ドラゴンクエストⅧ シアンの人 (松ノ子)
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その後
1話


 

あいしていると、

 

 

***

 

 自分の勘が外れてしまえばいいのにと、今日ほど強く願う事はない。

 だが、こういうときの勘など、今まで外れたためしもなかった。

 小さな雨が、足元や顔に当たっては、ぽつぽつと耳障りな音を立てる。

 頭上から降ってくるそれに、ヤンガスは盛大に舌打ちすると、懐に手を当てて、気まぐれな雨から守るように背を丸めた。

 途端に、かさりと懐で立てた音に彼はため息をついた。

 雨で濡れねずみになろうが、泥をかぶろうが、自分は気にも留めないが、懐にあるこの手紙はそうはいかない。

 この手紙の依頼主も、読めなくなったものを渡してほしいとも思わないだろう。

 ゆるやかとはいえど、雨音が強くなっていく中、辺りを見回して、もう一度舌打ちした。

 パルミドから続く平坦な道に、雨宿りができるような場所があるわけがない。唯一、雨宿りになりそうな格闘場と立っている場所とはそれなりに離れていて、自分の鈍足でどうこうなるものでもなかった。

 かくなる上は、とヤンガスが頭に手を伸ばしたその時。

 

「雨の中、たちんぼかい。友達」

 

 雨音の間を縫うように、静かな声がやけに響いて聞こえた。

 驚いたヤンガスが振り返ると、年老いたラバがぜいぜいと息を吐きながら、つぎはぎだらけの小さな幌馬車を引っ張り上げて、彼の横で止まった。

 

「どうだい、乗るかい?」

 

 御者台から差し出された大きな手とその声の主に、ヤンガスは目を瞬かせた。

 

「よく言うじゃないか。旅は道連れ、世はラバ一頭ってさ」

 

 口も開く間もないまま、大きな手に引っ張り上げられ、そのまま御者台に座る相手の隣に体を押し込んだヤンガスは、そうっと隣を見て、前を向くと、雨に濡れたラバの茶色い背を眺める。

 馬車が進む度に、古い幌馬車はあちこち軋んだ音を立てるが、旅をしていた時を思い出すようでどこか懐かしい。先程まで疎ましかった同じ雨音も、幌にあたっているだけでこれ以上にない陽気な音楽のように聞こえた。

 それらを楽しみながらも、ヤンガスはもう一度、相手――背の高い男を見た。

 ゆったりと手綱を引いて、ラバを先導する男はこの辺りに住む百姓だろうか。

 麻生地のチュニックと何度も洗われて色の薄くなった緑のズボン。擦り切れたサンダルをひっかけた男はどこにでもいる百姓のように思える。

 だが、相手の頭にあるものを見て、ヤンガスはしばし考える。

 百姓というものは、陽を避けるための麦わら帽子ではなく、貴族や金持ちが持つような黒いシルクハットをかぶるものだっただろうか。

 頭と体の格好が別々に分かれて一致しないせいなのか、違和感が先程から拭えない。最初に見た時は思わず固まってしまったほどだった。

 

「運が良かったようだね、友達」

 

 ヤンガスの見つめる視線に耐えかねたのか、男は話しかけてきた。

 慌てて居住まいを正すと、頭をゆっくりと下げた。狭いせいで、ぎこちない動きになったが、仕方ない。

 

「本当に助かりやした。あんたがあそこで通りかからなけりゃ、あっしはあっという間にびしょぬれになるところでげしたよ」

「分かるよ。あの辺りは、どこまでも平べったい道が続いてるだけだからね」

 

 ヤンガスの話に静かに相槌を打って、男はシルクハットを僅かに上げてこちらを見る。

 

「本当に運が良かったね、友達」

 

 シルクハットの影に隠れて顔はよく見えないが、覗いた帽子から見えた瞳が片方だった事に、ヤンガスは気づいた。

 

「あんたもアスカンタの方に、用があったんで?」

 

 相手の風貌に気付かなかったふりをして、ヤンガスは尋ねる。

 男はラバが脇道に逸れそうになるのをとめる為に手綱を僅かに引いてから、首を横に振る。

 

「いいや。ちょっとそこまでだよ。人を迎えにね」

「なるほど。あっしはちょっとしたお使いでげす」

「そうかい」

「そうでげす」

 

 会話はそこで途切れ、代わりに雨音が大きくなる。相手は沈黙が苦痛ではないのか、喋ることはない。

 だが、ヤンガスには、この雨音と車輪の音しか聞こえない静けさがほんの少し、気まずくなって、体をもぞもぞと動かした。

 ふと、男が小さく呟いた。

 

「へ、何か言いやしたか?」

 

 耳に手をあてて、ヤンガスが聞き返す。

 すると、男は片手をヤンガスの前にやった。その手には大きな瓶があり、中に入った紫色の液体が馬車の動きに合わせて、たぷたぷと踊っていた。

 

「一杯どうだい、友達。あんたが禁酒をしているとか、神に誓って酒を飲まないっていうなら、別だが」

 

 差し出されている葡萄酒と前を向いている相手の顔を見比べて、ヤンガスは目を丸くした。

 

「俺とあんたのちょっとした旅の記念にさ」

 

 その言葉にヤンガスはにやりと笑う。

 

「もちろんでげす、友達」

 

葡萄酒を受け取ったヤンガスは一気に酒をあおる。

濡れた口元を拭って、男に片目をつぶってみせると、帽子から覗いた口元が微かに笑みの形を作ったような気がした。

 



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2話

 降っていた雨もアスカンタ地方とパルミド地方を遮る森を抜けた途端に止み、厚い雲に隠れていた太陽もその光を地上に伸ばし始めた。

 アスカンタの城壁前に続く道で馬車から降ろしてもらったヤンガスは御者台に座る男に手を差し出した。

 

「本当に助かりやした。あんたとはまた呑みたいもんでげす」

「もちろんだよ、友達」

 

 差し出した手をしっかりと握り返してくれた男に、ヤンガスは自分の額を軽く叩く。

 

「おっとこりゃ、いけねえや。あっしとしたことが。気前のいい友達。あんたの名前を聞くのを忘れてました。あっしは、ヤンガスっていいやす。あんたの名前を教えて下せえ」

「名前……」

 

 黙り込んだ男は少し考えるそぶりをみせた後、ぽつりと囁いた。

 

「ラバ」

「……ラバ、でげすか?」

 

 ヤンガスは馬車の先に繋がれた本物のラバをちらりと見る。ラバは耳をぴくぴくと揺らしながら、口をもごもごと動かして、ぼおっと突っ立っていた。

 視線を男に戻したヤンガスは、彼の顔を窺おうとして、止めた。

 ヤンガスは生まれも育ちも裏の住人である為、名前という些細なものは気にしない。

 誰にだって知られたくない過去というものがあり、人間はそれを押し殺して今を生きている。

 もちろん、彼自身にだって年を重ねている分、山程ある。例えば、エイトにしか話していない苦い青春のメモリーなど。

 それこそ名前が知られていれば、名前を聞いただけで感づく者もいるし、悪ければその者に悪意をもって攻撃するのだ。

 きっとこの男にも、知られたくない過去があるのだろう。過去に何があったのであれ、今は普通の百姓として生きているのだ。それを踏みにじる権利はない。

 ヤンガスは歯を見せてにっかりと笑った。

 

「そうでげすか、ラバ。世話になりやした。また会いやしょう!」

 

 詮索することをしないヤンガスに、ラバは少しだけ驚いたそぶりを見せたが、ゆっくりと頷いた。

 

「うん。またね、友達」

 

 手綱をゆっくりと握りなおしたラバの幌馬車が進み始める。

 なだらかな坂道を登って、その馬車の姿がマイエラに続く方へと小さくなっていった。

 

「ラバ! あんたの酒は美味かったでげすよ!」

 

 もう聞こえる筈がないと思いながら、ヤンガスは大きな声で満足そうに言うと、アスカンタの城壁を潜った。

 中に入ったヤンガスの目には、整理された石畳の道と大きく広がる広場と行きかう人々の群れが映る。がやがやと活気のあるアスカンタ国の姿に、ヤンガスは感心したように声をあげる。

 

「相変わらず、ここは大きな国でげすなー」

 

 昼が近いせいなのか、色んな所から美味そうな匂いが漂ってきて、ヤンガスは空腹感を覚えて、腹をおさえる。

 早く懐にある手紙を送り届けて、ご馳走にありつこうと思ったヤンガスは城下町の中を歩き出すが、すぐに止まった。

 視界の横でよく知った背中が若い娘の肩を組んで、路地裏の方へと消えていったのが、見えたからだ。

 城下町の先にある建物を一度眺めて、ヤンガスは路地裏の方へと足を向けた。

 



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3話

「おっ、やっぱり。ククールじゃないでげすかー!」

 

 ヤンガスが足を運んだ薄暗い路地裏の奥では、今まさに青年が娘を壁に押し付けて、顔を寄せている所だった。

 あまりにも場違いで陽気なその声に、娘の方が小さく声を上げて、青年の腕から抜け出すと、そそくさと路地裏から何処かへ走り出していった。

 

「おやぁ、逢引中でげした?」

 

 にやにやと薄気味の悪い笑みを浮かべながら近づくと、がっくりと肩を落としていた青年が顔にかかっている銀髪を鬱陶しそうにかきあげて、ゆっくりとこちらを向く。

 ヤンガスの記憶と違わない青い瞳は、見る者が見れば、失神するのではないかと思う程に、鋭い剣のように尖っていた。

 殺気立っているともいえる青年に、ヤンガスはわざとらしく、ひらりと手を振ってみせる。

 

「そりゃあ、すまないでげすねえー。あっしとしたことが、つい」

「ヤンガス……。お前、明らかに俺の邪魔、したよなあ?」

 

 ひくひくと口元をひきつらせた青年――ククールの様子に気にした風もなく、ヤンガスは肩をすくめて、目をぐるりと回した。

 

「まさか。あっしは、たまたま、あんたに似た後ろ姿と知らない娘っこを見つけて、追っかけて来ただけでげすよー」

「その薄気味悪い笑みが、言葉を裏切っているが?」

 

 すかさず、切り返してきたククールに、歯を剥きだして笑みを深めた。

 

「あっしは元々、こんな顔でげす」

「……もういい」

 

 先程より、深く肩を落としたククールの背をヤンガスは慰めるように優しく叩いた。だが、すぐにべしりと振り払われる。

 

「せっかく、慰めてあげたというのに。……そういや、久しぶりでげすなー」

 

 大して痛くもない手をひらひらと振って、ヤンガスがそう言うと、ククールは目をすがめてため息をつくと、壁に寄り掛かった。

 

「二週間前くらいに会っただろうが。お前な、俺がパルミドに行く度にどっから現れるんだよ。それから、俺を酒場とカジノに連行するのはやめろ」

 

 世界を救う旅を仲間と共に終えて、ククールはよくパルミドを訪れるようになっていた。彼が一歩、パルミドの町に足を踏み入れると、ヤンガスが猪の如く、どこからか現れるのだ。

 

「いいじゃないでげすかー。減るもんじゃないでしょう」

「なにもかも、減るんだよ! ……それより、お前がこんな所にいるなんて珍しいな」

 

 修道院に戻ることのなかったククールは各地の地方に足をのばしている。対して、ヤンガスは故郷であるパルミド地方周辺が多かった。

 他の仲間のように余計なしがらみのない自分だからこそ、こんな風にあちこち、足を伸ばすことが出来るのだろうとククールが酒場でぽつりと語った事がある。

 両手をぽんと叩いて、ヤンガスは頷いた。

 

「ああ、確かに。あっしはお使いでげすよ。実はパルミドの情報屋の旦那から、ここの王へ手紙を渡しに」

 

 ヤンガスがそう言うと、ククールは数回、目を瞬かせて聞き返す。

 

「……悪い、よく聞き取れなかった。誰が、誰にだって?」

「だから、パルミドの情報屋の旦那の手紙を、アスカンタの王様にでげすよ」

「……は?」

 

 もう一度繰り返してやると、ククールは目を見開いて、口を開けた。

 どうして裏の住人が、という彼の心の声を読み取って、ヤンガスは辺りを見回す。人が来ないことを確かめてから、声を落とした。

 

「ここだけの話でげす。……実は、裏の住人である情報屋の旦那とアスカンタ国の現王は血が繋がった実の兄弟だと噂がありやして……」

「どうみても、ガセネタだろうが。そういう話はエイト辺りで充分だ」

 

 あっさりと切り捨てたククールに、ヤンガスは両手を突きだした。

 

「あっしも、昨日まであんたのようにそう思ってましたよ」

 

 今朝の事。情報屋によって呼び出されたヤンガスが、彼の隠れ家を訪れると、情報屋は机に座ったまま、一通の手紙を差し出してきた。

 

「ヤンガス君。どうか、ひとつ頼まれて頂けませんか」

 

 分厚い眼鏡を押し上げて、情報屋は宛て先を静かに告げた。

 噂を聞いていたとはいえ、信じていなかったヤンガスは驚いたが、何も聞かずに、その手紙を受け取った。

 

「旦那には、昔から色々世話になっていやすからね。引き受けたわけでげすよ。考えてみれば、旦那とアスカンタの王の髪や背格好がそっくりでげしょう?」

「……そうか?」

 

 顎に手を当てて、ククールは首を傾げる。情報屋の顔は思い出せるが、王の顔はぼんやりとしている。

 

「あんたの場合、どうせ姉ちゃんの顔以外は、頭のすみっこでげしょうが」

「そんな事はない。お前の顔は、隅にも置けない程、印象が良いからな」

「どういう意味でげすか!」

「そもそも、だ。王族の顔なんて、側近や近しい人間以外はなかなか拝めるわけないだろうが。そのガセを流した奴の面を拝んでみてえよ」

 

 ヤンガスとククールが見れたのは、旅の偶然ともいえるだろう。

 夜に訪れたアスカンタ城の玉座の間で、愛していた妃を失い、悲しみに暮れる王の姿を見つけたのだ。

 その後、心の優しい小間使いの娘の願いを聞き届け、アスカンタ地方に古くからある言い伝えのある願いの丘で、不思議な出来事と、そして、王の悲しみを溶かすきっかけを与えたのだった。

 ふと、ククールは思った。

 あの丘にあった沢山の建物の残骸。そして、ゾンビ系の魔物が多く出現する場所。元は、どのような場所だったのだろうか。

 だが、大して気にも留めずに、ククールは今まで寄り掛かっていた壁から、身体を引きはがした。

 

「……まあ、繋がり云々の話はどうでもいい。さっさと、行こうぜ」

「……は?」

 

 今度は、ヤンガスが目を見開いて、口を開ける番だった。

 

「王様の所に行くんだろう。それとも、俺が一緒に行くと何か困るのか?」

「……ええ、まあ。い、いや、ねえでげすが!」

 

 慌てて、誤魔化すように両手を振り回すが、ククールの目がいぶかしむように細まる。

 その射るような視線に耐えきれず、ヤンガスは肩を落とした。

 

「分かりやした……。一緒に行きやしょう」

 

 そして、諦めたように大きくため息をついたのだった。

 



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4話

 

 気づかない内にこわばっていた筋肉をほぐすように、ククールは歩きながら、背筋をぐっと伸ばして肩を上下させる。首をぐるりと回して、小さく息を吐いた。

 やはり、相手が好意的に迎えてくれても、王族という人間と接するのは疲れるものだ。トロデーンの王族――特に王――には、ずっと共に旅をしていたせいもあるのか、別の意味での疲れはあっても、そんな疲れは微塵も感じた事がなかったのだが。これは、やはり威厳や品格の違いなのだろうか。

 そんな事を考えながら、彼は視線を隣に移した。

 

「おい、ヤンガス」

 

 だが、隣にいるおかしな帽子を被った強面の男から、返事が返ってくることはない。

 すっかり生気の抜けた表情を浮かべ、身体を前に投げ出し、よたよたと歩くヤンガスに、彼は内心、このまま放置してしまおうかと、少しばかり思う。

 

「いい加減、その間抜け面をどうにかしろよ」

「……うるさいでげす……」

 

 覇気のない声でヤンガスはそれだけいうと、ぎりぎりと歯を噛みしめた。

 

「……お前なー、手紙を届けた位でご馳走にありつけると思ったのか」

「だ、だ、だまらっしゃい! ……って、いや、あっしはそんな、そんなあ!」

 

 そのまま、静かに滂沱の涙を流すヤンガスに、呆れたようにククールはため息を吐いた。

 顔の知られているククール達は、あまり待たされることなく、玉座の間へ通された。

 

「ようこそ、我が国へおいで下さりました! あなた方の世界を救う尊き旅に、我がアスカンタ国が少しでもお力になれた事、それは誇りとして永遠に語り継がれることでしょう。そして、あなた方の御名はこの世界にとって、永久に平和を保つ光となるのです。世界に真の平和を導いた類まれなる勇者として……」

「お褒めに頂き、光栄です。アスカンタ国王」

「光栄でげす」

 

 息もつかずに、賛辞の言葉を並べ立てたアスカンタ国王のパヴァンに、ククール達は内心拍手を送り、王の前でゆっくりと礼をした。

 満面の笑みを浮かべて玉座に座る王は、あの頃に比べ、どうやら少しばかり太ったように見えた。頬のこけていた顔は、今は自信に満ち溢れ、瞳は強く真っ直ぐで、王という風格が強く備わっている。

 

「わたしも、あなた方に会えて、本当に嬉しい。ところで、ご多忙の身であるお二方が何故、我が国に? ……もしや、また世界に危機が」

 

 さっと顔を曇らせて、膝の上で両手を組んだ王に、ヤンガスが慌てて両手を振った。

 

「違いやすよ。あっしは、ただの使いでげす。王様に渡してほしいと手紙を預かったんでげす」

「わたしにですか……?」

「そうでげす」

 

 一歩、前に出たヤンガスはうやうやしく片膝を着くと、もったいぶった仕草で懐に入れていた青い封筒に入った手紙を取り出し、王の方へと差し出した。

 すると、王は大きく眼を見開き、玉座から立ち上がった。

 それまでの穏やかな表情を失い、王はヤンガスとその手にある手紙を食い入るように見つめた。顔から血の気を失くし、同じように色のない唇をわななかせて、ヤンガスに尋ねた。

 

「その、手紙を、わたしに……?」

 

 それには傍に控えていた兵士達も驚いたようで、躊躇いがちに王を呼ぶ。

 だが、そんなざわめきも聞こえないかのようで、パヴァン王はヤンガスの返答を待っているようだった。

 

「そ、そうでげす」

 

 あまりにも、必死な表情に気圧されるかのように、ヤンガスはぎこちなく頷いた。

 その言葉に、背中を押されたかのように王は、緩い階段を下り、ヤンガスの前に立つと、震えながら、片手を差し出した。

 

「……その手紙を受け取っても、よろしいですか」

 

 王の手に、ヤンガスはおそるおそる手紙を乗せた。

 受け取った手紙をゆっくり、握りしめると、王はマントをひるがえして、玉座に戻る。

 

「ありがとうございます、お二方」

 

 座った時には、王は晴れた笑みを浮かべ、最初に迎えてくれたかのように落ち着いていた。

 ククールは、表情こそは変えなかったが、路地裏でヤンガスから言われた噂を思い出す。

 真偽はどうであれ、どうやら噂は真実を含んでいるように、彼は思えた。

 

「いやあ、あっしは頼まれたことを果たしただけでー」

 

 先程の異様ともいえる王の姿を、一瞬で彼方に追いやったように見えるヤンガスは、両手を揉みしだいた。

 

「あなた方には感謝してばかりです。何か、お礼をしたいと思うのですが」

 

 ヤンガスが瞳を無邪気な子供のように輝かせた。ククールはさりげなく、ヤンガスの隣に並ぶ。

 だが、王は申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「ですが、申し訳ありません。これから、所用がありまして……」

「えっ、そ……」

「御国で開かれる市の準備ですか?」

 

 ヤンガスが何かを喋りだす前に、ククールは王に尋ねた。

 

「ご存知でしたか。二週間後には開催されるので、今はその準備に追われておりまして」

 

 力強く頷いた王に、そうですか、とククールは涼しげな笑みを浮かべて、胸に手を当てると優雅に腰を曲げる。

 王宮でも、中々見ることはできない完璧な所作に周りの兵士が感嘆した。

 

「それでは、王。御前を失礼いたします」

「ええ。また我が国にお立ち寄りください」

「ぜひ、そうさせて頂きます。それでは、失礼を。……おい、行くぞ。ヤンガス」

 

 顔をあげて、微笑んだククールは呆然としたヤンガスの首根っこを掴んで、玉座の間から退出したのだった。

 うっ、うっ、としゃくりあげるヤンガスの顔を見ながら、先程の事を一通り、思い出したククールは呆れたように前髪を払った。

 

「いい加減にその顔をやめろ」

「うるさいでげす!」

「おい、騒ぐなよ。目立つだ……、もう遅いか」

 

 八つ当たりのように怒鳴るヤンガスのせいで、通り過ぎていく通行人がちらちらとこちらを見ているのに気付いたのだ。

 涙を滝のように流す強面の不気味男と、貴族のように麗しい青年の異様な組み合わせは、かなり目立ってしまうようだ。

 このままでは、この国を出ても、視線の追跡に追われそうだと、ククールは涼しげな表情のまま、げんなりとした。

 ふと、脇道に目をやると酒場の錆びついた看板が屋根の下にぶら下がっているのをみつけた。

 すると、扉から酒場の亭主であろう禿げた頭の男が計ったように、顔を出した。

 酒を呑むには、早すぎる時間ではあるが、この平和な時代だ。酒場は昼夜開くようになっている。

 

「おい、ヤンガス。一杯、おごってやるから、あっちの酒場にいこうぜ」

 

 途端にヤンガスが顔を上げて、子供のように澄みきった瞳できらきらとこちらを見た。

 

「本当でげすか!? いっぱいでげすか!?」

「誰が、たらふく呑ませてやると言った。……その気色悪い目をすぐにやめろ」

 

 やさぐれたようにヤンガスは舌打ちする。

 

「あんた、けちな男でげすなあ」

「おごられる側にしては、顔がでかいな……、お前」

 

 意気揚々と酒場の方へと向かい始めたヤンガスの背を眺めて、ククールは早くも後悔し始めた。

 



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5話

 

「それで、そこで兄貴がねえ……ひっく。こりゃあ、失礼しやした、お嬢さん」

「……誰が、お嬢さんだ。よく見やがれ、この酔っ払い」

 

 迫ってきた赤ら顔を、手に持っていたジョッキでぐいと押しのけて、ククールはため息をついた。

 

「でねえ、お嬢さんー……」

「とうとう、耳と頭まで酒に浸かったか……」

 

 安酒をたらふく呑んで酔っ払ったヤンガスの目には、ククールが、酒場の給仕係の娘に見えるのか、先程からひどく絡んでくる。

 あまりに酔いがまわったヤンガスに、ククールが試しに「おごれ、ヤンガス」と言うと、「よーしよし、おいちゃんがおごってやるでげすー」とありがたい返答を頂いたので、この酒はヤンガスの懐から呑ませて頂いている。

 だが、この酔っ払いのせいで呑む気もすっかり失せた。泡の消えたまずい酒を口にするのも諦めて、ククールはカウンターのがたついた椅子から立ち上がった。

 

「おい、ヤンガス。……ジョッキに話しかけてんじゃねえ」

 

 気が付けば、カウンターの横に積まれたジョッキの山に向かって、へらへらとヤンガスが何やら話し込んでは頷いている。

 

「そうなんでげすかー……。えっ? ああ、そうでげすねえー」

 

 その瞬間、こいつを放って、どこかの宿屋に引っ込もうと、ククールは決めた。

ヤンガスの脇を押しのけて、その体で隠れていた窓の外を見て、雨でも降っていないかと確かめる。

次の瞬間、彼は大きく目を見開いた。

 

「お、お客さん!?」

 

 酒場の亭主の驚いた声が後ろで聞こえたが、ククールは構うこともせず、扉を蹴破るような勢いで、店を飛び出す。

 夜をすっかり迎えた空は、小さな星々の光でぼんやりと明るく、道は家々から漏れる光によって明るい。

 きっとアスカンタの家々では、家族が顔を寄せ合って、暖かい食事をしているだろう。

 だが、そんな事を考えることもなく、ククールは辺りを見回して、すぐに落胆の表情を見せた。

 

「……気のせいか」

「何がでげすか」

 

 そんな彼の背に、のんびりした声が掛かる。

 

「お前、酔ってたんじゃねえのかよ……」

 

 振り返ったククールに、ヤンガスは空のジョッキをかかげてみせる。

 

「あんたが、あまりにも血相を変えて、店を飛び出すもんでげすから、何かあったのかと思いやしてね」

 

 先程まで、ジョッキを話相手にしていたと思えないしっかりとした受け答えでヤンガスは言った。

 

「それで、なにかありやした?」

「……なんでもねえよ」

 

 ククールは視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに言うと、追及を拒絶するように背を向けてしまった。

 ヤンガスは小さくため息をつく。

 

「お、お客さーん、お勘定を……」

「そういや、忘れていやしたな」

 

 飛び出した彼らを追ってきたのであろう禿げ面の亭主の声に、ヤンガスは手に持っていたジョッキに目を向けた。

 次いで、少しばかし期待を込めた視線をククールの背に向けるが、どこか遠くを見る彼は振り向きもしなかった。

 

「あー……。あっしが払いやす」

 

 しなびた財布から銀貨を二枚だして、日頃の運動不足がたたったのか、ぜいぜいと息を吐く亭主に手渡す。

 

「確かにお代は頂きました。どうぞ、またうちの店をごひいきに」

 

 営業用の満面の笑みを浮かべた彼に、ヤンガスはジョッキを返しながら、尋ねた。

 

「ここいらで、一番安い宿はどこでげすかね」

「ああ、それなら……」

 

 親切に教えてくれた亭主に礼を言って、ヤンガスはいまだに背を向けて彫像のように佇んでいるククールの肩を叩いた。

 

「ククール、そろそろ宿にいきやしょう」

 

 ああ、と返ってきた硬い声音に、彼は静かに囁く。

 

「あんまり追いつめると、体を壊しやすよ?」

 

 ようやく、のろのろと振り向いた青年に、ヤンガスは歯を見せて笑ってみせた。

 

「探そうとするから、そこらに転がってる小石みてえな小さなものにまで、それを鏡のように見るんでげす。見分けがつかなくなってしまうまで疲れきってしまえば、人間は動けなくなっちまいます」

 

 諭すようにヤンガスがゆっくりと言うと、ククールは「……分かっている」と小さくつぶやいて、前髪をくしゃりとかきあげた。

 

「分かっている……」

 

 もう一度、囁いた彼の背を、ヤンガスは労わるように叩くと、共に宿の方へと歩き始めた。

 瞬く星々を纏った夜空は、そんな彼らを静かに見おろしていた。

 



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6話

空が青い。

その青さに、君の色を思い浮かべた。

また泣いているのだろうか。

強がりだった君は、よく隠れては泣いていた。

その涙に触れる役目になったのは、いつからだったのか。

 

 

いつから、君に惹かれていたのだろうか。

 

***

 

 晴れ渡る空。暖かな太陽の恩恵がトロデーンの地にひろがる。

 トロデーン城の一室で平和を噛みしめながら、エイトは小さくあくびをした。

 大きな窓から差し込む陽の光が体を暖めるせいで凄まじい睡魔が襲い掛かり、その度に首が前へと傾くのを懸命に持ち直すという戦いを、午後になってから、何度も繰り返していた。

 

「進まない……」

 

 あくびがでてくるのを何とか押さえこみ、彼は椅子の背もたれに体を預けて、小さく嘆く。

 大きな机の半分以上も占領する書類の山に目をやって、エイトは天井を仰いだ。

 この間に書類が煙のように消えてしまえばいいのにと願うのだが、幻想が現実になる事はなく、頭を下げた彼の目には、書類の山は先ほどと同じように映っていた。

 じっと書類を睨みつけている内に、また視界がかすみ、今度は持ち直すこともできずにふっ、と意識が飛んだ。

 がん、と部屋中に大きな音が響き渡り、エイトは手に持っていた書類を床に落として、額を両手で抱え込んで呻きながら、悶絶する。

 すると、正面にある大きな両扉が勢いよく開かれた。

 

「エイト、どうしたのですか!?」

 

 先程の音に驚いたのか、美しい黒髪の娘が足元まで覆われたドレスの裾を持ち上げて、エイトの方に急いで駆け寄ってきた。

 頭を抱え込んでいる彼の姿を見つけると、その澄んだ緑の瞳を大きく見開いた。

 

「大丈夫ですか!? 待っていてください! 今、お医者様を……!」

「つっ……、だ、大丈夫です! あの、頭を机にぶつけただけですから……」

 

 慌てて身をひるがえそうとした娘の白く細い腕を掴んで、エイトは痛みをこらえながらも椅子から立ち上がって、笑みを浮かべた。

 あきらかに無理をしている彼の表情を見て、娘は瞳を揺らした。

 

「でも、痛そうだわ」

「大丈夫です。このくらい、しばらくすれば治ります。だから、安心して下さい、ミーティアひ――」

 

 姫、と続ける前に娘――トロデーン国王の一人娘であるミーティアの細い指が、彼の唇に触れた。

 驚いて言葉のでないエイトに、頬を僅かに膨らませたミーティアは言う。

 

「ミーティア、です。エイト、約束を忘れてしまったの? それに、言葉も」

「……あ、えっと、ごめん。ミーティア」

 

 途端に、嬉しそうに笑うミーティアに彼は頬を染める。

 それをごまかすように、エイトは顔を逸らして、無意識の内に額に触れた瞬間、電気が走るように鋭い痛みが襲った。

 

「……本当に大丈夫ですか?」

 

 まるで自分が痛みを感じているかのように眉を寄せた彼女に、エイトは頷いた。

 

「大丈夫だよ。この机はきっと、オリハルコンと同じ位に硬いんだ。でも、心配はいらないよ。僕の方が強いからね」

 

 片目をつぶってみせると、ミーティアは微笑んだ。

 

「まあ、エイトったら」

「だから、心配しないで。それより、ミーティアがこの時間にこの部屋に来るなんて珍しいね。どうかしたの?」

 

 エイトの冗談に笑っていたミーティアは、その言葉で思い出したように胸の前で両手を組み合わせた。

 

「あ、そうでした! あの、今更ですが、お仕事中にごめんなさい。実は急なんですけど、ゼシカさんが明日、こちらにいらっしゃるんです」

「え、ゼシカが?」

 

 かつての旅の仲間の一人だったゼシカ・アルバートとミーティアは、歳も近いせいなのか意気投合し、旅が終わってからも、こまめに手紙を交わしていた。

 一国の姫という立場にあるミーティアに心の許せる友人ができにくい。広大な領地をもつトロデーンだからこそ、同じ年頃の貴族の娘と接していても、どこか壁があった。

 だが、ゼシカはアルバート家の令嬢で、身分という些細なことも気にしない性格だ。だから、尚更ミーティアにはゼシカというかけがえのない友人ができた事が嬉しいのだろう。

 

「それで、お茶会を開こうかと思って。あの、エイトのお仕事が忙しいのは知っているのですが……」

 

 物言いたげにこちらを上目遣いで見上げるミーティアに、エイトは口元がにやけるのを隠すために手で覆った。

 

「エイト?」

「な、なんでもないよ」

 

 不思議そうに首を傾げたミーティアに、慌てて首を横に振ると、胸に手をあてて軽く屈んだ。

 

「是非、お茶会に僕も招待して頂けますか、姫」

 

 そう尋ねると、ミーティアは花が咲いたかのように目を輝かせて、笑った。

 

「はい!」

 

 だが、すぐにミーティアは桃色に色づいた唇を小さくとがらせた。

 

「また、ミーティアを姫と呼びましたね?」

「えっ、あ、申し訳……ごめん」

 

 そのやりとりに互いに顔を見合わせて、揃って吹きだして笑った。

 その暖かさを改めて噛みしめて、エイトは幸せだなと思うのだった。

 



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7話

 

 

 

―嗚呼、この音色が好きだった。

 心地よくて、ぬけだせなくなってしまう程に。

 

―嗚呼、頬に触れる指の冷たさが好きだった。

 こっそり泣いていた私を見つけてくれるあなたが、いつも不思議だった。

 

―嗚呼、あなたへの想いがあふれて、たまらない。

 

 

 

 そうして、ゆるやかに開いた視界がぼやけるのだ。

 

***

 

 

「……また、泣いているの?」

 

 まぶたをそっと押し上げて、彼女は囁いた。

 自分のものではない感情が胸をぎゅっとしめつけ、まなじりからぱたぱたと、あたたかい涙が勝手に流れる。

 微かにきしんだ寝台の上で、寝返りをうつと、天蓋を見上げた。

 涙は止む気配はなく、彼女はそっと己の頬に触れた。

 

「どうか、泣かないでください」

 

 ゆっくりと涙を拭って、慰めるように呟いた。

 それでも、涙はこんこんと湧きだす泉のようにあふれ、心は悲しみに埋め尽くされた。

 

「また、あの夢だったわ」

 

 最近、同じ夢を繰り返す。それは、長く短い旅が終わって、しばらくしてからだった。

 初めは、たわいのない他の夢に混じるように断片的なものだったが、その夢は最近になって、まるで劇を観ているかのように鮮明に現れた。

 ただの夢ならば、しばらくすれば忘れるだろうが、この夢は彼女の心に焼きつけるかのように、鮮やかに色づいている。

 その夢の世界に広がるのは、見た事のない建物の中や、柔らかな日差しに包まれた庭の中と、細く長い廊下と様々だった。 

 だが、夢の終わりには、いつも同じ場面を見る。

 顔の見えない二人の青年と“自分”が各々の楽器を使って、いにしえの旋律を楽しそうに奏でているものだ。“自分”は彼女ではなく、まるで“誰か”の目を通した情景を観ているようだった。

 そして、視界が徐々にぼやけるのを合図に夢が終わり、目を開けば涙と悲しみがあふれた。

 

「……誰かが、誰かを想っているのかしら」

 

 この夢のことを、彼に話すべきだろうか。笑うことなく、聞いてくれるだろう。

 ようやく、涙がとまった頃に、扉を叩く音が聞こえた。

 

「ミーティア様、お目覚めでございますか」

 

 部屋の外から響く侍女の声に、ミーティアは最後にこぼれた涙を拭って、寝台から体を起こした。

 

「はい、起きていますよ」

 

 さらりとこぼれた美しい黒髪を耳にかけて、トロデーン国の姫は微笑んだ。

 秋の始まりとはいえ、城の中庭のあちこちでは、まだ夏の花が咲き乱れ、また秋の花も沢山のつぼみを付け始めていた。

 そのかぐわしい花々が一番見渡せる場所に白いテーブルと椅子を並べて、ミーティア達は話に花を咲かす。

 

「久しぶりに来たけど、お城、本当に元通りになったのよねえ」

 

 辺りを見回しながら、艶のある栗色の髪を二つに結わえた娘の言葉に、ミーティアは嬉しそうに頷いた。

 

「はい。お城も人々も元通りになって、ここの庭の花もまた咲いてくれて、本当に安心しました」

 

 あの廃墟のような光景は、とても心が痛かった。沢山の暖かい思い出が宿る場所だからこそ、尚更元通りになってよかったと、ミーティアは思うのだ。

 すると、小さなテーブルを挟んで向かいに座る娘が目を細めて、微笑む。

 

「そうね。私もよかったと思うわ」

「これも、ゼシカさんや皆さんのおかげです」

「あと、エイトも?」

 

 からかうような口調でゼシカが言うので、ミーティアは恥ずかしそうに視線を泳がせた。

 

「そういえば、招待状を受け取って下さって、ありがとうございます」

 

 花のような香りが漂う紅茶のカップから顔をあげたゼシカは、笑みを深くした。

 

「こちらこそ。それにしても、二度目の結婚式なんて。王様もよくやるわね」

 

 少しばかり呆れたような彼女に、ミーティは苦笑した。

 

「お父様は、この結婚式が国の人達との絆を強くするとおっしゃっていました」

 

 二年前に世界は平和になった。暗黒神によって、おびやかされる死の恐怖から解放され、世界は喜びに包まれた。

 

「時が経てば、かつての恐怖は薄れる。けれど、それは同時に平和が薄れるのだと……」

 

 恐怖は、時が経てば消えることはなくても、薄れていく。また平和という実感も、それと同じように薄れていくものだ。

 人々の中には、この平和がいつかまた壊れるのではないかと不安に思う者もいるかもしれない。

 父はそれを懸念し、そして思いついたのが、トロデーン国で盛大に行うミーティアとエイトの二度目の結婚式だった。

 

「……だからって、お祭りじゃなくて、結婚式っていう事を思いつくのは、ここの王様らしいわね。多分、誰も思いつかないわよ」

「ふふ。そうかもしれないです。でも、結婚式はトラペッタの教会で行うので、色んな人に会えるのが楽しみです。トロデーンの領地でもあるそこは、始まりの場所でもありますから」

「……エイトが真っ赤やら、真っ青で忙しくなりそうね……。そうだ、そのエイトはどうしたの? どんなに忙しくても、姫の可愛いお願いを聞かないなんてことはないでしょう」

 

 またもや、からかう口調で尋ねるゼシカに、ミーティアは小さく咳をして、微かに眉を下げた。

 

「今、遠方からお客様がいらしているんです。それで、お父様の側に。世界を救った英雄を見たいと」

「なるほどね。まっ、仕方ないわね。近衛隊長ともなれば、やる事も要求される事も多くなるもの。……前と、同じにはいかないわ」

 

 最後の部分はうんざりとしたようにゼシカが小さくため息をついた。まるで自分に言い聞かせるような彼女に、心配そうにミーティアは首を傾げる。

 

「もしかして……、またあれが届いていらっしゃるんですか」

 

 返事の代わりに、ゼシカは酒でもあおるように紅茶を一息に飲み干した。淹れたてだったはずなのだが、熱さを感じている様子は微塵もない。

 ミーティアは気をきかせて、ゼシカのカップに紅茶を注いだ。礼を言う彼女に、首を横に振って、席に戻る。

 

「うちは、賢者の血筋だからでしょうね」

 

 口を開いたゼシカが、先程よりうんざりとした表情で銀製のフォークをゆらりと握った。

 

「世界を救った娘と縁を結びたいという輩が、魔物のようにうじゃうじゃと」

 

 色とりどり様々な果物によって、綺麗に盛り付けられていたケーキにフォークが音を立てて、突き刺さる。

 あまりにも鬼気迫る彼女の姿に、ミーティアは心の中で微かに悲鳴をあげた。それでも、表に出すことはなく、友人の話に必死に耳を傾け続けた。

 

「しかも、その山のようなお見合い用の肖像画の中に、元許嫁様の肖像画があったときは、本当うんざりしたわ……」

 

 ざくりと突き刺しては、恐ろしい速さでケーキを口に運ぶ。

 最後にゼシカは疲れたように、ぐいっと二杯目の紅茶を飲み干してみせた。

 

「結婚なんて、私にはまだ考えられないのに。最近、本当に母さんがうるさいのよ」

「きっと、ゼシカさんを心配していらっしゃるんですよ」

「……それは、分かっているんだけどね……」

 

 ゼシカの父は早くに亡くなり、そして誰よりも彼女を理解してくれていた兄は、二年前に暗黒神の手により犠牲となった。

 アルバート家には、母親と彼女の二人しかいない。いつか、置いていってしまう娘を心から心配して、見合い話を持ってくるのだという。

 そんな彼女を、少しばかり羨ましいとミーティアは思う。ミーティアには、母との記憶があまり残っていない。

 母が病で逝ってしまった後、父は新たに妻を娶ることなく、忘れ形見といえる彼女を一層愛してくれたが、それでも少しだけ寂しいと幼心に思っていたものだ。

 少しの間、しんみりとした空気が流れる。それを壊したのは、青年の大きな声だった。

 

「遅れて、ごめん!」

 

 ミーティアとゼシカが首を上げて振り返ると、黒髪の青年がわたわたと慌てたように駆け寄ってきた。

 ゼシカが立ち上がって、彼に軽く手を振った。

 

「エイト」

「ゼシカ! やあ、久しぶりだね」

「久しぶり。隊長業はどう?」

「なんとか、だね。皆が協力してくれるから、助かっているよ。……でも、事務処理がどうも苦手で」

 

 ゼシカとエイトは笑顔を浮かべながら、ゆるく握手を交わす。

 隊服の窮屈な襟元のボタンを外しながら座るエイトの前に、ミーティアはカップを置いた。

 

「エイト、お客様はいかがでした?」

 

 尋ねると、エイトは目を細めて、目元を和らげてこちらを見ると、どこか楽しそうに笑った。

 その様子にミーティアは数回、目を瞬かせた。

 

