文を付けておいてよかった! それに私がプレゼントしたヘアクリップもつけてくれて嬉しいわ!

 

 内心――若干(おもて)に出てしまってるが――歓喜する紗矢華であったが、すぐ雪菜が顔を引くつかせていることに気付いた。

 

「紗矢華さん、クロウ君にリードなんてつけて何を……」

 

 あ―――そういえば、クロウのリードを握ったままだった。

 誤解しないで雪菜! これは違うの! これには私にはどうしようもない深い理由があって! と弁明しようとした紗矢華であったが、それよりもはやくクロウが答えた。

 一本指を立てて、至極真面目な顔で、

 

「ユッキー、魔族特区の中学生は夜遊びするときはこうしてお縄につかないとならないんだぞ」

 

「え、え? そうなん、ですか?」

 

 雪菜は目を丸くした。

 この魔族特区に来てまだ日も浅く、女子校の箱入り育ちで世間知らずなところのある少女は、同級生の話にすぐに否とは言えなかった。

 

「だから、ユッキーも高校生の古城君にお縄についてもらうのだ」

 

「ええええっ!!?」

 

「んな条例(ルール)があるわけねーだろ。あんた、クロウに一体何おかしなこと吹き込んでんだよ」

 

 そこで雪菜の隣で、半眼でこちらを見ていた<第四真祖>――暁古城が指摘した。これに紗矢華はキッと睨み、

 

「違うわよ! あなたと一緒にしないで変態真祖!」

 

「はあ!? 誰が変態だ!? いきなり失礼だなおい!」

 

「雪菜だけでなく、クロウにまで手を出してるって聴いてるんだから! 見境なしに下劣な性欲を剥き出しにするなんて、ド変態真祖じゃない!」

 

「ちょ、待て! 姫柊はとにかく男子(クロウ)にまで興奮したりはしねーよ!」

 

「雪菜にはとにかく、って! つまり雪菜に不埒な目を向けたのね! 滅びなさいよ変態!」

 

 して、激昂しながら睨み合う紗矢華と古城の先輩組へ、雪菜とクロウの後輩組が割って入り、その場を収めた。

 しかし、その後、暁古城はディミトリエ=ヴァトラーより熱烈に愛を囁かれることになりしかもここは各界の著名人が集うパーティ会場。この公の場での舞威媛との言い争いから噂話が立ってしまったのか、『<第四真祖>には、男色の気がある』と対外的にアピールする結果となった。

 

 

 

つづく



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高神の社ルートⅤ

 ―――<ナラクヴェーラ>

 それが『黒死皇派(テロリスト)』が持ち込んだ、遥か昔に、数多の文明を滅ぼした神々の兵器。

 機動すれば、魔族特区に壊滅的なダメージを与えうるかもしれない脅威。

 この唯一制御コマンドを解読できた<電子の女帝>は、その石板に触れる機会がなかった。

 彩海学園へ襲撃を仕掛けたクリストフ=ガルドシュたちは、藍羽浅葱を誘拐しようとしたが、獅子王機関から派遣された<犬夜叉>がこれを撃退したからだ。

 そして追い詰められたテロリストは、起動コマンドしか解析できていない、制御不能の古代兵器を動かした―――

 

 だが、

 

 

「“停止の言葉(コマンド)”なんて、いらない。―――オレがいる」

 

 

 『黒死皇派(ガルドシュ)』は見る。『獣王』の力を

 <蛇遣い(ヴァトラー)>は見る。『百王』の力を。

 <第四真祖(こじょう)>は見る。この後続機(コウハイ)の力を。

 

 

「―――オレは、殺神兵器を終わらせる殺神兵器だ」

 

 

獅子王機関絃神島出張所

 

 

 世界最強の吸血鬼<第四真祖>―――

 の監視役に送り込まれた獅子王機関の剣巫―――

 の補佐として派遣された縁堂クロウ。

 

 剣巫・姫柊雪菜は、監視対象である暁古城の隣室に拠点を敷いているのだが、その補佐役のクロウは、出張所である骨董店で寝泊まりしている。

 一応、経営はしているのだが、人払いの結界を敷いているということもあって余人が寄り付かない――あと周りは歓楽(ホテル)街――この立地条件最低な店に、売り上げなど期待できようもない。辺鄙なところにもアンティークを買いに来る物好きな好事家がそうそういるわけがないのだから。対テロ国防組織の隠れ家のひとつであるので、あまり人が来ないのはむしろ都合が良くて、骨董店の方はあくまでもオマケだ。期待はできないし、する必要もない。縁堂クロウは、ちゃんと資格を持った攻魔師として働いているのだから―――

 

 

『―――では、今月の査定を行います』

 

 

 師家に躾けられたピシッとした正座をする少年の前に、ちょこんと置かれたきつねのぬいぐるみ。“キューちゃん”とその持ち主が呼んでいるそれは依代、遠隔通信を繋げるための式神である。そして、繋がっている先の相手は、組織のトップ。

 同棲している師家から預かってる使い魔の猫すら交えぬ対談。

 これから行われるのは、トップダウンで言い渡される任務(しごと)命令(はなし)ではないが、クロウにとっては、死活問題とも言えるくらいに大変重要なお話である。

 

「う。来月のお小遣いがこれで決まるんだな」

 

 そう、給料(おかね)の話。

 それで縁堂クロウは『三聖』から直々に振り込まれるという方式であったりする。

 

(いっぱいもらえるといいなー)

 

 クロウは人間社会、何かとお金が入りようなのを学んでいる。

 森では獲物を狩る術があれば十分だったが、ここでは資金がないと腹を満たすこともままならないのだ。

 早い話が、大食漢であるクロウは、よく働くがその分だけよく食うのだ。今月はたくさん働いた。だからたくさん食べたいというのは間違っていないはずだとクロウは思う。

 もう早速、お給金の使い道を決めているのもあったりする。

 クラスメイトの暁凪沙より『黒死皇派(こんかい)』のお礼として、今度の休日にるる屋のアイスをご馳走してくれることになっているのだ。

 けれども、クロウの中で女性の手本にして基本となっている羽波唯里より、『女の子にお金を払わせるのは男児らしくない』と少女漫画を片手に示唆されている。全額負担で奢らされるのではなく、最低限半額くらいは自腹で支払うのがマナーだと認識している。クロウは洒落ではなく山ほどの食事が基本であるのだから、遠慮するのは当然の配慮だ。

 

 兎にも角にも、ボーナスで美味しい食べ物!

 冷たくて甘い、それに味の種類もたくさんのるる屋のアイス。これは是非とも全制覇したい!

 甘露な氷菓子に囲まれながら、それに舌鼓を打つ……そんな未来想像図をほわんほわんと思い描いて、楽しみに表情を綻ばせる。や、

 

『……縁堂九郎義経』

 

 ボソリと呼ばれる。それも普段は滅多に使われることのないフルネームで。

 おっとしまった。

 『三聖(しろな)』との面談中であった

 個人的には親しいとは思っているが、組織の役職では平のぺーぺーであるところのクロウに対し、向こうはトップスリー。ちゃんとした席を設けている場では、きちんと畏まるようにと師家の縁堂縁より言いつけられている。

 慌ててクロウが背筋を伸ばし、居住まいを正して静聴の姿勢を引き締め直すと、仕切り直すように空咳を打って、

 

『此度の任務、絃神島へ派遣して早々に『黒死皇派』なるテロリストの企てを鎮圧し、<第四真祖>と監視役の姫柊雪菜を補佐したこと、十二分の働きでした。

 ―――ただ、ひとつ問題のある査定があります」

 

「む。それは何なのだ?」

 

 クロウは少し首を捻って、今回の事件を思い返す、

 

 『この程度の棒振りで我らを倒そうとは甘いわ! <黒死皇>の血筋でありながら、武具に頼るのが間違いであったな、<犬夜叉>!』と学園を襲撃してきた『黒死皇派』の首謀者(リーダー)クリストフ=ガルドシュの猛烈な獣人拳法を捌き切れず、こちらの武神具である『甲式葬無嵐罰土』を手元から弾かれてしまい、背に庇う凪沙達に心配されてしまったが、

 

『問題ない。武器(どうぐ)を使うより、無手(ステゴロ)の方が強かったりする』

 

 古強者ガルドシュは中々に手強い相手であったが、これでも師家様より白兵戦術は免許皆伝を言い渡されている。一対一(タイマン)の殴り合いで苦戦を強いられたが、真っ向から捻じ伏せて圧倒した。とはいえ、最後は自爆を敢行する部下たちに邪魔をされて、逃がしてしまう。

 学園から逃げたガルドシュを追いかけるも、道中で<蛇遣い>に邪魔をされて、古代兵器<ナラクヴェーラ>の起動を許す。これを街に被害が出る前に、同じ組織の仲間である舞威媛と剣巫、そして特区警備隊を指揮する<空隙の魔女>と、それから魔族恐怖症の妹を怯えさせてくれてテロリストたちにカンカンな<第四真祖(おにいちゃん)>と協力して事態を収めた。

 以上が、ざっくりとまとめた今回の事件の顛末。

 被害こそ最小限に抑えようと努めたが、獅子王機関の監視対象である暁古城先輩を介入させてしまったのは大目玉だったか……と考察するクロウだったが、違った。

 

『好感度の査定です』

 

 好感度? と首を傾げる角度をより大きくするクロウ。

 しかし、ぬいぐるみの目が光り出して、そこからの視線の圧力が増したような錯覚に襲われた。

 条件反射的に体が仰け反ろうとしかけたが、クロウは腹の底に力を入れてそれを堪えた。

 よくわからないが、唯お姉ちゃんの言う“不良”はやっていないはず……と若干萎みがちながらもクロウは沙汰を待つ。

 

『獅子王機関の攻魔師であるのならば、品行方正であるように努めるべきです。異性関係にふしだらなのは以ての外。組織に恥ずべきものです。……そこで個人的な調査となりますが、絃神島におけるクロウ君に関する評価を探らせていただきました』

 

「大丈夫。オレ、女の子を泣かせるような真似はしてない」

 

『へぇ、そうですか……』

 

 あれ? なんか声が冷たい。

 胸を張るクロウに、狐のぬいぐるみは淡々と、

 

『手が早いんですね、クロウ君。ひと月も経たず、女子生徒と逢引きの約束を取り付けるなんて』

 

「うん? 逢引き、って?」

 

『“お散歩”のことです』

 

 “お散歩”、それはこのワンコ系男子を連れ回すことを指す高神の社の中での業界用語である。かつて百人組手をする際に、それに付き合う攻魔師候補生らを発奮させる材料として、『クロウ(この子)から一本取ったら近くの街を好きに連れ回しても構わないよ』と縁堂縁がそのような提示をした事から始まった。

 世間一般的には、“デート”とも言う。

 高神の社にて、“式神にしたい男子第一位”を密やかに確立している通り、縁堂クロウは女性からの人気が高い。しかしそれは総じてマスコット的なものだ。

 これまでの意識調査から、特に親しい四人――羽波唯里はとにかくとして――姫柊雪菜、煌坂紗矢華、斐川志緒はときめき度というよりも友好度が高い。警戒度は極めて小だ。当人の毒気のなさに加えて、普段身近にあり過ぎるせいでかえって男女の仲へは発展しないのだ。そして、それは他の訓練生達にも言える。

 決して、後ろで誰かが目を光らせているせいではなく。

 

「うー……でも、一緒に散歩するのは良いことなんだろ? 白奈も楽しそうだったし」

 

『ええ、そうですね。悪いものではありませんでした』

 

 未来の剣巫や舞威媛を相手に百人組手を達成し、宙ぶらりんとなった“お散歩権”が、巡り巡って何故か白奈が得ているが、それは“神の見えざる手”が働いたような“偶然”である。

 しかし、遠く離れた人工島では流石に影響力は薄い。そう、あの雌豹めいた太史局の六刃神官もこちらの預かり知らぬところで関係を深めていた。

 僅かな(フラグ)も立たせてはなるまい、とこれを深く反省し、新たなる中継式遠隔操作を編み出したという経緯があるがさておき。

 

『ですが、獅子王機関の一員であるのなら、付き合う人間は正しく見極めなくてはなりません。特にクロウ君は隙が多いですから、より厳しく目を光らせなければ』

 

「むぅ」

 

『クロウ君は、感性こそ鋭いのに、性格はぽけぽけしていますから。それに食べ物で釣れば簡単に誰にでも尻尾を振ってしまうのは問題があると思います』

 

「確かにオレおいしいものに弱いけど……凪沙ちゃんは悪い()じゃないぞ。すごくいい子なのだ!」

 

 下の名前でちゃん付け。……『暁凪沙』に★をひとつ増やしましょうか。

 実際探ってみたが、暁凪沙と、それにアスタルテなる人工生命体(ホムンクルス)の好感度が高い。

 学校に襲撃を仕掛けた黒死皇派(テロリスト)から庇ったのだ。またこういうところでポイントを稼ぐ。

 

『……まあ、いいでしょう』

 

 しかし、人命救助となれば責められない。

 その後の食事(デート)の約束はいただけないが……まあいい、この対処は大して問題にならない。後で、妹馬鹿(シスコン)だと報告に入っている<第四真祖>に匿名のタレコミが入ることになっている。

 それに、問題視されるのは、同学年の女子だけではなく……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『えー、っと、つまらないものですが、お納めくださいなのだー』

 

『お前は人につまらない物をやるのか』

 

『こういうのがお約束? 日本人のマナーじゃないのか? むぅ、難しい。オレにとってはコレ、あんまり面白いと思えるもんじゃないし―――む、じゃあ、つまらない物をやっているのか? 正直、ウルトラスペシャルDX大盛りミノタウロスチャーシューメンの方がすっごく興味がそそられるけど……那月先生もそっちの方が良かったりするのか?』

 

『結構だ』

 

『むむむ、引っ越しソバとか言う日本の風習があるんじゃないのか? それとも魔族特区では別の食べ物があるのか?』

 

『……はぁ、アスタルテからの頼みだから付き合ってやったが、この馬鹿、馬鹿は馬鹿でもタダの馬鹿ではないようだ』

 

『え? なんかオレって馬鹿だと思われてるのかっ!?』

 

『まあ、馬鹿とハサミは使いよう、こんな底抜けの馬鹿でも捨てたものではないと思おう。そうでもしないとやってられん』

 

『ううん? それって褒められてないような……?』

 

『なにを言っている? この私が、使いようがあると認めたのだから、十分に褒めているぞ』

 

『そうなのかぁ。なんか釈然としないのだ……』

 

『―――しかし、このような真似をしても私が貴様の勝手を認めてやるかどうかは別問題だぞ』

 

『う、そうだろうな。しょうがない。これくらいで納得できない承知の上なのだ。でもそのうち、何かの気まぐれであっさり気が変わってくれるかもしれない。だからその時まで、那月先生は、商売敵ってやつでいいんだと思うのだ』

 

『―――』

 

 端から認めてもらおう、と間違った意気込みはしない。

 縁堂クロウは、人に認められることの難しさを知っている。人間と外れ、魔族とも外れた混血、どうあって自分は周りと違うのだから。

 そうなると、あと望めることは、相手に我慢してもらうしかなくて。

 

『とりあえず、今はオレ、那月先生のお仕事の邪魔はしないようにするし、できる限りお手伝いもするのだ。役に立つんだろ、オレも?』

 

 この文句を受けた国家攻魔官は、一本を取られたようであまり面白くなさそうな――だけど、反論は出ないという表情を見せて。

 でも、パチンと扇子を閉じた音を立てると、目を細め、

 

『私の仕事は、お前のような馬鹿に人並の教養を頭に叩き込んでやることだ。―――岬から聞いているぞ? 転入最初のテストで、英語の赤点を取ったそうだな』

 

『ぬぬっ!?』

 

『喜べ、馬鹿犬。英語の科目担当である私が、特別補習授業をつけてやろう。暁と一緒になるだろうが一人も二人も変わらんし、何、貴様は中等部だが問題はあるまい? 獅子王機関は高等部くらいの内容は問題ないだけの学力を有しているはずだからな』

 

『待ってほしいのだ! オレ、ユッキーとは違ってそういう頭を使う方は―――』

 

 ………

 ……

 …

 

「………って、那月先生には、この骨董屋に並んでた茶器を、袖の下?にお納めしたのだ。ここの縄張りを陣取ってるっていうからなー。遅くなったけどきちんと改めて引っ越し先の挨拶回りに行ったんだぞ」

 

 魔王と恐れられた戦国武将・織田信長も茶器を愛用していたと授業で習って、早速それを実行したのである。以前に古城先輩より、南宮那月はアンティークを集めているという話は聞かされていたので、店の中でも一番古臭いと感じたものを贈ったのだ。

 一応、贈り物は受け取ってもらえた。

 『お前の手元にあるようじゃ、猫に小判、犬に論語もいいところだ』と言って、渋々だが。

 

 これにより、商売敵のスタンスは変わってはいないが、少しばかり態度が軟化している。自腹を切ってしまったが、これは獅子王機関と現地を仕切る国家攻魔官との関係改善のきっかけになると思えば安い買い物であろう。

 

『………じぇら』

 

「? じぇら?」

 

『ん、んんっ―――へぇ、プレゼント、したんですか』

 

 と自慢げに戦果を語ったクロウだが、どこかトゲトゲしいお言葉を頂く。

 狐のぬいぐるみは、愛くるしくデフォルメされたマスコットであるはずなのに、陰影がかかっているように見えるのは目の錯覚か。

 思わずごしごしと目を擦って見直すクロウへ、冷ややかに、

 

『見た目通りにお子様な女ですね。物くらいで態度を変えるなんて』

 

 今日の白奈なんか怖い!! こう、背後にめらめらっと揺らめかせる黒い炎が幻視できてしまう感じ。

 『なんかこのキツネ、白奈に似てるなー』とクロウが昔、師家・縁堂縁に同行しての出張からの土産にキツネのぬいぐるみを贈った時には、それを神棚に飾るくらいに上機嫌だった。だから、このプレゼント作戦は間違いないと思ったのに、思いっきり不評である。

 

『―――決まりました。査定の結果、今月分のお小遣い(しおくり)は、予定日より一ヶ月ほど延期にさせてもらいます』

 

「ええっ!?」

 

 正座しながら座布団から跳び上がるクロウ。これに対し、ホッキョクギツネに似たマスコットは冷ややかに、

 

『なにをそこまで慌てるんですクロウ君? 今月分がなくても食費を賄えるだけの貯えはあるはずでしょう? 遊んだりしなければ問題はないかと思いますが』

 

「そ、それは、だな。今はピンチで……」

 

『はい?』

 

 クロウは右手の人差し指と左手の人差し指をツンツンとしながら、懐事情を赤裸々に白状する。

 

「後で縁お姉ちゃんが教えてくれたけど那月先生に贈ったのオレのお給金の三ヶ月分くらいするものだったみたいでな。ほら、こういう大事なプレゼントはお給金の三ヶ月分がいいって、唯お姉ちゃんから教えてくれたし! で、でも、オレ、今ブタさん貯金箱の中身はすっからかんで、できれば至急欲しいなぁ、って」

 

『一ヶ月ではなく三ヶ月に延長しましょうか』

 

 姫柊雪菜(ユッキー)だって、<第四真祖>の監視役の任を受けるときには凄い大金を支給されている話だったのに。どうしてこんなに厳しいのだろうかとクロウは思った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 縁堂縁が拾ってきたのは、殺神兵器を終わらせるための殺神兵器。

 『三聖』としても、一族の宿願を果たすためにも、是非とも手中に収めておきたい駒。

 しかし、それは金銭や名誉で靡くような性質ではなく、それどころか万人を道具扱いにしてしまえる『闇白奈』の<神は女王を護り給う(テオクラティア)>で動かせぬ相手だった。

 それでも兵器として、最大限活用するには、制御するのが望ましい。

 

 ―――『(くらき)』は囁く

 ならば、“情”で縛れ、と。

 

 そんな思惑で接しようと近づいたのがハジマリだった。

 

 ………

 ………

 ………

 

(ごめんなさい……)

 

 消沈する彼を見て、つい感情的になってしまったとちくりと胸が痛む。

 殺神兵器(ナラクヴェーラ)を“破壊”したことを褒めようとしたのに。

 今のやりとりにまで『(くらき)』が口をはさんだりしないのに。

 うまくいかず、誰にも言い訳できず。

 彼のことになると思うように自制が効かなくなる、それこそ年頃の娘のように幼くなってしまうこの心性が、茨のようにいとわしい。

 

 それはそれとして、だ。

 

 最も頭を悩ませる問題。

 それは、暁凪沙や南宮那月のことではなく―――<第四真祖>の好感度が、かなり、高いこと。

 

