東方自探録 (おにぎり(鮭))
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幻想入り編
第1話 忘れられた者達の楽園
少年が歩いていた。これと言って特徴があるわけでもない、どこにでもいるような少年だった。
彼は目的もなく歩き続ける。荷物は財布と自宅の鍵、そして竹刀袋と首からかけた御守りだけ。とても、遠くに出掛けるような恰好ではない。
それもそうだろう。何故なら少年は、そんなに遠くに行くことなど考えていないのだから。ただ、同じことを繰り返すだけの退屈な毎日に、毎日自分に絡んでくる自称カリスマのクラスメートとその取り巻きに嫌気が差したからちょっとの間家を離れることにした。
つまりは家出だ。子供の浅知恵程度でしかない簡単な逃げ道。あるいは、自分がいなくなることで逆に自分に注目を集めようと考える、はぐれ者の最後の手段か。
しかし、それを行うにはいかんせん少年は成長しすぎた。15にもなるのに、今更こんな幼稚な手段を使ったところで同情を得るどころか、軽蔑のまなざしを注がれることになるだろう。
少年とて、それはわかっているつもりだった。けれど、家族と言う支えを失った少年の心は少しずづ、しかし確実に生への絶望に蝕まれていた。
だから、完全に絶望に飲み込まれてしまう前に行動を起こしたのだった。家に引きこもる手段もあったが、不登校が続けば必ず教師が連絡をしてくる。そうなれば、辛い現実を再認識しなければならない。それは嫌だった。故の家出である。
しかし、行くあてなどどこにもなかった。両親を産まれてすぐ亡くし、育て親であり剣術の師でもあった祖母も数年前に他界。親戚筋など元から無い。家を飛び出す前にひっつかんできたなけなしの小遣いも、数日で底をつく程度の金額しかなかった。
どうしたものかと悩む少年は、ふとあることを思い出した。この辺りの噂の中では有名な、神隠しが起こるという神社の存在である。
「神隠し……か。いっそそのまま失踪しちまうかな……」
誰に言うでもなくそう呟くと、噂の神社へと向かった。
閑静な住宅街を抜け、鬱蒼とした森の中へと入る。季節が夏だということもあって、そこらじゅうに虫が飛び交い、蝉が大合唱をしていた。だが、少年はまるで気にする様子も見せずどんどんと草をかき分けて進んでいく。しばらく歩いていると、突然目の前が拓けた。
廃屋、という言葉がぴったりだろう。
少年がその神社を見て、まず最初に思ったことがそれだった。鳥居と参道は辛うじて原型を留めていたが、本殿は見る影もないほど崩壊が進んでおり、どこかの柱を蹴飛ばすだけでも完全に倒壊させられるのではないだろうか、と思わせるほどだった。
少年は鳥居の前でしばし立ち止まり、何か考え事をした後、意を決して本殿に向かって足を踏み出した。
そして、少年が鳥居をくぐった瞬間、強烈な眩暈を少年が襲った。たまらず、その場に膝をつく少年。ようやく眩暈が収まり、こめかみを押さえながら立ち上がった少年は信じられない光景を目にする。
なんと、先程まで倒壊寸前と言えるほど風化の進んでいた本殿はまるで時間を遡ったかのように元通りの姿に戻っていたのだ。さらに、振り返った先には薄暗い森などどこにもなく、彼の知らない風景が広がっていた。
さすがの少年も驚きを隠せず、僅かにうろたえる。だが、すぐに一つの答えにたどり着いた。
「なるほど……これが神隠しの正体か」
噂に聞いていた神隠しは実在していた、という答えだ。そして、その答えに達した少年はある種の喜びを感じた。何故なら、ここで暮らせばあの辛いだけの毎日から逃れられるから。
少年にとって、これ以上の喜びはないかもしれない。家族との思い出の詰まった、あの家を捨てることになってしまうが、本当に大切な家族との繋がりはすべて持ってきている。それならば、もう少年に選択の余地など存在しなかった。
この世界で暮らそう。そう決意した少年は、一先ず目の前の本殿に向かって歩く。突然の超常現象に、その場に立ち尽くしていた少年は、日陰を求めていたのだ。神隠しに遭ったとは言え、季節までは変わらなかったらしい。直射日光をじかに浴び続けた少年の髪は、今にも燃えそうなほど熱くなっていた。
いそいそと本殿の先に歩いていくと、いかにも空っぽな印象を与える賽銭箱が少年の視界に入った。
しばし賽銭箱を見下ろしていた少年は、やがてポケットから財布を取り出すとおもむろに財布の中の金をすべて放り込んだ。ジャラジャラと音を立てて、小銭が賽銭箱の中へと落ちていく。
すると、その音を聞きつけたのか本殿の横から一人の少女が飛び出してきた。
「……アンタ、誰? 見かけない顔だけど」
「人に名前を聞くときはまず自分からって習わなかったか?」
少女の方を見向きもせずに、少年はポケットに財布をしまう。そんな少年の態度に手元の箒を投げつけたくなる衝動を何とか抑え込んだ少女はため息を一つすると、自らの名を名乗った。
「ここ、博麗神社の巫女をやってる博麗霊夢よ。これで満足でしょう、アンタの名前は?」
「……そうだな、
「何よそれ。まるで本当の名前じゃないみたいね」
「はッ。名前なんて大した問題じゃないだろう」
少年――尹は、吐き捨てるようにそう返す。それに対して、霊夢の方もそれ以上追及することはなかった。沈黙が二人の間に流れる。
次に沈黙を破ったのは、尹の方だった。
「ここはどこだ?」
「博麗神社よ」
「それはさっき聞いた」
「……アンタ、外の世界の人間ね?」
「さぁな。外だか中だか知らんが、鳥居をくぐったらここに来た」
「やっぱりね。ここは幻想郷。アンタたちの世界で幻想となったものが流れ着く、忘れられた者達の楽園」
「忘れられた世界……か」
尹は自傷気味に呟く。家族を失い、親戚筋もない彼は実質忘れられた存在と言っても過言ではなかったから。
学校では名簿に載っているだけの存在。近所では見て見ぬふりをされていた。ずっと昔からそんな感じの扱いを受けてきた彼にとって、もはやどうってことはなかったが。それどころか、尹本人でさえそのような扱いの方が都合がよいとしていたのだから改善されることなどなおさらあり得るはずなどない。
けれど、そんな事情を知らない霊夢は彼の腕をつかみ、彼がくぐった鳥居の方へと連れて行こうとする。
「ほら、付いてきなさい。今、元の世界に返したあげるから」
「必要ない」
「はぁ!? アンタ、馬鹿なこと言ってんじゃないわよ。ここはアンタのような人間の来る場所じゃない。帰るべきなのよ、命が惜しければね」
「帰るべき、ね……ふん」
霊夢の言葉を鼻で笑う尹。そんな彼の態度に、霊夢は足を止め振り返る。
「……何よ。何かおかしいことでも言ったかしら?」
「いや? ずいぶんと綺麗ごとを並べるんだなと思って」
「悪いけど、本心じゃないわ。これも仕事なの。ほんとはアンタがどうなろうと私の知ったことじゃないしね」
「へぇ? それじゃ、折角お仕事しようとしてるところ悪いが俺は帰らない」
「そ。それなら好きにするといいわ。ただ、この神社から出た瞬間、アンタは死ぬわよ」
「外の人間には耐えられない有害物質でも飛んでんのか?」
「違うわ。妖怪よ。あいつらは人間を食べ物としてとらえているからね。久しぶりの餌に興奮して襲ってくるんじゃないかしら?」
妖怪。その言葉を聞いた尹は、僅かに眉を上げた。そんなお伽噺にしか登場しない奴らが、ここには跳梁跋扈しているというのか。それとも、この巫女が嘘をついているだけなのか。
これまで不思議な現象を連続で経験している尹だったが、まだどこかこの『幻想郷』という場所のことを信じ切れずにいた。
そんな尹を見た霊夢は彼に背を向けて、言い放つ。
「嘘だと思うならその鳥居から外に出てみるといいわ。それから階段を下りてしばらく歩けば人里につく。この世界で生きるなら、そこで厄介になるといいわ。アンタが死なずにそこまでたどり着ければ……ね」
「ご忠告どうも。きっと明日には骨ひとつ残らず逝ってるだろうがな」
「ま、頑張りなさい」
霊夢の言葉を受け、尹は鳥居に向かって歩き出す。けれどその瞳には、絶望ではなく希望の光が見え隠れしていた。
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第2話 力の片鱗
神社の外に出れば死ぬ。そう明確に言われた尹は、しかしどこか興奮していた。竹刀袋を握り締める力が強くなる。
今、彼はある種の喜び……いや、狂気に打ち震えていた。即ち、暴力を振るうことの正当性を得ることができるという事実に。
相手が妖怪―つまり人間でなく、なおかつ自分の命を脅かす存在であるというのなら……
「もちろん殺しちまっても罪には問われねぇよな?」
彼が先ほどまで過ごしていた元の世界では、いかに正当防衛と言えど過剰に暴力を振るうことは罪とされていた。それゆえに、彼はどれだけ罵られようと、嫌がらせを受けようと決して自らが磨いた剣術を生き物に振るったことはなかった。
振るったことがあるのは、修行相手であり自分の師である祖母一人。最も、いかに若さを武器に挑んだところで尹の数倍以上に強かった祖母に勝てたことはなかったのだが。
そんな祖母が死んでしまってからは、彼が誰かに剣を振るうことはなかった。いかに修練を積んだところで、相手がいなければ自分が成長しているのかどうかもわからない。そんな環境も、尹が元の世界で生きる気概をなくす原因の一つだった。
けれど、今目の前に自分が求めてきたモノがある。これまで自分がため込んだ鬱憤を、八つ当たりという形であるとは言え晴らせる状況。自分が磨いてきた剣術がどれほど成長しているのかを試すことができる環境。
そして、暴力を振るうことが正当化できる理由。
それこそが、今の彼に生きる気力を与えているものだった。
(歪んでるな……)
尹自身、自分が人として歪んでいる自覚はあった。それでも、その身の内で湧き上がる衝動は抑えることは難しかった。
だから、彼は迷わず足を踏み出す。鳥居の外へと。そこで自分の命が散ってしまうかもしれなくても。
とうとう、鳥居の外側へ足を踏み出した尹は、いつ襲われてもいい様に竹刀袋の中身を取り出す。
それは、竹刀ではなく本物の刀だった。ずっと昔、祖母に見せてもらった刀。もう古いもののはずなのに、未だに輝きを失わない刀身。
家宝なんだと、祖母は言っていた。時々、とても大切そうに刀の手入れをしている祖母を見たこともあった。
祖母が死んでからは、自分で馴れないながらも手入れをし続けてきたため、未だ刀はその輝きを失わずにいる。
ほんの少し、刀を鞘から抜く。太陽の光を、刀は鋭く跳ね返していた。その眩しさに少しだけ尹は目を細めると、刀を納めた。
「さて……化け物退治と洒落込むか」
誰に言うでもなくそう呟くと、尹は階段を降り始めた。すると直ぐに向けられた粘着質な視線がそこかしこから放たれた。
尹は、それらを無視するようにゆっくりと階段を降り続ける。視線の主達も、それに合わせて茂みの中をがさがさと言わせながら彼についていく。
そして、尹が長い階段の中ほどまで来た時、痺れを切らした視線の主の一匹が茂みを飛び出し彼に飛び掛かった。
「がぁぁぁぁぁ!!」
「せりゃぁぁぁ!!」
飛び掛かってきたソレ―妖怪―を迎え撃つために、尹も叫び抜刀する。その切っ先は、まるで吸い込まれるように妖怪の首筋へと真っ直ぐに振りぬかれその首を撥ね飛ばした。
返り血が盛大に尹へと降りかかるが、そんなことを気にする暇は彼には与えられない。何故なら、同朋の血の匂いに我慢が出来なくなった他の妖怪が一斉に尹に向かって飛び掛かってきたからだ。
まさに四方八方からの攻撃。防御も回避もままならない状況で、けれど彼は怯むことなくそのうちの一体に向かって跳ぶ。そして、そのまま妖怪を蹴るとソレに足を乗せてそのままスノボーに乗った時のように着地する。
その衝撃で、尹に踏まれた妖怪の首の骨が折れる音が響いた。「ぐえっ!」っという気色の悪い悲鳴を気にすることなく、彼は妖怪を蹴ってその場を離れる。直後、ほかの妖怪が尹を引き裂こうと振り下ろした腕がその妖怪の体に突き立てられた。
このままではあまりにも不利だと感じた尹は、共食いを始めた妖怪どもを余所に階段を駆け下り始めた。……そんな彼を遠くから見ているものがいることに気づかずに。
「……中々興味深いわね。彼」
彼女は妖しく微笑み、妖怪たちから距離を取るべく階段を駆け下りる尹を見つめる。しかし、その眼つきはどこか危険人物を見るような眼でもあった。
何とか妖怪たちに追いつかれることもなく階段を降り切った尹は、今度こそ彼らを返り討ちにすべく足を止める。
そんな彼を追って三匹の妖怪たちが涎と血を口からだらだらとたらし、転がるように階段を駆け下りてきた。
(共食いまでするとはな。余程腹が減っていたと見える)
常人であれば失神してもおかしくないほどおぞましい光景に、けれど尹は動じない。それは相手が人に非ざるものであるからか、それとも思う存分
尹の刀を握る力が強くなる。同時に、彼の手元が僅かに震えていた。心臓の鼓動も早まっており、呼吸も安定していない。そしてその眼は、しっかりと彼に向かってくる妖怪たちを捉え、なおかつギラギラとした光を放っていた。
そして、妖怪たちは尹のその肉を食らわんと大きく跳躍した。
「ごぉぉぉぉぉぉ!!」
「さぁ! 始めようか!! 殺し合いを!!」
飛び掛かる妖怪を紙一重で躱しながら、その首筋を正確に切断する。まず一匹を始末した。
続いて二匹目、アッパースイングで振り上げられる腕を大きく避け距離を取る。それが失敗だった。
三匹目の妖怪が尹が飛び退いた先にいたのだ。
(しまっ…!!)
慌てて避けようとするが、時すでに遅し。振りかぶられていた腕はもうスイングを始めており、避けることなど不可能だった。ならばと咄嗟に腕を交差して前に突き出し、防御態勢をとる尹だったがそんな彼の背後に二匹目の妖怪が今にもその肉を食らわんと大口を開いていた。
まさに絶体絶命。正面からの攻撃を防げば後方から来る噛みつきに対応できない。かと言って、今から回避行動をとろうとしても中途半端な動きしかできず両方の攻撃を受けることになる。反撃も、足をしっかりと踏み込むことができる状況ではないため大した打撃を与えることなど不可能だった。
そんな絶望的な状況でありながら、しかし尹は諦めなかった。その理由は、『怒り』。明らかに筋の通らないただのわがままな怒りだった。即ち、自分は一人なのに相手は二匹だという数的不利に対する怒り。自分から臨んだ戦いにケチをつけるという身勝手な感情。
「ふざけやがってぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
そんなことなど気にする欠片も見せず怒りに身を任せ、吼える尹。それとほぼ同時に、二匹の攻撃は彼に直撃した。が、その攻撃が尹の体を抉ることはなく、代わりに静電気が発生した時の音を数倍にしたような音が辺りに響く。
そして、妖怪たちは勢いよく後方に弾き飛ばされた。
それに一番驚いたのは尹だ。自分が何をしたのか、何が起こったのか……それすら全く理解できていなかった。
「だが、覚悟しろよこの屑どもめ」
理解も納得もできていない尹だったが、一つだけ解っていることがあった。つまり、今が反撃する絶好の機会だということに。弾き飛ばされた妖怪たちはまだ立ち上がっていなかった。数を減らし、一対一の状況に持ち込むには今のうちに片方にとどめをさす必要がある。
情けなど必要なかった。何しろ、本当なら死んでいたのは尹の方だったからだ。彼を救った不思議な現象のことは今の尹にとってどうでもよかった。とにかく、その理不尽ともいえる怒りをぶつけたかった。
「死ねぇぇぇぇぇ!!」
立ち上がろうとする妖怪の脳天に刀を振り下ろし、その頭が原型を留めなくなるまで滅多切りにした。そんな彼の背後からもう一匹の妖怪が飛び掛かる。しかし、その攻撃は尹を捉えることはなくその場に倒れ伏している妖怪の首筋を撥ね飛ばした。
致命的な隙を晒す妖怪。当然、尹がそんな隙を見逃すはずはなく彼の刃が閃く。まず妖怪の右手が斬り飛ばされ、次に右足、左足と四肢を着実に斬り飛ばされていった。
「ぐぎゃぁぁぁぁっ!!?」
さしもの妖怪もたまらず悲鳴を上げる。だが、尹は容赦しなかった。止めを刺さんと、その手に握り締めた刀を大きく振り上げる。そんな彼を見る妖怪の目には……理性など欠片も存在していないはずの妖怪の目には明らかな恐怖が浮かんでいた。同朋の返り血を全身に浴び、そして自分の命を絶たんと刀を振り上げるその姿はまさに悪魔だった。狩る側だったはずの自分たちがたった一人の獲物に狩られるという屈辱と、すぐに殺さない尹の残酷さに恐怖を感じていた。
「……………」
あくまで冷酷に妖怪に止めを刺そうとする尹。だが、ここで彼にとって予想外のことが起きた。それは振り上げられた刀が頂点に達したその瞬間!
