Angel Beats! ―SCHOOL REVOLUTION― (伊東椋)
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EPISODE.01 Game Start

本作品は、にじファンにおいて2010年6月~2011年3月までに連載された過去作品を投稿したものです。


 

 ここは死んだ後の世界。

 

 そう言われても、大半の人が納得できないことだろう。それが普通だからだ。

 でも、あたしはあっさりと納得できた。

 自分が死ぬ、その瞬間まで、体中でじわじわと感じていた感覚。そして、その感覚が徐々になくなっていく様。

 それらの、自分が死ぬまでの過程をしっかりと身に焼きつくように覚えているから。

 まだこれっぽっちの年数しかなかった人生でも、その間にあたしは父に連れられて色んな国を回り、普通の子には滅多に体験できないようなこともたくさん経験してきたし。

 

 ああ、やっぱり私は死んだんだな。

 

 ただ、そんな感想が漏れた。

 でも、死後の世界というのも案外生きていた頃の世界と大して変わりないように見える。今まで色んな国を見てきたが、この雰囲気と静けさは、あたしの祖国が一番近い。

 ―――と、思いきや。

 

 「天使出現! 現在交戦中ッ!」

 「もっと引き寄せろッ! 総員、一斉射撃用意ッ!」

 「巻きあげの予定はまだまだ先だッ! 出来るだけ持ちこたえろよッ!」

 「新人ッ! お前の実力、見させてもらおうか」

 

 ……前言撤回、ここは私がよく父と共に訪れていた治安の悪い国にそっくりだ。

 まぁ、むしろあたしにとってはこんな世界の方が、慣れているんだけど。

 度重なる銃撃音、爆発音。無駄遣いと言うのも生易しいくらいの量で、たった一つの目標のために目一杯弾丸が集中、炸裂する。

 だが、これだけの火力を一斉に浴びせても、目標は健在だった。その見かけによらない強固さはあまりにも異常だと言えるかもしれない。

 一見、それが華奢な少女であるからこそ。

 

 「……上等じゃない」

 

 あたしの手元には、一丁の拳銃が握られている。生前、使い方を教えてもらい、馴染みがあったせいか、ここに来て最近の人間にしては、人並みの手法を心得ている。

 

 さぁ、私も参加しよう。この笑ってしまうような、おかしな世界の戦いへと。

 

 あたしにだって、未練はあるのだから。

 

 ―――このまま易々と、死んでたまるか。

 

 あたしは一言、呟く。

 

 

 「―――ゲーム、スタート!」

 

 死後の世界での、あたしの戦いが幕を開けた瞬間だった。

 



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EPISODE.02 Encounter

 あたしは小さい頃から父に付いていった。

 父の職業は人の命を助ける医者という偉いお仕事だと聞いた。そんな父は主に治安の悪い国、政情が不安定な国、貧しい国を中心に世界各国を旅して、多くの人たちの助ける力となっていた。

 あたしも父の後を付いていくばかりで、幼い内に色々な国を見て、知ることができた。

 でもあたしは診療所内の片隅でじっとしているだけ。父の仕事を手伝える程の力もないあたしは、父の仕事の邪魔にならない所で静かに待っていることしかできない。

 世界の色々な国を回ることは、色々な国の言葉を知ることも大事だった。だからあたしは行く先々の国の文化や言葉を学ばされた。英語、中国語、フランス語、様々な言語を覚えていく。

 遊びも何も知らないあたしにとって、銃という存在は馴染みが早かった。

 父と共に行く先々の国は、命の価値が弾丸より低い国ばかりだったから、あたしは自分の身を護る力を持つためにも、銃の使い方も覚えさせられた。

 そしてあたしは何カ国もの言語と一緒に興味を覚えたのが、銃だった。

 まともな娯楽も知らないあたしにとって、銃は特別な存在だった。

 

 こんな小さな弾が、人間の命をいとも簡単に奪い去ってしまう。

 

 そう思うと、確かに人の命は、この小さな一発の弾丸より、価値の低いものと言えるかもしれない。

 

 ねえ……

 

 ―――あたしの命は、どれだけの価値があったの?

 

 

 

 「……………」

 ゆっくりと目を開けたあたしの視界に入ってきたものは、辛うじて雲がうっすらと見える夜空。

 あたしは大の字で、地面に転がっていた。

 端から見れば、滑稽な姿だろうな。

 あたしは手に砂利の生々しい感触を味わいつつ、起き上がる。

 辺りを見渡す限り、ここが広大な砂地だというのがわかる。いや……こんな光景を、漫画で見たことがある。

 ここは所謂、学校のグラウンドだ。円にして囲むように描かれた白線、そして先に見える校舎。明らかにここは学校の真っただ中だ。

 グラウンドのど真ん中で寝そべっていたという滑稽な状況。

 手に纏わりつく砂利の感触を確かめつつ、あたしはここがどこなのかを詮索した。

 本当はここがどこなのか、わかっていたのかもしれない。ただ、確証がなかっただけ。だって、この手に纏わりつく砂利の感触や、肌に感じる空気は、あたしが生きていた世界と何ら変わりないのだから。

 だが、はっきりと覚えている――――

 

 いや、はっきりと言えるほど、記憶がしっかりしているわけではない。

 

 土砂に埋まった自分の身体。雪のように冷たくなっていく心。体中の熱が奪われていく感覚は、脳裏に焼き付いている。

 だが、その前の記憶がノイズが走ったかのようにおぼろげだ。まぁ、あんなことになっちゃったんだから、記憶が曖昧になるのも当然か……

 

 「―――く…ッ」

 あたしは、額に手を当てて、肩を震わせる。

 「あーはっはっはっはっ!」

 そして、これ程可笑しいことはないと言いたい風に、大っぴらに笑う。

 淡い月が輝く夜空の下、静寂と共に広大に広がるグラウンドの中で、あたしの笑い声が一層高く響き渡る。

 ああ、可笑しい。

 もしかしたら、ここは……

 「……ん?」

 ふと、あたしは変な音を遠くから耳にする。

 ここはどうやら随分と広い学園らしい。校舎とは別にまた違う建物がある。そして、その向こうから聞いたことがあるような音が聞こえる。

 そう、これは昔、何度か聞いたことがある……

 拳銃の発砲音。

 人が人を撃っているような音だ。

 とりあえず、あたしはその音が気になって、校舎の近くに見える大きな建物の方へと向かった。

 

 つまずきそうになる足。いくら走っても、向こうは歩いているはずなのに、ぴったりと貼りつかれているような感覚を覚える。

 時に振り返り、一発、一発とお見舞いしても、今の彼女にはまるで歯が立たない。

 すぐにその鋭利な刃で弾き飛ばされてしまう。

 「な、なんなんだよそれぇッ!」

 撃ってもまた、彼女の身には届かない。

 俺はライブの喧騒が聞こえる大食堂があるホールへと走る。荒い息を吐きながら後ろを振り返るが、彼女は―――天使はぴったりと追いかけてくる。向こうは歩いているから追いつきこそしないが、奴の右手から伸びる刃が俺に奇妙な威圧感を与えた。

 一度自分の心臓を貫いた刃に対して、自分の身体が拒否反応を示していることは明確だった。

 「くそ…ッ!」

 最初に天使と遭遇した一人が発砲すれば、後のメンバーは気付くと言っていた。きっと、もうすぐ俺の所に他の奴らが増援に来るだろう。

 それまでに、なんとか逃げ……

 「ッ、あ…っ!?」

 俺はホールへの階段の手前で、足を躓くというドジを踏んでしまった。

 階段の段差に思い切り身を倒してしまい、激痛が走る。

 「―――ッ、テェ……」

 だが、涙ぐむ余裕さえなかった。いつの間にか、転んだ俺のすぐそばまで、天使が近づいていた。

 「―――ッ?!」

 無機質な瞳が、じっと俺を見下ろす。俺の手元に、拳銃はない。どうやら転んだ拍子にどこかへ放り投げてしまったようだ。どんだけドジなんだ、俺は。

 絶対絶命。武器も持たない俺に為す術はない。

 天使は無機質な瞳を俺に向けたまま、おもむろにその右手から伸びる刃を上げた。

 「――――!!」

 その刃が振り下ろされた時、俺はまた死ぬことになるだろう。この死なない世界で。

 天使の刃が、無情にも俺に向かって振り下ろされる。

 

 ああ、これで殺されるのは三回目か……などと、呑気に考える俺。

 

 せめて一瞬でも訪れる激痛に耐えようと身構えた時――――

 

 パァンッッ!!!

 

 一発の銃声が、俺の目を開けさせた。

 そして、即座に天使が銃弾を跳ね返す甲高い音。

 俺は呆然と、天使の方を見上げる。天使は、俺ではなく、別の方に視線を向けていた。

 俺もゆっくりと、天使と同じ方向に視線を見やる。あいつらが助けに来てくれたのだろうか?

 いや、違う。

 俺は、あんな娘を知らない―――

 

 そこにいたのは、天使やNPCと同じ制服を着た、少なくともSSSメンバーではない少女がいた。俺が落としたと思われる拳銃を構えた、金髪碧眼の少女は、まるで鷲のような凛々しさを醸し出していた。

 

 それが、俺、音無とあいつの出会いだった―――

 

 



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EPISODE.03 Girl

 俺がこの世界で目を覚ました時、早速と言わんばかりに心臓を一突きにされた。

 怪しい集団に勧誘する変な女と、自称生徒会長を名乗る女。

 俺はこの世界に来て、変な女ばかり遭遇している気がする。

 この、死後の世界で。

 そして、今回もまた―――

 

 「な……ッ」

 俺の目の前で、振り下ろされたと思われた天使の刃が、別の方向へと向けられていた。

 既に、天使の興味は俺ではなく、あの少女に向けられている。

 火薬の匂いを漂わせる拳銃を構えた、一人の女。彼女が天使に向かって、撃ったのだ。その一発の銃弾を、天使が即座に反応し、弾き返した。

 俺は、助けられたのか?

 だけど、あの少女はまた初めて見る顔だ。メンバーを紹介された時にも、こんな顔は見たことがない。そもそも、彼女が着ているのはあいつらの独自の制服じゃない。目の前にいる天使や、ゆりが言っていたNPCとかいう他の連中と同じ制服だ。

 「な、なんなんだ……?」

 ワケがわからない。

 あいつは、敵なのか味方なのか?

 「ちょっと、そこのあなた」

 「…ッ?!」

 拳銃を構え、天使と対峙したまま動かない少女は、おそらく俺に向かって声を掛けたのだろう。

 「あたし、実を言うとこの状況がよくわからないんだけど、こういう場合はどうした方がいいのかしら?」

 それはこっちのセリフだ。

 つーか、状況もわからないで引き金を引いたって言うのか、あいつは。

 どんな精神してるんだ。

 「えーと、まぁ」

 とりあえず、この場の最善の打開策と思われる方法を伝えといてやるか。まぁ、実用性は疑わしいけど。

 「逃げたほうが、いいぞ?」

 「はぁ?」

 拳銃の矛先を俺の目の前で背後を見せる天使に向けたまま、少女は間の抜けた声をあげた。

 「お前、知らないかもしれないが、相当やばい事に首突っ込んでるから」

 人のことが言えた口かよ、俺。

 たかだかこの世界に来てまだ日が浅い、記憶すら無い俺が何を先輩面するように言ってるんだか。

 「……………」

 少女はじっと、俺や天使の方を交互に見渡している。天使の右手から生える光の刃。弾が当たった天使の腹に滲む、血。それらを見て、これが普通ではないことぐらい、わかってくれたことだろう。

 「……あなたこそ、ここから逃げるべきじゃない?」

 「ごもっとも」

 それにしても、あいつ、誰かに似てるな……

 それも、つい最近出会った奴に。

 「……ねえ、ちょっと聞いてくれる?」

 「なんだ。 あまり長いのは勘弁してくれよ」

 この状況だしな。

 幸い、天使も動きを止めているから良いとして。

 「あたし、ここに来たばかりで右も左もわからない有様なのよ。 だから……あなたには色々と聞きたいことがあるの」

 「……………」

 驚いたな。この世界に来たばかりだって?

 俺と同じ……いや、俺と違って、この世界に来たばかりのくせに、あいつは自分でも知らない間に、この世界に順応している。

 なんだか、ちょっと可笑しいな。

 「あたしはあなたに聞きたいことがある」

 一歩、彼女の足が前に出る。

 「―――!」

 同時に、目の前の天使も遂に動き始めた。

 「だから―――」

 次の瞬間、ほぼ同時と言ってもいいように、双方がお互いに向かって駆け出した。

 一直線にお互いに向かって走り出す二人。彼女は走りながら、拳銃の引き金を何度も引く。

 天使もまた、それらの銃弾を適当に弾きながら、刃の矛先を彼女に向けていく。

 遂に二人が衝突、天使の刃が彼女の心臓目掛けて振りかぶった時――――

 「ふ―――ッ!」

 「―――!」

 天使の視点からだと、目の前から忽然と彼女が消えたと思っただろう。

 だが実際は、天使の一閃を、少女が上半身を仰け反らせて巧みに避けていた。滑り込むように、天使の脇を通り抜けて、少女は地を足で蹴り、天使から一瞬にして距離を取った。

 「すごい……」

 感心している俺の袖を、彼女がぐいっと引っ張る。

 「なにぼーっとしてるの。 行くわよッ!」

 俺は金髪を翻す、空のように蒼い瞳を宿した少女に袖を引かれ、ホールへの階段を少女と共に駆け上がった。

 ライブの喧騒が響くホールの前、足を止めた俺たちは、振り返り、少女が俺の前に立って、天使の方に拳銃を構えた。

 階段を昇って、天使がゆっくりと姿を現せる。

 「あの子は何者なの…?」

 俺からして見れば、お前の正体も知りたいが……

 「生徒会長、らしい」

 天使だと言っているのはあくまであいつらだけ。俺はまだ新米だから、天使と口ではっきり言うのは抵抗を少し覚える。仮に、天使と呼んでいるのは確かだけどな。

 「はぁ??」

 また、今度は一層大きな声で。

 「あなた、あんな小さな娘……それも生徒会長を相手にあんな無様な姿を曝け出してたの?」

 「酷い言われようだな……」

 「事実でしょ」

 言っていることは間違いではないから、言い返す言葉が見つからない。

 「ていうか、本当にあいつ何者よ……銃弾を跳ね返すなんて普通じゃない……何なのよ、もうっ」

 ここであいつがいたら、きっとこう言うだろうな。

 

 順応性を高めなさい。

 

 だが、こいつはとっくに順応している。初対面の小さな女の子に銃を向けるどころか、俺を助けるためだったとは言え、引き金まで引いたんだ。

 既に、彼女は俺たちと同じポジションにいる。

 「とりあえず、もうすぐ俺の仲間が応援に来る。 だからそれまで――――」

 俺が言い終える前に、俺と彼女の横から、何かが飛び込んできた。

 それは風を切りながら、その回転する鋭利な刃で天使に斬りかからんとしたが、寸前の所で天使の刃に跳ね返されてしまった。

 遠くで、跳ね返されたものがボチャンと水の中に落ちる音が聞こえた。

 と、同時に俺たちの背後から舌打ち。

 「ちっ、はずしたか」

 いつもやたらでかい武器を持っていた、俺に因縁をつける男だ。奴に続いて、続々と戦線のメンバーが俺たちの周りに集まってくる。

 「音無、無事かッ!?」

 俺に声を掛けた日向は、俺のそばにいる少女を見て、ぽかんとなる。

 「誰だ、その娘? なんで音無がNPCと一緒にいるんだ?」

 「まさか、巻き込まれた一般生徒か? ほとんどの一般生徒は陽動のライブにいるはずじゃ……」

 「NPC? 陽動、ライブ?」

 何の事かと言わんばかりに、首を傾げる少女。

 「その話は後だッ! 天使が来るぞッ!」

 一瞬、顔も知らない少女の存在に意識を持ってかれた戦線メンバーだったが、俺の声にすぐに本来の目的を思い出した。

 一斉に各々の武器を構える。様々な重火器を目の前にした天使は、立ち止まると小さな声で紡いだ。

 「…ガードスキル、ディストーション」

 かき消えそうな声で小さく呟いた天使は、その身を淡い光が一瞬にして包み込んだ。

 その直後、一斉射撃の号令がかかる。

 「撃てぇッ!」

 度重なる一斉射撃。幾重もの火線が天使に襲いかかるが、天使は突っ立っているだけで、弾はすべて弾かれている。まるで効果があるようにはまったく見えなかった。

 「音無! お前はその一般生徒と一緒に後退しろッ!」

 「わかった…!」

 日向の提案に、俺は素直に同意する。いきなり何人もの人間が現れ、一斉に戦闘が始まったものだから、さすがの彼女も混乱しているようだった。

 せめてこういう時だけは、俺も役に立たないと…!

 「こっちだ!」

 「な、なんなのよ一体…ッ!?」

 少女の腕を掴み、俺は度重なる銃撃音を背後にして、後方に駆け出した。

 「え、ちょ、マジ―――ッ?!」

 「は…?」

 後ろの戦闘に視線を向けていた少女が驚きの声をあげる。俺も彼女の声につられて後ろを振り返るが、同時に強烈な爆風が襲いかかった。

 「うわッ!?」

 松下と名乗っていたデカブツの男が、肩に添えたロケット砲をぶっ放したようだ。戦車一つをまるごと破壊できるような爆発が一発に終わらず、二発、三発と、その小さな目標に着弾する。

 「ちょっとちょっと! RPG7はいくらなんでもやりすぎじゃないのッ!?」

 だが、それでも―――

 

 もうもうとする黒煙の中、何事もなかったかのように立ち上がる天使の姿があった。

 

 「くそッ! まだかよ巻きあげはッ!」

 再び始まる一斉射撃。ただの時間稼ぎが、まさかこんな壮絶なことになるなんて……

 「あなた……随分と呆気に取られてるわね」

 ハッとなる俺。声を掛けたのは、どこかの誰かさんに似ている、目の前にいる彼女だった。

 「あたしより随分と驚いているみたいだけど……あなたの方が、この状況を知り得ているんじゃないの?」

 「確かに、な……」

 実は俺も、今回が初参加なんだよ。

 なんて言えるかな。

 「………?」

 ふと、少女がその蒼い瞳を仰いだ。俺も、空の方を仰いでみる。

 きらきらと、ホールの方から白い雪が降ってくる。

 いや、それは雪ではなかった。

 手元に落ちてきたもの―――

 

 それは、食券だった。

 

 俺の手元に落ちてきた“肉うどん”と書かれた食券。そして、少女の手元にも食券があった。

 「それでいいのか? 行くぞ」

 退散していく戦線のメンバー。俺も日向に誘導され、食券を手に握り締め、後に続く。

 「行こう」

 勿論、彼女も一緒に。

 俺は少女の手を引き、ホールの方に逃げるみんなの背中を追いかける。ふと、俺は手を引く少女の方を見た。彼女の吸い込まれそうな蒼い瞳には不安の色も伺えたが、この先、彼女も俺と同じことになるだろう。でも、彼女ならこの世界でも大丈夫なような気がする。何故なら彼女は、いきなりあの天使と正面で向かい合ったのだから。

 少女の背後、そのずっと向こうには、舞い落ちる食券と共に、一人の女の子が佇んでいる。

 手には、彼女の温もり。不思議と、暖かい。

 この先、俺とこの少女にどんな運命が待っているのか、俺はこの時知る由もなかった。この時、彼女の手の温もりが、不思議なくらいに暖かすぎることを知っていながら。



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EPISODE.04 Enlistment

 目覚めて早々、突拍子もないことに巻き込まれたと思う。

 まぁ、自分から飛び込んだってことも否定はしないけど。

 

 あの戦争のような騒動の後、あたしは自分が助けた彼に、変な集団のもとにそのまま連れていかれた。

 広すぎる学園、その中でも学園のトップがいるはずの部屋である、校長室が彼らの根城だった。

 そこであたしは、今の校長室を統べるリーダーと面会し、そしてこの世界の話を聞かされた。

 この世界は、所謂死後の世界であって、ここにいるのは死んだ者しかいない。

 死後の世界は、本当にあった。

 

 あー、やっぱりあたし死んだんだな……

 

 なんて、あたしには納得できそうだけど、あくまで100パーセント信じられる話というわけにはならない。何か絶対に納得できるような証拠を見せてほしい。

 「何なら、見せましょうか?」

 変な集団のリーダー格である彼女がそう言った。

 「何なら死んでみるか」

 大きな武器、ギルバートというものを持っている不良チックな男が、いやらしい笑みを浮かべる。

 「え~、野田君。 さすがに女の子はマズイよ……」

 「本当に容赦がないな、お前」

 「鬼畜だな」

 「んだとぉッ!! テメェら、何か勘違いしてないか?」

 「お前が想像以上の、女の子さえ痛めつけようとする変態だということがわかったが?」

 「違ェッ! 俺様がんなことするかッ!」

 なんだかもめているみたいだ。しかも、あたしの身が何だか危うい気がするのは気のせいだろうか。

 「わざわざこの女を殺さずとも、別の野郎を殺せばいいだけの話だ」

 「それでなんで、俺を見る」

 あたしの隣、音無くんという男の子が嫌そうな表情を浮かべる。

 「お前は既に何度も死んでるからな。 また三度や四度目、死ぬ回数が増えても変わらんだろ」

 「無茶苦茶だ……」

 額に手を当てて、呆れる音無くん。

 大きな武器を構えなおした野田くんが、ニヤリと笑うと、音無くんに近づく。

 「もっぺん、死んでみるか…?」

 「断ると言ったら?」

 「またあの時のように、100回殺す」

 「どっちにしろ殺すんじゃねぇか!」

 じりじりと音無くんに近づく野田くん。とりあえず、穏やかではない雰囲気なのは確かだった。

 「ちょっとあなた、音無くんに何する気?」

 あたしが音無くんの前に現れたことで、野田くんの足が止まる。

 「な…ッ、そ、そこをどけ…ッ!」

 何故かあたしを目にすると、戸惑い始める野田くん。

 今まで彼を見た限り、結構周りに荒っぽい所を見せつける所謂チンピラみたいな人間だが、同時に相当の馬鹿っぽい。やけに音無くんを目の敵にしていて、そしてこの集団のリーダーの前だと、妙に大人しくなる。

 「あんな野田君、何だか珍しいね」

 「あの娘がゆりっぺに似てるから、手が出せないんだろ」

 女々しい男の子と青い髪をした男の子がヒソヒソと話している。

 「~~~~~ッッ」

 どうしても音無くんの前から避けないあたしを目の前にして、どうすることもできない野田くん。あたしのジッと突き刺す視線に、とうとう耐えきれなくなったのか、「ちっ」と舌打ちすると、その大きな武器の刃を下ろした。

 「女に庇われるとは、お前も男が廃るな」

 あたしの後ろにいる音無くんにそんな言葉を吐き捨てると、野田くんは背を向けて立ち去った。

 「悪いな……なんだか、俺、助けられてばかりだ」

 「気にしないで頂戴」

 あたしはどちらかといえば、王子様に助けられるヒロインというより、ヒロインを悪の手先から守るナイトの方がピッタリだと思ってるから。

 自分で言うのもあれだけど。

 

 と、突然。いきなり「おぼぇッ!」と、何かカエルが踏みつぶされたかのような断末魔が響いた。

 

 周囲が呆然と見た先には、校長室から出ようとした野田くんが巨大なハンマー状の物体によって、校舎の外に吹っ飛ばされた光景だった。

 

 「あいつ、またか……」

 「アホだな」

 校長室の窓から、地面に叩きつけられてピクリとも動かない野田くんを、皆が見下ろしながら呆れていた。

 「どう? わかってくれたかしら」

 校長の椅子に座り、ニッコリと微笑む、皆からゆりっぺと呼ばれたリーダーが、あたしに言う。

 その手に握られているスイッチが気になるが、あえて無視することにした。

 「そうみたいね……」

 「今見てもらった通り、この世界は死んだ後の世界。 だから、この世界でどんな死ぬような目にあわされようが、死ぬことはないの。 だって、もう死んじゃってるんだから。 あそこでの垂れ死んでる野田くんも、後に復活するわ」

 「へ、へぇ……」

 さらりととんでもないことを言ってのけているが、実際そういう世界だから、言えることなのだろう。

 それにしても、彼女と自分は気が合いそうだと思えるのは何故かしらね。

 そしてこの世界について、彼女はあたしに、更に説明を加える。ここは死んだ人間たちがいる世界だが、自分たち以外の生徒や先生は、NPCという、人間のフリをした存在らしい。自分たちも他の生徒と同じ普通の学園生活を送っていると、いずれ消されてしまうという。

 だが、消された後はどうなるのかわからない。

 その前に、ここに集うのは皆、理不尽な人生の末に死に絶えた者たちばかり。自分の人生に納得できなかった者たちが集まり、神への反逆を目的に行動している。

 ―――SSS。死んでたまるか戦線。

 何度も改名し、現在も正式名称を募集中の戦線団体。

 そしてこの戦線は、日々、神の手先ではないかと思われる、天使と戦う毎日を過ごしているだそうだ。

 「その天使に、あなたは正面から立ち向かい、そして魅力ある戦い方を見せてくれた。 その実力を見越して、あなたをこの戦線に勧誘するわ」

 そう言って、彼女はあたしに手を差し伸べる。

 こんな世界に来て、変な集団と一緒に一人の女の子と戦った挙句、その集団に誘われた自分。

 突拍子もない展開だとはわかっているが、自分はどうするべきか。

 確かに、あたしも自分の人生に納得はしていない。

 

 学校にも行けず、勉強も恋もできず。

 

 自分にも訪れるはずだった青春を、駆け抜けたかった―――

 

 その想いは、ここにいる皆にも共感できることかもしれない。

 

 彼らもまた、まともな青春をおくれなかった者ばかりなのだから。

 

 まだこの世界に来て右も左もわからない。ならば、この戦線にしばらく身を置くのも、悪くないかもしれない。

 何も知らないままで、ただで消えるのも、御免だし―――ね。

 

 そして、あたしは戦線に入隊する決意をした。



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EPISODE.05 Name

 「ところで気になってたんだけど、お前って何者なんだ?」

 夕日が染まる校舎の屋上。部活に励む生徒たちの掛け声を遠くで聞きながら、あたしにKeyコーヒーを奢ってくれた音無くんが唐突に問いだした。

 「何者って、あなたたちと同じ死人だけど?」

 「そうじゃなくてさ。 お前、初めて会った時、ここの世界に来て間もなかったくせにやけに戦い慣れしてたじゃないか。 生前、何かしてたのかって思ってさ」

 「知りたい?」

 「……話したくなければ、別にいいんだけど」

 俺は生前の記憶が無い。だから生きていた頃の自分さえ知らない俺なのだが、彼女のことはどうしても気になった。いきないあんな所を見せられて、気にならない方がおかしい。

 ここの世界で抗う奴らの理由は、自分の生きた人生が理不尽だったから。ということは、生前、辛い過去等、何かしらの理不尽と思えるのに値する過去を持っているということなんじゃないだろうか。

 そしてこの戦線に入隊した彼女も、そのような過去を持っているからこそ、入隊してくれたんじゃないのだろうか。

 「……別にいいわよ。 話してあげる」

 「いいのか?」

 「そんなに面白い話でもないけどね」

 あたしは音無くん奢りのKeyコーヒーを口に流し込むと、一息ついて、ふと遠くを見詰める。

 「どこから話そうかしらね―――」

 そうして、あたしの口は遠い昔話を語り始めた。

 

 

 あたしのそばにいたのは、父ただ一人だった。

 母親はいない。いつからは知らないが、少なくとも物心が付いた頃には、白い白衣を身に纏う父親しかあたしの隣にはいなかった。

 父は人の命を助ける医者だ。それも貧しい国や医療が十分でない、そんな国ばかりを転々とするような医者だった。そんな父しか身寄りがいないあたしが父に付いて、世界各国を転々とすることは自然の事だった。

 父の仕事の邪魔にならないように診療所の片隅でじっと待つ日々。

 行く先は治安の悪い国ばかりだったから、何の力も持たないあたしは外に出ることも出来ず、言語もまともに通じない。そんなあたしは誰かと打ち解けることも出来ず、孤独な毎日を過ごしていた。

 学校にも行けないあたしは父の仕事場にいる他の医者や看護婦、父から治療を受けた人たちから様々な国の言語を学んだ。それでも、すぐにまた別の国に飛ぶことが多くて、同い年の友達と遊ぶことなんてなかった。

 そもそも、当時のあたしには一つだけ知らない言葉があった。

 friend?

 ねえ、friendってなに?

 そんな疑問が、幼い頃のあたしの中でずっと問い続けていた。

 

 初めて訪れた、平安の国。それはあたしと父の祖国であると、父から教えられた。

 それが、日本だった。

 日本での日々は幸福だった。穏やかな時間が過ぎる中、あたしは初めて同い年の男の子と遊んだ。一人ぼっちだったあたしに声を掛けてくれた男の子は、あたしの初めての遊び相手であり、同い年の子供だった。

 本当に楽しかった男の子との日々。でも、それもすぐに終わりが来た。

 そしてまた、日本の平穏とは遠くかけ離れた国々を転々とする。

 あたしはまた日本に訪れる以前のような状況に戻ってしまったが、勿論、悪いことばかりではない。あたしは行く先の国の文化や芸術を知り、その歴史に興味を惹かれていった。

 そしてあたしは、紛争が起こるような政情不安定なとある国へとやってきた。

 そこは、人の命が一発の弾より価値が低い、そんな国。

 毎日多くの子供や人が死に、苦しみ、診療所がとても忙しくなる毎日。そこでは、人の命はいとも簡単に奪い去られるほどあっけないモノとなっていた。

 自分の身は自分で守らなければいけない。

 あたしは銃に興味を持った。

 そして現地の人たちに銃の扱いや心得を教えてもらい、あたしは銃に関してはすぐに覚えて使えるようになった。

 

 数年ぶりに、日本人に出会った。

 世界を旅する彼女は、あたしに一冊の漫画をくれた。

 それは学園のどこかにあると噂される伝説の秘宝を巡って、女スパイの主人公が秘宝を護る敵と戦うというストーリーだった。あたしはその世界に、すぐに虜にされた。

 漫画が擦り切れるほど、何度も読み返した。何度も、何度も……

 そしてあたしは、漫画に出てくる“学園”という文字や、登場人物たちが時折過ごす学生生活を見て、学園などに興味を持った。

 やがて日本に戻り、粗末なプレハブを診療所にして作業員の健康管理を担う父が、あたしに本物の学校に行けることを口にした。そこには自分と同じくらいの子供たちがいて、一緒に勉強したり、遊んだりするという。

 でも、学校に行けたとしても、どうすれば良いのか正直わからない。あたしは何を喋れば良いだろう。

 同年代の子はどんなことを話すのだろう。どんな遊びをするのだろう。わからないことだらけだった。

 勉強はちゃんと出来るだろうか。難しい勉強もあると聞くし、少し不安だ。

 そんなあたしは、幼い頃の、同い年の子と遊んだ記憶を思い出す。

 あの男の子は、元気にしているだろうか。今は何をしているのだろうか。

 

 「よかったら、いっしょにあそぼうよ」

 

 そう言って、一人だったあたしの手を引いてくれた男の子のことが、心から離れない。

 また会いたいな。

 彼と同じ学校に通えたら、楽しいのだろうか。

 色々な思いを交叉させていたあたしだったが、その未来は闇へと閉ざされた―――

 

 「同年代の子と戯れることも、勉強も、恋も、何もかもが始まる前に、あたしは死んだ。 何も知らないままで、あたしは死んじゃったんだ」

 「……………」

 二人の間に訪れる静寂。グラウンドの方からは、部活に励む生徒の掛け声と教師の怒声が聞こえる。

 「青春は経験できなかったけど、その代わり銃の扱いだけは身に付いているのよ。 そんなあたしには、この戦線にピッタリじゃない?」

 「……お前は、悲しくないのか?」

 ちょっと可笑しそうに笑って見せたあたしだったけど、音無くんは真剣な瞳であたしを映している。

 「……そりゃあ、悲しいわよ。 これからっていうところで、死んじゃったんだから。 未練たらたらじゃなきゃおかしいでしょ?」

 「そう、だよな……」

 「……あまり気にしなくていいわよ」

 そう言うが、あたしはこの気持ちを表に出さないようにちゃんと出来ているのだろうか。音無くんがあたしを見る目を見る限り、少しはバレているのかもしれない。

 「お前の、名前は……?」

 「え?」

 「お前、名前の部分の記憶が無いってさっき皆の前で言っていただろ。 なんて呼べば良いかな」

 死んだ時のショックからか、どうしてかあたしは自分の名前だけ思い出せずにいた。

 下の名前はおぼろげに覚えている。だが、これがあやなのか、さやなのか、よくわからない。だからあたしはさっきの戦線メンバーの自己紹介の時、名無しで通していた。

 「名無しっていうのはさすがに無理だからな。 って言っても、名前が思い出せないから仕方ないんだが」

 「そうね……」

 あたしはKeyコーヒーを手で少しだけ揺らしながら、考えに浸る。う~んと唸って頭に出たひらめきは、何故かあたしの愛読書だった。

 「TK-010って呼びなさい」

 「は?」

 また、今度は違う意味で訪れる静寂。

 「……お前も意味不明のダンスとか踊るのか?」

 「なんでそうなるのよッ!」

 これ、あたしの愛読書に出てきた女スパイが敵に呼ばれてたコードネームなんだけど?

 まぁ、これはさすがに無理があるわね。ごめん、冗談とあたしは音無くんに言ってから、息をスゥッと吸い、そして次の言葉を紡いだ。

 「沙耶」

 「え?」

 「あたしのことは、沙耶でいいわ」

 「沙耶……?」

 「あたしの愛読書に登場するキャラクターの名前。 確か、あたしの名前と似ているっていうのが印象に残ってるのよ。 だから、きっと本来のあたしの名前もそれに結構近いものだと思う」

 「そうなのか?」

 「だから、あたしのことは沙耶って呼んで頂戴。 音無くん」

 「わかった。沙耶」

 「うん」

 彼もまた、記憶が無いせいで自分の名前も覚えていない。

 名字だけで、下の名前は思い出せない彼。そして、似たように名前を思い出せないあたし。

 なんだかパートナーとしては、共通する面白い所かもしれない。

 「待て。 俺がいつから、お前のパートナーになったんだ?」

 「あなた、あのメンバーの中だと一番弱そうだったからね。 あたしが鍛えてあげるわ」

 そう言って、ニッコリと笑うあたし。

 「お前……それが、新入りが先輩に対する口かよ?」

 「何言ってるのよ。 あなただってまだまだヒヨッ子のくせに。 実戦経験だと、きっとあたしの方が上よ?」

 「ぐ…ッ」

 「ま、ビシバシ鍛えてあげるから。 楽しみにしておきなさいよね、音無くん」

 「全然楽しみじゃねぇよ……」

 笑うあたしと、乾いた笑みを浮かべる音無くん。

 

 ま、これからよろしく。マイ・パートナーさん?

 



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EPISODE.06 In GuildⅠ――Trap of Guild

 あたしがSSS(死んだ世界戦線という名で落ち着いたらしい)に入隊し、音無くんとパートナーを組んだ後、あたしと音無くんは訓練に精を出していた。

 最初は銃の扱いさえ慣れていなかった音無くんだったけど、あたしの有難い指導によって、人並みには使いこなせるようになっていた。ま、あたしの手に掛かれば造作もないことよ。

 「いい? 音無くん。 銃を持つということは、いつ敵に撃たれても良い覚悟を持ったということなの。 自分の身は自分で守る。 これ、世界の常識ね。 他人にすがって守られるような弱虫は弱肉強食の世界では生き残れないわ!」

 「お前の言っている世界というのは、どこの世界のことを言っているんだ?」

 「無駄口叩いている暇があったら、少しでも早く腕を上げなさい! いつまた戦いが起こるのかわからないんだから」

 「へいへい…」

 「返事はサー・イエッサーと、あれほど言ったでしょうがぁぁぁッッ!!!」

 「ぐおッ!?」

 あたしは容赦なく音無くんの後頭部を銃で殴り倒す。後頭部を抑え、悶絶する音無くんを見下ろす。

 「貴様のようなヒヨッ子を鍛えてやっているんだ、感謝しろウジ虫ッ!」

 「お前………どこの鬼軍曹だよ……」

 ていうかこの場合イエッサーじゃなくてイエス、マムじゃね?と呟いた音無くんの尻を蹴り飛ばしておく。

 あたしはゲシゲシと音無くんの尻を踏みにじりながら、罵倒を続ける。

 「ほらッ! 今度はあの的を全弾ど真ん中に当てなさいッ!」

 「無茶言うなぁ……って、ん?」

 立ち上がって、銃を構える音無くんだったが、何かに気付いたように目を丸くしていた。

 「あれ…?」

 「どうしたのよ」

 「弾切れだ。 新しいのをくれ」

 「はぁ……弾切れに気付かないなんて、あなた、素人?」

 「少なくともプロではないな……いいから、早く弾寄越せよ」

 「仕方ないわね……」

 あたしは新たに弾倉(マガジン)を音無くんに渡そうと、弾薬や武器が入った箱の中をあさる。しかし、どの弾倉にも弾は入っていなかった。

 「おっかしいなー……何よ、どれも空じゃないのよ……どうなってるの?」

 「こりゃ、今日の訓練はここまでだな……」

 「何言ってるのよ。 必ずどこにあるはず……」

 と、その時。音無くんとあたしが持つ連絡用の無線の着信音が鳴る。ピー、ピーという音の後、我らが戦線のリーダーさんの声が伝わる。

 『全員に通達。 これより今後の活動に関わる重大な作戦会議を始めるため、全員作戦本部に集合。 以上』

 どうやら、余程大事な用件らしい。

 あたしは空ばかり収まった弾倉を諦めると、音無くんと共に、向こうに見える校舎へと足を運んだ。

 

 ―――校長室。対天使用作戦本部。

 戦線の根城と化した校長室。それは仮の姿であり、本来は対天使用作戦本部としての機能を果たしている。その部屋の主として君臨するように、校長の椅子にはゆりっぺさんが腰を下ろしている。そして室内にはあたしたち戦線の主要メンバーがほぼ集結していた。

 眼鏡が知的に見えて実は馬鹿と噂の高松くんが、その場にいる全員に報告を読み上げる。

 「武器庫からの報告によると、弾薬の備蓄がそろそろ尽きるようです。 次一線交えるには補充する必要があります」

 成程、天使と戦う唯一の手段である武器の補充は確かに重大な項目だ。武器が無くては、あの特殊な能力を持つ天使とは戦えない。

 「しかも、ここ最近の弾薬の減り用は異常であるという報告もあるので、更に弾薬の補充が急務に必要です」

 ぎく、と一瞬震えそうになったが、なんとか平静を保つ。

 音無くんがジトッとした視線であたしを見るが、そんなものは完璧に無視する。

 「そう。 なら、今回の作戦はギルド降下作戦で行きましょう」

 ギルド降下作戦。

 一瞬空の上から落下傘で降り立つ自分を想像してしまったが、そんなものはただの思い違いであることがすぐに思い知らされた。あたしたちが向かった先は体育館だった。そしてその地下にはギルドという、いわば兵器工場のような空間があるらしい。地下にあるギルドに向かうために、降下作戦という名前が付いているようだ。後で音無くんも同じことを考えていたと知って、同じ思考回路だったことに少しショックを覚えた。

 “地下”という空間に、あたしは違和感を覚える。

 地下に降り立った時、あたしは何故かデシャヴを感じた。

 そうだ。

 あたしの愛読書にも、地下迷宮というステージがあったけ。女スパイの主人公がパートナーと一緒に潜入して、地下迷宮の敵とトラップと戦いながら勇敢に潜りぬけていくという熱い展開だったと思う。

 今正に自分があの漫画の主人公たちと同じ立場に立っていることを感じて、あたしは無性にその身の内から何かを奮い立たせていた。

 「ギルドには事前に報告してあるから、トラップの心配はいらないわ」

 この地下にもトラップが存在したようだが、ゆりっぺさんのその言葉を聞いて、一人がっかりするあたし。落胆するあたしを、音無くんが訝しげに見ていたが、気にしなかった。

 と思いきや。

 

 初っ端から野田くんが、トラップと思わしきハンマーによって吹っ飛ばされた。

 

 この人、吹っ飛ばされるのが好きなのかしら。

 無残に死亡した野田くんの犠牲によって、トラップが解除されていないことに気付き、動揺するメンバーたち。だけどその中で一人だけ、あたしはわくわくしていた。

 だって自分の好きな漫画にあったことや、自分が主人公と同じポジションに立てると、嬉しくなるのは当然のことでしょ?

 

 「よっしゃぁぁぁぁ――――ッッ!! ヘイッ! トラップカモォォォンッッ!!」

 

 という言葉を大いに叫びたい衝動に駆られたが、あたしは心の中にひっそりと閉まっておいた。

 一人、音無くんが最後まであたしのことを可哀想な人を見る目で見ていたが、気にしな………そろそろ殺してあげようかしら?

 「……言っておくけどな。トラップが解除されていない=天使侵入っていうことだからな。忘れてないよな?」

 安心なさい、あなたのことは全然気にしてないから。

 

 そんなこんなで、トラップ満開の危ないギルド降下作戦が始まった。

 

 

 

 ―――ギルド連絡通路 B3

 襲いかかる巨大な鉄球。遠くに響き渡る高松くんの悲鳴。

 「高松の声……やられちまったかぁ……」

 ここで高松くん脱落。

 それにしても何なのよ。このベタなトラップは。最初から楽しませてくれるじゃない。

 さぁ、次はどんなトラップかしら?

 「お前……もしかして楽しんでないか?」

 

 

 ―――ギルド地下通路 B6

 「ぐおぉぉぁぁぁあああぁぁッッッ!!!」

 お見せできないショッキングな光景。嘘か本当かわからない柔道五段の松下くんがその大きな身体をレーザーでスッパリと料理されちゃったみたい。その光景を目の辺りにしてゲロゲロになってる人が約一名。かわいそうに。

 「本格的ねぇ……燃えるわ…ッ!」

 「お前なぁ……」

 

 

 ―――ギルド連絡通路 B8

 落下する天井。それを受け止めるTK。

 「今なら間に合う…ッ! OH,飛んでいって抱き締めてやれぃ……」

 この人、喋れるのね。

 各々の去り際の言葉を残し、天井を受け止め続ける勇敢なるTKを残し、あたしたちは無事に脱出する。

 そしてTKは天井の塞がれていく隙間の奥へと消えていった。

 「やるわね……でも、まだまだよッ!」

 「……もう何も言わないぞ、俺は」

 

 

 ―――ギルド連絡通路 B9

 今度は床が落ち、大山君が奈落の底へと消えていった。

 足に捕まって宙ぶらりんになるあたしたち。一番下にいた音無くんから、上にあがっていくことに。

 「うぐ…ッ!! ……ッ!!」

 あ、これは結構痛い。音無くんが這い上がっているせいで、あたしたちは下に引っ張られている強い感覚を味わうことになった。

 音無くんが、ぴたりとあたしの足の所で上がってくるのを止める。

 「……な、なにしてるのよ。 早く上がってきなさいよ……」

 「どこ掴めばいいんだよ…ッ!」

 考えてみれば、上まで上がるには音無くんがあたしの身体のどこかを掴んだり何なりして、あたしの目の前を通らなければならない。

 そんな簡単なことに今更気付いたあたしだったが、恥ずかしい思いをしている暇はない。もたもたしていると、全員が落ちてしまう。

 「は、早くしないとみんな落ちちゃうじゃない…!」

 「……ッ! わかってるよ……ッ!」

 決心したのか、遂に音無くんが思い切りあたしの身体に抱きつくように上がってくる。音無くんの顔があたしの胸下部分に埋まり、あたしの恥ずかしさが最高潮に達するが、ぐっと抑える。

 「?」

 何故かそこで動きを止めた音無くん。ちょ、ちょっと…ッ!そこで止まってくれるとあたしが非常に困るんだけど……ッ!?

 しかし音無くんはすぐに上るのを再開する。お互いに息がかかるような至近距離で顔と顔が遭遇してしまった。

 「何でお前、前向いてるんだよ…!」

 「い、いいから早く上りなさいよ、馬鹿…!」

 そうして、音無くんは無事に上り終えることができたようだ。途中でゆりっぺさんや椎名さんという女の子も越えていったが、なんとか上りきれたようだ。

 「これは帰ったら更に厳しい訓練が必要みたいね……って、きゃああッ!!?」

 ムニュッという何かに思い切り掴まれる感触。

 キッと下を見下ろしてみると、青い髪があたしの視界に入った。

 「―――どこ触ってんのよ、このドスケベッ!!」

 そして、あたしの蹴りが見事に日向くんに命中。日向くんは断末魔を叫びながら、奈落の底へと落ちていった。

 上りきる事が出来たのは、あたしを含め、音無くん、ゆりっぺさん、椎名さんと藤巻くんの五人だけだった。

 「ふん、新入りが二人も生き残るとはな。 次はてめぇらの番だぜ?」

 

 ―――ギルド連絡通路 B13

 あんなことを言っていた藤巻くんがぷかぷかと水に浮かんでいる。水は更に流れて増えていく。

 このままここにいてはいずれ溺れ死んでしまう。既に藤巻くんが死んでるけど。

 「こいつ、カナヅチだったのか……」

 「出口はこっちだ。 来い」

 出口を見つけた椎名さんに続いて、あたしたちも水中を潜る。

 

 

 ―――ギルド連絡通路 B15

「不覚ッ! ぬいぐるみだったぁぁぁぁ………」

 流れてきた子犬の玩具のトラップに騙され、子犬の玩具を抱き抱えて滝壺に落ちていった椎名さん。

 案外、抜けてる所というか、可愛い所あるのね……

 「ていうか、あれもトラップなのね……」

 ここのトラップは……どうしてあたしをここまで楽しませてくれるのかしら。

 ふっふっふっ、次はどんなトラップかしら?

 「ギルドはまだ先なのか?」

 「もうそろそろ着くわよ。 トラップは今ので最後だから安心なさい」

 「……………」

 「ど、どうしたの沙耶さん? そんな所で愕然として……」

 「あー、あいつは放っといていいからさっさと行こうぜ」

 

 勇み良く足が進むゆりっぺさんと音無くんの後ろで、あたし一人がとぼとぼと、まるで欲しかった玩具を買ってもらえなかった子供の如き落ち込み様で歩いていた。

  まだ……まだ満足じゃないのよ。もっとこう、凄くて色んなトラップが死ぬ気で襲いかかるスリルを、あたしは求めていたのよ……

 「……彼女、一体どうしたの?」

 「気にしないでやってくれ……気にする方が無駄だから」

 二人の会話にも、あたしにはどうでも良いことだった。

 まぁ、それにしても全てのトラップを潜りぬけてきたあたしも凄いと思わない?さすが主人公。あたしの手に掛かればどんな困難なトラップもちょろいもんよ。あれ?そう考えると、結構イイかもしれない…

 「ふふ、うふふふ、まるであたし、最強のスパイみたいじゃない……うふふふ……あーはっはっはっはっ!!」

 「ちょっと彼女、本当に大丈夫なの?」

 「……多分、な」

 引いている二人に構わず、あたしは大っぴらに笑った。

 「あーはっはっはっはっ」

 

 ピン。

 

 「―――は?」

 何か、足に引っ掛かった感触。まるで、張り詰めた細い線に触れたかのような……?

 

 ドゴッ!! ボゴッ!!

 

 「きょげッ!!?」

 突然、あたしの頭上にどこから降ってきたのかわからない金ダライが二つも落ちてきた。落下してきた金ダライがあたしの脳天にクリーンヒット。あたしは頭の上に星を瞬かせながら、顔面から地面にキスするように倒れてしまった。

 「―――!?」

 驚愕するあまり、声が出ない二人の気配。

 あたしも、何が起こったのかわけがわからなかった。

 「な、なんだ今のッ!? あれもトラップなのかッ!?」

 「あたしたちが知らない内に、新たなトラップが作られていたのね……」

 「それにしては今までのトラップと比べて随分としょぼいなッ!」

 未だに星が瞬く頭の中で、あたしは己の無様さを嘆いた。

 全てのトラップを制覇したかと思いきや、最後の最後でトラップの餌食になるなんて……しかも、すっごくしょぼい、まるで小学生が作ったかのようなトラップにッ!!

 「さ、沙耶ッ! 大丈夫か……?」

 駆け付けてくれた音無くんが、倒れたあたしを起こしてくれる。

 「ふふ、うふふ……」

 「沙耶……?」

 「ふふ……滑稽でしょ? 最後の最後でこんなしょぼくて低能なトラップに引っ掛かるなんて……おかしいでしょ? 滑稽でしょ? 笑いたければ笑いなさいよ、あーはっはっはって!」

 「何もそこまで自分を卑下にすることもないだろ……ほら、立てるか?」

 「うう……」

 音無くんの手を借りて、あたしはなんとか立ち上がる。うう、まさかこんなトラップにやられるなんて……惨めすぎるわよ、あたし。

 ギルド目前にして、あたしもトラップの犠牲者となったのだった。

 

 

 

 ―――ギルド。

 そこは対天使用の武器や弾薬を製造している、云わば兵器工場のような場所だった。ここで戦線が天使と戦うための武器を生産し、地上に送り届けている。地下にあるのは、天使からこのギルドの存在を隠蔽するためだった。

 しかし、今回の天使侵入により状況は予断を許さない有様になってしまった。天使がギルドまで到達してしまえば、ギルドもお終いだ。武器の補充が不可能となり、戦線の活動に著しい影響を及ぼしてしまう。

 最悪の状況を打開するため、やむなくギルドを破棄することが決定された。

 オールド・ギルドへの道を確保し、ギルドを爆破する時間稼ぎのために、あたしたちは天使を足止めする役目を買うこととなった。



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EPISODE.07 In GuildⅡ――Guild Blast

 ギルドの入口付近で待ち伏せをしていると、それほど時間も経たずに、天使が姿を現した。

 俺とゆりは、遂にここまでやって来た天使を迎え撃つため、前に出て銃を構える。即座に、ゆりの号令によって俺たちは天使に向かって引き金を引いた。

 天使の足に被弾。弾が天使の足を貫いた瞬間、天使はガクリと膝を折ったが、すぐにまた何かを囁くと、みるみるうちに傷が塞がってしまった。

 「対応が早すぎる…ッ!」

 異常なほどの治癒能力の高さ。再び立ち上がった天使は、ゆっくりと俺たちの方に向かって近付いてくる。その右手には、俺たちの恐るべき白い刃が下げられていた。

 俺たちは発砲を続けるが、天使の身に届くことはない。幾重にも飛びかかる火線を、天使は容易く弾き返しながらこっちに向かって歩いてくる。

 

 よし、もっとこっちに来い…ッ!

 

 天使が近づいて来ても、俺たちはただ撃ち続けるだけだった。それが無駄だとわかっていても、こちらから近接戦を仕掛けることも何もしない。

 もっと、ある地点まで天使を引き寄せるために―――

 無機質な瞳が俺たちを見据える。その無表情からは殺気も感じられない。ただ、生徒に注意をしようと歩み寄ってきたような、普通の生徒の雰囲気に見えなくもない。だが、その弾を弾き飛ばす刃は、確実に俺たちの身に危険を及ぼす厄介な存在だった。

 この空間は広い。岩や石ころしか無いここは、隠れようと思えば隠れることができる。俺たちの方に注意を引き寄せることができれば、広すぎる周りの空間にまで注意を向けることはできない。

 だから、前に居る俺たちばかりを見据えている彼女には、遠くから狙いを定めるスナイパーの存在など気付きはしなかった。

 

 パン―――ッ!!

 

 一発の軽い発砲音、それはまるで気が抜けるような、軽すぎる音だった。

 弾を弾き飛ばしていた天使の刃が一瞬、動きを止める。その刃が生えた手の腕には、一つの穴が開いていた。

 「……………」

 間髪いれずに、次々と天使の右腕、そして足に銃弾が貫く。回復する暇さえ与えないかのように、遠くから放たれる銃弾は、容赦なく天使の攻撃手と足を貫き続けた。

 幾つもの弾を浴びた天使は、地面に崩れたまま、動こうとはしなかった。動けないのだ。いくら以前より対応能力が早くなったとはいえ、一瞬の内に何発も銃弾をその身に浴びれば、回復にロスがかかり続ける。

 天使の治癒が始まる。一つ、一つと撃ちこまれた銃弾が吐き出されていくが、また新たな銃弾が天使の身を貫いた。

 「容赦ないわね……」

 俺の隣で傍観していたゆりが、ぽつりと呟く。

 いくら回復しても、また銃弾を撃ち込まれていく天使を、俺は見詰めているうちに、胸の内にもやっとした変な感覚が生まれるのを感じたが、その正体が何なのか、今の俺にわかるはずがなかった。

 「……ガードスキル、ディストーション」

 天使の身が淡い光に包まれた。

 そして遂に、その身に銃弾が届くことはなくなった。天使の強固となった身体は銃弾を跳ね返し、そしてその間に全ての傷を塞いだ天使が、またゆっくりと立ち上がった。

 

 その時、立ち上がった天使に颯爽と駆けていく人影を、俺は見た。

 

 

 あたしは遠方離れた岩の陰から、天使の小さな身体をスコープの十字に収めていた。

 頭の中がまるで氷のようにクールになり、指の先までの神経を敏感に尖らせる。

 「……ターゲット補足。 テェ…ッ!」

 スナイパーとなったあたしの指が、静かに引き金を引く。ただぐっと押しただけで、軽い音と振動と共に、銃弾が放たれる。十字の真ん中にあった天使の足が、ぱっと赤い花を咲かせた。

 そして次々と、回復する間も与えずに天使の身に銃弾を叩きこんでいく。

 頭の中が氷のようにクールになったあたしには、その所業が少し残酷であるという認識を与えることはない。ただ、目標を狙い定め、弾を撃ち込んでいく。慎重になりながらも効率を目指して仕事を行うのだ。

 だが、それもやはり長くは続かなかった。天使の身に、もう弾は届かない。

 「―――ちっ」

 あたしは舌打ちすると、銃を投げ出した。そして、こそこそと隠れて狙うという汚い役目を止めて、あたしは戦場へと駆け抜けた。

 

 

 

 天使の場に飛び込んだのは、沙耶だった。スカートの内から軍用ナイフを取りだすと、天使に向かって一閃した。だが、天使はそれを紙一重で避け、天使もまたその刃で応戦する。

 沙耶のナイフと天使の刃が火花を散らす。二人とも動きが速すぎて、俺は二人の競合いを追うのに精一杯だった。

 「彼女、近接戦もやれるのね……」

 ゆりが感嘆するように言葉を漏らす。

 だが、見ていてハラハラすると言えば、する。お互いに互角の近接戦闘を見せつけてくれているが、いつ沙耶がその刃に切り刻まれないが、心配で仕方がないのだ。沙耶の実力は俺も信じているが、天使も俺たち戦線メンバー全員を相手にするほどかなり強敵だ。

 「はぁ…ッ!」

 一旦、天使から距離を取った沙耶は、スカートの内に隠していたホルスターから拳銃を抜き出した。至近距離で拳銃の引き金を引くが、その銃弾さえ、天使に届くことはなかった。天使は身を傾けてそれを避け、そのまま流れるように、沙耶の心臓目掛けて刃を一直線に突き出した。

 「く…ッ!」

 それを間一髪で、沙耶が避ける。天使の白い長髪が、沙耶の目の前で靡いた。

 「はぁッ!!」

 そのガラ空きになった背後に、沙耶が拳銃の銃口を向ける。

 そして引き金を引く間際―――

 「…ガードスキル、ディレイ」

 

 沙耶の拳銃から放たれた銃弾が、天使の頭を――――

 

 

 「―――ッ!?」

 

 貫くことなく、銃弾は虚空を切り裂いた。天使の姿は沙耶の目の前にはいない。

 「消えたッ!?」

 沙耶は信じられないと言う風に驚愕の色を浮かべるが、俺は咄嗟に、沙耶に向かって叫んだ。

 「沙耶ッ! 後ろだッ!!」

 「な…ッ!?」

 一瞬の内に、天使は沙耶の背後に回っていた。

 信じられないスピードに、驚きを隠せない俺たち。だが、沙耶には驚いている暇さえ与えられなかった。俺の呼びかけに反応して振り返る沙耶。天使の刃が、沙耶の喉元に向かって斬りかかる。

 「―――ッ!」

 顎を引き、沙耶は上半身を後方に下げ、ギリギリの所で天使の攻撃を避ける。天使の切っ先が沙耶の喉元数センチ先を通り過ぎていった。

 「舐めるんじゃ―――ないわよッ!」

 体勢を戻し、一発を放つ沙耶。だが、またしても天使の刃に弾かれる。

 「ち―――ッ」

 続けてもう片方の手に握った軍用ナイフで切りつけようとするが、また天使が恐ろしいほどのスピードで沙耶の目の前から消え、背後に回った。

 「うあ…ッ!」

 同じ手に通用するか、という言葉を噛み締めながら、沙耶は背後からの攻撃を避けようとする。だがその天使の動きが速すぎて、無茶な避け方を身体に強制させる結果になってしまった。

 「―――ッッ!」

 身体を痛めてしまうような体勢で天使の一閃を避け、沙耶は遂に、ごろごろと地面を転がった。

 「は…ッ!?」

 地面を転がり、体勢を整えようとした沙耶だったが、既に天使が倒れた沙耶にその刃を振り下ろそうとしていた。

 

 

 無様にも地面に転がるあたし。無茶な避け方を続けたものだから、体中が悲鳴をあげている。そんなこともお構いなしに、あたしは決して戦闘の意思を緩めることはなかった。すぐに体勢を整えて反撃に出ようとする。

 ―――が、そんなあたしより早く、天使が次の攻撃に移っていた。

 無機質な瞳が、一瞬動きを止めたあたしを映しだす。その瞳に映る自分の顔は、さぞや滑稽な表情をしていただろう。人が、自分の死にゆく瞬間を覚悟した、そんな表情だった。

 大きく開かれたあたしの瞳が、天使の刃を映す。

 まるで、あたしの視界に入るものの動きが、全てスローモーションに見えた。

 天使の刃が、あたしに向かってくる―――

 

 「―――!」

 

 あたしの目の前で、天使が何かにぶつかり、横に吹っ飛んだ。

 その小さな身体が地面をごろごろと転がる。

 「音無くんッ!?」

 「大丈夫か、沙耶ッ!」

 吹っ飛んだ天使の代わりに、あたしの目の前に現れた人物は、音無くんだった。

 音無くんは天使に体当たりをして、あたしを助けたんだ。

 「…ふん、さすがあたしのパートナー。 ちゃんと相棒の危機を救ってくれるなんて、やるじゃない」

 「お前にこっぴどく絞られたからな」

 音無くんの手を借りて、あたしは立ち上がる。

 少し足元がふらついたが、なんとか大丈夫だ。

 「平気か?」

 「これくらいどうってことないわよ」

 あたしはニッと笑みを浮かべてみせる。

 それを見て、音無くんも安心したように微笑を浮かべた。

 「二人とも、そこから離れてッ!」

 ゆりっぺさんの声に、あたしと音無くんは足元から伝わる振動に気付いた。

 震源の先に視線を向けると、突然、巨大な砲身が姿を現した。それはほとんど大砲のような形をしており、どこを見ても砲台並みの兵器だった。

 「わ、すごッ! あんなものまで作ってたのッ!?」

 あたしは素直に感嘆の溜息と共に驚きの声をあげる。そのそばでは音無くんもあまりの壮大さに呆気に取られていたが、何かに気付いたのか、ハッと我に返る。

 「沙耶、天使がッ!」

 「―――!」

 視線を向けると、そこにはゆっくりと立ち上がる天使の姿があった。

 少し乱れた長髪を揺らすと、彼女はまたその無機質な瞳を、睨むわけでもなく、あたしたちを見据えた。

 「総員シェルターに退避しろぉッ!」

 砲台の周辺にいるギルドの隊員たちがあたしたちに警告を促す。

 「音無くんッ!」

 「ああ…ッ!」

 あたしは音無くんと共に、シェルターの方へ走る。ゆりっぺさんの後を続き、あたしたちはシェルターの中に身を隠した。

 ギルドの隊員たちも、シェルターの中へと避難する。

 「総員退避完了ッ!」

 「よし、発射用意ッ! 撃てェッ!!」

 一拍置いて、遂にその砲口から巨大な火球が吐き出されんとする。

 ―――と思いきや。

 

 「ぐわぁぁああああぁぁぁぁぁッッッ!!!」

 

 聞こえたのは強烈な轟音と、天使では無くギルドの隊員たちの悲鳴。爆風がシェルターの中にまで吹き荒れ、あたしたちの身を土煙が襲いかかってきた。

 「はぁッ!!?」

 あまりの馬鹿らしさに、あたしは間抜けな声をあげる。

 砲台は見事に自爆し、木端微塵となっていた。もうもうとした煙の中、そこには散らばった砲台の残骸と、無様に倒れ伏せるギルドの隊員たちがいた。

 「砲台……大破……」

 「ち…ッ、やっぱ記憶にないもんはテキトーには作れねぇか……」

 「「テキトーに作るなぁぁぁッッ!!」」

 あたしとゆりっぺさんが、見事なコンビネーションでギルドの隊員に肘の一突きを決める。

 だが、天使もさすがに今の爆風には堪えられなかったみたいだった。仰向けに倒れていた天使は、ふらりと立ち上がった。

 「天使が起きるぞッ!」

 音無くんの声があがる。

 「お前たちッ!」

 その時、ギルドの入口から顔を出したチャーという男が、手榴弾をあたしたちに手渡しながら言った。

 「これでなんとかしろッ!」

 「ありがたいわッ!」

 あたしはギルドの隊員たちと同じように、手榴弾を受け取った。

 あたしが一つ目を投げ出す。だが、手榴弾は天使の寸前で弾き飛ばされ、あらぬ方向へと転がっていってしまう。

 しかし、転がった手榴弾はそのまま爆発。解き放たれた火焔と黒煙が天使の姿を包み込んだ。

 そして次々と投げ出されては、弾き返され、そして天使の周辺で爆発していく手榴弾。

 その間に、あたしたちは再びシェルターの中に逃げ込む。

 次々と爆発する手榴弾の炸裂と振動を背に抱えながら、シェルターの中に飛び込むと、既にチャーさんがギルド爆破のスイッチに手を添えている所だった。ギルドの爆破準備は完了していたのだ。

 そのチャーさんの隣には、ゆりっぺさん、そして音無くんもいた。

 「よし、ギルドを爆破する。 いいな?」

 「やって」

 チャーさんの問いかけに、ゆりっぺさんは躊躇無く即答する。

 チャーさんは一瞬思い浮かべる仕草を見せたが、すぐに「爆破ッ!」という掛け声と共にそのスイッチをぐっと押しこんだ。

 

 足元から、地震のような振動が断続的に発生する。そして響き渡る轟音。

 ギルドの大規模な爆破が始まった。

 それはあまりにも大きな爆発だった。まるでミサイル攻撃か精密爆撃を受けているかのような、凄まじい爆発であった。

 途切れることがない断続的な爆発が続く中、あたしたちはオールドギルドへの避難路を駆け上がっていた。

 駆け上がりながら横を見てみると、爆破炎上するギルドの光景が見渡せる。

 そして、キラリと光った小さな粒が、火の海に落ちて行くのが見えた。

 それは、天使だった。

 天使は頭から一直線に、崩れた瓦礫と共に燃え盛る火の海へと姿を消していった。

 「……………」

 あたしは駆け上がりながら、その光景を黙って見届けていた。

 

 

 ギルドは破棄され、代わりにオールドギルドに拠点を移したチャーさんたちギルドメンバー。

 この世界では強い念で記憶を具現化し、自由に物質を再構築できる。つまり、必要な記憶と職人としてのプライド、土くれさえあれば、また武器を製造することは可能なのだ。

 チャーさんの号令によって、ギルドの隊員たちが意気揚々と準備を始める。

 そしてゆりっぺさんも、リーダーらしい風格で、現場に指示を出していく。その姿はとても輝いていて、格好良かった。

 彼女を見てみると、この戦線のメンバーがどうして彼女に付いていったのか、よくわかる。

 そして、ゆりっぺさんの指示に意気揚々と従って動き回る彼ら。そんな光景を見ていると、不思議と暖かい気持ちが沸いてくる。

 「まだまだ俺たちの戦いはこれからだ、って感じね……」

 「まるで打ち切り漫画みたいな言い方だな」

 と言いつつも、音無くんは笑っていた。

 あたしも、笑顔を浮かべる。

 「ま、とりあえずこれからはもっと厳しい訓練をしなきゃね。 ギルドはこの通り破棄されちゃったし、今度は近接戦でも教えようかしら?」

 「おいおい、勘弁してくれよ……」

 「これからも天使と戦うためには、今日みたいな近接戦闘も時には必要になるってことよ。 あたしの戦いを見ていたら、わかるでしょ?」

 「それは……そうかもしれないが……」

 「―――と、いうことで。 また明日からビシビシ鍛えてあげるんだから、覚悟しなさいよね」

 そう言って、あたしはぽんと音無くんの胸に拳を当てる。

 「……まったく。 参ったな、こりゃ…」

 音無くんは額に手を当てつつも、溜息混じりの微笑を浮かべていた。

 あたしは音無くんと話しながら、今回の過程の一部分を思い出していく。

 

 天使が出現し、戦闘になった時。音無くんはあたしの期待通りになってくれたと証明された。

 そして天使に体当たりしてでも、あたしを助けてくれた、パートナーとしての功績。

 あたしの目の前に現れてくれたヒーローを、再び思い浮かべる―――

 

 くす…っと、あたしは微笑む。

 この子は鍛えれば鍛えるほど、期待通りに成長してくれそう。

 あたしの目に狂いはない。きっと、彼は物わかりが良い方なんだろう。

 なんだ、ちゃんとあたしのパートナーやってくれてるじゃない。

 

 これからも期待してるわよ、マイ・パートナー。

 

 

 こうして、あたしたちのギルド降下作戦は終了した。

 脱落していった戦線メンバーたちも後に合流し、あたしたちは地上に帰ってくることができた。

 しかしこの先にあたしたち、死んだ世界戦線にやがて激烈な変化が訪れることになるなんて、この時は夢にも思わなかったのだった―――



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EPISODE.08 Happening

 対天使用作戦本部。校長室とはもう誰も呼ばない。その部屋には毎度の如く、我らが戦線の主要メンバーが集結していた。

 その部屋に、軽やかに流れるメロディ。彼女の持つギターの弦からバラードが弾かれる。

 部屋にいる者はそのバラードに、静かに耳を傾けている。

 ゆりっぺも、真剣な表情でそれを聴き入れている。

 ショートに揃えた赤い髪の女子が、ギターを片手に、強くも、どこか悲しそうな、そんなメロディを紡いでいる。

 やがて、その弦は大人しくなる。彼女は弾き終えると、静かに我らのリーダーの意見を待った。

 「……何故、新曲がバラード?」

 「いけない?」

 「陽動にはね」

 彼女の紡ぎだされるギターのメロディ。そしてゆりっぺが言う“陽動”という言葉。

 それらは無関係に思えて、実は深く関わりのあるものだった。

 「その……陽動っていうのは一体何なんだ?」

 「あなた、彼女たちのライブを見て気付かなかったの?」

 未だに理解できていない俺に、ゆりっぺは淡々と説明を始める。

 彼女たちは校内でガルデモと名乗るロックバンドを組んでいて、生徒たちの人気を集めている。彼女たちは陽動班としてライブを行い、作戦の障害となる生徒たちを引き寄せる役目を買っていると云う。

 それだけ、彼女たちには人を魅了させる力がある。

 「で、どうなの?」

 そのガルデモのボーカル、岩沢と云う少女は、ゆりっぺに率直に問う。

 「陽動としては向いていないわね」

 ばっさりと切り捨てるゆりっぺだったが、岩沢は特に気にせず、「そっ、じゃあボツね」と、岩沢自身もあっさりとしていた。

 「で、次の作戦は何なんだ。 ゆりっぺ」

 「そうね。 今度の作戦は、天使エリア侵入作戦のリベンジでいこうと思うわ」

 ざわつく一同。

 天使エリア侵入作戦?

 って、なんだ。

 「要するに、天使の住処さ」

 「天使の住処……?」

 俺は天使の住処というメルヘンチックな印象故に様々な想像を膨らませた。そんな時、ゆりっぺが突然新メンバーを紹介した。

 現れたのは眼鏡をかけた少年。竹山と名乗る、凄腕のハッカーらしい。

 相変わらず野田が新人いびりを始めたが、竹山の円周率攻撃によって見事に撃沈。

 馬鹿ばかりの集まりには、頭脳派の投入は即戦力になるだろう。

 「僕のことはクライシストとお呼びください」

 最後の最後で台無しだ。さすがゆりっぺだと言うべきだろう。

 ここにまともな奴はいるのかと問われれば、誰もが答えるのに戸惑うのは目に見えているだろうな。

 

 

 「音無くん」

 部屋を出た直後、いきなり俺の前に沙耶が現れた。

 「うわ。 沙耶……」

 「何よその反応」

 俺の反応に対して、沙耶はむっとしたが、俺は構わずに沙耶に問いかける。

 「何か用か?」

 「何か用か、じゃないでしょ! これから特訓に決まってるでしょッ!? 今までそれの準備してたんだから…ッ!」

 「ああ、それでいなかったのか……」

 「――ということで」

 俺の手を、ぎゅっと掴む暖かい手。沙耶は俺の手を掴むと、ニコッと微笑んで、駆けだした。

 「さっさと特訓、始めるわよ!」

 「…っとと! ちょっと待てよ…!」

 沙耶に手を引かれ、俺は仕方なく一緒に走りだす。

 俺は沙耶に手を引かれながら廊下を走る際、曲がり角の辺りで、翻るスカートとギターを背に抱えた姿を一瞬だけ見かけた。

 その赤い髪の持ち主、岩沢の横顔を、俺は一瞬の間際にそれを捉えた。

 

 

 ――第二連絡橋下。

 橋の下に設置された数々の、俺にはよくわからないもの。

 だが、色々な訓練のためのモノだというのはわかる。

 「今日はまた随分と張り切った感じだな……」

 「ふふん。 鍛えれば鍛えるほど、人は強くなるものなのよ。 音無くんはきっとその素質があると、あたしは断言するわ」

 「勝手に決めつけないでくれ……」

 俺の方におくる沙耶の瞳は、期待に満ちた眩しい瞳だった。

 何を言っても、こいつは自分の考えを曲げないだろうな……

 だが、俺自身もこの環境に馴染んでしまっていると、自分で薄々自覚している。

 なんだかんだ言って、沙耶を含め、あいつらも最初に会った時より随分と良い奴だと思えるようになってきた。

 それは俺も、沙耶やあいつらを仲間として認めるようになってきたのかもしれない。

 「じゃ、これらを使って訓練開始よ。 まずはこの機関銃で撃ってみましょう」

 いきなり俺を圧倒させるようなものが出てきやがった。

 「M134っていう機関銃よ。 元々は軍用ヘリコプターに搭載されている代物なんだけど……まぁなんとかなるでしょ。 使えなくもないわ」

 「いきなりそんなとんでもない代物を扱えるかッ!!」

 「なに言ってるのよ。 やろうと思えば、きっとこれを持って校舎の窓から飛び降りることだって可能よ」

 「それはないだろ……って、ぐあッ!? なんだこれ、重すぎるぞッ!」

 「ああ、それ、本体だけで18kgよ? しかも銃身に三脚、弾薬とバッテリーを含めるとざっと100kgオーバーね」

 「人が持てるものじゃないだろうッ! これはやっぱり軍用ヘリが持つべきものだろッ! 人間には荷が重すぎるッ!」

 「別に無理して持とうとしなくていいわよ。 いい? 音無くん」

 呆れがちに溜息を吐き、沙耶はうつ伏せに寝そべると、機関銃に手を掛けた。

 「こうして自分が伏せて、この体勢で扱おうとすれば特に問題はないわ。 しっかりと銃を支えて、振動に気を付けながら撃ちまくるの。 難しいことじゃないわ」

 ほら、やってみてと、沙耶は俺にも同じことをするように促す。

 俺は言われた通りに、身を屈めて巷で言う機関銃に初めて触れる。拳銃とは違って、まったくと言って良いほど違う感覚を与える武器だ。

 「よし、安全装置解除。 弾倉OK。 さぁ、あの的に向かって撃ってッ!」

 「……ッ!」

 俺は前に見える的を見据え、ぐっとトリガーを引く。

 そして次の瞬間、物凄い勢いで機関銃の銃口から暴れるように火が噴き荒れる。激しく震える銃身を抑え、数秒単位で何百発という弾丸を放つ。的はあっという間に原型を失くし、周りの土や草をも弾き、射撃を止めれば、その辺りは既にズタズタだった。

 「凄いな……」

 これを人間相手にぶっ放すとしたら、人間なんて人たまりもない。

 これを、天使とは言え、あの少女に向かって撃つというのは、あまり考えたくないものだった。

 「初めにしてはまぁまぁね。 やっぱり音無くんはあたしの見込んだ通りの男だわ」

 「そりゃ……どうも……」

 まだ緊張が抜けきれない。機関銃を抑えていた手がびりびりと痺れている。

 出来れば二度と使いたくないが、これは武器としては最強クラスだ。そして、ここに散らばる様々な武器。

 ギルドが破棄されて、今はオールドギルドで補い始めたばかりだというのに、いきなりどこからこんな代物を調達できたのだろう。

 俺の考えていたことに気付いたのか、沙耶は俺の目を見ると、すぐに口を開いた。

 「こんなもの、どこから持って来たんだって思ってるでしょ?」

 「……………」

 「……あたしもね、生きてた頃はこんな武器が当たり前にあった国ばかり行ってたから……嫌でも記憶にあるのよ。 扱い方だけでなく、作ってる所もよく見てたからね」

 「沙耶……」

 生きていた頃の沙耶。

 彼女は他の連中とはまた一味違う人生をおくった。父親と共に、色々な国をまわった過去。それも、決して俺たちが当たり前のように日常の中にあった、平穏とは遠くかけ離れた、外の現実。

 「ここって、本当に便利な世界ね。 記憶があれば石ころから作り直すこともできるんだもの。 まぁ、出来はやっぱりギルドの人たちには、敵わないけどね。 その証拠に、その機関銃も調子は良い方とは言えない」

 もう一度確かめるようにトリガーを引いてみると、何かに詰まったように弾が出なくなった。

 確かに、これでは武器としては大きな欠点だな。

 「まぁ、あたしの生み出したヘボは常にメンテナンスが必要ね。 あくまでこれらは訓練用として捉えてもいいわよ」

 「そんなことないさ。 実際に撃ってみたけど、ギルドの武器と変わらない」

 「そんなこと、わかるの?」

 「沙耶の作ったものだ。 俺は信じるよ」

 「あなた、おかしなことを言うのね……」

 沙耶はそう言いつつ、クスクスと笑った。

 「さて、じゃあ次はこっちのを使ってみましょう。 音無くん、準備はいい?」

 こうして、俺は沙耶の指導の下、様々な武器を用いての訓練を行った。

 そして、最後の方になって、俺と沙耶は近接戦闘の訓練を始めることにした。

 「ギルドでの戦いを見てわかったと思うけど、銃が効かなくなった場合は、近接戦も想定しないと駄目だわ。 近接戦は敵と最も近い距離で戦う、とても戦闘能力を問われる技術。 これも訓練に越したことはない」

 「そうだな……」

 「じゃ、これ」

 「おう。 ……って、なッ!?」

 沙耶からぽんと手渡されたもの。触れてみると、やけにひんやりと冷たい。手渡されたものに視線を落としてみると、見事に磨かれた刃が目に入った。

 「お前……これ、本物じゃないか……」

 それは本物の軍用ナイフだった。正しく、あの時に天使と戦った時に沙耶が使っていたナイフのような。

 「模擬を使っても仕方ないでしょ? それの方が実戦に近い心理で、訓練が可能よ」

 「だからって……」

 「じゃ、始めるわよ」

 沙耶は俺から距離を取り、自らもナイフを片手に握りだす。

 「まさか……本気で来たりしないよな…?」

 「なに言ってるのよ」

 俺のおそるおそるとした問いかけに、沙耶はきょとんとした表情を浮かべる。

 「そんなことあるはずないじゃない、音無くん」

 「そ、そりゃそうだよな……」

 

 まさかいくら実戦に近い訓練とは言え、仲間相手に本気で来るとは……

 

 「本気の本気、殺す気でいくわよ」

 

 俺は覚悟を決めるしかなかった。それも一瞬の内に。

 

 「うおッ!?」

 いきなり駆けだした沙耶。まるで鷲の如く、沙耶は俊足で俺に刃を向け、突撃してくる。

 俺は咄嗟に、足で地を蹴って、後方に下がる。

 俺のいた虚空に、沙耶のナイフが一閃、空気を切り裂いた。

 俺がその時見た、沙耶の蒼い瞳は、まるで獲物を狙う鷲のように鋭く、澄んだ瞳だった。

 この時、俺は初めて寒気を感じるような恐怖を覚えた。

 俺は後方に下がると、ナイフを改めて握り締める。避けられても、沙耶は攻撃を止めようとしない。

 地についた足が、止まることなく、ロケットスタートした。

 勢いの余り、まるで一直線に獲物に向かう鷲のように、沙耶がナイフを突き出す。俺はまたギリギリで避けるが、ネクタイがすっぱりと切れてしまった。

 「待て待て待てッ!」

 「―――――」

 沙耶は無言で、俺を見据える。そして、ナイフの刃先を下に向け、ジリッと地を踏みにじる。

 俺もナイフを構え、お互いにじりじりと隙を狙う。

 だが、沙耶は恐ろしいほど、隙がまったく見られない。

 沙耶の瞳は、正に獲物を求めるハンターの如く。確かに、俺を殺す気で掛かっている。

 「……………」

 戦いに一切他言は無用。そんな無言が、俺にビシビシと伝わってくる。

 この世界は殺しても死なない。ジョークとして愛用されているような言葉だ。

 死なない世界で殺してしまっても、とっくの昔に死んでいるのだからもう死ぬことはない。

 「く……」

 橋の下、遠くのグラウンドから部活に励む生徒たちの声が聞こえる。不気味に静まった空気の中で、俺と沙耶はじっと対峙していた。

 「……………」

 俺はふと、視線を外す。

 その瞬間、さっきまで沙耶が立っていた場所から、沙耶はあっという間に俺の目の前まで走りだしていた。

 「……ッ!」

 俺は正面から突撃を敢行してきた沙耶に対して、防御の姿勢を取るしかなかった。沙耶の斬りかかるナイフを、俺は必死にナイフで応戦する。と言っても、防戦一方ではあった。

 俺と沙耶の間で、火花が散る。時折、俺の腕や、袖の辺りに、沙耶のナイフが切りかかる。

 「―――ッ!」

 俺の頬に、沙耶のナイフが微かに触れた。

 そして、赤い血が俺の頬を伝う。

 それを機に、沙耶は一気に俺の目の前まで攻め寄った。

 「この…ッ!」

 俺は思い切り、目と鼻の先まで近づいた沙耶に向かって、自らのナイフで切りかかる。

 あまりに近づいていたため、なんとか俺のナイフが沙耶の胸元の前を一閃するが、沙耶自身にダメージを与えることはなかった。沙耶は一旦後退する。そして俺は無様にも、勢い余って尻もちをついてしまった。

 「ぐあ…ッ!」

 尻もちをついた俺に、沙耶は容赦なく止めを刺そうとナイフを振り上げる。

 もう、逃げられない…ッ!

 「しま…ッ?!」

 俺は覚悟して、思わず腕で顔の前を庇う。

 そして俺の目の前から、沙耶がナイフを振り下ろし、俺に切りかからんと――――

 

 バサッ。

 

 「……へ?」

 何かが剥けたような音。そして、ピタリと止まる沙耶。

 俺はおそるおそる庇った腕を解き、目を開けた。そして、目の前の視界いっぱいには、沙耶の豊満な胸元が飛び出して―――

 

 ……胸元?

 

 「―――ッッ!!?」

 俺と沙耶は、それぞれ驚愕と困惑の表情を浮かべ、硬直する。

 沙耶の制服の胸元辺りが、ぺろんと服の生地だけが破れていたのだ。

 おかげで、沙耶の健康そうな胸の谷間が露になる。

 俺のたった一回の一撃が、沙耶の胸元を切り裂いてしまったのだ(服の生地だけ)

 沙耶は露になった胸の谷間を、俺の目の前に見せつけながら、ふるふると震えていた。

 「さ、沙耶……?」

 俺はおっかなびっくりのまま、ゆっくりと沙耶の顔を見上げる。俺が見た沙耶の表情は、羞恥と悲しみに満ちた表情だった。

 トマトのように真っ赤に染まり、瞳には涙を潤ませ、ぷるぷると震えている。

 そして、ギロリと睨む涙目には、驚きと動揺を隠せない俺の情けない表情が映し出される。

 

 「嫌ァァァァァ――――――――ッッッ!!!」

 

 次の瞬間、沙耶の足が俺の顔面にクリーンヒット。

 俺の意識は、足を蹴り上げながら胸元を隠す沙耶と、微かに見えたピンク色という光景を最後に、闇の底へと沈んでいった。



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EPISODE.09 Girls Dead Monster

 暗闇の中、俺は声を聞いた。

 いや、声とか耳で聞くとは少し違うような。だけど、確かに誰かが俺を呼んでいた気がする。

 それも、とても悲しそうな感じだ。

 そして、それは俺の中にも近いものがあった。

 俺だって同じ気持ちだよ、むしろ俺が……と言いたくなるような、そんな感じ。

 よくわからない。

 暗闇の中、俺はその声を聴き続け、そして俺も闇の中をもがいていたんだ。

 

 ただ、唯一はっきりとわかるのは。

 

 消えていこうとする、温もり―――

 

 

 「……ッ!」

 ハッと、目を覚ます俺。目を開けると、真っ白な天井が視界に入る。そして鼻には、薬や医療具と言った病院独特の匂い。ここが保健室であり、そして俺はまたこの保健室で目を覚ましたことをこれで二度目だと気付くことになった。

 「お目覚め?」

 ただ前とは唯一違ったことは、ここにいるのが俺一人ではなく、今回はもう一人がそばにいたことだった。

 「沙耶……」

 「どうやら、全然大丈夫みたいね。 ま、あたしのパートナーである以上、簡単に死なれては困るけど。 ……死なないけど」

 「俺、どうして……あ…」

 俺は思い出す。あの最後の光景を。

 突然、俺の目の前で沙耶の胸元が露になり、俺は見事に沙耶の蹴りを顔面に浴びてダウンした。意識を失う直前、何かピンク色のようなものが見えたが、あれは―――

 「……見た?」

 「へ……?」

 俺が顔を上げると、沙耶がジトッとした視線で俺を見詰めている。

 「何を……」

 「色々……」

 「……………」

 思い出す、沙耶の揺れた胸元。そして気絶する最後の瞬間に見えた、ピンク色。

 俺は声に出さず、ただ思い出しただけだったのだが、沙耶はまるでそれを言われたかのように顔を真っ赤にして、いきなり叫び出した。

 「ふんが―――――――――ッッ!!!」

 「ッ!?」

 「見たんでしょッ!? あたし見られちゃったんでしょッ!? 乙女の秘密の場所をッ!! それはもう上と下、両方の乙女の箇所をその目でバッチリと激写しちゃったんでしょッ!!?」

 「ば、馬鹿…ッ! 何を大声で……!!」

 「あは…ッ! 滑稽よねッ! まさかこんなエロハプニングにやられるなんて、なんて間抜けなのかしらッ! とんだ恥晒しだわッ! パートナーとは言え、男の人に自分の大切な所を見られるなんて…ッ! あたし処女なのよ? 責任取れるのッ!?」

 「そんな爆弾発言しなくていいから落ち着けッ!」

 「あは……は……」

 そして頭から煙を出したかのように、沙耶はガクリと項垂れてしまった。

 というか、責任ってなんだよ…ッ!

 「と、ところで……沙耶。 お前、怪我とかしてないのか?」

 「はぁ…?」

 「いや、ほら。 その……俺のナイフが沙耶の……胸元を切っちゃったわけだから……もしかしたら沙耶の身体まで届いていないのかなって……」

 「その点は心配無いわ。 見事に、綺麗さっぱり服の部分だけ切れてたから。 どんだけ器用なエロハプニングなのよ、くそ…ッ」

 「……悪かったって」

 「あーもうッ! 本当、最悪ッ!」

 俺はふと、自分が保健室のベッドに寝ていたことについて、あることに気付く。

 「そういえば……もしかして沙耶が俺をここまで運んできてくれたのか?」

 「あたし一人でも音無くんなら運べそうかなって最初は頑張ったんだけど、遠い保健室まで運ぶにはあたし一人の力じゃ無理だったわ。 だからあの大きい身体の人に頼んで、ここまで音無くんを運ぶのに手伝ってもらったの」

 「ああ、松下五段か……後で礼、言っとかなきゃな……」

 「あたしに対しては?」

 「も、勿論沙耶にもだ。 むしろ、お詫びとお礼、両方だな……」

 「当然よ。 むしろ女の子の大切な所を見た音無くんには、どんなに償おうとしても償いきれない重い罪を背負ってることになるわよ」

 「う……」

 はぁ…と、沙耶は溜息を吐き、椅子から立ち上がった。

 「さ、行くわよ」

 

 

 ということで、俺は沙耶の胸と下着を見た罰として、とりあえず自動販売機にあるジュースを奢ることになり、俺と沙耶は途中の学習練B練の廊下を歩いていた。

 「知ってる? 最近、あそこの自販機にどろり濃厚ピーチ味が入ったらしいわよ」

 「なんだそりゃ……想像するだけで喉に引っ掛かるような飲みにくさだな」

 「面白そうじゃないのよ」

 「で、それを飲むのか?」

 「まずは音無くんで試してみましょ」

 「おい」

 「あら…?」

 ふと何かに目を止め、立ち止まる沙耶。そこは、学校の委員会や行事関係のポスターが貼ってあるような掲示板だった。

 そしてその掲示板には、同じ絵のポスターが何枚も貼られている。その貼られているポスターの後を辿ってみると、その小さな背をいっぱいに伸ばし、出来るだけ上の方に貼り付けようとしている一人の女の子を見つけた。

 その女の子は俺たちと同じSSSの制服を着ており、見た目からして年下っぽい。

 俺と沙耶は、彼女が繰り返すように掲示板に貼っているポスターを見詰める。

 

 ―――Girls Dead Monster

 

 これが例の陽動ライブか。

 それにしても手の込んだポスターだ。まるで本物の人気バンドのライブだ。

 「実際その通りなわけですよッ!」

 気がつくと、俺たちのそばにいつの間にか、今までポスターを貼っていた女の子がいた。

 「岩沢さんをボーカルとして中心に活動するガールズ・デッド・モンスター。 通称ガルデモは校内でも大勢の生徒たちの人気を勝ち取っている正真正銘の大人気バンド! 派手な陽動と言いますが、とても素晴らしいライブを披露してくれるんです!」

 とても誇らしそうに、彼女は説明する。

 楽しそうに語る彼女が説明を盛り上げるたびに、スカートから生えた小悪魔のような尾がぴょこぴょこと揺れ、彼女自身も元気いっぱいでよく動いていた。

 「へぇ……何だか凄いわね…」

 沙耶は彼女の説明を聞きながら、掲示板に貼られているポスターを感心するような瞳で見詰めている。

 「ここに体育館占拠ってあるけど、大丈夫なの?」

 「そりゃヤバイッすよ。 前代未聞ですよ。 それもゲリラライブではなく、告知ライブですしね。 先生たちは放っとかないし、どんな邪魔が入るかわからないですよ~」

 女の子は一枚のポスターを手にする。

 そして、期待を入れ混じるような表情でポスターを見詰めながら、続けた。

 「でも今回の作戦はそうしてでも人を集める必要があると聞きました」

 「ふぅん……ガールズ・デッド・モンスター……ねぇ」

 女の子から手渡されたポスターを、目を細めて見詰める沙耶。

 「ところで音無くん」

 「なんだ?」

 「……こういうバンドとか、ライブって、どういうものなのかしら?」

 「は……?」

 俺は思わず間抜けな声をあげてしまったが、沙耶はポスターに視線を戻しつつ、口を開いた。

 「あたし、こういうのってよく知らないのよ。 歌って言っても、民謡から子守唄までしか知らないから」

 

 ……そうか、沙耶は生前、普通に学校に行ったり、テレビを見たり、そういう普通らしいこと自体余り経験したことがないわけで、そんな平穏の日常でさえ、沙耶の人生には少なすぎるものだったんだ。

 

 だから、バンドとか、青春を謳歌するような年頃から好きになるようなものを知らないまま、この世界に来たんだ。

 

 「……最初の頃の私と似てますね」

 「え?」

 そんなことを言ったのは、その女の子だった。

 女の子は沙耶を優しげな表情で見詰めていた。

 「私の場合は知らないってわけではなかったんですけどね。 テレビで知っていた程度。 でも、実際はどんな感じなのかとか、そういう所は、私もこの世界に来た当時は全然わかっていなかったんですよね~。 ただの憧れだったってことです。 今でも、大して変わりませんが」

 一瞬、まだ俺たちより年下っぽいのに、そんな表情も出せるんだな…という感想を抱いてしまった。

 彼女の人生にも、それなりのものがあったのだろう。

 「でも私は今でもすっごく満足です! まだまだ陽動班の下っ端ですが、ガルデモのお手伝いができるんですよッ!? あの女の子だけでのとてつもない演奏力、そしてなんと言ってもボーカル兼ギターの岩沢さんの存在感ッ! 作詞作曲までしちゃうんですッ! 私のお気に入りはCrow song! サビとか歌詞の所もそこがまた―――」

 その意味ありげな表情から、徐々にテンションを上げて別格に目をキラキラさせ始めた彼女の語りは留まることを知れない。

 「それとですねッ! 盛り上がるのはやっぱりAlchemyですよ、Alchemy! それがですね―――って、まだ説明終わってないですよぉッ!!」

 立ち去ろうとした俺と沙耶の腕に飛びついて引っ張る女の子。

 まともに耳を貸していたら、長くなりそうだったのでこっそりと立ち去ろうとしたのだが……

 「そういえば、あなた。 名前は?」

 「ほえ?」

 引きはがそうと、ぐいぐいと彼女の頬に手を押し込んでいた俺の横で、沙耶は彼女に名前を問い始めた。

 俺が手を離すと、彼女も俺たちの腕から離れ、ぴっと敬礼するような仕草を取ってキラッとするような笑顔を向けた。

 「私、ユイって言います!」

 「ユイ……ユイちゃんね。 ありがと」

 「いえいえ、そういえば貴方達は噂のお二人さんですね? お二人とも、記憶が無いっていう……」

 「俺の場合はほとんど忘れちまっているが、沙耶は俺ほど忘れてはいないよ」

 「一応、生前の記憶はあるからね。 ちょっと欠けている部分があるだけ」

 「そうですか、それは失礼しました! お二人さん、とても仲が良いとお聞きしましたッ! もしかして、コレですかッ!?」

 「へ…っ? あ、いや…! ち、違うわよ。 あたしたちは……」

 「ちげーよ。 俺たちはそういう関係じゃないよ。 なんていうか、俺が勝手に引っ張られている感じだ」

 「おお、彼女さんやりますねッ! 彼氏さんはお尻に敷かれているということですね」

 「人聞きの悪いことを言うな。 だから違うって。 まぁ、共に闘うパートナー同士とでも言っとけ」

 「そうなんですか~。 実はですね、こ~んなオノを持った先輩が、そういうことを言っていたもので……男の方は災厄を齎すが、女に尻を敷かれる程度の低い奴だとかなんとか」

 「あの野郎……」

 「おっと、私はそろそろ行かなくてはいけないのでここで失礼します! 私はまだガルデモをお手伝いするためのお仕事が残っていますのでッ! それではお二人とも、お幸せに~」

 そう言い残し、ユイは素早い動きでその場からポスターを抱えて立ち去ってしまった。更にどこかにポスターを貼りに行ったのだろうか。

 「だから違うって言うのに……まったく。 おい、沙耶。 行くぞ……って、何で不機嫌そうな顔してるんだ?」

 「……別に」

 俺が振り返ると、何故か沙耶はムスッとした表情で立っていた。

 どう見ても、不機嫌そうな顔をしているのだが、沙耶は俺を置いてスタスタと行ってしまう。

 「なんなんだ……?」

 俺は早足で行ってしまう沙耶を見失わないように、急いで後を追うことにした。

 沙耶が何故不機嫌になったのかは俺にはよくわからなかった。

 

 

 「なんだ、ユイ。 お前、まだポスター貼ってたのか」

 せっせとポスターを貼り続けていく私に、聞き慣れた彼の声が届く。

 振り返ると、案の定、ポケットに手を突っ込んで立っている一人の先輩がそこにいた。

 「これはこれは日向先輩じゃないですか。 あっ、もしかして手伝いに来てくれたとか?」

 「ちげーよ。 ていうか、お前。 ポスター貼りすぎじゃね? どこに行ってもガルデモのポスターばかりで、ガルデモの文字が見られない廊下がないぐらいだぞ」

 「それでイイんですよ。 それなら、きっと多くの人がポスターを見てくれて、ライブに集まってくれるじゃないですか」

 「まぁ、確かにな……」

 私は陽動班の下っ端。だけど、ガルデモのお手伝いが出来る。私に出来ることはこれぐらいだから、大好きなガルデモのためにも、私は私の出来る範囲で精一杯頑張るだけなんだから。

 「……頑張ってんな、お前」

 「へ? 何か言いましたか、先輩」

 「なんでもねーよ」

 何かを言ったような先輩に私は思わず聞き逃してしまい、問い返したが、何故か先輩はご自分の頭をくしゃくしゃと掻くと、私の所まで歩み寄ってきた。

 「今度はどこに貼りに行くんだよ」

 「え?」

 私の目の前に立った先輩が、視線を合わせようとしないで、口を開く。

 「今度は隣の練の所までいっぱい貼ろうと考えているんですが、もしかして先輩……」

 「……ま、仕方ねえ。 しょうがないから俺が手伝ってやんよ」

 「本当ですかッ!?」

 先輩のありがたい下僕宣言……おっと、お手伝い宣言に、私はぱぁっと表情を更に明るくさせる。

 「俺は寛大だからな。 ありがたく思えよ」

 「それじゃあありがたく先輩をコキ使ってあげますねッ!」

 「おいこら」

 「うひゃッ!?」

 ガシッと、私の頭を先輩の手が掴む。

 イダダダダ、凄い力ですぅ…ッ!

 「人が手伝ってやるって言うのにその口の利き方はなんだぁ? しかも俺、これでも先輩だぞッ!」

 「うぎぎぎぎ、ご、ごめんなさいですぅ…ッ!」

 やっと解放される私の頭。

 うう、寛大じゃなかったの……? 先輩のうそつきぃ……

 「あ、頭が割れるかと思いました……」

 「で。 ポスターはどこだよ」

 「あ、はい……じゃあ、先輩、これ全部持ってくれますか?」

 「なッ!?」

 私は廊下の隅に置いていた、大量のポスターがぎっしりと入った大きな段ボール箱を指さす。その大きな段ボール箱を見て、日向先輩は口端を引きつらせた。

 「お前……これ持って、今まで学校中にポスターを貼りまわしてたのか……」

 「はいッ! やっぱり大勢の人に来てもらいたいですからね。 そのためにはいっぱいポスターを貼らなくちゃッ! あとこれだけなんで、日向先輩、お願いします」

 「……じょ、上等だ。 俺だって男だ。 舐めるなぁッ!」

 威勢良く、日向先輩は腕まくりをして準備万端をアピールすると、そのポスターがぎっしりと入った段ボール箱を抱え上げた。

 「く…ッ! よ、よし。 ユイ、次の場所に行くぞッ!」

 「はい先輩ッ! よろしくお願いしまっす!」

 大量のポスターが入った段ボール箱を持った日向先輩と並んで、私はポスターを貼る次の場所へと向かう。

 まぁ、ここでぶっちゃけると……

 

 これは余分に余った分だったものなんだけどね☆

 

 先輩が手伝ってくれるんだったら、もう少し頑張ろうかな。

 そうして、私は日向先輩と一緒に、体育館開催を宣言したガルデモのライブ告知ポスターを、本当に学校中至る所に貼り巡らせたのだった。



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EPISODE.10 Music

 ガルデモのポスターを貼っているユイと別れた後、あたしは音無くんの奢りでKeyコーヒーを手に入れた。ちなみに音無くんには最近導入されたと噂されていた濃厚ピーチ味を選んであげた。

 「ぐお……なんという独特な飲み心地…ッ! だけど口内に広がるピーチの潤しさと甘さが、どろりとした触感に絶妙なマッチを与えていて、何とも……」

 「へぇ、そんなに美味しいの?」

 「お前も飲むか?」

 「遠慮しとくわ。 あたしはこのコーヒーで十分……あら?」

 「どうした?」

 遠くから聴こえてきた音楽に、あたしは自然と足が止まった。

 「音楽……?」

 音無くんも気付いたみたいで、あたしと同じように遠くから聴こえてくる音楽に耳を澄ます。聴こえてくるのは、勇ましくもどこか優しい音楽であった。そして誰かが歌っているようにも聴こえる。

 「軽音楽かな……」

 「行ってみましょ」

 あたしはその音源が気になって、音無くんと共に音楽の聴こえる方へと歩を進めた。

 

 ―――学習練A練 空き教室

 音源はこの空き教室のようだった。覗いてみると、四人の女生徒が各々の楽器らしきものを持って、音楽を奏でていた。彼女たちが着ている制服から、全員がSSSの一員であることがわかった。

 「ねえ、彼女たちが持ってるあれ。なんていう楽器なの?」

 「ギターやベース、ドラムだな……あれがユイが言っていたガルデモっていうバンドだと思うぞ」

 「へぇ……」

 音無くんが教えてくれた、ギターとベース、ドラム。それぞれに役割分担があって、それらが一緒に奏でることによって、一つの音楽を形成するらしい。そして真ん中で歌っているのが、ボーカルという役目。バンドの中では主役と言っても良いそうだ。

 「それにしても、凄いな……」

 音無くんの感嘆に漏れた言葉には、あたしも同意する。楽器の名前すらまともに知らない、そんな無知なあたしが聴いても、彼女たちの音楽は、何かを訴える力があるとすぐに感じられるほどだった。

 彼女たちはそれぞれの楽器から一息つく。その中の一人、真ん中にいた赤い髪の少女があたしたちに気付いた。

 「おや、噂の新人コンビじゃないか。 どうしたんだい、こんな所に」

 彼女の親しみに近い言葉に、他の三人もあたしたちの存在に気付き、一斉に視線を向ける。

 「悪いな。 演奏を止める気はなかったんだが……思わず、聴き入っちまった」

 「いいよ。 丁度、私たちも休憩しようとしていた所だった」

 「……………」

 音無くんとボーカルとギター、両方を兼ね揃えていた彼女が言葉を交わす隣で、あたしは未だに呆然としていた。

 「そちらの方も、私たちの音楽に聴き入ってくれたみたいだね」

 彼女の声に、あたしはハッと我に返る。

 思わずぼうっとしてしまった自分を恥じながら、あたしは彼女との会話の輪に自分も加わることにした。

 「あたし、こういうの初めて聴いたから……思わず、固まっちゃった……」

 恥ずかしげにあたしがそう言うと、何故かあたし以外の全員がきょとんとした表情になる。

 そして次の瞬間、彼女が笑いだすと、後のバンドメンバーも可笑しそうに笑いだし、挙句の果てには音無くんにまで吹かれてしまった。

 「あははは。 そうか、私たちの音楽に固まっちゃったか……そういうことを言ってくれた人は、あなたが初めてだよ」

 「え、えっ、え……?」

 ますます、あたしは恥ずかしくなる。

 何で笑われているのかわからない。

 「なんで音無くんまで笑ってるのよッ!」

 「はは…ッ。 悪い悪い」

 「む~~~~~ッッ!!」

 あたしが顔を真っ赤にして下唇を噛み締めていると、あたしのもとに、彼女が歩み寄って手を差し伸ばしてきた。

 「私は岩沢。 このガルデモのボーカル兼ギターを務めている。 よろしく、新人コンビ」

 「あ、あたしは沙耶。 こちらこそ、よろしく…ッ」

 あたしは慌てて、岩沢さんの手を握り返し、握手する。

 あたしの手を握って、岩沢さんはニコリと微笑んだ。

 「あなたの手は、不思議と暖かいね」

 「え……?」

 「優しい暖かさだ」

 そう言い残すと、岩沢さんはあたしから手をゆっくりと離した。そして今度は、あたしの隣にいる音無くんの方に向かった。

 「俺は音無。 よろしくな」

 「話は聞いてる。 あんた、記憶が無いんだってね」

 「……まぁな」

 「そう。 そりゃ、幸せだ」

 「……………」

 一瞬、ふとした表情を見せた音無くんだったけど、岩沢さんと握手することによって、微笑を浮かべた。

 「よろしく」

 「ああ」

 「それじゃあ、今度は私たちバンドメンバーを紹介しようか」

 そう言って、岩沢さんは三人の方に手を広げてみせた。

 「リードギターのひさ子。 ベースの関根、そしてドラムの入江だ」

 岩沢さんが簡単にメンバーを紹介すると、紹介された彼女たちは各々であたしたちに会釈をしてくれた。

 「よろしくっ、新人ども」

 ギターを肩にかけたポニテの少女、ひさ子さんがニカッと笑って手を上げる。なんだか気が強そうで、頼もしい雰囲気がある。あと、胸が大きい。

 「まぁ、お互い気楽にいこうよ」

 ベースの関根さんが、ニコニコと首を傾げて親しみやすく言ってくれる。見た目、元気がありそうな娘だが、実際その通りみたいだった。

 「よろしくね」

 ドラムの入江さんが儚げに、ニコリと微笑む。さっきまで勇ましくドラムを叩いていた時とはまるで別人のような儚さだった。

 「とまぁ、こんな感じだよ。 私たちガールズ・デッド・モンスターをよろしく」

 「ああ、勿論」

 四人の女の子が結成するバンド組織。それが、Girls Dead Monster。略してガルデモ。そのガルデモの存在意義、そして陽動と同時に好きな音楽にひたむきに取り組む彼女たちの気持ちに、あたしは理解しようとした。

 「それにしてもさっきの歌、凄く良かったわ…! 岩沢さん、本当に凄い」

 「お前、さっきから凄い、凄いしか言ってないだろ」

 「だって本当に凄かったのよ? 一般生徒が熱中するのもわかる気がするわ」

 「まぁ、確かに……」

 「それはどうも」

 岩沢さんがニコリと笑ってくれる。

 そして他のメンバーも、顔を見合わせて嬉しそうに笑っていた。

 「しかし沙耶の言う通り、良い曲だったよ。 今度の陽動ライブが楽しみだ」

 「今回の作戦は、私たちにも大きく懸かってるからね。 精一杯、いつも通りにやらせてもらうよ」

 「ああ、期待してる」

 音無くんと岩沢さんが話している一方、あたしは他の三人の輪に入り、それぞれの楽器を触らせてもらうことにした。

 「わ、凄い張り具合……これで弾き続けて、指とか痛くならないの?」

 「最初は誰もが通る道さ。 そのうち指の皮膚が硬くなって、慣れて行くものなのさ」

 「へぇ~……ほぉ~……」

 あたしはひさ子さんのギターを触ってみる。時折、指で弾いては、その音と指にピンと来る感触に、興味がますます増す一方だった。

 「私のも見てみる?」

 今度は関根さんのベースを堪能させてもらう。素人目から見ると、さっき見せてもらったひさ子さんのギターと、今目の前にある関根さんのベースが、そっくりで変わらないように見えるが、違いは何なのだろうか。

 「ギターとベースの違いは、素人から見れば大して変わらないように見えるけど、実は結構違うものなんだ。 ベースはギターよりも低い音域をカバーするもので、そのために一般的にはギターよりもスケール……ああ、これは弦の長さっていう意味ね。 そのスケールが長くて、楽器は大きめ、長めのものが多いの。 ベースパートは現代音楽では音の厚みやコード感に大きく影響を及ぼす重要なパートで……」

 「ほらほら関根。 あんまり無遠慮に説明を連ねるもんだから、彼女、煙出しちゃってるよ」

 「ありゃ。 これは失敬」

 「……………」

 あたしには到底理解が及ばないものが、そこにはあるらしい。頭からプシュ~と知恵熱を放出していたあたしだったが、頭を振って我に返る。

 今度は入江さんのドラムに向かう。

 「こっちのドラムっていうのは、なんだかインパクトがあるわね」

 「そう、かな……まぁ、そうかもね……」

 「へぇ~……ほぉ~……」

 「……………」

 あたしが興味津々に、ドラムの至る所を見ていると、ドラムの前に座っていた入江さんはボソリと小さな声で呟いた。

 「……触って、みる?」

 「へ?」

 あたしはつい、顔を上げた。丁度、座っている入江さんと同じ高さで顔を合わせ、入江さんの顔をまじまじと見詰めてしまった。

 「ギターやベースとはまた違うけど、ドラムも面白いよ」

 「い、いいの…? あ、ありがとう……」

 ドラムを叩く棒のようなものを渡され、あたしはおそるおそる、それでドラムをちょんと叩いてみる。それだけでドラムが異様に揺れ、騒々しい音を奏でた。

 「わ、面白い……」

 あたしはつい楽しくなって、今度はもう少し強く叩いてみることにした。

 ジャァァァン、という、豪快な音が鳴り響く。

 ぱぁっと、あたしの顔が太陽のように明るくなった。

 「これ、楽し~!」

 身体の奥から沸いてくる高揚。それは何だか久しぶりな気がする感覚だった。そしてその感覚が嬉しくて、沸き立つ高揚に浮かれ、遂にあたしは調子に乗って、演奏するようなフリでドラムを叩いてみた。

 「あ、それは……」

 入江さんが何かを言いかけたが、その時のあたしは誰の声も届いてはいなかった。

 思い切り叩いてみると、棒がすっぽりとあたしの手から抜け出した。おまけに、叩かれたドラムは激しく揺れ、飛び出した棒を弾くと、あたしの顔面目掛けて、その棒が矢の如く突き出してきた。

 「きょげッ!?」

 ドラムに弾かれて戻ってきた棒があたしの顔面を思い切り叩いた。あたしはそのまま鼻血を噴き出しながら、後方へと倒れてしまった。

 一瞬、どよめきと微かな悲鳴があがる。

 「お、おい。 大丈夫かッ!?」

 「あはは、やるねぇ~」

 ひさ子さんが心配の声をあげて駆け寄り、その後ろでは関根さんが可笑しそうに笑っていた。そして一部始終を目の前で目撃した入江さんは、驚きを隠せない様子で倒れたあたしを呆然と見下ろしていた。

 そんな小さな騒動が、ガルデモの休憩時間を更に潰すと同時に長引かせてしまっていた。

 

 「何をやってるんだ、お前は……」

 「反省しております……」

 鼻にティッシュを詰めた情けないあたしは、音無くんの前で正座する。

 音無くんは怒りを通り越して、呆れて物が言えない様子だった。

 今回ばかりは、浮かれていたあたしに非があると思った。

 でも……

 「つい、浮かれちゃったわね……」

 「……まぁ、な」

 「……本当、ごめんなさい……」

 「……………」

 生徒が学校で、友達で集まってバンドをする。

 それは青春の一ページでもあった。

 しかしあたしはそれも知らない。つい、そんなかけがえのない青春の端を見つけてしまって、浮かれてしまった自分がいた。

 でもそれがただのあたし一人の事で、音無くんや岩沢さんたちには関係ない。あたしが勝手に一人で浮かれてしまったことが、原因なのだから。

 「私も……」

 ふと、誰かが口を開いた。

 それは、机に寄りかかり、水を飲んでいた岩沢さんだった。

 「私も、初めて音楽を知った頃は、似たような感じだったよ。 だから、あまり気にすることはない」

 「岩沢さん……」

 「音楽は、自分を虜にしてしまうからね……」

 儚げな表情を微かに浮かべ、岩沢さんはフッと微笑むと、水をくいっと喉の奥に流し込んだ。

 「私は好きな歌を歌えなかった。 だから、ただそれだけの理由でここにいる」

 ここの世界に来る者は、皆何かしらの生前の事情があったから。

 岩沢さんの人生にも、きっと音楽に絡んだ何かがあった。

 いくら馬鹿なあたしでも、それくらいはわかる。だが、人の過去を詮索することは賢明な判断ではない。彼女自身が語らぬ限り、自分はその人の過去を知る権利はない。

 「(岩沢さんの人生にも、それなりの過去があったんだ……)」

 岩沢さんは好きな音楽を歌い続けている。

 そしてこの世界に居続けている。

 

 ―――あたしは本当に神がいるのなら、立ち向かいたいだけよ。だって理不尽すぎるじゃない。悔しすぎるじゃない―――

 

 あのギルド降下作戦の時、ギルドを目前にしてあたしたち三人になった時、ゆりっぺさんが明かした、ゆりっぺさんの過去。

 あの時に聞かされたゆりっぺさんの生前の酷い記憶が、この世界で反逆を続ける行動原理になっている。そしてあたしは改めて明確に知ったんだ。皆が皆、それぞれの記憶を持って、神に抗っているんだということを。

 「ご、ごめんなさい……本当に……」

 「もういいって。 な、みんな」

 「そうそう。そんなに気に病まなくてもいいよ」

 「失敗は誰にでもあるものだしね~」

 「……関根さんの場合は、失敗のし過ぎでその上反省がないけどね」

 「みんな……」

 こんなあたしに、四人とも優しい笑顔を向けてくれる。

 何だか、とても暖かい。

 「沙耶も、そろそろいいだろ? ほら、立てよ」

 音無くんは微笑を浮かべ、肩をすくめる。そして正座するあたしに手を差し伸べ、掴んだあたしを手で引いて立ち上がらせてくれた。

 これ以上、ここに長居するのも迷惑だと思い、あたしは音無くんと一緒にここをあとにすることにした。岩沢さんたちにお礼とお詫びを言いつつ、その場をあとにする。

 「また聴きに来てくれ」

 教室から出ようとしたあたしたちに、岩沢さんが言葉を投げかける。

 そして思わず、次の言葉を聞いて、あたしは涙腺が緩みそうになってしまった。

 

 「私たちは、いつでも歓迎するぜ」

 

 



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EPISODE.11 Student government a pair

 学校中に貼られたガルデモのライブの告知ポスター。それは教師や生徒会の生徒たちをうんざりさせてしまうほど、それは目一杯貼り巡らされていた。誰もが処理すら面倒くさく思えてしまうポスターを、ただ一人、淡々と剥がしていく人物がいた。

 「それくらい見逃してやれよ、生徒会長ッ!」

 「そうよッ! 許してあげてッ!」

 「俺たちの楽しみなんだよッ!」

 「それを奪うなッ!」

 周囲から浴びせられる批判の言葉。しかし、彼女は無表情に、大量に貼らされたポスターを剥がしていく。

 批判を並べる一般生徒たちの目をさりげなく盗み、その場から立ち去る彼女はこの学校の生徒会長。

 教師さえ未だ手を出していなかったポスターを剥がす作業に一人先手を切るほど、真面目な少女。

 だが、真面目過ぎるからこそ、孤独であることもまた事実。

 人通りが少ない寂しい廊下を、一枚のポスターを手に持った彼女は、ぽつりと呟いた。

 「まるで悪役ね……」

 一つ、蚊ほどの小さな溜息をつく。

 そんな彼女の向かう先には、また大量に貼られたガルデモの告知ポスター。

 しかし、処理する方も大変だが、貼った方もよくここまで貼ったものだと、逆に感心してしまう。

 それほど、そのポスターの貼り様は異常だった。

 それでも、彼女は生徒を代表する一人の生徒会長として、やるべきことは淡々と行っていた。

 「……あ」

 小さく、彼女は声を漏らしながら立ち止まる。

 掲示板に貼られた告知ポスターは、既にその大半が剥がされていた。そして少しだけ丸くした彼女の瞳が見詰める先にいるのは、見慣れた副生徒会長であった。

 「おや、生徒会長。 お勤めご苦労様です」

 彼は彼女を見つけると、業務上の態度で言葉を投げた。

 「……直井君、なにしてるの?」

 彼女の呆けた質問に、彼はガクリと肩を傾ける。

 「……見てわからないのですか。 ご覧の通り、このふざけたポスターの数々を毟り取っている所ですよ」

 直井と呼ばれた副生徒会長は、呆れながら物を言いつつ、また一枚、ポスターを剥がしていった。

 「生徒会長が学校中に貼られたポスターを廻って剥がしていると伺いましてね。 生徒会長が動いているのに、副生徒会長の僕が動かなくてどうするのですか」

 「……………」

 「だからこれだけは決して勘違いしないでください。 別に、これはあなたのためにやっているわけではないので」

 直井は、少しだけ不機嫌そうに、淡々と言い放った。

 最後の一枚を剥がし終え、直井が振り返っても、彼女はジッと直井の方を見詰めていた。

 「……なんですか」

 さすがに、ジッと見詰められては、直井も気になって仕方がなかった。

 「なんでもない……」

 表情を変えず、ただ頭を小さく振っただけで、彼女はその白い髪を靡かせた。通り過ぎていく彼女の背中を見て、何なんだ…と思う直井だった。

 「なにしてるの? 次、行くわよ……」

 ここからは生徒会長と副生徒会長の共同作業ということらしい。

 まぁ、出会ってしまえばそういう流れになるのは自然なことだが。

 溜息を吐いた直井は、歩き始めた彼女の小さな背を追いかけた。

 「しかしふざけたポスターだ。 何が体育館での告知ライブだ。 奴らは低俗にも程がある」

 生徒を代表する二人、生徒会長と副生徒会長が並んで歩いている。

 小さい生徒会長の隣を、直井はポスターを見ては、ふんっと鼻を鳴らした。

 「こんなことをして、何の意味があるのか」

 「……………」

 そして、また次の目的地にたどり着く。

 普段は部活の勧誘や委員会活動、行事等のプリントが貼られる掲示板には、びっしりと埋め尽くすように、やはり例のポスターが貼られていた。そしてそのポスターが貼られた掲示板の前には、大勢の一般生徒が群がっていた。

 「……愚民どもが」

 群がる一般生徒たちを目にして、舌打ちした直井は彼女より先に、ツカツカと掲示板の前に早足で向かう。

 「生徒会だ。 一般生徒諸君は今すぐここから立ち去れ」

 掲示板の前に集った群衆を掻き分け、直井は掲示板の前に踏み出した。

 そして真っ先に、ポスターを剥がし始めた直井に、ブーイングの嵐が巻き起こる。

 しかし生徒たちの批判も物ともせず、直井はまるで自分以外の存在を認めていないように、黙々とポスターを剥がしていた。

 あまりの群衆に、彼女は入り込む隙間がなかったが、中の様子が気になっていたのは確かだった。

 「ガルデモのライブは俺たちの唯一の楽しみなんだぞッ!」

 「生徒を代表するくせに、俺たち生徒の癒しを奪うのかッ!」

 「私たち生徒からのお願いよッ! 見逃してあげて!」

 度重なる一般生徒の批判。だが、どれだけの批判を浴びようが、直井は表情一つ変えず、ポスターを次々と剥がしていった。

 まるで本当に、自分以外の人間がここにいないかのように、周りの批判に耳を貸さなかった。

 どれだけ批判を浴びせても、反応一つ返さず淡々とポスターを剥がしていく姿は、やがて生徒たちをエスカレートさせた。中には、過激な行動に出る生徒も少なからずいたのだ。

 「おい、無視するなッ!」

 また一枚、ポスターに手を伸ばした直井の肩を、一般生徒の一人が掴んだ。

 その瞬間、振り返った直井の瞳が、肩を掴んだ一般生徒の目を貫いた。

 「ひ…ッ!?」

 まるで、真紅の光が宿っているような、不気味な瞳だった。

 「僕に触るな」

 そして恐ろしいほどに下がった声色に、肩を掴んだ一般生徒はその表情に恐怖の色を浮かべ、後ずさるしかなかった。

 「ふん」

 直井は鼻を鳴らすと、また作業を再開した。

 だが、それだけでは終わらなかった。

 「この野郎ッ!」

 大きな身体をした一人の一般生徒が、強引に直井に押し掛けてきた。一般生徒の手が直井の胸倉を掴み、強引に引っ張った。その一般生徒は体格的にも直井より一回り大きく、勝負となれば直井の方が不利であった。

 「……………」

 直井は仕方ない、と言わんばかりに目を閉じて溜息を吐く。

 胸倉を強引に掴む一般生徒を前に、直井はゆっくりと目を開いた。その瞳には、不気味に真紅の光がゆらゆらと煌めいていて――――

 「……やめなさい」

 「―――?!」

 ふっと、直井の瞳から真紅の光が失せる。

 何故なら、直井の視線は目の前の一般生徒でなく、その背後にいる彼女に向けられたからだった。

 人ごみを掻き分け、やっとの思いで辿り着いた彼女は、ふぅ…と一息つくようにしながら、袖を払っていた。

 「校内での暴力は校則違反よ……」

 「生徒会長……」

 「それ以上続けるのなら、こちらとしても厳正な処罰を検討しなければいけないわ……だから、もうやめなさい……」

 低く、しかし冷静に通った彼女の声が、はっきりと静まった空気の中に通り過ぎていく。やがて、直井の胸倉を掴んでいた一般生徒は言われた通りに手を離し、逃げるように人ごみの中へと消えていった。

 それを発端に、他の一般生徒もぞろぞろとその場をあとにする。

 「……ふん、NPCの分際で僕に楯突くとは」

 「……直井君、大丈夫?」

 「これくらい心配ありませんよ。 まったく、ネクタイがよれよれだ……」

 あれだけ強引に引っ張られては、ネクタイが崩れるのも仕方がなかった。

 「待って……」

 「?」

 ネクタイのことを言った直後、突然、目の前の生徒会長が小さくもはっきりと通る声で、直井の動きを、一瞬でも止めた。それだけで、事は足りた。

 踵を上げ、背を伸ばした生徒会長は、直井の崩れたネクタイにそっと手を触れることができた。

 「―――ッ!?」

 必死に背を伸ばし、彼女は表情一つ変えず、黙々と直井の崩れたネクタイをなおしていた。

 「……なッ!」

 「あ……」

 驚いたように後方に離れた直井。一人残された彼女は、手を虚空に残したまま、直井の方を見詰めていた。

 「……ぼ、僕に触るな! 子供じゃあるまいし、これくらい自分で……」

 と言いながら首元に手を伸ばすが、既にネクタイは綺麗に結ばれていた。

 「……馬鹿な」

 ガクリと項垂れる直井。

 何故、直井が項垂れているのか、彼女は理解が出来ず首を傾げる。

 「?」

 「……まったく、僕が神になった時は容赦しないぞ(ボソッ)」

 「何か言った……?」

 「なんでもない……」

 帽子を深く被り、表情を見せないように、直井はさっさと背を向けてしまう。

 「勝手なことを……」

 「直井君」

 「なんですか、生徒会……」

 「……無事で良かった」

 「うぐッ!」

 直井は危うく彼女の方に振り返りそうになったが、直前で踏みとどまった。

 駄目だ、こんな顔を奴に見せてはいけない。奴は、天使……いずれ、僕の排除すべき敵になるのだから。

 だけど、そんな優しい言葉を投げられると、何故か胸が痛くなる。

 「やめろ。僕に優しくするな……」

 「?」

 「~~~~ッッ」

 「あ……」

 直井は彼女を一人置いて、さっさとその場から早足で立ち去ってしまった。

 そこには、立ち尽くす彼女と、そして直井が落としていった一枚のガルデモのポスターがそこにあるだけだった。

 ポスターを拾い上げ、彼女は直井が立ち去った方に視線を上げる。

 「……変な人」

 ただ、ポツリとそれだけを呟いた。

 表情は一つも変えずに。



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EPISODE.12 My Song

 ―――体育館。

 夜の満月が輝く下で、闇の中で同じく煌々と光を漏らす体育館には、何人もの生徒が集まっていた。その場に集まる生徒の手には、誰もが同じポスターを持っていた。いよいよ、ガルデモの告知した体育館占拠ライブ。すなわち、天使エリア侵入作戦による陽動ライブが始まるのだ。

 「遊佐、どれくらい集まってる?」

 リードギターを肩にかけたひさ子が、ステージの裏から会場を覗く遊佐に問いかける。

 「……少ない」

 「そうか……」

 少しだけ気を落としかけたひさ子だったが、すぐに岩沢をはじめとしたガルデモメンバーが、意気揚々と準備を終えた。

 「私らは精一杯やって、客を呼び寄せるしかないさ」

 岩沢はそれを言うと、生前から愛用していたギターを、そっと大切に扱うように、ステージの奥、真ん中へと置いた。

 「特等席だぜ」

 そっとギターに囁きかけ、微笑を浮かべる。

 そして立ち上がると、自分のポジションへと移動した。

 「さぁて」

 会場からは、待ちわびる生徒たちのざわめきが聞こえる。岩沢は周りでスタンバイする仲間たちに視線を配る。皆、準備OKと言わんばかりに、それぞれ頷き合う。

 「派手にやろうぜ」

 楽しそうに笑みを浮かべ、岩沢はギターを弾いた。それと同時に、ステージの垂れ幕が上がり、生徒の歓声が沸き上がると共に、彼女たちのライブが始まりを告げた。

 

 

 ―――女子寮。天使エリア前

 今となっては、陽動ライブのおかげで大体の生徒が不在の女子寮。その中を、ゆりをはじめとした戦線のメンバーが天使エリアを前に、慎重に事を進めていた。

 天使エリアと称された空間への侵入。周囲の安全を確保し、彼女らは遂に天使エリアの侵入を果たした。

 「天使エリアって……」

 暗闇の中、俺はパチンと壁にあるスイッチを押した。

 それと同時に、この空間―――ただの女子寮の一室が、光に満ち溢れる。

 ぱっと明るくなった部屋の中で、皆の顔が一斉に驚愕の色に染まり、俺の方を見る。

 「ただの女子寮の部屋じゃねえかッ!」

 「馬鹿ッ! 電気を消せッ!」

 日向が慌てて電気を消し、声をあげる俺を松下が後ろから捕まえる。俺は身動きが取れなくなったが、こればかりは言うのをやめるわけにはいかなかった。

 「ここ、あの天使の部屋だろッ!? こんなの、ただの犯罪行為じゃねえかッ!」

 「落ち着きなさい、音無くん。 あたしたちは天使の情報がどうしても必要なの」

 「だからって、勝手に人様の部屋に忍び込むなんて、コソ泥のすることだろッ!」

 「うるさいぞ、黙れッ!」

 野田が俺の首元にハルバートを突きつけてくる。

 ゆりは呆れるように溜息を吐くと、俺に説明を始めた。

 「いい、音無くん? 戦争に何よりも必要なのは、情報なのよ。 情報が無ければ、決して戦争には勝てない」

 そのゆりの後ろでは、パソコンの電源を付け、起動させる竹山の姿があった。

 「あたしたちがより効率的に天使と対抗できるために、こうして天使の部屋に侵入、情報を探すのよ。 天使を打破できるための情報をね」

 「言いたいことはわかるよ……だけど、こんなのって……」

 「黙れと言っている!」

 「もがッ!?」

 遂に、野田のハルバートが俺の口に突っ込まれる。

 「何なら、あなたは部屋中を好きに物色しても構わないわよ。 そこのタンスにきっと天使の下着類があると思うから、それでも漁ってくんかくんかでもしていれば?」

 「フフハハホッ!!(するかアホッ!!)」

 俺の抗議も空しく、ゆりたちは勝手に人のパソコンを起動させて、何かを始めやがった。

 どうすることもできない俺はただ、その光景を見ていることしかできなかった。

 「(くそ…ッ! 沙耶に訓練を受けていながら、なんてザマだ……)」

 いくら沙耶に戦闘用の訓練を受けようが、さすがに松下のようなデカブツに捕まって身動きが取れなければ、どうしようもなかった。

 「(沙耶……あいつはどうしているだろうな……)」

 珍しく、俺と沙耶は今回は別行動だった。当初は共に天使エリア侵入に参加する予定だったが、沙耶自身が、岩沢の援護につきたいと申し出たらしい。俺も付いていこうかと思ったが、沙耶は一人になることを望んだ。おそらく、前の岩沢たちへの自分の行いに、詫びる思いが未だにあるのだろう。

 「(まったく……あいつは……)」

 しかし沙耶が望むのなら、俺は否定することなどできるわけがなかった。

 俺は今は別行動を取っているパートナーに、密かに健闘を祈ることにした。

 

 体育館は一応の盛り上がりを見せていた。ガルデモによるライブが始まると、生徒たちの歓声と熱気が体育館中に立ちこめる。彼女たちの音楽が、場の空気を更に盛り上げた。

 あたしは陰に潜み、ひっそりとライブの模様を監視する。何か不審な動きがないか、彼女たちの護衛として、警戒は怠らない。

 そしてまた一つ、曲が歌い終わる。それでも生徒たちの歓声は収まる事を知れない。

 

 

 一つ曲を歌い終え、私は会場を見渡す。

 告知を見て私たちのライブのために集まってくれた生徒たちが、私たちの歌に歓声を上げ、盛り上がってくれている。

 しかし、まだまだ集まりが少ない。このライブは私たちガルデモの真剣ライブであると同時に、陽動ライブ。どちらにせよ、もっと人が集まってくれなくては、意味がない。

 また一つ、渾身の曲を歌い始める。私が弦を弾き、マイクに歌声を響かせると、生徒たちはしっかりと私たちの歌に付いてきてくれた。

 入口からは少しずつではあるが、人が集まってくる。

 そうだ、もっと来てくれ。

 もっと大勢で、私たちの、私の歌を聴いてくれ。

 もっともっと、盛り上がってくれ。

 

 いや。

 

 そうさせるのは誰でも無い。

 

 ―――私たちの力なんだ…ッ!