 同姓で気軽に相談の出来る相手。補佐だけれど監視役(ゆきな)ほど怖くはないし、吸血鬼である裏の事情も知っている。暁古城には心許せる相手で、それだけに上昇が高い。特に暁凪沙(いもうと)を助けたのが好感触だったし、最近では同じ教室で補習を受けるようになったから仲間意識の連帯感が結びつきをより強くしている。

 それに今回送り込まれた舞威媛・煌坂紗矢華のツンツンな態度から、おおらかにフォローしてくれるクロウに、ほろりとほだされてしまうのが人情だ。

 

 おかげで今や姫柊雪菜よりも好感度が上だ。監視役(愛人)として送り出したわけじゃないのにポイントを稼いでいる。お守りに封じ込めた分体であるとはいえ『闇』が探ったのだから間違いない。そんな好感度メーターとなった古き意思はこの結果に大いに嘆いている。

 

 ―――何をしているのだ愛人候補よ。補佐役(おとこ)に負けてどうする。

 

 <第四真祖>が、<蛇遣い>の影響を受けて同性も守備範囲になったら、監視役と補佐役の立場が逆転しかねないと『三聖』は危惧している。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 なんやかんやと嘆願は聞き入れてもらえて、延期(おあずけ)が一週間にまで短縮したところで、クロウは、この匂いの嗅げぬ彼方へいる相手へと問いを投げた。

 

「なんか、今の白奈のご機嫌が気になるんだぞ。オレのこと嫌いなのか……?」

 

 これに、ぬいぐるみの耳の辺りが、細かく、忙しく左右に向きを変える。

 それから伝播した困惑を示すように、ホッキョクギツネのように真っ白な尻尾が、おろおろと左右に揺れた。

 ぬいぐるみの視線は部屋中を彷徨う――クロウ(こちら)を避けるように――そうして、一周くらい泳がせてから、ポツリと――しかしこれだけは誤解はさせてなるまいとしっかりと聴こえる声で――応えた。

 

『……気にしなくても、心配いりませんよ。クロウ君がどんな姿に成り果てても、私の好感度は揺るぎませんので』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――ずるいずるいずるいぞっ! どーしてオレが最初に見つけたのに、縁お姉ちゃんばっか食べるのだ!」

『使い魔のおまんま食いっぱぐれてるのは誰のせいだと思ってるんだい。だいたいこれはキャットフードだ馬鹿弟子。それにお前さんの食い扶持を賄うとなったら、ここにいる全員分のでも足りやしないよ。そうさね。これを機に断食でもさせて精神修養をさせてみようかね。そうすりゃ一言多いその性格もちょっとはましになるか』

「鬼!? 鬼なのだ! そんな恐ろしいことしたらオレ腹ペコで何もできないぞー!」

 

「……猫さんとお話ししているのでした?」

 

 金欠となった乞食少年が師家の使い魔である猫と共に辿り着いた廃教会で、ギャーギャーと騒いでいると、ふと気配。入口(とびら)のところでキョトンと不思議がる少女がいた。

 

「んん? 誰だお前? 髪の色とか白奈に似てるけど、匂いは全然違う。なんか真っ白奈って感じなのだ」

『そういうところだよ。闇白奈が色々と黒くなってるのは馬鹿弟子のせいでもあるからね』

 

「わわ! 猫さんが喋ってるのでした」

 

「う。このニャンコは師家の使い魔だからな。それで、その制服は彩海学園のだな」

「はい。それと、あなたのことも見たことありました。この前凪沙ちゃんのクラスに入った転校生でした」

「う、そうだぞ。オレは、縁堂クロウ。こっちは縁お姉ちゃんなのだ」

「私は、叶瀬夏音です」

 

 よろしくお願いします、と声を揃えて互いに深々と頭を下げる二人。

 そして、聖女と謳われるほどに心優しい少女は、ぐーぐーと口ほどにお腹が空腹を訴える少年に昼食にと購入したパンを与え、これに少年は一食の礼に彼女の手伝いをすると決めたのだった。

 

 

 

つづく



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高神の社ルートⅥ

彩海学園

 

 

「―――そこかっ!」

 

 南宮那月が華奢なスリルの裾を翻して振り返る。虚空から吐き出された銀色の鎖が、弾丸のように大気を切り裂いた。

 

「馬鹿なっ! 避けた、だと!?」

 

 那月の表情が驚愕に歪む。彼女の瞳に映っているのは恐怖。あの<空隙の魔女>が怯えているのだ。

 

「何をしている、馬鹿犬! そいつを逃がすな!」

 

「ぬぅ?」

 

 那月の叱責に小首を傾げるクロウ。

 この標的は、確かに凄まじい生命力と増殖力を持っている。『高神の社』でも現れては、候補生らを阿鼻叫喚と震え上がらせていた恐怖の象徴で、果敢に武器を振るう者もいたが、彼奴の反応速度は彼女たちのそれを上回る。

 なので、その相手はよくクロウに任されることが大半だったが……しかし、何故、こんなに混乱するのだろうかと常々クロウは疑問に思う。

 

「この、まだわからんのかっ! ここで看過すれば増殖して手が付けられなくなるぞ!」

 

「よくわからんが、コイツはそんな大げさに騒ぐほど厄介な奴なのか??」

 

「今更何をそんな呑気なことを言っている! 貴様、獅子王機関の猟犬ではないのか!」

 

 獅子王機関の相手はもっぱら魔族。魔獣の方は、太史局が専門だ。もっともこれを魔獣などと認定すれば、六刃神官の怖いお姉さんに説教されてしまいそうな気がする。

 

「………」

 

 これまで無言でこちらを窺っていたアスタルテが、スッと動き出す。その手には、殺虫剤のスプレー缶。

 流石に殺生は忍びない、とクロウもようやく重い腰を上げる。

 

「ほい」

 

 鎖を避ける漆黒の影を、あっさりとクロウは手づかみで捕まえてみせた。そのまま窓を開けて、掌を開く。

 

「ここはお前の縄張りにしちゃいけないところっぽいぞ。向こうに森があるからあっちへお行き」

 

 クロウはそう説得すると、Gの頭文字を持つ黒光りする昆虫は示した方角へと羽ばたいていったのだった。

 

 ・

 ・

 ・

 

「……退治せずに彼奴の逃走を幇助するとはな。貴様、牢獄にぶち込まれたいか?」

 

「うー。そんなにされるほどなのかー? あんまり害のないヤツだと思うんだけどなー」

 

 キチンと手を洗ったクロウが戻ると、迎えてくれたのはジロッとした不満。

 

「それで、何のようなのだ? もう用がないなら帰るぞ」

 

 けれど、ジト目になってしまうのはクロウもである。

 なにせ、緊急の呼び出しで来たらこれである。流石のクロウも不満のひとつでもこぼしたくなるもの。

 そんなクロウの口ほどに意の篭った視線を、軽く流して那月は口を開く。

 

「縁堂クロウ。今夜、私に付き合え」

 

「ぬ。ご飯を食べに行くのか……!」

 

「違う。私の副業(しごと)を手伝えと言っているんだ」

 

 きっらきらに一瞬目を輝かせた食いしん坊を、那月は冷たい視線で一蹴。

 彼女は彩海学園高等部の教師であると同時に、この魔族特区に赴任した国家降魔官である。

 

「一応、おまえは攻魔師資格(Cカード)を持っている。複数の標的を捕らえるのに人手が欲しいからな。私の助手として捜査に同行してもらおう」

 

「う。わかった。それで、相手はどんな奴なのだ?」

 

「なに、虫よりも貴様向きな相手だ」

 

 

絃神島西地区 テティスモール

 

 

 とっぷりと日が暮れて、空の景色に月が顔を出す頃合い。

 この最近、絃神島の上空で戦闘を繰り返す謎の怪物――『仮面憑き』が出現する時間帯。

 これに合わせて国家降魔官の指揮の下で、特区警備隊(アイランド・ガード)が一般市民誘導のために行っている縁日。

 それを説明されながら、堪能しちゃっている獅子王機関所属の攻魔師がひとり。

 

「モグモグ」

 

 左手に焼き鳥、アメリカンドック、ビックフランクフルト、イカ焼きを五指の間に挟み持ちながら、右手で大きなケバブをがっつりと頂いているのはクロウ。

 その装いも、動きやすいショートパンツタイプの二部式浴衣と実に夏祭りを満喫していた。

 

「クンクン! ソースの香ばしい香りがするぞ! う! あっちにあるたこ焼きも食べたいのだ! 是非ともいただきたい! なあ、いいか?」

 

教官(マスター)?」

 

 食欲を誘う匂いにハイテンションなクロウ。尻尾があれば、ブンブンと回していることだろう。

 それを見やって、付き回されている浴衣姿の人工生命体の少女は、主人の那月へ首を傾げる。自身も夜店で林檎飴を購入していた那月はやれやれと肩を竦め、

 

「構わん。買ってやれアスタルテ」

 

「わーい! う! アスタルテも一緒に食べるぞ! この匂いは絶対に美味しい奴なのだ!」

 

 本当によく食べる奴だなぁ……

 監視役の雪菜を連れて待ち合わせ場所に訪れた古城は、その光景に少し呆れたように息を吐く。

 既視感(デジャヴ)。何だかこの後輩転校生とはよくよく食事中の場面に遭遇する。そうじゃないかと思っていたが、コイツは大食いの女帝(あさぎ)と同類だ

 小柄な見掛けを裏切る胃袋ブラックホール。

 もしも飯を奢るとなれば、財布が空にされるくらいの覚悟を持つべきだ。

 けれど、彩海学園の教師にして国家降魔官である那月にとっては、この程度で金払いが縮こまることはない。ただ、まったくの遠慮なしに飲み食いしてる商売敵(クロウ)に、恐ろしく美しい微笑を湛えていらっしゃる。

 

「これで役に立たなかったら、食費は獅子王機関に請求してやろう」

 

「クロウ君、そろそろ食べるのはやめませんか」

 

 その結構本気(マジ)な脅し文句は、クロウではなく、雪菜に効いたようで、やんわりと歯止め(ストップ)をかける。

 

 そう、これは真面目なお仕事である。

 世界最強の吸血鬼の力を継いでいるが素人の古城も狩り出すほどに、今回の相手は厄介だ。もっとも、古城が呼び出されたのは、危険物だからこそ目の届く場所に置いておきたいという理由も含まれるが。

 

 那月に引き連れられてエレベーターに乗り込む前に、パクパクペロリとアスタルテにも持ってもらっていた分まで平らげたクロウは、ふんす、とファイティングポーズを取る。

 

「大丈夫。オレ、頑張って働くぞ。この最近、あんま食べれなかったから、もうちょっと食べたかったけど」

 

「おいおい、なんだ金欠か? 獅子王機関からお金貰ってんじゃねーのか?」

 

 立地条件最悪な寂れた骨董店を拠点にしているが、そこはあくまで副業。所属している国防機関より給金は支払われているはずだろう。

 古城の質問に、雪菜はすぐに首を振って言葉を返す。

 

「いえ、そんなはずはありません。私の方には毎月きちんと活動費は振り込まれています。少々、持て余すくらいの額が……」

 

 じゃあ、どういうことだと再びクロウへ視線を戻せば、

 

「何かなー、この前の査定で白奈とお話ししたんだけど、コウジョリョウゾクに慎むべきですって怒られて、お預けになっちまったのだ」

 

 と事情を話され、理由はわかったが、納得しかねる。

 これは古城が言えることではないのだが……吸血行為に及んでしまっている雪菜はもらえているみたいなのだから、よっぽどのことを仕出かしてないとそんな注意はされないと思う。

 しかし、世間知らずな感はあるも表裏のない純朴な後輩中防が、そんな引っかかるような真似をするとはとてもではないが思えない。

 

「折角、凪沙ちゃんにアイスをご馳走してもらえたのに延期することになっちまった」

「―――おい待て。その話詳しく聞かせろクロウ」

 

 獅子王機関の内部事情よりも、反応が良い古城。

 そんな話題の地雷原(迂闊に踏み誤れば本当に世界最強の吸血鬼の力が暴れるかもしれない)に入っちゃったが気づいていないクロウは、誠に残念そうに語る。

 

「凪沙ちゃんがオススメのアイスを食べに行こうと誘ってくれて、オレ、アイス楽しみだったのだ! 全種類制覇したかった!」

 

 うんうん。

 やっぱり、コイツは色気よりも食い気、花よりも団子派だ。凪沙とそんなルートに発展することは流石にないと安堵。

 しかし、万が一にも起こらないように徹底すべきだろう。

 

「わかった。なら、今度、俺が連れてってやる!」

 

「でも、古城先輩、俺、お金がないぞ」

 

「ああ、だから、クロウの分は俺が払ってやる! 何、遠慮すんな! 凪沙を助けてもらったんだし、俺からもきちんとお礼がしたかったしな」

 

「おお古城先輩、太っ腹なのだ! じゃあじゃあ、今度、凪沙ちゃんにもそう話して」

「待った。……なあ、クロウ、俺と二人で――凪沙は抜きで――男同士で行かないか?」

 

 先輩……。

 妹の逢引きを阻止せんと、自分が誘う兄。シスコンの鑑かもしれないが、鏡に映る姿は、妹の同級生に強引なアプローチに迫っているようにも見えてしまうだろう。以前、それで変な誤解をされたのに懲りてないのだろうか。

 いや、この前の噂でフィルターを噛ませているから変な風に見えてしまうのだ。

 雪菜は目の前の光景から目を瞑り、精神統一。

 このことは、クロウ君のお姉さんである羽波唯里先輩に相談するべきか―――いや、ダメだ。なんか悪化することが霊視に頼るまでもなく予見できた。

 

「んー、これは凪沙ちゃんと一緒に行こうって決めてたことだし、がっかりさせちゃうのはイヤなのだ。それに女の子の約束は絶対守らないとダメなのだと唯お姉ちゃんから言われてる。残念だけど、古城先輩。そういう話なら断」

「わかった。それじゃあみんな一緒に行こう! ほら、こういうのは人数が多い方がいいだろ? な?」

 

 それにしても、もうちょいこの必死さを他にも出せないだろうか。私には一度だってそんなお誘いはしたことがないのに……

 

「う。皆で美味しいものを食べるのは良いことなのだ」

「よしじゃあ決まりだ。浅葱や矢瀬も誘うとして……あ、姫柊も一緒にどうだ?」

 

 とこっそりと耳打ち。

 

「(できれば、クロウの食欲を自重するように働きかけてもらえると非常に助かる。流石に那月ちゃんみたいにポンっと気前よく奢ってやる真似なんて無理だしな。絶対破産する)」

「ええ、別に……構いませんけど」

 

 同行を切願されているけど、思っているのと違う。

 とはいえ、この扱いにやや不満を抱いてしまう雪菜だったが、先輩に頼られるのはやぶさかではない。それに監視者として乗らないわけにはいかないので、了承した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――アスタルテ、花火の時間だ、と公社の連中に伝えろ」

 

命令受託(アクセプト)

 

 花火が、打ち上がる。

 爆ぜる轟音と煌びやかな閃光。闇夜に色とりどりの大輪の花を咲かす絶景は、一般市民の視線を誘導する。この一時、多少の爆発や騒ぎは気にならなくなるだろう。

 これが、南宮国家降魔官が仕組んだ偽装工作。

 そして、絢爛な花火とは逆側に、禍々しい光を放つ、人型の飛行物体―――

 

「うおおおおっ!? 何だこれ!? 何でこんな所に……!?」

「先輩、上です! 気を付けて―――!」

 

 空間転移で一気に、出現地点の真下にある塔へ連れてこられた。

 赤と白に塗り分けられた電波塔の骨組み。この急展開に足を踏み外しかけた古城と、それを支える雪菜は出遅れる。

 そして、クロウは、目標を捉えるや、剥き出しの鉄骨を蹴って、躊躇なく飛び出していた。

 

「―――む、この“匂い”は……」

 

 『仮面憑き』と呼ばれているターゲットは、三体いた。

 本体は、小柄な女性。しかし、その背中からは、血管塗れの醜悪な翼が何枚も不揃いに生えている。

 剥き出しの細い手脚には不気味な幾何学模様が浮かび上がり、無数の眼球を象った不気味な仮面が、彼女たちの素顔を覆い隠す。

 そして、翼を広げるたびに、いびつに波打つ光の刃が打ち放たれ、陽炎のように、それらを次々に撃ち落とす。撃墜された光の刃は、灼熱の炎に変わって、眼下の道路や建物を次々に焼き焦がし、戦闘が激化するに比例して被害の加速度は増していくことだろう。

 それでその戦況は、一体の天使に、二体が強襲しているように見える。

 

「とりあえず喧嘩は両成敗だぞ―――()けろ、<火血刀>!」

 

 クロウが構えるのは、昨日になってようやく師家より銘が与えられた『甲式葬無嵐罰土』、改め、<火血刀>。

 式神の呪符と同じ、『呪力適応変形機構』を備えた武神具(バット)は、担い手が獣化するのと同時にホッキョクギツネのような白毛で覆われた鍔を拵えた、ぶ厚い片刃の大剣に化けた。

 長さだけで2mを超える。常人ならばその長さでも持て余すだろう。さらには木製からの材質も変質しており、まっさらな銀や鉄とはまた違う、良く鍛えた玉鋼特有の重たく鋭い輝きがあった。

 これを軽々と片手で携えながら跳躍した銀人狼(クロウ)は、一気に空中戦の舞台へと乱入。

 

「思い切りが良過ぎるな、あの馬鹿犬は。―――チッ、一体、逃した!」

 

 傍若無人な魔女をも振り回す速攻。即座に那月が、何もない虚空より銀色の鎖を矢のように撃ち放ち、空中を舞う『仮面憑き』たちを搦め捕ろうとする。

 しかし、二体を捕らえるも、一体に躱された。

 そして、真っ向から接近してくる――羽ばたける翼もないのに空中戦を挑んでくる愚か者(クロウ)へ、光剣を撃ち放つ。

 

 その瞬間。

 ぐんっ!! と、豪快にクロウの巨大な牙刀が翻る。飛んでくる光剣を迎撃、するのではない。

 空振る。

 空を、振る。

 

 ―――宙空で跳ねやがった!?

