アイビス×マサキ(スパロボOG) (マナティ)
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序章:星への翼、戦場に

    Ⅰ

 

 一日の始まりに、乗機を常時出撃可能な状態に整えておくことが艦載機パイロットの義務だった。この艦ではまだ客員の立場にあるアイビスも例外ではない。

 

 スロットルをアイドリング状態にしたまま、アイビスは右手の操縦桿を前に倒した。回路が正常なら、背部スラスターのノズルが下向きに変形しているはずである。外に居る整備士が「OK」の手信号を送って来た。同じ調子で後ろ、左右の方向も確かめる。そして基本位置に戻す。航空システムは万全のようだった。

 

 つぎに低速時の挙動を確かめなくてはならなかった。いま彼女が乗るアステリオンを含めたDC開発のアーマード・モジュールは、そのほとんどが空中戦を想定しているため、その操縦方法は戦闘機にも近い。しかしそれでは地上戦や近接兵器を用いた接近戦などに対応できないため、戦闘中では状況に応じて操縦モードを変更する必要がある。

 

 アイビスはそのスイッチを押した。カチッカチッと硬質な音がことさら耳にうるさく聞こえて、プログラムが陸戦仕様に切り替わる。

 

 アイビスが右手のレバーを動かすと、先ほどと全く同じ操作なのに機体の方は全く異なる動作を取る。拙速から巧遅へ。心無しか機体全体が鈍重になり、操縦桿も重みを増したような気さえする。アイビスはそのままチェックを続けていくも、その表情の薄皮一枚下にはどこか不満の色が忍んでいた。

 

 動作確認を一通り終えてハッチを開けると、狭いコクピットとはうってかわって百平方メートル以上はありそうな広大な空間がアイビスを出迎えた。

 

 朝の格納庫は常に動き続ける。この艦に搭乗するパイロットたちは皆アイビスと同じく機体の調整にいそしみ、五十名を越える機械整備士たちがそれをサポートしていた。飛び交う指示、モーターの駆動音、排出される熱と風、金属と金属がこすれ合い、ぶつかり合う。人と機械のあらゆる営みがない交ぜになった残響が、広々としたフロアを重く満たしていた。

 

 そんな格納庫の壁に、神像のように立ち並ぶ巨人たちの姿がある。ハガネ・ヒリュウ改が擁する人型機動兵器は三十体以上にもなり、個々にばらつきはあるものの、その全長はおしなべて15メートルを越える。人類の英知が凝縮されたその巨人たちを、アイビスは胸の内を小さく震わせながら見渡した。

 

 しかしそんなアイビスの視界の端で、貨物を乗せた資材用トラクターが野ネズミのように格納庫を横切った。トラクターに詰まれているのは、巨大な杭だった。恐竜の心臓すら打ち抜いてしまいそうなそれは、あまりに剣呑な輝きをひそめながら、格納庫の一角にそびえ立つ真紅の巨人の下まで運ばれていった。さらにそのすぐ横では、こちらは雪のように真っ白な巨人が立っており、槍を思わせる長大なライフルの弾倉に、ドラム缶ほどの大きさをした弾薬が詰め込まれている。その凶悪な弾頭は、人間相手なら一ダースほどまとめて粉砕できるにちがいなかった。

 

「そうだ、ここ軍艦なんだ」

 

 今更のようにアイビスは思い出した。胸の震えも去っていた。

 

 アイビスが地面に下りると、ツナギ姿の少年がアステリオンの足首のところに取り付いて、点検作業を行っていた。リョウト・ヒカワという名の少年で、パイロットと整備士を兼任する希有な人材である。アイビスが現在なんとか顔と名を一致させることのできる一人でもある。

 

 アイビスが近づくと、リョウトは作業の手を止めて、柔らかい笑みを浮かべながら手を振った。アイビスもちらりと後を振り返ってから、小さく手を振り替えした。自分に対してかどうかを確かめたのだ。

 

「お疲れさまです、アイビスさん。チェック無事完了しました。初めて見る機体ですけど、整備長からも太鼓判ですよ」

 

「ありがとうございます。パイロットの他に整備もやるなんて、すごいですね」

 

「いえ、もともと機械いじりが好きでこっちが第一志望だったんです。パイロットもメカニックも、今はどっちも人手が足りないから、こうなってて」

 

 リョウトは頬を掻いた。すくなくともアイビスから見ても、この大人しそうな少年にはパイロットスーツより作業服の方が似合っているように思えた。

 

「そういえばアイビスさん、もう正式に編入されたんですか? モニレポでは何も言われなかったけど」

 

「いえ、もともとあたしたちテスラ研所属で、補充兵として来たわけじゃないんです」

 

「そうだったんですか? 残念だな。新しいパイロットが入ってくれたって皆から聞いてたものだから、てっきり……」

 

「失礼よ、リョウト君」

 

 横手から突然伸びた、たおやかな指先に耳を引っ張られ、リョウトは素っ頓狂な悲鳴を挙げた。いつのまにか音も立てずに忍び寄っていた中国系の女性の仕業だったが、驚くほど慣れた手つきだ。

 

「アイビス・ダグラス……さんでしたよね?」

 

 呆気にとられるアイビスに、リオ・メイロンはにこりと笑いかけた。管楽器で奏でられたような声だった。

 

「ツグミさんから、チェックを済ませたら休憩するようにって言伝を預かってます」

 

「チーフが?」

 

 アイビスは咄嗟にツグミの姿を探した。

 

「彼女なら仕事を終えて、見学に行きましたよ」

 

「見学、ですか?」

 

「そ、他の機体の。まっさきに向こうの方に行ったけれど」

 

 リオが視線で示した先には、一体の純白色をした機動兵器が静かに屹立している。アイビスにも見覚えのある機体だった。

 

 

 

 それは全長三十メートルにも届く銀巨人だった。機動兵器としも一際大きい。人体を模した力強い五体、白とも銀の中間色をした鋭く重々しい鎧装甲。背後からは三層一対の翼が伸び、そのつま先は鳥のような三本爪が生えていて、しっかと床を捕まえている。人と鳥が合わさったような独特のフォルムだった。

 

 アステリオンを始めとして格納庫内の全ての機体は、現在パイロットや整備士たちの手でメンテナンスを受けている最中のはずだが、どういうわけかこの機体の周辺にはまるで人影が見当たらない。辺りに満ちているはずの騒音のすべてが遠くなり、ぽっかりと空いた真空地帯の中心で、サイバスターと呼ばれるその機動兵器は、白銀の装甲をより一層に冷え渡らせていた。 

 

 サイバスターの足下で、ツグミ・タカクラはすぐに見つかった。彼女の、首の後ろで括られた先から波打つように広がる栗色の髪は、格納庫のような野暮ったい場所ではよく目立った。肩のところで雑に切りそろえただけの自分の赤毛に、アイビスはなんとはなしに指を絡ませる。

 

 ツグミは握った手を顎先にあてながら、なにやら考え込んでいるようだった。彼女がそうしていると、五体の輪郭が凛と際立だって見えた。

 

「およそ現代までの機動兵器体系を端から端まで無視した外観ね。ヴァルシオンと何となく近いけど、でも……」

 

「タカクラチーフ?」

 

「噂には聞いていたけど、あのMAPW。ビアン博士がただ一人再現に成功したと言うけど、データは抹消されてるし、そもそも本当に同一のものかも……」

 

「チーフ」

 

「ううん、それよりも問題は、こんな航空力学を無視した構造で、あれだけの速度と航続可能時間を両立させるエンジンよ。もしそれがプロジェクトに使えれば……」

 

「チーフ!」

 

「あらアイビス。いつからいたの?」

 

「いま来たところです。アステリオンの点検、終了しました。いつでも発進可能な状態です」

 

「そう、ご苦労様、休んでて良いわよ。そういえば、ねえ、あなたマサキ君を見なかった?」

 

「マサキ? マサキ・アンドーのことですか? いえ、見てませんけど」

 

「そう。ちょっとお話ししたかったんだけど」

 

 ツグミはそう言うが、どこか挑戦的な光がその眼差しに奥にちらつくのを見れば、「ちょっと」で済むかは些か怪しい。

 

「この時間は皆、格納庫に集まるって聞いたのだけれど」

 

「サイバスターの中では?」

 

「いないみたい」

 

「探しに行きましょうか」

 

「いいわ。言ったでしょ。先に戻って休みなさいな……いえ、そうだわ。ランチを食べましょう。私もちょうどお腹が減ってきたし、アイビスもそうでしょ?」

 

「あ、あたしですか?」

 

 アイビスが返事をする前にツグミはさっさと食堂へと歩き始め、アイビスは慌ててその後を付いていった。

 

 

    Ⅱ

 

 

 食堂に入ると、すでに何人かがカウンターに並んでいた。

 

「おや、SRXチームの皆さん。今日は早いですね」

 

「まぁな。ひょっとして一番乗りかい?」

 

「いえ二番手ですね。ついさっきいつもの彼がさっさと一人で平らげて帰りましたよ」

 

「あれは数に入れなくていい。まったく困ったものだ」

 

 そんな言葉を交わしながら、隊長らしき女性が司廚員の娘から昼食の乗ったプレートを受け取ったので、見様見真似でアイビスたちも同じようにした。

 

「すごい量。食べきれるかしら」

 

 山盛りの肉を前にに、ツグミが呟いた。

 

「とにかく食べられるだけ食べておいた方がいいですよ。いつ最後の食事になるか分かりませんからね」

 

 司廚員の娘はにこやかに言った。アイビスもツグミも、愛想笑いを浮かべるのに一拍の間を要した。

 

 二人がテーブルに対面同士で座ると、アイビスの視線は何かに追われているように、あちらこちらを彷徨い始めた。その内にふとツグミの視線と合わさると、すとんとテーブルに落ちる。

 

 気まずい。そう思うしかないアイビスだった。

 

 二人が一緒に昼食をとるのはこれが初めてとなる。プロジェクトTDにおけるパイロット候補生とシステム・エンジニアとして、アイビスとツグミはこれまで決して仲睦まじかったとは言えない。と、言うよりもアイビスの方ははっきりとツグミを苦手に思っていた。

 

 プロジェクトにおけるアイビスのスケジュールは、大半が試験飛行に費やされていたが、その後には必ず関係部署を交えたデブリーフィングが行われた。

 

 そこで各方面……たとえばシステム開発班チーフであるツグミなどからアイビスのフライトについて評価を下されるのだが、その度に胃の辺りがちくちくと痛んだのをアイビスは覚えている。

 

「総じてプロジェクトの要求水準を下回る」

 

 結果の分析と考察の末、ツグミの報告は常にそう締めくくられていた。そういう時も、アイビスはツグミとろくに目があった覚えがない。

 

「アステリオンの調子はどうかしら?」

 

 ツグミがそう尋ねたのは、アイビスがその答えにあたるものを先に話題に挙げようとした矢先のことだった。なにせ他に話題が見つからない。

 

「あ、はい。修理箇所も問題ありませんでした。あとは実際に飛んでみないと」

 

「そう。ひとまず問題無しね」

 

 ツグミの声にはほんのりと苦みが込められていた。その正体を察することは、アイビスにとって鏡を見れば済むことである。

 

「大丈夫です、チーフ。アステリオンなら、敵の弾もそうそう当たりません。プロジェクトのためにも、テスラ研まで無事に持ち帰ってみせます」

 

 アイビスの気配りは実のところほんの少しずれていたが、ツグミはそれを訂正しなかった。

 

「ええ、それもそうね」

 

 ツグミは笑ってみせ、その表情にアイビスはまた目を白黒させた。ツグミの笑うところを、アイビスは初めて見た。

 

 

 それからしばらく無言が続いた。皿と食器が触れ合う無機質な音だけが響く。

 

 アイビスとツグミはいま、覚悟を迫られていた。彼女らが現在搭乗しているのは紛れも無い軍艦であるが、リョウトたちと違い、二人は兵士ではない。

 

 テスラ=ライヒ研究機関にて立ち上がった、アーマード・モジュールによる宇宙開発プロジェクト、通称プロジェクトTD。ツグミはそのシステム・エンジニアであり、アイビスは実際にAMに乗り込む宇宙飛行士候補生だった。テスラ研自体、ときおり癒着と騒がれるほど軍とは強い繋がりを持つが、それでも二人はあくまで民間組織の一員なのである。

 

 そしてアステリオンはプロジェクトTDの一環として製作された試作機であり、戦争に参加するどころか火器を搭載すること自体、本来求められていない。そのアステリオンが、こうして軍艦の中で整備を受けていることは、アイビスとツグミが共通して抱えるジレンマだった。

 

 二人が作戦行動中の軍艦に搭乗している理由は、プロジェクトが進められていたテスラ研所属の基地が、異星人たちによって占拠されたことによる。脱出に成功したのはアイビスとツグミ、そしてアステリオンのみであり、そんな彼女らを保護したのがハガネ隊なのだが、そうそう長く客員の立場でいられるとはアイビスもツグミも思ってはいなかった。こうしてアステリオンを整備するための人材と資材が提供されること自体、既に通告となっている。今はそういう時代であり、此処はそういう場所だった。

 

 戦わなくてはならない、と二人は理解していた。

 

 しかし戦いたい、とは二人とも思っていなかった。

 

「アイビス・ダグラス! いたらここまで来い!」

 

 怒声と言ってよいほどの声が食堂中に響き渡った。

 

 辺りが一瞬静まり返るほど威勢のいい声だったが、声質自体は明らかに女のものだ。アイビスが声の先を確かめると、豹を思わせるしなやかな体つきの女性が食堂の出入り口前に仁王立ちしていた。

 

「アイビス、いないのか! しょうがねぇ、ラッセル。お前ひとっ走り探しに行ってこい」

 

「はい中尉」

 

 彼女に随伴していた、こちらは絵本の中の熊のように大きく朴訥とした男性が、勢い良く走り出そうとする。

 

「あ、あの」

 

「一分以内に連れてこい」

 

「はい中尉」

 

「あの!」

 

 目の前まで駆け寄ってようやく、二人はアイビスの存在に気付いた。

 

「あ、あたしがアイビス・ダグラスです」

 

「ん? そうか。あたしはカチーナ・タラスク。階級は中尉。早速で悪いが、あんたに試験を受けてもらう」

 

「試験、ですか?」

 

 いやな言葉だった。

 

「そうだ。あんたらの身の上は艦長たちから聞いている。だがここは軍艦で、いまは戦争中で、人手と戦力はいくらあっても足らない。そんであんたは兵士じゃないとはいえパイロット。持って来た機体にゃ立派に武器までついている。そういうわけで、あんたらにとっては不本意だろうが有事の際には出撃を要請、というより命令することもあるかもしれないわけだ。今後な」

 

 言いながら、カチーナが時おり視線を横にずらしていることにアイビスは気付いた。ツグミがいる方向だ。彼女が今どんな顔をしているのか、アイビスには想像するに余りあった。

 

「ま、そういうわけで、その有事の際までにあたしらはお前の腕前を把握しておく必要がある。そのために試験を受けてもらう。その結果によって、あんたのこの艦での扱いは当然変わるだろうが、手抜きを見逃すつもりはないぜ?」

 

 カチーナの左右で色の違うオッドアイに力が籠った。抜き身の刀のような眼光に心が泡立つのを感じながらも、アイビスは背筋を伸ばした。

 

「了解しました。全力を尽くします」

 

 もとよりアイビスはそのつもりだった。パイロットとシステム・エンジニアの違いか、彼女はツグミほど現状に対して消極的ではない。アイビスたちの夢が、戦争終結なくして実現しないのは明らかであり、そして自分の手には確かにその一助となる武器と技術が握られていることもアイビスは理解していた。

 

「よく言った。ところでお前、飯は?」

 

「食べ終わっています」

 

「おっし。それじゃぁ軽くシミュレーターで、この艦の何人かと手合わせしてもらおうと思うんだが……」

 

 カチーナ中尉が辺りを見渡し始めると、アイビスの胸の内で不安の影がいとも容易く羽を広げた。この艦に搭乗しているパイロットは、ほとんどがDC戦争からL5戦役までを最前線で駆け抜けたエース級の集まりである。アイビスが直に知る中で、もっと優れた才覚を持ったパイロットは、プロジェクトTDのパイロット候補生の中でもナンバー・ワンと呼ばれていたスレイ・プレスティであるが、そんな彼女と同等の実力を持ったパイロットたちがひしめき合うのが、このハガネ隊と呼ばれる部隊なのである。 

 

「あたしとラッセルで地上戦、レオナで空中戦を量って、あとはイルムと対特機戦ってところかな。今日のところは、この四人とやってもらう」

 

 そう告げられて、アイビスの胸にかすかな安堵の微風がそよいだ。いま名前の挙がった四人を侮ったわけではない。なのにほっとするのは、彼女自身が気づかぬ内に最も恐れていた名前がそこに含まれていなかったからだろう。

 

 カチーナがまた大声を挙げて、今言ったメンバーを呼び寄せる。その間を縫ってアイビスがツグミの方を恐る恐る振り向くと、ツグミの表情は懸念より随分とかけ離れた形をしていた。

 

 八の字の眉に、垂れ下がった目尻。

 

 ツグミは「心配そうな顔」をしていた。アイビスがハガネ隊と腕前を競うことになって不安を覚えるのは、これまでの彼女を知る者なら当然だった。しかし、それでもアイビスはどこか腑に落ちないものを感じた。あれではまるで、「あの」タカクラチーフが、自分を……

 

「うっし、それじゃシミュレーターの方まで来てくれ」

 

 カチーナの声が、アイビスを思考の沼から引き上げた。いつの間にか、さきほどカチーナが読み上げたメンバーが周囲に集っている。

 

「シミュレーター・ルームは格納庫の隣にあります。案内しますよ」

 

 と、ラッセル。

 

「お手並み拝見するわ」

 

 と、レオナ・ガーシュタイン。鮮やかな金髪をしたドイツ人で、この中では彼女とだけアイビスは事前に顔を合わせている。

 

「初めまして、ミス・アイビス。イルムガルト・カザハラだ。よろしく頼む」

 

 と、イルム。長身長髪のいかにもな伊達男で、片目を瞑る仕草がよく似合っている。ちょうど若手とベテランの中間に位置する年齢だった。

 

 そしてカチーナを加えた四名。それぞれに相応に自信と自負の光を瞳の中に秘め、新兵のアイビスを興味深げに観察していた。臆するもんか、と、アイビスは真正面から彼らの視線を受け止めた。

 

 

 四人の後ろにくっ付いて、シミュレーター・ルームとプレートに書かれた部屋に入る直前、アイビスは不意に自分の手の平を眺めた。ふと思い起こされた感触が、そこにあった。それを手の中に封じ込めるように、アイビスはぎゅっとにぎりこぶしをつくった。

 

 最後に思い切りを付けるため深々と深呼吸をした。緊張を悟られないようひっそりとそれを行ったアイビスだが、廊下の角からひょっこり現れた一人の少年が、アイビスの死角からそれを目撃した。

 

 ジーパンとシャツに身を包みジャケットを羽織った、いたって平凡な出で立ちの少年であったが、場所を考えれば逆に奇怪だった。ましてやペット連れで軍艦に乗り込む者など、どこの軍隊にいるだろう。

 

 そんな奇妙な少年の存在に気付くことなく、アイビスは意を決してシュミレーター・ルームへと足を踏み入れた。少年はそんな彼女の後ろ姿と部屋の標札を見比べ、ほんのわずかに瞳を瞬かせたが、声をかけることもなくそのまま通り過ぎていった。

 

 彼の両肩の上にぶら下がる二匹の猫の内の一匹が、声もなく欠伸をした。 

 

 

    Ⅲ

 

 

 艦内標準時で午後六時を過ぎた頃。艦内食堂に備わっている十数脚の長方形型のテーブルの一つを占拠する五人の集団があった。それぞれの前には純粋な腹ごなし、必要な栄養源摂取、あるいはさるやんごとなき事情による可及的カロリー非摂取など、思い思いの気分によって揃えられた献立が並んでいる。

 

「それで四人掛かりで例の転校生を味見したってわけね。お味はどうだったかしら?」

 

「少尉、言い方がいやらしいですよ」

 

 ブルックリン・ラックフィールドが指摘するまでもなく、エクセレン・ブロウニングのいかにも如何わしいイメージを連想させる物言いに、みな辟易とした表情を浮かべた。しかしイルムガルト・カザハラだけは、素知らぬ顔で腕を組んでいる。

 

「今の時点じゃ実戦には出せない、というのが俺の見解だ」

 

「おなじく」

 

 カチーナが炭酸飲料を口に含みながら、イルムに同調する。

 

「データは事前に貰っていたし、とりあえず彼女には持ち込みの機体を使ってもらったんだが、地上戦では遠近攻守ともどもあまり冴えてなかった。レオナとの空中戦は結構光ってる部分もあった。俺との時は、まぁ特機型とやるのは初めてだっただろうし、それまでの連戦の疲労もあるし評価しづらいが、ぼちぼちってとこだ」

 

「結局勝敗は?」

 

 並び立てるイルムに、ブルックリン、通称ブリットが尋ねる。質実剛健を絵に描いたような少年で、部隊内でもラトゥーニ・スゥポータを除けば最も若い部類に入る。

 

「こっちの全勝。まぁ負けたとあれば、それはそれで問題だけどな」

 

 ともあれ結果だけ見れば実戦で使うには未だ不十分、とイルムは論を結んだ。

 

「素質はあるんだろうけど、な」

 

 そう付け加えるようにこぼしたのはカチーナだ。

 

「あら、どんな?」

 

「あいつの腕前について事前に同僚の、ツグミ・タカクラっていうんだが、そいつから資料を貰ってたんだ。テスラ研にいた時点での評価レポートと、あいつらが乗って来た輸送機が観測していた異星人との戦闘記録。あとあいつが持ち込んで来たアステリオンって機体のレコーダー。全部ひっくるめた中で、一個だけ気になる部分があってな。敵隊長機との交戦記録だ。トゲトゲした高機動型の奴」

 

「それが凄かったんですか?」

 

 カチーナは口ごもった。プライドの高い彼女がそうするのだから、意味のある沈黙ではない。

 

「お前さんは一途なゲシュペ乗りだからな」

 

 イルムのからかいにカチーナはそっぽを向いてハンバーガーに齧りつく。彼女がその戦闘機動を事前にシミュレーターで疑似体験していたことを知っているのは、イルムとこの場にはいないラッセルだけだ。直後に彼女が見せたささやかな醜態については、カチーナに睨まれるまでもなくイルムは胸にしまっておくつもりでいる。

 

「少なくとも運や偶然、あるいは機体の性能だけで出せる機動じゃあなかった」

 

「でも、模擬戦はぱっとしなかったんですよね。機体の特性と、あと本人もリュウセイやアラドと似たタイプってことでしょうか」

 

「練習じゃいまいちなくせに、土壇場では気持ちいいくらいに決めちゃうヒーロー体質のことね。うちのダーリンとも気が合いそう。気をつけなくちゃ」

 

 エクセレンが茶々を入れるが、イルムは首を振った。

 

「その心配はないな。むしろその方が話は簡単で良かった。前例に困らないからな。ところが、こいつは勘だが、今挙ったような奴らと、かのミス・アイビスは根本的に性格が違う」

 

 イルムは複雑そうに眉を顰めた。

 

「俺の経験からしてあの手のタイプは大抵自己嫌悪とか悪循環って言葉と仲睦まじかったりするんだよ。一度へこんだら、際限なくドツボに嵌っていくのさ。模擬戦でも初戦から順に、負ける度に分かりやすく調子を落としていった。本番ではなんとかするだろうなんて、呑気に構えられるもんじゃない」

 

「同感。あたし、ラッセル、レオナと三縦喰らった時もさんざんでさ。とどめにイルムに思いっきり殴り飛ばされたあとっつったら、思わず慰めちまった」

 

「それもどことなく優しげな声でな」

 

 イルムがそう付け足すと、器用に焼き魚を解体していたブリットが箸を取り落とした。

 

「ラッセルやタスクとおんなじよ〜な反応ありがとよ。あとで同じように礼させてもらうぜ」

 

「ま、まさか今二人の姿が見えないのは……」

「ちなみにレオナは二人の監視役だ。ラッセルはともかく、タスクのやつもノコノコ野次馬しにくるから、ああなる」

 

 イルムの言葉に、我が身の行く末を察したブリットは、観念したように肩を落とした。

 

「それにしてもイルム中尉。勘って言ってましたけど、えらい自信ありげですね」

 

 やや恨みのこもった視線でブリットが言うと、

 

「一昔前のリンがそうだった」

 

 と、イルムは誰もにとって意外極まりない言葉をさらりと零して、湯気の消えたコーヒーを啜った。

 

「とはいえアラドのときにも言えたことだが、今は猫の手でも借りたい時期だ。少しでも戦力になればってことで、近いうち駆り出されるだろうがな」

 

 若輩とベテランのちょうど境にいる彼は、読めない表情でフォークにパスタを絡めた。

 

 

    Ⅳ

 

 

 重く、淀んだ空気が部屋に充満し、ツグミを息苦しさで身動き取れなくしていた。ツグミが力なく見つめる先には、誰一人として寄せ付けようとしないアイビスの後ろ姿があった。

 

 試験を終えて部屋に戻って来てからというもの、「戻りました」とツグミに一声かけただけで、アイビスはずっと同じ体勢を崩さない。備え付けのデスクに座り、目を瞑りながら、親指と小指だけを広げた手の平をあっちこっちに彷徨わせ、時おり思い出したようにノートになにかを書き込んでいく、その繰り返し。その奇妙な手の形は、パイロットなどが戦闘機を表すためによく使うものだ。模擬戦の復習をしているのだろう、とカチーナ中尉から結果を知らされていたツグミには分かった。

 

 アイビスの努力家としての一面をツグミは決して知らなかったわけではない。プロジェクトにおいて、ある日の試験飛行でツグミがアイビスの至らぬ点を十点指摘すると、アイビスは次回かその次のフライトまでに必ずそのうちの三つか四つは改善してきた。ただそうなれば、また新たな課題が二つ三つ生じるので、結果、アイビスの成長はツグミの目には非常に遅々としたものに映った。ましてやアイビスの隣には、初めから何事も完璧にこなしてしまう、才気あふれるナンバー・ワン、スレイ・プレスティの姿が常にあったのだから。

 

 アイビスの手の平は、さきほどから何度も何度も同じ軌跡を描いていた。「マニューバー・RaMVs」。プロフェクトTD所属のパイロット候補生たちに設けられた、数々の壁、到達点の一つ。外宇宙探査用のアーマード・モジュールを操るためにも、候補生たちはの旧暦より連綿と伝わるアストロノーツとしてのスキル以外に、まだまだ発展の過渡期にある人型機動兵器の操縦技術にも長じる必要があった。そのため、L5戦役集結までの間に確立されてきた機動戦術の習得も、候補生たちの訓練内容に取り入れられたのである。

 

 当然どれだけ優れた戦闘機動であっても、候補生たちに本来求められるべき技術では決してなかった。しかし高難度のマニューバーを会得すれば、比例して飛行技術全般も向上することがわかり、そのまま正式な訓練項目として採用されたのだ。

 

 スレイがプロジェクト・メンバーの歓声と期待を一身に浴びながら、着々と最高難度であるSクラス・マニューバーの完成度を上げていく中、アイビスは長いことAクラス・マニューバーである「RaMVs」の習得に頓挫していた。なにをしてもスレイに敵わず、それでも確実に進歩はしているのに、常に結果だけを比較されてきたアイビスは、恐らくテスラ研でも同じようにこうして一人、無心にトレーニングを繰り返しながら幾つもの夜を過ごしていたのだろう。

 

 結果を届けに来たときのカチーナの言葉が思い返される。

 

「いきなりえらいスピードで突撃したと思ったら、旋回しきれずに墜落してったぜ。レオナの奴は自棄を起こしたと思ってるみてえだけど、あたしはあのレコーダーの記録見てたしな……」

 

 あのタイミングで成功してたら勝ってたかもな、と、カチーナはどこか不満げにぼやいていた。

 

 アイビスの努力は過去にたった一度、報われたことがある。かのテスラ研脱出の際の、敵隊長機との交戦の真っ先中、土壇場の、死中に掴んだようやくの一しずく。そのとき、やっとのことで手の届いた大切なものを、彼女はまた見失ってしまったのだ。

 

 ツグミの内部に育つ、アイビスに対してのある感情の萌芽がむくむくと際限なく背を伸ばしていく。しかし開化寸前のところまで来ていながら、まるで糊付けされたように花弁がぴくりともしないのは、これまでの二人の関係においては、あまりに差し出がましいものだったからだ。

 

 アイビスの背中はぴんと糸を張ったように伸びている。その影から鼻をすする音の一つでも聞こえれば、ツグミは考えるより先に身体を動かすことができた。しかしどれだけ耳をすませても、アイビスはただ黙々と努力を積み重ねているだけだった。

 

 結局ツグミに出来たことは、部屋を出る時に足音を殺していくことだけだった。アステリオンのところへ行けば気も紛れるかもしれないと、ツグミはのろのろと歩きだした。

 

 すると途中で見知った顔に出会った。

 

「マサキ、くん?」

 

「ん?」

 

 ジーパンにジャケットといった平素な服装、それだけに人目を引く格好をした少年だった。昼間にツグミが探していた当人でもある。

 

 マサキ・アンドー。非公式ながらDC戦争、およびL5戦役で最大の撃墜数を記録したとされる、軍や他のどの組織にも属さない真実全くの民間人。そしてあの銀巨人、サイバスターの持ち主。

 

「あんた、確かあのアイビスって奴の連れだったな?」

 

「なによ、年下のくせにその口の聞き方。それと、馴れ馴れしくうちのアイビスを呼び捨てにしないで」

 

 という心の声をツグミは努めて押し隠した。

 

「そうですけど」

 

「そういやあいつ、昼間シミュレーターでカチーナたちとなんかやってたみたいだな。さんざん揉まれたろ。お疲れさんって言っておいてくれよ」

 

 ツグミの目尻が常日頃見られないくらいに硬直した。そんな彼女の様子に欠片たりとも気づく様子は無く、マサキは「おやすみ」とだけ残してツグミの横を通り過ぎていった。彼の行く先は行き止まりであると知るツグミだが到底口出しする気になれず、そのまま彼とは逆方向に、やや強めの足音を響かせていった。

 

 

 

 いつの間にか部屋に一人きりになっていることにアイビスは気付いた。時計を確かめたら、もうすでに夜も遅い。

 

 遅めの入浴にでも出かけたのかもしれない。ずっと机に齧りついていたので、邪険にしていたと思われてなければ良いのだが。

 

 アイビスは天井を眺めた。背もたれがギシギシと軋みをあげる。さながら前進翼戦闘機のようなアイビスの手の平が、アイビスの眼前を垂直に昇っていく。その絵に重なる想像の中の光景があった。空高く、太陽を目がけて上昇していくアステリオン。アイビスのなかで、アステリオンは常に美しくなくてはならなかった。

 

 だというのに、

 

「酷かったな」

 

 シミュレーター試験のあと、試合の推移を映像で確認したときのアステリオンは、アイビスの理想とはかけ離れた軌道を描いていた。ツグミを初めとする多くの英知が結集したプロフェクトTDの一成果の、なんとも無様な姿を自分がさらし者にしたのだ。

 

 カチーナは難しい顔で、イルムは頬を掻きながら、レオナはほんの少し冷めた目で、タスクは気楽に笑いながら、それぞれの流儀で、アイビスを慰めたり、励ましたり、あるいは冷静に評価を下した。

 

 言うまでもなく、どれもアイビスが目指した反応では到底ない。とはいえことさら喝采を欲するたちでもなく、彼女が望んでいたのは、強いて言うならば手の平の、一瞬の感触だった。

 

 数日前、異星人に襲撃されたテスラ研から脱出を果たしたアイビスたちは、ハガネ隊と合流するまでの道のりで今度はアギーハと名乗る異星人の幹部から襲撃を受けた。こちらの戦力は機動兵器にしてわずか三機、敵は十機以上、さらにツグミたちが乗る非武装の輸送機を防衛せねばならず、戦況は最悪の一言に尽きた。

 

 ただでさえ実戦に不慣れだというのに、そのような熾烈な状況を、初めて乗り込んだ機体でこなしたのである。なんとか無事に戦闘が終わり、アステリオンを輸送機に着艦させたとき、アイビスの体からは体力という体力が霧となって散っていくようだった。

 

 よろめきながらアイビスがタラップの階段を降りていくと、そこに一人の少年が佇んでいた。アイビスたちの下に援軍として駆けつけて来た人物だった。息も絶え絶えなアイビスと対照的に、彼はいたって涼しい顔でアイビスの方を見上げていた。

 

「いい腕だな。あんた」

 

 少年は何でもないようにそう言った。アイビスは思わず後ろを振り向き、そこに誰もいないことを確認した。間違いなく自分に対してのものと分かった時、その言葉はアイビスの疲れきった五臓六腑に染み渡り、熱すら発っした。

 

 惚けるアイビスの前に手の平が差し出された。何を求めての仕草かはすぐに分かったが、アイビスはそれこそ見るも哀れなほど戸惑った。なにもかもが、彼女にとっては初めてのことだったからだ。

 

 おそるおそると割れ物を扱うように、アイビスは彼の手の前に自分の手の平をささげた。

 

 少年はその手の平を軽く叩いた。

 

 そして、「お疲れさん」と言った。

 

 

 

 スレイのように罵倒するのでもない。以前のツグミのように冷淡に見るのでも、フィリオのように励まし慰めるのでもない。戦友として、ただ対等に接するあの一瞬の感触を、ほんの数日まえのことなのに、随分と遠くの出来事にアイビスは感じた。

 

「強くならなきゃ」

 

 アイビスは一人念じた。

「もっと、もっと、頑張らなきゃ」

 

 アイビスの夜はそうして更けていく。

 

 

 



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第二章:翼持つ二人

   Ⅰ

 

 

 ハガネ隊は現在、地球連邦軍アビアノ基地に逗留し、補給と新型試作機の搬入作業を行っている最中だった。その間、ほとんどの人員はその作業のサポートか、束の間の休息を与えられている。

 

 しかしそんな中、数人のパイロットたちに哨戒任務に付くよう艦長たちから指示がくだった。アビアノ基地の周辺エリアの、いわばパトロールである。本来なら基地に所属する専用の哨戒機などが用いられる任務だが、アビアノ基地の駐在部隊はほとんどがこれまでの戦闘によって破壊されているか修理中であり、例外的にハガネ隊がそれを請け負うこととなったのだ。

 

 かくしてハガネ隊の中でも長時間の飛行が可能で、武装もある程度整っている四機の機体が選抜され、臨時小隊を組んで任務にあたることとなった。

 

 編成は以下の通りである。

 

 グルンガスト、イルムガルト・カザハラ中尉。

 

 R―1、リュウセイ・ダテ少尉。

 

 サイバスター、マサキ・アンドー。

 

 アステリオン、アイビス・ダグラス。

 

 アイビスに下りた、初の任務だった。哨戒は現代戦においても欠かせぬ重要な作戦行動だが、今回のところは、アイビスをハガネ隊の編隊飛行にある程度慣れさせておくための実践訓練の意味合いもまた強かった。

 

 

「よし、行くぞ!」

 

 機体の外部点検が終了し、小隊長のイルムの掛け声と共にパイロットたちは各自の機体に乗り込んだ。アイビスも遅れずにアステリオンのコクピット・シートに滑り込む。ハーネスを接続し、胴体とシートを密着させる。アイビスはアステリオンと一体になった。

 

 ヘルメットを装着し、グローブの指と指の間を交互に押し込んでから、準備完了のハンド・シグナルを外に送った。ヘッドセットを付けた整備士から、エンジン始動のサインが返り、アイビスはハッチを閉じて駆動用エンジンをスタートさせた。ついでメインエンジンの始動に移り、アステリオンの心臓はゆっくりと鼓動を開始する。その静かなるも力強い脈動に、アイビスもいつもなら満足の笑みをもらすところだ。

 

 スロットルをアイドルにいれて、プリタクシーチェック。すでにメインモニターが外部の光景を如実に映し出しており、整備士が機体と操作がしっかりと連動しているかを確認しているのが、アイビスから見てとれる。

 

 十数項目の点検を終了し、整備員から完璧とのシグナルが出た。その直後にイルムからの通信が飛び込んでくる。

 

「レイヴン・ゼロワン、チェックイン」

 

「ツー!」

 

「すりい」

 

「ふ、フォー!」

 

 多少のもたつきを挟んでアイビスは答えた。続いて通信機器の周波数を揃える際にも、同じようなやり取りをする。

 

「オール・オーケー。カタパルト接続開始」

 

 各機体が次々に動き出し、グルンガスト、R-1、サイバスター、アステリオンの順でカタパルト前に一列に並んだ。

 

「グルンガスト、イルムガルト・カザハラ、発進よし」

 

「了解。グルンガスト、発進どうぞ」

 

 カタパルト内の電磁誘導により、グルンガストが弦を放された弩のごとく加速する。その勢いのまま、蒼い巨人は薄暗い艦内から青空の下へと一挙に弾き飛ばされた。

 

 R-1とサイバスターも同じ要領で発進する。最後にアステリオンの番になった。

 

 スロットル・アップ。左右のテスラ・ドライブが静かに呼吸を始めた。

 

「アステリオン、アイビス・ダグラス、発進よし」

 

「了解。アステリオン、発進どうぞ」

 

 アイビスのみ、オペレーター以外からの声がかかった。

 

「アイビス、がんばって」

 

 チーフ? と反芻する間もなく、リニアカタパルトが四たび加速する。重圧がアイビスの全身を圧迫し、青空の彼方を目がけて約一秒で放り出された。

 

 へそ下三寸に伝わる浮遊感を合図に、アイビスはスロットルを上げた。先行した三機のうち二機は戦闘機形態に変形し、残る一機は人型のまますでに前方にて編隊を形作っていた。その末尾に追いつくべく、アイビスはスロットルをさらに上げる。速度を増したアステリオンは風に乗った。

 

「ようし、良い感じだ」

 

 編隊長のイルムは陽気に声を挙げた。

 

「初めてにしちゃスムーズなフィンガーチップだ。ゼロフォー、アイビス、気分はどうだ?」

 

「フォー、問題ありません」

 

「ようし、お前さんは今回四番機。三番機、つまりサイバスターのウィングマンだ。この場合は、ウィングウーマンかな? 奴の背中をよーく覚えておけよ。目立つから分かり易いだろう?」

 

「フォー、了解!」

 

 やや過剰なほど気合いの入った返答に二割の頼もしさ、四割の微笑ましさ、そして同じく四割の危うさを感じ取り、総じてイルムは唇を釣り上げた。悪い印象ではなかった。新兵とはこういうものだ。

 

 いつの日かこのガラスのような少女も、気負いや緊張の殻を捨て去って一丁前のパイロットになるのだろう。現時点でその姿を想像することは容易ではなかったが、生き残ることさえできれば必ずその時が来るのだと、イルムは経験で知っている。たとえば、たったいま閉鎖通信をかけてきたリュウセイ・ダテ少尉のように。

 

「いいんですか中尉? マサキに付いて行かせて」

 

「なんだ、代わりたいのかリュウセイ。お前も好きだな」

 

「ちがいますよ! 軍隊式の飛び方を練習するなら、俺かイルム中尉の方がいいじゃないですか」

 

「ああ、マサキだと編隊も糞もなくなるからな。だからいいんじゃないか」

 

「はい?」

 

「ハガネ隊自体が、そんな感じだろう。どこぞの堅物艦長が血管震わせるくらいにな。下手に最初だけ気を使ってやると、あとで逆効果だ。今のうちに劇薬つかませて慣れさせておくんだよ」

 

「あ〜……」

 

「それに、いざ本番になったら俺もお前も陸がメインだ。アステリオンほど極端な空戦屋は、ハガネ隊にだって数えるほどしかいない。だったらその数少ない一人との連携を、早めに覚えさせておくべきだろ?」

 

 ついでに言えばマサキの奔放すぎる面と、アイビスの固すぎる部分を掛け合わせれば、もしかすれば何か面白い化学反応が起こったりするのではないか、などともイルムは考えていたが、本人としてもさほど期待していることではないので口には出さなかった。

 

「なるほど、了解」

 

「腐るなよ。俺だってお前なんかより、初々しいかわいこちゃんとペア組みたかったんだ」

 

「だから違うって……またリン社長に嫌われますよ」

 

「分かってないな。あいつはこういう俺が好きなんだ。しっかしお前が新兵の心配とは、俺も歳を取るわけだ」

 

「なんですか、それ」

 

 イルムは再び開放通信に切り替えた。

 

「ゼロワンより各機。このまま直進。A地点に着いたら、二機ずつで左右に散開、各々B、D地点を経由しつつC地点で合流って手はずだ。いいな」

 

「ツー了解!」

 

「すりぃ、りょーかい」

 

「フォー了解!」

 

 約一名の明らかにかったるそうな返答に、リュウセイにはああ言っておいたものの、少し不安になるイルムだった。

 

 

   Ⅱ

 

 

 透き抜けるような青空は、絶好のフライト日和と言ってよかった。イルムらに口説かれるまでもなく、すでに星の海に心奪われているアイビスであったが、だからといって大気の海を嫌うことはない。

 

 宇宙を飛ぶことは、アイビスの感覚ではむしろ海に潜ることに近かった。先の見えない深淵を目指して、深く深く潜行することは、恐ろしくはある。孤独でもある。だがそれ以上の価値があるとアイビスは信じていた。

 

 それにしても、この「飛翔!」という感覚だけは大気圏内でしか得られないものだろう。追いかけるべき雲があり、立ち向かうべき風があり、そして眼下に広がる遠い大地があって初めて、この高揚感は得られる。天と地を同時に感じる、また違った快感だった。

 

「随分と楽しそうだな、おい」

 

 そんな通信が入って来て、アイビスは二重に慌てた。急な通信そのものにも驚いたが、そのあと反射的にスクリーンを見渡しても、本来なら右手前方にいるはずの僚機の姿がどこにもなかったのだ。いつのまにか、アイビスがマサキを追い越してしまっていたのである。

 

「す、すみません。減速します!」

 

「ああ、いい、いい。そら」

 

 アイビスが左手のスロットル・レバーを引くよりも早く、サイバスターの翼から迸るエメラルド色の輝きが勢いを強め、あっという間に両機は元の位置関係を取り戻した。

 

 すでに小隊は散開を終えており、いまアイビスと空を共にしているのは、少なくとも視界内とレーダー上ではサイバスターのみだった。

 

「堅苦しい言葉もいらねえよ。とりあえず怪しいもんが無いうちは好きに飛んでりゃ良いのさ」

 

「ですけど……」

 

「敬語はよせって。俺は別に軍人でもなけりゃ、あんたの上官ってわけでもないんだ。いいな」

 

 これ以上の反論を封じられたアイビスは、しかし顔から火が出る思いを止められなかった。羞恥心が身を焦がし、操縦桿を握る手にさらに不必要な力がこもる。

 

 彼女に異常な緊迫を強いるのは、間違いなく彼女の僚機の存在だった。

 

 魔装機神サイバスター。三層一対、計六枚の翼を持つ半人半鳥の機体。航空力学的に明らかに飛行に適さない形状でありながら、風の抵抗など文字通りどこ吹く風と謳いながら、悠々とアステリオンの前を羽ばたいている。

 

 またもやマサキから「なあ」と通信が入って来た。粗忽な口調や、いかにも暇でしょうがないので、といったニュアンスを省けば「アイビスのことや機体のこと、ハガネ隊に来る前までのことなどを、よければ教えてもらえないか」ということだった。

 

「その、いいの? 哨戒中に」

 

「こっちには人手が二匹分余ってる」

 

 そう言われ、アイビスはぽつぽつと言葉を紡いでいった。マサキはとくにプロジェクトTDの理念について興味を持った。

 

「宇宙探査つってもよ、いまどき異星人やらなにやらで、宇宙も随分と物騒になってるじゃねえか。それで予算とか下りるのか?」

 

「前と比べたら、やっぱり落ちたみたい。でもシリーズ77の技術は戦争にも役立つからって、イスルギ重工がスポンサーになってくれてるんだ」

 

「ふうん。ならそいつは、本当はただの宇宙船なのか」

 

「これはまだプロトタイプだけど。武器を搭載するって決めたときも、上の方では色々あったみたい」

 

 フィリオとツグミの憂い顔がアイビスの脳裏をよぎった。時勢上やむを得ない措置とはいえプロジェクトの理念に背く行為であり、しかし従わなくては現在までのプロジェクトの進展は叶わなかった。プロジェクトに夢を賭ける誰もが抱えている、アンビバレンツだった。

 

「未来のスペース・シャトルが、今じゃ戦闘兵器でしかも軍に徴発か。難儀なこったな」

 

 少年の声には、社交辞令を越えた重みがあった。

 

「宇宙飛行士か。俺もガキの頃は人並みに憧れたもんだぜ」

 

「それが、どうしてサイバスターに?」

 

「俺が知るかよ」

 

 他に誰が知り得るのだろうか、とアイビスは思った。

 

「ねえ、今度はそっちのことを教えてよ」

 

「ん?」

 

「だってさ、普通じゃないでしょ? どう見ても」

 

 自覚があるのか、相手はしばしの間黙りこんだ。

 

 マサキ・アンドーは現在、地球圏の一部の間では大手軍事企業の役員クラスや著名なエンジニアらと並んで、最も有名な民間人の一人である。しかし彼らが周知の実績や立場によって名を馳せているのに対し、マサキ・アンドーは来歴不明、その愛機は原理不明、二つ揃って正体不明という謎が謎を呼ぶ神秘性によって注目を集めている。

 

 ジーパン姿の何処にでも居るような高校生くらいの少年が、公式・非公式問わずいかなるデータにも存在しない機動兵器を勝手に乗り回しているというだけでも十分すぎるほど異常事態なのだが、さらにその少年の肩の上には人語を話す二匹の猫が連れられ、尚かつその機動兵器は銃と火薬の代わりに剣と魔法を駆使し、条件を整えれば一基地を瞬時に制圧できるほどの戦闘能力を発揮するとなれば、良識ある人々にとってはまさしく悪夢そのものである。

 

「地底にある異世界からやってきたって噂だけど」

 

「それで合ってるよ。こいつもそこで作られて、それを俺が貰ったんだ。よくあるだろう? 剣と魔法の世界があって、その世界を救う為に違う世界から勇者が召喚されて、伝説の武器を渡されて『さぁ、魔王を倒せ』ってな」

 

「……日本ではよくあることなの?」

 

「漫画の話だよ」

 

「それで、マサキが勇者なんだ」

 

「そんな柄に見えるか?」

 

 今度はアイビスが黙る番だった。

 

「そうだろ?」

 

 

 

 世間話もいつしか止み、二人してただ茫洋と飛翔し続ける時間が二十分程続いたときのことだ。

 

「そろそろいいな」

 

「え?」

 

「なんでもねえ。さて、いい加減ただ飛ぶのにも飽きてきたな。あんたもそう思わないか?」

 

 上空1500メートル界隈、立派な作戦行動中にそう言われても、アイビスはむりやり愛想笑いをひねりだすしかなかった。

 

「実を言うと、絶好の暇つぶし方法をもう見つけてあるんだ」

 

「な、なに?」

 

 一体何を言い出すのかと、ハラハラしながらアイビスは聞き返した。

 

「今回はたしか俺が三番機で、席順は上だったよな」

 

「うん」

 

「一応、今俺はあんたに対して指揮権のようなものを持つわけだ」

 

「うん」

 

 さっき自分は上官じゃないって言ってたけど、と思いはしたもののアイビスは黙っておいた。

 

「というわけで、だ」

 

 少年の目が、猛禽のそれのように荒々しく煌めいた……ような幻覚がアイビスの視界を通り過ぎた。

 

「命令だ。今から俺とあんたで腕試しをする」

 

 その言葉をアイビスが噛み砕く前に、前方を行く機影からひと際大きくエメラルドの光が爆ぜ、サイバスターは爆発的に加速した。

 

「ち、ちょっと!」

 

「ほら、置いてくぜ!」

 

 少年の言葉は脅しではなく、レーダーに映る二機間の距離は目を疑う速さで伸びていく。モニターに映る機影はすでにビー玉のサイズにまで縮小し、さらにぐんぐんと遠ざかっていった。

 

「ま、待って!」

 

 あっという間の出来事に呆然とする暇すらなく、アイビスはスロットル・レバーを最大まで押し込んだ。一気に倍増したGがアイビスの全身を彼方へ突き落とそうとする。

 

「……待ってってば! 腕試しって、何を」

 

「そうだな。鬼ごっこなんてどうだ。まずはあんたが鬼で、俺に一発当てられたら鬼役交代だ」

 

「当てられたらって……」

 

 模擬戦闘訓練においては、格闘訓練でもないかぎり通常はペイント弾を使うか、あるいはライフルの先端などにカメラが仕掛けられ、相手の急所を撮影することで勝利とされるが、今の二機には当然どちらの用意もない。

 

「実弾で訓練なんて無茶だよ。それにあたしとマサキじゃ……」

 

 結果は見えている、と続けようとした唇をアイビスは噛み締めた。

 

 これから互いに命を預けるかもしれない人間に、己の実力を誤解させたままにさせておくこともない。しかし、アイビスにもプライドはあった。また、仮に前の戦場での戦果が百億に一つの奇跡だったとしても、アイビスには、この三番機にだけはそれを悟られたくない思いがあった。まだ右手には、あの手の平の感触が残っているのだ。

 

 だがそんな思いをせせら笑うかのように、かの手の平の持ち主はさらに言い募った。

 

「なんだ、怖じ気づいたか? 宇宙飛行士ってのはエリート中のエリートって聞いていたが、安いプライドじゃねえか。大したことねえな」

 

「なんだって……?」

 

「こいつが造られたのは戦うためだ。作ったのは宇宙なんて見たこともない連中だ。あんた達が必死に夢を追いかけて造り上げたそのマシンは、そんなものにも追いつけないのか? 俺を見ろ。ほれ、見ての通りのガキンチョさ。あんたらの言う『星の海を往く』ってのは、そういう奴に道を譲ってやることを言うのか?」

 

「やめて! それ以上言うと!」

 

 たまらずアイビスは怒鳴った。侮辱を受けたのが自分だけなら、そうはしなかった。しかし少年の不遜な言葉はアイビスだけでなく、全てのアストロノーツの矜持に罅入れるものだった。グリソム、ラヴェル、アームストロング。名だたる英雄の系譜に、マサキはアイビスの体を通して手袋を投げつけているのだ。

 

 アイビスは奥歯を噛み締め、行く手に見えるサイバスターの背中を食い入るように睨みつけた。差は、だんだんと縮まってきている。サイバスターの三層一対の翼、そこから吹き出される翠色の噴射炎。この世ならざるもの、異端者、風の魔装機神。ふとその勇姿に、一度として敵うことのなかった緋色の影が重なる。

 

 怯えが生じた。震えが来た。

 

(勝てない。勝てるわけが無い)

 

 アイビスの四肢を、諦観と怯懦が蝕み始める。

 

(勝負にすらならない。そう、これは勝負じゃない。スレイの時と同じだ。自分はただ、振り払われるだけの……)

 

 蚊か、蠅か、あるいは塵か。留まるところを知らないアイビスの劣等感を他所に、マサキが振り払ったのはそれらの内のどれでもなかった。

 

「さぁ、勝負だ!」

 

 勝負と、少年は言った。

 

 プロジェクトの頃、アイビスとスレイが模擬戦を行う時、スレイは決して勝負という言葉を使わなかった。彼女にとって、それは常にナンバー・ワンという自らの称号の証明であり、確認でしかなかった。恐らく、他の者にとってもそうだったのではないか。中でも、あのタカクラチーフにとっては。

 

 どくん、と鼓動が一つ。

 

 アイビスの血液が徐々に沸点まで近づいていく。

 

「教えてやるよ。あんたらの夢も、そのマシンも、サイバスターの前では全く無意味なものなんだってな!」

 

 その言葉が、駱駝の背を潰す最後の藁となった。アイビスの脳裏で火花がひとつ散った。稲光にも似た一つの感情が、アイビスの全神経を紫電一閃に駆け抜ける。

 

「こ・ん・のぉーーっ!」

 

 「鬼ごっこ」が始まった。

 

 

   Ⅲ

 

 

 銀と銀が「最速」を賭けて競い合う。

 

 高度七千メートル。すでに大地は雲海の下に沈没している。上下左右前後、あまねく空の青と雲の白に支配され、計器から目を離せば容易に平衡感覚を見失う世界にて、翼持つ二人は縦横無尽に空を駆け巡った。

 

 アイビスは操縦桿を軽く左に倒した。直後機体が反転し、背面飛行の形を取る。天が地に、地が天に。

 

 レバーを手前へ。雲と海が頭上から真正面に飛び込んで来る。アイビスは思い切り下腹部にりきを入れた。慣性制御によって相殺されている分も含めれば、旧暦の戦闘機など比較にならない負荷がアイビスに降りかかる。

 

 やがて太陽光に煌めくサイバスターの脚部を正面にとらえた。スピリット・エスは敵の死角、つまりは後方下に潜り込む機動だ。左手中指でウェポン・セレクト、マルチ・トレース・ミサイル。もちろん発射する気などない。しかし絶好のポジションからロックできれば、最新鋭のミサイルは決して的を外さない。ゆえにターゲット・ロックを完了させるだけで、この場合はKO勝ちに値すること十二分だった。

 

 右手薬指でシーカー作動。レーダー照射。こうも淀みなく指が動くのは初めてだった。敵が通常のPTかAMであるのなら、コクピット内で警報が「危険!危険!」と喚き散らしていることだろう。だがそんなことを考えている合間にサイバスターは突如進路を変えて、一挙に視界から飛び失せてしまった。

 

「なんてデタラメな動き……!」

 

 アイビスはすぐさま後を追った。空戦では予測が全て。かつてスレイが、ただ一つだけ自分に助言してくれたことだった。サイバスターを点として見るのではなく、その機動を予測も含めて線として捉えて、その先、その内側に飛び込む。

 

「おお、来た来た」

 

 後背を確かめながら、マサキは左右の手の先にある水晶を機嫌良く握り込んだ。コネクターであるそれはマサキの意志と駆動系を繋ぎ合わせて、サイバスターの動きをさらに溌剌とさせる。

 

 サイバスターの翼の向きを変えた。さきほどアイビスが見せたものと同じ、相手の後背に回り込む機動だった。すかさず追従して、アステリオンはそれを阻止してきた。

 

「おお」

 

 またもや同じことを、今度はフェイントを交えて繰り返した。アイビスはやはり付いて来た。

 

「おお、おお!」

 

 マサキは楽しくなった。

 

「どうした、すっとろいぞ。もっとだ、もっと迫ってこい!」

 

「……うるさい!」

 

「おー、こわ」

 

 いつしか、二機の戦いは鬼ごっこと呼べる様相ではなくなっていった。前を行く者は後ろを引き離すべく、後ろを辿る者は前に追いすがるべく、ただ走り続けるのが鬼ごっこだろう。だが空戦において、そのような機動は定石ではない。勝つためには、敵の尾に食らいつかなくてはならない。

 

「追いつく!」

 

「食いちぎってやらあ!」

 

 アイビスがマサキの背を追うように、いつのまにかマサキもまたアイビスの背を追っていた。それを見越して、さらにアイビスはマサキの背中を目指した。マサキはさらにそれを見越し、アイビスはさらにさらにそれを……。

 

 二人の機体が、意志が、どこまでも交差し、螺旋を描いていく。もはやこれは鬼ごっこではない。地球圏ならびに異世界の技術の粋を集めた、正真正銘の「ドッグ・ファイト」だった。

 

 超音速の空戦に集中する傍らで、自らの体から様々なものが抜け落ちていくのをアイビスは感じていた。先ほどまでの怒り、苛立ち、のみならず不安、緊張、虚栄心、自己嫌悪までも。およそ飛翔に不必要なものは全て大気の逆風に吹き飛ばされ、意識が流線形に研ぎ澄まされていく。ちょうどあの時のように。スレイに落とされ、敵に囲まれ、カリオンを失い、まことに崖っぷちまで追いやられた末に奇跡を起こしたあの時のように。

 

 時空を越えて、アイビスの耳朶に再びフィリオの言葉が届く。彼は告げた。君は流星だと。なぜ今の今まで彼の言葉を思い出せなかったのか。

 

 サイバスターがどれだけ異次元の速度を誇ろうが、アステリオンとて地上における現行ハイエンドの技術を持って作られた機体だ。たとえ相手が真実疾風そのものでも、それがなんだというのか。

 

 あたしは流星だ。

 

 風も、夜も、星の海も、

 

 何もかもを一緒に全部、

 

 切り裂いて飛ぶんだ!

