桜ん坊と百合の花  ~上~ (畑々 端子)
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桜ん坊と百合の花  ~上~

 私は生粋の下戸である。ゆえに酒の席ではトムソンガゼルでしかなく、麦に米に葡萄にと次から次へと胃袋へ流し込む豪者の隣で、必至にひ弱な角を構えているしかない。

 だが、その分、費用の元を取らねばなるまい。と鯨飲はできないながら馬食の限りをつくすのが常であった。

 大学の夏休みはとかく長く、それゆえに多くの大学生にとっては経験することも多いはずなのであるが、私と言えば、文芸部に徹するか部の先輩である真梨子先輩の誘いにて昼夜を問わず飲み会へ参加すると言う、一方からは羨ましがられ、私自身ではなんとも実りのない2回目の夏休みを過ごしていた。

 本日も朝から真梨子先輩に呼び出されて眠た眼を擦りながら、一昨日から置きっぱなしとなっているリュックを手に、あくびをたずさえて家を出た。

 『文芸誌がんばろー会』と名打たれた飲み会。建て前としては、文化祭で出版する文芸誌の原稿なりを精力的に良いモノをつくろうと言う激励会なのだが……一昨日も『文化祭がんばろー会』を催したばかりであるかぎりは、体の良いただの飲み会であることは言うまでもない。

 私は真夏の猛暑の中をわざわざ大学の最寄り駅から学舎とは真逆の方向に進路を取って、とあるスーパーマーケットに向かい。そこでマシュマロとテナントとして入っているたこ焼き店のたこ焼きを購入した。私の好みうんぬんではないが、たこ焼きには所望者である真梨子先輩のこだわりがあり、青のり多めのかつおぶし少なめ、そしてソース多め。それを満たしたたこ焼きでなければならないのである。

 もちろん、これらは私の財布から支出されるのであるが、私は決して真梨子先輩にレシートを渡すことも見せることもしない。金銭にこそは、親しき仲であっても、たとえ小銭であってもきっちりしておくのが私の流儀である。だが、それとこれとはまた別の話なのだ。

 今回のように、催される『会』では、真梨子先輩がほとんどの飲食費を黙って財布から出している、だから私のような貧乏学生であっても大学生による大学生のための飲めや食えやの宴会に連日参加することが叶うのである。

 もしも私が真梨子先輩と出会っていなければ、宴会などと縁遠く休日など全てを一人寂しく自室にてふて腐れていたことだろう。

 口にこそ出さないが、私は真梨子先輩に感謝しつつ、尊敬もしていたのである。

 

 

 ◇

 

 

 夏場に限って開催される会場と品目は毎度と同じで、付属図書館と体育館の間にあるこじんまりとしたスペースでの焼き肉と相場が決まっていた。

 

 この場所は現在では使われていない、グランドへの通路であったために白いタイルで舗装されている。背の高い建物に囲まれている隙間であることと、樹齢50年とも言われる槁のお陰で、夏場でも一日日陰であり、加えて時折吹き抜ける微風でもビル風となって団扇なども必要はない。

 そんな最適地にて、正午を前に飲めや食えやの宴会が催されるのである。私が到着した頃には、すでに骨付きのカルビが網一面に並べられてあった。

 

「遅いぞ、恭君!そして買ってきてくれた?」

 

 トングを右手に左に缶麦酒のロングを持った真梨子先輩がぴょんぴょんと跳ねるように私の元へやって来た。その際、たわわな胸元も一緒に跳ね踊り「恭君やらしい」と私の目線に文句を言う先輩であった。

 私は言いたい。夏であり本日が最高気温を更新した記念すべき猛暑日であると言えども!体のラインをこれ見よがしにぴったりと、そして、谷間を覗かせた白のTシャツに赤い下着を身に着ける先輩の方が悪なのであると!

 付け加えるのであれば、ミニのキュロットスカートもどうにかしてほしい。

 とにかく、真梨子先輩の方を向けば、自然と胸元へ太股へと視線が向いてしまうのだ、それはもう万有引力がごとく……

 とは言え、万有引力にのみ素直に従うと、常夏を思わせる趣味の良いサンダルと赤いマニキュアで装飾された光沢ある爪に行き当たる。そして私は決まって思うのである。

 いつもながらに靴だけは垢抜けていると……

 

「頼まれた、たこ焼きとマシュマロです」

 

 私はそう言うと真梨子先輩の前言を無視して、作り立てほやほやのたこ焼きとマシュマロの入ったスーパーの袋を渡した。

 

「さぁんきゅっ」

 

 上目遣いにウインクを残してまた駆けて行った先輩。

 こんなお茶目な先輩に何人の男どもが夢を抱いては項垂れたことだろうか。天から賦与された胸元の果実と白く伸びた羚羊のような足に、ぷっくりとした唇、風に靡くたびに良い匂いが漂う茶色い長髪。

 

 こんな女性に憧れない男は男ではない……

 

 自分で言っておいてなんだが、私はそんな先輩に微塵も惹かれるものがなかった。

文芸サークルに入った当時は、男子の浪漫の詰まった胸元とその体つきには、それは脈を早くさせたものだが、真梨子先輩の噂を聞いた途端に冷や水を浴びたように、異性としての魅力を感じなくなってしまったのであった。

 先輩の美貌は私も認めるところであるのだが、しかし艶容たる美貌を間違えたベクトルでひけらかす癖があり、それが身なりに言動に仕草にと、憚りなしに現れているのであるからして、たちどころに『我こそは!』と自信があるも無きも男どもが寄って集ってくるのである。

 不思議なことに、そのくせ先輩に彼氏がいるとは聞いた事がない。そこれはそれとして、私が冷や水に感じたのは、飲み会で意気投合をすると、先輩は酒の勢いですぐに男を自分の部屋へ連れ込んでしまうと言う噂だった。年頃の男女が一夜を共にすると言うことは、つまり……もはや愚問であろう。それが指の数では到底足りないと言うのだから、私はほとほと呆れ返ってしまった。

 一説には男漁りのために、飲み会を催しているとの噂も立っているが、文芸サークル内の飲み会に関しては、私の知る範疇では連れ込みなどの不埒な所行は一度としてなく、無邪気に骨付きカルビを頬張る姿などは、純然にアウトドアを楽しんでいる大学生にしか見えない。

 そして、これだけは言っておきたい。私は確かに先輩に呆れてしまった。だが、それは真梨子先輩と言う人間の人格を否定したわけではない。

 つまりは千差万別なのだ。夜な夜な桃色ホテルへ足繁く通う男女もいれば、別段その行為自体が『悪』であるわけでもない。現代の男女観からすればそのような行為とて容認され、むしろ、抵抗とて感じないのが普通であろう。慎みを以てなどと、貞操観念を強く抱く私こそが、時代遅れであって。詰まるところ私の個人的な偏見でしかないのである。

 

「そんなとこに立ってないで、恭君も早くおいで。このカルビ美味しいよお」

 

 貞操観念の根深い私としては、先輩のようなはしたない女性は忌み嫌うはずなのであるが……はずなのだが……私が先輩を忌み嫌うことができないのは真梨子先輩は本質として面倒見も良ければ、優しく、はしたなしを覗けばとても良い先輩であり女性

であったからだ。

 その証拠に、男性から邪に愛されるばかりではなく、出る杭は打たれるはずの同性からも親しみの笑顔を傾けられている。これを人徳と言わずしてなんと言おうか。

 

「また二日酔いですか」

 

 ポン酢の入った受け皿に骨付きカルビを取って私に差し出してくれた先輩に私が言った。

 「まあねえ」先輩はそう言って、早々とマシュマロを竹串に刺してあぶっている。

 

「二日酔いには迎え酒」 

 

 それでもビールを手放さない気概はさすがと言うに値する。

 

「それで、昨日はどっちを食べたんですか」

 

 骨付きカルビにかぶりつく前にマシュマロを口に入れようとしていた先輩にそっと投げ掛けてみた。最低限の隠語であろう。きっと新入生にはわかるまいと思う。

 

「昨日は2回の女の子」

 

 そう言いながら先輩はとてもいやらしくマシュマロを口の中に放り込んだのであった。

 早々に前言を撤回しなければならないのは、私の意図したところであると言わざる得ない。事実としてあまり語るべきではないのだろうが、とどのつまり真梨子先輩は両刀使いなのである。

 

「さすが恭君。あの子は美術部の葉山さん。ほら、今年も美術部に色々と発注するから、お近づきにね」

 

 先輩はなぜか嬉しそうに、私の視線の先にいる女性を竹串で突くような仕草をしながらそう説明してくれた。

 文化祭の激励会に美術部員が参加するのは毎年恒例であり、なんら珍しいことではない。気になると言えば汗ばんだ真梨子先輩の胸元の方である。

 だが、今回は……いいや今日は違う。先輩が串で突いた彼女は、艶めく黒髪に控えめな前髪、目は凛と肌は白く、小さくもぷっくりとした口元。化粧気こそなかったがだからこそ、唇の色は薄かったし、白いブラウスに涼やかなフレアスカート身に纏った姿はまさに『清楚』を絵に描いたような乙女であった。

 派手な真梨子先輩は私の好みではなかったが、清楚な乙女たる葉山さんこそ、私の好みど真ん中ストライクであったのだ。

 

 このトキメキを心の躍動を人は、一目惚れと言うのだろうか……

 

 彼女は骨付きカルビを小さな口で勇猛にも囓ると、なかなか噛みきれずに悪戦苦闘の末に、受け皿を落としてしまった。

 慌てた彼女であったが、しっかりとカルビを銜えたままでその収拾を図る様はなんとも言えない可愛らしさがあるではないか。子犬が自分の尻尾を追いかけてくるくると円を描く趣がある。

 私は今日はじめて、真梨子先輩に感謝をした。それはもう深淵から感謝をしていたものだから「真梨子先輩。呼んでくれてありがとうございます」と本人に言ってしまった。

 

「恭君と私の仲じゃないの。でも、そう言ってくれると嬉しいな」

 

 そう言って微笑んだ先輩も美人であるのだが……先輩の美を感じ入る前に……男子の嵯峨か、やはり胸元に視線が行ってしまうのは……この状況においてはなんだか申し訳ない。

 私は生粋の下戸であり、宴のはじまり、乾杯と掲げた缶麦酒をお開きまで温めるのが常であり、食べるは食べ、腹が膨れさえすれば酔いにまかせての茶番には参加せずに距離をおいて、これを眺めて余興としていた。

 本日とて肉と言う肉を腹に貯めた後は、炭酸飲料片手に酔っぱらいの言動を静観していることになるだろう。そう思っていたのであったが……番狂わせにも、この場には私の心を爽快に奪ってしまった乙女の姿があるではないか、彼女は人見知りな性分なのか、はたまた私と同じで下戸なのだろうか。食べるに徹した後は缶麦酒を片手に誰と話すでもなく、目だけをきょろきょろと動かして、時折楽しそうに微笑んでいた。

 そんな彼女と視線こそ合うことはなかったが、私は彼女に穴が開いてしまうのではなかろうか。そう思ってしまうほどに凝視していた。

 

「見てるだけじゃ男らしくないわよ。これ持って行ってあげなよ」

 

 手の中の缶麦酒が温くなってきた頃合いで、真梨子先輩が今にもとろけてしまいそうなマシュマロの串刺しを私に差し出しながら、肘で私の横腹を二度ほどスキンシップをするのである。先輩に勧められるままに「あの、これどうぞ」と私としたことが温い缶麦酒を持ったまま彼女の元に歩み寄ると、気の利いた台詞の一つも言えず、ただの給仕として、彼女に料理と呼べない食べ物を差し出してしまった。

 だから「ありがとうございます」と彼女は私の顔を上目遣いで見つめながら言うに止まるしかなかったのである。

 硬派を気取るのは良い。いいや、私はきっと硬派であろうと思いたい。けれど、こんな時くらいは軟派な男子を見習いたいと思うのである。どんなに真善美のうち揃った人間であったとしても、第一印象はとても重要で、一度きりの印象の有無によって、今後のあり方も随分と変わってきてしまう。最悪で言うと、これっきりと言うことも往々にしてあり得るのだから恐ろしい……

 

「あの子、少し人見知りだから、はじめてにしては60点ってところね」 

 

 項垂れて帰って来た私に、真梨子先輩は優しくそう言うと、「マシュマロ美味しいよ」と私に自分が食べかけた串刺しをくれた。

 そのマシュマロはとても甘かった。きっと真梨子先輩の唇もこんな味がするのだろう。そんな阿呆な妄想に包まれるほどに甘美にして風味は絶佳であった。

私はマシュマロを頬張りながら、私は葉山さんから香ったオレンジをような爽快感と林檎のような後味良い甘い香りを思い出してただ、恍惚としていたのであった。

 

 

 ○

 

 

私が真梨子先輩と知り合ったのは、美術部の『外注に負けないぞ会』の時でした。文化祭への個人出展作品と美術部としての出展作品を昼夜構わずに夏休みの初旬に終わらせ、一息ついたそんな頃合い行われ、言わば慰労と文化祭への景気づけを主にした飲み会にでした。

 その席の下座に座っていたのが、真梨子先輩だったのです。この先輩は名ばかり幽霊部員であると言うのに、毎日せっせと参加している皆勤賞の私よりも有名人のちょっと不思議な先輩でした。

 真梨子先輩と同回生の先輩に偉業の有無を聞いて見ても、帰ってきた返答は「万年幽霊部員よ。でもしいて言うならばキューピットかな」でした。さらに聞けば、美術部作品を何一つとして制作していないとのことでしたので、私は思わず眉を顰めてしまったことを鮮明に覚えています。

 けれど、だからと言って私は排他的に考えることもありませんし、同性の私が言うのも気が引けますけれど、猫のようにほわほわと可愛らしく、年上にもかかわらず、後輩に麦酒を注いで回る殊勝な姿に、私は好印象こそ抱きませんでしたけれど、敬意を抱きました。

 本来ならば好印象の次ぎに敬意がやって来るのだろうかと思います。自分でもそう思っているのですから、きっとそれが順当なのでしょうけれど、真梨子先輩の姿を拝見しますに、とても好印象と言うよりも恥ずかしさが先立ってしまったのです。

 なにせ、先輩ときたら、サイズ間違え買ってしまったかのような、ぴっちりと体のラインに張り付くピンクのキャミソールの上に肩までざっくりと開いたい淡い黄色のシャツを来ているのです。そして、立ち上がるとその下が見えてしまいそうになるミニスカートに黒いニーソックスを履いています。

 右薬指にはめられた銀色の指輪に、アンティークキーを思わせるトップのペンダントは控えめにオシャレだと思いましたけれど……

 白のブラウスにキュロットスカートとオシャレとは言えないながらも、落ち着きのジャンルに部類される私の服装からすれば、それはすでに冒険とうジャンルなのだと思います。

 

「そのブラウス可愛いわね」

 

 突然、私の肩まで届かないもみ上げを掠りながら、真梨子先輩は吐息を私の頬に当てながら胸元のギャザーを人差し指で突いてそう私に言いました。

 

「いいえ、そんな……」

 

 私はどうしてでしょう……鼓動を早く顔をみるみる間に火照らせながらやっとそう答えることができたのでした。

 不意に真梨子先輩の顔が現れたのにも驚きましたけれど、その吐息のくすぐったいのと、息と一緒に鼻腔をくすぐる優しく甘い香りに思わず心奪われてしまいそうになってしまったことに、私は正直に驚いてしまいました。

 前のテーブルを見ますと私のグラスに金色の飲料がシュワシュワと気泡を讃えています。

 何かが私の後ろ髪を撫でて行きました。その後に香るあの甘い香りから先輩のミニスカートですね。と推測できたのですが「葉山さんは、お酒。いける口?」と隣に腰を降した先輩の胸元の迫力は私には推測することはできませんでした。

 キャミソールとTシャツにぴっちりと、締め付けられていながらその胸元は、これに負けじとしっかりと大山に生地を押し上げ、どっしりと存在感を示しているのです。そして、予てより真梨子先輩の噂を拝聴していた私は、微かに覗く奈落よりも深そうな谷間に、何人くらいの男性達が落ちて行ったのでしょうと、破廉恥なことを考えていたのでした。

 私の頼りない胸元を思うと、羨ましくもありましたけれど……すらっとした自分の体型が気に入っていましたから、さながらジレンマと言うやつですね。

 

「少しだけです」 

 

 そう言うと、麦酒の注がれたコップを持つと、部長の長ったらしい妄言を雑音程度に耳に入れながら、横目ではにこにこと笑顔を絶やさない真梨子先輩の顔を見ていました。

 私はお酒が弱いわけではありませんでしたけれど、あまり大勢の人の前で飲むのは趣向ではありませんでしたので、真梨子先輩に注いでもらった麦酒をちびちびと飲んでいました。そんな私の隣では早々と頬をほんのりと赤くした真梨子先輩が割り箸をごっそりと抜いて細いペンで何やら書いていたのですが……

 「ねえ、葉山さんこれ持ってて」真梨子先輩は私に割り箸を一本渡しました。その割り箸には『4』と不吉な数字が書かれてあります。

 

「王様ゲームしょう!」 

 

 そして誰もお酒のお代わりをしないうちから真梨子先輩はそう言い出すと、すくっと立ち上がって、手に握った割り箸を机の中心に突きだしたのです。

 

「待ってました!」

 

 どこからか、そんな声が聞こえたかと思うと、男性の先輩方は眼を輝かせて我先にと割り箸を引っこ抜き、同性の先輩方は苦笑いを浮かべながら、残った割り箸を引き抜く抜くのでした。

 そして、手に残った最後の一本を握り締めて、真梨子先輩が座布団の上に腰を戻すと「王様だーれだっ」と誰かが言います。

 

「僕です」

 

 細波を飲み込んだ鯨が静寂を吐き出すように、私の見たことのない男性が手を上げました。

 

「よりによって意地悪古平君が王様ですかあ」

 

 あちゃっ。と続ける真梨子先輩は、肩を私に触れさせました。すると、また仄か甘い香りが漂ってきたので、思わず私はそれを鼻腔一杯に吸ってしまいました。

 それはさておき、その人は古平さんとおっしゃるようですが……少なくとも美術部員ではないと思います。何せ私は皆勤賞なのですから、幽霊部員も含め部員全員の顔と名前は知り置いています。でも、真梨子先輩は知りませんでした……だから、嘘になってしまいますね。

 水を打ったように静かになってしまった場は、飲み会と言うよりは愛の告白を見守る傍観者の集いのようでした。何せ皆が一様に固唾を飲んで古平さんに注目しているのですから……

 男性の先輩方の中にはあからさまに祈っている姿まで見受けられる始末ですから、私はこの『王様ゲーム』と言うのはそれほど夢と希望に溢れたゲームなのだろうと、ルールも今ひとつ理解できないままに、今にも「ハレルヤ!」と叫び出しそうな部長をずっと見つめて、笑いを堪えていたのでした。 

 

「8番と4番が一夜を明かす。場所はどうぞご自由に」

 

 古平さんがそう言うと、途端に安堵の溜息と落胆の溜息が飛び交いました。特に部長の落胆の濃厚なことと言ったら……「この世に神も仏もありゃしない!」と叫んだかと思うと、大の字に寝っ転がるべく背を倒したのですけれど、狭い個室内ですから、次の瞬間には思い切り壁に頭をぶつけて、痛みに悶えながら壁に八つ当たりの文句を唱えていました。

 もちろん、私は周りの反応に左右されることなく、部長だけを見ていましたので、その始終をしっかりと見終えてから、ついに笑いを堪えられなくなって、俯いて一人笑っていたのです。

 ですが、「あらら、私と葉山ちゃんだわ」と隣から白く長い腕が私の頭を抱き締めたかと思った瞬間に、耳辺りにとても柔らかくモノが押しつけられていたのです。そして、また、甘い香りが私の鼻腔をくすぐるのでした。

 

「葉山ちゃん、明日何か予定ある?」

 

 内緒話をするように、真梨子先輩が私の耳元でそう呟きましたので、「いいえ、特に何もありません」と耳にかかるこそばゆい先輩の息を我慢してそう答えました。

 

「じゃあ決まり」

 

 真梨子先輩はそう短く言うと取り立てて何の仔細を話すこともなく、部長をはじめ意気消沈した男衆を奮い立たせるためでしょう。悪戯な笑みを浮かべて「野球拳でもしょうか」とコップの麦酒を一気に飲み干したのでした。

 

 

 ○

 

 

「家は近いの?」

 

「はい。大学の駐車場から見える、茶色いマンションです」 

 

「あーあのマンションって、オートロックなんでしょ?」

 

「そうです。私は別に普通のアパートで良いって言ったんですけど、父がどうしてもオートロックでなきゃ下宿は許さないと言うので……」

 

「娘思いの良いお父様じゃないの」 

 

「それは……尊敬はしてますけれど……」

 

 私がそう言ったところで、真梨子先輩は鍵を鞄に戻して、ドアを開けました。

 

「さぁどうぞ、入って」

 

「お邪魔します」

 

 居酒屋での飲み会はきっとまだ続いていると思います。頃合いからして酔った部長が失恋話で泣きじゃくっていると思います。そんな雰囲気を察知してか、途中で真梨子先輩は私の袖を引っ張るとトイレに行く振りをして、居酒屋を出てしまいました。それも、費用の全てを支払って……

 真梨子先輩のアパートは三条通を下り、JR奈良駅を通り過ぎた先にありました。賑やかな幹線道路と一つ筋違いのところにあるアパートです。

 居酒屋からの帰り、真梨子先輩は何も言わず鼻歌を歌って歩いていました。私はそんな先輩に「先輩。私の分の会費です」と言って、メールに書かれてあった参加費を差し出しました。

 

 

ここから↓

 

 

 

 「いいよ別に、会費集めるつもりなかったし」と真梨子先輩は受け取ってはくれませんでしたけれど……「それでは、次回から私が参加したくなくなります」と行く手に仁王立ってそう言うと、真梨子先輩は渋々私の手から参加費を受け取ってくれました。

 先輩には甘え、私が先輩となった時、先輩にしてもらったことを後輩に返す。だから、私も今はまだ甘えても良いのだと思います。今だって真梨子先輩に「ごちそうさまです」と笑顔の一つも浮かべれば良かったのでしょうけれど……でも、でも、お金はしっかりしておかなければならないと思います。甘えるのだって、節度をもって甘えなければならないと思います。けれど、真梨子先輩が困った表情を浮かべたかぎりは……私は可愛くない後輩なのだろうと思いました。

 部屋の中は随分と整理整頓の行き届いていて、とても落ち着いた雰囲気でした。1年年上と言えども、私の部屋とでは雲泥の差があります。風体と噂の数々からてっきり、居間のテーブルの上には手鏡やらマニキュアや化粧品に携帯の充電器などその他諸々が散乱しているだろうと思っていたのです。けれど、蓋を開けてみれば、テーブルの中央に薩摩切り子を思わせる、紅色のグラスに桃色のアロマキャンドルが入って置かれてあるだけでした。

 その整理整頓の具合と言ったら、芸能人のお宅拝見の趣があります。ですが、台所からでしょうか、味噌汁の匂いもすれば取り込んだままの洗濯物が寝かされてあったりと、決して生活感がないわけではありません。

 私はテレビの上に並べられた、ご当地グッズでもある『モッくん』のキーホルダーが気になって仕方がありませんでした。モクモクと枝葉を髪の毛として木の幹に顔のパーツを嵌め込んで、そして、服やら装飾品をその地域地域で彩ってご当地の特色をくっつけるのです。

 たこ焼きは大阪ですね。ウニは……北海道。落花生は千葉。蜜柑は……愛媛でしょうか和歌山でしょうか……もしかしたら広島かしれませんね。

 

「アイスコーヒーしかなくてごめんね」 

 

 そう言いながら、先輩はアイスコーヒーの入ったグラスとストローにガムシロップ、ミルクを持って来てくれました。

 

「ありがとうございます。先輩はお水ですか?」

 

「ええ、昨日も飲み過ぎちゃってさ。本当はまだ昨日のお酒抜けてないのよね」

 

 「いかんいかん」と先輩は続けて言いながら自分の頭を二度ほどぺんぺんと叩きました。

 

「先輩はきれい好きなんですね。私の部屋が恥ずかしくなります」

 

「まあ、部屋はその人の心を移すって言うから、それによく友達呼ぶしね」

 

 そう言われてしまうと、まるで私の心が汚れてしまっているようではありませんか……そりゃ……ゴミ箱に的を外して床に転がってしまった紙くずをそのままにしたり、使いっぱなしに出しっぱなしで寝そべっている不摂生は私が悪いのですけれど……

 

「先輩はモッくんが好きなんですか?」

 

 私の内心がささくれ立ってしまわないうちに話題を変えることにしました。「えっ」と言う先輩に、私がテレビの上のキーホルダーを指さすと、「ああ、ほら、実家に帰った友達とかがお土産に買って来てくれるのよ。お菓子とかでも嬉しいんだけど、一人じゃ食べきれないから」と言うのです。

 「それに太っちゃうし」と無理矢理脇腹のお肉を摘んで見せる先輩は少し太った方が良いと私は思いました。

 私もそんなに肉付きの良い方ではありませんが、先輩に少しならお裾分けできると思います。私はお肉を、先輩は胸を……お互いの利害に一致した素晴らしいトレードだと思ったのは私が少しばかし酔っているからだろうと思うのです。

 先輩はコップの淵を指でなぞりながら何やら物思いに耽っている様子でした。

 

 お酒が抜けたのですね。そう思ったのですが……

 

「ねえ、葉山ちゃんは彼氏とかいるの」急にそんなことを真梨子先輩は言い出したのでした… 

 

「いません。彼氏だなんて」

 

 私は即答しました。本当に居ないのですから仕方がありません。

 

「そうなんだ……でも、」

 

 即答した私に真梨子先輩の優しい眼差しが向きました。私は、次ぎに先輩の口から

飛び出すでしょう言葉を予測するかのように「彼氏なんて、できたことありません。告白されたこともありませんし、したこともありません。だから、真梨子先輩が噂になってることもしたことはありません。これで良いですか」と早口を言うと、わざと底に残った珈琲を大きな音を立てて飲み干そうと懸命になったのでした。

 

「そうなんだ、でも、」

 

「ま……」

 

 まだ言いますか。と再び口を開いた私を今度は真梨子先輩が制しました。私の口には細くて長い先輩の人差し指が当てられ、すっかり出鼻をくじかれてしまったのです。

 

「でも、恋愛に興味はあるでしょ?」

 

「それは……そんなの……わかりません……」

 

 私の酔いが一度に冷めてしまったのは言うまでもありません。先輩はきっと男の人に不自由などしたことがないのだろうと思います。今日の飲み会でも、部長をはじめ、男子部員は根こそぎ真梨子先輩にぞっこんでしたもの。男同士で野球拳はじめた外野をほったらかして、特視すべきは真梨子先輩。と先輩と同回生の男性先輩方はなんとか真梨子先輩の隣に陣取ろうと、何かにつけては寄って来ていました。その度に私はまるで『邪魔だ』と言われんばかりに、背中を何度も膝で押されるのです。いっそのことどいてあげましょうか。と思うも立ち上がろうとすると、今度は真梨子先輩が私に腕を絡ませて、どこにも行かせてもらえないのです。

 

 私にどうしろと言うのですか!

 

 甘ったるいカクテルをちびちびと飲みながら、次からは芋を頼んで酔いに任せて、群がる男子部員に一喝してやろう。そう思ったくらいですもの。

 

 容姿うんぬんはこの際どこかに埋め置くとして、私は性格が偏屈ですし……話し上手ではありませんから、きっと異性も同性も近寄りたくないのです……

 私はそんな風に誰に何を言われたわけでもないのに、思い込みで落ち込んで憂鬱とすっかり俯いて、しばらくの沈黙をつくってしまいました。そうです、こんな私だから駄目なのですね。もう真梨子先輩も私を家に誘ってくれたりはしないことでしょう。

 こんな可愛くない私なのですから……

 

「そうだ。葉山ちゃん明日予定無いって言ってたよね」

 

「はい。特に何もありません」

 

「明日ね、大学で文芸サークルでBBQするんだけど、葉山ちゃんもおいでよ」良いことを思いついた。と言わんばかりに先輩は私の手を取ってそう言います。

 

「そう言えばいつも同じ場所でやってますね。でも、私は美術部ですよ」

 

 文芸部のBBQに部外者の私が行っても仕方が無いと思ったので、そのままを口にしました。

 

「いいの、いいの。ほら、文芸部って文化祭で美術部に外注するからさ、飲み会もBBQも美術部員ウエルカムなのよ。お世話になるんだしね。だから葉山ちゃんも是非!」

 

「でも」 

 

「予定ないんでしょ」

 

「はい」

 

「なら決定!交流しないと恋も生まれないもんねえ」

 

 そう言って意地悪そうに笑う真梨子先輩を見ると、なぜだか私は罠にはまってしまったような、そんな変な気持ちになってしまいました。話しからすれ、明日行われるBBQにお誘いしてもらっただけだと言うのに……

 

 「葉山ちゃんにぴったりな男の子紹介してあげるからねえ」さらに、面白そうに先輩は続けます。「いえ、紹介とかそう言うのはいいです。いりませんからね」BBQに参加することは吝かではありませんし、真梨子先輩は面白くて優しい先輩ですから仲良くしてもらえたら……そんな風にも思います。ですが、だからと言って、男性を紹介してほしいとは、これっぽっちも思いません。

 

 私には恋など……お子様の私には恋なんてまだまだ早いのです。

 

 それに、真梨子先輩の紹介する男性は、きっと派手な人に決まっています。髪の毛は金色で首にも指にもひょっとしたら耳にも、銀色のアクセサリーをこれ見よがしに身に着けて、歩くたびにじゃらじゃらと、熊よけのような音を出すに決まっています。

 そんな人は嫌です。好みや理想と言うのは考えたことがありませんけれど……けれど、別に容姿が格好良くなくても良いですから、身長が私よりも高くて……偏屈な私でも傍にいてくれる優しい人であれば……それだけで良いと思います。

 

 

 ○

 

 

 時刻がすっかり深夜に変わった頃、長居も先輩に迷惑ですし、明日BBQに参加するのであれば、シャワーを浴びて着替えなければなりません。こう言っては恥ずかしいのですけれど、私は飲み会に遅刻をしそうになったので、走りました。なので汗をかいてしまっていて、今も湿っぽい下着が気持ち悪いのです。

 なので「それでは、私はそろそろ帰ります。着替えもしたいですし」と言ったのですが…… 

 

 「シャワーここで浴びちゃいなよ」と真梨子先輩がさも当然と言わんばかりに、さらりと言ってしまうので、すっかり、間抜けてしまった私は立ち上がるタイミングを見失ってしまいました。

 

「でも、それも含めて帰ります」

 

 半ば自分でも意味不明です。と思ったのですが私はそう口走りました。まさかまさかの先輩の言動に平静を装いつつもしっかりと動揺してしまっていたようです。

 

「シャワーだけっ。ねっ、シャワー浴びたら帰っていいから」

 

 困った顔をして食い下がる先輩の顔を見つめていた私でした。ですが、なんとも必死に私を引き留めてくれる先輩に、少し嬉しくなってしまった私は、こともあろうに「シャワーだけいただきます」と玄関へ行くために立ち上がらず先輩に案内されて、脱衣所へ向かうために立ち上がってしまったのでした。

 

 先輩のアパートのお風呂場も私のマンションのお風呂場も大きさとしては大差ありませんでした。なので、後は個人的な趣味と言いますか、真梨子先輩の性格の世界ですね。私のお風呂場とは違って、真梨子先輩のお風呂場にはシャンプーひとつとってみても、種類は豊富でしたし、トリートメントなどはさらに……先輩は髪の毛を染めているだけに髪のお手入れも大変なのでしょうか。私は髪の毛を染めたことがありませんから、そこのところはよくわかりませんでした。

 とりあえず、香りの良いシャンプーで髪の毛を洗ってから、次ぎに体を……と思ったのですが、何せボディーソープも多いのです。中には英語の表記のものまでありました。とりあえず、英語表記のものは使わないことにして、並んだ缶ジュースほどの大きさの容器を手にとってみます。ラベルに眼を歩かせますと大抵が香水のように香りについての表記がなされてありました。

 

「ピンクローズの香り……」

 

 私は思わずそう表記されたボトルを顔の近くまでもっていくと、まじまじと見つめてしまいました。

 別段、バラが好きなわけではありません。ただ、私の実家では母親が庭にバラの花を数種類植えており、その中にピンクローズのあったのです。確かにバラは色合い鮮やかに綺麗な花ですけれど、一度として香りを感じたことはありません。

 あんなに大輪の花を数多く咲かせると言うのに、季節こそ違いますけれど、こじんまりな花をあまたと咲かせる金木犀の方が香りが強いのはどこか理不尽です。私は子供ながらもそう思っていました。なので、『ピンクローズの香り』と読んで、興味をそそられてしまったのです。

 少しだけ小指の先につけて嗅いでみますと、仄かに甘い香りがしました。そうなのです、居酒屋で香った先輩のあの香りなのです。ですが、その香りは儚く一時の夢をみているような……そんな頃には無臭となってしまいます。

 ボトルには『瞬きの夢のごとく甘美な香り』と書かれてありました。

 

 なるほど。と納得した私なのでした。

 

 その後も、アップルミントやオレンジなど色々なボトルの香りを嗅いで遊んでみたのですが、その内に鼻の中がむずむずしてきましたので、そろそろ体を洗いましょう。と無臭ながら私に馴染み深い固形石鹸を手に取ったのでした。固形石鹸は馴染みが深いのですが、卵の形をした物は、はじめて見ましたし手に取りました。

 

「タオル、洗濯機の上に置いとくから」

 

 前代未聞の泡立ちに、まるでホイップクリームのよう!と愉快な気持ちになっていると、磨りガラスの嵌め込まれているガラス戸越しにそんな真梨子先輩の声が聞こえました。

「ありがとうございます。使わせて頂きます」

 

 真梨子先輩のことですから、ひょっとしたら悪戯な笑みを浮かべながらドアを開けるかもしれません。私は急いで体を洗います。体を洗う音が聞こえたところで、覗かれてしまえば為す術はありませんが……

 

 先輩はドアを開けることはしませんでした。ですが、私はとても申し訳無い気持ちになってしまったのです。

 それと言うのも「あっ、そうだ、固形石鹸が洗顔だから、卵っぽいやつね。すっべすべになるよお。後は適当に使ってね」脱衣所を出て行きすがら、真梨子先輩は声を弾ませてそう教えてくれました。それはまるで、美味しいお菓子をわざわざ私のために取り置いてくれたお姉さんのように…………

 

「えっ……あ……はい……」

 誤魔化すようにとりあえず返事をしました私でした。

 

 真梨子先輩。ごめんなさい。

 

 申し訳なく思いつつも、再びホイップのような泡で顔を洗って見ますと、真梨子先輩の言うとおり、すっべすべになりました。お餅のように吸い付くくせにすっべすべになるのです。それを言うならば、全身がすっべすべになりました。何せ同じ洗顔石鹸で体を洗ったのですから……

 風呂場を出ると、ドラム式洗濯機が仕事をしており、その上にバスタオルと封を切られていない下着。そして淡い黄色のパジャマが置いてありました。

 

「先輩!こんなのって!」

 

 私は取る物もとりあえず、脱衣所から顔だけを出して、居間でテレビを見ているのでしょう先輩に大きな声で言います。

 

「あれ。下着小さかった?脱いであった下着でサイズ見たんだけど」

 

 先輩は親戚の家に泊まりに来た従姉妹に言うようになんともあっけらかんと答えるではありませんか。

 

 私はそう言うことを聞いているのはありません!

