逸見、戦車道やめるってよ (暦手帳)
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プロローグ

 胸元から競り上がってくるこの感情は紛れもない怒りだ

 脳裏は真っ赤に燃え上がり、胸の中ではどす黒い感情が溢れてくる

 噛み締めた歯からは微かに血の味が滲み、握り締め過ぎた掌からはじくじくと痛みを感じる

 それでも、賛辞を与えてくる周囲に対しては心情を悟られないように戦車から顔を出し笑顔で応えつつ指定された場所に進ませる

 

 そこには既に見慣れた困ったような顔で私達を待つ大洗学園戦車道隊長の西住みほの姿があった

 浅からぬ因縁を持つ相手であり、この苛立ちの根本に存在する彼女の姿に思わず歪みそうになる表情を抑えて、戦車から降りた

 

 審判を挟んで彼女と向かい合う形となった私の横に副官を任せている少女が並び、審判が試合をしていた両チームが整列したのを確認すると試合結果を大声で響かせる

 

 

 

 

『第64回全国高等部戦車道大会決勝、勝者黒森峰女学園!!』

 

 

 

 隊長同士の握手を求められ、図らずも彼女と接近する事となった私は情けない顔をしている彼女に我慢が出来ずについ声を掛けてしまう

 

「なに情けない顔をしてるのよ。」

「エリ…逸見さん。」

「仮にも映えある準優勝チームを率いる隊長でしょう、胸を張りなさいよ。じゃないと、貴方の仲間も、負けたチームの奴等も、勝った私達も報われないじゃない。」

 

 私のその言葉は本当に彼女に向けた言葉だったのか、まるで自分に言い聞かせるようなそんな事を言ってしまった直後に後悔した

 眉尻を下げて頷いた彼女にほっとしつつ、全然胸を張れていない彼女の姿に苛立ちが高まる

 

 黒森峰と大洗、どちらも20両で試合を始めたものの、選手の質、戦車の性能、学園からのサポート等の観点から黒森峰の優位は圧倒的であった

 その差は歴然であり、完全試合を行うことも充分狙えるまでに

 だが、フラッグ車の撃破で終わった時点での走行可能な戦車は大洗が6車両に対し黒森峰は14車両、単純に計算しても大洗の2車両を撃破する間に黒森峰の1車両が撃破されているということである

 

 また、試合内容にも問題がある

 あらゆる西住みほの作戦に対して対策を練ってきた

 ありとあらゆる場面で西住みほがどんなことを考え戦略を練るか、いわゆるメタ張りを長い月日を掛けて構築してきた

 そうまでして、大洗に対する対策を行ったにも関わらず、状況は良かったとは言えフラッグ車同士の一騎討ちにもつれ込んだのだ

 

 打倒西住みほで己の心を燃やし、憎悪にまみれ、恥辱に耐え、色んなものを切り捨ててきた

 

 

 その結果がこれなのだ

 

 試合前には、これならば完全試合も夢じゃないなんてことも考えた

 今なら分かる、自分は驕っていたのだ

 私程度の凡才がいくら地を這い努力をしたところであの西住みほより優れる訳がなかった

 

 その事実がどうしようもなく腹ただしく、どうしようもないほど悲しいのだ

 

 

 分かっている、これは私の勝手な癇癪だって

 そんなこと、誰に言われるまでもなく理解している

 けれど、それでもこの彼女が私の前から去ったあの日から続くこの胸に蟠る感情が消えてくれないのだ

 

 ならばこそ、おずおずと嬉しそうに握手に応じる彼女を睨み付けるように見つめた

 

 

 嫌い、嫌いだ

 どうせ私の前から居なくなるのであれば、いっそただのチームメイトであれば良かったのに

 中学の時のようにずっと一人ぼっちであれば、こんなに苦しくなかったのに

 

 おどおどと落ち着きの無い彼女が嫌いだ

 放っておくと転んでしまうからと手を引いた時に見せた彼女の笑顔が嫌いだ

 いつまでも恥ずかしそうに私の名前を呼べない彼女が嫌いだ

 

 …私がなりたかった副隊長の役目を任され泣きそうになっていた彼女が嫌い

 誰も見捨てることが出来ない彼女が嫌い

 勝手に部屋から居なくなった彼女が嫌い

 優しい貴方が嫌いだ

 

 

 私は戦車道が大嫌いだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「隊長!申し訳ありませんでした!」

 

 祝勝会の盛り上がりがようやく収まり始めた最中、唐突に私の前に立った人物が勢い良く頭を下げる

 ワイワイと楽しそうに騒いでいた周りが水を打ったように静まり返り、私の前に立つ副隊長という大役を任せた一年生の彼女、水瀬さつきはいつもは崩すことのない表情を真っ青にして頭を下げ続ける

 

「私が大洗のフラッグ車と1対1になった際に確実に仕留めることが出来れば隊長の手を煩わせる事なく勝利することが出来るはずでした。」

「…。」

「隊長の作戦を果たし切れなかったのは私の責任です。いかなる処罰も受け入れます…。申し訳ありませんでした。」

 

 今までの楽しげな雰囲気が嘘のように、緊張感で張り詰めた祝勝会の様子と目の前で項垂れる今回の試合での最大功績者の様子に溜め息を吐く

 

「…水瀬、私がなんで一年生の貴方に副隊長としての重責を与えたか分かる?」

「それは…、私の実力が副隊長として見合ったものだったからではないんですか?」

「勿論、その理由もある。けど、私は貴方が完璧に副隊長の任をこなすことを期待していたわけじゃないわ。」

 

 ともすれば、最初から期待してなかったと捉えることが出来る言葉に周りが息を飲む音が聞こえる

 僅かに肩を震わせる少女に出来る限り安心させれるような笑顔を作って頭を撫でる

 

「貴方が今大会、副隊長として得た経験での成長が来年以降の黒森峰を磐石なものにすると信じたからこそ、私は貴方に副隊長としての重責を任せたの。」

「…隊長。」

「水瀬、これからは貴方が隊長よ。貴方が後任なんだもの、何の憂いもなく卒業出来るわ。」

 

 いつもは揺らぐことの無い鋼鉄の副隊長が瞳を潤まして顔を上げる

 赤らんだ頬を軽く撫でて、辺りを見渡した

 どいつもこいつも、いつの間にか湿っぽい雰囲気になっていて、さっきまでの盛り上がりが何だったのかと笑ってしまう

 

「ほら、何湿っぽい雰囲気になってんの!今日は精一杯楽しみなさいよ!私達全員で勝ち取った日本一よ!」

 

 水瀬の肩に腕を回して、抱き込むともう片方の手に持ったグラスを高々と掲げる

 

「私達の今までの努力に乾杯!今、この場に居る全員が最高のチームよ!」

 

 歓声が爆発した

 ある者はで笑顔で何事かを叫び、ある者は感極まったのか涙を流し、ある者は近くにいた今まで仲が良いとは言えなかったチームメイトと抱き締め合う

 頭ひとつ小さい水瀬が力任せに抱き付いてくるのを抱き締め返しながら、ふと思う

 

 これが私の戦車道の最後なら、なんて輝かしいのだろうと

 

 私の執念は果たすことは出来なかった

 私の中に残ったものはどうしようもない後悔と一方的な憎悪であったが、確かに残すことが出来た私を慕ってくれる彼女たちの姿を見れば、これで良かったのだと、そう思えた

 

 これで長く苦しかった私の戦車道は終わりだ

 終わりで良いのだ

 

 

 

 

 



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赤星小梅は悔やんでいた

 輝かしい結果を残した黒森峰であったが、そこに至るまでの過程は決して平坦なものではなかった

 

 西住流後継者であり国際強化選手として名高い西住まほを擁し、当然と思われていた全国大会優勝を2度逃した黒森峰の名は地に落ちていた

 

 

 "王者黒森峰は過去のもの、西住まほを失った黒森峰は恐るるに足らず"

 

 

 当時の心無いそんな声に残された黒森峰戦車道の隊員達の戦意はもはやボロボロであった

 常勝を掲げる黒森峰に憧れて入ってきた

 厳格な校則も、日々厳しさを増していく訓練も、勝利をこそ思えば耐えられた

 他校だけではない、チームメイト同士でのレギュラーを掛けた競い合いや蹴落とし合いだって行ってきた

 それだけに、あの敗北は隊員達に影を落とした

 

 この結果はなんだ

 これでは、ただの負け犬で…今まで耐えてきたものは全て無意味ではないか…

 

 西住まほの圧倒的な指揮能力とカリスマで従えていた彼女達の不満は2度目の敗北と西住まほの引退を持って爆発した

 行き場の無い怒りとこんな筈では無かったという悲嘆が混ぜ合わさって、黒森峰戦車道は恐ろしい早さで崩壊へと進んでいた

 

 誰も彼もただ淡々と与えられた訓練に取り込み、かつての熱意を失っている

 このままでは駄目だと誰もが思ってもどうすればいいか分からない

 

 そんな悪循環を破壊したのが、誰にも期待をされていなかった、西住まほの後釜である逸見エリカであった

 

『不甲斐ない、だらしない。ねぇ、気が付いてる?今の貴方達、死にそうな顔してるわよ。』

 

 罵倒から始まった逸見エリカの言葉に生気の無い目をしていた人達に怒りの炎が灯る

 

『前の訓練では猛禽類のようなギラギラした目をしてたくせに、たかが負けただけで情けない。ほんと度しがたい程の負け犬ね。』

 

 あんまりな言いように大会後から力無い顔を俯かせていた人が顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げる

 戦車道を止めるとばかり言っていた人が唇を噛み絞め睨み付ける

 いつも落ち込んでいた周りの人を必死で慰めていた人が胸ぐらを掴み掛かる

 

『私もよ!!!』

 

 そんな暴動のような中で逸見エリカはそれらの音を叩き潰すような怒声を上げた

 

『私も同じ!!あんな急造のチームに負けた事が悔しくて、今までの苦しかった訓練が無意味だったんじゃないかと恐ろしかった!!』

『布団の中でくるまって震えながら泣いたわ!!食べ物が喉を通らなかった事もあった!!自分の事を何度だって、不甲斐ない、だらしない、負け犬だなんて思ったわ!!』

『でもね、違う!!違うのよ!!!』

 

 いつの間にか静まり返っていた周囲の状況にどれほどの人が気が付いたのだろう

 同じことを抱えていた、なんで気がつかなかったのだろう、ここに居る人達全員が同じ様に苦しんでいたのに

 

『終わりじゃない、まだ終わってないの。私達の戦車道はまだ終わっちゃいないの。』

『ここで立ち止まることこそが負け犬なのよ、だから、だからこそ、』

『勝つわ、必ず、完膚なきまでに。貴方達に必ず勝利を掴みとらせる。』

 

 私を信じて

 

 そう宣言した逸見エリカに誰もが涙を流す

 西住まほ程の天才性もカリスマも戦略眼もない、けれど、逸見エリカだからこそ

 同じだけ苦しみ悩み抜いて、それでも立ち上がった彼女だからこそ私達は立ち上がれた

 

 

 

 

 

「貴方にはずっと迷惑掛けたわね、小梅。」

 

 心底申し訳なさそうにそんなことを言うものだから、つい笑ってしまった

 自分では真面目な話のつもりだったのか、私が笑いだしたことに目を丸くして驚いていた彼女は、私との温度差に頬を赤らめ不機嫌そうに視線を反らした

 

「ごめんごめん、エリカさん、つい似合わないこと言うものだから。」

「あ、貴方ねぇ、こっちは真面目に…。」

「迷惑なんて掛けられてないよ。」

 

 いまだにくっきりと隈を残したエリカさんの顔を見つめる

 綺麗だった銀色の髪はくすんだ灰色に近づき、手入れされていた肌は目に見えるほど荒れている

 

 この1年一番辛かったのは彼女の筈だ

 学園側の圧力やOG達への対応、そして、エリカさんと親友のように仲の良かったみほさんを倒すための訓練は彼女を常に追い詰めていた筈だ

 

 それでも、エリカさんはやり遂げたのだ

 この大会の全てを圧勝で終わらせた

 心無い下馬評で黒森峰を嘲笑していた人達に驚愕を与え、過去の遺物と嘗めてかかってきた人達を絶望へ叩き落とした

 

 ボロボロになって、色んなものを切り捨てて勝ち取った

 私達に掴みとらせてくれたのだ

 

「エリカさん、本当にお疲れさま。ありがとう信じさせてくれて。」

「…まったく、まだあの時の事覚えてるの?恥ずかしいから忘れて。」

「ん~、それはちょっと難しいかな~。」

 

 エリカさんには悪いけれど、きっとあの時のことは生涯忘れることは無いだろう

 エリカさんはさらに頬を赤くすると手に持っていた飲み物を誤魔化すように一気に飲み上げる

 

「ともかく!ここまで来るのに小梅には色々苦労を掛けたと思ってるのよ!私は!」

「うん、エリカさんの中ではね。」

「だから…、お礼を、その…、言うつもりだったんだけど。」

「うんうん、私が先に言っちゃったんだね。」

「…貴方、ほんといい性格してるわ。」

 

 どちらからともなく笑いが溢れる

 戦車道の先輩から後輩に対する引き継ぎも終わり、肩の荷が降りたエリカさんは1年生の頃に戻ったようによく笑うようになった

 それに対して色々思うことはあるが、素直に良かったのだと思う

 

「小梅。」

 

 ふと、笑いが止まり、試合中のような厳格な声で名前を呼ばれて反射的に笑いを引っ込めて耳を傾けてしまう

 もはや習慣になった私の様に、エリカさんは真剣な表情のまま私に顔を近付けてきて、真っ赤になった私の顔をギリギリで避けると耳元に口を近づけ囁く

 

「小梅、ありがとね。ほんとに助かったわ。」

「ひゃああぁぁぁ!?」

 

 跳ねるように飛び退いた私にエリカさんはしてやったりとでも言うような笑みを浮かべる

 

「こ、このエリカさんー!!」

「あはははっ!何よ、真っ赤になっちゃって!」

「もう怒った!もう怒ったよ!!」

「え、あ、ちょっと、止めて、ごめんって!くすぐるなぁ!」

 

 バタバタと二人でひとしきり暴れ、私の気がすむまでくすぐると二人して仰向けに寝転がる

 どちらの息切れの音か分からないほど二人して息を切らし笑いを溢す

 

 そんな中、ふと黒森峰としてのこの関係が終わってしまうことに少しだけ寂しさを感じてしまい、つい口が滑ってしまう

 

「エリカさん。」

「ん。」

「私さ、ずっと、後悔してた。試合で川に落ちて、みほさんが私達を助けに来てくれて、優勝出来なくて、みほさんが転校することになって、みほさんが私達の前に敵として現れて、優勝…出来なくて、私達のチームが壊れそうに…なって。」

「…。」

 

 エリカさんは何も言わずに、聞いていてくれる

 いつの間にか、視界が滲む

 

「私ね、エリカさんに救われたんだ。」

 

 ずっと、ずっと、言いたかったこと

 どれだけ救われたか、どれだけ感謝しているか、なんと言えばこの気持ちを伝えられるのか分からなかったから、ずっと言えなかった

 

「私のせいだって、私のせいで何もかもおかしくなって、皆が苦しんで、そんな中で私は…何も…できなくて…。」

「バカね、ほんとバカ。誰も貴方のことを責める人なんて居なかったじゃない、あれはただの事故で、誰も悪い人なんて居なかった。」

「エリ、カさん…。」

「それでも自分せいだって言うんなら仕方ない、存分に私に感謝しなさい。」

 

 滲んだ視界の中にエリカさんが顔を出してくる

 すっかりトゲの取れた優しげな表情で微笑む

 

「あの子は自分の戦車道を見つけれて、私達は日本一よ、誰もが思うわ、最高の結果だってね。」

「うん…うん!エリカさん、ありがとう。」

 

 長い間、詰まっていた何かが取れたように苦しかったものが全て無くなった気がした

 私はなんて単純なんだろう、これまでもエリカさんが言ったことを心の底から信用してしまう

 どんなに絶望的な状況でも、どれだけ不可能だと思っても、エリカさんが出来ると言うと信じてしまう

 長い間の悩みも、何もかも解決してしまって、もはや私の中で確定事項となっていた事を伝えることにした

 

「私、私ね、大学に行っても戦車道やりたいって思えた。だから、また、大学でも私と一緒にっ…!」

「あ、ごめん、私、戦車道は高校で止めるから。」

 

 ………は?

 

「え?え、う、え?エリカさん、今なんて?」

「だから、私、戦車道は高校で止めるから。もう西住流も破門にしてもらったし。」

 

 …ん?

 つまり、つまり?

 

「え、え?えええぇぇぇぇぇ!!??」

 

 

 

 

 

 



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水瀬さつきは憧れている

 

 水瀬さつきにとって、戦車道はつまらないものだった

 

 中学生となり、たまたま入った学校が女性のたしなみと言われる戦車道の有名な学校だったらしく友人に連れられて入部することになった

 経験は無かったが、将棋とか囲碁などといったボードゲームはいままで負けた事が無い程度には強かったため戦略等には自信があったし、なにより両親が熱心に進めてきたことが決定打だった

 

 入部して直ぐにその学校では戦車に慣れさせるために紅白戦が行われる

 不安そうな同級生達の中で一人だけ一切動じる様子の無い私の様子が目に付いたのか、コーチがいくつか質問を投げ掛けてきた

 簡単な質問だったが全てを答えるとコーチは期待してるなんて言い残して観客席の方へ立ち去っていった

 

 事前に軽い説明はされたものの、新入生を4人で組ませてチームを作った所で意見が纏まるわけもなく、私以外の人がポジションを奪い合うのをただ見詰めていた

 私のポジションは操縦手になった

 余ったのがそれだったからだ

 

 いざ、戦車を動かしてみると想像していたより簡単に、手足のように動かすことが出来たことには驚いたが私よりも周りが唖然としていた

 

 

 紅白戦が終わった後、コーチに君は天才だとべた褒めされた

 10年に一人の逸材だなんて持ち上げられたけど、悪い気はしなかったし、なにより、そういうものなのか、なんて思って、じゃあ優勝目指してみようかな、なんて軽く考えた

 

 気が付いたら中学戦車道三連覇

 凄い事を成し遂げたんだろうとは思ったが、そんな実感は無かった

 努力はしたが具体的に何を目標にしていたのか分からない、ああ、いや、大会の優勝は目指していたけれど

 

 神童なんて言われて、インタビューが来て、誰も彼も私を持ち上げようとしていた

 西住まほ、島田愛里寿と並ぶ天才などと書かれていたが、そんな人達私は知りもしない

 

 誰もが私を誉め称える

 誰も私の醜い部分を見もしない

 誰も私を、見てくれていなかった

 

 

 

 

 

 逸見隊長が私の前に現れたのは、そんな時で

 敗軍の将が何の用だとせせら笑う周りの隊員を私は止めることもせず、心底興味がないものを見るような目で逸見隊長を一瞥した

 

 王者黒森峰の失墜は他の隊員が話してるのを小耳に挟んだことがあったし、黒森峰の人が色んな中学に足を運び勧誘に奔走していると言う話は笑いのネタだった

 重なる敗北に焦った黒森峰が有望な人材の勧誘を行うのは、確かに理にかなってはいるものの見境のないその姿は滑稽で無様にしか見えなかった

 

 王者の名も落ちたものね、なんて誰かが言った

 恥ずかしくないのかと、喜色を含んだ声で

 まるでドブネズミだと、吐き捨てるように

 

 聞くに耐えない誹謗中傷に、けれど彼女は顔色ひとつ変えない

 私達の一人ひとりをじっくりと眺めてから、鼻で笑った

 

『なんだ、やっぱり優勝したくせに全然満足出来てないんじゃない。』

 

 いっそ涼しげに、私達の暴言の数々を流してそんなことを言い切った逸見隊長の姿は当時の私にとって不愉快なものでしかなかった

 

 分かったようなことを言うな、知った口を聞くな

 そんな言葉に出さない怒りを気取られないように、何時ものように仮面を被る

 

 いきり立つ隊員達を片手で制すと、瞬時に隊員達は口をつぐむ

 

『黒森峰の隊長さんは嫌味を言って回るのが仕事ですか。負けた相手にも散々嫌味を言ってたみたいですけど、まだ懲りないんですね。私ならそんな悠々とはしてられないですけどね。』

 

 嘲笑を含めた私の言葉に、周りの隊員が合わせるように笑い声を上げる

 心を折ってしまいたい、その涼しげな顔を歪ませてやりたい、怒りに震えてくれればと思う

 

『負け犬で、惨めで、情けない、可哀想に。安心して下さい、もう誰も黒森峰に期待なんてしてませんよ。』

 

 どれだけ言っても形の整った柳眉をほんの少しも動かさない逸見隊長に業を煮やした私は、矛先を変えた

 

『ああ、勿論、貴方の気持ちも分かりますよ隊長。役に立たない部下ばかりで訓練しても意味がないって分かったんですよね。ろくに動けない奴等を訓練するより、役に立つ新人を訓練した方が合理的ですものね。』

 

 その瞬間、強烈な怒気が私達に襲い掛かった

 

『ひっ!?』

 

 暴風のように吹き付ける熱を伴った強烈な怒気にへらへらしていた隊員達が顔を強張らせ、私は目を見開いて咄嗟に身を竦ませた

 

 私の望んでいた筈の彼女の怒りは、歪ませたいと思っていた澄ました顔を能面のような表情に変えさせた

 細めた瞳は淀み、ドロドロとした憎悪が熟成されたような狂気的な光を灯している

 こんなもの、たかが学生の身で纏って良い空気ではなかった

 

 逸見隊長から溢れる殺気にも似たなにかに私の頭の中にある危険信号がガンガンとうるさいくらい警鐘を鳴らす

 殺される、本気でそう思った

 一歩踏み込んできた逸見隊長に干上がった喉から小さく悲鳴が上がる

 それでも、全身が金縛りにでもあったように動くことができない

 ただ、あっという間に距離を詰めてくるその悪魔のような姿に幼子のように震える事しか出来なかった

 

 手を伸ばせば容易く届く距離

 薄く裂けるように口が弧を描いて悪魔が手を伸ばしてくる

 思わず、ぎゅうっと目を瞑てしまう

 

 こんな悪魔と向かい合う覚悟なんてしていなかった

 怖い、怖い怖い怖いこわい

 こんな人がこの世に存在するなんて知らない

 私はただ私の前に現れた不愉快な人を追い払おうとしただけで

 こんな、こんな事望んでいなかった

 そんなつもりなかった

 

 誰か、助けて

 誰かーー

 

 

 

 

『バカね、そんなに怖がるなら最初から挑発なんてしなきゃいいのに。』

 

 

 

『ひっ、あえ…。』

『あ、ちょっと、泣くほどじゃないでしょう。…ごめんなさい、大人気なかったわ。』

 

 急に掛けられた優しげな声に恐る恐る瞼を持ち上げてみるとしかめっ面のまま困ったように眉尻を下げた逸見隊長の顔がすぐ近くにあった

 伸ばされた手は私の眉尻に溜まった涙を優しく拭ってくれる

 

『す、すいません、私も口が過ぎました…。』

『もう怒ってないから、落ち着きなさい。ほら、涙を拭いて。』

『泣いてない!泣いてないですし!』

 

 逸見隊長に差し出されたハンカチを奪い取り、目元を隠す

 目元の水分を拭い、乱れた髪を整え、早鐘のような心臓を落ち着ける

 もう大丈夫だ、いつも通りの私に戻れた

 

 慌てて体裁を整えて、逸見隊長に向き直ると逸見隊長はいつの間にか他の隊員達と何事かを話し、からかうように笑っている

 隊員達も先ほどまでの張り詰めた表情が解れ、少し不機嫌そうにしながらも、逸見隊長と話を続けていた

 

『それで!ほんとに何の用なんですか!』

 

 ちょっとだけ、疎外感を感じた私は声を張り上げて逸見隊長の前に立つ

 驚いたように目を丸くした逸見隊長は一瞬、言葉を選ぶように視線を下に向けてから私に向き直った

 

『貴方達の活躍、見させて貰ったわ。』

『へえ、なら普通に勧誘って訳ですか。』

 

