千葉ラブストーリー (エコー)
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千葉ラブストーリー
ラブストーリーは突然に


総武高校卒業後の比企谷八幡と川崎沙希の短編です。




 § 千葉ラブストーリー §

 

 

「ヒッキー、セックスしよっ」

 

「……は?」

 

 あれ。こいつ何言っちゃってんの?

 

 ーーふむふむ。

 こういう時は、まずは状況の整理だな。

 

 総武高校を卒業し、俺は東京の大学へ進学した。

 夏休みに入ってようやく実家に帰ることを許されて千葉に戻ったら、その降り立った駅のホームでいきなり昔の同級生にセックスしようなどと言われた訳だ。

 

 ……いやいや、おかしいでしょ。

 まだ昼間ですわ。正確には午後1時ちょい過ぎですわいな。

 

 そういうのは夜コソコソとするもんじゃないの?

 それと、何故それを俺に云うのかね。

 

 少なくとも俺の知る由比ヶ浜結衣は、見た目はビッチだが身持ちは固いはず。

 大学に入ってウェイウェイしちゃって、間違った方向にデビューしちゃった可能性はあるにしても、高々数ヶ月で人の性質まで変化するとは思えない。

 故に、このビッチ発言の裏には何かしらの思惑があるはずだ。少なくとも額面通りに鵜呑みにしてはいけない。

 ま、鵜呑みに出来たとしても、DDTの俺には無理な話だ。

 ちなみにDDTってのは、「ド童貞」の略ね。又の名を「こじらせ童貞」とも呼ぶ。

 俺の中ではね。

 

「よし。まず頭を冷やせ。そして回れ右して帰れ」

「ひどっ! 久しぶりに会ったのに」

「会って第一声で交尾を要求するヤツよりマシだ」

 

 全く。

 企画もののAVじゃないんだから。あーいうのは虚構の世界だから楽しめるのであって、実際自分の身に起きたら絶対引くだろ。実際引いたし。

 

「あれ、もしかしてヒッキー、知らないの?」

「は?」

 

 え、うそうそ。

 ーーはっ、まさか今のは挨拶なのか。ハワイでいう「アロハ」、アフリカでいう「ジャンボー」みたいなものなのか。

 だとしたら。

 いつから交尾を要求するのが挨拶になったの?

 日本はいつからそんなに乱れた国になったの?

 俺が知らないだけ?

 まさか少子化対策の一環としてこないだの臨時国会で……とか。

 ないよな。ないよね?

 

「東京ラブストーリーって、知らない?」

 

「知らん。俺はラブストーリーとは無縁の一匹狼だからな」

 

 そう、俺にはラブストーリーなんて無縁。フィクションなのだ。

 従って、今訳のわからん不意打ちを食らってドキドキしてるのも木の精、もとい気のせいなのだ。

 

「こないだね、大学の友達と初めて漫画喫茶に行ったんだ。そこで読んだ漫画なんだけど、すっごい面白くてーー」

 

 何やら一人テンションをあげて漫画の説明をしているが、要領を得ないせいでちっとも面白さが伝わってこない。

 まあ、面白いといえるのは、必死に身振り手振りを交えて話す由比ヶ浜の姿くらいなものだ。

 

「ーー要はあれか。その漫画でそういう台詞があった、ということか」

 

「そうそう。そんで、その時いた友達に聞いたんだけど、ドラマにもなってるんだって」

 

「へー」

 

「でね。そのドラマもレンタルで観たんだけど、すっごい面白くてーー」

 

 えーと。

 この話、まだ続くんですかね。そろそろ小町が待つ実家に帰りたいのですがね。

 実際待ってるかどうかは別にして。

 

「ーーでさ、まだ返却してないからさ、これから一緒に観ようよ」

 

 うわぁ、めんどくせー。

 

「ちなみに聞くが、一話何分で何話あるんだ、それ」

 

「えーと。45分が11話だったかな」

 

 えーと、1話45分で11話だから、えーと、えーと……。

 

 ……うん。半日も付き合いきれん。てか計算できん。

 

「おう、また今度な」

 

 その「今度」は無いと思うけどね。

 

  * * *

 

 逃げるように由比ヶ浜の前を辞去した俺は改札を抜けて、ようやく千葉の地面を踏み締めた。

 早く、早く小町のメシをーー。

 

「あっ、はちまん」

 

  ん?

  まさかこの幸せを感じヴォイスはーー。

 

「おおっ、大天使トツカエル」

 

「ははは、久しぶり。変わってないね、はちまん」

 

 変わるものか。

 愛は永遠の宝石だぜ。

 

「そういえば戸塚、東京ラブストーリーって知ってるか?」

 

「あー、昔のドラマだよね。セックスしよ、とかいう台詞が有名なーー」

 

 嘘。夢じゃないよね。

 あれ、何故だろう。心がぴょんぴょんしてる。

 

「よし、しよう。今すぐしよう」

 

「ち、違うってば。そういう台詞があったって話」

 

 な、なあんだ、びっくりした。

 てっきり脱DDTしちゃうのかと思っちゃったよボク。

 

「そ、そうか。でもあれだな、有名なドラマなんだな」

 

「うん、僕たちのお父さんやお母さんの世代のドラマだけどね」

 

 ほーん、俺らの親世代のドラマか。

 

「あっ、僕そろそろ行かなきゃ。はちまんはまだ千葉にいるよね? また連絡しても、いいかな」

 

「おう、いつでもドンと恋だ」

 

 決して誤植ではない。だって恋だもの。

 

「はは、じゃーね」

 

 ふう。久々の癒しは骨身にしみるぜ。

 

  * * *

 

 ウキウキウォッチングの心持ちで浮かれて歩いていると、またしても見知った顔が見えた。

 あいつは、川……なんとかさんだな。

 そういえば、由比ヶ浜だけでなく戸塚も知ってるってことは、多分こいつも知ってるよな。

 よしっ、気分も良いし、たまにはフランクに挨拶してやるか。

 

「ようサキサキ、セックスしようぜ」

 

 ……。

 ……。

 ……あり?

 

「は、はあ!? 久々に会っていきなり何いってんの!?」

 

 あ、こいつは東京ラブストーリーを知らないんだな。

 ではこの俺が教えてーー。

 

「ーーじゃ、じゃあ……うちに来る?」

 

  ほえ?

 

「や、やっぱりそういうのは、その、ちゃんと段階を踏まないと……」

 

 うむ。言ってることは正しい。真っ当な論理だ。

 だが何故俺を家に誘うサキサキよ。

 まるっと理解不能、意味不明なのだけれど。

 

 つーかまず東京ラブストーリーについて説明させろ。

 

「だから、まずはご飯一緒に食べよ。で、それから徐々に、ね……」

 

 うん。だからさ。

 何でそうなるのかね。

 

「いや、メシは小町が……」

 

 ポケットの中でスマホが耳慣れない音を鳴らす。

 あ、メールの着信音か。あんまり久しぶりだから忘れてた。

 

『小町ですよー。家にはご飯無いから、外で食べてきて。あ、結衣さんによろしくねっキラリン』

 

 うぜぇ。

 最後のキラリンって何だよ。

 つーか、まさか由比ヶ浜から連絡が行ったのか。

 由比ヶ浜め、俺から小町の愛妹料理を奪った罪は重いぞ。

 

「……小町のメシが無くなった」

 

「なに泣きそうな顔してんの……」

 

「だって、四ヶ月ぶりの小町の手料理だぞ。俺はこの日を待ち侘びてたんだ。ひどい、あんまりじゃないか……」

 

「はあ、どーでもいいけど……とりあえず昼食のアテは無くなったんだね」

 

 どうでもいいって何だよ。俺にとっては一大事だそ。

 大事件なんだぞ。

 

「うるせえ。同時に生きる希望も無くなったわ」

 

「あ、あーごめんごめん」

 

 額にタテ線が何本も入るくらいに本気で落ち込む俺を見てか、少々慌てたように謝る川崎。

 ふんっ、せいぜい慌てるがいいさ。

 

「わかった、わかったから、とりあえず昼食くらいは食べさせたげるから」

 

 え。なに。メシ食わせてくれんの?

 

「サキサキ〜」

 

「サキサキいうなっ。ついておいで」

 

 サイゼ? サイゼだよな?

 

「ううっ、ありがとさーちゃん」

 

「さ、さーちゃんもダメっ」

 

  * * *

 

 どうしてこうなった、的な感じで連れ込まれた川崎家。俺はそのリビングのソファーに鎮座している。

 さすがに七月中旬の平日に大学生以外がヒマしてる訳は無い。

 

 即ちだ。

 

 俺は川崎家で川崎と二人きりの状況に置かれている。

 

 やばい。やばいですよおおおお!

 何がやばいって、アレがソレで……とにかくやばいんですぅ!

 勿論俺には害意は無い。無いけれども、ほら。

 どうしても無駄に緊張しちゃう。だって、この家の中には川崎と俺しかいないんだよ。

 久しぶりに再会した男と女がすることっていったらーー

 

 UNOかな。

 

 俺の悶絶級の愚考など露とも知らないキッチンスタジアムの方からは、時折鼻歌が聞こえる。

 楽しそうなのは何よりだけどね川崎、自分の置かれている状況を確かめてみる方が良いと思うよ。

 ちょっとした危機的状況だよ、これ。

 俺に襲われたらどうするのさ。

 

 あ、返り討ちですね了解しました。

 

「はいよ。昨日の残りのカレーだけど」

 

 目の前に置かれたのは、大盛りのカレー、里芋の煮っころがし、サラダ、あとは水滴のついたグラスに入った、麦茶か。

 どれもこれも美味そうである。

 川崎も昼食はまだだったようで、同じメニューが向かい側に並べられている。

 

 それにしても本当に美味そうだ。

 ここにマッカンが揃っていたら、すぐさま婿入りしてしまうに違いない。

 それだけ今の俺は悲しみに打ちひしがれている。

 

「どうぞ、召し上がれ」

 

  向かいのソファーに腰を下ろした川崎が微笑む。

 

「ありがとう、ありがとう……」

 

 悲しみと空腹に耐えかねた俺は、一心不乱にカレーを貪る。

 うめぇ。うめぇよおおお。

 

 里芋の煮っころがしをひとつ摘まむ。

 うめぇ、うめぇよ、おっかさん。

 

 サラダをかき込む。

 うめぇ。うめぇよ農家のみなさん。

 

「そんなに慌てなくていいから。ゆっくり食べな」

 

 うん。うん。

 サンジのチャーハンをかき込むギンの如く、俺は無心で目の前の料理を平らげる。

 

  面目ねェ、面目ねェ……。

 

 あっという間に目の前の器が空になる。手の中のグラスの麦茶も空になる。

 

 ふう。落ち着いたぜ。

 

「すごい食べっぷりだね」

 

「ああ、小町の料理を楽しみにしすぎて、昨日から何も食ってなかったからな」

 

「おかわりは?」

 

「いや、もう満足だ。美味かった。おかげで夜まで小町のメシを我慢できそうだわ」

 

「あんた変わってないね……いや、シスコンは拗らせてるか」

 

 空になった器を片付けながら苦笑する川崎に、急に気恥ずかしくなる。

 

「うるせ。シスコンを風邪と一緒にするな。シスコンは俺の誇りだ」

 

「はいはい、あんたが妹思いなのは知ってるから」

 

 お前だってそうじゃねえか。

 毒虫大志にけーちゃん大好きの、ブラコンのシスコンめ。

 あとロリコンでショタコンなら、めでたくグランドスラムだぞ。

 四大タイトル総ナメだぞ。

 

 だが今の俺には一食分の恩義がある。あえて何もいうまい。

 

「はい」

 

 食器を洗い終えた川崎が俺の隣に座り、目の前に何かをコトリと置く。

 だあっ、近い近い……ん?

 

 このフォルム。

 今はめっきり見なくなった縦長の缶。

 そして、この繊細で奇抜で、それでいて黄色系で統一された見目麗しい色使い。

 

 マッカンだ。

 

「お、お前……」

 

「あんたそれよく飲んでたろ。たまたま冷蔵庫にあったから」

 

 涙が溢れる。

 たかがマッカン、されどマッカン。

 俺の心は鷲掴みにされた。マッカン、いやマッカン様に。

 

「何から何まで、本当にありがとう……」

 

 自然と首が垂れる。

 ソファーに腰掛けたままではマッカン様に対して失礼なのは重々承知だ。

 だからせめて、マッカン様のプルトップよりも低く、深く頭を下げる。

 

「そんなのいいから。冷たいうちにどうぞ」

 

 マッカン様の御神体に触れる。

 約四ヶ月振りの、聖地千葉でのマッカン様。

 ありがたや、ありがたや。

 姿勢を正し、厳かにプルトップを引く。

 御開帳。

 左手で御神体の底を支え、右手で手前に三度回す。

 

「なにしてんのさ」

 

「いや、あまりにも尊くて、つい」

 

 苦笑する川崎の眼前で、マッカン様に口づけする。

 御神体の底を少し持ち上げると、口の中に強烈な甘さが広がる。

 まさに甘露。

 いや、聖水だ。

 聖水って、なんかエロい。デュフ。

 

 喉の奥に絡みつきながら、甘味が胃の中に落ちていく。

 

「そんなに嬉しそうに飲むとはね。買っておいてよかっ……あ」

 

 言葉を切り、口を抑える川崎。

 

「まさか、俺のために……?」

 

「ま、まあ、そうなる……かな」

 

 頬を染めて俯く川崎をじっと見つめる。

 

「そ、そんな目で見るなよぉ……恥ずかしいから」

 

「わ、悪い」

 

 何だよ。いつもよりマッカンが甘く感じちまう。

 これは……夏のせいだな。

 

「それさ、あたしもたまに飲むんだけど、強烈だよね」

 

「ああ、甘さに関しちゃマッカン様がトップオブザワールドだ」

 

「ふ、ふうん。それより甘いものはないんだ……」

 

「俺の知る限りでは、そんなもの存在しない」

 

「あ、あたし……それより甘いものを知ってる」

 

 な、何だと。

 それは聞き捨てならないな。

 

「ほほう、甘さでマッカンを凌ぐものがあるだと? 面白え、あるなら味わってみたいものだな」

 

「あるよ。あたしも話に聞いただけだけどね」

 

「なんだ、作り話かよ。存在証明が出来なけりゃ、マッカン様の地位は揺るがないぞ」

 

「試して、みる?」

 

「ああ。そんなものが現実に存在するならな」

 

「じゃ、じゃあ……」

 

 なんだなんだ。

 隣に座る川崎がにじり寄ってくる。

 動きが伝わり、息がかかる距離になり、体温までもが伝わってくる。

 

 ーー!

 

 ほんの一秒ほどだろうか。いや待て、時間の感覚がわからん。

 

「お、お前……何を」

 

 さっき俺の口に触れた柔らかい存在は、俺の目の前で僅かに震えていた。

 

「ど、どう? 甘かった?」

 

「わ、わからん。そんなことよりどういう……むぐっ」

 

 再び川崎の口唇が、俺の口唇に触れる。

 

  ーーとぅるん。

 

  何かが口唇を押し広げて侵入してきた。

 

  あ、これアレだ。ディープなやつだ……っておいっ!

 

「んんんー!?」

 

 さっきよりも長く深く、セカンドキスは俺の口内を蹂躙していった。

 

 お父さんお母さん、そして愛する小町よ。

 ぼくはオトナの扉をこじ開けられてしまいました。

 

 でも不思議なのです。

 

 思ったよりも、いや、全然嫌ではなく、むしろ気持ち良くなりそ……っておいっ!

 

「ーーはああ!? 何してんだよ川崎っ!」

 

「何って……試食?」

 

 それ、どっちがどっちをだよ。確かに川崎の口唇とか舌の感触とか知っちゃったけどさ。うわぁ、また感触が蘇ってきちゃうじゃねーかよ、コンチキショー。

 

 当の川崎は、目をとろんと潤ませている。

 とろんと、といってもカナダの都市ではない。

 

 うわっ、今頃になって心臓が踊り出した。

 鼓動が強く速くなって、時折変拍子を刻んでくる。

 

「よ、よくいうじゃない。ファーストキスは蜜の味……ってさ」

 

「言わねえよ初耳だわ何だそれ。大体だな、大事なファーストキスを俺なんかに……」

 

「あんただからあげたんだよ。文句ある?」

 

 何なのこいつ。急に開き直りやがった。

 でもそれって。もしかしたら。もしかして。

 

 いや、ないない。

 俺なんかが……。

 

 俺なんかで、いいのか……?

 

「あたしが勝手にしたことだから、あんたは気にしなくていいよ」

 

「いや、そういう訳にはいかんだろ」

 

「ま、飼い犬に手を噛まれたと思ってとっとと忘れな」

 

 それ喩えおかしいからね?

 そもそも川崎を飼い犬にした憶えはねぇし。

 つーか、ここまでされて不慮の事故で済ますほど俺はアホではない。

 いや、やっぱアホか。

 

 頭の中で言葉を整理して居住まいを正し、川崎へ顔を向ける。

 しかし、俺が言葉を発する前に川崎が語り出した。

 

「……二年のときの文化祭」

 

「あの時から、ずっとあんたのことが好きだった」

 

「ずっとあんたのことを見てた。何度も声を掛けようと思った。でも、あんたの周りはいつも奉仕部の二人がいて……」

 

 川崎のすすり泣きが耳に響く。

 尚も川崎は言葉を重ねる。

 

「見てるだけしか出来ない自分が歯痒くて、もどかしくて、情けなくて……」

 

「卒業式の後、決めたんだ。もしこの先、偶然でもあんたに再開する日が来たら、絶対に想いを伝えよう、って」

 

 重い。

 とてつもなく重い。

 だが不思議と嫌ではなく、その途切れ途切れの言葉の持つ重さは、心地良く俺の心にのしかかる。

 

「だから、さっきのはあたしの自己満足。あんたは気にしなくていいよ」

 

「いや普通に無理だから」

 

 言い返した途端、川崎の表情が曇る。

 そうじゃねえ。そうじゃねえんだよ。

 

「あ、いや、その……お前ばっかり自己満足して終わらせようとすんじゃねぇってことだ」

 

「どういう、こと?」

 

「あーもー、ちくしょう!」

 

 腹は決まった。

 言葉も組み立てた。

 あとは、それをぶちまけるだけ。

 だが、口から出た言葉は、考えた内のどれでも無かった。

 

「お前、卑怯だよ。こんなことされたら、もう勘違いと片付ける余地がねぇじゃねーか」

 

 頭の中が真っ白になる。だが、裏腹に口は止まらず、整理のつかない、主旨すら定まらない言葉を吐き続ける。

 

「もしかしたらずっと前から心の何処かにあった気持ちなのかもしれない。だが、明確になったのは今だ。つまり、その、なんだ……」

 

 息を深く吸い込む。

 きっと、この言葉を発したら、全てが終わる。

 

「たった今、川崎沙希に惚れました。以上」

 

 あーあ、 言っちまった。

 ついに言っちまった。

 取り返しのつかない言葉を。

 俺が二度と口にしないであろう、言葉を。

 さすがに川崎の顔を見ては言えなかったが、情けないことにそれが俺クオリティだ。

 

 顔を上げると、川崎は呆然としていた。それでいて、涙だけが双眸から溢れ出している。

 

「で、でも、由比ヶ浜は……雪ノ下は……?」

 

「確かにあいつらに惹かれていた。だけど、あいつらは……仲間だ。恋とか愛とか、そんなんじゃねぇ」

 

「せ、生徒会長……一色は?」

 

「ちったぁ可愛げはあるが、めんどくせー後輩だ」

 

「じゃ、じゃあ……」

 

「もうやめてくれ。他の女の名前を出すな。出していい名前は小町と戸塚だけだ」

 

 うっかり戸塚の名前を出してしまったが、悲しいけどそれも俺クオリティ。

 マッカンの残りを一気に煽り、強烈な甘みで喉の渇きと緊張を緩和させる。

 

「川崎沙希さん、俺なんかで良ければーー」

 

 くに。

 

 突然、川崎の指が俺の両頬をつまみ、左右に広げてきた。

 

「は、はひふ……」

 

「ーー馬鹿じゃないの? あんたが自分を卑下するってことは、あたしの気持ちも卑下することなんだよ」

 

 眉根を寄せた川崎の顔は、真剣に俺を責めていた。

 

「あんたじゃなきゃ嫌なの、あたしは。だから」

 

 両頬から指が離れ、代わりに掌が添えられる。

 少し冷んやりとしていて、暖かい手だ。

 

「あたしを好きでいてくれるなら、他はいらない」

 

 俺は、川崎に三度目の口唇を奪われた。

 

  * * *

 

 思えば、今日川崎と再会したのは単なる偶然だ。

 だがこいつには、川崎沙希にはその偶然を必然に変える力があった。覚悟があった。

 俺は、その覚悟に絆されたのだろう。

 

 今の時刻はごご三時半を少し過ぎたあたりだ。

 あれから川崎は俺の肩に寄り掛かって時を過ごしている。

 時折俺は、その川崎の長く艶のある髪に指を通す。

 

 なんだこれ。

 至福の時間じゃねーか。

 

 神様。

 今まで信じてなくてすみませんでした。

 貴方は俺に不幸ばかりを届けるものだと決めつけていて、すみませんでした。

 でも、やっぱり俺は貴方が嫌いです。

 こんな不意打ちを仕掛けてくる貴方が嫌いです。

 

 今回は許してあげますけど。

 

  * * *

 

「で、どうだった?」

 

 言葉が川崎の頬から俺の肩に振動となって伝わる。

 おお、これが宇宙でノーマルスーツどうしを接触させて喋る、あの原理か。

 

「何がだよ」

 

「キス……MAXコーヒーより甘くなかった?」

 

 いやいや、甘いなんてもんじゃなかった。

 こいつの口唇は、どんな甘味料よりも甘くて、どんな美味い料理よりも幸せを感じられた。

 

 だが川崎沙希よ。

 俺は捻くれているのだよ。

 小町曰く、俺のは捻デレらしいけど。

 

  だから俺はこう返すんだ。

 

「いや、カレー味だった」

 

「ーーバッカじゃないの……あっ」

 

 川崎の言葉を遮って、俺はその肩を抱き寄せる。

 顎の下に手を添えると、抵抗感なく持ち上がる。

 

 そして。

 

 四回目は、俺が奪ってやった。

 味は、甘くてとろけるカレー味だった。

 




久しぶりの投稿。
そして、初めてのスマホからの投稿です。
やはりスマホでの執筆は慣れないとペースが遅いですね。
仕事の合間に書いたこともあり、たった7000文字に足掛け二日かけてしまいました。

という感じで、
今回は八幡とサキサキの短編でした。
感想、評価など頂けたら嬉しいです。

はぁ……
俺ガイル12巻、早く出ないかなぁ。


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迷えるぼっち

すみません。
私、嘘をつきました。

続き……書いてしまいました。

良ければ読んでやってください。


「あちぃ……」

 

 梅雨明け宣言が下された途端、太陽のヤツ調子に乗りやがって。

 ジリジリとアスファルトを焼き、屋根を焼く太陽。

 夏の太陽は暴君である。

 もうキミには「お日様」なんて様づけで呼んであげないんだからねっ。

 

 それでも夕方になると幾分かは過ごしやすくなる。

 ま、ずっとエアコンの効いた実家に引き籠もってるから関係ないけど。

 

 総武高校も今日から夏休みとのことで、小町は今日はご学友(女子)と共に図書館で夏休みの課題をやっつけるつもりらしい。

 ふっふっふ。そう思い通りにいくかな?

 勉強というものは一人でするに限る。勿論誰かに教えを乞うのも大事だが、こと課題に関しては一人で当たるのが効率的だと思う。

 俺の脳内に浮かぶのは、今日終わらせる筈だった課題が八月末に大量に繰り越されて涙目の小町の姿だ。

 高校の夏休みって思うよりも短いのだよ、小町くん。

 

 そんなこんなで、実家には俺一人が居座る状態である。

 暇つぶしの読書を終え、暇つぶしのアニメ鑑賞も終え、今は少々物思いに耽っている。

 ザ・シンキングターイム。

 

 大学が夏休み入ってすぐのこと。

 俺と川崎は互いの想いを交わした。

 

 今迄の鬱屈した人生は終わり、眼前には薔薇色の未来が広がる……はずだった。

 

 だが、あの日から一週間。

 俺と川崎沙希が会うことは無かった。

 

 だって。

 思いっきり舞い上がっちゃって連絡先交換するのも忘れちゃったんだもん。

 

 小町と大志を経由して連絡をとることも考えてはみたが、その案は却下した。

 どうせ小町のことだから、理由を根掘り葉掘り聞いてきて、勝手に憶測を立てて勘違いして突っ走るに決まってる。

 その恥ずかしさとリスクを考えると、その選択肢は選べない。

 あと、どんな理由があっても大志には連絡させたくない。

 

 実家では毎夕、小町がメシを作ってくれるのだが、気のせいだろうか、高校の時よりも若干メニューが豪華になっていた。

 以前ならば一汁一菜にメインのおかずが並ぶ程度だったのだけれど、この夏に帰郷してからは三品四品は当たり前、時には食後のプリンまで用意されていた。

 

 何より、小町はすこぶる機嫌が良い。

 帰郷早々の手料理お預けがまるで嘘のように、お兄ちゃんお兄ちゃんと事ある毎にくっついてくる。

 ま、今日はたまたま友達優先だったってことだ。

 そう……だよな?

 構う相手がいなかったから俺に引っ付いてた訳じゃないよね、小町ちゃん?

 

 尤も、そんな歓待ムード全開なのは小町だけで、両親は安定の通常営業。何なら早くアパートに戻れ、家賃が勿体無い、バイトして金を入れろ、などなど様々な罵詈雑言で俺を家から追い出したがっている。

 カマクラに関しては……言わずもがな、である。

 

 ホント、家族やペットに愛されてるな……俺。

 ちょっぴり悲しくなるぜ。

 

  * * *

 

 両親が帰宅してきて少々家に居づらくなった俺は、小町お手製の豪華な晩飯を堪能した後、着の身着のまま家を出る。

 持ち物は財布とスマホだけ。別に何処に行く宛てもある訳ではない。

 ただ、一人になりたかっただけ。

 

 また俺は嘘をついた。

 本当は一人になんかなりたくない。

 誰かと、できれば川崎と一緒にいたい。

 言葉にすればそれだけのこと。それが今の俺には遥か彼方の蜃気楼の如く思えてしまう。

 カッコつけた言い回しをしたが、要するに「絵に描いたモチ」ってことだ。

 

 街灯だけが照らす中、ぶらぶらと足の向くまま歩き続けて、大通りに近い公園に辿り着く。

 別段、実家の近所でもないこの公園に足を運ぶのは三回目だ。

 一回目は五日前、二回目は一昨日。

 つまり帰郷してから今日で三回目となる。

 

 一回目、二回目と同じく自販機で御神体、もといマッカンを購入して目についたベンチに腰を下ろす。

 

 空を見上げると星は瞬きを繰り返している。今夜は月は出ていない。

 マッカンを煽る。甘ったるい冷たさが喉を通り、刹那の涼を与えてくれる。

 その涼しさも、あっと言う間に湿った夜風に取り去られる。

 余談だけど、何で「あっ」と言う間なんだろうね。

 別に一文字だったら何でも良いんじゃないのかね。

 例えば「ぬっ」と言う間、とかでも。

 ……うん、間違いなく余談だったわ。

 

 何をするでもなく、ただ夜空を見上げる。

 あっちで嫌味ったらしく光り輝くのはアルタイルか。じゃああっちがベガだな。

 ふっ。七夕が過ぎた今、お前たちは会うこともままならないんだろ。

 ざまぁみろ、クソリア充め。

 

 あの日。

 俺は確かに川崎と触れた。

 川崎は、俺の他には何もいらないなどと云っていたな。

 

 ならば俺は。

 俺にそこまでの気持ちがあるのだろうか。

 

 会いたい気持ちはある。

 同時に、このままでもいいかとも思ってしまう。

 俺に対する川崎沙希の気持ち。覚悟。

 それと同等のモノを持ち合わせていなければ、川崎に会うのは失礼ではないのだろうか。

 

 なんせ、生まれて初めてのこの状況だ。

 

 俺には解らないことだらけ。

 

 今迄は蚊帳の外でリア充共を小馬鹿にしていれば良かった。大学に通い出してからも、新歓コンパだのサークルだの、青春を謳歌せし輩たちを陰で嘲笑ってきた。

 

 だが、もう俺にはその権利も無くなった。

 あれは、独り孤高を自負する捻くれ者のみに許された特権。

 一度でも触れ合う幸せを感じてしまった俺には、もう彼ら彼女らを揶揄することは憚られる。

 

 ふと気づく。

 この公園は、あの日帰りに見た公園だ。つまり、気づかぬまま俺は川崎沙希の家の方向に足を向けていたのだ。

 何それ、気持ち悪い。まるでストーカーじゃんか。

 

 川崎は、こんな俺を嗤うだろうか。蔑むだろうか。

 それとも。

 

 答えは、彼女だけが知っている。

 

  * * *

 

「帰るか」

 時刻は夜十時過ぎ。良い子は寝る時間。

 俺は「どうでも良い子」なので起きていても全然へっちゃらである。

 何ならこれから実家に戻って「僕らはみんな河合荘」とか全話ぶっ続けで見るつもりすらある。

 

 ベンチから立ち上がってカーゴパンツの尻を叩く。

 マッカン様の亡骸ーー空き缶をダンクシュートで供養して、公園の外周の道に出た。

 

 ーー!

 

 息が止まる。

 鼓動が強く速く、踊り出す。

 どうして。

 どうして突然現れる。

 何の心構えもしていない、何の準備もしていないこの状況で、何故お前は此処にいる。

 そして。

 どうして、一目見ただけで心が踊るんだ。

 

 二つ向こうの街灯の下。

 スポットライトを浴びるように照らし出された川崎沙希がいた。

 

  * * *

 

「へえ、お前免許取ったんだな」

 

「うん、京華の保育園の送り迎えに便利だし」

 

 どうしてこうなった。

 

 今俺は、川崎沙希の運転する車の助手席に座っている。

 川崎は運転に集中しているようで、前方しか見ていない。

 つーかそれって危なくね?

 標識とかミラーとか見た方が良いんじゃないのかね。

 

「ひ、比企谷は……免許、とか」

 

 何だよ。緊張するなよ。

 こっちまで緊張しちまうじゃねえか。

 

「あ、ああ。先月取った」

 

「く、車は?」

 

「んー、もうすぐタダでもらえる予定だ。軽自動車だけど」

 

 別に軽自動車だからといって下手に出るつもりはない。だが所詮俺の車は親父の知り合いからの貰い物、しかも十年以上前の車で、二人しか乗れないらしい。

 何それ、まさか軽トラックなのかな。

 そんなこんなで、恐くてまだ車種を聞き出せてはいない。

 ま、来週には貰えるようだし、それまでには覚悟を決めておこう。

 もし軽トラックだったら、荷台に積む物も決めておかなきゃ。

 

 いつの間にか川崎の運転する車は国道14号線を走っている。

 こいつ、運転上手いな。

 少し余裕が出てきたのか、川崎が鼻歌を歌い始める。

 視線を向けるとすぐに顔を真っ赤にしてやめてしまったが。

 

「け、軽自動車でもいいじゃん。タダでもらえるんでしょ?」

 

「ま、そうだな。タダっていい響きだよなー」

 

 うん、オーケー。普通に話せてる。

 

「それに今あんたが乗ってるこの車、これも軽自動車なんだよ」

 

 な、なん、だと……?

 

「嘘、超広いじゃん。天井高いし、シート全部倒したら大人二人が余裕で寝られそ……」

 

 二人で、寝られる車。

 その車内に、俺と川崎。

 あらためて状況を確認してしまった俺が思うことはひとつ。

 

 これって、やばい。

 

 




お読みいただき、ありがとうございました。

短編で終わらせる筈だったのですが、ついうっかり調子に乗りまして……はい。

今回はプロットも何も決めていない、見切り発車的な物語なので、至るところに齟齬や矛盾が発生するかと思いますが、そこは優しく教えていただけたら嬉しいです。

お手間で無ければ、感想、評価など、よろしくお願い申し上げます。


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もしも願いが叶うなら

川崎沙希の運転する車で訪れたのは、夜の海。
そこで二人は、お互いの歪みを見せ合う。

そんな、第3話。


 時刻は夜の十時。

 夜の東京湾は静かで、波も穏やかだ。

 辺りには他に車は無く、たまに遠くで右折だか左折だかのヘッドライトがちらっと光るのみ。

 つまり人気は皆無、貸し切り状態である。

 

 車の窓を開けた瞬間、海風に乗ってやってくる潮以外の匂いは、きっと京葉工業地域の皆さんが夜通し頑張っている証なのだろう。

 そうであると願って、すぐに窓を閉める。

 

 ふと視線を右に向ける。運転席の川崎沙希はフロントガラス越しに海を眺めている。

 車内の灯りは少なく、いかにも川崎らしいシンプルさを感じさせる。と云っても実際は川崎のお母さんの車らしいのだが。

 それでもメーターパネルの放つ弱い光が、不規則に色を変えるカーステレオの灯りが、遠く湾の対岸を眺める川崎の表情を浮き彫りにする。

 

 ……つーかさ。

 なんで俺、川崎と夜景なんか見てんの?

 まあさ、これは川崎の家の車で運転手は川崎な訳だから、俺に行き先を決める権利は無いとは思うよ。

 でもさ、なんつーか、その、雰囲気よすぎじゃね?

 まるでカップルみたい。

 平塚先生でいう処の「アベック」みたい。

 

「最近さ……たまにだけど、ここに来るんだ」

 

 ほーん、なるほど。

 ここは川崎にとっては自分だけの穴場スポットって訳だ。

 確かに良い場所ではある。

 夜の海ってのは、見ていると不思議と心が穏やかになるし、何よりも東京湾の向こうにひしめき合う小さな光の集合体は、遠目ながらも輝きが溢れている。

 

 川崎は、この景色を見せたかったのだろうか。

 

「ここからだと、遠くにあんたの住む街が見える気がするんだ」

 

 ……へ、へぇー。

 そおなんだぁ。

 まあ確かに、俺が住むアパートは正面の方角なんだけど。

 というか、だよ。

 

「ここに来て、今あんたは何をしてるんだろう、何を見てるんだろう、って」

 

 川崎って……。

 この一週間の俺とそっくりじゃん。ストーカー気質たっぷりじゃん。

 って、笑えねぇ。

 女子が言えば、ともするとロマンチックに聞こえもする。

 が、同じことをこの俺がしてるとバレたら即通報され、民事と刑事のダブル訴訟の末に檻の中で負債を抱え込みかねん。

 ぜひ賠償金はローンでお願いしたい。

 あ、弁護士は葉山の親以外で。

 

「重い……よね。気持ち悪かったら云って。やめるからさ」

「い、いや。別にいいんじゃねえか。誰にも迷惑は掛けてないんだし」

 

 うん。俺もそういう事考えたことあるしね。何ならこの一週間、ずっとそんな調子だったし。

 だから俺のことも許して欲しいっス。

 

「あの、さ」

 

 川崎の声音が変わった。上ずったようなアクセントに脈が跳ねる。

 

「ちゃんとして無かったじゃん、あの日は」

 

 な、何だよ。

 何をちゃんとして無かったって言うんだよ。

 まさか……避妊か?

 そうなのか?

 でもでも、キスだけで子供が出来るなんて聞いたことないぞ。

 ま、まさか、一日に四回以上キスしたら妊娠の可能性も……あるのか?

 

 って、無いですね、はい。

 子供ってのは、おちんちーーゲフンゲフンっ。コウノトリさんが運んできたり、キャベツ畑から生まれたりするんですよね、欧米では。

 おっと、愚考が過ぎた。つーかそうでもしないと緊張で吐きそうだ。

 

「だから、言わせて」

 

 声のトーンが一段落ちる。

 遠くの車のヘッドライトが一瞬だけ川崎の顔を、髪を、口唇を照らす。

 

「あたしは、二年前からあんたが好き。だから、出来たら……一緒にいて欲しい」

 

 確かに、あの日はお互いそういう言葉は口にしてなかった。つーか、それどころじゃ無かった。

 川崎の家で身を寄せ合っている時は心臓爆発寸前だったし、実家に戻ってからは終始ふわふわしてたし。

 

 川崎のやりたい事は解る。俺も同じだ。

 区切りというか、やはり物事は明確にしておくべきだ。

 だが。

 答えを告げる前に、こいつには話しておかなければならないことがある。

 これは完全に俺の我儘。単に俺が筋道を通したいだけの話。

 

「じゃあ今度は俺の番だな」

「へ、返事……は?」

「まずは俺の話を聞いてくれ。返事は……それからする」

 

  * * *

 

 俺は語る。

 この一週間で考えたこと、思ったこと、感じたこと。その全てをなるべく細大漏らさずに話す。

 

 話す度に川崎の表情は変化した。

 微笑んだり、俯いたり、睨んできたり。

 しかし、俺が話し終えた後の表情はひとつだった。

 その表情に名前を付けるとしたら「哀しみ」なのだろうか。

 

 短い沈黙の後、川崎の口から発せられた言葉は、その表情とは不釣り合いのものだった。

 

「ーーありがとう」

「……は?」

「どうしたのさ。なんか変、だった?」

 

 はい、変でしたよ川崎さん。だってね、

 

「 今、結構ひどいこと言ったぞ俺」

 

 俺が言った「ひどいこと」。

 それは、この一週間の間で一番懸念していたこと。

 川崎の気持ちと、俺の気持ちの大きさの違いだ。

 ぶっちゃけ俺は、川崎に想われるのと同等の量の気持ちを抱いている自信がない。

 川崎と俺の天秤は、均衡が保たれていないのだ。

 

「でもあんたは、あたしの為に一週間も真剣に考えてくれたんでしょ。それは素直に嬉しいよ。それに」

 

 川崎の潤んだ瞳に反射するカーステレオの光が、俺の視線を捕らえて離さない。

 

「あたしは、あんたが少しでも好きでいてくれればそれでいい。あんたがあたしを5パーセントしか好きじゃなくても、あたしが残りの95パーセントになる。そうすれば……100パーセントになるでしょ」

 

 そういう事じゃないだろ。

 自慢じゃないが俺はこういう事態に役立つスキルは持ち合わせていない。

 だけど、恋愛ではそういう単純な足し算が通用するかどうかくらいは数学と恋愛が苦手な俺にも解る。

 

 かつて、恩師平塚先生は云った。

 計算して計算して、それでも計算し尽くせなくて残ったもの。

 それが「心」だと。

 

 故に。

 

「お前のその論理は受け入れられない。却下だ。だが、その上でーー」

 

 川崎の表情が重くなる。ああ、この顔は、きっと怯えている顔だ。

 否定されるのを恐れる顔だ。

 

 咳払いをひとつ。マッカンを一口。

 喉を万全の態勢に整える。

 

「ーーひとつ、頼み、いや、お願いがある」

 

 助手席で身を捩り、事態の把握出来ていないであろう川崎になるべく身体を正対させて、頭を垂れる。

 

「少しでいい。お前の中に、俺の居場所をくれ。いや、ください」

 

 空気が固まった。

 

 川崎も固まっているのだろう。

 そりゃそうだよな。言ってる俺だって抽象的過ぎて訳わかんねぇんだから。

 だけど。

 思ってしまった。口に出してしまった。

 こんなのはお願いでも何でもない。ただの期待の押し付けだ。

 居場所を提供してくれれば受け入れますよ、という、上から目線の傲慢で浅ましい保身でしかない。

 それでも、俺は、こいつの胸の中の一区画だけでも独占したかった。

 

 そうじゃないと、幸せという不安に押し潰されそうだったから。

 

 人を好きになる。

 俺は今までその行為を避けてきた。

 理由は簡単。失いたくないからである。

 失いたくないものは、最初から望まなければいい。

 手に入らなければ、最初から手許に無ければ、失うことも無い。

 故に俺は人を好きになることを愚かなことと決めつけていた。

 失う為に求める、愚者の選択だと。

 

 だが今俺が突き付けた願いは、それよりも愚かな行為なのだろう。

 何せ、確証が欲しいだけなのだ。

 手に入れてもいない事柄に対して保証だけを先に欲しがる。

 浅ましく意地汚い、小心者の選択だ。

 

 恐る恐る頭を上げる。

 視線がぶつかる。

 その瞬間、弾けたように川崎は笑い出した。

 

「……あー、おっかしい。なにそれ」

「多分、俺の本心、だと思う」

 

 たどたどしく応えると、またしても笑い出した。

 

「ふーん。じゃあ、あたしからもお願い」

「え、返事は?」

「あんただって、まだ返事くれないじゃない」

 

 おお、なんて鮮やかな意趣返し。いや、この場合は、しっぺ返しか。

 ま、とりあえず覚悟だけはしておこう。傷を最小限に留めるために。

 

「あんた……あなたを、あたしの居場所にしてください」

「……はい?」

 

 えーと、川崎の中に俺の居場所を与えてくれる代わりに、俺を川崎の居場所にしろ、と。

 どういうことだ?

 

 地主から借りた土地にアパートを建てた家主に地主が住まわせてくれと頼む感じか?

 違うな。

 地主を甲、家主を乙として、甲は乙に甲の土地を貸すという貸借契約を為し、乙は甲に乙のーー

 

 あー、余計にわからん。

 

「つまりそれは、どおゆうことなん?」

「簡単な話さ。お互いがお互いの居場所になればいいんだよ。ま、元々あたしの心にはあんたが住み着いてるけどね。約二年ほど無断で」

 

 何それ。不法占拠になっちゃうの?

 心の不法占拠って、なんだか甘ったるい響きだよね。

 つーか、二年分の家賃滞納かよ。よく追い出されなかったな、俺。

 

 それはそれとして。

 

「えーと、結果的にはそれは……」

「あー、ほらっ。あんたが小難しい言い回しばっかり使うから話がややこしくなるんだよ。あたしも経験無いけど、もっとシンプルでいいんだよ」

 

 さすがサキサキ、頼れる長女だ。大志もきっと、こんな風に夜な夜な説教されてるんだろうな。

 夜の説教か……。

 くそっ、けしからん。

 

 おっと、いかんいかん。

 弟に嫉妬してる場合じゃなかった。

 こんな時はまずは謝罪からだ。俺の経験上、謝っておけばまず間違いは無い。

 

「す、すいません」

「ん。素直でよろしい。じゃあ簡単な言葉に言い換えてあげる」

 

 川崎の顔が近づく。

 口唇を奪われるかと、身体が強張る。

 だが、川崎の口唇は俺の頬を掠めて耳元で止まった。

 

「愛してるぜ、八幡」

 

 川崎の両腕が、俺の背中に回される。俺も抱きしめ返すべきなのかと迷うが、胸に当たっている豊かな二つの膨らみが俺の思考を麻痺させる。

 

 結果。

 

「お、俺も愛しちぇる」

 

 噛んだ。噛んでしまった。

 一世一代の告白で噛むなんて。

 ーー俺のアホ。

 

  * * *

 

 世にも恥ずかしい儀式を済ませた俺たちは、互いにフロントガラスの向こうに広がる東京湾を見ていた。

 

 互いの顔?

 そんなもん恥ずかしくて見れるかよ。

 

「ねえ、さっきのだけど。なんで受け入れられないって言ったの? あたしが95パーセントじゃ嫌?」

 

 なんだ、まだパーセントがどうとかの話を気にしてるのかよ。

 

 だったら答えてやろうじゃないの。

 今度は噛まないように、慎重にね。

 

「お前さ、100パーセントにこだわり過ぎなんだよ」

「は? どういうこと?」

 

 俺は先程の失態を挽回すべく、ここぞとばかりに精一杯のキメ顔を作る。

 

「別に……二人合わせて100パーセントを超えたって、いいだろ」

「ーーぷっ」

 

 結果、失笑。

 初の彼氏ヅラは敢えなく東京湾の藻屑と消えた。

 

 うーん、恋愛って難しい。

 

 




お読みいただき、誠にありがとうございます。

注釈というか、誤解の無いように少々説明させていただきます。

この回の中で、八幡は大きな勘違いをしています。
「失う為に求める」
彼は、これが間違いであることに気づいていません。そして間違いであることに気づかないまま、否定しました。
それは、彼が恋愛に不慣れが故の間違いです。

次回から少しずつ物語が動き出します。まだ書いていませんがw

感想、批評、評価などいただけたら嬉しいです。
では引き続きよろしくお願いします。


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変化

川崎沙希と交際を始めた比企谷八幡。
彼は心境の変化を迎える。

第4話、スタァァトゥ!



 ようやく川崎の連絡先を手に入れ、実家に帰ったのは深夜三時過ぎ。何ならあと一時間もすれば空は白んでくるので早朝とも云える。

 つまり、プチ朝帰りな訳だ。

 

 失態と屁理屈に塗れた回りくどい告白の後、俺たちは車の中で互いに身を寄せたまま、何をするでも無く静かに時を過ごした。

 

 うん。嘘。

 

 本当はめっちゃキスした。手も繋ぎっぱなし。

 沈黙の中で互いの視線が絡み合う度に、引力が働くように幾度も口唇を重ねた。

 そりゃもう、口唇も脳も蕩けちゃうくらいに。

 実際、車内の僅かな光に浮かぶ川崎の表情は緩み切っていて、危機感が足りないぞと言いたくなるくらいに無警戒だった。

 

 余談だが、川崎曰く俺の口内はマッカンの味がしたらしい。

 何それ、甘すぎる。

 

  * * *

 

 川崎に実家まで送ってもらった俺は、皆を起こさないように自室に忍び込み、息を潜めて悶々と過ごして朝を迎えた。

 

 音が立たない程度にベッドの上で足をバタバタさせて悶絶していると、両親が玄関を出る音が聞こえた。その一時間ほど後に小町がどたどたと階段を昇り降りした。

 夏休みだっていうのに元気な奴め。

 

 どたどたがピタリと止まり、部屋の扉が勢いよく開く。

 差し込む朝日に照らされて、目を光らせた小町がニヤリと笑って立っていた。

 

「さあて、そろそろ聞かせてもらおうかなっ」

 

 朝のテンションじゃないなこれ。まさか、ずっと起きてたのか。

 ズカズカと俺の部屋に踏み込んだ小町は、ベッドの枕元からスタンドライトを掴んでオン。その光源を俺に向ける。

 うぜぇ。あと眩しい。目が痛い。

 

「容疑者お兄ちゃん、洗いざらい吐くのですっ」

「な、何のことでしょう」

 

 小町が人差し指を天井に向けて立てる。その指先は少しずつ倒されて、びしっと音が鳴るかと思う勢いで俺に向けられた。

 

「夕べはどこにお出かけしてたのかな?」

 

 小町の言葉が呼び水となり、昨夜の出来事がフラッシュバックする。思わず体温があがり、紅潮しているであろう顔面を見られないように、ぷいと顔を背ける。

 しばらく横を向いていると、スタンドライトが回り込んできて白熱球が顔の正面に当てられる。

 いやこれ以外と熱いからね。

 ーーあ、だから顔が熱いんだ。

 納得の「な」でございます。

 うん、古いな。誰も知らんだろうな。

 

「さ、散歩だよ」

 

 いつの間にか用意されていたバインダーに、小町がふむふむと頷きながらペンを走らせる。

 え、マジの事情聴取なのん?

 だったら黙秘権くらいはあるはずだよね。

 ここは平和憲法の国だもの。

 

「へえー、じゃあ質問を変えるね。誰と、何処に、誰の車で行ってたの?」

 

 えー、もうほとんどバレてるじゃん。ただの穴埋め問題じゃん。

 だか、まだまだ諦めない。兄としての矜恃は譲れんぞ。

 

「黙秘します」

 

 早速黙秘権を行使しようとした俺に、小町はノンノンノンと立てた人差し指を左右に揺らす。

 

「小町の取り調べには黙秘権は無いのです。さあ、さあさあっ」

 

 これまたいつの間に用意したのか、でかい虫眼鏡で俺の顔面を覗き込みながら詰め寄ってくる。

 

 だが、そうはさせんっ!

 俺は黙秘を貫くのだ。

 

 沈黙を続ける中、虫眼鏡に集められた白熱球の光が頬の一点に集中しーー。

 

「ーー熱ちぃっ!」

 

 小町がニヤリと嗤った。

 やだこの子、ちょっと見ない間にドSに目覚めちゃったのかしら。

 

「ふう、じゃあもう一度質問を変えます。大志くんのお姉さんと、どこまでいったの?」

 

 うげっ、やっぱ知ってやがった。

 小町イヤーは地獄耳かよ。

 

「稲毛の、ちょっと先まで」

 

 俺の地理的な回答に深く溜息を吐いた目の前のドSな妹は、バインダーで頭を叩いてくる。

 

「だぁーもう、そんなことを聞いてるんじゃないの。Aとかキスとかベーゼとか、そっち方面の話だよっ」

 

 わわっ、こいつ何云っちゃってるのさ。

 

「もう勘弁してくださいよー、エロ刑事さんっ」

 

 嗚呼、お父様お母様。

 我らが愛する小町が、ついに性に関心を持ち始めましたよ。

 

 つーか、Aもキスも同じ意味だろ。今どきAとか言わねえし。

 あと、ベーゼってあれか。ほ、抱擁か。

 

 ……うん。全部したな。

 などとは口が裂けても言えない。俺は小町の前では高潔なお兄ちゃんでいなければならなーー。

 

「ベロチューした?」

 

 ーーおうふ。

 すぐさま顔を逸らす。

 

「……したんだね」

 

 愛する妹のジト目と迫力に完敗して顔を伏せる。

 何このプレイ。

 この先、川崎との♂♀♬とか△♀∀なんかを逐一小町に報告せねばなんねーの?

 つーか、♂♀♬とか△♀∀って何だよ。

 ……伏せ字だよ。

 

 気がつくと小町は、ニヤニヤと口角を上げて悪い笑いを浮かべている。

 

「つーか小町、誰から聞いたんだよ」

「ふっふっふ、情報源は平つ……ヒミツなのです」

 

 いま平塚先生って言いかけたよね。「ひらつ」まで発音したよね。

 あんの独身アラサー行き遅れ教師め。一瞬でも恩師だと思った自分を呪ってやりたい。

 

「ま、迷えるチキンのお兄ちゃんのことだから、大志くんのお姉さんに押し切られたんだろうけど」

 

 うぐっ。我が妹ながらなんて分析力だ。

 てか迷えるチキンってなんだ。略して「まよチキ」か。偶然だな。

 

 小町が云うにはーー

 帰郷初日の俺の様子で何かがあったらしいことくらいは予想がついていたらしい。

 そこへ平塚先生という名の匿名希望の情報屋から、川崎と俺が一緒に歩いていたという目撃情報が舞い込んだ。

 大志経由で川崎の拗らせまくった気持ちを聞いていた小町は、すぐに俺にちょっかいを出す気でいたのだが、それは平塚先生に制止されたという。

 兄の幸せを願うなら見守ってやれと。

 

 なんだよやっぱ恩師かよ。紛らわしい。

 JAROに言いつけてやる。

 

 この後俺は、全てを白状させられた。

 話の途中、小町は終始真っ赤な顔で、時折身をくねらせていた。

 

「……ふう、ご馳走さまでした」

 

 話を聞き終え、耳まで真っ赤に染めた小町の第一声である。

 恥ずかしい体験談を詳らかに話してしまった俺には「お粗末さまでした」と返す余裕も無い。

 

 ふと、小町のテンションが戻る。いつの間にかスタンドライトも消灯されている。

 

「結衣さんや雪乃さんには……内緒にしとくの?」

「別に隠す必要はないけど、報告する義務も無いだろ。しばらく放置だ」

 

 俺の腐った目をじっと見つめた小町は、腕を組んで瞑目を始める。

 ん〜〜と、長々と唸ったと思ったら、突然ぽんっと可愛い膝頭を叩いた。

 

「ーーわかった。お兄ちゃんがそういうなら、そうする。でも、いつかちゃんと話してあげなよ」

「ああ、そのうちな」

 

 その機会があるかは解らないけどね。

 

  * * *

 

 昼間は川崎のバイトが休みの時に会い、図書館やブックカフェに籠ったり、時々川崎の買い物に付き合う。

 それ以外は毎晩あの公園で川崎と会う。

 

 川崎と過ごす時間は、居心地が良い。

 決して長い付き合いではないのだが、気心が知れていると思えているのか、苦にならない。

 戸塚から連絡を貰った際に、ちょっとだけ川崎と戸塚の「両手に花」を目論んだのだが、やんわりと戸塚に固辞された。

 あの時の俺は落ち込んだ。川崎には生温かい目を向けられた。

 

 経験の無い者同士の交際は、手探りながらも順調に思える。といっても、まだ十日そこそこか。

 ただ、ふと川崎の目が潤んでいたりすると、忽ち心臓が踊り始めてしまう。

 十日プラス一日の経験上、そういう時の川崎は肉体的接触を求めていることが多いのだ。

 平たく云えば、キスを求めている目である。

 

 そんな逢瀬を重ねながら七月は過ぎた。

 

  * * *

 

 八月に入って、俺はバイトを始めることにした。川崎と一緒に過ごす為の資金が欲しかった。

 理由を含めて川崎に話したら「そんなのいいよ」と笑っていたけど、やはり一緒に美味いもの(特にラーメン)を食べに行きたいし、いつも川崎の家の車にお世話になりっぱなしでは申し訳ない。

 食事代や燃料代くらい俺が出さなければ心苦しいのだ。

 

 俺の思考は川崎沙希を軸に回り始めていた。

 

 一応有名私立の大学に通う俺が選んだバイトは中学生相手の家庭教師だ。求人を見てすぐ連絡を入れ、面接の約束を取りつける。

 面接の結果は、採用だった。大学名が功を奏したか。

 何にしてもだ、理系が苦手な俺を受け入れてくれて、夏休みのみの短期でも雇ってくれたのはありがたい。

 

 面接の後、早速何枚かのの紙を見せられた。

 氏名、志望高校名、主要五教科の点数などが書かれた生徒の個票だ。

 

 並べた個票を眺める。

 まず、女子は却下だ。

 川崎に義理立てするとかでは無いが、やはりリスク管理は必要だろう。

 俺はロリコンでは無いが、間違いが起こり得る状況を作らないことが大事だ。

 よって、まず三枚の個票は端に除けておく。

 目の前に残るは男子の個票は二枚。

 一人は軒並み平均点以下。もう一人は理系の点数がずば抜けていて、文系は平均点くらい。

 俺はその二枚の個票を差し出して、この二人のどちらでも良い旨を伝える。

 

 あくる日、ちょうど川崎と昼メシを食べている時に連絡が来た。

 家庭教師の依頼だ。

 

「ーーはい、よろしくお願いします」

 

 スマホを置いて、川崎を見る。

 

「決まったぞ、月水金と二コマずつで八月末までだ」

 

 緊張するな、と零すと川崎は笑い飛ばしてくれた。

 

  * * *

 

 八月三日、家庭教師初日。

 指定された住所へと赴く。初日ということで、親御さんとの意思や方針の擦り合わせの為に三十分ほど早く到着するようにした。

 結局俺の担当生徒は軒並み平均点以下の中学一年生の男子、広田裕樹だった。

 家庭教師の会社の説明だと、昼過ぎから夕方までは理数系科目の家庭教師がつき、俺はその後に文系を教えるらしい。

 つまり、夏休みだというのに広田裕樹は勉強漬けにされる訳だ。

 可哀相だとは思うが同情はしない。

 俺は金が欲しい。切実だ。

 

 事前説明によればこの生徒は全般的にやる気が無いらしく、何度も家庭教師が代わっているとのこと。

 親はこの生徒を将来弁護士にしたいらしいのだが、大手進学予備校に入るだけの学力も無い状態で、やむなく家庭教師を依頼した、と。

 

 勉強なんてものは、ぶっちゃけ本人のやる気だ。

 やる気さえあれば何とかなる。

 しかし今回の生徒には、そのやる気が無いという。

 依頼主である親は、そのやる気の無い平均点以下の息子を弁護士にしたいとのたまう。

 つまり厄介な案件を押し付けられた、ということだ。

 ま、ここまで来てしまったからには四の五の言っても始まらない。

 初日は捨てるつもりで様子見をしよう。

 そう腹を括って、玄関の呼び鈴を押す。

 

「ごめんください。今日から家庭教師に伺う者ですが」

「あ、ああ、ヒキタニ先生ね」

 

 いや違います。ヒキタニ先生はいません。

 

「まだ数学の先生がいらっしゃるので、どうぞ上がってお待ちください」

 

 どうやら理数系を担当する家庭教師は仕事熱心なようで、生徒が理解するまで授業を延長するスタンスを取っているらしい。

 効率重視の俺にはとても真似出来ないな。

 

「さあさあ、お茶でも召し上がってくださ……あ、授業が終わったようですわ」

 

 リビングの奥、母親が覗き込む階段の上から軽い足音が聞こえてくる。

 

「先生、お疲れ様でした。ささ、お茶をどうぞ」

「……お気遣いありがとうございます」

 

 耳に心地よい、鈴のような声音。

 俺は、その声に聞き覚えがあった。

 

 高校二年生から卒業間際まで聞いていたその声の主は、すぐにわかってしまう。

 

 ーー雪ノ下雪乃だ。

 




お読み頂いてありがとうございます。

やはり出てきました、雪ノ下雪乃。
ここから物語は若干ごちゃごちゃし始めます。

この先の展開はまだ書いておりませんが……
川崎沙希が好きな方、雪ノ下雪乃が好きな方、由比ヶ浜結衣が好きな方、それぞれに不快な思いをさせてしまうかもしれません。

でも、決して悪いようにはしません(予定)

願わくば次回も何卒よろしくお願いします。


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難敵

川崎沙希と付き合い始めた八幡。

川崎の為に一念発起して家庭教師のバイトにありつき、迎えた初日。

そこにいたのは、懐かしい人物だった。




 家庭教師初日。

 夕方に訪れた広田さん宅で会ったのは、高校時代から変わらない長い黒髪の美少女。

 高校時代との違いと云えば、黒髪を耳に掛けているくらいであろうか。

 あと、私服って新鮮ね。

 

「久しぶりね、比企谷くん」

「ああ、卒業式以来だな」

 

 雪ノ下と俺が対峙し、何処か余所余所しく互いに短い言葉を交わす。

 広田さんはそれを見て薄く笑みを浮かべる。

 

「あら、先生たちはお知り合いだったんですか」

「ええ、高校の同窓生……知り合いです」

 

 間髪入れず雪ノ下が答える。こいつ、こういう所も相変わらずなようだ。

 

「では、お二方とも総武高校の卒業生なのですね。とても心強いですわ」

 

 言葉では褒めているのだろうけど、何とも感情の籠らない投げやりな物言いだ。

 

  * * *

 

 最初の授業が始まった。

 教材は、一日かけて作ったプリント二枚のみ。

 内容は試験問題である。

 まず、目の前のこいつの学力を知らなければ話にならない。

 どこが理解出来ていて、どこが解らないのか、それを見定める必要がある。

 まずは国語だ。

 漢字の読み書き問題は省き、文章読解の長文を三問置き、それぞれに三問ずつの設問を据える。

 レベルはそこそこの私立中学の入試程度。

 

 テストをすると広田裕樹に伝えたところ、

 

「えー、お前も雪乃と同じことすんの?」

 

 などとほざく。

 こいつ、仮にも先生である雪ノ下を呼び捨てかよ。

 これはーーやる気以前の問題か。

 

「ああ、まずはお前のーー」

「お前じゃねえ。裕樹だ」

「ーーお前の学力査定だ」

「だからお前じゃねぇ」

 

 家庭教師をお前呼ばわりしといて、自分は名前で呼べだと?

 そんなもん却下だ。

 

「制限時間は一時間だ。始め」

「オレはやるなんて一言も言ってねーぞ」

 

 はいはい、すげえすげえ。

 

「私語は慎め」

 

 異論反論は一切受け付けず、有無を言わさず答案用紙に向かわせる。

 それを見つつ、俺は自分が中学の時に使用していた教科書と、このガキが使っている教科書の齟齬を見つけ、認識を修正する。

 

 まともに答案用紙に向かっていたのは十五分程度だった。あとは問題を解いている振り。

 

「時間だ。筆記用具を置け」

 

 すぐさま答案用紙を回収し、眺める。

 ……。

 採点するまでもない。半分以上が空欄だ。解答欄を埋めようと足掻いた形跡も無い。

 つまりだーー

 

「ーーお前、勉強やる気ないだろ」

 

 質問の文体だが、事実上の責めである。

 やる気が無いと本人が認めれば、俺はそのまま帰り、こいつの家庭教師を断るつもりだ。

 進歩する気が無い奴には、どんな策を弄したところで進歩は無い。

 だが、こいつの答えは、俺の予想の斜め下をいっていた。

 

「は? お前ら家庭教師の教え方が悪いんじゃねーの」

 

 ほーん。自分には責任は無いという口振りだな、おい。

 親の顔が見たいぜ。よしもう一度見て来ようかな。

 だが今は目の前の案件の処理が先決だ。

 

「俺はまだ何も教えてないがな」

「うるせーな、俺は客だぞ。金払ってんだぞ。お前だって金貰うんだろ」

 

 よくネットで見かける、モンスターカスタマーの台詞だね、それ。

 

「……言いたいことはそれだけか。なら、お前の母親と話をしてくるから、俺が戻るまで自習だ」

 

 踵を返す俺の背中にガキの罵声が響く。

 

「自習かよ、手抜きだな。金返せよ」

 

 こういうのって、周りの大人がやってたのを真似してるんだろうな。

 

「ああ、一つ言い忘れた」

「な、なんだよ」

 

 振り返った俺に、広田裕樹は身を反らせる。

 俺の顔ってそんなに嫌悪感あるの?

 まあそれも今は好都合か。

 

「客はお前の親であって、お前じゃない。実際金を出しているのはお前の親だ」

 

 閉まるドアの向こうでガキが何やら喚き散らしていたが、構わず階下に行き、母親に声をかける。

 

「少々よろしいでしょうか。裕樹くんのことでお話がーー」

「あら、もう授業は終わりですの?」

 

 澄まし顔。

 

「いえ。裕樹くんの勉強に向かう態度についてお話を……」

「そんなことはどうでも良いことです。先生は、裕樹の学力さえ上げて貰えれば。最低でも総武高に受かるレベルまでに」

 

 あ、この親ダメだ。

 過程をすっ飛ばして結果だけ求めてる。

 物事は、原因と結果で成り立っていることを知らないのかい母親さん。

 

「お受け出来かねます」

 

 そう言い捨てても、母親の表情は変わらない。まるで、この結果を予測していたかのようである。

 

「あなたも裕樹を見捨てるのですね。わかりました」

 

 この親にしてあの子あり、か。

 

「とりあえず、今日は帰ります。また明後日、改めて伺います」

「……わかりました」

 

 俺はその場を辞去し、家路に着く。プリント二枚、無駄にしちまったな。

 

 一人ごちて歩き始めると、そこに雪ノ下が立っていた。

 

  * * *

 

「ちょっといいかしら」

「何だよ、雪ノ下先生」

 

 雪ノ下が帰ったのは二時間程前のはずだ。

 まさかこいつ、ずっと待ってたのか。

 何の為にだ。

 まさか。

 ーー闇討ちか?

 

「あなたも先生でしょうに。家庭教師なのだから」

 

 額を押さえて目を伏せる姿に、ある種の懐かしさを覚える。

 

「いや、俺は多分首になる。チェンジってヤツだ」

「ーーそう」

 

 今気づいたのだが、そもそもこいつが家庭教師をやってるなら、文系もまとめて教えりゃ良いんじゃないのかね。

 

「私と同じーーということね」

「は?」

 

「私も辞めるつもりよ」

 

 雪ノ下曰く。

 奴には教えを乞うという意思と意欲が全く無いと。

 おまけに年上を敬う気持ちも無い。態度もなっちゃいない。

 そもそも勉強は、誰のためにするのかを解っていない。

 

 勉強だけが全てだとは思わない。

 だが将来、もしも学力や知識が必要な夢を描いた時。

 そこでスタートラインが大きく変わるのだ。

 

 例えば、学力や学歴が必要な職業は山ほどある。

 それこそ弁護士もそのひとつだ。

 もしも培ってきた知識が役に立たなくても、勉強の方法や努力の方法が解っていれば、それだけで道が開ける場合もあるだろう。

 学力は、凡人があらゆる将来に対抗する為の武器であり保険だ。

 勉強はそれを手に入れる為の手段。

 決して勉強は目的ではない。

 

 それにあの手の輩は、取り返しがつかなくなるまで自分の失敗には気づかない。

 後悔するだけして、終了。

 

「ーー哀れね、気づいた時にはもう手遅れなのだから」

 

「ああ、全くだな。あいつは自分の成績の低さを家庭教師のせいにしている。責任転嫁もここまでくると笑えてくる」

 

「それに、あの母親ね。家庭教師を雇いながらも、子供の教育に無関心のような態度をとっているのは理解し難いわね」

 

 雪ノ下も概ね俺と同じ見解のようだ。まあこいつは自分にも他人にも厳しい奴だから、他力本願の責任転嫁ヤローは尚更許せないのかも知れない。

 

「ほう、お前と意見が合うとは思わなかった。明日は嵐か」

 

 ふわり。

 雪ノ下が微笑んでくる。

 相変わらず絵になる笑顔だ。

 

「冗談にしては笑えないわね。私が云ったのはあくまで一般的教育論での話よ。決してあなたと意見が全て一致した訳では無いわ」

 

 素直じゃないのも変わってない。安定の氷の女王だ。

 

「だが、お前もあの出来の悪い生徒から逃げ出すつもりだろうが」

 

 痛いところを突っ込まれたのか、雪ノ下はぷいと顔を背ける。

 そして次に顔を向けられた時、久しぶりのアレが始まった。

 

「勘違いしないでもらえるかしら。彼の家庭教師は元々三ヶ月の契約だったし、次回の更新はしないつもり。ただそれだけのことよ。ま、あちらも私では成績の向上が達成出来なかったのだから更新はしないはず。つまり私は任期満了での円満退職と云えるわ。初日で投げ出すあなたとは大違いね」

 

 久しぶりだな、その言葉の弾幕。

 つーか、あのガキの家庭教師を三ヶ月もやり通したっていうのかよ。

 やっぱ超人だわ、こいつ。

 だが、これであのガキに対する一つの指標が出来た。雪ノ下雪乃が三ヶ月かけても無理ならば、他の誰でも無理だろう。

 

「ああ、俺は逃げる。お前が三ヶ月教えてダメなものを、俺が何とか出来るとは思えないからな」

 

 一瞬呆然とした雪ノ下は、ふるふると頭を降る。

 びっくりしたぁ。一瞬雪ノ下がアホの子に見えた。

 あれかな。飼い主に良く似るっていう、アレかな?

 つーことは、雪ノ下の飼い主は由比ヶ浜か。

 

 しかし……今の雪ノ下の反応は解せない。

 今までに見たことが無い。

 ーーいや。

 近い表情は見たことがある。

 高校二年の時、海浜総合とのクリスマス合同イベントが難航し、奉仕部に依頼に行った時ーー。

 確かに雪ノ下はこれに近い表情をしていた。

 きっとそれは、戸惑いなのだろう。

 

 ならば、こいつは何に対して戸惑っているのだ。

 俺が幾ら考えたところで答えは出ないだろうけど。

 

「そ、そうね。彼に五教科全てで九割以上の得点を彼に取らせるのは無謀だわ」

 

 再起動を果たした雪ノ下が俯き加減で言う。

 うわ、望み高すぎ。

 あと認識甘過ぎ、あの親子。

 

「あの」

 

 背後に広田裕樹の母親が立っていた。

 そりゃそうか。ここはまだ広田家の目の前。しかも玄関の外であれだけ長いことくっちゃべってりゃ、嫌でも気がつくわな。

 

「広田さん。申し訳ありませんけれど、あなたの子供さんはーー」

「雪ノ下先生、あなたに何が分かるんですか。あの子はやれば出来る子です」

 

 親バカにも程があるんじゃないですかね、お母さん。

 

「では伺います。広田さん、あなたは裕樹くんの何が分かるんですか。今の裕樹くんに足りないものがお分かりになりますか?」

「そ、そんなの学力に決まってーー」

「お母様は、裕樹くんはやれば出来ると仰いましたね。でも現実として彼はやっていない。努力していない。さらに自分の成績の低さを他人のせいにしている」

 

 言い返す言葉が見つけられないのか、母親は悔しさを滲ませながら無言で雪ノ下を睨む。

 

「私は、裕樹くんに三ヶ月間、毎回同じ授業をして毎回同じ問題を出してきました。けれど彼はいつも同じ所で躓き、同じ箇所を間違える。つまり、何も頭に入っていない」

 

 三ヶ月間同じ授業って……粘り強いにも程があるんじゃないですかね雪ノ下さん。

 

「あ、あなた方はいいですよね。頭が良いんだから。でも裕樹だって頑張れば」

 

 はあ、駄目。ここまでくると逆にあのガキが哀れに思えてくる。

 そろそろ口を挟むか。

 

「俺の個人的見解ですがーー」

 

 母親の目がこちらを射抜く。

 恐っ。

 で、でも、負けないもん。

 サキサキ、オラに元気を分けてくれ!

 

「義務教育までは、それなりの努力で何とかなります。勿論テストで満点近くを取ろうとしたら其れ相応の努力が必要ですがね」

「あなたが教育を語るなんて、明日は雪ね」

 

 くすりと笑う雪ノ下を一瞥し、広田裕樹の母親に向き直る。

 

「広田さん。あなたは、頑張りと努力の大事さを裕樹くんに教えて来なかったようですね」

 

 母親の表情が固まる。

 

「そりゃ誰だってやる気になって自分に合う方法で頑張れば、成績くらい上がりますよ。義務教育レベルなら尚更だ。だが、あなたが今するべきことは家庭教師をつけることじゃない。まずは努力の意味を教えることです」

「だ、大学生風情がーー」

 

 広田さんが目を剥く。

 そりゃ頭にくるだろう。

 弁護士様の奥様にとっては、大学生なんかに意見されたくは無いだろう。だが、大学生には大学生の意地がある。

 第一志望の大学入試を突破したという、ちっぽけな自信がある。

 

「ええ、たかが大学生ですよ。でもその、たかが大学生になる為に積み重ねてきた努力をあなたはしっかりと想像できていますか」

 

 雪ノ下が目を見開いて俺を見る。

 今の言葉は、高校二年時にクッキーを作りたいという由比ヶ浜の相談時に雪ノ下が言い放った言葉の丸パクリだ。

 悪いね、無断でパクっちゃって。

 

 母親と俺が睨み合う中、その視線の火花のど真ん中に雪ノ下が割って入る。

 

「お母様、私に一日だけ、裕樹くんを預けて頂けないでしょうか。最後の授業を彼にしたいのですが」

 

 母親は無言で雪ノ下を見つめる。

 

「……いいでしょう。どうせ最後です。好きにしてください」

 

 さすがだな元部長。

 雪ノ下のお陰で着地点を見出せたのだから、対したものだ。

 

「じゃ、ま、頑張ってくれ」

 

 背中を向けて歩き出す俺に降りかかるは、懐かしくもある無情の響き。

 

「あなたは強制参加よ、比企谷くん」

 

 はあ、メンドクセー。

 

 




お読みいただきありがとうございます。

他力本願、責任転嫁の甘ったれ生徒と、面倒な母親。
そして、相変わらずの雪ノ下雪乃。
これから八幡は面倒なことに巻き込まれそうです。

あ、サキサキ登場させるの忘れてた。

次回はいっぱいサキサキ出そうっと。
さて……展開を考えなきゃ。

明日からの連休中の更新は、勝手ながらお休みさせて頂きます。
予めご了承くださいませ。

引き続き、感想や批評、評価などお待ちしております。
ではまた次回もよろしくお願いします!


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彼女はデリケート

思わぬ場所で再会した雪ノ下雪乃と比企谷八幡。
その偶然の再会を知った時、川崎沙希は。比企谷八幡は何を思うのか。


 音量を絞ったカーラジオから深夜零時の時報が聞こえた。

 この時間になると、さすがにパーキングエリアに止まる車は少ない。

 

 エアコンの吹出し口、飾り気の無いドリンクホルダーには、レモンティーとマッカンが仲良く並んで汗を垂らしている。

 エンジンのアイドリング音に混じって微かに聞こえるのは、カーラジオから流れ始めたジャズっぽいスローテンポの洋楽。その甘美な音色は、まるで人々を眠りの闇に誘い込もうとしているようだ。

 生憎、俺の心は眠るどころかドキドキマウンテン。意味は気にしないでくれ。

 

 語りかけるように小さく響くサキソフォンの音色が沈黙を静かに埋めていく。

 心が緩んでいく。きっと名曲を名プレイヤーが演奏しているのだろう。

 こういう時って、ラジオ局のホームページで流れてる曲のタイトルとか調べられるんだっけ。

 詮無い思考を手繰っていると、川崎の手が俺の手の甲に重ねられる。

 おお……ちょっと冷んやりして気持ちいい。思わず息が漏れてしまう。

 

「あんた……やっぱりかなり疲れてるみたいだね」

「そうか?」

「うん、普段よりもかなり目が沈んでる」

 

 ほほう。俺の目の状態を「腐ってる」以外の言葉で表されたのは久方振りかも知れない。

 そういえば川崎って、俺に対して文句や叱る言葉は言うけど、悪口は言わないよな。

 悪口や暴言の類など普段は気にも留めないのだが、案外川崎のこういう処に惹かれているのかもしれない。

 

「そんなに厄介な生徒だったの?」

 

 ふむ。やはりそうだ。

 こいつは俺に気を配ってくれている。決して押し付けではなく、風鈴を揺らす涼風のような柔らかさの気配り。

 

 今夜ここに来たのも川崎の一言からだった。

 家庭教師のバイトの後。

 いつもの公園で待ち合わせした。川崎は俺を見るなり付き合い始めて以来の疲れ顔と腐れ目に爆笑したあと「気分転換になるかも」と、家から一番近い京葉道路の幕張パーキングエリアに連れてきてくれたのだ。

 

 結果は、川崎の云う通りだった。

 有料道路に入るだけでちょっとした旅の雰囲気を味わえるし、車窓を流れる見慣れない景色はガラリと気分を変えてくれた。

 何より、こういう何気ない川崎の心遣いが有難く、嬉しい。

 こういうことがある度に、川崎と再会出来て本当に良かったと思う。

 きっと以前の俺ならば、この手の親切すらも「押し付け」のひと言で片づけていただろうけど。

 とにかくだ。

 川崎と過ごしていると、心が程よい緊張感を保ちながらもどんどん弛緩してゆくのだ。

 心が緩むと、口も緩んでしまう。

 

「ああ、あの生徒は多分ダメだろうな」

「へえー、あんたがそういうこと云うの、珍しいよね。どんな風に駄目なのさ」

「まず本人にやる気が無い。母親は努力の過程をすっ飛ばして結果だけを求めていて、家庭教師を付けりゃ勝手に成績が上がるものだと思ってる」

 

 純度百パーセントの俺の愚痴に、川崎は嫌な顔ひとつせず応えてくれる。

 

「うわぁ……初めての生徒がそんな奴なのか。そりゃ災難だね」

 

 川崎は俺の手を撫でながら、憐れみ混じりの溜息を吐いて苦笑する。

 

「大変というか、策も手段も思いつかない感じだな」

 

 本当にもう、お手上げ状態。

 幾ら教える側が頑張ろうと、生徒本人にその気が無ければ良い結果なんて出る訳がない。

 高校在学中、受験勉強の際に雪ノ下も由比ヶ浜の理解力の乏しさに度々頭を抱えていたけれど、あれは本人にやる気があったから何とか結果と繋がった。

 やる気を出させるのも教える側の義務だと云う輩もいるが、それは生徒本人と周囲の家族の仕事だ。

 

「あんたってさ、そういう面倒な奴を引き寄せる何かがあるんじゃないの」

 

 えっ、俺って変人処理係なの?

 河合荘の面倒な面々に次々とツッコミを入れなきゃならんの?

 俺は宇佐くんじゃねーってば。

 第一、Mっ気たっぷりの同居人は存在しないし、面倒な巨乳のお姉さまは……知り合いに二人ほどいるな。しかも一人はまんま行き遅れ。

 でもそれ以外に変人は、ひい、ふう、みい……うわ、変人ばっかじゃねえかよ俺の知り合いって。

 あ、一番面倒なのは俺自身でしたね。

 はちまんったら、自分のこと棚に上げすぎちゃった。

 さあ棚卸しの時間ですよ。

 

「ま、類は友を呼ぶ、ってヤツなのかもな」

 

 けらけらと川崎が笑う。何それ、俺に呼ぶような友はいないだろうっていう笑いなの?

 い、いるもんっ、戸塚とか彩加とか、あと戸塚彩加とか。

 

「で、この後も続けるの? その子の家庭教師」

 

 川崎の手がドリンクホルダーに伸びる。

 

「たぶん辞める。雪ノ下でも無理なものを俺にどうこう出来る道理が無い」

「……え」

 

 レモンティーを手に取った川崎の動きが止まる。

 

「ゆ、雪ノ下と……会ったの?」

 

 ドリンクホルダーのマッカンから雫がぽたりと落ちた。

 

  * * *

 

「う〜」

 

 カーラジオは相変わらずスローな洋楽を流し続けている。

 だが、今の車内に先程までの様な心地良さは無い。

 隣に奇行に走ってる奴がいるからね。

 

「う〜」

 

 時々微かに唸り声を洩らしながら、川崎は額をハンドルにぐりぐりと押し当てている。

 何それ。変だけどちょっと可愛い。

 いやいや今は、川崎の可愛いトコはっけーん、とかやってる場合じゃない。

 

「……う〜」

 

 この凝り固まった重い空気を打破しなければ。

 だが、何をどうすれば矛を納めてくれるか見当もつかずに、かれこれ五分ほど項垂れた川崎を見ているだけ。

 自分の経験不足が恨めしい。

 今の手持ちのスキルでは川崎の感情の正体が掴めない。

 

 困り果てて頭をがしがしと掻くと、川崎のハンドルぐりぐりがピタリと停止する。

 ……ああ。

 沈黙って、こんなに苦しかったんだな。新発見。

 てな場合じゃ無い。

 

 

「……ふうん。で、あんたは雪ノ下との久々の再会で鼻の下を伸ばしてたと」

 

 額をハンドルに押し付けたままで川崎が嫌味ったらしく呟く。

 おいおい、随分と棘のある言い方だな。もし俺が喜んでるとしたら、もっと不気味に笑うだろうが。

 だがこれではっきりした。原因は雪ノ下と再会したことだ。

 

「別にそんなんじゃねぇよ」

「ふんっ、どうだかね。雪ノ下に会ったのだって隠してたし」

 

 こいつ、やけに突っかかってくるな。

 

「隠してた訳じゃねえよ。たまたま云うタイミングが無かっただけだ」

「よく云うよ。じゃあ何でもっと早く云わなかったのさ」

 

 あれ、これって。

 

「お前、もしかして怒ってるのか」

「……怒ってる訳じゃないよ。ただ機嫌が悪いだけ」

 

 噂に聞いた「焼きモチ」ってやつだ。

 

「それを怒ってるって云うんじゃねぇか」

「だからっ、怒ってないってば!」

 

 うわぁ、おこだよ。激おこだよ川崎さん。

 はあ……もう。

 再びがしがしと頭を掻いて息を吐く。

 

「……悪かった」

「何で謝るのさ。何も悪いことしてないんでしょ、あんたは」

 

 うわ、こいつメンドクセー。今ので終わりにしとけよ。謝ってるんだから。

 

「そりゃそうだけどよ」

「じゃあ謝る必要なんてないんじゃないの。それとも、何か後ろめたいことでもあるの?」

 

 売り言葉に買い言葉。

 何でこうなった。

 云うまでもなく俺が不用意に雪ノ下の名前を出したのが原因だろうけど。

 しかし困る反面、少々嬉しくもある。嫉妬するくらいに俺を想ってくれていると感じてしまうのは……自惚れかな。

 川崎を見る。川崎は顔を逸らす。

 さらに覗き込む。さらに顔を逸らす。

 うーむ。

 なんだろう、悪くない。

 悪くないどころか、ニヤニヤしてしまいそうだ。

 怒らせてニヤニヤ。不謹慎ですよね、はい。

 

「悪かった」

 

 こみ上げる不謹慎な喜びを隠すように口を真一文字に閉じ、川崎に対して深く頭を下げる。

 

「まだ謝るの? 何に対して?」

「え、あ……」

 

 即答出来なかった。

 雪ノ下とは偶然再会しただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 若干雪ノ下には俺への害意があったような気もするが、云うなればそれはあいつの通常仕様だ。

 勿論俺に後ろめたくなる様な心当たりは一切無い。だからこそ不用意に雪ノ下の名を出してしまった。

 

 ならばである。果たして俺は何に対して謝っているのか。

 川崎が怒っているから。当然それもある。

 だが、その裏に隠れた本当の理由を考える。

 ーーあれ、もしかしたら。

 

「……俺ってもしかしたら、自分が思ってるよりも川崎が好き、なのか?」

 

 迂闊に呟いてしまった思考の声。

 その瞬間、川崎沙希が固まった。それどころか耳まで真っ赤になっていた。

 やばい、失言だったか。

 空気が緩み、川崎が笑い出す。

 

「……な、何それっ」

「う、うるせぇ。ただの独り言だ」

 

 急に気恥ずかしくなって顔を背ける。

 背けた頬に冷んやりとした体温を感じる。

 目を向けると、俺の頬に手を伸ばした川崎の微笑みがある。

 その手の先、親指と人差し指が柔らかく俺の頬を摘まむ。そしてーー。

 

「……いででっ」

「今回はこれで許したげる」

 

 何をだよ。訳がわからん。

 頬を摩りながら憮然と川崎を見据える。

 目が合うと川崎は薄っすら微笑み、身体を寄せてきて俺の右肩に頭を乗せる。ここ数日の川崎のセツトポジションである。

 これで初めてのケンカはめでたく終了、なのだろう。

 川崎が姿勢を微調整する度に、後れ毛が頬に触れる。

 それが妙にくすぐったくて心地良い。

 だけどもう一歩、いや半歩でも近づきたい。

 

「な、なあ川崎さんや」

「なぁに比企谷さん」

 

 けふん、と、川崎に振動が伝わらない程度の咳払いをひとつ。

 

「その、ちょっとだけ……肩を抱いてもよろしいでしょうか」

 

 川崎の喉が鳴った。

 

「……っくっく」

「な、なんだよ」

「あっはっはっは……悪い悪い……ぷっ」

 

 俺の肩に頭を乗せたままの川崎は、長い足をバタバタさせて笑い出した。

 その足がたまにアクセルに当たって、無意味にエンジンの回転数が上がる。

 アイドリングストップ。大事だね。

 

「えーと、笑うほど可笑しなことを云ったか?」

「いや、そうじゃないけどさ。あんたムードって言葉、知ってる?」

 

 ふむ。知らない子ですね。

 

「あんたさ。キスの時は何も聞かないクセに、肩を抱く時には許可を求めるんだねぇ」

 

 にやりと笑う川崎に指摘されて気づく。

 そういえばそうか。でも仕方ないじゃんか。

 最初の肉体的接触が、その……く、口唇どうしだったんですもの。

 きゃっ、云わせないでよっ。

 

「ーー慣れてないんだよ。経験無いし」

 

 まさかの俺DT宣言。

 うわぁー、俺カッコわりぃ。

 

 オブラート並みに薄っぺらな俺の経験を紐解くに、俺が積極的に肉体的接触を試みた相手には間違いなく避けられてきた。

 何なら手に引っ掻き傷すら刻まれた。

 ふっ、とんだじゃじゃ馬だったぜ。

 ちなみに相手は猫のカマクラだ。

 

「あたしも経験無いから良く知らないけどさ、そういうのは許可とか要らないんじゃないの?」

「そ、そういうもんか」

 

 でもでもぉ、無許可って恐いじゃないですかぁ。

 通報とか逮捕とか起訴とか。

 

「だいたいさ、いちいち許可を求めてたら、あんた最初の時あたしにキスなんて絶対許可しなかっただろ?」

「まあな。ATフィールド全開で断固拒否してただろうな。俺だし」

 

 さすが川崎さん。ぼっちの気持ちを解っていらっしゃる。

 しかし、最初の時はそれを見越してあんなに強引に迫ってきたのか。

 川崎沙希、恐ろしい子だこと。

 

「うん、だろうね。だからさ、あんたも何も云わなくていい。あんたのしたいようにすればいいよ」

「し、しかしだな」

 

 そうは申されましても、当方と致しましては確認の為にですねーー。

 

「あーもう、焦ったい。じゃ、一度だけ云うよ」

 

 え。あ。

 は、はい。内容の確認と許可の件でしたね。

 伺いましょう。

 

「あたしは、あんたのもの。だから肩を抱くなり何なり……好きにしな」

 

 さすが恐ろしい子、川崎沙希。

 やはりこいつには敵わない。

 まあ許可されたところで、当方には実行する度胸は無いんですけどね。

 でもちょっとだけ失礼をばーー。

 

 恐る恐る、川崎の背中を触らないように肩に手を回す。

 そのままくいっと引き寄せると、川崎の頭が俺の鎖骨辺りに落ちた。

 

 ーー!

 

 ムッハー。

 超柔らけーサキサキ。

 くんかくんか。はあー、髪とか超良い匂いだし。

 うわ、耳ちっちゃい。

 そういえば耳のカタチって、あそこのーー

 

 ーーって、まるっきり変態だな俺。

 さあ、そろそろ落ち着け俺。

 

「ねえ」

 

 見上げてくる川崎と、至近距離で視線がぶつかる。それを合図に、暗黙の了解のように口唇が触れる。

 確かに川崎の云う通りだ。キスに言葉は要らない。

 

 一秒、二秒。

 

 口唇を離した川崎はさっきよりも深く、俺の鎖骨辺りに頭を戻してしな垂れかかり、頭をぐりぐりと押し当ててくる。

 

 ふと気がつく。

 気のせいか、川崎の吐息が強い。

 

「ねえ……抱いて」

 

 気のせいじゃなかった。

 

 直後、示し合わせた様に、運転席と助手席のシートが後ろに倒された。

 

 お父様、お母様、小町、

 おやすみなさいーー。

 




お読みいただき、誠にありがとうございます。

この物語を書き進めるたびに、川崎沙希には幸せになって欲しいなぁ、と切望してしまいます。
何なら私が直接この手で幸せにしたい!

まあ、ラストは決めてあるので結果は解ってしまっているのですが。

引き続き感想や批評、評価をお待ちしております。
お暇でしたらまた次回。


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朝の邂逅

パーキングエリアの駐車場で一夜を明かした比企谷八幡と川崎沙希。

その二人を待ち受ける人物とは……。


 

 柔らかい朝を迎えた。

 別に比喩的表現ではない。物理的に柔らかい目覚めだった。

 

 二匹のキングスライムが顔面に交互に体当たりしてくる、という珍妙な夢から覚めたのは五分ほど前だ。

 何だか珍妙な夢を見たな、と微睡みの中でぼんやり動かした俺の手には 、柔らかい何かが触れた。

 はてな?

 まだ焦点の合わない目を開いて手の先を見つめる。

 

 ーー!

 

 やばいやばい柔らかいやばい。

 

「……焦ったぁ」

 

 ……ふう。

 触ってたのが二の腕で良かった。

 もし例のアレ(スライム二匹)なんかに触れようものなら、ラッキースケベなんて言葉じゃ済まされない。

 R指定の警告タグが必要になるピンチを切り抜けた賢者、比企谷八幡とは俺のことである。

 

 規則正しい寝息が聞こえてくる。まだ川崎は夢の中らしい。

 寝息とともに、ふるんと川崎の口唇が微かに揺れて震えた。

 それが右目の下の泣きぼくろと相俟って、何とも可愛いらしく扇情的である。

 再び口唇がふるんと振動する。

 柔らかそう。いや実際すごく柔らかいのだが。

 思わずじっと見てしまう。

 うわぁ、超吸いたい。

 ショートパンツから伸びる程よい肉付きの足も触りた……。

 げふんげふん。

 これじゃまた煩悩を鎮圧せねばならなくなる。

 こうなったら敵前逃亡、個室にGO! だ。

 

 隣に眠る川崎を起こさないように助手席のドアを開けて車を降りる。

 そこからダッシュ。

 土曜の朝だからなのか、辺りを見渡しても数台の影があるのみである。

 まずはトイレの個室に駆け込んで、三分少々で賢者の心を手に入れる。

 こら、早いとか云うな。せめて若いと云え。

 ちなみに違うぞ。してないぞ。

 

 充分に手を洗った後、施設内にある二十四時営業のファーストフード店で二人分のセットメニューを購入し、川崎の眠る車に足を返す。

 シャンパンピンクの川崎の車の側まで近づくと、車内で女の子がポニーテールを振り回しながら、キョロキョロしていた。

 その姿があまりにも滑稽で、苦笑しつつ助手席のドアを開ける。

 

「よう、起きたか」

 

 フルフラットに整えたシートの上、胡座をかいている川崎に声を掛けると、少々ご立腹のご様子で口を尖らせて睨んでくる。

 こいつって寝起き悪いのかな。

 それとも昨日の件が尾を引いているのか。

 

「ーーどこ行ってたのさ」

 

 違った。目が覚めたら俺が居なかったことが不満だったらしい。

 何この可愛い生き物(カウント開始)。

 

「ん? ああ、ちょっと朝メシをな。ほれ」

 

 う、嘘じゃないよ?

