逸見エリカに憑依したある青年のお話 (主(ぬし))
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そのエリカ、狂犬につき

ガルパンはいいぞ


 言わずと知れた黒森峰女学園の副隊長、逸見エリカ。

 西住流次期家元と称される西住まほの忠実な副官としてよく知られる彼女だが、この世界(・・・・)では少し事情が違った。

 

 

 雲一つない晴天の下、眩しい陽光が照り付ける広大な富士演習場を舞台に、二列に並ぶ少女たちが睨み合う。

 かたや強大な敵として眼前に立ち塞がるのは、軍神もかくやの活躍で弱小校を見事導いて決勝戦まで上り詰めた、大洗女子学園隊長にして島田流宗家の一人娘、島田愛里寿(・・・・・)

 かたや彼女と真っ向から正対するのは、その名の知れた強豪校にして、歴代最強と謳われる黒森峰女学園隊長、西住みほ(・・)

 

 そして今この時、みほの後ろに一歩下がり、敵を威圧するように腕を組み仁王立つ()、逸見エリカは、忠犬ではなく、黒森峰の狂犬(・・・・・・)としてその名を轟かせていた。

 

 

 

 

 

 時は10年ほど遡り、逸見エリカ幼少時。

 

 

 ()は当初、愕然として自らが置かれた状況を飲み込めずにいた。

 もともと、学生の本分たる講義をボイコットし、文字通り休みなくバイトに励み、ガルパンブルーレイボックスやグッズ、聖地信仰、CD、雑誌収集、さらにはガルパン劇場版及び4DX版をそれぞれ13回も鑑賞した、自他ともに認めるガルパンおじさんだった彼は、なんとガルパンのために過労死に至った初の栄誉ガルパンおじさんとなってしまった。二十歳(はたち)にも満たぬガルパンおじさんの死に、世界中のガルパンおじさんたちが天に敬礼を送った。

 しかしこれも本望、と当の本人は死に際の病床で強く目を見開く。ガルパンのために死ぬのならまた一興であると、死にゆく彼は己の若すぎる死を堂々と受け入れて満足気に息を引き取った、はずだった(・・・・・)

 

 ―――がしかし、彼が次に目を覚ますと、違和感があるのに違和感がない小さな身体で、見慣れないのに見慣れている顔から心配そうに見下ろされ、出し抜けにこう呼ばれたのだ。

 

「強く頭を打ったみたいだけど―――大丈夫、エリカ(・・・)?」

 

 そうして、彼の第二の人生―――逸見家の次女、逸見エリカとしての生は唐突に始まった。

 

 当初は混乱に頭を悩ませて沈みがちになり周囲を心配させていたが、ふと視点を変えてみればこれは僥倖である。愛するアニメの世界を直に体験できるのだ。ガルパンおじさん冥利につきるというものだ。彼は逸見エリカという少女として生きることをまたもや堂々と受け入れ、観客としてしか味わえなかった戦車道への道を喜々として歩みだした。前世では高校大学ともに関東で一人暮らしをしていた彼だが、元は生まれも育ちも逸見エリカの出身地と同じ熊本県熊本市という根っからの九州男児。思い切りの良さと切り替えの速さについては定評がある。特に、熊本県民男子の県民性は激しい気性と愚直さが特徴とされる。その中心たる熊本市なら尚さらだ。前世の分と現世の分、さらには逸見エリカが生まれ持った生来の気質もあったのだろう。前世からして穏やかではなかった彼の性格は見る見る険を増し、日を経るごとに激しくなっていった。なにせ一度死んだ身だ。“死”という根源的恐怖を乗り越えた彼にもはや怖いものなどなかった。その我の強い性格と、工業系大学で身に付けた技術、ガルパン鑑賞で培った豊富な戦車知識が劇的な化学反応を起こした結果、彼は中学生も半ばに差し掛かった頃には戦車乗りとして県大会で優勝するほどの勇名を馳せていた。戦車長として、指揮官として、果ては中破から瞬時に万全の状態まで修理してみせる応急士としても比類ない才を魅せ、九州を超えて全国に噂が流れるほどの実力者となっていた。

 彼は戦車道を大いに満喫した。砲手、操車、車長、指揮官、全てが新鮮で心地の良い経験だった。喜び、怒り、笑い、泣き、全身全霊で楽しんだ。負けることを拒み、ひたすらに勝利を欲し、がむしゃらに強くなることを望んだ。倒される度に強くなって立ち上がり、強敵に挑み続けた。元来、男の子は戦車などのメカが好きで、そして負けず嫌いである。何の因果か、彼はとことんまで戦車道に相性が良かった。

 心身に我流で刻みつけてきた戦い方は、気づけば率先して敵の喉元に喰らいつくというおよそスマートとはかけ離れたものとなっていた。自分が原作の逸見エリカからどんどん乖離しているという自覚はあったが、原作通りに事を進めなければならない理由など無いし、戦いに没頭すればそんなことはすぐに考えられなくなった。

 苦戦を強いられれば強いられるほど、激戦になればなるほど、呼吸が早まり、瞳孔が開き、ぐるると喉が低く唸り、全身の毛が剣山のように逆立つ。砲撃が飛び交う中、腹の底から激情を迸らせるたびに灼熱の充足感が全身を満たす。興奮の絶頂に達した時、戦車が己の手足となり、意識まで融け合って、自分自身が大地を駆ける巨獣と一体化したような万能感に細胞の一片までも燃え上がる。恥も外聞もなく己の凶暴性を曝け出せる戦車道は、麻薬のように全ての矛盾を忘れさせてくれた。

 畢竟、その少女とは思えぬ凶暴な戦い方と荒々しい印象から、彼、つまりこの世界の逸見エリカは、ライバル校どころか仲間からも畏怖の対象となっていった。

 そうして、何時しかこのように賞賛され、または揶揄された。

 

 

“熊本に狂犬あり。その名は逸見エリカ。熊をも殺す猛犬なり”

 

 

 そうして、あれよあれよという間に時は過ぎ、彼は中学卒業と高校入学の時期を迎える。この時、本人の無関心をよそに、狂犬(・・)というアダ名はもはや全国どころか世界に轟く勢いとなっていた。その年の全国大会、彼は切り込み隊長として敵フラッグ車を次々と撃破し、母校を創立以来初となる準優勝に導いたからだ。最終戦では、包囲された自軍フラッグ車の窮状に見向きもせず、逆に手薄となった敵フラッグ車集団に単騎で踊り込んで敵を恐慌の渦に突き落とした。歴戦の強豪校をあわや敗北かと狂乱に陥れる様はアダ名に負けぬハングリーな戦いぶりであった。

 そんな彼の実績を、低迷する戦車道の再興を目論む各高校が見逃すはずがない。周囲の予想を遥かに超えて、逸見家には日本のみならず世界のあらゆる学園からオファーが殺到した。何を勘違いしたのか、知波単学園からの封筒にはご丁寧に「貴殿の突撃精神に感銘を云々~」と隊長直筆でしたためられ、学園長直々の印まで添えられている。

 テーブルの上にズラリと並んだ封筒の束を前にして、逸見家始まって以来の快挙であると親族一同が宴会まで催して彼を讃えた。選り取りみどり、どこを選んでも子々孫々に語り継がれる栄誉となる。しかし、両親や姉から肩をバシバシと叩かれている当人の心は晴れない。黒森峰女学園からのオファーがそこに無かったからだ。

 無論、受験をすれば良い。戦車道最難関の学園だが、チャンスがないわけではない。()()()()()()()()()()()()当然ここに行くべきだ。そうすれば、原作キャラたちとも実際に出会うことができる。ガールズアンドパンツァーの物語が始まっていく。

 ―――だが、あの美しい世界に自分などが立ち入っていいものか。ファンは、あくまで第三者として主人公たちの勇姿を鑑賞するからこそファンであり、その環の中に入ってしまってはもはや観客(ファン)ではいられなくなる。役者として舞台を成功させる責任が生まれる。その責任を果たす覚悟など、考えたこともなかった。そもそも、自分のような原作とはかけ離れた邪魔者が立ち入っては、彼女たちの美しい世界を台無しにしてしまうのではないか―――。

 彼は今さらになって、彼にとって神聖不可侵たる原作キャラたちと濃密に関わることに、憧れ見上げるだけだった舞台(ステージ)に泥だらけの足を踏み入れてしまうことに、途方も無い恐れ多さを覚えたのだ。

 

 気づけば、自分でも理解し難い衝動に突き動かされた彼は、肩まで伸ばした銀髪を振り乱し、驚く親族の制止を振り切って、寒空の下に駈け出していた。

 どのオファーにも返事を出す意味を見つけられず、黒森峰女学園に行くという明確な決意も持てない。かと言ってそれ以外の選択肢も思いつかない。土台、自分の性格も戦い方も規律を重んじる原作の逸見エリカと異なるし、黒森峰女学園の秩序あるそれとも異なる。あちらからしてみれば邪道も邪道だ。到底、伝統厚い学園に受け入れられるとは思えなかったし、自分自身、今さら戦い方を変える気も起きなかった。

 

(―――私は、なんて空っぽ(・・・)なんだろう)

 

 自己否定と自己肯定が胸の内で渦を巻き、どちらも素直に受け止められない頭がズクズクと疼く。何を焦っているのか、どうして走っているのか、何をしたいのかもわからず、先延ばしにし続けた悩みから逃げるように、彼は愛戦車の待つ学校を目指して白い脚で地を蹴り続けた。

 彼はただ自由に戦車道がしたいだけだった。自分がここにいる意味など、逸見エリカとなった理由など知ったことではない。戦車道で強くなりたかった。自分がどこまで行けるのか試したかった。強さの高みに登り詰めたかった。彼はどこまでも愚直な二十歳にも満たぬ青年で、彼女(・・)は、この世界ではまだ15歳になったばかりの未熟な少女だった。

 

 太陽もすでに地平線に隠れ、うっすらと紫色の薄暮が世界を満たす中、彼は歴戦の友たるティーガーⅡの砲塔に腰掛けて己の太ももをじっと見下ろしていた。鋼鉄の装甲は突き放すように冷たいが、走り続けて火照った肉体には心地よかった。ティーガーの巨体に寄り添えば、激戦の臭いと興奮がまじまじと蘇り、雑事を頭から追い払ってくれる。周りを取り巻く煩わしいしがらみは消え去り、戦いの悦に浸ることができる。

 すうっと鼻から深く息を吸い込み、格納庫に滞留する重厚な空気を肺いっぱいに満たす。使い込んだ分厚い鋼鉄と、嗅ぎ慣れた火薬の臭い。瞬間、戦車戦の狂喜を思い出した意識がじわりと熱を帯び始める。瞳孔がギリギリと絞られ、唇からはみ出した八重歯が鋭さを増し、産毛までざわざわと逆立つ。活性化した脳が酸素を求め、浅く早い呼吸がハッハッと肩を小刻みに震わせる。ぐるると喉が低く鳴り、熱い吐息が眼前の大気を白く濁す。

 戦いたい。ただただ戦いたい。もっともっと戦いたい。いろいろな戦場で、いろいろな敵と戦いたい。弱い敵に勝って、弱い敵に負けたい。強い敵に負けて、強い敵に勝ちたい。勝って負けて、負けて勝って、戦い続けたい。ああ―――戦いたい!「戦いたい!!」

 

 

 

「―――なら、我が黒森峰にこそ来るべきよ」

 

 

 

 いつの間に現れたのか。その冷徹な少女の声は、同年代のものにしては奇妙なまでに引き締まり、何より凛々しかった。弾かれるように彼は声の主に向かって一足に跳躍する。心情を声に漏らしてしまっていたことにも気づかず、ましてや他人の接近を許してしまったのも不覚極まる。戦車戦ならとっくに撃破されていた。獣のような俊敏さでティーガーから飛び降りて身構えた彼は、目の前に立つ少女の姿に絶大な驚愕を覚えて思考を空白化させた。

 

 

「―――西住(・・)まほ(・・)

 

 

 ガールズアンドパンツァーの主人公、西住みほの最強のライバルにして因縁深き実姉、黒森峰女学園の隊長、西住まほその人だった。

 まさか、原作キャラとの遭遇を避ける自分に原作キャラの方から接近してくるとは、まったくの予想外だった。しかも、それがよりによって絶対に受け入れられないと思っていた黒森峰女学園の隊長とは。冷水を頭からぶっ掛けられたような心持ちになり、熱を持っていた細胞が冷えて、逆立っていた髪がしゅんと項垂れるのを感じる。

 動揺を隠せずに一歩後ずさった彼を真正面から見据え、まだこの時点では黒森峰一年生のまほは眉を意外気にピクリと動かす。

 

「すでに顔と名を知られているなんて私も有名になったものね。まだ副隊長になったばかりなのだけど」

「―――アンタなら、すぐに隊長になれるわ。絶対に」

 

 西住流の流派を色濃く受け継ぐ西住まほの才能を原作知識で知る彼には確信を持って言えた。それを賞賛と受け取ったまほは、「高く買われたものね」と照れた様子など一切見せない仏頂面のまま応える。

 

「少し驚いたわ。自身の研鑽のみならず他校の生徒の分析にまで余念がないなんて、貴女への評判は少し的外れかもしれない。皆も私も認識を改めるべきね」

 

 「もっとも上級生への物言いは考えものだけど」とふっと鼻を鳴らしたまほはアニメの姿そのもので、彼の内側では感動を主とした様々な種類の激情がマグマのごとく噴出していた。しかし、活性化の余熱が残る思考は目まぐるしく回転し、自分の前に西住まほがいることへの疑念を強く訴えた。彼女はようやく二年生に上がる頃で、自分も今年でようやく一年生。黒森峰女学園に入学すらしていないのに、洋上の学園艦にいるはずの西住まほが逸見エリカの前に現れるのは不自然だ。

 

「なんで、アンタが、私なんかのところに」

「逸見エリカ。貴女は周囲への分析だけではなく、自身にももっと目を向けるべきよ。どんな評価をされ、どんな価値付けをされているのか、もっと知るべきだわ」

「……誰にどう思われようと、興味ないわ、そんなの。私は戦いたいだけだもの」

「そこは評判通りなのね。でも、なればこそよ。戦い続けたいなら、これからの自分の伸びしろを、その実力に見合う居場所を、一緒に戦列を並べるに相応しい仲間を探すべきよ。そうは思わないかしら」

 

 その台詞が黒森峰女学園への勧誘を意味していることは明らかだった。明らかだったが、やはり西住まほが自分を直接勧誘に訪れることへの合点がいかない。オファーの手紙は来ていない。そも、わざわざ人を寄越すのなら専門のスカウトマンでも寄越せばいい。一流の学園なのだからスカウトマンくらい掃いて捨てるほどいるはずだ。現役の、しかも将来有望な生徒を雑用に使う道理はない。それに、原作の西住まほに似合わない積極さにも違和感が募る。

 未だ訝しむ彼を見て、「戦い以外では鈍いのね」と再び呆れ半分面白さ半分といった溜息を落とし、そして声に少しの恥じらいを混ぜて告げる。

 

「私は、犬好きよ」

「……は?」

 

 確かに、劇場版では犬を飼っている描写もあった。しかし、それとこれと何の関係がある? 西住まほは不思議ちゃんというキャラ設定だったか? 

 

「えっと、その……私も、犬は嫌いじゃない、けど」

 

 額面通り、バカ真面目に答えてしまう。考えども考えども首が傾いていくばかりでまったくわからない。ますます動揺して目を白黒させる彼に、まほはこの日初めて表情の変化を魅せた。パチクリと目を開け閉めし、クスリと綻んだ頬で笑う。人間味がグッと増し、目の前の原作キャラが等身大の人間(・・)になる。

 

「なんだ、もしかして、貴女は自分のアダ名も知らないの? 有名人なのに」

「アダ名……?」

 

 そういえば何度か耳にした気がするが、覚えていなかった。戦車道に熱中する彼にとって自分の評判やアダ名など知るべくもない。そんなことを気にする暇があれば戦車道をやっている。己の将来性豊かな美貌にすら興味を示していないのだからそれも必然のことと言えばそうだが、そこまで戦車道に入れ込んでいる少女もなかなか珍しい。だが、笑われる謂われはないはずだ。

 思わずムッと唇をつきだして表情を顰めるも、まほは怖じける様子もなくクスクスと年頃の少女のように前髪を揺らし続ける。こちらの気も知らずに、と直情的な怒りが込み上げ、声を荒らげようと口を開きかけ、

 

「―――狂犬(・・)

 

 スッと見開かれた怜悧な双眸に意識をギクリと縫い止められた。先ほどまでの柔らかな印象を脱ぎ捨て、再び冷徹な声となったまほが続ける。

 

「“熊本に狂犬あり。その名は逸見エリカ。熊をも殺す猛犬なり”―――自分のアダ名くらい知ってて損はないわ。戦う前から敵を威圧できるし、時にはそれを心理戦にも使用できる。アダ名に実力が伴っていれば、尚さらよ」

 

 一歩、彼が引いた分の間合いをまほが詰める。澱みのない武芸者の歩みはこちらが退く隙も与えなかった。ジャリ、という音が二人きりの格納庫にやけに大きく響き、鼓膜を震わせる。原作ではまほとエリカの間には小指一本分ほどの身長差があったが、今はまだ両者とも同じ目線だ。眼球の底まで見透かすような強い視線を目と鼻の先から受け止め、彼はゴクリと息を呑む。鳶色の双眸はすでに誰彼なく引き寄せ束ねる“強者”の光を湛えていた。そして、どこか張り詰めたような正体不明の必死さも滲んでいるように見えた。

 

「私は犬好きよ。どんな犬でも飼い慣らせる自信がある。例え、どんなに獰猛な狂犬でも」

「―――私にリードをつけるっていうの?」

「察しが良いわね。その通りよ」

「―――でも、アンタの学園は、黒森峰女学園はそうは思ってないんでしょう?」

「……それも、察しが良いわね。その通りよ。正直に言うと、こうして貴女に会うのも一苦労だった。家元にも言われたわ。貴女の戦い方は、黒森峰の伝統にも西住流の流派にも合わない邪道だそうよ」

 

 厳しい言に、「当然ね」と彼は目線を落として肯定する。永遠に続く落とし穴に落ち続けているような空虚感が足元から這い上がってくる。

 今にして思えば、原作の逸見エリカの戦い方こそ、戦車道における正道中の正道だった。規律正しく整然と行動し、隊長の命令に忠実に従い、緊急時には隊長の身を真っ先に案じて駆けつける。忠犬そのものの在りようは、だからこそ、個々のスキルよりチームワークが重要視される戦車道の戦いにおいて“統率の要”という極めて優れた武器となる。中学までは個人のスキルが大いに通用したが、高校からは、特に全体の統一された戦術を重んじる黒森峰では、狂犬の我流は通用しまい。何より、肌に合わない。でも、これからどうすればいいのかもわからない。

 肩を落とした彼に諦観の気配を察したのか、まほは取り繕うように少し早口になって捲し立てる。

 

「でも、私は貴女を使いこなしてみせるわ。全国大会での貴女の戦いを見たの。ただの自暴自棄の突撃とはわけが違う。貴女が魅せた純粋な攻撃力は世界にも類を見ない。こんな凄い子がいるのかと心から驚いたわ。“これだ”と確信した。あの苛烈さと強さは、我が校にとって絶対に有用になる。間違いないわ。学園は説得してみせる。家元もなんとかする。だから―――」

 

 熱が篭り出したまほの言葉尻を、彼はすっと掲げた手で制した。彼女が自分に何を見出してくれたのかは定かでないが、自分は大それた期待をされるような人間ではない。しょせんはまがい物(・・・・)に過ぎない。原作キャラの足手まといとなってしまうことだけは絶対に避けたい。自己否定に苛まれながら、卑屈に唇を歪ませる。

 

「お断りよ」

 

 落とした視線の先で、まほの指がピクリと震え、花が枯れ萎むようにぎゅっと握りしめられる。小さな拳は今にも格納庫の薄闇に溶け消えてしまいそうだ。胸が締め付けられる思いを味わいながら、せめてなるべく傷つけないよう努めながら拒絶の言葉を紡ぐ。