 最初程の嫌悪感は気が付くと無くなっていたが、やっぱりただの勧誘でしかないと知って、自分でも分からない失望を感じる

 逸見隊長に勝手に何を期待していたのだろうかバカみたいだ

 無意識に声色が低くなった自分に驚きながらも、表情には出さないよう心掛ける

 

『まあ…、場合によっては勧誘しようと思っていたんだけど。一番の理由は貴方達が不満そうな顔してたから気になったのよ。』

『私が…不満そう?』

『気が付かなかったの?貴方達みんな、不満そうだった。』

 

 後ろにいた隊員達に目を向けると、大なり小なり思っても見なかったことを言われたように驚きを表していた

 

『そんなこと、ちょっと見ただけの貴方が分かる訳無い…。』

『…分かるのよ、そういう顔をしてた人が近くにいて、私もそんな時期があったから。』

 

 自嘲するように微笑む

 

『気が付けなくて、後悔して、もうどうしようもなくて、そんな経験があったから、一度貴方達に会わなくちゃいけないって思ったの。』

『…。』

 

 もう過去の事なんて言うけれど、その顔はいまだに辛そうで見てるこっちが苦しくなった

 逸見隊長は一度強く目を瞑り、先ほどまでの真剣な表情に戻して私達を見詰める

 

『で、今貴方達に会ってみて、やっぱりこのまま知らんぷりはしたくないから、一つだけ言わせて頂戴。貴方達はお互いがお互いに遠慮しあってるの、信頼してる筈なのに胸に突っ掛かった悩みを打ち明けられてないわ。』

 

 だから、と言って好戦的な笑みを浮かべる

 

『言い合いになっても、殴り合いになっても良いからしっかりと話し合う事。それだけで、その気持ちが悪い蟠りが解決してしまうこともあるんだから。』

『話し合うのが…足りなかったって言うんですか。』

『違うわよ、貶し合いが足りないって言ってんの。』

 

 神妙な顔付きでお互いを見詰め合う中で、逸見隊長はじゃあ、と言って私達に背を向けた

 考えさせられるような事だけ言ってそのまま帰ろうとする逸見隊長の姿に何とか引き留めようと慌てて肩を掴む

 

『ちょっ、それだけですか!?』

『はぁ?甘えんじゃないわよ、後は自分達で解決しなさいよ。私は充分助言したわよ。』

『そうじゃなくて、勧誘は!?』

 

 その時の私の表情がよほど必死だったのか、逸見隊長は笑いを溢した

 

『あんまりにも拒絶されたものだから、言いたいこと言って帰ろうと思ったんだけどね。』

 

 けどまあ小梅に怒られるし、とぼやくと私達に向き直る

 

『ウチは貴方達が言うように今、地に落ちているわ。』

 

 逸見隊長が着ている制服に付いている今は落ちぶれた黒森峰の校紋を指先で撫でた

 その行為は今考えると逸見隊長にとって、何かを懺悔する行為であり決意の象徴であったのだと思う

 

『翼を失って空を飛べなくなった鳥は二度と空を飛ぶことは出来ない。』

『失ってしまったものを取り戻すことはきっと出来ないけれどそれでも前に進まなきゃいけないなら。』

『私は泥塗れになっても、この体が擦り切れても歩む事を止めないわ。』

 

 ああ、違う、違うんだ

 私の戦車道は、こういう人の近くで

 

『黒森峰を必ず勝利させる。そのために貴方達が必要なの。』

『だから、私と一緒に来なさい。不安も不満も何一つ、持たせないわ。』

 

 不器用な誘い言葉は実利を整然と並べられた勧誘よりも、ずっとこの胸に熱を灯して

 この人に着いていきたいと、この人が見る景色を隣で一緒に見ていたいと、そう思った

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、後で様子を見に行くから」

「はい、お待ちしています。」

 

 堅いわね、と笑いながら去っていく逸見隊長の背中を見えなくなるまで見送ってから隊員達が準備をしているだろう車庫へ向かう

 

 あの大会を終え、逸見隊長を始めとする3年生の方々は黒森峰戦車道を引退し、それぞれがそれぞれの進路への準備に入っていた

 そんな中で逸見隊長は僅かな時間を縫って私達のサポートに入ってくれている

 

 逸見隊長は自身が余計な世話をしてると思っているようだが隊長職としての雑務の量は中学の時とは比べ物にならず、正直ありがたかった

 逸見隊長がどこの大学を目指しているのかは教えて貰っていないが、黒森峰をここまで立て直した功績は無視できないものだし、加えて勉学も優秀であるため、どの大学からも喉から手が出るほど欲しい人材の筈だ

 

 

 そう言えば、前黒森峰の隊長…、逸見隊長の前の隊長が戦車道で有名な大学で活躍していると聞いたことがある気がする

 そこに入る確率も高いだろうか等とつらつら考えながら隊員達が待つであろう車庫の前までたどり着いた

 

 いずれにしても、私のやることは一ミクロンだって変わり無い

 逸見隊長から受け継ぐ黒森峰戦車道を全国三連覇させて、その後も連覇を続けさせれるような土壌作りと後輩達の育成

 やらなければならない事は山のようだけど、逸見隊長の宣言通り、ここに来てからつまらないなんて感じることは無い

 

 頼りになる先輩や同輩と作戦を立てるのが楽しい

 これから入ってくる後輩達への指導を考えることが楽しい

 戦車を動かすのが楽しい

 討論を交わすのも楽しい

 全てが全て、心地いい

 

 私はいつの間にか戦車道が大好きになっていた

 

 

 ふと思うことがある

 あの中学三連覇をした後のあの時

 私達の前に逸見隊長が現れなかったらどうなっていたのだろうと

 

 どうにもならなかったかも知れないし、今より良い未来があったのかもしれない

 けれど、今この場所に居られて良かったとそう思う

 

 だからこそ、3年生が戦車道を引退することに少なくない動揺がある

 この先、どうなっていくのか、今が幸せだから反比例するように先の不安が募っていく

 

 中学生の頃に比べて弱くなったと思う

 知識も技術も経験も、あの時に比べて大幅に向上した部分しか無い筈なのに

 周り頼ることを

 勝利への執念を

 泥にまみれることを

 学んでしまった私はきっとあの頃よりも弱くて

 それでも良いと思えてしまう私は、もうあの頃のようには戻れないだろう

 

「責任…取って貰いますからね。」

 

 出来ることならどこまでも、逸見隊長に着いていきたい

 でも、私は出来る後輩だから

 任されたことは完璧にやりきって見せる

 連覇もする、勝てる土壌も後輩達の育成だって、目を見張るような結果を挙げて見せる

 

 だから、この出来る後輩を手放さないで欲しい

 この先々、大学でもプロリーグでも後輩であることを許して欲しい

 そのためなら頑張れる

 

「よし、頑張ろう。」

 

 意識を切り替える

 

 私はここの隊長だ

 隊員達に不安等抱かせない、私事は切り離す

 

 目の前の扉を開け放つ

 そこには、予想通り隊員達が集まっていて

 

 

 

 大混乱の様相を見せていた

 

 

 

 「はぁ!?」

 

 思わず声が漏れる

 2年の先輩方も、中学生の頃から一緒に戦車道をやっている隊員達も揃って大混乱

 頭を抱えてうずくまるものや号泣するもの、茫然自失といったものまでいる

 

 そんな集団の中心に居るのは、大学受験の勉強で忙しい筈の赤星先輩で

 光の消えた目のまま、後輩達に揺さぶられている

 そんな中、中学生の頃からの仲間達が私に気が付いたようで慌ててこちらに近付いてくる

 

「おいおいおいおい、お前知ってたのかよ。やべぇよ、衝撃ニュースじゃんよ。」

「あはは、嘘ですよね?嘘なんですよね!」

「ちょっと、落ち着きなさいよ。だらしない。私現状を何にも理解してないんですから、説明を。」

「だから!逸見元隊長の話!」

「はあ、逸見隊長が?」

 

 掴みかからんばかりに、肉薄してくる彼女達に呆れたような視線を向ける

 なんだと言うんだ、訓練前にこんなに騒ぎ立てて

 話を聞いた後に全員に罰則として走らせてやろうか

 

「逸見隊長、高校で戦車道やめちゃうんだってさ、マジヤバイ!」

「…は?嘘も程々にしなさい、流石に怒りますよ。」

「あは、嘘だよね!小梅先輩が勘違いしてるだけだよね!」

「いやいやいやいや、マジでさ。西住流も大会前に破門にしてもらったらしくてさ。」

「え…。」

「実情に詳しい西住流の人に確認したら破門はほんとらしいのさー。」

 

 ………………

 

「あ、倒れた。」

「白目剥いて泡吹いてる、超ヤバイ!」

「いやいやいやいや、ほんとにやばいじゃん!?」

「あはっ、女の子がしちゃいけない顔してる。…他の人が見ないように隠してあげよっか。」

 

 



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逸見エリカは拗らせている

 私が戦車道をしてきたこの6年間、挫折と後悔にまみれていた

 苦しいことも、悔しいことも、飲み込んで乗り越えて

 それでもここまで来れたのは一重に戦車道が好きであったからに他ならない

 

 中学生の頃は、先輩達との確執から起こった衝突で陰険な嫌がらせにまで発展したし、決して才能があるとは言えない私は周囲との劣等感に苛まれもした

 そんな良いとは言えない環境の中ででも、私は戦車道自体を嫌になったことは無かったし、なんなら考えたことが無かったと自信を持って言える

 

 では、いつから私は戦車道が嫌いになってしまったのだろう

 

 正確な切っ掛けは分からない

 けれど、きっと私が戦車道を心から楽しめていた高校1年生のあの時が終わってしまった瞬間からなのではないだろうかと思う

 

 

 

『エリカさん!』

 

 

 頭に残る誰かの声が私を振り返らせる

 後ろを振り返ったところで、そこには何も無いと言うことは分かっている筈なのに

 

 

 

 これは悪夢なのではと思う

 ヒタヒタと着いて歩く亡霊のように

 素知らぬ振りをした私の罪をどこまでも追い掛け、決して忘れさせることの無いように

 もしかすると、歩めていた筈の別の未来が私を責め立てているのではなんて

 

 馬鹿馬鹿しい妄想だと分かっている

 彼女が私の名前を呼んだことなんて今まで無かったし

 現に私の頭に巣食う彼女は過去の事など無かったかのように充実した生活をしているのを知っている

 私が悔やんで苦しかったあの時の事は、まるで要らないものであったかのように気にもしていないのだろう

 

 だから、これは、私の勝手な罪悪感が産み出した幻でしかなくて

 何時まで経っても清算出来ない、私の未練がましさの表れでしかないのだ

 

 

 

 

 

 

 打ち付けるような豪雨の中で、ようやく川から引き上げられた戦車は鋼鉄で作られたと言うのが信じられない程磨耗しており、浸水した濁流が持ち上げられた戦車の隙間と言う隙間から溢れ落ちる

 

 そんな凄惨な戦車の状態を見れば、産まれて初めて出来た私の親友の判断は正しく人命を救ったのだと確信できて

 普段の気弱なあの子の姿からは想像できなかった英断に試合に負けたと言うのに、妙な誇らしささえ感じていたから、傘も差さずに雨に濡れるあの子の悲壮感に包まれた表情が理解できなかった

 

『…逸見さん、わたし…。』

 

 なんでそんなに悲しそうな顔をするのか

 何か取り返しのつかない事をしてしまったような、悲嘆に暮れた苦しそうなあの子の心情を、馬鹿な私は気が付くことも出来なかった

 

 風邪引くわよ、なんて的外れな事しか言えなかった私にあの子の頬を流れる滴が涙なんて想像も出来なくて

 私は、ただ俯いて誰に向けたか分からない、ごめんなさい、なんて謝罪を繰り返すあの子の肩を抱いて連れ帰る事しか出来なかった

 

 

 

 

 弱小校であった私の中学時代は敗北が日常茶飯事で、悔しさはあっても次に勝てば良いと考える程度には敗北に慣れていて

 だからこそ、王者と言う看板の重さを、最強でなければならない西住流の厳格さを甘く見ていた

 

 あの日の敗北から、日に日に陰が増していくあの子の様子に私は困惑した

 落ち込むよりも、次を勝てるようになんて、ありきたりな慰めを無責任に口から垂れ流して

 あの子の手を引いて、いつも通り訓練へ連れていっていた私はなんて愚かだったのだろう

 

 高校生となってほとんどの時間を一緒に過ごしていたあの子が少しずつ離れていったのは必然だった

 

 

 気が付くとあの子が近くに居ないことが多くなった

 戦車に乗っている時以外は、基本的にポンコツなあの子の様子を見ていられなくて

 同室のよしみで、何かと世話をする内にカルガモの子供のように私の後を着いて歩くようになったあの子が、自分から一人で何処かに行く事等いままで無かったから

 恥ずかしい話だが、逆に私があの子の後を必死に追うようになっていた

 

 

 そんなある時

 何時ものように、居なくなってしまったあの子を探して人気の無い場所をしらみ潰しに探していると、責め立てるような怒声が聞こえて来た

 

 校舎の屋上なんていう、立ち入りを禁止されている筈の場所から聞こえてくる声に面倒事に関わってしまったと思いながらも見知らぬ誰かを止めようと様子を伺うと そこに居たのは、戦車道の3年の先輩方と私が探していたあの子の姿があった

 

 そこからは簡単だ

 昔から相手が誰であろうと、意見を違えれば噛み付く悪い癖があった私は、その現場に勢い良く身を曝しあの子を守るように先輩達の前に立つ

 こいつらは敵だと、そう思った

 お前らのような奴が居るから、どうしようもない悪循環に嵌まってしまっているのだと怒りが生まれる

 

 飛び出してきた私に先輩達は一瞬怯んだような顔をしたが、直ぐに憎々しげに表情を歪ませて私を睨み付けてくる

 戦犯を庇うのかと、そいつの勝手な行動で私達は先輩方に顔向け出来ないと、激しい口調で詰め寄ってくる

 私は吠えた

 ふざけるなと、お前らの言い分は自分の不甲斐なさから目を逸らす為の詭弁に過ぎない、なんて

 

 あの子を守ろうと必死になった私は、あの敗北に特に感慨を抱いてすらいないある種の部外者の癖に、もう取り返しのつかない先輩達に向かって、ただただ正論を殴り付けた

 

 聞くに耐えない暴言の応酬が終わると先輩方は瞳にうっすら涙を浮かべて、震える体を引きずって去っていく

 先輩達の姿に言い様の無い無力感、本当に正しいことをしたのかという疑問を感じながらもあの子の様子が気になって、後ろを振り返る

 

 

『ごめんなさい…、逸見さん…ごめんなさい…。』

 

 只でさえ白い頬を蒼白にして震えるあの子は虚ろげで

 それでも、何かを決意したような悲しい瞳に嫌な予感がした

 

『もう…私に関わらないで下さい。』

 

 そう言って振り返ることもせず私の前から去っていくあの子の背中に、私の震える口は何の音も出すことは出来ず

 フラフラとあの子の背中を追うように伸ばした手は届かないまま、空を切って力無く垂れ下がった

 

 

 その日からあの子は私の前から居なくなった

 

 

 

 

 

 

 

 私が戦車道を嫌いになった瞬間があるとするならば

 それはきっとこの時で

 今も背負い続ける罪の記憶だ

 

 

 ふと思う

 一体誰が悪かったのだろうと

 小さな頃に憧れた勧善懲悪もののお話であれば、どうしようもない悪役がいて

 そいつさえ打倒すれば皆が幸せになって

 めでたしめでたし、でお仕舞いで

 

 

 なんでそんな風に上手く出来ていないのだろう

 あの試合での敗北で悪い人なんて何処にも居やしなくて

 川に落ちた人達も

 フラッグ車を放置したあの子も

 攻撃を続行したプラウダの人達も

 誰も悪くないならどうしてこんなにも上手くいかないのだろう

 

 この私のどうしようもない怒りは何処へぶつければ良い

 行き場の無い怒りは、私の胸の中で渦巻いていく

 暗く黒く、質の悪いオイルのように滑りけのある感情は決して消えること無く私の中で留まった

 

 それから、私は今までに無いくらい戦車道の訓練にのめり込んだ

 何かを必死にやっている時だけ、嫌なことを忘れられた

 

 部屋に帰るのが恐かった

 誰もいない一室と永遠に帰ってくることの無い主人を待つ私物やぬいぐるみ達が恐ろしかった

 だから、出来るだけ部屋に戻らないように

 何度も何度も戦車道の設備で日を過ごした

 汗を流すためのシャワー室で体を洗い、資料室で眠りにつく

 そんな生活を送っていればおのずと戦車に対する理解が深まっていった

 

 別に強くなりたいなんて考えていた訳ではない、でも敗北で何かを失うのは、もう、嫌だった

 楽しいなんて、感じている暇はない

 辛いなんて、考えもしない

 

 徹底して私個人の技量を磨いていく

 戦車に対する知識、戦略立案、運転技能、装填技能や狙撃技能、果てには通信技能まで、あらゆるものに手を出してひたすら努力を続けた

 

 私のあまりに病的な努力に周りの人達が止めようとしてきた

 お前は病気だと言われた

 お前が自分自身をどれだけ痛め付けても意味など無いと言われた

 

 

 ―――意味ならある

 

 

 あの子が、みほが辞めなければならなかった黒森峰の戦車道こそが最強だと、証明するのだ

 最強であったがゆえに、みほの優しさは排斥されなければならなかったと、証明しなければならない

 でなければ、本当に、誰も報われない

 

 そう思った、思っていた

 

 

 

 

 

 あれはなんだ

 あそこにいるのは誰だ

 私の中に押さえ込んでいた怒りが憎悪へと姿を変えてどす黒く渦巻いていく

 苦しい、息苦しさを感じるほどのその感情を押さえ込む事が出来ない

 

 戦車道の抽選会で目にしたのは

 見慣れたおどおどした立ち振舞いのあの子で

 見慣れない制服姿の彼女は遠目からだったが、やけに幸せそうな、気がした

 

 隣にいる誰かと笑い合うあの子

 私じゃない誰かと名前を呼び合うあの子

 

 そこでなくては、駄目だったのだろうか

 こちらでは、駄目だったのだろうか

 彼女達でなくては、駄目だったのだろうか

 私では、駄目だったのだろうか

 

 疑問に答えてくれる人はどこにも居なくって

 混乱と驚愕の板挟みになった私が怒りの矛先をあの子に向けたのは、当然だったのかもしれない

 

 …潰す

 必ず潰す

 もう散々だ

 もう我慢の限界だ

 

 丁度良い、誰が悪いか分からなかったところだ

 この大会で、全て、全て叩き潰そう

 

 そうして、私は怒りのままにより一層、戦車道の訓練に打ち込んだ

 訓練して、訓練して、訓練して

 日に日に強大になっていくどす黒い感情は、もう手に負えなくなっていった

 

 勝ち上がっていく私達と、あの子達

 あまりに都合が良く叩き潰す場が整って嬉しくなって

 同時に何か間違えてしまっている気がして

 助けて、と叫びたくても、そんな声を聞いてくれる人はどこにも居なくて 

 自分自身、何から助けて欲しいのか分からなくいまま

 ただただ、憎悪を燃やし続ける日々を送る

 

 向こうはこちらとは比べ物にならないくらい性能の低い戦車ばかりだ

 サンダース、アンツィオ、プラウダを下した実力は侮るべきではないが必ず潰す

 

 潰して、優勝して…

 優勝して、意味のあるものにしないと

 そうしないと、私はあの時、あの子が苦しんでいる時、なにも出来なかった自分自身を許すことが出来ない

  

 そんな下らない私の願いは王者黒森峰の2大会連続優勝を逃すという汚名とともに壊れることとなる

 

 他ならないあの子の手によって

 

 

 黒森峰と大洗の戦力差は歴然で

 ひっくり返っても負けるわけないと、負けてはいけないと思っていた

 あの子が居なくなってから、いや、それまでも血の滲む努力を重ねてきた

 それがこの様だ

 

 悔しさはない

 ただ笑いが溢れてしまう

 どうしようもない、今の私には何も残っていない

 

 努力が無意味なものだと

 苦しみも、悲しみも、要らないものだと

 私にとっての大切な思い出は誰かにとっては無価値なものだったと、思い知らされた

 

 やけに広く感じる部屋の中で、私は一人布団の上でうずくまる

 誰かの荷物はまだ片付けれない

 私にはついぞ良さが分からなかった熊のぬいぐるみが私を見詰める

 

 また、私の未練が話し掛けてくる、いつぞやのあの子の言葉をそのまま

 

『逸見さん、ボコは凄いんだよ!何度やられても必ず立ち上がるんだ。』

 

 うるさい、黙れ

 

『私ね、小さい頃からボコのそんな姿に憧れててね。実践しようと頑張ってるんだけど、なかなか上手くいかなくて。』

 

 止めろ

 止めてくれ、そんな話聞きたくない

 

『だから、高校でボロボロになっても絶対諦めようとしない逸見さんが凄いなぁ、て思ってて。』

 

 居なくなったくせに

 立ち上がらなかったくせに

 私を一人にしたくせに

 

『逸見さん、何度倒れても立ち上がれば最後は絶対叶うんだよ!』

 

 もう、…疲れたの

 

 私を見詰める傷だらけのぬいぐるみの頭を鷲掴みにして、ゴミ箱に投げようと振りかぶった

 未練を捨てようと

 思い出を捨てようと

 あの子の残骸を捨てようとしているのに

 振りかぶったのに、何時まで経っても投げ捨てることが出来なくて

 

―――結局、捨てることなんて出来やしなかった

 

 

 

 傷だらけのぬいぐるみがいろんな人達と重なって見える

 あの子と、隊長と、赤星と、同輩や後輩、先輩方と、あの子を責め立てた隊員達でさえ重なって見える

 色んな人が傷ついた

 苦しんで苦しんで涙を流した

 今もそうだ、苦しいのは辛いのは私だけじゃない、私だけじゃないんだ

 

 何度も何度も、負けて躓いて転げ回った

 劣等感に苛まれ、敗北に震え、それでも前に進み続けた

 それしか、出来なかったから、それだけが取り柄だったから、前に進み続けた

 

 どれだけ惨めだろうと、泣くことだけはしてやらなかったのに、今は溢れてくる涙を止めることが出来ない

 

 ずっと勘違いしていた

 敵なんてどこにも居なかったんだ

 

 漏れる嗚咽は段々と大きくなって、ぬいぐるみを抱き締める力は増していくばかり

 声を押し殺す事など考えられず、ただ幼子のように泣きわめいた

 

 

 

 あの子はもう居ないけど

 あの子にとって、私は取るに足りない存在だったのかも知れないけど

 私にはやらなければならないことが残っていて、やれることが残っているから

 もう一度だけ、立ち上がることにした

 

 これで最後だ、もう終わらせよう

 私の戦車道とあの子との思い出はこれで終わりなのだ

 

 

 

 



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西住みほは思い違う

 私が私自身を誰かに語っていくとするならば

 臆病で、弱虫で、一度挫けると立ち上がれない、そんなネガティブな言葉ばかり口に出してしまうだろう

 

 それは、お母さんの期待に応えられなかった事やお姉ちゃんへの劣等感が生んだ卑屈さの集大成

 きっと、どれだけ努力してもお母さんが言う西住流になることは出来ないだろう、なんて諦めが心の底でカビのように広がって、染み付いている

 このままでは、自分の道なんて見付けられないだろうと理解していたのに、現状を甘受して、停滞を受け入れて、不変に心地好さをさえ感じていた

 

 意気地無し

 詰まるところ、私の自分自身に対する評価なんてそれだけだった

 

 

 でも、そんな私でも譲れないものは出来て

 なんとしても守りたいものは、確かにあった

 

 例えばそれは、私の好きなぬいぐるみの事だったり

 例えばそれは、私を守ろうと闘ってくれた友人達の事だったり

 例えばそれは、私を救ってくれた皆が居る学園艦の事だったり

 例えばそれは、何時も不機嫌そうな顔をしているあの人の事だったり

 