 ほら、ちゃんとご飯買ってきたもん。手も念入りに洗ったもん。

 もう匂いなんてしないもんっ!

 

 刹那の愚考の後、紙袋をひとつ置く。まだ寝ぼけているのか、目の前の紙袋をぽやぁっと眺めて小首を傾げる。

 何この可愛い生き物(本日早くも二回め)。

 その仕草の可愛さにあっさり負けて、紙袋を見つめたままの川崎を抱き寄せる。

 

「あんっ」

 

 寝汗をかいたのか、Tシャツの背中は少しだけ湿っていた。そういえば起きた時はエンジン止まってたな。

 抱きしめる間、しばらくは「う〜」と唸りながら睨んでいたが、手櫛を梳かすように髪を撫でると、たちまち川崎から力が抜けて、ふにゃんと崩れた。

 

「……おはよ、比企谷」

 

 微睡みながらも笑顔を向けてくれる。

 川崎の機嫌は直ったようで、四つん這いで抱きついてきたと思ったら俺の肩にくにくにと鼻を押し付ける。

 すうーっと、川崎の鼻孔から息を吸う音が聞こえる。

 え、臭うのかな。

 汗かな。汗だよな。

 

「……んーふ、んーんー、くぅ」

 

 息を吸い込んでは鼻をむにむに。

 さては気に入ったな、それ。

 

「へんな夢みた……」

 

 どくん。心臓が踊る。

 

「ど、どんな夢だったんだ?」

「んー、えっちな夢」

 

 びくん。心臓がランバダを踊り始める。

 

「んーとね、比企谷がね……言えない」

 

 へ、へえー、夢の中で云えないことをされちゃった訳ですね。

 そしてそれを俺に云っちゃうんですね。

 

「そ、そうか。夢の中とは云え、すまなかったな」

 

 寝起きの柔らかさが記憶にあるだけに、割と本気の謝罪である。

 

「ううん、いいよぉ、幸せだったし」

 

 川崎はまだ完全に開かない目を向けて、にへらっと笑う。

 え……何この可愛い生き物(なんと本日三回め)。

 寝起きの川崎って、こんなふにゃふにゃなのん?

 普段は目つきも鋭くしっかりしている川崎が、寝起きはこんなに甘ったるい声を出して抱きついてきて甘えるなどと、誰が予測出来ようか。

 俺じゃ無かったら、もうきゅいきゅいして、むいんむいんして、更にばいんばいんしかねない。

 うん。わかんない。

 

 まだぽやぁっとしている川崎にあらためて朝食の紙袋を見せる。

 

「寝起きだけど、食べるか?」

「うん、食べる。でも……も少し嗅ぐ」

 

 か、嗅ぐ!?

 ……やっぱ臭いんかな。かなり寝汗かいたっぽいし。

 つーか、さーちゃんてば長女の威厳ゼロよ。いいの?

 それでいいの?

 俺はいいけどね。可愛いから。

 

「比企谷のにおい、落ち着くぅ……」

 

 うーむ。どう返すのが正解だ。

 教えて! へるぷみー!

 ……。

 あかん、やっぱ祈っただけじゃ誰も答えてくれん。

 仕方ない、とりあえず懸念材料の確認だけしておくか。

 

「く、くさくないか?」

 

 川崎の動きが止まる。

 くんくん。すんすん。

 くんかくんか。

 首筋を中心に、いろんな箇所の臭いを嗅がれる。

 やめて、恥ずかしいから……あんっ。

 川崎の顔が脇で止まる。

 

「んー、ちょっとくちゃい」

 

 き、来たああああ!

 デレた。サキサキがデレたああああ!

 くちゃいって。サキサキがくちゃいってえええ!?

 何この超可愛い生き物(驚愕の本日四回め)。

 

 でも、やっぱし臭いんだ。八幡がっくし。

 

「でも好きぃー」

 

 ……うん。だからね。

 何でこの子ったらそういうことをサラッと言っちゃうかなぁ。

 あ、臭いの話でしたね。

 失礼。

 

「ほら、マフィン冷めるぞ」

 

 俺の体臭(決してイカの臭いではない)を堪能し終えた川崎は、フルフラットのシートの上でちょこんと胡座をかいて俺の動作を見ている。

 

 安心して欲しい。

 川崎のショートパンツの奥なんて見えていない。黒のレース好きだなとか思ってない。

 その薄布の下を拝見したいなんて思わない。

 思わないったら思わない!

 ラッキースケベ万歳っ!

 

 二人の間に敷物代わりに紙袋を敷いて、飲み物を置こうとする。

 それを虚ろな目で見つめる川崎の頭は揺れている。

 ダメだ。まだ寝ぼけている川崎が倒して零すかも知れん。

 ハプニングは再度のラッキースケベに繋がる危険性がある。液体が絡むのなら尚更だ。

 うっかり川崎の胸元なんかに零れたら、零れたら……Tシャツの奥の下着が透けてさぞかし眼福だろうーーいや違うってば。

 さっさと気持ちを切り替えて周囲を見回す。

 お、前列シートの真ん中に備え付けのドリンクホルダーらしき箇所を発見!

 ホルダーにドリンクの紙コップを挿入して、川崎の分のマフィンの包装紙を開く。

 

「ほれ、メシだそ」

「……んー」

 

 半分ほど露出したマフィンをぽんやりと見て、それから俺を見て。

 

 口を開けた。

 

 ーーは?

 

「はやく、はやくぅ」

 

 何だろ、川崎が餌付けを待つひな鳥みたいに口をぱくぱくしてる。

 どうしたらよいかわからないですボク。

 

 だが。それは昨日までの俺ならば、である。

 幸い今の俺には先程のラッキースケベを乗り越えた自負と、トイレの個室で入手した(してないよ?)賢者モードがある。

 まさに俺はエンシェントドラゴン並の叡智と強さを手に入れたのだ。

 ふむ。負ける気がしないぜ。

 俺はピーカーブースタイルで右手のマフィンを構えて、脇を締めて右ストレートを打つ要領で……川崎の口にイン。

 

「あぐっ、んっ、んむ」

 

 マフィンをひと口頬張った川崎はむぐむぐと顎を動かした後、こくんと飲み込む。

 

「……おいちぃ」

 

 ぐはぁっ!?

 哀れ、八幡くんのライフはゼロになりましたとさ。

 

  * * *

 

 土曜の朝とはいえ、六時半ともなるとさすがに周囲に車が増えてくる。

 寝ぼけモードが終了した川崎はパーキングエリア内に洗顔に行っている。

 その隙にスマホを開き、現在は我が妹小町への朝帰りの言い訳メールの文言を考えている最中である。

 中々うまい言い訳が浮かばないまま、スマホの画面が一段階暗くなる。

 

「……なにしてんの?」

 

 運転席を開けたのは、洗顔してポニーテールを結い直し、バッチリ目覚めて完全復活を遂げたクールビューティな川崎さん。

 その凛々しいお姿、すっかり通常運転のようです。

 

「ん? ああ、小町へ朝帰りの言い訳をな」

「ふーん」

 

 全然言い訳が思いつかずにスマホを持て余していると、すいと手の中からスマホが抜かれる。

 

「あたしに任せな」

 

 男らしいですね、ニヤリと笑う川崎さん。

 今のあなたに先程までの寝ぼけたあなたを見せてあげたいですよ。

 マジでマジで。

 

「ーーあ、もしもし。大志の姉だけど……うん、おはよう」

 

 こいつ……小町に電話しやがった。メールで充分なのに。

 

『う、うぇい!?』

 

 寝起きなのか、電話の向こうから小町の素っ頓狂な叫びが漏れ聞こえる。と同時に、どたどたと走り回るような音も聞こえてくる。

 

「お兄さんは預かってるから安心して。あとで届けるから」

 

『は、はいっ。何ならそのまま貰って頂いてもーー』

 

 川崎からスマホを奪い返す。

 

「ちょっと小町ちゃん。聞こえてるわよ」

 

『お兄ちゃん良かったね。夢じゃない、嘘じゃないんだね……』

 

 こいつ、ずっと疑ってたのかよ。

 つーか泣くなよ。

 まあ気持ちはわかる。何なら俺自身がこの状況を一番信じられないまである。

 人呼んで、八万年に一度の奇跡。

 

『さ、沙希さんに代わって』

 

 上ずった声で小町が叫ぶ。一応早朝だかんね? 大きな声は近所迷惑だかんね?

 

「ん、ああ。沙希、小町が代われって」

 

 ーーん?

 どした?

 

「さ、沙希って呼ばれた……」

 

 え。気のせいじゃないですかね真っ赤な川崎さん。

 

『ぶえぇ!? お兄ちゃんが女の子を名前で呼んでるですとー!?』

 

 ったく、いちいちうるせぇ妹だな。

 でも愛してる。

 

「あー、そういう訳で、もうすぐ帰る。メシはいらんから」

 

  * * *

 

 朝の七時ちょい過ぎ。見慣れた住宅街の奥に実家が見えてきた。

 

「あ、ここら辺でいいぞ。もう近所だし」

「いいよ、家まで行く。というか……家、教えて」

 

 へ、へえー、そんなに家を知りたいですか。ならば教えて進ぜよう。

 あ、そこ右に右折ね。

 

「ーーへえ、ここで育ったんだね」

「ああ、小町が育った街だ」

「……あんたもでしょ」

 

 車内の会話も軽やかに、車は一路、比企谷家を目指す。と言っても既に見えてますけど。

 実家の前で川崎の運転する車は停止して、ハザードランプが灯される。

 お別れの挨拶の時間だ。

 

「…………」

「…………」

 

 こういう時って、じゃあねーとか、またね! とか云えばいいんだろうけど、それが中々出てこない。

 で、絞り出した台詞は。

 

「……ちょっと寄るか?」

 

 当然、何の準備も心構えもしていない川崎はやんわりと断る訳で。

 

「む、無理! ぜったい無理だから!」

 

 ……うん。全力で拒否された。ちょっと寂しい。

 

「そ、そうか。じゃあ、な」

 

 言い残して助手席から降りようとした時、玄関のドアの奥から目を光らせたあざとい妹が飛び出してきた。

 

「おっかえり、お兄ちゃん! あれあれぇ、沙希さんも一緒なんだぁ。もしかして、もしかした?」

「どうもしねぇよ。送ってもらっただけだ」

 

 頬を染めながらもニヤニヤを俺に向けるな。

 腰をくねくねさせるなっ。

 

「沙希さん沙希さんっ」

 

 で、帰宅早々玄関先で流れるように立ち話を始めるのは何故なんでしょうかねぇ小町ちゃん。

 

「どこまでいったんですか、沙希さんっ」

「う、海の方まで……」

「きゃー、初々しい沙希さんもグーッド!」

 

 川崎が困惑し、小町がテンションを爆上げする背後。

 少しだけ開いた玄関の扉の隙間に光る怪しい視線。

 さすがは母子。目の光らせ方までそっくりだ。

 

「ーーで、なんで母ちゃんは玄関で覗いてるの? 会社行かないの?」

 

 ジト目で見つめていると、扉の隙間から母親が顔を出す。

 

「い、いや、八幡に彼女が出来たって聞いて、どんなエア彼女かなーって」

 

 ちょっと母ちゃん。ちゃんと実在してますよ。

 エア友達のともちゃんとは違いますよ。

 

「で、なんでいるの?」

 

 母親は小町の横に出てきて川崎に愛想を振りまいている。それに気づいた川崎は、慌てて直立不動の姿勢をとる。

 つま先ぴーん、背筋しゃきーん、である。

 

「なんでって、八幡が来るのを待ってたんじゃないの」

「いやそんなこと頼んでないから。会社に遅刻するぞ」

「会社は遅れても大丈夫。どうせもう遅刻だしね」

 

 さいですか。

 遅刻確定で開き直ったパターンですか。

 

「で、沙希さんね。初めまして、八幡の母です。愚息がいつもお世話になってーー」

 

 愚息って何さ。確かに俺は愚か者だけどさ。

 なんかちょっと響きがエロいんだよね。

 

「い、いいえ、お、母様、こち、らこそ。お世話に、なって、お、ります」

 

 なんだそれ。句点多いな。成田に降りて三日目かよ。それにしちゃ日本語上手いな。

 

 珍しくガチガチに緊張した川崎は背筋を伸ばして膝を揃え、まるで企業相手の面接のような固さの作り笑顔を貼り付けている。

 そんな川崎をニヤニヤしつつ観察する比企谷母。

 つまり母ちゃん。

 

「あらぁ、本当に綺麗な子ねえ。八幡には勿体ないくらい。沙希さんはあれなの? お料理とかは得意なの?」

 

 うぜえ。母親がうぜえ。

 今まで彼女を家に連れて来なくて正解だったぜ。

 何なら彼女を作らなかったこと自体が正解だ。

 作れなかったのではない。作らなかったのだ。

 ち、チャンスらしきものはあったもん……一応。

 

「は、はいっ、たまに家の手伝いを、して、おります、ので、多少の心得は」

 

 うわぁ、息継ぎ大変そうねサキサキ。

 しゃーない。ちょっとだけ助け舟を出すか。

 

「あれで多少かよ。めちゃくちゃ料理うまいじゃねぇかよ、お前」

 

 母親と小町が顔を見合わせてキョトンとしている。

 

「い、いいんだよ。こういうのは控え目に云っとくもんなんだよ」

 

 母親と小町が、今度はニヤニヤしながら顔を見合わせる。

 

 そういうものなのか。如何せん経験が無いから分からん。

 だが、俺の母親が現れたことによって多少予定の変更が必要なことだけは解る。

 

「ほーん、まあいいや。とりあえず上がれば? 俺はちょっと着替えるから」

 

 母親、川崎、小町の順で家に入るのを見届けてから家に上がる。

 勝手知ったる台所の戸棚を開けて物色し、母ちゃんがお客さん用に買ってあった和菓子をくすねる。

 麦茶を入れてリビングに戻り、ソファーの前のテーブルに和菓子をーー。

 

「ーー母ちゃん、何してんの?」

「いや、ちょっと若い肌を」

 

 川崎の左に移動した母親が、川崎の二の腕を揉んでいた。

 うわ、柔らかそう。

 視線を右にスライドする。

 

「ふーん。で、小町は何してんの」

 

 小町は、川崎の首筋の匂いを嗅いでいた。

 

「いや、ちょっと大人の香りを……あれ、お兄ちゃんの匂いもする。不思議だねーなんでだろうね」

「な、な、な……」

 

 川崎が涙目で俺を見つめてくる。SOSか。

 

「ま、何でもいいけど、あんま虐めんなよ。そいつ意外と繊細だからな」

「は、八幡が女の子に気を遣っているなんて……母さん嬉しいよ」

「お兄ちゃん、小町は涙でポイントが見えないよぉ……」

 

 そんなもん元々見えてません。そもそもお前のポイントって、高い、低い、超高いくらいしか無いだろ。

 そして泣くな母ちゃん。恥ずかしいから。

 

「うるせぇよ……あ、着替えたらまたちょっと出かけるから。川崎、ちょっと時間くれ」

 

「あら、また出かけるの? ヒッキー確定だった八幡が率先してお出掛けなんて、あたし夢を見てるんじゃないのかしら」

 

 おいえらい言い様だな実の母。

 

「ヒッキーって云うな。そんな訳で、もう少し付き合ってくれ、川崎」

「あ、う、うん」

 

 目的地は決めたが、まだ内緒だ。

 

「あ、忘れてた。お兄ちゃん、今日クルマ持ってきてくれるらしいよ」

 

 ほほう、ようやくか。

 

 

 




今回もお読みいただきまして、ありがとうございます。
そして感想や評価を頂いた方々、本当にありがとうございます。

恋愛に試練は付き物。
ということで、比企谷母と川崎沙希のご対面でした。
こういう不意打ちってすごく困っちゃう(妄想)

今回は前半部分で遊び過ぎました。反省です。
てか、これってR15タグつけるべきでしょうか……。
一応直接的な行為や言葉は避けて、ソフトに書いたつもりなのですが。

本当は、寝起きの八幡が二匹のスライムに挟まれたり、たゆんぽよんしたり、ばいんばいんしたり……
そういうことも書きたかったのですが、書く勇気が無かったっす。

その辺も含め、引き続き感想や批評など、お待ち申し上げております。
あと、もしアレなら評価のほうもしていただけると。

ではまた次回もよろしくお願いします。


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朝の邂逅 その二

どこの小町の策略か、うっかり比企谷母と遭遇してしまった川崎沙希。
小町、比企谷母によるWゆるゆり攻撃という試練を乗り越えた二人を次に待ち受けるのは。



 

「勘弁してよぉ」

 

 俺の実家を出た直後、涙目の川崎沙希の呟きである。

 

「あんたのお母様に会うなんて聞いて無かったよぉ……あー、こんなことならちゃんと化粧しとくんだった。せめて襟付きの服をーー」

 

 思い掛けず展開された川崎沙希と比企谷母、小町の早朝ゆるゆりを肉親に対する二発の脳天チョップで強制終了させた後、俺は再び川崎の車に乗せてもらっている。

 

「いや、本当に悪かった」

「……別にいいけどね。いずれご挨拶しなきゃとは思ってたから。でも不意打ちは無いよぉ」

 

 そうだよな。川崎の云う通りだよな。

 母ちゃんには後できっちり云っておくからな。

 勘弁してくださいって。

 

 車窓に流れる朝の街並みを眺める。

 気のせいだろうか、昨日までの景色とは少しだけ違って見える。

 土曜日の朝だからか道行く人は少ないし、道路も空いているせいなのだろうか。

 いつか聞いた言葉を思い出す。

『人がつまらないのって、案外見る側の問題なのかも』

 一昨年、中学時代のトラウマ発生源である元同級生女子が云った台詞である。

 きっと人だけでなく景色も同様なのだろう。

 

 例えば夕焼け。

 人は、茜色に染まる夕景に様々な感情を当て嵌める。

 或る人は望郷の念を抱き、或る人は失恋の痛みを思い出す。はたまた青春の二文字を想起させたり、寂しさを感じたり。

 或いは過去を懐かしんだり、果ては深い意味も無く感傷に浸ったり。

 夕焼けひとつ取っても、見る側の思いが多種多様に投影されるのだ。

 ならば。

 今、川崎の車に揺られて育った街を眺めている俺は、この朝の見慣れた景色に何を思い、重ねているのだろう。

 余談だった。

 

 ふと気になって尋ねる。

 

「そういえば、川崎の家は大丈夫なのか?」

「あ、うん。京華は夏休みだし。土曜日だから母親がいるし、大丈夫」

 

 さすがシスコ……家族思いの長女だ。しかし、母親さんはご在宅なのか。

 

「いや、そういうことじゃ無くてだな。仮にも嫁入り前の娘が朝帰りって、家じゃ心配してるんじゃないのか」

「あ、それは大丈夫。比企谷と一緒って伝えてあるから」

 

「え」

 

 ちょっと待て。

 それが一番マズいんじゃないのかな俺的に。

 自分の娘が見ず知らずの男と一緒だと聞かされて心から安心する親などいるとは思えない。その相手がこんな目の腐った男だと知ったら尚更だ。

 はあ、しゃーない。

 やっぱ腹を括って先手を打つか。

 攻撃は最大の防御ナリ〜。

 

「川崎、ちょっと買い物に付き合ってくれ」

「いいけど、何買うのさ」

「んーと、お菓子」

「あんた、本当に甘党だよね……」

「いいんだよ。何せ"美味い"の語源は"甘い"だからな」

「はいはいすごいね。でも、こんな朝早くに空いてる店ってある?」

 

 寝起きから色々あり過ぎて失念していたが、まだ朝の八時だった。川崎の云う通り、この時刻に空いてる店なんて限られている。

 

「無ければコンビニでもいいさ」

「ふーん、わかった」

 

 結局通りすがりのコンビニで飲み物と紙の手提げ袋を仕入れた俺は、再び川崎の車の助手席にお邪魔する。

 

「ほれ、飲み物。あと、頼みがある」

 

 ペットボトルのお茶を手渡しながら云うと、川崎は苦笑する。

 

「ありがと、ていうか頼み事ばっかだね」

 

 苦笑する川崎は更に言葉を続ける。

 

「頼みがある、なんて畏まらなくていいから何でも言って。出来ることならするからさ」

 

 出来ること。もしかしたらあんなことやこんなことも……。

 いかん。

 うっかり妄想が理性を殲滅しそうになった。こんな妄想に負けたら、かつて理性の化物と評された俺の面目が立たない。

 ていうか、つい二時間ほど前に危うくモーニングスケベに負けそうになってトイレの個室に篭ったんですけどね。

 

「じゃあ、川崎の家に連れていってくれ」

「わかった。あんたをあたしの家に連れ……どえぇ!?」

 

 おいおいノリツッコミかよっ。らしくないリアクションだな。

 つーか驚き過ぎ。運転中だったら危なかった。

 

「嫁入り前の娘を朝帰りさせちまったんだから、挨拶くらいしとかないとマズいだろ。さっきコンビニで買ったのはその為の菓子折りだし」

「ちょ、ちょっと待って。お母さんに聞いてみるから……」

 

  * * *

 

「う〜」

 

 短い通話のあと、携帯電話を閉じた川崎はハンドルに額をぐりぐりと押し当てて唸っている。

 あっ、これ今朝も見たヤツだ。

 

 え、えーと。

 それで……川崎、さん?

 もしかして丁重にお断りされちゃったのかな。

 まあ、それなら日を改めてーー。

 

「お母さん……ぜひ連れてきなさいって」

 

 顔を起こした川崎沙希は耳まで真っ赤だ。つーかさっきのはOKの反応だったのかよ。

 解りづらいぞサキサキ。

 

「わかった。よろしく頼むよ」

 

 川崎の家に向かう途中、車内の会話は無かった。

 そもそもその余裕が無かった。

 一見平静を装っているものの、内心俺の緊張は最高潮に達している。

 ちらと運転席を見る。

 川崎も緊張しているのだろう。普段よりも前傾姿勢でハンドルを掴む手には、必要以上の力が入っているようだ。

 そのポジションでドアミラーが見えるのかね。

 

 緊張状態のまま五分ほど走ると、帰郷初日に連れ込まれーーもといお邪魔した家が見えた。

 家の前、強めに踏まれたブレーキがシャンパンピンクの車体をつんのめらせる。

 うわっ! 後輪浮いたぞ、軽自動車でジャックナイフかよ。

 激しい。激し過ぎるぜサキサキ。

 

「ーーつ、着いたよ」

 

 何故か息が上がっている川崎を横目に助手席のドアを開けると、見知った女児の笑顔が迎えてくれた。

 

「あ、はーちゃんだ。い、いらっしゃいましー」

 

 けーちゃん、それ誰に教わったのかな。

 玄関先、なぜか老舗旅館的な挨拶で甲斐甲斐しくお辞儀をするのは川崎の妹、京華である。

 うむ、久々に見たがやはり可愛い。

 あれ、ちょっと背が伸びたかな?

 

「あ、お兄さん、お久しぶりです」

 

 次に湧いて出たのは毒虫大志だ。

 うむ、可愛いくねぇ。

 お前は悪、即、斬だ。

 

「おかえり、沙希」

 

 次に現れたのは、川崎に良く似た顔立ちに青みがかった肩まで髪。身長は川崎ほど高くない、エプロンで手を拭う姿が非常に様になる女性。

 この人が今回のラスボス、川崎沙希の母親だろう。

 よし、せんせいこうげきだ!

 

「は、初めまして、比企谷八幡と申します」

 

 かまずにいえた。はちはんは64のダメージをあたえた。

 なんていう愚考と、ついでに猫背がバレないように姿勢を正し、斜め四十五度の礼をする。

 

「あら礼儀正しい。初めまして、沙希の母です」

「かわさきけーかです〜」

 

 笑顔で挨拶してくれる川崎母の横で、京華も再びお辞儀をする。

 うん大丈夫、けーちゃんは知ってるよ。大丈夫今日も可愛い。

 可愛いは正義。妹も正義。

 つまり、可愛い妹は絶対的正義であるのだ!

 

「ーーさ、何のお構いも出来ませんが、どうぞ上がってください」

「お邪魔します……」

 

 混じり気ナシの愛想笑いで案内されたのは通算二度目の川崎家のリビング。もちろん一度目の来訪は母親さんには内緒である。

 促されて座るソファーの隣には川崎沙希が、向かい側には母親さんが腰を下ろす。

 上座には何故か妹の京華が鎮座ましましている。

 ふむ、川崎家のヒエラルキーは京華が頂点か。

 やはり妹のトップの座は譲れないのだろう。どこの家も一緒だな。

 

 テーブルの上にはコーヒーカップが三客並べられている。京華はカルピスのようだ。

 ちなみに、存在自体を忘れていたが大志は部屋に戻ったらしい。

 

「比企谷さん」

 

 持参した菓子折りを渡すタイミングが解らずにおろおろしていると、正面から声がかかる。

 

「沙希は……ご迷惑をおかけしてないかしら?」

 

 当たり前だけど、母親さんからみたら川崎も子供なのだな。俺から見たら川崎ほど可愛くて美人で料理スキルが高くてギャップ萌えする女子はいないのだが。

 母親の隣で川崎沙希が真っ赤になって俯く。

 

「い、いえ。かえって俺の方が迷惑を掛けっぱなしでーー」

 

 へこへことコメツキバッタの如く頭を下げる。

 うむ、今の俺カッコ悪いな。

 いいえ。今に始まった事ではなく、カッコ悪いのはデフォでした。

 

「よかった。この子ったら本当に男っ気が無くて。このまま結婚も出来ないんじゃないかと……常々心配していたんですよ」

「は、はあ」

 

 唐突に結婚という言葉を出されて思わず焦り、渇いた喉に若干冷めたコーヒーを流し込む。

 ……苦っ、砂糖を入れ忘れた。

 横に視線を遣ると、「け、けっ、けっ、け……」と紅い顔でうわ言を呟いている。

 結婚と云ったのは、きっとただの言葉の綾だろう。だから落ち着け、川崎と俺。

 

「でも、安心したわ。ちゃんと沙希にも比企谷さんの様な男の子がいたのね」

 

 母親さんの生温かい、もとい優しい視線に赤面して俯く長女、川崎沙希。

 それに追い討ちをかけるべく爆弾を投下するのは妹、京華。

 

「さーちゃんね、いっつもはーちゃんのお話するんだよー」

 

 さ、さいですか。

 それはファーストイヤー、初耳ですわ。

 

「あのね、さーちゃんのお部屋にはね、はーちゃんのお人形があるの」

 

 へー、それって藁人形ですかね。五寸釘が刺さってたりしたら泣いちゃうからっ。

 

「け、けーちゃん!?」

 

 ニヤリ。

 

 あれれ?

 慌てる川崎の顔を見たけーちゃんが一瞬悪い顔になったよ?

 どしたの?

 悪役令嬢にジョブチェンジなの?

 当の京華は、さっきの悪い笑みは何処へやら、にこぱっと笑ってさらに川崎家の長女を追撃する。

 ほう、笑ってトドメを刺せる幼女。素晴らしい。

 

「でもねー、お人形はぜったいに内緒なんだってー。さーちゃんなんでー?」

 

 うーん、全然内緒になってないけど……可愛いから許す!

 しかし許したのは俺だけのようで、川崎は「こらっ」と京華を睨みつける。

 一瞬肩を震わせた京華は、とたとたと俺の横へ逃げてきた。

 

「はーちゃん、さーちゃんこわい」

 

 小さな手で俺の腕をぎゅっと掴んだ京華は、目を潤ませて俺を見上げる。

 うん、ちょっとあざとくて将来が心配だけど、可愛いからオッケー。

 

「大丈夫。さーちゃんはけーちゃんが大好きなんだぞ」

 

 京華の頭に手を置くと、子供の若干高めの体温が伝わってくる。

 ふと、小町が幼い頃を思い出す。

 なでりなでり。

 

「ほんと? おこってない?」

「ああ、いい子にしてたら大丈夫」

 

 向かいで川崎のお母さんが笑っている。その横で川崎は少し俯いて目を逸らしている。

 自分でも京華に強く言いすぎた自覚があるようだ。

 

「あらあら、京華もこんなに懐いて……」

「うん、けーか、はーちゃん大好きー」

 

 ぎゅーっと腕に抱きついた京華に頭をぐりぐりされていると視線が刺さる。

 

「……比企谷?」

 

 怖っ。シスコン怖っ。

 

 だが今の俺にはけーちゃんという強い味方がいるのだ。

 故事にもある。

 幼女の味方は百人力。

 もちろん嘘である。

 俺は川崎を一瞥し、京華に顔を向ける。

 よしっ、今だ!

 

「ありがとな。俺もけーちゃん好きだぞ。さーちゃんの次にな」

 

 言いながら隣に腰掛けて俺を見上げる京華の頭をもう一度撫でる。

 ちらと川崎に目を遣ると、耳まで真っ赤になっている。

 うむ。狙い通りだ。

 はちまんは、さーちゃんに108のダメージをあたえた。

 

「えー、けーかは二ばんなの? ひかげのおんななの?」

「……!?」

 

 向かいのソファーの二人が固まった。はちまんは、80000のダメージをうけた……じゃなくて。

 こらこら誰だよ、こんな幼女に妙な言葉を教えたのは。

 もしうっかり万が一、妙な気持ちになったらどうするんだよ。

 

「ご、ごめん。京華、夏休み中ずっと昼ドラ観てて……」

 

 なーんだ、よかったー。

 うっかり京華は幼女にして魔性のオンナだと誤解するとこだったー。

 子供はテレビに影響され易いからな。

 しかし、こんないたいけな幼女が人間関係ドロドロの昼ドラを見てるとは……。

 ということは、最初の老舗旅館的な挨拶もテレビドラマの台詞か。

 

「そ、それよりも比企谷、それ」

 

 川崎の目線が俺の横に立て掛けられた紙袋に向けられる。

 そろそろ出しやがれ、という合図だ。

 

「あ、ああ、助かった。初めてで渡すタイミングが見つからなかった」

 

 川崎に水を向けられて、ようやく菓子折りをテーブルに乗せる。

 

「これ、つまらない物ですが」

 

 つい、と川崎のお母さんに向けて菓子折りの箱を滑らせる。

 

「まあ、ご丁寧に」

 

 大人だなー、きっと急遽コンビニで用意した物だとバレバレなのに。

 

「はーちゃん、それなぁに?」

 

 未だ俺の膝に引っ付いている京華が俺を見上げる。

 

「ん、水ようかんだ」

 

 水ようかんを知らないらしく、小首を傾げる京華の仕草が素晴らしく可愛い。きっと小町に見せたら猫可愛がりするな。

 むしろ俺がそうしたい。

 

「みず……ようかん? おみず?」

「違う、甘くて美味しいお菓子だ」

 

 子供をも惑わせる魅惑のワード。

 それは「甘い」「美味しい」である。

 案の定、京華は目を輝かせる。

 

「たべたい、みずたべたい!」

 

 みずは飲み物ですよ、けーちゃん。なでなで。

 

「もう、けーちゃんったら……比企谷、ひとつ先にあげていい?」

「ああ、構わない」

「ありがと。けーちゃん、ちょっと待ってて」

 

 菓子折りを持った川崎がキッチンに消えていく。

 

「比企谷さん、ちょっといいかしら」

 

 川崎の姿が見えなくなったのを見計らって言葉をかけてきた。

 再び居住まいを正す。

 

「あなた……女の子と付き合うの、初めてね?」

 

 え、解るの?

 身体からそういうオーラでも出てるの?

 

「え、ええ。恥ずかしながら」

 

 やばい。うっかり答えてしまったが、これって「ボク童貞ですぅ」と白状してるのと同じだ。

 あ、ちなみに川崎とはまだしてないからね。

 昨晩も抱き合って添い寝しただけだったし。

 ……。

 ……いやそれで充分幸せだったから。

 ホントなんだから。

 つーか俺なんかがそれ以上を求めたら、バチが当たるってもんだ。

 

「ううん、全然恥ずかしくはないわよ。沙希も男の子と付き合うのは初めてですもの」

 

 じゃあ川崎は女の子と付き合ったことはあるんですか、なんて挙げ足取りのような無粋なツッコミが出来る空気じゃないな。

 

「沙希はね、不器用なのよ」

「充分器用だと思いますよ。料理も上手ですし」

 

 うん。カレーは美味かったし、里芋の煮っころがしは絶品だった。

 

「そこら辺は、私がずっと家事の手伝いをさせちゃったせいね。わたしが仕事してるものだから、弟や妹の世話も任せてしまって……」

 

 それは違う。少なくとも川崎は自分の意思で弟妹の面倒を見ていたのだとは思う。

 幼かった小町の面倒を見ていた俺のように。

 

「さ、沙希さんは弟さんや妹さん大好きなんで、その辺はあまり気にしなくて良いんじゃないですか」

 

 決してブラコンシスコンとは言わない。それが大人の気遣いだ。

 それに、家事を手伝ったり弟や妹の面倒を見ていたからこそ、今の川崎沙希があるのだ。

 長女として大変な思いをしただろう川崎には申し訳ないが、俺としては感謝したいくらいである。

 

「優しいのね」

 

 優しいのは川崎だ。俺はそれを代弁したに過ぎない。

 

「そうそう、沙希が不器用って話だけど……あの子、本当は甘えん坊なのよ」

 

 はは、川崎が甘えん坊なのは解る。寝起きのアレを見たら一目瞭然だ。

 

 それから母親さんは幼少期の川崎沙希について聞かせてくれた。

 

 幼少期の川崎沙希。

 彼女はお母さんっ子で、ちょっと転ぶとすぐに泣き、何か上手くいかない事があるとまたすぐ母親にすがって泣く。所謂、甘えん坊な普通の女の子だった。

 

 それが、大志が生まれて二年ほど経った或る日、急に自分のことを「お姉ちゃん」と呼ぶようになったという。

 当時四歳なのに……大したブラコンぷりだ。

 それからは事ある毎に「あたしはお姉ちゃんだから」と云って、率先して母親の手伝いや下の子たちの世話をしていたらしい。

 空手を習い始めたのも、小学生の大志が泣いて帰ってきた後だという。

 そして、成長と共に川崎は何事も家族優先で考えるようになり、自分の願望を口にしなくなった。

 

「本当は、兄妹の誰よりも甘えん坊なのにね」

 

 川崎のお母さんは目を細めて笑う。

 

「そろそろ沙希には、自分の楽しみや幸せを見つけて欲しいのよ。母親としてはね」

 

 彼女の幸せ。

 それは、果たして俺の思う幸せと一致するのだろうか。

 

「でも比企谷さんが居れば安心ね」

 

 そう川崎のお母さんは微笑むのだが、初対面の俺をそんなに簡単に信用していいのかね。

 油断大敵ですぜ、お母さん。

 

「せ、責任重大ですね」

 

 何ならプレッシャーで押し潰されそうですわ。なんせ人ひとりの人生が懸かっているのだから。

 

「大丈夫。あなたはきっと、沙希のことを真剣に考えてくれる。沙希とあなた自身の、二人分の幸せを考えてくれる」

 

 目から鱗……だった。

 

 必ずしも川崎と俺の幸せが一致する必要は無いのだ。

 無理に一致させようとすればストレスになり、それは綻びに繋がる。

 だけど。

 川崎の幸せに俺がいて、俺の幸せに川崎がいてくれれば、それは二人の幸せになる。

 恐るべし、先達の言葉。

 まあ、俺の評価に関しては買い被りもいいとこなんだけとな。

 

 話が一区切りついたタイミングで川崎が戻ってくる。手には小皿に移し替えた水ようかん。

 

「ーーけーちゃん、水ようかんだよ」

 

 水ようかんひとつ用意するのに随分時間が掛かったな、と川崎を見ると、ほんのり目元と鼻の頭が赤い。

 こいつ、母親の言葉を陰で聞いて泣いてたな?

 後で揶揄ってやろうっと。

 

 ……いや、言わぬが花、だな。

 

 ともあれ本当にいい家族だな川崎家。

 

 その後トイレを借りて戻ったら、川崎の頭から湯気が立っていて、そんな娘に微笑む母親の姿があった。

 何があったかは……聞かずにおこう。

 

 これも、言わぬが花。

 

 




今回もお読みいただき、ありがとうございます。

読んで下さった方々のお陰で、この物語もUA10000を超えることが出来ました。
重ねてお礼申し上げます。
ということで、調子に乗って2日連続で投稿しちゃいましたw

ふと気づいたのですが……
スマホで書いていると、一文の長さが短くなる傾向があるように思います。
だからどうした、なのですが。

さてさて今回は、はじめてのあいさつ八幡編でした。
初めて彼女の親御さんに会う時の菓子折りが「水ようかん」って、ちょっと八幡っぽい気がします。
普通なら菓子折りなんか持参しないのでしょうけどね。

それはそうと。
サキサキって、本来は甘えん坊な気がするんです。
両親が共働きだったり弟や妹がいたりで、必要に駆られてしっかり者に成長したんです、きっと。
ぶっきらぼうに振る舞うのも、甘えたいのに甘えられない葛藤が……
あ、語りが長いですかそうですか。

まだまだ語り尽くせませんが、今回はこの辺で。

引き続き感想、批評、批評など、気が向いたらでよいのでお願いします。

ではまた次回、お会いしましょう。


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おニューな車で

川崎沙希の母親との壮絶な心理戦(嘘)を乗り越えた比企谷八幡。
その比企谷家の前には二台の見知らぬ車があったーー


……いわゆる「箸休め」の回ですw


 

 川崎家一同に見送られながら家路に着いたのは、昼飯をご馳走になった後だった。

 

「ご面倒をおかけします」

「あいよ、しっかり掴まってな」

 

 おお、本当は甘えん坊さんの川崎さんが姉御肌をお見せになってらっしゃるっ。

 つーかお前いつも超安全運転じゃん。こないだパトカーに抜かれたじゃん。

 

 制限速度で巡行中の車内での話題は、さっきご馳走になった川崎家の昼食だ。

 川崎家で母親さんの昼食をご馳走になってみて、川崎沙希の料理スキルのルーツを少しだけ垣間見れた気がする。

 といっても、内容的には普通の家庭の昼食だろう。別段目を引く珍しい料理があった訳では無い。

 

 しかし、しかしだ。

 何というか、一品一品がちゃんとしているのだ。

 

 さっき頂いたのは、カレイの煮付け、大根の煮物、冷奴、それにご飯と味噌汁だった。

 川崎は「こんな料理でごめん」と俯いていたが、そんな恐縮は不必要。とにかく美味かった。

 思わず三杯目のお代わりをそっと出したまである。

 飾り包丁の入ったカレイの煮付けも勿論美味かったのだが、一番驚いたのは大根の煮物だ。

「煮物はね、冷めてから味が染み込むのよ」

 昨日煮て冷蔵庫に入れてあったというが、なるほどその通りだった。箸で大根を割ってみると中まで均一に煮汁の色がついていた。

 もうひとつ驚いたことがあった。

 自分の家で消費するだけなのに、煮崩れしないようにちゃんと大根の面取りをしてあったのだ。

 ちなみに、面取りした際の欠片は刻んでこっそり味噌汁に入れたらしい。

 思わず感心してしまった。

 何と云うか、丁寧で無駄が無い。表現が適切かどうかは判らないが、食べるのが非常に上手い母親さんなのだ。

 べた褒めする俺に川崎は「大袈裟だってば」と謙遜していたが、家庭料理で野菜の面取りや飾り包丁など、中々出来ることではない。

 主夫志望の俺には解る。いや美味いのは誰でも解るか。

 そんな遣り取りをしつつ再び比企谷家に戻ると、家の前に二台の車が停まっていた。

 

「おー、やっと来たか」

 

 玄関から聞こえるダミ声は、俺に車をくれると言ってくれた、親父の古い知り合いだ。

 名前は藤原文太さん。

 今は群馬で家業の豆腐屋を営んでいるらしい。

 何でも昔はよく俺の親父と一緒にドライブしていたと聞いている。

 男どうしのドライブ。決してキマシタワ的な想像はしてはいけない。

『ほら、こんなところにもう一本逞しいシフトノブが……』

 などとうっかり口走ってしまった日には、見知らぬ街が血の海老名になる。

 

「何だよ。はるばる群馬から車を運んできたら、当の本人は可愛い彼女とデートかよ」

「すみません、お手数お掛けしました。ありがとうございます」

 

 くわえ煙草の角刈りオヤジが愚痴る。

 ま、仕方ないよな。逆の立場なら、風邪をひく度に拗らせる呪いをかけるところだ。

 あと川崎、可愛いって云われてニヤニヤしたいのを隠すなよ。

 バレてるからね。

 

「ま、いいや。こいつの説明だけしとくぞ。こいつの心臓はK6Aというーー」

 

 相変わらずくわえ煙草のままでオヤジが捲し立てる。

 ボンネットを開けて、足回りがどうのとか、過給圧がどうのとか、まったく解らない文言を並べ立てた角刈りオヤジは、とりあえず俺が頷くと満足そうに笑った。

 つーかエンジンを心臓と呼んじゃう辺り、ちょっと中二病っぽいな。

 

「ま、調整が必要になったら持ってこい。最終モデルのK6Aはタイミングチェーンだし、元はショップのデモカーだから大丈夫だとは思うが。あと名義変更はお前の親父が済ませてる」

 

 何、タイミングチェーンって。

 デモカーって、何か宣伝してたの?

 海浜総合の元生徒会長ばりにちんぷんかんぷんだが、とりあえず頷いておく。

 とりあえず、何から何までありがとうオッサンたち。とりあえずばっかりでごめん。

 

「おーい、拓海。帰るぞ」

 

 用事は済んだと云わんばかりの呼び声で玄関から出てきたのは、ぬぼーっとした男性だ。

 呼び方からすると角刈りオヤジの息子だろう。

 身長は高く、顔も悪くない。何なら良い部類に入るだろう。年齢は、俺より幾つか上か。

 だが何と云うか、覇気が無い。覇気の無さでは定評のある俺が云うのもアレだけど。

 

「ああ、こいつは拓海。俺の息子だ」

 

 ども、と頭を下げられて慌てて会釈を返す。

 ふむ。やはり覇気が無い。

 

「じゃあな、あんまり無茶な走りするんじゃねーぞ」

 

 そう言い残して、爆音を轟かせて藤原親子は帰っていった。

 つか、何ちゅう五月蝿い車だよ。

 さて。

 玄関の前に残された一台の濃紺の軽自動車。

 これが俺のマイカーになる車だ。

 さっそく川崎に我が眷属、もとい愛車を紹介する。

 

「へえー、可愛い車だね」

 

 お世辞かも知れないが、川崎も一応は気に入ってくれたようだ。

 

「でも狭そうだね」

「ああ、二人乗りと聞いてる」

「あ、これって屋根取れるんだ?」

「オープンカーになるらしいな。まず屋根を開けることは無いと思うが。雨降ったら嫌だし」

 

 二人で濃紺の車体を繁々と眺めていると、小町が玄関から出てきた。

 

「あ、お兄ちゃんお帰りー。あれ、拓海さんたちは?」

「さっき帰った」

 

 あれれ? 小町ちゃん、何だか淋しそうですね。

 まさか小町……あの角刈りオヤジのことを!?

 

「そうなんだ……あ、沙希さん、お疲れ様でーす」

 

 何だそのサラリーマンみたいな挨拶。

 あ、ずっと俺の相手をしてた川崎が疲れてるって意味なのね理解しましたとも。

 

「妹さんも」

「小町でいいですよー、お義姉ちゃん」

 

 あざといスマイルをばちこんっとお見舞いされた川崎は頬を染める。

 

「……小町はやらんぞ」

 

 小町と川崎が盛大に溜息を吐いた。

 何だよお前ら、相性ばっちりだな。

 

  * * *

 

 めでたく俺の愛車になった濃紺のこの車は、カプチーノと云うらしい。

 初登録が平成九年とあるから、およそ俺と同い年である。

 もしかしてあれか。産まれた年に作られたワインを贈る、みたいなアレか。

 ……考え過ぎか。親父にそんな洒落たことを思いつく思考回路がある訳は無い。何たって俺の親父だからな。

 

「うわっ、何だこれ」

 

 小さくて可愛らしい外見とは裏腹に、少しアクセルを踏み込むだけでめちゃくちゃスピードが出る、初心者には少々怖い車だ。

 ハンドルの向こうにはスピードメーターの他に、やたらめったらと目盛りをふった計器が並んでいる。

 なんかもう、時計屋の中にいる気分だ。しかもそれぞれが勝手に針を動かすものだから少々不安になる。

 ーー不安だからあとで説明書読もう。

 

「すごいっ、すごいね!」

 

 まあ別に、スピードが出ようと出なかろうと俺は気にしないのだが、川崎は柄にも無くはしゃいでいる。

 ま、こいつが楽しいなら……きっとこの車はいい車なのだろう。

 うむ。藤原親子に感謝。

 でも俺は安全運転で行かせてもらいますよ。

 

 と云う訳で。

 俺と川崎は早速ドライブに来ている。

 勿論、さっきゲットした愛車カプチーノで。

 

 つーかこの車、本当に狭い。屋根も低いし、フロントガラスが近い。トランクも開けてみたが、でかいバッグ二つで満杯だろう。

 その割りにボンネットだけやけに長いし。

 川崎の家の広い車に慣れてしまったせいか、本当にこれが同じ軽自動車なのかと云いたくなる。

 ま、文句は言えないな。なんせタダだし。

 対する川崎は上機嫌。

 助手席で鼻歌なんぞを口ずさんでいる。

 鼻歌なのに口ずさむとは、これ如何に。

 

  * * *

 

 陽が傾き始めた頃、車は国道14号線を南下していた。

 目的地は、川崎のお気に入りのあの場所だ。

 

 いつもの位置に車を停め、途中立ち寄ったコンビニで仕入れた飲み物とサンドイッチを並べて、東京湾の夕景を眺めながら二人で食す。

 

 うむ。悪くない。

 

 夕陽に照らされた川崎の髪が、透過光のように輝いて風に踊る。

 触ってみて判ったが、こいつちょっと猫っ毛だもんな。

 猫っ毛なのに猫アレルギーとは、これ如何に。

 

「あたしさ、夢だったんだ」

 

 サンドイッチを頬張る川崎が呟く。

 

「好きな人の車の助手席に乗るの」

 

 ほ……ほーん。

 その好きな人って、俺で合ってるのかな。

 合ってる、よね?

 この後に及んでも疑ってしまう俺、まじチキンだわ。

 

「でね……こうして、ゆったりと過ごすの」

「今までと然程変わらんぞ。川崎の車か俺の車の違いしかないし」

「大違いだよ。あたしが運転じゃあ、あんたの運転する横顔なんか見れないじゃない」

 

 あ、うん。そだねー。

 そういう小っ恥ずかしいことは控えてくれると助かりますねー。

 しかし、解らないでもない。

 俺も、運転する川崎の横顔に何度見惚れたーーげふん。

 

「でもさ、あ、あたしが一番最初で悪かった、かな」

「ん、何が?」

「ほら、シスコンのあんたの事だから、一番始めは小町を乗せて走るんだ、とか言いそうだし」

 

 ほほう。中々わかっているじゃないか。

 確かにそうしたい気持ちはあった。

 だかな、あまり俺を見くびるなよ。

 俺が狙っているのは、将来小町が運転する車の助手席の座だ。

 その席だけは誰にも譲れん。

 

「気遣いは無用だ。この車は、元々お前を最初に乗せるつもりだったんだよ。ほら、いつも川崎の車だったし」

 

 ふわりと左肩に川崎の頭が乗せられる。

 うーん。右肩は経験済みだったけど、左肩も中々だな。

 

「そっか……ありがと」

 

 瞳を潤ませた川崎の顔が近づき、零距離になる。

 二秒ほどで口唇を離す。すぐに名残り惜しくなる。

 

「ね、比企谷ーー」

 

「も、もう一回」

 

「もっかい」

 

「もっかい……」

 

 互いの口唇が触れ合い、舌が触れ合う水音だけが、西日の射す狭い車内に何度も何度も響く。

 

 ーー俺ら、そのうち口唇取れちゃいそうだな。

 

「んぐっ……ん」

 

 口唇様、俺たちはまだまだキスをし足りないようです。

 だから、何卒取れたりしませんように。

 

 

 




今回もお読みいただき、ありがとうございます。
まず最初に、
評価や感想を頂いた皆様。
本当にありがとうございます。
評価の高低はあれど、私の書いた作品でこんなに多くの方に評価を頂けたのは初めてなので、本当に嬉しい限りです。

さてさて、今回ちょい役で出て頂いた藤原親子。
あの漫画の登場人物です。
そう、頭文字がDのアレですw

ちなみに、八幡のカプチーノに付いている謎の計器類は、
水温計、油温計、過給圧計、
後付けのタコメーター(15000回転対応)、
となっております。

諸元(すべて実測値)
エンジン K6A改
過給圧 1.2気圧
最大馬力 105ps/12000r.p.m
最大トルク 14.3kgf・m/9500r.p.m
最高速 192km/h
全長 3295mm
全幅 1395mm
全高 1185mm
重量 672kg

出自は群馬県内のチューニングショップのデモカー。
簡単にいうと、車検対応の改造車ですw
……うん、完全にいらない設定ですね。
しかも行数多いしw

ちなみに、川崎沙希が乗っているのはダイハツTantoで、色はお母さんの趣味でシャンパンピンクです。
ま、実際にそのボディカラーの設定があるかは知りませんがw
これも余談。

さて次回は再び奉仕部の面々が登場。ちょっとややこしくなります。
どうか堪えて読んでやってください。

また次回もお願いします。


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微熱少年

働きたくないでござる!
八幡の願い空しく、雪ノ下雪乃に強制招集をかけられた奉仕部一同。



 

 八月六日、午前八時。

 今日はハムの日だ。

 ……余談だ。

 

『十時半、市立図書館正面玄関前に集合』

 

 今朝ついに雪ノ下雪乃から労働という地獄へ誘う招待状が届いた。

 もしも俺が生粋のMだったなら『恐悦至極にござりますぅ』とかいうのだろうか。

 知らんけど。

 

 さて招集の内容である。

 先日の広田裕樹少年の家庭教師の件。

 あの時雪ノ下雪乃が広田少年の母親に告げた言葉。

『お母様、私に一日だけ、裕樹くんを預けて頂けないでしょうか。最後の授業を彼にしたいのですが』

 今回はこの雪ノ下の勝手な申し出の手伝いをしろとのお達しだ。

 

 まったく困ったものである。

 そもそも雪ノ下が勝手に言い出したことに、俺が駆り出されるのが非常に腑に落ちない。

 高校時分、奉仕部という枠組みで受けた依頼ならいざ知らず、雪ノ下雪乃自ら広田さんに申し出たことに巻き込まれる謂れが無い。

 いつまでも部長気取りでいるんじゃねえよ、本気でそう突っ込みたくもなる。

 

 それでも思うのだ。

 かつての雪ノ下雪乃は自らこうした申し出をする人物では無かった。

 高校時代の奉仕部。そのスタンス。それは、伸ばされた手を掴むだけだった。要するに、座して注文を待つだけの活動しか為されなかった。

 思えば、このスタンスには随分と苦しめられたものだ。

 解決はしない。するのは解決への道筋を示すことと、その手伝い。あくまで解決するのは依頼者本人だった。

『飢えた人に魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える』

 今となっては誰が決めたかも判らないその理念、方針に、俺は随分と悩まされたものだ。

 

 それが今は自ら提案し、実行しようとしている。

 成長なのか変化なのか。

 それとも奉仕部の呪縛から解き放たれたのか。

 きっと俺は、それを見極めたいのだ。

 一度は同じ釜の飯を食ったーー正確には同じオーブンで焼いた消し炭を喰らった仲間の、奉仕部の行く末を見ておきたいのだ。

 

 だが、一方で気が進まないのも事実である。

 不意に雪ノ下の名前を出した時の川崎の不貞腐れた顔。

 それを思い出す度に左心房辺りが締め付けられる。

 今回は断るべきか。

 余談ではあるが、来週からは最終候補に残ったもう一方の男子中学生の家庭教師を担当することが決まっていたりする。

 従って、俺は今回の召集を拒否しても何ら問題は無い。

 残る問題は、その招待状が小町経由で来たという点だ。

 まあ雪ノ下は俺の連絡先を知らない筈だから伝手を辿るのは仕方ないことだ。

 実はこれが一番厄介なんだけどね。

 

「お兄ちゃん、約束は守ること。それがハーレムの第一歩だよ」

 

 ほら、これだ。

 約束した覚えはないんだけど。一方的な押し付けを約束と呼ぶのなら、世の中は約束破りのデスパレードである。

 あと最後の一文、いらなくね?

 ハーレムなんて想像上の家族形態、ラノベの中の絵空事なのだよ。

 だいたい、川崎以外に俺を好きになる奇特な女子なんているわきゃ……。

 うん、心当たりが無い訳でも無いけど、思い当たる節が無かった訳でも無いけど。

 

 自嘲になるが、最近の俺ときたら、それはもう川崎にぞっこんなのである。

 あの口唇にあの柔らかさ。不意に見せてくれる笑顔や甘える顔。

 何より、川崎は必要以上に俺を蔑まない。

 無論、不満は口にするし叱られもする。拗ねたり怒ったりもするが、それは俺の不徳の致すところだ。

 また、幼稚な揶揄の応酬もするが、そういった軽口は叩くことはあっても、あくまでそれはコミュニケーションの一環としての言葉のキャッチボールだ。何処かの冷血部長さんの様に血で血を洗う銃撃戦ではない。

 川崎の放つ言葉の端々からは俺の「個」を尊重してくれているのが有りありと伝わるのである。何というか、苦節十九年、やっと人として認めてもらえた気分だ。

 眠る前、目を閉じると浮かぶのは川崎の顔。それは色鮮やかに瞼に浮かんでしまう。そんな夜、俺はきっと気持ちの悪い笑みを浮かべながら眠りにつくのだろう。

 かなり毒されてるな。何なら洗脳されてると云っても良いくらいだ。

 かつては向かうところ敵ばかりだった俺も籠絡されまくり、今はすっかり最強ぼっちの座から陥落している。

 寝ても覚めても、何なら夢の中までもが川崎沙希なのである。

 恥ずかしいしキモいから本人には絶対云えないけど。

 

 うっかり夢中になって考えてしまったが、この先に待ち受ける奉仕活動を思うと、現実逃避も仕方が無いのである。

 

 ま、小町に云われたら断れない。川崎には一報を入れておくか。

 ついでに夜の約束を取り付けよう。そして川崎に癒してもらおう。

 きっと夕方過ぎの俺は、疲労困憊コンパニオンガールだろうから。

 

 つーか、決行日に連絡っておかしくない?

 

  * * *

 

 午前九時。

 とりあえず集合場所である図書館の玄関前に着いた。

 これで任務の半分は達成である。あとは帰るだけだ。

 かのピエール・ド・クーベルタン男爵は云った。

 参加することに意義があるのだと。

 ならば、ここにこうして馳せ参じただけでも多少の意義があり、その功績は今すぐ帰ったところで消えることはない。

 以前よくこねくり回した屁理屈である。

 しかし暑い。

 汗が玉になって流れ落ちる。その玉が落ちたコンクリート打ちの地面に目を落とすと、瞬く間に汗の黒点は小さくなって消えた。

 なぜ待ち合わせ場所を図書館の中に指定しなかったのだと、雪ノ下の思慮の足りなさに対して今さらながらに疑問を感じるのである。

 

 あー、だるい、暑い、帰りたい。

 ある意味「夏の三原則」だな。

 

「はあ、夏休みくらい休ませろよ……」

 

 この暑さだ。思わず愚痴も汗も零れるというものだ。

 隣にはそんな愚痴一つ零さない健勝な奴もいるが、きっとそれは特殊な例だろう。こいつ、空気を読むのは得意だったし。

 きっと空気読みの特技を極めると、熱気すら中和出来るのであろう。

 でなければ、こいつの笑顔の説明がつかない。

 

「まーまー、ゆきのんの頼みだもん。ヒッキーも文句言わないの」

 

 相変わらず由比ヶ浜結衣は元気である。

 ちらと目を向ける。すぐに視線を逸らす。

 いかん。こいつは兵器だ。男を惑わす最終兵器だ。

 駅のホームで「セックスしよ」なんて笑顔で云える破壊兵器だ。

 本日の由比ヶ浜結衣の服装は、オレンジ色のノースリーブの上に地肌が透ける薄手の水色のサマーニット、そしてデニムのミニスカートという、目にも涼しげな出で立ち。

 雰囲気そのものは高校時代と変わり映えしないものの、その実非常に似合っている。

 ここまではいい。ここから先が、こいつの最終兵器たる核心だ。

 何よりも目を引いてしまうのは高校時分よりも更に成長したと推測せざるを得ない二匹の巨大スライムと、それを左右に分かつかの如く肩から斜め掛けされたショルダーポーチである。

 

 パイスラッシュって卑怯だと思いますっ。

 

 い、いかん。思わず目が……。

 万乳引力に抵抗して視線をバタフライさせていると、その視界の隅に凛とした立ち姿が見える。

 今回の原因、元凶であり首謀者。雪ノ下雪乃だ。

 

「あ、ゆきのんやっはろー!」

 

 ああ、大学生になってもその挨拶なんですね。

 

「こんにちは由比ヶ浜さん」

 

 ああ、大学生になっても俺は安定の無視ですか。

 

「……こんにちは、比企谷くん」

 

 良かったー、辛うじて存在は知られてるみたいだ。

 しかし何だよ、今の一瞬の間は。

 そんなに俺に挨拶するのに覚悟が必要なのかよ。

 比企谷菌はパンデミックではないのですけどねえ。

 

 何はともあれ、発端である雪ノ下雪乃が現れた。

 こういう言い方するとドラクエのモンスターみたいだな。

 当方まだレベル1なのでラスボス級はお引き取りください。

 まあ中身は別にして、外見はモンスターとは真逆だ。

 どちらかというと精霊っぽい。

 清潔感溢れる白の半袖のシャツに走るのは細いブルーのストライプ、下は淡いピンクのロングスカート、いやブリーツスカートってヤツか。

 こちらは高校の時と変わらぬ安定の貧……慎ましい感じである。

 やはり天が与え賜うのは二物までか。

 

 ーーどっかの服飾評論家みたいだな俺。

 もう、ふんづけてやるっ。

 

 斯くして総武高校卒業以来、久しぶりの奉仕部全員揃い踏みと相成った訳だが。

 改めて今回の案件を考えると気が重くなる。

 あのやる気も自覚も無い他力本願な中学生、広田少年にやる気を出させるなど、考えるだけ無駄な気がする。

 そもそも広田少年本人に、自分を変えるつもりなど微塵も感じられないのだから。

 ああいう輩は、自分自身で気づかない限りは行動を起こそうとしない。ソースは俺。

 

 小学校の頃、何故自分がいじめられるのか、何故無視されるのかを徹底的に考えたことがあった。自己啓発の走りみたいなものだ。

 結果的に出した結論は『人と関わるから』である。

 いじめも無視も、相手があって成り立つ。謂わば人間関係の一形態ともいえる。

 故に、他人と関わらなければ人間関係そのものが無い訳で、いじめも無視も解消される。

 ま、結果は全然違ったけど。

 要するに、自分の現状は自分で悩み抜いて打破するしか無いのだ。

 

 今回の依頼は、雪ノ下の申し出によっての案件だ。言い換えれば雪ノ下雪乃の依頼とも言える。

 雪ノ下雪乃の我儘とも言える。

 もう部員でも無く高校生でも無いのに強制参加させられた俺は完全なとばっちりだ。

 由比ヶ浜?

 こいつは喜んでるから別にいいや。

 

 さて今回の案件に対して、雪ノ下はどんな計画を練ってきたのかな。

 早速伺ってみましょう。

 

「計画? そんなもの無いわ」

 

 はあ……呆れた。

 

「無計画かよ」

 

 お得意の冷たい視線で俺を一瞥、雪ノ下雪乃は事も無げにつらつらと語る。

 

「仕方ないでしょう。何も思いつかないのだから。でも、そう云うからにはあなたは何らかの策を練ってきたのよね?」

 

 それ、無い胸張って云う台詞じゃないよね。自分の事を棚に上げ過ぎて、そのうち棚が落ちるぞ。

 それに自分の事を棚に上げるのは俺の十八番、専売特許だ。

 だから堂々と告げてやる。

 

「俺をなめるな。もちろん無策に決まってるだろうが」

 

 あの生意気なガキと母親をどうこうできるスキルが俺にあると思うか。

 なめんな。

 

「はあ、もう呆れるのを通り越して幻滅、いいえ殲滅したい気分だわ。他人を否定するのなら代案を出すのが道理だと思うのだけれど」

 

 それ違くない?

 案を持たない奴に案を出したからって、それを代案とは呼ばないぞ。

 わかってらっしゃる?

 

 会って五分で一触即発の状況。あっという間に対立構造の出来上がり。

 こんな状況で良くニコニコしてられますね、由比ヶ浜さんは。

 さすが懐が大きい。

 うん、すごく大きい。もう歩く度に前後左右にたゆんぽよん。

 

「……視線が下品なのだけれど」

 

 あ、あれ。バレてる?

 視線の動きは完璧に偽装したつもりなのだが。

 

「うん、ヒッキーの目、えっちぃよ」

 

 あらぁ、ご本人にもバレていらっしゃる。でも、キモいとか云われなかっただけマシか。

 由比ヶ浜も成長しているのだろう。

 

「ば、馬鹿。そんな強調されたら嫌でも目に入るだろうが」

「いや、だった……?」

「だからそう云うことじゃなくてだなーー」

 

 どう対処すべきか解らず困惑している視界の隅で「今に見てらっしゃい」とか呟かないでもらえますかね雪ノ下さん。

 あと「作戦成功」とか呟いた由比ヶ浜さん。何が成功なのでしょうか。

 

「ーー策を弄している暇は無さそうね。もう来たわ」

 

 その言葉で我に返り、雪ノ下の視線の先を追う。

 前方数十メートル、明らかに嫌々と云う顔で現れたのは今回の案件である問題児。

 

「夏休みくらい休ませろよ……」

 

 ごく最近どこかで聞いたことのあるような台詞を引っ提げて、だらけたお顔の広田裕樹少年のご登場だ。

 

「あなたは今まで充分休んできたでしょうに。十三年間ほど」

 

 今こいつ十三歳だろ。人生休みっぱなしって、そりゃいいや。

 それが罷り通るなら羨ましいことこの上ないね。

 

「うるせーよ。そんで雪乃、今日は何すんだよ。またいつもと同じ授業か」

「別に決めてはいないわ。ただ図書館で読書するだけよ」

「ふーん、ま、いいけど」

 

 意外だった。

 雪ノ下雪乃は、多少行き過ぎな面もあるにせよ凡そ礼儀作法に厳しい常識的で高潔な人間だ。

 その雪ノ下が、中学生のクソガキに呼び捨てにされて普通に受け答えしている。

 こういうところも、以前とは変わったのかもしれない。

 

「目が気持ち悪いわよ、ゾンビ谷くん?」

 

 前言撤回。

 こいつはこいつのままだ。

 

「由比ヶ浜さんも比企谷くんも、今日は読書よ。いいかしら」

「ああ、俺は構わない。涼しい図書館での読書なら一ヶ月くらいなら続けられる」

「夏休み終わるよ!?」

 

 懐かしい遣り取りの中で思考を巡らせる。

 こいつは図書館で何をする気なのか。

 雪ノ下は無策と云っていたが、まるっきり策が無い訳でもあるまい。元々計画性の塊みたいな奴だし。

 ふと雪ノ下を見る。

 やはりそうだ。無策と云う割には悩む様子は無い。むしろ清々しいまでに普通だ。

 

 そうなると益々雪ノ下の考えが読めない。

 図書館に連れて来たということは、まず広田少年に読書をさせてこいつが何に興味を示すのかを確認するつもりなのだろう。

 そこから先が見当がつかない。

 読書くらいでこの捻ガキが更生するとは思えないからな。

 そんな思考を展開しつつ、由比ヶ浜に相槌を打つ。

 

「ヒッキーのはただ引きこもりたいだけじゃん」

「うるせえ。俺は、俺の中では希代の読書家なんだぞ。ま、お前のビッチ脳じゃ読書なんて無理だろうけど」

「馬鹿にし過ぎだし。あたしだってもう大学生なんだよ!?」

 

 ぷんすかと頬を膨らませる由比ヶ浜を揶揄っていると、ふと奇異な視線を感じる。

 視線の主は問題児、広田少年。

 広田少年は、俺たちの遣り取りを繁々と見つめていた。

 

「雪乃たちは、友達なのか」

 

 あ、こら、バカっ。

 

「ーー失礼なことを云わないで欲しいわ。確かに由比ヶ浜さんは唯一無二の友人、いえ親友と云っても差し支えは無いのだけれどこの目の腐った男に関しては知り合いという言葉すら怪しいものよ。事実彼の妹経由で連絡先を教えたにも関わらず卒業以来一度も連絡を寄越さない。そんな男は知り合いにも数えたくは無いわ。人として数えるのも躊躇してしまうわ。まあ、もしかしたら余りにも使用頻度が少ないものだから鶏頭の貴方は携帯電話の使い方も忘れてしまったのかも知れないわね。だとしたらごめんなさい。次からは狼煙を上げるか伝書鳩を飛ばすことにするわ、トリ頭くん」

 

 すげえ……いつもより余計にマシンガンぶっ放してるよ雪ノ下さん。

 つーか途中から俺の悪口だよね。

 一気に捲し立てた雪ノ下は多少肩で息をしつつも満足気に笑みを浮かべる。

 由比ヶ浜はそんな雪ノ下にペットボトルの紅茶を渡しながら抱きつく。

 

「はいっ、ゆきのん」

「あ、ありがとう由比ヶ浜さん。でも少し暑いのだけれど……」

 

 何だこの謎のコンビネーションプレイ。お前は雪ノ下のマネージャーかよ。

 奉仕部時代よりもゆるゆりが進行してんじゃねえか。

 

「ま、聞いての通りだ。こいつらは友人関係だが、俺は違うそうだ」

「そんなこと、無いんだけどな……」

 

 蒸し返すな由比ヶ浜。語尾に余韻を残すなよ。思わず「友達なのかな」とか邪推しちゃうじゃねぇか。

 

「トリ頭くんはさて置き、とりあえず行きましょう。ルールや条件は歩きながら説明するわ」

 

 ルールや条件って何だよ。

 本を開かずに読めとか云うの?

 このはし渡るべからずなの?

 トリ頭くんにはとんちは無理難題ですよ?

 

  * * *

 

 図書館に至るまでに雪ノ下が提示したルールは二つ。

 本は、必ず皆のいる場所で読むこと。

 本当に自分が好きな本、興味がある本を読むこと。

 

 なんだそれ。

 一つ目のルールは意味不明だが、二つ目は至極当然のことだろうが。

 わざわざ図書館に来てまで嫌いな本を読む奴は相当の変態か捻くれ者だ。

 よく考えたらどっちにも当てはまってしまいそうで自分が怖い。

 マジ俺畏怖の対象だわ。

 

 それぞれが本を選び、二階の閲覧室に戻ってきた。

 雪ノ下が選んだ本は「若きウェルテルの悩み」の日本語訳だ。

 え、こいつ何。

 何か悩んでるの。

 また姉や母親絡みか。

 

 由比ヶ浜は雑誌のコーナーから偏差値の低そうな雑誌を数冊持ってきている。イニシャルで云うとJが二つ並ぶ奴とかだ。

 ちらと表紙を見ると、昨年一部のファンから惜しまれつつも解散……もとい全員卒業したアイドルグループの元メンバーが丸い顔で笑っていた。

 その下には『この夏おさえておきたい7つのアイテム』なんて、これまたスイーツ女子が好きそうな見出しが踊っていた。

 幾ら読みたい本を読むといっても、図書館はコンビニの立ち読みとは違うと思うんですけどね。

 

 俺は志賀直哉全集の中から「暗夜行路」を選んだ。

 主人公の時任何某が、色恋沙汰や己の出生に悩み、苦しみ、結果すべて許すという内容だ。

 既読の作品だが、図書館に滞在する数時間で読み切ることを考えると丁度良い文字数である。

 こらそこ。暗い話とか云わない。

 リア充がぼっちを極める名作なんだから。

 

 広田少年はーーまだ本を選んでいる段階のようだ。

 

 小説の中、主人公の時任何某が自分が祖父と母との不貞の子だと知った頃、広田少年が席につく。

 手に持っているのは……数冊の図鑑と、考古学の本だ。

 こいつはその方面に興味があるのか。どうでもいいけど。

 再びページに目を落とす。

 

「おい、これなんて読むんだよ」

 

 声の方を見遣る。

 捻ガキ、もとい広田少年が開いたページのある箇所を指差している。

 ちらと雪ノ下を見ると、視線を向けて小さく頷く。

 その首肯の意味を推し測って、広田少年に言を放つ。

 

「ここは図書館だ。辞書の類も山ほどあるから自分で調べろ」

「なんだよそれ、お前は俺の家庭教師だろ」

「残念ながら俺はもうお前の家庭教師じゃない。そこの雪ノ下も同様だ」

 

 雪ノ下を一瞥した広田少年は、不貞腐れるように無言で席を立つ。

 ……帰った、か。

 帰るなら自分が出した本くらい片付けろよ。

 

 しばらくすると、これまた山ほど辞書を抱えた広田少年が戻ってきて、今度は無言で辞書を引きつつ本に向かう。

 

 雪ノ下は、そんな広田少年を見て少しだけ微笑んでいた。

 

  * * *

 

 壁の時計が正午を指し示した。

 

「少し、休憩しましょう」

 

 雪ノ下の言葉で由比ヶ浜が背伸びをする。つーかお前、肩が凝るような本は読んでないだろ。

 あ、肩凝りの原因は別のアレか。

 睨むな雪ノ下。お前には無縁の話だ。

 

 広田少年に目を向ける。

 雪ノ下の言葉に気がついていない様子で、まだ本の世界に没頭していた。

 

「雪ノ下と由比ヶ浜は休んでこい。俺はもう少し読む」

 

 何かを勝手に読み取った由比ヶ浜が微笑む。

 

「……わかった。ヒッキー、お願いね」

 

 由比ヶ浜と雪ノ下が閲覧室を去るのを見届けて、俺は広田少年に話し掛ける。

 

「あまり根を詰めると疲れるぞ」

「うるせーよ、今いいとこなんだよ」

「ほう、どういう風にいいところなんだ?」

「今やっと、人類らしい人類が誕生したんだよ」

 

 ふむ。人類や生物の進化を紐解いているんだな。

 

「じゃあアルディピテクスあたりか」

 

 広田少年が目を見開いた。

 

「え? お前、知ってるの?」

「ああ、その名前くらいはな」

 

 広田少年は身を乗り出す。

 

「じゃ、じゃあさ、その次に出てくる、アウストラロピテクスの中にも分類があるのは?」

 

 若干広田少年の鼻息が荒い。興奮してるのかな。

 原人で興奮とは、さてはお主、かなりの上級者だな。

 

「アファレンシスとか、細かい分類までは知らん。だがアウストラロピテクスの後期の方では石器を使い出したらしいな」

 

 問題児が目を見開く。

 

「すげぇ、ここに書いてあるのと同じだ……」

 

 あ、合ってた。

 良かったー、文系の俺に理系の質問するんじゃねぇよ。

 

「へぇー、大学生ってすげえな」

「別にすごくはない。勉強さえすりゃ誰でもなれる、お手軽な身分だ」

 

 これに関しては異論反論あるとは思う。

 だが、学力面や経済面など様々な問題があっても努力次第で解決は出来るし、調べれば色々な手段はある。

 つまり、やる気次第だ。

 

「……オレでもなれるのか?」

「当然だ」

 

 即答。事実だし。

 だって由比ヶ浜でさえ現役で志望校に合格出来たんだもの。

 悪いな由比ヶ浜。いつもこういう時の引き合いに出して。

 正面、広田少年が俯く。

 

「……オレさ、考古学とかやりたいんだ。化石とか好きでさ」

 

 次第に広田少年の目が熱を帯びる。

 この際、恐竜とか化石なんかは生物学に分類されるんじゃないのか、などと無粋なことは云わない。

 知りたいという意欲、学びたいと思う意思が大事だ。

 広田少年は尚も続ける。

 

「……子供の頃さ、一度だけ母さんが恐竜展に連れてってくれてさ。でかくてカッコ良かったんだよ」

「ほう、その気持ち解らんでもないな。俺も自分が恐竜になって高い目線から周囲を見下す妄想をしたもんだ」

 

 問題児が破顔する。なんだよ、年相応の顔も出来るんじゃねえかよ。

 

「ひっでぇ。違うよ、恐竜ってのは人類が誕生する前は地球の覇者だったんだぞ」

「そ、そうか」

 

 うむ。

 現在までの研究の結果、恐竜絶滅から人類誕生までは六千万年程の時差があるが、今の広田少年にとっては些末な事である。

 学べば何れ解ることだ。

 もっと云えば、恐竜の繁栄は二億年以上前から六千万年程前までだ。対して、人類って長く見積もって二万年くらいの歴史しか無い。

 これらも学べば解る。

 

「そうだよ、お前は何にも解っちゃいない。何で恐竜が滅びたと思う?」

「そりゃお前、隕石が地球に落ちて……」

 

 広田少年が身を乗り出す。

 

「違う! オレは違うと思う」

 

 否定した根拠はお前の意見かよ。まあいいぜ、聞いてやろう。

 

「じゃあ、お前は何が原因だと思うんだよ」

 

 俺の質問に、にやりと笑って一言。

 

「食糧の枯渇さ」

 

  * * *

 

 広田少年の恐竜絶滅論が佳境を迎えた辺りで雪ノ下と由比ヶ浜が戻ってきた。

 

「あー、もう。何でわかんないかなぁ!」

「ちゃんと筋道が立つ説明をしろよ。その時同時に海洋生物も絶滅してるんだぞ。外的要因があったと推測するのが妥当だろ」

「だーかーらぁ!」

 

 バン。

 

 音の鳴った方向を見る。

 雪ノ下が机に本を叩き付けていた。

 

「他の人達に迷惑よ。議論が白熱するのは構わないけれど、もう少し声を絞りなさい」

 

「……はい」

 

 それからしばらくは、各人それぞれの本の世界にダイブした。

 由比ヶ浜だけはファッション誌の流行の波に呑まれて溺れていたけど。

 女子は大変だね。

 

  * * *

 

 図書館を後にする頃には日が傾き、嫌味な程眩しい西日に思わず細める。

 

「ーー雪乃先生、じゃあどうして恐竜は身体が小さな爬虫類に進化したのさ」

「あれは進化と云うよりも、適応と考えるのが妥当では無いかしら」

 

 図書館を出ても、広田少年の熱弁は相変わらずだ。雪ノ下もその弁舌に付き合って、持てる知識を活用しながら答えている。

 

 今回。

 広田少年には僅かの変化があった。

 一つは、恐竜という「夢中になれるもの」を思い出したこと。

 もう一つは、雪ノ下を先生と呼ぶようになったことだ。

 この二つの変化が彼の今後にどう影響するかはわからない。

 だが、きっと良い方に影響することだけは感じられた。

 

「おい」

「何だよダメ大学生」

「お前、自分のやりたいことを母親に話したことは無いのか」

「……ねえよ、そんなもん」

 

 広田少年は語り出した。

 広田少年の本当の父親は既に他界していると云う。弁護士である今の父親は母親が一昨年再婚した相手らしい。

 その再婚を機に母親は変わった。

 息子を弁護士にするべく勉強を強要するようになって、ひどい時には部屋に監禁までされた。

 義理の父親はその様子を見かねて母親に注意したらしいが、それでも母親の勉強に対する強制は未だに続いていると。

 

「オレはさ、弁護士なんかになりたくないんだ」

 

 広田少年曰く。

 法律は人が決めたものだからつまらない。対して、太古の世界にはまだ見ぬ発見が無限にある筈だと。

 ならば、これからやる事は決まったも同然だ。

 

「それを、父親と母親にも伝えてやれ。お前の責任において、お前自身の言葉でだ」

 

 自己責任。

 十三歳の少年には荷が重い言葉なのかもしれない。

 だが俺は真理だと思っている。

 

 時間をどう使うか。

 頭をどう使うか。

 身体をどう使うか。

 その結果、人生がどうなるか。

 それはすべて本人次第なのである。

 自分の人生の責任は、その身を以て自分自身が負うしか無いのだ。

 

 広田少年は俯く。

 

「そだね。言葉で言わないと分からないことって、あるもんね」

 

 神妙な面持ちで俯く広田少年に、雪ノ下が優しい声音を投げかける。

 

「その年齢で自分が好きな道を見つけられたあなたは、本当に凄いわ。私は……未だに見つけられないもの」

 

 広田少年はまだ小さな拳を握り締める。

 

「雪乃先生……オレ、話してみる」

 

 そう言い放つ広田少年は、数時間前よりも少しだけ大人に見えた。

 

「じゃあね、雪乃先生。それと、おっぱい姉ちゃん、あと八幡!」

 

 けっ、俺は呼び捨てかよ。

 あと由比ヶ浜、泣きながら胸を触るな。

 二匹のスライムも泣いてるぞ。

 

 茹だるような暑さの中、少しだけ成長した広田少年の背中が小さくなってゆく。

 彼がこの先、どの様な人生を歩むのかは分からない。宣言通りに考古学者や生物学者を目指すのか、はたまた別の道へ進むのか。

 それは彼自身が選択し、彼自身の責任において努力することだ。

 今の俺たちに出来るのは、その小さな決意を背負った背中が見えなくなるまで見送ることだけである。

 ……いや本音を云えば早く帰りたいけどね。夕方なのにめちゃくちゃ暑いし。

 

  * * *

 

 結局、今回の達成条件は何だったのか。

 今更ながらに疑問に思う。

 結果として彼、広田少年は変化の兆しを見せた。ただそれが、雪ノ下の望んだ結果なのかは解らない。

 そもそも問題って何だ。

 あいつがやる気もなく他力本願であること。

 今回だけでそれが解決、もしくは解消出来たとは思えない。今回は、単に広田少年の知識欲を刺激したに過ぎない。

 

「結局……今日は何だったんだよ」

 

 主旨を示さずにざっくりとした疑問を呈する。

 

「最初に言ったはずよ。今日は図書館で自分の好きな本を読んだ、それだけよ」

 

 強烈な違和感がざらりと胸の奥底を逆撫でする。

 こいつは何を言ってるんだ。

 広田少年の問題をどうにかする為に招集されたのでは無いのかよ。

 

「夏休みの一日くらい、みんなで図書館で過ごすのも悪くはないと思ったのだけれど」

「なら広田のガキを呼んだ理由は」

「あの子、見るからに図書館に縁が無さそうだったから呼んだのよ」

 

 わかんねえ。全然理解出来ない。

 くそっ、何だよこの気色悪いざらつきは。

 

「でも……あの子さ、ちょっとだけヒッキーに似てたよね」

 

 俺の不穏な空気を察したのか、空気読みの達人こと由比ヶ浜は笑みを浮かべて言う。

 その気遣い、無駄にはすまい。

 

「あ? 俺はお前をおっぱい姉ちゃんなんて呼ばないぞ、例え内心では思っていてもだ」

「思ってたんだ!?」

 

 うむ。安心安定のツッコミだ。

 

「そ、そうじゃなくてっ……なんかさ、すぐ自分の世界に入っちゃったり、捻くれてたり」

 

 そんなのは思春期全開の男子にはよく有ることだけどね。その最たる形態が中二病と呼ばれる症状である。

 

「そうね。性格は違うけれど……何となく似ているわね」

 

 え、ちっとも似てないよ。俺の中学時代はもっとクールでダークで暗黒だったよ?

 うわぁ、俺の中学時代って真っ黒だぁ。

 

「だよね。だからゆきのん、あの子を放っとけなかったのかなーって……」

 

 あーもう。

 どうした空気読みの達人。

 迂闊にそういうことを口走るとアレが来るぞ。

 あのマシンガンのような言葉の弾幕が。

 

「ーーどうかしらね」

 

 ……おい。

 違うだろ。いつものご自慢のアレはどうした。様式美って知ってる?

 ーーっ。

 だから良い笑顔でこっち見るなよ。

 調子狂うんだよ。

 

「そーいえばさ、明後日ってヒッキーの家に集合でいいのかな」

 

 ……。

 ……。

 ……はい?

 

 状況が掴めずにきょとんとしていると、雪ノ下が恐る恐るといった風に聞いてくる。

 

「あなたまさか、小町さんから何も聞いていないの?」

「な、何の話でしょうか……」

 

 何だ。

 何だよ。

 一体どんな罠を用意してるんだよ。

 早く。

 早く教えろください。

 

「あの、その」

 

 なっ、雪ノ下が顔を赤らめてる……だと?

 そんなに恥辱溢れる罠なのか?

 つーか恥辱が溢れてどうする。

 

「ゆきのん、頑張って」

 

 意味の解らない由比ヶ浜の声を受けて、雪ノ下が息を吸い込む。

 柔らかな風が舞い、そのブリーツスカートの裾を揺らす。

 

「あなたの、その……そう、誕生日を呪う会よ」

 

 え、呪うの?

 祝うんじゃなくて?

 あっ、字ヅラは似てるよね。

 つーか俺、明後日誕生日か。

 

「ゆ、ゆきのん……ちょっと違うよぉ」

 

 駄目だ。何故かは解らんが雪ノ下がテンパってる。

 まさかこんな現象を拝めるとは、猛暑日の外出もたまには良いかも……じゃなくて。

 

「せ、先月末に小町さんに伝えておいたのだけれど……その様子だと初耳のようね」

 

 はいな。初耳でさぁ。

 何なら聞かなかったことにしてもいいくらいだ。

 理由は、面倒くさそうだから。

 ともあれ。帰ったら小町をとっちめてやらねば。

 まずは小町のプリンを黙って食ってやる。

 

「あっ、も、もしかしたらサプライズしたかった……のかな、小町ちゃん」

 

 ふんっ。そんなことじゃお兄ちゃん誤魔化されませんよーだ。

 すでに小町のプリンの命運は尽きているのだ。何なら冷凍庫のアイスの命も風前の灯である。

 

「単に小町の伝え忘れだろ。で、まさかそれは俺も出席なのか?」

 

 やんわりと欠席の意思を表わすも、額に手を当てたお得意のポーズの雪ノ下に一蹴される。

 

「当たり前でしょう。主賓がいなくてどうするのよ」

「いや、日本人って主賓そっちのけでも盛り上がれるじゃん。花見とかクリスマスとか」

 

 花見の宴席で真剣に桜を愛でるのを見たことは無い。

 クリスマスにチキンやケーキ、リア充どもの奇行やそれに対するぼっち勢の恨みつらみは存在しても、そこに神は居ない。

 

 見ると雪ノ下が頭を抱えて息を漏らす。

 おやおや深い溜息だな。

 きっと印旛沼よりも深いに違いない。

 ちなみに印旛沼の水深は平均二メートル程だ。

 

「あなたに桜のような綺麗さや神様のような尊さは微塵も感じないのだけれど」

 

 奇遇だな。それは俺も感じない。だが問題はそこじゃないぞ。

 

「モノの例えだよ」

「え、ケモノの例え?」

 

 何でこのアホの子は要らないとこに「ケ」を生やしちゃうかな。ムダ毛処理はレディの嗜みよっ。

 お分かりかしら、おっぱ……由比ヶ浜さん?

 

「由比ヶ浜さん、ケモノでは無いわ。比企谷くんの場合は『除け者』ね」

 

 ちょっと。違いますからね。

 周囲が俺を除け者にするんじゃなくて、俺が周囲を避けてるだけだから。

 

「ま、とにかく明後日は空けておきなさい。由比ヶ浜さんと……私のために」

 

 あれれ〜?

 誕生会って、主賓の為に催すんじゃなかったっけ。

 来賓の為のものなのん?

 

 やっぱ俺、いらないんじゃん。

 

 

 




今回もお読みいただき、誠にありがとうございます。

結局雪ノ下雪乃は何がしたかったのか。それは彼女の胸の中だけにあります。

次回以降、少々ネガティブな展開が出てきます。
鬱展開のタグは、この先の展開の保険です。
それを踏まえてお読み頂ければ幸いです。

ご意見、ご感想などお聞かせください。
お待ちしております。

ではまた次回お会いしましょう。


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兆し

久々の奉仕部全員集合の際、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣に誕生会の開催を告げられた比企谷八幡。
その出席者にはーー


 

 八月七日。

 昨日までの晴天から一転、朝から雨が降り始めていた。

 

「つくづく歓迎されてねぇな、俺……」

 

 今夜は、仕切り直しての家庭教師初日である。だと云うのに憂鬱な空模様である。

 

 まあ愚痴を云っても始まらない。愚痴るだけでお給金が頂けるのなら幾らでも愚痴を言うが、世の中のシステムはそういう風に作られてはいない。

 きっとこれは創造主のミスだな。

 熱気と湿気に満たされた自分の部屋を早々に見限って、エアコンの効いた快適なリビングで教材の整理と今夜の授業分の予習を始める。

 と、二階から小町が下りてきた。

 

「……ふぁあああ」

 

 寝起きのようである。

 ところで小町ちゃん。

 もう十時半ですよ。あと一時間半でお昼ですよ。

 幾ら夏休みと云えども、規則正しい生活は大事ですよ。

 と、去年まで小町に散々云われていたのを思い出して可笑しくなる。

 

「あ、お兄ちゃんおはよ」

 

 参考書にラインを引く俺を見て、にへらと笑う小町の目はまだ半開きだ。

 

「早くないけど、おはようさん」

「……むぅ。小町、二時間前から起きてるんだけど」

 

 まだ開き切らない目で睨む可愛い妹を見ていると、まるで普段の自分の顔を鏡で見ているような気分になる。小町に云うと怒るから云わないけどね。

 

「ほう、じゃあその寝癖は二時間も維持し続けてるのか」

「え、マジ?」

 

 髪をさわさわと撫で回して寝癖を確認、ロケットスタートで洗面所に駆け込む小町を傍目に、再び参考書へと視線を戻す。

 

「……今日の分はこんなとこか」

 

 お次は教材の整理だ。

 などと云うと大層な量だと勘違いされそうだが、教材は二枚のプリントだけ。

 つまり前回の広田少年の使い回しだ。

 今回はこれに加え、各設問の解説を書き込んだ解答例を添える。

 それらをクリアファイルに差し込んでいると、洗面所でばたばたがしゃんと暴れる小町が叫ぶ。

 

「あー、明日空けといてね」

 

 騒がしいな。暴れるか叫ぶかどっちかにしなさい。

 出来ればどっちもやめなさい。

 騒がしいから。

 

「昨日雪ノ下から聞いた。小町ちゃん、そういうことはもっと早く云ってね?」

 

 ぴょこんとリビングに可愛く顔を出す。目はぱっちり開いているが、まだ寝癖はそのままだし、おまけに顎の下に洗顔の泡がついてるぞ。

 

「……忘れてましたっ。テヘッ」

 

 可愛いな、おい。

 寝癖と泡でかなり残念なスマイルだけど。

 

「で、誰が来るんだ。出席者によっては逃げる準備が必要なんだが」

「絶対逃がさないけどねっ」

 

 云い残した小町は、今度はキッチンに駆け込む。

 少々の間があり、突然バタンドタンずぶしっ、と音がする。

 ずぶしっ、て何の音?

 何かを何かにぶっ刺したの?