 

「違います。私の服はどうしたんですか」

 

「今頃は、泡だらけだと思うよ」 にかっと笑った先輩でした。

 

洗濯機の中を覗くと、見覚えのあるキュロットスカートとブラウスが泡だらけになって洗濯機の中をぐるぐると回っています。

 

「してやられた……」 

 

 すっかり真梨子先輩の術中にはまってしまった私はどうすることもできません。ですから、やむなく用意された衣類を身に纏って先輩の居る居間へ戻ったのでした。

 てっきりテレビを見ているものと思っていたのですが、居間に戻ってみると、テーブルの上には参考書と専門書が並べられ。それを読みながら先輩はノートに万年筆を走らせていました。

 

「うん、可愛い、思った通り葉山ちゃんは明るい色もよく似合うね。服、私のと一緒に洗濯したけど、気にしないでしょ?」

 

 手を止め、先輩の対面に腰を降ろした私に麦茶を振る舞ってくれながら先輩は言います。

 

「気にしますよ」

 

 明るい色が似合うだなんて……私自身思ったこともありませんでしたし……言われたこともはじめてでしたから……

 

「えっ」

 

「これじゃ帰れないじゃないですか!先輩は何を考えてるんですか」

明るい色が似合うと言われて嬉し恥ずかしの心中を隠すために、私は少々声を荒げてしまいました。

 

「こっち来て、いちようお布団敷いたけど、ベットが良かったらベット使ってね」

 

「先輩」 

 

「一晩だけ。良いでしょ。お願い……誰かが居てくれると、落ち着くの」

 

 どうしたことでしょう、今までは私のことを弄ぶかのように接していた先輩だったと言うのに、この時ばかりは余裕の色は消え去り……どうにも精一杯の笑みだったように感じたのです。

 

 先輩は勉強をしていますから、邪魔をするのも悪いでしょうし、それに明日も予定ができてしまいましたから、やはり早く寝てしまった方が懸命です。私はこれ以上自分自身が嫌いになってしまわないうちに、黙って布団の潜り込みました。本当はもう二言三言と会話をしてから……お礼やらも言ってから……眠りにつくのが本来なのでしょうけれど……これが今の私にできる精一杯の甘え方なのだろうと思います。やっぱり……こんな自分が大嫌いです。

 

 布団で眠るのは中学生以来ですから、なんとなくの違和感に、高く感じる天上に、私はなかなか寝付けないで何度も寝返りを打っていました。襖からもれる居間の灯りを見ながら、流れるようにペン先がノートを撫でる音を聞きながら……

 てっきり先輩は遊びほうけてばかりと、服装から勝手な印象と先入観でもって決めつけていました。きっと、心の片隅では真梨子先輩をバカにしていたのですね。

 今日一番の嫌な私、大発見です。

 

「眠れない?」

 

 私が一人でごそごそとしていると、襖が開いて顔を覗かせた真梨子先輩が私に声を掛けてくれました。

 

「いいえ」

 

 私も大学生ですから、『眠れません』とは言えません。

 

「言うの忘れちゃってた」

 

 そう言うと先輩は一度、顔を引っ込めてどこかを開けると、ブラウスとフレアスカートをそれぞれ片手に持って、私の寝ている和室へ入って来ました。

 

「明日これ着て行ってね。サイズは大丈夫だと思うからさ」

 

 布団から顔だけを出して薄暗い真梨子先輩の顔を見つめていた私は、言葉を忘れてとても不思議な面持ちとなってしまったのです。襟周りにささやかなレースを施してあるブラウスと涼しげな青地に白い水玉模様のスカートを持つ先輩は三つ編みで一つに束ね。鼈甲を思わせる透き通った薄い黄色のフレームに上品な楕円を描くレンズの眼鏡をかけていました。

 きっと品格正し眼鏡なのでしょう。それが似合ってしまう先輩も品格がそれ相応と言うことなのでしょうか……

 

「はい」

 

 無為自然とそう答えてしまっていました。

 

「よかった。おやすみ」

 

「先輩」

 

「何?」

 

「あの古平さんとおっしゃる方は先輩の彼氏なんですか?」

 

「えっ?古平君が……またどうして」

 

「王様ゲームですよ。先輩と古平さんはグルだったんですよね」

 

 先に私に割り箸を渡しましたし。古平さんはほとんど考えることなく、8番と4番と言いましたから、明瞭に先輩と古平さんはグルだったに違いありません。

 

「うん。葉山ちゃんとお話したくてさ。でも古平君は彼氏じゃないよ、古平君には小春日さんって言う彼女がいるもん」

 

「そうなんですか、変なことを聞きました。おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 食い下がることもせず。襖が閉められた後。私は天上を見上げながら、あれは本当に真梨子先輩だったのだろうか……と考えてしまいます。どうやら、私は玉響微睡んでいたようで、先輩はいつの間にか小さい犬のイラストが散りばめられた可愛らしいパジャマに着替えていました。

  顔も化粧をしていないはずなのに、ほとんど居酒屋に居た時の顔と変わりませんでしたし……変わった言えば唇の色くらなものです。

 美術部に入部してからすぐに『魔女っ子真梨子』こと真梨子先輩の噂を同性の先輩から聞いた時は、それはそれは淫猥で淫乱で……だらしがなくて……でも、最後はキューピットだと……教えてもらいました。

 大学構内で何度か真梨子先輩を見かけたことはありましたけれど、いつも露出度の高い派手な服装をしてましたので、噂はキューピットを除いては本当なのでしょうね。そう思って疑いもしてきませんでした。

 ひょんなことから、こうして先輩の家にお泊まりすることになってしまいました。はっきり言って迷惑です。そう思っていたのはシャワーからあがった頃までで、今はなんだか……従姉妹の家に遊びに来た……そんな面持ちです。そして、今は先輩に対する私の気持ちも随分と様変わりしました。噂は所詮噂でしかありませんね。何処の誰が何の目的でそんな誹謗中傷ともとれるような噂を流したのかは知りませんけれど、

少なくとも私は真梨子先輩と言う女性は淫猥でも淫乱でもだらしなくない。整理整頓と自分磨きをしっかりできる立派な女性であると確信しています。私だって見習わなければならないところも沢山見えてきましたし……

 

 しばらくはそんな風に影さえも見えない『誰か』に対して激昂しては頬を膨らませていた私でしたけれど、重くなった瞼を押し上げられなくなって来た時、朦朧とする意識の中、自然と思えたのです。

 

 私にもこんな優しいお姉さんが居たら良かったのに……と。

 

 

 ○

 

 

 翌朝。真梨子先輩の部屋で目覚めた私は、上体を起こしてから眼を擦りながら、昨日の回想をしてはようやく、どうして自分が自宅で目覚めていないのかを納得することができました。

 

「おはようございます」

 

 恐る恐る襖を開けてみますと、テーブルの上には1人分の食事が用意されてあり、私の嫌いな服装の真梨子先輩が忙しなく通り過ぎて行くところでした。

 なんと懐かしくもご無沙汰な料理なのでしょう。私がぼおっと湯気を讃えるそれらを凝視していると「朝ご飯食べてね。私は買い出しとかあるから、一足先に大学にいかなくちゃいけないのよ。お皿のそのままにしててくれて良いから。じゃあ行ってきます」

 寝坊でもしたのでしょうか、とても慌てた真梨子先輩は口早に私にそう伝えると、平静を装いつつも、足早に玄関に駆けて行ってしまいました。

 ドアが閉まる音がしてから、

 

 「はい」と言った私はまだパジャマ姿でしたし、顔も洗ってさえいませんでした……

 

 とにもかくにも、顔を洗った私は、まだ指に吸い付くお肌をぺちぺちと叩きながら、朝食の前に腰を降ろすと、湯気を讃える出来たてほやほやのご飯にお味噌汁、焼き立ての油の乗った分厚い銀鮭。鰹節が添えられたほうれん草の御浸し、後は豆腐に卵焼き。これぞ混じりっ気なしの贅沢な和食です。こんな充実した朝食は実家でお母さんが作ってくれていた時以来でして、下宿をはじめてから、食パン2枚が私の朝食の基本ですから。随分とグレードが落ちたものだと今更ながら思ってしまいました。

 

 

「いただきます」

 

 パン食では、時々割愛してしまう、食前食後の挨拶もこのような和食を前にすると、『せぬ者は食べるべからず』と言われているようで、自然と合掌してしまいますね。

 真梨子先輩が出て行ってしまったので、私はいつも通り一人の食卓です。ですが、どうしてでしょう、お味噌汁を飲むたびに、ほうれん草をもにゅもにゅとしていると、実家にいるようで、今にも『夏美。早く食べないと遅刻するわよ』とお母さんの声が台所から聞こえて来そうな気がしてならないのでした。

 

 もちろん、お味噌汁の味はお母さんの味とは違いましたけれど……けれど……この朝食に込められた私への愛情は、なんら変わりないのだろうと思います。

 お母さんも仕事に行く前に、ちゃんと朝ご飯を作ってくれました。なので、いつも慌てて家を飛び出すのです。トースターでパンをチンと言わせれば、朝の連続テレビ小説もゆっくりと見られたでしょうに……真梨子先輩だって、私のためにこんな立派な朝食を用意しさえしなければ、もっと余裕をもって出掛けられたはずなのですから。

 

 誰もが忙しない早朝に、起き出せば温かい朝ご飯が用意されていると言うことは、とてもとても幸せなことですね……だから、私はとても幸せ者なのです。

 しっかりと味わってから『ごちそうさま』をした私は、食器を台所へ持って行くと、『お皿のそのままにしててくれて良いから』と言ってくれた真梨子先輩の言葉を無視してお皿を洗うと、まったく同じ食器が並べられてある、乾燥カゴの中に並べました。

 

 それぐらいしないと、私が恥ずかしいですもの。

 

 努力家で優しくて、包容力があって料理ができて。すっかり、真梨子先輩を尊敬してしまった私は、窓越しに風に揺られているのが見えるキュロットスカートとブラウスを一瞥してから、せっかくの好意を無駄には出来ません。と和室に戻って布団を畳んで、先輩の用意してくれたブラウスとフレアスカートに着替えをはじめたのでした。

 

 サイズピッタリの洋服に袖を通すと、途端にオレンジを思わせる爽快感と林檎のような後味のよい甘い香りが私の鼻腔をくすぐります。きっと先輩がブラウスに香水をふってくれたに違いありません。

 

「良い匂い」

 

 私は深呼吸をしました。柑橘系であるにもかかわらず刺激的ではなく、まるで毬(いが)のとれた栗のように、ただ、まろやかな香りなのです。私は今まで香水をつけたことがありませんでしたけれど、お気に入りの香りに包まれると言うのも悪くありません。むしろ、大素敵です。そんな風に思ってみると、なぜだかBBQに行くのが楽しみになってきてしまったのでした。

 

 足取り軽く鏡台の前に立って、昨日のシャンプーのおかげでしょうか珍しく寝癖なく真っ直ぐ伸びた髪の毛をヘヤーブラシでとき、戸締まりを指さし確認をしてから、玄関へ向かいます。

 すると下駄箱の上に目立つハートのマグネットが置かれてあり、その下にはメモと鍵が置いてありました。もちろん鍵についているキーホルダーはモッくんでした、林檎を被っているところからして、青森でしょうか。

 

 私はサンダルを履いてからメモを取らずに、文字のみを読み取ると。鍵を持って外に出ます。ドアに鍵をかけてから、メモに書いてあったとおりにドアの隣にあるガスメータの納められた、私の膝ぐらいまであるドアを開けると、その中のコンクリートの床の円筒形の缶が置かれてあり、同じ形状の鍵が2本並べてありました。丁度、私の持っている鍵を加えると扇の形になります。

 後の2本の鍵にもそれぞれ、サクランボとカステラのモッくんがつけてありましたので、私は「山形と長崎」と呟きながら鍵を置くと、メーターのドアをしっかりと閉め、そして、大股で大学へ向かって歩き始めたのでした。

 

 

 ◇

 

 

 私は仁王だってその世界を凝視していた。いいや睨み付けていたと言っても過言ではない。

 駅前にある書店の中に入っているレンタルビデオショップで私はすでに半時ほど、精神をすり減らしながら、その是非を問い続け、半ば我が愛しのジョニーにその主導権を渡すまいと不毛なる抗争を繰り広げていたのである。

 汗ばんだ手には洋画作品が2本。いずれも恋愛モノであることを付け加えたならば、私の可愛らしさが少しばかりは理解してもらえようかと思う。

 その私が、人恋しさに誰にも打ち明けられぬ願望と乙女の肌を求め、カモフラージュ作品を2本も借り、その散財を糧に果たして本丸に迫ろうとしているのだが、天王山への扉は容易にくぐれそうでありながら、どうしても私はその一歩を踏み出せずにいた。

 店員を確認するに、今晩に限って全てが男子であることはすでに調査済みであり、今晩を逃すと、また一週間と時を待たねばならない。果たして、このささくれ立った心中でもって後一週間、情緒不安定なジョニーを縛り付けておけるか自信が私にはない。

 図書でもって窘めようかとも思ったが、図書は窘めた後の処分に困る。捨てるに捨てられず、かといっていつまでも部屋に据え置くと言うのもどうかと思う。その点レンタル作品であれば、堪能の後、閉店後の回収BOXに放り込んでおけば万事問題はなく、後顧の憂いも皆無であるとお墨付きをもらっているようなものなのだ。

 

 だから私は今まさに、桃色天国の扉を、エアコンの冷風に揺らめく蛍光ピンクの暖簾と言う扉をこの手で開き、目眩く官能の境地へ!男子にのみ味わうことを許された桃源郷へ!悦楽の園へ!夢と浪漫のみが詰まった大きくも柔らかいお乳の世界へ!

踏み込もうと試みているのである。

 

 私はついに咆哮をあげるジョニーに押し負け、従順なる欲情の僕として、生唾を飲み込むと共に、大きなそれは大きな一歩を踏み出したのであった。

 

 いざ行かん!桃色の世界へ!

 

「やっほー。恭君何してんの」

 

 暖簾に手を伸ばしたところで、私の背中に冷や汗が走った。それはもはや悪寒に似ていたかもしれない。

 

「先輩こそ、こんな夜更けに何をやってるんですか!」

 

 私が狼狽しながら、必死に平静を保ちつつ、振り返ってそう言うと、「DVD借りに来たんだよ」真梨子先輩はそう言いながらアクションものの新作を1本私に見せてくれた。

 レンタルビデオ店にビデオを借りに来ずして何をしにくるというのだろうか……我ながら阿呆な質問をしたと思った矢先。

 年の頃ならば私と同世代であろう男が、桃色天国の扉をくぐって現実世界へ帰還を果たした。にやついた表情からすれお目当ての女神に出会えたのだろう……だが、真梨子先輩の姿に気が付くや、タイトルを見られまいと、慌てて手にしたDVDを後ろ手に隠した所行はなんとも殊勝な心懸けである。私は同士としてこれには敬意を表した。

 

「そう言うことかあ。恭君も借りるんでしょ?」

 

「別に……」私は即答した。

 

 『もちろん借りますよ。借りるに決まってるじゃないですか。その為にだけ来たんですから』と私の心中を代弁してくれるヒューマノイドがいたなならば、今すぐここに召喚したい。

 つまり……自分ではそんなことを口が裂けても言えるわけがないのだ。

 

「えっと……もしかして、私のせいかな」

 

 DVDの納められてあるケースを口許にやりながら、真梨子先輩はいらぬ気遣いを披露してくれた。

 たとえ、そうであっても『そうです。先輩が来なきゃ、今頃は桃色天国でうはうはでしたよ』などとも口が裂けても言えないし、さすがにそこまでは思っていない。

 

 私は泣く泣く桃色の世界に背を向けて、レジカウンターへ向かうことにした。このまま立ち尽くしたところで、何がどうなるわけでもなければ、好転するはずなど微塵も期待できないのである。それならば、さっさと家に帰ってふて寝をするか、布団に飛び込んで涙を瀑布のように流して心中を清らかにした方が良いに決まっている。

 

「ねえ」 

 

 すれ違おうとした私の腕を取って、真梨子先輩はそう言うと「一緒に行こうよ」と事もあろうに先陣を切って、女人禁制、男子の園へ堂々と入って行ったのであった。

 

「私はじめて入ったけど、なんか色々とすごいね」

 

 先輩は嬉しそうに喜々として手に取るとパッケージ裏などを見ては「へえ」「えぇ」と感想を漏らしていた。

 一方の私は、目のやり場に困った挙げ句、今にも眩暈を催しそうに気分を悪くしていたのであった……本来は逆の立場であるべきが健全であろうと思う。思いたいのであるが、どこに眼をやっても、妙齢たる婦女があられもない姿を露呈しているのであるからして、私の視線は最終的には地面に向かわざるを得ない……

 

 そして「恭君はどんなの借りるの」とあっけらかんと聞いて来る先輩を見て私は早々と、桃源郷から脱出したのであった……

 

 暖簾をくぐって、思わず手に取っていたのはパッケージに筋肉隆々のマッチョが輝かしいポージングをしている映画であり、それをまじまじと見て、私はどこかほっとしてしまった。日頃、真梨子先輩の姿を見ているだけに、真梨子先輩が1枚2枚脱いだだけだろう。と安易に先輩に対しては失礼極まりない考えでいたのだが……その1枚2枚の差は歴然としていた。口の中に爆竹を押し込まれたようである。

 

 どうしたの。と言いながら真梨子先輩が出てきたのだが……

 

「恭君って大きな胸が好きなんでしょ」と大きなお乳のみをセレクトした作品を2枚私に突きだしたのである。

 

「古平君が前に言ってた」と小さく続けて……

 

「私にはそんな趣味はありません。それは古平の趣味です」

 

 私はきっぱりそう言うと、今度こそ、レジカウンターへ小走りに向かった。これ以上、真梨子先輩に弄ばれてたまるか。大きなお乳の真梨子先輩がそんな卑猥なDVDを手に持っているだけで、私のジョニーはお腹一杯なのだ!

 

「えっ、先輩……」  

 

 私が早口にレンタル日数を伝え、精算の後、専用のバッグにDVDが納められるのを待っていると、その隣で真梨子先輩が「2泊3日でお願いします」と小銭入れを手に桃色DVDも含めてレンタルしていたのである……その光景に私も唖然としてしまったが、アルバイトだろう、私よりも年下の男子店員は職務を淡々とこなしながらも、2度「タイトルにお間違いはありませんか」と微笑みを浮かべる真梨子先輩に問いかけ「はい」と2度答えた先輩の顔をちらちらと幾度も見ていた。最後の目線は明確に先輩の胸元に向いていたと私は断言したい。

 

 先輩は何を考えているのだろうか……

 

「そう言えば先輩。こんな夜更に一人で出歩くなんて危ないじゃないですか」

 

 書店を先輩と一緒に出た私は、人通りもまばらな夜道を歩調を同じく歩き出してすぐそう言った。

 確かにこの都市とも田舎とも言い難い界隈であれば、人の集いがまばらな分、夜中、1人歩きの婦女を後ろから押し倒すような不埒漢もそうそういないだろう……けれど、万が一と考えたならば……やはり危なっかしいことこの上ない。

 男子と違い年頃の女性は、万が一に、その一度に失うモノが多すぎる。

 

「参考……えっと雑誌でも買おうかなあって」

 

 DVDの入った専用バッグを後ろ手に、夜空を見上げながら言う先輩であったが、

私が「小銭入れで雑誌を買いにですか」と言うと「するどいね」と少し舌を出して、戯けた表情をつくったのであった。

 あっさりと白状した先輩は「実はね……」と話し出し、眉間に皺を寄せ、腕に鳥肌を並べながら『G』が台所に出現したのだと語った。

 夜ごと徘徊して家から家へと渡り歩く流浪モノにして、突然思わぬところから出現してはその俊足をこれ見よがしに披露して冷蔵庫の下などに姿をくらます。

 鮮やかな容姿であれば、その身とて虫網で捉えて観賞用にしないでもないが、闇に目立たぬ焦げ茶色の体からしても、丸めた新聞紙かはたまた蠅叩きでこれに応戦して、最後には、文明兵器によってこれを撃退しなければ、おちおち眠れやしない。それがGなのである。

 

 私はそんなGを現代の忍びである。そう思っている。

 

 大袈裟に語ってみたが、別段私は気にもせず、出たら出たで迎え撃つだけであると、年中大きく構えている。だが、婦女の中にはこれを気持ち悪しと迎え撃つこともできなければ、姿が見えなくなってなお『この家のどこかに居る』と言う現実的な恐怖に恐々として眠ることもままならないと聞いた事がある。

 きっと真梨子先輩もこのタイプの婦女であるに違いない。しかしながら、真梨子先輩のようなタイプの方が可愛らしいではないか。G一匹に驚いて、助けを求めないながらも、危ない夜中に家を出てしまうのだ。あくまでも個人的な意見である事を明瞭に言っておきたい。もしもこれが、G出現と共に、何を思うでもなく、手頃な得物を携え、逃げまどうGを追い回すアマゾネス的な勇猛さを持っていると言うのも婦女の可愛らしさに欠ける。

 

「そう言うことだからさ………」

 

 フェミンにかつ品格良い腕時計を見てから真梨子先輩は私に申し訳なさそうにそう言った。

 

「わかりました。誰あろう先輩の一大事とあっては、仕方がありません」

 

私は胸を張ってそう言ったのであった。

 

「ありがと!恭君はやっぱり頼りになる!」

 

 そう言いながら安堵を顔に浮かべた先輩は黄色い雰囲気を醸しながら両腕を広げたので、私は次に先輩がとる行動を予測して、なんとなくこれに備えることにした。

 

「なんでファイティングポーズ?」

 

とりあえず拳を顔の前に並べてみた私に、先輩が心外と言わんばかりのアヒル口でもって言う。

 

「なんとなくです」

 

 本当に何となくなのであるからして、『なんとなく』としか答えようがなかった。もしかしたら……いいや、きっと備えなければ今頃は先輩の髪の毛の香りを嗅ぎながら、胸の辺りにある果実の感触を文字通り胸一杯に味わいながら、そのまま昇天していたか……はたまた桃源郷が遠くに見えていたかもしれない。

 そう思えば至極残念であったと後悔こそしたいと思う。

 

 

 ◇

 

 

 最後に「絶対に来てよ。私あの触角がダメなのよ」と念を押した先輩と別れて、私は一散に部屋に帰ると早速、Gに有効と思われる得物を探した。まずは蠅叩きである。後は……残量わずかな殺虫剤と新聞紙……並べて見ても、なんとも頼りがいのない顔ぶれである。特に新聞紙に至っては、先輩の部屋で現地調達が叶う品であって、わざわざ私が持って行かなくとも良い。そう考え直した私は丸めた新聞を元に戻すことにした。するとその途中で新聞の間から、切った爪がパラパラとふりかけのように畳みの上に四散した。

 

 私は黙って新聞紙を放り投げると、蠅叩きと殺虫剤のみを携えて部屋を飛び出し、駐輪場に止めてある。我が愛車、ペガサス号に跨ると、備え付けられた前カゴに得物を納め、力強くペダルをこぎ出したのであった。

 白い車体に、ハンドル中央部分に傘を固定するための器具が取り付けられてあるこのペガサス号は私の下宿するアパートの大家さんから借りている自転車である。なんでも、代々この自転車を借りる学生はこの自転車に名前をつけると言うので、私は所々錆びの浮いた自転車にペガサスと優美にも雄大な名を与えた。傘の器具を一角に見立てて名付けたのだが、後にそれではペガサスではなくユニコーンではないか……と気が付いたことには気が付いたのだが、ユニコーンよりもペガサスの方がしっくりくるので結局ペガサスのままにした。

 そのついでにもう一つ間抜けな話しを急遽しなければならなくなった。カゴの中で転がる殺虫剤を信号待ちの時に見やると、その外装には『ハエ・蚊に一撃!!』と大きな赤文字で書かれてあったのである。殺虫剤であるからして、どんな虫にも人間にとっても有害であろうとは思う。だがしかし、生命力が半端ではないGに果たして効果が期待できるのだろうか……缶にここまで、でかでかと『ハエ・蚊に一撃』と歌っているからには、蠅と蚊には絶大なる効力を有しているのだろう……だからと言ってその他の虫にも効果が絶大であると言う汎用性に期待はできない。何せ相手はGなのだ。発見したその刹那に命を絶たねば、次ぎにそのチャンスが訪れるのはいつになるかわからない。私は色々と考えを巡らせた後に、やはり物理的に攻撃するべきであろう。と100円均一で購入した蠅叩きに並々ならぬ期待を寄せたのであった。

「遅いよ恭君!」

 

 蠅叩きを主力に携え、いちよう殺虫剤をポケットに先輩の部屋の前に立つと呼び鈴を鳴らす前にドアが開き、玄関にはサンダルを履いたまま、私の分のDVDが入った専用バッグを持った先輩が私を迎えてくれた。

 「絶対に来てよ。絶対よ。」と何度も念を押す先輩は最後には「じゃあこれ預かっとく」と私のバッグを引ったくったのであった。

 そこまで信用されていないのか、と落胆する一方でなぜだかそんな仕草が可愛らしく思えてしまった私は、きっと、誰かに頼られると言う喜びに歯を浮かせてしまっていたのだろう。これも男子の嵯峨というものである。

 

「これでも急いだんですよ。台所でしたよね」

 

 お邪魔します、と先輩の横を通って部屋にあがった私は、地下迷宮にてミノタウロスの襲撃を今か今かと待ち構えるテセウスのように、蠅叩きを振りかざしたまま台所へ向かった。

 

 「恭君、これ使おうか」と小さな声で言う先輩に振り返ってみると、どこから持ち出したのか先輩の手には、春時、活動を開始した家の中に潜む虫どもを一網打尽にすべく使用する、家中殺虫タイプのブタンガスの入れ物のような……肉まんのような形の缶であった。ちなみに足踏み式であり、一度踏んでしまえば、約3時間は家の中に入ることはできない。

 そんな最終兵器をこの真夜中に使用することはできませんよ先輩……と私は何度か首を横に振ってみせた。

 G相手に声を潜めると言うのもなんだかおかしな気分であるが、小声で話しかけられると、なぜだか小声か無言で返事をしなければならないように思えて思わず声を潜めてしまうのは摩訶不思議な反射行動である。

 

 居間側にある柱には湯沸かしだろう、リモコンのような物が備え付けられてあり、蛍光グリーン色が現在の時刻が深夜であることを再認識させてくれた。

 台所は整理整頓されてあったが、まな板の上にはプラスチック製だろう赤いボールが置いてあり、鶏の唐揚げでも仕込んでいたのだろうか、ニンニクと生姜の匂いのする黒いタレの中に丁度良い大きさに切られた鶏肉と思しき肉の塊が沈められたあった。包丁も出しっぱなしなところを見ると、肉を投入したまさにその瞬間にGが現れたらしい。  

 とは言え、大凡台所のどこにもそれらしい姿が見当たらない。姿がなければどうしようもない。そしてGは鳴き声を上げないのである。私は随分と長丁場を覚悟しなければなるまいと臍を固めて事に当たることにした。

 

「いた?もう終わった?」と廊下からは声はすれども姿は見えず、先輩が相変わらず小声でそう聞いてくるので「もう少しです」と答えておいた。

 私は考えた、そして殺虫剤を使おうと決めた。兎を巣から追い出す時は煙であぶり、巣から飛び出したところを捉える。Gにもこの手しかあるまい、家具や家電の隙間に殺虫剤を吹き込んで驚いて……はたまた苦し紛れに飛び出して来たGを蠅叩きで……常套手段だろうと思ったのである。

 

 名付けて『飛んで火にいる夏の虫作戦』である。 

 

 だが、私の部屋ならばいざ知らず、繊細な先輩の部屋で殺虫剤を振り回すはどうかと思う。なので、とりあえず私は得物をシンクの上に置くと、ボールにラップで蓋をし、念のためにその上に鍋の蓋でもって唐揚げの保護処置を施してから、作戦を遂行することにしたのであった。

 

 事態が動いたのは「ねえ、まだなの?」としびれを切らした先輩の声が平常時の大きさに戻りつつあった頃合い……

 丁度、廊下から台所に繋がる廊下沿いに置かれてあった冷蔵庫と床の隙間に殺虫剤を噴射した時であった。

 

 小さき忍びがついにお出ましたのである。

 

 見事な成虫にして、その瞬発力のすさまじいことと言ったら、噴射と同時に重力から脱するスペースシャトルのごとく、音速の勢いで飛び出したかと思うと、左右にフェイントで私の振り下ろす蠅叩きをひらりと身かわしながら、縦横無尽に台所中を駆け回る。私も負けじと左手の殺虫剤を噴射し続けながらこれを追撃し、要所では蠅叩きを振り下ろす。廊下からは先輩の声が聞こえた気がしたが、それに応じている余裕などありはしない。

 こいつだけは、余裕をかましていては私がやられる!そんな気概でもって全力で望まなければなるまい、何せ忍びなのである!

 そんな攻防が数十秒ほど展開されてから、私とGは見交わしながら対峙するかたちとなって、膠着状態となったいた。

 殺虫剤の効力にて、弱ったのかはたまた疲れたのか……もしかして私の出方を窺っているのか……それはあまりにもばかげているにしても、もどかしくは私の持つエクスカリバーこと蠅叩きの間合い外にGが陣取っていることである。加えて、手の平一枚分で届くのだからもどかしいことこの上ない。

 

 Gは少しの間、触角を上下左右に気持ち悪く動かしていたが、やがて、意気消沈したかのように、それを地面にだらりと垂らしてしまった。

 好機!とばかりに私は妙齢たる婦女を夜中道へ追い出した悪しき忍びに天誅を振り降ろすために半歩踏み込んで蠅叩きを振るった。

 刹那にはその決着はつくだろう。私はGの成れの果てを見下ろしては、この部屋に忍び込んだ根本を彼岸の彼方で後悔しくされ。と薄気味悪い微笑みを浮かべ、先輩から賞賛の弁とともに、熱き抱擁を賜るのである。

 

 この一撃に私の淡い桃色の夢が詰まっているのである!

 

「ほぎゃ」

 

 もちろん、Gの発した声ではない。恥ずかしながら私が人生ではじめて発した声でであった……

 

 私の夢をのせた一撃は、Gが突如と広げた羽によって床のみを叩き、羽音が鮮明に聞こえるほどに私の顔の近くを飛び過ぎたGを避けるために私は無理矢理な体勢のまま、パスタやら小麦粉やら乾物が並べられた収納に体当たりをし、上から落ちてきたごま油の瓶に横腹を強打されてしまった。

 

 言葉にならない痛みに腹筋を痙攣させながら、Gの行方をさぐると、スローモーションにてその所在が明かとなる。

 右肩あがりに曲線を描いたGはまず、廊下の壁に頭から突撃し、壁にへばりつくことなく、重力にのみ従って間抜けにも背中から廊下の床に落ちると、大して藻掻くこともせずに、反動にて身を起こすと、玄関へ向かって猛スピードで疾走をはじめたのである。

 事もあろうに廊下にはGを一番忌み嫌う真梨子先輩がいる……脇腹の痛みも忘れて、起きあがった私は、クラウチングスタート風に転びそうになりながら何とか体勢を立て直し、廊下へ向かおうとしたのだが、その前に「キャー」とわかりやすい先輩の悲鳴が聞こえたかと思うと、廊下から肉まん型の缶が床を飛びはねながら、居間の方へ姿を消し行くではないか、そして、居間には白煙が上がり始めるのである。

 

「おい!」

 

 Gと一緒に薬にまみれるのはごめん被る。仕方がなく手をついて、玄関へ向かおうとしていた下半身を捻りあげて従わせ、テレビの斜め向かいテーブルの横で白煙を激しく噴射する缶を手に取ると、無呼吸のままベランダへ飛び出して、手投げ弾を投げ返す映画の主人公のように力の限り、背高泡立草に蹂躙された空き地へ投擲したのであった。

 眼が染みたし、服も薬品臭かった……喉も心なしか、いがいがする……それでも、最悪は脱したと思いたい。窓を全開にしたまま、換気扇を回しに部屋の中へ戻ると、先輩の悲鳴がもう一度聞こえてから廊下の途中にあるドアが勢いよく閉まった。

 

 

 ◇

 

 

「先輩、大丈夫ですか」 

 

 とりあえずトラウマになっていなければ良いのだが……と思いつつ、ドア越しに私がそう言うと「37度にして!早く!」とえらく反響する真梨子先輩の声が聞こえた。

 

「何をですか」

 

「台所の湯沸かし!」

 

 どうやらそこが風呂場へと通じるドアであったらしい。

 

 私は台所へ向かうと柱の湯沸かしの『運転』と書かれたオレンジ色のボタンを押した。すると、時刻のみを刻んでいた蛍光グリーンが『40』に表示を変えるではないか。後は『ぬるい』と書かれた水色のボタンを何度か押して設定温度を『37』にしてから、再びドアの前に行き「37度にしました」と先輩に声を掛けた。

 

 すでにシャワーの音が微かに漏れているかぎりは肝心な先輩には聞こえていないだろう。

 

「そう言うことか……」 

 

 そして、私は玄関に落ちているDVD入りのバッグを回収に向かい、玄関前でものの見事に煎餅状になっているGの残骸を発見して、先輩がどうして急に風呂場へ駆け込んだのか……現在進行形でシャワーを浴びているのか……その全てを悟った。

 

 皆まで言うのは酷と言うものであろう……Gにとっても先輩にとっても……

 

 私はGの残骸をテッシュに拭い取ると、その足でベランダへ行き、未だ若干白煙の漂う空き地へそれを放り投げた。

 Gよ。どうせ叩き潰されるのであれば、力任せに振り下ろされる私の蠅叩きの手に落ちるよりも、真梨子先輩の足の裏で引導を渡された方が結果は同じであっても幾ばくかは救われたはずだ。来世ではもっと可愛がられる猫かハムスターにでも生まれてほしいと思う。いかに忌み嫌われようとも一寸の虫にも五分の魂と言うからには供養の心がなくてはならない。ゴミ箱に投げ入れず、土に還ることのできる空き地へ放ったのは私からの最後の手向けでもあったのだ。

 さて、Gの弔いは終わった。だがしかし、それはそれは深いにも不快な傷を心に負ってしまった先輩になんと言葉を掛けたものだろう……結局のところ、私は何をしに来たのだろうか……まずは項垂れるべきだろうか……何にしてもGを駆除したの先輩であり、私はと言うと殺虫剤からこの部屋を守ったことと、後処理をしたに過ぎないのである……

 そこまで考えて、私は思い出したようにいがいがする喉と涙が止め処なく流れる眼を洗うことにしたのであった。

 換気扇によって窓から引っ張り込まれる微風を涼やかと感じながら、台所に佇んでいた私は、妙な衝動に駆られてしまった。衝動と言うよりは気が付いてしまったと言うべきだろうと思う。

 

 それは隣の部屋とを仕切る壁に背をぴったりと合わせたクローゼットであった。きっとこの中には、真梨子先輩の妖艶たる衣類が数多と納められていることだろう……本来であるならば、そう思ってこれを開けて中を見てみたいと言う衝動に駆られることは皆無なのである。なのであるが、真梨子先輩についてある種の疑問を抱いていた私は、どうにもこうにもこのクローゼットの中身が気になって仕方がなかった。クローゼットの前に立って、私は思案した。この行為は大凡先輩への裏切り行為にあたるやもしれない。しかし、私の考えが正しければ、私は大手を振って先輩を敬い接することができるようになるのだ。

 真梨子先輩は普段、それは露出度の高い衣服を纏い、これ見よがしに自分のプロポーションを餌に男子どもの視線を一点集めている。だが、私は気になっていたのである。真梨子先輩は一見して、ただ生地の少ないを身だしなみと無駄に衣類を選んでいるように見える。しかしながら真梨子先輩の身に着けている靴はいつみても、垢抜けているのである。色合いは派手な赤や黄色であれども、くすんだそれらの色は安っぽい派手さを微塵も感じさせず、風合いや気品だけを兼ね備えている。ブランドの有無こそ、疎い私には皆目見当もつかなかったが……

 

 それでも、靴はその人間性がありありと現れると言う。それを信じて疑わない私は、慎み深くもそれでいて存在感をしっかりと残して行く、そんな良い作りの靴を履きこなす先輩の真の姿が、噂に沿うような淫乱婦女であろうとは俄に信じることができないでいたのだ。

 私は溜息の後にクローゼットの扉に手を掛けた。本人の居ぬ間に勝手に家具に触れる心苦しさと罪悪の念は常に私の胸をずきずきと突き刺した。だが、希望をこそ願えばこの中を私は見なければならないのである。先輩を人として尊敬できるようになるためにも!

 己の器量の小さきを言い訳に、または大義名分にして私はついに扉を開いたのである。

 

 時間にして数秒の後、私は溜息と共に静かにクローゼットの扉を閉めた。マグネットを使用していないクローゼットであるからして、そこそこの代物なのだろう。そう思ったのはどういう心境によるものなのだろうか……安堵の余裕か、逃避のための逃げ道なのか……

 やはり開けるべきではなかった。虚しさと罪悪感だけが私を支配しているようで、なんとも申し訳ない気持ちである。

 信じるために。信じようとして意を決したと言うのに、良きも悪きも、いずれの確信が得られようとも、罪悪の念のみが残されるのは理不尽な話しだと私は私自身にいいたい。

 

 傘で空を飛べることを試したくて、己の身を持って世紀の実験を行ったと言うのに、飛んだ後すぐに後悔するような……そんなやるせなさである。 

 

 真梨子先輩は私が勝手にクローゼットの中を見たことは知るよしもない。だから、黙っていれば一生先輩に私の不届きな所行が知れることはあるまい……なのに、先輩に謝らねばなるまい。そう思ってしまうのは私のどうしようもない不器用なところ………自ら火中の栗を拾いに飛び込まんでも良いだろうに………

 

 私はそんなことを考えながら、玄関に落ちたままになっているDVDが納められてあるバッグを拾いあげると、居間のテーブルの上に置くため、廊下を往復した。

 バッグをテーブルの上に置き終えたまさにそのタイミングで「恭君」と呼ぶ声がしたので「なんですか」とドアの前まで小走りに向かった。

 

 先輩はその私に、

 

「下着取って来てくれない?」と軽く言うのである。

 

「無理です」私が即答したことは言うまでもない。

 

 トラウマの件では、私もかなりの責任を感じている次第であり、少しばかりの使いっ走りであれば喜んで拝役するつもりであったが、下着を取りに行けと言われても、純然に困る。まだ下着を買ってこいと言われた方が幾分ましである。

 さすがに、先輩の桜花の園をまさぐるわけにもいかなければ、そもそも、私は下着の納められた場所を知らない。

 

「じゃあ、出るから恭君、眼つむってて」

 

 案外トラウマなどはないのかも知れない。人間も動物であるからして、いかに恐怖意識を抱いていようとも、順応能力が備わっているかぎり、これを克服することとて有り得ない話しではない。直に踏みつぶしたことによって、むしろ荒療治なれども先輩は、すっかりGを克服したのやも………

 

「ちゃんと掃除もしておきましたから、私は帰ります」

 

 考えてみれば、Gの一件が解決を見た時点で私が先輩の部屋に胡座をかいている必要は無い。

 

「ありがと。お茶でも飲んでいきなよ」

 

 そう言う先輩の軽い声を聞きつつ、下着が無いと言うことはタオルを捲いて出てくるのだろうか。と想像した私は、鼻の下を伸ばすことなくベランダの戸を閉め、カーテンを引っ張っておいた。これで外から部屋の中を見ることはできないはずである。

 

「それでは先輩おやすみなさい」

 

 そっとドアの前を通り過ぎ、玄関で靴に足をねじ込みながら私は言った。

 

 すると、

 

「うそ、本当に帰っちゃうの!」大きな声でそう言いながらなんと真梨子先輩が脱衣所から出て来たのである。

 想像通りにバスタオルを一枚捲いた姿であった。結い上げた髪と湯上がりの頬は仄かにピンク色で艶々しくそれはそれは、私の欲情を騒ぎ立てた……

 

「わっ」

 

 唖然とそんな姿をしっかりと見てから、おくらばせな声を出した私は、狼狽のあまり先輩のサンダルに踵を取られ、尻餅をつきながら外に転がり出ると、追い剥ぎに終われる旅人のように階段を駆け下りたのだった……

 これでは先輩も追うに終えまい。そう思えたのは階段の前に止めたペガサス号に跨り、がむしゃらに少しの間ペダルを回転させたところでの話しである。もはや、先輩の姿に鼓動を高鳴らせたのか、心肺機能において呼吸が激しくなっているのかさえ定かではなかった。

 

 

 ◇

 

 

 今夜は後悔ばかりである。

 ようやく冷静になれた私は、坂道の前にペガサス号を押してゆっくりと歩いていた。時刻で言うなればそろそろ日付も変わる頃だろうと思う。

 結局、クローゼットの件を謝ることも、不甲斐なさを詫びることもしなかった……と言うかできなかった。

 そればかりか、真梨子先輩に欲情して一目散に逃げ出してしまった始末である。今度先輩に会った時になんと言えば良いだろうか……

『風呂上がりの先輩は色っぽかったですよ』と一様褒め言葉に聞こえなくもない台詞を言えば………もれなく殴られるだろう……先輩が苦笑でこれを流したとしても、外野がこれを聞き逃すわけもなく、はたして私は誰かに殴られることになる。

 反省をしてるのか、していないのか……またも先輩の妖艶たるバスタオル姿を思い出しては、恍惚とする私がいる……私も男子の端くれであるがゆえに、これも正常且つ当然の反応であるのだが、やはり婦女の体に興味があり、特にお乳が好きな私であれども、それを真っ向から表に出しては人としての品格が問われてしまう。

 

 猫を被っても犬を被っても、それはひた隠しにしたいのである。 

 

 先輩には部屋に残してきたDVDと蠅叩きで許してもらうことにしよう。殺虫剤は恐らく空っけつであろうと思う。

 アクション好きな先輩だが、女性であれば恋愛モノとてお口に合うだろう。それに、私があのDVDを部屋に持ち帰ったところで意味がない。

 

 何せ私の部屋にはDVDプレーヤーがないのだから………

 

 

 

 

 初秋の頃。法事で帰郷した私は、十五夜が迫る夕暮れ時に下宿へ戻って来た。つまり一人、オーバー夏休みを堪能していたのである。

 とは言え、明日は履修登録の最終日とあって、その日は日付が変わる時分まで履修予定を画策しては、勉学に怠けるか青春を謳歌するかを天秤に……あるいは来年を見据えて、悩んだあげく。どっち付かずの妥協点でめでたく合意に至った。優柔不断と言うか、わざわざ危ない橋も渡らなければ、叩いて橋も渡らない。私らしい決断と言える。

 翌朝、イの一番に混み合うでもない事務局へ赴くと、昨夜、知恵熱むんむんに書き上げた履修登録申請書を提出し、火曜日の欄が1コマずつ枠がずれていることを指摘され、泣く泣く書き直してようやく受理された……昨夜、懇切丁寧に清書したと言うのに……それが破棄され、その場しのぎと言わんばかりに書き殴ったそれが受理されると言うのも素直に腑に落とせない。

 講義は軒並みオリエンテーションであり、すでに履修登録を提出した私にとってしてみれば受講するだけ野暮と言うものである。ゆえに私は事務局から直接、本館からグラウンドを挟んだ先にある部室棟へ向かったのだった。

 文芸部の薄っぺらい木製のドアの前に立つと室内から忙しなくキーボードを叩く音が耳に痛い……端的な私への嫌がらせではなかろうかとも訝しんでみながらも、私はそっとドアを開けて部屋の中に入った。ドアを閉める私に気が付いたのはフィギュアのスカートを弄んではその中身に浪漫を見出す偏執部長だけであり、その他の構成員は軒並み文芸誌に掲載する自分の作品を必死に執筆中のご様子であった。

  私は、空いている席に腰を降ろし、リュックから真梨子先輩に借りているノートPCを出すと電源にコンセントを入れる前にスイッチボタンを押した。

 使用できるようになるまで数十秒の間、両隣を見ればそれぞれに神話辞書やら、武具辞典など、作品に応じて資料集めも抜かりはないらしい……その点、私ときたら…… 

 

「夏目君。ちょっとちょっと」

 

 そろそろHDDも落ち着く頃合いだろうとマウスの上に手の平を置くと、急に部長のお気に入り『フランソワーズちゃん』が突然私の顔の横に現れたので驚いた。

 それはいつもの部長の手口であり、安易に予見できて然るべきだと言うのに、2週間のブランクがすっかりその勘を鈍らせてしまったらしい……

 

「大丈夫ですよ。入稿までには原稿あげますから」

  

 上座に据えられた部長席まで部長の後塵を拝して私は表情だけは真面目にそう言った。

 この時季だけ部長兼編集長になる部長は、作品こそ書かないのだが、顔に似合わず画像編集ソフトをものの見事に使いこなす腕の持ち主で、文芸誌の表紙やカラー刷りのスポンサーページなど、とにかく眼を惹かなければならないページと言うページを担当していたりする。顔に似合わず、インテリなのである。

 編集長のくせに、執筆の進まない者に激励することもなければ尻をひっぱたくこともせず、すると言えば、指の止まっている者をフィギュアのスカートの中を覗く時と同じ視線でなめ回すことくらいだろうか……精神的にはこちらの方が辛いものがある。だから、ごく少数ながら図書館で執筆している女子部員もいたりする。

 表だっては口に出さないながら、部長の存在が気色悪いのだろう……

 

「君ってその……同性愛者って本当かい?」 

 

「はい?」

 

 いきなり何を言い出すのかと思いきや……よりにもよってどうして同性愛者なのだろうか……

 

「真梨子さんの部屋に真梨子さんの部屋に上がり込んだくせに。上がり込んだくせに!真梨子さんの………真梨子さんの裸を見て逃げ出したそうじゃないか!」

 

 何と言う妄言を公衆の面前でそれも大声で吐き散らかしてくれているのだろうか。そして、どうして、部長が鼻を啜りながら目頭を押さえているのですか……

 

「誰がそんなことを言ったのか知りませんが、そんな事があるはずないでしょ!ありえません!天地神明に誓ってありえません!」

 

 私は涙を拭う部長に背を向け、聞き耳を立ててすっかり静まりかえった部屋中に、いいや。廊下まで届く声量でもってこれを完全否定してみせた。

 

 まあ、確かに似たような出来事はあったが、決して『裸』ではない。その一歩手前であった。

 

「そうかい。そうだよね。真梨子さんが君なんかをね。そうだよね。そう言えば最近、真梨子さんは?」

 

 窒息寸前のフナが水に戻されたように、部長は急に鮮やかな口臭と共に、私の肩を何度も叩いた。

 

「知りませんよ。何で私が知ってるんですか」

 

 そう言えば、ここのところ真梨子先輩からなんの連絡もない……とは言え、友人でもなければ恋仲でもあるまいし、必要以上に連絡を取り合う必然性は皆無。だから、連絡がなかろうとも不自然なことは微塵もない。 

 

「だって、いつも夏目君は真梨子さんに磯巾着してるじゃないか。だから知ってると思ってさ」

 

 夏休み明けてから一度も来て無いんだ……部長はそう言うとキーボードの上に突っ伏して嘘泣きを演じていた。

 

 ディスプレイに出力される『あああああああああああああああああ』の文字が部長の心情を表しているようで面白かった。

 

 今更ながらであるが、部長は真梨子先輩のことに好意を寄せている。だから真梨子先輩と私が気さくに会話をしていたり、時には共に昼食や帰宅の途についている様子を随分と妬ましく思っているようで、私への言動にいちいち棘があるのはそのためだ。

 

 もしも、真梨子先輩へ対して部長が抱く想いが純粋な恋心であったなら、私とて応援することは吝かではない。

 だが、お乳に括れにお尻にと到底、純粋を遥か遠くに置き忘れてしまったのか、初めから持ち合わせていなかったのか……とにかく部長の抱く想いは邪なること最悪のごとし。『真梨子先輩』ではなく明瞭に『真梨子先輩の体』を愛しているのであって、そんな変態の一手を酒の席で語る男を応援する阿呆は世界を探してもどこにも見つかるまい。

 もしも、現れたのならば、片っ端から私が蠅叩きでもって百叩きにしてくれる。自分で言うのもなんだが、正義うんぬんなど知ったことではない。

 

 私は乙女にのみ味方なのである!