 それらは、私を構成する重要な1部分で自分自身を語る上では、決して抜かすことの出来ない大切なものであった

 

 

 

 

 

 第64回全国高等部戦車道大会は、大学選抜との激闘を制した大洗戦車道(実質は高校選抜のようなもの)の隊長であった、西住みほの高校最後の大会ということであらゆる方面からの注目を集めていた

 

 前年の有力な隊長や副隊長、隊員達が抜けたのはどの学校も同じであったが、それでも下馬評では4強である黒森峰、プラウダ、聖グロリアーナ、サンダースは勝ち上がるだろうと予想され、比較的有力な選手が抜けたのが少ない西住みほ率いる大洗は優勝候補筆頭であった

 

 昨年の大会で、初出場かつ無名校である大洗の大躍進はある種の伝説となっており、まことしやかに軍神の異名で呼ばれている西住みほのもとで戦車道を履行したいと多くの者が大洗での戦車道を希望した

 また、全国大会の優勝、大学選抜への勝利は、大洗女学園の名を世に知らしめるには充分で、学園が戦車道への予算を大幅に上乗せするのも当然と言えた

 そんないくつかの理由から、大洗の戦車道は抜けた戦力よりも新しく加わった戦力の方が圧倒的で、軍神西住みほの隊長続投は隊員達の士気の面でも他校にはない強さを持っていた

 

 向かうところ敵無しだろうとあらゆる人達が予想して、誰もが西住みほの奇抜な策の数々を期待した

 

 実際、大洗は阿吽の呼吸のごときコンビネーションと逆境を跳ね返す経験の数々からありとあらゆる場面で圧倒的な強さを見せ付ける

 昨年よりも更に強く、隙の無い連携、扱う戦車と人員の増加と質の向上により今大会、大洗は最強だと思われていた

 

 

 

 

 

 

「みぽりん、またその雑誌読んでるの?」

 

 私は、隊長としての引き継ぎを漸く終らせる事が出来たため、時間が空いた放課後のこの時間に読もうとあらかじめ鞄に入れていた、もう何度読んだか分からない戦車道の雑誌を机上に広げていた

 

「あ、沙織さん…。うん、この前の大会について詳しく書いてあるから、何度も読んじゃうんだ。」

「その雑誌酷いこと書くからあんまり好きじゃないんだけど、やっぱりその雑誌以上に高校の戦車道を詳しく書いてるの無いもんね。」

「そう…なんだよね。」

 

 先日行われた大会の細かい動きなどが詳細に記された、この雑誌は情報誌としては優秀なものの批判的な書き方も多く、私はあまり好きになれない雑誌であった

 転校直前の黒森峰時代にも、私への批判が掲載されていたこともエリカさんが激怒していたから知ってはいた

 でも、その時の私には雑誌を悠長に読んでいるような余裕は無くて読まなかったから、実際に読んでいたらもっと精神的に追い詰められていたかもしれない

 

 大会が始まる前にこの雑誌の標的となっていた黒森峰、いやエリカさんはどんな気持ちだったのだろう

 反骨精神を隠そうともしないあの人は、もしかしたら今はしてやったりと満足してるのかもしれない

 

「けど、みぽりんは凄いなぁ、終わった試合をちゃんと復習して悪いところをチェックしてるんだね!」

「そんなこと無いよ、大会で予想外な戦法を取られたり、裏をかかれちゃったことが有ったから次はおんなじ失敗しないようにしたくって。」

「流石みぽりん!じゃあじゃあ、私も一緒に勉強しよっかな!」

 

 そう言って空いている席の向きをこちらに向けると、鞄からピンク色の可愛らしい筆記用具入れと、デカデカと戦車道と書かれたメモ帳を取り出した

 私は沙織さんが使えるスペースを作るために雑誌の位置を軽くずらして迎え入れる

 沙織さんは今開かれている雑誌のページに視線を走らせるとあごに手を当てて呻いた

 

「うわぁ…、こうやって改めて見てみると今年の黒森峰は凄かったんだね。」

 

 開かれているページには、トーナメント表が描かれており、各試合の残戦車数と勝敗が記されていて、私達大洗とは真逆の位置から優勝まで赤いラインが切れることがなく続いている

 

 エリカさんが率いた黒森峰だ

 黒森峰は、大会前に戦車道に関わる一部の人達から落ちぶれた王者なんて呼ばれて、酷い誹謗中傷を受けていたから、士気的な問題や新入隊員会得の難しさから勝ち進むのが厳しいだろうと思っていた

 

 それが蓋を開けてみれば圧倒的な強さでの優勝

 私達、大洗と決勝戦で当たるまでは1両も落とすことの無いという完全試合を行って見せたのだ

 対プラウダ戦10ー0

 対知波単戦10ー0

 対サンダース戦15ー14

 正直、この結果を聞いた時は耳を疑い

 そんな試合が可能なのかと、慌てて詳細を確認した

 

 対プラウダ戦

 超遠距離砲撃の嵐による撹乱、散らばったプラウダをまるで散らばる先が読めているかのような各個撃破によりフラッグ車以外を行動不能にしていき、最後は悠々とフラッグ車を打ち倒した

 

 対知波単戦

 伝統の突撃・粉砕(相手がとは言っていない)を控えることを覚えた知波単に対して、移動速度を重視したゲリラ部隊が強襲、撤退を繰り返しプラウダ戦で見せた超遠距離砲撃と合わせての完封

 

 対サンダース戦

 これは、前の2試合とはうって代わりフラッグ車のみを狙った電撃戦であり、鬼才水瀬さつきが乗った黒森峰最強の戦車による強襲はサンダースに一撃も砲撃する間を与えることなくフラッグ車を撃破した

 

 

 異常であった

 いいや、理論上は可能であろう

 超遠距離砲撃も、まるで反撃する間もないゲリラ部隊も、電光石火のフラッグ車撃破だって、個別に見れば、個人に高い能力が求められるものの不可能ではない

 

 では何が異常なのか、それは情報量だ

 

 超遠距離砲撃も、ゲリラ部隊も、フラッグ車のみを狙った強襲も、相手に悟られず正確な情報を手にしている事が大前提のはずで

 そんな圧倒的なアドバンテージを何処から持ってきているのかが、分からない

 分かる筈がない、それが分かればいくらでも戦略の幅が広げれる

 

 たとえば、過去に大洗と対決したサンダース高校が無線の盗聴により、完璧に私達の裏を掻く事に成功した

 なるほど、次に相手がどう動くか分かれば裏を掻く事など容易いだろう

 

 だが、この大会の黒森峰はそんな生易しいものではない

 盗聴などでは得られぬはずの情報量

 たとえば、フラッグ車の位置なんていちいち無線に乗せることなどしない

 たとえば、超遠距離砲撃でちりじりになった戦車の位置を正確に把握出来る筈無い

 

 そう、まるで未来予知をするような、人知を超えたような戦略の恐ろしさに鳥肌が立った

 

 

 そして、なにより驚いたのは

 

―――こんな戦略、絶対に西住流では無いからだ

 

 

「うん…、強かった…今まで戦ってきた誰よりも。」

 

 

 惨敗した

 かつて無い程に

 いや、より正確に言うのならば、小さい頃に訓練の延長としてお母さんと戦った時以来の惨敗だった

 

 甘く見ていた訳ではない、対策をしていなかった訳ではないのだ

 結果を聞いて、自分が知っている今までの黒森峰ではないと確信して、可能な限り情報を集めて

 

 その上で、勝つことが出来なかった

 

「私、皆と最後の大会、優勝したかったな…。」

「ね~…、行けそうな感じはしてたんだけどね。」

 

 今までにない、充実した戦力を持つ事が出来た

 昨年、優勝することが出来たあの戦力を思えば優勝を確信してしまうのは無理の無いことで

 隊員達全員が油断していなかったと言えば嘘になる

 そんなチームの油断を取り除く事が出来なかったのも、私の隊長としての力不足だろう

 

 どうすれば良かった、なんて結果論はいくら考えても尽きなくて

 そんな事ばかり考えているから、今さら、いくらそんなことを考えても、終わってしまった事は変えられないんだって嫌でも実感させられてしまう

 

 ただただ今は、私を支えてくれた皆を優勝させてあげられなかった事が申し訳なかった

 

「沙織さん、最後の大会、優勝出来なくてごめんね。」

「もー、みぽりん。別に悔しかったねって話をしてるだけで、誰が悪いなんて言ってないってばー。」

 

 何なら私なんて水瀬ちゃんと撃ち合いになった時に負けるの覚悟しちゃったし、と沙織さんは嫌な事でも思い出すように眉間に皺を寄せる

 

 そうだ、誰が悪いなんてどうでも良いんだ

 責任を追及する意味も意志も無いんだから

 この大会でも昨年の時のように、皆で手を取り合って楽しむことが出来た

 それで良いじゃないか

 

 あれだけ嫌っていた筈の勝利至上主義が、気づかぬ内に自分にも深く染み付いているような気がして軽く自己嫌悪してしまう

 

「みぽりんは最近ネガティブに考えすぎだよ!全国大会準優勝は充分良い結果だし、今年は廃校の危機とかも無いんだから楽しんだもん勝ちなんだよ!」

「沙織さん…、そうだよね。」

「そうですよ、みほさん。私達皆、みほさんに着いてきて本当に良かった、楽しかったと思っているんですから。」

「華さん、ありがとう…。」

「あれ、華。生徒会の仕事は終わったの?」

「生徒会の方も引き継ぎは終わったんですから、余り3年生の人達が手伝わないようにしてるんですよ。」

 

 何時の間にか、今は元生徒会長の華さんが沙織さんと同じように近くの席に腰を下ろす

 この学校に来た頃から変わらない私達の関係

 

 大きく変わってしまった様々な事の1つに華さんが生徒会長になったことがあって

 高校での立場や大洗戦車道の状況が変わっても、私達のこの関係が何一つ変わらなかった事に酷く安心したことを覚えている

 

「華の仕事も終わったみたいだし、帰ろっかー。このあとどうするー、お茶でもする?」

「そうですね、近くに新しく出来た喫茶店がありますしそこでも良いですけど、今度寄港予定の場所には紅茶で有名な店もあるそうですから、紅茶以外を味わっておきたいですね。」

「おお、良いねー!あっ、そう言えば、いつも買ってる雑誌の発売日今日だった!コンビニ寄っても良い?」

「良いですよ、結婚情報雑誌ですか?」

「違うよ!?私を何だと思ってるの!?」

「婚活戦士?」

「最近華の弄り方がえげつないぃぃぃ!!」

 

 大袈裟に両手で顔を覆って嘆く沙織さんに思わず声を出して笑ってしまう

 しばらく視線を下げて笑いを治めてから、顔を上げると華さんはそんな私の様子を見て安心したように微笑んでいた

 そんな柔らかな表情に何だか気恥ずかしくなって、頬が段々熱を持っていくのを感じてしまう

 

「良かった、みほさんがようやく笑ってくれましたね。」

「え?」

「大会の後からみほさん。何処か陰があって、思い悩んでいたようなので心配していたんですよ。」

「華さん…。」

「ねぇ、つまり私の被害って…。」

「沙織さんと話し合えた事で、色々吹っ切れたみたいで良かったです。」

「うんっ…!2人のお陰で悩みが吹き飛んじゃった!」

「うふふ、それは良かった。」

「…まあ、良いんだけどね。みぽりんが楽しそうだったし。」 

 

 大洗に転校してきてから、充分した学校生活を送れたのは、紛れもなくこの2人のお陰で

 もう無くしたくない、私の掛け替えの無い大切な友人達だ

 

 

「あ、梓ちゃんだ。」

 

 じゃあ、喫茶店に向かおうかと広げた荷物を片付けて席を立った折に、沙織さんが窓からグラウンドを見下ろして呟いた

 梓ちゃんは大洗戦車道の現隊長を任せている後輩で、戦車乗りとしての実力も折り紙付きだ

 私も沙織さんの視線の先を追って窓の外を見るが、もう何処にも見当たらなかった

 

「梓さんも最近、大変そうですよね。」

「やっぱり、大変そうだよね…。私も何度か聞いてみたんだけど、大丈夫としか言ってくれなくて…。」

「う~ん、やっぱり隊長を任された事のプライドとかもあるんだよ。大丈夫大丈夫、梓ちゃんの周りにも頼りになる友達は一杯いる訳だしね!」

 

 沙織さんは軽く笑いながら、華さんは少しだけ心配そうにして、もう見えない梓ちゃんの姿を追うように窓の外を見つめた

 色んな人の立場が変わり、今まで背負ってきたものを下ろす人や、逆に背負わなければならないものが出てきた人がいて

 そんな当たり前の事に最近、ようやく気が付いた

 

「隊長と言えば…、みほさんのお姉さんは大学に入って直ぐに戦車道の副隊長になられたんですよね。」

「うん、この前会った時に高校との違いが結構あって大変だって話をして。黒森峰の時は敵だった人が同じチームになるのは、今まで知らなかった事を知れるから楽しいって言ってたよ。」

 

 黒森峰の頃より楽しそうに戦車の事を話していたお姉ちゃんを思い浮かべる

 目指すべきものが定まったのか、心変わりがあったのか、お姉ちゃんの心情を推し量る事は出来なかったが楽しそうな様子に少し安心したし

 みほとは敵として、もう一度試合もしたいけどやっぱり同じチームで一緒に戦いたいな、と言われた時は嬉しくなってしまった

 

「あー!そう言うの楽しそう!私は聖グロリアーナ女学院のローズヒップちゃんと一緒に戦車乗ってみたいな~。」

「私はサンダース大付属のナオミさんか、プラウダ学園のノンナさんと談義してみたいですね。」

「あはは、何となく相性が良さそうな組み合わせだね。」

 

 沙織さんは世話焼きだから、暴走特急のようなローズヒップさんの扱いはお手の物だろうし、華さんは砲手として語り合いたい事が一杯あるだろうと思う

 

 まだ見ぬ未来に想いを馳せる2人に、微笑ましいものを見るような気持ちの自分に気が付いた

 まるで、自分には関係の無い話を聞いているようだ

 私は…、どうなのだろう

 

 お姉ちゃんとまた一緒に戦車に乗りたいとも思うし

 愛里寿ちゃんと戦術について話し合いたいとも思う

 カチューシャさんやケイさん、ダージリンさんとの戦車道だって、きっと楽しいだろう

 今までに無い戦車道なら、ミカさんやアンチョビさんや西さんとだって体験する事が出来る筈だ

 

 それらどれもが魅力的な筈で、楽しいだろうと思うのに、何かしっくり来ない

 パズルのピースが噛み合わないような感覚

 私というピースは酷く歪だから、既に形が定まってしまっているピースにはきっと噛み合うことはないのでは無いだろうか

 

 その点、大洗学園での戦車道は、幸運にも戦車道そのものが無かった状態だったから、私という歪なピースが引っ掛かるような部分が無かった

 勿論、大洗の皆だから上手くいった部分だってあるだろうけれど、もし彼女達が元々戦車道の経験があったのなら、今の形は無かったのかもしれない

 そんなことを考えてしまうから

 

「みぽりんは誰と一緒に戦車に乗ってみたい?」

 

 なんて、私に向けられた沙織さんの言葉に

 

「私は大洗の皆と乗っていたいな。」

 

 こんな、無難な事しか言えなかった

 

 

 

 

 変化は好むも好まざるも関係なく向こう側からやってくる

 待っていても、向かっていっても、準備しても、いつか必ず変化は訪れる

 けれど、現状の打破が必要であるにも関わらず、自ら変化しようとしなかった怠惰な者にはそれ相応の代償が降り掛かる

 

 変わろうとしなかった、あの時の私の代償が黒森峰の敗北で、周囲からの軽蔑で、大切な人との離別であったのなら、これから起こる変化の代償はどれだけのものになるのだろう

 意気地の無い馬鹿な私は、あの手痛い経験から何も学んでいやしなくて、支払うべき代償が向こう側から迫り来るのに気が付いていなかった

 

「み、皆さん、ここに居られましたか!」

 

 休まず走ってきたのか、特徴的な癖毛を汗で濡らして、激しく息を切らせた優花里さんが私達しかいない教室に飛び込んできた

 予想外の優花里さんの様子に、私達3人とも目を見開いて驚いてしまう

 ついさっき休み時間に会った時は何時も通りの優花里さんだったのに、どうしたと言うのだろう

 膝に手を着いて息を整える優花里さんに私達は慌てて近付き背中を擦る

 

「どうしたのゆかりん、そんなに慌てて。まさかまた大洗の廃校の危機、とか?」

「ち、違いますっ…、け、けど、みみみ、みほ殿っ。」

 

 言葉も絶え絶えに私に向かって何か伝えようとする優花里さんの様子から、どうやら私達3人を探していた訳ではなく、私個人に伝えたい事が合ったようだ

 そんな優花里さんの尋常じゃない様子と、片手に持たれた今はリレーの棒のようにグチャグチャに丸まった最新号であるあの雑誌が嫌でも目に入って

 気持ちの悪い吐き気と、どうしようもない悪寒を感じて、嫌な予感に襲われた

 

「あら、この雑誌は…。」

 

 華さんが優花里さんが持っている丸まった雑誌に気が付いたみたいで、そこに書かれた文字をまじまじと目だけで追って、顔を強張らせた

 それは、先程感じた嫌な予感が間違っていなかったと証明するかの様で、耳を塞いで目を瞑ってしまいたいと一瞬本気で思って

 

「逸見殿、黒森峰の逸見殿が!酷い批判が書かれているんです!それも、2年前のあの事故の責任は全て逸見殿にあるみたいな書き方をされていてっ!今大会を優勝出来たのは全部全部他の隊員のお陰だって!こ、こんな、酷いっ…!」

 

 それを聞いた瞬間、優花里さんから奪い取るように雑誌を受け取り、慌ててページを広げた

 

 愕然とする

 こんなに人を扱き下ろせるのかと恐ろしくなる

 両脇から覗き込んでくる沙織さんと華さんを一切気にもせず、読み進める

 

 名前は出ていない、が明らかに少し戦車道に関わっていれば誰の事を書いているのか分かってしまう

 王者黒森峰を貶めた戦犯、なんて

 当時の副隊長を責め立てるために川に戦車を落とした、なんて

 大恩あるはずの西住流に仇で返す、なんてっ

 ある筈の無いことを書き立てていた

 

 気持ちが悪い、気持ちが悪い、気持ちが悪い

 止まらぬ吐き気、血の気は引いて、震える身体は少しも制御できない

 

 私の知らない内に、私が守りたかったものは、呆気なく崩れていて、私の全ては無駄だったと理解して、終わってしまった事は、もう取り戻せないんだと思い知らされた

 

「あ、ああああ、わ、私の、私のせいだっ。違うよ、違う。なんでっ、私がエリカさんから離れた意味はっ…。どうしてっ!?」

 

 雑誌を落として、頭を抱えた私に慌てたような3人の声が聞こえてくる

 けれど、グチャグチャなった私の頭では何も理解する事は出来なくて、競り上がってきた胃液が喉を焼く

 

 誰かが倒れた音がして、それが自分が出した音だと誰かに抱き起こされて漸く気が付いて

 段々、周りの声が聞こえなくなっていき、消えていく意識の中で、焼き付いて離れないあの時のエリカさんの顔が浮かんで消えて、一人ぼっちのエリカさんの後ろ姿が遠くに、見えた

 

 

 ほら、代償を払う時が来てしまった

 

 



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西住まほは気付けない

『わわ、私は、にちじゅみっ…西住みほですっ!これから宜しくお願いしましゅ!』

 

 黒森峰の戦車道で毎年恒例、新入生による自己紹介が行われる

 新入生にとって一番最初の山場であるそれは、先輩が新しい後輩達の性格を見定める絶好のタイミングであり、新入生達の評価を軽く付けておく場でもあった

 

 そんな大切な場でのミス

 適当に並ばされた順での自己紹介で、順番が回って来た私の妹は顔を真っ赤にして涙目になっていた

 別に私は気にしないのだけれど、妹のみほは隊長である私の面子を気遣って、自己紹介くらいはしっかりやりたいと言って、何度も鏡に向かって練習していたのにこの結果だ

 泣きたくなる気持ちももちろん分かる、分かるがそこで目尻に浮かべた水滴を溢してしまうと、ただでさえ、ざわついている周囲の収拾が付かなくなるし、自己紹介の時に噛みまくって泣いた奴というレッテルを貼られてしまう

 

 ざわつきばかりが増していく中でみほから自己紹介が進まない

 次に自己紹介する人は何やってるんだと視線を向けると、その人の前のみほが噛んだことで緊張のキャパシティを超えたのか癖毛の子が顔色を真っ青にして石のように固まっていた

 みほとその子、対照的になってる二人の姿に少しだけ感心していると、癖毛の子の隣に並んだ銀髪の子が癖毛の子に軽く肘打ちをして、何かを早口に捲し立てている

 

 現状の打破を図ったのだろうが、癖毛の子は青い顔をさらに青くして口をパクパクと動かすばかりでろくに声を出せていない

 私の後方にいる2・3年生の誰かが堪えきれずに吹き出した音がした

 みほは熟れた林檎の様な顔のままついには肩を震わせて、癖毛の子は完全に目を回し始めた

 

 これは、駄目だな

 そう思って1度仕切り直すために声を張り上げようとした所で

 

『1年b組逸見エリカっ!!!』

 

 喧騒にまで膨れ上がったざわつきを破壊するような大声が響き渡った

 ざわついていた隊員達は何事かと、癖毛の子の隣にいる銀髪の子へ注目する

 

 この場にいる、およそ数百名の視線を一身に受けてそれでも顔色1つ変えないその子は私を含めた上級生を睥睨するかのように見回す

 

『王者の呼び声高い黒森峰に憧れて入学しました!!!先輩方どうか私を最強の戦車乗りになれるよう御指導の程宜しくお願いします!!!』

 

 それは、本心であったのか、それとも見るからに小心者の2人の新入生の失態を、強烈なインパクトで塗り潰すためのものだったかは結局分からなかった

 けれど、混乱の境地に居た2人の新入生は一種の兵器のような銀髪の、逸見エリカの大声を受けて、最初の山場を超えられた事は確かだった

 

 

 

 

 

 

 

「変わらないな。」

「はい?」

 

 簡単な食事所での昼食に高校の頃の後輩を誘った

 その誘いに渋々と言った声色で了承した、今は元隊長となったエリカは注文表に向けていた顔を上げる

 

 気が強く、意見を違えればどちらかが納得するまで言葉をぶつけ合う、相手が誰であろうとそれは変わらない

 そんな生きにくい生き方をしているエリカは中学の頃から苦労していたようで、それでもその態度は今も変わらず続けているのは、素直に凄いとそう思う

 

「いや、黒森峰の最初の頃から変わらないエリカに安心したんだ。」

「…なるほど、そうですか。」

 

 ここは黒森峰学園艦の一角に位置する古びた雰囲気のあるレストラン

 周りを見渡しても私達以外の客は数える程しかいないが店主が味に並々ならぬ拘りを持っており、私が黒森峰に在籍していた際は、度々ここで飲食面のお世話になる事があった

 

 エリカが注文表に視線を落としたのを確認してから、窓の外の様子を窺う

 バケツを引っくり返したような豪雨が傘を差し歩く人達を急かすように打ち付けている

 そんな見ているだけで憂鬱になりそうな天気に、当分は帰れそうに無いな、と思わず口に出してしまった

 

「酷い豪雨ですからね。ですが、予報ではそろそろ止むそうですよ。今の状況からは信じられないですけど。」

「そうか、止んでくれると良いんだがな。ん、注文は決まったか?」

「はい、お待たせしました。」

 

 大学に入り、高校生の時よりも戦車道に触れる機会が増えて、1つ1つ地道に作業して試合に出て結果を出している内に、その大学戦車道の副隊長を任せられるようになった

 国際強化選手としての訓練がある中で、副隊長も同時に勤めると言うのは難しい部分もあるが隊長や隊員達の助けもあり何とか続けてこれている

 充実、うん…充実しているんだ、黒森峰でみほに敗北して、見詰め直すべき課題がいくつも見つかって、私の凝り固まっていた戦車道の世界が広がっていくのが楽しくて仕方ない

 これまでに無い程に忙しない生活の中で、時間を縫って、黒森峰の頃の後輩であるエリカと食事しているのには訳がある

 