「がぁぁぁぁぁぁ!!!」
「何っ!?」
まさに死力を尽くした最後の反撃だった。左腕だけを残された妖怪は、その腕を使い尹の喉笛を噛み千切ろうと飛び掛かる。
不意を突かれた尹は、僅かに硬直してしまった。硬直したのはほんの一瞬。だが、致命的な隙だった。そんな彼にできたのは、空いていた左腕で喉元をかばうことだけ。当然、その左腕は妖怪に噛みつかれてしまった。
その途端、猛烈な痛みが尹の左腕を襲う。
「ぐぁぁぁぁぁっ!!!」
腕を焼かれるような痛みが尹の左腕に流れる。あまりの痛みに右手に握っている刀を取り落しそうになるが、歯を食いしばってこらえた。
腕に噛みついた妖怪は、さらに顎に力を入れ肉を食いちぎろうとする。当然、尹の左腕に走る痛みはさらに増した。全身から脂汗をかきながら、なんとか状況を打開しようと必死に右手に力を入れる尹。
だが、腕を走る激痛に耐えるので精一杯で、刀を振るうまでの力を出すことはできずにいた。
その間にも、妖怪の牙は着実に彼の肉を断っていく。ブチブチと嫌な音を立てて筋肉が断ち切られていく音が聞こえた。
「うぉぁぁぁぁぁぁ!!」
あまりの激痛に今にも気を失うのではないかという感覚に包まれながら、しかし最後の力を振り絞って刀を妖怪の頭に突き刺す。
「がっ!!?」
頭を貫かれた妖怪は、堪らず一瞬だけ顎を開く。その隙をついて尹は妖怪の口から左腕を引き抜いた。傷口から勢いよく血が噴き出す。
だが、そんなことを気にせず尹は妖怪の頭から刀を引き抜くとそのままその首を掻っ捌いた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
戦いは尹の勝利に終わった。しかし、尹とて無傷では済まなかった。ほんの一瞬の油断。一度目は摩訶不思議な現象によって助かったものの、幸運は二度も続かず彼は左腕を失いかけた。
現に今も彼の左腕からはとめどなく血が流れており、早急に止血および治療を行わなければならないのは一目瞭然だった。
だが、尹は動くことができなかった。妖怪を圧倒した彼ではあったが、今は体に力が入らなくなってしまったのだ。それもそうだろう。尹は自覚していなかったが、生存本能とこの数年間溜りに溜まっていた鬱憤を爆発させた結果、一時的に普段出せる全力以上の力を出し続けていたのだから。
ところが、妖怪たちを全滅させた途端溜まっていた鬱憤はほぼ完全に晴らされてしまい、同時に虚無感に襲われた。先程まで彼の体を突き動かしていた激情は失われ、また感情のまま暴力を振るうことの空しさに気づいてしまったのだ。こんな状態で、動けるはずはなかった。
血が失われていくにつれ薄れていく視界。けれども、尹は何も感じなかった。あるのは虚無感だけ。だから、助かるために足掻こうなどと全く考えもしなかった。
(いっそ、このまま死んじまうか……)
生きる気力すらも無くした尹は、そのまま意識も手放す。そして、視界はブラックアウトした。
その直後、一人の少女が尹の元に降り立つ。
「あやや? これは外の人でしょうか? ……死んでいるんですかね?」
少女は尹に近寄ると、喉元に手を当てた。そして脈があるのを確認すると彼を担ぎ上げ、何処かへと飛び去って行った。
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第3話 永遠亭での目覚め
目が覚めた時、尹は布団の中にいた。何が起きたのか理解できず、飛び起きて辺りを見回す。すると、驚いたことにそこは捨ててきたはずの我が家だった。
「何が起きたんだ……もしかして、さっきまでのは夢……だったのか?」
自分を見下ろしてみれば、妖怪にやられた時の傷などどこにもなく服装も寝間着だった。先程まで握っていたはずの刀も手元にない。
だが、もしかしたら無意識のうちに帰ってきていたのかもしれないと幻想郷に行った時の服と刀を調べようと自分の部屋から出た。が、尹はそこで足を止める。否、止めざるを得なかった。
何故なら……
「あぁ○○。やっと起きたんだね。あんまりにも起きてくるのが遅いもんだから叩き起こしてやろうかと思っていたよ」
「な、な………」
そう、襖を開けた先には竹刀を持っている老婆が……死んだはずの尹の祖母がいたからだった。あまりのことに言葉が出ない尹。何か口にしようとしても、口をパクパクすることが精いっぱいの尹を見て祖母は呆れた表情をする。
「何呆けた顔をしてるんだい。早く来な。朝ご飯が冷めちまうよ!」
「ま、待ってくれ! 婆ちゃ……!」
尹に背を向ける祖母を呼び止めようと、思わず手を伸ばす。しかし、その手は祖母に触れることなく彼女の体をすり抜けていった。
だが、そんなことに驚く余裕もなく尹の意識は再びそこで途切れた。
☆
本来ならばもっと早く飛べる文だが、彼女の背で意識を失っている尹のことを配慮するとこの程度の速度が限界だった。これ以上の速度は、尹にダメージを与えてしまうかもしれない危険性があったからだ。
「やれやれ……我ながら面倒なことをしようと思ったものです」
小さくため息をつきながら、文は空を翔ける。目的地は、竹林の奥にひっそりと建てられた月の都からの逃れ者が住む『永遠亭』。そこにいる医者の
彼女は、材料さえあればどんな薬でも調合が可能でその効能は優秀極まりないという薬師が誰でも夢見るような能力の持ち主である。
彼女の腕ならば、尹の傷を癒すことなど朝飯前だろう。そう考えたが故の決断だった。勿論、傷を癒すだけであればわざわざ永遠亭に赴く必要などなく、人里で治療を受けさせればそれでよかった。が、永琳に任せた方が尹が回復するのは圧倒的に早いため、文はそちらを選んだ。
その理由は勿論、自分が個人で発行している新聞記事のネタにするため。探そうと思えば……いや、作ろうと思えばネタなどいくらでもそこらじゅうに転がってはいるが、尹は正真正銘のネタだった。
見たところ外来人である彼が、たった一人で三匹の妖怪に勝ったというのは極めて異例だからだ。それに、倒れている場所も場所だった。彼が倒れていたのは博麗神社に続く階段の下。これだけなら、特に不思議ではないかもしれない。が、彼を追っていたであろう妖怪の血痕は、階段の上の方から続いていた。
文は推測する。
この少年は確実に博麗神社を訪れていた。そして、確実にあの神社の巫女と顔を合わせている。にもかかわらず、彼は神社の外に出た。だが、いくらあのぐーたらな博麗の巫女でも、外来人が安全地帯である境内から外に出ようとするのを止めないはずがない。止めなければその人間が殺されるのは火を見るよりも明らかだからだ。
けれど、彼女はそれを止めなかった。この少年が殺されると知っていて。その理由は恐らく、何かしらのトラブルが二人の間で起こったから。結果、巫女は彼を放置した。
そして、この少年は襲い来る妖怪たちを退けた。だが、自身が受けた傷も深かったためにあそこで意識を失い、自分に拾われたのだと。
しかし、文はそれに関して巫女を、霊夢を責めるつもりなどこれっぽちもなかった。現に、神社や人里にたどり着くことなく妖怪に食われ無念の死を遂げた外来人の方が圧倒的に多いのだ。そして、外来人がいつどこからやってくるかなど、一人を除いて誰にも分かりはしないのだから。少なくとも、この少年は巫女に出会った上で、自分の意志で神社の外に足を踏み出したのだ。巫女との間にどんなトラブルが起きたのかまではわからないが、自ら安全地帯から外に出た彼を救わなかった彼女を責める必要などどこにもない。
それ以上に、今はこの少年を永琳に診せることの方が重要だった。文が今出せる限りの最高速度をもってしても、尹の命の灯が消えてしまう前に永遠亭にたどり着けるかどうか怪しくなってきたのだ。
尹が受けた傷は文が予想していたよりも深かったようだ。一応、飛び立つ前に自分の胸元にあるリボンで彼の腕を縛って止血はしたが、もともと失っていた血の量が多すぎたようだ。尹を負ぶって飛ぶ文は、背中から感じられる鼓動がほんの少しずつ、しかし確実に弱まっているのを感じ取り焦りを感じずにはいられなかった。
(これはまずいですね……あと少しですから、持ちこたえてくださいよ……)
祈りにも似た想いを抱きながら文は出せる限りの速度を出して空を翔け続ける。やがて、そんな彼女の視界に目的地の永遠亭が見えてきた。
間に合うことを祈りながら、彼女は永遠亭の玄関の目の前まで飛び続けた。
☆
「ん……? こ、ここ……は……」
次に尹の意識が戻った時、彼の目に映ったのは見たことの無い和風な天井だった。そして、同時に体に暖かいものがかけられていることにも気づく。
目覚めたばかりでぼんやりとした意識のまま首を動かし辺りを見渡すが、やはり彼の知っている場所でないのは確かだった。
「あ、目が覚めましたか?」
「……?」
ふと視界の外から声が聞こえたため、そちらの方に目をやるとそこにはブレザーに身を包んだ少女が笑顔を浮かべて尹を見下ろしていた。やや普通の人間と比べ違うのは、その頭にウサギの耳らしきものがついていることだろうか。
「お怪我の方は大丈夫ですか? 師匠の調合した薬を使いましたから、もう動かしても大丈夫だと思いますけど……」
「怪我……!! そうだ、俺は……確か妖怪に……って、え……?」
自分が最後に意識を失ったときのことを思い出し、飛び起きた尹は、あれだけ深い傷を負っていたはずの左腕から全く痛みと、異常を感じないことに驚きを隠せずにいた。
しかし、不思議な少女はそのことに全く驚く様子も見せず、むしろ安心した表情を浮かべていた。
「よかった。薬はちゃんと効いたみたいですね」
「なぁ、アンタ! 俺がここに寝かされてどのくらい経った!?」
「わひゃあ!? ちょっ……そんなに揺らさないでください!!」
ここに来て、自分の理解の範疇を越えた出来事が立て続けに起きた尹は完全に落ち着きを失っていた。その為、少女を揺さぶりながら次から次へと質問をぶつけ続け……その途中でピタリとその動きを止めた。
勿論、揺さぶられ続けた少女は完全に目を回していたが、尹にはそんなことなどどうでもよかった。それよりももっともっと大切なことを思い出したから。
体のどこにも異常がないであろうことを先程の少女の言葉から推測した尹は、そのまま部屋を飛び出す。ここがどこなのかも分からないまま、無我夢中で駆け出した。その表情には、焦り、そして恐怖の色がありありと浮き上がっていた。
(刀とお守りと財布がない……! どこだ……! どこに行った!?)
それは、彼にとって文字通り命よりも大切なもの。ただ死んだ家族の忘れ形見というだけではない。尹にとって、それらは唯一の心の拠り所だった。
刀以外はいつも、どんな時であろうとも肌身離さず持ち歩いていた大切なものが手元から失われた今、彼の精神状態は極めて不安定と言えた。
その姿は、もといた世界の彼からは到底想像できないほどのもので、まるで迷子になった子供そのものだった。
だから、尹は今いる場所がどこであるか、自分がどんな状況に置かれているのか、これからどうするのが最も賢いのか等と言った冷静な思考が全くできずにいた。ただただ、闇雲に辺りを走り回って大切なものを探し回る。
そんな彼の目の前に、一人の女性が立ちはだかる。彼女こそ、文が尹を診せた薬師兼医者の八意永琳である。
「待ちなさい。患者さんには大人しくしていてもらわないと色々と困るの。何をそんなに慌てているのか知らないけれど、今は大人しく部屋で寝ていなさい」
「悪いが、今はアンタに構ってる暇はない! 俺は忙しいんだ!!」
そう言って、永琳の横を駆け抜ける尹。そんな彼に、永琳はため息をついて振り返りながら尹が最も望んでいることを口にした。
「貴方の持ち物なら、私が預かってるわ。大丈夫、ちゃんととってあるから」
「!!? なら今すぐ返してくれ!!」
「そんなに慌てないの。返すには返すけど、今は無理ね」
「なんだと!!?」
「貴方、外来人でしょう?」
「そんなこと関係ねぇだろ!! 返せ!!」
自分の全てが詰まっていると言っても過言ではないそれらを返すことを拒否する永琳に、激昂する尹。しかし、冷静に考えれば当然だった。彼の持ち物には、刀が入っているのである。勿論、文とて刀も一緒に永遠亭に持ってこれたわけではなかったが、尹を永琳に預けた後直ぐに現場に取って返しそこに突き立てられた尹の刀を発見。取材の時に刀についても聞きたいと思った文があとから永琳に届けたのだった。
それはともかく、刀は立派な凶器。その切れ味は低級の妖怪とは言え真っ二つにできるほどの業物なのだから、永琳としてはいくら患者とは言えおいそれと返すわけにはいかない。万が一があっては困るからである。
さらに、尹は外来人である。その為、彼が永遠亭の者に危害を加えないと証明できる人物が誰もいない。それが、永琳の警戒心を余計に高めている原因の一つだった。
だが、返すべきかどうか永琳は悩み始めていた。当然、今にも暴れだしそうなほど怒気を孕ませた尹を見たせいである。
彼が危険人物でない保証はどこにもないが、かといってこのまま返さずにいれば何をしだすか分からない。どちらが永遠亭に危険を及ぼすことなく済ますことができるか……答えは明白だった。
「……分かったわ。返してあげるから、ついてきなさい」
「……!!」
その言葉を放った瞬間、永琳は自分の判断が誤りでないことを確信した。先程まで切羽詰り、余裕のない表情をしていた尹だったが、彼女の言葉を聞いた瞬間安堵の表情を見せたのだ。まだ決して彼が刀を持って暴れだす可能性が無くなったわけではないが、少なくともこれで対策を練ることは出来る状態になった。
後ろから黙ってついてくる尹を、肩ごしに盗み見る。が、その表情は何を考えているのかが分からないものだった。純粋にはぐれた親に会えるとわかり安堵した子供のようであり、同時に永琳の隙を伺う刺客のようなそれだった。
事実、この時尹は自分の荷物が手の届く位置にあることが分かって安堵していた。が、同時にそれが嘘だった時、目の前を行く永琳を……ここにいる者全員を手にかけるつもりでいた。
まさに爆発寸前の爆弾。一歩対応を間違えれば大惨事を招きかねない不穏分子に、しかし永琳は冷静さを失うことは皆無だった。既に、そういった修羅場なら数えきれないほど潜り抜けてきたのだ。今更こんな少年一人程度で怯えるほど、彼女はやわではない。しかし、今は昔と少しばかり状況が違う。この永遠亭にいる者全てが護るべきものである以上、あまり強引な手段に出るべきではないと彼女は判断していた。
「ちょっとそこで待ってなさい。今貴方の荷物を持ってこさせるから。鈴仙~! ちょっと来て頂戴!」
「はいは~い! なんですか……って、貴方ここにいたんですか……探しましたよ~」
「…………」
永琳に『鈴仙』と呼ばれた少女は、尹が目が覚めた時に彼の部屋にやってきたあの少女だった。しかし、鈴仙の言葉に尹は言葉でなく睨みを返す。
「あらあら……鈴仙、貴女嫌われちゃったみたいよ? いったい何をしたのかしら?」
「何もしてませんよぅ! だからそんな怖い笑顔でこっち見ないでくださいってば師匠!」
「何でもいいから、早く荷物を返せ」
いつも通りのやり取りをする永琳たちに、苛立ちを隠すことなく荷物を返すことを要求する尹。その言葉に、しかし永琳はそれを全く意にも介さずに鈴仙に命じた。
「と言うわけで鈴仙。彼の荷物を持ってきてもらえる?」
「了解です」
「さて……と」
「…………」
荷物を取りに行った鈴仙が部屋を診察室を出ていくのを見送った永琳は、尹の方に向き直る。その眼は、どこか人を見定める様な眼つきになっていた。
だが、その視線に尹は臆することなく真っ向から睨み返す。僅かに、二人の間に緊張感が漂い始めた。
その空気を打ち払ったのは永琳の方だ。おもむろに椅子に座ると、尹も座るように促す。彼も、一応黙ってそれに従いそこにある椅子に腰かけた。そして、どこか挑戦的な表情で尹に問いかける。
「貴方には、いろいろと聞きたいことがあるの。それと、確認したいことも。構わないわよね?」
投稿遅れました。予想した以上に大学生活が忙しく、なかなか執筆時間が取れずにいたので……
これからもスローペースの投稿となりますが、よろしくお願いします。
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第4話 人里にて
尹は今、人里の中を歩いていた。勿論、背中に刀を背負い、首から大切なお守りを下げた格好で。
どうして彼が人里まで来たのかという理由は、数時間ほど前の永琳との会話にまでさかのぼる。
☆
「なるほど……貴方もなかなか奇特な人ね」
「望んでこの世界に留まる事が、そんなにおかしいか?」
「えぇ。貴方のように、自分の命を捨てに行くような行動をした人は私は聞いたことないわね。あぁ、いや、話だけなら他にもう一人だけいたかしら」
「いるもんだな。いつの時代も、俺のような阿呆が」
「そうね。それはそうと……貴方、薬代は払えるのかしら?」
「金なら博麗神社の賽銭箱に全部ブチ込んだよ。どうせ、金なんて必要ないと思ったしな」
「やれやれ……霊夢が目を輝かせて喜んでるさまが目に浮かぶわ……まぁ、それはそれとして最低限薬代は払ってもらわないとね。これでも、一応商売としてやっているわけだし」
☆
そんなわけで、薬代を稼ぐために人里に出て仕事を探すことになったのだ。里の風景は古き良き日本の時代をそのまま再現したようなものだったが、外の世界から来るのは人だけではなく技術や文化もまたしかりのようで、カフェなどと言った尹が見慣れているものも多少形を変えているが存在していた。
辺りを見回しながら里の中を歩き回る尹は、しかし完全に周囲から浮いた存在になっていた。それは勿論、服装のせいである。彼が洋服を身に纏っているのに対して、里の人間は皆浴衣を着ていたのだ。そして、背中に背負った刀も彼の存在を周囲から浮き立たせるのを助長していた。
「ねぇ……あの人、外来の人じゃない?」
「そうだね、見たことない顔だし」
「刀なんて背負って……物騒な人」
「眼つきも悪いし……変なことしなければいいけど」
里の者の好奇と不安が入り混じった視線を全身に受け、しかし尹はそれらを気にすることなく寺子屋を探す。そんな彼に近づいていくものが一人いた。
「よぅ! この辺りじゃ見かけない顔だけど……どっから来たんだ?」
声をかけられた尹が振り向くと、そこには特徴的なマジックハットをかぶり、片手には箒を持った少女が尹に興味津々な表情を向けて立っていた。
「別に……答えたところで意味はない」
「おいおい……つれないこと言うなよ。まぁ、その恰好を見る限りだと外の人間みたいだけど?」
「分かってるなら聞くなよ。時間の無駄だ」
尹が少女のくだらない質問にウンザリしながら手渡された地図をもとに寺子屋へと歩き続けていると、やがて門に大きく『寺子屋』と書かれた札のかかっている家にたどり着いた。どうやら、本当に勉学を学ぶところらしく中からは女性の説明する声が響く。
「ここって、寺子屋か。アンタ、こんなところに何しに来たんだ?」
「……まだいたのか」
「あぁ、そういえば自己紹介がまだだったな。私は霧雨魔理沙。普通の魔法使いだ」
「魔法使い……ね。その箒も飾りじゃないってか?」
「あぁ! 私にとってはもう体の一部みたいなもんだぜ? こんな風にな!」
そういうなり魔理沙は箒にまたがると、そのまま宙に浮かぶ。これにはさしもの尹も驚きを隠せなかったようで、彼女の姿を見て硬直していた。
そんな彼を見て魔理沙は得意そうな表情をして、辺りを飛び回る。尹は、その姿をただただ見つめることしか出来なかった。
「へっへーん! どうだ、驚いたか?」
「……俺は悪い夢でも見てるのか」
「何を言ってるんだ? ここじゃこのくらい常識だぜ?」
「…………」
魔理沙の発言に、絶句するしかない尹。幻想郷の住人は皆空を飛ぶのかと、その情景を思い浮かべた尹はかぶりを振ってそれを打ち消した。
いくらなんでも、そんなことが目の前で起きたら彼とて正気ではいられなくなりそうだったからだ。最も、魔理沙の言う常識は外来人の尹が理解出来る領域にはないのだが。
しかし、今はそんなことに気を取られている場合でもない。早いところ仕事場所を探して、薬代を稼がなければならないからだ。永琳は彼に『十分に貯金出来てからでいい』と言っていたが、彼としては早いところツケを払っておかなければと感じていた。
それと言うのも、尹にあれだけ好意的に接してくれていた永遠亭の住人を未だ信用できずにいたからだ。勿論、永琳は利息を要求するつもりなど無かったし、薬代も外の世界に比べれば破格の金額で要求したが、尹を騙して金をだまし取ろうなどとは微塵も思っていなかった。そんなことをしたところで意味がないからである。
だが、尹の世界ではそういった不当かつ悪質な金銭問題が非常に多かったため、そういった被害に遭いたくなかったのだ。
最も、ここまで来ると慎重だとか思慮深いなどではなく人間不信といっても差支えないレベルだが、尹はそれを自覚していなかった。一人で過ごす時間が圧倒的に他人よりも多く、かつ親しい間柄の人間がほとんどいなかった彼は、人を信頼することが出来なくなっていたのだ。彼にとって信頼できる人物は今は亡き彼の祖母、たった一人しかいなかった。
兎にも角にも、まずは寺子屋にいる上白沢慧音という人物に会わなければならない。そう気を取り直した尹は、相変わらず得意げな顔をしている魔理沙を尻目に黙って寺子屋へと入っていった。
「……なんだアイツ。随分と冷めた奴だな」
「あら、魔理沙じゃない。珍しいわね、こんなところで」
「お、霊夢じゃないか。そっちこそ珍しいな、人里まで下りてくるなんて」
一言たりとも挨拶をせず寺子屋に入っていった尹を見送る魔理沙に声をかけたのは霊夢だ。普段、神社でのんべんだらりと過ごし、賽銭箱の中身が少ないことを嘆きながら自称貧乏生活を送っている彼女が、珍しいことに食材やら茶葉やらがたくさん入った竹籠を提げて魔理沙の前に現れた。
魔理沙はそんな霊夢を……というより彼女の提げている籠の中身を見て一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに何かを期待しているかのように問いかける。
「今日は珍しくたくさん買ったんだな! 近いうちに宴会でもやるのか霊夢?」
「そうね~。つい最近うちのお賽銭にたくさんお金を入れてった人がいたから、嬉しくてついたくさん買っちゃったのよ」
それを聞いた魔理沙は心底驚いたような表情をした上に、大声まで上げてしまった。
「えぇぇっ!? あの神社の賽銭箱に大金が入ってただって!?」
「な、なによ! たまにはそういう人がいたっておかしくないでしょ!」
「これはこれは大スクープじゃないですか!」
言い争う霊夢たちの所に現れたのは文だった。彼女もまた、新聞記事のネタを見つけられたことで機嫌がよく、ニコニコしながら文花帖とペンを取り出して二人の前に降り立つ。
そんな文を見て、おもむろにスペルカードの発動宣言の準備に入る霊夢たち。ただでさえあることないこと書かれて、妙な噂が立ちそうになっている等の迷惑を被っているというのに、その上こんな笑顔で現れて来られたのだから、今回こそはお灸を据えてやろうと身構えたのだった。
「あややややや!? いきなりそれはないですよ二人とも! いくら私でもお二人のスペルカードをまともに受けたら無事では……」
「大丈夫でしょ、妖怪なんだし」
「それに、ここ最近退屈だったしな。たまには撃っとかないと鈍っちまうぜ」
「えぇぇぇぇぇ!? そんなちょっと待ってくだ……」
『問答無用!! 「霊符!」「恋符!」』
「そんなぁぁ!」
「夢想封印!!」「マスタースパーク!!」
慌てて文が上空に舞い上がるも時すでに遅し。彼女を狙って発動された霊夢の夢想封印のホーミング弾に翻弄され、自慢の速度でスペルカードの射程圏外に逃れることが出来ずにいるところを魔理沙がマスタースパークで追撃する。
二人の見事なコンビネーションに、為す術無く文はスペルカードの餌食となってしまったのだった。
「ふぅっ! これで少しすっきりしたわ」
「いやぁ、久々にマスタースパーク撃ったらすげーすっきりしたぜ。やっぱり弾幕はパワーだな」
「アンタはパワーがありすぎなのよ。文が飛び上がったから良かったものの、あのまま私たちの目の前から動かなかったらどうするつもりだったの?」
「勿論、そのままぶっ放してたぜ?」
「魔理沙! アンタねぇ!」
「嘘! 嘘だって! 全く霊夢は冗談が通じないなぁ!」
魔理沙の冗談とも言えないそれに、険しい表情をする霊夢。それを笑って冗談だという魔理沙に、霊夢はため息をつくしかできなかった。けれど、それは彼女たちにとっていつも通りのやり取りでしかない。それを分かっているからこそ、魔理沙は冗談に聞こえないそれを遠慮なく口にできるし、霊夢もいちいち感情を爆発させることもないのだ。
形はどうあれ、そこには紛れもない友情があった。怠け癖のせいでろくな修行をせず、けれども有り余る才能のおかげで凄まじい実力を持つ霊夢と、陰ながら努力をしたことで霊夢に肩を並べるほどの実力をつけた魔理沙。まるで正反対の彼女たちだが、その絆はことのほか強いものだった。
「まぁ、冗談はそのくらいにしておいてだな。いつ宴会やるんだ?」
「どうしようかしらねぇ……宴会をやるとなると準備も片づけも全部私がやらなきゃいけないからなぁ……」
「いつものことだろ?」
「アンタもたまには手伝いなさいよ!」
「お前たち……そういう会話を昼間から寺子屋の前でするな」
そう言って宴会の話題で盛り上がる霊夢と魔理沙の元に一人の女性が現れる。彼女こそ、尹が探していた人物、上白沢慧音だった。
整った顔立ちに出るところは出て、引っ込んでいるところは引っ込んでいる、男性が見たなら思わず目を奪われるような姿の彼女はしかし、険しい顔をして二人を睨んでいた。
「お、慧音じゃん。お前も宴会に参加するか?」
「魔理沙、ちょっとこっち来い」
「?」
慧音に呼ばれ、不思議そうな表情をしながらも魔理沙が彼女に近づいた途端、慧音はおもむろに魔理沙の頭を両手でガシッ! と掴む。その瞬間、魔理沙が「げっ!」と声を上げ、霊夢はその顔を引き攣らせた。
何をされるか理解した魔理沙は慌てて慧音の手を振りほどこうともがくものの、常日頃からそれを行っている慧音の力は想像以上に強いのかびくともしない。