 

 胸に湧き上がる高揚感と目前に並ぶ情けない『あ』の文字。この温度差に耐えられなくなった私は何を言うでもなく、部長をほったらかして、座席に戻ると真梨子先輩のノートPCをかたかたと打ち始めた。

 部長からすれ、私が真梨子先輩の所有物を使っていることすら気に食わないらしく、私がPCを借用する以前は部屋中に珈琲の芳しい香りが漂っていたと言うのに、私が珈琲を飲んでいて、誤って真梨子先輩のPCにこぼしては取り返しがつかないと、部長による独断と偏見のみで『飲食禁止令』を発令し、なぜか私が白い眼で見られ……これには真梨子先輩も苦笑しているしかなかった。

 私も一様執筆の体を保っているが、実際には伊呂波歌を打っては消しを繰り返しているだけだった。だからこそ、部長の一方的な真梨子先輩への愛情劇を語る余裕があるわけである。

 部長に呼ばれすっかり言い損じてしまった。実のところ、私は作品の何もかもの準備も出来ていなければ、一字一句として筆が進んでいなかった。そのうち何か思いつくだろうとか……最悪、過去の作品を使い回そう……そんな悠長に考えていての結果である……まさに本末転倒。

 しかしまあ、私が同性愛者と指をさされる日が来ようとはお天道様でもこればかりは予見できなかっただろう。婦女を愛してやまずお乳の大好きな私をどこからどう見れば同性愛者に見えるのだろうか。確かに、部長のように『俺の夢は真梨子様のお乳を揉むことだ!』と本人のいる席で叫んだり、露骨に『健全な男子です』と口に出すこともなければ、部長のようにフィギュアのスカートを捲って喜んだりと行動にも表さない。そんな私であるが、だからと言って同性愛者とは些か飛躍しすぎだと思う。

 人の噂も75日。日数にして2ヶ月少々を知らぬ存ぜぬと肯定も否定もせずに涼しい顔をしてさえいれば、噂なんぞと言うものは無為自然と下火になってゆくものだ。下手に騒ぐと古平辺りが面白がって火に火薬を注ぐことにもなりかねない。だから、変に手を加えず自然風化を待つが上策なのだ。流れのまにまに焦ることのない自分を賞賛しつつ、だが、どうして全ての例が部長なのだろうか……私の基本は部長なのか……と軽い吐き気をもよおして、それこそ有り得ない。と部長を見やると、丁度、部長が私をなめ回している最中だったので、さらに気分が悪くなってしまった…………

 

 

 ○

 

 

 夏休みを実家に帰らずに、下宿先で……いいえ、ほとんどの時間を真梨子先輩の部屋で過ごしていた私は、その日も今晩の夕食は何にしようかな。と考えながら大学と真反対にあるスーパーマーケットで野菜やら総菜を物色していました。するとまさにその時に「今から来れる?」と先輩からメールが入ったのです。だから私は「今スーパーにいるので、すぐに行きます」と返信をしました。

 ちょっとしたお菓子と飲料をお土産に買って、真梨子先輩のアパートへ向かいました。

 別に私の方から「行ってもいいですか」と連絡したこともなければ、毎度、真梨子先輩からお誘いがあって、足を向けるのです……と先に言っておきます。先週は毎日のように通っていましたから、さすがに控えなければ……と思ったりしてみたのですが、今週も先週同様に今日で5連続となってしまいました。

 先輩の部屋は居心地も良いですし、先輩の料理は美味しいし……今では一緒に料理をしたりもするまでになりました。真梨子先輩は交友関係に苦労はしていないでしょう。それなのに、私ばかりを可愛がってくれるのでお誘いを無碍にもできません。

 だから5連続なのです。

 

 それに……私は先輩と違って、親密と呼べる友人もいませんし……部屋にいても、ただ怠惰に日々を過ごすだけですから…………その証拠に先輩の家に通いはじめた当初、その帰り道では口の周りの筋肉がすっかり疲れてしまっていました。日頃、よほど私は表情がないのだろうとこれほど思ったことはありません。ですが、今日ではそんなこともすっかりなくなり、美術部の先輩方からも「最近よく笑うようになったね」と言われるまでになりました。それだけ真梨子先輩と一緒に過ごす一時は面白愉快なので、お誘いをされてしまうと、どうしても行かずにはいられないのです!。

 

「いらっしゃい」

 

 そう言ってドアを開けてくれた先輩の姿も5回目です。

 

「この前、先輩が言ってた長靴スナック買って来ましたよ。ついでにデロリンソーダもちゃんと買いました」

 

 廊下を先に歩きながら私がそう言うと、先輩は「わあ、楽しみ」と音符を飛ばしています。

 

「その前に夕ご飯食べましょう」 

 

「頂きます」 

 

 私は食器が伏せて並べてあるテーブルの下にお菓子の入った袋を、飲料は冷蔵庫へと持って行きます。

 今晩のメニューは素麺ですね。桐の箱に納められた細く無垢色のそれはまるで真珠のようです。そして、一束一束黒い帯で結ばれているのですから、普段私がスーパーで買っているものとは一味もふた味も違うのだろうな。と一目見てそう思える一品なのでした。

 

「これね、三輪素麺って言ってとっても美味しいのよ。お中元でもらったのを実家から送って来たのよ」

 

「でも、先輩は食べ慣れてるんですよね」 

 

「毎年送られてくるから、その時だけね」

 

 ぐらりぐらりとする鍋の中に次々と真珠素麺が流し込まれて行きます。パスタ麺よりもずっと細い素麺はお湯に浸かるなり瞬時に波に揺れる昆布のようにふにゃふにゃになってしまいます。

  

「これなんの映画ですか」

 

 調理は先輩に任せて私はテーブルの傍らに腰を降ろしてテレビの画面を見ると、そこには傷だらけの男性が、ぼろぼろのドレスを身に纏った女性をお姫様抱っこで抱え仁王だっているシーンでした。停止しているのでしょうね。ずっとそのシーンなのですから。

 

「なっちゃんはどんな映画が好きかな。テレビの前にまだ見てないのあるから好きなのかけて良いわよ」 

 

「でもこの映画はどうするんです」 

 

もうラストだもん。先輩はそう言ってから、鍋を持ち上げると、ザルの上にお湯を流し込みます。途端にもわもわと噴き上がる蒸気とお決まりの………私が楽しみにしていると、蒸気が一段落したその時にベコンッとシンクが鳴きました。この音がしなければいまいち湯切りをした感が物足りません。

 

 滝のような水道の音を聞きながら、私はテレビの前に置かれたレンタルバッグを開いて、面白そうなタイトルがないか探します。私は別に映画に関して偏った趣味はありません。ただ、できれば派手な爆発や銃撃戦に血みどろは見ていて面白いと感じません。ですがら、ホラーやスプラッター映画は見ようとも思わないのです。

 幸いと言いますか、先輩の趣向はそう言ったものではありませんで、アクションモノだろうタイトルが一本ともう一つのバッグには、恋愛モノでしょうタイトルが2枚収まっていました。

 

 気になったのが『OOセレクチョン』と可愛さをこれ見よがしにピンク色の丸文字で書かれた2枚のDVDでした。興味こそありませんでしたが、これではタイトルから何のセレクチョンなんのかがわからないではありませんか。そう思ったのでした。

 とりあえず、恋愛モノをプレイヤーに入れた私は迷うことなく再生ボタンを押しました。

 

「なんだあ、なっちゃんって恋愛モノ好きなんだ。乙女だねぇ」 

 

 小粋なおっちゃん気取りなのでしょうか。先輩は硝子皿に盛りつけられた素麺をテーブルの上に置きながら、低い声で言うのです。

 

「いいえ。先輩が好きなのかなと思って」

 

 恋愛経験のない私にとっては、恋愛映画もドラマも今ひとつ感情移入しきれず『はてな?』と首を傾げているうちに終幕を向かえてしまうのが常です。それなら、単純なアクション映画にすれば良い。そう言われてしまうとその通りです。ですが……少し……真梨子先輩がどんな恋愛模様を好むのか気になってしまったのだろうと思います。きっとこれが本心なのでしょう。

 

「桜んぼ、なっちゃん食べて良いからね」 

 

 映画のCMの間、ちゃっちゃと夕食の準備を済ませて、私の対面に腰を降ろした真梨子先輩は、盛りつけられた素麺の頂上にちょこんと乗せられた薄赤の果実を指さして、にっこりと微笑みます。

 

「遠慮なく頂きます」私は先輩と声を揃えて『いただきます』をしてから、一番に桜んぼをひょいと摘むとそのまま口の中へ運びました。果肉をかみ砕くと、途端に広がる甘酸っぱさと水っぽい甘さ……美味しい!と言い切れないのが正直に悲しいところでした、けれど白の中に紅一点と夏の趣を醸す果実は、味覚とは違った意味で十二分に味わい深く頂くことができたのでした。

 先輩お勧めの三輪素麺は確かに喉越しもよく、口の中でごわごわとしませんで、私が普段買い求める素麺とはワンランク上ですね。と私は北大路魯山人のように素麺を味わっては何度も頷いては美味を噛み締めていたのでした。

 

 一方、先輩はと言うと、お行儀悪く、素麺を啜りながら横を向いて映画を見ています。

 

 私もお行儀が悪いのを覚悟して横を向きます。すると、画面の中では丁度、若い男女が熱い抱擁を交わしているところでした。そして、流れのまにまに、濃厚にも熱烈で激しい口づけを交わすのです。私は俳優も女優さんもよくここまで演技できるものだな。と素麺を啜っていたのですが、先輩はついに啜るのを途中でやめて、その愛のシーンを食い入るように見つめているではありませんか。私としては、とりあえず、口から垂れ下がる素麺を口に入れてからにした方が良いと思いました。けれど、少女漫画の主人公の瞳のようにキラキラと瞳の奥を煌めかせて恍惚とする真梨子先輩には、決してそんな野暮ったいことは言えるはずもなく、まるで、停止ボタンを押されたように固まっている先輩を上目遣いに見ながら、さらに素麺を啜るのでした。

 

 素麺の半分以上を私の胃袋に納めて、映画一本分の時間を夕食に費やした私と先輩はエンドロールの間に食器類をシンクにへ持って行き、さっさと片付けを終えると、プレーヤーから出したDVDを見つめながら先輩が「恭君こんなの見るんだ」と呟きました。

 

「それ夏目君が借りたDVDなんですか」

 

 うん。と短く答えた真梨子先輩はもう一枚のDVDをプレーヤーの中に入れると、台所に居た私に「デロリン飲もうよ、長靴も食べよ」と悪戯に微笑むのでした。

 

「がってんです」 

 

 待ってましたと私は冷蔵庫から赤色と青色に分離したデロリンソーダーを取り出すと、先輩の分をテーブルに置き私は手に持ったデロリンを床に置きました。

 そして、テーブルに下に置いた長靴スナックを取り出してテーブルの中央に置きました。

 「開けるよ」先輩は袋を手に取ると、身を乗り出してテーブルの中央で両方から引っ張り封を開ける準備をします。「はい。いつでもどうぞ」そう言った私は身を乗り出して袋の真上に顔を持って行くのです。すると、真梨子先輩と私の額がぴったりとくっついてしまいました。仄かに香る甘い先輩の髪の毛が……これから毒されてしまうようでなんとも複雑な気持ちでしたけれど、楽しみにしていたのですから、どうしようもありません。

 

「せーのっ」

 

 先輩はそう言うと幾ばくか腕に力を入れ力みます。そして、その次の時には袋の封は爽快とばかりに大きながま口を開けたのです。

 

「わあ」「臭っ」

 

 横一文字ががま口に変わった途端に、吐き出された口臭のごとく何とも言えない匂いが私と真梨子先輩の鼻腔を汚染し、ぴったりとこずき合わせていたおでこは同極の磁石のように瞬時にして互いを退け合い、それぞれに床に転がると鼻を摘んで手足をじたばたとさせました。

 長靴スナックと言うお菓子は正式には『高原のコーンスナック』と言うお菓子で、味自体はとうきびの粉をベースに香辛料を混ぜて揚げたシンプルな味わいのお菓子なのです。味も別段、不味くもなければむしろ美味しいのです。ですが、なぜだか、袋を開けたまさにその瞬間だけ、汗びっしょりの足で長靴を履いて、さらにランニングをし、数日おいた後に電子レンジでチンしたような、とにかくゴムの匂いと醗酵した汗臭ささを思わせる激臭を発するのですから不思議です。

 

 そして、そんな噂が噂を呼んで、ついたあだ名が『長靴スナック』なのです。

 

 少しの間「臭い」だの「やだぁ」だのと二人してきゃいきゃいと悪臭の余韻に浸っていたのですが、真梨子先輩よりも先に復活をとげた私は、恐いモノ見たさで今一度、ゆっくりと袋の口に顔を近づけて鼻をひくひくさせてみました。けれど、もうあの眼が冷める悪臭はどこへやら、BBQソースのような香ばしい香りがして、どうにも美味しそうではありません。本当に摩訶不思議です。

 

「次ぎデロリンデロリン」

 

 涙を拭きながら起きあがった先輩はテーブルの上に置いてあるペットボトルを両手で持つと「何色になるかなあ……虹色になれ!」と念じながらペットボトルを上下左右に全力で振りはじめます。その際、ボトルと一緒に上下左右に跳ねる髪の毛がなんともお茶目さんです。

 

 私も先輩に続いて、ボトルを両手に持つと「いきます」と一呼吸おいてから、必死になってペットボトルを振りはじめます、平均的に2分間激しく降り続けると、分離していた色同士が完全に混ざって、一色に完結するのがこのデロリンソーダと言う飲料です。なんでも、ラベルには決まったパターンはなく、振り方によって色合いが変わると書いてありますから、振り方と言うよりは混ざり具合が大きなポイントなのでしょうね。

 そうでした。忘れてはいけません。このデロリンはごく稀に色が上手く混ざりきらず虹色になることがあるとか無いとか……

 真梨子先輩が言うにはそれはそれは狂ったように振れば虹色になるそうなんですが、

一生懸命にこれでもかと髪の毛を踊らせて、デロリンを振る先輩を見ていた私は、どこか中途半端にしか振っていませんでした。

 これで、もし私のデロリンが虹色になったならどうしようと思うくらいです。

 

「どうだ!」 

 

 と息を荒くしてデロリンを机の上にどすんと置きます。その衝撃で長靴スナックの粉が少しテーブルの上にこぼれてしまいました。

 

「残念。緑色。なっちゃんは?」

 

「私は赤色でした」

 

 もしかしたら……なんて一瞬でも淡い期待を抱いた私ですから、何だか恥ずかしいです。

 

「先輩、冷蔵庫に入れますから貸してください」 

 

 私は立ち上がると、真梨子先輩にそう言いながら手を差し伸べます。「ごめんね、お願い」と先輩は前髪をかき揚げながらデロリンを私の手の上に乗せます。

 そうなのです。デロリンは炭酸飲料ですから、思いっきり振って色を変えてからすぐに蓋を開けてしまうと、内容量の約半分程度が三鞭酒のように吹き出してしまうので、振った後はしばらく寝かしておかなければ落ち着いて飲むことができないのです。

 

 購入した私が言うのもなんですが、どうしてこんな面倒くさい飲み物を考えたのでしょうか。

 

 

 ○

 

 

 コーンスナックとデロリンを交互に賞味しながら恋愛映画を鑑賞して、それから、もう一本のアクション映画を見ていました。

 前者は主人公が幼少の頃に海に流した手紙入りの小瓶がテーマとなっており、お隣さんの荷物を預かったことから、ヒロインと出会い……そのラストではそのヒロインが、主人公の流した小瓶を拾っていた。と言うストーリーでした。

 

 最後のシーンで「小瓶の手紙、何度読もうと思っても、最後の文字が滲んじゃってて……なんて書いてあったの?」とヒロインが聞きます。主人公はもうそのことをととっくの昔に忘れているのですが……「君のことを愛しています。って書いてあったんだよ」と照れながら言うのです。

 

 ヒロインは、その言葉と主人公の優しい眼差しに瞳を潤ませて「嬉しい」と呟ながら、ヒロインから主人公の胸にすがっての二人の長い抱擁。後にシルエットでのキスが行われて……エンドロールがはじまりました。

 

 画面の前では真梨子先輩がその様子を食い入るように見つめては、何度も頷きながら同じく瞳を潤ませていました。

 

 当の私はと言うと……「嘘つき」とそれだけ、ただそれだけを思っただけだったのです。

 

 もちろん手紙に『君のことを愛しています』と書かれてあった。と言う部分ではありません。それは遡ること序盤も序盤、小学校低学年ほどの主人公が祖母の墨を使って書いた手紙を小瓶に押し込んで浜辺から海に投げ込と言う場面に遡ります。

 

 何せ、私は主人公と同じ年頃に同じことをしたことがあったのです。その時は、寝る前にトムソーヤの絵本を読んでもらって、翌朝、トムソーヤの冒険に興奮冷めやらぬ私は、その絵本の中で登場する『SOS』と言う文字を新聞に入っていた広告に赤いマジックで大きく書いて……父の空けたブランデーの達磨瓶に押し込み、そして、心をときめかせながら、浜辺まで走って行くと、海に向かって力一杯に投げ込んだのです。 

 なぜだか嬉しくて嬉しくて、スキップをして……いいえ、この時はまだスキップはできませんでしたから、スキップもどきをしながら家に帰ったと思います。

 私は子供ながらに、あの小瓶は果たしてどこに流れて行くのだろう。誰が拾ってくれるのだろう。終わりが見えないほど広い海なのだから、ひょっとしかた外国に流れ着くかもしれない。そしたら、どんなお返事をくれるのだろう。瓶を投げ込んでからと言うもの、心のわくわく上昇気流が私の身体をいつだってふわふわと空へ浮かせてくれるようでした。

 

 一週間ほど経った休日に私は浜辺へ行きました。もちろんスキップもどきをしながら。だって、その週はずっと投げ込んだ瓶のことしか頭になかったのですから……学校の授業中も、お風呂に入っている時も、食事の時も……浜辺に返事が流れ着いていることを夢にまでみたくらいでした。

 

 浜辺に行ってみると、丁度引き潮時。私は浜辺を色の濃くなった普段は歩けないところを歩きながら『返事』を探していました。

 

 すると、浜辺と磯野との境目に、恰幅の良い瓶が転がっているではありませんか。しかも、中には手紙とは言えないながらも、何やら紙が入っているのです。私は鼓動を高鳴らせながら瓶を抱きかかえると、猪のように家に走って帰りました。縁側に座って足をぶらぶらさせながら、瓶の蓋を捻りあけて、中の紙を取り出そうとしました。けれど、この手紙の送り主はおっちょこちょいのようで、取り出す時のことを考えて手紙を入れなかったようなのでした。

 無理矢理押し込んである紙は、瓶を逆さにしようとも振ってみようとも一向に出てこず、困った私は蛇の生殺しとはこれいかにと恨めしく瓶を見つめると、次の瞬間には瓶を頭上に持ち上げ、大きな庭石にこれを投げつけていたのです。

 

 私の思惑通り……と言うか……とりあえず瓶は木っ端微塵となり、くしゃくしゃになった紙が乾いた土の上に落ちたわけです。私は四散した瓶の破片に気を止めることなく、紙を拾い上げました。その時手の甲に何かが触った気がしたのですが、早く返事を読みたい一心でその時は気になりませんでした。

 

 その紙は近くのクリーニング店の広告でした。

 

 広げてみると、

 

 『SOS』と赤い文字で大きく書かれてあったのです……

 

 『SOS』の意味も知らず、そもそも、ローマ字もわからない私でしたし……その頃には『パパチのクゥちゃん』と言う絵本に心を躍らせていましたから、トムソーヤのこともしっかり忘れてしまっていたのだと思います。ただ、返事の事だけを覚えていたのです。

 顔を顰めていると、今さら、手の甲が痛がゆく、そして熱いことに気が付きました。紙を左手に持って、手の甲を見やると、なんと血が出ていました。それも中指に滴るほどに……血が大嫌いで、クラスの誰かが鼻血を出した時など、一緒になって泣いてしまう私でしたから、私はもれなく大泣きをしました。それはもう喉が焼けるほどに叫びましたとも。

 

 そもそも、瓶を割った時点で「何してるの、なっちゃん?」と台所から母親の声がしてましたから「あらあら、どうしたのなっちゃんは、そんなに泣いて」と言いながら、すぐに母が来てくれたのですが………

 

「うぅ」 

 

 私はそこまで思い出して、頭を抱えました。

 

 手の傷は深くなく、洗面所で洗っていつもポッケに入れてあったクマちゃんの絆創膏を一枚貼って事足りてしまいました。

 でも、母はその後、帰って来た父に大笑いしながら私の携えていた『SOS』とかかれた広告を見せて、父と一緒にさらに大笑いをしていました。庭で手に怪我をして、泣き叫びながら、もう片方の手には『S0S』が、文字通り『助けて』と書かれた紙を私が持っていたことが、可笑しくて仕方がなったそうなのです。

 

 私からすればとても嫌な記憶です。未だにお正月など親戚が揃いますと、毎度毎度、母はこの話しをするものですから、その度に私は笑われてしまうのです。

 結局、何が言いたいのかと言うと、浜辺から瓶を投げ込んでも波に打ち返されて浜辺に戻って来てしまうと言うことが言いたかったのです。

 

 だから「嘘つき」と私は思ったのでした。

 

「これから、DVD返しに行くけど、どうする?なっちゃん帰る?」

 

 物語の中盤、ヒロインが息絶えてしまったところで、DVDを取り出して、ケースにしまいながら先輩が言います。

 

 私は「いいえ、お供します」と言ってからテーブルの上に残されたコーンスナックの袋やらデロリンのボトルをゴミ箱へ、台所へと簡単な片付けをしてから、バッグを携えた先輩と一緒に玄関へと向かったのでした。

 

 晩夏の頃を思わせる虫の音を聞きながら、静かな夏夜を歩きます。昼間よりはずっと涼しくなったからでしょうか。夜空の大三角形も気持ちよく見上げることができるのです。

 

「そう言えば、どうして映画途中でやめちゃったんですか?」

 まだ途中だったのに、私が言います。

 

「だってヒロイン死んじゃったもん」

 

「え、ヒロインですか……」

 

「誰にも言っちゃダメだよ」

 

 レンタルバッグを後ろ手に回した先輩は踵を返し、暫し後ろ向きに歩きながら私の瞳に言います。

 

 私は「誰にも言いません」と2度頷いて見せました。

 

「なんかさぁ。頼もしい男の人に守られてるヒロインっていいなあ。って思っちゃうのよねえ」

 

 お姫様抱っことかされちゃって!照れ隠しでしょうか、真梨子先輩は弾んで見せました。

 

「だから私が来た時、お姫様抱っこのシーンで止まってたんですね」

 

 「何度も見返しちゃった」と悪戯な笑みを浮かべる先輩は本当に可愛い女の子だと思いました。

 私はてっきり、派手な爆発や激しい銃撃戦。加えて、多勢に無勢を何のその、やたらと強い主人公が爽快に悪の組織を打ちのめす様に興奮していたのだとばかり思っていました。ですから、先輩のアクション映画の見方には意外と言うか……目から鱗だったのです。

 

「でも、第2のヒロイン登場の可能性もあったじゃないですか、最愛の人の命を奪われて、荒れる主人公を癒して、やがて正義に導く……みたいな第2のヒロインですよ」

 

「良くあるパターンです」私は続けて言いました。

 

「それはそうだけど……」

 

 第一に、後半はむさ苦しい男だけの熱すぎる汗臭い戦いなんて、見ていて誰も面白いとは思えません。だから、紅一点と第2のヒロインが……死んだヒロインよりも美人でグラマラスな女性の登場がかかせません。

 

「なんか、浮気してるみたいで嫌じゃない?愛してる。って言ってたくせに、死んだら終わりって言うか……すぐ次ぎに乗りかえたみたいで」

 

 この時は振り返りもしなかった先輩でした。だから、私が歩調を早めて先輩の横に並ぶと。どこか遠くを見つめて憂鬱な雰囲気を醸す先輩の横顔があったのでした。

 

「先輩は乙女チックなんですね。死んでしまっても一途にずっと愛し続けられたいなんて」 

  

「私ならそうするよ。だって、そうされたいもん」

 

 無表情で言った私に、視線だけをくれてそう言った先輩でした。

 

 レンタルビデオ店の入っている書店の自動ドアをくぐったところで「私が返して来ます」と先輩に申し出た私に先輩は「じゃあ、私はDVD見て回ってるね」と頷きと一緒にバッグを渡します。返却の受付カウンターに持って行くと店名の入った萌葱色のエプロンをした男性が対応をしてくれました。

 

「確認しますんで、少々お待ちください」

 

 髪の毛を茶色に染めた男性はきっとアルバイトでしょう。エプロンの下に着ている青いTシャツと首周りには肩が凝ってしまいそうな、ネックレスがぶら下がっていましたから。

 そうです。真梨子先輩をよく知らなかった頃の私は、真梨子先輩の友人はこんな格好をした男性ばかりだと思い込んでいました。

 でも、実際には……と言うか、まだ、男性のお友達は一人として見たことがありません。携帯で連絡を取っている姿も見かけませんし……

 先輩も携帯をあまり使わないのでしょうか。かくゆう私は『携帯を携帯しなさい』とゼミの友人に言われてもなお、ポケットにはお財布と家の鍵しか入っていません。私の携帯電話は今頃充電器の上でぬくぬくと寝息を立てていることでしょう。

 

「あの、歳のわかるもの見せてもらって良いですか。成人DVDが入ってますんで」 

 バーコードリーダーでDVDケースに貼られたバーコードを読ませる作業を黙々と続けていた店員さんが、とあるDVDケースで手を止め、腕を動かすたびにじゃらじゃらとなるネックレスに視線を向けていた私は急に目が合ってしまって、とても驚いてしまいました。

 

「学生証でいいですか」 

 

 慌てて視線を白いカウンターに写すと、ズボンの後ろポケットに入れていた財布を取り出して、学生書を店員さんに見せました。

 

 どうも。と義務的に私が見せる学生証を一瞥してから「ありがとうございました」とそっけなく言うと、店員さんはさっさとDVDをカウンター内のテーブルの上に、置くと、そのまま書籍コーナーへ行ってしまいます。

 私は今更顔をゆでだこのように熱を宿して、学生証をお財布にしまいながら、早歩きで先輩の姿を探したのです。

 

 DVDコーナーを一通り歩破した私は、蛍光ピンクの暖簾がかかった入り口の前で『まさか』と思いながら、目元をぴくぴくさせていました。

 『OOセレクチョンだ。OOセレクチョンに決まってる!』私は胸の中で、何度も何度も反芻して言います。OOセレクチョン以外の作品は真梨子先輩と一緒にこの眼でしかと鑑賞したのですから……後は未見なのはOOセレクチョンだけではありませんか! 

 そう言えば、真梨子先輩は『夏目君って~』と夏目君が借りたDVDがあることを話していましたから……絶対に夏目君が借りたに違いありません。私はまだ、真梨子先輩の口からしか聞いたことしかない、夏目君を早々と恨みました。

 人生ではじめて成人DVDを返却した私なのです……

 

 ですから………とっても!とっても恥ずかしかったんです!

 

「ごめんごめん、今日発売の本が探してたの」

 

 私はお腹の中で、お腹の虫を煮込んでいると、真梨子先輩が小走りに私の背中に声を掛けたのです。

 

「先輩!成人DVDが入ってました!学生書で年齢確認までされました!」

 

 私は先輩に詰め寄ると「恥ずかしかったです!」と言うかわりに、そう言いつつ、言い終わった後に周りに誰もいなかった幸いに安堵の息を吐きました。

 

 「うん」詰め寄る私に先輩はまるで「それがどうかしたの?」と言わんばかりにあっさりとそれだけを言ったのです。

 

「うんじゃありませんよ。夏目君は最低です。先輩にそんなDVDを返させるなんて!」

 

 夏目君は真梨子先輩に何という恥をかかせるつもりだったのでしょう。そう思っただけでも、腹が立ちます。実際は私が返してしまって、私だけがとてつもない恥ずかしい思いをしただけでしたけど………

 

 ちがうちがう。先輩は憤る私を窘めるようにそう言うと、

 

「私が借りたのよ。恭君は恋愛映画だけよ。でも、おかしいなぁなんで返却の時に年齢確認なんてするんだろ?普通は借りるときだけじゃない?」と言うではありませんか。

 

「へっ」私は本当に『へっ』とだけ言いました。これも生まれてはじめてのことです……今夜はなんだかはじめて尽くしですね。

 先輩は唖然とする私に「帰ろっ」と言うと、何を言うでもなく書店を後にしました。

 

 幾分涼しくなったとは言え、冷房の効いた店内からでると、蒸しタオルの上を歩いているような蒸し暑さに、露出度の高い服を着ている先輩が少し羨ましくなりました。

この暑さでは頭は冷えませんでしたが、確かに言われて見れば返却する時に年齢確認をするのはおかしいです。

 だとしたら……私は掻かなくても良い恥を掻いたことになります……

    

「ちなみにですけど、あのDVDは何のセレクチョンだったんですか」

 

 どんな色の箱であったとしても、中身が気になってしまうのはパンドラ以来、人間の性だと思います。

 

「気になる?」 

 

いやん、なっちゃんたら。と眼を細めて戯けてみせる先輩は、どうしてこんなに楽しそうなんでしょうか。

 

「ちなみにです」

 

「うーん。おっぱいじゃないかな。それも大きいのばっかり」

 

 細くて長い人差し指を顎に当てながら、思い出すように話す先輩です。

 

 私は先輩の隣で尽かさず周りに誰も、特に男性がいないかを確認します。隣にいる私がどうして羞恥心に駆られなければならないのかはとても不思議なのですが、その……何というか……胸の辺りに大きな果実を実らせて、容姿端麗な先輩が『そう言うこと』を言うと、どうしてでしょうか、とても卑猥に聞こえるのです。

 いいえ。卑猥とは言葉が少々悪すぎます。なんと言えば良いのでしょうか。筆舌するに困る感覚なのですが、苦し紛れにでも例えるとするならば……私が持つと汚い色でも、真梨子先輩が持つと忽ち桃色に早変わりしてしまう……やはり苦しいですね……

 

「ほら、夏目君って大きいの好きらしいから」

 

口元を痙攣させる私の頬を突きながら言う先輩。これはスレンダーな私への当て付けなのでしょうか。と刹那に黒い私が感受したのですが「そんなの知りません。それにしても先輩。よくそんなことを堂々と口に出して言えますね」とますます嬉しそうに口端を釣り上げる先輩に言ったのでした。  

 

「そんなことって?なになに?」

 

確信犯なのか、それとも本当にわかっていないのか……こういうところが真梨子先輩の摩訶不思議な……私にもよくわからない性分なのです。

 

「だから……その……」

 

 『おっぱい』だなんて私は口が裂けても言えません。今日は色々とはじめてのことがありましたから、これ以上のはじめては結構です。

 

 私は頬を赤くして、先輩の盛り上がった胸元を恨めしく見つめていると「おっぱいのことね」とすんなりと、また言うのです。

 なので私は、慎みについて先輩にお説教をしてあげなければと思い。「だから!」とまで言ったのですが……先輩のあまりの我関せずっぷりに私は言及するをすっかり諦めてしまいました。

 

「……先輩、また言っちゃいけないことを堂々と言いましたね………」

 

 私は溜息混じりに項垂れては、いつまでも首を左右に振っていたのでした。

 

 

 ◇

 

 

 部室のドアの前で白羽の矢を刺すのはやめて欲しい。もっと言うなれば、トイレから帰って来た人間にドア越しで白羽を発射するのもやめて欲しい。これではまるで私が、執筆もろくにしない暇人、もとい邪魔者のようではないか。相変わらず、部室内からはキーボードを乱打する音がのべつまくなしと聞こえていた。

 

 今日こそは円周率を三十桁まで覚えてやろうと意気込んでいたと言うのに!

 

 間違った方向に船首を向けての航行と言えども、出鼻をくじかれてしまった私は「〆切に遅れても知りませんからね」となんともそれらしいことをドアに吐いてから、白羽の矢を携えて多目的ホールへとつま先を向けたのであった。

 

 文化祭が迫りつつある昨今、何気なく廊下を歩いていても、窓の外を見ていても、または、屋上に出てみても。どこもかしこもがざわざわと、来る祭りの準備に落ち着きなく青春のエナジーを源に躍動しているように感じて仕方がない。もちろん、私とて昨日辺りから焦り出した。厳密には昨日の部活の帰りくらいからである。

 私を省いた部員達が推敲前ではあったものの、作品のページを部長に報告したからである。もちろん一字として書いていない私は「まだわかりません」適当にはぐらかした。だが、作品の総ページ数と、別刷りのページを合わせた統合総ページを部長が流れる電卓裁きで算出したところ「百ページ足りない」との結論に至った。どうやら、各々キーボードをこれでもかと、いじめていたくせに、短編ばかりを提出したらしい。

 

「夏目君。君の今何ページある?100越えてたら即ボツね。越えてなかったら、うまいこと100で揃えてよ」

   

 安易な口振りで部長は私に言ってくれた。

 

「えっと、千字詰めで百ですか……」

 

「うん。そっちの方が印刷屋に大量発注する時、安くなるんだよ。300部で4割引だから」

 

こんな時にだけ暗黙の了解が萌える草木のごとく自然的に発生する。ほかの似非小説家達は何も言わずに、ぞろぞろと席に戻り作業を続行し、残った私だけがゴルゴダの丘に磔にされた罪人のように、いつになく真剣な部長と無言の駆け引きを迫られるのであった。少なくともこの部室に神も仏もありはしないことだけは確かだ。

 100ページと言う未だに私が書き上げたことのない枚数を突き付けられ、すでにこれは夢である。と現実逃避にのみひた走っている私には米粒ほどのアイデアも浮かばなければ執筆の意欲とて缶ジュースの残渣ほどもなかった。

 

 なのに、部長は私に本日、多目的ホールで学生執行部が主導して開催される『今年度文化祭アピール検討会』に出席の旨を命じたのである。

 

 理不尽なことこの上ない。

 

 多目的ホールに入ると備え付けてあるホワイトボードにはまさにそのままの漢字とカタカナが並んでいた。すでに執行部の面々は顔を揃え、私が『文芸部』と記された三角錐の立つ窓際の席に腰を降ろすと、栗毛の女子が「どうぞ」と言って資料プリントが手渡された。彼女はきっと今年選出された書記か会計あたりだろう。

 私がそう予測する中、彼女はなんと『副会長』と書かれた三角錐の置かれた席に座ったのである。童顔で声とて可愛らしい彼女が副会長とは、いいや身体的特徴は私の個人的な偏見でしかない。むしろ、副会長自ら資料プリントの配布と言う雑務を進んでこなすその殊勝さにこそ脱帽するべきだ。

 

 残念なことはもう一つ。私とは正反対の廊下側。そこに私の美しくも華々しい百合の花であらせられる、葉山さんが咲いていることである。真面目な彼女は、早速、渡された資料プリントに視線を落としていたが、やがて、持って来ていたノートを開くとすぐに何やらプリントと対照するように、顎を左右に動かしては双眸忙しなく、時折、考え込むようにシャーペンの頭を顎に擦る仕草を私に見せてくれた。別段、私に見せているわけではないにしても、いやはやどうして相貌才媛とたおやかに、臈たけた趣が無限に湧き出でているようである。

 

 やはり葉山さんは可愛らしくも美しい。まさに花も恥じらう乙女と表すに相応しい婦女である。   

 

 筆記用具すら持ち込んでいない私であったが、何を憂うこともなく、雪のように白いお肌に絶妙な間合いで納められた眼や鼻や口が讃える葉山さんの横顔をずっと見つめていた。彼女が髪の毛を掻き上げ耳に掛けようものなら、このときめきのうちに、このときめきが原因で意識を失ってしまいたいと、高ぶる鼓動を押さえるのに必死となってしまった。

 

 テニス同好会の遅刻によって23分遅れで会議がはじまり、『執行部部長』と書かれた三角錐には、腕を組んでふんぞり返るでもなく、無意味に存在感の薄い華奢な男。『代議委員委員長』の三角錐に席する眼鏡男の方がよほど無駄な存在感が漂っている。

 ちなみに言うと後者は私の嫌いな似非インテリ風な男である。贅肉を程よく身に纏い、お洒落であると勘違いして着込んでいるボタンダウンは襟周りに窮屈。見ていると、縛られたハムさえも連想してしまう。そして、赤い縁取りの眼鏡とて、筆舌に難しいが雰囲気が似合っていない。

 お洒落ではない私が、このようにファッションチェックをするのはいかがなものかと思う。だがしかし、基本的にシャツの第一ボタンは開けておくべきであるし、お腹のお肉がのっかるほどにベルト絞り上げなくとも良い。これだけは忠告して差し上げたいと思う。

 

 先程私にプリントを配布してくれた女子は音無 響さんと言うらしく。彼女が今回の文化祭、ひいては『甘美祭』の実行委員長であるらしかった。

 会議が始まって、まず本人が最初にそう自己紹介したのであるからして間違いはないと思う。自己紹介を終えた音無さんは、プリントに沿って今回の会議の目的と注意事項、そして、過去にどのようなアピールを行って来たか。と言うことを口頭で説明してくれた。

 

 ここから↓

 

基本的に駅前でのビラ配りが慣例であるらしく、4年前に代議委員会と白熱した論争と目眩しい根回しによって学生執行部が勝ち取った。『文化祭盛り上げタイ』と背中にプリントされた、蛍光グリーンの半被を着てビラ配りをするのだそうだ。

 どうせ、話し合うだけ無駄であろう。私が開始早々から意欲を喪失する背景には、どの部・サークル・同好会も甘美祭に向けての準備に猫の手も借りたい状態であり、わざわざ単発的なピーアール活動に、関わろうと言う気はないと思う。

 ゆえに活発な意見も出なければ、誰一人として発言をすることもなく、前席で立ち上がり、今回の文化祭のテーマやらを力説する音無さんが進行のために発言を繰り返し、ものの30分も経たないうちに、毎年恒例である学生執行部構成員による駅前でのビラ配りの決定をもって幕を閉じることになるのだろう。

 

 私には直接関係の無いお話しであるが、各倶楽部やサークルに同好会が自らの模擬店やら出展を誇示してアピールできる機会に、どうして消極的であるのかにはもう一点要因がある。この一点が全ての根源と言っても過言ではないと私観では思っている。それは、委員長席の隣に座する代議委員会の存在である。

 代議委員会とは、今回のような場でなされた立案や提案の審議、決定、または予算の有無などを司る、諮問機関である。

 部やサークル・同好会においても、この機関に承認を得なければ、創設することは叶わない。ゆえに最後の関門であり、学生執行部の影に隠れてはいるものの、学生組織における最大の有権組織でもあるわけだ。

 とは言え、代議委員会が学生達の士気を能動性を尽く否定し切り捨てるようになったのは、かれこれ5年前からであると私の担当教諭は話した。と言うか、私の眼前に鎮座する現代議委員長が、委員長に就任してから歯車が狂いはじめたのである。権力に陶酔してか卒業もせず、未だに委員長の座に君臨し後輩学生達の夢を食い荒らす、驕慢にして封豕長蛇な姿と言ったら、文芸部の部費について召喚を受けた際、矢面に立たされた私は痛いほどよく知り置いている。あの男は鋸歯をちらつかせては、相手の言葉尻を捕まえて、鬼の首を取ったように胸を張る。そんな器の小さな男であるのだ。

 ボウフラのように湧いたカストロフィに何人が涙したことだろうか。

 

 あの時はこれまでの真面目な活動と年一回の文芸誌の発行の実行実績が認められ、なんとか事なきを得たのだが、真梨子先輩が居てくれなければ、私は部長の呑酸を舐めながら、夜ごとごまめの歯軋をして過ごさなければならなくなっていたことだろう。

 

 そんな厄介な阿呆漢を相手にしてまで意見しようとする英明に優れた人間もいなけ

れば、気魄に溢れた豪奢とて皆無。所詮は皆、無関心かはたまた鞠躬如の羊か、後は

恭謙な狡兎だけなのである。

 

 志ある乱世の英雄などは、全てが一度腐りきらねば現れもしない。

 

案の定、音無さんの呼びかけに誰一人として挙手する者などおらず、筆記用具を携えている者とて葉山さんただ一人と言う案配であった。それでも、音無さんの髪の毛を束ねる桃色のシュシュはまだ輝きを失っていなかった。それが一層に健気である……

思い出すと私の激昂の火種はいくらでも燻り始める。随意に何か突拍子のない提案をしでかして、一矢報いてやりたい気持ちになるのは私だけではないはずだ。

 だが、そう思う私であったのだが、凡庸たる日々をただ怠惰に過ごす凡人たる私がエキセントリックな提案を急遽思い浮かばせることなどできようはずもなく。また、一人で苦虫を噛んでいるだけでしかなかった。

 

 何とも悔しい。

 

 私が片足にて貧乏揺すりをしていると、後方のドアが閉まる音がした。そして私の数席後ろの席に何ものかが腰を据えた様子であった。どうせやる気のない遅刻人であろう。そんな輩が今一人増えたからと言って事態は好転も暗転もしない。

 まるで退屈である。とでも言いたげであった代議委員長が急に顔を顰めて私の方を睨み付けはじめたのには、刹那だけ物怖じしたものの、余程、私の貧乏揺すりが目障りなのだろう。そう理解した私は至極真面目な表情を作ると貧乏揺すりにもう片足を加えてやった。

 

 会議中に貧乏揺すりをしてはならないと言う規約はないのだ! 