「ご注文はお決まりですか?」

「あ、私は目玉焼きハンバーグで。」

「カレーハンバーグをお願い。」

 

 注文を店員が受け取り去っていく後ろ姿を見送り、置かれたお冷やで口を潤そうと手を伸ばした所で、エリカが梅干しを大量に口に含んだような微妙な表情をしているのに気が付いた

 

「どうしたエリカ。何かあったか?」

「いえ、その…、…こんな格言を知っていますか。過ぎたるは なお及ばざるが如し。」

「ん、孔子の言葉だな。過ぎたことも足りないのと同じくらい良くないと言う意味の筈だが。それがどうした?」 

「…すいません、何でも無いです。」

 

 黒森峰に居た際も時々歯切れが悪くなるときはあったが、言いたいことを遠慮なく口にするエリカが言い淀む等考え辛いため、恐らく本当に何もないのだろう

 

「そうか、では本題に入ろうか。」

「…そうですね。」

「分かってるかも知れないが、西住流の件だ。」

 

――大会の直前、エリカは西住流を破門とされた

 

 戦車道に対するひたむきなエリカの姿勢は、お母様にとって好ましいもので、特に目を掛けていたのを知っていたから、そんな眉唾物の話は到底信じられなかった

 

 その話を西住流の生徒から聞いて、慌てて実家に帰ることにして、噂の詳しい話を家に居た人達に聞いて回った

 大方の西住流関係者はエリカの破門は真実だと言うことしか知らなかったが、昔から女中として働いている菊代さんから、破門する前にエリカとお母様で何やら話し合いをしていたと言う話を聞くことが出来た

 

 しかし、その事をいくらお母様に訊ねても、その話の内容は頑として口にしてくれず

 業を煮やした私は、登録していたエリカの番号へ電話を掛けて半ば無理矢理食事の約束を取り付けたと言う訳だ

 

「なぜ西住流を抜けた。お前の意思か?お母様の判断か?」

「…家元に伝えられていないなら、私から話すことはありません。」

「お母様には許可を取った、エリカが話すなら話を聞いて良いと。」

 

 はぐらかそうとするエリカに畳み掛ける

 目を合わせようとしないエリカの態度は明らかに、関わってほしくないと言っているようだったが私はさらに踏み込む

 

「エリカは私に言いたくないのか、言えないのか。それすら話してくれないのか?」

「言いたく…ありません。」

「なぜだ。」

「…。」

 

 心底億劫そうに椅子の背もたれに体重を預け、口を開こうとしないエリカの姿にこのまま聞き続けても、聞き出せないだろうと判断する

 

「…なら、私の予測を話す。」

「…どうぞ。」

「大会の前に、お前はお母様に破門を願い出た。お母様はエリカを目に掛けていたから理由を聞いた筈だ。けれど、お前は理由を話さなかった。」

 

 お母様に何度もエリカについて、質問を投げ掛けた

 最初は平然としていたお母様が段々と悲しそうな表情になっていったのを覚えている

 

 あの悲しそうな表情は、恐らく可愛がっていた生徒の反抗によるものだろう

 

「お前が西住流を破門として欲しかった理由は2つ。1つ、みほは西住流に対しての理解がエリカよりも深い、対西住流とも言うべきみほにエリカの西住流では勝てないと判断したから、1つ、戦車道を高校で辞める決意をしたから。」

「面白い考察ですね。」

「大きく間違っては居ないだろう?」

 

 どうでしょう、と肩を竦めるエリカは顔色1つ変えない

 

「戦車道を辞める理由は、水瀬さつきに対する劣等感か?あの子の試合は見たことがある、あれが世界最高峰の才能だと肌で実感した。」

「ええ、水瀬は優秀な隊員です。」

「それとも…、みほとの確執か?」

 

 一瞬、エリカの表情が強張った

 やっぱりか、とそう思う、みほとエリカの仲の良さは私も知っていた

 あの頃は何かと、みほはエリカの話ばかりしていたし、2人の仲の良さは端から見ても疑う余地も無い程で

 だからこそ、学校が変わったくらいで揺らぐような仲では無いだろうと思っていた、いや、慢心していたのかもしれない

 

 その結果が現状の破綻、若しくは敵対か

 可愛さ余って憎さ100倍と言う言葉がある、袂を別ったらそれまでの友愛は反転してしまうのかと悲しく思った

 こればっかりは当人達が解決していくしかないだろうが何も出来ない自分に本当に嫌気が差す

 

「…エリカ、みほも悪気があった訳じゃないんだ。そろそろ許してやってくれないか?」

「――私はあの子に対して特に思うことはありません。」

 

 嘘だ

 一見、涼しげにも見えるエリカだが顔を目の前に置いているグラスから外そうとしないし、声色には役所仕事のような機械的な色を含んでいる

 

「そうか、なら私から言えるのは特に無いな。」

「…。」

 

 口を割ろうとしないエリカの頑なな態度に、一旦この件の追及は止めることにする

 この不器用な後輩と色々話したいことは沢山あるのだ、作れた時間などでは到底足りないくらいに

 

「言いたくない事を追及してすまない。だが、エリカとは浅からぬ関係なんだ、進退くらい気になってしまう。」

「いえ、心配していただいてありがとうございます。」

「…そういえば、祝いの言葉がまだだったな。全国大会優勝おめでとう、決勝くらい応援に行ければ良かったんだが…。」

「大切な練習試合があったのはお聞きしています。仕方ない事かと。…大学での練習と国際強化選手としての練習、方向性の違い等は問題ありませんか?」

「ああ、大学では副隊長を勤めているから融通は効くし、違う方向性の訓練は新しい刺激となるからそう悪い事ばかりではない。」

 

 そんな雑談を始めると、黒森峰の頃に戻ったような気分になる

 あの頃はこういう後輩との時間をあまり取らなかったから、懐かしさとは違うと思うのだけれど、こういった昔の気分に浸るのは悪い気分ではない

 エリカの表情も機械的な固さが解れ始める

 

 そんな時、ふと、エリカの顔色が悪いのに気が付いた

 話の内容がエリカにとって良くないものだった、と言う事ではなく、初めから青白かったのに気が付かなかったと言う方が正しいだろう

 ちょっとでも違和感に気が付くと、後は崖から転げ落ちるように色々な違和感が目に入り始める

 

 エリカの髪の色はこんなに灰に近い色だったか?

 エリカは目の下の隈がこんなにくっきり出来る体質だったか?

 エリカは手入れをしないで、こんなに肌を荒れさせる奴だったか?

 エリカの笑顔はこんなにも悲しげだったか?

 

「――まほさん、聞いてますか?」

「あ、ああ、すまない。少し意識が飛んでいた。」

「それは…、疲れているのでしたら早めに切り上げて休んで下さい。」

「いや、大丈夫だ。ありがとう。」

 

 眉尻を下げて心配そうにこちらを見詰めるエリカは、やつれ、痩せ細っていた

 

 どうして今まで気が付かなかったのだろう

 いっそ、病的なまでのエリカの様子は私が黒森峰に居た頃とは掛け離れている

 こんな変化、普通なら直ぐに気が付くものではないだろうか

 

 いつの間にか、店員が注文した料理を運んできていた

 エリカは嬉しそうにお礼を言いながら、料理を受け取り、それぞれの前に料理を配置する

 

「エリカ。」

「はい、どうしました?料理が来ましたよ、早く食べちゃいましょう!」

「エリカ、頼む聞かせてくれ、何を背負ってる?」

「――――。」

 

 踏み込むべきではなかった境界を踏み越えてしまった、そんな気がした

 

 ドロリと、絡み付くような悪意がエリカから発せられた

 鳥肌が立つ

 悪寒が走る

 その感情は憎悪か憤怒か

 

 料理を前にして浮かべていた笑顔は既に消えていて、仮面を貼り付けたような感情のない表情で唯一、青い双眸だけが爛々と狂気的な光を輝かせる

 

「何を背負っている。貴方が、他ならぬ貴方がそれを聞きますか?」

「エ、リカ?」

「背負ってますよ、色々と。貴方が残したものを全て、私が犯した罪を全て。」

 

 エリカが髪を掻き上げる

 録な手入れをしていないであろう髪は手櫛でも引っ掛かっているのが分かる

 エリカの狂気的な光を輝かせる瞳から目が離せない

 

「貴方を憧れている、これは今も変わりません。貴方の強さに憧れた、貴方の指揮を羨望した、貴方の芯の強さを尊敬した。戦車乗りとしての最高クラスの能力を持つ貴方を憧れ続けています。」

「でも、私は貴方を最高の隊長としては認める事は出来ない。なぜなら、貴方の弱さが、優柔不断が、私情が、多くの人を傷付けた。」

「大洗との決勝で勝敗よりも西住流を優先した、黒森峰にとっての敗北がどれだけ隊員達に悪影響を及ぼすのかをみほの件で気が付かなかった、敵となったみほを敵として見ることが出来ないのに中途半端のまま大会に臨んだ。」

 

 血を吐くようなエリカの叫びに

 

 呼吸を忘れていた

 身動ぎ1つ出来ない

 反論しようにも、言葉が出てこない

 

「人の救助より勝利が大切な癖に、泥にまみれた勝利はしようとしないんですねっ!それでどれだけ苦しむ人が居るのか知っている筈なのに!」

「私達よりみほが大切なら最初っから守り通せば良かった!敵として見れないなら大洗にでも行けば良かったじゃないですか!なんで中途半端にっ、私達の側にいて頼らせて信じさせた癖にっ!!」

「毎日、泣いてる子が居た!吐いている子も居た!苦しんでいる子達が居てっ…。私のせいだって震えてる子が居て、心無い罵倒に晒されている子達が居て…、それを作り出したのが…。」

「…貴方が残した、私の罪です。」

 

 エリカは泣いていた

 涙は流れていない、それでも、きっとエリカは泣いていた

 私を責めている筈のエリカの言葉は、同時に自分の罪を私に懺悔していて

 ずっと溜め込んできた暗い感情の一端が見えた気がした

 

 気が付くと、エリカの瞳の輝きは消えていて

 気まずそうに顔を俯かせたエリカが目の前に居た

 

 

 私が黒森峰で残せたのは、何だったのだろう

 私の代で黒森峰の連覇を終わらせてしまって、最大の強敵を作り出してしまった私は、エリカ達に何を残せていたのだろう

 

「…ごめんなさいエリカ、ごめんなさい。」

「――もう良いんです。もうすぐ全部終わりますから。すいません、こんなこと言うつもり、無かったんですけど…。」

 

 エリカの言う終わりが何を指しているのか分からない、恐らく戦車道を辞める事だろうかと思うが何か違う気もする

 けれど、この時の私はエリカの悲痛な声に目眩がするような衝撃を受けていて、そんなこと気にも出来なかった

 償わなければ、そう思って

 

「エリカ…、もう1度だけ私に着いてきてくれないか…。」

「…。」

「都合の良いことを言ってるのも分かっている。けど、今度はお前を、守って見せるから、お願いだから、もう1度だけチャンスをくれないか…。」

「まほさん…。」

「黒森峰の子達にも、頭を下げる。これまでの不甲斐ない私の行いを、そしてそれを償う場を作らせて欲しいと。だから、エリカ。頼むっ…。」

 

 声が震えていない自信は無かった

 身勝手な事を言っているのは自覚があったから

 

 今更何を言っているのかと一蹴されるかもしれない

 ふざけたことを言うな、とまたあの憎悪に晒されるかもしれない

 それでも、彼女にとって駄目な隊長だったとしても、垣間見せたエリカのあのどす黒い感情を精算させなければならないから

 

「――もう、遅いんです。」

 

 暴言も中傷も、暴力だって覚悟していた

 なのにエリカの声色は酷く優しげで

 告げられた言葉は酷く残酷だった

 

「今の私達は確かに幸せなんです。努力が実って、優勝出来て、黒森峰は今までに無いくらい仲が良くて。ほら、これ以上無いくらい最高の結末じゃないですか。だから、償いなんて必要ないんです。」

「っ…、なら、今のエリカはなんだと言うんだ。幸せと言うなら何故みほと距離を置く、何故戦車道を辞める必要がある!」

「…何故、戦車道を辞めるか、ですか。そうですね、私の両親は戦車道を野蛮な競技だと言って嫌っているんです、だから、黒森峰に入る交換条件として大学は戦車道とは関係無い、有名大学に入るよう言われていたんです。」

「嘘だろう、それは。もし真実だとしても、ここまで徹底的に辞める必要は無い筈だ。戦車道が有名でない大学で一から始める事だって出来る筈だ。エリカが辞める直接的な理由はっ!」

「私、戦車道が大嫌いなんです。」

「っ…。」

 

 これで満足ですか、なんてもう疲れてしまったように笑う

 きっとそれは、本心からの言葉で、もうどうしようもないのだと言うはっきりとした拒絶だった

 

 エリカと最後に会った、私が黒森峰を卒業した日

 エリカが確かに笑顔で私を送り出してくれたのを覚えている

 あの時から後悔が苦悩がエリカを蝕んだと言うなら

 あれから、どれだけの苦難がエリカにあったのだろう

 想像出来ないほどの悪意と挫折があったのだろう

 それでも前に進み続けたエリカがもう終わりにしたいと言っている

 それなら、いっそもう終わらせてあげるのがエリカの隊長だった私に出来る唯一の優しさではないだろうか

 

「過去の精算はもう良いんです。失ったものは想像してたよりずっと大切なもので、今はこの喪失感だけが確かにあった私の大切なものの証明で。この喪失感さえ無くしてしまったら、本当に何も無くなってしまうから。」

 

 だから、もう良いんです。

 

 紡がれた言葉が悲しくて切なくて、もうどうしようもない現実を私に突き付ける

 もっと早く私が気付けていれば

 もっと早くエリカが私に助けを求めていれば

 この現実は防ぐ事が出来たのだろうか

 

「雨、止みましたね。」

 

 いつの間にか、あれだけ激しかった雨は止み、今は曇り空ですらなく、太陽が燦々と私達を照らしていた

 

「料理、食べちゃいましょうか。」

 

 今まで散々食べてきた好物の筈なのに、何故だか味が感じられなくて、少しだけ冷めてしまっていた

 



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西住しほは責任がある

 あの子は、エリカは弱かった

 

 エリカが中学2年生の頃に、彼女は西住流の門を叩いた

 弱小であったエリカの中学の戦車道は、幾度となく負け続けていて、大会に出場しても1回戦すら突破することが出来ていなかった

 中学2年の大会をレギュラーとして出場したにも関わらず何の見せ場も無く敗北したことを、悔い改めようと比較的近場の戦車道流派であった西住流から技術を学ぶため門を叩いたらしい

 

 

 何処かの良家のお嬢様らしいエリカに当初はよくある金持ちの道楽か何かかで、戦車道を修めているのだと思っていた

 戦車道を修めていて西住流の名を録に知らない者だ、多少厳しい訓練や周囲との実力差を味わえば、こちらが特に何もしなくとも自分自身には無理だったのだと、諦めるだろうと、そう思った

 

 

 予想通り、エリカは未熟な己の実力に打ちひしがれる事となった

 自身の体力の無さに、知識の貧困さに、技術の未熟さに幾度と無く挫折を味わっていた

 何度も何度も、流派の先輩方や師範である私に叱咤され落ち込んでいたのを覚えている

 けれど、1度だってあの子は足を停めることは無かった

 

 叱咤されたミスは2度と行わないように

 先輩達や私の動作一つひとつをつぶさに観察して

 機材不良の確認、メンテナンス、修繕作業と言った凡そ誰もがやりたがらないような作業を率先して学ぶ

 そんなエリカの戦車道に対する真摯な姿勢に、私はエリカを良家のお嬢様による道楽でしかないと考えていた自身を恥じることとなった

 

 誰よりも真摯に、誰よりも強さを渇望する

 才能は…きっと無い、私の娘達はおろか他の西住流の生徒達にすら劣っているだろう

 けれど、私はこの子は大成すると、そう思った

 

 

 

 

 

 

 

 

「お母さん、話して。」

 

 何時に無く強い口調で私に詰め寄るのは、いつも周囲の顔色を窺う気の弱い次女のみほで

 

「…。」

 

 無言で私を見詰めるのは、みほ程自分の意見を出さない訳では無いが、自己主張というものが乏しい長女のまほ

 

 

 机を挟んで向かい合う私と娘達

 2年前にも同じ様な構図があったが、あの時とは異なり詰め寄られているのは私だった

 青白い顔をしているまほとは真逆に、鬼気迫るようなみほの様子に、この子達はこんな顔も出来たのだと少しだけ、悲しくなった

 

「お母さんっ!」

「みほ、…落ち着け。」

「っ…。」

 

 何時まで経っても口を開こうとしない私に冷静さを欠いたみほが立ち上がり掛けたが、まほがみほの肩口を掴んだ

 一瞬、みほは今にも泣き出しそうに表情を歪ませたが渋々床に腰を落ち着けて顔を俯かせる

 そんな妹の様子を見届けてからまほは改めて私に向き直る

 

「エリカから話は聞きました。…全てを聞けた訳ではありません。けれど、追い詰められている事、何かを為そうとしている事は聞き出す事が出来ました。これらは私の責任であり、…みほにも一端の責任がある事は否めません。」

「…そうね。」

「私にも、みほにも全てを知る義務が、権利が、ある筈です。」

 

 ゆっくりと両目を閉じる

 エリカとの会話を頭の中で反芻させる

 みほとまほさんには言わないで下さい、最後にそう言ったエリカとの約束と、目の前にいる娘達の懇願を秤に掛けようとして、そんな必要も無いのだと理解する

 

 私は結局、責任を果たせないのだ

 

「…良いでしょう、私とエリカが何を話したか教えます。ですが、その前に2人に聞いて欲しい事があります。」

 

 怪訝な様子を隠そうともしない2人の娘に対して、自分の思い違いを、今まで気付こうともしなかった私の罪を告白する

 

「私は貴方達を、個人として見ていなかった。」

 

 呟くような私の言葉

 それは懺悔か、ただの自己満足か分からなかった

 けれど、娘達と向かい合うべき時はとっくに来ていた筈なのだ

 だからこれは、私が着けなければいけないけじめであり、責任であった

 

「私の娘、西住流の娘、西住流の名を継ぐ者、私自身が気付かぬ内に貴方達をそんな色眼鏡越しにしか見えなくなっていた。」

「でも、それでも良いと思っていた。私もそうやって育てられてきたから、そう言うものだなんて考えていた。」

 

 酷い話だと思わない?

 そう言って自嘲するように笑った私を唖然と見詰める娘達に、さらに笑いが溢れた

 

「だから、西住流に沿わない行動は許容出来なかったし、西住流に泥を塗るような行為は貴方達自身の首を絞めるものだと信じて疑わなかった。」

「私の行為は、貴方達への愛情の裏返しなんだって、今は分からなくても、いつか分かる様になるんだって思い込んでいた。それが貴方達の為になるんだって、思い違いをしていたの。」

「――なんてバカな話。貴方達は貴方達でしかなくて。まほは、まほで。みほは、みほ。西住なんて関係無い、感情を持った人間でしかないって、漸く気が付いた。」

 

 私の独白に娘達は何を思っているだろう

 正直、少し恐い

 色んな面で私の考えだけを押し付けて、これが愛情なのだと自分の中だけで満足していた

 

 西住流も娘も大切だったから、どちらも守りたくて

 西住流さえ守れば、それを継ぐ娘も同時に守れると勘違いして

 私自身で娘達を傷付けていたのに気付きもしなかった

 どうしようもない母親だ、私は

 

「貴方達を知ろうとすらしてなかった事がよく分かった。」

 

 くしゃりと、自分の髪を掴んだ

 黒い髪だ、どちらと言えばまほに似ている

 みほの茶色の髪は常夫さんにそっくりだ

 

「まほは、意外と天然で、自己主張が乏しいと思っていたけどよく見れば直ぐに顔に出る。」

「みほは、気弱なくせに行動力があって、思い込みが激しい所があって、変な所で頑固。」

「私とも、お母様とも違う。違ったんだってやっと分かった。」

 

 意地だ

 絶対に泣いてやらない

 潤み始めた瞳に、唇を強く噛み締めて渇を入れる

 

 初めて娘に向かって頭を下げた

 息を飲む音が聞こえる

 動揺が伝わってくる

 

「まほ、みほ。長い間貴方達を認められなくて、貴方達自身を見てあげられなくて、本当にごめんなさい…。」

 

 

 

 

 

 

 ある時、エリカが突然私を尋ねてきた

 その時のエリカは黒森峰戦車道の隊長で、全国大会直前であったから少しも時間を無駄にする暇は無い筈だったのだが遠目でも分かるような焦燥を帯びたエリカの姿に、ただならぬものを感じた私は直ぐにエリカを客間へ通した

 

 こうしてエリカと会うのは、大洗と黒森峰の決勝戦を見学に行った時以来で、1対1で話すのはエリカが学園艦に乗る前まで遡らなくてはならない

 ふと、様子が気になる時はあったが直接電話するような特別対応は家元としては出来ず、まほに様子を聞くしか出来なかったから、やつれきったエリカに驚きを隠せなかった

 

 焦燥と悲壮感と、それでも固い決意を秘めたエリカの瞳に体調を気遣おうとしていた私の言葉は紡ぐことが出来なかった

 

 エリカは正座したまま、ゆっくりと両手を着いて深々と頭を下げる

 

『本日は2つお願いがあって参りました。』

 

 温度を感じさせない機械的な声は、私の背筋に冷たい何かを感じさせて、頭を上げようとしないエリカに焦りすら覚えてしまう

 

『――私を、西住流から破門として頂きたいのです。』

 

 平静さは、保てたと思う

 何故、どうして、そんな降って沸いたような疑問は頭を過ったが、恐らくこれだろうと言う理由が既に思い当たっていて

 

『西住流では…みほに勝てないとでも言うのですか。』

『…、申し訳ありません、私の未熟な西住流ではあの子の対西住流とも言える戦術には太刀打ち出来ません。』

 

 折れたのか、そう思った

 不屈で、不抜で、直情的で、何度でも立ち上がったエリカが初めて吐いた弱気な言葉に少なくない失望を隠し切れなかった

 

 確かに言っている事は酷く合理的だ

 昨年、西住流の体現とも言える娘のまほが、エリカの言う対西住流のみほに敗北した

 私から見れば未だ荒削りな所はあるが、西住流として長年研鑽を積み、次期家元として充分な実力を持っていたまほで力及ばなかったのだ、西住流としても未熟なエリカでは到底みほに敵わないだろうと思っていた

 だが、それでも、届かぬだろうと思っていたものに愚直に手を伸ばし、時に手を届かせていたエリカならばと、結果届かなかったとしても挑戦していくだろうと確信して期待していたから、どうしても失望してしまう

 

 しかし、そんな私の思い違いは即座に打ち払われる事となった

 

『勝たなければ…ならないんですっ…。』

『エリカ…?』

『勝つしかないんです!』

 

 勢い良く顔を上げたエリカの表情は、私が勝手に想像していた悲痛なものとは異なり、覚悟を決めた決死の将のような表情をしていた

 

『プライドを、主義主張を、夢を捨ててでも私はあの子達を勝たせなければならないんです!』

 

 これまで歩んできた全てを捨てるとエリカは言った

 

『酷い中傷の中で、辞めてしまいたくなるような環境の中で、あの子達は私を信じて着いてきてくれた!私にはそれに報いる義務があるんです!』

 

 プライドも、主義主張も、夢も、エリカを信じて着いてきた隊員達の前では等しく無価値なものだと断言した

 

『私の非才さで、傲慢さで、身勝手さで誰かが傷付く事になるのはもう嫌なんですっ…。だから、だから、どうかお願いです…。』

 

 私を西住流から破門として下さい

 そう言って、エリカは再び頭を下げた

 

 思えばこれはエリカの誠実さの表れだったのかもしれない

 大会で自己判断をして、西住流を使わないという方法もエリカには取れた筈である

 