「まあ、どうしたの?」

「なんでもないよ。うん、とてもいい人だったよ。今日の夜のパーティーで是非、ミーティアにも会いたいって」

「そう。夜にお会いできるなら、お話したいわ」

「きっと、ミーティアもあの人の事、好きになると思うな」

「エイトが言うのだから、とても素敵な人なのね」

 

 ほんわりとした二人の間に漂う空気を黙って見ていたゼシカは口元に指を当てて、くすりと笑った。

 

「ふぅん。姫じゃなくて、ミーティアねえ……」

 

 はっと我に返った二人に、ゼシカは濡れたように艶やかな唇を吊り上げて、にっこりと面白そうに目を細めた。

 

「ようやく、名前で呼んでもらえるようになったみたいね。姫?」

 

 その瞬間、ミーティアはエイトの為に取り分けていたケーキを皿ごと、彼の頭の上に落とした。

 



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8話

 澄んだ輝きを放つ無数の水晶で出来たシャンデリアの下では、トロデーン国の貴族達がそれぞれ着飾っていた。

 若い娘達は顔を見合せては楽しそうにくすくすと笑い、若者らはそんな花のように佇む彼女達をなんとかダンスに誘おうと互いに競い合っていた。

 宴のひらかれているホールを落ち着いた様子で眺めていたトロデーン国王のトロデは、視線を客人に戻した。

 目の前にいる銀製の杯を片手に持った客人は穏やかな表情で佇んでいた。

 

「いやはや。私の為にこのような宴まで用意していただき、何とお礼を申し上げていいやら」

「礼を申される程ではありませんぞ。お客人をもてなすのも、国の役目」

 

 ゆるく笑みを浮かべて、トロデが言う。

 襟に白い毛皮がついた赤いローブを羽織るトロデは重々しい威厳を漂わせており、堂々としたその姿は、まさに王という名がふさわしい。

 

「我が妻が生きていれば、あなたの来訪を心から喜んだでしょうな」

 

 相手は微かに眉を下げて寂しそうに笑うと、整えられた黒いひげがそよぐ。

 

「ええ、はっきりと目に浮かびます。それにしても、トロデーンの酒はまさに美酒ですな」

 

 客人が空になってしまった杯を揺らしてみせると、トロデの笑みが深くなった。

 

「相変わらず、お強い限りで。もう一杯、いかがですかな」

「それでは、お言葉に甘えて……」

 

 その時、出入口である大きな扉の両脇に控えていた二人の兵士が手に持っていたラッパを二度、大きく吹き鳴らした。

 

「トロデーン国の姫君、ミーティア様のご来場!」

 

 ざわめきが一瞬で止み、ゆっくりと開かれた扉から姿を現したトロデーンの宝姫の姿に、あちこちから、感嘆のため息がこぼれる。

 姿を現しただけで、ここにいる貴族達全員を魅了したその美しい姿にトロデは眩しそうに目を細めた。

 どこか夢をみるような微笑みを浮かべて、ミーティアはホールの中を進み、こちらへゆっくりと向かってくる。

 濡れたように輝く黒髪は結わえずに背中に流し、裾がふんわりと膨らんだ薄黄色のドレスを纏っていた。装飾は胸元にある紅薔薇のコサージュ以外なく、あとは左手の薬指にある赤い宝石の結婚指輪だけである。それも、シャンデリアの明かりをはじいて、炎のように揺らめいていた。

 

「……さながら、夜の精霊のようですな」

 

 囁くような客人の声に、トロデは少しだけ胸が痛んだ。

 成長した娘の姿を妻が見れば、なんと言うだろうか。

逝ってしまった暖かさを惜しみながらも、ぐっと目元に力を入れた。感傷なら、後でいくらでも浸れるだろう。

 ようやく、こちらに辿り着いた娘の顔をじっと見て、トロデは微笑んだ。

 

「待ちかねたぞ、娘よ。さあ、お客人にご挨拶を」

「はい、お父様」

 

 客人に向かって、ミーティアは洗練された所作でドレスの裾をつまみ、腰を深く沈めた。

 

「我が国にようこそおいでくださりました。どうか心ゆくまま、おくつろぎ下さいませ」

 

 顔を上げて、新緑の瞳を客人である男性へと向ける。

 その人は、年と背は父とさほど変わらず、年齢は父より少しだけ若いように思えた。

 目が合ったその瞬間、黒い瞳が懐かしむように目を細めたのに、彼女は気づく。

 だが、男性はすぐに柔らかい笑みを浮かべて、彼女の手の甲に軽く口づけを落とすと、年齢を微塵に感じさせない、ゆったりとした礼をしてみせた。

 

「ミーティアや。この方はアスカンタ国の大臣である」

「ローレイと申します」

 

 父の紹介を受けたアスカンタの大臣は目元にしわを刻んではいたが、穏やかな笑みが印象的だった。若い頃はさぞ女性達から好意を寄せられたのではないだろうか。

 

「ミーティア様、あなたは本当にお亡くなりになられた王妃様とよく似ておいでですね。特にその美しい翡翠の瞳は、まさに王妃様そのもの……」

「私の母をご存じなのですか……?」

「それは、もちろん。あなたが産まれる前よりずっと」

 

 戸惑ったように彼女は父の顔を見る。

 すると、父の顔によく城の誰かをからかう時に浮かべる、秘密をこらえきれないといった子供のような笑みが浮かんだ。

 

「あの、お父様……?」

「うむ。ミーティアや、驚くでないぞ」

 

 咎めるようなミーティアの声に、父は今まで纏っていた王の威厳をあっという間に崩しながら、続ける。

 

「ローレイ殿は、お前の母の弟にあたるのだ」

「……お母様の?」

 

 口元に両手をあてて、父とローレイの顔を交互に眺める。まあ、と唇からでた声こそは小さかったものの、心の底から驚いたように目を大きく見開いた。

 

「トロデーンの王妃、あなたのお母様はアスカンタの出なのは、ご存知でしたか?」

 

 ミーティアは頷いた。

 母がトロデーンの貴族ではなく、アスカンタ地方の貴族だった事は知っていた。

 王子であった時に、父はよく城を脱けだして、あちこちを周っていた際に、母と出会ったのだと城の誰かから聞いたことがある。

 それに城に来るのは父の一族や遠縁の者達ばかりであったので、母に身内がいるとは知らなかった。召使い達の間で飛び交う噂話を何度か耳にしたことがあったから、大体の事情は分かっていた。

 だから、本当に驚いたのだ。

 

「覚えていらっしゃらないかと思いますが、実はあなたが産まれた頃に一度だけお会いしているのです。姉が亡くなってからは、なかなか機会に恵まれず……」

 

 穏やかに話すローレイは続ける。

 

「ですから、あなたにお会いできたこと。心より嬉しく思います」

「そうだったのですね……」

 

 すると、父がにやりと唇をつきだすように笑いながら、片目をつぶった。

 

「つまり、ローレイ殿はお前の叔父だのう。ほれ、おじ様と呼んでやるのだ」

「義兄上……、気のせいでしょうか? その響きにとげを感じるのは……?」

 

 いつも通りの口調に戻った父に対し、ローレイも少しばかり崩したようだった。

 まるで、本当の兄弟かのように、気安いやり取りが二人の間で飛び交う。

 

「とげなんぞ持っとらんわ。まったく……。遊びに来ないで、なにをしとったのだ」

「大臣をしておりましたよ、義兄上」

 

 旅をしていた頃のようにくつろいだ様子の父とローレイの姿を見ていて面白いが、仲間外れにされたようで少しだけつまらなく感じてしまう。

 

「ひどいですわ、お父様。叔父様がいらっしゃるなら、ミーティアだってお会いしたかったのに……」

 

 唇をとがらせて言えば、父は悪戯っぽく笑う。自分がこんな反応をするのは予想通りだったという事なのだろう。父はどこまでも自由な人なのだ。

 

「怒るではないぞ、愛娘よ。それに、わしが少々楽しんだところで罰はあたるまい」

 

 ふと、ミーティアの脳裏に、エイトが昼間の茶会で浮かべていた楽しそうな笑みを思い出す。

 

「……もしかして、エイトも知っていたのですか?」

 

 父の笑みが深まった。言葉にするより雄弁に語るその笑顔に、ミーティアは肩を落とす。

 

「あの若者はとても良い目をしてらっしゃいますね。さすが、姫が選んだだけあります」

 

 ローレイがそう言うと、父は自分の事のように胸を張ってみせる。

 

「うむ。世界で二番目にいい男じゃからな。無論、一番目はわしじゃ」

「お父様……」

「そういえば、その婿殿の姿が見えませんが……」

 

 辺りを窺うローレイに、父は持っていた杯を傾けて、酒を口に含んだ。

 

「あやつは、城の警護を請け負ってくれたのでな。今は城内を見まわっているに違いない」

「なるほど。ですが、これから先、このような場に顔をださないのはあちこちで反感を買うのではないですか」

 

 周りの貴族に聞こえないように声を潜めたローレイの指摘に、父は微かに呻く。

 ミーティアは、もちろん父も、彼の性格を知っている。地位も名誉も望んでいなかった事も。

 だから、彼の気持ちを汲んで、強要することはしなかった。

 だが、ローレイの言う通りなのだ。今までは良かったかもしれないが、そろそろ改めるべき時期がきているのだ。

 彼は、世界を救った英雄であり、この城の近衛隊長で、一国の姫の夫なのだ。事実は、彼を放っておいてはくれない。

 

「ふむ、お前の言う通りだのう。……エイトには、そろそろ自覚してもらうべきか」

 

 杯を揺らして、深く考え込む父をミーティアは心配そうに見る。

 父が、エイトを息子のように思っているのを知っている。きっと悪いようにはならないだろう。

 やがて、顔を上げた父の表情に、ミーティアは先ほど思ったことを少し後悔した。

 

「我ながら、名案を思いついたぞ。ローレイ、お前の力を借りたい」

 

 不穏ともいえるその笑みが、今まで周りの期待を裏切ったことはあっただろうか。

 そんな父の性格を知っているのか、叔父はひきつった笑みを浮かべてはいたが、断ることなく頷いていた。

 ミーティアは心の中でエイトに謝罪した。

 例え、娘であろうと、こうなったトロデーン国王を止められる者はいないのだ。

 

 



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9話

「はあ、美味しかった!」

 

 じっくりと炙った魚の照り焼きをゆっくりと味わって飲み込んだエイトは満足そうに腹をさすって、ため息をついた。

 その様子を向かいに座っていたゼシカが嬉しそうに笑った。

 

「気に入ってもらえたみたいね。ここのお店の料理はとても美味しいもの」

「本当に美味しかったよ。こんなに美味しい魚料理なんて、生まれて初めてかもしれない。連れてきてくれてありがとう、ゼシカ」

「いいえ、どういたしまして」

 

 ゼシカがトロデーン城にやってきた翌日。

 エイトは今、船と船乗りたちが陽気に行き交い、太陽がさんさんと差し込む港町ポルトリンクにゼシカと共に足を踏み入れていた。

 そして、ゼシカの勧めるまま、町の一画にあるこの定食屋で昼食をとることとなったのだ。

 使われなくなった倉庫を改造したというその店の床は、何度も磨かれて、窓から差し込む陽光で白い砂浜のように微かに輝いていた。店内のあちこちにぶら下がる色んな形をした貝の飾りも、この港に流れ着いた丸太で作られたという不揃いのテーブルや椅子も見ているだけでも楽しめた。

 そしてなにより一番なのは、ほっぺたが落ちそうになるくらい美味しい魚料理だった。

 そのおかげでエイトのお腹は、はちきれそうなほどに膨れ上がっていて、しばらくは動けそうにないだろう。

 ゼシカは水の入ったグラスに口をつけながら、首を傾げた。

 

「それにしても、本当に休みがとれたの?」

「え? うん、もちろん。王があっさりと許してくれたのは、少しだけ驚いたんだけどね」

 

 エイトは、上着のポケットから折りたたまれた白い紙を取り出す。

 つたない字で書かれたその手紙を昨日から何度も繰り返して読むと、緩んだ笑みを浮かべる。

 この手紙をゼシカから渡され、そして、このポルトリンクを訪れる理由となった。

 嬉しさがこみあげて、胸が暖かくなった。手紙というものを貰うのは初めてだったが、読んでいるだけで元気が溢れてくるものだとは思わなかった。

 

「それなら、よかったけど。でも、あの王様がねえ……」

「王はとても優しい方だから。理由を説明したら、わかってくれるとは思ってたんだ」

「……あんたの優しい人の基準って、いまだに私には分からないわ……」

 

 額を押さえて頭を振るゼシカをエイトは不思議そうに見た。

 確かに自分が仕える王は、少しだけ我が強い。だが、それは王の一部分でしかない。彼の知る王は誰よりも優しく、責任感が強い。今まで出逢った王の中で一番、王らしい人だと思う。身内贔屓といっても、過言ではないかもしれないが。

 

「そういえば、ちょっとだけミーティアの様子がおかしかったんだよね」

「なに、姫の体調がよくないの? エイト、ここにいて本当に大丈夫?」

 

 テーブルの上に乗りだしそうな勢いでゼシカが言うので、エイトは慌てて両手を振った。

 

「ああ、いや。風邪とかじゃなくて。なんだか、悲しそうというか、申し訳なさそうな顔をしていたというか……」

 

 早朝ともいえる時間帯にも関わらず、中庭まで見送りに来てくれたミーティアの顔を思い出す。

 ミーティアは何かを言いたそうな様子だったが、結局何も言わずに微笑んで見送ってくれた。

 

「ゼシカはどう思う?」

 

 尋ねると、彼女の友人であるゼシカは、悩ましげに唇に指をあてた。

 

「どうって言われてもねえ……。エイトでも理由が分からないんでしょう? 帰ってから、姫に聞いた方がいいじゃないのかしら」

「やっぱり、そうだよね。うん、そうする」

 

 話が一段落すると厨房の奥から、白い前掛けをした中年の女性が二人の席の方に歩み寄ってきた。

 

「ゼシカお嬢様。どうやら、うちの料理にお連れの方も満足いただけたみたいだね」

 

 漁師の女房というのがふさわしいほどに、真っ黒に日に焼けた女性にゼシカが少しだけ頬を膨らませた。

 

「おかみさん、その呼び方はやめてって言ったじゃない」

「おやおや、つい癖でね。ごめんよ、ゼシカちゃん」

 

 にっこりと人好きのする笑みを浮かべる女性とつられて笑ったゼシカにエイトは目を瞬かせた。

 

「紹介するわ、エイト。この人はここのお店のおかみさん。ポルクのお母さんよ」

「いつぞやは、うちの馬鹿息子が失礼をしたそうで」

 

 申し訳なさそうに頭を下げたポルクの母に、エイトは慌てて、椅子から立ち上がった。

 

「そんな! どうか顔を上げてください。ポルクは村を守るために当然の事をしただけです」

 

 ポルクの母が言ういつぞやとは、初めてヤンガスと共にリーザスの村を訪れた時の事を指していた。

 村人達にとても慕われていたゼシカの兄が何者かに殺され、その直後にどこにでもいそうな青年と人相の悪い男のいかにも怪しげな二人組が足を踏み入れれば、リーザス村の自警団と名乗る少年達が敏感に反応するのは仕方ない事だった。

 それに、大人であっても怯まずに立ち向かう姿はとても好ましいと思ったものだ。

 

「最近のあの子ったら、口を開けば、ずっとあなたの事ばかり……。聞いているこっちの耳にタコが出来そうなくらいで」

 

 自分の子供の事を話すおかみは、呆れたような表情こそは浮かべていたものの、声音はひどく暖かかった。

 

「実は、僕は二人に会いに来たんです。ポルクは今どこに?」

「今、あの子は停泊中の船に弁当の配達を。……どうして、うちの息子に?」

 

 エイトは持っていた手紙をおかみに渡した。

 怪訝そうにおかみはそれを受け取り、目をすがめるようにして手紙の字を見る。

 

「息子の字だわ。……そういえば、この間、珍しく椅子に座っていて……」

 

 そこまでいって、ポルクの母親は弾かれたように顔を上げた。驚いたように目を丸くさせて、何度もエイトと手紙を見る。

 

「まあ、本当に? それで、わざわざ来て下さったんですか?」

 

 頷いたエイトに、ポルクの母は嬉しそうに目じりを下げて、丁寧に頭を下げた。

 

「本当に、ありがとう。息子も喜びます」

「お礼を言うのはこちらです。僕も意力ある子供の手伝いができるなんて、嬉しい限りですから」

 

 その時、店の扉が大きな音を立てて開かれ、放たれた矢のように店の中を飛び込んできた少年に向かって、おかみがすかさず声を張り上げる。

 

「ポルク! そこはお客の出入口だと何度言ったら、分かるんだい!」

 

 竹で編まれた籠を兜のようにかぶり、青みがかった髪をした少年は、エイトが前に見た時より、ぐっと背が伸びていて、日に焼けていた。

 ポルクは、母親の怒鳴り声に指を耳に突っ込んで、顔を歪めた。

 

「怒鳴るなって、母ちゃん! 耳が吹っ飛ぶっての!」

「あんたが何度言っても、聞かないからだろう! ほら、そのみっともない籠を、今すぐに頭からおろしな」

「へいへいー」

 

 おかみは、生意気を言う息子の後頭部をぺしりとはたいて、籠を彼の頭から引っこ抜いた。

 

「ほら、あんたにもったいないお客様だよ」

 

 そのまま、ずいと母親の前に押し出されたポルクは、目の前に立つエイトの顔を見て、呆けたように口をぽっかりと開けた。

 ひらひらと手を振って、椅子に座ったままのゼシカが笑う。

 

「こんにちは、ポルク。お手伝い偉いわね。今日はご褒美もってきたのよ」

「ご褒美って、ゼシカ……」

 

 だが、ゼシカの言葉も耳に入らないようで、少年は食い入るようにエイトを見ていた。

 

「やあ、ポルク。手紙をありがとう」

 

 エイトが片手をあげて挨拶をしてみせると、途端に目の前の少年は俯いた。

 

「え、ポルク?」

 

 慌てたエイトが、少年の肩に手を乗せて、顔を覗き込むと、彼は小さく声を発した。

 

「う」

「う?」

 

 聞き返したエイトに、ポルクは勢いよく顔を上げて、大きく息を吸い込んだ。

 その瞬間、エイトの視界の隅でゼシカが両耳を塞ぐのが見えて、その意味を悟ったエイトは真っ青になった。

 

「うあああああ!」

 

 だが、興奮した少年の頭に母親がすばやくげんこつを落とした事で、エイトは自分の耳を寸前で守る事ができたのだった。

 



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10話

 

「やああっ!」

 

 鉄でできた剣とは違う木の棒のぶつかり合う音が大きく響く。

 飛び込むように向かってきた青髪の少年のひのきの棒をエイトは同じ棒で軽く受け止めた。

 

「かけ声はいいけど、踏み込みが甘い。ほら」

 

 手首を軽く押して、振り払う。よろめくように後ずさった少年の頭上に、エイトは躊躇うことなく棒を振り上げた。

 思わず、ぎゅっと目をつぶった少年の横から、茶髪の少年が庇うように踏み込んでくる。

 茶髪の少年の大振りの一撃をエイトが容易く避けると、茶髪の少年はすぐに槍のように棒を突きだしてきた。半身をずらして避けると同時に、少年の手首を掴んでそのまま後ろに放り投げる。

 小さく悲鳴をあげて、ごろごろと地面に転がった茶髪の少年にエイトはとん、と棒を己の肩に乗せた。

 

「避けられたからって、あきらめずに次の攻撃をするのはよかったよ、マルク」

「まだまだあっ!」

 

 突進するかのように正面から向かってきた青髪の少年に、エイトも立ち向かうように走りだす。

 

「うりゃあ!」

 

 ぶんぶんと振り回すような攻撃を、片手で持ったひのきの棒で次々と受け止め、大きく後ろに下がって距離を取る。

 

「ポルク、力があるのはいいけど、力はここぞという時にだすんだ」

 

 抉るように地面を強く蹴り、ぐっとポルクとの間合いを一瞬で詰める。

 大きく目を見開いた少年の額を棒でたたく代わりに、指で弾いた。

 

「いでっ」

 

 額を両手で押さえてうずくまったポルクの頭を優しくなでると、エイトは二人に微笑んだ。

 

「ポルクもマルクも最初に比べて動きが良くなったね」

「本当っ!? おいら、もうリーザス村の戦士になれる!?」

 

 顔をあげて、自分の周りをじゃれつくように飛び跳ねるポルクに頷いた。

 

「このまま頑張れば、必ずね」

「良かったな、マルク!」

 

 起き上がったマルクの肩を叩いたポルクは、嬉しそうに歯を見せて笑った。

 

「うん。でも、ポルクはすぐに調子に乗るから、僕がちゃんと見ていてあげるよ」

 

 淡々と言うマルクと苦虫を噛みつぶしたように顔を歪めるポルクのやり取りにエイトは吹き出しそうになった。

 性格が正反対の二人だからこそ、こんなに仲がいいのだろう。

 ポルトリンクとリーザス村をつなぐ道の脇を左へ外れると、トロデーンへ向かう道の側に少し開けた場所がある。

 そこでエイトは二人の少年達に稽古をつけていた。

 リーザス村を守るために強い戦士になりたい。僕たちを強くしてください。

 ゼシカから渡された手紙は、つたない字ではあったが、一生懸命で真っ直ぐだった。そんな少年達の願いを無視することなどエイトには出来る筈もなかった。

 

「修業は終わったの?」

 

 夜に向けてゆっくりと傾いていく日差しを背に歩いてきたゼシカに、エイトは手を上げた。

 

「うん。二人共、よく頑張ったよ」

「そう。……二人共まっくろじゃない。帰ったら、真っ先にお風呂ね」

 

 お風呂という嫌な単語に、泥だらけの顔をそろってしかめる二人を呆れたようにゼシカが目を細める。やんちゃな弟達を見守るかのように暖かい眼差しを浮かべる彼女は、勝気そうな外見とは違って、面倒見がいい。

 

「なあなあ、ゼシカ姉ちゃん! それ、食いもん!?」

 

 ポルクが、ゼシカが腕にぶらさげた籠に目を輝かせた。

 

「そうよ。あんた達のお母さんが持たせてくれたの」

 

 ふっくらとしたパンを二つ差し出すと、がつがつと一心不乱に貪り始めた少年達に、ため息をついたゼシカはエイトに水筒を差し出した。

 

「ほら、エイトも喉がかわいたでしょう」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 

 受け取ったエイトは、ゆっくりと口に含んで喉を潤す。よく冷えた水が体の隅々に染みていく。

 口元を拭って小さく息をつくと、隣に腰を下ろしたゼシカが背筋を伸ばして、こちらを見やって微笑んだ。

 

「エイト、ありがとう。無理を言ったのに、来てくれて嬉しかった」

 

 ゼシカの言葉に、首を横に振った。

 

「礼を言うのはこっちだよ。僕もありがとう。来てよかった」

 

 これから未来を背負うのは、自分達ではなく、ポルクやマルク、そしてこれから生まれてくる子供達だ。そんな彼らの道を示す手助けができるなんて、とても素晴らしい事だと思う。

 そう言うと、ゼシカはくすぐったそうに首を縮めて、笑った。

 

「ふふ。やっぱり、エイトって変ね」

「そう、かな?」

「でも、エイトらしいと思う」

 

 夕暮れが深まる。

 涼しげな秋風が彼らの間を駆けぬけて、少年達に向かっていくのをエイトは眩しそうに目をすがめた。

 



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11話

 

 風を受けて静かに回る風車のある村に、ふわりと大小四つの人影が地面に足をつける。

 陽が落ちたばかりの空の端は、まだ明るい紫に染まっていた。

 

「すっげええ! これがルーラ!?」

 

 エイトの呪文によって、リーザス村に戻った瞬間、感極まったようにポルクが声を上げた。

 

「そうだよ。……でも、こんな人数で使うのは、久しぶりだから上手くいくか分からなかったけどね」

「俺も覚えたい! なあなあ、俺も覚えられる!?」

「あのね、ポルク。ルーラってとても繊細な呪文なのよ。一歩間違えると大変なことになるんだから」

 

 ひとさし指を立てて、ゼシカがポルクに言った。

 

「へえー。だから、センサイじゃないゼシカ姉ちゃんは覚えられなかったんだな!」

「……なんですってえ」

 

 ゼシカが目を吊り上げて、両拳をポルクのこめかみにぐりぐりとえぐるように押し付ける。

 悲鳴を上げたポルクに、エイトは何とも言えない表情を浮かべた。

 口には出せないが、ポルクの言う事は正しい。

 旅の間、一度訪れた場所であればその場所へ戻ることが出来る便利な呪文であるルーラを覚えたいとゼシカが言ったことがあった。

 だが、膨大な魔力をもっているせいで、細かい魔力の調整が上手くいかないのか、あらぬ方向に飛んでいきそうになるのを仲間全員で何度も止めた。

 結局、何度目かの失敗の後、ゼシカは「……キメラの翼があるんだから、別にいいわ」とルーラを覚えるのをやめた。

 口には出さないが、ポルクの言う通りなのである。

 

「なにかしら、近衛隊長様?」

 

 一切の感情を削ぎ落としたゼシカの眼差しを避けるように、エイトは僅かに視線を泳がせた。

 ゼシカの手が緩んだすきに、ポルクが彼女の手から逃げ出すと、捕まらないように距離を取る。

 ポルクは涙目になりながら、ずきずきと痛むこめかみをおさえて、呻いた。

 

「ゼシカ姉ちゃん、ひでえよ!」

「余計な事を言うからだと思うよ」

 

 静かな声音でマルクが言うと、ポルクは唇を尖らせた。

 

「俺は事実を言っただけだって!」

「事実でも言っちゃいけないと思う」

「……あんた達、後で覚えておきなさいよ」

 

 ゼシカは両手に腰をあてて、二人を睨みつける。

 

「ほら、二人共! エイトにお礼を言いなさい。あんた達の為に、お城の仕事を休んで来たのよ」

 

 凄まれた少年達は慌てて、エイトの元に駆け寄る。

 ゼシカを本気で怒らせてはいけないと、自分と同じように分かっているようだ。

 

「エイト兄ちゃん、今日はありがとう! おいら達、頑張って強くなるよ」

「ありがとうございます」

「今日は僕も楽しかった。また来るよ。その時には、二人が強い戦士になっているのを楽しみにしてる」

 

 少年達の幼い顔を見つめて、すっと片手を胸にあてた。それは休憩の合間に少年達にせがまれて見せた兵士の略礼だった。

 ポルクとマルクが顔を見合わせ、歯を見せて笑いながら、エイトと同じように胸に手を当てた。

 何度も振り返っては手を振る二人を見送ると、ゼシカがどこか堅い表情でこちらを見ていた。

 

「……ゼシカ?」

 

 名前を呼ぶと、彼女は小さく深呼吸をして、唇を開いた。

 

「エイト、一緒にきてほしいところがあるの」

 

 訪れたのは、リーザス村から東にあるリーザス塔の最上階だった。

 エイトが最後に訪れた時と変わらず、最上階は今まで登ってきたいくつもの部屋とは、切り離された異界のように静かな空気が流れ、ゼシカの祖先であるリーザスの像が慈愛の笑みを浮かべて、迎えてくれた。

 ふと、エイトはその像の左下へ視線を移す。そこには、以前にはなかった白石でできた墓があったのだ。

 ゼシカがその小さな墓に近づいていくので、エイトも彼女の半歩後ろをついていった。

 

「サーベルト兄さん、今日はエイトも連れてきたのよ」

 

 真新しい墓に刻まれた名は、サーベルト・アルバート。ゼシカの兄の名だった。

 途中、村のそばに生えていた野花で編んだ花輪をそっと墓にゼシカが乗せた。

 こちらを振り返ったゼシカは、痛みと悲しみをおりまぜた表情を浮かべて言った。

 

「……母さんと村の人達と話し合って、つい最近、兄さんのお墓をリーザス像のそばに移したの。兄さんはこの村にとっても、とても大事な人だったから。ここで、ずっと村を見守ってくれるように、って」

「そうだったんだ……」

「エイトには、ここに一緒に来てほしいとずっと思っていたの……。私ね。あの夜にここで起きた事をずっと忘れないわ。最後の兄さんの言葉も、ずっと」

「うん。僕も忘れない。忘れる事なんて、しないよ」

 

 とても優しい人だった。声だけの、それも一度聞いただけ。それでも、深みのある低い声を聴いただけで、ゼシカの兄は強く優しく、誰よりもリーザス村を大事にし、妹を大切に想っていたのだと分かった。

 

「それは、ポルクもマルクもだよ」

「えっ……?」

 

 ゼシカの瞳をつよく見返す。

 

「今日、稽古をつけていたとき、二人の剣の型がとても定まっていた」

 

 少年達の癖を見ようと、エイトはまず始めに二人に剣の構えと振り上げさせてみた。

 すると驚いたことに、自分の予想を遥かにこえて、手首に変な力を入れることもなく、真っ直ぐと振り上げてみせた。

 聞けば、サーベルトに習ったのだという。今度は剣を振る稽古をつけてくれると約束して、そのまま彼は還らぬ人となった。それ以来、唯一習ったこれだけを忘れないように二人はずっと鍛錬していたと言っていた。

 

「今もこれからも、二人の中にはサーベルトさんの剣が生きているんだ。二人はずっと忘れない。ずっとね」

 

 すると、ゼシカの瞳がゆらり、と大きく揺らめいて、小さな涙が頬を滑り落ちた。

 

「あれ……?」

 

 次々と溢れては落ちていく涙に、彼女自身が驚いたように頬に指をあてる。

 

「わっ、ごめん!? だ、大丈夫!?」

 

 思わず、ぎょっとしたエイトは慌てて、服のあちこちを叩いて拭うものを探すが、気の利いたことにそんなものはなかった。

 そんな自分の慌てぶりを見ていたゼシカが吹きだした。

 

「ふふ。まったく、なんでエイトが慌てるのよ。驚かせてごめんね、私は大丈夫」

「ほ、本当に? まいったな……。ミーティアに知られたら、怒られそうだよ」

 

 頭に手をやって困ったように天井を仰ぐ。

 ゼシカはミーティアにとって、身分というものを気にせずにしてくれる唯一無二の大切な友人だ。彼女を泣かせたと知られれば、自分の事のように悲しみ、怒るだろう。

 

「ふふ。じゃあ、秘密にしておいてあげるわ」

 

 片目をつぶって微笑んだゼシカは、目元をぬぐうと頬を軽く叩いて、ふっきるように大きく深呼吸をした。

 

「ねえ、エイト。……私、兄さんが言った言葉の通りに、自分の道を信じて進んでいたかしら」

 

 ゼシカの真剣な眼差しが胸を強く刺す。エイトはその両手を掴んで、その瞳を覗き込むと大きく頷いた。

 

「サーベルトさんが誇らしいと思う位。仲間であった僕らも、君を誇らしいと思う。君がいなければ、今の未来を守れなかったんだから」

 

 ありがとう、と掠れた声でゼシカが呟く。

 ゼシカをまるで妹のように思っていた。それで特別扱いというものはしたことはなかったけれど。

 彼女は大切な仲間だ。今もこれからも。

 握り返してくるその手をエイトは少し力を込める。この思いが伝わるように。

 

「……ありがとう。やっぱり、エイトは優しいね。私も、貴方と仲間になれた事を誇りに思うわ」

 

 リーザス像と同じようにゼシカは優しい笑みを浮かべて、一粒の涙をこぼした。

 空が星を纏い、月がリーザス塔を照らす。

 リーザス像とサーベルトの墓は、塔を下りる為に背を向けた二人の後ろ姿を静かに見送った。

 



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【番外編】

 

【ある国の大臣の日常の一コマ】

 

「かわいそうだとは、思わんか!」

 

 ああ、また始まったと彼は内心ため息を吐いた。

 朝議が始まった瞬間、国王はそばにあった羊皮紙をくるくると丸めて、ぺしぺしと机を叩く。

 

「わしは、我が愛娘の花嫁姿を少ししか見れていないのだぞ!」

 

 良い王ではあるのだが、王子時代の時から突拍子のないことを言い出す癖があった。

 同じ机に座る他の重鎮たちも、彼と同じような事を思っているだろう。

 良い王なのだが、癖あり、と。

 

「どうなされました、王。それは、また急なお話ですな」

 

 彼は主君に尋ねる。このまま、なだめて流すのもいいが、姫君が関わっているとなると、とてつもなく頑固になる。

 すると、王はむっつりとした表情で背中を椅子に預けた。

 

「わしは、ミーティアの花嫁姿をもう一度見たいのだ!」

「……では、後日ミーティア姫様にその件をご相談になってはいかがでしょうか。きっと王の頼みであれば、受け入れてくれるはずです」

「いやじゃ! わしはそんなものが見たいのではない!」

 

 では、何が見たいのだ。

 駄々をこねる子のようにばたばたと両手足を動かす王に、彼の目が据わった。

 

「…………それでは、どのように?」

 

 眉間に皺がよりそうになる。それを必死に揉んで押さえると、彼は穏やかな笑みを浮かべてみせた。

 ここで怒ってはいけない。怒れば、朝議が台無しになる。

 何度も頭の中で繰り返して、菩薩のような笑みで主の返答を待つ。

 その笑みが重鎮たちの間では、【大臣の鉄仮面】と呼ばれている事を当人は知らない。

 

「結婚式をもう一度とり行うのじゃ! そうすれば、ミーティアの花嫁姿を見ることができる。ただの結婚式ではないぞ。国中で、それも盛大に!」

 

 ざわりと重鎮たちの間が騒がしくなる。

 両手を二度叩いて、それを静まらせると彼は主に向き直った。

 

「確かに姫君の花嫁姿は王妃様と生き写しと思う位に、美しいものでしたが……。だからといって……」

「言っておくが、わしの為だけではないぞ、大臣よ」

 

 いつの間にか、威厳のある表情を浮かべた王はどこか陰のある眼差しで、彼を見返す。

 

「あれから、どのくらい経った? 世界が平和となって」

「……約二年ですな」

「そうだ。まだ二年しか経っていないのだ」

 

 ふと、王が視線をどこかへ向ける。その方向に何があるのかは、彼は知っていた。

 それは一振りの杖が置かれた封印の間。暗黒神が倒された今、意味をなしてはいない場所だが、王はそのままにするべきだと譲らなかった。

 何があったのか、今度こそ後世に伝えられていくように。その杖について知ろうともしなかった己の罪を認め、子孫たちが過ちを二度と起こさぬようにと。

 

「この二年、平和をようやく噛みしめ、歩き始めた民の中には思う者もおるだろう。いつ、また平和が崩れ去ってしまうのかと」

「だからこその結婚式だと?」

「そうじゃ。国中で盛大な結婚式を行えば、改めて平和を実感できるとわしは思う」

「なるほど、確かに一理はありますが」

「それならば、祭りでもよろしいのでは? 民も日々の疲れを忘れて、つかの間の休息をとれましょうぞ」

 

 重鎮の一人が顎髭を撫でながら、進言する。その意見に賛成するようにまわりの者たちも頷く。

 だが、それには王は首を横に振った。

 

「それでは、弱すぎる。平和の象徴をみせねば意味がない」

 

 象徴、という言葉に彼は、まさかと目を見開いた。

 

「それは、我が国の近衛隊長の事を指しているのですか」

「そうだ。世界の英雄の一人であるエイトと一国の姫の式ならば、一層平和という印象を強く焼きつけるだろう。二年前の式は、騒動にまかれたような形であったからのう」

 

 頭に乗せた王冠を王は下ろすと、机に置いた。

 驚いた重鎮たちの視線を王はまっすぐに見返す。

 

「わしは、民の為に償いをしたい。民が今度こそ、疑うことなく平和に過ごせるように。どうか、わしを手伝ってくれんか。これは、トロデーン国王としての命令ではない。一人の人間としての頼みだ」

 

 どこか震えを帯びた声音に、彼は苦笑した。

 少し横暴なところはあるが、決して暴君ではない。彼も含めて、重鎮たちはそんな王の頼みを無下に出来る筈がない。

 椅子から立ち上がり、王のそばへ寄ると片膝を折った。

 

「もちろんです。あなたの心に従いましょう」

 

 他の者たちも同じように膝をついて、頭を下げた。

 その様子を一通り眺めた王は、にんまりと笑みを浮かべ始めた。

 

「お前たちならば、そう言ってくれると思っていたぞ!」

 

 先程の殊勝な態度もあっさりと捨て去って、丸めた羊皮紙で机を叩く。

 

「では、早速結婚式の手配じゃ! 二年前の花嫁衣装より、何倍も素晴らしいものにするぞ!」

 

 このままでは、一週間後にでも、最悪、明日にでも結婚式を行いそうな勢いだ。

 主君が暴走し始めていると察した彼は慌てて、止めにかかる。

 

「お、お待ちください、王よ! 盛大に行うのであれば、ちゃんと式の内容を練らねばなりません」

「うるさい! わしは一刻も早く、ミーティアの花嫁姿を見たいのだ!」

「それならば、なおさらです! どうか、もう少しお待ちを」

「じゅうぶんに待った! わしが早く見たいと言ったら、早くするのじゃ!」

 

 ばんばんと両手で机を叩き始める王の姿に、ぷつりと彼の何かが切れる音がした。

 重鎮たちもそれを察したのだろう。全員怯えた表情を浮かべて、部屋から避難をし始める。

 

「ええいっ、いい加減にせんか! この馬鹿王がぁ!」

 

 菩薩から、阿修羅へと変わった大臣の大声は城中に響き渡ったという。



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始まり
13話


祈りは月を招き、唄は陽を招いた

 

何度も何度も

 

繰り返されていく

 

***

 

 マントに夜風が絡みついて、大きく膨らんでは、なびく。

 まるで鳥の翼のように広がる自分のマントを視界の端で見ながら、立ち塞がるように並ぶ男達に、彼女は感情を抑えた声で話しかけた。

 

「船着き場で聞いているわ。最近この辺りで、通りかかる商人や旅人の金品を奪っている山賊って、あんた達の事ね」

 

 ひげが伸びきったままのだらしない身なりの男達が、異様な目つきで自身の体のあちこちを見ているのを気づかないふりをして、さりげなく腰に手を当てた。

 松明を持った一人が下卑た笑みを浮かべて、品定めをするかのように松明を動かし、彼女を照らす。

 暗がりに照らされた顔を見て喉を鳴らすと、ますます下卑た笑みを深めた。

 

「山賊だぁ? そりゃあ、誤解ってもんだぜ。姉ちゃんよ」

「じゃあ、ここで何をしている訳?」

「なにってそりゃあ、なあ?」

 

 周りの仲間に同意を求めるように、にやけた顔を横に向けて、また彼女の方を見る。

 

「俺達は危ない奴が通らないように、ここを見張っている訳よ」

「へえ? いい人達なのね」

「だろう? 特に、金目のものを溜め込んでいる商人や、……こんな夜中に出歩く悪い姉ちゃんとかをな」

 

 あら、と彼女は怯えた様子もなく、のんびりとした声を上げる。

 

「悪いけど、私はお金なんか持っていないわよ」

 

 その間にも素早く目を動かして、松明によって、ぼんやりと照らされた男達の人数を数える。八人。その内、松明を持っているのは三人。気配を探る限り、潜んでいる者はない。

 

「持ってるじゃねえか。それも、極上のもんをなあ。……おい、捕まえろ!」

 

 それを合図に松明が揺れて、剣を構えた男達がこちらに向かって、駆けだしてくる。

 たかが、か弱い女だとなめてかかる彼らに、彼女は微笑んだ。

 

「足元、ご注意」

 

 前を駆けていた二人が突然、体勢を崩して、顔面から地面に激突する。頭を抱えて悶絶する様を眺めると、困ったように首を傾げてみせる。

 転倒した彼らの足元には、いつの間にかつるりとした氷が地面に張っていた。

 

「だから、秋とはいっても、地面が凍っている所があるわよって注意したのに。遅かったみたいね」

 

 やれやれと肩をすくめながら、杖を指先で転がす。

 松明を持った一人が、それに気づいて、大声を上げる。

 

「この女、魔法使いだ!」

「それだけだと思う?」

「なっ!?」

 

 いまだに悶絶しているままの二人を軽々と飛び越えて、一気に走り出すと、叫んだ男の空いた脇腹に蹴りを食らわす。痛みにうずくまった瞬間、容赦なく踵を頭上に振り下ろした。

 仲間が昏倒して地面に伏している内に、最初に転倒した二人も体勢を整えて、松明を持つ二人を除いた全員が剣先を揺らすように構えながら、彼女の周りを囲うようにじりじりと近づいてきた。