 

 多目的ホールに集ってから20分が経過し、必要事項の説明を終えた音無さんは溜息を漏らしていた。幾度ともなく「提案はありませんか」と私たちに訴え掛けていた……だが、その声に答える者はとうとう誰一人としておらず……必然の帰結としてここ数年続く慣習をまた今年も繰り返さなけばならい結末を目前としていた。

 音無さんの落胆の顔色からして、意気軒昂と甘美祭りを盛り上げようと張り切っていたに違いない。それは斟酌してあまりある、去年の文化祭実行委員長も赤いシュシュをトレードマークとしていた。彼女も意気揚々と部長会などで、積極的に提案をしては審判に跳ね返され、その姿には不撓不屈と賞賛して然るべきだと、部長のお供として会議にちょくちょく顔を出していた私は目頭を熱くさせたことを覚えている。

 

 その年の文化祭が粛々と幕を閉じ、後日行われた打ち上げで、彼女は本懐の半分も遂げることができなかったと、真梨子先輩の胸に縋り、本当の涙を流して悔しがっていた。宴が酒に温まった頃合いにて、その光景は目立つことはなかった。けれど……いつも通り素面であった私は、その情景に項垂れるしかなく……あの時ほど、努力を怠った自分を呪ったことはない……

 実を言うと、飲み会の席では必ずそれを思い出すのである。彼女に罪はない、そして代議委員会にも……残念ながら罪は無い。全ては……全ては、わかっていながら何もできなかった、いいや!しなかった私にこそ罪があるのだ。

 

 あの時はまだ私も1回生であり、学内の右も左もわからなかった……だから独立不羈と孤高にレジスタンスを起こすこともままならなかったわけであるが……2年目も、今年でさえも、桃色のシュシュに色褪せの涙を流させることになるのかと思うと胸が痛む……私は臆病者でる。胸中に忘れられぬ傷を覚えてなお、何もせずにいる。言い訳や戯言ばかりを並べ、偉そうに憤慨だけしてなんとするのか!

 

「皆さんから何もなければ、これで終わりますが。最後にもう一度だけ……提案はありませんか」 

 

 力の限り握った拳は震えている。甲の皮が張り裂けてしまうのではないかと思うほど張り詰めている。良案愚案共に思い浮かばない。ただ、もどかしさに腹を煮えたぎらせているだけだ。それでも!それでも、ここで私が挙手すれば、挙手さえすれば!

 私は胸を張ると歯を食いしばって、右手の拳を解いた……

 

「美術部の葉山です。予算とかそう言うのはいらないので、部長会の有志で宣伝活動したいんですけど」 

 

 それは私ではなく、芙蓉の眥の持ち主たる葉山さんの声であった。

 

 私は中途半端にあげた右手を宙に漂わせたまま、挙手をして立ち上がった葉山さんのことを露骨に見ているしかできないでいた。

 

 正直にこれには驚いたからである。

 

「ええできますよ……ね。砂山さん」

 

 どんでん返しの趣で音無さんは希望の花を咲かせ、憎き代議委員長にそう話しを橋渡した。 

 

「まあ」

 

 砂山氏は見るからに、小馬鹿にしたようにそう答えてから、ファイルを閉じ葉山さんを嘲笑うように視線を向け、ずれてもいない眼鏡をなおした。

 

「わかりました」

 

 葉山さんは、一度だけ机の上に開いたノートに視線を落とすと、それだけを確認して、呆気なく座ってしまった。

 葉山さんには悪いが、これでは音無さんも拍子抜けだろうと思う。私とて、これから砂山氏と我ら部長会の面々との激しい論争が繰り広げられるものと心躍らせていたのだが……

 

 「一つだけ言っておくけど。内容によっては、我々代議委員会で審議する場合もあるから」舐めるように小さな目をぎょろりと葉山さんに向けて砂山氏が付け加える。最後の「くれぐれも忘れないように」と加えられた言葉に私は怒髪天と今にも殴りつけてやろうかと中途半端に彷徨っていた右手に固い拳を拵えた。

 

「美術部の提案にどうして代議委員会が口出しするんだ。執行部が関わらないかわりに全責任を部長会で分担する決まりだろう。勝手な事を言うな」

 

 私の拳を乗せて言葉を発したのは私の背中からであり、聞き覚えのある声に、私が慌てて振り返ってみると、そこには不貞不貞しい表情を浮かべた古平の姿があった。

 古平の席には『フットサル同好会』と書かれた三角錐が立っている。

 

「部長会と言っても、提案者を含めた3つ以上の倶楽部、サークル、同好会が賛同した場合だ。今のところは美術部だけなんだから、代議委員会で審議する必要はある!」

 

 古平の言葉に目くじらを立てた砂山氏は立ち上がり、激しく古平に向かってそう言い放つ。私の後ろに古平が陣取っている位置的な関係上、砂山氏の鋭い眼光が私に向けられているようで千万不快である。

 

「そっ!それでは、美術部の提案に賛同の意思を確認します、挙手して下さい!」

 

 これぞ好機と、古平と砂山氏の間に割って入ったのは葉山さんではなく、音無さんだった。砂山氏との間に執行部長を挟んで立ち上がった音無さんは千載一遇のチャンスと言わんばかりに声を張り上げたのである。

 

「フットサル同好会は賛同」

 

 まず古平が一番に挙手をし、提案した葉山さんは古平に遅れて挙手をした。葉山さんは何かを恥ずかしがっているのか……膝を摺り合わせ、口許を小さくすぼませ、心なしか頬も赤く……漫ろいでいた……

 葉山さんにかぎってお手洗いを我慢しているなどあり得ようはずなどない。たとえそうであっても有り得ないのだ。

 

「他に賛同者はいませんか」 

 

 助けを求める瞳で音無さんが言い。その隣の隣ではシャツを下腹で張り出して座り直した砂山氏がうっすらと笑みを浮かべていた。

 

 時は爛熟せり、今こそ立つときぞ!と私は一人で勝ち鬨を揚げていた。大食漢ごときに慄然とする者どもよ、今まさにあがらんとする反旗の御旗の神々しきにその濁った瞳を清めるが良い!

 軽慢たる蛮族よ!誇り高き志の前に!誠の前に!その膝を折り慚愧として、因果応報をその身に刻め!

 私は高らかとこの右手を、『一人は皆のために!皆は一人のために!』とサーベルを突き上げる三銃士のように、高らかと掲げ、砂山王国に籠絡されていた学生たちの自由と輝ける文化祭を取り戻すのだ!そして、葉山さんに賛美の言葉を賜り、お茶にお誘いすれば万事うまく行く!そう確信して疑うことを考えもしなかった。

 

 正義は必ず勝つ!そして私は「はい」と嬉し恥ずかしと頷く葉山さんを前に哄笑することだろう!

 

 私は自身を高揚させながら、まさに右手をあげようとした。

 

 あげようとしたのだが……

 

 「ソーイング同好会も賛同します」と先頭席に座する乙女に先に手を上げられてしまった……

 

「文芸部……文芸部も賛同します」

 

 遅れをとっただけでは飽きたらず……その上に舌を噛んでしまった……

 

 ああ、私はどうしてこうなのだ…………

 

 最高のタイミングで挙手をして、葉山さんから賛美の視線を賜り……その後に「ありがとう」なんて言われて……「今度お茶なんてどうですか」とお誘いしよう。そう画策していたと言うのに……ソーイング同好会に持って行かれた上に、舌を噛んでしまうなど……どうして私はこうなのだろう……

 

 挙手をしたまま、項垂れた私であった。

 

「ほかにいませんか?では、部長会として独自に宣伝活動をすると言うことで決定です」

 

 4本の腕を喜々として見つめ、一人で拍手をする音無さん。それとは対照的なのは言わずもがな砂山氏である。

 

 砂山氏がどんな不細工な顔をしようとも、言葉尻も捕まえられなければ、規約の上にも合法。まさに非の打ち所がない完璧な決定をここに見たわけである。

 平静を装いつつも冷淡な目元と独り言だろう、口元を動かす砂山氏は相当この決定が気に入らない様子であった。だが、そんなことは知ったことではない。それ以前に、自分がどれほどの学生たちが持ち込んだ提案をバッサリと切り捨て、多くの涙と謳歌すべき青春のページを破ってきたことだろうか……まさに因果応報である。

 

 悪は栄えずして等しく滅びるのだ。

 

 私は久方ぶりに胸の中がすっきり爽快であった。まるで胸に大きなトンネルが開通したかのようである。風通りの良いことと言ったらまさに快哉!と言うに相応しい。 

 そうして、一分の曇もなく会議は終了するはずであった。

 

 この忙しい時期に、厄介ごとを背負い込んだと部長や他の部員からは白い目を向けられそうであるが、一番五月蠅い部長は真梨子先輩の頼みであると、嘘をついておけば、それ以上は何も言わず、真梨子先輩親衛隊として従順な下僕となることだろう。

 

そうして、一分の曇もなく会議は終了するはずであった……あったのだが…… 

 

「いっ、今!この瞬間の青春を燃やそう!」 

 

 音無さんが会議の閉幕を宣言する一歩手前で、葉山さんは突然立ち上がると、何を思ったのか拳を高々と突き上げ、しっかりと顔を上げてそう言ったのである。

 

 会場には小さな笑い声が席巻し、砂山氏は、ばかにされたと勘違いしたのだろう。机を思いきり叩いてから大股で部屋を出て行ってしまった。

 

 私はと言えば、笑うに笑えず。かと言って、その意図を理解するに及ばす……すっかり小さくなって座席に深く座り込んだ葉山さんをただ見つめているだけであった……

 

 ○

 

 

 今年の夏休みはとても華やいだものになりました。真梨子先輩に浴衣を着せてもらって、花火大会を見に出掛けたり、盆踊りにも行きましたし、はずしてはいけません、夏祭りにも行きました。

 

 2人して買った林檎飴と綿菓子はとても美味しかったです。

 

 去年の夏休みはアパートのベランダからビルに邪魔をされながら花火を見ていましたし、祭り囃子は聞こえても、盆踊りにも夏祭りにも出掛けませんでした。そうです、確か、部屋を真っ暗にして、まるでホームシックの子供のように膝を抱えて、楽しかった子供の頃を思い出していたのでした。

 ホームシックではありません。でも、友人の少ない私は誰からも誘って貰えるわけでもなく、大学が終わればずっと1人きりです。お祭りの日も、家に帰ってから用事もありませんので、お祭りを見に行きましょう。そう思っていたのに、即席麺のラーメンを作って、1人きりの静かな部屋で食べているそんな時、ただならぬ虚無感と切ない気持ちが込み上げてきたのです。楽しいはずのお祭りへも、楽しそうだからこそ行くことができず。そして、いつの間にか膝を抱えて楽しいと深淵から笑えた幼少の頃を思い出して、ただあの頃に帰りたい。そう思っていたのでしょう……つもるところ、私は寂しかったのだろうと思います。

 

 孤独に慣れてしまうのが恐くて嫌で……でも誰も傍にいなくて……

 

 だから、今年はずっと真梨子先輩が傍に居てくれましたし、先輩の紹介で小春日さんとおっしゃる林檎のように可愛らしい人ともお友達になれたのですから。去年と同じはずがありません。

 

 それに、たとえ1人であったとしても、もう膝を抱えたりも、幼少の自分に想いを馳せたりもしないと思います。

 

 私もこの1年で少しは成長できたと思いますから。

 

 『夏』を連想させる行事を片っ端から制覇していった私と真梨子先輩は、小春日さんをまじえて、8月最後の夜に竜田川のほとりで線香花火をして過ぎ去る夏を惜しみました。

 けれど「秋は美味しいが沢山あるから、楽しみ!実家から今年も薩摩芋送ってくると思うから、先輩にも葉山さんにもお裾分けしますね」と最後まで線香花火を灯し続けた小春日さんが深甚にも清澄に言うものですから、楽しかった夏に後ろ髪を引かれて、秋に待っている素敵で楽しいことに乗り遅れてはいけません!と私も「後は栗に松茸に十五夜もありますね、そうだ、文化祭!」私と小春日さんは同回生と言うこともあり、二人して顔を見合わせて秋への期待をのみ膨らませたのです。

 

「そっかあ、文化祭だね」

 

 てっきり真梨子先輩も一緒になって黄色い声を合わせると思っていたのです。けれど先輩は、私と小春日さんの喜色満面を余所に落としてしまった線香花火をてなぐさみながら、どこか憂いた眼元でそうこぼしただけだったのでした。

 小春日さんはソーイング同好会に所属していて、文化祭の最終日にはステージにてファッションショーをされるそうです。ですから、夏休みから11月にかけてはショーに着る洋服製作にてんてこまいなのだと、食堂でお昼をご一緒した時に話してくれました。やはり同回生と言うのは気が合います。履修のことも講義のこともそうですが、何かと話題を共有できてお喋りが止まらないのですから。

 初秋を迎えて、真梨子先輩の部屋に入り浸っていた私も美術部室にひきこもることが多くなりました。美術部は個人の作品とは別に、門に立てられるアーチやその他の張りぼて、演劇部の小道具と何かと外注を受けて毎日大忙しなのです。

 私は絵もかけなければ粘土細工などもできません。ですが、釘をうったり角材の角をヤスリで取ったり、足りない画材があれば自転車に乗って買いに行きます。そんな雑用ばかりで、美術に関われない私です。でも、私はそれで良いのです、できれば、イーゼルにカンバスを置いて、デッサンなどしてみたいと思いますよ。そして、演劇部室へなど赴いて、注文の絵を即興で描いてみたりして打ち合わせもしてみたいです。

 でもそれは私にはできません。だから、私は釘を打ったり、買い出しに行ったり、雑用を一生懸命にこなすのです。地味ですが、私が買い出しに行かなければ、色は塗れませんし、お腹も空きます。そして、男手も少ない美術部では釘打ちが上手な私は思いの外重宝されるのです。

 

 

 派手や地味、理想や願望。それにかまけて私のできる事までなまじっかに済ませていてどうしますか!

 『たかだか雑用、されど雑用です』私は胸を張るでしょう。何せ私は一生懸命に頑張っているのですから!

 

 毎日を一生懸命に作業をして、慣れない作業に手に肉刺を拵えても、帰り道、それを見返してみると、どうしてか、少し嬉しくなってしまうのです。きっとそれは、普段、美術部員として美術室にいると言うのに、どこか美術部員としては蚊帳の外にいるように私自身が思い込んでいるからでしょうね。

 だから、この文化祭の前だけは、正真正銘本物の美術部員になれているように思えて嬉しくて仕方がありません。それに、多くの人が一つの目標に向かって力を合わせている姿を見るのも、自分がその一員であることも、少しこそばゆくって、でも、とっても温かいと思うのです。

 

 そんな毎日を過ごしていた私は、ふとカレンダーを見てみると、もう10月も下旬に差し掛かっているのですから、まるでタイムスリップしたような不思議な面持ちとなってしまいました。考えてみれば、朝早くに大学へ行くとそのまま夜遅くまで籠もりっきりの毎日でしたもの、昼食も夕食も大学で食べ、時には美術部の先輩たちと飲食禁止の美術部室でカップラーメンを食べたりもしました。大学を出ると言えば買い出しに向かうだけですし、家に帰っても、シャワーを浴びて寝るだけですから、そう考えて見ると光陰矢のごとしも納得できます。

 本日も手の平から指先までほわほわとすっかり握力が抜け出てしまい、新しい肉刺を数えながら下宿先に帰って来ました。

 

 さっそくシャワーを浴びて、すっきりしたところで、居間でまったりとしながら、潰れた肉刺の消毒をしようと、薬箱を取りに箪笥の上に手を伸ばしてみたのです。ずぼらに座ったまま薬箱を取ろうとしたのがいけなかったのでしょう。

 

「あぁ」

 

 薬箱に手が届かず、そのかわりに充電器に差し込んであった携帯電話が落ちて来たのです。絨毯の上で一度跳ねた携帯電話は時折、光を放ちながら、テーブルの下に横たわっていました。

 誰からだろうと、着信かまたはメール受信の有無を知らせる、ライティングに私は半月ぶりに携帯電話を開いたのでした……

 

 

 ○

 

 

 私は激しく後悔をしていました。やはり携帯は携帯するべきでした。携帯しないながらも少しは気にするべきだったのです。携帯が充電器に刺さったまま埃を被っていることも珍しくない私ですから、友人も携帯に期待をせずに家に電話をかけて来る始末なのです。

 

『本当にごめんなさい。もし許してくれるなら、私の部屋に来て。お願い。お願いします』最後のメールは今日の18時13分に受信していました。

 

 その他にもここ半月以上、毎日一通だけ真梨子先輩からメールが入っていました。最初の数日は謝罪の言葉が、その後からは『夕ご飯どうかな』とか『デロリン買って待ってます』など、遠回しな言葉で私を呼んでくれていたみたいです。そしてこの最後のメールにだけはっきりと、『私の部屋に来て』と書かれてありました。普段、先輩はメールに絵文字を沢山使って鮮やかにしています。なのに、17通を数えるメールにはそれが一切使われていないのです……

 

 先輩に何があったのかは知りません。ですが、ここ最近。いいえ、ここ2ヶ月程、先輩と会話をした記憶がありません。

 

 私は先輩に『今メール全部見ました。今から行きます』と返信をしてから、携帯を握り締め、夜の帳が降りきった外に飛び出すと、アパートの階段を降りきったところで、鍵をかけ忘れてしまったことを思い出して、慌てて階段をまた駆け上がり、ようやく残暑の厳しさを名残と保温するアスファルトの上を韋駄天走りで駆け下りていったのでした。

 

 先輩のアパートに到着すると、私はすぐに何度も呼び鈴を鳴らし、深夜であるにも関わらず「先輩。葉山です」と大きな声を出してドアを何度も叩きました。

 

 ですが、返事はありません。

 

 ドアノブを回してみると、鍵は掛かっていないではありませんか。これはいよいよ先輩の身に何かあったに違いない。そんな不吉なことも脳裏に過ぎらせつつ、私は「先輩?お邪魔します」そう言いながらゆっくりと部屋の中へ入ったのでした。

 

 居間まで一本の廊下にはテレビでしょうか、潮騒の音と蒼と白の光が灯りを灯していない部屋の中を不気味にその輪郭を映し出しています。

 居間に入ると、テレビには海の映像が映っており、その蒼白い光を全身に浴びて、その色にのみ染まった真梨子先輩がクッションを抱き締めて小さくなって居間の隅っこに座っていました。

 

「先輩。遅くなってすみません……」 

 

 『どうかしたんですか?』と続けて言いたかったのですが、私は言葉を飲み込みました。その光景は……その光景は、まるで去年の私を見ているようで。どうして真梨子先輩が部屋に灯りも灯さず、小さくなっているのか……その理由が痛いほどわかったからなのです。

 

 私の勘違いと傲慢な思い込みかもしれませんけれど……

 

 「先輩」と私が言いながら真梨子先輩の元に近づいて膝を折り、先輩の肩に手を触れると、先輩はやっと顔を上げて、「なっちゃん来てくれたんだ。誰も来てくれないかと思った……」生気のない疲れた目元で私にそう言ったのでした。

 

「恭君にもなっちゃんにもメールしてたのに来てくれないんだもん……寂しかった」 

 電気つけますよ。私はそう言うと、私は先輩の返事を待たずに居間の灯りともしました。

 

「私、携帯電話に埃かぶるくらいほったらかしにすることが珍しくないので、気が付かなくてすみません。でも、家を出る前に先輩にメールしましたよ」 

 

 送信履歴を先輩に見せながら、言った私でしたが、

 

「見てないもん」と唇を尖らせた先輩が指さす先には和室の端っこに転がっている携帯電話がありました。もしかして先輩が放り投げたのでしょうか……

 

 気丈に振る舞う先輩を見た私はどことなく居づらくなってしまって、たまたま眼に入った洗濯物を逃げ道にすることにしました。まだ私には正面から受け止めてあげられるだけ、胸の厚みはなかったのです。

 

「もう、洗濯物も取り込んでないじゃないですか」

 

 私は平静を装って、まるでお姉さんのように先輩に言いました。先輩は何も言い返すことはしませんでしたが、私がガラス戸に手を掛けたところで、真梨子先輩は突然私の首に腕を絡ませて、そっと抱き締めたのです。

 私の驚きようと言ったら、先輩の吐息が耳の後ろを掠めたのにも、背中にあたる柔らかいものにも、そして甘い香りにも、真梨子先輩を思わせる全てに鼓動を早くしてしまったのでした。

 

「吃驚するじゃないですか」

 

 私が振り返ろうとすると、その前に真梨子先輩の腕は私から離れて行きました。

 

 ごめん。とはにかんで見せる先輩は、

「なっちゃんって温かいね」と笑って見せたのでした。

 

 その言葉が何を指し示していたのかは窺い知ることはできませんでした。ですが、私は走って来たのですから、汗ばみはしています。

 

 なので「当たり前です。走って来たんですから」とだけ返事をしておきました。

 

「そっか。じゃあ……シャワー浴びて行って……シャワーだけ」

 

 上目遣いに言う先輩の言いたいことは十分に伝わりました。はっきりと伝えないところが先輩の可愛らしい長所でもあり、もどかしい短所でもありますね………私としたことが、すっかりお姉さん目線で語ってしまいました。

 

「大丈夫です。それよりも先輩。今晩泊めて下さい。今日はベットの方で寝たいと思います」

 

 私は先輩のためにそう言いました。困った時は弱った時はお互いさまですから。

「本当?やったあ」と生気を宿した先輩は私の手を取ったかと思うと、すぐに私を力一杯抱き締めるのでした。何度もハグをしてから「お腹空いたね」と言い出した先輩はテレビを消してから財布を手に持つと、「お夜食買いに行きましょ、今晩はゆっくりとお話ししたい気分なの」と私の手をひいてと玄関へずんずんと歩いて行きます。

 

 私は元気を取り戻した先輩を見て、嬉しくなっていたので、抵抗もしなければ何も言うことなく、ただ先輩に引っ張られるままに歩いていたのでした。

 

 私は先輩に何かと助けてもらってばかりでした。それは後輩である私の特権なのかもしれません。ですが、助けてもらってばかりでは申し訳ないのです。だから、常々何か恩返しができればと考えていました。女子は何かと集団を作りたがります。なので、いつも集団に入りそびれてしまう私は「なっちゃん、お昼食べ行こう」と離れた講堂で講義を受けているにも関わらず、私を誘いに来てくれる先輩に助けられていました。今でこそ、小春日さんと一緒にご飯を食べることが多くなりましたけれど、そもそも小春日さんと知り合わせてくれたのも真梨子先輩なのです。

 

 だから、だから、私は真梨子先輩のために、少しでも真梨子先輩の力になりたいと思うのです。

 

 そして、その時は今この時だと確信しています。

 

 

 ◇

 

 

 砂山氏に一石を全力投球した快哉の日から数日。私は文芸誌の100ページと言うサハラ砂漠とまでは言わないながらも、鳥取砂丘は眼中に無くタクラマカン砂漠級くらいはる不毛な文字数に頭を抱えていた。それでも、随分前に見た夢をヒントに図書館に籠もり遅々としてではあったが執筆をしていたのである。

 奇妙奇天烈と言う料理の上に珍妙と言うソースをかけたような。そんな夢であった。とは言え、夢中に葉山さんが登場したことに関しては無情の喜びであったと言いたい。

 

 その夢は、何の脈略もなく私が葉山さんと何かしらの縁で出会ったところからはじまった。そして、大学構内で葉山さんを見送った私は、その瞬間に葉山さんに一目惚れしてしまったのである。この点では事実と相違はない。 

 だが、次の日より、私は大学構内を走り回って葉山さんの姿を探すのだが、見つからず『葉山』と言う苗字がわかっているにも関わらず、頑なに偶然の出会い再びと、誰にも居所を尋ねることもしない。不器用なのか浪漫チストなのか、阿呆なのか。いずれにしても私は葉山さんと出会う事が叶わない。

 

 そこで、私は願を掛けることにした。

 

 現実には存在しないのだが、竜田川沿い稲荷神社に赴いて「どうかどうか、葉山さんと再び出会えますように。彼女と再び逢えるまでは!私はパンツを履き替えません。それは千年も万年も同じ事です。ですから、どうかどうか私を葉山さんと巡り合わせてください!」と頭を地面に擦りつけて神頼みするのである。

 

 その日からきっと私はパンツを履き替えなかったのだろう。

 

 願掛けのシーンから、またしても脈略をほったらかして、私は白無垢姿の女性の隣に立って誰にだろうか、ピースサインをして喜びを表していた。

 

 だが、不思議なことにその女性は葉山さんではないのだ。我が夢ながら、どうして葉山さんとの逢瀬を望がゆえにパンツを書き替えまい。と願を掛けたと言うに………どこでどうなって、私は別の女性を選んでしまうはめになったのだろう。その辺が全て端折られているところが私らしい夢であると言える。

 

 結局のところ、女性であれば誰でも良かったのかもしれない……

 

 とまあ、こんな訳のわからない夢であったのだが、現実的には有り得ないながらも、どうせ描くのはフィクションの世界なのだから問題の一つもありはしない。娯楽小説では大抵のことは許されてしまうのだ。

 

 私はその夢を題材にタイトルを『千年パンツ』と名付けて執筆をはじめた。序盤は大筋で夢の通りに展開を進め、無駄な表現や描写をふんだんに盛り込んだりして、なんとか26ページほどを書き上げた。だが……願を掛けてからが全く泣かず飛ばすであり、どうしたものかと頭を抱えていた。あまりに困ったので机に頭を打ち付けたりもしたが、地味に痛いだけで何一つとして変化をきたすことはなかった。

 

 携帯を開くと我が愛しの葉山さんが黄色く可愛らしいパジャマ姿で今にもポップコーンを口許へ運ぼうとしている。

 煮詰まると、こうして麗しの葉山さんを見て自然と発生する貧乏揺すりを沈静化させるのだ

 

 そう言えば、この写真が真梨子先輩から送られて来たの4日ほど前だったと思う。閉館時間まで付属図書館内にてパソコンの画面と睨めっこをして、2ページほどしか書けなかった……と成果に肩を落としながら下宿先に帰った。すると、たまたま家に置いてけぼりにしていた携帯が光っているので、開いて見ると、真梨子先輩から『今すぐに来て欲しい』とだけメールが入っていたのである。

 

 普段絵文字や顔文字を使って鮮やかな文章を送ってくれる真梨子先輩だと言うのに、それらが皆無であったことが気になり、私はメールを受信してから4時間経ってようやく「今から行きます」と返信して、ペガサス号に跨ったのであった。

 

 先輩の下宿先まで時間にして10分。駅前まで坂道が続くがために行きだけは頗る快調であった。

 

 アパートの階段の前にペガサス号を止めると、私は階段を一段飛ばしで飛び上がり、先輩の部屋の呼び鈴を何度も鳴らした。

 しかし、うんともすんとも言わない。「真梨子先輩!」と何度か呼んでみたが、反応がない。頭を掻いてからドアノブを回してみると、ドアにはしっかり鍵がかけられてあった。

 緊急事態にて解錠する手段はあるのだができれば不本意にてこれを使いたくはない……私は恨めしく合い鍵が隠されてあるドア横にあるメータスペースの蓋を苦々しく見つめた。

 とりあえず、私は先輩の携帯に電話を掛けてみた。すると、私の耳に聞こえる呼び出し音と同期して、ドアの向こうから微かに着信のと思しきメロディが聞こえるのである。携帯電話を持ち出していないことを知った私は、どうしようもなく帰ることにした。3度着信履歴を残しておけば、先輩から電話がかかって来るだろうと期待をして……

 ペガサス号を押して家路を歩いていた。下宿の駐輪場にペガサス号を止めている丁度その時、ポケットに押し込んでいた携帯が音を鳴らし、真梨子先輩からメールが届いた。

 そのメールには『ごめんね。出掛けてた、今から来る?なっちゃんもいるよ』と書かれてあり、なっちゃんとは誰ぞやと思いながら、添付ファイルを受信すると……例の葉山さんの写真が表示された……私は是が非でも真梨子先輩の部屋にお邪魔したかった。何せ我が意中の葉山さんが……葉山さんがパジャマ姿いらっしゃるのである。普段着もそれは可愛い。だが、パジャマ姿など、どうすれば拝見することが叶うだろうか!犯罪すれすれ低空飛行をすれば私でも拝めなくもない。しかし、それでは確実に葉山さんに嫌われてしまう。

 

『行けるわけないでしょ。でも、何かあったのなら、何でも言って下さいよ。私の出来ることならなんでもしますから。おやすみなさい』と強がりのメールを送信しながら、私はその場に這い蹲ってしまった。

 

 真梨子先輩……あなたは残酷な天使だ……と心中で叫びながら……

 

 あの日の夜は、葉山さんの写真を見つめながら眠った。そして起きがけにまず眼にしたのも葉山さんの写真であった。これまさに寝ても覚めてもと言うに相応しい!

 

 以来、私の携帯電話にはいつでも葉山さんが神々しく祭られてあるのだ。

 

 

 ○

 

 

 近くのコンビニでお菓子やら冷凍食品を買った私と真梨子先輩は先輩のアパートに戻るなり、レジ袋をテーブルの上に置き去りにして、さっさとパジャマに着替えることになりました。

 

 それと言うのも、先輩が「帰ったらパジャマパーティーしようよ」と言い出したからなのです。

 先輩は以前私が見たのと同じ小さな犬が全体に散りばめてプリントされたパジャマに着替えて、私も以前に借りた黄色のパジャマに着替えました。

 こんなことを言うのもどうでしょうと思うのですが、先輩の下着はとてもオシャレでした。見えないところにまで気を使う乙女らしさは、やはり私も見習わなければなりません。一番私に欠けているところだと思いますから………

 

 着替えてから、先輩は買い込んだお菓子を片っ端から開けてテーブルの上に並べ、同じく買って来た冷凍食品のカルボナーラをお皿に写してレンジで温めを開始します。

 

「そんなに食べられませんよ」

 

 と言ってみたのですが、「大丈夫よ」と先輩は余裕綽々に軽くそう言うだけなのです。

 なので、私はテレビドラマを見ながらモッくん印の北海道ポップコーンを摘むとぽりぽりと食べていたのでした。ほんのりと効いた塩味とバターの風味が後をひく、私お気に入りのポップコーンなのです。

 

 口を小さく開けて、今まさにポップコーンを食べようとした時でした。携帯カメラのシャッター音がしたので、ポップコーンを口に含んでから台所に立っている先輩の方を見ると、悪戯な笑みを浮かべてメールを打つ真梨子先輩の姿がありました。

 レンジが温め終了のチャイムを鳴らす前に、真梨子先輩の携帯が鳴り、メールでしょう。画面に視線を落とした先輩は「残念」ととだけ小さく呟きながらも、とても優しくて、美しい微笑みを浮かべていたのでした……それは私や小春日さんに向けられたことのない特別の微笑みなのだろうと私は直感しました。理由はありません、ただ直感したのです。

 

「先輩隠し撮りはやめてください」 

 

 私がそう言うと「にひぃ」といやらしい声を出すので嫌な予感がしました。

 

「ひょっとして誰かに送ったんじゃないでしょうね!」

 

 私は立ち上がりました。パジャマ姿を、それもポップコーンをまさに食べようとしている写真なんて、誰にも送られたくはありません。もとい見られたくはありません!今すぐにでも削除してほしいくらいなんですから!

 

「夏目君になっちゃんもいるよおって」

 

 送っちゃった。と舌を出す先輩でした。

 

「ちょっと!やめてくださいよ!」

 

 私は恥ずかしくなって真梨子先輩の携帯を奪い取ろうと先輩に詰め寄りました。本当に送信をしてしまったの否かを知りたかったからにほかなりません。

 

 もしも、もしも、本当に送信されていたのであれば、それだけで憂鬱ですから……

 

 先輩は意地悪な姉みたいに、私に携帯を渡すまいと高く掲げ、時にはジャンプをしながらそれでも食い下がる私をもう片方の手で頭を抱き締めて、とても嬉しそうにあしらうのです。私はちっともふざけてません!大まじめだと言うのに!

 

 しばらくの悶着の結果、「嘘よ。誰にも送ってないから」と涙を拭きながらそう言った真梨子先輩の言葉を疲れた私は妥協して信じることにしました。

 

 そして、カルボナーラを二人で半分こして食べた後、お菓子をほとんどそのまま残して布団に入ったのでした。

 「勿体ないですよ」と私が言うと、「明日にでも文芸部にでも差し入れるわ」と真梨子先輩が言ったので、それなら無駄にならないでしょうと私も和室へ移動したのです。 

 

 ベットの枕元にある照明のみを灯すと、なんともようやくパジャマパーティーの実感が湧いてきました。

 

 台所では悶着を起こしただけでしたから…… 

 

 ごめんね。先輩は肩肘を立ててその上に頭をのせ、そう言ってから、

「心配させちゃって……だから、今晩泊まってくれたんだもんね」そう言ったのです。

 

「わかってたんですか」

 

 私から言うつもりはなかったのです。だから、先輩から言われてしまうとなんだか、こそばゆい思いでした。

 

「そりゃ、私だって、なっちゃんが部屋中の灯り消して、うずくまってたら、心配しちゃうもん」

 

「そうじゃありません。私は、先輩が泣いてたから、心配したんです」

 

 確かに蒼白い光にのみ照らされた先輩の頬には違う色がありました。それは透明に近かったのですが、私にはとても強烈な色に見えました。

 

 私が静かにそれだけを言うと、先輩も「私、一人には慣れたくないの。寂しかったんだ。とってもとっても……」とだけ話しましたけれど、それ以上は私も聞きませんでしたし、先輩も話し続けることはしませんでした。

 きっとそれだけだったのです。寂しかった、それだけだったのです。

 

「でもどうして海なんですか」 

 

「ああ、あのDVDね。悲しくなると、泣きたくなると私いつも海に行ってたのよ。実家の近くに海があってさ。なんだかね、海見てると落ち着くのよね。悩んで泣きたいのに、辛いのに、水平線を見ると、海の大きさを見せつけられると。自分がとってもちっぽけに見えて、そんなちっぽけな私の悩みなんて、涙を流す価値があるかなって前向きになれたから。でも結局、家に帰ると、泣いちゃうから一緒なんけどね……寂しいよ……一人はやだよって」

 

 私、泣き虫だから。と困った表情をする先輩でした。その後、付け足すように「ここは海なし県だからDVD」と話してくれました。

 

「だったら先輩はどうして、彼氏をつくらないんですか?」

 

「えっ」

 

 意外にも真梨子先輩はとても驚いた声を出したかと思うと、上体を起こして「えっ」と、もう一度言ったのです。

 

 私からすれば、真梨子先輩のような女の子なら彼女にしたいと思う男性は星の数ほど居るかと思いますし、これは別に大袈裟でもなんでもないだろうと自信を持って断言できます。

ここから↓

 

 

「私にだって好きな人くらい居るもん。寂しいからって誰でも良いってわけじゃないもんね」

 

 心外よ。と腕を組んで憤慨して見せる先輩でしたが、

 

「その好きな人って、夏目君なんでしょ」

 

 と私が悪戯な笑みを浮かべて言うと。即座に否定するどころか、「はい?えっ、なっ、なんで、なんで恭君なわけ」と組んでいた腕を右往左往させながら、わかりやすく狼狽したのでした。

 

 やはり私の直感は正しかったようです。

 

「夏目君から返信が来た時、先輩ったらとても嬉しそうでしたし、寂しくて誰でも良かったのなら、私はわかりますけど、どうして夏目君なんですか?私の他に小春日さんもいれば、男性でも先輩には他に知り合いがいるはずですからね」

 

 私はそう言いながら、夏目君からの返信メールを朗らかな表情で見つめていた先輩の姿を思い出しました。やはり、あの表情は恋する乙女の表情に違いありません。

 

「恭君はダメ。だって恭君には好きな人がいるから、それは私じゃないもん」

 

 そう言うと真梨子先輩は真心を込めた視線を私に投げ掛けたのでした。

 

 

 ○

 

 

 夏休みも終わり、日を追う事に文化祭は迫ってきます。美術室のカレンダーには、実行委員会も含め各部からの外注の納期が記入され、先輩たちがてんやわんな毎日です。

 そんな、名実共に慌ただしい美術室にいると、何もしていない私も気持ちだけが急き立てられて、なんだかかんだか何かをしていなければ!と言う思いに駆られるのです。 けれど、思うだけで私は結局何もできませんから、やはり汚れたパレットを洗いに行ったり、画材を買いに走ることをしているのでした。

 ですが、今日では私一人ではありません。私の隣にはにこにこ笑顔の真梨子先輩がいるのです。

 「今、文芸は推敲とか入稿で忙しいし、みんなぴりぴりしてるから、私がいると邪魔になるから……」と言う先輩に私は「なら、是非美術室に来て下さい」と誘ったのです。「でも、私がいると邪魔じゃないかしら」そんな風に先輩は遠慮して見せましたけれど。「いいえ。私は美術部員ですけど、美術部らしいことは何でもできませんから、先輩が居てくれると助かります」私はさらにそう言うと、「じゃあ、なっちゃんと美術室に行くわ」寂しがりやさんの先輩はこうして美術室に来ることになったのでした。

 

 先輩も私も釘打ちは得意でしたから、張りぼて組みの際には大いに活躍をしました。先輩は口に釘をくわえて、タオルをねじって頭に巻いてみせるなど、とてもお茶目な格好で釘を打つもので、私はたまに先輩の愉快な格好に見とれて、親指を金槌で叩いてしまいます。そんな時は……そんな時は、なんと先輩が私の親指を口に入れて「大丈夫」と言ってくれるのです。

 もちろん、私も木っ端恥ずかしいやら照れくさいやらで、大好きな人に告白されたような、そんなどきどきした胸中で何事もなかったかのように作業を続ける先輩を見つめていました。

 

 その瞬間をたまたま見かけていた美術部の先輩たちも「やっぱり真梨子先輩には敵わないわ」と男子も女子も虜にしてしまう、真梨子先輩の優しい魅力に呻っているばかり。なので、ちょっぴりですけれど自分が褒められているような錯覚ながらも、私は嬉しくなってしまいました。

 そんなある日、真梨子先輩の姿が見当たらないまま、私が一人で大工作業をしていると、「葉山さん、甘美祭の会議があるんだけど、葉山さん行ってくれないかな」色とりどりのポスターカラーで汚したエプロンを着ながら、部長が直々に私に言います。

 座ってるだけでいいから。と付け加えたのですが……

 

「はい!行ってきます」

 

 私は嬉しくて、大きな声を出してそう言うと、脇目も振らずに、廊下に飛び出しました。例え座っているだけでよかろうとも、私は美術部代表で会議に出席するのです。

美術部代表!なんと格好の良い響きなのでしょう!

 

 私は意気揚々と筆記用具を抱え、多目的ホールへ向かいました。

 

 歩幅を大きく威風堂々と歩いていますと、渡り廊下を渡り終えたところに、二つに影があり、その一方は真梨子先輩です。もうひと方は背丈は真梨子先輩よりも頭一つ小さく、私と同じくらいでしょうか。髪の毛を栗色に染め、その髪の毛を桃色のシュシュで一つ括りにしていて、大きな目元と小さな口許がアンバランスな印象もありますが、とても明るくて、向日葵を連想させるそんな女の人でした。

 美術室にいないと思ったら、こんなところでお喋りにお花を咲かせていたのですね。

 

「来たね、なっちゃん!」

 

 私は「こんにちは」と真梨子先輩に声を掛けると、先輩はにかっと笑顔をつくって、私の肩を抱くと、その女性の前に連れて行きます。

 

「音無です。今日は宜しく。全部葉山さんにかかってるからね」 

 

 口早に自己紹介を済ませた音無さんはそう言い終わると、私をまるでお地蔵様のように手を合わせてみせ、「じゃあ、私、資料取りに行ってくるから。後、真梨ちゃんお願い」と言い残して、渡り廊下を全力疾走して行ってしまいました。

 

「先輩。どういうことですか?展開が早すぎて全然わかりません」

 

 こんなのを支離滅裂と言うのだな。そんな風に思った私でした……

 

 

 ○

 

 

「はーちゃんの活躍に乾杯!」

 

 真梨子先輩の家に集まった私たちがテーブルの四方を埋めて、音無先輩がそう言いながら麦酒缶を高らかと掲げたのは、あの恥ずかしい思いをした『今年度 文化祭アピール検討会』から2日後のことでした。

 

『なっちゃん。部屋に入ったら、このノートの中しっかり読んでおいて、絶対にお願いね』

 

 真梨子先輩も音無先輩と同様に私に詳しい説明など一切くれず、私は真梨子先輩から渡された一冊の大学ノートを携え、多目的ホールへ入ると廊下側の席に『美術室』と書かれた三角錐を見つけましたので、さっさと腰を落ち着け、さっそくノートを開いてみました。

 

 すると、まず最初のページに『甘美祭アピール検討会 進行表』と書かれたプリントが挟み込んであり、見開きの2ページ目には進行表に沿い、矢印にて『ここまでは無言で良し、むしろ何も言わない』『ここで勝負!』とか『今!この瞬間の青春を燃やそう!(拳を突き上げて言う)』などと、事細かくまるで台本のように言葉が書き込まれてありました。

 

 私はノートに視線を釘付けにすると、次の瞬間には眉を寄せて。まるで意味と意図がわかりません……と体重を背もたれに預けて、両腕をぶららんとさせていたのでした。

 

 部長は「座っているだけで良いから」とおっしゃってました。活発に発言を……とまでは考えていませんでしたけれど、だからと言ってこんなデキレースのような八百長に荷担したいとは思いません。

 はじめから、仕組まれているのであれば会議を開く意味はありませんし、そこに公平性はありません。私はズルは大嫌いなのです。

 でも、これに真梨子先輩が関わっているともなると、心苦しくとも無碍に出来ない気持ちもあり、私は悩みました。きっと、今日の議題はそんなに重要な案件ではないと思います。ですから、私が少しだけ私に妥協すれば全ては丸く収まって、今まで通り真梨子先輩と仲良くしていられます。

 音無さんでしたか……私に希望を託したような口振りでしたけれど、別段私は、私の心情を貫くためであれば、音無さんの希望を振り払うことさえも吝かではありません。

 でも……真梨子先輩に嫌われてしまうのは困ります……少々の自信はありました。真梨子先輩のことだから、私がこのノート通りに発言をしなかったからと言って、手の平を裏返したように私を拒絶したり避けたりはしないと思います。

 

 そんなことが心配なら……素直に妥協すれば良いのに……

 

「葉山さん、お願いね」

 

 私が頭を抱えていると、耳元にそんな声とともに「配布資料です」と音無さんが私の席の上にプリントを配布してくれました。

 

 私は何も言い返せないまま、音無さんは離れた席へプリントを配布に行ってしまいます。

 

 念を押されたようで、悪意のない悪意と言いましょうか。私はますます何かの瀬戸際で煩悶としなければならなくなってしまったのでした。

 視線を上げて見ると実行委員会の席の並びには学生会の顔ぶれが、そして『代議員委員長』の席には学生会の会長よりも存在感のある恰幅良い男性がどっしりと構えていました。

 ノートに書かれてある、『天敵 砂O』と言う方でしょう。誰にとってそしてどこが『天敵』なのだろう。私はやはり大義名分の無い戦いはできない。と溜息をついてしまいました。賊軍であろうと官軍であろうとも、大義名分がなければ戦いには決して勝ことはできないのですから…………

 音無さんには後で真梨子先輩から謝ってもらうとして、真梨子先輩にはなんて言って謝ろう。そんなことを考えながら、先輩に渡されたノートを弄んでいると、思わぬものを発見してしまったのです。

 それは進行表のある反対側。つまり裏表紙側からなるページからでした。赤いペン文字にて、ぎっしりと言葉が綴られてあったのです。

 

 それは4ページに至る『想い』の塊でした。最後に音無 響と署名がされてありました。これは血判状ではありませんか!私は今一度、音無さんの昔年の想いと、幾星霜と苦汁を舐め続けてきた学生たちの苦しみ、そして、音無さんにとって最後となる文化祭にかける意気込みと想いを読み返しました。

 

「むう」

 

 私は二通り読み終えてから、眉の間に3本皺をよせ、唇を尖らせて『むう』と言いました。

 私は知ったのです。砂Oと言う人物が如何に『天敵』であり、どんな『天敵』たるか、そして、誰にとっての『天敵』であるかを!