 

 

 ―――女子寮、天使エリア。

 ただ、パソコンの画面から灯る光だけが浮かぶ暗い部屋で、俺たちはじっとその作業を見守っていた。

 さすが凄腕のハッカーと言うだけはあるのか、他人のパソコンとは思えない手際の良さで、竹山は作業を進めている。それは、天使の私物と思われるパソコンの中身を解析する、俺たち素人には到底理解できないような作業だった。

 「竹山くん、どう?」

 竹山の後ろから、ゆりがパソコンの画面を覗きこみながら、竹山に問う。

 「順調です。 とりあえず現在はパスワードの解析を行っています。 これさえ開けば、後は自然の流れに従うだけのようなものでしょう。 それから、僕のことはクライストとお呼びください」

 「よし、いいわね竹山くん。 頼んだわよ」

 「ですから……」

 「ふん、少しは使えるようだな」

 野田がいつものように不機嫌そうに鼻を鳴らすが、竹山の実力は認めているようだった。

 その時、ゆりのインカムに通信が入ったようだ。

 「あたしだ」

 『天使、出現しました。 更に教師たちの姿も確認しました』

 「やばいわね……竹山くん?」

 「丁度、解析が終わりました」

 ぱっと表示が変わったパソコンの画面を、ゆりが身を乗り出すようにしながら見た。

 「でかしたわ竹山くんッ!」

 「当然です。 あと、僕のことはクライストと―――」

 「天使も出現したから、そんなに時間は残されていないわッ! ちゃっちゃと済ませましょうッ!」

 「……………」

 「それじゃ、竹山くん。 すべてのデータを移してちょうだい」

 「時間がかかりすぎます。 一時間は必要です。 あと、僕のことはクライストと―――」

 「ハードディスクごと引っこ抜くかッ!?」

 「それじゃあバレるじゃない」

 「じゃあ、どうするってんだよ」

 パソコンの前で、ゆりと日向が竹山を挟みながら揉めあっている。パスワードを解析して侵入できたものは良いものの、肝心なデータは、こっちの手元に渡ることに関しては難しいらしい。

 「もう何でもいいから、怪しいデータを今すぐ見せてちょうだい、竹山くんッ!」

 「クライストです…ッ!」

 竹山がゆりと日向に挟まれながら、苦し紛れにキーボードを指で叩きこむと、画面がまた別のものに変わった。

 液晶に淡く光る画面には、生徒たちの名簿がずらりと記載されていた。NPCだけでなく、俺たちの名前も含まれている。要するに、ただの名簿だ。怪しいデータなんてどこにもない。やっぱりこんなこと、やめるべき……

 「黙れッ!」

 言い終える前に、野田のハルバートを口の中にまた突っ込まれ、強引に黙らされる。

 いちいち強引な奴だ。

 『陽動班、取り押さえられました。 天使、戻ります』

 その時、陽動ライブの方から通信が入った。岩沢たちが捕まっちまったらしい。

 無線機から耳を離す間際、舌打ちするゆり。

 「ここまでね……」

 「今回も得るものなしか」

 日向も残念そうに溜息を吐く。

 ここまで侵入できたのに、結局肝心の情報とやらは一切手に入らず、今回の作戦は打ち上げになりそうだ。

 「退散するわよ」

 我らがリーダーが、あと一歩の所で撤退を悔しげに宣言した。

 

 一方、体育館では騒ぎになっていた。天使と共に現れた教師連中が抗議する一般生徒たちを抑え、ステージに上がった教師陣がガルデモのメンバーを取り押さえた。岩沢さんをはじめ、ひさ子さんたちや遊佐さんも、教師の手に捕まり身動きが取れない様子だった。

 「やめてあげてッ!」

 「俺たちの為なんだよッ! 離してやってくれよッ!」

 一般生徒たちからの度重なる抗議にも、教師たちは耳を貸さない。

 「今までは大目に見てやっただけだが、今回ばかりは見逃せん。 図に乗るなッ!」

 一般生徒の抗議を無視する教師たち。岩沢さんたちが捕まった状況下で、あいつらに対抗できる者は、そこには一人もいなかった。

 「楽器はすべて没収だ」

 言いながら、一人の強面の教師がステージ上を歩いていく。

 「学園祭でも無し、二度とこんな真似はさせんぞ」

 「…ッ!?」

 岩沢さんの前で、そいつはあるものを手に取った。

 それは、岩沢さんのギターだった。

 「ふん。 これは捨てても構わないな?」

 ステージの後ろ、真ん中に置かれていた岩沢さんのギターを手に、吐き捨てるように言い放つ教師。その直後、捕まった岩沢さんの口から、ポツリと何かが漏れ出した。

 「触るな……」

 それは、小さくもはっきりと通った、熱い吐息を漏らしたかのような思いの片鱗。

 

 「―――それに、触るなぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」

 

 岩沢さんの想いが、爆発した瞬間だった。

 

 

 教師の手を振りほどき、駆け出した岩沢さんは呆気にとられた教師に体当たりすると、力ずくでギターを取り戻すことに成功した。さらに、それに続いてひさ子さんも教師の手から逃げ、何処へと駆け出していく。そんなひさ子さんを追った教師がいたが、すぐに取り押さえられた遊佐さんのそばで間抜けにも転んでいた。

 教師からギターを取り戻すも、岩沢さんがステージの後方へと追い詰められていく。寄越せ、とゆっくりと近付く教師たちの手から、抱えるようにギターを守る岩沢さんの強固な想いは、決して揺らぐものではなかった。

 きっと、何がなんでも教師たちの手から、そのギターを命がけで守るだろう。そんな強い想いが、今の岩沢さんからひしひしと伝わっていた。

 教師のごつい手が、岩沢さんに忍び寄る。その手が岩沢さんに触れる直前―――

 

 

 あたしは、颯爽とステージへと飛び降りた。

 

 

 周囲から驚きの色が浮かんだ時、あたしは間髪いれず、目の前の教師たちに向かって冷静なる攻撃を仕掛けた。

 懐に忍び込み、その大柄な教師の腹に渾身の蹴りをお見舞いする。教師はその大柄な身体を崩し、後方へと倒れていった。

 その状況に驚き、そして怒りを露にした他の教師たちが襲いかかってきた時も、あたしは冷静さを崩さなかった。教師の飛び出した手を避け、流れるようにカウンターを打ち込む。あっという間に、それを繰り返すことによって、一人一人、片付けていった。

 「ふん、他愛もないわね」

 倒れて動かなくなった教師たちのそばで、あたしは手を払う。

 「あんた……」

 どうやら岩沢さんも驚きを隠せないらしい。むしろ、解放されたガルデモの皆が驚いた表情であたしを見ている。あたしはつい、ぷっと吹き出した。

 「あたしはこういう手に関してはお得意様なのよ。 歌は、あまり歌ったことはないのだけれど」

 あたしがニッと微笑んでみせると、ぽかんと呆けていた岩沢さんも、フッと微笑んでくれた。

 「ありがとう。 助かったよ」

 だが、教師は他にもいる。今まで一般生徒を抑えていた所から、少なからずの人数がステージ上に上がってきた。

 「まったく。 一人の女生徒……しかも大の大人が数人掛かりでいたいけな女の子相手に躍起になるなんてね。 こんな大人には、なりたくないものね」

 そう言いながら、あたしは岩沢さんの方に背を向け、向かってくる教師たちを迎撃する体勢をとった。

 「ここはあたしが抑えとくから、岩沢さんは歌いたかった歌を、歌って」

 「沙耶……」

 「聴かせてね」

 「……わかった」

 頷いた岩沢さんに、あたしも笑顔で頷き返す。

 そして直前まであたしに手を伸ばしかけた教師を前に、あたしは紙一重でそれを避けた。虚空に飛び込んだ教師の腕。あたしはその間抜けな教師の足を払うと、見事に大の大人をまた一人、華麗に地に伏せてみせた。

 そしてまた一人、向かってきた教師を前にあたしが次の迎撃の手を進めようとした所で―――

 

 岩沢さんの弾いたギターの音色が、体育館中に木霊した。

 

 「!」

 その瞬間、その場で動いていたもの全てが、止まった。

 そして全ての視線が、ギターを弾く岩沢さんに集中する。

 

 

 ―――苛立ちを何処にぶつけるか探してる間に終わる日

 

 ―――空は灰色をして その先は何も見えない

 

 ―――常識ぶってる奴が笑ってる 次はどんな嘘を言う?

 

 岩沢さんの歌声が、指の先まで溶け込み、染み込んでいくような歌声が、体育館に収まらず、学校中へと流れていく。

 

 

 ―――それで得られたもの 大事に飾っておけるの?

 

 

 それは、立ち去ろうとしていた天使をも、引き止めるものだった。

 

 

 ―――でも明日へと進まなきゃならない 

 

 それは、学園中へと響き渡る。

 いや、学園というよりは。

 まるで、世界に繋がっているかのような。

   

 ―――だからこう歌うよ

 

 

 それは、一瞬でも聴き惚れるほどのものだった。

 聴こえてきた岩沢の歌に、聴き入っていた俺たち。そしてゆりも、岩沢の歌に聴き入っていたが、ハッと我に返って、パソコンの方に再び身を乗り出した。

 「竹山くんッ!」

 「はいッ! クライストとお呼びください―――!」

 押されるキーボード。

 そして表示される、パソコンの画面。

 その画面には、Angel Playerという文字が刻まれていた。

 人間の図が描かれ、所々に英語が書かれている。その単語を読んでみると、どれも聞き覚えのある単語だった。それは、戦闘の時にいつも天使が口走っている、あの単語の数々だった。しかも、それ以外にも俺たちが知らないものまである。

 「Angel player?」

 それは、俺たちにとってとんでもない情報だった。

 俺たちが今までにない、前代未聞の大きな情報と言えるものを見つけた時も、BGMのように彼女の歌声が聴こえていた。

 

 

 ―――泣いてる君こそ孤独な君こそ

 

 それは、魂の叫び。

 

 ―――正しいよ人間らしいよ

 

 それは、想い。

 

 ―――落とした涙がこう言うよ

 

 その場に、最早動くものは誰もいない。誰もが、その歌に聴き入っている。

 

 歌を聴いて、涙を流す者もいる。

 

 ―――こんなにも美しい嘘じゃない本当の僕らをありがとう

 

 それは、“私の歌”

 

 

 そう、これが私の歌。

 私自身の歌であり、人生なんだ。

 こうして歌い続けていくことが、そうして過ごす人生が、私の生まれてきた意味なんだ。

 

 あの酷い家庭の中から、私が救われたように……

 

 こうして、誰かを救っていくんだ。

 

 

 やっと……

 

 

 

 ―――やっと、見つけた……

 

 

 

 

 最後に聞こえたのは、ギターがステージ上に落ちる音だった。

 

 ゴトン、と落ちたギターのそばに、彼女の姿はなかった。

 あたしの目の前で歌っていたはずの岩沢さんは、どこにもいなかった。

 「岩沢、さん……?」

 彼女を呼び掛けてみても、その呼びかけに応えてくれる者は、誰一人いなかった。

 

 

 

 

 岩沢さんが消えた翌日、あたしたちが知った、この世界の秘密は二つ。

 一つは、天使がAngel playerというコンピュータソフトを使って、自らの武器を生み出していたこと。それは、あたしたちがギルドで土から武器を作るように。

 そしてもう一つは、岩沢さんが消えた理由。あたしたちが考え、そしてその状況から分析して知ることができたことは、岩沢さんが納得して、この世界から成仏してしまったこと。ここは自分の人生に納得できない者が集う場所。そして、そんな者が集うこの世界で、自分の人生を納得してしまうと、この世界から消えてしまう、そんな世界の秘密。

 あの日の作戦で、あたしたちが得た戦果は―――

 

 天使の秘密と、おそらくそれに同等する世界の秘密。そしてそれと引き換えに失った、仲間の存在だった―――



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EPISODE.13 Ball Game Rally

 天使エリア侵入作戦から数日後。本当に特別な一日となった前回の作戦以来、戦線はこれといった表立った活動は行っていなかった。あの作戦で知り得た情報。天使の武器の秘密と言えるAngel playerというコンピュータソフト。そしてガルデモのボーカル的存在、岩沢の消滅。岩沢は自ら納得して、この世界から成仏してしまった。それは誰もが受け止めざるを得ない、事実だった。

 仲間を失うと同時に手に入れた、少し大きすぎた世界の秘密。その手に入れた情報の整理によって、戦線メンバーは大きく動けない事態を余儀なくされた。ゆりの命令により、別命あるまで各々で待機、ということだった。

 

 その間、俺はもはや日課となってしまった沙耶特製の訓練に暇を持て余していた。自分でも既に様になったほど、俺は訓練に慣れていた。普段なら、沙耶が次々と俺に厳しい訓練を強いてくるのだが、あの天使エリア侵入作戦以来、沙耶は最近元気がなかった。

 おかげで、俺一人で訓練するというのも珍しくなくなった。

 俺一人なのだから、別にしなくても良いのだが、悲しきかな。やっぱり身体が染み着いているらしい。

 身体が鈍らないよう、俺は日々自主的に訓練に励んでいた。

 橋の下で、俺は的に向かって銃を撃つ。最初は撃つことさえ指が震えていたというのに、今となってはいとも簡単に引き金を引けるようになっている。ある意味、恐ろしいことではあるかもしれないが、この世界において呑気なことは言ってられない。

 ほとんど真ん中を射抜いた俺は、一息ついて、銃を持つ手を下した。

 「……やっぱ、一人だと気が入らないな」

 そんなことを一人でぼやきながら、俺はある所へと向かって、歩き始める。

 たった一人の、俺のパートナーの所に。

 

 そういえば、俺は沙耶がどこにいるのかを知らない。

 あいつの所へ行こうとして、今気付いたことだが、そういえば沙耶は普段、どこにいるんだ?

 「いつもあいつの方から来てるからな……参ったな…」

 何故か、沙耶は戦線の活動や訓練以外は、滅多に現れない。

 まるでスパイのような隠密さだ。

 寮をはじめとして、学校中を探しまわる俺だったが、沙耶の姿はどこにもなかった。

 最近、たまに見かけても、沙耶は以前とは考えられないくらい暗い顔をするようになった。きっと、岩沢のことと関係しているのだと思う。

 まだ出会って日は浅かったが、沙耶は何かしらの気を岩沢に寄せてい部分があったみたいだし、しかも岩沢が消えた現場に、沙耶は正に目の前にいたのだから。

 「おーう、音無じゃん」

 俺を呼び掛ける声。振り返ると、手を上げて歩み寄ってくる日向の姿があった。

 「なに必死にキョロキョロしてるんだ? 誰か探してるのか」

 「お前こそ、何か用か?」

 「おう、そうだった。 久しぶりに、ゆりっぺから召集が掛かった」

 「ゆりから?」

 天使エリア侵入作戦以来の、少しだけ久しぶりの招集だった。

 「ん…?」

 よく見ると、日向の手に何か丸まったものが握り締められていた。何かのポスターを包まったものみたいだ。

 「なんだ、それ?」

 「え……あっ! いや、なんでもねえよ。 はは…」

 「?」

 日向は慌てる風に、それを無理矢理ポケットに押し込んだ。一瞬、“球技大会”という字が見えたが?

 「それより早く行こうぜ。 遅刻するとゆりっぺに何されるかわからねえからな」

 「あ、ああ。そうだな」

 「……そういや、いつもいるあの女はどうした?」

 「沙耶のことか?」

 「そうそう。 あの、ゆりっぺに似てそうで似てない奴。 容姿や顔は全然似てないんだけど、何故か似てる気がしてならない不思議な奴」

 まぁ、確かに……そういえば声は少し似てるかなというのは思ったことがあるが。

 「……俺も最近見てない」

 「ふーん、そっか。 どこいっちまったんだろうな?」

 きっとこのまま探しても沙耶は見つからないだろうな。

 それに召集が掛かっているのなら、もしかしたら沙耶も作戦本部に来るかもしれない。

 ここは、俺たちも作戦本部に向かった方が良さそうだな。

 「仕方ない、後で俺が伝えとこう」

 「そうだな。 じゃ、俺たちは先に行こうぜ」

 日向の後に続くように、俺もあの校長室へと向かった。

 ただその時、日向のポケットから顔を出している、球技大会のポスターが俺の目に止まっていた。

 

 

 「やっと来たわね、馬鹿ども」

 「来ていきなりそれはないだろ……」

 「遅刻ギリギリなのが悪いのよ」

 いつもの作戦本部に入った俺たち二人に向けられたのは、ゆりの罵倒だった。

 「まぁいいわ。 さっさと座って」

 ゆりがリーダー格の椅子に移動すると、その後に続いて俺たちも、部屋の真ん中に設けられているソファーに腰を下ろした。ソファーに座り込んで、周りを見渡してみる。いつもの顔ぶれ。だが、ただ一人がやっぱりいなかった。ここにも、沙耶はいない。

 「……?」

 そしてふと、隣に座る日向の横顔が視界に入った。

 その横顔は、どこか考えごとをしているかのような、そんな表情だった。

 「まずここに再びみんなを集めたのは他でもないわ。 今後の、あたしたち戦線の活動に関わることについてよ」

 気がつくと、ゆりの説明が始まっていた。

 他のメンバーがゆりの方に視線を集中させ、俺もそれに倣う。

 「トルネード・オペレーション、天使エリア侵入作戦、どれを取っても陽動部隊としての役目を果たすガルデモの存在は、あたしたちにとっては大いなるものだった。 そして、それは今も変わらないわ。 でも、肝心のボーカルである岩沢さんがいなくなってしまった以上、ガルデモのみならず、あたしたち戦線にも重大な障害になる」

 ゆりの言葉に、他のメンバーたちが神妙に頷く。

 確かに、ゆりの言っていることは間違いではないし、むしろ納得させられる。

 「そこで、岩沢さんに代わる新しいボーカルを連れてきたわ」

 その時、ざわめきが起こった。

 無理もない。俺だって驚いている。岩沢に代わる、新ボーカルってことか?

 「入りなさい」

 ゆりの言葉によって、場の空気がシンと静まる。そして、皆が注目する中、ゆっくりと扉が開かれた。

 そして、そこから現れたのは―――

 

 「―――どうもッ! ユイって言います! よろしくお願いしまッす☆」

 突然バーンと勢い良く現れたユイ。ポーズを取り、自分の名前を紹介するが、ユイを目の前にした他の奴らは皆、呆然としていた。

 「あ、あれ……?」

 予想外の反応の無さに動揺したのか、ユイが慌てて部屋中を見渡した。

 その近くで、ゆりがハァ…と呆れたように溜息を吐いている。

 「……この娘が、岩沢さんに代わる新ボーカル候補よ」

 ゆりの念を押すような言葉に、やっぱりそうなのかと、皆が落胆した雰囲気を露にする。

 「ちょ…ッ! な、なんで皆さん、そんなにガッカリしてるんですかぁ~ッ!?」

 涙目になるユイに、戦線メンバーからは容赦ない言葉が飛びかかる。

 「そいつが岩沢の代わりだと?」

 「ありえねえ」

 「誰こいつ」

 「ちょ、ま…ッ! ほとんど初対面の他の皆さんは良いとして、日向先輩はひどいッすよ! 一緒にガルデモの告知ポスター、貼ったじゃないですかぁ~ッ!!」

 「音無、説明を頼む」

 「―――って、無視しないでくださいよッ!」

 「お前、何も聞いてなかったのか? ガルデモの新ボーカル候補だよ」

 「はぁ? ユイがか」

 「そうですよ~。 えっへん」

 「いや、そこで何故威張る……?」

 無い胸を張るユイだったが、やはり皆の反応は良くはなかった。むしろ納得していない。岩沢の代わりは確かに必要だが、よりにもよってこんな女の子?というのが皆の共通した思いだろう。思った通り、ロックバンドであるガルデモをアイドルユニットにでもする気かという声も出ていた。

 「―――それでしたら、どうか私の歌を聴いてから判断してくださいッ!」

 いつの間に用意したのか、マイクをはじめとした一式が既にそこに設置されていた。

 歌う気満々のユイが、マイクを手に、意気揚々と皆の前で立ってみせる。

 カチ、とスイッチを入れて音楽が流れ出すと、ユイの雰囲気が一変した。

 「それじゃあ、行きます……」

 すぅ、とユイが息を吸う。

 そして、別人のようなユイの歌声が、マイクを通して部屋中に響き渡った――――

 

 

 ユイの歌は、岩沢に勝るとも劣らないほどの力はあった。十分、聴き入れられる歌声ではある。

 だが、歌を歌い終えると、いつもの感じに戻ったユイが調子づき、最後の最後で台無しになった。

 マイクの足を蹴り上げ、天井に突き刺さったマイクのぶら下がったコードに首を巻きつけられ、首吊り状態になった。

 「おおっ、何かのパフォーマンスか?」

 「デスメタだったのか……」

 「Crazy,Baby」

 「し、死ぬ……」

 「いや、事故のようだぞ?」

 なんとか助けてやるが、既に虫の息だった。

 とんでもないお転婆娘が転がり込んできたもんだ。クールな岩沢とは大違いだ。

 その後、ユイを採用するか一悶着あったが、ユイの必死なアピールによって、とりあえずはユイが新ボーカルとして着任することが決定された。

 

 「それともう一つ、皆をここに呼んだ理由があるわ」

 新ボーカルが決定すると、ゆりはすさかず、次の話題へと移った。

 「知っている人がほとんどだと思うけど、もうすぐ球技大会が行われるわ」

 「球技大会? そんなものがあるのか」

 この場にいる奴で、この世界に来たばかりの俺だけは知らなかった。というか、そういう本物の学校の行事らしいことが、ちゃんとこの学校にもあるんだな。

 「そりゃあるわよ。 普通の学校なんだから」

 「大人しく見学か?」

 「勿論、参加するわよ」

 「でも、真面目に参加したら消えるんじゃないのか?」

 「正式には参加しないわ。 ゲリラ参加よ。 いい、あなたたち。 それぞれチームを組んで大会に参加しなさい。 もし一般生徒より劣る成績を残したら―――」

 「残したら?」

 「死よりも恐ろしい罰ゲームね」

 俺はこれほどまで邪悪な笑みを浮かべたゆりを見たことがないだろうな。

 ふと、俺はさっきの、日向が慌てて隠した丸まったポスターを思い出す。

 「そうか、球技大会か……」

 「なに?」

 「いや、なんでもない」

 「? まぁいいわ。 じゃ、みんな。 健闘を祈るわよ」

 そしてゆりの解散宣言により、俺たちは部屋を出て行った。部屋を出る間際、俺は日向に呼びかけられ、日向のチームとして参加することになるが、実を言うと最初からわかっていたことかもな。

 そしてその後、日向と俺はメンバー集めを行うが、日向への人望がどの程度のものなのかがよくわかる過程だった。日向が期待していた者は既にほとんどが他のチームに引っ張られ、結局、アホな奴ばかりが集まる、一番不安なチームが出来あがっちまった。

 「だから~私が戦力になりますって~。 ホームラン、打っちゃいますよ~。 こう、ドカーンと!」

 「ぶほッ!?」

 「あ」

 またユイが調子に乗って、日向の懐に渾身の一撃を与えていた。

 「て・め・え・は、俺に何の恨みがあるんだぁぁぁッッ!!」

 「ぐぎゃああああッッ!! せ、先輩、ごれはシャレにならんでずうぅぅぅ……!! ギブ、ギブッ!」

 「知るかあああああッッ!!」

 さっきからいつもこれの繰り返しである。

 「浅はかなり……」

 ちなみに椎名も俺たちのチームに入っている。さっきから人差し指の上にホウキを乗せているが、事情は聞いたとはいえ、突っ込みたい所があるが、どこまでも突っ込んだら負けな気がする。

 「……沙耶がいたら、誘おうと思ったんだけどな」

 もしここに沙耶がいたら、沙耶も即メンバー入りだっただろう。

 というか、ぶっちゃけて言うと、沙耶は俺以外に、ほとんど他のメンバーとあまり接していないからな。唯一気を持っていた岩沢はいなくなったし、今思うと、沙耶は今、どこかで孤独になってるんじゃないのか?

 まぁ、俺も人のことは言えたものじゃないけどな。

 「しっかし、本当にあの金髪女はどこにいったんだよ。 あいつがいたら即戦力になったんだろうに」

 日向も同じことを考えていたそうだ。

 確かに、沙耶は運動神経だけは抜群だからな。

 しかし、それ以外の意味でも、沙耶も俺たちのチームに入れて参加させてやりたかったと俺は思う。何故なら、こういう学生らしい球技大会に参加することで、沙耶に訪れることがなかった青春の一環を体験させてやれただろうし、運動というのは、嫌なことを忘れさせてくれる絶好のものだからな。

 そういう意味では、沙耶には本当に、参加させてやりたいな。

 「こういう時こそ、ユイにゃんにお任せなのですよ☆」

 「だからそういうのがムカツクんだよッ!」

 「あああああッッ!! 先輩、そっちに腕は曲がらな……ッ!!」

 しかし、ユイも懲りない奴だな。

 「浅はかなり……」

 そして俺のそばで、ホウキを指の上に乗せたままの椎名がやっぱりその口癖のような言葉を呟くのだった。



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EPISODE.14 Day Game

 真っ青な空と、降り注ぐ灼熱の太陽の光。日の光を浴びた地面からはじりじりと熱気が帯び、汗が絶え間なく流れ出る。あまりの暑さに、何故俺はそこに立っているのか、そんな疑問が浮かんでしまうほど、頭がおかしくなってしまいそうだった。

 ただ荒い呼吸を繰り返し、俺は定位置に立ち続ける。

 頭上からは灼熱のような日の光を受け、下からはじりじりと焦がすような熱を浴びながら。

 

 ―――キィンッッ

 

 その音が、俺に本来の役割を思い出させた。

 俺は咄嗟に顎を上げ、太陽が眩しい青空を見上げる。その光に隠れるようにして、一つの白球が高く売り上げられていた。

 ほぼ定位置。

 俺は、何故ここにいるのか。

 それは、あのボールを捕るためだ。

 汗が伝う中、俺は高く打ち上げられたボールがゆっくりと落ちてくるのを待ち構えるように、グローブを上げた―――

 

 

 「日向ッ! 行ったぞ!」

 「―――ッ!」

 ハッと我に返る。

 そして飛び込んできたボール目掛けて、俺は咄嗟にグローブを伸ばす。グローブの真ん中にしっかりとボールが収まった。

 「ナイス! 日向」

 ピッチャーの音無がマウンドから俺に呼びかける。俺は返事代わりにボールを収めたグローブを上げてみせ、ガッツポーズをして見せた。

 「あぶね……危うく取り逃す所だった……」

 「?」

 俺は誰にも聞こえないような小声でそんなことを呟いていた。マウンドに立つ音無が不思議そうな顔をしていたが、気付いていないフリをしておこう。

 

 俺たちは今、球技大会にゲリラ参加を果たし、初めての試合(ゲーム)を行っていた。他の戦線メンバーのチームも、それぞれ既に順調に勝ち進んでいる。その後に続くために、俺たちは必死になってボールを追いかけていた。

 音無がピッチャーを担当し、セカンドの俺をはじめとして、メンバーそれぞれがポジションに付いている。案外、俺たちのチームも中々のものだった。ユイや数合わせで入れた一般生徒三人組を除いてな。

 野球経験がある俺の目から見ても、音無は大した肩を持っていて、敵バッターと正面から戦うのに十分な腕前を持っていた。さすが親友。俺の見込んだ通りの男だったぜ。

 「音無、お前は安心してボールを投げろッ! 俺たちが守ってやるからよッ!」

 「―――頼む!」

 マウンドに立った音無は、またボールを投げる体勢に入る。

 俺も、いつ来ても良いように、身構えておく。

 こういうのは、久しぶりだな……

 つい、昔を思い出してしまう自分がいた。

 

 

 日向の奴、何かいつもと様子が違うような気がするけど、どうしたんだ……?

 球技大会直前から見られた日向の様子。だが、気にしているだけでは仕方がない。今は試合中だし、日向もしっかりとサポートしてくれている。俺は、それに応えなければいけない。

 沙耶との訓練で鍛えた身体が、思いも寄らなかった場所で発揮したのは強みだった。最初は少し不安があったが、日向の言葉を受けてから、俺の投げるボールのほとんどがストライクに入り込んだ。そして、相手から三本のアウトを取り、攻守交代の時が来た。

 

 

 「よし、音無が一番だ。 頼んだぜ」

 「先輩、ふぁいとぉぉぉッッ!」

 俺とユイに見送られ、音無はバットを持ってバッターボックスに立った。バットの握る感触を確かめつつ、しっかりと身構える音無。

 まず初球。スパン、と良い音で、ボールがグローブの内に収まった。まずは見送る。

 二球目。これは案の定、ボールだった。

 三球目、バットを振る。当たったが、ファウルだった。

 よし、慣れてきたみたいだな。

 次で―――打つ。

 まずは塁に出てくれれば良い。

 こういうのは始めが肝心だからな。

 相手ピッチャーが振りかぶって、投げた。真っ直ぐ。ストレートだ。音無は思い切り、バットを振った。

 ―――キィンッ!!

 当たった!

 ボールはレフト方向へワンバウンド。よし、ヒットだ!

 「うおおおおおおッッ!!」

 「!?」

 何故か、そのボールに飛び出してきたのはハルバートを手に持った野田だった。野田は音無が打ったボール目掛けて、あろうことかハルバートで弾き返した。

 「どうしたぁッ! お前の実力はそんなもんかぁッ!?」

 「なんだと、このッ!」

 野田と音無の間で打ちあいが始まり、無限コンボが炸裂を続ける。

 「そんな競技は存在しねえッッ!!」

 さすがに俺も声をあげるが、その間に一本、アウトを取られてしまう。

 「アホですね……」

 「浅はかなり……」

 ベンチに座るユイと椎名が俺の後ろでそれぞれの感想を漏らしていた。

 

 

 次は野田だ。バットを引きずり、如何にもやる気のなさそうな雰囲気を醸し出していたが……

 「せやッ!」

 片手でホームランを打つという荒技をやってみせやがった。

 「ふん」

 鼻を鳴らし、野田はテキトーに走りながら一周を終える。まずは一点先制だ。

 そして攻守交代。

 

 

 「音無、野田がホームラン打ったんだから、今度はお前がもう一回0点に抑えて巻き返せよ~」

 「俺たちは誰と戦ってるんだ……」

 ピッチャーは音無。さっきも見事に0点に抑えてくれたんだ。今回もいけるだろう。

 「こぉぉいッ!」

 しかし相変わらず野田(キャッチャー)はいちいち迫力を付けるな。

 予想通り、音無の投げるボールはしっかりとキャッチャーのど真ん中に入り込んでいる。相手は空振り。ストライク一本のはずだが、何故か野田が目をカッと見開いて、立ち上がった。

 「そんなものかぁッ!」

 いきなり音無にボールを投げ返す。それを受け止めた音無も、同じことをやり返し、またしても無限ループ突入。

 「だから二人だけでやるなぁぁぁッッ!!」

 「アホは死んでも治らないんですね」

 またしても俺がツッコミの声をあげ、ユイがさすがに呆れた表情をしていた。

 

 

 「アホな先輩たちには頼れません。 ここは私に任せておいてくださいッ!」

 「あ~……頑張れよー……(棒読み)」

 「もっと本気で応援してくださいよぉッ!!」

 バットを威勢良い振ってみせるユイだったが、対して俺は期待度ゼロを隠さずに返した。ユイは悔しげに俺を睨んでいたが、「ふんッ! 必ずホームラン打って、先輩をぎゃふんと言わせてやるんですから!」という苦し紛れの言葉を残して、ベンチから飛び出していった。

 「ストライク、バッターアウト!」

 「あれぇ~?」

 「やっぱりな……」

 あっという間に、ユイは三振を取られていた。

 ちなみに次のユイの打順の時も、ユイは見事にバットを三回連続で空振りしたのは言うまでもない。

 

 キィン……ッ!

 今度は打たれた。やばい、椎名が走りだしているが、さすがにあれは追いつけな―――

 「え?」

 その時、ボールは何か小石が当たったかのように、奇妙な軌道変化を見せて、走り出していた椎名のもとに向かっていった。

 そのボールを、駆け出した椎名が大胆にスライディングしながら受け取った。指の上にホウキを乗せたまま。

 「うわ、アホだ……」

 今日ばかりは、ユイの口癖のようにいつも言っているその言葉に、俺は同意するしかなかった。

 しかし、さっきのは何だったんだろうな。

 何か小石でも当たったのか。

 そんなことを疑問に浮かべる日向、そして音無だったが、遠く離れたグラウンドの片隅で、陰から何かが動いたのを、誰一人知る由もなかった。

 

 

 結果的に日向チームはコールド勝ちで初戦を勝ち進むことができた。そして大会が行われているグラウンドの片隅で、オペレーター担当と言うべき存在である遊佐が戦況をゆりに報告していた。

 「日向チーム、三回、コールド勝ちです」

 そんな遊佐の報告を聞きながら、ゆりは校舎の窓から大会の様子を双眼鏡で高見の見物をしていた。

 「よし、戦線メンバーは順調に勝ち進んでいるみたいね。 みんな、死より恐ろしい罰ゲームとやらを恐れて必死ねぇ。 滑稽だわ」

 『戦線ではゆりっぺさんの罰ゲームを受けた者は発狂し、人格が変わると有名ですから』

 「そうねぇ……―――って、どんな罰ゲームよッ!」

 『いや、私は受けたことがありませんので』

 「あたしだって介したことな―――おっと」

 あるものを見つけて、ゆりは遊佐との会話を中断する。双眼鏡の先に見えるのは、遂に現れた天使率いる生徒会のメンバーだった。

 「あぶり出しに成功ねぇ。 こっちは武器も無し。 あるのはバットにグローブ」

 にやり、とゆりは楽しそうに笑う。

 「果たしてどんな平和的解決を求めるのかしら。 見ものだわ」

 

 

 日向チームの前に現れた天使たち。真正面から対峙する双方だったが、先に口を開いたのは天使の方だった。

 「あなたたちのチームは参加登録していない……」

 「別にいいだろ。 参加することに意義がある」

 ぴしゃりと、俺は即答する。

 だが、その俺の言葉に答えたのは、天使の隣から前に出てきた副生徒会長様だった。

 「生徒会副会長の直井です。 我々は生徒会チームを結成しました。 あなたたちのチームは我々が正当な手段で排除していきます」

 「なに? そっちはメンバー全員が野球部のレギュラーってわけ?」

 その横暴さに、俺は口端を引きつらせる。その隣でむっとするユイ。

 天使が肯定するように頷く。それを見て、本気(マジ)だと知った俺は、はは…と呆れた笑いをこぼした。

 「いくらなんでも勝てるわけないじゃん……」

 素人の中でも中々の運動神経を持つ音無たちと、経験者である自分がいても、相手チームが野球部のレギュラーだとすると、あまりにも分が悪すぎるのは容易に想像ができる。それ以上物が言えない俺の代わりか知らないが、ユイがいきなり前に出てきた。

 「はんッ! アッタマ洗って待っとけよなぁッ?!」

 だが次の瞬間、俺は生意気にも敵を挑発しやがった小娘を容赦なく締めつけた。

 「お前は二三振だったろうがぁぁぁッッ!!」

 「イ、イダイですぅぅぅぅッッッ!!」

 「お前ら、ここまで来て……ん……?」

 ふと、グラウンドの片隅に何か見つけたのか、音無は怪訝な表情を浮かべてそっちを見やった。

 「どうした? 音無」

 「えっ? あ、いや、なんでもない」

 「?」

 突然俺の声に驚いたかと思うと、音無は苦笑いを浮かべてわざとらしく首を振った。俺は気になって音無が見ていた方向に視線を向けようとするが、音無が慌てて俺の目の前の視界を遮った。

 「日向、こうなったら何が何でも勝ちにいこうッ! なッ!」

 「あ…? あ、ああ……」

 「よし、そうと決まれば早速気合い入れて行くぞッ!」

 いきなり気合いを入れて、俺の肩を抱いて次の試合に俺たちを向かわせる音無。明らかに怪しい素振りを見せる音無に不審を抱きながらも、俺は次の試合のことを考えるしかなかった。ただ、グラウンドの片隅にぽつんとあった、奇妙な樽が見えたような気がしたが、あれは何だったんだろうな。

 

 

 そして、それからは戦線チームの悪夢が始まった。

 メンバー全員が野球部のレギュラー陣なのは、戦線チームにとってはあまりにも強敵過ぎた。いくら一般生徒を抑え、勝ち進んできたとはいえ、所詮は素人。日々汗水流して練習に励み、バットやグローブに馴れしたんだ彼らの力の前に、戦線チームは次々と脱落していった。

 「竹山チームに続き、高松チームも二回コールド負けです」

 遊佐の報告に、ゆりは下唇を噛まずにはいられなかった。

 「く~ッ! あんなの反則じゃない……ッ」

 これで残りは1チーム。

 戦線にとっては、天使にぎゃふんと言わせる最後の希望だ。

 「で、最後はどこのチーム?」

 『日向さんのチームです』

 「く…ッ!」

 くそ、最後の希望が一番のアホアホチームだなんて…ッ!

 「天使にぎゃふんと言わせるつもりが……ったく、使えない連中ねッ!」

 先に敗れていったチームと、まだ戦ってもいない日向チームへ、ゆりが罵っている頃、既にグラウンドには天使率いる生徒会チームと日向チームが整列していた。

 

 

 互いに顔を見合わせ、整列する面々。キャプテン同士として、俺はニヤリと笑って、挑発するように目の前にいる帽子をかぶった天使に挨拶の言葉を投げかけてやった。

 「遂に来てやったぜ……?」

 「……………」

 だが、天使は無反応。そして審判の合図により、双方は挨拶を交わすとそれぞれのベンチへと向かった。

 「可愛くねえな……挑発の一つでもしてみろってんだ……」

 初めて出会った時は、問答無用でわけのわからなかった俺を登校に連れていきやがったくせに……

 あの時と、まるで変わっていないような無愛想さだった。

 

 

 遂に試合が始まる。これに勝てば、俺たちの優勝だ。

 戦いは熾烈を極めた。俺、椎名、野田がヒット、そしてホームランをあげ、なんとか野球部のレギュラー相手に点を取り、善戦してみせた。だが、さすがは野球部レギュラー。喜ぶ間をそんなに長くは与えてくれず、すぐに巻き返してきやがった。

 ユイ親衛隊の一般生徒たちの方にボールを打ったりと、姑息にも弱点ばかり狙ってきやがる。

 1回の裏が終わった時点で、4対3。

 2回表、俺たちの攻撃だ。

 だが、これまでの試合とは一味、いや、かなり違う。俺はマウンドに立つ音無のことを思い、「タイム!」と呼びかけた。

 音無のもとに駆け寄りながら、俺は言う。

 「やべえな、さすがに野球部相手じゃ、抑えきれねえ」

 一応今の所は点数的に言えばこちら側が1点リードしているとはいえ、たったの1点だ。野球というのは何が起こるかわからないし、1点なんてすぐに取り返せる場合だって普通にある。しかも相手は全員がレギュラーだ。そのうち逆転される可能性は十分あるだろう。

 「特にウチの外野はザルだから……」

 と、言いつつ外野をチラリと見た俺だったが、一瞬、何かが視界に映ったかのような……?

 思考が追いつき、そして気付く。

 まさか―――!?

 「―――うおおッ!?」

 間違いない!そう思って、俺はもう一度外野の方に振り返る。そこには、何故かチームのメンバーでもない奴が一人いた。道着姿に、肉うどんを啜っているという、その重なるような場に似合わなさ、松下五段の姿があった。

 状況が理解できない俺に、音無がサラリと言ってみせた。

 「ああ、食券が余ってたから奢ってやったんだ」

 「お前かよぉッ!」

 俺は思わず、音無の両肩を掴むと―――

 「よしよくやったぁッ! あいつは食い物の義理は忘れない、これで外野も守備もバッチリだぜッ!」

 近くにいたユイに卍固めを決めていた。

 「イダダダダダダッッ!! ギブギブッ! アアアアァァ……ア ト デ コ ロ ス …ッ!!」

 

 

 それからの松下五段の活躍っぷりは期待通りだった。この試合中に、グラウンドで肉うどんを立ち食いしてるだけあるぜ!

 そこに飯があり、食事中であろうが、それでもボールを取ってみせる松下五段の姿に痺れるぜ…!

 「いいぞぉ、松下五段ッ!」

 「もう野球チームというより、雑技団だな……」

 それからも松下五段の活躍により、見事スリーアウトチェンジ。攻守交代だ。

 その時、攻守交代の間際、ベンチで腕を組んで見守っていた天使がぽつりと呟いた。

 「……ピッチャー交代よ」

 

 その後も生徒会と日向チームは点を取る取り返されるの繰り返しを披露してみせた。互角の戦いを見せる両チームの試合に、観客は次第に集まっていく。

 その観客に紛れて、遊佐が戦況を報告する。

 それを聞いて、一人飛び上がる少女が一人。

 「この調子なら勝てるッ! やるじゃない連中、こんなにフェアなのよ。 天使の思うままにならないことなんてかつてあったかしらぁ」

 喜色に満ちた瞳で見上げ、手を合わせるゆり。

 「良い気味ねぇ……うふふ……」

 ふふ、ふふふ……と肩を震わせるゆりだったが、遂に堪え切れないと言わんばかりに、胸を張り上げて思う存分笑いだした。

 「あーはっはっはっはっ」

 『ゆりっぺさん、悪役のようですよ』

 通信機の向こうで、遊佐のツッコミがあったが、今のゆりの耳には届いてさえいなかった。

 

 

 9回裏、この時点で7対6。

 もしかしたら勝てるかもしれない。

 最終回、一点差……

 ツーアウトランナー、二、三塁。

 「ターイムッ!」

 さすがにここまで来るとかなりのプレッシャーだ。体力も相当削られたし、ここはやっぱり、経験者らしい日向に譲る方が良策かもしれない。

 「やべえ、抑える自信ねえよ……なあ、ピッチャー代えてくれ……」

 その時見た日向の表情は、どこかうわの空だった。

 さっきも感じた違和感。俺は、ここに来てようやく、この違和感の正体を突き止めるために、日向に声をかけた。

 「どうした、日向?」

 俺の声に、ようやく我に戻った日向。俺への返答に、日向はしどろもどろだったが、なんとか言葉を紡いでいた。

 「いや……昔、生きていた頃に、似たようなことがあったけ……ってな」

 生前のことを思い出していたのか……

 ということは、さっきも、試合の前の時も?

 「すげぇ大事な試合だったんだ……」

 俺は、日向の腕を見て―――

 「―――お前、震えてるのか……?」

 「え…ッ、そっか……?」

 参ったなと言わんばかりに、苦笑いする日向。そしてどこか自嘲するような、寂しそうな微笑を浮かべて、日向は自分の左手に嵌めたグローブを見詰めた。

 「変だな……」

 と言っても、日向の震えは止まらない。

 「何が、あったんだ……?」

 「……わかんねえ。よく、覚えてねえんだけどさ……」

 そうして、日向は昔話を語り始める。あの死にそうな真夏の日で、よく覚えている、あの瞬間のことを―――



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EPISODE.15 Everyone's Commemoration

 あの照りつけるような灼熱の太陽。

 顎から落ちる汗が吸い込まれる地面。

 野球部に所属していた俺は、どこにでもいる普通の球児のように、甲子園を目指していた。そしてあの死ぬような暑さの中、口の中が泥の味でいっぱいになっても、俺はずっとそこに立ち続けていた。それだけは、異様にも、覚えている。だって、俺のポジションはいつもそこで、いつも苦しい練習だって耐え抜いてきたのだから。

 あの学生生活最後の地方大会の最終回。ツーアウトでランナーが二、三塁にいた。正に、今と同じ状況下。

 頭が熱にやられそうになっても、酸素が乏しくなっても、俺はただ、ずっとそこで立っていたんだ。

 そしてこの耳で、確かに聞いたんだ。

 観客の応援の声まで遠くからしか聞こえていなかったのに、妙にそのバットがボールを打った音だけは、間近のように聞こえたんだ。

 カィン、と。高く打ち上げられたボールを、俺はゆっくりと見上げた。

 日の光にボールが見え隠れしていた。それでも、俺は両目を開けて、鼓膜が光に焼かれようが、じっとボールを見据えていたんだ。

 それは、簡単なセカンドフライだった。

 

 ―――ほぼ定位置。

 

 ―――ただ、それを捕れたのか。

 

 ―――落としちまったのか。

 

 ―――それだけは思い出せねえんだ……

 

 

 

 「いや……捕れてたなら忘れるはずがねえよな」

 「……………」

 「―――きっと捕れなかったんだ……」

 

 

 そして、俺はきっと惨めな姿を晒してたんだろうな。

 試合が俺のせいで負けて、最後の試合がそれで終わって、一生懸命やってた他の仲間たちが、俺を責めるんだ。

 ―――掛ける声も見つからねえな―――

 ―――皆の三年間の努力を、一人で無駄にしちまったんだもんなぁ―――

 ―――強烈な疫病神だぜ―――

 ま、責められてもしょうがねえよな。全部、本当のことだからな……

 そして、俺はずっと一人で、惨めになって……

 みんながいなくなった後、俺は誰かと会った。多分、先輩だろう。先輩は落ち込んだ俺に、何かを手渡した。

 それが何なのか。思い出したくもねえな。

 だけど、俺を更にクズにさせるには十分すぎる“薬”だったことは確かだな。

 そうして、最後まで惨めにクズをやっていた俺は、ある日トラックに轢かれてあっさりと死んじまったわけだ。

 こうして振り返ると、本当に、俺はクズな人間だったな……

 

 

 生前の過去を語り終え、黙り込んだ日向を見て、俺は一瞬だけ、岩沢のことを思い出していた。

 先に消えた岩沢。

 家庭に恵まれない過酷な環境で生前を過ごし、そしてこの世界で報われて、消えていった少女。

 そして、目の前で自分の人生を語った日向―――

 「お前……消えるのか?」

 俺は聞いた。

 日向は微かに驚いて、苦笑を浮かべながら否定したが、俺は真剣だった。

 「消えるかよ……こんなことで……」

 日向は否定したが、俺は真剣に考える。

 もし、その時と同じ状況が再現したら、きっと日向は消えてしまう……

 少なくとも、その可能性は大いにある。

 岩沢の前例がある。だから、俺は二度とそれを繰り返さないために、決意を固めて再びマウンドに戻る。

 その場にいる全員が見守る中、俺はボールを握り締め、そして構える。

 「決めろ、音無ッ!」

 日向の声が背後から伝わる。

 そう、俺はこれで決めなければならない。

 セカンドの日向の所にだけは、飛ばしてはならない。

 「――――ッッ!!」

 俺は思いきって、振りかぶった。

 渾身の速球が、ストライクゾーン目掛けて特攻する。だが、相手バッターがバットを振った時、グラウンド中に響き渡るような高い音が――――

 

 キィン――――!!

 

 

 「な……ッ!?」

 ボールは、高く打ち上げられる。

 しかも、セカンドフライ……

 「(まさか……)」

 その現象に、一番驚いているのは、日向自身だった。

 「(あの時と、同じだ……)」

 日向がそんなことを思った瞬間、あの時の光景と、今の光景が、重なった―――

 

 「日向ぁぁッッ!!」

 

 俺は日向に向かって叫び、マウンドから駆け出す。

 だが、日向はゆっくりと、両手を上げる。ほぼ定位置に落下するボールを捕るために。

 あの時捕れなかったボールを、もう一度捕るために……

 

 「こいつを捕れば、終わるのか……?」

 

 あの時手に入れられなかったこの試合の、勝利としての結末。

 

 「そいつは……最高に気持ちがいいな……」

 

 日向が、満足そうな表情を浮かべている。グローブを上げ、ボールを捕ろうとしている。

 きっと、あのボールを捕ってしまえば、日向は消える。

 自分の人生に納得して消えていった岩沢のように。

 

 ―――捕るな、日向…ッ! 俺は、お前に消えてほしくない……ッ!!

 

 日向が、消える。

 ボールがもうすぐ、日向のグローブに……

 

 その時、俺は目の前で信じられない光景を目の当たりにした。

 日向のグローブにボールが落ちる直前、それはほぼ同時に起こった。

 その場に響き渡る乾いた音。それが聞こえたかと思うと、宙にあったボールが突然、破裂した。

 「え……」

 そして、その直後、もしくはほぼ同時に―――

 「隙ありぃぃぃッッ!!」

 「ぐほぉぉぉッッ!!?」

 突然の、日向に対するユイの突貫。思い切りユイの突撃を受けた日向は地面に倒れこみ、そして上に乗っかってきたユイが日向に対して今までのお返しと言わんばかりに締めつけていた。

 「よくも卍固めにしまくってくれたなコノォォォッッ!」

 「ぐおおおお………」

 そしてぽかんと二人を見ていた俺の前に、ひらひらと落ちてくるボール……いや、元はボールのなれの果て。俺はそれをグローブの中に受け取ってみせると、今まで同じく呆けていた審判も、「あ、アウト…」と告げていた。

 

 「はぁッ!!?」

 

 相手の野球部レギュラーたちが審判の判定に驚愕の声をあげる。

 審判本人は、まるで自分が何を言い出したのかわからない始末だった。

 「おい貴様ッ! 何故今のがアウトになるんだ…ッ! 神……ではまだなかった。 副生徒会長である僕を愚弄する気か……ッ!」

 「え、いや、でも……ボールはあの通り、グローブに収まっていますし……」

 「破裂したボールの切れ端を受け取ってアウトなど、そんな馬鹿なことがあってたまるかッ!」

 直井はさすがにキレ気味になって本性を露にするが、審判も言いだした手前、前言を撤回することが中々出来ず、苦し紛れに応対していた。

 ぎゃあぎゃあと言い合う副生徒会長と審判のやり取りを一瞥し、今度は、反撃を開始した日向とユイの二人を含めた音無たちをじっと見詰めた。

 「………疲れたわ」

 ただ一言こぼしながら、小さく溜息を吐く天使だった。

 

 「このぉ……、こんな時に……なにキレてるんだよぉぉッ!!」

 「ズビマセン……ッ! 今度からはちゃんと頃合いを見計りますぅぅッッ!!」

 「知るかあああああッッ!!」

 さらにユイの首や色々な所を締め付ける日向。

 とりあえず、俺たちのチームが勝ったらしいことと、日向が消えずに済んだこと、両方に喜ぶしかないか。と言っても、今の俺の気持ちは、喜びというよりも安堵の気持ちでいっぱいだった。

 「……まったく、お前らは」

 俺は自分でもいまいちわからない笑みをこぼす。

 「本当にお似合いだよ……幸せな家庭でも築いてくれ……」

 俺は冗談混じりに、目の前で制裁を下している日向とまるで屍のようになり果てているユイの二人を前に、そんなことを言っていた。

 ひとまず、日向が消えずに済んだこと。そして俺たちのチームは球技大会に見事優勝することができた。

 それは、俺たちメンバー全員の勝利だった。

 そう。

 あいつも含めて、な―――

 

 

 とりあえず試合が落着して、生徒会チームが撤退したグラウンドで日向たちが他の戦線チームのメンバーと勝利に喜び合っている時、とある一人の少女が、その光景を遠くから見届けると、ふぅ…と一息付いて、構えていたライフルを持って立ち上がり、振り返った。

 「よう」

 「ッッ!?」

 その少女の目の前で、俺は挨拶する。それは久しぶりのことだった。

 「な、なによあなた……」

 少女はライフルを胸に抱き、焦った雰囲気で後ずさる。俺はその少女が持っているライフル、そしてそのすぐそばにある樽を一瞥して、苦笑混じりの溜息を吐いた。

 「やっぱりお前か、沙耶」

 「……………」

 その少女は、俺のパートナー。沙耶だった。微かに頬を朱色に染め、ライフルを胸に抱いた沙耶は、俺から少し後ずさっただけで、それ以上は距離を離すことはなかった。

 「……いつから気付いてたの?」

 「随分始めの方からだな。 試合中も色々とおかしなことがあったしな。 大体、そんな樽に隠れていたって、逆に目立つぞ」

 グラウンドの片隅に置かれた樽。一般生徒たちからはかなり注目されていたが、試合に夢中だった日向たちにはなんとか気付かせることはなかった……と思う。だが、気付かない方がおかしいかもしれない。あまりに場には似合わない物であるし、明らかに怪しいからだ。

 それを指摘され、沙耶はぼっと顔を赤くして反論した。

 「そ、そんなはずはないわ…ッ! 完璧に隠れてたはずよ…! 誰にも気付かれてなんかいないんだから……ッ!」

 いや、ほとんどの人に気付かれていたと思うが。

 というか、よく生徒会が来なかったなとつくづく思う。

 「少なくとも、俺には気付かれていただろ?」

 「ぐ…ッ」

 言い返すことができなくなったのか、沙耶は顔を真っ赤にしながら、ぷるぷると震えて俺を睨んでいるだけだった。そんな涙目で睨まれても、全然怖くないんだけどな。

 今まで俺が見てきたものと、目の前の沙耶のライフルを見る限り考え付くのはこれだ。沙耶は俺たちを陰からサポートするつもりで、このグラウンドの片隅で、樽の裏に隠れており、そこからライフルで、俺たちの危険球を狙い定めて撃っていたんだ。

 たまに点を取られそうになったボールが何かに当たって、変な軌道を描いて俺たちの捕りやす所に飛び込んできたことがあったが、きっとそれが沙耶の仕業だったんだろうな。

 最後の最後で、日向へのセカンドフライのボールは、少しやり過ぎた感があったが。

 「そうよ……こんなヘンテコな樽の裏で隠れて、そこからボールを狙っては撃って、援護射撃してたのよッ! だって、岩沢さんを目の前で消えるのを見過ごしたあたしが……しかも岩沢さんが消えたのはあたしのせいでもあるのかもしれないのに……どんな顔して音無くんやあの人たちと会えば良いって言うのよ…ッ! 笑いたければ笑いなさい、罵りたければ罵りなさいよッ! こんなあたしを…ッ!」

 「……沙耶、それは違う」

 「何が違うって言うのよ…ッ! 音無くんに、あたしの何がわかるって言うの…ッ!?」

 「岩沢が消えたのは、岩沢が自分で歌いたい歌を歌って、そして納得したから消えたんだ。 誰のせいでもない」

 「そんなの、嘘よ…ッ!」

 「嘘じゃない。 それに、誰もそんなこと考えてないし、沙耶はいなくなった岩沢や日向たちと同じ、俺たち戦線の仲間だよ」

 「あたしは……ッ」

 「しかも沙耶。 お前、救ってみせたんだぜ」

 「え……?」

 「日向に落ちて行くボール、あっただろ。 あれ、お前がボールを撃って破壊してくれたおかげで、日向はボールを取らずに済んだんだ。 ユイが飛び込んできたのもそうだけど、沙耶のやったことは完璧に日向の消える要因を木端微塵にしてくれたんだ。 それに、試合は俺たちの勝ちになった」

 「……………」

 「あの勝利は、俺たちの勝利。 それは勿論、沙耶も含まれてるんだぜ?」

 そう、あの大会に沙耶は直接参加していなかったけど……

 紛れもなく、沙耶は遠くから俺たちの試合に参加していたんだ。

 そして最後の瞬間も、沙耶のおかげで勝利に結びつくことができた。

 「それにな……俺はお前のパートナーだ。 お前が言い出したんだぞ。 だから、沙耶のことは他の誰よりはわかっているはずだ」

 「な……」

 また顔を赤くする沙耶。だが、俺は構わず続ける。

 「ま、何はともあれ、俺たちの勝利だ。 さぁ、行こう」

 「行くって、どこに……?」

 「あいつらの所に決まってるだろ」

 俺は沙耶と共に、グラウンドの向こうで浮かれあっている日向たち戦線メンバーを見据える。

 「行こう、沙耶。 みんなが待ってる」

 「……………」

 俺は沙耶に、手を差し伸ばす。

 沙耶は俺の手を見詰め、おずおずとした動きで手を伸ばしかけたが、俺はその手を掴み、引っ張った。

 「ちょ…ッ! 音無くんッ!?」

 「沙耶。 あれが、俺たちの勝利の宴だ」

 そして俺は沙耶を連れて、日向たちのもとへ加わる。

 俺は沙耶を連れ、事の経緯を話した。その間、沙耶は小さく縮こまり、最後にはごめんなさいとみんなに謝っていたが、他のメンバーたちには「やるな新入りッ!」「まさかそんなスパイ染みたことしてくれるなんてな」「今日のMVPはこいつだなッ!」とそれぞれ称賛をあげた。沙耶は恥ずかしそうに応対していたが、俺はこれが、今まで俺以外とあまり接しなかった沙耶への良い機会であると思えた。

 そして、俺たち優勝チームはメンバーで記念撮影をすることにした。

 最初は優勝チームである俺と日向たちだけで撮る予定が、ゆりの一言、「あなたたちの勝利はあたしたち戦線全員の勝利よッ!」によって、全員が無理矢理入ることになった。主に優勝チームメンバーが前に出て、後の奴らは後ろから入れ乱れるような感じになる。

 「はいは~いッ! 私が優勝トロフィーを持ちますよ~ッ!」

 「落とすなよ」

 ユイが優勝トロフィーを掲げ、そのそばで日向が不安に染まった言葉を投げ付ける。

 「松下五段ッ! テメェ元々は別のチームだろ! お前が前に出たら他の奴らが映らないじゃねえかッ!」

 「ん、そうなのか」

 「Foooo! All brothers!」

 「TKェッ! テメェいきなりダンスの勢いで飛びついてくるのやめろぉッ!」

 「うるさいよ、藤巻」

 松下五段、TKに怒鳴り散らす藤巻を、冷めた目で刺さるような言葉を投げるひさ子。

 「おい、ゆりっぺ。 なんでお前が真ん中なんだよ」

 「ふふん、あたしはこの戦線のリーダーなのよ。 当然じゃない」

 「一人だけ高見の見物してたくせに……」

 「なんですってぇッ!?」

 「おい誰だ、今ゆりっぺを侮辱した奴はッ! この俺が許さんぞッ!」

 「大山君でーす」

 「ええッ!? な、なに言ってるの日向くんッ? の、野田くんッ! 決して僕じゃないからね! いや本当に…!」

 野田が騒ぎ、大山が動揺する。

 しかしゆりはすっかり、今のことはすぐに忘れて、ものすごい笑顔に戻っていた。余程、天使に勝ったのが嬉しいのだろう。

 「まったく、相変わらず馬鹿ばっかね……」

 沙耶がクスリと笑う。

 そんな沙耶を見て、フッと微笑む音無。

 「それじゃ、撮りますよー」

 「いいわよ、竹山くん」

 「では撮ります。 あと、僕のことはクライストと……」

 「早く来ないと写真に映らなくなるぞ、竹山」

 「おおっと…!?」

 竹山がカメラのタイム制のシャッターを押し、慌ててみんなの輪に入る。

 「それじゃ、みんな。 行くわよ~。 はいッ!」

 ゆりの合図に、みんなが一斉にカメラの方に視線を向ける。

 「一たす一は~?」

 危うくこけそうになったゆりの合図に、なんとかみんなは耐えるが―――

 「「「に~ッ!」」」

 文字通りみんなは笑顔になったが、その瞬間、遂に後ろの山が崩れた。土砂崩れのように崩れていく仲間たちの前で、優勝した日向チームのメンバーたちは、それぞれの笑顔と後ろで起こった崩壊に驚く表情、それぞれの表情でカメラの光を浴びた。

 そして、その時に撮った戦線メンバーの記念写真は、思い出の一つとしてみんなのかけがえのない一枚となったのは、言うまでもなかった。

 そしてその写真には、かつては決して訪れることがなかったその笑顔を、満面に輝かせている一人の少女がいた。



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EPISODE.16 Angel's name

 行事の一つとして生徒たちの間で盛り上がった球技大会は、正式な参加登録をしていない生徒たちのチームが優勝するという破天荒な結果で終わりを告げた。

 途中から野球部レギュラー陣を揃えた生徒会チームが参入したにも関わらず、彼らは決勝戦でそれに打ち勝ち、優勝トロフィーを我がものにした。

 数々の試合を仲間たちと共に勝ち進み、優勝を手にした喜びは生徒にとっては最も価値のある経験だろう。仲間たちと協力し、絆を深め合う。仲間たちと思い出を作る。それらこそ、学園行事の目的の一つでもある。

 しかし彼らは正式な手続きを取らずにゲリラ参加した面々。模範としては、それは優勝以前の問題だ。

 しかも生徒たちの模範となる代表的な生徒会が、そんな彼らに敗れたのである。彼らは今までも数々の容疑がある常習犯たち。生徒会としては、それは決して許されることではなかった。

 これではますます彼らを調子づけてしまうだけだ、と思うのも無理はない。

 正に、副生徒会長である直井文人はそんなことを考えていた。

 「このまま奴らの行いを許してしまえば、この学園の秩序が崩壊する。 先の我々の敗北は、模範足る生徒会の尊厳を損なわせる失態だ」

 生徒会長と副生徒会長の二人しかいない、少し暗い空気が降りた生徒会室で、直井は日の光が射す窓からグラウンドを見渡しながら呟いていた。グラウンドには、部活動をする生徒たちの姿が目立つ。

 「生徒会長、あなたはどうお思いですか」

 「……………」

 一方では生徒会長、そしてもう一方では天使と呼ばれた彼女は、無言で生徒会室に置かれた椅子に座り、机の前で何かを行っていた。

 「生徒会として、今後彼らに対する………」

 「……………」

 黙々と、何かを書き続けている。

 「……何をしているんです?」

 遂に、直井は何か作業をしている生徒会長に問いかけてみた。

 「……え?」

 今、気付いたかのように、生徒会長は顔を上げて、直井の方を見た。

 「……なに、直井君」

 「何をしているのかと伺ったのですが? ……それは?」

 「ああ、これね……」

 生徒会長である天使は机の上にノートと教科書を広げていた。一目見て、彼女がテスト勉強をしていることはよくわかった。

 「ほら、もうすぐテストじゃない……? 勉強、しておかないと……」

 「……ああ、そういえば」

 「忘れてたの……?」

 「いや。 僕の頭脳に掛かればここの試験など造作もないことだからな。 その程度のことだったから、今まで気にも留めなかった」

 そう言って、不敵な笑みを浮かべる直井に、天使は「そう……」と返すだけだった。

 天使は再び、テスト勉強に戻ってしまった。

 「……しかし我々は生徒の模範となるべき存在です。 生徒会の代表たる生徒会長と副生徒会長が学校の試験ごときで一般生徒より劣る成績を見せてしまっては元も子もないですからね。 そこの所、十分おわかりですよね? 生徒会長」

 「……ええ、わかっているわ。 だから、こうして勉強しているの」

 「……これは失礼」

 直井は帽子の鍔を掴むと、そのまま天使のもとから立ち去ろうとする。

 「生徒会長の勉強を邪魔になるのも避けたいことですから、ここで僕は立ち去ることにします」

 直井の言葉が届いているのかどうかわからないが、既に天使は黙々とノートに向かっていた。そんな彼女の横顔を見て、直井は小さく息を吐いたが、無言で生徒会室から退室していった。

 そしてそこには、ひたすら一人でテスト勉強に励む生徒会長・天使だけが残っていた。

 

 

 同じ頃、対天使用作戦本部。

 今日もまた、戦線メンバーたちが校長室に集まっていた。

 「遂に……この時がやってきたか」

 校長室の窓から外を見詰めながら、この戦線のリーダー的存在であるゆりが真剣に呟いた。

 「何だ? 何か、始まるのか」

 それを聞いた俺は、その言葉が気になって、ゆりの背中に問いかけてみた。

 そして俺の疑問に対して、ゆりは静かに答えた。

 「天使の猛攻が始まる……」

 「天使の猛攻……ッ?」

 俺は、頭の中で何故かたくさんの天使が俺たち戦線と壮絶なる戦いを繰り広げている構図を思い浮かべた。

 あの宿敵足る天使の猛攻とは一体どんなものなのか、俺はごくりと生唾を飲み込んだ。

 「て、天使の猛攻って……どうしてなんだ?」

 俺は思わず、緊張の息を微かに漏らした。

 そして、変わらないゆりの真剣な答えが返ってきた。

 「―――テストが近いから」

 「……………」

 一瞬、俺の緊張は思わぬ所へ吹っ飛んでしまった。

 というか、拍子抜けしたような気分に陥る。

 「あー……何故?」

 「考えればわかるでしょう」

 俺の間抜けな声に、高松が即答してくれた。

 「授業を受けさせることも大事ですが、テストを受けさせて良い点を取らせること。 それも大事なことです。 天使にとっては」

 俺のさっきまで思い描いていた恐ろしい構図があっさりと崩れ落ちる。

 だが、ゆりが振り返りながら言葉を紡いだ。

 「けどこのテスト期間、逆に天使を陥れる大きなチャンスになり得るかもしれない」

 それは、何かを思いついたかのような表情と言い方だった。

 「それは……何故?」

 俺のそばで腕を組んで今まで黙っていた沙耶が、チラリとゆりのことを一瞥しながら口を開く。

 「天使のテストの邪魔を徹底的に行い、赤点を取らせまくる。 そして校内順位を最下位まで落とさせる」

 それはまた、容赦ないな……

 ある意味恐ろしい作戦だ。

 しかし、それが何になるのか。

 「名誉の失墜。 生徒会長としての威厳を、彼女は保っていられるかしら」

 なるほどな……

 「でも、それが何の効果になるの?」

 沙耶が再び聞いてみる。

 「少なくとも教師や一般生徒の彼女に対する見る目が変わるわ。 その行いには、今までになかった変化が生じる」

 「どんな?」

 「さぁ、そこまではあたしにもわからない。 でも、先日の球技大会で、彼女はあたしたちに負けた。 あれ以来、生徒会に対する変化は少なからず生じているわ」

 前に行われた球技大会は、奇跡的にも俺たちの優勝で終わった。だが、正式な手続き無しの行いで参加した俺たちに負けた生徒会としては、その顔に泥を塗ったような形になっただろう。しかも正当なルールで俺たちを排除するつもりが、逆に返り打ちにされたんだ。それを目撃した生徒、あるいは知った生徒は、そんな生徒会をどう思い、見るのか。それなりの影響は生じただろう。

 「更にここであたしたちは追い打ちをかける。 ここで完全に、天使の名誉を地獄の底に突き落としてみるのよ」

 

 それに、もし……天使が神による創造物でなく、鋼のような精神でもなく、自分たちと同じ人の魂だったとしたら。

 その名誉の失墜は、彼女の精神に打撃を与えることになる。

 

 

 そしてテスト当日。戦線はゆりの意向に選ばれた者たちによって、作戦を実行することとなった。

 テストが始まる前、ゆりをはじめとしたメンバーが天使がいる教室に侵入。

 作戦を円滑に進めるため、天使の近い席を求めることとなった。

 テストの席順はくじ引きで決められるため、メンバーは天使の近い席を狙ってくじを引く。だが、誰もが一向に天使の近い席を当てる様子は見られない。

 ゆりは一番を引いて喜びの声をあげていたが、それがすなわち作戦に一番ほど遠い意味の無いくじであることに気付き、思い切り怒りに任せてそのくじを床に叩きつけていた。

 結局、メンバーの一人である竹山が天使の前の席を手に入れ、そして―――

 

 「あ、あたし。 天使の後ろ」

 作戦に志願した沙耶が、天使の後ろの席を当てていた。

 沙耶が天使の後ろの席を獲得したことにより、俺たち戦線が天使を前後挟み打ちにした形になる。

 そもそも、何故沙耶がここにいるのか。

 実を言うと、沙耶は今回の作戦には含まれないはずだった。だが、沙耶は俺のパートナーであることを強調し、パートナーは一心同体であると豪語し、無理矢理作戦に志願したのだ。

 沙耶は前回の作戦(球技大会)の功労者だったこともあって、さすがにゆりも無碍には却下することはできなかった。

 こうして、沙耶を含め、俺・ゆり・日向・大山・高松・竹山による選ばれたメンバーで作戦は開始された。

 ちなみに作戦はこうだ。

 「答案用紙が配られる際、二枚持っていきなさい。 その一方を、回収する際に天使のものとすり替える。 そっちの答案用紙は白紙だと逆に不自然だから、馬鹿みたいな答えを並べておいて」

 そしてそれは天使の前の席を獲得した竹山の仕事になる。

 しかし馬鹿みたいな答えと言われても、どんなことを書けば良いかわからないと申し立てる竹山に対し、ゆりは簡単に答えてみせた。

 「将来なりたいものでも書き連ねておきなさい」

 「物理のテストですが……」

 「いいのよ。 飛行機のパイロット~♪とか、イルカの飼育員~☆とでも書いておきなさい」

 「相当な馬鹿だな……」

 物理の答案に将来なりたいものを書くのも、不自然以前の問題だぞ。

 「回収する時はどうするんです?」

 高松の問いに、ゆりは不敵な笑みを浮かべると、ビシッと日向の方を指差した。

 「日向くんッ! タイミングを見計らって、アクションを出しなさい! 全員がそっちに注目するように」

 「そんな無茶な……」

 さすがに日向も苦笑を浮かべ、呆れた風に言うが……

 「あなたを何のためにここに呼んだのよ」

 「はぁッ!? まさかそんな道化師役とは……ッ!」

 ゆりの驚くような新事実に、日向は額に手を当てて、がっくりと項垂れた。

 「で、その瞬間を見計らって竹山くんが後ろの回収し終えた答案用紙から天使の答案を引き抜き、偽物とすり替える」

 「……………」

 「とにかく、想定外のことが起きてもみんなでフォローし合うのよ。 いい?」

 全員がとりあえず頷く。

 色々と無茶かもしれないが、やるしかなさそうだ。

 だが、ここで最も重要な疑問にぶち当たる。

 「あ、待ってください。 名前の欄にはなんて書きましょう」

 竹山の質問に、その場にいる全員がはたと気付く。

 「天使」

 「アホか」

 高松が真剣に答えを返すが、日向に一蹴りにされる。

 「生徒会長、で通るんじゃね?」

 「そうだよね。 どうせイルカの飼育員って言う馬鹿な答えを書くぐらいだから」

 日向の言葉に、大山が同意するが、俺はどうしても納得いくはずもなかった。

 「いやいや、自分の名前ぐらい書けないとアホすぎるだろッ!」

 「というか、あなたたちが今まで名前を知らなかったのが驚きだわ……」

 沙耶の意見に、俺も激しく同意だ。

 よくもまぁ、敵の名前も知らずにこいつらは今までよく戦ってたもんだな。

 「知る機会なんてなかったもの」

 「よくなかったなぁッ!」

 「じゃああんた調べてきてよ。 職員室の名簿見てきて」

 俺は仕方なく、職員室に行って天使の本名を調べるしかなかった。

 「あっ、音無くん。 諜報活動ならあたしが得意だから、あたしが――――」

 沙耶が後ろで何かを言いかけていたが、それとは別の何かが、俺を引き止めていた。

 「―――っと?」

 振り返ってみると、俺の裾を小さく摘む天使の姿があった。

 「……どこ行くの? テスト始まるわよ」

 「あ…いや……ッ! 緊張してきて……」

 つい、下手な答えを返してしまう。落ち着け、俺。

 くそ……どうしよう。

 名前が生徒会長で提出されるなんて可哀想じゃないか。

 いやいやそれどころか……

 

 問い:20Ωの抵抗に3.0Vの電圧を加えた時、電流は何Aか。

 

 答え:電車の車掌さんアンペア~☆

 

 ―――なんて答えがぁぁぁ……ッッ!!

 

 「そんなに不安……?」

 「えっ? あ、いや……そういうわけではなく」

 「落ち着いて、大丈夫よ」

 アホなことを頭に浮かべていた俺を、本当に心配をかけるように話しかけてくれる彼女に、俺は良心が痛くなる。

 俺たちがこれからしようとしていることを思うと、正面から彼女を見ることができないな……

 「えーと……」

 天使が首を傾げている。

 何を悩んでいるのかと一瞬思ったが、もしかしたら俺をどう呼んで良いかわからないのかもしれない。

 そういえば自己紹介はしたことがないな。

 「あ、ああ……音無……」

 少し口が上手く動かせなかったが、とりあえず名前は言えた。

 「音無くん」

 そんな俺の名前を、彼女は確認するように言ってくれた。優しく呼びかけるように。

 俺の名前を言ってくれる彼女を見て、俺は自然とその言葉が漏れた。

 「俺も……あんたの名前、知らない」

 「私? ……立華」

 「下は?」

 「下……奏」

 「立華、奏……」

 俺はその彼女の名前を呟いてみた。

 美しい響き。

 名の通り、音を奏でるような、良い名前だと思った。

 「……ありがとう。 立華のおかげで、落ち着いたよ」

 「じゃあ、頑張って」

 その時のニコリと微笑んだ、立華の天使のような笑顔を、俺は忘れない。

 

 俺は彼女の名前を持って、ゆりたちのもとに帰ってくる。

 「立華奏、だとさ」

 「ああ、そんな名前だったわね」

 「…ッ!? 知ってたんじゃねぇかよッ!」

 「忘れてただけよ」

 何故か、その時のゆりはそっぽを向いていた。

 「くそ……なあ、沙耶。お前も何か……って、どうした?」

 沙耶の方に振り返ると、沙耶も何故か不機嫌そうな表情で、しかも銃の手入れをしていた。

 「ん~? なに、音無くん」

 「お前、なにやってんだよ!? そんなもんしまえッ!」

 「……あら、ごめんなさい。 銃って定期的に点検しないとすぐに錆び付いちゃうからね。 いつでも使える状態にしておかないと……」

 何故か最後の言葉で嫌な悪寒が走った。

 まったく、女というのはよくわからん……

 俺がそう思っていた頃、丁度教室に教師が入ってきた。そして、俺たちは各々の席に座り、遂に作戦実行の時がやって来たのだった。



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EPISODE.17 Favorite Flavor

 「テスト始めっ」

 教師の合図により、裏に置いていたテスト用紙を一斉に表に返す生徒たち。先に決めたそれぞれの席順に座ったあたしたちも、用紙を表に返した。それはテストではない。あたしたちにとっては、作戦開始の意味だった。

 天使の後ろの席を獲得したあたしの目の前には、今回の作戦の標的である天使がいる。天使は他の一般生徒と同様に、黙々と真面目にテストを受けている。

 あたしの役目は、竹山くんのフォローだった。天使の前の席に座る竹山くんは、天使の答案用紙を偽物にすり替える大きな役目を持っている。もし、何らかの事故によって竹山くんの所業がバレそうになったら、天使の後ろにいるあたしがフォローする。

 たとえば、天使が竹山くんの方を不審に思いでもする仕草を見せれば、即座にあたしが適当に天使に話しかける。そんな感じだ。

 でも、その場合だとあたしの出番は無さそうだ。あたしはあくまで万が一のフォロー役だから。

 「(それにしても……)」

 あたしは自分の答案用紙を見下ろした。

 学校のテストを受けるのは生まれて初めてだ。日本に帰ってきて、あたしが学校に行くことが決まった時、お父さんから学校では受験というものがあると聞いたことがあった。それを聞いたあたしは、勉強や受験がちゃんと出来るのかなとか、心配していた記憶がある。

 まぁ、その学校にも行けずに死んじゃったんだけど……

 でも、実際にこうして体験してみると、複雑な気持ちが浮かぶ。生前は想像でしかなかった学校のテストというのが、今目の前にある。それだけで、あたしの内にある“興味”というものがふつふつと沸いてくる。

 

 ―――問題を真面目に答えたら駄目よ。消える要因になりかねない―――

 

 ハッと、あたしはゆりっぺさんの忠告を思い出す。

 危ない危ない。思わず、普通に受けようとしていた。

 あたしは答案用紙に書いた答えを消しゴムでごしごしと消した。経験したことがなかったものに思わず惹かれてしまった。こんなことでは、これからも同じことを仕出かしかねない。今後は注意した方が良さそうだ。

 ペンを置いたあたしは、ふと目の前に流れる綺麗な天使の長髪を見詰めた。

 艶があって、女の子らしいとても綺麗な髪だった。

 「……………」

 あたしは黙って、天使の後ろ姿をジッと見据えていた。

 

 

 終了のチャイムが鳴り、教師が答案用紙を集めるように声をあげる。それと同時に、教室は生徒たちの様々な声で沸いた。

 答案用紙が後ろから配られ、あたしも自分の答案用紙を入れ、前の席に居る天使に渡す。

 天使の答案用紙も含んだ答案用紙が竹山くんに渡される間際、いきなり真ん中の席に座っていた日向くんが立ち上がった。

 「な、なんじゃありゃぁぁぁっ!? 超巨大な竹の子がにょきにょきとぉぉ……ッ!」

 意味不明な声をあげ、窓の外を指さす日向くんだったが、残酷にも反応は全く無かった。まるで日向くんだけが別世界に切り離されたかのような、見事な空気化だった。

 音無くんが「アホ日向……」とぼやいているうちに、日向くんは悔しげに自分の席に座った。

 「(な、なんだったのあれ……)」

 あたしが呆れて声も出ない時、それは起こった。

 突然、日向くんの椅子がジェット噴射し、打ち上げられたロケットの如く、勢い良く天井へと舞いあがった。席に座ったまま離陸した日向くんは天井に頭を強打させ、断末魔の声を漏らしながら、自分の席へと落下した。

 「……………」

 あまりの衝撃的シーンに、さすがに教室が奇妙な静寂に包まれた。

 教室にいるほとんど全員が、朽ち果てた日向くんに注目している間に、竹山くんは既に任務を完遂していた。

 

 休み時間、あたしたち戦線メンバーはゆりっぺさんの席の周りに集まっていた。怒りを露にし、頭に大きなタンコブを作った日向くんを含めて。

 「あなたがミスした時のために、椅子の下に推進エンジンを積んでおいたのよ」

 ゆりっぺさんがニッコリとした笑顔で、そう説明した。

 「どうだった? ちょっとした宇宙飛行士気分は」

 「いきなり天井に衝突して一瞬で落下したよッ! っつか、推進エンジンなんてよく作れたなぁッ!」

 「フォローしたんだから感謝しなさいよ」

 「……………」

 涼しく言い放つゆりっぺさんを前にして、日向くんは最早何も言い返す言葉も見つからなくなったらしい。

 「じゃ、次は高松くん。 ちなみにこの役目を負う者の席は全部、さっきのと同じことになるから、そのつもりで」

 なんという脅迫。

 一瞬にして、あたしたちの空気がざわっとどよめくと、重い空気に包まれた。次の犠牲者に選ばれた高松くんは、本当に思い詰めた表情をして頭を抱えていた。

 「あの、次の回答はどのようにすれば良いのでしょう」

 「お前はいいよな。 小細工するだけだから」

 ついさっき天井に衝突させられた日向くんが言う。竹山くんは真っ向から日向くんの言葉を否定した。

 「何言ってるんですか。 こっちも相当のリスクを負っているんですよ」

 「では変わってください」

 「嫌ですよッ!」

 高松くんの言葉にも、竹山くんは即座に拒否する。

 「なんだよ。 やっぱりそっちの方がいいじゃねーか! くじ運が良くて良かったなぁッ?!」

 「これは僕にしか出来ない神経がいる作業なんだ!  そっちは飛ぶだけで頭使わないで良いじゃないですか!」

 「俺だって頭使ってるよッ! こう、天井にドカーンとなッ!」

 「文字通りの意味じゃないですか、それッ!」

 「んだとぉッ!? こっちが馬鹿だって言いたいのか!」

 日向くんと竹山くんが言い争いを始めた。あたしは呆れてその光景を見守るしかない。だが、ゆりっぺさんはすぅっと息を吸うと、次の瞬間、大きく口を開いて喧嘩する二人に怒鳴り声をあげた。

 「こらぁぁぁぁッッ!! 喧嘩するなぁぁぁぁぁ………ッッ!!」

 それは教室にいる全員が注目するような、見事な怒鳴り声だった。

 遠くで、天使が静かに席から立ち上がるのがわかった。ゆりっぺさんは思わず自分の口に手を当てて閉じるが、時すでに遅しだった。

 と思った時には、既にあたしの隣から音無くんが消えていた。

 「悪いッ! 今、答え合わせでもめていただけなんだ。 日向が0点であることはわかった! もう大丈夫だ。 騒がしくして悪かったな!」 

 「……そう」

 いつの間にか、音無くんは立ち上がった天使の前で、必死に弁解をしていた。音無くんの言うことに納得したのか、あっさりと天使は自分の席に座った。

 ほっとするあたしたち。

 なんだかんだで、元々短い休み時間は教師が教室に入ってくると同時に終わり、次の教科のテストが始まった。

 

 

 テストの間はどこまでも静寂が続いている。唯一答案用紙に書かれるペンの音だけが小刻みに聞こえる。あたしはと言うと、何も書かないというのも暇なので、ふざけた答えを適当に書いていた。

 

 問い:仏陀の本名は何というか。

 

 答え:斉藤

 

 問い:九品中正は何王朝の時代に始まったか。

 

 答え:8時からの半額セール

 

 問い:魏の時代の土地制度で、国家財政の確立を目的として、流民を集めて荒廃地を耕作させたものをなんというか。

 

 答え:あたしの中のエクスタシーが火を吹くぜ

 

 それも飽きた頃、あたしはふと目の前で真面目にテストを受けている天使の背を見詰める。いや、立華奏……それが、彼女の名前。音無くんが聞いてきた、天使の本名。

 自分でもこれを言うのは変なことだってわかっているつもりだけど、天使にも名前はちゃんとあるんだ。勝手にあたしたちが彼女を“天使”と呼んでいただけ。立華奏、それが彼女の本当の名前。でも、名前を知っただけで、ただそれだけなのに、彼女を見る目が、あたしの中で少なからずの心境の変化を表していた。

 名前を知っただけで、彼女があたしたちとどこも変わらないような人間に見えてしまう。以前は天使と呼んでいただから、無意識に神に近い存在、すなわち人間より高みの存在として認識し、身近に感じることはできなかった。

 だけど、名前を知った。ただそれだけで、それは崩れ、まるであたしたちと変わらない人間のように見えてしまうのだ。こんなに近くにいると、尚更彼女が身近に感じられる。

 本当に彼女は天使なのだろうか。

 果たして、彼女はあたしたちとは違う存在なのだろうか。

 まぁ、それを知るためにも、今回の作戦が実行されているわけだけど。

 もし、彼女のテストを妨害して名誉を失墜させることが出来れば……それがわかる。

 でも―――

 彼女が天使などではなく、普通の人間だったとしたら?

 あたしたちは、どうするのだろうか。

 彼女に対して。

 そして、この世界に対して。

 もし彼女が人間だったとしたら。

 あたしたちの彼女に対する仕打ちは、正しいことなのだろうか。

 

 そんなことを考えているうちに、終了のチャイムが鳴り、あたしはハッと我に返った。

 

 教師が答案用紙を前に集めるよう指示を出し、生徒たちはそれぞれの列の前へと用紙を集めていく。

 あたしもふざけた答えを書いた答案用紙を、後ろから配られた他の用紙と一緒にして、前の席に座る彼女に渡す。彼女はそれを受け取り、ごく普通に彼女自身もまた自分の用紙を含めて、最前列にいる竹山くんに皆の用紙を手渡した。

 そんな時、集めた用紙を生徒から受け取っていた教師が何かに気付く仕草を見せた。どうやら第二の作戦が始まったようだ。

 「そこの君、どうしたの?」

 「先生。 実は私……」

 急に席を立った高松くんが、ガバッと上着を脱ぎ、鍛え抜かれた筋肉質の身体を解放した。

 「―――着痩せするタイプなんです!」

 果てしなくどうでも良かった。

 「どうですか」

 「いいから席に座りなさい」

 「はい」

 速攻で席に座らせた高松くん。周りの反応も冷ややかだった。

 しかし高松くんに休む暇は与えない。席に座った高松くんは途端に、ぐるぐると高速回転しながら見事に天井に激突した。頭まで筋肉というわけではなかった高松くんのアホ頭が天井を砕き、地上に降りた頃には、死に絶える高松くんの姿があった。

 「……真正の馬鹿ね」

 つい、あたしが蔑むような口調でぼそっと漏らした時。

 「……凄いね、高松くん」

 「ッ!?」

 その小さくともはっきりと通った声があたしの耳に届いた時、あたしは思わずその声の主の方へ振り返っていた。

 今の一部始終を目撃していた彼女はちょっとだけ感心するように、口を小さく開いていた。

 「さっきの日向くんも凄かったけど、高松くんは回転までしていた」

 「……………」

 それは独り言か、誰かに呟いたのか、よくわからないほどの小さな声で、彼女はそう呟いていた。

 その時、高松くんの方に気が逸れていた彼女のそばで、竹山くんがささっと彼女の答案用紙と偽の答案用紙を一瞬で入れ替えていたのを、あたしは目撃していた。

 

 「…ったく。 よくもまぁあんな浅はかな案を自信を持って遂行できたものね」

 休み時間、またあたしたちはゆりっぺさんの周りに集まっていた。日向くんに続いて、天井に激突することになった高松くんに対して、ゆりっぺさんは呆れていた。当の高松くんは何故か上半身裸のままだった。

 「自信はあったのですが……意外性があると言いますか、見かけによらないと言いますか……影で鍛えているので」

 「いいから上着ろよ」

 落ち込む高松くんに、日向くんが言うそばで、ゆりっぺさんは竹山くんの方に振り返る。

 「今回も首尾はばっちしね、竹山くん」

 「抜かりありません。 あと、そろそろクラ」

 「じゃ、次は大山くん」

 「やっぱり来たかぁぁぁ……ッッ!」

 大山くんは最悪の予想が的中したのか、頭を抱えてショックを受ける。

 「僕、持ちネタなんてないよッ!?」

 「大山くんの席は天使の斜め後ろで近いじゃない」

 「そ、そうだね……それじゃあ僕はネタやらなくていい?」

 「うん。 天使に告白してくれれば」

 「うんッ! ……ん? なんだって?」

 大山くんは今聞いた言葉が理解できないみたいだった。

 ゆりっぺさんは簡単に言うように、そして容赦なく、その現実を大山くんに叩きつけた。

 「天使に告白するのよ。 『こんな時に場所も選ばずにごめんなさい。あなたのことがずっと好きでした、付き合ってください』って」

 「え、えええぇぇッッ!!?」

 さすがに衝撃を受けたようだった。大山くんの顔が真っ青になる。

 だが、ゆりっぺさんは容赦なく続ける。

 「そうすれば、飛ばないで済むわよ」

 果たして、公の場で告白をしてフラれるか、飛んで天井にぶつかるか。どっちを選んでも死亡フラグな気がしてならないのは気のせいかしら。

 「ちっ、なんだよ。 コクるだけでいいのかよ。 なんかずるいぜ」

 「そんなッ! 僕の身にもなってよ…ッ!」

 日向くんの抗議にも、大山くんは即座に否定する。

 「そっちは肉体的ダメージで済むだけだけど、僕はメンタルのダメージが凄いよッ!? 僕、女の子に告白するなんて初めてなんだよッ?! しかもフラれるのがわかってるんだよぉぉ……」

 「はっ、ウブな奴め。 練習には丁度良いじゃねえか」

 「僕は日向くんのように練習なんかしないッ! 本気の恋しかしないんだよぉッ!」

 「なんだとぉッ!? 俺が偽りに過ぎないうす汚い恋でもしてるってのかよッ!」

 今度は日向くんと大山くんが大きな声で言い争いを始める。ああ、さっきと同じ展開。これはもしかしてまた―――

 「こらぁぁぁぁぁッッ!! 喧嘩するなぁぁぁぁ………ッッ!!!」

 案の定、ゆりっぺさんの咆哮。

 そして先と同じように天使が席を立ち、音無くんが弁解に行くという変わらない流れとなるのだった。

 こうして怒涛の休み時間が終わり、次のテストが始まる。

 あたしは席に座りつつ、考える。

 もしかして、次は天使の後ろの席にいるあたしに順番が来るんじゃないだろうか。

 段々順番が、近い席順に従って近付いてきているような……

 あたしは自分の席にも推進ロケットが付いているのではないかと、辺りをさりげなく探っていた。

 

 

 「はい、後ろから集めて」

 テストも終わり、教師がその言葉を告げる。

 次の瞬間、大山くんが突然席を立った。

 「立華さんッ!」

 顔を真っ赤にして、大山くんは彼女の名前を必死になって叫んだ。

 「こんな時に場所も選ばずにごめんなさいッ! ずっとあなたのことが好きでした! 付き合ってください…ッ!!」

 大山くんの渾身の告白絶叫。

 さぁ、天使の答えは――――?

 

 「じゃあ、時と場所を選んで」

 

 教室に下りる寂しい静寂。

 大山くんの告白は、見事に一刀両断された。

 「そこ、座れ」

 「……はい」

 フラれた大山くんは素直に席に座った。

 やっちゃったと思いながら、あたしは大山くんの方を気の毒そうに見詰める。大山くんは見事に撃沈していた。あれは相当のダメージが大山くんに与えられただろう。

 「あーあ、やっちまった。と……」

 その瞬間、またしても日向くんが華麗に飛んだ。

 「ぬはぁぁッッ!!?」

 そして天井に頭をめり込ませながら激突。

 本日二度目に飛び上がった日向くんは、突き刺さった天井からぶらんと身体を投げていた。

 

 

 「こらこら待てぇぇぇッッ!!」

 「何よ、寄ってこないでよ」

 ゆりっぺさん、やっぱり何かと酷いわね。

 「なんで大山じゃなくて俺が飛ばされるんだよッ!」

 そう、何故か大山くんではなく日向くんがまた飛ばされたのだ。ちなみに、嗚咽を漏らしている大山くんは音無くんに肩に手を置かれて慰められている。

 「大山くんは既に精神的に大きなダメージを負ってるじゃない」

 「だからって何で俺がまた飛ぶことになるんだよッ!」

 頭をぼろぼろにした日向くんが抗議を繰り返すが、ゆりっぺさんは意にも返さずに。

 「それより皆、おっ昼にしましょ♪」

 可愛く言ってのけた。

 おかげで周囲は呆然と黙り込むしかなかった。

 

  ―――学習練A練 屋上

 あたしたちは屋上の蒼い空の下で、お昼を広げていた。そしてお昼と同時に、午後の作戦会議が行われた。

 「はぁ。 飛ばされて天井に衝突して、あと何回こんなのが続くんだ」

 「テスト期間中、ずっとよ」

 「またかよ! 明日はメンバー変えようぜッ!?」

 「駄目よ。 だって松下くんやTKって重そうだもの」

 「軽いからって俺たちを選んだのかよッ!?」

 「……明日も告白させられるのかな」

 「今度は下も脱ぐか……」

 日向くんやゆりっぺさんたちがお昼を食べながら何かと言い合っている近くで、あたしと音無くんは今回の作戦について、協議していた。

 「ねえ、音無くんはどう思う?」

 「何をだ?」

 グラウンドの方の柵に背後を寄せながら、あたしはゆりっぺさんたちのやり取りを見ながら問いかけた。音無くんはグラウンドの方に顔を向けたまま、言葉を返してくる。

 「今回の作戦」

 「……そうだな」

 音無くんは何かを考えているような横顔を見せていた。あたしの勘通り、音無くんも今回の作戦について、色々と考えていたようだった。

 「作戦自体は完璧だ。 けど……」

 「けど?」

 「―――これで、何かが変わるのだろうかってことは、思う」

 「確かに……ね」

 はっきりと言ってしまえば、今あたしたちがしていることは、いつもと変わらないどたばた騒ぎ。

 「結局、いつものように俺たちが一方的にどたばたと騒ぎ立てて、そして、いつものように落ち着きを取り戻していく。 そんな気がするんだ」

 「……………」

 あたしは、今もこうして騒いでいる彼らを見詰める。

 いつもと変わらない光景。

 でも、あたしたちが今していることは、果たしてどんな結果を生むのだろうか。

 結局大して変わらない。

 そんな結果とも言えなさそうで、むしろそれらしい結果になるのか。

 何かが、変わることを、あたしたちは望んでいるのだろうか。

 そんな気が、あたしには感じた。

 「午後もあるんだっけか」

 「あるわよ」

 「もう俺が飛ぶのはごめんだぜッ!? これじゃあ俺が一日中飛ぶ羽目になっちまうッ!」

 「……って言っても、後残ってるのは音無くんと沙耶ちゃんぐらいだし。 さすがに女の子にあんな真似はさせられないから……音無くん、いいかしら?」

 「……ま、そうなるか」

 音無くんは事前に想像していたのか、溜息を吐きながらもあっさりと了承していた。

 でも―――

 「いいえ、待って」

 皆の視線が、一斉にあたしの方に向かれる。

 「今度はあたしが、やるわ」

 あたしのはっきりと言い放った言葉に、ゆりっぺさんをはじめ、その場にいた全員が驚きを隠さなかった。

 あたしは天井に向かって飛ばされるようなリスクを背負った任務に、自ら志願したのだった。

 

 

 「ゆりっぺ……本当にいいのか?」

 「し、仕方ないじゃない。 沙耶ちゃんがやりたいって言うんだから」

 「もし失敗したら、俺たちのように飛ばされるのか?」

 「……………」

 既に席に付いている沙耶を、俺たちは遠くから見ていた。

 今度は俺がやる番だったはずなのだが、何故か沙耶が自ら立候補して、今に至る。残りの午後のテスト、沙耶はどんなことをして見せるのだろうか。

 「(何をする気なんだ、あいつ……)」

 俺は沙耶の考えていることがさっぱりわからなかった。

 やっぱり俺が代わろうかとさっきも言ってきたが、沙耶は頑としてそれを受け止めることはなかった。

 「よし、席に座れー」

 教師がチャイムの音と共に教室に入り、教壇に向かう。俺たちは仕方なく、沙耶に任せることにして各々の席へと戻った。

 沙耶が何を仕出かすのか、俺はこの時、まさかあんなことになろうとは、まったく想像していなかったのだった。



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EPISODE.18 Small Doubt

 午後のテストが始まった。周りは既に手を動かしているが、当然俺たちはまともにテストを受けていない。最初は、危うく真面目に受けそうになってしまったが、その時の俺は、記憶が無いはずなのに何故か問題がすらすらと解けた。ゆりの忠告を思い出して、答えを消したが、もしあのまま全問回答していたら俺も消えていたのかもしれないな。

 俺はチラリと、天使……立華の方を、そして沙耶の方を一瞥する。真面目にテストを受けている立華の後ろの席にいる沙耶は、さっきからずっと黙ったままで、何も目立った行動は見せなかった。

 何を考えているんだろうな、あいつは。

 沙耶の視線は、ずっと立華の方のままだ。真後ろの席だから、前を見れば立華ばかりを見てしまうことになるのは理解できるが、それにしても、沙耶のその瞳は、ただ立華を見ているだけではないように見えた。あの目は、何か考えごとをしているかのような感じだった。

 「……………」

 机の上に膝を乗せ、手に頬を預けてぼーっとしている。

 やっぱり、何を考えているのか全然わからない。むしろ、ただぼーっとしているだけのように見えるが、沙耶のことだから何か考えがあるのだろうな、と思いたい。

 結局、テストの間は目立った動きは見せずに終わった。チャイムが鳴り、教壇に立つ教師が用紙を集めるように言う。答案用紙が全ての列の前に集まった時、それは起こった。

 ふと異変を感じて、俺は沙耶の方を見た。

 その時、沙耶はふらりと、身体を傾けさせていた。

 

 えっ? ちょっと待て。

 

 あのままだと――――

 

 案の定、沙耶はそのままばたーんと椅子から教室の床に倒れていった。その瞬間、教室中からどよめきが生じ、教室にいる者のほとんどが倒れた沙耶に注目が集まった。

 そりゃあ生徒が倒れれば、注目されるのは当然だ。さすがに教師さえも驚いている。俺たちだって驚きだ。

 沙耶、何をしているんだ?

 床に倒れた沙耶に、一番近くにいた、前の席に座っていた立華がそっと近寄っていた。立華は周りのどよめきにも関わらず、落ち着いた様子で沙耶に声をかけていた。ここからは立華の声が小さすぎて、しかも周りの生徒たちのどよめきのせいで聞こえないが、おそらく大丈夫?とか、そんな言葉を投げかけているのだろう。

 騒ぎ始めた教室に、教師が落ち着くよう言いながら、倒れた沙耶の方に歩み寄った。

 「誰か、保健委員は……」

 教師は保健委員を呼ぶ。多分、沙耶を保健室に運ばせる気だろう。

 だが、そんな教師に立華が何かを話しかけている。

 俺は思わず、席から離れて沙耶のもとに向かっていた。

 現場に近付いたために、立華が何を言っているのかはっきりと聞こえるようになった。

 「私が連れ添います……」

 「!」

 立華は教師にそんな提案をしていた。立華が生徒会長だという立場を理解しているからか、教師も立華の言葉を了承した。保健委員ではないが、俺もすぐさま前に出た。

 「俺もいいですか」

 「立華さんはともかく、ここは本来、保健委員が連れ添るのが通常ですが……そうですね、男性のあなたなら彼女を保健室まで運び出すこともできますね。 良いでしょう、彼女を保健室まで運んであげてください」

 「はい」

 俺は、きっと演技だと思いつつも、本当の病人を扱うように沙耶に声をかける。

 「沙耶、大丈夫か?」

 「……ええ」

 病人っぽく、覇気のない声だ。見事な演技力だな。

 「……手伝うわ」

 「助かる」

 あまり動けない(らしい)沙耶を俺の背中におぶらせるために、立華も手伝ってくれる。こうして、俺は沙耶を背負って、ゆりや日向たちの視線を背後に感じながら、立華と一緒に教室を後にした。

 

 

 俺は立華と並んで、保健室までの道筋としての廊下を歩いていた。背中に沙耶を背負いながら。

 やれやれ、多分演技とは言え、俺が沙耶を背負うことになるとは。

 他人を、それも同世代の女の子を背負ったことなどしたことがない……と思う。元々記憶が無いけど。

 でも、何故か俺は誰かを背負ったことがあるような……そんな感じがした。

 どうしても、思い出せないが……その断片的な唯一の記憶は、とても大切なもののような気がした。

 それにしても、沙耶を背負ってみると、重くも軽くもなく、柔らかい体温が感じられる。女というのはこんな感じなんだなと思わされる。人それぞれかもしれないが。

 沙耶の温もりが背中越しに感じられ、ついでに柔らかな感触が触れているような気がして仕方がないが、そこはあえて気にしないでおこう。

 バレると、沙耶に殺されかねないしな。

 「……………」

 「え? 何か言ったか、立華」

 俺は隣で立華が何かを言ったような気がして、問いかけてみた。

 立華は小さく口を開き、その言葉を紡いだ。

 「……ありがとう」

 「……なんで、立華がお礼を言うんだ?」

 「だって、彼女をおぶってくれているから。 私には無理だもの」

 「ああ……そういうことか」

 確かに、どちらかといえば小柄な立華の身体では沙耶を保健室まで連れていくのは一苦労だろう。俺が見た保健委員も女子だったしな。どちらにせよ、男の俺が出ていなくては、沙耶を保健室まで運ぶのは無理だっただろう。

 「気にしなくていい。 沙耶には俺ぐらいしかいないしな」

 「……彼女は、友達がいないの?」

 「うっ」

 直球か。案外、毒舌な所があるのかもな。

 見かけによらず。

 「あなただけ?」

 「ま、まぁ……そんな所だ」

 沙耶の奴、聞いてるだろうな(演技だし)

 俺の背中で怒ってるのかもしれない。

 後ろのことを思うと、同時にまた柔らかな感触も思いだしてしまうため、やっぱり頑張って気にしないでおこう、うん。

 「そう……」

 「……………」

 それを境に、会話は途切れた。

 沙耶には俺ぐらいしかいない。

 以前までなら、はっきりとそれが言えただろう。

 でも、最近の沙耶はあの球技大会以降、戦線の他の奴らとも少しずつ打ち解けているみたいだから、今の場合で言うと、さっきの言い方はそこまで正しくはないのかもしれない。

 俺の他にも、ゆりや日向たち、戦線の仲間たちがいるんだ。

 少なくとも沙耶は一人じゃない。俺がいるし、戦線の仲間たちもいる。

 改めて、俺と沙耶の周りには多くの仲間がいることを気付かされていた。

 「……………」

 そう、俺や沙耶には戦線の仲間たちがいる。

 でも―――

 

 彼女は、どうなんだろう。

 

 俺は隣を歩く立華を一瞥する。

 彼女にも、俺たちのような仲間たちがいるのだろうか。彼女にも、友達はいるのだろうか。生徒会長という立場上、生徒たちの信頼も集めている彼女なら、きっと友達もいるのかもしれない。少なくとも、生徒や教師からは信頼を集めている。

 でも俺たちは、そんな彼女を徒会長という座から突き落とそうとしている。

 そうなったら、彼女はどうなるのだろうか。

 彼女は、どんな存在なのか。

 俺はどうしても、彼女を見ていると微かな寂しさが垣間見える気がする。ただの自惚れかもしれないが、俺は立華が、この世界で、本当に天使と呼ばれるほどの高みの存在であるのだろうかと、思う。

 彼女の“孤独”が見えているような気がする。

 この世界での彼女とは、立華とは何なのだろうか―――?

  

 「着いたわ、ここよ……」

 気がつくと、既に保健室が目の前にあった。立華が保健室の扉を開ける。華に、ほのかな薬の匂いがつく。

 「? どうしたの?」

 「あ、いや……ごめん。なんでもない」

 俺は少しだけ慌てて、沙耶を背負ったまま保健室へと足を踏み入れる。その後を立華が続き、保健室に入った俺たちは、沙耶をベッドに寝かせつけた。

 本当に眠っているのか知らないが、ベッドに寝かせつけた沙耶は瞳を閉じたまま動かなかった。

 保健室の先生はいないらしく、ここにいるのは俺と沙耶、そして立華の三人だけだった。

 「……貧血かしら。それとも、テスト勉強での寝不足?」

 「かもな……」

 テスト勉強なんかしていないだろうから、その線は少なくとも間違いだろう。

 これ自体、嘘っぱちなんだけどな。

 「!」

 立華は椅子を持ってくると、沙耶のそばに椅子を置き、座りこんだ。寝ている沙耶の横で、立華はじっとしている。

 「ああ、立華。 後は俺が見ているから、お前は教室に戻ってくれよ」

 「でも……」

 生徒会長として、一人の生徒も放っとけないってことだろうか。

 「……ありがとな。 俺一人で十分だから、立華は戻ってくれ。 テストがまだ残ってるし」

 「あなたも……」

 「ああ、俺は最初から諦めてるからいいんだ。 でも立華は必死にこの日のために勉強してきたんだろ? ここは俺が見ておくから、立華は次のテストが始まるまでに戻っていてくれ」

 よく俺がこんなことを言えたもんだと思う。俺たちが邪魔しようとしているというのに。

 自分が悪人のように見えて、思わず心の内で自嘲してしまう。

 「……………」

 立華は本当に心配そうな表情をしていたが、やがて「わかったわ……」と頷いてくれた。

 「それじゃあ、彼女をよろしくね……」

 「ああ、任せとけ」

 「……うん、それじゃあ……ッ?」

 その場を立ち去ろうとした立華の手を、それは掴んで、彼女を引き止めていた。その手を掴んでいたのは、ベッドの中で目を開いた、沙耶だった。

 「沙耶……」

 沙耶が目覚めていたことに気付いて、その場を立ち去ろうとして引き止められた立華は、沙耶の方に振り返った。

 「調子はどう……?」

 本当に心配しているように、沙耶に小さくも優しげに声をかける立華。

 対して、沙耶はやはりいつもと変わらずぴんぴんしている。

 「平気よ」

 その言葉はまったくその通りなんだろう。

 だが、沙耶の調子はいつもとは違った。真剣な表情が、その内にある瞳が、立華の方を射抜いていた。

 「……立華さん、ちょっと変なことだけど、聞いてもいいかしら」

 「なに……?」

 俺は違和感を覚える。

 沙耶、何をする気なんだ?

 沙耶の考えが見えない俺は、そのまま彼女らのことを傍観していた。そして、沙耶はベッドから立華の方をまっすぐに見据えながら、率直に口を開いた。

 「―――あなたは、天使なの?」

 俺は、その言葉を聞いて既視感を覚える。

 似たような状況が、俺にもあった。

 立華が次に答える言葉を、俺は知っていた。

 その返答を、俺も聞いたことがあるからだ。

 

 「……私は天使なんかじゃないわ」

 

 それは、まったく同じ答えだった。

 それを聞いて、沙耶は反応を見せず、じっと鋭い視線で立華を見据えている。

 立華も、じっと沙耶の方を見据えている。

 奇妙な時間が流れていく。

 沙耶、お前は一体何がしたいんだ?

 俺は心の中で、沙耶にそう問いかけていた。

 奇妙な沈黙が続く中、その時間がどのくらい続いたのかわからない。沙耶が「…そっ」と小さく溜息と共にそれを漏らした時、その時間は終わりを告げた。

 「ごめんね、変なこと聞いて」

 「ううん……」

 立華は小さく首を横に振る。

 「前にも似たようなことがあったから、気にしないわ……」

 俺は微かにぎくりとする。

 「心配かけてごめんなさい。 あたしは大丈夫だから、立華さんは教室に戻って頂戴」

 「……わかった。 お大事に、ね」

 「ええ、本当にありがと」

 その時、沙耶はニコリと微笑み、そして立華も小さく首を傾げながら、微笑んだ。

 立華は小さく手を振ると、保健室を後にした。

 立華の足音が遠ざかり、それが聞こえなくなると、授業開始のチャイムが鳴り響いた。チャイムが鳴る中、保健室には俺と沙耶の二人だけが残っていた。

 「しかし驚いたよ。 いきなり倒れるもんだからな、さすがに少しびびった」

 「あら、心配した?」

 「……ちょっとな」

 「ふふん、素直に言いなさいよ」

 やっぱりさっきのは演技みたいで、沙耶は全然いつもと変わらない調子だった。

 「にしても……なんであんなことしたんだ? まぁでも、中々よく考えたもんだな。 あんなことになれば、周りは絶対に注目するだろうし、しかも自分は教室から出られるわけだから、飛ばされる心配もないもんな」

 そう言い、俺はははっと笑う。

 「別に……そんなつもりじゃなかったんだけどね。 ただ、彼女に聞きたいことがあっただけよ」

 「……さっきの、か?」

 俺の問いに、沙耶は真剣な表情でコクリと頷く。

 「あの言葉を聞いただけで、十分よ」

 

 ―――私は天使なんかじゃないわ―――

 

 「……………」

 俺にとっては二回目に聞いた言葉。

 俺が初めてこの世界にやってきた日、俺はゆりの言葉が信じられなくて、立華の前に出て、彼女に天使のことを話したんだっけ。

 そして、彼女はさっきと同じことを俺に言った。

 私は天使なんかじゃない、と。

 確かに天使というのは、俺たちの方が一方的にそう呼んでいただけだ。

 実際、彼女がどんな存在なのか、ゆりでさえわからない。要は誰も知らないんだ、彼女の正体は。

 「天使なんかじゃない、か……」

 俺はボソリと言ってみる。

 沙耶はじっと俺の方を見詰めていたが、ふっと逸らすと、ベッドから足を床に投げ出した。

 「あれがきっと、あたしたちの考える問題に対する、彼女の答えなのよ」

 「……なに?」

 何故か、沙耶の言葉が聞き捨てならないような気がした。

 「どういうことだ……?」

 「そのまんまの意味よ」

 沙耶はベッドから這い出て、床に足を付けてすっくと立ち上がる。金色に流れる長髪が揺れる。

 「あたしたちは、飛んだ茶番をしているのかもしれないわね」

 「沙耶……?」

 沙耶の瞳は何かを見つけたような、鋭い光を宿した真剣なものだった。

 俺は沙耶が何を導き出したのか、わからないでいる。

 それは、俺は沙耶にそれを教えてもらうべきなのか?

 「沙耶、一体……」

 「ねえ、音無くん」

 沙耶が、俺の方を見る。

 その鋭い、真摯な、海のような蒼い瞳で。

 「あたしたちは、この世界で何を求めているのかしら」

 「……………」

 「何に、導かれているのかしら」

 「沙耶、何を言っているんだ……?」

 沙耶は、それ以降口を開くことはなかった。

 そして俺も、それ以上沙耶に追求することはなかった。

 

 こうして、あっという間にテスト期間が終わり――――

 俺たちの周りの環境が、確かに変わった。

 それは、やがて俺たちが想像もしていなかったような、予想以上の劇的な変化になるなんて、俺たちはまだ知る由もなかった―――



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EPISODE.19 Angel or Man?

 テスト期間が終わったある日のこと。俺は沙耶を探しに、学校の奥に来ていた。

 教員練とあって、教師連中がいる職員室が主な場所だ。だからこそあまり訪れる機会がなかったのだが。

 前から言っているが、俺は沙耶が普段どこにいるのか何故か知らない。沙耶の方から現れない限り、俺は沙耶と会うこともできない。

 この場合だと、俺の方から用がある場合、沙耶に会おうとするのは一苦労だ。何せ無駄に広いこの学園中を探しまわる羽目になるからな。

 俺が沙耶を探す理由。

 それはテスト期間中にあった、あの時の件だった―――

 沙耶があれ以来、何を考えているのか。俺にはいくら考えてもさっぱりわからなかったが、本人に直接聞いた方が早い。作戦が行われたテスト期間は終わり、俺は沙耶と今後のことで色々と聞くために、こうして沙耶を探しに回っている。

 何を聞くのかって?

 さて、俺は沙耶に何を聞きたいんだろうな。

 いや、聞きたいことは最初からわかっている。

 それは簡単なことだ。

 そして沙耶がそれに対してどう答えるのか、それで沙耶の考えがわかると思う。

 「あ……」

 珍しく、俺は沙耶を見つけることができた。

 沙耶はまるで本物のスパイのように姿を見せないものだから、見つけ出すことができるのは滅多にない。情けない話だが、俺はここで珍しく沙耶を簡単に発見できることが叶った。

 「沙耶!」

 俺は曲がり角のそばに立つ沙耶のもとへと駆け寄る。

 「沙耶、捜したぞ。 って、一体何をしているんだ?」

 「……音無くん」

 やけに沙耶が真剣な表情で、俺の方に振り返った。沙耶の鋭く、綺麗な蒼い瞳が俺の顔を水面のように映す。

 「あたし、さっきここを通りかかる時に、立華さんが教師に呼ばれて職員室に入っていく所を目撃したの」

 「立華が?」

 立華が教師に呼ばれて職員室に?

 生徒会の関係か何かだろうか。しかし、沙耶の表情から察するに、そんなものではなさそうだ。

 「……何で立華が」

 「あたしが見た所、立華さんを呼んだ教師の顔は何だかご立腹みたいだったわよ。 これ、わかる? 音無くん」

 「……………」

 ということは、教師は何か立華に対して怒りを持って呼びだすほどの理由があったということだろう。

 いや、もしかしたら理由は立華ではなく……

 「まさか、俺たちのせいで?」

 「多分、その可能性は大いにあるわね」

 俺たちはテスト期間中の間、すべての教科において、立華のテスト妨害を遂行してきた。

 飛んだり錐揉みしたことは数知れず。特に日向に限っては、飛んだ回数で表すとあいつがダントツで首位を獲得したことだろう。終いには窓の外まで飛び去っていたぐらいだからな。

 「もしあたしたちの作戦が成功したとすれば、彼女の受けた教科は全て零点になったことになる。 いいえ、あたしたちの作戦は完璧だったから、その可能性は絶対的に大きいわ。 きっと、彼女は全教科が零点になったことで教師に呼び出されたのでしょうね」

 俺はごくりと生唾を飲み込む。

 まさか、本当に俺たちのやったことがこんな結果を生み出してしまうなんて。

 「しかもあたしたちがすり替えた解答は、すべて幼稚な子供が大人に向かって馬鹿にしたような解答ばかり。 赤点ならまだしも、更に教師を馬鹿にしたような解答だったら、教育的指導に走るのは当然でしょうね」

 「でも教師は、立華自身の仕業ではなく、誰かの仕業だってことぐらいわかるはずだろ……?」

 「そんなの教師にはわからないわよ。 生徒会長が不真面目な解答をして全教科を赤点で染め上げた……彼ら教師からして見れば、それが一つの“現実”なのよ」

 「……なら、立華自身を呼びだして叱るのは当たり前ってことになるのか」

 「そういうこと。 …あっ! 出てきたわよ!」

 俺は咄嗟に、沙耶が角から覗く職員室の方へと視線を向けた。

 そこには、職員室から退室し、静かに扉を閉める立華の横顔があった。

 立華は黙々と職員室前から、俺たちの方へとゆっくりと歩いてくる。相変わらずの無表情だが、何故かいつもとは違う様子な気がした。

 「立華、どうした。 何かあったのか?」

 「……何も」

 立華は一言、そう返しただけで、俺と沙耶の前を通り過ぎてしまった。俺と沙耶は立ち去っていく立華の背中を見送るが、どうしてか、その時に見た立華の背中が寂しそうに見えた。

 「……間違いないわね。彼女、随分と落ち込んでたわ」

 「えっ。 よくわかったな、お前……」

 いつもと変わらず無表情だったが、どこかいつもと様子が違う気がしたのは俺も感じた。

 だが、落ち込んでいるとか、そこまでわかったのは沙耶だけだ。

 「スパイの観察眼は舐めるんじゃないわよ。 それくらい朝飯前よ」

 「そ、そうなのか……」

 本当にスパイなのか?と疑いたくなるが。

 だが、それより立華が落ち込んでいるのが事実だとしたら……

 「俺たちが考えていたことは当たりだったってことなのか……?」

 「そのようね。 思った通り、彼女はテストの件で教師に職員室まで呼び出されて怒られたって所ね」

 「立華は、弁解したんだろうか……?」

 「さぁね」

 沙耶は肩をすくめ、嘆息を吐く。

 「全教科だしね。 全教科の教師にどう弁解するのよって話よ」

 確かに……

 弁解するとしても、並み大抵のことじゃなさそうだ。

 「教師からして見れば、一人きりの叛乱ってところかしらね」

 俺は、今の沙耶が言った一つの言葉に引っ掛かる。

 “一人きりの叛乱”

 それを心の中で呟いた時。

 俺は、先程の寂しそうに一人で歩く立華の姿を思い浮かべていた―――

 

 「そういえば音無くん、あたしに何か用があったんじゃないの?」

 そうだ。俺は沙耶を探しにここまで来たんだ。

 「あ、ああ。 そうだった……」

 俺は沙耶の方を見据える。沙耶の瞳は吸い込まれそうなほどの蒼い瞳で、それはまるでサファイアの宝石のようだった。吸い込まれそうな瞳を、俺は真っ直ぐな視線で見据えた。

 俺の視線を察してか、沙耶も真剣な表情になる。

 俺は、一つ気になっていたことを、口にした―――

 「沙耶は、立華のことをどう思っているんだ……?」

 「……それは、どういう意味かしら」

 「立華が、どういう存在なのかってことだ」

 沙耶は、あの時―――立華に問いかけた。

 

 ―――あなたは、天使なの?―――

 

 それに対して、立華は淡々と答えた。

 

 ―――私は天使なんかじゃないわ―――

 

 それは、俺も既に一度は聞いたことのある答えだった。

 それを、沙耶が聞き、俺はまた同じ答えを聞くこととなった。

 だが、俺はここで改めて考えさせられる。

 俺がその言葉を聞いたのは、この世界に来てまだ間もない時だった。だからほとんどそのことを忘れていたのだが、沙耶の問いをきっかけに、同じ答えを聞いたことで、俺は再びその言葉を思い出すことになった。

 俺は、神が本当に存在するのか。

 天使という存在も実在するのか、以前は気になっていたことがある。

 だが戦線のあいつらと色々と絡んでいくうちに、いつしかその疑問を俺は忘れていった。

 沙耶のおかげで、俺は再びその思いを思い出すことができたんだ。

 こいつは、沙耶は、俺が忘れていたことを、ずっと思い浮かべていたんだ。

 この世界のことを。

 天使という存在のことを。

 「……………」

 真剣に見詰める俺の視線を真正面から受け止め、沙耶はじっと俺の瞳を見据えていたが、やがてふぅ、と嘆息を吐くと、腕を組んで口を開いた。

 「あたしが思うに―――彼女は、立華さんもまたあたしたちと変わらない“人間”だと思うわ」

 「……俺たちと同じ人間、か」

 「ええ。 そもそも、彼女自身が最初からきっぱりと言ってるもの」

 確かに。

 俺はこの世界に来た直後、まだ何もわからない俺にゆりたちは天使がどうとか言っていたせいで、俺は立華を本物の天使と思い耽っていた節がある。

 だが、既に立華は最初から俺に言っていたんだ……

 

 私は天使なんかじゃない、って―――

 

 でも。

 だとしても、彼女が天使ではないと認めてしまった場合。

 俺たちが今まで立華に対してやってきたことも、否定してしまうことにも繋がるんじゃないのか。

 これ以上考えると、俺たちのしてきたことはつまり……

 「でも、本当のことは誰にもわからない」

 「―――ッ?」

 沙耶が、腕を組んだまま背を壁に預け、顔を微かに上げて、遠くを見据えるようにぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

 「彼女が一体何者なのか……それ自体は解明されたわけじゃない。 天使なのか、人なのか、それこそ神にしかわからない事実。 もっとよく彼女のことを知ることができなければ、真実がわかるはずがない」

 「沙耶……」

 沙耶の言うことも妙に説得力があった。

 だが、俺も薄々は気付いていたのかもしれない。彼女が俺たちと変わらない存在であることを―――

 でも、真実は誰にもまだわからない。現時点においては、神にしか知りえないこと。

 それは、まだわからないというだけ。

 「彼女のことを知れば、いずれわかるわよ」

 「……?」

 ふと、沙耶の言葉が妙に引っ掛かった。

 微かに笑みを浮かべている沙耶の横顔を見て、俺は違和感を感じる。

 「沙耶、一体……」

 ―――何をするつもりだ?

 俺は思わず噤んだ口の奥で、そんな言葉が出かけていた。

 俺が沙耶に何を聞くって言うんだろうな……

 

 そして―――

 

 それは、全校集会で語られた。

 かつてはガルデモの陽動ライブも開かれた広い体育館に全校生徒が集っていた。全校集会という名目の中で、生徒たちの前で校長自らが直々にそれを発表した。

 「―――というわけでありまして、立華奏さんは本日を以て生徒会長を辞任。 つきましては、副会長の直井君が、生徒会長代理として……」

 校長の左右隣にはそれぞれ、立華と直井という生徒会首脳二人が立っていた。会長の座から下ろされた立華に代わって、一方の直井という副生徒会長が代理を務める格好となっていた。

 「辞任じゃなく、解任ね」

 「ゆりっぺ……」

 今やって来たらしいゆりの言葉に、その場にいた俺たちがゆりに注目した。

 「果たして一般生徒に成り下がり、大義名分を失った彼女にあたしたちを止められるかしら」

 不敵な笑みを浮かべながら、ゆりは言った。

 そしてここぞとばかりに、ゆりは続ける。

 「今夜、オペレーション・トルネード決行よ」

 生徒会長から一般生徒に成り下がった立華が、再び行動を見せる俺たちにどういった対応を見せるのか。その意味としても確かめるために、今夜はオペレーション・トルネードが決行されることが決まった。

 でも、この先俺たちの身に何が起こるのか、この時は誰も予想していなかった。俺でさえ。だが、普段から何かを察していたらしいたった一人を除いては―――



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EPISODE.20 You and I

 時は少し前に戻る。

 テストが始まって、ゆりが選りすぐれた対天使成績撃墜チームが、椅子ごと吹っ飛んで頭を天井にぶつけたりと、色々と破天荒な戦いぷりを披露している頃。

 それ以外のメンバーは作戦に参加することは特になかった。作戦はゆりたちメンバーがそのままの面子で続けて遂行していたので、他のSSSの隊員が本作戦に直接関わることはなかった。

 一方、陽動部隊としてSSSの期待を背負い、そして一般生徒からも高い人気を得ているガルデモは今度のライブの準備が行われていた。

 岩沢に代わって新たな二代目ボーカルとして加わったユイの、新生ガルデモの初めてのライブであるために、ガルデモ内では僅かな緊張感が漂っていた。

 特に初めてのライブデビューとなるユイ自身が、緊張やら責任やら、様々な圧力(プレッシャー)を背負っていたのは言うまでもなかった。

 

 「ん~~~~~~」

 誰もいない空き教室の真ん中で、私は胸の前で腕を組んで、難しい表情で唸りをあげていた。

 私の目の前には、ベースを担当するひさ子さんから渡された楽譜があった。そこにはただ、何も語らない無口の曲が一つ、書かれているだけだった。

 「あ~~~~~。 思いつかないぃぃぃ」

 その楽譜は一応曲は大体出来上がっているのだが、歌詞がまだ無いのだ。

 今度のライブは私の初めてのライブでもあることもあり、新ボーカルを加えた暁に新曲も用意されていた。そして今度のライブまでに、私はこの曲の歌詞を全面的に任されることになった。

 岩沢さんは今まで歌詞も自分で作っていたことは知っていた。だから、その岩沢さんの位置に立つ者として、私は岩沢さんのボーカル兼ギターというポジションを引き継ぐためにも、この試練を乗り越えなければならなかった。

 陽動部隊の下っ端をやってきた頃から、岩沢さんへの憧れのために密かに練習していたため、ギターは人並みに弾けるし、歌も十分歌えるほどの力はあった。こんな私を受け入れてくれた皆のためにも、私は岩沢さんやひさ子さんたちに恥じない姿を見せなければならない。

 でも、早速大きな壁にぶち当たった。ギターは弾ける、歌は唄える。でも、歌詞を書くのは初めてだ。

 「はぁ……こんなんじゃ駄目じゃん、私」

 皆を裏切るためにはいかない。

 駄目でも、難しくてもやらなくちゃいけないんだと自分に言い聞かせる。

 改めて、岩沢さんはやっぱり凄いなと思い知らされる。

 そして、あの日、岩沢さんが消えた時のことを思い出す。

 教師たちに追い詰められ、辺りが静まるほどの美しい曲を歌う岩沢さんの姿。私は周りと同じように岩沢さんに惹かれ、その歌声に耳を静かに傾けていた。頬に伝う涙も、構わずに。

 そして―――岩沢さんは、消えた。

 思い出すと、またあの時の気持ちがこみ上げてきそうだった。

 でも、私は泣かない。

 今、私が立っている場所は、かつて岩沢さんが立っていた場所だ。

 これくらいで根をあげてたら、岩沢さんに笑われる。

 岩沢さんは、本当に凄い人だった。

 私も、ずっと憧れてたんだもん。

 岩沢さんは歌詞も書いていた。

 だったら私も、頑張らなくちゃ―――

 「―――うんっ」

 私は椅子からガタンと音を立てて立ち上がると、楽譜を持って教室をあとにした。

 外に出てぶらついていれば良い歌詞も思いつくかもしれない。

 私は授業開始の合図であるチャイムが鳴り響く廊下から、外に向かって駆けていた。

 

 今はテスト期間中ということもあって、学校中は静かだった。グラウンドには体育の授業をしている生徒の姿もない。シンと静まった世界で、私は一人、無駄に広い学園の敷地内を歩いていた。

 こんなので、良い歌詞が思いつくのかな……

 とりあえず、私は歌詞が頭の中に思い浮かぶまで、学園中を歩き回ることにした。

 

 やがて、私はある校舎のそばに来ていた。そういえば、ここの辺りは先輩たちがいる教室ではないかと思い至ったとほぼ同時に、いきなり私の耳に衝撃に近い悲鳴と轟音が襲った。

 「うひゃッ?!」

 私はビクリと肩を震わせていると、突然、校舎の窓から何かが勢い良く飛び出してきた。窓を突き破って空に描かれた噴煙を見て、一瞬ロケットかと思ったら、弾頭をよく見てみるとそれは椅子にお尻を貼りつけた人間だった。

 余りの衝撃的映像に、さすがの私も呆然となった。人間ロケットはどこかで聞いたことがあるような悲鳴を残していくと、そのまま中庭の茂みへと落下した。

 爆発のような音が落下地点から響き渡る。私は慌ててその落下地点へと駆け寄った。

 もくもくと茂みから煙が昇っている。まるで本当にロケットが着弾したみたいな光景だった。それでも私はそれがロケット以外のものであることに気付いていた。おそるおそる茂みを覗きこむと、そこには、クレーターの中心にぼろぼろの姿で仰向けに転がっている日向先輩の姿があった。

 「おおうッ! やっぱりひなっち先輩じゃないですかッ!」

 「ユ、ユイか……」

 不思議なことにまだ意識があるらしく、息も絶え絶えながらも、先輩は反応を返してみせた。

 「……何してるんですか?」

 「俺も自分が何をしているのか知りたいぐらいだぜ……げふ」

 「?」

 瀕死状態に陥っている日向先輩を、とりあえず私はクレーターから引きずり出してあげた。

 

 

 「……ん」

 「あ、ようやくお目覚めですか先輩」

 目を開けると、俺の視界に一番にユイの顔が映った。どうやら、俺は今まで意識を失っていたらしかった。まぁ、無理もない。何せゆりっぺの滅茶苦茶な作戦のおかげで、椅子ごと窓から外に吹っ飛ばされたんだからな。

 「……ん?」

 ふと、俺は違和感を覚えた。俺の視界に入るユイ。俺の身体はまだ起き上がっていない。そして後頭部に感じる、微かに暖かくて柔らかな感触。

 これは……

 「……………」

 俺は理解したが、特に反応は現さなかった。

 ユイはやけに嬉しそうな表情をしている。こんな顔もするんだなとなんとなく思う。

 別に嬉しかねえが、俺はユイに膝枕をしてもらっているみたいだった。後頭部に感じる暖かな柔らかさはユイの膝だろう。そんなことは容易に想像ができた。まず俺自身の辺りの環境を見れば一目瞭然だ。

 女の子に膝枕をしてもらうという場面(シチュエーション)は健全な男子であれば、儚い夢の一つと言えるだろう。だが、相手はユイだ。ユイのことだから、特に意識することなく天然でやっているか、それとも俺のリアクションを楽しもうとしているのか。

 まあ、どっちにしろ俺には知ったこっちゃない。もし膝枕の相手が美人のお姉さんだったら素直に嬉しかっただろうけどな。

 「先輩、死んだように眠ってるんですから……起こそうかどうしようかずっと悩んじゃいましたよ」

 ユイの言い方から察するに、俺は長い間気絶してたみたいだな。

 「俺、どれくらい伸びてた……?」

 「一時間分の授業が終わって、既に次の授業が始まってるぐらいです」

 「そっか……」

 じゃあ、今更教室に戻っても仕方ないな。

 今日のテストは今の授業で終わりだし、俺は椅子ごと校舎の外に吹っ飛んで気絶したという情けない最後で今日は閉めることにしよう。

 それにもうこれ以上吹っ飛ばされたくないしな。椅子ごと吹っ飛ぶ役は音無たちに任せよう。すまねえ、音無たち。

 ……まあ、それはいいとして。

 それにしても、何故ユイはさっきからニコニコと嬉しそうなんだろうな。

 「ど~ですか、先輩?」

 と思ったら、いきなりニヤリと笑いやがった。

 「……何がだよ」

 「とぼけないでくださいよ」

 ユイは終始ムカツク笑みを浮かべながら、言った。

 「女の子に膝枕してもらってる気分はどうですか? 男の子としてはまたとない嬉しい瞬間でしょ~」

 「……ッ」

 く、その面がムカツク…!

 「な……ふ、ふん。 何言ってるんだよ、こんな色気もなさそうな小っこい膝を枕にされても嬉しくもなんともないっての」

 「またまた、照れなくても良いのですよ。 先輩♪」

 「誰が照れて……ッッ!!」

 その時、俺は頭を撫でられるという不意打ちを受けて、思わず固まってしまった。

 目の前のユイの表情は、またニコニコとした嬉しそうな笑顔だった。

 「だって先輩、さっきから顔が赤いですよ」

 「ッッ!!!」

 ユイのありえない発言に、俺は頭が熱湯で沸いたかのような錯覚に陥る。

 俺がユイに膝枕されて赤くなってただと?