 ねえ。

 

「もし逃げたら……絶交だかんね」

 

 絶交って何だよ。友達かよ。友達いないからわからんけど。肉親の場合は絶縁っていうのが適切だろうに。

 ぺたぺたとフローリングを踏み鳴らして、ジャムを塗りたくった食パンを咥えて戻ってきた小町が俺を見据えて云う。パンを咥えたままで兄を脅迫するとは器用なこった。

 そのまま外へ出たら十字路の出合い頭で転校生とテンプレ的な恋が芽生えそうだな。絶対許さんけど。

 ところでさっきの『ずぶしっ』って音は一体何だったんだろ。

 私、気になりますっ。

 そんなえるたそ的な疑問なぞ露とも知らぬ小町は、パンをもにゅもにゅと咀嚼しながら指を折る。

 

「んーと、雪乃さんに、結衣さんに、戸塚さんにーー」

「なに、戸塚!? 行く行くぅ!」

 

 それを早く云いなさいよ。

 さすが小町ちゃん。抜かりは無いわね。

 ジオン十字勲章ものだわ。

 

「ーーまだ途中だから。それに場所ここだよ。あとキモい」

 

 おおっ……久々に妹が辛辣だ。だが、それを受け止めるのも千葉の兄の務めである。

 その他の業務としては人生相談、おたくな趣味を肩代わりする、などがある。

 まあ、俺の妹がそんなにおたくなはずは無いけどね。

 

「あっ、あと生徒会長さんもだよっ」

 

 うわぁ、一色も来るのかよ。あいつ奉仕部じゃ無いじゃん。

 まあ、小町の立場や雪ノ下、由比ヶ浜との関係を考えると呼ばない訳にもいかないか。

 現在小町は、総武高校にて奉仕部長と生徒会の手伝いの二足の草鞋を履いている。

 つまり、小町にとっては一色いろはも雪ノ下や由比ヶ浜と同じく直系の先輩なのだ。

 

「以上、お兄ちゃんを祝ってくれるメンバーでしたっ」

 

 え。

 

「それだけ……か?」

 

 誰か忘れてない?

 今の俺にとって重要な人物だよ?

 

「なに、それだけって」

 

 小町の目が冷たく光る。

 

「はあ……少し見ないうちに贅沢になったもんだね、お兄ちゃんは」

 

 ずびしっ!

 小町の人差し指が俺の眉間を指す。

 

「だいたいさ、大学生になって昔より多少まともになってきたってだけで、まだ知り合いだってそんなにいないのに。自分のスマホの連絡先を数えてみたら?」

 

 ……ひどいっ。

 じゃなくて。

 

「あっ、まさか結衣さんが中二さんって呼んでた、材、材……」

「あれは要らん。どうせ訳の解らん紙束を渡されるのがオチだ。じゃなくてだな」

 

 あれ?

 本当にわかってない?

 お兄ちゃんは今、奇跡の彼女持ちなのよ?

 八万年に一度のカーニバル状態なのよ?

 

 腕を組んで唸る小町をじっと見る。

 悩んではいない。それよりも、若干困っているように見える。

 焦れた俺は小町に水を向けてやる。

 

「……川崎は、呼んでないのか」

 

 パンをもきゅもきゅと頬張る口元が固まる。

 

「あ、えーと……その」

「……呼んで無いんだな。ま、いいや。川崎には俺から云っとく」

 

 頭を掻きながら伝えた瞬間、小町の口から食パンが落ちる。

 あーあ、後で掃除しなきゃ。

 

「あー、それは……その」

 

 おいおい小町よ。

 それはあんまりじゃないかね。

 

「何だよ、川崎が出席したらまずいのか?」

「うーん、まずいといえばまずいような……」

 

 口ごもる小町の動揺は簡単に見て取れた。なんせさっき床に落としたジャムつき食パンを拾って、うっかり口に戻してしまったのである。

 ちなみに我が比企谷家のローカルルールでは三秒ルールが適用されている。

 ただ、今回のようにジャムを塗った面が床に付いた場合は適用外であるが。

 

「何だよ、はっきりしねえな」

 

 そんな残念な妹に呆れてしまい、苛立ちも加味されて、少々語気が強まってしまう。

 

「ゔー、小町も大変なんだよぉ、依頼……じゃなくて約束だし、どーせお兄ちゃんには彼女なんか出来る訳無いと思ってたし……」

 

 落ちたパンを咥えて頭を抱える小町に本意なく思い、努めて口調を和らげる。

 

「ちょっと小町ちゃん、それはひど過ぎない?」

「だってさ、ごみぃちゃんだよ、ごみぃちゃん」

 

 何だろ。その一言で納得出来てしまう俺って。

 

「ごみぃちゃんなんだもん……」

 

 くっ。

 項垂れて頭を抱えつつも兄に暴言を吐く仕草にちょっとだけ萌えてしまった不謹慎な兄を許せ、小町よ。

 ほんの出来心だ。

 つーか今はそれどころじゃない。

 

「だいたい約束って何だよ。俺が約束した訳じゃないだろ」

 

 うっかり正論を、小町を責める言葉を吐いてしまった。こうなると今までの例から鑑みて小町の行動は二択になる。

 ひとつは「泣く」。そしてもうひとつは「開き直る」である。

 今回小町が選択するのは恐らくは後者だろう。

 

「いいのっ、小町の約束はお兄ちゃんの約束なのっ!」

 

 ほらね。

 つーか何そのジャイアンの定理。

 でもまあ小町の困り顔と必死さで、何となくだが状況が読めてきた。

 いま小町は、依頼という名の約束に縛られている。

 それが何なのか俺は知らない。が、きっと俺が川崎と付き合い始める前の状況下での話なのだろう。

 となると、相手は雪ノ下か由比ヶ浜あたりで、内容は元奉仕部で誕生会を開催したい、と云ったところか。ただ、その理由までは解らないが。

 ちなみに総武高校奉仕部は、小町が引き継いで活動している。

 今回は現役奉仕部に元奉仕部が依頼したのだろう。

 そう考えるとすげぇな、俺以外の奉仕部の絆。

 何れにせよその依頼が誕生会の約束と云うのならば、達成されなければ小町の顔に泥を塗ることになる。

 それはダメだ。小町の顔に塗っていいのはジャムと洗顔フォームの泡くらいだ。

 

 しゃーないな。

 雪ノ下たちが云うには誕生会は先月末からの計画らしいし、先約ってことで今回は小町の顔を立てるか。

 川崎とは誕生会の後にメシでも行って二人きりで祝ってもらおう。

 ……あれ、何考えてるんだろ。

 まだ川崎が祝ってくれるか解らんのに。

 最近の俺、自惚れてるのかな。

 いかんいかん、自重せねば。

 しかしーー何故川崎を呼んではいけないのだろうか。一旦は忘れたその疑問が蘇る。

 

「……何か隠してるだろ、小町」

 

 小町の小さな肩がぴくんと跳ねる。表情が固くなり、目が泳ぎ出す。

 

「え……な、なんのことかなぁ、こまちぜんぜんわからないやー」

 

 棒読みもいいとこだ。

 それから何度か問い質したのだが、小町は「守秘義務だから」と云うばかりで頑として話さない。

 守秘義務、か。

 まったく、誰に刷り込まれた言葉なんだか。ま、どうせ明日になりゃ嫌でも解ることか。

 

  * * *

 

 二人目の生徒、瀬田少年は非常に素直な中学生だった。

 文系科目は苦手だが理系科目はほぼ満点。

 俺と正反対だ。

 だが、文系科目は暗記で何とかなるものがほとんどだ。暗記の要領さえ掴めれば、こいつならば結構な高校、大学に進学出来るだろう。

 

 呆気ないくらいにスムーズに家庭教師のバイトを終えた俺は、いつもの如く愛車カプチーノを駆ってヘッドライトの照らす彼方、川崎を迎えに急ぐ。

 現金なものである。

 多少疲れていようとも、あと数分で川崎に会えるとなると不思議と身体が軽くなるのだから。

 それに似た感覚は知っている。

 中学生の頃、クラスの女子と運良くメールアドレスを交換出来た日の夜に、何を書こうか、どんな返事がくるか、などと妄想の中で一喜一憂していた時の感覚。

 それを百倍くらいに培養して、不安を差っ引いて安らぎを足したのが、およそ今の心境と云えるのかもしれない。

 

 川崎と会うのは夜が多い。

 昼間は川崎のバイトや家の手伝いがあったりするから仕方ないのだが、夜にばかり出掛けさせている身としては、両親や弟妹たちに心配を掛けていないかと不安にもなる。

 まあ、そんな中でも会いたいと思ってくれるのは面映ゆいながらも嬉しいのだが。

 尤も俺の心配は杞憂のようで、愛車カプチーノで川崎を迎えに行くと、その少々騒がしいエンジン音を聞きつけた母親を始め大志、京華が総出で長女である川崎沙希を送り出してくれる。

 なんだろ、このアットホーム感。

 この雰囲気の中、一家総出で見送られたら、例え性欲漲る変態王子でも迂闊なことは出来ない。とある魔王さまに理性の化物と称された俺ならば尚更である。

 まあ実際は、何度か悪魔の囁きに負けそうになっているのだけれど。

 

 近くのサイゼで軽い食事を摂り、川崎のお気に入りの海へと車を走らせる。

 助手席から鼻歌が聴こえてくる。信号待ちで目を向けると、視線に気づいた川崎が顔を赤らめて困ったように俯く。

 かと思えば、俺が気づくまでずっとこちらに微笑みを向けていたりする。

 

 最近、川崎はよく笑うようになったように思う。

 以前は、人前で笑うのが恥ずかしかったのか笑みを押し殺していたが、今はかなり無遠慮にけらけらと笑ってくれる。

 笑いと云うのは伝播するものらしく、川崎が笑うと俺もつられて笑ってしまったりするのだ。

 高校時代、雪ノ下や由比ヶ浜からは散々な云われ様だった俺の気色悪い笑みに、川崎はさらなる笑みを以て返してくれるのだから、俺も自然と笑う頻度が高くなる。

 

 夜十時を過ぎても雨は止まない。今日の天気予報は完全に外れだな。

 たぱたぱと愛車の天井打つ雨粒の音が、やはり軽自動車なのだと実感させる。

 いつものように小さくラジオを流して、雨が降り注ぐ海を眺める。心なしか東京湾の対岸の灯も弱々しくみえた。

 

 限界まで背もたれを倒した、ユニットバスのような狭い助手席で川崎は長い足を折って身を捩り、こちらに身体を向けている。斯く云う俺も、なるべく川崎に正対するように身を捩っている。

 時折沈黙の間隙を縫って川崎の口唇の感触を確かめながら、互いに今日の出来事を語る。

 今日は川崎の話したいことが多い日らしい。

 京華が卵かけごはんにハマっているとか、大志が課題を中々終わらせないとか、そんな内容をつらつらと話している。

 俺は適度に相槌を入れながら川崎の話を聞く。

 

 ーー正直に云おう。

 

 もっと川崎に触れたい。

 話を聞きながらも川崎の肩や口唇に目が行ってしまう。

 

「……あんた、最近目がエロいよ」

「し、仕方ないだろうが」

 

 こちとら童貞歴十九年の歴戦の勇者だ。このまま童貞を保持し続ければ、あと十一年と一日で魔法使いの域に達する強者なのだ。

 惜しむらくは、数少ない今迄の戦いに悉く惨敗していることである。

 俺の歴史は、即ち敗戦の歴史と云っても過言では無い。

 人はそれをトラウマと呼ぶ。

 

「ま、あんたも男ってことか」

「悪かった。少し控えるように努力するわ」

 

 少々居住まいを正して、軽く頭を下げる。

 

「いいよ。あんたにそういう目で見られるの、い、嫌じゃないし」

 

 こんなことを川崎級の美少女に云われて耐え切る奴は男ではない。

 だとすれば、今まで耐えている俺は男では無いのだろうか。

 いやいや。

 俺ほど性の表現力に長けた者などそうはいまい。全て妄想の中の出来事だが。

 愚考雑考を脳内に広げていると、水気を帯びた川崎の目が情欲に訴えかけてくる。

 あかん、負けそうや。

 

「触って……」

 

 ただでさえ這々の体なのに、ましてこんな風に追い討ちをかけてくるのだから、もうじっと耐えてなんかいられない。

 はい、負けました。俺も男でした。

 チキンだけどね。

 要は雄鶏ってことか。

 

「ん……」

 

 チキンはチキンらしく遠慮がちに肩を抱く。

 それだけで胸が熱くなる。性欲ではない何かが胸を満たす。

 自然と肩を抱く腕に力が入る。その力に何ら抵抗することも無く、川崎の顔が胸元に寄ってくる。

 互いの息がかかる、超接近戦である。

 

「あんたってさ、思ったよりも甘えん坊だよね」

「そりゃお互い様だろ」

「……否定は出来ないね」

「ま、あんな寝起き姿を見せた後じゃあ、な」

「……う、うるさい」

「可愛かったぞ、サキサキ」

「ううっ、もう……意地悪」

 

 軽口を叩き合いながら、更に身を寄せ合う。

 次第に川崎の瞳を潤す水気が増してゆくのが判る。

 それを合図に川崎の顎を指でこちらに向けると、抵抗感もなく川崎の顔が俺の顔と正対する。

 

「んっ、んふ」

 

 先に我慢し切れなくなったのは川崎の方だ。自分から顔を近づけ、俺の口唇を奪う。

 それに呼応した俺も川崎の口唇を堪能する。

 粘膜の交換。

 何度交わしても心臓が踊る行為。

 何度交わしても胸が満たされる行為。

 それを、何度も何度も繰り返し交わす。

 きっとそれは、川崎と俺が完全に混ざり合うまで終わらないのかもしれない。

 

 カーラジオが日付けの変わり目を伝えた。

 そろそろ川崎を送って行かなければならない。

 相変わらず川崎は俺の肩に鼻先を擦り付けているが、もう大学生とはいえ嫁入り前の川崎を晩度と朝帰りさせる訳にはいかない。

 

「そろそろ帰るぞ」

「うん……」

 

 その弱い声に思いっきり後ろ髪を引っ張られながらも、俺はカプチーノのシフトを一速に入れる。

 川崎も同様のようで、俯きながらシートベルトをカチリと鳴らした。

 

  * * *

 

 あと二回ほどウィンカーを倒せば川崎家に着く。この時間もひとまず終わってしまう。

 

「ーーねえ、あんた明日誕生日だったよね」

「ん? ああ、そういえばそうだな」

 

 ついぞ今日まで自分自身が忘れていた誕生日を覚えていてくれたのか。さすがは川崎だ。

 

「お祝い、したげるね」

 

 嬉しい。超嬉しい。

 しかし。

 

「いや、それなんだが……」

 

 俺は別段隠すことでも無いと思い、雪ノ下、由比ヶ浜に誕生会を開かれることを正直に伝える。

 その上で詫びると、川崎の反応は驚くほどに淡白で「そう」とだけ答えた。

 

 誕生会の後にメシでも食おうと誘うも、明日は疲れるだろうから無理しなくていい、の一言で終わってしまった。

 

 この時、俺は気づかなかった。

 浮かれていた。

 川崎沙希という身に余る幸せを手に入れ、まるで我が世の春を謳歌する独裁者の如く、有頂天だった。

 

 それに気づいていれば、この先起こる出来事は回避出来たのかも知れない。

 

 雨脚は夜が更けるに従い、いよいよ勢いを増していく。

 

 

 




今回もお読みいただき、誠にありがとうございます。
前回の投稿で総合評価が300を超えることが出来ました。
感想を書いてくださった皆様、評価をしてくださった皆様、そしてお読みくださった皆様、本当にありがとうございますm(_ _)m
私にとって初めてのことで、少々舞い上がっております。
出来ることなら、このまま下がらずにいて欲しいなぁ。

しかしながら、
次回以降、若干マイナスな展開に突入していきます。
って、これ毎回言ってる気が(汗)
それを踏まえてお読み頂ければ幸いです。

ご意見、ご感想などお聞かせください。
お待ちしております。

ではまた次回。


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想いは重く

比企谷家で開かれた八幡の誕生会。
懐かしい面々が懐かしい空気を紡ぐ中、雪ノ下雪乃はある決意を胸に秘めていた。


 

 八月八日、雨。

 

 どうやら俺は天には祝福されていないようで、皆が集まった夕方になってもまだ雨は降り続いていた。

 それでも皆が帰るだろう夜九時頃には止む、と云うのが本日の天気予報だ。

 

「お兄ちゃん、おめでとぉ〜!」

「ヒッキー、おんめでとぉ〜!」

「せんぱいっ、おめでとうございますぅ〜!」

「おめでとう、八幡っ」

 

 比企谷家のリビングに声が響く。クラッカーが立て続けに二発、少し間を置いて二発。最後に一発。最後の一発はセルフサービスだ。

 

 鬱陶しく降り続く雨が吹き飛ぶかの如く高いテンションで叫んだのは由比ヶ浜結衣と一色いろは、そして小町だ。

 祝ってくれること自体は非常に有り難く思うのだが、今はこのテンションが少々うざったく感じる。

 朝から俺はテンションが低い。だからと云っていつもは高い訳ではないのだが。

 原因はひとつ。

 今日は川崎沙希に会えない。その事実が俺を陰鬱にさせる。

 

 とは云っても、それをこの場で見せるのは間違いであることくらいは理解しているつもりだ。

 何せ今比企谷家のリビングに集う面々は、こんな俺の誕生日を祝う為に来てくれたのだから、それ相応の柔和な態度を示さなければ失礼に当たる。

 ひいてはそれは小町の評価にも繋がろうと云うものだ。

 もっと言及すれば、この面々には現在の心情など関係ないのだから、折角の厚意に水を指すことは無い。

 嬉しいことには違いないのだから。

 そんな雑考を断ち切るように二人の女子、もとい一人の後輩女子と一人の戸塚が駆け寄ってくる。

 

「せんぱいっ、おめでとうございますぅ」

「はちまん、お誕生日おめでとう」

 

 語尾を伸ばすな、あざとい笑顔を向けるな。

 変わらないな、一色。

 一方戸塚は、大学生になっても安定の天使だ。

 ふと、新歓やゼミ、サークルの飲み会で酔わされてお持ち帰りされてしまう戸塚の艶姿が脳裏を過る。

 いかん、この笑顔を守らなければ。

 よしまずは籍を入れようか。

 お互い大学生だ。問題は無い。

 

「戸塚、プレゼントは戸塚自身でいいぞ」

「もうっ、はちまんったら」

 

 うっかり吐いた言葉を戸塚はいつもの冗談だと思っているようだ。だが、こちとら高校在学中からちょっとだけ本気だ。

 本気と書いてマジだ。

 何ならたまにネットの無料占いで相性診断してるまである。その入力欄の性別に「戸塚」のチェック欄が無いのは少々不満だ。

 

 そんなこんなで、なんやかんや、やんややんやと始まった俺、比企谷八幡の誕生会。

 そして、その小波に乗り遅れた一人の美少女が不満を口にする。

 

「……何故勝手に始めてしまうのかしら」

 

 焼き上がったばかりのグラタンの皿をトレイに載せたまま、雪ノ下がごちる。

 今日の料理は全て雪ノ下雪乃の監修らしい。とは云っても、この場で雪ノ下レベルの料理の手伝いを出来るのは小町くらいだ。

 雪ノ下がキッチンでオーブンレンジと睨めっこの真っ最中に会を始めてしまったのは、由比ヶ浜と一色だ。

 その主犯格の一人であるあざとい後輩が、口を尖らせる雪ノ下を宥めにかかる。

 

「まあまあ、いいじゃないですか雪ノ下先輩。今日は無礼講ってことで」

「あなたは日常的に無礼で無遠慮なのだけれど」

 

 そういうあなたも大概無礼で無遠慮ですよ。特に俺に対して。

 だが雪ノ下って、ここまであからさまに拗ねる人間だったか?

 

「ゆきのんっ、かたいことは云いっこナシだよ」

 

 自分抜きで会が始められたのが余程ショックだったのか、雪ノ下は親友と評する由比ヶ浜にも溜息を吐く。

 

「由比ヶ浜さん、思えばあなたも大概なのよね……親しき中にも礼儀ありと昔からーー」

「わ、わ、ごめんって、ゆきのん」

 

 慌てて抱きつく由比ヶ浜から朱に染めた顔を逸らした雪ノ下は機嫌を直したらしく、照れ隠しなのか大仰な溜息を吐いた。

 夏のゆるゆり、ありだな。

 

「はあ、もういいわ。お料理が冷めない内に食べましょうか」

 

 自分が音頭をとることで面目躍如を果たした雪ノ下は、優しげな笑みを浮かべていた。

 リビングのテーブルに所狭しと並べられた料理の数々。それを囲むは懐かしい面々。懐かしい雰囲気。

 その光景は、まるで自分が高校生に戻ったような錯覚を起こす。

 

 ほぼ人生初の誕生会は、和気藹々と云った雰囲気だった。

 由比ヶ浜が何か間違え、雪ノ下が訂正し、戸塚が笑う。一色は相変わらずあざといが。

 小町の顔が浮かないのは少々気になるところだが。

 ところで……誕生日には付き物のアレやアレはないのかな。

 

 食事がひと段落ついた頃、キッチンからケーキが運ばれてきた。

 生クリームの上に苺やメロン、桃が輪になって飾られ、真ん中にはチョコレートのプレートが乗せられたデコレーションケーキだ。

 雪ノ下雪乃お手製らしいケーキは相変わらず見事で、このまま店頭に並べたい程の出来映えだった。桃はきっと由比ヶ浜が乗せたのだろう。

 

 ふと雪ノ下と目が合う。

 刹那、雪ノ下は目を背ける。

 え? まだ怒ってらっしゃるの?

 

「こ、これは、その……そう。ケーキを先に出すのはどうかと常々思っていたのよ。本来ケーキは食後のデザートであって、誕生日といえどもやはり食後に出す方が相応しいと……思ったのよ」

「そ、そうか」

「ええ、そうよ。あなたはこうして祝ってもらう機会が皆無だったから分からないとは思うけれど」

 

 え、やっぱおこなの?

 

 蝋燭を立てられたケーキに火が点る。リビングの灯りを消され、蝋燭の炎を吹き消すと、数人分の拍手が舞う。

 うん、恥ずかしい。

 でも悪くないな。

 

「はい、比企谷くん」

 

 雪ノ下が目の前に置いてくれたケーキには、チョコレートの板が刺さっていた。

『ヒッキーおめでとぅ』

 きっと由比ヶ浜が書いたのだろう。文字数の配分を間違えたらしく、最後の「う」だけが窮屈そうに隅っこにあった。

 

「あ、ありがとな。雪ノ下、由比ヶ浜」

「あんれぇ? 小町もかなり手伝ったんですけど」

「小町には感謝してるさ。毎年小町だけは祝ってくれるし。何ならもう嫁に迎えたいまである」

 小町の頭を軽く撫でると瞬く間に顔が紅潮した。

 

「ばっ、ばかっ、兄妹は結婚出来ないの知ってるくせにっ」

 

 最大の賛辞を送ったつもりが何故か怒られた。

 

「せんぱいって、本当アレですよね〜」

 

 アレって何だよ。あっ代名詞ですかそうですね。

 

「ま、まあ、いろはちゃん。ヒッキーもいろはちゃんには感謝してるって」

「どーですかねぇ。今年のあたしの誕生日だって、プレゼントだけ渡してさっさと帰っちゃったんですよ、もうっ」

「東京は遠いんだから仕方ないだろ。大変なんだぞ、千葉から東京って」

 

 しかしこいつ、何でこのタイミングでそういうこと言っちゃうんだろ。

 今までの事象で考えると、こういう場合は何故か責められるんだよな。

 

「……ヒッキー、それ聞いてないよ」

 

 はい、言ってませんね。

 

「あ、いや、それは一色がしつこく強請るから」

「あたしにはくれなかったのに!」

 

 頬を膨らました由比ヶ浜が詰め寄ってくる。

 

「わ、わかった、今度埋め合わせする」

「絶対だよっ」

 

 ふう。一色の奴、あとで覚えてろよ。

 しかし……おかしい。

 こういう時には決まって冷たい視線を投げつけるはずの氷の女王様は沈黙したままだ。

 俯いたままのその姿は不気味ですらある。

 ま、おかしいといえば、何か隅っこでうわ言のように呟いている我が妹もそうなのだが。

 

「ポ、ポイントが、ポイントがカンストだよぉ、マックスハートだよぉ〜」

 

 まったく意味がわからん。何故二作目なのだ。

 プリキュアもガン○ムもファーストが高評価なのに。

 

 この後、お決まりのプレゼントの贈呈となったのだが。

 由比ヶ浜のプレゼントはTシャツだった。

 

「ヒッキーって、そういうアニメの好きそうだよね」

 

 アニメ……?

 広げてみると、胸に大きく縦書きで

『あきらめたら、そこで試合終了だよ』

 と綴ってあった。

 ……なぜ安西先生?

 

「あ、ありがとな。大事にしまっておくわ」

「着ないんだっ!?」

 

 着れるか、どあほう。

 じゃあ次は、雪ノ下あたりか。こいつのセンスも世間離れしてるからなぁ。

 

「私は後で渡すわ。先にどうぞ、一色さん」

「ふえっ? なんでですか?」

「……家に忘れてきてしまったのよ」

 

 雪ノ下が忘れ物、だと。珍しいこともあるもんだ。

 まあ雪ノ下や小町は料理を作ってくれたし、それで充分だしな。

 

「あ、せんぱいっ、プレゼントあげる代わりに何かくださいっ」

 

 何か一色がとんでもないことを仰っているぞ。

 

「わかった。お前のプレゼントは要らん」

「なんですかそれー、あっ何ならファーストキスを貰ってあげてもいいですよっ」

 

 だからそういうことを云うなよ。

 それにもう俺のファーストキスは……ポッ。

 云わせんな、恥ずかしいっ。

 

「要らん。好きな相手が出来た時にとっておけよ」

 

 ぶーぶー言い出した一色の横から天使が顔を出す。

 

「八幡、はいっ。プレゼント、だよ」

「おお、ありがとな戸塚。愛してるぞ」

「もうっ、ねえ開けてみてよ」

 

 戸塚に手渡された小さな包みを開けてみると、カーキ色の紐で編まれた……何だろ。

 

「それはね、パラコードっていう紐で編んだキーホルダーなんだよ」

 

 戸塚の説明によるとパラコード(パラシュートコード)は、とにかく強いロープらしい。うどんより細いこのロープ一本で、百キロ以上を支えられるのだとか。

 しかも解けば1.4mくらいの紐に戻るらしい。

 

「八幡、車乗ってるんでしょ。だからそれにしたんだ。ほら、お揃いだよっ」

 

 戸塚は自分の左手首を見せた。そこには同じ様な編み方をした同じ色のブレスレットが巻かれている。

 戸塚とお揃い。

 世の中にそんな素晴らしい言葉があったとはっ。

 感涙に咽ぶ俺の背中に、女子連中から冷ややかな視線のビームがお見舞いされた。

 

 あっ、結局一色のプレゼントは小説の文庫本でした。しかも新書で持ってるヤツ。

 

 この後めちゃくちゃトランプした。

 主に戸塚と。

 あと、いつの間にか復活を遂げた小町が、激写カメラマンと化していた。

 

  * * *

 

 午後九時。

 夜も更けて、そろそろお開きの時間と相成る。雨は相変わらず降っているようだ。

 天気予報では夜には止むと云っていたから、本日も天気予報の負けだな。

 玄関に向かう途中、陰でスマホをチェックする。川崎からのメール、着信は無い。

 

「はちまん、またね」

 

 玄関先で見送る俺に、戸塚が可愛く傘をさしながら手を振ってくる。

 うーん、送り狼になりたいぜ。

 

「ヒッキー、ゆきのんを送ってあげてね」

「せんぱいっ、雪ノ下先輩のこと、襲っちゃダメですからねー」

 

 え、何それ。マジ?

 それ決定事項なん?

 ……とつかたんは?

 

 ていうか、なんだこの感じ。

 訝しげに面々を見渡すと、皆の後ろの見えないところで小町が両手を合わせて拝んでる。

 何だよ、俺はまだ成仏しねえぞ。今の俺には現世に未練タラタラなんだ。

 しかし、やっぱ何かが引っかかるな。

 

 原因不明の違和感を感じながらも、俺は雪ノ下と共に傘を広げる。

 

  * * *

 

 駅までの道。

 水溜りを避けながら街灯の光を反射する道を雪ノ下と歩く。

 別段会話を交わす訳でもない。

 ただ、並んで歩く。

 沈黙。

 だがそこにかつて奉仕部で感じた心地良さは無い。

 俺の感性が変化したのだろうか。

 

 否。

 

 並んで歩く雪ノ下の様子は明らかにおかしい。

 思い詰めているようでもあり、何かを言い淀むようでもある。時々目が合うと一瞬止まって、すぐに目を伏せる。

 そこに違和感を覚えると同時に、何らかの緊張感も伝わってくる。

 

 駅に近づくと、街灯の明かりが増えてくる。

 自動的に雪ノ下の、思い詰めたような横顔が目に飛び込んでくる。

 やはりこいつは何かを隠している。何かを言い淀んでいる。

 

 なんだ。何なんだ。何か悩み事か。

 俺が雪ノ下の悩みを気にするなど、本来ならば烏滸がましいのかもしれない。こいつは俺よりも数段優秀であり、何より他人に自己の悩みを進んで話す様な人間ではない。

 だが今日の様子は何だ。

 雪ノ下雪乃らしさが著しく欠如している。

 明らかに心ここに在らずだ。

 それに由比ヶ浜や一色の振る舞いも気になる。

 もしかしたら、雪ノ下が俺に悩みを打ち明けやすい機会を作ろうとしていたのか。

 すべては推測である。裏付けは無い。

 だかもし、こいつが悩みを抱えていて、俺に話したいという意思表示を出来ない状態だとしたら。

 烏滸がましいと解っていても俺から水を向けてやるしかない。

 咳払いをひとつ、雪ノ下へと顔を向ける。

 

「な、なあ。何か悩みでもーー」

 

 その瞬間だった。

 傘を離した雪ノ下の手が、俺の肩に乗せられる。

 

「お、おい、傘が……」

 

 風で転がり舞っていく傘を目で追っていると、艶やかな黒髪が視界を埋めた。

 

「……比企谷くん」

 

 その距離、およそ二十センチメートル。

 斜め下から俺を見上げるのは、今にも決壊しそうな潤んだ瞳。

 その瞳の主は、ゆっくりと俺の背中に両の腕を回す。

 距離が、零になる。

 

 まさか。

 

「あなたが、好き……」

 

 雪ノ下の顔が俺の胸に埋まった。

 

「お、おいっ、ちょ……」

 

 傘を差している都合上、あまり強くは突き放せない。

 

「好きなの、もう、抑えられないの」

 

「おい、雪ノ下」

 

 雪ノ下雪乃の告白は、意外なほど心中にすとんと落ちた。

 今まで疑っては打ち消し、疑っては否定して、これ以上の余地の無いほどに否定してきたことなのに。

 

 そうだ。

 こいつは虚言は吐かない。

 俺はまだそれを信じているのだ。

 故にこいつの語る言葉は真実だと。

 

「好き……」

 

 何処で間違った。

 いや、間違ったという表現は失礼だ。俺が間違えた結果がこれならば、今の言葉も否定される。

 それは雪ノ下雪乃を否定することと同義だ。

 

 否定は出来ない。だが、受け入れることも出来ない。

 

 俺には一生こんな瞬間はやって来ないと思っていた。

 しかし、やって来た。やって来てしまった。

 このタイミングで。

 

 つまり。

 

 俺は、今からこいつを、雪ノ下雪乃の告白を断わらなければならない。

 雪ノ下雪乃を傷つけなければいけない。

 息を深く吸い、吐く。

 放つ文言を用意し、気持ちを整える。

 

「……悪い、雪ノ下。俺は、それには応えられない」

 

 時期が違えば。

 タイミングが違えば。

 俺はその言葉を受け入れたのかも知れない。

 

 だが、今の俺はーー

 

「俺は、好きな人がいる。だから、すまん」

 

「それは……誰なの。私の知っている……人?」

 

「ああ、それはーー」

 

 云いかけたところで雪ノ下の柔らかい手のひらが俺の口を塞ぐ。

 やめてくれ、勘違いしそうに……って、勘違いじゃないのか。

 

「……いいわ。やっぱり云わないで。それが誰であろうと、貴方の出す結論は変わらないのでしょう?」

 

「そう、だな」

 

 俺の足りない言葉を受けて、少しだけ身体を離した雪ノ下は俺の顔を見上げた。

 いつもと変わらない表情。

 ただひとつ違うのは、その双眸から零れ落ちる涙だけだった。

 

「もう、会わない方が良いわね……」

 

 言葉とは裏腹に、もう一度俺の胸に顔を寄せた雪ノ下は、俺の背中に回した腕の力を強める。

 

「そう、かも知れんな。だが」

 

 俺にはこの先のことは解らない。だけど、俺の中には高校在学中から未だ揺るぎない気持ちがある。

 それは、互いに衝突し、対立し、それでも尚その居場所を守ろうと足掻いた、脆弱で矮小で、しかし強固な信念。

 あの空間を共有した三人のみしか共感し得ないであろう、信念だ。

 

「お前は……お前と由比ヶ浜は、仲間だ。何処に居ようと、何をしていようと、俺の中でそれは変わらないと思う」

 

 雪ノ下雪乃。

 由比ヶ浜結衣。

 

 この二人の、どちらが欠けても今の俺は存在していない。

 奉仕部があったからこそ現在に至れた。その二人が居たから俺は悩み、苦しみ、答えを出そうとした。それは決して否定的な感情ではない。

 それ程までに、人生に於いてこの二人の存在は大きい。きっとその存在の大きさは、この先の人生に於いても変わらないだろう。

 

 傘に当たる雨が強くなる。

 

「……ありがとう。少しだけ、報われたわ」

 

 俺を見上げる雪ノ下は目に涙を溜めながら微笑んでいた。

 皮肉なことにその微笑みは、今までの雪ノ下雪乃の中で一番美しく見えた。

 

「ひとつだけ、我儘を聞いて貰えるかしら」

「ああ」

「ごめんなさい、じゃあ。もう少しこのまま……」

 

 雪ノ下が俺の胸に顔を埋める。

 押し付けて、嗚咽を必死に押し殺す。

 一瞬背中に手を回して抱き締め返そうとし、腕を下ろす。

 駄目だ。それをしてはいけない。

 その行為に含んだ優しさはきっと欺瞞であり、ただの自己満足だから。

 

 ーー辛いな。こんなに辛いとは思わなかった。

 

 人に好意を向けられること。俺はこの夏、それを知った。

 

 そして今、人の好意を断る苦しみを知る。

 例えばその相手が自分にとってどうでもいい存在ならば、こんなに苦しまずに済むのだろうか。

 だが、経緯はどうであれ俺は雪ノ下雪乃を傷つけた。

 それは揺るがない事実だ。ならば、その責任は俺が負うべきなのだ。

 

 だからせめて。

 雪ノ下の気の済むまでーー

 

 あ。

 

 道路の向こう側。

 一輪の白い傘が咲いていた。

 傘に隠れて顔は見えない。が、すぐに解った。

 

 川崎沙希だ。

 

「ーー!」

 

 傘を放り投げた川崎が走り出す。

 

「わ、悪い雪ノ下」

 

 雪ノ下の両腕を解き、傘を押し付けて川崎の背中を追いかける。

 

 いつの間にか雨は小降りになっていた。

 




今回もお読み頂き、誠にありがとうございます。

今回の話を書き終えて一言。

あーーー、やっちまった。
雪ノ下雪乃が好きな皆様ごめんなさい。
あと、川崎沙希さんごめんなさい。

異論反論を含め、ご意見ご感想をお聞かせ願えたら幸いです。
次回も暗い話が続きますが、もし良ければ読んでやってください。

では、もし良かったら……また次回。


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願い

八幡の誕生日の夜、雪ノ下雪乃に告白された比企谷八幡。
寄り添う二人を目撃した川崎沙希。

噛み合っていたはずの二人の歯車は、欠け落ちていく。


 

 八月八日の夜である。

 比企谷家での誕生会の後。

 

「川崎!」

 

 未だそぼ降る雨の中、俺は走っていた。

 

「……川崎」

 

 目に映るのはシャツターが下りた店先。その軒に架かる庇(ひさし)の下、川崎は立っていた。

 

「なに、してたの」

 

 答えられない。

 正しくは、どう答えたら良いか整理がつかない。

 

「雪ノ下と何してたのかって聞いてるんだよ!」

 

 川崎沙希の叫びは雨の音を掻き消し、町並みに響き渡る。

 

 凡そ初めてみた、川崎沙希の激情の発露。

 ばしゃばしゃと水溜りに足を突っ込みながら歩み寄り、川崎は俺の肩を掴んだ。

 川崎の指先が肉に食い込む。

 

「答えて!」

 

 俺を見据えるその双眸は怒りを宿している。

 

「……すまん」

「謝んないでよ……ちゃんと説明してよ……」

 

 シャツターの軒下に川崎を促す。

 見ると、Tシャツは飽和状態まで水分を吸って、その下のピンク色まで透けていた。

 このままだと川崎が風邪引いちまうな。

 

「川崎、説明するが……聞いてくれるか」

 

 弱く頷く。

 

「実はーー」

 

 雪ノ下雪乃の告白、それからの顛末を出来るだけ正確に伝える。

 勝手に話してしまって雪ノ下には申し訳ないと思う。だがこいつの目には、俺と雪ノ下が抱き合っていたように見えた筈だ。

 今の俺には何より川崎が大事だ。細大漏らさず伝えさせてもらう。

 

 誤解は解けない。何故なら既に解は出てしまっているから。

 そんな風に思っていた。

 だけど、この誤解だけは解かなければいけない。

 例え解けないにしても、その為の努力は惜しみたくは無い。

 こいつなら、川崎沙希なら話せば解るんだ。

 俺は過信してしまっていた。

 

 状況説明が終わる頃には、雨は止んでいた。

 

「……そう」

 

 俺の言い訳めいた説明の後、川崎は泣き出した。

 その姿を、とっくに自分の処理能力が破綻した俺は、何も出来ずに見ている。

 

「雪ノ下の処に戻らなくていいの……?」

 

 何故だ。何故そんな悲しいことを云うんだ。

 そりゃ雨の中に置き去りにしてきた雪ノ下に対しては申し訳なく思う。罪悪感もある。

 だけど、それよりも川崎なんだ。

 何故伝わらない。何故理解されないんだ。

 俯いたまま涙を拭い、川崎沙希が呟く。

 

「……もうね、わかんなくなっちゃった」

 

 何が解らない。今説明しただろ。

 

「雪ノ下と抱き合う比企谷を見て、ああ、やっぱりこれは、あたしの横恋慕なんだなぁ……って」

 

 勝手に決めるな。俺は。

 

「比企谷ってさ、優しいから……だから、こんなあたしを受け入れてくれたんだよね」

 

 違う。そんな感情を抱くほど俺は思い上がっちゃいない。

 ーーいや、川崎の目には、そう映ったのか。

 

「やっぱり……比企谷と雪ノ下ってお似合いなんだよ。悔しいけど」

 

 その結論はおかしい。

 何でそうなる。

 どういう論理でその言葉を導き出したんだよ。

 だけど……。

 そう思わせてしまったのならば、それはきっと俺の責任なのだろう。

 

「あたし一人で舞い上がっちゃってさ、ほんと、馬鹿じゃないの、あたし……」

 

 舞い上がっていたのは俺も同じだ。

 いや、俺はもっと酷い。全ての事柄に対して調子に乗っていたのかもしれない。

 川崎沙希と付き合い始めて、世の中すべてを手に入れたような気分に陥って、すべてが上手くいくものだと思っていた。

 吐き気がするくらい気持ち悪い、自信過剰っぷりだ。

 何より、人の気持ちを考えきれなかったのだ。

 目の前で泣きじゃくる川崎が何よりの証拠だ。

 

「でもね」

 

 川崎の声音は低く、冷たい。

 

「あたしは……同情は要らない」

 

 違う。それは違う。

 少なくとも俺にそのつもりは無い。

 同情で一緒にいた訳じゃない。同情なんかで付き合えるかよ。

 だから勝手に解釈して勝手に纏めないでくれ。

 しかし。

 しかし川崎は、俺の感情を同情と結論付けた。

 それは……川崎の好意を知った俺が、その感情に合わせていただけと云う意味に解釈出来る。

 それは、食い違いや齟齬とは違う。もっと別の何かが強く影響していると思えた。

 それが俺には解らない。

 解らない以上、俺は何も云えない。

 黙って川崎の声を聞く。それだけしか出来ない。

 そしてその声は、言葉は、俺が思い描いてしまった、俺が一番聞きたくない言葉へと一歩一歩、確実に近づいていく。

 

 ああ、もう駄目だ。

 心の中で覚悟が出来てしまった。

 何を云われても己の罪として甘んじて受ける、その覚悟が。

 

「だから……諦める。あんたとは別れる」

 

 最後通告。

 

「もう……さよなら、しよう」

 

 目の前が真っ暗になった。

 覚悟を決めたくせに、さよならという言葉だけが脳内に反響する。

 

 頭を振り、意識を覚醒させ、川崎を見つめる。

 

 ーー!

 

 俺は何も言えなかった。

 川崎沙希の顔を、真っ直ぐ見つめる決意の目を見てしまったら、何も言えなくなってしまった。

 

「でも、最後に……もう一つだけ、我儘な依頼を聞いて。最後だから」

 

 依頼……か。

 

「あんたが言ってた東京ラブストーリー、見たんだ」

 

 俺もまだ見てないのに。いつか二人で見ようと思っていたのに。

 

「あれって、カンチとリカ、最後は別れちゃうんだね……」

 

 きっと主人公たちの名前なのだろうけれど、俺は知らない。

 俺の知らない、川崎だけが知る、ドラマの結末。

 俺たちの結末。

 きっともう、覆らない。

 それは完成されてしまったから。

 

「だから、最後は……せめて最後だけは、ドラマみたいに綺麗に終わりたい。あたしにとっては……あんたが初恋だから」

 

 もう、戻れないのだろう。

 川崎に告げられてしまった。

 俺は受け入れてしまった。

 もう、戻れない。

 

「……わかった」

 

 覚悟を決めた。川崎沙希の真剣な眼差しを見たら、そうせざるを得なくなってしまった。

 

 こうして俺は、誕生日の夜に大事なものを失った。

 

 何が誕生日だ。何がおめでとうだ。

 めでたいことなんて一つも無い。

 雪ノ下を傷つけ、川崎を傷つけた。

 

 それ見たことか。

 この世に神なんて存在しない。存在するのは人の運命を弄ぶ悪魔だけだ。

 じゃなければ、何故雪ノ下は俺に想いを告げた。

 何故川崎はそれを見ていたんだ。

 説明がつかない。偶然にしてはタイミングが最悪過ぎる。

 

 本当に最悪だ。

 だがまだ気づいていなかった。

 本当に最低なのは、今の俺なのに。

 

  * * *

 

 川崎と別れた帰り道。

 俺は、あの後川崎が告げた言葉をひとつずつ反芻していく。

 

 川崎の発言は大きな矛盾を孕んでいた。

 別れる。

 そう告げた直後の「依頼」。

 何故彼女は、終わらせようとしながらも改めての終わりを望んだのか。僅かの延命措置で何がどう変わるというのだ。

 わからない。

 考えても考えても理由が見つからない。

 見当がつかない。

 終わることは、確定してしまったのだ。

 

 ポケットに押し込んだスマホの鳴動に思考が遮断された。

 送信元はーー川崎だ。

 

 こわい。

 メールを開くのが怖い。正直見たくない。

 見たら、読んでしまったら。

 本当にすべてが終わる。

 足は、水溜りの中で止まっていた。

 

  * * *

 

『最後に旅行に行こう。そして、再会したあの場所で終わろう」

 

 実家に戻った俺は、追い縋る小町を振り切って自室に篭ってスマホを見つめていた。

 タイトルに「依頼」とだけ記されたそのメールの短い文章を何度も読む。

 

 意味がわからない。

 

 何故川崎は旅行を提案してきたのだろう。別れを切り出したばかりなのに。

 普通ならば、もう顔も見たくないだろうに。

 わからない。

 整理かつかない。何度メールの文面を読み返しても川崎の感情が読み取れない。

 

 ドアがノックされた。

 大方小町だろう。

 すまん小町。

 心中で詫びつつノックを無視する。

 余裕が無い。思考が状況に追いつかない。頭で理解出来る筈の言葉が、まるで名も知らぬ異国の言語のように思える。

 それでも考えなければならない。

 長年、思考の海の中で生きて来た俺には、考えることしか出来ない。

 

 ノックは、何度も繰り返される。

 

  * * *

 

 時間は無情だ。

 どれだけ疲れていても、どんなに身体が重くても。

 心臓が律動を刻む限り、その生命活動が続く限り、平等に朝は訪れる。

 

 例えその胸に絶望を抱えていようともーー。

 

 一晩ずっと考えていた。

 川崎の言葉の裏を、真意を知るために。

 次第に思考は逸れて、後悔に陥った。

 俺の何がいけなかったのか。何を間違えたのか。

 思いつく限り考えた。記憶を辿れるだけ辿って、俺の罪を掻き集めた。

 導き出した結論は「慢心」だった。

 

 眠気を飛ばすために洗顔を済ませてリビングに行くと、神妙な面持ちの小町がソファーに腰掛けていた。こちらを見て、すぐに俯いた小町の目は赤かった。

 

「おう、おはようさん」

「あ、あの、ね……」

 

 云いたいことは大体察しが付く。

 昨日の件だろう。

 

「……ごめん、お兄ちゃん」

 

 目に涙を溜めて、小町は深々と頭を下げる。

 

「本当にごめんなさい」

「……気にすんな。俺が悪い」

 

 今回の責任は間違いなく俺にある。

 川崎のことは……時期をみて、折を見て二人に伝える。

 その言葉で逃げていた。

 最初に雪ノ下雪乃に再会した時、全て告げるべきだった。

 遅くとも、図書館に奉仕部が集まった時には二人に云うべきだったのだ。

 だがそれをしなかった。

 何故だ。その解は呆気ないほど簡単に出せた。

 心の何処かで、あの二人に告げるのを躊躇していたから。

 

 つまり他の誰でもなく、俺が悪い。

 

 小町は涙を浮かべ、声を詰まらせながらもこれまでの経緯を話してくれた。

 俺の帰郷を知った由比ヶ浜と雪ノ下が、小町に俺の誕生日を祝いたいと相談したこと。

 その中で、雪ノ下雪乃から俺に対する想いを打ち明けられたこと。

 由比ヶ浜は雪ノ下の想いの深さを知って、俺への想いを断念したこと。

 誕生会の後、俺に雪ノ下を送るように云ったのは、雪ノ下に告白の機会を作る為だったこと。

 

「あの後……雪乃さんから連絡もらったんだ」

 

 雪ノ下の言葉は、報告では無く謝罪だったと云う。

 何度も何度も電話口で、ごめんなさいと呟いたそうだ。

 

「もう、お兄ちゃんに合わせる顔が無い、って……」

 

 あの時、雪ノ下は気づいていたんだな。

 俺が雪ノ下を置き去りにして走り出した理由を。

 川崎を追いかけたことを。

 

「……そうか」

「沙希さんにも謝ってた。お兄ちゃんに、沙希さんに……すごく申し訳ないことをしたって」

 

 小町の顔が歪む。小さな握り拳が震える。

 そこに見えるのは後悔の念。自責の念。

 だが違うんだよ小町。

 お前は悪くないんだ。

 だけど、それを云ったところで慰めにしかならない。

 こいつは俺の妹だ。

 誰よりも俺を知っていて、俺は誰よりもそんな小町を見てきた。故にこいつが今、どれだけ自分を責めているかが計り知れる。

 だから、これ以上の責任を背負おうとするな。

 兄の為に妹が責任を負うなんて馬鹿げている。

 

「……もういいよ」

 

 小町の隣に腰掛け、その苦悩で満たされた頭に手を乗せる。

 

「……小町が言えばよかった」

 

 鼻声で呟く。

 軽く髪に手櫛を通すと、その嗚咽は鎮まっていく。

 

「……雪乃さん結衣さんから誕生会の話をされた時に、お兄ちゃんは沙希さんと付き合ってるって、いつもみたいな調子で言っちゃえばよかった」

 

 小町が俺の胴に抱きつくと、再び嗚咽が始まった。

 

「いや、その時点では明確に付き合い始めてなかっただろ」

「ぐすっ……それでも、だよ。沙希さんとお兄ちゃんがそういう感じになってるのは小町、知ってたもん」

「気にするな。時期をみて話すと云ったのは俺なんだからさ」

「でもさ、小町が言い忘れてたせいでお兄ちゃんは誕生会のこと知らなかったし。もし小町がちゃんと伝えておけば、こんなことには……」

 

 嗚咽が激しくなる小町の頭を軽く二回ほど叩く。

 

 こいつは……

 お節介で、調子に乗りやすくて、いつも俺の望まない方向へ事態を誘導する。おまけに訳の解らないポイントをつける。

 だが、此れ程までに兄の為に良かれと頭を悩ませ、涙を流してくれる妹を他に知らない。

 やっぱりこいつは、俺にとっては本当に兄思いの最高最愛の妹だ。

 

 だからせめて、俺の思いや後悔、今考えていることを伝えよう。

 

「俺はさ、全て上手くやろうとしてたんだ」

「うん、知ってる。お兄ちゃんすごく頑張ってたもん……」

 

 頑張ってる様に見えていたのか。俺は自然に振る舞っているつもりだったんだけどな。

 

「でも実際は……上手くやれてると思い込んでいただけ、だったんだと思う。思い上がっていたんだと思う」

「そんなこと……」

「まず、上手くやろうとしたことが間違いなのかも知れないな」

「でもそれは、沙希さんのことを真剣に……」

「ああ、俺もそのつもりだった」

 

 だが、あくまで「つもり」だったのだろう。

 自分自身、初めて感じる幸福の中で俺は冷静な判断力を失った。

 経験の無さや知識の無さを理由に、川崎が望むことを一般的な恋愛におけるそれとすり替えた。

 それでも川崎は笑ってくれた。

 でも実際は、慢心の中で上手く立ち回ろうとして、川崎に嫌われないような恋人役を演じようとしていただけだったのだ。

 つまりそれは、かつての俺が一番忌み嫌った……欺瞞だ。

 

 川崎が俺の表層、上っ面だけを見ていたのなら、それでも何事も無く過ごせていたのかもしれない。

 今回の雪ノ下の件も軽く流してくれたのかもしれない。

 だが、そうではなかった。

 川崎は俺の奥深くまで見ようとしてくれた。そこでは下手な誤魔化しは効かない。

 

 故に見抜いた。

 俺が俺自身を見せていなかったことを。

 彼女が俺の「本物」になろうとしていたのに、俺は彼女の「理想」であろうとしたことを。

 

 もっと本音で話すべきだった。本心を見せるべきだった。

 例え愚かでも笑われても、どんなに醜くても、そうするべきだった。

 何が理解されないだ。

 本音を語らない、本心も見せない。

 そんな奴は理解されなくて当然だ。

 今、はっきり解った。

 

 俺の最大の間違いは、川崎沙希に心を見せようとしなかったことだ。

 

「だから、川崎を悲しませたのは俺の責任、罪だ。雪ノ下を悲しませたことも含めて、な」

「お兄ちゃん……」

「心配すんな。これ以上小町が気を病むことはない。あとは俺の責任、俺の問題だ」

 

 俺は間違った。

 川崎の慟哭も、雪ノ下の嗚咽も、小町の葛藤も、全て俺の間違いから生じたことだ。

 

「……小町」

「なぁに、お兄ちゃん」

「恋愛って……難しいんだな」

「……うん」

 

 こんな俺に川崎は沢山の幸せを与えてくれた。

 一緒に車の中で過ごす幸せ。

 意外な一面を知ることが出来た幸せ。

 今の川崎沙希を形成する初源を知れた幸せ。

 何より、深く想われる幸せ。

 川崎沙希が与えてくれた数々の幸せ。

 なのに俺は、何ひとつ川崎に返せていない。

 これらに報いる為に出来ること。

 その道は川崎が示してくれた。

 ならば俺は、最後の願いを叶える為に全力を尽くすしか無い。

 

 川崎沙希の「理想」の別れを実現する為に。

 

 

 




今回もお読みいただき、ありがとうございます。

恋愛に慣れていない川崎沙希と比企谷八幡。
故に起きてしまった齟齬。
そして川崎沙希が出した結論は、別れ。

本文中で八幡は自分の間違いに気づきましたが、そこにも間違いがあることを知りません。
同時に、川崎沙希も自分の間違いに気づけないままです。
いえ、もしかしたら正解なんてものは存在しないのかも。

こんな話でしたが、ご意見、ご感想などお聞かせ願えたら嬉しいです。

よければまた次回、お会いしましょう。


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恩師、斯く語りき

川崎沙希に別れを告げられた比企谷八幡は、川崎沙希の最後の依頼を受けた。



 

 八月十三日。

 

 家庭教師のバイトを終えた俺は、何の気なしに懐かしいラーメン屋へと車を向けた。

 あれ以来あまり食欲は無いし、別段食べたかった訳ではないが、このまま帰るには何と無く寂しかった。

 

 あれから川崎沙希とは会っていない。連絡も取っていない。

 それを察したのか、時折小町が申し訳無さそうに顔を歪めてくる。

 だが元より小町を責める気はない。

 

 あの日、俺は雪ノ下雪乃に告白された。

 小町はその雪ノ下の決意を知っていたのだろう。だからこそ直前まで俺に誕生会の件を云えなかったのかも知れない。

 それでなくては、小町の苦渋に歪む表情の説明がつかない。

 小町は板挟みだった。

 雪ノ下の依頼を受けた直後、俺が川崎と仲を深めたことを知った。

 その時点で雪ノ下の決意を知っていたとて、一度賛同した身としては小町はどうすることも出来なかっただろう。

 

 それを抜きにしても、やはり原因は俺だ。

 川崎と交際を始めたことを早くあいつらに報告しなかった俺が悪い。

 

 最寄りのコインパーキングに愛車を停め、懐かしい街並みを歩く。

 至る所に見慣れない店が増えているのは時の流れなのか、はたまた俺の記憶違いか。

 ラーメン屋の前には数人の行列があった。

 この熱帯夜に熱いラーメンを食べる為に並ぶとは恐れ入る。

 斯く云う俺もその一人なのだが。

 

 数人が店内に消えた頃、行列の中ほどに見知った顔を見つけた。

 自称若手教師。

 その実体は、独身アラサー行き遅れ女教師。

 平塚先生である。

 どうしよう。

 帰るべきか。

 見つかれば厄介なことになるかもしれない。いや、今までの経験からすると厄介なのはほぼ確定である。

 それで無くとも今は知り合いには会いたくない。

 雪ノ下を傷つけ、川崎を傷つけ、それでも知り合いの前では何事も無かったように振舞ってしまうだろう自分が、本当に嫌で醜く、滑稽に思える。

 しかしである。

 店先に架かる暖簾(のれん)を見た瞬間から、俺の舌と胃はギタギタと云う名の豊潤な味を求め始めている。

 久しぶりに湧いた食欲だ。

 

 しばし熟考。

 結論。迷いは身を滅ぼす。

 

「おう、比企谷じゃないか。久しぶりだな」

 

 アラサーさんに見つかってしまった。

 

  * * *

 

「いやぁー、こういう店は一人では入りづらくてな」

 

 俺は独身変態アラサー行き遅れ暴力女教師(ひらつかせんせ)に腕をロックされ、とある店に連れ込まれていた

 と云っても、なんら如何わしい店では無い。

 ちゃんとした、立派な洋食店だ。

 

「さあ何を頼もうかな。比企谷も遠慮するな、今日は私の奢りだ」

 

 何か一言くらい嫌味でも云ってやろうかと思ったが、目の前で写真入りのメニューに目を輝かせる少女の様な顔を見たら、その気も失せた。

 

「じゃあ、これを」

 

 あまり見ずにパスタっぽいメニューを指で示す。ラーメンの夢が潰えた今、麺類ならもう何でもいい。

 

「カルボナーラだけでいいのか?」

「ええ、麺類が食えれば何でもいいです、もう」

 

 半ば投げやりな俺の確認を取った平塚先生は、手を挙げて店員さんに合図をする。

 

「お決まりでしょうか」

 

 そして、ここから世にも恐ろしい怪奇現象が幕を開けた。

 

「えーとぉ、チーズの盛り合わせとぉ、海老のガーリックオイル炒めとぉ……」

 

 先生、何故語尾を伸ばして丸めるのでしょうか。

 無駄な抵抗(アンチエイジング)なのでしょうか。

 それとも、店員さんがちょっとイケメンだからでしょうか。

 甘ったるい喋り方で、つらつらと注文を告げていく先生の姿は、もう怪奇現象以外の何物でもない。学校での姿を知っていれば尚更だ。

 しっかし。

 カキの何とかグラタンに、前菜三種盛りに、ハンバーグに……どんだけ食うんだよアラサー。

 

「アペリティフはいかが致しましょう」

 

 ア、アペリティフって……なに?

 知らない子すぎて見当もつかないんですけど。

 

「とりあえずビ……えっとぉ、あっ、ロリアンがあるぅ。あたしこれ好きなんだぁ♪」

 

 今、とりあえずビールって云いかけましたよね?

 つまりアペリティフってのはお酒のことか。

 ロリアンって響きがアレだけど、未成年の俺には関係無いな。あっ関係あるのかロリアンだし。無いな。

 俺はただの妹思いだし。

 

「あとはぁ、カルボナーラっ」

 

 きゃるんっ、とか聞こえそうだな、おい。

 まだ平塚先生だから何とか直視出来るものの、面白い見世物には変わりはない。

 ほら見てください。推定二十代前半のイケメン店員さんが顔を真っ赤にしてぷるぷる震えてますよ。牛乳を口に含んでたらもうアウトですよ。

 

「くっ……い、以上で宜しいでしょうか」

「はぁいっ……あっ、ダァリンはこれでいい?」

 

 あれ、何故だろ。

 ぶりっ子してる平塚先生の涙目が話を合わせろと叫んでいる。

 

「あ、ああ。それでいい」

 

 努めて低い声音で一言。

 それで平塚先生はご満悦の顔になった。

 何なんだよこの教師……。

 肩を震わせながら一礼したイケメンさんは、厨房に駆け込むなりブハァッと噴き出すのだろう。

 今俺は、自称若手アラサー独身教師が結婚出来ない理由を垣間見た。

 

「流石だな比企谷。まさに目と目で通じ合うってヤツだな」

 

 いちいち古いです。今は古文の授業ですか。

「ありをりはべりいまそかり」ですか。あんた担当は現国でしょうが。

 思わず溜息が漏れる。

 

「ただのアイコンタクトでしょ。つーかさっきのは何ですか」

「だってぇ……やっぱりこういう店にはアベックで来るもの、でしょっ?」

 

 また古文ですか。

 先生の時代ならいざ知らず、アベックなんて云いませんよ。だからといって、最近の言い方なんてまあ解りませんよね。先生も、俺も。

 そんな若者の流行語に疎い俺たちは素直に「二人組」もしくは「徒党」と呼称すれば良いんです。先生は現国の教師なのですから。

 しかし……。

 

「まだやってるんですか。疲れませんか」

「……疲れる」

 

 そうごちて俯く先生はお世辞抜きで可愛らしい。

 気取らずにそのままにしてればいいのに。

 

「じゃ普通にしてください。いつものままで充分魅力的ですから、先生は」

「え」

「えっ」

 

 あらら、何か地雷でも踏んだのかしら俺。つーか平塚先生の場合、地雷が多過ぎて回避不可能まであるからな。

 しかし俺を見る平塚先生の表情は危惧した形相ではなく、少女のような可憐さを纏っていた。

 

「……ほ、本当?」

 

 ほむん。これはこれで恐い、な。

 

「ええ、俺はたまにしか嘘は吐きません」

 

 アラサーの目から出た怪光線が俺を貫いた。

 

  * * *

 

 食事を終えた後、平塚先生はワインを傾けている。アペリティフっていうのは食前酒という意味だったらしい。

 だったら今先生が手酌で飲んでる三本目のワインは、何リティフなのだろう。

 つーか、ちょっと飲み過ぎじゃないですかね。

 

「で、比企谷」

 

 ほら、もう目が胡座かいて座ってますよ。

 もう帰った方がいいんじゃないですかね。

 

「はい、そろそろ行きますか?」

 

 この人、泥酔したら面倒臭そうだからなぁ。

 つーか先生、まさか車で来てるんじゃないだろうな。

 もしそうなら、どうしたらいいんだ。

 あ、そういえば運転代行っていうのがあるらしいな。それってどうやって頼めばいーー

 

「キミに何があった」

 

 ……は?

 何云ってるのこの人。もう泥酔しちゃってるの?

 

「……いえ、特には」

 

 確かに色々あった。だがもう卒業生だ。高校を離れた駄目ぼっちの為に手を煩わせる訳にはいかない。

 詭弁だな。

 単に話したくないのだ。

 話せば思い出す。それは苦痛を伴う行為だ。

 

「嘘を云うな。ならば何故そんなに悲しそうな顔をしている」

「俺はだいたいこういう顔ですけどね」

 

 グラスのワインを一気に呷って、たんっ、とテーブルに置いたなり、先生はじっと俺を睨んでくる。

 

「……キミの妹、小町くんが珍しく電話をくれてな。泣きながらキミへの謝罪を語っていたよ」

 

 はあ、この人は。

 もう事情を知っているのか。

 ……小町め。もうプリンもアイスも買ってやらん。それ以外は、応相談だ。

 

「分かりました。話しますよ……話せることだけですけど」

 

 俺は自分以外の個人名をイニシャルでぼやかしつつ、五日前の件を語った。

 

「ーーふむ。事情はわかった。その辺のことを小町くんは話してくれなかったのでな」

 

 この酔っ払い教師め、カマ掛けやがった。

 小町はしっかりと守秘義務を守っていたのか。

 一瞬と云えども疑って済まなかった。

 お詫びとして帰りにアイスでも買ってってやろう。

 

「しかし、よもやそんな事態になっていようとはな」

 

 腕を組んで唸る酔っ払い、もとい元顧問の口角がにやりと上がった。

 

「だが、登場人物がイニシャルでは感情移入が難しいな」

 

 まずい。これは非常にまずい流れだ。

 俺のことだけなら良い。しかし少なくともあと二人、川崎沙希と雪ノ下雪乃が関わっている。

 俺と交際していたなどと知れたら川崎沙希の評価が下がりかねないし、俺に振られたなんてバレたら雪ノ下雪乃の沽券に関わるだろう。

 無かったことにするのが彼女たちの為だ。

 故に、このラインだけは死守しなければ。

 

「いや夏目漱石の『こゝろ』もKとか出てくるでしょうに」

「馬鹿者、あれは名作中の名作だ。キミの痴情の(もつ)れと一緒にするな」

 

 いや『こゝろ』もほぼ痴情の縺れですけどね。特に後半の遺書の部分は。

 

「まあ、キミの話に出てきた『K』という人物が誰なのかはさて置き……最近川崎沙希と仲が良いらしいな」

 

 ほろ酔いなのか、少し頬を朱に染めた平塚先生は、俺を抉ってニヤリと笑う。

 

「さ、さあ……どうでしょうか」

 

 馬鹿っ、俺の馬鹿っ。

 思いっきり動揺を見せてどうする。吃るな口ごもるな愛想笑いなんかするなよ俺っ。

 小さく息を吐いた平塚先生は、柔らかな視線を向けてくる。

 

「話したくないのならいいさ。無理には聞くまい」

「……助かります」

「それでキミはどうする。雪……その告白された相手に乗り換えるのかね」

 

 乗り換えるってあんた。総武線の快速から各駅に乗り換えるのとは訳が違うんですけど。

 つーか雪って何だよ雪って。この人本当は全部知ってるんじゃないのか。

 

「そんなこと……出来る訳無いでしょう」

「だろうな。キミは不器用でたまに不気味だが、基本は実直な男だからな」

 

 不気味は余計ですよ、結婚に不器用なアラサー教師さん。

 

「では、君はどうしたい」

「今の俺が何かを望むことは無いです。強いて挙げれば川……『K』の幸せを願うくらいですかね」

 

 ふふんと鼻を鳴らしながら俺を見るその目は教師の目だ。さっきのイケメン店員さんに教えたい。

 これが教師、平塚静だと。

 

「しばらく見ないうちに生意気な口を訊くようになったな。だが……」

 

 テーブル越しに先生の手が伸びてくる。

 

「十年早いわっ」

 

 ぎゅむんっと頬の肉を摑まれる。

 

「いでっ、でぇっ」

「想像してみろ比企谷。川崎にとっての幸せとは何だ。キミにとってはどうだ」

 

 ついに川崎って言い始めちゃったよ、この酔っ払い。

 しかし……考えたことも無かったな。これじゃ振られて当然か。

 川崎沙希にとっての幸せとは何なのだろう。

 大学を出て、良い企業に就職して、良い相手と交際し、良い相手と結婚。

 ……うむ。抽象的過ぎる。

 だが、きっと俺はそれを叶えてやれない。

 能力的にも難しいだろうし、何より別れることは決定しているのだから。

 

「か……『K』と俺の幸せが共存することは、もう無いですよ」

「本当にそうか? キミの十八番の決め付けでは無いのか?」

 

 俺は……答えられない。

 何故だ。

 分からない。判らない。解らない。

 言葉に引っかかるのは、喉につっかえた小骨の如き感情。

 だが、その小骨の正体がわからない。

 後悔か。未だ整理出来ない気持ちか。

 それとも喪失感なのか。

 

「キミは存分に足掻いたのか。もうやれることは残っていないと胸を張って云えるか」

 

 やれること、か。もう無いな。強いて挙げれば、川崎の最後の望みを叶えてやることくらい、か。

 だが、それすら本当に川崎が望むことなのかもわからない。

 もしかしたら、もう俺と会うことすら嫌気が差したのかもしれない。

 

  * * *

 

「車を回してきますので、この方を少し見ていてください」

 

 イケメン店員さんに頼んで店を出て、コインパーキングまで歩く。平塚先生は店内で気持ち良さそうに酔い潰れている。

 

 足掻く。

 

 そんな事、考えもしなかった。考えた処でしないと思うが。

 足掻けば足掻くだけ川崎に迷惑を掛けることになり、更に苦しめてしまうだろう。

 ならば潔く散るべきだ。

 

 だが、今日平塚先生と会ったのは幸いだったのかもしれない。

 話を聞いてもらっただけでも少し楽になった。

 本当、こんなに良い教師は他に知らない。

 もしも機会があるのなら、俺は平塚先生を恩師と呼ぼう。

 多少暴力的でも、行き遅れでも、飲兵衛でも、この人は俺にとってはただ一人の恩師だ。

 さあ、恩師を迎えに行くか。

 

 店の前に愛車カプチーノを着ける。

 店員さんに手伝ってもらって、助手席の低いシートに先生を寝かせてもらう。

 

「えーと、お会計は……」

「先程こちらのお客様から」

 

 ……え?

 どういうことでしょうか。

 

「先生、もしかして……起きてますよね」

「ううんっ、ひきがやぁ……」

 

 寝言らしき言葉を吐く平塚先生と、一瞬目が合う。

 騙された、やっぱりこんな教師は恩師なんかじゃない。

 

「ーー先生。じゃあお先に失礼しますので降りてください。ご馳走様でした」

 

 平塚先生の腕を引っ張って助手席から降ろそうとすると、急にしっかりとした口調に戻って慌て出した。

 

「えっ、あ? 嘘、嘘だから」.

 

 やっぱ演技かよ。元教え子の前で酔い潰れた振りをするなんて目的が解らないです。元恩師さん。

 

「……ちょ、ちょっと待て。キミは酔い潰れたうら若き女性を放置するのか」

 

 本物のうら若き女性が聞いたら怒りかねないので黙っときましょうね。

 つーか黙れアラサー大根役者め。

 

「それだけ弁舌が回れば自分でタクシーに乗れますよね」

「た、頼む。ほんの出来心だったんだよ。送ってくれよぉ」

 

 どんな出来心だよそれ。その出来心で始めた小芝居に付き合わされる俺とイケメン店員さんの身になって欲しい。

 

「……夢だったんだ。男の前で酔い潰れるのが」

 

 ちっさい夢だな。

 いや、そうでもないのか。ワイン三本空けても酔い潰れない男って、そうそう居ないのかもしれないな。

 

「はあ、分かりましたよ。道の案内、お願いしますよ」

 

 斯くして、平塚先生が俺の愛車に乗る二人目の女性となってしまった。

 

  * * *

 

 酒の力も加わってか平塚先生は上機嫌で、道中では鼻歌なんぞを歌っていた。

 

「ふふっ、可愛い車じゃないか比企谷」

「ありがとうございます」

「中々良いものだな。卒業生に乗せてもらう助手席も」

「というか、早く降りてください。もう着いてるんですから」

 

 そう。此処は平塚先生の自宅マンション前である。しかも着いてから、かれこれ五分も路上駐車の状態なのだ。

 

「えーっ、もうちょっとだけぇ」

「ダメです」

「……ちぇっ」

 

 口を尖らせて舌打ちですか先生。可愛いけどそれ以上にイラっとしましたよ。

 

「まあ、とにかくだ。今夜はありがとう、比企谷」

「いえ、俺の方こそご馳走になった挙句に色々聞いてもらっちゃって、すみませんでした」

 

 頭を下げてお礼を述べると、くすっと笑う声が漏れた。

 

「キミも社交辞令を云えるようになったか」

「意外と本心かも知れませんよ」

 

 事実本心だ。

 よく「話せば楽になる」と云う。

 あれは刑事ドラマの取り調べの落とし文句という認識しか無かったが、どうやら話すと本当に楽になるようだ。

 そういえば、平塚先生と会ってからの俺はしっかりと思考が出来ていた様に思う。それは、話を聞いてもらうことである種の余裕が生まれたことを意味する。

 しかも相手は年上。恋愛経験は常敗無勝かもしれないが、人生経験は遥かに勝る人だ。

 この人で無ければ、話せなかったかもしれない。

 今までは誰にも話せなかったことを聞いてくれた先生には、感謝しかない。

 

「では。送ってくれたお礼に、私の恩師の言葉を授けよう」

 

 けほん、とひとつ。

 

『あきらめたら、そこで試合終了だよ』

 

 ……いや恩師って安西先生かいっ。

 どんだけ少年漫画好きなんだよ。

 

  * * *

 

 家に向かう道中、幹線道路をUターンしてアクセルを踏む。

 

『あきらめたら、そこで試合終了だよ』

 

 平塚先生、いや安西先生の言葉が脳内で繰り返される。

 とっくに試合終了のホイッスルは鳴ってしまったのに、まだずるずると考えている。

 

 何のことは無い筈なのだ。

 また独りに戻るだけの話だ。

 結論は出てしまったんだ。

 そう自分に刷り込んできた。

 なのに何故。俺の脳は思考をやめないのか。

 心の何処かで、まだやり直せるとか甘いことを思っているのか。

 

 浅ましい。醜い。

 何かに希望を見出そうとする自分が滑稽で愚かで、どうしようもない屑だと思える。

 あの時の川崎沙希の目を見たはずだろ。

 あの決意の眼差しを覆すだけの材料なんて、俺にある筈はないんだ。

 無駄だ。諦めろ。

 

 言い聞かせても言い聞かせても、頭は回り続ける。

 もう遅いのに。

 

 とにかく俺は、出来ることをする。

 川崎沙希の依頼を完璧にこなす。

 だが、俺がすべきことは何だろう。

 

「考えるか……」

 

 呟きは誰の耳にも届くことなく、排気ガスと共に夏の夜風に浚われた。

 




今回もお読み頂き、ありがとうございます。
ずっと重い展開が続いていたので、シリアスの中にコミカルな表現を入れ込んてみようと思いました。
ある意味冒険的な回でしたが、なかなかうまくいかないですね。
ご意見、ご感想などお待ちしております。
ちなみに、作中に出てきた「ロリアン」は山梨県の勝沼ワインです。

次回の投稿は、早くとも来週末になると思います。
ではまた、いつかの19時にお会いしましょう。


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独白

彼女は、ずっと想いを秘めていた。
誰にも語られることのない、彼女の中の回顧録。


 

 電流が走った。

 この話を聞いたら、半分くらいの人が嘘だと云うだろう。そしてもう半分は、夢見がちな思春期の幻想とでも断じるだろうか。

 でも、事実なんだよ。

 偶然あいつに触れた瞬間、電流が走ったんだ。

 勿論、静電気だったなんてオチは無いよ。

 巧く表現出来ないけど、お腹の奥がきゅっとなるような、不思議な感覚だったことだけは事実だ。

 

 本当のあたしは我儘だ。

 本当のあたしは弱虫だ。

 本当のあたしはすぐ泣くし、気に入らないと額をぐりぐりと何かに押し当てたくなる。

 そして、本当のあたしは……凄く甘えん坊だ。

 

 そんな自分を押し殺して過ごす日々の中で、あいつに出会った。

 第一印象は「知らない奴」だった。

 次に抱いた印象は「お節介」。

 その次は……もう好きになりかけていた。

 我ながら安上がりな女だと思う。インスタントラーメンよりもお手軽かよ、と自分を嘲笑したくもなる。

 だって、去り際に軽く云われた、あからさまに冗談だと分かる言葉だけで、あんなに胸が沸騰してしまったんだから。

 それからの日々は、ずっとあいつを見てた。今思うと病んでたよね、絶対。

 やってる事はストーカーと一緒だもん。

 でも、あいつを見つめるのは学校と予備校だけだったから、何とかギリギリセーフだったと思いたい。

 

 修学旅行が終わった二年の秋にさ、弟に頼まれてあいつの妹に会ったんだよ。そしたら、そこにあいつがいて、生徒会長の候補が云々とか云ってた。でもあたしは、あいつのことしか考えられなかったから、思わず「あんた」って云ったら苦笑された。

 初めてあいつが笑顔を向けてくれた日だ。苦笑だったけど。

 

 それからは時々だけど予備校で話す様になったんだよね。

 冬休みの予備校で、突然話し掛けられた時にはびっくりしたけど、嬉しかったなぁ。

 内容は他愛ない話。

 あたしがたまたま白い服を二日連続で着て行った時、「白、好きなのか」

 って。

 恥ずかしくなっちゃって「何、悪い?」とか云ってしまった。

 そしたらあいつ、何て云ったと思う?

「いや。意外と似合うな」だってさ。

 それからあたしは白が好きになった。

 

 クリスマスやバレンタインも一緒に居られた。と云っても学校絡みのイベントだ。

 あいつの側にはいつもあの二人がいて、凄く羨ましかった。

 遠巻きにあいつを見ていたら平塚先生に「最近、良い顔をしてるな」なんて云われた。

 まさか恋してるなんて云えないから「寝不足じゃ無くなったんで」とか適当に返したら、すっごい素敵な笑顔を返された。

 ああいう素敵な笑顔が似合う女性になりたいな。そしたらあいつも。

 

 高校生最後の新学期。

 あたしとあいつは別々のクラスになってしまった。

 文理選択までは同じだったんだ。違ったのは、私立志望か国立志望か。

 あたしは、家の負担を減らしたくて地元の国立単願のつもりでいる。あいつは私立へ行くらしい。予備校で聞いたら、なんか運命の大学を見つけたとか息巻いてた。

 あいつの色んな顔を見られるのは嬉しい。

 でも、これで会えるのは予備校だけになってしまった。

 

 夏休みは楽しかったなぁ。

 何しろ夏期講習で週に三日も会えるんだ。

 あたしは予備校の時間中ずっとあいつを見ていられる様に、前日に予習してた。

 予備校の為に予習だなんて、我ながら馬鹿だと思う。でもそのお陰であいつを見ていられたし、なんと模試の結果も良くて、初めてのB判定を貰えたんだ。

 良い事づくめの夏だった。

 

 秋になり、冬が来て。

 あっという間に受験シーズン到来。

 合格すれば、あいつは千葉から居なくなってしまう。

 センター試験を控えた正月、弟や妹と初詣に行った。あいつの分も合格祈願しようとして、思わず戸惑ってしまった。

 きっと受験に失敗すれば、来年度からも千葉にいてくれる。

 そんな悪い考えが過る。

 駄目だ。あいつの幸せを願ってあげなきゃ。

 あたしに出来ることはそれくらいだから。

 

 三学期になると三年生は殆んど自由登校だった。そんな中、一足先に受験を終えたあいつが律義に登校してるのを見て苦笑してしまう。

 今思えば、あれは奉仕部との別れを惜しんでたんだよね。

 結局、奉仕部の三人がどういう関係に落ち着いたのかは解らなかった。

 

 あいつは志望する大学に合格した。

 ま、当然だよね。あいつずっとA判定だったし。

 これであいつは春から東京。地理上はお隣だけど、すごく遠く感じた。

 

 卒業式。

 本当はさ、第二ボタンが欲しかったんだよ。

 でもあたしは……云えなかった。

 烏滸がましいと感じた。あたしにはそこまでの関係は築けなかったから。

 だから、代わりに袖口のボタンを貰いに行ったんだ。

 そしたら、あいつのブレザーには一つもボタンは残ってなかったんだ。

 前のボタンは三つ。袖口の小さなボタンは二つずつ。

 奉仕部の二人は分かるよ。あと生徒会長さんか。

 でも。あとの四人って、誰だったんだろ。

 そういえば、前の生徒会長さんとか平塚先生がきゃっきゃ騒いでたっけ。

 気になるなぁ。

 

 桜の季節。

 あいつと通った予備校の前で足を止める。

 合格の験担ぎで植えられたと云う染井吉野も満開で、風にひらひらと舞う花弁を独りで眺めていると、たった数ヶ月前の日々が幻想のように思える。

 思い出すのは、あいつの顔と仕草。

 きっとあの日々は、あたしにとっての青春だったんだ。

 

 四月。

 あたしは地元の国立大学にいた。

 とりあえず必修を中心に適当に予定を組んで、新しい生活をスタートさせた。

 大学の授業、講義には当たり外れがあることを初めて知った。

 知識があるからって、教えるのが上手いとは限らないんだね。

 でも、どんな講義だろうと文句は言わない。

 あたしには夢がある。

 あいつみたいな生徒を、あたしが見守ってやるんだ。

 不器用で怠け者で、そのくせ器用で働き者。

 捻くれていて、でも優しくて。

 自分から貧乏くじを引きまくって、いつも損ばっかりしていた優しい男の子。

 そんな子たちを、今度こそあたしが守ってやるんだ。

 

 梅雨。

 紫陽花の咲く季節に、懐かしい顔に再会した。

 同級生だった、女の子のように可愛い男の子。

 彼は、相変わらず柔らかい笑顔を湛えていた。

 挨拶もそこそこに彼は「何か寂しそうだね」なんて云うから驚いた。

 続けて「忘れられない?」とか云ってきて、すべて理解出来た。

 ああ、目の前に座る彼には、あたしの秘めた想いは見抜かれてるって。

 まあ、あいつの数少ない友達の一人だし、あいつの友達をやってるって事は、内面を見抜く目を持ってるって事だ。

 彼はこうも云った。

「忘れられないなら、きっとそれは本物だね」

 果たしてそうなのだろうか。

 あたしはずっと、恋なんて一過性の熱病の様なものだと思っていた。

 時が去れば、いつかは忘却の彼方に消えてしまうものだと。

 でも、忘れられない。それどころか気持ちは大きくなる一方だ。

 父親が口ずさんでいた「会えない時間が、愛育てるのさ」なんて歌詞が浮かぶ。

 きっと今のあたしがそうなのだろう。

 しかし、報われない愛が育ったところでどうなると云うのだ。

 そんなもの、決して実りはしない。

 誰かに伐採されてしまうか、朽ち果てる末路しか思い描けない。

 

 でも、目の前の彼は違う意見を持っていた。

「次に八幡に会った時が勝負だね」

 そんな。会える訳ない。

 あいつは東京にいるんだ。

「きっと夏休みには帰ってくるでしょ」

 夏休み、か。

 あいつの大学って、いつから夏休みなのかな。

「八幡から連絡が来たら教えるから、頑張ってね」

 その言葉は真実だった。

 

 七月中旬。

 半信半疑のまま交換したアドレスからメールが届いた。

 そこには、あいつが帰ってくる日が記されていた。

 あいつが帰ってくる。

 それだけであたしは浮かれてしまう。

 安上がりな女の再来だ。

 逢えると決まった訳じゃないのにね。

 気がついたら、あいつの好きなコーヒーを数本買っていた。

 その一本を手にとってプルタブを開けて、一口流し込む。

 甘い。甘ったるい。

 でも、あいつと逢えたら、あいつと触れ合えたら……こんな甘さじゃ済まないだろうね。

 

 その時のあたしは、本当にあいつと再会出来るなんて、思わなかったんだ。

 

 

 




お読みいただき、誠にありがとうございます。
今週末の投稿までお休みするつもりだったのですが、書いちゃいました。

もうすぐこの物語は終わりを迎えます。
今週末には更新しますので、何卒宜しくお願いします。


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それを胸に

別れに向けて動き出した二人。

やがて二人は終着駅へと辿り着く。


 悪夢の様な誕生日から凡そ二週間が過ぎた。未だ川崎沙希へは連絡をしていない。

 

 ならばこれまで何をしていたのか。

 

 俺はこれまで、家庭教師の他に二つばかりアルバイトを掛け持ちしていた。

 

 家庭教師がある日は、それが終わり次第ビジネスホテルのフロント業務の夜勤に入り、家庭教師が休みの日はそのままホテルのフロント夜勤に入った。

 昼間は最低限の睡眠以外は日払いのバイトに勤しんだ。盆休みで従業員を休ませる為の臨時バイトってやつだ。

 仕事漬けの日々を過ごす俺に、小町は何度か云った。

 

「お兄ちゃん、もうやめて……壊れちゃうよ」

 

 あれから小町は笑顔を見せていない。母親は俺を腫れ物扱いし、父親はそんな家族を黙って見ている。

 

 誰にも事情を知らせていない為、家族や周囲は俺が気を違えたのかと思っているのかもしれない。

 それでもいい。

 働いていれば気が紛れる。余計なことを考えずに済む。

 まるっきり何処かの社畜みたいな言い草だが、事実そうなのだから仕方が無い。

 

 こうして俺は金を作った。

 

 ベッドの上に並べた諭吉の群れを見つめながら、川崎宛てのメールを綴っていく。

 一泊二日の旅行。川崎の最後の願いをそこで叶える。

 まあ、まだ川崎に行く気があればの話だけれど。なんせ二週間も連繋(れんけい)が無いのだから。

 だが今回は、それが川崎沙希の依頼の骨子である。伝えなければならない。

 

 二週間経った今になっても、川崎が別れを切り出した後にこんな依頼をしてきた理由はわからなかった。

 別れたらその場で終わりじゃないのか。

 考えても悩んでも、どれだけ脳を追い詰めても彼女の気持ちはまったく掴めない。それも俺の経験値の低さ故なのか。

 

 メールの文言を入力し終えて、あとは送信をタップするだけ。

 返信が無ければ……それまでだ。

 

 意を決してメールを送信してから五分。

 その永遠とも感じた沈黙を破って、返信メールが届いた。

 

 返信の内容は簡素な文面。いや、文面にもなっていない。

 本文には『了解』の二文字だけ。川崎らしいといえばそれまでだが、やはり今の状況では一抹の寂しさを感じてしまう。

 思うところはあるが、兎にも角にも計画は了承されたようだ。ひとまず安堵すると、追って川崎のメールが届く。

『費用教えて。半分だす』

 そう来ると思った。が、その提案は断った。

 今まで間違い続けた俺の、最後くらいは彼氏らしいことをしたいというちっぽけな意地だ。

 

 何にしても。

 考える事やする事が目の前にあって助かった。

 あの日あの時あの場所で終わっていたら、きっと無気力になって、自暴自棄になって。

 俺は俺に戻れなくなっていただろう。

 結局、最後の最後まで俺は川崎沙希に救われたのだ。

 

  * * *

 

 八月二十六日。

 

 嫌味な程に強く照りつける午後の陽射しの下。

 特急踊り子号に揺られた俺と川崎は、静岡県の熱海駅に降り立った。

 

 熱海を選んだ理由は簡単で、川崎の希望を叶えられる場所は、ここしか思い浮かばなかったからだ。

 

 熱海駅のホームに、川崎の空色のワンピースの裾が舞う。青みがかったその長いポニーテールと合い俟って、爽やかな印象を受けた。

 

 新幹線が停車する駅にしては駅舎は思ったよりもちんまりとしている。

 

 熱海駅を出て辺りを見渡す。

 あの建設中の高層ビルはマンションか何かだろうか。

 

「うわぁ」

 

 川崎の声に振り向くと駅の全容が目に入る。

 意外と立派な建物だ。

 階層は高くないものの、新しそうな駅ビルがどっしりと構えていた。さっき通った改札口は裏口だったのだろうか。

 

「で、どうする?」

 

 周囲を見渡していた川崎が振り返る。長い髪が風に泳ぐ。

 思わず見惚れそうになり、直視を避ける為に腕を組んで頭を捻るポーズを取ってみせる。が、実はこの先の予定は結構決めていたりする。

 今回の日程には、今までの川崎との会話から拾い出した、願い事と思われる項目を詰め込んである。

 俺は、それを卒なくこなす。

 今の俺に出来る彼氏面はそれ位のものだ。

 しかし暑い。

 肩に掛けたバッグが鬱陶しい。

 

「とりあえず荷物を置くか」

 

 時刻は午後二時過ぎ。

 まずは荷物を置く為に宿を検索する。

 スマホをタッチして場所を伺うと、すぐに教えてくれた。

 

「えーと……お、案外駅から近いぞ。徒歩で二十分くらいだな」

 

 今回はホテルではなく旅館を選択した。

『熱海って温泉でしょ。じゃあ旅館だね』

 これも川崎の希望のひとつだ。

 

「近いなら、歩いちゃおうか。こういう機会でも無いと、あんた運動しないでしょ」

 

 まあ、その通りだな。

 旅館に迎えの車を頼もうとした指を止めてスマホの画面を閉じる。

 

「よし、歩くか。暑いけど」

 

 本当に暑い。猛暑日どころではない。きっと酷暑日とか云う奴だ。あ、でも体温で云えば風邪引いた時くらいか。

 くだらない屁理屈だ。

 

「じゃあ、まずは旅館に荷物を置いてから、熱海の街を散策だね」

 

 待ち合わせの時にも感じたことだがーー、二週間振りに顔を合わせた川崎は驚くほど普通だった。

 ともすればこの旅行の後に別れが待つなど、嘘に思えてしまう。

 もしかしたら大掛かりなドッキリか、はたまたこの二週間で考え直してくれたのか、などという淡い希望を抱いてしまいそうになる。

 だがそれは無い。あの夜の川崎の決意は真剣だった。

 拒絶では無く、終わりを悟った目だった。

 だが今、目の前で微笑む川崎は普通だ。余りにも普通なのだ。

 ならばせめて俺も、努めて普通に振る舞うべきだ。

 

「ああ、そうだな」

 

 しかし気づいてしまう。いやお互いに気づいているのだろう。

 よく観察すると、川崎は普通に振る舞うことで恙無く終焉を迎えようとしているようにも見えるし、俺は俺でこれ以上川崎を傷つけないことを前提に、無事に幕を降ろすつもりでいる。

 

 つまり、これは欺瞞だ。

 互いが互いを演じるだけの、お寒い三文芝居。

 

 だが、これは俺の罰だ。

 図に乗って自分を見失い、川崎を見失い、欺瞞を続けてきた俺への報いだ。

 

『人は役者 人生は舞台』

 

 今は、誰が云ったか解らないこの台詞に身を委ねよう。

 

  * * *

 

 宿に向かう途中、スマホを弄って事前に調べた熱海の情報を確認する。

 

「ーー何見てんの?」

 

 川崎が腕を絡ませてくる。

 

「あ、ああ。熱海の情報をちらっと」

 

 川崎がくすりと笑う。

 

「あんたって、意外とマメだよね。そういうとこ」

「スムーズに物事を運びたいだけだ」

「ふぅん、ま、いいや。行こ」

 

 川崎の最後の願いだ。

 予期出来るトラブルは回避するに越したことはない。

 故に俺のスマホには、あらゆる状況に対応出来るだけの情報を詰め込んだつもりだ。

 

 これが、最後の役目だから。

 

 あちらこちらと散策しながら歩いた所為で、宿に着いたのは夕方近くだった。

 途中、足湯に浸かっていた時間が長かったな。川崎が気持ち良さそうにしていたのを見て、中々動けなかったのも、また俺の所為だ。

 