 

「西住流次期家元からの直々のお誘いはとても光栄に思うわ。自慢して言い触らしたいくらい。だけど、断るわ。“狂犬”が貴女たちの戦い方に染まれるとは思えない。今さら染まるつもりもない」

 

 目を合わすことが出来ない。きっと彼女を失望させてしまった。原作キャラと会えた興奮は完全に冷えきり、後に残ったのは寂しさと申し訳無さだけだ。自分のような不純物が逸見エリカになってしまったせいで、我の強い戦い方にばかりかまけてしまったせいで、西住まほは妹以降の忠実な副官を失うことになってしまった。その痛手は物語にどれほどの悪い変化を与えてしまうだろう。せめて、これ以上悪くならないように、自分は身を引くべきだ。

 

「黒森峰は生徒数も多いし、優秀な生徒ばかりなんでしょう? 私よりもよっぽど良い人材がいるわ。心配せずとも、私なんかがいなくてもアンタならどんどん勝ち上がっていける。聞いているわ、妹さんも優秀なんでしょう? それなら、私がいても迷惑になるだけよ。せっかく来てもらったのに申し訳ないけど―――」

 

「みほは、優しすぎるんだ」

 

 唐突にポツリと零れ落ちたそれは、今にも消え入りそうなほどに小さく、苦しげで、思い詰めた声だった。アニメですら聞いたことがないような弱々しい声音にハッと顔を上げた彼は、目の前に晒された表情にドキリと心臓を掴まれた。どんな窮地に立っても精悍さを崩さなかった目が、顔が、今にも泣き出しそうに澱み、引き攣っていた。

 みほ(・・)―――西住みほ(・・・・)。西住まほの妹であり、隊長となった姉を支えることになる未来の副隊長。優しさ故に油断し、学園の敗北の原因を作り、姉の元を去っていくことになる、悲しい宿命を背負った少女。

 

「みほには―――妹には、戦車道の才能がある。ずっと傍にいた姉の私にはわかるの。私以上の天賦の才能を持ってるわ。いずれ隊長になるに相応しい。でも、優しすぎるの。誰も見捨てられない。それはとても良いことだと思う。けど、時には仲間を犠牲にしてでも勝利する黒森峰の戦い方は、あの娘にはつらいかもしれない。いえ、今もつらさを覚えているかもしれない。私がそれを慮ってあげられるうちはいい。でも、私の責任が増えていくに連れて、みほばかりに目を向けていられなくなる。今ですら副隊長として隊をまとめあげるのに手一杯なの。いつの日か、私の目の届かないところであの娘は孤立していくわ。限界が来たその時、優しいみほはきっと深く傷ついてしまう」

 

 その通りだ。まほの予感は的中している。これから一年後、記念すべき10連覇がかかった黒森峰対プラウダ戦で、みほの目の前で仲間の戦車が川に落ちることになる。激戦の中でその場に駆け付けられる余剰戦力はなく、回収車も間に合わない。溺れかけている仲間を助けられるのはフラッグ車を任せられたみほだけだった。みほは迷うこと無く戦車を乗り捨てた。結果、動きを止めたフラッグ車は撃破され、戦況を有利に進めていた黒森峰女学園は敗北を喫してしまった。浅慮な愚行で学園と西住流の双方に泥を塗ったとして、みほは周囲からも母親からも激しく責められ、そのせいで強いトラウマを抱えてしまった。意気消沈する彼女は、逐われるように黒森峰を後にすることとなった。隊長だったまほは、その役目と責任からみほを擁護することも出来ず、小さくなっていく背中を見送ることしか出来なかった。

 原作知識で未来の顛末を知る彼だが、姉まほが事前に抱えていた苦しみは原作には描かれていなかった。驚きとともに呆然とする彼を、「だけど、」とまほが再び見詰める。強者の波動が失せ、懇願の色が混じる。

 

「だけど、優しさを実現させうるだけの“戦力”があれば……。今の黒森峰では、まだ上手く噛み合わないかもしれない。でも、みほが隊長になった時、あの娘の臨機応変な作戦を支える強力な武器(・・)となり、弱点となる甘さを補って余りある攻撃力(・・・)があれば―――」

「―――みほは傷つくことなく、笑ったままでいられる」

 

 結論を先んじた彼の台詞に、今度はまほが視線を落として頷いた。どうして彼女が直接スカウトに来たのか、その不自然な必死さにも納得がいった。一人が優し過ぎるのなら、その優しさを犠牲にするのではなく、もう一人の激しさで補う。自分にそれが出来ないのなら、それが出来る誰かに助けを求めるしか無い。まほが“狂犬”を必要とした本当の理由は、黒森峰や、西住流や、あまつさえ彼女自身のためでもなかった。妹みほを護り支えるに足る“番犬”として、彼に助力を乞うたのだ。

 黙して何も言わない彼に、まほは絞りだすような声で縋る。

 

「貴女が、必要なの」

 

 必要(・・)。その言葉にはたしかに言霊が宿っていた。空っぽだった肉体(タンク)に燃料を注ぎこみ、心臓(エンジン)に火を入れる“熱”が詰まっていた。

 自分の戦い方を、自分の人生そのものを、他ならぬ原作のキャラクターから肯定される。憑依者(にせもの)だった彼を一人のキャラクターとして求め、認めてくれるその言葉は、今まで感じたこともない喜びを、安堵感を、地に足をつける充足感を漲らせた。

 

「逸見エリカ、貴女が必要よ。貴女の力がいるの。貴女以外では絶対に務まらない。我々には―――、いいえ、あの娘には、きっと貴女こそが必要なのよ」

 

 お前こそが必要だ(・・・・・・・・)。男なら誰もが鳥肌を立てて覇気を漲らせる、魔性の言葉。魂のギアを全開にし、死ぬまで走る覚悟を与える魔法の呪文。

 西住まほは、無意識かつ本心からそれを使ってしまった。ようやくガールズアンドパンツァーの大地(せかい)を踏みしめたばかりの彼に対して、その呪文がどのような結果を招くかも知らずに。

 

「もしも貴女が黒森峰女学園に来てくれると言うのなら、私は全力で入学を実現して、我が隊に入隊させて、そして貴女を使いこなしてみせる。貴女の有用性を証明し、周囲に貴女を認めさせ、我が隊の戦力に完璧に組み込んでみせる。だから―――」

 

 

 

 ぐるるるる……

 

 

 

 獰猛な獣が獲物を前に喉を鳴らしたような、地響きにも似た唸り声が格納庫に響いた。ティーガーのエンジン音かと聞き紛うて正面に目を向けたまほは、それが間違いであり正解でもあることを瞬時に悟った。

 今、彼女の目の前にいる少女の皮を被った“狂犬”は、まさしく戦場の王虎と畏怖されたティーガーⅡの心臓部(エンジン)に他ならないのだ。

 闇を切り裂いてギラつく凶暴な瞳孔、触れれば切れそうなほど鋭い八重歯、雪山の白狼の如く逆立つ銀の髪―――。

 

これだ(・・・)―――!)

 

 その凄みに気圧されながら、まほはむしろ不敵な笑みを浮かべて武者震いに震えた。紛れも無い。これこそ、彼女が妹のために探し求めた純粋な力―――“狂犬”逸見エリカの真の姿だった。

 

 

 

 

 ガルパンおじさんなら誰しもが想像しただろう。“もしも、西住みほが黒森峰を去ること無く残留していれば、どうなっていたか”―――。おそらく、みほにはいずれ限界が訪れただろう。少女たちの輝かしいドラマは生まれず、黒森峰に栄光の光は差さなかったかもしれない。

 だが、この世界では少し事情が違った。

 

 雲一つない晴天の下、眩しい陽光が照り付ける広大な富士演習場を舞台に、二列に並ぶ少女たちが睨み合う。

 かたや強大な敵として眼前に立ち塞がるのは、軍神もかくやの活躍で弱小校を見事導いて決勝戦まで上り詰めた、大洗女子学園隊長にして島田流宗家の一人娘、島田愛里寿。

 かたや彼女と真っ向から正対するのは、その名の知れた強豪校にして、歴代最強と謳われる黒森峰女学園隊長、西住みほ。

 

 そして今この時、みほの後ろに一歩下がり、敵を威圧するように腕を組み仁王立つ彼女(・・)、逸見エリカは、忠犬ではなく、黒森峰の狂犬(・・・・・・)として―――そして、誰よりも西住みほが信頼を寄せる副官兼親友として、このIFの世界にその名を轟かせていた。

 

 果たして、彼女たちがこれからどんな物語を紡いでいくのか―――それは、ガルパンおじさんの夢のみぞ知ることかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢の一部を、少しだけ。

 

 

 

『―――大洗女子学園、ポルシェティーガー、89式中戦車、走行不能! 残りフラッグ車一両!』

『―――黒森峰女学園、ティーガーⅠ、ティーガーⅡ、走行不能! 残りフラッグ車一両のみ!』

 

 

「―――結局、隊長同士の一対一に持ち込まれたか」

 

 

 ティーガーⅡの装甲に背を預け、そういえば原作通りだな、と彼女(・・)は心中に独り言ちた。ぐっと顎を傾けて頭上を見上げれば、焦げだらけの愛戦車の上部装甲で“走行不能”を意味する白旗がのんびりと風にはためいている。

 彼女は、久しぶりに自分がこの世界への転生者であったことを思い出した。この2年間、必死になり過ぎて、自分の正体すら頭からスッポ抜けてしまっていた。苦笑しつつ、土埃に塗れたスカートをパタパタとはたく。世界の修正力とでも言うのか、部外者がどんなに邪魔をしても物語の流れを元に戻そうとするような未知の力でも働いているのかもしれなかった。けれども、結末までは世界の思いどおりにはならない。最後を決めるのは、いつだって人間の底力なのだから。

 ティーガーから伸びた無線機に口を近づけ、崩れかけた廃校舎の方角に目を向ける。時折轟音と猛煙が上がるそこでは、彼女の隊長であり親友が今まさに敵のフラッグ車と一騎打ちを始めようとしている。

 

「―――隊長、ごめんなさい。やられたわ。残りはアンタのティーガーⅠと敵のⅣ号戦車だけよ」

『ううん、大丈夫。エリカさん、怪我はない?』

「他人のこと心配してる暇があったら、さっさと試合を終わらせなさい。せっかく冷やしてるビールがヌルくなっちゃうわ」

『ふふ、ビールはノンアルコールなんだけどね。―――ねえ、エリカさん』

「なによ?」

 

 無線機の向こうから、意を決するような気配がした。一拍を置いて、聞き慣れた明るい声が弾ける。

 

『―――今まで、ありがとう。エリカさんがいなかったら、私はここまで来れなかった。貴女が副官でいてくれて、親友でいてくれて、よかった』

 

 彼女はまたもや顎を傾けて頭上を見上げる。視界に映る白旗がじわりと滲んで見えた。頬を伝い落ちそうになるのをかろうじて目尻で押し留めながら、絞りだすように応える。

 

「―――馬鹿言ってんじゃないわよ。試合に集中しなさい」

『うん、わかった』

 

 くすっと微笑と共に返ってきた返事は、まるで彼女の様子を覗き見ているかのようだった。いや、本当に見えているのかもしれない。入学して、みほと出会って、今日までに結ばれた二人の絆は、それくらい強固なものだから。

 まるで走馬灯のように、今までの思い出が風となって脳裏に流れる。喜怒哀楽、様々な経験を共に味わい、乗り越えてきた。それら全てが、今日この日に向かって繋がり、結集されているのだ。

 だから―――。そう、特別な今日くらいは、照れ隠しなんてしなくてもいいだろう。

 

「―――私もよ」

『えっ?』

「私も、貴女と出会えてよかったわ。貴女を支えることが出来てよかった。西住みほの副官になれて、西住みほの親友になれて、本当によかったと思ってる」

『―――エリカ、』

「さあ、行きなさい、みほ。どんな結果になっても、私は貴女を誇りに思う。貴女を笑って迎えてあげる。だから、どうか、後悔のない戦いをして」

『―――わかった! 行ってくる!』

 

 覚悟を決めた返答を最後に、無線は途切れた。それでも、そっと瞳を瞑れば瞼の裏に光景がはっきりと映し出される。親友の言葉を力に変換したみほが、目を見開いて全身全霊の号令を咆哮する。「戦車前進(パンツァー・フォー)!!」、と。

 

 

 ああ、私は、なんて幸せなのだろう。ただのガルパンおじさんだった私がここまで至れるなんて、私は世界一の幸せ者だ。

 

 

 

 ドーン、という2つの砲撃音が同時に重なって世界を包み込んだ。Ⅵ号戦車(ティーガーⅠ)とⅣ号戦車が至近距離で撃ち合った音に違いなかった。力強い轟音は、澄んだ空気を伝って遥か地平線まで届くようだ。今日は本当にいい天気だ。こんな日は、きっと、

 

 

 

『―――フラッグ車、走行不能、よって勝者は―――!!』

 

 

 

 

「冷たいビールが、美味しく飲めそうね」

 

 

 

 




 なお、今作の逸見エリカは催眠音声の視聴が趣味であり、ことそれを使用した自慰行為に関しての拘りには決して妥協がない。ハンドルネームは「ハンバーグ」である。


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そのエリカ、猟犬につき①

>ガンバスター  1話 2016年03月20日(日) 08:15
>みほが隊長で憑依エリカが副官のままなら、まほはどうしたんでしょう?
>対戦相手視点での狂犬エリカの厄介さはどんな感じだったのやらww


だがそれが逆に主(ぬし)の逆鱗に触れた!


夢の続きを、もう少しだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――今日から、貴女のチームメイト兼ルームメイトとして世話になるわ。これからよろしく、妹さん」

 

 

 副隊長になったばかりのお姉ちゃんが、周囲の反対を押し切ってまでスカウトしてきたというその人は、私とはまるで正反対の女の子だった。同い年とは思えないくらい落ち着いていて、頭もいい。かと思えば、大雑把で、ぶっきらぼうで、仕草もどこか男の子みたい。人付き合いは、苦手というより面倒だと思ってる風で、いつもつっけんどんとしていた。同じ戦車道を選択する友だちともほとんど会話らしい会話をしなかった。せっかくの美人がもったいないと何度も思った。

 

 

「―――さすがね。私を撃破するなんて、やるじゃない」

 

 

 その人は、強かった。中学の頃から噂は聞いていたけど、本物を前にすると勝手に身体が竦み上がった。戦車をまるで自分の手足のように操り、鈍重なはずの愛機を生き物みたいに躍動させて縦横無尽に奔らせた。生半可な戦術は、その人の前ではまったく意味をなさなかった。怪我も恐れず、それどころか死んでしまうことすら怖がっていないようだった。砲弾の雨に身を晒しながら、幾重に敷いた伏兵や包囲網をいとも容易く噛み千切って肉薄してくるその表情はその人の怖いアダ名(・・・)そのもので、練習試合だというのに私は思わず恐怖を覚えて震えてしまうほどだった。その人と戦う時、私はいつも必死にならないといけなかった。

 

 

「―――イヤよ、私は私の好きなようにやる。必要以上に首輪(リード)を付けられるのは御免だわ」

 

 

 その人は、誰の言うことも聞かなかった。聞けない、という方が正しいのかもしれない。いざ戦いに投入されたら、あっと言う間に作戦も命令も忘れて本能のままに敵陣深く突入していく。学園やお母さんが入学を渋った理由もきっとそれだと思った。だけど、その人を怖がっても、その実力を疑う人は誰もいなかった。命令を破っても、期待は裏切らなかった。お姉ちゃんでさえ、その人の扱い方に苦労はしても、頼りにしていた。

 

 

「―――副隊長へ昇進したそうじゃない。よかったわね。アンタ、指揮は上手いもの」

 

 

 副隊長になんか、なりたくなかった。私には荷が重すぎると思った。本当に副隊長になるべきなのはその人なのにと思った。

 私は、その人が苦手だった。

 

 

 

 

 

 

「―――ああ、やっぱりここにいた。こんなとこでなに縮こまってんのよ、副隊長様のくせに。まあ、私も戦車の中は好きだけど」

 

 

 でも、どうしてか、その人は私の悩みや苦しみを誰よりもわかってくれていた。

 その時の私は、戦車道を続ける意味が見出だせなくなっていた。流されるままにお姉ちゃんの後を追いかけていたら、あれよあれよという間に副隊長を任せられて、私は息が詰まるような窮屈さに苦しんでいた。副隊長なんて私には無理だと思ったけど、お姉ちゃんに「頼む」と言われたら、どうしても断れなかった。「頼む」なんて、お姉ちゃんの口から聞くのはそれが初めてだったから。ただでさえ、お姉ちゃんも2年生になってすぐに隊長という立場を任されて大変な思いをしているはずだから。顔に出さなくても妹の私には痛いほどわかった。頑張っているお姉ちゃんの負担になりたくなかった。

 ……でも、もう限界だった。どこに向かえばいいのか、どうすればいいのか、なんにもわからなかった。まるで、自分に自分が置いて行かれているようだった。自分の基礎となったはずの西住流のやり方にも疑問を抱えたまま、いつの間にか自分が本当に戦車道を好きだったのかもわからなくなって、私は自己嫌悪に陥っていた。期待してくれる周りの人たちを失望させたくなかった。その気持ちを打ち明けようとした時には、お姉ちゃんの背中はもう遠いところに行ってしまっていて、悩みを言える人が誰もいなくなっていた。身体を錆が蝕んでいくような、じわじわと心が裂けていくような、日に日に心身が軋んでいく息苦しさに苛まれていた。

 私は、一人ぼっちだった。

 

 

「―――ほら、ポカンとしてないで、ちょっと場所開けなさいよ。ティーガーⅠは狭いんだから。はい、これ。アンタ、ココア好きだったでしょ」

 

 

 そんな私の心を、その人は誰よりも真っ先に見抜いて、呆然とする私の隣にそっと寄り添ってくれた。差し出されたココアは淹れたてで、さっと肩に掛けられたブランケットと同じくらい暖かった。

 

 

「―――ボコっていうんでしょ、このクマ。ふふ、実際に見たのは初めてだけど、ホントに趣味が悪いわねぇ。可愛くないし、世間じゃマイナーだし、ちっとも売れてないもの。でも、他人がどう言おうと、それがボコを好きでいることをやめる理由にはならない。そうでしょう?」

 

 

 ティーガーの中で二人きり、ブランケットに包まれて肩を寄せ合いながら、その人は私のボコ人形を指先で優しく撫でてくれた。それまで見たこともなかった綺麗な微笑みは、美人な横顔にとてもよく似合っていた。

 

 

「―――ねえ、みほ(・・)。アンタはアンタのままでいいの。他人がどう言おうと、誰と比較されようと、何と関連付けられようと、自分を見失わないで。私は知ってる(・・・・)。アンタは、アンタだけの戦車道を持ってる。才能がある。間違いない。私は見てきたように(・・・・・・・)知ってるわ(・・・・・)。だから、もっと自分を信じなさい」

 

 

 どうして、そこまで力強く私を評価してくれるのだろう。才能なんて無い。自分の戦車道なんてわからない。だって、自分のことばかり考えて、ルームメイトがこんなに優しかったことにも気がついていなかったのに。苦手だとも思ってしまっていたのに。自信を持てと言われても、私自身の中に、その根拠を見出だせない。

 

 

「―――やっぱり無理? 副隊長なんかできない? ああ、もう。まったく、しょうがないわねえ」

 

 

 情けなさと不甲斐なさに押し潰されて、立てた膝に顔を埋めた私に、その人は「使い古された台詞かもしれないけど」と苦笑しながら私の頭をさらっと撫でた。

 

 

「―――自分を信じられないのなら、それでいい。それもアンタの良さよ。だったら、私を信じなさい。私は全力でアンタを信じる。誰よりも強く信じる。だから、アンタは、西住みほを信じてる私(・・・・・・・・・・)を信じなさい。……これなら、どう?」

 

 

 その言葉は、雲間から差し込んできた太陽の光みたいに私の心を暖かく照らしてくれた。見上げれば、その人は赤らんだ頬を銀白色の髪に隠して気恥ずかしそうに目を背けた。

 いつから見ていてくれたのだろう。いつから気遣ってくれていたのだろう。戦うことしか頭にないと思っていたその人は、本当はものすごく優しくて、私のことを深く理解してくれていた。

 私は一人なんかじゃなかった。

 その日から、私は一人じゃなくなった。

 私は、私だけの戦車道を見つけた。親友を信じて、親友に信じてもらって、親友と一緒に力を合わせて勝利を目指す、私の大切な戦車道。

 

 

 

 

 そして、今日。黒森峰女学園の10連覇をかけた決勝戦。

 私が初めて隊長として挑む戦い。

 

 

 

 

「―――いいわ。命令通り、死んであげる(・・・・・・)、西住隊長」

 

 

 

 

 私は、親友に死を命じた(・・・・・)

 

 

 

 




 その人は、暇な時はいつもヘッドホンをつけていた。何を聴いているのかは教えてくれなかったけど、たまにビクビクッと肩を震わせているのがとても気になった。今度、こっそり聴いてみよう。


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そのエリカ、猟犬につき②

エリみほはいいぞ


麗しき乙女が岩に立ちて(Die schönste Jungfrau sitzet Dort oben wunderbar,)

黄金の櫛を手に(Ihr goldnes Geschmeide blitzet,)

その美しい髪を梳いている( Sie kämmt ihr goldenes Haar. Sie kämmt)

乙女が口ずさむ歌の音色の(es mit goldenem Kamme, Und singt ein Lied dabei;)

いと妖しき魔力に魂は迷い彷徨う(Das hat eine wundersame, Gewaltige Melodei.)