 その落ち着きのある態勢に、猫のように目を細めた。

 武骨な山賊とはかけ離れている。

 一人、一人が彼女の動きをじっと見ているのが分かった。ますます山賊らしからぬ様子に、杖に意識を集中すると大きく目を見開いた。

 瞬間、二つの松明の炎が大きく燃え上がる。

 

「うわあっ!?」

「なんだ!?」

 

 山賊たちの意識がそちらに逸れた隙に呪文を素早く唱える。

 

『 風よ、我とひとつとなれ 我が脚に疾風の力を ピオリム 』

 

 杖を腰帯に差し戻して、もう一つの武器に手を伸ばしながら、地面を蹴る。

 手に馴染んだ鞭を身近にいた二人に向けて、二度払った。風を切りながら、鞭が蛇のように大きくうねると、悲鳴を上げて二人が倒れ伏す。

 その後すぐに体を逸らすように後ろに下がると、顔の真横を小さな炎が通り過ぎる。

 両手を彼女に向けて突きだしている一人を見据えて、そちらに走り出す。

 その際に両側から斬りかかってきた二人の肘と脚に鞭をあてて、派手に転ばした。その様子を見ていた魔法使いらしき男の顔が怯えたように顔をこわばらせた。

 

「魔法使いの弱点なんて、私が一番良く知っているのよ」

 

 二人にまごついている間に、攻撃呪文を完成させるつもりだったのだろう。

 風の加護を受けた脚力で一気に距離を詰めると、鞭とは反対の手で、魔力で風の玉を作りだし、腹に叩き込む。後ろに吹き飛んで転がったのを眺めて、松明を持った二人の方をゆっくりと振り返る。

 恐怖で動けなくなってしまった二人は、松明を落とさないのが不思議な位、震えていた。

 そんな二人に、ふたつに結わえた髪をゆらりと揺らして、彼女は艶を含んだ猫なで声で言った。

 

「さあ、あなた達の選択を聞かせて? ……もちろん、逃がさないけどね」

 



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14話

 

「ったく、次から次へと。私は便利屋じゃないのよ? そもそも山賊退治なんて、女性にやらせるものじゃないでしょう! なーにが、親愛なる美しき英雄、ゼシカ・アルバート様よ! あんたなんかと“親愛なる”仲じゃないっての!」

 

 歩きながら、持っていた手紙を片手で握り潰し、怒りに大きく震える。

 もし、この手紙で書いた相手をどうにかできるのであれば、今すぐ全身全霊の攻撃魔法でどうにかしてしまいたい。

 これではいけないと荒ぶる感情を抑えるために大きく深呼吸をした。

 最近思うのだが、仲間たちの――特に元『山賊』の言葉づかいの影響を少しばかり受けてしまったような気がする。

 旅を終えて、リーザス村に戻ったゼシカの元に世界各地から、様々な依頼が届くようになっていた。

 きっかけは、ポルトリンクに停泊していた船に潜んでいた魔物を退治した事だった。

 その勇姿にその場に居合わせた商人や船乗り、そして旅人の口から口へと伝わり、気が付けば手紙が彼女の元へ来るようになっていた。

 最初は断ってもいたが、手紙の文面や大いに乱れた筆跡から伝わる必死さに仕方なく引き受けるようになった。

 もちろん中には、アルバート家と縁を組もうと虚言をでっちあげて、家に招こうとしたものもあったが、それは丁重にお断りさせて頂いた。

 だが、実際はまたこうして旅に出たりすることが出来て、嬉しい。あの旅はお世辞にもゆっくりと世界をまわれた訳ではなかったから、新たに見てまわるのもいいだろう。

 それに家にいるだけでは退屈で、母も異様に心配して家にいさせようとするのだ。

 

「それにしても、願いの丘ねえ。懐かしい」

 

 握りつぶした手紙とは別のものを腰に吊るしたポーチから取り出す。今から向かうのは、アスカンタ地方にある願いの丘だ。

 その手紙いわく、最近願い丘の辺りでおかしな現象と大切にしている家畜が消えたりすることが起こっているのだという。

 いつか人まで消えてしまうのではないのかと怖くなり、この手紙を書いたのだという。

 

「家畜は魔物に襲われたとして。おかしな現象に関しては、勘違いの可能性が高いわね……」

 

 今まで受けた依頼の中でも明らかに気のせいだというものもあった。大抵は、人の勘違いだったり、その地の環境が作り出した自然現象であったり。

 冷えた風が吹いて、小さく身を震わせた。

 太陽が青い空から日差しを伸ばしているが、空気はそれでも冷えている。冬が少しずつ、忍んできているのだ。

 紺色の毛織りのマントの前をしっかりとかき集めて、二つの手紙をポーチに戻した。

 

「とにかく、この手紙を書いた人に話を聞くしかないわね」

 

 目指すは願いの丘、そして川沿いの教会だ。

 



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15話

「思っていた以上に深刻ね」

 

 以前、この教会に仕えていたシスターが使っていたという小さな部屋に通されたゼシカはベッドに腰掛けて、そう呟いた。

 陽の昇らない早朝からずっと歩き続けて、川沿いの教会に着いた頃にはすっかり夜を迎えていた。

 祭壇に控えていた年若いシスターに取り次いでもらい、手紙を書いた神父から早速、話を聞いた。

 神父の話によると、それが起り始めたのは二か月前の事。

 ある晩の事、乳飲み子を抱えた女が教会に駆け込んできた。羊飼いである夫が夜になっても帰ってこないと泣きながら言うのだ。

 神父の頭によぎったのは、狂暴化した魔物が家畜や人に襲い掛かってきた二年前の暗黒神が復活した時の場景だった。

 すぐさま、近くの村の男衆をかき集めて、夜中の森を捜し歩いた。

 神父の早急な判断と男達の懸命な捜索のお陰で、その羊飼いは願いの丘の麓で見つかった。気は失っていたが、怪我一つもなく、そのまま妻と子の待つ家に帰された。

 だが、その一件の後、不思議な事が起り始めた。老若男女に関わらず、夕暮れになると音色が聞こえると訴える者が現れ始めた。

 どんな音色なのかとゼシカが尋ねると、自分達には聞こえないのだと神父とシスターはそろって答えた。

 そして、今度は二週間前から家畜が忽然と姿を消すという現象が起こり始めたのだという。

 また二年前の恐怖におびえる日々に戻ってしまうのではないかと恐れた神父は、筆を執ったのだという。

 

「とりあえず、明日調べてみないと」

 

 ほどいた髪に櫛を通して、ゼシカは声に出しながらも、別の事を考えていた。

 捕まえた山賊達の事だ。彼らはそこらにいる山賊ではない。あの動きは、訓練された騎士だ。

 そして何より、彼らの持っていた細身の剣の柄に施された紋章がそれを物語っていた。

 

「やっぱり、あれはマイエラ修道院にいた騎士団のものよね」

 

 かつての仲間の一人が持っていた剣であったから、見慣れていたものであった。

 聖地と崇められていたゴルド。それは、偽りであった。暗黒神の肉体を封じた地。

 防ぐことの出来なかった惨劇。封印を解かれた肉体が沢山の人々を瓦礫の底に埋めた。そして、消えた一夜の法皇。

 ゴルドという揺るぎのない聖地が崩壊し、教会組織は混乱に呑まれたという。

 今は改心したニノが法皇の座につき、落ち着きを取り戻してはいるが、あの男がいたマイエラ修道院の者達の当時の狼狽ぶりは凄まじかったという。

 

「どこでも嫌味男を、それほどまでに慕っていたという事よね」

 

 その証拠に素性がばれてしまうと分かっていても、騎士の剣を捨てることの出来なかったのだろう。

 宙に差し伸べるように手のひらを広げると、その上に魔力で拳大の風の玉を作る。

 旅を終えてから、他系列の魔法の修行をしているが、やはり体質というものがあるのか、風の魔法は上手く扱えない。最近になって、ようやく小さな玉を作ることが出来るようになったが、これ以上は上達することはないだろうと確信していた。

 しゅうしゅうと音をたてて、手の上で浮かぶ玉を眺めて、ため息が知らない内にこぼれる。

 二年前のエイトとミーティア姫の一度目の結婚式以来、彼とは会っていない。

 

「……別に会いたくもないわ」

 

 自身に言い聞かせるように囁いて、手の平の玉を消した。

 翌日。その現象が夕方に起こるのは、決まって夕暮れの為、ゼシカはシスターの手伝いをして、時間を過ごした。

 その合間に、音色を聴いたという老婆が、礼拝の時間にやってきたので、礼拝が終わるのを待って話を聞くこととなった。

 シスターに紹介された小さな老婆は、皺の刻まれた顔をさらに深くさせて、唸った。

 

「ごめんなさいねえ、分からないんよ」

「分からない?」

 

 老婆の言葉を呆然と反復したゼシカは目を瞬かせた。

 

「夕暮れに聞いたのは確かなのじゃが……、どうした事か思い出せないのさ」

「ゼシカさん。おばあさんの言う通りです。他の方も同じ事を仰っていましたわ」

 

 老婆を椅子に座らせながら、年若いシスターが困ったように頷いて、頬に手を当てる。

 

「聞こえたのは確かというのに……、何故か覚えておく事も、思い出すこともできないと」

「そうだったんですか……」

 

 困った、と彼女は内心呻いた。

 話を聞けば、何か分かるかと思ったが、これでは原因を探る事も出来ない。

 やはり、夕暮れを待つしかないのだろう。

 その時、考え込んだゼシカの耳に老婆の沈んだ声が届く。

 

「……でもねえ、痛いんだよ」

 

 顔をあげて、老婆を見る。老婆は自分の胸をそっとなでて、呟く。

 

「とてもねえ、痛いんだ。ここが」

 

 深い皺のある目元に涙が滲んでいるのを見て、ゼシカは驚いた。

 

「今日もまた、聴こえるのかねえ……」

 

 節くれだった小さな両手が祈るように組まれて、老婆は俯いた。

 深くこうべを垂れるその姿が、何故だか、ゼシカの瞳に強く焼きついた。



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16話

 

 ゼシカは老婆との話の後、願いの丘の麓へ足を伸ばしていた。

 足元まで伸びた枯れかけの茂みを踏み分けながら、森の中を進んでいく。

 

「特に変わった事はないのよねえ」

 

 森を歩いても、願いの丘へ辿り着くことはない。

 目の前にそびえたつようにある丘を見て、呟いた。

 嫌な感じもしない。静かな森だ。

 しいて言うのならば、魔物に一匹も遭遇しない事だろうか。

 だが、神父の話だと、この近辺は元々魔物があまり現れないのだという。暗黒神が復活の兆しがあった二年前は魔物が多く出現してはいたが、神父がこの教会に派遣された当時は、遠くで見かけることがあっても、魔物は決して、人里に下りてくることはなかったという。

 それは、この丘の加護のおかげなのだという。

 

「願いの丘の加護のおかげというけど、あの丘に群がる魔物はなんなのかしら……」

 

 一度は、斜面を下りて川沿いの道から願いの丘へ登ることも考えたが、あそこには魔物が群れをなしているので、ひとまず後回しだ。

 今まで考えてもみなかったが、願いの丘とは元々どのような場所だったのだろうか。

 かなり昔の建物であろう残骸があちこちにあった。

 そして、不思議な話が一つある。

 あれは、決戦前の事だっただろうか。神鳥の魂と同調して空を飛んでいた時に、何かの理由で願いの丘の頂上へ降り立ったことがあった。

 すると、あの不思議な夜の時には確かにあったものがなくなっていたのだ。

 それは、月の世界を繋いだ壁と窓の残骸が姿を消していた。夢のような出来事であったが、ゼシカも仲間達も驚いた。このような事があるのかと。

 今考えてみても、おかしな出来事だった。やはり、この丘には何かあるのだ。

 

「でも、何も感じないわ」

 

 ため息を一つこぼして、近くにあった木の根元に腰を下ろして休息を取ろうと思った時だった。

 重々しい鐘の音が微かに聞こえた。

 最初は、教会の鐘が鳴っているのかと思ったが、二度目の鐘の音で全身の肌が粟立ち、眼差しが鋭くなった。

 それは、教会の澄んだ鐘の音とはかけ離れたあまりに歪んで濁った音色だった。

 三度目の音色はずっと近くで聞こえた。

 すぐさま体勢をととのえて、腰帯に差した杖に手を伸ばしながら、辺りを見回す。

 木々の間から覗く大きく歪んだ笑みに、眉を寄せてその魔物の名を呟いた。

 

「リンリン……」

 

 黄金のハンドベルを巨大化させたようなリンリンは自分が知る大きさより、更に巨大だった。

 こちらの姿に気づいた魔物は、下卑た笑みをさらに広げて、大きく体を震わせて、濁った音色を辺りに響かせた。

 しまった、と思った時にはもう遅い。

 一瞬の間の後、どこに隠れていたのか、三十はゆうに超えるだろうリンリンに囲まれていた。リンリンの特性は、その形の通りだ。己の体を使って、仲間を呼び寄せるのだ。

 小さく舌打ちをして、後方を見る。背後は行き止まりだ。前も無数の魔物で塞がれている。

 夕暮れにはまだ早い時刻だが、このリンリン達が何らかの原因である事は間違いない。

 そもそもリンリンは臆病な部類に入る魔物だ。自分より強い相手なら、一目散に逃げ出す。

 自分の知っているリンリンならば、そうするだろう。

 だが、この魔物達は怯えるそぶりを見せるどころか、好戦的。普通のリンリンではない。

 

「……やっぱり、ルーラを覚えとくべきだったかしら」

 

 このような得体の知れない魔物と戦いを交えるのは、得策ではないが、空を飛ぶ術もないならば、戦いは避けられない。それに、ここで見逃せば、この辺りに住む人々にどのような被害が及ぶのか分からない。

 じりじりと距離を縮めてくる魔物達から目を離さずに、鞭を握りしめ、大きく振り上げると地面に向かって叩きつける。鞭の先が地面に触れた瞬間、魔力を一気に流し込んだ。

 膨大な魔力を流し込まれた地面が中から爆発するようにめくりあがる。鞭を左右にうならせて、割れた地面をリンリン達に投げつけた。

 地面の下敷きとなったリンリン達の間を駆けぬけるが、木々が盾となり、下敷きになる事のなかったリンリン達にすぐに囲まれる。

 その状況が、自分が待っていた状況だった。片づけるのならば、この瞬間だ。

 両手を前に突きだして、大きく息を吸う。

 

『 この身に宿る魂よ この身に宿る魔力よ 我が言霊に応えよ 』

 

 紡ぐのは、全ての魔力を解き放ち、全てを破壊する最強呪文。

 目の前にいるのは、得体の知れない魔物達だ。少しずつ倒していく余裕も、呪文を選んでいる余裕もない。二年前ならば、援護をしてくれる頼もしい仲間がいた。だが、今は一人なのだ。

 

『 退けよ 打ち掃え 』

 

 言霊によって具現化された魔力が渦を巻いて、全身に纏わりつく。それらを解放する最後の言霊を舌に乗せようとした時だった。

 くらりと視界が暗転し、膝から勝手に力が抜けて地面に座り込む。

 そのはずみで腰帯から抜け落ちて転がっていく杖を呆然と目で追って顔を上げると、リンリン達の体が小刻みに震えて、金属をすり合わせたような小さな音を出していた。

 魔物達の身体が僅かに赤みを帯びていく。それに伴い、身体が急速に冷えて、力も抜けていく。

 下卑た笑みがますます広がるのを見て、ようやくそこで自分の魔力をこのリンリン達が恐ろしい速度で吸い上げているのだと気付いた。

 何が起こっているの、と声に出そうとして、吐き気が込み上げて、口元を手で押さえる。

 脂汗が額に滲み、急激に魔力を吸われたせいで霞んでいく視界をなんとか振り払おうと目を凝らす。

 自分の魔力を吸った魔物達は血を浴びたかのように身体を真っ赤に染め上げ、空気に溶けるように徐々に消えていく。

 異様な色に染まった魔物達が消えたのを見た後、地面に倒れ込み、意識を手放した。



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【番外編】

「お借りしていたものをお返しに来ました」

 

 差し出されたものに、僅かに眼差しを細めた。

 すぐに視線を前に戻すと、手に持った錫杖の環が微かな音を立てる。

 

「それは、お前に褒美として授けたものだ。一時的に貸していたわけではない」

「ですが、僕にはもう必要のないものです」

 

 突きだすようにつるぎを差し出す青年の顔をじっくりと眺める。

 この青年はかつて、己が追放した竜人と人間の合いの子だ。

 そして、掟の為に里の長老達と話し合って、か弱い子共を追放した。その幼子が時をえて、人間の仲間を引き連れて、竜人族の里を救うとは誰が想像できようか。

 試練に打ち勝った褒美にと授けたつるぎは、記憶と違わずに同じように紅い鞘におさめられていたが、どうやらこの青年はつるぎの本来の姿を取り戻してやったらしい。

 鞘に封じられていても、抑えきられない力が牙を剥いているようだ。

 それを難なく、持ち続けている青年の顔は穏やかだ。

 このつるぎを持ち続けて正気でいられるのは、竜人族で何人いるか。人間でならば、尚の事。

 一見、平凡な容姿を持つ青年が正気を保てているのは竜の血を半分とはいえ、その身に引いているからなのか、それとも精神力が凄まじいのか。

 視線をこれほど受けても、微動だにしない青年が引くことがないことを悟ると、本性ではない人の手を静かに伸ばした。

 

「ならば、ひとまず受け取ることにしよう」

 

 受け取ったつるぎを腰に差し、竜人族の王は凪いだ瞳を細める。

 

「だが、このつるぎが必要となれば、またここに来るといい」

「ないことを祈ります」

 

 間を置かずに返された言葉に、口元が微かに弧を描いた。

 本当にこの者は、面白い。それは久方ぶりに感じた感情だった。

 二十年前にも、己をこんな風に思わせた娘がいた。外の世界に興味を強く持ち、里の誰よりも強く優しい娘。

 

「お前の性格は、どうやら母親譲りだな」

 

 その言葉に、今は亡き竜神族の娘の忘れ形見ともいえる青年は何処か娘の面影を漂わせながら、くすぐったそうに笑った。

 

「そのような事を、……祖父にも言われました」

 

 

 

 

 

 

※平和な世界になった後、エイト君はすぐに竜神王様に剣を返しに行くと想像して出来た話。彼は多くを望まない人だと私は思います。

そんな彼が一番強く望んだのが、真エンディングでのミーティアとの結婚なんだろうなあとプレイするたびに感じます。

でも、新エンディングも好きです。旦那様呼び、最高です。

(プレイヤーの手を離れて、主人公自身が行動するという事)

 



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18話

無意味だ。

 

この手も。この手が奏でるものも。存在も。

 

すべて、無意味である。

 

 

 

***

 

 足が止まった。

 すると、廊下の大理石の床を叩く靴音が一つ消えた事に気付いたのか、前を歩いていた初老過ぎの男性が同じように足を止めて、振り返った。

 

「どうなされました、エイト殿」

「あ、いえ。なんでもありません」

 

 穏やかな低い声に問いかけられて、エイトは慌てて、早足で追いつく。

 相手はこちらを見上げるとあご髭を撫でながら、気遣うように目を細めた。しわが刻まれていても、涼しげな目元は優しい。

 

「少し、疲れましたかな?」

「大丈夫です。ローレイ様。ただ、アスカンタ城内の広さに少々……。このお城には久方ぶりに来たので……」

 

 なるほど、と頷いて微笑んでくれたアスカンタ国の大臣ローレイに同じように笑い返した。

 エイトは今、アスカンタ国の城にいる。

 何故、この国にいるのか。それは、トロデ王の計らいによってだった。

 ほんの数日前。玉座の間に呼び出されたエイトは主の顔を見て、すぐに回れ右をしそうになった。

 王が子供のように無邪気に、心から楽しそうな笑みを浮かべる時は、特に注意しなくてはいけないのだとトロデーン城では暗黙の了解だった。

 悪い予感の通り、王は「アスカンタ国で開かれる市にトロデーンも招待されておる。という訳で、おぬしが行くのだ」という恐ろしい事をあっさりと告げられた。

 同席していたミーティアが、エイトを心配し、共に行きたいと王へ願い出ていたが、王は珍しく顔を険しくさせて、愛娘の願いを聞き入れなかった。

 それからは、あっという間だった。徹底的に礼儀を叩き込まれ、蹴りだされるようにアスカンタへ送り出された。

 ああ、と口から魂でも飛び出しそうだ。いっそ、気を失うかでもして、目が覚めたら終わっていないだろうか。

 

「義兄上の考えは、貴方にこのような場に少しでも慣れてもらう為でしょうな」

 

 自分が遠い目をしている事に気が付いたのだろうローレイは、こめかみをかきながら、同情するように言った。

 

「来賓といっても、座っているだけです。そんなに肩肘を張らなくても大丈夫ですよ。何かあれば、わたくしが手助けいたしますゆえ」

「ありがとうございます」

「はっはっ、気になさるな。義兄上の気まぐれには、これでも慣れておりますから」

 

 頭を下げて、もう一度、ローレイに礼を言う。

 この人も王が突拍子のない行動を起こす事をよく分かっているようだ。恐れ多い事だが、ローレイに対して妙な仲間意識が芽生える。

 なんといい人だろう。大臣という忙しい身であるだろうに、わざわざ自分に時間を割いて、客室まで案内をしてくれている。

 止まっていた足を動かして、前を行くローレイが気を紛らしてくれるかのように話しかけてくれる。

 

「貴方はトロデーンのお客であると同時に、我が国の恩人です。貴方がいらっしゃったとなれば、……きっと我が王も喜びましょう」

 

 最後の部分が妙に重く聞こえて、内心首を傾げた。

 だが、前を歩くローレイの顔は見えない為、その時どんな表情をしていたのかエイトには分からない。

 その背中を見ながら、エイトは先程感じた胸が詰まるような感覚を思い出す。

 何かを失ってしまったような、一瞬で駆けぬけていった感じにエイトは僅かに表情を曇らせた後、すぐに振り払うように頭を軽く振った。

 



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19話

 アスカンタ国で一年前より開かれるようになった市。西にあるサザンビーク国で開かれる市が商人の市だとすれば、こちらは百姓の市だといえるだろう。

 心から愛していた王妃を失い、心を悲しみに染めたアスカンタ国王は、絶望のあまり、執務に手が付かず、アスカンタ国は、一時国政が崩壊していたが、エイト達と心優しい小間使いの少女のお陰で、若き国王パヴァンはようやく己の足で立ち上がった。

 その後、王は、以前の気弱な殻を脱ぎ捨てて、国の為に動き始めた。

 どちらかといえば、内向的なパヴァン王であったが「農業に栄えた国だからこそ、出来ることがある」という力強い言葉に、大臣のローレイや周りの者達を大いに驚かせたらしい。

 春と秋の二回に催される市、通称【星の市】は世界中の百姓や商人が集まり、自分達が育て上げた野菜などを売りさばいたり、情報を交換したりする場となった。

 後世、アスカンタ史にその名を大きく残すこととなるパヴァン王は、その命が燃え尽きるその瞬間まで、国を活性化させたという。

 また、王はただ提案するだけではなく、各地方の領主一人、一人に自ら手紙を送った。結果、その情熱に胸を打たれた彼らの協力によって、成功したといっても過言ではない。

 良心ある王が、上に立てば国も人も穏やかになる。少しばかり、回り道をしてしまったかもしれないが、あの方は良き王になられたと、ローレイはエイトに穏やかな声音でそう言った。

 ローレイはいくつもの長い廊下を抜けて客室に案内してくれた後、「後程、世話係をよこしますので、どうかおくつろぎ下さい」と言って、部屋にエイト一人残して去ってしまった。

 所在なさげにエイトは豪奢な部屋に立ち尽くす。寝心地のよさそうな大きな寝台。空が一望できる半月を引き伸ばしたかのように大きな窓。壁には高価な絵画と暖炉があり、その前には柔らかそうな布地でできた青い長椅子。

 ふと、何気なく足元を見て、慌てて扉の方に下がった。これまた高価そうな鮮やかな色をした絨毯の端を踏んでいたからだ。

 どうしよう、と呟いて、顔を青褪めさせた。

 トロデーンの城でも、王より個室を与えられた。初めは、近衛隊長なのだからと目も眩まんばかりの豪奢な部屋を与えると言われ、必死に主に拝み倒し、平伏して、なんとかまだ質素な部屋で寝起きしている。それでも、広い部屋な事には変わりないが。

 その時、背中にある扉が控えめに叩かれ、エイトは思わず飛び上がりそうになった。

 

「……は、はい!」

 

 声が裏返ってしまいそうになるのを何とかおさえて、返事をする。

 

「本日から、エイト様のお世話をさせて頂く事となりました。失礼してもよろしいでしょうか」

 

 扉越しに聞こえてくる凛とした声に、目を大きく開いた。

 慌てて扉を開けると、そこには太陽の輝きを写し取ったかのように、暖かい金色の髪をもった少女が佇んでいた。

 

「お久しぶりですね、エイトさん。私の事、覚えていらっしゃいましたか?」

「もちろんだよ! 久しぶりだね、キラ!」

 

 キラは見る者を安心させるような笑みをにっこりと浮かべて、丁寧にお辞儀をした。

 彼女は、かつてエイト達に願いを託した心優しい小間使いだった。

 



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20話

 礼服の襟が窮屈で仕方ない。先程から喉を締め上げるかのような窮屈な襟と首の間に指を入れて、少しでも呼吸を楽にしようとする。

 だが、息苦しさから解放される事はなく、そればかりか、ますます首が締まっていくような気がした。

 

「エイトさん、せっかくのお召しものがよれてしまいますよ」

 

 後ろを歩くキラに小声で囁かれ、仕方なく指を外すと、先導する騎士の背を見ながら、数日で叩き込まれた礼儀作法を頭の中で呪文のように繰り返す。

 今から、各地方の客人達とアスカンタ王でささやかな晩餐会が開かれるのだという。当然、客人であるエイトもこの晩餐会に参加せねばならない。

 ため息を吐きかけて、踏みとどまる。気が付けば、もう食堂の前に着いてしまっていたようだ。大きな両扉に控えた兵士が拳を首元まで上げて、エイトに向かって礼をした。

 キラが前に出て、こちらに視線を送る。ぎこちなく頷くと、キラは微かに微笑んでくれた。

 ゆっくりと開かれた扉の先に広がる大きな食堂の壁には、青い布が垂れ下がり、奥には床が一段上がった場所に席が設けられていた。王の座る席だろう。その席を囲うように長いテーブルが置かれ、既に客人達が座って、和やかに談笑している。

 エイトが一歩、足を踏み入れると、彼らの会話がぴたりと止んだ。

 いくつもの好奇の視線が刺すように自分に向けられているのが分かったが、ここで背を向ける訳にはいかない。そのまま、キラがさりげなく示してくれた席に座る。

 

「あれが、かの……」

「なんと……お会いできるとは」

「……をさしおいて、姫を娶った」

「世界の英雄を拝めるとは……」

「もとは、卑しい……だったらしい」

 

 囁かれる会話が、耳に嫌という程、入ってくる。

 膝の上に置かれた両拳に力が入るが、表情は変えなかった。

 

「分かっているだろうがのぅ、エイト。全ての人間が、おぬしを称える訳ではないぞ。中には、妬む者もいるだろう。その者達は、おぬしの羨ましい部分しか見ていないのだ。おぬしの血の滲むような努力を無視し、己がもっとも欲しい部分だけを見て、親の仇とばかりに憎むのだ」

 

 アスカンタ国に来る前にトロデ王から言われた言葉を思い出す。

 分かっている事だったが、心の内側から冷えさせていくような言葉に、肩が重くなる。

 その時、空気を切り裂くように、澄んだベルの音が響いた。

 

「お集まりの皆様、お待たせいたしました」

 

 穏やかな低い声に、客人達の視線が自然とそちらへ向いて、エイトは少しだけ安心した。

 いつの間にか、食堂の中央に立っていたローレイが小さなベルを持って、笑みを浮かべていた。

 

「わたくしは、アスカンタ国の大臣ローレイと申します。我が主、パヴァン王が参りました」

 

 屈強な兵士に挟まれて、姿を現した若い王の姿に一同が席を立ち、深くこうべを下げた。エイトも同じように頭を下げて、少しだけ王の方を見た。

 ローレイの言った事がよく分かった気がした。

 以前の優しげであったが、弱々しささえを感じられた顔は引き締められ、王らしい振る舞いが身についているようだった。

パヴァン王は豪奢なマントを払い、落ち着いた様子で席に着くと手を軽く上げて、客人を座らせた。

 給仕から渡された銀杯をかかげて、男にしては少しばかり高い声で話し出す。

 

「よく来てくれた。我が国の為に、力を貸して頂いたことに心から礼を」

 

 すると、僅かにパヴァンがこちらを向いて、視線が合う。

 驚いている間にパヴァン王はすぐに前を向いてしまったが、その時の嬉しそうな表情に重くなっていた肩が軽くなった。

 

「それでは、皆の者。どうか楽しい夕食を」

 



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21話

 

おひさまがあたたかい。

 

手を伸ばしたら、届くだろうか。

 

わたしは――、

 

 

***

 

 伸ばした手が、何かを捕まえ損ねたかのように、宙を彷徨う。

 ミーティアは、ぼんやりとしたまま、熱い涙が頬を滑るのと、横になった体に感じる冷たい床の感触に少しだけ浸る。

 だが、徐々に頭がはっきりしてくると、今、自分が置かれている状況がおかしい事に気が付いた。

 どうして、自分は柔らかい寝台の上ではなく、固く冷たい床の上にいるのだ。

 慌てて、跳ね起きながら、辺りを見回すと、一気に身体中から熱が引いていった。

 

「……こ、こはどこ……?」

 

 いつものように自室の寝台に潜り込み、眠りに落ちる前にアスカンタ国へ旅立った彼を心配していたのを覚えている。

 どうして、という言葉は、恐怖で唇が凍ったせいか、空気が漏れたような音にしかならない。

 恐怖と心細さによって、体が小刻みに震える。胸元で握りしめた自分の両手が氷の塊のように思えた。

 なんとか落ち着こうと息を吸った。だが、どくどくと心臓がやけに大きく音を立てて、上手く吸えない。

 

「……エイ、ト……!」

 

 名前を呼びながら、左手の薬指に唇で触れ、優しい笑顔を必死に思いだして息を吸うと、今度は上手く呼吸ができた。

 何度か深呼吸をゆっくりと繰り返し、膝の上で両手を祈るように強く握りしめて、ゆっくり顔を上げると周りを恐る恐る見回した。

 そこは、まるで古いおとぎ話に出てくる神殿のような美しい建物。白く磨き上げられた石柱が並び、外の景色は見えず、ただ白い風景が広がる。そして、沢山の楽器が踊るようにして、音楽を奏でて宙に浮いていた。

中央には螺旋をえがいた階段と高台。自分の後ろを振り返れば、どこかへ通じるであろう扉。この扉を潜れば、少なくともここからは出られるかもしれない。

 その時、楽器たちが奏でる音楽の間を縫うように、足音が一つ響いた。

 心臓が痛いぐらいに大きく鳴って、体が金縛りにあったかのように動きを止めた。

 

「よくおいでになった」

 

 声に引かれるようにゆっくりと振り返る。不思議な事に、その声を聴いた瞬間、恐怖が消え去っていた。

 中央の高台の螺旋階段を滑るように下りる人物は、奇妙に凪いだ瞳でこちらを見ていた。

 まるで彫刻のように整った顔。海や空より深い青をした長髪が揺れ、人ではない証の尖った耳が見えた。

 手を差し伸べられて、ミーティアはその手を借りて立ち上がる。

 一度しか会っていなかったが、目の前にいる人物を自分は覚えていた。それは、旅をしていた時。

 

「あなた、は……あの時、魔法の船を動かして頂いた精霊様?」

 

 精霊は目を細めて、僅かに口元に笑みを作る。その手には美しい琴があり、淡く輝いていた。かつて、エイト達が見つけだした月影のハープ。

 

「イシュマウリと。人間の姫君よ」

「イシュマウリ様、……これは夢なのでしょうか。ミー……私はどうして、ここに?」

 

 尋ねると、精霊は手にあるハープを小さくつま弾いた。

 

「私が呼んだからだ」

「え……?」

 

 尋ね返そうとするが、ハープの美しい調べによって遮られる。

 それは、ミーティアの知らない古代の曲だ。

 ゆったりと音が伸ばされるように始まったそれは一定のリズムを刻んだ後、川のせせらぎのように小さくつま弾かれていく。次いで、音色は風のざわめきのように大きく。そのまま、烈しさを増して、炎のように燃え上がるかのようだ。

 複雑な曲ではないのに、何故だろう。何処か、悲しげな調べに感じてしまうのは。

 ふと、ミーティアはこの曲に何か足りないような気がした。

 唐突に演奏は止まった。

 滑るように絃を紡いでいた彼の手元を見ていたミーティアは、驚いたように顔を上げる。

 こちらを見返す精霊は、言葉も発さずに、表情も静かだ。無表情ともいえるだろう。

 でも、とミーティアは思う。先ほどつま弾いた音色は、悲しい感情がつまっていた。まるで忘れたものを追い求めるように。

 何かを言おうとミーティアは口を開くが、その前に精霊が言葉を発した。

 

「あなたの歌は美しかった」

 

 突然の賛辞に驚いて固まるが、そんな事にも構いもせず、イシュマウリは淡々と続ける。

 

「あなたの歌を聴いて遙か昔、我らが人と共にあった事を思い出した」

 

 遠くを見るようにイシュマウリの眼がすっと細まり、手遊びのように小さくハープを弾いた。

 

「だが、もう私には必要のないもの。人の信仰も供物も。……そして、巫女も」

「巫女……?」

 

 ミーティアは聞き返すが、予想通り答えは返ってこなかった。どうやらこの精霊は、人と話す事があまり好きではないように思えた。

 完全な拒絶という程ではないが、こちらからの干渉を避けているように思える。友人の令嬢であれば「人のことを呼んでおいて、何様よ!」と烈火のごとく怒りだしそうではあるが。

 だが、彼女はできるだけ彼から話してくれるのを待つ事にした。この精霊が自分をどうにかしようという風には思えなかったからである。

 呪いのせいで馬に変えられたとはいえ、旅の間、自分なりに世界を観た。

 少し進むだけで、海を越えるだけで変わる風土。様々な町。そこに住まう人々。考え方。少し怖い思いもしたことがあるけれども、それも一つの経験になった。いろんな事を観てきたから、彼らの、彼の傍らで。

 全てがミーティアの一つで。どれを欠けても今の自分ではなかっただろう。

 あまり動揺している様子がないミーティアに、精霊は不思議そうに首を傾げた。

 

「人間の姫。怖くはないのか」

 

 問いかけに瞳をゆっくりと瞬かせると、ぎこちなく微笑んだ。

 

「怖くはないと言ったら嘘にはなります。けれども、貴方が私に何かをしようとは思えません。それに……」

 

 ミーティアは宙に浮かぶ様々な楽器を見てから、今度こそ笑顔になった。

 

「……おとぎばなしにでてくる月精霊さんのお家には、小さい頃からミーティアは行ってみたかったんです」

 

 その言葉に、イシュマウリは心から驚いたように眼を大きく広げた。

 

「……人間の姫君は、我らの事を知っておいでか」

「はい。幼い頃に亡くなった母が寝る前に聞かせてくれました」

 

 亡くなった母が話してくれた誰も知らない夢物語。

 今では、おぼろげにしか思い出すことができない母の顔だが、それでも語ってくれた物語は彼女の心で生きている。

 

『ミーティア、古いおとぎばなしをしてあげましょう。月の大きなかげには月精霊さんのお家の扉がありました。そこを開けば、とても素敵で不思議な――……』

 

 大切な母からの貰ったひとつの愛。その中で、とても印象に残っている月のおとぎばなし。

 

「そうか、なるほど……」

 

 イシュマウリは納得がいったように頷くと、こちらを静かに見据えた。

 いつの間にか、あれほど好き勝手に演奏していた楽器たちがぴたりと口をつぐみ、こちらの会話を盗み聞きするかのように静かになっていた。

 

「姫よ。私が貴方を呼んだのは、忠告する為だ」

 

 急に不安が暗雲のように押し寄せてくる。まさか、また世界に異変が起きているのだろうか。

 

「貴方の、その力を使ってはならない」

 

 何を言われたのか分からなかった。きょとんとしたように目を大きく開くが、精霊は静かに続けた。

 

「貴方は、何度も無意識に使っていたようだが……」

 

 人の話を遮るのは不作法だが、このままでは話が見えない。慌てて、声を上げる。

 

「あの、待ってください! 何のことでしょうか。私には、力なんて」

「使っていただろう。何度も。愛しい者の夢にもぐりこんでいた」

 

 夢、という言葉でミーティアはあっと声を漏らし、精霊の言う力とは何のことか思い出した。

 旅の間、不思議な事があった。毎日というわけではなかったが、彼女が想いを伝えたい時、強く願った日は、何故か決まって、彼の夢を見たのだ。後で聞けば、彼も同じ夢を見ていたという。

 表情で悟ったことに気付いたのだろう。精霊は深く頷いた。

 

「そう、それはふるき世界の力。まさか、まだ持つ者がいるとは思わなかったが……。姫よ、貴方の力は夢を渡ることができる」

「夢を、ですか……?」

「その力はふるき世界では大いなる力だった。そして希望だった力。だが、新しき世界には不要のものだ。だから、人間の姫君、その力を使ってはいけない。このままでは、眠る魂のかけらまで揺り起こしてしまう」

 

 表情は淡々としているが、有無を言わせない口調に押されて、頷く。

 彼は何を恐れているのだろうか。だが、それを聞ける雰囲気ではない為、疑問を呑みこんだ。

 

「わかりました。ですが、精霊様。どうすれば、力を消すことができますか」

「既に目覚めてしまった力を消すことは無理だ。赤子が己の足で立ち上がり、歩くのを忘れられないように。……だが、封じることはできる」

「それは?」

 

 イシュマウリは胸に抱いたハープを軽く鳴らした。

 

「姫よ、想うのだ。愛しい者の事を。そうすれば、いくつもの夢の世界を彷徨う事なく、愛しい者の夢にとどまり、力を封じることができる」

「……そ、それはつまり……、エイトをずっと想っていればよろしいという事ですか……?」

「そうだ。愛する者への想いというのは想像できない程に強い。それはあなたの楔となる」

 

 自分の顔が赤くなっていくのを不思議そうに眺めるイシュマウリに、ますます恥ずかしくなった。

 ふと、精霊は誰かに呼ばれたかのように顔を後ろに向けた。視線の先には透き通るように浮かび上がる青い球体があった。

 やがて、ぽつりと精霊は呟く。

 

「新しい太陽が産まれたようだ。……人間の姫よ、そろそろ人の世界に戻るのだ。じきに夜が明け、産まれたての太陽が顔をだすだろう。世界へは、その扉から戻れる」

 

 さあ、と一方的に促され、ミーティアは扉の前に立つ。だが、すぐに後ろを振り向いて、イシュマウリに尋ねた。

 

「あ、あの。またお会いできますか?」

 

 虚を突かれたように精霊は瞬いた。だが、すぐに首を横に振る。

 

「もう会うことはないだろう。私が、人間と会うのは一度きり。そして、これはただの夢」

 

 イシュマウリはすべてを包み込むように柔らかい笑みを浮かべた。その笑みに何処か寂しさが滲んでいるのをミーティアは気づく。

 

「さあ、新しき世界に戻るのだ」

 

 精霊の手が琴を優しくつま弾いた。

 それを合図に扉がひとりでに開かれ、そこから溢れた光がミーティアを包み込んだ。

 



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22話

 

「追ってきてない……よね?」

 

 狭い路地裏の間から、そろそろと顔を出す。視線を右、左と動かして、追ってくる人間がいない事を確認すると頭を路地裏に引っ込ませた。

 ひんやりとする石壁に背中を預けると、沢山の楽しげな声が路地裏にまで聞こえてきて、深々とため息をつく。

 息の詰まるような宴から夜が明け、市の一日目が始まった。

 

「エイト殿、今日は来賓の方々に予定はありません。せっかくですから、我が国の市をご覧になってはいかがですかな」

 

 王族とはいえないエイトが、城の中で居心地悪そうにしているのを見かねたローレイが提案してくれた。

 来賓が脱けだしてもいいのだろうかと躊躇うエイトにローレイは悪戯っぽく微笑む。その笑みは、何処か自分の主を連想させた。

 

「なに、他の来賓の方々は昨晩の宴ですっかり寝入っていらっしゃる事でしょう。我が国の酒は強いものが多いですからね。美味い酒なことに変わりはありませんが、飲みすぎるとひどい二日酔いに襲われるのです。ですから、こっそり脱けだしても、誰にも見られません」

 