「な、なぁ慧音……私たちは別にそこまで悪いことは……」
「お前たち、さっきスペルカード使っただろう?」
「べ、別に何かを壊したわけでもないんだから私たちは無実だぜ……?」
だが、魔理沙の弁明も空しく慧音は自らの頭を振り上げた。魔理沙の瞳が思い切り見開かれ……そしてゴツンッ! という音が辺りに響き渡る。
慧音が魔理沙にやったのは頭突きだ。寺子屋で里の子供たちに勉学を教えている彼女はよく宿題を忘れてくる子供に頭突きを食らわせているのだが……それが滅茶苦茶痛いと里の子供たちから恐れられているのは既に有名になっていた。
当然、異変が起きては弾幕ごっこをしている魔理沙と言えどもその威力は到底耐えられるものではなく、声なき悲鳴を上げながらその場にうずくまる。そんな彼女を見て、霊夢はさりげなく自分の住処に帰ろうと回れ右をして空に飛び立とうとして、出来なかった。
「霊夢、お前には一度しっかりと子供たちに巫女の仕事と言うものを教えて貰わなければと思っていたんだ。せっかく寺子屋の前まで来たんだし、丁度授業も休み時間が終わる頃なんだが……勿論構わないよな?」
そう言って霊夢の肩をつかんでいる慧音は満面の笑みを浮かべていた。……普段、神だろうと誰だろうと臆することなく立ち向かう彼女でさえ寒気を感じるほどきれいな笑みを浮かべた慧音が。
あまりにもどす黒いオーラを出して微笑む慧音に、首を縦に振らざるを得なかった霊夢だが、しかしそこは怖いもの知らずの巫女である。不機嫌そうな態度を隠すこともなく慧音に自分たちがなぜこんな目に遭わなければならないのか問いかけた。
「慧音、たかがスペルカード撃った位で何をそんなに怒ってるのよ?」
「たかが? 霊夢、冗談もほどほどにしてくれ。お前も魔理沙も、さっき手加減なしで撃っただろう? もしあれが空に舞い上がっていた文ではなく里の人や建物に当たったら大惨事だったんだぞ!」
「大丈夫よ、私達だってそこまで馬鹿じゃないわ」
本当に大丈夫だと保証できるのか、甚だ怪しい態度でそう答える霊夢に大きくため息をつかざるを得ない慧音。つくづく、霊夢たちにはもう少し力を持っている、という自覚を持ってほしいと願う慧音だったが、魔理沙も霊夢もそんな自覚を持つような人間でないことは既に分かっていることだった。それゆえに、慧音は再びため息をつく。
「……アンタが上白沢慧音か? 仕事を紹介してもらいたいんだが」
「……君は? 見たところ外来人のようだが」
そんなため息をつきながら寺子屋に入った慧音に声をかけたのは尹だった。実は、声をかけようにも授業終了直後で勤勉な子供の質問に答えていた慧音に声をかけるにもかけられず、教室の前で壁に寄り掛りながら待っていたのだ。しかし、そんなときに霊夢たちがスペルカードをぶっ放したため、その音で外に飛び出した慧音に声をかけることが出来ずその上珍しい格好をしている尹に子供たちが興味を示してしまったため、動くに動けなかったのである。
その為か尹は現在非常にストレスが溜まっており、初対面であるはずの慧音に向かって挨拶もなしにいきなり要件を切り出していた。
そんな尹に慧音はムッとしたが、そこは教鞭を振るうものとして大人の対応を試みる。子供たちの前で感情に振り回されるのは物を教える者としてあるまじき行為なのだから。
と、そこでやや意外そうな声を上げたのは霊夢だった。
「……アンタ、生きてたのね」
「……おかげさまでな」
「霊夢、知り合いなのか?」
「まぁね。それより、私の話が聞きたいんでしょ? やるなら早くやりたいんだけど」
「あ、あぁ……そうだな。と言うことだ、すまないがしばらく待っていてくれないか? 客間の方でくつろいでいてくれて構わないから」
「チッ……」
ほんの一瞬で終わる用事だと思っていたことが、予想外に時間のかかる事へ苛立ちを隠せず舌打ちをしながら、しかしどうしようもないことを悟り大人しく慧音の案内に従う尹だった。
そんな尹を、どこからか覗き見る者が一人。
「さて……これからどう動くのかしらね?」
彼女は静かに微笑む。しかし、その眼は決して穏やかなものではなかった。
次回更新はかなり先になりそうです。かなり予定が立て込んできたので……
それでもこの小説を楽しみしてくれている方がいるのならば、出来るだけ早くあげられるようにしたいと思います。
また、誤字脱字の指摘や感想などもお待ちしております。
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第5話 抑えられない感情
霊夢と慧音が教室で講義を行っている間、一人客間で待たされることとなった尹。無礼な態度をとったとはいえ、客は客だとでも言うのか慧音が茶菓子を出してくれた。が、尹はそれに手を付けることなく中庭を眺めがながら刀を抱いて座り込んでいた。流石に、茶菓子に毒物の類を混ぜるなどと言った無駄なことをするほど慧音が愚かでないことは彼自身分かってはいる。だが、かといって他人の好意に甘えようなどと言う気は毛ほども起きないようだ。
「静かなところだな……」
中庭を眺めながら尹は一人そう呟く。勿論、すぐ近くの部屋で霊夢たちが講義をしているから彼女たちの声や子供たちの声、そして里から聞こえてくる音などがあるから決して静かなわけではない。
にもかかわらず尹が静かだと言ったのは、彼の世界に比べれば幻想郷の喧騒など圧倒的に静かであることに他ならない。
毎日のように救急車や消防車、飛行機などと言った乗り物の音を筆頭に、様々な音が飛び交う外の世界に比べれば、尹にとって幻想郷はとても静かな場所に感じられた。それこそ、この場所が楽園に感じられるほどにまで。
「ふっ……楽園か。くだらね」
たとえこの場所が外の世界に比べ楽園に感じられようと、楽園になることはない。尹は、すぐにそう考えを改めた。
確かに、もう彼を馬鹿にする鬱陶しい虫けらも居なければ、面倒なだけの学校に通う必要もない。巷で流行っていたゲームや漫画と言った娯楽に尹はそれほど興味を持たなかったから、それがないであろうこの世界で娯楽に関して物足りなさを感じることもないだろう。
けれど、この世界を楽園と呼ぶには決定的に足りないものが一つあった。いや、足りないものという表現は間違っているだろう。正確には、『失ってしまった』ものだから。
どこか悲しげな色をした瞳で尹は刀の鍔をほんの少しだけ押し上げる。鞘から僅かに顔を見せた白銀の刃は、そんな彼の顔を歪ませて彼の顔を映し出す。刃に映った尹の顔は、どこか怒っているかのように見えた。まるで、彼を叱るかのように。
それを見た尹は、自嘲気味に刀を鞘にしまうと一転して中庭の方を睨みつける。
「盗み見とは、感心しないな。もう少しマシな趣味を持つことを進めるぜ?」
「あやや……バレてましたか」
いかにもワザとらしく失敗しましたと言いたげな表情で物陰から出てきたのはところどころ服が破けてボロボロになった文だった。服などは深刻なダメージを食らっても、そこは妖怪。肉体面ではそれ程問題はないらしい。とは言え、流石に霊夢たちと弾幕ごっこをするだけの体力は残っていなかったが。
しかし、彼女はこれでもプライドの高い天狗の一人である。間違ってもそれをたかが人間である尹に言うつもりも、ましてや悟られるつもりもなかった。もっと言えば、手負いの自分であっても尹程度の人間に勝つことなど赤子の手をひねるよりも楽だと確信していた。事実、彼は三対一という不利な状況に立たされていたとは言え低級の妖怪に殺されかかったのだから。
「で?」
「はい?」
「何の用だ。用が無いなら消えろ。目障りだ」
目の前にいる人物がよもや自分の約千倍生きている天狗だとも知らずに、
文も文で、尹の無礼た態度は大して気に留めていないようだった。確かに文のプライドは高いが、それに見合うだけの実力を兼ね備えている。それ故か、弱者である尹の高圧的な態度に一々反応するほど安っぽいプライドは持ち合わせていないようだった。
そんな余裕たっぷりな態度をとる文が気に食わないのか、尹は刀の鍔を押し上げ暗に脅しをかける。これ以上無礼た態度をとったら斬るぞ、と。
ところが、文はそんな尹を見てどこかおどけた様子で両手を前に出して弁解をし始めた。どうやら彼の脅しはまるで意味を為していないようだ。
「あやや!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 私は何もあなたを怒らせに来たのではないですって!」
「…………」
「いやいや! ほんとですから!! だからその刀を納めてくださいってば!!」
どうにも信用できないが、このまま刀をちらつかせていても相手が立ち去ってくれないということを悟った尹は、刀を納める。
それを確認した文は、セールスマンもびっくりの営業スマイルで尹に近づいておもむろに手帖とペンを取り出した。
「で、私はあなたにお話が聞きたいのですよ!」
「話?」
「あ、申し遅れました。私、ここ幻想郷で発行されている
「ふぅん……」
文の自己紹介に、冷たい目線を注ぐ尹。よくもそんな痛々しい自己紹介が出来るものだと呆れを隠すことすら馬鹿馬鹿しく感じられた。
そんな尹の目線も何のその。文は自己紹介を済ませるや否や、早速本題に入った。そう、これこそが彼女が今日ご機嫌だった一番の原因である。馴れないことをしてまで、尹の命を救った文の目的は彼に取材すること。その時が、ようやく訪れたのだ。
「では、いくつか質問させていただきますね」
「断る」
早速、壁にぶち当たる文。とは言え、これまでの尹の態度からこうなることはすでに予想済みだったのでそれ程驚くことはなかったが。
しかし、ここで引き下がるつもりは毛頭ない。折角見つけた新聞のネタなのだ、断られて「はい、そうですか」と諦められるはずがなかった。
「まぁまぁ、そんなことを言わずに少しだけでも……」
だが、何しろタイミングが悪かった。先程の一連の出来事のせいで、自分の思ったように事が運ばずストレスが溜まっていた尹の怒りがここにきてついに爆発してしまったのだ。
「しつけぇな! いい加減目障りなんだよ、さっさと消えろ!!」
気づいたときには遅かった。尹は、自分ですら止めることが出来ずに刀を抜刀していたのだ。……それも文の首筋に向かって真っすぐと。
彼女の首に刃が食い込まんとする瞬間、そこで初めて尹は己が何をしてしまったのかに気づく。だが手遅れだ。一度全力で振りぬかれたソレは止まることなど出来はしない。後はもう、目の前の少女の首をはねることしか出来ないのだ。
しかし、刀が文の首をはねることはおろか掠ることすらなかった。尹にとっては信じられないことだが、文は彼の抜刀を避けたのだ。それも、予備動作なしかつ尹が視認できないような速さで。
安堵と驚愕の入り混じった感情を抱えながら、辺りを見回す尹の頭上から突如声が降ってきた。
「初対面の人に、随分なことをしてくれますね! 私じゃなかったら死んでましたよ、今の」
「……!! こいつも飛行可能か……!」
魔理沙の言葉の意味を少しだけ理解できたことで、忌々しげに顔をゆがめる尹。一方の文はそれほど怒っているようでも、慌てているようにも見えなかった。むしろ、どこか喜んでいるように見える。
勿論、文が決して痛めつけられることを快楽としているような異常者と言う訳ではない。ただ単に、何の知識もなしに低級とは言え三匹もの妖怪を屠った彼の実力の片鱗をその眼で見ることが出来たからに他ならないのだ。
「純粋な人の身でありながらその抜刀速度、なかなか目を見張るものがありますね?」
「…………」
「お話、聞かせてもらえますか?」
「……ちっ!」
その舌打ちが答えとなった。当然、それは肯定の意を表す舌打ちだ。
尹にとってはいささか不満だが、相手は自身の恐らく最速であろうあの抜刀を軽々と避ける相手である。腕に自信が無いわけではないが、戦闘になれば彼に勝ち目は万に一つもないだろう。
第一、相手は空を飛べるうえにどういった戦い方をするのかも分かっていない。そんな相手に刀一本で挑んだところで勝率は限りなく零に近いのは尹にだって分かっていた。
となれば当然、相手の要求を呑むしかないのである。今この状況で最も自分にとって不利益を被らない選択肢はそれしかないのだから。
☆
「いやぁ、中々興味深い話でした。ご協力、感謝しますよ」
「要は済んだか? なら帰れ」
「あやや……冷たい方ですね。いいじゃありませんか、もう少し位お話を……」
「アンタは……また墜とされたいの?」
もう少し話を聞かせてほしいと尹にせがむ文に向かって明確な脅しをかけたのは霊夢だった。どうやら、子供達への講義は終わったらしい。だが、彼女の隣に慧音はいなかった。
「おい、あの女はどこにいった?」
「あの女? あぁ、慧音なら子供たちの見送りよ」
「ちっ……ガキなんぞ放っておけばいいものを」
「まぁ、良くも悪くもしっかり者だから許してあげなさいよ」
寺子屋を訪れたのは他でもない慧音に仕事の仲介を依頼するためだった。それなのに、先のスペルカード騒動に霊夢の講義、極めつけは鬱陶しいことこの上ない新聞記者の取材だ。なかなか進む気配を見せないこの状況にいい加減我慢の限界を感じていた。
そんな尹を見た霊夢が、呆れたように声をかける。
「アンタ、何をそんなにイライラしてるの?」
「お前には関係の無い話だ」
「ふうん……意外と短気なのね。そんなに自分の思い通りに事が運ばないのが不満?」
「なんだと……?」
勿論、霊夢は尹の心が読めるわけではない。しかし、そう確信するのに十分な要因はあった。
「アンタ、私が来る前にここに来てたんでしょ? で、なおかつ慧音に用があったと」
「…………」
「でも、私達がちょっと騒ぎを起こしたせいで目的は果たせなかったのね」
「…………」
尹は何も言わない。ただ黙って、霊夢をにらみつけるだけだ。
そんな彼をだるそうに見ながら霊夢は己の推理を淡々と述べていく。
「さらに慧音が私に話をしろと言ってきて、アンタは除け者。極めつけはそこのパパラッチの取材を受けた。で、ようやく終わったかと思えば私一人」
「…………」
「まるであからさまに避けられているように感じるかもね。でもまぁ、仕方ないんじゃない?」
「あぁ?」
霊夢の言葉に、もはや殺気すら漂わせ始める尹。はっきり言って、彼は霊夢が気に入らなかった。何でも見透かしたようなその態度に、どこか自分を見下しているような眼。一瞬、それが彼の世界にいた馬鹿共と被って見えさえした。
その瞬間、抑えがたいモノが彼の中で膨れ上がる。見たところこの世界に外の世界ほど法律は厳しくなさそうだ。ならいっそ、気に入らない奴はこの手で黙らせればいい。恐らく、外より面倒な事にはならないだろうと尹は考えた。
それは、かつて彼が必死に抑え込み続けてきたもの。
『邪魔なら消す。五月蠅ければ黙らせる』
極めて単純、かつ決して許されない問題の解決方法。即ち、暴力による解決だ。
大抵、こう言った偉そうな奴ほど口だけで実際はただのこけおどしにしか過ぎない。それが、これまで尹が見てきた連中に共通していることだった。
奴らは、こちらがすこしでも攻撃の意志を見せると途端に目が泳ぎ始め、おどおどし始める。口では威張っているものの、怯えているのが丸わかりだった。挙句の果てには教師や親と言った後ろ盾を使って逃げるのだ。それもあって、彼は今までこの解決方法が出来ないでいた。
それを行うことはつまり、自分を社会的に破滅させるということだからである。流石に、自滅をするほど尹も愚かではない。
ところがどうだ、目の前に立つ少女はまるで怯える素振りも見せない。むしろ、どこか呆れたような雰囲気すら漂わせている。尹には、それがこの上なく気に入らなかった。
一方、霊夢は面倒な奴が外から紛れ込んだものだと内心で大きなため息をついていた。この手の人間は、怒らせると手が付けられなくなるのだから。
スペルカードルールを彼が知っているならば、彼を止めるのは容易い。だが、仮にそうでなかった場合はこれまた面倒なことになってしまう。
どうしたものか、と霊夢が考えているところに慧音が戻ってきた。
「すまない、待たせたな……ってこら! 何をしている!?」
「あ? がぁっ!?」
「う、うわぁ……派手に決まりましたね……」
「文、アンタまだいたの?」
「勿論、なかなか面白いことになりそうでしたから!」
いったい何が起こったのか?
霊夢と睨み合っていた尹は、半ば無意識に鯉口を切っていたのだ。つまり、いつでも抜刀できる状態になっていた。
そこに慧音が戻ってきた。慧音から見たら、尹が霊夢に斬りかかろうとしているように見えたに違いない。それゆえ、彼女は尹に渾身の頭突きを食らわせたのだ。
「あ……つっ………………」
「お前は! 一体今何をしようとしていた!?」
「慧音、落ち着きなさい。彼、気絶したわよ」
「はっ! 私としたことがつい……」
緊急事態だと誤認した故か、手加減し損ねた慧音の頭突きの威力はただの人間の尹には強すぎるものだったようで、完全に気絶していた。
それを見て頭を抱える慧音と、ため息をつく霊夢。文はいつの間にかその場から姿を消していた。大方新聞記事の作成のために帰ったんだろう。
「とにかく、この少年が目が覚めるまではしばらく待つしかないか……」
「そうね。じゃあ、後は任せたわよ慧音」
そう言ってそそくさと帰る霊夢を見送り、慧音は
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第6話 警告と命令
……いいサブタイトルが全く思いつかないorz
尹が目を覚ました時、彼の視界には再び見慣れない天井が映っていた。痛む頭を押さえながら、体を起こし辺りを見回す。
(いつつ……ここは……寺子屋?)
自分がどこにいるのかを確認した尹は、そこで自分の身に何が起こったかを思い出した。
(そういや、博麗と睨み合ってるところにあの女が頭突きをしてきたんだったな……)
剣の師でもある祖母に竹刀ではたかれた時の痛みと同じくらい……いや、明らかにそれ以上のものだったと考え直しながら尹は昔を思い出す。
まだ祖母が健在だったころは毎日のように剣術の指南をされていたのだが、少々過激すぎるのではと見ているものが思ってしまうほど彼の祖母の指導はスパルタそのものだった。
足の踏み込みや一瞬の判断ミスでさえ許さず、間違えようものなら容赦なく竹刀が振り下ろされる。勿論、それを防御するのも練習の一環だったのだが、防御をすればさらに追撃を入れて来たので結局はたかれるのがいつものことだった。
一歩間違えれば虐待と言われても仕方のない指導に、しかし尹は逃げ出さなかった。無論、逃げ出すことを考えたことは何度もある。実際に家を飛び出したことだって少なくない。けれど、その度に祖母に連れ戻されては剣を振るうことの何たるかを聞かされて、最後には優しく抱きしめられていた。
まさに飴と鞭による教育であることは尹自身分かっていたつもりだ。人によっては祖母は批判されるのかもしれない。それでも彼は剣術を続けた。それは、説教の後の抱擁や、時折祖母の見せる優しさから愛を感じていたからだ。
たったそれだけで、と言う人も多いだろう。だが、早くに両親を亡くし、友達を作ることが苦手だった尹にとってはそれだけで十分な理由だった。
そこまで考えて、尹は首を振る。
(俺はもうあの頃の俺じゃない。ここにいるのは『木野 尹』だ)
昔のことを考えてセンチメンタルになった自分を、そして過去を捨て去るように心の中で呟く尹。確かに普通の子供に比べれば不幸な日々を過ごしていたかもしれない。
しかし、今はもうそんなことなどどうでもいい。ここ、幻想郷では外の世界の頃の過去等あってないようなものだ。今更昔のことに想いを馳せたところで何の得にもならないし、誰かの賛同を得られるわけでもない。だから尹は過去を捨てた。自らの名前さえも。
だが彼は気づいていなかった。自分が命よりも大切にしている刀やお守りが、自身を過去に縛り付けているということ、そしてそれを心の拠り所にしている以上は過去を捨てたことにはならず、ただ過去から逃げているに過ぎないということに。
一通り思考をした尹は、外がいつの間にか暗くなっていることにようやく気付いた。どうやら、かなりの時間気絶していたようだ。
どうやら慧音は別の部屋にいるらしく、尹のいる部屋にはいなかった。
とにかく、彼女に仕事を紹介してもらわなければならない。本来ならもっと早くにその目標が達成できていたはずなのだが、と心の中で毒づきながら尹は立ち上がり……そして違和感を感じた。
(……刀が無い。あのアマ取り上げやがったな……)
そこで尹はあることを思い出した。それは霊夢を睨みつけている時無意識に鯉口を切っていたような気がしていたということだ。それは言わずもがな彼女を斬ってやろうかと考えていたからに他ならない。
が、そこに慧音が戻ってきたのだ。となれば頭突きされた理由も、刀が手元にない理由も納得がいく。
どの道彼女に会わなければならないようだ。慧音とはほとんど会話をしていないが、これまでの彼女の行動から面倒なことになる予感しかしなかった。
しかし、そんなことで一々足踏みをしている場合ではない。早く慧音と話をつけなければ、そう考えた尹は襖を開けて慧音を探し始めた。
結論からすると、慧音はすぐに見つかり仕事場もあっという間に決まった。だというのに、尹は不満なことこの上ないと言った表情をしている。
「そんな顔をしたって無駄だ。今のお前を一人で里に出すわけにはいかない」
「チッ……!」
そう、仕事場とは他ならぬ寺子屋であったからだ。どうしてそうなったかと言うと、昼間からの尹の態度や行動から下手に彼を里の人間たちの元で働かせたらひょんなことでトラブルを起こしかねないと慧音が危惧したからである。
だが、寺子屋で働かせれば直ぐに慧音が対処可能なのだ。いざとなれば妹紅にお目付け役を頼めば簡単に黙らせることができるだろう。最も、彼女はそうならないことを祈っていたが。
一方の尹は、思いもしない職場を与えられたことに不満が隠せなかった。ただでさえ人と関わるのが嫌いなのに、よりにもよって幼子達に学を教えなければならないからだ。
当然、相手が相手だけにそれほど難しいことを教えるわけではない。精々簡単な読み書きや計算だけである。唯一幻想郷の歴史に関しては慧音一人でやることになるが、そこは致し方ない。幻想入りして数日の人間に歴史を語れと言われても土台無理な話なのだから。
だとしても、尹にとっては拷問にも等しい仕事であることに違いはない。小さな子供はある意味彼にとって最も苦手な相手ともいえるからである。悪気のかけらもなくただただ純粋に彼に絡んでくるのがその理由だ。それ故に、こちらにとって不快な事であろうと堪えなくてはならない。
外の馬鹿どものように悪気があり、かつ同年齢または年上であれば喧嘩両成敗に持っていけるので痛み分けも可能だが、相手に悪気が無ければそれは不可能だ。万が一こちらが何かしら攻撃的なことをしてしまえば、非難の目はこちらにだけ向けられてしまう。
また、鬱憤が溜まっていきそうだと尹は大きなため息をついた。しかし、外にいた頃よりは深刻には考えていなかった。いざとなれば里の外にいる妖怪の一匹ぐらい切り刻んでしまえばいいと思っていたからである。
無論、今度は一対一で、だが。
「それじゃあ、早速明日から授業に参加してもらうからな」
「…………」
「分かったか?」
「……へいへい」
本当に分かっているのか、と言いたげな表情でこめかみを抑える慧音などこれっぽちも気にする様子も見せず、尹は部屋を後にした。
そんな彼の後姿を見て慧音はどこか憐れむような表情をする。当たり前だが、背を向けている尹にそれは分からない。むしろ、分からなくてよいものであっただろう。気づいてしまえば、彼が気を悪くするのは火を見るよりも明らかだからだ。
「……誰かに似ている、とでも考えたのか?」
「……妹紅、いつも言っているだろう。人の家にお邪魔するならちゃんと挨拶をしろと」
「それなら今部屋を出ていったアイツにも言ってやれよ。どこの誰だか知らないけど、こっちを睨むだけ睨んでさっさとどこかへ行ったぞ?」
尹が出ていくのとすれ違うように入ってきたのは慧音の親友である
「私に似てると思ったんだろ?」
「ん……まぁ、そうだな」
「慧音も失礼な奴だなぁ。流石に私だってあそこまで人を睨んだり殺気漏らしたりはしないぞ?」
「ははは……済まない。でも、可哀想な奴だとは思ったよ」
「そうだな……見る者全てが敵って目だった。……確かに、昔の私と似てるかもな」
妹紅もまた、蓬莱の薬を服用して不老不死になってから一時は荒んだことがある。己の愚行を死ぬほど後悔しながらも、不老不死という身のために人々と交わることもできずにいた彼女を理解者するものが現れなかったからだ。流石にそんな状態が何百年と続けば、荒れてしまうのも当然だろう。
だが、今はこうして慧音と言う親友を得、幻想郷と言う特殊な空間のおかげで普通の人間にも恐れられることも、もうない。彼女にとっては、まさに楽園のような場所であることは明白だった。
そんな妹紅から見た尹は昔の自分を思い出させるには十分だったのかもしれない。
「なんだか湿っぽくなっちゃったな。酒でも飲もうか、慧音?」
「程ほどにさせてくれよ? 明日も授業なんだから」
「分かってるって」
そして二人は静かに盃を交わして、夜空を眺めながら飲み始めた。
☆
「……だりぃ」
慧音と妹紅が盃を交わしている頃、尹は夜空を見上げながらため息をついていた。その理由が言わずもがな、だが。
無事に第一目標を達成した尹であったが、こんな方向に話が転がるとは夢にも思っていなかった。ただ、慧音の言い分に納得している自分がいたのも事実である。
確かに、全く知らない人達と共に仕事をして何のトラブルも起こさずにいられる自信はなかった。
とは言え、やはり対人系の仕事をすることには抵抗を覚えざるを得ない。これまでロクに他人と話そうともしなかったのに、いきなり勉学を教えろ等と言われても困るというものだ。
明日からのことを考えて再びため息をついた尹の目の前の空間が突然裂ける。反射的に飛び退き、いつものように左手を腰の辺りに持っていて気づいた。
今、彼の手元に刀はないのだ。理由は勿論、尹がカッとなって人を傷つけないようにと慧音が没収したからに他ならない。
(くそっ! これじゃあ不測の事態が起きたらどうすんだよ!)