 

 

 

 それは不思議な光景だった。

 降り続く豪雨にうねる谷川の河心に、ポツンと一つ、歌う少女の上半身が浮いている。成人前の透き通った歌声は遠雷の間をすり抜けて地平の果てまでも届くようだった。肩まで届く銀白色の髪は芯まで濡れそぼち、黒色の衣服が張り付いて肢体の凹凸を強調する様はあらゆる男をかどわかして目を離させない妖艶さを漂わせている。まるでライン川の人魚(ローレライ)伝説を仄めかすような少女だったが、その下半身は魚の尾ひれのような生易しいものではなかった。豪雨に濁った川水の中に、漆黒色の巨大で硬質な何かが鎮座している。少女はその上部に開いた開口部(ハッチ)から半身を覗かせていた。

 不意に、激しい濁流を物ともしない鋼鉄の塊の内から、少女とは別の少女たちの声がした。

 

副隊長(・・・)、応急修理完了しました。S装備(・・・)はもう限界です。着水の衝撃が強すぎました。通信装置も浸水にやられてます。なにせ、付け焼き刃の耐水処理でしたから」

「機銃もダメです。衝撃で砲身が曲がってます。主砲の遠距離用照準器(スコープ)も使えません」

「駆動系にも問題があります。機関内にまで少しずつ水が入ってきてますから、いつ壊れるかわかりません」

 

 哀愁に満ちた歌声がピタリと止み、しばし濁流の轟々とした音だけが世界を支配した。暗闇の中、息を殺して返答を待つ少女たちの気配は、その絶望的な報告の内容とは正反対に猛々しく尖っていくようだった。

 

「―――へえ、とっても素敵な話じゃない(・・・・・・・・・・・・)

 

 じわり、と銀白色を帯びた双肩に闘気が立ち昇る。いや、もはや狂気(・・)というべきか。目を潰され、爪を剥ぎ取られ、耳を千切られ手足を失おうと、敵に喰らいつく牙さえあればいい。余計なものを削ぎ落とした方が本来の力を出せる。その熾烈さ、飽くなき闘争本能こそ、彼女が狂犬(・・)と恐れられる由縁だ。そして、この一年間、彼女と共に軍場(いくさば)を馳せてきた少女たちもまた、幸か不幸かその影響を存分に受けていた。狂犬の激情に焙り立てられるように、少女たちの息遣いも獣のように荒く激しく高ぶっていく。狂犬に見出されたアウトローたちが、瞳を光らせ犬歯を剥き出しにして群長(むれおさ)の命令を今か今かと待っている。

 

「―――行くわよ。火を入れなさい。みほが待ってるわ」

了解(ヤヴォール)、ヤヴォール、フラウイツミ」

 

 命令に対し一切のタイムラグのない応答を返し、少女たちが弾けるような動きでそれぞれの機器を操作する。瞬間、鞭打たれた海中の獣がゴゥンと力強い咆哮をあげて目を覚ます。もはや枷でしかなくなった壊れた装備を次々にかなぐり捨て、身軽になった戦場の王虎が前進を開始する。水面を掻き分けてゆっくりと姿を露わにしていくそれは、凶悪な破壊力を秘めた人造の巨獣だ。全てを砕き流す濁流を真正面から跳ね返し、轟雷豪雨に負けじと唸り声を轟かせて前進する。

 

「さあ、作戦開始(・・・・)よ。戦車前進(パンツァー・フォー)

 

 

 

 恐るべき狂犬が背後から迫っていることに、彼女たち(・・・・)は気づかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

―――ごろごろごろ……

 

 

 天上の湖に穴が空いたかのようだった。ドウドウと滝のように降り落ちる雨が泥濘んだ地面にぶつかり、湯煙のような濃密な靄が森林深く立ち籠めている。時折、世界そのものに亀裂が走ったような稲光が暗雲に走ったかと思うと、続け様に大地を叩きつける轟音が鳴り響いて四囲の木々を青白く浮き立たせる。

 そんな激しいスコールの直下にあっても、この動く鋼鉄の茶室(・・・・・・・)には―――聖グロリアーナ女学院フラッグ車、チャーチル歩兵戦車 Mk.VIIの内部には常に一定の静けさと芳醇な紅茶の香りが漂っていた。砲塔を打ち付けるやかましい雨音も、足元で無限軌道履帯(キャタピラ)が石を踏み砕く音も、見当はずれな敵の砲撃が頭上を飛び越えていく音も、特別な防音加工が施されたカーボンコーティングのおかげでまったく不快ではない。グロリアーナの戦車には必須の湯沸し器(BV)が立てるコポコポと小さな音すら聞こえるほどだ。

 

「……どうせ黒森峰を倒すのなら、西住まほさんと戦いたかったですわね」

 

 カチャ、と耳心地の良い音を立て、ソーサーにカップを置いた美貌の乙女が至極残念そうな溜息を落とした。砂金色の髪を後ろで丁寧にまとめた少女は、この素晴らしいチャーチル歩兵戦車の車長でもあり、グロリアーナの隊長でもあるダージリンである。半分ほどになった彼女のカップに沸かしたばかりの紅茶を注ぎ足しながら、彼女の腹心でもあるオレンジペコが「仕方ありません」と苦笑を伴って応える。

 

「西住まほ前隊長(・・・)はこれまでも国際強化選手として文科省から長らくお呼びがかかっていましたから、むしろ前回の準決勝(プラウダ)戦まで隊長の立場に留まっていられたことの方が僥倖なのでしょう。来年の国際大会に向けて政府は国をあげて取り組んでいるようですし、お役人様からしてみれば、大事な人材に怪我でもされたらたまらないというお考えなのかもしれません」

「それは(わたくし)もわかっていますわ。だからこそ、まほさんに対して疑問や不満が残るのです。どうして、このタイミングで隊長を譲って(・・・・・・)しまった(・・・・)のか……。これではまるで、優勝旗を放り渡されたようなものだわ」

 

 ダージリンは眉根をほんの少しだけ寄せて、シミひとつ無い眉間に有るか無しかというほどの皺を作った。それをチラと横目に入れたオレンジペコは、彼女の慕う冷静沈着な隊長が何時にない苛立ちを覚えていることを察して角砂糖を一つ多めに彼女の紅茶に入れる。そして、自身の紅茶にも同じように一つ余計に角砂糖を落とした。

 

(ダージリン様のお怒りも無理ないわ。こんな、湿気てしまったクッキーみたいな戦いなんて)

 

 胸中に不満を吐露し、眼前に備え付けられた視察窓(バイザー)を何気なく覗きこむ。戦闘車両特有の光量を落とした灯火管制灯(ヘッドランプ)が暗闇を弱々しく押し広げ、かろうじて正面数フィート程度の光景を淡く照らしている。しかし、オレンジペコの膝上に広げられたラップトップ・コンピュータには、グロリアーナの諜報力によって作成された現フィールドの綿密な俯瞰図(マップ)が投影され、進むべき進路を精確に表示していた。現在、彼女たちが進んでいるのは巨木が連なる森林に挟まれた幅100フィート(30メートル)ほどの鬱蒼とした藪道だ。その終着点まで視線を這わせれば、敵車両の予想位置を示すマーカーが―――今や見る影もなくなったかつての強豪校の群れが恐怖に身を寄せ合っていた。

 

「袋のネズミ、ですわね」

 

 ダージリンの別命(・・)に従って特殊な照準器(スコープ)に視線を注ぐ砲手のアッサムがさもつまらなさそうにボソリと呟く。それは今の黒森峰の例えとして適確に過ぎた。

 遠い昔に落ちた隕石の痕跡だろう。マップには、森のなかに突如ポツンと開けた窪地(クレーター)が映し出されている。追い立てられた黒森峰女学園は、18両の残存戦車をまるで身を縮こませるようにしてそこに無理やり押し込ませていた。彼女たちの背後となる北側には自然の脅威を感じさせる巨大な岩山がそびえ立ち、それ以上の後退を阻んでいる。そこに向かって、クルセイダー巡航戦車5両を率いるダージリンたちの本隊が南側からじわじわと進軍している。それだけではない。本隊とは別に、東西両側からもそれぞれグロリアーナの一隊が木々を薙ぎ倒して迫る手筈となっている。北は壁に阻まれ、南からは敵本隊、東西からも挟み撃ち。まさにネズミ一匹逃げる隙間もない。逃げ場を奪った状態で、各6両編成の3隊が三方から襲いかかる完璧な包囲網だった。

 さらに情け容赦のないことに、その地形特性として窪地は周囲より一段低くなっている。古来より、戦いではより高所を確保した方が有利とされる。低地からは角度のせいで狙いはつけにくく、高地からは逆に狙いやすいからだ。その証拠に、前方の暗闇から放たれてきた砲弾はまたもや的はずれな弾道を描き、遥か手前の樹木の根本を抉るに留まった。前面最大装甲圧6インチ(152.4ミリ)を誇る重防御のチャーチルなら例え正面から直撃しても大したダメージにはならないだろうが、ヘッドランプをつけて真正面から迫る相手に掠らせることも出来ないとは素人同然だ。先ほどから絶えず砲撃音は聞こえるものの、直撃弾は数えるほどもない。「いったいどこを狙って撃っているのかしら」とアッサムが嫌悪感すら滲ませて呟く。黒森峰の砲手たちが冷静さを欠いているのは明らかだった。

 この鬱陶しい森を抜ければ、グロリアーナは高所から黒森峰を見下ろし、一斉砲火で嬲り尽くすことになるだろう。まともな反撃すら来ない状況で、あっと言う間に、一方的に、黒森峰を駆逐してしまうだろう。ダージリンたちは優勝を目前にして、宿敵との決着のあまりの呆気なさに、その後に噛み締めるだろう後味の悪さに、今から辟易しているのだ。

 今の黒森峰に勝ち目などないことは1年生であるオレンジペコにも胸に痛みを覚えるくらい理解できた。世界に名を馳せた強豪校がよりによって決勝戦でこんな無様を晒すなんて。これからの人生でこんな戦い方をする側にだけはなりたくないと、目を背けたくすらなった。

 

 

―――ごろごろごろ……

 

 

 相変わらず豪雨は止むどころかどんどん激しさを増している。踏破性能の塊である戦車にとって、水たまりや泥濘み程度は何の障害にもならない。問題となるのは頭上で生じる凶悪な放電現象だ。

 

「東西の別働隊との無線はまだ繋がらないのかしら?」

 

 雷は、発生すると強力な電磁波を非常に幅広い周波数帯で広範囲にわたって放射するため、無線通信の大敵として知られている。東西から伝わる遠雷の中に時々砲撃音が交じるのは微かに聞こえるが、肝心の通信が出来ない以上、別働隊の動きがまったく把握できていないのが現状だった。

 

「は、はい。あらゆる周波数を試していますけど、返ってくるのは雑音ばかりですわ。ほんの15分前までは西側の部隊とギリギリ繋がっていたんですけど……。たった数キロしか離れていないのに、この距離で通信すら出来ないというのは初めてです。よほどひどい電磁波が発生しているのかもしれません。この様子では、天候が回復するまで通信は不可能だと思いますわ」

「そう……。通信でタイミングを合わせられないのでは、三方同時攻撃は無理ね。まあ、いいわ。こんなこともあろうかと侵攻速度はあらかじめ揃えておいたのだし、コンピューターマップは全車両に配備されてる。それに、無線が使えない条件は相手も一緒。むしろ、精確な地図で連携をとることのできる私たちの方が有利だわ。私たちの勝利は決して揺るがない。だから、そんなに心配なさらないでいいのよ」

 

 通信手の気まずそうな報告にもダージリンは揺るがない。不安げな通信手をその微笑みでやんわりと窘めながら「せめて最期は一瞬で終わらせてあげたかったわね」と頬に手を当てる。その表情に、先ほどまでの苛立ちなど微塵も見つけられない。

 敵が失敗を犯せば、そこに全力でつけ込むのがグロリアーナの流儀だ。それは決して卑怯なことではない。手心を加えることこそ悪質極まる侮辱だ。敵に対して真に敬意を払うのなら、全身全霊を持って堂々と完膚なきまで叩き潰すことこそが騎士道。そう信じて疑わないのが、押しも押されぬ強豪校である聖グロリアーナ女学院の隊長、ダージリンなのだ。

 実際、気象によって無線が限定されるという想定外の事態下に遭遇しても、非の打ち所のない指示を配し、状況に応じて部隊を3つに再編し、あらかじめ目星をつけておいた窪地に敵を追い詰めて3方から完全包囲する陣形を整えてみせた手腕は、到底常人に真似できるものではない。少なくとも今のオレンジペコには絶対に出来ない。それほどの神業を成し遂げたにも関わらず、興奮の一端も滲ませることのない人形の如き横顔を見上げ、オレンジペコはあらためて彼女が自分たちの敵でなかったことを運命の神に感謝した。

 

「そういえば、川に落ちた(・・・・・)という黒森峰の一両(・・・・・・・・・)は、無事なのかしら」

 

 こうして事故を起こした敵のことを心配する慈愛すら見せつけるのだから、つくづくこの人は恐ろしい。将来、果たして自分はこの偉大な人の後を継げるような逸材となれるのだろうか。今の黒森峰の隊長のように、グロリアーナの歴史に泥を塗ってしまわないだろうか。オレンジペコは内心に焦燥の冷や汗を浮かばせ、それを意地で押し隠して応える。

 

「わかりません。かなり高いところから落ちたらしいです。目の前で目撃したM3スチュアートの娘たちによると、“見たこともないゴテゴテした戦車が川にまっすぐ落ちていって、黒森峰はそれに見向きもせずに去っていった”とか。スチュアートはその直後に撃破されてしまったので、戦車の車種も、その後どうなったのかも不明です。大会運営側の回収車に助けられていると思うのですけど……」

 

 茶道華道に並ぶ女子の嗜みの一つとはいえ、元は兵器だったものを使う戦車道には負傷はおろか命を落とす危険も当然存在する。操縦区画用強化炭素繊維防護内壁(コックピット・カーボンコーティング)の技術が向上した現在は危険性もかなり少なくなったが、浸水に対してはさすがの特殊コーティングも無力だ。特別な装備(・・・・・)でもしない限り、戦車は水中を進むようには作られていない。敵同士とはいえ、同じ戦車乗りとして心配に思うのは当然だった。

 

「そう……。その戦車の娘たちが無事であることを祈りましょう。でも、いくら劣勢とはいえ川に落ちた仲間を助けにも行かないだなんて、悲しい話だわ。私なら助けに行くわ。絶対に」

 

 それは彼女の本心だ。陶器のような白頬に人間らしい赤みが差したのを見て、オレンジペコとアッサムは一瞬目を合わせて穏やかな微笑みを交わした。こうだからこそ(・・・・・・・)、ダージリンはグロリアーナの全員から慕われている。厳しくて優しい。この人のようになりたいと、心から思える。

 

「そうそう、こんな格言を知っているかしら」

 

 この豆知識を披露したがる奇妙な癖さえなければ。

 

「“人間のなすことにはすべて潮時がある”」

「……ウィリアム・シェークスピアの言葉ですね。人間の人生にも満ち潮と引き潮があるとか」

 

 ダージリンに付き従ううちに、オレンジペコだけはなんとかダージリンの唐突な問いかけにも相槌を返せる程度には物知りになった。オレンジペコだけは。たしかに偉人たちが残した真理の言葉から学べることは多いが、話が長くなる上に、戦いの途中でのんびり「へえそうなんですか」と感嘆の声をあげて反応するほどの余裕は常人にはない。「お相手は貴女に任せるわ」というようにアッサムはさっさと照準器に目を押し当てて本来の特別任務に戻る。見渡せば、操縦士も通信手も同じように背中で「任せた」とオレンジペコに伝えていた。それらにしかめっ面を向けるオレンジペコのことなど露知らず、腹心の返答に満足気に頷いたダージリンは「そうよ」と続ける。

 

「“西住流に逃げると言う道は無い”、だったかしら。まさに言うは易し行うは難し。まほさんは隊長として体現できたけど、妹さんには難しかったようね。でも、それも当然のような気がするわ。あの娘、まほさんとは全然違っていましたもの」

 

 オレンジペコは、試合前の挨拶でダージリンと向かい合っていた気弱そうな少女の顔を思い起こす。冷静沈着を体で表していた前任者の姉と違い、優しくておっとりしてそうで、とても黒森峰の隊長には見えなかった。緊張で随所の動作がギクシャクと覚束ない様子は、決勝戦で突然隊長に任命された1年生の身としては無理もないとは言えあまりに部下を率いる指揮官らしさが欠如していて、オレンジペコの方が頭を抱えたくなるほどだった。

 

「あの娘は上手に満ち潮に乗れなかったのね。でもね、こんな格言を知っているかしら?“コップを唇に持っていく間隔までには多くの失敗がある”」

「英国のことわざですね」

「そうよ。誰でも最初は失敗するものだわ。大目に見てあげるべきよ。それに、家と姉の余光を受けて隊長になれたとはいえ、私たちの猛追を受けながら未だに18両を残しているだけでも十分に優れたもの。試合の後に賞賛すべきね。私の作戦では、追い立てていく過程で半数程度に討ち減らすか―――」

 

 唐突に、その声がスッと温度を落とす。

 

あの一両(・・・・)だけでも仕留めてから、包囲するつもりだったのだけれど」

 

 “あの一両(・・・・)”。

 そう告げたダージリンの言葉は、たしかに警戒心を越えた感情を帯びて張り詰めているように聞こえた。敵の半数を撃破するにも等しい脅威を有する一両。それがどの戦車を―――否、何者(・・)を差した言葉なのか、オレンジペコは脳で理解する前に本能で理解した。車内の空気が一瞬で冷えきったような錯覚が顔面の皮膚を突っ張らせ、全身の筋肉がギクリと強張る。

 

 

 準々決勝で敗れたサンダース大学付属高校曰く―――

 

「あれは首無し騎士(ヘッドレス・ホースマン)よ。スリーピー・ホロウ村の伝説のように、森の暗闇に潜むあの亡霊は油断した獲物が前を通り過ぎようとした瞬間に血まみれの剣で襲いかかって、その首を狩り盗ってまた闇中に去っていくのよ」

 

 

 準決勝で敗れたプラウダ高校曰く―――

 

「あれはエルミールの悪魔山羊(プロクリャーチ・カズリオーナク)よ。少年エルミールが呪われた水死人の墓で見つけてしまった白ヤギのように、目と歯を剥き出しにして不気味に哄笑しながら獲物をどこまでもどこまでも追いかけてくるのよ」

 

 

 そして、それらの戦いを観戦していたダージリン曰く、

 

 

「―――アッサム、バスカヴィル(・・・・・・)はちゃんといるかしら?」

「心配ありませんわ、ダージリン様。私の目も暗視装置も良好。先ほど、飼い主に連れられて逃げていく後ろ姿をちゃんと捉えましたわ。魔犬(ヘルハウンド)飼い主(・・・)の傍を離れていません」

 

 よかった。オレンジペコはホッと安堵の息をつく。アッサムの後ろ姿がこれほど頼りがいがあるように見えたことはない。グロリアーナでもっとも視力に富んだ砲手のアッサムに与えられた別命。これこそ、特別な暗視装置を備えたスコープである特定の(・・・・・)たった一両の戦車(・・・・・・・・)を捕捉し続けるという、通常では考えられないものだった。

 

「“地獄の犬が我々の後を追ってくる。()こう、ワトソン。悪魔が荒野に出てきたのか、見届けてやろうではないか”」

「……シャーロック・ホームズの『バスカヴィル家の魔犬(バスカヴィル・ヘルハウンド)』ですね」

 

 有名な英国小説の不気味な一文を引用してみせ、「あの娘にはピッタリでしょう」とカップに口をつける。一見すると余裕そのものの笑みだ。しかし、いつも傍にいるオレンジペコは、彼女の尊敬する隊長が胸中で胸を撫で下ろす気配を察することが出来た。

 それも当然だろうと、オレンジペコはまだ自分が入学する前に起きた出来事に―――ダージリンが銀髪の狂犬に執着することになったキッカケに思いを馳せ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

―――ごろろろろ……

 

 

 恐るべき狂犬が背後から迫っていることに、彼女たちは気づかない。




あ、あの、ごめんね? いつもウットリしてるから、どんな音楽聴いてるのかなぁって、ちょっと気になっただけなの。ご、ごめんなさい、もう勝手に聴こうとしたりしないから、怒らないで。何も聴いてないから。ほんとだから。あ、は、ハンバーグ! ハンバーグが美味しいお店を見つけたの。今度一緒に食べに行こう? ね? だから……あ、許してくれるんだ。ありがとう……。………ねえ、女の子にコショコショって囁かれる音楽が好きなの……? きゃあ、ごめんなさい、怒らないで!泣かないで!