 片目をつぶってみせたローレイの言葉に甘えて、こっそり持ってきていた質素な服に身を包み、市に足を踏み入れた。

 だが、珍しそうに辺りを見回すエイトを格好のカモだと思ったのか、ごろつきが難癖をつけて、危うく乱闘騒ぎになりかけたので、隙を見て逃げ出し、路地裏に逃げ込んだのだ。

 何故、自分の周りで様々な事件が起こるのか。運が悪いにも程がある。

 せめて剣を持って来ればよかったと、客室に置いてきた剣を思い出して、もう一度大きくため息をついた。

 ローレイの好意で脱けだすことができたのに、このままではせっかくの一日目もなくなってしまうだろう。あとの数日で、このような機会に恵まれるのかも分からないのだ。

 

「……せっかく、ミーティアにお土産を買ってこようと思ったのに……」

「あんた、そこで何をしてるんだい?」

 

 気が付けば、路地裏の入り口を塞ぐように茶色のマントを頭まですっぽり被った人物がエイトを見ていた。顔を窺う事は出来ないが、背格好と声からして、女性のようだ。

 刺すような視線にエイトは困り果てる。

 

「え、っと、少しばかり、休憩をしていまして。あなたも、休憩ですか?」

「……もしかして、あたしが分からないのかい」

 

 相手は呆れたようにため息をつくと、頭のフードを下ろしてみせた。

 声と同じように少々きつめの美貌。蛇のようにつりあがった双眸が、真っ直ぐこちらを見る。弓のような形の良い唇が開く。

 

「久しぶりだね、エイト」

「ゲ、ゲルダさん?」

 

 何処か面白そうに、瞳を細めた女盗賊に、エイトはただ驚いた。

 

「ふぅん、なるほど。あんた、運がない人間だね。パルミドへ行ったら、半日も経たずにあそこの住人に身ぐるみを剥がされちまいそうだ」

 

 あの路地裏にいた理由を話すと、ゲルダは、容赦ない一言でエイトを突き刺した。

 言葉に詰まったエイトは、何故かゲルダと共に市の方へと戻っている。

 あのごろつきが飛び込んでこないかと辺りを見回しながら、フードを被ったゲルダに話しかける。

 

「ゲルダさんも、こういう場所にくるんですね」

「そりゃどういう意味だい、ぼうや。あたしが、こんな場所にいるのがおかしいって?」

 

 凄むように目を細くさせて、顔を覗き込んでくる女盗賊に、エイトは慌てて両手を振った。

 

「い、いえ! 違います! ただ、まさかこんな所で会えるとは思ってなくて!」

 

 必死に弁解するエイトが面白かったのか、彼女は軽く吹き出した。

 

「冗談だよ。こういう場所に来るのは好きなほうでね。よくあちこちの地方の市に、こうして顔をだすのさ」

「そうだったんですね」

 

 納得したエイトにゲルダはところで、と切り出した。

 

「ここの王様は元気そうかい?」

「パヴァン王ですか? 特に病を患っているようではありま……、何故そんな事を聞くんですか? ……どうして、僕がパヴァン王にお会いしたと?」

 

 裏の住人である彼女が王族に興味を持つのは、何故か違和感があった。裏の住人の彼らはどこの国が荒れようと、豊かであろうと特に興味を持つことはない筈だからだ。

そして、先程、路地裏にいた理由を話した際に、自分がアスカンタ国へ招かれていることは一言も喋っていない。

 それなのに、この人は自分が招かれている事を知っていた。

 

「どうして、知っているんですか?」

 

 少しだけ怪訝そうにしたエイトに、ゲルダは楽しげな笑みを浮かべる。

 

「ちょっとした情報源からさ」

 

 それだけしか言わないゲルダはひらりと片手を振ると、急に背を向けて歩き出す。

 

「ここは、人が多いからね。きっと絡まれないだろうよ。あんたの運が相当に悪くない限り」

 

 気が付かないうちに、広場の中央に着いていたようだ。これだけ人が多くいれば、目を皿にでもして探さない限り、見つからないだろう。

 ゲルダが、意外と面倒見のいい女性だとは思わなかった。

 

「あ、ありがとうございます、ゲルダさん」

「借りひとつにしといてやるよ。じゃあね、ぼうや」

 

 慌てて頭を下げるエイトに振り返りもせず、女盗賊はあっという間に人の波間に消えた。

 



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23話

 

 最近では陽が短くなってきている事をすっかり忘れていて、気が付けば空は暗くなってしまっていた。

 だが、アスカンタの城下町は、露店にぶら下げられたランプに火が灯されて明るく、辺りは祭りのような賑やかさだ。

 楽しそうに大声で歌っていたり、肩を組んでふらふらと歩く陽気な人々の間を通り抜けて、エイトは手に持った小さな包みを見て、口元を緩ませた。

 

「喜んでくれるかな……?」

 

 包みから微かに漂ってくる甘い香りは、雨が降った後の森の匂いに似ていた。

 あれから、ごろつきに絡まれる事なく安心して、市をゆっくりとまわることができた。

 旅の間によく見かけた野菜や、薬草。また人の手かのように不気味な形をした芋などおかしな野菜も多くあった。それらを調理した屋台も多くあり、あちこちから美味しそうな匂いも漂っていた。

 そんな露店が並ぶ中、女性客が多く立ち止まる露店を見つけた。

 そこは、香りの良いハーブを調合したポプリを売り出していて、安価なものだが、娘達には大変人気のようで、長い列が出来ていた。

 少々気恥ずかしい思いをしながら、その列に加わり、先程ようやく買うことが出来た。

 彼女の事だ。きっと喜んでくれる。柔らかくも眩しい笑みを浮かべる様がありありと浮かぶ。

 なくさないように懐に入れて、城の階段を昇る。

 夕食までには戻るという事を伝えていたので、そろそろキラが部屋に食事を持ってきている事だろう。

 

「なんだ、ありゃあ!」

 

 誰かの声が聞こえて、思わず振り返ると、城壁を越えた森の方で微かに赤く光ったのが見えた。

 ここまで流れてくる魔力にざわりと肌が粟立つ。誰かが、戦っている。

 その証拠にもう一度、森が光る。

 城の扉の前に控えていた二人の兵士が顔を強張らせて、エイトと同じように森を見ていた。その兵士達に軽く頭を下げると、無礼を承知で、疾風の速さで城の廊下を走り出す。

 

「エイトさん!?」

 

 客室の扉を蹴破るように飛び込んできたエイトの様子に驚いているキラの横を通り抜けて、寝台の上に置いていた剣を掴んだ。

 

「ごめん、キラ! 夕食はいらない!」

「えっ?」

 

 それだけを伝えると、バルコニーの戸を開ける。手すりに足をかけたエイトにキラは小さく悲鳴をあげた。

 

「ここは五階です!」

 

 その声を合図に、ひらりと飛び降りると、別館の屋根に着地した。上でキラが何かを叫んでいるが、それに手を軽く振って、すぐ屋根の上を走りだした。

 アスカンタ城とその城下町は城壁に囲まれている。ここから、入口に向かっては時間が掛かりすぎる。そばの民家の屋根を踏み台にして、一番近い城壁の上へと軽々と飛び乗った。

 眼下に広がる森に目を細めて、城壁から地面へ降り立ったエイトは魔力の残滓を頼りに奥へと駆けた。

 背負った剣を鞘から引き抜きながら、茂みをかき分けていくと魔力の残滓が濃くなっていく。つい先程とはいえ、ここまで強い魔力に内心感嘆した。

 仲間で例えるのであれば、ゼシカの魔力に近い。そこまで考えて、瞬きをする。

 

「えっ、ゼシカ?」

 

 近いどころではない。間違いなく、ゼシカ本人の魔力だ。

 何故、彼女がここにいるのかではなく、戦っているのが彼女なのであれば、一刻も早く、手を貸さなくては。だが、あれから新しい魔力は感じられない。戦いが終わったのか、それとも。

 ひらけた場所に出たと同時に、ゼシカの魔力がここで途切れる。

 

「ゼシカ!」

 

 辺りを見回して、呼びかけるが返答はない。

 血の臭いがしないことには安堵したが、姿が見えないことで焦燥感が募る。

 

「ゼシカ、聞こえたら返事をして!」

 

 もう一度呼びかけた直後、獣臭がつんと鼻をついて、前方から殺気が迸る。

 反射的に剣を握りしめたエイトの耳に地面を揺るがすように咆哮が響いた。



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24話

 

 

 見たことのない魔物だと思った。

 突如、姿を現した魔物は、月明かりにその姿を浮かび上がらせながら、こちらに向かって突進をしてくる。

 それを真横に飛んでかわすと体をひるがえして、すぐに魔物の行方を目で追う。

 魔物は、そのまま近くの木々にその巨体を突っ込んでいった。不気味な音を立てて木々が何本も薙ぎ倒されていく。

 体を起こして、こちらを見た魔物は、闇に溶け込みそうなほど黒く長い毛に覆われている。両手両足は丸太のように太く、爪は鋭く尖って、長い尾が別の生き物かのように大きくうねる。爛々と輝く黄色い眼は知性の欠片もなく、剥きだしになった長い牙から滴る唾液がゆっくりと垂れ下がる。

 最初はパルミド地方にいるコングヘッドに近いかと思ったが、この魔物は手足はがっしりとして長く、そしてその図体はエイトの体の三倍はあるように思えた。

 これほどの魔物を、旅の間に見かけなかった事に驚きを隠せないが、ゼシカがここにいないのであればそれでいい。

 両手の中にある剣の柄を少し滑らせて、剣先を右に構えると、地面を蹴った。

 同時に魔物も地面を揺るがしながら、覆い被さるように襲い掛かってきた。それを左にかわして、長い腕を下から上に斬りつける。

 魔物が高く吠えて、斬りつけられたとは別の腕を振り回してきたのをのけぞるように後ろに下がって、距離を取る。

 腕を斬り落とすつもりで剣を振るったが、毛が思った以上に硬く、皮を裂いた程度にしかならなかった。

 そっと刃先に触れてなぞる。世界一の硬さを誇るオリハルコンで精製された剣は刃こぼれ一つないが、それを弾く毛は厄介だ。

 だが、倒す方法がないわけではない。

 魔物と正面から立ち向かうように走る。先程と同じように魔物が爪を伸ばしながら、襲い掛かってくる。

 伸ばしてきた鋭利な爪を避けると、その腕を足場にして伝い走り、肩を踏みつけて宙へ高く飛び上がる。体をひねって剣を頭上に掲げると、魔物の背中に深々とそれを突き刺した。

 舞いあがるように血飛沫があがり、魔物が悲鳴を上げて、体を左右に大きく揺らす。

 それに振り落とされないように、懸命に柄を握りしめると、魔力を刃へ一気に流し込んだ。

 途端に、魔力が熱を帯び、吹きだすように焔が燃え上がって、魔物の背中と肉を焼く。

 肉の焼ける臭いに吐き気が込み上がりそうになるが、歯を食いしばって耐える。

 すると、エイトを乗せたまま、魔物が急に走り出し、あちこちの大木に手当たり次第、体当たりをし始めた。

 何度も揺らされて耐えきれず、柄から手が離れて、地面に背中から落ちる。

 痛みに呻きながら両目を開くと、魔物の足が頭を踏み潰そうと迫り、体を転がして、なんとか避ける。

 地面にのめり込んだ足を引き抜こうとしている間に態勢を整えようと立ち上がるが、その時、足を引き抜いた魔物の鋭い爪が左の脇腹を抉った。

 火箸を押し付けられたかのように熱い痛みにエイトは顔を歪めさせて、後ろに下がろうとする。

 だが、魔物の方が数秒早く、太い腕がエイトの身体を弾き飛ばした。

 みしみしと骨が鈍い音を立て、遥か先の木にエイトは激突する。

 

「……ぐぅっ!」

 

 ずるずると根元に寄り掛かるように落ちて、エイトは唇を開こうとするが、鈍い咳と共に血泡が溢れて、視界が霞みそうになる。

 痛みをこらえながら、もう一度唇を開く。

 

『 痛苦を取り払え ホイミ 』

 

 大きな呪文は時間と魔力を喰う。今の状況で唱えられる回復呪文は、初級呪文のみ。

 頼りないほどの小さな緑光がエイトを包んだ。強い痛みは僅かに消えた。これならば、立てる。

 魔物の吼える声が聞こえて、徐々に近づいてくるのが分かった。血の臭いですぐにここが分かるだろう。

 剣は魔物の背中に突き刺さったままだ。素手で戦えるような相手ではないが、騒ぎを聞きつけたアスカンタ国の兵士がまもなくやってくるだろう。それまでの時間稼ぎになればいい。

 ふと、視線が無意識に後ろを見て、思わず苦笑した。

 ここに、仲間はいない。彼らが、来る筈もない。独りで戦うしかないのだ。

 よぎるのは、悲しそうな翠の瞳。今の自分を見たら、彼女がどんなに悲しむだろうか。

 いってらっしゃい、と見送られた笑顔にもう一度触れる為に、自分は死ぬわけにはいかないのだ。

 旅をしていた時と背負っていたものは違う。

 だからこそ、

 

「帰る」

 

 一際大きく魔物の鳴き声が近くで聞こえて、殺意に満ちた黄色い眼が二つ、こちらを真っ直ぐ見据えている。

 脇腹の傷を押さえて立ち上がると、魔物は低く唸りながら、体を低くしてこちらに向かって跳躍した。

 避けようとした瞬間、胸を押すような違和感が襲われ、咳き込んでしまう。

 そのせいで、反応が遅れる。しまったと思った時には、鋭い牙がずらりと並んでいるのが大きく見えて、エイトは目を大きく開いた。

 

「危ない!」

 

 声と共に、身体を強く引かれて、脇の茂みに倒れ込む。

 獲物を捕らえることの出来なかった魔物はまたもや、木を薙ぎ倒した。

 驚いたエイトとは反対に、引っ張った相手はすぐに体を起こし、杖で魔物を指すと、凛とした声で呪文を唱えた。

 

『 大地の奥底で眠る番人 大いなる炎竜の尾に巻かれよ ベギラマ 』

 

 赤い粒子が煌めき、魔物を凄まじい炎が一瞬で包み込む。

 暗闇に閉ざされた辺りは、魔物のつんざくような悲鳴が響き、炎によって明るくなった。

 

「エイト。あなた、腕がなまったんじゃないの? それじゃあ、マルクとポルクの先生とは言えないわね」

 

 明かりがなくとも、彼女が誰なのか分かる。

 勝気そうな強い眼差しに、エイトは痛みをこらえて、小さく笑った。

 すると、柔らかい光がエイトを包み込み、傷の痛みが和らいでいく。

 

「とりあえず、お説教は後回しよ。もちろん、一緒に戦ってくれるわよね?」

 

 杖の先にエイトを包んだ光と同じものを灯しながら、ゼシカが微笑んでいるのを見て、エイトは無性に泣きそうになった。

 

「当たり前だよ、ゼシカ。僕と共に戦ってほしい」

 

 差し伸ばされた細くも、頼りになる仲間の手をエイトは握り、頷いた。

 



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25話

 

 魔物を包む炎はいまだに燃え続けているが、もうすぐ消えるとゼシカは言う。

 

「燃え上がってはいるけど、あまり熱さはないわ」

 

 炎に照らされた彼女の顔はどこか疲れているように思えた。それを裏付けるように、少し呼吸が荒い。

 心配するような視線に気づいたらしいゼシカが苦笑した。

 

「ごめんなさい。私、今ちょっと上手く動けないの」

「大丈夫。僕が行くから、ゼシカは援護にまわってほしい」

「分かったわ」

 

 ゼシカが頷いたので、エイトは自らの胸に手を当てた。

 

『 聖霊よ 精霊よ その大いなる優しき腕で 我が身を癒したまえ ベホマ 』

 

 暖かい緑光が煌めきながら、全身を包み込んでいき、傷を急速に塞いでいく。だが、失われた血液や体力は戻ることはない。

 拳を握って、感覚を確かめる。胸を押されるような違和感は少し残っているが、これもしばらくすれば治まるはずだ。ゆっくりと顔を上げると、ゼシカが魔物を杖で指して合図を待っていた。

 

「ゼシカ」

「ええ」

 

 まるで糸を引っ張るように、ゼシカが杖を引いた瞬間、炎は一瞬で霧散した。

 忌まわしい炎が消え去った事で、魔物は全身から煙を漂わせながら、こちらに向かって大きく吠えて、残りの火の粉を振り払うかのように大きく身を震わせる。

 ゼシカの言う通り、激しく燃え上がっていても、軽い火傷を負わせた程度のようだ。だが、そのお陰で厄介だった剛毛が燃えたようだ。肉が焼ける臭いとは違う毛皮の酷く焦げた臭いがこちらまで漂ってきている。

 突き刺さったままの剣の柄が魔物の背中で月光によって鈍く光る。

 まずは、剣を取り戻す。

 

『 伸ばせ 我が手に 我は力を望む者なり 強き力を授けたまえ 大いなる大地の恩恵を今ここに バイキルト 』

 

 力強い詠唱が聞こえ、全身に力が溢れる。

 肩越しに振り返ると、地面に座り込んだゼシカが目を細めて、唇を吊り上げた。

 それに押されるように走り出す。

 先程一人で戦っていた時とは違う。誰かが、仲間が背中にいるという事が、これほどまで自分に力を与える。

 頭から突っ込んでいくように走り、一気に距離を詰めると、魔物が牙を剥きだしながら、体を引き裂こうと爪を振り下ろしてくる。

 エイトはそれに構うことなく姿勢を低くし、魔物の手のひらに、下から抉るような掌底を叩きつける。

 腕力を増幅させた今なら、真っ向から立ち向かえる。

 ぶつかり合う音と共に魔物の腕は押し戻され、怯んだように後ろ足で立ち上がりよろめいて、柔らかい腹が剥きだしになる。

 

『 冷気よ 凍れ ヒャド 』

 

 ゼシカの唱えた氷刃が剥きだしになった腹部に突き刺さり、魔物はそのまま背中から倒れ込んでいく。

 その間に素早く魔物の後ろに周りこんでいたエイトは近づいてきた背中に刺さる剣の柄を掴むと一気に引き抜いた。追うように短い悲鳴が上がる。

 そのまま背中を踏み台にして、前転しながら、魔物の両眼をはやぶさのような速さで二度切り裂く。

 着地したエイトは、痛みでのたうつように転がる魔物にとどめを刺そうと、体をひるがえすが、魔物の長い尾が鞭のようにうねり、エイトの足元を払った。

 体勢を崩したエイトに、魔物の巨体がのしかかろうとして、動きを止める。

 いつの間にか接近していたゼシカの鞭が魔物の首に巻きついていた。

 だが、大きな魔物を縛りつける程の力が彼女にはなく、深手を負ってもなお、抵抗する魔物に引きずられそうになる。

 

「エイト!」

 

 体勢を整えたエイトは剣を強く握りしめて、魔物の身体を斜めに大きく切り裂く。

 魔物の身体が傾ぎ、姿が大きく膨らんでぼやけて、そして一瞬で闇の彼方に消え去った。

 



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26話

 

「エイト、話したいことが沢山あるの。でも、まずはこの森を出ましょう」

 

 そう言ったゼシカに促されるようにして、すぐに森を出る事となった。

 いつ先程のように魔物が現れるか分からない為、その間は一言も喋ることはなかった。

 背負った剣の柄に手を伸ばしながら、隣を歩くゼシカを見る。

 その横顔は疲労の色が濃く、いっその事、彼女を背負っていこうかと思ってしまったほどだ。

 ようやく森を抜けた所で、思わぬ人物が杖のように地面に剣を立てて、佇んでいるのが見えた。

 

「ご無事のようですね、エイト殿」

「ローレイ様……?」

 

 三人の兵士を引き連れたローレイは、仄かに笑みを浮かべてくれたが、纏う気配がどこか尖っているような気がした。

 

「隣におられるのは、もしやゼシカ嬢では?」

「お久しぶりでございます、アスカンタ大臣様」

 

 隣にいるゼシカに気付いたらしい彼に、ゼシカが一歩前に出て礼をする。ローレイも同じように礼を返すが、すぐに視線を城の方へ向ける。

 

「お二人共、すぐに手当をいたしましょう。お話もそこで」

 

 いつか沢山の料理を振る舞われた一室へと連れられたエイトとゼシカは、城専属の医術士によって手当をされた。

 元々、高位の回復呪文とゼシカの祝福の杖で傷が殆ど塞がっていたエイトは、ひどく苦い味のする薬湯を飲まされた程度だった。

 だが、ゼシカを見た高齢の医術士は長い白髭を撫でながら、すぐに渋い顔をした。

 

「魔力が殆ど残っていないその状態で、よく歩けましたな。さすがは、英雄の一人という事でありましょうか」

「殆ど……って、ゼシカ!」

「心配しないで。昨日に比べて、走りまわれる程度には回復しているのよ」

「……普通ならば、一週間は寝込んでしまいますぞ。後で、魔力を回復する聖水をお持ちしましょう」

「ありがとうございます」

 

 去っていった医術士を見送りながら、エイトは拳を膝の上で握りしめた。

 自分が思っていた以上に、ゼシカの体調はよくなかったのだ。それなのに、更に無理をさせてしまった。

 謝るのは、きっと違う。

 

「ゼシカ、助けてくれてありがとう」

「仲間なんだから、当たり前でしょ。間に合って良かったわ」

「……うん」

 

 間も置かずに返ってきた返事にエイトは嬉しさのあまり、頷くだけで精一杯だった。

 簡単につまめるようなサンドウィッチや果物を盛った皿をテーブルに並べた給仕を下がらせたローレイが、向かいの席に座る。

 

「お疲れの所、申し訳ありませんが、あの森で現れたという魔物の事を詳しく話して頂けますかな。まず、魔物が現れる前にあの森にいたのは、ゼシカ嬢で間違いはありませんか?」

「はい、その通りです」

「あそこにいた理由をお聞きしても?」

 

 ゼシカは何かを迷うように視線を伏せたが、すぐに顔を上げてローレイの方を見つめた。

 

「森の事もなんですが……。お伝えしなくてはならない事が沢山あるのです。このような時間に無礼を承知で申し上げます。今から、パヴァン王様と謁見させて頂く事はできませんでしょうか?」

 

 ゼシカの言葉に、ローレイの表情に翳りを帯びた。考え込むように両手を組んで、唸る。

 

「市の初日に、このようなことが立て続けに起こるとは、なんたることだ……」

 

 疲れたようにため息を吐いたローレイは眉間を揉んで、目元を手で覆った。

 いつもの朗らかな彼から想像できない様子にエイトは、嫌な予感が胸を巣食った。

 

「……ローレイ様、それはどういう意味でしょうか?」

「私は、あなた方を信用していますのでお話しましょう。実は、……森での事件の少し前に、王が何者かに襲われました」

 

 パヴァン王の優しい笑みが浮かんでは消える。

 目を見開いて、椅子から立ち上がったエイトと声を漏らしたゼシカを安心させるように、ローレイがすぐに手を上げた。

 

「ご安心を。王には、怪我一つありません。気を失っておられるだけでした。医術士の話では、すぐに目を覚まされると」

「良かった……」

 

 椅子に座り直したエイトは安堵のため息を漏らす。

 

「市は、どうなさるのですか。このまま、パヴァン王がおられないとなると……」

 

 ゼシカがためらいがちに尋ねるのを聞いて、エイトはその通りだと思った。

 目を覚ますといっても、すぐに動けるような状態とは限らない。このままでは、王不在のまま、市は開催され続ける事となる。

 更に、森で狂暴な魔物が現れたという事で、人々の安全を考えれば、中止にしてしまった方がいい筈だ。

 

「既にこの市は、この国にとって、重要なものとなりました。今更中止にすることなど、考えられない。民にとっても、この市にやってきた百姓達にとっても、日々の暮らしを少しでも向上させる為の大切な場でもあるのですから」

「その人達に、危険がふりかかるかもしれないのにですか!?」

 

 思わず、声を荒げたエイトを見るローレイの静かな表情はちらとも揺るがない。市を中止にすることなど、全く考えていないようだった。

 

「魔物は、アスカンタに招かれていた英雄の手によって打ち倒されたと明朝に伝えれば、民は何もなかったように振る舞うでしょう。人というものは、確かなものがあれば安堵するのです。それが強いのであれば、尚」

 

 冷酷ともとれるローレイの淡々とした言葉に、エイトは絶句した。それは、ゼシカも同じのようで、唇を微かに開いて、眼を鋭くさせていた。

 国の頂点に属する者は、皆このような考え方を持っているのか。主である、トロデ王も同じ考えを持っているのだろうか。

 浮かんだ考えをすぐに握り潰す。

 トロデ王は、そんな事を絶対にしない。民あっての国と考える王だ。

 

「……大臣。王が今しがた、目を覚まされました」

 

 エイトの大声が聞こえたせいなのか、ためらうような小さなノックの後、一人の兵士が姿を現し、静かに伝える。

そうか、と頷いたローレイが立ち上がる。

 

「とりあえず、本日はお休みください。ゼシカ嬢には、お部屋を用意させて頂きましたので。私はこれで失礼いたします。お話は、また明日お聞かせください」

 

 引き留める間もなく、ローレイは兵を後ろに従えて、あっさりと部屋から立ち去ってしまった。

 

「なによ、それ……」

 

 しばらくして、呆然と呟いたゼシカの言葉を聞きながら、エイトはくすぶるような怒りに、唇を噛みしめた。

 

 



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27話

 

 何かが割れる音が聞こえて、それまでくちずさんでいた歌を止める。

 視線を地面へと向けると、先程まで手に持っていたはずのティーカップが粉々に割れて、その中身である紅茶が土を濡らしていた。

 

「姫様! お怪我はありませんか!?」

「大丈夫ですよ」

 

 そばに控えていた侍女の慌てた声に、ミーティアは安心させるように柔らかく微笑んだ。

 元々冷めかけていた紅茶だったので、例えドレスや足にかかっても火傷一つ負わなかっただろう。

 むしろ、紅茶を冷めるまで放っておいた自分の方が申し訳なさを感じてしまう。

 

「ごめんなさい。せっかく淹れてくれたのに」

「そんなこと! お怪我がないのであれば、良かった」

 

 足元に転がるカップの破片はすぐに片づけられて、新しいカップに紅茶が淹れられる。

 広い庭園には秋の花が沢山咲いていて、ゆらゆらと立ち昇るカップの湯気の間から、花達を見つめていると、少しだけ眠くなる。

 ここ数日は迫ってくる冬の気配のせいで外の気温が低かったが、今日は日差しが暖かい。

 また日が過ぎれば、ますます冬へと近づいて、日差しの暖かさも寂しくなっていくだろうから、今年の庭園でのお茶はきっと今日で終わりだろう。

 アスカンタ国にエイトが行って、二日目となった。

 彼は大丈夫だろうかと、ぼんやりと考えて、柔らかい日差しを注ぐ太陽を、まぶしそうに見つめた。

 太陽は遥か上空にあって、きっと手を伸ばしても、届きそうにもない。

 

「それにしても、姫様がこのようにカップを割るのを初めて見た気がしますわ。やはり、近衛隊長様がご心配ですか?」

「そうね……」

 

 侍女にからかうように言われて、ミーティアはどこか上の空で答える。

 カップとソーサーを膝の上に乗せて、届くはずがないと知りながらも、手を太陽へと伸ばした。

 そして、落胆する。

 暖かさを感じても、掴むことは決して出来ない。届かないのだ。

 苦しみと、それ以上にどんなにも伸ばしても届かない虚しさが胸の中で混ざり合う。

 だらりと力なく垂れさがる手が恨めしく感じた。いっそ、飛んでいけたらどんなに良いだろうか。

 

――どうして、苦しいのだろうか。どうして、虚しいのだろうか。

 

「そう。それはきっと……」

「姫様……?」

 

 いつもと様子の違う主を訝しむような侍女の声にも気づかず、ミーティアはそっとまぶたを閉じて、自分の視界から太陽の存在を消した。

 

「おひさまがあたたかいせいだよ」

 

 呟いた言葉に重ねるように、ミーティアは先程と同じように歌を小さく口ずさみ始めた。

 

 

 

 

 

―どこかにいる、あの人にこの歌が届くように祈って。

 



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【番外編】

 夜の図書室は、いつもの静寂に寒々しさが増して、どこか落ち着かない。

 閲覧用テーブルに小さな燭台を載せて、ミーティアは分厚い書物のページをめくっては、そこに書かれている文を読んでいく。

 丸みは欠けているが、充分な明るさの月光が窓から差し込んでいるお陰で、燭台の小さな灯りでも文字はよく見えた。

 椅子から立ち上がって、近くの本棚に並ぶ背表紙の文字を目で追って、そこから一冊を引き抜いて、開く。

 

「ミーティア……?」

「きゃっ!?」

 

 突然聞こえた声に驚いて、持っていた書物を床に落とす。大きな音が図書室に響いた。

 慌てて、拾おうとする前に、近づいた人物が屈んで、拾い上げる。

 そのまま渡された書物に、折れ目が入っていない事を確認して顔を上げると、申し訳なそうな表情で頭に手をやる黒髪の青年が見下ろしていた。

 

「エイト……?」

「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど……」

 

 そんなエイトに仕返しとばかりに、悪戯っぽく微笑んでみせる。

 

「これは、我が国の近衛隊長様。夜更かしとはいけませんわね」

「……それを言うなら、ミーティアこそ。最近、よく昼にうたた寝をしてるって、側仕えの子から聞いたよ。夜遅くまで、こっそりとここに来ているって」

 

 しまった、とミーティアは視線を泳がせた。

 普段、侍女はエイトに用がない限り近づかないからと油断して、口止めをしていなかった。どこかですれ違った際に、喋ったのだろう。

 

「平和になったからといって、一人で図書室へ行くのもどうかと思うな。せめて、一人位は兵士をつけてほしい」

「兵士をつけたら、こんなに遅くまで本を読ませてくれないわ」

「それはミーティアを心配して……」

「それに、一番そばにいてほしい人は最近、マナーのお勉強で忙しいみたいだもの」

 

 頬を僅かに膨らせたミーティアに、困った様子のエイトは誤魔化すように話題を変えてきた。

 

「そ、そういえば、何を読んでいるの?」

「トロデーンの地質と採れる鉱物についてです。知っておかなくてはと思って」

「……そっか」

 

 閲覧用のテーブルに、抱えていた書物を積み上げる。

 姫であるミーティアが何故それを知ろうと、そして学んでいるのか、もちろんエイトは理由を知っている。

 

「無理をしないで……、とは言えないね」

 

 申し訳なさそうに、両手にそっと触れてくる。

 大きくて、かさついた彼の手が好きだ。

 その手を握り返して、己の頬へ持っていく。ほんのりと暖かい温度に安心した。

 

「……明後日には、アスカンタへ行ってしまうのね」

「すぐ帰るよ。お土産も買ってくるから」

「ふふ。来賓であるエイトが、いつ、市に行くのですか?」

「それは……、えっと……」

「お土産も楽しみにしています。だから、ちゃんと帰ってきて下さい」

 

 自分を見る優しい目を、真っ直ぐに見返してそう伝えると、彼のもう一つの手がミーティアの頬へ伸びた。

 

「帰ってくるよ」

 

 そうして、そのまま近づいてくる顔にそっと瞼をとじた。

 

 




※エイトがアスカンタに行く前の話。
きっと、この夫婦(どちらかというと、恋人かもしれませんが)は、いつまでも仲睦まじいのではないかと思います。
ミーティアは友人のご令嬢の影響を少し受けていると思っています。からかいかたなど。


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伸びる影
29話


安らぎを見ることは叶わぬ

 

許されるのは、死出への旅

 

呪われろ

呪われてしまえ

 

それが、奪った代償だ

 

***

 

 苦しそうに呻き声をあげて、粗末な寝台で昏々と眠る男の顔は、か細いろうそくの光では窺い知れない。

 だが、ヤンガスには彼の顔が死人のように青褪めて、白いことを知っていた。

 蝋が溶けていびつに固まったろうそくの火が小さく揺れて、壁の影が同じように揺れる。

 小さな寝室には、粗末な寝台と己が座る小さな椅子しかない。無数の資料や書物に囲まれた書斎である大きな部屋とは、正反対の質素な場所だ。

 ここの主である情報屋は、数日前から眠り続けている。

 

「旦那……」

 

 呼びかけても、返事はない。

 時折、荒い息を吐き、四肢をばたつかせて苦しむが、目を開くことはない。

 情報屋の旦那から頼まれた手紙を渡し終えた翌日、ククールと別れたヤンガスは、堕落しきった悪人の町パルミドへと戻ってきた。

 

「おう、ヤンガスじゃねえか。なんだ、旦那のパシリは終わったのか」

「うるせぇやい」

 

 すれちがった顔馴染みのからかうような声に、彼は片手を振って通り過ぎる。物乞い通りを過ぎ、盗賊時代は良く世話になった酒場の脇にある階段を上って、ある場所を下りると情報屋の隠れ家がある。

 だが、ここに住む連中のほとんどは居場所を知っているので、隠れ家とはいえないかもしれない。

 

「旦那、旦那。あっしです」

 

 扉を軽く叩いて呼びかけるが、返事は返ってこなかった。

 また情報の収集にでも、出かけたのだろうか。

 いつものように、念の為に扉を開けてみて、ヤンガスは血相を変えた。

 

「旦那!」

 

 部屋の真ん中で、部屋の主は口元を赤く濡らして、床に倒れていた。

 慌てて駆け寄り、情報屋を抱えて、起こす。あまりにも軽い身体に、内心驚いた。

 

「旦那、しっかりしてくだせぇ!」

 

 何度か呼び続けると、情報屋はうっすらとまぶたをあけた。普段は分厚い眼鏡に隠れていた瞳が彷徨い、やがてこちらに焦点が定まる。

 

「……あぁ、ヤンガス君……」

 

 ゆるく微笑んだ情報屋は体を起こそうとする。それをヤンガスは慌てて止めた。

 

「だ、駄目でげす! 今、医者を呼んできやすから、大人しくしててくだせえ!」

 

 すぐに立ち上がろうとすると、その身体から想像できない程の凄まじい強い力で情報屋が腕を掴んできた。

 

「……お願い、します。人は……呼ばないでください……」

「な、何を言っているんでげすか!」

 

 情報屋の爪が腕に食い込む。微かに走る痛みに顔を歪めるが、掴まれる力は一向に緩まない。

 真っ白な顔には、有無をいわせない気迫があった。それは、初めて見えた紫がかった青い瞳のせいか。

 

「どう、か……」

 

 情報屋は言葉を繰り返すと、やがて力尽きたように腕がだらりと下がって、そのまま、気を失ってしまった。



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30話

 

「どこだ」

 

 ぐっと首の根を締め上げられ、苦しさから口を大きく開き、低く喘いだ。

 まさか、いつも通りの夜の森でとんだ事件に巻き込まれるとは、誰が思うだろうか。

 体を撫でまわすような暴漢でも、金品を奪い取り、人を殺す卑しいごろつきでもない。それにその程度の輩など、幾ら戦闘が苦手な自分でも、足元にも及ばないだろう。

 だが、どれにも当てはまらない、自分の首を容赦なく締め上げる相手は、何者だ。

 

「あ……んたは……」

 

 ようやく絞り出した声はみっともなく、震えているように思えた。

 それは、首を絞められているせいだけではない。全身にのしかかるような重石のような殺気が、四肢を冷やしていく。

 

「どこだ」

 

 相手――男は、先ほどから同じようにこの言葉を繰り返す。

 

「……なん、の話だい」

「どこだ」

「は、な……せ」

 

 腕を引き離そうと手を伸ばすが、そんな力は残っておらず、僅かに相手の腕をひっかく程度。

 どくどくと一定の心音が自分の心臓から、聞こえる。

 そろそろ駄目だな、と他人事のようにゲルダは薄れゆく視界に思った。

 すると、男は一層冴え冴えとした声音で違う言葉を囁いた。

 

「返せ」

「その人を離しなさい!」

 

 次の瞬間、橙色の大きな炎球が男の頭上を目がけて、落下する。

 炎の球がぶつかる前に男はゲルダの首から手を離し、素早く後退した。地面に衝突した炎が火柱をとなり、男の姿を一瞬だけ、照らす。

 続けざまに、もう一つ炎球が飛ぶ。だが、男はそれも容易く避けるとそのまま闇に消えた。

 

「大丈夫ですか、ゲルダさん!」

 

 駆け寄ってきたのは二つに結んだ髪を揺らした娘だった。

 

「あ……たは、ゼシ…カ……」

 

 急に酸素が肺に入り、激しく咳き込んだゲルダに、ゼシカが慌てて背をさすってくれる。

 

「待っていてください」

 

 ゼシカが持っていた杖を、天に捧げるように、頭上へ掲げた。

 すると、柔らかな白い光が杖に灯り、光はゲルダをゆっくりと包み込む。

 呼吸が楽になっていくのを感じたゲルダは、ひゅ、と息を大きく吸って、喉から手を離して顔を上げた。

 

「すま……ないね……、助かったよ」

 

 まだかすれた声に、ゼシカが首を横に振ると、眉を寄せて、男が姿を消した方を振り返る。

 

「今のは……」

 

 炎が照らした相手は残念ながら顔は見えなかったが、あの身のこなし、かなりの強さを持っていると思えた。

 ゲルダはひりつくような喉をさすって、首を横に振る。

 

「……残念ながら、あたしにもさっぱりだ。この森を歩いていたら、急に襲われたのさ」

 

 繰り返していたのは、何かのありかを問う言葉。そして、返せという氷のような一言。

 

「とりあえず、明るい場所に行きましょう。歩けますか……?」

 

 頷いて立ち上がったゲルダがゆっくりと歩き出すと、気遣うように背に手を添えてくれた娘の眼差しが、睨むように後ろへと逸らされたのを彼女は見た。

 

 

「それにしても、どうしてあんな場所にいたんですか……? もし、私があそこを通りかからなかったら……」

 

 アスカンタ城壁を潜ったと同時に、ゼシカは隣を歩くゲルダに問いかけた。

 先程より、しっかりとした足取りの女盗賊は彼女をちらりと見ると、凄味のある笑みでにやりとした。

 

「それを聞くのは野暮ってもんさ。……それとも、聞くかい?」

「い、いいです!」

 

 ぶんぶんと力いっぱい横に振ったゼシカに、ゲルダはくつくつと喉を鳴らして笑った。

 

「冗談だよ。あんたも、からかいがいのある子だね。まっ、ちょっとした用事さ。……来たのは、別の客だったけどね。それより、あんたこそどうしてだい? あんたみたいな子が、あの森に用があるとは思えないね」

 

 逆に問い返されたゼシカはゆっくりと瞬くと、徐々に視線を彷徨わせた。

 

「そ、それは……」

「まっ、おおかた森に入るあたしの姿を見たんだろう」

「い、いえ……そんなことは……」

 

 言い当てられて、語尾が消えていく彼女の肩をぽんと叩いて、ゲルダが足を止めた。気づいたゼシカが同じように止める。

 胸の前で腕を組んだゲルダは、ついと右へ視線をやる。

 

「どうやら、あたしの下僕が迎えに来たみたいだね」

 

 同じようにゼシカが視線を向けると、建物の陰に隠れるようにして佇む大男の姿があった。確か、以前ゲルダの家を訪れた時に扉の前に立っていた男だ。

 かかとを高く鳴らして、男の方に歩き出したゲルダは振り返らずに、ゼシカに向かってひらひらと手を振った。

 

「それじゃ、この借りはいつか返すから期待しているんだね」

「あ……」

 

 ゼシカが声を出す前に彼女はその男を伴って、街の中心へと消えていった。

 

「突風みたいな人ね……」

 

 つい先ほど、正体不明の輩に襲われたというのに、気にした風もないゲルダにゼシカはため息をついた。

 だが、城壁の中なら、襲われる心配も減るだろう。一応、護衛も付いているようだった。

しばらくの間、ゲルダが消えた方を眺めて、森の方角へと視線を動かす。

 周りの通行人がざわざわと音を立てて、鋭い目をした彼女の側を避けていく。

 その音はまるで、彼女の心の中を表しているようだ。

 自分の中でくすぶるようにあった予感が、大きく膨らんでいるのをこのとき、はっきりとゼシカは感じた。

 そして、その予感をはじけさせるように、遠くから獣の咆哮が響いた。



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31話

 

「……あとは、エイトの知っての通りよ」

 

 ベッドから体を起こしながら、話を終えたゼシカはそばの椅子に腰掛ける黒髪の青年を見た。

 腕を組んだ彼の表情は戦いのときに浮かべるように厳しく、引き結ばれた口元は堅い。

 