そうなのです。自分自身も学生の立場でありながら、学生の敵となり、挙げ句の果てには一年に一度の大祭である、文化祭をも己がちっぽけな権力誇示のために協力をしないはもとより、障害となるとは何事ですか!

 

 私だって、甘美祭を楽しみにしています。今だって美術室では先輩方が一生懸命に外注の品に作品に忙しなくしていることでしょう。これに限っては他の部もサークルも同好会も同じことです。ソーイング同好会の小春日さんも、ファッションショーの準備に余念無くと毎日夜遅くまで大学に残っていますもの。

 私は紛う事なき大義名分を手に入れました。この上は、全学生の天敵たる砂Oと一戦交えてやろうではありませんか!!

 

 ここで退いては女が廃ります!!

 

 私は水滸伝の女傑 扈三娘[こさんじょ] のごとく海棠の花と私も、音無先輩のために一肌も二肌をも脱ぐ決意を固めたのでした。

 『『フットサル同好会』『ソーイング同好会』が同意するから大丈夫』とハートマークで書かれてあるので、そこのところは心配は要りません。ですが……最後の『今!この瞬間の青春を燃やそう!』と言うのはどういう意味があるのでしょうか?

 

 これは明白に、関係がないと思うのです。なので私は首を左右に振ってみたり、恥ずかしがってみたり……一人で二十面相をしていたのでした。

 

「格好良かったですよ。『今!この瞬間の青春を燃やそう!』」

 

 缶酎ハイを一缶空けた小春日さんは上機嫌で立ち上がると拳を突き上げて、私の真似をしてみせます。

 ぬいぐるみを着た。と言う表現が似合う、そんな寝間着を着た小春日さんは、丸っこい耳のついたフードを被ってそれはそれは上機嫌でした。そんな小春日さんを見て、頬にほんのり朱を乗せた真梨子先輩と音無先輩はゲラゲラと笑っています。

 桜花の園。これが本当にパジャマパーティーと言うものなのでしょうか……それに私は小春日さんのように高らかに言い切ってません。恐る恐る、遠慮がちに言いましたもの。

 それはもちろん恥ずかしさが先立ったからと言うことは言うまでもありません。

 

 なんだか、私が酒の肴されているようで不愉快です。

 

「なっちゃん、そんなにむくれないでよ。本当に感謝してるんだから、私も響ちゃんも実質今年が最後の文化祭だから、思いっきりやりたいことをやり尽くしたいの」

 

 一人でむくれる私をそっと後ろから抱き締めて、真梨子先輩が言います。熱っぽい頬は良いとしてもアルコール臭の混じった吐息は頂けません。

 

「まさか、砂山さんが卒業しないなんて、想定の範囲外。大番狂わせだったもん」

 

 黄色いシュシュでポニーテールの音無先輩は、頬を赤くしてますます林檎のように可愛らしくなっています。

 

 『砂O』とは正しくは『砂山』だったのですね。今更ながらどうでも良いことを知った私でした。

 

 頸木である代議員会から合法的にかつ円滑に自由を勝ち取ると言う先輩方の思惑は一様私の奮闘と言う体でもって、完遂されました。予定外と言えば『文芸部』が賛同してくれたことでしょうか。会議に出席していたのは夏目君でしたから、きっと、真梨子先輩が直前にでも根回しをしていたのでしょうね。

 

 今晩のパジャマパーティーは、その祝賀とどんな宣伝活動をするのか。を話し合うために真梨子先輩が提案したものなのです。 夕ご飯を一緒につくって、みんなで食べて、お酒やらお菓子やらを買いに出掛けて、現在に至ります。

 こんなに酔っぱらって、話し合いなどできるのでしょうか……と言うのは私の素朴な疑問です。

 

「真梨子先輩。それで先輩はどんな宣伝活動をしようと考えてるんですか」

 

「ええぇ、なっちゃん気が早いなあ。夜はまだまだこれからなのよ」

 

 真梨子先輩は音無先輩と連れだって、台所へ向かい『赤霧島』と『八咫烏』と和紙のラベルが貼られたお酒を持って来ると、音無先輩と二人して、喉を鳴らしながら飲み始めるのです。

 お湯で割って、烏龍茶で割って……さすがに小春日さんはこれには手を出しませんでした。

 なんだかお母さんの面持ちです。何と言うか……あんな悲しくて苦しそうな真梨子先輩はもう見たくありません。どうせなら、目の前にいる無邪気で飾らない。子供のような先輩が良いのです…………

 

「音無先輩は知ってるんですか?」

 

 今度は小春日さんが八咫烏をやっつけている音無先輩に聞きます。

 

「もちろん知らない!」

 

 首を左右にぶんぶん振りながら音無先輩はけろりと答えて見せました。シュシュから伸びた尻尾が真梨子先輩の髪の毛を叩いて、まるで真梨子先輩が後ろから扇風機で煽られているように見えたのは少し面白かったです。

 

「真梨ちゃん。私も知りたい。と言うか教えなさい!」

 

「ええぇ、まだ……」「真梨子先輩、この前のことこの場でバラしますよ」

 

 いやいやをする真梨子先輩に私は、問答無用と止めの一言を言いました。本当は何をバラすのかさえも決めていませんでしたけれど……もしも、必要に駆られたならば……DVDのことでも話しておきたいと思います。

 

「ぶー。なっちゃんの意地悪っ。わかりましたーわかりましたよーっだ。話せばいいんでしょ話せば!」

 

 すっかり開き直った先輩は、赤霧島のお湯割りを一気に飲み干し、胸元を弾ませながら勢いよく立ち上がると、

 

「発表します!」と『真梨子式宣伝大作戦』の全容をここに発表したのでした。

 

 

  ◇

 

 

「お前はこれからバカですって名乗れ。いいや、名札を首からさげろ」

 

 会議での決定を部長に伝えた結果、私に帰って来た冷ややか極まりないお言葉であった。

 ペンタブレットを私の鼻っ面に向けて、偉そうなことこの上ない物言いである。

 私は「バカと言うお前がバカだ」と声に出さない返事を返してから。このままでは面倒くさい問答をもう少しせねばなるまいか、と早くもげんなりしてしまった。

 

「やるならお前一人でやれよな。俺は入稿まで猫の手も犬の手も借りたいんだ!部長会なんかに付き合ってられるか。それから、100ページも期日までにあげろよな、あがらなかったらサークルから追放だ!」 

 

 本当に五臓六腑に染み渡って、憤慨を煽る部長である。そう思いつつも私が涼しげな表情と眉間に皺を催さないのは、一言必中の殺し文句を手札に持っていたからであり、遠回しに「いまさら、仲間に入れてって言っても無理ですからね」と言いたいわけである。

 

ここから↓

 

「さっさと書けよ!お前だけだぞ、原稿1回も持ってきてないの」

 

 すでに軽蔑の眼差しまで含有させるとは、さすがにそれは酷くなかろうか……これには私も少々心中を荒立ててしまった。

 元より、部長に私の『千年パンツ』を読ませるつもりはない。はなっから入稿直前に提出する心づもりでいるのだ。

 物語には必ず男女のロマンスが必須。と自信まんまんに持論を吐き散らかす部長は、ロマンスのない作品、または、見るからに無理矢理嵌め込んだロマンスも容赦なく、切り捨て、結局ところ、部長好みの作品だけが残って行くか製作されるのである。

 

 そんな統制された物語の何が面白いのか!

 

 そんなもんを読んで心ときめかせるのは、部長と同じくフィギュアのスカートを捲って喜ぶようなソフト変態だけではあるまいか!

 

 だから、私は部長に一行一句とて読ませるつもりはない。

 だからと言って『千年パンツ』がロマンス皆無の作品と言うわけではない。むしろ壮大なロマンスであると言いたい。だが、阿呆漢たる主人公の一人称にて、ページの半分以上は、妄想やら阿呆漢たる無駄な努力に勘違い、挙げ句の果てには寂しい様など、大凡、部長の趣向にそぐわない作品構成なのであるからして、やはり見せることはできまい。

 

 何度でも言う。私は部長に作品を読ませるつもりはない!

 

「わかりました。いちよう俺は参加します。部長は参加しないんですよね?」

 

「さっきそう言っただろ!俺は猫の手も犬の……」

 

「真梨子先輩にそう伝えておきます」

 

 私は部長の声を遮ってそれだけを言うと、爽快な面持ちで悠々と部室を出てやった。

 もちろん、慌てて部長の大声が私の背に投げ掛けられたことは言うまでもない。私はドアを閉めたところで、大きな物音がサークル室の中に木霊したかと思うとその次々に硝子の割れるような音や、部員の悲鳴やらが聞こえて来た。

 

 助言しておきたいと思う。蛸足配線はやめた方が良い。

 

 実のところ、真梨子先輩の関与は知らなかった。だから、往々にして真梨子先輩が参加していないと言うこともあり得るわけだ。

 だがしかし、私にとっては真梨子先輩の有無など関係ない。最重要であるは葉山さんが参加していると言うことなのだから。けれど、私には自然と確実にこの部長会の一件には真梨子先輩が一枚噛んでいると信じることができたのである。そもそも、葉山さんが独断であんな提案をするわけもなければ、古平がその提案に賛同することなど、沈まぬ太陽のごとくありえないお話であるからだ。

 しかしながら、ここに真梨子先輩が裏から糸を引いている。と言うエッセンスを加えてやると。あら不思議。古平がすんなりと賛同してしまう理由も明白となってしまう。真梨子先輩に大恩のある一人である古平は真梨子先輩にのみ従順な下僕。本人は否定しているが、真梨子先輩に頼られれば断った試しがない。ものの一度としてないのである。

 たったそれだけかと言われてしまえば、そこまでであるが、古平と言う男をよくしる私であればこそ、たったこれだけでも確信の領域へ盲信できるのである。

 

 部長との訣別とも言える別れ方をして、私は部室に顔を出すこともなく、図書館に閉じ籠もって『千年パンツ』の完成だけをただひたすらに打ち込むことにしたのであった。一片の後悔はない!そう言い切りたかった……しかしながら、携帯を開く度にポップコーンを今にも頬張りそうな葉山さんが灯ると、なんとも悲しい面持ちとならざるえない。

 この屈託のない乙女の姿こそ私の意欲と執筆の源であると言うのに……携帯の電源を落とすようにと促すは、部長からのひっきりなしの電話であった。この期に及んで、私を苦しめようとはなんとも忌々しい部長である。 

 

 私は愛くるしい葉山さんのおわす画面を暗黒にするなど選択に最初からなく、部長の電話番号を着信拒否設定にして事の沈静化を図ると、ようやく、真梨子先輩のノートパソコンのキーボードに手をつけたのであった。

 

 

 

 

「葉山さん知ってる?」

 

「一度だけ見たことがあるけど……」

 

 真梨子先輩が自信を持って、胸を張って発表したのは、昨今では随分と聞き慣れない言葉でした。それを証拠に、小春日さんは頭上にクエスチョンマークを並べ、知ってか知らずかの音無先輩は三点リーダーを並べていましたから。

 かくゆう私だって、それを見たのは幼少の頃、家の近くにサーカスが来た時にたまたま、見かけたことがあっただけでしたもの……

 

「あれれ、みんな反応鈍いなぁ。私は自信があったんだけど」

 

 やれやれと。腰を降ろした真梨子先輩はどこまでも不満げでした。

 

「他には無いの?」

 

 音無先輩は反対なのでしょうか。真梨子先輩にすぐさまそう聞くのです。

 

「後は、みんなで水着になってチラシ配るとか?」

 

「水着って……」

 

 額に指をやって、呆れてみせる音無先輩です。確かに水着というのは荒唐無稽だと私も思いました。

 

「水着って言っても、スクールタイプとか競泳のじゃなくて、ワンピタイプとかふりふりのついたうんと可愛いやつだから大丈夫!」

 

 とりあえず、何が大丈夫なのかを説明して欲しい私でした。酔っているとはいえ、無茶苦茶です。

 自分で言っておいてげらげらと笑う真梨子先輩は「浴衣いいなあ」と呉服店の娘である音無先輩の着ている随所に桜が満開の浴衣をなで回しています。真梨子先輩だって、今日のためにわざわざ新調した萌葱色のネグリジェはとてもよく似合っていると私は思っていました。あまりに嬉しかったのか、先輩は何度も携帯で写真を撮っていました。それも私や小春日さん、音無先輩ももれなく……

 無い物ねだりと言うか、他人の持ち物の方が良く見えてしまう摩訶不思議マジックですね。

 

「そりゃ、真梨子先輩や音無先輩は良いかもしれませんけど、私や葉山さんは……その……色々と足りませんし、だからそれは却下です。即却下です。ねっ葉山さん」

 

 お酒に酔っているのか、はたまた羞恥心からか、頬を少々赤らめた小春日さんが力強く私の腕を掴むものですから「そうです却下です先輩」と私も断固反対の意思を伝えました。

 悲しいことですけれど。小春日さんの言う通り、私も小春日さんも真梨子先輩や音無先輩のように強調するものが物足りませんから、水着は却下なのです。

 精々、みんなして市民プールにでも行った折、存分に水着になりたいと思います。

 

「いや、後輩ちゃんたち、そう言う問題じゃないと思う……」

 

 捕まると思う。と音無先輩は猫のようにまとわりつく真梨子先輩の頭を撫でながら、私と小春日さんに呆れ顔でそう言うのでした。

 

 赤霧島をやっつけたところで、真梨子先輩はリバースをすることなく、酔い痴れた面持ちで「もにゃもにゃ」と寝言を言いながら音無先輩の膝枕で眠ってしまいました。

 それは丁度日付がかわった頃のお話で、半分程度残った八咫烏を手酌でコップへ注ぎながら、音無先輩はしみじみと言ったのでした、

 

「ちんどん屋だなんて、真梨ちゃんらしいわ」と。

 

 

  ○

 

 

 音無先輩が真梨子先輩を寝かしにベットへ連れて行き、それからそのまま二人ともベットで寝息を立てているのを発見して「風邪をひきますよ」と言いながら毛布を掛けていると、なんだか本当にお母さんにでもなった面持ちの私でした。

 

 小春日さんと二人きりとなった私は、その後も色々とお話をしました。私は一番に、ノートに書かれてあった、学生の天敵について話します。真梨子先輩の発案に賛同した小春日さんでしたら、一緒になって憤慨してくれるだろうと思ったからでした。

 けれど「そうだったんだ。そんなこと全然知らなかった」と小春日さんに言われてしまいました。

 小春日さんは古平さんに声を掛けられたのだそうでした。

 

「古平君とは仲が良いんですね」と私が言いますと、

 

「だって、私の彼氏だから……」

 

 口をすぼめてそう言った小春日さんは今にも抱き締めたくなるくらいに可愛らしかったと思います。

 現に、私は「わぁ」と顔を赤面させ、照れ隠しとばかりに小春日さんを抱き締めてしまっていました。真梨子先輩の抱きつき癖がうつってしまったのかもしれません。

 

 それから、暫し、小春日さんの恋路を拝聴しました。小春日さんは、古平君と基礎ゼミで同じクラスになったのでしたが、はじめから古平君に良い印象を抱いていなかったと言うのです。むしろ、近寄りがたく、できるなら会話もしたくない。そんな最悪な印象だったそうです。

 ですが、基礎ゼミが始まってからすぐ、気が付いたら隣には真梨子先輩がいて、そして、事ある事に古平君と小春日さんを呼び出しては二人きりにしたり、時には古平君を小春日さんに押しつけて帰ってしまったり……とてもシャイであった古平君でしたけれど、小春日さんと会う時には必ず赤いガーベラを一輪くれるなど、決して表立っては際立たないながらも、繊細微妙な優しさをくれたのだとか。

 

 そんな優しさに気が付かせてくれたのも、真梨子先輩だったそうです。直接的には決して言わず、遠回しに、その愛情や優しさに気が付かせてくれたのだと小春日さんは薄暗い和室で寝息を立てて眠っている真梨子先輩に視線を向けながら、話してくれたのでした。

 

「真梨子先輩は私たちの愛のキューピットさんなの。私も古平君も感謝してる。どれだけ感謝してもしたり無いくらいだもん」

 

 小春日さんは自身の恋路をそう締めくくります。

 

「キューピットですか」 

 

 私はずっと前に、美術部の先輩に真梨子先輩は「キューピット」と聞いたことがありました。聞いた当時は意味がまったくわかりませんでしたけれど、そう言う意味だったのですね。

 

 悪く言えばお節介。良く言えば天使の行いです。

 

 でも、私は少し悲しくなってしまいました。真梨子先輩だって恋はしたいでしょうに。内心は甘えん坊のくせに、強がっているだけなのですから。

 

「キューピットは………悲しいですね」  

 

「どうして?真梨子先輩に感謝している人は私達も含めて沢山いるよ。今では、縁結びの神様とまことしやかに噂されるくらいだし」

 

 嬉しそうに話す小春日さんです。ですが、それは違うのです。とても大切なことを忘れてしまっています。

 

 だから……だから、私は少しだけ今少しだけ幸せそうな小春日さんが憎く思えました。

 

「キューピットに恋を成就してもらった人は良いですよ。幸せですから。でも……キューピット本人はどうなるんですか。ずっと他人の恋路ばかりお節介して、キューピットの恋はどうなるんです!キューピットだって恋がしたいはずです」

 

 私が急にそんなことを言い出すので小春日さんはきょとんとしていました。当然です。私だって、急にそんなことを言い出されたら、惚けてしまうと思いますから。

 

 だって悔しいじゃありませんか。沢山の人を幸せにしてきた真梨子先輩が、その張本人たる真梨子先輩自身が幸せになれないなんて……別に恋人ができればそれで良い。そんな短絡的なことを言うつもりはありません。人の幸せの形はそれぞれです。だから、どんな形でも良い。とにかく真梨子先輩がもう海のDVDを見なくて済むように……そうなってくれさえすれば良いのです……

 

「うん。葉山さん今とっても良いこと言った!うん!。ほんとに言いこと言ったよ!」

 

 真梨子先輩を思うが為とは言えど、場の空気を悪くしてしまいました。そう思って反省していた私でした。でも、小春日さんは瞳を輝かせ今度は私を追い被さるようにして抱き締めるのです。これには私の方が何が何やらさっぱりわかりません。

 

「今度は私がキューピットになる番。真梨子先輩に恋のすばらしさをプレゼントする番!」

 

 素面のはずの小春日さんはますます抑揚を激しくさせて私の耳元で言います。

 

「あっ」

 

 次の一言はきっと鼓膜が破れてしまうほど大きな声でしょう。そう身構えていた私を離して、小春日さんは一人だけで身を起こします。

 

「キューピットは良いけど、真梨子先輩って好きな人いるのかな」

 

 今にも泣き出しそうな視線を私に送りながら、小春日さんは言います。やっと良案が浮かんだと言うのに決定的な材料が手に入らなかった……そんな面持ちでしょうか。

 

「大丈夫。その点はグッジョブだから」

 

 私はここぞとばかりに親指を立てると、和室の二人を気にしながら、小春日さんにこしょこしょっと、真梨子先輩の意中に居る『想ヒ人』の名前を教えたのでした。

 

 

 ◇

 

 

 ススキの見頃を向かえ、大学の垣根ではちらほら手入れの皆無を象徴するようにススキが秋の香りをそこら中に振りまいていた。

 

 私はと言うと、寝ても覚めて『千年パンツ』一色であった。お陰で昨夜など夢の中でもいそいそと執筆をしているのだからしてこれには驚いた。密室にて取り立てて誰が訪問することなく、空調の音だけがやけに五月蠅いこの図書館でも、ビー玉くらいのときめきは何度かあった。その全てに起因するは真梨子先輩であり、愛しの葉山さんもそこにいたのである。

 まずは、『ちんどん屋やるべ!』と言う件名にて、真梨子先輩のネグリジェ写真が送られて来たかと思うと、次ぎには愛おしい葉山さんのきょとんとした写真が、最後には人間くらいはあるだろう、ぬいぐるみの写真と続いた。

 最後の写真は削除するとして、またしても葉山さんの写真を送ってよこすとは、さすがは真梨子先輩である。

 なんと言おうか、真梨子先輩の送ってくれる葉山さんの写真だけで十分な話題となる。

 葉山さんの写真が貼付されてあったメールには「恭君もおいでよ。楽しいにょ」と書かれてあった。私はその場で携帯を全握力を持って締め付けると「行きたいに決まってるでしょ」と声を殺して変顔にて呟いた。

 

 もはや乙女の園、桜花の園、そしてハーレムと言えば随分といやらしく聞こえるだろうか……

 とにもかくにも紅一点ならぬ黒一点と私一人が、ただ一人が妙齢たる婦女の輪の中に入って、面白可笑しい時間を過ごせるのであるからして、これを断る理由などどこにもありはしない。それよりも、私は真梨子先輩宅へ向かう道中「さあ私を羨めしがるがいい!」とすれ違う男と言う男に胸を張って堂々と吹聴して回らなければ気がすむまい!

 真梨子先輩からメールを受け取るたびに、一喜一憂して溜息と一緒に「おやすみなさい」と返信するのも、なんだか慣習になってきた気がする。

 先輩は私をどうしたいのだろうか。まあ、葉山さんに好意を寄せていることを知っている先輩のお節介と言えばそれまでであるが……そう言えば、葉山さんの写真を送ってくれる際、どうして先輩は自分の写真も同封するのだろうか。今回のように、別口で送ってくるものもあれば、一緒に映っているものもある。

 

 ポップコーンの写真には葉山さん唯一、一人だけが映っていたが、後に送られてきたデロリンソーダの写真にはしっかり真梨子先輩が写り込んでいた。

 

 浮気心を起こすつもりはない。

 

 だが、そんな写真を見ていると純然と真梨子先輩とて素敵な女性……そう思えてきて仕方がない。化粧を落とすと、大人びた雰囲気こそ薄まっていたが、あどけなさを感じさせる可愛らしい顔であり、そんな先輩が可愛らしいパジャマを着込んでいれば、つい守ってあげたい衝動に駆られてしまう。

 日頃の大人びた先輩の姿は仮の姿なのだろう。どうして先輩はそうまでして自分を誤魔化すのだろうか。

 

 私は私個人的には真梨子先輩らしい真梨子先輩が好きなのであった。

 

 そんなことを考えてしまった私は、その後一字一句として書き進めることは叶わず、閉館時間ぎりぎりまで真梨子先輩との出会いから今までを回想しては天上に並べていたのであった。

 翌朝、図書館のお馴染みの席に腰を降ろしてパソコンの電源を入れ、あくびの一つもしている間に、これまでどれくらいの男どもが真梨子先輩のお節介に勘違いを起こし、先輩との甘い時間を過ごせることを切望しては夢やぶれていったのだろうか、とそんな事を考えた。

 精神鍛錬に抜かりのない私であるからして、変な感情を芽生えさせず真梨子先輩の後塵を拝しているわけだが……それとて、先輩がお淑やかな服装に着替えた刹那には虜になっていた。と言うことだって往々にしてあり得る話しである。

 私は『世界で一番乙女に飢えた男』と言う不名誉な称号も甘んじて受け取る。そんな男なのである。

 

 図書館に一日中引き籠もっていると、誰と接触することもなく、とかく身だしなみが無法地帯になりがちになっていけない。他者からの視線を気にしなくなると、赤信号と聞いたことがある。

 現在の私からすれば、シグナルはすでに猛赤信号と言えるだろう。3日ものの無精髭を蓄え、服とて3日間着た切り雀である。さすがに汗臭くなってきたので、本日帰宅の折には着替えようと今朝起き掛けに思った。

 

 身だしなみなど衣食足りてからで良いではないか。思い出してみれば、ここ数日、ろくな物を口に入れていない。大体をインスタントラーメンの麺を乾麺のまま丸かじりして、お茶で流し込むと言った荒技で空腹のみをしのいで来た。

 自炊をする意欲が減退しているからであることは言うまでもない。ただ、それにともなって椎茸のように舌の上に生えてきた口内炎には困ったものである。乾麺を貪るたびに声にならない叫びをあげなければならないからだ。

 それもこれも『千年パンツ』を完成させるまでの辛抱である。盗作は容易い。いつもニコニコ挙動不審である。だが、創作ほど精神力と体力を奪ってゆくものはありはしない。自身の辞典からアイディアを搾って踏んで叩いて、残りの一滴を抽出してもなお、捻りつづけなければならないからだ。

 ゆえに、この作品が完成を見た暁には、私は創作者にしか絶対に理解不可能な無限の達成感に包まれ、その心地よさに陶酔するのである。何をどれだけ書こうとも原稿料が発生しない我々文芸部員にのみ味わうことを許された、悦楽の一時と言うわけだ。

 

 そして!完成したその時には、葉山さんに想いを伝える!

 

 いつしか、そんなオプションもひっつけながら、私は今日も一人孤独な戦いを開始したのであった。

 

 昼頃を過ぎ、窓ガラス越しに見える中庭に屯する学生たちの姿が少なくなってきた頃。知恵熱で前頭葉がオーバーヒートを訴えるのでそろそろ昼寝でもしてやろう。そう思った私は携帯の目覚ましを30分後にセットしてから机に突っ伏した。昨夜よりも1時間がんばった前頭葉であった。

 

「へー千年パンツかあ」

 

「本当ですね。千年パンツです」

 

 微睡みをはじめて、ものの10分も経たないうちに、私の背中が何やら騒がしい。

普段は足音一つしない図書館において、人の声を聞く事は滅多にない。これは、もしや、図書館に出ると言うワンピース令嬢ではないだろうか。私はそんなことを考えながらも、その声が空耳でない確証をひたすら探していた。何せ、ワンピース令嬢は地下室の六法全書置き場に出ると言うのがもっぱらの噂であったし、せっかく心地よく微睡んでいると言うのに、空耳ごときで首をもたげようものなら、覚醒につき、二度と心地よく居眠るなどできるはずもない。

 

 だが、

 

「恭君、気持ちよさそうに寝てるね。可愛いっ。ちゃんと食べてるのかな、ちょっと痩せたかも」

 

「先輩。それじゃまるで先輩が夏目君のお母さんみたいですよ」

 

 とはっきり麗しの笑い声が聞こえたので、喜んで目覚めることにしたのであった。

 

 

 ◇

 

 

 それは真梨子先輩と麗しの葉山さんだった。

 二人は私が寝ていることを確認してから、話題を二転三転させ、最後に美術部の展示スペースが余っている。と言う話しをしてから、ようやく口を止めた。

 すでに狸寝入りを敢行していた私としては、話しの腰を折ることも、はたまた会話を途絶えさせてしまうことも心苦しく……簡単に言えば頭をもたげるタイミングを伺っていたのである。

 

 ようやく訪れた束の間の沈黙に私は苦痛をもよおし始めていた首を半回転させると共に、ようやっと眠た眼を装って頭をあげられたのであった。

 

「起こしちゃった?」

 

 わざとらしく言う真梨子先輩はいつもの真梨子スマイルを浮かべて、私の隣に腰を降ろすと、葉山さんはその後ろに立ち据えた。

 

「確信犯ですよね」

 

 背伸びをしてみせる私であったが、どうにもそう言う気分と言おうか、葉山さんを前にした照れ隠しの意図も十二分に含まれてあったと言いたい。この瞬間に関しては目脂の有無とて至極気になる。

 それに拍車をかけて私の膝元を震えさせたのは久方ぶりに『誰か』と会話をしようとしているからでもあった。スーパーのレジでインスタントラーメンを買う時に、「袋はどうされますか」「ください」のやりとりをして以来の会話であったと思う。

 

 会話をしないと、声も出なければ舌も回らない。舌も声帯も筋肉を使わなければなまってしまうようだ。

 

 それでも、久々の会話は楽しかった。真梨子先輩との会話は楽しいことばかりが凝縮されているので、面白可笑しい。そこに時折、葉山さんが言葉を挟むのだ。会話リハビリ中の私には少々難易度が高い顛末となってしまった。

 日々をディスプレイに向かうことばかりを良しとせず、誰かと話しさえしていれば、真梨子先輩や葉山さんと面白可笑しく談話に花を咲かせられたと言うのに。

 誠に無念である。

 

「そうだ、部長会の宣伝なんだけど、ちんどん屋することに決まったから」 

 

 パジャマパーティの折、音無さんの着ていた浴衣がいかに可愛かったか、と言うところを話し終えたところで、真梨子先輩が思い出したようにそう言った。

 

「ちんどん屋ですか。また珍しいですね」

 

「夏目君知ってるんだ、私も一度見たことがあるだけなんだけど」

 

 私が幼少の頃、休日の朝に商店街に行くと商店主有志のちんどん屋が、セール品の書かれたチラシを配って練り歩いていたのを祖母と一緒に良く見に行った覚えがある。

 そう言えば最近はめっきり見かけなくなったな………

 

「詳しいことはまた私の部屋でお酒呑みながら決めましょう。今度は恭君もおいでよね」

 

「葉山さんも音無先輩も来るんでしょ。なら行けませんよ」

 

「じゃあ、二人きりならOK?」

 

 身を乗り出す真梨子先輩である。そんな緩んだ表情で言われても全然真に受けられませんし、その、何というか……自然と目が行ってしまうから谷間もどうにかしてほしいです。

 

「昼間なら良いでしょ?」

 

「えっ」

 

 私はてっきり夜中また、パジャマパーティーよろしく、ハーレムもとい、桜花の園が展開されるのであろう。そう勘ぐったがゆえに、参加を渋ったのだが……その手があったか……

 

「そうだよ。恭君。昼間なら良いでしょ?良いよね。決まり!」

 

 後でメールするねえ。真梨子先輩はきっと私がそれでも断ると思ったに違いない。だから、私が返事をする前に葉山さんの手を持って駆けて行ってしまったのだろう。

 しかし、真梨子先輩に手を引かれながら、後ろ髪を引かれる乙女のように私を見てくれた葉山さん……ありがとう。

 

 これで私は昼食を食べずして夜まで戦う事ができる。

 

 そう決意を新たにしたそばから胃酸過多の地獄の苦しみに私は溢れ出る唾液を飲み込み、これを薄めることに専念せざる得なかった。こんな状況下では執筆などかなうものか、やはり学食に行こうか……

 流星のごとく方針転換を画策した私であったが、ふと机の上をみれば、そこにはゼリー状の簡易食糧が一袋置いてあったの。

 

 『惚れ直したぞ(^_^)v』と書かれたメモと共に……

 

 真梨子先輩は何をしに来たのかと思ったら……きっと何でもないお喋りをして、気の向くままに帰って行くのだろう。そんな風に思っていた自分が情けない。

 わざわざ、これを届けに来てくれたのだろう。本当に真梨子先輩と言う人は、感謝の言葉も言わせないなんて……

 

「惚れ直すのなら、私の方ですよ」

 

 メモ紙に書かれた文字を指でなぞりながら、私はそう呟いた。そして、誰もいないことを確認してから、飲食御法度の図書館内にて真梨子先輩の愛情を一気に飲み干したのであった。

 誰かに応援されている。そう思えるだけで随分と筆の進みようも違ってくる。それと言うのも、時折、我に返ったように虚しく思える瞬間があるからだ。

 私はプロの作家でもなければ、将来物書きを目指しているわけでもない。だから、このように多くの時間を図書館に籠もりパソコンのキーボードを打つことに、青春の貴重たる時間を浪費していて良いのだろうか……そんな空虚な面持ちとなるのである。

 

 そこに意味をどう見出すか……私に必要なのはそれだろうと思う。文字をただ書き並べて、物語りを紡いだとしても。誰の目にも止まることなく、ただのゴミくずとして消滅するしかその他を知らないのであるなら、今この時に執筆をやめてしまったところで、誰がなんとも思うこともありはしない。ただ、私が一人。私が一人だけ、ついに主人公を幸せな終幕を見せてやることができなかった悔しさに涙するだけである。そこには当然、意味などありはしない。

 

 だから、誰かに応援してもらえることは無情の喜びなのだ。誰かが私の励んでいる行為を認めてくれているようで、それだけで、至宝たる『意味』を手に入れた面持ちとなれるからである。それに、加えて誰がわざわざ、私などの為に差し入れを持って来てくれるだろうか。

 双方相俟って私はあらためて涙が出るほどに嬉しさを噛み締めていたのであった。

 

 そのお陰か、その日は携帯の中に居る葉山さんに助けを求めることもなく、比較的順調に筆を進めることができた。

 

 図書館から帰り道、真梨子先輩が差し入れてくれた、ゼリー飲料を握りながら、再び先輩に感謝をしながら、私は暫時立ち止まって南の空に蒼く輝くシリウスを見上げた。

 あの蒼い光は私の父や母が生まれる前からそこにあったはずだ。誰に見上げられているかも知れず、はたまた、その存在自体が認識されていることすらも当のシリウスにはわかるまい。

 人間原理という誠に申し訳ない尺度で言えば、我々人間が『シリウス』と言う存在と意味を与えたがゆえに、シリウスはシリウスたりえるのだ。だが、そんな論はやはりシリウスに申し訳がない。

 所詮、光年と言う尺度は人間の想像と……いいや、全てを凌駕してあまりある。今、私の瞳に届いている光とて、光速にて何十光年、遥か昔にここを目指して旅だった光なのだから。

 海を見ても思う。しかし、星を見上げてもやはり思ってしまう。意味などとそんな小さなことを手に入れなければ、何を成すことも出来ないなど……やはり自分は小さい。なんとちっぽけな存在なのだろうかと。

 シリウスはきっと、誰に見つけられなくても、その蒼き輝きに魅了される者がいなかったとしても、広大な宇宙の中で孤高にも己の体を燃やして輝き続けていたことだろう。そう、そしてその鼓動が尽き終焉の大爆発でその生涯に幕を降ろすその時まで。

 

 そんな孤高たる強さが私にあったならば…………

 

 そこまで考えて私は歩き出した。そんな強さがあったならば、もっと違った人生を歩んでいたに違いない。

 確実にそうだろうと思う。今頃、この帰路を歩いていることもなければ、夏の暑さの中をペガサス号に跨って額に汗をすることもなかっただろうと思う。無いモノ強請りも人の性、あんなに大きくも雄麗たる月があると言うのに、どうして私はシリウスなどに惹かれたのだろうか……私は自分が可笑しくて吹き出してしまった。誰もいない帰り道であるからして、大いに醜態を曝したところで後悔する日はきやすまい。

 そして、先月読み終えたばかりの恋愛小説『月が兎に恋をして』を思い出すと、今一度読み返したくなってしまった。

 偶然と勘違いを繰り返して男女が出会う。そんなのは、ありきたりな物語りにも思えるのだが、男女双方の心情が刻銘に書かれた構成はなんとも技巧が凝らされていると言える。私の『千年パンツ』にもこの構成を取り入れていることは言うまでもなく……

 

「そうだ」

 

 ここで私にアイデアが閃いた。千年パンツの複線に『月が兎に恋をして』を織り込んでやろうと思ったのである。

 もちろん盗作などではない。劇中で主人公とヒロインに『月が兎に恋をして』を読ませるのだ。

 複線にはもってこいではないか。それに、読み手がもしも『月が兎に恋をして』を読んでいたとしたならば、なかなかどうして、自分が知り置いているモノが登場していると言うのは嬉しいものなのであるから、そう言った点でも喜んでもらえるかと思う。

 私だって最近読んだ小説の中に、中学生の頃に夢中になった海底二万里が登場していた時には不思議となんだか嬉しかったものである。

 下宿に帰ったならば、忘れてしまう前にまずはこのアイデアをメモしておかなければならない。そう考えながら、私は再び夜空を見上げた。私の視線の先には蒼い輝きはない。その代わり、少し楕円に傾いた月の姿があった。

 

 

 ○

 

 

 真梨子先輩の提案で、めでたくも部長会での宣伝活動は『ちんどん屋』に決定しました。

 お昼過ぎから開催された部長会有志が集まっての説明会には、真梨子先輩をはじめとして小春日さんに古平君。夏目君に音無先輩。そして、文芸部の部長さんと、よく飲み会で顔を合わせる気の知れたメンバーが揃いました。

 小春日さんなどは、ちんどん屋を見たことがないと話していましたので、映画研究会からちんどん屋の登場する映画を借りてきて、まずはちんどん屋とはなんぞや?と言うところから話しが始まりました。

 映像には派手なメイクに風変わりな衣装を身に纏い、鉦【かね】や太鼓を叩いたり、三味線にクラリネットを演奏したりする男女の姿が映っており、その様の人目をひくことと言ったら!とにかく『宣伝』と言うにはもってこいだろうと思いました。

 ただ、楽器を演奏できる人が誰一人いませんでしたから、その後の打ち合わせでは、楽器は用いずに拍子木を使うことに決まり、真梨子先輩たっての希望で宣伝をする日はわざわざ、砂山さんも参加する甘美祭実行委員会が駅前で宣伝チラシを配る日に被せることになったのです。

 ですから、真梨子先輩の意気込みは天を突くばかりでした。残念ながら、甘美祭実行委員会と日を同じくするので、音無先輩は部長会の方に参加することができなくなってしまいます。その代わりと言うわけではありませんけれど、音無先輩は「私の実家、貸衣装もやってるから」と、衣装をなんとか都合をつけてくれると胸を叩いて宣言してくれたのでした。

 

 物事とは一度動き出すと、後は何もしなくても勝手に動いて行くものですね。『真梨子式宣伝大作戦』の骨組みが決まってしまうと、後は事細かな事柄について各々にアイデアや意見が積極的に出ていきます。

 これぞ会議。そう思ったのは私だけではないと思います。先日多目的ホールで行われた会議……あんなものは会議ではありません。司会進行がまるで誰もいないホール内に一人で喋っているような……あんなのは会議ではないのです。

 

 楽しそうな表情を浮かべ『良いモノをより良く』持てる知恵を出し合い、一つの目標を完璧に磨き上げることこそ、会議のあるべき姿なのですから。

 1時間を予定していた会議は2時間を超え、真梨子先輩が次回会議の話しを始めなければ、それこそ夕方まで続いていたかもしれません。

 私も久方ぶりに、口の周りの筋肉がごわごわとしていました。

 

 第1回会議より数日の後、『真梨子式宣伝大作戦』第2回会議をより有意義にするため、発起人である真梨子先輩は私と小春日さんに声を掛けて、一緒に音無先輩の実家に向かいました。

 第2回会議と言っても、迫る甘美祭を見据えると大凡その会議が最後となるだろう。そんな認識を誰もが言わずとも暗黙の了解としているはずなのです。だから、3人連れだって肝心な衣装を持ち込んで士気向上と現実性をテコ入れしようと言う企みだったわけです。

 行きの電車の中で、私は小春日さんとどんな衣装が良いでしょうか。と色々と話しをしてました。真梨子先輩はもう決めている様子でして、私と小春日さん話しを聞きながら終始微笑んでいるだけでした。

 小春日さんは「ウエディングドレスとかもいいかも」とか「パーティドレスもいいなあ」とドレスアップした花嫁さんを恍惚と見上げる女の子のような眼差しで、空調にはためいている中吊りの五色饅頭の広告を見上げていました。

 まるで、「あの五色饅頭美味しそう」傍目から見ればそのようにも見えなくもないだけに私は夢見る少女である小春日さんを可愛いと思う傍らで、一人笑いを堪えていたのです。

 

「なっちゃんはどんなのが良いの?」 

 

 さすがに、音無先輩のご実家に伺うとあって真梨子先輩も普段の派手な装いは控え。白いブラウスに水色のスカートと、とても落ち着いた装いでした。首元の赤い林檎を象ったペンダントトップがブラウスの白を引き立てていました。

 やはり先輩こちらの落ち着いた装いの方が似合っています。憧れのお姉さんのような先輩を見ていると、ノーブルと言う言葉がとても似つかわしく、たまに無邪気に笑ってみせると、これもまたエレガントの趣があるのです。

 小春日さんが、高校の先生みたい。と言い表したのにもちょっぴり納得でした。

 

「そうですね。私は……浴衣で良いです」

 

 第1回会議で上映された映画では、昭和の香りを匂わす。浴衣に着物、燕尾服でしたから、やはり、それに習って私は浴衣で良いと思います。

 

「浴衣なんて駄目。そんなんじゃ目立たないじゃない。目立ってなんぼなんだから」

 

 「浴衣なら水着の方が目立つわね」そんな事を本気で言う先輩でした。

 

 音無先輩のご実家は、烏丸と言うところにあり、真梨子先輩が『とりまる』と読み間違えてしまい、女性の駅員さんに笑われてしまいました。私も『からすま』と読むとは思いもしませんでしたから、真梨子先輩のことは笑えません。地名は難しいのです。

 電車を降りて、音無先輩に書いてもらった地図通りに幹線道路を渡って、路地に入って行くと、鉄筋コンクリートのビル群の中にぽつりと、京都を思わせる風情のある木造建築が異風を漂わせていました。

 軒先には『音無呉服』と萌葱色地に群青色にて染め抜かれた暖簾が堂々と微風に揺れています。

 そして、私はもとより真梨子先輩ですら「入ってもいいよね?」と言わせてしまう、殺し文句が暖簾の先にあるガラス戸に貼られていたのです。

 これは、これこそ、格式の京都を思わせる一言ではないでしょうか。いいえ。それ以外に言い表しようがありません。

 私と小春日さんは今すぐにでも回れ右をしたい気持ちを押さえて真梨子先輩の背中に隠れました。

 

 『一見さんお断り』の札には思いのほか緊張してしまうものなのです。

 

 

 ○

 

 

 私たちが『一見さんお断り』にたじろいだことをお話すると、響先輩のお姉さんである音無 鳴海さんが、宇治茶と生八つ橋を眼下に「あはは」と明眸皓歯を覗かせて笑顔になりました。

 

「ほら、うちは舞妓さん相手の貸衣装やから、たまに舞妓さんの格好させて、言うて観光のお客さんが来はるさかい、だからあの札はったんよ」

 

 さすが、お茶の本場は違いますね。私がスーパーで買っている緑茶とは香りも渋みも別次元です。そろそろ、我慢できません。と思ったところでお茶と相対する甘味の八つ橋を囓ると、生き返ったようにとても幸せな面持ちとなるのです。渋く苦いがゆに甘さが必要以上に引き立つのかもしれません。

 

 真梨子先輩は私と小春日さんがお茶に八つ橋にと舌鼓を打ち放しにしている最中でも、鳴海さんとしっかり打ち合わせをしている様子でした。

 さすがは真梨子先輩ですね。これが私と小春日さんだけだったならば、きっと「帰りに生八つ橋を買って帰りましょう!」とお互いに頷きあってはしゃいでしまったことでしょう。

 蛇足ですけれど、帰りに生八つ橋を帰って帰るつもりでいますよ。もちろん!