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そのエリカ、猟犬につき③

エイプリルフール更新


『貴女は、私の夢だからよ』

 

 私を“夢”と言ってくれた人がいる。その人は、私に可能性を与えてくれた。私だけでは到底たどり着けなかった可能性に、手を伸ばすキッカケを授けてくれた。研ぎ澄まされた剣のような銀髪が視界に輝けば、私は万の砲弾より勝る勇気と希望を得られた。時に鋭く引き締まり、時に木漏れ日のように穏やかな声がこの耳に届けば、私は後ろを振り返らずどこまでも前に進むことができた。

 その人は、私の恩人で、世界で一番の親友。そんな人が、私のことを“夢”と言ってくれた。私と過ごす日々を、まるで死後に垣間見る刹那の夢のように幸せで楽しい夢だと、美しい横顔で囁いてくれた。

 だったら、私のすべきことは決まっている。どうしようもないくらいに単純で簡単だ。

 親友が心から楽しめる、親友と共に全力で楽しめる、最高の(戦場)を作り上げるんだ。

 もう、西住の名には呑み込まれない。私が西住流そのものになるんだ。

 親友の期待を胸に、お姉ちゃんを、西住まほを超える。

 私の歩んだ軌跡こそを新しい西住流とする。

 

 

 さあ、一緒に楽しもう、エリカさん。

 私たちの戦場で、存分に、思うがままに、暴れて魅せて。

 

 

 

 

 

 

 

―――ごろごろごろ……

 

 

 

 その鳴き声(・・・)は、まるで、

 

 

 

 ピクッと、豊かな茶髪が怯えに震えた。唐突に産毛が逆立ち、薄ら寒さが華奢な背筋をズズッと這い登る。突然の不可思議な悪寒に、三つ編みの少女―――グロリアーナ別働隊を預かったルクリリはわけも分からず顔を曇らせた。

 戦車長たる者、不安は常に抱えている。どこかのスピード狂十字軍(クルセイダー部隊)と違い、慎重な行動ときめ細やかな警戒心がチーム全体を救うことをルクリリはよく心得ている。自信家を標榜するからこそ、この最終決戦(リベンジマッチ)において失敗は絶対に許されない。仲間を明るく鼓舞する豪快な顔の裏では、極めて理性的な思考が駆け巡っている。

 しかし、先ほど心身を貫いた怖気は、いつもの予感とは明らかに質が異なっていた。知恵や経験から導き出される予測ではない。まるで、自身が真夜中のサバンナで彷徨う草食動物にでもなったような―――夜闇の中に、獲物(こちら)を見つめる捕食者の瞳を見つけてしまったような―――。

 

「……ルクリリ様? どうかされました?」

「……何か、不吉な鳴き声が聞こえたような気が……」

 

 言ってしまって、そんな馬鹿なと自分自身を内心に叱咤する。川沿いから(・・・・・)黒森峰を包囲しようとするこの別働隊を襲う敵などいるわけがない。1輌を撃破してから、黒森峰の残存戦力はすべて遥か前方の山中に集結しているはずなのだ。ここにいるわけがない。もし万が一にもその1輌が生き残ったとして―――川に落ちたというのであり得ないに違いないが―――重防御を誇るこのマチルダII歩兵戦車を含めた6輌に対して何が出来るというのか。

 ダージリン様なら、この不可解な感情の理由を簡単に明文化して、鼻で笑ってみせるだろう。今の自分のように、指揮下の娘たちに不安げな表情をさせてしまう愚行はしでかさないに違いない。サイドテールを軽やかに揺らしてみせ、ルクリリは平常時の自分の顔をトレースしながら笑いかける。

 

「いえ、なんでもないわ。きっとこの耳障りな雷の音よ。さ、早くダージリン様の下に駆けつけましょう。ローズヒップたちに美味しいところをとられちゃ、悔しいじゃない!」

「「「はいっ!」」」

 

 戦車長の笑顔に不安を吹き散らされた少女たちが肩を上げて各々の役割に専念する。そうだ、これでいい。きっと大丈夫だ。さっきの、まるで犬の鳴き声(・・・・・)のような音は、雷鳴の聞き間違えなのだ。

 

 

 

―――ごろ ぐる(・・) ごろ……

 

 

―――ごろ ぐるる(・・・) ろ……

 

 

―――ぐるるるるる(・・・・・・)……

 

 

 

 悪夢のような闇の中に、一対の赤眼が不気味に浮かんでいる。

 恐るべき狂犬が背後から迫っていることに、彼女たちは気づかない。

 

 

 

 

 

 

 

 半年前―――。

 

 打倒黒森峰を掲げた聖グロリアーナ学園が満を持して挑んだエキシビジョンマッチにおいて、当時副隊長としてすでに頭角を現していたダージリンは隊長(フラッグ)車の直衛兼補佐としてチームの中核を担っていた。その活躍は凄まじく、進撃を阻む黒森峰の戦車を一輌また一輌と次々に仕留めていった。しかも、ただ目の前の敵を屠るだけではなく、そこには明確な戦術があった。

『機動力に優れた戦車で獲物を追い立て、重装甲の戦車で包囲し、殲滅する。』

 現在のグロリアーナの代名詞とも称される『強襲浸透戦術』はダージリンの手腕によって確立されたと言っても過言ではない。事実、その日、ついに黒森峰の隊長(フラッグ)車を市街地の袋小路に孤立させ、母校の勝利をあとわずかで手の届くものにした功績は間違いなくダージリンにあった。全員が勝利をすぐ指先に感じていたし、ダージリンでさえ気を逸らせてハッチから身を乗り出し、勝利の高揚に総身を昂ぶらせていた。

 それは、動物的な観点で言えば“油断”に他ならず、その獣(・・・)にとってはまさに獲物が無防備な喉を晒した絶好の瞬間だった。

 

『ぐるるるる……』

 

 その時、獣が喉を鳴らすような唸り声をダージリンは確かに聞いたという。

 次の刹那、視界の端に並ぶコンクリート壁が轟音とともに爆裂したかと思いきや、粉塵を突き破って“銀髪の獣”が本隊の横合いから猛然と襲いかかってきたのだ。何が起こったのかもわからぬままダージリンは真っ先にその牙に晒されることになり、気づけば目の前には討ち取られた隊長(フラッグ)車が無残に横倒しになって、その白旗を呆然と見上げていたのだった。

 後から聞いた話で、それは「孤立した隊長(フラッグ)車を全力で救援せよ」という隊長命令を無視した当時副隊長の西住まほが独断でけしかけた、たった一輌のティーガーⅡによる強襲だったことがわかった。

 密集し、閉ざし合った複雑な市街地の中で、どうしてまっすぐにグロリアーナの本隊の場所を察知できたのかは定かではない。最初に隊長ではなくダージリンを狙ったのは、獣の勘なのか、それともダージリンがいなくてはチームが成り立たないことを知っていたから(・・・・・・・)なのかも定かではない。ただ一つ確実なことは、ダージリンの勝利を食い破った要因が、練りに練られた作戦でも、考えぬかれた用意周到な伏兵でもなく―――ただ“()()()()()()()()()()()()()”という救いようのない事実だった。その時にダージリンが味わっただろう苦渋を、胸が抉られるほどの自責を、頭が腫れ上がるほどの屈辱を、オレンジペコは想像するだけで痛いほどに奥歯を噛み締める。

 

 ダージリンの栄光に土をつけたその銀髪の獣こそ、グロリアーナが忌み名で呼ぶ『バスカヴィル家の魔犬(バスカヴィル・ヘルハウンド)』。

 “完璧な戦術で敵を圧倒する”という西住流の影響根強い黒森峰にあって、唯一戦術を果たさないことを認められた者。

 飼い主が首綱(リード)を握る手を離したら最後、作戦も何もかもを台無しにして、獲物を食い尽くすまで暴れまわる狂気の怪物。

 優秀な人材と装備を揃える黒森峰にあって、火砲、装甲、そして乗り手の全てにおいて現有戦力中最強を誇る戦車。

 西住まほすら完全に使いこなせなかった、“黒森峰の狂犬”。勇名悪名両方名高きその狂犬の名を、逸見エリカ(・・・・・)という。

 

 そんな、解き放たれれば戦況を覆される切り札への対処法は一つしか無い。言ってしまえば単純で簡単な話だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「新しい飼い主さんは、頼れる犬を自分の傍から離す勇気はないようですわね」

 

 微かな冷笑を混ぜて呟いたアッサムの目は絶えず最大望遠のスコープに傾注したまま離れない。彼女の鋭い双眼には、闇夜を見通す暗視装置によって暴き出されたティーガーⅡのズングリと角ばった特徴的なシルエットが(しか)と映り込んでいた。隊長車(ティーガーⅠ)の隣にじっと(かしず)いたまま雨に打たれる姿は、新しい飼い主の不甲斐なさに辟易してやる気を無くしているようだった。

 決勝戦前の顔合わせでダージリンと向かい合った新しい隊長―――西住みほの顔を思い出そうとして、オレンジペコは自制する。情けを掛けてしまいそうな自分を恥じて。

 

「当然ね。どんなに強い狂犬でも、飼い主に扱いきれるだけの度量がなければ駄犬に成り下がる。私たちがまともに狂犬の相手をする必要なんてない。ただ、飼い主の方を攻めて攻めて攻め続けて、考えあぐねる余裕すらも奪ってしまえばいいのよ」

 

 切り札を有する黒森峰への対抗策としてダージリンが導き出した作戦は極めて明快だった。ここぞというタイミングで切り札を使われるのなら、そのタイミングを奪ってしまえばいい。基本的戦法である『浸透強襲戦術』をさらに激化させた『超・浸透強襲戦術』とも呼ぶべきそれは、出し惜しみなど一切せず、敵に対応を練る猶予すら与えず、優雅も気品もなく全戦力を持ってただひたすら追い立て続けるという、単純なれど容赦のない戦法だった。事実、黒森峰の新しい隊長は切り札の首綱を手放す好機を完全に逸してしまい、行き止まりの窪地に身を寄せあって己と道連れにしようとしている。

 

「気の毒ね、逸見エリカ。不甲斐ない飼い主を持ったばかりに望まない最後を強いられるなんて。せめてまほさんだったなら、まだまともな戦いをさせてくれたでしょうに……」

「……ダージリン様、相対距離が900ヤード(820メートル)を切りましたわ。いつでも()てます」

 

 声に少しの緊張を織り交ぜたアッサムが背中で指示を仰ぐ。チャーチル歩兵戦車の主砲であるオードナンスQF6ポンド対戦車砲の有効射程は1,650ヤード(1,510メートル)。普段ならば威力不足は否めない砲だが、この距離まで近づけばいかに堅牢なドイツ戦車の装甲も貫ける。そして、いかに高威力のドイツ戦車砲でも、この程度の距離ではチャーチルの正面装甲は貫けない。敵の残存勢力が全て前方に集中し、装甲の薄い後方から攻撃を受ける心配がない今、チャーチルはすでにこの戦場を制したようなものだ。いや、事実としてそうなる(・・・・)のだ。今から、そうする(・・・・)のだ。

 

 すうっと鼻孔から深く息を吸い込み、ダージリンは静かに目を閉じて、そして強く開く。一瞬、瞼の裏に映り込んだのは、かつて彼女が味わった屈辱と挫折の光景だ。あの敗北があればこそ、ダージリンは母校をサンダースやプラウダと一線を画する強豪校にまで押し上げる実力を持つに至った。しかし、忌々しい記憶は常に彼女の傍らにあり続けた。それも今日までだ。闇雲に放たれた黒森峰の砲弾がチャーチルの装甲に弾かれて鈍い音を響かせる。否、弾いたのは装甲ではなく、ダージリンの決意だ。

 あの時に失った誇りを取り戻すために、過去を清算して前に進むために、彼女は慈悲も同情も忘れて復讐の修羅となる。

 

「―――全車に通達、遠距離砲撃戦の用意。オレンジペコ、砲弾は問題ないわね?」

「はい、ダージリン様。強化薬莢と装弾筒付貫通徹甲弾、すでに装填完了しています。次弾装填もいつでも行けます」

 

 狂犬が駆るティーガーⅡはチャーチルに劣らない重装甲で知られている。火薬と爆薬を強化し、貫通力を極限まで高めた砲弾でなければ有効打は与えられない。その知識を有し、なおかつダージリンの戦術を理解して適確な砲弾を前もって準備できる。まだ入学して間もないオレンジペコが次期隊長候補として隊長車への同乗を許されている由縁だ。

 見事に期待に応えた後継者にダージリンは「さすがね」と誇らしげな笑みで頷く。自尊心を刺激され、オレンジペコの背筋にピリリと熱い興奮が走る。

 

「各車にも同じ弾種を使用することを通達して。アッサム、狙いそのまま。私の合図で、まずはバスカヴィルの側面装甲を穿ちなさい。その後で隊長(フラッグ)車を確実に撃破するのよ」

「わかりましたわ。一撃で、仕留めてみせます」

 

 澱みのない決然とした指示はダージリンの覚悟に満ち満ちて、それが見えない球となって全戦車を包み込んで少女たちの心を一つにする。長らく日本戦車道に君臨してきた王者を討ち取る偉業に、さしものアッサムも武者震いに震えていた。一年生のオレンジペコなら尚さらだ。

 緊張の面持ちを浮かべたオレンジペコが、手元のラップトップに視線を注いでゴクリと喉を鳴らす。幅100フィート(30メートル)の鬱蒼とした藪道が続く先に、黒森峰の集団(えもののむれ)が待っている。直線距離にして850ヤード(780メートル)。互いに有効射程内だ。いつ決着がついてもおかしくない。

 

「バスカヴィルと隊長(フラッグ)車はチャーチルが引き受けるわ。あとは―――“Let slip the dog of war.”」

 

 その場違いに流暢な台詞の意味を一瞬で理解でき、かつ行動に移せるのは、この場にはオレンジペコただ一人だけだ。短距離用無線機をラックから掴み取り、息を吸うと同時に台詞の引用元に思考を馳せる。シェイクスピア戯曲『ジュリアス・シーザー』第三章第二幕。意味は、『戦いの犬を解き放て(Let slip the dog of war)』。

 

「ローズヒップ隊、前進してください!!」

『ハイですわァッ!!』

 

 跳ね返るピンポン球のような即答がスピーカーを震わせ、エンジン音を高鳴らせた風の色の戦車―――クルセイダーMk.Ⅲ巡航戦車が待ってましたとばかりにチャーチルの真横に進み出た。

 小型軽量のボディに高出力エンジンを搭載した結果、最高出力340馬力、規定最高速度30マイル(50キロ)の俊足を誇るクルセイダーは、先頭になって敵陣をかき乱す露払い役には打って付けだ。

 恭しく無線機を差し出すオレンジペコに褒美と賞賛の一瞥を授け、ダージリンは持ち前の涼し気な声を吹き込む。

 

「ローズヒップ、隊長(フラッグ)車直衛の任を解くわ。作戦通り、クルセイダー4輌を率いて先行なさい。相手をポップコーンみたいに盛大に慌てさせて指揮系統を崩すのよ。我がグロリアーナにも獲物を追い立てる優秀な狩猟犬がいるのだということを、黒森峰の方々に思い知らせてあげなさい」

『了解ですわ、ダージリン様! ―――ところで、優秀な狩猟犬って何方(どなた)が飼ってらっしゃるんですの? 私、まだそのワンちゃんを見せて頂いたことがありませんわ』

 

 空気が結晶化し、さしものダージリンも口端をピクリと震わせる。そして、アホの子と真正面から相手をするのを諦め、匙を砲手に向かって優雅にぶん投げる。

 

「後でアッサムが説明してくれるわ」

「ちょッ、ダージリン様!?」

『わかりましたですわ! アッサム様、あとでそのワンちゃんを見せて下さいませ~~~っ!!』

 

 仰天してダージリンを振り返るアッサムのことなど露知らず、“聖グロの飛び道具”と呼ばれるイノシシ少女が持ち前の甲高い声を跳ね返してくる。顔は見えないが、彼女が目を輝かせていることは鼓膜を震わせるほど楽しげな声で一()瞭然だ。その快速っぷりには鈍足のチャーチルと並走していた鬱憤をようやく晴らせるという気持ちがありありと滲み出ていた。まるで久しぶりに散歩に連れて行ってもらってテンションがおかしくなった犬のようだ。面倒事を押し付けられたアッサムが不快気ではない苦笑を浮かべて「まったくあの娘は」とボヤく。

 

(勝てる。私たちは間違いなく勝てるわ。ダージリン様はやっぱり凄い……!)