「リンリンが魔力を奪うなんて、初めて聞いたよ。マージリンリンでさえ、魔力は吸わなかった」

「やっぱり、エイトもそう思うでしょう?」

「うん。……じゃあ、二か月前に願いの丘のふもとで倒れていたっていう羊飼いの人も魔力を抜かれていたんだね?」

「ええ。アスカンタに来る前に家に立ち寄ったのだけど、魔力がなかったわ。元々持っている魔力が少なかったせいか、精力もかなり抜かれてしまっていたみたい。今は起き上がれるようになっていたから、もうしばらくしたら動けると思うわ」

「それなら、よかった。それにしても、仲間を呼ぶんじゃなくて、吸い上げた魔力で赤く染まるなんて……」

 

 実の所、自分達は学者でも研究者でもない。魔物の生態などは、よく知らないのが実状だ。

 それに、昨晩倒した魔物もそうだ。旅の間に見ることはなかった。古き時代から存在した竜の里に繋がる回廊や祭壇への道でさえ、あのような魔物はみた事はない。

 暗黒神が復活した二年前に出現するなら、分かる。何故、今なのか。

 思考が煮詰まっていくのを感じて、ゼシカはため息を一つ吐いた。

 分からない事を、分からないままに考えても、仕方ない。

 

「ところで、エイト」

「うん?」

「いい加減、ベッドからでてもいいかしら」

「駄目だよ。魔力が完全に戻っている訳じゃないんだから」

 

 想像した通りの言葉が返ってきて、眼が据わりそうになった。

 朝からエイトは、この調子だ。

 アスカンタ国大臣ローレイに用意された部屋は広く、暖かい色合いの壁紙や絨毯。繊細な紋様がこと細かに彫られた寝台やソファなどの家具が絶妙な位置に置かれていて、とても居心地が良い。女性の好みをよく把握していると思った。

 その部屋で意識を失うように眠りに落ちた翌日の朝。ベッドからでようとした瞬間、頭に寝癖をつけたままのエイトがすかさず部屋に現れ、起き上がるのを阻止されたのだ。

 自分が失っているのは、魔力だけだ。塞がったとはいえ、一番寝台にいるべきなのは彼だというのに、相変わらず仲間や他人を優先させる。

 

「魔力はなくても、病気じゃないのよ。普通に歩き回れるわ」

「駄目だ。君は、ベッドにいるべきだ」

 

 そして、とてつもなく頑固になるのだ。

 これ以上、何を言っても無駄だと判断したゼシカは、ベッドに背中から倒れ込んだ。ほどいた髪が大きく広がる。

 

「ゲルダさんは一体、あの森で何をしていたんだろう」

 

 吸いこまれるような柔らかさのベッドに身を埋めると、エイトが疑問を口に出してきた。

 昨夜のゲルダとの会話を思い出しながら、ゼシカはシーツを肩まで引き上げた。

 

「人を待っているみたいだったわ。でも、結局あの騒ぎで来なかったみたい」

「襲った相手は、ゲルダさんを狙ったと思う?」

 

 エイトが言いたいのは、ゲルダが待っていたという人物を狙っていたという可能性があるという事だ。

 

「その可能性もあるけど、私にはそう思えないの」

 

 どうして、と尋ねられて、ゼシカはあの時、聞こえた言葉を繰り返す。

 

「返せ」

「え?」

「あいつはそういっていたわ。間違いなく、ゲルダさんに向けて」

 

 距離があったというのに、まるで耳元で言われたかのように鮮明に聞こえた。

 心臓を一瞬で凍らせるかのような冷たさを今になって思い出し、思わず己の肩を抱く。

 

「ゼシカ……? やっぱり、体調が」

 

 ベッドを覗き込んでくるエイトに、強張った頬をなんとか動かして微笑む。

 

「……大丈夫よ。とにかく、ゲルダさんを見つけた方がいい気がするわ。出来るだけ、早く」

 

 だが、昨日の事件で既にゲルダはこの国を去っている可能性が高い。

 パルミド地方に居を構えているとはいえ、わざわざ逃げ場のない所に戻るような事はしないだろう。 

 すると、エイトが組んだ腕を解きながら、呟いた。

 

「ヤンガスだったら、ゲルダさんが居そうな場所を知っているかもしれない。今から、パルミドに行ってみるよ」

 

 そういって、椅子の脇に立てかけていた剣を掴んで立ち上がった彼がそのまま部屋を出ようとするのを見て、ゼシカはベッドから跳ね起きて、彼の服の端を掴んで引き留める。

 

「ちょっと、エイト! あなたはこの国にトロデーンの代表として来ているのでしょう!? 脱けだすのは、さすがにまずいわよ!」

「うわっ!?」

 

 つんのめりそうになるのをなんとか耐えたエイトに、ゼシカはベッドから降りると、腰に手を当てた。

 

「私が行くわ。その間にエイトはなんとかして、パヴァン王と話をして。あの大臣様は、国の方が大事みたいだから、お話にならないだろうし」

「……分かった。でも」

「無理はするな、でしょ。だけど、人の命がかかっているのよ。私はもう嫌だわ。……なにもできずに目の前で人が死ぬのは」

 

 兄と他の賢者の末裔達が暗黒神の杖によって、命が奪われた瞬間の光景を今でも夢に見ることがある。

 防げることが出来た筈だった。世界は救えても、救えなかった命があった。

 世界を救った英雄だから、高尚な事を思うのではない。一人の人間だからこそ、もう繰り返したくないのだ。

 



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32話

 

 あれ程、毛嫌いしていたキメラの翼を使って、パルミドへ飛んだゼシカを見送ったエイトは、すぐにパヴァン王の私室と玉座へ繋がる階段へと向かう為に歩き出す。

 王が襲われたことが表沙汰になってはいないとはいえ、城内の空気はぴんと張っており、あちこちで巡回する兵士が昨日より多くなっていた。

 本来であれば、今日は昼に王と客人達の会食となっていた。だが、未だに王は寝台から起き上がれないのだという。

 その時間をなんとか夜に延ばしたのだと、事情を知る一人でもあるキラから伝え聞いた。そのキラもパヴァン王が心配のようで、昨晩から王の元へと行っている。

 廊下を曲がると、通りかかった兵士が脇に避ける。その際に尊敬の眼差しを浮かべて、礼をしてきたが、それでも表情は硬いようだった。

 その様子を見て、王の部屋を護衛する兵士達を説得するのは、間違いなく骨が折れるだろうと思った。

 どうやって、部屋に通してもらおうかと考えながら、廊下を抜けようとしたその時、肩を誰かが叩いた。

 

「はい?」

 

 振り返ろうとすると、今度は体を力強く押され、よろめく。その先に風景画が掛かった壁が眼前に迫り、思わず両腕で顔をかばった。

 だが、壁への衝突はなく、気が付けば、エイトの身体は砂や埃でざらついた床に投げ出されていた。

 後ろで微かに何かが閉まるような音が聞こえて、床に投げだされた姿勢のまま、体を硬直させる。

 混乱する頭で考えついたのは、たった一つだった。

 

「……閉じ込められた?」

 

 呆然としているエイトの前で、微かに魔力が蠢く。

 小さな火の玉が浮かび上がって、一人の男をぼんやりと照らした。いかつい身体に、両角が付いた不気味な覆面を被った男だ。

 無言でこちらを見下ろしている男には異様な迫力があり、思わず、這って後ろに下がろうとする。

 

「おいこら、びびってんじゃねえ。黙ってついてこい。ゲルダ様がお待ちかねだ」

「え?」

 

 ゲルダという名を口にした男が、いつぞや訪れた女盗賊の家の前にいたのをようやく思い出す。

 それより、ゲルダがまだこの国にいた事に驚いた。パルミドへ向かったゼシカは、無駄足になってしまうだろう。

 固まってしまったエイトに痺れを切らしたのか、男に服の襟を乱暴に掴まれて、立たせられる。

 

「あ、ありがとうございます……?」

「早くこい。じゃねえと、俺がゲルダ様にどやされちまうんだ」

 

 そう言って、振り返らずに歩き出してしまった男と後ろを見比べたエイトは、仕方なく男の後を追った。

 人が一人通れる位の幅の通路は、埃が高く積もっていて、歩く度に舞いあがって息苦しい。見る限り、最近造られたものではなく、このアスカンタ城が出来る時に造られた物のようだ。

 隠し通路だという事は分かったが、王族のみが知るようなこの場所を何故、彼らが知っているのか。

 

「ようやく来たのかい? 待ちくたびれちまったよ」

 

 少しひらけた場所に出ると、灯りの点ったカンテラを持ったゲルダが待ち構えていた。

 男に脇を小突かれて、昨日と同じマントを羽織った彼女に歩み寄ると、カンテラの明かりに照らされた細い首に痣が出来ているのが見えて、眉をひそめる。

 

「……体は大丈夫ですか? ゼシカから聞きました」

「あぁ。これでも、あたしは裏の人間だからね。あれぐらいじゃ、へこたれないよ」

 

 ゲルダは肩をすくめて、持っていたカンテラを差し出してきた。

 

「あんた、ここの王様と話をしたいんだろう。一回しか言わないから、よく聞きな。このまま、真っ直ぐ行くと三又の道にぶつかる。右の道に向かうと、その奥に長い梯子があるから、そこを登る。その天井の扉を開けると、そこが王様の部屋だ」

「あの……どうして、ゲルダさんはここに?」

 

 すらすらと道順を教えてくれたゲルダに、戸惑いながらもエイトは尋ねる。

 彼女は片方の眉を持ち上げて、やれやれとため息をついた。

 

「あんた、昨日も同じような事を聞かなかったかい? 同じ事を延々と繰り返す男は嫌われるよ」

「す、すみません……いえ、そうじゃなくてですね。てっきり、昨日の事があったから、ゲルダさんはもうこの国にいないかと思っていたんです。それで、ゼシカが貴方の居場所を知るためにパルミドへ」

「まあ、やばい事があれば、あちこちにある隠れ家に身を潜めるのが、普通だろうけどね。これでも一応、あたしは仕事で来ていたんだよ」

「仕事ですか? ……まさか」

 

 暗い隠し通路を見回して、エイトは口元を引きつらせた。盗賊であるゲルダが、城の宝に目をつけない訳がない。だから、この通路のありかも知っていたのだろう。

 だが、国の宝を盗んだとなれば、処刑は免れない。

 ここは知り合いとして、止めるべきなのだろうかと、頭の中で考える。

 それが顔に出ていたのだろう。ゲルダが、また一つため息をついた。

 

「勘違いするんじゃないよ、坊や。あたしは盗んでくれと言っているような場所にある面白味もない宝なんて、これっぽっちも興味はないよ。……それより、あたしを探していたのかい?」

「はい。……昨日襲った男がまだゲルダさんを狙っている可能性があるんです。僕と一緒に来てくれませんか」

「嫌だね」

 

 間髪を容れずに返ってきた言葉に、エイトは焦る。

 まさか、断られるとは思っていなかったのだ。

 鼻を鳴らして、顎を上げたゲルダは苛立ったように言う。

 

「生きていれば、誰かに恨みを買うなんて事は多々あるものさ。それに命を狙われるなんざ、こっちの世界では日常茶飯事だよ」

「そういう問題じゃないんです。それで、ゲルダさんが怪我どころか……」

「あたしが死ぬっていうのかい? 昨日は油断をしちまったけど、そんなヘマは二度も踏まないよ」

 

 どうにか説得しようにも、彼女は聞く耳も持たない。

 いつだったか、ゲルダは他人から指示されるのが大嫌いなのだと、ヤンガスがぽつりと言っていたのを思い出した。

 すると、二人の言い合いを聞いていた男が口を開いた。

 

「ゲルダ様。とりあえず、この坊主についていった方がいいんじゃねえですか。英雄なんですから、腕には覚えがありますし」

 

 苛立ちを隠さずにゲルダが猫のように目を細める。

 

「あんたまで言うのかい」

 

 声音は静かだったが、今にも噛みつきそうな主にたじろいだ様子の男だったが、すぐに言葉を続ける。

 

「そ、それに……元々、俺らはここの王へ手紙を持ってきたわけですし。この坊主なら、すんなりと王に渡せますよ。報告ついでに頼もうと思っていた御方には会えやしなかったんですから、さっさと用を済まして、この国からとんずらこいちまぐごっ」

「黙ってな、この木偶の坊以下」

 

 ゲルダによって、脇腹を強く突かれた男は、痛みにうずくまり、主の望み通りに黙り込んだ。

 

「手紙……?」

 

 エイトは、今、男が喋った言葉を繰り返す。

 盗賊であるゲルダが王に手紙を渡すというのは、ひどく違和感がある。

 ゲルダはすぐにこちらを向き直した。こちらを見る眼は鋭く、まるで喉元に鋭い爪でも伸ばされているかのような感覚に陥る。

 

「やっぱり、お断りさ。誰かに護られるなら、尚更あたしは嫌だね」

 

 もう一度、説得しようとしたエイトの顔の前に何かをつきつけられた。

 よく見れば、それは手紙のようだ。ぼんやりとした明るさでは分かりにくいが、封筒の色は見た事のないほどに深い青をしていた。

 エイトの顔の前に手紙をぶら下げたまま、彼女は続ける。

 

「そもそも、だよ。あんた、このあたしに借りがあることを忘れてはいないかい? 言っとくけど、借りの利子は高いんだ」

「り、利子……?」

「だけど、この手紙をここの王様に渡してくれるなら、チャラにしてやるよ。元々、あんたに頼むつもりで待っていたんだ」

「そうなんですか!?」

 

 うずくまっていた男とエイトは同じ言葉を発する。

 その様子をやかましそうにゲルダは目をすがめて、前髪をかきあげる。

 

「これだから、男って奴は……。それじゃ、頼んだよ」

「待ってください!」

 

 あっさりと背を向けて、去ろうとした彼女の肩を掴む。それはすぐに振り払われ、首だけを後ろを向いたゲルダと視線がぶつかる。

 

「まだあるのかい? ……あたしはパルミドでの急用を思い出して、急ぐんだよ」

「え?」

「本当に鈍いね、あんたは! ゼシカに借りがあるから、あたしはそれを今から返しに行くんだ」

 

 エイトは目を瞬かせながら、ゲルダが言った事をゆっくりと理解する。

 口元が緩んでくるのが分かったが、抑えられない。

 

「ゲルダさん……!」

 

 自分のにやついた顔が不快だったのか、彼女は視線を逸らしてしまう。

 

「もう止めるんじゃないよ。その手紙は、ちゃんと渡しな」

「はい。……気を付けてください」

 

 それに対しての返事は来ずに、エイトの足元にカンテラを置くと、今度こそゲルダは男を引き連れて、あっという間に去ってしまった。

 彼らが去っていくのを見届けたエイトは、渡された手紙を懐にしまい、カンテラを拾って、教えられた道を歩き出した。

 



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33話

「……ようやく、お話しすることが出来ましたね。エイトさん」

「ご無礼をお許し下さり、ありがとうございます。……あの、お身体はどうですか」

「気遣って頂き、ありがとうございます。今夜の会食に出られる位には回復してきています。このまま、私が不在では臣下や沢山の者に迷惑が掛かりますからね」

「良かった。……本当に心配をいたしました」

「ありがとう、エイトさん。ローレイから聞きました。またこの国を救って頂いたと」

「いいえ、僕だけの力ではありません」

 

 王の部屋にある大きな暖炉には太い薪を喰い尽すかのように炎が大きく燃え上がり、分厚いカーテンが閉まった薄暗い室内は秋であっても、大分暑かった。

 額に汗が滲んでくるのを感じながら、寝台の傍らにある椅子にエイトは腰を下ろしていた。

 ベッドから起き上がって、力なく微笑みかけるパヴァン王は橙色の炎に照らされていて顔色はうかがえないが、体調は万全とは言えない事は分かった。

 ゲルダに言われた通りに、小さなカンテラで足元を照らしながら隠し通路を歩いて、天井の両扉をゆっくりと開けると、そこは王の私室の寝台の下と繋がっていた。

 

「……待っていました」

「王、お逃げ下さい!」

「キラ、大丈夫だ」

 

 寝台の下から辺りを見回しながら、室内にいるであろう衛兵とパヴァン王に突如現れた自分をどう説明するべきなのかと迷って出られずにいると、驚いた事にパヴァンが静かに声を掛けてきたのだ。

 現れたのが、エイトだと知ると王は驚いたようだったが、すぐにそばの椅子を勧めてくれた。

 エイトが突然現れた時には、王を守ろうと立ち塞がったキラは今、扉の前で控えている。

 いくら私室とはいえ、この部屋の主であるパヴァンとエイト、そしてキラの三人以外、護衛は一人もいない。

 尋ねると、誰かがこの隠し通路を通って訪れる事を知っていて、外に控えさせているのだという。

 もちろん、ここを任された兵士は、それは出来ないと渋っていたらしいが、少しの間だけだと言って、無理に下がらせたらしい。

 

「ですが、まさかエイトさんが来るとは予想していませんでした」

 

 すると、パヴァンはエイトに向かって手を突きだした。

 

「預かっているものがありますね」

「は、はい」

「いただけますか?」

 

 疲れたように言うパヴァンにエイトは預かった手紙をその手に乗せた。

 若き王は、それを躊躇うことなく二つに引き裂いて、床に投げ捨てた。破れた封筒と中に入っていた手紙がゆっくりと床に落ちる。

 温厚なパヴァンからは思いもよらない行動にエイトは一瞬硬直するが、我に返ると慌てて床に落ちた手紙を拾いに行こうとする。

だが、片手を上げた王にそれを制された。

 

「いいんです。放っておいてください」

「でも、これは大事な手紙ではないんですか!」

「……この手紙は私の物です。どうしようが、私の勝手。それより、貴方がこのような手段で私に会いに来たという事は何か抱えているようですね。アスカンタ国王の私に、お話をお聞かせ下さい」

 

 干渉するなとでも言うように何も寄せ付けようとはしない頑なな様子にエイトは躊躇う。だが、最後の言葉は遠回しに命令されているようなものだ。来賓とはいえ、相手とは格が違う。

破り捨てられた手紙を横目で見た後、ゼシカが遭遇した魔物の話、昨晩の魔物を順に話していく。ゲルダは、旅人という事にして名前を伏せておいた。

 

「ですから、また同じような魔物が現れないとは限りません。この国の人達に危険が及ぶ前に、市を中止にすることは出来ませんか?」

 

 そう嘆願の言葉で締めくくろうとしたが、それは叶わなかった。

 

「……私、知っています」

 

 キラが驚く事を言ったのだ。

 

「魔力を吸ったベルの魔物が赤く染まる。黒い魔物。……祖母が沢山聞かせてくれた話の中で聞いたことがあります」

 

 暖炉の薪がはぜる音が薄暗い部屋の中でやけに大きく響く。

 エイトには、その音がまるで平和という名の殻にひびが入ったような不吉なものに聞こえた。

 



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34話

 

 昔、人々に悪さばかりをする神官がいました。

 そんな神官に怒った神様は、神官を神殿から追い出しました。

 神様は、神官に美しい音色を奏でる小さなベルを渡し、こう言いました。

 

「お前が永遠にこの神殿に戻ることはない。悪さをした数だけ、そのベルを鳴らして大地を彷徨い歩くのだ。それが、お前への罰だ」

 

 神官は言われた通りに大地を歩き、ベルを鳴らしました。

 すると、急に空が暗くなり、何もかも吹き飛ばす大嵐になりました。

 

「木の下で雨宿りをしよう」

 

 けれども、木々は嵐によって吹き飛ばされてしまい、雨宿りが出来ずにずぶぬれになりました。

 

 神官は言われた通りに大地を歩き、ベルを鳴らしました。

 とてもお腹が空いてきました。けれども、木々は吹き飛ばされ、木の実もありません。

 すると、おいしそうな果物を沢山抱えた親子が通りかかりました。

 

「食べ物がほしい。どうか恵んでくれないか」

 

 その親子は神官のせいで家族を亡くしていました。

 親子は果物の代わりに石を投げ、神官はそこから逃げ出しました。

 

 神官は言われた通りに大地を歩き、ベルを鳴らしました。

 空腹のままに歩き続けた体は痩せ細り、疲れ果ててしまいました。

 すると、小さな村がすぐ目の前に見えました。

 

「あそこの村で休ませてもらおう」

 

 その村は神官のせいで大切な人を沢山亡くしていました。

 斧や鍬を持った村人たちに追いかけられ、神官はそこから逃げ出しました。

 

 神官は言われた通りに大地を歩き、ベルを鳴らしました。

 すると、二つの目から涙がこぼれました。

 

「私がした事は、なんと罪深いことだったのだろう」

 

 神官はようやく自分がした事の重さを思い知ったのです。

 泣きながら大地を歩き、いつまでもいつまでもベルを鳴らし続けました。

 ベルはやがて、神官の涙で錆びついて赤くなり、あれほど美しかった音色はひどく歪みました。

 それでも、神官は赤いベルを鳴らし続け、永久に大地を彷徨う事となったのです。

 

***

 

「赤いベル、黒い魔物。私が小さい頃に祖母から聞いたおとぎ話にでてきました」

 

 薄暗い部屋ではキラがどんな表情で語っているのか、エイトには分からなかった。

 ただ、透き通るような優しい声音はいつもよりずっと堅い。

 キラの言葉はまるで霧を掴もうとするかのように捉えようのない不安を感じたが、それでも魔物達の手掛かりを得られる事は大きな進歩だ。

 だが、喜びで大きく膨らんだ胸はキラが次に発した言葉ですぐにしぼむ事となる。

 

「……でも、ごめんなさい。あの時の私は本当に小さくて、あまり覚えていないんです。ただ、とても怖かったということは覚えていて……」

「じゃあ、前みたいにキラのおばあさんに聞けば……」

 

 エイトの何気ない言葉に隣にいたパヴァンが小さく息を呑み、キラは俯いてしまった。

 

「……それは出来ません。祖母は……、去年の冬に亡くなったんです」

 

 絞り出された声は涙がこぼれるのを懸命に押さえこんだかのように震えていて、彼女の華奢な体がますます小さく見える。

 

「祖母だったら、もっと何かを知っていたかもしれません。……お役に立たなくて申し訳ありません」

 

 エイトは躊躇いながらもキラに近寄ると、彼女の肩に手を置いて、口を開いた。

 

「……その、おばあさんが亡くなったことは悲しいよね。あんなに優しくて、親切な人だったのに。僕もすごくさびしい……」

 

 こういう時に気の利いた言葉が上手く出ないのが、もどかしい。

 それでも、エイトの気持ちは伝わったようだ。俯いたままの彼女から小さく礼を言う声が聞こえた。

 

「そ、それにキラの話はすごく役に立ったよ。おばあさんが知っていたんだったら、他にも誰かが知っているかもしれない。手掛かりはどこかにある筈だよ」

 

 最後にそう伝えると、急にキラは顔を上げて、エイトの手を握りしめた。

 その澄んだ彼女の瞳の中に自分の姿が映り込んでいて、エイトを真っ直ぐに見返していた。

 

「……そうです。手掛かりなら、あります」

 

 キラは瞬きもせずに、熱に浮かされたかのように呟く。

 

「エイトさん、行きましょう……。あそこなら、きっと何かが分かります!」

「い、行くって、何処へ?」

 

 今にも走り出しそうな勢いのキラに圧倒されながらも、エイトは疑問をなんとか口にすることが出来た。

 それでも、キラが元気を取り戻してくれたことに安堵する。しおれた花のように彼女が落ち込んでいると、こちらまでしおれてしまいそうになるのだ。

 

「祖母がしてくれた話は全て、かつてあった神殿にまつわる話なんです。だから、行ってみましょう」

 

 その言葉でエイトの頭によぎったのは、現れた別世界への扉と美しいハープの調べを奏でる者。いくつもの不思議な光景が浮かんでは尾を引きながら消えた。

 

「それって、願いの丘の事……?」

 

 まさか、と見下ろしたエイトにキラがゆっくりと頷いて、すぐに寝台の上に座るパヴァン王の方にこうべを垂れた。

 

「王。お傍を離れることをお許し下さい。私はエイトさんに、かつてのご恩をお返ししたいのです」

「私も二年前のお礼を結局返し切れていない。だから……僕、の代わりに頼もう」

「仰せのままに」

 

 深く訊く事もせずに、パヴァンは彼女の懇願に頷いた後、よろめきながらもゆっくりと寝台から降りる。

 すると、カーテンの隙間から、光が差し込んでその姿をさっと照らした。

 その顔は青褪めてはいたが、それ以上に強い眼差しがエイトを射る。

 パヴァンをもう気弱な王だと思う者は、もう決していないだろう。堂々としたその姿にエイトは魅入られたように動けない。

 

「どうかキラを連れていってやって下さい。キラがこんな風に言うという事は、きっとエイトさんのお役にたちます」

「ですが……」

 

 躊躇うエイトにパヴァンが微笑む。

 

「貴方が望んでいるであろう市の件は、ローレイを始めとした重鎮達を説得しましょう。私は、民が笑顔で生きていける事が国にとって一番だと思っていますから」

 

 その言葉に、エイトの覚悟も決まった。

 この人もまた、民あっての王だという事を思っているのだと分かり、安堵する。

 エイトは静かに礼を取る。

 

「キラの事は必ずお守りします」

「どうか、お願いします。私は貴方を友人として信頼しています。だから、貴方も必ず戻ってきてください。……さあ、早く行った方がいい。間もなく、兵士が戻ってくるでしょう」

 

 エイトはキラの方を振り返る。

 

「行こう、キラ」

「はい」

 

 パヴァンが見守る中、外へ通じる扉を押し開くと、エイトはキラの手を取り、移動呪文を唱えた。

 空を滑る間際、兵を連れて、階段を上っていたローレイと目があったような気がしたが、彼の姿はすぐに耳元で唸る風と共に掻き消え、代わりに天へと伸びる丘が姿を現した。

 



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35話

 願いの丘では異変が起きていた。

 冬に近い季節の為、陽は夕暮れに向かって傾いてはいるものの、それでも夕暮れと呼ぶにはまだまだ早い。それなのに丘は霞みがかかったかのように、薄暗く感じた。

 そして、それは丘だけではなく、丘の辺り一帯が異様な雰囲気に包まれていた。川を挟んだ教会側の方は何もない。

だが、橋を渡り、一歩足を踏み入れると辺りの空気は様変わりしていた。

 エイトは全身の神経を尖らせながら、抜身の剣を携えてじめついた洞窟を歩く。

 

「前に来たときはこんな風じゃなかったはずなのに……」

 

 すぐ後ろを歩くキラのか細い声に、エイトは心の中で同意した。

 一言でいうならば寒々しく、そして恐ろしい。

 それは、丘へと続く川沿いの道に足を踏み入れた時から漂ってきており、まるで纏わりつくかのようだ。

 かつて足を踏み入れた暗黒神の城に漂っていた瘴気に近いような気もする。

 神経を尖らせながら、キラに声を掛けた。

 

「キラ、辛くない?」

「はい。エイトさんにかけて頂いたトヘロスのお陰で苦しくなくなりました」

 

 重苦しい空気にあてられ続けたせいか、キラは一度、願いの丘へ繋がる川沿い奥にある入口で座り込んでしまったのだ。

 慌てたエイトが一時ここから離れようとすると、キラがその腕を掴んだ。

 

「……足手まといなのはわかっています。エイトさんにご迷惑が掛かってしまうのも。それでも、どうか一緒に行かせて下さい」

 

 揺るぎのない眼差しに戸惑う。

 パヴァン王に言われたとはいえ、最初からキラが付いてくることに疑問を感じていた。理由を聞いても、「すぐに分かります」というような曖昧な答えしか返ってこない。

 

「お願いします、エイトさん」

 

 青褪めた顔で、それ以上に強い眼差しにエイトは承諾するしかなかった。

 試しにと掛けた魔除けの呪文のお陰か、今は普通に歩けるようだ。

 それでも、洞窟内は外と比べ物にならない程、息苦しくなっていく。エイトは無意識の内に喉を押さえた。

 

「祖母が沢山してくれた話には、不思議なもの以外に恐ろしい話もありました。全ての物語が楽しく幸せなものとは限らない。祖母は話を聞かせてくれる度に、最後にそう言っていたんです」

 

 ぽつぽつと話す彼女の言葉は、じめじめとした洞窟によく響く。

 

「エイトさん、私……」

 

 キラの言葉を遮るようにエイトは片手をあげると立ち止まり、剣を静かに構えた。

 洞窟に入った時から、刺すような視線をあちこちで感じていた。最初は物言わずにこちらを見ているだけだったが、やはり素直に通してくれないようだ。

 低く呻く声がいくつも重なり、視界の端を横切る影にキラが小さく悲鳴をあげた。

 その悲鳴と共に腐肉と腐臭を纏った動く死体達の群れが姿を現して、あっという間に囲まれる。

 体を左右に揺さぶる度に腐臭が強く臭い、顔をしかめる。キラは口を手で覆って、吐き気を懸命に押さえこんでいるようだ。

 行く手を塞ぐように立つ屍の魔物は倒しても倒しても、生者を求めて群がってくる。

 魔物の討伐に来た訳ではないから、現れている魔物全てを相手にする必要はない。

 

「僕が合図したら、走って」

 

 キラが後ろで頷いたのを確認して、エイトは剣を持った手とは別の手を横に大きく広げた。

 

『 大いなる炎よ 今ここに迸れ 熱き焔よ 今ここに立ち昇れ 炎よ焔よ――…… 』

 

 詠唱をここで止める。熱い力が奔流し、手元に集中するのが分かる。

 エイトは地面を強く蹴り走ると、一気に魔物達との間合いを詰めて、丘へ登る為に通じる道を塞ぐ魔物達だけを一閃で斬り払う。

 少しだけ道が拓けた瞬間、留めていた魔力の奔流を解き放つとともに、言霊を口にした。

 

『 二つに燃え上がれ ベギラマ 』

 

 斬り捨てた魔物がいた場所に炎と焔が二つ立ち昇って走り、階段までの道に両壁を作った。側にいた魔物達が『ほのお』を恐れて、呻き声を上げながら後退する。

 

「キラ!」

「はい!」

 

 キラの手を引いて走りだし、二つの炎の間を潜り抜ける。地上へと通じる階段をキラに先に上らせると、エイトは立ち止まって振り返り、円を描くように手を払った。

 流れるように二つの『ほのお』が交じりあい渦巻いて、魔物達がこちらに来ないように大きな壁を作った。

 自分はゼシカに比べれれば、攻撃魔法を上手く扱う事ができない。だが、魔力によって燃え盛る炎を少しだけ動かすことならば出来る。

 

「さあ、今のうちに上ろう」

 

 炎を忌々しそうに呻く死体達の声を後ろで聞きながら、エイトはキラを促した。

 



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36話

 

 朽ちかけた階段を昇りきって丘の中腹に出ると、丘に足を踏み入れる前には降っていなかった小雨が二人の頭に降りかかった。雲は空に体を押し込むように分厚く、丘はますます暗く感じた。

 辺りを見た後、エイトはキラの手を掴んで駆ける。

 やはり、ここも例外ではなく重い空気が立ち込めている。

 まるで大岩を背負っているかのような重さを体に感じ、たまらずトヘロスを自分に――念の為キラにもう一度――掛けた。

 

「……エイトさん、大丈夫ですか?」

「心配してくれてありがとう。とにかく先に進もう。頂上に行けばいいんだよね?」

「はい、そこに行けば……」

 

 突然、キラは不自然に言葉を切ったかと思うと急に足を止めた。不審に思ったエイトが振り返ると、キラは真っ青な顔でどこかを凝視して、震え始めた。

 魔物が現れたかとエイトはキラを背中に庇って剣を構えるが、漂う嫌な空気以外は特に魔物はいない。

 だが、キラの視線は宙に固定されて微動だにしない。顔は恐怖に染まり、まるで彼女にしか見えない何かを無理矢理見せられているかのようだ。

 

「い、や……」

「キラ!?」

「……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」

「キラ!」

 

 誰かに謝るキラの肩をエイトは強く揺さぶる。

 すると、キラは虚ろな眼をゆっくりと揺らして、エイトの方を見た。

 キラは青白い唇を震わせながら、開く。

 

「一面の、赤が……。夕焼けに……染まって、さらに濃く……」

 

 そこまで答えて、キラは糸が切れた人形のように崩れ落ち、意識を失う。

 倒れかかってきた彼女の体を片手で支えたエイトは歯噛みした。

 やはり、彼女を連れてくるべきではなかったのだ。キラが何を見たにせよ、一刻も早く丘から降りるべきだ。

 その時、生温い風が頬を舐めるように通り抜けて、ぞわりと肌が粟立った。

 キラを腕で抱き上げながら、風の吹いた方を見ると、少し離れた所に人の形をした暗く黒い影が立っていた。

 その影は、真っ黒に塗りつぶされた顔でエイトの方を真っ直ぐに見ているように思えた。

 影は雨の間を縫うようにずるずるとこちらを目指して這ってくる。

 無い筈の目と視線があった瞬間、エイトの本能が危険だと警鐘を鳴らし、それに伴って周りの気温が急激に下がっていく。

 吐いた息が白く染まり、まるで雪山の中にいるかのように思えた。

 逃げろと体に命令をしても、エイトの意思に反して体は動かない。

 その間に接近した影が目の前に立つ。

 

――お前から、似た気配を感じる。

 

 影が声なき声で囁く。

 心臓を握り潰されるかのような凍えた声音が響いた後、影は大きく伸び上がった。

 

――返せ

 



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37話

 

 手足はいまだに凍ったように動かない。

 

「…………っ」

 

 考える間もなかった。

 影が覆い被さる前に、唇に歯を思いっきり突き立てる。

 肉を破る鋭い痛みと同時に、キラを抱き上げている腕と剣を持った手が跳ねるように動く。

 瞬間、エイトは剣を短剣のように下から振り上げ、影に向かって投擲した。

 怯んだように影が動きを止めた。

 無理な態勢からの投擲に腕の関節が軋み痛んだが、構わずにキラを両手で抱きしめると、ぬかるんだ地面に体を投げだすように転がった。

 衝撃と共に息がつまりながらも、すぐにその反動を利用して、後ろに飛ぶように立ち上がって影と距離を取る。

 視線を僅かに落とし、気を失ったままのキラの顔を見る。

 転がった時に跳ねた泥が顔に付いてしまっているが、顔色の悪さ以外に擦り傷は見当たらない。

 鉄の味が口内に広がるのを感じながら、エイトは影に視線を戻す。不思議な事に影は被さる姿勢のまま、動きを止めていた。

 先程投げた剣は、影の魔物シャドーとは違ってすり抜けて、奥にある後方の岩に突き刺さっている。

 この魔物もまた、昨晩の魔物と同じく、自分が知る魔物ではない。

 キラを連れてすぐに逃げるべきなのは分かる。だが、ここで引けばこの魔物がどうなるのか。

 考える間に雨が強くなり、落ちた雫が目に入る。影と風景が二重にぶれて反射で目を瞬くと、視界はすぐに鮮明になる。

 すると、その一瞬の間に不気味な影はエイトの視界からその姿を消していた。

 エイトは目を大きく見開く。消えた、という表現は正しくない。

 影と入れ替わるようにして、顔を俯かせた男が一人、そこに佇んでいたのだ。

 

「返せ」

 

 驚く暇もなく、先程の影と同じ声が顔を伏せた男の口から音となって、辺りに響く。

 長い髪を大きくうねらせて、顔をゆらりと上げた男は片方だけ空いた眼窩を晒して、こちらを憎悪のこもった眼差しで見ている。

 エイトは今度こそ驚き、言葉を失った。

 片目のない事や粗末な服を纏った姿に驚いたのではない。その顔が、エイトに衝撃を与えた。

 浮世離れした風貌はまるで彫刻のように整っている。乱れた髪は海より青く、人とは違う尖った耳。瞳は憎しみという感情を何度も塗り重ねているかのように昏い。

 空気を食うようにエイトは唇を開いた。

 

「あな、たは……イシュマウリ?」

 

 途端に男から発される空気が大きく歪み、凍りつく。

 吹雪のように凄まじい怒気にあてられ、反射的に抱きかかえたキラを庇う姿勢をとりながら、目を細める。

 かつて、力を貸してもらった月の精霊と同じ顔をしたこの男は、何者だ。

 その者は、血の気のない唇をぬらりと動かした。

 囁くような声量の筈なのに、声はこちらまで届く。

 

「……お前も、あの裏切り者の仲間ということか」

「裏切り者……?」

 

 答えはなく、男の眼差しに殺気が混じり、その手が僅かに持ち上がって、ゆらりと気だるげに動いた。

 すると、岩に突き刺さったエイトの剣がひとりでに引き抜かれ、吸いつくように男の右手におさまる。

 オリハルコンの刃が鈍い光を放つ。

 剣を奪われた事で、エイトは状況がますます悪化したことを悟る。

 後退しながら、無駄と分かっていても話しかける。

 

「その剣は、僕のものです。返して頂けますか」

 

 男は憎しみに染めた瞳を僅かに揺らして、剣とエイトを見比べた。

 形の良すぎる唇が、愉悦によってゆるゆるとつり上がった。

 

「そうか。返してやろう」

 

 男の姿勢がぐんと低くなり、剣を突きだすように地面を蹴る。

 

「お前の頭を貫いてな」

 

 恐ろしい速さで距離を一気に詰められ、真っ直ぐに向けられた剣はエイトの眉間を指していた。

 咄嗟にエイトは呪文を唱える。

 

『 壁となれ ギラ 』

 

 初級呪文の威力は弱いが、動きを鈍らせることは出来る。

 だが、火にまかれても男の動きは怯むことなく、止まらない。キラを抱えたまま、エイトは顔を反らした。

 剣は顔のすぐ横を通り過ぎ、男はすぐに腕を引いた。

 避けられたのではない。男はわざと攻撃の手を緩めたのだ。

 肩で息をしながら、男を睨みつけると、エイトが悟ったのが分かったのか、その片目に昏い輝きを放った。

 その表情は、なぶってから殺し、捕食する獣のようだ。

 次々と突きだされる剣撃はエイトの顔のあちこちに浅い切り傷を刻んでいく。

 何度も繰り出される攻撃を避けながら、じりじりと後ろに下がった瞬間、男が深く嗤う。

 同時に、岩壁に背中がぶつかった。

 すぐに横へ走ろうとするが、距離を詰めた男によって足払いをかけられて、うつぶせに転倒した。

 その拍子に、キラの体も投げ出される。

 

「キラ……!」

 

 伸ばした右手に剣が深々と貫き、激痛に声を上げる。

 エイトの声に、男が美しい目元をすがめた。

 

「なんて、やかましい声だ。醜くて、聴いていられない」

 

 躊躇われる事なく、剣は手から引き抜かれて、血が細かく散った。

 降り続ける雨が、その赤を流す。

 それを眺める暇もなく、腹部を強く蹴られて、仰向けに転がされた。

 

「さあ、裏切り者の醜犬よ。どこにいる」

 

 突きだされた剣が髪一本の隙間を残して、喉に伸びる。呼吸をするたびに、剣先の冷たさを感じた。

 この男がなにを求めているのか、分かる筈もない。

 分かる事は、イシュマウリを裏切り者と呼んだ男は、かの精霊と関係のある人物に間違いないという事だ。

 エイトが何も言わない事に焦れたのか、男の片足が上がって、エイトの胸を勢いよく踏んだ。

 凄まじい力によって、骨が何本も砕ける音と激痛と共に、折れた骨が肺に刺さり、口から血を吐く。

 仰向けのせいで、喉に血が絡んで、上手く息が出来ない。

 ひうひう、と呼吸に雑音が混じる。

 

「さあ、言え。……それとも、何度も痛みを繰り返し感じる恐怖を味わいたいか」

「な……にを、……言っている……か」

 

 痛みと戦いながら、呼吸の合間に声を絞りだす。

 点滅する視界で、男の方を見上げるが、長髪の間から見える憎悪に染まった瞳が、その答えに戸惑う色はない。

 

「虚言を吐く力はまだあると見える。ならば、手足を順に切り落としていこうか。どこまで、お前の精神が持つか、見物だな」

 

――まずは、手首を。

 

 歌うように呟いた男が剣を振り上げた瞬間、エイトは怪我のしていない手を動かして、手近にあったものを地面から引き抜いて投げつけた。

 それは土をまき散らしながら、宙を舞う。

 男の動きが、音を立てて止まった。

 エイトの顔に土がかかるが、背ける力はない。

 男は目元を押さえるとよろめいて、後ろに下がり、呻いた声が苦しげに、何かの言葉を発する。

 だが、それを聞きとる前にエイトの視界が大きく揺らいで、そのまま気を失った。

 



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38話

「エイトさん! エイトさん! しっかりして下さい!」

 

 悲痛な声と共に体を大きく揺さぶられる。

 重いまぶたを上げると、大きな茶色の瞳に涙をあふれんばかりにためたキラの姿があった。

 

「よかった……」

 