 

 その無茶苦茶に、古城は仰天する。

 そう、あの大太刀を羽のように動かして空気を泳ぎ、下手をすれば肩関節を壊しかねないほどの腕の振りで自らを引っ張り上げることで、あのトンデモ後輩は、物理法則から逸脱した空中疾走を為したのだ。

 しなやかな筋力と荷重のかかる大太刀の反動を駆使すれば、多段ジャンプも決して不可能な芸当ではない。

 鋭角に跳ねた銀人狼は、飛来した光剣を躱す。そして、予期せぬ無軌道に戸惑う『仮面憑き』の頭上を取った。

 

「むっ!」

 

 不自然(イヤ)な“匂い”のする大本の翼をバッサリと切り捨てようとしたが、空振った。

 外れたわけではない。確実に当たる軌道で大太刀は振り切られたはずだった。

 

「―――<雪霞狼>!」

 

 続けて、空中に張り巡らされた鎖の上を綱渡りして迫る雪菜が、獅子王機関の秘奥兵器たる『七式突撃降魔機槍』を突き出す。

 魔力を無効化し、あらゆる結界を切り裂くという、対魔族戦闘の切り札。これが繰り出す一撃は、如何なる魔術障壁をもってしても防げない。

 

「えっ!?」

 

 しかし、翼に突き立てた槍から返ってきた異様な手応えに、その顔が歪む。

 金属バットを使ってぶ厚いコンクリートの壁へ殴りかかった反動にも近い鈍い痛みだが、雪菜はそんな肉体の痛み程度で怯んだのではない。

 ()()()()。『仮面憑き』を覆う禍々しい光が、吸血鬼の真祖すら斃し得る<雪霞狼>の刺突を阻んでいる。その事実に驚愕しているのだ

 あらゆる結界を切り裂くはずの刃を、阻むという矛盾。見えない壁に阻まれて激しい火花を散らす拮抗は、『仮面憑き』の咆哮によって吹き飛ばされた。

 

「<戒めの鎖(レーシング)>を断ち切っただと……!?」

 

 同じく、二体の『仮面憑き』を拘束していた鎖が弾け飛ぶ。

 空中に投げ出された雪菜は槍を振り、その反動で自らの姿勢を操って、再び無事に電波塔に着地。クロウもまた猛禽を思わせるしなやかな体術で上昇、落ちかけていたところから難なく脱却し、向かいのビルの屋上へ。

 

「無事か、姫柊、クロウ!?」

 

「私は大丈夫です」

「こっちも大丈夫だぞ」

 

 だが、解放された『仮面憑き』たちはこれまでの争いを中断。攻撃をされた『仮面憑き』など、怒りを露わに電波塔の方へと突っ込んでくる。仮面の下の唇を張り裂けんばかりに開いて咆哮し、その全身が赤い光を放った。

 

「いかん!」

 

 電波塔の根元部分をごっそりと半球状に抉り取る『仮面憑き』の攻撃。

 足元が崩れ、自重を支えきれなくなった電波塔は傾き、折れた鉄骨をばら撒きながら、ゆっくりと倒れていく。その先にあるのは渋滞中の幹線道路と、対岸のビル群。このままでは大惨事は免れない。

 

(おっ)きくなあれ! えいやっ!」

 

 落下する鉄塔へと、大太刀を投擲するクロウ。突き立った鉄骨を基点として大太刀が大樹へと変貌する。

 <嗅覚過適応(リーディング)>の匂付け(マーキング)に触発された『呪力適応変形機構』。

 瞬く間に伸長して大地に根付く樹木の幹は、重量数百tの鉄塔を受け止め、枝分かれして繁茂する枝葉は、細かな残骸から守る傘となる。

 “人”という風に、倒壊して斜め三十度ばかり傾いている電波塔を支えて、そこへさらに無数の鎖が絡み付いて固定する。

 

「こちらは任せろ! 貴様らは上にいる奴らを落とせ! 手加減などするな、死ぬぞ!」

 

 パニックになった住民たちの避難をしながらでは、那月に『仮面憑き』へ気を回す余裕はない。

 依然と猛り狂った絶叫をあげる『仮面憑き』の怒りは収まらない。しつこく鉄塔に追撃する『仮面憑き』へ銀色の鎖が虚空から撃ち出すも、捕まらない。

 

「―――執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先>」

 

 電波塔に向けて放たれた光の剣に対し、アスタルテも体に寄生させている巨人の眷獣を盾にし、防衛するも迎撃(カウンター)は届かない。速い。最高速は、音の壁を超える『仮面憑き』の飛行に、薔薇(きょじん)の指先はその影を掠めることすら叶わない。

 防戦一方に追いやられる那月とアスタルテ。

 そして、『仮面憑き』は一体だけではない。

 下界の騒動を見下ろしていた『仮面憑き』が、急降下で迫ってきて―――古城の目に、覚悟の定まった真紅の光が宿った。

 

「ああ、くそっ! 疾く在れ、九番目の眷獣<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>―――!」

 

 古城の呼び声に応じるのは、陽炎の如く揺らめく猛々しい巨体に、天を貫く双角を持った緋色の召喚獣。

 それは破壊的な魔力の塊にして、吸血鬼を“最強の魔族”と称させる切り札。

 召喚すればたちまちに宿主の寿命を食らい尽す眷獣は、無限の“負”の生命力を保有する吸血鬼でなければ使役できず、そして、最も力の弱い眷獣でさえ最新鋭の戦闘機を凌駕する攻撃力を持つ―――これが『世界最強の吸血鬼』である<第四真祖>の眷獣ともなれば、天災とも変わらぬ暴威を匹敵するだろう。

 一瞬でも制御を誤れば、最悪、この意と絃神島を丸ごと焼き尽くして廃墟に変えかねない。

 でも、空に向かってぶっ放すのなら影響は少ないだろう。

 こんな市街地の真ん中で、実体化する余波だけでも膨大な魔力を撒き散らす眷獣には頼りたくはなかったが、それよりも、あの『仮面憑き』をこのまま暴れさせる方が被害は甚大になると古城は判断を下す。

 

「なに―――!?」

 

 衝撃波の砲弾と化す双角獣の咆哮は、大気を引き裂く。

 その余波だけで、電波塔をビリビリと震わせ、周囲の建物のガラスが白く罅割れる。

 ―――だが、この攻撃を真正面から浴びた『仮面憑き』は、全く怯まない。

 

「そんな……真祖の眷獣の攻撃に耐えるなんて……!?」

 

 咆哮を食らっても無傷の『仮面憑き』へ、緋色の双角獣は直接攻撃を仕掛ける。強烈な振動波を纏った双角獣の突撃。

 だが、これも効かない。

 確実に標的を捉えたはずなのに、悠々とすり抜けられてしまった。

 湖面の月に石を投げても当たらないのと同じように、攻撃が届かないのだ。

 この事実に古城と雪菜は絶句する。

 

「やばい―――!」

 

 『仮面憑き』が、これまでのより巨大な光の剣を創り出す。古城の全身が凍る。あんな攻撃を市街地のど真ん中で解き放ったら、どれだけの犠牲者が出るか計り知れない。

 空中の攻撃を迎撃すべく、雪菜が<雪霞狼>を投擲する構えを取り、古城も二体目の眷獣の召喚を試みようと右腕を掲げる。

 ―――しかし、それよりも早く、割って入った()()()影が、『仮面憑き』の閃光を打ち払った。

 

「ん。だいたい、わかったぞ。お前らのぶん殴り方」

 

「「クロウ(君)!?」」

 

 正体不明の『仮面憑き』が振るう魔術の術式は、<空隙の魔女>にさえも記憶にない。

 直感に秀でた剣巫は、『仮面憑き』の振るう力の正体は、魔術というよりも<神憑り>に近いものだと核心に迫る。

 そして、師家後継の野生児は、詳しい原理など解明せずとも勘で全容を把握した。

 

 ジャンケンと同じ。

 <第四真祖>の眷獣の攻撃は“グー”で、あの『仮面憑き』は“パー”のような相性。そして、その“パー”に対する“チョキ”はわからないが、双角獣の攻撃とは違って明確に防御行動を取ったということは、どうやらその“パー”は、姫柊雪菜(ユッキー)の<雪霞狼(やり)>の同系統のものであるようだ。

 そこまで判明すれば、クロウには十分だ。

 こちらもより強い“パー”の属性でブッ叩けばいい、という力業の理論。

 

「ひ、ふ、み、よ、い、む、な、やこともちろらね―――」

 

 ぱん、と合掌とするように両手を打つ。

 目の錯覚か。古城の目には、この拍手に空間が小さく震えたように見えた。

 柏手とは天地開闢の音霊(おとだま)であり、天岩戸を開ける清い音でもある。すなわち、“神”を招く合図であった。

 

 ごおと空が鳴る。

 途轍もない力が唸りをあげている。

 魔族特区の夜空を渡る超自然の“匂い《ちから》”が、根こそぎ搔き集められ、金人狼の輝きに引き寄せられて、怒涛の如く渦を巻き、収斂した。

 どっと、クロウの頭上へと雪崩落ちたのだ。

 

「なっ!?」

 

 思わず、古城は目の前を覆った。

 『仮面憑き』でさえたじろぐほどの力が、一時に眼下へと集中したのだ。

 それだけの力を受ければ、無事で済むはずがない。

 生身の人間が、落雷を受けるようなものである。

 なのに、そこには金人狼は変わらずに佇んでいた。

 

「クロウのヤツが金色に……!? しかも、なんか青く輝いてる……!」

 

 一回り、大きくなったようにも見えた。それ以上に、途轍もない違和感が古城の感覚野を襲っている。

 最初は銀色の人狼だった後輩(クロウ)が、金色の体毛に変わっていて、さらに今は雷光のように青白い、そして大いなる神狼の影法師(かたち)を写し取る気を纏わせていた。

 この鮮烈な後光に古城の目は眩み、熱の放射を受けたかの如く煽られた全身の毛が逆立つ。

 魔族の本能が致命的な相性の悪さを訴えるかのように、そう、直感的になるが、光の強度はあの『仮面憑き』らよりも上にすら感じられた。

 そして、このすべての力が、金人狼の内側で制御されている。

 微調整込みの確認であるかのように、何度か拳を握っては緩めたのち、金人狼は口を開いた。

 

 

「これが、獅子王機関の師家になるべく、『高神の社』で積んできた厳しい修行の成果―――<神憑った神獣人化(ゴールデンウルフゴッドゴールデンウルフ)>なのだ!」

 

「は?」

 

 

 自慢の変身形態(フォーム)について堂々と決め顔を作ったクロウだったが、古城は感嘆を覚えるよりも、気が抜けてしまった。ハンマー投げでグルグル回って遠心力をつけてから投げ飛ばす寸前で、手から鉄球をすっぽ抜けさせてしまった……そんなような盛り上がりの場面を滑った感覚だ。

 

「ご、ごーるでんうるふごっどごーるでんうるふ??」

 

 なんというか、早口言葉みたいな名乗り上げだ。古城も長い眷獣の名を召喚する際に噛まずに言い放っているけれど、それでもあんなに同じ単語が入っていない。

 戸惑う先輩に、トンデモ後輩と同郷の監視役の少女から解説が入った。

 

「え、っとですね先輩。アレは、<神憑り>で神霊の力を取り込んだクロウ君が、人型のまま<神獣化>することで霊的中枢(チャクラ)を覚者レベルにまで拡張させたんです」

 

「なるにはちょっと時間がかかるけどな。皆からは<神獣人化(ゴールデンウルフ)ブルー>と言われてるぞ」

 

 見たまんまの安直な形態名である。簡潔にまとめられてわかりやすいのだが、しかし名称だけ聴くのでは、金色なのか蒼色なのか判断に迷う通称。

 もうちょっとマシなネーミングは思いつかなかったのだろうかと頭が痛い古城。

 

「なあ、姫柊、一気にありがたみとかそういうのが薄れてんだけど、アレ……クロウのその、ゴールデンウルフブルーってヤツは凄いのか?」

 

「はい。一見するとふざけているように思えますが、クロウ君にしかできない秘儀です」

 

 霊格自律進化を促す獣人種の<神獣化>を<嗅覚過適応>の特質を利用して、人間が持つ潜在的な霊的中枢(チャクラ)を100%に開放する真似は、『混血』だからこそ可能な芸当。

 <神憑り>だって簡単に扱える力ではないのだ。

 僅かでも制御をしくじれば術者の人格は破壊され、二度と正気に戻れなくなる。あるいは神霊の力を暴走させて、周囲に凄まじい災厄を撒き散らすことになるだろう。

 それだけの強大な力を、ろくな準備もなく普通に御している。自我を持って(リラックスして)会話ができているのがその証拠だ。専門家から見れば、いっそ喜劇じみている所業であろう。

 『基礎的な呪術の類はてんでダメなくせして、<神憑り>を自然体でこなせるとか、ドンだけ尖った才能を持った師匠泣かせの馬鹿弟子だ。教え辛いったらありゃしない』と師家様によく呆れられていた。

 

 そして、この二つを同時に発揮した<犬夜叉(クロウ)>は、日本最強の攻魔師『三聖』にすら牙を届かせるとの評価が為されている。

 

「コレ、結構疲れるから―――手加減(あそび)無しで一気に狩るぞ」

 

 己よりも強大な『神格(ひかり)』を前に初めて怯む『仮面憑き』へ、蒼き金人狼は、犬歯を剥いて腕を一振りすると、その周囲に拳大のものが数十発出現する。

 霊力を昇華させた神気で矢を撃ち放つ『霊弓術』

 

「逃げても無駄だ。お前の“匂い”はもう覚えてる」

 

 狼は群れで獲物を狩る際、最短距離で追尾して襲い掛かるものと、標的の回避先へ先んじて回り込んで包囲するものと二手に分かれて仕留めにかかるという。

 初手を躱そうが、すぐ目先に二の矢が迫っていた。常に王手を強いる、確実に相手を詰ませるための業だ。

 統率された群狼の如く襲い掛かる攻撃に、『仮面憑き』は逃れられずに直撃。これまで捉えきれなかった高次元の存在に命中した。

 同じ“パー”。障壁を張れば相子で、威力は相殺されるはずだが、それでも格上の“パー”を前に相殺し切れない衝撃に打ちのめされる。態勢を崩したところで、他の矢も次々と追い打ちをかけていく。

 

 そして、熊手の形で双腕をクロスする構えを取った金人狼が、『仮面憑き』との間合いを一気に詰めた。

 

「全力全開!! はぁぁぁぁっ!!」

 

 胸の前で交差させた両腕の掌より、過剰放電(オーバーロード)する程の力を迸らせて渦を巻く。激しい発光を放つそれは電離気体(プラズマ)のようだ。

 さながら、大型加速器みたいに、常に生体発電を追加しながら加速しているから、“溜め”が入るほどに速度とエネルギー量が跳ね上がっていく。

 

 教授された『八雷神法』の白兵戦とも『八将神法』の暗殺術ともかけ離れた、人力を超越した荒技。

 それ故に、師家より『火雷大神』とは異なる、雷神の名が冠せられた。

 

 

「<建雷(タケ)>―――!」

 

 

 布都(ふつ)、と。

 『仮面憑き』がただ無造作に放つ光の剣とは次元が違う、極限まで束ねて次元を断つ強度(レベル)に研がれた雷光が突き抜けた。原理だけならハンマー投げとそう変わらない。もっとも、人間の目で追える速度ではないため古城たちにはいきなり“結果”だけが突き付けられることになる。

 そう。

 届かぬ高みに在った水月の如き存在の大翼が、一閃で切断される快音だ。

 そして、神気が凝縮されたそれは正しく、“神鳴り”。

 異形の翼――『仮面憑き』を『仮面憑き』たらしめる霊的中枢は、本体の少女と切り分かたれて、迸る青白い雷電に食われて黒く炭化した後、影も残さず掻き消された。

 

 

 凄まじい……!

 武神具に頼らない無手での戦闘だが、その五体だけで十分だと知らしめる、圧巻の破壊力。

 先の光剣も、後輩(クロウ)が軽く振るった拳打に触れて灼き溶かされるように消滅した。<雪霞狼>の脅威が『神格振動波』による魔力無効化だとするならば、あの一撃は、クロウの放つ圧倒的な力の熱量によって、強引に灼き切ってしまう。先程のジャンケンで表現すれば、『仮面憑き』と同じ“パー”の属性である。のだが、“パー”でありながら“チョキ”みたいな真似を可能とする“手刀(パー)”であった。

 空恐ろしくなる頼もしさである。

 これならば、『仮面憑き(こいつ)』らを捕まえられる―――と古城が気を抜いてしまった瞬間を突かれた。

 鉄塔を防衛する那月とアスタルテが相手をしていた『仮面憑き』が、方向転換して、古城たちに襲い掛かったのだ。

 

 

「なッ……」

 

 それは、一瞬の出来事だったために、反応が遅れた。

 音さえ切り裂いて、『仮面憑き』が強襲する。空気抵抗を切り裂いた飛行は、もはや迅雷に等しかった。

 一瞬という時間を十にも二十にも分割しながら、不気味な仮面が古城の瞳いっぱいに膨れ上がる。猛禽類の鉤爪の如く伸びる爪は容易く頭蓋を抉り抜くことだろう。

 

「―――」

 

 間に合わない。

 何もできぬままに殺される―――そのイメージが、限りなく現実に近づいた時。

 ひとつの影が古城を庇った。

 不倶戴天の魔族、その中でも無限の負の生命力を有する真祖の吸血鬼の急所たる心臓へ目掛けて突き出された光の剣、これにすんでの所で古城を庇ったのは―――咄嗟に間に割り込んだ、最後の三体目の『仮面憑き』。

 古城たちと遭遇するまで、1対2で攻められていた為、ダメージを負っていて、苦悶の絶叫を上げた。

 閃光に貫かれた彼女は、向かいのビルに激突。鮮血を撒き散らす体の上を、鉤爪の生えた腕で抑え込まれ、同類であろうと容赦なく腹部を抉られた。

 

 あいつ、俺達を庇った……のか……?

 あの瞬間、割って入らなければ、古城があのような目に遭っていた。

 ダメージ回復に専念し、慎重に戦況を傍観していたはずの彼女が、何故そのような行動に出たのか推測できない。古城たちの窮地を救うこと以外には。

 咄嗟に槍を構えたままの雪菜も、戸惑いの表情を隠しきれない。

 

 マウントを取った『仮面憑き』の頭部を覆う仮面、その下で獰猛なる顎が開かれる。ホオジロザメのような無数の牙が密生した口腔。倒れた同類の、剥き出しの白い喉に今にも食いつかんばかりに牙を見せる『仮面憑き』の意図はあからさまだ。

 喰らうつもりだ。

 同類の肉を。

 より高位なる存在に昇華するために。

 元より、同類同士で争っていたのはこのためなのだ。

 

 

「おい」

 

 

 だが、肌を刺す気配に、食事を中断してまで振り向かざるを得なかった。

 いたのは、翼を失くして人間に戻り、そのまま落下した実験体の少女の身柄を回収した金人狼。

 

「オレを無視するとはいい度胸だな、オマエ」

 

 殺気はない。だが、戦慄した。

 ただの呼びかけに過ぎなくとも、その声は、ずん、と腹の底まで響く。

 『儀式』を繰り返す最中に上位の存在へと進化した―――そんな自分よりも格上の存在が放つ言霊。上位存在の前には頭を垂れて平伏すしかない、隔絶とした実力差が本能で理解させられた。

 そして、金人狼は左腕で『仮面憑き』だった少女の身体を抱えながら、右手を血に狂った『仮面憑き』へと振り上げられる。

 

「もう寝てろ―――<玉響(たまゆら)>」

 

 しっぺのように指先本が仮面の額に当てられる。

 肉体の破壊ではなく、肉体の機能を狂わせる、白兵呪術の浸透剄<(ゆらぎ)>。これを<嗅覚過適応>を活用させて独自に昇華させたのが、<玉響(たまゆらぎ)>。

 原理とすれば、ペアリング消臭。

 悪臭を心地良い芳香の一部として取り込んで、より良い香りとするやり方。成分を中和するでも、物理的に吸着するでも、強い匂いで上書きするでもなく、香りの一部としてしまう。

 そう、『仮面憑き』が纏っていた神気が、浸透された神懸る金人狼の神気に“匂付け(マーキング)”されて呑まれ、その現世の者に触れられぬ特性が“消臭”された。

 <雪霞狼>の魔力無効化能力とはまた異なる、厳密にいえば『仮面憑き』の力は消滅していないのだ。ただ、力を発揮しているのに効果が無意味にされている。

 人魔の混成能力者(ハイブリッド)は、己が特性に合わせて昇華された業でもって、世界中の軍事研究者や魔導技師が未だに実用化にできずにいる『魔力による魔術消波(マジックミュート)技術』を再現していた。『仮面憑き』――()()()()()()()“天使”すら鎮めるとは、その<過適応能力>は、かつての『天部』の神力にすら匹敵するか。

 

「女の子を傷つけずに倒すのは、()加減がむずしーのだ」

 

 そして、加護を禊が(けさ)れた()()()()()など、クロウには指二本でも十分に落とせる。むしろ、拳骨で小突けば、頭蓋を砕きかねない。

 音もなく触れ(あて)指二本(しっぺ)に、『仮面憑き』は白目を剥いて昏倒した。

 

 

「―――馬鹿な! あいつ……あの顔!?」

「嘘……」

 

 上に乗っていた『仮面憑き』がどかされて、下に倒れていた『仮面憑き』が古城たちにも見えた。攻撃を受けて、壊れたのだろう。金属製の仮面に亀裂が入っていて、パキンと割れる。仮面に覆われ隠されていた、彼女の素顔が露わになった。

 これを目にした瞬間、古城と雪菜は絶句する。

 未だ幼さを残したその美貌は、間違いない。

 雪原を思わせる銀色の髪と、氷河の輝きにも似た淡い碧眼―――

 いびつな翼を背負い、素肌に電子回路のような文様を走らせているこの少女は、叶瀬夏音。

 先日、学園で出会った、動物好きな女子中学生。

 いつも穏やかな笑顔を浮かべていた彼女の顔が今、青白く、血の気が失せていく。

 肋骨と内臓を酷く損傷している。このままではすぐに死んでしまう……!