 

「Rapid acceleration……」

 

 再びアイビスの視界がサイバスターの背後を捉える。

 

 まだ遠い。

 

 またもやサイバスターが機動を変えた。

 

 だが逃がさない。

 

「……Mobility break……!」

 

 機首を、サイバスターが描く軌道より一度でも内角に。

 

 時速一ミリメートルでも速く。

 

 より速く。

 

 ただ速く。

 

 敵機射程圏内補足を知らせる無機質なアラームが鳴った。アイビスが喝采をあげる。

 

「捕まえた!」

 

 

   Ⅳ

 

 

 直後、サイバスターの翼がエーテルをまき散らしてひと際大きく咆哮し、壁に垂直に当たったビリヤード球のごとく百八十度に反転、急速接近してきた。

 

 慣性を無視したありえざる動きに、アイビスは唖然とする。

 

「うそ……?」

 

 二機の相対速度の前では、その一言すら冗長だった。唯一光以外の何もかもをも置き去りにして、アステリオンのの眉間めがけてサイバスターが迫り来る。

 

 しかしもはや衝突するしかないと思われた寸前、まさしく紙一重、間一髪に、サイバスターが再び機動を変える。

 

 音速を遥かに超えて交差する二機。もしサイバスターの手に剣があれば、アステリオンは二機の速度が生み出す合力をまともに受けてまっ二つにされていたかもしれない。

 

 さながら悪魔の愛撫のごとく、アイビスの背中を冷や汗とぞっと流れ落ちたのは、交差から優に5秒間が経過してからだった。

 

「へへ、驚いたか?」

 

 少年の悪戯っぽい声が、試合終了の合図となった。

 

「び、びっくりした……」

 

 やっとのことでそれだけ言う。勝者はマサキ……と言えるのだろうか。しかし勝者本人にとってはどうでも良いことのようだった。

 

「異星人どもは慣性制御を使って飛ぶんだ」

 

「え?」

 

「地上の戦闘機と同じ理屈では飛ばないってことさ。さっきみたいな動きだってよく使ってくる。気をつけろよ」

 

「……え、え?」

 

「けど基本は変わらねえ。空戦をやる以上、一番大事なのはやっぱり速度なんだ。いくら小器用にジグザグに動けたって、追いつかせさえしなければ結局あんたの勝ちだ。だから心配いらねえ。奴らと互角以上に戦える。あんたと、その機体なら」

 

 アイビスは呆気に取られた。言葉の内容にではなく、少年の態度にだ。あまりに真っ直ぐな、先ほどの悪口雑言が嘘のような、率直な賞賛だった。

 

「エクセレンめ。ボケ役が行き過ぎて、とうとう本当に耄碌しだしやがった。見てみろ、誰がひよっこだ」

 

「ひよこ……?」

 

「昨日、カチーナたちとシミュレーターで遊んだろ? そのことでな。全く揃いも揃って、どこを見てるんだか」

 

「……」

 

「それと、な。さっきは悪かった。芝居……では一応あったんだが、調子に乗りすぎちまった。気に触ったろ? 悪かった」

 

「……」

 

 熱が発生していた。

 

 マサキがエクセレンから何を聞き、それに対して何を思い、そしてなぜ傍若無人を装い自分を挑発してきたのか。それら全ての答えが、すとんとアイビスの胸に降りて来たとき……。

 

 そこから、熱い熱い熱が発生していた。

 

 痺れる腕をなんとか動かし、アイビスはアステリオンを旋回させた。その先ではサイバスターが、太陽を背に雄々しく翼を広げている。陽の光を浴びて、白銀の装甲が神秘を宿しながら輝いていた。

 

「きれい……」

 

 そんな言葉が独りでに漏れた。

 

「なにが?」

 

「あ、いや、その機体が……」

 

「そうか?」

 

「そ、そうだよ。さっきも、すごくきれいに空を飛んでた。すごかった」

 

「そうか。いや、まぁ、そっちこそな」

 

「あたし……?」

 

「俺も存分にあんたのかっとび姿を見たぜ。さっきの動きは、あのアギーハって奴にぶちかました時のと同じやつだろ? 一度見てなけりゃ、正直危なかったんだぜ?」

 

「さっきの動き……」

 

 アイビスはようやく気付いた。

 

 マニューバー・RaMVs。

 

 前に一度、少年の前で見せたのは、それまでの夥しい数の失敗の果てに、たった一度だけ起きた奇跡の成功だった。たまたまその部分だけをマサキは目撃したに過ぎない。

 

 しかし今、アイビスは無意識に再び同じ快挙を成し遂げていた。一度成功したものを、今もう一度成功させた。二度起こったらそれは奇跡ではなく、偶然でもなく、れっきとした……

 

「そうか、出来たんだ、あたし。ううん、出来るんだ。これからも……」

 

 ざわざわと胸の奥からまた別の熱源が押し寄せた。少年に対してのと、自分に対しての。その二つの熱にアイビスの胸は張り裂けそうだった。

 

「アイビス?」

 

「やった……やったよあたし……やった……やったぁぁぁぁぁっ!」

 

 そして今、張り裂けた。

 

 周りの目も気にせずに、こみあげる歓喜のままアイビスは叫んだ。雄叫びとも言えた。そして通信の向こうでは、彼女の喝采をまともに浴びた少年が耳を抑えて苦悶していた。

 

 

    Ⅴ

 

 

 アステリオンとサイバスターが哨戒任務もほっぽりだして遊びほうけていた頃、アビアノ基地逗留中のハガネ隊では一騒動が起きていた。

 

「はて、おかしいな。もうとっくに帰って来ても良いころなんだが。どう見る? リュウセイ・ダテ少尉」

 

「は。マサキのことだから方角を間違えて、いまごろ北極にでもいるのではないかと推測します。中尉」

 

「ううむ、有り得るな。一応第二編隊長なわけだし、アイビスも口を出しにくいだろうしな。ああツグミお嬢さん、アステリオンの空調システムについて確認しておきたいんだが」

 

「いいから、とっとと救援部隊か捜索部隊を出して下さい! うちのアイビスになにかあったらどう責任をとる気ですか。言っておきますけど、事と次第によっては裁判も辞さないつもりですから!」

 

 イルムとリュウセイは聞こえない振りをした。

 

「とはいえ基地のレーダー範囲内にもいないみたいだし、どこをどう探したものか。そうだ。おいリュウセイ、ブリットたちを呼んで奴らの居場所を探れ」

 

「どうやって探れって言うんです?」

 

「こっくりさんでもダウジングでも好きにやれ。許可する」

 

「されても困りますよ。とりあえずここは二手に分かれた時点から現在までの時間と、サイバスターの速度を計算して……」

 

「それが現実的だな。おい、だれか地図とコンパス持って来てくれ。磁石じゃない方だぞ。さて、やつの到達可能範囲がせめて大陸内に収まってくれていると良いんだが……」

 

「話になりません。艦長を呼んで下さい艦長を!」

 

 イルム、リュウセイの討論とツグミ・タカクラのヒステリーはこれより半刻後、アビアノ基地のレーダーが二機の機影を捕らえるまで続いた。

 

 

 アイビスがアステリオンから降りた時、タラップの階下でアイビスを待ち受けている人影があった。いつぞやと違い今度は四人も、である。

 

 長身長髪の一番機は手を腰に当ててクールに佇みながら、どこかほっとした表情をしており、黒髪短髪の二番機は元気よくサムズ・アップしていて、そしてツグミ・タカクラは何故か涙目になって力一杯手を振っていた。

 

 そして三番機……あの風のような少年は、彼らよりも一歩後ろでばつが悪そうに頭頂部をさすっていた。

 

 先に着陸した少年が編隊長から拳骨を、ついでにツグミからは盛大に引きつった笑顔で痛烈な嫌味を喰らっていた事実など露とも知らないアイビスは、満面の笑顔でステップを駆け下りて行った。

 

 命令違反のことなどすっかり頭から抜け落ちているアイビスは、イルムとリュウセイ、ツグミにそれぞれ極上の笑顔を惜しみなく贈り、戸惑う三人を他所に、そして本命の少年の前に駆け寄った。

 

「お疲れさま!」

 

 アイビスの目は隠しきれない興奮に爛々と光っていた。何をこんなにも嬉しそうでいるのか、マサキには分からない。いい腕をしていた新入りが、その腕前をごく普通に披露した。彼にとって、あの空戦はただそれだけのことだった。

 

「お疲れさん」

 

 マサキは無造作に手の平を差し出した。それが目の前の相手にとってどれほど価値のあることかも、彼は知らない。しかし、思い起こされるものはあった。

 

「前もやったっけな、これ」

 

 アイビスは答えず、ただ花開くように笑った。

 

 パン、と景気のよい音が格納庫に響いた。

 

 

 



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第三章:一石二鳥の采配

 

  Ⅰ

 

 

 草木も眠る丑三つ時の頃である。

 

「なぁ、アイビスって可愛くねえ?」

 

 五枚の手札を親の仇のごとく睨んでいたマサキ・アンドーは、険しい表情を解いて正面の男を見つめた。

 

 その男はタスク・シングウジという名で、彼もパイロットである。ついでにいまマサキが居る部屋の主でもある。

 

「なんだって?」

 

「だからアイビスだよ。いやぁ、初めて見たときからピンとくるものはあったけど、まさかあれほどとは……いやはや」

 

 これっぽっちも訊いていないというのに、タスクは身振り手振りを交えて詳細に語り始めた。

 

 なんでも今日の昼、オクト小隊恒例のペナルティ付きシミュレーター訓練にアイビスも参加し、その張り切りように反して見事敗北を喫し格納庫ランニング二十周の刑に処されたらしい。

 

 悔しがってはいたものの、さすがにアストロノーツ候補だけあって平然とノルマをこなしたアイビスだったが、滲む汗を止めることは出来ず無防備に上着を脱いだ。

 

 下にはシンプルな黒のタンクトップを着ていたが、それでも露出はゼロでは済まない。深い襟から除く控えめな谷間や、露になった脇下、脱ぐ際にちらついた小さなへそ、そして湿った服により浮き出てしまったボディ・ライン等々……その場に居た男性陣はつい思い思いの部分に眼球を固定してしまったという。

 

 すかさずカチーナ中尉の雷が全員に落ちたものの、男たちの視線に気付いた当のアイビスの狼狽えようは見るも哀れだったらしい。

 

 カチーナよりキャメル・クラッチを施されながらも、しつこつその様子を観察し続けていたタスクは、そんな彼女の仕草になにやら男としての根源的な部分を大いに揺さぶられたようで、こうしてマサキ相手に吐露しているというわけだった。

 

「もうさ、思わず中学生かって突っ込みたくなるくらい初々しくてさ。男慣れしてないっつーかもう、保護欲を掻き立てられるんだよ、これがまた」

 

 そして、その九割をマサキは聞き流していた。彼にとっては、ここのところ負けが続いている勝負の行方の方がずっと大事であった。

 

 そもそもマサキとしては腑に落ちない話でもある。それも二重の意味でだ。

 

 第一に、タスク曰く「保護欲を掻き立てる女性」、つまりはいちいち人の顔色を窺うような女をマサキは好ましいとは思わない。

 

 第二に、アイビスがそのような女性であると言われても、これもまたいまいちマサキにはしっくり来なかった。

 

「知ってるか? アイビスって結構スタイルいいんだぜ? いや胸は控えめだったけど、細身ゆえの美しさっていうか、月に例えるなら三日月、花にたとえるなら鈴蘭。こう折れちゃいそうな感じがさ〜」

 

「訊いてねえよ。ほいレイズ」

 

「ほいコール。ほいショー・ダウン。まえよりは随分慣れて来たんだけど、今でもなんかの拍子にすぐ、こう、あっぷあっぷしちゃうんだよなあ。そこがレオナとの違いでさぁ、なんかもう、すぐにでも駆けつけて頭撫でてやりたくなるんだよなあ」

 

「フルハウスかよ……」

 

 延々とタスクの願望なり欲望なりが垂れ流される中、マサキは背骨を抜き取られたようにがっくりと崩れ落ちた。

 

 

    Ⅱ

 

 

 サイバスターとアステリオンが哨戒任務の最中にドッグファイトを行うというトラブルより二日間が経過していた。ハガネ隊は依然としてアビアノ基地に逗留しており、次の指令を待つ身である。

 

 あれ以来、アイビスを取り巻く環境は若干の変化を見せており、その大部分は哨戒任務の一件を要因としていた。「新入りの女が、サイバスターと見事な空戦を演じた」という話は電光石火の勢いで艦内中に伝わり、それまでに彼女と面識を得てこなかったパイロットの面々は思い思いの好意を……たとえばアラド・バランガなどは尊敬の眼差しを、ブルックリン・ラックフィールドなどは真っ直ぐな称賛と信頼をアイビスに向けるようになった。

 

 またそれとは別に「初任務でいきなり命令違反を行った」ということで艦長クラスやカイ・キタムラなど普段気苦労の多い面々からは「また問題児が増えた」などと人物評価にやや下方修正を加えられていたことも付け加えねばなるまい。

 

 しかし良くも悪くもマサキとの一件が、彼女の鮮烈なデビューを演出したのは確かであり、あれ以降アイビスは加速的にハガネ隊の中にとけ込むようになった。

 

 無論ハガネ隊は軍隊であるから、平時から和気藹々と構えているわけではない。とくにパイロットというものは忙しい。

 

 まず朝早くに起床してから身支度を整え、食堂に移動。朝食をとり、小休止のあと格納庫に向かう。この時、時刻は艦内時間において六時半ちょうどである。

 

 他のパイロットの面々も集まると、キョウスケ・ナンブやカイ・キタムラなどを中心にモーニング・レポート、いわば朝礼のようなものが行われる。この朝礼によって、その日のスケジュールなり訓練内容なりその他細かな連絡が伝えられる。

 

 この間、整備士たちは既に機体の整備を始めており、朝礼のあとは速やかに彼らに合流して、乗機をいつでも出撃できる態勢に整えておくのが大抵のパイロットの朝一番の仕事になる。

 

 しかし、中には例外も存在する。マサキ・アンドーとその乗機サイバスターである。異世界出身のかの機体は、ハガネ隊内の最新設備も、整備士たちの手練手管も根本的に受け付けない。武装のほとんどは魔術的な原理に乗っ取っているため特に補給も要さず、また破損の修理も自己修復機能で大概賄える。

 

 したがってマサキが格納庫をうろつくのは、基本的に出撃のときか、それ以外にサイバスターに用があるか、もしくは暇を持て余したときか、さらには道に迷ってたまたま通りかかったときくらいしかないのである。

 

 よって皆が格納庫に缶詰になっている間、マサキは大抵自室で二度寝に入るか、公共の憩いの場であるラウンジを独占し、テレビや雑誌を見るなどをして時間を潰している。

 

 だいたい九時前には全ての機体の点検は終了し、パイロットたちはシミュレーターを使った訓練に入る。

 

 しかし、ここでもやはり例外が一人いた。マサキ・アンドーである。サイバスターの操縦システムは、PTからAM、特機まで幅広くカバーする最新型のシミュレーターでも規格外として弾かれてしまうのだ。よって小隊ごとに行うシミュレーター訓練に、マサキはこれまで一度も参加せず、というより出来ず、やはりこの時間も一人でラウンジでぐうたら過すのが常だった。

 

 午前11時ごろになると食堂が運転を開始し、午前の業務を終えた乗組員たちを待ち受けるようになる。

 

 この日も、食堂はいつも通り11時きっかりにオープンし、そしてその直後にいつも通りの人物を向かい入れていた。他に人影はない。開店直後を見計らって、わざわざ五分前から待ち伏せるほど暇な人間など、軍艦には本来いないものだ。

 

 出迎えたのはツグミたちにも話しかけた、あの司厨員の娘である。

 

「いらっしゃい、今日も一番ですね」

 

「おう、邪魔するぜ」

 

「今日はサカニャがあるといいわねえ」

 

「食うぞ〜、最近これしか楽しみがニャいんだ〜」

 

 娘が織り交ぜた一抹の皮肉にも気づかないまま、一人と二匹は食堂が混む前に手早く栄養補給に取り掛かった。

 

 そして食後の昼休み。多くのパイロットたちが談話や娯楽を求めてラウンジに集うようになり、そこでようやくマサキとその他大勢のスケジュールが重なりを見せる。

 

 今日の一番手はアラド・バランガだった。

 

 彼はまだまだ新兵だということで、午前中の訓練にてカチーナ中尉とカイ少佐から二人掛かりでしごかれたばかりだった。全身疲労困憊で足のふらつきは抑えられず、さらに午後にもまた訓練が控えていることを思えば、目も虚ろになるというものだ。

 

 それでも昼食の席ではしっかりと午前に放出された以上のカロリーを補給し終えているあたり、新兵でもさすがハガネ隊の一員といったところだろう。

 

 ともかく午後に向けて少しでも疲れを癒したい一心で、アラドはのろのろとラウンジの扉をくぐった。

 

「チィーッスゥ……」

 

「おう、おつかれ」

 

 して、そんなアラドを出迎えたのは、満ちたりた腹をさすりつつソファに寝転び、テレビを眺めているマサキのあくび混じりの労いだった。

 

 

「面倒なことだ」

 

 会議室で、モニターに映された小隊編成の樹形図を睨みながら、キョウスケ・ナンブは一人ごちた。前髪にメッシュを入れた若き戦闘指揮官は不言実行の男であり、普段自分の役割に不満を持つことはしない。しかしこういうときばかりは、他にもっと適役が居るだろうとついつい周囲を見渡してしまう。

 

「いい加減、苦情も増えて来た。部隊内の士気にも関わって来るのは事実であるし、抜本的な改革が必要だ」

 

「しかし対処のしようがない、てのも事実ですぜ。俺としては、これまで通り周囲に妥協させるしかないと思いますよ。確かに目障りではありますがね」

 

 キョウスケの両脇から、正反対の意見が出された。

 

 彼の右手側に座る壮年の男性……カイ・キタムラ少佐はパイロットたちの中では最も階級の高い人物であり、頑固一徹な気性と相まってハガネ隊の中で最も軍人らしい男と言われる。豊富な経験を生かして良く上を助け、良く下を導く優秀な人材であり、部隊内でも信頼は厚い。

 

 そんな熟練の男が、正式な戦闘指揮官の座をまだ青年の域を出ないキョウスケに託したのは、ハガネ隊の指揮には若さが必要だと考えたからだった。それを聞かされた当初はキョウスケも感覚で納得しかけたものだが、最近になって、単に匙を投げ渡されただけなのでは、と疑うことが増えて来た。

 

 最後にキョウスケの左手側に座るイルムガルト・カザハラを加えて、計三人が現在会議室に集まっていた。イルムの方は階級はキョウスケと変わらず、歳は少し上といった程度だが、柔軟な思考を期待されてキョウスケによく頼られる立場だった。

 

 いま三人が交わしている議題は、日頃から不特定多数の乗組員からやれ「不公平だ」「やる気が失せる」などと具申されていた、特定の人物による部隊内風紀の乱れについて……要するに平時はろくに仕事も持たずラウンジでだらだら過ごしているマサキ・アンドーに対する待遇の問題についてだった。

 

 実を言うとこの件については、前大戦のころからたびたび問題となっていたことであり、その都度キョウスケたちは一応のこととしてミーティングを開いてきたのだが、これまで積極的な対策案が出されたことは無い。イルムの言う通り、対処しようがない問題なのだ。

 

 とはいえ、働かざる者食うべからずの格言は軍でも通じる。戦闘では無二の働きをするマサキだったが、それより時間的にはずっと長い平常時では穀潰しでしかないとなると食わせ甲斐に欠けるというものだ。

 

「ではイルム中尉は、この案については反対ですか」

 

「いや、それはそれでありだと思うぜ。どうもあの二人、結構気が合ってそうだ」

 

「俺としては意外だ。気弱そうな娘に見えたが」

 

「なかなかどうして、陸と空では性格が変わるタチのようです」

 

 イルムの言葉に、カイは納得したように頷いた。似たような気質の持ち主に心当たりがあるのだろう。普段は寡黙だが、刀を持つと途端に声が大きくなる友人の影が、カイの脳裏をよぎっていた。

 

「機体・パイロット双方の性質を考えても理にかなっていると思います。機体もそうですが、パイロットの方にもかなり適正にムラがありますから」

 

 キョウスケがそう言うと、お前が言うな、と聞き手の二人は同時に思った。

 

「まぁ、そうだな。俺やお前と組ませたって、せっかくのあいつの強みを殺すだけだ。機体だけで言うなら、レオナやアラドあたりもいけそうだが……」

 

「レオナはカチーナ中尉の、アラドは俺のところで、どちらもすでにそれぞれの小隊に根付いている。今更編成を変えても、不利益の方が大きい。かといって彼女を一人で既存の小隊のどこかに放り入れても、イルムの言った通りになるだろう」

 

 ハガネ隊に格納されている機動兵器は、そのほとんどが特機、試作機、専用機、あるいは改造を受けたワンオフ機であり、その特性や運用法も画一的とはいかない。

 

 そのため小隊の編成も、他所と違って単に数と技量のバランスを揃えれば良いという問題ではなかった。

 

「でも結局、シミュレーターの問題とかはどうするんだ?  今は基地逗留の身だから実機でやれば済む話だが、いつまでもここにいるわけじゃないだろ。日頃の訓練が不十分となると小隊としては辛いし、そもそも最初の問題が解決しない」

 

「リョウトたちに出来る限りのことをやってもらいましょう。いずれにせよ、当面の間のみ。言葉は悪いですが、小隊というよりは新兵とそのお守りに近い。実戦の空気に慣れて熟達してきたなら、また他にもやりようが見えて来るでしょう。そして奴に関しても、部下を抱えてしまえばそれが重しになります。俺たちが何かを言うまでもなく、自ずと好き放題できなくなるわけです」

 

 キョウスケは両者の顔を見渡した。異議の気配は見当たらない。

 

「では満場一致ということで、俺から艦長に伝えます。決行は明日」

 

 一同は揃って頷いた。

 

 

 かくして明くる日の朝、戦闘司令官から全パイロットに向けて次の連絡がなされた。

 

「現時点よりハガネ隊に新たな小隊が新設される。小隊長はマサキ・アンドー。彼は有志の協力者であり、あくまで民間人の立場であるが、その実力と実績を認めこれを要請する。同時にアイビス・ダグラス臨時曹長を小隊員に任命。彼の下での奮戦を期待する」

 

 寡黙な戦闘司令より無感動に告げられた連絡に、パイロットの面々は揃って目を見張った。意外な人事にも程があった。

 

「編成の理由を聞かせて下さい」

 

 と挙手をして質問を挟んだのは、パイロットと同じく招集をかけられていたツグミだった。

 

「四つある。一に、今挙げた二名の機体特性が似通っていること。二に、同じく二名の操縦適正も似通っていること。三に、現時点でアイビス・ダグラスと最も交流が長く、互いの技量を良く知るのはマサキ・アンドーとクスハ・ミズハの二名であるが、一、二の理由と併せればマサキ・アンドーと組ませることが最適であると判断できる。最後に、アイビス・ダグラスはまだ実戦経験が浅く、戦場では相応の配慮が必要であるが、自律兵器と、敵味方識別可能の広域兵器を併せ持つサイバスターであれば、それが比較的容易である。以上だ」

 

 マサキに何とか仕事をやらせようと悩んでいる間に、ふと思いついた……とはまさか言えずにキョウスケは淡々と並べ立てた。しかし後付けではあるものの、決して屁理屈ではない。アイビス・ダグラスの処遇についても、会議ではいくらか触れられており、ひょんなところから一石二鳥を得たことになる。二鳥、というところが、まさしくである。

 

 しかし問題があるとすれば、どこか不穏当な気配を見せているツグミ・タカクラをいかに躱すかだろう。別段、説得の義務がキョウスケたちにあるわけではないが、彼女が認めるかそうでないかで、アイビスのモチベーションも変わって来る恐れがある。

 

 パイロットたちの反応は、ラミア・ラヴレスなどかろうじて納得したような顔を見せる者、エクセレンのようにただ単に面白がる者など様々だったが、過半数はいまだ不安そうな表情を滲ませている。そして任命を受けた当人たちはというと、アイビスの方は意外にも落ち着いた佇まいでいた。

 

(ついに来た。けど、前から分かっていたことだから)

 

 小隊長についても、彼女にとっては信頼にこそ値し、不安を招く要素ではなかった。アイビスが不安を感じるとしたら、それは常に自分自身に対してだ。

 

 背筋を伸ばすアイビスの姿に、なるほど、とキョウスケは思った。「かわいいくらい、新兵らしい新兵だぜ」などとイルムは言っていたものだが、確かにアイビスは「これから兵士になる者」として非常に好ましい気質を持っているように思えた。そういった点でも、初対面のころから既に戦士であった(兵士ではなく)マサキとは対照的である。

 

 ちなみにそのマサキは、このミーティングには参加していない。いつもの病気だろうとの意見が大半を占めたが、都合が良いので「捜索はミーティングを終えてから」とキョウスケは命じた。マサキの悪癖を知らないアイビスとツグミは、そんなやり取りに片や首を傾げ、片やますます目尻を釣り上げていた。

 

 質問・疑問の声はこれ以上出ないようだった。ツグミ・タカクラも口を開く様子はなく、内心はともかく反対する権限が自分にないことを弁えているのだろう。

 

「なお事後連絡となるが、今後アイビス・ダグラス、ツグミ・タカクラ両名は徴集という形ではあるが、正式にハガネ隊に所属するものとし、我々の指揮下に入る。では以上で終わる。今日も宜しく頼む」

 

 キョウスケはいつもの言葉で、朝礼を締めくくった。そして今日より始まる新たなる小隊の行く末に、ふと思いを馳せる。

 

 さて、どうなることやら。

 

 

   Ⅲ

 

 

 こうして、それまで自由奔放を謳歌してきたマサキ・アンドーは、空でも空以外でも自由を奪われることとなった。小隊長に任命されたからには、その下に就く小隊員と可及的速やかに綿密な連携を構築することが当然求められる。

 

 あくまで個人レベルの操縦訓練なら一人でもこなせる。事実これまでもアイビスは他の小隊の面子に混ざって訓練を行っていた。しかし小隊内のフォーメーションを密にするためには、マサキ自身も訓練に参加することが必須であり、ゆえにこうして彼がシミュレーターマシンの前に立ち尽くす必要もあるのだ。

 

「クロとシロにも協力してもらって試してみたけど、正直あまり上手くはいってないんだ。脳波感知や思考制御もPT技術にはあることはあるけど、あくまでサブとしてだし、サイバスターの操縦システムをシミュレーターで再現するのはやっぱり無茶だよ。とりあえずサイバスターのデータだけは可能な限り入力してあるけど」

 

 そうリョウト・ヒカワは説明したが、マサキの方は促されたシミュレーター・シートを見つめながら沈黙するばかりだった。模擬的なものとはいえ、シミュレーターのシートは通常規格のコクピットを忠実に再現しており、レバー、ペダルはもとより膨大な量のスイッチ類、計器類に溢れている。マサキは目眩がしそうだった。

 

「これを……俺が使うのか?」

 

 そもそも新小隊の件自体、彼にとっては寝耳に水だった。ようやく集会場に辿り着けたと思ったら、突然キョウスケから「お前は今日から小隊長だ」と告げられたマサキである。文句を言おうにものらりくらりと躱され、妙に緊張しているアイビスを押し付けられ今に至るのだ。

 

「いいからとっとと座れよ」

 

 タスクが意地の悪い笑みを浮かべて、マサキの背を押す。自分が幾度となくカチーナにお灸を据えられている間、いつもいつも呑気にくつろぐばかりであったマサキに対して、これまでタスクに思うところがなかったわけがないのだ。

 

「とりあえずやってみようよ」

 

 アイビスから遠慮がちにそう言われ、ようやくマサキは渋々とシートに身を沈めた。沈めたはいいが、何をどこから触っていいのかマサキには見当もつかなかった。

 

「それじゃ、あたし隣に行ってるから」

 

 マサキが初めて文明の利器に触れた原始人のような気持ちでいるのに対し、こちらはいたって慣れたように機器を作動させる。

 

「おっし、それじゃ新小隊VSオクト小隊の記念すべき第一回交流試合だ。とりあえずあたしとラッセルの2対2で行くぜ」

 

 そう宣言するカチーナだったが、その目は明らかに「試合になりそうもねえな、こりゃ」と言いたげに白けていた。

 

 結果はまさにその通り、まるで試合にならなかった。突如始まった戦闘状況にマサキは慌てて操縦桿を動かしたが、ロジックの欠片も見当たらない操作に、仮想空間上に再現されたサイバスターは、風の化身に恥じない猛スピードで自ら大地に追突していった。

 

 開始三秒で小隊長を失ったアイビスは言葉を失うも、いかなる思考プロセスを経てか逆に奮起しだし、以前の借りを返してゲシュペンスト・ラッセル機を打倒、カチーナのゲシュペンスト相手にも善戦した。しかし最後にはカチーナが得意とする近接戦闘に持ち込まれた末に撃墜された。

 

 結果は0対1でマサキたちの敗北となった。

 

「カチーナ中尉。一言どうぞ」

 

 タスクがマイク代わりに拳を差し出す。

 

「ラッセルを落とした時の動きは良かったぜ、アイビス。狙われたのがあたしだったら、あたしも危なかった。だがそれにしたって油断し過ぎだラッセル! 援護にかまけて、自分が疎かになってどうする。後でみっちりフォーメーション確認するからな。あとアイビスもいい加減、どつき合いの方もなんとかしねえと実戦でもいつか困るぜ? まぁ、それもあたしが仕込んでやるさ」

 

「了解です中尉」

 

「はい、ありがとうございます!」

 

 ラッセルとアイビスの返事が唱和する。

 

「して、相手側の小隊長に対しての所感は?」

 

 タスクがまたもや拳を差し出す。

 

 言うことなし、とカチーナは肩をすくめた。だれもその言葉を誤解しなかった。使い魔にすらどこか冷たい視線を投げかけられながらシミュレーター内に突っ伏しているマサキを、アイビスだけが一人懸命に慰めていた。

 

 

 昼食後、少しばかりの自由時間を挟んだ後、再び訓練が始まる。先ほどの模擬戦のペナルティもあって、アイビスとマサキはトレーニング・ルームに二人してこもり、延々と腹筋をこなしていた。

 

「サイバスター、にも、さ」

 

 器具の上で何度も上半身を起こしては倒しながら、アイビスは尋ねた。

 

「……っ……っ……なんだよ?」

 

「やっぱり、強いGが、かかるの?」

 

「……いや、ねえな……耐Gスーツとか、着たことねえし……」

 

 この場にツグミがいなくてよかったとアイビスは思った。

 

「でも、それにしては、体、よく鍛えてる、ね」

 

 アストロノーツ候補生であるアイビスは、身体作りにおいてそこいらの男にも負けないものをもっている。だがマサキは歯を食いしばりながらだが、アイビスのハイペースに食らいついていた。

 

「以前……剣を、習っててな」

 

「剣? 剣道?」

 

「……くはっ」

 

 ちょうど区切りがついたので、マサキは盛大に寝転んだ。

 

「どっちかっていうと剣術だな。住んでた家が結構な名門で、父親が師範をやってたんだ。武術をやれば魔装機の操縦にも役立つから、俺もすこし習ってた」

 

「へえ、跡継ぎなんだ」

 

「いや、俺は途中参加の家族だったし、継ぐなら実の娘の方さ。その父親も死んじまって、結局中途半端に終わっちまった」

 

 彼が身の上話をするのは珍しい。哨戒任務のときに聞けたのは結局さわりの部分のみで、時おりツグミがマサキを捕まえて彼の、というよりはサイバスターの出自についてあれやこれや尋ねることがあっても、その相手は大抵二匹の使い魔が務めている。

 

 なんとなく深く触れるのも憚られ、アイビスは「ふぅん」と相槌を打つだけに止めた。二人して口を閉じると、互いの呼吸だけしか聞こえなくなった。

 

「ごめんね。あたしに付き合わせちゃったみたいで」

 

「なに言ってんだ? 俺だろ、巻き込んでんのは。負けたのはどう見ても俺のせいだし」

 

「小隊のことだよ。なんか、あたしのお守りみたいな風になってるよね」

 

 小隊結成にあたって、キョウスケが最後に挙げた理由を、アイビスはもっとも重く受け取っていた。

 

「あたし、本当は全然だめなんだ。DCでも、プロジェクトでもへっぽこでさ。マサキの前だと、なんでか調子いいことが続いたけど」

 

 へっぽこねえ、とマサキは首を傾げた。

 

「でもあたし頑張るよ。足を引っ張らないように、頑張る」

 

「……」

 

 マサキは思っても見なかったような顔で、アイビスを見ていた。これまで空の上でしかアイビスと接してこなかったマサキは、「かっとび娘」の陸の上での姿を、このとき初めて目にしたのだ。

 

 タスクが言っていたのはこういうのかと、マサキは得心した。しかし共感には至らない。妙に弱々しいのは確かだが、頭を撫でたくなどはならないし、見ていて面白くもない。

 

 ふと思いついたように、マサキは立ち上がった。

 

「どこ行くの?」

 

「キョウスケに出撃の許可を貰ってくる」

 

 きょとんとしたアイビスを、マサキはじろりと見た。

 

「お前、これまで誰かと一緒に飛んだこと無かっただろ」

 

「? プロジェクトのころ何度も。あとDCにいたころも」

 

「ちゃんと背中を任せてか?」

 

「そういうのは……」

 

 なかった、気がする。

 

「でもマサキだって、一人だったんでしょ?」

 

「地上に出てからはな。まぁ、とにかくついて来な」

 

 言うが速いかマサキは身を翻し、とっとと駆け出していった。

 

 

   Ⅳ

 

 

 サイバスターとアステリオンが、晴れ渡る碧空を飛び回っていた。

 

 サイバスターのシミュレーター適用の確認のため、艦内訓練に甘んじていた二人だったが、もともとアビアノ基地にいる間は広大な敷地を利用しての実機訓練が許されており、シミュレーターに飽き飽きしていたパイロットたちはこぞって外に飛び出していた。

 

 それに遅れる形で参加したマサキとアイビスの両名は、目下ラトゥーニ、アラドのエレメントと模擬戦を演じている最中だった。

 

 基地の資材を借りて、アステリオンは武装の全てをペイント弾頭に換装しており、サイバスターも訓練用の模擬刀に持ち替えている。切り掛かっても機体を傷つけることなく、ただダメージの証として相手の身体に真っ赤な塗料が残る仕組みである。

 

 地上の開放感と格好の落書き道具を得て、マサキは嬉々としながらアラドの乗る量産型ヒュッケバインMk-2を追い回していた。

 

「ちょ、マサキさん、勘弁してくださいよ! あとで掃除すんの俺なんですけど」

 

 すでにアラドの機体は、二割ほどカラーリングが変わってしまっている。

 

「なあに、なんなら全身真っ赤にしてカチーナの奴にでもくれてやりゃぁいいさ」

 

「そんなー!」

 

 血相を変えてマサキから逃げ回るアラドだったが、見方を変えればよくサイバスターを陽動しているとも取れる。

 

「アラド、頑張って」

 

 同じく量産型ヒュッケバインMk-2に乗るラトゥーニは、マサキらと離れたところでアステリオンと交戦していた。相方ほど状況は悪くはないが、良くもない。

 

 ラトゥーニが駆る機体は、テスラ・ドライブこそ標準装備しているものの、とりわけ速度に特化したものではなく、ましてやアステリオンとでは最高速度において比べ物にならない。

 

 しかしアイビスが果敢に攻めても、ラトゥーニはそれを上手く受け流しては反撃に繋げている。結果アイビスとラトゥーニの戦いは一進一退を繰り返していた。もし誰かが乱入すれば、あっさりと釣り合いの崩れる微妙な天秤であったが、それをアラドに期待することは、ラトゥーニが精一杯身内びいきを込めても計算しても困難だった。

 

 アイビス機とラトゥーニ機が何度目かの交差を見せる。アステリオンの機銃をかいくぐりつつ、ラトゥーニもライフルを斉射するが双方直撃なし。

 

 また仕切り直し、と考えつつラトゥーニは機体を反転させたが、その先にいるはずのアステリオンの影がどこにも見えず、空にはただ槍の如くまっすぐに伸び上がる飛行機雲だけが浮かんでいた。

 

「上?」

 

 慌てて雲の先を見上げたラトゥーニの視界に、彼女の予測を越えたスピードで急上昇・急降下を果たしてきたアステリオンの銃口が飛び込んで来た。

 

 ラトゥーニであればギリギリ対応できるタイミングであったが、突如鳴り響いた警報に気を取られ、それは叶わなかった。後背からサイバスターが、機を見計らって急接近していたのだ。

 

 

「うっひゃあ」

 

 声を挙げたのは、発着場の隅に座るリュウセイ・ダテだった。

 

「終わったようだな」

 

 隣に経つライディース・F・ブランシュタインも、手の平で日差しを避けながら呟く。二人が見上げる先では銀と銀、青と青が織りなす空中戦が繰り広げられており、そしてたったいま決着が見えたところだった。ラトゥーニが下されたとあっては、二対一でアラドに勝ち目は無い。

 

「あのタイミングで挟み撃ちを仕掛けられては、ラトゥーニを責められないな。それにしても、あれが噂のマニューバーか」

 

「自分の番が来るまでに見られて良かったな」

 

「ああ」

 

 素直に頷く相方に、リュウセイはにっと笑った。

 

「降りて来るぜ。それじゃ、お迎えに行きますか」

 

 そうして歩き出す二人の行く手で、模擬戦を終えた四機がゆっくりと着陸した。

 

 コクピットから出たアイビスは、窮屈そうにヘルメットを取り去った。彼女が頭を振ると汗に湿った赤毛が陽光を反射しながら翻り、舞い踊る炎のようにも見える。

 

 アイビスがリフトロープで地面に降りると、先に降りていたマサキがうんと伸びをしているところだった。

 

「マサキ、か、勝ったよ。あたしたち」

 

「ああ。上手いことはまったな」

 

 つかず離れずで戦ってくるアラドとラトゥーニの照準をマサキに集中させ、それをアイビスが後ろから襲撃し、二人を分断させる。そのまま一対一が二組あるという状況を維持させつつ、機を見計らって合流して一機を集中攻撃する……というのがマサキの提案した作戦だった。ちなみにこれは、かつて彼が地底世界で同じく空中戦を得意とする仲間とよく行っていたものだった。

 

 結果はまさに狙い通り、相手チームは隊列崩壊の末の各個撃破の憂き目に合った。なお、アラドとラトゥーニに決定打を与えたのは、どちらもアイビスが放った弾だった。

 

「あ、あたし二機も落としちゃった」

 

「へえ。へっぽこにやられるたぁ、あいつらも情けねえな。かたや教導隊だってのに」

 

「ち、ちがうよ」

 

 アイビスは慌ててぶんぶんと首を振った。自分の腕前だけで落としたわけでは決してない。

 

「ああ、ちがうとも。わかるだろ? やれへっぽこだなんだっていうよりよっぽどでかいんだよ。二人いるってのはな」

 

 大きさ、速さ、強さ。これらと同様に「多」もまた力である。単独で遊撃をこなす怖いもの知らずのマサキでも、そのことは熟知していた。だからこそ、経緯こそ気に食わないが、本音のところでマサキはさほど現状を面倒くさがっていなかった。

 

「けど、ラトゥーニ相手に一人でよくやれてたな。あいつ、顔に似合わず嫌らしかったろ?」

 

 二人の後ろでは、俯くラトゥーニを右からはアラドが何度も頭を下げ、左からはリュウセイが肩を叩いて慰めていた。アイビスたちの話が聞かれている様子は無い。

 

「……すこしね」

 

「だろ?」

 

 声をひそめ、二人はこっそりと笑い合った。

 

 

 そしてこれよりさして時を置かず、正式にハガネ隊に配備されるようになったアイビスの身に、また一つ新たな契機となる出来事が起こった。

 

 実戦である。

 

 

 



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第四章:その名はフリューゲルス遊撃小隊

 

   Ⅰ

 

 

 当日0800時ごろ、アビアノ基地のレーダーが北北西より接近するノイエDC部隊の存在を感知した。むこうもこちらの存在に気付いているはずだが、方向転換せず逆に接近して来るところから襲撃、もしくは強硬突破の意志が見受けられる。もしかすればハガネ隊がアビアノに留まっている情報が伝わっていないのかもしれない。

 

 ただちに両艦内にてスクランブル警報がなされた。ハガネ隊の擁する英傑たちが続々と格納庫に集結する中、艦橋のオペレーターや観測士たちは敵部隊の規模や詳細の解明に全力をあげていた。その結果、敵はノイエDC所属の陸上戦艦三隻と判明。三個大隊に数えられる。

 

 航空能力を有するハガネとヒリュウ改ならば敵戦艦自体はさほど脅威に値しないが、その搭載機がリオン系列を中核とするならば、激しい空中戦になることが予想される。

 

 部隊は敵戦艦を目標とする突撃部隊、敵機迎撃および基地防衛を主眼とする迎撃部隊の二つに分けられ、当然後者に関しては空中戦を得意とする機体を中心に編成されることとなった。

 

「いいか、アイビス。前の哨戒任務中に言ったことを、まだ覚えているな?」

 

 出撃間際のわずかな時間に、イルムよりアイビスへ閉鎖通信が飛ぶ。

 

「はい!」

 

「今のお前はとにかく実戦の経験が少ない。訓練でアラド達に勝ったところで、新兵であることに変わりはないんだ。勝手な行動は二度も見逃さないぞ」

 

「はい!」

 

「いいか、今回もお前はサイバスターのうしろをひたすら追っかけろ。とにかく今回お前は生き残ることだけを考えて、そのために戦場では絶対僚機と離れるな。安心しろ、お前の小隊長はとびっきりだ。お前がなにもせずとも、周りの敵は勝手に落ちて行く。いいな!」

 

「はい!」

 

 イルムは回線を切り替えた。

 

「いいかマサキ・アンドー小隊長。今度からは勝手に飛んでもらうわけにはいかないからな。お前は親鳥で、お前の後ろにはひよっ子がいるってことを頭から一時も離すな。来る敵残らず、きっちりかっちり撃ち落とせ。いいな!」

 

「へいへい」

 

 急にお鉢が回って来たマサキは、気のないこと火を見るより明らかな返事を返した。

 

「返事は一回!」

 

「あいよ!」

 

「よし」

 

 鬱陶しげにマサキは舌打ちしたものだが、これは彼なりのポーズが多分に含まれている。

 

「なぁ、アイビス」

 

「な、なに?」

 

 呼びかけられたアイビスはうわずった声を出した。マサキとイルムのやり取りは、彼女には聞こえていない。

 

「なんなら呼び名を決めとかねえか?」

 

 モニターの通信窓に映る少年は、鼻の頭を掻きながらそう言った。

 

「呼び名?」

 

「キョウスケのところはアサルトなんとか、タスクんところはオクトなんとかって、あるだろ? 番号で呼ぶやつ」

 

「ああ、コール・サインのこと?」

 

「そう、それそれ」

 

 アイビスは思わず苦笑を漏らした。

 

「ひょっとして、羨ましかった?」

 

「んな……」

 

「分かるよ。なんか格好いいもんね」

 

 通信機の向こうのわめき声を右耳から左耳にしながら、アイビスは考えを巡らせた。アイビスの場合はプロジェクトの頃にもコール・サインがあったが、あれは単にパイロット候補生としての席順をそのまま当てはめたもので、あまり嬉しいものではなかった。

 

 何が良いだろう。

 

 気の利いた名前を探して、記憶の様々な場所に思考の網を放っていたアイビスだが、すぐに引きを見つけた。

 

「じゃぁ、フリューゲルスで。『翼』っていう意味の」

 

「言い辛くないか、それ」

 

「聞き間違えないことが大事だから。ウィングとかだと、通信状態によっては紛れちゃうんだ」

 

「ふーむ……よし、いいんじゃねぇか? たしかに聞き取りやすいし覚えやすいし、いい感じにお揃いだしな。じゃぁ、今日から俺がフリューゲルス・ワンだ」

 

「ツー了解……ふふ」

 

 フリューゲルスはドイツ語なんだけれど……と思いはしたものの、アイビスは口にしなかった。英独折衷のやや珍妙なコール・サインだが、二人の間でよければ、それで良かった。 

 

 たったこれだけのやり取りだったが、不思議とアイビスは、それまで体を雁字搦めにしていた緊張の糸が、すごしばかりほぐれているのに気づいた。

 

 かくして、のちに「地球圏最速」の名をほしいままにする銀と銀のエレメント、通称「フリューゲルス遊撃小隊」が誕生したのである。

 

 

   Ⅱ  

 

 

 そして戦いは始まった。

 

 サイバスターが空に在ることは、魚が水を得るよりもなお自然であり、必然であった。

 

「おらおらどいたどいたっ!」

 

 操縦者の品性は良く言って暴走族の特攻隊長といったところだが、その手足となる機体はどれほど低く見積もったところで改造バイクどころの話ではない。

 

 まず軽くサイバスターが翼を吹かせると、たちまちのうちに母艦との距離が広がり、戦線への一番乗りを果たした。

 

 早速接敵した最初の一機をマサキはすれ違い様に一刀両断した。続けざまに両刃の実体剣をさらに閃かせては近くの敵を切り伏せ、遠くの敵は一瞬で距離を詰めてやはり切り伏せた。

 

 獅子奮迅の働きと言って良かったが、すでにイルムからの忠告は大半が脳から抜け落ちているに違いない。それでもわずかに残った部分が、一ミリたりとも敵から目を離さないマサキに口を使わせる。

 

「しっかり、ついて来いよ!」

 

「言われなくても!」

 

 すぐさま威勢のよい声が返る。

 

 これだよ、これ。

 

 マサキは心からそう思った。

 

 一方アイビスは、敵に対するマサキのそれに勝るとも劣らぬ執念でサイバスターの背を追っていた。追うべきその背中が、一秒たりとも途絶えずに轟く砲声と爆音の中からアイビスの精神を守っていた。

 

 体中の血は頭上から足下までひっきりなしに往復し、至近距離を流れ弾のビームが掠めていくと、心臓までもが息を飲んで一瞬停止する。フライト開始から五分も経過しないうちに、アイビスは息を荒くしていた。

 

 殺意が雨あられと降り注ぐ、戦場という名の閉鎖空間。殺しが栄誉にして自尊となる異常空間。このようなものが世の中に当たり前のように存在していることに、いまさらながらアイビスは恐怖した。

 

 しかしどんな時でも、アイビスの目の前には常にサイバスターがいた。あの翼がアイビスの視界内にある限り、アイビスは自らの背にもまた、戦場を飛び越えるための翼があることを忘れずに済んだ。

 

 サイバスターがまた一機のバレリオンを撃墜した。火力と装甲に富み、それだけに鈍足なバレリオンではかの騎士と目が逢った時点ですでに撃墜されているも同じである。

 

 その洗練された機動に、アイビスは目を見張る。ああも躊躇い無く死地へと飛び込んでいける勇気と戦意はアイビスの理解を超える。なぜ、あそこまで戦えるのか。

 

 不毛な思考に耽るアイビスを罰するかのように、敵からのレーダー照射を受けて、アステリオンの警報が奇声をあげた。アイビスは慌てて回避行動を取ろうとするが、その反応は平時よりも数拍は遅れていた。

 

 しかしアステリオンが撃墜されるよりも早く、サイバスターの放った二機の自律砲台「ハイ・ファミリア」が、アイビスを後方から狙っていた敵機を即座に撃ち落とした。アイビスの無事を目視したマサキは、声をかけることもなく再び敵軍の方へと反転していく。

 

 年季が違った。もはや可視域が違うと言っても良い。後ろにも目が付いているかのような少年の戦いぶりに、アイビスは嘆息するしかない。

 

「そういえば、あれで年下なんだよね……」

 

 轟々たる戦火の中、一瞬とはいえ、アイビスは全くもって場違いな思考に捕われた。

 

 

 戦闘は早々と収束の兆しを見せ始めていた。ほんの数分前に、正面突破を十八番とするATXチームが疾風迅雷の勢いで敵陣中に殴り込みをかけ、敵艦の一隻を轟沈せしめた。それをを皮切りに、敵の攻勢が目に見えて和らいでいっていた。

 

 段々と遠くなる銃声と剣戟の音に釣られ、ゆっくりと興奮が冷めていくのをアイビスははっきりと自覚した。

 

(これが生き残るってことなんだ)

 

 アステリオンの両隣に寄り添っていた二機の「僚機」が、まるでアイビスの無事を祝うかのようにアステリオンの前で一度交差した。サイバスターが従える使い魔は、あれからずっとアイビスの直援についていたのだ。

 

 そしてサイバスター自身は、依然アステリオンの前方で退却を渋っている敵の一団を相手に切った張ったを続けている。

 

「一昨日、来やがれってんだ。阿呆ども!」

 

 火のついたような威勢で敵を追い立てていたマサキだったが、それが一部の敵機には悪く作用したらしい。とっとと逃げ失せてもらいたいマサキの意に反して、もはやこれまでと勝手に思い込んだ一機のリオンが、サイバスターの後背めがけて突撃を試みた。

 

 すでに消化試合と見て油断していたマサキは、精霊レーダーに映るその機影に気付かなかった。観測手を務める使い魔が現在出張中という不運も重なり、かくしてPT一機分の質量を持った弾丸はサイバスターの背中に直撃する……かと思われた。

 

「なんだ?」

 

 いきなり至近距離から爆風を受け、マサキは面食らった。

 

 突然背後で何かが爆発した、かと思えば黒煙に包まれたリオンが後ろから現れ、何をするでも無く墜落していく。何がどうなったのか、一瞬掴めなかった。

 

 しかしこの場で最も驚愕していたのは、奇跡的なタイミングによる射撃で相方の危機を救った当のアイビスの方だった。彼女の主観から状況を追うと、敵の一人がサイバスターの死角に迫っているのが見えたので、反射的に手を動かしたら、なにやら敵が爆発した……ということになる。その「反射的に動かされた手」が、正確に射撃操作の手順をなぞっていたのは、積み重ねた訓練の賜物に違いなかった。

 

「マ、マサキ、平気?」

 

「んん? あ、いや……すまねえ。助かった」

 

 アイビスはほっと息を付くが、素直に頭を下げるマサキに何故だか無性に頬が緩んだ。

 

「フリューゲルス・ツーよりワンへ。いいえ、小隊員の務めを果たしたまでです」

 

「……」

 

 助けられたのは確か、と何も言い返さずにおいたのは、マサキにしては珍しいくらいの自制心だった。

 

 そして全ての戦闘は終了した。

 

 フリューゲルス・ワン、撃墜数十二。

 

 フリューゲルス・ツー、撃墜数一。

 

 小隊総撃墜数、十三。

 

 アイビスの、ハガネ隊における初陣だった。

 

 

   Ⅲ

 

 

 戦闘が終わるごとにハガネ隊の各小隊はデブリーフィングを行い、小隊長はその内容をまとめた報告書を戦闘司令官に提出する義務を持つ。

 

 提出を受諾するため自室で待機していたキョウスケ・ナンブは、非常に珍しい客人が訪れたのを見て少しばかり眉を動かした。

 

「マサキか」

 

「ああ、俺だ。戦闘司令官への報告ってのをしにきた」

 

「そういえば、お前もいまや小隊長だったな」

 

 自分で告げたことなのだから忘れていたはずもないが、そううそぶかずにはいられないほど、キョウスケにとってそれは感慨深い事実だった。

 

 これまで個人で機動兵器を所有しているのを良いことに、自分の命令はおろか艦長クラス、さらには軍の体制や政治すら顧みず好き勝手に地球圏を飛び回っていたのが、目の前の少年なのだ。

 

「それで道案内を頼んでまで来たと。それは面倒をかけたな」

 

 道案内ことエクセレンは、閉じたドアに背を預けながら「ハァイ」とにこやかに手を振っていた。

 

「まあそういうわけで、ほら」

 

 マサキが差し出して来たA4サイズの紙を受け取り、キョウスケは首をかしげた。

 

「なんだこれは」

 

「報告書だ。義務なんだろ?」

 

「いや、そうではなく」

 

 キョウスケは紙面の一部分、やたらギザギザした物体と,、大気圏内戦闘機を現代アート風にアレンジしたような代物が並んで書かれているイラストを指差した。

 

「なんだ、これは?」

 

「サイバスターとアステリオンだよ。フォーメーションの説明だ。これから俺たちはこれでいく、ていうな」

 

 マサキは、数分前のアイビスとのやり取りを説明した。

 

 フリューゲルス遊撃小隊の記念すべき最初のデブリーフィングは、戦闘後の補給や修理に慌ただしい格納庫の隅で行われた。

 

「……とりあえず今のまま俺が前で、あんたが後ろでいく。基本形は間隔五、六百くらいで、百メートルくらいそっちが上」

 

「うん」

 

 マサキとアイビスは二人して、間に置かれた二個のボルトを覗き込んでいた。ちなみにマサキは和式便器に跨がっているかのような、いわゆるヤンキー座り、アイビスは足を崩した正座のような、いわゆる女の子座りをしていた。

 

 二人ともシャワーを一浴びしてきたばかりで髪が湿っており、マサキなどは首にタオルまでかけている。

 

「役割としては俺が囮と切り込みを兼ねるわけだ。とにかく俺が暴れる。すると敵は躍起になって俺を捕まえに来る。お前はそれを外から見る」

 

 いくつかの小さなネジが、チャラチャラと音を立てながら一方のボルトの周りに掻き集められた。ちなみにネジもボルトも、さきほどマサキがそこら辺に保管されていた資材から無断で拝借したものである。

 

「あたしが敵を後ろから撃つんだね」

 

「そう。まぁ、慣れない内は無理をするな。敵を落とすんじゃなく、俺が後ろを取られないように注意するくらいの気持ちでいい。その、あれだ、今日みたいにな」

 

 アイビスが笑みをこぼす。先の失態について笑ったのではなく、頼られることを嬉しく思ってのことだと何となく分かったので、マサキは何も言わなかった。

 

「次に小隊としての動きだ。小隊の役割っていうのはそれぞれ違う。キョウスケやカチーナのところは敵陣突破、カイのおっさんやイルムのとこなんかは戦線維持……みたくな」

 

「マサキはこれまで一人で動いてたんでしょ?」

 

 マサキは頷いた。

 

 ハガネ隊において、サイバスターは単独で戦場を臨機応変に駆け回る遊軍としての役割をになっていた。上空にて戦場を俯瞰し、味方の進軍が滞っている戦域を見つけては即座に突入して敵の数を減らす。減らし終われば、また次の戦域へと移る。とくに乱戦時は、敵だけを正確に識別する特殊MAPWが猛威を振るう。

 

 DC戦争、並びにL5戦役において、マサキとサイバスターはそうやって「非公式の撃墜王」の座を不動のものとした。

 

 そんな役割の特殊性から、マサキは何処の小隊に組み込まれず常に単機で行動して来たが、これからは違った。

 

「サイフラッシュを使うと、説明が難しいんだが、酷く疲れるんだ。だから連発は利かないし、隙もある。DCはともかく異星人が相手だと効きも悪くなる」

 

「取りこぼしを、あたしが狙うんだね。それからマサキが持ち直すまでの援護も」

 

「これについては、次の実戦前に一度確認しておきてえな。それから、あのいつぞやの奴みてえに手強い敵が現れた場合は」

 

「いつぞやの時みたいに連携して倒す、でしょ?」

 

 二人は同時に顔をあげ、不敵な笑みを浮かべ合った。自分の背中を見てくれる者ほど戦場であり難いものはない。

 

 要するにマサキは、本心ではアイビスの存在を歓迎しているのだ。

 

 

 そんな調子で、忙しく動き回る整備士たちからやや邪魔に思われつつも、二人の討議は小隊内の動きから小隊としての動きまでトントン拍子に進み、導きだされた結論をマサキが手早く、ものの数分で紙一枚にまとめてこうして持って来たという次第である。

 

 話の半分まで聞いたところで既にキョウスケは疲れたように眉間を抑え、エクセレンは俯きながら笑いをこらえていた。

 

「小隊内のモチベーションが良好なのは理解したが、書き直しだ」

 

 なんでだよ、と言い返そうとしたマサキにキョウスケは皆まで言わせなかった。

 

「いくらなんでも、こんな落書きじみたものを受け取れるか。俺があとでどやされる。とにかく再提出だ。明日まで待ってやる。正式な書式は誰かに教われ」

 

「はいはい。ここは女教師エクセレンにお任せあれ」

 

 壁の花を演じていたエクセレンが手を挙げる。

 

「冗談じゃないぜ。リョウトかクスハあたりに頼まぁ」

 

「だめよマーサ。人選からして上手いこと代わりに書かせようって魂胆がひしひしと感じられるわ。いい機会だから、ここは先生の愛と授業をたっぷり受け取りなさい。じゃないとこれから先、もう何処にも連れて行ってあげないわよ」

 

「こっちから願い下げだ。だいたいここに来るのだって、頼んだわけじゃねえ」

 

「はいはい。まぁ、いいから行きましょ? アイビスちゃんのこともあるから、別にすぐってわけじゃないし。キョウスケも遅れずに来なさいよ?」

 

 そう残して、エクセレンは依然不平を絶やさないマサキを強引に部屋の外に押し出していった。二人の耳障りな言い合いがドアに遮られたのを機に、キョウスケは三倍ほど広くなった気がする部屋の中で、またもや眉間を抑えてため息をついた。

 

 

   Ⅳ

 

 

 その日の夕食時、ハガネでは初陣を無事に終えた新たなる戦友に対する、簡素な祝勝会が開かれた。仕掛人の中心はイルムガルト、共謀者はタスク・シングウジだった。本人に事前通知はなく、意味ありげに笑うツグミに促されるまま食堂に足を踏み入れたアイビスは、途端に鳴り響いた幾つものクラッカーの破裂音に眼を白黒させた。

 

「見事、我が隊における初陣と初勝利と初戦果を同時に飾ったミス・アイビス・ダグラスに乾杯」

 

 イルムの調子の良い音頭に、すでに集結していたリュウセイ、ブリットらを初めとするパイロットの面々から一斉の拍手が重なり、アイビスの思考は真っ白に、そして顔面は真っ赤に染まってしまった。横にいるツグミの、そんなアイビスの混乱を見透かしたような笑みが、ますます拍車をかける。

 

「簡単な形でしか祝えんが、とにかくおめでとう。ずいぶん遅れたが、あらためて君たちを歓迎する」

 

 キョウスケの簡潔なスピーチを終え、参加者たちが次々と立食形式の夕食に群がった。ほとんどが合成食料であり、通常食堂で支給されるものを献立別に大皿に載せただけだが、演出を変えるだけでそれなりにご馳走の雰囲気は出ていた。

 

 主賓のアイビスとツグミは、各料理がふんだんに盛りつけられた皿をクスハとリオから手渡されていた。好印象稼ぎにその役目を狙っていたタスクは指を鳴らし、即座にレオナに野菜ばかりの皿を押し付けられることとなったのだが、アイビスたちに認知されることはなかった。

 

「俺なんかもう、初陣は散々でしたよ。相方がやられそうになって、前に出たら即撃ち墜とされて。いやまぁここの部隊の人達にやられたんですけどね」

 

 からからと笑うアラド・バランガに、アイビスは自分も笑うべきかどうか判断がつきかねた。彼もハガネ隊には途中参加した身の上であり、しかもアイビスとは違い敵軍から寝返るという形であったという。それがこうしてパイロットとして認められているのだから、異様なほどの懐の深い部隊である。

 

「よければ今度アイビスさん、俺に上手い飛び方ってやつを教えて下さいよ。ラトからも習ってんですけど、全然モノにならなくて」

 

 アイビスが答えようとする前に、横で聞いていたラトゥーニが「なんだか私が悪いみたい」と不服そうに呟いた。己の浅慮に気付いたアラドは、妹分に謝る前にまずカイ・キタムラ少佐より拳骨を受けた。

 

 ふとアイビスの目に、歓談の輪からやや外れて黙々とチキンにかぶりついているマサキ・アンドーの姿が写った。一応、唯一のチームメイトであるのに……と思うアイビスだったが、小隊長の方は食事に夢中でアイビスの視線に気付く様子も無い。

 

 話し相手だったアラドはラトゥーニへの平謝りに夢中であり、ツグミはリョウト・ヒカワらとメカ関連の話題で盛り上がっているようだ。他の者も、それぞれに親しい相手と飲み食いを交わしており、気づけばアイビスのところだけ少しばかりの空白地帯が出来上がっている。

 

 アイビスは皿とグラスを持ってそそくさと、逃げ込むようにマサキの下へと向かった。

 

 隣まで来て、ようやくマサキはアイビスに気付いた。

 

「よお」

 

「こんばんは」

 

 何やら恥ずかしそうにしているアイビスに、マサキは首をかしげた。

 

「お前、主役だろ。真ん中にいとけよ」

 

「こういうの慣れてなくてさ。よくあるの?」

 

「初めてでもないな。けど誰にだって必ずやるってほど余裕ある艦じゃねえさ」

 

「そっか。ラッキーだったのかな」

 

「そう思っとけよ。大した飯じゃねえけど」

 

 そう言ってマサキはプラスチックのコップに、ペットボトルの水を注いだ。

 

「そうだ、マサキ」

 

「ん?」

 

「今度さ、良ければあたしに飛び方を教えてよ」

 

 水を飲み干したマサキは、口元を拭い、笑った。

 

「ああ、構わねえよ」

 

 気軽に応じたマサキだったが、後に彼は様々な意味で、このことを後悔することになる。

 

 

   Ⅴ

 

 

 そうして時が過ぎ、墨を塗りたくったような深い、静かな夜がアビアノ基地を訪れた。ドックの中で、ハガネとヒリュウの二隻が、さながら鞘から抜かれるのを待つ刀のように身を横たえている。

 

 祝賀会も終わり、自室で眠りの態勢を整えたアイビスは、机で書き物をするツグミの背中をふと見やった。

 

 テスラ研と違って戦艦は狭い。「済まないが一つの部屋しか用意できない」と艦長から言い渡されたとき、アイビスの視界内でのみ数秒の停電が起きていた。

 

 しかし、案ずるよりも産むが易しというべきか、二人の共同生活は存外スムーズに進んだ。二段ベッドの使い方を始めとする互いのスペースの確保、荷物の置き場所、必要な家事の分担、その他最低限のルール等々は、全てツグミ主導でテキパキと定められ口を挟む隙こそなかったものの、その様子からは冷たい気配は見られなかった。

 

 当初、「あの」タカクラチーフと同居することに戦々恐々としていたアイビスだったが、夜寝るとき無造作にかけられた「おやすみ」の声はびっくりするほど穏やかで、翌朝に初めて見たツグミの無防備な寝起き姿と、その直後の照れたような表情には、どうしてだか胸が大きく脈打った。

 

 この艦に乗ってから、なにかが変わって来ている。

 

 元は敵だった者や異世界の勇者など不思議な縁が集うこの艦こそ、不思議な力を持っているのかもしれない。

 

「チーフ」

 

「なに? アイビス」

 

 ツグミが振り返ると、ベッドの中で天井を見つめるアイビスの口元は綻んでいた。

 

「いい艦ですね、ここ」

 

 ツグミはすこし黙り、「そうね」と笑い返した。つい先日まで、軍人ではないアイビスがこれまた軍人ではない、しかも見るからに粗暴な少年の下に就くとあって気を揉んでいたが、当のアイビスがそう言えるのであれば、ツグミには何も言うことは無いのだ。

 

「いつかあたしたちが宇宙へ行くときも……」

 

 アイビスの続きの言葉は夢の世界に消えた。ツグミは机上ライトの明るさを落とした。アイビスの寝顔を見るのはいまや初めてではない。その寝付きの良さは遊び疲れた子供を思わせるほどで、そのくせあまり寝相はよくない。なにやら抱きつき癖があるようで、寝る時は頭に敷いていたはずの枕は、朝になると何故か彼女の腕の中に移動していたりする。

 

 ハガネ隊に来るまで一度も見たことの無かった、アイビスのそういった姿はどれもが新鮮で、テスラ研脱出以来、ツグミの胸中に芽生えつつある思いに暖かな光と水を注いでいくようだった。

 

(随分長いこと一緒にいたのに、私はこの子のことを何も見ていなかったのね)

 

 彼女は今、報告書を書いている。誰に対してのものでもない、彼女が個人的につけているものであり、強いて言うならプロジェクトTDの業務の一環とも取れるかもしれない。

 

 ハガネ隊での生活を記す、さながら日誌のようなそれは、彼女自身の想いと、そしてアイビスの成長を綴るためものだった。その報告書を、いつかフィリオと共に、笑って読める日が来ればよい。

 

 ツグミはそう考えていた。

 

 

 



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幕間:フリューゲルス小隊の一日

 

 

   Ⅰ:深夜の二人

 

 

 イメージ・トレーニングにも区切りを付け、アイビスは遅めの入浴に向かうことにした。夜勤組のためなのか、戦艦とはいえバスルームは基本的に二十四時間自由に使える。洗面用具を収めた小さなバッグを拾い上げ、アイビスは部屋から出た。

 

 すると、

 

「うお」

 

「あ……」

 

 途端に、廊下で一人の少年と出くわした。

 

「なんだアイビスか。おどかすなよ」

 

「こ、こっちこそ。こんな夜更けにどうしたの?」

 

 深夜に男が自分の部屋の近くをうろついていれば女なら多少は身構えようものだが、アイビスにとって「マサキ」と「痴漢」の二言は、連想するのが不可能なほど相容れないものだった。

 

 マサキもマサキでまるでその辺りの自覚はなく、呑気にこきりこきりと肩を鳴らしている。

 

「ただの夜更かしだよ。タスクんとこでカードをやっててな。お前さんこそどうした。というか、隣に住んでたのか?」

 

「あたしは今からシャワーに行くところだけど、マサキの部屋とは隣じゃないよ」

 

「俺の部屋はB-12だぜ? すぐそこだ」

 

「すぐそこにあるのはA-12だよ。あたし達の部屋がA-11だから」

 

 証拠を示すように、アイビスが自室の扉に飾られている部屋番号を指差した。

 

「……くそ、またやっちまったか」

 

 この少年が類まれなほど個性的な方向感覚の持ち主だということを、遅ればせながらアイビスは理解するようになっていた。

 

「よければ部屋まで案内するよ」

 

「いらねぇ世話だよ。馬鹿にすんな」

 

 やや、きつい物言いだった。これがエクセレンあたりならば柔軟に対処したであろうが、アイビスには些か困難な芸当だった。さっと顔色を変えたアイビスに、むしろマサキの方が慌てた。

 

「いや、わりぃ」

 

「ううん。あたしこそ気が回らなくて」

 

「そうじゃねえだろ。どう見ても俺の八つ当たりだぜ」

 

「ううん。ごめん、無神経で」

 

 謝罪の応酬が三往復ほど続いた頃に、とうとうマサキがため息まじりに折れた。

 

 

 なんか勝手がちがうんだよな、とのマサキの呟きはアイビスの耳には届かなかった。

 

 フリューゲルス小隊が誕生して何が変わったかといえば、一つにマサキとアイビスの間にこうして空以外での付き合いが生じたことだろう。しかし、マサキとしてはどうにもしっくりこないところがあった。一度離陸すればあれほど気持ちよく機体をかっとばす女が、一度着陸すると何故こうも弱々しくなるのか。

 

 一方アイビスはそんなマサキの心境など露知らず、

 

(サイバスターに乗れば怖いものなしなのに、降りたら自分の部屋にすら辿り着けないっていうんだから、おかしいよね)

 

 しかし似たようなことを考えていた。

 

 前を歩きながらも、アイビスは時おり振り返ってマサキがちゃんと付いて来ているかどうか確かめた。さすがに過保護かと思われるが、実際のところマサキはこれまでにも道案内付きで道に迷ったことが数度あるので、それを鑑みれば必要な慎重さと言えた。

 

「そこを右に曲がるよ」

 

「ああ」

 

「しばらく真っ直ぐ歩くから。曲がっちゃだめだよ」

 

「おう」

 

 いずれにせよ、戦場や訓練時とは、まったく逆の光景だった。

 

(なんだろう。なんか、変な感じ)

 

 新鮮な感覚だった。平時の主従が反転し、普段とは異なる新鮮な空気が二人の間に吹き込まれている。事実として、連れ立って歩く今の二人は端からすれば姉弟か、あるいは親鳥とひよこのようにも見えただろう。

 

 それがアイビスには、どういうわけか、とても面白く感じられた。

 

 部屋の前につき、たしかに自分の部屋番号が書かれていることを確認するとマサキは頭を掻いた。

 

「ありがとよ」

 

 さすがに気恥ずかしいのか、頭を掻きながら礼を言うマサキに、アイビスは少し調子に乗ってみせた。

 

「いいよ、これくらい。空でもちゃんと付いて来てね」

 

「ぬかせ。一度飛んじまえば、こっちのもんよ。誰の背中も拝む気はないね」

 

 腕を組んでそっぽを向くマサキに、アイビスは口元を抑えて笑いを堪えた。

 

「なんだよ?」

 

「いや、エクセレン少尉の気持ちがなんとなく分かって」

 

「なんだそれ」

 

「なんでもないよ。おやすみマサキ。明日もよろしく」

 

 マサキは訝しみながらも、素直に部屋に入った。残されたアイビスはバッグを抱え直し、軽い足取りで当初の目的地に向かう。

 

 途中、廊下で誰ともすれ違わなかったのはアイビスにとって幸いなことだっただろう。数歩あるく度に、くすくすと思い出し笑いをこぼすようでは、もし誰かに見られたらさぞ怪訝に思われたに違いないのだから。

 

 

   Ⅱ:朝の二人

 

 

「どうして俺が整備なんかを手伝うんだ」

 

 作業用のヘルメットを人差し指でくるくると回しながら、マサキは目の前の銀巨人を忌々しげに見上げた。サイバスターではない。人体と航空力学を融和させたかのようなその独特なシルエットは、彼の唯一の部下が乗る機体だった。

 

 シリーズ77 αプロト

 

 アマード・モジュール アステリオン

 

「カイ少佐からのお達しなんでしょ? 素直に聞いとかないと後で大目玉をもらうよ」

 

 そう嗜めるのはリョウト・ヒカワである。今日は整備士の方の草鞋を履いているらしく、足首にある整備用パネルのコネクタにハンディパソコンを繋ぎ、表示される情報群を斜め読みしている。すっかりアステリオンの整備にも慣れた様子だった。

 

「だから、なんでそんなお達しが出たのかってことだ。俺に整備なんか出来るわけ無いだろ」

 

「ちゃんと説明はあったけど、マサキがモニレポに出てこないのが悪いんだよ」

 

「言っておくが、寝坊したわけじゃねえぞ」

 

「まだマシだと思うよ、そっちの方が。ともかく、別に整備することが大事なんじゃなくて、それを通じて部下の機体のことをもっとよく知るようにってことだよ」

 

「機体のことねえ」

 

 そういったことは実際に共に飛んでこそ、というのがマサキの持論だった。しかし、現在のハガネ隊はすでにアビアノ基地を離れ、高度三千メートルを航行中である。この間の機動兵器の離発着は事故の元として厳しく制限されており、訓練目的ではなかなか許可が下りない。

 

 フリューゲルス小隊が結成されてから、まだまだ日が浅い。しかも他と違い、この小隊の構成員は互いの機体構造について、まるで予備知識がない。カイ・キタムラが今回のようなことをマサキに命じたのも、それを補う工夫の一環としてのことだった。

 

 一応はそれを理解してのことか、マサキは小脇に抱えていたアステリオンのマニュアルを開き、目を通すだけでもしようとする。ツグミがデータで所持していたものをプリントアウトしたもので、週刊少年漫画誌ほどの厚さもあった。五秒で閉じて、あとでクロとシロに読ませておこうと決めた。

 

(偵察、哨戒、輸送……あとは補給隊の出迎えとかか。この際、雑用でもなんでもいいから、出撃さえできるなら優先的に回してもらうかな)

 

 以前までは考えもしなかったことに思いを馳せる。もし口に出していて、それを例えばレフィーナ・エンフィールド艦長あたりが耳にしていたら、そっと目尻を拭ったかもしれない。

 

 なお肝心のアステリオンのパイロットはというと、いま実際に機体に乗り込んで機体各部の稼働具合を確かめている最中だった。朝の体操のようなものであるが、外にいる整備士たちとの連携もあり、きちんとした作業手順が存在する。

 

 一つの項目を終えて、アイビスは次の流れを頭の中で確認した。

 

(次は右腕部サーボモータのチェック)

 

 そしてモニターに映る彼女の小隊長をちらりと窺う。

 

(だよね?)