 エイトが目を覚ました事に安心したのか、彼女は顔を歪めて、涙をひとつこぼした。

 その小さな姿を見ながら、エイトはゆっくりと瞬いた。

 少しぬかるんだ地面の冷たさが、横たわった体から伝わっていく。

 瞬間、脳裏に閃くように憎悪に深く染まった眼差しを思い出して跳ね起き、キラの細い両肩を掴んだ。

 

「あの男は!」

「きゃっ!?」

 

 突然、動いたエイトに驚いて声を上げた彼女に構わず、辺りを見回す。

 だが、男の姿は既に雨と共に消えており、同時にエイトは体の違和感に気が付いた。

 右手を眼前に掲げる。手には剣で貫かれた傷も血痕もない。

 そして、確かに折られた骨も、自分で噛んだ唇の痛みも、全て消えている。

 痛みも、傷も、雨が全て洗い流してしまったかのようだ。

 理解の範疇を超えて呆然とした様子のエイトに、キラがおずおずと声を掛けてきた。

 

「……私が目を覚ました時、ここには私とエイトさん以外には誰もいませんでした。ただ、エイトさんも倒れていて……」

「その時、僕の体に怪我や変わったところはあった?」

 

 問い掛けた時に険しい顔をしていたせいか、キラが少しだけ怯えたように肩をすくませたのが彼女の肩に置いた左手から伝わってくるのが分かったが、それを取り繕う余裕はなかった。

 キラが目を逸らしながら首を横に振ったのを見て、エイトは彼女の肩から手をゆっくりと離した。

 何が起こったのか。あれは、質の悪い夢だったのか。

 沢山の言葉や感情が頭を駆け巡り、不気味な気配が足音をたてずに無防備な心に忍んでくるかのようだ。

 

「エイトさん……?」

 

 心配そうに覗き込んできたキラの表情は不安のせいでひどく硬い。

 深呼吸をひとつして、エイトは彼女に微笑む。

 今、一番囚われてはいけないのは、見えない何かに対する恐怖と不安。絡み捕られれば、あっという間に動けなくなってしまう。

 

「どうやら、僕らは二人揃って昼寝をしていたという事だね。パヴァン王には、内緒にしておいてくれるかな? キラを守るって約束したのに、僕が真っ先にいびきをかいていたなんて怒られてしまうから」

 

 陽気に言いながら、悪戯っぽく片目をつぶってみせると、キラはぎこちないながらも笑みを浮かべてくれた。

 心の底から笑ってくれた訳ではないだろうが、彼女の顔から少しだけ不安が抜けたのが分かった。

 頷いた彼女の頭を撫でて、膝に手を当てて立ち上がった。

 体は痛みもなく、右手も自由に動いた。

 同じく立ち上がったキラが泥のついた服を叩いている隙にもう一度辺りを見回した。

 そして、右手を背中に伸ばすと、予想していた通りに宙を掻いた。

 そこに収められている筈の剣は、鞘だけを残して消えている。

 ふと、エイトは視線を自分の足元に落とす。

 足元には根がついたままの丈の長い野草が地面に転がっていた。いくつもの葉を携えたそれは、小さな青い花を一輪だけ咲かせて、エイトの方を見つめているように思えた。

 生温い風が何処からともなく吹いて、小さな花びらを揺らす。

 間違いない。

 あの出来事は夢ではないのだと、エイトは右手を握り締めながら、確信した。

 あの時、動く左手を懸命に動かして、この花を地面から引き抜いて男に向かって投げたのだ。

 そして、男はエイトの剣と共に消えた。

 瞼を落して、もう一度深呼吸をした。見えない恐怖を振り払うためではない。前に進むためだ。

 目を再び開いたエイトは、キラを促して丘の頂上へと続く道へと足を動かした。

 願いの丘の頂上はもう目の前だった。

 



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39話

 

 丘を登りきると、あれ程漂っていた重苦しい空気は薄れていった。

 辺りには澄み渡った空気が満ち満ちていて、エイトとキラはしばらくの間、肺の中にたまった澱んだものを追い出すように深呼吸を繰り返した。

 緊張が溶けるように体から出ていくのを感じて、エイトはキラの方を見た。

 

「なんというか、空気がおいしいね」

「そうですね。……私、ようやく息が出来た気がします」

 

 だが、下の方に比べればましであっても、頂上にも異変が起きているのは確かだった。

 以前、ここから見る空は青く澄んでいて、手を伸ばせば届きそうだと思っていたが、今は妙に重くて遠く、足を踏み入れる前に丘を見上げた時に思った暗さが近寄ってくるのを感じていた。

 念の為、エイトは頂上一帯に魔除けの呪文を唱えた。広範囲であれば多少、手には余るが、この位の広さなら対象が人ではなく、土地にでも使う事が出来る。二年前、各地方の教会が襲われなかったのは同じような魔法が教会でも使われているからだと仲間の一人から聞いた。

 空気に交じるように魔力が辺りに広がっていくのを感じながらも警戒を怠らずにあちこちに視線を配る。

 願いの丘の至る所には建物の残骸があり、頂上にもまた、紋様の描かれた床の一部が草に埋もれている。

 だが、あの不思議な夜に確かに存在していた崩れた壁と窓枠はない。仲間全員が見ていたそれらはどこへ消えたのだろうか。

 あの男といい、消えた壁や窓枠といい、この丘はおかしな事ばかりだ。

 視線をまた違う方へ転じると、あの時エイトを救ってくれた青い花がこの頂上にも沢山咲いている事に気付いた。

 服の泥を払って歩き出した道の先々のあちこちでも、この花が沢山咲いているのを見かけていたのだ。

 名も知らない花達は、エイトと目が合うと、沢山の葉をこすり合せて、くすくすと笑った。

 思わず、目元をこすって、もう一度花を見る。

 花は、風に静かに揺られながら佇んでいるだけだった。

 

「夕焼けに染まった丘……」

 

 風だけが聞き取れるような小さな声が隣から聞こえて、視線を戻す。

 静かというより表情を消した娘の両手が祈るように胸の前で組まれる。

 

 

「私の一族はアスカンタという国ができる前から、この土地に根を下ろしていました。そして、私達一族には女性だけが引き継いでいく言葉があるんです」

 

 キラの様子は、頂上へと足を進めていく内に変わっていった。

 たおやかな少女の肉体に別の誰かが潜り込んだかのように、キラの纏う気配は老成し、ひどく落ち着いていて、こうして隣にいる彼女の姿を見なければ知らない人物が隣に立っているような気がしてしまう。

 

「私の母は早くに亡くなってしまったので、去年の冬に祖母が息を引き取る間際に教えてもらいました。困った事があれば、この言葉を丘に捧げなさいと」

 

 キラの体が滑るように前に進み出て、スカートの裾を広げながら膝をつき、深くこうべを垂れた。

 

『陽よ、今はその熱き身を潜めよ 我は、月なるものに仕える者 銀の輝きは、清廉なる風と共に彩られるもの』

 

 言葉を重ねていく内に彼女の体が淡く輝き、服の裾が音を立ててはためいた。

 暖かさを帯びた魔力の波動が華奢な体を中心に波紋のように広がっていく。

 これは、祈りの為の言葉ではない。ゼシカの最強呪文と同じく、いにしえより伝わる呪文の一つだ。

 そうエイトが悟ったと同時に、キラが言霊を優しく囁いた。

 

『空に月を纏いたまえ、ラナルータ』

 

 キラの体を包んでいた光が洪水のように溢れて光の柱となり、厚い雲を貫く。雲に隠されていた青空が覗いた瞬間、空全体がざわめくように大きく震えた。

 青空は瞬き一つの間に橙色に変わり、橙色もまた紫へと変わっていった。

 そして、紫は徐々に色を変えて、紺――夜へと染まった。

 空が色を変える度に、重く厚い雲は伸びたり縮んだりを繰り返しながら、彼方に消えていき、代わりに無数の星と大きく丸い月を浮かび上がらせる。

 鈴を転がすような花達の笑い声が再び聞こえたような気がしてエイトが視線を天から地上へと戻すと、辿り着いた時にはなかった大きな窓枠とその真向かいには崩れた壁が待ちわびたかのように佇んでいた。

 月に照らされた窓枠は、大きな影を作り、ゆっくりと壁に伸びる。

 かつて二度見た光景と同じく、月光を浴びて、影は静かに光り輝く。

 キラが立ち上がる。

 そして、音も立てずに壁の方へと向かうと、ゆっくりとこちらを振り返った。

 降り注ぐ銀の光のせいか、キラの姿が一瞬だけ、古代の衣装を纏う背の高い女性と重なる。

 キラはまるで誘うように不思議な微笑を浮かべながら、細い手を持ち上げて月影の扉に触れた。

 空に浮かぶ月と同じ色の光を零れさせながら開いた扉は、眩い光で二人を包み込んで異世界へと引き込んだ。

 



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40話

 

同じ顔をした二人の娘が二つに分かれた道の前で立っていた。

片方が血に濡れた道を指差し、もう片方は茨が伸びた道を指差す。

 

私は、こちらに根付こう

私は、あちらで国を作ろう

 

手を伸ばし合い、額を互いに合わせて、同じ声で厳かに告げ合った。

 

我らの主を守れなかった罪を

我らの主を護れなかった罰を

 

二人は思いを溢れさせるように涙を流す。

 

この地で語り継ごう

かの地で受け続けよう

 

――どんなに身を引き裂かれても

 

 

***

 

 やわらかな月光にくるまれて、ゆらゆらと狭間をたゆたう。

 まるで揺りかごの中にいる赤子のように安心感を抱いたと同時にエイトは眩さで閉じていた目を開く。

 すでに辺りの眩い光は薄れ、代わりにけぶるような世界が広がっていた。

 地底湖を思わせるようなそこは、水の冷気と月の霊気が満ちたそこは月の満ち欠けを表した十二の台座が水の中から突きだし、その先には、かつて二度、足を踏み入れた美しい宮がある。

 遥か上には一つしかない筈の月が幾つもあり、満ち欠けを何度も繰り返しながら浮かび上がっているお陰で辺りは明るい。

 何度訪れても、この景色の美しさに慣れる事はないだろう。

 

「きれい……」

 

 後ろから感嘆の声が聞こえて、弾かれたように振り返った。

 凝視するエイトに気付く事もなく、夢のような幻想的な世界に頬を赤く染めたキラが目を潤ませて、口元を手で押さえる。

 扉を開く前まで別人のようだった少女の纏う気配は柔らかく、神秘的な景色に目を奪われて言葉を無くした彼女は年相応の振る舞いをしていた。

 丘の中腹で彼女の身に起こった異変や、頂上で変貌した姿など微塵も感じさせられない。

 頂上へと向かうまでにも、何を見たのだと問い掛ける事は出来た筈だったが、あの男との遭遇で余裕があまりなかったという事と、更に不安を与える事は避けたかったのだ。

 緊張のすっかり抜けたキラに、今、問い掛けるべきなのかと悩む。

 だが、この無邪気な振る舞いを見ていると彼女自身、何があったのか覚えていない可能性が高く思えた。

 それでも、エイトの耳からは彼女が漏らした言葉が貼りついたまま消える事がない。

 

『一面の、赤が……。夕焼けに……染まって、さらに濃く……』

『夕焼けに染まった丘……』

 

 この近辺で聞こえるという不思議な音色。それも決まって夕暮れ時。さらに老若男女関係なく聴く人々がいるのだと、ゼシカから聞いた話を思い出す。

 間違いなく、キラの言葉と現象は深く繋がっているに違いないのだ。

 思い悩むエイトに気が付いたのか、キラがこちらを見る。

 しかし、その視線はエイトを通り抜けて、彼女は音を聞くように耳の横に手を当てた。

 目線で問おうとした瞬間、ハープの調べが宮の方から響いてくる。

 それは、誰も知らない忘れられた大昔の曲のようだった。

 引き伸ばされるように静かに始まったそれは、やがて小雨のようにささやかに静まり、ゆるやかに大きく伸び上がって、しなやかな柳のように旋律はたわんでいき、水のせせらぎのような心地よさを生み出した。

 美しい旋律は、エイトの胸に潜り込むように次々と染みわたっていく。

 宝玉をつなぐ糸のように紡がれる音色に惹かれるように、足を一歩、隣に並んだキラと共に進めた。

 

「お前は本当に稀有な存在だな、エイトよ」

 

 中に入った途端にハープの旋律はぷつりと途絶え、二人を待ち構えていたかのような声は会った時と同じように凪いでいた。

 中央にある高台から見下ろされる瞳は声と同じように平坦で、そこに込められた感情というものをエイトには読み取ることが出来なかった。

 

「こちらへ」

 

 しなやかな手がゆらりと動いて、高台へと手招きをした。

 キラの方を見ると、再度、小さな顔に緊張を孕みながらも頷いてくる。

 螺旋階段を昇ると、ハープの音色と同じ位、美しい存在が楽器を抱えて、立っていた。

 瓜ふたつ。

 ますますこうして見ると、一切の穢れや汚れもない端正な顔の精霊と、あの男は合わせ鏡のように同じ顔だった。

 違う所は両目がある事と、歪みきった憎しみや怒りが感じられない事位。

 

「久しいな、昼の光の下で生きる事を選んだ合いの子よ」

 

 息が止まりそうになった。

 イシュマウリがエイトの出生を当然のように知っているとは誰が思うだろうか。

 そういえば、あの夜のアスカンタ城内で、この精霊は自分に向かって、何かを言いかけて止めたのを思い出す。

 あれは、エイトの生まれを既に知っていたからなのかもしれない。

 

「お前が二度も月影の窓を開けたのは、人と竜の本性をその身に併せ持つからだと思っていたが、まさか三度も開くとは」

「いえ、あの……」

 

 少しだけ感心したような感情を瞳に宿した精霊に、エイトは返答に困って頭に手を乗せた。

 イシュマウリの視線はエイトから移り、エイトに隠れるようにして後ろにいるキラの方に転じる。

 

「そちらの小さなお客人は丘の側に根を下ろした一族の末裔だな」

「キ、キラといいます……。月精霊様……」

 

 キラは緊張で肩をすくめながらも、精霊の前に進み出て、少し腰を沈めて礼をした。

 まるで彼女の中を視るようにイシュマウリの眼が細まり、やがて頷いた。

 

「……なるほど。月影の窓が開かれた事も納得できよう。古き世界に取り残された筈の時空呪文を扱える娘まで現れるとは、何かの導きか」

 

 無意識なのか、彼の手が抱えていた月影のハープの絃を弾いて、音が漏れる。

 エイトが口を開こうとすると、押し留めるように精霊は片手を上げた。

 前から感じてはいたが、やはり精霊はあまり言葉を交わすのが好きではないようだ。

 

「……その顔を見れば、お前の口から聞かずとも、そして物達に尋ねなくても分かる」

 

 ここで初めて、イシュマウリの彫刻のように美しい顔が苦痛を堪えるかのように歪んだ。

 

「我が同胞であり、唯一の対であった我が弟――レドルガに会ったのだろう?」

 

 分かっていた、と呟く声も今までの平坦なものから一変して、苦悩を押さえこむかのように重い。

 悲しみの宿った顔は、今まで造りものめいたものではなく、そして、人より遥かな時を長生きしている筈なのに、とても脆く思えた。

 同時にそれは、彼の抱えるものが透けて見えるようだ。

 

「……おとう、と? あの男は僕らを襲い、貴方を裏切り者と呼びました。それはどういう事ですか?」

「私は、置いてきたのだ。このハープのように古き世界に弟を、巫女を、……全てを捨てたのだ。そして、あれは長き時が流れた今もそれを恨み続けている」

「イシュマウリ。僕らの世界でまた異変が起きようとしています。貴方は何を知っているんですか? 赤いベルの魔物や黒い魔物。それ以上に知っている事をどうか教えて下さい。これは、とても大切な事なんです」

 

 押し寄せてくる苦しみを断つように精霊が目を閉じて、その手がぎこちなく絃に触れる。

 だが、すぐに指が滑るように動きだし、一つの旋律を奏で始めた。

 

「ならば、今宵は私の忌まわしき記憶を物語として奏でよう」

 

 海底の奥底で眠っていた記憶を揺り起こすかのように音色が徐々に大きくなり、閉じていた金の両目がエイトを射抜くようにまっすぐに見据える。

 一つ、一つ、旋律を奏でる度に月影のハープから光の玉が浮かび始めて、その玉達の中には沢山の人々や美しい神殿、イシュマウリとあの男の姿があった。

 そして、また一つ、玉が浮かぶ。

 それは、ふわりと舞うようにイシュマウリの周りを回って宙へと飛んだ。

 その光の中には、挑むように強い眼差しを持った一人の少女がいた。

 

「我が弟と、かつてあった美しき神殿にいた最後の巫女の話を。そして、私の奏でる両手が無意味となった話を……――」

 



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41話

 

 その夜は、暖炉の明かりに照らされただけの暗い部屋で一人、苦悩していた。

 暖炉の燃える炎に照らされた顔は鏡を見なくても悲しみと絶望に染まっているのが分かる。いつもなら座り心地を楽しむソファも今は、硬く冷たい石の上に腰かけているかのようだった。

 のどから迸りそうになる激情を押さえこむように、両手で顔を覆う。指の間から、絞り出すように弱々しい声音で一人の名を呼んだ。

 だが、それは暖炉の薪が爆ぜる音でかき消される。

 しばらくそうしたまま、唐突に顔を上げた。訝しげに眉間にしわを寄せて、広い部屋の中を見回す。

 

「……誰か、いるのか?」

 

 その筈はない。この部屋に誰も寄らせるなと、臣下に厳命した。火急でもなければ、こちらに来るはずはない。

 かわいた唇を舌で湿らせて、囁く。

 

「……キラか?」

 

 心優しいあの娘が心配して、やって来たのだろうか。

 だが、返事は返ってこない。なにより、彼女が命令に背くことはないと自分が誰よりも知っていた。

 では、誰だ。

 警戒するようにゆっくりと立ち上がった瞬間、暖炉の炎が水をかけられたかのように、じゅっと音を立てて消え、部屋が一瞬にして闇に包まれた。

 驚いて振り返った視線の先に、闇より深く、暗い影があった。

 恐怖に包まれた彼が声をあげる暇もなく、影は滑るように近寄ると、炎が燃え上がるように大きく伸びあがり……――

 

「我が国の英雄はどちらに」

 

 部屋に入るなり、穏やかな声で言ってきた大臣を見ることなく、分厚いカーテンに隠れた窓の方へと向けた。

 大臣が扉を開けた時に運んできた風によって、カーテンから漏れる日差しが踊るように揺れる。

 窓の外は青い空や海が広がっているだろう。

 だが、今は青というものが見たくはなかった。見れば、思い出す。そして、絶望を繰り返す。

 暖炉の薪が昨晩と同じように爆ぜて、思考に囚われてしまいそうになるのを止めてくれた。

 暖炉の炎は激しく身悶えるように膨らんで燃えているが、体の芯はいまだに寒さを感じている。

 

「王よ、寝台へとお戻り下さい。まだ御身は回復してはおりません。倒れられては、また城の者達が心配します」

 

 さあ、と優しげに言う大臣の顔をパヴァンはようやく真正面から見返した。

 

「大臣、この市を中止とする。手筈を整えてくれ」

 

 皺が緩く刻まれた目元は、ぴくりとも動く事はなかった。

 エイトがこの部屋にいた時点で、この男は予想していたのだろうという事は考えなくても分かった。

 昔から、ローレイという男が少し苦手であった。

 国を大事にしている事は分かる。もしかしたら、王である自身よりもずっと強く思っているかもしれないと感じる時もある。

 ローレイが国を思い、こだわる理由。寝台の側で二つに裂いた手紙の主のせいでもあろう。

 破かれて目を背けられた手紙に気付いているのか、いないのか、ローレイは胸元に手を当てる。

 

「それは賛成できません、我が王よ。それが国にどのような損失をもたらすのか、お分かりになった上で仰られているのですか」

 

 怒りも失望も含まない穏やかな声音でローレイは言う。

 

「国より、民だ。民に何かあれば、国という形や枠などあっという間に崩れる。昨日はエイトさん達が再び救ってくれたが、今日は明日に同じ事が起こらない保証がどこにある?」

「保証などありません。逆に言ってしまえば、魔物がまた現われるという保証もございません」

「ローレイ」

 

 苛立ちを隠す事無く、大臣の名を強く呼んだ。

 ふらつきそうになる体を叱咤して、四肢に力を込める。言う事の聞かない体は、ひどく冷たい。しかし、それだけだ。

 

「市を一度中止した所で、国は消えない。お前の思う国は、その程度の弱さしかないのか」

 

 ここで初めて、ローレイは動揺したように胸元に置いた手を僅かに動かした。

 

「そんな事は思っておりません。私は、民の暮らしを思って……」

「ローレイ。お前は、誰に仕えているのだ」

 

 唐突に切り出した質問に、困惑したようにローレイがこちらを見上げてきた後、すぐに跪く。

 

「我が王パヴァン様とアスカンタに」

「違うだろう。お前は、お前が今も仕えているのは……」

 

 見上げると優しく笑って、頭を撫でてくれた人の顔が浮かぶ。目元に消えない隈を作り、いつ忍び寄るか分からない恐怖に怯えながらも、優しさを忘れなかった人。

 悲しいくらいに青い手紙を指差して、唇を噛んだ。

 

「お前が今も心から仕えているのは、私や国ではない。……兄上だろう」

 

 その時、扉の外が騒がしくなる。

 ローレイが膝をついたまま、外に向かって声を上げた。

 

「何事だ。騒がしい」

「申し訳ございません! ですが、火急の知らせにございます! トロデーン国の使者が突然、アスカンタ城に!」

「なんだと?」

 

 突然のトロデーンの使者の訪問に顔を合わせたパヴァンと大臣に、外にいる兵士が声を上ずらせて続ける。

 

「トロデーンの姫君が本日昼頃、お倒れになられたと……!」

 

 



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【番外編】

 

 吐いた息が白く透けて、夜空にすうっと溶ける。

 それをぼんやりと眺めながら、ククールはアスカンタ地方とパルミド地方に続く道を歩き続けていた。

 時間帯も夜中近くなると、比較的暖かいマイエラ地方でも、寒さに棘が増す。厚みのある布地のコートにも関わらず、冷たさが忍んできて、微かに身を震わせた。

 仲間と共に雪に閉ざされた極寒の地方にも行ったが、それとは別物で寒さの感じ方が違ってくる。

 狂暴な魔物が少なくなったとはいえ、ククールがこうして夜道を歩いているのは、今日の夕方頃までドニの町にいたからだ。

 そこは昔なじみの連中がいたり、修道院では問題ばかり起こす自分が唯一息抜きできる寂れた小さな町。そして、幼い頃に亡くなった両親の薄汚れた墓が身を縮めるようにしてある。

 別に花を手向けるわけでも、磨いてやるわけでもない。ただ気が済むまで墓の前に立ち、見下ろすだけだ。意味などない行為。それでも命日となれば、気が付けば足を運び、見下ろす。

 今年もまた墓の前に立ち続けるだけの夜を過ごし、次の日になれば小さな町の中で唯一栄え続ける酒場でカードに興じる。

 だが、この年だけは違った。

 かつて、あの男の側近であった一人がククールに声を掛けてきたのだ。

 その人物は側近の中でも特に抜きんでており、あの男の信頼が特に厚かった。多くの側近や団員には、あの男のカリスマ性に惹かれた妄信的な者達が多かったが、その者はそんな彼らとは一線を画していた。カリスマ性ではなく、純粋にあの男という器に陶酔していたように思う。

 カードをめくっていた手を止めて渋い顔をしたが、話がしたいという元側近の男に言われて、酒場の裏へと付いていった。

 すると、相手は前置きもなく単刀直入に話を切り出してきた。

 

「お前、あの方を捜しているそうだな」

 

 僅かに反応が遅れたが、すぐに修道院の連中を苛立たせた薄い笑みを浮かべてみせる。

 自分をたんこぶ扱いしていた男を捜す訳がないと皮肉を言おうとするも、その人物はそれを封じるように言葉を重ねてきた。

 

「誤魔化しても無駄だ。パルミドにいる情報屋本人から話を聞いた。ふた月には一度、自分の元にやってくるとな」

 

 黙り込んでしまったククールに、彼は自分がずっと目を背けてきた疑問を投げかけてきた。

 

「お前は、あの方を捜しだしてどうするつもりだ?」

 

 その後、相手とどのような会話をして別れたのかは覚えていない。我に返った時には、側近であった男はとうに姿を消していた。

 そして、元側近と再会したその日の夕方、部屋を準備してくれた宿屋の女将に町を出ると告げた。

 その女将は昔、父の屋敷で下働きとして働いていたという。その為か、この町の誰よりも目をかけてくれた。

 その女将はとても悲しそうな顔をしたが、すぐに彼の背中を力一杯叩いて、「また帰っておいで」と子供を見守るような暖かい笑みを浮かべてくれた。

 痛みに顔をしかめながらも、ククールはくすぐったいような暖かい気持ちになって、顔を逸らして頷いた。

 次はいつ、ドニに戻るのかは分からないが、それでもここが自分の故郷なのだろうと改めて思ったものだ。

 

『お前は、あの方を捜しだしてどうするつもりだ?』

 

 だが、女将の笑顔を思い出したのも束の間。歩き始めてから、言葉が影のように執拗についてくる。

 知るかよ、とその度に心の中で吐き捨てて、胸の奥が詰まっていくような感覚に苛立つ。

 こんな風になるのなら、まだ酒場に留まってカードに興じるべきだったかもしれない。

 だが、あそこにいれば、また相手が姿を現しそうで嫌だったのだ。

 あの男に会ってどうするのか。そんなことは頭の何処かで、いつも思っていた事だった。

 いっそ、忘れてしまおうかと何度も思った。

 その度に、忘れることを許さないとでもいうように、コートの懐にしまい込んだ指輪が鉛のように重くなるのだ。

 コートの上からそっと、それを押さえる。

 聖地が崩壊した時に放り投げられたこの指輪には、あの男の全てが詰まっていたのではないかと思う。

 自分という存在が産まれたことによって、理不尽に追い出され、そしてようやく見つけたマイエラ修道院という揺らぐことのない安住の場所は、疫病神のように自分が来てしまったせいで、酷く脆いものへと変わってしまった。それでも、居場所を奪われまいとしたかのように、あの男は――兄はどんどんとのし上がっていったのだ。

 そして、疫病神の自分はそのすべてを壊した。

 世界の為だったと。仕方なかったのだと。そう思うこともできるだろう。

 だが、それは兄のかけがえのないものをすべて奪うことになったのだ。

 いつか助けたことを後悔するぞ、と憎しみに満ち溢れた声が、頭の中に響く。

 その声を振り払うようにククールは、大きく白い息を吐いた。

 元側近の言う通り、仲間との旅を終えてから、パルミドの情報屋の元へ足をよく運ぶようになった。

 当初は、情報屋も警戒するように分厚い眼鏡の奥で目を細めていたが、男の情報を求めると納得したようだった。裏の住人には、自分と男の関係性など周知の事実だったらしい。

 だが、訪れるたびに繰り返されるのは同じ言葉だった。

 

「残念ながら、君の求めるような情報は入ってきていません。消えた法皇の行方を知る者はおらず、私の情報網でもかすりもしません」

 

 約一か月前、いつも通りの言葉を繰り返した情報屋は両手を組むと、その上に顎を乗せた。そのまま、こちらを見る。

 一人で初めて隠れ家へ足を踏み込んだときよりも、ずっと鋭い視線だった。

 

「君は、何を知りたいのです?」

 

 知らない内に、喉がひくりとひきつれた。

 

「……なにがだ」

 

 返答が遅れた事がばれないように硬い声音で返すと、情報屋は片方の眉をあげた。

 

「生きているのか、お亡くなりになられているのか。どちらをお知りになりたいのか、ですよ」

 

 そんなもの、と言いかけて、言葉に詰まった。

 情報屋に言われて、初めて気づいた。自分は何が知りたいのだろうか。生死のどちらを知りたいのだろうか。

 ただ、黙り込むしかない自分に、情報屋はさらに続けた。

 

「君は、血を分けた兄が生きていた方がいいですか?」

「……あんたは、情報を売るのが仕事じゃなかったのか? それとも人の事情に首を突っ込むのが仕事だったか?」

 

 ようやく言い返すと、情報屋は我に返ったかのように顎を浮かせた。そして、眼鏡を押し上げて、唇に薄い笑みを浮かべた。何処か取り繕うようなものだった。

 

「これは、失礼しました。どうやら、歳を取るとおせっかいになってしまうようだ」

「そうかよ。……またくる」

 

 金を置き、短く告げると、情報屋はにっこりと読めない笑みを浮かべて見送ってくれた。

 情報屋や側近、そして自身が奥底にしまっていた疑問を忘れるように足を進める。

 それと同時に道先を照らす満月のように、自分の前に答えを誰かが照らしだし、それを教えてほしいと思った。

 答えは、いまだ見えない。答えの捜し方も、分からなくなっていた。

 それでも、足を止める事は出来なかった。

 誰も止めてくれるものはいなかった。

 



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サイカイ
43話


 

終わりを夢見る

 

***

 

――ああ、嫌だ。

 

 意識が夢底から、現実へと容赦なく引き上げられるのを感じる。

 疲れきった心も体も鉛のように重い筈なのに、眠れば目が覚めるのを毎日繰り返す。

 自分はどこに行けばいいのかも、どうすればいいのかも暗闇の中で途方に暮れているというのに。

 だというのに。

 

『……いつか――…』

 

 浮かび上がっていく意識を加速させるのはいつもの、あの台詞だ。

 

『いつか助けたことを後悔するぞ』

 

 最初に映ったのは薄汚れた天井で、体は粗末な寝台の上だった。

 しばらくの間、染みの浮いた天井を眺めた後に、視線を右にずらす。

 頑丈そうな鉄格子がはまった窓からは日差しが差し込み、光を受けた埃がちらちらと舞っている。

外からは罵声や大声が絶えず聞こえ、どこからか生臭い臭気が漂ってくる。昔の自分であれば即座に顔をしかめるであろうが、最近の自分には嗅ぎ慣れた臭いだ。

 ため息を一つ吐いて、左腕を気だるげに持ち上げた。皮の手袋に覆われていない腕は当たり前のように動き、当たり前のように在った。

 その当たり前の事実が不気味に映り、それと同時に苛立ちが募った。

 

「ああ、くそ。なんだってんだよ……」

「寝起きでそれ? もう少し、まともな言葉はないわけ?」

 

 独り言である悪態に思わぬ返事が返ってきて、ククールはまだ少し呆けていた頭を浮かせて、声の主を探った。

 すると、鉄格子の窓の光が届かない壁際の椅子に座る人物と目が合う。

 椅子から立ち上がり、ゆっくりと光の方へと歩んできたその華奢な姿は、自分の記憶よりずっと大人びて、美しくなったと思う。

 それでも、最後に会った時と変わらないのは、自分へ向ける冷ややかな赤銅色の眼差しだ。いや、ある意味変わってしまったというべきなのだろうか。彼女も、そして自分も。

 

「……久しぶり、だな。ゼシカ」

「ええ、そうね」

 

 眼差しと同じ位に冷ややかな声音を聞きながら、横になっていた粗末な寝台から半身を起こした。

 

「ゼシカが、俺をここまで運んでくれたのか?」

 

 寝台に近づいた彼女の顔を見て、改めて綺麗になったなと思いながら、言葉を投げかける。

 

「ええ、そうよ」

「そうか、悪かったな」

 

 短い返答から漂うよそよそしさに気付かない振りをして、微笑みかけた。

 きっとこの薄っぺらい笑みからも、同じようによそよそしさが滲み出ている事だろう。その証拠に、ゼシカの表情が硬くなっていくのが分かる。

 その顔から視線を外して、もう一度左腕を持ち上げて拳を握る。全身を一通り見て、傷がない事を確かめた。

 昨夜あった出来事の痕跡がまったくない事が恐ろしく、あれは幻だったのかと己を疑う。

 否と告げるのは、内にある自分の声。あれは、幻であり幻ではない。確かにあった事だ。

 あちこちを確認した後にむっつりと黙り込んだ自分をゼシカが怪訝そうに眉を寄せながら、首を傾げる。

 

「何があったの? 昨日の夜、気を失ったあんたがパルミドのど真ん中に落ちて来たのよ」

 

 やはり、ここは薄汚いパルミドで、鉄格子のはまったこの宿はパルミド唯一の『牢獄亭』なのだと確信した。

 何があったのか。昨晩の事をなんと説明すればいいのか、正直自分でも分からない。

 虫の声さえも途絶えた夜の路。突如現れた者が持っていたこの世に二つもある筈のない見覚えのある剣。一方的に襲い掛かられ、圧倒的に斬り伏せられ、そして宙を舞った利き腕。

 衝撃も焼けつくような痛みも、驚きもすべて感じた筈なのに、つむじ風が一瞬で通り過ぎるようにすべて掻き消えた。

 

「……言いたくないなら、言わなくていいわ」

 

 ため息を一つ吐いて身をひるがえそうとしたゼシカの腕を思わず掴む。

 驚いた顔と、あの時の傷ついた表情と重なり、すぐに自分から手を離した。

 

「悪い……」

「…………」

 

 そんなに強く握ったつもりはなかったが、掴まれた部分をさするゼシカとの間に重苦しいものが漂う。

 

「ゼシカ、ククールは起きやしたか!?」

 

 そんな空気をいい具合に壊してくれたのは、大きな足音を立てながら顔を出した強面の男だった。相変わらず、頭にはおかしなとげのある帽子をのせている。

 自分の顔を認めると、彼はにっかりと歯を剥きだして笑う。

 

「おっ、目が覚めたみてえでがすな!」

「やっぱり、お前の顔は目覚め時に見るもんじゃねえな」

「んなっ!?」

 

 憎まれ口を叩くと、ヤンガスは目を吊り上げて大口を開けて怒鳴り返そうとする。それを遮ったのはゼシカの静かな声だ。

 

「何かあったの?」

「そうでした。聞いて下せえ! 旦那が、情報屋の旦那が目を覚ましたんでげす! それであっしらと話をしたいって言うんで、あんたらを呼びに来たんでげす」

「……どうして、私達を?」

「それがどうも分からねえんでげすよ。理由を聞いても、あっしらが揃ってからとしか言わなくて」

「おい、情報屋がどうしたって?」

 

 ゼシカとヤンガスの会話に何とか割り込むと、二人はそれぞれ苦々しい表情を浮かべた。

 悩むようにヤンガスが鼻の頭をかいて、すぐに「とにかく」と手を叩いた。

 

「説明するにも時間が惜しいでげすし、悩んでも分からねえでげすから、とにかく旦那の所に行きやしょう」

「分かったわ」

「ククールもでげす」

「拒否権はなさそうだな……」

 

 両手を上げて肩を竦めたククールは、寝台の脇に立てかけてあった己の剣を手に取った。

 嫌な予感は既にあった。

 



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44話

 

双つは、奏でる

 

一つは、穏やかなまどろみを

 

二つは、――――――――を

 

娘の祈りが月を招き

 

ふたつの罰は暴かれる

 

***

 

「おや……」

 

 貴方がいるとは思わなかったと言いたげに声を漏らした男の顔を見て、ククールは目を疑った。

 情報屋の住まう隠れ家に窓は一切ないせいで、あちこちにある溶けかけた蝋燭やカンテラなどの灯りがなくては昼でも暗い。

 それでも太陽のような明るさには程遠く、そんな頼りない光が生み出した影が隙間風に揺れる度に、寝台の上で体を起こした男の背中に覆い被さる。

誰だ。

 そう問いかけてしまいそうな位に、肉の削げ落ちた頬や落ち窪んだ目元のせいで、まるで骸骨のような情報屋は一ヶ月という短い間に別の誰かと入れ替わったかのように酷くやつれきっていた。

 それでも、背筋を伸ばして、こちらを見る眼差しは真っ直ぐで強い。それは、初めて一人でこの場所を訪れた時から全く変わらない。

 

「貴方がこんなにも早くここにやってくるとは珍しいですね。驚きました」

 

 その割には、あまり動じた様子がない声音もまたククールの知るもので少しだけ安堵して、唇を薄く開く。

 

「……あんたは、口だけはいつも通りだな」

 

 憎まれ口にも似た言葉が漏れる。すぐ後ろにいる二人から咎めるような視線を感じたが、無視する。

 情報屋も気に障った風もなく、肉のない細い腕を持ち上げて、己の頭を指で叩いた。

 

「ええ。この口や舌が、私の商売道具のようなものですからね。この頭に沢山の情報が入っていても、それらを喋るものがなければ誰の手にも渡る事はない」

 

 情報屋の視線が後ろの二人へとずれて、眉間に指をあてるような仕草をする。そこにはいつもかけられている分厚い眼鏡はない。それに気が付いたらしい情報屋自身が苦笑した。

 

「やはり、眼鏡がないほうが良く見える。さあ、こちらへ」

 

 席を勧めるように手招かれる。

 だが、この寝室には椅子は一つしかない為、必然的に女性であるゼシカが座り、その横にヤンガス立つ。ククールは壁に寄り掛かって、腕を組んだ。この小さな寝室に四人もいると少々窮屈だが、仕方ない。

 

「お呼びして、申し訳ありませんね。ヤンガス君には何度も迷惑をかけました」

「あ、あっしは別に何もしていやせんよ。むしろ、旦那には世話になりっぱなしでしたから、少しでも恩返しになれればと……」

 

 恐縮したように大きな図体を縮こまらせて、両手を振るヤンガスは兄貴と慕うエイトと話す時とはまた違う丁寧さで情報屋に接する。まさに頭が上がらないと言った様子だった。

 そんなヤンガスの言葉に情報屋は首を振った。

 

「もう充分に返してもらいましたよ。そればかりか、あなた方には礼を言わねばなりません」

「お礼、ですか……?」

 

 ゼシカの髪が揺れて、微かに首を傾げたのが分かった。

 情報屋の言う礼の内容に――おそらくヤンガスも――おおかた予想がついた。彼女だけ、あの噂を知らないのだから、当然の反応だろう。

 情報屋と名乗る男は居住まいを正して、僅かに頭を下げてきた。

 

「我が弟を悲しみから立ち直らせて頂き、ありがとうございます。おかげで沢山の民が救われました」

 

 予想通りの言葉に、大して驚きもしない。

 だが、ゼシカは意味が分からないと言った様子でますます首を傾げて、横に立つヤンガスと情報屋を見比べる。当たり前のように、ククールの方は絶対に振り返らない。

 

「ねえ、ヤンガス。どういう事……なの?」

 

 ヤンガスが答えるかと思ったが、石のように固まっている所を見ると、どうするべきなのか迷っているようだ。

 ため息を一つ吐いて、組んでいた腕を組み替える。

 

「……あんたは、裏の住人のくだらない噂の通り、【アスカンタ国王と血の繋がった兄弟】だと認めるんだな」

 

 あれほど頑なにこちらを見なかったゼシカが弾かれるように振り向いた。

 情報屋が眉間に指を当てながら、頷く。

 

「ええ。嘘のような真実程、正気な者は信じないものです」

「あんたが流した噂だったのか」

「その通りですよ」

「……本当なんですか? アスカンタ国王のパヴァン王と、その……ご兄弟だと……」

 

 衝撃から立ち直ったらしいゼシカが確認するように恐る恐る尋ねる。こんな薄汚い町にいる人物が、アスカンタの王族だという事が信じられないのだろう。薄暗い中では彼の顔をしっかり確認する事が出来ないから尚更だ。

 ククールも、あの時のアスカンタで気まぐれを起こしてヤンガスに付き合わなければ信じなかったに違いない。

 情報屋は己の首にかかっている細い鎖に手を掛けて、服の下から拳大の大きさをした丸いペンダントのようなものを取り出すと、ゼシカに手渡した。

 ククールからは彼女の手元は見ることは出来ないが、息を呑むような音が聞こえたところを見ると、二年前にアスカンタ王が月影のハープなどの国宝を保管していた噴水の宝庫の仕掛けを動かした紋章のブローチと同じアスカンタ王家の証か紋章が象られたものなのだろう。

 

「少し歳は離れていますが、パヴァンは私の弟になります」

「何故、私達に身分を明かしたのですか? いくらアスカンタ王の身内だからといって、お話しいただく必要はなかったと思いますが」

 

 力なく微笑みながらも、はっきりと認めた情報屋にゼシカが手元から顔を上げて、もう一つ問い掛ける。

 ゼシカは、自分やヤンガスが思っていた事を全て言ってくれた。アスカンタ出身だったからと身分の部分など誤魔化して礼を言うならともかく、わざわざ明かす必要などなかった筈だ。

 この場にいる全員の心を読み取ったかのように、情報屋は眉間に手を押し当てた。

 