 

「………」

 

 これを古城たちよりも間近で見取っていたクロウが、その手を頭上に伸ばす。掲げた手の内へ、塔を支える大樹から分岐した枝が伸びてきて、パキリと折られた。

 それは、見慣れた木製バットへと戻り―――再び重厚なる牙の如き大剣と変ずる。

 

「何を、する気だクロウ……! お前、まさか―――」

 

 古城が吼えるが、人狼は大剣を大上段に構える。振り下ろし、その首を刎ねるギロチンを想起させる行動に、堪らず飛び出そうとした古城は、そっと肩に置かれた手に制された。

 

「大丈夫です先輩。クロウ君の刀は、何も殺せません」

 

 

 普段は木製バットだが、いざ戦闘になると、最高に頑丈で、絶対に破壊されない大太刀に化ける『甲式葬無嵐罰土』。

 『オレが思いっ切り振っても壊れない』という武器の扱いが残念な師家後継のために造られたが、何も武器を持たないそのままの方が強い後輩(クロウ)からすれば無用の長物。姫柊雪菜の『七式突撃降魔機槍』や煌坂紗矢華の『六式重装降魔弓』のように魔族をも圧倒する特別な力があるわけでもない。

 古城にはただカタチの変わる、変わった武神具だとしか思えなかった。

 

「―――此岸彼岸の境界線を仕切り給え、<火血刀>!」

 

 火途、血途、刀途、合わせて三途の川の頭文字から取った銘が意味するのは、生と死の境。その一刀が、斬り分かつのはそれ。

 縁堂クロウが祝詞を唱えながら振り切った途端、叶瀬夏音の腹部の傷が塞がれる。柔肌に一点の痕も残さず。

 代わりに、大太刀に割り振っていた生命力を消費し切ったように、元のバットへ戻っていく。

 

「クロウ君の刀は生きているものは決して斬れないナマクラですが、それが自然死以外の傷を癒す力があります」

 

「すげぇ……あれが、あの『甲式葬無嵐罰土(ぶき)』の本当の力だったのか」

 

「いいえ、それは少し違います先輩。あの武神具は、“未完兵器”。手に取った者の霊力や魔力に触れてはじめて、その所有者の特性や心情に応じた刀身を完成させます」

 

 つまりは、所有者の性質に合わせる太刀なのだ。

 自然な状態に戻す、自然死以外は治せるその力は、他でもない、(クロウ)自身の性格を表したもの。

 

「なるほど。この世のどんなことよりも優しい能力ってことだな」

 

「はい、そういうことです」

 

「ううー。お腹減ったぞー。お夜食が食べたいのだぁー……」

 

 神々しい気も霧散させて、元の人間の姿に戻った途端、ぐてーっとするクロウに、古城はついつい苦笑を洩らしてしまう。

 

 そうして、『仮面憑き』の少女――夏音らは、その身柄を公社管轄の病院へ移送されることになった。

 

 

金魚鉢

 

 

 絶海の孤島に、制服姿の少女たち。

 地面にはあちらこちらに弾丸の薬莢が散らばっていて、まるで野戦地のようなジャングルにいるが、野外訓練を修了している彼女たちは特別臆した様子はない。

 

「……護衛は私ひとりで十分なのに」

 

「はん! 煌坂ひとりじゃ右往左往して見つけられなかった癖に何を言うか」

 

「むっ、そんなことないわよ斐川志緒! 獅子王機関の舞威媛がそんな醜態をさらすわけないじゃない!」

 

 不満げな煌坂紗矢華と、挑発するように言い返す斐川志緒。

 元ルームメイトであり、同世代の舞威媛候補生の中では、両者ともにダントツの成績を修めていた優等生は、力を合わせればこの上なく頼もしいが、顔を合わせれば互いに意地を張り合う間柄。磁石の同極のように近づけばすぐに反発する。

 だから、一緒に任務をすることはお互いに避けていたのだが……

 

「だいたいどうして、昨日いきなり合流してきたのよ。これは私ひとりに命じられた任務のはずでしょ? それも単身で臨むべき極秘案件なのに」

 

「仕方ないだろ。唯里が心配だっていうから……」

 

 志緒とて、暗殺や呪術を専門とする舞威媛は団体行動よりも単独任務が好ましいという紗矢華の言い分の正しさはわかっている。

 しかし、そこは道理を無理に押し通してでも、絃神島に立ち寄れる都合をつけたかった。

 そろそろ限界な相方の剣巫――羽波唯里のためにも。

 そこら辺の事情は、紗矢華とて酌んでいたし、だからこうして同行も許している。

 

「はぁ……この前、私が雪菜と一緒に様子を見てきたけど、全然ピンピンしてたわよクロウ」

 

「そりゃ元気にしてるのはこっちだってわかってるさ。『世界最強の人畜無害』だなんて師家様に言われてるくらいなんだし。ただなあ、クロウ、なんかこの前のテロ騒ぎで携帯を壊しちまったみたいだし、唯里と連絡がつかなくなったんだよ」

 

「ああ……あの、暁古城に―――」

 

 そのテロ騒ぎ……『黒死皇派事件』には紗矢華も遭遇した。雪菜に破廉恥な真似をする<第四真祖>にはキツいお灸をすえてやろうとして……“アレ”な行為に及んでしまったことを思いだした紗矢華は急に火照り始めた顔を忙しく手団扇で煽ぎ始める。

 突発的な奇行を訝しむ志緒だったが、ツッコむと藪蛇な予感がしたのでスルーして、抑え役の苦労話の続きを再開する。

 

「『高神の社』から何百kmも離れたところから式神を通じさせることなんて私にはできないし、だから拠点に使い魔を置いている師家様にお願いして早く新しい携帯を買うようにと伝言を頼んだんだけど、そしたら向こうは金欠でキャットフードも購入する余裕がないと言われたんだ」

 

「は、はぁ? 金欠って、どういうことよ!?」

 

「私もよくわからないんだけど、何でも『大人の女性に給料三か月分の貢ぎ物をしたせいですっからかん』とか師家様は言ってて……で、それを一緒に聴いた唯里はもう止められなくって、その場で師家様に直談判したんだよ」

 

「それは……仕方ないわね」

 

 その情景が紗矢華の脳裏にもありありと浮かぶ。

 それは暴走する。うん。自分も雪菜と置き換えたら間違いなく絃神島行きを願っただろう。

 

 

「そうだよ、煌坂さん」

 

 

 と、紗矢華がつい頷いて同調したところで、物陰からぬっと現れる。

 獅子王機関の剣巫、羽波唯里。紗矢華たちが外回りを警戒する傍らで、彼女は、“最高クラスの要人(VIP)”の身辺警護を任されていた。

 決して不審者とか敵対者とかではない。

 でも、普段穏やかな少女が、静かに光沢(ハイライト)の消えた瞳のまま長剣を構えているのを見て、何故かゾッとしてしまう。

 それでいつになく深刻な口調で唯里は呟いた。

 

「きっとね、今頃、クロ君はひもじい思いをしてるよ」

 

「あ、ああ! そうね羽波唯里! クロウってよく働くけど、その分よく食べるし! 訓練後もよく乞食になってたっけー」

「―――」

 

 そっと暗殺術を使って、相対した唯里からフェードアウトしようとするもうひとりの舞威媛。

 

 ちょっと斐川志緒! あなたパートナーなんでしょ! 何、気配を消して逃げようとしてんの! ずるいわよ!

 厄介な状況を押し付けられたっぽいけど、残念、距離を取る前に肩をガシッと掴まれた。舞威媛が得意とするのはアウトレンジ、そして、剣巫はクロスレンジ……こうなっては僅かな挙動にも目敏い彼女から逃れられない。

 

「それで、お腹を空かしたクロ君はお金が欲しくてブラックなバイトに嵌っちゃって、そのうち過労で倒れて……」

 

「い、いや、それはないんじゃない? 獅子王機関の任務を連続でもこなしても平気なクロウが倒れるほど過酷な仕事なんて想像するのも難しいんだけど……」

 

「そんなことない! 剣巫の勘はビシビシと訴えてるよ」

 

「そ、そう」

 

 逆らっちゃたらますます炎上しそうな唯里の主張に、紗矢華は発言を呑んで首肯する。

 そして、唯里は小さく溜息を吐いて、

 

「それから学校でいじめられたり、中々人間関係がうまくいかなくて先輩に呼び出された挙句、変な噂が流されちゃったり、電話でも学校生活が上手く行ってないことを誤魔化してたりするの! ダメだよクロ君、お姉ちゃんの勘は誤魔化せないんだから!」

 

「そ、それは流石に。ほら、学校には雪菜もいるし、クロウは馬鹿不器用で勉強方面には不安があるけど逞しいし、きっと能天気にうまく馴染んでると思わよ」

 

 説得を試みる紗矢華だったが、沸々と気持ちが荒ぶってきている唯里の耳には届かない。彼女の脳裏には、『唯お姉ちゃん~……』と三頭身のクロウがしおしおに縮んでるのが思い浮かんでいる。これに奮起しない姉はいない。

 雪菜に対して、自分も重度な妹馬鹿(シスコン)だと自覚はしている紗矢華であるが、この娘もまた弟離れができていない。

 

「これも都会に出て悪いお姉さんに捕まっちゃったから! ううん、お姉ちゃんの私がついていなかったからなんだよ! このまま放置してたら、そのうち鎖に繋がれてペットに飼われることになったり―――」

「それはないわ絶対」

 

 若干視線を逸らしてしまっているが、それはマズいと短く強い口調で言い聞かす紗矢華。

 その霊視(想像)が加速していったら、大変なことになりそうだ。下手をすると、舞威媛VS剣巫に発展しかねない。

 努めて冷静に、獅子王機関の構成員として諭す。

 

「羽波唯里、今、私達がするべきことは“彼女”を無事に北欧アルディギアへ送り届けること。絃神島に寄るのは護衛任務の“ついで”であって、本筋を間違ってはいけないわ」

 

 国民、ひいては人類を守るために、獅子王機関であるのなら、私情よりも任務を優先しなければならない。

 

「姉として心配なのは私も重々わかるけど、ここは我慢して次の機会に」

「―――いいえ、このまま絃神島へ向かいますよ、紗矢華」

 

 と割って入る声。

 それは、3人に護衛をされながらであるが、この無人島で水浴びをしていた“彼女”のもの。声に反応してその方へ首を巡らせれば、三つの視線が重なった焦点にいるのはやはりそうだ。

 雪原を思わせる銀髪と、氷河の輝きにも似た水色の瞳。『美の女神(フレイヤ)の再来』とも称えられる美貌の少女。

 北欧アルディギア王家の第一王女、ラ=フォリア=リハヴァインは、呆気にとられる紗矢華たちを前に宣誓する。

 

「わたくしにも果たさなければならない事情があります。それをするまでは国へは帰りません。では、行きましょう絃神島へ」

 

「し、しかし、王女。御身の安全を第一に優先するべきで、このまま絃神島に向かうのは非常に危険で……」

 

「この身が狙われることは常の事です。それにあなた方がついてくださるのなら、問題ありません。実はわたくし、日本に出現したという<第四真祖>、それから『四番目の三聖』とも評価される<犬夜叉>にも興味があります。ふふっ、彼とアルディギアには浅はかならぬ因縁もありますし、“悪いお姉さん”に捕まる前に庇護しましょう」

 

 無邪気な微笑を浮かべて、なんともな無茶ぶりを吹っ掛けてくる要人に、獅子王機関の若手たち一同天を仰いだのだった。

 

 

???

 

 

「どうすんだよっ! 儀式が失敗しちまって“商品”共が公社の連中に捕まっちまったじゃねーか! ヤバいぞおいベアトリス!」

「うるっさいわね! 後がないのはこっちだってわかってんのよ! まさか『仮面憑き』を倒せるヤツがいたなんて計算外よ計算外! 大がかりな儀式までしたってのに折角の商品価値が下がってしまったら大赤字じゃない! アルディギアのお姫様も取り逃がしてるしっ! あー……ホント腹立たしいわ……糞(ダル)っ!」

 

 獣人の男と吸血鬼の女が騒いでいるが、昨夜の“アクシデント”から明確な打開策は出ていない。

 それはこちらとて、同じ。己が思い描く<模造天使(エンジェルフォウ)>の儀式計画の中核だった夏音が管理公社に囚われたのは大きな誤算だ。霊的回路を()われた娘子らを拾われるのとはわけが違う。

 

(そのためには……)

 

 『メイガスクラフト』……叶瀬賢生とは違う利益を求め、儀式計画に協力してくれた連中。

 『魔族特区』の管理公社を相手にするには、奴らの暴力(ちから)に頼るしかない。

 

「取り戻す、何としてでも。どんな非道に手を染めようとも、夏音を真の天使にすることを私は誓ったのだ」

 

 

 

つづく



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高神の社ルートⅦ + 黄金の日々ⅤNG

絃神島 中央区

 

 

 絃神島人工島(ギガフロート)の中枢、キーストーンゲートが襲撃。

 魔導工学企業『メイガスクラフト』が魔族特区管理公社に“戦争”を仕掛けてきた。

 

 中央区、街中での激しい戦闘。

 住民の避難を優先した縁堂クロウの対応は出遅れており、また、偶然、知り合い(かなせかのん)の見舞いに訪れていた<第四真祖>も、先日、誘導がされていた状況でもなければ、街中で災厄の如き眷獣を振るうことはできない。

 

 そして、第一線でぶつかった特区警備隊(アイランドガード)は、圧倒された。

 

 『第一非殺傷原則(ひとをきずつけてはならない)』という禁忌を破り、完全に破壊するまでは停止しない機械人形(オートマタ)の軍勢。魔術大国アルディギアの元宮廷魔導技師であり、門外秘の最新鋭の機動兵器<霧の巨人(アウルゲルミル)>を設計する魔導工学理論を知る叶瀬賢生の手によって改造された大型機械人形<炎の巨人(ムスペル)>は、銃火器はまず通用せず、一体一体が吸血鬼の眷獣並の戦闘力を有していたのだ。

 この絃神島に配属されている国家降魔官である<空隙の魔女>が、<炎の巨人>を縛り上げて撃破していくが、彼女一人ではこの戦線全てを支えることはできない。

 

「なっ、『仮面憑き』があんなに大群で……!?」

 

 さらに、『仮面憑き』――<模造天使>の儀式に参加した素体のクローンから造り出された歪な天使の軍団による空襲に特区警備隊は壊滅的なダメージを受ける。

 撃破し得る戦力である<犬夜叉>もひとりでは空を音速以上の速度で多数バラバラに飛び交う『仮面憑き』を相手にするのは難しい。

 この混乱の最中に、叶瀬賢生はキーストーンゲート地下16階にある人工島管理公社保安部に安置される娘、叶瀬夏音の元に辿り着き、“真なる天使”にすべく最後の処置を施そうとしていた。

 

 頼もしい“援軍”が来たのは、その時だった。

 

 

「―――我が身に宿れ、神々の娘。軍勢の守り手。剣の時代。勝利をもたらし、死を運ぶ者よ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 なるほど、()()すればいいんだな。

 

 縁堂クロウは、銃剣から伸びる高純度の霊力の刃でもって<炎の巨人>の一機を両断したラ=フォリアのやり方を見て理解した。

 自らを精霊炉とすることで発動させる<疑似聖剣(ヴェルンド・システム)>―――北欧アルディギア王家にのみ許されていたその秘伝を、対応力に抜きん出た殺神兵器の学習能力は、己がモノに噛み砕く。

 

「―――よし! アレすれば通じるようになるぞ」

 

「クロウ?」

 

 ラ=フォリアと一緒に連れて参上した獅子王機関の攻魔師たち。

 彼女たちは、制空権を支配する『仮面憑き』を銀色の洋弓から繰り出す遠距離射撃で撃ち落とさんとしたが、通用しない。次元が違う『仮面憑き』に、舞威媛の業が届かない。

 ならば、届くように自分が踏み台になって持ち上げればいいとクロウは思った。

 

「ほう、これは驚きです。完成された<模造天使>と同格の階梯に至れるとは……」

 

 第一王女も目を丸くする蒼く光り輝く金人狼、<神懸った神獣人化>へと変身したクロウは、次の瞬間、さらに『まあっ』と驚きに王女の口まで丸く開けさせることをやらかす。

 

「う。オレの元気をお姉ちゃんたちに分けるのだ!」

 

 『甲式葬無嵐罰土』のグリップ部分に紐を巻き付けて垂らしてるお守り袋から、伸びる透明な糸。それは、獅子王機関『三聖』のひとりが有する異能<神は女王を護り給う(テオクラティア)>の一端である霊糸。

 地面に突き立てたバットを基点に伸びる霊糸が、『仮面憑き』と応戦する舞威媛と剣巫が持つそれぞれの武神具に繋がる。

 それを伝たわせて、蒼く光り輝く<神憑った神獣人化>の芳香を染み通す。

 

「! <煌華鱗>に力が……!」

「よし、これなら当てられる……!」

 

 少女たちの武神具に光輝にして香気が充填された。

 これに戦況は、一変する。

 

「「獅子の舞女たる高神の真射姫が請い奉る!」」

 

 煌坂紗矢華と斐川志緒、獅子王機関の舞威媛の二人が揃って番える銀色の矢には、蒼白い霊気が雷光の如く迸っている。

 

「極光の炎駆、煌華の麒麟、其は天樂(てんがく)と轟雷を統べ、噴焰をまといて妖霊冥鬼を射貫く者なり―――!」

雷霆(ひかり)、あれ―――!」

 

 『六式重装降魔弓』より天高く放たれた鏑矢より、中央区を覆う範囲に巨大魔法陣が描かれ、それより重圧と化した神威が降り注ぐ。飛び回る『仮面憑き』たちが巨大な掌に握り締められたようにその動きを抑えつける。

 止まったところへ、『六式降魔弓・改』から狙い澄ました多重目標固定(マルチロックオン)の魔弾が次々と『仮面憑き』を撃ち抜き、撃墜させる。

 

 これまで通用しなかった『仮面憑き』に当てられるようになったからくりは、彼女たちの攻撃が、巫女の霊気から昇華された神気と化していることにある。

 アルディギアの王族として、ラ=フォリアには一目瞭然。

 それを為すのは、<疑似聖剣>だ。<疑似聖剣>であれば、神性と呼ぶにはかなり格の低い人工の天使にも通じる。

 だがしかし、魔族の天敵とも謳われた王家の術式は、そう簡単に再現できるものではない。

 たとえ、精霊炉の代役を務められるだけの霊気を保有するモノがいたとしても、その恩恵にあずかるには、霊気を受け取る触媒として調整された武具でなければ成立しない。

 王家の傍らに侍る乙女に破魔の力と癒しの加護を与える宝剣<ニダロス>であったなら、今の即興にも納得は良く。けれど、高性能であるが獅子王機関の攻魔師たちが持つ武神具にそのような機能はない。

 

 それを覆すのは、<嗅覚過適応>と<神は女王を護り給う>である。

 深奥にまで繋がれる霊糸によって、未調整の武神具とパスを接続し、それから“匂付け(マーキング)”。

 そこに用いられた原理は、<玉響>との時と同じだが、今回のは力を消すのではなく、更なる次元へと高める方向に働きかけた。

 宿る“匂い”を融和させてより良い芳香(もの)にするのが、ペアリング消臭の原理であって、それと同じように巫女の霊気と<神懸り>を為す金人狼の生命力をブレンドすることによって、武神具は所有者に親和性の高い神気を纏うようになったのだ。

 <芳香過適応>による<疑似聖剣>……後に、<疑似神剣貸与(スキールニル・システム)>と呼ばれるようになる。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ちっ、ウチの新商品にケチをつけやがって、(ダル)くさせる真似をしてんじゃないわよ!」

 

 『メイガスクラフト』の兵器開発部門を仕切る女吸血鬼ベアトリス=バスラー。

 制御端末(リモコン)を弄って『仮面憑き』達に指示を出していたが、いきなり戦況が覆されようとしている。魔族特区の管理公社を壊滅させることで新商品に、世界中に轟かせるほどの箔付けをしようと考えていたベアトリスにこの状況は舌打ちを禁じ得ないものだ。

 『仮面憑き』を撃ち落とすなんて、普通じゃない。それも突然起こった。

 だから、きっとそのからくりになるものがある。それを潰せば、また『仮面憑き』で蹂躙できる。

 そう睨んだベアトリスは、矢が放たれる方角へ進もうとした。

 

 

「―――行かせない」

 

 

 と銀の長剣を携えた少女が、ベアトリスの進路を遮る。

 どんくさそうな、化粧っ気のない小娘だ。しかしその手に持つ長剣は、間違いなく武神具。先日、飛空艇に襲撃した際に衝突した『聖環騎士団』が持っていた、対魔族用の武具だ。警戒に値する。無論、小娘に使いこなせればの話だが。

 少女は鋭い目で、革製の深紅のボディスーツからくっきりと浮かび上がらせるその豊満なボディラインを上から下へ視線をなぞった。

 

 この艶めかしくも退廃的な色香を振りまく女吸血鬼に、立ち塞がった獅子王機関の剣巫――羽波唯里は、険しく目を眇める。

 

「なんだい、芋娘。その目は」

 

「ここにきて正解だったよ。クロ君を誑かそうとする悪いお姉さんは、視界にも入れさせちゃダメ」

 