「うわぁ……すごい」

 

 旅館の和室に案内された川崎の第一声だ。

 まだ青々とした畳が敷かれた広い和室。

 その畳張りの座敷の向こうには床面まである開放感溢れる大きなサッシがある。そこに狭い板の間があり、小さなテーブルを挟んで椅子が二脚据えてある。

 

 川崎が感嘆の声を上げた原因は、その向こうだ。

 

 低い竹垣の向こうに広がるは、一面の青。

 

 青い海原は途中で藍色になり、水平線まで果てしなく続く。

 その上空、高く積み上がった雲たちは沈みゆく太陽を一身に浴びて、淡いオレンジ色に光っていた。

 東向きの部屋なので夕日は見えないけれど、川崎の表情を見る限りは此処にして正解だったようだ。

 

 部屋と景色をひと通り眺めたあと、仲居さんが淹れてくれたお茶を飲んだ俺と川崎は、或る店を目指していた。

 

 

 ーー比企谷と街をぶらぶら歩いたら楽しいかな。

 以前の会話に出てきた、その願いを叶える為に。

 

 目当ての店は宿から徒歩で二十分ちょいだが、そこまでは、海岸線を歩いたりしながらぶらぶらと歩いていく。

 

 途中、川崎が気になった服屋に寄ったり、ご当地モノのキャラクター商品が飾られた店先で立ち止まったり。

 俺が見つけた謎のガチャガチャに怪訝そうな顔をしたり。

 尾崎紅葉の碑の前でぼんやりする俺に川崎が呆れたり。

 

 ゆっくり、ゆっくり。

 普通なら二十分少々で着く場所に、一時間以上の時間をかけて歩を進める。

 まるで、そのラストに向かう一歩を惜しむかのように。

 そう思っているのは俺だけかも知れないが。

 

 

 ーー比企谷の選んだお店で、いつか一緒にご飯を食べようよ。

 これを聞いたのはいつだったかな。

 

 この願いの為に選んだ店は、とある洋食屋である。

 ホームページによれば、創業は昭和二十一年。

 終戦直後からある老舗で、保養地である熱海へ足繁く訪れた多くの文豪や数々の著名人に愛されたというこの店は、読書家ならば一度は訪れたい店である。

 

 ニスが塗られた木製のドアを開けて、店内に踏み入ると、そこは別世界だった。

 店内を照らすのはランプの灯りに似た暖色の照明。

 カウンター席の向こう、オープンキッチン風の厨房では数人のコックさん達が忙しなく動いている。

 テーブル席に目を移すと、美味そうな匂いと共に何組かの先客たちが談笑しつつ料理を楽しんでいる。

 

 迂闊だった。

 てっきり街の洋食屋程度に考えていた。

 これはもう、レストランだ。

 店内の雰囲気に呑まれ、気押される。

 

「うわ……すごいお店」

 

 川崎も同様の思いを抱いたのか感嘆の息を漏らしていると、横から声を掛けられる。

 

「比企谷様、でしょうか」

「あ、は、はい……」

 

 うーん、緊張する。

 誰かの為にお店を予約するなんて初めてだ。

 そして、多分これが最後になるだろう。

 

「お待ちしておりました」

 

 そりゃお待ちするよな。宿を出る時に「もうすぐ着きます」なんて云っておいて、一時間近くも掛かってたら、お店だって不安になるだろう。

 

「あ、いや。こちらこそ遅くなりましてーー」

 

 俺の何とも言い訳がましい言葉を笑顔で流したウエイターさんに、奥のテーブル席へと案内される。

 

「……比企谷さ、よくこんなお店知ってたね」

 

 テーブルの向かい、きょろきょろと視線を動かす川崎が云う。

 

「ああ、ここは谷崎潤一郎とか志賀直哉が熱海滞在中に通い詰めた店らしい。結構有名だぞ」

 

 実際俺が知ったのも何かのテレビ番組がきっかけだった。あの時は、すぐにパソコンで調べてとりあえずブックマークしておいたのだが、まさかこんな機会に役立ってしまうとは思わなかった。

 

「そうなんだ。店内もお洒落だし、落ち着くし、居座っちゃう文豪たちの気持ちがちょっとだけわかるね」

 

 川崎の云う通り、座ってみると非常に居心地が良い。酒を飲める年齢だったら、飲みながらずっと居座ってしまいそうだ。

 

「だな」

 

 うん、ここで文壇を飾った文豪たちが持論を主張し合っていたと思うと、胸にくるものがあるな。

 さすがに店内の明るさでは執筆は難しいだろうけど。

 

「メインは決めさせてもらったから、他のメニューは好きな物を選んでくれ」

「でも」

「いいから、食べたい物を選んで欲しい。あとダブルメインもありだから」

 

 俺の言葉に頷いた川崎のチョイスは、前菜にサラダ、スープはコンソメ。デザートはカボチャのプリンに決める。

 つーかこの人、安めのメニューで固めてきてるよね。

 しっかり者なのは分かるけど、気を遣わなくてもいいのにな。

 程なくして目の前にサラダとスープ、ライスが並べられる。手を合わせてサラダへとフォークを突き入れた川崎は、早速ひと口頬張る。

 

「へぇ、美味しいね。こんなのあたし作れないよ。このドレッシングってどうやって作るんだろ」

「簡単に作れないのがプロの味だろ」

「でもさ、大志や京華たちにも食べさせてあげたいしさ」

 

 こいつ、何処に来てもブラコンでシスコンだな。

 そんな川崎に惚れたのだから否定はしないが。

 

 食事は進み、ついにメインの登場だ。

 タンシチュー。

 これぞ文豪たちが愛した一品、という触れ込みだ。

 

 皿の真ん中にどかっと陣取る肉を見る。

 見るからに柔らかそうなタンである。

 ナイフでなくスプーンを取り、シチューから半分ほど顔を出しているタンに差し込む。

 するり。

 まるで、ナイフと間違えたかと思うほど、容易くスプーンは肉に吸い込まれた。

 うは。超柔らかい。思った以上だ。

 一口、頬張る。

 若干酸味の強いデミグラスソースに包まれたタンは、程よい歯ざわりを残して口内で解れる。

 うん、美味い。

 俺が咀嚼するのを見て、川崎も同様にタンシチューを口に運ぶ。

 

「うわ……これ美味しい」

 

 どうやら川崎も気に入ってくれたようだ。

 

  * * *

 

 ーー比企谷と花火を見たかったな。

 その話をしたのは、花火大会の翌日だったな。その時は、もっと早く云えよって思ってしまった。

 

 ここ熱海の花火大会は夏だけではない。

 一年に十回以上、何ならクソ寒い十二月にも開催するらしい。

 さすが熱海。名だたる文豪……は関係ないか。

 

 さて。花火大会の会場は、現在食後のコーヒーを飲んでいるレストランから徒歩で十分もかからない距離だ。もう少し経ってから出れば開始には充分間に合うだろう。

 川崎がコーヒーを飲み干したのを見計らって声を掛ける。

 

「もう少ししたら出よう。花火が始まる」

 

 頷いた川崎は、コーヒーカップを見つめていた。

 

  * * *

 

 人。人。人。

 花火大会の場所が近づくに連れて人が多くなる。

 予想はしていたが、花火大会の会場近くは予想以上に混雑していた。

 もう民族大移動である。

 

 お互い人混みが苦手な俺と川崎は、示し合わせたように混雑を避け、少し離れたベンチで腰を落ち着ける。

 その距離は、微妙に遠い。

 

 程なくして花火が始まった。

 夏の夜空に咲く、一瞬の徒花。

 その大輪の花が弾けて咲く度に、群衆から歓声が上がる。

 その声を遠くに聞きながら、俺と川崎はベンチに腰掛けたまま夜空を見上げる。

 ふと体温を感じる。知らぬ間に身を寄せていた川崎の頭が肩に乗せられている。

 この一ヶ月余りで幾度となく感じた重み。

 この重みは、明日には消えてしまうのだ。

 

 目に焼き付けよう。脳裏に刻もう。

 この一瞬の煌めきを。この一瞬の表情を。

 もう失うことが確定してしまった、この寂しそうな笑顔を。

 

  * * *

 

 花火大会が終わると、人の群れがそれぞれに散っていく。

 俺と川崎は、いつの間にか繋いでいた手を離さないように、人波を泳ぐ。

 この少し冷んやりとした手は、今だけは俺のものだ。

 

 辺りを散策しながら

 旅館に戻った俺は、あるミスに気づく。

 旅館の夕食を断るのを忘れていた。

 

 部屋の座卓の上に伏せられた二つの茶碗が寂しそうに見えた。

 

 結局、川崎の「勿体無い」の一言で、旅館が用意してくれた晩飯を食べるも、やはり全部は入り切らない。

 思案していると、仲居さんが入ってきた。

 仲居さんに川崎が話しながら頭を下げると、瞬く間に料理は下げられた。

 ミスをしてしまった。

 川崎と旅館の方たちに申し訳ないことをしてしまった。

 

 午後十一時。

 この旅館の風呂は温泉である。

 何なら熱海で温泉が無い宿を探す方が難しい。

 

 この宿の風呂は大浴場、家族風呂、それに露天風呂だ。

 残念ながら今の時間、露天風呂は女性専用の時間帯である。

 ということで、川崎は露天風呂、俺は大浴場へと向かう。

 

 大浴場といっても、まるっきり景色が見えない内風呂ではなかった。

 嵌め込みの大きな窓ガラスの向こうには部屋からと同様に相模湾が一望出来る。

 窓枠越しでもこの景観。

 露天風呂にいる川崎から見える眺めは素晴らしいのだろう。

 ……覗きたくなんてないもん。

 

 川崎と俺が風呂に行っている間に座卓は片付けられ、代わりに部屋に現れたのは、ふた組の布団。

 行儀良く並べて敷かれている。

 

 思わず息を飲む。

 

 ーー比企谷と、したい。

 

 花火を見たあとにメールで送られてきた……川崎の希望だ。

 近くにいるのだから直接……は言えないか。こんなこと。もしも云われても俺には対応出来っこない。

 だが、これに関しては甘受出来ない。川崎にもそれは伝えてある。メールで。

 川崎と俺は、明日には終わってしまう関係なのだ。

 それなのに、これ以上川崎を傷つける行為は出来ない。

 

 だが、ああいう事を云われてしまうと、どうしても意識してしまう。

 目の前の、ぴったりくっ付けられた二組の布団が更に想像を掻き立てる。

 

 ……駄目だ。

 やはりするべきではない。

 幸いなことに、川崎はまだ風呂から戻っていない。

 よし、この隙にーー。

 

「ーーなにしてんの」

 

 え。

 浴衣姿の川崎が怪訝な表情で立っている。

 帰ってくるタイミング、絶妙過ぎないですかね川崎さん。

 きっと川崎の目には、俺がせっせと布団をいじって準備しているように映ったのだろう。

 だからこそ、こんなことを云うのだ。

 

「……比企谷がしたいなら、いいよ」

 

 ごくり。

 

 唾を呑み込む音が喉元に響く。

 

「い、いや、それはマズい。それ以外の希望を言ってくれれば、それは叶える。だから……」

 

 川崎は、悲しそうな目で俺を見つめていた。

 

  * * *

 

 部屋の灯りを消し、少し離した布団の片方に潜る。

 ああ、潜ったら暑い。夏だから当たり前か。

 

 消灯して数分。

 ふと気になる。

 川崎の寝息が聞こえない。

 やましい気持ちは無い、そう自分に言い聞かせながら川崎の布団を見遣る。

 薄明かりの中、川崎は布団の上に体育座りをしていた。

 

 顔は両ひざの間に半分以上隠れていて、薄明かりでは表情は読み取れない。

 けれど、何か思うところはあるのだろう。

 当然だ。

 俺にだってある。俺のは主に後悔だが。

 あの時ああしていれば、こうしていたら。

 すべては選ばなかったこと。

 架空の話。たらればの話である。

 

 ならば先の事を考えるほうがよい。

 まずは川崎の為に動く。

 そしたらーー

 その先、俺はどうしたいのだろう。

 

 まだ川崎は起きている。

 

 駄目だ。

 俺は何を喋ろうとしている。

 やめろ。川崎沙希の最後の依頼が遂行出来なくなるぞ。

 だが、自分の意思に反して口が開いてしまう。

 

「独り言だーー」

 

 そう前置きして語り始める。

 

「俺は、たくさん間違えた。間違えたことに気づかなかった。舞い上がって、自惚れてた。冷静じゃなかった。だから間違いに気づかなかった」

 

 愚にもつかない言い訳。すべて後の祭り、今更である。

 

「……あたしも、独り言」

 

「あたしは……必死過ぎたのかも。どうすれば比企谷に喜んでもらえるか、気に入ってもらえるか、そればっかり考えてた」

 

「……お互いに遠慮があったのか」

 

「そうかもね」

 

 川崎は続ける。

 

「あたし達って、自分の感情を出すのが下手過ぎるよね」

 

「そうだな」

 

 心当たりだらけだ。

 

「あたしも……いっぱい間違えてた。もっと、して欲しいことを云えばよかった。あんたがしたい事を聞けばよかった」

 

「それは……俺もだな」

 

「やっぱりあたし達って、恋愛に向かない性質(たち)なのかな」

 

「というか、圧倒的なまでに経験が足りないよな。俺も、お前も」

 

「経験だけじゃないよ。他にもいろいろ足りなかったと思う」

 

「そうだな、色んなことが足りなかったな」

 

「ねえ、比企谷」

 

「ん?」

 

「あたし達、また偶然出会えたら……今度はうまくいくかな」

 

 たらればの話である。だが、柄にも無く真剣に考えるのは、きっと川崎の言った言葉だからだろう。

 

「……無理だろ。だってお前と俺だよ? 上手くなんて出来ないさ。なるようにしかならんだろ」

 

 素直に考えを述べた。

 初心者どうしの恋愛が上手くいく訳がない。紆余曲折、艱難辛苦あって当然なのだ。なのに俺は、俺たちは、上手くやろうとしていた。

 何も「うまくやる」必要なんて無かったのだ。

 どんなに歪んでいても良かった。捻じれていても良かったのだ。上手くやろうとせず、自分たちの恋愛の形を模索すべきだったのだ。

 

「そう、だよね。でも」

 

 鼻を啜る音が小さく響いた。

 

「あたしは、また偶然再会したい」

 

「ああ、俺もだーー」

 

 それきり川崎の言葉は返って来なくなった。

 俺も、川崎に掛ける言葉も自分を慰める言葉も見つけられず、俺はまた一つ後悔を抱えて眠ったふりをした。

 

  * * *

 

 眠れぬ夜は明け、最後の朝が来てしまった。

 

 旅館をチェックアウトして電車に乗り、千葉に戻ればーーそれで終わり。

 ほとんど眠った記憶の無い布団の上に胡座をかいて、ぼんやりと布団の皺を見つめる。

 

 あの日。

 駅前で川崎沙希と会ってから一ヶ月ちょっと。

 本当にあっと言う間だったな。

 不思議と感傷めいた気持ちは起こらない。

 ああ、これで終わりか。そう思うだけである。

 全てを受け入れることが俺の罰だと、二週間に渡り自分に言い聞かせた成果だ。

 

 川崎沙希が起きた。

 いや、起き上がったと云うのが正しいだろう。

 とっくに目が覚めていたのは知っている。だが、掛けるべき言葉が見つからなかった。

 

 それでもいい。

 土壇場まできて、不用意な言葉で川崎を傷つけるよりかは幾分かマシだ。

 

 仲居さんが布団を片付けに訪れた。若干距離が空いた二組の布団を怪訝そうに見た後、何食わぬ顔で仕舞っていた。

 

 川崎が顔を洗って着替えるまでの間、俺は一階ロビーの自販機の前にいた。

 先ほど布団を片付けに来てくれた仲居さんが恐る恐る聞いてくる。

 

「夕べは……何か不手際がありましたでしょうか」

 

 昨晩、旅館の料理を残してしまったことを気にかけているのだろうか。

 

「いえ、特には」

 

 どうやら余計な気を遣わせてしまったらしい。

 俺のミスなのに。

 

 部屋に戻ると、座卓の上にはいかにも旅館の朝食らしいメニューが並んでいた。

 それを二人で無言でいただく。

 鰺の干物が絶品だった。

 

 チェックアウトまであと少し。

 すでに荷物を纏めた俺と川崎は、売店で土産物を物色していた。

 俺は小町に。川崎は、きっと大志や京華に。

 

 部屋を出る前に、用意しておいたポチ袋に千円札を入れて座卓に置く。

 昨晩の夕食を無駄にしてしまったお詫びである。

 それを見て、川崎は「へぇ」と唸った。まあ十九歳の若造がすることではないな。

 そしてこれが、俺の最後の思い出となるのだろうか。

 

  * * *

 

 昨晩ほとんど眠れなかったせいで、電車の中でうたた寝を繰り返す。

 隣に座る川崎も似たようなもので、ふと俺が目を向けるとこくりこくりと舟を漕いでいた。

 もうすぐ東京だと云うのに、熱海駅で購入した駅弁も手付かずである。

 

 微睡む目に懐かしい景色が映る。

 あの日と同じ景色。

 電車は速度を落とし、ゆっくりとホームに滑ってゆく。

 速度が零になる。

 ーー終着駅だ。

 

 川崎と俺は、それぞれ大きなバッグを抱えて改札口を出る。

 

 たったひと夏の特別な関係は、ここで始まってここで終わる。

 

 ーードラマのラストシーンのように別れたい。

 最後の依頼。

 

 打ち合わせたように川崎が振り向く。

 俺は川崎を、川崎は俺を見つめる。

 

「今まで本当にありがとう。じゃあ……ね」

 

「ああ」

 

 川崎沙希が背中を向ける。それを見届けた俺も……背中を向けた。

 

 これから俺たちは別々の道へ向かう。

 

 もう二度と、二人の道が交わることは無いだろう。

 

 

 

 

  〜




今回もお読みいただき、ありがとうございます。






明日と明後日、19時に一話ずつ投稿します。

ではまた。


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恋をとめないで

最初で最後の旅行を終え、再会の場所に着いた川崎沙希と比企谷八幡。
彼と彼女は背中合わせになり、それぞれの道を歩み出す。



……はずだったのだが。


 

 午後二時過ぎ。

 

 俺と川崎は、それぞれ大きなバッグを抱えて駅の改札口を出る。

 

 ここで始まり、ここで終わる。

 

 打ち合わせたように川崎が振り向く。

 俺は川崎を、川崎は俺を見つめる。

 

「今まで本当にありがとう。じゃあ……ね」

 

「ああ」

 

 川崎沙希が背中を向ける。それを見届けた俺もーー背中を向けた。

 

 これから俺たちは別々の道へ向かう。

 

 もう二度と、二人の道が交わることは無いだろう。

 

 一歩。

 一歩。

 歩を進める度に、長いようで短かく、その短い日々にぎっしり詰まった夏の記憶が甦る。

 

 足が思う様に動かない。次の一歩が、遠い。

 三歩目が踏み出せないまま、時間だけが過ぎていくーー

 

 背を向けた川崎は、もう遥か遠く、手の届かない場所まで歩いてしまったのだろう。

 何なら、どこかの路地に入ってしまったのかも知れない。

 そう考えると、まだ数歩すら歩けない俺の方が未練タラタラなのかもな。

 決して荷物が重い所為ではないのに、足と心が異様に重く感じる。

 

 情けない。

 腹立たしい。

 浮かれていた自分が恥ずかしい。

 

 思い返せば反省ばかりだった。後悔ばかりだった。

 

 ふと考える。

 今、後ろを振り向いたら……。

 

 やめよう。

 もう終わったのだから。

 

 視界が滲む。

 ああ、これでまた歩みが遅くなる。

 でも、やっと十歩ほど歩けた。

 十歩だけ、川崎沙希から離れることが出来た。

 

 あと何歩くらい歩いたら、この後悔は、感情は過去になるのだろう。

 

 ーー。

 

 ーー嫌だ。

 ーー過去になんかしたくない。

 

 そうだ。片思いでもいい。

 ずっとずっと、気の済むまで川崎を好きでいよう。

 決して交わらなくとも、この気持ちにだけは素直でいよう。

 

 この辛さは俺の罪の証であり、勲章だ。

 幾多の黒歴史とトラウマで出来上がった俺の心の中で、唯一無二の輝きを放つ漆黒の勲章だ。

 それを胸に、生きていこう。

 

 そしてまた、俺は一歩を踏み出す。

 

 漸く二十歩ほど足を進めた時、背後で車のクラクションが鳴り響いた。

 

 反射的に振り返る。

 

 ……!

 

 目に映ったのは、さっきと変わらない景色。

 その中で、変わっていなければおかしいものに目を奪われる。

 

 川崎……沙希。

 

 とうに立ち去ったとばかり思っていた彼女は、俺の背中を、二十メートルほど向こうで見つめていた。

 

 まさかあいつ、あの場から一歩も動いていないーーのか。

 

 もう会えないはずの彼女。終わってしまった関係。

 

 その、夏の思い出を寄る辺にして生きていく。

 そう決めたばかりなのに。

 もう振り返らないと決めたのに。

 

 その場に佇む川崎沙希を見た瞬間に去来した感情は、動揺。

 その次に湧き上がるのは、衝動だった。

 

 頭の中。がちゃりと、何かが外れる音がした。

 

 

 

 ……こんなんで終われるかよっ

 

 

 

 この場を離れなければ。終わらせなければ。

 その思考に逆らって身体が動き出す。

 足が、身体が、勝手に振り返り、二十メートルの距離を隔てて川崎沙希と正対する。

 

「川崎っ」

 

 気がついたら叫んでいた。周囲が俺を好奇の目で見るが、どうでもいい。

 もう止まらない。

 さっきまで重かった足が嘘のように軽やかに回る。

 

「……比企谷っ」

 

 前方から叫び声が聞こえる。

 見ると、川崎沙希も俺に向かって走ってくる。

 俺も負けずに全力で走る。

 川崎の速度も上がる。

 俺も更に加速する。

 

 ーーあと何歩だ。

 

 あと何歩走れば、あの場所に戻れるんだ。

 運動不足の足が、肺が、悲鳴を上げる。

 旅行の荷物が詰まったバッグを放り出す。

 回転を上げ過ぎた足がもつれる。

 たたらを踏みながらも立て直して、更に加速を試みる。

 

 速く。

 少しでも早く。

 あの場所へ。

 再びあいつと出会う為にーー

 

 眼前、川崎が飛んだ。

 

 ーー!

 

 胸に衝撃を受け、次に背中に衝撃が走った。

 

 

「……いてぇ」

 

 歩道の上。

 

 体当たりで突き飛ばされて尻餅をついた。

 そしてそのまま後ろに倒され、歩道の上で仰向けにされた。

 俺の上にのし掛かるのは、かつて感じたことのある心地良い重み。

 

 川崎……沙希。

 

 もう諦めていた。

 さしたる抵抗もせずに終わらせようとしていた。

 それが俺の罪に対する罰だから、と自分に言い聞かせて。

 無理繰り自分を納得させて。

 

 だが。諦めていた温もりが、今また俺の上にある。

 途端、目頭が熱くなる。

 臨界点を超えた感情は涙となって次から次へと溢れてくる。

 ついでに鼻水も出るが気にしてはいられない。

 川崎沙希がいるのだ。

 その事実に、二週間かけて構築した俺の決意はあっさりと崩れた。

 

「沙希っ」

 

 中空に向かって叫ぶ俺の頬をくすぐる、青みがかった長い黒髪。

 

「嫌だっ」

 

 背をつけた歩道の熱で汗だくのTシャツの、その胸に置かれた、少し冷んやりした手。

 その横に、沙希の目から零れた雫が落ちる。

 

「嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だっ」

 

 誰にも渡してなるものか。

 手遅れ。責任。

 構うものか。

 こうなったら、足掻けるだけ足掻いてやる。

 格好悪く、無様に、思い切りじたばたしてやる。

 

 困らせたっていい。

 これ以上嫌われたくないなんて打算はやめだ。

 綺麗な想い出で終わろうなんて、虫唾が走る。

 困らせて困らせて、川崎が根負けするまで困らせてやる。

 

 覚悟しろよ川崎沙希。

 恥も外聞も関係無く徹底的に足掻いてやるから、それが嫌なら徹底的に俺を拒絶しろ。

 

「嫌だ!」

 

 誰に見られても構わない。

 通報されたって構わない。

 するならしてみろ。逮捕くらいなら甘受してやる。

 

「沙希がいないのは……嫌だっ」

 

 いつか、この目の前の泣き顔が笑顔に変わるなら。

 俺はそれを見届けた後で、気色悪く笑いながらトラウマの海に沈んでやるさ。

 

「もう離れたくないっ」

 

 理屈なんかどうでもいい。

 湧き立つ衝動のまま口を動かすだけだ。

 まるで駄々っ子。

 聞き分けの無いガキ。

 それの何が悪い。

 今は本音を、本心をぶちまけるんだ。

 

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌……あ!?」

 

 ふわり。

 

 俺の髪が手櫛に梳かされる。

 ああ……なんて心地良い。

 歩道の上、仰向けに寝転んで駄々を捏ねる俺の髪を撫でるのは、優しい手。

 ちょっと冷んやりしていて、優しい手。

 

「あんた……顔ぐちゃぐちゃだよ。鼻水やら涙やら、汚いったらありゃしない」

 

 苦笑する川崎の目から零れた雫が、矢継ぎ早に俺の頬に当たる。

 

「知るかっ、ぐちゃぐちゃだろうが、汚かろうが、みっともなかろうが……お前がいりゃ俺ぁそれでいいんだっ」

 

 一粒、さらに一粒と、川崎の雫が、みっともなく叫ぶ俺の頬に落ちる。

 

「……もう、馬鹿じゃないの?」

 

 尚も川崎の流す雫は俺の頬を打ち据える。雫が頬を打つ度に、未知の痛みを覚える。

 

「馬鹿で結構、そんな事は百も承知だ。愛してる。愛してる。愛してるっ」

 

 自分の中の心を必死に言葉に変換しようとする。

 駄目だ。足りない。

 全然足りない。

 言葉に変換し切れない。

 心が言葉を置き去りにしていく。

 どんどん追い抜いていく。

 あー、もう!

 

 ……。

 

 頭の中に、帰郷直後に聞いた或る台詞が浮かぶ。

 ああ、なんだってこんな時にこんな場違いな台詞が浮かぶんだ。俺はどんだけ変態なんだよ。

 だけど浮かんでしまった。

 きっと、これも俺の本心なのだ。

 脳内のフィルターはとうに馬鹿になっている。言って良いこととそうでないことの判断がつかない。

 

 ……こうなりゃ、力の限り叫んでやる。

 (さら)け出してやるーー

 

 

「サキサキ、セックスしようぜええええっ!」

 

 

 ーー。

 

 

 喧騒が消えた。

 

 

 俺が叫んだその瞬間、川崎の両手は俺の耳を塞ぎ、その口唇は俺の鼻水塗れの口を塞いでいた。

 耳を塞がれた所為で、口内で舌が触れ合う水音は逃げ場を失い、頭蓋骨全体に反響しながら脳を揺さぶる。

 な、なんだこれ……。

 お返しとばかりに俺も川崎の耳を塞ぐ。

 

「ーーんふぅん!?」

 

 川崎の口内から唾液が溢れて、その奔流は俺の口内に沁み渡ってゆく。

 川崎の目から落ちる涙は俺の涙や汗、鼻水と一緒くたになって濁流となり、顔を伝って髪の中へと流れてくる。

 

 白昼堂々、駅前の歩道に横たわっての口づけ。

 

 長く、永い口づけ。

 

 脳に直接響く水音の終焉とともに口唇は離れ、耳を開放される。

 

「また……出会っちゃったね。もう、絶対離れてやんないから。覚悟しな」

 

 数センチの上空、川崎沙希が小さく呟いた。

 

 その途端。

 沈黙が一転。駅前の歩道で繰り広げられた珍妙で奇異な光景に、タクシー待ちの行列から一斉に歓声が上がる。

 同時に笑い声も聞こえてくる。

 

「ーーえ」

「ーーあ」

 

 周囲を見ると、何か知らんが盛り上がっていた。ガサツな輩が器用に指笛を甲高く鳴らす。

 もう完全に、フェスティバっている。

 

 ーー。

 

「ほ、ほらっ、逃げるよっ」

「あ? あ、ああ……」

 

 川崎の合図で俺たちは走り出す。どっちに走るかなんて決めていない。方向さえ解らない。

 何処をどう走っているかなんて知らないし、どうでもいい。

 荷物なんか放り出したままだ。

 きっとこれは、この夏、千葉で一番間抜けな逃避行。

 

 俺は川崎……沙希の手を握りしめたままで無闇矢鱈(むやみやたら)に走り続けた。

 

  * * *

 

「はあ、はあ、はあ……」

 

 体力の限界を迎えた俺たちは、いつの間にか公園の中にいた。

 川崎はベンチにもたれ掛かり、俺はその隣に這い蹲ったまま地べたに足を投げ出している。

 

 あれ。

 

「ーーここは」

「ーーうん」

 

 衝撃的な再会を果たしてしまった一週間後に、再び川崎と出会った、あの公園だ。

 ただ夢中になって走っていたつもりが何のことはない、しっかり家路を辿っていた訳だ。

 俺らの帰巣本能すげぇな。伝書鳩に勝てるかも。

 

 まあ、とにかくだ。

 駅前から三キロ近く走り続けた俺は抜け殻同然である。幽体離脱の半歩前だ。

 思えば、最後に運動したのは高校でのマラソン大会だった。

 自転車通学もやめ、大学では運動らしい運動をしなかった俺の身体が鈍っているのは、至極当然のことである。

 

 喉が渇いたな。

 脳や身体の糖分も足りない気がする。

 こういう時はマッカン様の出番なのだが、如何せん御神体のおわす自販機は、遥か百メートルの彼方だ。

 俺の残存エネルギーでは辿り着ける訳も無い。

 

 諦めて天を仰ぐ。

 あー、空が青いぜ。

 頭がぼーっとするぜ。

 

 ふと、頬に冷たい金属質の物体が触れる。

 驚いて顔を引いて、ぐりんと向ける。

 

 視界がオレンジに近い黄色に染まる。そして目に入るM、A、Xの文字。

 マッカン様だ。

 マッカン様が我の危機をお救いになるために降臨なされたのだ。

 おお……何と神々しい。

 ん?

 何者かの手がマッカン様のプルトップに伸びる。

 かしゅっ。御開帳の音だ。

 や、やめろ。やめてくれ。

 マッカン様は俺の為に御降臨遊ばせたのだ。

 そんな俺の意思など知るかとばかりに、しなやか指は無慈悲に御神体を持ち上げる。

 あ、飲みやがった。

 くそ。よくも俺のマッカン様をーー。

 

 不意に仰向けにされ、首が持ち上げられる。

 そして。

 口唇に押し当てられた柔らかな物体から、仄かに冷たく強烈に甘ったるい液体が流れ込む。

 紛れもなくMAXコーヒーだ。

 ああ、マッカン様が五臓六腑に染み渡る。

 こくこくと二度ばかり喉仏が動く。

 

 あれ、もう終わりか。

 

 甘い液体の流入が止まると、それを追う様に触手が侵入してくる。

 こ、これは……タコの足か?

 いやそんな訳あるか。違うな。これはーー

 ちゅぽん。

 弾ける音と共に触手が去り、口唇の感触が消える。

 

 川崎沙希だ。

 

 こいつ、口移しで俺にマッカン様を飲ませやがった。しかもその後、思いっきり舌入れてかき回しやがって。

 畜生、今までで一番美味かったじゃねえか。

 ……。

 駄目かな。

 無理かな。

 いや駄目もとで云うだけ云ってみようかな。

 ……ふむ。

 ここは思い切ってお代わりを所望してみよう。

 

「も、もう一度……」

 

 けらけらと笑う川崎から、ふいと顔を背ける。

 

「あんた、駄々っ子みたいだね」

「うるせぇ。もう一度」

「ふふっ、はいはい」

 

 もう一度、口移しで甘露を頂戴する。

 そのまま川崎の首の後ろに手を回してがっちりロック、その柔らかな口唇と舌を蹂躙する。

 

 なんて自分勝手。

 なんて自分本位。

 でも構わない。

 俺は川崎沙希が欲しい。

 それが俺の……望みだ。

 

  * * *

 

 午後の木洩れ陽が降るベンチ。俺は川崎沙希に膝枕をされている。

 暑く、熱い。

 頭を撫でられる度に沙希の指が俺の髪に通され、その度に涼やかな風が熱くなった頭皮を冷やす。

 思わず顏が緩む。

 この時間が永遠ならば、どんなに幸せだろう。

 だが、得てして幸せというものは長くは続かないのが世の常らしい。

 

「ところで」

 

 冷たい声音の川崎が俺の頬をつねり上げる。

 

「いでっ、でででーー」

 

 な、な、なんだ急に。

 

「人前であんな恥ずかしいこと云うんじゃないよ、もうっ!」

 

 あれ。俺、何を言ったんだ?

 

「……え、なに?」

 

 息も絶え絶えに聞き返すと、たちまち川崎の顔が真紅に染まる。

 

「あ、あんた……覚えてないの!?」

 

  や、やばい。怒ってらっしゃる。

 でも、いくら怒られたところで夢中で喚き散らしてたから、何を云ったかまで覚えて無いんだよな。

 

「だから、何のことだよ」

 

 ちょっと待ってね。いま脳に酸素が足りないから。大至急ヘモグロビンをロット単位で大量発注するから。

 

「セ、セックスしよう、って……」

 

 え? 誰が?

 

「セックスしようって言ったの、あんたは!」

「はあ、はあ……あ? そんなビッチみたいな恥ずかしい言葉を言うなよ。昼間だぞ」

「あんたがさっき言ったのよっ」

 

 頬をつねる指に力がこもる。だから痛いって!

 

「言ったっ、確かに言ったっ。何なら叫んでたっ」

 

 頬をつねり上げられたまま、俺は記憶を遡る。

 夢中で走り始めて、飛んできた川崎を受け止めて、それからどんどん感情が溢れてーー

 

「ーーあ」

 

 思い……出した。

 

 言った。確かに言ったわ。いやぁ、勢いってコワいね。

 反省反省。

 

 いや、まずは謝罪か。

 体を起こして咳払いをひとつ、川崎沙希に顔を向ける。

 さて、このまま地べたに這い蹲れば、比企谷八幡お得意の五体投地ショーの幕開けだ。

 

「……あ、あたしで良ければ、よろしく、お願いします」

 

 俺が土下座を敢行する前に口を開いたのは、川崎沙希。

 

「……えっ」

 

 まったく意味が解らない。

 何をよろしくお願いされたんだ。

 何をよろしくすればいのでしょうか。

 よろしくといえば、やはり哀愁なのかな?

 だから世代が違うって。

 

「だっ、だから、その、セ……」

 

 せ?

 セ、セパタクローでしょうか。

 あ、セミの抜け殻かな?

 なんて無粋な勘違いはいくら俺でも出来ない。

 つまり。

 

「……して」

 

 瞳を潤ませて近づく沙希にたじろぐ。

 

「ちょ、ちょっと待て川崎」

「……沙希でいいよ。あんたもさっき叫んでたし、今更でしょ」

「え、ええっ……」

 

 身を引く。引いた分だけ距離を詰められる。

 俺が引く。川……沙希が寄る。

 引く。寄る。引く。寄る。

 引く……前に頭を掴まれた。

 

「何、嫌なの?」

「いや、全然嫌ではなく、むしろ大歓迎……じゃやくてっ」

 

 やばい、まだ本心が滲み出てる。

 ベンチの端まで、あと十数センチ。

 崖っぷちの俺に川崎沙希がにじり寄る。

 

「……だめ?」

 

 このタイミングでその潤んだ瞳は卑怯だわ。逆らえないじゃんかよ。

 

「だ、駄目じゃない。駄目じゃない、けど」

「なら、して」

「そ、そのうち……な」

「……けち。臆病者。優柔不断。八幡」

「ちょっと。最後のは違くない?」

 

 思わぬ名前呼びに動揺していると、さらに川崎沙希の顔が近づく。

 触れる口唇。

 重なる口唇。

 まるで今朝までの渇きを取り戻すように、互いの口唇を潤す。

 口唇って言葉がゲシュタルト崩壊しそうなほどに、俺たちは互いの口唇を求めた。

 川……沙希の口唇はあの日と同じで、仄かにマッカンの味がした。

 

 そのまま沙希は俺の首の後ろに手を回し、鼻先をTシャツの肩口に当てる。なんか懐かしいな。

 つーか、全力疾走の後で超汗臭いと思うんですけど、よろしいか?

 

「比企谷の匂い、久しぶりだぁ……ちょっとくちゃい、でもすき」

 

 よろしい様だ。

 くんかくんかと俺の肩や首筋に鼻の頭を擦り付けて、ぽしょりと呟く。

 すっかり甘えモードに突入してしまった沙希に対する敬慕の念と、少々の劣情が生じてしまう。

 うわぁ。もう、超抱きしめたい。

 さっきしたばっかだけど超キスしたい。

 えーい、俺からしちゃえっ。

 

「んふっ……ふぁ……ん」

 

 ぱきっ。

 

 互いの口唇を貪る中、不意に木の枝が弾ける音がした。

 ーーはっ、殺気!?

 いいところなんだから邪魔するなよ殺気。

 あ、殺気と沙希って似てるよね。こわっ。

 

「ーーったく、何してるんだか」

 

 口唇を交わし続ける俺の耳に、ぼんやりと懐かしい声が響く。

 

「探したよ、お兄ちゃんっ」

 

 声に振り返ると、耳まで真っ赤になった小町が立っていた。

 




今回もお読みいただき、誠にありがとうございますっ。

……こんなオチになってしまいましたm(__)m

私が思うに比企谷八幡という人物に足りないのは、脇目も振らず突進する懸命さ、でした。
そして、川崎沙希に足りないのは、自信だと思います。
今回は、そんな彼らが形振り構わず一心不乱に互いを求める場面を書きたかったのです。

……長かった。
この話を書く為に八幡や沙希、ゆきのんにも辛い思いをさせてしまいました。

そして、この物語も次回で最終話となります。

明日19時、またここでお会い出来たら嬉しいです。


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愛が止まらない

超恥ずかしい「午後の駅前公然イチャイチャ事件」の現場から逃亡した八幡と沙希。

逃げ込んだ公園で一時の幸せを噛みしめる二人に迫るのはーー

そして、二人の運命やいかに。


 

 夕刻である。

 何処かで(ひぐらし)の雨が降っては止み、止んではまた降る。

 あと数日もすれば暦も捲られて長月だと云うのに、残暑はまだまだ衰えを知らない。

 ()しかしたら、このまま年末までも熱射の脅威に晒されようものなら、それは甚だ迷惑な話だ。

 有りもしない事を思いつつ八釜(やかま)しい蜩の降る中、麦茶を啜った。

 

 ーーこほん。

 

 脳内でのエセ文豪ごっこを終えて、冷たい麦茶を啜る。

 さてここは、エアコンの効いた比企谷家のリビング。

 うん。涼しいねえ。

 やっぱり夏はエアコンが効いた部屋で、麦茶を飲みつつ正座するに限りますなぁ。

 で……なんで正座なのん?

 

 リビングのソファー、その横の床の上、俺と川崎沙希は並んで正座の真っ最中である。

 向かいには、同じく正座した小町が俺たちを見据えている。その後ろ、麦茶片手に床にへたり込む疲労困憊な風体の大志は、勿論俺的に安定のスルーだ。

 つまり、正座三名、行き倒れ一匹。リビングに四人もいるのにソファーは誰一人として座らないという、ともすればソファーが自分の存在意義を失いかねない状況なのである。

 

「まずは小町の番ね」

 

 小さくもはっきりと言を放つ小町は、幾許かの決意を目に灯して沙希の前へとにじり寄る。

 

「……沙希さん。本当にごめんなさいでした」

 

 膝頭を揃えた小町は川崎沙希へと深々と頭を下げる。土下座では無い。手は両膝の上で強く握られている。

 頭を上げることもせずに小町は続ける。

 

「小町のせいで、小町が余計なことばっかりしちゃったせいで……沙希さんに……お兄ちゃんに」

 

 その声は次第に水気を帯びていき、ついには嗚咽に変わった。

 小町の涙声に困った顔を向けてくる沙希に首肯で応える。

 小さく頷き返した沙希は、膝を立てて向かい合う小町へと手を伸ばし、両の(かいな)で包み込む。

 立て膝の沙希の胸に顔を埋める形となる小町。

 羨ましくはあるが、何より微笑ましくある。

 

「ーーあんたも相当なブラコンだね。あたしと同じだ」

 

 くすっ、と声音優しく笑いながら引き寄せる沙希に、逆らう事なく身を任せた小町の顔は、その豊かな胸元に深く埋まる。

 

「……ひっ、ひぐっ」

 

 嗚咽は次第に加速し、やがて号泣へと至る。沙希は小町の髪をゆっくりと慈しむ様に撫でていく。

 さすがは弟妹の扱いに長けている沙希と云うべきか、次第に小町がしゃくり上げる間隔が延びていき、少しずつだが息は穏やかになる。

 

「……もういいから。あんたはさ、あんたなりに駄目な兄の為に頑張ったんだろ?」

 

 駄目な兄、か。肯定したくは無いが否定も出来んな。

 

「で、でも……小町が、小町が悪い、んだもん」

 

 言葉をひとつ吐く毎に、再び小町は嗚咽を強める。

 

「お互い様だよ。ちゃんとあんたに報告しなかったあたし達も悪かったんだ。おあいこさ」

 

 男気溢れる、男前な沙希の柔らかい胸に顔を埋めながら繰り返し謝る小町を、包む様に優しく抱きしめる沙希の姿は、母の様な姉の様な慈愛に溢れている。

 

「比企谷、あんたもこれ以上この子にあーだこーだ云うんじゃないよ」

「分かってるさ。千葉のお兄ちゃんの業の深さをなめるなよ」

「ーー言葉の意味は良くわかんないけど、それならいい」

 

 俺の言葉に、沙希は笑みを浮かべて応えた。

 

 さて、である。

 外では相変わらずしんしんと蜩の控え目な合唱が続いている中。

 

「ーーふへへ、柔らかいなぁ。ふわふわふかふかだぁ、いいなぁ」

 

 泣き止んだ小町は、現在顔を蕩けさせて沙希の豊かな胸を堪能中である。時折沙希は、ぴくっと身を捩るが、それは気にしてはいけない。

 気にしたら負けだ。

 好きな女の子と実の妹がゆるゆり状態だとしても、それすら看過してやるのが千葉の兄の度量だ。

 でもな大志。

 お前は見るな。見るんじゃねぇ。

 沙希の反応や小町の惚けた顔は、暫定で俺だけのものだ。

 とは云うものの、そろそろ止めないと沙希がやばいな。こいつ結構敏感だし。

 助け舟を出してやるか。

 

「ーーところで小町ちゃん」

 

 ほえ? と間抜けな声で返す小町に問う。

 

「なんで俺たちがあの公園に居るって分かったんだよ」

「あ、それだよ。なんで大志も一緒だったのさ」

 

 続けて沙希も問うと、小町の雰囲気が変化する。

 名残り惜しそうに沙希から身を離した小町は、もう一度対面にて居住まいを正す。

 

「沙希さん。いや、沙希お姉ちゃん」

「ん?」

「小町は、許してもらえたんだよね?」

「うん。全然怒ってないよ」

 

 苦笑混じりの沙希の返答に、小町の目が妖しく光り始めた。天使が悪魔にジョブチェンジする予兆である。

 

「ーー良かった。これでやっと小町のターンだねっ」

「……は?」

 

 どおゆうこと?

 

  * * *

 

 やっとソファーの出番が回ってきた。

 活躍の場を与えられて意気揚々のソファーに並んで腰掛けるのは、項垂れる沙希と俺。その眼前には、腕組み仁王立ちの小町がニヤリと笑っている。

 

 どうしてこうなった。

 

 さて、それを説明するには時計を二時間ほど巻き戻さねばならない。

 

 事の発端は昼過ぎの駅前での出来事である。

 今回の旅行の主旨を知っていた小町は、大志を誘って俺たちを駅まで迎えに来ていた。

 目的は、別れを経験した兄や姉を一人っきりにしない為だと云う。

 

 その心遣いは有難い。有難い限りなのだが。

 しかし。

 小町と大志が見た光景は思い描く別れの光景では無かった。

 

 駅を出た所で背中合わせになり、反対方向に二人が歩き始めたと思ったら中々進まず、それどころか二人同時に振り返って旅行の荷物をぶん投げて、互いに走り寄って舗道に寝転び、女性上位の態勢で抱き合って白昼堂々のキス。

 公衆の面前でやりたい放題やった挙句、急に逃げ出したーー。

 

 唖然としていた小町と大志は我に返ったあと、走り去った俺たちを追いかけ探し回ってあの公園に辿り着いた。

 大志がへろへろなのは、俺たち二人分の荷物を抱えて全力疾走したせいらしい。

 という訳だ。

 

「……なーにが『という訳だ』なんだか。こっちは走ったり恥ずかしかったり……そりゃもう大騒ぎだったんだからっ」

 

「す、すまん」

「……ごめん」

 

「まったく……お兄ちゃんお義姉ちゃんがあんな目立つ所であんな破廉恥なコトしてくれちゃったんじゃ、小町恥ずかしくて学校行けなくなっちゃうじゃん。小町的にポイント激低だよっ」

 

 さらっと「お義姉ちゃん」呼ばわりされたことに反応することも出来ないくらいに、完全論破された。

 

「いや、本当にすまん」

「ごめんよ、小町……」

 

 平身低頭で詫びる俺たちを見据える小町の目が、更に光を増した。

 うわ、こいつ何か企んでるよ。そういう目だよこれは。だって口元がにやけてるもん。

 

「と・こ・ろ・で♪」

 

 やけに声を張った小町が、にかっと笑う。

 

「面白い動画があるんだけど、お二人も一緒に見ようよ」

 

 小町がくいと顎を動かすと、へばっていた大志がささっと跪いてスマホを差し出す。なんか動きが悪の手下っぽい。

 

「さあ、沙希お姉ちゃんもお兄ちゃんも、とくとご覧あれ〜」

 

 小町がスマホの画面をこちらに向ける。

 映っているのは……。

 

『ーー嫌だ嫌だ嫌だ』

『ーーセック……ぜ!』

 ……。

 ……。

 ……俺らじゃねーかっ!

 

「お、おいーー」

「ほらそこっ、腐った目を背けないっ」

 

 慌てて撮影を開始したのか途中からではあるが、そこには俺と沙希の恥ずかしいシーンがバッチリ録画されていた。

 

「ほんっとーに恥ずかしかったんだからね!?」

 

 ならなんで撮影なんかしてんだよ。

 恥ずかしいのはこっちだよ。沙希を見ろ。

 頭から湯気立ててるし顔面は真っ赤、白目を剥いてへたり込み、口からちょっと魂抜けかけてるんだぞ。

 

「……でもさ」

 

 膨らませた頬を緩めた小町は、再び目に涙を溜めて天使の微笑みを向けてくる。

 

「本当に良かったよ。お兄ちゃんたちがお別れしなくて」

 

 そう呟いた小町は、少しだけ大人に見えた。

 

「本当によかった……よかったよ……」

 

 再び小町が崩れ落ちて泣き出す。

 小町の手を引いてソファーに座らせると「大丈夫」とだけ呟いた。

 直後、涙を振り払ってニカっと笑う、天使なのにどこか男前な小町。その後ろで「くう〜っ」と男泣きするのは毒虫大志、別名地獄大使である。

 

「さーて、今日から三日三晩、夜通しでお祝いしなきゃだねっキラリンッ」

 

 ありがとうな小町。

 少しウザいけど、本当にありがとう。

 我が愛する妹よ。ついでに大志もな。

 

 あと川崎沙希さん、早く魂を戻しなさい。

 ホントに抜けちゃいそうだから。

 

  * * *

 

 愛車カプチーノに沙希を乗せて海へ向かう。

 旅行中とは違う、柔らかな風。

 その風に沙希のポニーテールが靡く。

 

「さて、着いたらメシを食うぞ。小町の命令だからな」

「あんた、本当にシスコンだね」

「うるせえよ。お前なんて仮性ブラコンで真性シスコンじゃねーか」

「あ?」

「いや、違うな。お前の場合は家族全部を溺愛だから……何て云うんだ?」

「知るかっ」

 

 いつもの海に停めた車の中、互いの膝に載せられたのは熱海駅で買ったままだった駅弁だ。

 バッグごと放り投げたせいで多少ひしゃげてはいるが、中身は無事なようだ。

 これは小町に与えられた罰である。

 

『ちゃんと二人で駅弁を食べてくること。それまでは旅行は終わりじゃないんだからね』

 

 何なんだ、その「家に帰るまでが遠足」みたいな言い回しは。

 学級委員みたいな妹だな。超こえぇ。

 まあ罰でも何でも、せっかく小町が気を利かせて二人にしてくれたんだ。今は弁当と共に幸せを噛み締めよう。

 しかし金目鯛の煮付けが一切れだけなのは少し寂しかったな。

 

 二人で駅弁を平らげた俺たちは海を眺めていた。

 遥か向こうの街に沈む夕陽を浴びながら、俺は右肩に乗せられた幸せの重みを噛み締める。

 

「比企谷、その……ごめん」

「なんの話だ」

「その……わ、別れるなんて云っちゃって」

「本当だぞ。めちゃくちゃ焦ったわ。この世の終わりかと思ったぞ」

 

 正直な話、あれから生きた心地がしなかった。

 経験値に乏しい俺が、本物の失恋の恐ろしさをリアルに体験させられたのだから、まあ当然と云や当然か。

 

「あたしさ……自信が無かったんだよ。由比ヶ浜みたいに可愛くないし、雪ノ下ほど美人じゃないし、それにーー」

 

 川崎沙希は語る。

 とある天使な人物から俺の帰郷の報せを受けた沙希は、俺に好かれるように、嫌われないようにと、普段読まないような雑誌を読み漁って恋愛の研究をしていたらしい。

 その結果、いきなりキスしたり抱きしめたりという、川崎沙希らしくない暴走めいた行動をとってしまったという。

 まったく。恥ずかしいやら面映いやら。

 てか、何の雑誌を参考にしたんだろ。まさかエロい雑誌じゃないだろうな。凄く気になる。

 

「ーーだから、いつも比企谷の様子を窺ってた。比企谷に喜んでもらえてるのかな、比企谷はあたしとくっついたりするの本当は嫌なのかな、ってさ」

 

 語り続ける川崎の顔は朱に染まりながらも清々しく思えた。

 

「そこに……あの光景を見ちゃってさ。やっぱりあたしじゃダメなんだ、雪ノ下が良いんだ、って……自信無くしちゃったんだ」

 

 なんだよ、俺と同じかよ。そう思ったら、がっくり力が抜け、笑いが込み上げた。

 

「くっくっく……あーはっはっはっーー」

「な、何さ、そんなに笑わなくてもいいじゃないの」

 

 ぷんすかと頬を膨らます沙希が軽く放った肩パンチを食らう。

 

「わ、悪い悪い。でもお前も俺と同じような事をしてたとは思わなくて、つい、な」

 

 今度は俺が、自身が抱いていた思考と気持ちを吐き出す。

 最初は、ネットで調べた一般的な恋人の振る舞いを心掛けていたこと。

 それが次第に川崎に嫌われないようにするだけの思考に変わっていったこと。

 川崎に何か云ったりしたり、その度に自己の言動に対して評価、反省をしていたこと。

 それは、俺に経験と自信が無かったからであること。

 まあ、昨日の夜、熱海で話した独り言の補完だ。

 

「ーーなんだよ。結局あんたもあたしと同じだったってことか……」

「ま、そういうこったな」

 

 笑い話で片付けて良いのかは判らない。

 だけど俺も川崎沙希も、恋愛に関しては初心者なのだ。

 互いが互いのことを思って、勘繰って、拗らせて、その挙句に失敗した。

 つまり、俺も川崎も、自分では上手くやっているつもりが、実はダメダメだったってことだ。

 

「あたし達って、そういうの経験して来なかったからね」

「ああ、俺もその手のスキルは皆無だな」

「じゃあ残る手段はひとつだね」

「だな。俺たちのやり方を作っていくしか無いだろ。不器用なりにな」

 

 二人して思わず噴き出してしまう。

 ひとしきり笑いが収束した頃、夕陽を見つめながら川崎が呟く。

 

「あの熱海のレストラン、またあんたと行きたいな」

 

 ほう、奇遇だな。俺も熱海にはまた行きたいと思っていた。まだまだ文豪所縁の店はあるからな。

 しかし、あの依頼以外で沙希の願望らしい願望を聞いたのは初めてだ。

 今までは「あんたと一緒ならどこでもいい」だったし。

 川崎の小さな声に、同様に応える。

 

「ああ、今度は小町や京華も連れてってやろう」

「殴るよ。大志を置いていく気?」

 

 ああ、久しぶりだこの感じ。

 再会する遥か以前、まだお互い高校生の時分に少しだけこんな遣り取りをした、そんな淡い記憶が甦る。

 

「じゃあ、大志だけ旅費は自腹な」

「上等だよ。大志の分はあたしが出す」

「じゃあ好きにしやがれブラコンめ」

「黙りな、シスコン」

 

 心地よい軽口の叩き合い。

 言葉のひとつひとつが音符となって、心の五線譜の上で旋律を紡いで弾む。

 やっぱりこいつだ。

 こいつだけだ。

 

「あー、その……さ、川崎」

「な、何?」

 

 苗字で呼ばれて身構える沙希に伝えるべく、頭の中に充満する言葉を抽出して纏める。

 ーーよし纏まった。

 

「熱海の花火な。今年中にあと何回かあるんだが」

「ふーん。それで?」

 

 淡白な反応はさて置き、概ね予想どおりだ。

 あとは沙希をもう一度花火に誘って、そこでもう一度……。

 

「あーもう、焦ったいね。早く云いなってば」

 

 うるせえ、急かすな。かき集めた言葉がどっか行っちまうだろうが。

 息を吸う。覚悟を決める。

 

「か、川崎、結婚しよう……」

 

 ……。

 

 あり?

 

「……はぁ!? は、は、花火の話はどこいったのさっ!?」

 

 しまった。

 完全に途中をすっ飛ばした。

 目の前で動揺する沙希への言い訳を必死に紡ぐ。

 

「え……あ、いや、今の無し。忘れてくれ。フライングだ。これは本来ならば然るべき手順を踏んでだな、然るべき場面で伝えるべきーー」

 

 沙希は弾けた様に笑い出す。

 

「あーはっはっはっーー」

 

 足をバタつかせ、腹を抱えて笑う川崎を見ながら己の失敗を悔やんでいると、悪い笑顔を浮かべた川崎が俺を射竦めた。

 

「ーー駄目だね。もう聞いちゃったから」

 

 はあ、ダメか。

 再び熱海を訪れて、花火を見ながらもう一度告白。そしてサプライズで指環を差し出してプロポーズ。

 その考えは脆くも崩れ去った。

 しかも、いろいろすっ飛ばしてのフライングゲット。いや、ゲットはしてないか。

 

 畜生、なんて間抜けなプロポーズだ。

 雰囲気も脈絡も何もありゃしない、ただ先走っただけ。

 本心を曝け出すって、こんな間抜けなことなのかよ。

 ちらっと目を遣ると、意地悪く笑う川崎沙希の顔は真っ赤に染まっている。

 

 沙希の左手が伸びて俺の右手を取る。

 その手を胸に……。

 あ、手の甲が当たった。

 ちょっと埋まった。超柔らかい。

 って、ええええっ!?

 

「……あたしね、自分が思ってたよりもずっと嫉妬深くて、これからも些細なことであんたを困らせるかも知れない」

 

 俺の手を握る川崎の力が強くなる。それに応えるべく俺もその手を強く握り締める。

 

「本当のあたしは思ったより甘えん坊で……あ、あんたを幻滅させるかも知れない」

「その辺は確認済みだけどな」

 

 苦笑すると、川崎沙希の顔が更に朱に染まる。

 

「……! あ、あと、まだまだ色んなことで迷惑かける、かも……」

「ああ、どんとこいだ」

「だから、だから。そんなあたしでも良ければ……むぐっ!?」

 

 手で川崎の口を塞ぐ。

 

 やっぱりこいつも間違えてるな。ぼっちの悪癖だ。

 川崎沙希で無ければ俺は駄目なんだよ。

 俺の心をかき乱していいのは、こいつだけだ。

 そう決めたんだ。

 

「……やっぱさっきのは無しだ。ちゃんと云う。一度しか言えないからよく聞け」

「な、なによ……」

 

 居住まいを正す。頭を下げる。過給機がエンジンへと圧縮送気する如く息を吸い、肺から脳へと酸素を送る。

 大丈夫。ちゃんと言えそうだ。

 

「これから先、きっと俺はまた間違える」

 

 下を向いた視界の中、沙希の手がきゅっと握られる。

 

「多分、いや確実にお前を怒らせるし、悲しませるだろう」

 

 握りしめられた沙希の手に、俺の手を重ねる。

 

「だからその度に怒ったり叱ったり、時には責めて、俺を正して欲しい。きっと俺は、その度にお前に惚れる」

 

 頭を下げたまま、偽らざる気持ちを、出来るだけ真っ直ぐに、言葉に変換する。

 今は、今だけは、いつものように捻くれている場合ではない。

 

「幸せにするなんて大風呂敷は広げられない。今はそんな自信は無い。だから協力してくれ。一緒に二人の幸せを作りたい。だからーー」

 

 長ったらしい前口上を喋り終えた俺は顔を上げ、川崎沙希の目を見つめる。

 もう、迷わない。

 

「川崎沙希の人生をください。代わりに俺の人生をやるから」

 

 俺の目を見つめ返したままの川崎沙希の瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。

 

「……あんた、ずるい」

「な、なにが?」

「普段しない、真剣な目でそんなこと云われたら……」

 

 川崎沙希の表情が緩む。涙はまだ溢れ続ける。

 

「答えは……ひとつしか無いじゃないのさ」

 

 完全にふやけて、まるで子供の様に、ぐしゃぐしゃの泣き顏の川崎沙希。

 その涙の源流を指で拭ってやると、川崎沙希はその指を両手で包み込む。

 冷たくて温かい手の向こう、涙を湛えた沙希は満面の笑顔を放つ。

 

「ーーあたひを、もらってくだしゃい」

 

 ……大事なとこだぞ。噛むなよ。

 ま、こういうのも初心者の俺達らしくて良いか。

 釣られて俺も泣いてしまったのは超トップシークレットだ。

 

  * * *

 

 大学一年の夏の出来事。

 偶然の再会から始まった、一編の物語。

 

 それは、過去の俺が散々小馬鹿にしていた、くさいドラマのようなラブストーリー。

 最後は泣いて喚いて鼻水まで垂らして、何とも間抜けで締まらない結果だったけれど、そんな風になってしまった件は、恥ずかしい勲章として黒歴史の中に大事にしまっておこう。

 そのお陰で手に入れることが出来たのだから。

 

 料理上手で家族思い。

 ぶっきらぼうで早とちり。

 あと……

 手が冷たくて、

 ちょっと猫っ毛で、

 面倒見がよくて、

 本当は甘えん坊で、

 俺の匂いを嗅ぐのが大好きな、変な女の子。

 

 川崎沙希さん、これからも愛しています。

 比企谷八幡。

 

 

  了

 




今回までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
これにて「千葉ラブストーリー」の本編は終了となります。

思えばこの物語は、仕事で訪れたお客様の所で耳にした、
「ラブストーリーは突然に」
という曲を元に短編を書いたことが始まりでした。

そこから続きを書きたくなって、慌ててコンセプトとプロットらしきモノを作ったのですがーー
中々思うように書けなかったのが本音です。
そんな色々と足りなかった物語に30000ものUAを頂き、恐縮しきりです。

まあ、言い訳や反省は数多あるので、そのうち活動報告などに零すかもしれません。
兎に角、この経験を糧にあらためて修業を積み直し、また次回……番外編などでお会い出来たら幸いです。

最後に、ここまで拙作を読んでくださった方々へ。
本当に、心から、伏して、感謝致します。

ありがとうございました。
エコー


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京葉ラブストーリー
夏蔭 〜なつかげ〜


急に続編っぽいのを書いちゃいました。
お目汚しにどうぞ。


 

 九月になった。

 だからといって「はい今日から秋」となる訳はない。カレンダーを一枚捲っても昨日と同じで、やはり今日も暑い。

 特に、東京都内の暑さは、ヒートアイランド現象なんて言葉だけでは納得出来ない。

 勿論、車の中はエアコンが効いている。しかし肌を直火焼きする、この昼下がりの太陽だけは遮ることは出来ない。遮れば前が見えなくなって確実に事故る。

 あっ、見えなきゃ止まればいいんじゃね?

 

「あづいー」

 

 ダメだ。愚考にいつものキレが無い。愚考にキレを求めるのも可笑しな話だが。

 

「本当、暑いね。でもこの車で良かったよ。狭いからすぐに冷房効くしね」

「それは、この狭い車が役立つのは夏場だけだと、暗に否定してるんだな。よくも俺の愛車カプチーノたんを」

 

 マッカン飲みながらカプチーノを運転って、どんだけコーヒー飲料好きなんだよ。

 

「何なのそれ。冬は冬で狭いから、あんたとくっ付いて居られるじゃん。良い事尽くめだよ、あんたの愛車は」

「……ま、悪くはねぇな」

「でしょ? だから、この車に巡り合えたあんたは自信持っていいんだよ」

 

 暑く狭い車内で繰り広げられる軽口の応酬。

 形式的には「ああ云えばこう云う」なのだけど、そのラリーの中でも沙希は俺を決して卑下しない。どちらかと云うと持ち上げてくるのだ。

 ま、その内容も「物は言いよう」なのだけど。

 

 赤信号の先頭で停止する。広い交差点で遮蔽物が無い為、日光浴びまくりである。

 沙希を見る。

 やはり暑いのだろう、首筋には汗が玉になっていた。

 ドリンクホルダーのマッカンを取る振りをして、エアコンの吹き出し口を沙希に向ける。

 それに気づいた沙希は、パッグからタオルを取り出して、俺の額に滲んだ汗を押さえる様に拭ってくれた。

 言葉は無い。しかし、沙希の気持ちが伝わる。

 互いに目が合ってしばし見つめ合うと、後続車にクラクションを鳴らされた。

 

  * * *

 

 懲りもせずにビルの隙間を見つけては照りつける太陽を進行方向の左に置いて、俺は川崎沙希を乗せて都内を走っている。

 何故か。

 沙希がどうしても都内の俺のアパートを見たいと言ったのだ。

 

 一度は終わる覚悟を決めた関係は、蓋を開けてみればあら不思議、以前よりも深くなった気がする。

 もしかしたらあれは、俺たちに必要な通過儀礼だったのかもしれない。

 

「なに考えてるか、当ててやろうか」

 

 助手席で首筋の汗を拭きながら沙希が呟く。

 

「あんた、あたしが別れるって言った時のことを考えてたでしょ」

 

 ご名答。図星だ。

 だが俺は素直ではない。だからこう返すのだ。

 

「馬鹿、(ちげ)えよ。お前が暑くないか様子を探ってたんだ。なんせお前、太陽をモロに浴びてるからな」

 

 実際さっきから気にはなっていたが、取ってつけた言い訳だ。

 

「嘘」

 

 軽くあしらわれた。

 

「あんたさ、自分が嘘を吐く時に鼻の穴が広がるクセ、知ってる?」

「え、マジかよ。たぶん小町も知らねえぞ、その癖」

「だろうね。だって嘘だもん」

 

 こいつ……部屋に着いたら覚えてろよ。いっぱい触っちゃうんだからっ。

 まおんまおんしちゃうんだからっ!

 

「あ、今エロいこと考えてる」

「……正解だよ、コンチクショー」

 

 勝てねえな、ったくよぉ。

 

 ビルの群れを抜けて、スーパーマーケットに寄り道する。ここまでくれば俺のアパートまでは五分足らずだ。

 焼けつくアスファルトに足を置くと若干にちゃりとした。

 

「とりあえず飲み物だけでも買ってこうぜ」

「そうだね……あっ」

 

 涼しい店内に入るや否や、沙希の目が変わる。

 

「なんだよここ……千葉より野菜が安いじゃないか」

「ああ、ここは安いんだよ。近くにもう一軒あるが、そっちはセレブ御用達みたいなお高い店だ」

 

 へえ、と関心しつつ野菜の品定めを始める。こうなると沙希は駄目だ。

 案の定、次々に野菜を買い物カゴに放り込んでくる。

 

「お、おい、今日は日帰りじゃ無かったっけ」

「は? あんたの部屋の冷凍庫で冷やして持って帰ればいいでしょ」

「いやまあ、そうなんだけどさ」

「あ、(べに)ほっぺだ。けーちゃん好きなんだよなぁ」

 

 沙希はイチゴのパックを手に云う。紅ほっぺという品種なのだろうか。全然分からん。

 

 結局、買い物袋を二つぶん程買い込んで、部屋へと向かった。

 

  * * *

 

「ちょっと待ってろ、窓開けてくるから」

 

 ドアの前で沙希を待機させ、熱気が籠った部屋の窓を全開にする。

 

「いいぞー」

「お、おじゃま、します」

「……今更なに緊張してんだよ」

「ゔー、慣れて無いんだよぉ」

 

 面白いので、ひとり沙希を六畳間に残して、それを横目で楽しみつつ買い物袋の中身を冷蔵庫に移す。

 

「おし、お待たせ」

 

 やはり沙希は、微動だにしていなかった。ペットボトルのウーロン茶を沙希に渡し、俺は布巾で座卓を軽く拭く。

 使用した布巾を下に隠して、俺も持参したマッカンを開けた。

 くぅっ、糖分が五臓六腑に染み渡るぜ。

 

「ここに……あんたは住んでるんだね」

「ああ、ボロくてがっかりしただろ。なんせ築三十年以上だからな」

「ううん。ここに来られて凄く嬉しい。あんたの部屋なら、建物なんて何でもいいんだ」

 

 えっと、何で突然しおらしくなってしまったのでしょうか。

 

「あたしさ、ずっと想像してたんだ。好きな相手は、どんな部屋に住んでるんだろう。きっと食事はインスタントばっかりなんだろうな。やっぱりお風呂は狭いのかなぁ。もしかしたらお風呂無いかも。そしたら二人で銭湯も悪くないな……ってね」

 

 おお、サキサキが進化して「乙女ちっくサキサキ」になってらっしゃる。

 座卓の下に隠した手をもぞもぞと動かしながら、ちらと上目遣いで俺を見る。

 正直たまらんですわ。

 

「……引いちゃった、重いよね」

「阿保か。今更その程度で引くかよ。重いのはその胸ぐらいだろ」

「ばか……」

 

 軽口を吐きながら座卓を回って、沙希の隣に腰を下ろす。

 とん。と肩に、やっと慣れた重みがのし掛かる。

 

「あんたは、優しい」

「勘違い甚だしいな」

「そういうとこも、優しさなんだよね」

「買い被り過ぎだろ。どんだけ高く見積もってんだよ」

 

 水気を帯びた沙希の目が俺を捉える。肩に手を回し、くいと引き寄せると、簡単に身体を預けてくる。

 触れた部分がじんわり汗ばんでくる。

 

「エアコン、つけるか」

「ううん。あんたの熱を……感じてたい」

 

 軽く口唇を重ねる。

 

「あのさ、俺、ここに人を呼ぶの、初めてなんだよ」

「そう、なんだ」

 

 もう一度口唇を合わせる。

 

「それで、だな」

「うん」

 

 啄ばむ様に互いの口唇を挟んで、離れる。

 

「この部屋、一人じゃ広いんだよ」

「うん……」

 

 舌を絡める。

 

「でも、あれだよな。さ、沙希の大学は、千葉だもんな」

「うん……」

 

 舌を絡める水音が大きくなる。

 

「だから、その」

「……先にあたしの話を聞いて」

 

 沙希の手が頬に触れる。冷んやりと心地好い。

 

「あんたさえ良かったら、週末……泊まりに来ても、いい……かな」

 

 ーーやられた。

 散々俺が言い淀んでいたことを、すぱんとピンポイントで云われちまった。

 

「ーー先を越された」

「え?」

「俺はさ、週末だけでも一緒に過ごさないか、って言おうと思ってたんだよ。でもよ、沙希の都合もあるだろ。家事とか、京華の保育園とか。だから、迷ってた」

 

 沙希の目から雫、一滴。

 

「……嬉しい。同じ事、考えてたんだね」

「まあ、たまには意見が合うこともあるだろ」

「その『たまに』が嬉しいんだよ。分かってないね、あんた」

 

 ふふん、と鼻を鳴らして笑みを向ける沙希に、口唇で応える。

 するりと沙希の手が俺の汗まみれの背中に回される。

 あれ。まさかこいつ、スイッチ入っちゃった?

 

「んー、はちまんの匂いー」

 

 俺の汗まみれTシャツに鼻を押し付けて、しきりにスーハーと息をする沙希。そのポニーテールをがしっと掴み、沙希の頭を離す。

 

「……え?」

「お前ばっかり、ずるいぞ」

 

 攻守交代とばかりに今度は俺が沙希の首筋に鼻を寄せる。

 

「だ、だめ、汗で、くちゃい、から……」

 

 わざと呼吸音が聞こえる様に鼻から息を吸う。

 

「はあんっ、だめ、だめ、くちゃい……」

「んー、沙希の匂いだ。甘い匂いだな、サキサキ」

「サ、サキサキってゆわないでっ、ん、あん」

 

 脳が蕩ける。暑さの所為(せい)ではない。

 沙希の首筋から立つ、蠱惑の香りの所為だ。

 

「沙希、沙希……」

 

 夢中で沙希の首筋に顔を埋める。

 ふと、沙希の耳が視界に入った。

 これを、吸いたい。

 

「はあっ、あっ、み、みみ、みみ、ら……ああんっ」

 

 耳たぶを軽く噛み、口内で舌を這わせる。

 沙希の吐息が荒くなる。

 今なら、大丈夫……かな。

 今まで故意に触れたことは無い、豊かな膨らみに手を添える。

 

「あっ、そ、そこ、そこ、や、や、や、もっと、や、んっ」

 

 くにくにと手の中でカタチを変える、柔らかい膨らみ。

 

「はあっ……ちまん……」

 

 刹那。沙希の身体が緊張し、ふるふると震えた。

 いつもとは明らかに違う反応。

 

「ど、どうしたっ」

 

 脱力しきった沙希は、俺の肩に頭を乗せて荒い呼吸を繰り返す。

 まるで全力疾走した直後の様な、酸欠の様な、そんな呼吸音。

 これ、やり過ぎた、かな。

 

「はあ、はあ、んくっ、はあ……」

 

 落ち着きを取り戻してきた沙希が、涙目で俺を見る。

 

「なに、今の……わかんない。こわい。でも、気持ちよかった」

 

 それってまさか。

 

「あたし……いっちゃったのかな……」

 

 いく。

 行く。往く。逝く。そのどれでも無い「いく」。

 だが、耳と胸の刺激だけで、そうなるものなのか。

 

「なんかね、ふわっと浮いて、八幡が捕まえててくれて、幸せな感じ」

 

 首筋に張り付いた後れ毛を整えてやると、ふるっと身体を震わせる。

 

「だめ、まだ敏感みたい……」

「そ、そうか、悪い」

「ううん、気持ちいい」

 

 目を細めて微笑むその表情は、京華よりも幼く見えた。

 

「あたし、八幡と会えて本当に良かった。こんな、こんな温もりをくれて、本当に……ううっ」

 

 え、えーと。

 何故泣き出してしまったのでしょうか。

 

「好き、好き、八幡。あんたになら何されてもいい。もっともっと、いじめて」

 

 いじめたつもりは無いんですが。俺は単純に、耳を弄ったらどうなるかなぁ、あっ、胸も触りたいなぁって思っただけでして。

 

「八幡との週末、楽しみだなぁ……毎週来ちゃうから、覚悟してね、八幡?」

 

 斯くして沙希は俺を八幡と呼ぶ様になり、俺たちの関係は新たなステージを迎えた。

 つーか、そろそろエアコンつけようや、サキサキ。

 やっぱ暑いわ。

 窓を開けっ放していた所為か、夕暮れの風に乗って遠くのサイレンが聞こえた。

 

 




お読みいただき、本当にありがとうございます。
拙作「千葉ラブストーリー」の第二章っぽくタイトルをつけた「京葉ラブストーリー」ですが、こちらはかなり不定期な感じで掲載していくことになると思います。

また書けたら投稿させて頂きますので、何卒宜しくお願いします。
感想や批評、評価などいただけたら非常に嬉しいです。


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KUWABARA KUWABARA

今回のお話は、川崎沙希視点で進行します。
では、どうぞ。

2016.06.19 ちょっとだけ表現を変えました。


 

 あいつのアパートを見に行ってから二日。

 今日は、久しぶりにあいつがあたし、川崎沙希の家に来る。

 というか、まだ二回目だったね。しかも最初はあたしが半ば強引に連れ込んじゃったんだけど。

 その時、は……初めてのキス、しちゃったんだっけ。しかも、あたしから。

 

 あれから一ヶ月。

 いろんなことがあったけど……またあいつを家に招待出来るのは、すごく幸せなことだ。

 しかも今度は前回の様な騙し討ちではない。双方合意の元での招待だ。

 

 東京からの帰り。

 このところ毎日の様に比企谷家にお邪魔していたので、たまにはあたしの家にも呼びたいって言ったんだ。

 そしたら、あいつったら「スーツは大学の入学式のヤツでいいか」なんて言うから、びっくりしちゃった。一体何を考えているんだか。

 比……八幡には普段着でいいよと言ったけどね。お昼ご飯に招待するだけだし。

 

 今日のメニューは洋食にしてみた。といっても、あたしに作れる洋食のメニューなんて限られてるけどね。

 本当は和食の方が得意なんだけど、弟や妹のリクエストでたまに作るんだ。

 今日は、その数少ない洋食のレパートリーの中からハンバーグとドリアを作って、サラダを添えた。

 ハンバーグは、ちょっと大きな普通の合挽きのやつ。ラードで焼いて両面を少し焦がした後、たまに父親が飲んでる赤ワインを拝借して蒸し焼きにしてみた。このやり方だと、肉が柔らかく焼き上がるし、変に焦げない。

 フライパンに少し残ってる、肉汁入りの赤ワインも勿論捨てずに使う。

 ハンバーグを取り出したフライパンに醤油と酢を入れて一煮立ちさせ、そこに大根おろしを加えれば、和風ソースの完成だ。

 こうすれば無駄が無いし、フライパンを洗うのもちょっとだけ楽になる。

 ドリアは、時間がかかるから予めオーブンで焼いておいて、あいつが来る二分くらい前にチーズとパン粉をかけて仕上げの焼きを入れれば完成。

 あと、ジャガイモが安かったからポタージュも作ってみた。

 

 もうすぐ正午。

 そろそろ来る頃かな。

 

 実は、今日あいつを呼ぶのは家族には内緒だ。

 大志は二学期が始まっていて夕方まで高校だし、下の弟と京華は夜まで両親と祖父母の家に行っている。

 つまり。

 短くても大志が帰宅する夕方までは、二人きりになれるのだ。

 二人きりになったら、沢山話して、沢山触れて、沢山匂いを……えっちだよね、あたしって。

 

 さて、もう一度確認っと。

 お昼ご飯の準備はバッチリ、サラダもしっかりトマト抜きだ。

 MAXコーヒーは冷蔵庫に三本入ってるし、あたしもしっかりシャワー浴びたし……って、べ、別に何かを期待してる訳じゃないんだからっ。

 まあ、あいつのことだから……きっと手を出してはくれないだろうけど。

 

「……たまには髪、下ろしてみようかな」

 

 ポニーテールを解こうとした時、玄関のチャイムが鳴った。

 おっと、こうしちゃいられない。ドリアの入ってるオーブンをぐりっとセットして、玄関にダッシュ!

 

「い、いらっしゃい!」

 

 つい大きな声で言ってしまった。

 

「……元気が売りのラーメン屋かよ」

 

 早速の軽口だけど、しっかり緊張してるみたい。

 だって、目がバタフライで泳いでるもの。

 その様子が何だか可愛くて笑ってしまうと、決まりが悪そうに頭をがしがし掻いて、そっぽを向いてしまった。

 

「あいにく今日はラーメンじゃないよ。ご飯もうすぐ出来るから、上がって」

「あ、ああ。お邪魔します……」

 

 スリッパを出して迎え入れる。と同時にあいつの靴をくるっと回して爪先を玄関のドアに向けておく。

 これはもう習慣というか、癖だ。

 家族が五人もいれば、靴は整頓しないとすぐ散らかって、文字通り足の踏み場が無くなってしまう。

 まあ、靴をあっちこっちに脱ぎ散らかす大志の下の弟よりかは、あいつの方が全然行儀良く脱いであるけどね。

 ふと視線を感じて見上げると、ひ……八幡は感心した様に唸っていた。

 

「お前、すげぇな。小町なんかいつも脱ぎっばなしで、自分の靴さえ揃えねぇぞ」

「ああ、これね。あたしの癖。うちは家族多いからね」

 

 ほーん、という呟きと同時に、ちょうどオーブンの音が鳴った。

 

「おっ、この匂い……グラタンだな」

 

 鼻をくんくんさせながら言うその顔は、どことなく無邪気で可愛い。

 

「惜しいっ、ドリアだよ」

 

 言いながら立ち上がり、背中を眺める。

 ……あれ、こいつって、背、少し伸びたのかな。

 ーー違う。

 今日のひ……八幡は、背筋が伸びてるんだ。それに、何気に足も長いんだよね。お腹も締まってるし、スタイル良いよね。

 今度なんか服作ってあげようかな。

 あたしが惚けていると、ぽんっと肩に手を置かれた。

 

「ふっ、そりゃ毎回サイゼでミラノ風ドリアを食べてる俺への挑戦だな。よかろう、受けて立つ」

 

 ううっ、こいつったら、良い笑顔でくだらないこと言うんじゃないよ。体温上がっちゃうじゃないの。

 

「さすがにお店には負けるって。さ、早く」

 

 熱々のドリアが入ったココットを食卓のランチョンマットの上に並べ終えると、あいつの目は食卓に釘付けになっていた。

 

「おお、相変わらず美味そうだな。もう食べてもいいのか?」

「その前に手を洗っておいで」

 

 苦笑しながら洗面台に歩くその背中に、思わず抱きつきたくなる。

 駄目。これからご飯なんだから。

 自分を戒めて、ポタージュのスープ皿の器を食卓に置く。

 

 うん。これでオッケー。

 さあ、存分に召し上がれ。

 

  * * *

 

 ふう。

 ちょっと作り過ぎたかな、と思ったけど、全部綺麗に平らげてくれた。

 嬉しい。

 鼻歌混じりでお昼ご飯の後片付けを済ませて、あいつの座るリビングへ向かう。

 

「お疲れ様」

「はいね」

 

 この何の変哲も無いやり取りが心地好い。

 でね、あたしが隣に腰を下ろすと、照れ臭そうにちょっとだけ顔を逸らすんだ。

 

「ち、(ちけ)え……」

 

 ーーほらね。

 でも、逃がしてやんない。

 そうしてると、今度は向こうから寄ってくる。もう肩と肩はくっ付いてる。しっかり食後のMAXコーヒーの缶は握りしめてるけどね。

 

「しっかし、あのドリアは何なんだよ。あんな美味いの食ったことねぇぞ」

「どう? 299円より価値あった?」

「とんでもねぇ、あれなら千円は出せるな」

「ふふ、お世辞でも嬉しいよ」

「お世辞じゃねぇぞ。あれなら毎日でも食える」

「ありがとね、は……ちまん」

 

 実は……まだ名前で呼ぶのに慣れてないんだ。

 甘えてる時ならすっと言えるのに、普通の時は何だか照れ臭くって。

 だから、あたしは甘えてしまう。名前を呼びたいから。触れ合いたいから。

 

「お、おいっ、マッカンがこぼれるって……」

「こぼしたら、拭けばいいよ」

 

 構わず八幡に擦り寄ると、観念してくれたのか手に持った缶を置いてくれた。

 その手はそのままあたしの顎に当てられて、くいっと持ち上げられた。

 

 甘い香りが近づく。

 脳が痺れるような、甘美な香り。

 

 軽く触れた口唇が、離れてはまた触れる。

 まるで抗えない引力が働いている様な、不思議な感覚。

 彼の口唇が、指先が、香りが、あたしを満たしていく。

 ずっとこうしていたい。

 ずっとこのままーー。

 

「はちまん……」

 

 ソファの上、彼の太ももに頭を乗せる。何という安心感。見上げれば彼の顔がそこにある。

 ずっとずっと。二年間も縮められなかった距離が、今はゼロになっている。

 彼の指が、髪をくすぐる。

 

「あ……ちょっと待って」

 

 あたしは、もっと撫でて欲しくって、ポニーテールを(ほど)く。

 

「もっかい、して」

 

 癖がついた髪に手櫛を通して再び彼の太ももに頭を置くと、以心伝心の如く、彼の指はあたしの髪を梳いてくれる。

 ん、気持ちいい。最高だよ。

 これはきっと、八幡だからなんだろうな。

 今日は、本当に呼んで、よかったーー

 

  * * *

 

 ーー夢の中、チャイムの音が鳴る。

 あれ、自分で夢の中って自覚してる。これ明晰夢ってやつだ。

 もう、誰なんだ。あたしは今、最高に気持ちの良い夢を見てる途中なんだよ……。

 ガチャリと音がした。

 現実の音だ。

 ぼんやりした視界の中に立っていたのはーー。

 

「ーーお、お母さん!?」

 

 えっ?

 えっ、えっ?

 な、なんで……?

 

「まあ、沙希ったら」

 

 慌てて現状を把握する。

 あたし達はソファの上で抱き合ったまま、眠ってしまったらしい。

 そして今のあたしは、彼の上に乗っかって……ええっ!?

 

 ーー見られた。

 親に見られた。

 八幡は……まだ呑気に寝てる。

 

「……本当、見たのがあたしで良かったわね。お父さんが見たら卒倒するわよ」

「なんで!? なんでもう帰ってきたの!?」

 

 動揺丸出しのあたしに、お母さんはキッチンへ向かいながら苦笑した。

 

「その様子だと、あたしだけ先に帰るってメール、見てないのね」

 

 え、メール?

 全然気づかなかった。

 八幡に夢中で……なんて言ったら怒られそうだから言わないけど。

 

「ご、ごめん……」

「まったく……お父さんにはバレない様にね」

「う、うん……」

 

 そうだ。こんなことでお父さんを怒らせたら、週末のお泊まりも許可して貰えなくなっちゃう。

 

「それにしても、比企谷くんの寝顔、可愛いわね〜」

「そ、そうかな……」

「あら、あんたは可愛いとは思わないの?」

「お、思う……かな」

「ま、比企谷くんの上で眠ってた沙希の顔も可愛かったけどね」

 

 もうっ、その表現やめてってば。

 あたしの意に反して、けらけらと笑いながらお母さんはクローゼットを開ける。

 

「はい、彼に掛けてあげなさい。冷房入れっぱなしじゃ、寝冷えしちゃうわよ」

 

 お母さんの手には、薄手のタオルケット。

 

「でも、比企谷くんには沙希の肉布団の方が寝心地良いかしら」

「ちょ……なんて事云うのよ、実の娘に」

 

 言うに事欠いて、肉布団だなんて。

 でも、八幡の上……寝心地良かったな。

 

「あらあら、沙希も比企谷くんのお布団で二度寝したい、って顔してる」

「し、してないってばっ」

 

 やっぱり、誰もいない隙に家でいちゃいちゃってのは危険過ぎたみたい。

 これからしばらくは、このネタで揶揄(からか)われそうだよ……。

 

  * * *

 

「おきろー」

「ーーぐえっ」

 

 情けない鳴き声と共に、八幡が目を覚ましたのは夕方だった。

 

「こ、こらっ、けーちゃんっ」

 

 慌てて京華を止めるも、時すでに遅し。京華はぐっすり眠っている八幡の上にダイブしていた。

 

「んーーけーちゃんか、どした?」

「はーちゃん、遊ぼっ」

 

 かなりジャンプしてたから痛かっただろうけど、そんなこと(おくび)にも出さずに、のし掛かる京華の頭を撫でながら笑みを向ける。

 その柔らかな表情に惚けていると、同じ様に湿った目で見つめて頬を染める……お母さん。

 

「いいわぁ〜、とろける笑顔ね。あたしもあと二十年若かったら……」

「もうっ、お母さんっ」

 

 お母さんとあたしの声で、八幡の表情が固まる。

 

「……え、お母、さん?」

 

 ギギ……と音が鳴りそうなくらいに硬直させた首をこちらに向けてくる。そしてあたしと目が合って、その視線が少し右、お母さんに向いたところでピタリと止まる。

 

「……え? え? ええっ!?」

 

 慌てて京華を引き剥がして、ソファに畏まる。

 

「あ、あの、こ、こんにちは……その、えーと……」

 

 ぺこぺこと、起き上がり小法師(こぼし)の様に何度も頭を下げる八幡に同情してしまう。

 そりゃ寝起きでか、彼女の親がいきなりいたらパニックになるよね。

 

「ご、ごめん……あたし、つい眠っちゃって、起きたらお母さんがいて……ごめん」

「ーーいや、お前が悪い訳じゃないだろ。どちらかと云えば、他所様のお宅でうっかり眠りこけてしまった俺が悪い」

 

 本当にもう、フォローまで捻くれてるんだから。

 お母さんに向き直った八幡は、深々と頭を下げた。

 

「……留守中に勝手にお邪魔してすみませんでした。この謝罪はあらためてーー」

 

 何とも真面目くさった物言いに、お母さんは真剣に八幡を見つめる。

 

「あら、何か謝罪が要るような悪いことでもしたの?」

「い、いえ、その様な真似は決して」

 

 とくん、と胸が鳴った。

 その様な真似をして欲しい、なんてちょっとだけ思ってしまったりもした。なんて言ったら、はしたない女って思われる、かな。

 

「ならいいじゃない。たまたま娘が彼氏を連れてきて、そこへ偶然あたしが早く帰ってきた、それだけよ」

「は、はぁ……」

 

 恐縮しきりな八幡に、さらにお母さんは追撃を続ける。

 あれ、今、口の隅っこが笑った……?

 やばい、お母さんたら何を仕掛けるつもりなの。

 

「それにね、例えば沙希に色んなことをしちゃっても、それは悪いことじゃないわ。同意の上でのことなんでしょ?」

「ま、まあ、そうですけど……え?」

 

 誘導尋問が成功したお母さんは、にやりと大人の笑みを浮かべた。

 

「……ふーん、やっぱりしてたのね〜」

 

 やはり、お母さんは一枚も二枚も上手だ。

 敵わないなぁ。

 

「ーーで、どこまでしたの?」

 

 あたしも八幡も詰問の間中、冷や汗を流しまくっていた。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございます。
感想、批評、評価など頂けたら泣いて喜びます。
ではまた次回お会いしましょう。


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犬のいる風景

ちょっと暇が出来たので書いちゃいました。

気づけばこの作品もお気に入り登録者様は300人以上。
感謝感謝でございます。


 

 ついに始まった。

 何が始まったかと云えば、これしかない。

 夏休み終了のカウントダウンだ。

 つまり、あと数日で俺は都内のアパートに単身赴任となるわけだ。

 今日は俺の夏休み中の最後の土曜日。その今日、俺は公園デートに誘われた。

 ──沙希の妹、京華に。

 

「はーちゃん、さーちゃん、はやくー」

 

 可愛らしい足をフル回転して、とてとてと走るのは沙希の妹の京華。まあ、芝生だから転んでもケガはしないと思うけど、沙希の心配そうに京華を見つめる目で、俺まで心配になってしまう。

 

「やったー、けーか、いちばーん」

 

 え、いつの間に競争してたの。云ってくれたら、もうちょっと無様な負けっぷりを披露出来たのに。

 九月の太陽の下ではしゃぐ京華は、お日様に負けないくらいの笑顔を俺たちに向けてくる。

 

「元気だな、子供って」

「まあね、でも、こんなにはしゃいじゃうと……帰りが大変そうだよ」

 

 沙希の云う通りだろう。

 多少和らいだとはいえ、九月の陽射しは充分暑い。そこへきて、この公園に入った瞬間からダッシュしているのだ。

 あんな小さな身体ではすぐに疲れてしまう。もしかしたら眠ってしまうかも知れない。

 

「ま、いざとなったら俺がおんぶするから大丈夫だろ」

「うん、ありがとね」

 

 芝生に敷いたばかりのレジャーシートの上では、京華が早速飛び跳ねている。

 周囲を見渡すと、結構子供連れの家族が多い。中には大きな白い犬と戯れている子供もいる。

 猫も良いけど、犬もいいなぁ。特に大型犬。ああいう頼もしい犬が側にいたら、子供は心強いだろうな。

 などと考えていたら、その犬がこちらへ走ってきた。その前方にはピンク色のカラーボールが転がっている。

 

「わぁ、ピンクのボールだー」

 

 ボールを見つけた京華も走り出す。

 やばい、あれだと犬からボールを奪うカタチになりかねない。

 そうなったら……京華が危ない!