決して素手で戦えないわけではないが、やはり馴染みの得物がないと落ち着かないしどことなく不安を感じるのは抑えられなかった。
そんな警戒心をあらわにした彼をなだめるような声が、裂けた空間から響く。
「あらあら、そんなに警戒しなくてもいいわよ? 私、怪しいものじゃないから」
「顔も見せない奴が怪しくないと自称しても説得力に欠けんだよ」
「あら、それもそうね。うふふ」
どことなく胡散臭さを漂わせる声で笑ったその声の主は、裂けた空間から上半身だけを出して尹に挨拶をした。
「こんばんは、木野尹さん?」
「…………」
「あら、そんな露骨に敵意を見せなくてもいいじゃない」
「……初対面の奴に自分の名前を知られていて警戒しない馬鹿がいんのかよ」
「ふふふ、どうかしらね?」
色っぽく微笑する目の前の女性に、しかし尹はどこか嫌悪感を抱く。何故なら、とても彼女が真面目に会話をしようとしているようには見えないからだ。どこか、演技めいたものを感じる。
しかし、そんな彼女の表情は一変して真面目なものへと豹変した。どうやら、こちらは演技ではなく本気のようだ。
「さて、今日貴方に会いに来たのは他でもない警告をするためよ」
「あ?」
「貴方、さっき霊夢に……博麗の巫女に斬りかかろうとしたでしょう?」
「…………」
「いい? この世界は私と彼女で保っているようなものなの。だから彼女に危害を加えるようなことは絶対にしないで頂戴」
実際は里の人間たちに形式的にとは言え危害を加える妖怪と、それを退治する人間、自らへの信仰を力の源にしている神などと言った全ての要素があって幻想郷は成り立っている。
しかし、そんな彼らが存在していられるのも一重に博麗の巫女と妖怪の賢者たる彼女が管理する博麗大結界が外の世界とここを隔てているからなのだ。
つまり、結界の維持の要たる巫女を殺すことは誰であろうと許されない。それは、幻想郷を滅ぼそうとするのと同意義だからだ。故に、それはすべての妖怪の間で暗黙の了解ともなっていた。
だが、ここに来て日が浅い尹はそんなことを知らない。故に、目の前の彼女を知る者が見たなら自殺行為とも言える発言をしてしまった。
「……万が一俺が断ると言ったなら?」
「殺すわ。今ここで」
「即答か」
「幻想郷はすべてを受け入れるわ。でも、この世界に仇なす輩は誰であろうと私が許さない」
「神であっても?」
「勿論。たとえ強大な力を持った神だろうと、幻想郷を滅ぼすつもりなら私はそれ相応の対処をさせてもらうわ。場合によっては道ずれにしてでも消すわよ」
事実、以前博麗神社に無断で要石を埋め込み神社の支配を企てた天人の少女を亡き者にしようと本気で戦ったことがある。それ程にまで彼女の幻想郷に対する愛情は深いのだ。
尹は、一応その警告に耳を傾けることにした。何故なら、警告に従わなければ殺すと明言した目の前の女性(少女のような外見ではあるが間違っても少女とは呼べない雰囲気を醸し出していた)の眼光がハッタリでないことを表すに十分な鋭さを秘めていたからだ。
「……一応、承知したと言っておくさ」
「一応? 絶対よ。これは警告であると同時に命令でもあるのだから」
「命令? アンタに命令される筋合いはないだろうが」
「言ったでしょう?
「家主に従わない奴らも世の中には大勢いるだろ」
「そう……どうやら、一度痛い目に遭わないと分からないようね」
言うが早いか、目の前の女性――幻想郷の管理者、
そんな彼を余所にスキマに手を突っ込んだ紫はある物を彼に向かって放り投げる。それは彼の刀だった。
「……なんのつもりだ?」
「その刀が無いと貴方まともに戦えないんでしょう? 貴方の出しうる力をもって私に挑むといいわ。サービスよ」
「……後悔するなよ?」
「あら、そんな玩具で私に勝てると思ったら大間違いよ?」
「玩具だと……!!?」
この刀を侮辱されるということは、尹にとって自分を、祖母を、そして家族を侮辱されるのと同じだった。何よりも愛した自分の家族を馬鹿にされて黙っていられるほど彼はまだ大人ではない。たとえその言葉が挑発するためのものであったとしても、だ。
一方の紫はつまらなそうな表情をしていた。何故なら、既に勝敗は決したからである。
「ほえ面かかせてや……っ!?」
「……つまらないわ。それがあなたの全力?」
体を動かすということには総じて全身の動きを一致させる必要がある。歩くこと一つであっても、足だけ動かしていたのでは動きにくくなってしまう。腕を足の動きに合わせて振って初めて無理のない力加減、および最小限の負担で歩くことができるのだ。
つまり、抜刀一つにしても腕の動きだけでは最大威力を出すどころか、何一つ切れない。となれば当然足の踏み込みが重要になる。それは、尹には当たり前のことであって完全に体に染みついた動作だったが、彼の戦闘行為の全てを監視していた紫はすぐにそれを理解していた。
故に、彼が足を踏み込む場所にピンポイントでスキマを開いたのだ。そして、床と彼の足の境界を同じにする。これで、尹の右足と床は同じモノとなってしまった。無理に動かせば彼の足は二度と使えなくなるだろう。
「てめっ…! 何をした!?」
「あら、私にほえ面をかかせてくれるんじゃなかったの?」
「この……!!」
何とか右足を引き上げようとする尹だが、境界を弄られてしまっている以上どうしようもない。動かそうとすれば動かそうとするほど彼の足に痛みが走るだけである。
必死に足を引っ張り上げようとする尹を見て、紫は見下したような表情で彼を嘲笑した。
「あれだけ大見栄きっておいて、無様なものね」
「調子に乗るなよこのくそ野郎……!」
「負け犬が何を言ってもただの戯言ね。面白くもなんともないわ。精々そこで愉快に喚きなさいな」
「てめぇ……!!」
何とか紫に一矢報いろうと必死になる尹だが、それはもはや誰の目から見ても憐れみを誘うほど滑稽なものだった。そして、その自覚がある彼は余計に怒りを覚える。
目の前で自分を見下しながら嘲笑う紫も彼の怒りを余計に煽り……ついに限界が訪れた。
「ふっざけんなぁぁぁぁぁ!!」
その途端、彼を中心に衝撃波……のようなものが発生するが、なにも吹き飛ぶことはなかった。だが、確かに風圧のようなものを感じた紫は、そこで大きく驚く。何故なら自分が展開しようとしたスキマが掻き消されたからだ。
(今のは!? 彼には能力を消す力なんて持っていないはず……)
いきなり全力疾走した時のように肩で息をする尹を、ただ見下ろすことしか出来ずにいた紫はすぐに我に返る。今、彼は怒りから叫び声をあげたのだ。流石に慧音たちが何事かとこちらにやってくるであろう。
別にばれたところでそれ程彼女に不利益があるわけではないが、刀を勝手に彼に返したこともある。慧音と鉢合わせたらそのことについて詰問されるのは明白だ。
そんなことに付き合うつもりなど紫にはこれっぽちもない。故にお得意のスキマで逃げようとして……できなかった。スキマが開けなかったのである。
(嘘!? 私の能力が使えないですって?)
慌ててもう一度手を振るが、スキマが開くことはなくただ空しく空を切る音が辺りに響いたのみだった。
一方の尹は、いつの間にか紫のすぐ近くにまで歩いてきて先程の紫と同じように嘲笑っていた。どうやら、能力がかき消された時彼の足も自由になったらしい。
「さっきまでの余裕はどこに行ったんだ?」
「あら、まだ私の方に分があるって分からない?」
「あ?」
スキマは使えなくなったが、それを差し引いても紫はかなりの実力者である。それも幻想郷の中でも最強の一角を担うほどの。
流石の彼女でもこの事態は想定外だったが、それでも勝敗はすでに決まっている。
あたかも、虚勢を張っているかのように見せながら紫は尹の後ろに妖力で作った弾を生成する。いつも彼女が弾幕ごっこに用いる弾だ。紫色に輝くそれは、当然他に明かりの無いこの状況では光源になってしまう。
つまり、作った瞬間彼女が自身の弾が放つ光に照らされてしまうことになるがその程度彼女にとってはどうでも良かった。
「!?」
「遅いわよ」
「がッ!?」
当然、突如現れた光源の方向を向く尹だがその時には既に着弾していた。それなりに威力の込められていたものらしく、その場に膝をつく尹。
そんな彼を見下ろしながら、紫は再び手を振る。今度は、スキマがしっかりと展開された。
(ふぅん……効果は長くないみたいね。まぁ、面白いものが見れたから良しとしましょう)
「それじゃあ、命令はちゃんと守ってもらうわよ。もし逆らうなら次は無いと思いなさい」
言うだけ言って、紫はスキマとともに姿を消す。後には、膝をついたまま動けずにいる尹と、物音に気付いて走ってきた妹紅と慧音の三人が残されただけだった。
次回は未定です。早めにあげたいとは思っていますが、いろいろ立て込んでいるのでまた半月は更新できないかと……
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第7話 意外な一面
まぁ、それでもクオリティはイマイチですが……サブタイトルも思いつかなかったし……
それでは第7話、どうぞ
不本意ながら寺子屋で臨時の講師をやる羽目になったこと以外特に変化の無い一日が無事に終わり、霊夢は縁側に腰掛け月を見ながら茶を啜っていた。勿論、今日新しく買い足した少し高価な茶葉を使っている。
「ふぅ……ちょっと高いのを買うだけでこんなにおいしくなるものなのね」
「そうねぇ。貴女がいつも入れる三番煎じのお茶と比べると何倍もおいしく感じるわ」
「あぁ、いつも茶葉を使いまわしてるからそう感じる……って紫、何勝手にお茶飲んでるのよ」
あたかも当たり前のように霊夢の隣に腰かけ、茶を啜っている紫にやや不機嫌そうな表情をする霊夢。無論、折角の新しい茶を一人で楽しんでいるところに水を差されたからである。ついでに言うと、自分の分の茶が減ったから、と言う理由も混ざっていたりする。
そんな霊夢のことなど大して気に留めず、おいしそうに茶をすする紫。実際、おいしいのだろう。湯呑の中の茶が無くなったことに気づくと、少々残念そうな表情をした後、さも当然のように急須の中に残っている茶を自分の湯呑に注いだ。
そんな紫を見て、もはやため息しか出ない霊夢。紫のこういった振る舞いは、今に始まったことではない。一々彼女の自分勝手な行動に目くじらを立てていたらこちらの身が持たなくなってしまう。それに、いずれ魔理沙を始めとする神社の訪問者の胃袋に消えて行ってしまうのだ。気にするだけ無駄だろう。
そう結論付けた霊夢は、紫の態度にツッコむことをあきらめ、自らも茶を啜る。そして、湯呑を横に置きながら紫に問うた。
「で、何の用?」
「あら、よく分かったわね。私が話したいことがあるってこと」
「アンタが私の所に来るときは大抵何かしら用事がある時でしょ」
「うふふ。確かに、そうかもしれないわね」
霊夢の言葉に対し静かに笑う紫は、しかし真剣な眼つきをしていた。彼女の眼つきを見て、霊夢も多少真剣な目をする。どうやら、それなりに真面目な話のようだ。
「何故、あの外来人を外に帰さなかったの?」
「アイツが拒否したのよ。一度言い出したらテコでも動かなそうな感じだったし、神社の外が危険だと警告もちゃんとしたわ」
「でも、彼は生き残ったわ。まぁ、どこかの天狗が気まぐれを起こして助けたからだけど」
どこかの天狗、とは言わずもがな文のことである。その紫の言葉にどこか納得したような表情をする霊夢。
「なるほど。それで今日文がやけにご機嫌だったのね。あの外来人に取材できるから」
「ネタになるなら何でもやるっていうのはあながちウソでもないかもしれないわね。こっちからしたらいい迷惑だわ。おかげで監視対象が出来ちゃったんですもの」
「アンタはどうせ藍に任せっきりでしょ」
「あら、バレた?」
扇子で口元を隠しながら
「まだよく分からないけど……彼、能力持ちみたいね」
「……あの馬鹿が?」
「えぇ。それも結構厄介なやつみたい」
そう言いながら紫はつい先刻のことを思い出す。尹を中心に発生した風圧を受けた直後、ほんのひと時だったとはいえ自分の能力が使えなくなってしまったあの瞬間のことを。
もう千年近く生き続けてきた紫ではあるが、尹のような能力を見たことはなかった。最初に彼の能力が発現したのは、低級の妖怪との戦闘時。妖怪の攻撃が当たる正にその瞬間、異質な音が辺りに響き妖怪たちが吹き飛ばされた。
二度目は先程紫が尹と対峙した時。今度は、彼の周囲の物は何も吹き飛ばなかったがその代わりに紫は能力が使えなくなってしまった。これまで一度も自らの能力を破られたことのない紫にとっては屈辱的ですらあったあの一瞬。だが、十数秒経つ頃にはスキマも開けるようになっていたし、弾を生成できたことから妖力を封じられたわけではないようだ。
それでは一体、彼の能力の何が彼女の能力を奪ったのか? それが分からなかった。そして、そのことが余計に紫を苛立たせる。
「……紫? ちょっと、紫!」
「……え、あ……何かしら?」
「何かしら、じゃないわよ。どうしたの? そんな怖い顔して。紫らしくもない」
霊夢のその言葉にはっとする紫。どうやら相当に剣呑な表情をしていたようである。慌てて取り繕うように笑った紫は、しかしまだ苛立っていた。余程、先刻の出来事が屈辱的だったようだ。
そんな紫を見て、茶菓子を取りに行く霊夢。こういう時の彼女はあまり下手に絡まないほうが良いことを知っているからだ。天人の娘である
今回はその時には遠く及ばないにしろ、やはり下手に突っつきまわすのは良くないと持ち前の直感で察した霊夢。故に茶菓子を取りに行くというお題目でその場をいったん離れたのだ。丁度、彼女が用意していた茶も急須に残っていなかったから、と言うのもあるが。
茶を淹れている間、霊夢は尹について考えていた。紫をあそこまで不機嫌にさせた彼の能力に興味が沸いたのだ。最も、興味が沸いただけでそれについて調べる気にはならなかったが。
いずれ、誰かが彼女の元にソレを知らせに来ることはわかっていたし、あんな短気な輩と付き合っていたらこちらの命がいくつあっても足りない。お賽銭を納めてくれたことには感謝しなければならないが、出来ればこれ以上尹と関わるのは御免被りたいと感じていた。彼と関わっていればいらぬ争いに巻き込まれかねないのは目に見えていたからだ。
だが、彼女の勘は近いうちに再び彼と会うことになると告げていた。
☆
尹が目を覚ました時、辺りは既に明るくなりかかっていた。どうやら、あの戦闘行為の後気を失っていたらしい。
まだ靄がかかったようにぼんやりとした意識のまま、体を起こす。体がとても重い。まるで、文字通り鉛でも詰め込まれたかのような感覚だった。
だが、今日から早速寺子屋で講師として働かなければならない。たかが体が重く感じるくらいで休むわけにはいかなかった。
再び寝転がりたいという願望を無理やりねじ伏せ立ち上がる。足元がいまいちおぼつかないが、一歩ずつ確実に歩を進めて部屋を出た。気絶した彼を布団に寝かせてくれたのは慧音だろうが、まだ完全に日が昇ったわけではない。彼女はまだ寝ているだろうから挨拶は後回しで構わないだろうと思った尹はまず顔を洗った。
冷たい水で顔を洗ったことでぼやけていた意識が覚醒する。だが、体のだるさまではどうしても取れなかった。どうやら、思った以上に昨日の出来事が堪えているらしい。
この程度で、と舌打ちをしながら振り返ると一人の少女が彼の前に現れた。妹紅である。
「お、目が覚めたんだな」
「……アンタは」
「昨日寺子屋の中ですれ違っただろ? あぁ、名前は藤原妹紅だ」
「
「いや、
まるで昔の時代の人間だと言っているようなその言葉に、尹は怪訝な顔をする。この時点では勿論妹紅が不老不死であることを彼は知らない。
となれば、彼女の名前に違和感を感じるのは避けられないことだった。彼の世界に
だが、今現在目の前には実際に昔の藤原姓を名乗る少女がいる。自ら名乗る時点で偽名を使う意義はないだろうし、嘘を言っているようにも見えない。となれば、彼女はタイムトラベルでもしたのだろうか。
そんなことを尹が考えていると、妹紅が居心地が悪そうな顔をした。
「私に何かおかしなものでもくっついてるか? あんまりじろじろ見られるのは好きじゃないんだけど……」
「……いや、なんでもない」
「そうか? それならいいけど」
どうやら、不快感を与えるほど相手を凝視してしまったようだ。誤魔化すようにガリガリと頭をかきながら妹紅の横を通り過ぎようとした時、背後から声がかけられる。
「アンタ、名前は?」
「……木野尹」
「尹か。ま、これからよろしくな」
「…………」
妹紅の言葉に対して特に返事をすることなく、尹はその場を後にした。そんな彼を見て、妹紅はどこか暗い表情をする。
それは、かつての……いや、現在の自分と被るからだろうか。明らかに他人との距離を取ろうとする尹を見て、まるで自分のようだと思わずにはいられなかった妹紅。彼女も、以前ほどではないにしろまだ他人と距離をとってしまう。宿敵であり悪友の輝夜や親友の慧音とは親しくできるものの、そうではない里の人とはやはり距離を取りがちなのだ。
自分のような常軌を逸した存在が恐れられないとはいえ、やはり自分は普通の人間ではないと言うことがそうさせてしまうのだろう。反面、慧音のような半人半妖と言った特殊な存在とは気兼ねなく付き合うことが出来た。博麗の巫女こと霊夢や魔理沙も人間ではあるが、彼女たちも明らかに里にいる普通の人間とは一線を画す存在である。故に彼女たちともそれなりに友好関係を築くことが可能だった。
だが、尹はどうだろう? 彼はこれと言って特殊な人種でもなさそうだし、霊夢たちのように何か力を持っているわけでもないように見える。それに、慧音から聞いた話では人妖問わず友好的ではないらしい。
それは、昨日すれ違った時に彼から送られた視線からも分かることだった。あの眼は、明らかに他人を遠ざけようとする眼だったのだ。
いつだったかスキマ妖怪が言った言葉がある。『幻想郷はすべてを受け入れる』と。実際その通りだった。外の世界で忌み嫌われる妖怪たちや、自分のようなイレギュラーをも受け入れこの世界は何事もなかったのように回り続けている。だが尹が幻想郷と言う場所を受け入れない限り、彼に居場所はないのではないだろうか。最も、そう思われている本人は自分の居場所などどこにもないと諦観していたが。
☆
尹が妹紅と出会った後、慧音も起きだしてきて朝食を済ませることになった。相変わらず不愛想な尹だったが、朝食が済んだあとに彼の意外な一面が垣間見られることになる。
「それじゃあ木野、この紙を教室に持って行ってくれないか?」
「…………」
無言でプリントを受け取り、黙々と仕事をこなす彼の姿はまさに機械だった。子供達を相手にするには少々人格に問題ありだが大丈夫だろうか、と不安に思う慧音だったがそれは次に彼を見たとき少しだけ解消されることになる。
「にゃ~ん」
「……猫?」
いったいどこから入り込んだのか、尹の前に黒猫が一匹現れた。普通と違うのは尻尾が二本ある、と言うことだろうか。池にでも落ちたのか、ずぶ濡れである。
猫がいることに気づいた瞬間の尹の眼つきはいつも通り鋭すぎるそれだったが、次の瞬間その鋭さは影をひそめていた。そして、おもむろに黒猫の前にしゃがみ込むと右手を差し出す。黒猫は、それに合わせるように彼に近づいて行った。
十分近くまで黒猫が寄ったことを確認した尹は、なんと黒猫を抱き上げるとそのまま慧音の元へと向かった。
当然、慧音と妹紅がそのミスマッチな姿に驚いたのは言うまでもない。
「き、木野……その猫は?」
「知らん。気が付いたら近くにいた。で、こいつずぶ濡れなんでタオルを貸してほしいんだが」
「あ、あぁ……ちょっと待っててくれ」
驚きを隠せぬままタオルを尹に手渡すと、彼は胡坐をかいてその上に黒猫を乗せる。そして、優しくその体をふき始めた。
「意外だな……尹、お前動物が好きなのか?」
「人間と比べて裏表がないからな」
「そうか」
そういった尹だったが、それがただの建前であることは明らかだった。その証拠に今の彼の表情はとても穏やかなものであり、体を拭かれている黒猫も気持ちよさそうにしていたからだ。……ただ、その黒猫の正体を二人は知っているが故に少々険しい表情をする。
その猫は、間違いなく八雲紫の式である八雲藍が扱う式の橙だった。濡れているところから察するに、池か何かに落ちて式が剥がれ、一時的に猫の姿になってしまったのだろう。
式が剥がれても記憶は式神の状態から引き継がれるはずなので、昨日紫が来た以上橙も尹の存在を知っているはずである。昨日の様子からすると、明らかに尹は紫と敵対していたようなので彼に気を許すようなことは普通しないだろうが、尹の膝の上にいる橙はこれと言って暴れる気配も見せない。
だから、二人はやや警戒をしていた。紫が一体何を考えているのかが読めないからだ。彼女は策士であるから、いろいろな人物を駒や囮に使うことが多い。だが、友人や家族同然の式たちを利用することこそすれ、捨て駒として扱うようなことはしない人物でもある。
そのため、何か目的があって橙をここに送り込んだと二人は推測を立てていた。もしくは、単なる偶然か。あるいは、その両方か。
それは、すぐに明らかになった。……寺子屋に半狂乱になって橙の名前を叫びながら八雲藍が飛び込んできたことによって。
つまり、ただの偶然だった。ちなみに、半狂乱の藍を見て尹が思わず戦闘態勢を取ってしまい話がこじれたことをここに記しておく。
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第8話 寺子屋勤め初日
サブタイトルもなかなかいいのが思いつかないためひどいことになってます……