 恐ろしい魔族……というよりも、はしたない痴女でも見るような非難する感情を隠しもしない小娘に、カチンとくるベアトリス。

 

「随分と舐めた態度とってくれるじゃない。気に食わないわねェ」

 

 手に持っていた制御端末のパネルを操作。画面に『天罰』の文字が表示される。

 このままでは会社は破産する状況を打開するための大博打で、余計な手間に時間を取られるわけにはいかない。

 それに、最上級の素体(かなせかのん)は除くとしても、視たところ素質は他の素体よりも優秀なようだ。

 

「詫びに、全身バラバラに刻んで、増やせるだけ増やしてあげるわ、芋女。このクローン共のようにねェ!」

 

「言葉遣いも減点。クロ君に悪い影響しか与えないような魔族は、お姉ちゃんとしてきちんと討っておかないと」

 

 起動(ブートアップ)、と担い手(ゆいり)が紡ぐキーワードに呼応して、銀色の長剣は、眩い光を放つ。

 それは、染料を溶いた水を茎より吸い上げさせて自然界にはありえざる青色の花弁を彩らせる青薔薇のように、剣の輝きは蒼く、そして、より濃くなる。

 

 二番煎じが……! と嘲笑うベアトリス。

 その芸当、<疑似聖剣>は、飛空艇を堕とした時、『聖環騎士団』の連中がやっていた。そして、『仮面憑き』に敵わず、捻じ伏せられた。

 格が違うのだ。

 ならば、この結果も同じ末路を辿るだろう。

 

 気づかぬか。

 人が二つ並ぶ燃え盛る火の勢いを見比べても、その中心温度がどれほどのものか計り知れないように、魔族に清浄なる波動など本能的に忌避して目を背けるばかりで差や違いなどわかりやしない。

 過去の記憶に当てはめるには、あまりに楽観視が過ぎる。

 その剣に宿る光は、霊気に非ず。

 単なる精霊炉から供給される人工的で無機質な霊力ではない。<神懸った神獣人化>を媒体とした――第一王女もビックリな――<疑似聖剣(ヴェルンド・システム)>を、『六式降魔剣(ローゼンカヴアリエ)(プラス)』は纏っている。

 すなわち、神気を。

 そう、不完全な『天使』とは、格が違うのだ。

 そして、聖剣を超える神剣を構える少女もまた、ただ力を振るうだけの素人ではない。

 

「すぐに解放してあげるから……!」

 

 ベアトリスが護衛として側に配置していた『仮面憑き』が醜悪な翼を広げて無数の光剣を乱射する。

 飛来する剣を前に、一閃。

 それだけで、歪な光剣はすべて消滅する。まるで空間ごと抉り取られたかのように。

 そして、更にもう一閃、斬り返す。

 

「な……っ!?」

 

 白線を虚空に残す剣閃は、空間を断つ。醜悪なる翼を断つ。

 『仮面憑き』はその力の核たる翼を斬り落とされ、糸が切れた操り人形のように呆気なく倒れる。

 ありえざる光景に、ベアトリスは目を剥く。

 『仮面憑き』が、やられた。羽波唯里は、その場から一歩も動いていないのに。

 

 

 羽波唯里は、両親が職員として獅子王機関に所属している、天涯孤独の者の多い『高神の社』では珍しく、家族に養われて育った少女だ。

 他人はそれを幸福だというだろう。幼い頃に霊力を暴走させてしまい、実の親から疎まれ、虐待されてきたり、また売られたりした娘も中にいるのだ。そういう親からも捨てられてきた少女たちが集まってきているのだから、日常の話題選びにさえいつも気を遣っていたし、自分は恵まれているのだからと自身のことは後回しにして肩身が狭い思いもすることがあった。それで国防機関として魔族という人間以上の存在と戦う攻魔師になる修行は生易しいものであるはずがない。

 他に行き場のない候補生とは違って、『高神の社』を出ても生活していける唯里は、辛く苦しい修練から何度逃げだしたいと思ったことだろう。ひとりになると弱音を吐くことも多々あった。

 

 師家様より異国から拾ってきた問題児(クロウ)を預けられたのは、そんな唯里の人生の中で最も滅入っていた時期だった。最初は、情操教育をしたいのだが一応、男子であるから女子寮に置いておくのは問題で、かといって人の社会の中に放りだすわけにもいかないとのことから、両親が獅子王機関の職員だった羽波家に預けられることになった。周囲に男性の少ない環境で育っていたことで、父と弟(かぞく)以外の異性に興味もあって、どんな子なのかな、と会ってみたら、純朴で日々の些細な事にも感動を素直に露わにする年下の少年で、窮屈ながらも頑張って慣れようとするその姿に、唯里は心惹かれた。それから、ちょっと目を離すと何かやらかしてしまう天然な性分や、夜になると寂しがる弱いところに母性的なものが疼くこともあった。

 それまでの唯里の人付き合いの引き出しの中で、同じ年頃の男の子に接する経験値は、弟くらいしかいなかったので、それに当てはめるようにお姉ちゃんとして振る舞うようになってから、いつの間にか心に余裕ができていた。『高神の社』で一緒に訓練をするときも、弟に格好悪い姿は見せられない、いつも綺麗な姿で、流石お姉ちゃん――さすおね! って思われていたい。そう思っている内に、何かが花開いた気がした。

 修業は辛く厳しいものだったけれど、式神ひとつ飛ばしてみせるたびに『すごいすごい!』と目を輝かせるクロウに、唯里は更なる上達を目指すようになっていた。

 身も心も強くしてくれたのは、彼への想い。

 故に、羽波唯里は、絶対に負けない。彼の期待を裏切らないために。

 

 

「ちっ! 時間稼ぎにもならないなんて役立たずが!」

「―――逃がさない、あなただけは!」

 

 『六式降魔剣・改』の機能は、『空間切断』である。

 空間ごと切り裂くことで対象物の強度や硬度に関わらず切断可能な力。この特性上、当たれば防御力は意味をなさず、回避するしかない。

 しかし、当たらなければ意味がない。

 

「はっ! 武器を使ってる人間が、あたしの眷獣に敵うとでも思ってんのかしらァ! <蛇紅羅(ジャグラ)>!」

 

 護衛役が役立たずに仕留められた以上、自分の身は自分で守らなければならない。

 ベアトリス=バスラーが召喚したのは、『意思を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)』。深紅の槍は、自在に形を変え、長さを変え、あらゆる角度、あらゆる距離から敵を迎撃する。その反射速度は人間の限界を遥かに超えている。

 

 これを前に、羽波唯里は、長剣を二度、素振りをした。

 

「はっ? 何やってんのよ、あんたそこで剣を振ってもこっちに全然届いてない、間合いってものはわかってないの?」

「―――もう、斬ったよ」

 

 女吸血鬼の右腕が、深紅の槍ごと割断された。

 

 長剣の機能を二つに分岐する前の源流(オリジナル)の武神具<煌華鱗>には、切断した空間の裂け目から、射放った一矢を転移させるという秘技がある。

 それと同じように、『空間切断』の剣閃を寸分違わず同じ軌道に沿って斬り返すことで、斬撃を、転移させたのだ。

 迅速に、かつ、精密にこなさなければできない神業。

 空間を超えて切り刻んでくるのだから、間合いがない。剣巫の霊視界内(しかいない)に捉えた対象ならば、羽波唯里の剣は、割断する。

 

「ぎゃああああああっ!?!?」

 

 眷獣が一撃で破壊され、切断された箇所は魔性を滅する浄の属性にやられた。凄まじい灼熱と激痛が腕の切り口から全身へ流れる。高密度の“正”なる光輝が“負”の生命力に浸透し、吸血鬼の再生能力が働かない。

 

「―――<(ゆらぎ)>よ」

 

 絶叫上げる女吸血鬼の懐へ飛び込んだ唯里は、ベアトリスの頭に、密着状態からの掌打を叩き込んだ。脳を直接揺さぶられ、ベアトリスの意識は飛ばされた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 羽波唯里に襲撃者の指揮官が下され、制御端末から行動停止の命令を送信して、『仮面憑き』たちは動きを止めた。

 命令系統に『死霊術(ネクロマンシー)』を組み込んだ戦闘ロボット<炎の巨人>もまた、縁堂クロウの『死霊術』で制御権を奪って行動不能にする。

 速やかに混乱は鎮められていく。

 

 

OAaaaaaaa(オアアアアアアア)―――!』

 

 

 そんな時だった。

 空間を引き裂くような慟哭と共に広がる、凍てつく嵐がキーストーンゲートに発生。

 それは、最終進化へと至った<模造天使>が軛となるこの世の未練を切り捨てるための前段階だ。

 <模造天使>の秘儀を知るラ=フォリアは、事態を悟るや一刻の猶予もないと決断する。

 

「―――行きます。被昇天する前に、止めねばなりません」

 

「王女様! 危険です!」

 

「ええ、わかっていますよ。ですが、わかるのです。あの中心にはわたくしと同じアルディギアの血が――叶瀬夏音がいることが」

 

 王女の決意は固く。

 それをクロウの鼻は嗅ぎ取った。

 

「なら、早くいくのだ。叶瀬は、泣いている。それに、古城先輩とユッキーがいるみたいだけど、二人も危ない」

 

「「姫柊雪菜(雪菜)と第四真祖(暁古城)が!?」」

 

「あと、ここもそんな安全じゃなくなる。チリチリした“匂い”が近づいているのだ」

 

 鼻の上で踊る焦げ臭い感覚に反応し(うえむい)たクロウが淡々と告げるや、街中に爆音が轟く。

 劈く破壊音は絶えず、気配はこちらへ一直線に――邪魔な障害は全て蹴散らして――災厄の化身は現れた。

 

 

「カカカカ、我コソハコノ世全テニ死ヲ撒キ散ラス不死(シナズ)ノ獣王、<黒死皇>ナリ!」

 

 

 絶大なる力に酔いしれる哄笑。

 <模造神獣>の改造を施すことで『血に飢えた漆黒の狂獣(ブラッディ・ウルフ)』と成った改造獣人ロウ=キリシマ。

 そして、血走る漆黒の巨狼は、暴獣にとって最も適した形態に作り変えられた金属製の簡易強化外骨格(エグゾスケルトン)が装着している。己の意思では御し切れない膂力を補助するための手脚の装甲。背中のジョイントからは、兵器の群れが無数に飛び出している。

 何もかもが異形で、しかしこの上なくしっくりと獣に馴染む。

 機動兵器<炎の巨人>のパーツから巨狼の体格に合わせて組んだ武装には、巨大なミサイルコンテナにガドリング砲や速射砲、そして、巨狼の頭部と合わせてケルベロスのように両肩に巨大火炎放射機の砲門が真紅に燃え滾る顎を開いている。

 

「ゲラゲラゲラゲラ! 驚キダ。コンナトコロニイヤガッタノカ、オ姫様」

 

 暴走する暴力を己が意思で制御し、大量破壊兵器を加算させた圧倒的な暴威で殲滅する―――これが模造神獣専用強化外骨格<黒の巨人(スルト)>。

 視界に映る全てを蹂躙する不死要塞(イモータル)と化した凶狼の前に、武器も何も持たない少年が立ち塞がる。

 

「コイツはオレに任せて早く行くのだ。巻き込まれる前に」

 

 その言葉に、獅子王機関の二人は瞬時に動いた。

 第一王女を連れて、この危険地帯から離脱する。

 

「折角ノ旨ソウナ獲物ヲ逃ガスカヨ!」

 

 絃神島へ向かう際に乗っていた飛空艇<ランヴァルド>。

 それを破滅させた漆黒の凶狼。ヤツの力は、まさしく怪物。

 

 

「逃がす? 何を言う。―――この場で狩られるのはオマエだぞ」

 

 

 だが、王女は目撃する。

 かつて国王(ちち)が、戦士として再起不能に心を折られた、人知の及ばぬ災厄の化身の血統を引く者の暴威を。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 不浄なる魔性を一掃する<神懸った神獣人化>は、霊力の消耗が激しく、また神気の多くを<疑似神剣貸与>を割り振ったために今の縁堂クロウには使えない。

 ただし、『混血』

 その身に抱え込むのは決して清浄なるものだけではない。

 

 火鼠の狩衣を脱ぎ捨てるや、その姿は変生する―――!

 

 

「コレハ、一度ブチノメシテモ死ナナイヨウナ相手ニシカ使ワナイ」

 

 

 <神憑り>と同じように、“コレ”も普通に出来たら、『六刃神官』のお姉さんから『普通はそんな普通にできるものじゃないから!』と文句を言われた。

 

「加減ガデキナイカラナ」

 

 漆黒の凶狼を一回り上回る、黄金の巨狼。その頭から皮膚を内側から突き破るそれ。仄かに輝く水晶のような、鋭角な物質は、角、である。双角は血を滴らせながら天に逆らうよう上へ上へ伸長を続け、更には枝分かれする樹木のように分岐する。

 <鬼成る神獣化>―――

 剣巫が習得する流派『八雷神法』の裏技<生成り>。生命の祖神であった地母神が、『火雷大神』を生み出す冥府魔道の死神になったように、清らかなる巫女を、魔性なる瀬戸際まで堕とすことで魔族と同じ力を得る。魔女の禁断の<堕魂(ロスト)>と同種の秘奥。

 人と獣、正と負、聖と魔の中庸を保っている『混血』が、完全なる獣と化す<神獣化>から更に踏み込むことになる<生成り>を行う。

 それは普通の人間よりも相性が()()()()

 <神獣化>も<生成り>も、どちらも“獣”に成る変身にして技法だ。方向性は同じ。だから、強化倍率は相乗して高まり、その威容はもはや鬼神である。

 顎から漏れ出す太い咆哮は、それだけで常人なら失神しかねない圧がある。そして、獣であれば本能的に“格”を理解してしまう。

 だから、キリシマはもうすでに歯が噛み合わなくなるほどに震えていた。ハァハァ、と過呼吸。鬼気に獣気があまりに濃密過ぎて、いくら吸っても落ち着かない。

 恐怖が、肌身離れず、そして、骨身に浸透する。

 それでも大きく吸って、口腔に灼熱の滾りを溜めて―――

 

「カ、怪物ガアアアアアアア!!!」

 

 凄絶たる炎が砲門と凶狼の顎から吐き出される。

 それは、見るものの眼球さえ焼け爛らせる火焔。だが、この猛烈な熱をモロに浴びても、鬼神の獣は泰然としていた。

 

「ソノ通リダゾ。オマエ以上ノ怪物ダ」

 

 焔を突き破って接近し、上から、下へ剛腕を振り下ろす。

 ただ近づいて、ブン殴る。それだけの簡潔極まる暴力に、漆黒の凶狼は押し潰された。<黒の巨人>に搭載された兵器群が木端に破壊され、血走る筋骨は微塵に破砕された。

 

「オレハ……オレハ……! 世界最強ノ獣王<黒死皇>ダ! 死ナネェンダヨ!」

 

 武器は壊されたが、叩き潰された肉体は一瞬で再生する。

 そして、肉体はより大きく膨らむ。『血に飢えた漆黒の狂獣』は、目前の怪物を超える存在へ至らんと吠え猛る。

 

「タカガ死ナナイ程度デ世界最強トハオ笑イ草ダナ」

 

 対し、鬼成る神狼は、静かに呼吸する。

 鼻から吸って、口から吐く。そんな当たり前の生体活動に織り込まれている。

 呼吸をするたびに、周りに火、鬼火が生まれる。

 ポッ、ポッ、とおおよそ人の頭ほどの赤々と揺れる灯火は連続的に出現して、十を超え、二十に至ってもまだ止まらない。ずらずらと並んだ鬼火は、古めかしい灯篭にも似ている。

 まるで吐息から醸す香気に吸い寄せられるように、人魂が呼び込まれていく。

 

「ソレニ、オマエハ死臭(ニオイ)ガ酷イ」

 

 <神獣化>で<芳香過適応>は更に敏感となり、<生成り>によって魔性に属する<黒死皇>の血統がより覚醒する。

 鬼成る神狼と化したからこそ受動で発現してしまう、<過適応能力>と『死霊術』の混成能力―――<反魂香>。

 鼻で吸う――『過去』を嗅ぐ<芳香過適応>で取得する。

 口から吐き出される息吹に、その『過去』が吹き込むことで鬼火となって現れる。

 そう、やがて鬼火がヒトガタを取った時に分かっただろう。

 それは、ロウ=キリシマが薙ぎ払った特区警備隊、そして、剣を持った騎士――飛空艇を守護していた『聖環騎士団』の姿を形作っている。鬼成る神狼が、嗅ぎ取ったのは、『血に飢えた漆黒の狂獣』に染み付いた犠牲者の御霊だった。

 

「ナンダヨテメェラハ!? オマエモオマエモオマエモッ! オレガブチ殺シタハズダロ! 蘇ッテキテンジャネーヨ!」

 

 そのすべては、鬼火の化身。

 <反魂香>によって表出された『過去』の肉体は劫火の息吹きから成り立っている。

 爪を振るうが切り裂けず、牙を向こうが貫けず。

 たちまち、血走る黒の巨体は炎上した。

 鬼火のヒトガタが繰り出す煉獄の如き攻撃に全身が朱色に染め上げられ、火達磨になる。不死身であろうがそれ以上の火勢に焼き尽くされる。

 供給源である女吸血鬼(ベアトリス)は降され、無限の“負”の魔力が途絶えた以上、再生にも限度があり、それが底をつくのはそう時間のかかる話ではなかった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 遠吠えひとつ。

 それで、灼熱地獄は止まる。

 その場に横たわるのは、ロウ=キリシマ。人型に戻り、人事不省に陥っている。獣人由来のタフな自力でかろうじて息をするが、焦げた地面と見分けがつかないほどに全身重い火傷を負っていた。

 

 遠吠えがもうひとつ。

 天に昇る気流(こえ)に導かれ、陽炎が渦を巻き、人魂はあるべき場所へと帰っていく。二度目の咆哮は解散を告げるもの。しかし、残る人魂もあった。

 片手で数えられる程度、そして、全員が鎧を着込む騎士。

 帰るべき場所がない。身体があるのなら、意識不明の重体であろうとも魂に吹き込まれた生命力で治癒し、復活することができただろう。しかし魂を呼び戻しても、その身体が自然に還ったものは、現世に居着けず、元には帰せない。

 それはクロウには、どうしようもないことだった。

 そして、どうしようもない以上、クロウにできることはない。

 鬼成る神狼から変身を解いた少年は彼らへ言う。

 

「一日くらいは、鬼火()のままでいられる。……それで心残りを解消できるかはわからないけど、それまでオマエらは自由なのだ」

 

 灯した火を消しても、香にしばらく熱が残るように、<反魂香>の効力は、まだ少し続く。

 騎士の人魂は、右手を翳す。言葉は無くても敬礼から伝わる意思がある。護れなかった無念を晴らしてくれたことへの感謝。

 『お礼なんて、言われる筋合いはない』という言葉は、その想念(におい)に反すると歯噛みしながらも口を噤む。

 

「う。じゃあ、達者でな」

 

 弔いの遠吠えがまた一度、常夏の島に響き渡った。

 

 

るる屋

 

 

 中央区で派手に起こった襲撃事件の後始末は、国家降魔官の南宮那月が引き受けてくれることになった。むしろ、『貴様らの介入がバレたら面倒だ』ということで古城たちは半ば追い出される形で帰宅が許された。

 叶瀬賢生は特区警備隊に捕縛され、叶瀬夏音は古城と雪菜、それからラ=フォリアの援助があって被昇天に至る暴走を止めてやることができた。思考拘束具がされていたこともあり、夏音は罪には問われず、現在、管理公社付属の病院で調整を受けている。

 

 それで、キーストーンゲートから出たところで、クロウと合流。この後輩も後輩で襲撃事件の時は外で『メイガスクラフト』の連中を相手にしたようで、

 

「………で、『反香鬼(はんこうき)ダークロウ(鬼成る神獣化)』モードになったけど、これ、すごく疲れるのだ」

 

「!? 『反香鬼(はんこうき)』になったんですかクロウ君!」

 

「なあ、その技名というか変身名、もうちょい考えないか? こっちは肩の力が抜けてしょうがないんだけど」

 

 ただし、その大変具合を推し量るのは古城には難しかったが。

 なんかもう、反抗期にぐれた後輩のイメージが湧いてしまって、激戦の状況と結びつかない。

 そのあと、交通機関の復旧がまだで、テロの残党対策で封鎖している箇所もあって、仕方なくほとぼりが冷めるまで暇を潰しがてら街を歩いていたら、美術の補習手伝い(モデル)を探していた浅葱とその付き添いに矢瀬と凪沙がいて、飯時には電波時計よりも精密な食いしん坊後輩の腹時計が鳴り響き、もぐもぐタイムが所望された。