 「そ、そんなこと……」

 あるわけない、という言葉が何故か出ない。

 この時、俺は自分自身をこの手で殴りたいとこれほど強く思ったことはなかった。

 「痛いの痛いの、飛んでけ~……なんて。テヘッ」

 「!!」

 俺は、目の前のユイの可愛らしい笑顔を見て、わかった―――

 そうか、俺はやっぱりこいつを……

 「おや、もしかして更に照れましたか?」

 「それが……」

 「へ?」

 「そういう所がムカツクんだよぉぉぉぉッッッ!!!」

 「ふぎゃああああああッッ!!? 先輩先輩ッ! ギブッ! ギィィィブッッ!!」

 やっぱりこいつのこういう所がムカツクんだと改めて思い知ることとなるのだった。

 俺はベンチの上で、捕まえたユイの身体を卍固めで締め付けていた。

 

 

 折角助けた挙句膝枕してあげたのに、この仕打ちはさすがに酷いなと思う。

 背骨が折れるかと思いましたよ、うう……

 「その、ユイ……悪かったな」

 「いえ、もういいです……」

 さすがに先輩もやりすぎたと思ったのか、少しは悪びれるように謝ってくれていた。

 「というか、なんであんなことになってたんですか……?」

 私はさっきからどうしても気になっていたことを聞いてみた。

 まぁ、今回の作戦に関係したことなんだろうなということは大方想像できていますけど。

 日向先輩は今回の作戦の悲惨な過程を語ってくれた。持ち前のネタが不発すれば、ある者は椅子ごと吹っ飛んで天井に頭を強打させ、ある者は椅子ごと吹っ飛んで天井に頭を強打させ、ある者は椅子ごと吹っ飛ばされて稀に外まで飛び出すこともある。

 「何かのバラエティ番組ですか」

 「俺が知るかよ……」

 先輩は何度もダメージを受けたと思われる頭を擦りながら、唇を尖らせていた。

 「しかし窓から椅子ごと吹っ飛んで外に飛び出すとは………先輩も芸人の鏡ですねッ!」

 「芸人じゃねーよッ! そんな良い笑顔で親指立てんなぁぁぁッッ!!」

 先輩が本気(マジ)で怒鳴る。私はただそれを面白がって笑うだけだった。

 「…ったく。 毎度毎度吹っ飛ばされる身にもなれってもんだぜ。 普通の人間だったら頭割られて死んでるっての」

 「あはは、この世界で死ぬわけないじゃないですかー」

 「あははじゃねえッ!」

 先輩は見ていていちいち面白い。

 私も自然と笑みがこぼれるのは仕方のないことだ。

 「……ん? ユイ、それなんだよ?」

 「あ……」

 先輩はベンチの横部分に置いてあった楽譜に気付いたらしく、指をさして問いかけた。

 「あ、あはは。 今度の陽動ライブで歌う新曲ですよ。 ほら、私にとっては初めての陽動ライブじゃないですか。 それで、今歌詞を作ってるんです」

 「そういえば岩沢も自分で歌詞書いてたらしいもんな。 って、ユイもかよ」

 日向先輩は驚いたように、そしてどこか感心するように言った。

 でも私自身は少しだけ心が晴れない。

 「あはは、でも歌詞を書くのって思ったより大変ですね。 実を言うと、これが全然思い浮かばなくて、ユイにゃん大ピンチなわけですよ」

 「……ふーん」

 私はさっきのように笑おうとするが、思ったように出来ずに、引きつったような笑みになってしまう。

 うう、何やってるんだろ私。

 「やっぱり岩沢さんは凄いんだなって思い知らされました。 私なんて歌詞も書けない。 こんなのが岩沢さんに代わる新ボーカルなんて、笑っちゃいますよね」

 自分を虐げるように、私は言う。そして自嘲する。

 先輩は何も言ってこない。というよりは、私が一方的に話しているだけのようにも見えた。

 「やっぱり私に、岩沢さんのようなボーカルにはなれないんでしょうかねぇ」

 岩沢さんのようになりたい。

 私はずっと前から、そう思っていた。

 岩沢さんは私の憧れだった。希望だった。岩沢さんたちガルデモのライブを見て、私は彼女たちに惹かれて陽動部隊に入った。下っ端としてだったけど、憧れる岩沢さんたちのためなら、私はどんな雑務もやってきた。それが岩沢さんたちに少しでも力になれるのなら。

 正に、生きていた頃の私なら、尚更岩沢さんのような人を尊敬していただろう。かつての私は、本当に何も出来なかったから―――

 

 「そんなこと、ねえよ」

 

 目の前から降りかかった言葉に、私はハッと顔を上げた。

 いつもとは微かに、ちょっとだけ真剣な瞳で、私を見据えてくれていた。

 「岩沢に出来て、なんでお前は出来ないことになるんだよ」

 「え……?」

 先輩は呆れがちに笑って、嘆息を吐く。

 「お前、岩沢に憧れて今まで頑張ってきたんだろ? だったら、これからも同じように頑張っていけばいいじゃねえか。 何かあったら、俺も出来る範囲で助けてやってもいいぜ?」

 いつもと変わらない調子で、先輩は簡単にそう言ってくれた。

 でも、それが逆に私の心を落ち着かせた。じわじわと、暖かさが身体の芯まで染みていく。

 「俺は十分今のユイは凄いと思ってるよ。 俺には真似できない」

 「……………」

 「お前なら出来るさ。 そう思え」

 「……他人事のように言ってくれますね、ひなっち先輩は」

 でも、私の心はまたさっきの、先輩と話していた時と同じ、軽くて暖かい気持ちに満ちていた。

 そして、その気持ちが、私にふつふつと、それを沸きだしてくれた。

 「……よし」

 私は楽譜を取りだすと、鉛筆を出して書き始めた。いきなり、しかも颯爽と作業を始めた私の姿に驚いたのか、先輩は口を開いた。

 「何だ、もう思いついたのか?」

 「ええ、おかげで良い歌詞が書けそうですよ。 先輩、ちょっと待っててくださいね」

 「は? なんでだよ」

 「私が書いた歌詞、先輩に一番に聴かせてあげます」

 「……ははっ。 なんだそれ、偉そうに言ってくれるなぁ」

 「ふふ、ユイにゃんの実力とくとご覧あれですよッ」

 そして私は歌詞を楽譜に書き始めた。黙々と作業を始めた私を、先輩は本当に待っていてくれていた。

 ベンチに座り、私は黙々と思い浮かんだ歌詞を書いていく。そしてその隣には、日向先輩が静かに、放課後のチャイムが鳴ろうと、空で日が落ちようとしていても、ずっと私のそばで待っていてくれた。

 

 

 そして日がほとんど落ちて、辺りが薄暗くなり、外灯が灯した時。

 私は書き上げた歌詞の楽譜を覚えると、ギターを持って、外灯が灯す淡い光の下で立ち尽くした。

 辺りが暗くなり、外灯の光だけが私を灯している。外灯の光が私のステージに照らす光だった。そして、私の目の前、ベンチに座っているのは一人の観客。日向先輩。

 「それじゃあ、いきます」

 ギターを手に、弦を弾くためにスッと構える。

 シンと静まった世界で、私と先輩の二人だけ。そんな世界の、ひんやりとした空気を、ゆっくりと吸い込む。

 そして私は――――歌を紡いだ。

 日向先輩との時間を過ごして思い浮かんだ歌詞を、私は空気に浸透させるように歌った。

 

 

 

 ―――不機嫌そうな君と過ごして

 

 ―――わかったことがひとつあるよ

 

 ―――そんなふりして戦うことに必死

 

 ―――いつまでも 変えないで 氷のように

 

 ―――夏の陽射し暑くても溶けずにいてね

 

 ―――きっと先に 美しい氷河があるよ

 

 ―――形あるそんな心 誰だって気付けば持ってる 君も持ってる

 

 

 外灯の光だけが灯す中で、私は淡い光に照らされながら、歌を唄い続ける。

 ベンチに座る、たった一人の観客に向けて。

 静かに自分の歌を聴いてくれる、彼に向かって。

 

 

 ―――お腹が空いて歩けなくなって

 

 ―――わかったことがひとつあるよ

 

 ―――やるべきこと先送りにしてやりたいことばっかやってる

 

 ―――ご飯食べて戦う支度しよ

 

 ―――いつまでも 持ってたいよ 鋼のような

 

 ―――どんなものも通さない頑固な意地を

 

 ―――きっと今も立ちつくして守りの途中

 

 ―――行く手には 数え切れない

 

 ―――敵がいてあたしを待ってる 君にも待ってる

 

 

 私は初めて自分が書いた歌詞を読むように、唄うように、歌う。

 これが私のやりたかったことのほんの一つ。

 

 

 ―――迷った時には心の地図をあたしに見せてほしい

 

 ―――それなら行き先すぐわかるから

 

 ―――自分じゃわからないだけ

 

 

 まだまだ私がやりたいことはたくさんあるけれど。

 

 

 ―――さあさ進もういくつもの架け橋

 

 ―――いつまでも 一緒だから 恋人のように

 

 ―――夏の陽射し暑くても離れずいるね

 

 

 その内の一つだけが、ここで叶った瞬間でもあった。

 そしてそれを一番に捧げる彼に。

 私は私の初めてを贈る。

 

 

 ―――きっと先に 壮大な景色が待つよ

 

 ―――その時は溜まっていたその気持ちぜんぶ聞いてやる

 

 ―――あたしも持ってる 君にも聞かす たっぷり聞かす

 

 

 いつかこの想いも、叶えられたら良いな。

 私の、この気持ちを。

 いつかこれも聴かせてあげられる日を望んで。

 

 

 歌い終わり、私はぺこりと頭を下げる。歌い切った気持ち良さや初めての自分の歌が歌えたことなど色々な気持ちが複雑に絡まっていたが、とにかく私は拍手を贈ってくれる先輩に、照れ笑いを浮かべることしかできなかった。

 「バッチリじゃないか、ユイ。 歌、良かったぜ」

 「ほ、本当ですかッ! 良かった~~~~」

 突然身体中の力が抜けていく。

 安心感が私の心にまるごと溶け込んでいった。

 ああ、私にも出来るんだ。

 憧れた岩沢さんのように。何も出来なかった私が、また一つ、出来るんだってことが証明された。

 ぺたんと座りこんだ私は、差し伸べられた手の先を見上げた。

 そこには、先輩がいた。

 「もう暗いし、帰ろうぜ。 ユイ」

 「……はいッ」

 私は先輩の、思ったよりも大きな手を握り、先輩に引かれるままに立ち上がった。

 「今度のライブ、期待してるぜ」

 「もちろんですっ」

 ああ、今が夜で、暗くて良かった。

 ちょっと涙を浮かべて、頬を微かに朱色に染めた乙女チックな表情なんて、日向先輩には到底見せるわけにはいきませんからね。



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EPISODE.21 Expressed Feelings

 どうも。こちら遊佐です。

 戦線の中では影が薄い存在かもしれませんが、私の役目を考えればむしろそちらの方が好都合ですので、意図的にそうしていると考えてください。ええ、きっとそうです。

 何故なら私は云わば通信兵のような存在。戦線に関係する、もしくは必要な情報を伝えるのが私の使命。ゆりっぺさんから譲られたインカムは肌身離さず持ち歩いています。

 そんな私は時にゆりっぺさんのお側役、もしくは陽動班の実況ということでガルデモの方にいることも多いです。

 今日は一般生徒の噂から、立華さんが教師から職員室に呼ばれたという情報を手に、いち早くゆりっぺさんの所に極秘裏に伝えます。いつものようにインカムで、ゆりっぺさんの持つ無線機に通信を繋げる。

 「ゆりっぺさん」

 『ザザ……あら、どうしたの? 何か良い情報でも?』

 「はい。 一般生徒から聞いた話なのですが、目標である天使が職員室に呼ばれたという情報が」

 『ああ、それは沙耶ちゃんから聞いたわよ?』

 「………はい?」

 私は一瞬、ゆりっぺさんが何を言っておられるのか理解できなかった。

 『ついさっき、沙耶ちゃんと……あと音無くんも一緒にいたわね。 二人が、天使が職員室に入っていくのを見たって言いに来てね。 どうやら彼女、生徒会長を辞任させられた線が濃厚みたいなのよ』

 「……そうですか」

 なんと言うことだろう。通信兵ともあろう者が、大将への情報伝達に先を越されてしまうなんて。こんなことは今までになかったので完璧に油断していた。

 『それがどうかしたの?』

 「いえ……既にご存じであるのなら構いません」

 『あ、そうそう。 この事はまだ他のみんなに言っちゃ駄目よ。 まだ会長辞任とか、確定されたわけじゃないからね。 無駄に浮かばせたくもないしね』

 「……了解」

 私は語尾に近付くにつれて声が細くなっていくのを自覚しながらも、最後までゆりっぺさんに気付かれないように努めた。ゆりっぺさんとの通信を切ると、私はふらりとある場所へと足を向けていた。

 

 

 校舎の屋上で、私は一人、そよ風に当たっていた。

 ここは私のお気に入りの場所だ。高い所は遠くまで見渡せるし、索敵範囲も広い。情報を探すにはもってこいの場所だった。

 それと同時に、ここに吹き渡る風が気持ち良いのはちょっとした秘密だ。

 ここで一人になることは、私にとっては唯一の安らぎの時間だ。

 天使との戦いのことも忘れ、平和に溶け込むことが出来る場所。

 「……しかし、中々やりますね」

 だが、今はこんな所にいても頭の中は沙耶さんのことばかり考えていた。

 初めて彼女が戦線に加わった時から、一目見て只者ではないことはわかっていた。彼女には何か秘めたる力があるような気がした。他とは違う、自分たちとは異なるものを持っていそうな。

 「……………」

 私はそっと尻もちを付いて座りこむと、無言で膝に口元を埋めるようにじっとなった。静寂な時間が流れ、心地良い風が私の肌や髪を撫でた。元気がいっぱいの人が多い戦線の中でも、普段から活発ではない自分自身が安らげる、そんな時間。

 長い間静かなゆりかごに身を委ねていると、自分が雲に乗っているような感覚に陥ってしまう。そして気付くといつもうとうととしてしまっている。そのまま気付かずに寝てしまうこともしばしば。でも今日は、遠くから聞こえてきたガルデモの演奏に、目を覚ました。

 「……ユイさんたちですね」

 遠くから勇ましく聞こえてくる演奏。校舎の空き教室でいつものようにユイさんたちが今度の陽動ライブに備えた練習をしている。

 ユイさんが加わって初めてのライブだ。練習もまたより一層熱が入っていることだろう。

 そこで、私はハッとある事に気付いた。

 「新曲……」

 聞こえてくる演奏は、今までに聞いたことのないような新曲だった。

 そして、微かに聞こえてくる歌詞。歌っているのは勿論ユイさんだった。

 「……………」

 私は他人にはわからないほどの微かな笑みを浮かべる。

 他人からして見れば、私は無愛想らしい。昔からよく言われている。自分でも自覚はしている。でも、私はロボットみたいに無感情というわけではない。その時の感情に応じた表情はしているつもりだ。他人に気付かれることは滅多にないが。

 でも、こんな自分の感情に気付いてくれた初めての人―――

 ただ唯一、たった一人を除いては―――

 「あれ」

 「!」

 声のした方に振り向くと、開いた扉に一人の女生徒が立って、私の方を見ていた。彼女は私と同じ制服を着ている。流れた金色の長髪とリボン、そして蒼い瞳。

 「沙耶さん……」

 「あなたは確か……遊佐さんね」

 「はい」

 初めて彼女に名前を呼ばれた気がする。

 彼女は気軽に微笑むと、私の所まで駆け寄ってきた。

 「あなた、屋上で何してるの?」

 「……いえ、特に何も」

 「ふーん」

 こんな風に会話することも初めてかもしれない。それにしても、こうして話してみてわかるけど、声がどことなくゆりっぺさんに似ている気がしないでもない。雰囲気と言い、トーンと言い、ゆりっぺさんに近い。

 「どうしたの? あたしの顔に何か付いてる?」

 「……いえ、何も」

 私はふるふると首を横に振る。

 沙耶さんは首を傾げていたが、ふと顔を上げる。彼女も気付いたようだった。

 「……あ、ガルデモの演奏が聴こえてくるわね」

 校舎から聞こえてくる演奏の音。彼女たちの練習する演奏の音が、風に乗って届けられる。沙耶さんや私の髪がサァッと風に揺られて靡いた。

 「ここで浴びる風は気持ちいいわね」

 「……はい」

 沙耶さんがニコリと笑う。私はそれを見て、一瞬だけその人の面影と重なって見えてしまったことに、思わずどきりとしてしまった。

 やっぱり、ちょっと似てる……

 「沙耶さんはどうしてここに?」

 「あたし? うーん、特に理由はないわよ。 ただなんとな~く、階段を昇っていったら着いちゃったって感じ」

 こういう性格もゆりっぺさんにどことなく似ている。

 「それにしても、ここって案外良い所ね。 隠しスポットって奴かしら。 ここからだと学校中が見渡せて絶景ね」

 そう言って、沙耶さんは柵から乗り上げる勢いで目の前に広がる光景を見渡していた。風に揺られて、ぱたぱたとはためくスカートを抑えようともしない。おかげで座ってるこちらからはあるものが丸見えなのだが、女同士ということがあるからか、どうやら向こうは全然気にしていないようだった。いや、あるいは―――

 「……沙耶さん」

 「ん?」

 「……丸見えですよ」

 「んな…ッ!?」

 私が教えた途端、慌てるようにスカートを引っ掴む沙耶さん。

 ただ単に気付いていなかっただけみたいだった。

 「(別に女同士だからそのままでも良かったのかもしれませんが……)」

 その時、私は頬を赤く染めた沙耶さんが少し涙目でこちらをジッと見詰めていることに気付いて、私は口を開く。

 「……何か」

 「うー……遊佐さん、はっきり言うわね……」

 「すみません。 その場の情報を的確にお伝えするのが私の癖ですので」

 「変わった癖ね……」

 「更に申し上げますと、沙耶さんの今日の下着を見る限り、ピンクでシンプルなものを好んで履いてらっしゃるようで」

 「ふんがぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」

 やっぱり面白い人だった。

 私の淡々と漏らす情報に、沙耶さんは悶絶を繰り返していたが、やがて頭から煙を吐くと沈黙した。そんな沙耶さんに、私は最後の追い打ちと言わんばかりに一つぽつりと思いついたことを漏らしてみた。

 「ちなみに音無さんにも見られ、しっぽりむふふと」

 「な、なな、何で知ってるのよッ!? いや、あたしと音無くんはそういう関係じゃないわよッ!? ただあの時は、訓練中のハプニングと言うか……アクシデントと言うか……事故のようなものでッ!」

 「……すみません、本当でしたか。 いつもご一緒ですから、ちょっと言ってみただけでしたが。 まさか事実だとは」

 「うあああああッッ!! 墓穴掘ったぁぁぁぁ……ッッ!!」

 「……ご安心ください。 この情報は機密にしますので」

 「うううう……」

 少しやり過ぎてしまっただろうか。涙を流しながら、沙耶さんは隅の方に小さくなっていた。

 「……どうせあたしはエロスパイよ……ブツブツ……」

 「あの……」

 隅の方で小さくなり、不穏なオーラを漂わせながらブツブツと独り言を呟いている沙耶さんの背中を、私は小さく呼びかける。

 「すみません、少し言い過ぎました」

 「い、いいのよ……周囲に気を配らないあたしも悪いから……」

 「……………」

 沙耶さんは「いいのいいの」と手を小さく振りつつ、苦笑を浮かべながらゆっくりと立ち上がる。私はそんな沙耶さんをジッと見据える。何だか沙耶さんを苛めていると、ゆりっぺさんを苛めているみたいで……

 ぞくり。

 「……快感ですね」

 「?」

 私が呟いた言葉に、沙耶さんはわけがわからないという風に首を傾げていた。

 「―――にしても、遊佐さんにもそんな一面があるなんてね~」

 「え…?」

 沙耶さんはニッコリと笑って、きょとんとなった私に向かって、言葉を続ける。

 「遊佐さんとはあまり話したことがなかったから、ただ大人しい娘だと思ってたけど、実際話してみれば遊佐さんも色んな顔をするのね」

 「―――!」

 「今まで見れなかった遊佐さんの一面も見られたし」

 「……私、そんなに色々な顔をしていましたか?」

 私の質問に、沙耶さんは「え?」となる。沙耶さんは私が何を言っているのか、一瞬理解できなかったのかもしれない。端から見ればおかしな質問かもしれないけど、私にとってはちょっと違うことだ。

 「遊佐さん、あまり表情を変えない人だなぁと思ってたけど……思ってたよりそれほどでもなかったわね。 確かに顔にはあまり表情は大して変化はないのかもしれないけど、実際に話してみないとわからない、遊佐さんの気持ちがちゃんと伝わってたわ」

 「……!」

 私は沙耶さんのその笑顔と言葉に、ある人の顔と重ねていた。

 それは、かつて“あの人”が言っていた言葉と同じだった――――

 「……………」

 「あ……」

 その時、私の顔を見て、沙耶さんが目を丸くしていた。

 私の今の気持ちが、明確に“表情”に浮かんで相手に伝わった表れと思うべきだろうか。

 沙耶さんが、また笑った。

 そして私も――――微笑んで、彼女と笑顔を向け合わせていた。



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EPISODE.22 The Cute

 テスト期間終了後。私たちの敵、天使が生徒会長を辞任したと聞いた後のことでもあるが、大山の調子がおかしかった。あのテスト期間に行われた作戦に大山も参加していたと聞いたが、それと関係があるのかは私にはわからない。

 「はぁ……」

 そう。こうやってまた溜息を吐いては……

 「あは……ははは……」

 何かを悟るように、遠い目をして笑っている姿など、不気味にも程があった。

 だが、どうしたとか、そういうことを私の方から聞くことは決してしなかった。私はいつものように隅の方で腕を組んで立つだけだ。

 「おい、椎名」

 目を開くと、目の前に木刀を持った藤巻が立っていた。相変わらず目つきの悪い目で、人を見てくる。

 「何だ、藤巻。 何か用か」

 「用っちゃ用だけどよー……まぁ、大山のことなんだけどよ」

 私は不意にぴくりと反応してしまうが、興味が無いように装う。

 藤巻がそんな私をジッと見詰めてくるが、気のせいだと思っておこう。

 「……大山がどうかしたのか」

 「最近あいつ、元気ねーじゃん? 親友の俺が慰めようとしても、あの状態だ。 椎名、お前、大山のこと励ましてやれよ」

 「……何故私が」

 そこで何故自分にその役を任せられるのかがわからない。

 大体、親友と言う藤巻が無理だったのなら、私なんてもっと無理に決まっているだろう。

 「……関係ない」

 「んなこと言って……前から元気ない大山のこと、気にかけてくれてるくせによ」

 「!!」

 最後の方で、藤巻は周りに聞こえないような小さな声で言ったが、私は不覚なことに、動揺してしまった。

 「……な、何を言う」

 藤巻が何故か溜息を吐く。それが何だか私にとっては無性に気に障っていた。

 「く……貴様」

 「あーいいやいいや、何も言わなくていい。 けどよ、大山のことはお前に任せたぜ。 あいつにはお前が適任だ」

 「……本当にさっきから何を言っているのだ、貴様は」

 「それにああいう状況の男に声を掛けてやれば、お前のポイントもぐっと上がるぜ」

 「……殺すぞ」

 「んじゃ、後は任せたぜ~」

 背を向けると、藤巻はひらひらと手を振りながら部屋を去っていった。一人取り残された私は、黙って立ち尽くしていたが、また大きな溜息を吐いた大山の方を見てしまって、思わず足が大山の方に向かってしまった。

 

 

 「……どうした、大山。 最近様子がおかしいぞ」

 「あ、椎名さん……」

 対天使作戦本部。元は校長室だった僕らの根城。その部屋のソファーに座って溜息を吐いていた僕に、隅の方からやって来た椎名さんが僕に声を掛けてきた。

 「僕、そんなにおかしかったかな……?」

 「ああ。 不気味なほどに」

 「あはは、そんなに僕、変だったんだね……」

 椎名さんのはっきりとした返答に、僕は苦く笑った。

 「……まさか落ち込んでいるのか?」

 「う、うん……まぁ、色々あって……」

 「色々? もしや、前の作戦に何かあったのか……?」

 図星をつかれた僕は、椎名さんの言葉にギクリとなった。普段から色々と鋭そうな椎名さん。今のわかりやすい僕の反応にも、椎名さんはきっと気付いただろう。隠しても仕方ないし、ここは正直に話そうと思った。

 「ちょっと、聞いてくれるかな……」

 「……ああ」

 「えっと……テストの時の作戦はどういう内容だったか知ってるよね。 天使のテストを赤点にする作戦」

 「ああ、聞いている」

 「天使のテストを赤点に仕向けるために、偽物を取り替えるためにクラス中の気を引かなくちゃいけなくってさ。 それで、僕を含めて日向くんや高松くんたちも、周りの気を引こうと色々と頑張ったんだよね」

 「うむ」

 「でね……それで僕、天使に『好きです』って告白しなくちゃいけなくなって」

 「……ッ!?」

 「?」

 「…ッ! 続けろ……」

 一瞬、あのいつもクールな椎名さんが動揺したかに見えたけど、きっと僕の見間違いだろう。それに天使に告白するなんて誰が聞いても動揺するというか、驚くことだろうし、僕はそう思って言葉を続けた。

 「それで、テストが終わった時に、本当にクラス中のみんなの前で天使に告白してね」

 「ほ、本当にしたのか……」

 「あはは、残念なことだけど、ノンフィクションだよ……」

 「……そうか。 ……で?」

 「え?」

 「え、じゃない。 それで、どうなったのだ。 その……天使からの返事だ。 了承したのか?」

 何故か椎名さんがいつもの冷静さを崩して、少し頬を朱色に染めて慌てるように僕に聞いてくる。こんな椎名さんを見るのは珍しいなと思いながら、僕は答えた。

 「い、いや……勿論、振られたよ。 僕の初めての告白だったけど、あっさりと終わったよ」

 「そうか……振られたのか」

 僕がそう言うと、一瞬だけホッと胸を撫で下ろしている椎名さんがいた。いつものクールな椎名さんにしては珍しい所を目撃した僕は、首を傾げた。

 「何で僕が天使に振られると、椎名さんが安心するの?」

 「…ッ!」

 僕が首を傾げて、「なんで…?」と椎名さんの顔を下から覗き込むように聞いてみると、何故か椎名さんはそんな僕を見て、ぼっと顔を真っ赤にした。ここまで動揺する椎名さんを見るのは、初めてのことかもしれない。

 「か、かわ……」

 「え?」

 「―――ッ!」

 椎名さんは言いかけた口を腕で覆うと、ズザッと後ずさった。「え? え?」と状況に理解できない僕が戸惑っていると、顔を赤くした椎名さんはぷるぷると震えだすと、背をくるりと振り向かせて全力疾走していった。

 「浅はかなりぃぃぃ……ッッ!!」

 「ええええッッ!?」

 椎名さんはいつもの口癖を叫ぶと、ものすごい速さで部屋から出て行った。

 

 

 「ゼェ……ハァ……」

 部屋から走りだした私は、遠くまで辿り着くと足を止めた。心臓がばくばくと鼓動を打っているのは、今まで全力で走っていたからか。

 「………何なんだ、私は」

 自分の行動が理解できない。何故、私は動揺し、そして大山の前から逃げてしまったのか。

 醜態の姿を晒してしまった。いつもクールな姿でいる私が、こんな羞恥の姿を見せるなど……

 「……不覚」

 私はいつもの自分に戻すために、落ち着きを取り戻そうと深呼吸した。自分という者が、他者のことでここまで心を惑わせられてはまだ未熟。これほどまでに動揺したのはこの世界に来て如何程かあっただろうか。

 「大山……いつか必ず……」

 ハッと気付く。自分は何をする気なんだろう。

 今日の自分は何だかおかしい。

 今日はもうあの部屋には行かないことにしようと心に固く決めた私は、ふらりとした足取りでその場から歩を刻み始めるのだった。

 

 

 

 「うーん、一体どうしたんだろう。 椎名さん」

 取り残された僕はソファーの横で、椎名さん持参の可愛い動く犬のぬいぐるみで遊んでいた。背中のネジを動かし、何匹も、玩具の犬がぴこぴこと目の前を適当に歩いている。僕はその光景をぼーっと眺めていた。

 前から知ってるけど、どうやら椎名さんは可愛いものが好きみたいだった。僕は自分自身が女の子みたいだと他人によく言われるけど、僕はそれが嫌だけど、でも僕自身は可愛いものは確かに好きだった。だから椎名さんの可愛いもの好きには気持ちがわかる気がした。こうして椎名さんと可愛い物で遊ぶこともたまにあった。僕が「可愛いね」と言って、椎名さんがクールに「浅はかなり」と返すだけの変なやり取りだけど。

 「うお。 戻ってみれば、大山が椎名の玩具を前にぼーっとしている姿は何だかシュールだぜ」

 「あれ。 おかえり、藤巻くん」

 藤巻くんはぴこぴこと動く玩具たちの前で足を止めると、僕を見下ろすような形で、僕に聞いてきた。

 「椎名はどうしたんだ?」

 「あ、それがね。 聞いてよ、藤巻くん」

 僕はあらかたの経緯を藤巻くんに説明した。説明を終えると、何故か藤巻くんは「テメェらは……」と呆れがちに呟くと大きな溜息を吐いた。

 「大山、テメェ鈍すぎるぜ」

 「えっ? 鈍い? 何が?」

 「いや、まぁ俺が口を挟むことでもねえんだけどよ。 ま、俺も大きなお世話だったかもな」

 「???」

 「なんでもねーよ。 あばよ、大山」

 「え。 う、うん……」

 そう言って、藤巻くんは一つ溜息を残していくと、部屋を立ち去ってしまった。

 「藤巻くん、何しに来たんだろ……」

 藤巻くんの言葉が若干気になるけど、考えてもやっぱりわからなかったので、気にしないことにした。

 

 

 「それじゃあ、配置は各自伝えた通り。 作戦開始時刻もさっき説明した通りよ。 じゃ、解散」

 今夜行われるオペレーション・トルネードの作戦会議を終えて、僕は部屋を出て、校舎の廊下を一人歩いていた。

 「椎名さん……どうしちゃったんだろ」

 僕はさっきから椎名さんのことばかり気にかけていた。

 多分だけど、心配をかけて僕に声を掛けてくれた椎名さん。あれから僕は椎名さんと会うことはなかった。さっきの作戦会議も、椎名さんはいつものように隅の方で腕を組んで立っているだけだった。僕は何度か椎名さんの方に視線を向けたけど、一度だけ目が合ってしまった瞬間、一瞬だけ身構えた椎名さんはそれから二度と僕と視線を合わすことはなかった。

 僕、何か椎名さんに失礼なことをしちゃったかな……

 あの椎名さんを怒らせるなんて、僕はなんてことをしてしまったんだろう。

 折角、落ち込んでいた僕に声を掛けてくれた人だというのに。

 「ん……?」

 いつもガルデモが演奏の練習をしている空き教室の前で、楽しそうに話している二人の女の子を見つけた。彼女たちは、ガルデモのメンバー、関根さんと入江さんだった。二人は、抱いている一つのぬいぐるみを巡って、きゃぴきゃぴと楽しそうに話していた。

 「ねえ、何してるの?」

 「あ、大山くん」

 「それは?」

 「これ、クマのぬいぐるみなんだけど、今女子の間で流行ってるのよ」

 「クマのぬいぐるみ?」

 「うん……見てみる?」

 入江さんが抱き抱えているクマのぬいぐるみ。僕は二人に薦められて、譲られたクマのぬいぐるみを抱いてみた。ふかふかしていて、抱き心地がとても良かった。

 「ねっ、可愛いでしょ?」

 「う、うん」

 「これ、可愛いし触り心地が凄い良いから、女子の間でいくつか回されてるのよ。 で、私たちのファンがこれをプレゼントしてくれてね」

 「へぇ、そうなんだ」

 女子と言っても、一般生徒のことだ。一般生徒とあまり関わらない者が多い僕たちは、学園で流行っているものがあっても、自力でそれを知ろうとしない限りは、あまり関わることはない。

 一般生徒から大きな人気を勝ち得ているガルデモは、一般生徒のファンを持っているので、一応こうして一般生徒と関わりを持つことは珍しくなかった。ファンレターやプレゼントだって貰うこともあり、ガルデモの人気の高さが伺えた。

 「(でも、本当に可愛いな……流行るのもわかるかも)」

 僕はふにふにとクマのぬいぐるみを触ってみる。可愛くて、しかも触り心地が良い部分は、見事に女子の気持ちをキャッチしている。これなら、椎名さんも喜びそうだな―――と、ふと思い至って、僕はハッとなった。

 「(そうだ…ッ! これ、椎名さんにどうかな……!)」

 名案とばかりに思いついた僕は、すぐに関根さんと入江さんに、このクマのぬいぐるみがどこで手に入れられるか聞いてみた。

 「うーん、そもそも出所は私たちもよく知らないからなぁ。 それだって、ファンの娘から貰ったものだし」

 「そ、そうだよね……」

 それに、女子の流行りものを男子の僕が欲しがるなんてのも変な所だ。やっぱり、諦めた方が良いのだろうか。

 残念だな、と頭を垂れた僕を見て、関根さんと入江さんがチラリと顔を見合わせていた。

 「欲しいのなら、あげようか?」

 「え…?」

 関根さんの言葉に、僕は驚きを隠せない表情で顔を上げた。

 「でも……ファンの娘から貰った大事なものなんでしょ?」

 「それもそうだけど、ほら、私たちは練習があるからさ。 次のライブも、特にユイが加わって初めてのライブだからより一層熱が入ってるのよね。 あまりそのぬいぐるみにも構うこともできないし」

 「それに……本当に大事にしてくれる人が貰ってくれれば、そのぬいぐるみさんも嬉しいと思うよ」

 関根さんと入江さんはそれぞれの言葉を僕に伝え、笑顔で頷いてくれた。

 僕は抱いていたクマのぬいぐるみを見下ろす。これをプレゼントすれば、椎名さんも喜んでくれそうだ。

 「二人とも、ありがとう……!」

 「それじゃあ、私たちは練習があるから」

 「うん、頑張ってね」

 「じゃあね……」

 そう言って、関根さんと入江さんは僕にクマのぬいぐるみを譲ると、練習に戻るために教室へと入っていった。

 クマのぬいぐるみを貰った僕は、それを持って、僕が行くべき場所へと足早に向かった。

 

 

 「ねえ、椎名さん。 ちょっといいかな」

 「……構わん。 何だ」

 対天使作戦本部に入ると、いつもの隅の方に椎名さんは腕を組んで立っていた。僕が近付いて話しかけると、椎名さんは一瞬警戒するように身構えたが、すぐにそれを解いて僕の話を聞いてくれた。

 僕は背中に隠しているものを、いつ椎名さんに渡そうかタイミングを計っていた。

 「その……さっきは何か怒らせちゃったみたいで、ごめん」

 「……………」

 「それで、お詫びと言ってはなんだけど」

 「……?」

 僕はゆっくりと、背中に隠していたもの―――可愛いクマのぬいぐるみを椎名さんの前に差し出した。

 椎名さんはそのぬいぐるみを見て、目を丸くした。

 「これ、今女子の間で流行ってるんだってさ。 可愛いから、椎名さんにあげようと思って」

 椎名さんの目の前に、例のクマのぬいぐるみを差し出すと、椎名さんはジッと鋭い視線でクマのぬいぐるみを見詰めた。

 そして顔を下げてマフラーの下に口元を隠すと、前髪で隠れた表情で、何かをポツリと呟いていた。

 「……なり」

 「え?」

 顎を下げて、ぽつりと呟いた椎名さん。

 小さい声でよく聞きとれなかったため、僕はクマのぬいぐるみを持ったまま、椎名さんの顔を覗き込んだ。

 「浅はかなりッッ!!」

 「ええええッッ!?」

 椎名さんは勢い良く僕の手から、クマのぬいぐるみを奪い取ると、今の勢いはどこへやら。今度は優しく扱うように、そっとクマのぬいぐるみを足元に置いていた。

 そして屈んだ椎名さんは、無言・無表情のまま、そっとクマのぬいぐるみを撫でた。今度は指を立てて、クマのぬいぐるみの頬を触った。ふにっとした柔らかい感触で、椎名さんの指を包んだ。クマのぬいぐるみの生地はとても柔らかいので、触り心地が良く、抱き心地も好評である。それが流行っている理由の一つでもあった。

 「……………」

 一瞬、椎名さんがとても表情をほわっと柔らかくした。

 そしてまた、ふにふにと連続でぬいぐるみの頬を指で触って、その指が生地に沈む感触を味わっていた。

 うっとりするような横顔で、椎名さんはクマのぬいぐるみをふにふにと弄り続けている。僕はそんな椎名さんの姿を見ていて、何だか微笑ましくなってしまった。

 「あの……椎名さん、気に行ってくれたかな?」

 「…!」

 僕に言われて、椎名さんはハッと我に返ったようだった。

 そして普段通りのクールな表情で僕の方に振り返るが、その頬はほのかに朱色に帯びていた。

 「……ああ」

 「良かった。 椎名さん、こういう可愛いもの好きだからどうかなって思って。 えっと、ど、どうかな……」

 僕はおそるおそる椎名さんに聞いてみる。

 椎名さんは普段と変わらないクールな表情で、僕をジッと見詰めていたが、やがてその固く結ばれていた口をゆっくりと開いた。

 「……大山」

 「あ、な、なに? 椎名さん」

 「……ありがとう。 これは必ず大切にする」

 椎名さんから出た意外な言葉に、僕は正直驚きを隠せなかった。

 微かに微笑んで、お礼の言葉を言ってくれた椎名さんの表情を見て、僕の胸がドキリと高鳴った。

 椎名さんも、こんな顔をするんだな……

 僕の知らない椎名さんの一面が垣間見えた気がする。

 そして心の中が暖かいものに満ち溢れてくるのを感じて、僕はその暖かい気持ちが何なのか、よくわからないけど、それによって素直に安心して、言葉を返すことができた。

 「そっか。 それは嬉しいよ」

 「……うむ、感謝する」

 「いいよ。 そもそもそれはお詫びの印と言うのもあれだけど、そのつもりだったからさ」

 「……違う」

 「え?」

 「……私は怒ってなどいない」

 「え、ええッ!? そ、そうだったのッ?!」

 「……すまない」

 椎名さんは申し訳がなさそうに、頭を下げた。

 でも、僕は椎名さんが本当は怒っていなかったことに何だかまた一つ安心していた。

 「そっか……てっきり、僕が椎名さんに何かしたのかと」

 「……いや、そんなことはない。 変な勘違いをさせてしまった私が悪い」

 「そんなことないよ。 僕の方こそ、ごめんね。 それにさ、椎名さんは僕のこと、心配をかけて話しかけてくれたんでしょ?」

 「……ッ!」

 椎名さんはギクリと震えて、顔を微かに赤くして、目を大きく見開かせて僕の方を見た。

 「心配かけてごめんね。 そして、ありがとう。 椎名さんにプレゼント渡せて、僕も嬉しかったよ」

 ニコリと微笑んで、僕も椎名さんにお礼の言葉を伝える。

 「……………」

 それを見て何故か顔を赤くした椎名さんは、小さく咳払いすると、普段のクールさに満ちた表情に戻った。

 「……ああ。 私の方こそ、感謝する」

 そう言って、椎名さんはクマのぬいぐるみをきゅっと抱き締めた。

 ぬいぐるみを抱く椎名さんはどこか嬉しそうだった。見ているだけでも、抱き心地が気持ち良さそうな光景だった。

 「うん。 それじゃあ、今日の作戦また頑張ろうね。 じゃあね、椎名さん」

 「……ああ」

 そして、僕はどこか吹っ切れた気持ちで椎名さんと別れた。椎名さんはいつまでも、僕がプレゼントしたクマのぬいぐるみを抱き締めていた。

 

 

 

 彼は私にクマのぬいぐるみをくれると、笑顔で立ち去っていった。

 いつも軟弱な笑顔を浮かべる奴だが、私も彼のように、もっと素直になった方が良いのだろうか。

 たまにそう思うことがある。

 だが、それはこれ。私は私、彼は彼だ。

 この私が私であることは、分かりきったことだ。

 私は―――

 

 私は、可愛いものが好きだ。

 それが動物であれ、玩具であれ、ぬいぐるみであれ、それらの可愛いものはすべて好きだ。

 私は渡された可愛い宝物を、ぎゅっと抱き締めた。

 この宝物を私にくれた彼は、相変わらず軟弱な―――可愛い顔を向けて、私の前から立ち去っていった。

 私が好きなものは―――可愛いもの。

 また一つ増えた宝物。

 私はこれを、今抱くこの気持ちと共に、大切にしていこう。

 これが私にとって一番の宝物となるものを、もう一度ぎゅっと抱き締めて、感触を味わいながら、そう思った。



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EPISODE.23 Our Tune

 私たちガルデモの練習場として活用されている空き教室。練習の合間、一息休憩を入れた頃、私は水分を補給するために、学校の自販機から買ったペットボトルの天然水を口の中に流し込んだ。合間の水分補給は肝心だ。素人には意外と思われるかもしれないが、演奏には体力と集中力が必要だ。だから合間に補給する水は私たちにとって欠かせない。喉を直接使うボーカルに関しては尚更だ。

 「ひさ子さんって胸おっきいっすよねー」

 その新ボーカルとして加わったばかりの期待(?)の新人、ユイがとんでもないことを遠慮も無く言ったものだから、私は思わず口に含んだ水をぶっと噴き出してしまった。変な所に入ったのか、私は大きく咳き込んだ。

 「うわっ! 大丈夫ですか、ひさ子さんッ!」

 「げほ…ッ! ユイ……お前……ゴホ…ッ! いきなり何を言い出す……ケホ…ッ!」

 「いやー。 いつもひさ子さんのこと見てて思ったんですけどね」

 「お前は私のどこを見てたんだ……ッ!」

 ユイは相変わらず気楽にそう言って笑うが、私にして見れば不愉快にも良いほどだ。もしユイが男だったら確実にセクハラものだぞ。

 「私の胸のことなんて、今はどうでもいいだろ……ッ!」

 「えー、そんなことはないっすよー。 実は、前々からずっと気になってたんですよねー。 いやぁ、どうしてそんな立派なモノをお持ちなのかなぁと」

 「お前……」

 「ねぇ、お二人もそう思いません?」

 「えっ! そこで私らに振るかッ!」

 今まで傍観していた関根と入江が、ユイに話を振られてギクリと震える。普段から温和な入江はどう答えれば良いか、私のことをチラチラと目を配らせながらおろおろと戸惑っていたが、関根は案外素直に話に乗りかかっていた。

 「ま、まぁ……確かにユイの言うことは間違ってないけど」

 「関根ッ!? お前まで何を言い出して……!」

 「ですよねーッ!」

 関根まで同調したものだから、ユイは何故か満面な笑顔だ。同じ意見を持つ仲間を見つけた喜びで、その顔は眩しい光で満ちている。その笑顔を殴ってやりたい衝動を、私は必死に堪える。

 「うん、まぁ……改めて見てみると、ひさ子さんって胸、大きいよね。 うん、羨ましいくらいに」

 「……………」

 「ねっ! みゆきちッ!」

 「うええッ!? わ、私ッ?」

 遂に入江にも話の矛先が向けられたが、関根がとんでもない暴露話を話し始めていた。

 「ねぇ、みゆきちもそう思うよね? みゆきち、ひさ子さんと初めて会った時、ひさ子さんの第一印象は大きい胸だったって言ってたじゃん…!」

 「し、しおりんッ!?」

 まさかのぶっちゃけ。

 いつも素直で温和な入江が、まさか私と初めて会った時にそんな印象を抱いていたと知ると、何だか私の中で何かがぼろりと崩れた。

 「入江……お前……」

 「ち、違いますよひさ子さん…ッ! わ、わわ、私は……」

 「まぁ……かく言う私も、ひさ子さんのお胸に対しては羨望の眼差しを抱いていたよ。 私も少し欲しいし……」

 そう言って、関根は自分の胸を見下ろして、そっと両手でさわさわと触れ始めた。

 「ほら、皆さんもああ言ってられるじゃないですか」

 ユイはそんな二人を見て、何故か勝ち誇ったような顔で胸を張った。

 「……………」

 最早、先程の怒りオーラはどこへやら。そんなものはすっかり消沈して、むしろ呆れてしまうほどだった。怒る気にもなれない。

 「でもさ、ユイ。 どうして今それを言うの?」

 「いやー、さっきも言ったように前々から気になってたことですので。 今が聞く時期かなと」

 「どういう時期だよ……」

 「あと演奏の時も結構動く時、ひさ子さんの胸は見事に揺れていましたからね」

 「!!!」

 ユイの爆弾発言に、私は思わずガバッと顔を上げる。

 「なん…だと……」

 「いやでも、ほとんどの人はライブに夢中なんで気付いていないと思いますけどね。 私ほどの者になれば、そんな所もチェックできるわけですよ」

 またユイがふふんと胸を張って誇らしく言ってみせる。

 

 ぷちん。

 

 そこで、私の中で何かが切れた。

 「それとギターのボディがそのおっきな胸に当たったりしないのかなーとか思ってたのは秘密です」

 「……ユイ、ちょっと表出ようか」

 「あれ? ひさ子さん、顔がマジなんですけど。 いや、ちょっ……ぐげげげ、え、襟首を引っ張らないでぇぇぇぇ……ぐるじぃ……ッ!」

 遂に私はユイの襟首を掴み、ずるずると廊下に向かって引きずっていった。ユイを連れて教室を出た瞬間、私は今まで他人に与えたこともないような初めての制裁というものを、遠慮無くユイにくれてやった。

 

 

 「ホント調子乗ってごめんなさい……ホントに反省してます……私はアホなユイにゃんです……ついでにお嫁にも行きません……」

 徹底的に懲らしめた甲斐があったのか、魂が抜けた表情でぶつぶつと呟いているユイを無視して、私はロックバンドの仲間たちに向かって呆れがちに口を開いた。

 「大体な……大きい大きい言うが、私はそこまで嬉しくも何ともないよ。 大きいって言っても、その……肩がこるだけだしね」

 「「大きい人はみんなそう言う……」」

 「今、何か言ったか……?」

 ぶんぶんと首を横に振る関根と入江。

 何か聞こえたような気がしたが、放っておくことにしよう。

 「あーでも。 そういえば岩沢さんもスタイル良かったよねー」

 話を私の話から逸らそうと試みたのか、関根が少々戸惑いがちな苦笑いを浮かべながら、岩沢の話を持ち出した。

 いや、まずそういう系の話を変えようという発想には至らないのか。

 だが、岩沢のことに関しては、頷いてしまう私も私だ。

 すまない、岩沢。私の代わりに、今度はあんたが犠牲になってくれ。

 「確かに、岩沢は何気に良い体付きしてたな。 岩沢がこの中で一番バランスが良かったんじゃないか」

 「岩沢さんッ!? やっぱり岩沢さんもイイ体してたんですねッ!」

 「お前が言うと、何だかいやらしいな……」

 岩沢のこととなると、瞬時に復活して目をキラキラさせ始めたユイ。ユイにとって、岩沢は憧れの存在だった。そんな岩沢の話となれば、ユイが喜んで首を入れるのも当然のことだろう。

 「格好良くて歌も素敵で身体のバランスも良いなんて、やっぱり岩沢さんって本当に素敵な方だったんですねッ! はぁ~、やっぱりそういう方はなんでも完璧なんでしょうね~」

 本当にすまない、岩沢。お前がいないこの世界で、お前の純真が傷つけられる行為をしてしまって!

 私が心の中で岩沢に対して謝罪の言葉を叫ぼうが、その思いは届けられることは無いとわかっていても、やっぱり叫ばずにはいられない。

 ま、でも……

 「岩沢は……本当に凄かったのは、本当だけどな」

 今はそばにいない、消えてしまった岩沢を想って、私は悲しいわけでもなく寂しいわけでもなく、ただ普通にそんなことを呟いていた。

 私の他の奴らも、同意するように頷いている。

 こんな過程で、岩沢は凄い奴だったという話をするのも、何だかな……と思うが。

 だが、こうして岩沢がいなくなってしまっても、私たちの中の岩沢に対する想いは変わることはないし、こうして話題に出るほど、岩沢の存在は私たちにとっては大きいものだった。勿論、それは今でも。

 今、目の前に岩沢はいない。

 かつて岩沢がいた場所には、今はユイがいる。岩沢を強く憧れていたユイにとっても、私が想像するより岩沢の存在は大きいものだろう。

 岩沢とはまったく正反対なボーカルだけど、曲に対する熱意は負けていない。

 ちゃんと歌詞だって書いてきたし、立派な曲に仕上げて、今はこうして練習するのみの域まで達しているのだから。

 「でも、岩沢さんがスタイル良いってこともそうだけど、それを言えば、私たちも案外ルックスは良いほうじゃない?」

 「しおりん……それを自分で言うのもどうかと思うよ」

 関根の発言に、入江が突っ込んだ。

 だが、確かに関根の言うことも間違ってない。

 私たちガールズ・デッド・モンスターはロックバンドなんて派手なことをやっているが、全員がそんなに特別でもない、アイドルというわけでもないから、普通の女の子だ。私のことは置いておいて、関根と入江も体型は女子の中でも良い方の類に入ると思う。

 ……これは自意識過剰かな。

 「いや! 私がまだ陽動班の下っ端だった頃にファンの子たちから聞いた話なんですが、男子生徒にも大変人気がありましたよ! ガルデモメンバーは全員美人でルックスが良いってことでも話題だったんですからッ!」

 かつては一般生徒と混じって、観客の側にいたことが多かったユイだからこその情報だった。それが嘘か誠はは定かではないが。

 「……本当なのか?」

 「なんで疑り深いんですかッ!?」

 「でも、私たちってそこまで言われるほどでもないと思うよ……」

 「みゆきちはもっと自信持ちなさいよ。 胸もあるんだし、可愛いんだからさっ」

 「そ、そんなことない。 それと、しおりんは少し持ちすぎなんだよ……」

 「え~? そうかなぁ」

 「私の話を聞いてくださいぃぃぃ」

 これが普通だと思うが、遠慮がちに言う入江。そして自信を持って言う関根。私はどちらかといえば、さっきの考えたことを思えば、関根の側に入ってしまうことになるだろうな。

 「というか、私たちにはそもそもルックスなんてものは必要ないと思うけどな」

 「えぇ? そうですか?」

 「私たちは確かにガールズバンドだが、ガールズと言ってもバンドに女の子らしさが一番大切ってわけじゃない。 私たちはルックスより、“実力”が一番必要な立場なんだ。 街中で化粧してアピールしている女とは違うよ、私たちは」

 「まぁ、それもそうだけど……」

 「でも私たちだって女の子ですよっ?」

 「そりゃそうだ。 私たちはバンドをする前に一人の女だ。 でも、バンドとなるとそんなのあまり関係ないよ。 それに私たちはちょっと荒っぽいロックバンドをやっているしね」

 「見かけより実力、か……」

 でも、だからといってルックスやそういう見かけがまったく必要ないというわけではない。私たちは別にアイドルユニットでもないから、女の子として綺麗で居なきゃいけない理由はない。顔も売りの一つにしているアイドルとは違う。だが、最低限のルックスは必要であるのは否定しない。やっぱり腐ってもガールズバンドだから、それなりの容姿がないと人気も得られないからね。

 ただ、私たちは容姿より実力を前面に押し出しているだけさ。

 特に、岩沢はそうだったんだろう。

 あいつは、音楽馬鹿だからな―――

 「まぁしかし、その話が本当だったとしても――――今や、そのキャッチフレームは岩沢が抜けたことによって消滅しちまってると思うけどな」

 「へ? どういうことですか?」

 「自分の胸に聞いてみな」

 「胸?」

 そう言うと、ユイは自分のすとーんとした胸を見下ろした。そしてぺたぺたと触ると、核心に気付いたのか、顔をカーッとトマトのように真っ赤にして、「ななな……」と震えた声を出し始めた。

 「“全員美人でルックスが良い”所は無くなっちゃったな」

 「ユ、ユイにゃんは可愛いし、ルックスだって――――胸がちょっと無いだけだもんッ!!」

 「そうか? 明らかに私らと違って、つるぺたみたいだけどな?」

 少し酷いかもしれないが、さっきの仕返しだ。

 ユイは、恥ずかしさなのか怒りなのかわからないが、頭から湯気が立つのではないかと思うほど顔を真っ赤にすると、遂に私の目の前でブチ切れる様を披露した。

 「なんだとごるぁぁぁぁぁッッッ!! ちっとばかしおっぱいが大きいからって調子に乗ってんじゃねえぞワレェェェッッ!!」

 「わあああ! 遂にユイがひさ子さんにキレたぁッ!」

 「胸なんて所詮脂肪の塊じゃッ! それこそバンドに必要ないもんなんじゃおんどれぇぇぇッッ!!」

 「!?」

 そう言うや否や、ユイがいきなりピックで私の胸を突っついてきた。私の双丘がピックに突かれて、ぷるんと揺れた瞬間、私の中の何かが火に付いた。

 「ユイ……もう一度その身体に教えてあげようか。 私たち、ガールズ・デッド・モンスターの『デッド』の部分を」

 「え……あ、ひさ子さ……ちょっと待っ」

 本日二度目の、制裁がユイの身に叩きこんだのは言うまでもなかった。

 

 

 「時間を無駄にしちまったな。 ほら、休憩終わり。 再開するよあんたら」

 時計を見ると、すっかり日も暮れる時間帯だった。日は傾き、オレンジ色の夕日が窓から教室に射しかかっている。結局、長時間もの間、私たちはくだらないやり取りをしていた。ユイとやり合ったのも今日で何回目か。すっかりこんなことが日常になってしまっている。岩沢の時とは大違い、演奏とは別にある意味騒がしくなってしまった気がする。

 「う~……」

 何度も私の制裁を浴びたユイが、ふらふらとポジションに戻る。岩沢から受け継いだ、愛用の赤いギターを持って、楽譜を広げていた。ふと、私はそのユイの書いた歌詞で刻まれた楽譜を一瞥して、そろそろ教えてやろうかと、ユイに言葉を投げかけた。

 「ユイ、再開する前に一つ教えてやるよ」

 「ほえ? 何ですか、ひさ子さん」

 楽譜を手にしたユイが、私の方に振り向く。

 私はユイが持っているその曲の秘密を、教えてやった。

 「その曲、岩沢が残していった最後の曲なんだ」

 「ふええッ!? そ、そんな曲に私が歌詞付けちゃって良かったんですかッ?!」

 ユイは驚愕した表情で、私に言った。

 対する私はクスリと微笑んで、岩沢のことを思い出しつつ、答える。

 「…そうだな。 その曲、『Thousand Enemies』と第二期ガルデモに皆が反応してくれるかどうか、それ次第だな」

 「……………」

 岩沢が最後に残していった曲。

 そして、その曲に、岩沢に代わるボーカルのユイが歌詞を付けることは、新しく生まれ変わった私たちガルデモにとっては特別な意味がある。

 岩沢が残していった歌詞無しの曲に、ユイが歌詞を付けることによって、初めてユイは正式に岩沢から受け継がれることが認められるんだ。

 そして、ユイは岩沢の残した曲に、しっかりと歌詞を付けてみせた。

 この新曲は、岩沢とユイが二人で完成させた曲だ。

 そんな曲を第二期ガルデモの初ライブでデビューして、その先も私たちがガルデモとして居られるのは、その反響次第というわけだった。

 「さ、練習を始めようか。 ライブまで、もう日はないんだからな」

 私は愛用のギターを肩にかけて、ユイの前を通り過ぎて、自分にポジションに立った。

 弦を確かめ、準備万端という時に、ユイの声があがった。

 「あの…ッ!」

 私はゆっくりと、ユイの方に振り返る。

 そして、私は見た。

 「私、ライブ頑張りますからッ! 岩沢さんのようにとはいかなくても、私なりに精一杯、皆さんの足を引っ張らないように頑張りますからッ!!」

 「……ああ、期待してるよ」

 そう言って、私はニカッと笑った。

 私の思惑通り、ユイの瞳には岩沢と同じ炎が宿っていた。演奏の時に身体を熱くさせる情熱。そんな炎が、ユイの瞳に燃え盛っていた。

 

 この娘が岩沢の代わり―――いや、岩沢に次ぐ新たなガルデモの新ボーカルとして、私たちと共に歌える時間が、これからもずっと続いていく。

 岩沢とは途中で一緒に出来なくなってしまったけど、この娘なら、途中でいなくならないことを信じて―――

 岩沢。お前の残した曲を、あいつが歌詞を付けたんだ。

 その歌声、お前の所まで届いてるかな。

 お前が残していった曲で、私たちはまたやるよ。大勢の観客の前で、お前の分まで精一杯バンドをやるよ。

 岩沢―――

 

 私たちの曲が、これからもお前の所に届くことを願って―――



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EPISODE.24 Favorite Flavor

 立華が会長を辞任―――というよりは解任させられた日の夜、俺たちは生徒たちから食券を巻き上げるオペレーション・トルネードを実行することになった。

 いつものように俺たちは、生徒の陽動をガルデモに任せ、それぞれの配置に付き、俺たちを邪魔する敵が現れないか警戒を強めた。

 食堂の大ホールではユイを新たに加えた二代目ガルデモのライブが行われていた。人気ボーカルだった岩沢がいなくなったことで一般生徒にガルデモに対する見方に影響が生じるおそれがあったが、それはいらぬ心配だったようで、ユイを新ボーカルにした二代目ガルデモも生徒の好評を大いに買っていた。

 ボーカル兼ギターを務めるユイが歌う新曲は、初めてとは思えないほどの盛り上がり様を弾きたてていた。誘導の方は心配は皆無みたいだ。後は―――

 「音無くん」

 「…! 何だ、沙耶」

 俺の顔をジッと見据える沙耶の表情は、真剣だった。俺はそんな沙耶の真剣な表情と射抜くような視線に変な緊張を覚えた。

 「作戦の最中に考えごとなんてあまり感心しないわね。 何か言いたいことや、聞きたいことがあるならはっきり言った方が良いわ。 すっきりするわよ」

 「……………」

 俺は沙耶に、頭の中を見透かされているような錯覚を覚える。沙耶の頷く真剣な表情に押されるように、俺はぽつりと口を開いていた。

 「なあ……」

 「ん?」

 俺と沙耶、そして日向は食堂大ホールの見渡しの良い縁側で、銃を手に見回りをしていた。俺は同じく見回りをしている二人に、自分でも今更に思うような質問を投げかけてみた。

 「俺たちは、何と戦っているんだ……?」

 「そりゃ邪魔する奴だよ」

 「誰が邪魔しに来るって言うんだよ……」

 日向はさも当然のように答えてくれたが、俺はどうしても腑に落ちなかった。

 「来るとしたら天使だろ。 いや、あの生徒会長代理が来るかもしれないぜ」

 「そいつは一般生徒だろ? 撃っちゃ駄目だろ……」

 「ああ、そっか」

 俺は思わず肩を落とす。

 俺たちはNPCである一般生徒には危害を及ぼさない。だからこそ、こうして作戦中はガルデモのライブで陽動する。

 でも、噂の生徒会長代理はともかく。

 本当に来るんだろうか、天使は。

 ―――立華は。

 

 

 作戦が始まり、ほぼ同時にライブが始まってそれなりの時間が過ぎていた。ライブもますますの盛り上がり様を見せている。ガルデモの勇ましい演奏、それに乗るユイの歌、そして沸き立つ生徒たちの歓声。

 食堂の大ホール中に響くような盛り上がりが勢いを増すのを横に、俺たちは日向曰く“邪魔する奴”が来ないか見張りを続ける。そんな中、何かに気付いた沙耶がいきなり声をあげた。

 「来たわよッ!」

 沙耶の声に、俺と日向は一斉に沙耶の方に駆け寄った。見てみると、一人の女生徒が、ライブ中の食堂にふらふらと歩いてくるのがわかる。銃のスコープに覗いてみると、その女生徒の顔がはっきりとわかった。

 今までライブの度に現れた天使が、今回も俺たちの前に現れた。ただ、今回はいつもと様子が明らかに違う。

 「ガードスキル発動前に、行くぜぇ……ッ!」

 日向が銃を構え、照準を天使に合わせる。

 だが、俺は咄嗟に声をあげていた。

 「いや…! 撃つなッ!」

 「な…ッ?! なんでだよ……!」

 俺は日向を制止すると、他のみんなにも合図で攻撃を仕掛けることを自粛するように促す。みんな、不思議な顔を俺に向けたが、俺自身も自分が何を言っているのかよくわからない。

 ただ一つわかることは―――

 「様子がおかしい…ッ!」

 俺の言葉にぴくりと反応した沙耶が、表情を険しくして、真剣に聞いてくる。

 「音無くん、どういうこと? 何がおかしいと言うの?」

 「わかんねえけど……生意がないというか、無抵抗というか、違う目的でふらっとやって来たような」

 「……………」

 俺に言われて、沙耶もスコープで覗いて確認する。俺もじっとスコープから観察するが、明らかに様子がおかしい。元気が無いというか、どこか落ち込んでいるような、そんな気がする。

 「なるほど……確かに、親に怒られて落ち込んだ子供のような感じね」

 「そう……なのか? 俺には大して変わっているようには見えねえけど……」

 普段から無口で表情の変化が乏しい彼女だからこそ、日向にはわからないようだった。どうやら、気付いたのは俺と沙耶だけらしい。

 やがて、彼女はふらふらとした足取りで、彼女の様子とは裏腹の盛り上がる食堂へと入っていった。

 

 

 食堂の大ホールは大規模な広さを誇っているのだが、それに構わず生徒たちは大ホールに溢れんばかりに集まっていた。大勢の生徒がガルデモの復帰に喜び、新曲を加えたライブに大興奮の様を露呈させていた。ライブはいよいよ最高潮の盛り上がるに達しようとしている。そんな矢先―――

 「な……ッ!」

 上で見張っていた高松くんが慌てて何かをあたしに教えようとしていた。あたしはそれに促されるようにホールの方を見渡してみると、入口の方から生徒たちの群衆に紛れこむように、天使が侵入する姿を目撃することになった。

 何故天使がここに…ッ!?

 やっぱり現れたかとも思うけど、それにしても外は何をしているというのか。

 外の連中にどういうわけか聞こうと無線機を掴んだが、その前に天使の様子がいつもと違うことに気付いた。

 天使は動きにくそうな群衆の中を進むと、ガルデモを見向きもせずに、群衆を抜けてある場所へと向かっていた。どこか元気が無さそうな歩みで向かったその先には、食券を買う自販機があった。

 『どうしますか?』

 「ちょっと待って」

 高松くんの呼びかけに、奇妙な感覚が抜けないあたしはそんな言葉を返していた。

 「(何なの? 様子がおかしい……)」

 これまでに長い間天使と戦ってきたけど、こんなことは初めてだ。あんな天使を見るのも今までになかったし、こういう場合どうすれば良いのかもわからない。とりあえず、もう少し様子を見てみないことには、場に応じた冷静な判断も付けられない。

 「(? あいつ、何を……)」

 天使の行動を見て、あたしは怪訝な表情を浮かべる。

 小銭を入れている所を見ると、食券を買おうとしているみたいだ。

 そして、その天使が伸ばす指の先には―――

 あれは……

 

 全校生徒が一切手を出さない激辛で有名な麻婆豆腐ッ!?

 

 

 まさか、あたしたちに食べさせて一手報いようと言うのか……

 いや、でも……

 あたしが天使の不可解な行動に頭を悩ませていると、不意に遊佐さんから声が掛けられた。

 「ゆりっぺさん、盛り上がりは最高潮に達していると見受けられますが」

 「え…っ?」

 見てみると、確かにライブの盛り上がりは遂に最高の盛り上がりだった。

 「指示を」

 「あ…ぅ……え、ええ……」

 つい、色々と翻弄されてどうすれば良いか判断に困った。

 ライブの盛り上がりは最高潮、その一方で天使の不可解な行動。

 「………ッ」

 いや、あたしたちがやることは最初から決まっている。

 本来の目的を思い出せ。

 「やれ…ッ!」

 「回してください」

 意を決して、あたしは命令する。それに応えるように、遊佐さんが巻きあげ班にあたしの命令を伝える。

 あたしの発した命令通り、巻き上げ班から会場に向かって強風が巻き上がる。吹かれた強い風は一般生徒たちを撫で上げ、一斉に生徒たちの食券を攫った。巻き上げられた食券がトルネードの如くホール中に舞い上がった。

 

 そして、彼女の手からもまた、食券が舞い上がる。

 

 「あ……」

 突然のように吹かれた風は容赦無く、彼女の手から食券を奪い去った。一枚の食券は紙吹雪の中に紛れこみ、見上げる彼女の目の前から一瞬で消え去った。

 掲げられた彼女の手のひらには、何も無い。何もかもを失った彼女の手には、ささやかな幸せさえ無くなってしまっていた。彼女はただ、風に奪い去られた食券の群れに、寂しげな表情を浮かべるだけだった。

 

 彼女の手は、虚空だった――――

 

 

 俺は外からきらきらと光るホールの中を、ガラス越しに見ていた。ライブに集まった一般生徒の数に比例して巻き上がった無数の食券が、まるで紙吹雪のようにきらきらと舞い落ちていく。その光景は幻想的ではあったが、俺の胸の内は、何故かよくわからない気持ちで渦巻いていた。

 

 ―――学園大食堂 フードコート

 結局、天使は現れはしたが、何もしなかった。作戦は何の妨害も無く終わり、俺たちは今、こうして生徒からの巻き上げで手に入れた食券を手に、食堂で並んでいた。

 「ねえ、音無くん。 何が当たった?」

 「ん」

 俺は沙耶に、あの時掴んだ食券を見せつける。その手のひらに乗った食券には、「麻婆豆腐」という文字が書かれていた。

 「あら、いいじゃない」

 「そう言う沙耶は何が当たったんだよ」

 「肉うどん。 まぁ、好きだから別にいいんだけどね」

 「何だお前! それ、誰にも頼まないで有名な激辛麻婆豆腐じゃん」

 後ろから覗きこむように、日向が言う。俺の持つ麻婆豆腐の食券を見て、気の毒そうな表情を浮かべていた。

 「ここの麻婆豆腐って、そんなに辛いものなの?」

 「猛者でも白いご飯と一緒に頼んで、ドンブリにして食うんだぜ?」

 「…これ掴んじまったんだから、しょうがねえだろ」

 ひらひらと俺の目の前に落ちてきた食券。俺はただそれを何となく掴み取った。まさか、それがそんなに言われているほどの代物だったとはな。

 

 食券と引き換えに貰ったそれぞれの飯を、俺たちは食べ始める。ここにいるのは俺たちだけだ。本来、この時間は指定された時間帯じゃないから、一般生徒がいないのは当然だった。

 俺は真っ赤に染まった噂の激辛麻婆豆腐を前に、一粒の汗を流した。確かに日向の言う通り、見るからにやばそうな色合いをしている。俺は一口、それを口の前まで持っていくが、その如何にも激辛を表したかのような色に、俺は一瞬躊躇する。だが、俺は意を決して、口の中に放り込んだ。

 「んむぐぅッ!!?」

 日向たちが見守る中、俺は一口目を口にした。そして速攻で襲いかかってきたありえない辛さに、俺は一気に大量の汗を噴き出して俯いた。まるでマグマのように押し寄せてくる激辛の波に、俺は必死に堪えるしか手段がなかった。

 「ちょ、ちょっと大丈夫? 音無くん」

 沙耶が心配そうに、悶える俺に声を掛けてくれるが、俺は返事を返すほどの余裕はなかった。

 一口でこの辛さは異常だった。口の中が燃えるように熱くて、波のように押し寄せてくる辛さが―――

 「……あ、でも美味いぞ」

 しかし、燃えるような辛さは前半だけだった。後からその痛みをやんわりと包み込んで、優しく癒してくれるような風味な美味しさが、じわじわと俺の舌に染み込んでいく。確かに激辛ではあったが、こんな美味い麻婆豆腐を食べたのは初めてかもしれない。

 「日向、沙耶、食ってみろよ!」

 「「えっ」」

 一部始終を目撃していた二人は、悶えていた俺の姿を見たからか、不安そうな顔をしていた。

 「冗談でしょ……?」

 「本当だって。 食ってみろよ」

 「じゃあ、一口だけ……」

 「そ、そうね。 一口だけ……」

 そう言って、不安な色は拭いきれていなかったが、二人は俺の麻婆豆腐に手を伸ばす。それぞれ一口分だけ取っていき、ぱくりと口の中に含んだ。その次の瞬間、二人の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。

 「のわあああああああああああッッッ!!!」

 日向の絶叫。あまりの辛さに汗を滝のように流し、涙まで噴き出しながら、痛い、辛いと連呼しながら机を叩く日向。

 「……………」

 沙耶はまだまだね、と言いたそうな顔をしていたが、その顔は真っ赤に染まったまま硬直していた。

 しかし二人の顔には、徐々に生気が戻っていた。

 「……しかし後から来るこの風味。 なるほど、こいつは味わい深いかもしれない」

 「確かに、凄く美味しいわ……」

 「だろッ! こんな美味い麻婆豆腐、食ったことないだろ?」

 「意外とこれって当たりメニューかもしれないわね」

 俺たちは多分メニューの中で最も上位であろう、隠れた名品麻婆豆腐に称賛の言葉を次々におくっていた。そんな話で盛り上がる俺たちに、一人、今まで参加していなかった我らがリーダーが口を挟んだ。

 「―――それ、天使が買った食券よ」

 淡々と紡がれたゆりの言葉に、俺たちは驚きを隠せなかった。

 「こ、これ?」

 「そっ」

 ゆりはそれだけを言い終えると、後は食事を再開するだけだった。

 俺はそんなゆりの真剣そうな表情から、ふと麻婆豆腐の方を見下ろした。真っ赤に染まった、しかし味わい深い麻婆豆腐。生徒の誰も手を付けない、隠れたメニュー。

 俺はゆりの言葉によって、あの時に見た彼女の姿を思い浮かべていた。

 そして、俺は何故彼女が現れたのか。何をしに来たのか、わかった。

 ―――これ、食べたかっただけなんだな……

 きっと、これはあいつの大好物なんだ。

 でも、今それを食べているのは、どこのどいつだ?

 彼女が買った食券で、呑気に飯を食ってるのは誰だ。

 ―――他の誰でもない、俺だ。

 あいつの大好物を、俺が取り上げて、こうして食べてしまっている。

 そんなささやかな幸せさえ、俺は奪ってしまった……

 「なるほどね……」

 「何がだ? 沙耶」

 ゆりの隣に座る沙耶が、ぽつりと漏らしていた。それによって、沙耶に俺たちの視線が集まる。

 俺たち三人の注目を浴びた沙耶は、説明を始めた。

 「生徒会長を辞めさせられて、信用も役目も失った彼女には、大好物の麻婆豆腐は唯一の癒しだったのかもしれないわね。 それまで奪われてしまうなんて、滑稽だわ」

 そう言って、沙耶は嘲笑するように笑った。今の沙耶の言葉を聞いた時、俺は思い描いてしまった。食堂の隅で一人寂しく、自分の大好物を寂しそうに食べている彼女の姿を。それはとても寂しく、そして孤独だった。

 「やっぱり、天使なんかじゃない。彼女は―――」

 最後に、沙耶がぽつりと小さな声で何かを呟いていたが、突然響き渡った音に、それは遮られた。

 食堂の扉が開くと、どたどたと足音を鳴らして騒がしく入ってくる生徒たち。雪崩れ込むように入ってきた生徒たちはあっという間に俺たちを取り囲んでしまった。

 「な、なんだお前らッ!」

 「撃つなッ! 一般生徒よ…ッ!」

 突然のこの状況に、ゆりは一喝して場を落ち着かせる。俺たちは完全に、一般生徒たちに包囲されてしまった。何が何だかわからない俺たちの前に、一人の生徒が姿を見せた。

 「そこまでだ」

 凛と通った声は、はっきりと俺たちの耳によく通って聞こえた。一般生徒たちの中から現れたのは、帽子をかぶった一人の男子生徒。そいつを、俺は見たことがあった。

 「……色々と容疑はあるが、とりあえず時間外活動の校則違反により、全員反省室に連行する」

 帽子を被り直し、はっきりと言い告げた彼は、俺たちを見渡すと、今度は低い口調で言った。

 「僕が生徒会長となったからには、貴様らに甘い選択はない」

 その低い声と口調は、まるで俺たちを見下すような言い方だった。

 そして一つ息を置くと、冷淡な口調で、従える生徒たちに命令する。

 「―――連れていけ」



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EPISODE.25 Suspicious Existence

 作戦のあった夜、一般生徒たちからの巻き上げで手に入れた食券で飯にあり付けていた俺たちの前に突然現れた、直井という生徒会会長代理が率いる生徒会に、俺たちは全員反省室へと連行された。

 反省室、と名の言う通り、部屋の中は必要以上のものは無く、嫌に殺風景な場所だった。本当に冷たい風が吹いていると思うほど、そこは寂しい空間だ。成程、“反省”をするにはもってこいの場所かもしれない。

 俺やゆりたちは第一反省室へと連れられた。戦線の主要メンバーがここに集められた感じだ。そして、半ば無理矢理座らされた俺たちの前には生徒会長代理様が毅然とした態度で立っている。

 「貴様らがここに呼びこまれたのは他でもない。 今回は時間外活動の現行犯ということで拘束させてもらったが、貴様らの余罪は既に数えきれないほど立証済みだ。 生徒会としては、これ以上低能な貴様らを見逃すことはできない」

 俺たちを座らせて、まるで自分が上にいる立場を誇示するかのように俺たちの目の前に立つ彼は、まるで汚いものを見下すような視線でずっと俺たちを見下ろしている。生徒会長の代理とは言え、こいつの口も相当汚い気もするが。

 「ふーん、で? だから何なのよ」

 だが、そんなことはゆりたちを逆に反発の度合を上げるだけだ。見下すような直井に対して、ゆりは鼻で笑うような態度を取ってみせている。そのゆりの反攻的な態度にも、直井はその目を変えることはなかった。

 「……先も言ったが、僕が生徒会長になったからには、貴様らに甘い選択の余地はないと思え。 僕は、今までのような更に甘い生徒会長のようにはいかないぞ?」

 俺は、一瞬彼女のことを思い浮かべる―――

 俺たちのせいで、会長を辞めることになってしまった、一人きりの少女。

 今、新たに生徒会長に変わった奴の前にいる時も、思える。俺たちのやり方は、本当にこれで良かったのかと。

 「……?」

 ふと、立華のことを思い浮かべた時、俺は視界の隅で立華を見かけた気がした。

 そう思って視線を向けてみると、そこにいたのは立華ではなく、まったく別人の一人の女子生徒だった。

 ショートに切り揃えた緑がかった黒髪に、眼鏡をかけて知的な雰囲気を纏った彼女は、見るからに大人しそうな少女を思わせた。本のようなものを胸に抱え、その腕に付けている腕章には『書記』と書かれている。それを見て、彼女が生徒会の書記であることがわかるが、生徒会書記なんて今まで不思議と見たことがなかった。

 座っている俺から見ても、立っている彼女は小柄な体型をしていることがわかる。背は差ほど大きくはなく、むしろ立華より少しぐらい小さいかもしれない。

 「……………」

 「―――!」

 彼女を見つけてどれくらいの時間が経ったかわからないが、眼鏡の奥にあるエメラルドグリーンの瞳が俺の視線と合ってしまった。俺は内心慌てながら視線を逸らす。変に見詰めてしまった。でも、一瞬だけではあったが、彼女のその瞳はまるで吸い込まれそうなほどで―――

 「出来ることなら貴様ら全員、罪に応じた裁きを今ここで与えてやりたい所だが、ここは裁判所でも刑務所でもない。 ただの学園だ。 よって、貴様らに対する罰は、自らの行いに反省を追求、そして厳重注意だ」

 「あぁら。 言った側から大したこともできないなんて、情けないわね」

 直井とゆりのやり取りに、俺はハッと今この場で起きている事象に意識を復帰させる。二人の間に火花が散っているのが見えてしまうほど、場の雰囲気はぴりぴりとしていた。

 「……しかし、その程度のことしか実行できないのであれば、その程度のものを出来るだけ厳しく締め上げれば良いだけの話だ」

 「?」

 「貴様らには一晩中、この反省室に居させてもらう。 明日の朝まで、みっちりと好きなだけ貴様らを反省させてやる」

 「なにいいいいいいッッッ!!?」

 ニヤリと笑った直井の口から漏れた言葉に、俺たちは一斉に素っ頓狂な声をあげた。部屋中に俺たちの声がびりびりと震えるが、目の前に立つ直井や書記らしい少女はびくともしなかった。むしろ少女は無表情を維持したままで、そして直井も見下すような視線を向けるだけだ。

 こうして、俺たちは一晩中、反省室の冷たい床に横になって寝る羽目となった。

 

 

 「やっっと解放されたぁ……ッ! あんな固ってぇ床に寝かされて首痛ッてぇ……」

 それぞれ固い床で痛めつけられた身体を伸ばしたり回しながら、俺たちは反省室をあとにした。本当に反省室で一晩を過ごし、やっとの思いで解放された俺たちは今回の生徒会の件について話し合いながら廊下を歩いた。

 「何なんだよ、あの連中は。 天使を生徒会から引きずり落とせば、俺たちの天下になるんじゃなかったのかよ」

 日向の言うことは戦線のほとんどのメンバーが考えていた理想だった。だが、結局それはただの理想にしか過ぎなかった。

 「今度あったら天使同様返り打ちにしてくれる」

 「一般生徒だから駄目よ」

 野田の言葉に、ゆりはばっさりと否定した。そう、俺たち戦線は一般生徒には被害を及ばせないことが鉄則だ。だから陽動のためのガルデモがあり、今まで平和的に一般生徒からも食券を巻き上げることができている。

 「沙耶、お前は何だか平気そうだな」

 反省室に連れてこまれた時から、何か考えごとをしているかのように無口だった沙耶。この時も沙耶は何か思い耽っていたような表情をしていたが、俺の言葉に気付いて、普段通りに返事を返してくる。

 「ああ、普段の寝所に比べれば楽なものよ。 それに屋根の下、床がある所に寝られるだけでも幸せなことだわ」

 「お前、ちゃんと寮で寝てるのか……?」

 沙耶は平然と答えてみせた。一体、こいつは普段どこで寝ているのだろう。普段からどこにいるのかよくわからないからこそ、かなり気になる所だが。

 「……にしても変ね」

 俺たち集団の真ん中を歩くゆりがぽつりと漏らした。

 「何がだ?」

 「あたしたちにこんな形で反省を強いる一般生徒なんていなかった」

 「天使が抑止力になってたんじゃないのか?」

 「…そうね。 NPCの行いは、基本的にはあたしたちの為すべき模範だけど、その感情は現実の人間のものと同じもの。 どんな偏屈な奴がいても不思議じゃないってわけか……」

 俺は、ゆりたちと初めて会って戦線に入隊した時、ゆりから聞かされたNPCに関する話を思い出す。

 NPCは元からこの世界にいた模範生徒。つまりゲームで言う所のノンプレイヤーコンピュータなのだが、その感情や行動は俺たち普通の人間と変わらない。見た目だけだと、普通の人間とは見分けがつかないほどに。

 「……つまりは、行き過ぎてた奴もいるってことだな?」

 ―――それが、生徒会長代理。

 「返り討ちが出来ない限り、天使より厄介だぜ」

 「日向くんの言う通り。 状況はやけに複雑だわ」

 「どうするよ、ゆりっぺ?」

 「色仕掛け、いきますか~」

 そう言いながら、ユイはポーズを取ってみせた。何のポーズかは知らないが、それがユイなりの色仕掛けを表すポーズなのだろう。すまないが、全然色の一つもないが。

 「お前のどこに色気があるんだよ」

 それをさすが日向と言った所か。直に口に出して言ってしまった。それに反応したユイがいつものように日向の方に押し掛ける。

 「んだとぉッ!? 見たことあんのかぁッ?!」

 「上着越しでも十分わかるさ」

 「だったら揉んだことあんのかぁッ!?」

 「へー、どれど……」

 と、あろうことか本気でユイの胸に手を伸ばしかける日向。

 「ば…ッ!?」

 まさか本当にやるとは思わなかったが、俺が思わず制止の言葉をかけようとしたその時―――

 「―――って、本当に触ろうとすんなぁぁぁぁッッ!!!」

 「ぐほぉぉッ!!?」

 ユイの壮絶な蹴り上げが、日向の股間に直撃した。

 「おま…ッ! が……ッ!」

 「ふんッ!」

 ぷす、ぷすと頭から煙を噴いて怒るユイの後ろで、股間を抑えて悶える哀れな日向。そんな奴には、同情の必要など皆無だった。

 「……お前が悪いぞ」

 「い、いや、冗談のつもりだったんだが……ッ」

 「……滑稽ね」

 俺と沙耶はそれぞれの言葉を、再起不能と化した馬鹿日向にくれてやった。

 「浅はかなり……」

 

 

 ―――対天使作戦本部。

 根城となる校長室に戻ってきた俺たちは今後の活動に関して話し合われた。結局、ゆりの「一般生徒の邪魔にならない程度に、各自授業に出て好き勝手に行動するように」という方針に皆が納得し、その場はお開きとなった。

 天使……立華が襲ってこなかったのは昨夜の件で実証済みだ。ということは、ゆりの考えは例の生徒会長代理の様子を見ることが目的なのだろう。

 「音無くん、沙耶ちゃん」

 皆が部屋を出た後、俺と沙耶だけがゆりに引き止められた。

 「これ、あなたたちが持っておきなさい」

 そう言ってゆりから渡されたものは、トランシーバー型の無線機だった。通信連絡装置としてはかなり貴重なものだ。

 「そんな貴重なもの、持っていていいのか?」

 「いいから」

 念を押されるように、俺はゆりから無線機を受け取る。続いて沙耶もそれを手に取り、懐にしまい込んでいた。

 「丁度良いわ」

 「? 何がだ、沙耶」

 「ちょっとあたしなりに調べたいことがあってね。 そんな時にコレは役立ちそうだわ」

 「調べたいこと?」

 俺は先程まえの沙耶の様子を思い出す。沙耶は昨晩から反省室にいる時も、ずっと考えごとをしているかのようで、声を掛け辛い雰囲気を纏っていた。それと関係があるのだろうか。

 「そう。 なら、何かわかったことがあったり、何か起こったら連絡を頂戴」

 「任せて」

 「……………」

 そして、俺と沙耶はゆりから渡された無線機を持ってその場をあとにした。

 沙耶と肩を並べて廊下を歩く中、俺は沙耶が何を調べようとしているのかを問うた。

 「一応聞くが……調べるって、何をだ? やっぱり……あの生徒会長代理か?」

 「……それもあるわ」

 「それも……?」

 隣を歩く足音が高く聞こえるのを感じながら、俺は沙耶の方に視線を移す。すたすたと隣を歩く沙耶の足音が、高く、そして微かに早くなっているような気がした。

 「立華のことか?」

 「……いいえ」

 俺は驚いた。あのテスト期間の時から、沙耶は何かと立華のことを気にかけていたみたいだったから、昨晩からのことも、立華絡みのことを考えているのかと思っていた。だが、沙耶は首を横に振ってみせた。

 「それじゃあ、何を気にしてるんだ?」

 「………それは」

 なんだ? この感覚は。

 沙耶が言いにくそうに、唇を噛んでいる。

 こんな沙耶を、俺は初めて見た。

 一体どうしちまったんだ、沙耶。俺にも言えないことなのか?

 沙耶は俺の顔を見ると、ハッと何かに気付いたみたいに表情を変えた。

 「……ごめんなさい。 変に思わせてしまうわね」

 「い、いや……こっちこそ、何だか悪いな。 俺、どんな顔してた?」

 「いえ、あなたは当然の反応をしたまでよ。 悪いのはあたし」

 何なんだこれは。意味がわからない。

 俺自身でもよくわからないけど、何故かざわざわと妙なざわつきを感じる。

 「……そうね、ただ一つだけ言えるとしたら」

 沙耶はぽつぽつと、小さく動く唇から言葉を紡ぐ。

 「立華さんの代わりに立った生徒会長代理――――の、隣にいた彼女。 生徒会書記と思われる一人の女子生徒のことよ」

 「…ッ!?」

 俺は昨晩初めて見た彼女の姿、そして一瞬だけあの吸い込まれそうなエメラルドグリーンの瞳と目が合った瞬間を思い出す。

 脳裏から浮かび上がったエメラルドグリーンの瞳が、俺の目から身体全体を吸い込もうとするかのように、深く、そして研ぎ澄まされる感覚。

 「あたしは、前から気になってたの。 立華さんが生徒会長にいた時はいなかった人が、今はそこにいることが」

 「え……ッ?」

 以前(まえ)はいなかった奴が、現在(いま)はそこにいる。

 何故だろう。それだけで、俺の胸が嫌にざわつく。

 「なんだそれ……どういうことなんだ?」

 「わからない。だから、調査する」

 「……俺も、手伝った方が良いか?」

 一応聞いてみた。いつもパートナーとして引っ張り回されてきたが、きっと今回もそうだろう。というよりは、むしろ俺の方から望む所だった。

 だが―――

 「いいえ、ここはあたし一人でやるわ」

 「大丈夫なのか……?」

 「ええ。 ちょっと調べるだけだから、大したことでもないわ。 音無くんは、他のみんなと行動を共にして」

 「……………」

 「音無くん?」

 「……わかった。 ただし、何かあったら俺にも連絡くれよ。 俺はお前のパートナーなんだからな」

 俺がそう言うと、沙耶はぴたりと足を止めた。そして、綺麗に流れる金髪を靡かせ、ゆっくりと俺の方に振り返った。

 「……わかったわ」

 そして凛とした表情で、力強く頷いてくれた沙耶を見て、俺はその場で納得してしまった。

 確かに、これくらいなら沙耶一人で十分だろうな。逆に俺がいたら、足手まといになりそうだ。

 調べるだけ。大したことではない。沙耶の口からもその言葉が出た。俺もその意味は頭の中で理解していた。でも、何故か俺は微かな嫌な感じを知って―――こんなことを口に出していた。

 「―――気を付けてな」

 俺の言葉に、沙耶はもう一度、頷いてくれた。

 そして鳥の羽のようなリボンを揺らした金色の長髪を翻して、沙耶は俺の前からあっという間に消えていった。自称スパイを名乗る彼女は、まるで名乗る姿の如く、颯爽と俺の前から発ってしまった。

 そして俺は、嫌な気を感じた胸をぐっと抑えて、俺は俺のするべき場所へと向かった。



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EPISODE.26 Thin Shadow

 今まで戦線と敵対していた元生徒会長だった立華さんが、あたしたちの前から退いた直後、そこには既に生徒会長代理という駒が置かれていた。立華さんの代わりに立ったその駒は、予想以上に戦線に対する立ち塞がる大きな壁となった。

 戦線のほとんどの者たちが生徒会長代理に注目を向ける中、唯一、あたしだけは彼とは全く別の人物をマークしていた。

 「……………」

 校舎の屋上から匍匐前進の姿勢で、あたしは反対側の授業が行われている教室練を双眼鏡から覗いていた。双眼鏡の向こうに映るのは、授業を真面目に受けている一人の女子生徒の横顔。

 「……一見、変わった所はやっぱり見られないわね。 ま、ただ授業を受けているだけだから、当然か……」

 しかし真面目に授業を受けているということは、やはり彼女もNPCなのだろう。もしあたしたちと同じ普通の人間なら、この世界から消えて無くなるはずだ。

 でも、ただのNPCだとしても、彼女のことが気にかかっていた。正確にはわからない。ただ、あたしの中にある勘が、妙な違和感を植え付ける。

 今日の朝から一日中、あたしは彼女という目標(ターゲット)の監視のみを続けていた。勿論本人のみならず、誰にも気付かれないように気を配っている。既に監視が開始して、半日は経っている。これまでに支障は無いし、向こうの異常も見受けられない。

 だが、まだ始まったばかりだ。監視に対する慎重な姿勢は崩さない。

 「まるで本当のスパイね……」

 言いながら、あたしは購買で買ったパンを貪った。購買で買ったのは間違っていないが、こうして授業をさぼっている上で食べているのだから問題は無いだろう。これくらいで消えるとしたらあんまり過ぎる。

 「それにしても……」

 あたしはチラリと、他の教室を見渡す。ここは正面から他の教室も見渡せられる。だから、さっきから続いている異様な光景も見ることができた。

 隣の教室の窓際には幾つもの道具を指に乗せて立っている椎名さんの姿が辛うじて見える。それだけを見ても、きっとあの教室の中ではもっと異様な光景が広がっていることだろうというのが容易に想像できる。

 「…あたしには関係ないわ。 今は、自分自身の任務が優先」

 再び双眼鏡で目標を見詰める。と、丁度その時授業終了を告げるチャイムが鳴った。午前の授業が終わり、昼休みに入る時間帯だ。

 「……授業が終わったわね。 目標は……動くか…ッ」

 多分、昼食を買いに購買か食堂へ行くのだろう。あたしは早業のようにパンを一つ食べ尽くし、即座にコーヒー牛乳をチューと飲み干すと、その場から急いで移動を開始した。

 

 

 賑わい立つ購買。購買は購買で食堂に負けない賑わいを見せていた。それは、誰もが我先にと購買に売っているパンを買おうとしているからだ。あたしはこっそりと身を隠すように、廊下の角から、騒がしいほどに購買部の前で賑わう人の群れを見詰めた。

 こうして傍目から見ると、結構激しい。あんな人混みに入って食べ物を買えるのだろうか。小柄で華奢な少女だ。あんな体型では、すぐにあの騒がしい人混みに跳ね返されてしまうだろう。

 「……あれ?」

 ふと、人混みの前で立っていたはずの目標(かのじょ)が、いつの間にか消えていた。まるで瞬きをした間にふと消えたみたいだ。目標を見失うなんて、なんて座間だ。これでスパイとは笑ってくれる。あたしはすぐさま人混みの中から一人の女子生徒を捜し出そうとするが、案外普通に見つけることができた。

 「……?」

 まるで、ふっと人混みの中から透き通ってきたかのような登場の仕方だった。そう、例えるならまるで幽霊のように。そこまで思い至って、あたしは自嘲するように笑うと、頭を振ってその馬鹿げた発想を消した。この死後の世界に幽霊とは、奇天烈にも程がある。

 そしてもう一つ驚いたことは、目標はちゃっかりとその手に購買から買ったと思われるパンと牛乳の紙パックがあったということだった。

 

 購買部から昼食を買った後の姿を後ろから追う。勿論、あたしの隠密行動は完璧だ。誰にも気付かれていない。

 「……あの女、一体なにしてるんだ?」

 「さぁ。 新手のストーカーか?」

 「先生に言った方が良いかな……」

 誰にも気付かれていない。何だか周りがコソコソとうるさいけど、あたしの隠密行動の前にはそんなもの関係ないわ。なんていったってあたしはプロなんだから!

 そして辿り着いた場所は再び教室だった。あたしはこっそりと、教室の扉から、窓際の席に座る目標の姿を見詰める。

 「なあ……今度は教室を覗き始めたぞ」

 「やっぱりストーカーかな……」

 「何かもう構わない方が良いんじゃないかな」

 ふふ、あたしの完璧な隠密行動によって、全然気付いていないわね。呑気にさっき買ったパンを食べ始めたわ……

 

 ………。

 

 ………。

 

 それにしても……

 何だか、寂しいわね。

 いや、一人でじっと監視してる自分がじゃなくて。

 「……友達、いないのかしら」

 こうして彼女を見ていると、とても寂しい気分に駈られてしまう。教室の隅で、一人席に座って黙々とパンを食べる女子生徒。通りかかるクラスメイトすら、彼女のことを一目も見ることはない。まるで彼女がそこに元から存在しないかのような……

 「―――というよりは」

 気付いていない、もしくは見えていないと言った方がしっくり来るか。

 それではまるで、本当に幽霊のようじゃないか。

 「……まさかね」

 しかし今までの違和感がここで、ある“確信”に近付きつつあることを、あたしは否定することはできなかった。

 突然その場に、元からいたかのようにその位置に立っていた少女。先程の違和感と、今の教室での彼女の姿。

 これは、もう少し見ておく必要があった。

 「……………」

 少女は一人、自分の席で寂しそうにパンを食べている。黙々と、小さく、そしてゆっくりと。わいわいと賑わう教室の中で、彼女の席だけが別の世界のように、誰にも見られず気付かれず――――

 

 

 一日の授業が終わり、放課後の学園にチャイムの音が鳴り、その音が夕日が染まる空へと溶け込んでいく。生徒たちは寮に帰る者もいれば、部活動などに向かう生徒もいた。そして、誰もいなくなった教室で、夕焼けに佇んでいた一人の女子生徒が、すっと席から立ち上がった。

 こちらに来る前にさっと身を隠し、目で彼女の姿を追う。ふらりと教室から出ていった彼女の背中を、あたしは慎重に追いかけた。

 日が沈み、少しずつ暗くなっていく廊下には、あたし達しかいない。不気味なほど静かな薄闇の廊下で、前を歩く一人の女子生徒の足音だけが妙に大きく聞こえる。自分の足音さえ響いてしまわないか緊張するほど、その世界は静寂に支配されていた。

 彼女が向かう先は生徒会室。生徒会書記の腕章を付けた彼女の向かう先は当然と言えば当然だった。

 「(……それにしても)」

 廊下に自分たち以外誰もいないからか、その静か過ぎる廊下で、あたしは奇妙な感覚を覚えた。脳の裏がざわざわとする。後頭部がじっとりと汗で濡れ、胸の奥が痛いほどに鼓動が高鳴る。

 まるでこの廊下だけが、元々いた世界から切り離されたかのような錯覚。そして、嫌な感覚。自分でも理解できない感覚に緊張しながら、あたしは慎重に彼女の背中を追った。

 そんな時、それは起こった。

 

 ―――パンッ! パンッ!

 

 「(銃声…ッ!?)」

 初めて“音”を聞いたという変な感覚を覚える。そして、遠くから単発的に聞こえてくる銃声。その合間に聞こえる微かな悲鳴。誰かが撃たれている。どこかで戦闘が起こっている。となると、戦線が関わっている以外に考えられない。

 その銃声に気を取られていた一瞬の内に、あたしはミスを犯した。

 「あ…ッ!」

 つい先ほどまで目を付けていた彼女の姿を見失っていた。目線を戻した時には、既に彼女の姿はどこにもなかった。真っ直ぐの廊下が続いている場所だから、姿を消すとしたら近くの教室に入り込んだのか。

 あたしが頭を巡らせ、彼女の姿を追い求めた時、それは信じられない所で起こった。

 

 ふっと、背後に現れた気配。

 

 ざわっと背筋に悪寒が走り、猫のように背中と後頭部の部分が総毛立つ。同時に突き刺さる冷たい視線。完全に、何者かに後ろを取られた格好となっていることを、あたしは瞬時に理解した。

 「まさか……ッ?!」

 銃を抜き、振り返る間際に銃口を向けようとした時には、既に遅かった。

 わかってはいたけれど、やはり間に合わなかった。

 意識が途切れる直前、あたしが目の前で見たもの―――――

 それは―――左手から光の刃を生やした、生徒会書記の姿であった。



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EPISODE.27 Two Captives

 ―――学習練A練 教室。

 俺たちはゆりの言う通りに、各自思いのままに授業に出ていた。勿論、真面目に受けているわけがない。各自で消えない処置のためにそれぞれ不真面目なことをして、適当に授業を受けている。

 ある者たちは麻雀に耽、ある者は授業中にお菓子を食べ、ある者は机の上で寝そべり、ある者は筋トレをし、ある者は一分越しにトイレに行き、ある者は教室の後ろで指に色々なものを乗せて異様な光景を見せ付けていたりと、何が何だかわからなくなってくるな。

 ちなみに俺は日向とだべっている。

 「そういえば沙耶の奴、どこに行ったんだ? あいつ、授業に出てないみたいだけど」

 「ああ、あいつは何か別の用事があるみたいで……」

 「別の用事? なんだよ、それ」

 「俺もよくわからないよ」

 嘘ではない。実際、俺も沙耶がどうしているのか、知らない。

 今までいなかった所に、突然のように現れたと言う生徒会書記。俺はあまり気にしていなかったが、沙耶は随分と気になったらしい。

 ―――いや、俺もどこかで気にしてたかもな。何故かあの娘の瞳がどうしても忘れられない。変に聞こえるかもしれないが、ただ純粋に合った視線が、凍てつくように俺の脳裏に張り付いてしまっているんだ。

 「ふぅん、音無にもわからないことがあるんだな」

 「何がだよ?」

 「沙耶のことさ。 お前ら、いつも一緒にいるからな。 パートナーとか言っちゃってるし、お前らは知らないだろうが、ちょっとした噂のネタにもなってるんだぜ?」

 「日向……言っておくが、俺たちはそういう関係じゃないんだからな。 勘違いしないでくれ」

 「いつも男女二人でいたら、そういう噂が出るのは自然の摂理さ」

 「それを言ったら、お前の場合も同じことが言えるじゃないか」

 「誰だよ」

 丁度その時、ガラッと扉を開けて一人の少女が入ってきた。彼女は俺たちの前を通り、自分の席に座ると、またすぐに「先生、トイレッ!」と手を上げて、呆れた教師の了解を得て再び席を立った。

 俺は教室を出ていこうとするユイに、くい、と顎で指した。

 「ばっか…! むしろ俺はあいつに暴力でやられては、やり返しの憎たらしい関係でだな…ッ!」

 日向が即座に否定するが、その様子が何だか面白くて、俺はさっきの仕返しとばかりにもう一つ言ってやろうとした。

 だが、その時―――

 

 「そこまでだ、貴様ら」

 

 教室の扉が開き、そこに姿を現せた生徒会会長代理の声だった。

 「来たぜ、直井文人様」

 日向がニヤリと笑って、俺にしか聞こえない声で囁く。

 直井の登場により、場は一時騒然となる。教室を出ようとした途端に直井と遭遇したユイは、一目散にトイレを口実に脱兎の如く逃げ出し、麻雀に固まっていた松下やTKたちも手早く片付けると、颯爽と教室から飛び出してしまった。高松と椎名もいつの間にか消えていた。

 そして教室の中で直井が目を付けたのは、机の上で寝る野田の姿だった。

 幾つもの机を横に重ね、机をベッドにして寝ている野田に、直井と取り巻きがゆっくりと近付く。

 「貴様、何のつもりだ」

 直井の言葉にも、野田は目を覚まさない。

 「……聞こえていないようだ。 良いだろう、このまま反省室へ運べ」

 直井の言う通りに、取り巻きの二人が寝ている野田に近付こうとした。

 その瞬間、野田がいきなり取り巻きを一瞬で薙ぎ倒すと、自慢のハルバートを手に持って立ち上がり、ビシリと刃を向けて叫んだ。

 「―――何を反省しろと言うのだぁッ!」

 「ひゃあッ!?」

 「はッ?」

 しかし野田が刃を向けた先には、顔も知らない悲鳴を上げる一般の女子生徒が一人。

 そんな野田の背後から、直井が言葉を紡ぐ。

 「授業中に堂々と眠り、あまつさえ罪なき一般生徒を恫喝しておいて、よくそんな疑問が浮かびますね」

 そして直井は、フッと卑下するように微笑を浮かべて言った。

 「ある意味あっぱれです」

 その直井の言葉に、とうとう頭に血が昇った野田が、振り返り様に攻撃の構えを取ろうとした。

 「なんだとぉ……ッ!」

 が、その前に俺と日向が野田を捕まえ、急いで直井の前から走り去った。

 「馬鹿ッ! ずらかるぞ!」

 「待てこらッ! 逃げるのかぁぁッッ!」

 「面倒事は起こすなってーの!」

 俺と日向は暴れる野田を二人で抑え込みながら、教室を出て行った。

 その後ろで、直井が鋭い視線で俺たちを見詰めていたことも知らずに。

 

 

 その後、俺は一人で自販機の前にいた。自販機で買ったKeyコーヒーを口にしながら、俺はこんなことをしてどうなるのかを疑問に思っていた。

 「……こんなこと続けて、意味あんのか…ッ」

 俺は様々な感情が入れ混じる思い、その鬱憤を吹き飛ばすように、飲み干したコーヒーの空き缶をゴミ箱に思い切り投げ入れた。

 「……とりあえず、教室に戻るか」

 

 

 俺は次の授業にも出るために、教室へと戻ってきた。既に直井の姿も無い。日向たちは直井が現れたことによって、別の教室に移ったのか、日向たちの姿もなかった。だが、俺はあえて元の教室にまたやって来た。

 「…!」

 彼女の姿を見つけると、俺はふらりと彼女の後ろの席にどかっと尻を落とした。

 何故だろう。教室の隅の席で、一人でいる彼女を見た時、何故か俺は彼女の近くに居たいと思ってしまったのだ。

 チラリと見てみる。小さな背中、その背中を覆うほどの長い髪。トン、トンとペンの先を叩いている。

 何かを考えているのか、立華はじっと机の上を見下ろしているみたいだった。多分、ノートかプリントに書かれた問題でも考えているのだろう。いつかのテスト期間の時に、休み時間の合間に勉強をしていた立華の姿を思い出していた。

 そう、ああやって真面目に勉強していたのに、俺たちが落としちまったんだよな……

 そう思うと、本当に悪い気がしてきた。

 罪滅ぼしのつもりかどうかはわからないが、俺は立華にこんな言葉を投げかけていた。

 「あのさ、腹減ってないか?」

 「……減ってないけど。 こんな中途半端な時間に……」

 「そうか……」

 確かに、まだ昼までは時間が少々掛かるし、朝飯を食べていればまだ腹を空かせるには足りない時間か。

 だけど、これならどうだ?

 「学食にさ、辛過ぎて誰も手を付けない噂の麻婆豆腐っていうのがあってさ」

 トン、トンというペンの音が止まった。

 「試しに食ってみてさ、これが驚くほど美味くてさ」

 お、気にし始めた。やっぱり好きなのかな、麻婆豆腐。

 「―――あのさ、良かったら奢るよ」

 その時、ガタッと立ち上がる立華。

 「どう、かな……?」

 そして俺の前を通り過ぎ、廊下へと向かった。俺がそれをぽかんと見詰めていると、廊下を出る前で振り返った立華に不意に声を投げかけられた。

 「…なにしてるの?」

 「あ、ああ。 行くよ…!」

 何故、俺は立華を誘ったんだろう。

 理由はわからない。ただ、一人寂しそうな立華の背中を見た瞬間、俺は気が付くと立華に声を掛けていた。

 何なんだろうな、俺……

 自分でもわからないもやもやした気持ちを胸に抱えながら、俺は立華と共に食堂へと向かった。

 

 教室を出て、立華と一緒に食堂へ向かう途中で、隣の教室の前を通り過ぎる時、教室を覗く沙耶と遭遇した。

 「(なにやってんだ、あいつ……)」

 廊下から教室の中をじーっと見詰める沙耶の姿は、どこからどう見ても不審だった。行き交う一般生徒たちの注目を集めているが、本人は気付いていないようだった。

 「あの娘、なにしてるのかしら……」

 「さぁな…」

 こういう場合は、関わらない方が良いんだと、俺は今までの経験から察することができた。

 きっと沙耶は例の調査をしている最中なのだろう、というのは容易に想像できた。これが調査というのも、沙耶らしいなと感じた。

 結局、俺は教室を覗く姿に注目を浴びている沙耶をあとにして、立華と食堂へと向かった。

 

 

 ―――学園大食堂。

 時間外だからか、食堂には俺と立華の二人しかいなかった。俺たちは食券で買った麻婆豆腐をそれぞれ手に取ると、席に付いて食べ始めた。俺は二度目の邂逅となる真っ赤な麻婆豆腐を、一口放りこんだ。

 「ぐ…ッ! やっぱ辛ェ…ッ!!」

 口の中を火車のように辛さが覆う感覚は、間違いなくこの世界で一番辛い食べ物であることを実感させられた。

 「でもこういうのってさ、ご飯と一緒に食べるもんだよな…!」

 「そう…」

 「そうって……これだけじゃ、いくらなんでも辛すぎない?」

 「別に……ただ…」

 「ただ?」

 立華は平然と、俺みたいに口元を赤くすることもなく、一口啜った。

 「美味いわ……」

 「……そっか。 辛いっていうのが好きと言うより、麻婆豆腐が好物なんだな」

 俺の一言に、立華は不思議そうな顔をしていた。

 「どうした?」

 俺は熱くなった口元を潤うために、水を飲む。

 そして紡がれる立華の、意外そうな言い方をした言葉。

 「……私、麻婆豆腐が好きなの?」

 「いや、そんなの俺に聞かれても……」

 「初めて知った……」

 他人に言われて、自分の好物に初めて気付く立華の表情を見て、俺はつい苦笑してしまった。

 立華は一口よそった麻婆豆腐を見詰めていたが、ふと、その視線が別の方へと移される。その直後、俺の右背後から、あいつの声が聞こえた。

 「立華さん」

 その声だけで、俺はそこにいるのが誰なのかをすぐに知った。

 「こんな時間に何をしているのですか……」

 「見りゃわかるだろ、食事だ」

 俺が代わりに言い返してやる。だが、直井は面倒くさそうな目で俺を一目見ただけで、すぐに立華の方に視線を戻して、再び言い始めた。

 「休み時間での食事は校則違反だ」

 「……忘れてた」

 「ええッ!?」

 意外な立華の言葉に、俺は驚きを隠せなかった。

 「そうだったわね……校則違反だった……忘れてた……」

 俺はそんな立華を見て、すぐにわかったことがある。

 目の前の立華の様子を見る限り、素で忘れていたに違いない。今は生徒会長を辞めさせられた身とはいえ、元から真面目な生徒として居る立華をここまでにするなんて、好物の麻婆豆腐恐るべしと言う他ない。

 そして校則違反とわかるや、素早く麻婆豆腐を食べ尽くす立華の姿もまた、麻婆豆腐愛の深さを垣間見た気がした。

 まぁ、そんなことを思っている場合でもなかった―――

 「連れていけ」

 直井の一言で、俺と立華は囚人の如く、頑強な牢屋に閉じ込められてしまうのだった。

 

 

 「くそ…ッ! 休み時間に麻婆豆腐食ったからって、これはないだろ…ッ!」

 俺は屈強な扉に体当たりするが、肩を痛めるだけで扉はビクともしなかった。休み時間に飯を食べただけでこの仕打ちはあんまりだ。普通のことではない。

 「つーか、どこだよここは…! まるで独房じゃないか…ッ?!」

 俺たちが放りこまれ、閉じ込まれた場所を見渡してみると、そこは前に一晩過ごされた反省室とは全く違った空間だった。ベッドとトイレという、必要最小限のものしかない殺風景な場所で、まるで囚人が閉じ込められる牢屋のような場所だった。

 「眠い……」

 「は?」

 立華はぽつりと漏らすと、ふらりとベッドへと向かった。そして「眠るわ」とはっきりと言うと、靴を脱いでベッドの上に乗り始めた。

 「お、おいおい! そんな場合じゃないだろッ!?」

 こういう状況下で寝るなんて、なに考えてるんだ。

 「他にすることあるの?」

 「おかしいじゃないか! こんな独房みたいな場所に閉じ込められてよぉッ!」

 だが、立華は構わずベッドの隅を陣取ると、まるで当たり前のように言い始める。

 「それで反省になるのなら仕方ないじゃない」

 「いや…! だからって、この状況で寝るか普通…ッ?!」

 しかし立華はふぁ…と欠伸をすると、「おやすみなさい…」と言い残し、壁に寄りかかって本当に寝始めた。そんなに時間もかからない内に、立華の静かな寝息が聞こえてくるようになった。

 「マジで寝やがった……」

 俺は呆れて、思わず溜息が出てしまった。

 仕方なく、俺も今は何もできない状況に身を任せることにして、ベッドに座り込んだ。

 「(……他のみんなはどうしてるかな、沙耶は……どうだろうな)」

 俺と立華が閉じ込められている間、外にいる連中のことなど知る手段もない。そしてその状況下で、俺はある一人のパートナーを思い出していた。

 「はぁ……」

 こうやって敵に捕まった時に、仲間のスパイが助けに来ないかなという映画みたいなノリを考えて、俺はそんな考えを浮かべた自分に自嘲するように、くくっと笑った。

 笑っている場合でもないが、今の状況では立華の言う通り、他にすることがない。

 どうやってここから出るかな……というか、果たしてここからいつ出られるだろうか。

 そして直井の目的は、何なのか。俺たちをここに閉じ込めるなんて、やっぱりどう考えても異常だった。何か、他に関わりがあるのだろうか。

 そんなことを考えている内に、俺はゆらりと波のように押し寄せてきた眠気に覆われ、何時しかその意識を闇の中に沈ませていた―――



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EPISODE.28 Family Affair

 まるで地震のような地響きと共に、先に眠ってしまった立華に便乗して寝ていた俺は目を覚ました。

 「なんだ、今の音……」

 地震、かと思ったが、果たしてこんな世界に地震という自然現象があるのか疑わしい。

 どこからか漏れ出した水が、ベッドに沁み渡っている。その音が何回か鳴っている間に、俺は最も可能性のありそうな想像に辿り着いた。

 「まさか……戦闘かッ!?」

 助けが来たのだろうか、と淡い希望が微かに浮かんだ。

 その時俺は咄嗟に、ゆりから渡された無線機を思い出す。これで呼びかけることはできないか、と俺は無線機を手に取った。

 だが、スイッチを入れていくらこちらから呼びかけても、無線機から聞こえてくるのは無慈悲なノイズ音だけ。

 「くそ……壊れてる」

 そんな事実を知って、俺は唇を噛む。

 押し付けられたガラクタを怒りに任せて棄てるように、俺はノイズしか聞こえない無線機を投げ捨てた。無線機は壁に当たってベッドの上に落ちた。

 俺は躍起になって無我夢中に脱出の糸口を探し始めた。だが、やはりどこを探しても脱出する手段は見つからない。

 そんな時、さっき投げ捨てた無線機から、聞き慣れた声を聞いた気がした。

 『ザザ……音……くん……沙耶ちゃ……音無くん…聞こえる? 音無くん……』

 ゆりの声だ。

 ついさっきまでノイズしか拾えていなかったガラクタだったが、壁に思い切りぶつけたのが良かったのか知らないが、無線機は本来の役割を思い出してくれていた。

 俺は咄嗟にゆりの声が聞こえる無線機を掴み取った。

 「聞こえるぞ! ゆりッ!」

 俺は声をあげた。だが、その直後、また部屋中を揺るがすような大きな地響きが鳴った。

 『これが二人に、いいえ、どちら一人にでも聞かれていると信じて、今から話すわ。 音無くん、沙耶ちゃん』

 ゆりの口調から察して、俺の声は向こうには聞こえていないということがわかる。

 『よく聞いて。 直井文人は、NPCじゃなかったのよ。 人の魂を持った、あたしたちと同じ人間だったの…ッ!』

 ゆりが発した衝撃の言葉に、俺は驚きを隠せなかった。

 「そんな馬鹿な……」

 ゆりの言葉が正しいとしても、あいつが俺たちと変わらない人間だったとしたら、いくつかおかしな点がある。

 それは―――

 『おかしいと思わない? 元は副会長、模範的な行動を取っていたはずよ。 なら、存在を保っていられず消えて無くなるはず。 でも、陰湿にね、陰で一般生徒に暴力を振るっていたのよ…!』

 「…ッ?!」

 『表で模範的な活動をし、裏で悪事を働く。 それでこの世界のバランスを保っていたというわけ』

 「そんなことをして……」

 『抑止力だった天使が失脚したことにより、彼はこの世界で自由を手に入れた。 まだ目的はわからないけどね』

 ゆりの声を聞いているうちに、俺の胸の中がざわざわと嫌な感じで疼く。さっきから聞こえる水の滴る音が妙に大きく響いて聞こえ、そして外からの爆発音や地響きも増して聞こえてくる。

 『既にこっちは戦闘が始まってる。 あなたが見たこともない、酷い戦いよ……』

 また、ズズゥンという地響き。

 「(一体、外でどんな事が起こっているんだ……)」

 『―――彼は、あたしたちが一般生徒を攻撃できないことを知っている。 だから、彼らを盾にも人質にもするのよ。 あたしたちは言いなりになるしかない。 それはもう、一方的な暴力……次々と仲間がやられていってるわ』

 「―――ッ!」

 『……あたしね、天使は幽閉されてると思うの。 あたしたちが入った反省室を捜したけど、見つけられなかった。 もしかしたら、もっと簡単には抜け出せない所に閉じ込められてるのだと思う』

 ゆり、お前の言う通りだよ。

 天使は―――立華は、今、俺のすぐそこにいる。お前の推理通り、簡単に脱出できないようなとんでもない所にな。

 『だから、あたしはこう思うの。 ねえ、二人とも。 二人は……それとも、音無くんか沙耶ちゃんも、天使と一緒にいるんじゃないかって』

 「―――!」

 『そこに天使が居るのなら、お願い……天使を連れてきて。 この酷い戦いを終わらせるには、天使の存在が必要なの…ッ! 時間がないから、急いでグラウンドに……』

 その時、ゆりの声の背後から聞こえてくる悲鳴。ゆりの言う酷い戦いが、向こうで起こっているんだ。

 『あたしも今から出るわ……それじゃあ、健闘を祈るわ…ッ!』

 そして、全ての音がそこで切れた。

 「くそ…ッ! 俺は何だってこんな時に…ッ!」

 仲間たちが危ない時に、俺はこんな所で何をしているのか。

 急に何もかもが悔しくなってくる。

 俺は静かに寝息を立てている立華の方に向かっていった。

 「起きろ、立華ッ!」

 俺の呼びかけに、立華はすぐに目を覚ましてくれた。

 「ん……」

 重たそうに瞼を開けて、その瞳が俺の顔を映す。微かに顔を向け、ぱらりと垂れる髪。そんな寝起きの立華に、俺は間髪いれず捲し立てるように言葉を走らせた。

 「助けてくれ! 仲間が大変なんだ…ッ!」

 「……おかしなことを言うのね。 助けてほしいのはこっちじゃない」

 目を擦りながら言う立華の言葉は全く以て正論だ。だが、そんなのは重々承知している。

 「そんなことは重々承知だ。 でも、お前なら出来るかもしれない。 だから、頼む…ッ!」

 俺は、頭を下げる。

 一刻も早くここを出ないと、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 凄く嫌な気がした。

 「みんなが待ってるんだ…ッ!」

 そんな俺の気持ちを汲んでくれたのかわからない。だが、立華は起き上がると、静かにその言葉を口にしていた。

 「……ガードスキル、ハンドソニック」

 光と共に、立華の右手から生える刃。

 「それで、あの扉が何とかなるのか……?」

 俺の質問に立華は口で答えるわけではなく、行動で示してくれた。

 扉の前に立つと、立華はその刃を振りかざし、幾重にも重ねて扉を斬り付けた。しかし、強固な扉には傷一つ付いていなかった。

 「駄目か……」

 「だって攻撃目的で作っていないから……所詮は自衛用だもの」

 立華の淡々と並べた言葉の内に、俺はふと引っ掛かるものを感じた。

 「自衛……? 作っていない……?」

 その時、俺は埋もれていた記憶を掘り起こす。

 初めて会った時。それは、ほぼ同時に沙耶と出会った時でもある。

 「そうか……」

 俺は立ち上がると、立ち尽くす立華の背中に向かった。

 「初めに会った時のこと、覚えてるか? 俺、心臓ブッ刺されて、死にかけたよな……」

 「あなたがおかしなことを言うからよ……」

 「ああ。 でも、あれでお前を敵だと勘違いしちまった」

 勝手に向かって行って、自爆した挙句に、ゆりたちと一緒になって敵と勘違いして戦った日々。

 今思えば、俺はどこまで馬鹿な奴だったんだろうな。

 「俺には記憶がないんだ。 だから、お前と戦う理由も実はないんだ」

 周りの所為にするつもりはない。

 記憶がないからと、言い訳にするつもりもない。

 でも、俺は確かに間違っていたのかもしれない。

 「もし俺に記憶があったら……もしも、最初に馬鹿な質問をしなかったら、俺は、お前の味方でいたかもな……」

 「……そんな人はいなかったわ」

 「いても、いいじゃないか……」

 「いないわ。 いたとしても―――みんな消えちゃうもの」

 「……ッ!」

 その立華の言葉を聞いた時、俺は全身から力が抜けていくのを感じて、ベッドに腰を落とした。

 そして、結局俺はやっぱり馬鹿だったと、思い知らされる。

 「(そっか……立華(こいつ)の味方をするということは、楽しい学園生活をおくって、この世界から消えてしまうということ、なのか……)」

 ははっ、そっか……

 なんか、笑えてくる……

 ―――立華(こいつ)が、可哀想すぎて。

 不憫すぎて。

 なんて世界のシステムだ……ッ!

 溢れてくる熱いものを自覚しながら、俺は肩を震わせた。

 だが、彼女は―――

 「……ハンドソニック、バージョン2」

 言葉が紡がれるとほぼ同時に、立華の刃が変化を遂げる。槍のように変形した立華の刃は、前にも増して攻撃性が伺える外観となっていた。

 「高速性に特化した薄いフォルム……」

 そして身を構えると、一閃、また一閃と、切れ味を増した一振りで扉に斬りかかる。だが、扉は火花が散るだけだった。

 「ハンドソニック、バージョン3」

 すかさず、次のフォルムが形成される。

 「……無粋ね」

 「格好良いじゃん」

 俺は目元からあるものを拭うと、正直な感想をくれてやった。

 「でも、これではまだ扉は開かないわ……」

 「他にはないのか?」

 「あるわ。 バージョン4……」

 「うわッ!」

 次の変形は今までに増して派手なものとなった。

 「花の形にしてみたのだけど……果たしてこれは可愛いかしら?」

 「いや、相当禍々しいかもしれないけど……」

 俺は、今まで見てきたハンドソニックの種類の記憶を並べて、あることを思いつく。

 「―――! もしかしたら、いけるかもしれない……」

 「?」

 首を傾げる立華に、俺は立ち上がった。

 「一つ、試してほしいんだ」

 

 

 俺の提案を聞いた立華は、はっきりと了承してくれた。そして、俺が見守る中、それが実行される。

 「ハンドソニック、バージョン2」

 まずは今までも見てきた、普通のフォルムから長い槍のフォルムへ。

 その細長い刃を扉の隙間に挿入させる。

 「バージョン3」

 すかさず、挿入した刃の先を変形させる。

 「バージョン4」

 そこで一気に、あの先がどでかい花形のフォルムに変形させる…!

 ビシ、とみるみるうちに亀裂が走った。

 「いける…ッ!」

 本来は収まりきれるはずもない物体がいきなり干渉した事象により、強固だった扉は突然の事象に抗う事が出来るはずも無く、軋みを叫ぶ悲鳴をあげて爆発した。

 見事にあれ程強固だった扉は破壊される。警報が鳴り響く中、俺は立華の背中を押してその場から脱出する。

 「急ごう…!」

 俺は立華の手を取ると、急いでグラウンドへと向かった。

 その先で、想像もしていなかったほどの惨状が待っているとも知らずに。

 

 

 雨の中、俺はびしょ濡れになる事も構わずにグラウンドへと駆け付けた。

 そしてグラウンドに付いて、俺が見たものは、はっきり言って地獄だった―――

 雨が叩く下で、泥の中に朽ち果てるように身を沈めた仲間たちの、無残な姿。そこはまるで、暴力という一言では生易しすぎるほどの酷い惨状だった。

 そして俺はその中で、あるものを見つける。

 雨の中、泥に倒れている誰かを踏み付けている直井文人。そしてその直井の下で身体を転がせていたのは―――

 「日向ぁッ!」

 俺は階段を駆け下り、足を泥に滑らせながらも、傷だらけで倒れている日向の下へと駆け出した。その近くでは、雨に濡れる中で不敵に笑う直井の姿もあった。

 「大丈夫か、日向…ッ!」

 みんなの同じように、日向も酷い有様だ。血だらけで、雨で流されていてもその辺りの泥が赤く染まっていた。俺の声に反応した日向が、ゆっくりと首を動かした。

 「真っ先に俺の所に駆け付けるなんて……これなのか…?」

 「冗談言ってる場合かよ…ッ!」

 だが、そんな俺と日向のことなど気にしていない様子で、直井は立華の姿を見るやくっと笑いだした。

 「あそこからどうやって抜け出してきた……?」

 「扉を壊してきた……」

 「何年かけて作ったと思ってるんだ……」

 低く呟きながら、直井は言う。大量の雨粒が大きく音を立てて落ちる中でも、直井たちの言葉ははっきりと聞こえていた。

 「生徒会長代理として命じる。 大人しく戻れ……」

 こんな時でも、生徒会長の権威を前に出す直井の態度に、俺は唇を噛み締める。

 仲間たちをこんな目にあわせた張本人を前にして、俺は底から湧き出る熱い衝動を必死に抑えながら、声を絞る。

 「立華…ッ! この惨状だ。 これが正しくないってことぐらい、わかるよな……」

 「……ハンドソニック」

 俺の言葉に頷くように、立華はハンドソニックの刃を体現させる。

 だが、それに対しても直井は臆することもなく、むしろ自分自身という存在をより巨大にするように、言い始めた。

 「逆らうのか、神に」

 「……………」

 「僕が、神だ」

 直井の発言に、辺りはシンと静まる。

 聞こえるのは、地面を叩く大きな雨音だけ。

 「馬鹿か、こいつ……」

 日向の呟き。

 俺は、自分の耳を疑った。今、あいつはなんて言った。

 こんなことまでしておいて、自分が神だと……?

 「…愚かな。 ここが神を選ぶ世界だと、誰も気付いていないのか」

 「なにを言って……」

 「生きていた記憶がある……皆、酷い人生だっただろう。 何故? それこそが神になる権利であり、生きる苦しみを知る僕らが神になる権利を持っているからだ」

 こいつは、本気で言っているのか。

 「そして僕は今、そこに辿り着けた……」

 「神になってどうするつもりだ……」

 俺は怒りが混じる言葉を振り絞るように、言う。

 「安らぎを与える」

 「―――!!」

 安らぎ?

 それが、こんな馬鹿げた光景だと言うのか?

 俺たちに?

 「無茶苦茶してくれるじゃねえかよ…ッ!」

 「抵抗するからだ。 君たちは神になる権利を得た魂であると同時に、生前の記憶に苦しみ、もがき続ける者たちだ。 だが―――神は決まった。 なら、僕たちはお前たちに、安らぎを与えよう」

 そして直井が立ち止まった先には、倒れるゆりの姿があった。

 「ゆり…ッ!」

 直井は倒れるゆりの髪を掴むと、無理矢理抱き起こし、引き寄せた。抵抗する力もなく、直井の手に捕まったゆり。

 「これ以上何をする気……ッ!?」

 俺が駆け付けようとすると、周りの生徒会の一般生徒たちが一斉に武器を向けていることに気付いた。

 だが、こいつらの目がどこか死んでるようで……

 「僕が長年準備を進めてきたのは、なにも天使の牢獄を作るだけじゃない……他人を意のままにすることができる、催眠術も、その内に含まれる」

 「こいつら……操られてるって言うのか…ッ!」

 しかも奴らは全員武器を持っている。これでは、身動きが取れない。

 だけど、その間に……!

 「僕がお前たちを成仏させてやる。 まずは……君からだ、リーダー様?」

 「あなたは……あたしの過去を知らな……」

 「知らなくても構わない。 先に言っただろう、僕には催眠術があると」

 「…ッ!?」

 「さあ、目を閉じるんだ。 そして、貴様はこれから幸せな夢を見る。 こんな世界でも、な」

 「まさ……か……」

 ゆりの様子がおかしい。

 直井の目を見たゆりが、徐々に瞼を閉じていく。

 駄目だ、寝るな…ッ!

 俺の胸の中で、前にも感じたことのある嫌な感覚を植え付けた。

 消えた岩沢、消えそうになった日向、その時に感じた似たような感覚が、俺に警鐘を鳴らす。

 ゆりが、消える――――?

 駄目だ。

 駄目だ駄目だ駄目だ。

 こんなことって――――

 こんなことってないだろう…ッ!

 納得もできない人生の終わりの末で、必死になって抗ってきた顛末がこんなことって…!

 そんな、そんな紛い物で―――

 

 消えるなんて―――

 

 

 「駄目だあああああッッッ!!!」

 

 

 俺は叫んだ。

 

 そして、駆け出していた。

 

 撃たれるなんて知ったこっちゃない。

 

 ただ夢中で、俺は泥を踏みしめながら駆け出し―――

 

 あいつを殴り飛ばしていた。

 

 

 「そんな紛い物の記憶で消すなぁぁぁぁぁ……ッッ!!」

 

 

 雨音に負けず、俺の思いの叫びが響き渡る。それは、俺がこの世界に来て初めて、本当に身体の底から叫び、思いの丈を他人にぶつけた瞬間だった。

 



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EPISODE.29 My Lie

 冷たい大雨が空から降り注ぐ。こんな世界でも雨は降る。日が昇って朝が来て、日が落ちて夜が来るように、当然のように天候は存在する。そして、僕はそれを繰り返していく時間の中で、この世界で過ごしてきた。そして気付いた。この世界が、神を選ぶ世界であることを。

 生きている間は、神様の存在に僕は人生の理不尽さを問うたことが何度もあった。この世界に来てからも、僕にあんな人生を与えた神に、不満を抱き続けていた。でも、僕はこの世界に留まることでわかったんだ。神など最初から存在しない。神は、僕たちの中から選ばれるのだ。

 そして、それに気付いた僕こそが、神になる権利がある。

 神に反逆とか天使に刃向かう等連中の思想は知ったことではないが、奴らは余りにも愚かだった。そんな幼稚なことを続けていて何になる?それでどんな変化が期待できる?いるかもわからない存在に反逆して何の意味がある?

 そんなことは全て無駄だ。こんな簡単なこともわからない奴らに、神になる資格はあるわけがないし、何よりこの世界に居続けることもない。

 だから、僕が神になる―――

 

 そしてそんな奴らにも安らぎを与え、この世界を神になった僕の手によって理想の世界にする。

 それが僕の目的だった。

 副生徒会長として天使の傍で、天使の動向を監視し、着々と準備を進めてきた。

 その僕の努力がここで報われた。

 

 僕は、神になったんだ。

 それなのに――――

 

 「そんな紛い物の記憶で消すなぁぁぁぁぁ………ッッ!!」

 

 何故、僕は殴られ、地面に倒れている?

 熱くなった頬を押さえ、起き上がると、そいつは僕の胸倉を掴んで押し寄せてきた。

 「俺たちの生きてきた人生は本物だッ! 何一つ嘘のない人生なんだよッ! みんな、懸命に生きてきた人生なんだよッ!!」

 僕に説教をするつもりなのか、男は僕の胸倉を掴んで離さない。僕の目と鼻の先で、男は必死に叫んでいる。

 「そうして刻まれてきた記憶なんだ……ッ! 必死に生きてきた記憶なんだ……ッ!」

 男の後ろで、いつの間にか僕が操っていた生徒会役員どもが天使にやられていた。だが、そんなことは関係なかった。今、僕の目の前で叫んでいるこの男。そいつの声が、言葉が、僕の記憶を掻き回してくる。

 「それがどんなものであろうが、俺たちが生きてきた人生なんだよ…ッ! それを結果だけ上塗りしようだなんて――――」

 埋もれていた記憶が、次々とこいつの言葉によって掘り起こされていく。

 

 「お前の人生だって、本物だったはずだろぉぉぉぉ……ッッ!!」

 

 「―――ッ!」

 僕の人生――――

 僕の、人生は――――

 

 自身を偽る、兄になる為の人生だった―――

 

 

 

 ―――兄が死んだ。

 

 陶芸の名手の家に生まれてしまった僕と双子の兄。僕の兄は幼き頃から才覚を発揮し、跡継ぎとして名を世間に知らしめていた。

 僕はと言えば、兄のように家が誇れるような才能もなかったので、一人部屋にこもって家で遊ぶ毎日だった。

 親からも誰からも期待されない、意味のない人生―――

 

 ―――死んだのはお前だ―――

 

 空は、そう告げていた。

 二人で一緒に木の上から落ちて、岩の上でぴくりとも動かない寝ている方は僕で、そして助かった方が、兄なのだ。

 そう、僕は自分に言い聞かせた―――それはまるで、催眠術をかけるように。

 僕は兄とすり替わった。死んだのは僕ということになった。身内にも気付かれることはなく、“僕”はそのまま死んだ―――

 そして、意味のある人生が始まった。

 怪我の治療ということで世間の目から離れ、リハビリという名の厳しい修行が続く。

 

 「恥を知れ…ッ! こんなもの、作ってきおって……!」

 

 父の怒声を聞く毎日。修業は苛烈を極めた。

 何て遠い所にいたのだろうか、僕の兄は。でも僕は、僕の人生を意味のあるものに変える挑戦をし続けるのだと強く誓ったのだ。父に割られる僕の作品、僕の手によって形を崩していく作品、様々な崩れていく、失っていく僕の作品を見て、僕はいつも父の隣でそう思い続けていた。

 もう、一人で遊ぶ毎日には戻らない。

 

 展覧会で僕の作品が入賞を果たした。“兄”としては全然駄目な結果だったけど、“僕”としては今出せる最大の結果だった。

 「何だ……お前、泣いているのか?」

 「……バカな」

 ぐす、と鼻をすすり、泣いていたのを誤魔化すように言い返す僕。

 「――だな。 馬鹿な話だ……、儂に恥をかかすな……ッ! 全く、何たる結果だ」

 僕はそんな父の怒声を聞いても、全く悔しくはなかった。むしろ嬉しかった。

 何故なら、厳しい父にこれからも付いていって、修行をして腕をあげていこうと決意できたからだ。

 そして、日本一の陶芸家になって、父に認められるような、兄のような人間になるんだ……!