 

「ちょ、どうしたの!?」

 

 沙希の驚きを捨て置いて京華を追いかける。

 

「けーちゃん、戻っておいで!」

 

 駄目だ。夢中になり過ぎて聞こえてない。

 しゃーない、犬の注意を逸らすか。

 靴を片方脱いで、大型犬の頭上に弧を描く様に放り投げる。狙い通り、白い大型犬は立ち止まって頭上の靴の行方を目で追う。その間に、ボールを拾った京華の小さな肩に両手を置く。

 

「けーちゃんは走るの速いな。そのボールは、ワンちゃんに返してあげような」

「うん。でも……かまない?」

 

 大型犬の視線は京華の手の中のボールに戻っていた。ふんふんと鼻を鳴らしてこちらに歩み寄るたびに、京華の肩がひくんと揺れる。

 ちらっと沙希に目を遣ると、何も言わずに笑って只こくりと頷いた。

 俺も首肯を返して、再び京華に向く。

 

「大丈夫、ほら、ゆっくりボールを転がしてあげて、うん、上手いぞ、けーちゃん」

 

 京華が芝生へボールを転がすと、大型犬は「わふっ」と小さく吠えて目の前に転がされたボールの匂いを嗅ぐ。

 

「すみませーん」

 

 慌てて駆け寄ってきた大型犬の飼い主らしき女性が叫ぶ。

 

「こら惣一郎さん、だめでしょ」

 

 駆け寄って大型犬の首を抱いた女性に一瞬目を奪われた。

 美しい。だが、目を引いたのは容姿ではない。

 まるで春の陽だまりの様な、そんな雰囲気。

 年の頃は平塚先生と同じくらいだろうか。その柔らかな雰囲気は彼女が幸福であることを物語るようで、事実彼女がいた方向には旦那さんと思しき男性と、京華くらいの年齢だろう小さな女の子がいた。

 

「ごめんなさい、うちの惣一郎さんがご迷惑を──」

「いえ、こちらこそ」

 

 惣一郎さん、って……。

 犬の名前かよっ。

 犬に「さん」付けって、どんだけ家庭内ヒエラルキー高いんだよ、このもさい犬。

 

「お姉ちゃん、ワンちゃん、こわい?」

「惣一郎さんは優しい犬だから、こわくないわよ」

 

 京華の目が輝いたと思ったら、首が取れそうな勢いでこちらを向いた。

 

「はーちゃん、ワンちゃんに触りたいっ」

「そか、ちょっと待ってろ」

 

 飼い主の女性の方へ目を向けると、リードを手に巻きつけながら優しく微笑み、首肯を返してくれた。

 

「よし、けーちゃん。まずは匂いを嗅いでもらおうか」

「匂い? くんくんするの?」

「ああ、そうだ。ゆっくりゆっくり、手の匂いを嗅いでもらうんだ」

「──うん、やってみる」

 

 京華がゆっくりと差し出す手を、惣一郎と呼ばれた犬は匂いを嗅ぎ始める。

 ふんふんふん。ぺろぺろぺろ。

 

「きゃは、くすぐったい」

 

 さっきまでの恐怖心は何処へやら、京華は犬に手を舐められながら、けらけらと笑っている。

 ふと気になって沙希を見ると、その光景を見ながら優しく微笑んでいた。

 

「沙希、お前も来いよ」

「え、えっ? あ、あたし……も?」

 

 沙希の表情が少し固くなった。そこへ京華も追い討ちをかける。

 なかなか出来た妹さんですこと。

 

「さーちゃん、ワンちゃんかわいいよー」

 

 すでに京華は大型犬の背中や頭をわしゃわしゃと触りまくっている。

 

「あ、あたしは、いいよ……」

 

 俺も大型犬の頭をひと撫でして、沙希を見る。

 うん。明らかに怯えてる。その姿を見て、俺の中の嗜虐性が少しだけ首をもたげてしまう。

 

「何だ、犬も苦手か?」

「う、うるさいね。ちょっと大きいから……ううっ」

 

 ほーん。やっぱり恐いのか。よしよし。

 さあ京華、大型犬。

 出番だぜっ。

 

「よし、けーちゃん。さーちゃんにもワンちゃんと友達になってもらおう」

「え? え? ちょ、ちょっと……」

 

 じりじりと近づく京華と大型犬。後ずさりする沙希は、すでにレジャーシートの端っこだ。

 

「うんっ、そーちちろー、いくよ」

 

 なんか名前が若干違うけど、まあいい。飼い主の女性も笑っているし。

 

「わ、わ、わ、わぁ!」

「ほら、さーちゃん」

 

 嫌がる沙希に笑顔の京華が迫る。一瞬悪い顔をしたのは見なかったことにしよう。

 

「可愛い女の子ですね。うちの春香と同じくらいかしら」

 

 あ、この人勘違いしてる。残念ながらウチはご家族連れじゃありませんのですよ。

 

「いや、あの子はあいつの妹で……まだ保育園ですよ」

「まあ、奥様の妹さんでしたのね」

 

 奥様って──。

 

「いや、まだ俺たち大学生なので」

「そう、落ち着いてらっしゃるけどお若いのね」

「は、はぁ」

 

 生返事を返しつつ視線をスライド見させると、沙希は大型犬にのしかかられていた。

 ぎゃーぎゃー言いながら大型犬にぺろぺろされる沙希。

 うむ、何ともエロいな。

 

「ママー!」

 

 向こうから女の子が走ってくる。立ち上がった男性はそれを制止しようとするが、そんな事お構い無しなのが子供だ。

 案の定、女の子は足をもつれされて転びそうになる。

 それを地面すれすれでキャッチすると、女の子はきゃいきゃいと笑っていた。

 

「重ね重ねすみません」

「いえ、大丈夫です」

 

 女性がぺこぺこと頭を下げてくるのを言葉で制止すると、腕の中の女の子は女性に飛びついた。

 

「春香、気をつけなさいね。ほら、ちゃんとお礼を云って」

「うん、ありがとー」

 

 云うや否や、女の子は大型犬に飛びついた。京華も一緒になって飛びつく。

 堪らないのは沙希だ。

 大型犬が上に乗り、その上から女の子二人がダイブしたのだから。

 慌てて沙希を救出に行くと、すでに涙目だった。

 

「ゔゔっ、ちょっと怖かった……」

 

 目を潤ませる沙希に、飼い主の女性は何度も詫びる。

 

「す、すみません、すみません」

 

 悪気が無いのは沙希も分かっているので、涙目で懸命に笑顔を作っていた。

 

  * * *

 

 昼飯の頃合いとなった。

 俺たちのレジャーシートには、いつの間にか大型犬とその飼い主の家族が座っている。

 

「あまり上等なものはありませんけど」

 

 そう前置きして広げられた三段の重箱には、俵むすびや玉子焼き、煮物などが並んでいる。

 対する俺たちの弁当は、沙希のお手製サンドウィッチだ。

 玉子サンド、ツナサンド、ハムとチーズのサンドが詰まったバスケットを広げると、まず女の子が飛びついた。

 

「サンドイッチだー」

「どうぞ召し上がれ」

 

 すっかり笑顔が戻った沙希は、柔らかな声音でサンドウィッチを勧める。

 

「子供たちは、サンドウィッチの方が良いみたいですわね」

「そうですね」

 

 ……ん?

 ちょっと待て。

 今、旦那さん、奥さんに敬語だったよね。

 もしかして、複雑な関係なのか。

 

「もうっ、敬語はやめて。他人行儀じゃないですか」

 

 そう云う奥さんも敬語なのは、突っ込むべきなのだろうか。

 だが、そんな軽口を言い合う夫婦は穏やかな空気に包まれていた。

 

 それからは、すっかり仲良しになった二人の女児と一匹を眺めながら、まったりと過ごした。

 ご家族は、東京から来たという。その理由が、たまには家族だけでゆっくりしたい、と云うのが良く分からないが。

 そんな会話をぽつりぽつりと交わしながら過ごすうちに、だいぶ日は傾いてきた。

 

 ご家族は去り、俺たちもそろそろ帰り支度を始める時間だ。

 レジャーシートの土を払い、トートバッグに仕舞い込む。沙希は京華を抱っこしながら器用にバスケットを持ち上げた。

 

「代わる」

「ん、ありがと」

 

 トートバッグを差し出して、京華を受け取る。

 おお、こないだよりも少し重いか。

 

 公園の駐車場、川崎家の車に京華を寝かせ、シートベルトを装着させる。

 後ろの荷室に荷物を積み終えた沙希は、エンジンを掛けて呟いた。

 

「素敵なご家族だったなぁ」

「ああ、まったくだ」

 

 それは俺も激しく同意だ。

 ちょっと旦那さんが頼りなく見えたけど、それを大学生の俺が云う資格は無い。

 彼は家族を養っている。家族の笑顔を守っている。

 それがどれだけ凄いことか、俺はぼんやりとしか分かっていなかった。

 

「──奥さんも綺麗だったし」

「ああ、まったくだ」

 

 つられて同意した途端、頬をつねられた。

 

「ふーん、やっぱり。あんた、鼻の下が伸びてたもんねぇ」

「ば、そんなんじゃねぇよ」

「どうだかね」

 

 ぎゅむっと、最後に力を込めた沙希の指が頬から離れる。

 いてぇ。つーか家族連れに嫉妬するんじゃねえよ。

 頬をさすりながら運転席の沙希を見ると、すでに微笑んでいた。

 

「一刻館か、今度行ってみたいね」

「ああ、何よりあの家族の住む環境を見てみたい」

 

 どうしたらあんな笑顔でいられるのか。

 どうしたらあんなに幸せでいられるのか。

 俺は知りたかった。

 

 そりゃ時には怒ることもあるだろうし、泣くこともあるだろう。八方塞がりになって絶望することだってある筈だ。

 だけど、ほんの一瞬、家族で同時に笑える時があれば──俺は、頑張れるのだろうか。

 

 俺たちは、後ろのシートで寝息を立てる京華に悟られないように、静かに口唇を重ねた。

 

 

 




お読みいただき、本当にありがとうございます。

ちょっとほのぼのとした話を書いてみたくなりました。

ほぼ「撮って出し」の状態での投稿の為、もしかしたら大幅に加筆修正するかもしれません。


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黄金の月

九月の半ば。
比企谷八幡がアパートに帰宅すると。

注:沙希の最後のセリフを少しだけ変えました。


 九月半ばともなれば、暴威を振るった暑さも若干ながら和らいでくる。日没後ともなれば過ごし易さは尚更である。

 俺の居城である都内の安アパートも、夜風が涼しくなったお陰で一階の部屋とはいえ随分と快適になった。

 本当、この季節がずっと続いて欲しい。

 でもそうなると、主力のおかずは秋ナスや秋刀魚になりかねないな、いや柿や栗、金さえあればマツタケだってあるぞ、などと詮無い思考を重ねつつ、冷んやりと心地良い夜風を頬に浴びながら家路を急ぐ。

 最後の四つ角を過ぎた辺りで、ビルの陰から十六夜の月が顔を覗かせる。足を止めて、しばし月見と洒落込もうか。

 

『名月や 故郷遠き 影法師』

 

 漱石の句が浮かぶ。

 今頃あいつも千葉で妹たちと同じ月を見ているのかな、などと少々ノスタルジアに浸るのも、故郷を離れた者の特権なのだろう。

 とは言っても電車で一時間程で帰郷できる、お手軽単身赴任なのだが。

 

 暫く月を仰ぎ見ていると、左手に提げたドラッグストアの買い物袋が夜風に吹かれて、しゃわしゃわと鳴った。

 まあ、急いで帰ったって誰も待ってはいないからね。のんびりで良いのだ。

 その後も時々月を見上げながら、ゆるりと歩を進める。

 アパートに着き、空の郵便受けを確認して、部屋の鍵を取り出してドアを開ける。

 

「たでーまー」

 

 ふっ、誰も返事をする訳がないのに帰宅の挨拶をするなんざ馬鹿げていると思われるかもしれない。

 だが挨拶は大事。中々他人には出来ないけどね。

 

「お、おかえり」

 

 ──はい?

 

  * * *

 

 カーペットの上で胡座をかいて座っていると、沙希が目の前の座卓に湯呑みをすすっと差し出してくる。

 

「お、サンキュ」

「うん」

 

 ……さて、どうしてこうなった。

 

 私立大学の夏休みは国立大よりも早く終わってしまう。俺の通う大学もその例に漏れず、昨日から講義などが始まっている。

 それに合わせて都内に戻った俺は、今日どうしても取っておきたい講義があったので昼前に大学に赴き、帰りに近所のドラッグストアで安売りのカップラーメンを買って帰宅。

 で、今はそれから五分後である。

 それでは目の前で茶を啜る沙希さん、どうぞ。

 

「あのさ、サキサキ」

「ぶん殴るよ」「はいっ、ぶん殴られます」

 

 サキサキこわっ。思わず受け入れの声明出しちゃったよ。

 よし、ミッション変更。アプローチを変えてみよう。

 

「……ねえ川崎さん」

「なんだい比企谷さん」

 

 うん。ファーストコンタクトは成功の模様だ。

 さてさて、ここでもう一度現状確認だ。

 現在、俺と沙希は都内の安アパートの一室で膝を突き合わせて会談に臨んでいる。

 

「えーと、理由を伺ってもよろしいでしょうか」

「うん。許可したげる」

 

 うわっ、何だこの良い笑顔と物言い。ちょっと腹立つな。

 つーかお前、俺が何言っても許可しなかった試しが無いだろうが。

 

 今となっては良い意味でのトラウマと化した熱海の一泊旅行以降、俺は沙希に対してかなり無遠慮に物を言っている。勿論沙希も同様に振舞っている。

 それも「もっとお互い素直に我儘を言い合おう」という沙希の提案からなのだが、今のところ、俺がどんな我儘を言っても沙希に否定も却下もされた試しがない。

 腑に落ちない部分があれば修正案を出してくるのだが、基本俺の我儘はすべて通ってしまう。

 

 たまに沙希も我儘を言ってくるのだけれど、俺にとってそれは我儘でも何でもなく、むしろご褒美の内容だ。

 俺の労力で沙希の笑った顔が見られるなら、率先してご注文を伺いたいまである。

 ま、大概は買い物やメシの話だったりするのだけれど。

 

 夏休み中、何度か沙希が比企谷の実家で料理を作ってくれたのだが、その時のメニューはすべて俺の我儘が採用された。

 茄子のおひたしが食べたいと言ったら「はいよ」と言われ、鯵のフライが良いと言えば「じゃあ身の厚くて脂が乗った鯵を探してこなきゃね」と俺をスーパーに連れ出す。

 母親はその様子に涙し、親父は新聞を逆さに広げてワナワナするという古典的なボケを繰り広げていた。

 小町は小町で、沙希と一緒に訪れた京華ときゃっきゃうふふと戯れるのが気に入ったようだ。

 大志? 誰それ。

 ……改めて考えると、生まれて初めて家で甘やかされたな、俺。

 

 さて、余談が過ぎたな。

 そろそろ閑話休題と参りましょうか。

 

「そりゃありがとう……で、なんでお前ここにいるのかな。今日はまだ週末じゃないんだけど」

「合鍵もらったからに決まってるでしょ」

 

 きょとん。

 沙希は、ハトが三連装遅燃性高熱散榴弾砲(通称ポタン砲)を喰らったような顔で、悪びれる事もなく小首を傾げて俺を見る。

 くっ、可愛いじゃねぇかよ。

 

「いやいや、お前、今朝来たじゃん。で、帰ったのって今日の昼だよね。何なら五時間前だよね。そん時お前『また来るね』って言ってたよね。いくらなんでも次が早くね?」

 

 さて、今日の回想シーンである。

 今朝早く、東京に用事があるとかで川崎沙希が来訪した。

 俺は今日から大学の秋期なのだが、沙希は国立大学なのでまだ夏休み期間。まったく羨ましい限りである。

 俺もサボってしまいたかったのだが、それをすると沙希は烈火の如く怒るだろう。

 結局、俺の大学の講義の時間ぎりぎりまで二人でまったりと過ごし、俺が出掛ける時間となって『じゃあ……また来るね』と、名残り惜しそうに言って、確かに沙希は帰っていった。

 何なら最寄りの駅まで二人で歩いたのだ。

 はい、回想終了っ。

 

 さてさて、サキサキの言い分を聞いてみよう。

 

「あ、あんたにあげたいも……あっ、そうそう、忘れ物。忘れ物しちゃってさ」

 

 そうそう、じゃねえよ。

 完全に今思いついた言い訳じゃねえかよ。

 では、そこら辺を重点的にイジってみましょうそうしましょう。

 では、失礼をば。

 

「へえー、何を忘れたというのかね川崎くん」

 

 さあ沙希さん。

 俺様ちゃんの追求を上手く切り抜けてご覧なさいな。

 にやにやしながら見ていると、案の定沙希は下を向いて唸っている。

 当然だな。何も置き忘れてなどいない筈だからね。

 さあ、どんな言い訳を考えてくる……お、唸り声が止んだ。さては何か妙案が浮かんだのか。

 突然、たんっ、と座卓に手をついて立ち上がると、沙希はキッチンへ行ってしまった。

 訳わからん。

 

「ったく。なんなんだ、あいつは」

 

 座卓に頬杖をついてごちていると、目の前の座卓には小さな紙の箱。

 

「……は、はい、これ」

 

 沙希の手によって開かれた箱の中には、苺のショートケーキと、美味そうなモンブランが入っていた。

 

「え、どしたのこれ」

「あたし、まだあんたの誕生日を祝って無かったから、さ」

 

 するってぇと、何かね。

 キミはあちしの誕生日を祝う為に舞い戻ってきたということかね。

 むふん。嬉しいではないですか沙希さま。

 

「遅くなっちゃったけど、おめでとう」

「そうか、ありがとよ」

「うん……」

「…………」

「…………」

 

 で、何だよこの沈黙は。

 二つのケーキを挟んで対峙する沙希の俯いた顔を、得体の知れない違和感が包んでいる。

 言い換えれば、緊張感に似た空気だ。

 それは、本来の目的が別にあることを連想させた。

 気になる。ものすごく気になる。

 が、今はモンブランのお味も気になる。

 

「も、モンブラン……食べてもいいか?」

「え、あ、うん。じゃあコーヒー淹れてくるよ」

 

 そそくさと立ってキッチンへ向かう沙希の背中を見送りながら考える。

 こいつったら、いつの間に我が居城のコーヒーやお茶の配置を覚えたんだろ。

 沙希の家事スキルが計り知れない。こりゃいよいよ専業主夫の夢は潰えたか。

 

  * * *

 

 モンブランは美味かった。好みから言えば黄色くて安っぽい、昔ながらのモンブランが好きなのだが、この本格的なモンブランも素晴らしく美味かった。

 沙希も苺のショートケーキを食べ終えて、今は再び茶を啜っている。

 

「あの」

 

 呟く声がした。緊張しているのか、若干声が震えている。

 

「何だ、どした」

「あ、あのね……その、プレゼント、なんだけど……」

 

 ははーん、違和感の正体はそれか。きっと急に思いついたものだから、プレゼントを用意する余裕が無かったのだろう。

 

「いいさ。こうして祝って貰えただけで有り難いからな」

「ちがっ、違う、の」

 

 何かを言い淀む様な俯いたその目は、上上下下左右左右BAと、コ○ミコマンドばりに泳ぎ回っている。入力ミスなのか分身は増えていないけれど。

 

「こっ、これから言うことは、あたしの我儘だから……その、出来ればでいいから」

 

 何だ、その口幅ったい言い回しは。我儘は素直に言い合おうって言ったのはお前だよね?

 

「わぁった。聞かせてくれ」

 

 俯いて、手をもじもじ、体をもぞもぞ。

 何だろう。そんなにきつい要求なのだろうか。

 まさか、ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断しろ、とか?

 

「あたしの我儘はね、この先のあたしの『初めて』を、全部あんたで染めたいっ……て」

 

 ──。

 乙女だ。目の前に乙女がいるぞ。

 頬を紅潮させて目を潤ませ、口唇を噛み締める沙希は、可憐な乙女そのものだった。

 きっと、この先もこういう沙希を見て「ああ、こいつと一緒に居られて幸せだ」などと思ってしまうのだろう。

 だから。

 

「その台詞、そっくりそのまま返すわ。俺は、沙希が初めての恋人だ。だからと言う訳ではないが、この先の初めてはお前と一緒がいい」

 

 俯いていた沙希の顔に花が咲く。

 やっぱりこいつの笑顔は最上だ。見慣れてきた今でもうっかり胸が踊ってしまう程だ。

 すすっと座卓を迂回しつつ沙希が寄ってきて、肩に頭を乗せてくる。

 その青みがかった長く艶やかな猫っ毛に手櫛を通すと、気持ち良さげに目を細めてくる。

 心音と体温が少しだけ混じり合う。

 

「あたし、男の子の誕生日を祝うの、初めてなんだ……」

「……そか、ありがとな」

 

 どちらからともなく顔を寄せ、口唇を合わせる。そのまま俺の肩口に頬を乗せた沙希は、至近距離で視線を向けてくる。

 

「でね、プ……プレゼントなんだけど、貰ってくれる……?」

「ああ、沙希がくれるなら病気でも焦げ付き手形でも有難く受け取る所存だ」

「ばか……そんなもんあげる訳ないでしょ」

「いや、モノの例えなんだけど」

「……知ってたから」

「いやいや、解ってなかったよね。サキサキ解ってなかったよね」

「さ、サキサキいわないでよ……ん、んむっ」

 

 時折互いの口唇を啄ばみながら叩く軽口が心地良い。

 

「……じゃあ、プレゼントを用意するから、ちょっと後ろ向いて目を瞑ってて」

「──なんだよ、かごめかごめか。それとも打ち首か?」

 

 軽口を叩きつつも言われた通りに目を瞑り、沙希に背を向けて座して待つ。

 何だよ。ちゃんとプレゼント用意してあったのか。

 つーか、今日の沙希は明らかに変だ。妙に勢いがあるかと思えば、何でもない様な返答に窮したり。

 凡そ川崎沙希らしくない、ちぐはぐな印象だ。

 いや、高校の時のこいつってこんな感じだっけか。

 教室の中、人垣の向こうから俺を睨んでたと思ったら顔を真っ赤にしてそっぽを向いたり、廊下の角で出会い頭に見つめられたり。

 嫌われてるのか怒っているのか、随分と理解に苦しんだものだ。

 それにしても長いな。かれこれ五分は経つぞ。

 まだ目を閉じてなきゃならないのかよ。

 

「……まだか?」

「ま、まだダメっ」

 

 何をしているのか、背中からしゅるしゅると音が聞こえる。

 まさか、ここでラッピングしてるとか。

 急遽用意した物なら、それも致し方ないだろう。なんせ俺が何時に部屋に戻ってくるかなんて沙希には分かりっこないのだから。

 もしかして、首にリボンとか巻いちゃったりして

『プレゼントはあたし♡』

 みたいなこと言われたらどうしよう。

 思わず「おう、美味しく頂戴するぜぃ」とか言っちゃったりして。ふひっ。

 ──ま、沙希に限ってそりゃ無いか。こいつがそんなスイーツ脳とは思えん。

 つーかそんなもん、妄想の世界の世迷い事だ。考えるだけ無駄。杞憂だ。

 

 背中に響いていたラッピングと思しき音、つまりラップ音が止んだ。

 同時に背後から、まるで胸部レントゲン撮影の時みたいな深い呼吸音が聞こえた。胸部じゃなくたって良いのかもしれないけど、なんか胸部って言いたい。

 それだけ沙希の胸部は素晴らしいのだ。

 

「い、いいよ」

「ったく、長えよ」

 

 漸く許可を得て、恐る恐る目を開ける。体ごと沙希の方に振り返っ……

 

「……うぁだっ!?」

 

 ──思わず変な声出しちゃったじゃねえかっ。

 あー、やばいやばいやばい。

 マジでやばいって!

 俺は、俺史上最速の動きで再び沙希に背中を向けた。今なら縮地も軽功術も使えそうな速さだ。

 無理だ。

 

 ──さて。

 今振り向いた瞬間に見たことを、十文字以内で説明するぜ。

 

 上下白リボン。以上。

 

 よしっ、句読点込みでぴったし十文字だ。

 ……なに? わからん?

 うん、八幡わかってるよ。これじゃ流石に解らないよな。

 もうちょっと詳しく言うと、つまり上下とも純白の下着姿の川崎沙希が、首にピンクのリボンを結んで立ってい──

 

 ──はあああああぁ!?

 

「な、なんの真似だっ。よせっ、早まるなし──」

 

 背中を向けたまま沙希を説得にかかるも、不意に感じた背中の温もりが言葉と思考を遮断する。

 背中から肩を飛び越えた沙希の両腕は、俺を包む。

 

「プ、プレゼントは……あ・た・し」

「……は?」

 

 な、な、な、な……

 なんですとおおおお!?

 

「だっ、だからぁ、あたしをあげるって言ってんのよ」

「お、おう」

 

 耳元で叫ばれて思わずキョドってしまった。

 てか、これって夢?

 さっきの俺の妄想そのままじゃねぇかよ。

 そうだ、夢に違いない。

 色即是空、空即是色──

 

「ねえ」

「な、なんでしょう」

 

 ──観自在菩薩(かんじーざいぼーさーつ)行深般若波羅(ぎょうしんはんにゃーはーらー)……。

 

「こっち向いてよ……」

「いや、だってさ、お前、下着……じゃん」

 

 脳内の読経に混じって、背後から唸る声が聞こえる。

 それよか早く服を着てくれ。般若心経は短いんだぞ。

 つーか、俺っていつ般若心経なんか覚えたんだっけ。

 あっ、中二病時代か。

 

「──わかった。もういい」

 

 放たれた声音は強く、怨嗟の念すらこもっている。幸いお経を唱えていた俺には全く効かないけどね。

 諦めてくれたか、若しくは呆れられたのか。

 とにかく危機的状況は回避──

 

 むにっ。

 

 ──出来なかった。

 

 突如背中に当たった二つの柔らかいもの。それはTシャツ越しでも分かる。

 沙希の、胸だ。

 そして沙希の身につけた防具は純白のレースの下着のみ。

 しかし……沙希の純白の下着姿、素晴らしく綺麗だったなぁ。申し訳ないけど脳内のフォルダに有難く記憶させて頂きますね。

 ま、それはそれとしてだ。またお経の出番かな。

 いやいや無理だな。だってもう、背中は煩悩まみれですもの。

 

「あ、あの、当たってるんですけど」

「あ、当ててんのよ」

 

 あ、こいつこのネタ知ってるのか。

 じゃなくてっ。

 

 背中から双丘の温もりが離れて、肩に手が置かれる。

 その手が離れたと思ったら、俺の正面に沙希が回り込んで、ぺたんと鎮座した。

 カーペットに下着姿で座るってことは、カーペットに下着が触れてるってことだよな。

 ……うん、その部分を今日から「聖地」と呼ぶことにしよう。

 

  * * *

 

 愚考を断ち切って、あらためて沙希を見る。

 

 ──やはり綺麗だ。

 思わず瞬きを忘れちまう。

 思ったより肌白いのな。胸もあんなに実っちゃってまあ。

 そして……何より目を惹かれるのは、口唇だ。

 ぷるんと瑞々しい口唇には見慣れない紅い口紅が塗られている。

 真紅よりも桃色に近い赤。まるで熟す一歩手前のトマトの様な色。

 普段見ることのない赤い口唇は、目の下の涙ボクロと相俟って、普段の数倍は色っぽくみえる。

 そして、更に純白の下着だ。

 紅い口唇との対比で、純白の下着が更に映える。

 決して派手ではない刺繍が施された清潔感溢れる純白の下着は、沙希の豊かな膨らみを包み支えて、双丘に谷間を形成している。

 そしてその豊かな胸の谷間には、ペンダントが──ん?

 そのペンダントって……まさか。

 

「か、鍵……か?」

「う、うん……比企谷に初めて貰った物、だから」

 

 俺の部屋の合い鍵かよ。

 くそっ、自分の部屋の鍵に嫉妬するとは思わなかった。

 

 ごくり。

 無音の部屋に俺の喉音が響く。

 下着姿の川崎沙希が、手の届く距離にいる。

 それは即ち、まさか、いや、しかし、でも……。

 

「……今日は、比企谷に全てを捧げるつもり」

 

 やっぱり。

 下着姿の沙希は、背筋を伸ばして居住まいを正す。

 そして床に両手の指をつき、上半身をゆるりと倒す。

 

「あたしを、もらってください」

 

 流麗な所作で三つ指をついた。

 

  * * *

 

 夜の十時。

 灯りを落とした、音の無い六畳間。

 その故郷から遠く離れた空間に、二人分の鼓動だけが響いている。

 窓際に配置された狭いベッドに沙希を促す。

 カーテン越しに照らす十六夜の月は、沙希の白い肢体を、その豊かな凹凸を薄闇に浮かび上がらせる。

 俺はベッドの淵に腰を下ろしたまま、その白い肌に目を奪われている。

 ふいと、恥ずかしそうに沙希は身を捩った。

 

「……見過ぎだよ」

「わ、悪りぃ。あんま綺麗だったから」

「……き、れい」

 

 口を尖らせて顔を背けるも、その紅潮した頬も、豊かな胸も、細く締まった腰も、その下に続く骨盤のしっかりした臀部も、何処も手で覆って隠そうとはしない。

 とうに覚悟を決めているのだろう。

 音の無い部屋を二人の呼吸音だけが満たしてゆく。

 

「い、いいのかよ」

「うん」

「本当に……いいのか?」

「しつこいね。これは、あたしが頼んでるんだよ。いわばあたしの我儘なんだ。聞いてくれるでしょ、あんたなら」

 

 なんて言い分だ。

 さっきまで誕生日のプレゼントとか言ってたくせに、今度は我儘ときた。

 その言い分の捻れ方に思わず苦笑してしまう。

 

「……何で笑うのさ」

「いや、可愛いなと思ってな」

「ばっ、馬鹿じゃないの」

 

 笑ったせいか、若干緊張が解れた。

 息を吐き、横たわる沙希に少しだけ近づくと、安普請のベッドが軋んだ。

 沙希はベッドに腰掛けたままの俺のその腕を引き寄せる。

 促されて、沙希の横に身を横たえる。添い寝の状態だ。

 枕に頬を沈めた沙希の潤んだ目が、月明かりを反射している。

 ああ、これは。

 こいつが甘える時の目だ。

 

「八幡……すき。あいしてる」

「いや、俺の方が愛してる」

「……ばか」

 

 沙希の手が、俺の手が、互いの背中に回される。

 夢中で口唇を吸い合い、肌を寄せ合い、触れ合う。

 その度に互いの鼓動がその隙間を埋めていき、想いは胸の中を埋める。

 温もり。幸せ。

 溢れた想いは手を伝い、互いの背中に流れ込む。

 欲しい。

 沙希のすべてが欲しい。

 想いの丈を、すべて注ぎ込みたい。

 自然と抱き締める腕に力が入る。それに呼応して沙希の指先が背中に食い込んでくる。

 もっと。

 もっとひとつに……。

 

「ねえ、八幡」

「ん?」

「生まれてくれて、ありがと。出会ってくれて、本当にありがとう……ね」

 

 お父様、お母様、小町。

 並びに川崎家および関係各位の皆様へ。

 今日、比企谷八幡と川崎沙希は──

 大人になります。

 

 

  * * *

 

 

 ──。

 ──あ。

 抱き合ったまま、見つめ合う。どうやら沙希も重要な事に気づいたらしい。

 

「ね、ねえ、そういえばさ……アレって、ある?」

「あ、アレって……アレか?」

「うん、アレ」

「勿論……無いな。今まで必要無かったからな」

「あ、でも今日なら大丈──」

「──いや、やっぱダメだ。ちゃんとしよう。お前の初めてなんだから」

「八幡……優しい。でも、ちょっといじわるっ」

 

 ──どうやら、もうしばらくお預けの様である。

 はあ、うまくいかねぇ。

 

 

 

 

 




千葉ラブストーリー番外編、京葉ラブストーリーをお読み頂き、誠にありがとうございます。

八幡め……そう簡単には遂げさせんよ。フヒッ。

──またお会い出来れば幸いです。


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19歳の秘かな欲望

初体験未遂事件後の週末。
都内の比企谷八幡の部屋を訪ねたのは──


 自室で古文の小論文を書き上げた頃、完全に日は暮れていた。

 ちらとカレンダーが目に入って、顔が綻ぶ。

 今日は金曜日。つまり明日は嬉しい土曜日である。

 何が嬉しいって、そりゃ久しぶりに美味い飯にありつけるからである。

 明日の朝になれば沙希が来る予定なのだ。

 

 沙希は、俺のアパートに来ると色々な心遣いをしてくれる。

 前回来た時にはイカと大根の煮物や焼き茄子を作って冷蔵庫に入れ、非常用としてタマネギと長ネギを微塵切りにしたものを小分けして冷凍庫に入れておいてくれた。

 本当、すげぇ女だ。俺の普段の主食がカップラーメンだと既に見抜いてやがる。

 気が利いて美人でスタイルも良くて。俺の彼女なのが不思議なくらいだ。

 

 しかし、俺はまだ沙希に何もしてあげられていない。何も返せていない。恩だけが積もってゆく様で歯痒い。

 差し当たって俺に出来る事を考えてみたのだけれど、何も妙案は浮かばない。

 料理は沙希の方が上手いし、その他の家事も俺は格下だ。

 勉強に関しても、大学が違えば内容は変わってくる。

 つまり、俺には恩を返せる当てが無い。

 

 こうなったら……肉体で返すか、てのは冗談。

 こないだのリベンジは──まあ置いておこう。初体験なんて慌ててするものじゃない。俺たちのタイミングで良いとも思っている。

 

 半分ほど開けた窓からは秋の夜風に乗って虫たちの鳴き声が聞こえてくる。耳触りの良いその音色は、(もや)がかかった脳内に心地良く響いた。

 うん、若干落ち着いてきた。

 小論文を綴じて端に寄せた俺は、独りでノートパソコンを開いて調べ物を開始する。

 内容は……そりゃ言えない。しかし俺にとっては物凄く重要なことなのだ。

 カタカタと検索ワードを打ち込んでは、ヒットしたサイトやホームページをお気に入りに登録していく。その中でも特に重要なページはショートカットを作成してフォルダに突っ込んでいく。

 しばし作業に没頭し、したんっとノートパソコンのエンターキーを叩いて画面から目を離す。

 

「ふう、だいぶ溜まったな。あとはこれらの情報を精査して──」

 

 独り言を遮って腹の虫が鳴いた。

 

「メシ、食うかな」

 

 誰にも届かない言葉をごちりつつノートパソコンを閉じ、三畳ほどの狭いキッチンへ向かう。

 今日の晩飯はチャーハンと決めている。というか、三日連続のチャーハンである。

 だが俺も馬鹿では無い。ちょっとずつ具材を変えているのだ。

 昨日は沙希が微塵切りにしといてくれた玉ネギを使用した。今日は、同じく沙希が刻んで冷凍庫に入れといてくれた長ネギを使おう。

 あと、こないだ半額で買ったナルトも刻んで入れちまうか。

 

 ラップで小分けにされて冷凍庫に保存してある刻んだ長ネギを取り出して、レンジに入れる。

 その隙にナルトを刻んで、具材の完成だ。

 飯を皿に盛って、作る量を決める。今日はちょっと多目に作るか。

 フライパンを熱する間に、味噌汁用のお椀に卵を割ってかき混ぜる。沙希曰く、あまりかき混ぜない方が食感の変化があって京華が喜ぶそうだ。

 煙が上がってきたフライパンに油を引き、そこに溶き卵を投入。くるりとお玉でかき混ぜて、すぐにメシをぶち込む。

 そこに沙希が持参した鶏がらスープの素をぱららと振って、塩も入れる。

 フライパンは振らない。火から遠ざけず、ひたすらお玉でご飯を切る様に混ぜながら炒めるのがコツらしい。

 と、ここで解凍した長ネギを投入。

 軽く混ぜながら炒めたら真ん中に穴を開け、見えたフライパンの底に醤油をひと垂らし。

 醤油は鍋肌に垂らすと焦げついてしまうから真ん中に垂らす、と沙希は言っていた。

 フライパンの中央から蒸気が猛烈な勢いで上がるところを、それに負けないくらいの勢いで手早くかき混ぜる。

 焦げた醤油が満遍なく行き渡ったらコショウをかけて混ぜ合わせて、出来上がり。

 うん、ちょっと炒め過ぎたけど、上出来だ。

 

 続いてスープ。

 チャーハンを皿に移して、空になったフライパンを再び火にかける。そこへお椀一杯分の水を入れ、一煮立ちしたら鶏がらスープの素を少々入れる。

 醤油で色をつけて塩で味を整えたスープを、さっき溶き卵を作ったお椀に流し入れると、お椀に僅かに残っている卵がふわりと浮き上がり、まるでかき玉汁の様になる。

 うん、こっちも上手くいったぜ。

 さすが沙希直伝の作り方だ。

 お料理レベル小6の俺が作っても非常に美味そうである。

 そそくさと座卓にチャーハンとスープを運び、ウーロン茶を用意する。

 

「さて、いただきます」

 

 レンゲを持ったまま手を合わせて、いざ実食。

 チャーハンを一口掬って頬張ると、焦がし醤油の香りが鼻に抜ける。

 咀嚼しながら、かき玉中華スープを啜る。

 

「……マジでうめぇ」

 

 塩加減や炒め具合は沙希に負けるものの、俺が作ったチャーハンの中ではダントツに美味い。

 沙希に感謝だな。

 作り方を教えてくれたのは勿論、ネギを刻んでくれたのも沙希だ。

 もしかして、俺って沙希無しでは生きていけないのだろうか。

 

 ──人と人とのつながりはきっと麻薬だ。

 知らず知らずに依存して、そのたびにじんわりと心を蝕む。

 そのうち他の人に頼らなくては何もできなくなってしまう──

 

 他人との間に必要以上の壁を作っていた、高校生の頃の俺の思考だ。

 鑑みれば、まさに今そんな状態では無かろうか。

 料理ひとつ作るにしても、洗濯物ひとつ畳んでも、そこには沙希の知恵がある。

 まさに共依存と呼べるのではないか。

 ……いや、違うな。

 共依存の根底にあるもの、それは自己欲求の押し付け合いである。利己的欲求の成就を他者に期待し、それが成されないと解れば裏切りと断ずる。

 

 対して沙希はどうか。

 沙希の行為には見返りを求めるという裏は無い様に見える。たまに云う我儘さえも俺の許容範囲内で留めてくれる。

 そんな沙希だからこそ、俺も沙希に何かしてやりたくなるのだが。

 

 ふと考えて、顔面が熱くなる。

 うん、ちょっとコショウ効き過ぎだな。

 

 ぱくぱく、ずずっ、と直伝のチャーハンを堪能していると、突然玄関のドアが開いた。

 

「お兄ちゃん、突然の小町ですよー」

「は? 何で小町がここに──」

 

 制服姿の小町は、言葉尻を叩っ斬る様に立てた人差し指をちっちっと左右に振る。

 相変わらずうぜぇ仕草だ。まあ可愛いけどもさ。

 

「ふっふっふ、今日は小町の抜き打ち検査、つまりガサ入れなのですっ」

 

 それ、ちょっと意味違くない?

 ガサ入れって家宅捜索、つまり犯罪の証拠となる物品の捜索なのよ。

 生きている以外に罪を犯していない俺にとっては無意味な言葉なのだよ。

 生きるのが罪って太宰っぽいなと思ってみたけど、冷静に考えると悲しさ百パーセントだな。

 

「つーかお前、一人でここまで来たのかよ」

 

 未だ薄い胸を張って不敵に笑う我が妹に若干の残念さを感じつつ、俺はチャーハンを口に運ぶ。

 

「どーせお兄ちゃんのことだから、沙希さんがいない時はだらし無い生活をしてるんだろうなぁ、と思って、様子を見に来たんだよ。でも──」

 

 座卓の上に置かれた食べかけのチャーハンとスープを覗き込むと、小町は笑顔を向けてきた。

 

「──ちゃんとやってるみたいだね。感心感心」

 

 お前は何だ。母親かよ。年下の母親って何だか萌える、じゃなくて。

 年頃の娘が制服姿で一人東京に来る危険性を、こいつは理解しているのだろうか。

 東京は魔窟だ。地方都市の常識が通用しない事象も起こり得るのだ。

 まあ、来てしまったものは仕方が無い。

 お説教は後でするとして……こいつには一つ確かめたい事があったんだよな。

 丁度いい、聞いてみよう。

 

「ところで小町……ああっ!?」

 

 思考をまとめて話し掛けるまでの数秒の隙に、小町は俺のチャーハンをはぐはぐもにゅもにゅと口に運んでいた。

 

「ん、なぁに、お兄ちゃん」

 

 スープをずずずっと啜りながら丸い目をこっちに向ける我が愛妹(あいまい)からチャーハンを奪い返す。

 

「俺の渾身のチャーハンを、よくも……」

「腕を上げたね、お兄ちゃん。これなら海原雄山も納得だよっ」

「こんなんで美食倶楽部の主宰が納得するかよ」

「えー、お兄ちゃんの手料理ランキングでは仏恥義理(ぶっちぎり)のトップだよ?」

 

 こらそこの妹。

 最近お前、親父の漫画を読み漁ってるらしいな。「美味し○ぼ」とか「湘南爆○族」とか。

 まあ読むのはいい。けど、ページの間にポテチのかすを落とすなよ。親父が電話の向こうで泣いてたぞ。

 

 おっと、チャーハン食わなきゃ。

 皿を持って掻き込むと、小町がショーウィンドウの中のトランペットを見つめる目でチャーハンの行く末を見ていた。

 

「……メシ食ってこなかったの?」

「うん。ばっちり食べてない」

 

 だからさ、ちょいちょい日本語おかしいんだけど。

 ああ、こうやって日本語って変化していくのね。

 

「……わぁった。小町の分も作ってやる」

「ありがとー、待ってましたっ」

 

 ふぅむ、久しぶりに妹の為にメシを作るのも悪くない。

 

  * * *

 

 出来上がったばかりのチャーハンにがっつく小町を見ていると、何だか子供の頃を思い出す。

 俺たち兄妹が小学生の時分から両親は筋金入りの社畜で、朝夕の食事作りは俺の仕事だった。

 とはいっても、俺もまだ小学生。簡単な料理しか作れなくて、小町はいつも同じ様なメシを文句を言いながらも食べてたっけ。

 小町が大きくなって一緒に料理する様になって、いつの間にか小町の方が料理上手になって。その頃からだな、こいつが自慢の妹だと感じ始めたのは。

 中学、高校の晩飯はほとんど小町が作ってくれたんだよな。

 過去を振り返ると、こいつには感謝してもし切れない。

 

「小町……ありがとな」

「なに、お兄ちゃん。なんか拾い食いでもしたの?」

 

 ──ひどいっ。

 日頃の感謝の気持ちを言葉にしただけなのにぃ。

 もう許さん。ちょっとは加減してやろうかと思ったけど、徹底的に追求してやろうぞ。

 

「ところで小町や」

「なんだねお兄ちゃん」

 

 チャーハンを頬張りながら軽い口調で返す小町を、じっと見据える。

 

「な、なに」

「お前……沙希に何を吹き込んだんだよ」

 

 小町のレンゲがぴたりと止まった。

 

「え、えーと……小町ったら最近忘れっぽくて」

「ほほう、そうかそうか。じゃあ仕方ないな」

「うん、そうそう、仕方ないよねー」

 

 目を泳がせながらも再びチャーハンを食べ続ける胆力はさすがであるが、俺も少しは兄としての威厳を見せなきゃな。

 

「なら、俺が小町との約束を忘れて、小町の夏休みの課題をほとんど俺がやらされた件をうっかりお袋に喋っちゃっても……仕方ないよな」

 

 威厳も何もない、同レベルの言葉を吐いてしまった。だが小町には「こうかはばつぐん」だったようだ。

 

「……ずるい」

「ずるいのはどっちだよ。そもそも夏休みの課題なんてものは一学期の復習だろ。自分でやらなきゃ復習の意味が無いだろ」

 

 むぅ、と膨れっ面の小町に冷たく正論を突きつけると、小町の目にじんわりと涙が滲んてきた。

 

「……小町はさ、沙希さんが悩んでたからお話を聞いてあげただけなのにさ、何でそんなこと云うのさ」

「んだよ、泣く程のことかよ」

 

 やはり故郷を離れても兄は兄。妹の涙には弱い。

 鼻を啜りながら俯く姿を見たら、放っておける訳は無い。

 

「だって、折角お兄ちゃんの為を思って、沙希さんにアドバイスしたのに……」

「あー、悪かった。小町は俺たちのことを考えてアドバイスしてくれたんだよな。ごめん」

 

 俺とは思えない程素直に謝ると、途端に顔を上げる……てことは、こいつ嘘泣きかよ。

 そんな事だけ上達しやがって、親の顔が見てみたいものだ、久しぶりに。

 

「わかってくれればいいんだよっ」

 

 見ると、皿のチャーハンは半分になっていた。呆れつつコップにウーロン茶を注いでやりながら、再び小町に問う。

 

「そんで、沙希にはどんなアドバイスしたんだ?」

「そりゃあ、とっとと既成事実を──」

「はいアウト」

 

 我が妹の残念な脳にチョップをくれてやると「あぅ」と小さく鳴いた。

 

「お前な、俺たちには俺たちのペースがあるんだよ。無闇にガソリン撒いて加速させんじゃねえ」

 

「──ごめん。でもさ、沙希さんが不安に思ってるのは本当だよ。ちゃんと考えてね。彼氏として、未来の旦那様とし……あぅ」

 

 もう一発脳天にチョップを食らわせて鳴かせた後、くしゃっと髪を撫でる。

 

「心配、かけたな」

「ううん。だって、一度は小町のせいでダメになりかけちゃったんだもん」

 

 あの一件で、小町は小町なりに責任を感じている。その証拠に、あれから雪ノ下の名前を口にしなくなった。

 小町のお膳立ての末にあれだけの事があったのだ。律儀な雪ノ下から何の連絡も無いことは考えにくい。事態を知ったら由比ヶ浜からも連絡は来るだろう。

 きっと小町は、それらを自分の胸三寸で留めているのだ。

 

「美味いか?」

「うん。これなら週に三回はいける」

「そか、ありがとな」

 

 いずれ、奉仕部の二人にはちゃんと報告しなきゃな。俺と沙希のことは。

 あと、平塚先生にも。

 

「今日は泊まってけ。家には連絡しといてやるから」

「ありがとー。そう言うと思って、お着替え持参しましたー」

 

 本当にちゃっかり、もとい、しっかりしてるわ。

 

  * * *

 

 俺のベッドで眠る小町を確認して、スマホとマッカンを手に部屋を出る。

 零時近いせいか風は冷たい。慌ててパーカーを取りに戻って、再び外に出る。

 マッカンを開けて一口流し込み、息を整えた後にスマホの発信をタッチする。

 表示された番号は──

 

『……もしもし、どうしたの急に。何かあった?』

 

 ──川崎、沙希だ。

 

「いや、別に急用は無いんだが……その、声が、な」

『ん? 声? あたしの声、なんか変?』

「そうじゃなくてだな、声……聞きたかった」

 

 素直に電話の理由を告げると、沙希は押し黙ってしまった。

 やばい、何か地雷を踏んでしまったか。

 

「め、迷惑、だったか?」

『……』

 

 言葉は返ってこない。その代わりに鼻を啜る様な音が僅かに聞こえる。

 体調が悪いのか。それとも。

 

「お、おい……何か言ってくれ」

『……ありがとう、嬉しい』

 

 想像だにしなかった返答に、しばし思考が停止する。

 

「は?」

『だって、こんな風に電話くれたのって、初めてだから……』

 

 ああ、そういえばそうだったか。

 沙希には沙希の暮らしがある。もし俺が自分勝手に電話なんかして沙希の暮らしの邪魔をしてしまったら。

 そう考えたら、迂闊に電話出来なかった。

 ──詭弁だな。

 本当は、怖かったのだ。

「ごめん、今忙しいから」

 なんて云われてしまったら悲しくなる。

 そんな自分を簡単に想像出来て、怖かった。

 だが違っていた。

 沙希は嬉しいと言ってくれた。

 安堵と共に後悔が押し寄せる。こんな事ならもっと電話すれば良かった。

 それからしばらく、俺たちは電話越しに他愛ない会話を織っていった。

 ふと、沙希が言った。

 

『ねえ……月、見える?』

 

 空を見上げて視線を回すと、アパートの屋根の(きわ)に浮かぶ半月が見えた。

 

「ああ、見える」

『……良かった、同じ月が見られて』

 

 月齢からすると下弦の月と云うのだろうか。

 空に浮かぶ月は半分だけ俺を照らし、きっと隠れたもう半分は千葉にいる沙希を照らしているのだろう、などと下手な詩人のような想像をしてしまう。

 

「な、なあ、沙希」

『ん?』

 

 月を見つめながら、頭に浮かんだ言葉を伝える。

 

「月が……綺麗ですね」

『……ばか、あたしも愛してる』

 

 どうやらネタはバレている様である。

 

  * * *

 

 通話を終え、火照った顔を冷まして部屋に戻ると、暗い室内の座卓に小町の背中が浮かび上がっていた。

 

「……何してんだよ」

 

 声を掛けた背中が小さく跳ねる。

 

「え、あーと、ちょっとネットショッピングを」

「そんなもん家でや……ああっ!?」

 

 覗き込んだノートパソコンの液晶画面に表示されているのは、検索履歴。

 そこにある検索ワードは──

 

 女子 初体験 痛み

 女子 初体験 理想

 女子 初体験 場所

 女子 初体験 準備

 女子 初体験──

 

「お兄ちゃん……沙希さんの為に、色々調べてたんだね。でも」

 

 にこぱっと振り向いた小町は、その極上の笑顔のまま言った。

 

「ちょっとキモいっ」

 

 ……今宵は存分に枕を濡らせそうである。

 

 

 

 




お読み頂きまして誠にありがとうございます!

前回ちょっと突っ走り過ぎたので、今回はソフトに八幡の内面と日常を描いてみました。

次回はまだ未定ですが、お目に止まりましたらまた宜しくお願いします☆


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コイスルオトメ

今回のお話は、前回のお話を川崎沙希の視点でお送りします。


 あたしは、弱くなってしまったのかもしれない。

 泣くし、落ち込むし、寂しくなるし。

 この夏、比企谷八幡と再会して……つ、付き合い始めてからだ。

 

 八幡はすごく優しい。

 一緒に買い物に行けば荷物を持ってくれるし、道を歩く時は当然の様に車道側を歩いてくれる。ドライブの最中に助手席でうとうとしてしまった時なんか「寝てていいぞ」なんて、ぶっきらぼうだけど優しい声を掛けてくれる。

 それに、キ……キスの時も。

 あと、初めてあいつに抱いてもらおうとした時も。

 不器用だけど、色んな場面でさりげない優しさと誠実さを見せてくれる。

 それが、あたしにとっての比企谷八幡。

 もうちょっとくらい、乱暴に扱ってくれても気にしないのにね。

 

 でも、会えない時。

 ついついあたしは考えてしまう。

 会いたい。声が聞きたい。口唇に触れたい。

 

 駄目だ。

 これは言ってはいけない我儘だ。この我儘はあいつを困らせてしまう。

 だって、あいつは優しいから。

 うっかり電話なんかして、会いたいなんて言ったりしたら……きっとあいつは、どんな手段を使ってでも会いに来てくれる。不意にあたしが会いに行っても、きっと自分の用事を後回しにして迎えてくれる。

 だからあたしは、たった一回の電話ができないまま悩んでいる。

 弱っちいな、あたし。

 しっかりしな、川崎家の長女。

 

 秋の夜長、自室で物思いに耽っていると突然スマートフォンが鳴った。

 名前を確認する。

 ──比企谷、八幡。

 あいつから電話を掛けてくることなんて滅多に無い。大概はメールが先に来る。

 つまり……何かがあったのだ。

 

 五秒、六秒と着信音が鳴り響く。深呼吸をして心を落ち着け、着信ボタンをタッチする。

 

「──もしもし、どうしたの急に。何かあった?」

 

 不安で声が上ずってしまう。胸を押さえつけて動悸を鎮めようとするも、中々うまくいかない。

 

『いや、別に急用は無いんだが……その、声が、な』

 

 やばっ。あたしの声が上ずってるのがバレてる!?

 もっと普通に喋らなきゃ。

 

「ん? 声? あたしの声、なんか変?」

 

 ばか。こんな質問しちゃったら、声がおかしいのを認めたことになっちゃうじゃないの。

 本当に馬鹿だ、あたしって。

 

『そうじゃなくてだな、声……聞きたかった』

 

 ……え?

 どういう、こと?

 

『め、迷惑、だったか?』

 

 もしかして、何の用事でも無くて、ただ声を聞きたくて電話をくれたって、そういうこと?

 

 何それ。

 何だよそれ。嬉しいじゃんか。

 ただの電話がこんなに嬉しいものだったなんて。こんなに安心出来るものだったなんて。

 ──またひとつ、八幡に幸せを貰っちゃった。

 あ、あれ。

 嬉しいのに、すっごく幸せなのに、勝手に涙が溢れてくる。

 そういえば──八幡と再会して以来、あたしはよく泣いてる。もしかしたら京華よりも泣いてるかも。

 京華に知られたら……笑われちゃうね。

 

『お、おい……何か言ってくれ』

 

 電話の向こうに気づかれない様に鼻を啜る。余計な心配はさせちゃいけないからね。

 

「……ありがとう、嬉しい」

 

 ようやく振り絞った言葉が自分の耳に響く。

 あ。駄目。泣く。

 泣いちゃう。

 

『は?』

 

 きょとんとした声が、あたしに温もりを与えてくれる。

 駄目だ。もう骨抜きになってるな、あたし。

 もう止まんないや。

 

「だって、こんな風に電話くれたのって、初めてだから……」

 

 スマートフォンを耳に当てたまま、泣き崩れてしまう。

 

『お、おいっ、どうした』

「なんでもない、なんでもない、うれしいのに……ごめんね」

 

 嬉しいのに泣くなんて、またあいつを困らせちゃう。

 

「はぢまん……会いたい、会いたいよぉ……」

『──今、家か』

「……ゔん」

『一時間くらい待てるか』

「ダメ、待てない」

『待てねぇのかよ。瞬間移動とか出来ねぇぞ俺は』

「うっ、うるしゃいっ!」

『はいよ、悪かった』

「ゔん、ゆるす」

 

 許すって、あたしったら何様のつもりなのさ。

 でも、こんなあたしの言葉を受け止めてくれることが嬉しくて。でも、今隣に居ないのが切なくて。

 この気持ちをどうやって言葉にしよう、なんて考えていると、電話の向こうから低い呟きが聞こえた。

 

『……やべえ』

「ん、どうしたの?」

 

 何かあったの?

 見えないから不安だよ。

 もう……何であたしに超能力が無いんだろう。

 もし超能力があったら、すぐにあいつのとこへ飛んでいって、それで──

 

『俺も……会いたくなった』

「──え」

 

 会いたいって、あたしに……だよね。小町に会いたいとか云うオチじゃないよね。

 

『いや、声を聞ければ明日沙希が来るまで辛抱出来る予定だったんだが、どうやら駄目らしい』

「は、はちまんも、会いたいの?」

『ああ、瞬間移動出来ない自分を呪いたくなるくらいにはな』

 

 思わず噴き出してしまう。

 まさか、あたしと同じことを考えていたなんて。

 胸の奥が熱くなる。

 

「なにそれ、ばっかじゃないの?」

『馬鹿は自覚済みだ。あと、お前が泣き虫なのもな』

 

 軽口を軽口で返されて、それがすごく心地良くて。

 思わず心が漏れてしまう。

 

「泣き虫……きらい?」

『そりゃ人によるな』

 

 ほら出た。屁理屈だよ。

 お得意の屁理屈が始まったよ。

 その屁理屈に胸が弾んでしまうあたしも大概だな。

 

「あたしは?」

『……言わねえ。言ったらすぐに会いに行っちまう』

 

 何それ。文脈を考えたらすぐにわかっちゃうのに。

 素直じゃない八幡には、ちょっと意地悪してやろ。

 

「ふーん、あたしはこんなに好きなのに、言ってくれないんだ」

『そういうのは、あれだ。気軽にホイホイ言う言葉じゃないんだよ』

 

 わかる。わかるよ。

 どんなに美味しい料理も、食べ続けてたら有り難味が無くなるって言いたいんでしょ。

 でもね、言いたいんだ。

 伝えたいんだ。

 聞きたいんだよ。

 

「……すき。大好き」

『ったく、言った側から連発しやがって』

 

 予想通りの返答に、これ以上無いってくらいに楽しくなる。

 こんな姿、弟や妹には見せられないな。

 

「いいの、言うの。好き、好き、すっごい好き」

『お、おう、ありがと……』

 

 あ、八幡が根負けした。勝った。勝っちゃった。

 ふふっ、可愛い。

 電話の向こうで照れる顔が浮かんじゃった。

 ──はぁ、楽しかった。

 心も何かすっきりしたし。

 

 ふと窓の外を見ると、星空に半月が浮かんでいる。

 あれって、下弦の月っていうのかな。

 

「ねえ……月、見える?」

『ああ、見える』

「良かった、同じ月が見られて」

 

 星空に浮かんだ半月を見つめる。

 同じ月を見てるなら、あいつの顔が月に小さく映らないかな。

 無理か、無理だね。

 

『な、なあ、沙希』

「ん?」

 

 月を見つめながら応える。

 

『月が……綺麗ですね』

 

 そ、それって、夏目漱石の──あれ、だよね。

 まったく。あたしがその話を知らなかったら意味わかんないじゃないの。

 

「……ばか、愛してる」

 

 悔しいから素直に言ってやった。

 

  * * *

 

 朝が来た。

 ここ何日かで一番の心地良い目覚めだ。

 そして、今日は特別な日。

 

 着替えを済ませてキッチンへ行く。朝ごはんを済ませたらすぐに出掛けなきゃいけないから、申し訳ないけど今日は簡単なおかずで許してもらおう。

 鮭の切り身をグリルに突っ込んで、ボウルに玉子を割る。味噌汁用に作った出し汁と砂糖を混ぜて、いざ厚焼き玉子だ。

 

 炊飯器が保温に切り替わってすぐ、大志が起きてきた。あんたが自分で早起きするなんて感心だね。

 

「おはよ、姉ちゃん……あれ、何かいい事あったの?」

「えっ、な、なんで!?」

「何でって、そんなに楽しそうに玉子焼き作ってたら嫌でも分かるって」

 

 やばい。昨日の電話のせいで顔が緩んでたかな。

 仕方ないよね。すっごく嬉しかったんだから。

 

「そ、そう、かな」

 

 煮立った鍋に味噌を溶かしながら取り繕うと、大志は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した。

 

「あっ、そういえば夕べ誰かと電話してたよね」

 

 ペットボトルの水をコップに注ぎながら、大志は意地悪な顔を向けてくる。その視線の直視に耐え切れなくなって、ふいと顔を逸らす。

 

「べ、別にいいでしょ」

「……お兄さん、か」

 

 ──あたしって、そんなに分かり易いのかな。

 それとあんた、以前あいつをお兄さんって呼んで怒られたの、覚えてないの?

 ま、そんなあいつをあたしは怒ったんだけどね。

 だ、だって、あたしがあいつとそうなったら、そう呼んでもおかしくない訳で……。

 

「もうっ。朝ごはん出来たから早く食べちゃってよ。あたしは出掛けるんだから」

「……お兄さん、か」

 

 あうぅ……。

 覚えてなよ大志。

 あんたに彼女が出来たら十倍返しで揶揄(からか)ってやるんだから。

 その後、二十倍の祝福をしたげるけどさ。

 

 

 




お読み頂きまして誠にありがとうございます!

今回のお話、前半は前回の八幡との電話の沙希視点、後半は沙希の日常でした。

本当はですね、こういう穏やかなゆるい感じで書きたいのですが……ついつい波風を立てたくなるのは私の悪いクセです。
すぐエロくなるのも悪いクセw

また懲りずに読んでやってくださいましm(__)m


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天使にラブソングを 1

前回のあらすじ(ウソ)
敵組織の都内のアジトに潜入した小町は、沙希という仲間を得て悪のボスに立ち向かう──

じゃなくて、ついに八幡のアパートにあの天使が!




 

 

 今日は朝から慌ただしい。まったく、土曜の朝くらい優雅に過ごしたいものだ。

 と、普段ならそう云う俺も、今日ばかりは特別だ。

 

 今日は大事な客が来訪する。

 無論、昨晩から押し掛けて泊まっている小町でも、もうじき来るであろう川崎沙希でもない。

 

 戸塚彩加。

 

 その神々しい名を持つ天使が、本日昼、この都内の安アパートに降臨するのだ。

 なんせ天使を迎えるのだ。

 そりゃ必死にカーペットをコロコロするさ。

 縮れ毛ひとつ残してはならない。

 

  * * *

 

 時刻は午前十一時。

 今しがた着いた沙希はキッチンで忙しなく働き、俺は相変わらずカーペットにコロコロをころころさせている。

 

「沙希ー、そっちはどうだ」

「あと少しで終わりだよ。そっちは?」

「大丈夫だ。抜かりは無い」

 

 と、小町も買い物袋を提げて帰ってきた。

 

「ただいまー。東京のスーパーってすごいね、もう安い安いっ。お陰でアイス余分に買えちゃった」

「おう、お疲れさん。ちょっと休んでてくれ」

「ラジャ! じゃあ、さっそくアイス食べよっと」

 

 買い物袋を差し出す小町が笑顔を咲かせる。

 そりゃそうだ。

 このアパートを選んだ決定打は、すぐ近くにその激安スーパーがあるからなのだ。

 カップラーメン1個69円、玉子1パック98円、モヤシに至っては1袋8円である。

 つまりモヤシラーメン玉子入りで、1食百円以下なのだ。

 それが通常の価格なのだからもう即決である。惜しむらくはマッカンを置いてないことくらいだな。

 

「下ごしらえは終わったよ。あとはホットプレートの準備だね」

 

 今回の招待は、沙希たっての希望である。

 ま、その相手が戸塚なら俺が反対する理由は無い。何なら三日三晩の宴を開いて歓待したい。

 キモいと云う事なかれ。

 戸塚にはそれだけの価値がある。高校時の俺なら給料の三ヶ月分の価値を有していたであろう。

 ──おっと、準備準備。

 座卓の上にホットプレートをセット。時計を確認して、部屋の中を小町に、キッチンを沙希に任せる。俺はスマホを掴んで玄関先でスタンバイ。

 

「お兄ちゃん、ちょっと落ち着きなって」

「いや、もしも戸塚が事故に遭ったりしたら、すぐに助けに行かなきゃいかんだろ」

「もう、心配症だなぁ。ねえ沙希さん」

 

 キッチンから呆れ顔を見せるのは沙希だ。

 

「仕方ないさ。八幡は戸塚が大好きだもんね」

「当たり前だ。戸塚なしの人生なんて、糖分抜きのマッカン、落花生抜きのみそピーみたいなものだ」

「はぁ、相変わらずだね……ごみぃちゃん」

 

 何故俺はこんなに心配しているのか。

 理由は戸塚の交通手段だ。

 先頃戸塚は自動車運転免許を取得したらしく、今日は車で来るとのことである。

 その為に朝から菓子折り持参で大家さんの部屋を訪ねて、俺の駐車場の枠に戸塚の車を停めさせてもらう許可を頂いたのだ。俺の愛車は二キロばかり離れたコインパーキングにぶち込んだ。

 車種は聞いてなかったけど、まあ戸塚のことだ。戸塚らしい可愛い車で来るに違いない。

 

 さて、そろそろ時間だが──!

 突如アパートが揺れた。大方、ナビを頼りに迷い込んだトラックか何がいるのだろう。

 一階にある俺の部屋は、大きな車が通るとたまに揺れるのである。さすがは築三十年の安アパートである。

 と、揺れが止まった。その直後、部屋のドアがノックされた。

 

「こんにちはー」

 

 噂をすれば天使の声音。

 大丈夫か、今のトラックにケガさせられなかったか、などと心配しつつ、いち早く立ち上がった俺は夢中でドアを開ける。沙希もエプロンで手の水気を拭いつつ駆けてきた。

 

「戸塚、よく来た……なっ!?」

 

 戸塚の声で外へ出た俺と沙希は、固まった。

 

「えへへ、二人とも久しぶりだねっ」

 

 戸塚の微笑み。

 相変わらず安定の天使だ。

 だがしかし、その後ろには……軍用車。

 

「と、と、と、戸塚……」

 

 ニワトリの如く呻いて固まるサキサキに「やっはろ」などと声を掛ける姿は、やはり天使そのもの。

 ほむん。最近の天使は軍用ジープに乗って降臨なさるのか。

 いやいや、いやいやいやいや。

 

「お兄ちゃん、戸塚さん着いた……どえぇっ!?」

「あ、小町ちゃん、やっはろ」

 

 アパートの玄関から顔を出した小町も、姿勢そのままで固まってる。

 

「ど、どうしたの、この車……」

 

 いち早く正気を取り戻した沙希が、驚愕の表情のまま訊ねた。

 

「あはは、やっぱり驚く……よね」

 

 迷彩色に塗られた軍用ジープの前で身を捩り、照れ笑いを浮かべる戸塚。

 ギャップ萌えと云う言葉があるが、目の前の光景はその範疇(はんちゅう)を軽く逸脱していた。

 さながらそれは、戦火に焼かれた村に突如現れたオルレアンの少女の如き奇蹟の光景。

 まあ、ぶっちゃけ、ノーチラス号に乗って来ようがウイングゼロカスタムに乗って来ようが、戸塚は戸塚。

 というか、闘う天使さんもなかなか捗りそうである。じゅるり。

 

「ーーすごいね。何て云う車なの?」

「ジープのね、ラングラーって云うんだ。お父さんの車だけどね」

 

 えっ、戸塚の父親って軍人さんなのん?

 迷彩色に塗装された角張った風貌は、自衛隊や米軍の使用する軍用車そのもの。

 その軍用車に乗って迷彩服を身に纏った大天使が、ゲートの向こうで死神ローリィ・マーキュリーと共に炎龍に立ち向かう場面を想像してうっとり、もとい、うっかり頬が緩む。

 妄想の間も女神サキエルと大天使トツカエルの話は続く。つーかサキエルって、初号機に喰われそうな名前だな。

 

「燃費がすごく悪いし、大きいから、早くお金貯めて八幡みたいな可愛い車に乗りたいんだけどね」

 

 え。俺が……可愛い?

 

「いやいや、戸塚の方が八万倍可愛いぞ」

「あんた……何言ってんの」

「ばか、ボケナス、八幡……」

 

 余りにも冷たい沙希と妹の目で、俺は現実に帰還した。

 

「あ、あの、八幡」

「何だ大天使」

「……もうっ。そろそろ車を動かしたいんだけど。大きいから邪魔になっちゃうし」

 

 思わず沙希と顔を見合わせる。

 あー、これ……あの駐車場に置けるかなぁ。

 

「でね、近くにコインパーキングとかあるかな」

「ああ、大丈夫……かな。比企谷が朝から大家さんとこに行って交渉してきたから」

「おい沙希っ」

 

 内助の功をバラすなよサキサキぃ。

 え? 内助の功は意味が違う?

 細けぇこたぁいいんだよ。

 

「なにさ、本当の事じゃないか。あんたったら朝からずっとそわそわしちゃって……」

「まあまあ、二人とも。じゃあ八幡、駐車場に案内してくれる?」

 

 仏頂面の沙希と赤面の俺の間に割って入った戸塚は、その恩恵を以って場を和ませた。

 

「よし心得た。何ならこのまま二人で世界の果てまで──」

「──あたしから逃げ切れると思う?」

「いえ全然」

 

 何だろ、戸塚がいてくれる所為か、沙希との会話も捗る捗る。

 そんな俺たちの遣り取りを笑顔で見ている小町。

 これって、新しい幸せのカタチじゃね?

 

「ふふっ、じゃあ八幡、お願いね」

「任せろ、全力でエスコートしてやるぜ」

 

 沙希と小町の冷めた目に見送られながら、俺は軍用ジープに乗り込んだ。

 さて問題は、このアホみたいにごつい車体があの駐車場に収まるかだ。

 普段は軽自動車のカプチーノを停めてある為にかなり広く見えるのだが……。

 

「ここだけど……入りそうか?」

 

 戸塚を案内したのはアパートの裏手の駐車場。その目の前は幅五メートル程の路地だ。

 

「うーん、自信は無いけど……七回ってとこかな」

 

 へ?

 何が七回なの?

 君が受話器を取るまでのベルの回数なの?

 余談だけど、ジープってオートマチックなんだな。

 

「よし、俺が誘導に出る」

「お願いね、八幡」

 

 ジープの助手席から飛び降りた俺は、車体の前へ後ろへと移動しながら車庫入れの誘導をする。

 

 すげぇ。

 戸塚の車庫入れテクニックは半端じゃ無かった。

 長さ五メートル、幅二メートルくらいありそうな巨大な車体を、くいくいと小まめに切り返しながら駐車場の枠に収めていく。

 切り返した回数を数えていたら、予告通り七回だった。

 

「すげぇな……超うめぇ」

「ありがと、八幡の誘導のおかげだよ」

 

 うへぇ、癒されるぅ。

 普段とことこと可愛らしく歩く戸塚が、あんなに大きなモノを入れるなんて……ぐ腐。

 ま、まあ、とにかくだ。

 あとは真っ直ぐ下がるだけ。

 ジープの窓から身を乗り出した戸塚は、背後のブロック塀までの距離を測りながら慎重に車体を後進させる。

 俺はその後ろに立って、塀とジープのテールの距離を目測しながら誘導する。

 塀まであと五十センチの処で、ミチリと音を立ててタイヤが止まった。

 

「ふう、何とか入ったよ……って八幡、どうしたの?」

 

 見ると、窓から顔を出した戸塚の額には玉の汗が。

 ──破瓜か。

 これが破瓜なのか。

 

「──戸塚、よく耐えたな」

「意味が分からないよ!?」

 

  * * *

 

 

 アパートに戻って、ドアを開けて戸塚をエスコート。マジ俺ジェントルマンだわ。

 

「たでーまー」

「お邪魔しまーす……わぁ、可愛い部屋だねっ」

 

 昨日の夜──

 

「──いや戸塚が来るんだぞ。花を飾って歓迎の意を表するのは当然だろうが」

「だから、それは明日沙希さんが来てからで良いってば」

「ばっか、真っ赤な薔薇が売り切れてたらどうすんだよ」

「なんで情熱の色なんだか……」

 

 なんて遣り取りが小町との間で交わされ、結果、花は沙希に任せることになった。

 そして現在、六畳間の座卓には小さな花瓶に花が飾られている。残念ながら沙希が用意したのは真紅の薔薇ではなかった。

 ふんっ、こんな白い花で俺の情熱が戸塚に伝わるかよっ。

 だがしかし、白は天使の色だ。そう考えると何とも戸塚に相応しく思えてしまう。

 よくやったサキサキ。あとでいっぱい甘えていいぞ。

 

「あのクッションも可愛いし、あれは沙希ちゃんのかな」

 

 確かに戸塚の云う通り、男子大学生のアパートではないな。

 カーテンは白いレース編みで、クッションは沙希の手作りのパッチワークだ。

 それ以外にも、沙希の私物は段々と増えてきて、今や大きな猫のぬいぐるみなんかもベッドの脇に鎮座している。

 沙希曰く「あんたが一人でも寂しくないように」らしいが、きっと独り寝の寂しさをぬいぐるみで紛らす男のキモさを知らないのだろう。

 愚考に愚考を重ねていると、沙希が出迎えてくれた。

 

「お帰り、それに……いらっしゃい。遠かったでしょ」

 

 就職とかして同僚を家に招いたら、こんな感じなのだろうか。まだ確定事項では無い未来に思いを馳せてしまい、少しだけ恥ずかしくなる。

 

「こんにちは沙希ちゃん、もうすっかりお嫁さんだねっ」

 

 今度は沙希が真っ赤になる。割り箸をさしてべっこう飴でコーティングすれば、(たちま)ち巨大りんご飴の出来上がりである。

 

「か、からかわないでよっ、もう……」

 

 満更でもなさそうな沙希の顔に安堵していると、今度は俺に矛先が向いた。

 

「よかったね八幡、こんなに素敵な奥さんができて」

「お、お、奥さん……」

 

 悪意の無い流れ弾をまともに食らった沙希は更に顔を染め、もじもじと身を捩る。

 あんまり可愛かったのであとで存分に愛でてやろう、と心に決める。

 訂正。俺が触りたいだけだ。

 

「あらあら、もう新婚気分ですか〜、お義姉ちゃん」

「も、もう、小町までっ」

 

 こら小町、お前は沙希に対して前歴ありだからな。

 でも、ま、いいか。

 いつの間にか沙希も小町を名前で呼んでるし。

 

「ま、何にも無いけど、ゆっくりしてってくれ」

「うん、お言葉に甘えるね」

 

 おう、どんどん甘えてくれ。いや甘えてくださいお願いします。

 何なら住民票をここに……げふん、沙希に睨まれた。

 

「戸塚もコーヒーでいいかな」

 

 座卓に座る戸塚の前にカップが置かれた。

 

「ありがとう、沙希ちゃん」

「ん。もうすぐお好み焼きの用意も出来るから」

 

 本日のメニューも沙希の案である。

 小さな座卓に三人分の料理を並べるのは狭いというのが沙希の判断だ。

 そこへ来て、昨日突如襲来した小町がいる。

 しかし人数が増えても沙希案には穴は無い。具材と小麦粉を増やすだけで対処出来た。

 さすがは子沢山の家庭育ちである。

 目の前には加熱中のホットプレートと取り皿。お好み焼きを焼く係は女性陣が担当してくれるらしい。

 

「お好み焼きって久しぶりだなぁ。楽しみだねっ、八幡」

 

「だな。下ごしらえは沙希がやってくれたから味は保証するぞ」

「へえ、沙希ちゃんって料理上手なんだね」

 

 そうか、戸塚は沙希の料理の腕前を知らないのか。

 ならば語って進ぜよう。

 

「ああ、沙希の料理は凄えぞ。あっという間に胃袋にアイアンクローをかまされる程だ」

「こら、人の料理を凶器みたいに言わないでよ」

 

 振り返ると。具材と小麦粉の入ったボウルを手にした沙希が、頬を染めて睨んでいた。

 

「あれれ? 褒めたよね、ぼく褒めたよね?」

「あんたの褒め言葉はいちいち捻くれてるんだよ」

 

 へえへえ、捻くれてて悪かったね。

 

「でも、沙希ちゃん幸せそうな顔してるね」

「そりゃ、まあ、ね」

 

 自分で云うのも難だが、最近の俺と沙希の会話はかなり無遠慮だ。歯に衣着せぬ物言い、と云う方が正しいかも知れない。

 それを聞きながら笑える戸塚の胆力たるや、さすがは千葉が誇る天使である。

 

 ちょっと前に沙希に聞いた話だが、大学に進学してから偶然再会した戸塚に沙希は相談相手をしてもらっていたらしい。

 俺と再会した日のあの暴挙も、戸塚のアドバイスを自分なりに体現したというのだが。

 沙希がキッチンへ戻っていった今の内に聞いてみるか。小町も……キッチンだな、よし。

 

「──なあ戸塚、沙希に何てアドバイスしたんだ?」

 

 まだ熱いのか、コーヒーをちびちびと可愛く飲む戸塚に水を向ける。

 

「えーとね、自分の気持ちに素直になる方が後悔は少ないよって感じ、だったかな」

 

 ありり?

 その結果が、家に連れ込んでメシ食わせてマッカン飲ませて無理矢理キスなの?

 誇大解釈し過ぎでしょ、沙希さん。

 

 でもまあ、そのお陰で俺はこうして沙希といられる訳だ。

 戸塚の助言と沙希の誇大解釈に感謝だな。

 

「そういえば、平塚先生が八幡にお願いがあるって云ってたよ」

「へえ……あんた年上もいけるクチなのかい」

 

 あの沙希さん?

 背後で包丁片手ににっこりしないで貰えます?

 ものすごく背筋が寒くなるので。

 

「あ、別にそういうのじゃないと思うよ。僕も頼まれたし」

「オーケーわかった。で、俺は戸塚と何をすればいいんだ?」

「あんた、前のめり過ぎ」

 

 そう残念な子を見る目で零す沙希の手には、幾つかの皿が載せられたトレイがある。

 

「うわぁ、美味しそうだねっ」

 

 座卓に置かれた皿には、色鮮やかなサラダが綺麗に盛り付けられている。

 

「お好み焼きだけだと飽きちゃうかも知れないからね、箸休めだよ」

「えらく気合い入ってるな……」

「まあね、戸塚はあたしの恩人だから」

 

 柔らかい笑みを浮かべる沙希に思わず見惚れる。沙希もその視線に気付き、目を潤ませてくる。

 しばし見つめ合い、そして──

 

「──けほん。あー、それではお好み焼きパーティー、始めましょー!」

 

 ──小町に仕切られた。

 

 それからは、お好み焼きを食べながら戸塚の話に耳を傾けた。

 その内容は、ほとんど沙希の話だった。

 大学に入ったあと、偶然ファーストフード店でアルバイトをする沙希と再会したこと。

 その当時の沙希は俺への気持ちを拗らせて思い悩んでいたこと。

 

 沙希は顔を真っ赤にしながらお好み焼きを焼き、小町は俯きながらそれをひっくり返していた。

 鼻を啜りながらヘラを返す小町に、沙希は優しく笑いかける。

 戸塚も小町の異変を悟ったのか、そこで話題を変えた。

 

「八幡はさ、大学……充実してる?」

 

 




お読み頂きまして本当にありがとうございます☆
今回は戸塚回でした。

そして、ついにこの物語のお気に入り登録者様が400人を突破。UAは49,,000を超えることが出来ました。
それもひとえに読者様の方々のお陰でございます。
本当に、ありがとうございます!

さて、次回も戸塚回。
またよろしくお願いします☆


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天使にラブソングを 2

前回のあらすじ(ウソ)

戦うことを宿命づけられた天使トツカエルが降臨した先は築30年以上のアパートだった。



 

 引き続き本日のゲストは、戸塚彩加さんでーす!

 ということで都内の俺のアパートで繰り広げられたお好み焼きパーティー。

 参加メンバーは、スーパースペシャルゲストの戸塚、ホントは泣き虫な猫っ毛サキサキ、最近余計なことばっかりしやがる妹の小町、あと俺ね。

 

 最初は手本として沙希と小町が焼く担当者となって、そのうち戸塚が「僕もやってみたい、な」とエンジェルヴォイスを放ったところで焼き担当は交代。

 二枚のヘラを器用に扱いながら豚玉をひっくり返す戸塚は「なんだか部活の祝勝会みたいだね」と再び天使の息吹を振りまいた。

 そう云えば高校の時、何かのイベントの打ち上げでお好み焼き屋に行ったな。

 確か、雪ノ下がやけに猫を推してきて、対抗心を燃やした由比ヶ浜は犬を激推しし始めたっけ。

 その後の戸塚の「八幡、うさぎ」の一言で、小生敢え無く撃チン。

 何だそりゃ。すげぇ懐かしいな。

 ──しかし、昔は孤高のぼっちと自負していたこの俺が、友人との思い出を懐かしく思うなんて……中学生の頃は想像だに出来なかったな。

 残念なのは、その思い出に沙希はいないこと。まあその分、これから思い出を増やしていこう──

 

「あーもう、あんた焼き過ぎだって、焦げてるよっ」

 

 ──うん。これも思い出のひとつだな。

 

  * * *

 

 一キロあった筈の小麦粉は全て無くなり、具材もサラダも綺麗さっぱり四人の胃の中に収まった。

 

「美味しかったねぇ」

「喜んでもらえて、何よりだよ」

「はいっ、小町も大満足ですっ」

「ああ、さすがだわ」

 

 俺は知っている。

 小麦粉に水を入れて溶いている時に、さりげなく粉チーズと和風だしの顆粒を入れていた沙希の姿を。

 結果はご覧の通り、戸塚も小町も笑顔である。

 

 満足気な顔を突き合わせた俺たち四人は、あらためて食後のコーヒーを啜っている。勿論、俺の傍らには練乳が置かれている。

 それからの話題は、専ら大学の事だった。

 三人ともまだ一年生の為、ほとんどは一般教養課程の話だが、それでも各大学の特色めいた内容であった。

 沙希の通う地元の国立大学は、実はかなりレベルが高い。必須科目も多岐に渡り、さらに教育学部ということでどれも手が抜けないらしい。

 対して私立に通う俺や戸塚は、的が絞れる分だけ楽である。

 しかし、大学の話を始めた辺りから戸塚の表情は曇っていた。沙希も気づいている様で、戸塚と俺の間で何度となく視線を往復させていた。

 話に区切りがついた機を見計らって、戸塚に水を向ける。

 

「何か……あったのか」

 

 驚いた顔をする戸塚は俺の顔を見て、そのまま視線を沙希にスライドさせる。

 俺と沙希が小さく頷くのを見て、戸塚は語り出す。

 

「実はね、大学を辞めようと思ってるんだ」

「え……」

 

 戸塚の言葉に俺たちは一斉に目を丸くする。

 確か戸塚が通う大学は、決してレベルが高い訳ではない。戸塚の学力レベルから云えば楽に入れた大学だ。

 そのレベルの大学を戸塚が選んだ理由。それは、目指したい道に通じる学部があったからである。

 だが、戸塚は大学の環境に不安と不満を抱いていると云う。

 

「僕はね、体育教師になりたいんだ」

 

 しかも、戸塚が目指すのはただの体育教師では無いと云う。運動を科学的に分析し、効率的なトレーニングや怪我の防止、更にはマッサージやリハビリテーションの知識も欲しいと。

 だから──

 

「だから僕は、来年また別の大学を受験するよ」

 

 そう告げた戸塚の目の輝きは、彼の決意の現れだった。

 思わず黙ってしまった俺の代わりに、沙希が口を開く。

 

「そうなんだ……ま、あんたがそこまで云うのなら、決意は変わらないんでしょ。あたしは応援するよ」

 

 沙希の云うことは正しい。

 孟母三遷の言葉の通り、志高く学ぶ為には環境は大事だ。

 だが、せっかく半年以上も通った大学生活を無駄にして良いものか。

 否、良い筈は無い。

 時間は有限。貴重な資源だ。

 

「ちょっと待て戸塚」

「どうしたの、八幡」

 

 きょとんと可愛らしく顔を向けてきた戸塚のとつかわいさに若干の眩暈(めまい)を覚えつつ、俺は戸塚に提案する。

 

「それって、編入で何とかならないのか?」

 

 沙希は小さく声を上げた。小町は理解し難いらしく、頭から煙が出掛かっている様子だ。

 無理も無い。俺が高校二年生の頃も大学なんて遠い先の話だと思ってたし。

 でも実際は違った。

 大学受験は、あっという間に迫ってくる。

 幸い俺は、奉仕部での自主勉強やタダ同然で通った予備校の授業があったから焦らずに済んだけど。

 

「小町も良く聞いとけ。お前も再来年は大学受験だろ」

「えー、こないだ高校入試だったのに。まだ大学の話はしないで欲しいなぁ、ポイント低すぎ」

「アホ、一年半前の高校入試をこないだというなら、一年半後の大学入試も目前だろうが」

 

 見たくない現実を突き付けられて唸る小町を尻目に、戸塚に向き直る。

 

「編入が出来れば、今の大学の授業もまるっきり無駄にはならないだろ?」

「そ、そうだけど……そうかぁ、編入か。考えもしなかったなぁ」

「それだけ思い詰めてたんだね……悩むと視野が狭くなっちゃうから」

 

 ソースはあたし、と云わんばかりの苦笑いを浮かべる沙希に、少しだけ心が痛くなる。

 この夏、沙希を悩ませ、視野を狭めたのは俺だ。俺の判断ミスが沙希を、ひいては自分自身を苦しめた。

 

「ありがとう八幡、沙希ちゃん。僕、二年から編入出来る大学を探してみるよ」

 

 先程までの沈痛な面持ちは何処へやら、戸塚の顔は秋晴れの空の様に爽やかだった。

 

「また八幡に助けてもらっちゃった。駄目だね、僕って」

「それは違うぞ戸塚。お前だから、戸塚だから編入という提案を出来たんだ」

「え。どういうこと?」

 

 再びの可愛らしいきょとん顔にまたしてもクラクラしながら、告げるべき言葉を探す。が、俺がその言葉に当たる前に沙希が話を引き継いだ。

 

「戸塚、あんたさ、あたしや八幡よりも主要科目の合計点、上だったでしょ。理由はそれだと思うよ」

「そうだな。つまり戸塚は俺たちよりも地頭が良い。だからこそ難しいと云われる編入試験を薦められる」

 

 ほとんど沙希が代弁してくれたが、この案は学力が無いと成立しない。

 裏を返せば、俺や沙希よりも学力の高い戸塚ならば編入試験を突破出来る可能性が多分にある。

 

「八幡、沙希ちゃん……」

 

 戸塚の目には雫が溜まっていた。

 初めて見た戸塚の涙。それ程までに思い詰めていたのかと、今更ながらに思ってしまう。

 

「ま、あたしの方でも二年次に編入出来る大学を探してみるよ」

「でも……」

「戸塚。あんたは元ぼっち二人のサポートじゃ不安かも知れない。けど、あたしはあんたの役に立ちたい。友達だと思ってるから」

「沙希ちゃん……」

「俺も同じだ、戸塚。つーか沙希さん、俺の台詞を少し残しといてくれない?」

「ふんっ、こういう台詞は、先に云った者勝ちなんだよ」

「へいへい、そうでございますね」

 

 ドヤ顔の沙希に溜息を吐くと、戸塚が噴き出した。

 声を上げて笑う戸塚の目には零れそうなくらいの涙が溜まっていた。

 無言のまま、ベッドの脇に常備してあるボックスティッシュを差し出して、戸塚から視線を外した。

 天使だの第三の性別だのと云ってはいるが、戸塚は男だ。

 じろじろと泣き顔を見られるのは本意ではないだろう。

 

「八幡……」

「あんた、やるね」

「うるせぇ、テーブルを拭こうと思っただけだ」

 

 そっぽを向いた俺の手を、座卓の下で沙希がぺちんと叩いた。

 その手を俺が軽く叩くと、再び沙希が叩いてくる。

 

 ぺち、ぺち、ぺちん。

 

 座卓の下で互いの手を叩き合って小競り合いをする俺たちに、戸塚は今年一番の笑顔を見せてくれた。

 

「ありがとう。二人とも、頼りにしてるよ」

 

 見ると、話に入れなかった小町が、よよよ、とわざとらしく泣いている。

 

「お兄ちゃん……成長したね。小町も育てた甲斐があったよ……」

「年下に育てられた俺って何なの? 存在自体がパラドックスなの?」

 

 てへっと舌を出して笑う小町の頭に、でべしっとチョップを食らわせたくなったが、今そんなことしたら舌を噛んでしまう。苦渋の決断で頬を引っ張るに留めておいた。

 

「ははは、相変わらず八幡と小町ちゃんは仲良しだね〜」

「まあな、なんだかんだ云っても兄妹だしな」

「お兄ちゃん、そこは愛してるから、でいいんだよっ」

「おう、もちろん愛してるさ」

「小町は全然だけど、ありがとっ☆」

 

 こいつ……まったく反省してねぇな。

 

  * * *

 

 工員、矢野悟志(さとし)

 もとい、光陰矢の如し。

 楽しい時間はあっという間と云うのは本当らしい。まあ本来の意味とら違うな。

 あと工員の矢野悟志(さとし)さんも関係無い。

 

 とにかく時間の感覚が狂いに狂い、気がつけば日は傾いていて、時計の針は戸塚の滞在リミットまであと一時間ほどに迫っていた。

 

「さあて、小町はちょっと買い物してくるね。戸塚さんの帰りの飲み物くらい用意しなきゃ申し訳ないもんねっ」

 

 小町は戸塚の軍用ジープで千葉まで送ってもらうらしい。

 つーか、帰る間際だと云うのに買い物に出掛けるって、我が妹ながらマイペースが過ぎやしないかね。

 飲み物なんか途中のコンビニとかで買えば……あっ、あの車じゃ道端に停車しながらの買い物は難しいか。都内のコンビニって駐車場あるとこ少ないもんな。

 

 小町が居なくなり、元同級生だけになった部屋の中に短い沈黙が訪れる。

 その沈黙を破ったのは、戸塚だ。

 

「八幡、沙希ちゃん。今日は本当にありがとう。すごく楽しかった。また来ても、いい、かな」

「おう、戸塚ならいつでもエブリデイ大歓迎だ。何なら合鍵渡しとくか」

「あんた、相変わらずだね」

 

 呆れる沙希に戸塚の視線が止まる。

 

「沙希ちゃん、本当に良かったね」

「うん……ありがとう。世話を掛けたね」

「僕は何にもしてないよ。行動したのは沙希ちゃんだし、頑張ったのも沙希ちゃんだよ。でもね」

 

 主語の無い会話を重ねつつ冷めてしまったコーヒーを飲み干した戸塚は、今度は俺に顔を向ける。

 

「実は、あんまり心配はしてなかったんだ。八幡なら大丈夫って、思ってたから」

 

 向けられたのは、柔らかく優しい笑み。

 そこには悪意はおろか他意すら存在しない様に思える。

 こういうのを全幅の信頼、とでも云うのだろうか。

 自分が抱いた感情に何だかむず痒くなる。

 座卓の下、沙希の冷んやりした手が俺の手の甲に重ねられる。

 顔を向けると、そこには普段よりも一層柔らかな笑みを浮かべた沙希の顔がある。

 戸塚は、この目の前の女の子の笑顔を俺に会わせてくれた。

 ならば俺は、戸塚の為に最大限の尽力をしよう。絶対に戸塚の希望に合致する編入先を探し出してやろう。

 

「──戸塚は、俺たち二人の恩人だな」

「そうだね。戸塚の助言が無ければ、まだあたしは何もせずに悩んでたと思う」

 

 こう見えて川崎沙希は筋金入りのぼっちである。人を寄せつけないという一点に於いては、自称ぼっちマイスターである俺すら凌駕する程である。

 だが目の前の天使、戸塚の意見は違った様だ。

 

「ううん、そんなんじゃないよ」

 

 即座に否定されて面食らった沙希と、理由が解らずにおろおろする俺。

 そんな俺たち二人に春の陽射しの如き天使の微笑みが降り注いだ。

 

「僕はね、八幡と沙希ちゃん、二人の友達なんだよ。だから恩人なんて他人行儀に言わないで欲しいな。それに」

 

 天使の微笑みが段々と赤みを帯びていく。

 まさか戸塚、俺に……ふひ。

 

「ぼ、僕も……沙希ちゃんに相談に乗ってもらってたから。好きな子のことで」

 

 ……。

 ……は?