 合理的判断に基づいて

 状況を勘案した結果

 そんな言い分は作ろうと思えば幾らでも作れる筈で、自分を守るだけならば他にもやりようはあっただろう

 

 あまりに欲深い

 あろうことかエリカは、西住流すらも守ろうとしているように思えた

 

『…本当に良いのですか?それはつまり、もう戻れないと言う事なのですよ。』

『覚悟の上です。』

 

 返答は淀みない

 

『私は高校を以て戦車道を辞めます。』

 

 分かっていた

 エリカの様子を見て、根拠も無いのにこうなるだろうと言う事は頭の何処かで確信していたから、その言葉をすんなりと受け入れられてしまった

 

 だから、聞きたいのは何故ではなく――

 

『――何時からですか?』

『…。』

 

 何時から、それを決めていたのかをだ

 

 ここへ来て初めてエリカが揺らいだ

 聞かれたくなかった事を聞かれたように長い沈黙を作り、観念したように深い息を吐いた

 

『…大洗に負けた後からです…。』

『つまり、みほに負けた時からですね?』

『…みほに負けたから、初心者の集まりの大洗に負けたから、それらの理由が一切無いとは言い切れません。けれど、根本は私の我儘です。辞めたくなったから辞める、それだけです。』

『あの子と貴方の関係は、どうするのです。』

『これまで通りです。元チームメイトで、倒すべき強豪校の隊長でしかありません。』

『…そうですか。』

 

 一抹の罪悪感を感じる

 みほが黒森峰を去る要因となったものの1つには、私からの叱責も含まれていて、間接的にみほとエリカの関係を壊したのも、エリカをここまで追い詰めたのも私の筈だからだ

 

 けれど、私のした行為は決して間違ったものではなかったと今でも確信している

 私がしたのは、代々受け継いできた西住流を守る行為で、結果的にはあの子を守る行為であったから、家元としても母親としても正しい判断だった筈で

 だから、謝罪は絶対に口にしない

 

『…貴方の言い分は分かりました。…願いが2つあると言いましたね。もう1つの内容は何ですか。』

 

 ゆっくりと顔を上げたエリカは、さっきまでの覚悟を決めた表情とはうって代わり、何処か申し訳なさそうに視線をさ迷わせ、言葉を選ぶように、何度か口を開閉させる

 

『…私の最大の敵は黒森峰の環境、…いえ、風潮です。』

 

 突然話始めたそんな突拍子のない話に、肩透かしを食らってしまう

 けれど、それを語るエリカの瞳は真剣そのもので、私は何も言わずに先を促した

 

『勝利至上主義であり、厳格さと徹底した上下関係を併せ持つ今の黒森峰に文句はありません。けれど、敗北の結果を誰かに押し付ける風潮、そして、仲間であるはずの黒森峰の隊員同士と競い合うだけでなく、蹴落とすような結束力の無さを打倒していきたいのです。』

 

 それが、エリカの戦車道に陰が差した原点で、エリカが最も憎悪するものであった

 だが、エリカが語るそれは夢物語にも等しい話で、どうやったって、果たす事の出来ない空想に思えた

 

『貴方の言っている事は分かります。けれど、貴方個人でも、西住流でも、出来ない事と言うものはあります。貴方が私に何を願おうとも、その様な夢物語は――。』

『もう準備は、出来ているんです…。』

『――え?』

 

 銃に煙を消せないように

 戦車に霧が払えないように

 見えもしない、触れられもしない、そんなものを打倒することは月に手を伸ばすような行為だと思ったから、エリカのそんな言葉が理解出来なかった

 

『私達黒森峰の結束は、今までに無い程強く固く、お互いがお互いを信頼し許し合えるまでになりました。』

『練習試合をすれば、全力で相手を打ち倒そうとします。訓練をすれば、誰よりも強く巧くなろうと技術を盗み合います。』

『負けた原因は何なのか、どうすれば原因を無くせるのか、話し合いはしますが決して責任を追及しようとはしません。それは強くなる事に必要ない事だからです。』

『彼女達は、誰もが思い合い、競い合い、救い合うことが出来る――。』

 

『――私の誇りです。』

 

 穏やかな顔で笑顔を浮かべたエリカは、心底誇らしげにそんな事を言って

 私は、そんなエリカを見て、胸が締め付けられるような苦しさと共に脳裏に娘達の笑顔が過った

 

 エリカはそんな笑顔を1度強く目を瞑って打ち消すと重々しく口を開く

 

『けれど、そんな黒森峰の環境を壊そうとするものがあります。』

『それは、過去の栄光にすがるOGの方々であったり、面白可笑しく記事を作る編集者の方々だったり、自分は録に関わっていないのに黒森峰戦車道の強さに依存する教師であったり。』

 

 だから、それらを変えるためには

 そう繋げて、胸にあった重いものを吐き出すようにもう1度だけ深く息を吐いた

 

 

『…もう1つの願いは、黒森峰の敗北を…。この3年間の敗北を、全て、私に被せて欲しいのです。』

 

 この子は何を言っているのだろうか

 息を止めて凝視する私を気にもせず、エリカは話を続ける

 

『雨降って地固まると言います。水瀬達は、あの子達は強いです。私が抜けた所であの子達の結束は増すことはあれど、減る事は無い。』

『あのみほを責めた雑誌の編集部は既に私を叩こうと狙っています。そういう風に仕向けました。…だから、噂程度でもきっと私の悪評なら飛び付いて雑誌に掲載するでしょう。』

『そうして、雑誌に掲載されて、叩かれれば、後は私が戦車道を辞めるだけ。』

『雑誌が叩いた学生がそれに耐えきれなくなって戦車道を辞めた。仮にも全国大会を圧勝で終わらせた黒森峰の隊長がです。そうすれば、その雑誌はきっと叩かれる側に回る筈です、信用も地に落ちる筈です。そして、黒森峰の過去の敗北を取り上げる事はタブーとなります。』

『詳しい過程は関係ありません。結果として被害者と加害者を作り出せれば、黒森峰戦車道への対応は繊細なものとなります。』

 

 それは冷徹な策略だった

 1を切り捨て99を救うようなそんな話

 

 その策がもし本当に成るのであれば、エリカの言う黒森峰の悪しき風潮は改善へ向かうだろうし、なにより、まほとみほの黒森峰時代の風評被害が、限り無く減少することも想像に難しくない

 エリカ1人の犠牲でその他の事は上手く回る

 

 道徳的にも、人道的にも止めるべき事柄なのは明白で

 普段の私であればエリカの頬を張って、ふざけたことを言うなと激昂したかもしれない

 

 でもそれは、西住流の利にさえならなければの話で

 今までも、そしてこれからも家元であろうとする私はそんな犠牲を許容する

 これは正しい事なんだと自分に言い聞かせながら

 

『――分かりました。信憑性もない噂程度で良いならその人達の耳に入るよう図りましょう。』

『…ありがとうございます。』

 

 気持ちの悪い違和感が胸に残る

 嫌な感覚だ、妙なズレを感じてしまう

 整合性が取れていないような、左右対称でないような、そんな気持ちの悪さ

 儚げに笑うエリカを見て、間違いなのではないかと掠めた考えを見ないようにしながら

 

『すいません、突然お邪魔して色々お手数をお掛けします。その上、身勝手な私の願いを聞き届けてくれてありがとうございました。』

『…いえ、あくまでも西住流にとって利になると判断したからに過ぎません。』

『…そうですね、そうなんですよね。』

 

 一瞬の逡巡

 

 エリカは懐から見覚えのある小さなぬいぐるみを取り出す

 それは人気の無い熊のキャラクターが描かれた子供用のぬいぐるみで、私が初めてみほにプレゼントとして渡したものだった

 

 丁寧に使われていたのだろう、糸の解れ等が目につくけれど、私がみほに渡してから10年以上経つとは思えない程に綺麗な状態だ

 

 娘へのプレゼントなんて中々しなかったから、今時の子供が喜びそうなものが分からなくて、散々悩んだ挙げ句選んだのが包帯だらけの熊のぬいぐるみ

 まるで人気のなかったキャラクターだったらしい

 …そう言えば、これを渡した時のみほの喜び様には驚いたんだった

 

『みほのものです。しほさんに初めて貰ったプレゼントだと何時も大切そうに持っていました。』

『――。』

『今は家族の間に距離が出来てしまっているけど、何時か歩み寄れる時が来るんだと、微笑んでいました。』

 

 これは独り言です、と思ってもいないだろう事を口にする

 

『しほさんはきっと正しい事をしてきました。』

『家元として、西住流後継者を育てる者として、正しい事をしてきました。』

『でも、その正しいだけの行為は、しほさんを幸せにしましたか?』

 

 独り言と言ったから返答を求めたものでは無いのだろう、返す言葉が見つからない私を気にした様子もない

 けれど、エリカのそんな質問は私の中にあった気持ちの悪い違和感を大きくして、より色濃く、より深く、胸中に染み付いていく

 

 西住流を、娘達の将来を、守ろうとする内に何かが見えなくなっていった

 長らく娘の笑顔を見ていなかった気がする

 娘達と話をすることも少なくなっていた気がする

 

 まほとの関係が家元とその後継者でしかなくなって

 みほとの関係が疎遠になっていて

 こうして、エリカは私の下を去ろうとしている

 

 これが、こんなものが…

 

『しほさん、これが貴方の望んだ結末なんですか?』

 

 そこまで言われて、漸く違和感の正体に気が付いた

 

 願っていた未来への行為だった筈が、行為自体に正しさを求めていた

 西住流を守るという正しい行為をすれば、同時に娘達は守られる筈だなんて考えて、正しい行為をする事だけに必死になっていた

 そんな盲信の結末が今の現状で

 私がしてきた西住流を守るという行為はこんな結末しか産み出さなかったのだ

 

『私は…しほさんが好きです。中学生の頃から才能の無かった私を見捨てる事なく、なんとか一人前の戦車乗りにしようと教え続けてくれたしほさんには本当に感謝しているんです。』

 

 でも、そう言葉を繋げるとエリカは私を憎々しげに見詰める

 続けられる言葉は、なんとなく分かった

 

『私は、西住流の為なら自分自身さえも平気で傷付けるしほさんが嫌いなんです。』

 

 長い間、覚悟していた筈のその言葉は、想像していたよりもずっと重くて、ずっと痛かった

 

『――貴方、自分が何を言っているか分かっているの?』

 

 違う

 こんなことを言いたい訳じゃない

 謝らなければいけない筈なのに、私が悪かったんだって分かってる筈なのに

 私の培ってきたプライドが、立場が、私の態度を頑ななものとする

 

 勢い良く立ち上がり、怒気を露にして睥睨する

 声色は嘗て無い程低く威圧的で、娘達にさえ出したことの無い冷たいものだった

 

 西住流の家元として、様々な人達と接してきた

 一般的な善良な人達も、1つの組織を束ねる傑物も、凡そ真っ当では無いような仕事をした人達も

 話し合い、意見を対立させ、時にはぶつかり合った

 

 そんな私の怒気を浴びて、平然としていられる人間はそう居ない筈なのに

 

『言った筈です――』

 

 エリカは、真正面から私を睨み返す

 

『――覚悟は出来ていると。』

 

 暗鬱と、爛々と、青色の瞳を輝かせるエリカから発せられる威圧は今まで相対してきた誰よりも重く鋭い

 

『しほさんは、多くの人が正しいと思う道を選択して来たんでしょう。西住流を守るだけならそれは確かに最良の方法であったのでしょう。』

 

 最初に西住流を守るためだからと考えたのは何時だろう

 確かあれは西住流の門下生同士で練習試合をした時だ

 娘達も交えたその試合途中に、みほが戦車の前に迷い混んできた子猫を助けるために自身が乗る戦車を停止させた事に対して、叱咤した

 

 あのままだと子猫を轢いていたからと、子猫を抱えて項垂れるみほに、西住流がどんなものであるかを厳しく言い聞かせた

 

 生き物の命と練習試合、どちらが道徳的に重いか何て考えるまでもない事の筈なのに

 これも、西住流をひいてはみほを守る為なのだと、胸が痛むのを無視して自分に言い聞かせた

 

 それから、ズルズルと同じように

 西住流を守るためだ、娘達を守るためだ、その為なら私は娘達に嫌われても良い、なんて独り善がりを拗らせていった

 

 徐々に激しさを増していく、娘達に対する私の叱責に誰も何も言おうとしなかった

 

 それは、…そうだろう

 私のしている事は筋が通っていない事は無かったから

 間違ってはいなかった事だったから

 

 

 だからこそ

 

 

『だから、私は何度でも言いましょう。しほさん、貴方は間違っていた。』

 

――お前は間違っている

 

 正面切ってそう言われたのは何時以来なのだろう

 すとん、とずっとつっかえていた何かが落ちた気がした

 

『今のこの結果が最良であったなんて、私は認めません。あの経験全てが必要であったなんて、絶対に認めません。』

 

 みほが去った

 まほが苦悩した

 隊員達が絶望した

 それらを絶対に必要無かったものだとエリカは言う

 

『だから、しほさん。貴方は間違えていたんです。』

 

 エリカの言っている事はただの結果論だ

 こんな結果になったから、それを引き起こした行動は間違えだった

 内情をまるで知りもしない癖に批判ばかりするようなそんな手法

 

 それなのに、どうしてこんなにも胸に響くのだろう

 

 

 

 ああ、そうなのか

 そう納得してしまう

 

 私はずっとそれを言って欲しかったんだ

 間違ってるんだよって

 それらはいけない事なんだって

 

 私自身が分からなくなってしまったそんな事を

 きっと誰かに肯定して欲しかったんだ

 

 

 

『もし、しほさんの今が幸せでないなら、このまま同じ事を続けていても報われる事は絶対にありません。』

『エリカ…私は…。』

『しほさん。貴方はまだ取り返しがつく筈です。取り戻す事が出来る筈です。』

 

 幸せを目指して良いのだろうか

 今更私が家族の温もりを求めて、良いのだろうか

 

 だって、私は娘達に酷い仕打ちをして来たではないか

 常夫さんに西住流については口を出すなと突っぱねて来たではないか

 

 散々自分勝手に、思うままに、振る舞ってきた私が

 今更、そんなことを――

 

『本当にっ…!欲しい未来が在るのならっ!』

 

 私の迷いを全て理解しているかのように

 これまでの積み重ねに流されそうになった私に、エリカは悲痛な叫びをぶつける

 

『外面も、体裁も、整合性だって、気にしちゃいけないんです!』

 

 それは、忠告で、告白で、懺悔で、後悔で

 様々な色を孕んだその言葉は、苦しくなるくらいの実感が含まれていて

 

『身勝手でも、我儘でも、本当に大切なものは離しちゃだめなんです…。』

 

 ぎゅっ、とぬいぐるみに力を込める

 エリカの手元にあったぬいぐるみは、今も変わらずそこにあった

 

 きっと、それだけが今のエリカに残された思い出で

 もう取り戻すことが出来ない、有り得たかもしれない未来の残骸だった

 

『だから、もう…良いじゃないですか。しほさんが思っているより、まほさんも、みほも、ずっと強いから。その強さを認めて…良いじゃないですか。』

 

 エリカの言葉は優しくなんて無い

 だからこそ、深く深く凝り固まった思考の芯まで届かせて

 まるで心でも見透かされたような言葉の数々は、私の心の柔らかい所に突き刺さり、硬い所を解きほぐしていく

 

 

 エリカが立ち上がる

 みほとあまり変わらない筈のその身長は、やけに大きく感じられて、肉薄してきたエリカに思わず一歩、後退ってしまう

 

 そんな私の情けない姿を目の当たりにしても、エリカはまるで意に介さない

 私の右手を逃がさないように掴むと、その手を軽く引っ張って、エリカのもう片方の手に持たれていたぬいぐるみを押し付けるように握らさせられた

 

『それは、みほの物です。しほさんから渡してあげて下さい。』

 

 …難しい事を言う

 

 未だ迷いを抱える私を見抜いたのか、娘に会う口実を残そうとするエリカは抜け目無い

 悪戯っぽい笑顔を浮かべたエリカの手の温かさに涙が出そうになる

 ぬいぐるみを残して離れていくエリカの体温に、寂しさを感じて、ついエリカの手を目が追ってしまう

 

『じゃあ、私はもう行きます。』

 

 笑顔を最後に後ろ姿を向けたエリカは、もうこの家に訪れる事はないだろう

 それでも、そんな事を微塵も感じさせないエリカの振る舞いは、まるでまた明日もここへ訪れるのではないかなんて思わせる

 それが錯覚だなんて、火を見るより明らかな癖に

 

 

 このままエリカを行かせるのは正しい事なのだろうか

 エリカが去っていくのを許容するのは、私が望む未来なのだろうか

 

 そんなこと、ある筈がなくて

 本当に欲しい未来が在るのなら、外面も、体裁も、整合性も、気にしてはいけないなら先程の口約束など守るべきでは無いのだと、分かっていたから

 

 エリカを引き止めようと体を動かそうとして

 

 

『今日の事は、まほさんとみほには言わないで下さい。』

 

 それに、被せるように発せられたエリカの言葉に動きを止めることとなった

 

『これから、私にとって彼女達は越えるべき壁でしかありません。』

 

 敵でしかないと切り捨てる

 

『無慈悲に、私はみほを、大洗を叩き潰します。』

 

 もう戻れないとでも言うように

 

『それで漸く、私は前に進めるんです。』

 

 止まってしまった何かが、きっとまた動けるように

 

 もう振り向くことの無いエリカの後ろ姿を、結局私は引き止める事が出来なかった

 

 

 それから

 …それから―――

 

 

 

 

 

「貴方達とこうして向かい合う事を決断できないまま、ズルズルと時間ばかり過ぎて、結局は貴方達が今日ここに来るまで何も出来なかった。」

 

 どうすれば良いのか、分からなかった

 今まで信じていたものが間違っていたなら、どうすれば正しいのかが分からなくなって

 

 迷って

 立ち止まって

 無為に時間ばかりを浪費して

 

 そうやって、結局自分から動く事が出来ずにここまで来てしまった

 

 自分がここまで弱かったなんて知らなかった

 なんて、不甲斐ない

 

「これが、私とエリカの話した全てで、私が貴方達に言わなくてはならない事。」

「……。」

「エリカ…さん…。」

 

 まほは瞼を閉ざして天を仰ぎ、身動ぎ1つせず

 みほは唇を噛み締め、震える体を隠そうともせず顔を俯かせる

 

「私…、エリカさんに言ったことがあった…。黒森峰の雰囲気が恐いって、お母さんとお姉ちゃんと、昔みたいな関係に戻りたいって…。」

「…みほ。」

「全部…私のせいなんだね…。」

「――。」

 

 ぎゅうっ、とエリカから預かって漸く返すことのできたぬいぐるみを、みほは強く両腕で抱き締める

 肩を震わせるみほは何時に無く小さくて、壊れてしまいそうだった

 

「これが…お前の言う終わりか、エリカ。」

 

 天を仰いだままのまほがそう呟いた

 まほがエリカから何を聞いたのかは知らない

 だが、思わず溢れたそんな言葉には、どうしようもない激情が籠められている

 

 

 そんな2人の焦燥とした姿を見ても、私は慰めの言葉など掛けることは出来ない

 エリカとの約束を全て果たした、エリカを引き止める事が出来なかった私が、娘達に言える慰めなどきっと存在しない

 …ああ、娘達にあの日の事を話したのは約束を破ったようなものか

 

 そう、私は何処までも、惨めで、自分勝手で、責任を果たすことが出来ない女だ

 

 

 

―――けれど、それは今日までの話だ

 

 

「まほ、貴方に今のエリカを引き戻す事は出来る?」

「…恐らく、いえ…私には、出来ません。」

「…それは、何故?」

「私は…、エリカを見ていませんでした。エリカ個人に目を向けず、きっと自分の都合の良いようにしかエリカを認識していなかった。…いえ、エリカだけじゃない、黒森峰の隊員達にも目を向けようとしなかった。…そうして、私は彼女達を裏切った。」

 

 くしゃりと顔を歪ませたまほの表情を、私は初めて見ることとなった

 

 ずっと気付けなかった事

 気付けなかったが故に、何も出来ず

 何も出来なかったが故に、取り返しが付かなくなった

 

 悲痛で、凄惨で、もの悲しい

 もうどうしようもない事

 

 だから、私はやらなくてはならない

 彼女達の母親として、やらなくてはならない

 

「まほ、確かに貴方はある意味で黒森峰の子達を裏切ったのでしょう。…けれど、裏切りだけを残した訳ではない、確かに残せたものがあった筈です。」

「…私は何も…、残すことが…。」

「それは、違います。」

 

 私は、知っている

 まほが、どうすれば隊長として効率的に隊員達の能力を向上させる事が出来るか考えていたのを

 それに着いてきていた隊員達が、全てが終わった後にまほに向けたのは負の感情ばかりでは無かった事を

 

「それが分からないのであれば、貴方が黒森峰の隊員達に掛けるべき言葉はありません。」

「っ…。」

 

 瞠目して私を見詰めるまほに軽く微笑み掛ける

 あとは自分で見付けるべき事柄だ

 

 

 私はまほに向けていた視線を切って、もう1人の娘へと向き直る

 

 もう1人の娘は、みほは、もうどうしようもない現実に打ちのめされてしまったように、ぬいぐるみを抱き締めたまま動こうとしない

 床を見詰める瞳には鬱屈とした感情が渦巻いて、蒼白となった顔色は血の気をまるで感じさせない

 

「みほ。」

「……。」

 

 返答は無い

 

 みほの脳内を駆け巡るのは、過去の光景か、あり得ぬ未来か

 もはや目の前の私達の事など、みほには見えていないだろう

 

「みほ。」

「……。」

 

 反応も無い

 

 悲しいだけの現実など見ない方が幸せなのだと言うように

 

 みほは、エリカを傷付けるエリカの願いを聞き入れた私を責めようともしない

 自身の間違いだけと向かい合って、自責の念でただひたすらに自分自身を傷付けていた

 あの時のように、また1人で悩んで苦しんで抱え込もうとしていた

 

 だが、それはもう許さない

 

「みほ!」

「…っ!」

 

 力一杯抱き締めた

 

 触れ合った肌はいつかの頃を思い出させて

 想像していたよりも大きかったみほの体は、私に娘の成長を実感させて

 エリカよりも温かい体温は私の胸の中心を温める

 

 怯えるように抵抗するみほを絶対に離さないように掻き抱いた

 

「…いい?よく聞きなさい。」

「お母…さん?」

「私はこの件でもう手出ししない。今更私が何をやってもエリカはもう揺らがない。」

「…私は…。」

「貴方だけなの、みほ。ここからエリカの気持ちを変えられるとしたら、貴方だけ…。」

 

 酷い親だ

 あろうことか私は、全てをみほに委ねようとしている

 

 みほが傷付くと分かっているのに、苦しむと分かっているのに私はみほにそれを選ばせる

 けれど、それ以外は、きっと悲しい結末しか産み出さないと分かっているから

 

「私はみほが何を選んでも全力でそれの後押しをする。」

 

 だから、そう言って口をつぐむ

 

 力一杯抱き締めていた腕を緩めてみほの顔を見る

 血の気が無かった頬は僅かに赤みが射し、淀んでいた瞳には、何時もの光が差し込んでいた

 もう、みほは前を向こうとしていた

 

 

 ああ、ほら、やっぱりこの子は私が思っているよりずっと強かった

 

「やりたいように、やりなさい。」

「お母さん…、お母さんっ…ありがとうっ。」

 

 

 

 

 

 

 エリカ、貴方はきっと怒るかもしれない

 こんなことは望んでいないと叫ぶかもしれない

 

 それは正当な怒りだ

 私はその怒りを幾らでも受け入れよう

 

 だけど、分かって欲しい

 

 貴方が歩んできたこの道程は、貴方にとって辛く苦しいものであったのかもしれないけれど

 その歩みに救われた人達は沢山居て

 色んなものを救い上げてきた、貴方の幸せを願う人が居るのだと、知って欲しい

 

 それだけが、今私に出来る事で

 みほの母親であり、貴方の師であった私が果たすべき責任だから

 