 古城もちょうどいいし、面倒ごとは一気に片付けたい気分でもあったので了承。

 

 で、こうなった。

 

「もぐもぐ! もぐもぐ!」

「クロ君! そんないっぺんに冷たいものを食べると、頭がいたたになるよ!」

 

 本当、どうしてこうなった。

 

 ・

 ・

 ・

 

 席順は、まず紗矢華が断固として、雪菜の隣を譲らず、あと真正面に初対面の男子(やぜ)がいるのは拒否。

 それから、相方(フォロー)役の志緒が唯里の隣に配置。

 そして、唯里は面談するクロウの対面と希望。

 なんとなく、凪沙の隣にクロウを座らせないということで古城が間に入ると、こういう席順となった。

 

 姫柊雪菜   机  矢瀬基樹

 煌坂紗矢華  机  藍羽浅葱

 羽波唯里   机  縁堂クロウ

 斐川志緒   机  暁古城

 ラ=フォリア 机  暁凪沙

 

 一名、学生御用達のアイスクリームパーラーに来店するには躊躇われるような、やんごとなきロイヤルクラスのご身分の方がいらっしゃるが、事情を知っている者らは説明義務を明後日の方向へ投げた。

 一応、裏で手を回されたのか、店内は貸し切りとなっている。貸し切りにせざるを得ぬほどもぐもぐしてる後輩がいるので売り上げ的には問題はなさそうだが、先輩の古城は遠い目をして色々と諦めた。

 

「軍隊がらみの企業のテロが中央区で起こったっていうから心配してたんだけど。余計なお世話だったみたいね古城。可愛い女の子がよりどりみどりで御身分じゃない」

「違う! いや、さっきも言ったけど、あいつらは姫柊とクロウの知り合いで、そんな浅葱の言うようなことはないから」

「本当に、そうでしょうか。出会ったばかりだというのに先輩がすぐ手を出す人ですし」

「ひ、姫柊……!」

「ね、ね、古城君。凪沙の前にいる外国の人、すごい美人ていうか。いや、他の女の人もすごく綺麗なんだけど、あの人は王女様みたいッていうか。とにかく紹介してほしいんだけど」

 

「ああもう、クロウ! 食べてばっかでないで紹介してくれ! な?」

 

 雪菜も獅子王機関出身者(きらさか)たちの知り合いであるが何だか機嫌が悪そうで頼み辛いしちょっと歯止めをかけないと店の在庫を平らげてしまいそうなクロウへ、古城は要請。

 全味制覇のゴージャスプレートをちょうど空にしたクロウは、目の前の世話焼きそうな少女から口元を拭ってもらってから、順々に向かいの席の彼女たちの紹介をする。

 

「ん。まず、一番右にいるのはユッキー」

 

「え、私も?」

 

「ちょっと頭が固いけど頭がいいしピカ一な優等生で皆の憧れの的なのだ。こっちでもお姫様だって言われてるなー」

「ちょ、クロウ君!?」

 

「その隣にいるのが紗矢お姉ちゃん」

 

「ふん」

 

「凛としてカッコいいお姉ちゃんなのだ。不器用なんだけど器用で、何でもそつなくこなして頼りにされてる、バリバリのキャリアウーマンってヤツだな」

「ねぇ、もう少し他の言い方は―――っ! 暁古城、変な目でこっちを見るな!」

 

「唯お姉ちゃん」

 

「はい! クロ君がいつもお世話になってます」

 

「オレが一番お世話になってるお姉ちゃんだ。優しい気配りさんで、でもダメなものはダメだってビシッと言ってくれる。怒ると怖いけど、こういうのを姐さん女房っていうんだろ?」

 

「そんな、俺の嫁だなんて、クロ君!」

 

「志緒お姉ちゃん」

 

「あたしに変な紹介はいれなくていいからな?」

 

「え? すごく几帳面で、紗矢お姉ちゃんよりも芸が細かい、よく皆のお手本になってるクールビューティー、とか言わなくていいのか?」

 

「言ってる言ってる普通に言っちゃってるからクロウ」

 

 (一名除いて)向こうは天然な紹介に振り回されてるが、それがかえって浅葱の追求の矛先を引かせてくれた。大変ね色々と、と若干同情気味である。

 

「で……」

「ラ=フォリアお姉ちゃんです♪」

「ラ=フォリアお姉ちゃんなのだ」

 

「ちょっと待ちなさいクロウ」

 

 紗矢華から待った(ツッコミ)が入った。

 さらりと便乗してきたけど、一秒も迷わ(おくさ)ず、あっさりと乗るな!

 悪乗りしてくるのは第一王女だけど、そんな気安い真似は、アルディギアの関係者にバレたら不敬だと問題視されるかもしれない。

 そう思ったのか、一番のお姉ちゃんがさっきまで緩んでいた眦をキッと吊り上げ、人差し指を立てて注意する。

 

「クロ君! “お姉ちゃん”はそんな会ったばかりの人に安売りしちゃダメだよ!」

 

「そうじゃないわ、羽波唯里!」

 

 くっ! 弟馬鹿(ブラコン)は、数か月ぶりに顔を合わせた弟に頭がいっぱいのようだった。さっきから存分に弟へお世話を焼いて実に楽しそうだ。

 とはいえ、結果的に姉のお叱りは功を奏したのか、天然な問題児(クロウ)は考える素振りを見せて、

 

「んー……じゃあ、何と呼べばいいのだ?」

 

「では、“フォリりん”で。そちらの姫柊雪菜(ユッキー)みたく愛称でいきましょう」

 

「ん、そうだな、わかった、フォリりん」

 

 と周りが止める間もなく、とんとん拍子に決まった。

 ダメだ、むしろ悪化した。注意するべき人を間違えた。まず第一王女に抗議しておくべきだった。でも、こんな公共の場で正体を明かすような真似なんてできないからどうしようもない。

 

 

 この辺、突き進まれると七面倒になる予感がしたのか、話題転換を図る合図に、コホンとひとつ咳払い。

 

「それで、話は聞いたんだけど、クロ君、ちゃんと一人暮らし、出来てるのかな?」

 

「うー……」

 

 クロウはあれこれ弁明の言葉を探したが、結局何も出ずに口籠る。

 芳しくないのが幼馴染でなくてもわかる反応に、唯里は悲痛な面持ちを浮かべて、

 

「まったく、だから私はひとり暮らしなんて反対だったの。クロ君のような世間知らずな子を餌食にする悪い大人のお姉さんに言いように騙されてほいほいと頼み事を引き受けたらブラックなバイトをやることになったり、それで家族との会話を蔑ろにするようになって、しまいには髪の毛を金色に染めちゃって、『夜露死苦(よろしく)』なんで横断幕を掲げてバイクで夜の街を爆走する不良になっちゃうの!」

 

「むぅ、オレ……」

 

「口答えしないの、クロ君!」

 

 説教に入った唯里に、クロウは口を閉じて大人しく姿勢を正す。『高神の社』では、説教を受けるときは正座か姿勢を正すと決められているのだ。

 人差し指をピンと立てて、唯里はきつく厳しい眼差しをクロウに向ける。

 

「これじゃあ学園生活をちゃんと送れてるのかも心配だよ。今からでも本土に戻ってきた方がいいんじゃ……」

「ちょっと待ってください」

 

 と部外者は口を挟めない空気だったが、お構いなしに上がる声が、古城のすぐ隣から。

 

「クロウ君のお姉さん、クロウ君は頑張ってます! 今は転校したばかりで慣れない新生活に浮かれちゃってる部分もあるにはあるけど、学校に馴染もうとしてるのはわかるし、皆と仲良くなろうとしてます! この前だって夏音ちゃんと捨て猫の飼い主探しの時、中等部からは訪ねにくい高等部まで訊き回ってて、ですから、そんな何でもかんでもダメだしするようなことはないと思います!」

 

 な、凪沙……?

 ものすごい早口で同級生を庇う妹に、古城は目を大きくして驚く。

 古城とて、羽波唯里の説教には思うところがないでもなかったが、しかしそれでも凪沙の口からそれが出てくるとは予想外。浅葱辺りが口出ししてくるんじゃないかとは思っていたが。

 何故なら、妹はこの『混血』の少年をどうしようもなく苦手だったはずだ。

 これには古城だけでなく、『魔族恐怖症(トラウマ)』の事情を知る浅葱らもポカンと呆気に取られていた。

 

「暁凪沙さん、だよね?」

 

「はい、クロウ君のお姉さんの羽波唯里さん」

 

 真正面に座らせた弟から、視線は横にスライドされる。

 この少女が、獅子王機関の中でも最重要監視対象の<第四真祖>の関係者(いもうと)であることは彼女とて承知していただろうが、今はそんな遠慮は皆無だった。

 両者は視線をぶつけ合い、改めて互いに相手を認識し合う作業を終えると、唯里は自らの胸に手を添えて、少し鼻高々に言う。

 

「私だってクロ君の良いところはちゃんとわかってます。一番付き合いの長いお姉ちゃんですから」

 

「だったら、もっと信用してあげたらどうなんですか。さっき、あんな頭ごなしに言ってましたけど、反論も許さないなんて、それこそ“悪いお姉さん”になるんじゃないんですか」

 

「むむ! それは聞き捨てならないね、暁凪沙さん」

 

 そのワードは唯里の琴線に触れたか。尖った眼差しを凪沙へ向ける。

 凪沙ばかりに圧がかかるのを分散するのを狙ってか、ここで浅葱も弁護を入れた。

 

「成績面で不安があるのはわかるけど、最近、補習のおかげで結構持ち直してるそうよ。クロウは中等部だけど、那月ちゃん、結構面倒見がいいから。補習常連の古城のこともとことん付き合ってくれているしね」

 

「おい、そこで何で俺のことまで持ち出すんだよ浅葱」

 

「唯里さん、私もクロウ君には助けられてますから。……正直、ここまで先輩が手のかかるとは思ってませんでしたし」

 

「姫柊までそんなこと言うのか。これじゃあ、俺の方が問題あるみたいになってんぞ」

 

 向かい席(高神の社)側の雪菜からもフォローが入る。

 そして、雪菜がこちらに回れば、当然のようについてくるお姉さんがひとり。

 

「そうね。弟離れをする良い機会なんじゃない、あまり過保護にするのもなんだしね、羽波唯里」

 

「それ、煌坂さんには言われたく無いセリフなんだけど」

 

「あれ?」

 

 とまあ、説得力はとにかく、紗矢華も加わりこれで場の過半数が弁護側に回ったことになった。

 

「唯里、あまり熱くなるのは……」

 

 相方の少女からの諫めは、自己を見直す(リセットする)効果があったか、唯里は目を瞑り、暫くした後に、口を開いた。

 

「わかりました。別の心配事が出来ちゃったけどそれは置いておいて……クロ君が、学校生活をきちんとやれてるのは認めます。―――でも、お姉ちゃんが問題視するのはひとり暮らしのこともあるよ! クロ君は、金銭感覚がダメダメなの! きちんと管理ができる人間が傍にいないと生活は無理だよ!」

 

 とまだまだお姉ちゃんは意見を撤回しなかった。

 

「昔からお小遣いを持たしたら、すぐに食べ物の匂いに釣られて色々買っちゃって三日も持たずにすっからかんにしちゃってたし! クロ君が来てから、羽波家(うち)のエンゲル係数は三割増しで増えたんだよ!」

 

『あー……』

 

 指を三本立てて抗議する唯里。弁護していた側もこれには天井を仰ぐ。

 この食いしん坊にかかる食費問題は、古城が現在進行形で実感していることだ。

 

「クロ君、宵越しの銭は持たないような生活をされたら困るの。家だったら、私がやりくりしてあげられたけど、一人暮らしじゃそうもいかないから」

 

「唯お姉ちゃん、オレも絃神島に来てお金の大切さがわかったのだ。ここは物価が高いし。だから、節約術を編み出したぞ」

 

 お?

 なんか意外な発言が後輩から飛び出してきた。

 

「貯金なんて考えてこなかったクロ君の口からそんな言葉が飛び出すなんて……うん、成長してるんだね」

 

「むぅ、そんな意外そうな顔をされるのは不服だぞ」

 

「それじゃあ、その節約術を聞かせてくれる?」

 

「これは話すよりも見せた方が早いのだ」

 

 ぱぁぁぁっ! と光り出すクロウ、いきなりのことに、全員の目が眩む。

 それで薄らと目を開ければ、古城の隣に座っていたはずのクロウがいなくなっていた。

 

 消失マジックは、担任に本当にタネも仕掛けもなく瞬間移動する魔女がいるので驚かないが、果たしてこれが何の節約につながるというのか。

 いやまさか、逃げたわけではあるまいし……というか、さっきまでクロウが来ていた赤い和服が椅子の上に残されている。裸のまま街中をうろつくほど後輩(クロウ)は野生が残っていないはずだ。

 

「一体どこに……―――ん?」

 

 よくみると、服がこんもりと盛り上がってる。小さいがそれはむずむずと動いており、何かいるのがわかる。

 そうして、襟元からひょっこりと出てきたのは、鼻も顔も丸い愛嬌のある顔立ちをした、小犬。

 

「犬?」

 

 たとえるなら、豆しばに近いが、毛並みは錆びた胴のような赤茶色で、くりくりとした瞳は金色とあまり見ない色合い。

 椅子の上にちょこんと座る豆しばのような小さい黒犬は、古城の方を見て、『わん!』と元気よく吠える。よじよじと服の中から這い出て、古城の太ももにぽんとお手。とても人懐っこい犬である。

 が、何なんだこれは??

 

 服だけ残していなくなった後輩と、その身代わりに置かれた小犬。

 この二つから結びついた予想が結びつく前に、横から視界を遮った細腕がひょいとその小犬を持ってった。

 

「わあ! 古城君古城君! この前の夏音ちゃんの猫さんも可愛かったけど、この子も、すっごくかわいいね!」

 

「おい凪沙、勝手にもってくな」

 

「えー、別に古城君のじゃないでしょ。それにだってうちマンションだし、ワンちゃんと触れ合う機会があんまりないんだもん」

 

「いやでもな、いきなり持ち上げられたらびっくりして噛んだりすることもあるだろ」

 

「しないよ。ほら、大人しくしてるし、尻尾もピコピコ振ってる! これは喜んでる証だよ古城君!」

 

 確かに、凪沙が脇に手を入れて掲げ持ち上げられているが、吠えもせず暴れる気配はない。大人しくされるがままで、伸びる胴体をブランブラン揺らしてる。

 人慣れしてる。首輪はしてないが、やっぱり誰かの飼い犬(ペット)なのか? いやそもそもコイツ本当にどこから現れたんだ??

 

「ほう……これは実に興味深いですね。わたくしにも貸してくれませんかミス凪沙」

 

 好奇心をくすぐられたように、手を差し出すラ=フォリア。

 

「あ、はいどうぞ。このモフモフ感は抱いておかないと損ですよ」

 

「まあ、そうですか」

「―――ラ=フォリア様!?」

 

 凪沙が向かいの席のラ=フォリアへ小犬を手渡す。

 これに隣についていた志緒は慌てるのだが、当の第一王女はそんな舞威媛の戦々恐々もどこ吹く風。王女相手に強引に取り上げるわけにもいかず、志緒は小犬に向かって『粗相は絶対にするんじゃないんだぞ』と念を送っている。そして、王女様は気にすることもなく顎裏辺りをくすぐる。何をしても一幅の絵として飾れてしまえる第一王女が小犬を抱えてる構図は、インスタ映えしそうで見てるだけで微笑ましくなる。

 

「問題ありませんよ。軍用犬と同じように、とても躾の行き届いている子ですから噛み癖も舐め癖もありません。おーよしよし」

 

 抱かれているが、赤ちゃん犬のように無闇に舐めることはないし、王女様の言う通り、躾が行き届いている。

 王女の腕の中に納まってる小犬に、凪沙がつんつんと鼻先を突きながら、

 

「でも、このワンちゃん、お名前は何て言うんだろ? 捨て犬じゃないみたいだし、でも首輪とかしてないから、もしかして迷子」

 

「“クロウ”ではないのですか?」

 

「「は?」」

 

 あっさりと告げたその名に固まる暁兄妹。

 しかし、他の面子はそうなんじゃないかと勘繰っていたようで驚きこそしないが、呆気に取られている様子である。

 

「いや、服だけ残っててその小犬が出てきたんでしょ? だったら、その子がクロウじゃない。見た目もクロウと重なる部分もあるし」

 

 才女の浅葱からも王女様に肯定するように推理を述べれられれば、すとんと得心がいく。

 

「お前……クロウ、なのか?」

 

「わふ」

 

 念のために本人(犬)に確認を取ってみれば、返事と一緒にちっこい肉球ハンドを挙げてきた。

 後輩は消えたんじゃなくて、小犬に変身したのだ。

 

「いや、意味がわからん。どうしたら、こんな小さい犬になれんだよ」

 

「それはおそらく獣化の応用じゃないでしょうか」

 

 古城の疑問に、雪菜がおそらくと枕詞をつけて自らの見解を述べる。

 獣人種が持つ特性である『獣人化』は、部分的に獣化させたりもできる。それでクロウは<神獣化>という人の要素をゼロに、獣の要素を百パーセントにした、完全なる獣になることもできるのだ。

 さらにクロウは<神獣人化>という人の形態を残したまま巨大化するのを押さえ込むような芸当もやれるのだから、完全なる獣と化しながらも、サイズは膨らませずに小さく圧縮するように調節する―――なんて真似もできなくはないだろう。

 この魔族の専門家である攻魔師で『高神の社』から付き合いのある幼馴染の姫柊雪菜の推測は、説得力があり、実際、正しかったのだが……

 

「獣人っていうのは、こんな小動物にも(ちっこく)なれんのか」

 

「いえ、普通、そんな真似はできませんし、しません」

 

「そうよね。わざわざ自分から小さくなるなんて真似、好戦的な獣人じゃまず思いつかない発想でしょうね。魔族特区暮らしの私でも見たことがないわ」

 

「わたくしの国でも見たことがありませんが、だとするとこれはこの子が自力で成したものなのでしょう」

 

 どうだ! と顎をあげて胸を張るドヤ顔ポーズを取る小犬もとい後輩。

 おそらく世界で唯一、愛玩動物に変身できる。これはすごいことにはすごいかもしれないが、才能の無駄遣い感の方がすごい。

 

(―――って、凪沙!)

 

 魔族恐怖症である妹が、『獣化』なんて“魔族の要素”を見せられたら動揺するんじゃないか!?

 古城は隣を窺うと、凪沙は両手をペタッと貼り付けるように顔を覆い隠していた。

 なっ、まさか泣いてるのか!?

 

「(え? あれクロウ君なの? でもクロウ君だよね言われてみるとクロウ君って感じがするしでもえ? さっき抱き上げた時、ピコピコ振ってる尻尾に釣られて視線下げちゃったけど一緒にアレも視界に入っちゃって『へぇ、この子、男の子なんだぁ』ってその時はまじまじと見ちゃったけどアレってクロウ君の―――●×◆▼★~~~っ!?!?!?)」

 

「凪沙! どうした、大丈夫か!」

 

「だ、だだだだだ大丈夫大丈夫あたしは大丈夫だよ古城君全然平気! 何でもない! 何にも見てないよ見てないからね!」

 

「そ、そうか」

 

 ものすごい必死にまくし立てる凪沙だが、顔は依然両手で隠されたままだ。

 全然大丈夫そうには見えないんだが、何も言わないで! って全身でアピールしてて兄も触れ辛い。

 とりあえず、恐怖に泣いているわけでもなさそうだし、よくわからないが、大丈夫そうではある。魔族はダメだけど魔獣は平気だったから、セーフの範疇だったのだろうか。

 

「でも、このままだとまともに話が出来そうにないしな」

 

 王女から後輩の首根っこを摘まんで取り上げた古城は、元の席へ置く。

 

「元に戻ってくれクロウ。……お前がこのままだと凪沙が落ち着かなくて大変みたいだし」

 

 貸し切り状態なので他に客はいないが、ここは飲食店。ペット同伴許可されているわけでもなさそうだし、このままでは店員からいい顔をされない。

 こくん、と小犬は頷いて、変身を解除す―――

 

「ちょい、待ったクロ坊! ストップだ!」

 

 る前に、矢瀬が声を上げた。

 

「古城、クロ坊は小さくなっても、服はそのまんまだろ? だったら、このまま元に戻ったらまずいんじゃねーか」

 

「あ、裸だ」

「裸!?」

 

 凪沙の肩がビクンと跳ねたが、妹のリアクションはもう意識しないことにした古城。

 

「これは、配慮が足らなかったな。危ない、助かったぜ矢瀬」

 

「ああ……クロ坊のことは、緋稲さんからくれぐれもよろしくと頼まれてるからな」

 

 誰かと苦労をわかり合ったかのような、深い溜息を吐く矢瀬。

 服が脱げたまま元に戻るのはマズい。

 じゃあ、ここは一旦、小犬(クロウ)を衆人環視のないところへ避難させるべきだろう。

 

「そうだな、じゃあ」

 

 トイレの個室とかで……と持ち上げようとした古城の腕を、グイッと掴まれる。

 

「それなら、私が、面倒見ます」

 

 机から身を乗り出して、小犬を抱えんとする古城を阻むのは、もうひとりの剣巫にして、後輩のお姉ちゃん。

 

「え、いや、クロウの着替えに付き合わないとならないし」

 

「大丈夫です、クロ君のお姉ちゃんですから。お風呂にだって一緒に入ったことがあるから。肌とか見るくらい全っ然平気です。ですから、心配しないでください」

 

 なんか目がギラギラ光っててこわいんだけど。むしろ小犬(後輩)を預けるのが心配になってくるんだけど。

 着替えるくらいそんな至れり尽くせりな気合いを入れる必要もないというか、世話焼きの範疇の逸脱してないかコイツ?