 

 しっかり京菓子に舌鼓を打った後、さらに暖簾をくぐった奥の部屋に通された私たちでした。

 

「ちょっと、待ってて」

 

 鳴海さんはそう言うと近くの襖を開けて、どこかへ行ってしまいました。

 その部屋からは、日本庭園を思わせる情緒ある庭を見ることができ、苔の生えた石灯籠や動いてはいませんでしたけれど、獅子脅しなどは、時代劇でしか見たことのない『和風』だったのです。日本人でありながら、このような純和風をはじめて目にしたと言うのもなんだかおかしな話しですけれど……

 

 私の部屋の4倍はあるでしょう縦長の部屋で私はお庭を、真梨子先輩と小春日さんは襖に描かれた味わい深い猫の絵を……それぞれに見入っていました。

 

 やはり、和風とは地味ですね。シャンデリアもなければ大きな鏡もなく、絵画もなければ甲冑も石像もありません。けれど、私にはわかるのです、柱一本、襖の一枚。立たずにそこにあって然るべき物たちが全て一流品であることが。畳みなどは踏みと微かに沈むのです。ふわっと沈むのですよ!わら詰めを藺草で編んだ表をつけたこれを本畳みと言うのでしょう。見た目こそ変わりませんけれど。私の部屋の畳みなどまるで板が入っているかのように硬く、どれだけ踏みつけてもふんわりと沈む事などありません。

 鳴海さんに言わせれば「こんなん、町屋やったらみんな同じよ。うちは特に商いしてるから」なのだそうです。 

 慎ましくも地味ですけれど、見えないところに贅を尽くすところがやはり『和風』なのでしょう。これは日本人気質に通ずるところがあると思うのです。

 

「お待ちどうさん」 

 

 鳴海さんは奥の襖から幾つか浅広い桐の箱を抱えて戻って来ました。

 

「私なりに色々考えてみてんけど、どうやろうか?振り袖がええと思ってんけど」

 

 並べられた桐の箱を空けると、そこには可愛らしくも鮮やかな桜柄、面白い市松模様、梅の枝に鶯が止まった絵柄。一目みただけでも、格が違う振り袖が収められてありました。

 

「どう?」

 

「どうと言われる前に、こんな上等な振り袖を借りてしまっても良いんですか……」

 

 私は不安になってついそんな、貧乏くさいことを聞いてしまいました。洋服ならば少々どれくらいの価値があるのか知り置いているつもりですが、着物となると全く未知の世界でして……

 

 いややわあ。と手を口許に当てて言う鳴海さん。

 

「そんな、こんなん三重で家も立たへんから」と笑うのですが……家と言われても……微笑む鳴海さんを尻目に私と小春日さんは顔を向かい合わせていただけだったのです。

 

 「他にも出してくるから、もうちょっこっと待ってて」私と小春日さんの反応に気を良くして下さったのでしょうか。鳴海さんは気前良くも次から次から次へと桐の箱を出して来ては、蓋を開けて、着物の説明をしてくれました。

 どんな時にどんな人たちが借りて行ったのか……基本的に江戸時代からある一品であるところから話しが始まるものですから、その時点で私と小春日さんは物怖じしてしまって、触ることすらままなりません。

 別段買いに来ているわけではないのですが、「もう少し安い着物はありませんか?」と聞いてしまいたくなるのが人情と言うものですよね。

 

「真梨子先輩はどんなのにするんですか?」

 

 これなっちゃんに似合うと思うよ。など私と小春日さんに柄を合わせてばかりいる先輩に私が聞きました。

 

「私のは特別なのよねえ、なっちゃんたちのが決まったら見せてもらうつもり!」

 

 ここに並んだ絢爛豪華な振り袖よりも、特別な品とはどんな物なのでしょう。もしかして、白無垢を着るつもりでは……口に出さないながらも、真梨子先輩のきらきらが瞳からこぼれ落ちてしまっていて、少し恐いくらいでした。

 

 その後、「こんなのもあるよ」と鳴海さんが出して来てくれたのは、桜色の上と紅色の袴と洋風のドレスです。

 私は大正浪漫漂う袴が一目見て気に入ってしまいましたので「これにします」と鳴海さんに言いたかったのです……ですが、「鳴海さん、私これにします!これしかありません!!」と小春日さんがそれはもう、思わず私が振り返ってしまうほどの勢いで身を乗り出しながら大きな声で言うものですから、すっかり私は何も言うことができませんでした。

 小春日さんの選んだドレスは鹿鳴館スタイルドレスと言うそうです。

 『鹿鳴館』とは明治時代に建設された社交場の名称なのだそうで、舞踏会なども開かれ、その際、実際に婦女たちが着飾ったドレスの一着なのだそうです。

 

 確かに、若草物語や近代イギリスを思わせる仕立てではありました。けれど、手触り良さそうな光沢のある生地に見かけよりもずっと軽いようで、肩幅を合わせるのに小春日さんがドレス持ち上げますと、素直にふんわりと持ち上がるのです。

 

「見た目よりも軽そうですね」

 

「葉山さん。これ、全部絹よ!シルク仕立てなのよ!」

 

 絹とシルクは何か違うのですか?と内心思っていた私でしたけれど、シルクとは高級生地であることくらいは知ってますから、それをふんだんに用いたドレスとは一体お幾らくらいするのでしょう……すぐにそんな野暮ったいことを考えてしまうのは貧乏人の性ですね。

 その他にも、小春日さんはドレスの作り自体にも興味があるようで、縫い目を見てみたり、胸元の刺繍を撫でてみてはその滑らかさに感嘆の声を上げていました。「そのドレス全部手縫いなんよ」と鳴海さんが言うと。「参りました」とドレス向かって溜息をついていました。洋裁を嗜むソーイング同好会の血が騒いだのだろうと思います。

 鳴海さんと盛り上がる小春日さんを余所に私は、自分の気に入った袴を穴が開くほどに見つめてはその良さを探ってみました。けれど、作りが頑丈で繊細。そんな誰でもわかるような漠然とした良さしか見当たりません。私は小春日さんのように縫い物をするわけでも和裁も洋服も詳しいわけでもありません。まして、袴など大学の卒業式の時に着ることになるのだろう。そんな認識でいたのですから、付け焼き刃にもなりません。

 

「まりちゃん、袖だけでも通していって、袖あわへんかったら出さなあかんし」

 

「はい。待ってました!」 

 

 膝をぺしりと叩いて立ち上がった真梨子先輩は鳴海さんの後に続いて近くの襖からどこかへ行ってしまいました。衣装部屋へ繋がっているのでしょうね。

 

「わあ。こんなドレス着られるなんて思ってもみなかったあ」

 

 恍惚となってみたり、携帯カメラで写真を撮ったり。小春日さんの眼中には真梨子先輩の姿はまったくないようでした。

 そんな小春日さんに私は少しばかし呆れ気味だったのですが、夢中になって喜ぶ小春日さんの姿には幾ばくか妬ましくも思ったり……なんだか羨ましく思ってみたり、なんだか悔しいです。

 目の前に並べられた風光明媚に花鳥風月な振り袖を一重一重見ていると、なんだか不思議な面持ちとなってしまいました。

 これらの着物たちは江戸時代に拵えられ、何度も修繕されて悠久の時を越えて、私の眼の前にあるのです。きっと、代々これらの振り袖を袖に通してきた女性たちは、この着物を大切に大切に愛情を持って接していたのだろうと思います。だから、今もこうして美しいままの姿で残っているのでしょう。

 この着物たちを身に宿してきた人たちは一体どのような方々だったのでしょうか。どれだけ大切にしていても、人の一生は限られています。持ち主がいなくなっても、存在し続けるモノ……そう考えてしまうと、なぜか切ないです。

 

 私が大切にしていた、クマのぬいぐるみは従姉妹の女の子にお母さんが勝手にあげてしまいました。「代わりのぬいぐるみを買ってあげるから」泣きじゃくる私にお母さんはそう言いましたけれど、結局、新しいぬいぐるみは買ってもらえませんでした。

いいえ。私が断ったのです……私は従姉妹にあげられてしまったクマのぬいぐるみが良かったのです。おばあちゃんからお誕生日プレゼントでもらったあのぬいぐるみが……

 

 誰にだって特別なモノはあると思います。笑われてしまうかと思います。けれど、私はモノには想いが宿ると信じて疑いません。大切にしてきた想いで、小さな傷に落ちない汚れの一つ一つに大切な思い出が詰まっているのです。お母さんから見ればボロボロのぬいぐるみでも、私にとっては特別で大切なぬいぐるみ………なんだか泣きたくなってしまいました。

 

「そっか……」

 

 視界がぼやけてきた頃合いで私は気が付いてしまったのです。この着物たちが悠久の時を越えられた理由が!

 きっと、この着物たちを受け継いだ人が先代の持ち主が大切にしていた、その気持ちまでも一緒に受け継いだのですよ。だから、先代と変わらぬ愛情をもってこの着物たちを大切に大切に、紡がれた思い出と途絶えてしまった歴史を人が代わってもなお綴り続けていけたのでしょう。

 この袴だって同じです。もしかしたら、私の同年代の女性が身に纏って大学へお散歩へ、色々なところに出掛けて行ったのかもしれません。もしかしたら、意中の男性とのデートに着ていたかもしれませんね。

 こんな可愛らしい色合いですから、最高に可愛く輝かせてくれたことでしょう!

 

 不意に微風が私の前髪を揺らしました。庭の方を見てみると、微風にはらはらと桜の花弁が流れているではありませんか……そして、縁側には桜色と紅色の袴を着た長髪の女性が佇んでいるのです。背丈は私と同じくらいですが、私よりも華奢な肩幅と腰まである髪の毛は烏の濡れ羽のように艶めいています。

 

「小春日さん!」 

 

 私は隣でドレスを抱き締めていた小春日さんをの肩をゆらしながら「庭を見て下さい」と急いで言います。

 

 「急にどうしたの、そんなに慌てて」小春日さんはなんら変わりない庭を一瞥してから「あれ……」と呟いた私の顔をまじまじと見つめて「鳥?」と首を傾げていました。

 狐につままれた面持ち……と言うやつですね。私にははっきりと桜吹雪と袴姿の女性の姿が見えたのです……見えたはずなんです……白昼夢のように時間が経つにつれて自信がなくなってきてしまいましたけれど………

 

 

 ○

 

 

「それでは当日よろしくお願いします」

 

 三人で鳴海さんにお礼とお願いをしてから、三者三様、興奮気味に音無呉服を出た私たちは途中で大判焼きを買いました。抹茶を練り込んだ生地にごろごろ小豆の美味しいあんこに口の中をお祭り騒ぎにさせながら、駅まで歩いて、駅構内のお土産屋さんで予てから購入予定でした生八つ橋をお土産に買いました。

 私は普通の漉し餡でした。先輩はカスタードやチョコクリームなどが入ったバラエティセットを2箱も買っていましたので「そんなに食べるんですか?」と私が聞きますと「1個は恭君にあげようと思って」と舌を出して、真梨子先輩と同じくバラエティセットを2箱買った小春日さんにも同じことを聞いたところ、「古平君にお土産」と恥ずかしそうにもじもじしながら答えるのでした。

 

「そうですか」 

 

 素っ気なく答えて見た私でしたが……これでは、なんだか私だけがお土産を買う相手も居ないようで………

 

 それはさておき、帰りの電車の中で真梨子先輩は鳴海さんのことを随分と鼻高々と話していました。なんと言えば正しいのでしょうか。そうですね……そうです、尊敬。です。真梨子先輩は鳴海さんのことを一目置いているようなのです。先輩の話しによれば、鳴海さんは先輩と一つ歳が違うだけなのですが、若くして日本舞踊音無流の講師を務め、着物の着付けはもちろん和裁の腕前もぴかいちなのだとか。加えて、和声学も嗜み高校生の時には弓道のインターハイで全国3位にまでなった腕前なのだそうです。

 

「私と一つしか違わないのにすごいわよねえ。私には何にもないもんなあ」

 

 そう言って五色饅頭の広告の方を見上げた真梨子先輩の横顔は忘れることができません。

 どこか寂しそうな。まるで『自分は無能だ』と言わんばかりの哀愁漂い横顔だったのですから……

 

「羨ましがるなんて先輩らしくないですよ。先輩には私も小春日さんも夏目君もいるじゃないですか。それに大学には先輩の親衛隊もあります。そんな先輩を私は尊敬しているのですから、真梨子先輩がそんな風に誰かを羨んでしまったりしたら、先輩を尊敬している私はどうしたらいいんですか」

 

 奥歯が痒くなるような台詞でした。けれど、私は言いました。決しておべっかを言ったつもりはありません。私の本心の中の本心なのです。

 

「わっ、私も真梨子先輩のこと尊敬してますよ。先輩は面倒見もいいし、先輩のお陰で私は葉山さんと友達にもなれたし、古平君のことも……とにかく先輩にはとっても感謝もしてますし、尊敬もしてますから」

 

 私に続いて小春日さんも、言葉が軽くなってしまわないように、胸の中にある具体的な言葉を出来るだけ口に出して言いました。

 

「ありがと」

 

 少し口を開けて、目を見開いた状態で私と小春日さんの述懐を聞いていた真梨子先輩でしたが、真っ直ぐ見つめる4つの瞳に、感極まれりとゆっくりと瞼を閉じたかと思うと、その次の瞬間には頬に一筋の涙が伝わせていました。

 そして言ったのです、

 

「もう、二人してそんな嬉しいこと言わないでよ」と。

 

 その後はいつものにこにこと微笑みを浮かべた真梨子先輩でした。なので私も嬉しくなって、大人げなくも電車の中でお喋りに花を咲かせてしまったのでした。

 そうです、私が真梨子先輩を待っている間に見た白昼夢なのですが、玄関まで送って頂いた折に鳴海さんにそれとなく話して見ると「葉山さんも見たんやね。ここにある着物にはみんな、代々受け継いで来た人たちの『想い』が込められてるから、その想いに気が付いてくれた人には、持ち主やった人たちが姿を現して、その着物よろしゅうて、言いとうて出て来はるんよ」と、私だけにこそっと教えてくれました。

 

 俄に信じられない話しですが、現実に見てしまった私は信じないわけにはいきません。

 あの縁側に佇んでいた女性が持ち主だった方だったのでしょうね。後ろ姿だけで顔まではわかりませんでしたけれど、きっと綺麗な人だったのだろうと思います。何がそう思わせるのかと言われれば雰囲気。としか答えられませんけれど、それでも良いではありませんか。

 あんな素敵な袴を着こなす人なのですから、相場は佳麗と決まっているのです。

 

 

 ◇

 

 

 休日の昼下がり、私は台所の方から何やら良い香りがする真梨子先輩宅の、玄関に並んだパンプスとサンダルを見て、やはり少しは身だしなみに配慮してから来れば良かったと後悔していた。

 

 備え付けの下駄箱の上に置かれた小さな鏡を覗き込んでは、はねた前髪をなんとかできないだろうかと、この期に及んであくせくしていたのである。あの日図書館で真梨子先輩に宣言されてしまったお昼間の会議に参上したことは、言うまでもあるまい。元より、打ち合わせをすることもそれに参加することも吝かではないのである。

 だが、どうして毎度と真梨子先輩の部屋を開催場所に選ぶのだろう。年頃の乙女の部屋に入り浸るのは私の趣味でもなければ、男子として気が引けて然るべきである。

 とは言え、真梨子先輩が大学施設内、またはファミリーレストランなどでこういった集会を催さないの意図を知り置いている私としては、毎度をのど元まであがってくる不平を飲み込みざる得ない。

 

 何せ一度、ぶっきらぼうに聞いて見たことがあったのだ。

 

 大学施設内で打ち合わせをしてしまうと、真梨子先輩のフェロモンにむさ苦しい男どもが寄ってくるばかりか、真梨子先輩が誘わなかった同性の友人から嫉妬されてしまうそうで、聞きようによっては、自慢話か法螺吹きに聞こえてしまうかもしれない。かく言う私とて、そんな話しを人づてに聞いた時は『そんなものはただの自意識過剰と自己陶酔が激しいだけだ』と真梨子先輩を罵ることはしても、決して信じることはなかった。

 しかし、昨年の文化祭明け、憔悴しきった文芸部の面々に対して『クリスマスに恋愛エピソードを』と真梨子先輩が突拍子もない提案して、一部の賛同者と無理矢理賛同させられた私、真梨子先輩を合わせて5名が図書館の視聴覚室にてその打ち合わせとをしていると、時間が経つにつれて、一人二人と人数が増えて行く。何を言うわけでもない部外者どもは、まるで背後霊のように視線だけを真梨子先輩に向けていたのである。

 そんな視線を無視してか、受け流してか何とか打ち合わせの体を貫き通した先輩だったが、視聴覚室を出るなり「どうして声かけてくれないのよ」と真梨子先輩に泣きつく乙女がこれまた数名。背後霊には我が文芸部の真梨子先輩親衛隊長を豪語する部長がなんとか出口まで押し合いへし合いをしていった。だが、乙女たちには男である私たちがどうこうする事も出来ず……もとい、背後霊で嫌気がさしていた私は、薄情にも困惑した表情を浮かべる真梨子先輩をほったらかして、そうそうに図書館を後にしたのであった。

 

 まことしやかは、実であり誠であったわけである。

 

 ゆえに、私は大学施設内で打ち合わせをすることを推奨したりはしない。もしも、必要に駆られて会議をもよおすのであれば、唯一の聖域は文芸部室だろうと思う。真梨子先輩親衛隊の根城でもあり、部外者が入ってこようものなら部長がお気に入りのフィギュアを振り上げてこれを撃退するだろうし、加えて真梨子先輩がいるだけで部長の機嫌が良いと言う付加も私にとっては有り難い。無論、部長が恐ろしいと言うわけではない。だが、『三次元の乙女』と望むとも交流叶わずの部長は禁断症状が出ると、活動中一人でぶつぶつと何かを呟くのである。これがなんとも薄気味悪くも気持ちが悪い。だから、真梨子先輩がいてさえくれれば禁断症状の抑制剤となるばかりか、何かと愉快な先輩のおかげで陰湿な空気に包まれていることの多い文芸部室が明るく春めいてくるのである。

 

「恭君、何してんの、早くおいでよ」 

 

 無用な回想をしている間、やはり言うことを聞かない前髪と格闘していた私であった。気になり始めるとどうしても、増して気になってきてしまう……さらには我が意中の乙女たる葉山さんがいることを考慮すれば、これまた気になってついえることがない。

 

「こんにちは、お邪魔します」

 

 私をわざわざ呼びに来てくれた真梨子先輩に、私は素直に前髪を諦めると先輩と連れだって居間へ顔を出した。これではまるで、お誕生日会に呼ばれたにも関わらず恥ずかしさのあまり、なかなか顔を出せない人見知りっ子のようでなおも赤面である。

 

「夏目君は何飲む?お茶とポンジュースとあるけど」

 

 腰をクローゼット側に腰を降ろした私に、意外や意外、葉山さんが気さくにコップを手にそう声をかけてくれたのである。

 

「じゃあ、お茶で」

 

 私は是非とも『葉山さん貴女の御手で注がれるものであれば、例え水であろうとも私にとっては最高級のヴィンテージとなります』と言いたかった。

 

 並々と注がれた烏龍茶を前に私が一人で花を飛ばしていると、

 

「冷凍のだけどだけど、ピザ焼けたよ」と先輩がオーブン皿ごとチーズが煮立つマルガリータをテーブルの中央に置かれたファッション誌の上に置いた。

 

 ちなみにであるが、真梨子先輩がファミリーレストランを会議場所に選ばないのは、端的に『お店に迷惑だから』と言う理由であった。私としては時折見かける、ドリンクバーのみを注文して、長々と居座る同胞や勉学に勤しむ高校生の姿は、品格にかけると言おうか、『お客だから』『注文してるじゃん』と高慢にも思えてしまう。本人たちはそんな気持ちは皆無であることは、名誉のためにも付け加えておかなければならないが……

 やはり食事や喫茶を楽しむ空間において、参考書を広げたり、資料を配付の上で打ち合わせをするのはどうにも不一致と言いたいのだ。ファミリーレストランのウエートレスとして働いていた真梨子先輩だからわかる、店側の心情と言うのも往々にしてあるのだろうと思う。私にはそこのところが未経験なので、ただ、想像をするだけしかできないのだが。

 真梨子先輩が私の前方と斜め前に座る乙女2人に対して私のことをどのように話したのか、はたまたどのような印象を植え付けたのかは知るよしもなかったが、2人共に気さくに且つなんの隔たりもなく接してくれるところを見ると、有ること無いこと、私の善の部分のみを話して聞かせてくれた様子である。

 

 先輩。ありがとうございます!

 

 ピザをつつきながら、始まったの雑談であり、何というか、本日は何の目的でここに集ったのだろうか。原点回帰を訴えたいほどにその雑談のみが随分と愉快であった。

人見知りしているのが黒一点と私であったのが、またなんとも恥ずかしいかぎりでる。

 時折、真梨子式宣伝大作戦の話題もあがるのだが、どこまでは真でどこが冗談なのかは私にはわからなかった。嘘か誠かを省けば、葉山さんは袴を小春日さんはなんちゃらスタイルのドレスを身に纏うらしい。

 真梨子先輩はどうやら、すごい着物を着るらしい。何がどのようにすごいのかは先輩だけに全く持って不明である。うさ耳バニーでなければなんでも良いと私は思った。

 火中の真梨子先輩はと言うと、『花いちもんめ』を鼻歌にて奏でながら、オーブンと睨めっこをしている真っ最中である。そんな先輩を蚊帳の外にしたまま、黒一点の宴はまさに酣(たけなわ)となってしまい、葉山さんと小春日さんはついにそれぞれの携帯電話を触りはじめてしまったのであった。

 これには何とも言い難いのだか、私は眉を顰めたかった。葉山さんは私の意中の乙女であるが、ゆえに痘痕(あばた)も靨(えくぼ)と海容の面持ちでこれを容認しても私の胸の内は一向に痛むまい。けれど、誠に申し訳ないことではあるが、意中の人である葉山さんには……葉山さんだからこそ、そのような行いはして欲しくなかった。

 

 それが本心である。

 

 複数人居合わせる場に置いて携帯電話を触る行為と言うのは見ていて気分の良いものではない。まるで「つまらない」と物言わぬ携帯で叫んでいるよう思えて仕方がないからだ。

 その点、真梨子先輩と言えば、決して宴の折は携帯を一度として触った試しなどはありはしない。携帯は持って来ていても電源は落とす。これが先輩の流儀なのである。本人が語っていたのであるからして間違いはあるまい。そして、誰かが携帯を触り出すと、その誰かを巻き込んだ絶妙な話題で、引き続き携帯を触らせないのも先輩の流儀であると私は言いたい。これは私の他薦であって真梨子先輩自身の弁ではないのが残念であるが……

 

「なっちゃん、お皿持って来て」

 

 携帯の画面を見せ合いながら、何度か頷いていた二人であったが、真梨子先輩がすっかり綺麗に片づいたオーブン皿を所望すると「夏目君、お願いしてもいい?」葉山さんが私に向かって、そう言ったのである。

 だから、私は何を言うでもなく、頷くと黒塗りのオーブン皿を持って台所へと向かったのであった。

 台所ではオーブンを開けて真梨子先輩が待っていた。芳しくもスパイシーなバジルの香りはなんとも言い難い。すでに2切れほど胃袋にしまい込んだ私であったが、再び食欲が促進されたことは言うまでもない。このピザが焼き上がれば、真梨子先輩も居間にて談笑をするであろう。それはもう下火になった宴を鞴(ふいご)で再び天高く炎を焚きあげることだろう。

 そんな風に思っていた私である。

 だから、「真梨子先輩。私と葉山さんこれで失礼します。大学に行かなくちゃならなくなりました」と小春日さんと葉山さんが、連れだって玄関へ足早に去って行ってしまった時には、驚きを通り越して、さすがに憤慨の色さえも宿してしまった。

 私が激昂しても仕方がない。激昂するべきは真梨子先輩であって私が怒ったところで、どうしようもない。だが、真梨子先輩は「それじゃあ、このピザ、差し入れに持っていきなよ」とドアを開けた二人にそう声を掛けたのであった。

 

 この人はどうしようもないお人好しなのか、そうでなければ観音菩薩の生まれ変わりなのかもしれない。

 

 

 ◇

 

 

 そして、その後が本当に困った。

 

「それでは私も」と部屋を出ても良かったのだが、それでは折角ピザを焼いてくれた

真梨子先輩の行為を寄って集って踏みにじるばかりか、それはそれは真梨子先輩に不快な思いをさせてしまうことになる。

 もちろん、私が真梨子先輩の立場であったならば、そんな無礼な輩とは一生口など聞いてやらないし、着信も拒否してやる。我ながら度量の狭い男である。

 そんな自虐は置いといて、先輩と二人きりとなってしまった、こんの現状からすれ、私は本当に逃げ出したい面持ちであった。これは私にとっての緊急事態であると言える。

 

「恭君、冷めるよ」 

 

 真梨子先輩そう言いながらピザを一切れ取ってくれた。

 

 私は冷静になってみることにした。

 

 そもそも、どうして私がこのようにどきまぎとしなければならないのだろうか。今までにも、先輩と二人きりとなったことは幾度とあった。その時はいつだって何を思うこともなく、淡々と会話をしては別れていた。

 されど、今回は何かが違う。私は「市販品でも結構美味しいんだ」と口をもごもごさせながらピザを食べる先輩をそれとなく、ちらちらと見ながら考えた。考えて考えて考えて居るうちに、こんな可憐な人が彼女であったならば……とあらぬ事を考えついて、慌てて考えるのをやめた。

 

何をしているのやら……

 

 これまで婦女と関わって来なかった私であるからこそ、部長のような不埒な妄想を抱いてしまうのだろう。これは男に生まれてしまった性でもあるのだが……誠に厄介である。

 答えは至極簡単にして明快。

 本日、真梨子先輩はいつもの派手な服装ではなく、落ち着いた淑女の出で立ちであった。ただそれだけ。危うく、清楚たる出で立ちに欲情しかけた私であったが、起因となるべき自身の感情の深淵をまさぐると、真梨子先輩と言う乙女を前にして、やはり平静を取り戻すことができた私であった。

 

「何よ、変な恭君」

 

 事の心理に到達した私が凝視していた先には真梨子先輩の大きな瞳が二つあり、目線を逸らしながら、真梨子先輩が私にそのように問い掛けたので、私は若干その様に鼓動を早くしてしまった。

 

「今日は本当に打ち合わせだったんですか?」

 

 結局、雑談をして流れ解散となってしまった現状では、私の疑念とて正当なものと言えよう。

 

「本当のところは、なっちゃんと小春日ちゃんと3人で大方決めちゃってるのよ。だ

から、二人からすれば、夏目君とお話したかっただけなのかもね」 

 

 真面目な顔をして嘘をつく真梨子先輩は私は好きだ。決して解りづらくなく、それでいてすぐに冗談とわかる嘘であるからして、勘違いなどと言う副産物も生まれない。無理矢理勘違いするのは精々部長くらいだろう。

 

「衣装はね。音無さんが用意してくれて、そうだ、恭君は燕尾服だからね。当日は付

け髭して、シルクハットでステッキも持つの!」 

 

「本当ですか……なんでまた」

 

 どうして、そんな似非ルパンのような格好なのだろうか……私の想像では、一昔前の大学生……大學と表されていた頃の袴にマント。このスタイルが関の山だろう。そう思っていたから、まさかオーケストラの指揮者よろしく一生着ることはあるまいと思っていた燕尾服を着ると聞かされた時には正直に驚いた。

 加えて付けひげにシルクハット、そしてステッキ……先輩は私をどうしたいのだろうか……

 しかし、私が燕尾服を断ろうかと算段していると「部長と古平君には悪いんだけど、黒衣(くろこ)してもらわないといけないのよね」と真梨子先輩が呟いたので、

 

「黒衣って、歌舞伎やなんかで出てくるあの黒衣ですか?」尽かさず聞き返した。

 

 そうよ。と真梨子先輩は言い。

 

「引き受けてくれれば良いんだけど」そう言いつつ先輩は、口元に笑みを絶やさない。

 

 言ってる事と、口元が一致してませんよ……

 

 真梨子先輩の計画では駅前を練り歩きながら、まずはチラシを大々的にばらまくところからはじまり、人の眼を惹き付けておいてから、その後でチラシを個々に配るのだそうだ。

 黒衣は地面に散らばったチラシを回収する役回りらしい。「もちろん、衣装は完璧よ。顔を覆う直垂みたいなのもあるんだから」と胸を張って言う真梨子先輩であったが、果たしてそこが断らないポイントになりうるのだろうか……

 

「別に俺が代わっても良いですよ」

 

 完全に裏方で地味な役回りであるが、私はそんな縁の下の力持ちにやりがいを感じることのできる性分であったのだ。

 

「駄目よ。恭君用に衣装も頼んであるんだから」

 

 アヒルのように唇を尖らせて言った先輩は、手に持っていたピザのミミを乱暴に口の中に放り込んではむはむとこれをやっつけていた。

 それから、しばらくの沈黙が続いた。動作を切っ掛けにしたくてもピザはもうなく、台所へオーブン皿を持って行こうにも、きっとそれを真梨子先輩が許してくれないだろう。かと言って、真梨子先輩も立ち上がる気配はなく、自分の部屋であると言うのに、天上に床にと視線を弄んでは、何かの切っ掛けを探っている様子であった。

 私がこの先、もしも彼女と言う存在ができたと仮定して、そのお宅へはじめて訪問した際などは、このような雰囲気になるのだろう。今、目の前にいるのは真梨子先輩であるが、未来では葉山さんであって欲しい……そう思うのは必然的な帰結であろうと思ったのだが、あいにく、不自然にもそのように思わなかった。

 動物と言うやつは、往々にして居心地の良い場所を求めたがる。猫は自分が一番安心できる場所で最後を向かえるし、象とて同じであると言いたい。かくいう私も一見して『動物』と言う部類から一歩上を行く存在と過信しがちな人間である。人間も歴とした動物であるのだから、私が居心地の良い場所を求めるのもこれまた自然の摂理と言える。現段階では情けないことに、その場所が我が根城でも無ければ、まだ見ぬ葉山さんの部屋でもない。もちろん文芸部室でもなければ図書館でもない。この場所、つまりは真梨子先輩の部屋だったのである。

 無論、いやらしい意味は皆無であると声を大にしたい。この部屋自体が落ち着くのか、この匂いが落ち着くのか……もしかしたら、真梨子先輩がいるから落ち着くのか……

 

 今一度言っておく、下心は一切ない。絶対にない。きっとない……ないと思う……

 

 そんな風に考えると、再び私は真梨子先輩を真正面から見られなくなってしまい、

私も先輩に習って部屋の中を見回しているのであった。

 その内、沈黙に耐えられなくなったのか、真梨子先輩が徐にテレビのスイッチを入れた。丁度、画面には乳児用の紙おむつのコマーシャルが始まったところであった。

紛う事なき無垢な乳児が母親と戯れる姿や、なんと微笑ましいのだろうか。そう言えば親戚の姉さんが一歳になる子供を連れて来たことがあった。まだ言葉も話せなければ、歩くことさえもできない。そんな瞳が私の茄子のような顔を不思議そうな表情で見つめていた。

 私は何と可愛らしいのだろうと、姉さんが帰るまでずっと膝の上に乗せてはそのお餅のような肌触りに恍惚としていたものである。

 けれど、「育てると大変なんだから」と言った姉さんの言葉も忘れはしない。一片だけを可愛いとしていても、それの世話やらとなると話しは別なのであろう。

 姉さんにもその子供にも誠に失礼な話しで恐縮なのであるが、これは道行く犬を可愛い可愛いと言って頭を撫でることと大凡相異ないと思う。見ている分には可愛らしくて愛らしくとも、実際に飼ってみるとなると、ただ可愛いだけでは済まされない。

 命と言う観点からすれば、重みも存在もなんら代わらない両者であろうとも、やはり犬と人の子を一緒くたにするのは申し訳がない。明確に差別しておくべきだろうか。

 

「そう言えば恭君の小説進んでるの?」 

 

 思い出したように真梨子先輩が言った。

 

「まあまあです。期日までには間に合うと思います」  

 

 そっかあ。と言う真梨子先輩……そんな先輩を尻目に、嘘をついた私は背筋に冷たいものを感じていた。

 本当のことを言えば、まだ半分にも至っていないのだ。

 

「よーし!決めた!!」

 

 テレビを消したかと思うと先輩をそう言って座ったまま伸びをして見せた。一層強調される胸元に、私はささやかながら下心を咲かせたものの「何をですか」と当然の言葉を被せて、これを沈静化したのであった。

 

「美術部の展示スペースが余ってるのよ。だから、私となっちゃんで千年パンツの実物を作るの。良いでしょ?」

 

 何を言い出すのかと思えば……

 

「別に良いですけど、パンツですよ」

 

「わかってるよ。それくらい」

 

 パンツが下着を指し示すことは言うまでもない。だが、私の言うパンツとは男ものなのである。例え新品であろうともそんな物を真梨子先輩や葉山さんに触らせるのは私の良心が痛む。それはもう痛いことこの上ない!