 

 そのようなことを尋ねても、きっと彼は「知るか、そんなの」などとしか言わないだろうと分かっているが、遊び心である。

 

 カイ少佐の命令でああして部下の整備を監督しているものの、そのいかにも所在なさげな、あるいは困ったような佇まいは、先ほどからずっとアイビスの口元を綻ばせていた。

 

 また一方で、今度は自分がサイバスターの整備を手伝わねばと生真面目なことを考える。カイ少佐の助言は、アイビスにとって全く正しいものに思えた。二人っきりの小隊であるのだから、自分たちはもっとお互いのことを知っておく必要があるのだろう。

 

 

 マサキの思案は続いていた。

 

 敵として戦うにせよ、味方として共闘するにせよ、いくら機体のスペックを知ったところで動かすのが人である以上、乗り手を知るに如くはない。

 

 どうしたものか考えつつ、マサキはアステリオンの青白い双眸をなんとはなしに見上げた。当たり前ではあるがそこに見えるのはいかにも無機的な煌めきで、意志というか、余分なものが感じられない。ただ、飛ぶために飛ぶ。そういった印象を受ける。

 

 乗り手と似てるな。

 

 マサキは、ふとそう感じた。

 

 

 メインカメラを凝視されると、当然コクピットの中にいるアイビスにとっては自分自身を凝視されているも同じとなる。落ち着かないものを感じながらも、アイビスは見られるがままに身を任せた。

 

 仕返しというわけではないが、自分も見つめ返してみた。右手でヘルメットを遊ばせている以外は、彼はいつもの出で立ちだった。Tシャツにジャケット、ジーパン。軍艦ではいかにも浮く格好。

 

 立場上でも彼は明らかな異端者だ。軍人でも傭兵でもない一個人。艦長命令にすら、彼は承諾はしても服従はしない。何から何までが異常なのに、まるでそのようなことは意に介さず堂々と歩き、そして認められている。

 

 機体とおんなじだ。

 

 アイビスは、ふとそう感じた。

 

 

 稼働チェックを終え、アイビスはコクピットハッチを開き、外に降りた。そして小隊長の前で、かかとを揃える。

 

「フリューゲルス・ツー。整備、完了しました。随時出撃可能です」

 

「ご苦労」

 

 マサキは鷹揚に頷いてみせ、すぐに肩をすくめて笑った。

 

「お疲れさん。んじゃ、訓練やるか」

 

「うん」

 

 

   Ⅲ:昼の二人

 

 

 シミュレーター訓練もおぼつかないという、小隊としては致命的な欠陥を抱えたまま結成されたフリューゲルス小隊だったが、あれから幾らかの試行錯誤があって事態は大幅の改善を見ていた。

 

 経緯はいたって単純だった。サイバスターのシステムをハガネのシミュレーターマシンで再現することは今もなお困難であるが、逆はそうでもなかったのだ。早い話、サイバスターのラプラス・コンピュータでシミュレーターのシステムをまるごとエミュレートしてしまうのである。ラ・ギアスと地上ではプログラムの仕組みからして異なるが、ラ・ギアスの方ではある程度まで地上技術を把握しているため、システムを吸収するのも不可能ではなかった。

 

 細かな技術的仕組みや、それを成立させるために二匹の使い魔がどれほど睡眠時間を削ったかなどはさておき、結果だけを見るとマサキはサイバスターの中から、アイビスは通常通りシミュレーターマシンの中から、同時に同じシミュレーションを体験することが可能となった。ようやく、他の小隊と同じ条件になったというわけである。

 

「お前、なんて顔をしてやがる」

 

「……ごめん」

 

 今回のカリキュラムは、ホワイトスターやアイドネウス基地などの敵軍事施設突入を想定した屋内戦闘訓練だった。空戦を本領とするフリューゲルス小隊にとっては不向きと断言するほかない設定であり、なおかつ相手はかのATXチームである。このたびはそれぞれの人数を合わせ、マサキ・アイビスとキョウスケ・エクセレンのエレメント対決という形式となった。

 

 大方の予想通り、第一試合はフリューゲルス小隊の敗北に終わった。スコアは2-1。失点はアイビスの被撃墜によるものである。

 

 サイバスターの爪先に腰掛けるマサキの前で、アイビスは消沈しきった様子でへたりこんでいた。撃墜されたことだけが落ち込む理由ではない——とはいっても、鳩尾を杭打ち機で思いきり打ち抜かれた後、続けざまの肩部クレイモアで機体体積の五割以上を吹っ飛ばされたことは相応に衝撃的ではあったが——その後もマサキがあの二人の悪魔的なコンビネーションを相手に、制限時間が訪れるまで単独で持ちこたえて見せたことが、尚更アイビスを打ちのめしていた。

 

「ごめん。足、引っ張っちゃって……」

 

「あ〜……まぁいい。二回戦行くぞ。今度はキョウスケの方を抑えとくから、お前はエクセレンと存分にやり合ってこい」

 

「……うん」

 

 して、結果はフリューゲルス小隊の二連敗となった。失点の理由はもはや言うまでもない。

 

「お前……これまたなんて顔をしてやがる」

 

「……」

 

 もはやアイビスには謝る気力もなかった。

 

 

 三回戦を行う前に、十分間の休憩を取ることになった。提案したのはマサキで、言うなれば作戦タイムである。

 

「あのな、言っておくけどな。そうまでお前が落ち込む必要は全くねえんだ」

 

「……」

 

「そもそもだ。空戦特化のアーマード・モジュールが、狭苦しい場所での白兵戦で、白兵馬鹿のアルトに勝とうなんざ、よっぽどの腕の差が無い限り無理に決まってんだ。いいか? 餅は餅屋、蛇の道は蛇、バフォームにはガッデスと言ってな」

 

「ばふぉーむ?」

 

「口を挟むな」

 

「ごめん」

 

「よし。つまり、今回の訓練の目的が何かっていうと……」

 

 懇々と諭すマサキに、離れた場所からそれを見ていたエクセレンは面白そうに目を瞬かせていた。

 

「意外というかなんというか、マーサったら、ちゃんと小隊長やってるわねえ」

 

「そうだな」

 

 気の無い返事だったが、彼らに関心を向けているのはキョウスケも同じだ。マサキが戦術論を口にするなど、滅多にあることではない。

 

 餅は餅屋。その弁を聞くに、やはりマサキ・アンドーは地底世界においても、いわゆる「兵士」とは全く異なる立場にあったのではないかと思えた。

 

 こういう考え方もある。戦場での機体適正の差は実力の差。不向きだろうが不得手だろうが、勝てと命令されれば勝つしかない。良く言えばプロフェッショナリズム、悪く言えば下請け根性。つまりは駒の考え方だ。

 

 マサキは勝てない者が無理に勝つ必要はないと考えているようだった。得手・不得手を弁えず、強引にあたったところで意味は無い。勝てる者が代わりに勝てば良い。合理的とも言えるが、兵士の考えとしては自由すぎた。なぜならそれは指し手の考え方だからだ。

 

 かといって彼が過去、軍でいうところの佐官・将官クラスの職位に就いていたと見るのも無理があるだろう。おそらくは軍とはまるで性格の違う戦闘集団。彼と同じような「兵士」ではなく「戦士」が集う特異な組織。きっとそのようなものがマサキ・アンドーの第二の故郷にはあって、彼はそこに所属していたのではないか……と、キョウスケは想像力を働かせる。

 

 気付けば十分はとうに過ぎ、キョウスケらの前に、たった一人の部下を引き連れたフリューゲルス小隊々長がふんぞり返った。

 

「待たせたな」

 

「ううん、私もいま来たとこ」

 

 しなをつくるエクセレンにアイビスがぎょっとするが、男二人は一切取り合わなかった。

 

「三度目の正直だ」

 

「二度あることは三度あるとも言うがな」

 

「ほざけ。てめーらを血祭りにあげて、昼飯の献立に加えてやらぁ」

 

 気炎を吐きやまぬ小隊長が背後に目を向けると、いかなるやり取りの末か、先ほどまでの影を一切取り払った小隊長が力強く頷いた。

 

「やるぞ、アイビス!」

 

「はい!」

 

 かくして三回戦が始まった。

 

 

 砲撃主体のヴァイスリッターよりは組み易しと見てか、三戦目においてアイビスのアステリオンは再びキョウスケの前に立ちはだかってきた。

 

 一手、二手を交えたところで、キョウスケは一戦目とまるで手応えが違うことに気付いた。技術ではなく、スタンスの問題である。懸命にアルトアイゼンを押し返そうとしていた初戦と違い、今のアイビスは張り合うことをやめて守りに専念している。

 

 要は時間稼ぎだ。そしてそれは、今回の模擬戦にあたってキョウスケがもっとも懸念していたことであった。キョウスケがアイビスに手こずってしまうと、相方のエクセレンは単機でサイバスターの相手をしなくてはならなくなる。うまくない状況である。

 

 かといってサイバスターに狙いを切り替えるのもうまくない。アイビスに背後をさらすことになるというのが一つ。そしてこれまでの二戦、キョウスケたちは結局マサキだけは仕留めきることができずにいたというのが二つ目。勝つためには、言葉は悪いが弱点たる彼女を狙うのが最善だった。

 

 狙いに変更無し。キョウスケは静かに闘志を燃やし始める。

 

 対するアイビスは、相手の一挙手一投足をも見逃さぬ執念で、眼前の赤巨人を睨みつけていた。十分間の中で聞いた、マサキの言葉を思い返す。

 

「速度という言葉に惑わされるなよ。奴は確かに速いが、ありゃ猪の速さだ。加速力とか突進力とか馬力とか、そういう類いのものなんだ。お前はちがう。特性の違いを弁えてりゃお前は勝つ……とまではいかなくとも負けはしねえ。しばらくの間は」

 

「それってダメなんじゃ」

 

「集中力の問題だよ。守り一辺倒ってのは、なんにせよいつか負けるものなんだ。でも、それで十分だ。タイムアップまで保たせろとは言わねえ。俺がエクセレンを仕留めるまででいい。お前が負けないでいることが俺の勝ちを作る。それが俺達の勝ちに繋がる。だからお前は負けるな。絶対負けるな」

 

 負けない。

 

 アイビスはそう念じた。念動力の素養がなくとも、プラーナ変換機がなくとも、意志は力だ。アイビスはひたすら念を練り上げた。

 

 アルトアイゼンとヴァイスリッターのコンビネーションは阿吽の域にある。彼らは二人で一人。追随を許さぬ長所と致命的な短所をそれぞれ抱える二機が、互いに背中を預け、補い合ったとき、そこに一体の怪物が生まれる。この怪物の前ではサイバスターですら苦戦は必至であり、ましてや翼を抑えられた今の環境では、防戦一方が関の山となる。

 

 しかしアイビスは確信していた。

 

 キョウスケかエクセレン、どちらか一方とならば、絶対にマサキは負けない。必ず首級を手土産に、自分を助けに来てくれる。

 

 だから絶対負けない。

 

 あたしが負けさえしなければ、マサキも負けない。

 

 そうすればあたしたちが勝つ。

 

 

 勝つ。

 

 マサキはそう念じた。眼前の白巨人……ヴァイスリッターは機動力と砲撃能力に長けた機体である。その持ち前の素早さと間断なき狙撃を駆使して、開戦直後から今に至るまでサイバスターとの距離をひたすら維持しようとしている。嫌らしくも巧妙な立ち回りだった。

 

 しかしマサキは確信していた。

 

 俺が勝つ。

 

 手を焼かせるが、時間の問題だ。あいつがあの突撃馬鹿を抑えていてくれさえすれば、俺が勝つ。勝てばあいつのとこに行ける。

 

 そうすれば、俺たちが勝つ。

 

 

 果たして、決着の時が訪れた。

 

「エクセレン!」

 

 サイバスターの翼からスラスターが迸り、剣が一層煌めきを強めると、エクセレンの背筋に直感めいた戦慄が走った。

 

「げ、やば……」

 

「もらったっ!」

 

 電光一閃。

 

 ビームと実弾の入り交じる弾幕の合間を縫って、サイバスターの剣が真一文字に空を裂く。

 

 その真っ直ぐで涼やかな剣閃の前に、純白色をした怪物の片割れは上下見事に両断された。

 

 もう一方では、

 

「ここだ……!」

 

 深紅に染まる怪物のもう片割れが、爆発的な加速をもってして両者間の距離を一瞬にしてゼロとした。悪夢のような光景にアイビスは息をのみ、声を上げた。

 

「うわぁぁぁぁっ!」

 

 断じて悲鳴ではない。

 

 雄叫びである。聞いた者がどう思うかは別にして、アイビスの中ではそうだった。

 

 なんにせよ、赤巨人の右手に装填された凶悪極まりないパイルバンカーが、アステリオンの鳩尾を問答無用に撃ち貫こうとしたその寸前、アステリオンの両肩から槍のように伸びるEフィールド発生装置がフル回転で稼働した。同時にフットペダルを目一杯踏み込んでの全速離脱。

 

 最大の防御と最速の回避を一息に、赤巨人が繰り出す暴虐のベクトルはかろうじて反らされた。ふた筋の電光が交差する。瞬く間に縮まった両者の距離は、ふたたび瞬く間に開ききった。

 

 キョウスケが敗北を認めたのはこのときだった。会心の一撃は躱されたものの、アイビスの集中力は明らかに途切れつつある。もう一、二手押し込めば撃墜も可能だろうと思えた。一対一ならば。

 

 全速力で離脱していくアステリオンのさらに向こうから、正反対に全速力で突撃してくる一つの機影があった。言うまでもなくエクセレンを仕留めたマサキが、返す刀で次なる敵を狙って来たのである。

 

「こちらフリューゲルス・ツー。こらえました!」

 

「こちらフリューゲルス・ワン。よくやった!」

 

 アイビスとマサキ、双方健在にして意気軒昂。単独でこれを打ち崩すのは非常に厳しい。しかも制限時間があってはなおのことだ。忸怩たるものを感じつつ、キョウスケはそう認めた……。

 

 

 タイムアップ

 

 スコア 1-2

 

 判定 フリューゲルス小隊の勝利

 

 

 マサキがサイバスターから降りると、そこにはもう既にアイビスが立っていた。サイバスターのいる格納庫とシミュレータ・ルームは少し離れているのだが、全力で走って来たのだろう、大きく肩で息をしている。しかしその表情は、喜びと興奮で眩いばかりに輝いていた。

 

「なんて顔してやがる」

 

 との思いを、マサキは今度は口にしなかった。今の自分も人のことを言えた顔ではないと分かっていたからだ。

 

 二人はどちらからともなく、手の平を掲げ合い、叩き合った。弾けるような音が格納庫に響いた。

 

「よし、メシだ!」

 

「うん!」

 

 打てば鳴るような返事にますます気を良くしながら、マサキは肩で風を切って歩き出した。しかし格納庫を出て、通路を右に曲がりいざ食堂へ……というところでアイビスに腕を掴まれる。

 

「食堂はこっち」

 

「……」

 

 いくらかの沈黙を挟んだ後、二人は歩みを再開した。無論のこと、今度はアイビスが前になってである。

 

 

   Ⅳ:休み時間の二人  

 

 

 食後のラウンジには多くの者が集まる。パイロットたちだけでなく、整備員、ブリッジクルー、その他の業務に携わる乗組員たち。テレビの他にも将棋盤やチェスなどといった簡易な娯楽も用意されており、午後の業務に入る前の、一時の憩いの場だった。

 

「それで負けちまったわけだ」

 

「ままま負けじゃないわよ。二勝一敗だもの。勝ちよ勝ち。ねえキョウスケ」

 

「ああ」

 

「ほら見なさい」

 

「でも肝心の三度目の正直では負けちまったんだろ?」

 

「ああ」

 

「キョウスケ!」

 

 キョウスケはポーカーフェイスを崩さず、コーヒーを一すすりした。別に上の空なわけではなく、リュウセイとエクセレン、どちらの言も正しいので頷いたというだけである。

 

「にしてもマーサってば。今までの自堕落振りが嘘みたいな熱の入れようよね。妹ちゃんがいるって聞いたことあるし、もともと面倒見は良い方だったんだろうけど」

 

「シミュレーター訓練が可能になったことで、エネルギーの持って行き場を見つけたんだろう。ハガネ隊の全小隊に勝利するのが、当面の訓練目標だそうだ」

 

「げ。すると次は俺たち?」

 

 リュウセイが所属するSRXチームは、今のところフリューゲルス小隊と対戦経験がない。いやそうな顔をするリュウセイだったが、隣に座るチームメイトたちの方はというとまんざらでもない様子だった。

 

「対特機戦の訓練となると、相手はどうしてもグルンガスト系列に縛られがちだ。幅が広がって、何よりだ」

 

 とライディース。

 

「特機・一、AM・一という組み合わせは、私たちとも似ているし、色々と発見が期待できるわ。うまく噛み合えば、双方の練度が向上する」

 

 とヴィレッタ。

 

「形としてはSRXとサイバスター、R-GUNとアステリオンの戦いになるのかしら。環境によっては分離状態を維持した方が有効かもね」

 

 とアヤ。

 

 どうやら一名以外は望むところであるらしかった。先の話になるが、その戦いはこれより二日後に実現することとなり、その内容たるやパイロット達の間で長らく語りぐさとなるほど白熱したものだったという。

 

 リュウセイは、やや離れたところにあるラウンジの一角を見やった。さきほどから話題の渦中であるフリューゲルス小隊の二名がそこを陣取っているのだが、リュウセイたちのうわさ話に反応する様子は無い。二人して昼寝中であるためである。

 

 まだまだ小隊として成熟しきっていないなか激戦をこなし、腹も満たしたところでさすがに疲れが出たのだろう。マサキは足をテーブルの上に乗せたいかにも行儀の悪い体勢で、隣のアイビスは慎ましく身を縮こませながら、それぞれ寝息を立てている。

 

(どう言やいいんだろ)

 

 リュウセイは思った。

 

 対照的のような、似た者同士のような、何とも言えない二人組。一応男と女ではあるのだが色めいた雰囲気は見えず、かといってただの隊長・隊員という言葉で片付けるには、眠る二人の間隔は妙に近い気がした。

 

(まあ、よほど気が合ったんだろうな)

 

 気が合う。うまが合う。

 

 上手く表現できないが、きっとそういう二人なのだ。人間関係の機微に聡い方ではないとの自覚はありつつも、リュウセイは彼なりにそう結論づけた。それは決して間違いではないことだった。

 

 ちなみに、仲良く眠りこける二人の様子は娯楽に飢える乗組員たちの格好の餌となっており、携帯端末を使ってこっそり写真を撮る者も何人かいた。

 

 エクセレンもその一人であり、とりわけアイビスの寝顔のアップは、日頃あまりカメラ機能を活用しない彼女としても会心の一枚に思えた。

 

 画像の中のアイビスは、安らかな寝顔で眠りについていた。それは子供のようにあどけなく、邪気の無い、何かを信頼しきったような顔だった。

 

 

   Ⅴ:夕方の二人とツグミ

 

 

「ほら、これが今日の分だ」

 

「ありがとう」

 

 午後の訓練が終わりアイビスを休憩に行かせたあと、マサキはツグミの下を訪ねていた。訓練結果のデータを渡すためであり、フリューゲルス小隊が正式稼働してから日課となっていることだった。

 

 これについては小隊長の義務というわけではなく、ツグミが個人的にマサキに依頼をかけたものである。億劫には思いつつも、マサキはこれまでのところ一度も欠かさずに提出していた。といってもデータ自体はクロとシロが纏めており、マサキは末尾に軽く所感文を加えるだけだったが。

 

 ATXチームとの対戦映像と、並行して推移する様々なデータグラフを、ツグミは注意深くチェックしていった。手持ち無沙汰なマサキは、椅子に座りあくびをかみ殺す。

 

 ちなみに、毎日こうして二人が会っていることはアイビスには伝えられてない。ちょっとした密会というわけだが、マサキとしては父兄面談と言われた方が感覚としては近かった。自分が教師で誰かさんが生徒、そして目の前にいるのは口うるさい保護者というわけだ。

 

「あなたにはお礼を言わないとね」

 

「ん?」

 

 ハンディパソコンから顔を上げて、ツグミはマサキの目を正面から見た。

 

「プロジェクトを代表して、礼を言うわ。本当にありがとう」

 

「なんだよ急に」

 

「アイビスは今成長している。データにはっきりと表れているの。あなたの小隊員になってから、あの子は一日ごとに上達している」

 

 それは決して戦闘技術だけの話ではなかった。いまツグミのパソコンには、ヴァイスリッターの砲撃を見事にかいくぐるアステリオンの姿が映し出されていた。性能だけで行えることではない。乗り換え当初は振り回されるばかりであったアステリオンの性能に、アイビスが習熟しつつある証左だった。

 

「ほら見て、アイビスがこんな動きを。フィリオがここにいないのが残念でならないわ。きっと、だれよりも大喜びしてくれたのに」

 

「毎日訓練やってりゃ、誰だってそうなるさ」

 

「そんなことない。テスラ研でだって、質も量も負けないくらいのものをやってた。でも、これまであの子はそれに上手く噛み合うことができないでいた」

 

「訓練の仕方が悪かったんじゃないのか? あいつはちゃんと教えれば、ちゃんと分かるやつだぜ? たまに空回りはするが、そんときゃ止めてやればいいだけだ」

 

「そう、それなのよ」

 

 ツグミは勢いよく身を乗り出し、同じ分だけマサキはのけぞった。

 

「たったそれだけのことよ。でもそれをする人間が、今まであの子の近くにはいなかったのよ」

 

「お、おい」

 

「だからあの子は、ずっと一人でもがいていたのよ。上手くなりたいのに上手くなれなくて。何もかもが上手くいかないで。それを一人で受け止めて、一人で乗り越えようともがいていたのよ」

 

 椅子に座り直すと、ツグミの声色は打って変わって重苦しくなった。

 

「だから成長が遅かった。才能が無い、なんて思ってたのかもしれない。あの子自身も、あの子を見てた私も。数値とマシンのことばかりで、私たちは人間を軽視してたのよ」

 

 マサキは困ったように天井を見上げた。苦手な雰囲気だったからだ。

 

「やれば出来る奴だって分かったんなら、次からそういう風に接すりゃいいってだけだろ? 今俺がやってることを、ハガネ隊から降りたら、あんたがやりゃいいだけの話じゃねえか」

 

「……そう、上手く切り替えられないわよ。人間って」

 

「なんでだ」

 

「私とアイビスは、結局のところチーフと候補生だもの。なんか上下関係ができちゃってて。一応、色々と試みてはいるんだけど、なかなか……前に一緒にご飯を食べたんだけど、堅苦しい話ばっかりで……」

 

 俯いたツグミに、ふと、マサキは遠い遠い記憶を蘇らせた。ラ・ギアスに召喚されるよりもずっと以前のことだ。当時、彼は魔装機の魔の字も知らない一介の学生で、授業やテストに四苦八苦し、部活に情熱を燃やすだけの平凡な日々を送っていた。そんな中、マサキが所属していたボクシング部の部長から、今のツグミと同じような話を聞かされたことがあったのだ。

 

「俺、実はマネージャーの○×が好きなんだ。それでなんとか距離を縮めたいんだけど、お茶とか誘っても、結局部活の話ばっかりで、なかなかさ……」

 

 似て非なる問題だが、「似て、非なる」ということは似ていることには違いないとマサキは大雑把に解釈する。そして結果だけ述べると、この部長は見事のちに想いを成就させ、その秘訣を訊いてもいないのにマサキに懇切丁寧かつ自慢げに伝授した。

 

 マサキは脳の海馬をひっくり返して、その内容を思い出そうとした。あれは、あれは確か……。

 

「呼び方を変えさせるといいらしいわよ」

 

「え?」

 

「ん?」

 

 いつの間にかマサキの影から出て来ていた使い魔のクロが、主に代わって答えを述べていた。

 

「いつまでも部長部長と呼ばれてると、呼ばれる方も呼ぶ方もその型に嵌っちゃうのよ。だから適当な理由を付けて名前で呼ぶように上手いことお願いすると、ニャんだか新鮮ニャ感じにニャって、関係が変わりやすくニャるみたい」

 

「部長?」

 

「ものの例えよ。これでいい? マサキ」

 

 そう言って黒猫は器用に片目を瞑り、ふたたび主の影へと還って行った。

 

「名前で呼ばせる……」

 

 意外な人物(?)からの意外な助言に、ツグミは思っても見なかったような顔でしばり黙り込んだ。やがてクロの言を租借し終えると、妙に真剣な面持ちになり、

 

「いいかもしれない」

 

 と呟いた。

 

 

 問題は解決したらしいので、マサキは自分の用向きを伝えることにした。

 

「そのプロジェクトの訓練内容ってやつを、良ければ教えてくれよ。使えそうなら訓練に取り入れようと思ってな。俺も少し興味あるし」

 

 ツグミにとっては全く願っても無いことだった。

 

「いいの?」

 

「あくまで使えそうなら、だ。全く実戦に結びつかないようなものは……まぁ、何かのついでにやってもいいが確約はできねえ。ただそういうのばっかりでもないんだろ? あいつのマニューバーなんたらとかを見るにさ」

 

 マサキの認識は正しく、アイビスたちがプロジェクトTDで習得を課せられていた各種マニューバーは、DC戦争やL5戦役(さらに遡れば旧暦の第一次、第二次世界大戦)にて培われ、継承されてきた空間・宙間機動戦術を起源としている。プロジェクトではあくまで飛行技術向上のためのツールとして捉えられていたが、出自を考えればむしろ戦闘に使用されることこそが正しい姿だった。

 

「だったら小隊としても、取り組む価値はある。あんたらにとっちゃ、アステリオンは未来のスペースシャトルで、アイビスはアストロノーツだ。ハガネ隊でこき使われるのは本来不本意なんだろうが、こうすりゃちっとは見返りがあるだろ?」

 

 ツグミは後頭部までさらすほどの勢いで、深く深く頭を下げた。この件だけでなく、これまでのアイビスとマサキのやり取り、それによって得られた成果、その全てのものに対して。

 

「データを纏めて、後日渡します。是非、お願いするわ。本当に、本当にありがとう。言葉では言い表せないくらい、感謝しています」

 

「いいってことよ。俺のためでもあるんだ」

 

 そんなやりとりで、本日の密会は締めくくられた。

 

 ミーティングを終えると、ツグミは真っ直ぐに自室へと向かった。色々なものに対する満足感と期待感が、彼女の足取りを軽くしていた。通路の床がまるで次々と彼女の足裏に巻き取られて行くかのようだ。いったい何時の間に、ハガネの通路は自動式となったのだろう。

 

 A-11と表示された素っ気ない扉を邪魔っけに開き、つかつかと足音を立てて中に足を踏み入れると、すでに帰宅していたアイビスが、何事かと目をきょとんとさせてデスクの方からツグミを見た。

 

「アイビス」

 

「はいチーフ」

 

 なるほどこれが元凶であったのだ。人語を解する黒猫の、人間顔負けの明敏さにツグミは頭が下がる思いだった。

 

「アイビス」

 

「はい」

 

 一拍の間。

 

「その、ね」

 

「はい」

 

 上手いこと理由をつけて、と肝心の部分は曖昧ではあったものの、独力で補うことはツグミにとって困難なことではなかった。目標に至るまでの理路整然とした三段論法がすでに彼女の中で明文化されており、あとはそれを読み上げるのみという段階であったが、何事においても最も決断を要するのは得てして最初の一歩なのであった。

 

「私、思ったんだけどね」

 

「……はい」

 

「その」

 

「…………はい」

 

 口ごもるツグミの様子に、尋常ならざるものを感じ取り、アイビスの表情が見る見るうちに硬くなっていった。いかなる訃報か、いや叱責に違いない。身をこわばらせていくアイビスに対し、ツグミが懐中の企みを達成するのに、結局これよりもう五分ほどの時間を必要とした。

 

 

   Ⅵ 就寝前の二人

 

 

「なぁ、アイビスって可愛くねえ?」

 

 またもやタスクが言い出したので、五枚の手札を不倶戴天の敵ごとく睨んでいたマサキは嫌そうに顔を上げた。

 

「お前、前にもそれ言ってなかったか?」

 

「言った。確かに言った。けど俺は、あえて声を大にしてもう一度言いたい。もちろんそれには深い理由がある。実は今日の晩飯でのことなんだけどな。そこでアイビスがなんと……」

 

 タスクは滔々と熱弁を振るい始めた。そして、その九割をマサキは聞き流した。彼にとっては、もはや数える気も起こらないくらい負けが続いている勝負の行方の方がずっと大事であった。

 

「知ってるか? アイビスって甘いものが好きらしいんだ」

 

「へえ」

 

「んでもって、それを聞いた時の俺のポケットにはなんとチョコレートが入ってたんだよ。我ながら恐ろしいことに」

 

「ほお」

 

「航行中じゃ、こういうものはなかなか手に入らないからな。それをあげたときのアイビスの顔といったら、『男を悶えさせる笑顔の作り方』なんていう教本があれば表紙に採用してレオナちゃんに読ませてやりたいくらいだったぜ」

 

「ふうん」

 

「あーくそ。おまえあんな子とずっと一緒にいて何とも思わないのか? 俺と代われ。いや、レオナちゃんの目もあるし一日だけでいいから。おい、聞いてるか?」

 

「聞いてねえよ。ほいレイズ」

 

「ほいコール。ほいショー・ダウン。いやー、ハガネに入隊してから結構経ったし、打ち解けてくれて良かったよなぁ。最初の方の、びくびくおどおどしてた感じも良かったけどさあ」

 

「フォーカードかよ……」

 

 延々とタスクの好き勝手な妄言が垂れ流される中、マサキは全財産が入った財布を落としたような気持ちでがっくりと崩れ落ちた。

 

 

 真夜中の死闘が悲しい決着を迎えたのと同時刻。アイビスが一息ついたときには、もう艦内時間で夜の十二時を回っていた。

 

 すでにツグミは入浴を終えて、アイビスの背後にある二段ベッドの下段で一足先に寝息を立てていた。相変わらず訓練に追われるアイビスとは違い、軍属になってからのツグミはむしろ時間の余裕が増えたように見える。プロジェクトに従事していたときなら、今頃は彼女もプログラム言語の羅列を相手に取っ組み合いを続けているところだったろう。

 

 アイビスは足音を殺しながらツグミの側まで近寄り、めくれ上がっていた毛布を肩の位置に直した。

 

「仕方のない……『ツグミ』」

 

 そう、意識して口にしてみる。しばらくは慣れそうも無かった。

 

 あのタカクラチーフに心を許そうとしている自分に、アイビスはもう驚かなかった。プロジェクトの頃はそれこそ氷で出来ているかとも思えたツグミの表情が、ハガネ隊に来てからは嘘のように彩りを見せてきた。ハガネ隊で唯一の身内としての親近感ゆえのことなのか、単なる吊り橋効果なのか、答えは見つかりそうも無い。ただ、答えが欲しいわけでもない。

 

 ハガネ隊に来てから、色々なものが良い方向に変わってきている。タカクラチーフも、タカクラチーフとの関係も、そして自分自身も。アイビスにはそう思えるし、その事実だけで十分だった。

 

 ふとイメージが湧いて、またもや手の平で戦闘機を形作る。小指と親指が翼、中指が機首。小さなそれは円形軌道を描きながら中空を周り、最後にぐんと高度を上げ、白色LEDで出来た太陽にまで辿り着こうとする。限界まで背伸びしながら、アイビスは目を閉じてコクピットにいる自分を想像した。

 

(……うん)

 

 アイビスは一つ頷き、しかしもう一つ思いついて、左手も同じように戦闘機の形にした。そして右手に寄り添わせる。しばらく試行錯誤して、やがて二機はそれぞれの腹を前後互い違いに向き合わせるような位置に落ち着いた。ちょうど手裏剣を投げるような格好である。

 

 交差し、すれちがう二機。しかし見ようによっては、それ自体が一対の翼のようにも見える。

 

 人が乗る以上、どうしても死角というものはできる。たとえどれほどの強者でも。だから補い合う。当たり前のことだと、今のアイビスには分かる。

 

(……うん)

 

 アイビスはまた一つ頷いた。先ほどよりも、ほんの少しばかり大きく。

 

 

 

 

 

 



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第五章:彼ら、竜に翼を得たるが如く

 

 

   Ⅰ

 

 

 新西暦187年も、あと残すところ一ヶ月半となっていた。キリスト教圏の影響力はこの時代においても健在であり、地球圏でも多くの者が聖なる夜の訪れを何とはなしに楽しみにしていた。戦火の絶えない今という時代でも、せめてその日だけは。それは儚い願いだった。

 

「なら、マサキ君はどう?」

 

 そんな声が聞こえて、昔一度読んだきりのポーカーのルールブックを必死に思い出しながら、自分の手札の行く末に思い悩んでいたアイビスは、ふと顔を上げた。

 

「ほら、ぱっと見は二枚目だし。独立心と行動力はありすぎるくらいだし、結構頼もしいんじゃない?」

 

「マサキ君かぁ。あんまりクリスマスとか興味なさそう」

 

「そもそも彼にリードなんて任せてたら、あっと言う間に変なところに連れて行かれるでしょうね。ある意味、タスクより危険だわ」

 

「あ、なんだか目に浮かぶ。映画館とかデパートとか、そういうところに行こうって言ってて、本人も全くそのつもりなのに、気がつけば、その、変なところに着いちゃってて首を傾げてるの」

 

「悪気が無いのは分かってるから、文句も言えないわね。すごい、天然の策士!」

 

 どっと笑いが唱和した。

 

 姦しくあれこれと言い合うのは、順にリオ・メイロン、クスハ・ミズハ、レオナ・ガーシュタインの三名である。アイビスも加えてポーカー勝負の真っ最中のはずなのだが、アイビス以外はすでに手札を見てもいなかった。

 

 花を咲かせているのは、「クリスマスに一緒に過ごして楽しそうなのは誰か」という話題であり、それぞれの実際の意中の相手は一先ずさておき、ハガネ隊に所属するめぼしい男性を挙げては好き勝手に論評しているというわけである。場所はリオの部屋であり、男性陣の目の届かないところでやる分には罪の無い遊びと言えた。

 

「さて部下のアイビスさんとしては、この件についてどう思われます?」

 

 リオに悪戯っぽく水を向けられ、アイビスはうわずった声を出した。

 

「あ、あたし? あ、いや、そういうのはあんまり考えたこと無いや……」

 

「でも小隊としては本当に調子がいいですよね。私もこのまえブリット君と一緒にコテンパンにされちゃったし」

 

「私はその前日に不覚を取らされたわ。次は勝ちたいものね」

 

 次々と言われて畏まるしか無いアイビスだった。大体の場合、いつぞやのATXチーム戦と同様アイビスはサポートに徹しており、主に戦果を挙げるのはマサキの方なので胸を張る気にはなれない。

 

「んー、となるとクリスマスに二人でお出かけでもしたら、さっきの話の通りになるわね」

 

「で、出かけないよ」

 

「あら、誘われても? 隊長の命令が聞けないのかーって」

 

「リオさん。それパワハラ……」

 

「そういうタイプじゃないよ。どっちかっていうと、『俺に付いてこい!』みたいな……いや違うな。もうちょっとこう、素っ気ない感じで、『暇ならちょいと付き合え』とか……」

 

「結局、末路は同じね」

 

「でもマサキ君って、訓練のときはアイビスさんに親身になってると思いますけど……」

 

「うーん。優しいような、素っ気ないような……」

 

 なんだかんだでアイビスも話によく参加し、四人してすっかりポーカーのことは忘れ去り、話の流れはいよいよ奥深いところまで辿り着こうとしていた。

 

「やっぱりムードだと思うの。少女漫画の読み過ぎと馬鹿にされても、でも忘れてはいけないことってあると思うの。夜のクリスマス。聖なる夜。観覧車の頂上で二人は見つめ合い……」

 

「わ、わ、わ」

 

「……」

 

 リオの口上にクスハはあからさまに落ち着きをなくし、対照的にレオナは落ち着き払い、それでいて耳を真っ赤にしながら聞き入っていた。アイビスはというと、こちらは顔全体がすっかり真っ赤に染まってしまっている。

 

「男は女の目を見つめながら、やがて恋の詩を詠い始める。上邪。我欲与君相知、長命無絶衰……」

 

 気が昂じるままに吟じられる口上は、やがて国際色を帯びていき視聴者の理解を超え始めた。しかしこと色恋沙汰については万国共通の理解があり、雰囲気を察することは容易であった。

 

「そして二人は、そっと口づけ合う……」

 

 最後はあらゆる地域・民族に通じうる肉体言語によって話は締めくくられた。

 

 どこからともなく、ぱちぱちと拍手が湧く。

 

「キスかぁ……やっぱり良いんだろうなぁ。ねえ?」

 

 リオがなにやら気苦労をたたえて同意を求めてくると、アイビスは到底目を合わせられず、膝に顔を埋めた。

 

 説明するまでもなく、アイビスは今までそういったこととは縁遠く、口づけの経験もありはしない。元来奥手であり、加えて異性に対して警戒心を抱きがちな面もある。この場では口には出来ないが、例えばタスクやイルムのような距離感の近い手合いを、実のところアイビスは苦手に思っていた。

 

 ましてや自分が誰かと見つめ合いキスをするなどと、如何にも恐ろしく到底想像付かないことだった。しかしながら、だからこそ人一倍の憧れがアイビスの中に燦然と存在してもいた。

 

 何時とは言えないし、誰ととも言えないが、それでもいつかはきっと……。そんな浮ついた考えが、アイビスの胸に次々と去来していった。

 

「ねえ。アイビスはいいとして、どうしてクスハとレオナは目を反らすのかしら。ねえ、どういうことなの?」

 

 リオの言葉も耳に入らず、アイビスは己の膝の間でますます煩悶していった。

 

 ハガネ隊の、ちょっとした女子会の一幕だった。

 

 

   Ⅱ

 

 

 オペレーション・プランタジネット。

 

 その作戦要項が連邦軍の秘匿回線を通じて、全部隊に一斉送付された際、暗号通信の末尾にはこう付け加えられていた。

 

「各員、今年のクリスマスは諦めたし。その代わり、ニュー・イヤーは全ての憂いを取り去った清々しい気持ちで迎えようではないか」

 

 署名欄には達筆な筆記体で、連邦軍総司令官の名前が記されていた。その文言にある者は笑い、ある者は呆れ、ある者は身を引き締め、ある者は怒りを覚えた。現・総司令官のケネス・ギャレットはほんの数ヶ月前まで北米方面軍の司令官に過ぎなかった男だ。それが突然の「体制変更」により全軍総司令に一気に抜擢されたのだが、節度ある者なら誰もがそこに陰謀特有の、滲み出るようなきな臭さを感じ取っていた。

 

 プランタジネット作戦の目的は、地球圏からの異星人勢力の追放にある。つまりこの戦争を終結させるための最後の一手である。その内容は、大きく三つに分かれる。

 

 現在異星人部隊はホワイトスターを最終拠点とし、宇宙では月面都市を、地上ではアメリカ・ケンタッキー州のラングレー基地を足がかりに徐々に勢力範囲を拡大させている最中にある。プランタジネット作戦の第一目標は、このラングレー基地の奪還にある。

 

 敵の空間転移は往復が利かないことが既に判明しており、この基地を再制圧できれば異星人は地上における退路を失うことになる。他の州も異星人の手が及んでいないわけではないが、現状は点の支配に過ぎず新たな拠点とはなりえない。孤立した地上部隊が後にゲリラ化する恐れもあるが、それはもはや戦後処理の範疇と言えるだろう。

 

 いずれにせよラングレーを取り戻すことで地上から敵勢力は一掃され、舞台を宇宙に移すことができるようになる。

 

 第二目標は月の解放である。こちらはラングレー基地と異なり大部分が民間施設であるため、制圧そのものよりも民間人の救出・保護が最優先ミッションとなる。ゆえにこの局面においては機動兵器部隊はあくまで囮とサポート役にとどまり、潜入工作に長けた特殊陸兵部隊が主役を務めることとなる。数ヶ月前より既に入念なシミュレーション訓練を重ねており、仕上がりは上々であった。

 

 地上と宇宙、双方の拠点を奪った上でいよいよ総本山の攻略が始まる。オペレーション・プランタジネットにおける第三にして最大最後の目標は、敵本拠地たるホワイトスターの制圧である。

 

 まさしく正念場であり、最後の大詰めであった。この局面に至っては、敵部隊殲滅のみならず異星人幹部らの捕縛ないし確実な殺害もミッションに含まれる。地球連邦宇宙軍全艦隊、全機動兵器のみならず、戦略級MAPWの大規模投入も許可されており、いざとなればホワイトスターごと敵軍をまるごと消滅させるのも辞さない態勢で臨むことになる。

 

 これまで異星人への攻撃は各方面軍による散発的な反抗に終始していたが、このたびは地球連邦軍の全戦力を挙げての極めて組織立った一大反抗作戦となる。なかでも特記戦力たるハガネ隊は、三つのフェイズのいずれにおいても大役を担う予定であった。

 

 なお第一目標であるラングレー基地と同じアメリカ大陸には、プロフェクトTDが進められていたテスラ研究所コロラド支部も存在する。優先順位は落ちるもののその奪還もミッション内容に含まれており、少数精鋭の戦力を有することと、小笠原からラングレーへの進軍ルート上にあるため全体スケジュールへの影響を最小限に出来るということで、この任務もまたハガネ隊に下されることとなった。

 

 ダイテツ・ミナセ艦長よりパイロット各員へこのことが周知されたとき、この件に関わりの深い三者は三様の反応を見せた。

 

 もっとも顕著であったのはツグミ・タカクラであり、戦闘員ではない立場にいることが逆に重圧となったか、以降彼女の体調は次第に崩れだし、食欲減退、時折の目眩、そして軽度の不眠症などが症状として現れるようになった。典型的なストレスによる体調不良である。

 

「だらしないわね。私だってアストロノーツの訓練は一通り受けているのに」

 

 自室で寝込むツグミを、アイビスは訓練の合間に頻繁に見舞って励ました。

 

「大丈夫だよツグミ。ハガネ隊は誰にも負けない。絶対に作戦は成功するよ」

 

 しかしそういうアイビスとて、到底平静な気持ちではいられていない。握り合ったツグミとアイビスの手は、ごくごくわずかに震えていて、それはどちらか一方によるものではなかった。

 

「アイビス……」

 

「大丈夫。もう何度も実戦はこなしてきた。絶対に皆を助ける。やれる。やってみせるよ」

 

 ツグミを通して自分自身に言い聞かせるかのようなアイビスの様子に小さくない危うさを感じ取って、ツグミは彼女の頬に手を伸ばした。

 

「忘れないで、アイビス。今の貴方は一人じゃない。たった一人で頑張っていたプロジェクトTDのナンバー04はもういない。今の貴方はフリューゲルス・ツー。そのことを決して忘れないで」

 

 頬をなぞる優しい感触に戸惑いつつも、アイビスは頷いた。

 

「……うん、わかった」

 

 そして三人目。三人の中で最もテスラ研と関わりが薄く、また最も戦闘経験が豊富であり、戦士として半ば完成を見ていたマサキ・アンドーは、愛機のコクピットの中で静かに瞑目していた。とくに張りつめた様子はなく、居眠りでもしているかのような穏やかさである。

 

 しかし見る者が見れば、彼の輪郭からうっすらと生命的なエネルギーが生じていることに気付いただろう。オーラともプラーナとも呼ばれるそれは、彼の純粋な戦意そのものである。

 

 彼は兵士ではない。そのためダイテツ艦長の指令とて、根本的な部分では知った事ではなかった。彼はあくまで自らの意志で敵を見定め、戦い、勝たなくてはならない。そのための自分、そのための魔装機神なのだから。

 

 

 そして11月17日 1330時。

 

 ハガネおよびヒリュウ改は現在、カリフォルニア州沿岸、サンフランシスコ付近を高度7500メートルにて航行中であった。

 

 この地域まではいまだ異星人の勢力が及んでいない。ここからさらに東進すればネバダ州、ユタ州、コロラド州へと続くが、現地からの情報によればちょうどネバダ州とユタ州の境目あたりが彼我の勢力圏境となる。いまハガネ隊が目指しているのも、そこである。

 

 目的地であるテスラ研まではまだ距離があるものの、作戦の都合上、一部のパイロットは既に発進待機状態に入っており、アイビス・ダグラスとマサキ・アンドーの二名も、その中に含まれていた。

 

(ついにこのときが来たんだ。やれる。やってみせる。やるぞ、やるぞ……)

 

 アステリオンの内部で、アイビスは目を瞑り、ひたすら内観に没頭していた。両手は無意識に祈りの形に組まれ、そしてやはり震えていた。

 

 静かだった。呼吸の音がいやに五月蝿い。

 

 コクピットに入り、アストロスーツのヘルメットまで被ると、外界の雑音とは一切隔絶される。両の耳が内側を向き、呼吸、心拍、その他内蔵のわずかな動きまで、頼みもしないのにこと細かく伝えてくる。自らの体内のものであるというのに、どうしたことか、その音の一つ一つがまるで怪物の蠢きのようにも感じられ、アイビスを一歩ずつ断崖へ追いつめていくかのようだった。

 

(怖い……だめだ!)

 

 耐えきれずアイビスは祈りを解き、右手をコンソールに滑り込ませた。微細に震える指先でキーを叩き、クローズド通信の回線を開く。

 

「こちらフリューゲルス・ワン。どうした、二番機」

 

「マサキ……!」

 

 開かれた通信ウィンドウに映る少年の顔と声は愛しいくらいに平素と変わらなかった。砂漠でようやく水を得た遭難者のような気持ちでそれを胸に染みこませながら、アイビスは喘ぐように言った。

 

「マサキ……あたし、死んじゃいそう……」

 

「なんだ、ぶるってるのか?」

 

「うん……」

 

「お前って奴はどうしてそう……ありゃ、これまた随分まいってるな。仕方ねえ、お前ら行ってこい」

 

「え?」

 

 問い返す暇もなく、アイビスの腰元から突如二匹の猫が生えて来て、度肝を抜かれたアイビスは「ひゃぁ!」とあられもなく悲鳴を上げた。

 

「お邪魔しますニャ」

 

「元気か? アイビス」

 

「く、く、クロとシロ? 一体どこから、どうやって……!」

 

「まま、深く考えニャいで。それよりほら、私たちのダンスでも見て、気を楽にして?」

 

「ほれ。ちゃんかちゃんか、ちゃんちゃん」

 

 クロとシロが両前足をリズミカルに動かし始めると、そのなんとも珍妙な光景に、アイビスは先ほどまでの押し殺すような圧迫感の一切を忘れ、ぽかんと惚けてしまった。そして二匹が一番を踊り終えるころには、腹部を抱えて震えるようにまでなっていた。

 

「つっきがーでーたでーたー。つっきがーあーでたー」

 

「はぁ、どすこいどすこい」

 

 たまらず口を抑えて咳き込むアイビスに、二匹はしてやったりとほくそ笑んだ。

 

「やめて……死ぬ……死ぬ……」

 

「ふん、口ほどにもねえ。こいつは以前に俺が仕込んだ芸でな。題して『化け猫の盆踊り』。ハガネに乗る前はこいつで路銀を稼いでたんだ。まぁ、そんときゃ歌ったのは俺だが」

 

「身一つで地上に出ちゃったから、最初は大変だったの」

 

「自慢じゃニャいけど、大人気だったんだぜ」

 それはそうだろうと、その威力を身を以て確かめたアイビスは見知らぬ観客たちに共感するも、それを口にすることはできなかった。息すら覚束なくなるほど腹筋が痙攣しっぱなしで、それどころではなかったのだ。

 

 ようやく息も整えられ、使い魔たちの帰還を見送ると、アイビスは先ほどまでと同じ密閉空間の中に、嘘のような広がりを感じた。体重が軽くなったような気さえした。

 

「ありがと。なんか、いろいろほぐれた」

 

「そりゃ何よりだ。やれるか?」

 

「やれる。絶対やる」

 

「ちゃんと飛べそうか?」

 

「飛んでみせるよ。誰よりも速く」

 

「抜かしやがる。ま、フィリオって奴にせいぜい良いところを見せてやるんだな」

 

「うん……!」

 

 力強い頷きにマサキはニッと笑い、

 

「んじゃ、またな」

 

「え? あ……」

 

 ぷつんとあっという間に途切れた通信に、アイビスはしばし間を置いてから、ふと首を捻った。改めて、一体全体優しいのか素っ気ないのか……。

 

 一方、アイビスとの通信を切ったマサキは、それとはまた別の、先ほどから喧しく着信を知らせている回線を開いた。

 

「くおら、マサキ。分隊長の通信を無視するとは何事だ」

 

 相手はイルムガルト・カザハラだった。このたび二つに分けられた部隊の片方を指揮することとなっており、そこに所属する各小隊長を束ねる立場にある。

 

「ちょいと取り込み中でな。なんか用か?」

 

「なんか用か、じゃない。今回の作戦目標はかのテスラ研で、お前さんの部下が元々いた場所だ。そこに対して切り込み役のそのまた一番槍をやろうっていうんだ。アイビスの緊張も相当だろう。少しは気にかけてやれ」

 

「それならもう済んだぜ」

 

「なに?」

 

「だから、もう済んだ。むしろやりすぎちまったくれえだ。笑い死に寸前だったからな」

 

「笑い死に? アイビスがか?」

 

「ああ。他に何かあるか?」

 

「いや、ないが」

 

「んじゃ、またな」

 

 またもや素っ気なく切れた通信に、イルムは無意識に襟元を撫でた。

 

 あの哨戒任務からそれなりの月日が経ち、二人は多くの実戦を共に乗り越え、それ以上に多くの訓練を共にこなしてきた。「ハガネ全小隊・全撃破」という向こう見ずな目標を完遂したのは一週間ほど前のことで、近頃は自分たちの長所をより伸ばそうと高機動戦闘の訓練に力を入れていたようだ。

 

 当時から期待自体はしていたものの、それにしてもよもやここまでのものが出来上がってしまうとは。にわかに信じがたいもののイルムは認識を新たにし、全隊を率いる戦闘司令官へ回線を繋いだ。

 

「オメガ・ワンよりアサルト・ワンへ。心配無用。空馬鹿小隊のコンディションは極めて良好なり」

 

 

   Ⅲ

 

 

 11月17日 1540時。

 

 テスラ研コロラド支部に陣地を構える異星軍幹部の一人、ヴィガジが西方からの飛翔体に気付いたのがちょうどこの時刻になる。

 

「巡航ミサイルか」

 

 当初彼がそう判断したのは、その飛翔体の数と速度のためである。数は一、そして速度は機動兵器ではおよそあり得ぬ数値。高度がやや低すぎるのが気にかかるが、まず機動兵器ではないとみて間違い無い。

 

 そもそも地球連邦軍の機動兵器部隊……とりわけハガネ隊の動きはあらかた掴めていた。この時間、ハガネはユタ州近辺を航行中のはずであり、その迎撃にはアギーハが向かっている。その他の戦力が付近に迫っている情報もない。

 

 また、飛翔体を計測したのは母星より持ち込んだ設置型レーダーであるため、誤作動や誤操作の類いもありえない。

 

「野蛮人どもめ。同胞を見捨てるとはな」

 

 奪還が叶わないなら敵ごと吹き飛ばしてしまえ。その乱暴な判断は、彼が持つ「地球人」のイメージからそうかけ離れているものではなかったため、納得するのも容易かった。

 

 配下のバイオロイド兵に撃墜を命じた。地球人の技術力を調査するため制圧したテスラ研は、彼の手により既に要塞化されており、広域レーダーのみならずミサイル防衛システムまで完備されている。こちらもこのたびの侵攻のため母星から移送してきたものであり、運搬のしやすさを重視した簡易型ではあるが、地球最新型のMAPWであろうと効果範囲外にて確実に撃墜しきる性能を持つ。

 

 地球共通語に訳せば「ドライバー・キャノン」と呼ばれる計12台の砲塔は、ちょうど時計と同じ配置でテスラ研を囲んでおり、うち三つが同時に十一時の方角を向いた。

 

 立て続けに三発。無色のエネルギー弾頭が音を越えてコロラドの空を裂く。レーダー上にて、一つの飛翔体を迎え撃つ三つの光点が新たに明滅しはじめる。

 

「着弾まで五秒。3、2、1」

 

「着弾なし。撃墜失敗」

 

「なんだと?」

 

 バイオロイド兵が無感情に告げた報告に、ヴィガジは目を剥いた。

 

「第二波を撃て。今度は六発」

 

「第二波斉射。着弾まで21秒」

 

 不吉な沈黙が、16秒間流れた。

 

「着弾まで五秒。3、2、1」

 

「着弾なし。撃墜失敗」

 

「馬鹿な!」

 

 声を上げ、ここでようやくヴィガジは自らの誤謬に気付いた。地球人の幼稚な電子制御のMAPWが、ドライバー・キャノンを9発も回避するなどあり得ない。ならば飛翔体はMAPWではない。人の乗った機動兵器だ。

 

(いいや!)

 

 さらなる不吉な推測がヴィガジの背筋を泡立たせた。MAPWではない……と判断するのは早計だ。確かあったはずだ。地球の戦力……中でも特筆すべきハガネ隊の中にただ一機。巡航ミサイル並みの速度、人の手による操縦、そしてMAPW。これら三つの条件を全て満たすマシンが、ただ一つあったはずだ。

 

「守備隊、全機スクランブル。ただちに機体に火を入れろ。俺もガルガウで出る!」

 

 言うや否や、ヴィガジは管制室から飛び出して行った。彼個人が持てる判断材料を鑑みれば、十分に迅速かつ柔軟な予測能力であると言えた。しかし結果論でいうなら、やはり全ては遅きに失していたのだ。

 

 ガルガウと呼ばれる黄金の恐竜にも似た専用特機にて出撃したヴィガジが、即座に最大望遠で西方を確認したとき、それは既に現れていた。

 

 彼方。

 

 空と稜線の間より飛来する一つの機影。

 

 三層一対の翼、猛禽の爪、銀の鎧、翠緑の噴射炎。異星人たる彼の目から見て、なお異質なるその姿。

 

(まずい……!)