「王族という身分を捨てたとはいえ、パヴァンは大切な弟には変わりありません。だからこそ、その弟を救ってくださったあなた方に名乗り、礼を言いたかった。それにあなた方を信頼しているからですよ。あなた方は、私利私欲で動く人間ではないと……、勘が働いたと言った方が正しいのかもしれません」

 

 情報屋は「あとは……」と続ける。

 ゼシカから返してもらったアスカンタ王家の紋章が刻まれたペンダントを手元に置きながら、目を細めた。

 

「もうすぐ、私が死ぬからでしょうかね」

 



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45話

 

 少年は産まれた時から、王となる事を約束されていた。

 将来の王である彼は周囲に期待され、それに応えるように国の為に学び、国の為に剣と魔法を習い、国の為に成長していった。

 いつか、父の後を継いで国を守り、同時に国に護られていくのだと信じていた。

 疑っていなかった。どうして、疑う事ができるだろうか。

 それは、少年が十五の歳を迎えて、しばらくのことだった。

 

『嫌な夢を見るのです。苦しくて寒々しい、恐ろしい夢を毎日……』

 

 たった数日の悪夢なら、ただ夢見が悪かったのだと苦笑いで終わるだろう。

 だが、何度も何度も繰り返される恐ろしい夢。少年は毎夜うなされては泣き叫び、目が覚めればあまりの恐ろしさに悪夢の内容を忘れてしまう。

 ただ、同じ夢を見ることだけが心に深く刻まれていき、同時に眠ることが出来なくなっていった。生きるものは眠りこそが、体を生かしつづける唯一の方法。眠ることの出来ない身体は徐々に衰弱し、食べ物も受け付ける事は出来なくなっていった。

 それまで平和だった彼の周りは、恐ろしい夢と同じように絶望に蝕まれていく。

 父は悲しみに目を覆い、母は産まれたばかりの弟を抱きしめながら泣き暮れた。

 何故、この子に。何故、この代で。何故、何故と。

 尽きる事のない嘆きは、国に忍び寄るように影を生みはじめた。

 

『――それは、罰だ』

 

 少年の見る悪夢は、この国の王族が背負ってきた罰であり、この国が産まれた時から受け継ぐもの。

 

『我がアスカンタの王族のみが受け継ぐ罰。最古の呪いなのだ』

 

 父が嘆きにやつれた顔を歪めて、息子に告げてきた。近い未来、それが少年の命を喰いつくすとも。

 まだ十五の幼い少年に告げられた、残酷な死の宣告だった。その時から王となる道を永久に閉ざされた。

 

「その呪いは、アスカンタが建国された頃から、抱えていた呪いと史書にありました。王族全ての者が受ける訳ではなく、何代目かに一人と受ける呪い。その呪いを私は受けた」

 

 かつて王族に名を連ねていた男は、迸りそうになる苦しみを飲みこむように無理矢理、笑みを浮かべていた。その笑みにも昏い影が寄り添うように揺れる。

 

「私たちの父、先代の王は必死にこの呪いを解こうと、世界中から徳の高い僧侶や修道女を集わせました。だが、誰も呪いを解くことはできなかった。……ただ一人、呪いを抑え込み、呪いを遅らせる事の出来た僧侶を除いて」

 

 ついと、男がククールを見る。

 思わず目をすがめると、彼はまるでククールを通して、別の誰かを偲ぶように十字を切った。

 

「その僧侶の名はかつて、先々代の法皇と肩を並べていたマイエラ修道院の長でもあった御方。……ククール君、あなたがよくご存知であるオディロ様です」

 

 自分だけではなく、この場にいる全員が息を呑む。

 まさかここで、この名前を聞くとは誰が思うだろうか。

 オディロ。七賢者の末裔で、賢者の魂を受け継いだマイエラ修道院の院長。ククールや彼の異母兄だけではなく、沢山の身寄りのない孤児達を育ててくれた優しい老人。二年前に犠牲となった人。

 そして、と男は言葉を続けた。

 

「私は国から去ることにしました。幸いにも、アスカンタの王子は二人いた。いつ死ぬか分からない私が国を治めるよりも、弟が国を治めた方が民の為にも一番だった」

 

 愛した国を捨て、自分にかけられた忌まわしき呪いを消す方法を探し求めた。様々な場所を訪れ、情報を求めたが、一向に見つからない。

 この先のアスカンタの未来の為にも、自身の為にも必死だった。

 

「気が付けば、私はパルミドに流れ着いていました。さらに月日が経ち、どんな呪いをも癒し、打ち消すという泉があるという話を耳にしました。しかし、その場所は探し当てることはとうとう出来なかった……」

 

 泉という言葉に誰もが、反応する。それは、西方のサザンビーク地方にある泉の事ではないだろうか。

 その泉は確かに呪いを消す効力があると、近くに住まう隠者が教えてくれたのだ。その証拠にあまりにも強大な呪いであった為にほんの一時的ではあったが、トロデーン国の姫の姿を人へと戻すことができた。

 

「だ、旦那……! あっしらは」

 

 ヤンガスが知っていると声を上げようとした瞬間、寝台の上にいた男の唇が慄くように震えて、真っ赤な血がごぽりと溢れた。

 



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46話

 

 零れていく鮮やかな赤が薄光に照らされて、薄暗い部屋でもよく映えた。

 ククールは呆然とそれを目で追う。いまだに情報屋の口元から溢れ続ける大量の血が妙に現実離れしていた。

 凍りついた空気を叩き割ったのは、絹を裂くような悲鳴だった。

 ゼシカが椅子から立ち上がって、後ろに下がるようによろめく。

 その叫びにククールは我に返り、駆け寄る。

 

「そこをどけ! ヤンガス!」

 

 いまだに動けないヤンガスの肩を押しのけて、苦しそうに口元を押さえて、体を曲げる情報屋に向かって手のひらを突きだした。

 

『傷つき倒れた者よ 今、それを癒そう 聖なる精霊よ 我に応えよ べホイミ』

 

 咄嗟に唱えた呪文は中級の回復呪文。

 ククールの唱えた癒しの波動が大きく広がって、情報屋の体を包み込んで輝く。

 正直、この呪文が最古の呪いとやらに効くのか、分からない。

 そもそも表面上のみの傷を癒すだけの呪文。体から出ていった血が戻るわけでもない。

 予想通り、情報屋の浮かべる苦悶の表情は変わらず、血も止まらない。体の中にある血を全部吐き出して、血の海を作るかのような勢いに胸が冷えていく。

 すると、血が喉に絡むせいで、上手く呼吸できない情報屋の血走った目が大きく見開かれる。そのまま、血に汚れた両手を宙へと伸ばして、大きく痙攣すると前のめりに倒れた。

 

「おい!」

 

 慌てて起こすが、返事はない。微かに聞こえていた血が絡んだような呼吸の音も聞こえない。

 まずい、とククールは即座に新たな呪文を唱える。

 

『流るる生命よ 途絶えた生命よ まだ消える時ではない 大いなる息吹と共に息を吹き返せ ザオリク』

 

 天に昇る魂を引きとめるように、寝台の周りを暖かく力強い光が包む。大きく輝き弾けて、情報屋が止めていた息を吐き出すように大きく震えた。

 意識はないが、弱々しいながらも呼吸音が聞こえるのを確認する。

 誰かの命を繋ぎとめるのは、二年ぶりだ。それ以降、使う事もなかった呪文だったが、上手く作用したようだ。

 額に浮かんだ汗を腕で拭って、ククールが息を吐く。

 

「ククール、旦那は!」

「大丈夫だ……とは言えない」

 

 嘘は言いたくない。聖職者とは言わなくても、死と祈りの場所で生きてきたククールには分かる。

 息を吹き返したとはいえ、気を失った血の気のない顔には、死が近い者特有の死相があった。

 

「そんな……」

 

 ヤンガスが唇を噛んで、すぐに顔を引き締める。身に着けている上着などが血で汚れるのも構わずに、彼は情報屋の体を背負った。

 

「今すぐ、行きやしょう! 旦那を助けねえと!」

 

 こんな死にかけの状態の男が泉の水を飲んだところで、とククールは言いかけるが、有無を言わせない黒い瞳が言葉を押し込めさせた。

 すると、それまで後ろに下がっていたゼシカが声を上げる。

 

「私も行くわ!」

 

 大量の血を間近で見たせいなのか、胸元に置かれた手が僅かに震えているのをククールは横目で見た。

 

「お前は来るな」

 

 ゼシカが眦を吊り上げたのが分かったが、すぐに背中を向ける。だが、彼女は肩を怒らせてまわりこんでくると、ククールの前に立った。

 

「足手まといって言いたいわけ!?」

「分かっているなら、話は早い。そもそも何の為に来るんだ? 俺らだけで充分だ」

「ふざけないで! そんなの決まって」

「いい加減にしろ、てめえら! こんな状況で喧嘩をおっ始める余裕がどこにあるってんだ! 俺は一人で行く! あんたらは勝手に、そこらの犬っころみてえに吠え合ってやがれ!」

 

 部屋の壁を砕かんばかりに怒鳴るヤンガスの形相に気圧されて、二人の口は閉じる。

 扉を開き、大きな足音を立てながら、外につながる階段へと走り始めたヤンガスの背をククールはすぐに追った。

 階段を一段ずつ上がる度に、背負われた情報屋の腕が振動に合わせて揺れて、その指先から先程の血が滴り落ちていく。まるで残り少ない命まで零れているように感じた。

 外に出た途端、影に慣れていた目には太陽の光は痛い位に眩しく、思わず顔を背ける。

 すると、同じように追いかけてきたゼシカと目が合った。

 絡まったのは一瞬。すぐにククールは彼女から視線を外す。

 片手で情報屋の体を支えながら、腰の布袋からキメラの翼を取り出そうとするヤンガスに声を掛けて、ククールは移動呪文の詠唱を唱える。

 魔力が渦を巻くのを感じながら、転移する場所である美しくも不思議な水面を揺らめかせる泉を思い浮かべた。

 転移する対象は四人。

 ゼシカを外すことをしなかったのは、結局、勝手についてくると分かっているからだ。それだけの事。

 それ以外にはない。ククールはそう思う事にした。

 

『飛べ ルーラ』

 



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47話

 

 風が吹いて、四つの影を森へと落とす。

 まるで術者の心を映すように、やや乱暴な風によって千切れた周囲の枯れ草が何本か恨めしげに宙に舞った。

 降り立ったククールは風で乱れた前髪を払うと、目の前の二人に言った。

 

「知っていると思うが、近付けるのはここまでだ」

 

 不思議な泉のあるサザンビークの奥地。泉のせいか、それとも周囲に何か不思議な力が働いているのか、ルーラで直接、泉へは飛ぶことは出来ない。

 その為、少し離れた場所に降り立つしかない。

 正体をなくしたままの情報屋を背負いなおしたヤンガスが頷く。

 

「分かっているでげす。とにかく、泉へ行きやしょう! ……旦那! もう少しの辛抱でげすからね!」

 

 ククールとゼシカが頷く前に彼はすぐに走っていく。

 それほどまでに情報屋という人物はヤンガスにとって恩人でもあるようだ。

 ため息を一つ吐いて、ククールもまた走り出す。

 うっそうと生える木々に遮られて、太陽の光があまりここまで届かない。時折、吹きつけてくる冷風はまだ秋の最中のパルミド地方と違い、はっきりと冬の気配を纏っている。

 落ち葉に埋め尽くされた獣道を駆け抜けながら、僅かに後ろを見た。

 少し遅れながらも、二つに結った髪をなびかせながら走るゼシカの表情はひどく険しい。

 来るな、と言ったのは自分だ。それで彼女が怒っているのだと容易に分かる。

 傷つけてばかりだと皮肉な笑みが浮かぶ。

 旅の時と同じように気安く、信頼し合う仲間のままでいられたら、どんなに良かっただろうか。

 あの時、彼女を深く傷つけたのは、その【仲間】という言葉だ。

 もう一度、彼女の方を振り向く。その俯きかけた白い顔を見て、ふと疑問が持ち上がってきた。

 ゼシカの顔が険しいのは、自分だけのせいなのか。

 時折僅かに歪む眉や、空気を取り入れるように開かれる唇。そして、これだけ嫌いな相手が振り返っているにもかかわらず、視線にも全く気づかない。

 その答えを拾う前に歓喜に満ちた大声のおかげで、我に返った。

 

「旦那! ここでげす! どんな呪いも――馬姫様は少しでげしたが――、たちまち消える泉でげす!」

 

 追いつくと、ヤンガスはすでに泉の側で膝をついて、慎重に情報屋を背中から下ろしていた。

 そのまま、両手を澄んだ泉に差し入れようとして、自身の手が情報屋の血で濡れているのに気付いたようだった。

 彼は躊躇うようにこちらを振り返って、そして目を丸くさせた。

 どうしたと問い掛ける間もなく、杖をつく音と共に静かな声が後ろから聞こえた。

 

「そこにいるのは、以前、姫君と共に訪れていた一行ではないか?」

 

 真っ白な髭に覆われた口元を動かして、小さな老人が杖と土瓶を両手に持ちながら、見上げてくる。

 その目はまぶたで固く閉じられ、その色を見ることはできない。

 だが、真っ直ぐにこちらを視る視線でこの老人が目で世界を見ているのではないと感じられた。

 その証拠に、老人は「その声は」と問い掛けずに、はっきりと「そこにいるのは」と問い掛けてきた。

 二年前と変わらず、泉と同じように不思議な気配を纏わせた老人の顔が、横たわる情報屋の方へと向いた。

 

「そちらの、御仁は一体何者だ?」

「この旦那は呪われているんでげす! 早くしねえと、死んじまう!」

 

 切羽詰まったヤンガスの声音に老人の白い眉が片方上がる。

 

「呪われているとはまた……。話は後で聞こう。これで泉の水を飲ませてやるといい」

 

 渡された筒のような細長い土瓶を受け取ったヤンガスはすぐに水を汲むと、情報屋を起こして、口元にそれをあてがった。

 意識のないせいか、口の端から水が溢れていく。これでは、全く意味がない。

 

「旦那、旦那! 起きて下せえ! ……ククール! 呪文で目を覚ませてやれねえでげすか!」

「無理にきまっているだろう。魔法で眠らされたものじゃないんだ」

 

 考え込むようにゼシカが口元に指を当てて、「魔法……」と呟くと思いついたように顔を上げる。

 

「……待って。呪いというなら、そこには魔力が働いているんじゃないかしら? 意識がないのも、結局は呪いが原因なら……」

「なるほど! ククール!」

 

 両側から言われては、やらない訳にもいかない。

 ククールが片手を上げた瞬間、老人が止めるように杖で腕を押さえてくる。

 苛立ったようにヤンガスが拳を握る。

 

「じいさん! なんのつもりでげすか!」

「待ちなさい。…………どうも、お前さん達は厄介な者を引き寄せたようだ。ただしくは、そこの御仁が、か」

 

 まるで返事をするかのように情報屋が苦しげに呻いて、何かから逃げるかのように四肢を動かす。

 

――見つけた。

 

 声が響く。

 枝だけになった木々がその声を怖れるように、大きく身を震わせた。

 鳥達が逃げるように羽ばたく音が聞こえる。

 

――ようやく、見つけたぞ。

 

 喜びに満ちた低い声を合図に彼らの周囲から、今まで聞こえていた木々や鳥達の音がふつりと消えた。

 

「これは……、まさか」

 

 ククールは目を見開くと、舌打ちをする。

 昨晩の記憶が嫌でも浮かんだ。在るはずの左腕が急に消えたような感覚に陥る。

 間違いない。あの時と同じ状況だ。

 また遭遇すると誰が思うか。

 同時に、やはり夢ではなかったのだと確信を持つことできた。

 

「……嬉しすぎて、涙がでそうだ……」

 

 苦々しく思いながらも、腰の細剣を抜いて構えると、それを見たゼシカとヤンガスも同じように武器を構える。

 警戒する彼らの視線の先に、いつの間にか一人の男が道を塞ぐように立っていた。

 その手には、美しい輝きを放つオリハルコンで造られた剣が握られている。

 

「さあ、教えろ」

 

 青い髪を生き物のようにうねらせて、男は唇を大きく吊り上げて、嗤った。

 



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48話

 

 遭遇は突然でしかなかった。

 ドニの町を出てから、思考という名の出口のない螺旋の渦から逃げるようにククールは、歩みを止めた。

 ため息を一つ吐いて、夜空を見る。

 道の脇に生い茂る草花からは虫の鳴き声がやかましいほどに響き、身を縮まらせるような風が何度も通り過ぎる。

 歩くのに疲れたわけではない。ただ、マイエラ地方とアスカンタ地方を繋ぐ長い路にいい加減うんざりしてきたからだ。

 そのように言い訳して、忌避している問題から逃げているだけなのだと心の片隅では分かっているが、正直な心を彼は無視した。

 視線を夜空から目の前に伸びている路の先を見て、目をすがめた。旅人を泊める川沿いの教会へは辿り着いても、朝になる。それならば、移動呪文で飛んで、一晩過ごした方が建設的だ。行き先のない旅だからこそ、体力面を一番に考えなければならない。

 世界中の街道に沿うようにある教会は、夜中であろうが光が絶やされることはない。どのような者でも迎い入れ、手を差し伸べる。それは、世界を旅する者達にとってはありがたい場所だった。

 その恩恵に自身もあやかろうと、ククールは思考を切り離して、移動呪文を唱えて飛んだ。

 そして、降り立った先で三つの異変に気が付いたのだ。

 まずは降り立った場所だった。思い浮かべた古びた教会の玄関ではなく、教会側へ渡る橋の前にククールは立っていた。橋の向こうでは、教会の灯りが窓からぼんやりと見えた。

 上手く場所を浮かべられなかったのかと、皮肉交じりに声を出しかけて、次の異変に気づき、眉を寄せた。

 いつの間にか、音と気配が世界から消えている。移動呪文を使う前には聴こえていた筈の虫の鳴き声も風すらも息を潜めているのか、一切の音がない。無意識の内に、左手が腰にある相棒に触れた。

 息を一つ、吸う。汗が、額に薄く滲んだ。

 最後に、視線だった。こちらを強く見る眼差し。異様な気配の中で際立つそれはひしひしとククールの背中に当たり、下手に動く事が出来ない。

 心臓が逸りそうになるのを抑えるように、吸った息を浅く吐いた。

視線は、そんな自分をどうかする訳でもなく、固まったように動きはない。まるで考えているようにも思えた。

 一か八かで腰に触れていた手を離し、後ろへ払う。

 

『 風よ、抉れ バギ 』

 

 風の刃によって地面が抉れる。砂塵が巻き上がると、ククールの背中を視線から遮った。

 その間に、回転するように踵を返して、剣を一気に抜く。

 足を僅かに引いて構えた剣先は、視線があった方を指す。初級呪文によって巻き起こされた砂塵の視界はすぐに晴れる。

 そこには、男がいた。すでに風が収まったにもかかわらず、うねる長髪が顔を隠す。

 その容貌も表情は一切見えない。だらりと力なく下がった両手。その片手には剣が一つ。

 遥か頭上で輝く満月が光を伸ばし、その者が持つ剣を輝かせる。

 けぶるような不思議な輝きに既視感を覚えて、ククールは眉をひそめたが、すぐに相手を見た。

 

「……さっきの熱い視線は、あんたか? 生憎、俺には気色の悪い趣味はないんでね。早々にお引き取り願いたいんだが」

 

 皮肉に対して、返答はない。

 突然現れ、微動だにしない男の放つ異様さを感じながら、剣は下ろさない。

 おかしい、とククールは内心で呟く。

 目の前にいる男は確かに異様な気配を漂わせているが、それは負に染まった魔物や、かつて対面した仇でもあった道化師や暗黒神が放つ禍々しさなどが一向に感じられない。

 暗黒神の手先である生き残りが仇を取りにでも来たかと最初は思ったが、自身の勘が違うと答える。

 大分歪んではいるが、男から発されるものは禍々しさとは正反対。

 

「あんたは、何者だ」

 

 やはり、返答はない。

 だから、ククールはそのまま言葉を続けた。

 

「……あんたは、人間じゃないな」

「お前から、匂いがする――」

 

 眼前にうねる髪が大きく広がった。その隙間から、昏い眼差しが片方覗いている。

 距離を詰められたと驚く間もなく、そして一切の躊躇も感じられずにククールの腕は――、

 

「……なんでぇ。誰かと思ったら、ラバでねえでげすか!」

 

 意識を昨夜へと飛ばしていたククールを我に返らせたのは、すぐ横から聞こえた間の抜けた声だった。

 持っていた武器である斧を軽々と肩に担いで、相好を崩したヤンガスが前に出ると、目の前にいる男の放つ異様さに気付いていないのか、気軽に近寄る。

 止める間もなく近寄ったヤンガスはこちらを振り返ると、にっかりと歯を見せて、親指で後ろの男を指差した。

 

「安心してくだせえ。こいつはラバっていいやして、あっしの飲み友達でげす」

 

 ククールは目を大きく見開き、地面を蹴った。

 安心させるように言葉を続けるヤンガスの後ろで、歪んだ笑みがますます広がるのと、男の持っていた剣が鈍い光を放ちながら動くのが見えたからだ。

 横薙ぎの一閃がヤンガスの首を裂き、胴体から切り離す。

 そう思われたが、その前に彼は、地面に突然出現した氷に足を滑らせて、顔面から地面へと盛大に転び、同時に男へ向かって氷の刃が二つ、真っ直ぐに飛んだ。男は一つを剣で弾き、もう一つは身を反らして避けると、こちらへと走り出す。

 ククールは向かい合うように大きく踏み込んで、腹を狙う。それは剣で易々と塞がれ、舌打ちをして、青白い火花を散らしながら、相手と二度切り結ぶ。

 一つ、一つの攻撃が重い。手首で押すように互いの剣で押し合いながら、唇を噛みしめる。

 ここで、昨晩には拝めることのできなかった顔を見ることが出来た。その顔に瓜二つの顔を思い出して、ククールの目が細まる。

 

「お前は誰だ。答えろ」

 

 男の唇は吊り上げて、こちらを真っ直ぐに見ている。

 否、男は最初からククールを見ていない。彼を通り抜けて、ぽっかりと空いた眼窩の片目を晒したまま、ただ一人だけを見ている。

 それに気付いたと同時に、背後から魔力がうごめくのを感じた。ククールは力を込めて、相手の剣を振り払うと、姿勢を低くして、横へ飛んだ。

 瞬間、耳を塞ぎたくなるような甲高い音と共に男の両手と両足が氷に覆われる。

 

「捕まえたわよ!」

 

 荒い息を吐いて、両手を突きだしたままのゼシカが叫ぶ。

 

「さあ、目的を話しなさい。でないと、全身を氷漬けにするわよ」

 

 これが脅しではないというように彼女は氷への魔力を途切らせることはない。徐々に氷が腕や脚へと、覆い始めている。

 ククールもまた、その背に油断なく剣を突きつけようとして、目を疑った。

 男の後ろ姿が奇妙に歪んで見えて、違う姿と重なったように思えた。

 重さに耐えかねたのか、その手から得物が重い音を立てて、地面へと落ちた。剣とは違う広く大きな刃。両断する事に長けた大きな斧。

 それを認識した次の瞬間、男の姿は、見慣れた者の姿と成り替わる。

 なめおろしたままのような毛皮の服を着て、凍りついた両手両足に痛みを訴えるように呻く声は聞き慣れた声。

 

「ヤンガス!?」

 

 ゼシカの氷に囚われたのは、男ではなく、仲間だった。



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49話

「今すぐ、その氷を解け!」

 

 何が起こったのかを考えるよりも先に飛び出した言葉に、ククール自身が驚く。

 だが、自身の言葉が真実を語っているのだと、何故だか強く感じた。

 苦しそうに呻き声を上げ続けるヤンガスの背中に向けようとしていた細剣を下ろして、再び叫ぶ。

 

「早く解け! そいつは、ヤンガスだ!」

「何を言っているの? 解けば、逃げるに決まっているでしょう」

 

 理解不能といった風情で、両手を突きだしたままのゼシカが眉をひそめる。魔力は変わらず氷に注いでいるようで、すでに氷はヤンガスの肩と腹まで覆っていた。

 ククールには、目の前にいるのがヤンガスだと分かったのに、彼女は捕らえているヤンガスを男だと疑っていない。

 言い分が正しいのは、自分かゼシカか。それでも、今止めないと大変な事になるという事だけは理解できた。

 

「いいから、氷を早く解け!」

 

 焦燥感に駆られて声を荒げる。それがゼシカには逆効果だというのが分かりきっていたが、言葉を選ぶ余裕はない。「俺を信じろ」などという言葉も口に出せなかった。

 

「早くしろ!」

「だから、何を」

「ご令嬢。わしの眼にもそこにいるのは、あなたの仲間と映っている。惑わされてはいかん」

 

 口を挟んだのは、いまだに意識を失う情報屋の側に立っている老人だ。

 氷像となりつつあるヤンガスを見比べて困惑するゼシカに、老人はひとつ頷いた。

 

「ならば……。そら、霧を晴らしてやろう」

 

 持っていた杖で宙をなぞる。まるで小さな風が起きたように、ささやかに魔力が動いて、ゼシカの周囲を取り巻く。

 

「やめろ!」

 

 ククールが叫ぶのと、老人の背に忍び寄るようにして、男が剣を振り上げているのは同時。

 

「邪魔立てはしてくれるな」

 

 男の狙いなど分かりきっていたというのに、目の前の出来事に気を取られて、存在を彼方に押しやってしまっていた。

 老人が振り返り、盾のように杖を掲げた。

 まばゆい光を放った杖が見えない壁を創って主を護り、剣を弾くも、重い一撃を受け流しきれなかったのか、老人の体がふらつく。

 だが、男の攻撃の手は止まない。二度、三度と剣撃が重ねられていく内に、杖の輝きは瞬く間に失っていき、老人はとうとう膝を着いた。

 それでも、杖を男に向かって突きだし、一歩も引かずに情報屋を庇う姿があの夜に十字架をかざし、道化師の前に立った亡き人の姿と重なる。

 しかし、助けたくとも、目の前にいるゼシカと未だに囚われたヤンガスがいる為に、下手には動けない。

 先程、老人が声をかけたにもかかわらず、ゼシカの魔力は止まっていないのだ。

 

「さあ、目的を話しなさい。でないと、全身を氷漬けにするわよ」

「ゼシカ! やめろ!」

「さあ、目的を話しなさい。でないと、全身を氷漬けにするわよ」

 

 まるで人形のように言葉を繰り返すゼシカの目は、まるで何も見えていないかのように透明だ。

 どうすればいい。

 今、老人達を助ける為に動けば、ゼシカはヤンガスを完全に氷漬けにして殺すだろう。

 

「ク……クール……」

 

 氷に覆われてない残りの首を懸命に動かして振り向いたヤンガスと視線が交差する。

 それは一瞬。ククールは、仲間の横を抜けて、老人と情報屋の元へ駆ける。

 すると、見計らったかのように獣じみたおたけびが後方で轟き、闘気が一気に高まったかと思うと吹き上がった。

 次いで、風圧をともなう闘気に煽られて、小さな悲鳴が微かに聞こえた。

 思わず止まりかけた脚を叱咤し、力を込めて飛び上がると、おたけびによって動きを止めた男の頭上目がけて剣を振り下ろす。

 怯んだように見えた男は、甘くはなかった。

 剣が迫っているにもかかわらず、ゆらりと顔を上げた男が笑みを消し、初めてこちらを真っ直ぐに見返したのだ。

 

「邪魔立てはしてくれるな、と言った筈」

 

 剣先が空を切る。

 そのせいで、ぐらりと態勢が崩れて、男の手前で倒れ込んだ。すぐにククールは、倒れた際に落とした細剣を探す為に顔を上げる。

 剣はすぐ目の前にあった。剣を握ったまま、切り離された左腕と一緒に。

 剣先が空を切ったのではない。その前に、左腕が落ちたのだ。

 だが、そんな事を理解する間もない。

 起こった事が全て。ククールは喉が切れそうな程に絶叫した。



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50話

 痛いという稚雑な言葉すら超えた灼熱や喪失、衝撃が全身を襲い、気を抜けば意識が持っていかれそうな痛みを分散させるように無様にのたうち回る。その動きを追うように赤い血が吹き出るのが、滑稽だった。

 二度も昨晩と同じように利き腕が切り落とされるなど思いたくなかった。それでも、先程のヤンガスとの入れ替わりを見ていたのなら、もっと警戒するべきだったのだ。

 正気を疑うような事が立て続けに起こる事ばかりで、冷静になれていなかった。

 

「二度も腕を落とされる気分はどうだ。昨晩のような覇気がないのを見ると、痛みが染みついていたか」

 

 不思議な事に、男の声はするりと耳に入り込む。

 視界が赤く染まるほどに点滅し、それなのに額から吹きだす油汗が、ひどくぬるく感じた。

 

「痛みは、忘れられない。苦しみは、失せることはない。記憶は、褪せることはない。さて、お前は何度、いくつの夜を耐えられる?」

 

 肉を引き千切るような力で左肩を右手で押さえて視線だけを上げると、がらんどうの片目と憎悪に喰い尽されたような瞳が見ていた。

 昨晩とは、何かが違う。今まで真っ向から向かい合っていたというのに、初めてククールという存在を認識したかのようだ。

 

「はて、面妖な」

 

 場違いな程に落ち着いた老人の声に、男が人形めいた動きでそちらを向く。

 杖をゆるやかに振って、態勢を持ち直した老人が髭を撫でる。

 

「わしの眼には、おぬしが二つに視える」

 

 老人の口を封じるかのように剣がゆっくりと持ち上がった。

 

「……や、め……ろ」

 

 先程から繰り返される「やめろ」という意味を為さない言葉。

 口を開ければ、土が口に入る。それに構うことなく、男の足を掴む為に左腕を上げようとして、既に落とされた事を思い出す。

 その一瞬の間に、一閃が老人の体を斬り裂く。

 杖は微かに煌めきながら、泉の中へと沈み、小さな体は泉の側より遠く跳ね飛ばされると、そのまま動かなくなった。

 剣身に付いた血を払うように、もう一度横薙ぎに振るわれて、その血が嘘ではないというように呆然としたククールの頬を濡らす。

 そのまま、男の足は動き、伏したまま動かない情報屋の首元を掴み、己の目線より高く持ち上げた。

 意識のない情報屋はもちろん、されるがまま。

 それでも、気道が塞がれているせいで苦しいのか、青白い顔を歪めている。

 

「そうだ。お前達が、安らぎを見ることは叶わぬ。許されるのは、死出への旅のみ」

 

 その表情が嬉しいのか、男はくつりと喉を鳴らして再び嗤った。その横顔には、狂気よりも昏い感情が宿っている。

 

「――呪われろ」

 

 まるで歌うように紡がれる言の葉。

 

「呪われろ。呪われてしまえ。とこしえの苦しみを、お前達に贈ろう。それが、俺から奪った代償だ」

 

 だが、どんなに男の声がこの世のものではない程に美しくとも、情報屋へと向けられているのは呪いの言葉。

 

「どこだ」

 

 数珠のように紡がれた呪いの祝福も唐突に終わり、男の声音が硬くなる。

 

「ようやく見つけた【二魂を継ぎし者】。どこだ。どこにある? 答えよ」

 

 意識を失っている情報屋に対して、男は問い掛け続け、手に持っていた剣を逆手に持ち替えて添える。剣の先は、心臓の位置を指していた。

 

「さあ、心の臓の鼓動に刻まれた記憶よ。奏でよ」

 

 男が腕を引く。情報屋の左胸に剣が伸びる。

 

「やらせねえ!」

 

 間際、風のように飛んできた塊がククールを飛び越えて、阻止するように男に体当たりをする。

 それを予想していたのか、男は塊のように見えたヤンガスと入れ替わるように体をひねって避ける。

 そして、その勢いを利用するように脚を上げると、無防備な背中をまるで踏み台のように地面に踏みつけた。めきりと地面にのめり込むようにヤンガスの体が沈む。

 

「がっあ゛っ……!」

 

 ヤンガスの口から唾液が混じった血が飛ぶ。

 それでも、まだもがこうとする彼の右肘に剣が軽やかに、まるで吸い込まれるように突き刺さる。

 

「似合いの格好だな、人間よ」

 

 歌うように男はせせら笑うと、大して力を込めずに、更に剣を地面へと押し込んだ。

 その場に右腕を縫い付けられたヤンガスは大きく口を開けたが、声を上げるのを耐えるように歯を食いしばった。

 ヤンガスの様子に興味が湧いたのか、それともただの気まぐれなのか、男は剣の柄をそっと叩いた。

 

「貴様らも、この剣の持ち主だった犬と同類か?」

「持ち主……?」

 

 ククールは動けないまま、僅かに地中から覗く冷たい刀身を視線でなぞる。

 痛みは薄れた訳ではない。現実的ではない二度目の痛みがククールの限界を超えて、逆にそれがどこか遠く、他人事のように思えた。

 

「この剣の持ち主を、貴様らは誰よりも知っているだろう?」

 

 恐ろしい位に優しげな声で頭に浮かんだのは、バンダナを巻いた人の良い笑みを浮かべた青年の姿。最後に見たのは、姫君と手を取り、歩いていく姿。

 ずっと既視感を感じていた。見紛う事はないオリハルコンで出来たこの世界で唯一の最強の剣。この世に一振りしかない筈のつるぎ。しかし、それはあのつるぎの糧となって、消えた筈だったのに何故。

 

「兄貴をどうしやがった!」

 

 思考を引き戻したのは、怒りに満ちた声。

 自分と同じように青年を思い浮かべたらしいヤンガスの右腕が震えて、ぎちぎちと嫌な音を立てながら、傷口が拡がるのもいとわずに動く。圧倒的不利な状況だというのに彼は吠えた。

 

「ラバ! いくら、冗談でも許さねえ! さあ、言いやがれ!」

 

 剣に縫い付けられても尚、消えない闘志が、怒りに煽られて更に苛烈に燃え上がる。

 それを身近に感じても、男に怖れはない。取るに足らない抵抗だと思っているのか、その眼差しに焦りは見えなかった。

 

「この剣が、ここに在る。それが何よりの答え」

「嘘をつくんじゃねえ! 兄貴が……」

「言いなさい」

 

 ヤンガスの怒りを引き継ぐように玲瓏たる声が響く。

 急に息苦しくなる。

 それは幻ではない。炎の渦に飲まれたかのような錯覚にさえ陥る位に、魔力が渦巻いて熱を発し、空気が荒んでいた。

 

「エイトに何をしたの」

 

 炎のような怒りを抑えた声音は、まるで爆発する寸前のように奇妙な程に静かだった。

 



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51話

 息苦しい程に、空気が炎のような熱を孕んでいる。

 その原因は、ククールの後ろから少し離れた場所にいる娘だ。

 彼女は、先程まで正気を失っていたと思えない凛とした声音で、男に命令する。

 

「今すぐ言いなさい」

「二度も言わねば、理解できないのか」

「言えと、言っているのよ」

 

 声音は静かなままなのに、彼女の高まる感情に比例して、纏う魔力の密度が大きくなっていくのが振り返らずともククールには分かった。

 それでも、男は動じない。いまだに情報屋の首の根を掴んだまま、わざとらしい程にゆっくりと口を開いた。

 

「足元に転がる様は、惨めなものだった事だけは教えてやろう」

 

 その言葉が、炎を焔へと転じさせるには充分だった。

 熱風が波打つ波紋のように巻き起こる。

 今まで以上の怒りを感じ、ククールは霞がかった思考を振り払う。痛みさえも押し退けて、肩越しになんとか振り向いた。

 杖を抱き込むように腕を交差させて、集中するように目を閉じているゼシカの周りが陽炎のように揺らいでいる。それは、徐々に範囲を広げていき、まるで生き物のように蠢いた。

 今にも爆発しそうな状態を、彼女は更に極限まで高めようとしているのが分かった。

 それは、今の彼女にとって危険極まりない行為。

 

「それ以上……、その体で呪文を使うな! 命を削るぞ!」

 

 今のゼシカに魔力が殆ど残っていないのだと気づいたのは、ここに向かう際のあの時。

 だが、魔力が残っていないというのに、彼女は仲間一人の為に怒り、魔力の代わりに命をも使おうとしている。

 ゼシカは、答えない。それ程に集中しないと、残り少ない魔力を高める事が出来ないのだと分かった。

 いよいよ、陽炎が伸び上がるように大きく揺らいだ瞬間、彼女が動いた。

 それを見越していた男もまたヤンガスの肘から易々と剣を引き抜き、もう片方の手には情報屋の首を掴んだまま、立ち向かう為に前へ出る。

 

「ヤンガス! 分けてもらった魔力を使わせてもらうわ!」

 

 小柄な体がしなやかに、遥か高く宙に舞う。交差していた腕を振り解くと、杖を真下にいる男に向けた。

 

『邪よ 蛇よ 赤を纏え とぐろを巻け 牙を研げ 鮮烈を彩れ 炎を象れ 灼熱を纏い、その焔を起こせ 穢れをその赤で払いたまえ ベギラゴン』

 

 唱えた呪文が発動し、大蛇を象った大きな焔が彼女の意に沿って、男へと牙を剥いた。

 しかし、その大蛇に込められた魔力は薄っぺらいとククールは気付く。やはり、彼女の魔力は圧倒的に足りないのだ。

 見てくれだけの大蛇は、男に首の根をつかまれたままの情報屋ごと丸呑みしようと、あぎとを広げるも、男が静かに笑った。

 どうやらククールと同じように大蛇が張りぼてだと気付いたらしい。

 片腕だけで、辺りを剣で払う。その剣圧は、彼女の渾身であったであろう焔を一瞬であっという間に吹き消した。

 その剣圧と吹き飛ばされた魔力の反動に煽られて、小柄な体は更に高く宙へと飛ばされた。

 それに追い打ちをかけるかのように男も情報屋を掴んだまま、彼女へと向かって飛んで、剣を下から上へと持ち上げるように斬りつけた。

 その剣撃を、ゼシカは頭をよじってなんとか躱すも、躱しきれなかったのか二つに括っていた髪が大きく広がった。

 動こうにも、ククールの体では足手まといだ。抉りそうになるほどに、左肩を掴む手に力がこもっていく。

 自分の不甲斐なさに怒りが増していく間にも、男のさらなる剣の一撃。と見せかけて、鋭い蹴りが彼女の肩に当たってしまう。とうとう彼女の体が地面へ降下していった。

 こんな状況にそぐわない獣が唸るような声に、ククールは再び視線を隣へと戻す。

 すると、知らない間にヤンガスが傷だらけの体を引きずりながら起こして、左手で懐を探ると、一本の短剣を引き抜く。

 

「大人しくしてもらいやすぜ! ラバ!」

 

 不穏な気配を感じたのか、男が僅かにヤンガスの方を振り返る。

 同時にヤンガスが引き抜いた短剣を投げる。刀身が氷のように透き通ったそれは男から逸れて、受け身をとれないまま、地面へと落ちるゼシカへと向かった。

 

「ゼシカ!」

 

 ククールの体が、意識を越えて、彼女を守ろうと腕を支えに勝手に立ち上がる。

 すると、ゼシカは不敵に笑った。

 華奢な体をよじり、呻るような速さで杖先を、短剣にぶつけたのだ。

 魔力を持った短剣と杖の共鳴によって眩い光が目を強く灼き、魔力によって緻密に編み込まれた白い霧がぶわりと発生する。霧は、あっという間に辺りを包み込んだ。

 

「その人を離してもらうわ」

 

 全方位から響く静かな声音の後、突如として地が揺らぐような焔の柱が、霧を裂くように生まれた。

 まだ終わっていない。終わらせないという彼女の意に沿って、今度は霧が蠢いて、魔力に満ちた風が大きく吹き荒れる。先程の見かけだけの薄っぺらい焔蛇とは違った濃厚な魔力だった。

 霧の間から吐き出されるようにして、意識を失ったままの情報屋の体が落ちてくる。

 

「旦那!」

 

 地面にぶつかる前に、ヤンガスがぎりぎりのところで受け止めて倒れ込むように転がる。

 だが、その間も彼女の猛攻は止んでいなかった。

 そして、焔もまだ消えてはいなかった。

 真っ白な霧が焔の元へと集い始め、根元から覆うように集束していく瞬間。

 

『凍りつけ 息吹と共に 止まれ 刻と共に ヒャダルコ』

 