 な、なん、だ……と?

 我が耳を疑った。超疑った。

 うっかりカスタマーセンターに電話しようかと思ったわ。てか何処のだよ。

 

 ──よし、落ち着け俺。

 いや落ち着けるかよっ。

 

 戸塚が、戸塚が!?

 天使で可愛くてウサギ推しの……戸塚があああ!?

 

 淡い期待は音を立てて崩れた。つーか俺は何を期待してたんだよ。

 バカバカ、俺のバカ!

 

「なに苦虫に噛み潰されたような顔をしてんの。戸塚ってモテるんだよ」

「何で俺が噛み潰される側なんだよっ」

 

 ニヤニヤして俺を見るなサキサキっ。

 いや、戸塚がモテるのは解るよ。

 可愛いし可憐だし、可愛いからね。何ならその可愛さは世界の共通認識だろう。

 でも、でも、でも──

 

「もし上手くいったら、祝福して、くれるかな」

「もちろんだよ。ねえ八幡」

 

 沙希は賛同するも、まだ俺は混沌の最中にいた。

 

「戸塚に彼女、戸塚に彼女……うそだ……」

「駄目だ、比企谷が夢の中から帰ってこないよ」

 

 この時の沙希と戸塚の苦笑を、俺は知らない。

 

 沙希の冷んやりした手に頬をぺちぺちされて正気に戻った俺は、居住まいを正して戸塚に向き直る。

 

「──戸塚、今度その子をここに連れてきなさい。お父さんがじっくり話してあげるから」

「あんたいつから戸塚の父親になったんだよ」

 

 頭を抱えた沙希が零すが、今はそれどころではない。

 

「細けぇこたぁいいんだよ。な、戸塚」

「う、うん、ありがとう。じゃあ今度、ダブルデートしよっか」

「うん、それあるっ!」

 

 思わず何処かで聞いた台詞を口走る。同時に浮かんだろくろを回す懐かしい顔に脳内で回し蹴りを食らわせて、咳払いをひとつ。

 とにかくもう、戸塚と出掛けられるなら何でもいい。沙希と戸塚、(まさ)しく両手に花だ。

 戸塚の相手の女子には、申し訳ないがモブ化していただこう。

 つーか、戸塚の相手って……女子、だよね?

 

  * * *

 

 午後六時。

 戸塚と小町が帰った部屋の中、俺は沙希に縋っていた。

 

「沙希ぃ……どうしよう、戸塚に彼女が出来るかも知れないなんて……」

「あんた、何も泣く事はないだろうに」

「だってさ、突然過ぎるって。俺、何の心の準備もしてなかった……」

「どんな準備が必要だったか、ぜひ教えて欲しいもんだね」

 

 苦笑いしつつも、沙希は俺の髪を優しく撫でてくれる。

 

「あんたはさ、友達が幸せになるのは嫌?」

「そうじゃない、そうじゃないけど」

「だったらさ、あんたも戸塚を応援してやんな。友達なんだからさ」

「それとこれとは話が別だろ……」

「どこがどう別なんだか」

 

 態勢を変えられて、沙希の太ももに俺の頭が乗せられた。暖かくてふわふわして、心地よい。

 沙希は俺の顔を覗き込みながら、髪に手櫛を通してくる。

 うん、カマクラの気持ちがちょっと解るわ。

 

「あんた……寂しいだけだろ」

「うるせ、そうだよ」

 

 図星をつかれて開き直る。

 なんせ戸塚は、誰にも相手にされなかった俺に対して普通に声を掛けてくれた、たった一人の友達だ。

 その事が、どれだけ俺の救いになったことか。

 そんな思考を知ってか知らずか、沙希は優しく諭す様に語りかけてくる。

 

「何処にいようと、誰と付き合おうと、戸塚は戸塚だよ。あたしたちの友人であり、恩人なんだ」

 

 んなこと解ってる。

 分かってるんだよ。

 

「それにさ、戸塚が選んだ相手なんだから大丈夫。戸塚の人を見る目は確かだからね」

 

 ふん、何を言ってるんだ。戸塚が悪い女に騙されてからじゃ遅いんだぞ。

 

「やめれ。何を根拠(ソース)にそんなこと……」

 

 ぺしっ、と俺の額を軽く叩いた沙希は、目尻を下げて優しく微笑む。

 

根拠(ソース)はあんた自身だよ。戸塚はさ、高校二年の時にあんたと仲良くなりたいって言ってきたんだろ?」

「そうだけどさ」

「ほら見な。やっぱり人を見る目は確かなんだよ。あれだけいたクラスメートの中からあんたを選んだよ。その戸塚をあんたが信じないでどうするのさ」

 

 言葉に詰まった。反して、脳は回転を上げて記憶を遡ってゆく。

 

 戸塚を戸塚と認識したのは、高校二年の一学期だ。

 ひとりベストプレイスで昼食を摂っていた時に由比ヶ浜に話し掛けられ、そこにラケットを持ったジャージ姿の美少女が現れた。

 それが戸塚彩加だ。

 のちに性別を知って愕然としたのもはっきり覚えている。

 それから、たまたま体育でテニスをしたり、奉仕部として戸塚の依頼を受けたりした。

 戸塚は努力家だった。

 雪ノ下が作成した無茶とも思えるトレーニングメニューを弱音ひとつ吐かずにやり遂げた。

 そんな戸塚を、俺はただ見ていた。

 それからは、学校行事の班決めの時には声を掛けてくれるようになった。

 同情では無く、押し付けの優しさでもない。ただの友達として、だ。

 戸塚は何も求めない。ただそこにいて、普通に接してくれた。

 黒歴史とトラウマの海に沈んでいた当時の俺にとって、それがどれ程嬉しかったことか。

 まさに奇跡だったのだ。

 だから俺は、戸塚を信用できた。信頼できた。

 その戸塚が好きになった相手が良いヤツだってことくらい、嫌でも解るさ。

 

「……ふぅ、仕方ないね。ほら、もっとこっちにおいで」

 

 足を崩した沙希の腕に抱かれる。カーペットの上、クッションを枕がわりに、俺と沙希は身をひとつに重ねた。

 

「寂しいかも知れないけどさ。戸塚の幸せを祈ってあげよう……って、あたしが云わなくても分かってるよね。あんたは」

 

 ああ、分かってる。

 戸塚の幸せは、きっと俺と沙希にとっての朗報だ。だからこそ俺は心配になる。

 

「今夜は思う存分甘えていいから、さ」

 

 その夜、俺は沙希に抱かれて眠りについた。

 そんな俺たちを薄っすら照らす痩せ細った月は、微かに笑っていた。

 

 




お読み頂きましてありがとうございました!
大天使トツカエル編の後編、いかがでしたでしょうか。

これから少しずつですが状況は動き出します、多分。

では、いつになるかは未定ですが次回もよろしくお願いします☆


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ドキドキしちゃう

前回のあらすじ(ウソ)
都内某所に降臨した大天使トツカエルは、その笑顔をもって八幡に衝撃を与えた。

今回は、戸塚来訪の翌日のお話。


 昨日の戸塚ショックが未だ尾を引く俺の目の前にトーストと目玉焼きとサラダ、そして練乳入りのコーヒーが並べられた。

 

「んー、ん」

 

 実はまだ寝起きである。顔を洗って多少マシになってはいるが、まだ頭はぼんやりしている。

 それに比べて沙希はすごいな。

 俺が目を覚ました時にはちゃんと着替えていて、尚且つ朝食まで用意してくれているのだから。

 こりゃいよいよ俺の専業主夫の座は危ういな。

 

 ぽやんとした頭で愚考をしながら朝食を終え、歯を磨くついでにもう一度洗顔。ちょっとは脳みそがマシな状態になったのを見計らってノートパソコンを開く。昨日聞いた戸塚の悩みを解決する手段、大学の転入について調べる為だ。

 沙希はといえば、キッチンで洗い物をしている。その沙希が用意してくれた二杯目のコーヒーを啜りながらキーを叩き、検索ワードを打ち込む。

 まずは教育学部の編入を受け入れている大学を調べるか。

 

 思いつくままに検索ワードを組み合わせて二年から編入出来る大学を探すも、中々に難しい。

 ちなみにうちの大学は、三年次からのみ編入を受け入れているらしい。要は、最初の二年は基礎課程、後半の二年が専門課程という意味合いなのだろう。

 あとは可能性があるとしたら体育大学だが、あの天使のような戸塚をガチムチ共の巣窟へと放り込むなんて、ピラニアの群れのど真ん中に材木座を放り込むようなものだ。

 もちろんこれは純度百パーセントの偏見に基づいた個人的な意見である。実際には女子生徒は多いだろうし、アスリート系女子というのも中々にそそるものはあるのは事実だ。ジャージに包まれた沙希の尻とか最高だし。

 

「どう? 戸塚の希望を叶えられる大学はありそう?」

 

 洗い物を終えたばかりの沙希が、エプロンで手を拭いながら横に座る。

 ところで沙希さん。そのエプロンさ、すごく胸の辺りが窮屈そうなんだけど。それってわざと小さなエプロンを着けてる訳じゃないよね?

 めちゃくちゃ目の毒なんですけど。

 ガン見したい気持ちを押さえつけ、早く普段のクールで利発な俺に戻らなければ。

 

「……いや、今のところは無い、な」

 

 うっ。チラ見してしまった。クールで利発な俺も、やはり乳トン先生の発見した万乳引力の法則には逆らえないらしい。

 特に童貞には効果は抜群だ。

 そのチラ見に気づいているのか否か、さらに沙希は乳、もとい身を寄せてくる。

 

「やっぱり、そう簡単には見つからないのかね」

「ま、まあな。そもそも編入を考える学生が少ないから、ネットにも大した情報が無いんだよ」

 

 それから、胸や尻の誘惑と死闘を繰り広げながら小一時間ほどネットの情報を調べてみたが、やはり結果は芳しくなかった。

 

「──明日、大学で聞いてみるか」

「そうだね、あたしも聞いてみるよ」

 

 さて、そうなるとだ。

 これからやる事がない。

 

 思えばである。沙希が部屋に来ると大体は部屋の中でまったりと過ごしている。

 超インドア派の俺は気楽で良いのだが、果たして沙希はそれで満足なのだろうか。

 ぼっちはぼっちでも、沙希は比較的行動派のぼっちだった筈だ。でなければ高校二年生でホテルのラウンジで朝まで働く暴挙はすまい。

 

「ちょっと、街に出るか」

「え?」

 

 沙希はハトが超電磁砲(レールガン)を喰らった様な顔を向けてくる。無理もない。凡そいつもの俺らしくない提案だしな。

 変に怪しまれても嫌だし、これは補足説明が必要か。

 

「あ、いや……お前さ、東京に来てもこの近所しか見てないだろ? せっかくだから、と思ったんだが」

 

 沙希は一瞬表情を明るくして、すぐに俺を窺い見る。

 

「い、いいの? あんた、無理してない?」

「無理してるかどうかは分からん。だけど、もうすぐ俺たちも大人だ。そういうのにも少しは慣れていかなきゃいけないだろ」

 

 詭弁だな。いや、そうでもないか。実際、必要最低限の社交性は身につけるべきだと思い始めていたし。

 

「ま、そりゃそうかもね。あたしも社交性は無いからね」

 

 沙希も同意見のようだ。

 

「だから、その訓練に付き合ってくれるか?」

 

 沙希に負担を感じさせない様に、屁理屈を混じえた尤もらしい理由を述べる。

 

「そ、そうだね。じゃあ着替えないとねっ」

 

 分かりやすいな、サキサキ。

 出掛けると決まった途端に、笑顔が二割増しで綻びやがった。この笑顔が見られただけでも、思い切って提案してみて良かった。

 

 * * *

 

 午前十時を少し回ったくらいである。

 沙希の着替えが終わったらしい。

 ちなみに沙希が俺の部屋で着替える時は、ユニットバスの脱衣所を使っている。

 前に冗談のつもりで「覗くぞ」と云ったら「いいけど、恥ずかしいからバレない様にね」と云われた。

 いや普通そこは断固拒否の台詞だろうが。こっちは拒否されるの前提で云ってんだよ。

 ぶっちゃけ、揶揄(からか)おうと思ったらしっぺ返しを食らっただけだったのだが。

 

「準備、終わったよ」

「おう、こっちも大丈夫だ」

 

 六畳間に戻ってきた沙希を見て、はっとする。

 一言で云えば、綺麗で格好良い。

 スキニージーンズと云うのだろうか、ぴったりとラインが出るジーンズに、上はデニム、いや色が薄いからダンガリーシャツかな、よく分からんけど。

 第三ボタンまで開けた胸元には、白いカットソーだかキャミソールだかがちらりと見えている。

 なんだこいつ。

 決して高い服を着てる訳じゃないのに、どうしてここまで格好良く着こなせるんだろう。

 つーか、スキニージーンズ最高っ!

 

「……なんでお尻ばっかり見てんのよ」

 

 げふん。

 だってさ、どうしても目がいくって。足のラインは綺麗だし、その上にあるその……臀部がだな、主張しすぎというか、丸くて柔らかそうで、思わず手が伸びるというか。

 うん。ちょっとだけ痴漢さんの気持ちが理解出来たかも。リスクを考えたら愚行でしかないけれど。

 それよりも、現在俺には可及的速やかに解明しなければならない謎がある。

 そう、これはただの探究心なのだ。

 

「お前……ちゃんとパンツ穿いてるか?」

 

 ──殴られた。素朴な疑問を投げかけただけなのに。まあ、ぺちんと額を叩かれただけで全然痛くないけれど。

 

「きょ、今日はラインが出ない下着なのっ」

 

 結局答えるんかい。

 覗いてもオッケーなのに下着の事を聞いたら殴られるって、どんな羞恥心だよ。

 

「み、見たいなら後で見せたげる」

「いやいやいや、それこそ訳分からんわっ」

「ふふっ、冗談だってば」

 

 あの、どうせならもっと分かりやすい冗談にして貰えますかね。こちとら童貞なんですけど。ドキドキしちゃうんですけど。

 つーかテンション高いなこいつ。まるで久しぶりにデパートに連れてってもらう小さな子供みたいだ。

 

「──で、何処か行きたいとこはあるか?」

「あ。全然考えてなかった」

 

 ……やっぱり子どもだ、こいつ。

 

  * * *

 

 街に出て、駅近くのパスタ屋で昼食を摂った俺たちは、ぶらぶらと歩く。まだ目的は何ら決まっていない。それでも沙希は上機嫌だ。

 時折ショーウインドゥを眺めたりしながら笑顔で歩調を合わせつつ、俺のパーカーの袖に絡みついてくる。

 そう、俺はパーカーなのである。洗練された印象の沙希とは真逆な俺の服装。

 歩道に並ぶ店先の大きなガラスに映る沙希と俺。

 釣り合いが取れていないのは、俺でも分かる。

 

「服、買うか……」

「ん? どしたの」

 

 不意に立ち止まった俺の顔を覗き込む、その沙希の表情に思わず見惚れる。

 

「いや、なんか、服の釣り合いが、な」

「あれ、あんたってそういう事気にする人だったっけ」

「いや、ここまで違うとさすがに気になるわ。部屋にいる時はそうでも無かったけど、街に出てくると……な」

 

 ふーん、と口角を上げながら逡巡した沙希は、頭上に電球が浮かんだ様な表情に変わった。

 いわゆる「あっ、ひらめいた」的な、あれだ。

 

「そうなんだ。じゃあ、今日はあんたの服を見よう。そうしよう、ね?」

 

 ……くっ、可愛い笑顔じゃねえかよ。

 

「お前は行きたい所はないのかよ」

「あたしはあんたと一緒なら何処でもいいよ」

 

 そういう事をさらっと云うんじゃない。未だに対応に困るんだから。

 そんな困惑を余所に、沙希はくいっと俺の腕を引っ張る。

 

「うん。よし、行こ」

「お、おい、予算は一万くらいしか無えぞ」

「そんだけあれば上等だよ。着回しが出来る服を二着くらい買えば、きっと見違えるよ」

 

 俺の腕をぐいと引っ張りながらも沙希の足取りは軽く、このままでは俺を引きずってスキップを始めちゃいそうな勢いである。

 つーか、沙希ってこんなキャラだっけ。

 

「ほら、何ぼさっとしてんの。行くよっ」

 

 ──うん。こんなキャラだった。

 

  * * *

 

 沙希に手を引かれて訪れたのは、駅近くの複合商業施設。

 沙希(いわ)く、このビルはセレクトショップが多くて、一度来てみたかったのだそうだ。

 一歩施設内に入ると、もう別世界である。

 

 最初に連れて来られたのは、若者向けらしき服屋である。若者である俺がこう云うのはお門違いなのであるが、ちらっと見えてしまった店内の若者たちのチャラチャラした格好を見ると、そう云わざるを得ない。

 つまり、俺にとって対極の存在が集う店なのだ。

 簡単に云うと、ギャップが半端ない。

 

「お、おい、本当にここに入るのかよ」

「まあね、ここじゃ見るだけで買わないけどね」

 

 入口での俺たちの遣り取りは、そこにいる店員の耳にも届いているだろう。そしてこの店員は、たった今「買わない」と宣言した俺たちにどんな対応をするのだろう。

 

「ほら、あっち見てみようよ」

 

 沙希は俺の腕に自分の腕を絡ませて奥へと導く。と、周囲の男共の視線が集中する。まず、誰が見ても様になっている沙希を見て、次に明らかに場違いな俺、の順番でだ。

 

「えっと、これと、これと……これかな。ちょっと試着させてください」

 

 既に沙希の手には数着の上着、シャツ、ズボンがある。

 試着をお願いされた店員は困惑していた。それも道理だ。なんせ(はな)から買わない旨を明言してるのだから。

 

「さ、これ着てみてよ」

 

 有無を言わさずに試着室に押し込まれた俺は、盛大な溜息と共に諦める。

 今日は元々沙希を楽しませる為の外出なのだから、と自分に言い聞かせて、渡された服を広げてみる。

 ──あれ、意外と普通だ。つーか、上着じゃなくてベストかよ。

 着替えていると、カーテンの外から声が聞こえる。

 

「ねぇ、どっから来たの?」

「あのさっきのダサい奴、まさか彼氏?」

 

 どうやら試着室の前で沙希が絡まれている様だ。

 急いで着替えてカーテンを開ける。

 

 ──!

 

 案の定、沙希の周りには三人の戸部モドキが付きまとっていた。

 そんな戸部モドキを気にもせず、試着室を出た俺に駆け寄る沙希。

 

「ん、いいね。やっぱりあんたスタイル良いよ。でも……こういう頭悪そうな服はあんまりパッとしないね」

 

 沙希の云う、頭の悪そうな服を着た戸部モドキ三人も、俺を見て固まっている。

 え、絶句する程似合ってないのか。沙希だけは褒めてくれたからいいけど。

 スマホのカメラで全身の写真を撮られて、一軒目は終了。

 

 次に沙希の目に止まったのは、先程の店よりも少し大人な雰囲気の服屋だ。

 中に入ると、海浜総合の意識高い系の輩が好みそうな服がずらりと並んでいる。

 沙希は前の店と同じく、服を三点ほど選んで試着を促す。この店の男性店員は、試着を快諾してくれた。

 俺はもう覚悟を決めていた。今日は沙希の着せ替え人形としての役目を全うしよう。

 腹を括ればやる事は決まっている。さっさと着替えて試着室を出るのみ。

 

「ん、これいいね。あんたにはこういう知的な感じの服が似合うね。どう、結構タイトな服を選んだけど、着てみて圧迫感とか無い?」

 

 パシャパシャとスマホのシャッター音を鳴らしながら沙希が問う。

 

「ああ、ちょっとズボンがきついかな」

「じゃあ下はシルエットが崩れない程度にルーズにしようか」

 

 ──こんな調子でこの後服屋を梯子(はしご)すること五件。太陽もいい具合に沈みかけている。

 ところで。

 さすがに疲れてきたぞ沙希さんや。あれだけ巡って何も買わないんじゃ、文句の一つも云いたくなるというものだ。

 

「おい、結局どの店でも買わなかったじゃねぇか。もしかしたら、この世には俺に似合う服は無いんじゃないか?」

「ううん、ほとんど全部似合ってたよ。買わなかったのは、予算の問題かな」

 

 予算一万じゃあ無理も無いか。すまんね、まだ夏休みのバイト代は残っているんだが、それはもう使い道が決まっているのだよ。

 

「じゃあ今日は買わずに帰るのか」

「買うよ、これから行くお店でね」

 

 沙希が最後に選んだ店は……俺の行きつけ、お求めやすいお値段のチェーン店だ。

 

「ごめんね、ここではちょっと時間かけるよ」

 

 そう云うと沙希は買い物カゴを手に取り、じっくりと商品を選び始めた。

 その真剣な眼差しは、なんでも鑑定してしまうテレビ番組の目利きの先生の様である。

 それでも二十分ほどである程度のアイテムが揃った様だ。

 

「とりあえず、これとこれ、あとこれね。着てみて」

 

 促されるまま試着室に入る。渡されたのは、白いカッターシャツと、若干細身のジーンズ、それにブレザーの様な紺のジャケット。

 うん。やはり安物は肌に合う。高い服なんか着たら歩くのにも気を遣いそうだ。

 試着室を出て、沙希に見せる。

 

「──うん。一つ目はこれでいいね。じゃあ次は、下はそのままで上だけこれに替えてみて」

 

 渡されたのはVネックのカットソーと、一軒目の店で着たのと同じ様なベストだ。

 云われた通りに再び試着室で着替えて出る。

 

「うん、これもありだね。じゃあ次はシャツをこっちに替えてみて」

 

 渡されたのはワイシャツ、では無いな。もしかして、これが噂のドレスシャツと云うヤツか?

 名も定かでないシャツに着替えて試着室を出た瞬間、沙希の顔が固まった。

 似合って……ないんだろうな。

 だが奇妙なことに、固まったままの沙希の顔は見る見る朱に染まってゆく。

 

「……いい! 惚れ直しちゃうよ」

 

 抱きつかんばかりの勢いで迫る沙希に戸惑う。

 

「いやこれ、似合うか? ドレスシャツなんて着慣れないからなぁ……」

「何云ってんのさ。高校の時に毎日着てたじゃないの」

「あれはワイシャツだろ」

 

 当然の様に答えると、沙希は二カッと笑った。

 

「ワイシャツもドレスシャツなんだよ。本当は襟とカフスがついたフォーマルなシャツの事なんだけどね」

 

 そういえば、初めて見たかもしれないな。

 ──沙希の本気のドヤ顔。

 

「そ、そうなのか……知らんかった」

 

 結局、ドレスシャツ二着、カットソーを二着、スエード革っぽいベストを一着、裾上げ不要の細身のジーンズを一本購入。

 しめて、八千円ちょい。

 ──すげえな、おい。これだけ買って、一万円札でお釣りが来たぞ。

 レジで会計を済ませると、沙希は店員に伝えた。

 

「すみませんが、試着室をお借りしていいですか。買った服に着替えたいので」

 

 は?

 俺、また着替えるの?

 

「ほら、許可はもらったから着替えておいで。一番最後のヤツにね」

 

 はあ……沙希の奴、超楽しそうじゃんかよ。テンション爆アゲじゃんかよ。

 まあいいか、俺も楽しくなかったと云えば嘘になるし。

 

  * * *

 

 最後の服屋を出た時には、もう空は暗かった。

 俺は買ったばかりの服に身を包み、沙希と並んで歩いている。

 ショーウインドウの大きなガラスに映る二人の服装には、然程違和感は感じられない。

 でもちょっとだけ恥ずかしいかも。こんな格好したの初めてだし。

 こ、こんな格好を見せるのは……沙希の前だけなんだからねっ。

 脳内妄想で遊びながら歩を進めていると、沙希の熱視線を感じた。

 

「ありがとうね。今日はすっごく楽しかったよ」

「いや、お礼を云うのは俺だろ。結局俺の買い物しかしてないし」

「いいの。今日はあんたの色んな格好良い姿を見られたから」

「……照れ臭せぇよ」

「うん。顔見れば分かる」

 

 うっせぇ。お前だって顔赤いじゃねえかよ。

 都会の片隅で赤ら顔の男女。酔っ払いかよって話だ。

 

「あっ、もう一軒だけ寄っても……いいかな」

「おう、ここまできたらとことん付き合うわ」

「ありがと。じゃあ、ここね」

 

 沙希が指差したのは……眼鏡屋?

 

「レポートや論文でパソコン使う機会が増えてるでしょ。だから、その、あの……」

「ああ、ブルーライトカットの眼鏡か」

「うん。それ」

 

 何故に顔を赤らめるのですかねぇ。何か企んでおられるのでしょうか。

 

 店内に入ると、当然の事ながら色んな眼鏡が並んでいる。

 その中の一角、PCメガネのコーナーへ行く。

 そう云えば、前にもこんな事あったな。

 黒歴史ではない、数少ない良い思い出を懐かしみつつ、ブルーライトカットの眼鏡を物色する。

 

「ね、これかけてみて」

 

 いつの間に選んだのか、沙希の手には黒縁の角張った眼鏡があった。

 それを手に取り、掛けてみる。

 

「……!」

 

 おい、掛けさせといて感想も無しかいっ。

 と突っ込んでやろうと沙希を見ると、俺の顔を見つめたまま頬を朱に染めていた。

 

「どうした、沙希」

「あ、え、はっ!?」

「お前、ぼーっとしてたぞ」

「う、うん、ちょっと……ね」

「変な奴だな」

「そ、それ、貸して!」

 

 云うと同時に、沙希は俺の顔から眼鏡を剥ぎ取って走って行った。

 ったく。何なんだ。

 さて、仕方ないから沙希が戻るまでの暇つぶしに他の眼鏡でも物色するか。

 沙希にはどんなのが似合うかな。銀縁は違うな、丸いのもなんか違う。

 と、気がつくと沙希が小走りで寄ってきた。

 

「い、行こう。お腹空いちゃった」

 

 ──こいつ。やっぱり変だ。

 

  * * *

 

 地下鉄の駅を出て、アパートに向かう。

 その途中、沙希はちらちらと俺を窺っている様に見えた。アパートに着いても同様だ。何かの機会を窺っている様な、そんな違和感が沙希から感じられる。

 時計は夜の九時を回っていた。

 そういや、沙希はまだ帰らなくても大丈夫なのだろうか。いつもなら日曜の夕方には帰るのに。

 

「沙希、あの……」

「ひゃ、ふぁい」

 

 あ、こいつ噛んだ。何か言おうとして噛んだな。

 

「時間、大丈夫なのか」

 

 ちらっと時計を見た沙希は、途端にそわそわし出す。バッグの中に手を突っ込んでは溜息を吐いたり、ぱっと顔を上げたと思ったら俯いたり。

 

「何か、あるのか?」

「う、うん……あの」

 

 沙希がバッグの中から手を引き抜く。その手には、綺麗にラッピングされた小さな箱がある。

 

「あの、これ。良かったら……使って」

 

 促されて包装紙を開く。

 出てきたのは、艶のある白い箱。

 開けると、そこにはさっき眼鏡屋で掛けさせられたPCメガネが入っていた。

 

「これ、買ったのか」

「う、うん。最近パソコン使う機会が多いみたいだし、その、似合ってた、から……」

 

 顔を真っ赤にしながら俯き加減で口ごもる沙希に、胸の奥が熾火の如く熱を持つ。

 

「提出物にパソコン使うのはお前も同じだろ。自分用のは買ったのか?」

 

「……笑わない?」

「内容による」

「じゃあ、言わない」

「イントロだけ匂わせといて途中でやめるなよ。夢見が悪くなるじゃねぇか」

「でも、笑うんでしょ」

「笑わない、多分。きっと」

 

 赤い顔のままの沙希がバッグから出したのは、俺の目の前にあるのと同じデザインの、琥珀色の枠をしたPCメガネだった。

 

「……可笑しいでしょ、あたしがペ、ペアルックに憧れてた、なんて」

 

『ペアルック』

 リア充の間で語り継がれる伝説の一対の聖衣(クロス)の名称。

 それを着用せし男女は時空を歪め、あらゆる場面に於いて「つがい」であることを主張すると云う。

 ルックとはルーク(狼を表すギリシャ語)の方言の一つとされ、その源流は古代ギリシャ時代まで遡ることができる。

 一説には、二体存在した双子座の黄金聖衣が発祥とも云われるが、この説は定かでは無い。

 因みに、猫の飼い主が猫耳を着用する行為も、その派生である。

 ※民明書房刊『ペアルックと古代ギリシャ文明』

 

 ──ふっ、またつまらぬ妄想をしてしまったぜ。

 

 と、それは置いといて。

 

 まさか沙希がペアルックなんて乙女な願望を持っていたなんて、予想だにしなかった。

 しかも、服やアクセサリーなどの常時身につける物ではなく、PCメガネという或る条件下でしか使用しない物をお揃いにするとは。

 やべぇ。健気(けなげ)過ぎるよサキサキ。

 沙希の、沙希らしからぬ乙女な行動の可愛らしさに、思わず噴き出してしまった。

 

「……ほら、やっぱり笑った。悪かったね、似合わないことしちゃって」

「いや、今の笑いはそういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味?」

「単純に……か、可愛いと思ったというか、沙希の意外な一面を見れて、嬉しかったというか」

 

 感情を上手く伝えられない自分がもどかしい。

 

「……はち、まん」

 

 あ、伝わったらしい。

 その証拠に、肩に擦り寄ってくる沙希の目は、すっかり甘えるモードに突入していた。

 瞳を潤ませる沙希を迎え入れ、ポニーテールの毛束を指で梳く。

 

「ありがとな。大事に使わせてもらうわ」

「うん」

「あと、服も選んでくれてありがとな。助かった」

「うん」

「あと……」

「……あと、なぁに?」

「言わねえ」

「……けち」

 

 互いに身を寄せ合って体温を感じながらの遣り取りを続けていると、不意に沙希が俺を覗き込んだ。つまり上目遣いである。

 至近距離での沙希の上目遣いは、相変わらず抜群の破壊力だ。

 

「もう一つ、お願いがあるの」

「なんだ。ギャリック砲とか撃てねえぞ」

 

 動揺を隠す為に適当な事を云って誤魔化す。そうでもしなけりゃ理性が保てん。

 どうやら「理性の化物」と評された俺は、既に過去の遺物らしい。

 

「ふふっ、あんたトマト嫌いだもんね」

 

 なんでトマトの話?

 まさかギャリック砲を撃つ野菜王子とかけてるのか。

 もしそうだとしたら、超分かりづらいぞ。

 

「あんま関係ねぇぞ、それ」

 

 そういえばイタリアだか何処だかに、トマトを投げつけ合う祭りがあったな。超怖え。口に入ったら地獄だろ。

 などと愚考に妄想をミクスチャーしていると、眼前に迫る沙希の口角が上がって見えた。

 

「まあ、いいや。勝手にやっちゃうんだから」

 

 妖しい空気を纏いながら、膝歩きでじりじりと距離を詰める沙希。後ずさりの結果、座卓の淵で背中を打つ俺。

 

「さあ、観念しな」

「こわっ、怖ぇって」

 

 沙希との距離、およそ三十センチ、二十、十……あ。

 

「大丈夫……大人しくしてれば、すぐ終わるから」

 

 え。え。なに。

 何をされるの? 予防接種?

 まさか……夜のお注射!?

 

 沙希の冷たい手が、俺の頬を下から上へと撫でる。その蠱惑的な仕草に背筋がひくんと痙攣(けいれん)を起こす。

 

「い、いや……だから何をするつもりなんだよ。まず主旨を云え主旨を」

 

 沙希の指先は、顎の輪郭をなぞり終えると口唇にそっと押し当てられた。

 

「云ったらあんた、嫌がるでしょ」

「だからそれは内容による──あふっ」

 

 正面から迫る沙希の両手は、緊張で無防備になった俺の脇をすり抜けて背中を這う。

 

「よ、よせ。まだ時期尚早だから……」

「だーめ。今じゃなきゃだめなの。ほら、両腕を上げて」

 

 そ、そんな。このまま両腕を上げてしまったら……どうなるんだ?

 

「ほら、背筋を伸ばして。ちゃんと測れないじゃないの」

 

 キリキリキリと音を立てるのは、沙希の左手に握られた──メジャー。

 

「ん、胸囲は八十五っと」

 

 は、はあ!?

 

「──てめえ、揶揄(からか)いやがったな」

「ふふっ、ちょっと調子に乗り過ぎちゃったかな」

 

 ──紛らわしい。

 うっかり貞操を捧げる覚悟を決めるとこだったじゃねぇかよっ。

 しかし、嫌かと問われれば全然嫌ではない。むしろかなりのご褒美でしたよ。

 でもね沙希さん、今のは童貞相手には過激過ぎますぜ。

 

「じゃあ次は肩幅ね」

 

 この後、ウエストや腕の長さ、腕の太さまで計測された。

 何なんだ、一体。

 

 

 

 




御無沙汰しております。
そして。お読み頂きまして誠にありがとうございます!

そういえば、最近八幡と沙希は外でデートしてないなぁ……
と気づいて書いたお話でした。
誤字脱字、感想批評、評価などいただけたら幸いです。

ではまた次回、この場所でお会いしましょう☆


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君は僕のなにを好きになったんだろう

前回までのあらすじ
……。
……忘れちゃった。

今回は戸塚来訪の翌週の月曜の大学でのお話です。


 

 月曜日というのは、何故こうも憂鬱になるのだろう。

 別に天気が悪い訳ではない。見上げれば見事な秋晴れの空が羊の群れを浮かべている。

 それに今日は大学の授業も少ない。

 もっと云えば大学自体、全然嫌いではないのである。

 大学は何より自由だ。

 決まった単位数さえ履修すれば、誰でも卒業の権利が与えられる。

 代わりに卒業の権利を得ない自由も存在しているのだが。

 興味がある事柄については深く探究できるだけの資料もあるし、無口だが博識の教授もいたりして、そういう自分より知識を持った人物と意見を交換出来るのは非常に楽しい。

 こないだなんか、空き時間を持て余した教授に捕まって、三時間ほど「源氏物語」が書かれた理由、背景について語らってしまった。

 超楽しかった。

 もう、一生大学生でいたい。

 なのに、である。

 月曜日は人を鬱にさせる魔力を有しているのか、外に出たくない、家で寝ていたい、働きたくない等々、邪な考えが沸き起こるのだ。

 

 つまり。帰りたい、千葉に。

 

 俺が家を出た理由は二つ。

 一つは、小町の為。

 総武高校に入ってからの小町は甘えグセがついていた。小町が一年生の時の課題や宿題は、文系はほとんど俺に回ってきた。

 何度か自分でやるように云ったのだが、その度に上目遣いでうるうる見つめられると突き放せなくなり、俺が折れるしか無くなる。

 だから俺は、家に俺がいない方が良いと思い、親に無理を云って都内のアパートを借りてもらったのだ。

 もう一つは自分の為である。

 大学を卒業すれば、どんなに嫌でも社会に放り出される。ニートとしての輝かしい人生を研鑽出来れば重畳なのだが、それをあの母親が許すとは思えない。

 それならば、早い内から世間という「毒」を身に染み込ませて社会に対する免疫力を高めるべきだ。

 幸いにも身分はまだ学生。世間の毒はまだ薄かろう。ならば薄い毒から徐々に馴らしていけば、社会に出るまでにある程度の耐性を持つ事も可能なのではないか。

 そう考えたものの、未だにサークル活動には拒否反応を示してしまう俺がいる。

 

 さて、愚考を重ねる間にキャンパスに着いてしまった訳だが。

 

 俺が通う文学部は、本校キャンパスとは道を隔てている別の敷地内にある。

 生徒の男女比は四対六で、女子の方が多い。

 だが俺には一切関係はない。何故なら、友達なんていないんだもんっ。

 

 午前九時前という時間帯のせいか、まだ学生の姿は疎らだ。

 今日あるのは必須科目。ついこないだ源氏物語が書かれた目的について食堂で論争を繰り広げたおじいちゃん、寒川教授の授業だ。

 この寒川教授、学生たちには非常に不評らしい。

 その理由は単純明快。サボれないからである。

 

 いつも寒川教授は授業の開始時と終了時に出席を確認する。つまり、出席をとり終えたら退室してばっくれる、という手段が使えないのだ。

 だがしかし、途中退室など学費の無駄遣いとしか考えられない俺にとって、それは好都合でしかない。

 その手の理由で敬遠される教授の授業には、必然的に真面目な学生だけが集まるのだ。その上、その絶対数は少ない。

 その少数の真面目な学生だけが参加する授業は、それはもう有意義な時間だ。有象無象と関わることなく授業に集中出来るのだから。

 他の必須科目も俺は同様の理由で、不人気な教授ばかりを選りすぐって受けていた。

 また、そういう教授に限って教えるのが上手い。

 元々開始と終了に出席をとる程の教授なので、真面目だし熱心だ。

 

 話は戻って、源氏物語が書かれた目的についてだが、教授は仲間の貴族への当てつけと言い、俺は単なる暇つぶしと断じ──。

 

「──比企谷くん、ちゃんと聞いていますか」

 

 ──な、真面目だろ。

 

  * * *

 

 授業が終わると同時に寒川教授を追い掛け、大学の転入について尋ねてみる。勿論、戸塚の件の絡みである。

 この教授、真面目なのだが物腰は非常に柔らかい。まさに好々爺そのものである。

 

「どうかしましたか?」

「ええ、お聞きしたい事がありまして」

 

 教授は顎に手を当てて逡巡し、ふむと頷いた。

 

「キミ、この後の予定は?」

「午後に愛甲(あいこう)教授の授業が一コマありますが、それまでは何もありません」

「では、ちょっと早いですが昼食に参りましょうか。今日の日替わりランチは若鶏の香草焼きらしいですよ」

 

 飾り気の無い革バンドの腕時計を見ながら朗らかに笑う。

 

「丁度良い、彼女も呼びましょう」

 

 寒川教授は、千鳥格子のジャケットの内ポケットからスマホを取り出して電話を掛け始めた。

 

 お昼前だからなのか、学食には空席が目立っていた。窓際に設置されているカウンターテーブルなどは人気の席なのだが、今日はまだ半分以上空いている。

 そのカウンター席に並ぶのは、俺と寒川教授。そして俺の横には……愛甲教授がいる。

 

 愛甲教授は美人である。

 年の頃は四十代だろうか。よく言えば男好きのする顔、悪く言えば不倫顔、とでも喩えるのが妥当か。

 その何とも言えぬ大人独特の色香を漂わせるせいで、一部の熟女好き男子学生の評価だけが飛び抜けて高いのだが、授業自体は不人気である。

 そりゃまあ、九十分間ずっと熱弁を揮っていればウザくも感じるか。

 そのせいか、愛甲教授はいつも疲れた顔をしている。それが大人の哀愁漂う色香と曲解されているのを本人は知らない。

 

「で、話とは」

 

 若鶏を一欠片、もにゅもにゅと咀嚼し終えた寒川教授が問うてきた。

 

「はあ、実は」

 

 戸塚の現状とその目指す先が合致しそうにない事を端的に説明し、転入手続きがある大学を探している旨を伝えた。

 

「比企谷くん……友達いたんですね」

 

 おぅふ、久々の反応だぜ。

 一緒に話を聞いていた愛甲教授は、驚嘆の表情を浮かべて俺を見ている。

 寒川教授はその様子を笑顔で見守っている。

 

「比企谷くんは非常に稀有(けう)な人物ですからね、付き合える相手も自ずと絞られてしまうでしょうね」

 

 相好を崩した寒川教授は穏やかに俺を評する。稀有と云われたのには些か納得がいかないが、概ね合っているので反論のしようが無い。

 非常に稀有、という表現が若干「頭痛が痛い」的な感じなのは、この際触れずにおこう。

 

「まあ、そうですね。未だに此処では友人はいませんし」

 

 軽く同意すると、愛甲教授は薄く笑みを浮かべて言葉を繋いできた。

 

「それは貴方が友人を欲しないからね。貴方、大概の事は一人でやってしまいそうだし」

 

 こちらにも概ね同意だ。他人の意思が入ると考えなければならないことが倍加するし、何より効率が悪い。

 例を挙げるなら小町とその友人の勉強会だ。

 一度だけ実家のリビングでその光景を見たことがあるが、あれは勉強会ではなく雑談会だ。それぞれの視線はノートや参考書に向かっている癖に、ページは一向に捲られないのだ。おしゃべりはペラペラと進んでいくのにな。

 

「一人の方が楽なんです。他人の意思や意見が入ると面倒です」

「はは、やはり比企谷くんは面白い」

「それで、さっきの転入の件だけど──」

 

 寒川教授の駄話で脱線しかけた会話を戻すべく、愛甲教授が口を開いた。

 

「この大学に限っていえば、君の云うとおり二年次の編入は受け入れていないわ。都内の私立大学には二年次の編入を受け入れる大学はあるけど、それもあまり勧められないわね」

「理由をお聞かせ願えますか」

 

 愛甲教授は、カフェオレのカップの縁についた口紅を指でなぞって、俺の問いに回答する。

 

「簡単な話よ。二年次での編入を受け入れている大学は、学生が不足しているのよ。つまり、必然的に学力レベルは低くなる。だからと云って教える内容のレベルが低いとは一概には言えないけど」

 

 つまりあれか。

 二年次での編入を歓迎する大学の目的は、分不相応な大学に入学してしまってレベルの高さに苦労している学生たちの受け皿になることか。

 

「難しいのはそこね。貴方の友人がどの程度の学力を持っていて、どの位の知識を求めているかが分からない以上、何とも言えないわ」

「はあ。戸塚……友人は、体育の教師になりたいらしいです。しかも怪我のケアや、効果的なトレーニング方法なども勉強したい、と」

 

 聞き終えた愛甲教授は、俯き瞑目している。やはり難しいのだろうか。

 しばしの沈黙の後、口を開いた愛甲教授の表情は固い。

 

「……その条件に合致する学部を探すのは困難ね。体育教師になるなら教育学部か体育大学になるけれど、故障のケアやトレーニング方法となると医療やスポーツ科学の分野になるでしょうから」

 

 段々と愛甲教授の口調に若干の熱が篭ってきた。寒川教授は相変わらず笑顔で鶏肉をもにゅもにゅしている。

 

「その彼の願望を叶えるならば、教育学部にいながらスポーツ科学の学科を受講出来る大学を探すか、大学を卒業した後に医療系の専門学校に通うのが現実的だと思うわ。あとは、オープンキャンパスという手もあるわね」

 

 肩で息をし始めた愛甲教授は、そこで一旦話を止めた。

 その一方、満足気な表情で「ごちそうさま」と手を合わせる寒川教授。

 寒川教授はその満足気な顔を向けて一言。

 

「若いうちは、そうやって悩んで学んでいくものです。久々に今日の昼食は楽しかった。ありがとう」

 

 いや、別にあんたの食事を充実させる為の話じゃないからね。

 

「お礼にコーヒーをご馳走しましょう。ちょっと待っていてください」

 

 空の食器を載せたトレイを持って、寒川教授は去っていく。

 まったく、マイペースな好々爺だ。

 

「時に──」

 

 向こうでコーヒーを注文する寒川教授の背中に苦笑していると、愛甲教授が話題を変えてきた。

 

「貴方は文学部で顔と名前が一致する学生はいるの?」

「いや、名前は全員知りません。ほぼ誰とも関わりが無いので」

「自信を持って言えるのがある意味清々しいわ。その分だと、気づいていないようね」

 

 は、はい?

 それって、その。

 そう云う切り口で話し始めるってことは、つまり……良くない事、ですよね。

 まあどうせ、文学部に目の腐った不審な男がいるとか、たまにキョドってキモいとか、そんな感じだろう。

 つーか、それ以上のことを云われたら泣くぞ。

 

「秋学期に入って、貴方の噂を聞くようになったのよ。一部の女子からね」

 

 ほら来た。女子が関わっている時点で俺の推測はほぼ正解じゃねぇか。余りにも正確無比な自己分析能力に、ちょっとだけ涙が出そうだぜ。

 

「──どうせ、キモいとか暗いとか、そんな感じでしょう」

 

 この先襲ってくる心のダメージを緩和する為に先手を打つ。

 だが、愛甲教授の反応は俺の予定には無いものだった。

 笑った。笑ったのだ。

 その笑い声は学食の中で響き渡り、一気に周囲の目を引いてしまう。

 

「まったく気づいてない、か。大した鈍感力だわ」

「……どっちかと云えば、俺は過敏な方なんですけどね」

 

 自分の中でほとんど定型文となった言い回しで否定するも、やはり大人の女性は一枚も二枚も上手(うわて)のようだ。

 

「誰も貴方の夜の営みは聞いていないわ。多少の興味はあるけれど」

 

 なんか目がエロいんですけど教授。だから舌なめずりとかしないでください。こちとら童貞真っ只中なんですから。

 

「貴方、早く彼女を作りなさいな。そうすれば平穏な日々が送れるわ」

「いや、彼女はいますよ」

 

 言った瞬間に愛甲教授の瞳孔が開いた。

 俺なんかに彼女がいるのは、そんなに衝撃なのだろうか。

 ま、衝撃だよな。俺自身未だに夢じゃないかと疑うし。

 

「……いつから?」

 

 震えた声で問われる。これって答えなきゃいけないんですかね。

 あ、目が真剣だ。言わないとこの後の授業でひどい目に遭いそうなくらいに恐怖を感じる目だ。

 

「夏休み……千葉に帰った時からです」

 

 白状すると、愛甲教授の肩がかくんと下がった。

 

「はあ、そっちが原因か」

「何なんです、それ」

 

 まさか。俺って彼女が出来るとキモさが倍増する特異体質だったのかしら。

 

「彼女が出来たことによって、貴方の男性的な魅力が開花したのかもね」

 

 はあ?

 話の意図がまったく理解出来ないのですが。

 

「俺に魅力ですか? そんなものありませんよ」

「なら、貴方の彼女は貴方の何処を好きになったのかしらね」

 

 言葉に詰まった。

 

「女は狡猾な生き物よ。魅力が無い男には見向きもしないわ。一部の例外を除いて、ね」

 

 例外。喩えるならば中学時代の折本かおりの様な人物か。もしくは一色いろは。あいつは俺にだけは当たりが強かったけど。

 おっと、うっかり黒歴史を紐解いてしまうところだった。

 

「魅力って、何なんですか」

「一般的に云えば、容姿、性格、才能、あたりかしらね」

「あとは金とか地位、権力……ですか」

「金も地位も権力も、すべて男の魅力の内よ。かなり限定的ではあるけれど」

 

 まあ、金があればモテるだろうな。

 その場合、実際モテてるのはその人物の後ろに控えている、福沢諭吉の大群なんだろうけど。

 後は、ステイタスだろう。

 例えば、偏差値の高い大学に通っているとか、一流企業に勤めているとか。芸能人の人気もその一種なのかもしれない。

 ざっと脳内で並べてみたけと、全部俺には当てはまらない。

 唯一該当しそうなのは大学の偏差値くらいか。

 ま、どうでもいいことだ。

 

「ただ、高校生と大学生では男を選ぶ基準が変わるのよ。大人と子供の考え方が違うのと同じね」

 

 真理かも知れない。

 小学校の頃は、足が速い奴がヒーローだった。

 中学生の頃は話題が豊富で明るい奴が、高校の頃は葉山隼人に代表される優しいイケメンが持て囃されていた。

 だとすれば、その葉山に見向きもしなかった沙希は、俺にどんな魅力を感じたのだろう。

 そもそも魅力なんて俺にあるのか。

 

 その疑問は、寒川教授が戻ってきた後も自分の奥底で燻り続けた。

 

 

 




お読み頂きましてありがとうございます。

今回は閑話を書いてみました。
あまり本編には影響しない(予定の)話です。

次回からはまた本筋に戻りますので、何卒よろしくお願いします。


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低気圧ボーイ

前回のあらすじ(ウソ)
自慢の愛車で華麗に首都高を攻める八幡。そこに追従するのは首都高を根城にする黒い怪鳥、ポルシェ911。
二台の、言葉なき邂逅が始まる。

えーと、首都高を走るのは本当です。それ以外はウソ。

【注意】
今回のお話には法律に反した描写が含まれます。
気になさる方は読まずにスルーしてくださいませ。




 水曜日の夜十時過ぎ。

 時折ずれ落ちるブルーライトカットの眼鏡を直しながら、俺は千葉に向けて愛車を走らせていた。

 都内の俺のアパートから千葉までは、首都高速と京葉道路を使えば約一時間。

 さて、これをどうやって短縮するか。どこまで短縮できるか。

 

 ──踏むしか無いだろうな。

 

 ヘッドライトの明かりを頼りに、4速8000回転で緩やかな左カーブに突入。カーブの真ん中までアクセルをキープして、立ち上がりは藤原のおっさんの教え通りにアウト側にラインを膨らませつつ、きっちり一万回転まで回して、カーブの出口、直線が見えたらレバーを5速に放り込んで奥までアクセルを踏む。

 

「……ぉわたっ!?」

 

 え、なになに?

 今ずるっと後ろが滑ったよ!?

 早かった?

 ねえ、アクセル踏み込むの早かったの?

 心臓がばくばくいっちゃってるよ、これ。

 何だっけ。後ろが滑った時は少しだけ逆にハンドル切るんだっけ。

 つーかそんなんいきなり出来るかよ。

 心に余裕の無いまま緩やかな下り坂の路面を掴んだ愛車カプチーノは、まるでジェットコースターの様な加速を再現する。

 免許を取って二ヶ月ちょいで、初めての全開走行。

 自分なりの限界走行。

 やはり無茶だったか。でもやらなきゃならない。他に方法が無いのなら。

 

「ほ、本気で速えっ。一体何キロ出てるんだよ」

 

 スピードメーターをちらっと見……えっ。

 ──うん。見なかったことにしよう。

 きっとあれだ。スピードメーターが壊れてるんだ。

 なんせ中古だから。中古だから。

 脳内で言い訳めいた屁理屈を呟きながらも、疎らに走る車を縫う様に抜いていく。

 普通に通行中の皆さん、本当にごめんなさい。今ちょっと緊急事態なんです。

 つーか、パトカーがいたら完全にアウトだな。

 

 ナビによれば、首都高環状線から6号線に入ると、すぐに隅田川が見えてくる。大きな弧を二回程描き、橋を渡れば7号線。京葉道路までほぼ一直線だ。

 カーブの立ち上がり、再び5速に入れて床までアクセルを踏み込む。

 七千、八千、九千、一万。

 一万一千まで回すと、回転計の針の動きは次第に緩やかになり、それに反比例して苛立ちが募ってくる。

 速く、もっと速く。早く。

 速度は限界に近い。操る俺の精神も限界だ。気持ちだけが空回りし始める。

 落ち着け。こういう時こそ冷静な思考が大事だ。

 第一に無事に辿り着くことを考えろ。所要時間はその次だ。

 かと云って、のんびりしている訳にはいかない。

 こうしている間にも、あいつは──。

 

 まあ、首都高の渋滞に巻き込まれなかっただけマシか。

 

  * * *

 

 幕張インターを下りた。

 このまま国道14号線を市役所方面に向かって行けば、目的地の筈だ。

 

 くそ、信号待ち長えよ。

 路面の勾配が無いのを良い事に、エンジンの回転数を上げて信号が青になった瞬間クラッチを離す。

 

「……ぐっ!」

 

 強烈な加速度によるGでシートに背中がめり込む。だがまた正面の信号は赤だ。

 くそ、くそ、くそっ。

 早く、早く変われ。

 ──よしっ。

 待ってろ、沙希。

 

 スマホのナビ通りに右へ左へ。ハンドルを回しアクセルを踏み続けると、目的の店らしきビルが見えてきた。

 

「うしっ、着いたっ」

 

 ブルースピアと書かれた看板の前でサイドブレーキを引っぱってエンジンを止める。

 車を降りると、踏ん張っていた膝ががくっと折れそうになる。思ったよりも足に負担がきているようだ。

 足に喝を入れて、車のキーだけ引き抜いてドアを閉め、看板の横の黒い扉を開ける──。

 

 ──薄暗い店内。

 

 右手にはカウンターがあり、女性が座る後ろ姿がある。

 そのまま視線を廻らせると、壁のあちこちが青色の間接照明に照らされている一番奥の集団で目が止まる。

 その集団の中、沙希は丸いテーブルに突っ伏していた。

 ──無事だったか。

 周囲から奇異の視線を感じながら、つかつかと奥へ歩みゆく。

 

「沙希」

「あー、はひまん、メガネしてる……」

「つか、どうしたんだよ。何があったんだ」

 

 上半身を起こした沙希は、俺の顔を見るなり目に一杯の涙を溜めて泣き出した。

 

「ひぐっ、ごめんらさい……嫌いになららいでぇ」

 

 嗚咽のせいか、呂律の回らない口調で謝罪を繰り返しながら、必死に手を伸ばして俺の上着の袖を掴もうとする沙希。

 宙を泳ぐその手を掴んで沙希を見る。

 

「落ち着け、沙希」

 

 宥めようと肩に手を置くと、その手をぎゅっと握ってくる。

 最初は痛いくらいだった握力は、嗚咽と共に抜けていく。

 

「らって……らめっていわれらのに、お酒飲んじゃっらぁ」

 

 何言ってるか分からないが、お酒という言葉だけは聞き取る事が出来た。

 そうか、こいつ飲んじまったのか。未成年なのにしようがねぇ奴だ。

 

「やくそくやぶっ……ごめんらさいぃ」

「ああ、わかった」

 

 俺の返答が理解出来ていないのか、ふるふると頭を左右に揺らしながらも、幾ら涙を流そうとも、眼差しだけは俺を捉えて離さない。

 

「いっぱいいっぱい怒っていいからぁ……あらしを嫌いにならないでよぉ……」

 

 ──なんかもう、ここまで崩れてると可愛くみえてきた。人目が無ければすぐ抱きしめたいレベルだ。

 いや、この状況ですら、すっげえ恥ずかしいけどね。

 沙希の頭を撫でつつ同席している他の五人に目を向けると、その中の一人の男がおずおずと口を開いた。

 

「い、いや……こんなになるとは思わなかったんだ」

「はぁ?」

 

 視線を向けると、その男は目を逸らして項垂れた。他の男に目を向けても同様の反応だ。

 んだよ、別に睨んじゃいねぇぞ。あ、この腐った目のせいですかね。

 

  * * *

 

 店員に貰った水を飲ませると、沙希は少しだけ落ち着きを取り戻す。と同時に激しく落ち込み始めた。

 丸テーブルに額をぐりぐりと押し付けて「嫌われる、嫌われる」と呟いている。

 席を同じくする面々はその変貌ぶりになす術は無い様で、ただ茫然と見ているだけだ。

 

 ぐりぐりと額を押し付けている沙希の背中に羽織っていた上着をかけてやると、ぐりぐりはピタッと止み、その上着の袖の部分を鼻先に寄せて、すんすんと匂いを嗅ぎ始める。

 

「あれぇ……はちまんのにおいだぁ」

 

 な、なんなんだ。超可愛い生き物を見つけてしまった。

 

「くへぇ……はちまん」

 

 髪を撫でると、沙希はすぐに寝息を立て始めた。

 まあ、とりあえず沙希が無事で良かった。そう思ったら膝から力が抜けた。沙希に倒れ込まない様に後ろに下がり、よろけたついでに壁に背を預ける。

 その姿勢のまま、沙希の突っ伏すテーブルの面々を見遣る。

 これが沙希の云っていた「親睦会」の出席者か。

 沙希の向こうには茶髪らしき女子が座り、その向こうでは男性二人がちらちらと俺を見ている。さらにその奥には二人の女子が怪訝そうな顔でこちらを窺いながら、好き勝手に喋っている。

 

「なに……川崎さんってこんなに可愛いことする人だったんだ」

「うんうん、ギャップ萌えしちゃう」

 

 奥の女子二人は沙希の可愛らしさにやられているようだ。

 わかる。俺だってこの可愛さにはノックダウン寸前なのだ。だが今はまだ倒れる訳にはいかない。とりあえず何があったのかは把握しなきゃな。

 

「あー、どうしてこうなったか状況を説明してくれ」

 

 沙希の隣で背中を(さす)る女子が、びくっと肩を揺らした。

 

「え。えーと、ですね──」

 

 その女子は、目を泳がせながら語り出した。

 

 中々誘いに乗らない沙希を、親睦会という名目で飲みに連れて来たこと。

 頑なに飲酒を拒否する沙希に、悪戯心でジュースと偽ってカクテルを飲ませたこと。

 それがアルコールだと知った沙希が暴れ出したこと。

 沙希を止めようとした男子に蹴りを食らわせたこと。

 ひとしきり暴れ終わると、八幡と叫びながら取り乱したこと。

 それを見ていたカウンターの女性が何処かに電話したこと。

 そのカウンターの女性とは──

 

「ひゃっはろ、比企谷くん。随分早かったね、電話してからまだ四十分だよ」

「雪ノ下……さん」

 

 ──陽乃さんだった。

 

  * * *

 

 時を帰宅後まで巻き戻そう。

 

 夕方、アパートに帰宅した俺は、パソコンを立ち上げてレポートの作成をしていた。

 今着けているブルーライトカットの眼鏡は、この作業の為に掛けたものだ。

 シャワーを浴びて簡単な夕飯を済ませ、再び作業に取り掛かろうとした時に沙希からのメール。

 

『学部の親睦会があるんだけど、行ってもいいかな。散々断ってきたんだけど、さすがに断りにくくて』

 

 まあ、当然ながら沙希には沙希の人間関係がある。後々に尾を引く様なことは避ける方が良いだろうと、若干心配ながらも了承し、こう付け加えた。

 

「ただし、酒はやめとけよ」

 

 仮にも教育学部に通う大学生がそんなことで罪に問われたら、後々どんな影響が出るか分かったもんじゃ無い。

 いや、本音は……やめとこ。

 口煩い大人の様な俺のメールに「わかってる。たくさん食べてくるよ。帰ったらメールするね」と返信が来た、その三十分後。

 

 ──着信があり、雪ノ下陽乃と表示された。

 

『川なんとかさんが、比企谷くんの名前を叫びながら暴れてるんだけど』

 

 で、すぐに車をかっ飛ばして、現在俺は千葉にいる訳だ。

 

「……すみません、ご迷惑をお掛けしました」

 

 礼を述べながら頭を下げると、いつもの仮面のままで陽乃さんは応える。

 強化外骨格は健在のようだ。

 

「気にしなくていいよ。こうして比企谷くんにも会えたし、ついでに雪乃ちゃんが負けた恋敵も見れたし、ね」

 

 強化外骨格と同様、シスコンぷりも健在か。

 

「いや、勝つとか負けるとか……そんなんじゃないですよ。こういうことは」

「んー、でもね。沙希ちゃん……だっけ、あの子を見てたら、やっぱり雪乃ちゃんの負けだよ」

 

「……は?」

 

「あの子ね、ずっと比企谷くんの名前を呼びながらお詫びの言葉を叫んでたんだよ。周りのみんなに騙されて、少しお酒を飲まされただけなのにね」

 

 騙されて、だと?

 再び奥のテーブルに目を向けると、席に座ったままの五人が固まった。

 

「だーめ、そんな怖い顔しないの。あの子達、怯えてるわよ」

 

 えっ。俺ってそんなに怖い顔してたか。きっとこの腐った目のせいですって。

 

「きっと雪乃ちゃんは、あそこまで必死になれない。形振り構わずに素直な思いを表すなんて、きっと無理だもの」

 

 まあ、想像は出来ないわな。つーか、雪ノ下が我を忘れる場面なんてあるのかよ。

 ……パンさんと猫関連以外で。

 

「ま、どうせ比企谷くんのことだから、お酒は飲んじゃダメとか正論を言ったんでしょ」

「まあ、そうです」

 

 眈々と答える俺に、陽乃さんは軽く溜息を吐いた。

 

「比企谷くんは彼女を心配して言ったのかもしれないけど……言われた彼女はその言葉に縛られちゃったんだね。まったく罪作りな男になったね」

 

 罪作りかどうかは別にして、可能性は充分あり得る。こいつ変に律儀だからな。

 なら、俺がしたことはただの言葉の呪縛だと云うのか。

 間違っていた、のか。

 

「大丈夫。比企谷くんは間違ってないよ」

 

 俺の心を見透かした様に微笑む陽乃さんに一瞬息を飲む。

 素顔だ、そう感じた。

 今の表情は強化外骨格の下に隠された、素の陽乃さんの顔な気がした。

 

「だって、彼女の為にこうしてここまで来たんだから。その事で、自分の発言に対する責任は充分に果たしているわ」

 

 そうだろうか。

 いや、違う。責任とか、そんなものじゃない。

 俺は、来たいから来た。沙希がピンチだと思ったから。沙希が困っていると思ったから。

 沙希が……そこにいるから。

 

「いや、責任じゃないです。沙希を責めるつもりも無い。ここに来たのは、ただの俺の意思です」

 

 言い終えても返事がない。ただのしかば……ではなくて、陽乃さんは狐につままれたような顔をして固まっている。

 

「……驚いた。あの理性の化け物からそんな台詞が聞けるなんて思わなかったよ。やっぱり君は変わったね」

「俺は、俺が此処に来たことを沙希の所為にはしたくない。それだけです」

「前言撤回。やっぱり君は君だったね」

 

 屁理屈をこねる俺に、ふふっと笑みを漏らすのは優しげな顔。その顔をたまには妹さんにも向けてあげたらどうですか、なんて思っても言えない。

 

「でもさ、大学生になったら、みんなお酒くらい飲んでるわよ?」

「いや、未成年の飲酒は罪でしょうに」

 

 俺が答えると、頬杖をついた陽乃さんは視線をスライドさせて奥のテーブルへと向けた。

 

「──だってさ。沙希ちゃんの彼氏さんは大層ご立腹のご様子よ?」

 

 陽乃さんのその人を喰った様な物言いに、五人の男女は硬直した。

 

「ご、ごめん……なさい」

「すみませんでした」

 

 次々に謝罪を口にするのを聞いて少々腹が立つ。

 謝るくらいなら初めからするなよ。そう口に出かかった時、陽乃さんに引っ張られた。

 

「だめ」

 

 耳元で囁くように告げるその言葉で我に帰る。

 そして、今度は周囲に聞こえる声量で告げた。

 

「比企谷くん、この辺で許してやってくれないかなぁ。 一応、大学の後輩に当たる子たちなんだ」

 

 え、そうなの?

 そういえば千葉市には国立大学ってひとつしか無かったっけ。ということは、沙希も陽乃さんの後輩なのか。

 ──面倒な事実を知ってしまった。

 だが、せっかくの陽乃さんのお膳立てである。無碍にしたら後でどんな仕打ちをされることやら。

 

「──いや、許すも許さないも無いです」

 

 もしも沙希が許すのなら、俺が怒りをぶつけるのはお門違いだ。

 

「……未成年の内はアルコールは勘弁してやってください」

 

 オブラートでぐるぐる巻きにした怒りを告げながら、奥のテーブルに向かって深々とアタマを下げる。

 

「は、はいっ、もちろんですっ」

「川崎さんはあたし達が責任を持って守りますから、ご安心をっ」

 

 俺ごときに緊張気味なのがよく解らないが、女子二人が高らかに宣言してくれた。男子二人は面白くなさそうな顔をふいと横に向けている。

 

「あら、そっちの男の子たちは不服なようだけれど」

 

 陽乃さんの冷たい声が男子二人を射竦める。

 

「べ、別に不服な訳じゃ……」

「そ。なら良かった。嫌がる相手に騙してお酒を飲ませるのが犯罪だって、ちゃんと解ってるみたいで、お姉さん安心したわ」

 

 犯罪。そう言い切られて男子二人は固まる。

 

「そ、そんな。ただコーラに少しテキーラを混ぜただけで……」

「はあ? あたしたちにはビールを混ぜたって言ってたよね」

「あんた。馬鹿じゃないの?」

 

 同席している女子二人の表情は不快感を顕にする。陽乃さんも知らなかったようで、珍しく眉間に皺を寄せていた。

 

「呆れた。キミ達はもう帰ってくれないかな。その顔を見ていると悪酔いしそうだから」

 

 更に冷気を帯びたその声音に、男子二人はすごすごと店を出て行く。つーか自分の勘定くらい置いてけよ。

 

「ったく……ごめんね彼氏さん。あいつらにはキツく云っとくから」

 

「どうか宜しくお願いします」

 

 再度頭を下げ終えると、ニヤニヤと笑う陽乃さんの視線が刺さってくる。

 

「……ふーん、比企谷くんも成長したねぇ。お姉さん、ちょっと寂しいぞっ」

「やめてください。満面の笑みで面白がりながら寂しいなんて言われても、説得力は皆無ですよ」

 

 予想通りの反応を得られたのか、陽乃さんは嬉しそうにカクテルグラスを口に運ぶ。

 さて、用事は済んだ。沙希を連れて帰るか……と考えていると、ぽんぽんと椅子を叩く音。見ると、陽乃さんが自分の隣の椅子に手を置いていた。

 

「せっかく来たんだし、比企谷くんも何か飲んでいけば?」

「いやいや聞いてました? 俺もまだ未成年、しかも車なんですけど。つーか早く帰りたいんですけどね」

 

 ちらっと沙希を見る。相変わらず突っ伏したままで、車に乗せるには骨が折れそうだ。

 

「じゃあ、ウーロン茶一杯だけ付き合ってよ。沙希ちゃん寝ちゃってるみたいだし、目を覚ますまで……ねっ?」

 

 うわぁ、面倒くせぇ。今日の件には超感謝してるけど、やっぱりうぜぇ。

 

「はあ、じゃあウーロン茶なら」

 

 沙希の方を見ると、先ほど高らかに「沙希を守る宣言」をした女子達が、任せてくださいとばかりに旨を張って頷いてくる。内心は沙希と俺が不釣り合いとか思っているのだろうけど。

 

 会釈をひとつ、カウンターに座ると目の前には既にグラスがあった。

 

「どうぞ、比企谷くん」

 

 グラスの中には琥珀色の液体が入っている。

 ──本当にウーロン茶だろうな、これ。

 訝しげにグラスを見ていると、隣からけらけらと笑う声が聞こえる。

 

「疑り深いとこは変わってないんだね。安心したよ」

「いや、そんな事で安心されても」

 

 久々に見たが今日の陽乃さんは何だか楽しそうで、本当に良く笑う。それも昔良く見た裏がある笑顔では無い。本当に心からの笑い顔の様に見えるのだ。

 

「しっかし、比企谷くん新宿だっけ? 早かったよね、かなり飛ばして来たんでしょ」

「解らないです。怖くてあんまりスピードメーター見れなかったんで」

 

 その所為か、俺も素直に思いや気持ちを述べてしまったのだと思うのだ。

 

「へぇ、あの比企谷くんがそんなに必死になるなんて、あの子……沙希ちゃんだっけ? よっぽど良い娘なんだね」

 

 云いながら微笑むその裏に見えるのは憂い。うっかり見えてしまったそれに、俺は触れてはいけない。

 陽乃さんの憂いは陽乃さんだけのものだ。そこに触れて良いのは、陽乃さん本人か、陽乃さんが心を許した相手だけだ。

 

「まあ、俺には勿体無いくらいの女の子ではありますね」

「おっ、それはのろけかな? 年上の彼氏ナシのお姉さんに向かって、生意気だぞっ」

 

 うりうりと俺の頬を指で突つく陽乃さんは、何なら年下にも見えるのだが。

 

「あれ? 比企谷くんって眼鏡かけてたっけ」

「あ、これは、パソコン用の眼鏡です。ちょうどレポート作ってたので」

「ふーん、そうかそうか。普段掛けない眼鏡を掛けてるのも気づかないくらいに慌ててた訳だ」

「はあ、そう……なんですかね」

「でも、似合ってる。格好良いよ、眼鏡姿」

 

 眼鏡くらいで容姿が変わって堪るか。そんな現象が起こり得るのは昔の漫画か、三流以下の二次小説の中だけだ。

 

 俺を弄り飽きたのか、陽乃さんは皿の上のピスタチオをひとつ摘み上げて指先で弄ぶ。

 その子供っぽい仕草に思わず笑うと、ぺしっと軽く手を叩かれた。

 

 店内の音楽が変わった。ジャズ、なのかな。

 

「へぇ、コルトレーンかぁ。久しぶりに聴いたなぁ」

 

 陽乃さんは知っている曲らしい。そういやこの人、文化祭でビッグバンドの指揮やってたな。

 そのコルトレーンとやらについて尋ねようと陽乃さんを見ると、カクテルグラスの淵を指でなぞりながら俯いていた。またしても陽乃さんの憂いを見てしまった。

 

「──いいなぁ、お姉さんも良い人見つけたくなっちゃう」

「雪ノ下さんなら選び放題でしょ」

 

 俺が答えた瞬間、陽乃さんの憂いが強くなる。その憂いは既に心中には抑えられず、その表情に現れている。

 ああ、やっぱり。

 この人は常に独りなのだ。

 雪ノ下陽乃という才能。それに比肩するだけの人物など、そうそういる筈が無いのだ。

 いるとすれば、まったく違う人種。対極の人物だろうか。

 

「だーめ。だって雪ノ下の長女だもん。この意味、わかるでしょ」

「はぁ、大変……ですね」

 

 俺は、解った振りをした。正確には、陽乃さんの台詞が嘘だと気づかない振りをした。

 だが、それを見抜けない雪ノ下陽乃では無い。一瞬の内に蠱惑的な表情に変わった強化外骨格は、まだ口をつけていない俺のウーロン茶のグラスを自分の口に運んだ。

 あーあ、もうそれ飲めなくなっちゃった。

 

「……そう、大変なのよ。だから、ちょっとだけ慰めて欲しいなぁ」

 

 そう云いつつしな垂れかかってくるのを肩で押し戻して、陽乃さんに向き直る。

 

「──沙希の了承があれば、その依頼受けますよ」

 

 敢えて沙希の名前を出すことがどれだけの抑止力になるかは解らない。そもそも俺の勘違いかも知れない。

 だけど、陽乃さんの雰囲気があの雨の中で想いを告げる雪ノ下に重なってしまったのだ。

 

「そんなの……断ってるのと同じじゃない。それに依頼だなんて。つれないなぁ」

「ま、昔の部活の癖ですね」

 

 喋りながら沙希の様子を見る。まだ眠っている様だ。代わりに沙希の介抱をする女子二人に視線を逸らされた。

 さすがは俺。嫌われる才能だけはトップクラスだぜ。

 

「やっぱり変わったね、比企谷くん」

「そんなに簡単に変わるもんじゃ無いですよ。特に俺の捻くれた性格は」

「ううん、変わったよ。大人になった。今だって自分を押し殺して、事態を荒立てずに丸く収めようとしてたし」

 

 それは、どれを指している言葉なのだろうか。

 沙希の件か。それとも。

 だが、俺は丸く収める気は無い。事を荒立てる必要が無かっただけなのだ。

 この場にいる全員からは、悪意の欠片も感じないのだから。

 それは何故か。

 おそらく彼女らは、沙希と仲良くなりたかったのだ。先に帰った男たちの方に下心が無かったとは断言できないが、それでも大学の中での沙希を取り巻く環境を俺が壊して良い筈は無い。

 

「まあ、沙希の顔を潰したくないだけです」

「つまんない……すっかり普通にカッコ良くなっちゃって」

 

 何を言ってるんだ、この美形のホモサピエンスは。格好良い男なんて貴方の目の前には存在しませんぜ。

 いるのは貴女の妹を泣かせた、酷い野郎だけです。

 

「……はちまん〜」

「あら、お姫様がお目覚めよ? ナイトさん」

「やめてください。全身が痒くなりそうです」

 

 苦笑をカウンターに残して、目覚めた沙希の元へと向かう。

 本当にナイトみたい、などと女子二人がこそこそと話しているが、今はどうでもいい。

 正直もう沙希を連れてこの場を辞去したい。

 

「沙希、大丈夫か?」

「んー、はちまんが怒ってるー」

「怒ってないから」

 

 じっとこちらを見る沙希の目は、まだ座っている。酩酊状態は抜けていない様だ。

 

「ほんと?」

「ああ、本当だ。だから帰ろ──」

「じゃあ、ちゅーして」

 

 沙希の介抱を続ける女子二人の視線が俺と沙希の間を往復する。つーかそんなこと出来るかよ、こんな衆人環視のど真ん中で。

 ──あ。したことありましたね。この夏、真昼間の駅前で。

 

「あほか」

 

 路上キスの記憶が鮮明に甦ってしまい、恥ずかしさの余り、つい頭頂部に軽くチョップを食らわせてしまった。

 

「ゔー、やっぱ怒ってるぅ。嫌われたんだー、あたし嫌われぢゃっだぁ……」

 

 こいつ、酒癖が悪いのか。それともアルコールのせいで前後不覚に陥って、二人きりだと錯覚して甘えてきてるのか。

 つーか本当にキスしたら、どうなるかな。

 ──いかん、愚考だ。今は撤退することだけを考えねば。

 

「ほら。立てるか?」

「んー、はちまん、だっこ」

 

 キスのおねだりの次は……抱っこをご所望だと?

 ったく、しょうがねぇワガママお姫様だ。

 じゃあ、少々恥をかかせてやる。後悔するなよ、お前が望んだんだからな。

 スツールの下から沙希の膝の裏に腕を通し、もう片方の腕を背中に回す。

 うん。沙希の服装がジーンズで助かった。生足タッチはいささか心臓に悪いからな。

 せーの、よっと。

 腰を入れて沙希を引き寄せて、身体が旨に密着したところで立ち上がる。

 

「おおっ、お姫様だっこ……!」

「あたし、実物初めて見た──」

 

 店内からどよめきが起こる。ちらと見ると、何故か陽乃さんまで驚いた顔をしていた。

 しかし、こいつが軽くて助かった。俺の貧弱な腕力ではこいつを抱えるだけで精一杯だ。

 つーかこれ、思ったより恥ずかしいぞ。俺が。

 ゔー、もうさっさと店を出ちまおう。

 

「はちまん、すきぃ」

「……しっかり掴まってろ」

 

 平静を装って声を掛けると、するりと首の後ろに沙希の両腕が回された。それによって沙希の身体は固定され、安定感が生まれた。

 よし、これなら車まで運べそうだ。

 

「お騒がせしました。それじゃ失礼します」

 

 呆気にとられる沙希のご学友たちに挨拶をして店の出口へ向かい、背中で扉を押し開けてそそくさと外へ出る。

 

 お姫様だっこの状態で車まで歩いていくと、いつの間にか陽乃さんが助手席のドアを開けてくれていた。

 

「お姫様を乗せるにはちょっと小さいけど、比企谷くんにピッタリの可愛い車ね」

 

 それってどういう事なのでしょうか。お前みたいなスケールの小さい人間には二人しか乗れない軽自動車がお似合い、とでも言いたいのでしょうかね。

 百パーセントの被害妄想を抱きつつ、社交辞令的な謝辞を述べる。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 今日は陽乃さんの世話になりっぱなしだな。しかしこの人の行動には常に裏、即ち他意がある。

 まあ、お礼として一日二日の強制労働くらいなら甘受しても良いくらいの感謝はしてるけどね。

 

「──すみません、このお礼は後日必ず」

「あはは、良いって。すごく興味深いものを見られたから、それでチャラよ」

 

 ……は?

 わざわざ電話で報せてくれて、俺のフォローをしてくれて、おまけにウーロン茶までご馳走になって。

 それを見物料でチャラ、だと?

 

「じゃあ、私もそろそろ帰ろっかな。お姫様はナイトさんが迎えに来てくれたし」

「え、じゃあ、沙希の為に今まで店に……?」

「言わぬが花って言葉、知ってる?」

 

 ちょ、それは格好よすぎますって。何も裏が無いなんて陽乃さんらしくもない。

 だが今は沙希を家まで送るのが先決だ。

 ここは甘えておこう。後でどんな事を言われるか、その覚悟だけしとけば問題ない。

 

「ったく、その子が羨ましいわ。お幸せにね、鈍感ナイトさんっ」

 

 陽乃さんの呟きを遠く聞きながら、背もたれを倒した助手席に沙希を寝かせて、シートベルトを装着させる。

 ドアを閉めて運転席に回ると店の扉が開いていて、親睦会という名の飲み会のメンバーであった女子二人が雁首揃えて覗いていた。

 とりあえず会釈だけして、運転席に乗り込む。

 

「じゃあ、帰ろう」

「……うん」

 

 沙希に声をかけてからウインカーを倒してシフトを1速に入れ、ゆっくりとクラッチを繋いで、車を発進させた。

 

  * * *

 

 家が近づいても沙希は無言で背を向けていた。眠ってはいない。ただ、泣いている。

 背中を向けているということは、俺にその姿を見せたくないのだろう。だから俺は、あくまで寝ているものとして扱う。

 

「起きてるか、もうすぐ着くぞ」

「停めて」

「……はいよ」

 

 沙希の言葉で車を路肩に寄せる。

 ハザードランプを点けると、沙希のすすり泣きが聞こえてきた。

 

「……ごめん」

「散々聞いたよ。つーかお前が悪い訳じゃない。つーか」

 

 背を向ける沙希のポニーテールの根元をくしゃっと撫でる。

 

「俺の方こそすまん。付き合いで飲まなきゃいけないことも……あるんだよな」

 

 怪訝そうな顔で振り向く沙希、その頬をぷにぷにと指で摘まむと、嫌そうな顔をして目を逸らした。

 それでもなお頬を突いていると観念したのか、なすがままになった。

 

「ごめんね、約束破っちゃって。怒ってる?」

「いや、ちょっとは怒ってるっていうか、心配したっていうか……」

「しん、ぱい……?」

 

 何故カタコトなのかね沙希くん。キミの酒癖は主に言語野に現れるのかね。

 

「心配して、くれたんだね……」

 

 呟いた途端、ほろほろと大粒の雫が沙希の頬を滑り落ちてきた。

 

「心配って、いいね」

「よかねえよ。どんだけ俺が焦ったか知らねえだろ」

「ううん。だって、その靴を見たらわかるよ」

 

 え。

 足元を見る。が、ただの革靴だ。

 

「あんたさ、運転する時に革靴なんて履いたことないのに……」

 

 そういえば、そうか。

 運転する時は足を動かし易いスニーカーばっかりだったな。

 つーかこいつ、そういう細かいとこ良く見てるよなぁ。

 

「今ね。すっごくしたい……んだけど、さ」

 

 ……は?

 あれあれ、もしかしたら沙希さんってアルコール入ると淫……げふん、大胆になるのでしょうか。

 

「キス、したいけど……だめだよね。あたしお酒飲んじゃったから、お酒臭いし」

 

 あー良かったー、なんだキスの話かよ。俺はてっきり……うん、エロくてごめん。

 しかし一緒にいた奴らの話だと、こいつ大して飲んでないんだよな。確かテキーラ入りのコーラをひと口、だっけ。

 酒の臭い……するのかな。

 

「──本当に酒臭いのか?」

「えっ……」

「本当に酒臭いなら、家に帰って怒られるかも知れないだろ。だから、その……確かめる必要が、ある、よな」

 

 確かめる必要、そう云った瞬間に沙希の目が潤み出した。もう、その「確かめ」が何を意味するのかはバレバレの様だ。

 

「そう、なの……かな」

 

 沙希の顔が近づいて、少し離れた。きっと呼気の匂いを気にしたのだろう。

 だけどな。

 逃げられると思うなよ。火をつけたのはそっちなんだからな。

 沙希の首の後ろにねじ込み、肘の内側をうなじの辺りに引っ掛けて引く。

 

「あんっ」

 

 うーん、何だろ。今日は思いの外強引だな、俺。

 ほとんどメーター振り切った状態で運転してたから、ちょっと神経が昂ぶっているのかも知れない。アドレナリンに打ちのめされてる感じだな。

 

「ああ、そうだ。そうに決まってる。つーか今、確かめることに決まった」

 

 沙希の首をロックしたまま、空いている手で顎の辺りをちょいちょいとくすぐる。

 

「ふふっ、何それっ」

 

 肩を竦めてくすぐったそうに身を捩る沙希をしばらく堪能した俺は、人差し指で顎の先をくんっと持ち上げる。

 

「──俺が確かめてやる」

「え、ちょ」

 

 顎に当てた指をそのまま口唇に這わせる。たったそれだけの行為で、沙希の身体は脱力感した。

 

「検査開始、な」

「だめだよ、道路なのに、車なのに、お酒、くさい、んむっ、のに……」

 

 沙希の言葉を聞き終えない内に、強引に沙希の口唇を覆うように口唇を合わせた。

 

 つーか路駐で路チューって、笑えないダジャレかよ。

 この後、チャリンコに乗って通りかかったお巡りさんに、こってり怒られましたとさ。

 ──主に俺がね。

 

 




お読み頂きまして本当にありがとうございます!
今回の話は、暇をみて書いていたらうっかり1万文字超えちゃいました。

で、1万文字費やしたこの話で何が言いたかったかと云うと……
酔ったサキサキって可愛いよねっ!
それと、颯爽と現れる八幡ってカッコいいよねっ!
てことですw
はい。完全に趣味に走った話でした(。-_-。)

亀更新ですがもうちょっと続きますので、こんなんで良かったら、次も読んでくださいまし☆


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男女二人秋風邪物語

秋の夜長にアイスを食べて、布団も掛けずにそのまま寝てしまった八幡。
そうなると当然、こうなる訳で──


あ、久しぶりに真面目な前書きだw


 熱っぽい。

 一人暮らしを謳歌し過ぎた。

 ぼやける思考に鞭を入れて昨晩を振り返る。

 風呂から上がって窓を開けて、あゝ秋の夜風は涼しくて心地良いなぁ、なんて思いながらキッチンの冷蔵庫に直行してガリ○リ君ソーダ味を口に咥えながらマッカンを開け、髪も乾かさずにベッドでまったり寝転んで。

 

 うん、幸せだった。特に二本目のガリ○リ君なんか幸せの極致だったまである。

 その後……うっかり窓を開けっ放しでそのまま眠っちまわなければ、な。せめてTシャツ短パンでなく、ジャージとか着ておけば結果は変わったのかもしれない。

 何が云いたいかというと、風邪を引いたのだ。

 

「夜までに熱は……下がらないか」

 

 三十八度の大台を軽々とクリアした体温計を見つめながらごちる。

 今日は金曜日。沙希が部屋に来る日だ。

 だが、生憎俺は病床の身である。純度百パーセントの自業自得だけど。

 

 現在の装備。

 風邪薬、無し。

 氷まくら代わりに冷えたマッカン。

 あと布団──以上である。

 これだけの装備で、どうやって夕方までに解熱しろと云うのか。無理ゲーである。

 

 とりあえず沙希に風邪を引かせる訳にはいかない。残念だが、今日のお泊まりは遠慮してもらうしかないな。

 沙希に送るメールを作ろうと、枕元のスマホを開く。

『悪ぃ、風邪ひいた。風邪うつすと──』

 そこまで打ち込んで、指が止まる。

 

 なんて言い訳しよう、などと思いつつも、うつらうつらと眠気が襲う。風邪で弱っている俺が睡魔に抗える筈はなく、意識は呆気なく眠りの闇に放り出された。

 

  * * *

 

 目を覚ますと、辺りは暗い。

 枕元のスマホを取ろうと手を伸ばす。あれれ、腕が重いぞ。

 画面を触って時刻を確認する。

 え、18:03……?

 何だこれ、コールド負けじゃん。じゃない。

 もう夕方の六時かよっ。

 がばっと飛び起きようとするが、身体が重くて上手く動かない。

 風邪は酷くなってしまった様だ。

 

「やべぇ、早くメールしないとあいつが来ちまう──」

「へえ、誰が来ちまうのさ」

「誰って沙希だよ沙希。あいつ以外いねぇだろ。あいつに伝染(うつ)す訳にはいかねぇし、何より不摂生で風邪引いたなんてバレたら怒られ──え?」

 

 目の前には、買い物袋を提げたポニーテールの仁王様が、仁王のような表情で仁王立ちなされていた。

 

「呼び鈴押しても出て来ないから留守かと思ったら……」

 

 呆れるように腕を組むと、買い物袋から飛び出たネギがゆらゆら揺れた。

 ほむん。明日の朝はネギの味噌汁か。あれ美味いんだよなぁ。

 

「で、いつからこの状態なの?」

「ついさっき──」

「あんた気づいてる? 嘘を吐く時に右の眉が上がるクセ」

「えっ」

 

 マジか。俺にそんな癖があったなんて、友達も教えてくれなかったぞ。あ、教えてくれる友達がいませんでしたね。

 

「ふふっ、うそだよ」

 

 くすくすと笑う沙希を呆気にとられて見ていると、冷んやりとした手が額に当てられた。

 すうっと熱が吸われる感じがして心地よい。

 

「本当のこと云って。いつから?」

「あ、朝から……」

「何ですぐに連絡寄越さなかったの?」

「いや、風邪引いてるから来るなってメールしようとしたんだけど……悪い、寝ちまった」

 

 沙希の声音は決して責める時のそれではなく、努めて優しく発せられている。

 だが、メール作成半ばで力尽き眠ってしまったことを告げた途端、再び呆れた様な深い溜息が聞こえた。

 

「……違うでしょ。風邪引いて辛いから早く来て、でしょ? この場合は」

「アホか。そんな事して風邪伝染(うつ)したら、お前に迷惑掛けるだろうが」

 

 三たび深い溜息。そんなに溜息吐いてたら幸せが逃げるぞ。

 って、全部俺の所為でしたねごめんなさい。

 

「あたしはね、あたしが知らないとこであんたが風邪引いて苦しんでる方が迷惑なの。嫌なの。あたしに迷惑を掛けたくないなら、すぐ連絡すること、いい?」

 

 それはどういう理屈なんだ。考えてもまるで解らない。

 ただ、水気を帯びた沙希の真剣な目を見てしまったら、理解すべきはその理屈ではないことだけは理解出来た。

 理解するって大変ね。

 

「あ、ああ。悪かった」

「ん。分かればいいよ。ちょっと待ってな、ご飯作るから」

 

 ふっと僅かな笑みを漏らして、沙希はキッチンへと消えた。

 

  * * *

 

 とんとんとん。

 とんとんとんとん。

 とんとんとん。

 微睡みの中、小気味の良いリズムが聞こえる。ちょっとだけ良い香りもしてきた。

 それからしばらくぼーっとしていると、キッチンからエプロン姿の沙希が現れた。

 

「はい、お待ちどおさま」

 

 沙希が運んできたのは、小振りの土鍋だ。

 ……うん、やっぱそうだよな。

 こういう時の定番って、やっぱ「おかゆ」だよなぁ。

『お父つぁん、おかゆが出来たわよ』

『おお、いつもすまないね。ワシがこんな身体なばっかりに』

『それは言わない約束でしょ』

 で、お馴染みのおかゆだよなぁ。

 

 でも、おかゆってあんま味無いじゃん?