 

 ヴィガジは痛感した。もはや防御は間に合わない。かの騎士の異様な速度はもはや計測するまでもない。彼を映し出すスクリーンの右端にて、狂ったような目まぐるしさで減少していく望遠倍率表示が如実に物語る。

 

 そしてその限界が訪れた時、アメリカ大陸はコロラド州に一つの「星」が出現した。

 

 

 ……本作戦のため、航空性能を重視した臨時中隊を編成する。ハガネおよびヒリュウ改は、勢力圏境たるネバダ・ユタ州間にて待機。敵主力空戦部隊の陽動を務める。

 

 その間、臨時中隊は低空飛行を維持しつつユタ州を迂回してコロラドへ侵入。電撃戦にて目標施設を制圧せよ。

 

 なおフリューゲルス小隊は第一陣として可能な限り最大戦速と最低高度を両立させつつ目標に突撃。敵防衛網を無力化し、後続の道を切り開け。

 

 およそ八時間前に下されたダイテツ・ミナセ艦長の指令は、ほぼ完璧に達成されたと言って良いだろう。テスラ研に出現した星とは、言うまでもなくかの騎士が有する広域兵器そのものである。

 

 操者が敵と認識したものだけを破壊する、退魔にして破邪の光。サイフラッシュと名付けられているその兵器の最大射程は、テスラ研周辺をまるごと一飲みにして余り在る。超音速爆撃機と大型投下爆弾の役目を続けざまにこなす凶悪なる一人二役の前に、異星よりもたらされた12機のドライバー・キャノンは一斉に打ち砕かれ鉄くずと化した。ヴィガジ渾身の防衛網が、ただの一撃で亡き者にされたのである。

 

 しかし被害はそれだけで収まった、とも言える。守備隊の発進が間に合わなかったのは、まさしく不幸中の幸いだった。施設を攻撃対象から外していたためか、格納庫内にて準備中だったバイオロイド兵たちの機体に損傷は見られず、ただ一人出撃していたガルガウも、ビーム吸収(電荷吸収と、それをエネルギー源にした装甲再生)システムによりダメージはあれど戦闘に支障はない。砲台が失われても、たった一機の特機など容易に殲滅してのける戦力がまだ残っている。

 

 瞬く間に被害状況と戦況の比較を終えたヴィガジに、しかし管制室に残るバイオロイド兵からまたもや報告が届いた。

 

「十一時および八時方向より機影多数。総じて中隊規模の機動兵器部隊が接近中」

 

 後続部隊。詰めの一手。当然と言えば当然の流れにヴィガジは臍を噛む。地球人の軍事的能力を、彼は軽蔑はしても侮りはしなかった。

 

 次いで左後方に爆発音。タイミングからして、サイバスターの広域兵器によるものではない。

 

「今度はなんだ!?」

 

「ミサイル攻撃を確認。レーダー設備および通信設備が破損。陣地作成の際に我が軍が持ち込んだ機器のみが攻撃を受けています」

 

 ヴィガジがこのときようやく状況の全てを理解した。敵は一機ではなかった。それも二つの意味で。

 

 一つは中隊規模の後続部隊。二つ目は、噴煙の立ち上るレーダー塔上空にて旋回する、もう一つの銀色。初めて見る機体ではあるが、報告は受けていた。ヴィガジがこのテスラ研を襲撃した際、唯一輸送機での逃亡を許してしまった新型機。よほど密接して飛行していたのか、レーダーが一つとして数えていた機影は、その実二つであった。

 

 アーマード・モジュール・アステリオン。その機体が、相方が砲台をなぎ払いヴィガジらの注意がそちらに向いている間に、勝って知ったる我が家に巣食う異物を除去してのけたのだ。

 

 通信設備を抑えられては孤立は免れない。もはやこの地は要塞ではなく、彼らを追い込む死の袋小路と化した。

 

 続けざまの事態に、ヴィガジの思考は限りなく白熱していった。そして地に降り立ったサイバスターが彼を見据え、ふてぶてしく剣を突きつけて来た時、ついにその怒りは限界を迎えた。

 

「き・さ・まぁぁぁぁぁぁ!」

 

 

   Ⅳ

 

 

 銀の騎士と黄金の恐竜は同時に間合いを詰め、それぞれが携える得物を同時にぶつけ合った。続けざまに、三度打ち合う。散る火花、耳をつんざく金属音。さらに二度、騎士は斬り込んだが、すべて恐竜の爪剣に防がれた。

 

「こんニャんじゃ刃の方が欠けちゃうわ。もっと気合い入れてプラーニャを注いでよ」

 

「ゼオルートさんニャら、いまごろ三枚に卸してるところだぜ」

 

「やかましい!」

 

 リーチでは騎士の長剣が勝るが、厚さと頑丈さでは半ば腕部と一体化している恐竜の爪剣が勝っていた。その強度たるや、騎士の剣を五度も受けながら罅一つ入っておらず、しかも左右一対ときては、その防りの硬さは並大抵ではない。鉄の塊に斬りつけているかのような手応えに、マサキは不利……というより非効率を悟った。

 

 左右からの同時斬りを身を引いて躱す。その流れのままサイバスターは翼を吹かせ、後方へ距離を取ろうとした。それを予測してか、全く同じタイミングでガルガウが前へと踏み込む。接近戦ならば優位と判断してのことでもあるが、なにより操縦者の精神状態が最たる要因でもある。

 

「逃がすものか! 打ち砕き、粉々にして、この不浄の地にばらまいてやるわ!」

 

 先ほどまでの慎重さ、思慮深さはもはや霞みと消え、ただ戦意のみが彼を支配していた。そうでなければ、早々に退却する道を選んでいただろう。彼らの空間転移技術は往復が利かないという弱点があるが、ならば往路と復路で二つ分用意すれば良いだけの話で、彼を含めた幹部クラスの機体にのみ緊急用に予備の転移装置が装備されている。

 

 それを使用するつもりが彼に無いわけではなかった。すでに戦況が決してしまったことは理解している。しかし彼にとって逃げることはいつでも出来ることだった。無論、眼前の忌々しい銀騎士を葬った後でも。

 

 騎士が後方へ飛ぶのと、恐竜が前方へ加速するのは、かろうじて後者が速かった。ガルガウの爪剣が蟹鋏のごとく二つに割れ、サイバスターの両腕をがっちりと銜えこんだ。

 

「捕らえたぞ、サイバスター!」

 

「やっろう!」

 

 全速前進はそのままに、ガルガウは高度を上げた。大地がぐんぐんと遠ざかって行く。翼自慢の騎士を空にて死なせてやろうという邪心もあれば、後続部隊から身を引く意味合いもあった。

 

 十分な高度を取ったのち、恐竜の顎が炎を籠らせながら満を持して咆哮する。

 

 地は水を塞き止め、水は火を鎮める。そして火は風を焼く。そうしたり顔で言う戦友の言葉が、戦慄と共にマサキの脳裏をよぎった。

 

「ガルガウの炎を受けろ!」

 

 炎。実際はそれに似た高エネルギー流がガルガウの口腔から迸り、サイバスターの胸から上を飲み込んだ。

 

 

 一歩遅れてテスラ研に到着したイルム率いる臨時中隊は、すでに展開を終えていた守備隊のバイオロイド兵と交戦中にあった。アイビスの働きによって敵増援の可能性はほぼゼロに近く、中隊の面々は蹂躙と言って良いほどの勢いで敵機の数を減らしていく。

 

「合わせやすくって中々いいわよ。そのまま行っちゃって」

 

「了解っす!」

 

 即席のコンビで遠近をカバーし合うのは、アラドとエクセレンのエレメントである。ビルトビルガーとヴァイスリッター。互いに本来想定された相方とは異なるが、それぞれATX計画で作られた前衛・後衛用マシンであり、その相性は期待以上に良好だった。

 

「R-3より各機へ。西側から横撃するわ。続いて!」

 

「R-1了解。チェェェンジ・R-ウィンンング!」

 

「R-4より1へ、その叫びには何か意味があるのか?」

 

 R-1、R-3、そしてマイ・コバヤシの駆るビルトラプター。こちらはほぼ既存の小隊のままということもあって、年季の入った危なげのない連携を見せている。唯一の懸念は新参者のマイだったが、アヤが丁寧にフォローをしている。

 

「ノーブル1より各機。後ろはお気になさらず、存分にどうぞ」

 

「頼もしいですわ。では行きますわよ、ラトゥーニ」

 

「はい!」

 

 ズィーガーリオンと金と銀のフェアリオンは事前訓練の段階ではやや覚束ない面もあったが、今となってはレオナを頂点とした二等辺三角の陣形に揺るぎは見られない。二機のフェアリオンもまたコンビネーションを前提に設計された機体であり、レオナがその援護に徹すれば戦力はより盤石になる。

 

「悪くないな」

 

 不慣れな編成でも一人前以上にやってのける隊員達のフレキシブルさに、イルムは満足げな様子で口角を上げた。機体面で致命的に画一性の欠けるハガネ隊の場合、パイロットがこうでなくては碌に運用もままならない。

 

 かくいう彼が今回エレメントを組んでいるのは、リョウトとリオが乗るヒュッケバインMk-Ⅲガンナーである。初めて組む相手ではあったが、彼やリョウトらもまたハガネ隊の一員であり、ましてやグルンガストとヒュッケバインである。代こそ違えど、この二機は決して切れぬ縁にあるのだとイルムは知っている。

 

 そして中隊最後の構成員……アイビスとマサキについては、イルムにとってそれはもはや言わずと知れたことなのであった。

 

 サイバスターが現在、遥か高空で敵指揮官と一騎打ちの真っ最中であることは把握していた。苦戦していることも分かっていたが、援護の必要は認めなかった。かの少年の実力を信頼していることもあるが、しかしなにより、彼らが上空に姿を消した直後、その後を追うように一筋の流星が大地を飛び立っていったことをイルムは確認していた。

 

 その軌跡のあまりの揺るぎなさに、イルムは勝利を確信せずにはいられなかった。

 

 

 火は風に対して優位性を持つ。それはラ・ギアスの精霊観にして、全ての魔装機が逃れ得ぬ法則である。しかし所変われば品変わり、郷に入っては郷に従うべし。炎の精霊を加護を何一つ受けない単なる炎に、風の精霊の加護を受けるサイバスターが不利を背負わなくてはならない謂れは無い。

 

「馬鹿な……」

 

「ぬるいぜ……」

 

 双方の呟きは、同時になされた。

 

 プラーナ全開。サイバスターを覆う結界装甲を最大に、マサキはガルガウの奥の手を凌ぎきった。装甲の端をわずかに融解させただけで至って無傷の相手に一瞬愕然とするも、しかしヴィガジはすぐに気を取り直した。

 

 敵の動きはいまだ封じているのだ。勝機はまだこちらにある。

 

 しかし皮肉なことに、マサキもまた全く同じ認識を持っていたのである。プラーナの消耗は激しく、二発目を防げる保証は無い。敵を打ち倒しうる手札はあるが、些か時間がかかる。守るにせよ攻めるにせよ、一抹の不安を抱える状況であったが、それでもマサキの中で、もはや勝利は確定していた。

 

「あばよ」

 

 そのためにマサキがすべきことは、ただ彼女に対する全幅の信頼のもと、敵を一蹴りするだけでよかった。

 

 ——Rapid acceleration……

 

 渾身の力を込めたサイバスターの蹴りによって両腕の固定が外れ、両者の間合いが遠のく。サイバスターとガルガウの距離が開いた。ただそれだけでよかったのだ。

 

 ——Mobility break……

 

 悪あがきを……と言いかけて、ヴィガジはしかしそれを口に出すことはできなかった。間合いが開いた直後、全くもって計ったようなタイミングで上空から急降下してきた何かに、ガルガウは猛烈な勢いで轢き飛ばされた。

 

(な、なんだ?)

 

 不意の尋常ならざる衝撃と落下の感覚。そして一斉に機能不全を喚き立て始めた計器類に、ヴィガジは状況を見失った。見ればガルガウの脇腹が、小隕石でも直撃したかのようにごっそりと抉られている。一体何が起こったというのか。

 

(あの新型……!)

 

 にわかに前後を掴めない中、それでも直感でその正体を察することが出来たのは、一秒もない衝突の瞬間、彼は確かに銀色の影を見ていたからだ。かの騎士と同じ、それでいて同じではあり得ないもう一つの銀色を。

 

「Volley Shoot!」

 

 再び視界に遠く現れた銀影から、数えるのも馬鹿らしいほどのミサイル群が解き放たれた。おびただしい数と密度をもった破壊の卵たちの出現に、ヴィガジはとっさにガルガウの両腕を盾のごとく構えさせた。

 

 つぎつぎとミサイルが突き刺さる。その衝撃と炎に、鉄壁を誇った恐竜の爪剣はついに砕かれる。

 

「おのれ!」

 

 これで終わりになるはずがない。そんな忸怩たる予感を裏切ること無く、ミサイル達の噴煙の合間を縫ってサイバスターが迫り来る。魔力のチャージは十分に、「記録探査」も万全に、その勇姿に青白いオーラを纏とわせて、落ちゆくガルガウに、二度と大地を踏ませるものかと追いすがる。

 

 この世のものとは思えぬその神秘の塊は、この世のものとは思えぬ一羽の巨大な鳳のごとく翼を広げてガルガウに追いつき、そして覆い尽くした。

 

「おのれぇ!」

 

 彼の致命的な敗因とはなにか。サイバスターを仕留め損なったことか、アステリオンを見逃したことか。きっとそれはどちらでもあり、どちらでもないのだ。彼を敗北せしめるのは、冷静さを欠いたために記憶から放逐していたたった一つの事実だった。

 

 敵は一機ではなかった。

 

 敵は一機ではなかったのだ。

 

「アカシック・バスタァァァァ!」

 

「くっそぉぉぉぉぉぉっ!」

 

 そんな断末魔を最後に、異星よりやってきた黄金の恐竜はコロラドの空に散っていった……。

 

 

   Ⅴ

 

 

 11月17日 1750時。

 

 テスラ研守備隊の制圧は完了し、その長たるヴィガジとガルガウの撃墜も確認された。研究所内部には管制と所員の見張りのために何人かのバイオロイド兵が残っていたが、懸念されていたように人質を連れて立てこもるような真似はしなかった。

 

 白兵要員として中隊に加わり、密かに研究所へ侵入していたゼンガー・ゾンボルト元少佐らによれば、ヴィガジ撃墜と同時に糸が切れたように動きを止め、そのまま生命活動まで停止させたとのことだった。敵とはいえその無為な最期に、何人かの者はひそかに黙祷を捧げた。

 

 研究所職員たちは、全員無事を確認された。リシュウ・トウゴウは老雄振りに衰えなく、ジョナサン・カザハラにいたってはハガネ隊の美人どころに早速声を駆け回る始末だった。

 

 そして……。

 

 

 互いの姿を見つけた後、見つめ合うことほんの数秒。ツグミ・タカクラはこらえきれなかったように、やおらフィリオの胸元に飛び込んでいった。飛び込んで、何事かをわめきながら二度三度その胸を叩き、そしてまた深く顔を埋めた。フィリオは困ったように笑っていたが、やがてツグミの背を抱き寄せた。

 

 夕暮れが窓から差し込む研究所の廊下で、そんな二人の影をすこし離れた物陰からアイビスは惚けたように眺めていた。一緒にフィリオの下を訪ねようとツグミの姿を探し回るうちに、とんだ出歯亀を働いてしまったことになる。

 

(そっか。そうだったんだ)

 

 知られざる関係を目の当たりにして、アイビスは不思議と納得がいくものを感じていた。テスラ研奪還作戦が決定されてから今日まで、ツグミの様子を思い返す。

 

 夢やプロジェクトのためだけではなかった。ツグミは何より彼女自身の想いために、今日という日に対して思いを募らせていたのだ。それが今ようやく報われて、か細く男の名を呼ぶツグミの声は、遠くからでもはっきり分かるほど涙にぬれていた。

 

(よかったね、ツグミ……)

 

 覗き見してしまったばつの悪さはあっても、二人の今の姿を見れたことは、とても得難いことのようにアイビスには思えた。間の悪さも時には悪くないものと思いつつ、二人に気付かれぬようアイビスはそっと踵を返した。自分はまたあとで訪ねれば良いと思った。

 

 最後に、二人の方をアイビスはふと振り返ると、二つの人影は未だ寄り添い合っており、そしてその顔はいまや完全に重なっていた。

 

「わ……」

 

 その光景の意味を察した時、アイビスは目を白黒させて、逃げるようにその場から立ち去った。

 

(び、びっくりした……)

 

 ハガネの中に戻り、人気の無い通路でアイビスは壁に寄っかかった。動悸は激しく、頬に手を当てると、確かな熱を感じた。

 

(キスだ。ツグミとフィリオがキスをした。キスだよキス。信じられない……)

 

 肝心の部位は見えなかったものの、男の腕の中で軽く背伸びをして顎を上向かせるツグミの後頭と、そこに重なるように隠れたフィリオの顔の、その生々しい遠近感が、アイビスの触覚をざわつかせた。妙なかゆみを覚えて、手の甲で唇を拭う。その感触にもまた気恥ずかしさを覚え、アイビスは頭を一杯にした。

 

 リオの言葉が思い起こされる。

 

 ——キスかぁ……やっぱり良いんだろうなぁ。ねえ?

 

(知らないよ、そんなこと!)

 

 相手と触れ合いたいと思うこと。

 

 相手を味わいたいと思うこと。

 

 口づけとはおそらくそんな思いの表れで、それに対して共感を抱けるほどの理解がまだ自分には無い。そう、アイビスは思い込んでいた。このときまでは。 

 

「見つけた! 何をぼさっとしてやがる!」

 

「うわぁ!」

 

 声をかけられたアイビスと、声をかけたマサキは同時にびくんと肩を振るわせて後ずさった。

 

「ま、ままままマサキ。どどどうしたの」

 

「こ、こっちの台詞だ。そんな驚くこたねえだろ」

 

 マサキは気を取り直し、いかにも説教臭く両手を腰に当てた。

 

「人を働かせておいて、どこをほっつき歩いていやがった。着替え終わってるなら報告書作りを手伝え。キョウスケがうるさくてしかたねえ」

 

「う、うん、わかった。いくよ」

 

 小隊長の義務の中に何種類かの文書作成業務があるが、その煩わしさに業を煮やしたマサキは、ここのところアイビスにその責の大半を押し付けるようになっていた。対してアイビスの方はキョウスケやカイなどといった面々から何度か「甘やかすな」などとも言われており、いささか難しい立場にあるのだが、基本的に断らない事にしている。

 

(あ、そういえば)

 

 いつものアレをしていないことをアイビスは思い出した。いつの間にか恒例となった……というよりも半ばアイビスが企図してそうした、フリューゲルス小隊の勝利の儀式である。

 

「ねえ、その前にさ」

 

「なんだよ」

 

「いや、なんでもないんだけど。ほら、これ」

 

 手の平を差し出すアイビスに、マサキは「おう、忘れてた」と応じた。

 

 一瞬の感触が通り過ぎて行く。

 

「やったな」

 

「うん」

 

「勝ったな」

 

「うん」

 

「正直、あんときゃ助かったぜ」

 

「……ううん」

 

 あたしこそ、とアイビスは胸の内で答えた。

 

 出撃前のやり取りも含め、初めて出会ったあの日から少年はアイビスに幾度となくきざはしを示し、それを一段登るたびにアイビスは、自分の中の何かが広がっていく感覚を覚えて来た。それは灰を被った姫が、魔法使いに抱くような気持ちにも似ていた。

 

 これまで幾度となく交され、もはや感じ慣れたものとなった手の平のこの感触が、アイビスは好きだった。初めてこれを行った少年と、こうして今も、そしてこれからも何気なく行うことが出来る。そのことに大きな意味があるような気がしてならなかった。つまりそれは、紛れも無く……。

 

「どうした?」

 

 突然、前髪で顔を隠すように俯いたアイビスに、マサキは尋ねた。

 

「な、な、なんでもない」

 

「腹でも痛いのか? 無理に手伝わなくていいぞ」

 

「なんでもないってば! だだ大丈夫だって。い、行こ?」

 

 アイビスがぎこちなく歩き出して、マサキは腑に落ちないものを感じながらも、その後ろを付いて行った。

 

 マサキの前を歩くアイビスの表情は、見るも無惨なほど動揺と焦燥感に溢れていた。しかし青ざめてはおらず、むしろ先ほどまでにさらに輪をかけて、それこそ林檎が柘榴を思わせるほど真っ赤に赤面しきっていた。

 

 それも無理からぬことで、なにせアイビスは知らなかったのだ。こんな気持ちがあったなどと。

 

 口づけとはまるで意味が異なることは分かっている。それでも触れ合いには違いなかった。

 

 触れ合いたい、などと。

 

 そのようなことを特定の異性に対して思う気持ちが、自分にもあったなどと。そんな異性がいたなどと。

 

 アイビスは知らなかったのだ。

 

 

 



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第六章:最後の羽休め

 

 

   Ⅰ

 

 

「アイビス・ダグラス。着艦します」

 

「了解。着艦どうぞ」

 

 オペレーターの指示に従い、アイビスはゆっくりとスロットルを操作して、アステリオンをハガネの後部ハッチに接近させた。

 

 機動兵器の運用において、空中着艦は一、二を争う難易度を有する。戦艦との衝突を避けるべく、着艦前の機体は当然ながら限界近くまで低速を保たなくてはならないのだが、こちらもまた当然なことに速度が下がれば下がるほど機体の姿勢というものは大気の逆風に煽られ不安定になっていく。パイロットはそんな微妙な天秤のつり合いを維持させながら狭い出入り口を通り、戦艦内部まで機体を運び入れなくてはならない。熟練のパイロットですら相応の緊張を要する作業であり、機械による自動化がある程度まで進んだ昨今でも、事故発生率は決してゼロではない。

 

 なんとかミスも衝突もなくハッチを潜り、薄暗い艦内滑走路にアステリオンを着陸させると、アイビスは小さく息をついた。ここまでくれば、あとは設備が自動的にアステリオンを固定し、格納庫まで移送してくれる。しかしアイビスの表情は依然として硬く、焦燥感に煽られるように膝を小刻みに揺らしていた。

 

(遅いよ。早くして!)

 

 レールに乗って格納庫の定位置に到着すると、アイビスは待ちかねたように勢いよくコクピットを飛び出した。地上に降りきるより数メートル手前でリフトロープより飛び降り、何事かと目を丸くする整備員を尻目に格納庫の一角をめざして一目散に走りだす。

 

 取る物もとりあえず彼女が駆けつけた先には、剣と翼を持つ銀巨人がそびえ立っていた。三層一対の翼、猛禽の爪、銀の鎧。もはや言うまでもなき風の魔装機神である。

 

「おーい!」

 

 その足下で、ツナギに身を包んだ壮年の整備員が大きく声を張り上げていた。

 

「おおい坊主! 返事をしろ。やられちまったのか?」

 

「誰がやられたって? 擦っただけだ!」

 

「直せんのか? 俺たちじゃそいつには手が出せねえぞ!」

 

「いらねえ世話だ。これくらいで修理なんざ!」 

 

 サイバスターの肩の上で、マサキ・アンドーは憤懣やるかたない様子で豪語した。今回の出撃でわずかながらも不覚を取ってしまったことで、気が立っているらしい。

 

 サイバスターの左肩に見られる損傷はさほど大きいものではなかったが、機体色の関係もあって遠目でも良く目立った。機能に支障はないが、装甲が一部破損して内部機構が露出してしまっており、マサキがいまサイバスターの肩に登っているのも、その具合を確認するためである。

 

「マサキ!」

 

 そんな悲鳴じみた呼びかけに、マサキは目線を少し横にずらした。

 

「アイビスか。お疲れだったな」

 

「ねえ、大丈夫なの? 怪我は!」

 

「お前までなんだ。あんなんで俺がやられるか!」

 

 ひとしきり地団駄を踏んだマサキが、その場からサイバスターの胸元のタラップまで一気に飛び降りると、アイビスは思わず息を呑んだ。危惧に反してマサキはあっさりと着地し、そのまま軽快に階段を踏み鳴らしながら地上まで降りて来た。

 

「ほい、お疲れさん」

 

「脅かさないでよ。危ないじゃないか!」

 

 たまらず、アイビスは声を荒げた。彼女も他人の事は言えないのだが、幸か不幸かそれを指摘できる者はこの場にいなかった。

 

「んな怒鳴るこたねえだろ。ガキじゃねえんだ」

 

「こっちの身にもなってよ。それで怪我は?」

 

「ご覧の通りだよ。ピンピンしてるぜ」

 

 面白くなさそうに言うマサキに、今度こそ全ての懸念が消え去ってアイビスは大きく息をついた。

 

「ごめん、怒鳴っちゃって。あと、その、助けてくれてありがとう」

 

「礼なんざいらねえよ。仕事だ仕事」

 

「仕事って……」

 ぶっきらぼうな物言いに、アイビスは深く落ち込み……はしなかった。替わりに不機嫌さをあらわにしてさっと踵を返してしまい、マサキは意表を突かれた。

 

「では隊長。報告書、きちんと時間までに仕上げておいてくださいね。あと全体デブリーフィングもお一人でどうぞ。隊長の仕事だそうですから」

 

「な、なに?」

 

「フリューゲルス・ツー、休憩に入ります」

 

「てめえ、汚えぞ」

 

「知ーらない」

 

 しらじらしく歩き出そうとしたアイビスの後ろ襟を、マサキは慌てて掴んだ。予想していたアイビスはさしてつんのめりもしない。ちらりと後ろを振り返り少年の表情を確認すると、己の勝利を認めてアイビスは満足げな笑みを浮かべた。憮然とするマサキに、アイビスはもう一度同じ言葉を告げる。

 

「助けてくれてありがとう」

 

「水臭えこと言ってんじゃねえ」

 

 不本意そうではあるものの、マサキも今度は素直に応じた。

 

「お礼にお仕事手伝うよ」 

 

「本当だな。逃げるなよ」

 

「逃げないよ。そうそう、あとこれ」

 

 アイビスが手の平をひらひらとさせると、マサキは掴んでいた襟首を放し、そのまま舞い踊る手の平を撃ち落とすようにはたいた。

 

「お疲れさん。いい根性してきたな、おまえ」

 

「でないと誰かさんの部下は勤まらないからね」

 

 どこか大事そうに自分の手の平を撫でながら、アイビスはそう嘯いてみせた。

 

 その後もあれこれと言い合いながら、二人は連れ立って歩き去って行く。少し離れたところから一連のやり取りを眺めていた先ほどの整備士は、二人を見送ったあともしばし考える顔つきでいたが、やおらひょいと肩をすくめて自分の仕事へ戻った。

 

「なんだ、ありゃ」

 

 そう一言だけ残して。

 

 

   Ⅱ

 

 

「次に、フリューゲルス小隊」

 

「はい」

 

 若き戦闘司令官の求めに応じ、フリューゲルス小隊々員は即座に立ち上がった。戦闘後恒例の全体デブリーフィングである。ちょっとしたホールほどの広さもある作戦室で、普段ヒリュウ改の方に籍を置いている面々も集い、今回の戦闘結果と被害状況を確認し合っていた。

 

「被害報告。一番機サイバスター、左肩部に軽損傷1。脱落なし、その他機能不全なし。一時間ほどで修復完了の見込み。二番機アステリオンは損傷無し。同じく一時間ほどで弾薬補給完了の見込み。またパイロット、両名とも負傷無し。総じて損害レベルはCプラス。リカバリーまでおよそ80分」

 

「ご苦労、座ってよし」

 

「はい」

 

 折り目正しく、アイビスは着席した。中々に堂に入っており、明らかな慣れを感じさせる佇まいである。本来この役目は小隊長が担うべきなのだが、当の小隊長はというと隣の席で頬杖をつき、明後日の方向を見ながらひたすらぼんやりとしていた。いつ眠りの国へ旅立って行ってもおかしくない雰囲気であり、その瞬間を逃さぬようアイビスは横目でこまめに監視していた。

 

「次、ゴースト小隊」

 

「うむ。一番機ゲシュペンストMk-Ⅱ、右脚部に軽損傷1。機能不全なし。修復まで一時間。二番機アンジュルグ、ウィングユニットに軽損傷1。左腕部に中損傷1で、肘より脱落。応急処置完了まで二時間。完全修復まで半日。三番機ビルトラプターは……」

 

 淡々と資料を読み上げるカイ・キタムラの、低く落ち着いた声音がじんわりと部屋の中に染み渡っていく。その耳心地の良さに危機感を覚えてアイビスが視線を動かすと、案の定彼女の小隊長は、いつのまにかすっかり目蓋を閉じてしまっていた。

 

 まずい、とアイビスは思った。

 

「次、オクト小隊」

 

「一番機、右腕部に中損傷1。手首関節と、ステークに動作不良あり。修復まで間接部分は一時間、ステークは二時間弱の見込み。二番機ゲシュペンストMk-Ⅱ・ラッセル機機、損傷無し。ただし……」

 

 周囲に気付かれぬよう、アイビスはそっと左腕を伸ばし、マサキの太腿をつついた。反応無し。次に軽く足を揺する。これもまた反応無し。どころかそうしている間にもマサキの肩は段々と沈んでいき、本格的に居眠りの体勢に入ろうとしている。いよいよまずい。

 

「次、SRXチーム」

 

「一番機R-1。右脚部に軽損傷1。単体では機能不全無し。ただし装甲が一部隆起しており、合体シークエンスの際、R-2側と干渉を起こす恐れ有り。修復まで三時間。二番機R-2は……」

 

 アイビスは意を決して、マサキの脇腹へと指を伸ばした。強く、しかし強すぎないよう微妙な力加減でつねり上げる。疲れているのに、ごめん……などと胸の内で思うアイビスは殊勝にはちがいないが、いささか身内びいきが過ぎるとも言えるだろう。

 

 作戦は成功し、小さくくぐもったような少年の悲鳴は、幸い報告の声に紛れてさほど響かなかった。

 

「……総じて部隊の損害は極めて軽微と判断できる。まず上々の結果と言えるだろう。あれだけの戦力を相手によくやってくれた」

 

 果たしてそんなやり取りを知ってか知らずか、全小隊から報告を受け取り終えたキョウスケが、堅苦しく総括を述べた。

 

「では次に今回の戦闘のおさらいに入る。スクリーンを見てくれ。マッコーネル基地の守備隊は、皆も体験した通り山岳地帯をフルに生かした布陣を形成していた。これに対して我々はオクト小隊を先頭に一点突破を図ったわけだが、まず一つ目の誤算として……」

 

 

   Ⅲ

 

 

 ヴィガジとの戦いから二日間が経過していた。

 

 半ば異星人の前線基地と化していたテスラ研を奪還したことで、コロラド州は地球連邦軍の勢力下に組み込まれたと言って良い。しかしながら、当座の目標であるラングレー基地までの道のりはいまだ険しい。

 

 広大なアメリカ大陸といえど、コロラド州からラングレー基地まで物理的な距離でいえばさほどのものではない。通常の旅客機でも、ほんの三時間足らずの旅路となるだろう。しかし現在その路はすべからく敵の勢力圏内であり、下手に敵陣中枢へ直行しようものなら即座に包囲殲滅の憂き目に遭うのは目に見えている。結局のところ地道に一つずつ外縁を攻略していくしかなく、今回の出撃もまたその一環としてのものだった。

 

 カンザス州の軍事的中枢たるマッコーネル基地は、本来であれば地球連邦軍の拠点であるはずだったが、例によってこれまで異星人に占拠されていた場所だった。その奪還のために、今日の早朝、日の出と共に出撃が行われた。部隊を二つに分けた先の戦闘とはちがい、今度は持てる戦力を一斉に投入したこともあって作戦は滞りなく進み、無事ハガネ隊の勝利に終わった。

 

 しかし異星人の戦力の前に、ハガネ隊とて全くの無傷では済まず、死傷者こそ出ていないものの幾つかの機体は大なり小なりの損傷を被った。サイバスターもその内の一つであり、敵ミサイルからの猛追を受けていた僚機を庇うべく、自らその間に飛び込んで行き、結果、左肩部にダメージを負っていた。とはいえ「かすり傷」と称したマサキの言葉に誇張は無く、自己修復に任せていれば一時間ほどで快復するはずであった。

 

 カンザスのマッコーネル基地。その二日前にコロラドのテスラ研。遅々とした進軍ではあったが、実のところ全体のスケジュールとしてはほぼ予定通りにことは進んでいた。当然ながらラングレー攻略に参加しているのはハガネ隊だけではなく、他の連邦軍部隊も別の方角から同じように中途の地域を制圧しつつラングレーへ向けて歩みを進めている。このまま順調に進めば、一週間後にはラングレーを中心とした連邦軍の一大包囲網が完成する見込みであった。

 

 決戦の日は近い。

 

 しかしそんな中でも、人の営みは変わらない。眠気をこらえて起床し、食事をとり、仕事に向かい、他人と接し、時に笑い時に怒り、そして明日を思いつつ眠りにつく。人である限りこのサイクルからは逃れられず、また逃れるべきでもない。

 

 とりわけハガネ隊のパイロット達には、どれほどの激戦のさなかにあっても日々の楽しみを謳歌しようとする傾向が強く見られる。ある者はそれを緊張感に欠けると言い、またある者は緊張感を飲み込む度量があると評する。

 

 この場合はどちらなのだろうとアイビスは考える。

 

 戦闘後ということもあり、デブリーフィングを終えたパイロット達は終日休息となった。みな疲れていないはずはなく、事実まっすぐに自室へ帰っていった者も多いのだが、それでも決して少なくない人数がこぞってラウンジに集い、思い思いの娯楽にいそしみ始めた。

 

 ラウンジの一角にて、パチンと何かを打擲するような硬い音が響いた。

 

「王手」

 

「む」

 

 盤上の戦況に、ゼンガー・ゾンボルトは眉間の皺を深くした。ドイツ人でありながら和の文化に傾倒する彼は、日本式の将棋にも嗜みを持つ。ただハガネ隊ではチェス派が主流であり、腕前を競える相手が中々見当たらずにいたのだが、このたび思っても見なかった強敵を得ていた。

 

「どうする? 待つ?」

 

「……無用だ」

 

「じゃ、あたしの勝ちね。詰みだもの」

 

「む……う……」

 

「諦めろ。本当に詰みだ」

 

「ショーギには詳しくないが、私でもチェックメイトと分かるぞ」

 

 唸るゼンガーと、しきりに感心するカイ、レーツェルの前で、対戦者は得意そうに尾を振った。それは比喩でもなんでもなく、実際彼女は立派な長い尾を持つのだ。やがてゼンガーは身を正して、頭を下げた。

 

「参った。外見に似合わず、なんとも老獪な打ち方だった。完敗だ」

 

「いえいえ、それほどでも」

 

「できればもう一局、お願いしたい」

 

 黒猫の姿をした使い魔クロはにこやかな顔で前足を伸ばし、器用に駒を初期配置に戻して行った。

 

 一方、別のテーブルでは五、六人の女性が集い、なにかを取り囲みながら口々に黄色い悲鳴を挙げていた。

 

「ねえねえ、私にも抱かせて」

 

「次は私だってば」

 

「あー、かわいー。肉球ー。癒されるー」

 

「オイオイ勘弁してくれニャ。オイラの体は一つしかニャいんだぜ」

 

 リオ・メイロン、クスハ・ミズハ、マイ・コバヤシにラトゥーニ・スゥボータ。アヅキ・サワ。他幾人もの女性陣の腕やら胸やらの感触を代わる代わるに堪能して、使い魔シロはオスとして心底勝ち誇ったような笑顔を浮かべていた。タスクを始めとする何人かの男たちの恨めしそうな視線がまた心地良い。クスハの胸を枕にしながら、シロはそんな男達の方をちらりと一瞥し、

 

「極楽だニャー」

 

 ぷふーと鼻を鳴らした。指を銜えて見ていたタスクは、そのまま親指の爪を噛みちぎりたい衝動に駆られた。

 

 して彼らの主はというと。

 

「おい。ハートの3を止めてるのはどこのどいつだ?」

 

 お前か? と言わんばかり睨みつけられアイビスは慌てて首を振った。

 

「だめよマーサ。こういうのはフェアにやらないと」

 

 エクセレン、スペードの3。

 

「脅し、イカサマは即退場だ。そろそろ懐も厳しいんじゃないのか?」

 

 キョウスケ、スペードの2。

 

「日頃、タスクにかもられてるんだろ? 止めときゃいいのに」

 

 リュウセイ、クローバーの9。

 

「マサキ、ギャンブルが好きなの?」

 

「こいつのは単なる負けず嫌いだ」

 

「しかも妙にリッチだから、懲りずにふっかけてくるのよね。鴨がネギ背負って、土鍋を銜えてるって感じ?」

 

「そういやお前どうやって稼いでるんだ? 給料なんて出てないだろ?」

 

 心当たりのあるアイビスは、ふと笑いをかみ殺した。

 

「やかましいんだよ、お前ら。パスだパス!」

 

 マサキ、パス2。ちなみにパスは3度までとされている。

 

 順番が回って来たアイビスは場のカードと手札、それからマサキの様子を見比べてしばし黙考し、一枚のカードを選んだ。ダイアの11。

 

「よくやった!」

 

 打って変わって喜色満面のマサキに、だから勝てないんだろうなぁとアイビスはついつい微笑んでしまう。

 

 通しもイカサマの一種なのだが、とキョウスケは思ったものだが、麻雀でもないのだ、今回は不問とした。

 

「だははは。こうなりゃこっちのもんだ。待ってろアイビス。賭博ジャンキーどもの尻の毛までひんむいたら、メシの一つでも奢ってやるからな」

 

「うん、楽しみにしてる」

 

 使い魔は主の無意識を切り取って生まれてくる、とアイビスは以前に聞いた事があったが、だとすればクロとシロは、彼の無意識に眠っていた狡猾な面や享楽的な面、なにより要領の良さを切り取って生まれて来てしまったのだろうか。

 

「きたきたきたきた。残り一枚!」

 

「聞いた? 残り一枚ですって」

 

「ハートの2だな」

 

「ハートの2だよなあ」

 

「て、てめえら……!」

 

 ようやくマサキは己の不覚を悟り、言葉を失った。

 

 そんな不甲斐ない小隊長の姿を見て、使い魔の解釈として正しいかは分からないが、それでもあの二匹の使い魔に……とりわけシロに対して、アイビスはなんとなく感謝する気持ちになった。なんでもかんでも小器用に賢くこなし、あまつさえ両手両足に美女を侍らせてニヤニヤと笑うマサキなど、アイビスは想像したくもなかった。

 

 

   Ⅳ

 

 

 夜も更けて、ハガネの屋外デッキまで足を運んだアイビスは、全天に星降るアメリカの夜空を見上げた。飛行中の際は立ち入り禁止となる区画でも、現在ハガネは補給部隊の到着を待つべくマッコーネル基地にて待機中であるため、咎めを受けることはなかった。

 

 寒風に吹かれる夜の山々が、遠くでさんさんと静かに木々を揺らしていた。ときおりそれに紛れて、笛のように甲高い風の音がアイビスの耳のあたりを通り過ぎて行く。

 

「さむい」

 

 冷気が鼻に合わず、アイビスは下品でない程度に口を開けた。呼気が白い霞になって、彼女の口元から鼻先にかけてを僅かに暖める。

 

「やっぱり冷えるね」

 

「だから言ったろ」

 

 マサキは両手をポケットに突っ込んで、せわしなく身を震わせながら、うろうろとデッキを歩き回っていた。動いていないと、凍えてしまいそうなのだ。夜風に当たりにいこうと言い出したのはアイビスで、彼は嫌そうな顔をしつつもここまで付いて来ていた。結局カードで大敗を喫したことも、不機嫌に拍車をかけている。

 

 アイビスは手すりを掴み、それを支えにゆっくりと背中側に体重を移していった。体ごと星空を見上げようとしているのだろう、そのまま逆上がりまでしてしまうのではと、後ろから見ていたマサキは不安になった。

 

「きれいな星空。あの向こうに行きたいな」

 

 アイビスにとって、それは己の芯ともなる言霊だった。幼少の時分は恵まれない生活からの逃避願望に過ぎなかったものが、言い続けていくうちに鍛鉄され、精錬され、やがて目に見えない鋼の芯となり、彼女自身の体と生き方ををまっすぐ貫くようになっていた。

 

「今頃はサンタクロースが、おもちゃの買い出しに必死だろ。手伝いに駆り出されるんじゃねえか?」

 

「ああ、そういえばクリスマスが近いね」

 

「女はそういうのが好きなんじゃないのか?」

 

「あたしはあまり。でもケーキは好きだな」

 

 クリスマスは聖夜とも換言される。しかしアイビスにとって、夜とは常に聖なるものだった。昼空の青と夕空の赤は、どちらも同じく太陽の光の色である。だからアイビスは太陽が隠れた夜の空こそ、神が創りたもうた本当の空の色だと考えていた。つまり、宇宙の色こそが。

 

「今更だけどよ」

 

 アイビスの隣に来て、マサキもまた手すりに寄っかかった。

 

「お前、艦を降りなくて良かったのか?」

 

「降りる?」

 

 アイビスにとっては思っても見ないことだった。

 

「せっかく研究所を取り戻したんだ。そういう選択肢だってあっただろ」

 

「でも、徴兵中だし」

 

「主張すりゃ、艦長達も無下にはしねえさ。お前が軍人じゃないのは分かりきってるからな。まぁ、それでもこのご時世だ。叶うかどうかは別だけど、言うだけでもしとくべきだったんじゃないのか? お前が自分で決めればいいやと思って、黙ってたんだけどよ」

 

 突然の事に、アイビスの思考はいくらかの混乱を見た。研究所を奪い返すために、これまで彼女は戦って来た。奪い返し終えたのなら、戦いをやめる。整然とした論理ではあった。ならばなぜ、自分はそれを思いつきもしなかったのだろう。

 

「……降りたくない」

 

「なに?」

 

「『降りたくない』。そう思っている」

 

 感じるままを、アイビスは言った。

 

「急だから、きちんと整理できないけど、いまあたしは確かにそう思ってる」

 

「言っておくけど、小隊のことなんざ気にするなよ。俺は一人でも問題ねえんだ」

 

 愛想なく、マサキは言った。アイビスとて自分という存在がどうしても彼に必要だとは考えていなかった。小隊はおろかハガネ隊そのものが解散しようが、マサキ・アンドーは変わらずに戦い続けるのだろう。もともと彼は一人で戦うために、一人で異世界よりやってきたのだから。

 

 ではなぜ自分は降りたくないと感じているのか、しばしアイビスは答えあぐねた。動機を言葉にするのは簡単なことではない。思いというものは元来言葉ではないからだ。

 

「ハガネ隊は……とても、不思議なところだと思う」

 

 慎重に一言ずつ、自らの気持ちを確かめるようにアイビスは言葉を紡いでいった。

 

「本当を言うと、最初は軍艦だってことで少し毛嫌いしてたんだ。ハガネだけじゃなく、パイロットの皆や機体のことも。でもこうして一緒に生活をして、訓練をして、背中を預けて戦って、その中で色々なものを受け取ってきたような気がする。上手く言えないけど、勇気とか、強さとか、そういう前に進む力のようなものを」

 

「……」

 

「ここに来た事で、あたしの中が、何から何まで変わったんだ。本当に、天地がひっくり返ったみたいに。だからあたしは、少しでも長くここにいたい。いればいるほど、あたしは強くなれる気がする」

 

 そういうアイビスの気持ちが、マサキは分からないでもなかった。戦友というものの有り難さを彼はよく知っており、しかしそれが決して永遠ではないこともまたよく知っていた。

 

「戦いを続ければ、誰だって強くなる。だからお前も強くなったし、これからもきっと強くなっていく。けど、それと同じくらい誰だろうと死ぬときは死んでいく。殺しても死にそうにない奴ほど、あっさり死にやがる。夢を追うなら、降りるのが一番賢いと思うぜ」

 

 マサキの脳裏を、幾人かの面影が通り過ぎて行った。眼前でまざまざと死を見せつけられた者がいた。死に目をみとる事さえできなかった者もいた。今現在、生死不明な者までいる。

 

 それでもアイビスは首を振った。

 

「誰であろうと死んでしまう。そんな世の中を悲しいと思うから、マサキは頑張ってるんでしょう? 楽しい世の中を夢見て。あたしにも夢がある。夢のために、いまできることをしたい。星の海を往く事と、ハガネ隊の一員であることは、あたしの中で地続きなことなんだ。夢を忘れたわけじゃない。夢のためにこそ、あたしは戦いたいって思ってる」

 

 いま言えることを全て言い終え、アイビスが口をつぐんだ。理屈になっていないと、彼女自身にも分かっていた。

 

 そしてマサキも、実のところ理屈など求めていなかった。一つの選択があり、それが正しいのか誤っているのかなど、突き詰めれば誰にも判断付かないことだ。だからこそ、この世のあらゆる選択は本人の納得こそが一番大事なのだとマサキは考えていた。

 

 だからマサキは「なら、いいや」と思った。

 

 アイビスが、アイビスとして、あくまで艦を降りたくないというのなら、正誤や合理非合理など関係ないのだ。その意志を貫くことにはきっと意味がある。

 

「んじゃ、この話はこれでおしまいだ。しばらくの間だけど、これからも宜しくな」

 

 聞きたかった言葉を聞けて、アイビスは満ち足りたように瞳を閉じた。

 

「うん」

 

 

   Ⅴ

 

 

 どこか昂揚する気分のまま、アイビスは夢の話を始めていた。

 

「真っ暗な闇がまずあって、あたしがそこに浮かんでいるんだ。頭上も、足下も、背中にも前にも、何も無い。ただ星々が遠く散らばっている。小さくて細かな星の集まりは、一つ一つが混じり合って大きな河になっている。そこからあたしは遠くを目指すんだ。うんと遠く、光の速さで向かっても何年も掛かってしまうくらい遠くを」

 

「例のフレーズだな。星の海を往く、てやつ」

 

「そう。その星の海の奥深く、どこか一点を目指して往く。なにか用事があるわけじゃなくて、探し物があるわけでもなくて、ただ往きたいから往く。意味とか、そういうのはどうでもいいんだ」

 

「要は、散歩したいってことか」

 

 マサキの俗な物言いに、しかしアイビスは我が意を得たりと頷いた。

 

「そう、散歩をしたいの。地図に無い道を歩いて、知らない花を眺めて、なにも考えずに雲の一つをてくてくと追いかけて行く。あたしがしたいのって、結局そういうのなんだ」

 

「ほお」

 

 アイビスの隣で、少年もまた宇宙を見上げた。

 

「宇宙か……」

 

 相方を少しは見習おうと真摯に眺めてみるが、数秒ともたずいかにも興味なさげな形に目蓋が緩んでいく。

 

「そんないいもんかなあ」

 

「いいもんだよ。マサキは空の方が好き?」

 

「別に好きってわけじゃねえよ。宇宙にしろ空にしろ俺の場合、用があるから行くだけだ」

 

 少しばかりマサキは言葉を誤摩化した。敵が居るから、戦うために行く。そうここで口にするのは野暮な気がしていた。

 

「用が無いなら、家で昼寝でもしていてえな。真っ暗な宇宙で一人きりなんて、退屈そうだ」

 

「確かに端から見ると寂しいかもね。でもあたしには足りないものなんて思いつかないんだ」

 

「ならそれでいいんじゃねえか?」

 

「うん。あたしもそう思う」

 

 手すりの外を向き精一杯宇宙を見上げながら、アイビスはそっと横目でマサキの方を見た。手すりに背を預け、ぼんやりと足下を見下ろすマサキの姿は、さながらアイビスの鏡像のようだった。

 

 互いの体臭が微かに香るほどの距離にあっても、見つめる先は正反対。あるいはそれは、二人の生き方そのものを表しているように思えて、アイビスはなぜだろう、胸に小さな穴が空いたような感覚を覚えた。

 

「ねえ、戦争が終わったらマサキはどうするの」

 

 マサキはなんでもなさそうに答えた。

 

「異星人を片付けたら、俺はこの艦を降りるんだ。またシュウを追う。そして倒す。そいつがきっと、地上での俺の最後の戦いになる」

 

 シュウを倒す。アイビスが星の海のことを話すのと同じくらいの頻度、同じくらいの重々しさで、マサキは常々そう言って来た。彼がその名を口にする時、その言霊にいかなる思い、いかなる過去が宿っているのか、アイビスには掴みきれないことだった。マサキは多くを語らず、アイビスもまた尋ねなかった。

 

 いずれにせよ、自分と彼の行く先がまるで異なることをアイビスは改めて悟った。戦争が終わっても、彼はまた次の戦場に。自分はきっと戦いのない場所に。

 

 分かっていた事ではあったのだ。同じ空を駆ける者同士でも、アステリオンは火器を後付けした航宙機であり、サイバスターは翼を持った戦闘兵器である。似通った特性は、あくまで結果に過ぎない。分かりきっていたことではあるのだ。

 

 それでもアイビスはマシンではなく、そして生身の人間には、相反するからこそ、真逆であるからこそ、自分には無いものを持つ相手だからこそ芽生える想いというものが確かにあった。

 

「なら、あたしも戦うよ」

 

 決然と言った。シュウ・シラカワと戦う。言葉にするのも考えるのも今日が初めてではあったが、それは至極当然のことのようにアイビスには思えた。

 

「見つけたらあたしを呼んでよ。あたしも一緒に戦うから。たくさんたくさん助けてもらった分を、そのときにお返しするから」

 

「死ぬかもしれねえぞ。やめときな」

 

 それは存外真剣な口調で、異星人の大軍よりもシュウ・シラカワ一人をこそ少年は恐れているかのようだった。それでもアイビスは言を翻すわけにはいかなかった。決して親切心ではなく、それは、紛れも無い彼女自身の欲求なのだから。

 

「絶対やめない。なにがなんでも行くから。だって小隊でしょ。だからあたしも戦う」

 

「ハガネから降りれば、小隊だって解散だぜ」

 

「関係ないよ」

 

 そっぽを向くアイビスに、マサキは鼻の頭を小さく掻いた。

 

「そうかよ。んじゃお願いするかな」

 

「本当?」

 

「奴を見つけたら知らせるよ。頼りにしてるぜ」

 

「うん」

 

「そんでお前が来る前に、さくっと終わらせておいてやる」

 

「……もう」

 

 笑い声が夜に混じっていった。

 

 マサキはそうは言いつつも、念願の宿敵といざ対峙した時、本当に彼女を呼ぶのか、呼ぶべきなのか、このときは判断付かなかった。そのときに考えれば良いと、未来の自分に責任を放り投げる。

 

 戦いとはまるで関係ないところに心を置きながら、それでも戦おうとするアイビスの気持ちを、マサキははっきりと掴み取る事ができなかった。サイバスターは大きな翼と剣を持つが、どちらかを捨てなくてはならないとしたらマサキは剣を残す。そして隣の相方ならば、きっと逆の選択をするのだと弁えていた。

 

 自分と彼女は見ているものが違うという理解がある。彼にとって宇宙とは、墨を塗りたくり、宝石を散りばめたスクリーンのようなもので、目で楽しむことはできても、それ以上の欲求を掻き立てるものではなかった。

 

 それでも、たとえ見ているものが違っても、顔を少し横に向ければそこには一心に宇宙を見上げる彼女の横顔があり、柔らかくひたむきなそれを眺めていることはマサキにとって悪い気はしないことだった。

 

 夜風が肌寒いだろうに、アイビスのすっきりとした肢体は真っ直ぐに天頂を目指すようだった。肉体は地にあっても、その心は際限なく夜空へと立ち昇っているのだろう。地の下の世界に心を残すマサキとは対照的に。

 

 いずれ彼女は天へと旅立ち、マサキは地の下に帰る。彼女が夢見るものに、同じように夢を持つことができずとも、そんな彼女の姿を眺めることは、少年にとって、本当に悪い気はしないことだった。

 

 だからこそ、マサキは想像するのだ。

 

 かの群青色の魔人と差し向かいになり、剣を構え合った時、もしその隣に彼女の姿があれば。

 

 負けるつもりはない、しかし勝てるかどうかも確信が持てない最大の敵と戦うとき、もしも今と同じように、夢と希望に満ちた彼女の横顔があるのなら、それはきっと……。

 

「なあ」

 

「ん?」

 

 満天の星空の下で、二人は顔を向け合った。戦争という希有な時代、ハガネ隊という希有な場所だからこそ出会い得た、奇妙な二人。どこか似通い、どこか相反し、偶然と必然のまま命を託し合うようになった男と女。

 

 それぞれが見つめるそれぞれの姿は、風と夜の帳の中で一層暖かに、ぬくもるような輪郭を発していた。舞い踊る髪と瑞々しい肌が、暗がりの下でより鮮やかに映え、瞳にしみ込んで行くようだった。

 

 そんな二人の胸中に、一つの共通の認識がおぼろげに浮かんだ。互いにとってすでに明らかでも、それでも初めにそれを口にするのは、きっと男の役目なのだとマサキは感じた。

 

 マサキは言った。

 

「いい加減寒くねえか?」

 

「うん、寒い」

 

 

 そして、二人は艦内に戻っていった。

 

 ハガネ隊が誇る地球圏最速のエレメント、フリューゲルス小隊。そのささやかなミーティングを、星たちだけが見下ろしていた。

 

 この日は、新西暦187年11月19日。 

 

 年が明けるまで残すところ二ヶ月半。聖夜の訪れまでは約一ヶ月。

 

 加えて、ラングレー基地攻略まではあと一週間。

 

 そしてアイビスとマサキの信頼関係が頂点を極め、そして無に帰すまでも、やはり残すところ、あとおよそ一週間の頃であった。

 

 

 



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第七章:堕天の序曲

 

 

 

   Ⅰ

 

 

 ラングレー基地を拠点とした異星軍地上部隊は、数えて五つの部隊によって侵攻を受けていた。

 

 北方からはライノセラス級陸上戦艦「レッドノーズ」を旗艦とする陸戦機甲連隊。

 

 東方大西洋からはキラーホエール級潜水艦「シードラゴン」を旗艦とする揚陸連隊。

 

 南方からはライノセラス級陸上戦艦「タイラント」を旗艦とする空戦強襲連隊。こちらはノイエDC所属の部隊である。

 

 そして西方からは、スペースノア級万能母艦「ハガネ」および「ヒリュウ改」。

 

 それぞれが複数の機動兵器大隊を抱え、数で言えば総数500を超す大部隊となる。対して異星軍側の戦力は300前後と予測されており、物量面においては間違いなく連邦軍側が優位に立っていると言えた。

 

 500と300の戦いであれば当然前者が勝つだろう。ところが数字通りにいかないのが戦争の常であり、異星軍側とて自らの劣勢を看過しつづけるはずもなかった。合流さえすれば異星人を飲み干すに足る連邦軍も、逆に言えば合流するまでは東西南北に点在する独立した戦力に過ぎない。500対300ならば結果は見えていようと、100対300を五度繰り返すとなれば話も変わる。とりわけ異星軍は条件付きながら空間転移技術を有しており、戦力の運用速度においては地球側を遥かに上回っていた。

 

 最初に攻撃を受けたのは、大西洋を行軍していた東方部隊だった。深海に潜行した潜水艦は、それだけで究極のステルスを体現している。不意の遭遇戦ならばともかく、そこを狙い定めての襲撃など本来ありえない。しかし、そんな地球軍側の常識など一顧だにせず、深海装備の機動兵器部隊一個中隊が、潜水艦隊の直下にまるごと転移してきた。

 

 起こるはずの無い敵襲に潜水艦隊は軒並み浮き足立った。直下というのもまた致命的であった。水中で下腹部を抑えられることは、地上戦において上空を抑えられるのと同様の意味を持つ。シードラゴン艦長フランクリン・フォックス中佐の号令のもと必死の抗戦が展開されたが、しかし状況を覆すには至らず、東方軍はラングレー基地にまで辿り着くこと無く、あえなく壊滅の憂き目にあった。

 

 沈没直前のシードラゴンから一つの映像データが、まるで遺言のように他方面部隊へと発信された。そこにはドルーキンと呼ばれる緑色の巨人が、泡と水蒸気に消えて行く艦隊を静かに見送る姿が映し出されていた。

 

 次に襲撃対象となったのは、ノースカロライナ州を縦断中にあった北方の陸戦部隊だった。彼らが有していた戦力は、機動兵器にしておよそ100。襲撃した異星軍もほぼ同数だったが、陣形の優劣が勝敗を分けた。進軍中であった北方軍の隊列は縦に伸びており、異星軍側は空間転移を利用してその両側面を突いたのである。高空から俯瞰すれば、ちょど「%」の記号のような布陣となる。兵力は同数でも、こうなっては勝負にならない。

 

 戦いはほんの半刻ほどで終わった。荷電粒子の束を雨霰と食らい、火と煙にまみれついには沈黙した旗艦レッドノーズを眼下に、異星軍の指揮を執っていた青色の巨人は銃を下ろした。

 

「ま、こんなもんか」

 

 グレイターキンのコクピット内で、異星軍幹部の一人たるメキボスは、そう退屈そうに一人ごちた。

 

 

 異星軍の猛攻により、五つの部隊のうち二つが潰走したという連絡は、残りの三部隊にも即座に伝達された。

 

 反応は三者三様であった。

 

「これで戦力面での優位は崩れた。だが劣勢ではない。対等になったまでのことだ」

 

 巌めいた表情でそう述べるのは、南方軍指揮官にしてノイエDCを統べるバン・バ・チュン大佐である。落胆とも平然ともつかぬ曖昧な口調だった。彼のみは、立場上のこともあって現状に一義的な感慨を持てないのだろう。

 

 対して、西方軍の片翼たるレフィーナ・エンフィールド中佐は、その女性らしい感受性によって悲嘆を拭えずにいた。

 

「ランバック中佐とフォックス中佐は、双方戦死されたとのことです。尊敬に値する優秀な将校でした……」

 

 言っても詮無いこと、とバン大佐は思いはしても口にはしなかった。レフィーナ艦長の言葉は建設的ではないが人間的ではある。そしてバン大佐自身もまた人間だった。

 

「今後の作戦についてはどう思われます」

 

「大佐と同じ意見です。作戦は継続すべし。手痛い反撃を受けたとはいえ戦力比は決して劣勢ではありません。ラングレー基地の挟撃はまだ十分可能です」

 

 意見の一致を見た二人は、最後の一人の方へ顔を向けた。ダイテツ・ミナセ中佐は言わずもがなと、一つ頷いた。

 

「どの道、退路などないのだ。ここで勝たねば、起死回生のプランタジネットは始まりもしない。背に水を負うのは敵も味方も同じ。作戦は変わらない」

 

 ダイテツのその言葉で作戦会議は終わり、三隊は一斉に進軍を再開した。DC部隊は南より、ハガネ・ヒリュウ改の両隊は西より、目指すは言うまでもなくただ一点、バーニジア東端にして大西洋沿岸に位置するラングレー基地。もはや地上においてただ一つの病巣と言え、これさえ摘出すれば地球人類の健康は回復し、逆にこれを摘出できなければ病状は悪化の一途をたどるだろう。

 

 作戦完遂のためあらゆる裁量を委ねられている各艦長たちだったが、唯一敗走だけは許されていなかった。軍組織の中核とも言える佐官クラスが三人いたとしても、やはりそれはあまりに重すぎる責務だった。

 

 

 一方、異星軍側でも同じように幹部クラスが集い、今後の戦略のための会議が行われていた。

 

「まずは東を沈めた」

 

 ところはラングレー基地の作戦室。異星人幹部メキボスは、そう言いながらスクリーンに映る周辺地図の一点を示した。

 

「次に北を破った。さて、次だ」

 

「西と南の二つに一つだろ? あたいとしちゃ西に行きたいけれど」

 

 同じく幹部アギーハが同席者の顔を見渡すと、ヴィガジが不機嫌そうに唸った。

 

「ハガネ隊は手強い。転移を用いたところで、南が駆けつけてくる前に沈めることは難しいだろう。自ら網の中に飛び込むようなものだ。行くならば南だろうな」

 

「おや、てっきり一目散に西へ行くかと思えば。こっぴどくやられて、さすがに懲りちまったのかい?」

 

「だまれ。ガルガウの修復が完了した暁にはハガネ隊の……なかでもあの忌々しい二機小隊の首は必ずこの手でもぎ取ってやる。貴様には譲らぬから、よく心得ておけ」

 

「そりゃ困る。あたいだってあいつらには貸しがあるんだ」

 

「そこまでにしろ」

 

 脱線しかけた話を、メキボスが塞き止めた。

 

「話の続きだ。ラングレーの転移装置だけじゃ、転移による戦力運用は一回こっきりの片道運転。それを西に向けたんじゃ、ヴィガジの言った通りになる。かといって南の戦力も、そう馬鹿にできたものじゃない。ハガネ隊の援軍が駆けつけてくるまでに黙らせるのは難しい。この二つの部隊は、距離もそう離れてないからな。なら、いっそのこと欲張らずに、ここで陣を張らないか?」

 

「そりゃ定石ではあるけどさ。MAPW持ちをごろごろ抱えるハガネ隊に、防衛戦かい? サイバスターか例の合体特機に焼き払われるのがオチだろうに」

 

「否定はしないが、ま、ものは考えようだ。こいつを見てくれ」

 

 首を傾げる二人の前で、メキボスは器用に地球製の機材を操作して、事前に作成していた作戦要項を画面に呼び出した。メキボスが作戦の仔細を説明し終えたとき、ヴィガジは腕を組んで考え込み、アギーハは面白そうに瞳を瞬かせた。

 

「面白いね。堅実かと思えば、なかなかに博打じゃないか」

 

「しかしラングレーの命運は変わらない。地上制圧の足がかりを失ってしまっては……」

 

「いいや、意味はある。どだいあれだけの戦力差を前にして勝ちきろうってのが、そもそも高望みだったのさ。ラングレーはもう仕舞いと、ここらで見切りをつけておくべきだ。無論、転移装置だけは何としてもホワイトスターに送り返すがな。要点はもう如何に勝つかじゃなく、如何に気分よく負けるかにある」

 

「舞台はどのみち宇宙に移る。その前の最後の一花ってわけか。いいね。あたいはそれでいいよ」

 

「しかし、ウェンドロ様にはどう釈明したものか」

 

「その点については問題ない。何を隠そう、この作戦はつい先日にあの方から賜ったものなんだ。お墨付きってやつだな」

 

「なんだい。感心して損した」

 

「ならば異論は無い」

 

 二者からの同意を得られ、メキボスは先ほどから一言も発しない四人目の幹部を見やった。

 

「シカログはどうだ?」

 

 問いかけられても、男は無言と鉄面皮を微動だにさせなかった。

 

「いいってさ」

 

 そこから何をどう読み取ったのか、アギーハがそう口添えして、場は開きとなる。四人は立ち上がり、顔を見合わせた。異星軍総帥ウェンドロの旗下、四人の幹部たち。ハガネ隊の人間からは「四天王」などとも呼ばれることもある彼らは、決して仲睦まじい間柄ではなかった。しかしこの時だけは、ある一点における心情の一致が間違いなくあった。

 

「んじゃ、一発かましてやろうぜ」

 

「目にもの見せてくれる」

 

「派手に遊ぼう。ね、ダーリン?」

 

「……」

 

 

   Ⅱ

 

 

 新西暦187年11月25日。天気は快晴にして風も無く、気温は15度前後とやや肌寒いが、季節を思えばむしろ温暖と言える。異星軍が居を構えるラングレー基地の勢力圏内にハガネ隊が脚を踏み入れたのは、真冬の厳しい寒気の間に顔をのぞかせた、そんな優しげな日のことだった。

 

 ラングレー基地は、旧暦の頃はラングレー空軍基地と呼ばれ、米軍有数の軍事施設に数えられていた由緒正しい土地である。敷地の東側半分は海岸に面しており、西側半分は演習のために切り拓かれた荒野が、さらに先には森林地帯が広がっている。旧暦の頃は市街地とも普通に面していたのだが、暦が改まってからは軍拡の影響で四方一帯は丸ごと軍の領地となり、付近には街どころか人家一つ見当たらない。いたとしても事前の避難勧告で、とっくに住民は避難していることだろう。

 

 ハガネ隊は現在、そのラングレー基地の北西約25kmの地点にいた。基地をぎりぎり目視できる、まさに目と鼻の先といえる位置である。敵も当然、ハガネ隊の存在には肉眼とレーダーの双方で気付いているはずであり、いまはちょうど開戦前のにらみ合いの段階にあるというわけだった。嵐の前の静けさである。

 

 交戦開始時刻は、1000時と予定されていた。人間が最も活動的となる時間帯であり、戦闘においても夜襲などの戦術上の都合を無視すれば、この時間帯に行うのが理想的と軍教本には記されている。

 

 朝6時。ハガネの食堂はいつも通りの賑わいを見せていた。これが最後の食事となるかもしれないことは、誰の胸の内にもある認識だった。しかし、それはなにも今日に限った話ではない。ここに集う人々はみな、そういった心持ちに慣れきった者たちだった。

 

 それでもさすがに個人差はあるようで、アイビスも昨日までは問題なく平らげられた分量の朝食に、やや手こずっていた。出撃前は何時もこうであるので、無理をせずに食器を置く。皿の上は片付いたものの、トーストが丸々一枚残っており、アイビスは向かい側に座る少年に目を向けた。

 

「食べる?」

 

「くれ」

 

 簡潔な取引のもと、アイビスの二枚目のトーストはすぐさま少年の三枚目となった。きつね色に焼かれた食パンにひょいひょいと目玉焼きとハムを乗せ、少年は大口を開けてかぶりついた。

 

「マサキの胃袋は鉄で出来てそうだね」

 

「もう何十回目かも分からねえんだ。今さら緊張なんてできるか」

 

 むしろマサキは、咎めるようにアイビスを見た。

 

「お前も、もうちっと胆を鍛えねえとな。戦いだろうが宇宙探検だろうが大事なのはメシと度胸だぜ」

 

 古兵ぶって訓戒を垂れるマサキだったが、口元にパン屑が付いていては締まるものも締まらない。アイビスがつんつんと自らの唇を指差すと、気付いたマサキはそそくさと口元を拭った。

 

(こうして見ると、「年下の男の子」って感じなんだけどなあ)

 