 

 つと、古城は端の席に座る<第四真祖>の監視役を見る。

 

 ああ、姫柊も気合いを入れ過ぎてるというか変なところあるし……まともな()だと思ってたけど、獅子王機関の剣巫ってこういうもんなのか?

 

「……先輩、今何か失礼なことを考えませんでした?」

 

 じろりと睨まれたので、余計な考え事を打ち切る。

 で、

 

「さあ、クロ君をこちらへください!」

 

「いや、やらねーよ。これくらい俺ひとりで十分だから!」

 

 後輩が何かとやらかすのは、育った環境や周囲の人の影響(せい)もあるかもしれないと古城は思った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「師家様がなー、『悔しかったら、あんたも小さくなってみな』っていうから、小さくなろうと頑張ったら、できるようになったのだ」

 

 使い魔の黒猫が分け前のキャットフードを独占するため、この<小犬化>を編み出したのだとか。

 人型に戻った(着替え済)後輩から語られる“節約()”を開発することになった経緯に、何とも言えずに額を押さえる。

 

「けど、まあ、身体が小さくなるんだから、その分、食事量は減ったんだろ?」

 

「ううん。小さくなっても、ちょっとくらいじゃ満腹にならないし、逆に口が小さくなって食べづらくなるから不便なのだ」

 

「意味がねーじゃねーか! おい、節約術なんじゃないのか?」

 

「オレなりに考えたけど、それがうまくいったとは言ってないのだ」

 

 ダメだコイツ。

 すごい奴なのはわかるのだが、放っておくとその才能を斜め上に伸ばしてしまう。そのダメさ加減が『私が面倒見てあげないと……!』という母性本能くすぐる塩梅になるのかもしれない。

 兎にも角にも、こんな根本的な解決にならない話じゃ、かえってお姉ちゃんを心配させるだけだろう。島での一人暮らしを認めてもらえるとは思えない。古城だって、あちら側に靡きかけているくらいだ。

 獅子王機関は、もっと日常生活的なスキルや常識というのを後輩に教え込むべきじゃなかったのか。『教育方針を間違えたかもしれない』と同じくその<小犬化>を見せられて頭を抱えた師家様の胸中と同期する古城。

 

「私達はクロ君が十分活動できるだけの仕送りをしているはずだよ。それなのに、こんなんじゃやっぱり一人にはさせられないよ」

 

 羽波唯里の説教は正しく、古城には反論できない―――と思った矢先に、また隣から声が上がった。

 

「―――その、クロウ君のお姉さん! それなら、あたしがクロウ君のご飯を作りましょうか?」

 

『凪沙(ちゃん)!?』

 

 お姉ちゃんの説法を遮るのは、またしても妹。

 

「うん、あたし、決めました!」

 

 挙手して、凪沙は唯里へ提案する。

 

「お姉さんが心配する通り、クロウ君がお金のやりくりとかに相当不安なのはわかりました。あたしだって、話を聞いてたらクロウ君が変な詐欺とかに引っかかるんじゃないかとすごく心配になりましたもん! ですから、そうならないようにあたしが責任をもってクロウ君のご飯を作ります! もちろん、食費は出してもらいますけど」

 

「う。凪沙ちゃん、それはすごく助かるけど、いいのか?」

 

「あたしは毎日古城君の食事を用意してるし、クロウ君の分が足されても問題ないよ。あ、クロウ君、何か食べられないものとかある? アレルギーとか?」

 

「ないぞ。オレは好き嫌いなんてしないのだ」

 

「じゃあ全然大丈夫だね」

 

「「いやいやいやいや」」

 

 古城(あに)唯里(あね)が揃って、残像が出るくらいに手を振る。

 

「別に凪沙がそこまでしなくても、クロウが適当にコンビニとかで弁当買ってくればいいじゃねぇか」

 

「弁当ばっかりは身体に悪いよ古城君。それに絃神島は物価が高いんだから。しっかりご飯を食べるなら、自炊ができないと」

 

「しっかりしてる子……! で、でも、クロ君は食べるよ! いっぱい食べるんだから、作るのも大変だよ!」

 

「頑張ります! 学校の食堂とかで見ましたけど、クロウ君、たくさん食べて、それでいつも美味しそうに喜んでるのを見ると、作り甲斐がありそうだなぁ、って」

 

「くっ、その気持ちはわかる……! だけど、あなたに負担をかけることになるし、あまり迷惑をかけるのは……」

 

 凪沙の提案とそこにかけるやる気というのは伝わった、それから家庭的なスキルに自信があるのはわかったけれども、うん、と首を縦にはなかなか振れない。

 

 クロ君の財布の紐と胃袋をいっぺんに握りにくるなんて、暁凪沙、恐ろしい子……!

 

 目を大きく見開いてわなわな震える唯里。

 そんな元ルームメイトの動揺に、別に姉というわけではないが半分くらいは同意した雪菜が口を開いた。

 

「あの、それでしたら、私がクロウ君の食事面の面倒を見ましょうか?」

 

「ユッキーが?」

 

 一般人(なぎさ)に迷惑をかけるのは気が引けるところがある。

 それに、身内の不始末は身内が付けるものだ。だから、同じ獅子王機関の構成員であり、同じ<第四真祖>監視の任務に就いている自分が面倒を見る。

 その姫柊雪菜の代案は筋が通っていた。

 しかし、唯里には無視できないひとつの懸念が過った。

 

(ユッキーは料理ができる、刃物の扱いは特に上手。クロ君のように電化製品をぽちっとスイッチを押すだけで壊したりしない。……でも、生粋のマヨネーズ愛好家(マヨラー)!)

 

 同じ釜の飯を食ってきたルームメイト四人は知っている。

 姫柊雪菜は、マヨネーズは万能調味料だと信じてやまない女子だと。野外訓練でも、師家様にマヨネーズは持ち込めないかと訊ねたことがあったくらいだ。シェアしていた部屋の私用の冷蔵庫には、いつも大量のマヨネーズがストックされていたし、きっと今の潜伏先であるマンションの部屋もそうだろう。

 焼きそば、かつ丼、チャーハン、ラーメンなどなど作った料理全部に最後の仕上げとして象牙の塔を築かんばかりにムリュムリュとマヨネーズ丸々一本分をトッピングする――そんな超高カロリーのメニューを、育ち盛りの弟が毎日おかわりするくらいの量を摂取したら、その摂取カロリーはどんだけになるのか。きっと戦闘力(カロリー)測定器(スカウター)が壊れかねないほどだろう。

 そこから次に、脳裏で連想されるのは、さっきの小犬が、肥満犬になる姿である。

 ……いや、どんなにお腹たぷたぷの太っちょになっても姉として愛せるが、健康面からして姉として推奨できない。

 

「……いや、気持ちはありがたいけど、ユッキーに迷惑をかけるわけにはいかないよ」

 

 縁堂クロウは絃神島へ派遣されたのは監視役の補佐である。なのに、その負担を増やしてしまっては本末転倒―――という一般人を前には口に出せない“理由の半分”ほどを暗に示して(当人に向かっては言えない理由のもう半分は隠して)、彼女にも引き下がってもらう。

 

「ここは、お姉ちゃんである私が、補佐役の御世話役に立候補すれば何も問題はなくなるの!」

「いやダメだからな唯里。そんなの認められないから」

「でしたら、補佐についてもらっている私こそがフォローすべきでしょう。大丈夫です。兵糧(マヨネーズ)は大量に買い込んでありますから」

「雪菜、ちょっと私とお話ししない。こっちも何だか食生活が心配になってきたから」

 

 収拾がつかなくなり始めるくらいに騒ぎ立つ元ルームメイト四人衆を他所に、また一人立候補が上がる。

 

「ねぇ、私が面倒見てもいいけど? 料理の練習台にもなるしね」

 

「浅葱はやめておけ。味見役じゃなく、毒見役になる」

 

「は? どういう意味よそれ」

 

「とにかく浅葱は絶対ダメだ」

 

 チラッと古城を見てから浅葱も名乗り上げたが、いつになく真剣な顔をした幼馴染の矢瀬が止めた。

 幼馴染だから知っている。藍羽浅葱は胃袋がブラックホールだが、その手が生み出すのはダークマターだと。かつて試食して病院送りにされたことがある一幼馴染の感想として、あれは猫のエサ(キャットフード)の方が食えるだけ遥かにマシだった。想い人の前に練習したい、家庭的なところをアピールしたい幼馴染(あさぎ)の乙女心はわかるが、そのために犠牲者を出すのは流石に忍びなかった。

 

 

 そんな、周囲の意識が横道に逸れていく中で、二人の対話は続いていた。

 

 

「んー……オレが言うのも何だけどな。オレのご飯を作ってもらうのは、やっぱり大変だぞ。何というか、お金出したくらいじゃ割に合わない」

 

 割に合わない、なんて言うけれども、暁凪沙には大きな恩がある。

 黒死皇派(テロリスト)から助けてくれた―――獣人にパニックになっていた自分を気遣って、魔族なる力(じゅうか)を見せずに。

 『古城先輩との約束だからな』と言って、凪沙の身に傷ひとつ許さずに守り通し、震える心にそれ以上の恐れを抱かせぬよう心を配る。

 彼にとってそれは特別なことではないし、恩に着せるようなものでもない。

 よく噂を耳にする。

 “黒猫を頭の上に乗せた赤い和服を着た少年”が、逃亡中の魔導犯罪者をひっ捕らえたり、交通事故に遭いそうだった老婆をひょいと拾ったり、泣いた子供と一緒にその失くし物を探したり、西地区を仕切る獣人種が集まった暴走族と南地区を陣取る乱暴者なトロールが率いる小鬼(ゴブリン)集団との抗争を拳ひとつで喧嘩両成敗したら『絃神島大連合・狼愚(ローグ)わん!』の総代になってたりとか。

 なんか伝説っぽいのを築き上げてるけど、学校での彼は、ごくごく普通にしている。授業中にウンウン頭を悩ませたり、昼食の時間が近くなるとソワソワ落ち着かなくなったり、クラスメイトの話を興味津々に聞き入ったりと学生生活を謳歌していて、そんなことはちっともおくびに出さない。眠そうにあくびはよくするけど。一時期、高等部の古城君(あに)の担任から追いかけられたこともあったけどそれも最近は無くなって落ち着いている。

 魔族の力を持ちながらそれを誇示することもなく、普通の人間にはできないことをしている不思議な『混血』の少年を、凪沙はいつしか、恐怖の対象としては見なくなっていた。

 だから、だろうか。

 彼がこの島を出る、なんて話に真っ先にイヤだ、そんなのダメ、って思ったのは。

 凪沙が声を上げた理由に、自炊の出来ないクラスメイトをかわいそうだと思う気持ちがあるが、過半数を占めるのはそんな勝手な衝動だった。

 

「……だったらさ。あたしの……魔族恐怖症(トラウマ)の克服に付き合ってよ」

 

「む」

 

 この依頼に、渋い表情を見せるクロウ。

 人を怖がらせるのは避ける彼にとって、人を怖がらせることになるだろう行為はあまり推奨できるものではない。

 それを強引に畳み掛けるようやや早口に、胸の中にある不安をブレンドした言葉を吐露する凪沙。

 

「古城君から話を聞いてるなら、心配されるのはわかるけどさ。でも、あたしもいつまでもこのままじゃダメだってのはわかるの。いやなことから逃げても、それが消えてなくなるわけじゃないんだって。ずっと魔族を怖がってたら、古城君やみんなに迷惑を掛けちゃう……この前の時みたいに―――だから、ギブアンドテイク! あたしはいつまでも怖いのはイヤで、クロウ君は自炊できないのはダメ、お姉さんに心配を掛けちゃうのは本意じゃないんでしょ? でもあたしが面倒見れば無問題(モーマンタイ)! あたしたちの不安が一石二鳥に解消できて一挙両得だよクロウ君!」

 

 後半はもう勢い任せに喋りまくったけど、彼も彼なりに噛み砕いて理解しようとしてくれて、凪沙の目を真っ直ぐに見つめながら、

 

「むむ、お得なのか。それは是非ともやらないとな。でも、具体的にどうすればいい? オレ、ちゃんとやれるのかわからないぞ」

 

「クロウ君、怖くないし、あたしのこと気遣ってくれるし……クロウ君なら、大丈夫だから。クロウ君がクロウ君のまま傍にいてくれるだけで十分だから。……お願い、クロウ君」

 

 段々と語調が弱くなる凪沙へ、その少年は端的に、ハッキリと了承を告げた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「う。わかったのだ」

 

 で、この時の妹と後輩のやり取りの間に挟まれる兄の心境はどのようなものかを述べよ、というような国語の問題が出たのなら、それは原稿用紙一枚分くらいじゃとても物足りないと古城は思う。

 それでも、一文で簡潔にまとめるのなら、非常に複雑な心境である。

 

 凪沙がトラウマを克服しようと第一歩を踏み出そうとしている。

 それは兄として純粋に心配だが、同時に応援もしてやりたい気持ちもある。吸血鬼となってしまったことを凪沙には隠している古城としては、そのトラウマが少しでも和らげば気が楽になる。

 

 クロウのことも信頼している。

 お馬鹿で世話のかかるところもあるけど、人一倍に気遣ってくれるのは知ってる。素直にコイツなら任せても大丈夫だと思える。それにあんな魔族としての毒気のない小犬になれるくらい獣化が達者なのだから、練習相手にはうってつけだろう。

 

 しかし、これとそれとは話が別だと声を大にして言いたいものが胸中に燻っているわけで。

 

 そう、クロウには助けられているし、助けてやりたいとも思っている。妹の手料理のご相伴に預かるくらいは許容しよう。

 

 

 だが、この後輩の居住区である骨董品店は、ラブホ街の真っ只中にある!

 

 

 そんなところに凪沙を通わせる真似など論外だ。そうなったら兄は不純な心配で気が気でない。そっちの発展は応援していない。断じて。

 たとえ何も手を出さなくても、関係ないのだ。ラブホテルを背景にして逢引きするところを誰かに見られでもしたら、学生の身分にはあまりよろしくない噂が立たれるだろう。実際、古城は現在進行形で被害に遭っている。

 

 だとしたら、こっちのマンションに呼ぶことになるか。

 後輩(クロウ)監視役(ひめらぎ)の補佐役だから、<第四真祖>に近いポジションを取れるのは好都合だろう。

 が、時たま帰ってくる母親に見つかったら、大変面倒なことになる。娘と親しい男子が家に招かれていることを知れば、あの変態な母は、兄としては余計なお世話な方向に後押ししかねない。いや、かもしれない、ではなく、ヤツは絶対にやる。

 そして、万が一にも糞親父だったら、戦争になる。間違いなく。

 

 兄心は非常に複雑だ。

 後輩は良いヤツだ。でも、ただ一点……こいつが男であるのが悩ませる。もしも妹と同性なら、古城は心配することは何もなかった。

 

「せめて、クロウが女子だったら言うことなしだったんだが……」

 

 ポロッとうっかり洩れ出てしまった本音。

 ただし、それに至るまでの過程を省いたそれは聴く者に力いっぱい誤解されかねないものだった。

 しん、と静まり返ったテーブル。さっきまでそれぞれで論議を白熱していたのに一瞬で冷めた。その中でも冷え切った視線を向けてくる二人に古城は息を呑んで、己が失言を今更に気付く。

 

「……今の発言はどういう意味ですか先輩?」

「いや、違うんだ姫柊」

 

「あの噂は誤解じゃなかったの古城!」

「だから誤解だって浅葱!」

 

 噂が自然消滅する75日も経たずにこの発言はマズかった。再燃する疑惑を真剣に問い詰めてくる雪菜と浅葱のただならぬ雰囲気に、今日が初対面の面子にも古城とクロウを交互に見つめ、『え? こういう関係なのか?』と思われる。口ほどにものをいう目に、古城はもう泣きたかった。

 そして、問題発言に過敏に反応する女子がもうひとり。

 

「あんた、クロウにまで手を出そうなんて、やっぱり変態ね変態」

 

「お前には言われたくねーよ煌坂! この前、クロウを鎖に繋いで連れ回してたじゃねーか!」

 

「ちょ―――」

 

 と煌坂紗矢華への古城の言い返しから飛び火して、事態はより炎上。

 

 

「煌坂さん、ちょっと、お話しがあるんだけど?」

 

 

 ガシッと隣から肩を掴まれる。

 

「は、羽波唯里! 違うの! これは誤解よ!」

 

 クロウがただ一人、唯里にだけサラッとだが言っていた。『怒ると怖い』と。

 紗矢華は余計なことを暴露してくれた古城に恨み節を頭の中で喚き散らしながら、助けを求めて視線を巡らす。

 しかし、助けを求めたいが、妹分の雪菜は、もうすでに席を立って浅葱と一緒に古城の問題発言を追求しており、こちらに気付いていない。

 

(斐川志緒、あなた、パートナーでしょ!? なんとかして!)

(残念だが、煌坂紗矢華。触らぬ神に祟りなし、だ。それと、鎖に繋ぐとかあたしもドン引きだ)

(だから、事情があったの! 本当、私じゃどうしようもない事情が!)

 

 それでもうひとり、般若になった剣巫を挟んで向かい側にいる同僚の舞威媛がいたのだが、そっぽを向かれた。

 

「さあ、煌坂さん、キリキリ吐いてね?」

 

 そして、真正面で相対する羽波唯里は、顔は笑みを作っていたけど、目は笑ってなかった。

 

 

「よし、そろそろ店を出ようか。あまり長居するのも何だしな。もう交通機関も回復してるだろ」

 

 犬も食わぬ痴話喧嘩と犬も尻尾を巻く修羅場が同時展開して、良い子には見せられない様相となってきたので、矢瀬は避難誘導を買って出た。“耳”の良い彼は、店の中にいながらも外の街の様子を敏感に察知している。

 姫柊雪菜と浅葱に挟まれる古城が『俺を見捨てるのか矢瀬!』と目で訴えてきたが、無視した。薄情だが、こちらまで疑惑に巻き込まれたら先輩に合わせる顔がなくなる。

 

「う、そうだな。お見舞いに行かなくちゃいけないし」

 

「……古城君、クロウ君が女子だったらいいのに、ってどういうことなの? それに鎖に縛られたって初めて聴いたんだけど……」

 

「おーい、凪沙ちゃん。ぶつぶつと呟いて、どうしたのだ?」

 

「クロウ君! クロウ君はそういう趣味があるのっ??」

 

「ん? どういう趣味なのだ? よくわからんけど、オレは食べ歩きが趣味だぞ。今日のアイスも美味しかったぞー」

 

「そう、それは紹介してよかったけど……うん! クロウ君が古城君の影響で変な方向に芽生えないように、あたし、頑張って美味しい料理を作るからね!」

 

「おー、楽しみにしてるのだ」

 

 後輩組は丸く収まりつつあるし、このまま撤収としよう。

 

「? 古城先輩や唯お姉ちゃんたちを置いてってもいいのか?」

 

「構いませんよ縁堂クロウ。お互いの理解を深めている最中のようです。たとえ家族でも相互理解を怠ると、大変なことになりますから。ですから、よく話し合わなければなりません」

 

「ふんふん、大変そうに見えるけど、大事な事なんだな」

 

 とそれまでくすくすと微笑んでいた王女様が、今回の一件――叶瀬夏音と叶瀬賢生のこと――を含めるように、いい感じに話をまとめてみせた。

 

 

???