 正直苦手なんだよなぁ。

 

「じゃ、あたしはちょっと買い物行ってくるから。ちゃんと食べなよ」

 

 お椀と蓮華と箸を用意した沙希は、エプロンで手を拭いつつ足早に部屋を出て行った。

 

「あれ、こういう時って……はい、あーんとかいう、甘いイベントがあるんじゃねえの?」

 

 安普請の六畳間に、独り言が虚しく響く。

 残されたのは、未だぐつぐつ音を立てる土鍋と、俺。

 うわぁ、熱そうですなこりゃ。

 

「ま、作ってもらえるだけ有り難いよな……どれどれ」

 

 土鍋の蓋を開ける。

 中身は、どろっと溶けた白い粒──ではなく、うどんだった。

 具材は、さっき見えた白ネギと、三日前に半額シールに釣られて買ってしまった使い道の無いナルト。

 そこに半熟の卵がコーティングされた、所謂「鍋焼きうどん」というやつだ。

 香ばしい醤油と出汁の匂いがすきっ腹を刺激する。

 お椀にうどんを移し、充分に冷ましてから口へ運ぶ。

 ちゅる。ちゅるるる。

 ──!

 思わず目を見開く。

 なんだこれ、なんだこれ、なんだ……これ!

 

「うーまーいーぞー!」

 

 思わず味皇(あじおう)ばりに叫んでしまった。

 目からビームも出そうになった。何ならどっかのグルメな新聞社の富井副部長まで登場しそうな勢いだ。

 とてもこの部屋にあった調味料だけで出来ているとは思えない。

 たとえ海原雄山主宰の美食倶楽部で出しても、そんなに恥ずかしくない逸品だ、多分。

 も、もう一杯。

 蓮華で掬ってお椀に移す。その時、俺は驚愕した。

 

「あ、油揚げ、か?」

 

 そう。細く刻んだ油揚げである。その奥に見えるのは──

 

「……ん? と、鶏肉!?」

 

 あ。やばい。

 心の中の富井副部長が──

 

「この豊潤な旨味の正体は、これかあああっ、んまい、んまいですよおおおっ!」

「──なに叫んでるんだか」

 

 あ、あら。

 お早いお帰りね、沙希さん。

 

  * * *

 

「……なあ山岡」

「川崎だけど、ぶつよ?」

 

 やべぇ、うっかり究極のメニューの担当者と間違えた。

 

「これ、本当に美味いな。どうやって作ったんだよ」

「別に、普通に適当にだよ」

「いやいや、適当に作ってあの味を出せるなら、街中三ツ星シェフだらけだわ」

 

 沙希の顔はみるみる朱に染まる。

 なになに?

 なにがそんなに恥ずかしいんだい。サキサキ?

 

「あ、あんた甘いの好きでしょ。だから、少し砂糖を多めにしたの。それと、天ぷらの代わりに油抜きしたお揚げと小さく切った鶏肉を入れて、あとは椎茸の出汁を混ぜて、甘みを濃くして醤油を少なめにしただけ」

 

 ──すげえ。

 いっぱい喋ったのもすごいけど、その内容がまたすごい。

 栄養、消化、味。

 まさに三位一体だ。

 さも普通だと云わんばかりに沙希は云うけれど、この鍋焼きうどんは食べる側に対しての考慮がしっかりとされている。

 しかも、たまたま買ってきた食材と冷蔵庫の中身だけで。

 すっげえ。八幡的に超ポイント高いっ。

 

「でも、あんまり食べてないね。く、口に合わなかった……?」

 

 ああ、そう見えちゃうよな。

 

「いや、違うんだ。冷めるのを待ってたというか……知ってるだろ。猫舌なんだよ、俺」

「そ、そうだったね。じゃあ、あたしも一緒に食べようかな」

 

 じゃあ、の意味が分からないんですけど。お前、国語の成績ってそんなに悪くなかった筈だろ。

 

「でも、そんなことしたら風邪が伝染(うつ)るぞ」

「大丈夫、そしたらあんたに付きっきりで看病してもらうから」

 

 ニヤリと笑う沙希。その沙希の発した看病という言葉に、そこはかとないエロスを感じてしまってごめんなさい。

 けふん、と咳払いでエロい思考を振り払う。

 

「おいおい、俺にはこんな美食倶楽部級の料理は無理だぞ」

 

 苦笑する沙希は俺のお椀をとって、うどんをよそい始める。ネギが入り、油揚げが入り、最後に溶き卵の部分の汁がお椀に満たされた。

 

「あんた大袈裟過ぎるって。これはね、川崎家で風邪を引いた時の定番なんだよ。おかゆばっかりだと飽きるからね」

 

 そう云って手のお椀を俺に……え?

 俺に向けたお椀の上空、うどんが摘ままれた箸が俺の口に、フェード・イン!

 さっきとは違う、心情的な甘さが口と胸に広がる。

 ちゅるちゅる、ちゅるん。

 

「うん、やっぱ美味いわ」

「良かった。どれ、あたしも──」

 

 同じお椀から、同じ箸で、沙希のお口に、イン。

 

「うん、中々うまく出来たね」

 

 沙希の口から箸が離される。その箸は先刻まで俺の口にも触れた訳で。

 こ、これって、まさか。

 間接……うどん?

 はっ、うどんに腰があるっていうのはそう云う意味だったのかっ!

 ま、すでに沙希の口唇を知っている俺は動揺なんてしない。

 ──しないよ?

 

「……あんた、顔が赤いよ。熱が上がっちゃったかな」

 

 いやお前の顔も大概に赤いぞ。それに引き換え、俺は耳が熱い程度だ。

 ──まあ、あれだな。

 何度口唇を重ねようとも間接キスごときで動揺する。

 それが俺たちのクオリティだな。

 

  * * *

 

「はい、これ飲んでおきな」

 

 絶品の鍋焼きうどんを堪能した後に沙希が差し出したのは、買ったばかりの風邪薬の瓶だ。つーか、今日こいつに幾ら散財させてしまったのだろうか。

 それを聞けば沙希は間違いなく怒るから聞かないけど。

 また何か違う形で返すしか無いな、恩も含めて。

 

「しゃーねーな。今日は云うこと聞いとくわ」

 

 埋め合わせは後ですればいい。幸い十月には沙希の誕生日も控えてるし。

 風邪薬の瓶を開けて、錠剤を三つ、手の平に転がす。それを口に放り込み、水を探し──あ。

 

 探すまでも無く、すでに目の前には水の入ったコップが差し出されていた。

 何の事はない、小さな親切。ちょっとした気遣い。

 それが絶妙のタイミングを得て、心を揺らす。

 ああ、こいつとずっと一緒にいたい。

 こいつと一緒なら二人で幸せになれる。

 柄にもなく、そんなことを思った。

 恥ずいから絶対言わないけどね。

 

 薬を飲んで、スマホを弄りながらしばし身体を横たえていると、食器の片づけを終えた沙希が戻ってき……え?

 

「あ、あの……沙希さん?」

「ん? 何だい」

「その服装は一体……」

 

 あら不思議。

 川崎沙希の服装はピンクのミニスカナース服に変わっていた。

 ご丁寧にストッキングまで穿いているが、何故ストッキングは黒なのでしょうか。

 非常に気になりますっ。

 

「えっ、あ、ああ。たまたま持ってたんだよ。いやぁ、たまたま持って来てみるもんだね。お陰で心置きなくあんたの看病が出来るよ」

 

 いやいや、そんなエロい服をたまたま持って来られて堪るかよ。

 ……ははーん。また小町の差し金か、懲りない奴め。

 しかも俺が風邪を引いたタイミングでナースのコスプレとはタイムリー過ぎるぜ。

 恐るべし小町っ。

 ありがとう小町っ。

 

「また小町かよ」

「き、今日のは違うんだよ。ほら、最近あんた、あたしの、お……お尻に興味ある、みたいだったから。あたし、ミニスカートとか持ってないし、どうしようかな、って思ってたら、こっ、これを見つけて──」

「──ちょっと待て。何故俺がお前の尻に興味があることを知ってるんだよ」

 

 なんか俺の質問も自爆だな。沙希の尻が好きなことを暗に認めちまった。

 

「……視線。それと、最近抱き合う時に……その、よく触ってくる、から」

 

 あちゃー、バレてたのね。

 最近気づいたのだが、沙希の身体の一番の魅力は尻にある。

 いや胸も大きくて好きなんだよ。

 でもさ、抱き合う時には向かい合わせな訳で、手は背中にあるから胸は触れないし、どうしても尻にいっちゃうんだよなぁ。

 で、いざ触ってみると、これが凄いのなんのって。

 丸くて、柔らかくて、何よりむにゅっと触ると、沙希の顔が喜んでいるかの様に緩んで見えるんだよ。

 そりゃもう、触るっきゃないでしょうが。

 

「……ま、似合ってるからいいか」

 

 ぼそっと呟いた声は沙希の耳に届いてしまったらしく、目の前には身を捩りまくって赤面するエロナースが出現していた。

 もう顔色だけ見たら、どっちが風邪引いてるか分からない。

 

「お、お身体拭きましょうね」

 

 正気を取り戻したニセエロナースこと沙希は、脇に置いてあったお盆を持つ。そこには、えーと、それはおしぼりかな。

 

「タオルを絞ってレンジでチンしただけの、蒸しタオルの代わりだよ。これで身体を拭くだけでもすっきりするからさ」

「あ、そうなのか。じゃ貸してく──」

「し、失礼、しまーす」

「……ひゃん」

 

 言うが早いか、掛けていた毛布を剥がされる。思わず変な声を出してしまったが、熱があるせいか空気が冷たくて気持ち良い。

 沙希の手が伸びてきて、俺のTシャツを脱がしにかかる。寝たままの俺のTシャツは、瞬く間に剥ぎ取られた。

 こいつ、脱がし慣れてやがる。さては前世は追い剥ぎだな。もしくは山賊か。

 

「ふふっ、大人しい分だけ京華よりも脱がせ易いね、あんたって」

 

 じゃあどんだけ京華は脱がせにくいんだ、とは聞けない。うっかり京華のおヌードを想像なんかした日には、即通報モノだ。

 微笑む沙希の手には、おしぼり状になったタオルがある。

 

「ちょっと我慢してね」

 

 タオルを持った沙希の手が、胸を、腹を、両腕を優しく擦る。

 

「お、おお……」

 

 ほんのり温かくて、確かに気持ち良い。高校一年の入学式の日、事故で入院した時を思い出す。

 あの時も気持ち良かったけれど、今はその十倍くらい心地良い。

 人にしてもらうのって超気持ちいい。などと語弊しか無い愚考を巡らせつつ身を預けていると、ぱすんと腹を軽く叩かれた。

 

「はい、うつ伏せになって」

 

 枕に顔を埋めてうつ伏せになると、背中にも同様にタオルが擦られる。

 肩甲骨の辺りを重点的に拭いているのを考えると、そこが一番汚れるんだろう。

 垢とか一杯出ちゃうかな……。

 急に恥ずかしくなって枕に顔面を押しつけた。

 

「あ……い、痛かった?」

「いや、そうじゃないんだが……汚れてるか、やっぱり」

「まあね、特に肩甲骨の辺は寝返りの時にも擦れるからね」

 

 やっぱりそうなのか。

 さすが長女、弟妹たちの面倒を見続けてきただけはあるな。

 タオルが新しいものに交換された様で、背中にじんわりと温もりが伝わり、すぐに外気で冷やされる。

 気持ちいい。

 沙希に拭かれているだけで風邪が治りそうな気がしてしまう。

 

 上半身を拭き終えた沙希は、着替えを差し出す。

 蒸しタオルで拭いてもらった皮膚に、洗いざらしのTシャツの真新しい感触が心地よい。

 じゃあ後は自分で拭くか。

 

「じゃ、じゃあ……下も」

 

 下。

 その言葉で我に返る。

 

「ちょ、ちょっと待て。そりゃまずい。何より風呂に入ってないから汚れてるし」

「汚れてるなら尚更綺麗にしないとでしょ。それに、その……大志のなら何度か見てるし」

 

 そう云うことを云うな。少なくとも頬を染めながら云うなよ。

 うっかり反応したらどうすんだ。こちとら風邪引き。病人だぞ?

 

「じゃ、じゃあ、頼む」

 

 だあああっ、何で俺も受け入れちゃうかな。

 

「うん、甘えて……」

 

 見抜かれてた。

 孤高のぼっちとして研鑽を重ねてきた俺も、今や捻くれているだけの凡人である。

 風邪を引けば多少なりとも弱気になるし、そんな時に甘えられる相手が傍にいれば、甘えたくもなる。

 今はまさにそんな気分だった。

 

「お、お願い、します」

「ん。任せて」

 

 沙希の両手が腰に伸びる。

 

「はい、浮かせて」

 

 言われるがままに少し腰を浮かせると、多少の抵抗感を伴いながらもするりとジャージが脱がされた。

 すぐさま顎を引いて確認。よし、まだ反応はしてない。そのまま今日は大人しくしてろよマイサン。

 脱がせたジャージを沙希が軽く畳むと、そのポケットから小銭らしき音がする。

 一昨日、コンビニでガリ○リ君を買った時のお釣りだ。これを云ったら、三日連続で同じジャージを穿いているのがバレてしまうから内緒。

 そのポケットの中のコインの何枚かがカーペットに落ち、転がっていった。

 

「あ」

 

 沙希は転がるコインを四つん這いで追う。そうなると必然的にミニスカートからはみ出した臀部がこちらに向く訳で──。

 ばっちりと黒のレースの核心部分が見えてしまった。

 ナース姿で黒の下着って、ある意味卑怯だな。

 しかもあれ、ガーターベルトってヤツか。

 

 ピンクのナース服に包まれた白い肌に、黒のレースとガーターベルト。

 そこに繋がるは黒のストッキング。

 まさに死角無し。

 白、黒、ピンクのオールレンジ攻撃だ。

 そうみると、何だか沙希の姿勢がモビルアーマーっぽくも見えてくる。

 はい嘘です。

 あんなに色っぽいモビルアーマーなんかあって堪るか。ガンプラ作る時に良い子たちがみんな前屈みになっちまうだろうが。

 愚考をそこそこに、あらためて見つめてしまう。

 破壊力抜群、まさに会心の一撃だな。

 いや、現状では痛恨の一撃か。あんなん見たら反応しちゃうってば。

 お願いだから早くコインを拾い終わっておくれよ沙希さん。

 ようやくコインを回収し終わった沙希ナースは、四つん這いのままでこちらを向く。

 

「あんた、お金はちゃんとしまって──あっ」

 

 首だけこちらに向けた沙希が固まった。その視線の延長線上には。

 

「……あっ」

 

 ちんまりと盛り上がったトランクスさんが勃……立っていた。

 やばい。さっきの沙希のバックショットで反応しちまったか。

 

「わ、悪い。やっぱ自分で拭くわ」

 

 慌ててトランクスを押さえて告げるも、沙希の耳には届いていないようで、じりじりと俺の下半身に這い寄ってくる。

 目は、潤んでいた。

 

「やだぁ、最後まであたしがするの」

 

 あー、スイッチ入っちゃったよ。

 

 手にした替えの蒸しタオルをそっちのけで、沙希の顔がティーピーテントなトランクスへと近づく。

 

 くんくんくん。

 くんかくんか。

 すううううっ。

 

「あ、ちょっとくちゃい」

 

 はい「くちゃい」頂きました。くちゃい匂いを嗅いだ割に笑顔なんですけどね。

 しかし、である。

 今の俺は病床の身だ。局地的に元気とはいえ、沙希に風邪を伝染(うつ)しかねんのだ。

 本音を云えばすっげぇイチャイチャしたい。したいけど……ここは涙を飲んで断らなければ。

 

「な、なあ沙希。今日はやめ「うん、今日はちょっとだけね」……あれ?」

 

 ──翌朝、二人仲良く、くしゃみを連発しましたとさ。

 

 




今回もお読み頂き、本当にありがとうございました。
長い付き合いの中には、こういう日もあるかな〜と思い、綴ってみました。

またこの場所でお会いしましょう。


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今すぐKISS ME

今回のあらすじ(半分ウソ)
風邪から復活した八幡は、早速パートナーの沙希を引き連れて敵のアジトに潜入する。

前回ひいた八幡の風邪が治ってからのお話です。

あと、後書きにお知らせが。


 日曜日の朝である。

 金曜の夜からの、文字通り献身的な沙希の看病のお陰で、昨夜である土曜の夜には俺の風邪は完全に治っていた。

 懸念していた沙希への感染も無い様で、いつもと変わらずに軽口を叩いている。

 

 さて、そろそろ云わねばなるまい。

 どうしてこうなった。

 

 事の発端は先だっての土曜、マイスウィートエンジェル戸塚を我が居城に招待した晩である。

 沙希は理由を説明すること無く、徐に俺の腕や肩幅、座高、胴回りなど、ありとあらゆる箇所のサイズをメジャーで計測し始めたのだ。

 俺はてっきり、今年のクリスマスは手編みのセーターでぬくぬくだぁ、などとホクホクな妄想を始めていたのだ。

 

 そして今朝。

 

 朝食の片付けを終えた座卓の前に座る沙希の横には、大きな手提げの紙袋が置かれている。

 中々その中身を見せようとしない沙希にそわそわしていると、ようやく沙希はその紙袋を手渡してきた。

 

「き、気に入ってくれたら、嬉しいんだけど」

 

 え。もうセーター編み上がったの?

 早くない? ねえ早くない?

 あれから一週間だよ?

 つーかまだクリスマスまでにはかなりあるよ?

 手編みのセーターって言ったらクリスマスでしょ?

 などと「?」マークをたっぷり塗した自分勝手な疑問を抱きながら、紙袋の中身を覗き込む。

 

 うん、布だ。

 セーターじゃ、ない。

 マフラーでも、ない。

 いや待て、マフラーなら腕の長さとか測る必要はない。

 じゃあ。これは何だ。

 

 恐る恐る手を入れて、紙袋の中の布に触れる。

 生地が厚い。

 ボタンがある。あ、ちっちゃいボタンもあった。

 

「……何を警戒してんのさ。早く見てみてよ」

 

 箱の中身は何でしょう、的な空気を作りながら紙袋の中を手探りしていると、落ち着かない様子の沙希が急かしてくる。

 

「そりゃ警戒するだろ。紙袋の中にサソリがいたらアウトだぞ」

「ここは砂漠じゃないし」

「馬鹿だな。サソリってな、案外世界中にいるんだぞ。日本でも遥か南の島にはいるらしい」

「南の島でもないから。ここ本州だから。東京だから」

「昔は東京砂漠だなんて云われてだな……」

「いいからさっさと中を見なっ」

「は、はいぃっ」

 

 やべ、ちと遊び過ぎたか。

 苛立ち混じりの呆れ顔の沙希に冷たい視線を浴びせられる。うん、その表情もいいなサキサキ。

 一応、サソリやらタランチュラやらの覚悟を決めて、紙袋から布を引っ張り出す。

 

 ん?

 これは、茶色の……ブレザー、いやジャケット?

 

「あ、慌てて作ったから、あんまり上手に出来なかった……かも」

 

 はい?

 ジャケットとかって、普通は買うもんだろ。

 あとは盗賊に身包み剥がされるとか、二億四千万の人が歌ってる最中に脱いだり着たり、そういうもんだろ。

 

「これ、お前、が?」

「う、うん。ジャケット作ったのは初めてだけど……」

 

 そういやこいつ、高校の時の文化祭や体育祭でも衣装作ってたっけ。

 体育祭はデザインがちょっとアレっぽかったけど。

 なら、ジャケットを作れるのも不思議ではない、のか。

 

 俺の前、座る沙希の目に緊張と怯えが見て取れる。俺が気に入るか不安なのだろう。

 だがなサキサキ。

 俺が期待していたのは手編みのセーターだ。

 それよりも遥かに斜め上の手作りのジャケットをもらって、気に入らない訳が無い。

 もしサイズが合わなかったら、服に合わせて肉体改造してやるくらいの勢いだ。

 ジャケットを手に取り、目の前に掲げる様に広げてみる。

 

 すげぇ。

 普通に売り物みたいだ。スーツの上着というか、ブレザーというべきか。

 違うのは既製品にあるべき商標、タグ、洗濯時の注意表示などが何処にも無いことくらいだ。

 

「ね、袖……通してみて」

「あ、ああ……」

 

 促されて、恐る恐る袖に手を入れる。ここで袖とか破けたら沙希が悲しむ。

 それを見たのか、沙希の苦笑が聞こえた。

 

「そんなに慎重にしなくたって大丈夫だよ。結構強い糸を使ってるからね」

「そ、そうなのか」

「うん。それ着て格闘とかしなけりゃ大丈夫だよ」

 

 ……それ、何かのフラグじゃないよね?

 

 あらためて袖に腕を入れていくと、しゅるんと袖の中で音を立てた。

 袖を通しやすい様に、裏地にすべすべ素材を使ってるのか。もう売り物じゃねえかよ。

 そのまま反対の腕も入れ、背負う様にジャケットを着込む。

 すげえ着心地。すげえ安心感。

 

「ね、手とか肩とか動かしてみて。違和感があったら来週までに調整してくるから」

 

 云われた通りに腕を伸ばしたり肩を回してみる。

 背中が突っ張るような感じは無い。腕もぐるんぐるん回る。

 あれ、これ肩パットも入ってるよね。

 何から何まで凄過ぎる。

 

「だ、大丈夫そうだな」

「──よかったぁ」

 

 そこでようやく沙希の顔が緩んだ。

 と同時に、笑顔の花を咲かせた沙希のテンションが上がってきた。

 座卓を回り込んで俺の腕を引っ張ってくる。

 

「ほら、鏡見てごらん」

 

 立ち上がってジャケットのボタンを止め、以前沙希が持ち込んだ大きな鏡と向き合って全身を映してみる。

 

 ん?

 あれ?

 俺ってこんなに締まった身体してたっけ。

 こんなに足長かったっけ?

 今着てるのって、安西先生の名言Tシャツと二千円足らずの部屋着のジーンズだよね?

 なんで?

 

「鏡の中に知らない人がいる……」

「ふふっ、驚いた?」

 

 沙希は顔を朱に染めて語る。

 

「あんたさ、自分では気にしてなかったみたいだけど、足長いよね。そのジャケットの丈なら、ちゃんと足長く見えるよ」

 

 未だ唖然とする俺の周りを人工衛星よろしく周回軌道を描いてくるくると何周も回りながら、しきりに頷く沙希は、最後に大きく頷いた。

 

「うん。やっぱり元が良いと映えるね」

 

 ──は、恥ずかしい。

 ぼっちの習性として、褒められると対応に困る、と云うものがあるが、まさに今その状態だ。

 こういう時、俺は赤面するしか出来ない。

 

「ふふっ、すごくカッコいいよ。惚れ直しちゃう」

 

  くそっ、可愛い笑顔で何て事を言いやがる。何か悔しい。

 こうなったら意趣返ししかあるまい。

 

「馬鹿云うな。俺なんか会う度に惚れ直してるまである」

「へ、ヘェ〜。じゃあやっぱりあたしの勝ちだ。一秒毎に惚れ直してるもん」

 

 おうふ。意趣返し返しとは、腕を上げたのう。

 つーかさっきのやり取りって完全なバカップルだな。

 人目の無い、部屋の中のやり取りではあるけど。

 

「でさ、今日はそれ着て出掛けようよ」

「出掛けるって、どこ」

「……ゲ、ゲームセンター」

 

 は?

 何でまたゲーセンなんだ。ゲーセンなら千葉にいる時にも何度か行っただろうが。

 

「さ、着替えて。あたしが服選んだげる」

「何でゲーセン行くのにおめかしせにゃならんのだ」

「あたしの……我儘?」

 

 何で疑問形なんだよ。

 おい。

 

  * * *

 

 さてさて。

 やって来ましたるは駅近くのゲームセンターでござい。

 沙希のコーディネートで、俺は長袖の白い綿のシャツに細身のストレートジーンズを着せられた。靴は何故か高校時代のローファーだ。

 対する沙希は、これまた白いシャツに薄いインディゴのスキニージーンズ、そこにブラウンの革のベストを合わせている。

 足元を飾る濃い茶色のショートブーツも相俟って、若干大人の雰囲気を漂わせる落ち着いた出で立ちだ。

 

 少々ゲーセンには不釣り合いな格好かと思ったが、クレーンゲームに貼りついていた女子高生たちが「カッコいいー」とか「憧れちゃう」などと言っていたので、少なくとも沙希は様になっているようだ。

 でも横にいるのが俺では、刺身のつまにも劣るだろうな。もうバランだよ、バラン。

 あっ、バランと云ってもギガブレイクとか使う竜の騎士様じゃないよ。

 お弁当に入ってる、草みたいな仕切りのほうね。

 まあ、俺にとっては日常の扱いだ。別段ショックも受けはしないが……隣を歩く沙希はどうだろう。

 せっかく自分で作ってきたジャケットを着せた彼氏がバラン扱いって、沙希は落ち込んだりしないだろうか。

 恐る恐る沙希を見る。と、意外にも満面の笑みを浮かべていた。

 え、自分の彼氏がバラン扱いされたのがそんなにツボにはまったの?

 

「──さっきの女子高校生たち、あんたを見てたね」

「はあ? お前を見てたんだろ。俺から見ても大人っぽくて綺麗なんだ。あの年代の女子高生が憧れるのも分かるわ」

「それは……どうかな?」

 

 沙希は俺から離れると、お手洗いに行くと告げて何処かに消えた。まあ、お手洗いなんだろうけど。

 仕方なく俺は、今の内に小銭を作っておこうと両替機を探す。沙希には風邪の看病をしてもらった恩もあるし、今日は全部俺が出すつもりだ。

 財布を出してきょろきょろしていると、さっきの集団の中の一人、女子高生が声を掛けてきた。

 

「あ、あのっ、お困りでしょうかっ」

 

 な、なんだ。カツアゲか。

 俺をカモだと思って近づいて来やがったな。

 まあいい。逆に利用してやろう。

 こちとら大学生だ。狡猾さの差を見せつけてやる。

 

「あー、いや。両替機の場所……」

 

 全然ダメじゃん、俺。うっかりキョドりそうになっちまったし。

 だがしかし、目の前の女子高生は俺より遥かにキョドっていた。

 

「こっ、こっ、こっちですっ」

 

 ニワトリの霊が乗り移った様に盛大に台詞を噛んだ女子高生は、俺の手を引いて、クレーンゲームの脇にある両替機まで案内してくれた。

 なんだ、いい奴だったのか。焦らせやがって。

 

「あのっ、良かったらLINEの交換を──」

「あー、悪い。連れと来てるんで」

 

 断ると、そそくさと女子高生は仲間たちの群れに帰っていった。

 

「ったく、何だよ今のは」

「逆ナン、てヤツだね」

 

 びくっとして振り向くと、ニヤニヤと口角を上げた沙希が立っていた。

 

「お前かよ、脅かすな。つーか逆ナンなんてあり得ないからな、俺に限って」

「今されたばっかりじゃない。ほら、見てごらん」

 

 沙希が目線を誘導したのは、先ほど案内してくれた女子高生の群れ。

 ちらちらとこちらを気にしながら、きゃいきゃいと盛り上がっている。

 沙希はそれを見てニヤリと笑いながら、俺を覗き込む。

 

「あれ、脇の所が解れてる。あの子たちを見たままで、ちょっと腕をまっすぐ挙げてみて」

 

 何だ。訳が分からんぞ。

 とりあえず云われた通り、女子高生たちに目を向けたまま腕を挙げる。

 

「「「キャー!」」」

 

 女子高生の群れから悲鳴が上がった。

 

「ほらみろ、お前が訳の分からんことをさせるから、怯えた女子高生たちが悲鳴を上げたじゃねえかよ」

「今のは悲鳴じゃないんだけどね……」

 

 まあ、誰に嫌われようが別に構わないけど。沙希がいりゃそれでいい。

 

『読モかな……』

『違うよ、若手の俳優さんだよ』

『クールだよねー、隣はやっぱり彼女なのかな』

 

 ……ふっ、陰口なんて恐くないもんっ。

 てか沙希さん?

 何故に頭を抱えているのん?

 

「まったく、あんたの鈍感力はたいしたもんだね」

「それ全然褒めてないよね?」

「褒めてるさ。ある意味絶賛だよ」

「なんなんだよ……」

 

 頭をがしがしと掻くと、また小さな悲鳴が。

 

「見ろ、あの子たちにトラウマ植え付けちまったじゃねーか」

「……鈍感なのかバカなのか、でもそんなあんたも好き」

「おう、俺もだ……って、公衆の面前で何云わせんだよ」

「あぅ、痛いってば」

 

 普段小町にする様に、つい沙希の脳天に軽くチョップを喰らわせてしまった。

 それを見て、また女子高生の群れが悲鳴を上げる。

 

『ドSだよっ』

『ツンデレだよ、いいなぁ』

 

 DVと誤解されない内に場所を変える方がいいな。

 

「おい、そろそろ行こう。何か目当てのゲームがらあるんだろ」

「じゃあ、腕組もうよ」

「根拠と理由がまるで分からん」

「いいから、ほら」

 

 沙希に腕を組まれた瞬間、女子高生の群れから「あー」とか「やっぱり」とか聞こえてきたが、それも良く分からん。

 世の中って、謎だらけですね。

 

  * * *

 

 クレーンゲームから離れて、ぶらぶらとゲームを眺めて歩く。

 

「で、どのゲームをしに来たんだ。麻雀か?」

「あんたの云う麻雀って、勝つと女の子が服脱ぐヤツでしょ。そんなのしないよ、馬鹿じゃないの?」

「うるせえ。脱衣麻雀は非リアの願望がたっぷり詰まった夢のゲームなんだよ」

 

 呆れ顔を向けた沙希はふいと視線を逸らして、ぽしょりと呟いた。

 

「……もうあたしの下着姿、見てるじゃん」

 

 ──うん。だからね。

 迂闊にそう云うことを口にしちゃうとさ。風邪の看病の時のことを色々思い出しちゃうだろうが。つーか何故看病なのに沙希さんは下着姿になったんでしたっけ。

 うむ、また謎が増えた。

 沙希も気がついたのか、あっと声を発して茹でダコみたいに真っ赤に染まる。何なら湯気まで立ちそうだ。

 そろそろ話を軌道修正してやるか。

 

「で、何のゲームがしたいんだ? 格闘系は苦手だぞ」

「そんなのじゃないよ」

 

 じゃあ何を、と聞き返す前に沙希は俺の腕を引っ張る。

 

「お、おいっ、せっかくの服が──」

「いいからっ、こっちだよ」

 

 沙希に連行されたのは、ゲーセンの中の一角。

 

「──プリクラ、か?」

「う、うん。ダメ……?」

 

 ずるい、サキサキずるいっ。こんな時に上目遣いされたら、もう逆らえないでしょうがっ。

 

「──わかった。一枚だけな」

「う、うんっ、ありがと」

 

 上機嫌で腕を絡ませるのは許容出来るのですがね、沙希のお山がね、二の腕にね、ぽよんぽよん当たるんですけどね。

 はい煩悩退散、煩悩退散。

 ビニールのカーテンを潜ると、そこはピンク色に包まれた異世界だった。

 

「何だこりゃ……」

 

 俺の戦慄を他所に、沙希はメモ用紙を取り出して画面を操作している。てかこいつ、下調べしてきたのか。

 まあ、こういう沙希の勤勉さには正直助けられているけどさ。

 

「こ、こっち、来て」

 

 上ずった声音で呼ばれる。沙希も緊張しているらしい。

 

「が、画面と同じポーズ、で……」

「え? 顔面が同じ坊主?」

「……殴るよ?」

 

 画面?

 プリクラってポーズも強制されるの?

 自由はどこにいった!

 板垣先生、先生が夢見た日本は滅んでしまいました。

 愚考しつつ画面を見ると、そこには抱き合う男女の姿。

 

「は、はぁ!? こんなの出来る訳ねぇだろっ」

「あ、あたしだって恥ずかしいんだよっ、ほら早くっ」

 

 ぐいと引っ張られて沙希の対面に立つ。

 

「ほら、画面を見て」

 

 画面の中。男は女の肩に手を回し、女は男の腰に手を回して身体を密着させている。

 つまり高濃度のハグ、抱擁だ。

 

「これはちょっと……ハードル高くないか?」

「そ、そう……だよね。ごめん」

 

 寂しそうな目をした沙希が下を向く。

 こいつ……そんなにプリクラを楽しみにしてたのか。

 お詫びの意味を込めて、俯く沙希の髪を撫でる。

 

「──悪かった。最初から撮り直そう」

「うん……ありがと」

 

 沙希が涙目で微笑んだ。

 ──今の顔やばい。

 めちゃくちゃキスしたくなった。

 辺りを見る。膝から上はビニールのカーテンで隠れている。

 ならば。

 

「沙希、こっち向け」

「ん?……むぅん!?」

 

 沙希を抱き寄せ顎を持ち上げて、乱暴に口唇を合わせる。舌をねじ込むと、ほんの少しの抵抗の後に開門された。

 

「むっ、んふ、すき……」

 

 沙希の言葉を耳に受けて、なおも激しく舌を絡め続ける。

 こりゃ沙希は後でメイク直さなきゃならない──

 

 激しい閃光。

 同時に鳴る「パシャ」という効果音。

 

 ……え?

 

「ちょ、ちょっと待て、今のは……むぐぅっ」

 

 一旦離した口唇に、今度は沙希が攻撃を開始する。

 

「はちまん、すき……すきぃ」

 

  * * *

 

 長い口づけを終えた俺たちは、プリクラのことなど忘れていた。

 

「──と、撮り直そうか」

「あ、うん」

 

 時間切れになった筐体に再びコインを入れ、今度は画面の指示通りに抱擁しつつ、シャッターを待つ。

 早く、撮るなら早くしてくれ。もう、理性が持たん。

 

 閃光、そしてシャッター音。

 さっきと同じ光と音。

 ということは、やはり。

 

 プリクラの受取り口にあったのは、二枚のプリクラ。

 上側の一枚は、ついさっきの抱き合った写真で、その下にあったのは……。

 

「こ、こ、これ……撮られて、た?」

「……そうみたい、だな」

 

 二人が深く口唇を重ねた写真だった。

 ──こりゃ絶対人に見せられないな。

 

 

 




今回もお読み頂きましてありがとうございました!

沙希は八幡とのプリクラが欲しかっただけなのに。
やはりこの二人は斜め下の結果を出してしまうんですね、
……ま、二人が幸せならいっか。

ところで「京葉ラブストーリー」はあと3話で一旦終了とさせて頂きます。
理由は「リアルの多忙」です。
夏前から自分を取り巻く環境が著しく変化し、執筆の時間を確保するのが難しくなってしまいました。更に年末以降は不休で働くことがほぼ決定的となり、終了の結論に至った次第です。
未回収の伏線も幾つかございますが、それは時間的な余裕が出来てから改めて書きたいと思います。

何卒ご理解の程、宜しくお願い致します。

では、今回もお付き合い頂き、ありがとうございました☆


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猫のいる風景

この作品。気づけば690人もの読者さまにお気に入り登録していただけました。
この場を借りて御礼申し上げます。
本当にありがとうございます。

さて、感謝の意味を込めまして……
今回はただ二人がイチャコラするだけの回です。
いわゆる通常回w





 金曜日である。

 実に一週間ぶりの週末。

 つまり今日は川崎沙希が来る日だ。

 長かった。本当に長かった。

 月曜日は良かったんだ。まだ沙希の料理が冷蔵庫に残っていたから。

 だが火曜日からは忙しさにかまけて、ほぼお湯を入れて三分待つだけのお手軽な食事なのだ。あとは、たまにレタス買って千切ってマヨネーズかけただけのサラダくらい。

 沙希の味に慣れちまうと、もう物足りないの何のって。

 ──いや、料理が恋しいだけだよ。別に独り寝が寂しいなんてないんだからねっ。

 

 そんな訳で、今日の足取りはすこぶる軽い。何なら膝の可動域を越えてくるくると回してしまいそうな勢いである。

 

「たでーまー」

 

 何時もの如く講義を終えてドラッグストアで手早く買い物をして帰ると、予想通りアパートの鍵は開いていた。

 沙希が来ているのだろう。思わず顔が緩む。

 つーかあいつと小町にしか合鍵渡してないし。

 しかし、帰宅した俺を出迎えたのは……。

 

「にゃあ」

 

 ──猫だ。

 

 いや、違う違う。

 とりあえず噛み砕いて状況を整理しよう。

 俺帰宅する、ドア開ける、猫耳をつけた沙希が「にゃあ」と鳴く──だと!?

 

「……にゃ?」

 

 にゃ? じゃねーよ。

 いや可愛いけど。普段とのギャップで超萌えるけどもさ。

 猫耳以外の服装は、黒のタンクトップにレザーっぽい生地の黒のホットパンツに……猫の尻尾まで付いてるのかよ。

 あ、あと首元にでかい鈴が付いてるな。

 さて。

 そんな猫耳娘が我がアパートの六畳間にぺたんと座っている。

 それだけでマニアならば垂涎ものである。だって、マニアじゃない俺がそうだもの。

 ──いかんいかん。この場の空気に呑まれたら沙希のペースにはまってしまう。

 けほん。

 

「なあ沙希さんや」

「にゃん?」

 

 あー、ダメだこいつ。話にならないわ。

 現実に引き戻さないと。そしてどんだけ恥ずかしい事をしてるのかを思い知らせてやるんだぜ。

 

「○○大学教育学部一年、川崎沙希さんっ」

「にゃにゃんっ」

 

 ほむん、無駄にキャラ作りが徹底してるな。あくまでも猫になり切るつもりなのかね。

 なら、これはどうだっ。

 

「ティラタタ、ティラタタ♪」

「にゃんころがっし、にゃんころがっし♪」

 

 ……すげぇ、完璧だ。

 何が完璧かはよく解らんが。

 つーかこのネタ知ってる奴がいるとは思わなかった。

 さてはお主──

 

 けぷこん。

 

 さて、お遊びはこのくらいにして、まずは事態の収拾を図らねばな。

 

「おい」

「にゃ、にゃによ」

 

 お、ちょっとだけ人間に近づいてきましたよ。

 ふいっと目を逸らす仕草は猫っぽいけど。

 

「誰の入れ知恵だよそりゃ」

 

 沙希がこんなことを思いつくとは考えにくい。よしんば思いついても実行するまでには至らないだろう。

 となると消去法で考えて、誰かの入れ知恵という線しか残らない。

 まさか「迷い猫オーバーラン!」とかうっかり読破しちゃって触発された訳でもあるまいて。

 

「うう……こ、小町に聞いたんだよっ。あんたが猫好きだって。あんたの家、猫飼ってるし、あんたが猫耳の女の子が表紙に描いてある小説を読んでたって……それで」

 

 やはり小町か。

 こういう嬉しい……いや余計な入れ知恵をする奴なんて、俺の周りではお節介な妹くらいしか思い当たらない。

 しかし、まさか俺が「迷い猫オーバーラン!」を読んでるのを知っていたとは、油断も隙もあったもんじゃないな。

 やはり世間は敵だらけ。

 さて追求の続きだ。

 

「……それで?」

「ふ、不安だからさ、一応雪ノ下にも聞いてみたんだよ。そしたら『是非実行するべきよ。猫は正義だもの』って云うから……」

 

 雪ノ下、と聞いて少しだけ身が強張る。

 雪ノ下雪乃。

 前章で俺に告白してきて、それが切っ掛けとなって俺と沙希は一時的に離れた。つーか前章って何だよ。

 そんな経緯からして、沙希が雪ノ下と接触することはまずあり得ないと思っていたのだが。

 

「雪ノ下と、会ったのか」

「うん、学部は違うけど同じ大学だし……」

「そ、そうか」

 

 思いっきり失念していた。千葉市内に国立の大学は一校しか無い。しかも陽乃さんも沙希と同じ大学だった。

 こんな事、以前なら簡単に推測出来ただろうに。

 やっぱり幸せボケしてるのかな。

 

「でさ、たまたま大志の部屋で見つけたエロほ……雑誌に、猫のコスプレが乗っててさ」

 

 ほほう。「エロほ」まで言ったらバレバレだけど、それはまあいい。あと大志がマニアックな趣味を持ってることは本当にどうでもいい。

 

「で、雪ノ下の姉さんに相談したら、妹の方が猫に詳しいって。だから……相談した」

 

 あーそれ、聞く相手を間違えちゃったねサキサキ。陽乃さんにそんなエサ与えたら、面白くなる方向に誘導するに決まってる。

 

「──猫関連のことを雪ノ下に聞いたらダメだ。あいつ、猫に詳しいどころか、筋金入りの猫大好きフリスキーだから」

「げっ、そうなの? やけに猫耳や尻尾の素材にこだわってたからちょっと変だなって思ったけど」

 

 やっちまった感丸出しで驚愕する沙希を見て、思わず苦笑する。

 それを受けて、俯いて口を尖らせて、何かぶつぶつと呟いたと思ったら、咳払いひとつで吹っ切ろうとする沙希。

 それもう猫じゃないよ。完全に。

 

「と、とにかく。今日のあたしはあんたの猫なのっ」

 

 どびしっ! っと、全盛期の横綱ばりの力技で強引に軌道修正した沙希が小さく「にゃん」と鳴いた。

 その割に、テーブルには食事の用意はバッチリなんだけどね。

 猫の手というだけあって包丁使いは得意そうだけどさ。

 

「だから、さ」

 

 はあ、と溜息を吐く間も無く、四つん這いの沙希がにじり寄る。

 身体をしならせて歩み寄る姿は、猫というよりも大型肉食獣っぽい。

 

「か、かまって欲しい……にゃん」

 

 あー、もうそれ猫じゃないな。もっと別の、エロい何かだな。

 ピンク色に染まる心の呟きを余所に、沙希は胡座をかく俺の足にすり寄ってくる。

 いや、可愛いよ。

 すごく可愛いんだけどさ。

 どうしてもエロい目で見ちゃうんだよなぁ。

 アレの谷間とかソコの張り具合とか、特に。

 

「ま、まずは、メシ食わせてくれよ。折角の沙希のメシが冷めちまう」

 

 俺は、食事と共に三十分ほどの執行猶予を手に入れた。

 

  * * *

 

「ごっそさん。今日も美味かったぁ」

 

 うん。満足満足。

 今日の献立は和食だった。

 豆アジの唐揚げに、生姜風味の茄子のおひたし、蓮根のきんぴら、それに豆腐とネギの味噌汁がついていた。

 当然の様に全て美味かったのだが、これを目の前の猫耳娘が作ったのだと思うと、なんだか萌えるモノがある。

 猫耳と首の鈴、尻尾を着たままで行儀良く食事をする沙希は若干シュールだけど。

 

 食後の茶を啜っていると、食べ終わった食器を洗い終えて、沙希が二足歩行で戻ってくる。人間だから当然といや当然だけど。

 歩を進める度に左右に揺れる尻尾がちらっと見える。

 沙希は俺の目の前のテーブルに腰を下ろ……さずに、俺の方へと這い寄ってくる。

 おっ、今度はニャル子さんか?

 あれは猫じゃなく「無貌の神」だけど、そんな些末な事はどうでもいい。

 考えるべきは、もう目の前まで這い寄ってきている大型肉食獣、もとい沙希の件だ。

 もう手の届く距離、沙希の目が潤んでいるのが分かる。

 首の鈴が、シャランと鳴った。

 

「……撫でて欲しいにゃ」

 

 すりすりと頭を胸元に擦り付ける度に、猫耳がついたカチューシャがずれる。その完成度の低い猫っぷりに笑いそうになるも、それを凌駕する強い衝動に駆られた。

 

「ひゃっ……」

 

 沙希を引き寄せて頭をわしゃわしゃと撫でると、本物の猫みたいに目を細めて為すがままにされている。

 ずれたカチューシャの後ろの髪は律儀にポニーテールに結ばれていて、その柔らかい尻尾をさらさらふにふにと弄んでいると、もう一本の尻尾が目に入った。

 ふと疑問が湧く。

 あれって、どういう風になってるんだろ。

 

「な、なあ沙希さんや」

「にゃ、にゃによ」

 

 あ、そのキャラはまだ継続するんですね。もうだいぶ薄まってますけど。

 ──沙希を胸に抱いたまま、疑問を呟く。仄かに芽生えた嗜虐心を満たす為のトリガーだ。

 

「尻尾の付け根って……どうなってるんだ?」

「どうって、ホットパンツにくっ付いてるけど」

 

 あ、キャラがブレた。もう完全に人間様ですよ、沙希にゃん。

 

「ほう、興味深い。ちょっと見せてみなさいな」

「べ、別にいいけど……」

 

 俺は口元を吊り上げつつ沙希から身を離した。

 

  * * *

 

 正式名称、キャットバック。

 四つん這いになった状態で上半身を低く屈めて、臀部のみを高く後ろに突き出した体勢。

 今の沙希……いや、沙希にゃんの格好だ。

 このポーズに正式名称があるのも驚きだが、もっと驚くのは、目の前の肢体の妖艶さだ。

 沙希はヒョウの様に身体をしならせて、黒いホットパンツにラッピングされた丸い臀部をこちらに向けている。

 

 ……おや、中々どうして。

 凄く良いではありませんか。

 フェイクレザーのホットパンツに包まれた臀部(でんぶ)は、少し突ついただけで弾けそうな、そうまるで爆弾プリンみたいに張りつめている。

 何ともド迫力でありますな。

 だが、まだまだこれくらいでは首を擡げた嗜虐心は黙ってくれない。

 

「ふーむ、よく分からないな。尻尾の付け根が見やすいように尻尾を振ってくれ」

「え……?」

「ほら早く。ご主人様のお願いだぞ」

「う、うん……」

 

 ふりふり。ふりふり。

 目の前で、沙希にゃんのまんまるお尻が左右に揺れる。その反動で、沙希にゃんの首元の鈴がシャランシャリンと鳴った。

 

「み……見える、にゃ?」

 

 左右に揺れる尻の向こう、扇情的な言葉を投げ掛けながらも真っ赤になった沙希の視線が注がれる。

 沙希にゃんの揺れる尻を見る俺を見る沙希。

 

 しかし──いいですな、これ。

 こう、パンっ! と張ったホットパンツが何度拝見しても扇情的で情緒がありますな。

 何だか、どっかの爆弾セクハラ課長みたいな思考だな。十九歳にして尻フェチオヤジとは残念過ぎるぜ俺。

 でもね、でもでもね。

 もう止まんないの。

 だから従うの。

 本能に。

 理性の化け物? 知らない子ですね。

 

「沙希……ちょっと我慢してくれ」

「どういうこ……え、あ……あぁっ!?」

 

 目の前で誘う沙希の左右の尻たぶに両手を食い込ませる。

 つまり、鷲掴みだ。

 

「はぁ……あっ」

 

 両尻にめり込ませた全ての指に更に力を込め、円を描くように左右の尻肉を動かす。すると、どうだろう。沙希にゃんの両尻は上側から開き、下側から閉じていく。

 

「ひぅっ……んっ」

 

 やばい、すっげえ楽しくなってきた。

 ふと、以前読んだラノベを思い出す。

 

 まおんまおん。

 まおんまおん。

 

 小鳥遊さん家の末っ子、ひなちゃんに習い、思う存分、張りつめた尻の弾力と柔軟性を味わう。

 おいたんだって、まおんまおんしたいんだいっ!

 

「あ、わわっ……んくっ」

 

 尻たぶが下から開いて上から閉じていく。

 これを外回りだとしたら、お次は内回りだ。

 外房線も内房線も、みんな平等に扱ってあげなきゃね。

 

 はい、まおんまおん。

 

「あっ……も、もう……やぁ」

 

 もういっちょ、まおんまおん。

 

「んあっ、はうっ……いやぁ……」

 

 そこでピタリと手を止める。

 

「……え?」

 

 若干涙目の沙希にゃんは、惚けた顔を尻越しに向けて俺を見つめてくる。

 

「嫌って云ったからやめた」

「なん、で……?」

 

 今理由言ったばっかりなんだけどね。

 しかし既に平静では無い沙希にゃんにはそんな正論は通じまい。

 なので改めて問う。

 

「本当に嫌ならやめる。続けていいなら『続けて欲しいにゃん♪』と云ってくれ」

 

 我ながら阿呆であるのだが、事実そう云いたくなってしまったのだから仕方が無い。

 沙希をいじめたい。恥ずかしがる顔をもっと見たい。

 まさしく変態だ。

 

「ゔ〜っ……」

 

 カーペットにぐりぐりと額を押し付けながら逡巡したと思ったら、沙希にゃんは姿勢はそのままで真っ赤な顔をこちらに向ける。

 尻越しに照れる沙希にゃん。絶景ですわい。

 沙希にゃんと脳内で呼び続ける俺、キモいっ♪

 

「つ……」

「つ?」

 

 最初の一文字で云いたいことは伝わる。だが、全部云わせたい。

 沙希の口から、沙希にゃんの言葉で聞きたい。

 

「続けて……欲しいにゃんっ、ご主人さまぁ♪」

 

 おぅふ。

 こいつ……要求より濃いめのヤツを出してきやがった。

 ふっ、望むところだぜ。

 

 このあとメチャクチャまおんまおんした。

 

  * * *

 

 深夜、ふと尿意を催してトイレに立つ。部屋の灯りをつけずに忍び足で用を足して戻る。

 薄闇の中、すっかり人間に戻って俺のベッドを占領する沙希の寝顔を眺める。

 まあ何とも幸せそうな寝顔だ。

 起こさない様に沙希の長い髪に手櫛を通すと、何の抵抗感もなくしゅるりと指から逃げた。

 

『幸運の女神には前髪しかない』

 

 誰かが言った言葉だ。

 だが見ろ。俺の傍で寝息を立てる幸運の女神は長いポニーテールだ。

 ざまぁ見ろ、名言を残したと思ってしたり顔の先人め。

 

 思えばこの夏、沙希に再会してからの日々は濃密だった。

 恋愛を否定してきたかつての臆病者が、今ではこうして彼女の寝顔を眺めている。それは今迄の俺の希薄な人生からすれば画期的であり、叶わないと思っていたこと。

 高校二年、奉仕部の仲間、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣によって開かれた俺の世界。そして今、ここに川崎沙希がいる。

 不思議なものだ。

 

 人生とは、運命とは。

 その結果を出すには俺たちはまだ若く、未熟だ。

 だがその途中経過としての現在を取り上げたなら、上々と云えるのだろう。

 その時間を与えてくれたのは、間違いなくポニーテールの女神様。

 俺はこの女神様のポニーテールを離さない。

 女神様が嫌と云わない限りは。

 

 だから俺は、女神様の生誕祭に向けて感謝の計画を立てる。

 




お読みいただきまして、ありがとうございます!

前回の後書きにも書きましたが……
途中から投稿ペースががくんと落ちたこの「千葉ラブストーリー」第2部として書いてきた「京葉ラブストーリー」、回収していない伏線も幾つかあるのですが、そろそろ一旦終幕にさせていただきます。

という訳で、最終話は川崎沙希の誕生日のお話。

次回投稿は10月25日の午後11時30分となります。
どうか見届けてやってくださいまし。
日付けを跨いでお読みくだされば尚幸いです。


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無条件幸福 【川崎沙希誕生日前夜祭記念】

記念日って、好き合う二人にとっては大事な大事な日だったりします。
それは比企谷八幡と川崎沙希にとっても同じなようで。

今回のお話は、川崎沙希の誕生日前夜から始まります。出来たら日付をまたぐ感じでお読みくださると幸いです。
なお、曜日の設定はご都合主義を取り入れさせて頂いておりますw

という訳でどうぞ。

【注意】 今回は川崎沙希の視点でお送りします。


 十月二十五日、金曜日。

 あたし、川崎沙希は彼、比企谷八幡に呼ばれて彼の部屋に来ていた。

 

 明日はあたしの十九歳の誕生日。明日は家族が祝ってくれるらしいので、八幡と過ごす誕生日は日をまたげる今夜にしようとなったのだ。

 つまり。誕生日を迎えた瞬間、あたしの傍には大好きな人が居てくれる。

 明日祝ってくれる家族には申し訳ないけど、今夜八幡の部屋に居られることが何より嬉しい。

 

 一緒に過ごしてくれる相手である八幡は、誕生日なんて言葉は口にはしないけれど、あたしは知ってる。

 冷蔵庫の中に鎮座したケーキの箱の存在を。冷やしてあるジンジャーエールは、もしかしてシャンパンの代わりなのかな。

 夕食の準備中にそれらを見つけてしまったあたしは、その場で小踊りしてしまった。

 小踊りって、正式にはどんな踊りなんだろうね。

 

 家族以外と誕生日を過ごすのは初めてで、その相手がか……彼氏で、しかも八幡で。それを思うと面映くて何だか落ち着かない。

 週末の度に訪れている筈の八幡の部屋が、今夜は何だか違ってみえるのは、その出処の判らない浮揚感のせいなのだろう。

 期待感と云っても良いかもしれない。

 ま、過度な期待は禁物だね。余計なプレッシャーを与えることになっちゃうし。

 

「ごっそさん。美味かった」

 

 遅い夕食を食べ終えた比企谷は、空の食器を持って立ち上がった。

 

「あ、いいって。あたしやるから」

 

 立ち上がろうとしたあたしを、八幡は笑い混じりで制止する。

 

「いや座っとけって。ここは週末はお前の部屋でもあるが、今日のお前は招待客だからな」

 

 八幡はよくそういう線引きをしたがる。屁理屈を差っ引いて解釈すると律儀と云えるのだろうけど、少し寂しくもある。

 もっと無条件で甘えてくれてもいいのに、な。

 

 食器を洗い終えて戻ってきた八幡の手には、包装紙でラッピングされた四角い箱があった。

 そうか。それを取ってくる為に自分でキッチンへ行ったのか。

 危うく八幡の計画を邪魔しちゃうとこだったよ。

 てか、それって誕生日のプレゼントだよね。

 何だろ。大きさや箱の形からすると……あれってルービックキューブくらいだね。

 ま、まさか、ねえ。いくら比企谷でもプレゼントにルービックキューブなんて。

 ……あり得そうでちょっと怖いな。

 

「ほら、これ。開けてみ」

 

 ……もうちょっと気の利いた台詞は言えないものかね。

 ぶっきらぼうに渡された小箱のラッピングを剥がす。

 中身は腕時計だった。

 ブレスレットの様な丸い輪っかに繋がる金属のベルトに付いているのは小さくて丸いアナログ時計。

 白色に輝く文字盤には数字は無く、一番上に「XII」とローマ数字があるだけのシンプルな造り。その文字盤の周囲にはピンクゴールドの縁取りが施されている、ちょっと大人の雰囲気がする腕時計だ。

 

「へぇー、シンプルで可愛い時計だね」

 

 基本色はシルバーと白。

 うん、この時計ならどんな場所、服装にも合いそうだ。

 ふと、この時計を着けて学校の教壇に立つ未来の自分を想像してみる。

 ……ふふ、悪くないね。

 何も云わずに渡されたしリボンも無かったけど、これって、誕生日プレゼント……だよね。

 

「ありがとう、すごく嬉しい。大事にするよ」

 

「気に入ってくれたなら何よりだ。使わない時は日の当たる場所に置いておくといいぞ」

 

「なんで?」

 

 小首を傾げるあたしに、八幡は自慢気に語り出した。

 

「それ、ソーラー電波時計なんだよ。時間合わせも電池交換も要らない、超便利時計だぞ」

「はあ、まったく。あんたらしい贈り物だね」

 

 嬉しい。

 凄く嬉しい。

 確かに嬉しい……だけど。

 ここでふと、考えてしまう。

 

 女の子にとって十九歳の誕生日は、ある特別な意味を持つ。

 まあ、大学でもあまり聞かない話だから、八幡が知っているかどうかは判らない。もし知っていたとしても洒落た行動を求めるのはこいつの性格上、無理な話だ。

 まあ、今のままでもあたしは充分幸せなんだけど。

 だけど、やっぱり。

 

「ね、ねえ。あんた、十九歳の誕生日って、知ってる?」

 

 つい口に出してしまう。

 期待してる訳ではない。

 そ、そう。これは確認なんだ。八幡がどれだけ市井(しせい)の風習に対して知識があるかの確認なんだ。

 そう自分に言い聞かせるのだけど、やっぱり心の何処かで残念な気持ちが起きてしまう。

 

「ん? 十代最後の誕生日だろ」

 

 案の定な、案の定過ぎる返しだ。

 やっぱり知らないんだ。女の子の十九歳の誕生日のジンクスなんて。

 

「そ、そうじゃなくてさ。そ、その……」

 

 あたしは言いかけて、やめた。

 ──高望みだ。

 こんなあたしが、好きな相手と一緒に居られる。一緒に誕生日を迎えてくれる。

 プレゼントの時計も貰えたし、冷蔵庫の中にケーキがあるのも知ってる。

 それで充分じゃないか。

 これ以上の幸せを望むのは我儘だ。分不相応だ。

 何を慢心してるんだよ川崎沙希。

 あんた、お姉さんだろ。

 長女だろ。

 

 本当……馬鹿じゃないの。

 

  * * *

 

 もうすぐ日付けが変わる。

 あと二回ばかり秒針が真上を向けば、十月二十六日。あたしの十八歳が終わり、十九歳が始まる。

 

「そろそろか……」

 

 徐に立ち上がった八幡は、狭いキッチンへと歩き去る。

 あたしの為にケーキを用意してくれる彼。

 幸せだ。凄く嬉しい。

 

 なのに。

 

 いつからあたしは、こんなに欲深くなってしまったのだろう。

 子供の頃は、経済的な理由から下の子にばかりプレゼントが与えられた。

 それでも「あたしはお姉ちゃんだから大丈夫」と笑顔でいられた。

 弟や妹たちの喜ぶ顔が何より嬉しかったから。

 

 本当、いつからだろう。

 こんなんじゃ、いつか愛想を尽かされてしまうのではないか。ついそんな不安が頭をもたげる。

 あたしにとって一番の幸せは、八幡と一緒に過ごす日々。

 あたしが作ったご飯を、八幡が食べてくれる。時にはお代わりまでしてくれる。

 八幡の可愛い車でドライブに連れてってもらったり、キ、キスしたり、今ではもうちょっとだけ先のことだって……。

 そんな彼と過ごす日々。彼のことを考える日々。

 それこそが毎日の贈り物じゃないのか。

 何を贅沢なことを考えてるんだ、あたしは。

 これ以上望んじゃいけない。

 ……いけないんだ。

 それなのに、つまらない事でうじうじと悩んでいるあたしって、最低だ。

 

「ほら、お前も手伝えよ」

 

 小さなホールケーキをテーブルに置いた八幡は、手持ちの半分のローソクを差し出してくる。

 

「ったく、あたしは主役だっていうのに」

 

 苦笑して軽く悪態を返しながらローソクを受け取り、目の前のケーキに立てていく。

 ローソクが揃うと、すぐに火をつけてくれる。

 きっと、零時きっかりに合わせてくれるつもりなのだろう。

 こういうの、いいな。

 貰ったばかりの腕時計。その秒針は部屋の灯りを受けて順調に時を刻み、ついに本日最後の周回に入った。

 全てのローソクに火を点け終わった八幡は立ち上がって、部屋の明かりを落とす。

 一瞬の内に部屋に闇が広がって、すぐ後にローソクの炎たちが八幡とあたしだけを照らし出す。

 ──十九歳、かぁ。

 

 ぴぴっ、ぴぴっ。

 

 アラームが鳴る。きっと八幡が仕掛けておいたのだろう。

 暗い中で日付けが変わったことを報せてくれる、八幡なりのちょっとした心遣い。それだけで温かい気持ちになれる。

 うん、それでいい。それだけで。

 

「ほら、日付けが変わったぞ」

 

 ローソクの炎だけが照らす部屋、八幡の柔らかい声が響く。

 

 ふっ、ふーっ。

 

 慣れない行為のせいか、一息ではローソクの炎は消せなかった。というか、十九本のローソクは一息では難しいでしょ。

 最後の光源を失った部屋に、再び闇が訪れる。

 

「誕生日おめでとう」

 

 暗闇の中、八幡の声が聞こえる。

 

 ──あれ、電気は?

 まだ灯りはつけないのかな。

 お礼を告げる前に、そんな事が気になってしまう。

 ん?

 耳を済ますと闇の中にガサゴソと音がして、カーペットが擦れる音がする。同時に影が動いた。

 あ、今灯りを点けに行ったね。

 

 灯りが点いた。

 暗闇に慣れたせいか、蛍光灯の光が眩しい。

 元の位置に腰を下ろした八幡は、あたしの顔をじっと見つめる。

 ううっ、あたし……あの目に弱いんだよなぁ。

 あたしだけに向けてくれるであろう、控えめだけれども優しい眼差し。

 その目を見つめていると、心ごと吸い込まれそうになるのだ。

 

「あ、ありがとう……あ、ケーキ食べよ」

 

 気恥ずかしくなったあたしは、ケーキを切り分けてしまおうとテーブルに目を落とした。

 と、そこには先程まで無かった、リボンに飾られた小箱が置かれていた。

 

「……え」

 

 な、何だろう、これ。

 プレゼントならさっき腕時計を貰ったはずだ。

 なら、このリボンが掛けられた小箱って。

 頭の中に大量のハテナを浮かべるあたしに、八幡は首を傾げながら云う。

 

「ケーキ切らないのか? なんなら俺が」

「あ、いや、そうじゃなくて……これ、なに?」

 

 視線を小箱と八幡を何度も往復させる。

 

「プレゼントだよ……えっ、お前もう自分の誕生日を忘れたの? たった一分で喉元過ぎちゃったの?」

「ばっ……いや、プレゼントなら、さっき時計を」

 

 普段と変わらない語り口調で呆れ顔を浮かべる八幡に思わず反応してしまい、途中で言葉を切り替える。

 

「つーか、あの時計が誕生日のプレゼントなんて一言も云ってないけどな」

 

 は、はあ!?

 どういう事なのさ。

 なぞなぞなのか。頓智(とんち)なのか。それとも、揶揄(からか)ってるのか。

 いや、どれも違う。ちょっと斜め下に向けた目は、あたしを揶揄って遊ぶ時の少し意地悪な目じゃない。

 照れている時の目。あたしを抱きしめる時と同じ目だ。

 

「じゃ、じゃあ、あの時計、は……」

 

 頭が混乱していた。

 やばい、もうわかんない。額をテーブルにぐりぐりしようとした時、八幡の声音が弱々しく響いた。

 

「あの時計は、便利だと思ったから買ってきただけなんだが……気に入らなかったか?」

「う、ううん、凄く気に入ったよ。でも」

 

 嬉しかった。一目で気に入った。それは本当だ。

 でも、それじゃあ。

 あたしは懇願する。

 教えて、意地悪しないで、と目で訴える。

 

「はあ……なら正直に云う。あれは、お前に似合うと思って買った。それだけだ」

 

「な、なにそれ」

 

 ちょっとだけ噴き出してしまった。

 彼はまた屁理屈を捏ねている。そう思ってしまった。

 だって、あんな高そうな時計を貰える機会なんてプレゼント以外ではあり得ないと思うから。

 学生の身分なら尚更だ。

 でも、八幡は云った。

 この時計は誕生日のプレゼントでは無い、と。

 今、あたしの目の前にある小箱こそが、誕生日のプレゼントだと。

 その言葉の意味を考えながら、もう一度ゆっくりと確かめる。

 

「じゃあ、これが本当の誕生日の……」

 

 あたしは、恐る恐る目の前の小箱に手を伸ばす。

 

「ああ、そっちが本物だ」

 

 思わず固唾(かたず)を飲む。何だろう。何が入っているのだろう。

 

「あ、開けていい?」

「ご自由に」

 

 無愛想な許可を貰ったあたしは、しゅるりと小箱のリボンを解いて化粧箱を開ける。

 中にはもう一つ箱が入っていた。

 あたしはそれをゆっくりと開け──

 

「え、これ……」

 

 中身は──指環だった。

 

 ピンク色の光を放つハート型の透き通った小さな石が填められた、銀色の指環。

 箱の中に折り畳まれて添えられた紙を開く。

 鑑定書だ。

 ハート型の宝石は十月の誕生石であるトルマリンだった。そして、指環の材質はシルバー925と書いてある。

 つまり、銀の指環だ。

 視線を指環に戻して、角度を変えながら見つめる。

 綺麗……あたしなんかには勿体無いくらい綺麗。

 

 ああ、本当にこの人って。

 なんて人なのだろう。

 勝手に抱いた期待が外れて悩んでいたあたしの思いすら、この人は喜びに昇華してくれた。

 

「迷信の類なんて俺は信じちゃいないけど。ま、十九歳だからな。縁起物だ」

 

 目頭が熱くなる。

 脈動は強くなり、しかし穏やかに胸を熱く打つ。

 ドキドキしているのに落ち着ける、そんな不思議な気持ち。

 

「あんた……知ってたんだね」

 

 ──昔、お母さんに聞いた話だ。

 十九歳の誕生日に愛する人や家族から銀製の指環を貰った女の子は、将来幸せになれる。

 この話を聞いたのは、あたしがまだ小学校低学年の頃。

 あの時のあたしは、お母さんの指に光る指環が羨ましくって、泣いて強請(ねだ)ったんだっけ。

 愚図るあたしの頭を撫でるお母さんは、この指環は世界に二つしか無いからあげられないのよ、と云ってた。

 その時は意味が分からずにいたけど、あれは結婚指環だったのだろう。

 十九歳の指環のことを聞いたのはそのすぐ後、だったかな。

 お母さんは優しい笑みを湛えて云った。

『いつか沙希にも、綺麗な指環をくれる男の子が現れるわよ』

 そのお母さんの言葉の通り、十八歳の夏に比企谷はあたしの前に……現れてくれたんだ。

 

「その、なんだ。十九歳の誕生日に銀の指環を贈られれた女の子は、幸せになれるんだろ。迷信では」

 

 ……やられた。

 完全に油断してた。不意打ちもいいとこだ。

 先に無言で腕時計を渡して隙を作っておいて、日が変わって誕生日になった瞬間にシルバーの指環をプレゼントされるなんて、卑怯だよ。

 何なのさ。

 そんなにこいつはあたしを泣かせたいのか。

 結局八幡は……あたしより一枚も二枚も上手だったんだね。

 

 嬉しいのに、凄く嬉しいのに。

 この上なく幸せなのに。

 涙が勝手に零れる。涙腺がまるで言う事を聞いてくれない。

 嬉しいのに泣いてしまう、あたしの悪い癖。

 でも今日は誕生日なんだ。今日から十九歳なんだ。もっとしっかりしなきゃ。

 八幡に悟られまいと慌てて下を向くけれど、遅かった。止まらない涙は次々と零れてテーブルを濡らしてしまう。慌てて顔を手で覆う。

 駄目だ。涙でぐしゃぐしゃになる前にこれだけは伝えなきゃ。

 

「あ、ありが、ありがと……」

 

 駄目だった。お礼すら上手く云えないや。

 こんなあたしでごめん、八幡。

 

「な、何だよ、泣くほどのことかよ」

 

 比企谷の声が上ずってるのが分かる。急に泣き出しちゃったから動揺してるのかな。

 でも、悪いけれどあたしは今、この幸せを噛みしめるのでいっぱいいっぱいなんだ。

 あんたのせいだよ。

 こんなにも幸せな気持ちにさせるから。

 こんなにも心を満たしてしまうから。

 こんなにも……好きにさせられちゃったんだから。

 それが凄く幸せで、でもちょっぴり悔しくて。つい憎まれ口を叩いてしまう。

 

「う、うるさいね、少し黙ってな。今、幸せに浸ってるんだから……」

 

「何で俺が怒られたんでしょうか」

 

「怒ってる訳ないじゃんか、馬鹿」

 

 高望みだと思っていた。

 分不相応だと思っていた。

 些細なことだと、心の奥底に沈めてしまおうと思っていた。

 でも目の前で気まずそうに頭を掻く彼は、あたしの小さな頃の願望を叶えてくれた。

 それがどんなに嬉しいことか、あんたは解るかい?

 それがどんなに幸せなことか、あんたは想像出来るかい?

 もう生半可な感謝じゃ足りないんだよ。

 あたしは決めた。今決めた。

 これと同じ、いやそれ以上の幸せをあんたに味合わせてやる。

 あたしの一生を費やしてでも。

 絶対にあんたを幸せにするから覚悟しなよ。

 ああ、 もう。

 今すぐ八幡に触りたい。抱きつきたい。抱かれたい。

 何よりも誰よりも深く繋がりたい。

 きっと二人の間にケーキが置かれたテーブルが無かったら、一目散に飛びついていただろうな。

 

「幸せだ、あたし、すごく幸せだ……」

 

 ぽろぽろと未だ涙を落とすあたしの左肩に、温かい何かが触れて、包まれる。

 すいと目を向けると、八幡があたしの肩を抱いていた。

 近い。近いってば。

 こんな精神状態の時に近くに来られたら、駄目だ。もう我慢出来っこない。

 だってだって、あたしをこんなに幸せな気持ちにさせてくれる人が、すぐ傍にいるんだもん。

 触れ合って、いるんだもん。

 

「ほんとに、ほんとに……あんたって……」

 

 痩せてる癖に案外逞しい胸元に、顔を擦り付ける。

 

「何だよ、文句なら明日以降にしてくれ。お前の誕生日にケチはつけたくないからな」

 

 手が、優しい手が……あたしの髪を梳き、頭を撫でてくる。

 

「文句なんて、ない。ある筈がないじゃないか。どうしてあんたって……」

 

 もっと深く顔を埋め、しがみつく。でも足りない。

 もう、下品な女と思われたって構わない。心のままに八幡をカーペットに押し倒す。

 呆気にとられた八幡に、あたしはそのまま馬乗りになった。

 

「好き。愛してる。もう何だってしてあげたい。全部あげたい。ううん、それでも足りない」

「……お前、どんだけストロングスタイルなんだ。十九歳になって早々にマウントポジションかよ」

 

 馬乗りにされても八幡の軽口は止まらない。

 でも、あたしは知ってるんだ。こういう態度の時は、必死に照れ隠しをしてるんだって。

 

「うるさいね。あたしはあんたに全部あげたいんだよ。返品はきかないから」

「馬鹿か、返品なんてする訳ゃねえ。勿体無いわ、こんないい女」

 

 今度はあたしが呆気にとられた。

 急にそんなこと、云われたら。

 もっともっといい女になるしかないじゃないのさ。

 

「……馬鹿じゃないの」

 

 駄目だ。いい女はこんなこと云わないよね。

 でもね、こんなあたしに八幡はしっかり言い返してくれるんだ。

 

「その馬鹿に全部あげたいとか云っちゃうお前も大概だけどな」

 

 ほらね、云った通りでしょ。

 でも。もう許してやんない。

 絶対こいつを照れさせてやるんだから。

 

「あたしね……今すっごく幸せだよ。あんたじゃなきゃダメ。あんただから、あたしはこんなに幸せな気持ちになれるんだ」

 

 ふふっ、目を逸らしたね。

 でもまだ許さない。

 涙はずっと八幡の胸にぽろぽろ落ちてるけど、構うもんか。あたしは目を逸らさないよ。

 

「あんたがいれば、あんたと居れば、あたしは無条件で幸せなんだ。そこへきてサプライズなんかされたら……もう」

 

 言葉に詰まる。これ以上、あたしの今の幸せを表す言葉が思い浮かばない。

 というか、今日のあたし……すっごい饒舌だ。

 いつもはこんなにぺらぺら喋らないのに。

 

「……ま、お前が幸せなら、きっと俺も幸せなんだろうな」

 

 ──くっ、またそんな言い方をする。

 

「いっつもそういう言い方して……ちょっとずるい」

 

 思わず口を尖らせて目を逸らす。

 そんなあたしを見て八幡は大きく溜息を吐いた。

 

「はあ、今日はお前の誕生日だろ。主役はお前だろうが。主役を幸せにするのが祝う側の幸せだろ」

 

 この人って……本当に。

 

「もう、まったく。屁理屈が減らないね……」

 

 ま、屁理屈を云わなくなったら、それはそれで寂しいけどね。

 

「まあな。それより、そろそろケーキ食べようぜ」

「うん。でも、その前に……ちょっとだけ」

 

 馬乗りのまま、カーペットに仰向けの八幡に身体を預ける。

 ああ……なんて温かいのだろう。

 きっと八幡は、炭火の様な人だ。

 表面上は素っ気なくてぶっきらぼうだけど、内面は誰よりも優しくて、温かい。

 我ながら喩えが下手くそで、何だか笑えてきた。

 口元が緩む。

 

 ねえ比企谷。

 あたしの大好きな、八幡。

 今日は……甘えていいよ、ね?

 

「すき……はちまん、すき」

 

 ゆっくりと口唇を寄せる。比企谷の口唇を、口唇で啄ばむ。

 

「すき……」

 

 八幡の手があたしの腰を優しく拘束する。

 八幡の口唇があたしの口を塞ぐ。

 大丈夫。そんなことしなくたってもう、ちょっとやそっとじゃ離れてあげないんだから。

 でも、もっと強くして。

 このまま壊れても構わないから、さ──。

 

 

 

 

 

 

 

 




京葉ラブストーリー「無条件幸福」をお読み頂き、誠にありがとうございます。
実はこれを書いているのは今から七ヶ月前、「千葉ラブストーリー」の本編を書いている頃の私です。
その頃から最終話は沙希の誕生日にしようと思っておりました。

そんなこの物語も皆様のおかげで、お気に入り登録数725名様、UA83,500を突破致しました。
連載を始めた当初は1話限りの短編のつもりで、それから続きを書きたくなって……まさかこんなに長く続くとは、また、こんなに多くの方々にお読み頂けるとは思ってもみませんでした。
この作品を目にしてくださったすべての読者さまに感謝です。

最後に。
サキサキ、お誕生日あめでとう☆
明日は「家族」に祝ってもらってね。


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未来予想図【川崎沙希誕生日記念2】

──もう1話だけ続くんじゃ。



 十月二十六日、土曜日。

 十九歳の誕生日を迎えた沙希は、朝早くに俺のアパートを出た。今日は弟妹たちに祝ってもらえるとあってか沙希の足取りは軽く、心なしかそわそわしているように見えた。

 道理だ。

 何せ今日は、全ての料理を弟妹たちが用意するというのだから長女としては嬉しくもあり、心配にもなろう。

 だが、沙希は知らない。

 誕生日のサプライズはまだ終わっていないのだ。

 

  * * *

 

 沙希が都内のアパートを出て二時間後、俺は愛車カプチーノをかっ飛ばして、ひっそりと千葉の実家に戻っていた。

 

「おっかえりー、お兄ちゃん」

 

 少しだけ髪と身長が伸びた妹、小町が出迎える。よく見ると髪や背丈以外にも成長というか、何だか体のラインが丸みを帯びてきたような。

 太ったのかな。違いますね。

 

「おう、悪いな」

 

 今回のサプライズは、全て俺の立案だ。

 だが成功させるには多くの人々の協力が不可欠だった。その根回しは小町が請け負ってくれた。

 

「──会社、休んだのか」

 

 リビングの奥のテーブルを覗くと、両親が眠たそうな顔でトーストを頬張っていた。つーか母親にいたってはほとんど寝ている。きっと今日の休みを得る為に昨日仕事を頑張り過ぎたのだろう。

 つーか、休む必要は無かったんだけどね。定時に上がればサプライズには間に合うだろうし。

 

「そうなんだけどさ。こういう機会でも無いと有休使えないからって言ってた」

 

 ほう、要は俺の頼み事に乗じて自分たちの骨休めをする算段か。まあ何にせよありがたい。

 しかし、よくこの駄目な長男の頼みを聞いてくれたものだ。いや、この功績は小町の交渉術に依るものか。

 

「小町、ありがとな」

「ううん、お兄ちゃんの……お兄ちゃんと沙希お姉ちゃんの為だもん」

 

 顔を綻ばせる小町の頭をさらりと撫でると、まるで愛猫カマクラのように目を細めた。

 

「親父たち、ごねなかったか?」

「ちょっとだけ大変だったかな。でも小町にかかれば両親の説得なんてちょろいものですよ」

 

 どんな頼み方をしたのかは知らんけど、小町の頼みじゃあ断れないもんな。本当に愛されてるな、小町は。

 

「おし、じゃあ手筈通りに頼むな」

 

 今回最大の功労者、小町の頭に再びぽんと手を置いてわしゃわしゃと撫でると、若干嫌がりつつも目を細める。

 

「ん、りょーかいですっ。頑張ってね、お兄ちゃん」

「おう、やるだけやってみるわ」

「うへぇ、頼りないなぁ」

「うるせぇ、ありがとよ」

 

  * * *

 

 昼過ぎ。あたしは家族に囲まれて家のリビングにいた。

 

「おたんじょうび、おめでとー」

 

 あたしの誕生会は、京華の声で始まった。

 目の前には、どうみても食べ切れない量の料理が並んでいる。ほとんどはスーパーで買った惣菜だったけど、大志や小さい子たちが一生懸命に用意してくれたのだからそれでも嬉しい。

 

「沙希、誕生日おめでとう」

 

 普段着慣れないよそ行きのワンピースに身を包んだ母は柔らかな笑みを浮かべ、何故かスーツ姿の父はその横で目頭を押さえている。

 

 なんだろ、この感じ。いつにも増して家族が温かい。

 車座の中央に置かれたケーキ、立てられたローソクの火を吹き消すと父はついに泣き崩れた。

 

「あんなに甘えん坊だったお前が、こんなに立派に育って……」

 

 幼い頃を語り出す父に幾許かの面映ゆさを覚えつつケーキを切り分けようとすると、大志に制止された。

 

「だめだよ、姉ちゃんは今日は働いちゃだめ。俺がやるから」

 

 ナイフを手にした大志は、どこから切るべきか攻めあぐねている。結局は見かねた母がナイフを取ってケーキを切り分けた。

 メインの料理は鍋物だった。

 まあ、これなら簡単だし、寒くなってきた今の季節には丁度良いね。

 

「はい、さーちゃんっ」

 

 食事の途中、京華が一枚の画用紙を持ってきた。見ると、人物らしきものが三人ほど描いてある。その後ろには……牛?

 左のは、きっとあたしだ。真ん中にいる小さな子は京華だろう。じゃあ、右にいるのは、大志かな。

 

「ありがとうね、けーちゃん」

「うんっ、はーちゃんとなかよくね」

「え、じゃあ、この絵って」

「へへへ、さーちゃんとはーちゃんと、こうえんにお出かけしたときだよ」

 

 ──やられた。

 これって、以前京華と八幡とで出掛けた時の絵だったのか。じゃあこの牛みたいなのは、あの時会った大きな犬かな。

 

 胸がとくんと鳴る。

 あの時のあたしは、あの夫婦にあたしの未来を重ねていた。

 あたしと、八幡の、未来。

 それがずうっと同じ道の上にあればいいな、なんて子供じみた想像を楽しんでいたっけ。

 

「あれぇ、どうしたの姉ちゃん。顔が赤いよ」

「う、うるさいっ」

 

 見ると、母も顔を綻ばせて……もとい、ニヤニヤしてあたしを見ていた。父は少々お酒が回ったようで、おいおいと泣き出した。

 

「沙希……沙希が、嫁に……」

「まだ先の話でしょ」

 

 泣きつかれた母が軽くあしらうと、父は目の前の唐揚げを頬張ってビールで流し込んだ。

 

 今ではないけれど、そう遠くない将来。あたしは嫁ぐかもしれない。

 そしたら、あたしはまたこんな父の姿を見るのだろうか。

 ま、それも八幡があたしを貰ってくれたらの話だけどさ。

 

 もしも、もしもその時がきたら。

 

 父は、祝福してくれるだろうか。許してくれるだろうか。それとも八幡の胸ぐらを掴んで締め上げて怒鳴ってしまうのだろうか。

 もしかしたら、今みたいに泣いたりして。

 

 でもね、安心して。

 きっと京華は、あたしなんかよりもずっと素直で良い子に育つから。

 家事だってきっとあたしよりも上手になる。勉強だってきっと出来るようになる。

 だから、泣かないでお父さん。あたしの為の涙は京華にとっておいてあげて。

 

  * * *

 

 夕方、未だお昼の誕生会の余韻が残るリビングに聞き覚えのある声が響いた。

 

「こんばんは〜」

 

 この声は小町だ。きっとあいつが気を利かせて、あたしの誕生日を教えたのだろう。いや、もしかしたら大志かな。

 出迎えるため立ち上がろうとすると、またもや大志に止められた。気遣いは嬉しいけど、やっぱり調子狂うよね。

 

「お誕生日、おめでとうございまーす」

 

 リビングに響く声に顔を向ける。

 花束を抱えた小町と……あと二人は誰?

 スーツ姿の男性が頭を下げて挨拶の口上を述べる。その横の女性も同じように頭を下げている。

 

「本日はお招きに上がりまして、誠にありがとうございます。比企谷八幡の父です」

 

 ということはその隣はあいつのお母様……え?

 どういうこと?

 

「いえいえ、沙希の誕生日をこんなに大勢に祝ってもらえるなんて、こちらこそありがとうございます」

 

 母が深々と頭を下げる。八幡の父と名乗った人物は、手にした包みを母に渡している……って、あれってなに!?

 どういう、こと?

 

「はいっ、沙希さん。おめでとうございますっ」

 

 小町が差し出した花束は、薔薇だ。かすみ草に周囲を飾られた深紅の薔薇は、見たところ二十本ほどある。

 まさか。

 悟られないように、目で薔薇の数を数える。

 

「──あれ」

 

 もう一度数える。が、やはり十六本しかない。不思議に思って小町を見ると、ニヤニヤと笑っている。

 

「あらら、どうやら数が足りないようですね〜困ったなぁ、誰かもう一本ずつ薔薇を持ってきてくれないかなぁ」

 

 あからさまに棒読みの、用意されたような台詞を並べる小町に、あたしの中の違和感が本日の最大値を記録する。

 

 あれ?

 なにこれ。

 頭の処理がついていかない。

 

「はいっ、さーちゃん」

 

 不意に横から京華が差し出したのは、一本の薔薇。その茎は、指を怪我をしないようにしっかりと棘を落としてある。

 

「はい、姉ちゃん」

 

 反対側からもう一本の薔薇が差し出された。

 

「けーちゃん、大志……」

 

 やばい。泣きそう。

 二人に一本ずつ貰って、薔薇は十八本となる。

 でもそれじゃ、あと一本は?

 小町が持っているのかな。

 

 その時、玄関ががたっと鳴った。

 

「遅くなって悪い小町、途中で薔薇が折れちまって急いで買いに行ったんだけど赤いの全部売り切れ……て、え?」

 

 リビングの視線を一身に浴びたのは、ちらっと見えた疲れ顔。その顔の主は、あたしの手作りのジャケットを羽織っていた。

 

 なんで。

 なんであんたがここにいるの。

 

「あ、あんた……どうしてっ」

「ああ、招待されたから来ただけなんだが、来ちゃまずかったか」

「ううん、嬉しい、けど……」

 

 あんた、昨日の夜あれだけサプライズしてくれたじゃないのさ。

 今朝も部屋の外まで送ってくれて、いつもより優しくて。

 すごく嬉しくて、幸せで。

 なのにあんたは、またあたしに幸せをくれるっていうの?