 

 でも……

 

 その父が、床(とこ)に伏せった。

 回復の見込みが無いほど、父は重症だった。勿論、陶芸も出来るわけがないし、僕に教えを与えることも、僕を怒鳴る元気もあるわけがない。

 僕が食事を与えると、あの厳しかった父が、優しげに微笑むのだった―――

 

 僕は父の看病を続けながら、いつも思った。

 

 僕の人生の意味は、こんな腕では工房も持つ事は出来ないし、一人立ちも出来ない。

 

 ずっとこの人の世話をしていく人生なの……?

 

 ねえ、神さま…ッ!?

 

 

 

 そして、僕は気付いた。

 あの時死んだのは、本当に僕だったのだと。

 あそこから頑張ったのも“兄”で、ここにいるのも“兄”で、父と“兄”しかいなかったんだ。

 僕の人生は偽りだった。

 “僕”はどこにもいなかったんだ―――

 

 どこにも……

 

 僕の人生も、偽りで、それは本物なんかじゃ―――――

 

 

 

 違う。

 

 

 誰かが、そう言って僕の思いを否定してくれた気がした。

 

 

 そして、否定してくれた誰かの声が、届いてくる。

 

 

 

 

 

 

 ―――お前の人生だって、本物だったはずだろぉぉぉぉッッ?!!―――

 

 

 

 「……ッ!?」

 僕は、その声に引き戻されるように現実に戻った。そして思い出した記憶から帰った僕を迎えたのは、僕の身体を強く抱き締めてくれる温もりだった。雨に濡れ、冷えた身体が暖かく沁み込んでくる。僕を抱き締め、尚もそいつは僕に叫び続ける。

 「頑張ったのはお前だ…ッ! 必死にもがいたのもお前だ……ッ! 違うか…ッ!?」

 「何を知った風な口を……」

 「わかるさ…ッ」

 ぎゅっと、僕は更に奴の方に寄せられ、僕の耳に直接その言葉を紡いだ。

 「―――ここに、お前がいるんだから」

 「―――!」

 “僕”が―――“いる”

 それは、僕の存在を認めてくれるということだった。

 「……それじゃあ、あんた認めてくれるの? この僕を……」

 「お前以外の誰を認めろっていうんだよ…ッ? 俺が抱いているのはお前だ。 お前以外にいない……お前だけだよ……ッ!」

 「……………」

 

 僕は、その言葉を聞いて目を閉じる。

 ああ、何だか安らかな気持ちだ。

 逆に僕が安らかになってどうすると言うのか。

 でも、僕は確かに安らかだった。

 そして、もう一つの記憶を思い出した。

 あれは―――僕と兄が、父の前で木の上から柿を取ろうとしていた時だ。

 

 「取ったって渋柿じゃぞ」

 

 父が言うも、僕と兄はお互いに柿を取ろうとすることを止めない。僕は必死だった。父の前だということ、兄が隣にいるということ、それらの状況で、僕は必死になっていた。父に良い所を見せたいと思ったのか、兄に勝ちたいと思ったのか。

 「あ…ッ!」

 取った。兄より先に、父の目の前で、僕は遂に柿を手に取った。

 「やった…! 兄さんに勝った…!」

 あまりに嬉しくて、僕は身体のバランスを崩した。

 「わああッッ!!」

 兄より先に柿を取ってみせたのに、最後の最後で格好悪い所を父に見せてしまった僕だった。父の足元で倒れる僕に、父は呆れ気味に呟いた。

 「渋柿ごときで何を……」

 でも、父は去り際に立ち止まって、僕にこんな言葉を贈ってくれた。

 

 「だが……文人もやりおる」

 

 僕はハッとなって、父の方を見詰めた。父は僕の方を一瞥すると、背中を向けて立ち去っていった。

 

 それは―――僕が一番聞きたかった言葉。

 

 僕を、認めてくれた言葉。

 

 あの時の“僕”は、自分の作った陶芸の底に名前を刻んでいた。僕が作り上げた作品に刻まれた名前は、“兄”の名前ではなく、“僕”の『文人』という名前だった。

 僕の存在。認めてくれた、“僕”を表す名前。

 気が付けば、あれほど降っていた雨はすっかり止んでいた。空が晴れていく下で、僕の気持ちもまた、どこか覆っていた雲が消え失せていく気持ちだった。僕の中にある空も晴れ、出来上がった水たまりに雫が落ちて、ピチョンと音を立てて、波紋が浮かぶように感じた。それは、僕の気持ちもようやく晴れたことを表しているようだった。



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EPISODE.30 One Program

 夢、夢を見た……

 遠い葉が揺れるさざ波の音を聞いているうちに、無意識の内に寝込んでしまったあたし。あたしは寮の門限を遥かに超えた時間帯に、一人、夜の校舎の隅で誰かを待っていた。

 その誰かを待っているうちに、あたしは眠ってしまった。ちょっと壁に寄りかかっていただけだったのに、あたしはその人が来るまで呑気に寝ていたのだ。

 

 

 ―――ぇ―――ねえ、朱鷺―――さん――――起き―――て―――

 

 誰かがあたしを呼び掛ける。でも、あたしは目覚めない。

 目を覚ませば、あたしを呼ぶのが誰なのかがわかる―――ああ、あたしを呼ぶのは誰?

 あたしはゆっくりと、瞳を開き、“彼”の顔を捉えようとした。

 

 

 「……ッ」

 目が覚めると、あたしの目の前には誰もいなかった。それどころか、ここがどこなのかもわからなかった。

 辺りを見渡してみると、どこかの教室であることがわかる。慣れた目が、暗闇の中からうっすらと捉え始めた机や物が適当に置かれている所を見る限り、あまり使われていない教室だというのがよくわかった。

 「ここは一体……いツ…!」

 あたしは今、自分がどのような状況に置かれているのかを、電流のように走った痛みによって知った。あたしは椅子に座らされ、両手を後ろに紐のようなもので固く縛られていた。身体も椅子に拘束されていて、身動きが取れない。明らかに自分が囚われの身であることを自覚させる。

 「どうしてこんな……」

 あたしは何故このような状況下に置かれているのか頭の中を整理させて、すぐにハッと思い出す。

 例の生徒会書記を尾行していたあたしは、彼女に気付かれて、為す術もなく攻撃を受けた。

 情けないことに一撃で意識を失ったあたしは、ご覧の通り目覚めてみればこの有様だ。敵に捕らわれるスパイってどんだけ間抜けなのよ、と自分自身に毒を吐く。

 「(それより……なんとかして脱出を…)」

 しかし尾行していたからと言って、こんな風に拘束されるなんて明らかに異常だ。速やかに現場を離れた方が良さそうだと判断したあたしは、なんとかして脱出を試みようとするものの、両手まで縛られては、自身の拘束を解くという行為だけでも一苦労というものだった。

 

 「……お目覚め、なの?」

 

 「―――!!」

 闇から発せられた小さくもはっきりと通った声に、あたしは拘束されている身を構えた。やがて、気配のする方からコツ、コツと足音を鳴らせて、見覚えのある一人の女子生徒が現れる。闇の中から現れた女子生徒の腕には、『書記』と書かれた腕章が付けられていた。そしてそのエメラルドグリーンの瞳が、無機質のガラスのようにあたしの顔を映した。

 「こんなことして、あたしをどうするつもりかしら……?」

 「……………」

 彼女は答えない。相変わらず表情の色一つも変えず、ただその無機質な瞳であたしを見詰め続ける。

 まるで幽霊のように自分の存在感をゆらゆらと漂わせている、不思議な少女だった。その雰囲気とは相反してガラスのようなエメラルドグリーンの瞳は、見るものすべてを吸い込んでしまいそうなものだった。

 彼女を見ても意図がまったく読めない。何を考えているかわからないし、ただ自分を見て無言を貫いている。

 「………なにもしない。 私はあなたをどうこうするつもりはない、なの」

 「それなら、何故こんな…ッ!」

 「………あなたをここから出させないためなの」

 「なんですって……?」

 ここからあたしを出さないために、あたしを拘束した?

 意味がわからない。まだ、情報が足りない。あたしが何故このような状況に陥っているのか、その情報を。

 「なんであたしを……? あたしをここに閉じ込める理由は?」

 「……………」

 「……ねえ、あなたは……誰? いえ、……何?」

 あたしのゆっくりと、低く紡がれた質問に、彼女は淡々と答えた。

 「……私は、指定された該当目的の行動を監視し、その行動の度合を識別、ある範囲に達した場合にその目標の行動を抑制することが目的」

 「……は? あたしを、監視……?」

 何を言っているのだろう、この娘は。

 色々とわけのわからないことを言っているが、ただ一つ彼女の言葉から取り上げるとなると……監視していたと思ったら、逆にあたし自身が彼女に監視されていたというのか?

 それは本当に―――滑稽な話だ。

 「何故、あたしなんかを監視するのよ…ッ?!」

 「………あなたは、この世界においてイレギュラーな存在だから、なの」

 「…ッ!?」

 あたしは驚愕する。

 彼女の口から紡がれた言葉の真意は、あたしにとっては理解し難いものとなった。

 「あたしがこの世界のイレギュラーな存在って……なによ? ここは、この世界は死んだ者たちが来る世界なんでしょうッ?!」

 そう、だからあたしも、ここにいる。あたしはあの時死んだのだから。

 「……この世界は貴方達が思っている程、簡単には出来ていないということ、なの」

 「?」

 「そして、その世界を構築するのに“制御”が必要である時もあれば、“改変”を実行することも可能なの」

 彼女の口からぼそぼそと紡がれる言葉の羅列に、あたしは一つも理解することができない。

 だけど、彼女の言っていることがこの世界においてかなり重要なものなのではないかと、何故かそんな気を感じさせる。

 「でも、“改変”や“修正”等といったものは私の管轄じゃない。 私は“制御”が本分だから」

 この世界の構築、制御、改変。まるで、よくわからない専門的な話をよく知らない素人が聞いている感じ。適当に例えるなら、コンピュータかシステムか何かの話を聞かされているような感覚だ。

 「この世界がただ存在しているわけではなくて……『何か』で保たれてるってこと?」

 あたしなりに考えて、ふと漏れた詰問だ。自分自身でもよくわからない。だからこそ、彼女に問う。

 「そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。 少なくとも、私は“ただ”自分のやるべきことをやっているだけ、なの」

 「…と、ともかく、あたしが何でこの世界でイレギュラーな存在なのか、納得できないわ。 あたしは死んだのよっ? 何だかんだ言ってるけど、結局はここは死後の世界なんでしょうッ?! そして、あたしは自分が命を落としたことも、ちゃんと自覚してるッ!!」

 そう。あの雨がうるさく窓を叩くプレハブの中で、一人待っていたあたしの虚しい最期。

 土砂に埋もれ、身体が冷たくなり、孤独に死んでいった記憶だけは、はっきりと覚えている。

 “あたしが死んだという事実”だけは、確かに覚えているんだ。

 「……………」

 それとも、あたしが失っている記憶の部分に、何か関係しているのだろうか。

 死んだ瞬間の記憶だけははっきりと覚えている。それ以前の記憶も。

 

 ………。

 

 

 ………。

 

 

 待て。

 

 

 死ぬ以前までの記憶は覚えている。幼い頃から医者という仕事の都合で各国を転々とした父の後を付いていく日々。一時期だけ祖国の日本で男の子と遊んだこと、世界を旅して色んなものを見て、銃の手法を教わったこと、遠い国で出会った日本人から漫画を貰ったこと、そしてその漫画を夢中で読んだこと。

 そう、勿論生きていた頃の記憶はしっかりと覚えている。それは前からわかっていたこと。なら、何故今確認する?

 そして、あたしは帰国した日本で、期待を寄せていた未来も訪れることなく、楽しみにしていた青春を前に、無残に死んだ。

 死んだ時の記憶も覚えている。

 

 あれ?

 

 じゃあなんで―――

 

 

 あたしは記憶が無い、と思っているのか――――?

 

 

 死ぬ以前までの記憶、死んだ時の記憶はある。だから人の命が弾丸より価値が低い国で銃を教わった記憶で、この世界で銃を持って戦うことが出来ている。夢中で読んだ漫画の内容を覚えているから、あたしは「沙耶」という名前を登場人物から取った。そして、死んだ瞬間を覚えているから、あたしがこの世界に来たことを簡単に納得することができた。

 では、あたしは何の記憶を失っている―――?

 名前?それもある。

 実際、あたしが自分がなんて名前か覚えていない。でも、それだけではない気がする。

 もっと重要で、たくさんある何かを、失っているような気がする。

 あたしの記憶は―――

 

 

 “どこから”失っている――――?

 

 

 「う、ぐ……ッ?!」

 それを考えた瞬間、頭の奥がジリジリと焼けるように痛みを感じた。ジリ、ジリと、何かが擦れるように熱い。何かが無理矢理出て行こうとしているが、出口が狭過ぎて擦れているみたいな感覚。そして漏れ出た断片が、あたしの脳裏に衝突する。

 その断片と断片がぶつかり合い、火花を散らすようなフラッシュバックが襲いかかる。

 それは―――断片的な、古びた映画のフィルムを観ているかのような感覚だった。

 

 「あなたはイレギュラーな存在」

 

 彼女の声が、震えるあたしの頭の中に直接入ってくるようだった。

 

 「本来、この世界に来るべき魂(もの)ではなかった」

 

 何故だろう。まるでバットで殴られたような衝撃が脳内で走り回る。突然頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されているみたいだった。

 

 「この世界の均衡を調整する―――」

 

 少女の異様に光る瞳を見た瞬間、あたしは今この場で起きている全てを察した。

 そして、あたしは震える唇で、言葉を振り絞ろうとしていた。

 やめて。

 あたしの頭を、記憶を、弄くり出さないで―――

 

 「だから――――」

 

 無くしていたはずのものが、忘れていたはずの記憶が、無理矢理地の底から引っ張り出される。

  

 そして、あたしの記憶を呼び起こそうとしている目の前の彼女と目が合った瞬間―――

 

 「―――――ああああああああああああああああ………ッッ!!!」

 

 一気に濁流のように押し寄せてきた記憶の波に、あたしはあっという間に飲みこまれてしまった。そして、自分自身を覆うような記憶の波に、あたしは真っ白な光に包まれるように身を沈めていった



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EPISODE.31 Saya Memory

 ふと気が付くと、あたしは『また』その場所に立っていた。

 何度目かわからない、あたしのスタート地点。シンと静まった夜の校舎、薄闇に包まれた廊下。あたしは一人、そこに立っている。

 「……………」

 そして目の前に浮かび上がる文字。

 あたしはただそれを、当たり前のように見詰めた。

 

 GAME START

 

 この「朱鷺戸沙耶」というキャラクターを選んだあたしへの皮肉なのか、その意地悪な演出がかった文字はいつも“リプレイ”するたびに見せつけられる。

 

 「ふん、また来たのか」

 

 正に不協和音のような、気味の悪い重なったような声が背後から投げられる。振り返ると、案の定そこにはあいつがいた。

 「まったく飛んだ茶番だ」

 趣味の悪い仮面をかぶった帽子の男は、闇の執行部部長。あたしが倒すべきラスボスだ。それと同時に、この世界の……神、とも言える存在かもしれない。

 「そう、ゲームみたいなものだ」

 事前に決められた事を言うロボットのように、あたしが何も言わなくて奴は勝手にぺらぺらと喋る。あたしはただ、それにじっと耳を傾けるだけだ。

 「まだ、続けるのかい?」

 答えないあたしの無言を、答えと受け止めたのか知らないが、奴は一息置いて、言った。

 「いいだろう、ゲームスタートといこう。 だが、お前にとっては過酷な世界だ」

 ゲームスタート?何を馬鹿なことを言っている。

 これはゲームなんかじゃない。

 あたしにとっては、これがすべてなのだから。

 「去りたくなったら、迷わず己に向けて引き金を引くがいい」

 その言葉を聞いて、あたしはカッとなった。

 「んなこと……するかぁッ!」

 あたしは銃を抜き、引き金を奴に向けて引くが、弾はまるで空気のように消えた奴をすり抜けるだけだった。銃声だけが虚しく響き、奴の姿は既に闇の中へと溶け込んでいた。

 「ゲームスタート……? 上等じゃないの…ッ」

 ギリッ、と歯を噛み締める。

 あたしは、あたしの戦いをする。あたしが欲しいものを手に入れるために、最後まで戦うだけだ。

 楽しんでいる余裕がなかったことを、後悔させてやろう。

 「ふ、ふふ……」

 額に手を当て、あたしは笑みを浮かべる。

 笑い声がこぼれ、それが徐々に音量を上げていく。

 「あーはっはっはっはっ!!」

 銃声だけでもあれだけ響く静寂さだ。あたしの笑い声など、余裕で廊下中に響き渡るだろう。

 そして、その声に引きつけられる者も―――

 

 「…? 今、笑い声が聞こえたような……」

 

 ふらりとやって来た、一人の少年。

 夜中の校舎は、あたしへのルート。

 繰り返してきた通り、あたしは今までやってきたことを今回もこなす。

 「え…?」

 彼の背後に忍び寄り、気付かれる直前に彼の腕を取り、ぐいっと床に倒して拘束する。

 そして決められたセリフを口にする。

 「ここの学園の生徒だな? 何故こんな所にいる」

 まずは、主人公とヒロインは敵対していなければならない。

 そうして、あたしと彼の物語は始まるのだ。

 

 

 あたしは作品を模倣して、彼をあらゆる手で殺そうとした。

 屋上に呼び付け、転落死させようとした。首を紐で吊るして自殺に見せかけようとした。電柱を倒して感電死させようとした。すべて、事故か自殺に見せかけて、殺そうとした。学園という閉ざされた世界で、思いつくままに実行した。

 何をしても、彼は死ななかった。だが、それで良いのだ。偶然にしろ、彼が生き延びてくれれば、あたしの目標は少しずつではあるが、近付いてくるのだから。

 すべての手に生き延びた彼を誘って、あたしと彼は結託し、地下迷宮の探索をおくる日々を繰り返した。

 夜の校舎で、闇の執行部と戦い、地下迷宮を探索する日々。

 そしてある日、すべてを決着させるために、あたしは彼を校舎裏に呼び付けた。

 それは、彼と過ごす学園生活のために。

 「朱鷺戸さん? 来たよ?」

 あたしを捜す彼。でも、あたしは気配を殺した上で、彼の背中を寂しげに見据えていた。

 「……………」

 死ぬたびにリプレイするこの世界は、確かにゲームのようだ。“死”をここまで軽くしてしまうのはゲーム以外にありえない。それ程、この世界は普通とは違った。

 だから、もしまた今回も失敗したら―――

 「(また振り出し……)」

 そして、彼もまた、あたしのことをすべて忘れる。

 それを思うと、何故か苛立つ自分がいた。

 「……なんであたしは覚えていて、あなたは全部忘れちゃうのよ。 あたしがこんなにも苦しんでいるっていうのに」

 世界は繰り返される。リプレイと言うが、リセットとも言える。何故なら、あたし以外はすべて最初に戻ってしまうからだ。時間も、そして彼の記憶も。

 「――――」

 あたしは、彼の名前を心の中で呟いて、彼の背中を抱き締めた。

 ああ、もし今回もまた失敗したら、彼はやっぱりあたしのことを忘れてしまうのだろうか。

 自分は覚えているのに、相手はすべて忘れるという現実は、とても苦しいものだった。

 ただ死ぬより、ずっと苦しい。

 忘れられる、というのは、存在すら消えてしまうから。

 「(でも……あたしはずっと忘れないよ)」

 自分は忘れられるけど……自分だけは、彼を覚えている。

 絶対忘れない。

 この記憶も、この気持ちも本物だから。

 彼を抱き締めている今の気持ちも、温もりも、記憶も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この世界は、虚構だ。

 

 

 誰かが、そう言った気がした。

 

 いや、誰も言ってないかもしれない。

 

 ただ、少なくともあたしはその言葉の意味を理解していた。

 

 「朱鷺戸沙耶とは―――俺の愛読書に登場するキャラクターだ」

 あたしのすぐそばで、奴は言った。

 地下迷宮を探検して、様々な困難を乗り越えて、辿り着いた場所。闇の執行部部長との戦い。そしてあたしは『また』奴の下で這いつくばっていた。

 「その存在は他ならぬ俺自身の想いが生み出したものと勘違いしていた。 しばらく遊ばせておけば、俺自身の欲求は満たされ、自然に消えてなくなると……そう思っていたが、お前はイレギュラーな存在としてここにいるんだ」

 必死に戦って、彼と約束して、ここまで辿り着いたのに、あたしはまた敗れた。身体は押さえつけられ、もう動くことはできない。

 耳も塞げないあたしに、奴は間違い様のない事実を語っていた。

 「俺たちが生み出した、この虚構の世界にな―――」

 わかっていた、この世界が優しいことを。

 消そうと思えば、あたしの存在なんていつでも消すことができた。でも、こんなに優しい世界なら、寄り添いたくなるのは当然だった。

 だって―――恋も青春もする前に、あたしは死んじゃったのだから。

 「この世界でなら、あたしの駆け抜けたかった青春が手に入ると思ったから…ッ!」

 大好きな彼と一緒に過ごす時間は幸せだ。

 生前に行ったことのない学園は楽しい場所だった。

 こんな青春を、手に入れたかった。

 「そうか……だが、それでもお前にこの世界を明け渡すわけにはいかない。 この世界は、“あの二人”に必要な世界だからだ。 俺たちがいない世界でも、二人が強く生きていけるようにするためにな」

 「……………」

 「だから気付いてしまったからには放っておけない。 お前がこの世界に踏み込んだことが偶然にしろ、お前には消えてもらう。 それが、たとえ非情であろうともな」

 「……いいわ、消えてあげる。 その代わり、もう一度秘宝を手に入れるチャンスをくれないかしら」

 「秘宝の正体はまだ原作でも明らかにされていない」

 「それも考えてあるわ……」

 「そうか、なら聞こう。 お前の求める秘宝……それは、なんだ?」

 あたしの求める秘宝。

 あたしが欲しいもの。

 それは――――

 

 

 

 

 

 「ねえ……この地下に眠る秘宝って、何だと思う?」

 「うーん、なんだろうなぁ……沙耶はどう思う?」

 地下迷宮の端で、休憩するあたしと彼。ゴールを目前にして、あたしは彼にそんな質問を投げかけていた。

 「あたし? そうね……」

 あたしは、まるで子供のように答えていたと思う。

 「タイムマシン、かな。 タイムマシンに乗って、過去に戻りたい」

 「それはいいね。 確かに、ここまでして守られてる秘宝だから、ありえる話かも」

 「……過去に戻って、色んな事をやり直したい。 もし、本当にタイムマシンが見つかったら……」

 彼の目が、あたしを映す。あたしは、どんな顔をしていただろう。

 「一緒に、付いてきてくれる……?」

 照れ臭いあたしの問いに、彼は優しく頷いてくれた。

 「うん、付いていくよ。 どこへでも」

 与え続けよう、今精一杯の幸せを。

 一片の後悔も残さないように。

 

 

 そして、あたしは彼と共闘し、遂に最終ステージまで辿り着いた。

 闇の執行部部長との最終決戦。最後のチャンス。今までリプレイを繰り返してきたが、今度こそこれが最後だった。

 あたしたちの勝利。二人で挑み、手に入れたものは勝利という念願の形だった。あたしたちは地下の最深部まで赴き、怪しい研究室のような場所に行き着いた。その前で、彼を一人残して、あたし自身は研究室へと単身で入る。その結末を、知っているからこそ。

 「……………」

 研究室に入り、あたしは目的のものを見つけた。それを躊躇なく手にかける。そして、思い通りに事は運んだ。研究室は空気汚染を察知して警報を鳴らし、あたしを閉じ込めたまま隔離封鎖を実施した。

 大きな窓ガラスの向こうには、彼が必死にあたしに向かって叫んでくれている。何があったのか、彼はわからない。でも、あたしは知っていた。何故ならこの状況を望んだのはあたし自身なのだから。

 あたしのルートはバッドエンド。彼に、あたしはそう伝えた。

 あたしの求める秘宝、その答えは生物兵器。国一つをまるごと殺してしまうような絶大の効力を持った兵器を望んだ。これが、あたしが選んだこの世界の去り方だった。

 「沙耶ッ! 沙耶ッ?!」

 彼が必死にあたしの名前を叫んでいる。でも、あたしはもう彼のもとに行くことはできない。

 あたしは銃の矛先を自分の頭へと向けた。

 己に向けて引き金を引くことが、この世界の去り方であると、聞き飽きるほど聞いたから。

 その瞬間、彼の表情が酷くなる。

 あたしのせいなのだけど。

 銃の銃口を自分の頭にぴたりと重ねて、引き金に指をかける。あたしはお別れの笑顔を浮かべようとすうが、出てくるのはぼろぼろとこぼれる涙。笑顔で別れようとしたのに、悲しくてたまらなかった。

 ずっと、一緒にいたかった。この世界で。

 

 「………ありがとう」

 

 そして、あたしは引き金を引く。

 彼の目の前で、あたしは自分の頭を撃ち抜いて、この世界から立ち去った。

 

 

 

 ああ、ずっと一緒にいたかったなぁ。あの優しさに包まれた世界で。

 

 何で、あたしは最後の最後で泣いてしまったのだろう。

 

 ……そっか。

 

 あたしはこんなにも、あの世界が、そして――――彼のことが大好きだったんだ。

 

 ごめんね。

 

 あなたが優しいから、ずっと甘えてしまいそうだから、あたしはさよならをしたんだ。

 

 とてもとても大切で、幸せだった時間。

 

 本当に大好きだった。

 

 

 ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 「………うぇ…っ」

 

 すべてを思い出して、あたしの瞳からは涙が溢れて止まらなかった。あたしが思い出したのは記憶だけではない。あの時の温もりも、気持ちも、すべて思い出してしまった。何故、忘れていたのだろう。ずっと忘れないと誓ったのに。

 「う、うぇぇ……ッッ」

 嗚咽を漏らし、あたしはまるで子供のように泣く。

 手は拘束されているせいで、涙はぼろぼろと膝の上に落ちていく。スカートにぽつぽつと浮かぶ雫。目元を拭えないから、ぼろぼろと涙が伝って、ぐしゃぐしゃに顔を濡らしていく。

 「あう…ッ ひっく……い……ぎ……ぐん……」

 嗚咽を漏らしながら、ひゃっくりによって舌がまわらない声で、彼の名前を呼ぶ。

 居るわけもないのに、彼の名前は呼ばずにはいられなかった。

 「り……ぎ……くん……」

 ずず、と鼻水をすすり、ぐしゃぐしゃの顔で、あたしは声を振り絞るようにして言った。

 

 

 

 「会いたいよぉ……ッ、理樹くん……ッッ!!」

 

 

 

 ずっと忘れていた、大好きな彼の名前。

 あたしのパートナーであり、恋人だった彼。

 あの世界で出会った、あたしの大切な男の子。

 

 

 これは、あたしへの罰だ。

 勝手にあの世界に入り込み、彼を引っ張り回してしまった自分への罰。

 だからあたしは、この世界に迷い込んだのかもしれない。そして、あたしはまた同じようなことを繰り返している。

 確かに、あたしはイレギュラーな存在だ。

 あたしという存在は、どこの世界でもイレギュラーなのだ。

 なら、あたしはやっぱりまた消えた方が良いのかもしれない。

 このままこの世界に居続けると、音無くんたちにも迷惑をかけてしまう。

 最後に、すべてを思い出せただけでも十分じゃないか。

 この世界に来るべきものではなかったのなら、あたしは立ち去った方が良いのではないか。

 そう考えると、何だか身体がふっと軽くなっていく気がした。

 というよりは、空に浮いているような感覚だ。

 自分という存在が消えていく。

 何故か、それがはっきりと自覚できる。

 ああ、あたしはまたいなくなるのか。

 そもそも、あたしという存在は何なんだろうな。

 青春も訪れる前に死んじゃって、偽りの世界に踏み込んだり、あたしの人生って何だったのだろう。

 そして、あたしはこの世界で何がしたかったのだろうか。

 もう、わからない。

 考えたくない。

 このまま消えて無くなれば、楽になるのかな。

 

 あたしは、また消えていく。

 

 そして、さよならをする。

 

 あたしという存在が、この世界から消えていこうと――――――



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EPISODE.32 Different Boundary

 「直井、ちょっといいか?」

 あの色々と大変だった日が明けた日、俺は直井に会うために生徒会室に訪れた。

 直井がきょとんとした表情を俺に向けている。そりゃそうか、昨日あんなことがあった時に俺の方から尋ねられたら、向こうもどういう顔をすれば良いかわからないだろう。直井がいることを確認した俺は、生徒会室をぐるりと見回して、ある人物を捜してみた。

 「やっぱりいないか……」

 生徒会室にいるのは直井が一人だけ。他の生徒会役員、そしてあの書記もいない。

 「何か御用ですか? 音無さん」

 「ん、ああ。 ちょっとな……ってお前、何だかいつもと様子が違わないか?」

 「そうですか?」

 予想外なことだが、直井はすぐさま俺のもとへ駆け付けてきた。しかもどこか嬉しそうに。まるで子供が大好きな母親を前にしたような……って俺が母親役かよ。

 今の直井には違和感をばりばり感じる。なんというか、人が変わったみたいだ。以前までのような誰も受け付けないと言わんばかりの尖った雰囲気はどこにもない。顔を嬉しそうに緩ませ、もし尻尾が生えていたら犬のようにぱたぱたと振っているような様子だ。

 「まさか音無さんの方から尋ねてくださるなんて、僕は……」

 と言いながら、顔を下げてもじもじしている姿は、正直言うと背筋に寒気が走った。

 「それで、僕に何か御用ですかっ?」

 「あ、ああ……ちょっとお前に聞きたいことがあるんだ」

 「どうぞどうぞ」

 明らかに以前とは別人のような変わり様だ。だが、今は何よりこちらの方が優先事項だ。

 「沙耶って言う女子生徒を捜しているんだ。 知らないか?」

 「沙耶? 名字はなんて言うのでしょう」

 「……ん、悪い。 名字はわからないんだ、ちょっと事情があって……」

 「……そうですか」

 この世界に来る時点で、ここにいる人間には誰しも何らかの事情がある。だからこそ、直井は詳細を追求することはしなかった。

 「なら尚更わかりそうなものですが……沙耶という女は、確か音無さんといつも一緒にいた、金髪の娘ですよね」

 「そう、そいつだ。 実を言うと、昨日から姿を見ていないんだ」

 昨日、という単語に反応した直井は、どこか申し訳なさそうな表情をして口を開いた。

 「それで……消えた理由が僕にあると?」

 「あ、いや……別にそんなつもりは」

 「いえ、仕方ありませんよ。 何せ僕は音無さんをあんな場所に閉じ込めた張本人ですから」

 「……………」

 「でも……すみません。 僕は彼女のことは何も知りません。 というよりは、昨日は姿さえ見ていません。 本当ですよ?」

 「そうか……」

 そう、閉じ込められた俺だからこそ、直井のことも正直に言えば多少は可能性を疑ったが、それより容疑が高い人物を、俺は知っていた。

 「もう一つ、ここの生徒会の書記はどこにいるんだ?」

 「書記……?」

 直井が予想外の反応を返す。首を傾げた直井の様子を見て、俺は驚いた。

 「いただろう…?! 俺たちを反省室に連れていった時も、お前の隣に……ッ!」

 「え……あ、ああ……そういえばそんな奴がいたようないなかったような……」

 「お前……書記は生徒会には欠かせない存在だろ。 書記の存在すら把握していなかったのか?」

 「いえ、そんなことはないはずなんですけど……おかしいな、どういうわけか記憶が曖昧だ」

 まるで本当に今まで存在を忘れていたような感じだ。これまでの直井を見ていると、様子はおかしいのは確かだが、嘘はどこにも付いていないらしい。

 「なんと言いますか、影が薄過ぎて僕のような高貴な存在には覚えられるにも値しない奴だったみたいです」

 「お前、ひでえ奴だな……」

 「あっ、音無さんは違いますよ? 音無さんは僕より遥か彼方の先を往く高貴な存在ですッ!」

 「やっぱりお前……キャラが変わりすぎていないか?」

 「僕は昨日、音無さんに抱き締められて目が覚めたんですッ! 僕の未練を癒してくれた音無さんに、僕はどこまでも付いていくと誓ったんです!」

 「そ、そうか……」

 ぐっと拳を握られ、目をきらきらされては、どうやっても敵わない気がする。自分でもよくわからないが。

 俺に付いていくと言われてもなぁ……元々こいつは俺たちと敵対していたのに、ここまで変わってしまうなんて、こいつが恐ろしいというか、変えたらしい俺自身が一番恐ろしいのかもしれない。

 「話は戻すけど、実は沙耶の奴、その書記の子を調査すると言い出したっきりで、帰ってこないんだ」

 「そうですか。 そういえば、その書記も今日は見ていませんね……」

 沙耶が普段からいなくなったりすることはよくあった。だが、今回は違う。

 あんな騒動があった時だ。しかも、書記を調査すると飛び出していったきり、戻ってこない。おまけにその書記とやらまで行方がわからないんだ。怪しい匂いがしても仕方がない。

 もしかして、沙耶に何かあったのか……

 「その女が心配ですか?」

 「え?」

 不意に俺は直井にそんなことを聞かれていた。直井は不安そうな色を帯びた瞳で、俺の方を見詰めている。

 「あ、ああ……まぁな。 一応、俺はあいつのパートナーだし……」

 「そうですか……」

 何故か直井がそこでしょんぼりとする。顔を下げ、かぶっている帽子のせいで表情がよく見えない。

 だけどなんで直井は残念そうにしているんだ?

 しかし……これからどうするか。

 生徒会に行けば何かわかると思ったが、手掛かりはあまり掴めていない。やはりあの書記が関係している可能性が大だが、それだけで沙耶がどこにいるのかはわかっていない。

 やっぱり、この学園中をくまなく捜してみるしかないか。出来れば、ゆりたちにも説明して協力を―――

 「わかりました。 僕も、その女の捜索に協力しましょう」

 「へ?」

 いつの間にか顔を上げていた直井の言葉に、俺は間の抜けた声をあげた。

 「いいのか……?」

 「……不本意ですが、音無さんのためなら致し方ありません。 僕でよろしければ、最大限の協力は惜しみません」

 「そ、そうか。 それは助かるよ、ありがとう直井」

 「いえ……」

 俺がお礼を言うと、直井は帽子の唾を掴み、頬を赤らめた顔をまた下げてしまった。

 「?」

 俺は首を傾げるが、兎に角直井の気持ちにも素直に感謝して、沙耶を捜してみよう。

 「ただし……条件があります」

 「条件?」

 今度の直井の声は、やけに真剣気味だった。

 「はい。 もし、その女を捜しだしたら……音無さん」

 「……………」

 「僕を……」

 まるで、これから告白するかのような雰囲気だ。

 いや、待て。相手は男だぞ。

 なのに何故お前は、まるで好きな相手に告白するみたいにしているんだ。言い淀むな、もじもじするな、顔を赤らめるなぁぁぁ……ッッ!!

 俺の悲鳴は心の中に虚しく響き渡り、一方では直井が勇気を振り絞るように、言葉を紡いだ。

 「僕を……音無さんたちの戦線に入れてくださいッ!」

 「……は?」

 俺はぽかんとなった。

 直井が、俺たちの戦線に?

 「え? な、なんでだ?」

 「僕は音無さんにどこまでも付いていくと決めたんです。 だから、音無さんのそばにいつでも居られるように、僕がその戦線とやらに入隊します…ッ!」

 「は…ッ!? 待て待て、お前はそれでいいのかッ? 生徒会だろッ? 俺たちと戦ってきた生徒会の奴が……」

 「関係ありません。 立場上は生徒会会長代理でも、心は……音無さんのお側に…ッ!」

 「最後の言葉は気になるが……あえて気にしないでおこう。 まぁ、俺は別に構わないけど……戦線のリーダー様に聞いてみないことには……」

 「安心してください」

 「へ?」

 「既に戦線のリーダーには入隊希望を具申しておきました。 後は音無さんの同意次第ということで」

 「はぁッ!?」

 そう言って、直井はぱっと俺の目の前に一枚の紙を広げてみせた。その紙面には『死んだ世界戦線入隊希望書』という文字が書かれていた。

 

 死んだ世界戦線入隊希望書

 

 下記の者を、死んだ世界戦線に入隊することを許可する。

 

 入隊希望者:直井文人

 リーダー:仲村ゆり

 広報担当者:音無

 

 「こんなものがあったのかッ!? ていうか俺、いつから広報担当に……ッ!?」

 「ということで……音無さん、よろしくお願いします」

 そう言って、直井はぺこりと俺に頭を下げた。

 まぁ……いいか。

 別に俺は嫌というわけでもないし、沙耶を捜してくれるのならそれくらいは良いだろう。

 「ああ……それじゃあよろしくな、直井」

 これからのこと、そして今から沙耶捜索の意味も含めて、俺はその言葉を直井に投げかけた。

 

 

 そして、俺たちがやって来た場所。

 そこは俺と立華が閉じ込められた牢屋がある空間だった。俺たちが閉じ込められた場所は脱出する際に破壊したため、そのまま放置されていたはずだが、今日になってそこを通りかかってみると、すっかり何事もなかったかのように元通りになっていた。

 「ここには音無さんを閉じ込めた牢屋とは別に、色々な対天使用を考えた設備が備え付けられています。これらを知られずに作るのは苦労しましたよ」

 「そりゃあ何年もかかるわな……」

 「まぁ、今となってはそれもほとんど必要性を失いましたが」

 寂しい、どこまでも続く通路を俺たちは二人で歩いていく。その途中で、色々な部屋の前を通り過ぎていった。実験室のような部屋から、物騒なものが供えられた部屋や何もない殺風景な部屋まで、様々な部屋があった。

 「これらはどうやって使おうとしていたんだ……?」

 「聞きたいですか?」

 前を歩く直井が、不敵な笑みを浮かべて振り返る。

 「いや、いい……」

 俺の本能が聞かない方が良いと警報を鳴らしていたので、聞かないことにした。

 「賢明なご判断です」

 そう言うと、直井はくっくっと不気味に笑うと、俺たちは再び歩き始めた。

 通路の先にある闇の向こうへ歩くたびに、さっきまで各種様々な見られていた部屋はなくなり、遂に通路だけが闇の向こうへと伸びるばかりとなった。何分歩いただろうか、結構長い間歩いた気がする。

 「なあ……これ、どこまで続くんだ?」

 「この学園は不思議な施設でして……こういうおかしな場所もよくあるんですよ。 音無さんもよく知っているはずですが」

 俺は、地下に存在するギルドを思い出す。学園の下にあんな地下要塞があったんだ。こんな場所があっても全然おかしくないだろう。

 「まあ、僕が改造してよりおかしく変えたわけなんですけどね」

 「ああ、ここら辺はお前の仕業ってわけか」

 「ええ。 しかし、今から向かう先は、一番不思議な場所ですよ」

 「?」

 俺は直井の言っていることがよくわからなかったが、直井の背後を見ていると、問いかけることも難しかった。

 「(まぁ……これから行けばわかることだしな)」

 そうして、俺と直井はそこから無言でその場所に向かったのだった。

 

 

 それから歩いて数分で、俺たちは目的地を前にした。

 だが、その時―――

 「…! 誰かいます……」

 「なにっ?」

 先頭を歩いていた直井が、何かを見つけて立ち止まった。俺も目を向けてみる。確かに、暗くて見えにくいが、扉の前に一つの人影が立っている。

 沙耶ではない。明らかに沙耶より小柄だ。

 「もしかして……生徒会書記か?」

 「どうします? 音無さん……」

 「そうだな、とりあえず……」

 通路の最後にある扉の前に立っている人影。それはじっと、扉を見上げている所らしい。

 そして、ゆっくりとその手を扉の取っ手に近付けた。

 その時。

 「動くなッ!」

 俺は拳銃をその人影に向けて、叫んだ。人影は俺の声に応えるように、ぴたりと動きを止めた。

 人影は沈黙を保つ。そして、人影はゆっくり俺たちの方に振り返るように踵を返す。

 ふわりと靡いた白い髪に、俺はふと、見覚えがあるのを感じた。

 「「あ…!」」

 俺は直井と一緒に間抜けな声をあげる。

 そこにいたのは、何者でもない天使、もとい元生徒会長の立華だった―――

 

 俺たちが目指していた場所の前にいた立華。俺は彼女だと知るや、拳銃を下ろした。

 「立華……お前、どうしてここに……」

 「あなたたちこそ……どうしてこんな所に?」

 「俺たちは……」

 まさかこんな所で立華と出くわすなんて思いもしなかった。立華は何故こんな所に一人でいたのか。

 「僕たちはその部屋に用があって来たんだ」

 直井が説明する。それを聞いていた立華は「そう…」とだけ言うと、扉の方を振り返りながら言った。

 「私も……ここに用があったの」

 「立華も……? どうしてだ……?」

 俺が問いかけると、立華は黙り込んで顔を下げた。いつもと変わらない無表情の横顔は、何か言いたそうにしているように見えた。

 「……感じたから」

 「感じたって……何を?」

 「とても悲しそうな思いが、溢れてこぼれているような……」

 「それって……」 

 「あなたたちは、どうしてここに?」

 「俺たちは……沙耶を捜しにここに来たんだ」

 「そう…」

 そう言って、立華はまた扉の方に振り返った。

 「なあ……もしかして立華は知っているのか? まさか、この扉の向こうに沙耶がいるのか?」

 俺がそんな疑問の言葉を投げかけると、立華は一旦沈黙を置いてから、コクリと頷いた。

 「ええ……」

 「ほ、本当かッ!?」

 「だがしかし、どうして貴様がそんなことを知っているんだ…?」

 「わかるの。 彼女の気持ちを感じたから……私もここに来た」

 「沙耶の気持ち……?」

 沙耶の気持ちを感じ取って、ここまで来たと言う立華。

 一体、沙耶の身に何が起こっているんだ?

 「……急いだ方が良いみたいだな」

 「音無さん?」

 嫌な予感がした。よくわからないが、このままだと沙耶が危険だと、俺も感じてしまう。

 「立華、俺たちと一緒に来てくれないか。 沙耶のもとに」

 「……………」

 立華は無言で、無機質な瞳を俺にじっと向けていたが、「わかったわ」と頷いてくれた。

 俺は立華に「ありがとう」と伝えると、立ちはだかる大きくて古びた扉を見上げた。

 通路の最後を示す古びた扉。確かに古びてはいるが、通路の高さと幅に比例した大きな扉だった。妙な威圧感をそこから感じた。

 扉には部屋の名前が刻まれていたが、古過ぎて文字の部分がほとんど剥げて読めなかった。

 「僕がここの辺りを改造する際に見つけたものなんですが……この部屋は昔からあったようです」

 「らしいな……」

 「入りますか?」

 取っ手を握った直井が、俺の方をじっと見つめて言う。

 俺は生唾を飲み込んだ。

 ここに沙耶がいるかもしれない。だから俺はここまで来た。

 立華の方をチラリと見る。立華は既に、扉の向こうにいる沙耶を見詰めているような瞳をしていた。

 そうだ、この先に沙耶がいる。

 俺は、あいつのもとに行かなくちゃならない。

 「ああ」

 俺が頷くと、直井は取っ手を掴んでゆっくりと扉を引いた。

 ギィ、と音を立てる辺りが古びている様子を知らせてくれる。そしてうっすらと下りた闇の中に佇む部屋は、まるでそこは倉庫だった。

 ただ、倉庫と言えるほど色々な物がぎっしりと積まれたり置かれているわけではない。あるのは使われていないパソコンや機械類が少なからずの量で積まれているだけだった。だが、埃をかぶっていて、あまり使用されていない様子が伺える。

 「しかもパソコンの機種が一昔前の懐かしいタイプだ……」

 直井がパソコン類を見渡して、呟いていた。

 やっぱり、ここは昔からあるみたいだった。

 そしてその向こうに唯一、パソコン等の機械類が積まれた先にぼんやりと見える人工的な明かり。俺はそれを見つけた瞬間、すぐに駆け出していた。

 「あっ! 音無さんっ?!」

 直井の声も気にせず、俺はその光のもとへ向かった。

 「沙耶ッ! いるのかッ!? 沙耶ッ!」

 俺の視界に飛び込んできたもの。それはパソコンの画面が発する光だけではない、驚くような信じられない光景だった。

 「音無さん、どうしたんですかっ!?」

 俺の後から、直井、そして立華が駆け付けてくる。

 そして俺と同じものを見た直井は、同じく驚愕の色を浮かべた。立華は、じっとその光景を見詰めている。

 そこには―――

 使用中の一昔前の古いパソコンに囲まれる中、椅子に座らせて眠っている沙耶の姿がそこにあった。周りの埃をかぶった機体とは違って今でも使われている様子を見せ付けるパソコンは、煌々と画面を青白く光らせていた。その光に囲まれる沙耶の身体は、少しずつ透けていくように見えた―――



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EPISODE.33 We are Men

 学園の奥深くの空間で、俺たちは沙耶を見つけることができた。だが、俺たちが見つけた時には、沙耶の身に何かが起こっていた。

 「沙耶ッ! 返事しろ、沙耶ッ!」

 俺は沙耶の肩を掴み、必死に呼びかけるが、沙耶は目を閉じたままうんともすんとも言わない。それどころか、沙耶の身体が少しずつ透けていくのがわかった。

 「なんだよ、これ……」

 俺は愕然とした。まるで死んだように目を覚まさない沙耶の存在が、少しずつではあるが、徐々に俺の目の前で消えていく。沙耶が消える。それだけが、理解できた。

 「くそ…ッ! 何なんだよ、これは……ッ!」

 沙耶の身に一体どんなことが起こっているのか、まったくわからない。何か異常なことが起きているのは確かだ。だが、俺はこの時どうすれば良いのか、何をすれば良いのかがわからない。

 「音無さん……」

 直井が神妙な面持ちで、静かに俺に言葉をかける。俺は思わず、「なんだよッ!」と怒鳴り気味に返してしまう。

 「直井ッ! 一体何がどうなっているんだっ?! 説明してくれ…ッ!」

 俺は自分でも抑えきれないぐらい熱くなっていた。直井は戸惑ったような表情を向けたが、口もとをぎゅっと紡ぐと、やや真剣な面持ちで答えた。

 「音無さん、彼女は……成仏しかけています」

 「成仏……だと…」

 その時、俺の頭の中でとある記憶が思い起こされる。

 消えた、岩沢の面影。

 「――――ッ!」

 まさか、岩沢が消えたように、沙耶もこの世界から消えちまうってことなのか?

 冗談じゃない……!

 「なんでだよ……なんで成仏しようとしてんだッ!? 沙耶は、何か報われたのかッ? 見ろッ! こいつ、眠ったまま起きないじゃないかッ! 眠ったまま成仏するなんて、どう見てもおかしいだろッ?!」

 「おそらく……外部からの干渉によって強制的に成仏へと促されている可能性があります。 催眠術で僕がしようとした事のように……」

 直井が言いにくそうに、そうやって言葉を一つ一つ紡いだ。

 「じゃあ誰だよ……誰が、沙耶を……」

 「……………」

 その時、立華はジッと、俺たちの周りで青白く光るパソコンの画面を覗きこんでいた。俺は、立華の視線を辿った。そして、画面に映るものが、青白い光の中に刻まれた文字が俺の視界に飛び込んだ。

 

 ANGEL PLAYER

 

 そんな文字が、パソコンの画面に刻まれていた。

 「Angel player……?」

 俺は、その言葉をどこかで聞いたことがあった。

 そして、そばにいる立華を見て、俺は思い出す。

 天使エリア侵入作戦の時、立華の部屋に忍び込み、部屋のパソコンをゆりたちが起動させた時に見つかった謎のコンピュータソフトの名前。立華のパソコンにあったコンピュータソフトも、確かこれと同じ名前だったと思う。

 「なあ、立華……これが何なのか、お前は知っているんじゃないのか……?」

 「……………」

 「なあ、頼む。 教えてくれ。 これが何なのか、お前が知っているのなら、今沙耶に何が起こっているのかわかるはずだ。 頼む…!」

 俺は頭を下げ、立華に懇願する。シンと静まった時間の後、立華はスッと口を開いた。

 「……これは、物を作ったり作り変えたりできるもの。 だけど、私はそれぐらいしか知らない」

 立華は説明する。立華が俺たちと戦う際に使っていた武器は、すべてこのAngel playerというソフトを使って作っていたと言う。ただし、立華はこのソフトを偶然見つけただけなので、そのソフトの原理はわからないのだと言う。

 「成程、だが単に武器を創造や改変をするだけではないというのは確かだな」

 立華の説明を聞いていた直井は、納得するように頷きながらも気になることを言い出した。

 「どういうことだ……?」

 「このソフトの原理自体、利用していた立華さんさえ知りえないことだ。 つまり、このソフトの本当の意味を知っているのは、このソフトの開発者だけ。 まぁ、こんな世界ですから、開発者がいるのかさえ疑わしいですが」

 単に物を作ったりするだけなら、ここにあるAngel playerとは何なのか。

 そんな疑問が確かに思い浮かぶ。

 「つまりですね、もしかしたらこのソフトは色々な使い道があるんじゃないですかね。 我々にはよくわからないソフトですから現時点では何とも言えませんが、このソフトがこの女に何かしらの影響を与えているのは確か」

 「なら……このパソコンの山をどうにかすれば」

 「……!」

 「? どうした、立華」

 何かの気配を察したように、ピクリと反応した立華が踵を返して振り返った。俺や直井も、その気配に気付く。明らかに、人の気配が俺たちのもとに近付いていた。俺たちがその近付いてくる気配の方向を警戒して見据えていると、闇の中から、一人の女子生徒が現れた。

 その女子生徒の腕には、『書記』と書かれた腕章が目立っていた。

 「あいつは……!」

 とうとう見つけた。生徒会書記。

 しかもここにいたということは、今起こっている事態に関してはクロだということか。

 とりあえず俺たちは歩み寄ってくる生徒会書記に対して、身構える。俺は自分の銃に手を据えた。

 「……………」

 ぴたりと立ち止まった生徒会書記は、ジッと眼鏡の奥にあるそのエメラルドグリーンに輝く瞳で俺たちを見詰めてくる。また、あの瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥る。

 「……ガードスキル」

 「えッ!?」

 俺は咄嗟に横にいる立華の方を見る。だが、今の声は明らかに立華ではない。

 まさか、本当にあいつが―――

 「ハンドソニック」

 そう言って、生徒会書記は掲げた右の手から、光の刃を出現させた。

 「なんであの女が立華さんと同じ技を……ッ!?」

 直井も驚愕する。当たり前だ。今まで立華の専売特許として見ていた武器を、いきなりあいつが出しちまったら俺だってかなり驚く!

 ハンドソニックを構えた彼女は、足で地を蹴り、ロケットの如く俺たちに向かって突貫してきた。

 だが、俺の横を同じくロケットが飛び出した。

 「あ…!? 立華…ッ!」

 立華が彼女と同じようにハンドソニックを構えて、突貫してくる彼女と真っ向から立ち向かっていった。立華と生徒会書記が激突する。お互いの刃が火花を散らし、激しい近接戦があっという間に始まった。

 「くそ…ッ! 何なんだよあいつはぁッ!?」

 俺は銃を構えるが、あの時、ギルドでゆりと立華が戦っていた時と同じだ。近接戦を戦っている二人に銃口を向けても、立華に当たってしまいそうで狙いが定まれない。

 「あの女も、Angel playerを使っているようですね……」

 「なんであいつまで……まさか…」

 俺はハッとなって、パソコンの方を振り返った。

 このパソコンのAngel playerは、やっぱり彼女のものなのか―――?

 「ハンドソニック、バージョン2」

 その時、何かがくしゃりと潰れるような音が聞こえた。

 立華の方に視線を向けると、一際伸びた立華の刃が、彼女の腕を串刺しにしている光景が目に入った。

 刃を貫かれた彼女は、特に表情を歪めることもなく、ただ血飛沫をあげて、ごろごろと転がった。

 「やったか…!?」

 ぱたりと地に伏せる生徒会書記。

 立華もジッと、倒れた彼女を見据えている。

 だが、彼女は動いた。

 「……………」

 ゆっくりと立ち上がると、彼女は平然と俺たちの方に向き直った。落ちた眼鏡を拾い、それを掛け直す。

 立華に刺され、だらりと下げた腕からは、大量の血が滴っていた。

 「駄目か……」

 直井が苦虫を噛み潰した表情で呟く。

 「……くそ!」

 「あっ! 音無さん!?」

 俺は駆け出すと、立華の前に立ち塞いでいた。俺は背中で立華を守るように立ち、腰にあった銃を抜いて、彼女の方に構えた。

 「……!」

 背中から、立華の微かに驚いた気配が伝わる。

 「動かないで、俺の話を聞いてくれ! お前は一体、沙耶に何をしようとしているんだッ!?」

 「……………」

 彼女は沈黙を保つ。やっぱり簡単には答えてくれないのだろうか。

 だが、意外にも彼女は質問に答えた。

 「……私は、この世界の均衡を保つためにイレギュラーな存在を消去しようとしただけ、なの」

 「均衡……? イレギュラー? 消去…?」

 「彼女は本来この世界に来るべきではなかったイレギュラーな存在。 だから私は、その部分を消去するなの」

 「沙耶がイレギュラーな存在……?」

 「だから消去。 それだけ、なの」

 「たったそれだけのために、沙耶を無理矢理にでも消そうとしているのか……?」

 俺は、歯を強く噛み締めていた。

 本来はこの世界に来るべきではなかったからって、無理矢理その存在を消してしまおうとしているってことか?

 こんな世界、誰だって来たくて来たわけではないはずだ。なのに、この世界の均衡だとか、イレギュラーだとか、そんなわけのわからない理由のためだけに、沙耶は消されるっていうのか?

 人生を終えて、本来来るべき場所ではなかったこの世界に来て、挙句に消されるなんて酷過ぎやしないか?

 ふざけるな。

 この世界に来て、違ったから消えろというのは余りにも理不尽だ。

 死んだ後も報われない最後を迎えるなんて、酷過ぎるだろう。

 世界の均衡だとかそんなのは知ったことではない。

 俺は単に、許せない。

 出会っちまったからには、そんな扱いや、別れ方は許されない…!

 そして何より―――

 「俺は沙耶のパートナーだ! 沙耶に何かするんだって言うなら、この俺が立ち塞がってやるッ!」

 「………そう、なの」

 彼女は一息置くように、静かに瞼を下ろして顔を下げた。

 そして。

 「………新たなイレギュラーを確認。 これより確認された二つのイレギュラーを同時に排除します」

 彼女の声は、顔を上げると同時に機械的なものへと変わっていた。そして、エメラルドグリーンに輝いていた瞳は赤黒く染まっていた。

 「…ッ!?」

 と、その瞬間。彼女は信じられない速度で飛び出すと、俺に向かって刃を振り下ろしてきた。目で追えないほど早かった。俺の身体が一閃されると知った。だが、避けようがなかった。

 「!?」

 だが、俺の身体は何かに押されたように、一瞬だけ無重力に放り出されていた。そしてすぐに、身体が床に接触して、皮膚が熱に覆われた。誰かに背後から横に吹っ飛ばされたのだと理解できた。そして、目を開けると、そこには振り下ろされた刃を受け止めていた立華の刃が、0と1の羅列に分裂して散っていく光景が目に入った。

 「た、立華ぁぁぁぁぁ――――――ッッ!!?」

 次の瞬間、立華の粉々に砕けた刃が粒子となって舞い散る中、立華の身から血飛沫があがった。

 赤い血飛沫をあげて、立華の身体が倒れる。

 そして、禍々しいほどに形を変えた刃を持った彼女の瞳が、俺の方を見据えた。

 「音無さんッ!」

 直井の声が聞こえる。

 「貴様! 音無さんから離れろぉぉッ!」

 「駄目だッ! 来るな、直井ッ!」

 「――――」

 ものの数秒で、駆け付けてきた直井の身体が彼女の刃に一閃された。

 「直井ぃぃぃッッ!!」

 俺の目の前には、倒れた立華と直井の姿があった。そして、それらの光景を無愛想に見詰める彼女の姿。

 「くそぉぉッッ!!」

 俺は銃を構え、躊躇無く引き金を引いた。だが、彼女はいとも簡単に弾丸を弾いた。

 俺は立ち上がり、無我夢中で引き金を引いた。だが、彼女の身にその弾丸が届くことはない。

 俺の射撃する弾丸を弾きながら、彼女はゆっくりとした足取りで俺に近付いてくる。

 「沙耶……」

 近付く彼女の背後には、倒れ伏す立華と直井。そして、パソコンに囲まれた沙耶の姿が目に映る。

 沙耶は、既に周りの物がうっすらと見えてしまうほど透けていた。

 「駄目だ……消えちまうなんて駄目だ……」

 沙耶はすぐには消えない。沙耶も、沙耶なりに抵抗しているのだろうか。

 何せ強制的に成仏されそうになっているんだ。俺なんかよりずっと強い沙耶が、簡単に消えてしまうわけがない。

 「帰ってこいッッ!! 沙耶ぁぁぁぁぁ―――――ッッッ!!!」

 俺は思いの丈を叫ぶと同時に、一発の引き金を引いた。だが、それを彼女は弾かなかった。何故なら弾丸の通行路には、彼女の身から微かに逸れていたからだ。彼女の脇を通過した弾丸は、そのまま沙耶のそばにある一台のパソコンの画面を撃ち抜いた。

 派手な音を立てて、画面に小さな穴を開けたパソコンは死んだ。

 それとほぼ同時に、彼女の足が止まった。

 「……………」

 「……?」

 彼女は一瞬、足を止まらせ、背後にあるパソコンの方を振り返った。死んだ一台のパソコン。そのパソコンが、ぐらりと傾いて、他のパソコンを巻きこみながら床に落ちた。その衝撃で、また数台のパソコンが死んだ。

 「データリンク、複数個所の損害を確認。本ソフトの機能低下を確認」

 彼女の口から淡々と機会染みた声色で言葉が紡がれる。

 彼女の足は、完全に止まっていた。

 俺は、さっきの直井とのやり取りを思い出していた。もしかして、あのパソコンの山をどうにかすれば良いんじゃないか、俺自身がそう言った。

 「俺たちは、イレギュラーだとか、そんなコンピュータ染みたものの存在なんかじゃない。 お前とは違う」

 「……………」

 ゆっくりと彼女が俺の方に振り返る。だが、その足は二度と動くことはない。

 「俺たちは、理不尽なことや理解できないことに抗い続ける人間なんだよッ!!」

 俺はそう叫び、引き金を引いた。

 何発も、何発も。

 彼女ではなく、パソコンに向かって。

 沙耶を囲むパソコンをすべて撃ち抜いていく。一つ、また一つと、画面に穴を開けて、青白い光を奪っていく。

 彼女は動かない。ただその光景を眺めているだけだった。

 そして俺はすべてのパソコンを撃ち抜くと、俺の方をじっと見据え始めた彼女に、銃口を構えた。

 「……………」

 一拍置いて、沈黙する彼女に向かって、俺は引き金を引いた―――



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EPISODE.34 Treasure Found There

 「いよっしゃ取ったぁぁぁぁッッッ!!!」

 たくさんのぬいぐるみが入ったUFOキャッチャーの前で、あたしは周囲の事など構わず喜色の声をあげた。またUFOが狙っていた獲物を上手く捕えた喜びは何度経験しても計り知れない。あたしは初めて体験するこの気持ちと楽しさに、興奮を覚えずにはいられなかった。

 「あたしって超天才ッ!? もうスパイなんか辞めてこっちに転職しようかしらッ!」

 「さ、沙耶…ッ! そんなこと大声で言ったりしたら……」

 「ほらほら理樹くんッ! 今度はどれが欲しいかしらッ?」

 今日はいつもの地下探索や訓練ではなく、彼とゲーセンという所に来ていた。あたしの意志ではない。息抜きと称した彼の提案だ。だからあたしは仕方なく彼の息抜きに付き合ってあげてるだけ。

 「うーん……それじゃあ、手前にあるストラップを」

 「なーに言ってるのよッ! どうせ狙うなら大物でしょッ!?」

 「じゃあ聞かないでよ……」

 だから言っとくけど、仕方なく付き合ってるだけなんだからね?

 た、楽しんでなんかないわよ!

 「でも良かった……楽しんでくれてるみたいで……」

 「理樹くん、何か言った?」

 「ううん、なんでも」

 あたしは無我夢中で、目の前にあるUFOキャッチャーしか目に入らなかった。

 結局、あたしたちは日が暮れるまでその場で遊び尽くした。気が付いてみれば空はすっかり夕焼けに染まり、目の前にあったUFOキャッチャーの商品もほとんどなくなっていた。あたしは店員から大き目の袋を貰うと、それにどっさりと今日の収穫を入れて、満足げにゲーセンを後にするのだった。

 「~♪ ~♪」

 「ご機嫌だね、沙耶」

 「んふふ、大量大量。 あたしってば、本当に天才なんじゃないかしら? 転職も真剣に考えちゃおうかしら」

 あたしの言葉に、彼は苦笑する。その彼にも又、収穫した商品が山のように入った袋があった。

 「でも悪いわね、理樹くんにまで持たせちゃって」

 「いいよこれくらい。 それに本来、こういう役目は男の僕だし……」

 「理樹くん……」

 彼と、理樹くんと一緒にいるととても暖かい気持ちになる。

 そしていつもあたしは思うのだ。ずっとこの時間が続いてほしい、こんな世界が終わりなく続いてほしいと。

 でもそれは叶わぬことだと最初からわかっているはずだった。だから尚更苦しくもあった。

 それなら、最後まで目一杯この世界を楽しもう。優しさに包まれた、この世界で。

 

 

 人生を終えてから、あたしは未練がましく、偽りの世界で生き続けた。

 そしてあたしはその世界から去った後も、また別の世界で、あたしは生き始めた。

 前の世界での記憶を忘れて、あたしはまた違う世界で生きる喜びを知った。

 死後の世界だと言うけれど、その世界はあたしに生きることの楽しさを教えてくれた気がする。

 虚構の世界での記憶を思い出して、あたしは色んな世界で生きたことを知った。

 大好きな理樹くんと過ごした時間は、とても幸せだった。

 そしてこの世界で音無くんたちに会えたことも、その人たちと過ごした時間も楽しかった。

 

 自分の存在が消える、という感覚がはっきりとわかる。

 先に消えていった岩沢さんも、こんな感じだったのかな……?

 この先のあたしがどうなるのかわからないけれど。

 ミジンコに生まれ変わっても、どうでもいい気分だった。

 最後まで自分勝手だったけど。

 あたしはもう一度、今度こそ、あたしがいるべきでない世界から去るんだ。

 その世界に、あたしはいるべきではないから。

 

 生きる喜びに包まれた、その世界で。

 

 あたしは、さよならをする――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――――」

 

 何か、遠くから聞こえたような気がした。

 

 「……?」

 

 音もない闇の中で、あたしはその音が何なのか、一瞬の興味が浮き出てしまった。

 

 それは、どこかで聞き覚えのある声だった。

 

 遥か先から現れた小さな光が、あたしに向かって、徐々に大きくなっていた。

 

 そしてその光が近付くにつれて、『黒』だった周りの世界が、『白』へと変わっていく。

 

 そして、感覚がはっきりしてきた頃、それはあたしの耳元で響いた。

 

 ―――帰ってこいッッ!! 沙耶ぁぁぁぁ―――――ッッ!!!―――

 

 その声があたしの耳元で響き、そして光があたしの身体を包んだ。

 そして、光の中から現れた手が、あたしの手を掴んだ。

 その手に引っ張られ、あたしは光の中へと引き込まれた―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたしが光の中へ引き込まれた直後、あたしはそのままその手に引っ張られ、そして抱き締められた。

 あたしの身体をぎゅっと抱き締める優しい暖かさ。その感覚はどこかで覚えた気がした。

 「え……あれ……?」

 あたしは呆然と、辺りをゆっくりと見渡した。そして一番に目が入ったものは、立華さんの姿だった。

 「立華さん……?」

 「良かった、戻ってこれたのね……」

 「戻って、これた……? ――って、立華さん!? 服が…ッ!」

 「え……? ああ……」

 何故か立華さんの制服が、まるで刀にでも斬りかけられたかのように、胸から横腹にかけて一閃に斬られていた。だが、血が服に付着しているだけで、斬られた部分もそこまで酷くはない。斬られた部分に彼女の白い肌が見えるが、傷は無いように思えた。

 「平気よ。すぐに治したから……」

 立華さんが微かに安堵の微笑を浮かべた。

 更にもう一人、意外な人物までそこにいることに気付いた。

 「貴様、僕は無視か?」

 「あ、あんた…ッ!? なんで……?」

 「ふん、僕は音無さんに付いてきただけだ」

 「お、音無さんって……?!」

 目の前にいるのは今まで敵対していたはずの生徒会、その会長代理の直井文人だった。しかも彼まで身体がぼろぼろだった。

 それにしても立華さんは良いとして、何故こんな人物までいるのか理解できない。あたしがいない間に、一体何があったのだろうか。

 「……何よ」

 さっきから彼があたしの方をジトリとした瞳で見詰めている。あたしが問いかけると、彼は憎々しげに漏らした。

 「……貴様、いつまで音無さんにひっついてるつもりだ?」

 「………は?」

 彼、直井文人の言っていることに一瞬意味がわからなかったあたしだったが、ふと自分の身体を包む暖かさと感触に気付いた。あたしの身体はまるで誰かに抱きつかれているみたいに身動きが取れなかった。ゆっくりと首を動かすと、すぐそばに人肌があることに気付いた。

 「ッッ!!?」

 あたしは自分が本当に誰かに抱き締められていることを知った。しかも強く、背中に手を回されてぎゅっと。しかも、そのあたしを抱き締めている人物が―――

 「お、音無くん…ッ!?」

 「沙耶……」

 あたしが彼の名前を驚愕と共に漏らすと、ゆっくりと音無くんが身体を離し、あたしと向き合った。でも、音無くんとの距離はまだまだ近かったため、結果的にお互いの息がかかるほど、お互いの顔が近付いていた。

 あまりの近さにドキリとしたが、音無くんは憔悴しきった表情から、ほっとした安堵に切り替わっていた。

 「良かった……お前、本当に無事なんだよな……」

 「あ、当たり前でしょ…ッ!? い、いいからさっさと離れなさいよッ!」

 「ああ、悪ぃ」

 あたしが慌てて離れるように言うと、音無くんは何の躊躇いも無くぱっとあたしの身体を解放した。ちなみにあたしの顔はまだ熱を帯びたように熱い。

 「(音無くん相手になに顔熱くなってんのよあたし……ッ!)」

 顔を熱くしてしまった自分自身を内心で呪った。

 そんなあたしにお構いなく、音無くんは本当に安心したような、嬉しそうな笑みを浮かべて言った。

 「でも本当に良かったよ。 沙耶が消えていなくなるかと、本気で心配したんだからな」

 「……ッ」

 あたしはつい、唇を噛んだ。

 記憶を思い出し、自暴自棄になって自ら消えていこうとしたなんて、言えるわけもなかった。

 でも、あたしのせいで音無くんたちに迷惑をかけてしまったことは事実だ。

 あたしはぐっと口元を引き締めた。

 そして、話す決意を固める。

 「……ねえ、みんな。 聞いてくれる……?」

 あたしは真剣な表情をみんなに向けて、これまでの経緯をすべて話した。

 虚しい最期を迎えて人生を終えた後、生前の世界でもなく死後の世界でもない、思い出した虚構の世界で過ごした頃の記憶のこと。そして、あたし自身が消えようとしたこと。

 音無くんたちは途中何も言うことはせず、静かにあたしの話を最後まで聞いてくれた。

 すべてを話し終えた頃には、あたしは彼らのことを直視できなかった。

 失望しただろうか、怒っただろうか。

 そんな不安が胸の中で渦巻く。だが、それも仕方がないことだった。

 「……ごめんなさい」

 あたしは謝った。謝ることしか、できなかった。

 でも、みんなは黙ったままだった。

 ああ、やっぱり怒らせたかな。

 でもその方が良いかな。こんな最低なあたしを罵ってくれた方がまだ楽かもしれない。

 「なんで謝るんだよ」

 「え……?」

 あたしは顔を上げる。音無くんは、特にこれといった感情を表すことなく、ごく普通に言葉を続けていた。

 「いきなり今までの記憶を全部思い出されたんだ。 俺だって今は記憶が無いが、いつか沙耶みたいに全てを思い出した時、今までみたいに平然と過ごせる自信は正直ない。 もし、俺の忘れていた人生に、ゆりや岩沢たちみたいな悲しい過去があったら、俺は耐えられるかな、とかな。 もしかしたら、俺も全てを思い出した時、沙耶みたいになるかもしれない」

 「……………」

 「それに、俺は沙耶が無事だったのならそれでいいと思ってる。 謝る必要なんて、ないと思うぜ」

 「でも……あたし……」

 「なあ、二人だってそう思うだろ?」

 音無くんが後ろにいる二人に声を掛ける。立華さんは微かに微笑んで頷き、直井くんはそっぽを向くなど、それぞれの反応で返した。

 「ええ。本当に無事で良かったわ……」

 「ほら、立華もこう言ってる」

 「ふん。 僕は貴様のことなどどうでも良いと思っているがな」

 「直井……お前…」

 そんな三人を見ていると、あたしはクスリと笑みを漏らしていた。

 「本当に……あなたたちって……」

 あたしの笑みを見てか、音無くんたちも笑った。

 「あたし……まだまだこの世界から立ち去れないわね」

 今のあたしの目の前には、音無くんたちがいる。それは、あたしがここで見つけた大切な存在だ。そして、ここにはいない、あたしを受け入れてくれたもっとたくさんの人がいる。あたしはこの世界で、まだ色々と探すべきものを探さないといけない。

 「お別れなんて、させないぜ」

 あたしの目の前に、差し出される音無くんの手。

 「お前は、俺のパートナーなんだからな」

 最近、音無くんの口からよく聞くようになったパートナー宣言。以前まではあたしの方からばかり言っていたのに、いつの間に彼の方から言うようになったのだろう。それはもう忘れてしまったけど、これからも彼が今のあたしのパートナーであることは一生忘れないだろう。

 あたしは、この世界でまだまだ役目が残っているんだ。

 あの世界のように、既定されたルートも、リプレイも無い。自分自身が決める道だ。

 そして、その道をパートナーと一緒に進もう。

 仲間と共に歩もう―――

 あたしは目の前に差し出された音無くんの手を、強く握り締めた。そして音無くんにまた引かれるままに、あたしはもう一度自分の足で立ち上がり、仲間のもとへと戻っていった。



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EPISODE.35 Interstice of Memory

 のどかな風景に鳴り響く鐘の音は、学園という場所では授業の開始や終了といった各々の合図を意味する。この鐘の音が聞こえたら、生徒は授業に戻らなければいけないのだが、一日中放課後のような俺たちにとってはあまり関係のない話だった。

 「ねえ~、先輩~。 新技かけさせてくださいよぉ」

 「……………」

 ソファに座って面倒くさそうな顔をしている日向に、ユイが絡んでいるが、日向は完全に無視していた。

  対天使作戦本部、という名ばかりの俺たちの溜まり場と言っても嘘ではないだろう。事実、みんな好き勝手にやっている。他にも、寝ている奴もいれば、よくわからないダンスを踊っている奴らがいたり、ぬいぐるみで戯れている奴らもいて、挙句の果てには銃の整備をしている奴が俺のそばにいたりする。

 「何よ……前にも言ったと思うけど、銃は細目に点検しておかないと、いざって時に使えなくなるのよッ?」

 「俺の心の声を読むな……」

 あの一件以来、無事に俺たちのもとに帰ってきた沙耶だが、パートナーである俺だけでなく、こうしてみんながいる場所にいることが多くなっていた。たまにユイや他の女子メンバーと話している時も見かけるようになり、俺としては子を見守っていた親のような、複雑な心境だったり。

 「ちぇっ、もーいいや。 ひなっち先輩シカトするからつまんなーい」

 日向にあれだけ絡んでいたユイも、とうとう日向が相手してくれないことに諦めたのか、「大山先輩にかけよっと」と、ターゲットを変えて日向から離れてしまった。その後、大山の悲鳴が聞こえたのは言うまでもない。

 ユイを追い返した日向は、ハァ…と溜息を吐いて言葉を漏らす。

 「ここは小学校かよ。 ガキばっか増えてくなぁ」

 「…貴様、僕に言っているのか。 僕は神だぞ」

 そんな日向の隣には、読んでいた本を閉じる直井の姿があった。

 「まだそんなこと言ってるのかよ? 音無に抱きつかれて大泣きしてたくせによぉ」

 「誰が泣いたって?」

 「うおっ!?」

 「泣くのは……貴様だ」

 直井の不気味に輝いた瞳が、日向に迫る。

 「さぁ、洗濯バサミの有能さに気付くんだ。 そして洗濯バサミに劣る自分の不甲斐なさに嘆くが良い」

 「うああああッッッ!!! 洗濯バサミ○×☆%?!&$#!!!」

 直井の催眠術にかかったのか、謎の言語を繰り返しながら、日向が男としては見ていられないほどの大泣きを始めた。俺はさっきの日向より深い溜息を吐くと、あいつらの所に向かった。

 「ふふ…」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべている直井の襟首を、後ろからぐいっと持ち上げる。

 「お前、催眠術を腹いせに使うな」

 「音無さん♪ おはようございますっ」

 「…あれは何だ」

 あれ、とは勿論今そこで大泣きしている日向のことである。

 「あっちから突っかかってきたんです。 僕はぁ、出来るだけ穏便にぃ」

 寒気がするから、その猫のように舌を乗せた喋り方はやめろ。

 「どこが穏便だ」

 明らかに痛めつけているじゃないか。

 「見ろ、大の男が大泣きしてるじゃないか」

 日向は洗濯バサミと自分を比較して、ソファを叩きながら声をあげて泣いている。いくらなんでもやりすぎだろう。こいつは何で俺以外の人間には容赦がここまでないんだ?

 沙耶との一件で色々とあった後、直井は正式に俺たちの戦線に加わった。こうして戦線と抵抗無く打ち解けているが………打ち解けているのか?

 だがしかし、沙耶の件もあったしなぁ……

 俺はチラリと、銃の点検を黙々と行っている沙耶の横顔を一瞥した。

 その時、ゆりが声をかけてきたものだから、俺は馬鹿みたいにドキリとしてしまった。

 「音無くん、直井くん。 用があるから、ちょっとこっちに来なさい」

 「?」

 「あたしもご一緒していいかしら?」

 俺のそばにいた沙耶が声をかけるが、ゆりは一瞬複雑そうな表情を過ぎらせた。だがすぐに「ええ」と了承した。

 ゆりの反応が気になったが、ゆりに誘われた俺と直井、そして沙耶は泣き喚く日向とそれを励ます(?)戦線メンバーを残して、校長室をあとにした。

 

 ―――教員練3階 空き部屋。

 俺と直井が連れられたのは、誰もいない空き教室だった。ゆりは俺たちを招き入れると、外と断絶するように注意深く扉を閉め、俺たちの前に歩み寄った。

 「何だよ、こんな所に呼び出して……」

 ゆりの表情は真剣な色に染まっていた。そのせいで、俺は変に少し緊張してしまう。真面目な話みたいだなと察していると、ゆりは俺ではなく直井の方に言葉を投げかけた。

 「直井くん、音無くんの失われた記憶を元に戻してみせて」

 「僕に命令だと? さっきから貴様何様のつもりだ―――たはぁんっ」

 俺は直井の頭を叩き、ゆりの代わりに言ってやった。

 「てめぇのリーダーだ! 上司だよ、大人しく言う事を――――」

 ん、ちょっと待て。

 ゆりは今、なんて言った?

 俺の記憶?

 慌てて沙耶と顔を見合わせると、沙耶の方もかなり驚いていた。

 「―――って、えっ? 俺の記憶ッ!?」

 「そうよ、あなたの記憶」

 驚愕する俺に、ゆりはピシャリと言い放った。

 「直井くんの催眠術は本物よ。 音無くんの失われた記憶も取り戻せるはず」

 「ふむ、なるほど。 それは僕の手で何とかしてあげたいですね」

 「ちょっと待てよッ! 勝手にそんなこと決めるなよッ?!」

 「どうして? まさか忘れたままでいたいのかしら」

 「―――ッ! いや、それは……」

 勿論、思い出したい。

 けど、この不安は何なんだ。

 この不安は―――

 「……沙耶ちゃんのこと?」

 「――――!!」

 俺は、真剣に表情を引き締めたゆりの顔を直視した。

 そして、沙耶の反応する雰囲気が、俺にも伝わってくる。

 「沙耶ちゃんの件は聞いているわ。 もしかしてそのせいで、記憶を取り戻すのが恐くなった?」

 「……ッ!」

 ゆりは沙耶の一件を知っていた。

 他の戦線メンバーは知らないが、リーダーとして、ゆりには知る権利があった。

 個性が多い兵隊たちを統制するのが指揮官の役割であり、使命だ。リーダー足る者、一人一人の行動や事情はある程度知っておかなければならない。でないと、統制が出来ないからだ。ゆりはリーダーとして俺たちの事を知っておくべきだと思っている。

 「素直に、仲間として心配しているから、ということもあるんだけどね」

 「……………」

 ボソリと漏らしたゆりの言葉を、俺はただ黙って聞いていた。

 確かに、ゆりの言う通り、俺は記憶を取り戻すことを恐れてしまっているのかもしれない。

 不安があるのは、紛れもない事実だった。

 強制的だったとは言え、記憶を取り戻した沙耶は、危うくこの世界から消えてしまう所だった。自分の過去と記憶に押し潰され、沙耶は自ら消えようとした。俺はどうだろうか?俺も記憶を取り戻して、もし自分の過去と記憶に押し潰されそうになったら、耐えられるだろうか?

 つまり、俺も沙耶みたいに消えてしまいそうになるのではないか。それはこの生活を終わらせてしまうことになるんじゃないか。

 そして、気付いた。

 俺はこんなにも―――みんなとの暮らしを気に入っていたんだ。でも過去を思い出して、俺が消えてしまわないか、もし消えなくても、俺はこれまで通りにみんなと一緒に過ごしていけるのだろうか。

 でも…それでも……

 「音無くん?」

 「―――ッ!」

 ゆりの声に、俺はハッと我に帰る。

 「あ、ああ……わかった」

 「過去を取り戻したとしても……」

 「直井?」

 隣にいた直井が、ぎゅっと俺の手を握ってきた。

 「どうか自分を見失わないで。 もしあなたがどうなっても、僕だけは味方ですから」

 そう言って、直井は優しげな微笑みを俺に向け―――

 当の俺は、言葉を出すことはなかった。

 「……………」

 「……何か言ってください」

 引きつった笑みで、直井は苦しげに言葉を紡ぐ。

 「あたしも味方だから、安心しなさい」

 「……消えそうになった情けないあたしが言うのもなんだけど、あたしも付いてるわよ」

 ゆりと沙耶が、それぞれ頼もしい言葉を俺に捧げてくれた。

 「ああ、頼もしいよ」

 「ええッ!? 何この差ッ?!」

 直井には悪いが、今の俺にはお前にどう接するべきだったかよくわからないんだ。

 「……まぁいいです。 どうぞ座ってください」

 そして、俺は直井に促され、その場にあったパイプ椅子に腰かけた。その隣に、沙耶がいてくれる。そして机を挟んで、正面に直井が座り込み、その横にゆりが立って見守っていた。さっきとは打って変わって、奇妙な静寂が一瞬辺りを包んだ。

 「では、始めます」

 「……………」

 俺は覚悟を決め、頷いた。

 俺は、隣にいてくれる沙耶の方をチラリと一瞥した。沙耶は、俺の視線に気付くと、凛とした微笑を浮かべて、力強く頷いてくれた。

 その瞳は、あたしが付いているから、と言ってくれているみたいだった。

 何だか、さっきまでの不安が和らいだ気がする。

 そして、直井の催眠術がいよいよ始まった。俺は直井の赤く光る瞳を凝視する。

 夜空に浮かぶ赤い半月が、俺の網膜に焼き付いていく。意識が揺らぎ、まるで夢の中に引きこまれていくような錯覚に陥った。直井の瞳が、赤い半月が、やがて夏の大空へと変わり、そしてひまわりの太陽の情景へと変わっていった。聞こえてくる蝉の鳴き声。気が付くと、俺は懐かしい、夏の記憶に身を委ねていった。



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EPISODE.36 Alive

 真っ青な空と白い雲、そして照りつける太陽の光が真夏の情景を生み出す。近くのひまわり畑が黄色の絨毯を敷き、そしてそのそばにある木から聞こえてくる蝉のうるさい鳴き声が、夏の風物詩を思わせる。

 すっかり夏らしくなった空の下で、俺はプールや海などに行くわけでもなく、かと言って他の奴らみたいに予備校に行くこともなく、ある場所へと毎日通いつめていた。

 そこは、妹が過ごす病院だ。

 「お兄ちゃん、学校楽しい?」

 外は汗をかくほど暑い事この上なかったが、病院内は冷房が効いていて快適だった。適度な温度で調節された病室で、ベッドにいる妹の初音が、俺にわかったような質問をしてきた。俺は最初から決まっている答えを口にする。

 「楽しかねえよ。 行ってないから…」

 「行ってみたら楽しいかもしれないよ?」

 「頭が良かったら楽しいかもな。 俺のような成績が悪い馬鹿には、居場所がないような所だ」

 「勉強は楽しくない?」

 俺の答えに、初音は次から次へと質問をしてくる。しかも、もっとありえないような内容だ。

 「楽しいわけないだろ。 勉強だぞ?」

 「友達は? お友達と遊ぶのは?」

 「…一人でテレビ観たり、ゲームしてる方が楽しい。 相手の趣味に強引に付き合わされたり、面白くもない冗談に笑って付き合ってやらきゃいけなくなったり……疲れるだけだ」

 「そう……」

 初音は、俺の参考にもならなそうな答えにもちゃんと聞いて、そして言った。

 「私は勉強楽しみだなぁ」

 未来を思い浮かべるような、楽しそうな笑顔で、

 「友達作るのも楽しみ」

 そう言った初音は、本当に楽しそうな表情だった。

 そんな初音を見ていると、俺の心も不思議と軽くなる。

 「…ああ、そうだ」

 俺は途端に思い出して、初音に渡すべくものをカバンから取り出した。

 「ほら、これ」

 そう言って、俺が初音に差し出したのは、初音が大好きな漫画雑誌が入った袋だった。

 「わあ」

 それを見て、初音はまるでひまわりのように表情を咲かせて、俺からの漫画雑誌を受け取った。

 「ありがとう、お兄ちゃん」

 天使のような笑顔でお礼を言う妹を見て、俺はこれからも頑張れると勇気付けられた。

 そう、こいつの笑顔だけが、俺の全てと言っても良かったかもしれない。

 だって俺は―――

 

 生きている意味が、わからなかったから。

 

 生きがいを知らない、他人に興味を持てない。誰とも関わらない方が楽だからだと知っていたからだ。最低限食っていけるだけのアルバイトを惰性で続けて、そんな暮らしで十分だった。

 それでも俺は妹にだけは会いに行っていた。なけなしの金で漫画雑誌を買っていく。いつも適当に、本屋の平積みになっているやつを買っていくから、同じ雑誌かどうかすらわからない。もしかしたら違う雑誌で、話は続いていないのかもしれない。

 でも―――

 

 「ありがとう、お兄ちゃん」

 

 妹は、初音は決まってそう言った。そして、俺の買ってきた漫画雑誌を袋から出しては、いつも素直に喜んでくれるのだ。

 結局、何でも嬉しいようだった。

 初音は俺とは違う。生きる意味に希望を持っているし、生きる意味もきっと見つけられる。

 なのに――ずっとこの二年、退院できないまま入院生活を過ごしている。

 出来ることなら、変わってやりたい。

 生きる希望も知らない、この俺と。

 その連声の思いが、俺を通わせていた。

 

 

 

 冬になると、色々と厳しくなる。夏のバイトもそうだったが、冬のバイトは一層辛くなる。

 指先がかじかんで、裂けそうだ。それでも、生きるためにバイトを続ける。

 生きる?

 何のために?

 考えちゃ駄目だ。

 考えてしまうと、バイトまで辞めてしまいそうになるから。

 これだけは続けなくちゃいけない。食うために、初音にプレゼントを買ってやるために。

 「……………」

 白い吐息が漏れる。

 バイトの疲れと空気の冷たさで、指先の感覚がよくわからない。俺は家に帰る途中にある公園に寄り、自販機で買ったホットのジュースを開けると、ベンチに座り込んだ。

 誰もいない。それもそうだ。こんな時間に、こんな寒い外に出歩いている奴なんて俺ぐらいしかいないだろう。ベンチに座ったまま、俺は空けた缶を持ったまま、ただ黙って過ぎていく時間を浪費していた。

 雪が、俺の手に染み込んだ。ぱらぱらと降ってきた雪。俺は雪が降る空を見上げた。

 そして俺は思いつく。そうだ、今度のクリスマスは医者に相談して、少しでもいいから外に出られるようにしてあげよう。でも車椅子は雪が積もると使えないのかな。

 だったらおんぶでいいや。あいつ一人ぐらい、いくらでもおぶって歩ける。それで好きな店で好きなものを買ってやろう。出来ればいいお店でケーキも食べさせてやりたい。だとすれば、もっとバイトして稼がないとな。

 俺は、ここで今まで以上にやる気を出していた。やっぱり、初音が関わること全てが、俺の生きる意味だったのかもしれない。

 「今度のクリスマスはどこに出かけたい?」

 俺は、最近マスクを付けるようになった初音に、今度のクリスマスの計画を立てるために質問を投げかけた。

 「街の大通」

 マスクで少しくぐもった声で、しかし普段と変わらない調子で、初音は答えた。

 「…あんな所でいいのか?」

 ちょっと拍子抜けした気分だった。どうせならもっといい場所に連れていってやるのに。

 「だってね、全部の木に電気が付くんだよ。 知ってる?」

 「いや、クリスマスにあんな所行かねえし……」

 「すっごくきれいなんだってッ! 去年からそうだったんだって、先生が言ってた」

 「へぇ…」

 まあでも、初音が行きたいと言う所が一番良いだろう。俺はよし、と決めた。

 「じゃあ、そこ行くか」

 「行けるの……?」

 「行けるように掛け合ってみる。 もし駄目でも、内緒に連れていってやるよ」

 「ほんとっ?!」

 「ああ、ホント」

 「やったあ!」

 そう言って、喜ぶ初音は本当に嬉しそうだった。

 「ありがとうお兄ちゃん…ッ!」

 それが―――

 今までで、一番大きな“ありがとう”だった。

 

 

 それから、俺は今まで以上に頑張った。

 バイトのかけ持ちを始めた。出来るだけお金を稼ぐために。失敗もあって、大変なことが多かったが、初音という存在がいたおかげで、俺はずっと頑張り続けることができた。

 家では寝るだけになった。

 バイトから帰った途端に布団に飛び込み、そして眠りに落ちる俺。

 今は目的があるから働けている気がする。ただ一つ心配なのは、あいつの容態が悪くなっていることだった―――

 

 外出の許可は当然出なかった。

 だから、俺は面会時間が終わった後、病室に忍び込み、初音を街に連れだした。

 

 初音をおぶって病院から街の大通まで歩くと、視界いっぱいに広がる幻想的な世界がそこにあった。大通り中の木が装飾付けられ、きらきらと星のように光っていて、夜なのにまるで昼のように明るい。

 「すげぇ……ほら、見えてるか? すごいぞ!」

 「うん……すごく、きれい……」

 「だな。 凄く綺麗だ」

 初音の言う通り、そしてそれ以上に、綺麗な光景が俺たちの前に延々と続いていた。

 俺は初音をおぶりながら、その中を、行き交う多くの人の中で、歩き続けていた。

 「俺も見られて良かったよ。 お前のおかげだな」

 初音は俺におぶられて、身体を俺の背中に預けている。初音の感触が、俺の背中から伝わっている。

 こいつ、こんなに軽かったけ。初音をおぶったのなんてどれくらいぶりだろうな。

 「さぁて、これから楽しい時間が続くぞぉ。 まずはプレゼントだ、何でも買ってやる。 実は兄ちゃん、この日のためにすげー貯金、貯めてきたんだぜ? だからどんな高いものだって買ってやる」

 俺は初音にも楽しんでもらえるように、楽しそうな声色で言った。妹をおぶって、一人で喋り続ける兄の姿がそこにあった。

 「何が欲しい? あぁ、まずは店に入ろうか。 宝石店でもいいぜ?」

 俺は冗談を混じりながら言ってみたり、

 「あ、普通にデパートがいいか?」

 初音の本当に行きたそうな所を言ったりする。俺は、何をそんなに―――

 

 焦ってたんだろうな。

 

 「……お兄ちゃん」

 今まで続いていた俺の一人相撲が中断した。初音が、消え入りそうな声で呟く。

 「ん?」

 「ありがとうね……」

 「……………」

 いつの間にか、俺は立ち止まっていた。

 自分で自分に何かを隠しながら、俺は前に向かって歩くのを再開した。

 「ああ」

 俺は、初音に楽しんでもらえるよう、もう一度調子を上げるような口調で言い始めた。

 「買い物の後にもな、いいこと待ってるんだぞぉ? 今度は夕飯だ! よくわからないけど、雑誌に載ってたいい店、予約してあるんだ。 コースで決まってるものが出てくるんだ。 コース料理だぞっ? 凄いだろっ? それでな―――」

 その後も、俺は一人で喋り続けて、歩き続けた。

 結局、俺がその日、初音から最後に聞いた言葉は―――

 

 ありがとうね、だった……

 

 

 初音を失った俺は、その後親戚の家に預けられることになった。少しの間、親戚の家で過ごした俺だったが、俺は自分からこの家を出ていくことを決めた。

 「…では、行きます」

 「このまま一人であの家に暮らしていくの? 寂しいだけでしょ?」

 「大丈夫です。 慣れてますから……」

 「そ、そう? 本当に大丈夫かしら……困ったことがあったらいつでもおいでね。 ご飯だって、いつでも食べさせてあげるから」

 「…はい、ありがとうございます。 この度は、本当にお世話になりました……」

 お世話になった親戚の家から出た俺は、ただ一人、孤独に街の中を歩いていた。

 

 ……俺は、ちゃんと生きがいを持って生きていたんだ。

 

 生きる意味は、そばにあった。

 

 気付かなかっただけだ。俺はあいつに、ありがとう、とそう言ってもらえるだけで生きていられたんだ。

 あいつに、初音に感謝されるだけで俺は生きていた気がしたんだ。

 

 つまり、俺は幸せだったんだ。

 

 ……馬鹿だ、俺。今更気付くなんて。そんなに大切な存在だったのに、何もしてやれなかった。

 ずっと、あいつは俺の買ってきた漫画雑誌を読むだけで、それだけで、それだけの人生で、幸せだったのだろうか?

 そして、それを失った俺の人生は終わってしまったのだろうか。

 

 気付かない幸せに満たされていた日々。その時間は過ぎ去ってしまった。

 

 もう俺には、何も残されていない―――

 

 

 俺は、通りかかった大きな病院の前で、ある光景を見つけた。

 「退院おめでとう」

 「ありがとうございましたっ!」

 それは、初音ぐらいの小さな女の子が、自分を縛り付けていたものから解放され、満面な笑顔を浮かべている姿だった。

 俺はそれを見て、そしてもう一度気付いた。

 もしかしたら、俺の生きがいはまだ他にも見つけられるかもしれない。

 気が付くと、俺はすぐにその場から駆け出していた。

 

 本屋から買ってきた医学関係の本を漁り、猛勉強に励む日々を始めた。

 生きがいをまた見つけられるかもしれないと思ったから。

 生きる意味を見つけられるかもしれない。誰かのために、この命を費やせるのなら…!

 

 そして、俺は今までの人生で経験したことがないようなほど、猛勉強を重ねた。ここまで勉強をしているのは生まれて初めてだ。そして、その時間は更に増えていく。

 初音に嫌いだと言った勉強のおかげで、俺は自分の夢に近付くことができた。生きる意味を、見つけられるような気がした。それが、勉強をして自分が進んでいく度に、より強く思えるようになった。

 

 俺は、今までの自分の成果を発揮できる機会であると同時に夢への第一歩になり得る場所を目指していた。雪が降る中走る電車の中で、俺は胸にあるものを膨らませながら、それを大事に持っていた。初音のような子を救える、他の人を助けられる職業に近付くことができる、医学系の大学入試の学生受験票を。

 「……?」

 ガタ、と電車が微かに奇妙な揺れを生じた気がしたが、別段気にすることはなかった。だが、それはすぐに俺の人生に直接襲いかかってきたのだ。

 「―――ッ?!」

 急停車する電車。それだけに留まらず、明らかにおかしな挙動が乗客を襲った。俺は、手すりから手を離し、バランスを崩した。周りの悲鳴があがる中、俺は自分の手から離れていった受験票を掴もうと、虚空に手を伸ばした。

 だが、その手は何も掴まなかった。虚空だけが俺の手にあり、そして俺の視界も、真っ黒な闇へと染まっていった。

 

 

 

 闇の中から、俺は現実へと帰ってきた。

 離れていった受験票を掴もうとした手は、膝の上にあった。視界には大切なものを掴もうとした、膝の上に置かれた自分の拳があった。

 静寂の中、時計の針の刻まれる音だけが過ぎていく。シンと静まる中、俺は隣で見守ってくれている沙耶や、正面にいるはずの直井とゆりの方にさえ、顔を上げることができなかった。

 「……思い出した?」

 「ああ……」

 「……素晴らしい人生だったとは、言えそうもないわね」

 沈鬱な空気が降りる。隣の沙耶や正面にいる直井から、心配をかけてくれるような視線を感じるが、俺はそれさえ素直に受け取れる余裕がなかった。

 「しばらく、一人にしてくれ……」

 俺が何とかその言葉を伝えると、ゆりが無言でその場から立ち去ってくれた。その後、直井も名残惜しそうに席を外してくれた。そして隣にいる沙耶も―――

 「……………」

 ぎゅっと、俺の顔を自分の胸の中に寄せて、抱き締めた。

 沙耶の匂いが俺の鼻につく。柔らかくて、暖かい感触が俺の顔をそっと撫でてくれた気がした。

 「……………」

 少しの間だけ抱き締めると、沙耶は無言で俺の顔をそっと離し、背を向けて立ち去っていった。

 バタン、と扉が閉まる音を最後に、静寂が俺の辺りを包んだ。

 「(無気力だった俺は、自分の生きる理由を初音(おまえ)に教えてもらって……見つけて、そして夢半ばで死んだのか……ッ)」

 こみ上げてくるものを、俺は流す。

 涙という、どうしようもできない感情の流れを。

 「(何も為し遂げずに死んだのか……ッ!)」

 それが、俺の人生だったのか。

 俺の人生の、結末だったのか。

 「(そんなのってねえよ…ッ! ねえよ……ッ! 死に切れねえよ……ッ!!)」

 俺は一体、何のために―――

 俺の人生もまた、こんなものだったのか。

 「初音……ッ」

 妹の名前を漏らしたのは、どれくらいぶりだろう。

 俺はこの世界に来て初めて、自分の人生と、そして大切な存在を思い出し、その名前を涙と共にこぼしていた。



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EPISODE.37 Remember

 夕日が学園にオレンジ色の世界を与える。そんな光景を見渡せる屋上で、あたしは一人たそがれていた。

 涼しげな風があたしの髪を撫で上げる。あたしはずっと、そこで無駄に時間を浪費していた。

 

 音無くんも、記憶を取り戻した。

 

 つい前まで、あたしも経験したことだった。失っていた記憶を取り戻すということは、予想以上に自らの身体と心に大きなショックを与える。自分の記憶であるはずなのに、その記憶が自分を深く抉るのだ。音無くんの気持ちは、今のあたしには痛いほどわかっていた。

 人の記憶は、時に自分への凶器となる。人は誰しも、思い出したくない過去や、暗い過去を持っていないわけではない。それを思い出せば、今の自分が当時の痛みを思い出してしまうこともある。それと同じように、失っていた過去に押し潰されそうになった自分がいた。そして、今の音無くんも、その過去と記憶の重圧に苦しんでいる。

 そして、その記憶に大切な存在が関わっていれば尚更、その記憶の意味は深まり、そして増える。その意味を受け止め、認めることで人はやっとその記憶と共に再び生きていくことができる。

 「……!」

 後ろからの気配を感じて、あたしは振り返った。

 「音無くん……」

 あたしは、現れた彼にそっと言葉を投げかける。

 「…落ち着いた?」

 「ああ」

 そんなあたしの投げかけた言葉を、音無くんはちゃんと受け止めて返してくれた。

 あたしの隣まで歩み寄ってきた音無くんは、手すりに身体を寄せて、夕日に染まる情景を見渡した。

 「記憶が戻って……しばらく心が不安定になるかもしれないけど、直に慣れてくるわよ」

 経験者からの証言だから間違いない。それを音無くんもわかっているからか、「ああ」と素直に頷いてくれた。

 そう。あたしも、同じ苦しみを経験した。

 あなただけじゃない。

 そう、伝えたい。

 「……俺は弱いな」

 「え…?」

 「沙耶は、本当に強いんだな。 俺なんて、記憶を取り戻した途端にこれだ。 沙耶の方が、俺なんかよりずっと……」

 「そんなことないわよ。 あたしなんてこの世界から消えてしまいたいと思ったんだから、あたしの方が断然弱いわよ」

 「いや……俺が…」

 音無くんの言葉が漏れるのを許さないように、あたしはぴしゃりと言い放つ。

 「あたしは強引ではあったけど、全ての記憶を取り戻した。 そして、あたしは笑っちゃうぐらい情けなくなるほど自暴自棄になって、消えてしまおうと思った。 でも、そんなあたしを救ったのは誰だった? あなたよ、音無くん。 あなたがいなかったら、あたしは惨めにこの世界からも消えていたわ……」

 「沙耶……」

 「だから、あなたには感謝してる。 そして断言する。 音無くん、あなたは今まであたしが出会ってきた人間の中で、一番強い心を持っている」

 「俺が……?」

 「ええ。 あたしは、今まであなたを含めて、二人のパートナーと共にしたことがある。 音無くんとは別の、もう一人のあたしのパートナーだった彼は、あたしのことを思い出してくれた。 最初は頼りなかったけど、少しずつ成長していって……そして最後は、あたしのことを思い出してくれた」

 繰り返されていく世界の中で、最初に戻るたびにリセットされても尚、彼はあたしの存在を覚えてくれていた。

 彼が教えてくれた。

 彼がいたから、あたしはそこにいた。

 そしてそれと同じように、今のあたしがここにいるのは、音無くんがいたから。

 「人は誰かに忘れられたら、生きているとは言えないのよ。 だから……」

 あたしはふわりと、髪を揺らしながら、あたしの方を見据える音無くんの方に振り向いた。

 夕日に染まるあたしは、微笑を浮かべて―――呆けた表情を浮かべる音無くんに、言った。

 「忘れないで、あたしのこと」

 人は記憶の中にいられることで、生き続けることができる。

 あたしたちは実際には既に死んでしまっているけど―――

 記憶というものの中では、あたしたちは確かに生きているのだ。

 「……ああ。 と言っても、とっくに死んじまってるけどな」

 「そうね」

 音無くんと二人で、あたしたちは笑い合う。

 そして笑い終えた音無くんは、吹っ切れた表情を浮かべて、「よし」と意気込んだ。

 「俺、これからも戦線に居続けるよ。 勿論、お前のパートナーとしても」

 「そっ。 あなたにもようやく目標が生まれたってことかしら」

 「そうだな。 それに、このままじゃ死に切れねえし」

 「そうね」

 「改めて、これからもよろしく。 マイ・パートナーさん?」

 音無くんから差し出される手。その男の人の大きな手に、あたしはしっかりと自分の手で握り返した。

 「こちらこそよろしく、マイ・パートナー」

 



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EPISODE.38 Solved Mind

 対天使作戦本部として活用されている私たちの根城。私は日に日に重ねた研究のもと開発した、新技を日向先輩にかけようとしたが、お付き合いが悪い日向先輩は相手をしてくれなかったので諦めた。代わりに大山先輩にかけてみたけど、どうやらまだ研究は必要のようだった。まだまだドキツイ技を完成させて、いつか日向先輩にお見舞いさせてあげなくては。積年の恨み、思い知るがいいヒッヒッヒッ。

 「必殺・卍固めぇぇぇぇッッッ!!!」

 「ぶぎゃあああああああッッ!!? な、なんで先ぱ……ッ!? ギブ、ギィィブッッ!!」

 いつの間にか、私は日向先輩にまたしても攻撃を受けていた!?

 な、なんで…?!

 私、何かしましたかっ!?

 「お前、心の声がダダ漏れなんだよおおおおッッ!!」

 「にゃ、にゃにいッ!? ユイにゃん、まさかの大失態だとぉっ!?」

 「どうやらお前にはまだまだお仕置きが必要みたいだな……死ねやああああッッ!!」

 「ぐぎゃああああああッッ!! 先輩、これは洒落になりませ……ッ?!」

 ロープ、ロープ!と手をバンバンと叩く私だったが、日向先輩の締め付けは容赦がなかった。

 「あはは、二人とも相変わらず仲が良いね」

 そんな光景を、動く犬のぬいぐるみを椎名先輩と一緒に戯れていた大山先輩が、ニコニコと微笑ましそうに言っていた。

 「そんなことないですって……! 大山先輩、助けてくださ……ッ!!」

 「僕には二人の邪魔なんて出来ないよ」

 お、大山先輩……もしかしてこれはさっきの新技かけさせていただいた時の仕返しですか!?

 その純粋なほどに輝いた笑顔が逆に恐いですッ!

 「ねっ、椎名さん。 これ、可愛いね」

 「浅はかなり……」

 結局、大山先輩も自分たちの空間へと帰ってしまった。

 ちょっと椎名先輩! 顔をほのかに染めてる暇があったら私を助けてくださ……

 「とどめだぁぁぁぁぁッッ!!」

 「ぎょおおおおおッッ!? も、もう無理でふううううッッ!!!」

 こうして、かわいそうなユイにゃんは日向先輩に徹底的にしごかれてしまうのでした。

 

 

 「うう……ひなっち先輩、許すまじ……」

 色々と大変なことになりそうだった身体がようやく落ち着いた頃、私はお花畑の帰りから校長室に向かってとぼとぼと廊下を歩いていた。

 「何か、ひなっち先輩をぎゃふんと言わせる方法は……ん?」

 校長室を前にして、私は丁度音無先輩やゆりっぺ先輩たちと出て行った新入りの直井先輩が戻ってきた所を鉢合せになった。直井先輩の横顔がどこか悲しそうな表情をしていたけど、何かあったのかな?

 「……!」

 ユイにゃんの天才的な頭の中で、ぴーんと電球が光った。

 ふふ、とつい不敵な笑みを浮かべてしまう。

 「直井先輩~♪」

 「……なんだ、貴様は」

 校長室の扉に手をかけようとした所で、直井先輩は私を見つけると、嫌そうな顔を向けてくれた。

 「ちょ~っとお時間取らせてもらってもいいですかね? 実はユイにゃん、直井先輩に用がありましてぇ」

 「断る。 貴様なんぞのために取る時間など一秒単位も無い」

 「ああぁんッ! そんなこと言わずにいいい聞いてくださいよぉぉぉ」

 「…くっ、しつこい奴め」

 直井先輩の袖を掴んで離さない私に、直井先輩は更に嫌そうな顔を向けるが、とうとう私のしつこさに負けたのか、これ見よがしに溜息を吐くと、私の方に向き直った。

 「で、この神である僕に何の用件だ?」

 「ははっ! 実はですね、直井先輩にちょっと頼みたいことがありまして…!」

 直井先輩の眉が、ピクリと反応する。

 「……この僕に、頼み事だと?」

 「……いけませんかね?」

 「貴様、僕は神だぞ」

 「神様でしたら、人の頼みは聞くべきだと思います…ッ!」

 「……何を言っているんだ、貴様は」

 「神様は心も寛容であらされるべきだと思います…! 人間のような狭い心を、まさか神様が持っているわけないですよね?」

 「……………」

 思いついたことを適当に言ってみたが、直井先輩は黙して語らなかった。

 あれ……やっぱり駄目だったかな。

 直井先輩の鋭い瞳がジッと私の瞳を見据える。ここで催眠術なんかかけられちゃったらどうしようか。

 やがて、「ふん」と微笑ましげに鼻を鳴らした直井先輩の反応に、私は好感触を得た。

 「ならば僕を崇めよ、そして称えよ。 察すれば、貴様の願い、叶えてやらんこともない」

 「はは~っ!」

 やっぱこいつアホですね、と心の中で呟いておいて、私は先輩を崇拝するフリをする。

 それを見て満足げ(やっぱアホだ)の直井先輩は、うんうんと頷くと、「で?」と遂に声を掛けてくれた。

 「貴様の願いはなんだ?」

 「はいっ! 実は直井先ぱ……じゃなくて、神様にお願いしたいことがッ!」

 

 

 

 「…なんだ、お前らが同時に入ってくるなんて珍しいな」

 ソファで欠伸をかいていた日向先輩が、同時に入ってきた私と直井先輩を見かけると、一番に私たちに声を掛けていた。

 「音無たちはどうした?」

 「……………」

 日向先輩の質問に、直井先輩は複雑な表情を浮かべたが、「貴様には関係のない話だ」と一蹴した。

 「なんだよそれ」

 「なんだ、文句でもあるのか? この僕に」

 「なんでお前はいつも挑発気味なんだよ……」

 「挑発しているのは貴様だ。 どうやらまだ身の程をわきまえていないようだ」

 ニヤリと悪い笑みを浮かべた直井先輩が、日向先輩に近付いた。ソファに座っていた日向先輩は直井先輩から距離を取ろうと遠のいた。

 「お前、音無がいないからって好き勝手……」

 「黙れ。 さぁ、僕の目を見るんだ」

 始まった。

 直井先輩の背後で、私はその始まった計画をニヒヒと笑みを浮かべながら見守る。

 私が直井先輩に頼んだ内容。

 それは―――

 

 「日向先輩に、ある催眠術をかけてほしいんです」

 「あいつにか? ……何だ、また洗濯バサミの有能さに気付かせるのか?」

 「いえ。 かけてほしい催眠術の内容は今から言います。 それは――――」

 

 直井先輩の催眠術が、日向先輩にかけられる。

 「さあ、今から貴様は犬だ。 主の足となり、主のもとでだらしなく舌を出して言いなりになる犬になるんだ。 さぁ……貴様は今から人ではなく、犬になるのだ……」

 「い、犬……犬……」

 そう、日向先輩にかける催眠術の中身。それは―――犬!

 そして、主は―――

 「…こんな所だろう」

 「ありがとうございます直井先ぱ……じゃなくて神様ッ!」

 私はいよいよ犬になっただろう日向先輩のもとへ飛び出した。ソファの上で、うずくまった日向先輩を前にする。催眠術をかけられ、うずくまってじっと動かなくなった先輩の姿を見て、私は少し不審に思った。

 「本当に催眠術かけたんですか?」

 「当たり前だ。 こいつは確かに、今は犬になっているはずだ」

 「へぇ、どれどれ……」

 私の作戦。それは、直井先輩の催眠術を利用して、今まで私に酷い仕打ちをしてきた日向先輩を犬のようにすることで、今までの恨みを晴らすこと!

 そして犬になった日向先輩の主は―――私ことユイにゃん!

 ふふふ、さぁて。どんなお返しをしてあげようかなぁ

 「ふふ、さぁひなっち先輩。大人しく―――」

 「わんっ!」

 「……わん?」

 今までうずくまっていた日向先輩が、私が名前を呼ぶと、突然顔を上げて「わんっ」と鳴いた。だが、うずくまった時の姿勢、つまり四つんばいになったままだ。そして、犬のように舌を出して、はっはっはっと息を漏らしている。間違いなく、まごうことなき犬だった。

 「おおおっ! ほ、本当に犬になってます…ッ!」

 「ふ、当然だ。 神に不可能はない」

 誇らしげに帽子の鍔を掴む直井先輩を尻目に、私は改めて目の前で四つんばいになっている日向先輩をまじまじと見詰めた。

 犬のように息を荒立てる日向先輩を前に、私は生唾を飲み込んだ。

 「お、おすわり!」

 「わんっ!」

 「お手ッ!」

 「わわんっ!」

 「三回まわってわんッ!」

 「わんっ!」

 私の言われたことに忠実に従う日向先輩のその姿は正しく犬。犬耳と犬の尻尾が錯覚で見えてしまうほど、立派な犬になり果てていた。おすわりをして、子供のような腑抜けた顔を浮かべる日向先輩を前にして、私は身体の内からこみ上げてくる興奮を抑えきれなかった。

 「凄いッ! 本当にお犬さんだーッ! ひなっち先輩が正真正銘の犬になってるぅ~」

 「ふん、畏れ入っただろう。 さぁ、僕を崇めるが良い」

 「うひゃあーッ! ひなっち先輩、きも可愛いぃぃ~~」

 「…おい、僕を無視するな」

 私は後ろで舌打ちを立てる直井先輩のことをすっかり蚊帳の外にして、犬になった日向先輩のことばかり構うようになっていた。

 「ふふふー。 今日からひなっち先輩……いや、ひなっちは私のペットだよ。私の言うことをちゃんと聞くんですよ~?」

 「ユイの奴、すっげえ悪ぃ顔してるぜ……」

 「放っておけ」

 「それにしても日向くん、本当に犬みたいになってるねー」

 「Its the highest!」

 「浅はかなり……」

 そんな私たちを他の先輩がたが各々の視線で見ていたが、そんな周りの視線を気にすることはなかった。むしろ先輩がたの方から呆れてぞろぞろと離れていった。

 「んふふ、さぁてどんな事をさせてやろっかな。 とりあえず散歩でもいこうかひなっち!」

 「わんっ!」

 「あの女、そのまま奴を外に連れ出すつもりか。 鬼畜な奴だ……」

 何かぶつぶつと呟いていた直井先輩を置いて、私は日向先輩を連れて校長室をあとにした。

 

 

 校舎を出て、学園内を歩く私たちを、一般生徒たちからの視線とざわめきが集まる。それも当然、私は本当に犬を散歩に連れ出すご主人様の如く、日向先輩を首輪と紐を繋げて散歩をしているのだから。

 「ふふふ、これこそ上下関係を公然と知らしめる行為。 同時にひなっち先輩の醜態が今、大勢の一般生徒たちの目に映っていますよ」

 「わんっ!」

 周囲からの視線と、どこからか聞こえてくるヒソヒソ話。これで日向先輩の醜態が学園中に知れ渡ることだろう。ふふ、人の恥がより多くの人たちに記憶されることこそ、人にとっては最大の屈辱。私は今、日向先輩を学園周知の変態さんに見せかけているのだ。

 「ふ、こんなものでいいかな。 さてひなっち、今度はフリスビーを投げるよ」

 「わんっ!」

 嬉しそうにぱたぱたと尻尾を振る(ように見える)日向先輩を前に、私は手に持っていたフリスビーを思い切り投げた。

 「うぉぉおおりゃあああぁぁぁ……ッッ!!」

 フリスビーは物凄い勢いで彼方に吸い込まれ、あっという間に小さくなってしまった。

 「あちゃー。 さすがにやりすぎたかな……これはさすがに取れに行けな……」

 気が付くと、フリスビーを投げ出すのと同時に飛び出していったらしい日向先輩が、遥か彼方に飛んでいったフリスビーをダッシュで追いかけていく姿を見つけた。

 「おおおっ!? ひなっち先輩、必死だッ!」

 そして颯爽と戻ってくる日向先輩に思わず私は「早ッ!?」と驚きを隠せなかった。まさかここまで犬になり切れているとは思わなかった。

 「よしよし、おりこうさんだねー」

 とりあえず、ちょっとだけ動揺しながらもフリスビーを咥えた日向先輩を褒めることにした。その時、まるで日向先輩は犬のように喜んだ。私に頭を撫でられた日向先輩はまるで子供のような笑顔を浮かべると、フリスビーを口から離し、私の方にその身体を近づけてきた。

 「え……え…? ちょ、ちょっと待…ッ!」

 遂に懐くように近付いてきた日向先輩に倒される私。日向先輩の下敷きになって、私は更に動揺した。何故なら、端から見れば男が女を押し倒しているようにしか見えない構図であり、そして私は押し倒されている側ということになるからだ。

 「ひゃあッ!? ひ、ひなっち先輩、は、離れ……」

 私はぐっと日向先輩の胸を押すが、犬耳を生やし、尻尾を振っている(ように見える)日向先輩の身体は私なんかよりもずっと大きいから、離すことなど出来るわけがない。

 「ひなっち先輩、いい加減にど―――」

 そして遂に、みるみる近づいた日向先輩の顔が―――

 私の頬を、ぺろっと柔らかいものが一瞬触れた。それが、日向先輩のお口から伸びた舌だと気付くのに、私の思考は理解に及ぶまで少々時間を必要とした。

 「……………」

 日向先輩に舐められた、という事実が私の思考回路に追いつくと、私は顔から火が噴き出るのではないかというぐらい顔が熱く感じた。

 「ひゃああああああああああああッッッ!!!?」

 これまでにないくらい、日向先輩に卍固めを決められるより大きな悲鳴が私の口からやすやすと響き渡った。

 「ちょ、ちょっとひなっち先輩…ッ! いくらなんでもこれは……ッ! ていうかどいてぇぇぇぇッッ!!」

 「わんわんっ!」

 「わんわんじゃなくて……ひゃああああッッ!!? な、舐めないでぇぇぇぇッッ!!」

 私は足をジタバタとさせるも、私の身体から日向先輩が離れることはなく、私はされるがままになっていた。

 「わふ…っ」

 「ひぅ…ッ!? 今度は吸…ッ?!」

 このまま完膚無きまでに私の純情が汚されるのかと諦めかけていた時―――

 「なに外でイチャついてるの? あなたたち」

 「あ…! ゆ、ゆり先輩…! た、助けてくださぁぁぁぁいッッ!!」

 そこにいた救世主は私たちの頼れるリーダー、ゆり先輩だった。ゆり先輩は「うわ~…」と、顔をほのかに朱色に染めて私とひなっち先輩の縺れる光景を見学していたが、私は呑気に見学などしてもらうほどの余裕がないため、ゆり先輩にSOSを呼び掛けた。

 「ゆり先輩、助けてくださ…ッ! わ、私このままじゃ…ひゃあんッッ!?」

 首筋を舐められて、私は変な声を出す。普段こんな声出したことないのに…ッ!

 「ふぇ…ッ! ひなっち先ぱ……も、もう許してぇ……」

 「何だかこのまま放っておくと放送コードに引っ掛かりそうね……」

 ゆり先輩は溜息を吐くと、私とひなっち先輩の所に歩み寄った。

 「日向くん」

 押し倒した私を舐めるのに必死な日向先輩に、ゆり先輩の声は届いていない。だが、日向先輩に届こうが届かないが関係ないのか、ゆり先輩はそのまま続けた。

 「おいたが過ぎるんじゃないかしら?」

 ゆり先輩がニッコリと微笑むと、次の瞬間、日向先輩の後頭部から嫌な音が響いて、日向先輩の身体がそのままドサリと私の上に落ちてきた。

 「ぐぎゃッ!? お、重い……ッ!」

 「大丈夫?」

 ゆり先輩がよいしょ、と倒れた日向先輩の身体を私の上からどかしてくれた。日向先輩の身体が無造作に転がる。仰向けに転がった日向先輩を見ると、すっかり伸びた表情をしていた。

 「たはは……助かりました、先輩」

 「いいのよ。 ていうか、何がどうやってあんな状況になったのよ?」

 「あ、あははー……話さないと駄目ですか?」

 「私はあなたたちのリーダーよ。 聞く権利はあると思うけど?」

 「で、ですよねー」

 私は苦笑いを浮かべるが、対するゆり先輩はジトッとした視線で私を刺していた。私はそんな視線を痛く感じながら、洗いざらい全ての事をゆり先輩に打ち明けた。

 ゆり先輩は最初から最後まで、腕を組んで黙って聞いていた。

 「……なるほどね。 つまり―――」

 ふむ、と顎に指を当て、納得したような表情を浮かべたゆり先輩は―――

 「いつものあんたたちのしょうもない喧嘩かぁぁあああぁぁぁッッ!!!」

 「ご、ごめんなさぁぁぁぁい……ッッ!!」

 「まったく、聞いて損したわ。 要はさっきの事だって、あなたの自業自得じゃない」

 「う…ッ」

 何も反論できない私だった。

 「罰として、そこに転がってる日向くんをあなたが最後まで責任を持ってどうにかしなさい」

 「え、ええッ!? それってどういう―――」

 「じゃ、あたしは帰るから」

 「ふ、ふえッ!? ゆ、ゆり先輩ぃぃ……ッ?!」

 そして、ゆり先輩は本当に私たちを残して帰ってしまった。

それにしても、ゆり先輩がどことなく元気がなかったように見えなかったけど、何かあったのだろうか。

 しかし、今は自分に置かれた現状を何とかしなければいけない。

 「うう、どうにかって……どうすれば良いんですかー」

 私はチラリと、そこで転がって気絶している日向先輩を一瞥した。元はと言えば、私に原因がある。それは理解しているつもりだ。でも、相手が日向先輩だから、私はついよくやってしまう。日向先輩とはいつも喧嘩腰。でも、それは―――

 「……そんなこと、ないもん」

 ぽそり、と私は一人言葉を漏らしていた。

 「……ふん」

 私はそっと、日向先輩のそばに腰を下ろした。

 

 

 「……寒ッ」

 ぶる、と震え上がると同時に、「んあ?」と間抜けな声をあげて目を覚ました日向先輩。私は優しく言葉を掛けるように努めた。

 「やっと起きましたか? 日向先輩」

 「ユイ……?」

 優しく、のつもりだったが、つい無粋になってしまった。でも、日向先輩は何も感じていないようだった。

 「あれ…? 俺、何でこんな所に……」

 空はすっかり日が落ちて薄暗くなり、肌にもひんやりとした空気が感じられる。結局、日が落ちるまで私は日向先輩の寝顔を拝む羽目になってしまった。

 「ていうか俺、何でこんな所で寝てたんだ……? しかも頭が痛ぇ……」

 「さ、さぁ? な、何ででしょうねー」

 私は知らないフリをして、あらぬ方向に視線を逸らす。

 そんな私を、日向先輩が訝しげにジッと見詰めていた。

 「お前、寝てる俺に何か悪戯したんじゃないだろうな?」

 「そ、そんなことしませんよ…ッ!」

 「そうか。 で、俺が何でこんな所で寝てたのか、そばにいたらしいお前は知ってるんじゃないのか?」

 「そ、そんなことありませんよ? 私は偶然、ここを通りかかってですねー……」

 「本当かよ……じゃあ何で目を逸らすんだよ」

 「そ、そんなことないですって!」

 「俺の目をちゃんと見て答えろよ」

 日向先輩の顔が、また私の方に近付く。また、また…ッ!

 そんな見ろって言われても、あんなことがあって、色々な意味で見られるわけないでしょう!?と、私は心の中で叫ぶも、そんな私の声は日向先輩に届くわけもない。

 「……ん?」

 「な、なんですか? 先輩……」

 「ユイ、首に何か痕が付いてるぞ?」

 「―――ッ!?」

 私は日向先輩に指摘された首筋のある部分を手で隠した。そこは、日向先輩が散々舐めまわした場所であった。

 「……………」

 「…? どうした、ユイ?」

 「ば……」

 「ば?」

 私の震える顔を覗きこんだ日向先輩の身体を、私はがっしりと両腕で捕縛した。

 「ひなっち先輩の馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」

 「ぎぃやああああああああああああッッ!!?」

 私は必殺のジャーマンスープレックスをお見舞いした。

 再び後頭部を強打することになった日向先輩はその場で撃沈した。

 「な、なんで……おま……」

 「ふんっ!」

 私は地面に倒れ伏せる日向先輩を置いて、大股でその場から立ち去ろうとした。

 トマトのように真っ赤にした顔を、日向先輩に見せないように。そして、首筋に一つ付いた痕。くっきりと浮かんだ、先輩の印を―――



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EPISODE.39 Thought Mind

 戦場において武器、弾薬などと同等に並ぶ大切なものがある。それは兵士の腹を満たせる食糧だ。腹が減っては戦が出来ぬという諺がこの国にあるように、食べるものが無くては戦う力も出せない。十分な戦力を発揮するために欠かせないのが食糧なのである。そしてそれはこの世界においても同じ事だった。生前とは別世界とは言え、空腹という機能が自分たちに備わっている以上、そして戦線として戦う事が続くのであれば、食糧は自分たちにとっても不可避な存在だった。

 そして俺たちの力となる食券が不足しているのが現状らしい。以前は武器や弾薬が足りなくなってわざわざギルドまで降りていったが、今回も只では済まないらしい。食券ならいつものようにトルネードで一般生徒たちから巻き上げるのが通例なのだが、今回は全く違うオペレーションが実施されるようだ。

 「今日のオペレーションは、モンスターストリームよ」

 ゆりが低い口調で今回の作戦名を告げる。そのゆりの背後にはお決まりの大画面に作戦名がでかでかと表示されていた。

 その途端、周りから驚嘆と悲鳴の声があがった。初めてとなる作戦名を聞いた俺と沙耶としてはわけがわからなかったが、みんなの反応ぶりを見る限り、この作戦は何かとてつもないものらしい。

 「何なんだよ、その作戦は…!?」

 「まさか、モンスターでもいると言うの? ……面白い」

 最初は俺と同じく驚愕の色を浮かべた沙耶だったが、がらりと変わったように、いつの間にか銃を取り出してにやりと笑って呟いていた。

 「……お前、今面白いとか言わなかったか?」

 「さて、どうかしら」

 「……それより、この世界にはモンスターなんてものまでいるのか?」

 俺の疑問に対して、近くにいた高松が眼鏡のブリッジをくい、と持ち上げて答えてくれた。

 「ええ、川の主です」

 「川の主……ッ!?」

 「ちょっと歩いた所に川があるだろ。 そこで食糧の調達だ」

 「……………」

 「……それって要はつまり、単なる川釣りってことかしら?」

 口端を引きつらせて固まった俺の代わりに、沙耶がつまらなそうな声で問い返した。

 「そうだけど……それがどうかしたのか?」

 「いえ、別に」

 素っ気なく返す沙耶だったが、その表情は「つまらないわね」と言っているようだった。腕組みをしてツンとした表情をどことなく向けている。

 俺はまたつられて馬鹿な勘違いをしていた自分に力が抜けるばかりだった。

 「それじゃあこれから、目的地に向かって出発よ」

 ゆりの一言で、俺たちは早速学園のすぐ近くにあるという川へと向かうのだった。

 

 

 ぞろぞろと川釣りを目的とした一団が太陽の光が眩しい青空の下を歩いていた。

 向かう途中、誰が多く魚を釣るか、主を釣り上げるか、など、勝負をする雰囲気で話がわいわいと盛り上がっていた。俺はただその話を横で聞きながらみんなと歩調を合わせていた。

 ふと、俺は視界の端に映った色とりどりの花に目を惹かれた。俺が花の絨毯が広がる敷地を見渡すと、花の中に囲まれるようにして居る人影が一人。俺は、そこにいた人物を見据え、足を止めていた。

 みんなと一緒に先に歩いていた沙耶も、立ち止まった俺に気付いたらしく、沙耶も振り返り様に立ち止まった。そして俺の視線を追って、沙耶も彼女の存在に気付いた。

 俺は一人、花畑で戯れる一人の少女に向かって歩き出していた。 

 「そんな所で何してんだ?」

 俺の好意的な呼びかけに、麦わら帽子をかぶった彼女はゆっくりと俺の方を振り向いた。彼女の小さな頭を包む麦わら帽子の影から、彼女の真っ直ぐな瞳が俺を映す。

 彼女、立華は俺を一瞥すると、言葉で答えることなく、代わりに立ち上がった。そして俺は気付いた。立ち上がった立華は胸にそっと何かを包む込むように両手を添えていた。そして、彼女の両手がゆっくりと胸から離れると、彼女の両手が開花する花びらのように開いた。

 開いた彼女の手から、ひらひらと蝶が舞い上がった。彼女の髪の色と同じ色をした蝶は、ひらひらと青空に向かって、花の匂いが漂う空気の中へと飛んでいった。俺がその光景を見送っていると、不意に立華が口を開いた。

 「草むしりとか、色々……」

 それは、さっきの俺の問いに対する答えだった。立華はここで何をしていたのか。その答えは、前は生徒会長として、そして今や一介の女子生徒となる立華の、園芸部もどきの活動だった。花に囲まれた、麦わら帽子の少女という絵が、俺の視界いっぱいに映り込み、そして俺の心にすっと入りこんできた。

 見惚れる、とはこの事なのだろう。俺はハッと、その絵に酔いしれていた自分に気付くと、我に帰って「そ、そうか…」と、誤魔化すように目を逸らして頬を意味もなく掻くのだった。

 「…ッ! そうだ、お前も来いよッ!」

 「え……?」

 いきなりの俺の提案に、立華もきょとんとしただろう。

 「今からみんなで、川釣りに行くんだ」

 「川……あそこに近付くのは校則違反よ……危ないから…」

 「いいじゃないかよ、お前ももう生徒会長じゃないんだし。 破ってやれよ」

 「でも……」

 本当に彼女は真面目なんだなと感じた。だって俺たちの所為とは言え、生徒会長を辞めたことになってもこうして校則をしっかり守ろうとするような生徒の見本みたいな事を続けているんだぜ?今ここでも園芸部みたいに花の世話をするなんて、普通じゃ真似できない。彼女という存在がいたからこそ、知らない所で色々と生徒たちは救われているのかもしれない。

 でも、こいつにも俺たちのように馬鹿やって楽しませても、いいだろう?