 マサキがアイビスの陸と空での違いに一時期戸惑ったように、アイビスの方もまた似たような感覚をマサキに対して抱いていた。小隊長と小隊員、姉と弟。二人の間で、互いの立場と役割はくるくると入れ替わった。あるいは、だからこそこの二人は気が合ったのかもしれない。頻繁に返される砂時計が、けっして尽きる事の無いように。

 

「人間度胸も大事だけれど、身だしなみもきちんとしないとね」

 

「いいんだよ、男は風呂にさえ入ってりゃ。お前こそ女なんだから、もう少し服とかに気を使ったらどうなんだ」

 

「これは制服だよ。あたしだって私服はちゃんと選んでるさ。前に見たでしょ?」

 

 数週間ほど前、ハガネ隊が極東基地に逗留している間、乗組員達に丸一日の休暇が与えられたことがあった。その際パイロット数名が集まって街遊びへと繰り出したのだが、それにアイビスとマサキも参加しており、確かにその時マサキはアイビスの私服を目撃していた。

 

「あの銀色の奴か。そうだったな。普段、陸じゃぁ気が小さいくせに、着る服はやけに強気なんだなって驚いたっけ」

 

「つ、強気って。あれくらい普通だよ」

 

「そうか? エクセレンが悔しそうな顔してたけどな。上を行かれたって」

 

「動きやすいってだけだよ」

 

「へいへい。んじゃ、そういうことにしておくか」

 

 如何にも含むところを持つようなマサキのにやけ顔に不満を覚えながらも、しかしアイビスはこのとき確かに、遠景に浮かぶ敵本拠地のことも、わずか数時間後に控える決戦のことも忘れていた。如何なるときも変わらない少年の自然体が、いつもアイビスに同じものを思い出させる。アストロノーツの常備薬の一つに精神安定剤があるが、この少年がいてくれれば自分には必要ないようにアイビスには思えた。

 

「ごちそーさん。そろそろ行くか」

 

 マサキは返事を待たずに立ち上がり、アイビスもそれに続いた。

 

(あと一枚くらい、食べられたかもしれない)

 

 気まぐれな胃腸の具合に、アイビスはそんなさもしいことを考えた。

 

 

 ラングレー基地の周囲には、第一・第二防衛ラインが張り巡らされている。そのうち第一防衛ラインは元々存在していた地球製の対空ミサイル施設のことを指すが、これは異星軍に占領された際に破壊されている。

 

 より外側の第二ラインは異星人が新たに敷設したもので、テスラ研にも見られたドライバー・キャノンによる対空砲台群のことである。

 

「その数は五十以上にも昇る。さすがにこの数では強行突破はほぼ不可能。テスラ研の時と同じ手は使えないということだ」

 

 この日のモーニング・レポートは、ラングレー攻略作戦の最後のおさらいの場となった。スクリーンから発せられる光で、その前に立つキョウスケの顔に影が落ち、その眼光をより鋭いものにしていた。

 

「そのために今回の作戦は、全くの正攻法が採用された。全機動兵器は超低空でラングレー基地をめざし進軍。敵の砲台に対しては、地形を盾にしながら接近・破壊する。そしてDCと足並みを合わせ、敵本陣を叩く。無論、行く手を遮ってくるであろう、敵機動兵器部隊を蹴散らしながらな。要は出撃したが最後、ラングレーまで直進し続ければ良いということだ。分かりやすくて良いだろう」

 

 キョウスケなりの精一杯のユーモアはそれなりに機能して、何人かの笑いを誘うことに成功した。ユーモアそれ自体よりも、彼の似合わぬ気遣い方のほうが効果としては大きかったようだ。

 

 無理を通せ。本作戦の趣旨を端的に述べるなら、これに尽きた。無体な命令ではあったが、起死回生を果たすためには、それだけのことを為さねばならないことも確かだった。家族のため、仲間のため、世界のため、自分のため。動機の源泉は各人様々であったが、それは覚悟という名の共通した意志として収束し、この場に居る全員の間で溶け合い、一つになっていった。

 

 時計が九時三十分を指し示す。

 

「時間だ。全機、出撃態勢に入れ」

 

 戦闘司令官の号令のもと、ハガネ隊のパイロットたちは皆一様に、弾かれたように走り出した。格納庫に次々と人影が飛び込んでいき、それぞれの愛機に駆け出して行く。数十もの巨人たちの瞳に一斉に光が灯った。

 

「フリューゲルス・ワン。チェックイン」

 

「ツー」

 

 回線を揃えて、繰り返す。

 

「フリューゲルス・ワン。チェックイン」

 

「ツー」

 

 間髪入れない呼吸にひとまずの満足を得たのち、この程度のやり取りすら覚束なかったころのことを、マサキはふと思い返した。アイビスがもたついたせいというときもあれば、マサキがそもそも呼びかけるのを忘れたせいというのもあった。それが、今となってはなかなかのものに仕上がったものだった。

 

「今日はブルってないのか? 二番機さん」

 

「そう何度もお世話にはならないよ、一番機さん」

 

「へえ。今日は雪が降るかもな」

 

「冬に降ったって、おかしくないじゃないか」

 

「んじゃ槍が降るな」

 

「降ってくるのは砲弾だよ。でも、あたしたちには当たらない。そうでしょ?」

 

 強気な物言いに、マサキは満足して頷いた。タスクあたりが何と言おうと、少年にとってのアイビスとはまさしく今のアイビスだった。流星の如く真っ直ぐな、一文字の軌道を描くアステリオン。マサキの彼女に対する第一印象といえば、まずそれなのだから。

 

 リニア・カタパルトに乗って、矢継ぎ早に味方機が空へ投げ出されて行く。やがてマサキたちの順番が回って来た。

 

「そうだな。当たるわけがねえな」

 

「うん」

 

「じゃぁ、見せつけてやるか」

 

「うん」

 

 コンベアに乗って、サイバスターがカタパルトまで運ばれる。脚部固定。充電開始。エーテル・スラスターが静かに呼吸を始める。

 

「こちらブリッジ。フリューゲルス・ワン、発進どうぞ」

 

「フリューゲルス・ワン、サイバスター出るぞ!」

 

 瞬く間の加速をもって、サイバスターは外界へと飛び出した。エーテルが爆ぜ、風に乗る。煌めく粒子が、宝石の如く空を舞い踊っていった。

 

 やがて後方からアステリオンが追いつき、二機は連なり合った。フリューゲルス小隊が完成する。彼らだけではない。最前列ではATXチームが先鋒を務め、そのわずか後ろにSRXチームが控えている。ゴースト小隊、オクト小隊が左翼・右翼を固め、その他の小隊が後ろに続いていく。小隊と小隊が連なり合い、「ハガネ隊」という名の一つの塊となった。

 

 全機出撃、ならびに陣形構築が完了した。持てる全ての戦力を投入し、ハガネ隊が行く。

 

 地球人類と異星人の、地上最後の決戦が、始まろうとしていた。

 

 

   Ⅲ

 

 

 艦橋オペレーターより砲台射程圏内到達の連絡の一瞬後に、超音速の砲弾が暴風雨のごとくハガネ隊に降り注いで行った。一発一発が長距離ミサイルすら撃ち落とす威力と精密さを持っている。一瞬でも機体の操作を誤れば、ひとたまりもなく蜂の巣にされるだろう。そんな弾幕の中をハガネ隊は、ジガンスクード、グルンガスト、龍虎王など装甲に富む特機タイプを最前面に置きつつ、真っ直ぐに突っ切って行った。

 

 とりわけ高出力のEフィールドをバリアとして展開できるジガンスクードは、こういった際の切り込み役にはまさしく適任といえたが、パイロットにしてみればとんだ貧乏くじと言う他ない。

 

「くっそー。金一封くらい出るんだろうな」

 

「無駄口を叩かず、出力ゲージをよく見なさい。大事な弾除けなんだから」

 

「そりゃないぜ、レオナちゃん」

 

 嘆くタスクだったが、そんな彼も口をつぐまざるを得ない情報がレーダーから伝えられて来た。敵機動兵器部隊襲来を確認したのである。数は二十機と少ないが、砲撃の波に乗って進軍してくる二十機となれば厄介極まりない。ましてや、それを率いる指揮官機の雄々しき姿があれば尚更のことだった。

 

「大物がいるぞ。幹部機だ!」

 

 ジガンスクードの高感度カメラが最大望遠を効かせると、森林地帯の上空を一直線にこちらへ突撃してくる緑色の巨人の姿が映し出された。異星軍指揮官機の一つ、ドルーキンである。ガルガウと異なり装甲と砲撃能力に長けるその勇姿には、さながら一つの山岳であるかのような威厳と頑強さがあった。

 

 とっさに減速したジガンスクードの後背より、三つの機影が弩のように飛び出した。キョウスケ・ナンブ率いるATXチームである。小隊の役割は突撃・突破、そして大物狩り。それに恥じぬ迅雷のごとき勢いで真っ向からドルーキンに肉薄する。

 

「大将首だ。仕掛けるぞエクセレン」

 

「天下無敵のランページ、ご覧あれ!」

 

 砲弾の嵐の合間を縫って、紅白に彩られた二機一体の怪物が疾走する。ドルーキンの両肩部レーザー砲が咆哮した。威力重視ゆえに速射性に欠ける火砲など難なくかいくぐり、凶器にして狂気たる右腕を構えアルトアイゼンが吶喊する。ほぼ同時にヴァイスリッターの長大なライフルが火を噴いた。打ち出された杭と超高圧荷電粒子の銃弾は大気を抉り、引かれ合うようにドルーキンという的を目掛けて収束する。

 

 その両方を、ドルーキンは、その膂力と装甲をもってして一息に受け止めてみせた。エクセレンの放ったビーム流は重厚という言葉を通り越した装甲にあえなく阻まれ、キョウスケの繰り出した杭は盾のように分厚いその掌によって防がれた。

 

「ちょっとちょっと」

 

「まだだ」

 

 貫通、ただそれだけのために生み出されたパイルバンカー、その本領はここより始まる。迫撃砲にも似た轟音と共にリボルバーが火を噴き、緑巨人の掌中にてより一層の直進的破壊力が炸裂した。

 

 しかしそれすら、ドルーキンは凌いでみせた。何層かの装甲を抉りつつも、アルトアイゼンの撃ち出した鋼鉄の杭はあえなく弾き返され、反動でアルトアイゼンの右腕が弧を描いて跳ね上がった。

 

「ふざけろ、貴様……!」

 

 こんどこそキョウスケは呻いた。

 

 奇しくもマサキがガルガウの爪剣に対して抱いたのと、全く同種の感覚が背筋を走る。アルトアイゼンの右腕を正面から受けてびくともしないその様は、まさしく鉄塊そのものだ。

 

「……」

 

 シカログは相も変わらず鉄で出来た表情のままアルトアイゼンの左腕部を掴み上げ、接近を試みていたクスハの龍虎王に向かって投げ飛ばした。尋常ならざる膂力である。慌てて退避したクスハにより衝突は免れ、キョウスケもなんとか姿勢を立て直した。

 

「……」

 

 ほんの一当てを交したところで、シカログはあっさりと機体を下がらせた。ATXチームはそれを追う事が出来ない。彼の配下であるバイオロイド兵が散開して包囲を試みて来たこともあるが、なにより依然としてドライバー・キャノンによる長距離砲撃が続いてるためである。嵐の中で、風上と風下に立って戦うようなものだった。

 

(やはり、砲台のなんとかしない限り勝負にならん)

 

「これじゃ進軍が進まねえ。奴らを黙らせねえと」

 

 前線の戦闘司令官と高空から戦況を見下ろしていたマサキはほぼ同時にそう判断した。タスクらの奮闘もあってハガネ隊は現在、敵の第二防衛ラインを目視できる距離まで到達しており、砲台施設も所在も確認が取れている。

 

「フリューゲルス・ワンよりアサルト・ワン。俺達はうるさい蠅を始末してくる」

 

「こちらアサルト・ワン。なら十時方面を任せる。SRXチームは二時方面の砲台を黙らせろ。残りはこのまま直進を続ける」

 

「よし。聞いたなアイビス。やるぞ!」

 

「了解!」

 

 言うが早いか、銀と銀のエレメントは進軍の向きを変えた。味方本隊から離れることになるが、二人にためらいは見られない。ATXチームの役割が突撃・突破ならば、フリューゲルス小隊は臨機応変な遊撃をこそ使命とする。

 

「『爆撃作戦』だ。遅れるなよ」

 

「だれが!」

 

 ざっくばらんなネーミングだが、れっきとした小隊戦術の一つである。マサキとアイビスが協同して構築したもので、意味するところはMAPWを念頭に置いた一撃離脱戦法である。こういった小隊内の戦術やフォーメーションは通常数字やアルファベットで管理されるのだが、フリューゲルス小隊では直感的や分かりやすさや覚えやすさを重視して、こういった識別名を付けている。

 

 二連の銀鳥は最大戦速で左翼前方の砲台群へと突っ込んでいった。その企図するところを悟った砲台は、次々と二機に照準を再調整し、ありったけの弾頭を打ち込んでいく。テスラ研での戦いを彷彿とさせる一幕は、やはり同様の結果に終わった。その翼にかすり傷一つ負う事無く、二機は砲台群真上に瞬く間に踊りこんだ。

 

 ここまでくれば、やるべき事は決まっている。威嚇する

大鷲の如く、あるいは観客に応じる舞台役者のごとく、銀の騎士が翼と両腕を広げた。その後ろに背中合わせとなって銀の流星が寄り添う。約束された言霊を引き金に、バージニアの大地に、蒼い「星」が炸裂した。

 

 

   Ⅳ

 

 

 時はほんの数分ほど遡る。

 

「メキボス。見えてるかい? サイバスターが飛ばしている。ありゃ北側の砲台を潰す気だね」

 

「ああ。にしても俺のところに来たか。恨むなよアギーハ。いまさら転移先は変えられんし、おまえのくじ運の無さがいけないんだからな」

 

「ふん。まぁこっちの合体特機だってごちそうには違いないさ。あいつらを平らげてから、そっちにお邪魔させてもらうよ」

 

「抜かせ」

 

 ラングレー基地地下二階のホールに据え付けられた大型転移装置の前で、二人は別働隊を従えて既に出撃態勢に入っていた。床に広がるエネルギー・サーキットに次々と光が走り、複雑な幾何学模様が浮かび上がる。巨大な魔方陣にも見える足場はますます光量を強め、メキボスたちを周囲の空間ごと飲み込んで行った。

 

 そしてサイバスターがMAPWを解き放ち、砲台群をなぎ払った直後のことである。全エネルギーを放出し終え、マサキが一瞬の虚脱の覚え、結界装甲の強度が弱まったまさにその瞬間、サイバスターの背後に青色の巨人が虚空より出現した。言うまでもなくメキボスの駆るグレイターキンが、空間転移を果たして来たのである。

 

「取ったぜ、この爆弾魔!」

 

「マサキ!」

 

 狙われた当人であるマサキ、そのサポートを務める二匹の使い魔、その誰よりも早くに、アイビスが事態を察知した。マサキの背後とは、すなわちアイビスの正面である。Eフィールドを全開に、アイビスはほとんど脊椎反射でスロットルを全開にした。アステリオンはその身を弾丸に変え、グレイターキンの胸元に体当たりする。

 

 激しい激突音は、Eフィールドと装甲に遮られてアイビスの耳には届かなかったが、かわりに尋常でない振動が彼女の肉体を襲う。しかし揺れ動く視界の片隅で、敵の放った荷電粒子の束が明後日の方向に飛んで行くのをアイビスは確かに目にした。

 

「見たか!」

 

「こいつか。奴の付き人というのは」

 

 すぐさま機体を制御し直して、メキボスは密着するアステリオンに目標を変える。しかし一歩遅く、先んじて体勢を立て直したサイバスターが、銀の長剣を手にグレイターキンへと躍りかかった。

 

「でかした。退け!」

 

「……っ!」

 

 逆加速するアステリオンと入れ違いに接敵し、サイバスターが長剣を一閃させる。それを寸でのところで躱し、グレイターキンもまた腰元から高周波ブレードを抜いて斬り返す。

 

 その様子を見て、後方に退いたアイビスは自己の判断でフォーメーションを切り替えた。マサキが強敵と一騎打ちを始めたのなら、そのフォローをするのが彼女の役目になる。具体的に言うのなら、グレイターキンとほぼ同時に周囲に転移して来たバイオロイド兵たちの目を、自分の下に引きつけなくてはならなかった。

 

「フリューゲルス・ツーよりワンへ。雑兵はあたしが!」

 

 操縦桿を弾くように動かし、スロットルを握る五本の指がそれぞれ別の生き物のように一瞬うごめいた。マルチ・ロック完了、ミサイル一斉発射。照準精度は度外視し、なかば景気付けに放たれた大量のミサイル群によって、バイオロイド兵の注意は思惑通りにアイビスへと集中していった。

 

 

 機動兵器部隊より後方に下がること5キロの地点で、ハガネとヒリュウ改の両艦は戦況の推移を逐次受け取っていた。

 

「機動兵器部隊、重装甲型の幹部機と敵部隊に阻まれ依然進軍が停滞しております。前面の機甲中隊の損傷率、20%オーバー」

 

「先行して突出したフリューゲルス小隊により、防衛施設の北側半数が沈黙。同時に出現した別部隊ならびに中距離型の幹部機と現在交戦中です」

 

「同じく南側防衛施設にてSRXチームが高機動タイプの幹部機と交戦中、包囲されつつあります。砲台到着前に転移して来たため、砲台破壊は未だならず」

 

「砲を囮としたか」

 

 現状から読み取れる異星軍側の作戦を、ダイテツ艦長はそう端的に表現した。敵はハガネ隊が砲台破壊のために少数精鋭を先行させる事を読んで、最初からその地点に別働隊を用意していたのだ。網にかかったのがフリューゲルス小隊にSRXチームと、どちらも戦術級の火力を持つ攻撃の要であったのは、敵にとってこの上ない僥倖であっただろう。

 

「本艦主砲の射線は取れるか」

 

「現在位置からでは、ほとんど効果がありません」

 

「接近すれば、敵砲の的か……」

 

 加えて、迂闊に進軍すればそれこそハガネの真上に敵部隊が現れかねない。いまの位置ならば、例え残り全ての敵機が付近に現れても味方部隊を呼び戻すまで耐え忍ぶこともできるだろうが、ドライバー・キャノンの射程圏にまで入ってしまえば全く話は変わる。

 

「敵さらに増援。およそ30機が、中央部隊に合流しました」

 

「ジガンスクード中破。グルンガストも損傷率拡大。このままでは機甲中隊が!」

 

「シングウジ少尉に撤退信号を出せ。その他の者も、損傷率30%を越えた者から、随時転進せよと伝えろ」

 

 矢継ぎ早の指示はあくまで対処療法にすぎず、何一つ現状打破に寄与しないものだった。そんな命令しか出せないこと、伝えられないことが艦橋を戦場とする全ての乗組員の心を締め付ける。それでも厳然たる事実として、状況を覆す術は少なくとも今この艦橋には存在しない。ならばそれを受け入れて、全てを現場に委ねる以外にブリッジ・クルーに選択肢はなかった。

 

 ダイテツは周囲に悟られぬよう、額に滲みだした汗を軽く拭った。

 

 

「アサルト・ワンからフリューゲルス・ワンへ。至急、SRXチームの援護に向かえ。とにかく砲撃を黙らせなければ、始まらん」

 

「こちらフリューゲルス・ワン。いま取り込み中だ!」

 

「こっちも同じだ。とっとと振り切れ!」

 

「くそ、簡単に言いやがって」

 

 忌々しげに、マサキは眼前の敵機を睨みつけた。

 

 長所と短所が明確なガルガウ、ドルーキンらと違い、グレイターキンは機動兵器として非常にバランスの取れた性能を持つ。所持する武装も遠近を網羅するオーソドックスなもので、得てしてこういった手合いが最も始末に悪い。少なくとも、不用意に背を向けられる相手ではなかった。

 

 アイビスが多数の雑兵相手に奮戦していることは把握していた。彼女のためにも、SRXチームのためにも、なんとかしてここを切り抜けなくてはならない。

 

 一計を案じて、マサキは牽制代わりに長剣を一振りした。敵はすぐさま剣を合わせて来たが、それで構わなかった。敵のブレードと噛み合う寸前に刃を引き、相手の姿勢に虚を作る。

 

「ここだ!」

 

 その隙をついて、マサキは機体を後方に引かせた。間合いを確保し、掌を突き出して魔方陣を中空に描く。ガルガウをも葬ってみせた破戒の巨鳥をもって、一気に勝負をつける算段だった。

 

「くたばりな!」

 

「そうはいくか!」

 

 グレイターキンの胸部砲塔から放たれたフォトン・ビームが、魔方陣に注力するサイバスターの左腕に寸分のぶれなく直撃する。発動を阻害された方陣は、蓄えられた魔力もろともあえなく霧散した。

 

「左腕部損傷。しばらく使えニャいわよ、これ!」

 

「腕一本くらいでわめくな!」

 

 しかし被害は腕一本では済まなかった。光子砲発射の後、即座に放たれたライフルの三点バーストに、サイバスターの右肩、腰、左大腿部が続けざまに狙い撃たれた。

 

「てんめっ……!」

 

 結界装甲により貫通・脱落は免れたが、決して小さくない欠損に大きくバランスを崩したサイバスターは、みるみる内に高度を下げていった。否、それはもはや落下も同然だった。

 

(落下だと……!)

 

 あるいは墜落か。いずれにせよ風の魔装機神が、風の化身たる我が分身が、あろうことか空での戦いに敗れ、敵よりも先に地上へ落ちていく。そう自覚したとき、マサキの脳裏にある目に見えない何かの線が、火花と共にちぎれとんだ。

 

「ふ・ざ・け・る・なぁぁぁぁ!」

 

 これ以上無い屈辱と慚愧の念が、マサキの肌という肌を焼き、粟立たせた。その怒りと闘志を一身に受け、サイバスターの翼からより一層のエーテルが爆ぜる。風を越え空を裂き、弾丸と化す。捨て身の突撃だった。魔術兵装はもはや要さない。頼る武器は、突きの形に構える長剣ただ一つ。

 

「おおい。マサキと心中ニャんてごめんだニャ!」

 

「馬鹿言え。あの野郎、もう容赦しねえ。ぶっつけ本番だがやってやる!」

 

 そんなマサキの怒号など露知らず、迫り来る騎士に対してメキボスはその意図を計りかねていた。やけになったか、あるいは逃亡を狙っているのか。いずれにせよブレードを盾に、この一刀は受け流すことに決めた。前者であれば、会心の一撃をさばかれ死に体となった騎士を、返す刀で切り伏せるか撃ち落とせばいい。後者ならば、やはりがら空きの背中に最大の一撃を見舞うまで。

 

 両者は上下より激突し、異界の刃と異星の刃が噛み合った。瞬間にメキボスはブレードを傾ける。柔らかくも鮮やかな剣運びに、騎士の長剣はあっさりとベクトルを反らされ、受け流されて行く。

 

 しかしサイバスターは止まらない。翼は依然として咆哮を続け、そのまま敵を置き去りに彼方へと飛び去ろうとする。

 

(馬鹿め!)

 

 敵は悪手を打った。そうメキボスは確信した。ならばあとは、最大火力をその無様な背中に打ち込むのみだった。しかしグレイターキンが胸部光子砲を開放して背後を振り向いたとき、そこにあったのは敵の無様な背中などでは断じて無かった。

 

(なに……?)

 

 何も無い。誰もいない。空に騎士の姿は欠片とて見当たらず、ただ陽光に煌めく翡翠色の残滓が、天頂に伸びゆく槍のごとき軌跡を儚く残すのみだった。

 

 

 ——だから、違うって言っているだろ。そこはもっとこう、バーンと行くんだよ。

 

 ——分かんないよ。スロットルのタイミングとか、もっと具体的に言ってよ。

 

 ——ちょっと待て。資料によると……ええい、そんなの知るか。こうなりゃ手本を見せてやる。見てろ!

 

 いつかの朝、いつかの昼。ツグミから渡されたプログラムを片手に、繰り返し繰り返し行われた高機動訓練。その中で、成長を遂げたのは果たしてアイビスだけだったのだろうか。

 

 アイビスが、あるいはツグミが今の光景を目撃していれば、即座に一つの名称を思い浮かべただろう。それは紛れも無く、シリーズ77搭乗者が到達を課せられた頂の一つ。

 

 マニューバー・RaMVs。武装一斉掃射のシーケンスこそ省略されているものの、描かれる彗星のごとき軌跡はまさしくそのもの。剣と魔を司る異界の風が、ひたむきに星を追いかける一人の少女の夢を写し取り、今ここに新たなる奥義が産声を挙げた。

 

 以後、さらなる修練を経て機動をより先鋭化させ、神祇無窮流と呼ばれる剣技との融合も遂げた時、その技は完成を祝してこう呼ばれることになる。

 

 秘剣・乱舞の太刀。その名に込められた一抹の洒落っ気は、使い手たるマサキ一人の胸に永劫留められることとなる。

 

 メキボスの駆るグレイターキンは果たして二度とサイバスターの姿を捉えることができなかった。まさしく疾風迅雷とも評されるべき速度で急上昇・急降下を為して来たサイバスターに、ほんの少し上を向く、たったそれだけの暇もなく両断されたがために。

 

「さっきのは、猿も木から落ちるって奴だ」

 

 ぎりぎりで作動した脱出用転移装置によって、グレイターキンのコクピットはラングレー基地まで無事に瞬間移動した。そのため、そんなマサキの捨て台詞がメキボスの耳に届くことはなかった。

 

 

「アイビス……!」

 

 敵の撤退を見届けた後、マサキはすぐに僚機の方を振り向いた。いまアイビスは、百メートルほど離れた空域で、七機もの敵機を相手に大立ち回りを演じている真っ最中だった。初めは十機以上いたはずであるから、予想以上に健闘していると言える。

 

 ここで、一つの逡巡がマサキの意識を支配した。敵はアイビス一人に狙いを定めている。彼女の身を優先するのなら、援護に入らなくてはならない。

 

 しかし物事は、見ようと思えばいくらでも多角的に見ることができる。この時のマサキの脳裏にも、全く別の見解が稲光のように閃いていた。

 

 アイビスが狙われている。換言すればそれは、アイビスが敵の目をよく引きつけているとも言えた。いまこの瞬間ならばマサキは追撃もなく自由に行動できる。SRXチームが攻めあぐねているもう一つの砲台エリアまで、一目散に飛んで行くことができるだろう。

 

 行くべきか。行かざるべきか。

 

 アイビスが落とされるかもしれない。

 

 落とされれば死ぬかもしれない。

 

 リュウセイたちもまた同じだ。さらに防衛施設の制圧には、キョウスケら全員の進退が関わってくる。

 

 優先すべきはどちらなのか。

 

 時間にすれば数秒。迷宮のように入り組む思考を、マサキは直観にて断ち切った。

 

「アイビス!」

 

「……はい!」

 

「五分でいい。そのままこらえろ!」

 

 言い捨てて、サイバスターは疾走した。アイビスが居るのとは逆方向、SRXチームのいるエリアに全速力で突撃していく。

 

 アイビスを見捨てたのか、それとも信じたのか。マサキにとって、それはどちらとも言えないことだった。見捨てたがゆえに信じるしか無く、信じたがゆえに見捨てるのだ。

 

 いずれにせよ、マサキは決断したのだ。

 

「フリューゲルス・ワンよりSRXチーム。聞こえるかリュウセイ。今からそっちに行く。合わせろ!」

 

 

   Ⅴ

 

 

「聞いたわね。合体を許可するわ。目にもの見せてやりなさい」

 

「了解。念動フィールド、オン。T-LINKフルコンタクト!」

 

「トロニウム・エンジン、フルドライブ」

 

「ヴァリアブル・フォーメーション!」

 

 直後、混迷する戦場より三つの光が立ち昇った。光は上空にて一堂に会し、そして大きく弾けた。

 

 R-1、R-2、R-3。熟達した三者の連携は、まさしく三位一体と言え、さながら流水のように淀みなく合体工程が消化されていく。

 

 無論、これは諸刃の剣でもある。合体が成功すれば、完成した二つ目の巨人は必ずや一騎当千の体現者となるだろう。しかし合体途中は当然ながら三機ともほぼ無防備、どころか急所をさらけ出す状態となる。

 

 敵がその状態を看過し続ける理由は無い。砲台破壊を阻むべく転移して来た敵機という敵機が、組み合わさる三機に向けて雲霞のごとく群がろうとした。しかしSRXチームは三機だけではない。小隊指揮を預かるヴィレッタのR-GUNと、それに追従するマイ・コバヤシのビルトラプターが、敵陣中央に突撃することでその足並みを崩して行った。大技を扱う特機とそれを補うPTの巧妙な連携は、似たような編成であるフリューゲルス小隊との合同訓練でさらに磨き上げられたものだ。

 

 しかし十機を越える敵機をたった二機で制御しきれるものではなく、何機かがその防衛戦を越えた。その最初の一機がプラズマソードを構え、内部構造を剥き出しにするR-2に肉薄する。

 

「邪魔すんなぁ!」

 

 マサキが現地に到着したのは、まさにこの時だった。わずかな減速も挟むことなくサイバスターは敵機に吶喊し、銀の長剣をもってその胸部を一直線に串刺しにした。

 

 その直後。

 

「シーケンス・オーバー。合体完了!」

 

 Super Robot type-X。SRXチームが擁する専用PT、通称Rシリーズの真の姿。その正体とは、EOTならびに念動兵器の極地とも言える、一撃必殺型の合体特機。

 

 ついに姿を表した巨人は、余すところ無く凶器たるその五体を広げた。ハイフィンガー・ランチャー展開。ガウン・ジェノサイダー照準セット。十を越す超高エネルギー流が一息に撃ち放たれ、ヴィレッタ達を包囲しようとしていたバイオロイド兵たちをことごとく撃滅させていく。その言語道断の殲滅力の前には、多少の物量差などもはや何の意味も無い。

 

「さんざん好き勝手してくれたな。まとめてお返ししてやるぜ!」

 

 さらにSRXが右腕を突き出すと、その指先から放たれたエネルギー・ランチャーが敵陣を突き抜けて、その後方の砲台施設に直撃する。さらに二度の斉射で、南側砲台施設は沈黙……というより塵も残さず消滅した。ハガネ隊の進軍を妨げていた第二防衛ラインは完全に崩壊したことになる。

 

「こちらR-1。ミッション・コンプリート!」

 

 リュウセイの宣言を合図に、反撃の機はここに訪れた。

 

 

「アサルト・ワンより各機へ。前進再開だ。思う存分、鬱憤を晴らせ」

 

 キョウスケのその命令は、もはや不要のものだった。言われる前に誰もがそうしていたからだ。キョウスケ率いるATXチーム、カイ・キタムラが率いるゴースト小隊、カチーナのオクト小隊、イルムのオメガ小隊。その他、ハガネ隊全戦力が、一つの津波となって怒濤の進撃を開始した。対する敵は50機を越えるバイオロイド兵とドルーキン。しかしもはや、脅威に値しない。砲弾の向かい風は掻き消えた。代わりに非物質的な、気運ともいうべき目に見えない追い風がハガネ隊の背を追い立てていた。

 

 特機には特機をもって当たるべし。いまだ踏みとどまるドルーキンに、両翼よりグルンガストと龍虎王が、頭上からは大太刀を構えたダイゼンガーが躍りかかった。

 

 計都羅喉剣ならびに龍王破山剣。そして斬艦刀。いずれも劣らぬ剛剣の三枚刃が、堅牢を極めたドルーキンの五体を問答無用に断ち切った。

 

「……」

 

 シカログは目を伏せて、作動する転移装置に身を任せた。それを一顧だにせず、ハガネ隊はラングレー基地を目指して駆け抜けて行った。

 

 

 味方の轟々たる快進撃を遥か後方に察し、アイビスは喝采の声を上げた。

 

「勝てる。マサキ、これであたしたち勝てるよ!」

 

 見捨てられた、などという考えは微塵も湧いていなかった。戦場を縦横に駆け巡っての遊撃こそフリューゲルス小隊の使命であり、彼女の小隊長は見事にそれを果たした。ただその事実だけが、アイビスの胸の内で輝いていた。

 

「あとは、こいつらを……!」

 

 言うそばから、敵の一個小隊が一斉に放ったビーム砲の弾幕にアイビスはさらされた。五発までは数えられた。残りの数十発に対しては、ただ遮二無二操縦桿を動かして命からがらかいくぐるのみだった。

 

 恐怖が、さながら黒い風となってアイビスの心中に荒れ狂った。

 

「当たるもんか!」

 

 速度だ。とにかく速度を。パイロットとして、アストロノーツとして、徹底的に訓練を受けた五体が、ごく当たり前に最善の行動をとる。スロットルは全開に、小賢しくも回り込んで来たリオンの一機を轢き飛ばしてアステリオンは流星と化す。本家本元のマニューバー・RaMVsが空を裂く。

 

「死ぬものか!」

 

 目一杯に操縦桿を引く。アステリオンは猛スピードのまま大きく旋回し、碧空に虹のごときヴェイパーを残す。敵はその速度にまるで追従できておらず、あっさりとアイビスに背後をさらす結果となった。解き放ったマルチトレースミサイルが、続けざまに二機のリオンを撃ち落とす。

 

 アイビスの中で、何かが一線を越え、大きく弾けていた。そう思えるほど目覚ましく、華々しい機動だった。

 

 しかしこの直後にアイビスは思い知ることになる。速度は速度によって打ち破られることを。

 

 現行の機動兵器体系において、アステリオンと機動力で肩を並べられるものはない。ただ一つの例外がサイバスターと呼ばれる異界の騎士であった。しかし今、アステリオンの索敵範囲に、もう一機のさらなる例外が、アステリオンをも凌駕する速度で飛び込んで来ていた。

 

「なに……?」

 

 問う間もなく、幻影のように彼の物はアイビスの眼前に現れた。赤い双眼。省略された脚部。翼か刃のように薄く鋭い両腕部。向かい来る風全てを切り裂くような鋭利なシルエット。

 

 アイビスは、その機体をよく知っていた。思えば彼女にとって、その機体こそが全ての始まりであったのかもしれない。サイバスターを異界の風と呼ぶなら、それは異星からやってきた同じものだった。操縦者のいかなる趣向か、それは地球風の名を冠され、こう呼ばれる。

 

 ――銀風<シルベルヴィント>。

 

 

 

 



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第八章:もがれた翼

 

 

   Ⅰ 

 

 

 その連絡を受けた時、マサキは冷たい刃物が脊髄に差し込まれたような感触を覚えた。

 

「アギーハという女が、北側砲台に向かってるわ!」

 

 己の迂闊さに苛まれながら、ヴィレッタが叫んでいた。つい先ほどまで、バイオロイド兵を指揮してリュウセイ達を阻んでいた銀色の敵影。その姿が見えない事に、砲台を殲滅し終えてからようやく気付いたのだ。

 

「アイビスが危ない。マサキ、戻りなさい!」

 

 そう聞き終える前から、マサキは身を翻していた。

 

 息が詰まる。背筋が寒い。

 

 この感覚を彼は覚えている。嫌が応にも、思い出さずにはいられない。あの日の事を。彼のいないところで幕を開け、何一つ間に合わないまま全てが終わった、あの日のことを。

 

 

 その機影を認めて、アイビスは躊躇などしなかった。残弾の半分を惜しげも無くバラまき、ついで最大戦速度にまで機体を加速させる。ミサイルの雨を難なくかいくぐり、シルベルヴィントもまたそれを追う。至極当然の帰結として、二機の戦いは高機動戦の様相を呈し始めた。

 

 装甲、火力、運動性。機動兵器の性能を測るあらゆる要素は、空の中では価値を失う。大気の逆風に耐えられるだけの装いがあれば良い。敵の翼を欠けさせるに足る武器があればよい。何よりも求められるのは追随許さぬ速度と、それを生かす乗り手の技量。

 

 アステリオンとシルベルヴィント。二筋の流星が最速を競い合う。交互に反転し、交錯し、大空に延々と8の字の軌跡を描いていく。時にそれは正面からぶつかり合い、卍の形にもなった。敵の尾を追うドッグ・ファイトと、正面から粉砕するブル・ファイトが複雑に組み合わさり、両者が残す飛行機雲は尽きぬ絵筆となって、空の青を塗りつぶして行く。

 

(くそ、くそ……!)

 

(なんだい。もうギブアップかい?)

 

 互角の接戦を繰り広げる双方の機体に対し、しかし乗り手の心理状態はそれに反してくっきりと明暗を分けつつあった。明らかに焦燥に塗れているのは、アイビスの方である。

 

(引き離せない……!)

 

 一進一退の互角の接戦。それ自体がアイビスの不利を示していると言えた。マサキの指導のもと今までアイビスが訓練に明け暮れ実践で培って来たのは、速度を生かした一撃離脱の戦法である。例えるならそれは、海面の魚を狙う鷹の戦い方に近い。

 

 しかしいま繰り広げられているのは、鷹と鷹の戦いである。一瞬の集中力よりも集中の持続力、瞬発力よりもスタミナが物を言う。こうした戦いにアイビスは極めて不得手であった。そも、アステリオンと渡り合える速度の敵などこれまで皆無に近かったのだから。

 

 加えて言うなら、単独で敵機と対することすらこれまで稀であった。彼女の傍らには、常に白銀の騎士の姿があった。これまでアイビスが得てきた戦果は、彼との連携で勝ち取った小隊としてのそれであって、彼女個人の武勇で得たものではない。

 

(いや、いや、違う。たとえそうだとしても!)

 

 負けられないとアイビスは思った。彼女の小隊長は、彼女を置いて飛び立った。そこに込められた思いを信じている。ゆえに何が何でも負けられない。

 

(かわいいねえ。まったく)

 

 シルベルヴィントのコクピットの中で、アギーハは唇の端を釣り上げた。アイビスの内心を読み取ったわけではないが、彼女の機動を見ればその気性を読み取ることはアギーハにとって容易なことだった。

 

 メキボス、シカログが下された瞬間、アギーハは事前の取り決めに従って撤退を開始していた。ノイエDC所属の南方軍を抑えているヴィガジも同様の行動をとっている。本来こうしてアイビスの相手をしていることも余分なことなのだが、行きがけの駄賃のようなものであり、また存外に楽しい時間でもあった。

 

 出身星系が異なれど、同じ宇宙、同じ物理法則の下で生まれた文明同士である。空戦についても、アギーハらと地球圏パイロットの間には、戦術・定石などにおいて多くの共通認識があった。その上で見れば、アイビスの描く機動は、アギーハにとってさして目新しいものではない。あくまで基本に忠実な、手堅い飛行術理。全てが理にかなった正道の飛び方だった。

 

 全ての技術には歴史がある。航空機が歴史上に姿を現してから二度の世界大戦が起き、幾人もの英雄・英傑が生み出された。暦が改められ、人型機動兵器の歴史が幕を開けてからも多くのエースたちが同様に空を駆け、空に散った。そんな彼らによって編み出され、受け継がれて来た技と術がある。

 

 いまアギーハをじりじりと脅かすのは、度重なる訓練によってアイビスの体に凝縮され刻み込まれた、歴代の空の覇者達の精華そのものだった。たとえ不世出の才がなくとも、そこには、偉大なる先人達に対する愛と敬意に満ち満ちている。

 

 地球の空戦技術の歴史などアギーハには知る由もないが、他ならぬアステリオンの後ろ姿からそれを察することはできた。だからこそ、アギーハには彼女が可愛らしく思えてならない。同じく空を駆ける者として、先達として、まったくもって好意に値する小娘であった。宇宙の同じ側に生まれていれば、マサキ・アンドーの代わりに自分が鍛えることも吝かではないと思うほどに。

 

 超音速の空戦のさなか、その一瞬が訪れた。互いの位置関係、高度、相対速度、機体の向き、それらがある一定の条件にぴたりとはまり込むその一瞬に、両者の脳裏に神託のような閃きが走った。

 

「ここだ!」

 

「くるね」

 

 アイビスとアギーハは、ほぼ同時にそう口にした。途端にアステリオンが上空へと転進する。何を企図してのことが、アギーハには手に取るように分かった。かつて彼女自身がその身に受けた、あのマニューバー。その鋭い機動は相も変わらず、まるで大気を切り裂くかのようだ。しかし、もはや未知なものでは決して無い。

 

(教えてやるよ。同じ手は通用しないと)

 

 アギーハの左手の五指が、一瞬白魚のように跳ねた。砲門セット、シーカーロック、発射。瞬く間に終えられた三つの工程。かくしてシルベルヴィントの胸部光子砲が炸裂する。

 

 ロックとあるが、アステリオン自体に狙い定めて撃ったわけではない。手動で照準を補正し、アギーハの脳裏にのみ映る一秒後のアステリオンの背中目掛けて彼女は撃った。そうして解き放たれたフォトンの塊は、天頂を駆け上るアステリオンに、まるで吸い込まれるように命中した。弾丸自体が意志を持つか、あるいはアイビスが自ら当たりに行ったとしか思えないほどの、ありえない精度をもって。

 

 悪夢のような偏差射撃。アイビスが技の限りを出し切ったマニューバー・RaMVs、その全てがアギーハの手の内にあった。

 

 あっという間のことだった。真実一瞬にして、ただの一撃で、あまりに呆気なく勝敗が決せられたことを、爆散していく機体の破片を視界に入れながらアイビスは悟った。

 

 

 翼をもがれ、アステリオンが錐揉みしながら墜落していく。すでに機体は何の操作も受け付けない。操縦桿な無用の長物と化していた。

 

「……!」

 

 警報が狂ったようにわめき散らす。モニターの半数が砂嵐に包まれ、計器が目まぐるしく数値を変えて行く。慣性制御は失われ、機体の動きがそのままアイビスの体感覚に襲いかかる。

 

「…………!」

 

 回っている。全てがぐるんぐるんと回っている。視界も聴覚も平衡感覚もまるごとシェイカーにかけられ、上下左右の区別が消滅する。声も出せないほど、アイビスは混乱の極みにあった。落ちているということすら正しく認識できていない。訓練不足なのではない。人間である以上、そして脳の構造上、この状況では誰もが逃れ得ないことだった。

 

 するとその内に、振り回されるカメラのように上下左右前後を見境無く映し出すモニターに、ふと銀色の機影が現れた。見間違えようのない、シルベルヴィント。その胸部光子砲の銃口が、まっすぐにこちらを向いているのを目にし、ようやくアイビスは自らが死に直面していることを認識した。

 

 ぞっと、戦慄がさざ波のようにアイビスの肌という肌を舐め上げた。幾千もの昆虫が全身を這い回ったかのようだった。膀胱が空でなければ、失禁すらしていたかもしれない。

 

(死ぬ)

 

 落雷のようにその二文字がアイビスの心臓を突き刺した。意識が彼の者の銃口に収束し、他の風景すべてが遠くなり、闇に落ちた。暗闇の中に、三つのものだけがある。銃口と、自分の体と、そして背後に穴が。

 

(死ぬ……)

 

 振り向くことすらできないのに、また現実としてそんなものがあるはずもないのに、なぜかその穴の存在をアイビスは背中越しにはっきりと感じ取ることができた。大きく、深く、真っ暗なその穴は、ぽっかりと口を開けてアイビスがそこに辿り着くのを待っていた。死者の穴、地獄の蓋、生命のブラックホール。そのようなものが、アイビスの精神の背後に迫っていた。

 

(墜ちる……!)

 

 確信、あるいは天啓のように、アイビスは己の行く末を悟った。

 

 

 しかし、決してそれを許さぬ存在がただ一つだけあった。天からの宣告を覆しうる存在がただ一つだけあった。

 

「てんめぇぇぇぇぇっ!」

 

 シルベルヴィントが、落ち行くアステリオンに止めの一撃を見舞おうとするまさにその一瞬、その一点を目掛けてマサキとサイバスターが彼方より猛突進してきた。それを察知したアギーハに逡巡が生まれる。撃つか否か。撃てば撃たれるのでは。

 

「ちぃ!」

 

 迷いを寸断し、アギーハはシルベルヴィントの身を翻らせた。その途端に、さきほどまで彼女がいた空間を、紅い巨鳥が猛烈な勢いでなぎ払う。

 

「クロ、シロ!」

 

 会心の一撃を躱されたと見るや、マサキはろくな指示も無しに使い魔を解き放った。それでも二機のハイファミリアは、一切の迷いを見せず敵機に向かって行く。対するサイバスターは反転、アイビスの下へ急降下していった。脱出は確認されていない。アイビスはまだあの中にいるのだ。

 

 失えない。マサキは張り裂けるように思った。

 

 失ってはならない。超新星のごとく思いが爆発する。

 

(届け……っ!)

 

 黒煙に包まれながら落下して行くアステリオン。それが大地と衝突するおよそ5メートル手前、まさしく間一髪に、マサキの念願はかろうじて成し遂げられた。突き伸ばされたサイバスターの右手がアステリオンの装甲を掴む。マサキは息をのみ、即座に翼を咆哮させた。無理矢理に軌道を90度近く変え、生い茂る木々をなぎ倒しながら、空と地面の僅かな隙間に滑り込む。森と大地に身を削られながらも、サイバスターはアステリオンを両腕でがっちりと抱え込んだ。襲いかかる樹木と大地の摩擦から守るように。なにより決して我が身から離さぬように。

 

 

   Ⅱ

 

 

 一連の経緯を、あとになってもアイビスは明確に想起することができない。死を目前にした瞬間に何もかもが真っ暗になり、そのまま(なにか尋常でない衝撃を感じたような気はしたが)意識がぷっつりと途切れ、そしていまようやく再起動を果たしたところだった。時間を跳躍したような感覚すらあった。

 

(どう……なったの……?)

 

 体が鉛のように重い。首を巡らせることすら困難だった。霞む目をなんとか動かして、周囲と自分の体を確認する。竜巻に呑まれたような感覚は収まり、悲鳴を上げていた警報もいまは鳴りを潜めている。

 

 静かだった。

 

 あまりにも静かだった。

 

(……生き……てる?)

 

 そんな疑問が胸の内で波紋を打ったが、次に彼女の中で生じた衝動に比べればあまりに些細なものだった。

 

「大丈夫か」

 

 そんな声が耳朶に染み入り、アイビスは微かに顔を上げた。いつの間にかコクピットハッチが開けられていて、柔らかな風と木々の囁きがそよいできている。

 

 そして彼の姿があった。悲しそうな、焦燥したような、しかしどこか嬉しそうな、安堵したような様子で彼女を覗き込む少年の顔があった。

 

(……)

 

 到底言葉では言い表せない気持ちが、アイビスの体中でわき上がった。それは血流のように体中を巡り、暖かな熱を発した。

 

 彼女の唇が何事か言葉を紡いだような気がして、マサキはアイビスの首元を弄くってヘルメットを取り外した。肌が外気にさらされて、互いの汗ばんだ体臭がつんと香る。身じろぎしようとしたアイビスの肩を、マサキはそっと押さえた。

 

「大丈夫か。動かなくていい。痛いところはあるか」

 

 そんなマサキの言葉のどれもを無視して、アイビスの両腕が緩慢に持ち上がった。鉄球でも繋げられているかのように、遅く頼りない動きだった。最初それはマサキの二の腕に触れ、伝うようにゆっくりと肩をなぞり、マサキの背中まで移動して行く。

 

「アイビス?」

 

  問いかけが耳に届いているかも怪しいくらい、アイビスの表情は茫洋としていた。それでもかすかな、引き寄せるような力をマサキは感じた。力とも言えないくらいか弱い引力であったが、それを二度、三度と繰り返すアイビスの目があんまりにも弱々しく、それでいて切実なものをたたえているように思え、マサキはそれに逆らうことができなかった。

 

 マサキは恐る恐る、アイビスに身を寄せていった。とはいえアイビスはシートに座っているのだから、体勢的にも限界はある。それでもアイビスの求めは止まず、眼差しもますます差し迫ったものに変わって行くので、やむ無しにマサキは慎重にアイビスの背中に手を回して、背もたれからその体を浮かせた。

 

 ようやくアイビスは求めたものを手に入れることができた。それが具体的になんであったのかは、彼女自身にも茫漠として明言できないことだった。触れ合う頬と頬か、顎先に感じる彼の首筋か、あるいは腕全体に感じる彼の背中がそうであったのかもしれない。それら全てにアイビスは縋り付き、目を閉じた。ひどく寒かった。繋がっておらずにはいられなかった。

 

 彼女の肢体が小さく震えていることに、マサキは気がついた。

 

「死ぬかと思ったのか?」

 

 応えは返らなかった。

 

「俺が手下を死なせるわけないだろ」

 

 またもや応えは返らなかった。

 

 

 しばしの時間が経った。いつまでもこうしていてもしょうがない。マサキは決断して、アイビスを抱え上げた。

 

「痛かったら言えよ」

 

 マサキは抱きついて来るアイビスをそのままに、アステリオンのリフトロープを使ってなんとか地上まで降りていった。非常に労力のいることではあったが、なんとかやり遂げる。

 

 アギーハはすでに逃げ仰せていた。彼女の妨害をしていたクロとシロもすでに帰還し、いまは別の用を頼んでいる。友軍は依然としてラングレー基地まで進軍を続けており、ダイテツ艦長の命により二人の回収は後回しとされていた。

 

「戦線復帰の要なし。そのままアイビスと共に待機するように」

 

 加えてそうも命令されていた。もっともな指示であるが、途中退場を宣告されたも同然の内容にマサキは忸怩たるものを禁じ得ない。とはいえ今のアイビスを置いて再び戦場に舞い戻るなど、マサキといえど思いつくことではなかった。

 

 アイビスの様子を、マサキは困惑しつつもさほど不審には思わなかった。経験を積んだとはいえ、まだアイビスは新兵の域を出ていない。よほど死を間近に感じたのか、軽い錯乱を起こしているのだろうと推測した。マサキ自身にも覚えのあることだった。

 

 草地に降り立って、マサキはアイビスを横たわらせようとしたが、彼女の体を引き離そうとした途端、またもや微かな引力を感じたので、すこし考えてからそのまま座ることにした。

 

 結局二人の体勢は、木を背にして胡座をかくマサキに、アイビスが正面から縋り付く形に落ち着いた。アイビスの腰はマサキの胡座の上に乗っていて、横座りのようになっている。あまりの外聞の悪さにマサキは頭を抱えたが、それでも今も震える彼女の体を思うと突き放してしまう気にはなれなかった。そうしてしまうことは、取り返しのつかない罪悪であるように思えた。

 

 砲撃、爆発の音は既に遥か遠く。つい先ほどまで戦場であったことなど露とも感じさせない静けさに辺りは包まれていた。サイバスターとアステリオンが不時着した森林地帯は生息する木々の背も高く、本来であれば日差しも遮られてしまうのだが、サイバスターが一部をごっそりとなぎ倒してしまったために随分と空は開けていた。お陰で日の入りは悪く無い。冬のためそれなりに気温は低く、肌寒くはあるのだが、幸か不幸か今のマサキには関係ないことだった。

 

 アイビスのぬくもりと重さを感じながら、マサキはぼんやりと空を見上げた。まだアイビスの震えは止まない。分厚く野暮ったいパイロット・スーツを着ていても普段着のマサキよりもよほど凍えているようで、マサキは時折、あやすようにアイビスの背を叩いた。

 

(まったく、重てえな)

 

 そう内心マサキはぼやくが、しかしあとほんの少し間が悪ければ、今頃こうして抱えているのはアイビスの亡骸であったのかもしれなかった。それを思えば、下半身にのしかかるアイビスの体重も、首筋をくすぐる息づかいも、微かに香るアイビスの汗の匂いも、不快ではあれそう悪いものでもないと思えた。どれもが、生きている証に他ならない。

 

(どうなることかと思ったぜ。ええい、くそ)

 

 しばらくこのままにしておくかと、マサキは観念した。せめて彼女の震えが止むまで、あるいは迎えの連絡が届くまで。心の中で別行動中の使い魔にそう言い伝え、応答が返るのを確認してから、マサキもまた目を閉じた。疲れているのは、彼も同じであった。

 

 

 ほんの少しの仮眠ののち、マサキは目を覚ました。

 

 妙に暖かいので何かと思えば、使いに出していたクロとシロが戻って来ており、焚き火の近くで丸くなっていた。寝ている間に焚いてくれたのだろう。

 

「サンキュ。どれくらい経った?」

 

「三十分ってとこ」

 

「さっきキョウスケから連絡があったぜ。ニャんとか終わったみたいだ」

 

 二匹は丸くなったまま応えた。

 

「勝ったのか?」

 

「敵はラングレー基地を放棄したみたい。ノイエDCの南方軍とも合流して、基地に踏み込んでからしばらく押し合いを続けてたんだけど、大規模な転移反応が起こって人造兵は軒並み機能停止。基地ももぬけの殻。異星人幹部も全員行方不明だって。ハガネ隊はしばらくこの辺りに待機したまま、調査隊の到着を待つみたいよ。それと、もうすぐ迎えが来るわ」

 

「肝心なところで出番無しか。格好つかねえな」

 

「マサキだってプラーニャの消耗が激しかったし、ちょうど良かったんじゃニャいか? 土台、魔装機っていうのは地上の兵器に比べて持久力がニャいからニャ」

 

「俺は、まだまだ行けるぜ。一眠りしたら、体も戻って来たしな」

 

「あら、そんなに寝心地が良かったの?」

 

「にひひ」

 

 二匹の悪戯げな目線を追って、マサキは胸元を見下ろした。アイビスもいつの間にか眠ったらしく、マサキの上で小さな寝息を立てていた。抱擁も既に解かれているが、胸を枕にされているため体勢的にはあまり変わりはない。

 

「なんか変わったことはあったか?」

 

「眠ったのは二十分くらい前よ」

 

「一応治癒術はかけといたけど、大した怪我はニャさそうだ」

 

 そいつは何より、と思いながらこれ幸いとばかりにマサキは慎重に身を起こした。こんな状態のまま迎えが来るのを待っていては、誰に何を言われるか分かったものではない。焚き火に近すぎず、遠すぎないところにアイビスを横たわらせてから、マサキは大きく肩を回した。妙な体勢で寝たために体が凝っていた。

 

「あー、いてて」

 

「年寄り臭いんだから。せっかくの役得だったのに。ねぇ、シロ?」

 

「にひひひひひ」

 

 またもや二匹が悪戯っぽく笑った直後、アイビスが小さくうめき声をあげるのが聞こえて、一人と二匹ははっと顔を上げた。

 

「う……うぅ」

 

 苦しむように、恐れるように、アイビスは呻いていた。

 

 しかしそれは長く続かず、またしばらくする内に穏やかな寝息に戻って行く。

 

「さっきまでも、あんニャ風だったの。思い出したように、ときどきうニャされていて」

 

「……」

 

 マサキは真剣な表情で、眠るアイビスを見つめた。

 

 なにか、嫌な予感がしていた。

 

 とても嫌な予感が。

 

 

   Ⅲ

 

 

「さっきアイビスの見舞いに行って来たんだけどさ、いやぁ、いいよなぁ、あのウブな感じ。すんげー恐縮されてさぁ、しかもどことなく警戒されてる感じでさぁ。それがまたなんつーか、すれてませんってオーラ全開でさ~」

 

「いいから、とっとと引いてくれないか」

 

「はいよ、と。いやぁ、それにしてもほんと、いいよなぁ~」

 

「お前、いつかレオナに刺されるぞ」

 

 言い合いながらババ抜きに興じているのは、言うまでもなくタスクとマサキ……ではなく、今回珍しく顔を見せているブルックリン・ラックフィールドだった。別段疎遠なわけではないが、規則正しい生活を善しとする気質のため夜遊びに加わることは少なかった。今回彼がタスクの誘いに応じたのも、まださほど遅い時間ではないためだ。

 

 戦闘終了から、約8時間が経過していた。ハガネ隊はいまだラングレー基地には足を踏み入れておらず、敷地内上空にて待機のまま、調査隊からの報告を待っているところだった。例えばの話、基地内部に大規模な爆薬が仕掛けられていないとも限らないため、その確認が済むまで調査隊以外の立ち入りは全面的に禁じられている。早くて明日の午後に第一報が届く予定となっており、それまでハガネ・およびヒリュウ改は文字通り宙ぶらりんの身の上となる。

 

 パイロットは全員無事に帰還し、デブリーフィングを終えたのち終日休息となった。今回ばかりはさすがに皆の疲労も激しく、デブリーフィングを終えてからラウンジに顔を出そうとする者はほぼ皆無に近かった。

 

 午後いっぱいを睡眠・休息に費やし、夕食をとり、そこでようやく体力と行動力に余裕のある者から思い思いの娯楽に手を出し始めた。いまタスクの部屋に集まっている四人も、その一部である。

 

 ブリットとタスクは床の上でカードゲームに興じており、デスクのところではマサキがリョウトの手を借りながら報告書の作成に四苦八苦していた。アイビスは現在医務室で療養中のため、彼女の手を借りるわけにはいかなかった。

 

「おし、できた」

 

 マサキは勢い良く立ち上がり、プリントアウトした報告書を上から下まで見渡した。

 

「なかなかの出来だな」

 

「ほとんど僕が作ったんじゃないか」

 

「恩に着るぜ」

 

 いたって軽く流し、マサキは部屋の扉に向かった。

 

「およ、帰んの?」

 

「ああ。またな」

 

 書類をハンカチ代わりにひらひらさせながら、マサキはタスクの部屋を後にした。このまま隊長室に詰めているはずのキョウスケの下に向かうつもりだった。マサキにとって小隊長になって何が嫌かといえば、なにをするにもいちいちあの男に伺いを立てなくてはならなくなったことだった。嫌な事は早めに済ませてしまうに限る。

 

 その後のことは、とくに決まっていなかった。タスクらのところに戻っても良いし、部屋に戻ってごろごろするのも良い。アイビスのところへ行くつもりはなかった。面会謝絶というわけではないが、今夜一晩は安静にさせたいと医師から伝え聞いていた。

 

(落ちついてからでいいな)

 

 マサキは真っ直ぐに、隊長室へ向かって行った。

 

 向かって行ったつもりではあったのだが、マサキにとっては遺憾なことに、また彼以外の者にとってはもはや自然の摂理というべきことに、少年はまたもや正しい道順を盛大に踏み外していた。

 

(なんで医務室に着いちまうんだ?)