そんなちょっとアレな状態ですが、第8話どうぞ
朝早くから騒がしい場面に遭遇した尹は、時間が経つほどにだるさの増していく体に鞭打ちながら子供達に算数を教えていた。
何のことはない、簡単な加減乗除を教えるだけの楽な仕事だ。これならば、迷子を捜すよりも楽である。
とは言っても、相手は小学校低学年位の年齢の子供達ばかり。比較的年長者である子供達は呑み込みも早く手がかからないのだが、問題は年少組だった。
そもそもの話、年齢別にカリキュラムを変えるか時間帯を変えるかしてそのレベルに合ったものを教えないと教える方も教えられる方も辛いだろうと思う尹だが、所詮はアマチュアで雇われの身。あまりデカイ口を叩けるほど教育に関しての知識もなければ意見するほど慧音の信頼を勝ち取っているわけでもなかった。
「ねぇねぇ尹先生! ここどうやるの~?」
「ん……ここはだな……」
子供から質問をされ、それに対して丁寧に解法を教える尹。その姿は、昨日寺子屋を訪れた時の彼とは正反対の印象を抱かせた。……最も、子供たちを威圧しないように出来るだけ優しそうな態度で接しようと尹は自分の中のわずかな気遣いの心を総動員していたため、彼の精神には多大な負担がかかっていたが。
そんな彼の努力が功をなしたのか、初日から尹は生徒たちから一定の評価は得ていた。むしろ、男子からは憧れの目で見られてすらいる。
理由は言わずもがな、生徒達へ者を教える態度ではなく、昨日彼が腰に背中に刀を背負っていたからだろう。男子に生まれた以上、やはりそういったものにあこがれを抱かずにはいられないようだ。
「ねぇねぇ、尹兄ちゃんは強いのか!?」
「ちょ、ちょっと! ちゃんと先生って呼ばなきゃだめだよ!」
「どっちでもいいさ。それと、俺はそんなに強くはない」
「でも、昨日剣を背負ってたよな!? あれってやっぱり本物か!?」
「そうだ」
「すげー!!」
(やれやれ……)
授業が終わるなり尹の周りを取り囲んだ子供達の質問に出来るだけ優しく受け答えをしながら心の中で盛大なため息をつく。彼らの好奇心は底が知れず、次から次へと質問が飛んできておりなかなか解放されないからだ。
朝から既に疲労しきっていたと言ってもの差支えない程だるかった体がいい加減に限界を迎えそうで、出来れば今すぐにでも部屋で休みたいのだがそれは許されそうにない。かと言って、怒りに任せて子供達を追い払うようなことは出来ないし、そもそもそんなことをする気力すら残っていなかった。
結局、慧音が子供達に帰るように促すまで彼らの質問攻めは続き、終わった頃には尹は顔に現れてしまうほど疲弊していた。
「ふふっ、初めて子供達の相手をして疲れたと言った顔だな?」
「こっちはもうヘトヘトなんだってのに。勘弁してほしいぜ……」
「まぁそう言うな。直になれるさ」
そんな慧音の言葉を聞き流しつつ、自室に向かう。もう本当に限界だった。自室に入り、適当に部屋の隅に座り込むとそのまま目を瞑る。そして彼の意識は闇へと落ちていった。
☆
出会ってから今までの尹の態度から子供達の相手をさせるのに少々不安を感じていた慧音だったが、思った以上に彼が生徒達に対して優しく接してくれたことに彼女は一先ず胸をなでおろすことが出来た。
その上、男子生徒たちも尹を慕い始めている。やはり、男の子は強い存在に憧れるらしい。子供達はまだ彼が刀を振るって戦った場面を見たことはないはずだが、真剣を持っているというだけでも十分強そうに見えてしまうのだろう。かくいう慧音も、彼が戦った場所は見たことが無いがそれなりに腕が立つことは何となく分かっていた。
彼女が昨日尹に頭突きを食らわせた原因がその根拠となる。霊夢に今にも斬りかからんと構えを取ろうとしていた彼のその姿は、とても自然で何度もその構えをとって戦ったような印象を受けたからだ。最も、実際に尹が行った戦闘行為は未だに片手で数える程度しかないのだが。
それでも、それなりの動きが出来ているのは彼の祖母の修行をこなし続けた賜物だろう。週に一回、祖母との手合せを行う時はいつも『殺すつもりで来い』と言われていたため、尹はその言葉通りに師を殺す勢いで木刀を振るっていた。その結果、彼は生き延びることができたのだ。当然、文の気まぐれのおかげでもあるが。
話が逸れてしまったが、要するに慧音が心配していることは杞憂のまま終わりそうであることに彼女が安堵しているということだ。
――彼がいれば自分の負担も減ることだし、いっそのことこのまま歴史以外の授業を請け負ってもらおうか。
そんな考えが慧音の脳裏をよぎるが、それをすぐに打ち消す。それでは、自分が寺子屋を開いた意味がない。慧音は、人々がよりよく生きていけるように、そして少しでも知識を蓄えることで過ちを起こすことが無いように寺子屋をやっているのだ。それなのに、こちらに来て数日しか経っていない外来の少年に寺子屋のほとんどを任せる等、職務放棄にも等しい。
(それに、彼は絶対にそんなことは了承しないだろう)
明日の授業に使う資料を整理しながら、慧音はそんなことを考える。尹の性格はどう見ても、あまり人と接するのは得意ではないと見える。今は彼がしっかりと人々と問題なくコミュニケーションが取れるようになるまで自分の目が届くところに居させる、ということでここに置いているがそれが出来るようになったら彼には彼のやりたいことをやらせなければならないだろう。
そうなれば、彼がこの場所から出ていくのは目に見えていた。間違っても、人にモノを教えるのが好きな人柄では無い。どちらかと言えば黙々と作業をするのが好きそうなイメージだ。
とにかく、しばらくは授業を手伝ってもらうことになるだろうがその後のことも考えておかなければならない。が、今はまだそこまで考える必要もないかと思った慧音は資料の整理を黙々と続ける。
そんな彼女の元に、訪問者が現れた。
「慧音、いる~?」
「霊夢か。どうしたんだ?」
「急で悪いんだけどさ、今日宴会やることにしたわ。だから、日が暮れるころに神社に来て頂戴」
「昨日の魔理沙との会話か……」
「そうそう。よくよく考えたら、昨日私が買ったあの量の食材を腐らせる前に処理するにはこれしか方法が無いのよ」
「そうやって後先考えずに買い物をするから……」
金に困るんだ、と言う慧音の言葉を遮って霊夢が口を挟む。
「あ~、お説教なら閻魔に頼むからアンタまでお小言言うのはやめて」
「ほう、閻魔達も呼んだのか?」
「そんな訳ないでしょ。そもそも、呼んだってあの二人はいつも来ないじゃない」
そう。霊夢自身を含め多数の妖怪から苦手意識を持たれている閻魔こと四季映姫・ヤマザナドゥは宴会に呼ばれること自体少ないのだが、たとえ呼ばれたとしても彼女の部下である死神の小野塚小町のサボり癖に対する説教で来ないのだ。小町自身は宴会に行きたがっているのだが、そのために自分の職務を放棄しようとし、それを映姫が説教するため宴会に来ないというのがいつものパターンである。
その上、呼んでもいないのにさりげなく宴会に来ては説教をしてくるのだから宴会参加者としては堪ったものではない。
「とにかく、そういうことだから」
「しかしいくらなんでも急じゃないか? 日が暮れるまであとそんなに無いぞ」
「仕方ないでしょ。今日のお昼の時に気がついて思いついたんだから」
「やれやれ……分かった。日が暮れたらそっちに行くよ」
「あ、そうそう」
慧音の返事に、何かを思い出したかのような素振りで振り返る霊夢。
「あの外来人、連れてこないほうがいいかもしれないわよ」
「どういう意味だ?」
「な~んか紫が彼に目をつけちゃってるらしくてねぇ。下手したらその場で文字通り解体されかねないから」
「まさか。流石にあのスキマ妖怪もそこまで見境を無くすようなことはしないだろう」
「う~ん……ま、それもそうか。最終的にはそっちの判断に任せるからね」
「ああ。それじゃ、後でな」
はいはいと言いながら霊夢はオレンジ色に染まりかかってきた空に向かって飛翔する。神社の方向へ彼女が飛び去っていくのを見届けた慧音は、一先ず尹を起こしに彼にあてがった部屋へと向かった。
障子を開けると、部屋の隅で刀を抱きながら座って寝ている尹の姿が見えた。余程疲れていたのか、ぐっすりと眠っている様でスースーという寝息が部屋に響いている。
そんな彼の姿が数少ない自分の親友の寝る姿と被って見え、思わずため息をつく慧音。折角布団が押し入れに入れてあるのだから、せめてそれを敷いてそのうえで寝ればよいのにと思わずにはいられなかった。
兎に角、宴会のことについて聞くだけ聞かなければならない。そう思って、慧音は尹のそばにしゃがむと優しく彼の肩を叩いた。
「木野、木野? ちょっと話したいことがあるんだが……」
「ん……んん……?」
「起きたか?」
「……なんだ? もう授業はないはずだろ……寝かせてくれよ……」
「いや、授業じゃないんだ。日が暮れた頃に、霊夢が宴会を開くと言っていてな。それに行くかどうかの確認だけ……」
「パス」
「即答か……」
まぁ、この様子では仕方がないか。と心の中でそう呟き、慧音は立ち上がる。
「それじゃあ、夕飯は台所にある食材で何とかするか里のどこかで食べてくれ。金は下駄箱の所に置いておくから」
「了解……」
どうでもいいから早く寝かせてほしい、と言わんばかりの態度で返事をした尹を見てため息をつきそうになる慧音。最も、彼でなくとも断るような気もするがその場合はきっと遠慮から来る答えであって、決して宴会が嫌いだからとか面倒くさいからと言った感じの理由ではないだろう。尹の場合は間違いなく後者である。
それはそれとして、これで図らずとも霊夢の警告通り尹を宴会に連れて行かずに済みそうだ。もし連れて行って紫とトラブルになる可能性があるのなら、むしろこの方が良かったのかもしれない。
……そう思っていた。この時は。よもや、この選択が裏目に出る等この時の慧音にはこれっぽっちも考え付かなかったのである。
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第9話 宴会にて
日が完全に暮れ空に星が瞬き始めた頃、慧音は妹紅と共に博麗神社へと降り立った。
既に準備はあらかた済まされており、他の参加者もそれなりに集まりつつある。恐らく、宴会が開始されるまでそれ程時間はかからないであろう。
「お、来たな二人とも」
「魔理沙か。……って、お前もう酒飲んでるのか? ちょっと早すぎだろう」
「堅いこと言うなって。宴会は楽しむもんだぜ、慧音?」
「そうよ。宴会はいつも騒いでなんぼなんだから」
そう言いながら神社から酒瓶を持ってきたのは霊夢だ。きっと今回も準備のほとんどを彼女がしたのだろう。少々疲れた表情をしていた。また、魔理沙に同意するような言葉とは裏腹にどこか面倒くさそうにしている雰囲気もある。それもそうだろう。本来妖怪が来ないはずの博麗神社に一癖も二癖もある妖怪たちが集まってどんちゃん騒ぎをするのだから、面倒なことが起きないはずがない。
それも、中には幻想郷のパワーバランスを担っているような大物までいるのだ。そんな大物が一か所に集まって平穏に過ごせたらばそれはそれで異変である。
とは言え、自分が主催の宴会なのだからそんなに面倒くさそうな雰囲気を出すものではないのではないかと思ってしまう慧音だった。
「そういえば、あの外来人は連れてこなかったのね」
「ん? あぁ、木野は疲れてたみたいでな。確認したら『行かない』と即答されてしまったよ」
「ふうん? ま、アイツが来ると雰囲気ぶち壊されそうだったし、よかったわ」
「…………」
霊夢の歯に衣着せぬ物言いに思わず声を荒げてそんなことはないと反論しそうになった慧音だったが、否定もできないので拳を握りしめることで我慢した。実際、彼を連れてきたところで参加者たちの輪の中に入れるかと聞かれたならば答えがNOなのは明らかである。それでも、今日一日木野尹という人物を見てきた慧音は決して彼が悪い人間だとは思えなかった。むしろ、本当は人と関わることが好きなのではないか、とすら思えたのだ。
慧音とて、自分の人を見る目が確かであると確信できるほど自惚れているつもりは無い。けれど、子供達に教える時、気を使っていたのか冗談を交えながら教えていた(ただし真顔で物騒な冗談を言ったためそれと気づかなかった慧音に叩かれたが)尹の姿を見て、少なからず彼が他人とふれあうことを心の底から嫌っているわけではないということが分かった。
そんな尹のことを考えている慧音の近くで魔理沙が霊夢に問う。
「なぁなぁ、その『木野』ってのはそんなにイカレてるやつなのか?」
「そうね、少なくとも自分の命を顧みずに境内から出ていく位イカレてるわ。というか、アンタアイツに会ったことなかったっけ?」
「そうだったか? ……あぁ、昨日寺子屋に入っていった外来人か」
「今は私が寺子屋で保護しているよ」
「へー。で、アイツはどこにいるんだ?」
そんな魔理沙の問いに、さっき慧音達が付いてこなかったって言ったでしょうと霊夢が突っ込みを入れる。
それを聞いた魔理沙は少しばかり残念そうな顔をした。
「ちょっと残念だぜ。折角いろいろ聞いてみたかったんだがな」
「やめときなさい。アイツ、ちょっとしたことで怒り出すから」
「そんなに酷いのか?」
「ひょんなことでカッとなって刀振り回しそうになるくらいにね」
「口より手が先に動くタイプか……鬼たちと相性がよさそうだな」
そう言って魔理沙は笑いながら酒を煽る。慧音は魔理沙の言葉に何とも言えない感情を抱いたが、これ以上ここにいない者のことを考えていても仕方がないと思い自分も酒を飲むことにした。
☆
慧音達が博麗神社に到着したころ、尹は未だに部屋の隅で小さくなって眠っていた。慧音には夕食は台所の食材を使って何か作るか外食をしてくれと言われていたが、尹はそのどちらもやるつもりはなかった。
つまり、彼は夕食を食べずにこのまま眠るつもりなのだ。慧音に知られたのならば間違いなくお小言をもらうことが確定してしまうだろうが、そんなものは今の彼にとって些細な問題でしかない。とにかく、今日の朝からずっと続いている体の倦怠感を早くなくすために休んでいたかった。
お節介な家主もいない今、それを行うことは簡単なことだ。布団を敷いて寝ようかとも思ったが、一度座り込んでしまった以上再び立ち上がる気力はもうなかった。
「あらあら、随分とまた変わった睡眠のとり方ね? まるで蓬莱人形のよう」
「!?」
闇に沈みかかった意識が、一瞬にして覚醒する。聞き間違えるはずがないその声は、昨日いきなり尹に攻撃を仕掛けてきた紫のものだった。
当然、意識の覚醒と共に刀を握りしめていつでも抜刀できるように構えをとる。
「うふふ……安心して。今日は別にお仕置きをしに来たわけじゃないから」
「……八雲…紫……!」
「あらあら、いつの間に私の名前を?」
「ここの家主に聞いた。それだけだ」
「ふうん?」
「で……また
紫を睨みつけながら放った尹の言葉に、紫はクスクスと笑いながら答える。
「闘う? まさか。仮にそうだとしてもそれはただのワンサイドゲームにしかならないから、闘いとは言わないわね」
「…………」
紫の態度に若干の殺意を抱くが、事実昨日戦闘した時に尹は手も足も出なかった。一瞬、自分を中心に放たれた何かを受けた彼女が驚愕していたからそれを出すことが出来れば一撃当てることくらいはできるかもしれない。だが、自分でも何をしたのかよくわかっていないものをそう都合よく出せるはずもないので、結果的にここで戦ったとしても再び負けることは必至だった。
となると、戦闘は出来るだけ避けたほうが良いというのは明らかだ。しかし、紫の目的が分からない以上、下手に警戒を解くわけにもいかない。故に、尹は刀を握りしめたまま紫に問う。
「……何が目的だ」
「貴方の持っている力について、何か教えてほしいのよ」
「力? 何の話だ」
紫の言葉に怪訝そうな表情をする尹。力とはいったい何を示しているのか、彼にはイマイチ分からなかった。勿論、思い当たることはある。ここに迷い込んだ直後に襲ってきた妖怪たちとの戦闘中、絶体絶命の彼を救った不可思議な現象。そして、昨日の戦闘の時に自分から発せられた何か。それらが全て彼自身の力で起きたものならば……
だが、尹は別に意識してこれらの現象を発生させたわけではない。そもそもの話、自分があれを発生させた確証があるわけでもないのだ。そんなものについて聞かれても、答えられるわけがない。
紫も、尹が自身の力に気づいていないことを察したのかそれ以上問い詰めることはせず、代わりにため息を一つついた。
「まぁいいわ。いずれ、分かる日が来るでしょう」
「…………」
「そんなに睨まないで頂戴。貴方が私の警告をしっかり聞いてくれている限り、手は出さないわ」
「信用できねぇな」
「はぁ……頑固ねぇ。いいわ。折角だから、貴方も一緒に飲みましょう」
「ナニ?」
尹がいったい何の話をしているんだと言わんばかりの表情をした途端、彼の足もとにスキマが開かれた。
「なっ……!?」
「外来人一名、御案内~」
なすすべもなくスキマの中に落ちていく尹を見ながら、心底楽しそうにそう言った紫もまたスキマの中に消えていく。そして、寺子屋には静寂だけが残された。
☆
「それにしても、文が情報ばらまくとこうも簡単に人が集まるもんなのね」
「私は幻想郷最速のブン屋ですから」
急遽決行を決めた宴会なのにも関わらず、博麗神社にはいつも通り大勢の人妖が来ていた。勿論、文が自慢のスピードで幻想郷中を駆け回り情報をばらまいたおかげである。
こういう時だけは忌々しいあのスピードも役に立つものだと心の中でつぶやく霊夢。
「顔に出てますよ霊夢さん」
「こっち見んなパパラッチ」
「あやや……酷い言われようですね」
「そう思うならもっとまともな記事を書くことね」
私はいつも真実を伝えていますと憤慨する文を無視して霊夢は境内のある場所を見据える。何故なら、もう飽きるほど感じた感覚がそこからしたからだ。
そして、その直後そこにスキマが開かれる。が、そこから現れたのは予想外の人物だった。
「がッ!?」
「なっ!? 紫……何を考えてるのよ……」
大きなため息をつきながら言った霊夢の言葉に、スキマを使って後ろから現れた紫が答える。
「うふふ、頑固な彼とちょっと親睦を深めようかと思って」
「……アンタの考えてることが分からないわ」
紫の言葉に呆れる霊夢の視線の先にいるのは、尹だった。いきなりの空間転移にいささか混乱している様で、辺りをぐるぐると見回している。それだけなら、何の問題もなかった。
問題だったのは、そんな彼に近づいた人物である。
「怪しい奴! 何者だ!」
「? ッ!?」
尹がその人物の方を向くと同時に、辺りに甲高い音が響く。それは、刀と刀がぶつかり合った音だった。
その場にいる全員が鍔迫り合いをしている彼らに目を向ける。その中で、尹は驚愕していた。何故なら、彼に襲い掛かってきた人物は見た目彼と同じか年下の少女だったのだから。
名も知れぬ少女は尹にむき出しの敵意を隠そうともせず問う。
「貴様、一体何者だ!」
「この世界は斬りかかってから挨拶をするのが常識なのか!?」
「質問してるのはこちらだ!」
「答える義務はない!」
「この……人間風情が!」
「ガキが…!」
徐々に二人から発せられるソレは敵意から殺意へと変わっていく。ぎりぎりと金属同士が擦れる音だけが辺りに響いていた。尹が現れたことに気づいた慧音が、慌てて止めようとするがそれは妹紅に止められた。
「妹紅!」
「慧音、今アイツらの気をそらすようなことしたらどっちかが大けがするぞ」
「だが、木野では妖夢殿には……」
そう慧音が言いかけた時、妖夢と呼ばれた少女の方が動き出した。絶妙なタイミングで力を緩め、尹の刃を横に捌いて返す刃で彼に斬りかかる。が、尹も黙ってやられるわけにはいかなかった。捌かれるのを直前で見切った彼は咄嗟に左手を刀から離し、鞘を握る。
「もらっ……」
「甘ぇんだよ!」
そして、迫りくる刃を左手に握った鞘を振り上げて弾く。体勢を崩した少女にそのまま右手の刀で追撃をかけるが、少女はこれを紙一重で避けた。そのまま、彼女は尹から距離をとる。
普通なら直撃させられる一撃を、紙一重とは言え躱されたことに舌打ちをする尹。だが、同時に言いようのない高揚感が彼の中にくすぶっていた。
どうやら、それは相手も同じだったようだ。先程までの敵意と殺意は彼女から消え、代わりにその顔はどこか嬉しそうな笑みを浮かべている。
「貴方、名前は?」
「木野尹だ」
「私は白玉楼の庭師兼剣の指南役、魂魄妖夢」
「剣の指南役……ねぇ。それじゃあ、ちょっとその腕見せてもらおうか」
ここに来て、尹の高揚感は確かなものとなった。祖母が他界し、ずっと一人で修練を積んできた尹の腕をようやくちゃんと試すことができるのだ。目の前の少女がどこまでやれるのか、祖母よりやれるのかどうかは分からないが自分で指南役と言うくらいなのだから恐らく彼よりも強いのだろう。
それでも、尹は妖夢にその実力を見せろと言った。彼は知りたかったのだ。どこまで自分が祖母に近づいたのかを。
そんな彼の想いを察したのか、それとも彼女も彼と想いなのか妖夢は再び構えを取る。それに合わせて、尹は一度納刀した。勿論、逃げるわけではない。抜刀術の構えである。
挑戦的な笑みを浮かべ、妖夢が口を開く。
「それじゃあ、いざ……」
「尋常に……」
『勝負!!』
まず動いたのは妖夢だった。尹に向かって、思い切り地を蹴る。そして、彼女は一陣の突風となった。
「!?」
正に突風だった。尹にとっては視認すら不可能な速度でこちらに向かってくる刃を、彼は本能的に姿勢を低くして躱す。頭のすぐ上を刀が空を切っていく音が鮮明に聞こえる。迷っている暇はなかった。すぐさま、尹は妖夢にタックルを食らわせる。