 誰かが引っ張ってやらないと、彼女はずっとこのままだ。

 なら、俺が連れていこう。

 「…!」

 俺は、彼女の手袋をはめた手を取った。表情をあまり変えない立華だが、少しだけ驚いた雰囲気は俺にも伝わっていた。俺は立華の手を取ると、その手を引いて、一緒に駆け出していた。彼女は俺に引かれるように、付いてきてくれた。彼女のかぶっていた麦わら帽子を後に残して。

 

 

 「本当に彼女を連れていっても大丈夫なの?」

 一人待っていてくれたらしい沙耶が、立華を連れた俺を見て、無粋にそう言った。

 「いいじゃないか。 立華には色々と世話になってるし、それにこの機会に、みんなとも仲良く出来たらいいなと思うし」

 「まぁ、あたしは構わないけど……」

 そう言いながら、沙耶はチラリと、立華の手を握る俺の手を一瞥した。そして、「ふーん…」と漏らすと、沙耶はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 「好きにすれば? みんなの所に連れていったら、きっとさぞ驚かれるでしょうね」

 「だろうな。 それでも、俺は……」

 「はいはい、わかったわよ。 あなたが決めたことなんだし、あたしはとやかく言わないわ」

 「さんきゅーな、沙耶」

 俺が素直に礼を言うと、沙耶は一瞬にして顔を赤くし、慌てて返した。

 「べ、別にお礼を言われるようなことはしてないわよ…ッ! それにあたしだって……」

 その時、沙耶の表情がシリアスなものへと変わる。

 「あたしだって、立華さんには色々と助けられたし……」

 立華に向けた沙耶の表情が、申し訳ないような、そんな感じの色に変わった。

 「あの時はごめんね、立華さん。 そして、本当にありがとう……」

 「ううん…」

 あの時、とは沙耶が成仏しそうになった時の事だろう。その時あそこにいたのは俺や直井だけでなく、沙耶の身の危険を察知してくれた立華もいた。立華も、沙耶のために戦ってくれた事実は変わらない。そして、戦い、傷を負ったことも―――

 「……身体、大丈夫?」

 既にあの日から時はそれなりに経っているし、この世界においては傷の完治も造作ではない。だが、それでも沙耶は世界の理とは関係なく問いかけずにはいられなかった。その心情を察しているはずの立華も優しく、コクリと頷いた。

 「気にしないで…」

 そう言って、立華は首を傾げて微かに微笑んだ。

 すっかり、俺たち三人には慣れ親しむような、親近感のようなものが生まれていたと思う。少なくとも、立華は以前のような敵では決してなかった。

 「それじゃあ、あたしは先に行ってるわね」

 「え、何でだよ? 一緒に行かないのか?」

 「いいから、あんたはしっかりと立華さんを責任持って連れてきなさい!」

 それを言い残すと、沙耶はあっという間にその場から風のように立ち去り、先に行ってしまった。俺は沙耶の意図がよくわからなかったが、とりあえず今、手を握っている立華の手を取って、俺は立華を連れてみんなのもとへ向かおうとした。

 そして、そこでハッと気付いた。俺が未だに立華の手を握っていることを。

 「あ、わ、悪ぃ…ッ!」

 思わず、つい強く離してしまった。立華はそんな俺を少し不思議そうな瞳で見詰めていたが、「うん…」と言うと、そっと俺が取っていた手を下ろした。

 何故こんなにも胸がドキドキしているのか、という自身に対する疑問を抱きながら、俺は熱くなった顔を必死に冷やそうとした。

 「と、とりあえず行くか……」

 「うん…」

 俺は歩き始めた。そして、その隣に続くように立華も歩き始める。

 俺は足幅の小さい立華の歩調に合わせるように歩を刻んだ。

 まだ胸が治まらない。

 俺は再び、さっきの花に囲まれた麦わら帽子をかぶった立華の姿を思い浮かべていた。

 あの時感じた高揚感、そしてそれが今、同じであってもより強く感じられる。

 この気持ちは一体何なのだろうか。

 今の俺には、沙耶が何故俺と立華を二人残して先に行ったのか、そして自分のその気持ちが、はっきりとはわかっていなかった。

 

 

 案の定、俺が立華を連れてくると、みんなが予想通りの反応を見せた。

 俺と立華が二人並ぶ前で、仁王立ちするゆりの背後に隠れるようにみんなが集まり、そして遠ざかっている。今まで敵対し続けてきた天使がいきなり目の前に現れたのだから、警戒するのも仕方がないかもしれない。だが、俺は伝えたかった。彼女はもう敵ではないことを。

 「お前、なんて奴を連れてきてるんだよ…ッ!」

 「いいじゃないか。 混ぜてやろうぜ」

 俺は思わず愛想笑いを浮かべて言っても、やはりみんなは納得しないようだった。

 「我らが戦線の宿敵だぞッ!?」

 「アホですねッ☆」

 「浅はかなり」

 みんな各々で好き勝手なことを言ってくる。

 だが、俺も負けてはいられない。

 「聞いてくれ! もう無害だッ! 敵じゃない!」

 「だがながりなりにも元生徒会長だぞッ!?」

 「ちなみに、現生徒会長代理もいますが」

 「その通りです。 が、その前に僕は神です」

 「神じゃねえつってんだろッ!」

 やっぱりみんな、中々快く受け入れてくれない。

 「どうする、ゆりっぺ?」

 「……………」

 日向がゆりに聞きかける。ゆりは俺たちの方を真剣な眼差しでジッと見詰めている。

 「ゆりっぺさん、彼女はもう生徒会長じゃないんだから、別にいいじゃない?」

 俺以外の同意の声があのメンバーの中からあがった。その声の主は、勿論、沙耶だった。

 ゆりは沙耶の言葉をただ黙って聞いていた。

 そして一拍考えるような仕草を見せると、「そうね」とあっさりと漏らしていた。

 「確かにもう生徒会長じゃないから、いいかもしれないわね」

 「「「えええッッ!?」」」

 ゆりの意外な発言に、みんなも動揺を隠し切れないようだった。

 「何か凄いメンバーになりつつあるなぁ」

 日向は苦笑気味に、最もらしい事を言っていた。

 リーダーの了承があれば安心だ。俺はさっきから無表情で事の成り行きを見守っていた立華の横で一人ほっと胸を撫で下ろしていると、向こうにいる沙耶からウインクが俺の方に投げ込まれてきた。

 俺は心の中で、我が心強いパートナーに、ありがとう、という感謝の意思を伝えるのだった。



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EPISODE.40 First Name

結局、ゆりの承諾もあって立華を無事メンバーに入れて、俺たちは目的地である川に辿り着いた。

 「そういえば、みんな手ぶらじゃないか?」

 俺はふと沸いた疑問を口にした。今更ではあるが、俺たちは川釣りに来たんだ。だが、釣り道具がないと川釣りはできない。その疑問に対して、「既にギルドにも連絡が行ってるから大丈夫なはずさ」と日向の答えが返ってくる。

 「何故、ギルドなんだ?」

 「そういうマニアもあそこにはいるってことさ」

 「マニア?」

 「あれだよ」

 俺は、日向が指をさす方向に目を配った。そこには、岩の上に座って釣りをしている男がいた。

 しかもその男は俺たちが見ている前で、いきなり大物の魚を豪快に釣り上げていた。

 「「「おおおおッ!」」」

 周りからみんなの歓声と拍手が沸き起こる。

 「…彼は?」

 「斉藤って奴だ。 銃にも詳しいが、ギルドでは『フィッシュ斉藤』と呼ばれる釣りマニアでねぇ」

 ギルドにも色々な奴がいるんだなと思った。

 「ふ」

 クールな微笑を浮かべながら、斉藤は俺たちを歓迎(?)した。

 「このオペレーションの時だけは、大量の釣り道具をギルドから荷車で積んできて地上に上がってくる」

 「あの距離をかっ!?」

 実際に地上から地下のギルドに向かって潜り抜いた経験を持っているからこそわかる。だからこそ、彼がどれだけ凄い男なのかも、同時に知らしめられることになった。

 ていうか―――

 「どんだけ釣り好きなんだよ……」

 「要はアホですねっ!」

 日向の隣で、ユイが楽しそうにそんな事を言っていた。

 「ようし、では始めるか!」

 「「「おおおーッ!」」」

 こうして、俺たちの川釣りは始まったのである。

 

 

 みんなそれぞれの道具を持って釣りを始めている。中でもゆりたちが良い仕事をしている。ゆりは次々と魚を釣りあて、その度に感嘆させられる。野田もハルバートで地味に川の真ん中で魚を串刺しては、一応収穫してくる。椎名はある意味凄いが、あえて触れておかないことにしよう。

 「俺もやるか……」

 斉藤から借りてきた釣り道具を揃えて置くと、そばに沙耶が川をジッと真面目に見詰めている姿を見つけて、思わず声をかけていた。

 「何してるんだ、沙耶。 釣りしないのか?」

 「するわよ。 ただ……」

 「ただ?」

 「川の主がどの辺りにいるのかって思ってね……」

 「やる気満々だな」

 主など居るとは思えないほど静かに水面が流れる川を見据えながら、沙耶が不敵に笑った。その手には釣り竿ではなく銃が握られていた。

 「一応言っておくが、普通に釣れよ……」

 「わかってるわよ」

 本当か?と思った俺だったが、沙耶は銃を懐に戻すと、そばに置いてあった自分の釣り竿を手に持った。釣り竿を持った瞬間、何を思いついたのか、沙耶が良い事を思いついた!と言わんばかりに口を開いた。

 「そうだわ音無くん! 勝負しない?」

 「勝負?」

 「どっちが多く魚を獲れるか。 そして大きな魚ほど、高いポイントが付くのよ。 だから大きな魚を多く釣り上げるほど、ポイントは上がるわ。 合計得点で負けた方が罰ゲームね」

 「なんだそりゃ……」

 俺が呆れていると、沙耶は無邪気な笑顔を浮かべながら一方的に捲し立てる。

 「それじゃ勝負開始ね。 ゲームスタート!」

 「ええッ!? ちょっと待てよ…ッ!」

 沙耶は俺の意思もお構いなしに勝負の開始を宣言すると、釣り竿を思い切り川の方に振り投げた。

 どうやらやるしかないらしい、と俺は溜息を吐くと、用意された釣り道具を持って仕方なく沙耶の勝負に付き合おうとすると―――

 

 俺はその時、近くにいた立華の存在に目を向けた。立華はその場に立ち尽くし、ジッと水面が流れる川を見詰めていた。その何とも言えない横顔を見て、俺は立華と二人で閉じ込められた時の記憶を思い出した。

 

 ―――この世界で俺は、お前の味方でいたかもな―――

 ―――そんな人はいなかったわ―――

 ―――いてもいいじゃないか―――

 

 ―――いないわ。 いたとしても、みんな消えちゃうもの―――

 

 

 これまで、立華はどれだけ寂しい思いをしてきたのだろう。

 それに俺なんかがわかるはずもない。だが、だからといって何もしないというわけにはいかない。俺は、立華に何かをしてやりたかった。何かを、伝えたかった―――

 「立華」

 俺の呼びかけに、立華は振り返った。

 俺は、その無表情な表情を浮かべる彼女に、伝えたいことを口にして、彼女にはっきりと言った。

 「俺たちは消えない。 だから、仲良くしてもいいんだよ」

 そして、俺は手に持っていた釣り竿を立華に手渡す。

 「ほら、みんなと一緒に釣りしよう」

 立華は俺の顔を、そして釣り竿を見詰めると、静かにそれを受け取った。

 そしてそれを川に思い切り投げ入れるために、後ろに向かって振り上げる。

 「ヒハハハハハハ!?」

 魚を釣る前に、日向が釣れた。

 「ここから先はどうするの…?」

 「違う違う」

 とりあえず日向を解放して、俺は立華に釣りの知識を最低限でも教えることにした。どうやら、立華はあまり釣りに関しては知識や経験もないようだ。俺は一式の釣り道具を並べると、一つ一つを立華にわかりやすいように説明する。説明を終えると、早速釣りの準備を始めた。

 「まずはルアーか。 餌を針の先に付けるんだ」

 「さっきの日向くんみたいに……?」

 「あーいや……あれは餌というよりは、釣れた魚そのものだったな……って、そうじゃない!」

 俺まである意味つられそうになったが、何とか立華の釣り竿の針に餌を取り付ける工程を始めることにした。餌を針の先に付けると、立華は針の先でニョロニョロと動くグロテスクな餌をジッと見据えていた。

 「お前、虫平気なんだな……」

 「次は…?」

 俺は立華に応えるように、そして次の行動を教えるために、ジェストチャーをして見せながら言う。

 「川に向かって、竿を思い切り振ってみろッ!」

 立華は俺に言われたままのことを実行する。

 後ろに力強く、片方の足を踏みしめると、その小さな身体で思い切り後ろの方に竿を振り上げた。

 そして、川に向かって思い切り振った―――!

 

 しかし、その先は川ではなく天空へ向かっていった。しかもその針の先には―――

 

 「うわああああああああ………ッッ!!!」

 

 悲鳴と共に竹山が一人、空に向かって吹っ飛んでいく光景が見えた。

 「竹山ぁぁぁぁぁッッ!?」

 「クライストとぉぉぉぉ……!?」

 そして、尚も呼び名の訂正を求める声を発しながらも、竹山は星となって消えるのだった。

 俺が竹山が消え去った空を呆然と見詰めていると―――

 「音無くん、竹山くんのポイントは-5点よ」

 「今のポイントになるのかッ!? ていうかひでえッ!!」

 沙耶の発言に対して色々と突っ込み所満載で少し混乱してしまったが、兎も角、俺は立華の方に関心を戻すことにした。

 「つかお前、物凄い怪力だな……」

 こんな華奢な細腕に、あんな力があるとは思えなかった。

 「オーバードライブはパッシブだから……」

 「パッシブ?」

 立華が放った単語がよくわからない俺だったが、「もしかしたら……」と言う後ろから掛けられた男の声に振り返る。

 「もしかしたら、あんたならいけるかもしれないな」

 そこには、フィッシュ斉藤と呼ばれる男が立っていた。

 「? 何がだ?」

 「主を釣り上げるってことよ。 そいつは、オペレーションネーム通りの化け物なのさ」

 「……?」

 俺が彼の言っていることに首を傾げていると、不意に立華からぽんぽんと肩を叩かれた。

 「……何か引いてる」

 「え…?」

 俺が視線を向けると、確かに立華の竿がぐいぐいと川に引かれているようだった。

 そしてその竿が、ねじ曲がるように形を変え、かなり強い力で川から引っ張られ始めた。

 それを見た斉藤の目が光る。

 今まで太陽の光に反射し、爽やかに流れていた水面も、以前と打って変わってみるみるうちに雰囲気を変貌させていった。どす黒い空気が辺りを包み込み、川の中心、立華の釣り竿の先で、不気味な渦が巻き起こった。

 「モ、モンスターストリーム……ッ!」

 「こ、これが…ッ!?」

 「本来モンスターストリームは主の怒りの証…ッ! これが起きたら即全員離脱! だが―――」

 言いかけて、斉藤の目が立華に向けられる。

 「その娘なら、もしや…ッ!」

 立華は竹山をも吹っ飛ばした怪力で何とか釣り上げようとするも、やはりこのままでは無理があった。立華の足がずるずると川の方に引き寄せられていく。逆に釣り上げようとしている立華を、川の主が引き寄せようとしているかのようだった。

 だが、それでも立華は釣り竿を離そうとしない。俺はその光景を見かねて、立華へ加勢に入る。

 「マジでやんのかよ……ッ!」

 立華の身体を抱くようにして、一緒に釣り竿を引き上げようとする。だが、俺の力が加わってもビクともしない。釣り竿は一向に川に向かって引っ張られるばかりだった。

 「どんだけデカいんだよ…ッ! 竿が折れるぞッ!」

 「オイラの腕を侮ってもらっちゃ困る!」

 そう言って、斉藤も加勢に入る。

 「主にも耐えられる特製だぁッ!」

 「だとしてもこれじゃあ絶対無理だぁ…ッ!!」

 確かに竿は普通ではなかった。これだけ強大な力に引っ張られても全く折れる気配がしない。だが、逆に釣り上げることは叶わない。

 「音無くん…!」

 「沙耶……お前も加勢してくれ…ッ!」

 「わかったわ!」

 「何だよ、主をやるつもりか? 正気じゃねえな…ッ!」

 やがて沙耶と日向をはじめ、他のみんなも加勢に入ってくれる。あっという間に、ほとんどのメンバーが前にいる者を引っ張って、列となって懸命に川に引きこまれようとする力に抗うように引っ張り続ける。

 俺たちは一丸となって、主を釣り上げようとする。巨大な力が俺たちを取り込もうとするが、俺たちは力を合わせて対抗した。やがて俺たちの懸命な努力の甲斐あって、向こうに一瞬の隙が生じた。

 「―――今だッ!」

 その隙を見極めた斉藤が咄嗟に叫ぶ。その声に応えるように、立華が足で地を蹴り、俺たちごと跳躍した。

 「「「うおおおおおおッッッ!!?」」」

 その勢いに乗るように、遂に川の主が正体を現した。

 想像を遥かに超える巨大な魚が、空中でその身を翻した。

 「釣り上げやがった…ッ!」

 「俺たちごとかよッ!?」

 「どっちがモンスターだよ……ッ!」

 「何この状況ッ!?」

 「まずいですね…!」

 同じく空中に投げ飛ばされた俺たち。そして、そんな俺たちに向かって主がその洞窟のような巨大な口を開いた。

 「このまま落ちたら食われるぞッ!」

 「Crazy for you!」

 「神は落ちない…!」

 とは言うも、空中に投げ出されてしまっては、落ちるのは避けられない。しかも、俺たちが落ちる先には胃袋という名の地獄しかない闇の洞窟があった。

 「(く…ッ! こうなったらイチかバチか……)」

 落下する俺の視界に、先に落ちていく沙耶の姿が映った。沙耶は懐から手榴弾を手に持とうとしていた。まさかあの主の口の中に投げ込む気か……!?

 ちょっと待て。それが出来たとしても、その先に落ちる俺たちの身の安全は―――

 「待てッ! 沙―――」

 「……助けなきゃ」

 「え……?」

 微かな声を聞いた直後、落下する俺の横を一直線に、何かが通り過ぎた。

 「立……華……?」

 それは、刃を手に宿した彼女の姿だった。

 彼女は自ら一番に主のもとへと特攻すると―――

 「―――!!」

 立華は―――主に食われることはなく、地上に着地した。

 そしてほぼ同時に、主の身体が切り刻まれて、大きな肉塊と化した―――

 

 

 「なあ……これあったら、しばらくトルネードしなくていいんじゃね?」

 「え…!? 毎日これ食べるの?」

 「いや、それ以前にどうやって保存するんだよ」

 「うーん、棄てるのも何だしな……」

 難を逃れた俺たちの前には、主の切り刻まれた肉が山積みされていた。一目見渡すと、本当に山のようなご馳走だ。保存が出来ればの話だが、相当長い間持ちこたえられる食糧になり得るだろう。

 だが、これほどまでになっては残せる方法はない。手っ取り早く食ってしまうのが得策だ。

 「何なら、みんなで分ければいいんじゃない?」

 沙耶の提案に、俺も頷いた。

 「そうだな。 一気に料理して、一般生徒にも分け与えるか」

 こうして、俺たちは立華のおかげで手に入れることができた食糧の山を、どうにか手分けして学園まで持ち運ぶことにしたのだった。

 

 学園に持ち寄った食糧は、戦線メンバーでいっぺんに料理をすることになった。やがてグラウンドには呼んでおいた一般生徒たちが押し寄せ、多くの人たちに料理を分け与えていた。

 これでは戦線ではなく何かの奉仕団体だ。誰かがそう言ったのを、俺は密かに同意していた。

 「こうして多くの人に振る舞うのもいいわね。 自分のお腹も、そして他のより多くの人たちのお腹も膨れて、まるでラッキースパイラルね」

 「……そうだな。 そういえば沙耶、結局お前が言ってた勝負の件はどうなったんだ?」

 「ああ、あれ? あんなの無効に決まって……いいえ、みんな、というよりは……立華さんが釣り上げたから、立華さんの一人勝ちかな?」

 「……私も参加していたの?」

 「ああいや、立華は別に気にしなくていいぞ」

 俺は苦笑して、首を傾げる立華に返した。立華は「そう…」と呟くと、手を動かす作業に戻った。

 「(でもまさか……こんな時間が来るとは思わなかった……)」

 俺は、隣で料理を手伝う立華の横顔を見詰めながら、そう思った。

 そして、俺はこんなことを立華に言っていた。

 「なあ、立華。 今度から下の名前で呼んでいいか?」

 俺の言葉に、立華ではなく沙耶が「ぶっ!」と吹き出す反応を見せていた。俺はジトリと沙耶の方を一瞥する。吹き出した沙耶は俺の視線に気付くと、嫌な笑みを浮かべ始めた。

 「……どうして?」

 ニヤニヤしている沙耶の顔から視線を離した俺に、立華が問いかけてくる。

 俺ははっきりと答えた。

 「親しくなったからだよ」

 「なった…?」

 「なったじゃないか。 一緒に釣りして、一緒に料理して、それに……最初から思ってたんだよ」

 俺は隣に沙耶がいることも忘れたように、一拍置いて、次の言葉を正直に告げていた。

 「―――綺麗な名前だな、って」

 隣で沙耶が「きゃ~」と俺の方を思い切り見てたのは無視しておこう。

 「好きだよ、お前の名前……」

 立華の手が、いつから止まっていたのかは、俺は知らない。

 「奏(かなで)って、“音を奏でる”って意味だろ?」

 「あなたがそうしたければ、どうぞお好きに……」

 彼女は承諾してくれたと解釈して、俺も自分の名前を教える。

 「俺の名前は、弦を結ぶと書いて結弦(ゆづる)。 そう呼んでくれていい」

 「…うん」

 立華も頷いてくれた。俺たちはこれで、下の名前を呼び合うほど親しくなったと考えて良いのかもしれない。

 「じゃあ、奏。 聞いてほしい頼みがあるんだ」

 「何……?」

 「これからも、みんなと一緒にいてくれ」

 「……どうして?」

 「もう誰とも、戦ってほしくないから……みんなと楽しく過ごせてほしいから」

 これは嘘のない、俺の正直な思いだ。

 「それに、その……」

 そして、もっと嘘ではない思いを、俺は紡いだ。

 「俺もお前と一緒にいたいからな」

 立華と一緒にいたい。その思いが、俺の胸の内には、確かにあった。

 いつもずっと孤独だっただろう少女。そんな彼女を孤独から救ってやりたい。世界のふざけたシステムに縛られた一人の女の子を、他のみんなと同じように楽しく過ごさせてやりたい。そして、俺自身が、彼女と過ごしていきたい。

 そんな様々な俺の想いが、その一つの言葉に詰まっていた。そんな俺の想いが届いたのかはわからない。だが、立華―――奏は、はっきりと返してくれた。

 「そう……あなたがそう言うのなら、そうする……」

 立華は、了承してくれた。

 俺は、もう孤独じゃない彼女の横顔を、微笑むように見詰めた。

 やっぱり俺は、こいつと過ごしていきたい。

 「それじゃ、約束な……」

 俺は今の事を絶対に忘れない。今までの事も、そしてこれからの事も。

 彼女は、またはっきりと―――

 「うん…」

 と、答えてくれた。

 

 

 日が落ちて、世界にはすっかり闇が降りていた。

 俺たちは後片付けを済ませている真っ最中だった。

 「音無くん」

 「何だ、沙耶」

 生徒たちが食べ尽くした食器を集めていると、不意に沙耶が声をかけてきた。

 「何だよ……」

 沙耶はにんまりと笑みを浮かべたまま何も言わない。

 「あなた、やるじゃないのよ。 すぐ隣にあたしがいるっていうのに、二人ともおかまない無しなんだから~」

 そう言って、沙耶はからかうように肘を俺に突っついてくる。

 「お前……」

 「?」

 俺のすぐそばで一緒に片付けを手伝ってくれている奏が、首を傾げていた。

 「でも見直したわ、あなたのこと」

 「沙耶、お前な……」

 「何も言わなくていいわ、あたしはわかってるから」

 何をわかっているのか知らないが、沙耶はニコニコとした笑顔で俺と奏の両方を見比べている。

 「あーあ、あたしにもいたのにな、そういう存在(ひと)……」

 一瞬、寂しげな表情を過ぎらせた沙耶が、ボソリと何かを呟いていた。

 だが、それが俺の気のせいだったのかと思うくらい、沙耶は満面な笑顔を瞬時に浮かべた。

 「まっ! 頑張りなさいよ!」

 沙耶は俺の背中を思い切りバンッ!と叩くと、「あたしはお邪魔みたいだから行くわね!」と言い残しながら一目散に駆け出していった。

 「……彼女、どうしたの?」

 「俺が知りたい……」

 変な気遣いをされたらしいが、パートナーと言えど、お節介と言うか何と言うか。

 深く考えると、顔が熱くなってくる。

 「どうしたの、結弦? 顔が赤いわよ……」

 「な、何でも無い…! それより皿、流しに持っていこうぜ!」

 「うん…そうね……」

 俺は誤魔化すように、集めた皿を手に持って奏と一緒に流し台へと向かうのだった。

 流し台に辿り着くと、野田や藤巻たちが何か話をしていた。

 「そういえばゆりっぺは?」

 「言われてみれば見かけてねえな」

 「どうせどっかで高見の見物だろ? こんな奉仕活動みたいな事に参加するたまかよ。 つかテメェも手伝えッ!」

 話を聞いていて思ったが、確かにさっきからゆりの姿を見かけていなかった。

 どこに行ったんだろうな―――と思っていた矢先、何かが倒れる音を聞いた。

 その先には、ゆりが倒れていた。

 「ゆりっぺ…ッ?!」

 一斉に倒れたゆりの周りに駆け寄る俺たち。抱き起こすと、ゆりの身体はボロボロだった。

 誰かにやられたのか……!?

 「ゆりっぺ! 誰にやられたッ?!」

 野田が血相を変えて、ハルバートを握り締めて吠える。

 ゆりは声を振り絞るように、俺の耳を疑うような返答を洩らした。

 「天使……ッ」

 「天使ッ!?」

 天使と呼ばれる存在を、俺は一人しか知らない。

 皿を持ったまま俺たちの方を見据えていた奏の方に咄嗟に振り返るが、奏がゆりを傷つけたとは到底思えなかった。

 何故なら、奏は―――

 「待てよ…! 奏は俺とずっといたぞ…!?」

 だが、ゆりは言葉で返す代わりに、キッとある方向へと睨みを飛ばしていた。

 ゆりが睨みを据える方向に誰もが視線を向けると、そこには信じられない人物が立っていた。

 青白い月に、くっきりと浮かぶ人影。

 そこには―――奏が、いた。

 しかしそれは“奏”ではなかった。

 正に、俺の口から漏らしたそのものだった。

 「天…使……ッ」

 天使。

 月面に浮かぶ一人の少女。驚きを隠せない俺たちを、不気味に光る冷酷な瞳で見下ろしているそいつは、確かに奏ではないが、奏に似ている一人の少女であった。



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EPISODE.41 Another Angel

 青白い月にくっきりと浮かぶ人影。それは俺たちを悠然と見下ろしていた。

 月を覆っていた雲が晴れ、月明かりがその人影を照らし、姿を見せる。そこには見覚えのある少女がいた。

 驚きの色に染まる俺たちの遥か上の先で、彼女は長髪を風に靡かせる。そして虚空に身をふっと投げ出すと、彼女は一直線に俺たちの目の前まで落ちてきた。

 地面に足がくっ付いたかのように着地し、彼女は俺たちの前で立ち上がる。

 「みんなで夜遊び……? なら、お仕置きね……」

 血のように赤い瞳が、俺たちを眼前に捉えた。俺たちを捉えた瞳を細め、彼女は言った。

 俺たちは一様に驚きを隠し切れない。この状況が理解し難いからだ。

 何故なら、同じ奴が二人もいるという状況が突然目の前に現れたら、誰もが即座に行動できないだろう。

 だが、目の前にいるのは間違いなく―――

 「奏……」

 動けない俺たちに対して、“その”奏は右手を掲げる素振りを見せると、ハンドソニックの刃を出現させた。そして微かに笑みを含めるように目を細めると、ロケットのような速さで俺たちの方に向かってきた。

 「な…ッ!?」

 それに対抗して、俺のそばからゆりが駆け出していた。ゆりは短刀を手に持つと、突撃してきた奏と激突。お互いに刃を交え始めた。

 「ねえ、これってどういうことッ!? 天使はもう無害じゃなかったの……ッ?!」

 大山が狼狽しながら誰に向けるわけでもなく、疑問を投げ散らす。

 だが、俺は立ち尽くしているもう一人の奏、さっきからずっと俺たちと一緒にいた奏の方を見て、心の中で叫ぶ。

 「(違う…! あいつは奏じゃない……ッ!)」

 ゆりと刃を交え、戦う奏を見詰めながら、俺は今までの奏を思い返す。

 「(奏は無抵抗な俺たちには、刃を向けたりはしなかった……!)」

 突然現れた奏は、いきなり俺たちに攻撃を仕掛けてきた。こんなに好戦的な奏を、俺は見たことがない。

 「ああああああ……ッッ!!」

 「…ッ!」

 奏の攻撃がゆりに襲いかかる。ゆりはその早すぎる攻撃を防ぎきれず、悲鳴を上げる。

 どうすればいいか、そんな切迫した雰囲気が周りを支配していた。

 その中で、俺はぐっと拳を握り締める。

 その時―――

 「総員、目標を背円に取り囲めッ!」

 「沙耶…ッ!?」

 突然、沙耶が声をあげながら駆け寄ってきた。俺のそばまで駆け寄った沙耶は、既にその手に銃を握り締め、銃口を二人目の奏の方に向けている。俺の呆然とした視線に気が付くと、沙耶は即座に一喝した。

 「もたもたするなッ! 全員で取り囲んで一斉射撃を行えば、ディストーションで曲げられようが何発かは当たるわッ!」

 「あ、ああ…ッ!」

 沙耶の一喝に、みんなが、そして野田でさえ慌てて沙耶の指示に従って動き始める。俺も懐から沙耶と同じタイプの銃を取り出し、構えた。

 「離れろ、ゆりッ!」

 「……ッ!」

 俺の呼びかけに応じて、ゆりが奏の攻撃から後ろに下がって離れる。そして俺たちの方に退避すると、そのタイミングを読んだ沙耶が瞬時に号令を発する。

 「撃ち方始めッ!」

 「撃てぇッ!」

 沙耶の号令を聞いて、俺も全員に聞こえるような大声で伝える。次の瞬間、次々と引き金が引かれ、無数の銃弾が奏に襲いかかった。

 周囲から火の球が奏に迫るが、ディストーションによって全て弾かれる。奏の身体に到達する寸前に火花が無数に散り、銃弾があらぬ方向へと飛び去った。

 「……………」

 銃撃の雨が止んでも、奏は悠然とその場に立っている。

 「くそ…ッ!」

 そう吐き捨てた俺の横からは、沙耶の舌打ちが聞こえた。

 その瞬間、何かが俺たちの前に飛び出した。

 それは、ハンドソニックを右手に宿した、俺たちの側にいた奏だった。

 「奏ッ!?」

 そして、俺たちの目の前で、奏は真正面から二人目の奏と刺し違える。

 ほとんど同時だった。だが、僅かに相手の方が早かった。

 相手の刃が、奏の胸を、心臓を突き刺していた。

 「奏ぇぇぇぇぇぇぇ………ッッ!!」

 その光景を見て、俺は叫んでいた。

 心臓を突き刺された奏は、その場に倒れた。

 「…………ッ」

 相手の奏はまだ立っていた。だが、その胸はじわじわと赤黒い血で染まりつつあった。奏の刃が届いたことを意味していた。しかし、僅かに刃を突き刺す速さが奏より早かったため、彼女の胸には穴が開いただけで、致命傷には成り得なかった。

 ふらりと足元を揺らしたもう一人の奏は、俺たちをその鋭い瞳で一瞥すると、まるで鳥のように飛び去ってしまった。空高く跳躍した彼女は、そのまま遠くへと風のようにいなくなってしまった。

 二人目の奏がいなくなると、俺は即座に倒れた奏の方に駆け寄っていた。

 「奏ッ! しっかりしろ、奏…ッ!」

 倒れた奏を抱き起こすと、奏の血に溢れた胸元が俺の目に飛び込んできた。奏の胸は血で黒く染まり、穴から大量に血が溢れていた。小さなその口からも、一筋の血が零れていた。

 閉じられた瞼は開くことなく、俺が必死に呼びかけても、奏はぴくりとも反応を見せなかった。

 目を開かない奏を抱き起こす俺の周りに、戦線のメンバーが集まる。日向に支えられた傷だらけのゆりが、険しい表情で俺たちの方を見据えると、ゆっくりと口を開いた。

 「すぐに彼女を保健室に運びましょう……ここは一旦、みんなでこの場を立ち去りましょう」

 ゆりの提案に、みんなも賛同する。

 「お前も傷の手当てをしないとな、ゆり」

 ゆりに肩を貸していた日向が、付け加えた。

 「……そうね」

 それに応えるように、ゆりは微笑を混ぜながら呟いていた。

 そして俺たちは、奏とゆりを連れて、保健室へと足を運ぶのだった。

 

 

 ―――医局、保健室。

 奏とゆりを保健室に運んで翌朝になり、俺たちはとりあえずメンバーを集めて保健室に固まることになった。一般生徒が立ち入らないように『閉鎖中』ということにし、万が一のためにTKと椎名が門前で見張りに立っていた。

 もう一人の奏は致命傷には至っていないと言うものの、深い傷を負っていることには変わらない。さすがに当分の間は襲ってこないだろう。……と、思う。

 「奏は、大丈夫なのか……? かなり、深い傷だろ……」

 俺は倒れた直後の奏を抱き起こして、この目で直接奏の胸の傷を見た。今までに見たことがないほどの血が大量に溢れていた。人は血を大量に失っては生きていけない。生きている人間だったら、完璧に大量失血で死んでいる。

 「あたしたちと同じよ」

 包帯を自分で巻きながら、ゆりが答える。

 ベッドで眠っている奏の方を見て、冷静に言葉を並べた。

 「致命傷でも時期治るわ。 ここはそういう世界だから」

 奏は確かに眠っていた。死んでいるのではなく、ただ眠っている。既に出血は収まり、ベッドに身を沈めているだけのようにも見えた。

 「ていうか同じ奴が二人ってどういうことだよ。 そんなわけわかんねえ世界になっちまったのか?」

 みんなが抱いていた疑問を、日向が代弁する。

 「理由はあるわ」

 間髪入れないゆりの返答に、眉を顰めた沙耶が尋ねる。

 「どういうこと?」

 「天使エリアへの侵入ミッション。 覚えてる?」

 「ええ……」

 「彼女のマシーン(パソコン)にスキルを開発するソフトがあった。 その中に、見たことがない能力が幾つかあった」

 俺はあの時の情景を思い出す。奏の部屋に忍び込んだあの日、俺はゆりたちが解読した奏のパソコンの画面を見た。そこには、奏が持つ能力の様々な情報が記されていた。

 「その一つ、ハーモニクスというスキルが発動していたのよ」

 「ハーモニクス? どんな能力なんだ」

 「画面見てなかったの、音無くん? 一体が二つに分かれるスキルだったわ」

 「要は……分身、ってわけね」

 沙耶が真剣に満ちた表情で呟いた。

 「つまりはそれも天使自身が開発したスキルの一つ、というわけですか……」

 眼鏡のブリッジを持ち上げながら、高松が言う。

 「しかしそっくりそのままじゃないって感じだったぜ」

 「こいつと違って好戦的だ。 何故だ?」

 藤巻、日向が高松に続く。

 「奏は自分を守るための能力しか使わない……ッ! 刃に至っては、跳弾するためのものだッ!」

 俺は奏の代わりに弁明する。奏は決して、俺たちを痛めつけようとしてあんな武器を作ったわけじゃない。全ては自分の身を守るためだ。それを、俺は理解しているつもりだ。

 俺たちが言い合う中、不意に誰かが蔑むような口調で呟いた。

 「……全く、無能な集団だな。 貴様らは」

 直井だった。

 周りの注目が直井に集中する。直井は帽子の鍔の影から俺たちの方を、目を細めて見詰めていた。

 「あ、勿論音無さんは別ですが」

 「基本アホな集団ですからっ」

 「お前が言うな」

 ユイの言葉に、日向が瞬時にツッコミを入れる。

 「可能性を一つ教えてやろう。 その分身を発生させた理由が、強い攻撃の意思を持っていた時だったとしたら……」

 直井が眠っている奏の方に指を指し、一つの可能性を俺たちに教える。

 考え始めた俺たちの中で、すぐに答えを見つけたのは沙耶だった。

 「……あの時ね」

 「あの時ってなんだ?」

 「あたしたちが川の主に食われそうになった時よ」

 「そういえば……奏が倒したんだよな、あの魚」

 俺は思い出す。あの時、奏は一人で魚の口の中へと落ちようとする俺たちを救ってくれた。

 確かにその可能性を考えると、あの時であることは十分あり得る。

 だけど……俺は……

 「なるほど……その時の本体の命令が今でも従い続けているってことか」

 日向が納得するように頷く。

 俺は、ぐっとその思いを口にする。

 「……でも、奏が強い攻撃の意思を持つことなんてない!」

 奏はそんな奴じゃない。あいつと言葉を交わして、遊んで、接して、わかったことがある。奏は俺たちみたいに自ら戦おうとするような奴ではない。花畑で蝶を逃がしていた奏が、好戦的な意思を持っているわけがない。

 「どうでもいいけど、あなたヤケにこの娘を庇うのね」

 ゆりの唐突に出た言葉に、俺は一瞬動揺する。そしてみんなの視線が俺のもとに集中した。

 俺の横で、沙耶が微かに笑った気がする。

 俺はゆりを真っ直ぐ見れず、変に戸惑うように言葉を振り絞る。

 「そりゃあ……可哀想だろ?」

 「ふぅん……まぁ、いいけど」

 ゆりはただそれだけを言って、深く追求をすることはしなかった。

 「で、今の問題は何だっけ?」

 大山の疑問に、野田が続く。

 「天使の分身と戦う方法か?」

 「馬鹿か。 消す方法だ」

 「なんだとぉ……!」

 直井の言葉に、野田が挑発と受け止めて反応する。だが、そんな野田を即座に隣にいた松下五段が抑えた。

 「しかし…! その娘が意図的に出したのなら……」

 「ええい、放せ……ッ!」

 暴れる野田をその巨躯の体格で抑えながら、松下は続ける。

 「意図的に消すことだって出来るはずだろう…ッ! 目覚めるのを待っているだけで良いのではないか?」

 「待て。 意図的に消すことが出来ていたら、こうしてやられているか?」

 日向の言うことも最もだった。

 だが、実際はこうして奏は刺し違えなければいけなかったほど、事態は切迫していた。

 「おそらく無意識での出現ね。 だから彼女には消せなかった」

 「おいおいちょっと待てよッ?! あんなのが消えないとしたら……あんなのが居続ける世界になっちまうってことかよッ!」

 ゆりの言葉に、藤巻が慌てて声をあげる。

 「今は何とか無事で済むだろうけど、明日からは許されないでしょうね。 模範的な行動から外れたら、すぐに昨日のような血生臭い戦闘になる」

 「生徒会長でもないのに?」

 「大山の言う通り、何で生徒会長じゃない奏が俺たちを取り締まろうとするんだ」

 「ええ、あたしたちを更生させようとする意思は立派に継承されている」

 「……更に好戦的」

 ゆりの言葉に、沙耶がボソリと付け加える。

 「最悪だな……」

 続けて、日向が額に手を当てて溜息混じりに洩らした。

 「対抗しようにも時間が無さ過ぎるわ」

 「沙耶の言う通りだ。 どうする、ゆり」

 ゆりは少しの間、考えを巡らせる様子を見せる。眠っている奏をジッと見据えると、ゆりは「少し時間を頂戴」と口を開く。

 「どうやって、その時間を作る?」

 「授業に出て。 受けるフリをして。 ただし、先生の話には決して耳を傾けないようにして」

 「授業を真面目に受けたら消える。 天使にバレないように、兎に角別の作業を没頭すれば良いのね?」

 「そういうこと」

 ゆりの言葉に沙耶がぽつりぽつりと概容を洩らす。ゆりは頷いて、その場にいる戦線メンバー全員に俺たちがやるべき行動を伝える。

 「そして、一日持ちこたえて」

 言いながら、ゆりは立ち上がる。

 「誰一人消えずに、再び会えることを祈るわ」

 「「「おうッ!」」」

 ゆりの毅然とした言葉に、みんなが一斉に了承の意を掲げる。

 「……………」

 一人、沙耶が黙ってジッと奏を見詰めていたが、その時、沙耶が何を考えていたのか、後になってそれがわかることになる。俺は眠り続ける奏に向かって、固く、ある決意を秘めていた。



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EPISODE.42 Abduction

 天使の分身の出現という事態に、戦線はその対処に乗り出すために行動を始める。リーダーであるあたしの指示により、戦線の各メンバーは偽造的な行いで授業に出ていた。

 

 各メンバーが授業に出ている頃、あたしは天使の部屋に再び侵入し、例のパソコンを起動させていた。

 前の侵入作戦で解明したパスワードを入力し、難なくAngel playerを立ち上げる。

 表示される天使の攻撃手段の一覧。その中から問題の「harmonics」を選択する。

 だが、画面に明かされる内容は、簡潔なものでしかなかった。

 「――もうっ! 分かれるのはわかったから、どうにか片方を消す方法を見つけられないかしら」

 今回の目的は、どうやって分身を消すか。

 天使本人はあの状態だから、自分たちで探し出すしか方法はない。

 天使の分身という存在は、あたしたちにとって極めて危険で厄介な存在だ。

 もう一度ソフトの中身を見てみれば、何かわかるかと思っていたが―――

 「…ん?」

 ふと、ハードディスクの横にあった一冊の分厚い本を見つける。手に取って見てみると、その表紙から「Angel player」という文字があたしの視界に飛び込んできた。

 「(もしかしてこのソフトのマニュアルとか、そういう類のもの?)」

 ぱらぱらとページを捲っていくが、紙面を埋め尽くすものは全てが英語だった。見ているだけで頭が痛くなるほどの量である。この分厚さでほとんどが英語なのだから、当然と言えばそうかもしれない。

 「ただでさえ時間がないって言うのに…ッ!」

 だが、だからといって簡単に諦めるわけにはいかない。何とかわかる範囲で、もしくは手当たり次第に手を動かしてみる。大体は後者であったが。

 色々と、一方で慎重に操作を試みる。様々な道を渡り歩いた結果、遂にそれらしいものに辿り着く。

 「なにこれ……?」

 そこには「absorb」という文字が浮かび上がっていた。何気なくマウスをそこへ誘導し、クリックしてみると、驚くことが目の前で起こった。

 画面にあった、二つに分かれていた分身が、本体へと一つに戻ったのだ。

 あたしは、これが元に戻す方法だと知る。

 「やった、これだ…! 本来はこの命令に繋がって、勝手に消えるはずだったんだ」

 では、その発生条件は何か――?

 すぐにその疑問に辿り着き、あたしは例によって英語ばかりの意味不明のマニュアルのページを捲る。

 そして、すぐに本を閉じる。

 「……わからない」

 頭を抱えるとは正にこの事だった。折角手掛かり的なものを見つけたというのに、障害はまだ立ちはだかる。

 いっそのことパソコン自体を壊してしまうかと考えたが、それは愚かな行為だと自分自身に叱り付ける。それでは根本的な解決にはならないことはわかっている。

 「だぁーもうッ! こうなったらわかりやすいプログラムに書き換えてやるッ!」

 あたしは勢いのままに、勝手に操作を始める。とにかく危機感を特に持たずに、プログラムを全く別の新しいものへと書き換えた。

 とっとと消えろ…!

 素直な願いを込めて。

 「タイムウエイトは十秒! どうだ…ッ!」

 思いのままに、エンターキーを押した。

 直後、画面には再び分身が現れた。すぐにタイマーが表示され、カウントダウンが開始される。

 「十秒って待ってる間は長いわね……何で十秒以下に設定できないの?」

 コンピュータ類にありがちな苛立ち要素を呟きながら、あたしはジッと零秒に刻々と迫りつつあるタイマーを凝視する。

 そして遂に十秒が経過すると、分身は元の一体に戻った。

 それを見届けて、ほっと一息付く。

 「…よし、何とかなった。 ……ッ? なにこれ…ッ?」

 あたしは画面から浮かび上がる微かな違和感に気付く。

 天使の持ちうる攻撃手段、武器。その一覧に表されている内容がどこかおかしい。

 「増えてる……!?」

 今まで気付かなかったが、見たことがないようなものがそこにあった。前に見た時はなかったものだ。分身が作ったのかどうかは知らないが、その不確定要素が嫌な気を与えてくれる。

 消してしまうか……?

 いや―――

 「ここまで周到にやってきたのだから、最小限の修正に留めないと……」

 分身にバレたら終わり。今までの努力が無駄になる。

 それだけは避けなければならない。何事も慎重が大事なのは、今まで戦ってきて自分がよくわかっている。

 「これでよし。 後はあの娘がもう一度ハーモニクスを使ってくれれば、アブソーブのスキルが発動して、分身は本体に戻るわね」

 これで問題はほとんど解決だと思っていた。

 だけど、その考えは甘かった。

 あたしたちを取り巻く今の状況が、更なる追い打ちをかけてくることを思いもしなかったのだ。

 

 この事をみんなに伝えようと、あたしは授業が終わった後、天使が眠る医務室へと軽い足取りで向かった。問題が解決の方向にある事が、あたしの行き脚を軽くした。だが、医務室に辿り着き、そこでみんなの愕然とした雰囲気と遭遇して、その軽い気持ちはすぐに砕け散った。

 「しくった…ッ」

 こみ上げてくる悔しさと、甘く事態を考えていた自分自身への怒り。それらが混じり合い、複雑な気持ちがあたしの胸の中をぐるぐると駆け回る。

 酷い有様だった。荒れ果てたベッドに、天使の姿はどこにもなかった。

 「ど、どこかに出かけたんじゃないの?」

 大山くんの発言に、すぐに否定したのは音無くんだった。

 「それはない! 奏は、俺たちとずっと一緒にいるって約束したんだ…ッ!」

 「…そんな約束したの?」

 「……あ、ああ」

 前から思ってたけど、音無くんは随分彼女と仲良くなったみたいだ。

 まぁ、あたしにはどうでもいいことだけど……

 「この乱れ様は攫われたとしか思えない」

 直井くんの言う通り、目の前に広がっている荒れた光景から察すると、分身が彼女に襲いかかり、拉致したとしか考えられない。

 ふと、直井くんからあたしを見据えている鋭い視線に気付く。

 「……貴様、何をした?」

 みんなが授業に出ている間、あたしだけ何かをしていたことは、直井くんは知っているようだった。

 だからと言って、変な疑いをかけられても困るけど。

 「貴様って、あなた……」

 あたしは溜息を吐くと、みんなにはっきりと聞こえるように説明を始めた。

 「プログラムの書き換え。 もう一度あの娘が同じ力を使えば、追加した能力が発動して、分身は本体に戻るはずだった」

 「そんなことが……?」

 「付け焼刃だったけどね。 でも敵の動きが予想以上に早かった。 あの娘を隠されたら、打つ手がない……」

 「どうするんだ?」

 「探すしかないわ。 たとえ凶悪な天使の目を逃れながらでも」

 彼女を探し出さなければ、あたしたちは分身の脅威から永遠に逃れることはできない。

 何としてでも、探さなければいけない。

 「……ところで、沙耶ちゃんは? 見かけないけど……」

 あたしがふと沸いた疑問を投げかけると、みんなの表情が僅かに落ち込んだ。

 その中から、一人答えたのは音無くんだった。

 「ゆり、沙耶は……」

 「音無くん? 沙耶ちゃんが、どうかしたの……?」

 あたしはまさか、と嫌な予感を感じる。戸惑いつつも、音無くんははっきりとあたしに言う。

 「攫われた奏を守ろうとして、分身に……」

 「―――ッ!?」

 嫌な予感が的中し、あたしの足が一瞬揺らぎそうになった。だが、あたしはそれをぐっと堪えて、更なる追求を投げかける。

 「それで、沙耶ちゃんは……?」

 「沙耶は……」

 音無くんが言いかけた時、突然、隣のベッドを覆うカーテンが開いた。

 「あたしはここにいるわよ」

 「沙耶ちゃん…ッ?!」

 少しだけ掠れる声に視線を向けると、そこには脇腹を手でおさえた沙耶ちゃんがいた。沙耶ちゃんを見てあたしより驚いた音無くんが「沙耶ッ!?」と、慌てて沙耶ちゃんの方へと駆け出していた。

 ふらついた沙耶ちゃんを、音無くんが咄嗟に支えた。

 「馬鹿! 一人で満足に立てる状態じゃないのに、無茶するな…ッ!」

 「あたしはいつだって無茶はするわよ……?」

 苦悶に歪める表情の中でも、沙耶ちゃんはにやりと笑みを浮かべていた。だが、その肌からはぷつぷつと玉汗が浮かんでいる。

 立っているのも音無くんに支えられてやっとだった。相当分身に手酷くやられたことが伺えた。

 「どうして、こんな……」

 「沙耶は、眠っている奏を守るために一人ここで隠れてたんだ」

 「え…ッ?」

 あたし以外のメンバーは授業に出るように命令したはずだ。でも沙耶ちゃんは独断で彼女の護衛をひっそりと行っていたらしい。

 「どうして、そんな事を……」

 あたしの疑問に、沙耶ちゃんは苦悶の中で無理に笑うように言った。

 「だって……あたしたちを守るために傷ついた立華さん一人を、放っておけるわけがないでしょ……?」

 「―――!」

 あたしは、何も言うことができなかった。

 ただ、彼女の真っ直ぐな瞳を見詰める。

 「まぁ、こんな無様な有様だけど……」

 あんなに苦しそうなのに、彼女は笑っている。

 その理由がわかった気がした。

 「……沙耶ちゃん、その時の状況を詳しく教えてくれない? とりあえず、寝ながらで良いから」

 「……ええ」

 音無くんの助けでベッドに戻った沙耶ちゃんは、みんなの注目を浴びる中で、一人淡々と語り始めた。眠った天使を分身から守ろうとした、彼女の奮闘記を―――



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EPISODE.43 Any More

 学園中に響き渡るチャイムの音。それはシンと寝静まった医務室にも届いていた。

 鳥のさえずりが聞こえる窓の向こうから陽気な光が射しこんでいる。陽光に照らされて彼女を覆う真っ白な布団がきらきらと輝いている。

 

 あたしは薄暗い空間の中で、僅かな隙間からその光景を注視する。

 ぽかぽかとした陽気の中に、彼女は眠っていた。静寂の世界に身を委ねるように、彼女は深い眠りに落ちている。

 

 ―――来た。

 

 目の前に、それはどことなく普通に現れた。

 瞼を閉じて一寸も動かない彼女の顔を覗きこむのは、まるで分身のように彼女と全く同じ顔を持った少女。起きている頃の彼女と唯一異なる部分と言えば、爛々と輝く赤い瞳だけ。

 深い眠りに落ちている彼女に、音もなく手を伸ばしかける―――

 それを見て、あたしはタイミングを計り、動き出した。

 「GO!」

 「――――ッ!」

 眠り姫に手を伸ばしかけた分身の少女の背後に向かって、あたしはカーテンを思い切り開けて、目の前に振り返りつつある分身の背後に突進した。あたしは分身の身体を捕まえると、揉み合うように、しかし何とかベッドに眠る立華さんから離そうと、ごろごろと転がった。

 「ここまでよ…ッ!」

 「―――!」

 分身を下敷きにして、あたしは銃口を分身の額にぴたりと付けた。分身は表情を歪め、あたしをキッと睨み付けている。

 「やっぱり来ると思ってたわ。 念のため、みんなに内緒で一人だけここに隠れていて良かった」

 ゆりっぺさんの指示でほとんどのメンバーがカモフラージュのために授業に向かったが、あたしは分身の再来を予想し、ひっそりと一人で立華さんのすぐ近くに隠れていた。気配を殺して隠れる事など、あたしにとっては朝飯前だった。

 「無駄よ。 あなたはもう動けない」

 分身は抵抗を試みるが、あたしに捕縛されている以上、逃げられるわけがなかった。好戦的で恐ろしい敵かと思っていたが、実際にその小さい身体を抑え込んでしまえば、簡単に無力化できるようだ。

 「ま、あたしの手に掛かればこんなものよ。 あたしのような最強のスパイに敵わなかったあなたの年貢の納め時ね」

 「…ッ」

 分身は憎々しげにあたしを睨み、更に抵抗する。小さな身体のどこにそんな力があるのかと思うほどだが、あたしだって常人以上に鍛えられた腕利きのスパイ(自称)だ。簡単にあたしの手からは逃れられない。

 「往生際が悪いわね……こうなったら、そろそろお別れと行きましょうか? 天使さん?」

 そう言って、あたしは少し悪そうな笑みを浮かべて、分身の額に当てた銃口をぐっと押しこんだ。引き金に指を当て、分身の頭を今撃ち抜かんとしている。

 

 だが―――

 

 「ふふ、確かにそうね……」

 「何がおかしいのかしら……」

 くすくすと笑いだした分身に、あたしは不気味な感覚を味わう。

 分身はその赤い瞳を見開き、微かに戸惑うあたしの顔を映した。

 

 「お別れよ、スパイさん」

 

 その瞬間、背後から戦慄するような殺気が襲った。

 振り返ろうとしたあたしの背中を、何かが貫いた。

 「な……ッ?!」

 ゆっくりと自分の胸の方を見下ろすと、あたしの血にまみれた刃が、あたしの胸の下から生えていた。

 刺された、という情報が頭に伝達される。

 生温かいものが喉奥からこみ上げ、僅かに口からその赤い液体を零す。

 肺が血でいっぱいになる嫌な感覚をじわじわと感じながら、あたしは苦し紛れに背後を振り返った。

 そこには―――

 「な、なんで……」

 あたしの後ろには、もう一人の天使がいた。

 「もう一人……いた…なん……て…」

 体中から力が抜け、あたしは貫いた刃を抜かれると同時に、その血に濡れた身体を倒した。

 血の海に倒れたあたしの身体はまるで空気が抜けた風船のように、力を失っていた。ぼやける視界の中で、あたしは分身たちに連れ去られようとする立華さんを見詰めた。

 「立華……さん……」

 

 最後の微かな力を振り絞り、連れ去られる立華さんの方に手を伸ばしたあたしは、眠ったまま連れていかれる彼女を呼び掛けた。だが、彼女は答えてくれるわけもなく、あたしの視界はもう何も映すことはなかった。あたしは自分の血の海に溺れながら、闇の底へと意識を沈ませていった―――



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EPISODE.44 Succeeded Desire

 沙耶から聞かされた情報。それは俺たちが言葉を失うのには十分過ぎるものだった。

 「天使がもう一体、いたなんて……」

 最初から最後まで一言も口を挟まずに黙して聞いていたゆりも、汗を額から浮かばずにはいられない表情になっていた。

 話をし終えた沙耶は奏がいたベッドの隣にあるベッドに寝かされ、沈鬱した空気を見渡していた。そしてはっきりと言う。

 「あたしは確かにこの目でもう一体の立華さん……いいえ、分身を見たわ。つまり、敵は増えているということよ」

 誰もが口にしたくない、もしくは信じたくない事実を沙耶は言った。この場にいるメンバーの戦慄が走った。

 「あんな凶暴な天使が二体……最悪だな」

 日向が額に手を当て、がっくりと項垂れる。その隣ではユイが泣きそうな顔で日向の裾を掴んで震えていた。

 「しかし、何で二体目が……?」

 俺の洩らした疑問に、ゆりが答えた。

 「分身はハンドソニックやディストーションも使うのよ。 つまり、ハーモニクスだって使えるってこと」

 「全く、低能な奴らだな……」

 直井が溜息混じりに呟く。そして最後に「勿論音無さんは違いますが」というどうでもいい言葉を忘れずに。

 「僕が問題点をまとめてやろう」

 「……よろしく」

 ゆりも少々呆れ気味だった。だが、気付かない直井は続ける。

 「問題は二つある」

 そう言って、直井は俺たちの前で指を二本立てる。

 「まず一つ目、分身は何体作られたのか」

 「……………」

 「分身が分身を作れるなら、数に限界はない」

 「じゃあ二体どころか、十体や二十体……それ以上いるかもしれないってことか…ッ」

 「待てよ……」

 俺は直井や日向の言葉を聞いて、ある点に思い至った。

 「でもゆりが加えた能力で、分身が本体に戻るようになったんだろ? 消えるのを待っていればいいんじゃないかっ?」

 「それが二つ目の問題なんです」

 直井の差し出した手の指は、一本だけ、立っていた。

 「―――もしその能力を追加するより先に、分身を大量生産していたとしたら……」

 「……ッ!?」

 辺りの空気が一瞬、ざわっと揺らぐ。俺たちを包む空気が嫌なものへと一変した。

 戸惑う俺たちを尻目に、直井は「ふん」と鼻を鳴らす。

 「ふん、愚民ども。 ようやく気付いたか」

 そしてやっぱり最後に「勿論音無さんは気高い貴族でありますが」と言う新しいバージョンのどうでも良過ぎる余計な言葉を付け加えて。

 「だったら……前よりやばくなってるんじゃねえか?」

 口端を引きつらせた野田が言う。野田の言うことは、俺をはじめ、ここにいる全員が同じ思いだった。

 「……まず、今出来ることをしましょう」

 ここで毅然としていられる所が、ゆりのリーダーに相応しい素質なのかもしれない。ゆりは決して迷わず、動揺することもなく、はっきりと俺たちに威厳を込めた声で発した。

 「総員に通達! 天使の目撃情報を集めて…ッ!」

 ゆりの指令に、メンバーは一斉に医務室から作戦遂行のために動き出す。ゆりの指令内容は、分身に拉致された奏と分身の行方を捜すために目撃情報を集めること。

 俺もみんなの後に続こうとするが、後ろから誰かに袖を掴まれ、足を止める。

 「沙耶……?」

 俺の袖を、弱々しい力で掴んでいるのは沙耶だった。だが、ベッドに寝かされた沙耶は分身の襲撃の際に深い傷を負ってしまっている。荒く呼吸を繰り返す沙耶が、その羽毛のような力で、俺を引き止めた。

 「音無……くん……―――ッッ!」

 沙耶は傷を負った部分を抑え、背中を丸めた。俺は咄嗟に沙耶の方へ飛び込む。

 「馬鹿ッ! まだ動くなって言っただろ…ッ!」

 「こ、これくらい……掠り傷……よ……」

 そう言ってニヤリと笑ってみせる沙耶だったが、その表情は苦悶に歪んでいる。汗が吹き出し、顔色を青くする沙耶の顔は、普段の沙耶からは滅多に見られないものだった。沙耶の苦しそうな顔を見て、俺はやるせない気持ちに陥る。

 「音無くん……あたしも……ケホッ!ケホッ!」

 沙耶は何かを言いかけて、苦しそうに咳き込んだ。

 沙耶の言いたいことを、俺はわかっていた。沙耶は俺たちと一緒にあの分身と戦い、そして奏を救う気だ。

 だけど、俺は沙耶を一緒に連れていくことはできない。今回はどうしたって無理だ。沙耶自身が既にこんなにも傷ついてしまっている。沙耶をこれ以上無茶をさせることは、パートナーとしては絶対に許すわけにはいかない。

 「無理するな、沙耶。 お前は傷が治るまで大人しく寝ていろ」

 「そんなこと……できるわけ……あたしは……立華さん……を……」

 「もうお前はボロボロじゃないか。 奏のことは俺たちに任せろ」

 「でも……」

 沙耶は決して首を縦に振ろうとはしない。俺は沙耶の両肩を掴み、そっとベッドに寝かせる。抵抗する力は微塵もないのか、沙耶は大人しく俺にベッドへと寝かされた。だが、その口は未だに納得しない言葉を吐き続ける。身体は動けない状態まで傷ついているのに、沙耶の気持ちは想像以上に大きいものだった。

 さすが沙耶と言いたい所だが、今回ばかりは――――

 「音無くんの言う通りよ、沙耶ちゃん」

 「!」

 俺の隣から、ゆりがベッドに寝かされる沙耶を見下ろしながら、鋭い瞳で見詰めていた。ゆりのはっきりとした物言いが、沙耶に容赦無く突きつけられる。

 「あなたは十分に戦ったわ。 だから、後のことはあたしたちに任せて、あなたはここでゆっくりと傷を治しなさい」

 「……………」

 ゆりはそっと、沙耶の肩に手を添えた。ハッとした表情で、沙耶は顔を上げる。顔を上げた沙耶の目の前には、優しげな表情を浮かべたゆりがいた。

 「あなたの行為は決して無駄にはしない。 彼女は、必ず見つけ出すわ」

 「………ッ」

 優しく掛けられたゆりの言葉を受けて、顔を下げた沙耶の表情は俺からは見えない。

 一瞬の間、肩を小刻みに震わせた沙耶だったが、すぐに落ち着いたように息を吐いた。

 そして顔を上げ、俺たちを真摯な瞳で見据え、コクリと頷いてくれた。

 「……わかったわ」

 「ありがとう」

 沙耶の手を、ゆりがそっと両手で包みこんだ。ゆりの両手の温もりを感じたのか、沙耶はまたハッとした顔をゆりに向ける。驚いたような表情で自分の手を包み込むゆりの両手を見詰めたが、やがて沙耶の表情もふっと柔らかくなり、大人しくベッドの中へと身を沈めてくれた。

 ベッドに寝た沙耶を置いて医務室を出た俺とゆりは、扉を閉じたと同時に、肩を並ばせた互いに視線を向け合う。

 それは、俺たちの決意に満ちた瞳だった。

 「必ず、無事に終わらせるわよ」

 「勿論だ」

 俺たちは頷き合い、こつんと拳をぶつけ合う。

 まるで、パートナーとしての沙耶と俺みたいだった。だけど、今回は違う。俺はゆりと共に、そして戦線の仲間たちと共に、必ず奏を探し出すと決意する。そして俺たちと一緒に居ると約束してくれた奏との時間を今度こそ手に入れるために。



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EPISODE.45 Dancer in the Dark

 ―――体育館内。

 広い体育館に降り立っていた静寂が破られる。普段は生徒たちの授業や休み時間などに使われる体育館は、今やその大きな佇まいを静寂に身を委ねているだけだった。そこに俺たちが集まったことで、その静寂は追い払われる。俺たちは体育館のステージ前に集まると、視線をただ一人の人物へと向けた。

 「迅速に集められた情報から、幽閉場所はギルドの可能性が高いということがわかったわ」

 ゆりの指示により、戦線のメンバーによって集められた奏に関する情報。その齎された情報により、奏を攫った分身の尻尾をようやく掴んだ俺たちは、ギルドの入口となる、体育館にいよいよ足を置いていた。

 「――となれば、その最深部ね」

 ギルドの最深部。そこに、攫われた奏がいる。

 でも―――

 「だけど、あの爆破した場所に、か……?」

 ギルドは戦線最大の武器や弾薬の生産機能を果たす代物だったが、前のギルド降下作戦の際に爆破してしまっている。今や戦線の武器や弾薬はオールドギルドで賄われているが、爆破されたギルドはそのままに残されている。

 「そう。 罠(トラップ)も稼働したまま、最も危険で、最も離れた場所……ってことね」

 「またここに潜れって言うのかよぉ」

 「前回はほぼ壊滅状態だぜ」

 ゆりの言葉を聞いた日向と藤巻が気が重たそうに口から漏らす。

 「ふん、何を臆しているのだ?」

 「真っ先にやられてたのはお前だろ……」

 前回の自分を棚に置いた発言を口にする野田に、藤巻が的確なツッコミを入れていた。

 「皆さんのために漏らしながらでも歌い続けます……! 根性見せます……ッ!」

 そして日向の隣では、ユイが涙目になりながらもユイなりの決意を露にしていた。

 「あんなのが来たら、陽動なんて瞬殺よ」

 しかしそんなユイの決意も無碍に蹴るように、ゆりは陽動の必要性を否定した。あんな凶暴な分身にいつもの陽動など無意味だと言うゆりの言葉は、俺も同意見だった。

 「あ、じゃあ私、漏らさなくて良いんですね……? 良かったぁ……」

 「お前も付いてくるんだよ」

 「やっぱ漏らしますうううッッ!!」

 ユイの悲鳴が響き渡る。

 それに構わず、ゆりは凛として作戦の概要の説明を続ける。

 「という事で今回は陽動無しで正々堂々と行くわよ」

 「天使と戦いながらか?」

 「そうよ」

 不意にかけられた質問にも、ゆりは毅然と答える。

 「作戦はギルドを降下して、その最深部にて無事天使のオリジナルを保護すること」

 作戦の概要が明かされ、戦線メンバーの表情が一様に鋭くなる。

 ゆりはそんな俺たちの顔を見渡して、いつものように、そしてはっきりと、口火を切る。

 「―――オペレーション、スタート!」

 

 

 俺たちが歩くギルドの道はどこか懐かしさを覚えさせた。何故なら、あの時の痕跡がそのままに残されているからだ。

 「前のトラップはそのまま放置されてるな。 ラッキー♪」

 そのままに晒されているトラップの数々を眺めて歩きながら、日向が言う。

 その日向の後ろには、小動物の如くユイが日向の裾をちょこんと摘んで歩いている。

 「あ、あの……こんな所で天使なんかと出くわしたら、どのみち漏れそうなんですけど……」

 「構わん」

 「構ってくださいよぉッ!」

 日向とユイのいつものやり取りが交わされた矢先に、先頭を歩いていたゆりが前方に何かを見つけて立ち止まる。

 それに続いて俺たちも立ち止まると同時に、視線を前方の遠くへと向けた。

 「ひぃッ!?」

 ユイが短い悲鳴をあげる。俺たちは、遂にあいつと遭遇してしまったのだ。

 俺たちの進路を立ち塞がるように、赤い瞳を宿した分身がゆっくりと闇の中から姿を見せた。

 分身の姿が明確に全員の目に確認された時、俺たちの警戒の糸がピンと張り詰められる。

 飛び上がらんばかりにおびえたユイの気配を察知した日向が「構わん」と口にする。それに対してユイが分身に対する恐怖を紛らわせようとしているのかどうかはわからないが、「構ってくださいよぉッ!」と一際大きい声で言いながら日向の背後の方に隠れる。

 「早速現れたわね……撃てッ!」

 だが、ゆりの号令より早く分身は足で地を蹴り、ロケットの如く突っ込んできた。その余りの速さと勢いに、俺たちは動揺を覚え、隙を与えてしまう。

 「うわッ!?」

 「……ッ!!」

 分身が疾風の如く俺たちの間を通り過ぎると、まるで手品のように、俺たちの武器が一瞬にしてロールケーキのように分割されてしまった。

 「くそッ! 速ぇッ!」

 ばらばらにされた武器はもう使えない。吐き捨てる周りの中で、ゆりが冷静に事を構え、対抗に出た。

 「まだハンドガンがある…ッ!」

 ゆりがおもむろに手に持った手榴弾を分身に向かって投げ出す。

 しかし分身は―――

 「ガードスキル、ディストーション」

 ゆりの投げた手榴弾は光に包まれる分身の額に触れる。その瞬間、ギルドの道を覆うほどの爆煙が吹き荒れる。人間一人なら簡単に肉魂と化す爆発が起こり、ギルドの道を小さな地震のように揺らすが、それだけでは終わらせない。

 「総員、各個射撃ッ!」

 ゆりの手が振り下ろされると同時に、俺たちの手に握られた拳銃(ハンドガン)の引き金が一斉に引かれていく。無数の火線が分身を濃く包む黒煙の中に吸い込まれる。

 「意外と早くケリが付きそうね……」

 ゆりは希望を染めた言葉を口にする。

 だが、後ろから聞こえた絶望の音に、俺たちは振り返り、そしてソイツと出会ってしまうことになる。

 「ぐおぁッ!?」

 悲鳴。そこへ向かッて振り返った俺たちが見た先には、心臓から見覚えのある白い刃を生やした野田の姿があった。

 「な……にぃ……」

 刃を胸から生やした野田のすぐ後ろには、もう一人の分身の姿があった。

 俺は沙耶が言っていた事を思い出す。

 分身は、二人以上いる……と。

 「やっぱりもう一人いた……ッ!」

 「敵が増えているという予想は、最悪にも当たってしまったという事ね…ッ!」

 沙耶の言っていたことは間違っていなかった。分身は増えている。それが確かに事実であることが判明される。だが、だからといって明確な対処方法が見つかるわけでもない。

 今回も真っ先にやられた野田が無造作に放り投げられる。赤い液体が付着した刃の先が、次なる獲物を求めているみたいだった。分身の赤く鋭い瞳が、俺たちを映しだし、次の獲物を狙い定める。

 「くそ……撃てッ!」

 ゆりは目の前の分身への攻撃を至極当然のように選択するが、俺たちの後ろにはもう一人敵がいることを忘れてはならない。とりあえず目の前の敵を、と攻撃するが―――

 「……忙しそうね」

 「…ッ?!」

 先に俺たちと対峙したもう一人の分身が、何事も無かったかのように晴れる煙の中から立ち上がる姿が見えた。その身に傷は一つも無い。目の前にも敵、後ろにも敵。正に板挟み状態だった。

 これでは勝ち目なんて無い、と思う。だが、ゆりは何かに気付いたのか、ハッとした横顔を浮かべた。

 「入口を塞ぐわ! 付いてきなさいッ!」

 ゆりが見つけたのは、前方に続く通路とは別の通路を示す壁の入口だった。そこに突入し、入口を塞ぐことでこの場から逃れるという事だろう。「行くわよ!」というゆりの号令のもと、俺たちは一斉に駆け出す。それとほぼ同時に、手榴弾が分身に向かって投げ込まれる。

 分身に触れ、爆発。辺り一面を濃い土煙が覆うが、その中を突き抜けるように俺たちは入口に向かって走る。

 入口に辿り着くと、すぐさま入口の扉を開く。

 「十秒以内に入りなさいッ! 間に合わなかった者は残っていく!」

 猶予は十秒間。その間に、全員が入口へと入り込まなければならない。

 「十! 九!」

 カウントダウンを始めながら、少しでも分身の足を止めるために射撃を行うゆり。その間に、メンバーが次々と入口へと逃げ込んでいく。

 ゆりのカウントダウンが尽きる前に分身が追いつくのが先か、俺たちが逃げ込むのが先か。

 緊迫した十秒間があっという間に零に迫った直前、最後まで残ったゆりが遂に入口へと足で蹴る。

 「二、一……ッ!」

 素早い動きで迫る分身。飛び込むゆりの手に向かって、俺の手が伸びる。

 「零――――!」

 その瞬間、扉が閉まる。

 そして、俺の手はしっかりとゆりの手を掴んでいた。

 扉が閉まり、分身の姿はもう見えない。そしてその場にいるメンバーに、残された者はいなかった。

 先にやられてしまった野田以外、メンバーは無事に最初の分身の脅威から逃れることができたのだった。

 

 

 遭遇した二体の分身から逃れた俺たちは休憩を挟み、今後の予測を協議し合う。先の戦いで、二体の分身がいることははっきりと確認された。つまり、それ以上の個体もこの先にいる可能性が高いということも。

 「聞いていた通り、本当に分身が二体いやがるとはな……」

 「だから言っただろう、愚民ども。 いいか、もし僕たちがここに乗りこんでくることがわかっていて、既に分身を量産し、このギルドに配置させているとしたら、これは罠だ。 既に僕たちの背後には二体いる。 そしてこの先も……」

 直井の状況説明はほとんど間違っていない。むしろその通りだった。重い空気が辺りに降りるが、俺は決して諦めようとはしなかった。

 地上に戻ることも、武器の補充も敵わない。このまま先を進んで奏を救い出し、分身を全部消す事しか俺たちが勝つ方法はないからだ。

 「だけど、俺たちがこの状況を切り抜ける方法は、このまま先を進む事しかあり得ない。 行こう」

 「……そうね、音無くんの言う通りだわ。 どのみち今更引き返すこともできないし、このまま前に進むだけよ」

 俺の進言に、ゆりも乗ってくれた。そして、周りのメンバー全員も頼もしい頷きを見せてくれる。

 俺たちはこの先に訪れるだろう数々の困難に立ち向かうため、再び足を前に進めることを始めた。

 

 ―――ギルド連絡通路 B10

 俺たちが進む先は、何時しか静寂ばかりになっていた。慎重に前に進む俺たちの口は紡がれたまま、誰も語らない。張り詰めた緊張感と共に、俺たちは静寂の中を構えて歩を刻んでいた。

 そしてそんな俺たちの静寂を壊すように、“音”が戻ってきた。滴る水の音は、音と共に俺たちに別のものがまた舞い降りてきたことを知らせた。水がまた一つ、落ちていく。そして、その先には一つの人影が立っている。

 「また現れた……」

 「三体目かよ…」

 やはり分身は増えている。三体目の登場に、俺たちは身を構える。

 ゆりが構えた銃身を、大きな手がそっと覆い、下ろした。

 「…ッ?」

 「――弾が勿体なかろう…」

 そう言って、一歩前に出たのは大きな体躯を有した男。俺たちが敬意を表して呼ぶ五段の異名を持った松下五段だった。

 「おい、何する気だ……?」

 俺たちが一人だけ前に出ていく松下の行動に戸惑っている内に、松下は突然大きな雄叫びと共に分身に向かって走り出した。

 「うおおおおおおッッ!!」

 松下五段は分身に向かってその大きな身体を投げ出した。そして、その背中から無慈悲にも鋭い刃が突き破った。

 「「「松下五段―――ッ!!」」」

 「行けぇ…ッ! 俺の意識がある内に……行けぇぇぇ……ッッ!!」

 身を投げ出して分身を抑え付ける松下五段の姿に唖然とする俺たちを、いち早く松下五段の意図を知ったゆりの「急いで!」の掛け声が投げられる。

 「今の内に行くわよッ!」

 「あ、ああ…ッ!」

 「耐えろよ、松下五段ッ!」

 ゆりに手を引かれるように、俺たちは必死に分身を抑え付ける松下五段の勇姿の横を通って、その場を潜り抜ける。

 「後は任せたぞ……みん…な……ッ」

 分身を抑え付ける松下五段をあとにして、俺たちは走り去る。

 十分に距離が離れた所で、俺は走り際にふと背後の方を振り返った。そこには仲間のために自分を犠牲にし、最期の瞬間まで身を投げ出した一人の勇士の姿があった。彼は背中から刃を生やしても、ぴくりとも動かなくなっても、それでも敵を下敷きにし、その責務を全うしていた―――

 

 

 「松下くんの犠牲は無駄にしない……」

 勇気ある一人の自己犠牲によって一つの難関を潜り抜けた俺たち。また一人、仲間が減ってしまったが、それにより一つわかったことがあったとゆりは言う。

 「先に進むにはあれが一番良い方法かもしれないわ。 天使は身体が小さいから、動きを封じるにはあれが一番だから」

 「いくら天使の馬鹿力でも、柔道の抑え込みなら通用する……ってか?」

 「そういうことよ。 松下くんに教わった柔道が活きる日が来たわね」

 「マジか……」

 そう考えると、つまりこの先を進むには一人一人が犠牲にならなければいけないという事だ。

 だが、一人一人の犠牲で済むと言っても……

 「あたしたちがオリジナルを助け出せれば、彼らも助け出せれる」

 俺の心情を読んだかのようなタイミングで、ゆりが言葉を漏らす。

 「……急ぎましょ」

 「……………」

 一人一人の犠牲で済む。だが、それを快く思っていないのはゆりも同じ。しかし、それが一番の方法であることも、ゆりはわかっていた。

 前のギルド降下作戦の時、仲間を次々と失ったゆりのリーダー故の、自分への怒り。仲間を失っていく事態になった自分への不甲斐無さに唇を噛んでいたゆりを思い出す。

 だけど今回は、そんな姿は一瞬も見せてはいなかった。ゆりはリーダーとして、更に大きくなっていた。そして、結果的に良い方向に進むために躊躇しない強さも身につけている。

 俺はそんなゆりを信じなければならない。リーダーへの信頼を、俺はゆりに委ねる。奏を救い、そしてみんなを助けるためにも、俺たちは前に進まなければならない。

 まだまだ難関は続いていく。再び俺たちは先を進む。一人、また一人と消えていくギルドの最深部に向かって。

 

 

 ―――ギルド連絡通路 B12

 「Foooooo!!!」

 飛行機のように颯爽と飛び出していくTK。そして見事な跳躍を披露すると、そのまま四体目の分身に向かって降下し―――

 「Oh!」

 分身を下敷きに抑え込みながら、串刺しにされた。

 「「「TKェェェェェ――――ッ!!」」」

 「おい! 何だよこの少年漫画の最終回近い展開はぁッ!?」

 「いいから、どんどん行くわよ!」

 ゆりの言う通り、この先次々と戦線メンバーは特攻を始めることになる。

 

 

 「この肉体、見せる時が来……ぶふッ?!」

 「「「高松―――――ッッ!!」」」

 筋肉を誇る肉体を見せ付けていた高松も。

 

 

 「へへ、びびってられるかッてんだ……うおおおらああああぐはぁッッ!?」

 「「「藤巻ぃぃ――――ッッ!!」」」

 ここぞとばかりに見せ場を喜んで見せ付けた藤巻さえも。

 

 

 「浅はかなり……浅はかなりぃぃッッ!!」

 「「「椎名ぁぁ――――ッッ!!」」」

 犬の玩具を遺品にして俺たちに託し、飛び出していった椎名も。

 

 「さぁ……気付くんだ。 お前はピエロだ。 ほら、あんな暗い所に寂しそうにしている女の子がいるよ……?」

 「あぁ~本当だ~。 僕が慰めてあげ……(ガクリ)」

 「「「大山ぁぁ―――――ッッ!!」」」

 直井の催眠術で操られた大山さえも。

 「ていうかお前、最低だな……」

 「違うんですよ音無さん! 今度は僕が行きますから!」

 

 

 「音無さん万歳…ッ! がは……」

 「「「……………」」」

 「……おい、誰か何か言ってやれよ」

 「いや、私直井先輩の名前知らないですし」

 「……………」

 「……行きましょう」

 名前さえ呼ばれず、直井は無言で自らの屍で分身を抑えてくれた。

 

 

 ―――ギルド地下通路 B15

 仲間たちの犠牲を一人一人捧げる内に、随分と先に進むことができた俺たちだったが、最深部を目前にして再び何体目かわからない分身が俺たちの前に現れた。

 「これで何体目よ……」

 「わからねえ。 もう数えてねえよ……」

 ゆりが唇を噛み、日向が溜息を吐きながら答える。

 俺はゆりたちの横で、ぐっとさっきから固めていた決意を露にしようとする。

 「―――今度こそ俺が行く」

 今までみんなが自ら犠牲に走ってくれたんだ。今度は俺も、みんなの後に続かなければいけない。

 だが、そんな俺を呼び止めるように、日向が俺の肩を叩いた。

 「待て、俺の番だ。 お前は最後まで残れ」

 「な、何で……」

 俺を置いて、日向は前に出る。そして俺に背を向けたまま、日向は微笑を浮かべながら言葉を紡ぐ。

 「あの娘はお前を待っている。 そんな気がするからだ」

 「…!」

 「だからお前は進むんだ。 いいな?」

 「日向……」

 日向は俺に背を向けたまま言葉を並べるが、まるで日向の言葉が水のようにするりと俺の中に入ってくる。背を向けているが、日向の表情は笑っているように見えた。

 「あともし……」

 日向がチラリと俺―――いや、俺のそばにいるユイの方を見た気がする。だが、そのユイは日向の方に飛び出していることに、俺は気付いた。

 「行くんだったらさっさと行けやごらぁぁぁぁッッ!!」

 「ぐぼぁッ!?」

 しかし虚しくも言葉の途中で、ユイの蹴りによって日向が分身の方へと突き飛ばされた。

 「ユイ、てめぇぇぇ……ッ! 何す……ぐはぁッ!?」

 ユイへの禍根を残して、日向は分身を身体で抑えながら突き刺されるのだった。

 「待ってて……先輩……私も、後を追いますから……」

 「お前……あいつの事が好きなのか嫌いなのか……?」

 

 

 仲間たち一人一人の犠牲によって、俺たちは遂にギルド最深部へと辿り着いた。結局、最後まで残ったのはゆりやユイも含めて、俺たち三人だけだった。

 かつて巨大な工場があった場所は大規模な爆発によって跡形も無くなっていた。大きなクレーターを中心に、荒れ果てた土くれが広がっている。ここのどこかに、奏がいる。

 「ギルド爆破の跡……ここから一気に最下層に降りることになるわね」

 大きな爆心地として深く残されたクレーターの下へと降りる。そしてそこで俺たちは奏を見つけ、助け出す。だが、そこにはきっと分身もいるだろう。

 「音無くんとユイはオリジナルを捜して。 見つけ次第、ハーモニクスの発動を促すこと」

 「俺が戦った方がいい」

 ゆりの命令に、俺は自分の意見を具申する。だが、それはあっさりと却下された。

 「日向くんも言ったでしょ? あの娘はあなたを待っているのよ」

 「じゃあ私が戦いますッ!」

 「弱過ぎて話にならない」

 「話にしてくださいよぉッ!」

 ユイの具申は更に却下される。

 「じゃ、行くわよ。 これが最後の作戦になると良いわね……」

 「だな…」

 ゆりと俺の後ろで、ユイが変なアピールを始めたが、俺たちは構わず爆心地の最下層へと降りるために、クレーターの斜面へと滑りだす。

 「あッ! ま、待ってくださよぉ…ッ!」

 その後をユイが慌てて斜面を滑りだした俺たちの後を追ったが、それを最後に、俺たちが最下層に到着した頃には、ユイの姿はどこにも見られなかった。

 「あれ? ユイは?」

 「何か、短い悲鳴が聞こえたような……」

 滑り降りる時、近くから「ぎゃッ!」と言うユイらしき短い悲鳴を聞いた。もしかしたら、分身にやられたのかもしれない。

 「可哀想に……でもすぐに助けてあげるわ」

 これで、最終的に俺とゆりの二人だけが残ってしまった。

 まるで、前回のギルド降下作戦の時と同じだった。

 いや……あの時は沙耶もいたから、同じというわけではないな。

 「まるで前回の時と似てるわね……」

 「そうだな……」

 俺とゆりは爆心地の中心に向かって歩いていく。三六〇度の周りには、荒れ果てたガレキと土くればかりが広がっている。ここが最深部であり、最後の場所にふさわしいとも言える光景だった。

 そして―――遂に、目の前に最後の分身が現れる。

 赤い瞳を宿し、刃を宿した、奏であり、奏ではない偽物の分身。

 最初に俺たちを襲った、凶悪な分身。

 「ほら、あなたはさっさとオリジナルを捜す」

 「あ、ああ……」

 ゆりに言われて、俺はその場から駆け出した。奏を捜すために。

 そして、その場から離れる俺の後ろで、銃を構えたゆりが呟いた。

 「……さぁ、最後の戦いと行きましょうか。 天使」

 「……………」

 銃を構えるゆり。刃を宿す分身―――天使。

 荒れ果てた爆心地の中心で、二人の少女が対峙する。そして土くれの上を走る俺の後ろ、遠くから乾いた一発の銃声が轟いた。



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EPISODE.46 Point of Contact

 誰もいない白い部屋で、あたしは一人。さっきまであたしの他に大勢の人がいたけど、彼らはみんな戦いの場へと向かってしまった。あたしを、置いて―――

 「……………」

 自分の身体の調子を探りつつ、あたしは白いベッドから身を起こす。

 音無くんたちには大人しく寝ているよう言われていたけど、退屈はあたしにとって最大の毒だ。とりあえず動けるまでに回復した自らの身体を確認すると、あたしはすぐにベッドから起き上がり、床に足を着いた。

 「……ッ」

 ぴりっとした痛みが走ったが、問題はない。我ながら己の鍛えた身体の回復の速さに自己満足すべきか、この世界の理に感謝するべきか。

 兎も角、動けるのなら話は大きく変わる。自分も何かしらの事は出来ると言う事だから。

 みんなはどこへ行ってしまった。立華さんを救うために、あの分身と戦うために、危険を顧みず戦地へと向かったのだ。あたし一人が呑気に寝ていられるわけにはいかなかった。

 「(今、あたしに出来ることをする。 そう、あたしは―――)」

 無理をするぐらいが、あたしらしい。かつて、初めてのパートナーと過ごした日々のように。

 「ここでへこたれてたら、理樹くんに笑われちゃうから……ね」

 あたしが今、どんな顔をしているのか。

 ここには今、あたし以外の人間がいないから、それは知る由もないだろう。

 あたしはぐっと足を踏みしめて、廊下へと続く扉を開いた。

 「どちらへ行かれるんですか?」

 「―――!!」

 扉を開けた矢先、あたしの目の前に現れたのは遊佐さんだった。あたしはギクリと震えて、一歩後ずさる。驚愕の色に染まるあたしとは裏腹に、遊佐さんはその場にジッと無表情であたしを見据えながら立っていた。

 「ゆ、遊佐さん……どうして…」

 「どうして?」

 遊佐さんが何を当たり前のことを、と言う風に、本当に小さな溜息を吐く。

 「怪我人である沙耶さんを一人に放っとけるほど、私たちは非情ではありませんよ?」

 「……………」

 何も言い返せなかった。

 当たり前の事をさらりと言うように、遊佐さんはそう言った。

 「それより沙耶さん」

 「な、何……?」

 「これから何をしようとしていたのですか?」

 「…ッ!」

 大きくギクリと震えるあたし。その反応を見て、遊佐さんがジトリとした視線であたしを見詰める。

 「大方、ゆりっぺさんのお言葉も聞かず、独断行動に出ようとしたのでしょうけど……」

 「い、いや……ち、違うのよ…! これは……」

 「これは?」

 「う……」

 情けなくも動揺してしまうあたしに、遊佐さんが鋭い視線を突きつける。遊佐さんの無言の視線は、一度とらわれると二度と逃げられないような絡みを感じる。真っ直ぐに見詰める遊佐さんのプレッシャーに、あたしは遂に根を上げた。

 「……ごめん、降参するわ」

 「……よくわかりませんが、どうやら私が勝ったみたいですね」

 「でも、あたしはこの通り身体は大丈夫だから。 呑気に寝ているわけにはいかないのよ…!」

 「沙耶さん、お気持ちはわかりますが……」

 「―――あたしにも、出来ることをしたいのよッ!」

 あたしは胸にひしめくばかりの思いをぶちまける勢いで、目の前に立つ遊佐さんにぶつける。あたしのありったけの思いを正面から受け止めた遊佐さんは、表情を変えることもなく、ただジッとあたしの方を見据えていた。

 そしてしばしの沈黙を置いて、遊佐さんがぽつりと口を開いた。

 「わかりました」

 「……え?」

 「私はこれ以上、沙耶さんを無理に引き止める事は致しません」

 「いいの……? 遊佐さん……」

 「私には元々、そんな権限などどこにもありませんから……」

 そう言う遊佐さんの表情は、いつもの無表情であっても、どこか頼もしいものに見えた。そして、彼女なりの優しさが垣間見えた気がする。

 「でも、無理だけはなさらないでくださいね」

 「遊佐さん……」

 首を傾げ、微かに微笑む遊佐さん。あたしは咄嗟に、目の前にいる彼女に飛び込んでいた。

 「ありがとう、遊佐さん」

 少し驚いたような気配を見せた遊佐さんだったが、すぐに「はい」と耳元で優しげな返事を返してくれた。

 そして、あたしは廊下に出るとそのまま駆け出した。保健室に背を向け、あたしはどこかへ走る。遊佐さんの見送りを背に受けながら。

 

 

 もし生徒会や教師に見つかったら厳重注意モノね、とどうでも良い事を思いながら、あたしは生徒がまばらにいる廊下を走っていた。

 一般生徒から聞き込み調査を行った結果、音無くんたちは立華さんに関する情報を生徒からの聞き込みで集めていたらしい。そして、彼らが向かった先は―――体育館。

 つまり、以前爆破されたとある地下空間―――

 「きゃ…ッ!?」

 「―――ッ?!」

 角を曲がった瞬間、あたしは目の前に現れた人影と衝突してしまう。

 向こうからして見れば、あたしの方からいきなり飛び込んできたものだろう。というか実際そうだと思う。あたしは咄嗟に倒れた女子生徒へと慌てて手を差し伸べる。

 「ご、ごめんなさい…! 急いでいたものだから……大丈夫?」

 「……は、はい…」

 廊下に広がる美しい黒髪。一つにまとめた黒髪が広がり、華奢な女子生徒の細い身体が横たわっていた。あたしは慌てて、返事を返す少女の手を引く。その拍子に、露にした少女の顔を見た。

 左目を覆う眼帯。

 SSSの制服を着ている姿を見る限り、同じ戦線の仲間だと言う事がわかる。だが、言い様のない違和感が、少女の手を握った自分の手から伝わってきた気がした。

 「本当にごめんなさい。 怪我はない?」

 「はい、大丈夫です……」

 あたしの手に引かれて、ゆっくりと立ち上がる少女。元気が無さそうな様子を見て、あたしの不安は晴れることはない。

 そして、あたしは見逃すことができない部分を見つける。少女の膝に、微かに血が滲んでいた。

 「血が……」

 あたしに言われて、少女は初めて気付いたのか「ああ…」と薄い反応を返す。

 「平気ですよ、掠り傷ですし……」

 「駄目よ」

 あたしは彼女の膝から滲む血を見据え、きっぱりと言い放つ。

 くそ、と自分に向けて心中で吐き捨てる。

 こんなドジを踏んだのは初めてかもしれない。

 いくら自分も余裕が無いとは言え、そんなものは言い訳にもならない。

 「保健室に行った方が良いかしら……」

 ついさっきまで自分がいた所だ。連れていく事など造作もない。

 だが、少女はかぶりを振る。

 「いえ……本当に大丈夫ですから……」

 「でも、あたしが納得いかないわ」

 あたしは彼女の手を握り締める。ひんやりしていて、冷たい手だった。あたしの手に握られても、彼女は特にこれといった反応を示さない。深く追求すれば困っているよう事がわかるかもしれないが、あたしは彼女の手を引いて、元来た道を引き返した。

 「あ……」

 後ろで彼女の短い声が聞こえる。それにも構わずに、授業の開始を知らせるチャイムが鳴り響こうが、あたしはされるがままの彼女の手を引いて、自分が元々いた保健室へと引き返す道を辿るのだった。

 

 

 ―――医局、保健室。

 「これでよし」

 あたしは椅子に座らせた彼女の膝に絆創膏を貼った。消毒もしたし、これで一先ずオーケーだろう。

 彼女の傷は拭えても、あたしの中に渦巻く罪悪感は勿論拭えない。

 「その……さっきは本当にごめんなさい」

 再び頭を下げるあたしの頭上で、彼女の声が降りてくる。

 「いいんです、本当にもう大丈夫ですから……それに、手当もしてくれてありがとうございます……」

 「そんなの当然よ。 だってあたしが……」

 「そうですね。 廊下を走っていた沙耶さんが悪いですね」

 「うう……」

 横で傍観していた遊佐さんが容赦無いツッコミを入れてくる。傍観と言っても、彼女を連れて保健室に舞い戻ってきたあたしを見て驚いていた遊佐さんが、テキパキと救急箱等を用意してくれたのだから、大いに助けてもらったのだが。

 「しかし折角清々しく見送ってあげたのに、他人を怪我させて戻ってくるなんて」

 「うう、何も言い返せない……」

 「あ、あの……本当にもういいですから……」

 おろおろと戸惑わせてしまっている彼女に、あたしはもう一度頭を深く下げる。

 「本当に気にしないでください。 手当までしてくださったのですから、これでもうこの事は終わりにしましょう……?」

 これ以上彼女を困らせるのもあれだし、あたしは彼女の提案を呑んだ。

 「……それにしても私たちと同じ戦線の仲間なんですね。 どこかの部隊に所属とかしているんですか?」

 それはあたしも気になっていた所だった。戦線指定の制服を着ている姿を見る限り、彼女もあたしたちと同じ戦線のメンバーである。でも、あたしは彼女に自分でも理解できないような妙な違和感を覚えていた。

 「……いえ、私のような者は、何かをする勇気もありませんから……」

 「(さっきから思ってたけど、彼女、何だか暗い性格ね……)」

 俯き加減に呟く彼女は、どこか陰鬱というか、暗い雰囲気が漂っている。ただの控えめで大人しすぎる少女というものとは少し違った。

 「ねえ……名前はなんて言うのかしら?」

 「私の……名前は……」

 彼女はゆっくりと顔を上げ、小さく動く口からその名前を紡ぐ。

 「古式みゆき、です……」

 眼帯の少女、古式みゆきは自分の名前を自信なさげに、しかし聞こえるように真っ直ぐに言葉を紡いで、そう言った。



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EPISODE.47 Blank Eyes

 保健室を飛び出したあたしがぶつかってしまった女子生徒は、古式みゆきさんと言う娘だった。古式さんも戦線の一員であり、あたしと同じ普通の人間だ。

 でも戦線内部では特にこれと言った部隊に属しているわけでもなく、目立った活動もしていないと言う。後に遊佐さんから聞いた話によれば、彼女はあまり目立たないタイプの娘だそうだ。

 「(まぁ、見るからに控えめな娘だけど……って、これは古式さんに何気に失礼ね……)」

 あたしは今、古式さんと一緒に廊下を歩いていた。

 あたしのすぐ隣には、顔を下げてどこか遠慮がちに歩く古式さんがいる。

 その膝には、馬鹿なあたしのせいで絆創膏が貼られている。

 「あの……沙耶、さん……」

 「えっ?! あ、……な、何?」

 「その……別に私の事は、放っておいても構いませんよ……?」

 「な、何言ってるのよ…ッ!」

 今、古式さんと行動を共にしているのは、先のあたしの軽率な行いにより引き起こされた事態が原因だったりする。正直に言って、いくら一人置いてけぼりにされて焦っていたとは言え、他人を傷つけてしまうなんて言語道断だ。

 こんな事では、みんなと戦うなんて偉そうな事を言えるわけがない。

 これは、あたしの罪滅ぼしのようなものだ。

 「(もしかしたら今頃ギルドであの分身たちと物凄い戦いが繰り広げられてるかもしれないけど……)」

 心配ではあるが、音無くんやゆりっぺさんたちの顔を思い出すと、何故かそこまで気を急ぐ事はなかった。

 きっと彼らなら心配無い。そんな気がするからだった。

 「さっ! まずは食堂に向かって突撃よ!」

 「は、はい…っ」

 あたしは変なテンションで、戸惑う古式さんの手を引いて食堂へと向かった。

 自分でも少し変だとは思うけど、こうでもしないとあたしはまた変な不安を抱えてしまいそうだったから。今日は古式さんの付き合いをする事を使命と決め、あたしは半ば無理矢理のように古式さんを連れ回すのだった。

 

 ―――大食堂。

 丁度休み時間だからか、食堂は一般生徒で混み合っていた。まぁ、分身の襲来を警戒して規則通りに休み時間を意図的に選んだのだけど。

 まさかこの程度で消える事もないだろうと自分自身に強く言い聞かせ、あたしは人の波でごった返する食堂の前に立つ。

 「混んでますね……」

 「そうね。 古式さん、食券持ってる?」

 「すみません……今は持ち合わせがなくて……」

 古式さんは本当に申し訳なさそうに、トーンを落としたような声で答える。彼女は根から暗い性格なのか、そのテンションの低さはあたしには少し耐え難い。そんな彼女の内に何か触れてはいけないようなものが秘められている気がして、それに触れおうと考えても、寸前の所で指が止まってしまう。

 それに触れる事が彼女の為になるのか、そんな思いも頭の中に過ぎらせながら。

 「……最近はトルネードもなかったから仕方ないわよね」

 と誤魔化すように言いつつも、あたしの内ポケットには二枚の食券があった。

 前回のトルネードで手に入れ取っておいた一枚と、音無くんから譲られた肉うどんが一枚。

 時間は規則的とは言え、この手にある食券は不正のもとで手に入れたものだ。これできっとギリギリセーフだろう、と信じたい。

 そんなことはとりあえず今だけでも頭からほっぽり出して、内ポケットから取り出した食券二枚を手に取り出し、古式さんに言葉を投げつける。

 「実はあたし、丁度二枚の食券を持ってるから、古式さんに奢るわ」

 「え……そ、そんな……悪い、ですよ……」

 「いいのよ。 それに、怪我をさせてしまった代わりと言っては何だけどさ……とにかく受け取ってもらえないかしら」

 「……………」

 古式さんはやはり戸惑っているようだが、ここはあたしが強引に押し切らなければ、彼女はいつまでも戸惑うか断る恐れがあった。

 だから、あたしは再び変なテンションを発動させて、突撃準備に入る。

 「それじゃ、ちょっと逝ってくるわね!」

 「さ、沙耶さん……?」

 「うぉおりゃあああああああああああッッ!!」

 そうして、あたしは古式さんを待たせて、混み合う人の群れの中に特攻を敢行するのであった。

 

 「はい、お待たせ」

 あたしは器用に二人分を両手に抱え、席を取って待っていてくれた古式さんのもとへ辿り着く。久しぶりにハードな戦いを経験したけど、普段の訓練に比べれば朝飯前だ。

 「すみません、わざわざ……」

 「いいのいいの。 えーと、肉うどんでいい?」

 「はい、いただきます……」

 あたしたちは席に付くと、各々のメニューを前に置いて両手を合わせた。「いただきます」という二人の声が偶然にも重なると、あたしたちはついお互いの顔を見合わせた。そして何だか可笑しくて、ぷっと吹き出すあたし。対する古式さんも、初めて微かな笑みを見せた。

 「あの、本当にありがとうございます……」

 あたしが奢った肉うどんに手を付ける前に、古式さんは改めてお礼を言う。

 「だからいいってば。 これはあたしなりの古式さんに対する気持ちだと思ってくれれば良いから」

 「……はい」

 そして古式さんはようやく、改めていただきますと言うと、ようやく肉うどんの麺を口にするのだった。

 同姓のあたしが言うのも何だけど、本当に小さな口で食べる古式さんの姿は、清楚で可憐という言葉がぴったりと来た。

 「……美味しいです」

 「そう。 それは良かったわ」

 先程までの初めて出会った時からの暗い雰囲気は、大分和らいでいるようにも見えた。あたしも心が軽くなるのを覚えながら、目の前に置かれた真っ赤なメニューを難なく口に運ぶ。

 「……………」

 「……?」

 熱い麺に微かに息を吹きかけ、今正に食べようとしていた古式さんがあたしの様子に気付いて動きを止める。古式さんの視線が、あたしの表情に釘付けとなる。

 「あの……どうしたんですか…?」

 「………ッッ!!」

 その瞬間、あたしは思い切り顔面を机の平面にぶつけた。

 「きゃッ!?」

 そんなあたしの不可解な行動に驚いたのか、古式さんの短い悲鳴が聞こえた。

 「あ、あの……?」

 古式さんのおそるおそるとしながらも心配に思ってくれているような声があたしに降りかかる。

 だが、あたしは机の平面に擦り付けた顔を真っ赤にして、ふるふると悶えるしかできなかった。

 そして、やっと振り絞った答えが―――

 「辛い……」

 「え……?」

 「やっぱ辛いわよこれぇッッッ!!?」

 ガターン!と音を立てて、あたしは思い切り机の上にあるメニューを揺らしながら、真っ赤になった顔を上げた。

 古式さんも唖然とした表情であたしを見詰める中―――

 「……でも美味い」

 「……………」

 古式さんの肉うどん、そしてあたしが目の前に置いているそれは、学内でも誰も食べようとはしない(一部例外を除いて)メニューで有名な激辛麻婆豆腐。

 こうしてメインとして食べるのは初めての経験だった。

 「うう……噂以上に辛い、そして美味い……」

 「だ、大丈夫ですか……?」

 「うん、大丈……」

 心配をかけまいと笑って、あたしは古式さんの方に顔を上げる。

 そして、丁度あたしの視線の先が、古式さんの左目を隠す眼帯へと差しかかる。

 「……………」

 古式さんの左目を隠す眼帯が、妙にあたしの中へ入り込んできた。

 触れてはいけないものを、その核心を見つけてしまったような直感。

 すぐそこに、彼女の全てがあるように感じられた。

 「沙耶さん……?」

 古式さんの声に現実へと呼び戻されるあたし。

 見てはいけないものを見てしまい、怒られるのを恐れているような子供のような心境で、あたしは受け応える。

 「な、なに……?」

 「どうか、したんですか……?」

 「ごめんなさい、何でもないの……ちょっとこの麻婆豆腐が辛すぎただけで……」

 あたしは誤魔化すように笑って答えるが、古式さんはジッと、その右目だけで、あたしの方を見据える。

 あはは…と、遂に消え入るような声を漏らすあたしに、古式さんがゆっくりと口を開く。

 「……やっぱり、変に思えますよね」

 「な、なにが?」

 ギクリと震えるあたしは、どこまでわかりやすいのだろう。

 そして、この娘も―――

 「……私の眼帯です」

 「―――!!」

 悲しそうな怒っているような、複雑な表情を浮かべる古式さんの紡がれていく言葉に、あたしはただ身体を硬直させるしかなかった。触れてはいけないものを触れてしまった。禁句を犯した罪人のように、あたしは縄で縛られたかのように動けなくなる。

 何故、こんな感覚に陥るのだろう。でも、古式さんに纏う雰囲気は、さっきとは豹変していた。

 どこか、悲しそうで……苦しそうで……

 とにかく、悲しい感情。

 彼女からは、そんな感情が波のように溢れ出る。

 「これは……私の弱さなんです……」

 どうして、そんなに……悲しそうなのか。

 どうして、そんなに脆くなっているのか。

 どうして、そんなに苦しそうなのか。

 「死んでも手放せない……酷い私の、弱さ……」

 周りの喧騒が寸断され、あたしたちだけが別の世界に切り離されているような感覚だった。

 それ程までに、彼女の一つ一つ漏らす言葉が、あたしを取りこんでいた。

 そして、そっと眼帯に手を触れながら、彼女は淡々と語り始める。自分の弱さを。自分の全てを。生前の、かつて生き生きとしていた自分の姿。そしてそれが絶望の淵へと叩きこまれる、希望を失った悲しい人生を―――



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EPISODE.48 Butterfly of Light

 私はある日、光の蝶を見た。

 それは唐突に、私の見る世界に入ってきた。

 それはとても小さくて、本当に大した事の無い、突然ではあったけどそれ程気にするものでも無く。

 私はただ、ひらひらと飛ぶ光の蝶を、特に考えることもなく眺めていた。

 

 ―――でも、それが全ての始まりだった。

 

 その日から、私の人生は闇にじわじわと喰われていったのだ。

 

 

 私は弓道の名門家の娘として、弓と共に過ごす毎日を小さい頃からおくっていた。

 代々弓道を名門として引き継がれてきた御家柄から、私も大きな期待を背負い、いつも弓道に励んでいた。

 お前には才能がある、と褒めてくれた父のためにも、私は、私を期待してくれる人たちを、裏切る事は絶対に出来ないと思っていたから。

 だから私は努力に努力を重ねた。全国にも名を馳せられるような地位まで昇りつめ、数々の栄誉を貰っても、私は決して足を止めることはなかった。私がどんどん期待に応えていくと、父や皆の期待も、大きくなるばかりだった。

 弓道のスポーツ推薦で高校に進学し、私は高校に入っても弓道部に入部し、その腕を振るった。私は高校生になっても、皆の期待に応えようと、弓を引き続けた。

 「古式は本当に凄いな。 さすが、弓道の名門である古式家の娘だ」

 私という存在には、必ずと言って良いほど、家の名も挙がる。私への期待は、私をここまで育ててくれた家に対するものと同じだと言っても良い。父からもそう教えられた。古式家のためにも、お前は常に強く、大きくなれと、幼い頃から言われてきた。

 「うわー、見て見てっ。 古式さんが放った弓、全部真ん中を射抜いてるよ!」

 「本当に古式さんって凄いよね」

 同じ弓道部の仲間からも、期待を寄せられる。大会が近くなると、仲間が先生やとても優しく接してくれる。

 「あれ? あの人、剣道部の……」

 最後の弓を的の真ん中に当てた直後、不意に聞こえてきた仲間の声。私はふと、道場の出入り口に視線を向けた。

 「…!」

 一人の男の子が、そこにいた。道着を着ていることから、すぐ近くにある別の道場で部活をしている剣道部の部員であることはすぐにわかった。

 その人は私の方を見ていた。

 私が視線を向けると同時に、その人と視線が合う。

 その人は私と視線が合うと、ふっとその場から離れてしまった。微かにお辞儀をしているように見えたのは気のせいではなかったかもしれない。

 私と目が合った剣道部の部員の彼は、私も知っていた。

 ―――宮沢謙吾。

 剣道部では凄腕の持ち主として有名で、彼の功績も度々耳にしている程。実家が剣道の道場を開いているせいで、彼も幼い頃から剣道一筋だと聞いている。

 要は、その生い立ちは私とどこか似ていた。

 でも、私はそれ以上に彼に関心を抱くことはあまりなかった。

 「(見られた、かな……)」

 彼と合った視線を思い出して、ぽつりと心の中で漏らす。

 私はもう一度、弓を持つ。

 その時。

 「……ん」

 微かに、視界に黒い紐が降りてきた。

 しかしそれは少しの間だけで、すぐに消えてしまった。

 今のは一体何だったのだろう。

 しかしそんな疑問は一瞬の間だけで。

 私は特に意識することなく、その後も弓を引き続けた。

 

 

 ぼやけた白世界で深い霧の中にいる。

 失明した者は、よく言う言葉だそうだ。

 そんな思いを、私が味わうとは夢にも思わなかった。

 でも、世界は非情だった。

 

 私はとうとう、頻繁に光の蝶を見るようになった。

 さすがにおかしいと思って、母と共に病院へと検査に行った。

 そして検査の結果、私は医師から宣告を受けた。

 「あの……今、何て……」

 宣告を聞き、母と共に驚愕に打ちひしがれた私は、震える声で目の前にいる医師に尋ねた。

 医師ははっきりと言った。

 私は目の病気にかかっている。今まで見てきた変なものもその病気の症状で、病気は既に深刻に進んでいる。

 それを聞いて、私は愕然となった。

 眼。

 病気。

 症状。

 深刻。

 それらの単語が、繋がり何を意味するのか。

 「……治り、ますよね……?」

 恐怖に震えながら、私は必死の思いで訊ねる。

 でも―――

 「誠に残念でなりませんが、既に手の打ち様もない程症状が進んでいます。 失明されるのも、時間の問題かと……」

 「………………」

 母が隣で泣き、私は涙が出なかった。

 もう見えなくなると言われた私の瞳は、既にその機能を失っているかのように、涙を落とすことはなかった。

 

 そして、私は光を失った。

 私の目に襲いかかった病気は容赦なく私の視界を、そして生きがいを奪った。目が見えなくなっては、もう弓は引けない。生きがいだった弓道の世界に、私は生きる術を完全に失った。

 私に大きな期待を寄せていた人たちも失望した。父は病気で視力を失った私に寄せていた期待を裏切られたことで、やり場のない怒りと絶望を抱えていたと思う。それが原因なのか、家の中も少しずつ揺らぎ始めていった。古式家を支えていた柱が、大きく揺らいだ。

 視力を失った翌日から、登校する私の右目は白い眼帯に覆われていた。私を期待していた弓道部も、私が弓を引けなくなった事で、私の居場所は無くなった。私に優しく接してくれた仲間たちは、あくまで同じ部員というだけで、そこまで親しい友達というわけではなかった。私が視力を失った時から、弓道部の仲間たちと接することは当然のように無くなった。

 というよりは、私の方から離れたと言っても良かった。弓が引けなくなった者は、弓道部にいても意味がない。私は退部届けを提出すると、二度と弓道部に関わることはなかった。

 

 これから私はどうやって生きていけば良いのか―――

 

 私が背負っていた色々な人たちの期待を裏切ってしまった。生きがいでもあった弓道を失った私に、生きる意味など無くなっていたのだ。

 私は無意味な日々をおくる。制限された視界に慣れようとし、ただ登校し、ただ息をするだけの、全く無意味な生活を。

 私には親しい友達はいない。弓道一筋だった私には趣味も無い。こんなつまらない人生を、私はおくることになった。

 そんな無気力な毎日をおくっていたある日、二度と関わることはないと思っていた弓道部の仲間が、私に声を掛けた。

 弓道部を退部してから姿を見せなくなった私を心配して、私の相談相手を捜していたと言う。

 そして私は、弓道部の仲間の紹介で、ある人と出会った。

 「初めまして、になるのか。 俺は剣道部の、二年生の宮沢謙吾だ。 よろしく」

 「……宮沢、さん」

 あの日、私と目が合った剣道部の人。

 それから、私は宮沢さんを相談相手とした日々が始まった。

 

 宮沢さんは私の相談相手として、いつも私と話してくれた。宮沢さんのことは学校内でも有名だったから、名前と噂だけは知っていた。家が剣道の名門で、道場を開いていることから幼い時から剣道の稽古に励み、今や誰にも負けない剣道部の有名人であると。

 学内では、弓の古式、剣の宮沢と並ばされるほど、私たちは似ていた。

 「古式は、何か趣味はないのか?」

 「趣味、ですか……」

 いつもの昼休み、私は宮沢さんとお昼を一緒にさせてもらいながら、会話をしていた。

 「私は昔から弓を一筋にしていたので……特にありません……」

 「そ、そうか……」

 「……すみません」

 「いや、古式が謝る事なんて何もない」

 「宮沢さんの趣味は何ですか……?」

 「お、俺か? そうだな……俺は、その……読書だ」

 「読書、ですか……?」

 「ああ、似合わないとは思うが俺は読書を嗜む。 読書は良いぞ。 古式もどうだ?」

 きっと宮沢さんは、私に弓道以外の生きがいを持ってもらおうと、私に他の趣味を聞いてきたのだろう。でも弓道一筋だった私は無趣味過ぎた。そして私からの問いかけに、宮沢さんは読書だと答え、私にも薦めてくれた。

 私は宮沢さんを見て、すぐにそれが嘘だとわかった。宮沢さんがそんな趣味を持っているなんて聞いたこともないし、宮沢さんの事を見ているだけで、わかってしまうから。

 でも、宮沢さんはいつまでも私の話相手になってくれた。

 「私、今まで弓道一筋で……ただ、弓道だけを頑張ってきたんです……家や皆の期待を背負って……でも、私は全てを裏切ってしまいました……」

 こんな私の言葉だって、宮沢さんは真摯に耳を傾けてくれた。そして、宮沢さんは嘘を吐くこともなく、思ったことを言ってくれる。

 「……宮沢さん、こんな事を聞くのは失礼だというのは承知です」

 「聞こうか」

 「―――もし、宮沢さんが私のように、生きがいを……剣の道を断たれてしまったら、どうしますか?」

 こんなことを聞くのは、剣道の道に生きる宮沢さんに無礼だということは自分がよくわかっていた。

 私も、かつては弓道を一筋に生きてきたから。

 それなのに、それを失ったらという事を聞くのだ。変に思われるのも仕方がない。

 でも、私は聞かずにはいられなかった。

 「……剣の道を断たれたら、か」

 「……………」

 「俺だったら……遊ぶな」

 「遊ぶ……?」

 「ああ。 例えば腕を折って剣道が出来なくなったとしても、それが永遠なものになってしまったとしても、俺は遊ぶだろう。 剣道が出来なくなったのであれば、別の事をすれば良いだけの話だからな」

 「……………」

 生きがいという程の大切なものが失われた時、そんな単純に済ませるものだろうか。

 少なくとも、私には無理だった。

 でも、宮沢さんは言い続ける。

 「勿論、剣の道を捨てるわけではない。 剣への想いは、以前より変わらないだろう。 だが、俺はきっとこうする。 仲間たちと馬鹿やって騒いで、自分が馬鹿になったみたいに、何に対しても笑うんだ。 悲しい思いを塞ぎこむようにな」

 「……………」

 宮沢さんの言っていることは間違っていないのだろう。もし宮沢さんが剣の道を断たれたとしても、本当に宮沢さんは今、言った通りになりそうだ。実際に、宮沢さんの周りには大勢の友人がいることは、学内でも有名だったから、私も知っていた。

 確か、リトルバスターズという団体だっけ……

 「羨ましいですね……」

 私はぽつりと、宮沢さんに聞こえないような声で小さく呟いた。

 「古式はいないのか? そうやって騒げる友達は」

 「友達はいます……でも、皆弓道部の人たちばかりで……」

 「そうか……」

 それに、私は昔から弓道一筋に生きてきたから、最近の若い娘たちが興味を持つような話題は正直付いていけなかった。昨日見たテレビ番組の話も、芸能人の話も、ファッションの話も、漫画やドラマ、映画などの話も。

 「……だから、今こうして接する事が出来るのは、宮沢さんだけです」

 私は周りの娘たちと違って、全然女の子らしい所など持たない。弓道に生きる者として、女の子らしい趣味は一切持ち合わせることはなかった。私自身も必要だとは考えなかったし、弓があれば十分だったから。

 でも、私はその弓を失った。

 「……私、ふと思うんですよね。 このままで良いのか、って。 でも、何も出来ないんです。 ただ、ぼーっと生きるだけの毎日。 学校にいる間はまだマシです。 授業を受けて余計な事を考えずに済むから。 でも、放課後になって……部活をしている人たちの音や声を聞いていると、切なくなるんです。 そして弓道部にいた頃を思い出してしまう。 私はいつも逃げるように寮に帰りますが、夕食の時まではする事がないので、その日の復習をやって……そして夕食を食べたら、次の日の予習をして……でもそれも終わってしまえば、本当にする事がなくなるんです。 後は、寝るだけです。 そして私はいつも思います。 まるで、息をするだけのようで……無意味に生きていると思えて、仕方がないんです」

 「古式……」

 「……すみません、長々と私なんかの話を聞いて頂いて」

 「いや。 これが俺の役目だ」

 宮沢さんは真剣に私の話を聞いてくれる。

 でも、私は宮沢さんにいくら話しても……私に灯る明かりは弱いままだった。

 こんな事、宮沢さんに悪い事だって言うのはわかっている。

 でも、私はやっぱり、絶望の淵に落ち込んだままなんだ……

 希望が見えない。

 私の右目は、何も見えないから。

 「……お前は、俺の知っている奴に少し似ている」

 「え……?」

 「かつて今の古式のように、暗闇に引き籠っている奴がいた。 でもそいつは、今ではしっかりと自分の足で歩く事が出来ている。 まぁ、まだ心配な所はあるがな……」

 「……だから、私の力になろうとしてくれているのですか?」

 「勿論、俺が古式の力になりたいと自ら思っているからだ」

 「宮沢さんが……?」

 「少しでも、俺は古式の力になりたいんだ……」

 宮沢さんの真摯な瞳が、私を真っ直ぐに見詰めてくれる。

 でも、それでも……

 「……ありがとうございます、宮沢さん」

 私は、やっぱり……

 「宮沢さんの気持ちは嬉しいです。 でも……」

 見えない。

 前まで、見えていたものが。

 「私は……やっぱり、見えない……」

 私は顔を下げ、肩を震わせる。

 そんな私を見て、宮沢さんは何も言わなくなった。

 私はただ、宮沢さんの隣で、肩を震わせるだけだった。

 

 

 私の人生は、視力を失ったあの時から、既に終わっていたんだ……

 

 

 私は一人、食堂で寂しく食べる。

 周りはそれぞれグループで食事を楽しみ、喧騒が包まれている。

 そして彼も―――その一人だった。

 喧騒の中心で、特に騒いでいるとある一団。その中に、宮沢さんはいた。

 私と似ている宮沢さんは、私が持っていないものを持っている。

 宮沢さんは私の存在に気付いたけど、私は気付かないフリをする。宮沢さんは、あんなに良い友達を持っている。それを改めて知ると、何故かここには居られなくなった。

 この気持ちは何だろうか。

 私はすぐにその場から立ち去った。もう一度、宮沢さんが私がいた場所に視線を向けていたが、既に私は食堂を逃げるように飛び出していた。

 

 やっぱり私は、宮沢さんのようにはなれない。

 私は、弱い。

 宮沢さんのように、楽しく騒げる自信がない。

 何もかも、自信がない。

 私はとても弱かった。

 宮沢さんは、またいつものように私の相談相手になってくれる。

 でもそれは、宮沢さんの貴重な時間を私が奪ってしまう形にもなっていた。

 剣道部はそろそろ大会が近いと聞いた。宮沢さんは剣道部のエースとして大会に向けて練習に励まないといけないはずなのに、そんな貴重な時間を削ってまで、私に会いに来てくれた。

 私はその事でいつも謝っているのだが、宮沢さんは「気にするな」と、いつも優しく返してくれる。

 でもそれが逆に、宮沢さんへの申し訳ない気持ちが膨らむばかりで、苦しかった。

 私は、周りに迷惑をかけてばかりだ。

 私が弓道が出来なくなったことで、私に期待していた父を中心に、家の中は変わってしまった。私が視力を失ってからは、実家に帰ったのは一度きりとなり、もう家に帰ろうとは思わなかった。

 

 私は……いらない娘だ。

 

 そして私は、決意した。

 酷い決意を。

 

 

 ある日、私は授業を無断欠席して学校の屋上に昇っていた。普段は立ち入り禁止とされている屋上は、弱い風が吹いているだけで何もない。私はふらふらとした足取りで、屋上の端に向かった。

 柵を乗り越え、地上から数十メートル離れた場所に立つ。指の先まで、言い様のない微かな寒気が伝わる。ここから一歩でも前に進もうとすれば、真っ逆様に地上に落下するだろう。

 そして、助かる保障もない―――

 私は自分で、全てを片付ける決意をした。

 弓道部の仲間たちや家族、宮沢さんには申し訳ないと思う。

 でも、私はやっぱりこうして生きている事が耐えられなかった。

 自ら命を断って楽になると言う、酷い決意を抱いた私は、人知れず、その身を投げ出そうとする。

 その時―――

 「君ッ! 何をしているんだッ!」

 「…ッ!?」

 突然聞こえてきた大人の声。振り返ると、教師たちがいた。柵の向こう側にいる私を見て、教師たちは愕然とした表情を浮かべた。教師たちは各々に、そこを動くなとか、考え直せとか、説得を口にしながら慎重に私の方に近付いてくる。

 「こ、来ないで……」

 「落ち着くんだッ! 馬鹿なことはやめろッ!」

 「嫌……」

 近付いてくる教師たち。

 このままだと、また皆に迷惑をかける。

 私は、これ以上―――

 その間、私がどれだけ呆然としていたかはわからない。

 ただ、柵を乗り越えた教師の一人が、私を捕まえようと手を伸ばしかけた所で、私は意識を取り戻した。

 「嫌……ッ!」

 私はその手から逃れようとして、一歩、後ずさった。

 そう、一歩……

 

 ずるり。

 

 「――――ッ!!」

 私の足は、虚空へとずり落ちる。

 紐が解かれ、黒髪が宙に広がる。

 あっという間に、私の身体は無重力の空間に投げ出されていた。

 そして―――重力に従って、私は落下する。でも、私が見える視界や、身体の感覚が、全てがスローモーションに感じた。

 「あ……」

 儚い声が、漏れる。

 そして―――最後に映ったのは、光の蝶だった。

 日の光が覆い、そして―――宮沢さんが、映し出される。

 私が最期に見たもの、そして言葉にしたものは―――

 

 

 「宮沢さん……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 「………そして、私は死んでこの世界にやって来ました」

 周りを包む喧騒の中、私の話を聞いていた沙耶さんは、最後まで私の話を黙って聞いていた。

 沙耶さんがどんな表情をしているのか、私には見えない。

 「……これが、私の弱さなんです」

 そう言って、私は眼帯をそっと触れる。全ての根源を。希望が見えなくなり、絶望の淵に叩きこまれた私の人生の象徴を。顔を下げた私の片目だけの視線の先には、冷めた肉うどんが佇んでいた。



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EPISODE.49 Guilt

 かつて、この地下の燃え盛る炎の海に天使を落としたことがある。

 あの時、あたしたちの手によって地獄の業火に落とされた天使が帰ってきたかのように。

 あたしの目の前に、憎悪に染めたような赤い瞳を宿した天使が立ち塞がっていた―――

 

 

 あたしは分身―――天使と正面から火蓋を切った。拳銃(ハンドガン)を手に、あたしは地を蹴る。正面から向かってくる天使に向かって何発も引き金を引く。しかしどの弾も天使の身体を貫く前に、弾き返されてしまう。

 そしてその間に間合いが詰まり、接近戦に移る。

 両手から生やした白い刃を振り回す天使に対して、あたしは斬りかかる刃の軌跡を読み、避ける。虚空を切り裂く天使の刃を眼前に流しながら、隙を狙って天使の懐へと入り込む。

 「はぁ…ッ!」

 「……ッ!」

 天使の細い腕を掴み取り、その華奢で軽い身体を思い切り投げ飛ばす。女のあたしでも十分遠い距離まで投げ飛ばすことができたが、あたしは尽かさず攻撃の手を緩めない。投げ飛ばした先にいる天使に向かって、引き金を引く。

 だが、遂に引き金も手ごたえを空回りするようになる。

 「(弾切れか…ッ)」

 あたしは弾切れになった拳銃を懐にしまうと、即座に手榴弾を手に取って投げ込み、天使を爆煙に包ませた。

 地を揺るがすような爆発が響き渡る。あたしはゆっくりと爆煙が立ち込める風景に目を見張るが、晴れる土煙から現れたのは、無傷な天使の姿だった。

 「くそ…しぶといわね……」

 唇を噛むあたし。通常の武器では効かないなんて、どこの化け物なのか。

 「―――!」

 その時、天使が新たな動きを見せていることに気付く。

 両手の刃を掲げ、その刃先を交叉するようにしている。それを見たあたしは、彼女の部屋にあったパソコンの画面に映っていた光景を思い出し、ハッとなる。

 「(まさか……!)」

 あたしはそれを、パソコンの画面にあった“あの攻撃”だとわかる。

 「音無くん、耳を塞いでッ!」

 オリジナルの方に向かった音無くんに向かって、あたしは叫んだ。

 もし、次の攻撃が来るとしたら―――

 

 「ガードスキル、ハウリング」

 

 その瞬間、交叉した天使の両手から生えた刃の中心から、あらゆる物体を破壊するような超音波が響き渡る。

 空気を通し、辺り一帯を切り刻むその音は、正しく超音波兵器。

 岩が砕け、地面が切り刻み、土が舞い上がる。

 この威力を以てすれば、常人なら、簡単に行動を不能にさせることができるだろう。

 でも―――

 

 「(悪いけど、その技はとっくに知ってるのよ……!)」

 

 あたしはナイフを手に、超音波を放ち続ける天使に向かって駆け出す。

 そんなあたしを見て、天使の表情は驚愕の色に染まっていた。

 そしてあたしは、天使の胸に―――ナイフの刃を突き刺した。

 

 天使の胸にナイフを突き刺すと同時にその身体を押し倒す。天使が倒れると、超音波は止んだ。

 「ふふん」

 あたしは勝ち誇った笑みを浮かべ、顔を上げる。あたしの下で倒れる天使が何か言っている。

 「気絶……しない……」

 でも、あたしの耳にはそんな声は届いていなかった。

 何故なら―――

 「えっ? 何て? 耳栓してるからよく聞こえないのよッ」

 そう。あたしは事前に天使の攻撃に備え、耳栓をしていた。おかげでハウリングの攻撃を受けることはなかった。

 天使はそんなあたしの言葉を聞いて、どうにかあたしから逃れようと無駄な抵抗を見せる。

 そんな風に抵抗しても、あと少しで終わりなのに。

 「ほら、観念しなさい。 でないと、もう一本のナイフで喉をかっ切っちゃうわよ?」

 あたしはもう一本のナイフを手に取り出し、天使に向かってニッコリとした笑みを向けるのだった。

 

 そう、これで終わり。

 後は音無くんがオリジナルを見つけて、この天使の分身たちは消える。

 そしてこの鬼のような状況から抜け出せるのだ。

 

 「……あなたには悪いけど、こうするしかないのよ」

 

 血を口から流し、子供のように抵抗をする天使を見下ろし、あたしはぽつりと呟いた。

 そもそも、こんな事態になったのもあたしたちが原因でもあるんだ。

 いや……あの日、音無くんが彼女を連れてきて、それを認めてしまったあたしのせいだ。

 彼女を巻きこまなければ、彼女があたしたちを守るためにハーモニクスを使うことはなかったし、この騒動を引き起こす要因に繋がる事にはならなかった。

 全ては、あたし自身の責任だ。

 あたしはなんて酷いリーダーだろう。

 仲間たちも、これまでにまた何人も犠牲にしてしまったのだから。

 そして、彼女を何人も傷つけてしまって―――

 

 「……ごめんなさい、立華さん」

 

 あたしは、彼女に謝るようにそう言うと、手に持ったナイフを、その首下に振り下ろした。



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EPISODE.50 Interstice of Will

 ゆりが分身を抑えてくれている間、俺は一面に広がる広大な土くれの上を走る。奏の姿を探し求める俺を、焦りがじわじわと追い詰めてくる。一刻も早く、奏を捜して助けなければいけない。そんな思いが俺の中で大きくなっていった。

 「―――!」

 そして、ようやく見つけた。

 攻撃的な分身たちと死闘を繰り広げ、やっとの思いで辿り着いた最深部の先で、奏を発見する。

 寝巻にくるまれ、天使のような寝顔で眠る奏のもとへ、俺は急いで滑り降りるように駆け出した。

 「奏ッ!!」

 彼女の名前を呼び、俺は眠っている奏のそばに駆け寄った。

 正に天使のような寝顔で眠る奏だったが、奏が無事なのかどうかが、俺の中では最もな最優先事項だった。俺は奏の名前を呼びながら、奏の両肩に触れる。俺の声に応えるように、奏は目を覚ましてくれた。

 「……ん」

 目を覚ました奏を見て、俺は安堵する。

 だが、不安はまだ拭えない。

 「大丈夫か…ッ?」

 「うん……」

 とても小さな声だったが、彼女ははっきりと答えてくれた。

 「戦線のみんながな、命を張ってお前を助けに来たんだ!」

 「そう……」

 かき消えそうな声。どこも身体には異常は無さそうに見えるが、もしかしたら今までの分身たちが奏の身体に何らかの影響を与えているのかもしれない。とても儚いその声は、奏が今にも消えてしまいそうな程、か細いものだった。

 「奏、お前、本当に大丈夫なのか……?」

 「うん……ちょっと……疲れてる……だけ…」

 そう言う奏の声は、弱々しかった。

 俺は、こんなにまでなっている奏に、そんなお願いをするのか?