 

 医務室と隊長室はさして遠くはないが、同じ場所と言えるほど近くもない。

 

(まぁいい。これも巡り合わせって奴だ)

 

 長年のことなので、いまさら深く考える気も起きない。極めて行き当たりばったりに、マサキはアイビスを見舞って行くことに決めた。

 

「よう」

 

「あ……」

 

 マサキが患者部屋に入ったとき、アイビスは寝間着姿でベッドに横になっていた。部屋の明かりは落とされていたが、瞳の瞬き具合からして寝付けていなかったようだ。

 

 それでも何か悪いタイミングを踏んでしまったか、とマサキは気を回したのは、彼の姿を見た途端にアイビスが毛布をそっと口元まで引き上げたためだ。しかしその後とくに何も言わないので、マサキはそのままアイビスのベッドに近づいていった。するとさらに数センチ、アイビスは毛布を引き上げた。足が冷えるのではと、マサキは怪訝に思った。

 

「一人なのか?」

 

 顔の下半分を毛布で隠しながら、こっくりとアイビスは頷いた。このとき医師は所用で席を外しており、しばらく付きっきりになっていたツグミも、アステリオンの修理に取りかかり始めていた。

 

「そっか。なら暇だろ」

 

 またもアイビスは頷いた。

 

「なんか飲み物でもいるか?」

 

「……大丈夫」

 

 ようやくアイビスは言葉を発した。消え入りそうな声だった。

 

「腹は減ってないか」

 

「さっき、軽く……」

 

「あんま体調良くねえみたいだな」

 

 声は弱々しく、顔もやや赤い。明かりが消えているためか、余計に瞳が潤んでいるように見える。マサキは医者ではないが、典型的な熱の症状に思えた。

 

「まぁ、しばらくゆっくりしてな。仕事はこっちでやっとくからよ」

 

 右手の報告書を、マサキは見せびらかすようにひらひらとさせた。

 

「誰に頼んだの?」

 

「俺が一人で書いたのさ」

 

「嘘」

 

 言い切られて、マサキはしばし閉口する。小隊長としての威厳……などというこれはまではついぞ気にしなかったものに思いを馳せた。

 

「エクセレン少尉?」

 

「誰が頼むか、あんな奴。リョウトだよ」

 

 そっか……と、アイビスは目を閉じた。

 

 そのまましばしの沈黙があった。そろそろお暇しようかとマサキが別れの言葉を考えた矢先、初めてアイビスの方から「ねえ」と声がかかった。

 

「怒ってる、よね?」

 

「誰が?」

 

 真顔で問い返すマサキに、アイビスはまたもや毛布を引き上げた。顔が完全に隠れてしまった。

 

「おい」

 

「やっぱり、怒ってる」

 

「なに言ってんだ。ん? 俺がか?」

 

「ごめん、あたし、ごめん、あの時はどうかしてて……」

 

 すっかり毛布に引き蘢ってしまったアイビスに、ようやくマサキは不時着したあとのことを言っているのだと察した。

 

「なんだ、お前ちゃんと覚えてるのか。朦朧としてたし、忘れてるかと思ったぜ」

 

「……」

 

 アイビスは出てこない。

 

「別に怒ってなんざいねえよ。人間、本当にギリギリまで死にかければ、ちょっとばかりおかしくもなるさ」

 

 アイビスは出てこない。

 

「俺にだって、似たようなことはあったんだからな。だから怒ってねえ。おい聞いてるか?」

 

 依然、アイビスは出てこない。マサキは毛布を掴んで、アイビスの首もとまでぐいとずらした。

 

「ぅぁ……」

 

「バーカ。熱が籠るだろ、それじゃ」

 

 言う通り、アイビスの顔はますます赤みが増しており、「りんごかこいつは」とマサキが思うほどだった。

 

「どうも、本当に調子が悪そうだな。まぁ熱があるんじゃしかたねえ。とにかく、今は何も考えずに休め。それで復帰したあとは、ちゃんともっとしゃきっとしろよ」

 

「……」

 

「いいな?」

 

「……うん」

 

「よし。んじゃ俺は行くぜ。なんかあったら呼べよ」

 

 言って、マサキは踵を返した。

 

「マサキ」

 

 呼び止められたので足を止めて振り返ると、アイビスは横向きに寝返りをうって、真っ直ぐにマサキを見ていた。

 

「ありがとう。見舞いに来てくれて」

 

 そう言って微笑むアイビスの表情が、かつてシミュレーター訓練でキョウスケ達を打ち破った時のように、本当に嬉しそうに見えたので、マサキもまたにやりと笑ってみせた。手をひらひら振って、そのまま医務室を後にする。

 

 そのまま通路まで出た時に、マサキは言おうとしていたことを言い忘れたことに気づき、頭を掻いた。「怒ってる?」などというのは、彼自身がアイビスに訊きたかったことだったのだ。自分の判断のせいで、彼女は危機にさらされたのだから。

 

(まぁ次の機会でいいだろうし、本人が根に持ってないなら、そのまま触れずにおいてもいいな)

 

 身勝手を自覚しつつもマサキはそう判断し、報告書を片手に本来の目的地へと向かって行った。結局その本懐を遂げるのには、これより数時間も掛かってしまうのだが、それは全くの余談であった。

 

 

   Ⅳ

 

 

 翌日、調査隊によって基地内部の安全が確認され、ハガネ隊は正式にラングレー基地に停泊することとなった。設備類にも特に問題は見られないとのことで、今後のラングレー基地は人員だけをそっくり入れ替え、改めて地球軍側の拠点として運用されることなる。

 

 それに伴い、基地機能を回復させるべく連邦軍作戦本部から百人単位で人員が送り込まれる運びとなり、その出迎えと、彼らが到着するまでの基地防衛が今後のハガネ隊のしばらくの任務となる。やがては月攻略のため宇宙へ上がらなくてはならないが、少なくとも一週間程度はこの地に留まる予定となった。

 

 ラングレーに腰を下ろしたハガネ隊の第一のミッションは、基地攻略戦によって生じた自軍の損害を可及的速やかに補修することであった。基地内に残された物資の積み込みや、損傷した艦載機の修理のために、その日の早朝から格納庫は大わらわとなった。

 

 とりわけ機動兵器の損害は激しい。サイバスターとアステリオンは言うに及ばず、砲弾に対する盾の役目を果たしたジガンスクードやグルンガストといった特機タイプは軒並み半壊状態にあり、PTやAMにおいても被害は決してゼロではない。またパイロットにおいてもアイビスの他、ゼンガー・ゾンボルトやラミア・ラヴレスといった何人かの面々が重軽傷を負っていた。死者が出ていない事だけが不幸中の幸いである。

 

 総じて被害は大きく、戦闘続行不可とまではいかないが、ラングレー戦前の状態にまで回復するには少なくとも十日は要すると見られていた。

 

「幸いパーツが余っていたから、修理は十分可能よ。それより撃墜されておいてなんだけど、レコーダーを見た分にはかなりいい動きをしていたわ」

 

 格納庫で一角で、アイビスはツグミからアステリオンの修理具合について経過連絡を受けていた。ツグミは、ぴんと背筋は伸びているものの、どこか気怠げな様子であり、昨夜からアステリオンの修理にかかりきりだったのは明らかだった。もともとツグミはメカニックではないが、ハガネ隊の中でアステリオンに最も精通しているのは彼女であり、修理の手伝いにも自ら名乗り出ていた。テスラ研以来久方ぶりに見るツグミの目の下の濃い色合いに、アイビスは申し訳ない気持ちになった。

 

「それでも後が続かないのが問題よ。推進部に直撃した砲撃にしても、射角を見ると十分あなたの視界内だったはず。冷静に周りを見ていれば対処できたはずだわ」

 

 今も昔も、ツグミがアイビスを手放しで誉めたことは一度も無い。以前と比べれば遥かに飴の回数が増えたようにも思うが、それでもツグミは振るうべき鞭はきちんと振るう人物だった。

 

 しかし。

 

「は、はい。すみませんでした」

 

 しきりに謝罪を繰り返すアイビスに、ツグミの眉が怪訝そうに寄せられた。いつもと違い、アイビスの返答から誠意よりも、早く話を終わらせたがっている気配を強く感じ取ったのだ。これまでには見られなかったことだった。

 

 こうして格納庫にやってきているアイビスだったが、まだ医療班から出撃許可は出ていない。肉体面ではせいぜい軽い打ち身が見られる程度でほぼ無傷も同然なのだが、精神面でのダメージを危惧されての処置だった。

 

 マサキからの忠言もある。昨日、一人で立つこともできないほど疲弊していたアイビスに肩を貸しながら帰還してきた彼は、キョウスケと、医療班チーフと、そしてツグミの三名に対して簡単な口頭報告を行っていた。一連の経緯を伝えた後、最後にアイビスについて「撃墜されて軽く錯乱していた。よく見ておいてくれよ」と特に医師に対して念を押していた。

 

 その彼はいま格納庫の別の一角で、エクセレンとなにやら言い合っている最中だった。相変わらずエクセレンのからかいに真正直から反発しているらしく、ツグミがハガネ隊に入隊してからも幾度となく繰り返されている光景であったが、全く進歩が見られない。

 

 彼の戦士としての力量と未知の科学、そしてアイビスに対する指導力には敬意を表しても、ああいう子供っぽいところがツグミの趣味では無かった。アイビスも二人の声が気に障るのか、ツグミが言葉を発している間も、ちらちらと向こうを気にしていた。

 

(テスラ研では私がどんなにきついことを言っても、聞き流したりしないで真剣に聞いてくれてたのに)

 

 撃墜の影響で一時的に集中力に支障をきたしているとしても、戦争中である今ならばまだ良い。極端な話、今後しばらく出撃許可が降りなかったとしてもツグミからすればある意味で願ったり叶ったりであった。

 

 しかし、もしフリューゲルス小隊から外されるようなことがあれば、それはアイビスの成長にとって大きな痛手に思えた。なにより万が一、戦争終結後にプロジェクトへ復帰してからも何かしらの後遺症が残ってしまうようなら……。

 

 ツグミは頭を振った。どうにも思考が悪い方向へ先回りしてしまっていた。

 

「……もういいわ。とにかくあなたは休養に専念すること。今日はこれでおしまい」

 

「はい、わかりました。チーフ」

 

「あら、いまなんて?」

 

 ツグミがそう言うと、アイビスは落ち着かなさそうに体を揺すり、

 

「その……いろいろありがとう。ツグミ」

 

 そう言い直すアイビスの顔は、「人を和ませる笑顔の作り方」などという教本があれば表紙に採用されてもよいくらいだとツグミには思えた。抱える不安のすべてが、杞憂に見えてくる。そんな彼女の心境を、ひと際大きい怒声が台無しにした。

 

「やかましいんだよお前は。勝手に行けばいいだろ!」

 

「またまた、恥ずかしがらなくても良いってば。ちゃんと食堂まで連れてってあげるから」

 

「いらねえ世話だ。あっちにいけ」

 

「少尉、そんな言い方したら、誰だって気分よくないですよ」

 

「気にするなよマサキ。一緒に飯でも食おうって言ってるだけのつもりなんだ。少尉の場合」

 

 二人の言い合いに、いつのまにかクスハ・ミズハにブリットまでもが参加していた。

 

「とにかく、俺はまだサイバスターの調子を見なきゃなんねえんだ。とっととどっかに行け」

 

「意地張っちゃって。それじゃマーサ。迷ったらいつでもお姉さんを呼んでねえん」

 

「少尉ったら!」

 

 ようやく魔の手から解放されたマサキは、己の天敵について真剣に思考を巡らせた。お姉さんとやらを自称する女はあれで二人目だったが、どちらにしてもろくなものではなかった。

 

「年上の女と相性が良くないのか? 俺は」

 

「そうなの?」

 

 益体もない独り言に、求めてもいない応答が返り、マサキは首だけで後ろを向いた。そういやこいつも年上だったっけ、とマサキは早くも内心で前言を撤回した。

 

「よお、元気そうじゃねえか。もう大丈夫なのか」

 

「うん。御陰さまでもう平気。でもまだしばらくは休養だって。アステリオンも修理中だしね」

 

「そっか。ふぬけるなよ」

 

「うん」

 

「んじゃ、また後でな」

 

「どこいくの?」

 

「サイバスターの中だよ。まだちょっと機嫌が悪くてな」

 

 背を向けたまま「あばよ」と手を振って歩き出すマサキだったが、数分後、その手はサイバスターの内部で彼の額を支えるのに使われることとなった。

 

「わあ、なんだか不思議な空間。ここに手を置いて動かすの?」

 

「……ああ」

 

「思考制御なんだっけ。ねえ、あたしにも動かせるかな。やってみてもいい?」

 

 まるで童女のようにきらきらとした星空を瞳に浮かべ、アイビスはシートの後ろから顔を覗き込ませてきた。

 

「俺はこれから修復具合のチェックをしようとだな」

 

「ちょっとだけ。だめ?」

 

「……好きにしろぃ」

 

「ありがと。よいしょっと。あれ、ちっとも動かないや」

 

 言いながらアイビスはためつすがめつにコネクタに触れ回ってみるが、サイバスターは黙として語らない。その様子を横目にしながら、マサキは不審な思いを禁じ得なかった。「乗せて」と言って聞かなかった先ほどと良い、今と良い、今朝からのアイビスは妙に押しが強いというか、変にはしゃいでいるようだった。

 

「ねえ、ぜんぜん動かないよ」

 

「強く念じてみな。動けってな」

 

「ん……やっぱり動かない」

 

「んじゃ、やっぱり無理だな。最初からこいつは俺しか動かせねえようになってるんだ。そういや、いままで試した事なかったけど」

 

「そっか。パイロット登録してあるんだ」

 

「まぁ似たようなもんか」

 

 アイビスが視線で続きを求めて来たので、マサキは頭を掻き、ぽつぽつと言葉を紡いでいった。

 

「俺自身あんまり実感はねえんだが、こいつには意志があるんだそうだ。サイフィスって名前の、風の精霊が宿っていて、そいつが俺を操者と認めてくれたから、俺はこいつを動かせる。この関係は俺が死ぬまで続く。その間は、他の奴の操作は受け付けないのさ」

 

 アイビスは感心したように、瞳を瞬かせた。

 

「マサキって、本当におとぎ話の勇者だったんだ」

 

「そんな柄に見えるか?」

 

「うん」

 

 臆面もなく言い切られ、マサキは二の句を継げなかった。

 

「気を悪くした?」

 

「いや。ええい、近いんだよ」

 

「ごめん。でも意外と広いんだね。サイバスターのコクピットって」

 

「二人乗りじゃねえぞ。まったくいい歳してどいつもこいつも」

 

 ぶつくさ言いながらマサキは右手側のコネクタに手を乗せ、スクリーン上に機体状態を表すウィンドウを表示させた。映し出された文字は、アイビスにとって見たことも無いものだった。

 

「これ、何語?」

 

「日本語」

 

「うそだぁ」

 

「……そうか、お前には魔法が効いてないから。間違えた、ラ・ギアス語だよ。ち、やっぱ地上じゃ修復もとろいな」

 

 アイビスにとって、マサキの言葉は要領を得ないものばかりだったが、ひとまず作業の邪魔をしないよう黙っていることにした。空いている左手側のコネクタにもう一度手を乗せてみる。やはりうんともすんとも言わない。

 

(サイバスターには意志がある)

 

 マサキを認め、マサキを選び、それゆえにマサキの命しか受け付けない精霊の意志。それを聞くと好奇心で弄くり回そうとするのは良く無いことのように思え、アイビスは手を引っ込めた。ともすればこうしてコクピットにお邪魔していることも不敬に値するのではないか、と何とはなしに周囲を見回してしまう。

 

「どれ、ひとつ飛ばしてみるか」

 

「え、大丈夫なの?」

 

「最初からそのつもりで、ちゃんと申請してある」

 

 航行中と違い、停泊中ならばある程度自由に機体の出し入れができる。基地の設備を使って修理・調整を行うべく出払っている機体もあり、コンディション・チェックという名目ならば同様に許可を得るのも容易であった。それを証明するように、マサキがブリッジと連絡を取ると、幾つかのやり取りであっさり出撃許可が下りた。

 

「あたしも一緒でいいの?」

 

「いまさら何だよ。勘が鈍られても困るし、暇ならちょいと付き合え」

 

「あ、それ」

 

 少し前の、女子会の一幕をアイビスは思い出した。女性をデートに誘う時のマサキの言葉を予想して遊んでいたのだが、どうも見事に的を射てしまったらしい。

 

「なんだよ」

 

「ううん! なんでもない」

 

 そうアイビスは満面の笑みをこぼしたが、そのあと何かに気づいたようにふと顔を上げた。

 

(あれ? ということは……)

 

 そうして何かに思い至り、やがてアイビスは見るからに落ち着きをなくしていった。体の各所のポケットに次々と手を当てて何かを探しまわったかと思うと、今度は自分の髪やら裾やらをせわしなくいじくり始めた。

 

 マサキは妙な生き物を見るような目で、それを見ていた。

 

 

   Ⅴ

 

 

 碧空を、サイバスターが羽ばたいていた。

 

 電磁カタパルトにて射出された際も、その後スラスターを吹かせて雲の上まで高度を取ったときも、全くGを感じなかったことにアイビスは感嘆のため息をついた。以前に話を聞いたこともあり、またマサキがスーツは愚かハーネスすら付けずにいるので予想はついていたが、いざ身を以て体験してみるともはや言葉も出ない。一切の圧迫感なしにぐんぐんと高度を上げて行くスクリーンの景色に、アイビスは妖精かなにかに誑かされているような気さえしてきた。

 

 マサキはというと、シートの上でどこか面白く無さそうにコンソール画面を眺めていた。

 

「調子よくないの?」

 

「なーんか反応悪いんだよな。あと二日くらいかかるなこりゃ」

 

「あたしのアステリオンも、それくらいだって。お互い、しばらく休業だね」

 

「医者はなんつってたんだ?」

 

「出撃はまだ許してもらってないけど、とりあえず体に問題ないようなら明日からでも退院はオーケーだって。あとは様子を見ながらだってさ。マサキにも報告がいくんじゃないかな」

 

 要するに実機での出撃を除いて、通常業務に携われるということだった。そういう意味では、こうしてサイバスターに相乗りして外に出ることは、限りなく黒に近いグレー……というより正式な退院は明日であるのだから暦とした黒であるのだが、マサキはむろんのことアイビスも気にしている様子は無かった。妙なところで感化されているらしい。

 

 機体チェックはものの数分で済んでしまったが、すぐに帰還するのも何なので、マサキはしばらく気の向くままにサイバスターを飛び回らせることにした。もはや遊覧飛行と称して差し支えない、目的も目的地もなくただ飛ぶために飛ぶような時間となった。

 

 その間、アイビスとマサキはあれこれと世間話に興じていた。さしもの二人も、このような密閉空間に二人きりでいることは初めてであり、艦内ではなかなかできないような一歩踏み込んだ話に花が咲いた。

 

 マサキは、ハガネ隊の中でも気を置かずに付き合っている友人らのことを話した。彼らとの間で起こった幾つかの珍事件や馬鹿話を披露するとアイビスはからからと笑い、逆に気に入らない面々に対する愚痴や不満をマサキが言い出すと、アイビスは今度はくすくすと堪えるような笑みを零した。他人の悪口を言う時ですら、どこか清々しさや性根の真っ直ぐさを感じさせるのが、マサキという少年の長所だった。

 

 アイビスもまた女性陣の間で起こったエピソードのいくつかを結介し、とくにラトゥーニとマイのほのかな恋の鞘当てについてはマサキも驚きと共に関心を示した。またその鞘当ての対象であり、且つ全く自覚に欠けるリュウセイの朴念仁ぶりについては二人して大いに義憤を燃やした。

 

「二人の女の子にあれだけ想われて、知らん顔なんてひどいよね」

 

「まったくだ。男のすることじゃねえな。いや、にしても、そんなことになってるなんて全然気づかなかったぜ」

 

 ちなみにこの話はハガネ隊のパイロットであれば六割は耳にした事があり、残り四割は自ら気づくというくらいメジャーな話であったのだが、にも関わらず真顔で感心するマサキに対して、アイビスはなんとなくリュウセイに対するものと同質の不安を覚えたものだった。しかしそれはそれとして、次のシミュレーター訓練では重点的に奴を狙ってやろうとマサキが邪気たっぷりに提案すると、アイビスも笑いながらそれを承諾した。

 

 他にもアイビスが実はタスクなどに苦手意識を持っていることを思いきって告白すると、マサキはさもありなん、としたり顔で頷いた。彼にとっては特に仲のいい友人の一人でもあるのだが、それとこれとは話が別であるらしい。

 

「悪い人じゃないって分かってるよ? でもなんとなく距離が近くて。あたし男の人に近寄られるのって苦手だし、それで気後れしちゃうんだ」

 

「そいつで正解だぜ。なんか怪しい真似でもしたら、レオナにでもちくってやりゃあいいんだ」

 

「あは、分かってないね。女同士っていうのは、そういうところで気をつけなくちゃいけないんだよ」

 

「そうなのか。んじゃ俺に言え。色々と恨みもあるし、ひとつヤキを入れとくのも悪くねえ」

 

「まだ賭け事をやってるの? いい加減、懲りなよ。向いてないんだから」

 

「今更引き下がれるか。有り金尽きようが、なんとしても奴にほえ面かかせてやる」

 

「言っておくけど、あたしあんまり貯金ないよ」

 

「誰がたかるか!」

 

 二人の会話は実に和気藹々として、途切れることがなかった。

 

 

 やがてどちらからともなく話し疲れだし、言葉もなくとただ飛び続けるだけの時間が始まった。

 

 ああ、空だ。

 

 今更のように、アイビスは実感した。雲の上と星の下に広がる、風と空の世界。一切の生物を許容はしても招きはしないその領域にあって、彼と彼の機体はあまりに自然に、当たり前のように飛んでいる。

 

 それはえも言われぬ感覚だった。アステリオンと同じく完全な密閉空間であり、アステリオン以上に慣性制御が効いているはずのコクピットの中で、アイビスは確かに空と、そして風を感じることができた。むろん外の風を感じているわけではない。しかし空調の風でもない。もっと大きく、深く、暖かな、柔らかい風のそよぎのようなものがアイビスを肌を包んで行く。それは本当に不思議な、魔法のような感覚だった。まるで自らもまた風となって、空に混じっていくかのような。

 

(マサキはいつもこうやって飛んでるんだ……)

 

 互いの機体と、互いのことを知れ。

 

 カイ・キタムラの言葉をアイビスは思い出し、大いなる実感と共にその言葉を噛み締めた。いつか再び二人で出撃するとき、このときの感覚を思い出せば、これまでとはまた少し違ったふうに少年と翼を重ねられるような気がした。

 

 そう、いつか再び出撃するときに……。

 

「……?」

 

 アイビスは、ふと違和感に気づいた。なにか震えるような振動を右手に感じた。携帯端末でも持っていただろうかと何気なく右手を確認して、そして愕然とした。

 

「? ?」

 

 何も持ってはいない。ただ右手だけがあり、そしてその右手が勝手に震えている。アレルギーのように手の甲一帯に鳥肌を立て、アイビスの意志とは無関係に、全くもって、真実独りでに、ぶるぶると何かに怯えきったように震え続けていた。

 

(なにこれ……)

 

 右手の異変を皮切りに、それは左手、両足にまで伝染し、すぐにアイビスは立っていられなくなった。膝から崩れ落ちそうになるところを、シートの背もたれにしがみついてなんとか堪える。 

 

「どうした? 転んだのか?」

 

 前を向いたままの、マサキの呑気な問いかけに応える暇もなく、突然として反乱を起こし始めた己の肉体にアイビスは混乱した。

 

(なに? なになに、どうなってるの? やめてよ、マサキの前で……)

 

 精神と肉体が乖離していた。しかしそれは初めだけで、やがてアイビスは、すとんと何かが胸に落ちたように、自分の肉体が何に怯えているのかを理解した。本当に突然に、霧が晴れたかのようにその理解はやってきた。

 

 ――穴が空いている。

 

 

「……」

 

「アイビス?」

 

「…………っ」

 

「おい、どうした!」

 

 シートの後ろの異変に、ようやくマサキは気づいた。立ち上がって振り向くと、アイビスはすっかり色を失い、病的なほど青ざめていた。目は茫洋と霞み、懸命に何かを堪えるように唇を噛み締めている。

 

「アイビス、アイビスどうした!」

 

 慌ててマサキはアイビスの両肩を掴んだ。コネクタを手放しても、サイバスターは依然として高度を維持し続けたが、そのようなことに感銘を受ける者はもはやこの場にはいない。

 

「おい、おい!」

 

「穴が……」

 

「なに?」

 

「穴が……空いてる……」

 

 昨日に、死に瀕したあのときに観たのと同じ穴だった。自分を吸い込もうとするあの穴だった。アイビスの両の瞳は今も、目の前にいるマサキを確かに捉えている。しかしそれとは別の第三の眼が、真っ暗闇の中で自分を挟み撃ちにするシルベルヴィントの凶相と深く大きな穴を捉えていた。

 

 やがてアイビスは、両の目で見るものと第三の目で見るもの、そのどちらが幻なのか分からなくなっていった。まるで目眩のように、目の前のマサキの顔がぼやけ、螺旋状にねじ曲がっていく。顔中から血の気が失せる。意識が遠くなる。全てが、一緒くたになって背後に吸い上げられていく。

 

 そうして、アイビスは落下していった。シルベルヴィントの魔眼に追いやられるように、はるか後方のあの穴に落ちて行く。アステリオンが翼を失った、あのときのように。

 

「ちがう……ちがう……」

 

 アイビスは呻いた。

 

 幻だ。幻のはずだ。こんなことが現実に有り得るはずがない。しかし確かな事実として、その非現実に、アイビスの体感覚は根こそぎ汚染されていた。そこから逃れる術がどこにも見当たらなかった。いつだって自分を守り、助けてくれた彼の姿がもはやどこにも見えなかった。

 

「あ……う……」

 

「おい、アイビス、しっかりしろ。どうしたんだ。穴ってなんだ!」

 

「あたし……マサキ……どこ……?」

 

「ここだよ、目の前だ! おい、よく見ろ! 穴なんかねえ。そんなもんここにはねえんだ。おい、俺を見ろ!」

 

「マサ……キィ……」

 

 アイビスがマサキの目を見た。マサキも同様にアイビスの目を見た。痛ましいほど逼迫した光をたたえたそれは、こうして目を合わせているというのに、まるでマサキを見ているようには見えなかった。なにか遠くを、マサキを突き抜けてはるか遠くを見つめ、あまりに痛ましい、病んでいるとさえ言えるほど、ぞっとするような不吉な輝きを潜めていた。

 

 アイビスの両手が、震えながらもマサキの二の腕に触れた。昨日の一幕を忠実に再現するかのように、それは肩をたどりマサキの背中まで回された。そして、小さな小さな引力が。

 

「……!」

 

 マサキは遮二無二アイビスを抱き寄せた。力ずくで震えを止めてやると、力任せに抱きしめた。それでもアイビスは、凍えるように震え続けた。

 

 そんなアイビスを抱き寄せながら、マサキもまた恐れおののき始めた。今にして、気づいたのだ。あのとき、無惨に破壊されたのはアステリオンだけではなかった。あの時、アイビスの中の何かも、掛け替えの無い何かも共に破壊されていて、そしてそれは未だ散らばったままだった。

 

 癒えてなどいなかった。

 

 何一つ、癒えてなどいなかったのだ。

 

 

 

 



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第九章:崩壊、フリューゲルス遊撃小隊

 

 

   Ⅰ

 

 

 出撃中のマサキからの緊急連絡により、通信士とダイテツ艦長を経由しながら、すぐさま医療班に事の次第は伝えられた。突然格納庫に集まり出した医療班のメンバーたちに作業中であった整備士やパイロットの面々は呆気に取られたが、事情を聞くと皆一斉に顔色を変えた。整備班チーフの提案により資材搬入作業を一旦中止し、リフトやトラクターを全て下がらせ、サイバスターのための着陸スペースを作った。機動兵器用の着艦口を使うより、直接横付けさせた方が早いと踏んだのだ。

 

 ややあって、サイバスターが高空より飛来して来た。キョウスケからの指示に従い、サイバスターはハガネの右舷側に直接着陸し、すぐさまコクピットからマサキが飛び出してきた。

 

「医者だ。医者をよこせ!」

 

 大声をあげるマサキの腕の中で、アイビスは依然震え続けていた。どれほどの恐怖に晒されればこうなるのか、目つきも顔色も平時の彼女とはかけ離れ、別人のように色を失っていた。

 

 待機していた医療班が駆けつけアイビスを引き受けようとするが、そこで一悶着が起こった。身を引きはがされそうになったアイビスが抵抗したのだ。

 

「やめて!」

 

 痛々しい悲鳴だった。歴戦の兵士ですら息をのむほどの。

 

「やめて、落ちる、落ちる!」

 

 金切り声をあげて身をよじるアイビスに、マサキは咄嗟に腕を締めて抱え直した。落としたが最後、本当にアイビスが奈落へ落ちてしまうような気がした。

 

 医療班もどうすべきかと、手をだしかねていた。救いを求めるようにマサキが周りを見渡すと、居合わせた者たちは一様に、恐れるようにマサキたちを遠巻きにしている。こうも人目につく場所に降り立ったことを、マサキは後悔した。

 

 医師の一人が医務室から鎮静剤を引っ掴んできて、ようやく事態は一旦の落ち着きを見せた。無針式のそれに首筋をうたれ、アイビスはそれこそ墜ちるように気を失った。すかさず医師はアイビスの体を受け取り、慎重に担架へ乗せる。

 

 運ばれていくアイビスに、マサキは不必要なまでの喪失感を覚えていた。内臓の一部が切り離され、奪われていくような、そんな感触があった。待て、返せと、筋違いな言葉が腹から湧き出て、肺に溜まった。

 

 そうしている内に、アイビスの姿は艦内に吸い込まれ見えなくなった。それでも依然として、マサキは立ち尽くすばかりだった。

 

 

「まず、昨日から今日にかけて確認された彼女の症状を整理します」

 

 数時間後に、一通りの見解をまとめ終えた医療班チーフがミーティング・ルームに出頭した。出迎えたのはダイテツ、レフィーナ両艦長の他、キョウスケ、カイ・キタムラといったパイロット部門の管理者たち。それにアイビスの直接の上司であるマサキと、関係者のツグミも加わって、報告会が始まることとなった。

 

「まず一つが被撃墜直後の緊張状態。極度の不安やストレスにより体の震えが止まらず、立つ事すら出来なかったと伺っております」

 

 視線を向けられたが、マサキは反応を見せなかった。

 

「次に悪夢です。マサキさんからの報告にもありましたが、私自身、彼女が悪夢に魘されているところを何度も目撃しています。再体験症状といって、形式的にはこれが一ヶ月以上継続すれば、その者はPTSDを患っていると診断されます」

 

 PTSD(Post traumatic stress disorder)とは、心的外傷後ストレス障害と和訳される精神疾患の一種である。命に関わる出来事を体験したのち、その記憶によって引き起こされる様々なストレス障害のことを指す。戦時中の軍人にとっては職業病といっても過言ではないほどメジャーな病気で、少なくともツグミを除いてこの場にいる誰もが、大なり小なりの実例を過去に目にした事がある。

 

「つまり昨日の時点で、アイビスが精神疾患を患っている可能性があると推定できたのだな」

 

 質問を挟んだのはダイテツ艦長だった。

 

「その通りです」

 

「ではなぜ退院を許可したのだ。正確には明日許可する予定だったそうだが」

 

「あくまで可能性に過ぎなかったのと、仮にそうであったとしてもPTSDとは必ずしも入院して治療するものではないためです。重度な自傷行為を繰り返したり、その他の理由で外来が困難な患者はもちろん別ですが、それ以外で患者を拘束することはむしろ害となります。もちろん関係者には事情を説明するつもりでしたし、現場復帰……つまり出撃許可についてもしばらくは見合わせるつもりでした。整備や訓練といった通常業務を通して、何らかの症状が現れないかどうか様子を見ようと考えたのです」

 

「分かった。続けてくれ」

 

「そして本日、ツグミさんとマサキさんから、今朝のアイビスさんに軽度の躁状態が見られたとの証言を得ております。これについては私自身が目撃していないので断定はしかねるのと、またお二人の話を聞いても、決して対人関係にトラブルを起こすような深刻なものではなく、平時よりも若干明るく、また落ち着きを無くす程度のものだったようです」

 

 医師は一旦言葉を切った。

 

「問題は次です。最初の症状である緊張状態の再発が認められました。直接の切っ掛けとなったのはサイバスターに同乗し、出撃した事と考えられます。フラッシュバックという言葉を聞いた事があると思います。高空に身を置いたことで、被撃墜時の状況を彼女の心と体が思い出した」

 

「マサキの言によれば、出撃後少なくとも一時間はアイビスに症状は現れなかったようですが」

 

 次の質問者はキョウスケだった。

 

「その一時間の中で、双方の間で頻繁に会話が交わされていたとのことですので、それによって精神が安定……まぁ簡単に言えば気が紛れていたのでしょう。また下世話な物言いになってしまいますが、異性と個室に二人きりでいれば、また別の緊張も生じ得ます」

 

「少なくともその一時間の間、アイビスは自分の状況……つまり、高空にいることを強く意識していなかったと」

 

 医師は頷いた。加えて言うならば、サイバスターに強力な慣性制御が働いていた事も、アイビスから飛行の実感を遠ざける一因となっていた。

 

「そしてその後、会話が途切れ始めてしばらく経ってから症状が発生した。おそらくその間にアイビスさんは周囲を見回すかなにかして、段々と昨日の状況と現在の状況をリンクさせていったのでしょう。おそらく、今回のことがなくとも遠からず訓練の際などに同様の結果が現れていたと思われます。仮に現れていなければ、それこそ最悪の結果になっていました」

 

「実戦で初めて発症するよりはまだ……ということか」

 

 カイ・キタムラが、苦々しげに呟いた。

 

 

「次に今後についてです。アイビスさんの病状について、私の手で最終的な結論を出す事はできません。PTSDと断ずるにはまだ時が浅すぎますし、私も専門医ではありません。しかしはっきり申し上げることができるのは、彼女はもはや満足に機動兵器を操縦できる状態ではないということです。当然、出撃許可は今後も出せませんし、訓練も同様です。シミュレーターならまだしも、実機訓練の場合は周囲も巻き込んでの重大な事故に繋がり得ます。無論深く検証し恐怖の対象を特定できれば、何らかの抜け道が見つかるかもしれませんが……」

 

 意味の無い庇立てであった。考慮の余地はなく、キョウスケもカイも口を開きすらしない。医師の言葉は、事実上の戦力外通告に等しかった。

 

「また彼女自身についても、早急に専門医の診断を受ける必要があるでしょうし、その結果ここでの予測が的中した場合、治療には長い時間と専用の設備が必要となります。現在作戦行動中のハガネ隊でそれらを用意することはできません。軍法に則り、早急にアイビスさんの任を解き、艦から下ろすことを正式に申請します。また……」

 

 医師はためらうように口ごもった。

 

「艦の外のことには口を挟めませんが、あくまで忠告という意味ででしたら、それは彼女本来の職務についても同様です」

 

 力の籠ったその言葉に、一部の人間の眉筋はこれ以上ないほど強張り、また一部の人間の手がぎりりと拳の形に握りしめられた。

 

 ツグミの手が挙がった。

 

「艦から降りたあとのことは貴方の管轄ではないとも、また今回のことは貴方の専門ではないとも理解しています。その上で、参考として聞かせてください」

 

 ツグミが何を言おうとしているのか、医師には手に取るように分かった。患者の身内であれば、誰もが一度は口にすることであり、彼自身何度も耳にして来たことだった。そして、医師にとってみれば最も訊かれたく無いことの一つでもある。

 

「アイビスは治りますか」

 

 果たしてツグミの言葉は彼の予想を裏切らなかった。ゆえに医師は、これまで幾度となくそうしてきたように、首を縦に振ることも横に振ることもしなかった。

 

「どちらとも、断言できません」

 

 

 その後、幾つかの話し合いがあって、報告会は幕を下ろすこととなった。アイビスの処遇は大部分において医師の見解に従うことで論を結ばれ、誰一人として異を唱えなかった。他になす術が無いと、皆が理解していた。

 

 幾つかの所定の手続きを要するため正式な辞令はまた後日となるが、両艦長の裁量のもとこの場にてアイビスの除隊が決定された。以後彼女は民間人の立場となり、ハガネ隊にとって形式上は保護の対象となる。無論のこと、ほんの数時間前まで身内であった人物であるから、通常以上の融通を効かせられるであろうし、「なるべく不自由のないように」とのレフィーナからの指示もある。しかし、機動兵器への搭乗・出撃は厳しく禁じられることとなるだろう。

 

 専門医の手配は医療班が担当することとなった。ハワイ州オアフ島には世界最大規模の軍病院があり、そこならば戦闘による精神疾患の症例にも事欠かない。無論アイビス本人の意向も踏まえなければならないが、そこと折り合いを付けられれば、治療環境としてこれ以上のものはなかった。一週間後にハガネ隊はラングレーを離れる予定でいるので、なんとかそれまでに方針を定めると医師は約束した。

 

 最後に、アイビス本人への伝達はマサキが行うこととなった。

 

「俺から伝えようか」

 

 そう言うキョウスケに、マサキは首を振った。他人には任せられないことだった。

 

 それともう一つ、マサキには仕事があった。

 

「小隊の解散手続きを頼む。また書類が必要なら、書き方を教えてくれ」

 

 キョウスケはたっぷり七秒ほど瞑目した。小隊発足当時のことが、走馬灯のように脳裏をよぎって行く。ほんの数ヶ月前のことなのに、とてもそんな気がしなかった。

 

「だれか人を付けよう」

 

「すまねえ」

 

 

   Ⅱ

 

 

 その日、結局アイビスは目を覚まさなかった。

 

 ただ、一日の終わりにパイロット達の間で臨時夕礼が開かれ、そこで一連の経緯と今後の彼女の処遇について全パイロットたちに伝えられることとなった。

 

 誰もが目を伏せた。中でもアイビスと親しかったカチーナやタスク、クスハらの翳りは深い。今朝までの勝戦気分は遠く過ぎ去って、まるで負け戦の直後であるかのような重苦しい沈鬱が皆の間に広がっていった。このままでは次の戦いにも影響しかねない。何らかの対策を講じる必要があるだろうと、キョウスケはもはや拭えぬ癖となった管理者の考え方をした。

 

 夕礼が終わり、エクセレン・ブロウニングは重たい足取りでミーティング・ルームを後にしようとしていた。他の者に比べ彼女の表情は平静に近かったが、それでも見る者が見れば、日頃の明朗さに隠しきれぬ影が落ちていることに気づいた。

 

 キョウスケとイルムに呼び止められ、マサキに編成変更手続きの仕方を教えるよう頼まれたとき、エクセレンは意外そうに首を傾げた。

 

「構わないけど、私だとマーサも嫌がるんじゃない?」

 

 そのマサキは夕礼に参加していない。塞ぎ込んでいるのではとも囁かれたが、何時もの悪癖ではないかという意見もゼロではなかった。

 

 エクセレンの問いに答えたのは、イルムの方だった。

 

「下手に気を使って恐る恐るやるより良いだろう。ほどほどに逆撫でしてやれ。却って力が出る」

 

「無責任な。嫌われるのは私なんですけど」

 

「嫌いやしないさ。俺が思うに、あいつは年上の女と相性が良い。なんのかんの言いながら、張り合いがある相手の方がいいはずだ」

 

「それってあれ? つまり口では嫌がってても体は……てやつ?」

 

「そうとも言うな」

 

「ご、ごくり……とまぁ冗談はさておき、分かったわ。私もちょっと調子がでないし、マーサと遊んで気分を変えてきます」

 

 それでか? とイルムは思ったものの口にはしなかった。

 

 話が終わってもエクセレンは立ち去ろうとせず、ゆっくりと部屋の壁に背を預けだしたので、キョウスケは返しかけた踵を止め、イルムの方はそのまま何も見えていないように場を後にした。他の者も一人また一人と部屋を去っていき、そうして二人きりになるのを待ってから、エクセレンは話を切り出した。

 

「二人の小隊、解散になるの?」

 

「ああ」

 

「その後、マーサはまた一人?」

 

「おそらくな」

 

「そう。でもきっと大丈夫なのよね」

 

「頼りになる奴だからな」

 

 エクセレンは思い出すように、天井を見上げた。パネルの素っ気ない上っ面に、次々と浮かび上がってくるものがあった。

 

「アイビスちゃんとマーサ、上手く回ってたわよね」

 

「ああ」

 

「本当に、兄妹のように仲が良かったわ。マーサがぐいぐい引っ張って、それに懸命に付いて行って」

 

「負けん気の強い女とも、相性が良かったらしい」

 

「それが機体から降りると、今度は姉と弟みたいになって」

 

「戦闘以外では、全く頼りにならん奴だからな」

 

 エクセレンは依然天井を見上げており、過去を振り返るようにも、肩にのしかかる重みに苦しんでいるようにもキョウスケには見えた。

 

「上役を差し置いて、お前がそこまで責任を感じてどうする」

 

「軍の都合で徴兵されて、それでこんなことになったのよ。私だって軍人の端くれだもの」

 

「確かに今回のことは責任重大だ。重すぎて、誰か個人の手に負えるものじゃない。アイビスには、軍そのものが償いをする。一人で抱え込むな」

 

「そう上手くいかないわよ。だって重たいんだもの。自己責任や、社会や時代のせいなんて、簡単に放り投げられないくらい重たいの」

 

 滅入るようにエクセレンは嘆息した。ここまで物憂げな彼女を、キョウスケは久方ぶりに見る。

 

「今という時代、誰もがいつどうなるかわからない。命があるだけ、アイビスにはまだツキがある。他人の人生なんだ。そう簡単に望みが絶えたように言うんじゃない」

 

 楽観的な物言いは納得させるためのものではない。アイビスが今後どうなるかなど、キョウスケにも分からないことだった。今はただ、目の前の女に少しでも解きほぐれてもらいたいと思ってキョウスケは言葉を紡いだ。

 

「だからそんな顔をするな」

 

 それはいつになく懇願するような言い方だった。

 

「確かに俺たちはアイビスを追いやった。だがその点で言えば、最も罪の意識を感じているのは誰だと思うんだ。俺か? それともお前か?」

 

「違うわ。……うん、そうよね。そうね……」

 

 力なく落とされるエクセレンの肩を一つ叩き、キョウスケは仕事に戻ろうとした。しかしエクセレンがジャンパーの裾を掴んで引き止めたので、キョウスケは少し考えてから、もう一歩彼女に歩み寄った。

 

 強く抱き寄せる。

 そうして、あらためて立ち去っていく彼を見送りながら、もう一声あってもよかったのに、とエクセレンは思った。でもありがとう、ともまた思った。

 

 

 マサキはハガネの通路の中を一人歩いていた。初めは夕礼に参加するためミーティング・ルームを目指していたが、ちっとも辿り着けないまま集合時間が過ぎてしまった。やむなく自分の部屋に引き返そうとしたが、それすらも叶わない。結局マサキは、延々とハガネの中をうろつき回る羽目になった。

 

 目的地も帰り道も、自分の位置すら見失い、彷徨うようにマサキは歩き続けた。なにもそれは地図上のことだけではなかったかもしれない。

 

 その内にマサキは、導かれるように女性乗組員用の居住区へと足を踏み入れた。無個性に立ち並ぶドアの一つに「A-11」という標識を見つけ思わず足を止めると、マサキの体はぐらりとふらついて通路の壁にぶつかった。いつのまにか足はとっくに歩き疲れていた。

 

 夕礼を終えて、ツグミはすでに部屋に戻っていた。一人だった。彼女をいつも出迎えてくれた同居人は今はいない。その替わりに珍しく来客があり、訪ねて来たその人物をツグミは無言で部屋の中に招き入れた。

 

 ツグミは自分の椅子に座り、客人にはアイビスの椅子を勧めたが、マサキは座ろうとしなかった。

 

「……」

 

「……」

 

 二人は立った状態と座った状態から、上下に見つめ合った。そのまま無言の時間が続いた。

 

 マサキが彼女らの部屋を訪ねるのは、これが初めてだった。とある時期まで二人は定期的に会っていたのだが、その際はアイビスの目を避けて別室を使っていた。むろんやましい目的のためではなく、アイビスの訓練経過について報告会を開くためである。

 

 二人の色気のない密会はそれなりに長く続いたが、フリューゲルス小隊が他小隊全撃破を達成し、高機動訓練に注力し始めた頃に幕を下ろすこととなった。密会のことをアイビスが知ったためである。訓練内容を練るにあたり、マサキはツグミからもらったプロジェクトTDの資料を参考資料に用いていた。そこから足がついたのだ。

 

 ――なんか感じ悪いよ。ずっと内緒で会ってたなんて。

 

 ――なにぶーたれてんだ。お前が上手くなるたびに、ツグミのやつ喜んでたぜ?

 

 ――そ、それでもさ!

 

 結局アイビスの主張もあって、それ以降は三人で打ち合わせをすることになったのだが、アイビスがそのことに少しの後悔も抱かなかったかどうかは定かではない。三者面談の場を居心地良く思う学生は少ないであろうから。

 

「……」

 

「……」

 

 マサキとツグミは、依然として無言のままだった。しかし動きがなかったわけではなく、時間が過ぎるごとに、徐々にマサキの首は、何かに押し負けるようにうなだれていっていた。

 

「すまねえ」

 

 やがてマサキはそう口にした。多くを考え、多くを述べようとしたが、脳からうまく降りて来たのは結局その一言だけだった。

 

「本当に、すまねえ……」

 

「……」

 

 座るツグミも、彼と同様に顔を俯かせた。なんと応じれば良いのか、聡明な彼女にも分からなかった。理屈の上では、彼をなじることはツグミにはできない。先の戦場でアイビスを孤立させたのは、他ならぬマサキの判断によってである。しかしその判断が誤っていたとは、当時の状況と流れを考慮すれば断定しかねることだった。ましてやアイビスを危機から救ったのもマサキであり、そこまで耐え凌げられるようアイビスを鍛えたのもマサキなのだから。

 

 しかし彼を気前良く許すこともまたツグミにはできはしなかった。理屈がどれほど是と訴えようと、ツグミは理屈だけの人間ではなかった。貴方が付いていながら。内心でなら、ツグミはいくらでもそう叫ぶことができた。貴方が付いていながら! 

 

 二人はまた黙り合った。空気漏れでも起こしているかのように、息の詰まる時間だった。それでも決して無意味な時間ではなく、言葉を交さずともただ共有するだけで和らぐ何かもあった。

 

 ツグミにとって、見る影なくうなだれるマサキの姿は己を映す鏡だった。今の彼をみっともないと評するのなら、それは自らを罵倒するも同じであり、また別に、彼に奮い立ってほしいと願うのなら、まず自ら立たねばならないのだとツグミは理解した。

 

 ゆえに、ツグミは奮い立った。自分も、彼も、いつまでもこうしていてはいけないのだ。

 

「私は諦めないわ」

 

 やっとの思いで、ツグミは口を開いた。

 

「私は諦めない。きっとあの子も」

 

 自分に言い聞かせるように、そう言い切った。

 

「私たちは宇宙に行くの。絶対に」

 

 一歩も退かず、何一つ諦めず、ただ決意を新たにするようなその言霊に、マサキもまた顔を上げた。瞳には未だ力なく、気を持ち直したようには到底見えない。経験豊富な戦士にして、頼もしい教官。常にそう振る舞い、事実そうであった彼が、その実、自分よりも年下の少年であったことをツグミは思い出した。

 

 ツグミはことさらに背筋を伸ばし、強く訴えかけるようにマサキを見つめた。ならばせめて、年長者として、こういうときだけでもと。

 

 

 その後いくばくもなく、マサキはツグミの部屋を去った。「すまねえ」と、最後にまたそう繰り返して。

 

 彼の心情如何ばかりか。自分の姿をどのように見て、何を思ってくれたのか、全容を察することはツグミには到底できない。彼女の知性にも限界があり、理性もまた同じだった。

 

 ゆえにマサキが出て行ったあと、ツグミは一人、声を殺してすすり泣いた。今だけだ。誰にも見せまい。そう誓いながら。

 

 

   Ⅲ

 

 

 再びマサキは彷徨を始めた。頭を占めるものは一つだった。否、一つではなかったかもしれない。アイビス・ダグラスという宇宙にただ一人の人間が、これまでに見せてきた多くの顔、多くの表情をマサキは思い返していた。

 

 笑顔があった。消沈の顔もあった。次々と浮かぶ過去の情景は尽きる事のないフィルムのようで、マサキの脳裏を絶え間なく通り抜けていった。思えば、ずっと一緒だったのだ。わずか数ヶ月感ではあったが、その間、彼らはずっと共にいたのだった。

 

 やがてマサキは彼女が眠る医務室に辿り着いた。意図してのことではない。むしろ探していたのは自分の部屋である。いい加減疲れていたので眠ってしまいたかったのに、それでも彼はここに行き着いた。

 

 ときおりマサキは己の悪癖について、ふと考えることがある。自分の方向音痴とはただの方向音痴ではなく、仕事や、義務や、役割といった瑣末なことを押しやって、本当に必要な場所へと自分を導くものなのではないかと。

 

 無論、稚拙な自己正当化としか言いようがないが、それでも、さきほどはたまたまツグミの部屋に行き当たり、そして今こうしてアイビスの居場所の前に立っていることに、マサキは何か大きな意味があるような気がしてならなかった。

 

 医師に声をかけ、患者部屋に足を踏み入れた。アイビスはまだ目が覚めず、ベッドの上でこんこんと眠り続けていた。静かな寝息だったが、寝汗で髪が肌に張り付いており、頬にはくっきりと涙の痕があった。今の今まで悪夢に苦しんでいたのかもしれない。

 

 ベッドサイドの椅子に腰掛け、マサキは何とはなしにアイビスの寝顔を眺めた。汗と涙の痕を除けば、その寝顔はいたって穏やかで、子供のように安らかだ。ただし寝相はあまり良くないらしく、枕を両腕に抱きしめるように眠っている。お前も大変だな、とマサキはなんとなくその枕に親近感を抱いた。

 

「う……ぐっ……」

 

 するとふいに、うめき声が聞こえた。いやま耳慣れたアイビスの苦悶の声だった。穏やかな寝顔は一瞬にして消し飛んで、見る見るうちに険しく歪んでいった。枕をきつく抱きしめながら、身に巣食う何かに苦しむように、アイビスは体中を強張らせた。目尻からこぼれた一粒の雫が、それが定めであるかのように、頬を走る赤い痕跡をゆっくりとなぞりゆく。

 

(ずっと、こうだったのか)

 

 あまりに突然な、何の前触れもなく起こった異変、その全てをマサキは目の当たりににした。

 

(あれからずっと、お前はこうしていたのか)

 

 繰り返される苦痛。終わらない悪夢。どこかの三文小説のような陳腐な文言が、いま目の前で人の形となって現れていた。それは想像以上に耐え難い不条理そのものだった。

 

 思うよりも早く、マサキは行動した。弾かれたような動きだった。

 

「落ちる……落ちる……」

 

「落ちねえ」

 

 マサキはアイビスの手を取った。枕に食い込む指を引きはがし、強く握った。自分の存在を伝えるように。

 

「どこにも落ちねえ」

 

「あ……うぅ……」

 

 アイビスがサイバスターの中で口走っていたことを、マサキは思い出した。穴、と彼女は言っていた。穴が空いていると。

 

 当時も今もそんなものはありはしない。しかしアイビスだけには見えていて、それが彼女の心を脅かしている。目に見え、手に触れられるものが相手なら、それがなんであろうとマサキは代わりに打ち倒してみせる。それこそ魔装機神の全能を尽くしてでも。

 

 しかし如何に精霊と通じ合う身とはいえ、人の心に巣食う病魔を取り除く術をマサキは持たない。苦しみにあえぐアイビスに、マサキはなす術を持たなかった。

 

「だって穴なんかねえんだ」

 

 だからマサキは手を握った。何の力も持たない凡百の人間がそうするように、苦しむアイビスの手を握った。せめてほんの少しでも、痛みが和らぐようにと。

 

「分かれよ。穴なんかねえんだよ。なぁ……」

 

 その言葉が届いたのか、あるいはもとより一過性のものなのか、アイビスはゆっくりと落ち着きを取り戻し、また静かな寝息を立て始めた。それを目にしてからも、マサキはしばらくの間、彼女の手を握り続けた。

 

 悪夢に苦しむくらいなら、いっそ叩き起こしてやれれば。そうして、夜が明けるまで今朝の馬鹿話の続きを聞かせてやれたら。

 

 それでも人はいつかは眠らねばならず、夢を見なくてはならない。夢を見るな。アイビスにそう命じる自分を想像して、マサキは自嘲するように笑った。アイビスに夢を見るななどと、誰が言えるだろう。夢のために生きて来たような女であるのに。

 

 それでもマサキは、明日アイビスに伝えなくてはならなかった。お前はもう飛べないのだと。飛べない体になってしまったのだと。それを癒すためにハガネ隊から外され、テスラ研にも戻れず、どこか別の病院に行くのだと。

 

 そうマサキは伝えなくてはならなかった。

  

 

   Ⅲ

 

 

 目が覚めたように世界が切り替わり、アイビスはいつの間にか柔らかい布の上に横たわっている自分に気づいた。最初夢を見ているのかと思った。突然異次元に投げ出されたかのような唐突感と、妙に現実感に欠ける肌に合わない空気がそのように思わせた。しかし怖々と辺りを見回すうちに考えが変わり、夢を見ているのではなく、むしろいま夢から覚めたのだと、三分ほどかけてアイビスはそう理解した。

 

 下腹部を圧迫する存在も、切っ掛けとしては大きかった。仰向けに寝そべるアイビスの横合いから、何者かの足が無神経に伸びていて、毛布越しではあるがちょうどアイビスのへそ下あたりに乗せられていた。足を伝って視線を動かすと、ベッドサイドのパイプ椅子に腰掛けて、こくりこくりと居眠りをする見慣れた少年の姿が見つかった。

 

 かろうじて椅子に座ってはいるが、腰の位置は危ういほど浅く、腕を組み、肩をすくめ、狭苦しいなかに器用に体を収めて熟睡している。しかしさすがに足だけはどうにもならなかったらしい。

 

 片足だけではあったものの体のいい足枕にされていたアイビスは、思うところありながらもひとまず起き上がることにした。マサキが転ばないよう慎重に彼の足を下腹部から腿の上に移しつつ、ゆっくりを上半身を起こす。

 

 改めて、眠り続けるマサキを眺めた。あまり怒る気にはなれなかった。ずっと看病していてくれたのだと分かっていた。不躾な真似をしたのは寝ぼけていたためで、組んでいた足を戻そうとする際にでもこうなったのだろうと、誰からも説明を受けないうちにアイビスは独り合点した。どうせならずっと手を握っていてくれれば、それは映画のワンシーンにも採用されるくらいの出来すぎた光景だったろうに、その替わりに足というのが、何とも彼らしい素っ気ない触れ合い方だとアイビスには思えた。

 

 部屋の明かりは落とされていたが、窓から漏れる光のため視界にさほど不自由はなく、ここがハガネの医務室であることにもアイビスは気付いていた。鳥の歌声が微かに聞こえる。朝であるらしい。カーテンから漏れる光の具合を見るに、あまり良い天気ではないようだ。

 

 またアイビスはマサキに視線を戻した。他に見るものもないので仕方が無かった。しいていうならば手鏡が欲しかったが、あいにく近くにはない。そういえば寝起きのままだと、アイビスは申し訳程度に髪を整え、目をこすり、口を拭った。顔を洗う前にマサキと顔を合わせたくはなかったが、涎を垂らしながら平気で眠りこけるマサキを見ていると、どうでもいいような気もしてきた。

 

 マサキを起こす気にはなれなかった。ベッドを譲っても良かったが、それよりも今の眠りを守ってやりたいと思った。

 

 手持ち無沙汰でいるうちに、なんとはなしに、アイビスは腿の上にあるマサキの足を弄くり始めた。足裏を触るとそのたびにマサキは小さく体をびくつかせた。面白くはあったが椅子から落ちてはまずいので、アイビスは三回のみに留めることにした。

 

 靴下ごしに親指と小指をつまんで、横に開いた。アイビスがイメージトレーニングの時に行うのと同じ形である。なんとも平べったい飛行機になった。つぎに交互に前後に倒してみる。1、2、1、2と繰り返す。触る感触から足の爪が伸びていることに気づき、だらしないことと思いつつアイビスはふと爪切りを探した。あいにく、それもなかった。

 

 

 マサキの足をもてあそぶ。それに耽るばかりの自分。これが極めて象徴的な情景であることにアイビスは気づいた。いま彼の足は自分の手のうちにあり、引っ張れば彼は椅子からいとも簡単に転げ落ちるだろう。だから引っ張りはしないように、だけども離しもせず、こうして弄くりまわす。あるいはずっと自分はこうしてきたのではないかという気さえアイビスにはした。

 

「人の足を見ながら、なに考えてんだ?」

 

 いつの間にか、マサキは起きていた。半開きの目は眠そうでも、胡散臭げにアイビスを見るようでもあった。

 

「ちょっと自分が嫌になったの」

 

「おかしな趣味でも発見したか?」

 

「ちがうよ。ずっとこうしてマサキの邪魔をしてたのかなって思ったんだ」

 

 言うも愚かなら返事をするのも愚か、とマサキは足を引っ込め大きく伸びをする。体中の骨がバキバキと鳴った。このような目覚めは久しぶりだった。ハガネと出会う以前、サイバスター単機で世界を放浪していた頃は、毎日がこうだった。

 

「悪かったな。水虫はねえから安心してくれ」

 

「でもマサキ、お風呂入ってないんじゃない? 昨日のままだもん」

 

「てめえも一緒だろ」

 

「仕方ないじゃないか。ずっと寝てたんだから」

 

 袖で口元を拭いながら、マサキは横目でアイビスを見た。その目が、淡く探るような色をたたえているので、アイビスは先に答えを言った。

 

「何も覚えてないよ」

 

 何かの替わりに、アイビスは軽く己の手を包み、親指の爪を撫でた。パイロットという荒事をしているわりに、その爪は整い透き通っているようにマサキには見えた。

 

「サイバスターに二人で乗ったことは覚えてる。そこでたくさんおしゃべりしたことも。でも、その辺りから曖昧になって、それからのことは何も。ただ、ずっと夢を見てた気がする」

 

「どんな夢だったんだ」

 

「……それも覚えてない。でも深い夢だった。ベッドの上で目が覚めて、逆に夢かと思ったくらい」

 

「悪い夢だったか」

 

「多分」

 

 暗がりの中、アイビスの横顔はヴェールを垂らしたように曖昧模糊としていた。思い詰めているようにも、そうでないようにも見えた。平静とはまたちがう。言うならむしろ空白だった。ただ爪を撫で続ける仕草だけが機械のように駆動していて、マサキに朽ちかけた歯車を連想させた。

 

「ねぇ、あたしどうしちゃったの?」

 

 とん、と辺りに木霊した。何かの訪れを想起させた。

 

 それを呼び水に、マサキは覚悟を決めるようにゆっくりと姿勢を正した。来る時が来たのだ。当初はツグミたちも呼んで話をするつもりだったが、あるいはこれも巡り合わせなのだろう。

 

 終焉の宣告はそのようにして始まった。

 

 

 昨日サイバスターの中で見せたアイビスの異常行動。それに対する医師の所見。アルファベット四文字からなる不吉な病名。アイビスにとっては、無実の罪を読み上げられるに等しく、自分の話をされている気すらしないことだった。

 

 それでもアイビスは聞き続け、マサキは話し続けた。

 

 アイビスとツグミの、ハガネ隊からの除隊が決定されたこと。アステリオンの修理は本日中に完了する予定であり、それを確認した上で、アイビスとツグミの両名に正式な辞令が数日中に下りること。

 

 ツグミはそのままコロラドのテスラ研究所に戻るということ。しかしアイビスはそうならず、軍病院の近辺か軍病院そのものに移され、そこで専門的な診断・治療を受けることになるということ。

 

 話の間、アイビスの表情に大きな変化はなかった。話をする前から、とうに失われていたためだ。それでもマサキが事実を一つ突きつけるたびに、それが目に見えぬ鎚となって、アイビスの内なる何かを破壊していき、その余波は彼女の目や指の動きに微かに現れていた。

 

「小隊は解散する。手続きも、こっちでやっとく」

 

 最後にマサキがそう告げたとき、ひたすらに星を追う一途でひたむきな少女はもはや何処にもなく、もの言わぬ横顔にマサキは、遠き日に学び舎で見た血の通わぬ石膏像を思い出した。

 

 自らが生物であることを思い出すように、アイビスは身じろぎした。ベッドの上で膝を立て、顔を埋める。少し汗の匂いがした。マサキが口を閉ざすと耳鳴りが聞こえるほど静けさがのしかかり、それから逃れようとアイビスは数度体を揺すった。

 

「嘘だよ、そんなの」

 

 顔を埋めたまま、アイビスは言った。

 

「信じないよ」

 

「……」

 

「酷いよ、起き抜けにさ。顔も洗ってないのに、汗も酷いし、見られたく無いのに、ずっとそばにいてくれて、足なんか乗せて、あっためてきてさ」

 

 整理がつかぬままアイビスはまくしたてた。言うべき言葉を掴みとれず、心だけがあちこちを錯綜し、そのうちに夜空を見上げ始めた幼き頃の情景を行き来し始めた。

 

 あの向こうに行きたいと、そう思い始めた切っ掛けは何だったか。父親に暴力を振るわれたときかもしれないし、母がむせび泣いているのを夜中に目撃したときかもしれないし、貧しさに負けて初めて盗みを犯したときかもしれない。気がつけばアイビスの精神の頭上には常に星空が広がるようになり、時間が許せば目を閉じて内なるそれを見上げ続ける日々が始まっていた。あれから月日が経ち、父母の顔も、恵まれない生活も遠くに霞み行き、アイビスは多くのものを忘れ、同じくらい多くのものを得て来た。それでも、ただ一文だけは変わらず残った。

 

 星の海を往く。

 

 右往左往して散らかるばかりだったアイビスの感情が、ようやく形を得始めた。どれほどさ迷い、どれほど混乱しても、深くかき分けていけば最後には必ず行き着く場所があった。

 

「アステリオンに乗せて」

 

 青ざめた唇を微かに震わせてそう請われ、マサキは返答に困った。

 

「正式な辞令を出す前に、一度だけアステリオンに乗せて。あたしが飛べないなんて、そんなのありえない」

 

「馬鹿言え、危険だ」

 

「乗せて。お願い。このまま何もしないで除隊だなんて、ましてやプロジェクトにも戻れないなんて、そんなの……」

 

 アイビスは俯き、体を震わせ始めた。それまでの能面のような顔がどうしたことか、明らかな感情を表し始めていた。震えるアイビスは絶望しているように見えた。悲しみに浸るようにもまた見えた。しかし実際は、そのどちらでもなかった。

 

「納得できない。できるわけがない!」

 

 髪を振り乱し、アイビスは叫んだ。張り裂けるような声だった。溢れ出すような怒声だった。

 

 アイビスはただ怒っていた。抜き身のナイフのように剣呑な雰囲気を発し、ひたすら屈辱に刃を白熱させていた。

 

「よくも言ったな……よりにもよってあんたが、他でもないあんたが……一番言ってほしくないことを、よくも言ったな……よくもよくも、よくも言ったな!」

 

 ベッドから身を乗り出し、アイビスはマサキの胸ぐらを掴んだ。突き刺すような睨みに、マサキはアイビスの心底の怒りを察した。マサキは思ってもみなかったように唖然とするばかりだった。しかし別のところで、爛々と赤く輝く瞳に目を奪われもした。親の仇とのように浴びせられる怨嗟の声、射抜くように真っ直ぐな瞳、一心に注がれる怒りという怒り。その全てに目を奪われた。

 

 心の琴線に触れるものがあった。そんな女を他に知っている気がする。出会うはずだったのに、どういうわけか出会わなかった、そんな女がいたような気がする。

 

 訪れなかった出会いが少年の運命をどう変えるのか、それは誰にもわからないことだ。逃したものは果てしなく大きいものだったかもしれない。しかし、どれだけちっぽけでも、そのために得たものも確かにあった。

 

「……分かった」

 

 胸ぐらを掴むアイビスの手を、マサキは掴み返した。乱暴ではあったが、どこか包むようでもあった。

 

「ただし一人じゃ行かせねえ。俺も一緒に飛ぶ。上役どもが五月蝿く言うなら、他の奴らにも頼む。修理具合の確認も兼ねて、一度だけ乗せてやる。これだけは絶対に、誰が何と言おうと、必ずだ」

 

「……本当?」

 

「男に二言はねえ。ただ仮にお前が上手い事やったとして、艦長らがなんて言うかまでは知らねえ。それでも信用ならねえってんなら、悪いが除隊はそのままだ」

 

 アイビスが噛み付こうとしたところを、マサキは負けず劣らずの目つきで迎え撃った。ここだけは退けないと、猛禽と猛禽が睨み合う。

 

「どのみちてめえは軍人じゃねえんだ。奴らが降ろしたいっつーなら大人しく降りてろ。だが艦から降りたあとのことは別だ。一切口は出させねえ」

 

「あたしは降りない」

 

「うっせえ、降りろ」

 

「降りない!」

 

「だったらてめえで納得させろ。俺は知らねえ!」

 

「言われなくたってそうするさ。あんたなんか……!」

 

 感極まったように、アイビスは二の句を飲み込んだ。忙しい奴だな、とマサキが思ってしまうくらい表情を情けなく一変させ、空気が抜けたように萎みきった。そのまま目を伏せ、マサキの胸元に額を落とす。温いなにかが、マサキの服に落ちて来た。

 

「おい、汗臭えぞ」

 

「お互い様だよ」

 

「なんなんだよ。怒ったりへこんだり」

 

「知らないよ、馬鹿……」

 

 言われてマサキは憮然とし、アイビスは何かを押し殺すように言葉を続けた。

 

「……ありがとう」

 

 

   Ⅳ

 

 

 試験日は翌朝と決まった。

 

 無論そこに至るまでは様々な紆余曲折と、喧々諤々の議論があったが、結論はそのようになった。強攻極まりないマサキの姿勢に、いっそ管理下でやってもらったほうがマシかと皆がさじを投げたがゆえのことだった。どう止めようと、結局は小隊長の立場などかなぐり捨てて飛び出されるのが目に見えていた。