予想外の攻撃に僅かにたじろいだ妖夢は、避けようと後ろに飛び退こうとしたが既に手遅れだった。見事にタックルを食らい、尻餅をつく。しかし、尹は追撃をしようとはしなかった。否、出来なかったのだ。
タックルを当てることで妖夢の攻撃を中断させることは出来たが、無理な体勢からのタックルをしたせいで自分も態勢を崩していたのだ。そして、タックルした時の勢いを殺しきれずそのまま前に倒れこむ。
「わ……ちょっ……!?」
「ヤベ……」
顔を地面にぶつけるまいと、尹は咄嗟に両手を前に出した。が、それが失敗だった。本来地面につくべきだった手は妖夢の両肩に当たり、結果として彼女を押し倒す形になってしまったのだ。
「…………」
「あ~……その…大丈夫か?」
予想外の状況に混乱しながらも、辛うじてそう言った尹は妖夢から手を放し一歩距離をとる。
「…大丈夫かと聞くなら、起こしてくれてもいいんじゃないですか?」
「男の汚い手なんぞ触りたくないだろう」
この発言に驚いたのは既に彼に会ったことのある者たち全員だった。
「い、異変だわ…」
「こりゃ驚いた。まさかアイツがあんなことを言うなんてね……」
「あらあら…中々可愛いところあるじゃない」
霊夢と妹紅は驚いた表情をし、紫は紫でどこか愉快そうな表情をする。尹は、それらに気づいていながらも特にリアクションを返すようなことはしなかった。
「…まぁいいや。なんか別にここは闘り合うような場所でもないみたいだし。続きは後日改めてだな」
「そうですね。先程はいきなり斬りかかってごめんなさい…」
「全くだ。お前はどういう教育をされてきたんだよ…」
「いやぁ…未だに取りあえず斬りかかれば何か分かるかもって癖が抜けなくて……」
上体を起こし、頭をかきながら苦笑しながらそう言った妖夢の言葉に唖然とする尹。一体どうやったらそういう思考になるのか彼には全く理解できなかった。そんな彼の元に慧音が近づく。
「災難だったな、木野」
「……アンタがここにいるってことは、やっぱりここは宴会場か」
「紫殿に連れてこられたのか。何があったんだ?」
「さぁな。俺の力がどうとかなんとか言われたぜ」
「? お前、能力を持っているのか?」
「そんなものがあるなら教えてほしいね」
慧音の問いにそれだけ返すと、尹は落してしまっていた刀を拾う。と、その途端に彼はその場に膝をついた。
元々朝から体に倦怠感を感じており、調子が悪かったところに妖夢との打ち合いでさらに体に負担をかけたためついに限界が来たのだ。
「お、おい! 大丈夫か!?」
慧音の声をどこか遠くで聞いているような奇妙な感じを受けながら、尹の意識は闇へと落ちていった。
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第10話 尹の能力
「お、おい! 大丈夫か木野!?」
「だ、大丈夫ですか!?」
妖夢との打ち合いの直後、突然意識を失った尹に慌てる慧音と妖夢。そこに、永琳が近寄ってきた。
「ほらほら、ちょっとどきなさい。」
慌てる二人を押しのけ、尹を診る永琳。宴会の真っただ中とは言え、すぐに医者としての顔に変わり、仕事をこなす彼女はやはりプロであると言えるだろう。
ほんの数分、尹の体を診た永琳は慧音達の方を見て口を開いた。
「大丈夫。ただの過労よ」
「過労?」
「そ、過労。まァ、永遠亭で目を覚まして割と直ぐに人里に出て行っちゃったから仕方ないんじゃない?」
そう。尹は永遠亭で意識を取り戻し、その日の昼間には既に人里に向けて出発していたのだ。いくら永琳が凄腕の医者で傷口をいとも簡単に治せると言っても、流石に出血によって失われた体力を回復させることまでは出来ない。
出来ない、と言うのは語弊があるかもしれない。正確には可能ではあるが当然、それ相応のリスクも伴う。そしてそれは、運び込まれた尹に使うにはあまりにも危険すぎるものであったと同時にそれを使う必要性が皆無だったのだ。何しろ、彼が即座に体力を戻さなければならない理由もなければそのような状況でもなかったのだから。
その為、尹の体力は決して万全な物とは言えないまま永遠亭を後にしてしまったことになる。にも関わらず、その日の夕方から今に至るまで大した休息をとることなく連続で負担のかかることを続けてきたのだ。故に、過労で倒れるというのはもはや必然と言ってもいいものだろう。
「しかし…私はそんなに木野に負担をかけるようなことをしていたのだろうか……」
尹が倒れた理由が過労だと分かった慧音は、自分に責任があるのではないかと負い目を感じ暗い表情をする。
だが、それを否定したのは紫だった。
「違うと思うわよ。恐らく、彼の能力でしょうね」
「能力!? 紫殿、彼には能力があるというのか!?」
「落ち着きなさい。私にも、まだわからないのよ」
驚きを露わにし、紫に掴みかからんばかりの勢いでそう問い詰めてくる慧音を苦笑しつつ落ち着かせる紫。一先ず彼女を落ち着かせた紫は、真剣な表情で自身のこれまで見てきたものから導き出される推論を皆に聞かせた。
「……まさか、ソイツにそんな力があったなんてね」
「まあ、
「激しい怒り…要するに感情が極限まで高ぶった時に暴走したっていうことなのか?」
その場にいる全員が気を失い横になっている尹の方を見る。そこにいるのは、何の変哲もないただの少年。服装さえ人里でよく着られている物を着せればそこの人と思わせる事すら可能であろう。
しかし、そんな彼にも今宴会に来ている少女たちと同じような能力を持っているのだ。そのギャップに、一同はいささか驚いていた。
「で、紫。ソイツの能力は以後なんて呼べばいいのよ?」
また面倒事が増えてウンザリとでも言いたげな様子で霊夢が紫に問いかける。
「そうね…まあ、一先ず『モノを吹き飛ばす程度の能力』とでもしておきましょうか。最も、私達みたいに制御できてるわけじゃないから能力と呼ばなくてもいいのだけれどね」
「モノを吹き飛ばす…ねぇ。アンタの能力が封じ込められたのはどう説明するのよ?」
「まだ断言できるわけじゃないけれど、大方『能力』そのものを吹き飛ばしたんじゃないかしら?」
その言葉を聞いた一同が一瞬固まる。万が一彼がそれを制御できるようになった時、この非力な少年は途端に能力を持つ全ての存在の天敵にもなりかねないからだ。『能力』をも吹き飛ばせるというのならば、『存在』を吹き飛ばせる…つまり彼がそう望むだけで命を簡単に奪い取れる可能性もあった。
しかし、それは紫によって即座に否定された。
「安心しなさい。確かに『能力』を吹き飛ばせることは可能だろうけれど、『それ以上』のことは出来ないわ」
その言葉に、霊夢が腕組みをしながら問いかける。
「どうしてそう言い切れるの?」
霊夢の問いかけに薄く笑みを浮かべながら紫は尹を見て言う。
「確かに彼は幻想郷に来てから、連続して厄介ごとに巻き込まれて疲労を溜めていたと思うわ。でもね、この子の感情が限界点まで上がっての最大出力で放たれた能力で、私の能力が吹き飛ばされたの」
「だから?」
「ハクタクさん、今日一日彼を見てて何かおかしいと思わなかった?」
話の流れ的に口を出せずに黙っていた慧音に、突然話を振る紫。やや慌てながらも慧音は今日一日の尹の様子を思い出してみる。
「……そう言えば、やけに疲れた顔をしていたな」
相変わらず直ぐに答えを言おうとしない紫にいら立ちをあらわにしながら霊夢が詰め寄る。
「茶番はいいから、さっさといいなさい。私、宴会を邪魔されて結構イラついてるの」
「あんまりカリカリするとお肌に悪いわよ霊夢」
「ッ! …はぁ、続けて」
「はいはい。で、今のハクタクさんの言葉から推測するに『彼の能力は出力に応じて相応の反動を伴う』ってこと」
「成程、分かったぜ!」
ここで、魔理沙がポンッと手を叩いて声を上げた。
「つまり、吹き飛ばしたい物の規模が大きくなればなるほどソイツの体には負担がかかるってことだな?」
「そういうこと。ただ、物理的に物を吹き飛ばすことはそれ程反動は来ないでしょう。でも、能力や魂…特に彼の世界で『幻想』として扱われるようなモノを吹き飛ばすのには、相当の負担がかかるでしょうね」
いつの間にか、妖夢の後ろに立っていた彼女の主である西行寺幽々子が目を細めながらぼそりと言う。
「ふぅん…それこそ私のように『命』なんかを奪おうと能力を使えば…」
「幽々子の予想通りよ。恐らく、体が反動に耐えきれなくなって彼もいっしょに死ぬでしょうね」
ごくごく普通にそう言い放つ紫にの言葉に硬直する者が数名、別に驚くことなく聞き流すものが大半。『死』等と言う人間にとって恐怖の対象ですらあるその単語が出てきても人でない者達にとってはそれ程大したことに聞こえなかったようだ。
しばしその場を沈黙が支配する。しかし、その沈黙も長くは続かなかった。
「兎に角よ、
「魔理沙…アンタね……まぁいいわ。そうしましょ」
魔理沙の一言をきっかけに、再びがやがやとし始める博麗神社。そこには、先程の真剣な空気など欠片も残っていなかった。…慧音と妹紅を除いては、だが。
「…………」
「驚きだよなぁ。外から流れてくる奴も、それなりにいるけど能力持ちってのは初めてじゃないか?」
「そうだな…私も驚いたよ。何か普通とは違う奴だとは思っていたけれど……」
「ソイツが心配か、慧音?」
「…………」
妹紅の問いに、慧音は答えない。しかし、尹に向けられている彼女の表情を見ればどう思っているかなど誰の目にも明らかだった。
そんな慧音に、妹紅は頭をかきながら言う。
「気持ちは分かるけど、あんまり肩入れしない方がいいんじゃないか? 遅かれ早かれ、ソイツは私達と別れる。違う道を歩むのは間違いない。それに……」
「…それに?」
何かを言いかけて止めた妹紅に、ほんの少しだけ厳しい眼つきをする慧音。妹紅も慧音もお互いに考えていることは同じだったのだろう。即ち、尹の人格からして近いうちに彼女達と衝突をするだろうということだ。
本来は優しい人間であることは、確証と言わずとも今日一日寺子屋で過ごした彼を見れば分かる。だがしかし、根本が優しい人間だとしても今の彼はそれを抑えつけ人を遠ざけたり、感情を抑えきれずにひょんなことから手が出てしまう状態だった。
昨日今日と色々とありすぎて、彼が多かれ少なかれ混乱しているのは想像に難くない。本人にその自覚が無かったとしても、だ。尹の精神状態は今極めて不安定であると言っていい。そして、それは今後しばらく続くことであろう。外の文明世界に慣れきった彼にとって、この世界は想像以上に異質で暮らしにくい場所だろうから。
つまり、幻想郷に馴染むまで尹は爆発寸前の爆弾のようなものなのだ。だからと言って過剰な程丁寧に扱おうものなら逆にその導火線に火をつけることになりかねない。ある意味、爆弾よりも数十倍は厄介な代物である。
けれども、慧音はそれでも尹を保護すると決心してた。元々人間と言う生き物が大好きな彼女だ。見捨てる等と言う選択肢は初めからなかったに違いない。例え彼を見捨てずにいることで何十、何百もの人が犠牲になるかもしれなかったとしても、彼女は恐らく尹を見捨てずに誰も犠牲にならない道を模索しようとするだろう。上白沢慧音という『半妖』はそういう『人間』だった。
慧音はいつか尹が彼女に…いや、自分でなくてもよい。誰か幻想郷の住人の一人だけでもいい。心を開き、信頼できるような存在が彼に出来るまで…彼を見守り支えてあげようと…そう決心したのだった。
この道はきっと険しいものになる。尹が他人を拒み続ける限り、他人も彼を認めてはくれないからだ。それこそ、慧音のような特殊な人間でなければ彼を認めるなど到底無理であろう。何かしらのやり取りは出来たとしても、そこに信頼関係は生まれない。それどころか、陰口をたたかれる方が多くなってしまうかもしれない。
だがそうならないようにする…なったとしてもそのマイナスイメージを払拭できるかどうか……それは尹にかかっている。慧音に出来るのは手助けだけで、結局最後は彼自身の問題になるのだ。
さらに彼は能力を手にしていた。使いこなせるようになれば恐らく霊夢や魔理沙たちと肩を並べられるかもしれない。けれども、強すぎる力は時として恐怖の対象にされる。特に、『弾幕ごっこ』を武器といて『遊ぶ』霊夢たちは力を持っていてもその人格も手伝って恐れられないが、『真剣』と言う武器を持った上で能力を有し、そこに他人を拒むような態度を取れば確実に彼は人々から恐れられるのは確実である。例えその力を人々のために使ったとしても、だ。
霊夢たちが扱う武器は魔力や霊力などから練られた弾幕。美しさを競うそれは、当然それ程殺傷力は無い(物によるが)。だが、尹の刀は違う。れっきとした殺傷用のソレである。弾幕以上に分かり易い人を傷つける道具を持っている時点で恐れられる可能性が跳ね上がるのは確実だろう。何故なら、その用途は『殺す』為の物だから。その矛先が自分達に向いたとしたら。有り得ないかもしれない、けれど有り得るかもしれないIFの話は人を恐怖させるのに十分すぎるほどの効力を持っている物だ。
「人は本能的に自分と違うものを否定し遠ざけようとする……コイツ、苦労するだろうなあ」
「その苦労を少しだけでも肩代わりするのが、私の当面の役目だと思ってるよ」
「あんまりそっちばかりに気に掛けない方がいいと思うよ? 慧音は里の人皆に頼られてるんだからさ」
「まぁ、ね……」
今は辺りの喧騒に目を覚ますこともなく静かに眠っている尹を見つめながら、慧音と妹紅は彼の行く末に一抹の不安を感じつつ再び酒を煽った。
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第11話 宴会から一夜明けて
宴会から一夜明けた翌朝、慧音はいつも通り台所に立って朝食を作っていた。
辺りに味噌汁の香ばしい匂いと米の炊けた香りが漂い始め、その匂いを嗅いだものの食欲をそそる。当然慧音もその一人だ。
自画自賛になってしまうが、慧音は自分の作る料理には自信を持っている。勿論、最初から得意だったわけではないがいつからか料理をすることの楽しみを見つけてからは誰かに料理を振る舞うたびに舌鼓を打って貰えるようになっていた。
彼女の寺子屋の授業は子供達からは不評であるが、彼女の作る料理は子供達には大人気なのである。最も、慧音としては授業も子供達にとって喜ばれるとまではいかなくてももう少しモチベーションを上げられたらな、等と悩んでいるのだが。
そんなことを考えながら、そう言えば今日は寺子屋で授業はしない日だったなと思い出す慧音。尹も昨日意識を失ってからまだ目を覚ましていないので、丁度良かったのかもしれない。起きて早々子供達の騒ぎ声を聞かされたら、彼が嫌な顔をしてしまうのは明らかだからだ。
勿論それをするなと彼には言えないし、言ったところで意味がないだろう。だが、子供達にはあまり見せてほしくない顔だ。ある程度育って、相手のことを考える余裕や知識などが加わってくれば多少はマシになるだろうが、寺子屋に来る子供達の大半はまだそこまで大きくはない。同時に、最も多感な時期でもあるため尹のリアクション次第では彼らを傷つけることになってしまうだろう。
「…そういえば、私はまだ木野のことを全く知らなかったな。聞いたところで話してくれるとも思えないが……」
「教える必要性もないしな」
「……起きていたのなら挨拶位してほしいよ」
「挨拶しようと思ったらアンタの独り言が聞こえたから返答したまでだ」
小さくため息をつきながら慧音は声の主の方へと振り返る。ややダルそうな表情をしてはいるが、ぱっと見たところ大分調子が良くなったように見える尹が立っていた。
「もう大丈夫なのか?」
「まず自分でも何があったか把握できてないんでな。大丈夫かどうかは分からん」
「それだけ軽口がたたけるのなら平気そうだな」
「だがガキのお守りはしたくない」
「心配するな。今日は授業はお休みだよ」
そいつは良かったと呟いてその場を立ち去る尹。入れ替わるように妹紅が台所へと入ってきた。
入るや否や、朝食の香ばしい香りを胸いっぱいに吸い込んで鍋を覗き込む妹紅。
「おー、いつものことだけど上手そうな味噌汁だな。頂きまー…」
「こら。ちゃんの妹紅の分も作ってあるんだからもう少し待っててよ」
「あはは。ごめんごめん。っていうか、女言葉になってるよ慧音」
指摘され、やや顔を赤らめながら慧音は返す。
「妹紅といる時くらい、素になったっていいでしょ。偶には女の子らしくしていたいもの」
「それは私が信頼されてるってとってもいいのかな?」
慧音は答えず、朝食を盛り付けていく。妹紅はそれを無言の肯定ととらえやや照れくさそうに頬を緩めた。
それから慧音と妹紅、そして尹の三人で朝食を取った。当然その時に尹は何故妹紅がここにいるのかを問うたが、妹紅はいつものことだと笑い、慧音も苦笑しながらそれを肯定したので呆れた表情を隠すこともなく尹は納得した。
三人での食事は、実に静かな物であった。尹は尹で特に話す話題もなければ、もとより話すつもりなど無かったので黙々と食べ物を口に運んでいた。慧音と妹紅はお互いに目配せをしながら尹に何か話を振るかどうか迷っていたが、聞いたところで答えてくれそうにもない尹の雰囲気を察したため、二言三言他愛のない会話をしながら食事を楽しんだ。
だが、いずれは尹についても知っておかなければと思わずにはいられない慧音であった。
結局、その後は特に何事もなく一日が過ぎていった。慧音は次の寺子屋の授業に使う資料の整理を。妹紅も朝食後はどこかへと出掛け、尹は慧音の作った資料に目を通したり剣術の練習に励んだりと平和だと言えるだろう。尹にとっては、これが幻想郷に来て初めての平和な一日となった。
日もすっかり落ちた頃、風呂から上がった尹は頭をワシャワシャとタオルで拭きながら廊下を歩いていた。そんな彼の耳に、聞きなれない人物の声と困ったような慧音の声が耳に入る。こんな時間に来客なのかと思いながらも声が聞こえる部屋の前を素通りしようとする尹。慧音が困っているような気もするが、彼が出たところで状況は好転しないだろうということは尹が一番分かっていた。
何しろ幻想郷のことについては未だに分からないことだらけなのである。表面上は平気そうな彼も、今までの暮らしと全くと言っていいほど違う今の生活に馴染むのにかなり精神力を使っていた。いわゆるやせ我慢をしていたのである。
尹が頭を抱えたくなるほどにお人好しな慧音の人格を考えれば、不安等を表に出してしまえば必ずそれをケアしようとしてくるであろう。ただでさえ宿と食事を提供してもらっている上に自分が大した手伝いもできていないという自覚があるだけに、これ以上の負担を慧音にかけるのは流石に不味いだろうという尹の判断故の我慢である。断じて優しさだとかそう言う感情からではなく、需要と供給を限りなくプラスマイナスゼロに近づけたいだと尹は心の中でつぶやいた。
だが、果たしてそれは本当にそんな利己的な考えから来た判断だったのだろうか? 誰かが尹のその弁を聞いたなら間違いなく本当にそうなのかと問いかけるだろう。そして尹は顔色一つ変えずにそうだと肯定するのだろう。しかし、ならばわざわざ心の中でその考えを反芻する必要はあるのだろうか? 尹のそれは、素直に優しさを表現できない不器用な人のやり方にしか見えないものであった。
自室についてから、尹は里の貸本屋である鈴奈庵から借り受けている幻想郷縁起を開いてパラパラと読み始めた。暇な時間に少しでも情報を入手しておかなければ、いずれ自分が不利な状況に持ち込まれる可能性も高くなる。外にいる時も、誰が自分に目をつけているんだとか、どうするつもりらしいといった自分の損得や面倒にかかわる情報だけは確実に入手(最も大体がクラスメイトなどの噂話を小耳にはさむ程度だが)するようにしていた。
不意打ちさえ避けられれば、後はどうにでもなるものである。不測の事態に対しては対処も難しいが、予め心構えが出来ているだけでも立ち回りは楽になる。特に、この本に乗っているような人物や妖怪の特徴を押さえておけば間違えて己の命を危険に晒してしまう可能性もグッと抑えられるのだ。基本的に面倒が嫌いな尹が、空いた時間を積極的にこういったことに費やすのは必然だったともいえるだろう。
どれくらいの時が過ぎたのだろうか。いつの間にか縁側の襖から漏れている月明かりに気づき、尹は本を閉じて縁側に立つ。
「……外じゃあ見れない夜空だよな」
外にいる時は環境汚染なんだか、都会の明かりのせいなのだか知らないが、満点の星空を見ることなど山に行かなければ無理だった。だが、それ程電気も普及していない幻想郷ではおそらくこれが普通なのだろう。彼の目には今まで見たこともないほど美しい星空が映っていた。
外では法律違反であるが、どうやら
善は急げと言わんばかりに、台所に向かおうと自室を出る尹。丁度そこに、部屋から来客らしい男性と慧音が出てきた。どうやら、今の今までまだ話していたらしい。
尹の姿を見た途端に、来客らしい男性…いや、男性と言うには若すぎる。尹が言うのもどうかと思うが、未だ幼さを残した顔立ちの青年の表情が明るくなる。
「やあ! どうも。君が噂の外来人だね?」
「…何の噂だが知らんが、一応外来人ってカテゴリーの人間らしいな」
一体いきなりなんだと言うのだ。目の前の青年は、まるで最初から尹が目的だったかのような雰囲気である。というよりも、どうやらそうだったらしい。後ろの慧音がやや慌てた表情をしているところを見るに、尹との接触は避けたかったのだろう。彼の性格を少しでも理解してくれ、あまつさえそこまで気遣ってくれる慧音にはあとで礼の言葉を述べておかなければならないだろう。