 

 

 “向こう”と繋げた通信霊具の水晶玉に映った少女は、機関の長としての正装である純白と漆黒の僧服ではなかった。

 

「……それは何のつもりですか、闇白奈」

 

 こちらと同じ、彩海学園の制服に身を包んでいるのは、真っ白な長い髪と凹凸(メリハリ)に富んだプロポーションを誇る少女――(しずか)古詠と同じ『三聖』である(くらき)白奈である。

 一体何の嫌がらせかと、同僚でなければ小一時間は問い質したであろうが、閑古詠はつとめて冷静に反応を返した。

 

「え、っと、わ、わたしも学園に転入しよ(いこ)うかな、って」

 

「これ以上の人員が絃神島に潜入することは推奨できません」

 

 もじもじとしながらそう言う白髪の少女に、閑古詠は一顧だにせず突っぱねた。

 

「学生として潜入していますが、それはあくまで任務の為です。我々は、この『魔族特区』に遊びに来ているわけではありません」

 

「現地で彼氏を作った奴は言うことが違うのう。しかし、手も握らせない冷たい態度を取ってばかりと聴く。ちょっとくらい健気にあぴーるしないと、嫌われるやもしれんぞ、閑」

 

 本を読むように淡々と語る閑古詠を嘲るように、闇白奈がニタニタと笑う。

 最初の気弱げな少女とは、雰囲気から声色までガラリと変わっている。この独特な口調と老獪な人格は、何世代にも渡って引き継がれてきた『(くらき)』だ。

 閑古詠は、余計なお節介を無視して、更に温度の低くなった声音で言い返す。

 

「別に構いません。我々が優先すべきは『三聖』としての職務を全うすること。貴女も同じ『三聖』であるのなら、何を優先するべきかわからないというような振る舞いは許されるものではない」

 

「わかっておるよ、制服(これ)は冗談だ。儂も少しは学生気分に浸りたくてな。まあ、白奈は半分本気だったが」

 

 と落胆を全身で表現するように、大きく肩を落として溜息を吐いてみせる闇。閑は大変嫌な予感がした。

 

「しかし、つれないなあ。長い付き合いだというのにちっとも誘ってくれない無愛想女もいるが、もうすぐ『波朧院フェスタ』なるものがあるのだろう?」

 

 それは、普段は入場を制限する『魔族特区』が開放的になる、人工島をあげて外来者を歓迎する一大イベントだ。

 

「あなた、まさか……」

 

「何、本殿には隔宗慈がおる。2、3日空けたところで問題はない」

 

 ここまで言えば、闇の意図は明らか。残り一人の『三聖』に押し付けて、こちらに来る気満々だ。

 

「無論、儂も『三聖』であるからな。“護衛”をつけさせるとも。そうさなぁ……ちょうど現地にいる<犬夜叉>はどうかのう?」

 

 とたった今思いついた風に提案するが、彼女の本命(ねらい)は閑にもわかっている。あちらも隠す気はない。

 根回しという点においては、海千山千の『三聖』で最も秀でた才覚を有する『闇白奈』が動けば大概のことは決定事項となり、この通信も同じ『三聖』である自分に義理を通したもの。ほぼ事後承諾だが。今更手を回したところで、閑古詠ひとりの働きかけではどうにもならないのだ。

 

「何なら、閑も連れて、だぶるでぇと、と洒落込んでも構わんぞ?」

 

「来ないでください。絶対に来ないで」

 

「何だ、それは来てくれという前振りかの?」

 

 その後、闇白奈の来訪阻止に、閑古詠は手を尽くしたがそれも叶わなかった。

 

 だが、権謀術数を張り巡らす高度な頭脳戦など知ったことではない、理論を搔き乱すカオスの如く何をしでかすかわからない、色んな意味で対闇白奈の鬼札(ジョーカー)を閑古詠は知っている。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 獅子王機関本部より<犬夜叉(クロウ)>に、『近々来訪する『三聖(シロナ)』と極秘任務として(ふたりっきりで)絃神島の“視察(デート)”に付き合うように』との通達が送られた。

 

 

空港

 

 

《再会した瞬間が、肝心だぞ。変わってるところをアピールし、『お? いつもの白奈と違う』と犬夜叉に思わせるのだ。犬夜叉に振り回される前に、こちらが第一印象から先手を取り、ヤツのターンなど与えず、ずっとリードするのだ》

 

 成長期でもなければ数ヶ月で人は急成長することはそうそうない。

 でも、見た目を変える術はある。

 いけいけゴーゴーと闇家代々引き継がれてきたご意見番に後押しされながら、慣れないファッション誌を読み漁り、この久方ぶりの逢瀬のためにお洒落を磨いてきた。

 サマードレス。いつもの衣装では隠れる素肌をさらけ出している。飛行機を降りた時から常夏の空気に撫でられ、気分が落ち着かない。

 それよりも、急く気持ちが左胸を衝いている。

 

 彼も少し背が伸びてたりするのだろうか?

 式神越しにすることはあったけど、直に対面するのは久しぶりのことで、少し緊張する。

 

 

「わー。何あれかわいい!」

「あんなに小さいのに大丈夫かしら?」

「飼い主はどこにいるんだ?」

 

 

 が。

 

 

「わんわん!」

 

 

 こちらを見つけ、元気よく吠えるのは、この空港で放されている麻薬探知犬とかではない。

 たすき掛けに背負っていてもその体躯では長すぎるバットケースをずるずると引きずりながら、とことことこちらに歩いてくる赤茶毛金瞳の小犬。

 

 ……彼が、師家である縁堂縁と同じように、犬の使い魔を飼い始めたという話は聞いていない。

 それで直感が常夏の島の暑さに早速混乱してしまっているのか、『アレが彼だ』と言っている。

 

「わん!」

 

 『再会したら仔犬になっていた』に勝るインパクトは装いを変えたくらいじゃ無理だった。

 シティボーイになってあか抜けたとかそんな次元じゃない。原始的な方向へ時代を遡っている。背は伸びてないし、むしろ縮んでしまっている。

 

《白奈よ。気持ちはわかるが、無視をするとよけいに面倒な方向に事態が拗れるぞ?》

 

 頭が真っ白になるくらいの先制パンチを貰ってしまい、シミュレーションしてきた再会した際のシチュエーションが全部白紙になってしまったわけだが、この状況は放置できない。会話もままならないし、普通に目立ってしまっている。

 長い白髪の一本――霊糸を伸ばし、超小型犬となっている彼の額に繋ぐ。

 

『クロウ君、ですか?』

 

『そうだぞ白奈。久しぶりー』

 

 まさかの(やっぱり)(クロウ)だった。

 

『いつもときてる服が違うな。今日が極秘任務だからなのか? なんか新鮮なのだ』

 

 そのセリフは念話ではなく、生の発声で聴きたかった。

 

『あ、今は任務中になるから、“闇白奈様”と呼んだ方がいいのか?』

 

『いえ、これは極秘の視察なので、一般人として装うために呼び捨てでお願いします』

 

 それよりももっと指摘する点がある。

 

『それで、その姿は何なのですか?』

 

『この<小犬化>は、隠密行動に最適なのだとお姉ちゃんから助言をもらってな』

 

『へぇ……その助言をくれた親切な方は誰ですか?』

 

『志緒お姉ちゃんなのだ』

 

 アイスパーラーを出た後、折角編み出したのに<小犬化>に使い道がないことにしょんぼりしていたところ、暗殺の専門家の舞威媛である斐川志緒から、『別に全くの使い道がないわけでもないだろ。ほら、隠密行動とかに向いてるんじゃないか?』と助言をもらったのだ。

 斐川志緒は、『高神の社』の頃から、落ち込むと素っ気なくも励ましてきた、地味にこまめに弟分(クロウ)から好感度(ポイント)を稼いでたりしている。

 

『そうですか。……斐川志緒さんがですか』

 

 内なる白奈(まっくろな)は思った。

 よし。余計なことを吹き込んだこやつは、今度、任務で扱き使ってやろう。再会のファーストインパクトを台無しにしてくれた罪は重い。

 

『それでな、ちゃんと事前に緋稲お姉ちゃんにチェックしてもらったのだ。今度の極秘任務はこの<小犬化>はうってつけだと太鼓判を押してもらったんだぞ。本をいっぱい読んでて賢くて偉い緋稲お姉ちゃんの言うことに、間違いはないのだ』

 

 ざわっ、とほんの一瞬、白髪が蠢く。

 どうやら、この頓珍漢を看過し、助長してくれた同僚もいるようだ。

 

『……私も、『三聖』ですよクロウ君』

 

『う、そうだな』

 

『……それに、年上です』

 

『ん、わかってるけど、それがどうしたのだ、白奈』

 

 残念なことに去年まで女子校の環境の中で過ごしながら、彼の辞書(あたま)には女心というものがすっぽ抜けている。

 唐変木に期待してはならないのはわかっているのだが、どうして閑古詠(あっち)と呼び方のオプションに差がついているのだろうか。

 しかしとりあえず不満は一旦飲み込んで、これ以上変な方向に転がる前に修正を図る。

 

『なるほど、よくわかりました。ですがこのままでは護衛になりません。今のクロウ君では満足に得物を振り回せないでしょう?』

 

 何せ小犬の体格よりも得物(バット)の方が長いのだから。咥えて振り回すにしても、振り回されるのが目に見えている。

 

『むむ!? そんな欠点があったとは……! 緋稲お姉ちゃんも見てくれたから完璧だと思ったのに……』

 

『閑……緋稲さんは、あれで案外抜けているところがありますので、今度何か助言を頂いた時は私に教えてくださいね』

 

『セカンドオピニオンというヤツだな。この前、テレビでやってるのを見たのだ』

 

『はい、そうです。何時何処で何が起こるかわからないのですから、人型に戻ってくれませんか』

 

『う。このままだと白奈を守れないしな。ちょっと向こうに着替えを置いてきたからちょっと待っててくれ』

 

 当たり前のように闇白奈(じぶん)を庇護する対象と見てくれることに、嬉しさを覚える。

 

 ・

 ・

 ・

 

 そして、仕切り直して。

 普段の姿になって戻ってきた彼は、どういうわけか武器である(彼にとっては枷であるが)『甲式葬無嵐罰土』を抜いていた。

 しかし、これは近くに敵がいるというわけではなく。

 

「ほい、っとな」

 

 くるっとバトンのように一蹴させると、バットが、全てが木の骨組みでできた番傘に変化していた。

 

「これは……」

 

「ちょっと縁お姉ちゃんに指導してもらいながら練習したのだ」

 

 『甲式葬無嵐罰土』は、彼の意に即して、大樹にも変化する代物だ。木の棒(バット)から番傘へ形態を変えることはできなくはない

 けれど、何故そんな真似をしたのか?

 その疑問に対する答えは、彼の行動で示される。

 

「ほら、白奈に日差しは辛いだろ?」

 

「そう、ですね。はい。大変良いと思います」

 

 隣で掲げられた大きな番傘が、茹だるように熱い日射を遮る。そこは、木陰にいるように涼しく、心地良い。

 大太刀ではなく、日傘に。

 仮にも武神具を便利グッズみたいに扱うのはどうかと思われるかもしれないが、よしとする。無人島に放置されれば、長槍を包丁代わりに使う者もいよう。

 そして、彼の手元で揺れるもの。持ち手の所に結びついているお守り袋は、自分が贈ったものだ。

 

「ふふっ」

 

 再会のファーストコンタクトはズッコケたけれど、こうして自然と寄り添えるだけで、帳消しとなってしまった。

 こうした気遣いを何の見返りも考えずに自然に行う。相手のためになることだけを考えてする。陰謀などとは彼方にある在り方。だから、心を許せるし、彼の隣はとても気が安らぐ。

 

「古城先輩も日差しとかダメな人だからな。今度、機会があったら傘を差そうかと思ってる」

 

「そちらは、姫柊雪菜に任せた方がよろしいでしょう」

 

 世間体とかは考えてほしいと常々思っている。

 ただでさえ良からぬ噂が立っているのに相合傘などしたら、事態の収拾がつかぬだろうに。だいたい煮ても焼いても食えなさそうな『世界最強の吸血鬼』が、熱射病くらいでお陀仏になるわけあるまいし、この“特権”はしばらく独占しても構わないだろう。

 

 さて。

 

「それ、で……緋稲さんへ今回のお礼にひとつ助言をしたいのですがよろしいですか」

 

「う、早速だな。わかったのだ。どんななのだ白奈。オレにもできることなのか?」

 

「はい。矢瀬基樹という方がいらっしゃるでしょう? 今度、その方を“基樹お兄ちゃん”と呼んで差し上げなさい。いきなり呼び名を変えられて驚かれるかもしれませんから、『『三聖』のお姉さんがそう望んでいた』と説明することを忘れずに」

 

 

 

つづく

 

 

 

NG 黄金の日々Ⅴ

 

 

 

「どうして拒む、冬佳ッ……!」

 

 絃神冥駕は、吠えた。

 ここで自分の手を掴めば、再び共にあれるというのに。

 彼女もきっとそれを望んでいるはずなのに。

 何故? という言葉は脳裏を乱舞して、心中搔き乱される冥駕であったが、<黒妖犬>に憑依している冬佳を見て、ハッと気づく。

 ああ、“器”に不満があるのだと。

 

「そうか、わかったよ冬佳。君がどうして拒絶をするのか」

 

「『! 冥駕、わかってくれましたか!』」

 

「ああ、もちろんさ。私は、大切なところを見落としてしまっていた」

 

 自分の話を断るのは、あまりに当然のことだった。

 彼女を蘇らせることばかりを考えて、そのようなことは些末なことだと思っていて、強引に話を進めてしまっていたが、これはいくら何でも配慮が足りなかった、と冥駕は自嘲した笑みを浮かべる。

 

 だけど、冬佳。安心してくれ。私は君のためなら何でもすると決めている。

 

 かつて冬佳と出会ったばかりの頭でっかち(インテリ)だった頃は、そこの<第四真祖>のようにデリカシーがなかったとさんざん言われてきたが、今は違う。

 稀代の研究者の頭脳には、繊細にして時に非合理的になる、カオス理論な女心というものが入力(インプット)されている。

 彼女の口からは恥じらってしまって言いづらいことだろうが、ならば、冥駕から思い切って提案をしよう。

 

 

「冬佳……たとえ君が男の子の身体でも私はまったく構わないが、君がどうしてもこだわるのなら―――『聖殲』による性転換をしよう!」

 

 

 と、絃神冥駕は再び、藤阪冬佳(クロウ)へ手を伸ばした。

 彼女の胸の内に燻る不安を一掃せんと、力強く冥駕は語る。

 

「『聖殲』ならできる。その為の研究をしてきた。世界を上書きするこの力なら、“器”の肉体を、君が望む女の子にすることだって可能だ」

 

「『………………』」

 

 言葉も出ない様子の冬佳(クロウ)

 それはそうだろう。驚くに決まっている。この自分の覚悟の程を知って戸惑ってしまうのは、冥駕にだってわかる。

 

「ああ、わかっているさ。『聖殲』の力は凄まじいがそれだけに効果を持続させるのは難しい。だが、その“器”は元々獣人化という変身機構を備えている。同じ要領で<黒妖犬>を女体化――さしずめ、『雌犬化』の形態を追加させるくらいわけないさ」

 

 どうして、そんな単語をチョイスしたんだと保護者団体から苦言(クレーム)が舞い込みそうなネーミングセンスだった。

 この急展開に呆然としてしまっていた古城にだって『眼鏡をクイッとさせて決め顔作ってるけどこの男、全然人の心がわかってねぇ。デリカシーもゾンビな(しんでる)んじゃないのか?』と思う。

 

(いや、そうじゃない。これ以上クロウの身体を勝手にされてたまるか!)

 

 古城は(今は一方的な演説になってるが)クロウの身体を介して、言い争う二人に割って入ろうとした。

 それよりも一歩早く、隣で動きがあった。

 

 

「そんなこと断じて許しません!」

 

 

 姫柊雪菜だ。

 彼女は、大事な友人のピンチを黙って見過ごせるほど薄情じゃない。

 そうだ、姫柊、あのデリカシーゾンビ野郎に言ってやれ!

 

 

「何としてでも阻止します。クロウ君が『雌犬化』なんてなったら、絶対先輩が襲うじゃないですか!」

 

 

 監視役(ヒロイン)として大事なことを言った。

 

「おい! 何見当違いな心配してんだよ姫柊! そうじゃないだろ!」

 

「<第四真祖>、もしも私の温もりに……雌犬化したクロウ(わたしのトウカ)を奪うのなら、容赦はしない……ッ!」

 

「話を聞けよテメェも! ふざけてんのか!」

 

 古城は握った拳を震わせながら吼え(ツッコン)た。

 が、()論に熱弁を振るう絃神冥駕の耳には届かず。

 そして―――

 

 

 

「さあ、冬佳! 私にその身をゆだね―――」

「いや、オレ、クロウだぞ?」

 

 

 

 瞬間、時間が停止したように、固まった。

 

「んー。なんかな、『私の知っていた冥駕は、遠いところに行ってしまったのね』って言い残して、身体(オレ)から(わか)れてったぞ」

 

「なん、だと……!?」

 

 ぽりぽりと頬をかきながら――まったく冬佳(じょせい)らしくない振る舞いで――そう遺言を語るクロウに、呆然自失の冥駕。

 そんな隙だらけの相手を、この魔女が逃すはずもなく。

 

「業の深い変態は、永劫に牢獄で眠っていろ」

 

 <冥餓狼>を弾かれ、その全身が鎖に縛られる。そして、虚空へと引きずり込まれていく。

 かつてされたように<監獄結界>行き。

 だが、死してもなお温もりを忘れ切れぬ青年は、それでも手を伸ばす。

 

 くっ! 男の肉体でいるのが我慢ならずに逝ってしまったというのか冬佳! あと少しで……いや、順序を間違えたか。

 まず、その身体を『雌犬化』してから迎え入れるべきだった……!

 

 鎖に縛られた冥駕は虚空へ引きずり込まれながら、クロウに向けて宣言した。

 

 

「必ず、その身体を、女の子にしてみせる!」

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

「色々と話しづらいこともあるから言葉足らずになることがあるだろうし、どこから話せばいいのかオレも整理がまだついてないから最初じゃなくて最後の方から思い出すように話すことになっちゃうけど、それでいいか、凪沙ちゃん?」

 

「うん、聴かせてクロウ君」

 

 後々、暁凪沙への説明。

 

「わかった。……途中、眠っちゃってたからよくわからないけど、起きたらいきなりオレを、『セイセン』とかいうすごい力でセイテンカン?というのをさせられそうになっててな」

 

「セイ、セン……―――え、セイテンカン??」

 

「でも、それは姫柊が、そんなことで雌犬になったら、古城君が絶対オレを襲うと言うのだ」

 

「雌犬!?!?」

 

「オレはたくさん物を壊したし、古城君にもすごく迷惑をかけたから、襲われる(攻撃される)のは仕方のないこと、ううん、そうされるべきなんだと思う。だからセイテンカンして古城君に襲われるのなら、それはそれでスッキリするとオレは思う。……なあ、凪沙ちゃん、オレ、セイテンカンした方がよかったのかなあ?」

「―――ダメっっっ!!! 絶っっっ対にダメだからねクロウ君っっっ!!! え、何、何々!?!? どんな話をされても受け止める心構えはしてきたつもりなんだけど全然展開が想像の斜め上をすっとんじゃって受け止めきれないよ!? ていうか、どういうことか一体全体よくわからないけどクロウ君! まさかそれ古城君が勧めてきた話じゃないよね???」

 

「それは違うぞ凪沙ちゃん。古城君は、すごく反対したのだ。そんなこと(罪滅ぼし)はしなくていい、クロウはありのままのクロウが一番なんだ、だから、もう誰のものになってくれるな、って言ってくれたぞ」

 

「え、と……そんなこと(セイテンカン)しなくていい? ありのまま(男の子のまま)のクロウ君が一番? それで、誰のものになるな、って……すっごい美人さんな雪菜ちゃんや浅葱ちゃんが周りにいるのに彼女ができないから薄々そうなんじゃないかと思っても考えないようにしてきたけど、ダメ、これはもう誤解しようのない……!」

 

「凪沙ちゃん、大丈夫か? 急に頭抱えて……もうこれ以上話さない方が良いか?」

 

「うん、ごめん……ごめんね、クロウ君。あたし、覚悟が足らなかった。すごくショッキングだよ。あたしの知っていた古城君は、もう遠くに行っちゃってたんだね……」

 

 

 

つづかない



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