 囁くようで、力強い言の葉が呪文を完成させるのをククールは確かに聞いた。

 つんざくような音と共に、霧と焔の柱が一瞬にして、別のものへと成り代わる。

 先程の氷とは異質な程に、巨大な氷柱が形成されて、その氷柱の中に男が閉じ込められていた。

 そして、その氷の根元に立つのは、腰まで長い赤みがかかった髪をなびかせた背中だった。



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52話

塔のように天へ突きだす氷の白い冷気が、辺りの気温を奪いながら漂う。

 いまだに凛と佇み続ける背中が、ふいに斜めに揺れた。

 完全に立ち上がったククールは、彼女の元へ駆けて、その肩が崩れ落ちる前に包み込むように支える事が出来た。

 そして、触れた事によって、ゼシカの体に一切の魔力が残っていない事に息を呑む。

 やはり、魔力はベギラゴンを唱えた際に、殆ど空っぽになったのだ。

 推測すると、僅かに残った魔力を杖に乗せ、ヤンガスが投げた【氷のやいば】と共鳴させて、大気に漂う自然が持つ魔力を霧で集束させ、無理矢理、自分の力に変換したのだ。

 彼女だから出来る力技であり、同時にどれほど危険な事なのか。

 ゼシカが体を起こそうと身じろぎした。

「無理をするな!」

「……やっぱり、駄目だったみたい」

 ククールの言葉を無視して、彼女はまぶたを震わせた。

 何が、と問いかけようとすると、ゼシカの右手に握られたままの杖が震えたかと思うと、元の形も分からない程に粉々に砕ける。

 思わず、顔を跳ね上げる。

 男が閉じ込められたままの氷柱に、蜘蛛の巣状にひびが入った。ゆっくりではあるが、まるで内側から破壊するかのように男の周りから氷が割れていく。

 これ程の魔力を込めても、男を捕らえることは出来ない。

 出来ないのだ。

 後ろの方で、ヤンガスもまた体勢を整える気配がした。

 しかし、全員が満身創痍だ。動ける者は誰もいない。

 

「聞いて」

 

 いまだに焔を残した声音が、ククールの意識を釘付けにする。

 肩を支えたまま、ゼシカを見下ろすと、声音と同じように強い瞳が射抜いた。

 決して揺るがない眼差しに、ククールの息が止まる。

 

「今、ここは現実の世界じゃないわ。結界に阻まれた異界よ」

 

 彼女は続ける。

 魔力を込めた霧を広範囲に漂わせた際に、ある距離で霧を弾かれ、阻まれたのだという。

 指摘されて、ククールは今まで感じていた違和感をようやく思い出す。

 ずっと肌で感じていた。どこか隔離されたような感覚。昨晩も今の状況も、自分たち以外の音が聞こえなくなったのだ。

 

「いくら、あいつを捕らえても傷つけても意味がないって事か」

 

 つまり、厄介な結界を破壊しない限り、状況を打破できない。

 ゼシカの渾身の魔法でも破壊できなかったのだ。動ける者がいない状態で、結界を壊す事が出来る可能性はないに等しい。

 

「ああ、くそ。なんだってんだよ……」

「……あんたは、そればかりね」

 

 呆れたような、冷めたような眼差しでゼシカが嘆息する。

 いまも尚、氷の割れる音が響く。まるで、少しずつ恐怖を煽るような不穏な音。

 八つ当たりだと分かっていながらも、ククールは声を荒げる。

 

「当たり前だろう! 誰も動けない状況でやってられるか!」

「勝手に決めつけないで。私は、まだ諦めてないわ」

 

 億劫そうにゼシカは首を巡らせると、泉より奥に倒れ伏したままの老人と、情報屋を抱えたままのヤンガスを見た。

 

「ヤンガス。情報屋さんとおじいさんを抱えて、出来るだけ下がってちょうだい」

「分かりやした」

「何をする気だ」

「決まっているでしょう」

 

 強い瞳が、大きく煌めく。

 

「あいつを倒す事は無理でも、この場をしりぞかせる事は無理とは決まってない」

「そんな事……」

 

 不可能、だと言いかける。

 どう考えても、ゼシカの体では魔法を行使することは出来ない。

 ククールの表情で読み取ったのだろう。

 

「不可能じゃないわ。あんたにも手伝ってもらう」

「無理だ。……利き腕がない状態で、どうやってお前を守るんだ?」

 

 思い出したように、灼熱の痛みが走る。肩の先から途切れた左腕。

 息が急に上がり、ぐらぐらと視界が揺れて、曇っていく。

 そうだった。男に、自分の腕を斬り落とされたのだ。もう戦う術などない。

 このまま、何も守ることなく、死ぬのだ。

 

「誰も、守ってほしいなんて言ってない。私は、守られる存在じゃないわ」

 

 今までの淡々とした声音から一転して、ゼシカが初めて声を上げた。

 

「私は……、共に肩を並べて、一緒に戦う仲間よ!」

 

 絶望に死にかけたククールの心に響くような激昂だった。

 視界が再び晴れていく。ククールの霧を晴らすのは、赤みがかった瞳から発される眼光。

 

「私もヤンガスもまだ諦めてない。あんたも諦めないで。……しっかりと見なさい! 私達、仲間を!」

 

 細い手が、失った腕の方へと伸ばす。まるで、ここに在るというように力強く掴んだ。

 

「守るというのなら、まずは剣を握りなさい! あんたの剣は、まだ落ちてない!」

 

 痛みではない焔に似た熱が、小さな手を通じて、ククールの体の中を伝っていく。

 瞬間。頭の奥で、何かが弾けるような音が聞こえた。

 掴まれた部分から始まり、指先が在るのを感じた。次いで、手がぴくりと動く。失われた筈の感覚が戻っていく。

 それが逆に恐ろしくて、【左手】を探るように動かして、彼女の手を握る。

 ゼシカが目尻を下げながら笑って、握り返してくれた。

 

「ほら、私の言う通りでしょう?」

 

 利き腕は始めから斬り落とされてなどいなかった。

 それはパルミドの宿で確かめた時と同じ。

 方法は分からないが、男によって惑わされたのだと直感的に悟った。

 自身の腕をしっかりと眺める暇もなく、氷が大きく割れる音が響き、ゼシカと共に顔を上げて、互いを支え合うように立ち上がる。

 いよいよというように、ひびが氷柱隅々まで伸びていた。

 その氷の牢獄越しに向けられる異質な視線。

 

「ククール!」

 

 ヤンガスの太い声に振り返ると、鈍い光を放ちながら、それは弧を描き、伸ばした右手に吸いつくように収まる。

 先程、落とされて、手放してしまったククールの細剣だった。

 

「今度は、離すんじゃないでげすよ!」

 

 傷ついた拳を振り上げて、ヤンガスが歯を剥きだして笑っていた。

 ゼシカの言う通りだ。

 彼女も、ヤンガスも諦めていない。互いに信頼しているから、こんな状況でも笑顔が浮かべる事ができるのだ。

 

「今から、私はあんたの魔力をぎりぎりまで吸い上げる」

 

 手を握ったまま、ゼシカは言った。

 

「即席のマホトラだから、上手く出来るか分からないけど。絶対にやってみせる。その後、その魔力を使って、結界にひびを入れるわ。多分、今の私が出来るのはそこまで。だから……」

 

――その後は、任せるわ。

 

 笑みが眩しい。

 ここまできても、その信頼を受け取る覚悟が定まらない。

 返事の代わりに、剣を持ったまま、ククールは己の胸に手を当てた。

 

『緩めよ 祖より、刻まれた力よ 血から、生まれた力よ 抗うな阻むな 身を委ねよ ディバインスペル』

 

 うっすらとした光が体に染み渡る。

 これは、魔力や呪文への抵抗を圧倒的に下げる事で、術者の唱える呪文の威力が倍に跳ね上がる補助呪文。

 

「ありがとう」

 

 日向のような笑みはすぐに消えて、強い意志を用いて退けるという気迫をゼシカは纏い始めて、手を氷の方へ伸ばした。

 触れている彼女の体が僅かに熱を持ち始める。

 始まった。

 

「私を信じて。私も、私自身を信じているから」

 

 突きだされたままの小さな手に、躊躇いがちにククールは手を添える。

 

「俺は……」

 

 何を言えば良いのか迷うように口を開くと、それを遮ったのは強い声。

 

「ククール」

 

 再会して、初めて名を呼ばれた。

 揺るぎのない強さを湛えた瞳が、こちらを振り返る。彼女の赤みがかった両目に自分の情けない顔が映りこんだ。

 鋼のように硬く、大木のように揺るがず、かと思えば、水のようにしなやかで聖い。

 そんなゼシカが纏い、発する光に目がくらみそうになる。

 強い光だ。ぼやけた薄い月などよりもずっと強い。行き先を照らし出してほしいと思っていた焦がれた光。

 あの時、突き放し、傷つけた娘はもう何処にもいない。己の信じた道を進み、美しく成長した女性が目の前にいた。

 もう一度、口を開いた時には何も迷いがなくなっていた。

 

「信じている。俺が、お前の波長に合わせる。だから……」

「ええ、信じる。あなたを許し、信じるわ。ククール」

 

 力が、大気が彼女を中心として、渦を巻いていく。

 同時に――呪文の対抗力を削ぐ魔法をかけているとはいえ――己の魔力が急速に吸われていく感覚にククールは歯を食いしばって耐えた。

 本当にゼシカは、例え、賢者の血を引いてなかったとしても、紛れもない天才だ。初めて使うにも関わらず、無詠唱で魔力を吸う呪文マホトラと、それに並行して属性の違う別の呪文を唱えているのだから。

 それでも、時折よろめくように華奢な体が震える。ククールは足を踏ん張らせて、彼女の信頼を二度と裏切らないように支えた。

 ふつり、と吸われる感覚が止み、今度は添えた手に電撃のような痺れが走る。

 ゼシカの手を介して、己の魔力が塊となり、自分の身体が別のものに造り変えられて、彼女と一体化していくように混じる。

 痺れは、熱さと変わる。膨らんでいく魔力が最高潮に高まっていく。

 あとは、ただ一言だけ。魔力を解放する言の葉を乗せればいい。

 

「ゼシカ、お前に託す。俺の全てを」

「受け取ったわ。……さあ! 大穴をあけるわよ!」

 

 彼女の動きに合わせて、添えた手を持ち上げる。魔力が渦を巻いて塊となり、大きく発光した瞬間、彼女が唇を開いた。

 同時に、氷が完全に割れて、脱け出した男が剣を振り上げる。

 

『マダンテ』

 

 時が止まり、破壊が生まれて、男が一瞬で呑まれる。

 根を張った木々も地にしがみついていた土も大きく抉れて、宙へと巻き込まれ、一方的に、圧倒的に蹂躙される。すべてが彼女の前に回帰する。全てを無へと還す究極呪文。

 暴力的な光景がククールの目に刻まれながら、その時、周囲に張られた結界にひびが入っていくのをしっかりと肌で感じた。

 

「…………っ」

 

 吐息を一つこぼしたゼシカの体から一切の力が抜けて、こちらに寄り掛かる。

 咄嗟に、膝裏に手を入れて、右手だけで抱え上げる。

 覗きこめば、力を今度こそ使い果たし、意識を失ったゼシカが小さく寝息を立てている。

 綺麗になったと思っていたが、この寝顔はまだあどけなさが残っていた。それに安心したと同時に、その額にそっと口づける。

 

「感謝する、ゼシカ」

 

 彼女のお陰で、少しだけ見えた光に笑みが浮かんだ。

 それを輝かせるか、吹き消させるかは、ククールの役目だ。

 これ以上、仲間達に無様な姿は晒す事はできない。

 先程まで、彼女の腕に触れていた左手で剣を握り締め、大きく集中すると、剣を地中に突き刺して、自身の体に残されたありったけの魔力を注ぎ込む。

 複雑な魔方陣が剣を中心に描かれて、ずるりと地を這うように、いかずちが漏れ出し始める。

 魔力の残っていない今の身体には、この技は負荷が大きい。

 

「ぐぅっ……!」

 

 唇に歯を突き立てて、痛みで自分を保った。

 少しでも怯めば、隙を見せれば、地獄にいるであろう悪魔達に魔方陣を通して、魂ごと持っていかれるのを、全身全霊の意思を寄せ集めて防ぐ。

 そして、魔方陣に力が満ちて、大きく輝いた瞬間、地獄のいかずちを、結界のひびへと解き放った。

 視界がいかずちのまばゆさに真っ白になりながらも、目を凝らす。

 いかずちの触手が、ひびを無理矢理抉じ開けていくのを見届けたククールは、ゼシカを抱き込んだまま、地面に倒れ伏す。

 意識が落ちる間際、ククールのジゴスパークが結界を覆うと同時に、結界の外側からも強い魔力が重なったような気がした。

 そして、今度こそ完全に結界が壊された。



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53話

 

 震える身体。流れる血。それ以上に精神を蝕む痛みと喪失感。

 すぐに昨晩の夢を見ているのだと、夢の中でククールは自覚することが出来た。

 左肩を押さえて、足元に広がる赤い海の中で膝を着く。

 血の海に踏み入れる靴先が、落とした剣を踏みつける。

 痛みを少しでも殺す為に歯軋りをしながら、顔を上げた。

 息が荒くなる。今すぐのた打ち回って、みっともなく叫びたい。

 だが、それを防いだのは、すくいあげるようにして顎に伸ばされた白光の剣先と、昏い視線だった。

 長髪に覆い隠されて顔は見えないというのに、こちらを探るようでいて、素通りするような視線を引き剥がせない。

 少しでも気を抜けば、命を躊躇うことなく刈り取られるだろう。

 永遠ともいえる時間が過ぎて、脂汗が額から伝い、目に入る。

 瞬きすら許されない間も、ククールは男を見据えていた。

 こんな場所で死ぬ気はないと、頭の中で繰り返し、激痛を払うように息を細く吐いた。

 死が迫っているというのに、突然襲われた事による憤りのせいなのか、可笑しな事に頭は冷静だった。

 今考えると、この時は極限の状態だったのかもしれない。

 少しの隙でいい。目の前にいる襲来者から離れる手立てを考えていると、ぐらりとめまいに襲われた。

 思った以上に出血が激しいようだ。回復しようにも、相手はその隙すら与えてくれないだろう。

 男がゆらりと動く。

 相も変わらず、顔は見えない。こちらを見下ろしたまま、剣を振り上げる動作が妙に遅く見えた。

 せめての抵抗だと意志を貫くように青い瞳に強い光を宿して、目の前の敵を睨みつける。

 決して絶望に染まることのないククールの目を見た男は、振り上げた姿勢のまま、息を呑んで固まった。

 

「……あおい、ひとみ……」

 

 今まで威圧的だった雰囲気が、急にしぼんだように小さくなる。

 

「青い瞳。ああ、そうだ。――――も、まるで空のような瞳をしていた……。早く探さなくては。きっとまた泣いている。俺が見つけなければ……。また隠れて泣いているだろう。誰にも譲らない。俺の巫女だ」

 

 狂ったように呟かれていく言葉の羅列の中で引っ掛かった言葉をククールは拾う。

 

「巫女……?」

 

 だが、答えは返ってくるはずはない。

 唐突に空気が目に見えるように揺らいだ。正しくは、遠くで大いなる魔力が動き、空を突き刺すように放たれたのだ。

 脳裏に誰かの姿が浮かびかける。何処かで見た事のある少女に重なるようにして、古代の衣装を纏った女性がこちらを見ているように思えた。その側に控えるのは、やはり何処かで見慣れた青年の姿。

 しかし、ククールが形をはっきりと掴む前に脳裏から掻き消え、空に浮かぶ満月に目を奪われる。

 今までもそこに在った筈なのに、ククールはやけに明るい銀色の円の存在をはっきりと認識する。

 すると、先程の比ではない全身が揺れるような目眩に襲われる。

 ぐらぐらと閉ざされていく視界の中で、月を背にする男の姿が歪んでいるように見えて、意識がぷつりと途絶えたのだ。

 しかし、すぐに誰かがククールの首の後ろに手を入れて、体を起こしてくれる感触に、再び意識が浮かび上がる。

 今度こそ、夢から現実へと引き上げられるのだと分かった。

 まぶたを押し上げて、視界に入った顔に微笑んだ。

 

「……お前の顔は、俺の繊細な心臓に悪い……」

「あっしは、その減らず口に心から感服いたしやす」

 

 口元をぴくぴくとひきつらせたヤンガスの体はゼシカの氷に閉じ込められた際にできた凍傷だらけだ。

 だが、肘には刺された傷はない。

 それでも、誰よりも体に傷を負っているというのに彼は、傷の様子を見て黙り込んだククールに向かって明るく笑いかけてくる。

 

「お、心配してくれてるんでげすか」

「うっせえ」

「素直じゃないでげすなあ」

 

 からかうような声を無視し、ククールは気だるげに半身を起こしたまま、視線を彷徨わせる。

 不思議な泉の水面が、けぶるように輝いている。

 その静かな光景は、ずっと緊張感を抱えていたククールを安心させるように迎えてくれた。

 たわんだような空気も、異質な存在や気配もない。

 それでも落ち着かないまま、視線を配った先で、華奢な背中を見つけてようやく安堵した。

 ゼシカは流したままの髪を風に遊ばせながら、横になったままの情報屋を守るように座っていた。

 その横顔に疲れが見える。それは、この場にいる全員がそうだろう。

 

「目が覚めたようで安心した」

 

 声をかけられて視線を横へと移すと、あの時斬りつけられた老人が佇んでいた。

 上から下まで眺めても、その細い体の何処にも怪我はない。

 老人が、長い髭に隠れた奥で喉を鳴らすように笑った。

 

「惑わされたような顔をしているな」

「……ばっさりと斬られていたような気がするんだが」

「その通り。わしは斬られた。あの痛みも本物だった。おぬしも感じただろう」

「……あぁ」

 

 あの衝撃と痛みを思い出して、口の中に苦味が広がる。先程の夢を見たせいか、何度も斬られたような感触に左腕をさする。

 老人の言う通り、あの痛みは本物だった。二度も経験したククールだからこそ断言できる。

 

「あれは、現実だった」

 

 囁くように言うと、老人は長い髭をそよがせて同意した。

 

「だが、同時に幻でもある」

 

 謎かけのように唱えて老人は泉に視線をやった。

 その中に沈むのは、一振りの杖。男に斬られた際に手放したものだ。

 ククールが拾おうかと、尋ねると老人は首を横に振った。

 

「構わん。それよりも、あの御仁を一刻も早く救わねばならんのだろう。その身に呪いを刻んだ元凶は退いたようだが、油断はできまい」

「ククール、お願い」

 

 ゼシカが疲れの滲んだ声で言った。

 それにしっかりと頷いて、彼女と入れ替わるように情報屋の側に跪くと、背後からの仲間達の視線を感じながら、手を伸ばした。

 ありったけの魔力は剣に注ぎ込んだが、この呪文を使うにはほんの少しあればじゅうぶんだ。

 

『大いなる力の源のもとに命ずる 揺らえたまえ 蝕むものよ ほどけよ 蝕む者よ キアリク』

 

 ククールの手を通じて、柔らかい光が情報屋の体に沈んだかと思うと、内側にある邪悪なものを砕くかのように弾ける。

 情報屋の体が跳ねて、呼吸の仕方を思い出したかのように大きく息をした。

 

「旦那! 旦那! あっしが分かりやすか!?」

 

 ククールの肩から覗き込むようにヤンガスが大声を上げる。

 その声に励まされたのか、情報屋がぎこちなく首を動かし、陸に上がった魚のように口を開閉した。

 衰弱したせいで声が出ないのか。それとも、男に首の根を締め続けられていた影響なのか、言葉にならずに空気を漏らすのみ。

 それでも、ようやく意識を取り戻した情報屋にヤンガスがむせび泣く。

 

「よ、良かった! 旦那! もう安心していいんでげすからね!」

 

 耳元でがなり立てられ続けて、ククールは眉間に皺を刻みながら、肘でヤンガスの騒がしい顔を押しのけた。

 

「おい、ヤンガス。お前の顔や声は、繊細な人間や病人には辛いんだよ。うっとうしい。離れろ」

「だまらっしゃい!」

 

 言い合いに、情報屋が苦笑いを浮かべた。

 その間に、そんな男達の茶番を無視したゼシカが情報屋の体を優しく起こしてやり、老人がその口元に葉っぱで汲んだ泉の水をあてがった。

 

「よく頑張られた。泉は、あなたの呪いを解き、加護を与えるだろう」

 

 老人の厳かで、優しい声に情報屋の目から涙が一筋溢れる。返事の代わりに、情報屋は乾いてひび割れた唇を開き、水を一口飲み込む。

 その様子をククール達は一歩離れて、固唾を飲んで見守った。

 水が喉を通った音がやけに大きく響いた後、二年前のトロデーンの姫の呪いを一時とはいえ解いた不思議な泉の力が、情報屋から奔流のように溢れる。

 水面と同じように七色に輝く光の粒が踊るように漂う幻想的な光景は、きっと忘れる事は出来ないだろう。

 その位に美しい光景だった。

 幻想的な光はすぐに収まり、情報屋は同じように座り込んでいた。

 

「……体が、軽い……」

 

 紫がかった青い瞳を見開き、しわがれた声で囁く。

 鼓動を確かめるように皮と骨だけの両手を胸に当てて、身を震わせた後、流れていく涙を隠すように両手で覆った。

 

「これでようやく……」

 

 後は言葉として聴き取ることは出来なかった。

 それでも、アスカンタ王族の念願だったであろう解呪に手が届いた事に感極まったのか、すすり泣くような声が聞こえた。

 その泣き声は、身に染まっていた呪いから解放されたという心からの安心感と、まるで友を惜しむかのような寂しさを湛えていた。

 いつもの調子ではない情報屋に、ククールはどう接しようかと迷って、結局いつものような皮肉が口から漏れた。

 

「あんたも泣くんだな」

 

 非難するような仲間達の視線が後ろから向けられるが、無視をした。

 ふいに、晴れた笑みを浮かべる若き王の姿と、目の前にいる骸骨のような男の姿が重なる。

 

「……あんたを待っている弟がいるなら、会いに行ってやれ。しばらく休んでからな。それじゃあ、四つん這いにしか歩けないだろう」

「そうですね……。君らしい励ましに感謝しますよ。そうだ。お礼に握手でもしますか」

「礼は情報でいい。いい加減、ましな情報を寄越せ」

「おや、手厳しい」

 

 眼鏡のない眉間を押さえた後、情報屋は笑いながら、こちらに手を伸ばしてきた。

 一瞬だった。

 骨と皮しかないというのに、力だけは残っていたようだった。

 強く胸を押されて、ククールは仰向けに倒されていく間際、のけ反るように宙を視線で辿った。

 自分の真後ろから突き出された白光の剣先が、真っ直ぐにククールを押し倒した人の薄い胸へと伸び、軽やかに背中から突き抜けた。

 情報屋の体がびくりと痙攣して、ククールに重なるように倒れ込んでくる。

 しかし、その前に突き刺さった剣が引き抜かれて、血飛沫がククールの視界を赤く染める。

 仲間達の呻く声の間を縫うように、砂利を踏む音が耳に忍んでくる。

 

「その在処を奏でろ」

 

 轟くような美しい声を、ククールは絶望的な気持ちで聞いた。

 

――雨の音が、聴こえる。

 

 あの日の葬儀と同じ鬱陶しい雨音。それに混じる血の臭い。

 立ち尽くしたククールの側で聞こえるのは、人目もはばからないヤンガスの吠えるような慟哭。

 濡れそぼった髪をそのままにして、俯いたゼシカの細い肩が震えている。

 まるで遠くから眺めているかのように、ククールはその場に立ち続ける。

 目を閉じて横たわる情報屋の顔は、どこか晴れ晴れとしていて、眠っているようだ。

 それでも、周囲に広がっている血の海が現実を知らしめる。

 地面に染み込んだ赤を洗い流すように、雨は冷たく降り続けた。

 



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【番外編】

 

 あの時まで、世界には明るさが満ちていた。

 青い空と海に手を伸ばす。

 

「――――よ。見るがいい。お前が将来、守っていく国と民の姿を」

 

 父の大きな手が、肩に置かれる。

 はい、と力強く返事をすると、そばにいた母が細腕に抱えた産まれたばかりの弟をあやしながら、話しかけてくる。

 

「――――。あなたが守っていく全ては、あなたを護るでしょう。だから、パヴァンと力を合わせるのですよ」

 

 弟が産まれた数日後、城で一番見晴らしのいい両親の部屋の外で、家族と共に世界を眺めていた。

 あの頃までは見下ろす全てが大きく、力強く思えた。広く、雄大な国の姿に誇らしさが幼い体を満たしていく。

 疑っていなかった。いつまでもこの日々が続き、成長し、国を守り、国に護られていくのだと。

 

「父上、母上。私は誓います。このアスカンタをずっと守ることを」

 

 もう一度、世界へと――。

 

***

 

「申し訳ありません。わたしの力が足りなかった為に、殿下をお救いする事は叶いませんでした」

 

 窓という窓のカーテンを閉めきった薄暗い自室。

 カーテンの隙間から室内へ伸びる光は、明るい。城の上を青空が覆っているのだろう。

 寝台から起き上がった自分に、側に立つ老人が皺だらけの顔を苦痛に歪めて、謝罪してきた。

 いいえ、と力なく答える。

 全身が重い。体の節々が氷のように冷えきっている。まるで自分の体でなくなってしまったかのようだった。

 それは間違いではない。この命も、身体も。アスカンタ国が抱え続けている呪いのものになってしまった。

 どこか投げやりになりながらも、薄く笑む。

 

「あなたは、すぐに死を迎える筈だった私の呪いを抑え込んでくれました。本来ならばなかった刻限を手に入れることが出来たんです。ですから、ご自身を責めないで下さい。オディロ様」

 

 法衣を纏ったマイエラ修道院の長であるオディロに礼を言う。

 王である父が、必死になって我が子の呪いを解こうと、世界中の僧侶や修道女を募った。結局、解く事は叶わなかったが、唯一、目の前にいる老人だけが呪いを抑え込む事が出来た。

 それだけでも、あれ程絶望にいたぶられ、喰い尽されてきた家族がどんなに喜んでいる事か。

 老人は首を横にゆるく振る。

 

「……ですが、わたしが出来たのは呪いの進行を遅くしただけです。代わりに殿下は魔力を失ってしまった」

 

 まるで自分が呪いを受けているかのように悲しげに話す院長は、本当に優しい老人なのだろう。聞けば、その修道院では身寄りのいない子供達を受け入れているのだという。

 

「魔力など大したことではありません。代償を払う事で、猶予が出来るなら……、私はきっとどんなものでも捧げたでしょう」

「殿下……」

 

 咎めるような響きに、自嘲する。

 

「分かっています。そんな事をしてまで、生きようとは思っていません。民を守る王族が、民に害をなす事はしてはいけない。ただ、私はもう、父の後を継ぐことは出来ないでしょう。……だから、この国を出ようと思います」

 

 老人の目が驚いたように見開かれる。

 

「どうなさるつもりですか」

「この呪いを解く為の方法を探そうと思います」

 

 きっと両親たちは、余生を静かに過ごしてくれというだろう。

 けれども、オディロが繋いでくれた猶予をないがしろにしてはいけないと思った。

 

「この呪いは、何代かに一人に与えられるものだといいます。私の数代後に、また呪いを受ける者がいる。この国の未来の為に、私の命に懸けて、呪いを解く手立て探しに……」

 

 そこまで言って、語尾が消えていく。

 目頭が熱くなって、握り締めた両拳が震える。本当は愛する国を捨てたくない。死が恐ろしい。

 それでも、と心の中で呟き、俯きかけた顔を上げた。

 王の道は閉ざされたが、今まで培ってきたものは国や民の為だった。王でなくても、国を守りたい。それが、王族としての責務だ。

 

「それがきっと、私だけが出来る国の守り方だと思います。でも……、ローレイは」

 

 自分より年上である大臣の跡取り息子。

 いつも柔和な顔に笑みを浮かべ、貴婦人たちを騒がせる彼が、こうべを下げて膝を着き、剣を差し出してきたのだ。

 

――殿下。このローレイ、あなたに忠誠を誓い、この命を捧げましょう。どうか、良き王におなりください。

 

 彼は、忠誠を誓ってくれたというのに。

 きっとローレイなら分かってくれるだろう。これからは弟に忠誠を誓い、仕えてくれることを自分勝手に願う。

 気付けば、窓から差し込む光は橙色になっており、側にいた筈のオディロも気を利かせたのかいなくなっていた。

 そんな細い光さえも、今は眩しく感じる。

 思い返すのは、あの日の青。両親と産まれたばかりの弟の四人で見た空と世界。幸福だった時間。

 目を閉じる。

 その幸せな記憶に、厚い扉で閉めて鍵をかけた。

 時は流れ、十年経った。

 その時間以上に様々な場所を巡り、行くあてのない放浪をし続けたが、いまだに呪いを解く術は見つからない。その尾すら、掴めなかった。

 

「もしかしたら、城の書庫に手掛かりがあるかもしれない……」

 

 苦悩の末、手掛かりを求めて、故郷へ立ち寄る事にしたのだ。

 そして、そこで再会を果たしてしまう。

 王族しか知らない隠し通路を使って城へと忍び込み、王族のみが許された禁書が並んだ書庫で目を血走らせて書物を読んでいると、線の細い少年がやってきた。

 王妃である母によく似た面持ち。すぐに弟のパヴァンだと分かった。

 パヴァンは、本を両腕で抱えたまま、目を丸くさせていた。

 その驚いた顔を見て、すぐさま身を翻す。

 

「ま、待って! 待って下さい!」

 

 縋る声を振り払い、すぐに忍び込むために使った隠し通路の方へと走る。

 

「兄上!」

 

 だが、切なさが混じった悲痛な呼び声が、動きを縛りつけた。

 そんな声など振り払ってしまえばよかったのかもしれない。

 死んだことになっている王子が国へと戻る危険を冒してまで――国の書庫室に手掛かりがあるはずだと言い訳をして――城に戻ったのは、決意が揺らぎつつあったからだ。

 身分を捨てて十年。世界中を歩き、果てまで探しても一向に呪いを解く為の手掛かりすら見つける事が出来ない。

 もう気づいていたのかもしれない。本当は、この身から呪いを消す方法などない事を。

 もう忘れたかったのかもしれない。本当は、死ぬのが恐ろしい事を。

 

「兄上、ですよね? 僕はパヴァンです。あなたの弟です」

 

 恐る恐る近寄ってくる声に振り向けない。かといって、逃げる事も出来なかった。

 

「父上と母上から聞いております。兄上がいると。亡くなられた事になっているけれど、本当は国を守る為に、国を出たのだと」

 

 少し弾むような足取りで、とうとう真後ろまで弟が迫ってくる。

 これ以上、近付かせてはいけない。自分は、存在しないのだ。それなのに、足は凍りついたように動かない。

 

「あ、兄上……?」

 

 決して振り向かない兄の姿に躊躇ったようだ。

 息を吸って、気持ちを落ち着ける。

 ゆっくりと振り返ると、こちらを見上げる澄んだ青い目には、期待と親愛が満ちていた。

 

「……パヴァン、大きくなりましたね。産まれた頃の姿しか知らなかったから、こんなにも成長しているとは思いませんでした」

「やはり、兄上なのですね! ずっと、お会いしたかったのです! 肖像画で見たより、ずっと背が高いのですね。僕も、兄上と同じ位になりますか? いっぱいお話を聞かせて下さい!」

 

 こちらを見上げながら、パヴァンは満面の笑みで口早に言うと、本を抱えていない方の手を伸ばしてきた。

 

「早く、父上と母上の元に行きましょう。兄上が帰ってきたと知れば、きっと喜びます!」

 

 両親の顔が浮かんだ瞬間、伸ばされた手が触れる寸前でその手が触れない位置にまで両手を持ち上げた。

 パヴァンが不思議そうに首を傾げた。

 

「兄上、どうなされたのですか?」

「パヴァン。今日、私が戻ってきたことは秘密です。父上や母上に、心配をさせたくない。いいですね?」

「どうして、ですか……? 兄上は、父上と母上に会いたくないのですか」

 

 答える事が出来ない。

 最初の時に縋る声を振り払っていればよかった。

 

「あ、にうえ……」

 

 繋がりを感じられる呼び方をされて、胸の奥に巣食う感情が暴れ出す。

 あてのない旅をし続けて、堪えたのは家族の団欒だった。

 アスカンタ王族は、その課せられてきた【罰】だという呪詛のせいか家族を想う一族だった。

 どんなに政務が忙しくとも、家族揃っての食事の一時を父は欠かさなかった。

 しかし、国を出てからは果てのない孤独を知った。

 家族との暖かな食事の時間を過ごしていた故に、味気のない食事をする辛さを痛い程思い知り、いつどこで素性がばれてしまうかもしれない危険性から人と関わることも最小限に抑えていた。

 腹の底から飢えていたのだ。

 孤独は、死を蝕む呪いより、自身を深くまで蝕み続けていた。

 兄上、と躊躇いがちに繰り返される血の繋がりが、恋しくて堪らなかった。

 

――もういいだろうか。ここまで耐えて、頑張ったのだ。残りの余生は、家族と共に過ごしたい。

 

 力を失った手が、暖かいであろう弟の手へと伸ばされる。

 それを遮ったのは、ぶつりと首元から聞こえた何かが切れる音。一瞬の間の後、足元に転がるようにそれは落ちた。

 拳大の大きさのそれは、アスカンタ王国の紋章が描かれたペンダント。頑丈な筈の金の鎖が真ん中で千切れている。

 この国に語り継がれてきたおとぎ話の通り、月影の窓と二つの魂が刻まれている。魂が抱えるのは、【罪と罰】なのだと、王である父から教えられた記憶が蘇った。

 

『――――よ。国を支える我ら王家の一族の根幹にあるものは、罰だ。そして、もう片方の語り部を担っていた一族の根幹にあるのは罪。決して、千切れぬ因縁の忌まわしき呪いなのだ』

 

 もう一度、紋章を目でなぞる。

 まるで二つの魂は、使命を思い出せといわんばかりに、自分を責め立てている気がした。

 なんと惨いのだろう。心を折らせはてくれないのか。こんなにも、飢えているというのに。

 凍りついた気持ちでペンダント憎々しげに見つめていると、首を傾げたパヴァンが重そうな本をなんとか脇に抱えて、拾う為に膝を折る。

 

「落としましたよ、兄上」

 

 呼ばれた瞬間、小さな手のひらが紋章に触れる前に、転がったままのペンダントを素早く拾い上げた。ぐっと握り締めると、紋章の冷たさが返ってくる。何度も味わった孤独や飢餓感のようだ。

 そして、これからも味わっていくのだろう。一族の本願を果たすまで。

 そんな辛さを、生きている弟に味あわせたくない。これは、あの時に死んでいた筈の自分の役目だ。

 

「兄上……?」

 

 心配そうな声に、鼻の奥がつんと痛み、じんと目頭が熱くなる。

 声を出すのが苦しい。

 それでも、なんとか絞り出す。弟の前では、【尊敬できる兄】となっていたいから。

 

「……私は……行けないよ、パヴァン。もちろん。父上と母上にも会いたいけれど、会ったら、本当に心が揺らいでしまうから。これは、私達家族の為なんだ。分かってくれるね?」

「兄上……」

「私を兄と呼んでくれて、ありがとう」

 

 揺らいでいた心を今度こそ定めさせてくれたのは、家族だという繋がりを繰り返してくれた弟の声だった。

 

「せっかく、兄上に会えたのに!」

 

 焦れたように弟の手がもう一度こちらへと伸びるのを防ぐ為に、首を横に振って一歩下がる。

 

「それ以上はいけない。私は、この国には存在しない者だ。お前が、この国を守る唯一の王子なのだから」

「ですが、兄上も!」

 

 優しい子だと思った。優しすぎるきらいがあるが、たくさんの事を重ねて乗り越えれば、きっと良い王になるだろう。

 

「私は、存在しない。王子でもない」

 

 繰り返し、繋がりを今度こそ絶つ。

 けれども。本願が叶わず、命がいよいよ残り少なくなった時。

 

「私の終わりが近付くとき、青い手紙を送ろう」

 

 青は水を指し、それは雫となり、流れて溢れ、すべてが源へ――すなわち、家族のもとへ――と還るという言い伝えがアスカンタにはある。

 終わり、と言った時、弟の顔が強張った。

 笑った。

 ずっと緊張を強いられた生活で笑っていなかったから、少しばかり不恰好な笑みだったが。

 紋章を胸に押し当てて、同じ目線にかがむ。

 

「いいかい。パヴァン。私は、決して諦めないよ。この王家の紋章に懸けて、呪いを解いてみせる。そうしたら、会いに行くから。絶対に」

「絶対、ですか?」

 

頷くと、首から力が抜けて、弟は晴れやかに笑ってくれた。

 

「待っています、兄上。それまでに、僕は頑張って国を守ります。早くお帰りになってください」

「ああ、必ず。かえるよ」

 

 帰るではなく、還る、になったとしても。

 魂は、いつでもそばに。

 



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月影のお社
55話


 

香るのは、錆びた鉄のようなにおい。

 

――どうか。許して。

 

***

 

 囁きを聞いた気がした。

 その囁きが、まるで細い光のように底に沈んだ意識へ差し込み、浮かび上がる。

 目を開けた途端に、頬を伝っていく熱くて冷たい雫。いくつも流れた涙の筋を、後から上書きするように新しい涙が、涙を慰めているかのよう。

 自身の意思とは裏腹に、いつもならそろそろ止むはずの涙は止まない。

 誰かが誰かの為に、とぼんやりと呟いた事はあるが、ここまで止まらないのは初めてだ。

 涙を放って、横になったまま、室内をぼんやりと見る。

 部屋を覆うような暗さで、まだ陽の昇らない時間帯だと分かった。

 すると、扉を叩く音が静かに響き、同時に扉越しに呼び掛ける声もこちらに届く。

 

「お目覚めでございますか」

 

 驚きのあまり、涙がぴたりと止まって、少しだけ靄がかかったような意識もはっきりとする。

 何故ならば、その声は耳慣れた侍女の声ではなかったからだ。

 そもそも、こんな時間に主人の部屋を訪ねる事などありえない。

 

「お目覚めでございますか」

 

 再び繰り返される声が、異様に感じる。まるで、同じ声が重なっているようにも聞こえた。

 不穏さを感じるままに寝台から身を起こすと、扉は部屋の主の意思を無視して、開かれてしまう。

 細い光が、扉の間を縫うように差し込まれ、大きく開けられていく扉に比例して、光もまた太くなる。

 暗闇に慣れてしまった目には眩しくて、左手で遮ろうと持ち上げて、違和感を感じた。

 しゃらりと鈴よりも軽い音が手首から鳴った。

 侵入者は、慣れたように手早く、灯りに火をともしていき、灯りが増えて室内が明るくなっていく度に、違和感が浮き彫りになる。

 持ち上げた手が、自分の手ではなかった。幼すぎるとまではいかないが、自分の手より一回りも小さい。

 炎のように輝く石がはめられた指輪が薬指になく、代わりに幾重にも絡み合い重なった装飾が手首に巻かれて、それが音を立てる。

 え、と零れた吐息混じりの声もまた、聴き慣れた【自分】の声ではない。

 

「どうかなさいましたか?」

 

 その間に二人の少女が寝台に近寄り、両側からこちらを覗き込んでいた。

 どちらも同じ顔をしていたが、身に覚えのない娘達。仕えてくれる侍女の中に、こんなに特徴的な者達がいたら、忘れる筈がない。

 何より、娘達が身に纏うのは、絵本に描かれていた古代の衣装に似ていた。

 ふいに、娘達の片割れが持っている銀製の大きな水瓶の表面に顔が映りこんでいるのを見た。

 

「…………っ」

 

 そこに映るのは、知らない少女の顔。

 麦穂のような淡い色味の髪は癖がありあちこち跳ねて、耳の下で無造作に切られている。

 空のように青い瞳が、自分の怯えを写しとったかのように目一杯に見開かれ、こちらを見返していた。

 持ち上げたままの手で頬を触ると、水瓶に映った少女も同じように頬に触れた。

 無意識の内に狭めていた視界が広がっていく。

 寝台は、いつもの柔らかいものではなく、木の台に獣の皮を敷いただけ。柔らかな絨毯もなく、剥き出しのままの石畳。

 辺りを見回すと、粗末な寝台だけが置かれただけの殺風景な部屋だということが分かった。開かれたままの扉に視線をやると、その先は外となっていた。

 鮮やかな紺色の帳が落ちている夜空。陽が昇る前ではなく、落ちた後の時間だったのだ。

 星々はさざめくように瞬き、こちらの心境を楽しんでいるかのように笑う三日月が恐ろしい。

 

「巫女?」

 

 重なるように同じ声で呼ばれた呼称も知らないものだ。今は、それすらも不気味に聞こえる。

 もう一度、水瓶に視線を戻しても、不安そうにこちらを覗き込む少女しかいない。

 

――あなたは、誰なの。ここは、どこ。

 

 ミーティアは、喉の奥に消えてしまった言葉の代わりに、涙を一粒こぼした。



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