 

 医療班の方は、意外にもすんなりと承認の意を出した。無論入念な安全対策を施す事を条件としてではあったが、キョウスケが思うところを尋ねたところ、患者本人の強い自覚と克己心がPTSDの症状を緩和する事例もあるとの答えだった。またもし症状が出た場合は、アイビスも大人しく事態を受け止める気にもなり、どのような結果にしろ彼女のためになるというのが医療班チーフの意見だった。

 

 かくしてダイテツとレフィーナ両艦長、そして全パイロットが見守る中、アイビスは入隊当初と同じく再び己を試されることとなる。

 

 試験飛行の編成は以下の通りとなった。

 

 グルンガスト、イルムガルト・カザハラ中尉。

 

 R―1、リュウセイ・ダテ少尉。

 

 サイバスター、マサキ・アンドー。

 

 アステリオン、アイビス・ダグラス臨時曹長。

 

 懐かしい編成だった。

 

 アイビスとマサキ、そしてフリューゲルス小隊。その全てが、この四機編隊から始まったのだ。

 

 

 夕方にアイビスは先んじてシミュレーターによる試験飛行を課せられることとなった。結果は問題無し。アイビスは平時と全く変わる事なく、鮮やかに仮想空間上のアステリオンを操ってみせた。

 

 アイビスは無論の事、他の者らにとってもさほど意外なことではなかった。シミュレーターはあくまでシミュレーター。技術の限りを尽くして真に迫ってはいても、やはり視覚的にも皮膚感覚的にもまだまだ現実とは隔たりがある。明日こそ峠であることには変わりなかった。

 

 その晩、夕食も早めにこなしてアイビスは深く眠りについた。自らに埋没するように。マサキの言う自分に巣食う何かを、この目で確かめんとするように。

 

 そして眠りから目が覚めた時、やはり彼女の体は寝汗でぐっしょりと濡れ、頬には涙の痕があった。夢も見たような気がするが、内容は思い出せない。

 

 構うものか。所詮は夢なのだから。

 

 そう自分に言い聞かせ、アイビスは窓の外を見た。昨日と同じく、空は厚い雲に低く閉ざされていた。重苦しい曇天を、まるで何かの象徴のようだとアイビスは思った。

 

 身支度を整え格納庫に向かうと、すでに関係者が勢揃いしていた。

 

「この四人で飛ぶのも久しぶりだな」

 

 とイルム。

 

「気楽に行こうぜ」

 

 とリュウセイ。

 

「……やるぞ」

 

 そしてマサキ。

 

 ツグミとキョウスケは艦長らと共にブリッジに詰めていた。そして他のパイロットたちも、ラウンジや食堂の窓際、外の滑走路など思い思いの場所に待機し、そして一様に空を見ていた。

 

 機体に乗り込む前に、イルムから今回の試験飛行にあたって講じられた各種工夫についての説明があった。

 

 一つ目。万が一操縦不能な事態に陥ったときのため、アステリオンには機動兵器サイズのパラシュートが装備されている。本来は輸送コンテナ等に使用される規格外品で、突貫工事で外付けされたものだ。

 

 さすがに自動展開システムまでは組み込めなかったので、パラシュートを開くためのスイッチがマサキの手に渡されることとなる。なおアステリオンの機関部にも手が加えられており、先のスイッチと連動してアステリオンの全推力が停止する仕組みになっている。

 

 スイッチは簡素なスティック状のものだった。奪い取り、床に叩き付けてしまいたい衝動に駆られながらも、アイビスはマサキがそれを受け取るところを黙って見ていた。

 

 二つ目。アステリオンの脱出装置についても改造が加えられており、コクピット内にある手動スイッチが封印されている。危険な措置だが、もし錯乱したアイビスが無理な体勢でそれを使ってしまえば、それこそ命に関わってしまうためである。なお機械が判断する自動脱出装置については平時と変わらず作動することになっている。努めて冷静に、アイビスはそれも承諾した。

 

 三つ目。編隊構築完了後、アステリオンのコクピット内のモニタリングが開始され、リアルタイムで内部の様子がイルムたちとブリッジに届けられる手はずになっている。

 

 四つ目。全武装の弾薬・弾頭は事前に抜かれている。

 

 五つ目。イルムを始めとする三機は、アイビスの安全を最優先して行動する。そのためにもアイビスは、指定された航路を決して逸脱してはならない。

 

 以上の五つ。パイロットとして小指の先ほども信用されていないことが如実に感じられる措置に、総じてアイビスは打ちのめされた。めった打ちとしか言いようがなかった。屈辱と悲しみのあまり身が焼き殺されそうになり、涙すらこみ上げてきた。

 

 今だけだ。アイビスはそう念じて、すべてをこらえた。

 

 今だけなんだ。これさえ乗り越えれば、きっとまた一昨日までの日々が戻ってくる。結果さえだせば、診断結果も除隊通告も覆せるに違いない。難しいことはない。出来ないはずもない。ただ飛ぶだけなのだから。

 

「よし、行くぞ!」

 

 イルムのかけ声と共に、四人のパイロットたちは己の愛機に乗り込んだ。機体各所に異物を取り付けられた、不格好なアステリオンの姿をアイビスは見上げた。すぐに外してあげる。そう誓った。

 

 出撃前の全工程は万事滞りなく、イルムとリュウセイの機体がカタパルトに乗って、矢継ぎ早に曇天の空に射出されていった。フォーメーションはアイビスを最前に置いた菱形陣形と取り決められていた。右翼にウィングガスト、左翼にR-ウィングがそれぞれ陣取り、次に来るサイバスターが後方を担当することとなる。

 

 アイビスはグローブの指と指の間を交互に押し込んで、操縦桿とスロットル・レバーを握り込んだ。図らず呼吸が荒くなり、脈拍数も多少増し始めたが、決して異常値ではない。コンディションは全く問題ない。

 

「……っ」

 

 躊躇したものの、やはり堪えきれず、アイビスはクローズト通信の回線を開いた。彼女の一番機はすぐさま応えてきた。

 

「マサキ……」

 

「おう」

 

 アイビスとマサキ……フリューゲルス小隊の二番機と一番機は、これまで幾度となくそうしてきたように顔を合わせた。しかし、誰よりも頼りとしてきた小隊長の顔を、アイビスはこのとき直視することができなかった。そうするにはあまりにも後ろめたく、情けなかった。

 

「お願い。あたしを信じて」

 

 せめて貴方だけでも、と、アイビスは内心で続けた。

 

「……それだけ。ごめん」

 

 返答を聞くのが恐ろしく、アイビスは自分から回線を切ろうとした。その矢先のことだ。

 

「いいか、俺を呼べ」

 

 唐突に言われ、アイビスは一瞬、惚けてしまった。

 

「危ないと思ったら俺を呼べ。それが合図だ。それが聞こえるまで、俺はこんなもん絶対に押さねえ。 イルムが何をほざこうと死んでも押さねえ。なんなら今すぐ踏みつぶしてやりてえくらいだ。んでもってお前は何が何でも成功しろ。あの糞みたいな小細工を考えた奴ら全員、一人残らず見返して、堂々と大手を振って出て行け。いいな」

 

「……」

 

「昨日の威勢はどこいきやがった。いいな!」

 

「……怒鳴らないでよ。うるさいなぁ」

 

「んだと!」

 

 何かを懸命にこらえ、一つ一つ絞り出すように、アイビスは慎重に唇を動かした。たとえハリボテに過ぎずとも、今は死にものぐるいで見栄を張らねばならないという想いがあった。

 

「なんだその口の利き方は!」

 

「なにさ。そっちこそ何度言わせるの。あたしは……絶対降りない……」

 

「そうかよ、好きにしやがれ。んじゃ、またな」

 

 ぼろを出す前に、いつものように素っ気なく通信は切られた。そう、いつものように。まるっきり一昨日までの日々と同じように。

 

 アイビスは耐えかねたように息を大きく吐き、そして吸い、また唇を引き締めた。思い切り息を止めた。それでも嗚咽のようなものがもれた。

 

 悪夢に犯されたのではない。もっと暖かな、熱いとすら言える熱源が体中に発生していて、それに今のアイビスは悶え苦しんでいた。

 

 信じてくれている。誰が何と言おうと、彼は信じてくれている。

 

 無論、完全にではない。万が一の事態を恐れる心は彼にもあって、でもそれでも彼は信じてくれている。

 

 胸が震え、手足がしびれる。瞳の奥が、こんなにも熱い。

 

 この気持ち。心の奥底から無尽蔵にこみ上げて、口々に何かを訴えかけてくるようなこの想いはなんなのか、アイビスには分からなかった。想いには元来、名前など無いのだから。だからアイビスは、ただそれを噛み締めた。

 

 視線を前方に戻すと、見慣れた銀の騎士の後ろ姿がカタパルトに飲み込まれていき、そして空へと飛び出して行くところだった。

 

「こちらブリッジ。アステリオン、カタパルト接続を開始します」

 

 改めて、アイビスは操縦桿を握りしめた。発作のような衝動はひとまず収まった。何一つ迷いは無く、あとは飛ぶだけだった。

 

「アステリオン、アイビス・ダグラス、発進よし」

 

「了解。アステリオン、発進どうぞ」

 

「行きます!」

 

 カタパルト・ランチャーに光が走る。アイビスは下腹にりきを入れ、スロットル・レバーをわずかに押し込んだ。数秒後に、猛烈な電磁加速がアイビスの体に襲いかかる。

 

 瞬く間に外界に投げ出されたのち、アイビスはスロットルを全開に入れた。エンジンが嘶く。スラスターが咆哮する。風を切り裂いて、アステリオンが速度に乗った。

 

 その流星のように揺るぎない軌跡を、地上から多くの者が見上げていた。

 

 がんばって、アイビス。リオは瞑目した。

 

 へますんなよ。祈るように呟いたのはカチーナだ。

 

 帰って来たら、ありったけの甘味をプレゼントしよう。そうタスクは心に決めた。

 

 大丈夫だ。大丈夫に決まってる。アラドは以前の模擬戦のことを思い返していた。

 

 多くの者が空を見上げ、流星を見つめた。そしてそれぞれに、思い思いの言葉をかけた。

 

 ブリッジでは、手を組みひたすら祈りを捧げるツグミの姿があった。

 

(お願い。どうか、どうか……)

 

 組んだ手は、微かに震えていた。神と、仏と、フィリオと、あの少年と、そしてアイビス自身。祈る対象はのべつまくなしに切り替わり、節操がなかった。ひたすら我武者らにツグミは祈った。

 

(アイビス、あなたは宇宙へ行くのよ。お願いアイビス。どうか……)

 

 

 多くの祈りと多くの願いを翼に受けて、アステリオンが行く。イルムに右翼を、リュウセイを左翼を守られ、そして風の少年に背を支えられながら、暗雲の空を飛んで行く。

 

 ひたすら希望だけを胸に、絶望の空へと飛んで行くく……。

 

 

   Ⅴ

 

 

 およそ十三分と二十秒のことだった。

 

 アイビスの試験飛行にかかった時間のことである。

 

 カウントの始めは、四機が編隊構築を完了してからだ。四機が前後左右の配置につき、イルムが試験スタートを宣告した時刻をゼロとして、そして全てが終わるまで。

 

 およそ十三分と二十秒のことだった。

 

 

 いつの間にか雨が降っていた。雲の上では天気など関係ない。いかなる悪天候でも、それよりもさらに高空へ出てしまえば、澄み切った空と太陽しかそこにはない。ほんの少し前まで、今日が曇りであったことすらマサキは忘れていた。

 

 傘すら差さずに立ち尽くす彼は、頭から爪先まで無惨な濡れネズミとなっていた。みすぼらしく、哀れですらあった。それでも彼の目の前でしゃがみ込む少女に比べれば、まだましであったかもしれない。

 

 そうか、終わっちまったか。

 

 マサキはとうとう、そう受け入れた。

 

 

 事態は、ある意味で予定調和に最悪な方向へと流れて行った。

 

 試験が始まってから四機編隊は徐々に、まるでアイビスの限界を見定めるかのようにゆっくりと高度を上げていいった。そして高度およそ一万メートルまで到達する。雲海の遥か上空、対流圏と成層圏のちょうど境目あたり。地平線に沿って弧を描く青空と陽光、そして頭上には深遠な宇宙の色が広がる世界。ここまでで、飛行開始からおよそ五分ほどが経過していた。

 

 この時点で、マサキはモニターに映るアイビスに異変が起きていることを察知した。スーツの上からでも明らかなほど、アイビスの全身が震え出している。マサキは即座に二人にも伝え、機体を寄せてアイビスに呼びかけを始めた。二人も代わる代わるにアイビスの名を呼ぶが、アイビスからの応答は無し。うめき声のようなものが返ってくるばかりだった。

 

 約七分目。アステリオンの挙動が見るからにおかしくなった。無闇な旋回と加減速を繰り返し、ついには地上目掛けて突進を始めた。かろうじて垂直ではないが、明らかに常軌を逸した機動である。まともな操縦とは到底考えられなかった。

 

 この時点でイルムからスイッチを作動させるようマサキに指示が下ったが、マサキは無視した。吠え立てるイルムを余所に、全速力でアステリオンの後を追った。

 

 約九分目。高度は六千メートルまで落ちていた。マサキはアイビスを呼びかけ続けた。

 

 このとき、アイビスも押し寄せる幻影の波と懸命に戦っていた。強い自覚が病状の改善に繋がるかもしれないという医師の見解は、ある意味でその通りとなっていた。

 

 異変が起こるより前、果てない空を映すモニターと計器の値を眺めていたアイビスの視界に、まるで覆いかぶさるように暗黒が現れ始め、アイビスは愕然としつつも状況を理解した。サイバスター内部での出来事が、堰を切ったように思い出された。こいつだ。こいつがあたしを陥れようとしている。

 

 ついで背後に、彼女の体を支えるシートの遥か後方に底知れぬ圧倒的な存在が現れ始めた。振り向きもしていないのに、どうしてそんなものが感じられるのか、アイビスにも分からない。ただ、分かるのだ。

 

 ――穴が空いている。

 

 負けるものか。アイビスは歯を食いしばった。モニターも計器も闇夜の中に薄らいで来て、前には銀の凶相が形を為す。果てしない落下の感覚がアイビスの肌に押し寄せる。その全てにアイビスは抗った。

 

(幻だ。こんなもの嘘っぱちだ。あたしは落ちていない。落ちていないんだ……!)

 

 それでも、いくら懸命に四肢を動かそうとしても、アイビスの肉体はまるで答えてくれなかった。いいや、答えてくれているのかもしれない。しかしそれをアイビスは認識できなかった。

 

(嘘だ……!)

 

 夜の帳はますます圧倒的になり、微かに、それこそ幻のように垣間見えていたコクピットの風景が完全に掻き消える。身を支えるシートすら消え失せ、アイビスは闇夜の中に一人放り落とされた。

 

(こんなの嘘だ……!)

 

 体が凍え始めた。歯の根が合わない。アイビスは恐怖せずにはいられなかった。あまりの光景に、自分がいまアステリオンに乗っていることこそが、信じがたくなった。強い・弱い、勝つ・負けるの問題ではもとよりなかった。目が、耳が、皮膚が、脳が、すべての感覚器が今ある光景を肯定する以上、彼女という肉体にとってはこれこそが現実であり、それを否定することこそ現実逃避に他ならなかった。

 

 そうしてアイビスは、「現実」を受け入れ始めた。

 

 約十分目。高度は三千メートルまで落ちていた。マサキの感覚ではちょうど富士山の高さに近い。大地は間近だった。

 

 イルムとリュウセイから、繰り返しスイッチを押すよう指示が下っていた。もはや怒声であった。ブリッジからは艦長やキョウスケらまでもが声を荒げていた。

 

 もう諦めろと彼らは言う。

 

 もう無理だと言う。

 

 そんなことがあるものか。マサキは全てをはねのけた。

 

 使い魔に命じラプラス・コンピュータで算出させた最後のデッドラインまで、まだ猶予がある。すでにアステリオンは手が届く範囲に補足しており、その気になればいつでも助けることができる。

 

 なによりアイビスはまだ戦っている。万が一の場合は言えといった言葉を聞いていない。自分の名を呼んでいない。約束したのだ。なら押さない。絶対押さない。

 

 マサキは呼びかけを続けた。

 

 そしてアイビスは依然として幻影に脅かされ続けていた。幼い頃から見上げ続けた闇夜は、もはや見上げるものではなく彼女を永劫に陥れ続けるものとなった。自分は、こんなものに憧れていたのか。そのときアイビスの中で何かが一つ砕けた。

 

 押し寄せる風圧に到底目を開けていられない。何も見えず何も聞こえず、音をも越えて落下し続けるような皮膚感覚と三半規管の悲鳴だけがある。助けを求めようとアイビスは口を開きかけ、それをかみ殺した。現実の全てが幻と消えた今でも、かろうじて残るものがあった。しかしそれも欠片のみで、なぜいま自分が口を閉ざしたのかアイビスは理由を思い出せなかった。ただ、また一つ何かが砕けたような感触だけがある。

 

 約十分と十五秒目。高度約千メートル。マサキは声を枯らして呼びかけ続けた。それは悲鳴にも似ていた。

 

 アイビスもまた悲鳴を挙げようとしていた。限界まで彼女を踏み留めていたもの、その全てが逆風に吹き飛ばされた。身を縛ってたものを失い、アイビスは大きく息を吸った。

 

 約十分と三十秒目。高度約七百メートル。依然、マサキは呼びかけ続けた。「目を覚ませ」とも「高度を上げろ」とももはや言わなかった。ただ彼女の名だけを呼び続けた。

 

 アイビスもまた叫んだ。わけもわからず、理性の全てを放棄して、胸の奥で何もかもが砕けていくのをどこかで感じながら一心に叫んだ。だというのに、放たれた言葉には失われたはずの、ある一つの意味があった。

 

 名前であった。誰のかは知らない。顔も声も存在すらも風圧で吹き飛んでいた。しかしその名を呼んだ。

 

 そして約十一分目。そのときマサキは、通信機の向こうからアイビスの微かな声を聞いたような気がした。

 

 ――マサキ……。

 

 そう呼ばれた気がした。

 

 同時にデッドラインを迎え、マサキは、それまでの頑なさが嘘のように、いやに平坦な気持ちでスイッチを押した。アステリオンは即座に機関停止、テスラ・ドライブも呼吸を止める。

 

 高度・速度ともに既にパラシュートだけで凌げる値を逸している。マサキはサイバスターをアステリオンの直下に回り込ませ、下からアステリオンを抱きとめた。鮮やかな動きだった。

 

 直後にエーテル・スラスターを噴射させる。上からはパラシュートに引き上げられ、下からはサイバスターに支えられ、アステリオンはゆっくりと、舞い落ちる木の葉のように地上へと降下していった。

 

 

 マサキがコクピットに乗り込んだ際、さんざん身をよじって暴れ回ったアイビスだったが、外に担ぎ出され降り出した雨に身を打たれたとき、時を止められたように動きを静止させた。

 

 呆然と、心底信じられぬように、それこそ夢でも見ていたとしか思えぬような面持ちで、アイビスは自分を抱きとめるマサキの顔を窺った。

 

 見上げてくる彼女の目に、マサキは何も言ってやることができなかった。何かを言うには、もう彼の喉は枯れきっていた。

 

 彼の瞳の色からおおよそを理解して、アイビスはマサキから体を離し、草地にへたり込んだ。全てはとうに砕け散っていた。それをようやく自覚することができた。

 

 二人の現在地はラングレー西方の、野生動物保護区に指定されている丘陵地帯の裾野だった。およそ60キロメートルほどの距離を飛行したことになるが、欠片の自覚もアイビスにはありはしなかった。

 

 雨が勢いを増してきた。二人してずぶぬれになっていくも取り合わず、かたや立ち尽くし、かたやへたり込んだまま微動だにしなかった。やがてイルムらも追いついて来て近くに機体を着陸させたが、アイビスもマサキも、そちらを気にするどころか、気づいているかどうかすら怪しいほど見向きもしなかった。機体から降り立った二人も、そんな彼らに易々と近づくことを躊躇った。

 

 先に動いたのはマサキの方だった。うなだれるアイビスの肩に触れようとした。一昨日の夜と同じく、結局そんなことしか彼に出来ることはなかった。

 

「触らないで」

 

 一瞬躊躇いはしたものの、マサキはさらに手を伸ばした。

 

「触らないでったら!」

 

 そしてアイビスに突き飛ばされた。

 

 突き飛ばされた勢いでマサキは倒れ込み、尻餅をついた。小石の感触が肌に食い込み、針のような痛みを覚えた。

 

(そういや)

 

 ほぼ同時に、全くどうでもいいことが、二人の脳裏によぎった。

 

(ラングレーのあとから、やってなかった)

 

 マサキは胸を強く押され、軽く息を詰まらせたが、どうということはなかった。臀部の衝撃も痛みとすら言えないほど小さなものだ。しかし二人は、なぜだろう、まるで崖から突き落としてしまったかのような、突き落とされたかのような、そんな取り返しのつかない感覚をそれぞれに覚えていた。

 

 二人して、アイビスの肩から伸びるそれを呆然と眺めた。それが、たったいまマサキを突き飛ばしていた。

 

 アイビス・ダグラスの手の平が、マサキ・アンドーに害を及ぼしたのだ。

 

 あの、手の平が。

 

「ざまあないね。あたし……」

 

 アイビスはくぐもった笑い声を漏らし、マサキは未だ信じがたいように、そんな彼女を見た。ふつふつと心にわき上がってくるものがあった。

 

「失望したでしょ」

 

「……」

 

 それは悲しみであったし、同情であったし、罪悪感でもあった。あるいは全く別種の感情もあったのかもしれない。

 

「あたしもだよ。本当に、やんなるくらい、見損なったよ。ごめんね。信じてなんて、無理を言って」

 

「……」

 

 それらが少年の心のなかで、複雑に混ぜ合わされ、撹拌され、練りに練られ、するとさらに膨張しはじめたので、さらに撹拌し、また練り込んで、

 

「馬鹿だったね、あたし。ふ……ふふ……」

 

「…………っ!」

 

 そして一つの形を与えられたとき、不思議な事にそれは元のものとは全くかけ離れた代物となっていた。悲しみなどではない。同情などでは到底無い。名付けるとしたら、それは憎悪という言葉がもっとも相応しかった。昨日のアイビスに似た感情の突然変異が、彼の中でもまた起こった。

 

 その憎悪のままにマサキは立ち上がり、いつぞやの仕返しのように、力の限りにアイビスの胸ぐらを掴み上げた。

 

「立て!」

 

 喉の痛みなど地平線の彼方まで忘れ去り、殺意すらこめて叫んだ。渾身の力で彼女を殴り飛ばすことすら、今の彼なら容易に出来た。それほどまでに、少年は怒っていた。

 

「立て! 立ってもう一度、あのアステリオンとかいうガラクタに乗ってみろ! 泣こうが喚こうが、首根っこ掴んででも引きずり回してやる!」

 

「やめてよ……」

 

 アイビスが顔を背けようが、マサキは構わなかった。否、ますます激情を募らせた。

 

「ざまあないだと? ああ、ざまあねえとも! なにがアストロノーツだ、なにが星の海だ! 糞みたいなたわ言を言い続けるつもりが少しでも残ってんなら、もういっぺん根性見せてみろ!」

 

「やめてったらぁっ!」

 

 アイビスもまた叫び、再びマサキを突き飛ばした。彼に劣らず、アイビスの目もまた焼くような憎しみに満ちていた。それは昨日の勢いを遥かに上回り、越えてはならぬ一線を越えたかのように。

 

 少年に対する、これまで日を追うごとに高まり続けてきた一つの感情が、一線を突き抜けていた。全くの異次元にまで到達してしまったかのように、まるで相反するものに転じていた。

 

「あんたには分かんないよ! あんたにだけは!」

 

 いつのまにかアイビスの両の瞳からは涙が溢れていたが、それでも決壊した彼女の心から溢れるものには到底足りなかった。

 

「無敵のサイバスターに選ばれて、おとぎ話の主人公をやっているあんたには、あたしの気持ちなんて分かりっこない。ううん! あたしが馬鹿だったんだ! いっときでも、そんなあんたと肩を並べられてるって思い込んでて。あたしもやれば出来るんだって勘違いしてて!」

 

 奇妙なことに、マサキを憎みながらも、彼女が言い募る言葉は全くそれにそぐわぬものだった。それは先のマサキも同じであったのかもしれない。イルムとリュウセイが声すら発せず遠巻きにするほど、今の彼らは思いと言葉と、憎しみとそれ以外のものが奇怪にねじくれ合っていた。何もかもが、軋みをあげてねじ曲がっていた。

 

「変わったと思ったんだ! 昇っていると思ったんだ! そうしていつか、夢に届くって希望が見えていた! なのに……その結果がこれだ! おかしいと思っていた! 夢でも見てるみたいに毎日が楽しかった! 当たり前だった、だって夢だったんだから!」

 

「てんめえっ! たった一度こけたくらいで何を偉そうに寝言ほざいてやがる! 俺んとこで、これまでいったい何やって来た! 脳みそあんのか!」

 

「ああ、あるとも! どんなに狂ってても、それでも覚えてるさ! あんたのとこだよ! あんたのとこで、さんざん頑張って、それでこのざまだ!」

 

 アイビスは一歩踏み出した。マサキは退きこそしなかったものの、それでもたじろぎを覚えた。津波のような彼女の激情は、圧力すら発していた。

 

「馬鹿みたいに夢を見て、馬鹿みたいに自分を過大評価して、馬鹿みたいに浮かれきって、いっぱしの主人公の気持ちでいて、その挙げ句がこのざまだ! 間違っていた! 全部、全部間違っていた! あんたと腕試しをやったあの日から、あたしは全部を間違えていたんだ!」

 

「てめえ……てめえ……よくもっ!」

 

「殴りたいの? いいよ、殴れば。どうぞ殴ってよ! ねぇ、あたしを見てよ。今のあたしをよく見てよ!」

 

 ずぶ濡れの、泥にまみれた体をアイビスはこれ見よがしに張って見せた。さも自信に溢れるように、尊厳に満ちているように空虚な器を晒してみせた。

 

 それを前にしたマサキは、この世の悲壮全てを目の当たりにしたように、歯を食いしばった。

 

「ねぇ……どうしようもないでしょ? なんにも無いでしょ? もうなんにも……残ってない。それで、あたしに何をしろっていうの? なにが出来るっていうの……?」

 

 昨日の写し絵のように、アイビスの語気がみるみるうちにしぼんで行った。

 

「やめてよ……あっちへ行ってよぉ……」

 

 やがて精も根も尽きたのか、体から力という力を霧散させて、アイビスはふたたびへたり込んだ。恥じ入るように両手で顔を覆いかくして。

 

「……見ないでよ……恥ずかしいよぉ……自分が、とても恥ずかしい……」

 

 さきほどまでの敵意は霞と消え、命乞いをするように呟くアイビスに、マサキは二の句を継げることも、握りしめた拳を叩き付けることもできなかった。そうするには、泣き続けるアイビスの姿はどうしようもなく哀れに過ぎて、死者にむち打つも同然だった。

 

 行き場を失った彼の感情は雨に打たれるばかりで、ひたすら火花を挙げて空転していた。肺を雁字搦めに縛り上げられ、呼吸すら覚束なくなり、マサキもまた耐えきれぬように膝を付いた。

 

「ちきしょう。ふざけやがって……」

 

 せめてとばかりに、拳を大地に叩き付ける。しかし、それで晴れるものなど何一つなかった。

 

 完膚なきまでの敗北感を覚えていた。二度と立ち上がれないのではと錯覚するほど、重く苦しいこの感覚。これほどまでのものは、彼の生涯で三度目のことだった。師と誇りを失い、国と友を失い、そしていま彼は部下と、先の二例に匹敵しうる何かを失ったのだ。一体、何度繰り返せば良いのだろう。

 

 大嵐はなにもかもをなぎ倒して、過ぎ去った。そこには無惨な敗者と、むせび泣く一人の少女だけが残されていた。

 

 

 フリューゲルス小隊の最期だった。

 

 

 

 



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第十章:断たれた比翼

 

 

   Ⅰ 

 

 

「可愛かったよなぁ、アイビス。最近ずっときらきらしてたもんなぁ。どうしてだか、お前分かるか? 分からないか。そうかそうか」

 

 朗々と、独演が奏でられていた。

 

「そりゃぁお前、アイビスが頑張っていたからだよ。やっぱ夢に向かって行く女の子ってのはいいよな。スポ根ヒロインって感じでさ。実を言うと俺、その手の漫画やアニメが昔から結構好きなんだ。誰にも言うなよ、恥ずかしいから」

 

「……」

 

「そういうのだとさ。本人が事故にあったり、好きな男が大怪我をしたりで一時的に落ち込むなんて、よくあるパターンなんだよな。それを努力と根性で克服して、さらに成長し、最後には大団円ってわけ。定番だろ?」

 

「……」

 

 タスク・シングウジは延々と語り続ける。毎度の如く時刻は深夜、しかし場所は珍しいことにマサキの部屋だった。ここのところ夜遊びに乗ってこない彼の下を、タスクの方から訪ねたのである。

 

 挑発も混ぜて二度、三度とポーカー勝負に誘ってみたものの、マサキはベッドに寝そべったまま振り向きもしなかった。仕方なくカードを懐に仕舞ったタスクだったが帰る気はなく、椅子にどっかと座りこみ、やがて気の向くまま好き勝手に喋り倒し始めたというわけだった。

 

 最近の訓練についての愚痴や、レオナに対する純情なり煩悩なりなど、タスクの話はまさしく言いたい放題にあちらこちらへ跳ね回った。都合良く自問自答し、結論を自画自賛し、時に笑いも自給自足する。実のある話であるかはともかくとして、不思議と小気味良く、軽妙な語り口であることは確かで、そうこうしているうちに、タスクの話しはやがてアイビスの話題に行き着いていた。

 

「だからアイビスも大丈夫だって。俺が言うんだから間違いねえよ。きっとなにかの拍子にぱぱっと調子を取り戻して、前以上に頑張るようになるんじゃねえかな」

 

「……」

 

「やべえよなぁ。あれ以上輝かれたら、さすがの俺も手に負えねえよ。なぁ、お前どう思う?」

 

「……」

 

「そうだろ、そうだろ。俺が血迷わないためにも、レオナちゃんの幸せためにも、そこそこに抑えておいてもらわないとな」

 

 今というときに今のマサキに対してこんな話をするにあたっては、無論それなりの心構えがタスクの中にはあったが、結局は暖簾に腕押しに終始していた。これ見よがしに餌をぶら下げても、魚は食いつくどころか、関心を示す様子すらない。

 

 どれほど優れた話術の才があっても、タスクはその道のプロではなく、語彙や展開の数も限られていた。立て板に水のような独演は徐々に勢いを落とし始め、時計の長身が一回りもすると、ついにタスクも舌を止めざるをえなくなった。

 

「マサキ……なんとか言えよう。寂しいじゃねえか」

 

 そうやって白旗を挙げても、寝転ぶマサキの背中は揺らぎ一つみせない。タスクのため息だけが、ただ部屋の中に虚しく響いた。

 

 

 

 あれから四日が経過していた。

 

 マサキが強行した試験飛行は、結局のところ多くのものを無惨に崩壊させるだけに終わった。

 

 アイビスの病状については「極めて危険」というレッテルが改めて貼り直され、患者自身もこの期に及んでそれを嫌がりはしなかった。夢、すでに破れたり。事実を正しく認識したアイビスは、除隊処分や下船後の病院行きについても唯々諾々と受け入れる構えをみせ、医療班たちは受け入れ先との調整に一層駆け回るようになった。

 

 アイビスはそれきり医務室に閉じこもるようになり、一切の見舞いや面会を拒否した。食事も中でとるようになり、以降一度もアイビスの顔を見た事が無いという乗組員すらいるほどだった。隊内の誰かが良かれと思い見舞いを強行したところ、激しい諍いが起こったという噂もあったが真偽は不明である。該当する人物としてもっとも可能性がありそうなのはリオやレオナらであるが、少なくとも一見して彼女たちにそんな様子は見られなかった。

 

 一方、ツグミは断腸の思いで、テスラ研にて二人を待つフィリオ・プレスティに全てを報告した。三十分以上にものぼる長い通信であったようで、その時の彼女がどんな様子であったか、通信設備の操作のため同席したアヅキ・サワは余人に黙して語らなかった。

 

 そしてそのツグミであるが、彼女もまたこの二日間、天岩戸と化したアイビスの部屋に立ち入ることができないでいた。というよりもツグミこそ、いまアイビスが最も疎み遠ざけなくてはならない人物だった。それが分からぬツグミではなかったが、それでも数時間に一度彼女の部屋の扉をノックし、ひとこと言葉をかけることを欠かさなかった。一人にさせておきたい、一人にさせられない。鬩ぎあう矛盾に対する、一つの妥協点がそれだった。

 

 そしてフリューゲルス小隊は解散した。実のところデータ上はまだ存続しているのだが、これは手続きが済まされていないためで事実上は変わらない。マサキからの正式な申請書の提出が待たれているが、本人がそのことを覚えているかどうかは些か怪しいところだった。

 

 彼もまた、あれから一言もアイビスと言葉を交わしていない。アイビスは医務室に引きこもり、マサキも医務室へは全く近寄らなかったため、顔を合わせることすらなかった。

 

 しかし、だからといってどうということもなかった。一つの小隊、一組の人間関係が大きく弾け、そして消滅したことなど、結局のところ大局に大きく影響するものではなない。四日間、ハガネ隊はそれまでと同様にラングレー基地に留まり、新たな基地駐在員となる補充兵の到着を待ち続けていた。そのあいだブリッジ要員は外敵のレーダー反応に気を配り、整備士たちは破損した機動兵器の修理作業にかかりきりとなり、司厨員たちはそんな彼らに十分な栄養と活力源を提供することで精一杯だった。そしてパイロットたちもまた、常日頃と同様に訓練と療養に精を出し続けた。

 

 艦内の営みは、なに一つ変わらない。ただ強いて挙げれば、幾つかの光景が欠けているというだけだ。格納庫や訓練室、食堂やラウンジ。それまで、毎日艦内のどこかしらで繰り広げられていた一組の男女のやりとりが、綺麗さっぱりに消え失せていたというだけ。男女という字面から連想されるような色気も雰囲気も皆無であったが、それでも仲睦まじいことだけは確かであったアイビスとマサキの姿、それだけが欠けており、しかしそれだけでしかなかったのである。

 

 

 

「輸送船団の識別信号を捉えました。ほぼ予定通りの時刻です」

 

「開店休業もこれまでですか。もう少し遅れて来てくれても良かったのに。生真面目ですな、軍人というのは」

 

 ヒリュウ改の艦橋にて、そんな本気とも冗句ともつかないぼやきを口にするのは副長のショーン・ウェブリーである。外見は細身の壮年紳士といったところだが、こういったものぐさな軽口をよく叩く。しかしそういうときも、きちんと背筋を伸ばした折り目正しい姿勢で言うので、無精者という印象を抱かせない人物だった。

 

「新しい基地司令官のヒューイット大佐は、確かに生真面目な人柄だそうですよ。作戦本部の太鼓判つきです」

 

「ラングレー基地はこれから再出発というところですからな。そういった人物を選んだのでしょう」

 

 レフィーナとショーンの視線の先には、いままさにラングレー基地の領域内に足を踏み入れようとする補充部隊の姿があった。肉眼上ではまだ空に散らばる小さな機影にすぎないが、その実は最大級の輸送機が十七も連なった一大規模の輸送船団である。

 

 機動兵器を扱うためのパイロット、整備士、その他の基地機能を運用するための各種実務員たち、そして共に基地に住まう彼らの家族も含め、約二千人もの人員と彼らのための物資がこの船団に収められており、これでもまだ第一陣に過ぎない。ラングレーほどの基地を正しく機能させ、なおかつその人員を健康的に生活させるためには最終的には万単位の人員が必要となる。

 

 また言うまでもなく機動兵器もおよそ百機、その他の陸上・航空兵器もまた百機ほど搭載されている。解放されたラングレー基地の防衛を、今後は彼らが担う事になる。

 

 輸送艦隊が順次着陸体勢に入り始めたのを機に、レフィーナはショーンを連れて船外に出た。寒風を警戒してレフィーナは上着を着ていったが、無用であった。少し前までの雨雲はすっかり風に流されたようで、冬にしては陽気な天気がここのところ続いていた。上空の輸送機の船体がくっきり目に見えるほど、空気も空も澄んでいる。

 

 レフィーナらは外でダイテツ艦長やテツヤ・オノデラ副長とも合流し、滑走路の脇で輸送機の到着を待った。間もなく先頭の輸送機が危なげなく着陸し、ややあってジョージ・ヒューイット大佐が機内より姿を表した。基地の新しい代表となる人物に、ダイテツらは揃って踵を揃える。大佐といえば、ハガネ隊の中のだれよりも階級が高い人物である。

 

 ヒューイット大佐はショーンとさほど変わらない年齢であるが、印象は対照的な人物だった。柔和な老紳士といった物腰のショーンに対し、ヒューイット大佐の雰囲気はまさしく厳格という言葉を体現したかのようなそれであり、眼は鷹のように鋭く、口元も真一文字に引き締められていた。しかし何よりも印象的であったのは、ダイテツを目にした途端、その厳めしい顔が嘘のように、一瞬にして柔らかくほころんだことだった。岩が綿菓子になったかのような変貌に、とりわけレフィーナとテツヤの二人は呆気に取られた。

 

「ダイテツ艦長。本当にお久しぶりです」

 

「敬語はお止めください。大佐殿」

 

 旧知の仲であるらしい二人は固く握手を交した。ショーンも知らなかったことだが、ヒューイットはかつてダイテツの指揮下で経験を積んだ時期を持つ人物だった。やがて操艦以外の分野で才能を開花させ階級も追い抜いてしまったようだが、在りし日の敬意と親愛は些かも変わらぬようだった。

 

「遠路遥々、お疲れ様です。ようこそラングレーへ。新司令官殿」

 

「痛み入ります。ラングレー基地、謹んで頂戴いたします」

 

 基地の奪還を果たした者と、これからの運営を担う者。二人の老雄が手を取り合い頷き合うことで、基地の受け渡しはひとまず成立した。新たな司令官と人員を迎え入れ、ここに新生ラングレー基地の歩みが始まった。

 

 アイビスとマサキの絶縁などという些事など一切省みることなく、世は淡々と時計の針を回し続けていた。

 

 

   Ⅱ

 

 

 その後、艦長らとヒューイット司令官は引き継ぎを含めた各種手続きのために基地内部へと移動した。その間も、ハガネ隊の他の乗組員は引き続き通常業務を行う向きとなっている。

 

 ハガネ隊の出立は、若干予定を繰り上げ翌日と決まっていた。つまり今日がラングレーで過ごす最後の日となり、その後はオペレーション・プランタジネットのフェイズ2……月攻略作戦に参加するため宇宙へ向かう事となる。しかしラングレーを発つその前に、ハガネ隊は一つの別れを経なくてはならなかった。

 

 輸送船団到着より約二時間後の、十三時頃。さきほどダイテツたちが降り立ったのと同じ滑走路脇に、ツグミは立っていた。手には身の回りの品をおさめたバッグが一つ握られている。もともと敵軍から命からがらに逃亡する形でハガネに乗り込んだのだ。持ち帰られる荷物はほんのわずかだった。さして大きくもない鞄に収まってしまうほど、本当に僅かだった。

 

「本当に、お世話になりました」

 

 波立つような栗毛を風になびかせながら、ツグミは深々と頭を下げた。

 

「こちらこそ二人には良く助けられた。本当にありがとう」

 

 立ち並ぶ幾人かの見送りを代表して、キョウスケが応じる。

 

 アイビスとツグミはこの日のうちにハガネを降り、ラングレー基地に身を寄せることとなっていた。ハガネが出立した後、二人はヒューイット司令官の保護下に入り、さほど間を置かずしてアイビスは軍病院のあるハワイ州に、ツグミはコロラドのテスラ研にそれぞれ送られる手はずとなっている。

 

 見送られる者は、この場ではツグミ一人である。本来いなくてはならないもう一人は、先に基地入りを果たしていた。不義理ではあるが、それをありがたがる者も決してゼロではなかった。

 

 立ち並ぶ見送り人の顔を、ツグミは見渡した。キョウスケ、イルム、カチーナ、リョウト、リオ……。業務の合間を縫って駆けつけてくれた人々であり、他にもどうしてもこの時間は抜け出せないからということで、事前に何人もの乗組員から別れの言葉を受け取っていた。

 

 良い艦だった。以前より戦争に関わることを忌避してきたツグミの、正直な感想がそれだった。ハガネ隊という名が不釣り合いに見えるほど、優しく暖かな部隊だったように思う。

 

 ツグミは数歩踏み出して、場に居る中の一人に右手を差し出した。言葉だけでは済ませられない人物が一人だけいて、差し出されたツグミの手を、不審とも苛立ちとも付かぬ目でじっと見下ろしている。

 

「はやく握り返してよ。恥ずかしいじゃない」

 

 そう催促され、マサキは躊躇いつつも右手をツグミのそれと重ねた。ツグミはそれを努めて固く握り、ぶんぶんと上下に振った。やや一方的ながら、先ほどの艦長等にも負けぬ力強い握手だった。

 

「私、忘れないわ。なにがあっても」

 

 独り言のようにツグミは言った。

 

「この艦のこと、この艦の人たちの事、貴方の事。それらと出会って、あの子が何を得たのか。絶対に忘れない」

 

 すこしの沈黙を挟んでから、マサキは視線をそらし、やけっぱちのように言い捨てた。

 

「なにも得てなんかいねえ。あったとしても、全部無くなっちまった」

 

 このとき、ツグミは四日ぶりにマサキの声を聞いた。それは他の多くの者にとっても同様だった。

 

「違うわ。無くなってなんかいない。ただ壊れただけ。どんなに細かく砕け散ってしまったとしても、破片は必ず残ってる。それをどうするかはアイビス次第。そして私はあの子を信じてる」

 

 相も変わらず鉄で出来たようなツグミの眼差しに、マサキはふと何かを思い出しそうになった。かりかりと古い記憶を引っ掻くものがあった。しかしそれを思い出す前に、彼女の手の平はわずかな未練を垣間見せながらも、ゆっくりとマサキから離れていった。

 

「明日会えるかどうか分からないから、一応言っておくわ。本当にありがとう。そして、さようなら」

 

 そういってツグミは微笑んだ。マサキにすら社交辞令や愛想笑いには見えない笑顔だった。

 

「また会いましょう。絶対に。あの子と一緒に三人……いいえ、四人で」

 

「四人?」

 

「完成したシリーズ77は三人乗りなの。Ω……と私たちは呼んでる。いつか貴方と並んで飛び立てる日が来ればいいと思う」

 

「……」

 

「言っときますけど、その時が来ても交際は認めませんから」

 

 最後にわけのわからないことを言って、ツグミはハガネ隊を去って行った。アイビスのもとに行くのだろう。その背と、その背が向かう先をマサキは見送り続けた。イルムが声をかけるまで、そうしていた。

 

 

 

 ツグミが部屋に着いたとき、先に来ているはずの連れの姿は見当たらなかった。予想できたことなので、さして慌てもしない。四日間ずっと医務室に閉じ篭り、常に重苦しい苦悩の中に身を置いていたはずなのだ。すこしでも清新な、涼やかな外気を欲するのは当然であり、むしろ安心すべきところだった。

 

 荷物を置いたのちツグミもすぐにアイビスを探しに出かけた。見つけるのにはさほどの時間はかからなかった。ハガネとはなるべく逆方向の、人気のなさそうな場所を探して行けば自ずとそこに行き当たった。

 

 ラングレー基地第七棟の裏手には、職員が余暇を楽しむための広大な芝生がある。その一角には樹木も植えられており、ちょっとした林になっている。その木陰の一つで、仰向けに寝そべる人影があった。呑気な格好だが昼寝を満喫しているようには見えない。事実アイビス本人としては、人の形をした路上廃棄物を象っているに過ぎなかった。

 

「ここにいたのね」

 

「……」

 

「寒くない?」

 

 アイビスはいつもの出で立ちではなかった。四日前のことを契機にプロジェクトの制服は脱ぎ捨てており、このごろは私服を着用し続けていた。季節を思えばかなり薄手の格好だが、厚着を嫌う性質であるらしい。羽織っているジャンパーも、前は開けっ放しになっている。

 

 ラフなデザインの、銀色のジャンパーはアイビスのお気に入りだった。全くの偶然であるがマサキが普段から着ているものとも似通っており、思えばそれは乗っている機体についても同じで、それをどことなくくすぐったく思った日々もあった。

 

「全員じゃないけど、みんな見送りに来てくれたわよ」

 

「……」

 

「マサキくんもいたわ」

 

「……」

 

「何も言わなくてよかったの?」

 

 いいよ。

 

 内心で、素っ気なくアイビスは言い切った。

 

 本心であった。

 

「きっとまた会えるわ」

 

「……」

 

「会えるわよ。約束してきたから」

 

 努めてツグミの言葉を聞き流しながら、アイビスは再び空に心を泳がせた。風が柔らかくそよいでいる。青草にほほをくすぐられながら、透き通った空とふんわりと浮かぶちぎれ雲を茫洋と眺めた。あの向こうに行きたいと、狂おしいほどそう願ってやまなかった日々もあったのだ。

 

「明日ハガネは出発するそうよ」

 

「……」

 

「私はコロラドへ、アイビスはハワイに行くのよ」

 

 そうだ、ハワイだった。

 

 教わっていたはずだが、アイビスはもう忘れてしまっていた。どのみち今の彼女には家族もなければ故郷もなかったので、どこであろうと構わなかった。もっと言えば病院にさえ行かなくても構わなかったが、今は流れに身を任せることにしていた。復帰への意欲はもはやない。しかし、それでも本当にそれだけをよすがに今まで生きて来たのだ。切れ端だけでも取っておくことにしたのはアイビスなりの精一杯の前向きさであり、また逆でもあった。

 

「入院しながらでも、できる訓練はあるわ。ノルマを送るから、きちんとこなすのよ」

 

「……」

 

「ちゃんと進捗は確かめますから。もちろんこっちのデータも送るし、それに」

 

「代わりのパイロット、早く見つかるといいね」

 

 ツグミの舌がぴたりと止まった。アイビスが五月蝿げに言い放ったたった一言は、これまでにない明敏さで見事にツグミの急所を射抜いていた。フィリオとの通信内容を、ツグミは思い出した。二人の未練はどうあれ、代わりのパイロットの選定が話にのぼらないはずは無かった。

 

「一人にして」

 

「アイビス……」

 

「どっかに行ってったら……!」

 

 押し殺した怒声に、ツグミは逡巡を見せながらもその場に留まった。アイビスの不穏な様子以上に、アイビスを一人にしておくことをこそツグミは恐れた。

 

「私、信じているわ」

 

 まるで電流が走ったかのように、アイビスの肩が揺れた。いけない、と思ってももう言葉は返ってこない。ツグミは動揺をごまかすように捲し立てた。

 

「信じているわ。貴方はきっと治る。きっと全部を取り戻す。そうして三人で、宇宙へ飛び立つ日がきっと来る。私は……」

 

 乾いた音が響いて、ツグミの懇願じみた夢物語は、その物語の主人公の手によって断ち切られた。頬をはられたことは無論であるが、なによりアイビスの鬼気迫る表情の方がツグミにとっては衝撃的であった。まったき憎しみに染まったそれを前にして、ツグミにこれ以上言い募れる事など一つもありはしなかった。

 

 ごめんなさい。唇を振るわせながらそうとだけいい、今度こそツグミは走り去った。己の無神経さと破廉恥さが慚愧の念となって、ツグミの胸を食い荒らした。それはしかし、決してツグミだけのことではなかった。

 

 一人になり、アイビスはふたたび芝生に倒れ伏した。うつぶせになり、何かを押さえ込むように体を縮こませた。

 

 アイビスは自分が恐ろしかった。マサキや皆と何も言葉を交わさず分かれた事、それをよしとしたこと、そしていまツグミを叩いた事。衝動的ではあるもののどれもが歴としたアイビスの本心であり、本音であり、そんな自分がなにより恐ろしかった。

 

 いまだかつてない、裸体を見られる以上の羞恥心が胸を焦がしていた。合わせる顔が無い、穴があれば入りたい。それらの言葉の真なる重みをアイビスは思い知っていた。アイビスは顔を手の平で覆った。顔を隠す以上に、自らの顔面を掻きむしりたい衝動に駆られての事だ。

 

 こんな人間しか残らなかった。自分から夢を奪えばこんな人間しか残らなかった。一日ごとに自信を膨らませ、達成感に溺れるようであったこれまでの日々をアイビスは心から恥じた。一皮むけば、この通りだ。目を覆いたくなるほど、虚飾に満ちた醜悪な性根の生き物がここにいた。自分は何か、人として致命的なものを欠いたまま、ここまで来てしまったのではないか。普通の人なら幼いころに当然会得しておくべき何かを、父母や教師から授かっておくべき大事な何かを、放り出したままここまで来てしまったのではないか。そんな思いに取り憑かれ、振り払うことができなかった。

 

(これから、どうすればいいの?)

 

 劣等感と自己嫌悪が極まったとき、そこに広がるのは草一本生えない無辺の荒野であった。人影は愚か、太陽も星も見当たらない。行くべき方向も分からない。

 

(あたしはどうすればいいの?)

 

 荒野のただ中で、アイビスはいっそのこと消えてしまいたい思いに駆られた。今すぐ風となって空となって、混じり合ってしまいたい。ツグミに対して、フィリオに対して、彼女の人生と関わりを持った全ての人々に対して、そしてあの少年に対して、アイビスはそう願ってやまなかった。全てが、恥ずかしかった。

 

 いくらか時が経ち、横向きになったアイビスの目から、いつしか涙が流れ落ちていた。奇妙に静かな落涙だった。嗚咽も、鼻をすする音も聞こえず、口元も微動だにしない。音も無く濡れゆく頬の上で、赤い瞳がただ湖面に映る月のように揺れている。嘆かず、喚かず、ただ放心するようにアイビスは泣いていた。

 

 岩に染み入るような、静かな涙だった。

 

 

   Ⅲ

 

 

 シリーズ77 αプロト

 

 アーマード・モジュール アステリオン

 

 アイビスもツグミを艦を去り、いまハガネの中にはこの機体だけが残されている。無論、このままにされるわけではない。いま基地の方は、補充隊が運び込んで来た機動兵器の調整などにかかり切りとなっており、スペースの問題もあって今夜一晩はハガネの中にしまわれることになったのだ。余談ではあるが、屋外で合体工程のチェックをしたがったSRXチームたちも、同じ理由で夜以降に後回しにされてしまっており、リュウセイが盛んに不平を漏らしていた。今頃は夜風も寒い中で深夜残業に励んでいるところだろう。

 

 そしてアステリオンは明朝にラングレー基地に降ろされ、ツグミと共にコロラド行きの輸送機を待ち受ける流れとなっている。

 

 この機体のことを、マサキはわりあい気に入っていた。

 

 サイバスターを人と鳥が合わさったような姿と表現するのなら、アステリオンは人と航空機が合わさったようなニュアンスを秘めていた。一方は人の理を越えた神秘を力の源とし、一方はどこまでも人の手に寄る英知と創意工夫の精神によって磨き上げられた代物である。機体随所に見られる角張った工学的な質感も、地底世界においては珍しいものだった。

 

 マサキはカンカンと硬く空虚な音を響かせながらタラップを登っていた。すでに夜も更け始めており、格納庫にいるのは彼一人だった。アステリオンの胸元に辿り着き、ハッチ横のパネルを慣れたように操作する。コクピットが解放され、単座式のシートが姿を表した。

 

 解き放たれた誰かの残り香に戸惑いつつ、マサキは内装をざっと見渡した。幾多のレバーや計器類が、暗闇の中で静止している。速度計に高度計、方位計に出力計、そして兵装管理パネル。何十ものスイッチや計器が持つそれぞれの役割を、今のマサキはおおよそではあるが把握していた。毎朝、整備に付き合っていた成果であった。アイビスがどこか緊張しながら機体の調子を確かめているのをこうして見下ろすことも、一度や二度ではなかったのだ。

 

 そんなアイビスの残像を、暗闇の中から探しだそうとしている自分に気付き、マサキはたまらぬように頭を振った。らしくない。あまりにらしくないことだった。

 

(何やってんだ、俺は……)

 

 アイビス同様、マサキもまた煩悶の霧中にいた。否、雨というべきか。この四日間、そしていまもマサキはあの日の雨の中に居た。そして、憎悪に染まったアイビスの眼と対峙し続けている。

 

 自分の体重に疲労を覚え、マサキは直接タラップの床に腰を下ろした。期せず崩れ落ちるようになり、どすんと尻の下から重々しい音が響く。

 

(ちきしょう)

 

 苛立ちだけが募っていた。この四日間、マサキは彼女の眼差しを前に一歩たりとも動けずにいた。前に踏み出すことは躊躇われ、かといって逃げ出すこともまた屈辱だった。

 

(ちきしょう……)

 

 そんな中、彼の影から一匹の黒猫がそっと顔を出して、主の様子を見上げた。落ち込むマサキに声をかけようとしたのだ。しかし影から半身を乗り出したところで階下の人影に気付き、クロはほんのすこし目を瞬かせて、そのまま影の中に引っ込んでいった。

 

 

 

 本来、エクセレンはもっとはやくにマサキを訪ねなくてはならなかった。イルムからの依頼もあり、小隊解散手続きの方法をマサキに教える役割を抱えていたのだが、長らくそのままにしてしまっていた。そのマサキがツグミの見送りのため久しぶりに姿を見せたと聞き、これを好機と踏んで、こうして格納庫までやってきたのである。

 

 エクセレンはゆっくりとタラップを登っていった。このときマサキも彼女の存在に気付いたが、うつむいたまま目もあわせようともしない。もしここにツグミがいれば、余人を寄せ付けまいとするその姿に、入隊当初のアイビスの背中を思い出したかもしれない。

 

 あのときのアイビスに、あのときのツグミが抱いたのと同種の感情が、このときのエクセレンにも芽生えていた。このときすでに、エクセレンは本来の用事のことなど頭の中から放り捨てていた。

 

「辛そうね、マサキ」

 

 彼女においてのみ耳慣れない呼ばれ方をされ、マサキはようやく顔を上げた。間近まで近づいてきたエクセレンは、今度は彼女の方から眼をそらし、手すりにもたれかかって天井を見上げた。

 

「聞いたわよ。ずいぶん派手に喧嘩したんですって?」

 

「知らねえ、忘れた」

 

 エクセレンは苦笑いを浮かべて、頬を掻いた。ものの見事に出鼻をくじかれていた。

 

「それを聞いて尚更思ったんだけど、貴方達を組ませたのは本当に名采配だったのね。キョウスケもやるもんだって思ったわ」

 

 意趣返しのつもりか、皮肉にしかならないことをエクセレンはことさらしみじみと言って退けた。

 

「だって、貴方がそうまでしたんだもの。一匹狼で、集団行動が苦手で、政治も軍規もぜんぶ素っ飛ばして好き勝手やっていた貴方が。ずっと一人だった貴方が、そうまでして誰かのために気持ちを燃やしたんだもの。私やキョウスケが同じ目に合っても、貴方はそうはならない。彼女だけが特別だった……」

 

 かねてから、思っていたことがエクセレンにはあった。彼女が思うに、マサキが前大戦の頃からどこの小隊にも組み込まれずにいたのは、機体性能の特殊性だけが理由ではなかった。乗り手は経歴不明、乗機は原理不明。さらにその背後には、強大かつ異質な文明の存在が垣間見える。深く根付かせるにはあまりに制御不能で、危険な存在だったのだ。

 

 結果、彼は常に一人だった。当人はいたって快活な好人物であり、友人も多くいた。それでもそれとはまた別のところで、異世界よりやってきて、異端な機体を操り、軍とはまるで異なる論理で動くこの少年は、やはりハガネの中ではただ一人だったのだ。

 

 アイビス・ダグラスという、まだまだ飛びたてのひよっこは、そんな彼の下にやってきたのである。

 

「彼女も軍人じゃなかったからかしら。私たちがどうしても根っこのところでは無視できなかったもの……理解不能な機体、理解不能な兵器、理解不能な世界、そういうのを全部無視して、彼女はマサキ・アンドーという一人の男の子だけを見た。貴方の人格と力だけを見て、憧れて、追い付こうとしてた。貴方自身、それが嬉しかったんでしょう?」

 

 返答は無いが、エクセレンは必要としていなかった。フリューゲルス小隊が結成され、変わったのはアイビスだけではない。むしろエクセレンはマサキの変わりようにこそ驚いたくちだった。いや、変わったというより、むしろ取り戻したのだろう。寄る辺の無い地上では発揮されることのなかった、彼自身の本来の姿を。

 

「とっても良い出会いをしたのよ。貴方たちは」

 

 エクセレンは心からそう思うのだ。

 

「どうしてあのとき、貴方はあんなにも彼女をなじったのか。それは、逆だったからでしょ。可愛さ余って憎さなんとかって言うわ。あのとき貴方が拳を振り上げるほど怒ったのは、そうしなきゃいられないほど、全く正反対の心がそれまでずっと貴方の中にあったからでしょう? それを裏切られたと感じたから、貴方は怒ったんでしょう?」

 

「……」

「彼女だって同じだったはずよ。どうしてあの子が、我を失ってまで貴方を拒絶したのか。やっぱり逆だったからよ。あの子は、心の底から貴方の期待に応えたかったのよ。でもそれができないで、自分を失格だと思い込んでしまった。……私ね、こういうのをそのままにしておくのは良くないことだと思うの」

 

 天井を見つめたままだったエクセレンの視線が、このときようやくマサキへと向かった。その空のように蒼い目は、これまでに見た事の無い瞬き方をしていた。

 

「過去っていうのはね、変えられないものなの。後悔というは取り返せないものなの。といっても、私だって別に言うほど大層な未練があるわけじゃないけど」

 

 むしろそういった点とは縁遠い方だろうという自覚もあった。それでもエクセレンとて当たり前の人間で、一切の後悔と無縁であったはずもない。今こうしてここに立つまで、二十年以上の人生があったのだ。その過程で多くのものを得てきたが、取りこぼしてしまったものも数えきれないくらいある。

 

「中にはね、今でも省みてしまうものもあるの。言っておくけど、いま私は幸せよ? 友人がいて恋人もいる。やりがいのある仕事もある。でもそれでも、ふと振り返ってしまうものがあるの。もうどうしようもないし、いまどこにあるかも分からないし、無いからといって別に困ってもいないけれど、でももし、あのとき行動を起こしていれば……そんな風に思っちゃうものが幾つかあるの」

 

 人ならば誰もが持つ当たり前のことを、エクセレンもまた抱えていた。そしてそういう人間が悩み苦しむ年下の少年と出会ったとき、伝えたいと思う事は決まっていた。

 

「だから、後悔のないように。とにかく、後悔の無いように」

 

 彼女なりの万感の思いを込めても、言葉にするとそれはあまりに他愛の無い、手垢まみれなフレーズだった。

 

 それをエクセレンは二度繰り返した。どれほど使い古されていても、そう言うしか無いものがあった。

 

「月並みだけど、私が言いたいのはそういうこと。こういうのって、過ぎ去ったら本当にそれきりなのよ。もしかしたら貴方たち、これきり二度と会えないかもしれないの。だからせめて後悔の無いように……やだ、ほんとに月並みね。私ってば」

 

 照れくさそうにエクセレンは笑い、そのときやっと良く知るいつもの彼女が戻って来たようで、マサキは小さく息をついた。良くわからない、気恥ずかしさのようなものが肺に溜まっていた。

 

「確かに月並みだな。それに年寄りくせえ」

 

「んま、私まだ二十代よ。それよりどう? 少しは道標になったかしら」

 

 マサキは頭をかいた。霧は未だ深い。後悔の無いように。それだけで道を見いだすには、漠然としすぎる言葉だった。

 

 ただ、一つの指針にはなったように思う。そうでなくとも、ここは礼の一つでも言っておかねばという奇妙な義務感がマサキに芽生えていた。

 

「せっかくの年の功だ。なんとか、無駄にしねえようにするよ」

 

「そう」 

 

 本心が向く方向より420度ほどねじ曲がった言葉に、エクセレンは一つ微笑んだ。少年の、そういう少年らしいところがエクセレンは嫌いではなかった。

 

「さて、私はもう行くわ。なにをするにしてもあまり無茶はしないように……というのは今回は無しにしておこうかしら。やりたいようにやればいいと思う。心の赴くままにね」

 

「俺は……いつもそうしてるさ。これからだってそうだ」

 

「そう。そうよね」

 

 どこか羨ましそうに、エクセレンは眼を細めた。それは本当に、マサキが内心ぎょっとするほど穏やかな表情で、マサキは目の前にいるが誰なのか一瞬分からなくなった。

 

 しかしそれは真実一瞬のことで、すぐにエクセレンはいつもの調子を取り戻し、「じゃまた明日ねぇん、マーサ」などと戯けるように言い残して去って行った。一人残されたマサキは、彼女の背中を見送りながら、改めて己の宿命らしきものを考えていた。

 

 やはり年上の女は苦手だ。

 

 地上でも地底でも。

 

(そういえば、あいつも年上だった)

 

 となればやはり、と言う他ない。そう思えば今という状況にも多少なりとも必然性が見える。

 

 一つ、踏ん切りをつけるようにマサキは大きく深くため息をつき、そして立ち上がった。十数段のタラップをのそのそと降りて行く。

 

「考え事は終わりかニャ?」

 

「どうするの?」

 

「出かける」

 

 影から湧いた問いに簡潔に答えてみせると、くすくすとした忍び笑いが聞こえて来た。

 

 文句を言う気もおきず、そのまま少年は歩き出した。格納庫の出入り口と、その遥か先にいるであろう少女の姿を目指して。辿り着いた先で何が起こるかは分からない。火に油を注ぐだけに終わる可能性も大いにある。

 

 ――それでも、後悔のないように。

 

 結果、どうなるかどうかは神のみぞ知る。それでも叶うなら最後に、もう一度彼女の笑顔を見たいとマサキは思った。

 

 

 

 しかしながら、そんなマサキのささやかな願いが叶えられるには、さらなる紆余曲折を経なくてはならなかった。マサキの足取りは遅々としながらも、そのじつ力強く、何者も止められないであろうほどだった。しかし、そんな彼でも足を止めざるを得ないほどの事態が、こののちほんの十数秒後に起こった。突如、大震災もかくやというほどの地響きがハガネを襲ったのである。

 

 

   Ⅳ

 

 

 本日にラングレーに降り立った軍人の中に、アルブレヒト・アグリコーラ中尉という人物がいた。今宵、アグリコーラ中尉はその惨劇の幕開けを最初に察知した人物となった。

 

 このとき、彼は基地施設の外に出ていた。それまでは基地のバーで、仲間たちと記念すべき新天地での第一夜を祝っており、些か酔いすぎた頭を冷やそうと思ったのだ。冬の夜は肌寒くはあるが、それだけに空気は澄み、満天の星空が頭上を覆い尽くしている。絶好の天体観測日和であり、酔い覚ましに眺めるには些か勿体ないとすら思うほどだった。

 

 そしてその内に中尉は、夜空に瞬く一つの「星」を見つけたのである。単なる言い回しでなく、その星は本当に点滅するように瞬いていた。航空機や機動兵器の放つシグナルとも違う、奇妙な瞬きだった。なんだろうと見つめているうちに、アグリコーラ中尉はその星の周辺に散らばる他の星々が、まるで陽炎のように揺らめいていることに気づいた。当然、星空に陽炎など立つはずも無い。酔いにめまいでもない。その星周辺の空間そのものが、まるで風にはためくように真実揺らめいているのだ。非現実的なその光景に、アグリコーラ中尉はしかしただ一つだけ心当たりがあった。

 

(空間転移)

 

 その言葉をようやく思いついたとき、瞬く星は、一筋の流星と化して一直線にラングレーへと落下して来た。全てを察した彼は、息をのんで駆け出した。基地のレーダー圏より遥か高空にて、空間転移を果たしてきた機体がある。無論のこと味方であるはずも無かった。空間転移の実用化は、異星軍側でしか成されていない。

 

「だれかぁ! 敵襲です! だれかぁ!」

 

 同じく外にいた基地の職員らが何事かと目を向けたとき、それは起こった。

 

 地震だった。否、地震と言えるのだろうか。言葉としては合っていても、字面的にはやや語弊があった。震えるなどというものではない。アグリコーラ中尉らの体、そこいらに駐車されている車、ジープ、重機、のみならず基地そのものが一瞬大きく浮き上がるほど、そのとき大地は、さながらしゃっくりを起こした横隔膜のごとく上下に大きく跳ね上がったのだ。

 

(……! ……! ……!)