それはさて置き、目の前の青年である。何故か嬉々とした表情を浮かべている彼に尹は戸惑っていた。何か彼らは初対面である。にもかかわらず、この嬉しそうな表情を浮かべる青年。何を考えているのか全く分からない。正直に言って気味が悪かった。
そんな戸惑いを隠せない尹に、青年はあることを申し出てきた。
「君、剣の腕が立つらしいね。僕と一戦交えてみてくれないか?」
「…は?」
「聖治殿…彼はまだここに馴染めていないのです。そんな無茶なことは…」
「慧音さんは黙っていてほしい。僕は里を守る剣士の一族の一員として、彼の実力がどのくらいのものが知りたいのです」
まるで訳が分からない。慧音が里の自警団的役割を担って妖怪からの襲撃などに対処しているということは聞いたし、幻想郷縁起にも書いてあった。それは彼女が半妖と言う特殊な存在であるということにも起因しているのだろう。半分だろうと高名な妖の血が混じっていれば純潔の人間より能力が高いのは当然だ。そこに彼女の性格だ。こういう立場になるのも自明だろう。となれば彼はその自警団の一因だと言うのだろうか。
「僕らの一族は貴女が来る前から里を守ってきた。例え貴女が彼をかばおうとも、里の皆は未だ彼に怯える者もいる。ならば彼が里にとって害をなすものかどうか見極めるのが僕の務めだ」
どうやら違うらしい。この手の連中は真っ向から立ち向かった方が面倒は少ないだろう。下手に逃げればそれはそれでまた突っかかって来るものである。特に一族の誇りだとか大層なことをのたまうような種類の人間は尚更だ。
「時間と場所は?」
「木野!?」
「話が分かる相手で助かったよ。では明日の正午、迎えに来る。そこから里の中央広場で一戦…でどうだい?」
「……いいだろう」
それでは明日。と言って青年はそそくさと帰って行ってしまった。その姿を見届けた尹はそのままの足で台所へ向かう。勿論慧音もついて来た。酒が飲みたいと尹が言うと、複雑そうな表情をしながらも慧音は酒を取り出す。
「なぜ引き受けた?」
「アンタもどうせ薄々気づいてたんだろ。ああいうタイプの奴は受けてやらないと死ぬまで追っかけてくる」
「そうかもしれないが…彼は……」
「まあ一族のどうのとかって言うのは大義名分だろうな。要は俺と言う異分子を叩きのめして自分の株を上げたいだけだろ」
まあ簡単に負けてやる義理などないが、と付け加え酒を口に運ぶ尹。が、その酒が喉を通った瞬間に走った想像以上の刺激に驚きまだ口の中に残っていた酒を吹きだす。
「大丈夫か!?」
「ゲホッ! …アンタらいつもこんな刺激の強いもん飲んでるのかよ……」
「…まあ、馴れれば平気だと思うが……」
まだまだ俺も子供ってことかと、苦い表情をしながらももう一度挑戦する尹。今度はほんの少しだけ口に含んで飲んだので大丈夫だった。酒の美味さが分かるようになるまで、まだまだ遠そうだとため息をついた尹であった。
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第12話 全ての思惑は裏目に
例の青年が尹に決闘と言う名の茶番劇を吹っ掛けた日がやってきた。尹としては勝ち負けなどどうでも良く、適当にあしらって終わらせてしまおう。そんな程度のイベントである。相手方がどれほどの手練れなのか、それとも口先だけの阿呆なのか。確かめる気力もない。大体幻想郷縁起に名が乗っていないのだ。別に真剣に考える必要もない。
何より、彼は既に凄まじい手練れの力の片鱗を目の当たりしている。今更普通の人間とやり合ってもそれ程危機感を感じることはないだろう。
それでも慧音は心配のようだ。話を聞けば、一応は高名な家のものらしい。最も、慧音や妹紅を始めとした自警団や博麗霊夢を筆頭とした異変解決組たちのお蔭で大分影が薄くなってきているようだが。
それでも、スペルカードの使えない人間達の中ではかなりの戦闘力を誇っている一族なので需要はまだあるらしい。となれば、恐らく一族の繁栄だか何だか知らないがそう言う事情の為に自分達の名前を売りたいのだろう。そこに丁度尹と言う不穏分子の出現だ。彼にとっては格好の的だったに違いない。はた迷惑な話である。
だが、受けてしまった以上は逃げるわけにもいかない。例え相手が純粋な武人であろうとなかろうと、勝負を吹っ掛けられたら受けて立たねばならないだろう。もとより小さい集落だ。下手な行動一つであっという間に噂は広がる。逃げ出して損害を被るのが尹一人ならば迷いなく逃げ出していただろうが、今回はそうはいかない。恐らく、匿っていた慧音にも何かしらの損害が出てしまうだろう。それは避けたい。とは言え、本気で戦う気にはなれない。尹の学んだものは剣術で、剣道ではない。決して己を高めるための武道ではなく、殺人術である。だからこそ博麗神社を出た直後に妖怪に襲われても無様にその体を食い荒らされることはなかったし、死にかけたとはいえ勝利を収めることが出来たのだ。故に、彼が本気を出すということは相手を殺しにかかることと同意義なのである。
相手はいけ好かない奴ではあったが、殺したいほど憎いわけでもないしそんな必要性も感じない。最も、決闘と言っても真剣同士の死合にはならないだろう。木刀か竹刀か…どっちかを使っての模擬戦形式の筈である。まさか里のど真ん中で真昼間から血の雨を降らそうなどと考えるほどの阿呆でもあるまい。
「木野…済まない…私がもっとちゃんと説得できていれば……」
「アンタもドが付くほどのお人好しだよな。俺がいいと言ったんだ。別にアンタが気に病む必要はないだろ」
「そうかもしれないが……怪我をするかもしれないんだぞ?」
「いざとなれば永遠亭があるだろうが」
あそこの医者の腕が確かなのはわが身をもって実証済みである。死にかけの自分をほぼ完ぺきに蘇生させられるのだ、この後の茶番劇で負う怪我程度を治療することなど九九を唱えるくらい簡単な物だろう。正直、今更模擬戦程度で負う怪我など全く怖くなかった。精々骨折がいいところだ。肉を食いちぎられそうになったうえ、出血多量で意識が朦朧するとかそんな猟奇的なシチュエーションにはならないだろう。
甘い認識…と言えばそうかもしれない。だが、尹は不思議とそれほどの怪我をするとは思えなかった。能ある鷹は爪を隠す、と言うからもしかしたらあの青年はとんでもない手練れなのかもしれないが、尹が見る見る限りそんなに強そうには見えなかった。それとも魂魄妖夢と言う剣術の達人を見た後だから霞んで見えるとでも言うのだろうか。
どちらにしろ、茶番劇に付き合わなければならないのは決定事項である。今はとにかくいかに彼をうまくあしらうかを考える時間だろう。
「木野…本当に大丈夫か?」
「アンタだって知ってるだろ。こっちは一度妖怪四体相手にして相打ちまでもってってんだ。並の連中に負ける気はしない」
「彼もそれなりに腕が立つが……」
「所詮名売りのための茶番劇だろ。流血沙汰は無いんじゃないか。里の真ん中でやるわけだしな」
そう言いながら、刀を竹刀袋に入れてそれを担ぐ尹。そろそろ約束の時間である。真剣は使わないと思うし、使うようなことにならないことを願うが万が一と言うこともあるだろう。同時にこれは尹にとってお守りの一種である。使う必要が無かったとしても手元に置いておきたかった。
後は彼の到着を待つだけ…となったところに件の人物がやってきた。袴に身を包み、明らかに本気である。腰に刀を差していないのが幸いだろうか。代わりに木刀が差されていたが。
「思ったより早かったな」
「僕の方から誘ったんだ。あまり待たせるわけにもいかないだろう?」
「ルールは?」
「それはあっちについてから話すよ」
どうやら大勢の人々がいる前でルール説明をすることでイカサマは出来ないし、しないと言うことをアピールしたいらしい。それはそれで結構な事である。最も尹はイカサマなどするつもりもないが。やったところで彼に得はない。
相変わらず心配そうな表情を隠せない慧音を一瞥し、軽く唇を歪める。彼なりに笑ったつもりだが、果たして慧音にそれは伝わったのだろうか。それを確かめる前に尹は青年の後を付いて行ってしまった。どうしても気になるなら終わった後で盃を交わしながら聞けばよい。
広場には既に大勢の人が集まっていた。最近幻想入りしてきた外来人と、里でも有名な一族の人間との一騎打ちである。剣闘士同士の決闘のように熱気に包まれているわけではないが、皆好奇心から見に来ているのだろう。辺りに視線を巡らせると、寺子屋に勉強しに来ている子供達の姿もあった。あまり彼らには見てもらいたくはなかったが。子供が見るにはいささか刺激が強すぎると尹は思っていた。あるいは、心のどこかでそう言う展開にしようと考えていたからだろうか。
「まずはこれを」
ぼんやりと思考していると、青年から何かを差し出された。木刀である。真剣でなくてよかったと、改めて思った。最も、鞘から抜かなければ彼の刀でも十分代用が聞くのだが。
「それじゃあルール説明だ!」
青年が声を張り上げる。同時に、広場が一瞬にして静まり返った。マイクも拡声器もないのだ。静かにしなければ聞き取れないのだから当然と言えば当然か。
「勝負は二本先取! 相手に一撃入れたら一本だ。ただし、急所は外してやるようにな」
「防具は付けなくていいのか」
「何、ただの力試しさ。そこまで激しくはしないよ」
「怪我をさせないという保証は出来ない」
「大した自信だ。期待させてもらうよ」
「もう一度言う。怪我をさせないという保証は出来ない」
「分かってるよ。あまり僕を舐めないでほしいな」
「警告はした。身の安全が保障できないということ、忘れるなよ」
勿論尹とて彼に怪我を負わせるつもりは毛頭ない。が、相手の技量次第では『その気』になってやらなければこちらの身が危ないだろう。そうなった時、彼を傷つけずにこの茶番劇を終わらせる自信は尹にはなかった。
担いでいた竹刀袋をやはりと言うかついて来ていた慧音を呼んで預ける。今この場にいる人物で、最も信頼できる人なのだから当然であるが。預ける時にかなり不安そうな表情をされたが特に気にすることもなく青年の方に振り返った。二、三度木刀を振り重さを確かめる。そこそこ重量はあるようだ。それでも自分が振るっている刀よりはずっと軽い。ちょっとした拍子に手からすっぽ抜けないか少々不安だが、そこは何とかなるだろう。
「準備はいいか?」
「いつでも」
互いに向き合い、青年は刀を正面に構える。同時に彼からそれなりのプレッシャーも放たれた。それを観て観客たちがややどよめく。尹が耳を澄ませると、彼は負けたなとか、可哀想な奴だとか憐れみの言葉がささやかれていた。どうやら、それなりに腕があると言うのは嘘ではないらしい。
「…どうした? 何故構えない」
プレッシャーを放ちこちらを睨みつけながら青年が低い声で問う。大して尹はいつもと変わらない気怠そうな声で答えた。
「構えてるよ。これが俺の構えだ」
「ふざけているのか? 唯木刀を持っているだけの態勢だろう?」
「…いいから来いよ。時間の無駄だ」
挑発にも近い尹の姿勢に、青年は勢いよく飛び出して斬りかかる。が、尹はそれを紙一重で躱した。返す刃で青年が追撃を仕掛けるものの、ことごとく尹はそれを交わす。彼の顔に力みはまるで見えなかった。自然体に近い状態で青年の攻撃を回避し続ける。
「このっ! ちょこまかとっ!」
「…………」
尹の予想外の強さに、焦った青年は思い切り木刀を振り上げる。常人であれば回避に回るその振りおろしを、しかし達人からすれば隙以外の何物でもない瞬間を尹は逃すことなく『拳』を叩き込んだ。
「がッ!?」
「まずは一本。俺のもんだな」
あまりにあっけない決着。まだ一本だけだが、勝負はもう決したも同然だった。尹にとって、彼は道端に転がる大きな石程度のものでしかないと認識されたのだ。気を抜いていれば足元をすくわれるが、気を付けてさえいればどうってことの無い障害物程度のものでしかなかった。
しかし青年にとってはこれ以上ない屈辱だったようだ。自分の名を売るために集めた観客が、裏目に出てしまったのだから当然だろう。期待させてもらうだとか、完全に上から目線で物を言っていたのも不味かった。その上入れられた一撃は木刀ではなく拳である。まるで完全に遊ばれているようにしか感じなかった。
「…やるじゃないか。だがまだここからだよ」
「もうやめにしようぜ。これ以上は時間の無駄だ」
尹の言葉は警告の意味も含まれていた。これ以上やるなら本当に怪我させてしまうかもしれないぞ、と。だがそれは反対の意味に捉えられてしまったようだ。青年は一層尹を睨みつけ木刀を構え直す。
「今度はこうはいかない。覚悟するんだな」
「…どうなっても知らんぞ。俺は手加減が大の苦手なんだ」
「その余裕! どこまで続くかな!?」
途端に始まる青年の猛攻。さしもの尹も交わすだけでなく木刀で捌かなければならないほどの勢いだった。だが、それだけだった。激昂した青年の攻撃は実に単純で、それゆえに攻撃が読みやすかった。回避するのが不可能でも、防御することは簡単だ。尹はひたすら青年の攻撃を躱し、捌き、受け止め続けた。事を穏便に済ますには青年の体力をひたすら削り続けて体力勝負に持ち込むのが確実だからだ。反撃は簡単だが、そうした場合万が一と言うこともある。リスクは出来る限り抑えたかった。幸い、激昂してる青年の攻撃は鋭さを失い力任せの攻撃に転じ始めている。大して尹は冷静に最低限の力で防御し続けているのだ。このままいけば青年の体力が先に尽きるのは目に見えている。決着はついたも同然だった。
「何時までも防いでばかりでは勝てないぞ!?」
「勝てるさ」
「ナニィ!?」
尹の発言は火に油を注ぐ結果になった。青年の攻撃は激しさを増し、ついには急所すれすれのところを狙った攻撃までが繰り出される。一撃一撃の衝撃も重いものになっていった。だがそれは青年の攻撃が単純になっていくと同時に体力の消耗が激しくなるのと同意義である。読みやすい攻撃をまともに食らうほど尹も腑抜けてはいない。
そしてついにその時がやってきた。体力が底を尽きかけた青年が、バランスを崩したのである。すかさず尹はそこを狙って足払いをかけた。青年は当然対処できずに無様に転んだ。
「はぁ…はぁ…俺の勝ちだな」
「…………ッ!」
流石に何分も全力の攻撃を防御や回避をし続けたせいで尹の体力もそれなりに削られていた。僅かに息を乱しながら勝利を宣言する。結局、尹が木刀を攻撃のために振るうことは一度としてなかった。予想外の結果に、広場も静まり返っていた。
「すげぇぇ! やっぱり尹兄ちゃんは強かったんだ!」
「かっこいい!」
「…あ?」
青年を見下ろしていた尹に、寺子屋にいた子供たちが駆け寄る。彼らを怯えさせるような展開にならなかったのは尹にとってもありがたいことだった。嫌われるのは構わないが、それで子供達が寺子屋に来たがらなくなるのも問題であるからだ。一先ず、このくだらない茶番劇は丸く収まったと……
「…るさん」
「…?」
「許さん…! よくもこの僕に恥を…!」
自業自得だろと呟こうとして、止めた。ここで火に油を注いでは不味いことになりかねない。
「お前ら…慧音のとこ行け」
「え…?」
「早く!」
自分のそばに駆け寄ってきていた子供達を即座に慧音の元へと送る。彼らには分からなかっただろうが、尹には目の前の青年から殺気が漏れ出しているのが良くわかった。ここに来て尹は自分の考えが甘かったことを実感する。闘う以上は、全力で相手するのが礼儀であったはずだ。それなのにもかかわらず尹は厄介ごとを避ける事ばかりに気を置いて、怪我を負わせないように手を抜いて闘っていた。攻撃に転じることが無かったのがそれを如実に表している。武術に通ずるもの…いや、勝負事をする人間ならば手を抜かれてそのプライドが傷つかないわけがない。くだらないと言えばくだらないが、勝負師と言うものはそう言うものだ。負けるにしても全力で負けたい。それは尹とて例外ではないというのに。
自分の至らなさを恨みながら、木刀をきつく握り締める。こうなった以上、戦闘は避けられないだろう。最悪、彼が最も避けたかった流血沙汰にまで発展しかねない。だが現実は非情である。青年は自分の付き添いの人間に向かって怒鳴った。
「おい! アレをよこせ!」
「し、しかし坊ちゃま…ここは里の真ん中ですぞ!」
「いいからよこせ!」
「慧音! 俺の刀を返してくれ!」
「木野!? 止めろ、そんなことしたら…!」
「今すぐ子供達をここから遠ざけろ! こいつ、完全に頭に血が上って周り見えてないぞ!」
「だが話し合いを…!」
「それが出来そうならこんなことは言わねぇよ! いくら俺でも木刀で真剣は捌けない!」
青年の様子に怯えた観客たちは即座に距離を取り始める。慧音は子供達を連れて寺子屋の方へと向かった。何人かは尹の方を心配そうに見たが、尹はそれを早くいけと怒鳴って追い払った。
慧音から手渡された自分の刀の重みに僅かな安心感を覚えながら、鍔に指をかける。出来る事なら抜きたくないが、青年の立ち振る舞いによっては抜かざるを得ないだろう。そうなる前に無力化するのが現状でできる最善の対処だ。
「さあ、最終戦と行こうか…?」
「お前正気か!? 自分が何をやっているか…」
「誰のせいでこうなったと思っている!? 貴様が舐めた真似をするからだ!」
完全に自分のことを棚上げしている青年に、これ以上言葉の応酬をしても無駄だと悟る尹。こうなったらさっさと無力化して黙らせるしかあるまい。それに既に相手は抜き身の刀を構えていた。
完全に尹の思惑が裏目に出ていた。避けるべき事象を、避けるどころか誘発させてしまっているのである。これ以上不甲斐ないことがあるだろうか。尹は人知れず己の至らなさに怒りを覚えていた。
「せめてもの詫びだ。全力で相手してやる」
ただし、アンタを斬らない程度でな。と心の中で付け加え、青年と正面から向き合い構える尹。抜刀術の構えだった。
「抜刀術か…面白い」
「…最悪アンタが死ぬかもしれんぞ」
「貴様にそんなことができるわけがないだろう」
青年の言う通りだった。尹に殺人を犯す勇気はない。幾ら人嫌いでも、己の手を汚すのは恐ろしかったし、慧音達のことを考えるとするわけにはいかなかった。だが、相手は本気である。やらなければ、やられるのは自明だった。
「君は強すぎる。強すぎる力を持つものはいずれ人に害をなす…ならばその悪の芽、今ここで摘み取ってやる!」
「…………」
完全に充血した目で尹を睨み、そう叫んだ青年は尹に向かって駆け出す。一方の尹は未だ対策が思いつかなかった。抜けば身の安全は確保できる。が、急所を外してやれる自信はない。よしんば外せたとしても彼の命を奪わずにいられるかが怪しい。
――だが無情にも彼の命を刈り取る死神の刃はすぐそこまで迫っていた。
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第13話 一応の決着
真剣を構える青年が尹に向かって一直線に走ってくる。相手は完全に
勿論、尹には振り払う火の粉を振り払えるだけの力がある。それどころか、やろうと思えば火の元を一気に消せるほどの力があった。しかし、その力を使うわけにはいかない。使えば余程青年が幸運でない限り彼の命の火は消えてしまうのだから。
この数日で尹を取り巻く環境は激変した。未だ木野尹と言う人物を知るものが少ないということが大きいが、少なくとも今は彼を認めて彼を心配するヒトがいる。外で一人寂しく生きていた時には味わうことの無かった充足感を再び味わうことも出来た。だが、それは同時に彼を縛る鎖にもなっていたのだ。その鎖が今まさに尹を縛っている。
人間と言う生き物は厄介なもので、その状況を知っていても…自分の身を守るために罪を犯したとしても、その罪を犯した者を責めこそすれ慰める、褒めると言ったことをすることはほとんどない。自分の命を守るために危害を加えてきた相手を殺す、と言うことは尹は別に問題ないと思っているが大半の人間はそうは思っていないだろう。いかなる理由があるとて人の命を奪うことは最大級の禁忌とされているのだから。
故に尹は青年の攻撃に対して有効な手段を見いだせずにいた。たとえ人並み外れた戦闘力を持っている尹と言えど―いや、この場合はそれが仇になっているとも言えるかもしれない―襲い来る青年に傷一つ付けずにこの場を納めるということはほぼ不可能だった。刀を抜かなければ殺られるかもしれない。けれど抜いてしまえばこちらが相手を殺めてしまうかもしれない。自分の身を優先するのか、それとも世の考えに乗っ取って穏便に済ませるべきなのか。その判断が出来ずにいた。
「せぇぇぇぇぇぇああああ!!」
「ッ!!」
結局どうすべきかの判断を下せぬまま、尹は僅かに刀を抜き鞘から見える抜き身の部分で青年の凶刃を受け止める。その太刀筋は疑う余地もないほどの急所狙い。頭に血が上ってしまった青年に良心と言う言葉は既に失われてしまっているようだ。いや、もしかしたら尹を殺すということが彼にとっての『良心』なのかもしれないが。
故に青年はその手を緩めることなく次の攻撃動作に移る。当然尹もそれに対応しすぐさま回避動作に移った。先程まで当然のようにやってきた動作。紙一重で相手の動きを躱す。同時に尹はそれが今とてつもなく恐ろしいものだと実感した。しくじれば死ぬ…死への恐怖を始めて実感した。妖怪とやった時は彼も今の青年同様頭に血が上っているようなものだったからさして感じなかったが、今は違う。自分の命が脅かされているということへの恐怖感がじわじわと彼を蝕みはじめた。