 

 決戦を前にして士気は漲り、油断は一切なく、張り詰め過ぎない精神的余裕もある。オレンジペコは“完璧な勝利”の確信を肌で感じていた。これこそが優雅を旨とするグロリアーナの在るべき姿だ。これで勝てない方がおかしい。グロリアーナの、ダージリンの勝利は、もはや月の満ち欠けのように決まりきったことだ。完全無欠の勝者にしか作ることの出来ない空気を肺いっぱいに吸い込み、染み込ませ、いつか自分が再現するためにその味と成分を心の奥底に刻もうと必死になった。

 

『バニラ、クランベリー、ついに見せ場が来ましたわ!全クルセイダー、私に続きなさいませですのよ!』

『『はいっ!!』』

 

 第2次大戦中の戦車の中では飛び抜けて加速性能の高いクルセイダーと高速戦闘を得意とするローズヒップの組み合わせは、敵の混乱を誘うには最適だ。飛び出してきたクルセイダーの素早さとローズヒップの機敏な指揮に驚き、翻弄された敵戦車は統率に楔を打たれ、連携を失い、各個撃破の的と成り果てる。そうして丸裸となったキングに、こちらのキングがとどめを刺す。

 

「チェックメイト、ですわね」

 

 静かに、しかし自信を込めて呟き、ダージリンはカップに唇をつける。その言葉に全員が力強く頷き、各々の機器を握る手に力を込める。オレンジペコのラップトップがついに接近警報を発する。敵集団との相対距離はもう710ヤード(650メートル)もない。クルセイダー(ローズヒップ)にとってはものの数歩分の距離だ。

 

「“優れた能力も機会が与えられなければ価値がない”。“決戦の後で使用が予定されている如何なる予備軍は、不合理以外の何物でもない”」

「ナポレオン・ボナパルトと、カール・フォン・クラウゼヴィッツの格言ですね。どちらも、戦力の不要な温存は愚策という意味です」

 

 間髪入れずに返答してみせた忠実な弟子に、師は「その通りよ」と成長を肯定する。

 

「ここぞという時に、持ちうる最大戦力全てを投入する。相手より一分一秒でも早く。どんなに強い狂犬だって、檻から放たれない限り脅威となりえない。リードを繋がれて動きを制限されたままでは、訓練された素早い狩猟犬の群れには絶対に敵わない」

 

 狩猟犬の群れが次々と主人の横をすり抜け、獲物に向かって驀進していく。戦いにおいては、常に仕掛ける側に立つことが勝利の基本となる。相手より先に行動することで主導権を握り、さらに味方の闘志も促せる。先に犬を放ったのはグロリアーナだ。戦術的にも、士気的にも、アドバンテージは得た。しかし、勝利を確実にするために、まだやっておかねばならないことがある。

 

「ローズヒップ、アッサムに道をお開けなさい」

 

 その言葉に弾かれ、神託者(モーセ)を前にした大海のように4輌の戦車が飛沫を飛び散らせて左右に分かれる。瞬間、アッサムの視界に飛び込むのは憎きバスカヴィルのシルエット。闇のねぐらに隠れて明瞭定かでないが、彼女には十分だ。虎に鎧を着せたようにずんぐりと背中が盛り上がった下品で獰猛な姿は、見間違えようもなくティーガーⅡのそれだ。無防備に側面をこちらに晒しているのは、自身の鎧を頼った驕りだ。今、それを剥ぎ取ってやる。アッサムの漂白されたように白い細首がゴクリとうねる。興奮と緊張が全身を走り狂うも、トリガーに掛けられた指先はそれらと完全に切り離され、微塵も揺るがない。そのために訓練を積んできたのだ。彼女の背中に汗が滲み、そこに早鐘を打つ心臓が透けて見えて、オレンジペコも思わず喉を上下させる。鼓膜が絞り切れるような静寂の中、それぞれの高鳴る心音まで聞こえてきそうだ。不快ではない、むしろ一体感を与えてくれる音色だ。高揚感を高める心音(ハーモニー)が重なり、奏鳴曲(ソナタ)を奏で、重奏曲(アンサンブル)となり、集合し、融合し、壮大な交響曲(シンフォニー)へと至って美しい力場を形成する。

 静謐なコンサートホールに流れるクラシックオーケストラの中、一口、ダージリンが己のティーカップに口をつけ、麗しい唇で音もなく紅茶を啜り、喉を潤す。

 それはまるで、フィナーレを目前に指揮棒(タスク)を頭上高く振りかぶる指揮者。

 そして、純白のカップとソーサーが奏でる口吻(キス)は、撃鉄。

 

撃て(ファイア)

 

 轟音が炸裂した。衝撃波が降りしきる豪雨を吹き飛ばし、3.23ポンド(7.1キロ)の砲弾を884メートル毎秒で砲身から叩き出す。放たれた鉄塊はグロリアーナの少女たちの気迫を纏い、暗闇をサーベルのように鋭く引き裂き、騎馬のように雷鎚の間隙を華麗に縫って、暗視スコープの中心―――宿敵の横っ腹に見事着弾した。

 

「やった……!」

 

 まさに狙い通り、今までの鍛錬の集大成というべき人生最高の砲撃だった。拳を握りしめるアッサムの視界で、派手な炎が上がり、赤外線の白黒が逆転する。次いで空気を伝わって聞こえる、ドォンという爆発音。分厚いはずの王虎の装甲がわざとらしい(・・・・・・)ほどに広く高く散逸していく。奇妙な手応えだったが、勝利の興奮が感覚を麻痺させているのだと彼女は理解した。

 同じ光景を目撃していた操縦士のルフナが歓喜に震える。

 

「ダージリン様! アッサム様がやってくださいましたわ!」

「ええ! よくやったわ、アッサム! さあ、全車攻撃開始!」

 

 初弾でバスカヴィル(イレギュラー)の足を止めさえすれば、もはや恐れる者は無い。

 主君のために雑兵を露払うクルセイダー(十字の騎士)が、軍旗を掲げた中世の騎兵よろしく雄叫びを上げながら目の前の暗闇に向かって突進する。

 鞭打たれたクルセイダー巡航戦車はあっという間にチャーチルを置き去りにして、豪雨のバッドコンディションも何のそのと驚異的な加速を魅せる。事前に速度調整機の足枷(リミッター)を外された愛機が持てる全ての機関出力で乗り手の覇気に応えたのだ。軽量エンジンブロック内で爆炎を哮らせたナッフィールド社製『束縛無き自由(リバティー)・エンジン』が嘶きを上げて、カタログデータを越えた時速38マイル(61キロ)を叩き出し、排気ノズルが燃える炎に輝く。

 

『さァあ、リミッター外しちゃいますわよォ―――

 

 いざ、決着の時だ。凱歌を歌うように高らかに、ローズヒップがお決まりの台詞を喉奥から迸らせ、

 

 

 

 ―――あら(・・)?』

 

 

 

 不意に―――優秀な狩猟犬が何か(・・)に気づいて声を上げた。

 その首を傾げる雰囲気が、グロリアーナに流れていた熱い潮流に強烈な違和感を挟んで堰き止めた。

 

 

「どうしたの、ローズヒップ」

『あ、いえ、ごめんなさいですわ。何でもないんですの。私の悪い癖ですわ。変なものを目にしたらつい口走っちゃうんですの。本当になんでも、』

「大事なことかもしれないわ。言いなさい、ローズヒップ」

『……ただ、今しがた通りすがりざまに不思議な木を見ただけですの。大きな木の根本だけごっそり削られて、今にも折れそうになっていて―――』

 

 ダージリンの一瞥を受け、オレンジペコは素早い動きで覗き窓に顔を押し付ける。確かに、自車前方数ヤード先の大木が、まるで巨大なアイスクリームスプーンで掬い取られたように根本をごっそりと失っていた。しかも、道の両脇で、幾本にも渡って。真新しい焦げ跡は整然としていて、明らかに意図的な―――神がかり的に正確無比な砲撃で与えられたものだ。

 オーケストラの途中に耳元で不躾な咳払いをされたような、最良の気分を害された不快感が凶鳥の鉤爪となって思考に引っかかる。張り詰めた沈黙に、雨音と車体が軋む音が木霊する。あれだけ心地よかった静寂の舞台が今は何故だか気味が悪い。突然、「そこはお前たちの舞台ではない」と蹴落とされたような絶望感が足元から這い登ってくる。不協和音がジワジワと少女たちのシンフォニーをかき乱すが、正体を突き止められない。そうこうしている内に、奇妙な木々は目前に差し掛かっているというのに。

 俯いた顔が手元の紅茶に映り込み、焦燥する己と水面を境に目が合う。

 あれは何?何が目的?私は、いったいどんな視点を見落としてしまったの?

 

『え、ええっと、』

 

 唐突に、握りしめる無線機からバツの悪そうな声がした。自分のせいで沈んでしまった皆の気を紛らわそうとローズヒップが不得手なジョークを投げかける。

 

『な、なんだかおっきなドミノみたいですわねっ!? 指先でちょんと押したら今にも倒れそう(・・・・)―――』

 

 

 

 

 

……倒れるって、どっち(・・・)に?

 

 

 

 

ああ、ねえ、待って。待ってよ。

何時から、静寂(・・)なの?

あんなに激しかった黒森峰の闇雲な砲撃は、どうして止まっている(・・・・・・)の?

彼女たちは、何を仕掛けて、何を待ってたの?

教えてください、ダージリン様―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 記憶の中の西住みほが、三日月のように笑って、

 

 もう遅い(・・・・)と、囁いて、

 

 圧倒的な砲撃音が、彼女の意識を呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悪夢のような闇の中に、一対の赤眼が不気味に浮かんでいる。

 

 恐るべき狂犬が背後から(・・・・)迫っていることに、彼女たちは最期まで気付かない。




 あ、あの、昨日はゴメンね。勝手にウォークマンの中身聴いちゃって。その、なんていうか、女の子に耳元でコショコショってされるの、好きなんだね。―――わああっ、待って! ここ3階だから! そっちは窓だから! 飛び降りちゃ危ないから!
 えーっとね、別に、おかしなことじゃないと思うよ? 聴いてて、私もドキってしちゃったし。ちょっとくすぐったいけど、ゾクゾクってして、気持ちいいと思う。こういうの好きだってこと、変なことじゃないと思う。だから、ね? 窓から離れて、こっちに来て。ね?
……うん、わかってくれてよかった。本当に。ごめんね、取り乱せちゃって。ううん、勝手に聴いた私が悪かったの。落ち着いてくれてよかった。
 ……と、ところで、なんだけど。この囁いてる女の子たちの声って、なんだか私とお姉ちゃんの声に似てる気がするんだけど、これってもしかして――――……あれ、エリカさん、どこ行ったの?


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そのエリカ、猟犬につき④

サブタイトル時系列、壊れる


『貴女は、私の夢だからよ』

 

 

 

 

“どうして、いつも私を助けてくれるの?”。

 

 改造中、二人っきりのⅥ号戦車(ティーガーⅠ)の中。

 何気ない質問をよそおって―――でも、心の奥にずっと引っかかっていたその問い掛けに、その人はいつになく真剣な表情で、そう応えてくれた。

 

 

 その人は、本当に強かった。まるで戦車乗りになるために生まれてきたようだった。その人のおかげで勝てた試合は数えきれない。あのお姉ちゃんでさえ、ここぞという時に頼りにするくらい強かった。

でも、どうしてか、勝利の花道は必ずお姉ちゃんや私に譲ってしまっていた。まるで、“()()()()()()()()”とでも言うように。その気になれば、今すぐにだって相応の地位を掴める実力者なのは間違いないのに。その人に頼りっきりの私たちに愛想を尽かして他校に赴けば、あっと言う間に頂点に登り詰められるのに。一歩踏み出せば大きな可能性を掴めるのに、その人はどうしてか、その一歩を決して踏み出そうとしなかった。真っ先に勝利の栄光を掴める位置にいながら、常に一歩下がって私たちを優先させてくれた。

 

 もちろん、そのことに不満なんて無い。その人のおかげで、お姉ちゃんは2年生に進級してすぐに黒森峰の隊長へ推薦され、実績を積み上げて周囲から有能な指揮官と認めてもらえた。私も副隊長に昇格して、二人してお母さんにも褒めてもらうことができた。ほんの少し前までは、戦車道でお母さんに褒めてもらえるなんて想像もできなかったのに。そしてつい先月、お姉ちゃんは黒森峰史上最年少で、戦車道連盟が選ぶ国際強化選手にも指定された。誰もが憧れる花道を、満を持して堂々と進んで行った。私は、そんなお姉ちゃんの後を継ぐ形で、隊長の役職に就くことになった。

 正直、不安でいっぱいだった。お姉ちゃんのように出来る自信なんてなかったけど、「貴女ならできるわ」と誇らしげに微笑んでくれるお母さんを前にして、思わず涙が流れるくらいにとっても嬉しかった。頑張らなくちゃと自分を奮い立たせることが出来た。本当に、お母さんがこんなに私を認めてくれるなんて、あり得ないと思っていたのに。

 だけど、同時に私は、モヤモヤとした複雑な悩みも抱いてしまった。手足が痺れるような罪悪感が私の表情を暗くする。だって、まるでその人を踏み台にしてしまっている気がしたから。自分の戦車道を見つけるキッカケを与えてくれた大切な友だちを、都合よく利用してしまっているような気がしたから。そんなこと、絶対にしちゃいけないのに。むしろ、私に前に進む勇気を与えてくれた恩を何としてでも返したいのに。だというのに、その人はかたくなに首を横に振って、逆に私の背を凱旋門に向かって押してくれる。自分が受けるべき賛辞を私に譲って、その人はそっと陰から私を見守ってくれていた。保護者のように、観客のように、姉妹のように、読者のように、恋人のように、ファンのように。

 

 

 

『―――西住みほ、貴女は私の夢そのものなのよ』

 

 

 そんな私の感情をまたも容易に見抜いて、その人は日頃の斜に構えた態度を脱ぎ捨てて、真っ直ぐに私の目を見つめてきた。何時になく生々しい感情を露わにしたライトブルーの瞳は、まるで好きな女の子に気持ちを伝えようとする男の子のように純粋に煌めいて、当然のように私の胸は高鳴った。一対の瑠璃の宝石は夏夜のように熱気を帯びていて、私の視線はそこに吸い寄せられる。

 

 

『貴女をこうして見守ることが出来るのは、私にとってこれ以上ない喜びなの。貴女が、誰も見たことのないより良い物語(・・・・・・)を歩む姿を見ることは、その物語を他ならぬ自分自身が手助け出来ることは、私にとって文字通り夢のようなことなの』

 

 

 狭く薄暗い戦車の中が、厳かな聖堂のようにその人の声を何重にも反響させ、私の心に染み込ませる。こみ上げてくる膨大な感情を、噛み砕きながらなんとか言葉にしたようなたどたどしさで、一語一語を慎重に紡いでいく。語尾が微かに震える声音は熱っぽく湿って、今までにない感情の発露を滲ませていた。今、この人は、もしかしたら誰にも見せたことのない本当の自分(・・・・・)を曝け出してくれているのではないかという錯覚すら抱いてしまうほどに。

 

 

 『私のことを振り返る必要なんて無い。なぜなら、こうして、逸見エリカとして貴女と一緒に戦車道を歩めることは、私にとって何物にも代えがたい夢のようなことなのだから。進み続ける貴女の背中を傍で見られることは、私にとって至上の夢なのだから。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ようやく得られるか得られないかの最高の夢物語。―――だから、貴女は私の夢そのものなのよ』

 

 

 呼吸もおかずに一気呵成に告げられたその台詞は、まるで、聞く者の浅はかな迷いを吹き散らす巫女の祝詞のようで―――客観的に聞けば、想い人への熱い告白(プロポーズ)のようだった。

 そのことに思い至ったのは私が最初で、次にその人だった。年上の貫禄じみたものを匂わせていた引き締まった表情が、こちらのポカンとした様子に訝しげに眉をひそめ、そして一瞬で同年代の女の子に戻った。銀髪に縁取られた頬がボンッと音を立てるようにピンクに染まり、切れ長の瞳がくるくる回転する円盤みたいに大きくなる。

 

 

『かっ、かっ、かっ、勘違いしないでよね! ぶべべべ、別に、気負ってほしくて言ったわけじゃない。アンタが聞いてきたから答えてあげただけ。だ、だからっ!』

 

 

 不意に、いつものぶっきら棒な物言いに戻ったその人が、マニキュアいらずの爪先でペチッと私の額を軽く弾く。

 

 

『私がアンタら姉妹に気を使って成果を譲ってるんじゃないか、とかくっだらないことを穿って考えなくてもいいってことよ。私は、私自身の夢のために今こうしてるの。私の望む全てが今こうしてこの手の中に存在し、現実として叶ってる。気に掛けられるようなことなんて何一つとしてないわ。私はそれを望んじゃいない。後ろのことなんて気にしてる暇があったら、アンタはただ前を向いて、ズンズン進んでればいいのよっ! ばかみほっ!』

 

 言って、その人は私の視線から逃げるようにぷいっと身体を逸らせて、そのまま目の前の照準器に力いっぱい顔を押し付けた。それでも照れ隠しを隠しきれていない横顔は見るも無残なピンク色に染まっていて、私は心の底から微笑みを浮かべた。防弾窓(ペリスコープ)から差し込む夕日が銀髪を黄昏色に輝かせて、とても美しかった。

 

 私は、この人の親友になれて―――逸見エリカの夢になれて、幸せ者だと思った。

 

 

 

 

 

 

 

「……だったら、最高の夢にしてあげないと、親友失格だよね」

 

「西住隊長? 何か仰いましたか?」

 

 

 こちらを振り返った、耳の良い黒長髪の砲手―――砲手が黒長髪だとなぜか落ち着く―――に、「何でもない」と首の動きだけで応える。この想い出は、誰かにひけらかすようなものじゃない。私たち二人だけが秘めているべき宝物だと思うから。

 

 

「一度停車してください。外に出ます」

 

 

 今はここにいない、でも確かにそこにいてくれる親友に背を押され、私は衝迫に身を任せて立ち上がる。突然、頭上の指揮官用ハッチに手をかけた私を驚きとともに見上げた通信手に視線を返し、出来る限りゆっくりした口調で指示を下す。

 

 

「みほさ―――いえ、西住隊長。でも、外はすごい雨ですよ。せめて雨衣(コート)を……」

 

「構いません。それより、全車にも前進停止を命じて下さい。この距離なら雷の影響を受けません。停車を命じたあと、全車に向けた無線を私に繋いでください」

 

「や、了解(ヤヴォール)っ」

 

 強い雨風の中でも、この無線通信は正確に私の言葉を届けるだろう。天を裂くような雷の直下では、車両の間隔を何キロも離してしまうと無線通信はまったく役に立たなくなる。雷は幅の広い周波数帯に電磁波のギロチンを振り下ろし、無線電波をカマボコのように寸断して致命的な支障をきたす。距離が長くなればなるほどその悪影響は顕著になる。だけど、最初から密集していればその影響は最小限に抑えられる。そう、最初から(・・・・)

 

 打てば響くような動作で操縦手がクラッチに足を滑らせ、通信手が喉頭マイク(タコホーン)に指示を吹き込む。それぞれの無駄のない動作を横目に流し、私はハッチから雷雨荒ぶる外界に半身を乗り出した。途端、まるで夜のような暗闇と嵐のような豪雨に身を包まれる。どんよりとした晦冥の中、大粒の雫が司令塔部(キューポラ)の甲板を容赦なく叩き、砕け散った飛沫が黄白色の光を反射して後方をキラキラと舞った。

 身体ごと振り向いた後方、雨飛沫の向こう側で、黄白色の光(ヘッドライト)を放つ17輌のキャタピラがこちらと完璧に同じタイミングで停車するのを視認し、私は口元を思わず緩める。操縦手や通信手然り、全車の整然とした動き然り、唐突な指示にも混乱せずにこうして鍛錬の成果を前に出せるのは、一人ひとりが優れた戦車乗りという証に他ならない。これもおそらく、訓練試合のたびに怖い怖い銀髪さん(・・・・・・・・)に延々と追い回された結果に違いない。

 

 くすっと笑みを零したあと、力を抜いてそっと瞳を閉じる。そうして、ほんのひと時の間、雨が顔を濡らす心地よい冷たさに意識を預ける。きっと、あの人も今、同じことをしているという奇妙な確信があった。雨に身を委ねて、あの人も私のことを思っている気がした。遠雷をすり抜けて、あの人の美しいローレライの歌声までも耳に掴める気がした。

 

 

 

 

―――行くわよ。火を入れなさい。みほが待ってるわ。

 

 

 

「……うん、待ってるよ」

 

「西住隊長、17輌全車と通信繋がりました。作戦通り(・・・・)、密集隊形のおかげで雷の影響はほとんど受けていません。いつでもどうぞ」

 