 

「裸だって芸術だ!って言い張れば合法なんだし、パンツくらいどってことないわよ」

 

 言わんとすることは理解できます。でも先輩……その理屈、無茶苦茶です。

 

「よしっ。善は急げ!今からなっちゃんに連絡して製作に取り掛かりましょう」

 

 ついに立ち上がってしまった真梨子先輩であった。

 

著者でありながら、どうなっても私は一切の責任を負うつもりはない。それだけを伝えておきたかった………

 

 

 ○

 

 愛のキューピット。真梨子先輩が密かにそのように呼ばれている理由を小春日さんから教えてもらった私は、小春日さんさんと結託をして、一計を案じたのでした。

 それはそれは単純なもので、ようするに夏目君と真梨子先輩を二人きりにすると言うベターでありながら、即効性のある策略だったのです。

 ちんどん屋の話しをしてしまっては台所で作業をする真梨子先輩がこちらに来てしまうので、わざと雑談でごまかし、雑談が過ぎれば逆に『打ち合わせ』と聞いてやって来た夏目君に疑われてしまいます。だから、時折ちんどん屋の話題も織り交ぜながら、私と小春日さんで必死に雑談をしていたのでした。

 私は元々饒舌な方ではありません。だから、とても疲れました。

 そろそろ二枚目にピザが焼き上がる頃でしょう。そう思って、私は携帯の画面に『そろそろ出ようか?』と打って、小春日さんに見せました。すると、『夏目君に先輩の手伝いを頼んでからにしよう』と小春日さんも画面を見せて返事をくれたので、『賛成』と打ったのです。すると、美味い具合に「なっちゃん、お皿持って来て」と真梨子先輩の声がしましたから、尽かさず「夏目君、お願いしてもいい?」と私は言いました。

 そして、夏目君が台所へ行ったのを見計らって、小春日さんと二人して、真梨子先輩の部屋からおいとましたのでした。

 折角、私達の為にピザを温めてくれていたにも関わらず、勝手に二人して部屋を出てしまうことには胸が痛みました。けれど、これは真梨子先輩の為なのです。

 ドアを開けたところで、「それじゃあ、このピザ差し入れに持っていきなよ」と後ろ髪に先輩らしい優しさに胸は張り裂けんばかりになりましたけれど……ここは心を鬼にしなければならないのです。全ては真梨子先輩の為なのですから。

 

「こんなに人の好意を無碍にしたのは、はじめて」 

 

 大学へ向かう道すがら、小春日さんは大きな溜息をついてそう言いました。

 やはり、真梨子先輩の為とは言えど、小春日さんも心苦しい心中は同じです。

 

「今度は真梨子先輩が幸せになる番なんですから」

 

 俯く小春日さんに私は言います。

 

「うん。そうなんだよね」

 

 小春日さんは俯くのをやめて力強く頷きました。

 そうして、二人して差し迫った甘美際の話しやちんどん屋の話しなどをして大学の校門を跨いだ私たちは、「それじゃあ」「また後で」とそれぞれの場所へと向かったのでした。

 私は小春日さんのように、決まった作業がありませんでしたから、美術室に入るなり、何をしよう。そんな風に考えながら、とりあえず美術室内を見回してみました。

すると、作りかけの馬車の張りぼてがありましたので、色塗り等々は先輩方に任せるとして、木枠を釘打ちしまようと腕まくりをしたのです。

 美術部なのに何をしているのだろう。そんなことを考えそうになる時もあります。でも、それを考えてみたところで何もなりません。何度も言いますが、私は絵も描けなければ、立体も作ることが出来ないのです。そんな私なのです。でも、幸いなことに文化祭の外注では私でも戦力なれる作業があるのですから、それに虚無感を抱いていてどうしますか。自分のできることを精一杯やり通す。ただそれだけです。

 先輩には「展示スペースが余ってるから葉山さんも何か作ってみない?」と声を掛けてもらいました。「文化祭用に買った銀粘土もあるし、溶剤とか使い方教えるから」

親切にそんな言葉も頂戴しました。けれど、やはり私には何も作れないのです。食わず嫌いのように、何もしないでそんな駄々っ子のような事を言っているのではありません。

 私だって……私だって、小学生の頃、図画工作で描いた『闇夜の電信柱』では先生に褒められたことだってあったのですから。

 なので、こっそり誰もいない美術室で『闇夜の電信柱』を再び描いてみたのです。

描いてみました。

 でも、なかったことにしている限りは………私の口から皆まで言わさず、どうか察して欲しいと思います……

 私は思い出して溜息をつきました。まさかあんなにも自分自身に絵心がなかったなんて……先輩から言わせれば、「うまく描こうとすると駄目よ」と言うやつだろうと思います。

 

 でも、でも……うまく描きたいじゃないですか………

 

「いたっ」

 

 溜息をついてから次の一打は釘の頭を逸れて、ものの見事に私の親指に命中してしまいました。釘まで満足に打てないなんて……私はなんだか、勝手に自信喪失です。

 自信と共に床に置いた金槌。虚しい心境に陥ったそんな時でした。

 

 「やっほー」と真梨子先輩がひょっこり美術室に顔を出したのは……

 

 

 ◇ 

 

 

 本日は困ってばかりだ。いいや、真梨子先輩の聖域にいた頃の方がずっと清らかであったとここに高言したい。

 右横には相変わらず、ぶつぶつと呪文を唱えつつフィギュアのスカートを弄ぶ部長が居て、その他はどこを見回してもそんな部長のオーラに耐えうる強者たちが己が作品の推敲作業に精魂を込めている。

 本来であるならば、私は今頃図書館で一人細々と、なんのストレスもなく気の赴くままに、執筆をしたり備え付けのパソコンにてネットサーフィンをしたり……また蔵書を閲覧したり。目的を逸脱しつつも充実した図書館ライフをおくっているはずであった。

 しかし、『千年パンツ』の『千年パンツ』を作ると言い出した真梨子先輩は、高らかに立ち上がるとその足で私の腕を持って、強引に部屋の外へと連れ出すとそのまま大学へ舵をきったのである。

 私としては、嫌な予感が巡り巡っており今すぐにでも羅針盤を狂わせてしまいたい面持ちであった。けれど、そもそも羅針盤など搭載していないかぎりは狂わせようなく、真梨子先輩の後塵を拝して私はついに大学の門を跨いでしまった。

 

「ねえ、千年パンツのイメージ欲しいから、小説読ませてよ」 

 

 甘いような柑橘のような、とにかく良い匂いと共に髪の毛を振った真梨子先輩は唐突にそう言う。

 どこか予感していただけに私はたじろぎこそしなかったものの……答えはすでに決まっていた。

 

「無理ですよ。まだ完成してませんから」である。

 

「良いじゃん。半分でも十分だよ」

 

 食い下がるだろうとは思った。

 

「駄目です。それにまだ推敲だって全然してませんから。小説を見せるのは自分の尻

の穴を見せるのと同等に恥ずかしいことなんです。だから、どうせ見せるならきちんと洗ってから見せたいんです」

 

 尻の穴云々は否定するつもりはない。小説と言うものには、やはり私と言う人物の紛うことなく心髄が往々にして滲み出てしまう。それに、誤字脱字も恥ずかしい。少々下品な表現にしたのは後悔しなければならない。だが、そうでもしなければ真梨子先輩は諦めてはくれないだろうと思ったのだ。

 とにかく、半分も書けていない現状ではどうあっても、どんな御託を並べてもこれを阻止しなければならなかった。

 

「何それ、部長の受け売りでしょ」

 

 案の定、真梨子先輩は眉を寄せ、整った顔を少々歪ませてまるで汚いモノでも見るような眼差しでそう呟いた。

 

「もちろんです」

 

 即答する私。

 

 この時ばかりは、残渣程度に部長に申し訳ないと思った。

 それはさておき、そんなわけで、ネットサーフィンも蔵書を読み耽ることもできない、ある種の異空間、閉鎖空間、クローズドサークル的文芸部室内にて脇目を振れない状況に自らを追い込み、執筆にのみ集中させることにしたのであった。

 苦肉の策ではあったが、このまま図書館で執筆を続けていても、入稿期日にようやく半分出来上がると言う始末だろう。

 だから、どうしても通らねばならぬ道であるらしい……

 

「ねえ夏目君」

 

 魔女っ子マリーちゃんの着せ替えを終えた部長が珍しく私に声を掛けた。声を掛けることは別段珍しいことではなかったのだが、今回はその声色が珍しく穏やか……と言うよりも猫撫で声に似ていた気がする。

 

「ソーイング同好会に知り合いとかいない?」

 

「居ませんよ。どうしてですか」

 

 葉山さん繋がりで首皮一枚ほどソーイング同好会に所属する小春日さんと知り合いなのだが、揚々と知り合いです!と言おうものなら色々とややこしい事になりかねないので嘘をついた。

 

「マリーちゃんの衣装を自分で作ってみようと思ってね」

 

 市販品は可愛くないんだ。と続ける部長。

 

「そうなんですか……」

 

 私からすればそんなことは知ったことではない。と言うか、昨今ではフィギュアにも着せ替え用の衣装が売っているのか。

 上座に戻った部長を横目に私はさっさと執筆活動に戻った。私には一生、その浪漫は理解できないだろう。

 

 

 ○

 

 

「ええっ、パンツですか!」 

 

 私は真梨子先輩の提案を聞いた時、思わずそんな大きな声を出してしまいました。周りの先輩たちの視線を一身に受けながら、せめて『千年』とつければ良かったと畑違いに間違った、後悔をしたのでした。

 

「面白いと思うのよね。どうせ展示スペースも余ってるんだしさ。物にならなかったら、去年の作品で誤魔化せばいいでしょ?」

 

 仰ることはごもっともです。けれど………… 

 

「その、その……千年ぱ……ぱんつってどんな物なんですか」

 

 千年と言えばどこか、伝説的な香りさえ漂ってきます。それに、千年も耐えうるパンツがあるのでしょうか。

 

「それがさ。恭君にイメージ欲しいから小説読ませてって言ってるんだけど、見せてくれないのよね。だから、とりあえず『ぼろぼろで汚いパンツ』をコンセプトに作り始めましょう」

 

 真面目に受け取った私がばかでした。千年も存在するパンツがあるはずがありません。当然フィクションの中でのお話なのです。

 

「市販品ですか?」 

 

 フィクションなら、なんとかなりそうです。遊び心さえ忘れなければなんとかなりそうですから。

 次ぎに気になったのは、普通に売られているパンツなのかどうかです。特別なモノでしたら、自分達で作らなければなりません。

 うーん。先輩は細く長い指を顎に当てて、そう言いました。きっと、そこまでは考えていなかったのだろうと、私は推察します。

 

「小春日ちゃんに教えてもらって、作ってみようか」

 

 悪戯な笑顔を浮かべてそう言った先輩です。やっぱり、そこまで考えていなかったのですね。

 思いつきでいきなり、小春日さんの元へ押しかけるのも迷惑なので、本日は大人しく張りぼてに釘を打つ作業をして、次の日にソーイング同好会の部屋へ押しかけることにしました。

 

 

 ◇

 

 私には毎朝の日課があった。それは、散歩と称して愛し合う二人をこっそり、リサイクルショップの幟の影に覗くことであった。

 毎朝そこに居る2人は去年の秋頃から恋人であり、弱腰の男の方に女性からアプローチを繰り返すと言うなんとも羨ましくも大胆な展開を毎朝見せていた。それに気が付いたのはほんの数日前のこと、リサイクルショップの前を通りかかった時、熱烈なキスを交わす二人の姿を見た時であった。季節を跨いでついに傾けられる愛情が成就したのだと私はつい嬉しくなってしまった。

 もちろん、心の片隅では「羨ましいぞ!このやろう」と叫びたい衝動をひた隠しにしていることは言うまでもない。ただ、叫んでみたところ、周囲からは白い眼で突き刺され、当の本人たちは大空高く飛翔してしまうだけだろうが……

 詰まるところ、私一人変に思われるだけの結末しか待っていないわけで、そこまで熟慮してまで、無謀に叫ぶだけの度胸も愚かさも、私は持ち合わせてない。

 とは言え、日課を果たすべくリサイクルショップへ向かう私の心中は黎明よりも明るかった。それはもう神々しいばかりに輝いていただろうと思う!すれ違う方々には眩しすぎて申し訳ないと思うばかりです。

 そんな妄言を吐き散らかしてなお、自分自身が浮かれていることに気が付けないでいるのは、今日の午前中、我が意中の乙女と二人きりにて打ち合わせををすることになったからであった。

 喫茶であったならば……と欲を出せば限りがない。

 

 明日と言う日を見事橋頭堡としてみせん!

 

 私が寂しく一人、部屋の中で拳を突き上げたのは、真梨子先輩から「明日行けなくなったから、なっちゃんと二人でお願い」と言うメールが私の携帯を振るわせたからである。

 『千年パンツ』の千年パンツを甘美際の展示品にするために製作する。そんな真梨子先輩の申し出に困惑しつつも申し訳ないと思っていた私であったが、その後、千年パンツのイメージやら仕様を打ち合わせる席に著者として私が招かれる運びとなったことに関しては棚からぼた餅の趣があったと言いたい。まさか、先輩が葉山さんを巻き込むとは予想していなかった。

 可憐たる葉山さんが居るのであるからして、私にとっては、目眩くときめきの時間であると共に、至福の時間であるのだ。そして、2度目本日は、真梨子先輩が欠席し、葉山さんと二人きりでの開催とあいなった。この機会を橋頭堡とせずして、いつを橋頭堡とするのだ!!

 単純な私はそんな性分のお陰で、興奮に次ぐ興奮の後すっかり寝不足となってしまった。

 そのくせ、いつもより、1時間ほど早く目覚めるのであるからして、不可思議にもまして寝不足である。

 だから、きっと至らず脳を引きずる私は、妙に覚醒した眼にてそんな二人を見て、「朝から何をチチクリあっているのだ!羨ましいぞ!」と石を投げてしまいそうで自分が怖い。真剣にそんな阿呆なことを考えていたわけであるが……

 いつも通りリサイクルショップに到着すると、私のお気に入りポジションである幟の影に先客がいた。加えるならばそれは、艶めく黒髪を宿し、ブラウスにスカートと飾らない地味な出で立ちながらも、背中に回されたオレンジ色のポーチがなんとも可愛らしい。そんな女性であったのである。

 私はその後ろ姿を確認してから、脳髄を誠に覚醒させると、恐る恐る携帯電話を開いた。

 暗黒のディスプレーには間髪入れず、我が愛し恋しの葉山さんがポップコーンを食べようとしているお茶目な姿が表示されている。

 横顔であるがため、断定には至らなかったが……私の直感は告げていたのである『あれは葉山さんではあるまいか』と……

 訝しげんでいた私はそう思ってしまった次の瞬間には、一挙手一投足挙動不審男となって、二人に熱い視線を送る乙女の後ろで横顔を覗いてみようとしたり、はたまた頭を掻いたりと今すぐに逃げ出さなければ、悪しき漢として国家権力に身柄を確保されてしまいそうなほど私は怪しい様であったと自信があった。

 

「葉山……さん?」

 

 このままでは、私の身が危ない。そんな自分勝手な妄想はさておいて、本当のところは私も二人の熱愛ぶりを見たかったのだ。

 

「あれ、夏目君」

 

 二人を脅かさないように私がそっと声を掛けると、葉山さんは驚いた……と言うよりは、恥ずかしそうに私の顔をみると、誤魔化すように幟の端っこを指で弄びながらそう言った。

 

「葉山さんも、あの二人を見に来たんですか」

 

 私は穏やかに日向ぼっこをしながら羽繕いをする二人を見ながら、そう言った。

 

「何せちゅうをしていたので、つい」

 

 葉山さんも視線を二人に戻すと、口元を綻ばせて嬉し恥ずかしと言ったのであった。

 

 

 ○

 

 

 本日の『千年パンツ』の打ち合わせは私と夏目君の二人きりとなってしまいそうです。

 いいえ。真梨子先輩からメールで『ごめんね。明日お稽古になっちゃった』と連絡がありましたので、それはすでに決定事項なのでした。発起人である先輩が欠席だなんて!と責めたい気持も無きにしもあらずでしたが、理由が理由だけに致し方ありません。

 真梨子先輩は来たる甘美祭宣伝大作戦に備えて、鳴海さんのところへ日本舞踊を習いに行っているのです。ちんどん屋と日本舞踊と何が関係あるのでしょうか?と首を捻っていた私でしたけれど、「着物着るんだから、より女性らしく優雅に歩きたいじゃない」と言う先輩の一言に、妙に頷けてしまったのでした。

 着物を着て優雅に歩く。そのために日本舞踊を習いに行くのはいささか大袈裟のようにも思いますけれど……これも一重に真梨子先輩がどれだけの想いを持って甘美祭に向け望んでいるか言う気概のお話しなのだろうと思います。

 そうですとも!!私も一生懸命な真梨子先輩を見習わなければなりません。

 それに……それに……私だってもう大学生なのですから、打ち合わせくらい先輩がいなくても出来ます。ただ……憂鬱と言うなれば、夏目君と……男の人と二人きりと言うことなのだろうと……思うのです。もう笑っても構いませんよ。どうせ私はまだ男の人と付き合ったこともなければ、手も繋いだこともない寂しい女なのです。でも良いのです。私自身が寂しいとも恋しいとも微塵も思っていないのだから! 

 夏目君とは駅前で待ち合わせをして、私は家を待ち合わせよりも早く出て、リサイクルショップに行きます。

 ここには毎朝、リサイクルショップが開店するまでの間クルッポのカップルが、いちゃいちゃと仲良く一時を過ごしているのです。はじめてそんな姿を見かけた時は、思わず立ち止まってしまいました。けれど、私が佇んで見つめると、クルッポはまるで恥ずかしがるかのように互いに距離を置いてしまうのです。なので、私は次からリサイクルショップの幟に姿を隠してその様子を見つめることにしました。

 端から見れば怪しいことこの上ないでしょうけれど、こんな微笑ましい情景を見逃すわけにも行かず……本当のところを言うと、興味本意にチュウをするクルッポが気になっていたのです。人間のチュウが愛情表現の一種ですけれど、クルッポのチュウにはどのような意味があるのでしょうか?

 そんな、ふとした疑問から、私は毎朝幟に身を隠してクルッポを観察しているのです。

 

「葉山……さん」

 

 そんな折、私は急に後ろから声を掛けられて、驚いてしまいました。

 幟に姿を隠して明らかに怪しい姿の私です。だから、よもや大学の知り合いに見られてしまったのでは……そう思ったので、幟の端っこをもじもじと指で弄びながら振り返って見ました。明瞭に恥ずかしかったのです。だって、なんと言い訳をしてよい

のやら、私は思いつかなかったのですから……

 

「あれ、夏目君」

 

 そんなことを考えていた私ですから、声の主が夏目君であるとわかった時はどこか安堵と言いますか、とにかくほっとしました。

 

「葉山さんも、あの二人を見に来たんですか」夏目君は声を潜めてそう言います。きっとクルッポを脅かさないように配慮したのだろうと思います。

 それにしても『葉山さんも』と言うからには、もしかして夏目君も……クルッポを見に来たのでしょうか?

 まさか……クルッポを見るために、わざわざ足を運ぶ変わり者は私だけだと思います……本当にそう思ってみたのですけれど、夏目君は確かにまたチュウをしているクルッポを見つめて微笑んでいたのです。

「何せ、ちゅうをしていたので、つい」

 

 半信半疑でしたが、私はそっとそう言うと再びクルッポに視線を戻したのでした。

 

 

 

 

 長く遠く思えば想うほどに待ち遠しくも苦々しい日々であろうとも、その時はやがて必ずやってくる。『真梨子式宣伝』決行に際して私を除く各々が水面下にてこそこそと準備を滞りなく進め、来るその日に備えた。

 

 かくしてその時はやってきたのである。

 

 甘美祭一週間前である晩秋の日曜日の昼下がり、史上最大の作戦を決行するため、私たちは砂山氏が確実に居ないであろうソーイング同好会室に集合した。慣例となりつつある代議員と部長会との合同ビラ配りの準備等々は部長会と学生執行部が行い、似非風紀員たる砂山氏はビラ配りが行われる近鉄奈良駅前に直接向かっては別段ビラ配りを手伝うわけでもなく、一般人に紛れてこれを監視する。もっと言えば、昇降階段の入り口付近の手すりに巨体を持たせて監視するのである。

 代議員議長兼似非風紀委員長たる砂山氏が毎年のように、気怠くも義務的にビラを配る代議員+各クラブ部長の面々を仏頂面で監視監督していた頃。私達は、ソーイング同好会室にて秘密裏に虎視眈々と機会を窺い準備を周到に、まるでレジスタンスのように事を進め、やがてはその堂々たる出で立ちでもって、その眼前に錦を飾ったのであった。

 

「「「県大でござーい!県大でござーい」」」

 

 ある者はチークなドレスに、またある者は袴姿に、そして真梨子先輩は花魁の装いで。『奈良県立大学』と赤地に白で抜いた幟を持って、ビラを配りながら、我ら反砂山レジスタンスはそれは艶やかで賑やかな『ちんどん屋』をやってのけたのである。

 燕尾服に袖を通し、幟を持って古平と先頭を歩く役を拝命した私は、それはそれは恥ずかしかった。羞恥心が先立ったことは言うまでもないが、風変わりと言う点では、真梨子先輩や葉山さんに小春日さんと言った女性陣の方が抜き身出ていたし、特に真梨子先輩は目立ってなんぼの世界の住人であった。ゆえに私は、自分の身なりをショーウィンドーで見かけた時、少しばかし安心したし、彼女達を見ていればなんとか開き直ることができた。そんなことはさておいて、近鉄奈良駅前の広場に突如として現れたちんどん屋の一行は瞬く間にその場にいた全ての視線を釘付けにし、路上ライブをしていた無名のシンガーの演奏を諦めさせてしまった。私としては、ここまで注目されるとは思ってもみなかったわけだが、駅舎へ向かう昇降口付近で偉そうに腕を組んでいた砂山氏が眼鏡の奥にある、か細い目玉をひんむいて凝視している姿をこの眼に納めることができたことをまずは最上の喜びであると言いたい。

 さて、砂山氏はどう動くであろうか。事前にレジスタンスのことを知っていたクラブ部長会の面々は早々にレジスタンスの一行に加わって、ビラ配りをはじめており、その溶け込みようと言ったら、バターがホットケーキに染みこんで行くゆくようであった。定番と言おうか、女子諸君は一時、ビラ配りと言う本分を忘れキャイキャイとそれぞれの衣装に黄色い声を咲かせていたが、やがては水を得た魚のようにビラを配りはじめ、瞬く間に用意した400枚程度のビラを配り終えてしまった。

 次に昇降口を見たとき、すでにそこには砂山氏の姿はなく、いつもは必ず苦言を残す彼らしくなかったが、砂山氏を除く老若男女と問わぬ大衆は青春をここに燃やす若者の熱き魂をいたく気にいったらしく、これに砂山氏は敗北をきしたに違いない。

 

 かくして、ここに我らレジスタンスは輝かしき栄光を手に入れたのであった。

 

 

 

 物事とは起因の因果を別として一度動きだせば、思わぬ幸いにぶちあたるものなのである。あまりに、近くに居ることを日々としていた私は、文芸誌に掲載する千年パンツを執筆のため、我が根城たる流々荘に籠もりきりとなって3日。ようやっと、葉山さんに恋をしていたことを思い出した。

 夏休みに行われた『文芸誌がんばろー会』の場にて知り合ってより、ここここ5ヶ月間という期間、言葉は交わさずとも何かしら彼女と場を同じくしており、彼女の記憶が薄れる暇がなかった、だから私はいつでもどこか満ち足りた面持ちでいた。

 そう言えば聞こえは良いが、真梨子先輩が居て葉山さんが居た。が正しいく、今までをもやもやとした夢であると言うのであれば、現在はすっかり夢から覚めてしまった面持ちの私はどうにもやりきれない心中で、気が付けば「むぅ」とため息のような唸り声のような、よくわからない声を出していたりした。

 そんな心中にて、千年パンツなどと言うそもそも、私自身ですら得たいを知らない物の筆が進む訳もなく、私は仕方がなく葉山さんに会うために、大学へ向かい、校門を通ってすぐに、真梨子先輩を探したのであった。

 

「おー恭君、えっと3日ぶりっ」

 

 見つけたのは真梨子先輩が先であった。

 

「いよいよって感じですね」

 

 私は講義そっちのけで文化祭へ向けて滾る青春のエネルギーを単純に燃やす同士の姿を見ては、駆け寄ってくる真梨子先輩にそう言った。

 

「夏目君、こんにちは」

 

 もちろん、その後ろには葉山さんがいて、私は「奇遇ですね」と引きつった笑顔を浮かべてみた。人は3日笑わなければ笑顔も引きつるのである。

 

「恭君お昼食べた?」

 

「まだですけど」

 

「丁度よかった、今ね、なっちゃんとお昼どうしよっか。って話してたところなの」

 

 声を弾ませつつ、何やらにやにやしていた先輩は、行きつけと称する洋食店へ私と葉山さんを先導すると、注文の段となって「あちゃー私バイトへ行かなきゃだったんだ」とわざとらしく棒読みすると、困った顔の葉山さんを残して「また明日ね」と店を出て行ってしまった。

 私は無論、先輩に感謝をしていたが、こうも露骨であると無用な気を回してしまう。葉山さんも、私と同じ心中であるらしく、窓の外、通りすがりに手を振る真梨子先輩の姿をさらに困った眼で見送っていた。せめてもの助けは、葉山さんが私の気持ちに気が付いていないと言う事実ただそれだけ……

 結論から言えば、その時も、その後も何もありはしなかった。食事の時は葉山さんがクルッポと呼ぶ鳩のカップルの話や、ここ3日間の真梨子先輩の武勇伝を拝聴したり、それはそれは穏やかな時間であった。けれど、私はどこか興奮していたのだろうと思う。意中の女性を前にして二人きりと言うこの貴重な状況に、私はきっと一掬の緊張と一反の興奮をしていたのだろう。

 私の注文をしたデミグラオムライスはまるで味がしなかったし、面白可笑しい話しも気の利いた話しも、何一つとしてすることはできなかった。

 失意に思うことはない。けれど、私は洋食店の前で別れた彼女の背中を見ながら、もうこのような機会はないのかもしれない。これが最後なのかもしれない。そんな風に思うと、一層、この1時間にも満たない時間が貴重に思えて仕方がなく、どうして、葉山さんとの距離を縮めなかったのか!と切ない気持ちに吹かれてしまってしょうがなかった……別れ際に大きなため息をついた彼女に対してどうやって距離を縮めれば良いと言うのだ……

 

 終わりが悪ければ全て悪い。

 

 切な風に吹きさらされた私は、流々荘へ帰って愛すべき四畳半の寝転がると天上の染みのようなモノを見上げては「はぁ」と深く重たいため息をついたのであった。

 

 

◇ 

 

 

 文化祭を目前に、千年パンツを巡る主人公と愉快な仲間達がおりなす南走北飛の活劇は未だクライマックスにも居たらず、ヒロインときたら引き籠もりを決め込んだまま、台詞とて一つもなく。ゆえに限りなく男のみが喋り行動をし、のたうち回ると言う、青春活劇にあるまじき男臭の濃い作品へとひた走っていた。それもこれも、私の実生活から乙女臭が消えてしまったことが大きな原因だと私は声を大にして言いたい。作品の序盤を書き始めた頃、私の毎日は乙女臭に色めき立っていた。真梨子先輩の甘い香水の香りに、葉山さんのシャンプーの匂い。私の嗅覚は毎日香りのフルコースを頂いていたわけだ。だから、その影響を色濃く受けた作品の序盤では、まさに真梨子先輩のような葉山さんのような女性が複数登場しては、キーボードをポチポチと打つ私の手も踊りに踊り、原稿とて水の流れるがごとく進んでいた。しかし、文化祭が近づくにつれ……いや、ちんどん屋が成功に終わった頃から、それぞれの役割が忙しくなり、私は一介の文芸部員にその地位を納めたし、真梨子先輩は相変わらず、文芸部と美術部とのパイプ役をこなしつつ、文化祭で入れない分、今の内にと増してバイトに勤しんでいるらしかった。

 夕方、陣中見舞いと称して冷やかしにきた古平がそう教えてくれたのだから、きっと間違いはあるまい。

 

 その時、私は「葉山さんはどうしている」と聞いてみたのだが。

 

「葉山? あ、いつも先輩の金魚の糞してるあの子のことか?そんなもの知るわけがない」古平は、へちゃむくれのようなユニークな表情をして、我が愛しき女性に対して金魚の糞などと言う無礼千万な物言いをぶちまけた。私はもれなく憤怒するとその辺に転がっていたペットボトルを投げつけ、「何をするんだいきなり」と言う古平にゴミ箱を投げつけた。

 すると、

「あひぃ」と古平は妖怪のような声を出し、下駄箱の辺りに、ソースの良い香りのする何かを置いて部屋から退散した。

 その影を確認してから、ようやく私は自分が今、一番に大切にしなければならない相棒ことノートパソコンを振り上げていることに気が付き、しばらくその体勢のまま、次にまずどうするべきかを慎重に熟慮を重ねたあげく、ようやっとノートパソコンを机の上に戻したのであった。

 

 まずは冷静になる必要がある。

 

 私はそっと立ち上がると、パソコンの電源を切って、窓を静かに開けてみた。途端に舞い込む夜風はやけに冷たく、どんよりと温い部屋の温度に慣れていた私は思わず身震いをしてしまった。しかしながら、冷たい風と言うのはどことなく清潔で清らかな感じがして、私の私による男臭にのみ汚染された四畳半が浄化されて行くようで、肌寒くはあったが、清々しい気分にだけはなれた。

 とりあえず、私は空腹であることを思い出して、そう近くでもないコンビニへ腹を満たしに出掛けることにした。思えば随分と陽が暮れるのが早くなったものである。夕暮れと夜との境が随分と夜側に味方するようになって来たように思う。私は時計と

言うものあまり利用しないから、時刻はかなりあやふやであったが、とにかく夕闇せまる夕方頃、ペガサス号にまたがると、コンビニへと両足に鞭を振るったのであった。

 

 

 

 

 楽しくもエキセントリックな時間は稲妻のように過ぎてしまいます。思い返せば思い返すほどに、とても楽しく充実した毎日であったように思います。

 ちんどん屋は準備に費やした時間と手間の分だけ大成功でした。ビラを配り終えた後も、観光で訪れていた外国の旅行者からの写真撮影の依頼が多く、もう何枚撮られたのかさえ覚え切れないほどでした。自分の袴姿が海を渡って行くのかと思うととても恥ずかしくて仕方がありませんが、そんな羞恥心よりも今は達成感の方が勝っていて、程よく温いお風呂と相まって私は一層惚けては燃え尽き症候群の真っ直中にいたのでした。

 

「県大でござーい」私は、湯気のさめやらぬ天井に向かってそう言いました。気持ちの上ではこれからこそが本番なのだとわかっているのですが、どうしても奮い立たせることができませんでしたので、気合いのつもりで言ってみたのです。

 

 けれど、

 

「あぁー」気合いは入りませんでした。

 

 やはり私は絶賛燃え尽き症候群中なのでした。

 

 

 

 はっきりと燃え尽き症候群が癒えたとも言い切れないまま、私は真梨子先輩と千年パンツの製作を続けていました。小春日さんにパンツの作り方を相談に行くと。小春日さんはとにかく真剣にパンツについて考えてくれました。数ある男性用パンツの特徴と形状をホワイトボードに書いて説明してくれた後、とても顔を赤くしながら「古平君は……」と彼氏である古平さんの好みまで教えてくれました。

 テーマは『卑猥でなくまた汚くない千年パンツ』でしたので、これぞパンツ!と言うパンツを作るわけにもいかず、加えて原作を読んでいないのでどんなパンツかも検討もつきません。なので、すぐさま暗礁に乗り上げてしまいました。

 暫時、3人で腕組みをして唸っていると、「そうだっ!」と真梨子先輩がとても良い笑顔で立ち上がったのでした。

 

「ふんどしにしょ!」

 

「「ふんどしですか?」」私と小春日さんは思わず同じ台詞を同じタイミングでキラキラした先輩の笑顔に投げかけます。内容は知らないながらも確か、小説の舞台は現代だったと思うのですが……

 

「うん。ふんどしだったら、いざという時は一反木綿って誤魔化せるし。プランBも兼ねて」

 

「一反木綿って妖怪のですよね」

 

「プランBですか……」

 

 私と小春日さんは口々にそう言いながら顔を見合わせたのでした。

 

 それでも代案が思いつきませんでしたので、千年パンツはふんどしで作ることにな

りました。

 

「作り方を調べておきますね。多分、ミシンを使えばすぐにできると思うけど……」

 

 作り方に関しては翌日までに小春日さんに調べておいてもらうことにしました。小春日さんも自分の製作で忙しいと言うのに、申し訳ない限りです。

 即日で取りかかっても良かったのですが、真梨子先輩がお昼からアルバイトがあると言うので、明日から作業に取りかかることにしました。

 

 部室棟を出て、事務所前のピロティを通り抜け、正門へと続く道すがら、夏目君と会いました。

 

「おー恭君、えっと3日ぶりっ」 

 

 真梨子先輩が尽かさず、そう言いながら夏目君の元へ小走ります。やはり夏目君の顔を見ると先輩は嬉しいみたいです。

 

「いよいよって感じですね」

 

私は歩いて行きましたので、そんな夏目君の声も随分と小さく聞こえました。

 

「夏目君、こんにちは」真梨子先輩の隣よりも少し後ろに立った私は、会釈混じりにそう言いました。すると、夏目君は今まで疲れたようなじとっとした目元を引きつった笑顔に変えて「奇遇ですね」と言うのでした。そんなに私が居たことに驚いたのでしょうか?

 

「恭君お昼食べた?」

 

「まだですけど」

 

「丁度よかった、今ね、なっちゃんとお昼どうしよっか。って話してたところなの」

 

 先輩は声を弾ませて、私と夏目君を交互にみてはにやにやとしながら、そう提案をすると、私と夏目君の返事を待たずに大学かと隣接する舟橋商店街にあるオムライス屋さんへ向かいました。先輩や小春日さんと良く行くお店です。

 一番奥の窓側席に腰を降ろすと。いつものパートのおばさんがオーダーを取りに来てくれました。私はデミグラオムライスを注文すると夏目君も同じものを注文します。

先輩はと言うと……「あちゃー私、バイトあるの忘れてた」とわざとらしく腕時計をみやってそう言うと、「しまった……」と項垂れる私に「また明日ね」と言い残し、さっさとお店を出て行ってしまいました。

 私は後悔の念を込めて、手を振りながら窓の外を通り過ぎる先輩の姿に目配せをし続けました。

 

 本来ならば私が二人に気を配って退出しなければならないと言うのに……

 

 その後、夏目君とは山も無ければ谷もなくクルッポ夫婦の話や、ここ3日間の真梨子先輩の活躍をお話しましたし、夏目君はここのところ下宿に引きこもって執筆に専念している旨を聞きました。

 心持ちこそ真梨子先輩に馳せられていても、相変わらずこのお店のデミグラオムレツはとても美味しいのです。ふわとろ卵にかけられた特製デミグラスソースは濃厚でありながら、むつこくなく喉の奥に至ってなお余韻を残すとても不思議なソースなのです。

 店員さんに聞いたことはありませんけれど、お店の佇まいからもきっと、何十年も継ぎ足し継ぎ足しされ熟成されたソースに間違ないと思うのです。そんな私とは対照的に夏目君は同じデミグラオムライスを食べていると言うのに、どこにも感情が見あたらないままにスプーンを進めていました。〆切が迫っていて神経質にでもなっているのでしょうか?こんなに美味しい物を美味しそうに食べられないほど急を迫られているなんて……雑用専任の私は少し羨ましいような悔しいような、やるせない面持ちとなってしまいました。

 だから、夏目君とお店の前で別れた直後、ため息が自然と出てしまいました。特大のため息がです……甘美祭を作る一員え有りながら、どうしてもその一員になりきれていないような虚無感の再来でため息を一つ。もう一つは今更ながらですが、真梨子先輩のキューピットになるべくチャンスをすっかり逃してしまったことにです。会わせて二つ分ですから特大になってしまうのも無理もありません。

 大学へ帰る道すがらはずっと真梨子先輩のことを考えていました。ちんどん屋をする一週間程前から文化祭でバイトを休む関係で、先輩は普段に増して働いて居る様子で私ですらここの所、先輩とまとまった時間を過ごした記憶はありません。夏目君も〆切で家に引き籠もっていると話していましたから、先輩とまともに会っていない事でしょう。

 だから先輩にとって今日は、夏目君と過ごす貴重な時間だったはずです。なのに、それを私に譲ると言うか押し付けると言うか……好意を抱いている相手を異性に……加えて親しくしてくれている私なんかに任せて……手を振りながら窓の端に見えなくなって行った先輩はどんな気持ちだったのでしょうか。顔で笑って心で泣いていたのでしょうか。

 

 それとも、私だから心配もせずに二人きりにできたのでしょうか……

 

 考えれば考えるほどわからなくなってしまいます。まるで沼の中で必死にもがいているようです。

 考えてわからないことを考え続けていたので、今日の釘打ちはそれは悲惨なものとなってしまいました。打ち損じは数知れず、釘も大層曲げてしまいましたし指も打ちました。とうとう親指の爪の中に血豆のようなものができてしまう始末です。

 私は夕方過ぎた頃に作業を切り上げて、ソーイング同好会へ向かいました。ふんどしの件もありましたけれど、小春日さんに相談してみようと思ったからなのです。もちろん、小春日さんの都合が悪ければ邪魔をするつもりはありません。

 

「葉山さん」

 

 私が同好会室へ続く廊下を歩いていると後ろから小春日さんに声を掛けられました。 

 どうやらお手洗いへ行っていたようです。

 

「今日は終わりなんですか?」いつも通学に使っているトートバッグを肩から提げていたので、私は期待を込めてそう聞きました。

 

「ええ、後は家に帰ってやろうと思って」と小春日さんは言い、続けて「部屋にはみんな作品が置いてあって気を遣うし、狭くって」と困った顔をして言うのでした。

 

「そうなんですか。今丁度小春日さんに会いに行こうとしていたところなんです」

 自分勝手にも私はこれで相談ができる。と少し嬉しくなってしまいました。

 

「その……ふんどしの件ですよね。簡単だけど作り方を書いておいたから、これで作れると思うの」とトートバッグからふんどしの分解図のような物が書かれたコピー用紙を一枚取り出すと、私に見せながら懇切丁寧に教えてくれました。

 

「忙しいのに本当に助かります。これだったら、私と先輩でも簡単に作ることができそうです」

 

 小春日さんの説明を受けてから、『ふんどし』に決めた真梨子先輩の判断は正しかったとしみじみ思いました。先輩の部屋にならミシンもありそうですから、難なく作り上げることができるでしょう。

 

「あっ、そうそう。生地も余ったのがあるから。取ってくるね」

 

 少し歩き出してから思い出したようにそう言うと小春日さんは踵を返して部屋へと駆けて行きました。

 作り方を教えてくれた上に、生地まで用意してもらえるなんて!これぞ至れり尽くせりと言うにふさわしいと思うのです。

 持つべき物はやはり親しい友人ですね。そう思わずには居られない私なのでした。

 

 

 

 

 ふんどしの件に関しては後で真梨子先輩にメールをしておくとして、私は私の懸案事項を小春日さんに相談しなければなりません。ですから、「少し相談したいことがあるのですけど」と学食の二階席へ場所を移したのでした。

 

「んと、それって……つまり、夏目君は葉山さんの事が好きってことなんじゃないかな?」

 

「へっ!」閑散とした二階席の窓側で私は開口一番にそんな事を言う小春日さんに目を見開いて言葉にならない抗議をしました。

 真梨子先輩の恋愛成就について一通り話した後の話しです。少し考え込んだ風に腕を組んでみせたかと思うと、多少の躊躇を伴って、小春日さんは言ったのです。

 

「そんな、夏目君が私の事をだなんて……ありえない」

 

 「そうだよね」と言ってほしくて、私は小春日さんに懇願するように言います。まさか……まさか、真梨子先輩の意中の人がよりにもよって私のことをだなんて。私は今まで誰かに告白されたことなどありませんし、誰かと噂になったこともない婦女としてとてもスマートな人生を歩んできました。恋とは愛とはどんなものでしょう。と想いを巡らせてときめいてみたり、クルッポの恋模様をみて癒されたりしてはいました。いましたけれど、そんな……私だなんて!

 

「葉山さん……大丈夫?あくまでも可能性だからそんなに動揺しなくても……」

 

 頭の中はすでに洗濯槽のようにぐるぐると大変なことになっていましたけれど、表面上は何事もなく平静を装っているつもりでした。けれど、小春日さんにそう言われてしまう限りは装いきれていなかったようです。

 

「あ、え、大丈夫です。でもどうして、そう思うのですか?」

 

「先輩の葉山さんへの接し方が私の時とそっくりだから」

 

 と小春日さんははにかみながらそう言い「ほら、古平君との仲を取り持ってもらった時」と続けました。

 

「……」私は考えてしまいました。もちろん、先輩が小春日さんと古平さんとの仲をどのようにして取り持ったか。と言うことに関してです。

 

「私と古平君って全然接点とかってなくて、でも私の気持ちを知った真梨子先輩が、頻繁に古平君と会う切っ掛けを作ってくれたり、二人きりにしてくれたりしたんだよね。さっきの話しを聞いてると私と同じだなぁって。だって、葉山さんも先輩と一緒にいると良く夏目君と会うでしょ?」

 

「あぁ……確かに……」

 

 全然意識をしていませんでした。盲点です。けれど小春日さんの言う通り、先輩と行動を共にしていると今ままで面識が全くなかった夏目君と良く会います。主に先輩が会いたいのだと思っていたのですよ。だって、先輩は夏目君のことが好きなのですから……でも、夏目君は私に好意を寄せていて……寄せられている私は先輩と夏目君の仲を取り持とうとしていて……

 

 見事にこんがらがってしまいました……

 

「でも、すごくややこしいよね。夏目君は葉山さんのことが好きで、先輩は夏目君の事が好きで、葉山さんは先輩と夏目君のキューピットでって」

 苦笑しながら小春日さんが言います。

 

「あぁ」

 

 万策を考える前に万策尽きた。と私は机に突っ伏して「どうしてこうなってしまったのでしょうか」と泣き言を吐くことしかできなかったのでした。

 

 

 

 

「そう言えばご飯まだだったよね。忘れてた」パジャマ姿の先輩が冷蔵庫を開けて思い出したように言います。

 

 例によって私は、真梨子先輩の家にお邪魔をしていて、小春日さんからもらった作り方のメモと生地を広げて、鋭意ふんどしの制作中です。

 小春日さんに相談を聞いてもらったあと、もやもやとしたまま正門を出た所で、先輩から「7時くらいから家に来て!」と連絡がありました。小春日さんが私よりも先に先輩に連絡をしておいてくれたみたいです。なので7時よりも10分早く先輩の下宿先へ到着したのですが、先輩は不在で、5分ほど待ったところで額に汗を浮かべた先輩が「ごめーん」と言いながら駆けて来たのでした。

 

「私何か買って来ましょうか」

 

「んー今日作業できるって知ってたら、買い物いってたんだけどなぁ」と冷蔵庫のドアを力無く閉めると、「私買いに行ってくるよ」と台所に置いてある財布を掴んで先輩は言います。

 

「パジャマで買い物に行くつもりですか」

 

 私はそう言いながら、お財布をポケットに入れて真梨子先輩の丁度胸元に指をさして言いました。

 

「あちゃ」

 

 自分の格好に気が付いた先輩はいたずらっ子のように舌を少しだしてそう言うと「ごめんお願い」と両手を合わせて私に言いました。

 

「行ってきます」出がけにそう言うと「気をつけてね」と黄色い声が背中に返ってきました。

 

 さて、どこに買い物に行きましょうか。近くのスーパーが一番良いのですが、私の頭の中にはその前にいつか見たコンビニの幟が思い出されてしまって仕方がありません。それは『絶品パスタ全種30%OFFフェア』と大々的にプリントされている幟です。

 「そうしましょう」私は分かれ道を三条通り方面へ進みました。確かにスーパーの方が豊富なお総菜がありますし、お値段もお手頃です。けれど、けれど!絶品なパスタなのですよ。しかも全種類が30%もOFFだなんて!これでは足が自然と向いてしまうのは仕方がないことなのです。

 私はどんなパスタがあるのでしょう。と心持ち明るくわくわくとさせながらコンビニへ向かったのでした。

 

 

 

 

 私行きつけのスーパーが近所にあるにも関わらず、私は、三条通りを遡っているのには理由があった。目指すコンビニがその場所にあると言うこともさることながら、最も重要視すべきは、『絶品パスタ全種30%OFFフェア』を開催していると言う事実である。

 絶品とうたった所でコンビニのパスタにそこまでの期待は抱くまい。しかしながら、とろとろソースのカルボナーラが食べたい。温めてもらったならその芳醇な香りに果たして家まで我慢できるかどうかさえ自信が無いほど、空腹を抱えた私であるのだ。加えてそれが30%もOFFともなれば多少の労力は惜しまない私なのだ。

 週の真ん中である今日はさすがに三条通りとて賑わいに欠けていて、いつもより殺風景に見えてならない。加えてこの寒風であるからして余計に脱色感が否めない。

 そのコンビニは三条通りを自転車で登ること、背中に汗を感じる頃に左折をして、さらにやすらぎの道沿いに狭い歩道を登った所、丁度、高天交差点の角地にあった。

 

 ちなみに言うと古平のバイト先である。

 

 私は古平が居れば、面白いと思ったのだが生憎、古平は勤務の日ではなかったらしく。店内を隈無くトイレに至るまで見て回ったがついにその姿を見つけることはできなかった。決して、知り合いのよしみで何かおまけしてもらおうなどと邪な気持ちを抱いていたわけではない。純粋に冷やかしてやろうと思っただけである。

 パスタの幟はすでに撤去されていたが、店内に入ってすぐの正面の棚に『絶品パスタフェア無くなり次第終了』と手書かれた黄色いPOPが掲げてあったので、私は迷わずその棚へ向かった。向かったのだが。私はその棚の前に着くなり「むう」と唸らざるえなかった。いや、店内に入った時点で嫌な予感はしていたのだが……「まさか、そんなバカなことがあるわけない」と捨て置いた予感が大当たりしようとは……思わずレジ業務をこなす男性店員に確認の為の視線を送ってしまったほどである。

 

 私の眼前にあるのは、いずれも『絶品パスタ!』と蓋に大きく書かれた、即席カップパスタだった。

 

 確かに『絶品パスタ』だけれども!そんな名前を付けられたら、普通はすでに調理済みで後はレンジで2分!な商品だと思うではないか……期待をするではないか……一昔前ならばいざ知らず、最近のコンビニの惣菜の質とレベルは外食産業を脅かすほどの進歩があると聞いていたら、余計に期待を膨らませここまでペガサス号を走らせてきたというのに……

 

「詐欺だ……」

 