 いや、しなくてはいけないんだ……

 でないと、奏も俺たちも、誰も助からない。

 俺は心が締め付けられるような気になりながらも、必死に言葉を振り絞る。

 「奏、無理をさせて悪いが……一つ、能力を使ってほしいんだ」

 既に能力の一つで、奏の状態はこんなにも悪化しているのに、その上また能力を使えというのは酷な話である。

 でも、奏は―――

 「うん……」

 と、答えてくれた。

 「……ハーモニクスだ。 それを使ってくれれば、みんなが助かる」

 その時、また締め付けられる、痛みを感じる心。

 「そう……わかった……」

 「使っても、身体はもつか……?」

 「うん……一回くらいなら……」

 そう言ってくれる奏だが、やはりどこか苦しそうだった。

 奏は瞼を閉じ、精一杯残った力を振り絞るように、呟いた。

 「……ガードスキル、ハーモニクス」

 その瞬間、奏の身から飛び出した光が、一瞬の内に奏の姿へと変えた。

 俺の目の前には、もう一人の奏が立っていた。

 今まで攻撃的だった分身のことを考えれば、今の分身も攻撃的な可能性がある。それを用心するために、俺は拳銃を手に持つ。

 だが、それはいらない心配だったようだ。

 「……プログラムの書き換えをしたようね」

 瞳は赤いが、どうやらこの分身は他よりはマシに話せるみたいだ。

 「ああ、全て奏(こいつ)の中に戻る……」

 俺はそう言って、奏の方を見る。

 そう、これでゆりが言った通りに、全ての分身が奏の中に戻る。そうなれば、何もかもが元通りだ。

 俺は疑いもなくそう信じていた。

 だが―――

 「……あれだけの冷酷な私たちが」

 「どういうことだ……?」

 俺は今の奏の分身の言葉に、引っ掛かりを覚える。

 「分身にだって意識はあるの。 それは消えてしまうわけではない……“同化”するの」

 全ての攻撃的な分身が、奏という一つの存在に戻ってしまう。

 それは消えてしまうのではなくて、同化してしまうこと。

 それはつまり、どういうことになるのか。

 「あなたたちを襲った沢山の私たちが、この娘の中に戻るの……」

 「……………」

 「それだけの意識を一度に取りこんでしまって、只で済むと思う……?」

 俺は、微かに震えていた。

 それがどういった意味を、奏に齎すのか、知ってしまったからだ。

 奏にとって、俺にとってもそれは酷い内容だ。

 だが、目の前に立つ分身の赤い瞳は容赦なく俺に現実を突きつけていた。

 分身の唇が―――嗤(わら)う。

 

 「―――時間ね」

 

 その時、見えないタイムリミットが始まった気がした。

 「待ってくれ……ッ!!」

 いや、始まったんじゃない。

 それは既に、今、終わったのだ。

 タイムリミットが零になった時。

 分身は全て―――奏の中に取りこまれる。

 「――――ッ!! あ……ッッ!!」

 目の前にいる奏が、突然苦しみの声をあげる。全ての分身が、渦のようになって奏に集中して雪崩れ込んでいるのだ。奏の中に大量の“奏”が濁流のように押し寄せ、取りこまれていく。その光景はとても残酷なものだった。

 「あ―――ぐ―――ッ―――あぁ―――ッッ!!」

 「くそ…ッ!」

 目の前で苦悶の声を漏らし続ける奏を、俺は抱き締める。少しでも奏が苦しみから解放されることを願い、俺は必死に苦しむ奏を自分の身に抱き寄せた。奏は俺の腕の中でがくがくと震え、もがき苦しむ。

 「無事でいてくれ、奏……ッッ!!」

 俺のそばから響いて聞こえてくる奏の悲鳴は、止まることがなかった。どれだけの奏が流れているのか、俺にはわからない。でも、それだけ多くの奏が奏の中に流れ込み、そして奏が苦しんでいるということは俺にも痛いほどよくわかった。

 

 

 

 そして―――奏の分身たちは消えた。

 

 だがその代償として、奏は意識を失うことになった―――

 

 

 ―――医局(閉鎖中) 保健室。

 意識を失った奏を運んで、俺たちは地上に戻ってきた。分身は消え、奏は一人に戻ったが、当の奏は身体に俺たちが想像できない程の負担を受けたせいで意識を失い、一向も目を覚ます気配がなかった。俺たちは地上に戻るとすぐに奏を保健室へと運んだ。

 「……この娘、一度に沢山の意識と同化しちゃったんだってね」

 ベッドに奏を寝かせ、そばに置いた椅子に座り込んだ俺の隣でゆりが呟いた。

 「ああ……」

 俺は瞼を閉じたまま動かない奏の顔を見詰めながら、答える。

 「……あたしのせいね」

 ゆりはそう呟くと、その場から立ち去ろうとする。

 俺はその瞬間、咄嗟にゆりに声をかけていた。

 「いや…! ゆりは悪くない。 ゆりはリーダーとして最高の仕事をした」

 「そうかしら……?」

 「戦線の最大の危機を回避してみせた。 それに、沙耶が教えてくれた後だったとしても、誰だって想像できなかったさ。 ギルドに大量の分身を配置して、待ち構えているなんてさ……」

 「……………」

 「それに、あれは奏の……冷酷な奏が考えた作戦で、それはやっぱり奏だから……仕方がなかったことだと思う」

 「そう……」

 カーテンに隠れて、ゆりの横顔は見えない。

 だけど、俺は今、ゆりがどんな表情をしているのか、わかっている気がした。

 「……そう言ってくれると、助かるけど」

 ゆりは最後にそう言い残すと、俺と奏を残して立ち去っていった。

 「……ッ」

 そう、これは誰が悪いとかじゃない。

 勿論、ゆりのせいなんかじゃない。誰かを責めるなんてことは間違っている。

 もし責任があるとしたら、それはこの俺だ。

 こんなにも奏を苦しませてしまう結果になってしまうことは、誰だって望んでやいなかった。

 こんなのは―――只の、悲しいだけの酷い状況だ。

 俺は奏の顔に視線を移す。

 奏の顔はまるで死人のように色白で、何も発せず、動かなかった。

 「なあ……病院なんてない、誰も病まないって言ってたじゃないか……」

 動かない。

 目覚めない。

 目の前にいる奏は、深い眠りに入ったまま戻ってこない。

 「じゃあ何で……起きてくれないんだ……ちくしょう……ッ」

 何もしてあげない、何もできない自分が憎くて。

 悔しかった。

 悲しかった。

 目を覚まして、またその天使のような輝きを俺に向けてほしかった。

 また、奏と話をしたかった。

 だが、俺がいくら心の中でそれらの想いを反芻させても、奏には戻ってくる気配などどこにもなかった。奏は深い眠りに入っているように、ずっと俺の前で眠り続けていた。



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EPISODE.51 Feeble Mind

 対天使用作戦本部として使用されている校長室は例の如く主な戦線メンバーが、あたしたちを含めて集まっていた。しかし、実際はそれ程日も経っていないはずなのに、不思議とこれが久しぶりのように感じられる。

 主な戦線メンバーと言っても、音無くんは一人、立華さんのそばにいる。今ここにいるのは、音無くん以外のいつもの主要メンバー。あたしの隣には、古式さんがいる。

 作戦は一応、成功したと言って良いのだろうか。ギルドに潜入した音無くんたちは遂に立華さんを救い出し、分身を全て消すことはできたが、その代償として多くの意識を取りこんでしまった立華さんが意識を失い、今は危険な状態だった。

 目覚めない立華さんを背負った音無くんやゆりっぺさんたちが顔色を変えて戻ってきた時は、あたしもさすがに驚いた。

 まさかこんな事になるとは、誰も想像できなかっただろう―――

 そしてここにいるメンバーで、今後の予測できない事態に対処する会議が始まった。

 「今までにないことです。 天使のこのような状態は初めてであり、今後も目覚めないという場合もあり得るかもしれません」

 眼鏡を持ち上げ、口を開く高松くんの言葉に、場の空気は重くなっている。

 みんながそれぞれ、沈黙していた。

 沈黙が部屋を支配する中、その沈黙を破ったのは、ゆりっぺさんだった。

 「……それこそイレギュラーな事態よ。 ……目覚めるわ。 いつか目覚めて、ただ寝過ぎたという結果で終わる」

 それはまるで、確定されているというよりは、願いのようであった。

 そして、今度は予想外の人物が口を開く。

 「その時の彼女は、どの彼女なんだ?」

 みんなの視線がその人物に集中し、場はまた違った沈黙に包まれる。

 ゆりっぺさんに続けて言葉を続けた人物―――椎名さんは、壁に背を預けながら、みんなの注目を浴びていた。

 そして、どわっと一斉に驚きの声があがる。

 「うおおッ!? 椎名が喋ったッ!」

 「これは相当重要な問題だってことだよッ!!」

 みんなの反応から見てわかるように、この事態が如何に大きいものなのかが伺えた。

 「正に、そう……」

 ゆりっぺさんは肯定する。

 そして続ける。

 「それが問題よ……」

 「……………」

 大量の意識を取りこみ、眠ったまま目覚めない立華さん。だが、それは想像以上に深刻な事態。

 次に目覚めた時、彼女は―――?

 それが、重要だった。

 「…で、どっちの天使なんだ?」

 それは、あたしたちに攻撃的な意思を見せ付けた分身と、あたしたちと一緒にいた時の立華さんの意識か。

 どちらかが、問題だ。

 「あたしたちと一緒に釣りをしたりした時の立華さ……天使であることを願うばかりだけど、一方の意識はあたしたちに対してとても好戦的で冷酷だった。 分身もあれだけいたから、数で言えば100対1」

 あたしの言葉に、みんなの意思が動揺したのがわかる。それもそうだ。あたしたちを襲った分身たちは、立華さんとは違って自ら武力的な方向へと動き、容赦の欠片も無かった。身を以てそれを体験したあたしたちがそれを一番よく知っている。

 「……多分、そのたくさんの意識があいつの小さな頭の中でぐちゃぐちゃにせめぎ合っているから、目覚めないんじゃないのか?」

 「日向くんの言う通り。 割合的に言えば、元に戻る可能性は―――」

 「1パーセント、ってところね」

 あたしの言葉を、ゆりっぺさんが繋ぎ―――ざわめきが一瞬起こる。

 これは―――もしかしたら最も最悪な展開になるのかもしれない。そんな不安が、みんなに押し寄せていた。

 「……どうする?」

 「手は打ってあるわ。 竹山くんたちを天使エリアに送り込んで、マニュアルを解析させてもらってるわ。 何かの打開策か、手掛かりを見つけてもらうためにね」

 「TKと松下は?」

 「保健室よ。 二人の見張り」

 「TKはああ見えて、全然英語が駄目だからな……」

 それはあたしがこの世界に来てから、久しぶりに大いにびっくりしたことでもある。

 まぁ、この際どうでも良いことだけど。

 ゆりっぺさんが考えたのは、立華さんのパソコンにある例のソフトを初期化させることで、立華さんが持つ能力を封じること。だが、それが出来たとしても単なる一時凌ぎにしかならない。

 だったら、機械ごと壊してしまえば―――?

 そんな声もあがった。

 だが、パソコンの換えはいくらだって存在する。ここは学校だ。備品の補充など、朝飯前だろう。

 「後は、天命を待つだけね……」

 そう言って椅子から立ち上がると、ゆりっぺさんはゆっくりと窓の方へ歩み寄る。

 夜の暗闇を映す窓を、手のひらでそっと触れながら、ゆりっぺさんは呟く。

 

 ―――果たして、神は誰に味方するのか。

 

 

 

 「……あ、あの、沙耶さん……」

 「何? 古式さん」

 会議の後、任務に就いている竹山くんやTKたちを除いて、メンバーは一旦解散となった。束の間の自由時間であるが、あのまま何もせず、何も出来ずに重い空気の下で固まるよりは、一度少しでも縛る紐を緩めた方が良い。だが、誰一人気が休まる者はいるわけもなかった。

 「何だかとても大変なことになっているようですね……」

 「そうね……」

 古式さんはそのままあたしの隣にいる。古式さんと出会い、古式さんと一緒にいた時にみんなが帰ってきて、そのまま流れて現在に至っている。

 今まで特に目立った活動はしていないと言っていた古式さんが、主要メンバーの場に参加することは初めてのようだった。だからかただでさえ緊張していたのに、おまけにこんな戦線の危機と言うべき事態だ。古式さんに掛かる重圧はどれ程のものなのか計り知れない。

 「ごめんね、古式さん。 付き合わせちゃって……」

 「いえ、沙耶さんが謝ることなんて何もありません」

 そう言って、彼女は首を横に小さく振ってくれる。

 「それに私に何か出来れば、力になれたのでしょうけど……やっぱり私は、無力で情けない子のようです」

 「ど、どうしていきなりまた、そんなネガティブな方に行くのよ…!」

 「すみません。 私も、たまにこんな自分が嫌になります。 昔もそうだった」

 昔、とは生前のことなのか―――古式さんは、寂しそうな表情で顔を上げた。

 「こうして、いつも“あの人”を困らせていた……」

 片方の瞳を閉じる古式さんは、今、何を見ているのだろうか。

 下ろした瞼の裏で、古式さんが見ているものは、呟いたその人なのか―――

 そっと瞳を開けた古式さんは、ゆっくりとあたしから少しだけ距離を取った。

 纏めて伸ばした髪をさらりと揺らし、振り返った古式さんは、あたしを正面に見据えて口を開く。

 「私はそろそろ寮に帰ります。 今日は私と付き合ってくれて、ありがとうございました」

 「古式さん……」

 自分がいても邪魔になるだけだろう。そんな意志が、古式さんの内に秘められている気がした。それは、言ってみればあたしは何だかんだ言って古式さんを貶めているのではないだろうか。

 何も言えないあたしの、そんな表情を見据えて、古式さんはぺこりと頭を下げると、背を向けて小走りで去ってしまった。

 あたしは一人、その場で煮え切らないような気持ちを味わう。

 「(あたしこそ……何もできやしない……)」

 みんなと一緒に立華さんを助けに行くことだって出来なかった。今もどこかで苦しんでいるように見える古式さんにかけてあげる言葉さえ見つからないでいる。立華さんが今戦っているのに、あたしは何もしてあげる事が出来ない―――

 あの頃の―――何度も死んで、無限のようにループした時の気持ちに似ていた。

 自分の不甲斐無さ、無力感に不安や苛立ちを覚える、とても嫌な感覚。

 ざわざわとして、毛虫が這いつくばるようで、気持ち悪い。

 「……ッ」

 唇を噛む。

 また弱い自分に戻ろうとしている自分自身を叱咤する。

 「駄目だ……弱気になるな、あたし……」

 ここで弱気になっては、彼に笑われてしまう。

 また彼に会いたい。それまでに、彼と共に強くなった経験を枷に、この世界でも生き延びてみせるんだ。

 そして、辿り着く場所へと辿り着く。

 この世界で出会った、みんなと共に―――

 

 保健室前。あたしは扉の前で見張りをしている松下くんとTKに遭遇する。

 「どうしたんだ?」

 「ちょっとね……二人は?」

 「ああ、何だか静かだ」

 「Quiet time...」

 「そう……ちょっと、良いかしら?」

 あたしは二人の了承を得て、そっと扉の前に立つ。

 今、保健室には立華さんと音無くんがいる。だが、保健室はシンとしていて静かだった。あたしはそっと保健室を開け、中を伺う。明かりは窓から照らす月に光だけで、青い静寂が降りていた。

 「……………」

 そのままあたしは意を決して、ぐっと室内へと足を踏み入れる。背後から松下くんの「お、おい…!」と言う小さな呼び声が聞こえたが、悪いがそれに構わず、あたしはそのまま慎重に保健室へと入室する。

 静寂の中、あたしは足音を立てずに、立華さんが眠っているベッドへと向かう。

 そっとカーテンから覗くと、そこにはベッドの中に身を沈めて眠る立華さんと、音無くんがいた。

 「音無くん……?」

 見ると、音無くんも眠っていた。

 ベッドに眠る立華さんのそばで、腰を下ろした音無くんはそのまま頭を垂れて寝息を立てている。

 「……………」

 あたしは無言で、眠っている二人を見据えると、そのまま音を立てずにその場を立ち去った。

 保健室を出ると、見張り役の松下くんとTKがいた。あたしはすぐに二人の肩をぐっと掴んだ。

 「行くわよ」

 あたしは小声で二人に言うと、そのまま二人を引っ掴んで保健室の前から離そうとする。

 「Oh!」

 「ちょ、ちょっと待ってくれ…! 持ち場を離れるわけには……」

 「いいから、行くわよ」

 あたしは困る松下くんとされるがままになるTKを多少強引に保健室の前から引き離す。眠る二人は置いて、あたしたちはそれぞれ名残惜しそうにしながらも保健室を去るのだった。

 二人がお互いにそばにいれば、それで良い。今は眠らせてあげよう。立華さんは一人で戦っている。そしてそのそばには音無くんが付いている。あたしたちが隙入る間などどこにも無い。

 「(負けないで、立華さん……)」

 あたしは立華さんが再びあたしたちの前に戻ってくることを想い、今も一人で戦っている立華さんに伝える。その想いが、彼女のもとに届くことを祈りながら―――



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EPISODE.52 In Your Memory

 突然ハッとなって、目を覚ます。何時寝たのか覚えていないが、自分が今の今まで気を失っていたことは何となくわかった。

 体中が痛い。今がどういう状況なのか、何がどうなっているのか、冷静な判断力を取り戻すにはもう少し時間が必要である頭で、俺はぼーっとうっすらとした暗闇に映る電車の天井を見詰めていた。

 そうだ、俺は受験会場に向かうために電車で――――

 そこで、俺は思い至ったようにポケットの内にある携帯を取り出す。

 開いた携帯の液晶画面に浮かぶ時間を見る。

 「……やっべ、過ぎてるじゃん……センター試験……」

 声を出すのも精一杯だった。

 これじゃあ試験を受けることさえ出来ずに終わるな……と、俺は未だに思考が冷静に定まらない頭でそんなことを考えながら、力をふっと抜いていた。

 だが、静かすぎる静寂が俺の耳を、どこか変な匂いが俺の鼻を、それぞれ刺激する。俺はそこで大分今、自分に置かれている現実を掴みつつあった。重たい身体に再び力を絞り込み、ぐっと起き上がる。

 そして俺は立ち上がって、目の前に広がる光景を知って、愕然とした。

 正に声が出ないとはこの事だった。

 電車に乗っていた大勢の乗客が、薄闇の中で倒れている。積み重なるように、隙間を埋め尽くすように倒れた人々からは、呻き声が微かに聞こえてくる。だが、呻き声さえ出さずにぴくりとも動かない人も少なからずいた。

 目の前に広がる惨状に気を奪われていると、後ろから聞こえてくる金属音。

 振り返ると、そこには隣の号車からやって来たらしい男がいた。

 だが、俺が彼のぼろぼろな姿を見つけると同時に、男は崩れ落ちるように倒れた。

 「おい…ッ! 大丈夫か……!?」

 俺は足を引きずりながら、男の方に向かう。

 「少し……ふらふらする……」

 「額から血が出てる……」

 男の額から流れる血。すぐにその傷を確認すると、俺は破った布で止血を試みる。

 「意識は……?」

 「大丈夫……」

 外観からしてわかる怪我は額の傷ぐらいだが、まだどこかを傷つけているかわからない。おまけに頭というのは人間にとって最もデリカシーな部分だ。今が平気だったとしても、頭というのは決して油断はできない。

 「気分は……吐き気とかあるか?」

 「ッ……大丈夫……あんた、医者か?」

 「…まさか。只の学生だよ」

 俺は破った布で彼の頭を巻き上げる。これで止血はどうにかなるはずだ。

 意識はあるし、返事をする元気はある。

 「立てるか?」

 俺は彼に肩を貸しながら、彼の身体を起き上がらせる。

 とりあえずここを出た方が良いと判断したからだ。

 こんな場所じゃ、まともに怪我を見ることだって出来ない。

 俺たちは扉を蹴り破り、何とか車外に飛び降りる。俺の後に、続いて彼も飛び降りるが、着地と同時に足をふらつかせる。俺は咄嗟に倒れそうになった彼を支えた。

 「大丈夫か?」

 「ああ、すまない」

 彼はそう言って苦笑を浮かべるが、やはりまだ調子は悪そうだ。

 「…ッ!」

 そして俺は、外に出て、その光景を目の辺りにする。

 いや、ここはまだ外じゃない。

 崩れた瓦礫、覆い尽くすトンネルの壁。傾き、破損した電車。それらが全て、俺たちが今置かれている状況として物語ってくれていた。

 「ひでえ……」

 「ああ……兎に角、助けを呼ばないと……」

 だが、開いた携帯は圏外。

 「くそ…!」

 中に閉じ込められ、こちらから助けは呼べない。最悪だ。

 だが、今、俺は他にしなければならないことがある。

 「中にいる人たちを助けよう」

 電車の中には巻き込まれた大勢の乗客が取り残されている。あんな悲惨な状態だ。自力で動けない者も大勢いるだろう。

 俺が電車の方に歩き出すと、そばから掛けられる声があった。

 「手伝おう」

 彼の言葉に、俺は驚く。

 「大丈夫なのか?」

 「…まだ少しふらつくがな」

 そう言って、彼は苦笑する。

 「五十嵐だ」

 彼は自己紹介と共に、握手を求める。

 俺も自分の名前を返しながら、それに応える。

 「急ごう」

 それが、始まりだった。

 閉じ込められた世界で、俺たちの、長く苦しい戦いが――――

 

 

 俺と五十嵐の二人から始まった救助作業は、進むに連れてその規模を少しずつ大きくさせた。動ける者は動けない者を助け、車外まで連れていく。そして使える物を極力使って怪我の手当てを行った。中には重傷の者もいたが、応急手当てが精一杯だった。

 そうして、みんなの協力もあって、電車から降りれる者はほとんど降りることが出来た。だが、周りから漂うのは絶望と悲しみだ。これからどうなるのか、助かるのか、そんな不安がこの場にいる人々の内に充満している。

 「……………」

 俺はそんな空気を振り払うように、ある場所を目指して足を上げることにする。

 「出口を見てくる! 出られたら、助けを呼んでくるッ! そうしたら必ず戻ってくるから。 ライト、少し借りてくな!」

 「ああ、頼むッ!」

 トンネルは長い。まだ闇の先がどうなっているのかは未知数だ。

 もしかしたら出口があるかもしれない、そんな淡い希望を抱きながら、俺は闇に向かって歩を刻む。

 「音無ッ!」

 「?」

 俺を呼び止めたのは、一緒にみんなを助けるのに協力してくれた五十嵐だった。

 五十嵐は笑みを浮かべると、高く響き渡るように言った。

 「絶対助かろうッ!」

 その言葉が、周りの不安とは異色で、故にそのまま吹き飛ばしてくれそうな淡い希望だった。

 そして俺はその希望を助長するように、

 「ああッ!」

 と、高らかに返すのだった。

 そして俺は再び歩き出す。天国か地獄か、どちらか待っているかのような闇の先へと。

 

 ―――しかし、現実は非情だった。

 長いレールの先を目指して歩いた俺の目の前には、ライトの光に照らされて浮かぶ瓦礫の山が立ち塞がっていた。

 携帯を開いてみても、圏外の表示は変わらない。

 どこかに出口はないかと辺りを見渡すが、隙間なく瓦礫で塞がれている。

 「くそ…ッ!」

 俺は吐き捨てる。

 思わず腹に力が入って、突き刺すような痛みが俺の身に襲いかかった。

 「いッて…ッッ!」

 今更のように気付いたかのような、鋭い痛み。じわじわと固くて鋭い痛みが拡散していく異常な程の痛みが俺を蝕む。

 思わず膝を折り、立っていられなくなる程だった。

 携帯を落とし、俺は横腹を抑えながら項垂れる。

 尋常ではない痛み。どこかおかしい、そんな異変を感じる。俺は自分の横腹を確認するように、袖を掴む。

 「な……んだよ、コレ……ッッ」

 俺の目に映るのは、今まで見たことがない程に紫色に染まった自分の横腹。

 そこから俺の精神を撫で上げるように痛みがじわじわと広がっている。

 だが、その場で痛みに悶えるばかりにはいられない。

 痛みを堪えながら、俺は立ち上がる。

 とにかく、戻らないといけない。

 俺は足と痛みをずるずると引きずるように、元来た方向へと引き返した。

 

 

 戻ってきた俺の姿を見つけるや、俺の名前を呼びながら駆け寄ってくる五十嵐。その瞳には希望の光が垣間見えたが、それを見てしまったと同時に俺は申し訳ない気持ちに陥る。

 「どうだった?」

 「……………」

 俺は重たい口を何とか開きながら、俺が見てきたことをありのまま説明するしかなかった。

 「……そうか。 脱出は難しい、か……」

 「すまない……」

 「なに謝ってるんだよ? 音無は何も悪いことなんかしてないだろ。 むしろ、俺たちは音無に助けられてる」

 「そんなこと……」

 俺は、自分に向けられている数多の視線に気付く。

 それぞれの感情が表されたような瞳。落胆、絶望、苛立ち。中には無気力な瞳もいる。

 俺はそれらの視線に向けて、ぐっと足を踏み込む。

 「みんな、聞いてくれッ! トンネルは前も後ろも土砂で塞がっている。 携帯も繋がらない。 外との連絡も取れない」

 一瞬、ざわつく。

 だが、俺は続ける。

 「これからは一心同体。 一人だけ助かろうなんてことは考えないでほしいッ! 食糧と水を集めて、平等に集めようッ!」

 「ちょっと待てッ! 何時からおめぇが仕切ることになったんだぁッ!」

 「じゃあ誰が仕切るッ?!」

 俺の代わりに答えてくれたのは、五十嵐だった。

 「怪我人の看病の指揮を誰が取るッ! こいつには医療の知識がある。 まさか怪我人は放置なんてことはないよな?」

 「そ、それはないけどよ……」

 真っ直ぐにビシビシと言う五十嵐の言葉と威勢に、彼らはたじろぐ。

 辺りを見渡せば、他の者たちも五十嵐の言葉によって、今とこれからの現実を受け止めたかのように、素直に納得するような表情になっていた。

 俺は内心で五十嵐に感謝しつつ、俺も言葉を紡ぐ。

 「―――必ず助けが来る。 それまでの辛抱だ」

 そして最後のひと押しのように、俺は高らかに告げる。

 「一緒に頑張ろうッ!!」

 

 

 そして、俺たちのサバイバル生活が始まった。日の光は一切射すことはない閉じ込められたトンネルの中の世界で、俺たちは助けが来るまで生き抜こうとする努力を始めた。食糧は分け与え、水も同様だ。だが最低限の量で分割しても、俺たちの命を繋ぎとめるソレが尽きるのは時間の問題である。それもまた、百も承知の状態だった。

 だが、時は刻々と過ぎていく。そして同時に俺たちの食糧や水も減っていく。

 途中で耐えられなくなった奴がパニックを起こしたりと、何度も障害は当然の如く俺たちの身の周りに起こった。それは起こるたびに、確かに絶望や不安が俺たちの上に積み重なっていった。だけど、俺はめげなかった。いや、俺だけでなく、五十嵐や他の生き残った人々も、耐え抜こうとした。試練を乗り越えて、俺たちの絆は深まりつつあったのもまた事実だっただろう。

 「お前って、すげぇよな」

 俺は一番の重傷者の定時的な手当て(気休め程度にもならないが)を終え、そっと彼を寝かせつけた後、唐突に五十嵐がそんな風に声を掛けてきた。

 「何がだ……?」

 「いや…何でそこまで献身的なんだろうなって。 NPOにでも入って、海外にでも行く気か?」

 五十嵐はそう言いながら笑う。俺はその時、五十嵐にそう言う事を言われて初めて、心に蟠(わだかま)るものを覚えた。

 「いや、そんなつもりはないけど……」

 そもそも俺は、他人のために何かを尽くしたい思いから、医者を目指して勉強をしていた。

 そしてそれは、いつも病気がちで寝てばかりだった、かつての生きがいだった妹という存在がきっかけで―――

 「ま、お前みたいな奴がいたからこそ、俺たちはこうして生き長らえてるわけだけどな」

 「五十嵐……」

 「音無のような統率力があるリーダーがいなかったら、とっくに俺たちは絶望の淵に叩きこまれて、何もかも諦めてただろうよ……お前のおかげで、俺たちは僅かでも希望を持って、こうして助けを待つことが出来ているんだ」

 そう言って、五十嵐は俺に水が入ったペットボトルを差し出した。

 ある時、規則を破った一人の騒動で失ってしまった水。俺自身が失った水の分を負う事にしたのだが、結果的に五十嵐にもその負担を背負わせてしまっている。五十嵐はあの日から、俺に僅かな水を分け与えてくれている。

 「だけど、お前のような奴が無理をし過ぎて先にぶっ倒れるんだ。 自分の身体も大切にしておけよ?」

 「……ああ、ありがとな」

 俺は五十嵐の気の良い笑顔に応えるように、素直に生命の水が入ったペットボトルを受け取った。

 僅かな水だが、口にし、喉に通ると強い気を与えてくれるような潤いが流れ込んでくる。五十嵐の気持ちが籠ったその水は、俺に力を与えてくれた。

 美味い。

 本当に。

 「よし…」

 俺は沸き上がる気を握り締めると、立ち上がろうとする。

 まだ怪我人は他にも沢山いる。そいつらの方も見てやらなくちゃな……と、俺は足元をぐっと踏みしめ、ゆっくりと起き上がる。

 その時―――

 「―――ッ?!」

 鈍い痛みが電流のように体中を駆け廻り、俺はガクリと膝を折る。

 そんな俺の姿に怪訝な表情を浮かべる五十嵐がいた。

 「ど、どうした? 音無。 もしかして、どこか具合でも悪いのか……?」

 「大丈夫だ…」

 俺は装うように、精一杯の少し歪んでいるかもしれない笑みを浮かべる。

 「ちょっと、疲れで足がふらついただけさ……」

 「おいおい、だから言っただろ。 無理するなって」

 「ああ、そうだな……後で少し休むよ……」

 俺はまるで五十嵐から逃げるように、微かに震える足取りで、その場を後にする。

 五十嵐の気を掛けてくれているような視線に見送られながら、俺は密かに横腹を抑えつつ、歩を刻んだ。

 「……くそ。 まだ、まだ……駄目なんだよ……」

 俺は自分の身体にそう言い聞かせ、崩れそうな膝を必死に抑えながら、自分のやるべき役目に向かうのだった。

 

 

 「音無ッ! 音無ッ!!」

 俺は五十嵐の呼びかけに、閉じ込められてから夢を見なくなった眠りから目を覚ました。五十嵐の只事ではなさそうな声色を聞いて、俺は咄嗟に身体を起こす。

 「なんかやばいんだッ! 来てくれッ!」

 五十嵐を含めた数人がある場所に集まっている。あそこは一番の重傷者が寝かせ付けられている場所だ。嫌な予感がする。

 「……ッ」

 俺は横腹の痛みに襲われながらも、急いで立ち上がり、五十嵐の方へと駆け寄った。

 五十嵐たちが囲んでいるのは、頭に目立ち過ぎる程に包帯を巻いた一番の重傷を負った男。いつもは壁に寄せ付けるようにしているのに、目の前の彼はぐったりと横たわっている。嫌な感覚が俺の指先を蝕む中、俺はその手で彼の身体を掴んで引いた。

 「―――!!」

 ざわっと震える空気。

 そこには、恐ろしい程に顔色を無くした男の顔があった。

 すぐに心臓の鼓動を確認するが、鼓動は聞こえず、呼吸によって起こる胸の上下に動く膨らみも全く見られない。口元から漏れるものは泡だけだ。それらの状況を知った俺が取った行動は、蘇生への対処方法だった。

 「……ッ! ……戻れ…ッ……戻れ……ッ!!」

 必死に彼の胸の中心を押しながら、俺は念じるように繰り返す。人口呼吸を試みても、彼が戻ってくる気配は全くと言って良いほど無かった。

 みんなが見守る中、俺は無我夢中でその行動を繰り返し、続ける。だが、その光景は見るに耐え難いものだったものかもしれない。

 「……ッッ! ……戻…れよぉ……ッ! ……ッッ!!」

 何時しか、俺の言葉は既に言葉ではなくなっていた。五十嵐に止められた時には、俺の口から漏れるものは、嗚咽へと変わっていた。

 「……くそ…ッ!」

 一人の死は、その場にいる全ての者に、初めての絶望の底を観覧させてみせた。

 そして俺は、崩れた足場から、一人で闇の底へと落ちていった。

 

 

 闇の海に落ちて、沈みながら、俺は思う。

 

 

 ―――あの日から、俺は何を頑張ってきたんだ?

 

 あいつに、初音に生きる意味を教えられて……

 

 それで……また人の命を目の前で失って……

 

 

 ……何も、変わっちゃいない。

 

 

 ―――俺は、無力なままじゃないか。

 

 あの日から、何も変わっちゃいないじゃないか―――

 

 

 くそ……くそ……ッ!

 

 

 

 

 

 

 あの日から、閉じ込められてからどれくらいの時間が流れたのだろう。

 

 最早それを覚えている者は誰もいない。むしろ、そんなものはどうでも良いとさえ思えてきた。

 遂に食糧や水が尽き、生き残った俺たちの体力も限界に近付きつつあった。

 冷たい場所に身体を寝かせ、出来るだけ残る体力を消耗させないように。

 だが、その身体はどの道動くことさえままならない。

 このまま朽ち果てていくのか。

 そんな結末が、俺たちの想像に生まれるようになっていたかもしれない。

 

 寝たまま、動けない。

 

 俺は、初音の事を思い出していた―――

 

 

 天気が良く晴れたある日、初音は調子が良かったらしかった。らしい、と言うのは本人がそう言い張っているだけだからだ。実際はいつもよりは咳が目立っている。

 「けほけほ…ッ」

 ほら、また咳き込みだした。

 「もう休んだ方が良いんじゃねえのか……?」

 だが、初音は拒否権を行使する。

 「もうちょっと読みたい」

 「……………」

 初音が読んでいるのは、いつものように俺が初音のために買ってきた漫画の雑誌だ。相変わらず適当に買ってきたものだから、前に買ってきた雑誌から続いているものなのか正直わからないが、それでも初音は俺が買ってきた漫画の雑誌を楽しみに読んでくれている。

 咳をしてまで、俺が買ってきた漫画の雑誌を読みたいと言う初音の意思に、俺は否定する権利を持たない。

 仕方なく、初音がしたいままにさせてやった。

 「仕方ねえな……」

 だが、そのままでは兄としての尊厳が許さない。

 「ほら」

 俺は溜息混じりに立ち上がると、着ていたジャンパーの上着を初音に羽織らせてやる。初音の小さな身体はすっぽりと収まった。

 「風邪でも引いたらことだからな。 でも、何で良くならないんだろうな?」

 「ドナーがいれば良いんだけどね……」

 「ドナー?」

 初音の口からは滅多に聞いたことがないような言葉の種類に、俺はやけに印象濃く記憶に残った。

 

 そう、初音はあの時、ドナーという単語を口にした。

 そして、その単語の意味する所を、俺は初音から教えられたことがある。

 医者の先生か看護師から聞いたらしい、ドナーという存在。

 それは―――他人が他人の命を繋ぎ止めるもの。

 

 「……五十嵐、サインペン……あるか……?」

 「………あぁ」

 俺はすぐそばにいる五十嵐からサインペンを受け取る。その行為でさえ、微々たる体力しか残されていない身には精一杯の事だった。

 俺は五十嵐からサインペンを受け取ると、自分の保険証を懐から取り出した。

 視界がぼやける中、俺は保険証の裏面に視線を定める。

 そこには―――臓器提供の文字が刻まれている。

 それは、自分の命が尽きた時、自分の死んだ身体に残された臓器を、生きるために必要としている他人に提供できる事を記したもの。そこに自分の意思さえ書き記す事が出来れば、たとえ自分の身体が死んだとしても、その身体は他の誰かのために役立てることが出来る。

 俺は迷わず、全ての欄に、震える手が持つペンで書き記す。

 「……ふん、全くよぉ……」

 すぐそばから、五十嵐の微かに笑い捨てるような声が聞こえた。

 そして、五十嵐もまた自分の保険証を手に持った。今度はそれを見た別の奴が、怪訝に疑問を投げかける。

 「んだよ、それ……」

 五十嵐は保険証の裏に書きこみ始めると、丁寧に答えた。

 「こうしておくと……自分の命が尽きても……それでも、その命が他人(ひと)のために使われる……生きてきた意味が作れるんだ……」

 五十嵐の言葉が、俺の耳に入ってくる。

 だけど、俺はそれをただ聞いているだけで。

 周りが俺たちと同じことを始めたことに、俺は五十嵐に言われるまで気付くことが出来なかった。

 「なあ……やっぱお前はすげぇよ……音無、見ろよ……あれだけ絶望していた連中が、誰かに希望を託そうとしている……」

 俺は、五十嵐の言葉に返してやることができない。

 答えてやることも、見ることも。

 「……お前が、みんなの人生を……救ったんだぜ……」

 ああ、そうか……

 俺は、成し遂げることが出来たのかな……

 これで俺は、叶えたかった事を、叶える事が出来たのかな……

 「音無……」

 もう、俺は空だった。

 あれだけ痛かった横腹の痛みも、もう感じない。

 痛みに耐えるために抑えていた手も、もう必要ない……でも、もうその手も動かすことが出来ない。

 力が無い手から、保険証とペンが音を立てて落ちる。

 俺は―――その音さえ、聞いていない。

 「なあ、音無……聞いてんかよ……」

 光が、射しこむ。

 石が崩れて落ちてくるような音と共に、光が俺たちの方へと射しこんでくる。

 「音無ぃ……ッッ」

 俺は、真っ白な光を浴びる。

 やっと、俺たちは外に抜け出せた。だけど、俺とみんなとは、意味が違った。

 俺は身体を包み込むような真っ白な光を浴びる。その光は世界を覆い尽くすように広がり、俺の意識をゆっくりと真っ白な世界の先へと吸い込んでいった。



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EPISODE.53 Sharing

 それは俺の中に流れ込んできた。

 まるで水のようにすんなりと俺の中に流れていったそれは、どこか懐かしくて、元から知っていたような感覚を俺に植え付けた。

 聞こえてくるそれは、心地良いリズム。

 まるで鼓動のように一定に波打つそれは、俺に記憶という名の遺産を掘り起こした。

 俺は取り戻した。

 そして、俺は帰ってくる。

 頭に触れる優しい感触に、俺は目を覚ます。暖かい光が照らす中、ゆっくりと顔を上げた俺の目の前には、奏の優しい瞳があった。

 「―――奏ッ!」

 俺は思わず彼女の名前を叫び、椅子から勢い余るように立ち上がる。

 「お前な、心配したんだぞ! 大丈夫かっ? 身体は平気か……ッ!?」

 俺の急かすように並び立つ言葉の応酬にも、奏は一切動じるような素振りを見せることもなく言った。

 「壮絶な戦いだった……」

 そう言う割には、相変わらず冷静な口調だった。

 「戦い……?」

 「あなたと約束した私が目覚めたのは、奇跡ってこと……」

 「……………」

 奏は、大量の意識と同化したことで、一人で多数の意識と戦っていた。そして、奏は俺との約束通り、こうして俺たちの前に帰ってきてくれたのだ。

 それは奇跡と言っても過言ではないかもしれない。でも、俺はそれよりも何より、奏が無事に帰ってきてくれたことに安堵するばかりだった。

 「……なあ、奏」

 「……何?」

 「俺、全部思い出したよ……死んだ時のこと……」

 奏から微かに驚いたような空気が伝わる。

 もしかしたらもっと驚いているかもしれない。

 それもそうだ。今まで無かった俺の死ぬまでの記憶が、ここでやっと全部思い出したのだから。

 「センター試験の会場に向かう途中、列車の事故に巻き込まれてさ……」

 奏は静かに、俺の話に耳を傾けてくれている。

 「俺、医者になりたかったんだ……誰かの為になりたい……ありがとう、って言ってもらえるために生きたいって……そう思って、結構必死に勉強したんだけどなぁ……」

 それが、俺の生きようとした想いだった。初音を失い、誰かの為になれる生き方をしたいと思い始めて、俺の人生はそうやって刻まれていったんだ。

 「でもさ……俺は最期に、この身体をドナー登録で残せたんだ。 俺の身体は、誰かを助けてあげられたはずだ……」

 俺はそっと、自分の身体に手を添えた。

 俺の意思は、身体は、死んだ後も残して、それが誰かの為に使われたはずだ。俺は魂となっても、身体と、その身体に込められた俺の意思は確かに残せた。

 「……そう信じる」

 俺の意思は、既に叶っていた。

 俺は―――報われていたんだ。

 「……!」

 その時、奏の白い手が、そっと俺の頬に触れた。

 顔を上げた目の前には、真っ白な光に覆われて、本当の天使のように輝く奏がいた。

 「……きっとその誰かは、見知らないあなたに、ありがとうって一生想い続けるわね……」

 言葉を紡ぐ奏は、微笑んだ。

 俺は少し驚く。そして、心がとても暖かくなるのを感じる。

 奏が言うと、まるで本当に、俺が助けることができた人からありがとうを言われたような気がして―――

 「……結弦」

 「なんだ…?」

 「ならもう、思い残すことはない……?」

 思い残すこと……

 この世界に来た理由。

 それがあるのか、無いのかと問われれば、俺は多分一方の方だろう。

 「……そうだな、誰かを助けられたなら、俺の人生はそう悪いものではなかった。 そう思えるよ」

 俺ははっきりと奏に告げた。

 思い残すことはない。

 それは俺の正直な気持ちだった。

 「……!」

 そこで、俺はあることに気付いた。

 自分の人生に思い残すこと、未練があることはつまり、この世界に居る理由だ。

 だが、それがなくなってしまえばどうなるか。

 俺はそれを知っていたはずだ。

 「……もしかして俺は消えるのか?」

 俺の問いに、奏は答える。

 「思い残すことが無ければ……」

 「……………」

 俺は奏の言葉を呑みこんで、考える。

 それはすぐに出てきた。

 俺の人生は確かに報われていたと思う。この世界に来ることになった理由は解消されたと言っても良いだろう。

 だけど、俺がこの世界に居る理由はまだ消えてはいない。

 何故なら―――

 「……あいつらがいる」

 「……そう」

 あいつら―――俺を導いてくれた戦線の奴ら。

 「……あの人たちとずっと一緒にいたい?」

 「それは……仲間だからな。 いたいさ、でも……今は違う気持ちもある」

 俺は、ついさっき暖かい気分を味わった心を撫でるように確かめる。

 「あいつらも、俺と同じ報われた気持ちになってさ……みんなで、この世界から去れれば良いなって、また新しい人生も悪くないってさ」

 あいつらにも俺と同じ気持ちを感じさせてやりたい。自分の人生は決して理不尽なことばかりではない。それをあいつらにも教えてやりたいと思った。

 「でしょ……」

 奏は微笑を浮かべながら、同意を求めた。

 俺は勿論、頷く。

 「ああ」

 やっぱり、奏もそう思っていたようだ。

 あいつらには天使とか言われて散々敵視されてたけど、やっぱり良い奴なんだ……

 と、俺はそこまで思って、ふと引っ掛かりを覚える。

 「……ちょっと待て」

 俺は今、重大なことに気付いてしまった気がする。

 俺は奏に向き直り、問いかける。

 「お前はもしかして、この気持ちをみんなに知ってほしかったのか……?」

 「知らなかった……?」

 「知らねえよッ!!」

 俺は思い切って奏の方に飛び出す。

 まさか本当にそうだったとは、俺は驚きを隠せない。

 「っつか、俺はお前にいきなりブッ刺されたんだぞッ!?」

 俺は、初めてこの世界にやって来た日のことを思い出す。

 俺がこの世界に初めて訪れた日、俺は新人勧誘をするゆりの忠告も無視して、何も知らないままに当時天使と呼ばれていた奏の前に来て、初っ端から心臓を一突きされた思い出がある。

 「……だって、あなたが死なないことを証明しろって言うから」

 確かに俺はあの時、死後の世界だということを信じられなくて、奏にこの世界では死なないことを証明してみせろと言った。

 だが、その疑問の答えとしてあんな行動を取ったというのだから、俺は開いた口が塞がらない状態だ。

 だけど、それはこの際どうでもいい。

 というよりは、もしそれが事実だとしたら、奏の他の行為もほとんど戦線に誤解を与えていたのではないだろうか。

 「(なんて空回りをしてきたんだ、こいつとあいつらは……そしてこいつの不器用さと言ったら……!)」

 最早、呆れるばかりである。

 そして奏は、呆れる俺に対して小首を傾げていた。

 「真面目に授業を受けたら幸せなのかッ!? 部活動したら満たされるのかッ!?」

 「……だって、ここに来るのはみんな、青春時代をまともにおくることが出来なかった人たちだもの」

 「そ、そうなのか……?」

 「知らなかった……?」

 そんな当然のように言われても、俺には初耳だ。

 「知らねえよッ!! っつか、そんなことどうやってわかるんだよっ?!」

 「……見てて気付かなかった?」

 「……………」

 そこで時間が止まる。

 何だか、急に力が抜けてきた気分だ。

 「(そうか……)」

 俺はふっと、椅子に座りこむ。

 俺は気付く。この世界の真実に。

 ここは、若者たちの魂の救済場所だったのだ。まともに青春時代を過ごせなかった魂が報われるために作られた世界だった。

 日向も、あのセカンドフライを取っていたら報われて消えていた。

 そうだとすると、なんてお節介をしてしまったのだろう、俺とユイは。

 岩沢はそれを自分の力で達成して、報われて消えていった―――

 そう。

 誰もここに居たくて居るのではない。

 人生の理不尽に抗っているだけ。

 それを奏は、そうじゃないと―――

 理不尽じゃない人生を教えてあげたくて。

 人並みの青春を教えてあげたくて。

 ここに留まる彼らを説得してきた―――

 

 ―――それが、何て皮肉な話だ。

 

 それだけの話だったのに、お互いの信念を貫くために対立し、やがて武器まで作りだして……今では抗争の毎日だ。

 俺はそこで、溜息混じりに言葉を吐く。

 「どこまで不器用なんだよ、お前……」

 「……知ってる」

 「自覚はあるんだな……」

 「うん…」

 俺は苦笑する。

 奏は続けた。

 「でももし……」

 「?」

 奏は、俺の目を真っ直ぐと見詰めて、言葉を紡ぐ。

 「あなたがいてくれたら、出来るかもしれない……」

 俺は、奏のその真摯な瞳と言葉から、彼女の意図を察した。

 「それは、手伝えってことか……?」

 「……本当ならあなたは消えているはず。 でも、あなたは残っている……」

 「お前の初めての味方になれるのか……? 俺は」

 「……あなたが思い残していることは、そのことじゃないの?」

 「あ、ああ……そうかもしれない……」

 でも―――俺は知っている。

 酷い過去に、立ち向かう勇気を持とうとしている奴を。

 理不尽な人生に、どこまでも抗おうと決意している奴を、俺は知っている。

 「……無理だ……ッ、いや、だからこそ、そんな記憶を永遠に背負い続けようとしているあいつだからこそ、救ってやりたい……ッ!」

 だけど、俺は思う。

 出来るだろうか、この目の前にいる不器用な天使と―――

 何?と小首を傾げる天使を見て、俺は無意識に肩を落としてしまう。

 「(頼りねえ……やっぱり無理か……?)」

 だが、それだと抗争は続くことになる。

 無理だと思っても、これはやるしかないのではないだろうか。

 そうやって、自分自身に言い聞かせる。

 そして問いかける。

 「(どうすればいい……? あいつらの仲間であり、奏の味方でもいられる俺が、何とかしなくちゃいけないんじゃないのか……?)」

 そうだ。これが出来るのは、俺しかいないんじゃないのか?

 あいつらと、奏の間に取り持つことができる存在はただ一人。

 それは、俺自身じゃないだろうか。

 俺は、決意する。

 「……なあ、協力してくれるか?」

 俺の言葉に、奏は言い返す。

 「それはこっちの台詞じゃない……?」

 「そ、そっか……そうだよな……」

 “天使”に何を言っているのだろう、俺は。

 とことん自分の馬鹿加減に笑えてくる。

 「……わかったよ、奏。 卒業させよう、ここから、みんなを」

 俺がはっきりとそう言うと、奏はどこか嬉しそうに、天使のような微笑みを浮かべてくれた。

 

 

 

 

 「……随分と、泣かせる話じゃない」

 

 

 

 突然の声に、俺はぎくりと驚く。奏もその声に反応するように、俺と同じ方角に視線を向けた。

 そして俺たちの前に顔を出したのは、長い金髪を流した蒼い瞳の少女。俺がよく知っている、たった一人のパートナー。

 「さ、沙耶……ッ!? お前、いつから……」

 沙耶は俺の動揺ぶりを見て、ぷっと吹き出す。可笑しいと言いたげに笑いながら、沙耶は俺たちの方に歩み寄る。

 「あなたが立華さんに頭をなでなでしてもらってる時からよ」

 むしろ俺が目覚める直前からだった。

 ……っていうか、やっぱりあの感触は奏の手だったのか。今更ながら、顔が赤くなってしまう俺だった。

 「何だか入りづらいというか、見てて面白い空気だったから、こっそり観賞させてもらったわ」

 「全然気付かなかったぞ……」

 「あたしは隠密行動が売りのスパイよ? 気配を消すことぐらい、朝飯前よ」

 あるだけある胸を張りながら、沙耶は誇らしげに答える。

 「それより、音無くん、立華さん」

 「な、なんだよ……?」

 突然切り替わるように、沙耶は真剣な表情になって俺たちのそばまで歩み寄る。

 「話は全部聞かせてもらったわ。 あたしも、協力する」

 「え……?」

 俺は、沙耶が言ったことに一瞬理解ができなかった。奏も微かに驚くような色を見せる。

 「沙耶、今なんて……」

 「あなた、耳が悪いの? もう一度言うけど、あたしはあなたたちに協力するわ。 話はそこで聞かせてもらったからね」

 「な、何故……」

 「何故って、そこまでおかしいことかしら? ここまで知ってしまって、協力しないわけないじゃない。 それに、あたしは音無くんの唯一無二のパートナー。 パートナーのすることは、全力でサポートするつもりよ」

 「沙耶……」

 協力すると言ってくれた沙耶。俺たちの目的を成すための仲間が増えたことに、俺と奏は喜びを隠せない。俺にとっても、ここまで沙耶が付いてきてくれることは本当に有難いし、心強い。

 「沙耶、ありがとな……」

 「ば、馬鹿ね…! お礼を言われるまでもないわよ…ッ!」

 沙耶は顔を赤くすると、ふんっとそっぽを向いてしまった。

 そんな沙耶を前にして、俺と奏は顔を見合わせて笑った。

 「な、なに笑ってるのよ…!」

 「……本当に、ありがとうね沙耶」

 今度は奏にも言われて、沙耶は更に顔を赤くする。

 「私も、沙耶って呼んで良いかしら……」

 「う、うう……す、好きにしたら良いじゃない……」

 「じゃあ、好きにするわ……沙耶…」

 「ううう…ッ」

 耳まで赤くなっている沙耶を見て、俺は耐えきれずに噴き出してしまう。

 「う、うがぁぁぁぁ―――――ッッ!! 笑いすぎだぁぁぁぁぁ――――ッッ!!」

 「ははは、悪い……くっ」

 「いい加減にしないと、撃つわよ……?」

 「すみません」

 いつの間にか俺の額にぴたりと拳銃を向けていた沙耶に向かって、俺は即座に謝罪する。

 呆れるように溜息を吐く沙耶が拳銃を仕舞い、頭を下げる俺の横ではベッドにいる奏がくすくすと微笑んでいる。

 何だか、全然悪くないと思えてしまう俺だった。

 「……それに、それだけじゃない」

 「……?」

 顔を上げた俺の目の前には、沈鬱な影を落とした沙耶の表情があった。

 「あたしにも、記憶の呪縛から解放させてあげたい人がいるから……」

 沙耶の寂しげに揺れる瞳は、沙耶が言っているその人を見ているのだろうか。

 そこで俺は、沙耶の気持ちが俺たちと近いものであることを知ることが出来た。

 俺は、沙耶の前に手を差し伸ばす。

 「これからもよろしくな、パートナー」

 「音無くん……」

 沙耶は少し驚いたような表情で俺の方を見据えていたが、やがていつもの笑みを浮かべて―――

 「ええ、よろしく」

 と、俺の手を握り返してくれた。

 ここに、俺と沙耶、奏、三人の戦線が成立した。この世界から、みんなを卒業させるという使命を持って、俺たち三人は結束した―――

 

 

 

 そして、翌日になって奏は生徒会長に復帰することになった。奏を生徒会長の席から失墜させたきっかけとなった戦線によるテストの偽造工作。その真実を表に明かすことによって、奏の潔白を証明させて生徒会長席に復帰させる。戦線の彼らの過去を引き出すには、奏が再び生徒会長として敵に戻った方が良い。そんな提案が沙耶の口から上げられたからだ。

 奏は再び敵役を演じるために、生徒会長に復帰した。

 そしてあの作戦に関与した俺やゆりたちは、全員反省文を書かされる羽目になった。

 日向たちの愚痴を流しながら、俺と沙耶は黙々と反省文を適当に書き連ねる。

 俺はペンを動かしながら、思いに耽る。

 みんなの過去を引きだすためとは言え、再び奏を戦線の敵にして、対立関係に戻してしまう。それは、奏には悪いことをさせてしまっていると思う。

 でも、全てが終わったらきっと―――

 俺はふと、反省文を連ねる手を止める。

 終わったら―――?

 俺は、ぽっと沸いた疑問を、思い浮かべる。

 その時―――俺たちはどうなるのだろう、と。



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EPISODE.54 It Begins to Sing

 ―――焼却炉。

 学園校舎裏にある焼却炉から空に向かって立ち上っていく煙を見上げつつ、俺はこれまでの経緯(いきさつ)を振り返る。奏や戦線を巻きこむ程の大きな騒動があり、何とかそれも奏が元に戻ったことで解決し、今となっては限りなく平穏に近い方だろう。更に俺も生前の記憶を思い出し、こうして奏や沙耶と今後のこの世界でやるべき事を決める事が出来たのも大きな一歩だと思う。

 まずは何をするべきか、俺はあれからしばらく考えて、ようやく方針を固めた。そんな風に俺が空に昇る煙を仰いでいると、不意に奏から声を掛けられる。

 「……それで、何から始めるの?」

 焼却炉の前で各教室から持ってきたゴミ箱を構えながら、奏は俺に問いかける。

 俺は焼却炉の扉を開けるのを手伝いながら、答える。

 「凄く悩んだんだけどさ、ユイが良いかと思う」

 「……誰?」

 「ほら、大食堂のゲリラライブでバンドのボーカルをやっていた奴。 覚えてないか?」

 「……ああ」

 焼却炉の中から覗く火の中にゴミを捨て、奏は本当に今まで忘れていたように、頭の中で唐突に思い出したように声を漏らす。

 「あいつ、いつも元気でさ。 日向を苛めては笑っているし、バンドのボーカルをして楽しんでるみたいだし、やりたいことをやっていてさ、もう十分報われているんじゃないかって思うからさ。 後は、ほんの一押し……」

 俺は、今まで見てきたユイの姿を思い浮かべる。とても元気があって、あそこまでいつも楽しそうな表情を見せる奴を、俺はユイ以外に見たことがない。

 これはあくまで俺の偏見かもしれないけど、ユイはこの世界に未練がないんじゃないかと思うくらい、いつも本気で楽しんでいるように見えるのだ。俺の思い違い、という線は十分にあるかもしれないけど。

 でも、俺はこうも思う。

 「背中を押してやれば、あいつはここから出て行ける。 そんな気がするんだ……」

 どんなに楽しそうでも、この世界に留まっているのだから、未練があるとしてもその背中を少しでもこちらから押してあげれば、ユイはこの世界から卒業できるのではないだろうか。少なくとも、メンバーの中では一番卒業に近いのはユイではないかと思っている。

 あいつには、早く次の人生で、本当の日常を楽しんでもらいたい。そんな思いも、俺の内にはあった。

 「ちょっと待って」

 予期しなかった声に、俺は振り返る。そこにはいつの間にか、校舎の壁に寄りかかって腕を組んでいる沙耶の姿があった。

 「何だ? 沙耶」

 「……音無くん、一ついいかしら」

 「?」

 沙耶は胸の前で腕を組んだまま、背を校舎裏の壁に預けながら、瞳だけを俺にジッと見据えた。だが、その水面のように蒼い瞳は真剣そのものだった。

 俺は思わず、その真剣に揺れる沙耶の瞳に息を呑んでしまう。

 「本当に、ユイちゃんから始めて良いと思ってる……?」

 「へ……?」

 「つまり、本当にユイちゃんを成仏して良いのかってことよ」

 沙耶の予想外の質問に、俺は一瞬ぽかんと呆けてしまった。

 「当たり前だろう? あれから俺はずっと考えてたけど、やっぱりユイから始めた方が良いと思っている」

 「本当に……?」

 「……?」

 一体どうしたのだろう。沙耶は何を考えているのだろうか。

 沙耶は真剣に満ちた色を見せていたが、それが徐々に思い悩むような色へと変わった。

 「……………」

 「どうしたんだよ、沙耶。 何か、ユイだとマズイ事でもあるのか?」

 「……別に」

 沙耶はふっと背中を校舎裏の壁から離すと、金色に靡く長髪を揺らした。

 俺が怪訝な感じで沙耶の方を見ていると、今度は奏が口を開いた。

 「……結弦がそう思うのなら、良いんじゃない?」

 焼却炉の中に全てのゴミを捨て終え、奏ははっきりと言ってくれた。奏の言葉に、俺は再び奏の方に意識を戻した。

 「奏は賛成か?」

 俺の声色には、若干喜色の色が滲んでいた。

 「……わかったわ。 あなたたちがそうしたいなら、あたしは止めないわ」

 「……もしかして、沙耶は反対なのか?」

 「別に反対って言っているわけではないわ。 只、本当にそれで良いのかって聞いただけよ。 周りの事の為を考えた上での結論なのか、疑問に思っただけ」

 「……………」

 「いいわ。 でも、あたしはあたしで本当にこの世界から出してあげたいと思っている人の為に行動するわ。 悪いけど、ここからは別行動よ」

 「え、ええっ!? お、おい、沙耶…ッ!」

 「それじゃあ、そっちは任せたわよ」

 そう言い残すと、沙耶はあっという間にどこかへ消えてしまった。

 残される俺たち。秋のような冷たい風が俺たちの間を吹き抜けた気がした。

 「(結束早々、いきなり初っ端からチームワークが乱れてどうするんだよ……)」

 沙耶が消えかけたあの時以来、以前と比べたらずっと結束力が高まった沙耶だったが、また以前に逆戻りになってしまったのかと思ってしまう程、俺は悩み、溜息を吐いていた。正直先が思い遣られてしまう。

 だが、沙耶の台詞を思い出してみる。

 

 ―――あたしにも、記憶の呪縛から解放させてあげたい人がいるから―――

 ―――あたしはあたしで本当にこの世界から出してあげたいと思っている人の為に行動するわ―――

 

 沙耶は沙耶で、前から本当にこの世界から成仏させてやりたい存在がいるんだ。

 その為に、沙耶は沙耶なりに考えて行動を始めている。

 でも―――

 俺たちは協力し合う仲間だし、何より俺は沙耶のパートナーなんだから、もっと頼ってくれても良いと思うんだけどな。

 「(全く……)」

 それにしても、ユイの事に対する沙耶の態度も気になる所だ。沙耶は、何かユイに思い馳せるものがあるのだろうか?

 というか、ユイに対して沙耶は何か気付いているのだろうか?

 わからない。

 だけど、これも俺が自分自身で悩んだ末に至った結論だ。俺は俺で、自分が決めた事に対して進んでいく。

 俺の目の前には、賛同してくれる奏もいる。今更止めるなんて出来やしない。

 「…そうだ、奏。 そっちの首尾はどうだ?」

 奏は人形のような表情で、ゆっくりと俺の方に振り向く。

 「……まあ、時間は掛かったけれど」

 そう言うと、奏はいつも光の刃を現出させている右手を上げる。そして一言、呟くように言葉を紡ぐ。

 「……ハンドソニック、ヴァージョン5」

 俺の目の前で、構えた奏の右手から光の粒子が集束する。それは普段の刃とは異なり、また別の形へと変形し、禍々しい程の刃が光となって誕生した。

 「……これが、ハンドソニック・ヴァージョン5」

 「天使って言うか、悪魔のようだな……」

 その余りの禍々しい光景に、俺はつい正直な感想を述べてしまう。

 「……あなたが冷酷な天使と言ったから禍々しくこんな感じに」

 言いながら、奏はジッと色々な覚悟から生やしたハンドソニックの新たな形体を観察していく。そして刃の先から俺の方に瞳を覗かせると、首を傾げて言ってきた。

 「駄目?」

 「い、いや。 良いよ、すげえ嫌な感じだ」

 「嫌って……」

 しまった。これもまた失言だ。

 俺は慌てて訂正する。

 「いやいやッ! いいよ、凄く良いッ!」

 わざとらしいくらいに言ってしまったが、果たして誤魔化し切れただろうか。

 奏は何も言わずにジッとハンドソニックを見詰めているし、表情は特に変化が無いから、よくわからない。

 「…あ、あと羽生えねえかな?」

 「……羽?」

 俺の提案に、奏は首を傾げる。

 「生やしてどうするの……?」

 「見た目、カッチョイイじゃん」

 「……かっちょいいのが良いの?」

 「いや、その方が天使らしいかな~って……」

 何だか俺、どんどんアホになっていないか。気の所為だよな?

 これも戦線の影響だろうか。

 だが、そんなギリギリな事を思う俺をいざ知らず、奏は考えている(?)ようにぽつりと返した。

 「……考えておく」

 「よろしく……」

 「……で、私はどうしたら良いの?」

 「え、あ、ああ。 そうだった」

 色々とあって忘れていた。

 「そうだな……じゃあ、こうしよう」

 俺は、ユイをこちらに引き寄せるための作戦を奏に伝授する。

 奏は普段と変わらない無表情のまま、俺の説明を聞いている。一通りの説明を終えると、奏は「わかった……」と頷いてくれた。

 「よし、じゃあ練習の始まる頃を見計らってGOだッ!」

 

 俺たちの作戦はこうだ。

 まず、バンドの練習を行っているユイたちのもとに、奏が現れる。他の文化部から騒音の苦情が来ている事を理由にあげるのだ。

 そしてユイ個人を指して、更に「お前のギターのせいでバンドが死んでいる。 なので、しばらくそのギターは没収させてもらう」と言う。そうすればユイは絶対に反発するだろう。そのユイからギターを取り上げて、ユイを誘き寄せるために奪ったギターを持って中庭まで逃げる。

 そこで、俺がギターを持って逃げてきた奏にぶつかったフリをして、それと同時に奏はギターを手放し、そのまま奏を逃がす。手放されたギターは俺が受け止める。結果的にユイと二人きりの状況が作られるように仕向けることが、今回の作戦だ。

 「……よし、奏。 準備は良いか?」

 俺たちはガルデモの練習場所である空き教室のそばへとやって来た。身を屈め、気付かれないよう慎重に、演奏が聞こえてくる窓の下へと移動する。

 「ええ…」

 「よし、それじゃあ手順はさっき説明した通りだ。 頼んだぞ…!」

 「それじゃあ、行ってくるわ……」

 奏は自然に立ち上がりながら、教室の扉前まで移動した。

 その間、俺の頭上からは演奏とユイの歌声がぴたりと止み、ひさ子の声が聞こえてくる。

 「こら、ユイッ! そんなヨレヨレのリズムで続けるなッ」

 ガルデモの練習はさすがに厳しそうな匂いがする。陽動部隊としても、あれだけの数の一般生徒を虜にしてしまう程の演奏が求められているんだ。きっとその裏は、俺には簡単に想像できないものがあるのだろう。

 おっと、ここでのんびりしているわけにはいられない。俺も中庭の方に行って待ち構えておかないと。

 そして俺は奏に任せ、中庭へと向かった。

 

 

 こうして俺は中庭で待機していたわけだったが―――

 「ん、かな……で……?」

 校舎の中から、ユイのギターを胸に抱えて小走りで駆けてくる奏を見つけたが、その姿は奏以外に認められない。ギターを抱えて駆け寄る奏が俺の前に辿り着くと、そのギターを俺の目の前に差し出した。

 「はい…」

 「……何故、お前一人なんだ?」

 「追ってこなかったから……」

 「へ?」

 何故かユイは、ギターを取り上げた奏を追いかけてこなかった。

 この事態は想像していなかった。あのユイの事だから、必ず怒りまくって是が非でも地の果てまで追ってくると思っていたのに。

 俺はユイを誤認していたようだ。

 「……仕方ない、今度は俺も行こう。 作戦は今とほとんど同じに」

 「わかった……」

 

 

 俺たちは再びガルデモの練習している教室の前にやってくる。奏は教室の扉のそばで待機させ、俺はそっと教室を覗く窓の下から、教室の中の様子を伺う。

 丁度、曲が歌い終わる辺りだったようだ。それぞれの奏でる楽器が最後の音を響かせ、真ん中にマイクを持って立つユイの歌声が遠のいていく。だが、歌い終わったユイの表情は何故か落胆していた。

 「そうそう、ギター無しじゃ全然ヨレないじゃん」

 「でもサウンドが薄っぺらくないですか? ギターいるっしょぉ……」

 「じゃあ、サイドギターをもう一人入れようか?」

 「~~~ッ! 私が言いたいのはぁ……ッ」

 その時、いつも豹変と言って良い程にギャップが激しいユイが、とうとう頭の中の何かを切れ出した。

 「―――やっぱバンドのボーカルはギターを背負って歌えば絵ズラ的に一番痺れるでしょって話じゃゴラァァァッッッ!!!」

 ユイのキレっぷりはやっぱりガルデモの練習風景の中でも余裕な程に健在な様子だ。

 先輩に堂々とあそこまでキレる事が出来るのは逆に尊敬してしまうと言うか……

 と、半ば呆れがちに思っていた俺だったが、突然のユイの言葉と行動に我に帰る。

 「やっぱギター取り返してくるッ!!」

 「(―――! やば…ッ!)」

 ユイがガルデモの練習を放り出して、俺たちがいる廊下へと向かって走ってくる。

 「おい! こらユイッ!!」

 メンバーの制止も聞かず、ユイが扉へと向かう。それを確認すると、俺は即座に奏に向かって合図を送る。

 「(来るぞ…!)」

 それとほぼ同時に、俺も見つからないようにその場から全力で離れる。

 奏もギターを胸に抱えて、俺の指示した通りの順路を走り出す。

 「どこ行ったぁ…ッ! ―――って、いたぁッ!!」

 教室の扉を破るように廊下へと飛び出したユイが、すぐに逃げる奏の姿を発見する。奏の姿を認めたユイは、思惑通りに奏を追いかける。

 「待てええぇぇぇぇぇッッ!!」

 奏の少しの間だけの逃走劇が始まる。荒れ狂うユイの追跡を引き連れた奏とはち合わせるため、俺は自分で指定した場所へと向かった。

 

 

 辿り着いて僅かに待っていると、ギターを胸に抱えた奏が現れる。俺たちは作戦通りにそれを行う。

 「あ、悪い!」

 「……わ~」

 「……………」

 まるで奏と偶然ぶつかったように装う。その瞬間、奏がわざとらしく、抱えていたユイのギターを放り投げた。だが、それは俺の方ではなく見当違いな空中へと浮き上がる。

 「(ば、馬鹿…ッ! 高すぎ……?!)」

 空中に投げ出されるギター。丁度、その持ち主が追いつき、空中で絶体絶命にある自分のギターを慌てて見詰めている。俺はそのギターが地上に落下する前に、落下地点を予測し、何とかその場で落ちてきたギターを受け止める事に成功した。

 「(あ、危ねぇ……でも、良かった……)」

 ギターを受け止め、ほっと安堵する俺。

 「私のギターッ!」

 「大丈夫、無事だよ……っと」

 俺が受け止めたギターを、ユイが喜んで抱き抱えた。まるで自分の子供のようにギターを大切にするユイの姿を遭遇する。

 「先輩が守ってくれたんですね、天使からッ! ―――あッ! あいつはどこだゴルァァッ!!」

 ユイの豹変ぷりは相変わらず凄まじい。

 「…ったく、何がゴルァァだ。 相変わらずお前は好き放題やってるな……」

 「…ふえ? 好き放題?」

 今まで怒りに叫んでいたユイが、俺の言葉を聞いてぴたりと止む。

 そして俺の方に振り返りながら、ぽかんとした表情で俺が想像していなかったような言葉を吐いた。

 「やってないよ、好き放題なんて」

 驚いた。本人がそんな事を断言するなんて、俺は勿論思っていなかった。

 「バンドのボーカルの座を射止めたじゃん。 ギターまで弾いてさ」

 「そんなの全然だよ。 やりたかった事の一つに過ぎないよ」

 俺はその言葉に、引っ掛かりを覚える。

 「他にもやりたい事があるのか?」

 「あるよ、いっぱい」

 「いっぱいって……」

 取り戻したギターを胸に抱えたユイは、首を傾げながら俺の気を重く感じているような表情を覗きこむ。実際、俺はこれからの事を考えて気が重くなりそうだった。とりあえず、ユイの話を詳しく聞いた方が良さそうなのはわかった。

 「いや待て、場所を変えよう……」

 

 

 ―――学園大食堂 前。

 ユイの話を聞くため、俺とユイは学園大食堂前にあるベンチへと腰を下ろした。俺たちの手には、自販機で買った学園名物のKeyコーヒーの缶が握られている。ユイがプルタブを開けて飲んでいるものも、俺が奢ったKeyコーヒーだ。

 「……で、他には何だよ? お前の他にやりたい事って」

 ユイは中身を一つ口に流し込むと、俺に逆に問いかけてくる。

 「話さなくちゃ、いけないの?」

 「……ん、話したくなかったら別に良いけどさ」

 ユイと二人きりの状況を作り出して、ユイから話を聞く事が目的だが、余り追求し過ぎると返って不自然だ。ここは慎重に対応する所だろう。それに本当に話したくないものを、無理強いさせる事も正直乗り気ではない。どんな人生をそいつが歩んでいるのか、他人である俺には詳しく知る権利は無いかもしれないし、他人には知ってほしくない人生だってあるだろう。

 だが、束の間の静寂の後、ユイはどこか考えていたような表情をしていたが、俺にそんな言葉を返してくれた。

 「いいよ、話してあげる」

 俺は少し驚いてしまった。ユイからそれを聞き出すためにここまでやった俺が驚くのも変な話だが、ユイは素直に自らの話を、俺に話すことを許してくれたのだ。

 「私ね―――」

 そして、ユイは語る。

 そのユイの横顔を、俺は初めて見たのかもしれない。

 「(これが、ユイの人生を振り返る時の顔、か―――)」

 いつものユイとはまた違う、しかしそれもまたユイの一つである。

 ユイの紡がれる言葉に、俺は静かに耳を傾ける。いつも元気で好き放題やっていると勘違いしていた彼女の、本当の姿を、その寂しい人生と抱いていた想いを、俺はもうすぐ知ることになる―――



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EPISODE.55 Effort to Bloom

 「―――私ね、やりたい事、他人(ひと)よりいっぱいあるんだ。 どうしてだと思う?」

 自分自身の話を語り始めたユイの言葉が、俺に投げかけられる。好き放題やっていると勘違いしていたが、ユイは他にも叶えたい事があると言う。それはきっとユイの過去に理由があるのだろう。

 「そりゃあ……あれだろう? 生きている時に出来なかったから、だろう?」

 「そうそう、その通り!」

 ユイは正解、と言わんばかりに何度も頷いた。

 そしてそのまま流れるように、過去を話し始める。

 「小さい頃に、後ろから車に跳ねられちゃってさ……それで、身体、動かなくなっちゃった」

 俺は、知る。

 ユイもまた、ユイなりに歩んだ過酷な人生があった。

 それは、ゆりや岩沢たちと同じように、ユイも報われない人生をおくってきた一人だったという事。

 「完全に寝たきり……だったんだよね。 もう介護無しでは生きてられないの」

 「……………」

 「お母さんに、頼りっきりだった……」

 ふっと、ユイの横顔に暗い陰が降りる。

 「お母さんに……凄く悪い事したなぁって……」

 不幸な事故で、身体の自由を奪われた一人の少女。早過ぎる大きな不幸を一生背負う事になった彼女が生きるためには、人の助けが必要だった。そして、その母親が彼女の世話を見た。きっとお互いに大変な思いをしただろう。明かせない思いもあっただろう。そんな思いを抱きながら生きている事は、どんなものなのかは当事者以外には理解できないものだ。

 外に遊びにも行けず、寝たきりの毎日。

 部屋のテレビや窓の外を眺めるばかりに暮らす不自由な少女の生活が、思い浮かぶ。

 「音楽番組を観て、その番組に映っていたバンドを見て、私もこういう事がしたいなぁとか思ったりして……」

 不自由だったからこそ、好き放題にやりたい事をやってみたかっただろう。

 それが、ユイの気持ちの整理の根源。

 「……そうか。 じゃあ、良かったじゃん」

 そして、ユイは今、この世界で生前に出来なかったやりたい事をやっている。

 この世界だからこそ、ユイの願いは叶えられている。それがたとえ、ほんの一部だったとしても。

 「うん…!」

 このユイの笑顔や、今までの楽しそうな表情も、他でもないユイ自身の本物の顔なのだから。

 「―――で? 他にやりたい事って何だ」

 「……うん、野球中継とかもよく観てたんだぁ」

 「野球だったら球技大会でやっただろう?」

 「何言ってるんですか。 あの時、私は打てなかったじゃんっ」

 「……ヒット?」

 「ホームランッ!」

 「はぁッ!?」

 俺はこの時、嫌な予感を覚える。

 「……それは何? 打てなきゃ駄目なの?」

 「駄目だね~」

 首を横に振りながら、はっきりと断言するユイ。

 その場の状況に置いてかれそうになる俺に構わず、ベンチから立ち上がったユイは、ますます俺との距離を無意識に引き離そうとする。

 「バンドの方がもっと上手くなったら、ちゃんと野球の練習もしようと思ってるんだけど―――ねッ!」

 言いながら、ユイはバットを振る素振りをして見せる。

 どうやら、本当にユイ自身の言う通りではないと駄目らしい。

 「(……だが、その両立はかなり大変だ)」

 バンドの練習だけでもハードなはずなのに、その上野球までしてやらないと、ユイは本当に満足しないのか。

 「……一応聞いておこう。 他には?」

 「サッカー」

 「……サッカー?」

 「ブームだったじゃん!」

 「いや、確かにそうだったかもしれないが……」

 しかしいくら何でも多趣味過ぎだ。どこの世界に、バンドと野球とサッカーを一緒にしようとする奴がいる?

 まさかそんな奴をこの世界で出会えるとは夢にも思わなかった。

 だが、俺の嫌な予感はまだ俺に警告を発し続けている。

 「……まさか、他にまだやりたい事が―――」

 「プロレスかなぁ」

 最早、わけがわからない。どこの世界に(以下略)

 ―――と言うか、よく考えたらテレビで観たものばかりに憧れているんだな。

 「(しかしこれは大変だぞ……今聞いた全てを叶えてやるなんて……)」

 頭を悩ませる俺を余所に、ユイは俺の奢りのKeyコーヒーを美味そうに飲み干している。

 俺は隣の少女に気付かれないように、小さな溜息を吐いた。

 「……わかった」

 「?」

 色々と決意を固めた俺は、ユイの前で立ち上がる。

 そして、宣言してやる。

 「―――俺が叶えてやる!」

 「え…ッ?」

 さすがのユイも、俺の言葉に驚きを隠せないようだ。

 だが、ここまで来たらもう引き下がれない。

 「まずは手軽な所からという事で、プロレスからいってみるか」

 「ふえッ?! プロレスッ!?」

 更に驚きと、それに加えて目をキラキラさせるユイの表情に、俺は気が重たくなりそうな気分を無視する。

 「…技は」

 「ジャーマンスープレックスッ!」

 「ちょッ!? そんな派手な技が出来るかッ! 関節技とか、出来そうなのにしろよッ!」

 「だって憧れだったんだもん~……ジャーマンスープレックス、しかもコールド勝ち……」

 「そんなお茶目で物騒な事を言うなッ?!」

 だが、平気で恐ろしい事を言ってのけたりするのがユイと言う奴だ。

 そしてそいつの言う事を何でも叶えてやるのが、今の俺の役目。

 ここは覚悟を決めるしか無い。

 「~~~ッ! オーケー! じゃあ、やってみろよ」

 「へっ? いいのッ!?」

 「…ああ」

 俺が嫌々ながらも承認すると、ユイは気合を入れて立ち上がる。

 「よっしゃあああッ!」

 そして黙って立つ俺を、ユイが後ろから近づき、俺の身体に手を掛ける。俺の身体をがっしりと捕まえると、そのまま声を振り絞って踏ん張りながらも、ゆっくりと俺の身体を持ち上げた。

 「おおっ?」

 男一人をユイのような女の子が持ち上げている。意外と力がある事に、俺は正直に感心するように驚く。

 「お前、思ったより力あるじゃん! イケる、イケる!」

 「―――うおりゃあああああああ……ッッ!!」

 「おわッ!?」

 だが、惜しい所でユイから俺の身体が離れ―――

 そのまま俺は投げ出される格好となり、地上に後頭部を強打させる事となった。

 「いってぇぇえええぇぇぇぇ……ッッ!!」

 頭が本当に割れるような激痛が俺の脳を揺さぶり、びりびりとした電流が精神を逆撫でした。後頭部を抑えて悶える俺を余所に、ユイが落胆したように今更な言葉を呟く。

 「やっぱり女の子の私なんかじゃ無理かな……」

 「いや、出来そうでしたよッ?! むっちゃ惜しかったですよぉッ!!」

 俺は後頭部の激痛も構わず、即座にツッコミを入れる。

 「ふえっ、そう?」

 振り返ったユイは、俺の言葉をすぐに呑みこんで、あっという間に笑顔に戻った。

 「それじゃあもう一回やって良い?」

 「え、あ、ああ……とりあえず、下が芝になっている所に行って良いか? 俺が死ぬ……」

 「あははッ! 死ぬかっつーの」

 「いや、ジョークじゃないのだが……」

 俺が初めてこの世界で嫌と言う程身に沁みらされた、この世界のジョークを俺自身が遂に使う時が来るとは思いもしなかった。

 兎に角、俺の頭の安全のため、俺とユイはその場を離れて、別の場所に移動することにした。

 

 

 だが、場所を変えようが、当然ながら俺の後頭部への危機は特に回避されたわけではなかった。

 俺の身体を投げ飛ばすユイ。

 そんな事が何度も繰り返された。

 最早、只の投げ技である。

 俺の頭が芝を刈るばかりで、ユイの望む大技は一向に成功する気配が見えない。

 「……持たない」

 「す、すみませんッ! 次は出来ますからぁッ!」

 その言葉を何度聞いたか、もう数えていない。というか、数えたくない。

 「本当に、最後だからな……」

 そして次こそ決めようとするユイが、やっぱり放つのが―――

 「おりゃあああああああッッ!!」

 俺を地面に投げ飛ばす、雄叫びだった。

 「もう帰る……」

 悪いが、もうギブアップだった。このままでは俺の頭が本当にかち割れそうな勢いだった。

 「わああ、先輩ぃぃぃ……ッッ!」

 「……お前さ、もしかしてブリッジとか出来ないんじゃないのか?」

 「出来ますよッ!」

 「やってみろよ」

 俺の目の前でユイは身構えると、背中と上げた両手を後ろの方に曲げて、ブリッジの姿勢を取ろうとする。だが、ユイの両手の平は地に付くことは無く、そのまま背中をぺたんと寝かせてしまった。

 「……あれ?」

 ユイの間抜けな声が漏れる。

 そして俺は額に手を当てる思いを実感させられる。

 ユイは、ブリッジさえ出来ていなかった。

 「(やっぱり原因はこれだったか……このために、俺は何度も気を失いかけたのか……)」

 もっと早めに気付いていれば、と思い浮かべてしまうが、今更後悔していても仕方が無い。まずは、見つかった原因を無くすために、今からすべき事をするだけだ。

 「まずはブリッジの特訓からだな……」

 「え~、つまんな~い」

 「良いから、やれッ!」

 こうして、ユイのブリッジの特訓が始まった。

 まず、ジャーマンスープレックスとは後方から相手の腰に腕を回してクラッチしたまま、後方に反り投げ、ブリッジをしたまま相手のクラッチを離さずそのまま固めてフォールする大技の事だ。

 古くからある技で、観客がプロレスラーの力量を見る基準となる技でもある。

 こうして聞いただけでも、かなり難しい技だとわかるだろう。

 「う……ッ……く…ッ」

 「ほらほら、頑張れ~」

 ブリッジの姿勢でぷるぷると震えるユイを、俺はそばで見守りながら指導する。

 だが、ユイはすぐにダウンしてしまった。

 「駄目だろ、そんなのじゃ……」

 「だって、こんな格好した事なかったんだもん…ッ!」

 泣きべそをかきながら言うユイ。

 「でも出来なきゃ、ジャーマンスープレックス出来ないだろ」

 「う……」

 俺に言われて、ユイは改めて現実を認める。

 「頑張ります……」

 それから数時間の間、俺とユイは何度もブリッジの特訓を続けた。

 正に血の滲むような特訓だった。ユイは何度も地べたに寝てしまいながらも、懸命にやり直し続けた。

 その過程で、ユイの必死ぷりと言うか、一生懸命さが見物できた気がする。

 きっと、ユイはこうして何でも努力する事で、今の場所まで立っているのだろう。それは、ガルデモのギターボーカルという立場。

 同じボーカルだった岩沢が才能と言えば、ユイは努力と言えるかもしれない。

 ユイの“努力”は、俺の前で何時間も続いた。

 「……ふぅ。 もう一度、行きますッ!」

 「ああ、頑張れ」

 「でやあッ!」

 何度も失敗しても、ユイはすぐに立ち上がり、そしてまたやり直す。だが、数を重ねるごとに少しずつ形になっていくのがわかる。そしてそれと同時に、ユイの瞳がぎらぎらと輝きだし始めているのを、俺は認めていた。

 「(本当に頑張ってるんだな、こいつは……)」

 ここまで本気で努力しようとしている奴を、俺は今まで見た事があっただろうか。

 そんな事をふと思っていると―――

 「ん…?」

 遠くから、俺とユイを見ている人物がいた。

 二人の女子生徒。

 しかも見覚えがある。

 「(あれは……)」

 俺たちを遠くから見ていた二人の女子生徒は、何かを互いに言葉を交わすと、背を向けて立ち去ってしまった。立ち去る間際、その内の一人の、金髪の女子生徒が俺を一瞥した気がする。

 その二人の女子生徒は明らかに、俺のよく知っている人物と―――

 「先……輩……ッ」

 ユイの呼び声に、俺はハッとその場に意識を戻す。

 見下ろすと、震えながらもブリッジの姿勢を取るユイの姿があった。

 「……ッ……出来てます……よねぇ……ッ」

 まだ完全とは言えないが、最初と比べたらずっと様になっている。とりあえず、ユイの努力は買ってやっても良いと思う。

 「ぶるぶる震えてるが……まぁ、いいか」

 そして再び、ジャーマンスープレックスだ。

 俺の無防備な身体を、背後からがっしりと捕まえるユイ。

 「それじゃあ、行きますよ……ッ!」

 「来い…ッ!」

 「ふん、ぬぬぬぬ……ッッ!!」

 「おおッ!?」

 ユイは踏ん張りながら、俺の身体を持ち上げる。

 先程の途中で投げ飛ばされるような事は無く、俺の背中はぴったりとユイのお腹にくっ付いている。

 これは逃げ様が無い。このまま行けば、俺は成す術も無くユイによって叩き付けられる。

 正に、完璧な―――ジャーマンスープレックスだッ!!

 「うおりゃああああああああああッッッ!!!」

 腰に手を回して最後まで離さないまま、俺の身体はそのままフォールされる。見事なジャーマンスープレックスの完成だった。

 「ぐふ……ッ!」

 一瞬、意識が真っ白になりかけた。

 だが、俺の役目はまだ終わらない。

 「……ワン、ツー、スリー……カンカンカンッ! 試合終了ぉ……ッ!」

 遂に、試合が終了した。

 俺も真っ白に燃え尽きそうな勢いだった。

 「ふえ……やった…やった……っ!?」

 俺を地面に沈ませたまま、ユイは喜びの余りに立ち上がり、周囲を飛び回る。

 「……やった! やったぁッ! バンザーイッ!」

 「こんなのがあと、いくつ続くんだ……」

 まだぐらぐらと豆腐のように揺れる頭を抑えながら、起き上がる俺の目の前で、ユイは本当に嬉しそうに飛び跳ねる。ぴょんぴょんと、長髪とお尻の尻尾を跳ねながら、成し遂げた喜びに歓喜するユイの笑顔が、眩しく輝いていた。



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EPISODE.56 Our Bonds

 普段、授業中等の時間に限っては特に使われていない空き教室が、私たちガルデモの練習場所だった。たまに音楽室を使わせてもらう事もあるが、授業でよく使われている事もあるし、放課後は吹奏楽部や合唱部と言った部活動が主流になっているから、私たちが我が物顔に使わせてもらうわけにはいかない。いくら相手がNPCとは言え、音楽の聖地に土足で踏みにじるような真似はしたくない。

 だから、私たちガルデモは結成当時から、誰にも使われていない、誰にも迷惑を掛けないような、自分たちが心おきなく練習が出来るこの教室が、昔からの私たち専用の練習場なのだ。

 今日も勢いがあり、旋律を奏でる私たちの音楽が教室に響き渡る。が、それは普段と比べるとずっと欠落した部分があった。

 「……………」

 一息演奏を終え、無言になる私を、おどおどとした二人の後輩の視線が突き刺さる。

 沈鬱な重い空気の中、シンとした静寂が糸を張っている。

 「……や、やっぱりボーカルがいないとしっくり来ないですね~」

 ベースギターをさげた関根が、空気を壊すような口を開いてみせる。一瞬、入江から動揺した雰囲気があがったが、すぐに関根に合わせるように続ける。

 「そ、そうだね……しおりん…」

 「全く、ユイってば一体どこに行きやがったんでしょうね。 ねえ、ひさ子先輩ッ?」

 「私が知るか」

 「あう……」

 「……………」

 今、この場にいるガルデモはメンバーが一人足らなかった。

 二代目となる我らのボーカルなのだが、いつもの破天荒ぷりの勢いで、どこかに突っ走って行ってしまった。

 あいつの性格は今に始まった事ではないし、いつまでもぐちぐちと気にしていても仕方が無いのはわかっているが―――

 私たちガルデモは、誰一人メンバーが欠けてしまっては、成り立たない。

 それを、あいつは理解してくれているのだろうか。

 後輩に当たってしまう自分への苛立ちも混ざって、私はますます理不尽な苛立ちを覚えてしまう。

 そしてそれを紛らわせるような感覚で、ボーカル無しで練習を続けた事に対しても―――

 「……一旦休憩。 しっかり休んどきな」

 「「は、はいっ」」

 仲良しコンビである二人はすぐに互いに固まりながら、各々の持ち物から水を取り出している。先程から私に気を遣ってくれていることはわかっているが、自分は何も応えてやれない。

 「はぁ……」

 思わず、溜息が漏れてしまう自分にもうんざりする。

 後、この言い様のないもやもやした感覚が何なのか。それが理解できなくて、良い気分になれない。

 そしてふと、先までのユイとの言い合いを思い出す。

 「(私もちょっと言い過ぎたか……? いやいや、あいつは岩沢のようにいかないんだ。 もっとあいつのためにも、厳しくしてやらないと……)」

 私はそう考えて、気付いてしまう。

 特に何かあると、私はついユイと岩沢を比べてしまう。

 最高のメンバーであり、ボーカルだった音楽キチ。岩沢と言うボーカルがいた頃のガルデモで演奏した日々を忘れない。

 でも、今あいつは居ない―――

 かつて岩沢(あいつ)がいた場所には、ユイがいるのだから。

 「~~~~~ッ」

 くしゃくしゃと頭を掻く私を、関根と入江が不安げに見詰めている。

 「ああ、悪い……気にしないでくれ」

 先輩の私がこんな調子では、後輩を不安にさせてしまうのは当然だ。岩沢がいなくなった以上、ユイや関根、入江と言った後輩たちを見てやらないといけないのが、私の役目だ。

 だが、そんな私でも、彼女たちは私に気さくに声を掛けてくれる。

 「あの、ひさ子先輩……あまり気にしなくても良いと思いますよ?」

 「そーだよ、先輩ッ! ユイのことですから、またすぐに戻ってきますって!」

 「お前ら……」

 二人の優しさが、暖かく胸に溶け込んでくるみたいだった。

 先輩の私が、後輩に面倒を見られてどうするんだか……と、私は苦笑してしまう。

 「せ、先輩……?」

 「いや、悪ぃ。 そうだな、あいつのことだから、是が非でも天使からギターを取り返して、またうるさく戻ってくるか」

 「そーですよ、先輩ッ!」

 「それまで私たちは、お茶でもしてユイの帰りを待っていましょうよ」

 さっきまでの変に重い空気はどこへやら、今となってはいつものガルデモの空気だ。

 重くさせたのは、私自身なのだが。

 良い後輩―――いや、仲間を持ったなとつくづく思う。

 勿論、岩沢やユイも含めて、な。

 そして私は、新たにもやもやとしていた気持ちが、ここで明らかになった。

 「ただ……正直、不安だったのかもしれない」

 「え?」

 「先輩?」

 きょとんとした二人の視線を浴びながら、私は柄でもない事を言い出す。

 「もしあいつがこのまま、私たちの所に帰ってこなかったら……と、思っちまってさ」

 「ひさ子先輩……」

 「……………」

 自分でも、何を言っているのだろうなと思う。

 「ごめん、忘れてくれ」

 また、脳裏に岩沢の面影がチラつく。

 あの日を境に消えてしまった私たちの仲間。

 そして、そんな岩沢が立っていた場所にいるユイ。

 もし、ユイもいなくなってしまったら―――?

 そんな最悪な事まで考えてしまう自分が――――嫌で。

 何より、そんな最悪な事自体が―――もっと嫌で。

 私は、ちょっと変になっていたのかもしれない。

 「大丈夫ですよ、先輩」

 「……?」

 一人だけ暗い陰にいる私を、呼びかけるその声に振り返る私。そこには頼もしい程に笑顔を輝かせる二人の後輩がいた。

 「あのユイがただで消えるとは思いません。 あいつはいつまでも私たちの隣で一緒にうるさく騒いでいる方がお似合いですからッ!」

 関根がいつものユイに次ぐ高いテンションで、明るく言い放ち―――

 「しおりん、言っていることが何気に酷いよ……」

 入江が遠慮がちに、だがクスクスと笑みを漏らしながら―――

 私に、その嘘のない笑顔を向けていた。

 「……ああ、そうだな」

 私は素直に、同意するように頷いていた。

 そう、私たちは誰一人欠けない。

 何故なら―――

 

 ―――私たちは、“五人”でガルデモなのだから―――

 

 

 「おーっす、ちょっと失礼するぜ……って、あれ? ユイの奴はいないのか」

 ガラリと扉を開けて、私たちの教室に顔を出したのは日向という男だった。普段からよくユイと絡んでいるような奴だ。

 「ああ、いないぜ」

 「どこに行ったんだ?」

 「さぁね。 飛び出しちまってそれっきりさ」

 「何だそれ……」

 ユイの不在を聞くと、日向は「そっか……」と、頭を掻きだす。

 「何か、ユイに用でもあるのかい?」

 「まぁ、な……大した用でもないけどよ」

 「私たちから何か伝えようか?」

 「いや、大丈夫だ。 ちょっくら自分で捜してくるわ」

 踵を返し、私たちの教室から立ち去ろうとする日向を、私は声をあげて呼び止めていた。

 「おい!」

 「?」

 私に呼び止められて、ぴたりと止まった日向が振り返る。

 「何だよ?」

 「あんたに頼みがある」

 「頼み?」

 意外そうな顔を浮かべる日向に、私はすっと空気を吸い込んだ。

 そして、その言葉を紡ぐ。

 「もしユイを見つけたら、必ずここに連れて帰ってきてくれ。 まだ、私たちガルデモの練習は終わってないんでね」

 私の頼みごとに、日向は少しだけ驚いたような表情で黙って私の方を見詰めていたが、やがて私の瞳を見据えると「ああ」と頷いてくれた。

 「任せろ、あいつは必ず捜し出して首根っこ掴んでも連れ戻してやんよ」

 日向はニッと笑みを浮かべてそう言い残すと、颯爽と私たちの前から走り去ってしまった。

 「ひさ子先輩、どうしてあんなことを?」

 首を傾げた関根や入江が、変に笑みを浮かべている私に問いかける。

 それに、私は率直に答える。

 何となく、私たちよりあいつの方が、ユイを捜し出して連れて帰ってきてくれる。そんな気がしたからだ。

 ユイに関しては、悔しいがあいつの方が私たちよりある意味近しい存在なのかもしれないからね。

 それを聞いた関根は意地悪そうな笑みを浮かべ、入江は小さく笑うのみだった。そして私も、くくっと喉を鳴らして笑っていた。

 本当にガルデモは――――最高のバンドだよ。

 私たちは待ち続ける。いつもの教室で、いつものメンバーでいつもの練習をするために、私たちは奴とツーショットでここに戻ってくる光景を想像しながら、待ち焦がれるのだった。



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EPISODE.57 Goodbye Days

 古式みゆきにとって、弓は自己を象徴する全てだったと言って良い。それ程、私という人間は弓に育まれ、弓と共に生きてきた。しかし、その生きる全てそのものだったものは、あっけなく音を立てて崩れ落ちた。以来、私は魂が抜けた抜け殻のようなもの。

 そんな私が、弓を引きたいと思うのは、一体どれくらいぶりなのだろうか―――

 

 

 女子寮の部屋。普段なら授業中の時間帯なために、ルームメイトは不在で、私一人だ。殻の中に閉じこもるように、私は自室で一人、机に向かって一冊の本を開いていた。

 それは長らく手に触れることさえなかった、弓道を書いた本。その心得や動作が細かく、丁寧に書かれた本を、私は初めて目に通していた。

 弓に再び思いを寄せるようになったのは、この世界に来て初めての事だったのかもしれない。おそらく、きっかけはあの時だろう。

 沙耶さんと出会った時、私はまるで愚痴を吐きだすように自分の過去を話した。その事で、自分の中の何かが変化した。彼女と接している内に、私はまるで彼女が昔、自分もいた場所に、とても近くにいた仲間のように感じられて―――要は、どこか似ている部分があって、初めて心を開ける人を見つけた気がした。

 彼女と出会った事で、再び弓に対して思いを寄せるようになった自分に気付いたのは、つい最近の事だけど―――

 「…!」

 その時、部屋の扉からノックの音が鳴った。

 ちょっとだけ、胸の鼓動が高鳴る。

 それは緊張だった。

 でも、私は扉の向こうにいるのが誰であるかを知っていた。

 私は本を閉じると、緊張と共に一歩、一歩と足を踏みしめながら、部屋の扉の方へと向かう。

 そして扉を開け、彼女を出迎える。

 「こんにちは、古式さん」

 「沙耶さん……」

 「準備は、良いかしら?」

 「……………」

 沙耶さんの真摯な瞳が、私の片目を射抜いた。

 でも、私も負けじと沙耶さんの瞳を見据え返す。

 やがて沙耶さんの視線が私の胸元へと移動した。私の胸には、私の意思を表すように、本がぎゅっと握られていた。

 それを見て、微笑みと同時に頷いた沙耶さんが、もう一度私の方に視線を見据える。

 「万端みたいね。 行きましょう」

 「…はい」

 そして、私は一歩、寮の部屋から足を踏み出す。

 それが、私にとっては大きな第一歩だった。

 

 

 ―――弓道部、道場。

 普段は弓道部の練習場として使用されている区画に、私は初めて足を踏み入れていた。神経を落ち着かせる木の匂いを吸い込むのはどれくらいぶりだろうか。

 私はその場の空気を静かに吸い込むと、意を密かに固めた。決意を新たに固めた私の顔を確かめた沙耶さんは、私に弓道部から拝借した弓道衣を差し出す。久しぶりに触る弓道衣を、私はそっと受け取ると、迷う事なく更衣室へと向かった。

 

 

 私が、もう一度弓を引きたいと言う思いを抱いたのは、つい最近の事――――

 

 それは、ある少女の姿を目撃した時。

 

 ほとんど誰もいない中庭で、二人の男女が何かをしている。それは沙耶さんといつも一緒にいる彼と、一人の小さな少女だった。

 かつて不自由だった身体のために何も出来なかった事を、この世界で成し遂げようとする姿。自分のやりたかった事を、彼女はどんなに大変でもそれを成そうとしていた。それは、今の私が出来なかった事だった。

 この世界に来て、絶望ばかりしていた私。だが、そんな私と違って、生前の自分の人生で成せなかった事をこの世界で成そうとしている人が、こんなにも近くにいたことを、私は強く思い知ったのだ。

 「古式さんの、やりたい事って何?」

 その時、唐突に紡がれた沙耶さんの言葉が、すんなりと私の中に入ってきた事を覚えている。

 私のやりたかった事―――

 それはとても簡単で、分かり切った答えだった。

 

 ―――もう一度、弓が引きたい―――

 

 いつの間にか、そう答えていた私。そんな私に、沙耶さんは笑顔で頷いて言った。

 「あなたの今後するべき事が、明確になったわね」

 弓が引きたい。

 ならば、引けば良い―――

 私の今も引きずる弱さを吹き飛ばす絶好のチャンスであり、自分自身の願いでもある。それを気付かされた私は、再び弓を引く決意を固める事になるのだった。

 

 

 白い筒袖に自分の腕を通し、赤い袴を腰に締めた感触は、果たしてどれ程ぶりだろうか。その弓道心に身を通した自分の身体に、懐かしささえ感慨深く感じられた。

 袖から腕に流れていく空気の流れに、心地良さを感じる。

 身が軽くなったような思いで、私は更衣室を出た。

 弓道衣に身を引き締めた私を迎えた沙耶さんは、「わぁ…」と声をあげると、黙って私を見てばかりになった。余りに見るものだから、私はつい恥ずかしくなってしまう。

 「とてもよく似合ってるわね、古式さん。 凄くカッコいいわッ!」

 「そ、そうですか?」

 「ええ、もちのろんよッ!」

 沙耶さんは笑ってそう言うと、ぐっと親指を立てた。私はそんな沙耶さんを目の前にして、とても嬉しく感じてしまう。

 再び弓道衣に袖を通した事で、本来の自分を取り戻せた気がして仕方がない。それもそのはずだ。かつての私にとって、弓道とは私の全てだったのだから。

 「準備は、本当に出来たようね」

 「いいえ」

 「?」

 でも、これはまだ、本来の私の姿ではない。

 「あとこれで、最後です」

 「あ…ッ」

 次の私の行動を見て、驚きの余りに声をあげる沙耶さん。

 私の“弱さ”、その元凶である、右目を覆った大きな白い眼帯―――

 

 それを、私は剥ぎ取った―――

 

 覆っていた白い眼帯が剥ぎ取られ、露になった、私のもう一つの目。閉ざされていた瞳は、ゆっくりと開かれたが、その瞳は悲愴に満ちた色ではなかった。凛とした華の如く、的を射抜くように真っ直ぐに咲き誇った、自慢の瞳。

 「古式さん……あなた……」

 沙耶さんの驚愕は、拭い切れない様子だった。

 それでも構わず、私はその目をしっかりと開かせた。

 “視える”―――

 私の目は、視える。

 私の目は、的を見詰め、射抜く事が出来るのだ―――

 「これが、あなたの弓を引く時の瞳なのね……」

 沙耶さんが、ぽつりと感嘆するように漏らしている。

 私は答えず、ただ足を前に踏み出す。

 「では……行きます」

 弓を手にした私は、沙耶さんに見送られながら、道場へと足を運ぶ。私はその時から既に、目の前から数十メートル離れた的を、射止めるつもりで真っ直ぐに見据えていた。

 

 

 射法八節。弓を射る事とは、この八節で全て説明できる。

 教本にも必ず書いている基本的な知識・動作であり、私も弓道の道を進み始めた頃から教えられてきた。

 まずは―――足踏み。

 弓を射る位置、射位で的に向かって両足を踏み開く動作。

 最初に“執り弓の姿勢”を取る。弓を左手、矢を右手に持ち、両拳は腰に、両足を揃えて立つ。続いて射位に入り、足踏みを行う。

 自然と最初の動作を始める事が出来た。

 

 次に―――胴造り。

 足踏みを基礎として、両脚の上に上体を安静におく動作・構えの事。

 弓の下端を左膝頭に置き、弓を正面に据える。右手は右腰の辺りに置き、足踏みと共に弓を引くための基本姿勢を作る。

 覚えている。

 その身体の流れは、まるで川のように、決まった方向へと流れていく。

 

 矢を番えて弓を引く前に行う準備動作―――弓構えを行い、弓矢を持った両拳を上に持ち上げる動作、弓起しを終え、次の動作である“引分け”へ繋げる。

 引分け―――打起こした位置から弓を押し弦を引いて、両拳を左右に開きながら引き下ろす。

 記憶の奥底から、土石流のように記憶の濁流が流れ込んでくる。その一つ一つの動作を、まるで昨日のように、つい先程の事のように行っていく。私は糸のようにぴんと張り詰めた精神の下で、興奮を微かに覚えていた。それさえも抑え、冷静に動作を流す身体を制御する。

 

 引分けが完成、遂に矢を放つ準備が完了した。

 矢の先は、既に的を狙った状態になっている。

 私はこれを何度も、数え切れない程に同じ動作を繰り返してきたはずだ。

 今回もまた同じだ。

 そしてまた、いつも通りに、的に狙いを定めて射るだけ。

 でも、今回は違った。

 いざ弓を引くとなると、強烈な違和感が私に襲いかかったのだ。ぐにゃりと歪んだ感覚が私の照準を狂わせる。的との距離、角度、全てがわからなくなる。まるで世界が陽炎のように歪んでいくようだった。

 「……………」

 今、私が視えているものは、何だ?

 視力を失い、全てを失った片目が、今、何を見ている?

 それは、初めてではないはずだ。

 かつては、視えていたはずのもの。それがもう一度、視えるようになっただけだ。

 この世界で、自らの弱さで縛り続けていたものを、取り外した意味を、自分は理解しているはずだ。覚悟は、視力を失ったその時から、とっくの昔に出来ていたはずだ。

 何を躊躇う必要があるか。

 何を恐れる必要があるだろうか。

 ただ、引きたかった弓を引けば良い。

 何故ならそれが、私の全てなのだから―――

 

 

 

 会。

 

 

 弓を引く姿勢が完成した時、私は彼の声が聞こえた気がした。

 「古式」

 瞬間、脳裏に浮かぶ彼の面影。それが、引き金となった。

 「古式さん…!」

 彼の声が聞こえたと同時に、沙耶さんの声が、私を後ろから優しく押してくれた。

 そう、これで終わりにしよう。

 あの的に、弓が当たろうが、外れようが、どうでも良い。

 ただ、弓を引ければそれで良い。

 全てを失い、絶望と共に生きた人生に、終止符を打とう―――

 弱い自分に、暗闇の人生に、別れを告げよう。

 

 

 離れ。

 

 

 そして、弓が引かれる。

 私の指から、矢が放たれる。

 その矢は、ここにあった私の弱い全てを乗せて放たれた事を表すように、涼しい風が身体を突き抜けた気を感じさせた。

 的に向かって、放たれた矢が真っ直ぐに空気を貫いていった。



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EPISODE.58 Last Point

 射法八節は、弓を射る際の八つの動作を説明したものであるが、弓を射るまでに六つが説明され、七つ目で弓が放たれる。では、最後の八つ目は何を指しているのか。

 それは、残心。すなわち矢が放たれた後の、一息付くような姿勢の事である。

 彼女は今正に、その八つ目の“残心”に行き着いている。

 

 残心。

 

 弓を引き、矢を放ち、彼女は一息付くことが出来ているだろうか。

 それは、彼女にしかわからない事だ―――

 

 

 古式さんはゆっくりと弓を下ろし、姿勢を解くと、ゆっくりとあたしの方に振り返る。そして微かに微笑むと、彼女は言った。

 「当たりました……」

 古式さんが放った矢は、見事に的の真ん中を射抜いていた。ど真ん中というわけではないが、十分真ん中に近い位置を射抜いている。それでも十分過ぎる程、素晴らしいものだった。

 緊張が解けて、安堵の境地に身を委ねた歳相応の少女の面影が、今の古式さんにはあった。下ろした手には、未だに弓が握られている。その手は、強く握り締められていた。

 「良かったぁ……」

 顔を上げ、ほっと安堵する古式さんの表情は、やり切った武道家の満足げな表情というよりは、少女そのものの綻んだ笑顔だった。

 「やりました、沙耶さん……」

 「うん」

 あたしに視線を戻した古式さんの表情は、とても儚げで、美しいものだった。安堵し切った表情には、笑顔とうっすらと瞳から浮かべた涙が見える。心の底から嬉しそうな人間が、あたしの目の前にいた。

 「おめでとう、古式さん」

 あたしの口からは、それしか言えなかった。

 後は、古式さん自身が決める道しかないことを、あたしは知っていたから。

 「弓は……私の、全てだった」

 あたしの祝福の言葉を聞いた古式さんは、静かに握った弓を見下ろすと、そっとそれを胸の方に抱えながら語り始めた。

 「幼い頃から弓と共に生き、育まれ、私の存在を肯定してくれるものが弓でした。 でも、それを視力を失う事で、弓も失った私には、全てを失った事と同義だった。 弓を失い、殻に閉じこもった私には、二度と弓を引く楽しさを味わう事もないまま一生を終えると思っていた。 そう思うと、いつも絶望がそばにありました。 そして思った通り、私は再び弓を引く喜びを感じる事も無く人生を終えた。 でも、潰えた人生の先に、もう一度、その喜びを知ることが出来て―――私は、とても嬉しかったです」

 絶望を思い、そして思った通りの絶望を生きた人生。確かに嫌な人生だっただろう。しかし、その人生を潰えたからこそ、その先に見つけた新たな可能性を掴み取り、再び自分の夢を叶えた事は、一つの現実として受け止めても良いのではないだろうか。

 それもまた、自分の人生だったと、誇らしげに言っても良いのではないだろうか。

 潰えた人生の先に―――見つけるものが見つけられた。

 それは自らの人生の終着点であると、信じても良いのかもしれない。

 「一度は失い、再びこの喜びを知る事が出来たのなら……もう、私に悔いはありません」

 弓が引けなかった。それが彼女の人生を否定することと同等であり、全てだった。

 弓を引く事が、彼女の願いだったのなら、彼女の人生もまた十分に報われた。

 あたしは、そう信じている。

 「沙耶さん……」

 あたしの方に身体の向きを変え、正面から見据えるあたしを見据える古式さん。

 木枯らしを揺らすような冷たい風が、あたしたちの辺りを通り過ぎた気がした。

 「私、気付きました」

 「気付いたって、何を……?」

 「私の人生は、弓だけではなかったという事です」

 古式さんはゆっくりとあたしのそばに歩み寄る。そしてあたしの前に立つと、そっとあたしの手を握った。

 「私の周りには、かけがえのない大切な人がいました。 一緒に苦しい事も辛い事も背負っていってくれる人がいました。 私を命がけで助けてくれた時、私が私であってほしいと、言ってくれた人がいました。 私も、その人がその人であってほしいと願っていたんです。 そして、私はその人がとても大切でした……」

 「古式さん……」

 「私は、もう一度、その人に会いたい。 私である私として」

 「……きっと、会えるわよ」

 矢を放った時に、弱かった古式さんも一緒に吹き飛ばされた。そう思える程に、今の古式さんはとても強い少女に見えていた。

 「今の古式さんを見たら、その人も喜ぶと思う」

 古式さんが本当に想っている、そして相手も古式さんを本当に想っているだろう、その人を思い浮かべながらあたしは言う。

 きっと、その人も古式さんと同じだと思うから―――

 「……本当に、良かった」

 安堵するような、瞳からうっすらと涙を浮かべながらも、しかし笑顔を浮かべるその表情は、彼女の強い証だった。

 彼女の両目から、涙がこぼれる。

 

 そして、一粒の涙が、頬を伝い、そして落ちる。

 

 一粒の涙が、地に落ちた時。

 

 ほぼ同時に、弓が乾いた音と共に倒れ伏せた。

 

 あたしの目の前に、彼女はいない―――

 

 矢を射止める全ての総決算である残心を終え、彼女は舞台から降り立った。

 「……さようなら、古式さん」

 彼女もまた、この世界からいなくなってしまった。

 あたしの手で、この世界から退場した人は、これで二人目。

 本当に、これで良かったのだと、信じたい。

 

 この世界ではもう二度と出会えることはないけど―――

 

 案外、彼女はすぐ近くでまた会えそうな気がする。

 

 だから、それまでにあたしは代わりに残滓を背負ってこの世界に居続ける。

 また弓を引く彼女と出会う時を、楽しみにしながら―――



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EPISODE.59 Railway track to terminal station

 俺が頭を何度もかち割られる思いをした甲斐あって、ユイは見事にジャーマンスープレックスを成功させて見せた。ユイのやりたかった事が一つ叶ったのだ。だが、ユイのやりたい事はまだまだ他にも沢山ある。ここで終わるようであれば、俺も楽なのだがそうもいかない。

 「次はサッカーにするか。 一対一のPKで良いよな?」

 「嫌だよ、五人抜きのドリブルシュートじゃなきゃ」

 「……………」

 そう、楽にはいかない。

 と言う事で、俺はユイが言うマラドーナ劇を再現させるために、また奔走する事となる。

 ユイのやりたかった事、とは生前、身体が不自由だったために出来なかった全てだ。

 それはやっぱり、外で遊ぶような、身体を動かすような事ばかりだった。

 ジャーマンスープレックスと言ったプロレス、そしてサッカー。

 サッカーの時は日向たちを何とか言いくるめるのに苦労した。

 ゴールまでのドリブルをする間に、野田やTKたちを足蹴にしていったようにしか見えない光景で、本当にあれでやり遂げた事になったのかが実に怪しい所だったが、過程はどうであれ、ユイ自身は満足しているようなので良しとした。ついでに助っ人の助力もあった事だしな。

 そして、俺たちは次のステージへと向かった。

 

 

 「よぉし……、じゃあ次! やりますかッ」

 言いながら、ユイはバッターボックスに立ち、バッターを手に持ちながら構えを取る。そう、俺たちはグラウンドでのサッカーから、いつかの球技大会で戦線が暴れた野球場へと場所を移していた。

 「その前に、どの辺まで飛んだらホームランって事にするんだ?」

 「そんなのフェンス越えに決まってるじゃんっ」

 当然と言わんばかりの口調で、ユイはバットを俺の後方の遥か彼方に指して言う。俺は呆れて「マジかよ…」と呟きつつ、溜息を吐いた。

 「…とにかく、思い切り打ってみろッ」

 とりあえず、マウンドに立つ俺は手にした白球を投げることにした。バットを構えるユイを視界に捉えながら、俺はボールをど真ん中へと投げ込む。

 「―――ッ」

 放物線を描きながら飛び込んできたボールが、当たりの良い音と共に、振られたバットに当たった。バットに当たったボールはそのまま空に向かって高く打ち上げられる。

 「やった! 当たったぁッ!」

 バットにボールが当たった事象と快感に喜びの声をあげるユイだが、課題の解決にはならない。

 「当たりゃ良いって問題じゃないからな……もっとボールをよく見て、バットの芯で当ててみろよッ!」

 助言をユイに与えてから、俺は再びボールを投げ込む。

 それを再び振り込んだバットに当てるユイ。キン、と高い音をあげて、今度は地面にバウンドして俺の横を通り過ぎていく。

 「ボールの上を叩き過ぎてる」

 再び投げる。

 キン。

 今度は空に吸い込まれていく。

 「今度は下過ぎ!」

 勢いの余りに体勢をよろけさせているユイに、俺は言葉を投げかける。

 「―――とりゃぁッ!」

 「目瞑ってて当たるかぁッ!」

 ユイのホームランを目指した野球は、思った以上に難題であると俺は思い知らされることになるのだった。

 キン。

 音は良くても、ユイに打たれたボールはごく簡単に受け止められる。

 「…非力だ」

 その手に収まったボールは、当然ではあるが、女の子が打ったボール以外の何物でもなかった。

 その後も、俺たちの練習は続いた。

 「ほら、頑張れッ!」

 「頑張ってるよぉ……ッ!」

 確かにユイは頑張ってはいたが、その努力が実るのはまだ先のようだった。

 俺もとことん付き合うことになる。

 「(そういえば……沙耶(あいつ)は今頃どうしてるんだろうな)」

 俺はふと、ユイとの練習に付き合っている間に、パートナーの事を考えていた。

 「(さっき見たのは……やっぱり沙耶だよな。そして、一緒にいたのは……)」

 ユイと中庭でジャーマンスープレックスの特訓中、見かけた沙耶ともう一人の女子生徒。

 顔は知らなかったが、おそらく俺たちと同じだろう。そして、きっと沙耶が言っていたのはあの女子生徒の事だったのだろう。

 俺は気付いている。

 きっと今の俺のように、沙耶は沙耶なりに自分の役目を果たしている。

 「(そうだ……沙耶も向こうで頑張ってる。 だから、俺もしっかりと自分の決めた事ぐらい出来ないで、どうするんだ…!)」

 それにこれは三人共通の使命とは言え、元はと言えば俺が言いだしっぺのようなものだ。

 なら、俺がしっかりと果たせないでどうする。

 「ほら、もう一回!」

 だから俺はどこまでも付き合おう。最後まで走ってみよう。

 今、目の前にいるこいつも一緒に。

 

 

 日もそろそろ暮れ始め、辺りが暗くなり始めた頃、遂にユイが身体をふら付かせるようになった。

 「はう…ッ」

 いよいよユイの膝が折れ、手に持つバットもその頭を地に落としてしまう。ユイの身体は明らかに疲労によって限界だった。

 「駄目だお前……疲れて握力が落ちてる。 これ以上続けても今日は無駄だ」

 「えぇ~……」

 俺の言葉に唸りの声をあげるユイだったが、その身は正直に疲労感を表していた。その日は仕方なくそこで止め、ユイを女子寮まで帰らせるのだった。

 

 

 翌日、昨日に続いて野球場で野球を行う俺とユイ。やる事は昨日と同じ。俺がユイにボールを投げ続け、ユイもバットを振りかぶり続ける。それはユイがホームランを打つまでは続くことになる。

 「おりゃあああッ!!」

 相変わらず威勢は良いが、事態は中々進展しない。ユイの努力は十分に伝わってはいるのだが。

 「―――てぇいッ! ―――どっせぃッ!」

 ユイの威勢の良い声と、キン、キンと鳴るバットの音が野球場に響く。それが止む事はない。

 「掛け声ばかりデカくても、当たりはちっともデカくないぞぉッ!」

 「―――ッ! まだまだぁ……ッ!」

 肩を上下させても、ユイの瞳の内に見える炎は決して衰える事はない。その細い両脚をしっかりと地に付け、踏ん張りながらバットを何度も構え、そして振り続ける。それを何度も繰り返す。

 ユイは懸命にバットを振り続け、バットがボールを打つ音は、ユイの掛け声と共に日が暮れるまでいつまでも続いた。

 

 

 ボールがユイの振ったバットの後ろへと通り過ぎていく。バットを振る頃には、既にボールは地に落ちていた。

 「あ、あれ……?」

 息を切らしながら、ユイは転がったボールを見詰める。

 「……暗くなってボールが見えなくなってるな」

 気が付けば、既に日は暮れて辺りはほとんど暗い。バッターボックスに立っているユイの姿さえ、ぼんやりと薄暗い空気が隠そうとしている。

 「また明日だな……」

 「えええぇ~~~……」

 案の定、ユイはまた落ち込む声をあげて、肩を落とした。

 今日も出来なかった、と言う風に落ち込んだユイの横顔を黙って見送った俺は、一人、後片付けを始める。散らばったボールを拾っていく俺のそばに、近付く影があった。

 「お前ら、何やってんの?」

 その声に振り返った俺が見た先には、屈託のない笑みを浮かべた日向が、バッターボックスに立っていた。その手には、さっきまでユイがずっと持っていたバットがある。

 「よっ」

 バットを一振りしながら、日向は言った。

 そんな日向に、俺はボールを手に見せながら問いかける。

 「お前もやるか? 本気の野球」

 「フルスイングか……最近してねえや」

 何かの思いに耽るように、目を閉じながら言う日向は、バットの持ち手をぎゅっと握り締める。

 そしてバッターボックスの位置を足で確かめると、バットを手に構えの姿勢を取る。

 「そういうのも……良いかもな」

 そんな日向に、俺は試合をやるようなつもりで、思い切りボールを投げる。

 そして日向も―――

 

 

 キン。

 

 思い切り、バットを振った。

 日向が振ったバットに当たったボールは刻み良い音を鳴らすと、空に浮かぶ黒い雲へと吸い込まれていった。



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EPISODE.60 Uncertain Feelings

 良く晴れた日の下、学園の雰囲気は特にこれと言って普段と変わらない。しかしこの世界に来てそれなりに長いが、この世界の天気と言うのはどう言った周期で決められているのだろうか。やっぱりそれも神様の気まぐれなのか、と俺はくだらない事を考えてみたりする。

 「……神様、ねぇ」

 俺は快晴の青空から目を離すと、飲み終わったコーヒーの空き缶をゴミ箱へと投げ入れた。空き缶は見事に円形の穴へと入り込み、音を立ててゴミ箱の奥へと落ちていった。

 「さて、行くか……」

 俺は外を眺めていた窓から離れ、ある場所へと向かう。青空の下にいるあいつらの所に。

 

 

 

 「日向じゃねえか、何してんだ?」

 すれ違う一般生徒の横を通り過ぎていると、廊下で藤巻と大山に出会う。俺は立ち止まり、いつも通りに木刀と大山を連れた藤巻に向かって振り返る。

 「おお、お前ら。 個性がないもんだから、一般生徒に混じって気付かなかったぜ」

 「てめぇッ! その言葉、どういう意味だぁッ!?」

 「そうだよ日向くんッ! 言われ慣れてる僕はともかく、藤巻くんは慣れてないんだからそういう事を言うのはやめてあげてよッ!」

 「大山、お前も怒る所が何かズレてやがるぞッ!?」

 相変わらず、この二人は仲が良い。大山はこの世界でゆりっぺの次に出会った人間だから、ちょっと妬いてしまうかもしれない。

 「大体、着てる制服はちげぇんだから一発でわかるはずだろうがッ!」

 「悪い悪い、冗談だって。 ちょっと急いでたものだからさ」

 「そう言えば日向くん、廊下を走ったりしてどこに向かおうとしてたの?」

 角が立たないような丸っこい童顔を傾げながら、大山が問いかける。

 「ちょっと音無の所にな」

 「そう言えば今日は見かけてねえな。 ま、俺にはどうでも良い話だけどよ」

 携えた木刀を肩にとんとんと叩きながら言う藤巻。その横では大山が思い出したように口を開く。

 「そういえば僕、さっき音無くんとユイちゃんが中庭に向かっている所を見たけどね。 ちょっと珍しい組み合わせだけど」

 「ああ、それは俺もさっき窓から見えてた。 今、そいつらの所に向かおうとしてたんだ」

 「そっか。 じゃあ、引きとめて悪かったね」

 「良いってことよ。 じゃな」

 「ほら、さっさと行っちまえよ」

 「もう、藤巻くんっ。 あはは、ごめんね日向くん。 僕たちももう行くから」

 「ああ」

 大山が藤巻の背を押しながら、二人は立ち去った。残された俺も、あいつらの所に向かうために、踵を返して再び走り始める。

 

 

 音無が何かしていると言うことは、薄々勘付いていた。

 こそこそと何をしているかは知らないが、いきなり変な態度を見せて怪しまれない方がおかしい。

 と言っても、気付いているのは俺ぐらいだと思う。

 だとしても、今日の音無はやたらとユイに絡んでいる姿が見受けられる。俺はどういったわけかは自分でもよくわからなかったが、そんな二人の光景を見て気にせずにはいられなかったので、こうして俺なりに動いてみることにした。

 「て言うか……本当にあいつら、何してんのかねえ」

 グラウンドを眺めるような位置のベンチに座る二人を、俺は静かに後ろから探りを入れる。何か二人で話をしているようだった。

 「(あいつ……)」

 俺はそのあいつらの話を聞いて、驚かざるを得なかった。ユイが、自らの話を音無に語っているのだ。

 「(あいつが俺以外に自分のことを話すのは……珍しいな…)」

 自由を奪われ、負い目を感じて過ごしたユイの人生。

 この世界に来る者は、それなりに酷い人生をおくってきた者ばかりだ。

 だから、必要以上に自分の人生を他人に明かす事もない。

 ユイはあまり自分の人生を他人に話さない。そもそも、話す必要がないのはこの世界に居る者なら誰しもが持っている権利だ。俺だって、自分の糞みたいな人生を好きに他人に語って広めようとは思わない。

 ユイが生前に不自由な身体だったことは、俺も知っている。それを、今、音無も知り始めている。

 「……………」

 何だか、もやもやした変な気分だ。

 思わず意味もわからず苦笑してしまう。

 「……へっ」

 それが妬いているという感情に気付くと、自分が馬鹿みたいに思えてくる。

 何に、妬いているんだか……と。

 話を終えたのか、音無とユイは中庭の方へ移動を始めていた。聞いていた話によると、どうやらこれからユイがしたい事を、音無が叶えるだそうだ。

 「音無の奴、一体何を考えているんだか……」

 俺はある一つの可能性を思い浮かべるが、それをすぐに振り払う。

 「まさかね……」

 だが、俺はそんな可能性をも確かめる意味も含めて、二人の動向を見守る事を決めるのだった。

 

 

 中庭に移動した音無とユイは、ジャーマンスープレックスと言うプロレス技を始めた。音無がユイによって地面に薙ぎ払われていく。音無の頭が何度か地に叩きつけられた後で、音無が立ち去ろうとするのをユイが必死に引き止めている。

 「本当に何やってんだか……」

 俺は呆れて、物陰からそいつらの光景を見学するしかなかった。

 いよいよ長い練習の甲斐あって、ユイはジャーマンスープレックスをやり遂げた。見事にその大技を浴びた音無は地べたで悶えているが、その光景が見ていて気の毒に思えてしまう。

 だが、そのそばで喜んでいるユイは本当に嬉しそうだった。あいつはいつも元気だが、その時のユイはいつも以上の眩しい笑顔を輝かせていた。

 「あいつも、あんな顔するのな……」

 俺は、あいつにあんな顔をさせてやる事が、出来るのだろうか?

 ふと、そんな事を考えている自分に、俺は気付いた。

 

 

 

 次はサッカーらしい。そして、俺も遂に音無に呼びこまれた。

 今、男子トイレには俺と音無を入れて、野田、藤巻、TKの野郎五人が集まっている。勿論、呼びかけたのは音無だ。

 「ゆりには内緒だが、天使からこんな手紙が……」

 音無が掲げた紙切れを、野田が奪い取る。音無から手紙を奪い取った野田は、目つきの悪い瞳でその紙面に書かれている内容を読み上げた。

 「『女一人にも歯が立たぬのに、男を語るとは片腹痛し』……」

 「おっ、片腹痛しなんてよく読めたな。 アホが治ったか」

 「いや、アホでも読めるよ……」

 さらりと酷い事を言った藤巻にツッコミを入れる俺。野田は馬鹿にされてる事も気付いていないのかどうかは知らないが、俺たちに構わずそのまま読み続ける。その口調が徐々に熱を帯びていく。

 「『スポーツマンシップに則り、その女々しき根性叩き直してくれる。 放課後、サッカー場にて待つ。 天使』だとぉ……?」

 激情して手紙を破り捨ててしまう前に、俺は怒りに震える野田からさっと手紙をかっさらう。

 「わけがわからん内容だな。 本当にあいつが書いたのか?」

 俺はどうしても拭えない不審な気持ちを呟いてみる。それに応えたのは音無だった。

 「現在(いま)の天使は、もう以前(まえ)の天使じゃないからな」

 「色んなものが混ざっちまったから、こんなアホな挑戦状も書きかねねぇか」

 藤巻をはじめ、他の奴らは音無の言葉を俺程に不審に思っていないようだった。

 だが、俺はどうしても腑に落ちない。

 いくら今の天使が以前とは変わったとは言え、こんなおかしな手紙を書く姿が到底想像できない。

 言ってしまえば、天使(あいつ)とも長い付き合いだ。そう言っても嘘ではない。

 実際、天使とは戦線設立前から色々な事があったからな。

 それに―――

 「(この字、どう見ても音無のだよな……)」

 俺はこの字をどこかで見たことがあった。それは、ここにいる一人の字に限りなく近い事も、俺は知っている。

 だが、音無は“天使からの手紙”だと言っている。

 「……………」

 先程のユイと音無の姿を思い出して、俺は考える。そして、口を閉ざす。

 目の前にいる親友が、何か考えているのなら。

 俺は、その邪魔をしないように見守っていよう。

 そう決めた俺は、音無に連れられて、他の野郎たちと共におそらく天使ではなくユイが待っているだろうサッカー場へと向かうのだった。

 

 

 案の定、サッカー場にやって来た俺たちを迎え入れたのはユイだった。その足の下にはサッカーボールがある。

 そして俺たちの姿を確認するや。

 「来やがったなぁ……キックオフ!」

 と、ボールを蹴り始めた。

 「行くぞ、テメェらぁぁぁぁぁッッッ!!」

 叫び、一人でボールを蹴りながらゴールへと向かうユイ。その状況に理解が追いつかなくて突っ立っている俺たちに、音無が説明口調に声をあげる。

 「―――わかった! 手紙の主はあいつだッ! きっと今まで不甲斐無い俺たちに苛立ちを覚えていたんだ! それでこんな真似を…! よぉしゴールを守れ、この戦い負けられねぇッ! 俺たち男が勝つ…ッ!!」

 早口でそう巻くし立てた音無。

 そして俺たちはユイとサッカー対決をする羽目になった。

 「どけや、こんボケェッ!!」

 キーパーの役を買った俺がゴール前で見ていたのは、酷過ぎる理不尽な光景。ドリブルをするユイの前を、野田、藤巻、TKの順でボールを奪おうとするが、先手の野田は避けられ、藤巻は一発退場並みのルールガン無視キックを浴びて倒れ、TKが一度ユイからボールを奪う事に成功するも、何故か音無に妨害されて再びボールがユイの足元に戻り―――今、俺の目の前に至る。

 「ふん、最後は―――テメェかッ!」

 「……ッ」

 ポニーテールを揺らし、ボールを足の下に置いたユイがビシリと俺の方を指差し、俺は思わず身構える。

 「殺してでもボールを奪う!」

 「お前、スポーツマンシップはどこ行ったぁッ?!」

 「んな事知るかぁッ!! 覚悟…ッ! 必殺、殺人ギロチンシュートォォォ……ッッ!!!」

 「俺を殺したいのかゴールを決めたいのかどっちなのか、ツッコミ所が多いシュートが来やがったぁぁッッ!!?」

 身構え、叫ぶ俺の目の前に迫る強烈なシュートボール。だが、そのボールはただ勢いが恐ろしいだけで、その軌道は十分予想出来る。止められない事もない。先に敗れた野田や藤巻たちのためにも、最後の砦である俺が―――

 バツン。

 「……へ?」

 変な音がしたと思ったら、ボールはいきなり予想外過ぎる軌道へと乗り上げた。ボールは不可思議な軌道を描き、ゴールの網に向かって突っ込んでいく。俺は咄嗟にその軌道の先へと手を伸ばし、身体を飛び上がらせたが、間に合わなかった。

 「ぐあ…ッ!」

 無念にも俺の手はユイのボールを受け止める事が出来ず、俺はゴールの前で身体を滑らせる羽目になった。不可思議な軌道を描いたボールはそのままゴールの網へと入り込んでしまった。

 「(何なんだよ、今のは……)」

 ボールはゴールの中に入った事をアピールするように、俺の身体と網の間を転がる。そしてその時、俺の耳にユイの歓喜余る声が響き渡った。

 「入った、入ったッ! やった! やったやったぁッ!!」

 ユイ一人に、俺たちが負けたと言う事実は、俺たちに重く圧し掛かった。

 だが、俺は身体を起こしながら、飛び上がるユイに視線を向ける。

 ポニーテールを跳ね、兎のように飛び上がるユイの姿は本当に嬉しそうだった。

 その姿を見て、俺の胸が少し変な感覚を味わう。

 「……?」

 まるで針が刺さったかのような、小さな痛み。

 それが何なのか、俺はこの時はまだ気付きもしなかった。

 だが、俺はやがて気付く事になる。いや、あいつに気付かされる。俺の内に秘められた、その気持ちを。その正体が何なのか、その時、あいつの目の前で俺は痛い程に思い知らされる事になった。



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EPISODE.61 You Bloomy

 日がすっかり暮れた帰り道、俺は日向と並んで男子寮へと歩いていた。ユイを満足させるために、野球を始め、今日はその日の分が終わった後に日向がやって来たこともあって、こうして俺は打ったボールを日向と共に片付けを済ませると、泥や土で汚れた身体で帰路につく。

 「お前、ユイと二人で何やってるんだよ」

 何気なく、日向が問いかける。俺は不審な気を感じさせないように、細心の注意を払いながら平静を装う。

 「別に。 あいつがホームランを打ちたいって言うから、それに付きあってやってるだけだよ」

 嘘ではない。正にその通りと言えば、その通りなのだが。

 「ふーん……」

 日向は俺の顔をチラリと覗き込んでいたが、それ以上深い追求を仕掛けてくることはなかった。

 この妙に居辛い空気を払うために、俺は一つ余計なことを口にしてみる。

 「特に深い意味はないから、安心しろよ」

 そんな俺の言葉に対する日向の反応は、予想以上だった。

 「ば…ッ! んだよ、それ……どういう意味だよ…ッ」

 その反応に、俺はぽかんとなる。

 そして、日向の動揺を表した顔を見て、つい吹き出してしまう。

 「……くっ」

 「……何、笑ってんだよ」

 「何でもねえよ」

 案外、俺より日向(こいつ)の方がわかりやすいのかもしれない。

 「変な奴……」

 そう言うと、日向は拗ねたようにそっぽを向き、ガニ股で歩き始めた。そんな日向の行動が可笑しくて、俺はつい笑みを浮かばざるにいられなかった。

 寮の前に近付くと、日向が寮の前で何かを見つけた。

 「おい、お前の相棒さんだぜ」

 「えっ?」

 日向に言われて、俺はそこで初めて気付く。寮の前に凛とした背で立つ、一人の女子生徒。その海のような蒼い色をした鋭い瞳が、俺の方を真っ直ぐに射抜いていた。

 「沙耶……」

 寮の前に立っていたのは沙耶だった。何時からそこに立っていたのだろうか。沙耶は俺の方をジッと見詰めたまま動こうとはしなかった。俺が近付くと、沙耶は俺の正面へと身体を向ける。

 「どうしたんだ、沙耶。 もしかして、俺を待ってたのか?」

 「ええ、そうよ。 あなたを待つ以外に、あたしがここに立つ理由があると思う?」

 何故か、沙耶との間にぴりぴりとした気配を感じる。それを日向も察したのか、俺の肩をぽんと叩くと、「先に行くぜ」と早々に寮の中へと入って行った。

 残された二人。そんな俺たちの間を吹き抜ける風が、妙に肌に冷たい。ざわざわとした妙な空気が俺たちの間を包んでいる。

 「(……何だ?)」

 沙耶はジッと俺の方をその鋭い瞳で射抜いたまま、視線を逸らすことも、動こうともしない。

 俺は圧巻されそうになりながらも、何とか踏ん張った。

 「…で、俺に何か用か?」

 「……………」

 もしかしてだが……沙耶は今、不機嫌なのか……?