 

 私の意識を引き戻したのは、あの人の声をした幻聴か、それとも通信手の言葉だったのか。どちらでも構わないと思い切り、私は空に向かって目を見開く。速く流れる風雲、激しく降り注ぐ雨、時折世界を一閃する稲妻。全て予想通り(・・・・・・)だ。

 『決勝戦は雷雨になる』と予測したあの人の言葉は正しかった。やれ犬だ何だとひどいアダ名をつける人もいるけど、その生得の直感は、ヒトを超えて尋常じゃない。もっとも、それを信じて雷雨を念頭に置いた作戦(・・・・・・・・・・・)を立てた私も偉そうなことは言えないのだけど。

 

 何も言わずただ雨に打たれるままの隊長を不審に思ったのか、各車のハッチから次々と車長が顔を出してくる。様子を伺う17対の視線が自身に集中したのを見計らい、私は首のマイクを触れる手に力を込める。大気中に電荷が満ちた状態でも、この時のため(・・・・・・)に準備した近距離用(・・・・)無線通信機は私の声をクリアに届けてくれる。

 

『みんな、状況はわかっていると思います。30分前に、仲間の1輌が川に落ちました。さらにそこへ、ダージリンさん率いるグロリアーナ本隊の猛攻を受け、現在、私たちは陣形総崩れの体を成し、三方から迫るグロリアーナ本隊及び別働隊チームに追い詰められ、眼前の狭いクレーターに逃げ込もうとしています。相手は強襲浸透戦術を習得し尽くしていて、こちらを研究し、常に先手を打ってきます。本当に本当に強いです。間違いなく、強敵です。ですから、みんなにはもう一度、私たちの状況を説明したいと思います』

 

 そこで一度切り、全員に言葉が行き渡るのを待つ。彼女たちの表情は一ミリも変わらない。従容として直立する様は、まるで戦車の化身のようにほんの少しも揺らがなかった。その悠然とした力強い姿に、私は炎を浴びたように熱く勇気づけられる。この一年間、一緒に成長してきたのはあの人と私だけじゃない。みんなで成長してきたんだ。

 

 仲間たちの信頼に応える覇気を声に漲らせ、私はカッと目に力を込めて、全身全霊で告げる。

 

全て作戦通り(・・・・・・)です。最初から今まで(・・・・・・・)全て(・・)。これもみんなのおかげです』

 

 

 誰が予想するだろう。誰が思い至るだろう。あの伝統ある黒森峰が、あの由緒ある西住流が、こんな作戦(・・・・・)を採るなんて。私自身、信じられない。でも、あの人は言ってくれた。私には私の戦車道があると。私にしか出来ない、私だけの戦車道があるのだと。その戦車道を、誰よりも、他ならぬ私よりも信じてくれているのだと。

 

 仲間たちの目を一人ひとり見詰める。勝利への決意に静かに燃える表情が、私を信頼して浮かべる笑みが、私の心を限界以上に奮い立たせてくれる。限界など無いと錯覚するほどの途方もない力が、今、この胸の中に確かに実存している。隊長という重責を楽しい(・・・)と思えるほどの余裕が、この手の中に確かに握られている。

 

 

 

―――さあ、作戦開始よ。

 

 

 

 またもあの人の幻聴が間近に聞こえる。きっと、幻聴じゃないのだろう。あの人も、まさにこの瞬間、作戦通りに事を進めようと濁流を掻き分けて踏み出し始めている。もっとも重要な役回りを飄々として請け負ってくれたあの人が、危険な作戦を難なくこなし、喜々として大好きな戦場(いくさば)に駆けて来ようとしている。無線が通じなくても理解(わか)る。あの人が私を信じているように、私もあの人を信じているから。

 

 

『それでは、“ゴボゴボ作戦”から第二段階の“ガブガブ作戦”に移します。各車、行動を再開して下さい』

 

 

 後方17輌の各車長が旋風のような動きでハッチに滑り込み、各々の闘牛を鞭打つ。凶暴な鉄の獣が漲る戦意に吠え、放射された排気炎が大気を揺らしてエンジンの咆哮を上げる。事前の作戦に従い、私のすぐ後方に位置していた1輌が私の乗機をスムーズに追い抜いて先頭に進み出る。これで、あの人と一緒に改造したこの特別仕様(・・・・)Ⅵ号戦車(ティーガーⅠ)・改が最大の効果を発揮する。

 

 私は今、何の疑いもなく、明確な自信をたずさえて私の戦車道を歩むことが出来ている。だったら、あとはただ証明(・・)するだけ。あの人の夢が、西住みほという夢が、誰も見たことのない最高の夢なのだと、全ての人に胸を張って誇れる夢なんだと証明するだけ。それが、あの人からの底知れない友情へ果たすべき、私の義務なのだから。

 

 

 

 

―――戦車 前進(パンツァー・フォー)

 

 

 

 

 視界の隅に、銀色の髪が靡いた気がした。ティーガーⅡの凄みある形容が激流を物ともせず驀進する。勢いを殺すこと無く川辺に上陸したかと思いきや、そのまま躊躇うこと無く鬱蒼とした林にバキバキと音を立てて突っ込んでいく。目指すは第一の目標(・・・・・)黒森峰(こちら)の残存戦力18輌を三方から包囲するために、6輌編成に分かれてくれた(・・・・・・・)グロリアーナ別働隊。

 

 

戦車 前進(パンツァー・フォー)

 

 

 Ⅵ号戦車(ティーガーⅠ)・改が再び大地を踏み締めて進み始める。普段と違って特別な装甲(・・・・・)を纏わせた愛機は、ティーガーⅡの姉妹機そのものだ。

 一見すると不必要な装甲にも、車両の配置にも、全て意味がある。

 その意味が結実するまで、あと少しだ。

 

 

 そう、あの人が獲物に喰らい付くまで、あと少しだ。

 

 




あ、ハンバーグ食べてるの? 珍しいね、お店のじゃなくてレトルトハンバーグを食べるなんて。しかも自室でこっそりなんて───えっ、な、なんで隠しちゃうの? もう、別に盗ったりなんてしないよ。失礼だなあ。でもほんとにハンバーグが好きなんだね。そんなに急いでガツガツ食べちゃって、まるでワンちゃんみたい。ふふ。

……あれ、このパッケージ、本当に『ワンちゃん用』って書いてあるんだけど───わあああっ!? ぱ、パッケージごと食べちゃダメ───!!!


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そのエリカ、猟犬につき⑤

ガルパン最終章第三部鑑賞記念。


「東西の別働隊との無線はまだ繋がらないのかしら?」

「は、はい。あらゆる周波数を試していますけど、返ってくるのは雑音ばかりですわ。ほんの15分前までは西側の部隊とギリギリ繋がっていたんですけど……」

 

 ダージリンが話題にあげた別働隊。この西側の小隊は、この時点ですでにもう()()()()()()()()()。東側の小隊もまた、風前の灯火であった。

 

 悪夢のような闇の中に、一対の赤眼が不気味に浮かんでいる。

 恐るべき狂犬が背後から迫っていることに、彼女たちは気づかない。

 

 

+ + + + + + + + + + + + + +

 

 

“カーン”

 

 闇夜が立ち籠める深森に、聞き慣れない者からすれば間の抜けたようにも聞こえる金属音が響き渡った。正午を知らせる長閑な大鐘のような音は、しかし、崩壊しつつあるグロリアーナ東別働隊を率いるルクリリにとっては絶望を確信させるものだった。

 

「……ッ!全速後退!各車に連絡、今すぐ前照灯を消して!急いで!!」

「は、はいッ!」

 

 操縦手が汗ばんだ手でギアをバックに叩き込み、マチルダⅡの巨躯が停止・後退を開始する。設計段階からリバースギアが1段しか設定されていないマチルダⅡが緩慢な速度で後ずさりをしていく様子がありありと目に浮かび、その内部にいるルクリリは沸き立つ焦燥に歯噛みする。彼女が顔を押し付ける覗き窓(ペリスコープ)の向こうでは、姿の見えない相手戦車がキャタピラで大地を震わせながらこちらに迫っているはずだった。

 

マチルダⅡ(こちら)の砲を弾き返した!パンターやⅢ号戦車じゃない!)

 

 この数分間のあいだに彼女は恐慌状態に向かって強烈に背を押され、片足を突っ込みかけていた。彼女が指揮する6輌編成の小隊はすでに半数以下に減らされていた。もちろん、その程度の損害でルクリリは混乱したりなどしない。曲がりなりにもあの傑物ダージリンから別働隊を一任されているのだ。かつてエキシビジョンマッチで黒森峰に敗北を喫した屈辱をダージリンと共に味わったルクリリは、スキルと経験をミルフィーユのように心身に積んできた。その高飛車で血気盛んな言動で軽んじられがちだが、彼女の指揮統制能力は折り紙付きだ。突発的な奇襲を受けたとしてもすぐに立て直すくらいの芸当は朝飯前だった。問題は、その損害が()()()()()()()()()()()()によって被ったということだ。

 

(こんなに一方的に……!相手はいったい何輌いるのよ!)

 

 歯噛みして激昂する。戦況をまったく把握できていない自分への不甲斐なさが血管を溶けた鉛となって重く流れていた。このままでは埒が明かない。

 

戦闘窓(バイザー)越しじゃ見えない!肉眼で確認するわ!」

「ルクリリ様、危険ですわ!」

「いいのよ、このままじゃジリ貧だもの!」

 

 ハッチから豪雨降りしきる車外に身を乗り出す。激しい雨が車内に乱入して、「きゃっ」と少女たちの可憐な悲鳴が咲く。

 次の瞬間、眼前の闇夜の奥が一瞬だけパッと赤く光った。ギクリと反射的に身を竦めた刹那、自車のすぐ隣を並んで後進していたチャーチル歩兵戦車が巨大なハンマーで殴りつけられたかの如く鋼鉄の身を震わせて後方に吹き飛んだ。一拍遅れて発砲音と衝撃音が雨粒を散らしながらルクリリの総身に襲いかかる。灯火は消していた。星明かりもないのに、相手はどうやって狙いをつけたのか。まさか、野生動物のように夜目が利くとでもいうのか。否、それよりも重要なのは、

 

「1輌しかいない……!?」

 

 生まれて消えるまでわずか一秒以下の儚い発砲炎は、しかし激烈な光を放つ。それによって垣間見えた相手のシルエットは、たったの1輌だった。けれど、その1輌だって、ここにいてはおかしいのだ。いるはずがないのだ。いていいはずがないのだ。

 

「ル、ルクリリ様!こんなのおかしいですわ!だって、黒森峰の戦車は川に落ちたのを除いたら、ダージリン様がぜんぶ一箇所に追い詰めたはずですもの!」

「そ、そうですわ!それに、黒森峰の主力であるパンターやⅢ号戦車であればマチルダの砲でも通用するはずです!跳ね返されるはずがありませんわ!」

 

 「言われなくてもわかっているわよ」というキツい台詞を寸前で呑み込み、ルクリリは強張った背中で無言を返す。黒森峰の残存戦力18輌は先ほどまで目指していたクレーターに追い詰めていたはずだった。自分たちは三方から獲物を追い込んでいる立場であり、奇襲を受けるような状況にはない。だからこそ、夜戦なら普段は絶対につけないはずの前照灯を煌々と照らして前進していたのだ。それが悪魔を引き寄せてしまうだなんて、誰も予想していなかった。

 しかも、自分たちが駆るマチルダⅡ歩兵戦車の主砲はオードナンスQF6ポンド砲だ。旧式の2ポンド砲は同クラスのパンター戦車の装甲にもまったく歯が立たないものだったが、更新されたことで威力は格段に上昇した。黒森峰の主力戦車であるパンターやⅢ号戦車程度の装甲なら簡単に撃ち抜けるはずだ。だが、必殺となるべき一撃は至近距離で命中したにも関わらず、無情にも軽くあしらわれた。

 

『ルクリリ様、ルクリリ様ァ!コイツはいったい何なんですの!?た、助け───』

 

 ブツッという無線の断絶。同時に轟音、続いて足元を伝わる地響き。周囲の闇のどこかで、側面を砲撃された最後の味方のチャーチル歩兵戦車が被弾の勢いそのままに横転したのだと、鍛えられたルクリリの耳には容易に想像できた。と同時に、謎の相手戦車の主砲が40トンもの防御力偏重戦車を派手に傾覆させるほどの威力を持つことも理解した。そして、そんな大威力の火砲を装備する戦車は、黒森峰でただの一輌(・・・・・)のみ。71口径8.8センチ砲を有する、戦場の王虎(・・)のみ。

 

 

 

───グルルルルル……

 

 

 

「嘘でしょ、なんで()()が」

 

 暗闇に蠢く敵の姿を───戦いに飢えて好戦的にギラつく一対の赤い眼をそこにはっきりと幻視して、我知らず呆然と呟く。信じられないことだが───信じたくないことだが───自分たちの目の前に立ちはだかる戦車の正体は───。

 

 川に転落してしまった不幸な黒森峰の戦車。

 それを助ける振りもしなかった非情な黒森峰。

 “見たこともないゴテゴテした戦車が”と報告した矢先に撃破されたこちらの戦車(スチュアート)

 

(……いいえ、違う!川に転落したように見せかけて(・・・・・)姿を消した戦車だ!スチュアートはそれを詳しく見られたくないがために即座に撃破されたんだ!)

 

 ルクリリは頭の中の引き出しから相手戦車のカタログデータを引っ張り出す。どうして忘れていたのだろう。あの戦車(・・・・)は、大戦中のドイツにて開発されたS装備を搭載できるのだ。S───Schnorchel───渡河用潜水装置(シュノーケル)。川に落ちたんじゃない。隠れて、身を潜めたのだ。まるで完璧な軍用犬のように。

 

(待って、アイツがここにいるということは───)

 

「……まずいわ、これは罠よ!ダージリンが危ない!!」

 

 ルクリリの頭の中でそれぞれ断絶されていた事実が結びつき、額の裏の発光とともに一つの真実を見出した。全ては欺瞞だったのだ。追い詰めたと思い込んでいた。思い込まされていた。西住まほの妹。西住流という虎の威を借る狐。名も知れぬ気弱な隊長。それすらも欺瞞だった。なんて奴だ。こんな大それた、恐ろしい作戦を立てるなんて。自分たちの目の前に掘られた落とし穴を看破するだけの力量を備えてしまった自分を、ルクリリは死ぬほど恨んだ。恨んで、しかし最善を尽くすことを諦めなかった。

 赤く光る眼が闇夜に隠れて消える。さすがの自慢の大砲でもマチルダⅡの正面装甲は撃ち抜けないと見て諦めたのか。いいや、アイツがそんな打算を働かせられるはずがない。狙った獲物を諦めるはずがない。絶対にない。特徴的なエンジン音を頼りに位置を探ろうと耳を澄ませるも、バケツを引っくり返したような雷雨のせいでちっとも意味をなさない。頼れるのは肉眼しかない。皿のように開いた目で周囲を威嚇するが如く見回しながら、すっかり中身のひっくり返った空の紅茶のカップを行儀悪く放り投げ、彼女はハッチの下の装填手兼通信手に命令を叩きつける。

 

「隊長車に通信を繋いで!!」

「で、でも、さっき遠距離無線を試したときは雷のせいで繋がらなくて、」

「車内灯も、暖房も、砲塔の電源も、役に立たない給湯装置(BV)も、全部切るのよ!アイツには勝てない!私たちはあと数秒後には撃破される!それまでに無線の出力をめいっぱいあげるの!なんとしてもこのことをダージリンに伝えるのよ!」

 

 自分たちの破滅を決定事項として口にし、攻撃手段となる主砲を自ら捨てるのみならず、伝統的に紅茶を嗜む聖グロリアーナ女学院生徒には絶対不可欠な給湯装置すら手放すことに、通信手の少女は思わず愕然としてルクリリを見返した。常に淑女らしく優雅であることを推奨する校風にそぐわない指示にギョッと動転したのだ。

 後にも先にも明らかにならないことだが、もしもこの時、通信手の少女が動揺せずに即座に指示通りに行動していれば。また、帯電する大気の間隙を貫いて運良くダージリンに無線が繋がっていれば。そうすれば、結末は違ったものになっていたのかもしれない。だが、勝利の女神は運の要素(たられば)を嫌うものだ。

 

「なにしてるの、急いで!」

「あっ、は、はい、すみません!」

「び、BV電源及び砲塔用電源、その他全てシャットしました!」

「ルクリリ様、繋がるかどうかわかりませんが、どうぞ!」

 

 手渡されたスピーカーマイクを乱暴な動作で口元まで引っ張り上げて警告を叫ぶ。

 

「ダージリン!応答して、ダージリン! ()()()()()! 黒森峰のフラッグも、18輌も、()()()()()()()なの! 直衛を、クルセイダー(ローズヒップ)を離してはダメ! それこそ相手の狙い───」

 

 結果として、ルクリリの捨て身の献身(こえ)は届くことはなかった。よりによって自分の部下たちが彼女の足腰を掴んで無理やりハッチから引き摺り下ろしたのだ。

 

「アンタたち、なにを……!?」

 

 スローモーションとなった世界で、手から滑り落ちていくマイクを片方の目で見て、もう片方の目で自分を掴む眼下の少女たちを視認する。何分の一秒かも定かではないゆっくりとした時間で、彼女たちのあまりに切羽詰まった形相に疑問が浮かんだのも束の間、ルクリリはその理由を全身で受け止めることとなった。

 まるで、獲物の喉に食らいつく肉食獣のような強烈な体当たり(・・・・)だった。予想だにもしていない横合いから突如として爆走してきた漆黒の戦車は、己のもっとも強度のある前部装甲の傾斜部を衝角と化してマチルダⅡの側面に襲いかかったのだ。まるで巨獣の咆哮のような野太いエンジン音に肌が粟立つ。衝撃で分厚いハッチの扉が歪み千切れ、たった今までルクリリの頭があった空間をブーメランとなって過ぎる。耐えきれなかった履帯が誘導輪もろとも粉々になって散逸する。思わぬ負荷を一手に引き受けることになったトランスミッションが悲鳴を上げ、ラジエーターが血のような火を吹き、エンジンルーバーがくぐもった音を立ててバネ仕掛けの玩具のように吹き飛んだ。主砲ではマチルダⅡの正面装甲を破れないと踏んだ相手は、大出力の馬力に物を言わせて体当たりを仕掛けてきたのだ。機体同士が火花を散らしながら擦過する刹那、ルクリリはキューポラから乗り出した上半身を前のめりにする銀髪の少女の横顔を垣間見た。

 

 シュポッ。

 

 幼児向けの空気銃のような音とともに、マチルダⅡの上部から白旗が突き出る。撃破判定を喰らったのだ、とルクリリは遅まきながら理解した。気づけば、あれほど鼓膜をつんざいた相手戦車のエンジン音はどこかへ消えてしまっていた。喰らった獲物に用はないということだろう。

 

(そういえば、ティラノサウルスって獲物の首の肉しか食べないんだったっけ)

 

 脈絡のない知識が過ぎるほど心拍数を平常に戻すと、彼女を無理やり引き摺り下ろした際の格好のままギュッと抱きついている少女たちの顔を優しげに見回す。

 

「……ありがとう、みんな」

 

 彼女たちは、すんでのところでルクリリを護ってくれたのだった。恐怖で引き攣っていた表情から徐々に緊張が抜けていく部下たちを見ながら、ルクリリもまた、「は~っ」と気の抜けた大きなため息を落とした。最年長の先輩として、前途多難な後輩たちの将来を哀れんだからである。

 

「ねえ、ダージリン、オレンジペコ……アンタたちのライバル、ヤバイやつばっかりじゃないの」

 

 

+ + + + + + + + + + + + +

 

 

 アッサムの放った一撃がティーガーⅡのシルエットに吸い込まれるように命中した。派手すぎるほどに破片が飛び散って、その様子を見たグロリアーナ戦車のなかで次々と歓声が上がる。アッサムの経験が「脆すぎる」という疑念を訴えたものの、憎き宿敵を屠ったことには変わりがないと流れた。これでバスカヴィルは討伐した。あとは蹂躙するのみ。そのはずだった。

 

『な、なんだかおっきなドミノみたいですわねっ!? 指先でちょんと押したら今にも倒れそう───』

 

 だが、ローズヒップの一言が彼女たちの表情を曇らせた。それまで順調に奏でられていた演奏が不意に途切れたような、その沈黙が1秒経っても2秒経っても終わらないような、漠然とした不安感が少女たちの心をじわじわと侵食していく。わからないからこそ不気味な予感(・・)にオレンジペコの顔面から血の気が引いていく。そして、その予感を理解してしまったダージリンの手から力が抜けて、美しい白磁のティーカップが滑り落ちて、砕け散った。

 

 悪夢のような闇の中に、一対の赤眼が不気味に浮かんでいる。

 恐るべき狂犬が背後から(・・・・)迫っていることに、彼女たちは気づかない。




あれ、エリカさん、いたんだ。パソコンするなら電気つけないと、目が悪くなっちゃうよ?ん、どうしたの、そんなに慌てて。あれ、ねえ、なんで隠すの?「レビューを書いてただけ」?それならなんでそんなに必死になって画面を隠すの?ねえねえ、なんの商品をレビューしてたの?そのくらい教えてくれたって……あ、もしかしてボコグッズ?ボコグッズなの!?いいなあ、見せて見せて………『催眠音声・催眠戦車の館へようこそ』……?