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澤梓は見詰め直す

 きっと私は、勘違いしていたんだろう

 だからこその、この結果

 

 

 

 戦車道に初めて触れた高校1年生、その年の内に全国大会を優勝した

 周りからの称賛を、これでもかとばかりに受けてたから、自分達は凄いんだって、心の何処かで浮かれてしまっていたのかもしれない

 

 新しく入ってきた後輩達や、昨年より充実した装備の数々に、引っ張っていってくれる頼りになる先輩方

 華やかな未来を想像するのは、難しくなくて

 みほさんは何度も、油断しないで、他の学校も優勝目指して頑張っているから、と私達に言い聞かせていたのに、私は傲慢な考えを捨てきる事が出来なかったんだ

 

 

 

 

 

 呆然と、暴風が去っていった後を見詰める

 辺りを見渡さなくても視界に入ってくる、味方の走行不能となった戦車の数々

 無線機から入ってくる、聞いた事が無い程早口なみほさんの指示を理解する余裕が無い

 

 そんな試合中であれば絶対にやってはいけない、思考放棄という禁忌を犯している私を誰も咎めようとはしないのは、もう私が理解する必要が無いから

 

 私が上半身を出している直ぐ横で乗車する戦車からはためく白旗が見える

 その光景は、私に嫌と言う程現実を突き付けてきて

 

 走馬灯のように脳裏に写っていく記憶の数々は、戦車に乗っていない時の景色

 どうしてこの時もっと練習しなかったのだろうと言う後悔が今更になって襲い掛かってくる

 

 

『…終わっちゃったの…?』

 

 

 誰に問い掛けた訳でも無いその問いは、響き渡る砲撃の音に掻き消されて、消えていった

 

 こうして、私の副隊長としての最後の試合は終わりを迎えた

 

 

 

 

 

 

 

 

 人混みの隙間をすり抜けるようにして、早足で進んでいく

 横目に流れていく景色は、お洒落なカフェや小物を扱っている店が多い

 

 久し振りの陸の町並みは、普段見られない店構えばかりで、こんな気分でさえなければ、友人達と楽しみながら買い物巡りを楽しんでいたことだろう

 

 けれど、今は誰にも会いたくなかった

 誰の顔も見たくない、誰とも話をしたくない

 だから、友人達が遊びの誘いに来る前に部屋を飛び出して、寄港場所の町を一人歩いている

 

 

 自分が、不甲斐なかった

 

 全国大会の準決勝までは、昨年よりも色々な部分で活躍できている自覚があった

 兵隊としての活躍、指揮官としての活躍

 去年の私がみほさんに向けていたような尊敬の眼差しが、後輩たちから私に向けられていて

 みほさんにも、見違えるような立派な戦車乗りになったと誉められた

 副隊長となってから努力してきた自分の成果が、遺憾無く発揮されているようで純粋に嬉しかった

 

 私を信頼してくれる仲間達の存在に、頑張ろうと思っていたんだ

 

 

 だからこそ、あの結果は堪えた

 

 試合開始早々に撃破された

 私達は、相手の戦車を1両も撃破することが出来ず、抵抗らしい抵抗すら出来なかった

 まるで詰め将棋でもされたような、理路整然とした処理をされたのだ

 

 私達は黒森峰との試合前に、相手の注意するべき選手、その対策を話し合った

 みほさんが主導となったその作戦会議は、超距離砲撃を可能とする選手や、ゲリラ部隊を率いる選手等、議題に上がったのはどれも高校で最上位の力量を持った選手達

 

 私はその会議で一人でも多くの選手の顔を覚えようと、手渡された資料をじっくりと見ていたのを覚えている

 

 

 ――けれど、私達を撃破したのはその会議で欠片も名前が挙がらなかった子だった

 

 あらかじめ想定していた、赤星さんの率いるゲリラ部隊の強襲を、みほさんの指示していた通りに対処しようとして、その動きの穴を突くような黒森峰のフラッグ車が率いた部隊に横から潰された

 

 想定にない事態ではあったけど、そんなことは幾らでも経験していたから、咄嗟の判断ではあったけれど状況を打開する行動を考えて、皆に指示して

 その考えすら、あらかじめ準備していたようにはね除けられた

 

 私が率いていた部隊が壊滅して、最後に私の乗った戦車を撃破したまるで警戒していなかった選手は、白旗の上がった私達の戦車と私の呆然とした表情を一瞥して、直ぐに興味を失ったように去っていった

 

 それを見て、言い様の無い虚脱感に襲われた

 私は何を勘違いしていたんだろう、と

 

 

 みほさんが笑って、梓ちゃんになら安心して任せられるよ、と言っていたのを明瞭に思い出してしまう

 卒業する先輩方が、冗談混じりに私達の無念を晴らしてくれと肩を叩いて来たのに恐怖をすら感じていたのに嫌気が差す

 同じ戦車に乗っている友達の、一緒に頑張ろうと言う励ましから逃げ出した私自身が信じられない

 

 重い

 何もかもが、重すぎる

 

 こんな、何も果たせなかった奴が、これからの大洗戦車道の隊長を務めるなんて、冗談でも考えたくない

 勝たなければいけない理由なんて今はもう無い筈なのに、楽しんで戦車に乗れば良いって、頭では分かっているのに

 みほさんが皆を率いる後ろ姿が、頭にこびりついて離れない

 

 この2年間、ずっと見てきた背中

 私にどうしようもない憧憬を抱かせて、追い付きたいと必死に追い縋った背中

 戦車道への理解が深まる度に、その背中が段々遠くにあるように思えて焦燥感を感じていた

 

 どれだけ手を伸ばした所で、指先を掠める事も出来なかったみほさんが背負ってきたものを、次は私が背負わなければいけないんだと理解した時

 理屈ではなく、もっと根本的な部分で恐怖を感じた

 

 

 私はその恐怖に、耐えきることが出来なくて

 けれど、今更出来ないなんて言えるわけもなくて

 何も言えず、何も変えられないまま、ここまで来てしまった

 

 もう今更どうすることも出来ない

 産まれた恐怖は、真綿で首を絞めるかのごとく、強く柔らかく私を殺す

 

 

 出口の無い迷路をさ迷うような、堂々巡りの思考の渦で、1人になった所で好転することなんて無いと分かっているのに、今は誰にも会いたくない

 

 こんな惨めな葛藤を、誰にも悟られたくなくて、表情や行動に表れないように、弱音を吐かないようにしていた

 隊員達をいたずらに不安にさせないように

 それがこんな不甲斐ない隊長が出来る、最初の仕事だと思ったから

 

 それでも

 あゆみの気遣いが、あやの笑顔が、桂利奈の心配するような表情が、優季の悲しそうな表情が、紗季の視線が、そんな私のなけなしの努力が無駄なんだって思い知らせてくる

 そしてそれは、隊員を不安にさせないという、隊長としての大前提すら果たせていないことを意味していて

 

 実績も、実力も、精神も、才能も

 全てが足りない隊長なら、居ない方が良いなんて分かりきっていて

 友人達と一緒に居ると、そんな自分自身の無能さを見せつけられるようで、辛かった

 

 

 

 目的地もないのに脇目も振らず、早足で人混みを掻き分け歩く

 自分が何処へ向かっているのか、何処へ向かえば良いのか、分からなくて

 ただただ、知り合いに会わないように、何処か遠くへ進み続ける

 

 名前も知らない黒森峰の車長の無機質な目を思い出す

 まるで頭から離れないその光景は、私があの敗北から進めてない事の確かな証左で

 

 そんなことばかり考えているから、誰かが私の前に立ち塞がるように現れたのにも気が付かなかった

 

 

「澤梓さんね?」

「っ!?」

 

 

 突然、名前を呼ばれ思考の渦に落ちていた意識が強制的に引き上げられた

 確認ではなく私に自分自身を気付かせるためであったのだろう、疑問符が付くような話し方だが、その口調は確信に満ちていた

 

 

「…想像通り、かしらね。」

 

 

 私の名前を呼んだ人は、会いたくない人達の中には入っていなかった、いや、会うことを想定していなかったと言うべきか

 

 だってその人は私と直接の関わりは無くて、会話したのも1度や2度でしかない

 こんな所で、こんなタイミングで、まさかこの人と会うこととなるなんてと、自分の不運を呪った

 

 

「少し時間を貰うわ、付き合いなさい。」

 

 

 不遜な態度を隠そうともせずそんなことを言って、彼女、逸見エリカは私を見据えた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 逸見エリカ

 その名前は私にとって、警戒するべき対象であり、同時に打倒しなければならないものであった

  

 実際に私が彼女の戦車を動かす姿を見たのは3度だけだ

 昨年の決勝相手として、大学選抜との試合を味方として、そして私達が敗北したあの試合で

 数にするとそれだけでしかなく、そして、それだけあれば彼女の卓越した技術を嫌でも実感させられた

 

 勇猛果敢にして迅速果断、さらに今年はそれに余裕を身に付け、戦車乗りとして非の打ち所が無くなったとみほさんをもって言わしめた傑物

 

 

 そして、私達大洗を完膚無きまでに敗北させた人物が、今私の横で、缶コーヒーを片手にベンチに腰を掛けていた

 

 

「…寒くなってきたわね。」

 

 

 遊具が殆んど無くなって寂しげな風景となった公園の片隅で、彼女はぼやくようにそんなことを呟いて白い溜め息を漏らす

 

 彼女が言うように、冷たくなり始めた風が頬を撫でる

 当たり前のことを何気なしに呟く姿は、何処にでも居るただの学生のようで、あの大会を蹂躙した黒森峰の隊長とは思えない

 

 

「まあ、そう長い話にはしないから、それ、好きな時に好きな分だけ飲んじゃってちょうだい。」

 

 

 彼女は缶コーヒーに薄い唇を軽く付けたまま、横目に私を見てそんなことを言う

 

 ふと、手元に視線を落とせば私の分の缶コーヒーが、蓋も開いてない状態で私を暖める

 口すら付けない私に気を使ったのだろうか

 話に付き合ってもらうからと、当然のように彼女が財布からお金を出すのを止める間も無かった

 まあ、止める間も無ければ選ばせるような間も作ってくれなかったため、選ばれたのは彼女と同じブラックコーヒーだ

 

 別にお金を出して貰った事に気後れしている訳ではないが、今はそう言う気分ではないのだ

 

 

「…話とは何でしょうか?」

 

 

 小さな子供達が、遊具も無いのに楽しげに走り回っているのを眺めていた彼女は、痺れを切らした私の言葉にゆっくりと視線を私に向けた

 青い瞳は氷のような冷たさを写し出し、その冷たさはじっくりと私の全身を撫でる

 

 この目だ

 この冷悧で全てを見透かすような目に、私達の、いや、みほさんの作戦は撃ち破られたんだと理解した

 

 

「――貴方、ウチに来る気はない?」

「…はい?」

 

 

 唐突なその言葉に、ウチとは何だろうと考える

 彼女の家にお邪魔でもするのだろうか、なんて事を考えているのが見透かされたのか、呆れたような声色で言い直す

 

 

「貴方の才能、向上心を私は買っているの。その技術を黒森峰で伸ばす気は無いかと聞いているのよ。」

「わ、私がですか?」

「何言ってるの?貴方だからよ。」

 

 

 過分なまでの評価に、思わず鳥肌が立つ

 最大の敵からの最上の誉め言葉に、脳裏が痺れるような嬉しさを感じて、直ぐに頭を振り、そんな甘えを捨てる

 

 まただ、またこうやって直ぐに調子に乗る

 それが何れだけ危険なことか、嫌と言う程理解した筈なのに

 私は、同じ過ちを繰り返そうとする

 

 

「…それは何ですか。来年の敗北の芽を少しでも摘むための作戦ですか?」

 

 

 あわよくば大洗の戦力を削ることが、そこまでは出来なくとも私の慢心を作ることが出来るとでも考えているのだろう

 

 だって、隣に居る彼女は敵だ、敵でしかない

 ならば、そんな者の甘言に惑わされる訳にはいかない

 

 来年の試合のために

 私の仲間達のために

 

 私は――

 

 

「…私も、貴方に聞きたいことがあったんです。」

 

 

 自分の口から吐かれた、あまりに低く暗い声色に驚いた

 怨敵でも見るかのように彼女の見詰める、自分の検討外れさに気付きつつも、何処吹く風といったような彼女の様子に苛立ちを覚える

 

 

「どうやって、私達の行動が手に取るかのように分かったんですか。」

 

 

 それは、彼女に意図も容易く翻弄させられた、私自身のミスを誤魔化す為に咄嗟に口にしてしまったものである

 だが同時に、それは疑いようのない、あの試合から続くどうしようもない疑問でもあった

 

 

「どうして、私の対応を見透かしたかのように動けたんですか。」

 

 

 あらかじめ立てていた作戦の裏をかかれた、その対応をしようとした私を整然と処理した

 言葉にすればそれだけだ、そしてそれだけの事に私は打ちのめされたのだ

 

 一部の乱れもない連携も、指示をされてからの行動の早さも、技能の差も、納得しよう

 彼女達の血が滲むような努力によるものだと考えれば、まだ頷ける

 そういう事もあるのだろう

 

 けれど――

 

 

「なんで、みほさんに勝つことが出来たんですかっ。」

 

 

 

 ――私は、諦めたのに

 

 

 戦車道の知識が深まるほど、戦車道の教えを学ぶほど、戦車道が好きになるほど、遠くに思えたあの背中

 

 どうやったって一向に距離は縮まらなくて

 どんなに努力したって全く手が届かなくて

 いつしか、そう言うものなんだと自分を納得させた

 

 それが諦めだなんて思いたくなくて

 自分の弱さを認めないまま、ずいぶんと時が過ぎた

 

 

「答えて…、答えて下さいよ。」

 

 

 そんなものから目を逸らし続けた私は、いつしかみほさんに勝てる人なんて居ないんだと思うようになっていた

 

 きっと、そうである筈だ

 

 

 

 目の前の彼女は、私の無様な姿を、言葉を、一つひとつ吟味するかのように長い沈黙を保って

 それから、ポツポツと何かを溢し始めた

 

 

「私は、…結局みほに勝てなかったわ。」

 

 

 何を言っているのだろうと思ったが、彼女の表情には誤魔化すような色は微塵もなくて、その言葉が少なくとも彼女の中では紛れもない真実なのだと理解した

 

 

「あの大会の私達の戦い方、違和感を感じなかった?」

 

 

 違和感と言われて、直ぐに頭に思い浮かんだのは、みほさんが言っていたあの内容だった

 

 

「『あれは西住流じゃない。』」

 

 

 二人の声が重なる

 けれど、込められた意味は正反対のような気がした

 

 

 あの、完璧に相手の裏を掻き続ける戦術

 ある種の究極とも言えるだろうあの戦術は、みほさんでさえ見たこともないと言う程の未知のもので

 それは、誇ることはあっても恥じることは無い筈のもの

 

 その筈なのに、何故だろう

 何故彼女はこんなにも、罪を告白するかのように口にするのだろう

 

 

「あれは西住流でもなければ、決まった流派の動きでもない、単純に試合に勝つためだけの動き。あらかじめ相手の思考を読んで、それに対する最善手を打っておいただけ。」

 

 

 相手の行動を予測して、その対策をする事

 それは、戦術を立てる上での基本中の基本で、特に不思議でもなんでもない考え方の一つだ

 

 きっと、誰もがやっている当たり前の事で

 もちろんそれは私だってやっている事だった

 

 だからこそ、それはあまりに信じがたい

 

 

「何を、言ってるんですか。あれが、あんなものが、誰もが当たり前にやっているものの延長でしかないとでも言うんですか!?」

 

 

 各校の歴戦の戦車乗り達が、為す術無く敗北した

 常に位置を捕捉され続け、常に作戦を読まれ続け、常に最善手を打たれ続けた

 何とか対策を講じようとした人達さえ、歯牙に掛ける事の無い彼女達の姿に絶望したのは一人二人では無い

 

 それなのに、

 

 

「そうよ、私がやったのはそれだけ。」

 

 

 彼女は血を吐くように、そう言い捨てる

 

 

「私には、何もなかったの。何も、無かったのよ。」

 

 

 見据える先にあるものは、きっとどうしようもない遥か高み

 そしてその高みにいる、西住まほさんのような指揮能力も、みほさんのような戦略立案能力も、愛里寿さんのような技術も、彼女にはありはしなかったのだろう

 

 

「分かってた、そんなことはずっと前から分かっていたの。」

「あの子達のような才能も、経験も、培ってきたものさえも、自分に無いなんて事、誰に言われるまでもなく知っていたもの。」

「――でも、負けるわけにはいかなかった。」

 

 

 ゾッとする程に力が込められた、彼女の言葉はあまりに重い

 願いなんてあやふやなものではなく、決意なんて生易しいものではない、何処までも汚く泥臭い、執念とでも言うべき妄執だった

 

 

 だから、そう言って彼女は一呼吸置いた

 

 

「私の弱さを直視した。私の今まで積み上げてきたものを見つめ直した。私の間違えを数え直した。」

「もう逃げるのは止めた。目を逸らして見えない振りをするのも、失って怒りに震えるのも、もうしたくなかった。」

 

 

――私はそうやって色んなものを捨ててきたの

 

 

 そんな言葉を吐き捨てて、彼女は空になった缶を遠くに置かれているゴミ箱目掛けて放り投げた

 空き缶は綺麗な放物線を描いて、少しのズレ無く箱の真ん中に吸い込まれる

 乾いた空気に響き渡った甲高い音はやけに大きく感じられた

 

 

「…後悔、してるんですか?」

「まさか。」

 

 

 私の質問に、とんでもないと言わんばかりに鼻で笑った彼女は少し乱れた髪を整えながら口角を持ち上げる

 

 

「今のこの現状は、目指していたものの中でも最良に近いものよ。私のやって来たことを誇りはしても後悔なんてしない。」

「ただ…もし、と思うことはある。」

「もし大洗に負けなければ、もし隊長が私でなければ、もし私がもう少し色んなものを救い上げられたらなんて、そんなことを時折考えてしまうことがあるの。」

 

 

 ああ、そうだろう

 その気持ちは、考え方は、自分の事のように理解できた

 だってそれは、私が今まさに陥っている状況そのもので、目の前の彼女はまさに鏡写しの自分自身を見ているかのようだった

 

 話を戻すわね、と言うと彼女は溜め息を一つ吐いた

 

 

「私は試合に勝つために西住流を捨てて我流に走った。今までの戦車道の試合を全て見直して、一人ひとりの癖や考え方を細分化した。それをただ途方もない程繰り返してパターン毎の相手の行動を予測したわ。」

「戦車道の試合だけじゃない、過去の戦術と言う戦術を読み漁りって、自分の戦車道を徹底的に破壊した。」

「そこまでやって漸く、全ての高校生が行う戦車道の行動を読み切れるようになったの。」

 

 

 彼女が、痩せ細りやつれた理由が分かった

 精神的なものでは無かったのだ、いや、精神的なストレスもあったのかもしれない

 けれどきっと、睡眠を削り食事を疎かにして自身の体調も省みなかった結果、こうなってしまったのだろう

 

 

「大学との練習試合や大会を勝ち進めるごとに今の黒森峰の強さに酔しれたわ。これならきっと優勝出来る、これならきっとあの子に勝てる、これならきっと――…。そんなことを思って、あの子との試合に臨んだ。」

「最初は私の掌の上をまるで出ることはなかった、あの子が立てるだろう作戦、行動、全てが私の思うがまま。」

「今まで一度だってあの子に勝てなかった私が、僅かの損害すら出さずに大洗の戦力の半分を削った時、私は勝利を確信した。」

「確信して…崩壊した。」

 

 

 私も見ていたからその後の事は知っている

 みほさん達の単騎駆け、およそ人が乗っているとは思えないような、化け物染みた戦車の動きを見せ付けられた

 

 

「最初にみほの動きが変わったのが分かった。嫌な空気も感じたし、私は即座に作戦を切り換えて対応しようとして、…打ち破られたわ。」

 

 

 多数による同時襲撃

 強襲に重なる強襲を繰り返し、みほさん達を押し潰そうとする息も吐かさない連撃

 それをみほさん達は針に糸を通すかのような動きで切り抜けた

 

 

「前進するあれを何とかしようと、私が考えた対抗策は一つや二つじゃなかった。」

「それでも、あれはそんな私の策を意図も容易く切り抜けた。」

「私の指示に何の疑いもなく従った隊員達が次から次へと撃破される度に、また負けるのかと言う恐怖が産まれて、ついには私の目の前に現れたあの子の姿に敗北を予感させられた…。」

「…あの時、小梅が駆け付けていなければ、確実に黒森峰は負けていたわ。」

 

 

 だから、黒森峰は大洗に勝ったけれど、私はみほには勝てなかったの

 

 

 そう呟いて、何かを思い出すかのように瞼を閉じた

 

 

「背負わなければならないものは私には不相応な程に大きくて。でも、それを捨てる事なんて考えられなくて、結局こんなところまで来てしまったわ。」

 

 

 こんなところまでなんて言うけれど、その声色には喜びはあれど悲しみなんて無くて、後悔していないと言う言葉が真実だと分かった

 

 ゆっくりと開かれる双眸が冷たさを伴い私を貫く

 

 

「だからこそ、私は貴方に聞かなければならない。」

「貴方の敵は、一体何処にいるのかしら?」

 

 

 投げ掛けられた底冷えするように冷たい疑問は、私の背筋を凍らせた

 口から漏れた言葉にならなかった吐息は、白い煙となって消えていく

 

 

 

 私の、敵?