 そんな思いが俺の中に過ぎる程、目の前にいる沙耶からは異様な雰囲気が感じ取れる。

 「そ、そういえば……そっちは、どうだったんだ? ほら、お前が言ってた奴の……」

 「―――!」

 空気が変わった。それはざわっと、落ちていた落ち葉が舞い上がるような、急な上昇、その一瞬。

 俺が思わず黙って固まっていると、沙耶の方から口が開いた。

 「……叶ったわ」

 「え……?」

 「彼女の、望み通りに……そして、あたしの前から、旅立った……」

 その声に、いつもの鋭さや気迫はない。

 ただ、静かに、穏やかに紡がれた声色。

 俺はそれだけで、全てわかった。

 沙耶を見て、目の前で立ち尽くすパートナーを見て、俺は全てを知った。

 「(そうか……)」

 この世界から、満たされた人が―――

 脳裏に、ある一人のギターを抱え、歌い切った一人の少女を思い浮かべた。

 そして、一瞬だけ思い浮かべて、再び沙耶の方を見る。

 「(やっぱり、お前はすげぇよ……)」

 俺なんて、いつまでも満足させてやれないで、こうして苦労していると言うのに。

 沙耶はしっかりと満たしてあげることが出来たんだ。

 「……そっか。 それは、良かったな……」

 「良かった……?」

 「沙耶……?」

 沙耶の唇が、きゅっと紡がれる。

 「本当に……これで、良かったのかしら……あたしのした事は、間違っていなかったのかしら……」

 悲しそうな色を顔に浮かべる沙耶。

 両腕の肘を掴み、抱き、その腕は微かに震えている。

 「……沙耶」

 俺は、その震える手を、そっと触れる。

 「―――!」

 驚きと、泣きそうな顔が入れ混じった表情を浮かべた沙耶が顔を上げる。

 俺はそんな沙耶に向かって、言う。

 「お前のやった事は、全然間違っていない。 それどころか、お前はそいつの想いを叶えてやる事が出来たんじゃないのか」

 「想い……?」

 「ああ。 こんな時間が進まない世界で、そいつの中にある止まっていた想いを、沙耶は叶えさせる事が出来たんだ。 すげえよ、沙耶は……」

 「……………」

 俺には、きっと真似できない事だ。

 沙耶にしか出来ない、沙耶だからこそ出来る事なのだろう。

 やっぱり俺とは違って、沙耶は凄い奴なんだ。

 「……決めた事とは言え、正直きつかったわ」

 ぱっと俺の手を振り払うと、そのまま自分の髪を払う沙耶。俺は虚空に投げ出された手を戻しながら苦笑する。

 「お疲れさん、本当に」

 「……で、そう言う音無くんは何だか苦労しているようね?」

 「う、気付いてたか……」

 沙耶はジトリとした瞳を俺に向けたと思うと、ハァ、と大きな溜息を吐いた。

 「やっぱりあなたはまだまだね。 あたしがいないと、何も出来ないパートナーってどうなのかしら」

 「そ、それは……」

 悔しいが、言い返す言葉が見つからない。

 そんな自分が情けなく思える。

 「……でも、言いだしっぺはあなたなんだから、ちゃんと最後まで為し遂げなさい。 あたしも、そばにいてあげるから」

 「え……」

 自分の耳を疑うような言葉を聞いて、俺は思わず間抜けな顔で沙耶の方に視線を向けた。少し顔を赤らめてそっぽを向いている沙耶が目に入る。

 「な、何よ……『何こいつさりげなく恥ずかしい事言ってんだ?』とでも思ってるような顔をして」

 「い、いや……そんなことは……」

 「ああ、そうよ。 今までちょーっと憂鬱になってたけど思いがけないパートナーに励まされてちょっとは優しくしてやろうかなと思い言ってみた言葉が思ったより恥ずかしい事に後から気付いた間抜けで恥ずかしいあなたの唯一無二のパートナーよ、ほら、こんな恥ずかしいパートナーを持って可笑しいでしょ? 笑いたければ笑いなさいよ、あーはっはっはってッ!!」

 勢い余って言葉を捲し立てた沙耶を前に、俺は圧倒されるしかなかった。言い終わった後に、呆然とする俺の前で、息を切らして顔を真っ赤にした沙耶が肩を上下させている。

 「……大丈夫か?」

 「うるさいわね……ゼェ…ゼェ……撃つわよ……」

 本当に撃ちかねないので、全力で拒否しておく。

 しかし、同時に安心した。

 ああ、いつもの沙耶だ―――

 さっきまでの空気も忘れたように、俺は目の前にいるいつもの沙耶を見て、安堵の域に心を委ねていた。

 「……じゃあ、よろしくな沙耶」

 「ふん……」

 まだ少し顔を赤い沙耶。機嫌を直してくれるのはまだ先のようだ。

 「……そういえば、音無くん。 あなた、今、ユイちゃんと……」

 「ああ、そうだよ」

 俺はユイといた中庭での事を思い出す。そう言えばユイとジャーマンスープレックスの練習をしている最中、俺は沙耶を見かけていた。その隣にいた女子生徒と一緒にいる姿を。

 「ユイちゃん……か」

 「?」

 前から気になっていた事だったが、どうやら沙耶は前からユイの事になると、どこか気を思う事があるらしい。

 それが何故かはわからないが。

 「あの娘が満たされることなんて、到底ないとは思うけど……」

 俺は、その沙耶の言葉を聞き逃さなかった。

 「な、何でだ? だって、あいつが一番この世界で満足してそうじゃないか? いや、確かにあいつはやりたい事が沢山あり過ぎて、今こうして俺が苦労しているが……」

 「そうじゃない。 やりたい事とか、そういう事じゃなくて……」

 「沙耶は何か知ってるのか?」

 「……知ってると思う。 でも、それが正しいのかどうかは、あたしには断言できない」

 「な、何だそれ……?」

 意味がわからない俺に対して、沙耶は不機嫌オーラを倍増しする。

 いらいらとした視線で、俺を鋭く睨みつけてくる。

 「あなたには、まだわからないでしょうけど。 それがわからないと、あの娘を満足させるなんて到底出来っこないわよ」

 「な、何だよ……じゃあ、それが何なのか教えてくれても良いんじゃないのか? 沙耶は知ってるんだろ」

 「教えるとか、そういう事でもない……駄目なのよ、それじゃあ」

 「協力してくれるんだろ…ッ?」

 「……他人を自分よりも……になったら、あなたにもわかるんでしょうけどね……」

 「…え? 何だって?」

 「何でもないわ」

 ぷい、とそっぽを向くと、沙耶はそのままくるんと踵を返し、俺に背を向けて歩き去ろうとする。

 「ちょ…ッ! 帰っちまうのかよ…ッ!?」

 「そうよ。 もう暗くなってきたし、ここでお別れね」

 「待ってくれ…! せめて、ヒントだけでも教え……」

 「ない。 それじゃあまた明日ね、音無くん」

 「お、おい…ッ!? 沙耶……ッ!!」

 手を伸ばし、呼び止めようとしても、沙耶は俺の声も聞かずにそのまま俺の前から立ち去ってしまった。

 一人残された俺は、意味もわからないままに、その場に立ち尽くす。

 「何なんだよ……」

 それから、俺はその悩みを抱えるようになり、次の朝になるまでそれが何なのか、沙耶の言葉の意味を追求するために、悩み続ける事になるのだった。

 

 

 結局、沙耶の言葉の意味がわからないまま、今日もまたユイと日が暮れようとするまで野球を続けた。

 既にいくつの球を投げ、打ったのか数えていない。ユイが懸命に打ったボールが辺りに幾つも転がっていた。

 「どうした…ッ? 全然振れてねえぞ……ッ!」

 続けるに連れて、ユイのバットがボールに当たる打率は低くなるばかりだった。ユイが振るバットは最早貧弱で、ボールをかすめる事さえ出来なくなっている。

 もう一度、俺はボールを投げる。

 「……ッ!」

 ユイはバットを振るが、また空振り。そしてそのままふらふらと身体を回し、ぺたんと力なく地べたに座り込んでしまった。

 座りこんだまま、ユイは動かない。顔を下げ、荒い呼吸を繰り返している。

 「大丈夫か?」

 座りこむユイのそばに駆け寄る。

 「お前、手、見せてみろ」

 「……ッ」

 手、と言うと、過敏に反応したユイを俺は見逃さなかった。

 「嫌だ……」

 「……見せろって」

 嫌がるユイの手を、俺は少しだけ強引にでも掴んで、その手を引いた。その直後、俺の目に映ったのは、一目見てわかる程にぼろぼろになったユイの小さな手があった。バンソーコーが貼られ、何とか隠そうとはしているが、その手のひら中に広がった傷やたこは隠し切れていない。

 「ああ……」

 思わず、そんな声を漏らしてしまう。

 見るからに痛そうだ。無理もない。こんな小さな手で、ずっとバットを握り続けていたのだから。

 「……所詮、無理なんだよ」

 「…!」

 努めて明るい声で、ユイは言う。

 そして立ち上がると共に、続けてそんな言葉を紡ぐ。

 「もういいや、こんな夢」

 それはあっさりとし過ぎていて、そして虚しい程に響いていた。

 俺は思わず声をあげる。

 「諦めるなよ…ッ?!」

 だが、ユイは続ける。

 「色々とアリガトね。 何で、こんなことしようとしてくれたの?」

 そして、俺に問いかける。

 「それは……お前が、やりたかった事だろう? 最後まで頑張れよ…ッ!」

 俺はバットを引きずりながら、沈もうとする夕日に向かって歩くユイの背に向かって声をあげる。

 ユイは引きずっていたバットを抱えると、俺に背を向けたまま、普段の声色で言った。

 「ホームランなんて冗談みたいな夢だよ。 ホームランなんて打てなくても、こんなにいっぱい身体を動かせたんだから、もう十分だよ。 毎日部活みたいで、楽しかったなぁ…ッ」

 それは俺に言っているのに、ユイは夕日に向かって言うように、言葉を紡ぐ。ユイの小さな身体が夕日の光に包まれて、眩しく輝いている。だが、そんなユイの背中が、俺には何故か遠くに見える。

 「言ったでしょ? 私、身体動かせなかったから……だから、すげぇ楽しかった…ッ!」

 「……………」

 本当に、ユイ自身はそれで良いと思っているのだろうか。

 その明るい調子の声が、俺にはどこか虚しく聞こえた。

 「……じゃあ、もう全部叶ったのか?」

 「叶う? 何が?」

 そこでようやく、ユイは俺の方へ振り返った。

 「その……身体が動かせなかった時に、したかった事……」

 「……ああ……」

 このままでは、沙耶の言葉の意味を知る以前に、ユイを満足させてやる事なんて出来ない。

 だが、今の俺に出来ることは、ユイのしたい事を叶えてやる事ぐらいなのだ。

 「……もう一個あるよ」

 「それは、何だ?」

 良かった。まだ、もう一個あるとさ。

 それじゃあ、俺はそれも叶えてやるだけだ。

 俺は野球の次に、それをやろうと、立ち上がる。

 そして立ち上がる俺の耳に、ユイの言葉がはっきりと届く。

 

 「―――結婚」

 

 その瞬間、時間が止まった。

 「え……」

 俺は思わず、驚きを隠しきれない声を漏らしていた。

 驚愕を浮かべる俺を背に、ユイは構わずに続ける。

 「女の究極の幸せ……」

 俺は、予想だにしなかった。

 ユイの口から、そんな言葉が出てくるなんて。

 「……でも、家事も洗濯もできない。 それどころか、一人じゃ何もできない迷惑ばかり掛けてるこんなお荷物……誰が、貰ってくれるかな……?」

 だから、俺は黙ってユイの言葉を聞き続ける事しか出来ない。

 「神様って酷いよね。 私の幸せ……」

 何時しか、ユイの声は、その手が、小刻みに震えていた。

 「全部、奪っていったんだ……」

 ユイの知られざる、想いの真実。

 俺はそんなユイの明かされた想いの大きさを、理解していなかった。

 なのに、俺は無責任な事しか言えない。

 「そんな事……ない……」

 「じゃあ先輩―――」

 ザッと足を踏み出し、今まで背を向けていたユイが、俺の方に振り返る。その瞳は普段と違って、真っ直ぐで、鋭いもので俺の方を射抜いていた。

 真っ直ぐに俺の方を射抜いたまま、ユイは口を開く。

 

 「私と結婚してくれますか」

 

 その言葉がどんなに重いか、どんなに大きいのか、俺は真に理解していなかった。

 いや、出来ていなかった。

 そしてそれが余りにも重過ぎて、大き過ぎて、俺は口を開くことさえ出来なかった。

 俺は、ユイの本当の想いを知らなかった。

 そしてその想いが、どれだけのものなのかを、俺はわかっていなかった。

 それは、俺なんかの人間では受け止めきれないもの。

 あんなに小さかったユイが、今の俺には、自分よりずっと大きな存在に見える。

 ユイは黙って、その視線を俺に射抜いたまま、離さない。

 「それは……」

 やっとの思いで出た声。だが、その先の事を、俺は言えるわけがないし、その権利もない。

 俺がそれを言うには、ふさわしくない―――

 だが―――

 

 

 「―――俺が、してやんよッ!!」

 

 

 その声が、俺たちに大きく響いた。

 正確には、ユイに届いたと言って良いだろう。

 直後、ユイの手から離れたバットの転がる音がカラン、と響く。

 その声に振り返った先には、一人の男が立っていた。

 その男は、俺がよく知っている人物。唯一、ユイの想いを受け止められる人間が、そこにいた。その男、日向は、俺たちの前に毅然とした物腰で立っていた。驚きに目を見開いたユイの視線は、既に俺ではなく、日向の方を射抜いている。そして、日向はそんなユイの視線さえも全て受け止めるようにそこに立っていたのだった。



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EPISODE.62 Love Song

 夕焼けに染まる野球場の一角で、気が付けば、俺は声をあげて飛び出していた。

 「―――俺が、してやんよッ!!」

 俺の声に驚いた二人の目が、俺の方に向かれる。そして俺はその中でただ一人、バットを落とした小さな女の子を真っ直ぐに見詰めた。

 「……ひなっち…先輩……」

 ユイの丸い瞳が、俺を映している。随分と驚いているみたいだが、無理もない。音無に向けた質問に、俺がいきなり場外から声をあげて乗り出してきたのだから。

 「日向……」

 二人の方に近付く俺に、音無が俺の名前を漏らす。俺は音無の脇を通り過ぎて、そのままユイの方へと歩み寄る。

 俺は、ユイを前に見据えて立ち止まる。

 「(こんな貧弱な身体で……細い腕で……こいつは今まで一生懸命やってたんだな)」

 見れば、ユイの身体はボロボロだった。体操服は土や泥で汚れ、下ろされた手には豆が垣間見え、幾つもの絆創膏が貼られていた。

 「(そう、こいつは普段はひでえ暴力女だけど……本当に何かをやる時は、一生懸命なんだ……)」

 そして、そんなユイを俺は誰よりも知っているつもりだ。何故なら、俺はいつもこいつの事を見てきたから。

 「俺が結婚してやんよ」

 「……!」

 俺はこいつと違って、何もかも適当に過ごしてきた。

 何かに本気になった事なんて、今までになかったのかもしれない。

 だから、何事も本気で取り組むユイの姿に、俺は感化されていたのかもしれない。

 俺はユイと違って、いつだって適当だった。

 だが、これは違う。

 そう、これこそが俺の―――

 「―――これが、俺の本気だ…ッ!」

 俺の本気は、ユイに伝わったのだろうか。

 ユイは驚いたような悲しいような、複雑な表情を浮かべると、ぽつりと漏らした。

 「そんな……先輩は……本当の私を知らないもん……」

 ユイは、そう言った。

 だが、俺は否定した。

 そんなことはない。俺はユイの事を誰よりも知っている気でいる。それが本当に気の所為だったとしても、俺はそう信じる。

 「……現実が、生きてた時のお前がどんなのでも、俺が結婚してやんよッ!」

 そして、俺のこの想いは、紛れもない本物だと断言してやる。

 「たとえお前が、どんなハンデを抱えてでも……ッ」

 「ユイ、歩けないよ……? 立てないよ……」

 「どんなハンデでもつッたろッ!!」

 「―――ッ!」

 ユイの息を呑む気配が伝わる。

 俺は、思いの丈をぶつけるように続けた。

 「歩けなくても、立てなくても、もし子供が産めなくても……それでも……」

 俺の言葉を聞くユイに、俺はもう一度、更にはっきりと告げてやる。

 「俺はお前と結婚してやんよッ!!」

 ユイが、微かに顎を上げて、俺を見上げる。

 丸くて、純粋に光るユイの瞳を、俺はここまで間近から見たことがあっただろうか。

 目の前にいるユイは、俺の言葉を待ち続けてくれていた。

 「……ずっとずっと、そばにいてやんよ……」

 そんなユイに優しく言葉をかける。

 そして、ユイは安心したような、嬉しそうな笑みを微かに浮かべた。

 「ここで会ったお前は、ユイの偽物じゃない」

 顔を下げた一人の少女に、俺は更に歩み寄る。

 「……ユイだ」

 顔を下げ、光るものが見えるユイの顔を優しく見下ろしながら、俺はユイの目の前に立ち止まった。

 抱き締めてしまえば折れそうなくらいに、小さな身体が、俺の目の前にあった。

 「どこで出会っていたとしても、俺は好きになっていたはずだ。 また60億分の1の確率で出会えたとしたら、その時はまたお前が動けない身体だったとしても、お前と結婚してやんよ……」

 「……出会えないよ。 家で寝たきりだもん……」

 「……俺、野球やってるからさ」

 「?」

 俺は思い浮かべる。その情景を。

 ある日、野球をやっていた俺の目の前で、飛んでいったボールがある民家の中へ、窓をパリーンと割って入っていくんだ。怒られる事を覚悟しながら、俺がその家にボールを取りに行く。そして、俺はそこで出会うんだ。一人の可愛い女の子と。

 「それがお前だ」

 そして、それが俺とユイの出会い。

 その出来事をきっかけに、俺はユイと会うようになる。話をして、気が合う二人になる。いつしか毎日通うようになる。介護も始めて、俺はずっとユイと過ごす日々をおくる。

 「―――そういうのは、どうだ?」

 我ながら、幸せな日々だと思う。

 「うん……」

 夕焼けに染まるユイの顔は、赤く染まっている。それが夕日のせいなのかはわからない。

 「……ねえ、その時はさ、私をいつも一人で頑張って介護してくれた、私のお母さん……楽にしてあげてね……」

 「……任せろ」

 俺の答えに、ユイは本当に安堵するような、嬉しそうな表情を浮かべて、瞳に涙を揺らしながら、呟いた。

 「良かった……」

 

 

 

 ―――それは、幸せな世界。

 

 

 俺は、おそるおそるインターホンを押す。そこは知らない人の家だ。だけど俺はその家の人たちに謝らなければならない。何故なら、飛ばしたボールがこの家の窓を割って入ってしまったからだ。

 

 

 ―――やっぱ怒られるかなぁ。そもそも、ボールも返してくれるかもわからん……―――

 

 だが、情けなく震えていた俺を迎え入れたのは、思ったよりも優しい女性だった。女性は俺に叱咤することもなく、むしろ歓迎するように、謝る俺を家の中へと招き入れた。

 

 ―――丁度、あなたと同い年くらいの娘がいるの。 あの娘、身体が不自由で外に出られないから、同世代の子と話す事も滅多になくて……良かったら、娘と会ってくれないかしら―――

 

 俺は驚くしかない。てっきり怒られるかと思って突撃してきたと言うのに、むしろ歓迎されて、娘と会ってくれと言う。こんな見ず知らずの俺を優しく迎え入れてくれる人に断る気は勿論無く、俺は頷くしかなかった。

 

 ―――俺で、良ければ―――

 

 そして、俺は娘の部屋と言う場所へと案内される。そこは同時に、ボールが入った部屋でもあった。窓にはボールが侵入した事を示す、割れた穴が開いている。そしてその近くのベッドに、髪を下ろした女の子がいた。俺はつい、その女の子が手に持っているボールではなく、女の子の方に目を奪われた。女の子は不思議そうな表情で俺の方に顔を向けると、遠慮がちな笑みを浮かべた。

 

 

 それが、出会いだった。

 

 ユイと言う女の子は、俺より一つ下の子だった。話をすると、割と趣味が合うことに気付かされた。気が合うと知れば、話は面白くなる。俺は野球やテレビ番組の話をした。事故で身体が不自由になったために学校へ行けず、テレビしか見れないユイと話をするには、その手に話題しかない。だが、それでも十分、彼女との会話は本当に楽しかった。

 

 気が付けば、時間もそろそろ頃合いだった。もう一度ボールの件に関して謝り、帰ろうとする俺を、彼女が呼び止める。

 

 

 ―――また来てくれますか?―――

 

 そんな彼女の言葉に、俺は驚くしかない。同時に、嬉しさを感じる自分がいた。

 

 

 ―――ああ、勿論―――

 

 俺がそう答えると、彼女は俺に、どきりとする程に可愛らしい笑顔を浮かべた。

 

 それから、俺とユイの日々が始まる。いつしか俺は毎日のようにユイの家に通い始め、ユイと過ごす時間をおくっていく。介護の勉強を始め、ユイの力になろうと努力した。車椅子に乗せたユイと外に出て、二人で散歩もした。

 公園のそばを通りかかった時、車椅子に乗ったユイが、公園の方から聞こえる喧騒に顔を向ける。それは野球だった。子供たちが野球をしている光景を二人で見ていると、ユイが口を開き始める。

 

 

 ―――先輩もいつか甲子園に行くんですか?―――

 

 ―――テレビで見ました。高校生の野球って、甲子園があるんですよね―――

 

 ―――一応目指してはいるけど、甲子園っていうのは簡単に行ける場所じゃねえよ―――

 

 ―――もし、先輩が甲子園に行ったら、私、絶対観に行きます―――

 

 ―――だから、頑張ってください。約束ですよ―――

 

 ―――いきなりそんな一方的な約束されても困るだけだっつーの。 全く、仕方ない奴だな……―――

 

 ―――えへへ……―――

 

 

 そんな、幸せな時間。

 そんな日々が、そんな世界があったなら、それはきっと俺にとっても一番の宝物となるだろう。そんなユイとの幸せな人生があっても良いじゃないか。

 俺がずっと、そばにいてやんよ―――

 

 

 「……そっか。 先輩はこれが、こんなにも幸福な事なんだってことを、私に教えてくれようとしてたんですね……」

 ユイの声。それは、今、現実に俺の目の前にいるユイの言葉だった。

 「……ありがとう」

 もう一度、ユイに視線を下げた時には、ユイはそこにはいなかった。

 ただ、涼しい風が俺の身体を通り抜けていく。

 後ろから、音無の声が掛けられる。

 「……良かったのか?」

 「……良かったさ」

 俺は、正直努めるように、そう返していた。

 「お前は、これからどうする……?」

 音無の心配そうな声に、俺は答える。

 「俺も最後まで付き合うさ。 まだまだ心配な奴らが、残ってるからな……」

 俺は、空を見上げる。

 夕焼けに染まったオレンジ色の空を。旅立ったユイの背中を見詰めるように、俺は空に流れる雲を見詰めた。

 好きな女がいなくなって、俺は今、どんな気持ちになっているだろう。

 それは自分自身が一番わかっているはずなのに、滑稽にも俺は自分に問い質していた。

 ただ、顔を上げざるにはいられなかった。

 零れそうなものを、零さないように顔を上げて、俺は心中で漏らす。

 「(正直……キスの一つでも、したかったな……)」

 好きだと言った女に対して、抱き締める事も出来ず、触れる事さえ出来ずに別れてしまった事は、正直辛い所があった。

 好きな女を触れたいと思うのは、当然の摂理だろう。

 まぁ、でも―――

 「……今度会った時にでも、いっかな……」

 またいつか、次の世界で、次の人生で出会った時。

 その時は、きっと―――

 

 

 「―――何がですか? ひなっち先輩」

 

 「んー? ああ、正直恥ずかしい事だがそれは……って、へ?」

 俺は聞き覚えのある声に、一瞬固まる。

 「な……」

 音無の押し殺したような声。

 俺は、視界の端にふわりと舞ったピンク色の髪を見た。それを見た俺は咄嗟に振り返る。その先には―――

 「は、恥ずかしい事って何ですか先輩……もしかしてユイにゃんとあんなことやそんなことを望んでいたりするんですか……? 変態ですね…ッ!」

 「はああああああああああッッッ!!?」

 俺は目の前にいつものユイを確認すると、喉の奥から思い切り声を出して張り叫んだ。

 俺の驚愕を表した叫び声に、ユイが両耳を塞いで抗議する。

 「ちょ…ッ! いきなり大声出さないでくださいよ先輩ぃ……ッ!」

 「ちょっと待てぇッ!! お前、お前……」

 「あれっ? どうしたんですか、先輩……もしかして涙目……? あッ! まさか私がいなくなったと思って寂し―――」

 「この……」

 「へ?」

 俺は目の前にいたユイを捕まえると、そのまま両手でユイの頬をぐいーっと伸ばした。

 「このアホがああああああああああ」

 「ヒハハハハハハハハッッ!!? ふぇんはぁい、ひはいへふぅぅ……ッッ!!」

 目一杯に引き伸ばし、ぐりぐりと頬を掴んだ俺は、涙目になるユイの頬から手を離して声をあげる。

 「お前、何でここにいるんだよッ!? てっきり成仏したのかと―――」

 「ふええ……何を言っているんですか、先輩」

 「だってお前、もう生前の未練はないはずじゃ……」

 「……確かに、生前の未練はもうありませんよ。 ひなっち先輩が、私を受け入れてくれましたからね……」

 語尾に近付くにつれて、恥ずかしそうに声を小さくしたユイを目の前にして、俺は不覚にもどきりとしてしまう。

 「でも……この世界での未練は、まだ残っていると言うか……出来ちゃったと言うか……」

 「は……?」

 「……だーかーらッ!」

 突然、ユイが背伸びをするように俺の目と鼻の先まで顔を近づけて言い放った。

 「……………」

 「……………」

 輪郭が定まらない程に互いの顔が近くにあって、俺とユイは互いに顔を赤くする。そして少しだけ離れたユイが恥ずかしそうに視線を逸らしながら、ぽそぽそと言葉を漏らした。

 「……置いていけない人がいるから……私だけ立ち去るわけにはいかなかったんです……」

 「(それって……)」

 俺から視線を逸らし、トマトのように顔を真っ赤にしたユイを目前にして、俺は確信する。そしてそれと同時に、自分までかなり恥ずかしくなってしまう。

 「……………」

 耳まで真っ赤になり、沈黙するユイを見下ろして、俺はくっと笑みをこぼす。

 「ユイ」

 「何ですか、先ぱ……ひゃあッ?!」

 俺は驚くユイを、そのままぐいっと俺の方へと引き込む。

 ユイのおでこが俺の胸辺りに当たり、ふわりとしたユイの香りが俺の鼻をついた。

 そのまま俺とユイは黙り込む。ユイの感触が直に伝わってくる事に、俺は安堵していた。そしてユイからも、微笑んだような気配が伝わる。今が夕焼けに染まっていて本当に良かったと思う。何故なら俺の顔も、ずっと赤みを帯びたままだったのだから。



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EPISODE.63 What is Love

 あたしは野球場の外から、その光景を見守っていた。

 夕日が射す野球場に伸びる影は、三つ。音無くんとユイちゃん、そして日向くんだ。

 そして―――あたしの隣には、立華さん。

 音無くんの行い、その結末を見守っていたあたしたちが目撃したのは、とても微笑ましいドラマのような光景。

 今、日向くんとユイちゃんが夕日に包まれ、影を重ねていた。日向くんにそっと寄せられているユイちゃんの顔は見えないけど、その表情や心情は同じ気持ちを抱いた記憶があるあたしには容易に想像できた。

 「……これで、良かったのよ」

 あたしは誰に言うわけでもなく、ただそう呟いた。

 ユイちゃんを満足させてこの世界から卒業させる事は出来なかった。でも、彼女にはもっと大切なものを手に入れる事が出来た。

 きっと、あれが二人にとっても最善の結果なのだ。そう、信じたい。

 この世界にも“愛”はあった。それがわかっただけでも、十分な結果だと思う。

 二人を見詰め、あたしはふと、自分にもかつてあった“愛”を、その記憶を脳裏に浮かべた―――

 「……………」

 あたしにも、大好きな人がいる。

 大切な人がいる。

 勿論、もう一度会いたいと願っている。

 だけど、それはまだ先。

 今のあたしには、やらなければいけない事があるのだから。

 「……そうね」

 隣から聞こえた儚い声。それはあたしの呟きに対する彼女からの返答の言葉だった。

 隣に視線を移したあたしが見た先には、微かに口元を変える立華さんの横顔があった。

 「微笑ましい事ね……」

 「……ええ、立華さんの言う通りね」

 あたしはクスッと笑って、再び彼らの方へと視線を向けた。

 その瞬間、微かに聞こえた彼女の呟き。

 「……愛」

 「えっ?」

 その声に惹かれて、あたしはもう一度、隣にいる立華さんの方に振り向ける。隣に立つ立華さんの表情は相変わらずで、その立華さんから、今聞こえた言葉が漏れたなんて、あまり想像できなかった。

 しかし確かに聞こえた。おそらく、聞き間違いではないと思う。

 「愛って……どんな感じなのかしら……」

 それが聞き間違いではないと言う事がすぐに証明された。そしてあたしは同時に驚きを隠せない。

 立華さんには失礼かもしれないが、彼女の口から漏れるその言葉を、意外だと感じてしまったからだ。

 「あなたは、知ってる……?」

 「うえッ?! あ、あたし……ッ!?」

 思わず、振られた事にギクリと震えるあたし。しかも、一応経験があるあたしだからこそ、動揺を隠せざるにはいられなかった。

 「え、えーっと……その……」

 「……?」

 立華さんの純粋で真っ直ぐな瞳が、情けないぐらいに動揺するあたしに向けられている。

 「えっと……つまり、アレよ…!」

 「アレ……?」

 「大好きって言うか……!」

 間違ってはいないが、もう少し凝った言い方は出来なかったのだろうか。いや、凝って言う必要もないかもしれないけど、やはりあたしは結構色々と混乱している。

 「大好き……? 麻婆豆腐に対する感情みたいな……?」

 「いや、そういう意味とは絶対に違うけど……大好きって言っても、その……人を好きになるって事で……恋しいと言うわけで……ああもう、あたしは何を言っているのかしらッ!!」

 何故、あたしがここまで恥ずかしい思いをしなくてはいけないのだろう。

 そして立華さんはやっぱり首を傾げている。

 「うう……きっと、立華さんもじきにわかるわよ……」

 「じきにわかるものなの……?」

 「うん……」

 そうだ。

 それは、簡単に説明できるものではないと言うか、第一説明する程でもないとも言える。

 だって―――

 「愛って、そういうものだから……気が付いたら、あるものなのよ……」

 あたしがそう言うと、立華さんはジッとあたしの方を見据えていたが、やがて視線を移した。

 「そう……」

 本当に納得してくれたかはわからないが、今は別にわからなくても良いのだ。先に言ったが、それは気が付けば、あるものなのだから。

 その内、彼女にも気付く日が来るだろう。

 「…!」

 あたしは、ふと思い立ったように気付いた。

 そして音無くんの方に視線を向ける。

 音無くんと、隣にいる立華さんを交互に見比べて、少し考える。

 「………ふふ」

 きっと今のあたしの笑顔は、ニヤリという擬音が似合っている事だろう。

 「(もしかしたら、本当に近い内に立華さんも知る事が出来るかもしれないわね……)」

 そんな他愛の無い事を、あたしは一人で笑いながら、考えていたのだった。

 「?」

 そんなあたしを、隣から立華さんが首を傾げながら覗き込んでいても。

 

 

 その後、あたしと立華さんは一先ずその場をあとにした。明日は音無くんから今日の話を貰える事だろう。まぁ、あたしも前に音無くんに言った通り、そばから見守っていたのだけど。

 その夜、あたしは夜の校舎を徘徊していた。特に意味はない。夜の校舎と言う場は、あたしには懐かしくて居心地が良いのだ。

 廊下の窓から射し込む淡い月光。糸をピンと張ったような静寂。誰もいない教室。世間一般では怖いイメージを抱かされる雰囲気だが、あたしには気が安らぐ場所でもある。

 「ここに来る前は、こんな夜の学校で、銃を手に影相手と戦ってたものね……」

 繰り返される世界(ゲーム)の中で、銃を手に何人もの影と戦ってきた日々。一人で戦い、そして何時しか彼と共闘するようになり、共に地下迷宮まで潜入して、そこでまた影やトラップを相手に戦って―――

 今思えば、楽しかったと言える記憶だった。

 

 ずず。

 

 そんな、何かが這いずるような生温い音が、生々しい気配と共に現れた。

 「―――!?」

 背中に伝わる悪寒に、あたしは振り返る。だが、そこは闇が支配する世界で、どこにも異変は見られない。

 あたしは、ドク、ドクと打つ胸の鼓動に、気味悪く感じるしかなかった。

 「何、今の感じ……」

 この目で見る限り、おかしな所は見られない。

 ただ、それは見られないだけで、感じたこと、そして異常が起きていると言う事実は、本物だった。

 それは、闇の向こうから響き渡る悲鳴によって齎された。

 「―――!」

 その悲鳴を聞いた途端、あたしはすぐに廊下を駆け出していた。

 闇の中を疾駆するあたしには、何が起きたのか、考える余裕もない。ただ、何かが起きている。そしてそれは危険なものだと、それだけは本能が感じ取っていた。

 闇の先に現れたもの。それは尻もちをついている一人の男の子だった。

 「そこッ! 大丈夫ッ!?」

 あたしの声に、ビクリと震える彼。あたしの方に振り返った、その震える顔には見覚えがあった。

 確か、大山くんと言ったか……

 「あ……き、君は……」

 「一体どうしたのッ?!」

 大山くんはその可愛らしい顔を蒼白にして、身体をがたがたと震わせていた。彼がどれだけ怯えているのかがよくわかる。だが、問題なのは、何故そこまで怯えているかだ。

 「何が起きたの……?」

 「あ……あ……」

 あたしは冷静に大山くんに問いかけるが、大山くんは声が震えてまともに言葉を発する事が出来ない。

 だが、その答えはあたしの目の前で実証された。

 

 ずずず。

 

 また、さっきと同じ感覚。

 その先に顔を上げたあたしの目の前には、この世でも、あの世でも信じられないものが浮かんでいた。

 「な……によ、これ……」

 闇。しかし、それはただの闇ではない。

 闇から、“それ”は這い出している。

 唯一“目”を煌めかせ、ずずず、と闇からゆっくりと這い出ている。それはまるで生き物のように動いている。

 “それ”と目が合った瞬間、得体の知れない悪寒が身体中を駆け巡った。

 あたしは、直感した。

 

 ―――影。

 

 前にも似たようなモノの名前を、あたしは思い浮かべていた。

 「……ッ」

 あたしは咄嗟に太もものホルスターに収めていた銃を取り出すと、影の方に銃口を向け、引き金を引く。

 だが、影に一発の穴が開いただけに留まった。

 「……!」

 一発では効かない。それが判明された。

 更に引き金を引こうとするが、遂に影があたしたちの方に向かって、その身体ではない身体を伸ばす。

 だが、その直前―――

 「伏せてろッ!!」

 「―――!!」

 その声に反応して、伏せたあたしの前で、その影は何かに一刀両断された。

 得体の知れない悲鳴を上げた後、影は霧のように消滅した。その場には、一人の男が武器を下ろした姿勢で佇んでいた。

 「……ちっ」

 その男は立ち上がると、その長い斧のような武器を手慣れな感じで一振りすると、肩に乗せた。

 それはハルバートをいつも手に持っている野田と言う同じ戦線のメンバーだった。

 影を斬り伏せ、舌打ちする野田くん。だが、そんな野田くんさえ、その鋭い目つきの下には、一粒の汗が滲み落ちていた。

 「の、野田くん……」

 大山くんが泣きそうな声で、野田くんを呼ぶ。だが、野田くんはあたしたちの方に振り返ると、ただぽつりと言葉を漏らした。

 「……おい、聞きたいことがある」

 その先に出てくる質問を、あたしは予想した。

 「何」

 野田くんは一拍置くと、荒い息を一つ吐くように、微かに震える声で問うた。

 「俺は一体、何を斬ったんだ……?」

 その質問に対する返答は、その場にいるあたしたちの誰もが、返すことは出来なかった。だが、夜の校舎で、あたしたちは確かに“何か”を見た。そしてそれはこの世界において、恐ろしい事が始まる前触れであった。後に、あたしたちはそれを身を以て知る事になるのだった。



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EPISODE.64 Start of Abnormality

 いつものよく晴れた日本晴れの下、校舎に決まった時間を知らせるチャイムの音が鳴り響く。自動販売機の前でコーヒーを飲みながら気を休めていた俺は、ふとその音を聞いてある事を思い出す。

 「……時間か。 待ち合わせの場所に行かないと」

 中身を飲み干した空き缶を穴の中に投げ入れると、俺は二人との待ち合わせ場所に向かった。

 

 

  

 俺たちが、今やろうとしている事。

 それは簡単に言えば、この世界からみんなを卒業させる事だ。

 そのためについ最近まではユイを相手にしていたのだが、ユイに対して俺は勘違いをしていた。ユイはまだまだ、この世界から卒業するには早過ぎた。日向(あいつ)と一緒にいられる時間を、俺が奪うわけにはいかない。

 「……次は誰にすっかな」

 端から聞けば恐ろしい言葉かもしれない。俺のしている事は、戦線のみんなからすると、天使と同等の事をしているのだから。だが、それは誤解だ。奏を天使と称して戦っている誤解と同じで、みんなにはきっといずれでもわかってくれると、俺はそう信じている。

 「奏の意見も聞いてみるか……」

 「よっ、音無」

 「…ッ!? 日向ッ!」

 思案しながら歩いていた俺に、不意に声を掛けたのは日向だった。ついさっきまで考えていた事もあって、俺は変に驚いてしまう。

 「音無さん♪」

 「な、直井…ッ?!」

 おまけに直井まで現れる始末だった。

 だが、この事に関しては日向も直井も予想外の事態だったようで、二人が互いに相手を睨み合い始めた。

 「―――お前ッ! ここで何してるんだよッ!?」

 「……貴様こそ、どこから沸いて出た」

 日向と直井が互いの間に視線の火花を散らせる。この二人はいつも俺の前に居る度に、何故か対立し合う。正に犬猿の仲と言う光景だった。

 「あー……お前ら、俺に何か用なのか?」

 「そうだ、どこに行こうとしてたんだよ音無」

 「どこに行こうとしてたんですか、音無さん」

 ほぼ同時に、二人の言葉が重なる。

 「「―――ッ!」」

 そしてまた互いに睨み合う二人。俺はその光景にたまらず額に手を当てた。

 「どこだって良いだろッ!」

 「貴様には関係ない!」

 直井の言葉に、日向はぴくりと反応する。そして力強く前に足を踏み出すと、そのままずかずかと直井の前に迫りながら唾を飛ばす。

 「―――俺は音無に用があるんだ。 あいつのしている事を手伝うためにな…ッ!」

 日向の覇気がある言葉にも、直井は全く動じない。それどころか、鼻をふん、と鳴らすと、直井も冷静に言葉を返した。

 「それこそ僕の仕事。 貴様は邪魔だ、とっとと―――消えろッ!」

 言うなり、直井の目がカッと見開かれる。その瞳は血のように真っ赤に染まり、猫のような鋭い眼光が日向の視線を真っ直ぐと貫いているようだった。

 それは直井の得意技、催眠術だと俺はすぐにわかった。

 「さぁ、僕の目を見るんだ。 貴様はトイレットペーパーだ……あっという間に流されていくトイレットペーパーの潔さに気付く―――」

 「こらこら、やめろ…ッ!」

 俺は慌てて二人の間に入って止めに入るが、既に日向は直井の催眠術の毒牙に侵されかけていた。

 「ふ、ふぁあ……」

 「お、おいッ?! 日向…ッ!」

 直井の催眠術に侵されそうになった日向が、力ない声をあげながらふらふらと倒れてしまった。

 そんな日向に駆け寄った俺の背後で、直井が猫を撫でるような声で言った。

 「僕がお手伝いさせていただきます」

 日向を催眠術に掛けようとした直後なのに、そこまで爽やかになれる直井が恐ろしい。

 「…て言うかお前ら、俺のやろうとしている事がわかっているのか?」

 「わかってるよ……」

 ぶるぶると首を振り、正気を取り戻した日向がすぐさま俺にその言葉を返す。

 「わかってますとも」

 直井も続くように、その爽やかな声色で言い―――

 「一人ずつ消していくんでしょう……?」

 声を低くさせて、そう呟くように言った。

 「……お前が言うと、犯罪っぽく聞こえるな」

 日向の意見には、俺もとりあえず同意しておこうと思う。

 「そもそも直井、お前はもう思い残す事がないはずなんじゃないのか?」

 「僕はあなたと一緒に居たいのです。 それに、こいつより先に消えたくありません」

 「そんな理由で残るなっての…ッ!?」

 「じゃあどうしたら良いんですか……ッ!?」

 「消えるんだよ」

 「貴様には聞いてない」

 日向をゴミを見るような一瞥を与えたから、再び俺の方に向き直り、直井は縋るように言い続ける。

 「ねえ、音無さん。 パートナーが必要でしょう?」

 だが、そんな直井の背後の“異変”に、俺と日向は初めて気付いた。

 直井の背後に、何かが“居る”

 だが、それが何のかは俺たちにはわからない。わかるはずもなかった。それを、俺たちは初めて見たのだから。

 「僕を使いこなしてくださいよ、音無さん…!」

 だが、直井は気付いていない様子だった。呆然とする俺たちの様子に気付いたのか、直井が不思議そうな表情を浮かべる。

 「……どうかしましたか?」

 直井の言葉に、俺はどんな答えを返せば良いか一瞬わからなくなった。

 その間に、俺の隣で同じモノを見上げていた日向が、代わりに口を開いた。

 「お前、また何かしたのか……?」

 日向の言葉に、直井は怪訝な色を浮かべる。

 「……何の事を。 僕は何も―――」

 言いながら、背後の方に振り返る直井に、それは突然襲い掛かった。

 「―――うわ、ぁ……ッ!!」

 直井に纏わりつく黒い何か。それはどろどろと、直井の身体を蝕むように、包み込もうとしていた。俺たちはその異常な事態に対して、呆気に取られるしかない。

 「何だよこれ…ッ!?」

 「敵か……?」

 「撃って良いのかッ!?」

 咄嗟に銃を構えた日向だったが、それが何なのかわからない以上、どう対処すれば良いのかわからず、引き金を引く事はなかった。

 だが、俺はそこでようやく気付いた。目の前にあるモノが何かはわからないが、直井の身に危機が迫っている事は明白だった。

 「……入って、くる……何か入ってきます……音無さん……ッ!」

 黒い何かに浸食されそうになっている直井は、顔面を蒼白にして、苦し紛れにそう叫んだ。その時、俺の身体は考えるより先に動き出していた。

 「くそ…ッ!」

 俺は直井に襲いかかっている何かに向かって身体をぶつけた。黒い何かに覆われたままの直井が転がっていく。そして直井の身から剥がれ落ちるように、黒い何かもまた、直井から離れて飛び出した。

 「……ッ!」

 それは、直井の身から離れると、その正体を露にした。四本の足を生やし、黒い身体に唯一光る目をこちらに向けながら、真っ直ぐにこちらに向かって迫り来る。

 「日向ッ!」

 俺の合図に、日向が引き金を何発か引いた。発砲音と共に、銃口から幾つもの光が放たれる。撃ち放たれた弾は黒い何かを貫いていく。

 「死ぬのかよ、これ…!?」

 だが、黒い何かに弾が貫いても、弾が命中した部分が霧のように弾き、大きな穴が開くだけだ。俺も加勢して銃を手に、黒い何かに向かって数発か弾を叩きこむが、手ごたえと言うものが感じられない。まるで虚空を貫いているに近い感覚だった。

 だが、何発も撃ちこんでいく内に、黒い何かはその身体を徐々にすり減らしていき、やがては完全に消え失せた。

 発砲の音が止む頃には、俺たちの目の前には数秒前の出来事が嘘のように、何もなかった。

 「やったのか……?」

 「………何だったんだよ」

 今のは、一体何だったのか。俺たちはただ、呆然とするしかなかった。

 

 

 

 「影よ」

 待ち合わせの場所―――焼却炉の前で、俺たちが体験した事情を聞いた沙耶がはっきりと、ぽかんとする俺たちの前で告げた。

 「影……?」

 「そう、影。 昨日の夜、そいつと遭遇したあたしは、そう呼ぶ事にしているわ」

 「沙耶もアレと戦ったのか…ッ!?」

 「ええ」

 沙耶は真剣な眼差しのまま、頷いた。

 黒い何か―――沙耶が呼称する“影”と戦った俺たちは、急いで二人が待っている待ち合わせ場所へと向かった。慌てるようにやって来た俺たちを見て、驚いていた沙耶と奏に、俺は日向と直井が共にいる理由と並行して、先程の俺たちの体験談を説明した。

 俺たちの説明を聞き、相変わらずの無表情だった奏の横で、俺たちの説明に全く動じなかった沙耶の様子に、初めて納得した。既に沙耶は俺たちより先に、俺たちと同じ事を体験していたのだ。

 「でも、なんで影なんだよ……?」

 日向が問いかけると、沙耶は少しの間だけ口を紡いだ。何かを考えるような仕草だったが、口を開かない事はなかった。

 「以前、似たようなものと戦った覚えがあってね。 それの名前を引用しただけよ」

 「……前から思っていたが、貴様は一体何者だ?」

 「ただのスパイですが、何か?」

 「スパイだと……? ふん」

 沙耶の嘘か本当かわからない返答に、直井は鼻を鳴らすと、それきりで黙り込んだ。

 「……とにかく、あれを影と呼ぶにしても、あの影と言うのは一体何なんだ? 沙耶は何か知っているのか」

 「あたしもあれの正体は知らないわ。 ただ、イレギュラーな存在だって言うのはわかるわね。 ねえ、日向くん?」

 「俺?」

 「ええ。 あなた、この世界に居て長いでしょう? あんな事、あなたがここに来て今までにあったかしら」

 「僕も長いんだがな……」

 「んー……そうだな……あんな化け物、今までこの世界でも見た事ねえぜ」

 「という事は、やっぱりあれは、この世界にとっても異常なものだって事なのか……?」

 「情報が足りない。 まだまだ、確証できる事は何もないわ」

 「そうだよな……」

 俺たちは先程の光景を思い出す。そしてあの得体の知れない“影”に対して思案する。あれがこの世界においてもイレギュラーな存在だとしたら。そして、あの存在が現れた事で、この世界に何か起こっているとしたら―――それは、何なんだ?

 この世界で、一体何が起こっているのだろうか―――

 「……ッ」

 フラッシュバックする、記憶。

 沙耶が俺たちの前から消えた、あの日。

 沙耶が捕縛された、この世界においての、前の“異常”。また、この世界で何か起こるとしたら、また誰かが危険な目に合うのではないだろうか。

 

 その時、沈黙する俺たちの耳に、校内放送を示す間抜けな音が響き渡った。

 

 『生徒会長の立華奏さん、今すぐ生徒会室まで来てください。繰り返します―――』

 その声に、俺たちは聞き覚えがあった。

 「なあ、これってゆりっぺの声じゃん……」

 「どういう事だ……?」

 ゆりが奏を呼んでいる。

 奏の方に振り向くと、奏はゆりの校内放送に耳を傾けるように顔を仰いでいた。

 「行かなきゃ……」

 ゆりの校内放送を聞いた奏は、ごく普通に、生真面目にそう言った。

 「へ……?」

 ぽかんと呆ける俺たちの前を通り過ぎるよう、ゆりのもとへ行こうとする奏。俺は慌てて奏の手を掴んだ。

 「待て、奏…! もしお前が行けば、ゆりに俺たちがやろうとしている事がバレるかもしれない…!」

 奏を引き止めて、俺は危惧する事を言う。

 ゆりが何故、奏を呼んでいるのか。その理由はわからない。だが、もしかしたら俺たちが何かやろうとしている事に勘付いているのかもしれない。それを問い質すために、奏を呼んだのだとしたら―――

 ゆりに、俺たちの目的がバレるわけにはいかない。俺たちがやろうとしている事は、明らかにゆりたちに反発を買う。それだけは避けなければならない。

 「でも……」

 どこまでも真面目な奴なのだろう。律義に、自分を呼んだ相手のもとへ行こうとしている。俺が奏の手を掴んでいなければ、奏はそのままゆりが待つ生徒会室へ向かっていただろう。

 「行かせてあげれば?」

 「沙耶…!?」

 意外な事を言い出したのは、沙耶であった。だが、沙耶は至って真面目だ。

 「むしろ呼んで来なかった方が、逆に怪しまれるわよ」

 「……………」

 確かに、沙耶の言う事も間違いではない気がする。

 俺は掴んだ奏の手を見下ろし、そして奏の方をジッと見詰めながら、考えを浮かべる。このまま奏を行かせてやっても、本当に良いのだろうか―――?

 そんな事を考えている俺の顔に、何か出ていたのか、奏は俺の顔を見詰めると、微かに口元を微笑ませた。

 「……大丈夫よ、結弦」

 儚くも、凛と通った奏の優しげな言葉に、俺はハッと奏の方に視線を向けるしかない。

 「何も心配しないで、私を信じて……」

 「奏……」

 そうだ、俺は奏を信じなくてはいけない。俺が不安を抱えるという事は、奏を信じていない事になるのではないか。

 奏を信じる。俺に出来ることは、まずそれだけだ。

 「……わかったよ、奏。 行ってこい」

 奏を掴んでいた俺の手が、緩んだ。そしてそのまま、奏の小さな手から、俺の手が離れる。

 「あ……」

 「……?」

 その瞬間、奏がぽつりと儚い声を漏らした。俺は何故、奏がそんな声を漏らしたのかわからなかったが、その時に見た奏の表情が一瞬残念そうに見えた気がした。

 「大丈夫よ」

 ふとした思いが振り払われるように、後ろから沙耶の声。振り返った俺の視線の先には、胸の前で腕を組んで得意そうにしている沙耶の姿があった。

 「あたしたちも同行すれば良い」

 「でも、そんな事が出来るのかよ? ゆりっぺが許してくれると思うか……?」

 「大丈夫よ、こっちには直井くんがいるから」

 「僕だと……?」

 沙耶の言葉に、俺たちは首を傾げる。直井がいると、何故俺たちの同行が許されるのか。だが、それはすぐにわかった。

 「……なるほど、そういう事か」

 「さすが沙耶だな」

 直井がフッと笑みを浮かべ、俺も納得するように頷いた。一人、未だにわからないままでいる日向は「え、え?」と、俺たちを交互に見比べている。

 「ど、どういう事だよ?」

 「まだ気付かないのか、貴様は。 どこまで無能なんだ」

 「んだよ…! 何なんだよちくしょう…ッ!」

 「すぐにわかるわ。 行きましょう」

 たっ、と地を蹴った沙耶の金色の長髪が、ふわりと流れる。俺たちの前を先導するように先を行く沙耶。その姿は本当に、どこまでも頼もしかった。

 「行こう、奏」

 差し出した俺の手に、奏が見下ろす。

 その時、奏の口元が少し緩んだ。そして頬が微かに朱色に染まったようにも見えた。

 「……うん」

 奏の小さな手が、俺の手と重なる。その儚い手を握って、俺は沙耶たちの後に続く。俺たちの先を行く沙耶の背中を追って。そして俺は手を引くように、奏の小さな儚い手を離さずに掴み続けていた。俺が手を引く後で、奏がどんな顔をしていたのか、俺は知る事が出来なかった。 



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EPISODE.65 Change the World

 生徒会室には六人が集まっていた。本来ならゆりが奏一人を呼び付けたのだが、ゆりの考えを知らない以上、奏を一人ゆりの前に居させるのは不安があったため、俺たちも同伴している。

 「…何なのよ、あんたたち」

 奏の周囲に立つ俺たちを眺め、ゆりは怪訝な表情で言った。

 「傍聴させてくれ」

 ゆりの問いに、俺は即座に応えた。

 ゆりが何か言う前に、今度は直井が続けるように捲し立てる。

 「―――元生徒会長代理、現副会長である僕が許可しました」

 「何であんたの管轄なのよ」

 「生徒会室ですから」

 そう、ここが生徒会室である以上、直井の立場を利用すれば俺たちの同伴をゆりが拒否する権限はない。俺たちは難なく奏と共にゆりを相手に出来るわけだ。それを提案した沙耶は、得意そうな顔を浮かべることもなく、冷静にこの場の成り行きを真剣な表情で見守っていた。

 「……まぁいいわ」

 直井が俺たちにしか見えないように、背後に組んだ手の親指をぴっと立てたが、そもそもこの提案をあげたのは隣にいる沙耶である。

 「―――で、どうなの? 影よ、影」

 ゆりはストレートに影のことを奏に問い質した。だが、奏は「知らない」と即答する。

 「あなたがプログラミングしたんじゃないの?」

 「違う」

 どうやらゆりは最近この世界を騒がせている影の存在に関して、奏が何らかの形で関係していると推測したみたいだ。だが、勿論奏も影に関しては一切関係はない。

 「……じゃあバグと言う可能性があるわ。 最近、プログラミングしたのはいつ?」

 「一昨日……」

 「タイミング的にはドンピシャね……」

 そう呟くと、ゆりはそばに置いてあったトランシーバーを握り締めた。

 「ちょっとあなたの部屋を入らせてもらうけど、良い?」

 奏は無言で頷く。奏の了承を得たゆりは、トランシーバーに向かって口を開く。

 「竹山くん、よろしく」

 『了解。 後、僕のことはクライ―――』

 「で、どんなプログラムを?」

 相手の言葉を言い終わらせない内に、ゆりはトランシーバーを置いて奏に問いかける。

 「羽」

 「はね……?」

 奏の言葉に、ゆりは訝しげに反応する。

 「羽を付けたの? まさか、飛べるように……?」

 「……ううん、飾り」

 「へっ?」

 奏の返答に、ゆりは間抜けな声をあげる。それはそうだ、羽を付けてその目的を聞いてみれば、飾りだと答えられたのだ。羽と言う大前提を覆すような解答を、さすがのゆりも予想していなかっただろう。

 「飾り?」

 「そう、飾り……」

 そこで、俺は不審な違和感を覚えた。

 このままだと、何だか危ないような気がする。

 「何で?」

 「その方が、天使らしいからだって……」

 「だって?」

 俺はやっとその状況の意味に気付いた。思わず沙耶の方に視線を向けるが、沙耶も俺と同じらしく、顔をひきつらせていた。

 マズイ、この状況は非常にマズイ。

 奏の発言は、まるで自分の意思ではなく明らかに他の誰かに言われたようなことを言っているではないか。いや、正しくそのままなのだが。

 ゆりは奏の発言の不審さに気付き、更に深く追求した。

 「誰に言われたの?」

 「(マズイ……ッ!)」

 俺が思わずフォローを入れようとした時、唐突に直井の声が俺を止まらせた。

 「それは僕です」

 「―――!」

 直井は涼しげな表情で、はっきりとそう言った。

 だが、ゆりの疑心はまだ晴れることはない。

 「生徒会長としての箔が付くかと思い、元生徒会長代理、現副生徒会長の僕がそう提言しました」

 「生徒会長に羽が生えたら箔が付くの……?」

 「はい、生徒会長に羽、ふさわしいかと」

 直井は全く動じることもなく、真摯なままに、はっきりと断言した。

 さすがにゆりは少々呆れ気味になっていたが、それ以上の追求をしてくることはもうなかった。

 「……しかし、意外に従順ね。 冷酷さなんて微塵も感じられない、以前と変わらないように見えるわ」

 「いえ、冷酷です。 副会長の僕が、毎日刺されています」

 「え、どうして?」

 「機嫌が悪いと会長は近くのものを刺すんです。 副会長と言う立場上、割と近くに居る事が多いのでよく刺されます。 今朝も刺されてしばらく腸がはみ出したままでした……今は随分と、機嫌が良いようですが」

 「……………」

 さすがにそれはどうかと思うが、直井はやっぱり言い切った。さすがに俺も呆れるしかなかった。

 沈黙が辺りを包んでいたが、やがてトランシーバーから漏れた連絡に、それは破られた。

 『竹山です。 応答してください』

 「竹山くんね、どうだった?」

 ゆりが耳を近付けるトランシーバーから漏れる竹山の声を、俺たちも耳を傾ける。奏が持っているパソコンのコンピュータを調べたらしく、結果としてはバグは見つからなかったようだ。

 ということは、奏のAngelplayerが原因と言うわけではなさそうだ。

 「他のプログラムは?」

 『以前と同じものです。 形状は違うものですけど……どうしますか?』

 「……………」

 ゆりがチラリと奏の方を一瞥する仕草を見せる。

 他のプログラム―――奏がプログラミングした数々の武器。戦線をも苦しめた武器は、今となってはどうしようがゆりたちの思うがままだ。もしかしたら消すつもりだろうか。だとすれば、また一から作り直しになってしまう。

 その時、微かに聞こえた音に、俺は気付くことができなかった。

 「……おい、今銃声が聞こえなかったか?」

 日向の言葉に、俺たちは反応する。

 「何言ってるの? 銃声なんか―――」

 「いいえ」

 遮るように言葉を発した主の方に、俺たちの視線が集まる。そこにいたのは、腕を組んで目を閉じた沙耶の姿。

 「……向こうから、聞こえたわ」

 「向こう?」

 目を開き、沙耶が鋭い眼光で見据える先を、俺も視線を向けてみる。その視線の先は、窓、そしてグラウンド―――

 その瞬間、その方向から明らかな銃声が響いた。

 「―――!!」

 「外だ…ッ!」

 俺たちは急いで生徒会室から、グラウンドを見渡せるベランダへと出た。外に出てグラウンドを見下ろした俺たちが見たものは、十分に驚くに値するものだった。

 「おい、あそこだッ!」

 日向が指を指した先、グラウンドの一角であの影と呼ばれる何匹もの怪物が、戦線のメンバーを取り囲み、戦っている光景が見られた。

 「何だよ、あの数……」

 しかし前に見た時より、その光景は明らかに異質だった。蠢くように居る影の数はかなり居る。あのままでは影と対峙しているみんなが危ない。

 「沙耶ッ!?」

 その時、俺のすぐ目の前を一頭の鷲が飛び立った。いや、それは鷲ではなく、ベランダから飛び越えて跳躍する沙耶だった。沙耶は見事な体勢で空中に飛び込んで着地すると、そのままグラウンドの方へとあっという間に駆け抜けていった。

 「……ッ! 奏、頼むッ!」

 俺のあげた声に、奏がコクリと頷く。そして奏もベランダに足を掛けて、俺たちの目の前から飛び出す。しかしその奏は、本当の意味で羽を広げて跳躍していった。

 それはまるで本物の天使のようだった。彼女の身体が小さく見えてしまう程に大きな羽を広げ、真っ白な羽根が周囲に舞い散った。まるで絵画を見ているような錯覚に囚われるように、俺たちは目の前に降臨した“天使”に見惚れていた。

 “天使”は舞い散る羽根と光の中から落下すると、地上に降り立つ前に大きな羽を羽ばたく。地上に、一人の天使が舞い降りた瞬間だった。

 そしてゆりも沙耶と奏に続くようにベランダを飛び越え、グラウンドの方へと駆け抜けていく。俺も後に続こうとする。

 「俺も行くぜ…ッ!」

 「あ、音無…!?」

 俺も三人の後を追うように、ベランダから飛び越えた。沙耶やゆりのようにはいかないが、何とかグラウンドの方まで降りる事に成功する。

 そして俺は銃を手に、既に戦いが始まっている戦場へと、自分も参加するために走り出した。

 

 

 そこは正しく乱れ入るような戦場だった。大勢の影たちが、どこからともなく俺たちに襲いかかってきた。皆、それぞれの武器を持って無数の化け物たちと応戦する。

 だが、敵の数が多過ぎる。これは一筋縄ではいかなさそうだ。

 「きゃ…ッ!?」

 影に捕まったゆり。俺は即座にゆりを捕まえる影の腕に向かって発砲した。影の腕が分離され、ゆりの細い足が解放される。

 「大丈夫か、ゆりッ!」

 「音無くん…!」

 影から離れる事に成功したゆりだったが、俺の背後で何かを見つけたのか、ゆりが慌てて声をあげた。

 「音無くん、避けてッ!」

 「――――ッ?!」

 背後を振り返ると、いつの間にか一匹の影がその腕を俺の方に振り下ろそうとしていた。間に合わない、と影を見上げていた俺の目の前で、影の身体に幾つもの穴が開く。そして最後の一発で、俺の背後にいた影はあっという間に消えてしまった。

 「油断は禁物よ、音無くんッ!」

 「サンキュウ、沙耶ッ!」

 「どういたしまし……てッ!」

 不意に襲いかかろうとした影をも、沙耶は即座に対応し、駆逐する。

 また一匹の影を倒すと、沙耶は俺の方へと駆け寄り、俺たちはお互いに背中を合わせるような形になる。

 「良いトレーニングになりそうねッ!」

 「ああ、本当だな。 背中は任せたぜ、沙耶…ッ!」

 「足を引っ張らなければ、あたしも任せてやってもいいわよ音無くんッ!」

 お互いに笑みを浮かべ、俺たちはほぼ同時に合わせていた背中を離し、それぞれの眼前にいる敵に向かって駆け出した。

 

 

 「無事か、みんな……」

 どれくらいの時間が経ったかわからない。ただ、俺たちに襲いかかってきた大勢の影はようやく全て撃退した。全ての影が消えると、皆はそれぞれ疲れた様子で頭を垂れた。そしてそれぞれの今の戦いにおける感想を口々にこぼす。

 「この世界に長く居過ぎたのかしら……」

 「どういうことだ?」

 ゆりの呟きに、俺は問いかける。

 「ゲームでよくあるじゃない。 永久プレイ阻止のために現れる無敵モンスター」

 「笑えないわね……」

 何かを思い耽るように、沙耶はぽつりと漏らした。ぎゅっと、銃を握る手を強めて。

 「……にしても」

 ゆりが、ある一人の少女に視線を向ける。そこには、以前よりも更に形状を変えたハンドソニックを収める奏の姿があった。

 「まるで味方ね……」

 奏も俺たちと同じく、戦線メンバーと共闘して影を相手に戦った。その姿は正しく、戦線に仇名す天使ではなく、既に俺たちの味方のような光景であった。

 だが、まだ事態は終わっていなかった。一つの戦いが終わり、また次の事柄が舞い込んでくる。

 「おぉいッ! おお~~~いッッ!!」

 「藤巻?」

 学校の方から、藤巻が慌てるように俺たちの方に向かって、声をあげながら駆け寄ってくる。藤巻の慌てぶりを見る限り、これもまた普通ではない事態であることが容易にわかる。

 「やべえぞ……高松が……」

 呼吸を荒げ、肩を上下させる藤巻が、振り絞るような声で言い放つ。

 「高松が、やられちまったぁぁ……ッッ!!」

 この時から、事の深刻さに俺たちはやっと徐々に気付き始めて、そして思い知ることになる。

 この世界で何が起こっているのか、そしてどんな恐ろしい事が俺たちの身に降りかかってくるのか、この時の俺はそんな事など全く予想も出来ていなかった。



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EPISODE.66 At the Center of the World

 影の出現は、俺たちには余りに余る程、衝撃的過ぎた現実だった。その衝撃はこの世界の定義をひっくり返す程のものかもしれないぐらいに。

 そして遂に、俺たちのすぐそばで、その最悪の事態が起こってしまった―――

 「……高松(あいつ)の眼鏡だ」

 学園の渡り廊下付近で、日向は粗末に変わり果てた眼鏡を拾った。皆の視線が、その眼鏡に集中している。その眼鏡は、この場にいる全員に見覚えがあった。

 戦線の仲間。俺たちの仲間の眼鏡だけが、そこにぽつんと落ちていた。ひしゃげ、変わり果てた外観は、その持ち主の身に何が起こったのかを、如実に暗示させるものだった。

 「僕……見たんだ……」

 第一発見者の大山が、微かに声を震わせる。

 「影に喰われる所を……」

 「喰われるって……?」

 「僕が出くわした時にはもう、全身が影に覆われていて……」

 泣きべそをかきそうな表情で、大山は事の事情を説明した。目の前で仲間が影に襲われ、何も出来なかった自分の不甲斐無さに、唇を噛みしめる大山。だが、誰も彼を慰めてやる事も、消えてしまった高松が無事なのかも、口に出せる者は誰一人いない。

 「……で、あいつはどこへ行ったんだ」

 「地面に……呑みこまれて行った……」

 俺は、不意に足元を見下ろした。

 「イレギュラーすぎる……」

 ゆりの口から、ぽつりと漏れる言葉。

 これは、今までの何よりも余りに逸脱した事象だった。

 「(何だ……俺たちの思惑とは違う意思が働き始めている……)」

 一体、何が起きているんだ―――?

 だが、その答えを教えてくれる者は、俺たちの中には誰もいない―――

 隣で口を噤む、いつも頼りになる沙耶でさえも―――

 

 

 その日、高松の捜索が命じられたが、既に下校時刻も過ぎたほとんどの生徒がいない学園中を探しても、高松の姿は見つける事が出来なかった。捜索は夜と共に打ち切られ、明日に持ち越しとなった。

 「皆、影の存在には十分に気を付けるように。 出来れば単独行動は控えて、各自解散して」

 ゆりの忠告に、俺たちは深く頷かざるを得ない。また何時、あの影が現れるかわからないのだ。そして、また高松のように消えてしまう事も十分あり得る。

 各自が解散する中、ほとんどが寮に向かう一方、ある男だけが別の方向へと足を向けているのを見つけた。

 「日向、お前は寮に帰らないのか?」

 「悪ぃ。 俺はちょいと野暮用があるんだ」

 日向の乾いた笑みを見て、俺はすぐに察した。

 「……そうか、もしかしてまだいるのか?」

 「ああ、今日もいつも通り練習だろうから、まだ教室にいるかもな」

 日向が足を向けた先には、学校の校舎が見える。そして耳を澄ませば、遠くから演奏の音が聞こえてくる―――

 「……やっぱり、心配なもんは心配だからな」

 日向は少しだけくすぐったそうに、頬を指で掻きながら言った。

 影が現れた手前、日向があいつ―――ユイの事に気を掛けないわけがない。こんな事態になっては、日向もユイの事が心配なのだろう。つい先日、惚れた女に気持ちを伝えた一人の男は、いつの間にかこんなにもキザな奴になっていた。

 「何だよ、変な顔して……」

 「してねえよ。 つーか、日向。 お前こそ危ないだろ、校舎に行くまでの間だとしても、お前一人で行くつもりだっただろ」

 「安心しろ、たとえ影が現れたとしても全然恐くねえよ」

 「だとしても、ゆりが言っていた通りに単独行動は危険だ。 だから、俺も付き合うよ」

 俺の言葉に、日向がへ?と間抜けな表情を浮かべる。

 「い、いいよそんなの…! 何か付き合わせちまってるみたいで悪いし……」

 「何言ってやがる。 お前はユイの事を心配だと言ったが、俺だって日向の事が心配なんだからな」

 「……音無」

 「何だ?」

 「……お前、これなのか?」

 「……………」

 日向が手をある形に添えながら、言葉を紡ぐ。

 俺は黙り込み、日向との間で変な空気が流れ込んでくる。

 ……勘弁してくれ。

 「……いつかの仕返しのつもりか?」

 俺がそう返すと、日向はぷっと吹き出した。

 「ははッ、冗談だよッ! だけどお前も俺の気持ちが少しでもわかってくれただろッ?」

 「はいはい、俺の方も悪かったよ……」

 これは思ったより、される方は結構キツイ事だと言う事を、ここで初めて身に沁みて知る事になった俺だった。

 「……大丈夫よ、音無くん」

 「沙耶?」

 いつの間にか、俺の後ろから沙耶がいた。

 俺の肩にぽん、と手を乗せると―――

 「たとえ音無くんがホ○だとしても、あたしは音無くんのパートナーであり続けるから」

 「……お前も乗ってくるのはやめてくれ」

 凄く優しい目で言われても、俺は沙耶の冗談めいた言葉に笑って済ませる事は出来なかった。

 

 

 

 「で、あれからどうなんだ?」

 「何が?」

 校舎に向かうまでの間、影に出くわす事もなく、俺と日向は空き教室に続く廊下を歩いていた。既に外は夜闇に包まれ、窓から射し込む星の光と月明かりが唯一の足元を照らす明かりとなっている。足元から行く先に光の道を作り出す先からは、バンドの演奏が聞こえてくる。

 「こんな時間まで、ご苦労な事だな……」

 「おい、誤魔化すなよ」

 「……音無、意外とお前ってさ」

 「俺の事は良いからさ。 で、ユイとはどうなんだ?」

 「……別に。 特にいつもと変わんねえよ」

 日向の反応に、俺は驚く。

 「別にってお前……ユイと、恋人同士……になったんだろ?」

 「はっきり言ったなおい……改めて言われて確認すると、結構恥ずかしいぜ」

 ユイを満足させ、この世界から卒業させようとした俺たち。だけど、ユイは生前の未練を晴らした事に代わり、この世界で日向と言う男を未練として、この世界に留まる道を選んだ。日向とユイの仲を知る俺には、それ以上の事を二人の間に干渉する資格はない。

 この二人なら、きっとこの世界における自分たちの行き先を決められる。それは他人が促す程には至らない。

 「……だけど俺は今、ユイとの過ごす時間や、この関係が正直幸せなんだ。 いつも通りにあいつと接するのが、俺とあいつの関係そのものだと思うんだよ」

 「……そうか」

 やっぱり、余計なお世話だったのかもしれない。

 日向の顔を見て、俺は強くそう思った。

 だが、その時―――

 

 闇の向こうから、悲鳴が聞こえた―――

 

 

 「―――ッ!!」

 その悲鳴は、俺たちが知るに当たり前の奴の声だった。

 俺が言う前に、既に日向は悲鳴が聞こえた先へと駆け出していた。俺も、その後を追うように続く。

 今の悲鳴はまさか―――

 もしかして、影か……ッ!?

 俺は、最悪の展開を予想する。それが当たらない事を願いながら、俺は日向の後を追った。

 悲鳴が聞こえたのは、ガルデモが練習している空き教室。

 日向が一番に、飛び込むように教室へと入っていった。

 「ユイ、無事かッ!?」

 日向がユイの名前を呼びながら、銃を持って教室へと突入する。

 立ち止まる日向。

 そして、その後に俺も続く。

 「どうした、日向ッ! もしかして本当に影が―――」

 教室に入り、俺が目にしたもの。

 それは―――

 「ひゃあああああッッ!!? 先輩、お願いですからもうやめてぇぇ……ッ!」

 「ぶっはははは!! いいじゃん、どうせ歌として聞かせるつもりだったんだから!」

 そこには、何故か悲鳴を何度もあげるユイとひさ子の絡みっぷりが展開されていた。ユイが必死にひさ子の手に持っている紙を取り返そうと手を伸ばしているが、そのひさ子に手で顔を抑えられて動けない状態だった。それを他のガルデモメンバーが見守っている感じだ。

 「何やってんだ、お前ら……」

 ぽかんと呆けている日向の代わりに、俺は呆れた調子で目の前の当人たちに訊ねる。

 そこで今更のように気付いたのか、ユイが更に大慌てになって、ひさ子の手に持つ紙を隠すように前に出る。

 「え……先輩方ッ!? いや、これは違うんです……ッ!」

 「何がだ?」

 ユイの動揺っぷりは明らかにおかしかった。そんなユイの背後から、ひさ子がニヤリと笑ってユイを捕まえた。

 「ユ~イ、折角の良い機会だから、聴かせてやれば?」

 「な、なな、何言ってるんですかひさ子先輩ッ!? そんな事、出来るわけないじゃないスかッ!」

 「あはは、恥ずかしがってるユイ凄く面白いわ~ッ」

 「しおりん、そんな風に笑っちゃ失礼だよぉ」

 とりあえず相変わらずのガルデモメンバーの風景に、俺は安堵する。てっきり影に襲われたのではないかと思ってしまったが。

 「ふざけんな……」

 「日向?」

 今まで黙りこんでいた日向が、突然爆発したように声をあげた。

 「ふざけんなぁぁぁッ!! 俺がどれだけ心配したと思ってやがるんだぁぁッ!!」

 「お、落ち着け日向ッ!」

 「わああ、日向先輩がキレたーッ!」

 「何でキレてるんだ、こいつッ!?」

 そんな日向を前に、ガルデモのメンバーは理解できない顔をする。

 「日向、落ち着けッ! 無事だったんだから、良かったじゃないかッ!」

 「それはそうだけど……つーか、紛らわしいんだよッ! 諸悪の根源はこれかぁッ!!」

 「あ……ッ!? だ、駄目……!」

 日向がひさ子の手から、ある紙を取り上げる。咄嗟に声をあげるユイだったが、既に日向はその紙面に目を通していた。

 「何だこりゃ……歌詞?」

 俺も日向の横から覗き込んでみる。紙面には詩のような字面が書かれている。それは正しく歌詞のようだった。だが、その歌詞は今までのガルデモの曲には聞いた事がないものだった。

 「もしかして、新曲か?」

 俺は疑問を投げかけてみるが、当のユイは何故か四つんばいになり、がっくりと項垂れていた。

 ますます理解できない俺と日向に、ひさ子が説明を加えた。

 「それ、ユイが“個人的”に作った曲なんだよ」

 「?」

 ユイの個人的に作った曲。

 俺はそれを聞いて、歌詞を読んでみた。

 そして、ある情景が頭の中に思い浮かんでくる。

 それはまるで、今、目の前にいる二人にそっくりで―――

 「いや、そのものだ……」

 「何がだ? 音無」

 「日向はわかったのか、この曲の意味」

 「いや、意味はよくわからねえけど……」

 日向の言葉を聞いて、ユイが微かに反応したように見えた。

 「でも……良い曲になりそうなのはわかるぜ。 何と言うか、変な所で不器用そうな感じがするよな」

 「お前も人の事は言えないな……」

 「は?」

 日向は未だにこの歌詞の意味を理解していないようだった。

 そして、未だに項垂れているユイに視線を移す。

 今、ユイの表情は見えない。

 だけど、俺はユイの表情が簡単に思い浮かぶ事が出来ていた―――

 「教えてやらないとわからない鈍感男には、やっぱり歌って伝えてやった方が良いぜ」

 「えー、でもそんなに鈍感なら、歌っても余計伝わらないんじゃないんですか?」

 「そんな事はないよ、しおりん。 きっと、歌えば伝わるはずだよ。 だって、ユイが折角一生懸命作ったものだもんね」

 ひさ子、関根、入江が並びたてるように言う。

 そのメンバーたちの言葉に押されるように、ユイがゆっくりと立ち上がる。

 「……歌おうぜ、ユイ」

 「で、でも……」

 「恥ずかしいかもしれないけど、私たちもちゃんと演奏するからさ」

 「きっと大丈夫だよ」

 「……………」

 ガルデモのメンバーに励まされるユイ。

 だが、まだ十分ではない。

 「ユイ、お前もわかっているはずだろ?」

 「ひさ子先輩……?」

 「私たちが最も強く、相手に伝えるメッセージの方法は、歌なんだって事を。 それは、岩沢が何度も証明してみせただろ?」

 「―――!」

 ユイがハッとしたような表情を浮かべる。そして顔を下げて黙り込んだユイに、日向が呼びかける。

 「ユイ……?」

 「わかりました……」

 ぽつりとそう呟くと、顔を上げたユイが引き締めた表情で日向の方に向き直った。

 「ひなっち先輩……!」

 ユイの真剣な表情と気迫に押される。

 「どうか、聴いてほしい歌があるんです。 聴いてくれますか……?」

 真っ直ぐな姿勢で日向の前に立ち、言葉を紡いだユイ。そんなユイを目の前にした日向は、少し驚いた表情を見せていたが、やがて微かにその口元を緩ませた。

 「……仕方ねえ、聴いてやんよ」

 「はい…ッ!」

 日向の答えを聞いた途端、ユイは満面な笑顔を浮かべた。

 

 

 早速、ほとんどが夜闇に支配された学校で、一つだけ明かりを点けた空き教室の中心で、一つのバンドグループが演奏の準備を始めた。見物客の前で、グループの中心に立つ一人のボーカルがマイクを握り締めた。

 「本日は私たちの演奏を聴きに来てくれてありがとう。 一生懸命歌いますので、どうか聴いてください」

 いつもの陽動ライブで始める挨拶のように、ユイは丁寧に俺たちに向かって挨拶をする。

 「なあ、俺もいて良かったのか?」

 「何言ってるんだよ。 別に、構いはしないさ」

 日向は当然のように言うが、俺は正直余計なんじゃないかと思ってしまう。

 先程のユイたちのやり取りや、交わされた言葉を思い出す。

 ユイが個人的に作ったと言う曲。それはきっと、普段のガルデモのような人々へ平等に聴かせるような曲ではない―――

 きっと、その曲を贈る相手がいる。

 それはおそらく―――

 「……これは私が書いた新曲です。 ずっとそばにいてくれると約束してくれた、一人の意地悪な先輩へ贈りたいと思います」

 「……!」

 隣から、日向が息を呑むような気配が伝わる。

 ユイはギターを肩から下げ、マイクに優しく吹きこむように言葉を紡いでいるだけで、日向の方は見ていない。

 ただ、その姿がまるで自分のメッセージをマイク越しに伝えようとしている下準備のように見えた。

 「行きます―――!」

 その瞬間、遂に曲が始まった。

 「Rain song―――」

 

 

 いつだって泣かせては君を困らせてた

 そんな君も大きくなり遠くへ行くって話

 聞いてない! 唐突の雨だ

 傘もなく立ち尽くす

 

 

 ギターを弾き、マイクに吹きこむユイの姿を、俺たちは眺めていた。ガルデモが織り成す演奏により、目の前の迫力は思った以上で、その生きた音と声は聴く者に強くぶつかってくる。

 そしてその想いは、すぐそこにいる奴にも伝わっている事だろう。

 

 

 いつでもふたりで居るって言ってくれたよね たしか

 覚えてたのはあたしひとりだったのかな

 君と見た星忘れて 君と見た夢忘れて

 別々の道を進むなんてイヤだ

 

 

 俺はその曲を聴いていく内に、ある二人の情景を思い浮かんだ。

 その曲はまるで、その二人を表しているよう。

 二人のこんな関係がこんなにも幸せだという事を、教えてくれる。

 

 ―――『君』と『あたし』

 

 もしかして誕生日のプレゼントのことかな

 似合わない そう言って笑うから失くした

 見つけだす! あれはどこだ?

 雨は勢いを増す

 

 ―――それは、当人である二人を指している。

 

 どうして君だったんだろ イジワルしてばっかだった

 思い出せるのは情けない顔ばっかり

 君と見た映画忘れて 君の匂いも忘れて

 別の誰かと生きるなんてイヤだ

 

 ふと横を一瞥すると、日向の少し呆けた横顔が目に入った。

 ユイの曲に聴き惚れているような、まるで恋の告白でも受けたかのような表情だ。

 

 初めて会った日を思い出す

 公園の木に隠れてた君

 それをつついて追い出してみた

 大雨が降ってたのに

 時は過ぎ 今はあたしが

 雨の中 泣いている

 

 強く、優しく、素直に、その思いの丈を伝える。

 彼女の紡ぐ歌声は、きめ細やかな旋律に乗って、世界へと響き渡っていく。

 

 

 あんなに好きだったのに本当に好きだったのに

 君以外の人はどうでもよかったのに

 どうしてその君だけがいなくなっちゃうんだろう

 頭がおかしくなりそうだ もう

 雨は強く打ちつける 体の芯まで冷える

 公園の木にぶつかり 君のように泣いた

 君がいたこと忘れて 君とした恋も忘れて

 君の代わりに泣くのはもうイヤだ……

 

 

 そして、演奏が終わる。糸が張ったようにピンとした静寂が後を継いだ。

 演奏を終え、一息入れる音だけが聞こえる。

 そんな静寂の中、ぱちぱちと、拍手が鳴った。

 「さすがだな、ユイ。 みんなもすげえ演奏だった」

 俺は惜しみなく、目の前で素晴らしい演奏をやり遂げたバンドメンバーに素直な気持ちとして拍手を送った。拍手を受けるメンバーの中で、中心に立ったユイが照れ臭そうな笑みを浮かべる。

 「ほら、日向も何か言えよ」

 「あ、ああ……」

 俺に肘で突かれて、呆けていた日向がハッと我に帰る。

 日向の反応を待ち焦がれるように、ユイが緊張したような面持ちでジッと日向の方を見詰めている。

 日向はそんなユイを見たが、恥ずかしそうに視線を逸らすと、照れ臭そうに言葉を返そうとする。

 「ま、まぁ……良かったんじゃね……」

 「もっと気の利いた言葉の一つや二つあるだろ」

 そんな日向を間髪いれずひさ子が突っ込んだ。

 他の二人も呆れたような反応だった。

 「ぐ……ああもう! はっきり言えば良いんだろッ?」

 「……………」

 ユイがやはりドキドキとしたような表情で、日向の言葉を待った。

 そして―――

 「最高だったぜ、ユイ……あ、ありがとな…ッ!」

 「――――!」

 それは日向なりの、精一杯の気持ちだった。

 だが、それでユイには十分に伝わったらしく、ユイは嬉しそうな表情を綻ばせた。

 「ほ、本当ですか……ッ?」

 「嘘なんか付いてどうするんだよ。 正直、聴き入ってたしな……」

 「先輩……ありが…と……」

 「馬鹿、礼を言うのはこっち―――って、何泣いてるんだよお前ッ!?」

 「う、うりゅ……だって、だってぇ……」

 ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めたユイに、日向は動揺するしかない。

 「あーあー……」

 そして外野である俺たちは、そんな光景を各々の面で見物していた。

 「な、何だよ……お前らッ!」

 「まぁ、ここは二人きりにさせておいた方が無難かねぇ。 馬に蹴られる前に、あたしらはさっさと帰るとしますか」

 「そーですね、見ていて面白いけど……」

 「しおりん、そんな風に言うものじゃないよ……」

 「俺も帰るわ……日向、また明日な」

 「え…ッ? お、お前ら……!?」

 ぞろぞろと立ち去ろうとする俺たちと、涙をこぼすユイを交互に見ながら状況に困惑する日向を置いていく。

 今は、二人にさせた方が良い。それは俺たちの誰もが抱く共通認識だった。

 教室に二人を残し、月光が照らす廊下に出る。

 「全く、やってられないよ」

 「あーあ、私も彼氏欲しいなぁ」

 「あはは……」

 それぞれの言葉を素直に漏らしていくメンバーだが、その内に含まれた仲間に対する思いやりは容易に知る事は出来た。

 「本当に幸せそうだよな、あいつら……」

 閉めた扉越しに、未だに聞こえてくる日向の声とユイの泣き声を聞きながら、俺はそんな言葉をぽつりと漏らす。

 「ま、生前は酷い人生を過ごしてきたんだ。 こんな世界で、生前にはなかった幸福を手に入れるのも、アリなんじゃないか?」

 意外な反応に、俺は少し驚いた。何か思うような表情でいるひさ子の方に俺は視線を向ける。

 「何だよ?」

 「いや、お前もそう思ってるんだなって……」

 「何言ってんだよ……それに、あたしはもうとっくに似たような経験はしてるぜ? この世界に来て、ガルデモッて言うバンドが組めたんだ。 あたしにとっては同じもんさ」

 「ひさ子先輩……!」

 「わ、私たちもですぅ~ッ!」

 「って、おわッ!? い、いきなり抱き付くなお前ら…!」

 ひさ子に抱き付く関根と入江。そんなガルデモメンバーの微笑ましい光景を見て、俺はつい笑みをこぼしてしまう。

 「だーもうッ! とにかく、さっさと帰るよッ!」

 「「は~い」」

 二人の後輩の襟を掴んで、帰ろうとするひさ子たちを、俺は呼び止めてある事を伝える。

 「お前たちも最近、ここで何が起こっているのか聞いていると思うが、なるべく気を付けて帰ろよ?」

 「わかってるよ、あんたも気を付けてな」

 「ああ」

 そうして、彼女たちは俺の前から立ち去っていった。

 一人、教室の前で残された俺は、二人がいる教室の扉越しから視線を向ける。

 いつの間にかユイの泣き声は収まっており、その代わりに話すような日向の声が聞こえてくる。

 「……俺も、帰るとするか」

 盗み聞きは趣味じゃない。後は二人に任せて、俺は一人で教室の前から離れる事にした。

 二人を残し、教室の前から立ち去ろうとした俺が最後に聞こえたのは、いつもの二人の会話だった。それを聞いた俺の頭の中には、教室で幸せそうに会話する二人の光景が思い浮かんだ。



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EPISODE.67 Disappearance

 翌日、影に呑まれて消えた高松が見つかった。

 それを聞き付けた俺たちが駆け付けた先には、教室で何事もなかったかのように席に座る高松の姿があった。

 だが、その高松を見た瞬間、俺は言い様のない違和感を覚えた。それはきっと他のメンバーも同じだっただろう。

 俺たちがその時見た高松は、戦線指定ではない学園の制服を着込み、まるでNPCとどこも変わらない姿だった。

 「どういうつもりだ、高松。 皆、心配してたんだぞ」

 「心配……? 何をですか?」

 「何をって……お前、影の化け物に喰われたんだろっ?」

 「何を言っているのか、わかりませんが……」

 「自分じゃ気付いてなかったのか……?」

 日向の言葉攻めにも、高松は不可解な応答を繰り返す。

 いや、不可解ではない。

 むしろ、“普通”の反応だ。

 だが、それは不気味な程に、普通すぎる反応だった。

 それはまるで―――

 「……NPCね」

 「え……?」

 俺の隣で、事を見守っていた沙耶が俺にしか聞こえないような声で、ボソリと呟いた。

 「お前は影に喰われて、そのまま地面に吸い込まれたんだよ……ッ! あれからどうしたんだ?」

 「どうしたも何も、いつものように朝から寮で起きて、学校に来ただけですが……?」

 「学校に来るッ? そっちの制服に着替えて、授業を受けに来たって言うのか…ッ!?」

 「ええ、まあ……」

 当然の事のように、高松は答える。

 むしろ日向の言葉に怪訝な思いを抱かざるにはいられないような表情さえ浮かべていた。

 そんな高松の顔を見て、日向は咄嗟に声をあげる。

 「―――消えるぞ…ッ!! わかってんのかッ?!」

 日向の声が大きく響くも、高松の表情はまるで鉄壁のようだった。

 「消える……? 何が消えるんですか……?」

 「……ッ」

 さすがに日向も、それ以上言葉が出ない様子だった。

 高松の無機質な瞳を見て、日向はたじろぐ。

 「やべえぜ、こいつ……おかしくなってらぁ……元からおかしな奴だったけどさ……」

 扉の方で日向と高松のやり取りを見ていた藤巻が、率直な感想を呟いた。

 「高松……」

 「もう十分よ、日向くん……」

 ゆりが腰を上げ、日向の腕をぽんと叩きながら言うと、一人教室から出て行く。

 「十分って、何が……!」

 ゆりの言葉に納得できない日向だったが、高松の方からも声を掛けられる。

 「すみませんが、授業の邪魔です」

 そんな高松に、日向がまた何か返そうとするが、ゆりの言葉によって遮られる。

 「行きましょう」

 「良いのかよ、ほっといてッ! 消えちまうぞッ!?」

 立ち去るゆりに声を掛けながら、日向もゆりの背中を追った。他のメンバーも後に続くように教室を出て行く。

 「沙耶、もしかして……」

 教室を出る手際、俺は沙耶に訊ねる。

 「……きっと、ゆりっぺさんも気付いているはずよ」

 「……………」

 だからこそ、ゆりは教室を出ることにした。

 NPCになってしまった高松を置いて―――

 

 

 ―――学習練A練 階段。

 階段付近に集まった俺たちの中で、ゆりが口を開いた。

 「今の問答だけで十分よ……何が起きたかわかったわ……」

 皆の注目を集めた末に、ゆりは断言する。

 「彼、NPCになっちゃったのよ……」

 ゆりの言葉に、周囲が一瞬ざわつく。

 やはり、ゆりも気付いていた。

 「ちょ、ちょっと待てよ…ッ! どういう事だよッ? わけわかんねえ……」

 辺りは重苦しい空気から乱れ始める。だが、そうやって混乱するのは当然だった。今まで共に過ごしていた仲間の一人が、NPCになってしまったと言うのだから―――

 「NPCって事は、魂がないって事ッ?! 彼の魂はどこに行っちゃったの……ッ!?」

 「それを喰われちゃったんじゃない?」

 動揺する大山の言葉に反して、ゆりが冷静な口調で答える。

 それに日向が更に責めてくる。

 「それってどういう事だよ…ッ!? あいつは永遠に消える事も出来ずに、ここでずっと授業を受け続ける事になるって言うのかッ!?」

 「……そう言う事になるわ」

 「そんな……ッ」

 愕然とする、空気。

 それは正に絶望だった。

 消える事も出来ず、人間のような感情を抱く事も出来ず、ただ自然の流れに従うように授業を受け続け、学園生活を過ごし、永遠に繰り返していく毎日。

 それは正しく―――逃れられない永遠の鳥籠。

 「それって、死ぬよりよか酷くね……? 永遠に閉じ込められちまったのかよ、何だよそれ……」

 「……………」

 「―――くそ…ッ!」

 壁に拳を叩き付ける日向。

 「せ、先輩…ッ」

 壁を殴る日向のもとに、ユイが慌てた様子で駆け寄る。赤くなった日向の手を、ユイの気遣う姿が見られた。

 「こんな事が起こり得るのか、この世界は……」

 「これじゃあ、天使に消されちまった方がまだマシじゃねーかよ」

 野田と藤巻が各々の口から漏らす。

 「しかも、影は増殖を始めているようだが……?」

 椎名の言う事は、最もだった。

 俺たちにとって脅威となり得る、この世界の異常は恐ろしい事に増え続けている。

 昨日の戦いを見れば、その事実は一目瞭然だった。

 「ねえ、どうすれば良いの……!? ゆりっぺ……ッ!」

 大山の言葉を始めとして、皆の視線が我らがリーダーに集まる。

 だが、ゆりは答えなかった。

 その代わり―――

 「今夜、この世界で起きているイレギュラーな事態に対しての戦線全メンバーの招集をかける。 今後の対策は、その時に―――」

 ゆりの一言により、とりあえずその場は解散となった。

 こんな大事は、すぐに収められるわけがない。戦線を招集し、今後の対策を練る時間が必要だ。おそらくゆりはそう考えたのか、俺たちに招集までの待機を命じた。



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EPISODE.68 Decision

 影に絡んだこの事態は、この世界に長らく居た中で初めての事だった。

 既に仲間が一人、NPCに変化されると言う直接的な被害を被っている。事態は想像以上に深刻だった。

 「影の出現……これは一体、何を意味していると言うの……?」

 あたしは一人、誰もいない廊下をぶつぶつと呟きながら歩いている。

 影に襲われる危険性を考慮し、単独行動は控えるようにと厳命した張本人がやる事ではないかもしれないが、そんな事に構っていられる余裕はない。

 とにかく、情報が欲しかった。

 しかしこのイレギュラーな事態に対し、あたしたちはまだ無力に等しかった。影と戦う力はあっても、根本的な解決には至らない。

 遊佐さんに調査を依頼したが、その結果を待つより他ない。

 後は―――

 「この事態に対して、本格的に戦線としての方針を伝える必要があるわ……」

 明日には、全メンバーに招集をかける必要がありそうだ。

 「全く、どこの誰がこんなシナリオを考えたのかしら……いえ、それこそ神様、かしら……」

 自嘲するように笑い、あたしは中庭に差しかかる廊下へ通りかかる。

 その時、あたしの視界に何かが映る。

 「ん……?」

 中庭の端に連なる花壇。そこには一人の女子生徒が屈んで、花壇に水をあげていた。

 「あれは……天使……?」

 麦藁帽子を被り、花壇の世話をしている様子の天使は、こうして見るとただの人間に過ぎなかった。

 それもそのはずか……

 「(だって、人間だものね……)」

 天使とは、あたしたちが勝手に押し付けた刻印。

 それは正に、呪縛のようなものかもしれない。

 今回の事態に対して、彼女は自らの関与を否定した。だが、それはきっと嘘ではないだろう。このような事態は今までに無かったし、長らく彼女と敵対してきたが、今回の事態から彼女を見出せる要素はどこにも見当たらない。

 「そういえば……」

 あたしは彼女が最近、音無くんや日向くんたちと行動を共にしている事実を思い出す。

 彼らがやろうとしている事。薄々勘付いているが、彼らはあたしにバレないように行動しているようだが、生憎、戦線には優秀なオペレーターがいるおかげで、戦線のほとんどの部分をあたしは把握している。

 監視みたいな事だけど、リーダーとしての責任に対するあたしには当然として背負うべき荷だ。

 「……………」

 あたしは色々と頭の中で考えを巡らせ、そして思い至る。

 そうしよう。

 あたしはその思い至った結論に対し、そう呟いた。

 「……ちょっと良いかしら」

 「……………」

 花壇の世話をしていた彼女に呼びかける。麦藁帽子の端から、彼女の澄んだ瞳が垣間見える。

 「あなたに用があるのだけど、聞いてくれるかしら」

 「……何?」

 彼女は立ち上がると、あたしの目の前からその瞳を真っ直ぐに向けてくる。

 ここまで近くで、正面で話したのは久しぶりかもしれない。

 「明日の夜、裏庭辺りに来てくれないかしら。 そこで音無くんたちも呼んで、今回の事態に関して話をするから」

 「……………」

 何を考えているかわからない無機質な瞳から放たれる視線が、あたしの瞳を射抜いている。

 少し、あたしはたじろぎそうになるが、ぐっと踏みとどまる。

 「詳細は後で伝えるから……それとも、やっぱり無理な話かしら……」

 「……………」

 彼女は沈黙を保つ。

 それもそうか、あたしたちは散々彼女を酷い目に合わせてきたのだから。

 あたしたちを恨んでいたとしても、全く不思議ではない。

 「ごめんなさい、やっぱり」

 「……わかった」

 「………へ?」

 意外な回答に、あたしはきょとんとなる。

 それに対し、彼女もあたしの間抜けな反応を見て、きょとんと首を傾げる。

 「どうしたの……?」

 「い、いえ……え? 良いの……?」

 「うん……断る必要はないでしょう……」

 「で、でもあなた……」

 あたしは動揺を隠せない。そんなあたしに構わず、彼女はマイペースに言葉を続ける。

 「困っている人がいたら、助けたり協力するのが人間でしょう……?」

 「あ……」

 あたしは、驚いた。

 そうだ、あたしの目の前にいるのは天使なんかじゃない。

 あたしたちと変わらない、普通の女の子―――

 「……そうね、そうよね」

 あたしは、何を考えているのだろう。

 あたしはまだ、この娘を天使としていたのだ。

 だから、この娘を信じていなかった。

 でも、今は違う。いや、これから、あたしの中の彼女も、天使ではなくなる―――

 次の言葉を紡いだ時―――

 「ありがとう、かなでちゃん」

 あたしの中の彼女も、天使ではない人間の女の子であることを認められる。

 自分の名前に反応するように、彼女は微かに揺れた大きな瞳で、あたしを見据える。天使から、人に戻った彼女に、あたしは初めて笑顔を向けた。

 

 

 その日の夜の校長室で、あたしはリーダー席に腰を据え、目の前のノートパソコンの画面を眺めていた。その画面には、最近この世界で置き始めた異変、影に関するデータが記されている。あたしの頼みで調査を行ってくれた遊佐さんが持ってきてくれた報告。

 「(……やっぱり、影は明らかに増えている……)」

 画面に表示されている影のデータを見詰め、あたしは目を細くする。

 この世界で起きた、前例のない異常事態。

 十分に長いと言える程の期間、あたしはこの世界に居たが、このような事態は初めてだった。正にイレギュラーと呼べる。

 だからこそ、情けない事だがその事態の具体的な中身、打開策が中々見つけられないで居た。

 「(これは、一筋縄ではいかなそうね……)」

 溜息を吐くような思いだった。

 いや、溜息すら出す余裕がない。

 あれだけ多くの仲間を率いり、その多くの人たちを統率するリーダーとして、その責任の重さに耐えながら過ごす日々。天使との戦い、この世界の正体さえ明確にわかっていない状況下。長くリーダーを務めてきたけど、こんな事態は思った以上に荷が重い。

 それでも―――あたしは、やらなければならない。

 信じて付いて来てくれた多くの仲間たちのためにも、あたしは彼らを裏切るわけにはいかない。どんな事態に対しても、全力で立ち向かって、解決する道を開かなければならない。

 「……そう、今回も諦めずに立ち向かわなくちゃいけない。 そして、勝たなければいけないのよ」

 

 あたしは、リーダーなのだから。

 

 そう、昔からそうだ。あたしは、常にこんな立場だ。

 弟や妹たちがいた頃も、そして今の立場も、変わらない―――

 「……あいつらにも、コソコソしてないでちゃんと説明してもらわないとね」

 ぽつりと漏らしたあたしの言葉の後、扉の方からノックが届いた。

 「(来たわね……)」

 そのノックの音が誰のものなのか、あたしは知っていた。

 「どちらさまかしら?」

 あたしは画面から平たい扉の方に視線を向ける。あたしの呼びかけに対し、扉の向こうから彼女の声が聞こえた。

 「神も仏も、天使もなし―――」

 「いいわ、入りなさい」

 戦線の合言葉を受け取り、あたしは扉の向こうにいる彼女に入室を許可する。

 開かれた扉から現れたのは、その声から思った通り、戦線自慢の、優秀でとても綺麗なスパイさんが立っていた。

 「こんな時間に呼び出して悪いわね、沙耶ちゃん」

 「スパイに時間なんて関係ありませんから、お気になさらず」

 「そう、なら気楽に本題へ入れるわ」

 まぁ、実際は気楽に済ませられる問題じゃないけどね、と付け加えながら、あたしは用件を述べる。

 「ここにあなたを呼んだのは他でもないわ、沙耶ちゃん。 スパイと誇るあなたの力を見越して、あなたにお願いがあるの」

 「あたしなんかが力を貸せるのなら」

 沙耶ちゃんは何もかもを受け入れるような広い物腰で、あたしに応えてくれる。

 「あなたにはこの事態に関する調査をお願いしたい。 影でも何でも良い、何かわかったことがあったら、教えて頂戴」

 「ええ、お安い御用よ」

 沙耶ちゃんはあっさりと頷くと、どこから出したのか手に拳銃を持ち、ホルスターを確かめている。

 あたしはそれを見て、微笑を浮かべる。

 「前から思ってたけど、本当にあなたって凄いわね。 その銃だって、あたしたちのギルド並に作れるんだから……」

 「あそこは素敵な場所だと思いますよ。 本当に……」

 沙耶ちゃんは何か思うような、切なそうな表情を浮かべながら、手に持つ拳銃を撫でた。

 「確かに、ギルドは昔から随分と助けられてるわ。 唯一あたしたちが天使と戦える手段を作れる場所だったもの」

 「……そうですね」

 「でも……あなたもよ、沙耶ちゃん」

 「え……?」

 「あなたは本当に強くて、あたしたちはあなたに助けられてばかりだと思う。 ううん、あたしがみんなに助けられてばかりなんだと思うけど……」

 「ゆりっぺさん……」

 少し驚いたような表情であたしの方を見詰めていた沙耶ちゃんだったが、やがて、あたしが次の言葉を漏らすと、彼女は再び表情を真剣なものに変えた。

 「それじゃあ、お願いね」

 「任せて。 あたしは、一流のスパイなんだから」

 そう言って、沙耶ちゃんは格好良い笑顔であたしに敬礼をして見せた。そして長い金髪を翻すと、彼女はあっという間にその部屋から出て行ってしまった。

 「ええ、あなたは本当に、本物のスパイだわ……」

 一人残されたあたしは、誰もいない空気の中でぽつりと漏らすのだった。

 「さて……」

 ノートパソコンを閉じ、端に置かれたとある写真が収められた写真立てを、ふっと柔らかい視線で見据える。

 「……あたしも、そろそろ固めなくちゃ」

 それは―――いつかの球技大会で、優勝を手に撮った、みんなの集合写真だった。

 「―――想いの、決意を」

 銃を手に、あたしは意志を吹き出す。

 写真立てを残し、銃を手にしたあたしは、決意を胸に先が見えない闇の向こうへと、足を強く引き締めて、目指した―――



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EPISODE.69 Choices

 日が静まり、降りる夜闇と入れ替わるように生徒たちが学園からいなくなる。日が沈んだ以降の学園は、夜の闇と静寂が佇んでいるだけ。だが、その夜の学園は普段とは違っていた。生徒たちが多く集まる場所として使用される体育館には明かりが灯り、その室内には大勢の人間が集まっていた。ステージの上に立つ一人のリーダーの前で、異例の招集を受けて集まった戦線のほとんどのメンバーが緊張感の中にいた。

 それもそのはず。ここに集まった理由は、この世界で置き始めている異変のためだ。戦線が長らく敵としていた天使とは異なる敵の出現。原因不明、正体不明の敵は影と呼ばれ、取りこまれた人間は魂を喰われてNPCとされる。その正に危機的状況と言える事態は現在進行形であり、影の数も増殖中だ。

 かつて無い異変。それだけに、事態を知る者に動揺が生じる事は当然だった。

 「おい、音無。 お前の相棒はどうしたんだ?」

 「え?」

 ゆりが事態を説明している途中で、日向が小声で俺に話しかけてきた。

 「そういえば、いないな……」

 俺は日向に言われて初めて気付き、辺りを見渡した。周りにいる多くのメンバーの中に、沙耶の姿はなかった。普段から姿を見せない時もあるから珍しい事ではないのだが、俺は少し気になる所があった。

 だが、俺はゆりの言葉に意識を戻される事になる。

 「―――さて、この危機的状況の中で死んだ世界戦線に別の思想を持った者が現れ、戦線を新たな道へ導こうとしている」

 「―――!!」

 ハッとする俺。

 そして、ざわめく周囲。

 「その道は、現在この世界における危機回避の一つの選択肢にもなり得る……なので、そちらの代表として―――」

 ゆりの視線が、真っ直ぐに俺の方を射抜いていた。

 「―――音無くん、堂々とここでその思いを語ってもらえるかしら」

 ゆりの言葉を始めとして、みんなの視線が俺の方に集中する。

 やはり、ゆりは俺たちのやろうとしている事に気付いていた―――

 「バレてましたね……」

 隣にいた直井が小さい声で漏らす。

 日向も微笑混じりに、俺の背を叩く。

 「……行けよ」

 「……………」

 日向に背を押され、俺はそのままみんなの注目を浴びながら、壇上に向かって歩き出す。

 そうだ、ここで俺たちの思いを、考えを伝えなければいけない。

 その時が、今、来ただけだ。

 みんなに色々と思われる事はあるだろう。

 それでも、俺はこの思いを知ってもらうために、自分の意思で壇上の上へと上がった。

 

 

 俺の説得が、どれくらいの時間を要したのかはわからない。短いようにも長いようにも感じられた。だけどみんなはちゃんと俺の話を最後まで聞いてくれた。

 そして俺の話を終えると、俺の話を聞いたみんなから、声があがり始める。

 「ふざけるなッ! いい加減な事を言うな!!」

 「そんな都合の良い話があるかッ!」

 「そうだ、この世界にあってたまるかッ!!」

 みんな、それぞれの思いを俺にぶつけてくれた。

 簡単に納得してくれるとは、勿論思っていない。

 だけど、俺は確かにその思いを信じていた。

 「―――あったんだよ」

 新たな声に、みんなの視線がその声の持ち主へと向けられる。

 みんなの視線を浴びながら、日向もまた、俺の方へと歩み寄った。

 「なっ」

 「はいっ! 私は、それを見つけられました……」

 隣に子猫のように付いている、ユイが日向と一緒に、俺の側へと来てくれる。

 「私がこの思いを見つける事が出来たのは、先輩たちのおかげです」

 ユイの言葉は、真っ直ぐで、嘘偽りのない真っ白なものだった。

 「俺みたいな屑のまま死んできたような奴でも、その世界で与えてやる事が出来た……そして、それは俺自身も同じだ」

 日向とユイが、俺のそばへと立つ。

 「僕もです」

 今度は、直井の方に注目が集まる。

 「僕は、神ですが……それでも音無さんだけが、僕に人の心を取り戻させてくれた」

 直井もまた、みんなの中から、俺の側へと入ってくる。

 「たった一言かけてくれた……労いの言葉で」

 俺の側には、三人の仲間がいてくれた。

 そして、俺の前には、与えられた選択肢を前にした仲間たちがいる。

 その選択肢を選ばせる時間を言及するように、ゆりが言う。

 「どの道を選ぶかは、皆に任せるわ」

 「ゆりっぺは……ゆりっぺはどうするんだッ!?」

 みんなの疑問を代弁した声が掛けられる。

 「あたし? あたしはいつだって勝手だったし、あなたたちを守れやしないし、あたしがしたいようにするだけよ」

 そう言って、ゆりはステージの上から飛び降りる。

 そしてみんなの視線が、リーダーへと帰る。

 「あまり時間はないわ。 各自考えておいて、以上」

 今後、自分はどの道を行くか。その考える時間をゆりは与え、解散を令した。

 

 

  ゆりの解散を受け、戦線のメンバーが体育館を後にする。俺たちもそれに続こうとした時、不意にゆりが声を掛けてきた。

 「音無くん、ちょっと良い?」

 ゆりに呼び止められ、俺は振り返る。

 そこには、真剣な眼差しで立つゆりがいた。

 「どうした、ゆり?」

 「ちょっと話があるから……日向くんたちも」

 「俺たちも?」

 「そうよ。 かなでちゃんも呼んであるから」

 「奏も…ッ!?」

 俺は驚く。ゆりが奏を呼び出すだけでも驚くに値すると言うのに、俺たちを含んでの用件と来た。ゆりは一体俺たちにどんな用があると言うのだろうか。

 「ええ、だからちょっと付き合って頂戴」

 そう言って、ゆりは俺たちを連れて、人気のない裏庭へと向かった。

 

 そこは虫の音色と夜のひんやりとした静寂しか居ない、人気のない裏庭だと思ったが、既にそこには一人の少女が待っていた。

 「奏……」

 ゆりの言う通り、そこには奏が待っていた。

 奏は俺たちの存在に気付くと、ゆっくりとこちらの方に振り返る。

 「……で、ゆり。 奏まで呼んで、俺たちに何の用なんだ?」

 俺の問いかけに、ゆりがはっきりと答える。

 「その娘を影の迎撃に当たらせなさい」

 言いながら、ゆりは奏の方を指した。

 「奏を? 何故」

 「頭を使って行動させるより、何も考えないで行動させた方が向いてるわよ。 見てた分には」

 「って、見られてたのかよ……」

 やはりゆりには何もかもお見通しだったようだった。

 「まぁ、やっぱりゆりっぺの目を欺けられなかったな」

 日向が肩をすくめながら言い、隣でユイが苦笑する。

 「仕方ないですよ、先輩は隠し事が下手くそですし……」

 「んだとぉ?」

 「イタタッ! 頭をぐりぐりしないでくださいぃぃ……ッ!」

 「でも―――奏は、俺たちの仲間だ。 一緒にいるべきだ!」

 俺の意見を、ゆりは即座に却下する。

 「他のメンバーだってあなたたちの仲間でしょ? 彼らを守るには、その娘の力が必要よ」

 確かに奏は強いと思うし、戦場となれば力になるだろう。

 でも、仲間を一人、危険な場所に送り出すなんて真似はしたくない。

 「我々戦線と長きに渡り戦ってきた、その圧倒的な力がね……」

 「確かに天使だけにその役は適任かもしれないですねーっ」

 ユイがうんうんと頷きながら、納得するように言うが、それを聞いたゆりはしれっと言葉を紡ぐ。

 「別にその娘、天使じゃないわよ?」

 「………………へ?」

 一瞬、俺は何を言われたのか理解できなかった。

 天使じゃない?