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番外編『大洗の忠犬、黒森峰の狂犬と出会う』(前編)

冒頭部のみ書いてそのまま放置していた番外編です。続きを書くつもりはありませんでしたが、活動報告にて公開したところたくさんの方から褒めてもらえたので、完成させることにしました。楽しんで頂ければ幸いです。


 私は秋山優花里。大洗女子学園戦車道チームの一員であります。我が敬愛する島田愛里寿隊長のため、そして我がチームを勝利に導くために対戦相手の学園艦に潜入するのが趣味───じゃなかった、任務です。

 いつものコンビニ船を経由して、今日は全国大会決勝戦の相手である黒森峰女学院の学園艦に潜入したのですが……。

 

「貴様、見たことない顔だな!襟元のエンブレムが左に15度も傾いている!なんだか怪しいぞ!」

「それに、そのジャケットの皺はなんだ!皺が許されるのは40平方センチメートルにつき1本までだと生徒手帳の36ページ12項で明示されているだろう!アイロンのプレスが未熟すぎる!ますます怪しいぞ!」

「い、いえ、あのですね、えーっと、これはなんと言いますか、」

 

 さっそく潜入が見破られそうになり、現在進行系で生徒二人に壁際まで追い詰められて詰問されているのであります。ものすごい剣幕に圧され、私はタジタジと後ずさるばかりです。黒森峰の厳しい校風は有名ですが、まさかここまでとは思いもしませんでした。さすがは規律正しいドイツ文化に根ざしているだけあって、細かいところまで規則に忠実です。せっかく黒森峰戦車道チームのタンクガレージまであと一歩のところまで近付けたのに、これでは一つも情報も得ることが出来ません。西住まほさんに代わって隊長を任ぜられた西住みほさんと、その腹心にして恐ろしいあだ名で呼ばれるあの人(・・・)のことを是非調査したかったのですが。

 「ここまでか」と諦めかけた私は内心で下唇を噛みながら脱出のために後ろ足に力を込めて、

 

「それは私の客よ」

 

 横合いから放たれたムチのようなしなやかな美声に動きを止められました。私がギョッとしてそちらに顔を向けると、黒いグリースにまみれたツナギと、同じく油汚れで黒ずんだ作業帽を目深に被った生徒がボロ布(ウェース)で手を拭いながらこちらをじっと見つめていました。手を伸ばせば届く距離だというのに、私たちの誰一人とも彼女の接近に気がついていなかったことに愕然とします。帽子からわずかに零れる細い髪は銀色で、夕焼けのように赤みがかった瞳はまるで男性のような硬質な意思の強さを秘めています。オイルで汚れた頬の下に覗く肌は透き通るように白くてキレイです。

 どこかで見たことがあるような、と疑問が浮かびかけたのもつかの間、私を尋問していた女生徒二人が肩をピンッと硬直させて直立不動の体勢を取ります。

 

「こ、これは申し訳ありません!てっきり侵入者かと思いまして……!」

「まさか貴女のお客様だったなんて!」

「いいのよ。今日の緊急履帯補修訓練は終了にするわ。お疲れさま。ガレージの施錠は私がしておくから、先にみんな帰るように伝えてくれる?」

「「や、了解しました(ヤヴォール)っ!」」

 

 大きな尊敬と、もっともっと大きな畏怖を込めた態度と返事で、女生徒二人はコマのようにくるりと踵を返すとライオンから逃げるバンビの如き勢いで駆け出していきました。残されたのはポカンと間抜けな様子で口を開けたままの私と、謎の整備士風の少女だけ。

 

「ええっと……ありがとうございます……?」

 

 整備士の装いからして、整備長さんなのでしょうか。なんと言いますか、大物のような静かな風格があります。しかし、潜入してきた私を『客』と呼んで助けの手を差し伸べてくれたようですが、黒森峰に知り合いのいない私はこの人のことをまったく知りません。どういうことなのでしょうか。

 感謝しつつも警戒を解くには至れない私に、整備士風の少女がふっと微笑みを浮かべます。まるで大人のような威厳と余裕の溢れる微笑みには、どこか“会いたいと願っていた想い人にようやく会えた“というような熱っぽさも滲んでいて、思わずドキリとしてしまいます。

 わけもわからずドギマギする私に、銀髪の整備士さんは身振りでガレージに招きながら言います。

 

「いらっしゃい、オッドボール3等軍曹(・・・・・・・・・・)。来てくれる日を待っていたわ」

 

 どうやら、この人には私の正体まで見破られているようであります。いったい、この人は何者なのでしょうか……!?




エリカさん、最近ソワソワしてるけど、どうしたの?ふふ、さすがのエリカさんも決勝戦前には緊張するのかな。え?「髪の毛がモジャモジャの女の子を見なかったか」って?う〜ん、見なかったと思うけどなぁ。ていうか、その女の子が気になってソワソワしてたんだ。ふ〜ん、そうなんだ。ふ〜〜〜ん。別になんでもないよ。ふ〜〜〜〜〜〜〜ん。


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番外編『大洗の忠犬、黒森峰の猟犬と出会う』(中編)

まさか子どもを膝に乗せながらガルパンの小説を書くことになるとは。人生どうなることかわからないもんです。この子も将来、ガルパン好きになるといいなあ。


「なんと、整備長さん(・・・・・)も『戦略大作戦』をご覧になったんですか!歳に似合わず硬派ですねえ!」

「アンタに言われたくないわよ。でも、あの映画は面白かったわね。大学で一人暮らししてた頃に初めて観たんだけど、あの時は感動したものよ」 

「え?大学?」

「んんんッ!ち、違うわ、“姉が大学で一人暮らししてた頃”の間違いよ。ところで、ノンアルコールビールのお替りはいらないかしら?いるわよね?」

「あ、は、はい。頂きます」

 

 勢いに押されて頷いた私のマグカップになみなみとノンアルコールビールを注いだ整備長さんは、汗ばんだ額を隠すように帽子を深くかぶり直して、なんだかひどく取り乱したように見えました。気のせいでしょうか。

 私たちは今、黒森峰女学院の戦車道チームが保有するタンクガレージのミーティングルームにふたりきりで座っています。さすが戦車道で名を馳せる黒森峰なだけあって、ミーティングルームといっても大会議室なみに広くて、掃除も行き届いています。大洗との差を見せつけられるようで、少し悔しく思います。でも、想像ではもっと質実剛健な実利主義的で、調度品も一切なく、必要最低限のものしか置いていないような空間を想像していたのですが……。

 

(なぜ、島田殿の好きなボコ人形がこんなにたくさん……?)

 

 絆創膏だらけのクマ(?)のヌイグルミ『ボコ』がところどころに置いてあります。意外に女学院らしいところがあるのは、最近の変化なのでしょうか。しかし物好きが多い───いえいえ、こんなことを言うと島田殿がほっぺを膨らませて拗ねてしまいます。

 ちなみに、整備長さんというのは彼女の自称です。私が「もしかして貴方は整備長さんなのですか?」と問うたところ、手をヒラヒラさせながら「まあそんなもんよ」と応えてくれたのです。整備長というのは隊長より怖い存在とはよく言ったものなので、先ほどの女生徒たちの(おのの)きっぷりも頷けます。戦車を手荒に扱うと彼女の雷が落ちるのでしょう。

 

「整備長さん、さっきは助けていただいてありがとうございました。あのままだと捕まってしまうところでした」

「気にしなくていいわ。うちの子たちは規律に厳しいのが良いところでもあり悪いところでもあるのよね」

 

 自分と同年代でしょうに、やけに大人びた目線からの物言いです。でも、嫌味っぽさは微塵もありません。「この人がそういうならそうなんだろうな」と思わせるような、厚みのある経験と含識に裏打ちされた言葉には不思議な説得力があります。だからでしょう、おそらく私とも同い年なのでしょうが、なんだか年上に接するような態度になってしまいます。

 そこでふと、私は初見の時から気になっていた疑問を投げかけてみることにしました。

 

「どうして私のことを知っていたのでありますか?」

「ああ、“オッドボール3等軍曹”のこと?」

 

 それは先日、サンダース大学付属高校に潜入した際に咄嗟に口に出た偽名なのですが、それを知っている人物は限られるはず。神妙な顔で頷く私に、整備長さんはにやりといたずらっぽく微笑みます。なんだか嫌な予感。

 

「“ヒヤッホォォォウ!最高だぜぇぇぇぇ!!”」

「なああっ!?な、な、なんでそれを!?」

 

 念願叶って戦車に乗れた際につい口走ってしまった台詞を身振り手振りまで完全にトレースされてしまい、私はアワアワと手をバタつかせます。耳たぶまで真っ赤になっている自覚のある私を見て、整備長さんはくつくつと喉を鳴らして笑います。意地悪そうなのにまったく害意を含まない器用な笑い方です。

 

「内緒の情報網があるのよ。大洗の忠犬、秋山優花里さん」

 

 茶目っ気のあるウインク交じりにそう言われてしまうとそれ以上追求できません。落ち着いた物腰でありながらも男子のようなイタズラっぽいところもあって、不思議な魅力のある人です。

 しかし、この人はどこまで知っているのでしょうか。対戦相手についてここまで知り尽くしているのは、さすが黒森峰、侮れません。いえ、このミステリアスな整備長さんが特別なのかもしれません。

 

「でも、残念ね、秋山さん」

「何がですか?」

みほ(・・)───うちの隊長が不在ってことよ。苦労して潜入したからにはせっかく会って“黒森峰の軍神”から話の一つでも聞き出したかったでしょうに。ほら、寄港地から熊本が近いでしょ。あの娘の実家があるから、昨日からちょっと実家に顔を出しに行ってるのよ。貴方が近々やってくるとは思ってたけど、まさか今日来るとはねぇ」

 

 「タイミング悪かったわね」と、ため息まじりに整備長さんが零しました。本当に、心底残念そうです。まるで私と西住みほさんが出会うことを心待ちにしていたような雰囲気に小首を傾げます。みほさんとも初対面のはずなのですが。

 

「西住みほさんのご実家は、前隊長である西住まほさんと同じく、あの西住流総本家ですよね」

「そうよ。姉妹なの。姉妹仲は前からよかったけど、最近は親子仲もすっかり良くなったみたいで、ちょくちょく実家に顔を出してるわ。熊本土産をしこたま持たされて帰ってくることもしょっちゅうよ。ちょっと信じられないわよね」

 

 「信じられない」と語る時の目がどこか遠いところを見ているように感慨深げなのが印象に残ります。親子関係で、以前はなにか難しい事情があったのでしょう。この厳しくも親しみ深い整備長さんはみほ隊長とも交流が深いようです。

 でも、一つ勘違いしています。私はたしかに黒森峰女学院の情報を集めるために潜入しました。前任者の西住まほさんから隊長を継いだかと思いきや、グロリアーナといった強豪校を立て続けに撃破するという功績を打ち立てたことから“軍神”の異名をほしいままにする西住みほさんの情報を得ることも考えていました。そうすれば、西住流のライバルである島田流の継承者にして、大洗女子学園戦車チームの隊長である島田愛里寿殿の役に立つヒントを持ち帰ることが出来たかもしれません。

 けれど、私はそれよりも何よりも、顔を突き合わせて話をして、人となりを探ってみたい人物がいるのです。

 

「いいえ。たしかに西住みほさんは憧れの人ですが、私がもっとも話をしてみたい人物は別にいるんです」

「え?そうなの?」

 

 私の目的が西住みほさんではないことが心底意外だったのでしょう。整備長さんの朱色の瞳がキョトンと丸くなります。整備長さんとしてメンバーとたくさん関わりのあるこの人になら、話していいかもしれません。なにか重大なヒントをくれるやもしれません。私は意を決して、胸の内を明かすことにしました。

 

「はい。私が話をしたかったのは……逸見エリカさんなんです」

 

 西住みほさんではなく、彼女の傍に付き従う副隊長とこそ、是非とも話をしてみたい。私はそう考えて黒森峰に潜入したのです。

 整備長さんには私の答えが予想の外も外だったようで、しばしポカンと硬直しています。でも、一瞬で自失から立ち直ると、とても興味深そうに少し身を乗り出しながらルビーのような目で私の目を覗き込みます。その眼には心の内側まで見透かすような鋭い光が輝いています。

 

「理由を聞いてもいいかしら?なんでうちの“狂犬”に興味が?」

「まさに、その“狂犬”という異称故です」

「というと?」

「なんといいますか……あの人には違和感(・・・)があるのです」

 

 ギクリ。そんな音が聞こえた気がして整備長さんを見ると、顔が引き攣っているように見えました。でも、私が疑念を浮かべる前にその表情は大きなビールマグによってさっと隠されます。「続けて」という意思のこもった赤い目線に促され、私は気を取り直して前々から逸見エリカさんに対して感じていたことを言い連ねていきます。

 

「あの人の試合は見たことがあります。中学時代、あの人はたしかに狂犬と呼ばれるような荒々しい戦い方でした」

「あら、今もそうじゃないの?」

「今もそうです。いえ、私はそうであって中身が違う(・・・・・・・・・・・)と感じています」

「中身?」

「はい。なんというか、今のあの人は、自分を狂犬と(・・・・・・)規定した戦い方(・・・・・・・)をしているように見えるのです」

 

 整備長さんは何も言いません。でも雰囲気はいかにも真剣で、私の話にちゃんと向き合って聞き入ってくれていることがわかります。その思慮深い大人のような頼り甲斐のある受け手の反応に、応答のある無しに構わず話を続けることにしました。

 

「高校に入った直後も、まだ戦い方は荒々しいものでした。まるで躾のなっていない暴れ犬のような。でも西住みほさんが隊長となって、あの人が副隊長となってからは、むしろわざと荒々しさを演出(・・)しているように感じるのです」

「なるほど、そういう意味の違和感なのね」

 

 なんだか少しホッとしたように見えるのは気のせいでしょうか。熱の乗ってきた私は構わずに口を動かします。

 

「そう考えると、実はあの人ほどの策士はいないのではないかと私には思えるのです。自分の狂犬っぷりを演出することで、相手チームからの警戒心を一挙に引き受けて、注目を自分の身に集中させることを意図しているのではないかと。“狂犬”という褒められない忌み名をつけられようと気にすることはなく、むしろそれを利用して。そうして相手の思惑に隙を作ることで、西住みほさんの勝利の道を切り開こうとしているのではないかと。そう考えると、空恐ろしいものを感じます。あの人にとって、西住みほさんとは自分のことより優先すべきとても大事な存在なのでしょう。どうしてそこまで出来るのでしょう。何を思ってそんなことが出来るのでしょう。私は、あの人の在り方(・・・)を見極めたいのです。それを確かめなくては、大洗に勝ち目は見えてこないのではないかと思うのです。だから私は、ここで是が非でも逸見エリカさんに会ってそのことを直接聞いてみたくて───」

「あ、エリカさん(・・・・・)、やっぱりまだここにいたんだ。お母さんがまたお土産をたくさん押し付けようとしてきたから大急ぎで帰ることに───あれ、お客さんなんて珍しいね」

 

 背後から唐突に、いかにも純粋そうな少女然とした声が投げかけられました。ガチャッと扉の開く音に中断されて二人でそちらに目をやると、なんと“黒森峰の軍神”と名高い西住みほさんがタンカースジャケットの前ボタンを留めながらこちらに笑顔を向けてくれているではありませんか。

 

「こ、これは西住みほさん!黒森峰の隊長さんとお会いできるとは光栄です!私は大洗女子学園の───……」

 

 憧れの人物が突然目の前に現れたことに仰天して、私は椅子から跳び上がって直立不動の姿勢を取ります。そして敬礼とともに自己紹介をしようとして、

 

「………“エリカさん(・・・・・)”?」

 

 先ほどみほさんが呼んだ名前を思い出して、思考がギシリと止まります。そのままギギギと音を立てるように背後の整備長さんを振り返ると、彼女は苦笑を一つ浮かべてさっと作業帽を脱ぎました。肩まで届く特徴的な銀髪が天使の翼のように閃いて、切れ長の赤い瞳の全貌が明らかになります。

 

「んななななな!!??」

「あーあ、バレちゃったじゃないの。面白い話だったのに」

 

 形のいい片眉をくいっと吊り上げて笑うその人は整備長ではなく、なんと、紛れもなく“黒森峰の狂犬”の忌み名で称される逸見エリカその人なのでした!どどど、どうしましょう!?助けてください、島田殿〜〜!!




 お母さんが熊本土産を持たせてくれたよ。『誉の陣太鼓』と『武者がえし』。はい、赤星さんにはそれぞれ40箱ずつどうぞ。うん、まだまだあるよ。コンテナに詰めて送ってきてくれたの。小島さんには『栗きんつば』と『風雅巻き』を40箱ずつ。……うん、みんなごめんね。いつもごめんね。本当にごめんね。「こんなにいらない」って言うんだけど、「西住流に遠慮の文字はうんぬん」って押し付けられちゃうの。熊本のこと嫌いにならないでね。
 ……なぁに、エリカさん。エリカさんにはないよ。お土産が欲しかったら“モジャモジャの女の子”からモジャモジャでもなんでも貰えばいいじゃない。知~らない。ふ~~~ん!


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番外編『大洗の忠犬、黒森峰の猟犬と出会う』(後編)

『最強無双の異世界騎兵 -アルカンシェル-』の第二部期待。楽しみにしてる読者をずっと待たせるなんてあっちゃならねえ。そうだろう、みんな!?