ここに来た時からついさっきまで何となしにずっと考えていた『いつ死んでもいい』等と言う戯言は吹き飛んでいた。死にたくない。今までで初めてそう思えた。右へ左へ、前へ後ろへと必死に相手の攻撃をかわし続ける尹。しかし、この状況をどう打破すべきかが見いだせない彼は焦り、怯え、疲弊し始めていた。今はまだちゃんと避けられているが長くはもたない。それは尹本人が一番分かっていた。だからこそ焦燥感が彼を煽る。
「どうしたぁっ!? その刀は飾りなのか!?」
「くぅっ…!!」
青年の煽り文句に返答を返せない。飾りであるのが最良の選択であると思いたかった。コレがその役割を果たしてしまったら間違いなく最悪とまではいかなくてもよくない方向に事が進んでしまう。だがもう尹も限界だった。息が乱れ、動きは徐々に精彩を欠いていく。それは青年も同じはずだが、何をそうさせるのか今の彼は限界を超えてしまっている様で全く動きが衰えない。後でその反動を受けるのは明らかであるが青年にとってその『後に来る反動』等どうでもいいことなのだろう。
そして、ついにその時が来てしまった。
「貰ったぁ!!」
「しまっ…!」
ほんの一瞬、尹の反応が遅れる。たかが一瞬。されど致命的な一瞬。青年の振るう刃が尹の首筋を捉えて一直線に振り下ろされる。尹はそれに対して何もできなかった。咄嗟に身を固くして目を瞑る。その直後、肉を断つ鈍い音と激痛が尹に襲い……かからなかった。
何時まで経っても剣をその身に受ける痛みが訪れないことに疑問を覚え、恐る恐る目を開ける尹。青年が振り下ろした刃は、尹の首まで数ミリと言うところで止まっていた。
(何が……)
視線を青年の顔へと移す。その表情は先程の鬼気迫るものではなく、恐れと焦りに染まっていた。状況が呑み込めないでいる尹。そんな彼の後ろから、老人の声が響く。
「里の真ん中で騒ぎがあるからと来てみれば……一体何をしておるのだ。聖治」
「…ッ!?」
老人の言葉に刀を下げ口をパクパクと動かす青年。想定外に次ぐ想定外な出来事にどうやら完全にパニックへと陥ってしまっているようである。
「こ、これはですね父上…里の平和を守るためにひ、必要な事でして……」
「平和を守るだと…? お前は何もわからなかったというのか?」
「は…?」
青年の言葉に深いため息をつく老人。それは失望と呆れを表すものであった。どうやら、彼は尹と青年の実力差を正確に見抜いているようだった。やや呆然としている尹を余所に老人は青年へと近寄り…そして刀を取り上げた。突然の行動に加え無駄のないその動きに青年は抵抗することも敵わず刀を取り上げられてしまう。
「剣を交えて分からなかったのか? お前程度ではそこの御仁には敵わんよ。お前は天狗になりすぎたんだ。里の剣術大会で優勝したからと言って真面目に鍛錬をしないからこうなる」
「お、俺がソイツに敵わない!? なぜそう言えるんですか父上! 先程まで完全に俺の方が優勢……」
青年が老人の言葉に反論しようと声を上げるが、老人はそれを遮り怒鳴った。
「阿呆! この御仁が刀を抜けばお前の首なんざ簡単に飛ばされてしまうわ! お前の身勝手な感情にずっと怒ることなく冷静に受け続けてくれたからこそお前は生きているんだぞ! ……そうであろう?」
不意に老人から話を振られたため、少々返答に戸惑った尹だったが数瞬の後に老人の目を見据えて答える。
「…その気になれば確かに出来ると思う。だからこそ抜かなかった」
「だろうな。お主にはうちの倅が迷惑をかけた。どう謝罪すればよい物か……」
しかし、老人が出てこなければ尹の首が飛んでいたのも事実である。それだけで十分だった。だが、尹はあえてこう切り出す。
「謝罪はいい。アンタが出てきてくれたから俺は助かった。…が、このままだと後味悪いしな。今度は本気でそこの馬鹿とやらせてもらってもいいか? 勿論木刀だ」
尹の言葉に少々驚いた表情をする老人だったが、直ぐにそれを了承した。再び相対する尹と青年。二人の手元に真剣は無い。血の雨が降ることだけは避けられるだろう。
今度は手加減せず、本気で攻める。そう心に誓う尹。元はと言えば先のことばかりを考え目の前のことへ集中しきれていなかった自分にも責任はあると思っていたこと。そして、全力で戦わないことが相手にとって失礼に当たるということを失念していた自分への戒めもかねてだった。
「今度は本気だ。さっきは悪かったな…手を抜いたりして」
「…どこまでも人をコケにしやがって。今度こそ叩きのめすぞこのガキ」
「それでは、ここに外来の御仁とうちの倅による試合を決行する。勝負は一本。なお多少の怪我は致し方ないものとして双方本気でやってくれたまえ」
老人の言葉を聞いて、少し安心する尹。本気でやると言っても、やはり少々不安はあった。手加減をしたことは今までほとんどないから大けがをさせてしまったらどうしようかと。
だが、老人の宣言でその迷いがなくなる。刀を構え、青年を睨みつける。もう何時でも戦える状態だった。迷いがなくなったことで神経が研ぎ澄まされていく。先程からの戦闘で、疲労が抜けているわけではないから万全の時のように動くことは無理かもしれないが、そんなものは今関係なかった。
自分の持てる力をすべて使って目の前の相手を倒す。今の尹の頭にはそれだけしかなかった。
やがて老人の手がゆっくりと上がっていく。二人の間の緊張感がさらに高まっていき…そしてついに試合開始の合図となる老人の手が振り下ろされた。同時に…いや、尹の方が一瞬早く動き出し瞬く間に間合いへと詰めていく。攻撃態勢に入る二人。先に得物を振り始めたのは青年。真正面から走ってくる尹に対し横薙ぎを繰り出す。が、尹はそれをいとも簡単に避け……そしてがら空きになった青年の胴へと剣戟を叩き込んだ。
「がはぁっ!?」
唾を口からまき散らす青年を余所にそのまま木刀を振り抜く尹。青年の体はそのまま後方へと吹き飛ばされた後に地面に叩き付けられ数回転がったところでようやく止まった。
誰がどう見ても間違いなく尹の圧勝であった。里で一番の剣客と呼ばれた青年を、たった一撃で戦闘不能にまで追い込んだ尹。しかし、その表情は決して勝利の笑みを浮かべてなどおらず、どこか苦虫を噛んだような表情をしていた。
当然である。最初からこうしていればよかったとは言わないが、少なくとも今回自分の良かれと思って起こした行動が結果としてここまで状況を悪化させるきっかけを作ってしまったのだ。勿論全体的に見れば青年に責任が問われることは間違いないだろうが、尹にとってそんなことは重要ではなかった。一歩間違えれば辺りに血が流れるという最悪の結果に終わるかもしれなかったのだ。実際老人が出てこなければ尹の首と体はそのままお別れしていただろうし、尹が一度でも刀を抜いていれば青年が致命傷を負っていたかもしれない。
老人のお蔭で状況は振出しに戻り、結果として丸く収まったから良かったものの尹は苦い思いを隠すことが出来なかった。
「流石…というべきかの。その若さでそれだけの技量…さぞかし良い師に恵まれ、そしてたくさんの修練を積んできたのであろう」
「…………」
「案ずるでない。今回の件でお主が気にすることなど何もありはせんよ。全ては目先の欲に囚われた未熟な倅の愚かさ故に起きたことだ」
「そうかもしれないけど……」
「終わったことだ。いつまでも悩むものではない。もしどうしても納得いかぬと言うなら、次に活かせばいいだけの話だ。ではな」
そう言って老人は使用人らしき人物に地面に伏したままピクリとも動かない青年を運ぶよう指示を出し、その場を去っていった。煮え切らない表情をした尹をその場に残したまま……
「何よりもお前が無事でよかった」
その晩、寺子屋の縁側で盃を交わす慧音と妹紅、そして尹の姿があった。いつもなら二人の問いや投げかけにぶっきらぼうに応じる尹だが、今日はそんな生意気な彼はどこへやら。生返事を繰り返すばかりで普段の普段の嫌味も全くいう気配が無かった。
「それにしても意外ね。もっと自己中心的な考え方する奴だと思っていたけど」
「…俺一人の問題ならなます切りにしてやっても良かったさ。けど一応ここに厄介になってる身だ。迷惑になるようなことは出来ない」
「気持ちは有り難いが…木野、それでお前が傷ついてしまっては元も子もないんだぞ」
「結構ヤバかったんでしょ? そんな状況で反撃しても誰も攻めないと思うけどなあ」
「ほんとにそうなら…気が楽なんだけどな」
そう言って猪口に注がれている酒をちびちびと飲む尹。酒が入って少々ご機嫌の妹紅から気まずそうに眼をそらし、改めて昼間起こった出来事を振り返る尹。冷静になってみれば、何と自分らしくないことを考えていたのだろうと思う。ほんの少し前なら他人のことなどどうでも良いと言って容赦なく青年を痛めつけていただろう。にもかかわらず今回は他人のことを一番に考えて行動して居た。全く持って自分の行動に一貫性が無いことにため息が自然と出る。一体自分は何がしたいのか? 自分さえよければそれでよいと思っていたのではなかったのだろうか。どうせヒトは自分のことが一番なのだから人のことなど気にするだけ無駄だと思っていたはずなのに。
「全く今日は厄日だな……」
そう誰に言うでもなく小さく呟くと尹は猪口に注がれている酒を一気に煽った。昼間の疲れと程よく酔いが回ってきたのか、急速に彼を眠気が襲う。部屋に戻るとか、そういうことを考えることもせず尹はそのまま意識を手放した。
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第14話 霧中の本心
いつの間にか晩酌の最中に眠ってしまった尹を妹紅が彼の自室へと運び終えた後も、慧音達は静かに盃を交わしていた。
いつも通り他愛のない世間話で語らいながら酒を飲む二人であったが、ふと妹紅がこんなことを呟く。
「なんだかんだ言っても、やっぱりアイツも年相応の子供なんだな……」
「木野のことか?」
「ああ。やたらと大人ぶっちゃいるが本当はただの子供なんだろうよ。寝言で家族の名前を呼んでたしな……」
妹紅のその言葉に違和感を覚える慧音。彼女は霊夢から尹が自ら外の世界に帰ることを拒んだと言ったと聞いていたからだ。
それ故に家族とはもう完全に縁を切るつもりだったのだと思ってばかりいたのだが、そうやらそうではなかったらしい。
「そうか…霊夢から帰るのを拒んだと聞いていたからてっきり外に未練はないものだと思っていたが……」
「あの年頃の子供って言うのは案外一時の感情でそういう行動に出ちまうもんなのさ。きっと、頭が冷えたら帰りたくなるに違いない」
そうだな、そうに違いない。と慧音は言うことが出来ず、口から出たのは何とも言えない生返事だけだった。
本当にそんな一時の感情だけで動いているのならばどうして刀など持ち歩いているのだろうか。単に自分を追いかけてくるであろう家族や他の者を撃退するつもりであれば何も真剣を持ち歩く必要はない。追っ手を脅かすにしても尹程の年頃の子供が行うには過激すぎる。
幻想郷に来てからの行動だってそうだ。そんな一時の感情による行動にしては無謀が過ぎるものばかり。霊夢に外の世界への帰還を拒否する旨を伝え、あまつさえ妖怪との大立周りを演じてしまい、そして死にかけた。だと言うのに物怖じするどころか進んで今日の決闘を受けてしまうなど…
そこまで考えて慧音は決心をした。
「やはり…ちゃんと彼から話を聞かないとな」
「アイツ、自分の身の上話なんて話しそうにないけどね」
「だが…少なくとも帰る意志があるかどうかははっきりさせておかないと」
もしかしたらやせ我慢をしているだけなのかもしれない。本当は帰りたいのに帰りたいと言い出せないだけなのかもしれない。もしもそうなのであればきちんと返してやらなければならないだろう。幻想郷で彼の居場所が出来るよう尽力するつもりではあったが、本来彼のいるべき場所があるのであればやはりそこに帰るのが一番だ。
しかし、と慧音は思う。帰りたいかと聞いたところで彼は素直に心の内を明かしてくれるだろうか。それこそまた変に意地を張って本心をさらけ出してはくれないのではないだろうか。こちらが差し伸べる手を取ることなく払いのけてしまうのではないかと。
考えれば考えるほどどうすべきかが分からなくなる。何が尹にとって一番何かが分からない。だからどうしてあげればいいかも分からない。けれども、だからと言って放置すると言う方法なぞ慧音の頭にはもとよりなかった。
「やはり、今話してもらえること全てを話してもらわないとダメ…かな」
「慧音はほんとお人好しだねえ。あんまりお人好し過ぎて見てるこっちが心配だよ」
「そう言う妹紅だって、大分お人好しだと思うけどね」
慧音程じゃないよ、と笑いながら酒を煽る妹紅はけれどもどこか愁いを帯びた表情をしていた。恐らく、昔のことを思い出しているのだろう。自分よりも遥かに長く生きてきた人物だ。きっと恩を仇で返されるようなことも少なくなかったのだろう。人は総じて、自分達とは違う存在に恐怖し、排除しようとする傾向があるのだから。
それが間違いだとは言わない。むしろ本能のようなものなのだ。それを理性で抑え込める人間はそう多くはない。
自分だってそうだった。
では、尹はどうなのだろうか? 寺子屋の子供達には確かに懐かれてきている。口も態度も悪いものの、なんだかんだと彼らの相手になっていた。その上、今日の騒ぎでは周りに被害を出さないよう…そして試合相手のあの彼にすら大怪我をさせないように立ち回っていた。
子供達にはまさにヒーローのように見えたのだろう。青年の暴走が始まってからあの場所を離れた時、尹を手伝おうと言い出す子供もいたくらいだった。
そんなことが出来たのに、どうして彼は外からこちらへ望んできてしまったのだろうか。今慧音が見ている彼ならば外の世界に愁いを覚える事こそあれども、絶望し命を投げ捨てる真似をしようと思うことはないのではないだろうか。彼を待っている人だっているだろうから。
それとも、そう言う人がいても耐えられないほどの苦痛が彼を襲っていたのだろうか。だとしたら…
そこまで考えた時、妹紅の優しい声が慧音の鼓膜を振るわせる。
「慧音。そんなに難しい顔してると、皺が増えるよ」
「ん…そんなに?」
「うん。気になるのは分かる。でも、あんまり気にし過ぎるのも良くないよ。慧音にとっても、アイツにとっても」
「分かってる…つもりではあるんだけどね」
自分の悪い癖だ、と慧音は苦笑する。ヒトが大好きな慧音は、どうしても気にかかる人に対してあれこれとしてあげようとするのが常だった。それによって割を食うことも少なくなかったが、彼女はその癖を悔いたことはない。いつだって慧音は人々の笑顔を望んでいたから。自分が何かすることによって、その場では無理でもいつかその人が笑顔になれたのなら。その一心で動くのだ。
だからこそ、いつか尹にも心からの笑顔が浮かべられるようになってくれたらと思う。その為ならばできる限りのことをしようではないか。ただの自己満足としてしか受け入れてもらえないかもしれない。差し伸べた手を振り払われてしまうかもしれない。例えそうだとしても、何度でも差し伸べよう。彼がその手を握り返し、ぎこちないものであったとしても笑顔を浮かべられるようになるその日まで。
そんな慧音を見て妹紅は苦笑する。
「ほんっとに、そんな性格というか役回りというか……」
「でも、その成功例が今私の目の前にいるんだよ?」
「っ! …やれやれ、そういえばそうだった」
「そういうこと。やらない善よりやる偽善。あの子だってまだ若い。試すだけの価値は十分あると、私は思ってるから」
「一度言い出したら聞かないからなあ。慧音は」
「良く分かってるじゃないか」
そういって、二人はクスクスと笑う。今更お互いの腹の内を探るようなことをする必要もない。相手が何をしようとしているのか、何がしたいのか。親友である二人には口に出さなくとも大体わかってしまう。
初めは決して良好な関係とは言い難かった二人も、今では互いを理解しあえる良き友となっていた。だからこそ、二人はこの場で互いに決意する。
慧音はいつか尹の顔に笑顔を。妹紅は慧音をどんなことからも守ってみせる、と。
翌日。尹が目を覚ますと、見慣れない天井が目に入った。それが寺子屋にあてがわれた自室だと尹が気づくのにそう時間はかからなかった。
寝起きでやや回転の鈍い頭で昨晩のことを思い出す尹。慧音たちと晩酌をしている最中に、猛烈な眠気に襲われたところまでは思い出せた。
(……寝ちまったんだな。藤原あたりが運んでくれたんだろう)
そういえば、と徐々に冴えてきた頭がおぼろげながら昨晩の出来事をさらに思い出す。眠気に襲われ、意識を手放した直後に誰かに抱えられていた感覚があった。それが誰だったのか、まではわからなかったがとても暖かく安心できるものであったことは覚えている。
ぼんやりとした意識の中で、不意に家族の誰かの名前を呼んでいたような気もした。それ程、気が緩んでいたのだろう。
そこまで思い出して、目を細める尹。家族。彼が失って久しいもの。祖母が死んでからというもの、もともと人付き合いの苦手だった尹は周りから孤立していたから本当の独りぼっちになってしまっていた。
寂しい、と感じたことはほとんどなかった。けれども、その代わりに尹の中の時計は祖母が死んだその時から止まってしまった。
生きがいを感じることもなく、ただただの毎日をやり過ごすだけの日々。唯一例外があるとすれば、一人自宅の中庭で剣術の修業をしている時だけだった。その時だけは、亡き祖母が傍にいてくれているような気がしていたから。
いつまでこんな日々が続くのだろう。そう思ったこともあったが直ぐに考えるのをやめた。そんな分かりもしない先のことを憂いていても何も変わりはしないからだ。変わらないし、変えてくれる人もいなかった。
だからこそ、最後の手段として家出という形で行動を起こしたのかもしれない。もしかしたら何か変わるかもしれない、誰かが変わってくれるのかもしれないと思って。
結果としてその願いは聞き遂げられたわけだ。こちら側に来てほんの数日しか経っていないが慧音というお人よしに会えた。本心はどうあれ、少なくとも表面上は彼を心配してくれる人に出会えた。他人を拒絶し、拒絶されていた尹にとってそれは大きなことだった。
母親がいたら、あのような感じなのだろうか。ふと、慧音のことを思いながらそんなことを考える尹。いちいち小うるさくて、しなくてもいい心配をして鬱陶しさすら感じられるあの振る舞い。けれどもそれは、どこか優しさにあふれていて。
祖母と暮らしているときは、基本気にやることさえやれば何も言われず干渉されることもなかった。尹はそれを不満に思ったことはないし、それでいいと思っていた。むやみやたらにコミュニケーションを取り合うのが仲のいい家族だとは思っていなかった。現に、必要最低限しか口を利かなくても彼と祖母は深い絆で結ばれていたのだから。二人の間に言葉はいらなかった。
だけど、慧音と一緒にいると一緒に暮らしてきたのが祖母でなく母親であったら。きっとこんな感じなのではないかと思えてきてしまうのであった。
そこまで考えて、不意に尹は祖母と暮らしたあの家が愛おしく感じられた。今帰れば祖母が鬼の形相で待っていて、ぼこぼこになるまで剣術の稽古につき合わされて……まるで雷でも落ちたのではないかと錯覚してしまうくらいの説教をされ、その後に心配かけるなと優しく言ってくれる。そんな気がした。
そんなことはあり得ない。祖母は死んだのだと自分に言い聞かせ、それまで考えていたことを頭の隅へと追いやる。もうあの家には何もない、帰る必要などないのだ。それどころか、帰ったところで彼を待っているのは憂鬱で空虚な日々だけなのだから。だが、もやもやしたものは尹の心に巣食ったまま離れようとはしなかった。
きっと二日酔いのせいだ。そう考え、布団から這い出して顔を洗いに部屋を出る。
井戸から水を汲み、冷たい水で顔を洗う。どこかもやがかかったような感じが頭の中から消え、心なしか視界が明瞭になった気がした。
洗顔でさっぱりした尹は、そこで今一体何時ぐらいなのかと天を仰ぎみる。陽は既に昇っており、通りの方からはかすかにだが人々の営みの音が聞こえ始めてきていた。
どうやら、相当眠りこけていたらしい。もしかしたら寺子屋の授業が始まるまでそう時間は残されていないのかもしれない。そもそも今日も授業があるのかどうかすら分らなかったが。
兎に角、慧音のところに行って確認しなければ。自室に戻り、今後の行動についてあれこれ思案しながら私服に着替える。
丁度尹が着替え終わった時、襖の向こう側から慧音の声が聞こえてきた。
「木野、もう起きてるか?」
「ああ。今行く」
襖を開けると、やや心配そうな表情をした慧音が立っていた。しかし、そんな表情もいつも通りの尹の顔を見るとほんの少しほっとしたかのように胸をなでおろす。
「今日は授業あるのか?」
「え…? あ、ああ。今日もあるぞ」
「じゃあ準備しねえとな…まだ時間に余裕はあるのか?」
「いや…もうすぐ始まってしまうよ。だけど最初の授業は歴史だ。資料も既に用意し終わっているし、そんなに慌てなくていい」
「そうか…すまんな。寝坊して」
それだけ言うと尹は慧音の横を通り過ぎて教室へと向かう。そんな彼を慧音が呼び止めた。
「木野…後で時間のある時でいい。少し話がしたい」
慧音の言葉を聞いた尹は、一瞬その場で立ち止まり何を言おうか数瞬考えるような仕草をし、そして答えた。
「……時間があったらな」
その言葉に、慧音はほんの少しだけ胸をなでおろす。少なくとも、尹から完全に拒絶されているわけではないのだと。
とにかく、これで彼からいろいろ聞くことができるかもしれない。どんな話を聞かされようと、彼が笑顔を浮かべられるようにできるだけ尽力しようと、慧音はふたたび決意し教室に向かった。
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