 って事は―――

 「今、何て言った……?」

 「その娘、天使じゃないわよ。 あたしたちと同じ人間よ、気付いてなかったの?」

 「「「ええええええええええッッッ!!?」」」

 ゆりの衝撃的な告白に、俺と日向、ユイの三人はほぼ同時に驚愕の声をあげる。

 その傍らで、直井が余裕の微笑を浮かべる。

 「神は、何もかもお見通しでしたが……?」

 「動揺してるじゃねーかよ……」

 余裕の言葉を吐きながら下半身を震えさせている直井の動揺っぷりやそれに突っ込む日向が目に入らないぐらいに、俺は驚きに混乱しかけていた。俺は咄嗟に、今まで傍観していた奏に詰め寄った。

 「お前、天使じゃねーのッ!?」

 「……うん、私は天使なんかじゃない……それは私が初めて出会った時に、そう答えていたはずなんだけど……」

 「……ッ!」

 俺は過去の記憶を掘り起こす。

 俺がこの世界に訪れ、初めて奏と出会った時、確かに奏はそんな事を言っていた気がする。

 そして、奏を天使ではなく、人間かもしれないと言った、あいつの言葉も思い出す―――

 「ああ……ッ! 本当だ……」

 「色々あったからなぁ」

 「ですねぇ~」

 俺に天使だ何だと吹きこんだ張本人たちを目の前に、俺は勢いのままに攻め入る。

 「お前らのせいだろぉッ?!」

 おかげで俺は最初、奏を敵だと認識してしまったし、その後も随分と面倒な事に巻き込まれてしまった。

 奏は俺たちと同じ人間だ。

 だとしても、幾つか疑問は残る。

 「じゃあ、奏は何でここにいるッ!? 生徒会長なんてしていて、何故消えなかった……ッ!」

 奏が人間だとしたら、俺たちのようにこの世界に未練があって訪れたと言う事だ。

 そして、その未練が解消されて消えてしまう学生生活をこれ以上無いと言うぐらいに過ごしている奏が、何故これまでに消えずに済んでいるのか。

 「彼女なりの、ここにいる理由があるんでしょう」

 「そ、そうか……」

 俺の疑問に、奏の代わりに答えたのはゆりだった。

 「じゃあお前は……俺たちと同じように、何かを抱えてきているんだな……」

 俺は奏に振り返りながら、言う。

 そう、奏もまた俺たちのように、何かを抱えてこの世界に居ると言う事だ。

 「なら……それも解消してやらないとな」

 そう言って、俺は無表情を貫く奏の頭を撫でるのだった。

 「……………」

 頭を撫でる俺を、奏は上目遣いでジッと見詰めていた。

 「……で、ゆり。 お前はどうする?」

 「確かめてみたい事があるの」

 「戦うのか? 影と……」

 「場合によっては」

 ゆりは淡々と頷く。

 「一人じゃ危険だ……ッ!」

 「だって、仕方ないじゃない。 他のみんなには選ぶ自由を与えたのだから」

 だからって、一人で戦いに赴く事は無いのではないだろうか。

 ゆりは、一人で戦おうとしている。だが、それを他のみんなが許せるのだろうか。

 「他に付いていく奴もいるはずだ……!」

 「考える時間は必要よ。 大事な事だもの……」

 「それは……そうだけど……」

 徐々に言い返す言葉を失っていく情けない俺を前に、ゆりはフッと優しい笑みを浮かべた。

 それはリーダーとしての、仲間を思い遣るゆりの表情だった。

 「……戻ってきた時、みんなが消えて、無事この世界から去っていたら……あなたのおかげだと思っておくわ」

 「そんな……ッ! 俺は待っている……!」

 俺の言葉に、ゆりはクスッと笑う。

 「馬鹿ね。 一人で待ってちゃ、影にやられちゃうわよ」

 それはまるで兄弟の長女のような、お姉さんのような表情を浮かべて、ゆりは言った。

 だが、次の言葉を紡ぐ時のゆりは、いつものリーダーの顔に戻っていた。

 「そうなる前に、あなたはさっさとこの世界から去りなさい。 あたしの事は気にしないで」

 「いいや、気にするよ」

 「……!」

 ハッとしたゆりの視線が、日向の方に向けられる。

 「日向くん……」

 「いきなり何言ってるんだよ……“二人”から始まった戦線じゃねえか。 長い時間一緒に過ごしてきたよな……」

 「……………」

 「だから、あがる時も一緒だ。 俺はお前を置いていかない」

 「……相変わらず、あなた馬鹿ね。 感情論じゃ、何も解決しないわよ」

 だが、ゆりの表情は嘘を付けていない。

 俺はその言葉を紡ぐゆりの方を見て、そう思えた。

 「―――敵襲、敵襲だッ!」

 その時、向こうから敵襲の声があがる。それを聞いたゆりが、すぐに奏の方へと振り返った。

 「かなでちゃん、よろしく」

 ゆりに言われ、奏は頷く。

 そして腕を構え、小さく呟く。

 「……ハンドソニック、ヴァージョン5」

 奏の腕から生えた、ハンドソニック。それを見届けたゆりは、用件を終えたと言わんばかりに踵を返し、俺たちのもとから立ち去ろうとする。

 「じゃ、また会えたら会いましょう……!」

 ゆりは笑顔で別れの挨拶を投げると、ぴっと手を差して、俺たちから離れていく。

 「ゆりっぺ……ッ!」

 その背中を日向の声が呼び止める。

 その声を受け止めたゆりの背中が、その足がぴたりと止まる。

 「……酷いあだ名。 でも、そのおかげでみんなに慕われたのかもね……」

 夜空を見上げ、言葉を細く紡ぐゆりの顔は、背を向けているせいで見えない。

 「ありがと…ッ!」

 最後に明るい声でそう言い残すと、ゆりは遂に俺たちの前から駆け出して行った。闇の向こうへと消えていくゆりの背中を、俺たちは黙って見送る事しか出来なかった。

 

 夜空の下で、俺たちは一番考える夜を過ごす事になっただろう。それは俺たちだけではなく、他のみんなもきっと同じかもしれない。

 だけど、自分の道行く先は自分で決める。それはまるで人生のように、自分が行く道を、自分の意思で選ぶのだ。それがどんな道になろうと、自分の意思が決めた事ならば、きっと挫けずに歩み突き進む事が出来るはずだ。俺たちはそうして、先の道を行く。それは生きている時だって、今この時だって同じだ。俺たちは行く、自分が選んだその先の道を。その最果てで何が待っているかわからない、その正体を突きとめるために。



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EPISODE.70 Another Sacred Treasure

 いつの事だっただろう、今となっては遠い昔のようだった―――

 夜の校舎で、あたしは似たような空間を探索したんだ。

 難問を解き、試練を潜り抜け、ひたすら下へと目指した、迷宮の地下空間―――

 あの時、あたしの隣にはもう一人のパートナーがいた。

 でも、今のあたしの隣には―――

 

 

 

 「……まさか、またここに来る事になるなんてね」

 そこへ辿り着いたあたしは、嘆息を吐く思いでそう呟いた。

 延々と続くと思わされるような長い通路の果てに待ち構えるようにあった古びた扉。プレートの錆が酷過ぎて、その部屋が元々どういった部屋なのかはわからない。だが、あたしはその部屋を既に知っていた。

 いつかの時、間抜けにも捕らわれたあたしが幽閉されていた場所。

 あの時は、随分と彼らに迷惑を掛けてしまった。一流のスパイを自称する身分が何たる座間だろう。

 だが、その後悔も今は不必要だ。あたしはそんな仲間たちのためにも、この扉を開けて先へ行かねばならない。

 再び、その扉が開かれる。

 手で押すと、ギイ、と錆び付いた音を立てて扉が開く。ゆっくりと開かれた扉から、倉庫特有の匂いが鼻をお出迎えした。

 かつて、ここに閉じ込められ、全ての記憶を取り戻した場所―――

 あたしはそこへ、再び戻ってきた。この世界の暗部に立ち向かう武器を手に入れるために。

 

 

 暗闇に慣れた目が捉えた光景は、山のように鎮座した壊れたコンピュータの数々だった。一昔前の懐かしいタイプを思わせるパソコン機器類はどれも撃ち壊されたように、その真っ黒な画面と太った頭に埃を被らせて沈黙している。

 あたしはそれらの中から、あるものを探した。山を崩し、銃痕を付けたものは全て掻き分け、望みは薄いその探しているものがある事を願いながら、あたしはひたすらに機器の山を崩し分けた。

 そして、見つける。ただ一台、穴を開けた中から唯一無傷である、そのパソコンを引っ張り出した。

 「動くかしら……」

 埃を払い、画面を制服の袖で拭きとったあたしは、画面を真っ黒にさせたそのパソコンをそばにあった机の上に置いた。

 「よいしょ……っと」

 引っ張り出したパソコンの後部に、同じく床に垂れていたコード類を差し込んだ。スパイ足る者、その手際の良さは健在だ。

 デスクトップの端にあるスイッチを押す。

 電源が入るか不安だったが、無事に息を吹き返したパソコンを見て、あたしは安堵の吐息につく。

 あれだけ撃たれた中で、よく無事に生き残っていたものだ。それは奇跡だろうか、それとも―――

 「―――!」

 ぴこん、と画面にある数字が浮かぶ。それが100%を満たすと、数字の羅列と英語が嵐のように入れ交えながら切り替わると、やがてその単語を表示させた画面に行き着いた。

 

 

 ―――ANGEL PLAYER β―――

 

 表示されるソフト名―――その名はあたしの脳裏にしかと刻まれている。

 

 

 今回の騒動に際する影の存在は、この世界の住人であるNPCが変容した姿だと思われる。突然現れた影の正体は誰にもわからないが、もしNPCを、立華奏が利用していたソフトのように書き換えが可能だったとしたら、何者かがそのソフトを使ってNPCを影に変えて自分たちに襲いかかっていると言う考えれば十分にあり得る事だった。

 そして、あたしたちは既に知っている。

 立華さんのAngel player、何者かが影の操作に使っていると思われるソフト、それらと似たようなものを―――

 「このソフトもまた、その一種に過ぎないとしたら……」

 何かが掴めるかもしれない。

 似たようなソフトをこちら側から利用し、何らかの形で相対させる事が出来れば、道が開かれる可能性はある。

 「……考えてみれば、皮肉な話ね」

 かつて自分自身に牙を向いた事があるものを、今度はこちらから対抗策の一つとして利用しようと言うのだ。

 「それでも、あたしは……」

 だが、それは危険でもあった。そのソフトを使うとしても、それがこちらの思い通りになるとは限らない。もしかしたら再びこちらに害を為すものを起動させてしまう可能性も十分にあった。

 「それでも、あたしは賭ける。 全てを思い出せてくれた神器に―――!」

 切り替わった画面を見据えて、あたしはエンターキーを押す。

 その瞬間―――

 

 

 

 

 「……………………」

 

 

 まるで火が灯ったかのように、背後にふっと現れた気配。振り返ったあたしが見た先には、あたしの思った通りの人物がそこに立っていた。その眼鏡の奥に光るエメラルドグリーンの瞳を宿した女子生徒を、あたしは知っている。その腕には、彼女の存在を象徴するように『書記』と書かれた生徒会の腕章があった―――



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EPISODE.71 Desire Entrusted

 この世界から去る前に、俺たちにはやっておかないといけない事があった。

 影は既にその数を更に増やし、世界はほとんど影に支配されたかのように見えた。唯一この世界で抗い続けているのは俺たち人間しかいない。

 あの夜を過ぎ、皆、各々でこの先をどうするか考えたようだ。去る者は去り、残る者は残っている。既に戦線の多くのメンバーがこの世界から立ち去っていき、残った者の中で戦える者は影と戦っている。

 「ユイたちは大丈夫なんだろうか……」

 戦えなくとも、残る事を選択した者もいた。それが、ユイを始めとしたガルデモのメンバーだった。

 陽動が専門のユイたちが戦いに不向きなのは当然の事だし、ましてや多勢の敵に対してのこの状況では無茶である。だが、彼女たちは残り、そして俺たちを待つと約束してくれた。

 「私らだけ先に行くのも癪だしさ……みんなが帰ってくるのを、待っているよ」

 ガルデモの総意を代弁したひさ子の言葉。

 どこか安全な場所へ避難しているであろう彼女たちのためにも、俺たちは期待通りに影たちを倒して、みんなで帰らなければいけない。

 そして―――

 「大丈夫さ、あいつらなら。 きっと俺たちが奴らを一層するまで耐えてくれるさ」

 隣から、日向が返す。日向の信じる色が伺える言葉に、俺も簡単に信じる事が出来た。

 俺たちを待つと言ってくれたユイたち、そして今もどこかで先に影と戦ってくれている奏に負けないためにも、俺たちは自分たちの戦場へと向かった。

 

 

 校舎の外に出た俺たちの目に入ってきた光景は、想像を絶するものだった。

 影と言う影がひしめく外の世界は、異常なまでにこの世界の異変を教えてくれた。

 「何だこの数は……ッ!?」

 直井の驚愕に満ちた声色が伝わる。

 「どうなってるんだよ……NPCはッ!?」

 日向は辺りを見渡すが、俺たち以外の人の形をしたものは全くと言って良い程見当たらなかった。至る所に影が無数に蠢いている。

 「もうこの辺だと、こいつらしかいないんじゃ……」

 直井の言葉を聞いて、俺は心の中で頷いた。そう、俺の予想は、ほとんど当たっていたのだ。

 俺たち以外に、この世界には影しかいない。

 「俺たちのやろうとしている事、わかってるんじゃないだろうな……」

 何も答えない影に向けて、俺は言葉と共に銃を構える。

 その動きを察知したかのように、目の前にいた影たちが一斉に飛び上がった。

 「……ッ?!」

 高く飛び上がった影の動きに、俺たちは咄嗟の判断と行動が出来ずにいた。

 やられる、と思った矢先、空高く飛び上がり、そのまま俺たちに飛びかからんとした影たちは一瞬にして切り刻まれ、空中に分散した。

 代わりに、そこに佇んでいたのは―――ハルバートを下ろした野田だった。

 「ふん、下衆が……」

 鼻を鳴らし、そんな言葉を吐き捨てる。

 「さすがだぜ、野田…ッ!」

 日向がぐっと拳を握り締める。思いがけない仲間の参戦に、俺たちは感謝するばかりだ。

 「俺たちのために戦ってくれるのか…ッ!」

 俺も引き金を引き、影を撃つ。

 野田もまた影を一匹斬り伏せると、俺に向かって野田らしい叫びの声をあげる。

 「馬鹿な事を言うなッ! 俺が動くのは、ゆりっぺの助けとなる時だけだッ!!」

 野田の心からの正直な言葉を聞いて、俺は何故か安堵した。

 そして日向も、いつもの気の良い笑みを浮かべる。

 「へへっ、な~るッ! お前もとことん一途な奴だなぁッ!」

 どこか嬉しそうに言いながら、日向は目の前に迫る影たちを次々と撃ち抜いていく。

 だが、目の前から迫る影たちに気を取られてばかりで、日向は背後から忍び寄る影に気付く事が出来なかった。日向が気付いた頃には、影は既に日向のすぐそばまで迫っていた。

 日向を襲いかかろうとした影だったが、何者かの射撃によって、その身を消滅させる。消滅した影の先に、視線を向けた日向が見たのは、校舎の窓からライフルを構えた大山の姿だった。

 「大山…ッ!」

 「何の取り得もない僕だけど、ここで活躍できたら神様もびっくり仰天かなって…ッ!」

 そう言いながら、大山は校舎の窓から俺たちに近付く影を一つずつ狙撃していった。

 「ああ、見返してやれ……ッ!」

 また一匹、俺の目の前に影が迫り来る。

 その影に向けて引き金を引こうとした時、その影は一閃を受け、そして幾つもの穴を開いて粉々にされた。

 そこに現れたのは、木刀と拳銃を両手にそれぞれ持った藤巻だった。

 「俺も忘れてもらっちゃあ困るぜ……このままいなくなっても、誰も気付かなそうだからなぁ…ッ! 最後に―――」

 そんな藤巻が最後まで言い終わる前に、今度は校舎の方からTKが華麗なダンスを踊るように現れた。まるでダンスを踊っているかのように影を蹴散らしていく。そしてそのまま俺たちのもとへ辿り着くと、銃を構えて一言、呟く。

 「Knochin' on heaven's door」

 そして最後に、近くに居た一匹に向けて発砲した。

 「今のなんて意味だ?」

 藤巻たちがTKの言葉の意味を探索するが、答えは結局見つけられなかった。しかしそんなノリが、いつもの戦線だと言う事が実感できる。

 「こいつは役者が揃ってきたなぁ……ッ!」

 次々と主要の戦線メンバーが集まってくる。

 そしてもう一人―――

 「―――そぉいッ! でりゃあぁ……ッ!」

 「―――!?」

 掛け声の方に振り返ると、校舎の上から影が次々と投げ落とされていく。そしてその向こうからまるで特撮ヒーローのように飛び上がり、俺たちの目の前に姿を見せたのは、痩せ細った松下五段の変わり果てた姿だった。

 「何だ、この世界は……何が起こったと言うのだ……!」

 「て言うかお前に何が起こったんだよ、松下五段!?」

 「うむ、山籠りしていたのだが……食べ物が少なくてな」

 本当に松下五段だと言う事に、みんなは驚きと呆れるばかりで言葉が出なかった。あんなに大柄だった松下五段の身体は、見事にスリムな身体へのダイエットに成功していたのだ。

 「激痩せしたな……身体、大丈夫か?」

 言いつつ、俺はすぐ近くまで迫った影を撃ち倒す。

 「おう、むしろキレが良い……もしかして今なら、百人組手でもイケるかもしれねえぜ…ッ!」

 言いながら、松下五段もまた背後から迫った影にその腕っぷしで一撃をお見舞いする。確かに以前より強そうに見えた。

 「それ、空手じゃねえか……」

 ツッコミを入れる日向だったが、すぐに笑みを浮かべる。

 「まぁ、何にせよ助かるぜ。  何せ、これだけの手勢だ……」

 俺たちを取り囲むように、無数の影たちがじりじりと迫ってくる。端から見れば多勢に無勢のように見えるかもしれないが、メンバーの中には誰も臆したりする者は一人もいなかった。

 「無事に去っていこうぜ、メンバー全員でよぉ……」

 「ああ……」

 「Goodbye wild heaven......」

 藤巻の言葉に、全員が同意する。

 そう、こいつらを全部一層して、俺たちは卒業するんだ。影なんていない、この世界から。

 俺はすっと息を吸うと、先頭を切って声をあげる。

 「よし、突破するぞ……ッ!」

 俺の号令に応えるように、みんなが武器を手に影たちに立ち向かう。奴らに閉ざされたその先の道へ行くために、俺たちはその中を潜り抜けていく。その先にある、俺たちの未来を目指して。

 

 

 次から次へと襲いかかる影たちを倒していきながら、やっとの思いで第一連絡橋まで辿り着いた。だが、影の数は減る事がなく、その先の道は正直言って難しくなっていた。

 「くそ、キリがない……ッ!」

 「音無さん、下を見てください……!」

 直井に言われて、連絡橋の下を見てみると、柱から連なる階段からひしめくようにして影たちが昇ってくるのが見えた。

 「どんどん増えていきやがる……」

 「―――後ろッ!!」

 「ッ!?」

 増えていく影に気を取られている内に、俺のすぐそばまで影が近付いていた。俺は咄嗟に銃の先を向けるが、俺が撃つ前に影は幾つもの軌跡を身に描いて、跡形もなく消え去った。

 影が消えた直後、いつの間にか、俺の背後から椎名が言葉を紡いでいた。

 「百人だ」

 「……な、何がだ?」

 「百人、戦力が増えたと思え」

 「え……?」

 「わからないのか……?」

 短刀を手に、鋭い瞳を細くした椎名が、はっきりと俺にその思いを伝える。

 「お前の意志は引き継ぐ……行けッ!」

 「椎名……」

 椎名の背中はそれ以上何も語らず、俺はその椎名の思いを受け取った。

 「ああ、後は任せたぞ……ッ!」

 戦線の中でも最強と謳われた、心強い仲間にその場を任せ、俺は日向を呼んで駆け出した。

 「日向、付いてこいッ!」

 「おうッ!」

 「どこに行くんですか、音無さん……ッ!」

 日向が俺の後を追い、更にその後を直井が付いてくる。

 その戦場を潜り抜けるように駆け出していく俺の背後で、仲間たちの戦いやその思いが伝わってくる。彼らが開いてくれた道を、俺たちは一直線に駆け出していった。



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EPISODE.72 In front of the door

 椎名たちに任せた俺たちは、大食堂へと入った。だが、そこは外と同じく影がひしめく光景が広がっているばかりだった。

 「くそ、ここもか……ッ!」

 「一体どんだけの数がいるんだよ…ッ!?」

 影は俺たちに気付くと、ゆっくりとその不気味な身体を揺らしながら近付いてくる。俺たちはすぐに迎撃を始めた。

 影はあの広い食堂を埋め尽くさんとばかりの数で溢れている。そしてやはり、NPCの姿はどこにも見かけられなかった。

 この世界は既に、奴らのものとなってしまっているのか。

 「見ろ、音無ッ!」

 「―――!」

 日向が指を指した方向には、俺たちの他に別の人間がいた。

 「あれは……生徒会長?」

 直井の言葉と共に、俺はその人物を知る。

 そいつは影の真っただ中に突っ込むと、まるで竜巻のように多くの影を薙ぎ払っていく。その中心にいたのは、俺たちがよく知る一人の少女だった。

 「奏ッ!!」

 影を薙ぎ払い、俺たちの方に振り返った奏の方へ駆け寄る。

 「心配したぞ、奏。 平気か?」

 「……ええ、私はこの通り大丈夫よ」

 ハンドソニックを構え、奏は答える。

 「建物の中もこんな感じとなると……俺たちの予想以上に影は大量にいるみたいだな」

 「内部だけではないわ……」

 「何?」

 奏の言葉に、俺は怪訝な思いを抱く。

 「どういう事だ、奏」

 「……彼らは、下の方から溢れている」

 「下……? ちょっと待て、まさか―――」

 「そう……貴方達がよく武器を生産していた場所よ」

 その言葉を聞いた俺たちは、すぐにそこがどこなのかがわかった。

 ―――ギルド。

 奴らは、ギルドから溢れている。奏はそう言っているのだ。

 「何で、ギルドから……」

 「詳しい事は私にもわからない。 でも、もう一つだけわかる事は……」

 ふと、一瞬だけ奏が寂しそうな瞳を見せた気がした。

 だが、次に開いた奏の口から出た言葉に、俺たちは耳を疑った。

 「ゆりの想いが、爆発してる……」

 「ゆりの想い? 何故……」

 「まさか、ゆりっぺに何かあったんじゃねーだろうな……」

 日向の言葉に、俺はハッとなる。俺は前のゆりの言葉を思い出す。

 ゆりは何かの目的を持って、そしてどこかへ行こうとしていた。もしかして、その先でゆりが何かあったのではないか。

 「ゆりが危ない……」

 俺は、直感した。

 何か取り返しのつかない事が、ゆりの前に迫っている気がした。

 「奏、ゆりの場所がわかるか?」

 俺の問いかけに、奏は頷く。

 「そこへ俺たちを連れていってくれ。 ゆりを助けるために」

 「わかったわ……」

 そして、俺たちはゆりを助けるためにギルドへと向かった。障害となる影たちと戦い、俺たちは仲間を助ける一心で、再び戦いの場と化した地下ギルドへと入る。

 

 

 ギルドへの道は久しぶりだった。あの時は稼働したトラップが満載で酷い目に遭ったが、それもまた今となっては良い思い出かもしれない。

 「(そんな思い出に浸ってる場合でもないけどな……)」

 そう、俺たちは危機に瀕していると思われるゆりのもとへ急いでいた。

 トラップが稼働していないギルドの道は単なる地下通路のように思えたが、影の出現となれば安心はできなかった。

 行く先に、影は必ずいる。その向こうにはきっとゆりもいるはずだ。

 「……ッ!」

 しかしそうは問屋は降ろさない。影はやはり現れる。俺たちの行く手を阻むために。

 至る所から這い出るように現れた影は、俺たちの前に立ち塞がる。

 「そこを―――どけぇッ!」

 襲いかかる影たちに向かって、俺たちは戦闘の火蓋を切る。

 一つ一つの近付く影を消滅させるが、やはりキリがない。このままでは、さっきの状態とほとんど変わらない。

 急がなければ、ゆりが―――

 しかしその時、焦る思いを抱きながら戦う俺たちの耳に、聞き慣れた声が聞こえた―――

 

 「やっぱりあたしがいないと駄目みたいね、音無くん?」

 

 その声を、俺は知っていた。

 その声が降りかかったと思うと、今度は数発の銃撃音が背後から聞こえた。

 その直後、俺たちの目の前にいた影たちは一発ずつ受けると、あっという間に消滅した。

 「今のはまさか……」

 的確な射撃。プロに負けない、と言うよりはプロのような手さばき。

 しかし影は正に溢れると言う言葉が似合わんばかりに現れる。次から次へと現れる影に、俺たちは銃を再び構えるしかない。

 

 そんな俺たちの横を、風が通り過ぎた。

 

 「え……?」

 それは溢れかえる影たちの目の前に辿り着くと、土煙をあげながら急停止し、手を地に着けた。

 「……アタックスキル・アンインストール」

 どこかで聞いた事があるような声。

 その瞬間、大量に溢れていた影たちはまるで地面に吸い込まれるように唸り、一斉に消滅していった。

 そんな衝撃的な光景に、俺たちはぽかんとなる。

 「何だ、今のは……」

 正に、『消えた』と言う表現が正しかった。

 最初からいなかったかのように、あれだけいた影は全て消えている。

 そこに居るのは、一人の少女だけだった。

 すらりとした足、眼鏡の奥に輝くエメラルドグリーンの瞳、そして腕に『書記』の字が目立つ生徒会の腕章―――

 そいつは、前に沙耶を襲った生徒会書記だった―――

 「あいつは、あの時の……!」

 咄嗟にその少女に銃を向けるが、背後から掛けられた声に意識を引っ張られる。

 「やめなさいッ!」

 「!?」

 その声に振り返った先にいたのは、銃を手に下ろした沙耶だった。

 「沙耶…ッ!」

 「今の彼女は、敵じゃないわ」

 沙耶が言う。だが、俺は正直沙耶の言葉の本当の意味を理解していなかった。

 あいつが沙耶にどんな事をしたのか、俺は覚えている。あの時、俺は確かにあいつに―――

 「……何で、あいつが」

 俺は、ジッと俺たちの方を見詰めている彼女を一瞥する。

 「どういう事なのか、説明願いたいですね……」

 直井の言う事に、俺は同意した。

 「そうだ、説明してくれ。 沙耶」

 「……あの娘は、今回の事象に対する一つの有効策なのよ」

 俺たちの疑問に対して、沙耶は率直にそう答えた。

 しかしその意味を理解できる者はいない。

 「有効策?」

 「そう。 あの娘はこの世界の一つのプログラム。 今回の事象も、あるプログラムによって引き起こされている。 彼女は、そのプログラムに対抗できるプログラムになり得るのよ」

 「……この騒動が、あの娘と似たようなものだと言うのか?」

 「そうなるわね」

 「ふむ……」

 直井が顎に手を当て考える仕草を取るが、日向は頭をくしゃくしゃと掻いている。

 「んだよそれ……全く意味がわからん……」

 正直、俺も完全には理解していなかった。

 それにしても、今回の影による騒動は、この世界の一つのプログラムだと言うのは気になる部分だった。

 「……スパイは情報が命だからね。 ゆりっぺさんの指示通り、色々と調査した結果、導き出された答えなのよ」

 沙耶は髪を手で払い、言葉を紡ぐ。

 「ともかく、この先に行けばわかる事よ」

 一体、沙耶は何を知っているのだろう。

 更に追求したい衝動に駆られそうになるが、それより先に、俺たちにはやらなければいけない事があった。

 「……そうだ、ゆりが危ない。 早く急がないと…ッ!」

 俺はゆりの事を思い出し、急いで奏たちと共にその場からゆりのもとへ向かう。

 その中には新たに沙耶と、そして他にもう一人が加わっていた―――

 

 

 ―――オールドギルド。

 本心のギルドが爆破されて以来、主要な生産施設として利用されていたオールドギルドはモヌケの空だった。既にギルドのメンバーは地上に向かった事を物語っている。

 いや、一人いた。

 「―――ゆりっぺ…ッ!」

 日向が叫び、駆け出す。

 そこには、ぐったりと横たわるゆりがいた。俺たちもそばに駆け寄るが、ゆりの様子は明らかにおかしかった。

 「何だよこれ……」

 ゆりの身体は影に呑まれつつあった。黒い靄のようなものが、ゆりの身体を蝕むように包み込んでいる。

 「影に、喰われている……ッ!?」

 ゆりが影に喰われている途中だと知って、俺はNPCとなった高松を脳裏に思い浮かべた。

 「ゆりっぺ、しっかりしろ……ッ! おい……!?」

 ゆりを抱きかかえた日向が必死に呼びかけるが、ゆりが目覚める様子はない。

 それどころか、ゆりは突然うなされるように苦しみ始めた。同時に、ゆりの身体をじわじわと影が浸食していく。

 「……どいて、なの」

 「え……」

 その声に、俺たちの視線が集まる。そこにいたのは、生徒会の腕章を付けた彼女だった。

 「………ッ」

 そのエメルラルドグリーンの瞳に見詰められた日向は、ゆりのそばから離れる事に従った。

 そっと背を預けさせたゆりの身体に、彼女の手が触れられた。

 そして―――

 「……………」

 彼女の手から淡い光が灯ると、そこへゆりの身体を蝕んでいた影の部分が吸い込まれていった。しかしゆりの苦しみの声は収まらない。ゆりの震えた手が、微かに上がったのを見て、俺は思わず叫んでいた。

 「―――ゆり、手を伸ばせ……ッ!」

 その叫びが、俺の思いが届いたのか、俺が伸ばした手を、ゆりの手が掴んだ。

 それと同時に、ゆりがハッと目を開く。

 ゆりを蝕んでいた影の部分も、完全に消えていた。

 「あれ……あたし……」

 意識を取り戻したゆりは、ぼーっと俺たちを眺めている。

 緊張の色を浮かべていた日向だったが、ゆりの目覚めた顔を見ると、いつものゆりに見せる表情に作り変えた。

 「よ、よぉ……どうやら間に合ったみたいだな」

 「音無くんと、日向くん……?」

 ゆりが俺と日向の顔を交互に見て、言う。

 「僕もいるんだが……?」

 その後ろにいた直井が一言呟く。

 「戻って、これた……」

 「お前の声が……いや、お前の想いが爆発してるって、奏がここまで連れてきてくれたんだ」

 「かなでちゃん……?」

 「うん……」

 俺の後ろから、奏がひょっこりと顔を出す。その表情は、どこかほっとしているような表情だった。

 「そして、あいつらも」

 ゆりの視線が、沙耶と生徒会書記の方にも向けられる。

 「……そう、みんなのおかげね。助けられちゃった……」

 ゆりが小さく呟くようにそう言うと、クスリと笑った。

 そして次に、何かに気付いたような表情で顔を上げる。

 「でもあんたたち、どうしてここにいるの……?」

 「任せてきた。 俺たちの想いは、みんなが引き継いでくれたんだ」

 「それで……あたしを助けに来たの?」

 「一緒に戦いをしに来たんだよ」

 「……同じじゃない」

 俺の言葉を聞いて、ゆりはクスッと笑う。

 そんなゆりに対して、今度は日向が茶化すように口を開く。

 「まぁ、そうだけどー……ゆりっぺは心配だからなぁ」

 日向の言葉にゆりがむっとするが、今度は奏の言葉が掛けられる。

 「とりあえず、服整えたら……?」

 「へ……?」

 奏に言われて、ゆりは自分の服装を見下ろした。

 そこで初めて自分の服装が乱れている事に気付くと、ゆりは慌てて露出した肌や下着の部分を隠しながら、服装を整えた。

 そして立ち上がると、顔を赤くしたままいつものリーダー口調で俺たちに告げる。

 「さぁ、行くわよッ!」

 「あ、ああ……」

 呆然とする俺たちの前を、ゆりが大股で通り過ぎる。

 そして一人で先を行くと、そのまま俺たちを置いていくように行く先にある梯子を昇っていった。

 「……ったく、相変わらずのペースだな」

 「女心というのは、複雑なものなのよ」

 沙耶の言葉が、不思議と受け入れられた。

 「俺たちも行くか」

 先を行くゆりに続いて、俺たちも向かって、梯子を昇るのだった。

 

 

 ―――ギルド連絡通路B20

 梯子を昇り、通路に出た俺たちが見た先には、何かを守るように数を集中させている影たちの光景があった。

 影に見つからないように、岩陰に隠れて影たちが蠢く場を観察する。

 奇妙な事に、まるで影は特定の部分を守っているようにそこにいた。例えるなら、番人のような感じだ。

 「なあ……あいつら、あそこを守っているように見えないか?」

 「まぁ、奇遇ね。 あたしもそう思うわ」

 俺の言葉に、ゆりも同感の意を表す。

 「沙耶、こいつの能力で、今までみたいに影を一気に消せないのか?」

 「出来なくもないかもしれないけど、余りにも距離があるし、数も異常だわ。 あんなの絨毯爆撃でもしない限りは、さすがに突破は……」

 「それじゃあ、行ってくるわ……」

 「へ?」

 奏は一人立ち上がると、俺たちに向かってそう告げた。

 次の瞬間、俺たちのもとから飛び上がった奏は、そのまま影の群れの中へとダイブした。

 「かなでちゃんッ!?」

 「奏ぇ……ッ!!」

 奏は影の群れの中に飛び込み、そのまま奏の姿は海に呑まれたかのように見えなくなった。

 「愚かな……自殺行為だ」

 「……いや、待てよ」

 直井が呟く。しかし、俺は気付いた。

 奏が飛び込んだ辺りから、青白い光が射した。次の瞬間、影が光と共に弾かれるように吹っ飛んだ。ほとんどの影が、中心に立つ奏の手によって、四方に吹っ飛んでいった。

 その光景に、俺たちは息を呑む。奏の余りの戦闘能力に、驚かざるにはいられなかった。

 でも―――

 「よし…ッ!」

 同時に、俺は感心する。そして状況の好転にただ喜びを見出す。

 沙耶も感嘆の吐息と共に言葉を紡いだ。

 「凄いわ……彼女の戦闘力は、正に爆撃機並ね……」

 俺たちが感嘆している頃、影を一層した場所の中心に立っていた奏が、俺たちに向けてぐっと親指を立てていた。

 それを見て、俺たちも奏のもとへ向かった。

 

 「―――ッ!」

 だが、通路の別の方向から再び大量の影が現れた。またキリがない数を出現させた影は、ゆっくりと蠢きながら俺たちの方に接近を始めた。

 「くそ、まだいるのかよ……!」

 日向が苦虫を噛み潰す表情で声をあげる。

 「ゆり、お前は先に行け。 俺たちはこいつらを片付ける……ッ!」

 「……うん、お願い」

 この場を俺たちに譲らせ、ゆりを先に行かせる事を促す。

 「待って、ゆりっぺさん!」

 「―――ッ! 沙耶ちゃん……?」

 その場から駆け出そうとしたゆりの背中を、沙耶が呼び止める。

 「行くのなら、彼女も一緒に連れていってあげて」

 「彼女……?」

 ゆりの視線が、沙耶のそばにいた生徒会書記に向けられる。

 ゆりはこの娘を?と言う無言の視線を沙耶に向ける。その意思を読み取った沙耶は、コクリと頷いた。

 「この先は、本当の意味で彼女が必要になるはずよ」

 「……………」

 ゆりは何かを考えるような視線で、生徒会書記の方に視線を向ける。

 そんな二人のやり取りを、俺はチラリと見守っていた。

 沙耶は、一体何を考えているのか。

 かつて俺たちに対して、特に沙耶に対して害を及ぼした敵。沙耶をイレギュラーな存在と認識して襲いかかった彼女を、今回の騒動の有効策として利用しようとする沙耶の思惑は、俺にも計り知れない。

 だが、沙耶にはそう言った考えがあるのだろう。それだけは、俺にはわかっていた。そして、それはきっとゆりも同じだろう。

 「……わかった。 彼女も連れていくわ」

 だからこそ、ゆりは頷いた。俺と同じように、仲間を、沙耶を信じているからだ。

 「ありがとう、ゆりっぺさん」

 「お礼を言うのはあたしよ。 あなたに面倒な事を頼んじゃったのだから……その結果としてこの娘を連れてきたのでしょう?」

 ゆりの少し優しいような、まるで兄弟のお姉さんのような顔を浮かべる。

 それは、まるで相手を安心させるような表情だった。

 「それじゃあ、行ってくるわ」

 「武運を、祈ってる」

 「あんたたちも……ね」

 ゆりはウインクをすると、彼女を連れ、その場から今度こそ駆け出した。

 先に向かったゆりたちを見送ると、沙耶は俺たちのもとへ戻ってくる。

 「……音無くん」

 「何だ、沙耶」

 「これが最後の戦いになるかもしれない。 あたしのパートナーとして、ちゃんと最後まで戦い抜くと約束しなさい」

 言いながら、沙耶は銃を構える。

 「……言われるまでもねえよ。 俺は、最後まで戦うさ」

 そして俺も、隣にいるパートナーと銃口の向きを揃える。

 日向や直井も、同じく。

 そして、奏も刃の向きを俺たちと共に揃える。

 「これが―――俺たちの最後の戦いだ」

 この世界における長い戦いの終止符を打つ。そんな共通した思いが、俺たちの中にあった。みんなで無事に卒業する。そして、この戦線の終わりにふさわしいハッピーエンドに向かって。



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EPISODE.73 Knockin'on heaven's door

 音無くんたちにその場を任せ、オールドギルドより奥深い場所にあたしは辿り着く。いや、あたしたちと言った所か。あたしの後ろには、あの娘が付いて来ている。

 この騒動の有効策になり得ると言う彼女だが、あたし自身も具体的な事まではわからない。だが、こんな馬鹿げた世界の異変をさっさと終わらせる事が出来るものなら、何であっても構わなかった。

 「それにしても……」

 あたしは、その目の前にある扉を見詰め、ぽつりと呟く。

 「馬鹿にしてる……」

 扉には、『第2コンピュータ室』と書かれたプレートが貼られていた。場に不釣り合いな光景であるが故に、余計に目立っている。

 「けど、今度こそ……」

 しかし、この先に神の真似事を行っている今回の犯人がいる可能性が高い。

 あたしは弾倉の残弾を確かめると、意を決して、ドアノブを握った。

 開かれた扉の向こうには、幾重にも重なり、並ぶコンピュータがあった。部屋に敷き詰められるように並べられた大量のコンピュータ機器を前に、あたしは室内に足を踏み入れる。その後を、ふらふらと幽霊のように、彼女も付いてくる。

 「どれだけ盗んだのよ……」

 上の学校から持ち込んだであろう大量のコンピュータ機器を横目に流しながら、あたしは室内の奥へと進んだ。

 ふと、並べられたコンピュータ機器の一つに目を向けると、画面にはNPCが影に変化する様子や、影の情報を記したデータや映像が映されていた。それらの物的証拠を見て、あたしは確信する。

 「間違いない……」

 思った通り、盗んだコンピュータを使って、犯人はここから影を操作していたのだ。あたしの確信が定まるとほぼ同時に、聞き慣れない声が突然のように前の方から聞こえた。

 「―――よく辿り着けましたね」

 「―――ッ!?」

 声のした先に視線を投げると、そこには山のように積まれたコンピュータの前に一人座る謎の男がいた。

 彼の後ろには大量のコンピュータが積み重ねられ、全てが稼働し、コードの波が集中している。まるで砦のような場所に、彼は微笑ましい表情を崩さずに、あたしの方をジッと見据えていた。

 この世界の学園の制服を着た彼は、仮面のように崩さないその笑みを絶やさない。

 「馬鹿にしてるの? 表にこれ見よがしにプレート貼ってあったじゃない」

 「ここは学校ですからね」

 さも当然のように、彼は言う。

 「可笑しな価値観を、お持ちのようで」

 「いやいや、それがルールなんですよ」

 ルール―――

 それは普通に聞けば、どこでにもあるような単なる学校のルールと受け止められるだろう。

 だが、彼の言っているルールは、果たしてそうなのかわからない。

 あるいは―――

 「この世界の……神の……」

 「神……存在するか否か、実に深淵なテーマです。 興味深い……が、それを追求する術は僕にはない。 ただ、決まりごとに従うだけ……」

 「あなたもプログラミングで動いているのね……」

 つまり、彼はあたしたちと同じ人間ではない。

 NPCなのだ―――

 「御察しの通りで」

 「誰がこんな事を……?」

 「名前を言っても無意味でしょう。 遠い昔の人です」

 首を横に振りながら言う彼の言葉に、あたしは視界の端に見えたコンピュータの画面に視線を向けた。

 その画面に記された内容は、Angel player―――

 「……このソフトは何なの?」

 「知っての通り、この世界のマクテリアルを作成、改変できるソフトです」

 「何でそんな事が出来るの……」

 「さぁ? 僕は開発者ではないので……」

 質問には、濁す事なく淡々と答える辺りが確かにNPCらしかった。

 だが、こうして会話を交わしている内に、あたしの心に積み重ねられていくものは、彼がどうしてもただのNPCには思えないと言う事だった。

 「……でも、貴方達も土から武器を製造している。 同じ事でしょう」

 「(結局、同じルールに則っているのか……)」

 所詮、あたしたちも目の前にいる彼も、この世界の法則の上にいる事には何も変わらないのだ。

 しかし、あたしには少し思う所があった。

 それは単なる疑問だ。

 何故、そんなソフトを作ったのだろうか。

 人は目的がない限りは、物を作らない。目的があるからこそ、それを生み出すのだ。あたしたちが神に対して抗う具体的な戦う方法として、武器を製造したように。

 「……そのソフトの制作者は、神になりたかったのかしら?」

 「さぁ。 僕には何とも……」

 「じゃあ、時間がないから本題に入りましょう」

 これ以上、根源に関する情報が手に入る目処がない事を察したあたしは話題を本題に移す。

 「あなたは何が起きたらこうするようにプログラミングされていたの?」

 「プログラミングの内容は、わかりません」

 「……じゃあ聞き直すわ。 あなたにとって、この世界に何が起きたの……?」

 あたしが聞き直すと、彼は絶やさなかった微笑みから、少し真剣な表情に変えて、口を開いた。

 「―――この世界に、“愛”が芽生えました」

 彼の言葉。そしてその言葉が紡がれると同時に、まるで何かの意思が働きかけたかのように、彼の後方にあった全てのコンピュータの画面にハートの絵が浮かんだ。

 それらの光景と、彼の言葉の意味が理解できなくて、あたしは疑問の色を浮かべる。

 「……え? 愛……?」

 そう呟いたあたしの後ろの方から、彼女がぴくりと反応した気配が伝わった。

 「……?」

 チラリと彼女の方に一瞥するが、彼女の表情は相変わらずの無表情で、今の反応があたしの気の所為だったと思えてしまう程、彼女はジッと彼の方をただ黙って見詰めていた。

 「……そう、愛です。 それはあってはならない、この世界で……」

 「……………」

 そうだ、とあたしは内心で彼に同意していた。

 しかし実際はその通りだった。

 この世界で愛を覚えたのなら、すぐにでも消えるはずだ。でも、この世界で愛が芽生えたらどうなるのか。

 「愛が芽生えてしまうと、この世界は永遠の楽園に変わります。 しかし、この世界はそうなってはいけない」

 何故だろう、その話を口にしている間だけ、彼は少しだけ寂しそうな瞳をしていた。

 まるで自分の過去を語るように、彼は続ける。

 「何故ならここは、卒業していくべき場所だからです」

 「そう思った人がいたわけね」

 「ただ……誰かのために生き、報われた人生をおくった者が、記憶喪失で迷い込んでくる事が稀にある。 その時に、そういうバグが発生するのです」

 「そしてそれが……Angel playerのプログラマー……」

 「驚きました。 ご明察です」

 そう言って、彼はまたさっきの微笑みを浮かべる。

 「その人は、この世界のバグに気付き、修正をした。 それが影を使ってのNPC化……つまり、リセット……」

 「はい」

 あたしの推理に、彼は肯定する。

 「……じゃあ、何? NPCの中には、あたしたちみたいなのが他にもいるって事?」

 「はい、います。 一人だけ」

 彼の答えた事実に、あたしは目を細める。

 「可哀想に……」

 「そのプログラマーです」

 「え……ッ?」

 彼の淡々とした発言に、あたしは驚く。

 それにも構わず、彼は続けた。

 「彼は待ち続けました。 愛を知り、一人この世界から去っていった彼女を」

 「そんな……もう一度会える可能性なんてない…ッ!」

 「天文学的数字ではありますが、ゼロではありません。 しかし彼女を待つ時間は余りに長過ぎ、彼はもう正気ではいられなかった。 だから、自分をNPC化するプログラムを組んだのです」

 この世とあの世の狭間で、転生と言う事があるのだとしても、もう一度彼女と会える可能性なんて限りなく低いだろう。

 そんな皆無に等しい可能性のために、待ち続ける時間も尋常な量ではないはずだ。生身の人間の精神や心が、そこまでの膨大な時間に耐えられるとは思えない。

 その末に正気を失いかけ、自分をNPC化させると言う手段に至っても、不思議ではないかもしれない。

 「もしかして……そっちが先だったんじゃないの? そして同じ事が起きないよう、世界に適応させた」

 「可能性はあります」

 「その人は、いつか報われる日が来るのかしら……」

 「さぁ…」

 彼との会話によってあたしは、知り過ぎてしまったこの世界の一端に、頭を抱える思いだった。

 「……何が正しいのか何だか」

 「僕にも何が正しいのはわかりません。 ただ、ここに辿り着いたあなたならば、その答えが導き出せるかもしれません」

 「……どういう意味よ」

 あたしの問いに、彼は微笑みを絶やさないまま答える。

 「あなたの意思次第では、この世界を改変できる……と言う意味です」

 「改変してどうするのよ……」

 「彼が選ばなかった道も選べます」

 「それは……」

 あたしは、ごくりと生唾を飲み込む。

 「……あたしが神にでもなれる、と言うの……?」

 「……言い換えれば」

 あたしの言葉に、彼は否定をしない。

 「ここを永遠の楽園にする事だって出来るの……?」

 「彼自身はそれを否定しましたが、僕は否定しません。 いや、否定する感情を持ちません」

 NPCとしての身分である彼らしい言葉を最後に付け加えて、彼は言った。

 「神……あたしが、この世界の神……?」

 それは、この世界に来て神に反抗する決意を決めた時から、目標に掲げていたものだった。

 正に、この世界を神から奪う。

 戦線の、あたしの目的。それが今、叶うと彼は肯定してくれたのだ。

 今までの自分たちの努力や苦労が、ここで叶うと言う事にもなり得る。

 「ふ、ふふ……」

 あたしの口から、笑いの種が零れる。

 「ふふふ……あは、あははは……ッ! あははははは……ッッ!!」

 天に向かって腹の底から笑うあたしを、人間じゃない二人がただ眺めている。

 「どうかしましたか?」

 彼の声も、笑い続けるあたしにはどうでもいい事だった。

 だって、こんなにも可笑しい事があるだろうか。

 手に入れたんだ。

 ずっと手に入れようとした、この世界を。

 わけがわからない世界で、多くの仲間たちを統率する中で、必死に戦ってきた努力が報われるのだ。

 人間と言うものは、欲望を持って前に進む事が出来ている。

 だからこそ、そこに辿り着く事が出来れば、人は狂ったように喜ぶし、笑うのだ。

 そう、今のあたしこそ、その境地に行き着いた人間。

 今度こそ報われる。

 この世界を、手に入れて―――あたしは―――

 「………………」

 「……?」

 すっと黙り込んだあたしを、そばにいた彼女が不思議そうに覗き込んでいた。

 「……なんて事、するわけないじゃない。 かなでちゃんにも、もうそんな事出来ない……だって、あたしは……ここまで来たのは……あたしは……ッ!」

 「……おや」

 何かに気付いたかのように、彼は一瞬声を漏らした。

 と、同時に、全てのコンピュータの画面に異変が生じる。

 そこには大きなハートマークが、画面に浮かんでいた。

 「……大きな愛を感じ取りました。 ここまで大きいのは初めてです……恐ろしい速度で拡大を―――」

 「……………」

 彼が、そしてそばにいる彼女も、あたしをそれぞれの不思議そうな目で見てくる。

 だけど、あたしにはそんな事はどうでも良かった。

 「……何ですか?」

 あたしが銃口を向けた所を見て、彼は問いかける。

 「だって……あたしがここまでやって来たのは、みんなを守るためなんだから……ッ!」

 そう、それがあたしのここまで来た理由だ。

 あたしはリーダーなんだ。

 あたしを信じて付いてきてくれたみんなの期待を裏切らないために戦ってきた。それと同じように、あたしはみんなを守るためにここまでやって来たのだ。

 「ああ……発生源はあなたでしたか?」

 微笑を浮かべ、彼は言う。

 「……で、何をしようと言う気です?」

 あたしは、はっきりと彼に告げる。

 「全てのマシンをシャットダウンしなさい。 今すぐ」

 責めるように、厳しい声色で命令する。

 だが、彼は涼しい微笑を崩さないままだ。

 「良いのですか? ちゃんと考えたのですか? まだまだ時間はありますよ、それこそ永遠に……」

 この期に及んでも減らない口を叩く彼に、あたしは微かに声を低くさせる。

 「……あのね、教えてあげる。 人間と言うものは―――」

 あたしの脳裏で、自分の人生の記憶がフラッシュバックする。

 それは無力な自分が、弟や妹たちを救えなかった時の、一番神様を呪った日の出来事―――

 それらの記憶を思い出し、あたしはその思いを彼にぶつけるように、叫ぶ。

 「たったの十分だって、我慢してくれないものなのよ……ッ!!」

 次の瞬間、あたしの指が引き金を引いた。

 思いの丈を叫ぶように、あたしはオート射撃で周囲に広がるコンピュータ機器に向けて撃ち続ける。

 一秒に数十発と言う弾丸が飛び、大量のコンピュータ機器を次々と葬り去る。

 連続した射撃音、そして破壊される機械の断末魔が室内に響き渡った。

 ばらばらと、破壊された数々の機械が、散らばって落ちていく。

 あたしはその中で、休み暇もなく撃ち続けた。弾が無くなった機関銃を投げ捨てると、次に拳銃を握り、残る全てを殲滅するかの如く破壊し続ける。

 「……ッ!」

 そして最後に、あたしは目の前にいた彼に、銃口を向ける。

 銃口を向けられても、命乞いをする事もなく、ただその仮面のような微笑を向けている。

 一瞬、躊躇ったあたしの鈍くなった動きの内に、彼女は動いていた。

 「―――!?」

 すっ、とあたしの視線を遮るように、彼女の背中が現れた。

 あたしと彼が正面で向き合っている間に、彼女が割りこんで来たのだ。

 「……あ、あなた……! そこを―――」

 どきなさい、と言う前に、彼女の垣間見えた瞳が、あたしを制止させた。

 少しだけ悲しそうな瞳を見せた後、彼女は彼に向かって歩み寄って行った。

 そんな彼女を、座る彼は見上げるだけだ。

 「……おや」

 目の前に立ち止まった彼女を見上げた彼は、ふ、と微笑を浮かべた。

 「不思議ですね。 君とは、どこかでお会いしたような気がする……」

 「……………」

 彼女は沈黙を崩さない。彼は微笑を崩さない。奇妙な空気が二人の間に流れていくが、それが不思議と二人に合っているように見えた。

 「君は……」

 彼が口を開いた時、彼女もまたぼそぼそと何かを呟いた。

 それは小さ過ぎて、あたしの耳にまで届かなかったけど―――

 「……………」

 聞こえたであろう彼の表情は、微笑を浮かべたまま一瞬固まったように見えた。

 その直後、彼女は彼の額にそっと手を当てると―――

 「――――!!」

 眩しい光に呑まれ、彼女は彼と共に真っ白な光に包まれていった。

 余りに眩し過ぎて、あたしは咄嗟に目を覆ったけど、その間際に見えた二人が、一瞬だけ抱き合っているようにも見えた。

 そして―――

 「……………」

 光が収まった後、そこには誰一人の姿もなかった。

 そこにあったコンピュータ機器も全て、真っ黒な画面を晒している。

 彼らがいなくなった場を見て、そして破壊された全てのコンピュータが囲う中で、あたしはぺたんと座りこんだ。

 「(これで……終わった……?)」

 そこにはあたし一人しかいなかった。全てのコンピュータが沈黙している光景を眺めて、あたしは思った。

 「(これできっと、みんなは助かったはず……これで無事、この世界から去っていけたはず……)」

 影を操作していた根源は全て破壊した。

 ならば、影も全て消え去ったはずだ。

 すなわち、みんなも戦いから解放されたと言う事。

 「(にしても、不覚だ……お姉ちゃん、あんたたちと同じくらい、みんなの事を大切に思っちゃってたんだ……)」

 彼は、自分が愛の発生源だと言った。

 愛が芽生えていたのは、自分だったのだ。

 それは、仲間に対する愛だった。

 「(あんたたちが誇れるくらい、あんたたちだけを愛する姉でいたかったのに……)」

 そして、あたしの心に変化が生まれる。

 「(ああ、この気持ちは何なんだろう……どうしちゃったんだろう……あたしを突き動かしていたものが、消えていく……)」

 それは、この世界における自分の行動原理と言って良かった。

 つまりそれが消えると言う事は、自分自身も消えると言う事だった。

 「(それが消えちゃったら……この世界にいられなくなる……人生はあんなにも理不尽に、あんたたちの命を奪っていったのに……なのに……みんなと過ごした時間はかけがえのなくて……あたしも、みんなの後を、追いかけたくなってきちゃったよ……)」

 心から、あたしを動かしていたものが、まるで水のように流れて出て行く。

 それはどこか心地良かった。

 そして―――

 あたしの目の前に、三人が現れた。

 あの家で、あたしは大切な三人を前にしていた。

 こんな光景は、自分自身が思い浮かべたものだと言うのはわかっている。

 それでも、再び大好きな弟や妹と出会えた事に、あたしは嫌だなんて思うわけがなかった。

 その子たちはあたしの目の前で、変わらない優しい笑顔を浮かべていた。

 「ありがとう、もう十分だよ」

 「もうお姉ちゃんだけ、苦しまなくてもいいんだよ」

 この子たちを守れなかったあたしなんかに、三人はあたしに言葉を掛けてくれた。

 それが―――とても―――

 「長い間お疲れ様、お姉ちゃんっ」

 あたしの心は、もう限界だった。

 「う、うぇ……ッ うあああ……ッッ」

 だから、声をあげて泣いた。

 あたしは、一人で、子供のように泣き叫んだ。自分を動かしていたものを涙にして流すように。



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EPISODE.74 Their Tracks

 この世界が平穏を取り戻した頃、俺たちは遂に迎えるべき時を迎えた。影がいなくなった直後の学園はやけに静かだった。何故なら人形劇の役を演じるNPCがほとんどいないからだった。現時点で表舞台に立っているのは、俺たちだけだった。

 だがそんな俺たちも、長い戦いを終えて、戦線のメンバーは次々とこの世界から旅立っていった。皆、一人一人未練を断っていけた。俺たちの思いは、無事にみんなに伝わったのだ。

 「やっぱり最後に残ったのは、このメンバーか……」

 かつての戦線の作戦本部だった校長室にいるのは、俺を含め、奏、沙耶、日向、直井、野田、大山、椎名、TK、遊佐、松下五段、藤巻、そして―――NPCから人間に戻れた高松だった。

 「しかし高松に関してはひやひやしたぜ。 一生元に戻らねえかと思っちまったよ」

 木刀を肩にとんとんと叩きながら、藤巻は高松の方を見る。

 高松はあるものを持っている右手とは逆の左手で、眼鏡のブリッジをくい、と上げると口を開いた。

 「皆さんには本当にご迷惑をおかけしました。 こうして無事に帰ってこれたのも、皆さんのおかげ……」

 「あーもう、それは何度も聞いたっつーの。 折角最後なんだから、みんなで晴れやかな気分でいようぜ?」

 日向が高松に物申す。日向に言われた高松は「それもそうですね……」と、フッと笑みを浮かべて口を慎んだ。

 「だけどプロテインを見せただけで正気を取り戻すたぁ、さすが隠れ筋肉キャラだぜ……」

 そう、藤巻が言う通り、影に喰われてNPCとなっていた高松だったが、プロテインを見せた途端に正気を取り戻し、無事に人間に戻れたのだ。そして今、高松の手にはそのプロテインが乗っている。

 「きっと、思いの強さでいつか人に戻れるようにしてあったのね」

 少し優しい微笑みで、沙耶は呟く。

 「思いの強さ……か」

 俺もその呟きに応える。

 「だがこれも、ゆりっぺのおかげだな」

 そう言う日向の言葉に、みんなは頷き合う。その意見に関しては、この場にいる全員が同じ気持ちだった。

 長く苦しい戦いだったとしても、戦いを終えてみれば、この世界の日々も悪くなかったと言う思いが全員の心にあった。血生臭いことや苦労も数え切れないほどにあったけど、それでも自分たちが過ごした時間は楽しかったと断言できる。

 それも―――リーダーを務めてくれたゆりのおかげだ。

 「そのゆりっぺも、まだ寝てるけどな……」

 影との戦い以来、ゆりは既に一日以上も眠っていた。今は保健室で寝かせているが、まだ目覚める様子はない。

 「……………」

 不意に、ハルバートを抱えたまま壁に背をもたれている野田にみんなの意識が向かれるが、当の野田は無言だった。

 「ゆりのことだ。 きっとそのうち目を覚ますさ」

 だけど俺は特に心配はしていなかった。ゆりは必ず目覚める。そう信じていたから。

 「だな」

 日向も笑みを浮かべて同意する。

 俺はさっきから黙っている野田の方を見てみる。

 きっと野田も俺と同じ思いなのだろう。ゆりを信じ続けているんだ。

 いや、野田は俺以上にゆりを信じている。

 ゆりが目覚めない可能性なんて、微塵も疑ってはいないのだ。

 「しかし校長室(ここ)ともお別れかぁ……寂しいものだね」

 大山が少しだけ乾いた笑みを漏らしながら言う。その笑顔は少し寂しそうだった。

 「まぁな。 ここは、色々と思い出が詰まり過ぎてる」

 日向も頷く。

 戦線の根城として長らく利用されてきた校長室。

 俺もここを初めて訪れた時のことを鮮明に覚えている。

 忘れもしない、あの全ての始まりの日を。

 「お前ら、言っといたもの、ちゃんと持ってきたんだろうな?」

 俺は全員を見渡しながら問いかける。

 その声に、みんなは「勿論」と言う風にそれぞれの証を掲げて見せた。

 それは、卒業する思い出の場所に、一人一人の“証”を置いて行く、と言うものだ。

 長い間、自分たちの思い出が作り出された場所を去る間際に、自分たちがいた証を残していきたいと思うことは、卒業生の特徴と言っても良いだろう。

 だから、俺たちはその場所に、自分たちがいたと言う“証”を残すことにした。

 「俺はこの木刀を置いていくぜ。 やっぱり俺にとっては、これが一番の相棒だったからな」

 木刀を差し示す藤巻。

 「………ふん」

 ガチャリ、と抱えたハルバートを鳴らす野田。

 竹山はノートパソコンを置き、TKは首にさげていた手錠を指に絡めて回し、遊佐は耳に付けていた通信機をそっと外した。

 椎名は―――誰にも隠すことなく、何匹もの犬の玩具を置いた。

 その表情は少し寂しそうではあったが、やがて優しげな笑みに変わった。

 「私は勿論、これを」

 「まぁ、わかってたけどな……」

 眼鏡のブリッジを持ち上げた高松が、幾つものプロテインを置いていく。

 俺も含め、みんなはそれぞれの持ち寄った自分の“証”を置いていく。

 そして―――

 「……………」

 ゴトン、と、沙耶は拳銃を置いた。

 それはとても重々しい空気を纏っていたけど。

 その重さは、まるで沙耶の今までの“証”を如実に示しているようだった。

 「あたしにとっては……ここに来る前から持っていたものだったけど……」

 沙耶は語り始める。

 その寂しそうな横顔で。

 「これを本当に手放す時が、今この瞬間だと思ってる」

 「……そうか」

 「うん」

 そう言って、微笑む沙耶の笑顔に、俺は頷き返した。

 思えば、沙耶との思い出もかけがえのないものだった。

 戦線とは別に、沙耶との過ごしたパートナーとしての日々も、忘れてしまったとしても俺は魂に刻み付ける。

 「奏は何か置いていかないのか?」

 俺は隣に立っていた奏に問いかけてみた。

 「……私はここには、あまり良い思い出はないから」

 「そ、そうだよな……」

 何せここは元々、対天使用作戦本部……つまり、奏を敵とした戦略を練るための戦線の本部だったのだから、奏にとってはそれ程思い入れがある場所ではないのだろう。

 「日向くんは確か、ここで初めて立華さんに刺されたんだよね」

 「それを思い出させるな、大山……」

 どうやら日向にとっても、良い思い出に限った話では無さそうだった。

 「まぁ、ともかく……みんな」

 それぞれの“証”を置いた、みんなの視線が集まる。その顔つきはどれも、どこか纏わり付いていたものを全てふっ切れたような雰囲気だった。

 「今まで本当に長い間、お疲れ様。 みんなと過ごした日々は、本当に楽しかった。 後はみんな、それぞれこの世界から旅立って行ってほしい。 また、次の人生で会えることを願って」

 それは、遂にみんなとの時間が終わることを表していた。それはただの終わりではない。それぞれの道へ歩んでいく始まりだ。みんなとの時間は確かに終わるけど、それは長かった戦いの終わりでもあるし、何より各々の抱えていた葛藤から解放されての幕締めだ。

 「女々しいのは御免だ。 俺は先にあがらせてもらう」

 最初に口を開いたのは、ハルバートを抱えていた野田だった。野田はそう言うと、普段から肌身離さず抱えていたハルバートを壁に預けていった。

 「良いのか……?」

 「何がだ」

 普段と変わらない無愛想な表情の野田に、日向は問いかける。

 「最後に、ゆりっぺに別れの挨拶をしておいても遅くはないんじゃねえの?」

 「……ふん、構わん」

 野田の答えに、日向は驚く。

 「な、なんでだよ……? お前、このままゆりっぺと会えないまま……」

 「何を言っている? そんな心配はない、何故なら……」

 だが、野田は踵を返しながら言葉を続けた。

 「次にまた必ず会うと決めているからだ」

 野田は、はっきりとそう言った。

 その言葉と、野田の表情もまた、強く信じているような色だった。

 「野田、お前―――」

 日向は何か言いかけたが、何も言わなかった。

 野田は周りのみんなに見向きもせずに、そのまま廊下の方へと向かう。

 「音無」

 その間際に、立ち止まった野田が俺に声を投げかける。

 「何だ?」

 俺が応えると、野田は睨むように俺の方を見る。

 「俺はまだお前を認めていない。 だから、次に会う時はまた覚悟しておくんだな」

 「……ああ、望む所だ」

 「ふん」

 最後に鼻を鳴らした野田は、そのままこの世界から旅立った。

 みんなの前から去っていった野田に続くように、他のみんなもこの世界から旅立つ一歩を踏み始める。

 「俺もそろそろ行っちまうかな。 これ以上、この世界に用なんてからっきりねえし」

 頭を掻きながら、藤巻が言う。

 「そうだね、藤巻くん。 僕もそろそろ失礼するよ」

 大山も同調するように、藤巻と並んで校長室を出ていく。

 「大山、てめえとは面白可笑しく過ごさせてもらったぜ。 また次の人生で会う時は、ダチとして会おうぜ」

 「うん、僕もだよ。 今度はまた友達になってね、藤巻くん」

 大山の肩に手を回した藤巻、二人の笑い声が遠ざかっていった。

 それが完全に遠ざかると、今度は椎名が音もなく壁から離れる。

 「……………」

 「椎名、お前も行くのか?」

 「……ああ、長居は無用だ」

 ふと気が付くと、いつの間にか椎名の腕にはクマのぬいぐるみが抱かれている。それはまた犬の玩具とは違う可愛らしさを持っていた。

 「それも一緒に持っていくのか?」

 「ああ、これは……私の宝物だからな」

 「そっか……」

 そう言う椎名は、藤巻に肩を抱かれていた大山が立っていた位置を遠い瞳で見詰めているように見えたが、それは気の所為だろうか。

 「さらばだ……」

 「ああ、またいつか会おう」

 小さく言い残した椎名は、俺が瞬きをした一瞬の内に、既にいなくなっていた。

 「では、私も……」

 遊佐がその場にいる全員に向けて、ぺこりと軽くお辞儀をすると、そのまま沙耶の方へと歩き出す。

 沙耶の前まで来ると、その足取りを止めた。

 「遊佐さん……?」

 「沙耶さん、今まで本当にお世話になりました……」

 そう言って、遊佐はぺこりと沙耶に向かって頭を下げる。それを目の前にした沙耶は慌てて手を振った。

 「そ、そんなに大して世話をした覚えはないわよ…ッ! あたしも、遊佐さんと過ごした時間はとても楽しかったわよ…!」

 「……あなたは、私の尊敬するある人に似ていました。 でも、やはりあなたはあなた、その人ではありませんでした」

 「遊佐さん……」

 「でも、私はあなたをずっと忘れません。 この魂が、あなたのことを一生忘れないでしょう」

 「……あたしもよ、遊佐さん。 本当に今まで、ありがとう」

 「いえ、こちらこそありがとうございました。 沙耶さん、お元気で……」

 「うん、また……いつか」

 「ええ、またいつか」

 最後に―――遊佐は明確な笑顔を浮かべてから、沙耶の前からその笑顔と共に消えていった。

 「遊佐のあんな笑顔、俺、初めて見たかもしれないぜ」

 日向が意外そうな声をあげる。

 「そうか? 案外、昔から元々ああだったかもしれないぜ。 ただ、わかりにくかっただけで……」

 みんな、本当に良い顔でここを去っていった。それだけ、この世界で過ごした時間はかけがえのないものと成り得たのだろう。

 「さて、俺も行くかな……ここの肉うどんは最高に美味かったが、またもっと美味い肉うどんを探し出して食べてみたいものだ」

 随分とスリムになってイケメンになってしまった松下五段が、これはまた格好良いクールな笑みを浮かべて、特に格好良くはない言葉を並べて言う。

 「今度はグルメ五段にでもなるつもりか?」

 茶化すように聞く日向の言葉に、松下五段は「それもいいな」と気の良い笑みで返した。

 「正直、百人組手もやってみたい所だが……それは次の楽しみに取っておこう。 全ての五段を手にする人生も楽しそうだ」

 「全ての五段って、意味わかんねえよ」

 日向のツッコミを含め、松下五段の笑いの声があがる。

 「じゃあな、みんな。 達者でな」

 そう言い残し、松下五段も去っていく。

 「お前らは行かないのか?」

 俺の問いに、高松、竹山、TKが返す。

 「勿論、私も行きますよ。 最後に、この筋肉と共に皆さんに感謝とお別れの言葉を捧げてから、ね」

 そう言って、高松はさっと上着を脱ぎ出した。その露にされた肉体は、筋肉で引き締まっている。

 「最後の最後で暑苦しいのはどうかと思いますが……別れもまた人それぞれとしておきましょう。 僕もそろそろ行きます。 とっくに僕の役目も終わっていますしね。 それから、今度こそ最後は僕のことをクライストと呼んでくだされば幸いです」

 「Good bye! みんなとの日々はremember!」

 「本当にお前らは最後まで相変わらずだよなぁ……」

 だが、それが良い所でもある。

 変わらない普段の仲間たちが、思い思いに去っていくのはきっと良い傾向なのだ。

 「ああ、高松、TK、そしてクライスト。 お前たちも、元気で」

 三人はそれぞれの表情を浮かべると、次々と見送る俺たちの前から去っていく。

 戦線のメンバーたちの旅立ちを、俺たちは一人一人見送っていった。そして気が付くと、校長室には俺と沙耶、奏、日向、直井の五人だけとなっていた。



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EPISODE.75 Our Song

 同じ頃、ガルデモが練習に利用してきた空き教室では、ギターの弦を弾く音が響いていた。それは共鳴し合い、互いに残された時間を分かち合うような、少しだけ寂しくもあり、少しだけ暖かい音。

 黒板一杯には沢山の字や絵が描かれており、それには各々の思いの欠片や言葉が赤裸々に刻まれている。

 「……よっし、できたっ」

 私は最後に黒板にチョークを走らせると、そう言って声をあげる。他のメンバーが書いた言葉や絵等が囲む黒板の中心には、一際大きく目立つようなアレンジで、こんな言葉が書かれている。

 『ガルデモ最高!』

 その力強く書かれた字体を見詰め、私は満足げに笑みを浮かべた。

 それを眺め、感慨に浸っているのは私一人だけではない。私の後ろには、同じく各々の楽器を持った三人が、私が書いた字体を眺めていた。

 お尻の尻尾を跳ねながら、くるりと振り返った私の目の前には、リードギターのひさ子先輩、ベースの関根さん、ドラムの入江さんがそれぞれの笑みを浮かべている。

 それは普段と変わらない、私たちがライブ等の演奏前に浮かべるような顔だった。

 「あたしたらも、いよいよ解散か……」

 楽器をそばに置き、教室の中心で囲んだ私たちは、ぽつぽつと話を始める。

 「思えば、あっという間に感じるもんなんだな……実際、結構短くない程度はここにいたつもりだけどさ」

 「過ぎてしまえばそんなものですよ。 ライブも数え切れないぐらいやりましたし」

 「うん、そうだよね……それに、すごく楽しかった…ッ」

 「はいッ!」

 ひさ子先輩たちの言葉に、私は同意するように声をあげる。

 「ユイは最初どうなる事かと思ったけど……よくあたしらに付いてきてくれたよ」

 ひさ子先輩に掛けられた意外な言葉に、私は驚く。

 「正直、岩沢以外であたしらの演奏にばっちり付いていけた奴を見たのは、ユイだけだったよ」

 「そ、そんな……私は……」

 私はそうやって言われる程、凄い事をしたわけではない。

 今の私がいるのは、岩沢さんのおかげだから。

 岩沢さんに憧れて、陽動部隊に入って、その時からギターの練習を始めて……最初は見る目も当てられないぐらいに酷いものだったけど、私の中に岩沢さんと言う存在がいたからこそ、私はここまで這い上がる事が出来たんだ。

 私はそう言ってひさ子先輩たちに自分の思いを伝えるが、ひさ子先輩たちは言い続けた。

 「ユイは凄い。 これはあたし達がしっかりと認めている。 嘘じゃないんだよ、ユイ」

 「そうだよ、ユイ。 もっと自分を誇っても良いんだよ」

 「そうそう」

 「皆さん……」

 みんなの優しさが、私の心にじわりと沁み込んでくる。

 「……ッ」

 「あれれ? もしかしてユイ、泣きそう?」

 「そ、そんなことないッスよ……ッ」

 無意識に奥底から危うくこみ上げてきそうだったものを抑える私の仕草に気付いた関根さんが、茶化すような笑みを浮かべて言ってくる。

 「それにお前の事は、あの岩沢も認めてた」

 「……えッ?」

 ひさ子先輩の言葉に、私は顔を上げた。

 「お前がまだあたしらの陽動部隊に入りたての頃だったかな……お前がまだまだそれ程でもない時、お前が路上ライブをやっていた所を、丁度岩沢と一緒に通りかかった事があるんだ」

 ひさ子先輩は語り始める。

 あの頃の私はまだまだギターの弦を満足に弾けない頃で、毎日練習し、少しでもまともに弾けるように悪戦苦闘していた時期だった。

 練習をしては、たまに路上ライブをやってみる。そうして私は戦線の任務の合間に、歌やギターの練習を重ねてきた。

 勿論、私は生前に音楽の経験は微塵もない。楽器さえ触った事がなかった。テレビの向こう側でしか見た事がなかった事を独学でやろうとしているのだ。その始まりは想像以上に大変だったけど、私の身体と心に、直接訴えかける生きた音が私にきっかけを与えてくれた。

 初めての生ライブ―――大勢の人たちの前で、力一杯に弾きながら歌う姿を見て、私は生きた音に初めて触れて、虜になってしまった。

 あの生きた音を、今度は自分自身が奏でられるようになりたい。そんな決意が、いつの間にか私の中にあったのだ。

 「路上ライブをやっていたお前……と言っても、あの時のお前の歌は確かに下手だった……ギターも満足に弾けてない。 まともに音楽をやるにはまだまだ時間がかかるだろうなって思った。 でも、岩沢はあたしとは違う事を言ったんだ」

 ひさ子先輩の言葉が、紡がれる。それは岩沢さんから私への言葉だった―――

 「『良い音だね』ってな」

 「……………」

 「それを聞いたあたしは、つい耳を疑ったね」

 「あはは、ひどいですねひさ子先輩」

 ひさ子先輩の言葉に、関根さんが面白いと言う風に笑う。

 「でも、岩沢は全然ふざけた感じじゃない様子であたしに言ったんだ。 『あの娘はその内、私をも超す奴になるかもしれない』って……でも当時のあたしはそんな事、全然信じられなかった。 ちょっと言い過ぎだろって言ってやったら、あいつは言ったんだ。 『誰がどうなるか、なんて事は誰にもわからない』ってな」

 「……………」

 「最初はみんな、出来ないのは当たり前なんだ。 岩沢もそうやって昇りつめた……だから、岩沢はお前に、そういう事を言ったのかもしれないな。 そしてお前は、岩沢の言った通り、ここまで成長して見せた。 正直、驚いてる」

 そう言って、ひさ子先輩はにっと白い歯を見せる。私はただ、呆然とひさ子先輩の言葉を聞くしかない。

 岩沢さんの言葉―――

 私の“音”が、岩沢さんに認められていた。

 たったそれだけの岩沢さんの言葉によって、今までの私が報われていくようにも感じられた。

 「……私……もっと、皆さんと弾きたいです……いつか岩沢さんとも……やりたいです……」

 そう言う私の瞳からは、いつの間にか涙がこぼれていた。

 それは止め処なく流れていく。

 しかしそれを、茶化す人はいなかった。

 三人とも、優しい表情を私に向けてくれている。

 私はぼろぼろと涙をこぼすしかない。でも、誰もそれを指摘したりするような事を言わなかった。

 「……岩沢は、ここにいるよ」

 ひさ子先輩がとん、と自分の胸を叩く。

 涙で目を濡らした私が見たものは、自分の胸に拳を当てるひさ子先輩たちだった。

 私はそれらを眺めると、ぐしぐしと袖で自分の濡れた目を拭う。そして、私も胸に、拳を当てた。

 私たちの中に、岩沢さんはいる―――

 ガルデモは、共に在る。

 私たちの視線が、誰からともなく一つのギターへと向けられる。それは岩沢さんが最後の瞬間まで弾いていたもの―――

 それも一緒に交え、私たちは各々の楽器を持って、演奏を始めた。

 「ガルデモ最後の曲だ」

 そう、それがガルデモ最後の曲―――

 四人の―――いや、五人の演奏が始まる。

 入江さんがドラムを軽快に、時には重く叩き、関根さんがスピードのある響きを弾き、ひさ子先輩が私を引いてくれるような、時に背を押してくれるような弾きを紡ぎ、私はギターの弦を弾きながら歌を歌う。

 そして私の隣には―――一緒に歌う、岩沢さんが。

 ガルデモは―――五人で一つ。

 曲の最後に近付いていく。正にあっという間だった。だが、それぞれその時間を惜しむかのように、じっくりと演奏を染み込ませていく。

 演奏の終わりを締めくくる場面に、最後の“音”を響かせる。

 そして―――

 「……あはっ、こんなに気持ちが良い演奏、初めてかもなぁー……」

 「うん……文化祭みたいで、今まで楽しかったね……」

 視線を向けると―――そこには既に、二人の姿はなかった。

 ベースギターと、ドラムを残して。

 「……解散なんて言ったけどさ」

 自分のリードギターをそっと置いたひさ子先輩が、私に言葉を投げかける。

 「演奏してて、ガルデモはまだまだ無くならないって思ったよ。 あたしたちは、これからもずっと弾き続けるんだからな」

 「はい……」

 「……だから、次は岩沢とユイのダブルボーカルでやろうぜ。 お前らなら、良いコンビだ」

 そう言って、ひさ子先輩は笑った。そして手のひらを掲げると―――

 「ガルデモは永遠に不滅だ」

 「―――はいっ!」

 私の手と、ひさ子先輩の手が、ぱぁんっ!と良い音を立てて交わされた。

 そして―――最後に親指を立てて見せたひさ子先輩も、私の前から去っていった。

 「……………」

 私の目の前には、三つの楽器が、三人の位置に佇んでいる。

 そして私は自分の位置に―――ギターを置いた。

 ギターをそっと撫で、私はすっくと立ち上がると、思い切り声をあげて背中を折った。

 「今まで、ありがとうございましたっ!」

 教室に響くような声で、私は別れの言葉を捧げる。そんな私の前には、五人の楽器がそれぞれの位置に置かれているだけだった。

 「……………」

 じっとその場に立ち尽くしていた私の耳に、何かをとんとんと叩くような音が聞こえた。その方向へ振り返ってみると、開いた教室の扉に背を預けるように、日向先輩がそこにいた。

 「先輩……」

 「……済んだのか?」

 「……はい」

 「……そっか。 こっちも、ほとんど行っちまった」

 言いながら、日向先輩が私のそばに歩み寄る。

 立ち尽くす私のそばに、日向先輩はしばらく無言で立って、目の前にある五つの楽器を見詰めていた。

 「……先輩」

 「おう、何だ」

 「先輩、私と結婚してくれるって言いましたよね」

 「……ああ。 それがどうした?」

 突然すぎて、思わず慌ててしまいそうになった日向先輩だったけど、必死に冷静になろうとしている先輩を見て、私はちょっとだけ笑ってしまった。

 「必ず、してくださいね」

 「ユイ……?」

 私は並べられた五つの楽器を眺めたまま、言葉を紡ぐ。

 「世界のどこにいても、私がたとえまた動けない身体だったとしても、私の事を必ず見つけてください。 そして、必ず私をまた好きになってください。 で、結婚しましょう」

 「で、ってお前……」

 「それで、もし私が今みたいに自由に身体を動かせたとしたら、覚悟しておいてください。 私はどこまでも、先輩を追いかけますので」

 たとえ60億分の1の確率だったとしても―――私の方からも先輩を捜してみせる。

 お互いに世界のどこかで出会って、一緒になって見せる。

 その時は、今度こそ―――

 「私とずっと、一緒に―――」

 私の頭が、先輩の手に触れられる。

 その手がとても大きくて、暖かい事にちょっと驚いてしまう。

 だから、私は不意に先輩の方を振り向いてしまった。そして、触れてしまった。

 私の唇が、柔らかくてぽっとするような暖かさに。

 先輩の唇と、私の唇がぴったりと重なる。

 そっと離した唇には、まだ少しだけ感触が残っていたけど―――それより先に、日向先輩の真剣な優しい顔が、再び私の方に近付いて来て、そして私のおでこと先輩のおでこが、こつんと当たる。

 「約束する。 俺は必ずお前を捜し出して―――結婚してやんよ」

 「……先輩ッ」

 また、涙がこぼれそうだった。

 でも、心はとても心地良かった。

 わかっているはずなのに、何だろう―――と問いかけてしまいたくなりそうな気持ちの中で、私は暖かい湯の中に溶け込んでいくような感覚に身を投じていく。

 額を触れ合わせる先輩との距離は、とても近かった。

 それがとても嬉しくて―――

 私は、この世界から、旅立つ一歩を踏み出した。



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EPISODE.76 Graduation

 影との戦いが終わってから、戦線のほとんどのメンバーが旅立っていった。残っているのは、俺や奏、沙耶たち、そして保健室で眠るゆりを含めて六人だけ。あれだけ居た戦線も、随分と少なくなっていた。だが、それは皆が無事に未練を断って行けたと言う事だ。

 俺たちが見守る中、ゆりが保健室で目覚めた時、既に影との戦いから三日が経っていた。

 「ここは……どこ……?」

 ゆりは上半身をゆっくりと起き上がらせながら、俺たちに訊ねる。

 「保健室だ」

 俺の答えに、ゆりがきょとんとなる。

 「保健室……?」

 ゆりは俺たちを見て、更なる疑問を口にする。

 「あなたたち、どうしてまだここにいるの……?」

 どうやらゆりは俺たちが先に行くのかと勘違いしていたらしい。しかし、俺たちがゆりを一人だけ残していくなんて真似はするはずがなかった。

 「……無理しちゃ駄目」

 「大丈夫よ、かなでちゃん」

 ゆりの身体を気遣う奏の言葉に、ゆりも優しく言葉を返す。

 「まぁ、ゆりっぺにしても大変そうだったらしいからな」

 「よくそんなものでリーダーが務まっていたものだな?」

 「あなたたちまで……一体何してるのよ?」

 日向や直井が居る事にも、ゆりは驚いていた。

 「影はもういないんじゃないの……? なら、邪魔をするものはもういないはず……」

 「ええ、わかっているわ」

 ゆりの疑問に、沙耶がクールに微笑む。

 「だったら……」

 「まだ、お前が残ってるじゃないか」

 俺が当たり前のように言うと、ゆりはえっと声をあげる。まだ驚きを隠せないゆりに、俺はもう一度、念を押すように同じ言葉を繰り返す。

 「お前が残ってる」

 「……ッ! あ、あたし……?」

 そこでようやく、ゆりは口を開いた。

 「あ、あはは……そ、そっか……何て、言うんだろう……」

 そして口端を微妙に引きつらせながら乾いた笑いを漏らすと、もじもじと手で布団のシーツの端を掴んで弄ぶ。

 「何だよ……?」

 そんなゆりの様子が少しだけおかしくて、俺はつい問いかけてしまう。

 だが、その疑問に代わりに答えたのは奏だった。

 「多分だけど……もうゆりの抱えていた葛藤は溶けている……」

 「えッ!?」

 「……ッ!」

 奏の言葉に俺たちは思わず声をあげて驚き、ゆりはぎくりと肩を震わせてシーツで顔を隠した。

 「そ、そうなのか……? ゆり……」

 「へ…ッ?! そ、それは……その……ッ!」

 頬を朱色に染めて動揺するゆりに、直井が不敵な笑みを浮かべる。

 「よし、僕が催眠術で吐かせ―――」

 「―――やめろごらぁぁぁぁぁ……ッッ!!!」

 そう言って直井が近付いた途端に、ゆりが物凄い剣幕で布団のシーツを直井の方に放り投げた。ゆりによって投げ出されたシーツは見事に直井の身体をすっぽりと覆い隠してしまった。

 俺たちはそのゆりの予想外の反応に、ただ驚くしかない。

 「――と、嫌がると言う事は……的中」

 だが、その反応を見て逸早く察した日向は、疑いの目をゆりに向ける。

 「へ……? いや、そんな事はないわ…ッ! ほら、あたしリーダーなのに……そんな簡単に解けちゃってたら……良い笑い草じゃないッ! ねえ……?」

 両手であわあわと動かしながら、慌てて口を開くゆりの姿はますます怪しかった。

 「ふ……じゃあ催眠術でブフゥッ?!」

 シーツを引っ張り、再び赤く光らせた瞳を露にさせた直井だったが、間髪入れずにその顔面に枕を投げつけられる。

 「そうよ、解けたわよッ! 悪いかぁぁぁぁッッ!!」

 「……あ、認めたわ」

 「ッ!」

 沙耶がそう言うと、ゆりは遂に黙り込んだ。

 そして観念したのか、ゆりはベッドから足を投げ出してぷらぷらさせると、小さく笑って口を開いた。

 「かなでちゃん……意地悪なんだ……」

 そう言うゆりの口調は、やんわりと軽くて優しかった。

 「ゆりが天の邪鬼なだけ……」

 言葉を返す奏も儚い声で優しく呟く。

 「あなた、言うのね……」

 ゆりがクスリと笑った。

 「でも……なんとなく嬉しいな……」

 「何が……?」

 ぷらぷらと揺らした足を見詰めながら呟いたゆりに、奏が首を傾げながら訊ねる。

 「“ゆり”って、呼んでくれて……」

 「どうして……?」

 「だって、友達みたいじゃない……?」

 「友達……」

 ゆりが紡いだ言葉、その意味を、その響きを確認するように、奏はその言葉を自分の口で呟いてみる。そしてその言葉の意味を理解すると、奏は小さく微笑んで―――

 「……そうね」

 優しく、嬉しそうに、同意の言葉を漏らした。

 様々な誤解と、長い戦いの過程に積み重ねられてきた敵対心、その二人のすれ違っていた関係が遂に解消された瞬間だった。二人はこの世界で、どれだけの長い時間の中で、敵同士で戦い合ったのだろう。それは俺の想像では計り知れないものが、様々な思いと共に秘められているのかもしれない。しかし、そんな事は、今はどうでも良かった。それは最早、二人にとっては過去の話であり、これからの二人の関係は確かに、ようやく、繋がる事が出来たのだから。

 「友達、か……」

 その傍らで、沙耶がぽつりと呟いていたのを、俺は聞き漏らさなかった。

 沙耶にも、沙耶なりの思いがあるのかもしれない。

 だが、俺はそこを無理に追求する事はしなかった。

 「……あたし、ようやくその言葉の意味、わかった気がする」

 沙耶は二人を見詰めてから、俺の方に振り向いてそう言った。

 俺は沙耶の言葉に、「そうか」と言うだけだった。

 沙耶の言葉の意味、それを俺は理解する必要はない。沙耶の中で何かが解決したのなら、俺はそれをただ喜べば良いだけだから。自分の中で何かが解消されると言うのは、この世界から旅立てる一つの要素でもあるから。

 「……じゃあ、準備は無駄にはならなかったみたいだな」

 「ああ」

 「準備って……何か始まるの?」

 日向と俺の会話に、ゆりが問いかける。

 「最後にしたい事があるんだ。 奏、やった事ないんだってさ……」

 それは、奏が叶えられなかった、出来なかった事の一つだった。

 「……え? 何を……?」

 ゆりのきょとんとした顔に、俺たちはそれぞれの笑顔を浮かべた。

 

 

 保健室から出た俺たちは、ゆりを加えてある場所に向かっていた。誰もいない静かな校舎の外を、俺たち六人が歩いている。その先頭を、奏が楽しそうに身を弾ませながら歩を刻んでいた。

 その途中で、俺はゆりに他のメンバーが旅立って行った事、高松がNPCから人間に戻れた事などを報告した。それらを聞いていたゆりは、嬉しさと安堵が同居したような表情であった。

 俺たちが向かっている先―――そこには、あるサプライズが待っている。

 それは俺たちが準備したもの。

 それは奏が望んでいたもの。

 当の奏は、普段では想像もできない程まで、楽しそうな様子を俺たちに見せていた。その姿はまるで奏を幼い頃の時間まで戻したような感じだった。

 そんな奏の方から、空気に乗って聞き覚えのある鼻歌が聴こえてくる。

 「……その歌、何だっけ? さっき、作業している時も口ずさんでいたよな」

 「……何だっけ」

 俺は確かにどこかで聴いた覚えがあるものだったが、奏も完全には覚えていないみたいだった。

 だが、それを聞いた沙耶がすぐに正解を答えていた。

 「それ、岩沢さんが最後に歌った歌よ。 My song」

 「ああ、あの曲か……」

 俺は沙耶に言われて、ようやく全てを思い出していた。

 沙耶は岩沢の最後を目の前で見届け、そしてそれを自分の中で引きずっていた事もあったから、ずっと覚えていたのだろう。

 しかし、そう答えた沙耶の声色に、もうそんな迷いはない。

 「全校放送で流れたやつだな……全く……」

 当時は直井も生徒会役員の一人だったから、あの時は直井も何か苦労をしていたのかもしれない。

 「良い曲よね……」

 「うん…ッ」

 ゆりの言葉に、奏ははっきりと頷いていた。

 

 

 そうして、奏の鼻歌が紡がれる中で辿り着いた先が―――

 「体育館?」

 その場所を見上げながら、ゆりが呟く。

 「ああ」

 そして、俺たちは体育館に入っていく。一足、体育館に踏み入れてしまえば、後はすぐに視界に入る光景に目を奪われる事だろう。

 「わぁ……」

 その通りに、ゆりは目の前の光景に口を開けていた。

 体育館のステージの上には、“死んだ世界戦線 卒業式”と書かれた看板が装飾と共に備え付けられており、その下には戦線のマークが描かれた旗が大きく垂れ下がっている。

 ステージの前には六人分の椅子が並べられており、広い体育館の中で、その腰が据えられるのをじっと待っているかのようだ。

 その光景は正しく―――卒業式そのものだった。

 「俺たちで作ったんだ。 文字は奏だ」

 「そうなんだ……」

 奏が書いた“死んだ世界戦線 卒業式”の丁寧な文字を見詰めるゆり。

 その隣に、奏が歩み寄った。

 「かなでちゃん、卒業式した事なかったんだ……」

 「面白いのかなって……」

 生前に卒業式をした事がなかったと言う奏の事情もまた、奏自身の人生に絡みついたものだった。

 しかしそれが今、俺たちの手で叶えられる。

 「面白くはねえよ」

 奏の言葉に、日向がそんなことはないと言う風に応える。

 「でも、字を書いている時は楽しそうだったけどな」

 俺は、奏があの字を書いている時に見せた表情を思い出す。顔に墨を付けながらも、丁寧に字を書いていく奏の表情は本当に楽しそうに見えた。

 「女子は大抵泣くんだぜぃ」

 日向が変な偏見を口にする。

 「ふ、これだから女は」

 それに便乗するように、直井が軽く鼻で笑う。

 「ちなみに、あたしもないわ」

 「えっ? マジかよ……ッ!?」

 何故か沙耶が自慢げにそう言った。日向たちが初耳と言わんばかりに驚きを見せる。

 日向たちの話を聞いて、ふぅん…と想像を膨らませる奏に、俺は言葉を投げかける。

 「それじゃあ、始めるか」

 「へッ? 今から……ッ!?」

 俺の言葉に、ゆりが驚愕する。

 「何のために着替えたんだよ」

 「いや……その……本当に消えるのかなって思って……心の準備が……」

 そう言って、手をもじもじとさせるゆり。

 「……何だ、それでも元リーダーか?」

 「な、何よ……ッ!」

 「お前、みんなが消えてからリーダーっぽくなくなったよな」

 「へ? そ、そう……?」

 直井や俺に言われて、ゆりは驚くを隠す暇がないようだった。

 更に続くように日向も言う。

 「確かに何か変わったな……」

 「へっ? どう?」

 自分の変化が気になったのか、ゆりが訊ねる。その問いに、俺は考えた。

 「そうだな……何か、女の子っぽくなった」

 「そ、それって喜べ良いの……? 怒れば良いの……?」

 俺の何気なく発した言葉に、ゆりは驚くと戸惑いの反応を見せ始める。そんな事を言われ慣れていないような、そんな感覚だった。

 しかしそんなゆりの反応も又、とても女の子らしかった。

 ゆりを見て、日向がニヤリと笑って言う。

 「戦い終えたらそんな事もわからない、無垢な女の子になっちまったんだなぁ。 ゆりっぺも可愛い所あるじゃんっ」

 「え……ッ!?」

 日向の言葉に、ゆりは更に動揺する。

 頬を朱色に染め、言葉にならない声をあげてあわあわと動揺するゆりの姿は、見ていてかなり新鮮だった。

 そして動揺したゆりがそのまま日向の前に突っかかり、日向の頭をバシバシと叩く光景は、見ていて面白いものだった。

 「ふふ……ゆりは面白いね」

 奏もそんな二人を見て、面白いと言う風に、くすくすと笑っていた。

 「……よし、始めるぞッ!」

 場の空気も柔らかくなった所で、俺は始まりの号令を掛けるのだった。

 

 

 「―――開式の辞! これより、死んだ世界で戦ってきた、死んだ世界戦線の卒業式を執り行いますッ!」

 並べられたパイプ椅子の前で、俺たち六人は整然と並び立ち、戦線マークの垂れ幕を見詰める。俺の開式の一言から、俺たちの卒業式は始まった。

 「では、戦歌斉唱ッ!」

 「戦歌ッ? 何それッ!?」

 「死んだ世界戦線の歌だよ。 校歌の代わりみたいなもの」

 「あたし、そんなの作らせた覚え無いわよッ!?」

 ゆりの驚き様と言葉は当然のものだった。何せ、その戦歌と言うのは俺たちがこのために勝手に作ったものだからだ。

 正確には、作ったのは―――

 「作ったのは、奏だけどな」

 そう、卒業式をやりたいと言った、奏だった。

 俺の言葉を聞いて、ゆりが奏の方に言い掛ける。

 「あなたが作ったのッ?!」

 ゆりの言葉に、奏が頷く。

 「―――って、そもそもあなた、戦線じゃないじゃないッ!」

 「良いじゃねえか。 はい、歌詞回して」

 細かい事は気にするなと言う風に、俺は歌詞カードを他の皆に回し始める。

 「メロディは?」

 配布された歌詞カードを受け取ったゆりが問いかける。

 俺は応えた。

 「校歌って大体似たようなものじゃん? 適当に歌っていたら合うだろ」

 我ながらアバウトかもしれないが、俺はそれでも十分だと思っていた。

 特にこのメンバーならば、きっと。

 「では―――」

 俺の合図で、皆の口に息が吸い込まれる。

 「せーのっ」

 そして―――俺たちの合唱が始まる。

 これが、俺たち戦線の戦歌だ。

 

 お空の死んだ世界から

 お送りします お気楽ナンバー

 死ぬまでに 食っとけ

 麻婆豆腐

 ああ 麻婆豆腐

 麻婆豆腐

 

 俺たち六人の歌声が重なり、織り成されるメロディ。それは今まで共に戦い、過ごしてきた俺たちの繋がれた心、俺たち戦線を表したような曲。

 俺たちの思いが、再び一つになった瞬間―――

 「―――って、何だよこの歌詞ッ!? 先に誰かチェックしとけよ、歌っちまっただろうッ?!」

 どうやら日向は奏が考えた歌詞に不満があるらしく、遠慮なく文句をぶちまけていた。

 そんな日向に対して、奏が小動物の如くゆりの背後に身を隠す。

 それを見たゆりが、奏を庇うように口を開く。

 「まぁ、かなでちゃんなりに一生懸命真剣に考えたんだから。 そんなに言う事ないじゃない、ねぇ?」

 「……………」

 ゆりの言葉に、奏がコクコクと頷いていた。

 「真剣にって……お気楽ナンバーって堂々と書いてあるんだが」

 それに対し、歌詞に目を落とした直井も呆れ気味にツッコミを入れる。

 今度は、日向や直井の文句を聞いた沙耶が溜息を吐く。

 「はぁ……あなたたち、女心って言うものを何一つ理解してないわ。 最低ね」

 「いや、この歌詞のどこに女心があるんだよ……」

 「黙りなさい青い髪のくせにッ!!」

 「お前は金髪だろうがッ!?」

 「まぁまぁお前ら……でもさ、この歌詞……」

 歌詞を見詰め、俺は思った事を言う。お互いに睨み合っていた沙耶と日向が、俺の言葉に視線を向けた。

 「奏の気持ちが詰まっているような気がするよ……」

 素直に、俺はそう漏らした。

 俺の意見に、日向は呆れて問い返す。

 「どこにだよ?」

 「頭からケツまで」

 「……………」

 俺の言葉を聞いた日向が、再び歌詞カードを見詰める。そして俺の言葉の意味を再確認したのか、笑みを漏らして言った。

 「……そうかもな。はは…ッ」

 日向も納得したように笑った姿を見て、ゆりは「やったね」と奏に微笑みかける。奏も「うん」と嬉しそうに頷いていた。

 もうすっかり、仲の良い友達のような光景だった。

 「次は?」

 そんな光景を眺めていた俺に、ゆりが声を掛ける。

 「次は……卒業証書授与ッ!」

 「あるの…ッ?」

 ゆりはまた驚いていたが、卒業式に卒業証書は欠かせないものだ。

 「作ったんだよ。 また主に、奏がな」

 俺がそう言って奏に言葉を振ると、奏はえへん、と自慢げに胸を張った。

 「で、授与する校長は?」

 「―――俺だよッ!」

 ゆりの問いに対し、応えるように声をあげた日向が、いつの間にかステージの上に立っていた。主にカツラやヘンテコな鼻付き眼鏡を付けて。

 そんな日向の格好を見たゆりは―――

 「うわぁ……」

 思い切り引いていた。

 「くそぉッ! ジャンケンで負けたんだよ、文句あっかぁッ?!」

 日向がヤケになって声をあげたが、それに構う奴は一人もいなかった。

 「ふ、貴様には適任だ」

 日向の姿に、直井が嘲笑するように言った。

 「よし、始めようぜッ!」

 そして卒業証書授与の項目に移り変わる。校長役の日向以外の五人が、椅子の方に戻って腰を下ろす。日向だけがステージ上に立ち、この場にいる全員分の卒業証書が揃えられた壇を前にして、卒業証書授与の準備が整えられる。

 「卒業証書、授与。 では……立華奏ッ!」

 「はい…ッ」

 名前を呼ばれ、奏は大きく声をあげて返事をし、椅子から立ち上がる。

 そして毅然とした足取りでステージ上に昇り、卒業証書を持って待つ日向の前に向かう。

 皆が見守る中、校長役の日向から卒業証書を受け取った奏は、ステージ上から降りてくる。

 卒業証書を持った奏の表情は、晴れやかだった。

 俺はそんな奏の表情を見届けると、「次!」と声をあげる。

 「仲村ゆりッ!」

 「はいッ!」

 今度はゆりが応え、立ち上がる。

 ゆりもまた毅然とした足取りでステージ上に上がる。今まで多くの仲間たちを引き連れてきたゆりの足は、相変わらず勇ましかった。そのはっきりとした足取りは、それが報われる瞬間に近付いていく。

 そして日向の前に立つと、日向から卒業証書を譲り受ける。

 日向から卒業証書を受け取った直後、ゆりは日向を目の前に、言う。

 「それ、似合ってるわよ」

 「……ほっとけ」

 そのまま、ゆりは日向の前から立ち去るようにステージから降りていく。

 その間際、卒業証書に目を落としたゆりが、ふっと優しく笑った。

 「……馬鹿」

 目を潤ませて呟いたその口調は、優しいお姉さんのようであった。

 ゆりが見た卒業証書の紙面には、ゆりを労うのに十分な言葉が並べられていた。

 「……次、直井文人ッ!」

 「はいっ」

 次に、沙耶の隣から直井が立ち上がり、ステージ上へと上がった。

 先の二人とは違い、直井は堂々とした態度で日向の前に立った。

 「我を讃えよ」

 「はぁっ??」

 偉そうに言い放った直井の言葉に、日向が呆れた風に「…ったく」と溜息を吐く。

 だが、日向は言った。

 「御勤め、ご苦労様でしたッ!」

 「……ふ」

 相変わらず鼻で笑う直井だったが、その時だけは、ただ嘲笑しているだけではないような笑みだった。

 日向から差し出された卒業証書を片手で受け取ると、直井はそのままステージ上から立ち去った。

 「次、朱鷺戸沙耶ッ!」

 「……はいっ!」

 俺の隣から、沙耶がはっきりとした返事の声をあげて、椅子から腰を上げる。川のように流れる金色の長髪を揺らしながら、沙耶は軽い足取りでステージへと昇った。

 沙耶も日向から卒業証書を受け取り、自分の席へと戻ってくる。

 最後は俺の番だ。俺は自分の名前をあげようとすると―――

 「次、音無結弦ッ!」

 「ッ!」

 席に戻りかけていた沙耶が、俺の名前を呼んでいた。俺は思わず驚いて、沙耶の方に視線を向ける。

 沙耶は笑みを浮かべて、さっさと行きなさいよと言う風に俺を促した。

 「……はいッ!」

 俺は頷くと、沙耶たちに見送られる中、ステージ上へと向かった。

 卒業証書を日向から受け取ると、俺は目の前の日向に向かって視線を上げる。

 「それ、取れよ」

 「へ? じゃあ……」

 俺に言われて、日向は変装道具を取り外す。

 それを見届けた俺は、すぐさま声をあげる。

 「日向秀樹ッ!」

 「ッ!?」

 突然名前を呼ばれて驚いた様子を見せていた日向だったが、状況を理解して、「はいっ!」と慌てて返事を返していた。

 そんな日向に、俺はそっと卒業証書を差し出す。

 「な、何だよ……参ったな……」

 俺から差し出された卒業証書を見落として、日向が照れ臭そうに笑う。

 「……ありがとな」

 「こちらこそ。 すげえ世話になった」

 そして、俺は日向と握手を交わす。

 それは強い握手だった。俺と日向の、男と男の友情の証だった。

 この世界に来て間もない俺に、色々と教えてくれた日向。こいつのムードメーカーらしさに、俺はどれ程救われただろうか。

 それはこの握手だけで、十分過ぎる程感じ取れるものだった。

 

 

 全員に卒業証書が授与されると、今度は答辞に移り変わる。全員が椅子に座り、静寂の時の中でじっと身を委ね続ける。

 そして、俺は戦線マークが描かれた垂れ幕を見詰めると、意を決して、声をあげた。

 「卒業生代表、答辞ッ!」

 そう言って、俺は一人だけ椅子から腰を上げる。静まった空気の下、皆の視線が俺に集まる。俺は声を通すために、一旦咳払いをし、喉を整えてから口を開く。

 「振り返ると、色んな事がありました―――」

 俺は頭の中に書かれた答辞の句を、読み始める。

 「この学校で初めて出会ったのは、仲村ゆりさんでした。 いきなり、『死んだのよ』と説明されました」

 それが、全ての始まりだった。俺の、この世界での日常の始まり。

 目覚めた俺の目の前に、真っ先に現れた、銃を構えた一人の女の子。

 「そして、この死後の世界に残っている人たちは、皆一様に、自分が生きてきた人生を受け入れられず、神に抗っている事を知りました。 わたしも、その一員として加わりました」

 武器を手に戦う者たち。

 そして、その輪の中に加わった自分。

 始まった、非日常の毎日。

 「しかし、わたしは失っていた記憶を取り戻す事により、自分の人生を受け入れる事が出来ました」

 戦いの最中で出会った沙耶とパートナーを組み、色々な事があって、戦いも何度もあった。

 その中を潜り抜け、取り戻した自分の記憶。

 「それは……かけがえのない想いでした」

 報われた人生、自分の叶えたかったと言う想いが満たされていた記憶。それらを知る事が出来た。

 「それをみんなにも、感じてほしいと思い始めました。 ずっと抗ってきた彼らです。 それは大変、難しい事です……でも、彼らは助け合う事、信じ合う事が出来たんです」

 俺は彼らの姿を、この目でずっと見てきた。

 仲間と共に過ごし、戦い、信じ合ってきた姿を。

 確かに抗うばかりの、戦いの日々だった。でもその過程で、彼らの間には既にかけがえのないものが生まれていたのだ。

 「仲村ゆりさんを中心にして出来上がった戦線は、そんな人たちの集まりになっていたんです。 その力を勇気に、みんなは、受け入れ始めました……」

 そしてその過程で培われてきた力が、みんなの背中を強く押していった。

 みんなの足を、前に進ませるために。

 「みんな、最後は前を見て、立ち去っていきました……」

 そうして、みんなは無事に前に向かって立ち去る事が出来た。

 後は―――俺たちだけ。

 「ここに残る六名も、今日を以て卒業します。 一緒に過ごした仲間の顔は忘れてしまっても、この魂に刻み合った記憶は忘れません……」

 俺たちはこの世界から卒業していく。

 それは、みんなとの別れでもある。

 だけど、それは決して悲しい事ではないはずだ。

 正直、身体の奥底からこみ上げてくるものがあるかもしれない。

 でも、俺は必ず信じる。そして断言する。

 この世界で過ごした日々は、魂に刻まれ、決して忘れる事は無いと言う事を。

 この世界で過ごした俺たちの日々は、確かに現実のものだったのだから。

 「みんなと過ごせて、本当に良かったです……ありがとうございました……ッ」

 俺は頭を下げ、そして顔を上げる。

 最後まで、俺は卒業生代表としてしっかりと言わなければいけないから。

 「―――卒業生代表、音無結弦ッ!」

 俺の答辞が締めくくられる。静まった空気から、皆の拍手の音が鳴り始めた。

 「……全員、起立!」

 ガタ、と音を立てて、全員が椅子から腰を上げる。

 「仰げば尊し、斉唱ッ!」

 皆の息を吸い込む音が、一斉に聞こえる。

 そして、卒業の曲が、静まった体育館に大きく響くように、紡がれた。

 途中で直井や日向が早いだの遅いだのと揉め出し、ぐだぐだな感じにもなったが、それはそれで俺たちらしい所だった。

 だから、構わずに俺たちは歌を歌う。再び斉唱を始め、卒業の気分を共有し合う。

 歌い終わると、奏やゆりがくすくすと笑い出す。

 当人の直井は照れ臭そうにそっぽを向き、日向も吹き出すように笑い、俺も沙耶と顔を見合わせて、つられるように笑い始める。

 そうして、俺たちの笑い声が体育館に響いていた。笑い合う仲間たち。最後まで俺たちらしくて、本当に可笑しかった。

 「―――閉式の辞。 これを以て、死んだ世界戦線卒業式を閉式と致します。 卒業生、退場ッ!」

 そして俺の言葉によって、卒業式は無事に閉幕した。しかし、卒業式のステージを前に立った俺たちは、誰一人として体育館から出る事もなく、束の間の静寂が続く事になった。

 



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EPISODE.77 Departure

 俺たち六人の卒業式は無事に閉幕した。証書の授与、答辞、斉唱……卒業までの道筋を辿り終えた卒業生が次に進む先は、この場からの“退場”だ。

 束の間の静寂が続いた後、直井が相変わらない「ふん」と鼻で笑うと、一人前へ出た。

 「女の泣き顔なんて見たくない。 先に行く」

 帽子の鍔を掴み、目を隠した直井が俺の前に歩み寄る。そして俺の目の前に立ち止まると、直井はゆっくりとその手に掴んだ帽子を取った。

 俺の前に顔を出した直井の表情は―――泣いていた。

 「………ッ」

 目に涙を溜めて、ぼろぼろと零し、いつも笑っていた鼻をすすらせる。

 「……お前が泣いてんじゃねえかよ」

 それを見た日向が、軽く笑うようにして言った。

 しかし直井はいつものように日向に対して罵声を浴びせる事もなく、ただその感情のままに、素直に涙を零しながら俺の方を見据えたままだった。

 「……音無さん」

 直井が、震える声で口を開く。

 「音無さんに……ッ、出会えてなかったら……僕は、……ッずっと報われなくて……でも、僕は……ッ!」

 涙を零し、震えながらも語る直井の言葉を、俺は黙って聞いていた。ほとんど霞みがかっていったけど、その想いは確かに俺のもとに伝わってきた。

 袖で涙に濡れた目元を拭い、真っ直ぐな瞳を向けて直井は言う。

 「……もう迷いません。 ありがとうございました……ッ!」

 そう言って、直井は目に涙を浮かばせながら頭を下げた。

 俺は直井に対して特別な事をしたとは思っていない。

 直井は直井なりに、この世界で長く過ごしてきたのだ。奏と同じように、生徒会役員として学園生活に溶け込みながらも、消えずに留まり続けたのは、直井自身の想いがあってこそだ。

 そしてここまでやって来れたのも、直井自身。

 俺はお礼を言われるような事はしていない。

 でも、俺はただ、直井の言葉を受け止めた。

 「ああ……もう、行け……」

 頑張ってきただろう、直井の頭を出来るだけ優しく撫でて、肩をぽんぽんと叩いてやりながら俺は言った。

 そして―――直井は微かに口元に笑みを浮かべた。

 「……ありがとう、ございます……ッ」

 最後に言葉を紡いでから、直井は涙の雫を残して、そのまま俺たちの前から立ち去っていった。

 遂にこの六人から、一人目が卒業していった。

 直井がいた場所を見詰めたまま、日向のぽつりと漏れた言葉を聞く。

 「行ったか……」

 直井とよく衝突したり、罵られたりした日向だが、立ち去っていった直井を優しく見送っていた。そして「さて…」と呟きながら、今度は俺たちに視線を向ける。

 「次は誰が泣く番だ?」

 「泣きなんてしないわよ」

 それに応えたのは、ゆりだった。

 ゆりはふぅ、と小さい溜息を吐くと、隣に立つ奏の方に振り返った。

 「かなでちゃん」

 「……?」

 ゆりに呼ばれた奏が、ゆりと正面を向き合う。

 「……争ってばかりで、ごめんね」

 「……………」

 ゆりはそう呟きながら、奏の方にゆっくりと歩み寄っていく。

 「どうしてもっと早く友達になれなかったのかな……本当に、ごめんね……」

 「ううん……」

 誤解が誤解を呼び、それが積み重なり、長く敵対してきた二人。

 それが今、完全に解かれた瞬間だった。申し訳なさそうに言うゆり、ゆりの謝罪に首を横に振る奏。そして、そんな奏の肩にそっと手を乗せて優しく微笑みかけるゆり。

 「あたしね、長女でね……やんちゃな妹や弟を、親代わりに面倒見てきたから……かなでちゃんに色んな事、教えられたんだよ……」

 そう言葉を呟きながら、奏に向けるゆりの瞳。

 それは仲間たちを率いるリーダーと言うよりは、妹や弟たちの面倒に身を焼く優しいお姉さんのようだった。

 世間知らずの奏に、色々な事を教えるゆり。

 時に笑い合い、時に茶化し合う、二人の姿。

 そんな光景が、俺の脳裏に浮かんだ―――

 「かなでちゃん、世間知らずっぽいから……余計に心配なんだよ……」

 ゆりの瞳が、揺れる。

 「色んな事、出来たのにね……色んな事して、遊べたのにね……もっと、もっと、時間があったら良いのにね……」

 徐々に言葉を震わせ、目を伏せるゆり。

 そして奏の目の前で、顔を上げたゆりの瞳には、うっすらと涙が溜まっていた。ゆりの瞳が、まるで水面のように揺れている。

 「もう……お別れ、だね……」

 最後に、ゆりは瞳を揺らしながら言葉を紡いだ。

 そして奏も、「うん……」と、小さく言葉を返していた。

 ゆりの揺れる瞳を、共感しているような表情で。

 「……ッ」

 奏の肩に手をかけていたゆりは、ぐっと奏の肩を掴むと、そのままぐい、と奏の身体を自分に引き寄せた。ゆりに突然抱き締められた奏は、少し驚いたような反応を見せたが、すぐにゆりの背中にそっと手をかけて、互いに温もりを感じ合うように抱き締め合った。

 奏を抱き締めたゆりが、奏の耳越しにそっとお別れの言葉を囁く。

 「……さよなら、かなでちゃん……ッ」

 「うん……ッ」

 少しの間だけ、二人は互いに別れを惜しむように抱き締め合った。

 そしてどちらからともなく、二人の身体がゆっくりと離れる。

 「……じゃあねッ!」

 奏から離れ、俺たちの方に振り返ったゆりの表情は、既にどこかふっ切れた様子だった。

 「……ああ。 ありがとな、ゆり……色々世話になりまくった」

 俺たちの前から立ち去ろうとするゆりに、俺はゆりへの最後の言葉を投げる。

 「リーダー、お疲れさん…!」

 日向も、ぴっと手を差して言った。

 「ゆりっぺさん、今までありがとう。 さようなら……」

 沙耶も、微笑んでゆりに別れの言葉を捧げた。

 ゆりは俺たちの言葉を受け止めて、うん、と頷いた。

 「―――じゃ、またどこかで…ッ!」

 そして―――ゆりも、俺たちの前から、この世界から旅立って行った。

 奏のそばに、ゆりの姿はない。

 立ち去っていったゆりを見届けると、日向はあげた手を下ろして、俺の方に振り返りながら言う。

 「……次は俺だな。 順番的に言って」

 「ああ、俺でも良いぜ?」

 「何言ってるのよ、音無くん。 立華さんを置いて先に行くつもり?」

 「沙耶……」

 「その通りだ、音無。 俺が行くって」

 「……そうか」

 「ああ、俺が行くよ」

 そう言って、日向は気の優しい笑みを浮かべ、俺の方に顔を向ける。

 「……今までありがとな。 お前がいなくちゃ何も始まらなかったし、こんな終わり方もなかった。 感謝してる」

 「たまたまだよ。 よく考えたら俺、ここに来る事はなかったんだよ」

 「どういう事だ……?」

 俺の言葉に、日向が疑問を浮かべる。

 「俺はちゃんと最期には報われた人生をおくっていたんだ。 その記憶が閉ざされていたから、この世界に迷い込んで来た」

 初音と言う生きがいを失い、新たな生きがいを持って生きた俺の人生。誰かのためにこの身を捧げたい。誰かの役に立ちたい。俺の身体は、最期には俺の願いを全うした。俺の人生は、閉ざされていただけで、本当はしっかりと報われていたのだ。

 「それを思い出したから、報われた人生の気持ちをこの世界で知る事が出来た」

 「そうだったのか……」

 俺の告白に、日向が驚きの様子を見せる。

 「本当に特別な存在だったんだな、お前……」

 「……だからみんなの力になれたのも、そういうたまたまのおかげなんだよ」

 「……そっか」

 日向はフッと微笑むと、次の言葉を紡いだ。

 「まぁ、長話も何だ。 ……じゃ、行くわ」

 日向も、この世界から旅立つ一歩を踏み出す。

 「ああ。 会えたら、ユイにもよろしく」

 「おう、運は残しまくってあるはずだからな。 使いまくってくるぜぇ」

 そう言って、日向はぐっと親指を立てる。

 最後まで自分らしい日向に、俺は思わず笑みを漏らした。

 一瞬、日向は惜しむような、寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに「おっし!」と声をあげて普段の色に戻る。

 そして俺の方に歩み寄り、互いに手のひらを叩き合った。

 「―――じゃあな、親友…ッ!」

 最後にぱぁん、と手を叩き合う。

 そしてそのまま―――日向は俺たちの卒業式から退場した。

 俺の前に空白が生まれ、それはやがて空気と同化する。

 そこにはもう、誰もいなかった。

 「……………」

 俺は、自然と沙耶の方に視線が行った。そして沙耶も、俺の方に視線を向けていた。

 俺と沙耶の視線が絡み合う。

 シンと静まった体育館で、束の間の静寂が続いた。

 「……ふふ」

 ふわりと、空気が和らいだ。

 まるで肩の荷が降りたように。

 「次はあたし……と、言いたい所だけど、あたしはちょっと用があるから他の所に行くわ。 後は、適当にこの世界から出るつもりだから」

 そう言って、沙耶は踵を返して俺に背を向ける。

 華麗に流れる、金髪。

 彼女の動きはいつも機敏で、美しい。

 そのまま駆け出してしまいそうだった沙耶の背中を、俺は呼び止めていた。

 「―――沙耶ッ!」

 「…ッ?」

 きゅっと、靴の擦れる音と共に立ち止まる沙耶。

 振り返った沙耶に、俺は言葉を投げる。

 「……沙耶にも、今まで本当に世話になった。 色々とありがとな、沙耶」

 「……………」

 沙耶は目を見開いて俺の方を見ていたが、その口元をふっと柔らかく緩ませた。

 「あたしこそ、音無くんには色々と助けられたわ。 本当に、ありがとう」

 沙耶は素直にそう言い、そしてにっこりと笑った。

 

 

 ―――あたしのことは、沙耶でいいわ―――

 

 ―――いい? 音無くん。 銃を持つということは、いつ敵に撃たれても良い覚悟を持ったということなの。 自分の身は自分で守る。 これ、世界の常識ね。 他人にすがって守られるような弱虫は弱肉強食の世界では生き残れないわ!―――

 

 強い思いを持った沙耶。

 

 

 ―――ふふ……滑稽でしょ? 最後の最後でこんなしょぼくて低能なトラップに引っ掛かるなんて……おかしいでしょ? 滑稽でしょ? 笑いたければ笑いなさいよ、あーはっはっはって!―――

 

 たまにドジな所を見せたり、自虐したりする沙耶。

 

 ―――まったく、相変わらず馬鹿ばっかね……―――

 

 仲間を意識するようになった沙耶。

 

 ―――だって……あたしたちを守るために傷ついた立華さん一人を、放っておけるわけがないでしょ……?―――

 

 戦い、そして優しさを見せる沙耶。

 

 ―――これが最後の戦いになるかもしれない。 あたしのパートナーとして、ちゃんと最後まで戦い抜くと約束しなさい―――

 

 

 背中を預ける相棒。俺のパートナーだった沙耶。

 

 俺は、きっと忘れない。

 沙耶と言う娘を。沙耶と過ごした日々を。

 

 

 沙耶は髪を翻し、背を向ける。掲げられた手が、無言に別れを告げていた。

 いや、別れではない。

 俺たちは信じている。またどこかで、再び巡り会える事を。

 

 この世界に来てから大半、沙耶のパートナーとして過ごした日々。

 そんな俺のパートナーは、体育館から出て行った。

 残ったのは、俺と奏の二人だけだった。

 「ええと……どうだった、卒業式。 楽しかったか……?」

 二人しかいない空気が何だか小恥ずかしくて、最初に言葉を濁らせつつも、俺は奏に問いかけた。

 「うん。 凄く……」

 だが、奏は正直にそう言ってくれた。

 その表情に、嘘偽りは勿論見られない。

 「……でも、最後は寂しいのね」

 少しだけ寂しそうな表情を浮かべて、奏は言った。

 確かに、今までの奴らが先にいなくなって、残っているのは俺たちだけだ。

 奏がそう感じるのも仕方がない。むしろその通りだった。

 でも―――

 「でも、旅立ちだぜ? みんな、新しい人生に旅立って行ったんだ」

 それは決して、悲しい事ではない。

 「良い事だろ?」

 奏の方に歩み寄りながら、俺は言う。

 「……そうね」

 奏も微かに笑みを浮かべて、頷いてくれた。

 そう、旅立ちだ。

 俺たちはこの世界から、新たな人生へ旅立つ一歩を踏み出す。

 みんながそうしていったように、俺や奏も、沙耶も、これから後に続いて行くのだ。

 でも―――

 「……?」

 ふと過ぎらせた横顔に、奏は首を傾げていたが、俺はそんな奏にある提案を口にする。

 「……あのさ、外に出ねえ? ちょっと、風に当たりたいなと思って……」

 「……?」

 奏は俺の言葉に、微かに疑問を抱いたが、すぐにうん、と頷いてくれた。

 そして俺は、奏と一緒に外に出る。既に、外は夕日に染まっていた。そろそろ日が落ちる。この世界での一日が、終盤に差し掛かろうとしている。

 夕日はさよならの合図。だが、俺はまださよならをする気にはなれなかった。俺はこの抱く想いを奏に伝えるために、夕日に染まる空の下を歩いた。



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EPISODE.78 Angel Beats

 夕日に染まり行く空の下で、俺はグラウンドを見渡せる階段の上に立っていた。グラウンドからは、NPCの部活動に励む声が聞こえる。あの騒ぎがまるで嘘のように、すっかり元通りに修正された光景、その世界の在り様を見詰めていた俺は、意を決して、後ろにいる奏に向けて口を開く。

 「あのさ、奏……」

 振り返ると、奏は真っ直ぐに俺の方を見詰めていた。

 俺はこの想いを口に出して良いか一瞬戸惑ってしまったが、俺の言葉を静かに待つ奏を見て、言葉を繋げる。

 「……ここに、残らないか?」

 「え……?」

 さすがに奏も驚いて声をあげる。

 「何か……急に思いついちまった。 だってさ、またゆりや日向たちみたいに、報われない人生をおくって、ここに来てしまう奴がいるって事じゃないか?」

 「そうね……」

 この世界は死後の世界だ。報われない人生をおくった奴が訪れる世界。そんな奴らが、またこの世界に来てしまったら、ゆりたちのように、この世界に反発する者が現れるかもしれない。

 「そいつら、またゆりたちのようにここに居ついちまうかもしれない。 ここにずっといてさ……苦しんで、生きる事に抗い続けてしまうかもしれない」

 「そうね……」

 「でもさ…ッ! 俺たちが残っていれば、今回のように、そいつらにも生きる事の良さを伝えてさ……この世界から卒業させてやる事も出来る。 そう言う役目のために、俺はここに来たのかもしれない……」

 それは俺がここに迷い込んでしまった理由かもしれない。

 もし神様なんてのがいるとしたら―――

 こんな茶番劇のような繰り返しを、どこかで寸断させたいと思って、俺みたいな奴にその役目を任せるために、この世界に呼んだのだとしたら―――

 それなら、俺は甘んじて受け入れるべきではないだろうか。

 それは、あくまで俺の、一方的な思い違いだ。

 勝手に俺がそう思い込んでいるに過ぎない。

 「……だからさ、一緒に残らないか? 奏がいてくれたらさ……俺は、こんな世界でも、寂しくないからさ……」

 奏さえ居れば、俺はこんな世界でもずっと過ごす事が出来る。

 何故なら、俺は奏の事が―――

 「前にも言ったかもしれない。 俺はお前と一緒にいたい。 これから先も、居続けたい……」

 風に揺れた髪をなおした奏が、一つずつ段を降りて来る。

 少しだけ寂しげな奏の横顔に向けて、俺は言い続ける。

 「だって俺は……奏の事が……」

 俺の目の前で、奏が立ち止まる。

 「こんなにも……ッ」

 夕焼けに染まる奏に、俺は、想いを告げる。

 「好きだから……ッ!」

 その言葉を、想いを告げた瞬間。

 俺は咄嗟に、目の前にいた奏の身体を引き寄せていた。

 奏が愛しくて、堪らなくて、想いを言葉に変えた瞬間、俺の奏に対する想いは限界を知らないままに大きくなっていった。

 抱き寄せると、すっぽりと収まってしまった奏の小さな身体に、俺は身を寄せる。

 「好きだ……ッ」

 奏のそばで、俺はもう一度、自分の想いを告げる。

 奏の身体は、少し力を入れれば簡単に折れてしまうのではないかと思うほどに細く、小さかった。

 こんな華奢な身体で、この世界で一人で頑張ってきた奏。

 俺は何時しか、奏の事が、こんなにも愛しくなっていた。

 その想いは俺の中でどんどん大きくなっていたが、その想いを解放した瞬間、それは更に大きくなった。

 だが、奏は何も言わない―――

 「……どうして、何も言ってくれないんだ?」

 俺の言葉に、奏はぽつりと、苦しげに漏らす。

 「言いたくない……ッ」

 「どうして……」

 顔を上げた奏が、そっと呟くように言葉を紡ぐ。

 「今の想いを伝えてしまったら……私は、消えてしまうから……」

 その奏の言葉が理解できなくて。

 「どうして……」

 俺はまた、そう聞いていた。

 そして、奏は――――言う。

 「だって私は……『ありがとう』をあなたに言いに来たのだから……」

 「どういう、こと、だよ……」

 まだ、奏の言葉の意味が、はっきりと理解できない。

 奏は何を言いたいのか。

 奏はどんな想いを抱いているのか。

 俺は知りたかった。

 「私は……あなたの心臓で、生き永らえる事が出来た女の子だもの」

 「―――ッ!!」

 俺はまるで、ハンマーのような衝撃に打たれた。奏の言葉に生じた俺への衝撃が、それ程大きなものだったから。

 俺の胸に手を当てた奏が、そっと俺の身体から離れていく。

 「今の私の胸の中では、あなたの心臓が鼓動を打っている……ただ一つの私の不幸は、私に青春をくれた恩人に、『ありがとう』を言えなかった事……それを言いたくて、それだけが心残りで、この世界に迷い込んだの」

 「そんな……ッ」

 奏の告白に、俺は言葉が出なかった。

 そして、やっとの思いで、俺の口から絞り出されるように言葉が出る。

 「でも……どうして、俺だとわかった……ッ?」

 「最初の一刺しで気付けた……」

 俺は、初めて奏と出会った時の事を思い出す。

 何も知らなかった俺は奏に、死んでいる事を証明してくれと言った。その俺の言葉に答えるために、奏は俺の心臓を刺した。

 いや、俺の心臓は―――

 「あなたには、心臓がなかった―――」

 「……ッ!」

 俺は思わず、自分の胸に手を当てる。

 その手からは、鼓動は―――

 「でも、それだけじゃ……ッ!」

 「……あなたが記憶を取り戻せたのは、私の胸の上で夢を見たから。 自分の鼓動を聴き続けていたから……」

 眠る俺の耳に入ってきた、鼓動。

 それは奏の鼓動―――

 それは、俺の鼓動―――

 「―――ッ!」

 胸が締め付けられるような思いだった。だが、俺の胸は、空っぽだった。

 「……結弦。 お願い―――」

 奏が、俺の方に振り返りながら口を開く。

 奏の、願い―――

 それは―――

 「―――さっきの言葉、もう一度言って?」

 それは、俺を大きく揺さぶった。

 「……ッ! そんな……嫌だ……奏が……消えて、しまう……ッ!」

 奏が、俺の前から消える―――

 それは想像もしたくない、未来(げんじつ)。

 「……結弦、お願い」

 奏は、今まで見た事もない表情で、切にその言葉を噛み締める。

 「そんな事……出来ない……ッ!」

 「結弦……ッ!」

 「……ッ!」

 奏の声に、俺は押されていく自分を自覚する。

 駄目だ、負けるな俺。

 ここで押し切られたら、奏と、目の前にいる愛する人と、二度と会えなくなってしまう―――

 だが、俺は何も言えない。

 何も、出来ない。

 してやれない。

 今の俺は、奏の言葉を聞く事しか出来ない。

 「あなたが信じてきた事を、私にも信じさせて……ッ!」

 俺は、奏の事が―――

 奏が―――

 「生きる事は、素晴らしいんだって……」

 奏は、俺の信じてきた事を信じてくれた。

 だから一緒にいてくれた。そして、協力してみんなに人生の有難みを教えてやる事が出来た。

 目の前にいる、自分の愛する人は、自分を信じてくれた。

 なら、俺は何をすれば良い―――?

 自分の信じてきたものを信じてくれた彼女を、俺自身が信じさせてやる事だ―――

 「……結弦」

 逃げられない。

 逃げてはいけない。

 愛しているからこそ、俺はこの言葉を奏に伝えるだけだ。

 「……かな、で……愛してる……ずっと一緒にいよう……ッ!」

 「……うんッ」

 愛する人を抱き締め、俺は想いを丈を繰り返す。

 「ありがとう、結弦……」

 「ずっと、ずっと一緒にいよう……ッ!」

 「……うん、ありがとう」

 「愛してる、奏……ッ!」

 俺は強く、ぎゅっと奏を抱き締める。

 奏も、俺をそっと抱き締めてくれる。

 「うん……凄くありがとう……」

 「奏、ぇ……ッッ!!」

 奏の優しげな言葉が、その声色が、俺の中に優しく染み込んでくる。

 こみ上げてくる想いを止められず、俺は想いを繰り返し伝え、瞳からは涙がぼろぼろと零れていく。

 奏の温もりが、心地良かった。

 奏の声が、優しかった。

 奏の身体が、暖かった。

 奏の想いが、愛しかった。

 「愛してくれて……ありがとう……」

 いつ、抱き締める奏の身が消えてしまわないか不安で、俺は泣きながら声をあげてしまう。

 「消えないでくれ……ッ! 奏……かなでぇ……ッ!!」

 「命をくれて―――」

 奏が、紡ぐ―――

 「本当に、ありがとう……」

 そして―――

 

 

 抱き締めていた奏の身体が、俺の中から消えてしまった。

 

 

 「あ……ッッ!!」

 

 前のめりに倒れ、俺は奏の姿を捜し求めるように、足掻くように手を回す。だが、その手は何も掴む事はなかった。

 空回りする手が、俺に現実を突きつけていた。

 奏はいないと言う現実を。

 奏は、この世界から旅立ったと言う事を。

 「う、うう……ッッ」

 俺は思い知らされる事になった。

 それが、とても切なくて。

 奏の温もりを確かめたいがために、俺は自分の身体を抱くようにして震える。さっきまで俺の身に抱き寄せられていた奏の姿はもう無い。後に残るのは、想いの残滓と、膨らんだ俺の想いの叫び―――

 「―――奏ぇぇぇぇぇッッッッ!!!!」

 俺の想いの絶叫が、慟哭が夕焼けに染まった空に天高く響き渡る。しかし、そんな俺の叫びを聞く者は誰もいない。俺の慟哭は、奏が昇っていった空に向かって消えていくだけだった。

 奏が旅立ち、一人残された俺は、地面に額を擦りつけながら泣いた。

 「奏……かなでぇぇ……ッ」

 俺は、もう一つ、信じていた事があった。

 奏と一緒なら、この世界でもずっとやっていけると思っていた。

 奏はそれを否定してくれた。だが、その方が良かったのかもしれない。もしあの時、奏が頷いてくれたら、俺は本当にこの世界にずっと居続けただろう―――

 だが、それはきっと違うんだ。

 この世界は人生の尊さを知り、満足して卒業していく場所なのだ。なのにずっと居続けてしまっては、この世界の意味が変わってしまう。

 恋愛感情を持ち、この世界に居続ければ、ここは楽園と化すだろう。

 だが、この世界はそう言う場ではない。

 ここは卒業する場所。それは俺自身がみんなに教えたばかりではないか。

 みんなは、どうだった―――?

 この世界から、どんな気持ちで、どんな想いで卒業していった?

 戦線のみんな、日向や直井、ゆり、沙耶。そして、奏。みんなは満足して、この世界から卒業していった。

 では、俺に聞こう。

 なあ、俺。

 お前は、満足したか?

 この世界に居て、みんなと過ごして、自分の人生に満足できたか?

 満足するも何も、俺は元々ここに来る前から自分の人生に満足していた。

 そう、俺は既に満足していた。

 自分の人生が報われていた事を一番に知ったのは、俺自身だっただろう?

 満足した―――

 では、みんなは何故逝った?

 それは―――

 

 満足したからだ。

 

 「ああ、そうか……」

 俺は立ち上がり、夕焼けに染まるグラウンドに視線を向けた。グラウンドには、部活動に励むNPCの姿が見える。

 満足したから、みんなは旅立った。

 そして―――奏も。

 奏も俺に『ありがとう』を伝え、自分の願いを叶える事が出来たから、この世界から卒業していった。

 では俺も―――奏の後に続いて逝くべきなのだ。

 

 ―――あなたが信じてきた事を、私にも信じさせて―――

 

 奏は、俺を信じて、満足して卒業した。

 その俺が、卒業もしないでこの世界に居続けてどうする?

 こんな姿の俺を見たら、奏はどう思う。奏だけではなく、ゆりや日向たちが見たら?

 沙耶に見られたら、俺は確実に殺されるだろう。

 いや、殺される価値もないかもしれない。きっと、笑われる。

 こんな情けない俺では、俺を信じてくれたみんなを裏切る事になってしまう。

 「ああ、そうだな……」

 俺も、やっぱりここから旅立たなければいけないのだ。

 「奏、俺ももうすぐいくからな……また、お前のもとへ」

 そして俺は、奏が旅立った場に、一歩、踏み込んだ。

 先にいった奏を追いかけるように―――

 俺も、この世界から、卒業への道を歩み始めた―――

 



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EPISODE.79 Dream

 あたしは誰もいない校長室にいた。ここに来るまでの間、そしてここに来てからも続く静寂。まるで世界に自分だけが取り残されたかのようだった。

 実際、それもあながち間違いではない。事実ほとんどの者が既にこの世界から旅立ち、残るはあたしたちだけとなっているのだから。

 ゆりっぺさんや日向くんたちもいなくなり、音無くんや立華さんも直に立ち去って行くだろう。

 あたしは―――まだ、この世界に居た。

 卒業式を終え、体育館から出たあたしは、ただその自分の足が赴くままに一人で歩き、そしてここに辿り着いた。

 かつて、死んだ世界戦線と言う名の集団が根城としていた場所。今やそこは、かつてその戦線に属していた彼らの名残が残されているのみ。

 それは―――みんながそれぞれ残していった、“証”だ。

 自分たちはここに居た、と言う証。

 目の前には、あたしの“証”が置いてある。

 この世界に来る前から肌身離さず持ち歩いていた、あたしの身体の一部と言っても過言ではないもの。 そして、別の世界であたし自身を終わらせ、ここに導いたものでもある。

 あたしは不意に、それに手を伸ばしたが―――寸前で踏みとどまり、触れる事を止めた。伸ばしかけた手を、そっと戻していく。

 

 ここには、多くの人たちが居た。

 

 自分の人生に納得出来ず、神に抗おうと戦った者たち。

 あたしはこの世界に来る前の世界には無かったものを、ここで手に入れた。仲間たちに囲まれて、過ごした時間。それはこの世界に来て初めて味わい、知ったものだった。

 それはあたしにとってかけがえのない欠片だった。あたしの足りなかった部分を補ってくれるような優しい欠片は、あたしの身に深く収まったのだ。

 

 あたしは、別々の世界で、色々なものを知った―――

 

 前の、虚構の世界では――――愛する人を見つけ、愛とその人と過ごす大切な時間を知った。

 

 死後の世界では―――仲間と言う存在を見つけ、その恵みを知った。

 

 あたしはどちらの世界でもイレギュラーとして来てしまった。それが神の意志なのか、どんな因果があったのかは知らない。しかし、確かにあたしはこの世界に事実としてやって来た。そして彼らと出会い、仲間たちと過ごす大切な時間を知り、人生の尊さを感じた。

 全てを知る前に命が尽きてしまった、不完全だったあたしの魂は、二つの世界を渡る事によって様々な経験や知識を蓄積する事が出来た。正に、それこそがあたしの人生そのものだったのだ。あたしの人生は終わってなんかいなかった。あたしは二つの世界を通じて、人生を過ごす事が出来たのだ。

 そう、あたしは満足していた。

 前の世界で、あたしは愛を知って、それ以上の望みは我儘だと思っていた。

 でも、あたしはこの世界でまた色々な事を知った。もう我儘だなんて言えない程に、あたしは満ち過ぎていた。我儘過ぎた。でも、楽しかった。

 満たされた魂は、この世界から立ち去らなければいけない。それがこの世界の掟(ルール)。だから、みんなはいなくなった。今度はあたしが旅立つ番なのだ。

 あたしは目の前で、満足して旅立って行った人たちを見てきた。歌いたかった歌を歌った岩沢さん、弓を引き、本当の自分を思い出した古式さん……みんな、とても良い表情(かお)で旅立って行った。あたしにも、彼女たちと同じように逝けるだろうか。

 「あ……」

 ふと、あたしは校長室の窓から、夕日が染まる外に視線を向けた。その先に、一筋の光が空に向かって昇っていくのが見える。

 その優しい光は、ゆっくりと空に昇っていく。その光を見詰めた途端、あたしは自分の心に確証を得た。

 「……うん、あたしも満足した」

 暖かくなった胸に手を当てて、あたしは頷いた。

 光は、あたしより先に空に向かって昇っていった。

 これで、本当にこの世界に残ったのはあたし一人だった。

 「あたしも、そろそろ行かないとね」

 スカートを翻し、あたしは校長室の方に身体の向きを変える。窓の外に背を向けて、後ろから射し込む夕日の光によってオレンジ色に染まる校長室の全体を、あたしはゆっくりと眺める。

 

 あたしは、前に踏み出す足を、上げる。

 

 それは、旅立ちへの一歩。

 

 「……スタートっ」

 

 それは、終わりではない、始まりだ。

 

 次の人生への、新たな自分への旅立ち。

 

 あたしは小さく笑みを浮かべて、そう言った。

 

 そして―――

 

 

 

 あたしの魂は、この世界から次の人生へと、最初の一歩を踏み出した―――

 



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EPISODE.80 Our Life

 

 ―――♪、♪。

 

 

 俺は、そのメロディを知っていた。

 

 

 多くの人が賑わう街の中で、俺は人々の喧騒の中から、繊細に紡がれるメロディを聴いた。俺の耳は、どこかで聞いた事があるような、その曲を見事に拾い上げていたのだ。思わず立ち止まり、俺は曲の根源を捜す。行き交う人が多い中でも、それはすぐに見つかった。俺の後ろの方で、背を向けて歩く小柄な一人の女の子。俺はその娘の背中を見つけると、無意識に足を向けていた。ただ本能に従うままに、その娘の背中を追いかける。

 そして、俺の伸ばした手が―――彼女の肩を掴んでいた。

 「……?」

 俺に肩を掴まれて、彼女はその真珠のような瞳を俺の方に振り返らせた。彼女の真珠のような瞳に、俺が水面に反射するように映し出される。俺を映した彼女の瞳が、瞬きをした。

 「……………」

 彼女はジッと俺の出方を待つように、俺を見据えている。彼女は俺の方を見上げる程に小柄で、しかしその陶器のような白い肌に、頭に被った小さな帽子の下に見せた端正な顔立ちは美少女の域に十分過ぎた。それらの彼女の容姿のせいか、俺は自分の心臓が大きく鼓動を打っている事を自覚した。

 「……ッ」

 ドクン、ドクンと鼓動を打つ自分の胸を抑えるのに精一杯だったが、自分の方から声を掛けてしまった立場上、自分から口を開かなければならない。しかし、何を言えば良いのか正直わからなかったのも事実だった。ただ無意識に、身体が勝手に彼女を求めてしまった。

 彼女は俺が何も言わないのをさすがに怪訝に思っているのか、首を傾げている。

 そして、遂に俺より先に彼女が口を開いた。

 「……あなたは、誰?」

 彼女はそう聞いてきた。それもそうだ。俺と彼女は初対面のはずなのだから、見ず知らずの俺に名前を問うのは当然の事だ。

 「……えっと、俺……音無、結弦って言うんだ……」

 変に緊張してしまったが、何とか彼女の問いに応えるように言葉を紡ぐ。

 「そう、何か用……?」

 「そのだな、大した用でもないんだが……俺たち、どこかで会った事ないか?」

 何を言えばわからなかったとつい先程までぼやいていた俺が、やっと出た言葉がそれだった。初対面の相手にその質問は的外れにも程がある。と言うよりは、これは明らかにナンパと言う行為に該当するのではないだろうか。

 俺はそんな趣味は毛頭ないのだが、端から見ればそれ以外の何物にも見えないだろう。しかし、俺は彼女と初めて出会った時、いや、初めて目にした時から、初対面とは―――思えない何かがあった。

 クサいナンパ野郎が使いそうな台詞だが、それもまた俺の正直な思いだった。彼女とは、どこかで会った事がある。それは本当にそう思っていた。

 だが―――彼女もまた、俺のそんな阿保みたいな質問に対して、真剣に思い出そうと思案する色を見せていた。

 必死に思い出そうとするが―――諦めたように、彼女は首を横に振った。

 「……ないわ」

 「そっか……」

 だよな、と俺は苦笑する。と同時に、落胆している自分が居た。俺はどんな答えを彼女に期待していたのだろうか。もしかしたら、頷いてくれる事を望んでいたのかもしれない。

 「でも……」

 「?」

 彼女は、そっと胸に手を当てて、呟いた。

 「あなたに会えて、良かったと思う自分がいる……」

 彼女は素直にそう言ってくれた。

 「それは……つまり……」

 「……あなたとはここで初めて会う。 それは間違いない……でも、何故かあなたと出会えて嬉しい……」

 「……………」

 それは、俺にとっても同意と嬉しさが混在するかのような言葉だった。

 俺たちは、どこかでお互いを既に知っているような気がした。

 人通りの多い雑踏の中、二人の男女が黙り合って、微かに頬を赤くする。俺たち二人の光景が、ナンパから初々しいカップルのような光景にランクアップしたようにも思える。実際、俺たちは互いに照れるように、何も言えなかった。

 だが、互いに胸の中の何かを探り合っていたと思う。それは思い出そうとしても、決して思い出せないもの。それは記憶と言う、概念とは異なるもののようにも感じられた。もっと奥に、深い所に刻まれているような。それを探り、掴む事は、何故か叶わない。

 俺はそれを二人で一緒に探ろうとするように、彼女に向かって言葉を投げようとした。だが、それもまた叶わなかった。何故なら、二人の空間に突如乱入する者が現れたから―――

 「かなでちゃん、待ったぁぁぁ~~~?? ―――って、誰その人?」

 ものすごい勢いで小動物を撫で回すような声が、俺たちの間に割って入った。俺が視線を向けた先には、彼女とはまた正反対の印象を持った女の子がいた。カチューシャにリボンを付けた、大人しい彼女とは対照的に凛々しく、活発そうな外見のその娘は、不思議なものを見るような目で俺を見ていた。

 「……………」

 だが、その目は徐々に汚いものを見るようなジト目に変わった。下から上まで、舐め回すようにじろじろと見詰める少女。

 「……かなでちゃん、知り合い?」

 少女が彼女に問う。少女の問いに対し、彼女は一瞬何て答えれば良いかわからないような表情を見せたが、素直に少女に向かって言葉を紡いだ。

 「……知り合い、と言うわけではないけれど」

 「て事は、まさかナンパッ!?」

 「い、いや俺は……」

 俺は否定しようとするが、実際今までの自分の行動を思い返すと、そうとしか見えないだろう。だからそれ以上の言葉が出なかった。

 俺の反応を見て、少女の視線が更に細められるのがわかった。

 「あんた、かなでちゃんに変な事してないでしょうねッ?! そんな事したら、あたしが絶対に許さないけどねッ!!」

 物凄い迫力で、少女は俺に言葉をぶつける。少女は圧倒される俺を横目に流すと、大股で彼女のそばまでずかずかと近付いた。

 「かなでちゃん、無事ッ? あの男に、変な事されてないでしょうね……ッ」

 「うん、私は平気よ……」

 「本当に? かなでちゃん」

 「うん、だから心配しないで……ゆり……」

 彼女が優しい微笑みを見せ、ゆりと呼ばれた少女が安堵するような表情を見せる。俺から見ても、その二人が本当に仲の良い友人同士に見えた。

 「それに……彼は私の知り合いよ」

 彼女の言葉に、俺だけでなく少女もきょとんとなる。

 「へ? だってさっき、知り合いじゃないって……」

 「うん……でも、今はこうして知り合ったから、もう知り合いでしょ?」

 彼女はその瞳を俺の方に向けた。俺はその瞳に見られて、どきり、と胸を高鳴らせる。吸い込まれそうな瞳を向けられて、俺は一つの名前を頭に浮かび上がらせた。

 

 ―――奏―――

 

 かなでと読んで、奏。

 俺は、ゆりと呼ばれた少女が言っていた彼女の名前から、その名前を頭に浮かべた。

 奏、と言う名前に、俺は特別な感情が泉から僅かに湧き出るのを感じた。

 「奏……」

 俺は噛みしめるように、ぽつりと、彼女の名前を呟いていた。

 それは普段から呼んでいるように、とても自然に俺の口から出てきた。

 そして彼女も―――

 

 俺に名前を呼ばれて、嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

 

 「うん、結弦……」

 

 

 それが、俺の彼女に対する気持ちを思い出させるのに十分なものとなった。

 名前で呼び合っている俺たちの間で、ゆりと呼ばれた少女は不思議そうな顔で俺たちを見比べていた。

 

 

 

 

 

 

                   ●

 

 

 

 

 

 俺と奏は出会ってから、よく休日に二人で街に遊びに行ったりするようになった。

 俺は人通りが多い街のある一角に一人立っていた。そこは奏と決めた待ち合わせの場所。そして、俺たちが出会った場所。

 奏との過ごす時間は、俺の中にある“何か”を満たすのに十分なものになっていた。それが何なのか、俺にはわからない。そして俺と似たような“何か”を、奏も抱えているようだった。

 しかし俺たちは、それが結局何であるかを知る事は出来ない。いや、別に知らなくても良いかもしれない。ただ、奏と居るだけで十分なのだ。それが奏と居る事で満たされる事を示すように、俺は奏と過ごす時間がとても大切のように思えるし、本当に楽しいと思えるのだ。

 奏と出会った事で同時に知り合った、ゆりと言う、奏の親友。まるで奏を妹のように守り通すゆりの姿は、何故か俺には微笑ましかった。それが何だか、暖かいと言うか、ほっとするような感覚を俺に植え付けてくれた。その感覚が何であるかも、今の俺には知る由がない。

 「奏、まだかな……」

 俺は携帯を開け、表示されるデジタル時計を見た。待ち合わせの時間まで、あと一時間もあるのだが、奏と会うのを楽しみにしている自分が居る事に自覚していた。それは少し恥ずかしい気も与えたけど、同時に嬉しくもあった。

 携帯に視線を落とした俺の視界の端で、さらりと流れた金髪が見えた―――

 「さぁ、理樹くん。 次行くわよ、次ッ!」

 「ええっ? あや、まだ取るつもりなの……?」

 「当然よッ! まだまだ取り足りないわ……ッ!」

 「ええ~……」

 「あやはすごいな。 こんなにもあほみたいにぬいぐるみがあると言うのに」

 「まるで、飲み会の二次会に行くようなノリだな……」

 「へ、俺様の筋肉はどんな最果てまでも付いていけるぜ」

 「……?」

 ふと、俺はついその集団に視線を向けていた。その中心で、一人の金髪の少女が、様々な動物キャラクターの人形を詰め込んだ袋を胸に抱えているのが印象的だった。近くにあるゲームセンターから出てきたらしいその集団は、そのまま賑やかなまま、どこかへ行ってしまう。

 そんな集団に視線を向けていた俺の袖を、不意にくい、と掴まれる感覚があった。

 「……奏」

 俺の袖を、羽毛のようなふわりとした力で掴んでいるのは奏だった。顔を上げる事で、小さな帽子に隠れていた奏の顔が露になる。

 「……待った?」

 「いや、全然待ってないさ」

 袖に触れられる、小さな力。それがとても、愛しく感じた。

 「……!」

 俺はそんな奏の小さな手を握っていた。俺が手を握ると、奏が少し驚くように俺の方を見る。俺は気恥かしくて視線を逸らしたが、奏の方から、クスリと微笑を漏らす空気が伝わってきた。

 「―――!」

 きゅ、と、俺の手に握り返される力を感じた。俺は思わず視線を向けると、その下には奏の小さな手と俺の手が固く握り締められている光景が目に入った。

 「……行こうか、奏」

 「……うん」

 俺は奏の握り締めた手を、そっと引くように導く。この手を離さないように、俺は奏の小さな手を握り締めた。ずっと離さない。誰の邪魔も入らない限り、そんな二人の空間は永遠のものとなり得た。奏の手を引きながら、俺は奏の事が気になって、奏の方を一瞥してみる。ほのかに頬を朱色に染めた奏は、天使のような顔を浮かべていた。

 俺はそんな奏を見て、自分の心を確信した。

 

 俺は既に、天使のような彼女に心を奪われているのだと言う事を―――

 

 




ご愛読ありがとうございました。


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