「ええ〜!大洗の島田さんもボコが好きだったんだ!そうとわかったらボコ人形をプレゼントしてあげなきゃ!ねえねえ、何がいいと思う、エリカさん!?」

「この前、こんなこともあろうかとご当地限定版ボコのヌイグルミを自分用と保存用と布教用とで3つ買ったでしょ。あれを1つあげればいいんじゃない?」

「うん、そうだね!それがいいよね!」

「部屋の陳列棚の上から3段目よ」

「わかった、ありがとう!すぐに持ってくるから待っててね、秋山さん!」

 

 テンションマックスで言うが早いか、西住みほさんは嵐のようにミーティングルームを出ていきました。ドドドドドとけたたましい足音が遠ざかっていきます。まさか、ボコを好きなのが隊長の西住みほさんだとは思いませんでした。“軍神”というあだ名とはかけ離れた趣味です。島田殿と息が合いそうです。

 

「ボコのこととなると理性を失うのよね、みほの奴は。毎回、買い物のたびに荷物持ちをさせられる方の身になれってのよ。寮の部屋が同じせいで、私のパーソナルスペースだってボコに侵略されて迷惑ったらありゃしないわ」

 

 台詞の表面上はいかにも不機嫌そうですが、その口調はちっとも嫌そうじゃありません。お節介な保護者のような、甲斐甲斐しい恋人のような、熟年の夫婦のような、そんな阿吽の関係すら匂います。

 西住みほさんの、試合中の威風堂々とした態度や“軍神”というあだ名からは遠くかけ離れた間延びした口調と純粋無垢な印象にポカンとする私の背後では、整備長さん───ではなく、副隊長の逸見エリカさんが颯爽とツナギを脱いで、内側に着ていた黒森峰の制服姿を晒しています。髪を手櫛でさっと梳いて、お湯に浸したタオルで頬のオイル汚れを丁寧に拭って落としたら、見紛うことなき“黒森峰の狂犬”の忌み名で知られる少女がそこにいました。化粧もしてないのに、プロのスタイリストによるメイクを受けたような長いまつ毛とリップいらずの瑞々しい唇が目を惹きます。

 

「……逸見さん、整備長だなんて言って私を騙すなんて、酷いです」

 

 まさか本人を前にして稚拙な先入観を披露してしまう羽目になるとは。穴があったら入りたいという羞恥心に駆られて私は自分のくせっ毛をワシャワシャと掻き抱きます。

 耳たぶまで赤くなっていることを自覚しつつ拗ねたように唇を尖らせて抗議した私に、逸見さんは作業帽を指先でくるくると器用に回しながら、皮肉そうな鋭い笑みを刻んで返答します。

 

「あら、お生憎様。“躾のなっていない暴れ犬”には人間様の言語が理解出来ないのかもしれないわよ」

「うう、非礼はお詫びします……」

「冗談よ、冗談。気にしてないわよ」

 

 自らの失言にうなだれるばかりの私に、逸見さんはパッと表情を明るくするとケラケラと軽く笑って流してくれます。それでも、“熊本に狂犬あり。熊をも殺す猟犬なり”と称される戦いっぷりを知る者からすればやっぱり恐ろしいものがあります。

 

「そんなに怖がらないでほしいわね。本物の犬じゃあるまいし、噛み付いたりなんかしないわよ。まあ犬用ハンバーグくらいは」

「へ?」

「あー、なんでもない、なんでもないわ。口が滑っただけ」

 

 誤魔化すように丸めた作業着をフルスイングで洗濯機に勢いよくぶち込みます。コミカルな仕草然り、見かけは怖そうですが内面はとても理性的で分別があるようです。剣呑な表情がとてもよく似合うシャープな目鼻立ちをしていてるためか、意図して険しい顔をすると本当に怖く見えますが、人間性は穏やかです。想像していたような刺々しさは微塵もなく、むしろ高山の湧清水を連想させる爽やかな人格者そのもののように見えます。

 

「実を言うとね、私の役職は黒森峰の“副隊長兼整備長”なのよ。嘘なんかついちゃいないわ。ほら、そこの役割分担表にも書いてるでしょ」

「ま、まさかそんな」

「本当よ。そっちだって自動車部のレオポンさんチームが整備と選手を兼ねてるでしょ。やってやれないことはないわ。私、機械いじりもめっぽう好きだもの。アーク溶接だってお手の物よ」

 

 促されて壁面の役割分担表を見上げて目を細めれば、たしかに逸見エリカさんの名前の横には『副隊長・整備長』と書いてあります。さすが黒森峰と言うべきでしょうか。それとも、逸見さんが規格外なのでしょうか。大洗女子(こちら)の内情を知り尽くしていることにももちろん驚きましたが、副隊長というチームの柱役を担いつつ、同時に整備長というもう一つの大事な柱を受け持つなど、10代半ばの少女に出来ることとは到底思えません。どちらも片手間で出来るような役目ではないはずなのですが。

 

「ところで、さらにその隣に手書きで“隊長のお世話係”と書いてあるのは……?」

「……小梅の奴、あとでとっちめてやらなくちゃいけないわね」

 

 眉根をピクピクとひくつかせながらボロ布(ウェース)でイタズラ書きを消します。ただ厳しく統率力があるというだけでなく、部下から茶化されることも受け入れるだけの広い度量があるということなのでしょう。この有能極まる人間は本当に同い年なのだろうかと目を丸くする私に、逸見さんは片方の眉と唇の端を少し持ち上げてふっと自然に微笑むと、内緒話をするように声のトーンを落とします。

 

「特別に貴女にだけ教えてあげるけど、もしかしたら、私の前世は戦車好きな工学部の大学生で、その記憶をそっくりそのまま引き継いでたりするのかもしれないわよ」

 

 当然、私はからかわれているのでしょう。それでも、濁りのないまっすぐな瞳を見詰めていると、嘘を言っていないような気がするのは何故なのでしょうか。

 私は心の視点を一歩引いて、あらためて逸見エリカという人間を観察してみます。全体の印象は達観した年長者の貫禄を漂わせているのに、そのキラキラと赤く澄んだ瞳は若い男の子のように情熱的に輝いています。ここに来るまでに抱いていた“狂犬”のイメージとはまるで違う、思慮深くも活力に満ちた人間らしい人間がそこにいます。

 

(やっぱり、雰囲気が昔と全然違います)

 

 中学時代の彼女の戦いっぷりは深夜放送やネットの生中継で何度か見たことがあります。ですが、その時の様子はまさに躾のなっていない狂犬そのもので、たしかに強いものの、誰にでも噛み付くような危なっかしさや勢い任せなところが見られました。自分の()()()を持て余しているような、自分の居場所を探しているような、自分のすべきことを迷っているような。そんな「どうにでもなれ」と捨て鉢になっている一匹狼の生き様そのものの弱さや儚さがありました。“強いけれど、強くない”。私は“熊本の狂犬”逸見エリカに対してそんな感想を覚えていました。

 

(でも、今はもう違う)

 

 何があったのかはわかりません。でも、私が抱いた違和感に間違いはなかったのだと確信しました。西住みほさんが戻ってくるであろう扉をキラキラした目で見つめる逸見さんは、まるで主人が戻ってくるのを今か今かと待ち侘びて尻尾を振る大型犬のように喜びと期待の感情に満ち溢れています。彼女にとって西住みほさんはそれほどまでに大切な存在なのでしょう。西住みほさんに出会ったことで、彼女は大きな変化を遂げたに違いありません。さすがは“黒森峰の軍神”と呼ばれるだけあって、私には想像もつかない魅力(カリスマ)を秘めているのやもしれません。

 

「アンタの想像通りよ」

「えっ」

 

 視線は前に固定したまま横顔で心を見透かされ、私は目を丸くすることしか出来ません。そんな私に、変わらず西住みほさんの帰りを待つ逸見さんは、まるで可愛い女の子を見初めた男の子のような桜色に染めた頬を見せつけながら続けます。

 

「今の私はね、みほのために(・・・・・・)生きてるの(・・・・・)。幸せそうに笑っているみほを見るのが楽しい。懸命に努力するみほを見るのが楽しい。強くなっていくみほを見るのが楽しい。それらを一緒に経験できるのが楽しい。ふとした瞬間、自分がみほの隣にいるんだと、みほと並んで同じ道を歩んでいるんだと悟った時がたまらなく嬉しい。この世界に私が存在することが───主人公(みほ)の隣で同じ道を歩めることが、この人生での(・・・・・・)私にとって無二の喜び。至上の幸福。最高の栄誉。みほのためなら、なんでも出来る。なんにでもなれる。私はきっと、この世界に(・・・・・)生まれながらに(・・・・・・・)狂ってるのね」

 

 そして、逸見さんがさっと首を巡らせて私の目をまっすぐに見つめます。照明を反射した銀髪がスチールブルーの輝きを放ち、妖精のような神秘的な存在感を際立たせます。

 

「私が“狂犬”であることでみほが楽しく戦える(・・・・・・)のなら、いくらでも犬になりさがってやるわ。犬呼ばわり、大いに結構。犬には犬なりの矜持があるもの。そうでしょう、忠犬さん(・・・・)

 

 私は、何も言い返すことが出来ませんでした。ただ、この人の“狂犬”というあだ名が、ある意味で間違いで、ある意味で正しいことを理解しました。

 

「……逸見さんは、西住みほさんに狂うほどに首ったけなんですね」

「そういうアンタだって、島田殿(・・・)に首ったけでしょう」

 

 そう言った逸見さんの瞳に映り込む私の顔は、「てへへ」と照れくさそうにはにかんでいます。

 島田殿。廃校の危機に直面し、さらに“軍神”と“狂犬”を得て史上最強となった黒森峰という巨壁に直面していた大洗女子学園戦車道チームの救世主。まるで世界がバランス(・・・・・・・)を取るが如く(・・・・・・)采配して私たちの前に降り立ってくれた最強無敵の女の子。私が心酔する、島田流本家の正統後継者、島田愛里寿殿。希望の星。友情の中心。そしてなによりも、大事な親友。

 島田殿と出会って、ただの戦車馬鹿(フリーク)に過ぎなかった私の人生は大きく好転を始めました。彼女に引っ張ってもらい、彼女を支えられることは、私をたまらなく嬉しい気持ちにさせます。同性であることも年齢も関係なく、“この人と一緒に歩みたい“と思える魅力に溢れる友人です。

 私の無言の返事の裏側にある万感の思惟を極めて正確に読み取って、逸見さんもまた濃密な無言の微笑みを返してくれます。お互いに言葉を交わすことがないのに、なんだかお腹がポカポカと温かくなり、安心できる心地よさが胸の奥から湧いてきます。どうして私が逸見エリカさんに興味を持ったのか、どうして彼女が私を「待っていた」と言ってくれたのか、わかってきました。きっと、私たちは似た者同士なのです。戦車が好きで、戦車道が好きで、親友のことがどうしようもないほどに好きな女の子なのです。

 

(それにしても……)

 

 唐突に疑問が浮かびます。この人は、どうしてこんなに私のことを理解しているのでしょうか。野生の勘とかそういうレベルでなく、私の辿ってきた人生や深い本質にまで迫るような分析には舌を巻くどころじゃありません。なんというか、まるで物語のように(・・・・・・)俯瞰して観てきた(・・・・・・・・)ような的確な考察です。私の忠犬としての嗅覚が、逸見エリカという存在に対して違和感(・・・)を察知します。

 

「貴方はいったい───」

「ねえ、“西住殿~!”って言ってみてくれないかしら?」

「はぇ?」

 

 疑問を遮られたことよりも、相手の奇妙な申し出の方が私の目を点にさせるに十分な威力を有していました。意味を理解できずにフリーズする私にずいと顔を近づける逸見さんの顔はいかにも真剣そのものです。頬はほんのりピンク色で、なにやら興奮しているようにも見えます。妖しい圧力を感じて、私は背中を仰け反らせます。

 

「ねえ、お願い!一度でいいから生の“西住殿~!”を聞いてみたいのよ。このワンちゃん用オモチャを一つ分けてあげるから、ね、ね、いいでしょう?」

「い、いりませんよ!どうしてそんなものを持ち歩いているんですか!?それに、他校の隊長さんにそんな軽々しい呼び方なんて出来ませんよ!」

「別に本人を前にしてなくてもいいのよ、エアー西住殿でいいから」

「“エアー西住殿”ってなんですか!だ、だいたい私は一度も西住さんにそんな呼び方をしたこと───」

「お待たせ~、秋山さん!お土産を包むのに手間取っちゃった!熊本土産がちょうどたくさんあるから、よかったら大洗の皆さんにもどうぞ!」

 

 肩を掴まんばかりの勢いで迫る逸見さんの動きを封じるように扉が開け放たれ、西住みほさんが両手にこんもりと膨らんだ大きな袋をぶらさげて現れました。覆いかぶさるような勢いだった逸見さんがそちらをチラリと見て、小さく「ざんねん」と呟いて身を引きます。なにがなにやらわかりませんが、私は助かったのでしょうか……?

 

「あ、そうそう。秋山さん、このお土産はまだ一部なの。あとで残りの9割を運んでくるね」

「ののの残りの9割!?」

 

 いったいダンボール何十個分になるのでしょう。戦車道チーム全員分どころじゃない量になりそうです。リュックひとつで潜入している身としてはさすがに持って帰るのに無理があります。なんとか上手くお断りする理由を探そうと目を泳がせてアタフタする私に逸見さんが助け舟を出してくれました。

 

「大丈夫よ。うちにはドラッヘ(Fa223ヘリコプター)があるから。私が操縦して送ってあげるわ。大洗の学園艦の航路からは大して離れてないはずだから、今から出発すれば今夜中には到着できるはずよ」

「そういうことだから気にしないで。エリカさんが今からお土産全部をフォッケに積んでくれるよ」

「ちょっと、なんで私なのよ。自分でやんなさいよ」

「エリカさんのウォークマンを部屋で見つけたんだけどブルートゥースで艦内放送に繋げてみていいかな?」

「早まるんじゃないわよちょっと行ってくるわ」

 

 鞭を入れられたようにバタバタと手足を振り乱して逸見さんが駆け出します。ものすごい慌てようです。それをニコニコと無言の笑顔で見送る西住みほさんからは何故か強烈な威圧のオーラをひしひしと感じます。狂犬よりも軍神のほうがよっぽど怖いんだなと苦笑いする私に、オーラを消したみほさんがひょいと何気ない動作で振り返り、

 

「私もね、エリカ(・・・)のためなら何でもできるんだよ、秋山さん」

 

 その熱っぽく潤んだ眼差しに、意識のすべてを釘付けにされました。

 

「今の私は、エリカのおかげで生きてるの。私を幸せそうに見てくれるあの人を見るのが楽しい。一生懸命な私をそばで支えてくれるあの人を見るのが楽しい。私が強くなっていくのを自分のことのように喜んでくれるあの人を見るのが楽しい。喜怒哀楽をあの人と一緒に味わっていることが楽しい。ふとした瞬間、あの人の横顔が目に入るたびに、たまらなく嬉しいの」

 

 そっと両手を胸にあて、そこにある大事な思い出を包み込むように愛おしげに頬を緩めて、西住みほさんはさらに続けます。

 

「エリカは、私に可能性をくれた。私だけでは到達出来なかった、別の私(・・・)にたどり着くための可能性を与えてくれた。私だけなら、絶対に途中でぽっきり折れて、諦めて、逃げ出してた。たぶん、今ごろ黒森峰にはいなかった。もしかしたら大洗に転校してたかも。お姉ちゃんのあとを引き継ぐなんて考えることも出来なかった」

 

 拳をぎゅっと握って、悲壮な声を絞り出します。しかし、「でも」と言い放って顔を上げた西住みほさんの表情は、孤独な旅路の果てに終生の友を見つけたようなとても晴れやかなものでした。憂いも迷いの色も一切ありません。精神(こころ)に確固たる一本の芯が通った者だけが見せる双眸は自信に満ちて、ただ希望の光だけをまっすぐに放射しています。

 

「でも、今こうしてここにいられるのは、あの人が側にいてくれたから。こうして戦車道を楽しめている今の私がいるのは、誰よりも純粋に戦車道を楽しむあの人がいてくれたから。あの人が側にいてくれるだけで、この世界でたった二人の主人公になったような感じがした。これまでも、これからも、私はエリカと歩んでいく。一緒に戦車道を全力で楽しんでいく。あの人を得た今の私なら、お姉ちゃんだって超えられる。お母さんだって超えてみせる。怖いものなんかない。負けることだって怖くない。怖いのは、あの人に対して恥ずかしい無様な戦いをしてしまうこと。あの人に相応しくない戦いを演じてしまうこと。だから私は“軍神”になる。あの人に誇れる、あの人に相応しい戦いを捧げるために。だから、私はエリカのためならなんでもできるの。なんにでもなれるの」

 

 

 

 

 

 

 

「どうしたの、秋山。まさか、まだ飛び立つ前からヘリ酔いしたの?」

「い、いえ。違います。大丈夫です」

「そう。ならいいんだけど。それじゃあ、出発するわよ。ドラッヘは揺れるからしっかり掴まってなさい。あ、そうそう。これは個人的な餞別よ」

「これはどうもご丁寧に」

 

 受け取った小さな紙袋をリュックのサイドポケットに入れたと同時に、初期のヘリコプターであるドラッヘが双発ローターを唸らせてふわりと重力を退けます。お尻が浮き上がる浮遊感に肌が緊張に泡立ったのも束の間、夕暮れ時の重い大気をしっかり噛み込んだ羽は優秀な操縦手の手によって機体を舞い上げ、そのままぐんぐんと上昇を開始しました。難しいだろう操縦を涼し気な顔で難なくこなしてみせる隣席のパイロット、逸見さんの横顔をチラと見て、さらに視線を下方へ流します。先ほどまで私たちが立っていた甲板がすでにお皿ほどの大きさに縮まり、こちらに朗らかな表情で手を振っている西住みほさんの姿もどんどん小さくなっていきます。どこにでもいる普通の少女の姿をしているけれど、その心根の覚悟を見せつけられたあとではとても“どこにでもいる普通の少女”とは思えません。

 一瞬、風にはためいた彼女の制服が、白緑色をした大洗のそれに取って代わられたような錯覚を垣間見た気がしました。もしも彼女が孤独に堪えられず、大洗に来ていたら、いったい歴史はどうなったのでしょうか。おそらく、まるで物語の主人公のような輝かしい歴史を打ち立てたでしょう。そうなった時、もしかしたら、あの人の隣にいたのは───。

 

(くだらない考えです)

 

 大洗女子学園を舞台にして西住みほさんの隣で笑顔を浮かべる自分を想像した直後、首を小さく振って詮無い妄想を打ち捨てます。現実は()()()()()()()()()。この謎めいた銀髪の少女が、意地でも()()()()()()()()()。彼女は文字通り全身全霊を懸けて西住みほさんを支え、励まし、叱り、抱きしめて、友情を培ってきた。この人は、大事な人のためなら歴史の流れにすら食らいついて絶対に離さない、最強の狂犬なのです。

 

「逸見さん」

「ん?なに?」

 

 私は巨大な尊敬を込めて、言います。

 

「貴女たちは、強敵なんでしょうね」

 

 逸見さんがニヤリと不敵にほくそ笑みます。まるで世界そのものに噛み付くように、鋭い犬歯がギラリと輝き、夕日よりも真っ赤な瞳が挑戦的な炎を灯します。

 

「ええ、強いわよ。他ならぬ私(・・・・・)が保証する。この世界のみほ(・・・・・・・)はどこの誰よりも貴方たちを楽しませられる。なんたって、逸見エリカが傍にいたみほ(・・・・・・・・・・・・)なんだもの。強いに決まってる」

 

 親友のことを心から誇らしげに語る逸見さんは、とても幸せそうでした。

 今まで、私は心のどこかで、“主人公は自分たちなんだ”と漠然と考えていました。学園廃校の危機を救うべく立ち上がった弱小高校が駆け上がっていくサクセスストーリーの中心なんだと。しかし、西住みほさんと逸見エリカさんに出会って、その考えに変化が生じました。彼女たちもまた、私たちと同じように戦車道にすべてを懸けて挑んでいる、物語の主人公なのです。いえ、もしかしたら───彼女たちこそ、本来の主人公(・・・・・・)なのかもしれません。ならば。主人公同士の戦いは、勝っても負けても、きっと後悔しない最高の戦いになる。青春を燃焼させるに相応しい試合になる。私はそう確信しました。早く島田殿や仲間たちにこの話を伝えたいです。

 

 

 

 

 

 

 

……ところで、この“餞別”は何なのでしょうか。パッケージのタイトルがチラリと目に見えましたが、『催眠戦車の館へようこそ』とは……?




 エリカさん、はい、ア~ン。ん?どうしたの、そんなワタワタして。エリカさんの大好きなハンバーグだよ。さっき作ってみたの。食べさせてあげる。あ、出来たてだからちょっと熱いかも。フーフーして冷ましてあげようか。え?「どうしてそんなに機嫌が良くなったのか」って?んふふ、なーいしょ。それで、どうするの?ア~ンはいらないの?……はい、素直でよろしい。んふふふふ。


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