 私はどうにも諦めきれない無念と期待を打ち砕かれた失望感とに苛まれながら、それでも、棚の右端に積まれているカルボナーラを手にとると、肩を落として代金を払うと、ペガサス号の前で128円と印字されたレシートを見て、128円では夢も希望も買えやしない。もはや泣く気さえも失せてペガサス号にまたがった。

 

「あれ?」

 

 ペガサス号のペダルに足を掛けた所で、我が愛しき葉山さんがコンビニへ入って行くのが見えた、ほんの一瞬であったが、私が葉山さんを見間違うはずがない。はずがなかったが、何せ競歩のような早足で突然角から現れたものだからと自信がなかった。もしかしたらと私はそれとなくコンビニのガラス越しに店内を覗いてみると、そこには間違いなく麗しの葉山さんが絶品パスタの棚の前に佇んでいた。

 もしかしたら彼女も絶品パスタを目当てに来たのだろうか?棚の前に着くなり何度かレジの店員や品出しをする店員の方へ困った顔を向けてみたり、こう垂れてみたりを繰り返し、最後にPOPを顔を近づけ穴が開くほど見てから、ため息混じりに右端に積まれているカルボナーラとあともう一つ何味かを手に取ると、肩を落としてレジに向かったのであった。

 

 

 

 

「こんばんは、奇遇ですね」

 

 本当は葉山さんを待っていた訳だが、私はコンビニから出てきた葉山さんにそう言って声をかけた。

 

「あぁ、夏面君。こんばんは」

 

 レシートを見ていた彼女だったが、私の声に驚くこともなく極々自然にそう返事をくれた。

 

「先輩のお使いですか?」

 

「お使いというわけではないですけど、晩ご飯を買いに」

 

「実は私も」と私は買ったばかりのカルボナーラを彼女に見せた。

 

「同じですね」

 彼女がそう言ってからどちらともなく歩き出した私と葉山さんは、信号待ちの間だけ黙っていたのだが、沈黙に耐えかねた私が意を決して「実は、料理済みのパスタだと思っていたんですけど、カップパスタでがっかりしたんです」と話したところで信号が青にかわった。

空気の読めない信号である。

 

タイミング悪くも私の意を決した言葉は虚しく雑踏に踏みつぶされてしまったと思ったのだが、「実は私もそう思っていたので、とてもがっかりしましたよ。書き方がややこしいと思います」と彼女との会話が成り立ったので一安心した後、同じ気持ちを共有できている奇跡に鼻血が出そうになった。生まれてはじめて、自身の変態性に気が付いた瞬間でもあったと思う。

 だが、奇跡はそう続かず交わした言葉はそれだけに止まり、沈黙を保ったまま舟橋商店街の入り口前まで来てしまった。何か話題を!と色々とまさぐってみても、気の利いた話題もなければ、面白可笑しい話題もない。ずっと執筆のために引き籠もっていたことが難して全てにおいて私は枯渇していたのである。だから、一様に考え込むかのように地面を見つめている彼女の顔を上向かせる話題などありはしなかったのだ。

 ただ、彼女が舟橋商店街の方へ歩みを進めたことには少し驚いたと言うよりも、動揺した。彼女もすでにこの周辺に住んで1年以上を数える訳だから、商店街を抜けた方が先輩のアパートへは遠回りになることを知っているはずなのだ。ひょっとしたら大学に行くのかも知れないが、そんな可能性よりも、もっと下心に満ちた私の思慮からすれば、これは私が居ることを前提とした遠回りだと考えたかった。

 

 そして、不意に顔を上げたかと思うと、その芙蓉の眦をこちらに向けて「私の知り合いの話なんですけど」と前置いてから、

 

「ある人の事を好きな人がいるんですけど、その人が好きな人はその人のことをなんとも思っていなくて、でも、その人の恋路を応援しようとお節介を焼く人が実はその人のことを好きなんです。それを知ったその人が好きな人は、お節介さんとの仲を取り持とうと思っているんです」最後に至るにつれ自分でも何を言おうとしていたのか曖昧になった。と言う表情になりながら葉山さんは私にそれだけを告げた。

 私は彼女の曖昧な表情を見ながら、とりあえず、彼女の知恵の輪のような話しを反芻して咀嚼して考えた。

 まず、登場人物はABCの3人。AはBに好意を寄せていて、でも、BはAに興味がない。が、CはAとBをくっつけようとキューピット役を演じるのだが、実はCはAに好意がある。ある日それを知ったBがAとCをくっつけようと奔走する。

 ありがちな三角関係ではないにせよ、天下三分の計、もとい三竦みと言ったところだろうか。

 正直、そんなややこしい人間模様に興味はなかったし、自ら火中の栗を拾うことはおよしなさい。彼女にそう進言して差し上げたかったが、それでは愛情にかける。ゆえに私は、

 

「三竦みですね。円満解決は難しい方の」とかなりオブラートに包んでそれだけを口にした。

 

「円満解決は難しいですか……」

 

 彼女は露骨にため息をついてそう言った。もしかして、私の返答にそこまで期待をしていたと言うのだろうか……であるならば、私は千載一遇のチャンスを逃したことになる。

 

「えっ、えっと、誰かが嫌な役を引き受けるか、誰かが泣かないと解決はしないと思う。それか、今の状況を維持して自然消滅を待つか……」

 

 もちろんフォローのつもりで言った。そのつもりが……自然消滅って……私は一体何を口走っているのだろうか。

 

「んーやっぱり、ドラマみたいに円満解決は無理ですよね」彼女は苦笑しながらそう言うと「そんな都合良くいかないです」と夜空を見上げたのだった。

 

 どんなに頭を捻ったところで、きっと言えた台詞に大差はない。言葉の違い、表現の違いだけであって根本的な解決法などありはしないからだ。

 大学の前を通り過ぎた辺りから再び沈黙が続いた。けれど、それは私から作った沈黙であったと思う。この話しはきっと葉山さん自身の話だろう。それなら、尚更希望的観測的憶測論を唱えてどうなる。この三竦みは一見して絡まりあった糸に見えて、実際には至極単純なあやとりのようなものなのだ。誰かが告白をすれば、身を引けば、涙を飲めば忽ち解消されることだろう。それが叶わないのは三者三様に願望がありながら現在の関係を維持したいと心の片隅で思っている。それこそが全ての結論だ。  冷静な自分がそこにいた。ABC何れかが葉山さん自身が当てはまるはず。Bであって欲しい……欲しいのだが、私自身が色々な理由を並べて自身を説得してもなお、私の気持ちはどんよりと沈んだままであった。

 葉山さんほどの乙女である。想いを寄せるのは私1人だけであるはずがないし、彼女が一握りの勇気を出せば、それは忽ち成就することだろう。

 その事実を知れば、まったくの部外者である私が泣くことになるだろう。

 

 まったくもって皮肉な話しだ……

 

 私は、小さく口を開けたまま私を見上げる葉山さんを視界の端に捉えつつ、満月に近い月を見上げるのであった。 

 

 

 

 

 三条通りは京都で言う所の祇園のような所ですから、平日でも混み合っているかもしれません。なので、私は三条通りから一本筋を違った道を使ってコンビニ向かいました。 

 秋深まれりと言えども、まだまだ体を動かせば汗ばむ気温ですから、早足で歩く私の背中はすっかり汗ばんでしまっていました。やはり、近所のスーパーに行けば良かったでしょうか。そんな後悔の念が頭の中をよぎる中、私を支えていたのはのど越しの良いパスタにそれに絡まる濃厚なカルボナーラソース。想像しただけでも唾液が溢れてしまって仕方がありません。

 もちろん、カルボナーラがあるとはかぎりませんけれど、カルボナーラと言えば定番中の定番ですから、売り切れはあるとしても。商品がない、と言うことはないと思います。

 

「そんなね」

 

 私は呟きながらさらに足を速めました。何せ売り切れはあるのです。30%OFFならば、尚の事あり得るのです!

 競歩さながらに歩き続けること7分ほどで、目的のコンビニへ到着しました。私は休むことなくドアを開けると、店内になだれ込みます。そして、探すのです「(絶品パスタはどこぞにおわす!)」っと。

 フェアをするだけあって絶品パスタはすぐに見つけられました。レジ前の棚に山と積まれてありましたので、売り切れの心配は皆無でした。

 私は棚からはみ出るように設置されていた黄色いPOPを読み返して確認をしました。間違いはないはずです……いいえ。間違いありません。

 

 けれど……けれど……そこに積まれていたのは、パスタはパスタでも即席麺のパスタだったのです。

 

 私は明瞭に困惑しました。てっきり、レンジでチンと言わせるだけで、蓋をあけると芳醇なソースの香りが鼻腔一杯に広がる調理済みのパスタだと思っていたからです。

困惑していた私は、目の前の事実を暫時受け入れることが叶わず、店員さんに確認をしようと視線を右に左にと泳がせました。けれど、店員さんはどなたも業務に勤しんでいる様子でついに、声を掛けることができませんでした。 

 私は何度かため息をついてから、もう一度POPを熟読してから、仕方がなく右端に積まれたあったカルボナーラ味とマヨ明太味を手に取りました。蓋には『絶品パスタ!』と大きく書かれてありますから、もう疑う余地はありません。私は泣く泣く絶品パスタをレジへと持って行き、支払いをしたのでした。 

 

 確かに私の早合点でしたし、過度に期待もしていました。けれど……けれども!

『絶品パスタ』なんて名前をうたわれたら誰だってカップパスタだなんて思いません!

 私はパスタの入ったレジ袋を手にぶら下げると、だらりだらりとコンビニのドアを開けました。128円。そうです、悪いことだけではありません。私の期待と予定を打ち砕いた点では極悪ですが、お財布に優しいことと言ったら。近所のスーパーに引けをとりませんもの。

 そうやって無理矢理にでも納得しないと、この気持ちは到底やりきれません。私はレシートを見ながらそんな事を考えていました。

 

「こんばんは、奇遇ですね」

 

 私がどうしてこの気持ちを晴らしてやりましょうか、とプリプリしていると、自転車のハンドルに手を掛けた夏目君が立っていました。ハンドルに掛けられたレジ袋の中には『絶品パスタ』のカップが袋から透けて見えました。

 

「あぁ、夏目君。こんばんは」

 

 夏目君も買ったのですね。とレジ袋にばかり気を取られていた私は、夏目君に返事をしてないことを思い出して慌ててそう言いました。

 

「先輩のお使いですか?」

 

「お使いというわけではないですけど、晩ご飯を買いに」

 

女子としてはカップパスタを「晩ご飯」だなんて恥ずかしい思いでした。けれど、惣菜を買っていてもそれは大してかわりませんね。手抜きにはかわりありませんから。

 

「実は私も」

 

 そう言いながら夏目君は買ったばかりでしょう、カルボナーラ味のカップを袋から出して見せてくれました。

 

「同じですね」

 

 はい。知ってます。と胸の内では思いつつ、それを口に出してはあまりにも無愛想

だと思うのです。

 

 どちらともなく歩き出した私と夏目君は信号待ちの間だ、言葉を交わすことはありませんでした。夏目君は何かそわそわしている様子でしたけれど、私はずっとこのチャンスを生かす方法はないでしょうか?と思案していたのです。頭をフル回転させているのですから会話をしている余裕などありません。

 なのに、「実は、料理済みのパスタだと思っていたんで、カップパスタだとわかってすごくがっかりしましたよ」と意を決したように言うので返事に困りました。ですが、丁度そのの時に信号が青に変わりましたので、動き出した帰宅ラッシュの雑踏に聞こえない振りをしました。

 

 とても空気を読んでくれる信号ですね。

 

「実は私もそう思っていたので、とてもがっかりしましたよ。書き方がややこしいと思います」

 

 信号を渡り終え、舟橋商店街の方へ足を向けると雑踏の流れから離れ一気に静かになりましたので、そのタイミングで私はそう言いました。やはり、聞こえているのに聞こえていない振りをするのは気が咎めます。

 夏目君は私が話し終えると、とても安堵した表情をしたかと思うと次の瞬間には鼻を抓んでいました。まるで鼻血が出てきてしまったかのように……

 夏目君が鼻を気にしている間に私は視線を足下に落とすと、思案に続きに取りかかります。真梨子先輩のように男女の仲を取り持つことに慣れていませんので、どうしたらいいのか正直に言って考えが及びません。けれど、こうして偶然、夏目君と出会い二人きりになる機会もそうそう巡ってくるとも思えませんからそんな泣き言を言っているわけにもいきません。

 そうこうしている内に舟橋商店街の入り口前まで来てしまいました。本来ならこのまま直進した方がずっと先輩のアパートへは近いのですが、今は時間が必要ですからわざと舟橋商店街の方へ曲がりました。普段であれば訝しまれるでしょうけれど、今は文化祭と言う口実がありますから、舟橋商店街を通っても怪しまれないはずです。

 

 時間稼ぎの遠回りをしてもせいぜい10分程度です。私はまだまとまりきっていないながらも「私の知り合いの話なんですけど」と夏目君を見上げて言葉を発したのでした。

「ある人の事を好きな人がいるんですけど、その人が好きな人はその人のことをなんとも思っていなくて、でも、その人の恋路を応援しようとお節介を焼く人が実はその人のことを好きなんです。それを知ったその人が好きな人は、お節介さんとの仲を取り持とうと思っているんです」

 

 我ながら話せば話すほどにややこしくなる知恵の輪のような言い方でした。最後の方に至っては自分でも何を話しているのか曖昧にしか理解できていませんでしたから……

 

「三竦みですね。円満解決は難しい方の」

 

「円満解決は難しいですか……」

 

 私なりに考えてみました。『ある人』と『その人』の話しは、夏目君と先輩と私の3人による現在の関係を意味していて、火中の夏目君であれば私の意図を慮って、真梨子先輩の気持ちに気が付いてくれる。そう期待したのですが……小説を書くほどの空想力があればもしかしたら……と思ったのですが、夏目君の返答は私の期待を大きく裏切るものでした。さらに言うならば、興味がなさそうに言った辺りが絶望的です。

だから私は思わずため息をついてしまいました。

 

「えっ、えっと、誰かが嫌な役を引き受けるか、誰かが泣かないと解決はしないと思う。それか、今の状況を維持して自然消滅を待つか……」

 

 慌てて夏目君が付け加えますが、またしてもそれは私の期待する言葉ではありませんでした。

 

 自然消滅って……

 

 そうなると私は「んーやっぱり、ドラマみたいに円満解決は無理ですよね」と言うしかなく、続けて「そんな都合良くいかないです」と思っている事を口に出したのでした。

 そんな会話が大学の正門前で行われた後は、再び沈黙の中を歩きました。こういうのは生兵法というのでしょうね。これ以上は得策も浮かぶはずもなく、すでに万策尽きてしまった私には夏目君に真梨子先輩のキモチを直接口にするしか方法を持ち合わせていません。でも、それは……それをしてしまっては……

 

 してはいけないと私の何かが強く訴えるのです。

 

 

 

 

 結局、真梨子先輩のアパートまで夏目君とは一言も交わしませんでした。夏目君はぼんやりと小さく口を開けたまま夜空を見上げ続けるばかりで、どこか話し掛け辛い雰囲気だったので、私は話し掛けませんでした。取り立てて話題もありませんでしたから、私としては助かりましたけれど……

 

「お帰りー、遅いから心配しちゃったよ」

 

 アパートのまえにの道路まで出てきていた先輩はそう言いながら私の元へ駆けて来ました。

 

「あらあら恭君も一緒なんてどうしちゃったの?待ち合わせとか?」

 

 とても嬉しそうに先輩はちゃかすように言いながら夏目君の腕に肘を当てて囃し立てます。夏目君は「そんなんじゃ無いですよ」と迷惑そうにそう言っていましたけれど……私には先輩が無理をしているように思えてならなずつい「交差点のコンビニ前で偶然会ったんです」少し大きめの声で言ってしまいました。

 

「そうなんだ。スーパーに行けば良いのに」

 

「このパスタが食べたかったんです」

 

 私はそう言うと袋からカップを出して先輩に見せました。勘違いをしてわざわざ買いに行ったことはもちろん秘密です。

 

「それって、がっかりパスタじゃない。音無さんがね、昨日だったかな?調理済みパスタだと思って買いに行ってすごくがっかりしたって、わざわざメールしてきたのよ」

 

 先輩はにこにこしながらポケットから携帯を取り出して素早く操作すると、音無さんのメールを見せてくれました。画面には『絶品パスタ!』カルボナーラ味が映っていました。その下に一言「がっかりパスタよこれ……」と書かれていました。

 

「(確かに……)」私も音無さんにしっかり同感しました。あの夢を打ち砕かれたがっかり感といったら!

 

「あれ。なっちゃん飲み物買わなかったんだ」  

 

「あ、デロリン買うの忘れました」

 

 先輩と一緒の時は買い物に行った時は必ずデロリンソーダーを買うのが慣習となっていましたけれど、今回はすっかり忘れてしまっていました。

 

「ひとっ走り買いに行ってきましょうか?自転車で行けばスーパーすぐだから」と夏目君が言いましたが「どうせなら、みんなで行きましょ」子供みたいに笑いながら先輩は1人で先に歩いて行ってしまいました。

 どうせまた私と夏目君をどうにかしようと言う先輩の作戦なのでしょうね。そう思った私の安易な勘は易々と当たってしまいました。

 近所のスーパーにデロリンを買いに行った帰り、先輩は急に「恭君も私の部屋においでよ」と言い出したのです。いつもならため息の私でしたけれど、今度ばかりはチャンス!と思えたのでした。何せ、夏目君と先輩が部屋に入った途端に、何んとか言って私だけ自宅へ帰れば良いのですから。

 ここぞとばかりに私は真梨子先輩に加勢しようと口を開いたのですが、先に「〆切がやばいので、これで帰ります」と夏目君が私との帰り道で見せた空虚な雰囲気を伴って言いましたので、私は何も言えませんでした……

 

「事務所の輪転機でしょ?だったらまだ……」真梨子先輩はそう食い下がりましたけれど、

 

「おやすみなさい」一言を残して夏目君は自転車で行ってしまいました。

  

「素直じゃないんだから……」と夏目君の背中に呟いた先輩の横顔は私がはじめて見る顔でした。街灯の加減も手伝ったと思いますが、どこか寂しげで……憤っているような……   

 先輩は大きく手を振り珍しく私の横を少し早足で歩き、何一つ言葉を発しませんでした。携えたレジ袋も腕の動きと一緒に大きく振られています。

 

 とにかく、とても気まずい空気が漂っていました。

 

 夏目君とは別段何とも思わなかったのですが、先輩の場合はとても困ってしまいます。どうしてしまったのでしょう……

 

「なっちゃんさ、夏目君に何か言った?」

 

 不意に足を止めた先輩に習い私も足を止めると、真っ直ぐに私の瞳を瞳に宿して先輩は静かに言いました。作り優しさが伝わって来て、私の背筋には冷たいものがつたいました。

 

「いいえ」私はそれ以外にも、信じてもらいたくて色々と付け加えて言いたかったのですが、気が動転してしまって鯉のように口をぱくぱくさせるだけで、結局はその一言しかいえませんでした。

 

「本当に?」

 

「はい。パスタでがっかりした話をしただけで、後は何も話しませんでした」私は生唾を飲み込んで何とかそう言いました。何せ嘘をついてしまいましたから……

 

「んーだよね。振られたら一緒に歩いてなんてられないよ恭君のガラスのハートじゃ」何度も頷いてからそんな独り言を呟くと。途端にニンマリする先輩なのでした。

 

「何を言ってるんですか?そんなことより、そんなに袋を振ったらデロリンの色がでちゃうじゃないですか」

 

 先輩が何を考えているのかは、先ほどの独り言でわかりました。だから私は急いで話題をすり替えました。できれば、今はその話題は避けたい気分なのです。

 

「あーごめん。緑色でした……」

 

 私に言われて、「やば」とつぶやきながら、急いで袋の中を確認した先輩は緑色に変色したデロリンを見せながら、頭を下げました。

 

「まったく、先輩ったら!」

 

 私は頬を膨らませてみましたが。デロリンのことはどうでも良かったのです。先輩が私が危惧していた事柄について気が付いていないことがわかっただけで、私は満足ですし、とてもほっ、として胸をなで下ろした面持ちだったのです。 

 

 

 

 

 先輩の部屋では絶品パスタを一緒に食べて、順番にお風呂に入って、後は0時近くまで先輩が取り貯めていたドラマを一緒に見て過ごしました。普段私はあまりテレビを見ませんので、ドラマもそれほど面白いと思わないのですが、なぜでしょう。先輩と一緒だととても楽しい時間になってしまうのですから摩訶不思議です。 

 

 結局、ふんどし製作は少しも進みませんでしたけれど……

 

 3時間と半時間ずっとドラマを見続けた私はさすがに、目が疲れてしまって、それが為かはわかりませんが眠気が強まってしまいました。パジャマにも着替えていますし、お布団も布いてありますから、後は潜り込むだけなのです。だから余計に眠くて眠くて……私は「ふあぁ」と欠伸をしてしまいました。

 

「さすがに、私も眠くなってきちゃったわ」と先輩も欠伸をしながら言います。

 

「2話くらいでやめとこうと思ったんだけどね、つい続きが気になっちゃった」

 

 もう一度、欠伸をしながら先輩が言いました。

 

 時刻ははまだ0時を回った所でしたけれど、私と先輩はもう寝ることにしました。明日はふんどしを完成させなければなりませんし、大学にも行かなければいけませんからとても忙しくなると思います。

 明日に備えて早く寝るにこしたことはないのです。

 

 私はお布団に、先輩はベットにそれぞれ潜り込むと、先輩は「消すよ」と言って電気を消してしまいました。けれど、窓から入る街灯の明かりが何がどこにあるのか程度に部屋をぼんやりと照らすので、電気を消しても大して困ることはありません。

 眠りに落ちる束の間、私は先輩と明日のふんどし作りについて段取りの確認やお昼前には一緒に大学に向かう旨の話しをしていましたが、私はその途中で瞼が重くて仕方がなくなってしまいましたので「もう無理です、お休みなさい」と言いました。

 

「おやすみ」欠伸の先輩の声を聞いてから私は薄い眠りに落ちました。

 

 

 

 

 どれくらい微睡んだのかはわかりませんが私は先輩が何かを話している声で目を覚ましました。独り言のようでしたけれど、寝返りを打ってみると、それが私に対して話し掛けていることに気が付きました。

 

「なっちゃんまだ起きてる?」

 

 半分眠っている私は、返事をしたと思いますが、覚えていません。それでも先輩が話しを続けた限りは何かしらの返事をしたのでしょうね。

 

「あのね……恭君はね。なっちゃんの事が好きなんだよ」

 

 優しく滑らかに語りかけるように先輩が話します。余計なものを濾したような感情の籠もった重い声でした。

 

 私は声にこそ出しませんでしたけれど、寝ぼけ眼にも「(それは知っています)」と答えました。実際には可能性が事実へと決定的に確定した瞬間でもありましたけれど、正直にもうそんなことはどうでも良かったのです、何せ私は先輩のキューピットになると決めたのですから。

 

「恭君ね、無愛想に見えるけど、本当はすごく優しいし頼りになるんだ。不器用なやり方だけど、なりふり構わず一生懸命になってくれるの……だから、恭君とのことちゃんと考えてほしいの」

 

 言葉が増すにつれ先輩の声色には優しさが増して行きます。それは私の耳に心地よくも滑らかに先輩の気持ちを届ける為にそうしていたのでしょうか……いいえ。答えは否です。最初はそのように感じたのですが、それは違うのです。好きな人の事を考えながら好きな人を想って話すからこそ、どんどんと声色が優しく滑らかになっていくのでしょう。

 私には……私には、夏目君の事が大好きな先輩の気持ちしか伝わって来ませんでした。

 

「……おやすみ……」先輩はもう一度そう言い、

 

 そして、カーテンを滑らせる音と共に部屋は暗黙に包まれたのでした。

 

 

 

 人生とは長編小説のようなものである。そんな風に年老いたるを達観したかのように顧みることをするには少々早すぎるのかもしれない。だが、大学へ入学を果たし、まだ2年も経たないと言うのに、私の私による私だけの歴史書には多くの些細が書き込まれて仕方がない。

 愛おしい人に告白する前にやんわりと可能性を否定された。そこで、潔しと諦めるか、なおも食い下がるか。いずれが男らしいのかと自問してみても自答することはできず、「あれはそう言う意味の話ではない」と現実逃避の一手ばかりが金魚鉢のブクブクのように湧き続ける。

 会話などどうでもよく、訪れた沈黙も気にもならなくなって、気が付けば真梨子先輩のアパート前にして、真梨子先輩が居て……先輩は例によって私を誘ってくれた。先輩の心づもりを鑑みれば感謝してこそ耐え得ないのだが、私は到底そのような気分ではなかったから「〆切がやばいので、これで帰ります」と好意を無碍にしてその場から走り去った。

 私は自宅に戻ると、玄関に座り込み大きく呼吸をした。後悔はなく寧ろ安堵の方が大きかった。

 一呼吸置いてから開いたままにしてあったパソコンを起動させると書き換えの画面がたちまち出力さる。

 

『始まる前から終わった恋』

 

 白い画面にただ一言だけタイプしてみると、妙に文学的に思えてしまって、途端に哀愁が立ちこめ泣きたくなってしまった。

 「(これでは駄目だ)」そう思った私は、これ以後そのラベルを見ればその邂逅に涙するであろう絶品パスタをゴミ箱に殴り捨て、不退転の決意を天井に刻んでから、

パソコンの前に座すと、忌々しい言葉を消して、猛烈な勢いでタイプを開始したのであった。

 有頂天でも幸福感でも楽天的でもタイプは進まなかった。けれど、絶望感に苛まれる今、タイプが進みに進むのはとても皮肉な話しだと自分でも笑いたくなる。

 いっそ、何もかも燃やして終わらせてやろうか。などと、作中に八つ当たりを織り交ぜようかと考えたその刹那に携帯が震え、手に取ると少し前まで愛おしく想っていた葉山さんの姿があって、その後に真梨子先輩の文面が出力された。

 

『葉山さんと何かあった?何かあっても気にしなくていいよ。小説書きあがったらお疲れ様会しょうね』

 

 今頃、先輩が葉山さんの気持ちを軌道修正してくれているのだろうか……文面を見やるに私の絶望に一筋の光が差し、それが期待やら妄想やらで瞬く間に広がって行くのを感じた。

 

「アホらしい」私はそれを自身で一蹴した。

 

 もし、ここで期待を抱いたなら!可能性を見いだしたなら! 次ぎに絶望に陥った時、私は蒙昧な心中にて先輩に八つ当たりの感情を抱くことだろう。それは不条理だし不本意だ。だから私は、一切の希望を一蹴して光が差し込んだ大地を再び絶望で満たした。

 その十字架を携帯に背負わせることにした私は、力の限り携帯電話を襖に投げつけた。襖であれば携帯が大破することはないだろう。そんな手前味噌な考えのもとに行った一種の八つ当たりであったが、その結末はあまりにもイレギュラーであったと私は後悔したい。

 

「あっ!」 

 

 手裏剣のように猛回転をしながら襖に向かった携帯は、当たった途端に太鼓のような音をさせたかと想うと、襖に深々と突き刺さった状態で止まった。てっきり、襖に弾かれて畳の上に横たわると思っていただけに、私は唖然としてしまった。

 

 多分……壊れてはいないと思う……

 

 空腹を忘れ、夜を忘れ朝を忘れ昼を忘れ。心頭を滅却し、加えてゾンビのようになった私は、恐いものがまるで無いような領域に到達してしまったようだった。

 ふわふわした頭の中でひたすらタイプを続けた私は、日を跨いだ夕暮れ。あっけなく物語は大団円を迎えたのであった。満足感などはない。こんなに早くできるのに、どうしてこんなにも時間がかかってしまったのだろうか……ただ、それだけ……

 画面上で遊ぶ遊標の点滅を見つめながら、その責任は私を虜にした葉山さんにある。と断言をし、現世に現れた女狐め!などと憤ったあと、私はどうにかしてしまっていると確認をした。

 倒れるように横になると見上げる天井がぐるぐると回る。瞼を閉じてもまだ回る回る……

 

 恋仲になれないからと言って一度でも恋いこがれた人を悪く言うのは男子の名折だ。

 

 

 

 

 三時間ほど経って意識を取り戻した私は、推敲作業をそこそこにパソコンをリュックに入れると大学へ向かった。時刻はすでに深夜を回っていたが、大学では甘美祭の準備に勤しむ学生で大いに賑わっていた。

 

「やあ、原稿持ってきたんだろ」

 

 原稿の印刷にと文芸部室に行くと部長がいたので「いいえ、忘れ物です」と入らずに部室を後にした。甘美祭の二日前に完成したと言っても、この期に及んで似非編集長気取に書き直しを命じられるのも腹立たしい。それに、もう業者への入稿は終わっている。だから余計に部長からやいのと言われる筋合いはない。

 私は、クリエイティブ部室へ行って原稿の印刷を済ませると、その足で事務所の中にある輪転機室向かった。先客の執行部がパンフレットの増刷をしていたので10分ほど雑談をして過ごしたあと、原稿を両面印刷にかけた。

 印刷は5分とかからずに終わったのだが、私はそれ以上の時間を窓から覗く満月を見上げることに費やしていて、部屋のドアが開いた音で我に返り、さっさと輪転機を譲って家に帰ることにした。この分だと部長は明日の朝は部室に居ないだろうから、製本作業は明日することにした。

 今夜の満月は本当に綺麗だった。個人的な懸案事項が解消された事も手伝ってより優美に見せてくれているのかもしれない。私はぼんやりとペガサス号を押しながら満月に魅了されていたのである。

 部屋に帰り万年床に転がり込もうと思っていたのだが、部屋に帰ってみると襖に刺さっていた携帯が畳の上に落ちていることに気が付いた。手に取ってみると真梨子先輩から着信がほぼ3秒おきに入っていた。

 

「もしもし、どうかしたんですか?」

 

 私は冷蔵庫を開けながら電話を掛けた。どうせ、葉山さんとのことだろう、すでに私の中では踏ん切りもついていたし今後に何を期待することもなかったので、素っ気なく切るつもりだったのだが……

 

「……やっと出てくれた……すぐ来て……お願いします……」それは紛れもなく真梨子先輩であったが、様子が明瞭におかしかった……多分……泣いている……

 

「すぐ行きます!」

 

 私は、電話を切ると、とるものもとりあえず部屋を飛び出し、ペガサス号に飛び乗った。今度もGであって欲しいと願いつつ、あの震えた声からすれよほどの事があったに違いない。先輩のアパートへと続く坂道をトップスピードで駆け下りながら私は最悪な事象ばかりを巡らせた。ストーカーが蛮行に及んだのかもしれない……と…… 状況くらいは聞いておくべきだった。そうすれば、得物の一つでもカゴに押し込んで来たと言うのに。

 アパートの入り口にペガサス号を乗り捨て、階段を駆け上がる。先輩の部屋に近づけば近づくほどに呼吸と歩調がちぐはぐになってゆく。迫るドアの前には誰もいない、私は静かに呼び鈴を鳴らした。

「いらっしゃーい」と何事もなく、いつものように私の通り越し苦労であって欲しいと願いながら。もし、先輩のいたずらであったなら私は歓喜しながらも先輩には怒ることだろう。こんなにも心配させて!と大層怒ることだろう。

 その後、呼び鈴を何度か鳴らしたが先輩は出てこなかった。ドアノブを捻ると鍵がかかっていた。私は迷うことなくドア横のメーターカバーを開け、メーターの下にあるお菓子の缶を手に取った。いつもならここに合い鍵が入っているはず……

 

 缶の中は空だった……

 

 「先輩!俺です夏目です!居るんですよね!返事して下さい!」私は全身に冷や汗をかきながらドアに備え付けられてある郵便受けの蓋を開けて室内に向かって叫んだ。

 鼓膜がじんじんするのを感じながら、耳を澄ませると玄関に向かってくる足音が聞こえた。私は呼吸を荒くしてドアの前でその瞬間に備えて身構える。不届き者であれば一矢報いるまで、先輩だったなら……先輩だったならば……先輩であってほしい……

 玄関に灯りが灯されることなく、少し開いたドアからは先輩の顔を半分ほど覗き、

 

「すみません遅くなりました」と私が言うと。

 

 その刹那、ドアが勢いよく開いたかと思うと、私の胸なもとに先輩の顔が迫って来た。その間は不思議と世界がスローモーションのようにゆっくりと時間が過ぎ視界の端に躍り上がった髪の毛の端が消えた頃、ようやく、先輩の匂いが私の鼻腔をくすぐった。

 

「恐かったの……すごく不安で不安で……」先輩は胸に顔を押し当てて弱々しい声で

そう言った切り、しばらく動くこともしなければ何を言うこともしなかった。

 私も一度だけ「大丈夫。今は私が居ますから」と声を掛けたきり何も言えなかった。現状把握に相当な時間をかけて、どうして先輩が私の胸に縋って泣いているのかはわからなかったが、無頼漢はどうやら近くにはいないと言うことはわかった。

 

「ごめんね、吃驚したよね」と泣き腫らした顔を上げて言う先輩に私はうまく言葉を掛けることができず「入りましょう」と何とか先輩を部屋に入るように促す事しかできなかった。

 

 できるだけ部屋中を明るくしてから先輩はリビングに膝を抱えて座り込んだ。私は、マグカップに水を入れて、先輩に差し出す一方でようやく「何があったのか教えてください」と言えたのだった。

 先輩は膝に顔を埋めたまま動こうとしない。狼狽した時にぶつけたのかプリーツスカートから覗く足には青あざができていた。

 私は斜向かいに腰を降ろすと、絨毯の上に落ちていた大学ノートの切れ端を拾い上げ、そこに書かれてある文面をみて戦慄した。

 

 切れ端には【合い鍵の取り扱いにはご用心】とだけ書かれてあった。

 

「先輩これ……マジですか……話してください」思わず私は先輩の肩に手を当てて先輩に迫っていた。場合によっては警察に届けなければならないからだ。

 

 それでも先輩は顔を上げようとしない。

 

「葉山さんにも来てもらいます」

 

 女同士の方が話しやすいこともあるだろうと思い、そう言ったのだが、

 

「どうして葉山さんなのよ。私は恭君を呼んだのに!」と急に先輩は顔を上げた。

 

ここから↓

 

 

 

 先輩の顔が急に近くに現れたので私は息を飲んだ。

 

「いや、女同士の方が話しやすいかと思って……」反射的に仰け反ってしまったところが情けない……

 

「少しだけ……いいでしょ」そう言いながら先輩は再び私の胸に顔を埋めた。

 

 言いも悪いもなかったのだが……私はまた両手のやり場に困った、情状を汲み取るには十分であったが……だからと言って、先輩の背に手を回すことはしたくない。未だに震えている先輩の身を案じればこそ、なおもってそれをしてはいけないと思えてならなかった。

 けれど、正直に私は安堵した。現状からさっするに、先輩は怯えていた。だから、こうして誰かの胸に縋りたかったのだろうと……そして、同性ではなく異性である私を……クローゼットを勝手に開けると言う無礼を犯した私を選び、縋ってくれたことに無情の感謝をするとともに、今この時、あの気色の悪いメモを持ち込んだ不逞の輩が闖入しようものなら、相手の得物の有無など関係あるまい。私は先輩の盾となりこの一身をかけて排除に努めることだろう。

 

 この心臓の高鳴りを聞かれてはいないだろうか。そんな心配をはじめた頃合いで先輩はそっと顔を話すと「顔洗ってくるね」と言い残し、私に顔を見られまいと俯いたまま、洗面所に歩いて行った。

 

 

 

 

 落ち着きを取り戻した先輩は、事の子細を話してくれた。

 

 深夜よりも少し前に帰宅してみると、リビングのテーブルの上に見覚えの無い大学

ノートの切れ端が置かれてあったそうだ。先輩は慌てて、合い鍵の隠し場所へ行くと合い鍵は盗まれてはいなかった。そして合い鍵を回収するとドアの鍵を閉め、とにかく私に電話を掛けたと言うのだ。もちろん、犯人に心当たりはない。先輩はそう言い切った。

 私は警察に届けることを進めたが先輩は大事にはしたくないと首を縦には振らず、どうしても首を縦に振らない先輩がようやく妥協したのは「大家さんに事情を話して鍵を換えてもらいましょう」と言う私の提案だった。

 

 その夜に限っては『帰ります』と軽々しく言えなかった。かといって『家に来ますか?』とも言えるはずもなく、私は困り果ててしまった。先輩が風呂に入っている間に考えを巡らしてみたものの良案は浮かばず、頭の中が一巡した頃、私は結論を諦めて、白亜の園こと、目の前にそびえるクローゼットに視点を会わせてぼんやりと眺めていた。

 あの日、クローゼットを開けた私は、違った意味で驚いた。てっきり、派手で露出度の高い服やホットパンツやなどが収められていると思って居た私は、悪く言えば地味、良く言えば清楚。そんな落ち着いた衣服の並びに文字通り目を丸めたのである。

 あの夜からどれが本当の真梨子先輩なのかがわからなくなってしまった。私が先輩のことをどのように理解していたのか……それもあやふやではあったが、皮肉にも今回の一件で本当の姿を垣間見た気がする。先輩は私の嫌う派手な婦女ではなく、葉山さんや小春日さんと並びを同じくする純然たる女の子なのだ。

 派手嫌いの私は、先輩の仮初めの姿に惑わされ外見にて嫌っているところがあったのだが、それは私の目が節穴だったからだ。それだけは自分で断言できる。

 先輩が風呂から上がってきて、事態は私が一番危惧していた方向へ舵を切った。

 

「今夜は……居てくれるんでしょう……」

 

石鹸の香り芳しく、少し大きめで水色はのネグリジェを着ていた。胸元の青いリボンがワンポイントに添えられてあった……

 

 私は……私は「今夜だけです」と端的に答えるしかできなかった……

 

 先輩は卑怯であると私は言いたい。

 

 風呂上がりに頬をほんのり朱色に染めて、上目遣いにどこか自信なさげに小さく口元を動かした先輩は、世界の誰もを恋に落としてしまいそうなほど可愛かったのだから。

 

 

 

 

 

 その夜、先輩はなかなか寝室へ行こうとせず、炬燵に入ってずっと私の斜向かいに座っていた。

 その頃には、すっかり沈静化した頭の中で、私はひたすらこういう事態も考慮した上で、やはり葉山さんを呼べば良かったと後悔し続けていた。

 

「私は炬燵で寝ますけど、先輩はベットで寝ないと風邪ひきますよ」

 

 テレビ番組が深夜番組に突入した頃、私はテレビを見ている振りをする先輩に言った。

 

「平気。結構、炬燵で寝ちゃってることあるし」

 

 そう言う意味で言ったわけではなくて……いや、そう言う意味で言ったのだけれども……

 

 深夜帯の番組の多くは趣向が大きく男子の為に傾いていると思う。家族向けに設けられてあってリミッターが解除されるのであるから、男女で見るには気まずい内容もふんだんに盛り込まれてあるわけだ。

 

「もう私も寝ますから、先輩も寝てください」

 

 CMで次の番組が桃色に傾いている内容であることを知った私は、強引にテレビの電源を切って、先輩に寝室へ向かうように促した。

 

「どうし…………恭君はそんなに私を寝かせたいの?」半ば必死な私に、先輩は視線を外して聞いて来る。

 

 わざとやってますよね。 

 

「逆に、どうして先輩は寝たくないんですか」

 

 場数は少ないながらも妄想で鍛えて来た百戦錬磨の私は真顔でそう聞き返した。

 

「寂しいから……じゃ駄目かな」今度は俯き加減で言う先輩。

 

 絶対にわざとやってますよね。

 

 ものすごく反応に困りつつ、私は、至って冷静にと努め。どうしたものかと思案していた。

 

「そうだ、恭君。お風呂まだでしょ?」

 

「入りません」

 

「お腹空かない?」

 

「空いてません」

 

「駄目?」

 

「駄目です」

 

 今夜の先輩はやけに子供っぽいと思う。変な駄々をこねてみたり、妙に私と一緒の空間に居たがる。後者は私の錯覚と願望が混在した結果かもしれないが。

 

「こんな事言うと変に思われるかもしれないけど、時々、どうしようもなく寂しくなる時があるの。後の祭りって言うか……なんだろうね、みんなで居る楽しい時間が過ぎて、帰って来てとっても静かな空間に居ると、急に不安になるの。どっちが本当の現実なんだろうって……今がそれ」炬燵布団の模様を数えるように俯いたまま、先輩は言い「そんな自分は嫌いなんだけど、どうしようもなくて」と続けた。

 

 心中を吐露した先輩の言葉には嘘は無かった。独り暮らしをしている人間であれば誰でも先輩と同じ気持ちを抱いたことはあるはずだろう。かくゆう私も、無性に人肌恋しく思う時がある……

 

「誰だって、寂しくなることも、人恋しくなることもあります。全然駄目じゃありませんよ。それに……それに先輩が嫌いな先輩の方が俺は好きですから」

 

 幸いにして合い鍵が盗まれて居なかった。だが、あんなことが後であるから、心が弱る気持ちは私にも理解できる。さすがの私でも、誰とも知れない他人が自分の部屋に入っていたと考えると気色が悪いことこの上ない。

 

「ありがと。優しいから恭君。好きだよ」

 

「そんな事を言って、私が勘違いをして、今ここで先輩を抱き締めにかかったらどうするつもりですか」

 

 あり得ないことだが、あり得ないと言い切れない事でもある。

 

「ほう。そんなことを言いますか。じゃあ、どうぞやってもらおうじゃないの」そう言うと先輩は両手を広げ、胸元を強調してみせつつ「エロビデオも一人で借りられないくせに」と大きな声で笑ったのだった。

 

「DVDです」意気地なしも何も、私は、はなっからそんなことをするつもりはない。

 

 先輩の笑顔を見て安心する一方、私は最後まで潤んだ先輩の瞳を直視することができなかった。

 

 



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