 

 そんなものは、聞かれるまでもない、筈だ

 

 それは、私達を敗北させた黒森峰の事で、全国の強豪校の事で、目の前で私を見詰める逸見エリカさんの事で

 

 

「本当に?」

 

 

 そんな回答を私が口にするのを、彼女の言葉が邪魔をした

 確認でしかない彼女の言葉は、私に建前でしかない幼稚な考えを紡がせない

 

 

「貴方の気持ちを聞かせて欲しいのよ。そんな情けない顔をして口にする誰かの理想の言葉なんて聞きたくないの。」

 

 

 そこまで言われて、漸く自分が今にも泣き出してしまいそうに表情を歪ませている事に気がついた

 

 

「やめて…下さい…。」

 

 

 なんで、なんで、苦難を共にした戦車道の仲間達でなくて、友人のあゆみ達でもなくて、憧れのみほさんでもなくて

 

 なんで貴方のような他人が、私を見透かすような事を言うのか

 

 

 貴方は他人だ

 

 食事を一緒に食べた事もなければ、連絡先を知っているような事もない

 勉強を教え合った仲でもなければ、一緒に遊びに行ったこともない

 

 戦車道で、こうしたら良いんじゃないかと話し合った事も

 お互いの弱さを、次はもっと頑張ろうと反省し合った事も

 もう駄目だと思ってしまった時に、私達に手を差し伸べてくれた事も、無かったではないか

 

 

「止めて下さいよ…。見透かす様な事、言わないで下さい。関係の無い貴方が、私の何を、理解しているって言うんですか。」

「…。」

 

 

 一人言の様に、譫言の様に、誰に向けたわけでもない私の呟きに彼女は答えない

 ただ、私から目を逸らそうとしない

 

 

「私の何を知っていると言うんですか…。貴方が私の何を理解しているって言うんですかっ!」

 

 

――私自身でさえ、分からないのに

 

 そんな言葉は口に出来ないまま、項垂れるように顔を伏せた

 淀みきった感情が、栓が抜けて噴き出すように私の胸中で渦巻いていく

 

 知りたくなかった、見せたくなかった、在って欲しくなかった、私の汚い部分が顔を覗かせ、どうしようもない自己嫌悪に苛まれる

 

 お前のせいじゃないか、という検討外れの怒りが過って

 只の他人に理解されてしまう事に恐怖が産まれ

 そんな事を考えた自分自身に嫌気が差す

 

 

「分からないわよ。分かるだなんて、口が裂けても…言えないわ。」

 

 

 だから、彼女のその言葉は私にとって救いであった

 数度会った程度の人に理解されてしまう程、底の浅いものでなかったと思えたから、安心した

 

 

 けれど、

 

 

「でも、苦しいのは…分かる。」

 

 

 くしゃり、と頭を撫でられた事に暫くの間、気が付けなかった

 

 

「何が敵なのか、今進んでいる道が本当に正しいのか、分からなくて。」

 

 

 戦車道で硬くなっただろう掌が、不器用なまま下手糞に私の頭を撫で付ける

 壊れ物を扱うかのように、戸惑いながら触れている事が直ぐに分かってしまうそれは、心地好いとは言えないけれど、何だか無性に泣きたくなった

 

 

「誰を頼れば良いのか分からなくて、でも、一人で何でも出来る程、自分は上手く出来ていなくて。」

 

 

 彼女は、逸見さんは眉尻を下げて、悲しむように苦しむように言葉を紡ぐ

 

 

 ――それはきっと、私じゃない誰かの話で

 

 

「それでも、止まれなくて。もう戻れない様な所まで来てしまったからこそ、同じ様に何かを見失っている人を見て、放って置くことが出来ないの。」

 

 

 だから、と言葉を続けて逸見さんは笑った

 

 

 ――その誰かはきっと、苦しみの中を突き進んだのだろう

 

 

「その苦しさを、少しで良いから言葉にして欲しいのよ。」

 

 

 ぼろぼろと、歪んだ暗い感情が大粒の何かになって私の頬を濡らした

 それを拭うことも出来ず、ただ口から漏れだしそうになる嗚咽を下唇を噛んで押し止める

 

 一つとして同じ苦しみはない

 だから、全てを理解する事はきっと出来なくて

 でも、全てを理解出来なくても少しでも手を差し伸べさせて欲しいから、貴方の事を教えて欲しいと逸見さんは言う

 

 心のどこかでどうしようもなく欲しがっていたその言葉は、ずっと手に入れることが出来なかったもので

 手を伸ばせば、目の前に居る馬鹿みたいにお人好しな人は、きっと何とかしてくれるのだろうという確信が持てて

 

 

 この苦しみも、悲しみも、怒りも、切望も

 ごちゃ混ぜになった私の汚い感情を、漸く精算できる、そう思ってしまった

 

 私自身、優しげな笑顔を浮かべた逸見さんに、無意識のうちに心を許していることに気が付いて

 それでも良いや、と思ってしまった私はどこまでも弱かった

 

 

「――私、逸見さんを誤解してました。」

「…確かに、自分でもキツそうな顔をしてるとは思うわよ。」

「…そうですね。こんなに優しい人だとは思いもしませんでした。」

 

 

 顔を赤らめて視線を逸らした逸見さんに、自分の中で勝手に出来上がっていた彼女の印象が、音を立てて崩れていくのを感じた

 

 ああ、何だ…

 少し近付いて見れば、何てことは無かったのだ

 

 逸見さんも私と同じ、普通に照れて、普通に笑って、普通に苦しむ、ごくごく普通の少女だったんだ

 やっと、そう理解出来た

 

 

 勝手に感じていた、底知れない強大なイメージが完全に払拭された訳ではない

 今だって、こうして逸見さんと普通に話していることに違和感がある

 

 今はごく普通の少女としての面がよく見えたとしても、あの試合で見たような冷徹な指揮官としての側面も、確かに逸見さんの偽り無い姿で

 きっと戦車道だけでなく、私は逸見さんに色々な面で及びもつかないのだろう事は分かっているから

 

 

「…逸見さん、私、馬鹿なんです。」

 

 

 この苦しさも、痛みも、長い間私を苛んできた

 どしようもないと思っていた感情を、乗り越えた人が目の前に居て

 その人が、私と代わり無い普通の人なんだと知れて、それでも進み続けた人なんだと知れて、何だかよく分からない熱い感情が胸の中に芽生えた

 

 

「私…諦めたくない。」

 

 

 私の言葉に逸見さんは目を見開いて声を失う

 

 分かってる、自分がどれ程馬鹿なことを言っているか理解している

 だってあんなに一人で抱えて、あんなに一人で涙を流して、あんなに一人で逃げていた

 それなのに今更、私がこんなことを言う

 私を心配してここまで来てくれた逸見さんにとっては、差し伸べた手を噛まれたような気分だろうか

 

 

 だから、逸見さんが何か言う前に私は想いを声に出す

 

 

「この苦しさは自分だけのものだって勘違いしてました。」

「誰も私の苦しさなんて理解してくれないんだと勝手に思って、けれど、それは全部私の弱さが招いたものだなんて自分を責めて。」

「堂々巡りの中で、逸見さんが私に手を差し伸べてくれた事は本当に嬉しく感じて。」

「―― でも、同時に貴方に負けたくなくなってしまったんです。」

 

 

 優しい人だから、同じ様な悩みを抱えた弱くて強い人だったから、この人みたいになりたいと思ってしまった

 

 …いいや、正確には逸見さんみたいになりたい訳ではないのかもしれない

 逸見さんの突き進む姿に、諦めようとしない姿勢に、誰かに向けることが出来る優しさに、ただ憧憬を抱いてしまったんだろう

 

 ずっと手に持っていた缶コーヒーを逸見さんに押し返す

 

 

「―――。」

「私は、逸見さんを越えて見せます。」

 

 

 産まれてしまった感情全てを乗せたそんな私の宣言に、逸見さんがどんな反応を示すのか、不安を覚える

 罵倒されても、蔑まれても、可笑しくはない

 どの口がそんな妄想を垂れ流すのかと笑われるのなんて覚悟の上だ

 

 けれど、この人はきっとそうしないと、理由もないのに何となく思って

 

 

「――そう。」

 

 

 酷く安心したように微笑んだ逸見さんの姿に、胸が暖かくなった

 

 

「あーあ、何よ。とんだ無駄足じゃない。」

「ふ、ふふっ。」

 

 

 形だけの嫌味は何を隠すためのものか

 この短い時間話しただけでも、何となく分かってしまって、あまりに単純な逸見さんに思わず吹き出してしまった

 

 いきなり笑いだした私に、逸見さんはしばらくキョトンとしていたが、何で笑われてるか理解したのか、みるみる頬を紅潮させて目付きを鋭くした

 

 

「こ、このっ、…はぁ、まあいいわ。」

 

 

 何だかみほに似ててやりにくいわね、と逸見さんはぼやくとベンチから立ち上がる

 

 長い間ベンチに座っていたからか、固まってしまっていた筋肉を軽く解しつつ、逸見さんは私を見下ろした

 

 

「結局、何の解決にもならなくて悪いわね。」

「え?」

「話を聞いただけで、ろくに解決も出来なかったでしょう。だから、ごめんなさいって言ったのよ。」

 

 

 そう言われてみればそうかもしれない、胸に蟠っていたものがずいぶんすっきりとしてしまったから、その事実に気が付かなかった

 いや、客観的にはそうかもしれないが、私は確かに逸見さんと話すことで精神的に多くの事を救われた

 なにも出来なかった等と言うのは酷い誤解だ

 

 

 不機嫌そうに私を見下ろす逸見さんを見て、途中から感じ始めた彼女に対しての違和感がなんなのか、ふと理解した

 あれだけ人の考え、行動を先読み出来るにも関わらず、時折全く見当違いの誤解をする矛盾に近い逸見さんの行動に、私は違和感を感じていたのだ

 

 

「大丈夫です。色々お話が聞けて、打ち明けられなかったものを打ち明けられて、憑き物が晴れたような気分なんです。」

「…そう、まあ、無理はしないことね。」

 

 

 缶コーヒーを手元で回しながら私を見下ろす逸見さんは人相の悪さも相まって、端から見ればあまりよろしくない状態だったのだろう

 けれど、この時の私達は露程もそんなことに気が付かなくて

 

 

「「「「うおりゃあぁぁ!!」」」」

 

 

 突然、公園に響き渡った数人の大声に私達2人とも全く動けなかった

 

 飛び出してきた5人の人影が、私と逸見さんを遮るように間に入ってくる

 見知ったその5人の姿に唖然とする私に対し、反射的にファイティングポーズをとった逸見さんは堂に入りすぎて少し怖かった

 

 

「あああ、アンタっ、黒森峰の隊長ねっ!?」

 

 

 1人がぷるぷると、頼りなく足を震わせながら逸見さんに向けて指差す

 

 

「あ、梓を虐めるなーー!」

「1人で居るところを狙うなんて卑怯だぞっ!」

「こっ、このっ、バーカ!バーカ!」

「……!」

 

 

 5人の大合唱は内容も纏まっていないし恐怖が隠せていなかったから、逸見さんにとっては微風にも劣る迫力しかなかったのか、呆れた表情で構えを解いた

 

 

「…えっと、貴方達は、 山郷 あゆみさん、丸山 紗希さん、 宇津木 優季さん、 阪口 桂利奈さん、大野あやさんね。」

「か、完全に名前を把握されてる…。」

「もうだめだぁ…、おしまいだぁ…。」

「何なのコイツら…、頭痛くなってきた。」

 

 

 あゆみ達は私に背を向けた状態で、逸見さんと相対している

 彼女達が何故ここに居るのかなんて考えるまでもないが、どう言った理由で逸見さんへ臨戦態勢を取っているのかは分からなかった

 けれど、明らかに勘違いで行動していることは間違いなく、何とか彼女達を止めようと、漸く私が動き出したところで

 

 

「梓は貴方なんかに構ってる余裕なんて無いんだっ!」

「そ、そうよ!梓をどうにかしたいって言うなら、まずは私達が相手になるんだから!」

「…負けないっ。」

「よしゃーー!!やってやるわ!!」

 

 

――思わず、動きを止めてしまった

 

 あゆみ達は、何と言ったのだろう

 

 

「梓っ!!」

 

 

 急に名前を呼ばれて、ろくな反応も出来ない私にあゆみ達は切羽詰まっているのか、まるで気にした様子も無い

 

 

「私達はっ、梓にとって頼りないのかも知れないっ!」

「試合中に怖くなって逃げ出しちゃう様な奴らだから、それはそうかも知れないけどっ。」

「でもっ、これくらいならやって見せるからっ!」

 

 

 いつの事を言ってるんだと言い掛けて、自分が声も出ないくらい動揺していることに気が付いた

 

――ふと思い出すのは、初めて戦車に乗った時の記憶

 軽い気持ちで始めた戦車道は、あまりの迫力に怖くなって逃げ出してしまったんだっけ

 

 

「…へぇ、私とやり合おうっての?」

「あ、当たり前だし!」

「私達の親友に手を出したこと、後悔させてやるわ!」

 

 

 目を細めた逸見さんは、1度私に視線を送ってから氷点下の様な冷たい声色を出す

 嫌な汗を掻いてしまうようなその声に、けれどもあゆみ達は腰を引かしても、その場を動こうとはしない

 

――初めて他校と練習試合をしたときも、恐怖に負けて逃げ出してしまった

 練習試合の後に、逃げ出してばかりの自分達に恥ずかしくなって、みほさんに謝りにいったんだっけ

 

 

 1度溢れ出した記憶はフラッシュバックするかのように、これまでの景色を私の脳裏に次々映し出していく

 

 もう逃げ出す事はしないようにとお互い約束し合って、励まし合って、立ち向かった

 

 サンダースや、アンツィオ、プラウダにだって対等とは行かずとも、戦うことを諦めないで戦い続けた

 

 黒森峰との試合で上げた大金星に、皆でもろ手を上げて喜んで、これからも頑張ろうと決心した

 

 大洗が廃校となってもう戦車に乗れないんだと思った時も、大学選抜とのあまりの戦力差に挫けそうになった時も、決して諦めてこなかった

 

 

 誇らしい日々だったとは口が裂けても言えないような恥にまみれたものであったけど、それらは私にとって大切な思い出で

 確かに歩んだ来た私達の道程だった

 

 

「みんなっ…。」

 

 

 声が震える

 自分でも分かるほどに泣き出しそうな声だ

 そんな情けない私の声に、彼女達はそれぞれの動作で応えてくれる

 

 あゆみが背中を向けたままこちらに親指を立てて

 あやが安心させるような笑顔を浮かべて

 桂利奈が大きな声で私に応えて

 優季が分かってると言うように手を振って

 紗季が私の手を握って

 

 私の大切な友達、みんなが私に寄り添ってくれる

 

 

「ふふっ…。」

 

 

 逸見さんが堪えきれないと言わんばかりに笑みを漏らした

 

 いつの間にか、先程まで撒き散らしていた底冷えするような雰囲気は霧散していて

 逸見さんのあまりの変貌に、あゆみ達は狸に化かされたように固まってしまう

 

 

「隙だらけだから、厄介な大洗の隊長を今の内に潰してしまおうと思ったんだけど、これじゃあちょっと無理そうね。」

 

 

 この人は何を言っているのだろう

 欠片もそんな事を考えて無かっただろうに、ただのお人好しの癖に、何でそんな事を言うのだろうか

 

 逸見さんの発した物騒な発言に、あゆみ達は小さく悲鳴をあげて身構える

 

 逸見さんのすらりと伸びたしなやかで長い腕が、手の中に在った缶コーヒーをコートのポケットに仕舞うと、私達に興味を失ったように背を向け歩き出した

 

 

「――その子、馬鹿だから。貴方達ちゃんと支えて上げなさいよ。」

 

 

 後ろ背に言い捨てたそんな台詞は、あまりに彼女らしくて

 力尽きたように、へなへなと腰を抜かしたあゆみ達に肩を貸しながら、消えていく逸見さんの背中に向けて大声を出した

 

 

「逸見さん!!私、ブラックコーヒー飲めないんです!!」

 

 

 ズルッと、音が聞こえてきそうな程勢い良く転んだ逸見さんが、慌てて私達へと顔を向ける

 

 

「だからっ、今度はっ。」

 

 

 私は何を言おうとしているのだろう

 色々な事がありすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃで纏まり無い

 けど、このまま逸見さんを行かせたら、何となくもう会えない気がして

 

 動かない頭のまま、あゆみ達の視線を感じるまま、涙を止めることなど出来ぬまま、吼える

 

 

「今度は、対等にっ!!私とお話しして下さい!!」

 

 

 笑ってしまうような内容だ

 せめて、お礼を言えないのだろうか

 

 自分の発言に血の気が引いていくのを感じながら、強烈な自己嫌悪に襲われる

 言葉を失って私を見ている逸見さんを見るのが怖い、これから何を言われるのか考えるのが怖い

 

 

――でも、目を逸らす事だけはしなかった

 

 

 逸見さんはそんな私を見て、深い溜め息を吐いたのが分かった

 

 深い深い息を吐いて、仕方の無いように微笑んだのが分かった

 

 

「――約束よ。」

 

 

 声は届かなかった

 

 でも、確かに、そう言われた気がした

 

 

 

 



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だから、西住みほは届かない

 

 

――それは友達になれなかったあの人の話

 

 

 

 

 

 

『私が隊長で、貴方が副隊長ね。』

 

 

 したり顔でそんな事を言い始めたあの人に、憧れた

 

 私がお姉ちゃんに任された副隊長の任に、どうすれば良いか分からなくて、きっと酷く情けない顔をしていたのだろう

 あの人の、羨ましいくらい綺麗な髪を適当に纏めて、言い放ったその内容に、私は内心安心してしまったのを覚えている

 

 

『…なによ、妙な顔して。いや、やっぱり言わなくて良いわ。どうせ大した実力も無い奴が何を言っているんだとでも思っているんでしょう?』

 

 

 昨日の放課後の事だった

 突然皆の前でお姉ちゃんが私に副隊長を任せたいだなんて言い出した

 他の隊員の人達から向けられた視線が怖くて、私の不甲斐ない姿勢を馬鹿にしていた人達が恐ろしくて、いつも私を助けてくれるあの人を見ることが出来なかった

 

 

 人目を忍んで寮へ帰ると、部屋を暗くして布団を被った

 腕に抱いたボコのぬいぐるみは自分の弱さだけを感じさせ、勇気なんてちっともくれなくて

 不安に押し潰されそうになる自分自身を抑えることが出来ない

 

 少しして静かに扉が開く音に、私は慌てて歯を食い縛って息を潜める

 みほ? だなんて小さな声で問い掛けてきたあの人の声色は恐る恐るといった感情を、そのまま形にしたかのような弱さがあって

 何の反応も見せない私の様子に、また静かに扉を閉めて部屋から出ていったのを覚えている

 

 

 

 いつも弱い私

 誰の期待にも応えられない私

 誰かの邪魔をする私

 

 いっそのこと、路傍の石ころにでもなれたらだなんて考えていた最中のその人の言葉は、不器用な優しさに溢れていた

 

 

『今に見てなさい。師範も驚くほど優秀な戦車乗りになって、この黒森峰を立派に支えるようになって見せるんだから。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 走る

 走って走って、走った

 

 この場所の何処かに彼女がいると分かっている

 私が探している事なんて、きっと気付きもせずに街中を散策しているだろう彼女を見付けようと、走りながら視線を周囲に向ける

 

 

――伝えなければならない事があった

 

 

 息が切れる

 足が痺れる

 心が軋む

 日課にしているジョギングでここまで疲れるなんて事、無かった

 

 周りに居た通行人は、驚いた様子で走り去る私を見る

 その事に、申し訳無いと言う感情が湧いたが、だからと言って走るのを止めるわけには行かなかった

 

 見付からなかったらどうしよう

 見付けてからどうすれば良い

 そんな私の心配は、何度も何度も頭を掠めた

 そんなもの、正確な答えなんて何れだけ考えても出てこなかったけれど、きっと私はこれから間違いを犯すのだろうと分かっていても、どうしても彼女に会わなければならなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

『…私が強い?まるでボコみたい?…ちょっと、笑えないわよその冗談。』

 

 

 冗談なんかじゃないよっ、と慌てて両手を振って否定する私に、あの人は半目で私を見詰めてきた

 

 いかに私が凄いと思っているのか、この機会に目一杯伝えてやろうと思って

 鼻息荒く身振り手振りで説明していると、茹で蛸のように顔を紅くしたあの人が必死の形相で私を押さえ込んでくる

 

 

『あっ、貴方っ、中々やるじゃない…。』

 

 

 激闘を繰り広げた後のような、そんな台詞を呟いて、あの人は肩で息をする

 この人はいつもそうだ、自分の事をあまりに過小評価している

 そろそろ自分が何れだけ周りに影響を与えているのか、知って欲しいと切実に思う

 

 

『…それより、ボコってまさか部屋に置いてるアイツの事じゃないでしょうね?』

 

 

 私が肯定すると、あの人は疲れたように肩を落とした

 

 何か不味いことを言ってしまったのかと不安になって、オロオロとし始めた私だったが、あの人の口元は少しだけ、嬉しそうに笑っているのが分かった

 

 

『…まあ、誉め言葉として受け取っておくわ。ありがとう。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ、みほさん?」

 

 

 小さな、それも遊具なんて無い寂しげな公園を通り掛かった時に、ふと名前を呼ばれた

 

 慌ててそちらを見れば、そこにはボロボロと涙を流す梓ちゃんと、それを支えるウサギさんチームの面々

 

 

「梓ちゃん!?」

 

 

 思わぬ光景に頭が真っ白になる

 梓ちゃんが悩んでいたのは知っていた、けれど、どうしてこんな事になっているのだろうと訳も分からないまま、梓ちゃん達に駆け寄った

 

 

「み、みほさん…、私は…良いんです。」

 

 

 何かを言おうとする周りを制して、梓ちゃんは目元を拭い、じっと私を見詰めてくる

 

 今もなお涙を流しているとは思えない程、これまでに無い強さを持った視線を私に向ける梓ちゃんの姿はあの人の事を連想させる

 

 

「逸見さんを、探しているんですよね?」

「なっ、なんでその事を梓ちゃんが?」

 

 

 私のその言葉を聞くと、何故だか嬉しそうに梓ちゃんは笑う

 困惑した私の様子に気が付いたのか、梓ちゃんは泣き腫らした顔をろくに隠そうともせず、自分の後ろを指差した

 

 

「逸見さんはこの先に行きました。走って行けば直ぐ追い付くと思います。」

「梓ちゃんはっ。」

「私は、本当に大丈夫ですから。」

「っ…!ごめんね、ありがとう!」

 

 

 何が起きているかなんて分からない

 私達の事情なんて、知らないはずの梓ちゃんが私を急かす理由なんて思い付かない

 

 けれど、梓ちゃんの指差した方向へあの人が居るならば、私は行かなければならない

 

 

「…みほさん。」

 

 

 横を走り抜けようとした時に、梓ちゃんは静かに私の名前を呼ぶ

 

 

「私は、みほさんの元で戦車道をやれて楽しかったです。」

 

 

 思わず足を止める程の衝撃が、その言葉にはあった

 

 こちらを見ようとしないから、梓ちゃんの表情は分からない

 色んなものが込められたであろうその言葉で、私に何を伝えようとしているのか分からない

 

 でももう、梓ちゃんは歩き出してしまった

 足を止めたまま、掛ける言葉が見付からないままの私を置いて、梓ちゃんは皆と支え合いながら進んでいく

 

 その後ろ姿を見ているだけで、何故だか息が詰まるような苦しさと締め付けるような痛さに襲われた

 

 

 

 

 

 

 

 

『…ねえ、その逸見さんって言うの止めてくれない?』

 

 

 何の脈絡も無くあの人はそんなことを言い出した

 手元にあるアイスをつついていた私はあまりに唐突なその話に追い付けず、慌ててあの人へ目を向けたが、当の本人は適当な雑談の一部をするかのような態度で、こちらに見向きもしていなかった

 

 

『私は貴方の事、みほって呼んでるんだから、貴方もエリカって呼べば良いじゃない。』

 

 

 それは…、そうなのだけれども

 

 奥歯にものが挟まったような私の物言いに、あの人は短く嘆息して、別にどうでも良いけど、何て事をぼやく

 

 

『強制するようなものでもないし、貴方が…嫌って言うなら、このままでも良いわ。』

 

 

 嫌な訳じゃない

 嫌なんて事、ある訳がない

 

 私だって、名前で呼び合えるように成れればだなんて考える

 仲の良い友達のように、信頼し合える仲間のように、対等な関係のように、振る舞えたらとそう思う

 

 けれど…、私は、私に――

 

 

『――なんて顔してるのよ、馬鹿ね。』

 

 

 パチンッ、と小気味良い音を鳴らして、いつの間にか俯き気味になっていた私の額をあの人が叩いた

 痛っ、なんて、反射的に痛くもないのに口に出した私を悪戯っぽい笑顔を浮かべて眺めるあの人は、いつもと同じ

 

 ああ、まただ

 あの人のそんな行動で自分の心が安らいでいくのを感じながら、後悔に襲われる

 

 私はまた、この人に支えられる

 

 

『なんて事はない、私のただの気紛れよ。そんなことでくよくよ悩まれると、こっちが悪いことをした気分になるわ。』

 

 

 何時か、私はなれるだろうか

 

 …いいや必ず、なって見せる

 どれだけ大変でも、どれだけ険しい道程でも、必ず私はなって見せる

 

 だから――

 

 

『…でも、何時か呼んでくれれば…。』

 

 

 少しだけ、待っていて下さい

 いつの日か私は胸を張って、貴方の隣に立ちますから

 

 貴方を友達と自信を持って言えるように

 貴方をしっかりと支えられるように

 貴方と対等になれるように

 

 だから、だから、その時は――

 

 

 

 貴方の名前を呼ばせてください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「逸見さんっっ!!!」

 

 

 閑散とした通りの片隅で、私の声が木霊した

 梓ちゃんから指し示された方角に、ひたすら走り続け、漸く見付けたあの人の背中

 必死に、それこそ手を伸ばすかのような想いで吐き出した言葉は、望み通りあの人の元に届いて

 想像していたよりも、ずっとゆっくりとした歩調で歩いていたあの人は、私の声に動きを止めた

 

 

「――副隊長…、ああ、元、でしたね。」

 

 

 冷たい声で拒絶するように、彼女は何時かの日の言葉を、そのまま口にする

 

 振り返ることをしようともせず、顔だけを動かして横目で私を見る彼女の姿は、お姉ちゃんが言っていたようにやつれ切っていた

 

 

「…それで?これでも私は忙しい身の上だから、何もなければ――」

「逸見さん、私っ!」

 