 目を丸くして八幡を見つめていると、バツの悪そうな顔でがしがしと頭を掻き始めた。

 

「悪いな。最後の一本、俺が持ってくるはずだったんだが……愛車のドアに噛みつかれてな」

「さすがごみぃちゃん、ツメの甘さは天下一品だねっ」

 

 可愛い笑顔とは裏腹な毒を吐く小町に思わず苦笑する。兄妹って、家族って、やっぱりいいな。

 

「実はですね、足りない薔薇の最後の一本は愚兄の担当だったんですけど……残念な兄ですみません、沙希さん」

 

 ぺこりと頭を下げる小町と、その横で苦いような酸っぱいような、微妙な顔で頭を下げる八幡。二人が頭を下げる度に、ぴょこんと立った癖っ毛が揺れる。

 

「……ううん、来てくれただけでいいよ、あたしは」

 

 来る筈のない彼があたしの家に来てくれた。それ以上何を望むことがあるっていうのさ。

 

「だから、代わりにこれにした」

 

 背後から八幡が差し出したのは、ブーケのように拵えた真っ白な薔薇の花束。

 

「数えてみてくれ。数はあってるはずだから」

 

 もう薔薇の数なんでどうでもいいんだよ。十九歳の誕生日を、あんたに二回も祝ってもらえるなんて思いもしなかったんだから。

 もう我慢出来ない。一瞬だけでも八幡と二人きりになりたい。

 

「──あんた、表に出な」

 

 ぽかんとする八幡の手を引いて、玄関を出る。サンダル履きのあたしに対して、八幡はスニーカーを突っかけたままだ。

 玄関先、八幡は白い薔薇の花束をぶら下げたまま俯いて目を泳がせる。

 

「え、えーと、不手際があったのは謝る。お前の誕生日に水を差してすまなかった」

 

 あまりにも真面目に謝るものだから、つい可笑しくなって噴き出してしまった。そんなあたしを八幡はぽかんと見ていた。

 ──かわいい。男性に対して云うのは失礼かもしれないけれど、そう思ってしまった。

 もう駄目だ。触れたい。

 そっと八幡の頬に手を伸ばす。あたしの手が触れた瞬間、ぴくんと八幡の肩が上がる。

 本当もう、可愛いんだから。

 

「あんた、あたしが怒ってるように見える?」

 

 あたしの問い掛けにまじまじとあたしの顔を覗き込む八幡の目は、まるで少年のように澄んで見えた。

 

「……いや、怒ってる顔には見えねぇな」

「当然だよ。怒ってないからね」

 

 怒るどころかあたしは、嬉しくて嬉しくて、もう八幡に抱きつきたくて堪らなかった。でも家族の前ではちょっと、ね。だから外に連れ出したのだ。

 

「あたし、あんたに幾つプレゼントもらえばいいのよ」

「はぁ?プレゼントはあの指輪一つだけだろ」

「違うの、あの時計も、指輪も、その花束も、サプライズも、あたしにとっては一つ一つが大切なプレゼントなのっ」

 

 母さんごめん。少しだけ我儘で甘えん坊なあたしに戻らせてもらうよ。

 玄関先だろうと夜だろうと近所に迷惑がかかろうと、もう構うものか。

 あたしは今、こいつに気持ちをぶつけたいんだ。

 一歩、前に出る。

 

「あたしね、あんたとずうっと一緒にいたい。あんたの気が変わらなければ、だけどさ」

 

 八幡も一歩だけ近づく。

 

「そりゃ俺の台詞だ。可能な限り、捨てないでくれ」

 

 もう一歩足を前に出すと、既にあたしは八幡の胸の中だった。今朝も堪能した筈の匂いが鼻孔を満たす。

 

「あいしてる、あいしてる、あいしてる」

 

 ダメ。足りない。言葉じゃ足りない。

 あたしは八幡に縋るように抱きつく。まだ足りない。

 背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。八幡も同じようにしてくれるけど、やっぱり足りない。

 もっと強く、強く。抱き締める両手に力を込めると、呼応した八幡もあたしの肋骨がひしゃげてしまうかと思うくらいに抱き締めてくれる。

 息が苦しい。でも、それ以上に幸せが身体中を満たしてゆく。

 

 ふと目が合った。

 

 蒲公英(たんぽぽ)の綿毛が根付く場所を求めて風に舞うように、ごく自然に互いの口唇が近づいてゆく。

 

 ほんの一瞬の、キス。

 

 何度も交わした筈なのに。

 何度も重ねた筈なのに。

 その一瞬の口づけはあたしの心柱を蕩けさせた。

 膝が折れる。足に力が入らない。崩れるあたしの身体は八幡に抱きしめられて支えられた。

 

「はぁ……今の、すごかった」

「……つーか、この状況の方がすげぇぞ」

 

 ぽやぁとしながら八幡の視線を追う。

 そこには、母、京華、大志、小町と比企谷家の両親の姿があった。

 

「ばっちり見られちまったな」

「あ、あ、あ……」

 

 もうやだっ。

 

  * * *

 

 少し夜風に当たった後、八幡に支えられてリビングに戻ると、皆一様にニヤニヤしていた。父だけは号泣していたけど。

 その隣では八幡のお父様が座って父にビールを注いでいる。

 母は八幡のお母様と談笑し、京華は大志と小町に遊んでもらっている。

 

 見たことのない景色。

 だけれども、このまま時を紡いでいけばあり得る景色。

 

 これは、未来予想図。

 あたしにとって一番幸せな未来の姿。

 

 家族がいて、家族が増えて、側には八幡がいてくれる。

 もしかしたらこの光景も八幡からの誕生日プレゼントなのかな。

 ううん。あたしにとっては、八幡に出会ったこと自体が人生で一番大きなプレゼントなのかもしれない。

 だって、もしも出会わなければ。

 あの時大志が小町に相談を持ちかけなければ。

 あたしと比企谷八幡の接点は無かったかもしれない。

 それはつまり、八幡の強さ、弱さ、優しさ、哀しみを知ることは出来なかったということ。

 

 今のあたしにとっての最大の幸せは、隣に八幡がいてくれること。

 今のあたしにとっての最大の不幸は、もっと早くに比企谷八幡に出会えなかったこと。

 

 考えて、自分で可笑しくなる。

 だってさ。あたし自身の幸せや不幸の筈なのに、その両方ともこいつが原因だなんて。

 まったく笑える話だよ。高校一年生の頃のあたしに聞かせたら、きっと一笑に付すだろうね。

 

 あたしは変わったな。

 人を好きになることを学んで、人を愛することを覚えた。

 だけどさ、こいつは。

 こいつはきっと変わらない。

 昔に比べると笑うようになったし、ふざけるようになった。真面目で暗い印象なんて、もうあたしは感じていない。

 でも、きっとこいつの本質は変わらない。

 

 だから。

 あたしは、いつか八幡が傷付いた時の傷薬になろう。包帯になろう。副え木になろう。杖になろう。

 きっとこいつは、いつかまた他人の為に自分を犠牲にして傷ついてしまうから。

 

 だって、捻くれた風でいるけれど、八幡は底なしのお人好しだから。

 本当は誰よりも「人」を信じたい人だから。

 

「なあ、沙希」

「ん?」

 

 隣で呼び掛けてくれる八幡の肩に頭を預ける。

 大志や小町がニヤニヤ見てたって、もう照れはしない。なんせもっと恥ずかしい姿を見られた後なのだ。

 なんなら世界に向けて発信したいくらいだ。

 あたしは、お姉ちゃんは、こんなに幸せなんだぞ、って。

 

 きゅるるる。

 

 隣で何かが鳴いた。

 

「俺、腹減ってるんだけどさ。なんか食っていいか?」

 

 リビングから音が消えた。

 しーん、ではなく、きーん。 そんな感じの沈黙。

 大志は苦笑を浮かべ、小町は頭を抱えてしまった。母親たちは一拍の沈黙の後に愛想笑いを交わ出し、父親たちは酔い潰れて寝てしまっていた。

 

「はぁ、まったくあんたって」

「仕方ねえだろ。俺だって生きてりゃ腹も減るんだよ」

 

 もう、台無しだよ。せっかく幸せな雰囲気に浸ってたのにさ。

 あたしが立ち上がるのを制止しようとする大志を睨みつける。

 いくらあんたでも、今日があたしの誕生日でも、こいつの給仕は誰にも任せられない。

 あたしの小さな幸せを奪うんじゃないよ。

 

「あいよ、ごはんは大盛りにしとく?」

「ん、頼むわ」

 

 炊飯器のあるキッチンで、御飯をよそいながら味見をする。

 ん、ちょっと柔らかいかな。母ならこんな失敗はしないし、炊いたのは大志だね。この季節の米は新米だから水加減が難しいんだよね。

 お父さんが使っている茶碗に御飯を山盛りにして、思わずにやける。

 

 あたし達は、まだ大人の世界の入り口を覗いているだけの子供だ。

 だから、一歩ずつ二人で進んでいけたら、いいな。

 

 この景色が、いつか絆で結ばれるまで。

 

「……で、結納はまだ早いとして、婚約だけでもしときましょうか」

「そうですわね。でも本当によろしいんですの? 沙希さんはウチのぐうたら息子にはもったいないお嬢さんですけど」

「それがねお母さん、どうやら沙希が八幡くんにべた惚れのようでして……」

 

 未来は、そう遠くはないのかもしれない。

 

 あと、八幡にもらった白い薔薇が二十本あったのは、来年の今日まで言わずにおこう。

 もしかしたら、これが「来年の誕生日も一緒に過ごそう」という八幡のメッセージなのかも知れないから。

 来年は、二十一本の花を貰えるかもしれないから。

 

  了

 

 

 

 




お読みいただきまして、本当にありがとうございます。
今回が「京葉ラブストーリー」の最終話となります。

千葉ラブストーリーの続編として書いてきた「京葉ラブストーリー」も、何とか最終話まで書き上げることが出来ました。
千葉ラブストーリーがドラマ仕立てだったのに対し、京葉ラブストーリーは純粋に沙希と八幡の関係を書いたつもりです。

なお、仕事や体調など、自分の都合で回収しきれない伏線が残ったまま終了となることをお詫び申し上げます。
戸塚の大学編入の話やその他の伏線の回収話は、またいつか書けたらいいなと思っております。

ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
一見さま、常連さま、格別のご贔屓を賜った方々、全てのお読み下さった読者さまに感謝です。

では、またいつか。必ず。


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特別篇 聖夜に降るキセキ 〜Winter Song〜
師走は今年もやってくる


お久しぶりでございます。
もうすぐクリスマス☆ということで、短編というか番外編というか特別編というか……
ちょっとだけ書かせて頂くことに致しました。

〜あらすじ〜
交際を始めて初めてのクリスマスを迎える八幡と沙希。
やはりこの二人のクリスマスは普通では無いようで。

予定では5話の短編となります。



 憂鬱な季節である。

 例年、暦が十二月に入ると街のあちらこちらから洗脳が始まる。

 街路樹には電力の無駄遣いと思しきLEDの電飾が施され、通りにはあの忌まわしきリア充イベントのシンボルカラーである赤や緑、雪を連想させる白がやけに目立つようになる。店に入れば嫌でもジングルベルが聞こえるし、もう少しすれば対ぼっち用決戦兵器、量産型サンタも街角に実戦配備されるだろう。

 つまり──街はクリスマス一色に染まるのだ。本当、疎ましい事この上ない。

 

 さて、である。

 去年までの俺はクリスマスを何一つ悩むことなく、ただの平日として「ぼっち道」を邁進してきた。変わるとすれば食卓にチキンとケーキが並ぶくらいの微妙な変化がある程度。

 

 唯一、高校二年の冬は違ったか。

 あの時は海浜総合高校との合同イベントに駆り出されて、実に数年振りに家族以外とクリスマスイブを過ごす羽目になった。

 その後、柄にも無い行動をとったのは今となっては甘酸っぱい思い出だ。

 

 だが、今年はかなり事情が異なる。

 俺史上初の彼女がいるのだ。それ自体は凄く嬉しく、幸せなことなのだが……同時に懸念材料ともなっている。

 人生の大半をかけて侮蔑してきたリア充共と同じようなことをしなければならないと思うと、少しだけ戸惑いが生じるのだ。

 因みに、この季節になると憂鬱になるのは長年のぼっち生活で培った習性、脊髄反射みたいなものである。

 

 いや、沙希と過ごすのはいいんだ。あいつも俺と似た様なもので、高校時代はぼっちみたいなものだったから。

 だが今年は比企谷家と川崎家を巻き込むムーブメントを起こそうと画策している奴らがいる。

 うちの母親と、沙希の母親だ。

 

 沙希の家族は皆(父親を除く)俺に良くしてくれるし、うちの母親は沙希に得意料理を教えるくらい仲が良い。

 つーか母ちゃんに得意料理ってあったんだな。初めて知ったわ。

 だが、沙希と二人の甘いクリスマスを妄想していた俺にとっては面倒くさい案件だ。

 はぁ、どうすりゃ丸く収まるんだよ。

 

  * * *

 

 十二月半ばの週末。

 沙希が作ってくれた晩ご飯に舌鼓を打ちながら、面倒な案件について思考を割く。二世帯の家族が集まってのパーティーなんて、どこの欧米だよ。

 あ、このカボチャうめぇな。ホクホクだし皮も柔らかく煮てある。

 沙希がいるからカマクラがいる比企谷家は使えない。となると、やっぱ場所は川崎家になるのか。

 ふむ、この鰤の照り焼きは最高だ。俺の味覚に合わせて甘めに味付けされているのが心憎い。

 川崎家に行くとなれば、それ相応の覚悟をしなければならないだろう。特にアレだ。沙希の父親のご機嫌を多分に取らにゃならん。

 こないだの沙希の誕生日、最終話で号泣してたし。最終話ってなんだよ。

 おおっ、長ネギの味噌汁だ。これこれ、これが美味いんだよなぁ。ちょっとだけ七味を振って食べるとネギの甘みと唐辛子の辛さで身体の芯が温まるんだよ……

 

「あんたさ、食べるか悩むかどっちかにしなよ」

 

 顔を上げると沙希が苦笑していた。空になった味噌汁の椀をふらふらと浮遊させていると、すっと手を差し出してくる。

 

「いや、悪い。考え事をしてたんだが、お前の料理が美味すぎて集中出来なかった」

「それって文句なのか褒め言葉なのかわかんないね」

 

 味噌汁のお代わりを用意しながら零す沙希に少々の申し訳無さを抱きつつ、長ネギたっぷりの味噌汁を受け取る。

 そのままひと口、美味い。

 椀を置いて、箸休めの漬物に触手を伸ばす。

 

「ただの状況説明だよ……うほっ、白菜うめぇな」

 

 ぽりぽりしゃくしゃくと白菜の浅漬けの歯触りを楽しみながら飯を掻き込む。そこへ味噌汁をフェードイン。

 うめぇ、うめぇよサキサキ。

 

「そういえば、あんたってそんなに食べる人だっけ」

 

 御飯のお代わりをよそいながら話す声が少しだけ弾んで聞こえる。

 しゃーないだろ。美味いんだから。

 あれだな。胃袋を掴まれたら最後って言い伝え、ありゃ本当だな。ソースは今の俺。言わせんな恥ずかしい。

 

「しょ、食欲の冬……ってヤツだ。ほら、孤高の動物である熊だって冬眠の前には食欲が増すだろう」

「あんたは冬眠しないでしょ」

「だな。それだけが悔やまれる」

 

 沙希の呆れ顔を余所にもう一度味噌汁をお代わりするかを悩んでいると、「残ってるの食べちゃってからにしな」とやんわり怒られた。

 

  * * *

 

 若干食べ過ぎの腹も、二時間程経つと落ち着いてきた。

 沙希はシャワーを浴びに浴室へと篭っている。

 

 はぁ……マジでどうするかな。

 普段からあれだけ弟妹を可愛がっている沙希のことだ。きっとクリスマスは家族と過ごしたいに決まっている。

 対する俺は……くそっ。

 なんて利己主義なんだ。自分勝手な欲深さに落ち込む。

 しかし、日本人の一般的解釈からすればクリスマスはこっ、恋人同士で過ごす行事の筈だ。

 ……詭弁だな。

 ただ俺が沙希と過ごしたいだけだ。

 だが沙希が家族を優先させるであろう事は目に見えている。しかも両家の母親が結託しているのだ。

 つーか、両家は違うか。まだそういう段にはなっていないし。

 堂々めぐりの愚考を断ち切ったのは浴室のドアが開く音。

 

「あ、暖房つけといてくれたんだ。ありがと」

「寒かったからな、俺が」

 

 そうだ。俺が寒かっただけだ。沙希が湯冷めしない様にとか、沙希が薄着で居られる為にでは断じて無い……と思います。

 

「ふふっ、これだけ暖かくしてくれてれば薄着でも大丈夫だね」

 

 読まれた!?

 現に沙希は、上はTシャツ、下はスウェットだけという、冬場にしては軽い出で立ちだ。

 その恰好のままの沙希が俺の横へと腰を下ろす。たちまち風呂上がりの熱気と良い香りが俺の左半身を支配する。

 ──いかんいかん。

 

「お、俺もお風呂頂いてこようかな」

「頂くって、あんたの部屋でしょ」

 

 苦笑混じりで沙希が肩に触れる。忽ち良い香りが心にまで染みてくる。

 それで無くとも今日の沙希はやけに艶っぽい。俺がプロの童貞じゃなかったら押し倒してるところだ。

 え?

 してみりゃいいじゃん、って?

 出来るかよ、そんなこと。

 すれば俺の地蔵様が勃ち待ち……もとい忽ち大菩薩にメタモルフォーゼしてしまいそうだ。

 ぶんぶんと脳内から邪気を振り払って風呂場へ向かう。今日は冷水で心身を清めておこう。

 色即是空、南無。

 

「あ、そういえばさ」

 

 沙希が起こす微風に乗った湯上がりの香りが再び俺の鼻腔と下半身をくすぐる。

 

「あんた、クリスマスはどうするの?」

「……へ?」

 

 沙希の問い掛けに振り向いた俺は、きっと世界一間抜けな顔だったに違いない。

 ちょっとだけ前屈みだったのは俺だけの秘密だ。

 

 




いかがでしたでしょうか。
久しぶりに八幡X沙希を書いたので上手く表現出来ているか心配です。



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熱海リベンジ

さて、第2話はいきなり12月24日。
がらりと舞台が変わります。



 

 

 十二月二十四日、午後二時。

 冬の熱海駅に降り立った。

 ──寒い。

 冬だから寒くて当たり前なのだが、熱海という地名なだけに少しだけ残念に思ってしまう。

 沙希を見ると、コートの襟を寄せて寒風に身を震わせていた。

 改札を抜けた先の自販機でロイヤルミルクティーを買って沙希に渡すと、小さなリボンが付いた白い手袋の中で転がして暖をとり始める。団栗を齧るリスの様な姿を見て、思わず抱きしめたくなる。

 だがここは天下の往来、公衆の面前。夏のあの日のような羞恥プレイは二度と御免被る。

 睦み合いは秘事だからこそ良いのだ。

 

 もう一度ちらと見ると、沙希は上目遣いで俺を見ている。

 はぁ、分かったよ。その程度なら、な。

 若干緊張しつつ沙希の肩に手を回すと、目を逸らしつつも微笑んでくれた。

 

 さて、である。

 そろそろ何故沙希と俺が熱海にいるのかを語らねばなるまい。

 沙希の「どうするの」発言から頭をフル回転させて考えて覚悟を決めた俺は、ダメ元で沙希に外泊の提案をする事にした。

 出来たら今年は二人で過ごしたい。別に家族と過ごすのは嫌ではないが、川崎家と比企谷家の大軍勢を相手に大立ち回りを出来る自身は正直言ってまったく無いのだ。

 だけど沙希は家族、弟妹と過ごしたいのだろう。それが例年のことだからだ。

 京華にプレゼントを渡す沙希をふと思い描いてみて、何て幸せな光景なのだと得心する。やはり沙希は家族と一緒にいるのが一番しっくりくる。

 ま、断られたら断られたで次善策を提案しよう。

 そんな決死の覚悟を持って臨んだ第一回目の提案は、すんなりと通ってしまった。

 

「うん、いいね。そうしよう」

 

 そればかりかそれ以降沙希は上機嫌で、鼻唄なんぞ歌いながらネットで近隣の観光情報を調べ始めた。

 家族はいいのか、と問い掛けてみる。

 

「だって、あたしの為に考えてくれたプランなんでしょ?」

 

 ……うん。返す刀が可愛すぎるんですが。

 斯くして初めてのクリスマスは外泊に決定したのだが──。

 ここで元ぼっちカップル最大の弱点が露呈する。市井の行事に関しての情報の少なさ。

 つまり物を知らないのである。

 クリスマスに宿泊出来る宿を探し出したのが十二月の第二週が終わる頃。

 それまで特別なクリスマスを過ごす機会の無かった俺たちは、クリスマスを舐めていた。

 最初は、近場の横浜辺りでいいかと気軽に調べ始めたのだが……いくらネットで調べても、クリスマスに空いている宿泊施設など無い。

 ディスティニーランド? 真っ先に調べたさ。勿論満室だったよ。

 他の人たちはいつ頃から予約しているのか。そのリア充どもの用意周到さに元ぼっちの二人は敗北を喫したのだ。

 

 俺が温めたマッカンを片手にぶーたれている最中も、沙希は懸命にネットの海で一縷の望みを探していた。

 

「ゔぅー、全然空いてないよ」

「リア充どもの恐ろしさ、ここに極まれりだな……」

 

 この状況はまずい。このままでは沙希の笑顔がひとつ減っちまう。ネット検索は沙希に任せて、俺は自身の小賢しい脳みそを働かせる。

 ──しゃあない、保険を使うか。

 スマホをタップして一通の短文メールを送信、そのまま夏にお世話になった熱海の旅館に電話をかける。

 電話口に出たのは女将だった。夏にお世話になった比企谷です、と名乗ると、いつもご贔屓にして頂き云々と定型文の挨拶があった。

 クリスマスに宿泊したいのだが何処か空きは無いかという、今思うと少々失礼とも思える質問に女将は声音を落とすことなく応対してくれた。

 答えは──現在は予約で埋まっているが、もし当旅館や関連施設にキャンセルがあれば報らせてくれるとの事。

 沙希にその胸、もといその旨を伝えると、

「熱海リベンジか、悪くないね」

 などと大胸……もとい概ねの同意を得た。

 いや違うんだよ。

 別に胸に拘っている訳じゃなくて。その時の沙希の恰好ったら、ただでさえ豊かな胸がさらに強調されるニットだったんだよ。中二の頃の俺ならばあれで二桁はいけた。

 で、翌日一通のメール送信の後であっさりキャンセルが出て、クリスマスの行き先は熱海に決まったという訳だ。

 ただ、今回は夏に泊まった旅館とは違う別館だという事だった。

 ──若干話が違う。が、まあいいか。

 

  * * *

 

 熱海駅のロータリーから旅館に電話をかけて到着を知らせると、二十分ほどで迎えの車が着くと云う。

 俺たちは駅のバス乗り場の近いのベンチへ向かう。と、その向こうには足湯があった。夏に来た時にはここは工事中だったが、たった四ヶ月足らずで立派な足湯の施設が完成していた。

 濛々と上がる湯気が如何にも温かそうである。

 

「少し温まるか?」

「う、うん……じゃあ、一緒に」

 

 踵の高い茶色のショートブーツを脱いだ沙希は、スキニージーンズの裾を捲り上げて足先を湯に浸す。

 

「うん。丁度良い温度だね」

 

 既に沙希は踝まで湯に浸かっていた。俺も沙希の見立てたラクダ色のマウンテンブーツを脱ぎ、靴下を丸めて入れる。その隙に足は湯にイン。

 ほぇー、あったけぇ。

 湯に入れた瞬間はぴりぴりしたけど、温度に慣れたらもう極楽だわ。

 湯の中で沙希の爪先が俺の足を突いてくる。お返しに俺も沙希の踵を足の甲で持ち上げてやる。

 どうだ、湯に濡れた部分が寒風に晒されて冷たかろう。

 

「ひぐっ」

 

 ついに沙希が直接攻撃に出た。脇腹を指で突いてきたのだ。身を捩った瞬間に情けない声を上げてしまった。

 じろりと沙希を睨むと、吹けない口笛を吹く真似をしながら明後日の方を見上げてポニーテールを揺らしている。

 こんのやろー、許さん。

 

「ひゃっ!」

 

 どうだサキサキ。外気に冷やされた手を襟元に入れられた時の冷たさは格別だろう。

 

「よくもやったね。えいっ」

 

 うっかり二人してテンションが上がってしまい低い水しぶきを上げつつ足と足で水中戦を繰り広げていたら、向かい側に腰掛けていた年配のご夫婦に「いいわねぇ、若いって」などと笑われてしまった。

 二人して気恥ずかしくなって縮こまっていると、奥さんの方が手を差し出してくる。

 

「どうぞ、温泉まんじゅう。若い人の口には合わないかも知れないけど、名物だから」

 

 はたと気づく。

 夏に来た時には温泉まんじゅうは食べていない。それどころか買い食いすらしなかったな。

 あの時は気持ちに余裕が無かったとはいえ、そんなことまで気が回らなかった自分を少し残念に思う。

 沙希と目が合う。その掌には二つの茶色い饅頭があった。

 その片方を受け取って小さく俺頷くと沙希も僅かな首肯を返し、いただきますと一礼して饅頭をひとつ齧る。

 

「……美味しいっ」

 

 沙希の頬が緩むのを見て思わず顔を綻ばせると、奥さんは俺に優しい微笑みを向けてきた。

 

「さあさ、旦那さんも」

 

 沙希が()せた。熟れたトマトみたいに真っ赤な顔を俯かせて、けほけほと咳をする。バッグからペットボトルのお茶を出してキャップを開けて渡すと、こくこくと二度ほど喉を鳴らしたところで咳は治まった。

 

「ふふ、そんなに慌てなくても」

「いえそうじゃなくて、まだ結婚は、その……」

「あらぁ、そうなの。じゃあ今が一番楽しい時期ね」

 

 ころころと笑う奥さんは、五十代くらいなのだろうか。それにしては笑顔が若々しい。やはり温泉は美肌効果が抜群なのだろうか。

 

「結婚するとね、色々出てくるのよ。この人なんかこないだね、いい歳してキャバクラに行ったりして」

 

  聞くと、このご夫婦は共に六十代。高校の頃からの付き合いで、三回ほど別れてその度にヨリを戻して、今日は珊瑚婚式の記念で新婚旅行の地である熱海に来ているという。

 珊瑚婚というと三十五年だ。四半世紀プラス十年。すげぇな、俺たちが産まれる前から夫婦だったんだな。

 つーか何で三回も別れたのに三十五年も結婚生活を続けられたのだろう。

 旦那さんは「キャッチアンドリリースってやつだな」と、少々的はずれな喩えをしつつ口元を緩めるも、

 

「逃したんじゃなくって、逃げられたんでしょ、あたしに。三回も」

「馬鹿、結婚してからも二回だか実家に帰っちまったじゃねぇかよ」

「あら、ちゃんと覚えてたのね。感心感心」

 

 と笑う奥さんに水中で足を踏まれていた。

 

 それからしばらく、奥さんのぼやきを聞く係に任命されたのは同性の沙希だ。俺はもそもそと追加で頂いた温泉まんじゅうを咀嚼しながらご主人の方を見遣る。ご主人はばつの悪そうな顔で明後日の方向を向いていた。

 

 程なくして旅館の送迎のワゴン車が到着。年配の夫婦に一礼して足湯を辞する。

 

「なんか……いいご夫婦だったね」

「ああ、鴛鴦(えんおう)の契りってヤツだな」

 

 鴛鴦(えんおう)とは、雌雄のオシドリの事である。簡単に言えばオシドリ夫婦。

 悪く言えば……破れ鍋に綴じ蓋、か。

 うっかりダークな思考に陥りかけた事を省みつつ隣に目を移すと、沙希は何か思い悩んでいた。

 

「どした?」

「ううん……あんたもさ、キャ、キャバクラとか行きたいのかな、って」

 

 冗談はよしこさんである。これって大学の寒川教授が言ってた言葉だけど、よしこさんって一体誰なんだよ。

 あと、あっと驚くタメゴロウも然り。

 意味なく名前を引用されたよしこさんやタメゴロウさんが少し不憫に思えてしまう。

 と、また脱線したな。

 

「馬鹿云うな。金払って初対面の相手に話をするなんて誰がするかよ。俺の対人スキルの低さを見くびるなよ」

 

 一瞬だけ沙希はきょとんとして、すぐに溜息を吐く。

 

「ったく、人見知りを自慢するんじゃないよ」

 

 そう言いながら、笑みを浮かべて俺の肩に頭を預けてきた。

 

 

 




特別編第2話、いかがでしたでしょうか。
コンパクトにまとめようと思って、かなり描写を端折っちゃいましたw
すべては年末の忙しさのせいです(責任転嫁)

早くも次回はお宿にinです。


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ドウシテコウナッタ

再び熱海へ降り立った八幡と沙希の前にそびえ立つのは。


 

 

 さて、すっかり定型化された台詞でも云うか。

 

「──どうしてこうなった!?」

 

 旅館のワゴン車が着いた先は、どうみても一介の大学生には敷居が高いと一目で分かる、高台に立つリゾートホテルだった。

 一体全体、どういうことですかいな。

 ……いかんいかん。最近寒川教授の影響か、時々言い回しが古めかしくなっちまう。

 よし、寒川教授にはお土産を買って行こう。あと愛甲教授にも買っていかないと。あとは陽乃さん、か。

 ──とか今はどうでもいいんだよ。

 まずは理由を知りたい。

 何故俺たちがこのご立派なリゾートホテルにご案内されたのか。

 

 そんな俺たちの疑問を余所に、ワゴン車の運転手さんはいそいそと俺たちの荷物も引っ張り出してホテルのポーターさんに渡している。

 未だ説明も無く、状況が呑み込めない俺たち二人は、ただ茫然と荷物を追いかけてホテルへと足を踏み入れた。

 

 ──すげえ。何だよこのホテル。

 

 自動ドアの先にはブルーを基調としたロビーが広がり、まるで異世界に立った様な感覚に陥る。

 二階まで吹き抜けの天井には幾つも灯りが吊られていて開放感と明るさを両立させている。

 右手側には全面ガラス張りの窓から相模湾が一望。そこにはソファーが何組も設置されていて、現にそのソファーで寛ぐ人達もいるのだが……そこから聞こえる声は日本語では無い。英語とも違う。響きから推測するにスペイン語かポルトガル語だろう。

 中には日本人の姿も見えるが、皆一様に上品そうな出で立ちである。

 何だよここ。現代に甦った出島かよ。

 

 ふと自分達の服装を確かめる。

 沙希は……うん、綺麗だ。

 襟の大きなグレーのチェスターコートの下は白いタートルネックのニット、下はデニム地のスキニージーンズと茶色のブーツ。シンプルだが実に似合っている。

 左手首にちらっと光るのは誕生日に贈ったソーラー電波時計、右手の薬指にはこれまた誕生日プレゼントに贈ったシルバーのリングが控えめな光を放っている。

 

 さあ、俺の番か。

 俺は……黒のダウンにストレートのジーンズ。その下は無骨なマウンテンブーツ。

 ……わかっていたけど俺は完全に場違いだな。関ヶ原の合戦にジャージで参加しちゃったくらいに場違いだ。

 やばい、やばいわ。超帰りたい。

 後で協力者に文句を送ってやろう。

 

「ようこそおいで下さいました」

 

 広いロビーの奥にあるフロントへと目を遣ると、洋風のリゾートホテルに不釣り合いな梅の花をあしらった和服の女性が頭を下げていた。

 夏にお世話になった旅館の女将である。

 

「ほ、本当に……ここ、ですか?」

「すみません、此処しかキャンセルが出なかったもので。あ、お代は当旅館と同じ料金で結構ですので」

「……え?」

 

 おずおずと訊ねるも、どうやらこのホテルで合っているらしい。

 つーかこのホテルがあの旅館と同じ料金だって?

 いやいや、それは申し訳無さ過ぎるだろ。どう贔屓目で見てもこのホテルは一泊三万円以上するんじゃないのか。

 その証拠に、ガラス張りの窓から見える駐車場にはドイツやらイタリアやらの高級車が何台も停まってるし。

 本当、カプチーノで来なくてよかった。あれじゃ愛車の肩身まで狭くなっちまう。

 それはともかく。

 このお高そうなホテルを夏の旅館と同じで良いと言われても素直には頷けない。つーか俺の計画と違う。

 固辞し続けると、名案とばかりに女将は両手を叩き合わせた。

 

「じゃあこうしましょう。モニター価格ということで」

「モニターって……わざわざクリスマスに、ですか」

 

 方便であることは理解しているのだが、やはり申し訳ない。中々納得しない俺に、女将は身を寄せてキラーワードを呟いた。

 

「──先方のご要望なのですよ」

 

 はぁ……そういうことかよ。やっぱり後でとっちめてやろう、姉のんめ。

 

  * * *

 

 ふかふかの絨毯を歩いたその先のエレベーターに乗る。

 と、そこで不思議なものを目にする。

 ロビーから乗ったエレベーターの中に光るのは一番上の階のランプだ。

 まさか、このホテルの客室って──。

 

「ち、地下室……ですか?」

「違いますよ。当ホテルは山肌を背にして建てられておりまして、お客様方がいらしたロビーが最上階となっております」

「は、はぁ……」

「お客様方のお部屋は別棟の最上階、テラスルームとなっております」

「は? 最上階……?」

「ええ、そうでございますが、何か……」

「い、いえ……」

 

 おいおい、キイテナイヨ。

 ま、まあ、きっとあれだろ。

 最上階といっても別棟らしいし、部屋は普通だろ。

 

 その願いはすぐに崩れ去った。

 

「こちらでございます」

 

 ──広い。

 部屋へと入った瞬間に飛び込んできたのは広々とした室内。壁の代わりに全面ガラス張りになっていて、その向こうには相模湾。

 室内はリビング的な部屋と寝室に分かれているらしく、そのリビングだけでも俺のアパートの面積よりも広い。

 極め付けはガラス張りのリビングの外に広がるテラスだ。テーブルや椅子が配置されているそのテラスの奥には、露天風呂が湯気を立てていた。

 すげえ、凄すぎる。まごう事無きスイートルームじゃねぇかよ!

 

  * * *

 

 ホテルの方が辞去した直後、俺はスマホでこのホテルをググり始め、沙希は室内を調べ始めた。

 その数分後──俺たちは打ちのめされていた。

 

「マジかよ……一泊十万以上の部屋かよ」

「……え、二人で二十万、円?」

「ああ、どうやらその様だ」

 

 二人同時に頭を抱える。もしチェックアウトの時に「やっぱり二十万円頂きます」とか言われたら……貯金全額下ろさなきゃならなくなるぞ。

 

「でも……なら、この広さも、ドレスルームがあるのも、ベッドにカーテンが付いてても不思議じゃないね」

「……は?」

 

 俺の手を引く沙希に付き従うと、まずは洗面所みたいな場所にあるドアが開けられた。中は八畳程の広さの空間だ。

 

「ここが、ドレスルームみたい」

「え、何する場所なん?」

「着替えたり、お化粧したりする部屋……かな」

「こんなに広いのに着替えと化粧だけの部屋かよ。何ならここに住めるぞ、それも結構広々と」

「だね……あ、あと向こうだよ」

 

 次に開かれたドアの先には……え?

 

「ほら、あれ……」

 

 沙希が指差す先には、薄いカーテンがある。その中には必要以上に大きなベッド。

 こういうことか。

 

「しかし、でけぇベッドだな……巨人族でも寝るのかよ」

「ここに家族全員で寝られそう……」

 

 思わず零す沙希と目が合う。

 そうだ。俺たちは今夜ここに泊まるんだ。

 つまり、このだだっ広いベッドに二人で……。

 

「……ぁうぅ」

 

 沙希も同じ想像をした様で、真っ赤な顔をしてあうあう言っている。

 いかん、これ以上は身体に毒だ。早々に寝室を出てドアを閉めた。

 

「──ま、いざとなったら俺は、このでかいソファーで寝るわ。」

 

 感触を確かめる為、とりあえずソファーに座った。

 

「おわっ!?」

 

 やべぇ、超優しい座り心地。適度に弾力があるこのふわふわ感。まるで優しさに包まれている様だ。

 ──いかん。

 このソファーは人を堕落させる加護がある様だな。

 

  * * *

 

 未だ初体験のスイートルームに慣れない俺たちは、落ち着かないままに夕暮れを迎えた。

 相変わらず俺はきょろきょろと室内を見回している。沙希は全面ガラス張りの窓から相模湾を眺めてぼぅっとしていた。

 

 ──部屋がノックされた。

 

「お召し物でございます」

 

 ころころと運ばれてきたのは、ハンガーラック。そこにはスーツらしき服と、シルクのカーテンっぽい物が掛けられている。その向こうには女性の従業員が三人。

 頭にハテナマークを浮かべた沙希と俺を尻目に、女性の従業員たちが部屋に入ってくる。

 

「沙希様はこちらに──」

 

 その一人は、カーテンらしき物を腕に掛けるとアルミ製の工具箱みたいなアタッシュケースを持ったまま沙希をドレッサーの前へ連れて行ってしまった。

 もう一人の従業員はスーツを手に取ってソファーで固まる俺へと歩み寄り、残る一人は笑顔で語り始めた。

 

「お食事は一時間後を予定しております。お声をかけさせていただきますので、お着替えを済ませられましたら少々のお待ちを」

「ささ、殿方はあちらでお着替えを」

 

 ──え、え、どういう状況!?

 

 畳み掛けられる言葉の意味が理解出来ないまま一人寝室に押し込められる。

 目の前には絹の様な光沢を放つグレーのスーツがある。

 

「……これに、着替えろってこと、だよな」

 

 協力を仰ぐ相手を間違えたと悟るも時既に遅く、文句どころか出るのは溜息ばかりである。

 そりゃ、初めてのクリスマスを二人で過ごしたいとは思ったけどさ。別に分不相応な贅沢をしたい訳じゃないんだよなぁ。

 メールで「どういうことですか」とだけ送ってみる。

 するとすぐに返信が来た。即レスかよ、ヒマ人め。

 

『いいのいいの、お姉さんに任せなさい』

 

 ──はぁ。

 仕方なくスーツを手に取る。

 あれ、これスーツじゃ……ない。まあいい、毒を食らわば皿までだ。

 後でしこたま文句を言ってやればいいだけの話。今は乗っかって置こう。

 

 それからおよそ一時間後、寝室のドアがノックされた。

 

「お食事でございます」

 

  * * *

 

 寝室のドアを開けると、そこにはレストランがあった。

 二人で使うには広いテーブルには純白のクロスが敷かれ、その上には対面になる様に皿が、その両脇には銀に輝くナイフやフォークが何本も置かれていた──。

 

 様変わりし過ぎの室内に呆気に取られていると、洗面所のドアが開いた。

 

 天使。否、女神と評するべきか。

 

 イブニングドレスというのだろうか。薄紅色のタイトなシルクのドレスに身を包み、肩にレース編みのショールを掛けた沙希が、歩きにくそうに足元を見ながら歩み寄る。

 見ると、その足には深紅のハイヒールが履かされている。

 そういえば……沙希のハイヒールを見るのは初めてだな。

 足元に視線を送り続けていると、その歩はぴたりと止まった。

 

「あ、あんまりじろじろ見ないで……」

「え、あ、いや……悪い」

 

 ハイヒールを履いた足って、すげえ。

 ただでさえ細く長い沙希の足が二割増しで綺麗に見える。

 しかし、本当に特筆すべきはその腰だ。

 踵が浮き上がったせいか、腰から足のラインが際立っている。要はヒップアップの効果が抜群な状態。ついでに破壊力も抜群、どうしてもそのラインに目が行ってしまう。

 

「すげぇ、本当にすげぇな……お前」

「あ、あんただって……」

 

 我に返って己の服装を見る。

 スーツ、背広、ブレザー、何れとも言い難い襟付きのグレーの上着とズボン、それに同じ色のベスト。

 シャツは襟が立ったもので、こちらは純白である。ネクタイは着け方がよく分からなかったのでしていない。

 足元には光沢のある黒い革靴。

 正式な呼び名はわからんけど、とにかく凄い格好をしていることは事実である。

 

「あらぁ、ノーネクタイもワイルドな雰囲気でお似合いですよ。でも」

 

 沙希の後に着いてドレスルームを出てきた女性従業員は、笑みを浮かべながら俺の前に立ち、アルミ製と思しき工具箱のようなケースを開ける。

 

「少々失礼を」

 

 得体の知れないクリームを指に取り、掌に移す。それを少しずつ指先に付けながら俺の髪を弄っていく。

 

「──はい、完成ですっ」

 

 向けられた手鏡の中には、見たこともない、別人のような自分がいた。

 

「特徴的でミステリアスな目をしていらっしゃるのでワイルドな髪型にアレンジしてみましたが、如何でしょうか」

 

 物は言いようだな。この腐った目をそんな風に表現されたのは初めてだ。

 さすがプロの接客は違う。

 女性従業員が問い掛けているのは沙希だ。だが沙希は俺の顔を見つめたまま固まって、見る見る間に顔が朱に染まってゆく。

 え、どしたの。血圧上昇?

 

「ん、上々な反応ですわね。では素敵なディナーをご堪能下さいませ」

 

 ドアが閉じられて二人きりの空間が出来上がる。

 淑女といっても過言ではない沙希に、馬子にも衣装状態の俺。

 椅子やソファーに座るのも憚られて、立ち尽くしたままでお互いを眺める。

 

「に……似合ってるよ、八幡。すごく、素敵」

「お前だって……絶世の美女みたいだぞ」

 

 だからこれ何のプレイだよ。まあ一種の羞恥プレイには違いはないけどもさ。

 だってサキサキの顔ったら、リンゴみたいに真っ赤なんですもの。

 

「あ、あとでさ……写真、撮ってもいい?」

「……写るなら二人で、だぞ。一人だけ恥ずかしいのは御免だからな」

 

 だから互いに立ったまま感想を述べ合うって、どんなバカップルだよ。

 

 

 




特別編第3話は、端的に言うと「どうしてこうなった」の一言で片づくお話でしたw
このセレブな状況を演出した協力者とは、一体誰なのか。
誰ノ下誰のんなのかっ!
うーん、謎ですねー(白目)

さてさて、次回はクリスマス・イブの更新となります。
一緒に過ごす相手が決まっていたり、クリパが予定に入っているリア充さんたちはどうぞ楽しんできてくださいコンチクショー!

ではまたイブに☆


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そして奇跡は二人を包む

初めてのクリスマス・イブをお高いリゾートホテルで過ごすことになってしまった八幡と沙希。



 

 

 夕食が始まった。

 

「アミューズでございます」

「オードブルでございます」

「スープでございます」

「ポワソンでございます」

「ソルベでございます」

「ヴィヤンドゥでございます」

「フロマージュでございます」

「デセールでございます」

「では後ほど食器を下げに参ります」

 

 ……はい、終了。

 

「どう、だった?」

 

 洒落た感じに盛り付けられたカラフルなデセールの皿に目を泳がせつつ、沙希が問うてくる。

 

「美味かった、んだろうな、多分」

 

 ……うん。

 美味かった。美味かったよ。何がどう美味いのかは今ひとつ記憶に無いけれど。

 でも、ただひとつ確かなことは。

 

「──米と味噌汁が欲しいな」

「あ、それあたしも思ったよ」

 

 同意する沙希と顔を見合わせて、思わず二人して苦笑する。

 そうなると、分不相応な衣装に身を包んで綺麗に盛り付けられたデザートが置かれている状況が可笑しく思えて更に笑えてくる。

 

「あー、米のメシが食いてぇ。味噌汁飲みてぇ。鍋物してぇ」

「だね。帰ったらやろうよ。確か近所のスーパーで(たら)が安かったね」

「お、鱈チリか、いいねぇ。やっぱり冬は鍋物だよなぁ」

 

 高級ホテルのスイートルームに相応しくない会話であるのは重々承知。

 だが、やっぱりこの状況はぼっち二人には荷が勝ちすぎるというか、大学生には早いというか。

 大体いきなりこんなハイソな状況に放り込まれても、庶民の俺たちには戸惑いしか無い。

 この状況を仕掛けたであろう人物に対して脳内で少々の恨み言を並べていると、まるでハトが豆鉄砲を連射された様に可愛らしいキョトン顔を見せている。

 

「どうしたの?」

「いや、この部屋の代金……どうしたもんかなと思ってな」

「そうだよね、いくら旅館の厚意とはいえ……これはちょっと申し訳ないよね」

「まあ、そう……だな」

「……」

 

 曖昧な返事をしてしまった俺を訝しむ沙希の視線を躱して、目の前の皿に盛り付けられた甘味に没頭する。

 うん、美味い。相変わらず何が美味いのかは分からんけど。

 

 デセール……庶民でいうデザートを食べ終えたタイミングで給仕してくれたホテルの方々が勢揃いで食器類を下げていく。

 

「いかがでしたでしょうか」

「あ、いや、結構なお点前で」

 

 思わず口から出たのは場違いな台詞。笑みを浮かべて一礼したホテルの従業員が部屋を辞去した瞬間、どっと肩の力が抜けた。

 見ると、向かい側に座っている沙希もパキポキと首や肩を鳴らしていた。

 

 ふと目が合う。

 

 不釣り合いなディナーの連続コンボに蹂躙された俺たちは、どちらからともなく噴き出してしまった。

 

「ぷっ……」

「くっ……」

 

 笑い声は相乗効果の如く、だだっ広いスイートルームのリビングに木霊する。

 その笑いが収まると、反動のように静寂が訪れた。

 

「──あっち、行くか」

 

 四人くらいが余裕で寛げそうな大きなソファーに、二人で身を沈める。うん、やっぱり堕落のソファーだ。

 上着を脱いだ俺はドレスシャツのボタンを緩め、沙希も肩に掛けたショールをふわりとソファーの背もたれに垂らした。

 

「俺たちは、セレブにはなれねぇな」

「……同感。あんな肩が凝る食事じゃ食べた気がしないね」

「だよなぁ。だいたい何であんなにナイフやフォークが必要なんだよ。意味が分からん」

「肉用や魚用で分かれてるみたいだけど、欧米の人ってすごいよね。あたし達なんてお箸とスプーンさえあれば何とかなるもんね」

「本当、一食であんだけ使ったら洗い物も大変過ぎるだろうな」

「あんた、夢は専業主夫だっけ」

「ああ、そんな時期もあったな」

 

 川崎沙希をちゃんと認識したのはこいつの弟、大志の依頼の時だ。

 あの時の俺は「働かない。養ってもらうんだい」などと豪語してたな。

 今思うと情けなくて笑えてくる。実際に好きな相手が出来て一緒に過ごしていると、そんな考えなど一度も起きなかった。

 考えるのは、どうやって一緒に幸せになろうかという、その一点のみ。

 まったく、変われば変わるものである。

 

「ま、夢は夢のままで終わらせるのが一番良いってことだ」

 

 苦笑する沙希が距離を詰めてくる。

 いつもと違う雰囲気の、ドレスに身を包んだ沙希。その露出した肩をつんと突いてみると、その肌の弾力に指が戻される。

 

「ま、こんな格好をした沙希を見られたのだけは良かったかもな」

「あんたもね。いつもと違う感じも、たまには……いいかもね」

 

 ソファーの上、沙希が俺の上へと被さってくる。その背中に手を回すと、光沢のあるドレスと、そこに露出した沙希の背中の感触が同時に伝わる。

 時刻は午後八時。

 

 ぱんっ、と破裂音が響いて、窓の外が明るくなった。

 見ると、大きな窓の外、冬の夜空に大輪の光の花が咲いていた。

 

「……綺麗」

「ああ」

 

 二人で窓の外に上がる花火を眺めていると、沙希が立ち上がって広いリビングの隅に走った。

 部屋を満たしていた暖色の光が消える。

 

「この方が、良く見えるでしょ」

 

 打ち上がる花火の閃光に照らし出されたドレス姿の沙希が暗い部屋に浮かび上がり、その艶かしい姿に見惚れる。

 

「ああ、まったくだ」

 

 多少受け答えが可笑しかったかも知れないが、そんなことはどうでも良かった。

 再び沙希は俺の横に座って、冬の夜空にきらめく花火を眺め出す。俺はといえば、花火を見る余裕なんて無い。

 沙希に釘付けだった。

 

 沙希の手を掴んで引き寄せる。何の抵抗感も無く引き寄せられた沙希は、すとんと俺の腕の中に収まった。

 その視線は相変わらず窓の外に咲く花火を見つめている。

 

「夢みたい……」

「夢、かもな」

 

 花火は佳境を迎えたのか、冬の夜空に色とりどりのスターマインが咲き乱れる。

 そして一拍の静寂を挟んで、花火大会のラストを飾るに相応しい大きな枝垂れ桜が夜空を埋め尽くした。

 弾け飛び、ゆっくりと高度を下げながら消えてゆく光の粒子は、まるで光を放つ雪の様に幻想的だった。

 初めて二人で過ごしたこのクリスマス・イブは、きっと色んな意味で記憶から消えることは無いだろう。

 

「夢なら、覚めないで欲しいな」

「なんだよ、結構セレブっぽいの気に入ってたのか」

「違うよ、馬鹿」

「じゃあ何だ」

「覚めないで欲しいのは……あんたとこうして居られること」

「……悪夢とかいうオチじゃないだろうな」

「馬鹿いうんじゃないよ。でも」

 

 沙希のしなやかな髪が俺の鼻先をくすぐる。

 

「たとえ悪夢でも、あんたと一緒なら構わない」

 

 言い切る沙希に、我慢出来ない程に恥ずかしくなる。

 思わず顔を逸らして、代わりに強く沙希を抱き寄せると、んっ、と小さく喘いだ。

 

「い、痛かったか」

「ん。ちょっとだけ。でも、今の痛みで、夢じゃないって、わかった」

 

 心なし沙希から伝わる熱が高くなる。肩にかけた手を恐る恐るその背中に這わせると、ドレスから露出した肌はしっとりと汗ばんでいる。

 心臓が踊り出す。その鼓動を沙希のそれが追い越し、再び俺の鼓動が沙希を追い越す。

 触れたい。もっと深く。

 

「ベッド……いこう?」

「あ、ああ」

 

 沙希の誘い文句と上目遣いのコンボに、プロのぼっちを卒業したばかりのこの俺が勝てる訳がない。

 ──さよなら、理性の化け物さん。

 

  * * *

 

 広い寝室に据え置かれた天蓋付きのベッド。その縁に俺と沙希は腰掛けている。

 

 二人が成人するまでは我慢すると決めていた。

 だが、現在の流れは確実にそちらに向かっている。

 その証拠に、ドレスから露出する沙希の肌は紅潮し、熱を帯びている。

 ああ、これはもう……アレだな。

 

「八幡」

 

 不意に沙希の吐息が左の頬にかかり、そこだけが燃える様に熱い。

 

「一年早いけど……いいよ」

 

 この一言で完全に流れは決まってしまった。

 奔流に流された理性の(たが)は呆気なく外れて、気がついたら両手は沙希の肩をベッドに埋めていた。

 

「沙希……」

「八幡……」

 

 軽く口唇を重ねる。離した瞬間の沙希の吐息がいつもよりも熱く感じられる。その熱が冷めない内に、もう一度。

 沙希の手が、ドレスシャツの背中を這う。俺の手も沙希の背中へ這わせると、くん、と沙希の腰が浮いた。

 

「んっ……もっと、もっと」

 

 甘く痺れるような吐息に、俺はドレスに包まれた沙希の豊かな双丘へ──

 

 ぴるるるるるる。

 

 暗く広い寝室に、スマホの着信音が響いた。

 びくっとして、俺も沙希も硬直する。

 はぁ、このタイミングで何だよ。

 

 ズボンのポケットからスマホを取り出して、画面を確認する。

 着信ではない。メールだ。

 しかも雪ノ下の姉、陽乃さんからだ。

 

「随分と無粋なスマホだね」

「……悪い。陽乃さんからのメールだ」

 

『外を見てごらん、雪だよ』

 

 ふと窓の外を見ると、確かに白く小さな物体が多数舞っている。

 

「沙希、雪だ、雪だぞ」

 

 沙希の背中に手を回して抱き起こす。ぼんやりした顔を向けた沙希は、窓の外を見た瞬間、目を輝かせた。

 

「本当だ……雪。綺麗だね」

「ああ、綺麗だな」

 

 窓の外に降る雪は、きっと翌朝を待たずに消えてしまうだろう。

 だが。だからこそ、儚いからこそ綺麗なのだとも思う。

 まあ、積もったら積もったで、俺の黒歴史を全て綺麗な景色にしてくれそうだが。

 

 ドレス姿のままベッドで胡座をかいて、窓の外に降る雪を眺める沙希。その後ろから手を回して、軽く抱き締める。

 いわゆる「あすなろ抱き」の態勢だ。

 

 ぴぴっ、ぴぴっ。

 

 アラーム音を鳴らしたのは、沙希の腕時計。誕生日の日に俺が贈った物だ。

 

「日が変わったな」

「……うん」

「来年も、見に来るか」

「来年も雪、降るかな」

「どうだろうな」

「じゃあさ、来年は雪を見に行こうよ」

「ほう、雪見遠足か」

「何だい、それ」

 

 やはり沙希は知らないか。とは云うものの俺も詳しくは知らない。ただ、雪が降らない地域では、雪を見に行く学校行事があると聞いただけだ。

 千葉を含む関東平野は量は少ないものの雪は降るので、その様な行事は無いのだろう。

 

「ま、ともかくだ。お前とクリスマスを過ごせたのは……俺の人生において国民栄誉賞並みの快挙といえるな」

「相変わらず回りくどいね」

 

 呆れ顔三割に、笑顔七割。そんな微妙な表情で俺を見つめた。

 

「ま、それが俺だからな」

「そうだね。急に変わられても気持ち悪いし」

「だろ? 俺が急に"愛してるぞ、沙希"なんて言い出したら可笑しいだろ?」

 

 一瞬、きょとんとした沙希が耳に手を当てる。

 

「え、なんて?」

 

 あれ? 聞こえなかった?

 

「だから……愛してるぞ、沙希、なんて急に云ったら──」

「ごめん、よく聞こえなかったよ。もう一回」

 

 おーい、沙希さんや。花火の音で耳が遠くなっちまったのかね。

 

「だから、愛してるぞ沙「あたしも愛してる、八幡」希……おい」

 

 ──。

 不意を突かれて、思わず固まる。その固まったところへ沙希の抱擁が襲来して、さらに固まる。

 ……ところで沙希さん。何処で台詞の途中に割り込むなんていう高等技術を身につけたのでしょうか。

 ズルいっス。それズルいっス!

 よし、こんな時は愚考に逃避行だぜっ。

 

「男子三日会わざれば刮目して見よ」

 

 三国志演義で呉の家臣、魯粛が呂蒙を見て言った言葉である。

 だが、この言葉に相応しいのは実は男子ではない。女の子にこそ相応しいと思うのだ。

 ソースは沙希。

 こいつ、元々高スペックなクセに進化が早過ぎるんだよな。

 ある時には気遣いに驚かされ、またある時には甘えん坊な面に驚かされた。

 勿論、再会した時の大胆さにも驚かされた。

 果たして俺は、沙希の進化についていけるのだろうか。

 

「だから、置いていかないで……八幡」

 

 なん……だと?

 

「八幡はさ、どんどん格好良くなってる。大人っぽくなって……頼れる男になってきてる。でもあたしは、ずっと甘えん坊で、進歩が無くて」

 

 そんなことは無い。元々のスペックが違っただけだ。

 昔から沙希は綺麗で可愛かった。一見冷たそうだけれども情に厚くて、家族を思いやれる素敵な女の子だった。

 俺は、そんな沙希に置いていかれない様に必死に足掻いていたに過ぎないし、無論まだ追いつけたとは言えない心持ちなのだが。

 

「ま、俺が頼れる男かは別にして……人のプラスと自分のマイナスを比べるなよ。それに」

 

「俺にとっては、お前のすべてがプラスなんだよ。非常に口惜しいけどな」

 

「だいたい何だお前。会う度にいい女になりやがって。おまけに美人で、可愛くて、頭も良くて……いや、そうじゃねぇな」

 

 最近やっと慣れてきた手つきで沙希の頭を撫でて、頭の中に湧き出る言葉を整理する。

 

「俺は、お前の色んな面を見るのが好きなんだ、と思う。強い面も、弱い面も」

 

 俺の腕の中で身を捩る沙希が呟く。

 

「おっぱいも、おしりも?」

 

「そうそう、このたゆぽよふわふわな感触を味わったら正直三回はイケる……ってそうじゃねぇよ!」

 

 うっかり沙希がいない間のソロ活動を吐露してしまった失態をノリツッコミという形で煙に巻こうと思ったが、俺の女神はそれを許さない。

 

「じゃあ、あとの二日は?」

「お前、俺が週五回もソロプレイに励む強者に見えるのかよ」

「見えるね。パンツ越しだったけど、あんたの……凄いじゃん」

 

 アレの大小と性欲の強さは関係ないと思うんですけど。

 つーか沙希。誰のと比べたんだよっ。

 大志か。大志だよな?

 大志だと言ってくれっ。

 

 くすくすと笑う吐息が妙に心地良い。

 

「そういえば、まだ決まり文句がまだだったね」

「何だよ決まり文句って」

「だって、もう二十五日じゃん」

 

 あー、それってアレですよね。

 リア充たちがクラッカーとか鳴らしながら言う、あの台詞ですよね。

 

「わかった、一度しか言わないからよく聞けよ」

「なんでそんな前置きなのさ……」

 

 こっ恥ずかしさを押し殺して沙希を見つめて──いざっ。

 

「メリー・クリスマ……んっ」

 

 俺の口は、沙希の口唇で塞がれた。

 

「……メリー・クリスマス、八幡」

 

 はは。やっぱり沙希には勝てねえ。

 ま、元々負けっぷりには定評のある俺だ。

 こんな幸せな「負け」なら大歓迎だ。

 

 窓の外、夜空に舞う雪は少し小降りになっていた。

 

 

 




特別編第4話、如何でしたでしょうか。
食事のシーンは、大河ドラマ「真田丸」の関ヶ原の合戦の描写を真似てみましたw
八幡と沙希は楽しくイブを過ごしておりますが、私のクリスマスは毎年お仕事。特別編の一話目の冒頭で書いたのは私の本音ですw
私と同じぼっちの皆様、辛島美○里さんの「サイレント・イブ」で身を清めてください♪
そして、
異性と過ごしているリア充の皆様、電気グルー○の「東京クリスマス」で甘い雰囲気を台無しにしてください♪

そして、地球上のすべての人たちに、

☆★☆ メリー・クリスマス ☆★☆

おし、半額ケーキ買うどー!


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夢のまた夢

今回で特別編も第5話。
最終話となる……はずです。はい。



 

 

 妙なセレブ感に塗れたイブを過ごしてしまい、寝不足かつ疲労困憊の沙希と俺は、チェックアウトの時刻を待たずしてホテルを辞去した。

 ちなみに昨夜は何も無かった。本当だよ。本当に本当なんだからっ。

 

 だだっ広いベッドでぽにぼにあんあんするつもりが緊張のせいか急に喉が渇いて、俺のアパートのよりも大きな冷蔵庫を開けたらそこにマッカンがあって……。

 喜び勇んでマッカンをぐびぐび飲んでたら、いつの間か沙希が一本のボトルに口をつけてて。

 

「この炭酸水、変わった味がしゅるぅ〜」

 

 それがスパークリングワインだったものだから慌てて止めたんだが時すでに遅く、あっという間に沙希はバタンキュー。

 潰れた沙希をベッドに寝かせた俺も疲れて爆睡。

 気がついたら朝日が射し込んでいましたよ。

 まあ、ドレス姿で寝乱れる沙希は可愛いかったからいいけどさ。

 

  * * *

 

 一度熱海駅のロッカーに荷物を置いた俺たちは、再び駅を後にして歩いている。

 クリスマス当日の街並みは静かだった。なんか日本のクリスマスって、イブが本番っぽいんだよな。他の国のクリスマスなんか知らんけど。

 

 さて、今日は沙希が前を歩いている。

 珍しく沙希が行きたい場所をリクエストしてきたからなのだが、その姿は先程まで二日酔いに頭を抱えていたとは思えないほどの凜とした歩様だ。

 

 二人で歩くのは、今年の夏に辿った街並み。

 あの時は、後に控える別れに向かう破滅の道に見えたものだが、今は違う。

 雲ひとつない高い空が見下ろすは、穏やかに笑みを浮かべる沙希。そしてその表情の微妙な変化に頬が緩み、気持ちを揺らす俺である。

 

 ふと商店のガラス戸に映る自分の顔を見てしまい、何という体たらくだと気を引き締める。が、すぐに沙希が肩を寄せてくるせいで忽ち頬は緩んでしまう。

 ザマーミロ、過去の俺め。今の俺はこんな状態だぞ。羨ましいか? ん?

 

『リア充爆発しろっ』

 

 なんて過去の俺は云うに決まってる。

 過去の俺の歯軋り顔を妄想しながら歩調を合わせていると、目的の店が見えてきた。

 夏にも訪れた、数々の文豪たちに愛された洋食屋だ。

 しかし着くのが早過ぎたようで準備中の札が寒風に揺れていた。

 さっきまで上機嫌だった沙希の表情が曇る。

 

「あのタンシチュー、美味しかったな」

「ああ、俺も絶対食べたかった一品だ」

 

 営業開始まで待つことも考えたのだが、この寒さの中で沙希を立たせておくのも気が引ける。

 

「あのな、もう一軒お勧めの店があるんだが……そっちへ行ってみないか?」

「へぇ、どんなお店?」

「喫茶店だよ」

 

  * * *

 

 東海道線でいうと熱海の次にあたる来宮(きのみや)駅方面に数分ほど歩いた場所にその店はあった。

 件の洋食屋と同じように、この喫茶店も昭和の時代には幾人もの文筆家たちが足繁く通った店だ。

 ドアを鳴らして足を踏み入れると、そこはもう昭和の世界だった。

 まず耳に飛び込むはモダンジャズ。アドリブを多用しないスウィングのリズムに誘われて足を進めると、目に入ったのは白とブラウン。上下に分けられた壁沿いに、四人掛けのテーブル席が並んでいる。その店内を照らし出すのは電燈の温かみのある光だ。

 店名の刻まれたショーケースの中には、何処の土産か分からないやうな民芸品が所狭しと居並んで()る。

 ……おっと、レトロな仮名遣いが出ちまったぜ。

 他の客の姿は無く貸切状態の店内を物色していると、店主の顔が見えた。

 

「いらっしゃい」

 

 若干頭頂部が枯れ野となりつつある白髪の店主は、朗らかな笑みで迎えてくれた。

 せっかくだからと、カウンター席に座らせてもらう。

 

「凄く良い雰囲気だね。居心地良くて落ち着く感じ」

「光の加減が丁度良いんだよな。明る過ぎず、暗過ぎずで」

 

 二言三言、ラリーを繰り返しつつメニューを見る。

 意外と云うべきか、中々に品数が多い。

 だが、俺はもう注文を決めていた。この店に来ることがあったら頼んでみたかった一品だ。

 

「ね、何にしようか。たくさんあって迷っちゃうね」

「ネット情報だが、ここはハンバーガーが名物らしいぞ」

「じゃあひとつはそれに決まりね。あとは飲み物、と」

 

 流し見るメニューの一番隅に、懐かしい飲み物も見つける。

 

「あ、俺は決まったわ」

「あたしも」

 

 二人揃って店主に伝えた注文は、

 

「ハンバーガーにクリームソーダ」

 

 だった。

 

 示し合わせていないのに同じ飲み物を頼んでしまった沙希と、思わず顔を見合わせて笑ってしまう。

 リア充たちなら別々の物を注文してシェアし合ったりするのだろうが、こちとら数ヶ月前まで現役のぼっちだった二人だ。そんな習慣はありはしない。

 見ると、店主も目尻を下げて笑っていた。

 

「新鮮だけど、懐かしい。妙な気分だね」

「そうだな。だがそれがいい」

 

 何処かで見た漫画の台詞で応える俺に「なんだいそれ」と口元を緩める沙希。その手をカウンターの下で軽く握る。

 急に手を握られて沙希は目をぱちくりとさせるが、理由は無い。何となくそうしたかっただけ。

 

「新婚さん……いや、違いますかね」

 

 クリームソーダをカウンターに置いた店主は、不思議そうに俺たちを見る。

 

「いや、まだ」

「それは失礼を。いやね、何だかお二人の雰囲気が熟成された白ワインのように感じたものですから」

 

 未成年の俺たちにはあんまりピンとこない喩えだが、店主の口調と表情からすると良い意味なのだろう。

 つーか何故、白ワインなのか。赤ワインじゃないのは何故なんだろ。

 

「シャトー・グリエ、というワインをご存知ですかな」

「すみません、あたし達まだ未成年なんです」

「は?」

 

 店主の調理の手が止まる。

 

「まだ十九歳の大学生なんです、二人とも」

「大変失礼しました。てっきり二十代前半のご結婚間近のように見えてしまって──」

 

 ぺこりと頭を垂れる白髪の店主に逆に恐縮してしまう。

 謝られることではない。沙希と夫婦に思われるなんてむしろ光栄なことだ。

 

「シャトー・グリエですね。二十歳になったら飲ませてもらいます」

 

 シャトー・グリエか。あとでググってみよう。

 

  * * *

 

「美味しかったね。ハンバーガーのイメージが変わったよ」

「俺もだ、あれはもうジャンクフードじゃないな」

 

 絶品のハンバーガーの余韻に浸りながら店主に見送られた俺たちは、今回の熱海リベンジの総仕上げにかかる。

 本来ならば旅館で一泊した後に来る筈だったのだが、誰かさんの妙な差し金のせいで調子が狂ってしまった。

 

 だが、ここだけは外せない。

 夏の時には絶対に寄ることが叶わなかった場所、来宮(きのみや)神社である。

 正式名称「來宮神社」。古くは「木宮明神」とも呼ばれ、祭神として三柱を祭っている由緒正しい歴史ある神社だ。

 

 ハンバーガーを食べながらその来宮神社の話をすると、沙希は目を輝かせた。やはり沙希も女の子、パワースポットという響きには弱いらしい。

 何年か前、この神社がパワースポットとして紹介されたのをテレビで見たことがあった。

 その時は境内にある樹齢二千年とも言われる御神木「大楠」が紹介されていたが、俺の目的はそれだけではない。

 

「クリスマスに神社って、あんたらしいね」

 

 どういう意味だよサキサキ。俺が捻くれ者だと言いたいのかえ?

 

「外から来た神様よりも昔からいる神様を大事にするって、身内を大事にするあんたらしいよ」

 

 ──閉口してしまった。

 そんな大層な理由じゃないんだけどな。ただ中二病を拗らせてる時に日本の神話にハマってただけなんて、今更言えない。

 つーかどうしてこいつは俺の言動を否定しないんだろ。

 

「それにあんたさ、好きそうじゃん。日本武尊(やまとたけるのみこと)とか」

 

 ほむん。しっかり見抜かれてましたね。

 この来宮神社の祭神三柱の内の一柱は、今沙希が口にした日本武尊(ヤマトタケルノミコト)だ。

 昔、日本書紀を読んだ時にそこはかとないラノベ感を幻視してしまい、のめり込んだ覚えがある。

 その日本書紀の中盤に登場し、勇者級の活躍をするのが日本武尊だ。

 

「はは、バレてたか」

「この神社って有名だからね」

 

 手水場で手と口をゆすぎ、本殿の前で賽銭を入れて二拝二拍手、一拝。

 沙希も俺も、何を願ったかは口にはしない。ただ沙希は俯き、俺は火照った顔を冷ましてくれる寒風が心地良かった。

 

 次に、御神木である大楠の周りを二人でぐるぐると十七周ほど回っておく。一周回れば寿命が一年延びるというから、十七年は長生き出来るらしい。ちなみに十七年とは、俺がトラウマの海の中に居た年数だ。決して沙希と出会うのに要した年数ではない。

 誰が何と言おうと認めない。つーか誰も何も云やしないか。

 

 けほん。さて。

 この神社に来た最大の目的は御守りだ。

 ここの御守りは種類が多い。その中から沙希の目を盗んで二つばかり御守りを買う。その横では沙希が御守りリストを見て悩んでいた。

 

「何の御守りが欲しいんだ?」

「あ、え、えっと……秘密。ちょっとあっち行ってて」

 

 んだよサキサキ。ちょっと寂しくなるぞ。泣くぞ。

 

「はぁ、分かった。向こうの自販機の前にいるから」

 

 乾いた砂利を踏み締めて自販機に向かう途中で、駆け寄った沙希に背後から飛びつかれる。

 やけにテンションが高いな。まさか、クリスマスだからアレを抜かしてるのか?

「うつつ」ってヤツをさ。

 

「なんだいさっきの顔」

「ん? 何がだ」

「泣きそうな顔なんかしてさ。あ、もしかして寂しくなっちゃった?」

「んな訳あるかよ。ガキじゃあるまいし」

「まだガキじゃん。あんたも、あたしも」

 

 まあそうだな。まだ大学一年生、親の世話になってる内はガキだ。

 

「だからさ」

 

 左手がきゅっと握られる。冷たくて気持ち良い。

 

「寂しい時は、寂しいって言いなよ」

 

 こいつ……。

 よし、じゃあお望み通りにしてやろう。

 自販機の脇、沙希を引き寄せて腕の中に収める。

 

「さみしかったよー、サキサキぃー」

「は、はぁぁ!?」

 

 うわ、動揺してやがる。超面白れぇ。

 調子に乗って沙希の背中に手を這わせて肩口に顔を埋めてやる。

 

「あ、あぅ──」

 

 恥ずかしいか。恥ずかしいのかサキサキ。大丈夫だ。俺も超恥ずかしい。

 こんな羞恥プレイ、地元じゃ絶対に出来ないな。

 では駄目押し。もっと恥ずかしいことをしてやろう。沙希の赤らんだ耳に口を寄せる。

 

「──いつもありがとな。お前のおかげで俺は幸せでいられる」

「──!?」

 

 沙希の身体が硬直する。肩が震え出す。次第に腕の中から固さが消えて、沙希の身体がもたれ掛かってきた。

 

「──ずるい。不意打ちなんて卑怯だよ」

「そか、悪かった。でも、ありがとな」

「……馬鹿、スケコマシ、八幡。あいしてる」

 

 やべ、仕返しされちまった。

 何となく言葉を返すのが照れ臭くて、目の前にある青みがかった髪を撫でる。

 どの位、そうしていただろうか。

 ふと視線を感じた。その先には竹箒(たけぼうき)を持った宮司さん。

 

「そ、そろそろ行くか……」

「もうちょっと、だけ」

 

 宮司さんのにやにやした顔に居た堪れない気分のまま、帰りの電車の時間まで西日の中、沙希を温め続けた。

 

 

 

 

 

 




特別編第5話、いかがでしたでしょうか。

前話のセレブ感(バブル感?)から一転、今回はハンバーガー食べてお宮参りでした。
やっぱり八幡と沙希にはセレブは似合わないw

と、もう一話だけ年内に後日談を投稿させて頂きます。
完全に蛇足なのですが、書きたいので書いちゃいます☆


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後日談 〜種明かしの夜〜

さて特別編は今回で終わり。
セレブ過ぎたクリスマスイブの仕掛人が登場です。



 

 熱海でのクリスマスから三日。

 沙希に内緒で帰省した俺は千葉市内のとある店に来ていた。

 今日は電車で行動している。何らやましいことがある訳ではないが、万が一街中の駐車場で沙希に見つかる危険性を考慮して、今日は愛車カプチーノは家で留守番だ。

 その為、時間の計算を間違えて約束の時刻の三十分前に着いてしまい、熱いマッカンを頼りに公園のベンチで丸くなっていたのは新たな黒歴史となるのであろうか。

 

 約束の夜八時、ブルースピアと書かれたネオンの下のドアを開けると、既に待ち人はカウンター席に座っていた。

 

「ひゃっはろー、比企谷くん」

 

 雪ノ下雪乃の姉、陽乃さんだ。

 軽く会釈をして陽乃さんの座るカウンター席の隣へ腰を下ろす。

 帰りしなに購入した熱海の土産である温泉まんじゅうを陽乃さんの前に据えて、深く一礼。

 

「……この度は大変面倒なお願いを聞いて頂き、誠にすみませんでした」

 

 カウンターに額がつく寸前まで頭を下げると、いきなり頬を抓られた。

 いたた……あれ、痛くない。

 ちらりと見上げると、そこには笑みを浮かべた陽乃さんがいた。

 

「本当だよ。沙希ちゃんにまたサプライズしたいからって、寂しいイブを過ごす独り身のお姉さんを巻き込むなんて、本当なら許されないんだぞっ?」

 

 はい。ごもっともな言い分でございます。

 ささ、温泉まんじゅうでも食べて気持ちを落ち着けてくださいませ。

 よし、お礼はこれで終了。

 さてさて、後は詰問……もとい質問タイムだ。あと苦情ね。

 と思っていたら陽乃さんから水を向けられた。

 

「で、どうだった? 私のサプライズは」

「完全なるやり過ぎです。あれは何ですか。新手の詐欺ですか」

「でも、そのおかげで沙希ちゃんと甘ーいイブを過ごせたんじゃない?」

 

 ……それについては否定はしない。

 普段とは違う沙希の姿を見て息を呑んだのは認めよう。だが、それも程度の問題である。

 

 十二月初旬、俺が陽乃さんに依頼した内容は、陽乃さんの名前で熱海の旅館に予約を入れてもらう事。そして、俺が旅館に連絡を入れたタイミングでそれをキャンセルしてもらう事だった。

 これは、沙希と外泊をすることに決まった場合、宿が取れない場合の保険として頼んだものだ。

 第一候補は沙希が望む場所。それが無ければ都内近郊の夜景が綺麗な宿泊施設。それらが予約出来ない場合、熱海のあの旅館へ行こうと考えていた。

 何のことはない、要は俺もリア充と同じことをしていたのだ。テヘッ。

 その依頼の為に陽乃さんには予めキャンセル料に相当するお金を渡してあったのだが……。

 

「別のホテルなんて話、全く聞いて無かったですよ。しかもあんなセレブが泊まるような部屋だなんて。預けてあったキャンセル料じゃ到底足りなかったでしょう。不足は幾らでした?」

 

 財布を出して追徴金を支払おうとする俺に目もくれず、陽乃さんは優雅にカクテルグラスを傾ける。

 

「あれは私から二人へのプレゼントだから、気にしなくていいよ〜」

「いや、そういう訳には……」

 

 喰い下がる俺の背中から声が聞こえる。

 

「今回は陽乃さんに甘えとこうよ、八幡。また何かの形でお礼すればいいじゃん」

「いやいや、足りなかった分は払うべきだろう。沙希ならきっとそうする……って、沙希!?」

 

 振り向くと、何故か沙希が仁王立ちで俺を見ていた。

 

「ったく。何をこそこそ企んでたかと思えば……」

「いや、違うぞ。これは……そう、これは陽乃さんが計画したことで」

 

 罪をなすりつけようとした相手である陽乃さんは、愉快そうにグラスの中のチェリーを弄びながら俺を見て笑っていた。

 

「ごめんね比企谷くん。ぜーんぶ喋っちゃった。てへ」

 

 てへ、じゃねぇよ。かわいいなおいっ。

 

「どう? ここまでが比企谷くんへのサプライズでした〜」

 

 だからパチパチパチ〜じゃねぇよっ!

 

「つーか沙希、いつ知ったんだよ」

「昨日だよ。ていうか、前々からおかしいなとは思ってたんだよ。あんたは十二月に入った途端によそよそしいし、陽乃さんには大学で会うたびに冬の熱海はいいよーとか何回も言われたし」

 

 じっと陽乃さんを見つめてやると、ばつの悪そうな顔を作って言い訳を始めた。

 

「あ、あはは……だってぇ、独り寂しくイブを過ごすんだもの。このくらいの悪戯はしたいじゃん? それにさ、私だって誰かにサプライズしたかったんだよ」

 

 ……その矛先が俺ですか。

 まあ、あんな手の込んだサプライズは陽乃さんくらいしか実行出来ないだろうけど。救いだったのは悪いサプライズじゃないことだな。

 

「つーか陽乃さん、あの日熱海に居ましたよね?」

「ん? いないよ。どーして?」

 

 まったくこの人は……。何故すぐバレる嘘をつくのか。

 

「クリスマス・イブの夜のメールですよ。熱海に雪が降ったなんて、あの日あの場にいなければ知らないことです」

「天気予報で見たかもよ?」

「はぁ……それもあるかと思って全部調べました。あの日の熱海の夜の予報は晴れ時々曇りでした。それに、この時期に熱海に雪が降ったのは数十年ぶりらしいです。ちなみにその日の千葉は晴れでした」

 

 整理してきたネットの情報を並べ終えた途端、陽乃さんは楽しそうに目を細めて笑った。

 

「へぇ、相変わらず優秀だね。大学卒業したらウチに来ない? 私の秘書として」

「お断りします」

「あーららぁ、残念。嫌われちゃった」

 

 その言葉の割りには愉快そうなお顔をしてらっしゃるのが少し腹立たしい。

 

「……また心にも無いことを」

「それは違うなぁ」

 

 カクテルグラスに浮かぶチェリーに軽く口唇をつけた陽乃さんは、艶かしい笑顔を向けてくる。

 

「私は比企谷くんを高く評価してるんだよ。君が高校の時からずっとね」

「あ、あたしだって同じです。ずっと八……比企谷を見てきました」

 

 沙希さん沙希さん。何でこんなとこで対抗意識を燃やしちゃうのかなぁ。

 

「おーこわっ。おめでとう比企谷くん、沙希ちゃんは立派な鬼嫁になりそうだよ」

「よ、嫁……って、え? え?」

 

 顔を真っ赤にしたところを見ると、沙希の耳には「鬼」は聞こえずに「嫁」だけが届いたらしい。

 

「あんまり未成年を揶揄(からか)わないでくださいよ……大人なんだから」

「あらぁ、私だってぴっちぴちの女子大生よ?」

 

 外見はそうだろうな。だが中身は混沌(カオス)だろうが。

 この女狐オン・ザ・ランめ。

 

「よし、今のでチャラね」

「──は?」

 

  突然何を素っ頓狂なことを言い出すのかね、姉のんは。

 

「だーかーらぁ、クリスマスのテラススイートの件は、今揶揄(からか)ったお詫びってこと」

「……お詫びの前払いって、すっげぇ恐いんですけど」

「大丈夫大丈夫、死にゃしないから」

 

 はぁ、食えない人だよ、本当。

 ──あれ?

 もしかして俺、上手く丸め込まれたのん?

 

「……また陽乃さんに借りが増えちまった」

「貸しじゃないよ。プレゼントとお詫びなんだから」

 

 ころころと笑う陽乃さんは本当に愉快そうで、そこには強化外骨格の欠片も無い。

 沙希と顔を見合わせて二人で溜息を吐く。

 

「でも、どうしてそこまで……」

 

 俺も聞きたかったその至極当然の質問を投げかけたのは沙希だ。

 仮にも俺は妹の告白を断って泣かせた男なのだ。そしてその原因と言ったら語弊があるかも知れないが、それが沙希である。

 その二人の初めてのクリスマスに、どうしてここまでしてくれたのか。

 

「んー、そういえばそうね。どうしてなんだろ」

 

 おいおい、理由も分からんのにあれだけのサプライズを仕掛けたっていうのかよ。

 社長令嬢サマの考えることは凡人の俺には理解出来ん。

 

「あっ、二人の行く末を見てみたくなったから、かな?」

「……へえ、そうっすか」

 

 今完全に取って付けたように言いましたよね。だが陽乃さんが一応の解を出した以上、更に追求するのはやめるべきか。

 

「沙希ちゃん、前にも言ったけど……比企谷くんを捨てる時は一声かけてね。お姉さん、すぐ拾いに行っちゃうから」

「ごめんなさい、それは無いです。あたしが八幡に愛想をつかされない限りは、ね」

 

 え?

 なんでそんな話になってるの?

 

「──だってさ、比企谷くん?」

 

 若干意地悪な光を灯した流し目の陽乃さんの艶やかさに動揺するも、何とか態勢を立て直して明言する。

 

「じゃあ可能性はゼロですね。俺も沙希に捨てられない限りはずっと一緒にいるつもりなんで」

 

「はぁ、熱い熱い。マスター、キンキンに冷えたビールちょうだい。あと暖房も切っちゃって」

 

「そんなことしたら他の客が凍っちゃうよ。陽乃ちゃんの冷気でね」

 

 流石は年の功と云うべきか、マスターは笑顔で切り返す。

 こういうのをウイットに富んだ大人の会話と云うのだろうか。

 普段話す大人が源氏物語の異訳に半生を費やす寒川教授だけの俺には、まったく解らない世界だ。

 まあ、何はともあれ。

 

「陽乃さん、どうもありがとうございました」

「いえいえ、私も楽しんじゃったから……あ」

 

 何かに気づいたように俺と沙希を見つめて、陽乃さんは置かれたばかりのビールのジョッキを持ち上げる。

 

「比企谷くん、沙希ちゃん」

 

「遅くなったけど……メリー、クリスマス」

 

 はい、メリークリスマス、でした。

 

「あとね、実はあのホテル、お父さんが予約してたのをこっそり頂戴しちゃったんだ。だから気にしないで」

 

 ──気にするわいっ!

 

  * * *

 

 店を出て駅に向かう夜道での話題は、当然陽乃さんの件だった。

 

「陽乃さんってすごいね。昔からああいう人だったの?」

「いや、そんなに古い付き合いじゃねぇから。でも、そうだな……昔からあんな感じだな。面白いと思った事にはすぐに手を出して、決して手を抜かない……厄介な人だよ」

「そうなんだ。でも、あたしは嫌いじゃないな。お節介なお姉さんが出来たみたいでさ」

「そうやって油断してると寝首を掻かれるぞ」

「でも、そん時はあんたが守ってくれる。違う?」

「まあそのつもりだけど……っておい」

「ふふっ、頼りにしてるよ」

 

 あ、あれ?

 俺っていつからこんなに丸め込まれやすくなっちったの?

 横で沙希はけらけらと笑ってるし。

 しかし。

 千葉の街を沙希と歩くのは久しぶりな気がする。あの時は夏真っ盛りの、互いにまだ虚勢を張っていて素直じゃ無かった時期だったな。

 それが今はどうだ。

 二人の手は恋人繋ぎでしっかりと握られていて、そこだけが真夏の様に暖かい。

 繋いだ手、沙希の親指を自分の親指で軽く撫でる。

 それを合図に沙希が寄り添ってくる。

 沙希の頭を肩に乗せたままゆっくりと歩き、街灯の路地を曲がったところでダウンのポケットを探る。

 

「沙希、これ持っておけ」

 

 差し出したのは、来宮神社で買った二つの御守り。

 

「何の御守りなん……あ」

 

 渡したのは「酒難除け」と「邪虫除け」の御守りだ。渡された手の中の御守りと俺の顔を幾度か往復した沙希の視線に少しだけ影が落ちる。

 

「勘違いすんな。別に深い意味はないからな」

「でも……気にしてるんでしょ?」

 

 恐る恐るといった感じで、沙希が問う。

 馬鹿か俺は。また虚勢を張ってしまうところだった。

 もう自分を偽る真似は沙希の前ではしない。例えそれがどんなに間違っていても。

 ──そう決めた筈なのに。熱海の来宮神社で、日本武尊(やまとたけるのみこと)に誓ったばかりなのに。

 成長しねえな、俺は。

 

「ああ、めちゃめちゃ気にしてるさ。お前がまた危ない目にあったら……なんて考えただけでも血の気が引くわ」

「……うん、ごめん」

「沙希が悪い訳じゃねぇよ。悪いのは、見えないからって心配になって疑っちまう……弱い俺だ」

「そんなことない。だって、あたしも同じ……だもん」

 

 沙希はぶんぶんとポニーテールを横に振りながら否定する。否定してくれる。

 

「あたしも、すごく不安。あんたさ、どんどん格好良くなってくし、あたしだったら放って置かないよ」

 

 それに関しては大丈夫だろう。

 この俺を格好良いなんていう珍妙な審美眼を持っているのは沙希、お前くらいだからな。

 あと戸塚もか。でゅふっ。

 

「ま、その俺が放って置かれなかった結果が、今の状況なんだがな」

「──あぅ」

 

 揶揄いついでに額の真ん中を人差し指でくりくりと押してやると、もの凄く嫌そうな顔をされた。

 

「もうっ、あたしの身体で遊ぶんじゃないよっ」

「その台詞、聞きようによっては超エロいからね?」

 

 本当飽きないな。なんなら一生こいつで……もとい、こいつと遊んでいたいまである。

 

「エ、エロくて悪かったね」

「お、自覚ありか」

「だって、いつも触りっこだけでめちゃめちゃになっちゃうし……否定出来るだけの材料がないもん」

 

 こ、こいつ……また欲情する様な、じゃなくて、けしからんことを。

 

「ま、自覚がありゃそれで結構、だがそのエロさは俺以外には見せるな。その為の御守りだ」

 

 ぽかん。

 沙希は阿保面よろしく口を半開きで目を丸くする。

 

「そ、そ、それって……もしかして、嫉妬、なの?」

 

 いきなり図星を突いてきやがったか。相変わらず情け容赦の無い奴だ。

 だが残念だったな。俺は陽乃さんへの報告とお礼の場に沙希が潜んでいたことに憤慨しているのだ。

 沙希め、開き直った小者を見くびるなよ。

 

「……くっ、ああそうだ。悪いか。誰だってお前みたいな可愛くて美人でスタイルが良くて可愛くて優しくて料理が上手くて可愛くて可愛くて、すっげぇ可愛くて──」

「も、もういいって、恥ずかしいってばっ」

 

 立て板に水とばかりにつらつらと矢継ぎ早に褒め称えると、真っ赤になった沙希がギブアップの宣言をした。

 

 おしっ、勝った。だがこんなもので許すものか。という訳で、更に追い討ちをば。

 

「とにかくだ。本来なら可愛いお前をずっと金庫にしまっておきたいくらいなんだよ。お前の可愛さを誰の目にも触れさせたくないんだよっ」

 

 駄目押しの一撃を加える。

 どうだ、もう降参だろ。おーおー、真っ赤になって下向いちゃって。

 沙希さん初心(うぶ)だねー。

 ちなみに今現在の俺の激しい脇汗は考慮しないで頂きたい。

 

 さあ。さあさあっ。

 俯く沙希の反撃をまだかまだかと待っていると、上目遣いプラス潤んだ瞳がアッパーカット気味に飛んできて、その破壊力に少しばかりたじろぐ。

 

「め、珍しい……ね」

 

 あれ。まったく予想していなかった言葉だ。ふむ、少しやり過ぎたかな。

 

「ん?」

「いや、あんたがさ、そんなことを言うなんて……さ」

「はっ、幻滅したか。俺は嫉妬深くて器の小さい男なんだよ。どうだ、嫌気がさしたか」

 

 何故胸を張っているかは不明だが、今まで言えなかった言葉を勢いで言ってしまった俺は誇らしげに沙希の眼前に立っている。

 さあどうだ。文句があるなら言ってみろ。最大限の譲歩はするぞ?

 束縛とも解釈出来る俺の吐露を聞いた沙希は、意外な反撃に出た。

 

「──ばっ、馬っ鹿じゃないのっ」

 

 おおっ、サキサキから久々のヤンキー臭がっ。恐いけど可愛い。こわいい。

 

「嫌な訳……ないじゃないのさっ」

 

 とすん、と軽い衝撃が胸に当たる。沙希の前頭葉付近が当たった衝撃だ。

 攻守交代、そのまま額をぐりぐりと幾度か押し付けた後、擦れて赤くなった額はそのままに手提げの紙袋から何かを取り出した。

 

「なら、あたしも堂々と渡すよ。はい、邪虫除けの御守り。それと──」

 

 続いて取り出したのは、マフラーだった。沙希にそのマフラーを首に巻かれた瞬間、ふわりと良い香りがした。

 

「あ、あ、あたしの家の柔軟剤の香り付きの……マフラーだよ」

 

 理解出来ずに茫然としていると沙希が身体ごと擦り寄せてくる。するとその香りが一層強くなった。

 

「あんたに悪い虫がつかないように……魔除けだよ」

 

 いやぁ、俺に限ってその心配は無いと思うけどな。しかし、(たで)食う虫も好き好きっていうし、万が一、いや億が一の可能性はあるのかね。

 その場合、俺は蓼か? 虫か?

 愚考で沙希の攻撃を凌いでいると、更に沙希が深く抱きついてくる。

 おい、人気(ひとけ)の無い夜とはいえ、まだ路上だぞ。

 

「もっと匂いを擦り込んでやる」

 

 服を擦り付ける度に柔らかい二匹の悪魔が肋骨の辺りの神経を侵食してくる。

 まだだ、まだ負けんよっ。勝負はパンツを脱ぐまで分からないのだ。

 巻かれたマフラーに鼻を当て、その匂いを記憶して沙希の首筋に顔を埋める。

 すんすん──あ。

 

「──本当だ。すっげぇお前の匂いがする」

「……あんたのその言い方も大概エロいからね」

 

 軽い意趣返しを達成した沙希と視線がぶつかり、見つめ合う。

 そしてそのまま……二人同時に噴き出した。

 

「なんだかね、あたし達って。二人して邪虫除けの御守り持って道端で抱き合ってさ」

「まったくだな。こりゃもう傍目から見たら、バカップルどころかただの馬鹿だぜ」

「馬鹿でいいさ、あんたと二人ならね」

 

 俺の腕の中で、沙希が微笑む。

 何度も諦めてきた。

 何度も自分に言い訳してきた。

 だけど、今の俺には諦めも言い訳も必要無い。

 沙希がいる。

 その事実が俺の人生に色を与え、見慣れた街の景色までも塗り替えた。

 

 沙希はどう思ってくれているのか。

 それを確認しようとは思わない。

 だって、沙希のその笑顔に嘘は無い。

 そう信じたいから。

 ずっとずっと、この笑顔を見ながら生きていけると、そう信じたいから。

 

「八幡……顔貸して」

 

 マフラーを引っ張る沙希に背を屈めて応えると、口唇が触れ、その隙間から白い吐息が漏れる。

 その口唇が離れる瞬間、沙希は呟いた。

 結果、俺の顔は火がついたように熱くなったのだが何を言われたかは語らない。語りたくない。

 俺が、俺と沙希だけが知っていればいいだけのことだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、突然だけどな」

 

「二年生になったらだが、引っ越そうと思ってる」

 

「へ?」

 

「船橋にな、安い部屋を見つけたんだよ」

 

「……うん? なんで船橋?」

 

「なんと2LDKで五万だぞ」

 

「それ、今の所よりも高い……え、2LDK!?」

 

「ん? 何か可笑しなことを言ったか?」

 

「い、いや、一人で住むには広いなぁ……って」

 

「誰が一人で住むって言った」

 

「じゃ、じゃあ、誰と──」

 

「お前しかいねぇだろ」

 

「は、はあああぁ!?」

 

「船橋からなら互いの大学まで同じくらいの距離だし……」

 

「ちょ、ちょっと待って……深呼吸させて」

 

「事後承諾になって申し訳ないが……お互い無事に進級出来たら、一緒に住まないか?」

 

「──あたしで、いいの?」

 

「むしろお前以外はお断りだ」

 

 まだ冬は長く、寒さは益々厳しくなるだろう。

 だが、それでも俺たちは春に向かって歩き出す。

 

『進級出来たら一緒に住もう』

 

 その言葉が留年フラグにならないことを祈りながら。

 

 

  了

 




特別編「聖夜に降るキセキ 〜Winter Song〜 」は、
これにて幕引きとなります。

この特別編、簡単に言っちゃうと……
沙希にサプライズを仕掛けようとしてはるのんを味方に巻き込んだら、自分がはるのんにサプライズされちゃったテヘペロ☆、というお話でしたw
もしまた八幡と沙希のクリスマスを書くことがあったら、アットホームな鍋パーティーにしたいなぁ。
と思いを馳せつつ。

ここまでお読みくださった皆々様、本当にありがとうございました。
それでは、良いお年を☆


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