 

 淡々と他人行儀な言葉を紡いでいた彼女の言葉を、それ以上聞きたくなくて、思わず遮るように声を発した

 

 けれど、そんな何も考えず口を開いても続く言葉なんて出てこなくて

 必死に思考を働かせて、何を伝えなければならないのか考えていたのに、いざ彼女を前したら何も考えられなくなってしまった

 

 

「――わ、私、逸見さんに言わなきゃいけない事があって、それで…。」

「……。」

「えっと、あの…、ごめんなさいって言いたくて…。」

 

 

 言葉がうまく纏まらない

 本当に伝えたい事を口に出せているのか分からない

 

 あまりの不甲斐なさに視界が滲んでくる

 何時もこうだ、どうしてもっと上手く出来ないのだろう

 もっと器用にこなせたら、きっとこんなに間違いばかりを犯さずに済んだのに、とそう思う

 

 私の様子をじっと見ていた彼女は深く溜め息を吐いた

 

 

「ああもう、とりあえず落ち着きなさい。息を整えて、頭を整理して、順番に言葉にしなさいよ。ちゃんと待ってるから。」

 

 

――ああ、この人は変わらないんだな

 

 彼女の優しさを肌で受けて、そう思った

 思ってしまった

 

 頑固で、不器用で、何時も不機嫌そう

 嫌なものは嫌だと言えて、人とぶつかり合うことも恐れない

 真面目で、ひたむきで、努力家で、それでいて、酷く優しくて

 そういう人なんだと、私は分かっていたじゃないか

 

 

「――逸見さん。」

 

 

 けれど、だから私は踏み出すと決めた

 

 

「私は、臆病者なんです。」

 

 

 そうだ、どうしようもない臆病者

 逃げて逃げて、逃げ続けた

 

 

「逸見さんとずっと友達になりたかった癖に、逸見さんは何度も私に手を差し伸べてくれたのに、その手を掴むことが出来なかった。」

「―――。」

 

 

 友達って、何なのだろう

 それは小さい頃から解決しなかった大きな疑問だった

 

 何処からが他人との境界で、何処からが友人と言える関係なのだろう

 そんなことばかりを考えていたら、自分の中で友達というものが酷く尊いものであると思うようになっていた

 

 もっと清くて

 もっと正しくて

 もっと気高くて

 もっと対等で

 

 きっとそんな素敵なものだと思っていた

 

 

「私は、逸見さんに助けられてばかりだったから。」

 

 

 友達になりたい人

 本気でこの人と、友達になりたいと思った

 

 不甲斐なくて、落ち着きもなくて、何も決断できない私の癖に、漫画の中から飛び出してきたような、どこまでも強い彼女の近くに居たいと思っていた

 不相応だと分かっていても、何時か隣に立てたらと願っていた

 

 

「ふと思っちゃったの。どうして私が逸見さんの近くにいるんだろうって。」

 

 

 同じクラスで近くの席、同じ部屋に住んでいる優しい彼女

 彼女に助けられるのは酷く心地好くて

 ふとしたことで彼女を頼って、事あるごとに彼女に甘えていた

 いつしか私が彼女に寄り掛かってしか居なかったのだと理解するのは、そう遅いことではなかった

 

 

「私は重荷なんじゃないかって、迷惑なんじゃないかって、勝手に不安になって卑屈になって、一人で悲しくなってた。」

 

 

 揺らぐことの無い彼女の背中

 私の手を引く彼女の温もりは暖かくて

 笑う彼女の姿は輝かしくて

 

 いつの間にか、彼女の姿が酷く遠いものに思えてしまった

 

 

「だから私は、戦車道だけは逸見さんの手を引いていたかったの。」

 

 

 あの雨の日の試合で失ってしまったのは、何だったのだろう

 きっとそれは、形の無い、触れる事のできない大切なもの

 今だって、あの試合に後悔なんて無いけれど、私は確かにそれを失った

 

 だからこそ、私は逃げ出したんだ

 

 

「私ね。本当は、あの試合が終わったあと逸見さんが私の元に来て、泣いていた私を抱き締めてくれた時、思ったんだ。」

 

 

 

 

「――ああ、ここには居られないって。」

 

 

 それは、唐突に生まれた残酷な考え

 

 私が居たら、きっとこの人は私を守ろうとし続けるんだと言う確信があった

 どれだけ自分が傷付こうとも、きっと構うことなく盾になろうとすると、理解していたから

 

 ここには居られないと思った

 彼女の傍に居てはいけないと思った

 

 きっと彼女は傷付くから

 きっと彼女は立ち上がるから

 きっと彼女は笑うから

 

 

「ふざけないでよっ…。」

 

 

 呻くように呟いた彼女は顔を伏せる

 

 小刻みに震える彼女の体は、内側で暴れまわる何かを必死に抑えているかのようで

 音が聞こえてきそうな程に噛み締めている歯は、今にも砕けてしまいそう

 

 でも、唐突に彼女はその震えを抑え込んで、俯いたまま口角を持ち上げた

 

 

「今更…、今更なのよ。そんなこと言ったって、私にそれがどう影響するって言うのよ…。」

「…うん。」

「嫌に慌ててると思ったら、どれだけ前の話をし始めるのよ。大方、まほさんやしほさんに何か吹き込まれたんだろうと思ってたけど。…その話下手さはそうじゃないみたいね。」

 

 

 私の考えていた事、悩んでいた事を、全て話しても、彼女はそんなことと言って一蹴する

 

 その通りだ

 私がしているのはただの過去の話で、これから先の事には何ら関わりの無いものでしかない

 そして、それは彼女に言われるまでもなく分かっていた事

 

 

「逸見さん…。」

 

 

 お母さんやお姉ちゃんと話してから、必死に言うべき事を考えた

 何を伝えなければならないか、伝えた上でどういうこれからを求めるのか、精一杯考えた

 

 何を言えば最良なのかなんて、どれだけ考えても出てこなかったけれど、どうしても伝えたいことはあった

 

 それは、考えるまでもないような事だった

 何年も前から言いたかったこと

 何時か言いたいと思っていて、私の弱さで、ずっとずっと言えなかったこと

 

 

 

 

 

「…私と友達になってください。」

 

 

 漸く口に出来たその言葉は想像していたよりもずっと簡単に、口から溢れた

 

 私の言葉を聞いて、くしゃりと、彼女は表情を歪める

 それは、怒っているようで、苦しんでいるようで

 

 

――今にも泣き出してしまいそうに見えた

 

 

 

「何を、言っているの。」

 

 

 溢れた言葉は解れて溶けた

 

 

「止めてよ…。ねえ、お願いだから…。」

 

 

 彼女は苦しそうに胸元を握り締める

 

 

「今更でしょう…?全部終わらせて、これでいいんだと納得して、綺麗に纏まったじゃない。」

 

 

 暗い

 ドロリとした底無し沼のような何かが溢れ出す

 

 

「私が、進んできた道程は、絶対に間違ってなんか無いっ…。」

 

 

 それはまるで悲鳴のよう

 吹き出し始めた彼女の感情は酷く攻撃的で、どこまでも悲しかった

 

 

「私達はもう終わりなのよっ…、これで終わり、それで良いでしょう!?貴方は新しい御友達と幸せに過ごせば良いじゃない!」

「私もこれからは過去に縛られないっ、あの時から動かなかった私の時間は今、漸く動き出したのよ!」

「縛らないでよ…、邪魔しないでよっ、夢なんて見させないでよっ!!」

 

 

 煌々と輝く双眸

 叩き付けられるような怒気

 血の気が引くほどに堆積された澱のような憎悪

 

 それらは紛れもない、私に向けた彼女の感情が形作ったものであり、私が取るべき責任の全てだった

 

 

 恐ろしい

 体が震えが抑えられない

 

 逃げ出したい

 何時かのように無責任に

 

 泣いて許しを乞いてしまいたい

 優しい彼女は、きっと許してくれるから

 

 でも――

 それらは絶対やりたくなかった

 

 

 

 

 

 

『ねえ、みほ、私ね。』

 

 

 それは、初めて聞いた彼女の弱音

 

 消灯時間が過ぎて少しして、彼女はポツポツと呟き始めた

 その時、彼女は私が起きているなんて、きっと思っていなかったのだろう

 普段からは想像も出来ない程、弱々しい声色は嫌に耳に残った

 

 

『本当は辛かったの。戦車道に憧れて、がむしゃらに努力してきたのに、まるで結果なんて出てくれなくて。理解してくれる友人も出来なくて。環境のせいにして、立場のせいにして、才能のせいにして。』

 

 

 不屈とばかり思っていた彼女のそんな話に、声も出ないほど衝撃を受けた

 だって私は彼女が諦めたところなんて、努力を止めたところなんて、少しだって見たことが無かったから

 

 

『本当は辞めようって思ってたの、本当よ?戦車道は自分に合わなかったんだって、昔に見た、戦車に乗る誰かも分からない姉妹の後ろ姿を追うのはもう止めようと思っていたの。』

 

 

 でも、と言って彼女は少しだけ間を置く

 

 

『そんな時に、貴方が現れた。』

 

 

 柔らかく呟かれた言葉は、じんわりと胸に染み込んで熱を持つ

 

 心底嬉しそうに話をする彼女に、無性に泣きたくなって

 けれど、返事をする勇気なんて湧いてこないまま、ただ耳を傾けた

 

 

『貴方という理解者が出来た。我儘な私に付き合ってくれる人が出来た。…それで私がどれだけ救われたか、きっと貴方は知らないと思うけど、確かに、貴方のおかげで私の今があるの。』

 

 

 

『――ありがとう、みほ。』

 

 

 

 

 

 

 

 

――気が付けば、一歩踏み込んでいた

 

 

 私の行動に、彼女は目を見開いた

 初めて向けられる彼女の怒りに、きっと怯えてろくに動けなくなるとでも思っていたのだろう

 

 本当は、今だって恐い

 一歩踏み込んだだけでも、桁外れに強まる圧力に尻込みしそうになる

 

 でも、私の感情に体は耳を傾けてくれなくて、もう一歩踏み込んだ私の姿は、きっと端から見たら滑稽なのかもしれない

 

 

「っ…、勝手に居なくなったのは貴方でしょう、それを私は納得した!それの何が気に入らないのよ!」

 

 

 そう、私が勝手に彼女の前から居なくなった

 私が選んだ事で、彼女と私の終わりだった

 

 言い訳のしようもない、後で何度でも謝ろう

 彼女が許してくれるまで、いいや、許してもらえなくても、謝り続けよう

 

 だから、その事は今気にする必要はない

 ここで引くのはあの時の繰り返しでしかないから

 

 

「私はもう戦車道なんかやらないっ、もう嫌なのよあんなものっ!私の事なんて無かったことにしなさいよ、大洗に居た2年間のようにっ!」

 

 

 2年間、私は彼女を忘れることなんて出来やしなかった

 

 大洗で出来た優しい友人達に囲まれて、皆と一緒に戦車道を頑張ってきて、そんな中でも頭の隅には彼女の姿があって

 いいや、そんな中にあったからこそ、彼女との関係がどうしてこうならなかったのだろうと、明瞭に映し出された

 

 

 寂しかった

 悲しかったし、彼女との関係を終わらせた自分自身を恨みもした

 けれど私が居ない方が、きっと黒森峰は良い方向へ進むと信じていたし、彼女がより良い生活を送れるだろうことに疑いなんて無かった

 

 きっと何でも出来る彼女なら

 きっと優しい彼女なら

 きっと諦めない彼女なら

 きっと強い彼女なら

 

 そうして私の期待通りに

 私の前に立ち塞がった彼女は

 私の目の前に居る彼女は

 

 

――傷だらけで、独り震えていた

 

 

 

「私を見ないでっ、そんな目で私を見ないでよっ…。貴方には、貴方だけには―――。」

 

 

 目と鼻の先

 手を伸ばせば届く距離

 長い長い、時間を掛けて、漸くここまで辿り着いた

 

 彼女が振り撒いていた感情の嵐は、いつの間にか霧散していて

 その代わり、何時かの夜に聞いた弱々しい声色が私の耳に届く

 

 近付いて、触れ合える距離まで詰めて、そうして見た彼女の姿は酷く痛々しい

 お気に入りだった銀色の髪は、もう見る影もない

 健康的で決め細やかな肌は、青白く痩せ細り枯れ木のよう

 

 そして――

 

 

 俯く彼女の両手を、私の両手で包み込む

 前に触れた時の、あの安心してしまうような暖かい体温は今は無く

 

 

――酷く冷たく凍えていた

 

 

 

「私ね、エリカさん。」

 

 

 声が震えてない自信はない

 それでも、目を見開いて凍り付いた彼女を、私はしっかりと見詰める

 

 

「大洗の皆と戦車道をやって来て、私だけの、私の戦車道を見付けられたよ。」

 

 

 誰かと一緒に歩む戦車道

 それは、私の中で変わることはない、強固で動くことの無い大きな芯

 大洗に行くことがなければ、永遠に得られなかったかも知れないような、偶然に偶然が重なって漸く見付けられた私だけの柱

 

 でもそれは、きっと大洗に行っただけじゃ得られなかったもの

 強い彼女の背中に憧れていなければ届かなかった奇跡のような宝物

 

 なにより――

 

 

『みほ。』

 

 

 近くに居なくても、彼女はそうやって私の背中を押してくれていたから

 

 

「それは、エリカさんが見せてくれたから、見付けられたんだよ?」

 

 

 気が付けば私は笑顔になっていた

 

 彼女との日々があったから、今がある

 何時か彼女に言われたあの言葉を、本当に言うべきなのは私なのだ

 

 両手に力を込める

 酷く冷たい彼女の体温を、少しでも暖められるように

 私が少しでも、彼女を安心させられるように

 

 

「私ね、エリカさんに救われたんだ。ずっとずっと救われてきた。」

 

 

 目の前の彼女が息を飲む

 

 何時かの焼き増しで、何より大切なあの時に、言えなかったこの言葉

 

 

「――ありがとう、エリカさん。」

 

 

 大粒の滴が彼女の頬を伝い落ちる

 

 彼女の泣き顔を見るのは、思えば初めてだった

 

 

「っ…。なんでよっ…、なんで…。」

 

 

 弱々しい力で、彼女は私を押し返してくる

 

 

「なんで、もっと早く言ってくれないのよっ…。なんでもっと早く私の名前を呼んでくれないのよっ。なんで…。」

 

 

 それはまるで、独り迷ってしまった子供のような小さな姿

 地団駄を踏むように、投げ付けられる言葉の数々は今まで1度だって、彼女に向けられたことはなかった

 

 

「貴方なんて…嫌いなのよ…。」

「…うん。」

 

 

 頬を伝って落ちる滴は、止まることなど知らないように、ポツポツと地面を濡らす

 

 

「貴方の勝手な優しさも弱さも、強さも頑固さも、嫌い…。」

 

 

 きっと彼女から見て、私はあまりに足りないものが多かった

 

 落ち着きが無くて、他人の顔を伺って、意気地もなくて、泣き虫で、優柔不断で、それでいて妙なところで頑固

 勝手に自分だけで完結して、彼女を置いていった私は何れだけ彼女の迷惑になったのだろう

 

 

「私は…、貴方が…。」

 

 

 だから、私は彼女に色んな部分で嫌われていて当然で

 彼女と別れたあの屋上で、決定的になった筈の私達の関係

 

 

「…それでも、私は貴方のことが、どうしても嫌いになれなかった。」

 

 

 けれど、続けられた彼女のその告白は、私が想像だにしていなかった言葉だった

 

 泣き顔を少しも隠さないまま、彼女は

自嘲するようにくしゃくしゃな顔で笑った

 

 

「…嘘よ、嘘、馬鹿みたい。貴方の事なんて嫌いになれるわけ無いじゃない。」

 

 

 なんで、なんて言葉は喉の奥から出てこない

 だって、そんな言葉は用意していなかった

 

 もっと私は彼女に責められるべきで、もっと彼女は怒りに身を任せるべきで、

だから、徹底的に感情をぶつけられる事を私は覚悟していたのに

 

 

「…私にとって貴方は、ずっと前から友達だったのよ。貴方がそんな風に考えているなんて、想像したこともなかった…。」

 

 

 それは――なんて、思い違いだろう

 

 

 勝手に壁を作っていたのは私だけで、私だけが悲観的に彼女を見ていた

 

 

「…白状する、私にとって貴方との日々は何よりも楽しい日常だった。」

 

 

 泣き腫らした目元を軽く拭って、彼女は瞼を閉ざした

 思い出すように、掬い出すように、大切なものを取り出すように、彼女は微笑みを浮かべる

 

 

「貴方との黒森峰での1年間は、閃光のように眩しくて、当然のように幸せで、まるでうたかたの夢のようで…。」

 

 

 過分なまでのそんな話

 

 それでも、私との日々が私が思っていたようなものではないと言われて

 不安に思っていたものを、そんなこと無いよって言ってもらえて

 私は盲目的に嬉しさを感じてしまっていた

 

 だから私は、それが残酷なまでに私の責任を示していることに、欠片も気が付かない

 

 

「…だからこそ私はっ、貴方と友達に、なりたくないっ…。」

 

 

 その言葉は、高揚していた私の体温を一気に冷やした

 全身の血を抜かれたと錯覚するほどの寒気に襲われる

 いつの間にか、彼女は微笑みを消していて、苦悶するかのように表情を歪ませ歯を食い縛っている

 

 重ねていた手が振り払われた

 あまりの強い力に体がよろめく

 辛うじて尻もちを着くことを逃れたが、それに安心する余裕なんて今の私には無くて

 掻き抱くように震える自分の体を抱き締めた彼女は、まるで凍えているようにも見えた

 

 

「私にとって、次なんて無いっ…。」

 

 

 それは、なんてことはない普通のこと、当然のことだった

 

 

「もう一度、作って行こうと思えるほど…私は強くなんて無いっ…。」

 

 

 どれだけ彼女が優しくても

 どれだけ彼女が完璧でも

 まるで空想から出てきたヒーローの様でも

 彼女は私が思っていたような、不屈のヒーローでもなければ、全てを許す聖人なんかでもない

 

 

「――痛いのよっ…、苦しいのっ…、後悔ばかりが私を押し潰すのよっ!」

「自分勝手な怒りばかり膨れ上がってっ!先行きの見えない不安ばかりが私を食い潰してっ!頭に浮かぶのは強烈な自己嫌悪ばかりっ!」

「もう…嫌よ。あんなに苦しいのは、…もう嫌…。」

 

 

 目の前で、私と変わらない背丈の少女が泣いていた

 その人は私にとって見知った人の筈なのに、その人のその姿は、まるで見覚えがなかった

 

 だから、私は届かない

 

 

「私は…、傷付くのが怖い…。何も恐れないで立ち上がり続ける事なんて…出来ない。」

 

 

「私は貴方のヒーローにはなれない。

 私は貴方の憧れにはなれない。

 もう私は、貴方の友達に…なれない。」

 

 

 

 

 

 ああ、本当は分かっていた筈じゃないか

 

 普通に苦しんで

 普通に泣いて

 普通に傷付いて

 普通に笑う

 私と同じ、感情を持った人間でしかないのだと、本当は私は分かっていた筈じゃないか

 

 

 勝手に期待したのは私だ

 勝手に壁を作ったのも私だ

 勝手に全てを終わらせたのも、私だった

 

 全部、私のせいだった

 

 

「…さようなら、みほ。」

 

 

 もう、何も届かない

 

 

「安心して…これは私が決めたこと、私だけの道だから。」

 

 

 伝えるべき言葉は、全て伝えた

 私の全てと、私達の全部

 

 分り合えた事もあった、届いたものもあっただろう

 それでも彼女が進むのは、私達が積み重ねたものの集大成

 

 止めるだけの言葉も、力も、権利も、勇気も、私には無かった

 

 

「…最後に名前を呼んでくれて、ありがとう。私、嬉しかったわ、…本当に嬉しかった。」

 

 

 体に力が入らない

 彼女の言葉に、反応することが出来ない

 俯いた視界では、彼女の表情なんて伺うことも出来なくて、コンクリートと彼女の爪先がほんの少し見えるだけ

 

 そして、辛うじて見えていた彼女の足も、向きを変えて私から離れていく

 

 

「…貴方のこれから紡いでいく戦車道、応援してるから、…貴方達が活躍することを、祈ってる。」

 

 

 それだけ言って、徐々に消えていく彼女の足音

 視界では、もう彼女の影を捉えることすら出来ない

 

 走馬灯のように頭の中を流れる景色は、いつも思い出していた美しい記憶とは掛け離れた、モノクロの景色

 

 

「エ、エリカさん…。」

『どうしたのよ、みほ。』

 

 

 モノクロの景色の中で、彼女は何時ものように、私のうわ言のような呼び掛けに応えた

 

 長い間言えなかった、彼女の名前

 一歩踏み出してしまえばなんてことはない、とても簡単な事だった

 けれど、そんな簡単な事で、景色の中の彼女は酷く嬉しそうに笑っていた

 

 

「私ね、エリカさん。わた…し、ひどいこと…した。」

『みほ?ちょっと、大丈夫?』

「わたし、エリカさんが、大好きだもん…。」

『―――。』

 

 

 モノクロの景色が動きを止める

 私のこの言葉を彼女にぶつけたことは、思えば無かった

 いいや、もしかすると自分でも分かっていなかった事かもしれない

 

 だから、その言葉を受け取った彼女の反応が想像出来ない

 

 

「…だいすき、なの。おいしいものを、食べに行って、お互いの、好きなものを語り合って…、笑いあって、いたいよ…。」

 

 

 友達って、なんだろう

 それは、小さな頃から解決していなかった筈の、そんなこと

 

 けれど、本当は答えなんて、とっくの昔に出ていた

 

 

 

 一緒に美味しいものを食べよう

 一緒に好きな事について語り明かそう

 一緒に色んな経験をして、最後に笑い合えたら最高だろう

 

 きっと、友達なんてそんなものなんだろう

 

 

「えりか…さん…、いかないでっ…。」

 

 

 ふらふらと、ようやく前に伸ばせた腕を目で追うように、酷くゆっくり顔を上げて

 

 

 そこには、いつもと同じように待っててくれる、不機嫌そうな彼女の姿が―――

 

 

 

 

―――もう、何処にも居なかった

 

 

 

 

 

 

 

「ぁ…、ぁぁ…ぁぁあっ。」

 

 

 ひどく静かな空間は、彼女の残火も感じさせない

 ここにはもう、私しか居なかった

 

 

「えりかさんっ、いやだっ…、やだよぉ!ごめんなさい…、ごめんなさいっ、いかないでっ!」

 

 

 悲鳴のような私の叫びに、応えるものは何処にもない

 彼女はもう、私の手を引くこともない

 

 

「ひとりでいかないでっ、わたしをひとりにしないでっ、いなくならないでっ!」

 

 

 やけに強い風が私に吹き付ける

 風で乱れた髪が、濡れた頬に張り付き視界を遮る

 

 ふらふらと、居なくなってしまった彼女を探す為に足を動かしたが、数歩進まぬ内に、足をとられて転倒した

 

 

「ぅぅ…、ぅぁあっ。」

 

 

 両手を使い、起き上がろうとしてもろくに力が入らず、何度も何度も転んでしまう

 

 

 どうして、起き上がるのがこんなに難しいのだろう

 どうして、前に進むのがこんなに難しいのだろう

 どうして、一緒に歩くのがこんなに難しいのだろう

 

 今までは、考えることも無かったそんな疑問が次々、浮かんでは消えていく

 

 

「めいわくかけないように頑張るから…、私がえりかさんの手をひくから…、私が…。」

 

 

 どうすれば良いのだろう

 

 だって、それらは彼女と一緒に居たときも、そうしようと努力していたものだったじゃないか

 だから、それらを努力しても以前と何も変わらなくて

 

 

 ほら、また振り出しに戻ってしまった

 

 

 

 

「――うあぁ、うああぁぁぁぁっっ!!」

 

 

 

 

 見て見ぬふりをしてきた代償は、想像も出来ない程、あまりに大きく

 

 

 

 

 私は今度こそ、大切なものを失った

 

 

 

 

 



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