 

 この世のものとは思えない感覚に息をのむ間もなく、ラングレー基地のほぼ中心部、ちょうど滑走路の辺りから大量の土煙が噴き出すように立ち昇った。次々とそこかしこで同様の現象が発生し、一瞬にしてラングレー基地一帯は、それ自体が火山の噴火口と化したかのような噴煙に包まれていった。

 

(ラングレーが)

 

 アグリコーラは全身を総毛立たせながらも、いまこの地に何が起こっているのかを察した。あらゆる論理を一足飛びに越えて、ただ結論だけがどこからともなく彼の脳裏に降り立った。あるいは死を目前にして始めて開花した神通力であったのかもしれない。

 

(落ちる……!)

 

 ほんの3秒後に、彼の予感は全く正しかったことが証明された。地殻陥没。ラングレー基地が有するおよそ400ヘクタールにも昇る敷地面積、その一切合切まるごとが、一斉に、真実底が抜けたかのように「落下」を始めたのである。

 

 

 

 ラングレー基地周辺にて開戦する前に、メキボスがアギーハを含む他の幹部に説明した作戦は次のようなものだった。

 

 1、敵軍の基地到達前までに、ラングレー基地の地下七キロメートル地点に、メガトン級のMAPW弾頭三発を広範囲に設置する。爆破座標の算出は事前に完了しているが、精密な工事を行う時間はないため確実性は下がるものの設置手段には空間転移を用いるものとする。

 

 2、設置するMAPWは外部コントロールによって作動するよう仕掛けをしておく。

 

 3、敵軍に対し、自軍は工作を見破られない程度に応戦しつつ、折りをみて撤退。転移装置ごと空間転移を行いホワイトスターまで帰還。ラングレー基地を放棄する。

 

 4、ホワイトスターにて戦力補充が完了し次第、幹部の一人が先行してラングレー上空に転移。その後射程圏内まで突入し、コントロールスイッチを作動させる。なお確実な効果を期するため決行は夜間、なおかつ必ずハガネとヒリュウ改が基地に直接停泊している際に行う。また万が一失敗した場合、幹部は速やかに帰還するものとする。

 

 5、爆破の衝撃により地殻陥没を起こし、基地全体が機能不全に陥ったことを確認した後、幹部機は行動開始。また必要に応じて本隊も転移を開始し、ラングレーを再襲撃する。基地奪取はもはや不可能であるが、ハガネおよびヒリュウ改だけは確実に撃沈ないし無力化させるもとする……。

 

 ひとまずおおよそは成功しつつあるようで、アギーハは満足げに唇を釣り上げた。ラングレー上空に一人先行し、地下爆弾を作動させたのは言うまでもなく彼女と愛機シルベルヴィントであるある。アグリコーラ中尉が地上にて目撃した流星の正体もまた同じであった。

 

 アギーハが高度およそ1000メートル地点から見下ろす先には、まさしく天変地異としか言いようのない異様な惨状が引き起こされていた。まるで核爆弾の投下を受けたかのように基地全体から大量の土砂と砂煙が巻き起こり、それは巨大な柱となって天を突こうとしていた。高度1000からアギーハはなおも上昇中であったが、それにすら追い縋ろうとするかのような勢いだった。

 

 煙に巻かれて目視は不可能だが、いまごろ大地は次々と沈みゆき、一つの巨大な落とし穴へと変じている真っ最中だろう。その直径は、計算上2キロメートルに届く予定だった。基地一つを飲み込むには十分すぎる。

 

 停泊していたハガネ隊、そして今朝方やってきた新たな基地駐屯部隊を一撃のもと一網打尽にしうる作戦だった。急ごしらえのため乱暴で粗も多いが、インパクトだけは計り知れない。この砂煙が晴れたとき、そこに残るのは彼らの死骸か、あるいは残骸か。この分では、本隊の転移すら必要ないものと思えた。

 

 今宵、いったいどれほどの命が土中に埋もれるのか。それを思い、アギーハはただ冷ややかに笑った。そうせざるを得ないほど下界の様子は、見せ物としてこの上なく壮大かつ壮快だった。

 

 

 

 足場を踏み外した人間が転ぶしか無いように、地下基盤を崩された建造物も同様に崩れ落ちるしかない。むしろ、そういった事態について建物というのは人間以上に無力だった。

 

 足場が崩れ、底が抜けた。あらゆるものが突如として高度を与えられ、ニュートンが示した方程式に捕われていく。

 

 人は上下逆さまになり、車はエンジンのあるボンネットを下にし、建物は壁と天井を入れ替えながら落ちて行った。穴の深さは数百メートルといったところか。もっとも早くに底に到達し、そして命を散らせたのはアグリコーラ中尉ら外にいた者達だった。いち早く落下し終えた彼らは、大部分がそのまま体中の骨を折って即死した。それを免れた運の良い者は、降り注ぐ土砂とコンクリートの破片によって圧死した。それすら逃れたところで、残る道は生き埋めによる窒息死である。酔い覚まし、帰宅途中、深夜残業、なにかしらの理由でそのとき生身で屋外に居た者達は、ことごとくが死の運命から逃れることはできなかった。

 

 無論、屋内の人間とてただでは済まない。落下する基地施設のうち、もっとも早くに穴の底に接地したのは第十二棟であった。資材調達や、設備保全部門など各種間接部署が集中する棟である。もっとも接地面に近かった保全部オフィスは建物の自重と加速度を一身に受け、中にいた職員諸共、有無を言わさず粉砕された。

 

 そこより上層にある調達部は瞬時の壊滅こそ免れたものの、結局の被害に大差は無かった。衝突の衝撃で強かに体を打ち付けられ、およそ三割の人員が命を失い、残った者には、数々の二次災害が続々と襲いかかることとなった。天井と壁が立場を入れ替えたことにより、オフィスには付き物である各種事務用品が、引力に唆されるまま次々と重量・硬度という名の牙を剥いたのだ。身の丈ほどもある書類棚がギロチンのごとく落下して、何人かの頭部に直撃した。重さ百キロにも届く複合機が鉄塊さながらに音を立てて廊下を急降下し、給湯室のガス管が火を噴きもした。人を殺害しうる凶器は、こんなにも身近に溢れていた。そのことを思い知りながら、多くの職員達が身動き取れぬまま文明の利器たちの反乱劇をその身に受けていった。

 

 やがて外の土砂や瓦礫が窓を壁を突き破り大洪水のごとく内部を侵略し始めた。こうなれば屋外も屋内も大差ない。大量の土はここでも多くの命を飲み込んで行った。

 

 

   Ⅴ

 

 

 大地と重力の猛威は、すでにハガネ隊にも手を伸ばしていた。ハガネとヒリュウ改は施設外部に停泊してたため、建造物の倒壊に巻き込まれることはなかったが、もはやことはそういう問題ではない。敷地内一帯の大地という大地が陥没しているのだ。両艦が停泊している地帯もまた例外ではなかった。

 

 艦内にて、阿鼻叫喚が巻き起こっていた。天地がひっくり返ったかのようであった。実際それは過言ではなく、いまハガネとヒリュウ改は崩れた大地に巻き込まれて見事に横倒しになり、なおかつそのまま土砂の滝壺へと落ちていっているのだ。しかしだれもがそういった事態を正確に把握することができず、ただ突然に発生した90度近い重力変化とフリーフォールの感覚に、わけもわからないまま狂乱していた。

 

 艦の制御を担うブリッジ・クルーは一人とて席に座っていることすらできなかった。テツヤ・オノデラ副長はすでに失神している。あやうく壁に激突するところだったダイテツ艦長を庇った為である。そのダイテツ艦長もまた命令を出すどころか、立ち上がることすらできない状態だった。

 

 その他の箇所もまた、見るも凄惨な有様となっていた。食堂では料理も食器も雪崩を起こし、訓練室では器具類が氾濫を起こし、電灯やその他電子機器は次々と火花を発していった。乗組員もまた自室や通路で、大地を引っくり返されたかのような恐怖のまっただ中にいた。ハガネ隊においては珍しいものの、敬虔な信仰心を持つ何人かの乗組員はもしや神の怒りかと震えおののいた。

 

 そんなハガネ隊の中で、もっとも重大な生命の危機に瀕したのは、そのときただ一人格納庫にいたマサキだっただろう。ハガネに格納されている機体や、弾薬などを詰め込んだコンテナは戦闘の際の振動にも耐えられるよう厳重に固定されているが、さすがに戦艦が丸ごと横倒しになるような事態までは想定されていない。戦闘時においてそんな体勢がありうるとすれば、それは沈没直前をおいて他に無いためだ。

 

 艦全体が傾いた途端に、何機分かの固定器具が悶えるように軋みをあげるのを耳にし、マサキは顔中から血の気が引くのを自覚した。壁に背を付けて浮遊感を堪えながら、なんとか天井を見上げる。否、天井ではない。それはさっきまで壁であったものだ。さらに言えばマサキが背を付いているのも、少し前まで床であったものだ。その証拠にマサキが見上げる先では、機動兵器の中でも取り分け重厚長大な体躯を誇るダイゼンガーが、まるで忍者のように天井にへばりついているではないか。厳めしくも雄々しいその双眸がマサキを垂直に見下ろしていて、マサキは蛇に睨まれた蛙のような気持ちになった。

 

 やがてハガネもまた穴の底に辿り着き、尋常でない衝撃が艦を襲った。落下距離は数百メートル。多少なりとも傾斜はあったため速度は抑えられたが自重が自重である。電磁徹甲弾の直撃を百発受けようと到底生じ得ないであろう衝撃に、マサキはおろか床に寝そべる機体群すらもが一瞬浮き上がった。

 

「……!」

 

 上下に乱高下するベクトルに姿勢を保ちきれず、マサキはめんこ札のように床に叩き付けられた。そのさなかにも、ばきんと一つ、何かがへし折れる音が天井側で響くのをマサキは聞き逃さなかった。衝突の振動によって固定具の一部が外れ、侍巨人はいまや右半身を自由の身とさせていた。巨大な右腕が、さながら掴み捕らえようとでもするかのように、マサキの方へだらりとぶら下がった。この上なく物騒かつ醜悪なシャンデリアに、マサキの全身が総毛立った。

 

「まじかよ、おい……」

 

 マサキはこの件が落ち着いたら、必ずあの仏頂面のおっさんを半殺しにすると心に決めた。八つ当たりだろうとなんだろうと、必ずおとしまえを付けさせてやる。

 

 まさにその一瞬後、左側の固定具も砕け、完全に拘束から解放されたダイゼンガーが、壁から生えるコンテナをなぎ倒しながら猛烈な勢いで床に落下して来たのである。

 

「ふざけろ、ちきしょぉぉーーっ!」

 

 マサキは叫びは、天を覆わんばかりの大質量にいとも容易く押しつぶされていった。鼓膜を突き破るような轟音と振動。それを契機に、天井を張り付いていた他の巨人たちも雨霰のように次々と落下していく。地獄絵図がそこにあった。

 

 

 

 一方アイビスもまた、船外にてほぼ同様の窮地に立たされていた。危険の度合いで言うのならさすがに格納庫にいたマサキよりは幾分ましであろうが、彼女の場合は彼女自身の内的な面が一層問題だった。自分のいる場所が突然地殻陥没を起こしたら、誰もが怯えすくまずにはいられまい。それでもなお、崩落が始まった瞬間のアイビスの狼狽えようは異常と言う他無かった。

 

「あああーーーっ!」

 

 けたたましい悲鳴が響いていた。到底人間が発声したとは思えない、まるで黒板を釘で引っ掻くような叫び声だった。

 

 アイビスはまだ外にいた。ラングレー基地第七棟の裏手である。夜風が肌に厳しくとも、ツグミの待つ客室に戻る気にならず、ずっとそのままでいたのだ。「敵襲」と叫ぶ誰かの声を聞いたかと思えば、突然発生した地震によって体ごと浮き上がり、次の瞬間には背もたれにしていた樹の幹に叩き付けられていた。息が詰まった。その後、事態を飲み込もうと辺りを見回したとき、アイビスの精神は狂躁状態へと真っ逆さまに落ちて行った。

 

 落ちている。大地が落下している。

 

 言うまでもなく、それはアイビスにとって最も忌まわしい過去の記憶であり、尚かつ今現在、この世で最も恐れることそのものであった。高空を意識した途端に体が震えだし、ついには幻覚を見だすほどの症状に犯されているというのに、よりにもよってそれが、不動であるはずの大地の上で起こっているのだ。そのあるまじき悪夢が、いまにも自分の足下へと届こうとしている。

 

「やめてぇ!」

 

 アイビスは、一瞬にして正気と理性と冷静さをいっぺんに放棄した。それこそ、かなぐり捨てるような勢いだった。

 

「誰か止めてぇ!」

 

 幸いアイビスの居る場所は基地の外縁部とも言える場所で、地盤崩落まではいくらかの猶予があるようだった。しかしそれも時間の問題である。彼女のみならず、彼女を支えている地面そのものが崩落するまで、あと数秒とない。

 

 地面に伏せるアイビスのすぐ側に、地割れが走り、砂煙が噴き出した。しかしそんなことにも一切気付かぬ様子で、アイビスは頭を庇おうとも、身を縮こませようともせず、ただ木にしがみついてわめき続けた。

 

「助けて、落ちる。誰かぁ!」

 

 落ちる。また落ちる。

 

 死ぬ。死んでしまう。

 

 ラングレー奪回戦の最中に得た神の啓示が、再び彼女の脳天を貫いていた。以前に一度それを覆してくれた救い手の名を当然彼女は覚えているが、しかしその名を呼ぶ事だけはできなかった。それはアイビスに残された、本当に最後の最後の意地だった。

 

(ごめん)

 

 ごく自然に、アイビスの胸にその言葉が浮かんで来た。誰に対してのものか、何に対してのものか、彼女自身も混乱してよく分からない。ただ涼やかな風の感触と、柔らかな亜麻色の髪の流れが、ほんの一瞬だけ彼女の脳裏をよぎっていた。

 

(ごめん)

 

 またそう思った。一度思い浮かべたら、いったい今まで何処に隠れていたのか、油田を掘り当てたかのように次々と想いが溢れ出した。

 

「ごめん。ごめん。ごめんごめんごめん。ごめんなさい……!」

 

 まるで物置に閉じ込められた幼子のようにアイビスはただそれだけを思い、思いは濁流のように彼女の全身を駆け巡り、凝固した血栓を洗い流した。

 

 大地が、次々とひび割れて行く。身を寄せていた樹木が、いや、世界全体がぐらりと傾くような感触がした。

 

 すべてを諦めて、アイビスは目を閉じた。強く強く閉じきった。これより自分がどうなるか分からない。もう何も見たくない。もう二度と目を開かない。そんな愚にもつかない決意を込めて。

 

 長い長い夜の始まりだった。

 

 

 

 

 



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第十一章:獄落鳥

 

 

   Ⅰ

 

 

「大佐、どこですか、大佐」

 

 崩落が収まった頃を見計らい、副官のレイチェル・スコット中尉はほうほうの体で物陰から這い出た。ほんの数分前まで、彼女はこの日最後の業務として、自らが仕える新しい基地司令官に明日のスケジュールを伝えていたところだった。そのさなかにほんの少しの揺れを感じ、電灯がパチパチと明滅するのを見上げた直後に、世界はさながら地獄へ突き落とされたかのように一変した。無骨ながら機能美を感じさせたラングレー基地の司令官室はもはや見る影無く、暗闇と土ぼこりに汚染された瓦礫の洞窟と化していた。

 

 レイチェルは上官の姿を探し求め、しきりに辺りを見回した。大量の瓦礫により室内はもはや歩くどころか、這って進む事すらままならなかった。片足が折れていては尚の事だ。また額の裂傷からは止めどなく血が流れており、拭っても拭っても視界を確保することができない。

 

「いるんでしょう大佐。どこですか。答えて下さい、大佐」

 

 それでもレイチェルは、捜索を続行した。先に脱出しようという考えなど、はなから浮かばないようだ。職務を越えた必死さがあった。

 

 ヒューイット大佐は妻帯者であるが、その相手は彼女ではない。壮年の域に達している彼と腕を組んで歩くには、レイチェルは些か若過ぎた。それでもレイチェルは許可さえ得られるのなら何時だって大佐と腕を組みたいと考えていたし、つい先ほどまで目の前にあった、ちびりちびりとコーヒーを飲む彼の呑気な横顔を愛しい夫のように脳裏に想い描くことができた。誰にも打ち明けた事の無い、小さな片恋の物語が彼女の胸の中だけにあった。

 

 しかし幸か不幸か、レイチェルが大佐の姿を見つけることは永劫無かった。すでに彼の肉体は崩れ落ちた天井に巻き込まれ、無惨に押しつぶされていたからだ。机の下にでも隠れられていれば望みもあっただろう。司令官用の大きなマホガニー製の机は、簡易シェルターとしては十分なほどの頑強さを有しており、事実レイチェルはヒューイットにそこに押し込められたことで一命を取り留めていた。

 

 彼の肉体は足下に敷き詰められた瓦礫の下に完全に押し隠されていた。肘から先、膝から先などの末端部分はいくつか断ち切られ、レイチェルが用意したマグカップと一緒にそこいらの瓦礫の隙間に小さく収まっていた。大量の血液がコーヒーと混ざり合いながら床からしみ出していたが、顔面の半分を真っ赤に染めるレイチェルがそれに気付くことはなかった。

 

「お願いです。返事をしてください、大佐ぁー!」

 

 どくどくと血が溢れ出すのにも構わず、レイチェルは叫び続けた。ヒューイットの機転の甲斐無く、彼女もまた無傷では済まなかったのだ。出血は明らかに致死量を超えつつあった。事実、彼女は間もなく出血多量によって昏睡状態に陥り、そのまま眠るように死を迎える運命にあった。小さな片恋劇は地の底で幕を下ろし、その主演者たちは同じ時・同じ場所にて共に永遠の眠りにつくのだろう。

 

 そうして、一つの物語が終わる。

 

 

 

「リック……リック……!」

 

 暗闇の中、名を呼ぶ声がする。男の声だった。彼もまた人を捜していた。そして彼の方はレイチェルとは異なり、すぐに求めた人物を探し当てることが出来ていた。

 

 トーマス・リンドバーグはメカニックとしてラングレー基地に配属された人物であり、妻と子供を連れて本日この地に降り立ったばかりであった。それまでの住居はここから相当に遠い場所にあり、トーマス自身は単身赴任も覚悟していたが、彼を取り巻く家族愛は彼が思う以上に強かったらしい。彼が5歳になったばかりの息子を格納庫へ連れて行き、機動兵器を見せてやろうと思ったのもそのことに浮かれての事だ。

 

「リック、起きてくれ。リック、ほら、お父さんだよ」

 

 突然の崩落に気を失い、目を覚ましてからトーマスは周囲の惨状に目を剥くのもそこそこに、息子の姿を探しはじめた。幸いすぐそばに倒れていたため、すぐに息子を見つけることができた。

 

 しかし息子は目を覚まさなかった。いや、目蓋は開いている。しかし瞳に光が宿らず動かない。呼吸もしてくれない。そしてどちらからも血を流していた。ほんの少し前までの愛らしさはもはや見る影もなく、リックは微動だにしない表情で虚空を見詰め続けていた。

 

「リック、リック、起きなさい。こんなところで寝ていてはいけないよ。ほら、見なさい。あれがゲシュペンストだよ。格好いいと、お前も言っていただろう?」

 

 トーマスが見もせずに指差す方向には、基地の機動兵器用格納庫が広がっていた。否、塞がっていたというべきか。この第三格納庫は本来半円柱の、ちょうど蒲鉾にも近い形をしていたのだが、とすれば今の有様は、さしづめ踏みつぶされた蒲鉾といったところだろう。四方の壁は崩壊し、屋根と床が熱い口づけを交わし、中に居た者達はそれに挟まれて一様に圧死していた。その唯一の生き残りがトーマスだった。

 

 トーマスが指し示す先には、すこし前まで壁と天井であった瓦礫群によって埋め尽くされており、その内側には無人の機動兵器と、その調整作業を行っていた何人もの同僚達の屍が埋もれていた。息子を連れてくることに渋い顔をしつつも、最後には笑って許してくれた彼の上司もその中に混じっている。

 

 火の手が上がり始めていた。

 

 機動兵器の格納庫は、火薬や油といった危険物の倉庫でもある。そこに引火したのか、辺りを埋め尽くす瓦礫の隙間と言う隙間から、オレンジ色の輝きが次々と立ち上ってきた。不謹慎ながらも、それは目を奪うほど美しく眩かった。

 

「リック、頼む、起きてくれ。なぁ、お願いだよ。リック、頼む、頼むから……」

 

 しかしそのことに気付く様子も無く、トーマスは息子の亡骸に声をかけ続けた。失っているのは冷静さではない。気付く為の機能をこそ失っているのだ。トーマスの頭蓋骨は、一体なにが当たればこのようになるのか、蹴飛ばされたバケツのように横側がべこりとへこんでおり、不気味なほど奇形的な輪郭を描いていた。

 

 それでも父は息子を呼び続けた。脳の一部を欠損させ、人としての機能の幾らかを失いながらも、未だ失われてない何かに従って、トーマスは息子の亡がらを揺すり続けた。炎にまかれ、衣服に火がつき始めてもそれは変わらなかった。

 

 そうして燃えていく。人々も、トーマスも、リックの死骸もまた刻一刻と炎に包まれていった。遠からずこの場から一切の命は燃えさって、屍は炭の塊となる。炎が収まったのち、そこには瓦礫と無人の機動兵器のみが位牌のように残るだろう。無情な鋼鉄の肌に、多くの悲哀と無念を焼き付けて。

 

 また一つ、物語が終わった……。

 

 

   Ⅱ

 

 

 ラングレー基地はバージニア州ハンプトンの東端海岸沿いに位置しており、その敷地面積はおよそ400ヘクタールに及ぶ。といってもその大半は滑走路と演習場に占められており、基地施設そのものは建造物としてさほど大層なものではない。似たような機能を持つ民間空港と比べても、外観は無機的かつ素っ気なく、見かけ上はむしろ工場などにも近い。

 

 無論、機能面から見ればラングレー基地が地球圏の中でも有数の能力と規模を持つ軍事施設であることは疑い得ない。大陸の約三分の一をカバーするレーダー施設、戦艦・潜水艦用ドック、ミサイル防衛システム、その他各種防衛機構など設備の充実具合は他の追随を許さず、地球防衛計画の要の一つとも目されてた。

 

 基地の元々の発祥は旧暦にまで遡る。当時はまだ一国家であったアメリカの空軍基地として1916年に開設され、以来幾度かの改装を施されながら今日まで歴史が続いている。名実共に由緒ある基地であり、それだけに何かと標的にもなりやすく、前大戦の頃も何度か大規模な襲撃に見舞われたが、基地そのものはそれでも生き残り続けた。非常に長命な基地として知られ、基地施設自体が一つの生ける軍事史そのものだった。

 

 今日という日を迎えるまでは。

 

 

 

 ――穴が空いている。

 

 実際のところは未だ収まらぬ大量の砂煙のため誰もそれを目にすることはできないが、しかし事実としてラングレー基地全土は一瞬にしてそれまでの威容の一切を陥没させ、いまや巨大な一つの大穴へと姿を変じていた。格納庫、レーダー施設、戦艦ドック、滑走路、基地施設、そして職員用居住区。敷地内に存在した全施設はあまねく瓦解し、ない交ぜになり、もみくちゃにされながら、地の底へと飲み干されていった。

 

 穴の直径はおよそ1.5キロ。形は楕円と長方形の中間といったところで、深さは800メートルほどもある。墓穴、と見るにはあまりに大きく、そして大ざっぱすぎた。

 

 天災としか思えぬ惨状は、全て人為的に引き起こされたものだ。異星軍の策略によってラングレー基地敷地内の地下三カ所に設置されたMAPWが同時に起爆し、意図的に地殻陥没を発生させた。爆発自体はさらなる地下深くで起こっており、その衝撃と熱によって周囲の地層が圧迫・液状化し、広大な空間が地下に発生した。この隙間によってより上部の地層が自重に耐えきれなくなり、地上の建造物もろとも崩落したという仕組みである。

 

 実際問題、地上で爆破するのに比べて地形への影響が不必要なまでに莫大であり、確実性も劣る。爆弾がきちんと作動するか、作動したとして狙い通りの地形操作を正確に行えるかについては、異星軍側にとっても賭けであった。しかし地球軍調査隊の目から逃れつつ、有り合わせの道具で一撃必殺のブービー・トラップを仕込むには他に方法が無く、そして結果論ながらその策はこうして見事に成功していた。

 

 当然の事だが、本来ここまでの暴挙は異星軍側にとっても望むところではなかった。地上における最大規模の軍事基地は、彼らの占領計画においても大きな価値を持っていた。破壊せず占領し続けられれば最良であり、逆に言えばそれが叶わぬと判断されたからこそ、地球軍の力を削ぐためにも完全破壊の道を選択したのだ。そのため今宵の惨事は、たとえどれほどの規模であるにしろ、本質的には「手に入らぬなら壊してしまえ」という子供じみた論理の産物に他ならなかった。

 

 無論、だからといって起こった事実は変わらない。今回の作戦が戦略上どのような意味を持とうと、砕かれたもの、消えて行くものは果てしない。

 

 今宵一晩で、いったいどれほどの損害が生じるのか。また幾つの命が失われるのか。先に答えを述べると、金額はおよそ八兆円。人数については軍人、軍関係者、その家族、あわせて約1700人といったところである。基地駐在員がまだ揃いきってない頃であったため、同規模の災害が別の基地で起こった場合に比べれば、死者の数はまだ少ない方であった。無論、そんな統計上の事実で慰めを得られるのは、書類と数字ででしか今夜の事件に関わらない幸運な者達だけだろう。

 

 今朝までは確かに存在した1700もの人生と、1700もの物語が、ただの一撃で、一瞬にして潰えるのだ。神の不在を立証するがごとく、それはあまりに途方も無く、かつ無情すぎるものだった。

 

 

 

 アギーハの駆るシルベルヴィントは、ゆっくりと下界を観察するように、基地上空を旋回していた。起爆からおよそ半刻が経過していたが、基地一帯をドームのように覆う大量の砂煙はいまだ収まる気配はなく、またその中から飛び出してくる機影も見当たらない。地殻変動についてもとりあえず一段落したようで、墓穴がこれ以上広がって行く様子はなかった。事態はひとまず落ち着いたと見て良かった。

 

「やっぱり海岸までは届かなかったか……」

 

 無念そうにアギーハは呻いた。

 

 人為的な地殻陥没を引き起こすにあたって、MAPWの威力と数の問題から、その面積は円にして300ヘクタール程度が限界と見られていた。その通りものを作り出せたとしても、陥没が東方海岸にまで届くかは微妙なところであったというのに、実際に作り出せたのは200にも届かない。結果、陥没は海岸より遥か手前で止り、水害を引き起こすには至らなかった。

 

 またトロニウム爆発の兆しも無かった。ハガネ隊に所属する一部の機体……R-2やハガネそのものなどに搭載されている稀少鉱石トロニウムは、扱いを誤れば半径数十キロにも及ぶ大爆発を引き起こすと言われている。とはいえそれはエンジン出力を臨界近くまで上げて初めて起こりうることであり、平時の状態で破壊されるだけでは通常そのような事態にはならない。現に今も爆発は起こらず、その前兆すら見られないでいる。

 

 トロニウム自体は銀河レベルでのレアメタルであるため、アギーハらにとっても失わずに済むのは有り難いことであったが、そういった事態も想定した上での作戦でもあったため、肩すかし感は否めない。

 

 総じて、理想的とは言えなかった。だめ押しにさらなるMAPWでも投下できれば申し分ないのだが、そもそもが地球軍側から鹵獲したものであるため余分な備蓄もない。なにぶん急ごしらえの作戦であったので、こういった部分に杜撰さがあった。

 

 しかし望外の益もあり、上手い具合に増援部隊まで巻き込めたことがそれであった。当初はハガネ隊のみを対象にしていた作戦であったが、こうも早くに新たな基地運営要員を派遣してくるとはアギーハらにとっても予想外だったのだ。堅牢な戦艦ならばまだ望みもあろうが、基地施設内部の惨状はもはや約束されている。恐らくは千人単位であろう補充員はもとより、基地司令官を預かるほどの階級を有する者を一人潰すことができれば、それは時に見かけ以上の効果を発揮する。

 

 目の前の結果について満足と不満足を行き来しながら、アギーハは考える。肝心のハガネ隊はいったいどうなったのか。無事なのか、一部のみ無事なのか、それとも全滅したのか。

 

 異星軍にとっても先の戦闘で受けた傷は大きく、メギボスら三人の機体も未だ修理の目処が立っていない。そんな状態のまま戦いの場を宇宙へ移しても、またもやハガネ隊に押し切られてしまいかねない。ゆえに起爆を終えた後もアギーハはここに残っているのであり、旗下のバイオロイド兵も即時転移可能な状態で別の場所に待機させている。仮に楽観的に考えて、ハガネ隊の人員が一人残らず瓦礫の底で一網打尽になっていたとしても、その証拠を得なくてはならなかった。

 

「仕方ない。どれ、行きますか」

 

 アギーハは操縦桿を倒し、シルベルヴィントをゆっくりと降下させた。相手が動きを見せない以上、こちらから動くしか無い。しかし捜索を行うにせよ、あの砂煙の中では思うように行かないのは火を見るよりも明らかだ。

 

 そうしてアギーハは下界を目指す。己の手で起こした惨状を前にして尚、風に乗るかのような気楽さがある。失われた命の数々についても、とりたてて気にしている様子はない。徹底した酷薄さだった。あるいは自分をも含め、人間とは死ぬときはいくらでもあっけなく死んで行く生き物だと、アギーハは知っていたのだ。

 

 

   Ⅲ

 

 

 故郷の夢を見た。

 

 懐かしくも悲しい夢だった。

 

 

 

 彼女の生まれ故郷であるニューヨーク・チェルシーは、貧しい街であった。ニューヨークといえば20世紀頃は世界でも有数の大都市であり、その南西部に位置するチェルシーも現代アートの中心地と称され脚光を浴びていた。明日の芸術を担わんとする頼もしい野心家達が、競って彩りあげるような、そんな鮮やかな街であったのだ。

 

 しかし2012年に落下したメテオ2により、全てが変わった。ニューヨークは壊滅の憂き目にあい、チェルシーもまた運命を同じくした。

 

 芸術の街は一転して瓦礫の街へと化した。

 

 復興作業は遅々として進まず、財産のある人々は次々と街を見捨て、行くところの無い貧困層だけが残った。街はスラム化し、治安は右肩下がりとなり、盗みや暴行が常態化した。観光地として、芸術の街として華やいだ日々は遥か遠くに、色とりどりのアートは灰一色に染まった。そうして、女の一人歩きなど到底考えられないような薄暗く垂れ込めた街が出来上がった。アイビスの家族は、そんな街の隙間を縫うようにして生活していた。

 

 母は酒場を営んでいた。ならず者が屯するような街であったが、彼らもまた人間なのだから商売は成り立つ。彼らの機嫌を損ねない程度に美味い酒を、やはり機嫌を損ねない程度の値段で振る舞って、なおかつみかじめをきちんと払っていれば、そうそう波風は立たない。アイビスの母はその点、優秀なバランス感覚を有しており、なおかつ美貌という最大の武器を持っていた。美しさは誰からも尊ばれる。そうして母は、自らを武器にして家族を守っていた。

 

 アイビスの父はただ酒を飲むばかりの男だった。昔は芸術家であったらしいが、彼が一銭でも稼ぐところをアイビスは見た事が無い。日々の暮らしを妻に頼り、困った事があれば妻に泣きつき、嫌な事があれば妻で憂さ晴らしをする、そういう人物だった。

 

 実のところ、アイビスは父の顔をよく覚えていない。アイビスが父を思い出そうとするとき、いつも脳裏に浮かぶのは小汚いリビングで酒を飲んでいる父の後ろ姿だった。生地のめくれたソファにどっかと座り、とうに中身の無くなったボトルを延々と煽り続けるその背中。尊大で、神経質で、人を寄せ付けない、それでいてどこか寂しげな後ろ姿。それがアイビスにとっての父親像である。

 

 まだ子供だったアイビスは、そんな両親を子供なりに軽蔑し、しかし子供ゆえに軽蔑しきることはできなかった。夫以外の男と連れ添う母は薄気味悪く、そんな母を殴る父は恐ろしかったが、両者ともに哀れと言えば哀れであり、最後の最後で愛しさを禁じ得なかった。アイビスが両親のことを思い出すときは、きまってそんな何とも言えない気持ちが湧きあがる。

 

 いくらでも逃避できる心の遊び場を秘めていた事も、要因の一つと言えるのかもしれない。当時からアイビスは星が好きだった。自室の窓から、街の路地裏から、ときには酒場の屋根の上から、暇があれば夜空を見上げていた。昼間、星の見えない間は目を閉じて目蓋の裏に焼き付いたそれを見上げた。奇矯な行いだったが、見たくないものを見ずに済む点でも都合が良かったのだろう。店の前や電信柱の影で目を瞑りぼんやりとしているアイビスの姿は、街中でもちょっとした名物になっており、親しくない人々の中には彼女を盲目と勘違いする者もいたほどだ。

 

 星が好きといっても、このころのアイビスは星座も神話も基礎的な天文学も知らない。街には学校も図書館もなく、何人かの有志者が子供を預かり面倒を見てもいたが、アイビスは通わせてもらえなかった。しかし、ある意味では必要なかったとも言える。知識に欠けていても、想像力は余りある子供だった。星にまつわる物語を一つも知らないアイビスは、いつしか自らの手でそれらを作り出して行くようになった。

 

「お月様は神様の目。まんまるなときは起きていて、ほっそりしているときは笑っており、逆向きに細いときは眠っている。神様はきっと夜空のうんと向こうで、ほおづえをつきながら寝転んでいて。そうしてあたしたちを見守っているんだろう」

 

 そんな他愛のない一人遊びに耽る毎日だった。眠気を堪えきれなくなると、明日の夜を迎えるためにベッドへ入り、今度は目蓋の裏の星空を眺め始める。階下から怒鳴り声や悲鳴が聞こえても気にすまい。怯える事だってない。だってお星様はこんなにもきれいなんだから。小さなアイビスは、そうして夜空に心を溶かして行く……。

 

 

 

 

 ふと、アイビスは目を覚ました。

 

 なにか懐かしい夢を見ていた気がする。内容は思い出せないが、悪いものではないように思えた。

 

 

 

 アイビスが倒れていたのは、穴の北側外縁部付近。基地人員のための居住区があった場所であり、アイビスとツグミが宛てがわれた部屋もその区画内にあった。

 

 これほどの災害にあって、外にいたアイビスが一命を取り留めたのはいくつかの要因による。外縁部のため落下距離が他より小さく、且つ傾斜も緩やかだったこと。そして林の近くにいて、陥没時も樹木にしがみついていたことも功を奏したのだろう。建造物が軒並み瓦解したなかでも、樹々の繊維質は驚くほどの剛性を発揮して、かろうじて原型を保ち続けた。崩落の際にもアイビスを下敷きにすることなく、むしろ周囲の瓦礫から身を守る盾となって、彼女の命を救った。

 

 結果、アイビスは無事だった。さすがに無傷では済まず、全身が擦り傷だらけになっており、右足首に重度の打撲を負っている。左肩も外れているようだったが、しかし、どうあれアイビスは生きていた。

 

 ここは、地獄?

 

 横たわる幹の上でアイビスが朦朧と目を開いたとき、まず思った事はそれであった。それほどまでに途方も無い光景であった。

 

 瓦礫の海。そうとしか言いようがない。それまで確かに存在していた文明のすべてが、引っくり返されたジグゾーパズルのように砕け散り、真実一面の、視界の端から端までを覆い尽くす、海のような広さの瓦礫群を形成していた。それらはかつて数えて27の建物であり、十七機の輸送船団であり、それらも含め幾千もの離着陸を見送った長大な滑走路であり、100機もの機動兵器、そして2000人近くにも昇る人々であったものだ。その海のそこかしこからは、航空燃料に引火したのか灼熱色の輝きが鬼火のように立ち上っている。そしてギザギザとした水平線の向こうには高さ数百メートルにも届く切り立った崖が、音に聞く万里の長城のように雄大に、そして監獄を覆う外壁のように冷厳とそびえ立ち、此処を外界から隔絶させている。

 

 大地が怒った。

 

 アイビスはそのように思った。あまりに無惨な崩壊の有様に、途方も無く巨大な誰かの怒りを感じた。一帯を覆い尽くし立ち上る砂煙は、さながら活火山の噴火口のようで、その噴煙にまぎれるように頭上からこなたを見下ろす月の姿が見え隠れした。

 

 満月であった。真円なるそれは、だれかの眼差しにも見えた。

 

 ――お月様は神様の目。

 

 穴に堆積する屍たちをじっと見届けるそれは、どこまでも冷ややかで、無限に凍てついている。

 

 ああ、ちがう。

 

 アイビスは印象を撤回した。

 

 ここは地獄じゃない。

 

 地獄ですらない。永続する責め苦も、それを為す拷問吏もここにはいない。そんなものは不要と思えるほどに、此処にはもう何も無かった。寒々しいほど、全てが終わってしまっていた。

 

 此処の静けさ、薄暗さ、そして虚しさは、ゴミ捨て場のそれだ。大地か、あるいは神か、なんにせよ途轍もなく巨大な誰かが、ラングレー基地はまるごと見放し、廃棄したのだ。

 

 アイビスは笑った。含むような、籠るような、そんなか細い笑い声だった。声を漏らすたびに肋骨が痛んだが、痛みに勝る衝動が彼女の肺を震わせ続ける。

 

 舞い降りるような理解があった。胸に落ちて来たそれは絶望的なまでに重く、それでいてどこか安らかな暖かさがあった。

 

 その時が来たのだ。

 

 いま自分は旅の終着地に辿り着いたのだとアイビスは悟った。砂塵まみれの世界、冷え冷えとした夜、その全てがやけに懐かしくに感じられる。なぜならこここにあるのは、彼女の故郷と同じ匂いだったから。

 

 ここが死に場所なのだというのなら、なんと自分に相応しいことか。ひどく懐かしい気持ちが五体に染みいっていくなか、アイビスは再び瞳を閉じて、また笑った。

 

 何かが無性に可笑しくて、そして悲しかった。

 

 

   Ⅳ

 

 

「ほら、やっと出れたぞ。もう少しだからな」

 

「……」

 

 デイビッド・ブルーノ中尉は北欧出身の鮮やかな金髪が印象的な人物である。表情に気をつければそれなりのハンサムで通るであろうし、本人も平時はそれを売りに思っているのだが、さすがにこの状況下では気取る余裕もないようだ。汗を吸収した砂埃が泥のように固まって顔中に張り付いており、軍服を除けばどこかの古代部族の戦士のような風体と成り果てていた。

 

「おい、しっかりしろよ。外に出れたんだよ、なぁ」

 

「……」

 

 彼もまたラングレーの軍人である。三十代前半という年齢や、中尉という階級を見ても、兵士としてはまさに一番脂が乗っている頃であるが、しかし彼はパイロットではない。基地の資材調達を担当する事務要員であり、武器は銃ではなくペンとパソコン、敵は異星人というよりも詰み上がる書類と聞き分けの無い現場の人間といったところだった。

 

 それでも職務上の敵とプライベートはまた別であるらしい。現にいま彼が肩を担ぎ、励ましの声をかけているのは日頃から衝突の多かった整備士の人間なのだが、今となってはもはや関係のないことのようだった。

 

 彼ら二人もまた、この地盤沈下を生き延びた軍人達だった。その理由については、もはや言及すまい。ただ、何かが働いたというだけだ。

 

 崩落直後、二人は倒壊した第十五棟の中にいたのだが、今の今までずっとその中に閉じ込められていた。エントランスは完全に崩潰しており、その他の勝手口や窓も外を埋め尽くす土砂や瓦礫によって塞がれていたため、脱出は容易な事ではなかった。それでもなんとか出口を求めて、上下の狂った建造物の中を探索し、その果てにようやく外からの光が差し込む小さな縦穴を見つけたのだ。そうして二人は、やっとのことで瓦礫の海から這い出ることができたという訳だった。

 

「おい、しっかりしろよ。俺たち助かるぞ。なぁ、助かるんだってば」

 

「……」

 

 デイビッドは揺すっても、整備士はうんともすんとも言わなかった。建物の中で見つけてからというもの、ずっとこうだった。まだ死んではいない。体温は残っているし、脈もある。だがかろうじてのことで、もはや時間の問題だというのは明らかだ。

 

 到底見捨てることはできず、探索の間ずっとこうして担いで来た。決して親しい間柄ではなかったが、これも一つの吊り橋効果なのか、今宵デイビッドは彼を決して放さないと決めていた。必ず安全なところまで運んでやると決意し、そうして全てが落ち着いた後、また職場で彼と資材の納期について喧々諤々にやりあうのを夢見ていた。

 

 ゆえに、デイビッドは彼を放さなかった。押しつぶすような風圧を感じて頭上を見上げ、その先から銀色の機影が寓話の中の死神のようにゆらりと舞い降りてくる姿を見ても。冷徹なるシルベルヴィントが、さながら獲物を見つけた猛禽のようにその双眸を輝かせてもなお、デイビッドは喉をならし、全身を恐怖に振るわせはしが、それでも彼の腕を放さなかった。

 

「運の良い奴はどこにでもいるもんだね。よくもまぁ蟻みたいに」

 

 外部音声によって周囲へと発散されたアギーハの声は、さながら神のお告げのようだった。そして死の宣告でもあったかもしれない。

 

「ふん……? よくよく見れば、あちらこちらに反応があるね。まったく人間っていうのは、死ぬ時はいくらでも呆気なく死ぬくせに、しぶとい時には本当にしぶといもんだ。あんたもそう思わないかい?」

 

 デイビッドらには伺い知れないことだが、彼ら以外にも、そこかしこで人の形をした熱源反応が地面の下で蠢いているのをアギーハは補足していた。爆発と地震の直後であるため、さしものシルベルヴィントでもセンサー機能に支障をきたさずにはいられないが、逆に言えば火の手が収まりセンサーが回復すれば、より多くの生存者を見つける事になるだろう。

 

 対熱源とはまた別のセンサーが、上空に機動兵器出現の知らせを届けて来た。敵ではない。彼女が探索支援のために呼び寄せた援軍であり、バイオロイド兵によるガーリオン五機が空間転移を果たして来たのである。

 

 アギーハは眼下に視線を戻した。デイビッドは相も変わらず、蛇に睨まれた蛙のような表情で呆然と立ち尽くしている。

 

「安心しなよ。地球人がいくら死のうが知ったこっちゃないが、さすがに生身の男をどうこうしようって気はないから」

 

 その小指で顎をくすぐるような声音に、デイビッドはなぜだろう、舌舐めずりする肉食獣の姿を思い起こした。

 

「とはいえ、わざわざ助ける気もなくてね」

 

 アギーハはシルベルヴィントを浮上させた。降下して来たがガーリオン小隊と合流し、一斉に銃口を地上へと指し向けた。すでに拡大モニターは閉じていたため、デイビッドがどれだけ顔を絶望に青ざめさせたかアギーハには分からない。分かったところで止める彼女でもない。

 

「さっさと逃げれば? あたしゃ知らないよ。巻き込まれて死ぬのも、生き延びるのも、どうぞご自由に」

 

 そうして、シルベルヴィントとガーリオンは、一斉に砲撃を開始した。

 

 死が降り注ぐ。

 

 実際には光子と荷電粒子の砲弾である。グレイターキン用の予備を借用したガーリオンのメガビームバスターが、それこそ雨霰のように撃ち出され、その合間を縫ってシルベルヴィントの光子砲が落雷のように大地へ突き刺さる。繰り返すこと幾十、幾百。もはや弾丸の豪雨であった。

 

 無論のことハガネとヒリュウ改を狙っての事である。二艦のおおよその位置は掴めていたが、悠長に瓦礫の撤去作業を行うつもりなどアギーハにはなかった。地下とはいえ数百メートル程度であれば、十分に射程内である。高火力かつ質量を持たない光学兵器であれば瓦礫を焼き払いつつ、やがてはその隙間を縫って地底まで威力を届かせることも可能であった。そうして、やがてハガネの潜む地層にまで辿り着ければ全てが終わる。

 

「やめろぉ!」

 

 整備士を地面に横たえ、その上に覆いかぶさるようにしながらデイビッドは悲鳴を上げていた。砲弾の着弾圏からはかろうじて外れているが、それでも至近距離である。これほどの砲火と衝撃の中では、もはや逃げる事は愚か立つ事すらできない。デイビッドは歯を食いしばって震動と目眩を堪え続けた。

 

「ちくしょう、やめろ! やめろってんだ! もう十分だろ! 気が済んだだろ!」

 

 そんなわけがあるかと、もし聞こえていたのならアギーハはそう返しただろう。爆撃は無慈悲に続けられた。瓦礫を、土砂を、生き埋めとなった人々の亡骸を焼き付くしながら、着実に地下への道が掘り進められていく。

 

 アギーハは笑っていた。哄笑していた。

 

 烈火の如く苛烈であり、毒蛇のように執拗な彼女の気性が、その姿にこれでもかというほど濃縮されていた。有り余るほどの悪意と執念の混合体に両目を爛々と燃え上がらせ、一種の美すら見る者に感じさせるほどだった。

 

「こちらブリッジ。ウヅキです。各クルー、応答願います!」

 

 一方、いままさに上空より蹂躙の飛礫がその身に届こうとしているハガネ隊では、悲鳴まじりの艦内放送が鳴り響いていた。

 

「誰か応答して下さい。医療班! ブリッジで何名かが負傷しています。艦長もです。扉が開かないんです。誰か、誰かいませんか!」

 

 艦内はさながら火が消えたような静けさに支配されていた。電気系統は八割方途絶えており、通信システムも同様である。艦内全域に行き届くよう設定されているはずの彼女の声も、実のところはほんの一部にしか届いていない。平時には延々と壁や床の内部を反響していくメインエンジンの駆動音も立ち消えている。

 

「震動が起こっています。余震ではありません。敵の攻撃を受けているんです! 迎撃しなければ! お願いです、誰か、誰かいませんか!」

 

 誰も居いない。少なくとも、即座に彼女の差し迫った悲鳴に応じられる者は一人も。

 

 本来誰よりも先んじて行動を起こすべき戦闘指揮官は、他の多くの者らと同様に艦の通路に倒れており、彼の恋人もまた、そんな彼の胸にかき抱かれたままぴくりとも動かない。壁にでも打ち付けたのか、彼女の額から決して少なくない量の血が流れていた。

 

 指揮官の補佐として各々に部隊をまとめあげるカイ・キタムラやイルムらも、それぞれ別の場所にて大同小異の状況に陥っている。彼らの手足となるべき他のパイロット、そしてその他の乗組員たちもまた同様である。失神では済まない者も中にはいることだろう。

 

 乗組員という乗組員が死屍累々とばかりに物言わず倒れ伏し、全てが静まり返る中、ただ一つ助けを求める切実な女の声だけが震えるのである。これまで地球圏最強の名をほしいままにしてきたハガネ隊は、いまやそんな救いの無い魔窟と化していた。

 

 ハガネもヒリュウ改も、こうなってはもはや戦艦ではなく土中の棺も同然であった。その棺に対して、上空より嬉々として殺意の飛礫を流星のように降り注がせる存在がある。災厄に災厄を重ねようとする悪意がある。いまはまだ遥か頭上のことだが、そうでなくなるまでは半刻と要すまい。ハガネ隊全てを丸ごとに飲み干そうとする死出の道が、いまこじ開けられようとしていた。

 

 

   Ⅴ

 

 

「ぐ……うぅ……」

 

 呻くように、唸るように、アイビスは声を発した。

 

 倒木の上で、アイビスは腕を動かしていた。外れた左肩を庇いながら身を起こし、そのまま膝を突き立ち上がろうとする。満身創痍の身ではひどく困難なことだったが、それでも試み続けた。痛みよりも眼前の光景と、それにより胸中を急き立てる一つの衝動がそれに勝っていた。

 

「うぅ……ううぅぅぅっ!」

 

 唸り声はいよいよ獣のそれに近くなった。いや猛禽というべきか。高まり沸騰していく感情が、小心のヴェールに隠れた彼女の本性を露にしようとしていた。

 

 声の向く先は一つではない。暴虐の権化たるかの銀影は無論のこと、依然としてどこまでも冷たくそれを見守る月の眼差しに対しても、彼女の唸り声は注がれていた。

 

 地獄ではない。アイビスはつい先ほどに、周囲の光景をそう評した。しかしそれは誤りであった。まさしく地獄の宴はこれより始まっていた。全てが砕けた瓦礫の海、炎と砂煙が渦を巻くなか降り注がれる殺戮の雨。これが地獄でなくてなんなのか。

 

 終わってなどいなかった。何も無い、などという事も無かったのだ。アギーハが方々に捉えた動体反応。いままさにシルベルヴィントの下から聞こえる男の悲鳴。地下のハガネ隊。そして自分。この瓦礫の海には、まだこんなにも命が。

 

「やめろ………!」

 

 血を吐くように、アイビスはそう言った。それは過去からの叫びでもあった。横暴な父、傷ついていく母。そんなありふれた不幸が、世界の全てであった頃があったのだ。

 

 ようやく、息も絶え絶えになりながらアイビスは立ち上がった。立ち上がり、そして叫んだ。

 

「やめろ、アギーハァ!」

 

 やめろ、父さん。

 

 生まれて初めて、そう叫んだときのことが脳裏に閃光となって弾けていた。切っ掛けはなんだっただろう。酒場に通いつめていた飲んだくれの一人が、宇宙の話をしてくれた時のことだろうか。それとも生まれて初めて盗みを犯し、手に入れたニール・アームストロングの本を夢中になって読み耽った時のことだろうか。いずれにせよ幼いアイビスはそのときに、星の海とは見上げるものではなく、心を逃避させる場所でもなく、己の足で往くことができる場所なのだと知ったのだ。そしてこの世のあらゆる困難や苦痛、悲運といったものは、耐えるものではなく立ち向かうものなのだともまた知ったのだ。

 

 街角でひたすら目を閉じていた幼子は、そのとき初めて目を開き、世界というものを見渡した。今のアイビスと同じように。

 

「卑劣な真似はもうやめろ! こっちを向け。あたしが相手になってやる!」

 

 無論相手に聞こえるはずも無い。聞こえたところで、鼻で笑うのが関の山であっただろう。それでもアイビスは構わずに叫び続けた。戦争に正義なく、殺し合いに美醜はない。そんな理屈を越えた、遥か根源的な、ただただ理不尽を、悪たるものを憎む衝動が体内より沸き上がって止まなかった。

 

「おい、聞こえないのか、ちきしょう!」

 

 倒木の上になんとか立ち上がり、左肩を抑えながらアイビスは悪態の限りをついた。誰かが乗り移ったかのように口汚く、猛々しかった。

 

 そうして災厄の地に近づこうと、一歩足を踏み出す。ずきずきと疼く足を堪えて傾斜を下ろうとするも、力が入らず無惨に転倒した。瓦礫が胸を打ち、アイビスは息をのんだ。

 

 痛む。体もだが、それよりも心が。己の無力に体する悔しさが、アイビスの目元を濡らした。

 

 こんなにも自分は弱い。戦うどころか、かの銀影に近づく事すらできないほど、あまりにも。

 

 一人では、こんなにも。

 

「助けて……」

 

 もはや恥も外聞も無く、アイビスは泣いた。泣いて、彼女の知る中で最も強き少年の名を呼んだ。

 

「助けて、マサキ……」

 

 

 

 ちょうどこのとき、レイチェル・スコット中尉は愛する男性の肉片に囲まれながら永遠の眠りについた。

 

 ちょうどこのとき、トーマス・リンドバーグは息子の亡がらを抱えながら炎の中でその生涯を終えた。

 

 デイビッド・ブルーノは、まだぎりぎりのところで命運を尽きさせてはいない。しかし彼に庇われている整備士の男は、決して仲睦まじかったとは言えない同僚の温もりの中で、いままさに息絶えようとしていた。

 

 これらは今宵に生み出された被害者の、まだほんの一部である。多くの者が死んだ。これからも死んで行くだろう。死したのち何かを為す術を人間は持たない。死者はただ死者として、以降何を果たすこともなくただ土に還っていく。

 

 ただ人類という種は個々で成立してきた生物ではない。どのような天災、どのような暴虐のなかでも、あえなく倒れる者もいれば、かろうじて生き残る者もいた。種の発生から今日に至るまでの数万年間、如何なる災厄の中でも人々は、己の命運が尽きようとも己以外の何かしらを未来に残してきた。あるいはそれは、掴まれた尾を切り離してなお進む蜥蜴やミミズなどとなんら変わる事のない、生物としての一つの仕組みなのかもしれない。

 

 その証明であるかのように、多くの誰かが多くの何かを抱えて潰えたこの日に、それらを受け継ぎ、先へと繋ごうとする人物がいた。

 

 そうして、まるで誰かに呼びかけられるように、少年は目を覚ました。

 

 

 

 すこし気を失っていたらしい。マサキはずきずきとする頭痛を堪えながら、仰向けに寝そべるアウセンザイターの影からまるでトカゲのようにひょこひょこと這い出てきた。

 

「あー、死ぬかと思った」

 

 その呟きも、周囲の惨状を見渡せば決して大げさではない。ハガネの格納庫は文字通りに天地がひっくり返ったような様相を呈していた。艦全体が横倒しになったことにより、ダイゼンガーを初めとする天井側に位置することとなった機体群が軒並み床側に落下したのだ。互い違いに仰向けと俯せになった機動兵器たちが、見渡す限りの床を埋め尽くしており、題するなら「巨人たちの雑魚寝」といったところだろうか。暢気な発想だが、ここに至るまでさぞ盛大な地響きと騒音を巻き起こしただろう。かろうじてフェアリオンなどサイズと重量に恵まれた機体だけが、いまだ固定具に支えられながら天井から釣り下がっているが、それにしても油断は禁物だった。

 

「まったく、特機ってのも考えもんだな」

 

 悪態を付きながら、マサキは仰向けになっているアウセンザイターの愛想の無い横顔をよじ登った。すでに床は巨人達の体躯によって塞がれている。とても進んで行ける状態ではないので、機体の上を歩くしかなかった。

 

 アウセンザイターの鼻先に辿り着き、マサキは辺りを見渡した。見る限り九十度ほど横倒しになっているものの、なんとかハガネは形を保ち続けているようだ。艦内の明かりは消えており、非常用電源に切り替わる様子もない。切り替わったのち、それもまた破損したのだろう。内装のダメージはかなり大きいようだが、足場が崩れないだけありがたい。

 

 落下はひとまず収まったようだ。アイビスではあるまいし、どれほどの天変地異でもまさか無限に落ち続けるわけもない。とりあえず下限には到着したらしく、ならばあとは昇るだけだとマサキはごく簡単に考えた。さきほどからごく微量に感じる断続的な揺れと音のこともある。

 

「さーて、こうしちゃいられねえ」

 

 マサキはアウセンザイターの右肩まで走って、その上にラリアットをするように乗っかっているダイゼンガーの右腕に飛び移った。ダイゼンガーの後頭部を通るときは殊更ズカズカと踏みにじるようにしてやった。

 

(覚えてろよ、この!)

 

 そうして飛び石のように機体から機体を移動して行き、やがて仰向けに倒れふす白銀の機体に辿り着いた。

 

 全長三十メートルにも届く銀巨人。力強い五体。白と銀の鎧。三層一対の翼。猛禽の爪。

 

 風の魔装機神。言うまでもなき彼の半身。しかし、なにやら邪魔者がいる。天井側から落ちて来たのであろうアステリオンが、不届きにも押し倒すような形で上に乗っかっているのだ。サイバスター側にとくに損傷はないようで、見ようによってはサイバスターが彼女の機体を受け止めたように見えないこともない。

 

(まぁ、勘弁してやるか)

 

 こちらには、あまり腹は立たなかった。

 

 マサキは当たり前のように、サイバスターに乗り込んだ。ただちに出撃するつもりだった。こんな事態が天然自然に発生したとは思えない。おそらくは何者かが攻撃を仕掛けたのだろう。おそろくは今もなお。

 

 先ほど見た限り、格納庫の出入り口は幸いにもとくに塞がっていないようだ。にもかかわらず、人が集まってくる気配はない。通信を試みても、案の定、誰からも答えは返らない。まさか最も危険地帯にいたマサキを差し置いて全滅はしていないだろうが、機敏に動ける状態でないのは確かなようだった。

 

 なにも待っておくことはない。先に外の様子を見ておくべきだろう。おそらく今は艦全体が土の中なのだろうが、問題は無い。突き抜けるまでのことだ。外に出れば敵の大軍が待ち受けているやもしれなかったが、多対一こそ魔装機神の本領なれば恐れるに値しない。

 

 シートに腰をおさめ、コネクタに手を当てようとして、マサキはふと思った。ハガネはなんとか形を留めた。おそらくヒリュウ改も無事だろう。ならば基地施設はどうなったのか。その中にいた人々は、そして彼女は……。

 

 アイビスの現状も、次々と幕を閉じていった物語の数々も、今のマサキには知る由もない。無念のまま死んでいった誰かが、もう戦えない誰かが、死の国から何を訴えかけようとマサキの耳には届かない。かろうじて生き延びるアイビスの声にしても同様だった。

 

 それでも少年は立ち上がっていた。声が聞こえずとも、声が望む通りに立ち上がり、願いが聞こえずともその通りに剣を抜いた。本人には全く自覚がなくとも、それでも確かに、その背に何かを背負ってマサキは行く。

 

「覚悟しときな」

 

 誰に言うのでも、誰に答えるのでもなく、マサキはただ独り言として呟いた。

 

「誰だか知らねえが、ただじゃ帰さねえ」

 

 マサキの闘志を感じ取り、サイバスターの双眸に翠の光が灯った。

 

 

 

 



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第十二章:瓦礫の海の天使たち

 

 

   Ⅰ

 

 

 ラングレー基地の崩落の事実を、地球連邦政府ならびに連邦軍総司令部が正しく認識するまでには、かなりの時間がかかった。無能とそしるのは酷であろう。通常の襲撃、あるいは通常の天災ならばともかく、このような大規模な人為的災害は史上まれに見ることであった。さらに言えばラングレーは無論のこと、アメリカ大陸全体がほんの数日前まで異星軍の占領下にあったのだ。奪還が叶ったとはいえ各都市機能、および基地機能の回復は未だ十全ではない。近隣住民や地元の警察からの連絡だけではなかなか事の重大さが伝わらず、衛星からの映像をもってして初めて事態の大きさを飲み込むことができたのだ。

 

「救出活動を行う。救援部隊をただちに向かわせろ。周辺自治体にも支援要請を出せ」

 

 政府代表から即座に命が下ったが、それは言うに易く行うに難い事柄であった。幸いにも異星軍は徒に一般市民を痛めつけるようなことはしなかったが、それでも大陸内の各自治体や医療機関、警察機構、ならびに各種産業や物流は軒並み首根っこを抑えつけられていた。それぞれの組織の代表は軟禁状態にあり、人手はあっても組織や命令系統が機能不全を起こしている。それでは効果的な動きは期待できない。物資も乏しくては尚の事だ。

 

 バージニア以外の地域ではすでに解放活動ならびに機能回復が図られているが、それもまだまだ始まったばかりである。多少なりの支援ならば末端の者らの機転を当てにすることもできるが、組織だった支援活動までは頼めなかった。

 

 すぐに動かせる組織といえば、やはり軍しかない。奪還したばかりの近場の基地(マッコーネル基地やテスラ研など)に駐屯中の機動兵器部隊ならばすぐに動かせるし、また戦闘機の類いならば幾らでも飛ばすことができるだろう。しかしどちらも繊細な救出活動には到底適さない。様々な物資に衛生兵、ヘリや専門的な重機、そして陸軍による工作部隊をなんとか他所から掻き集めなくてはならなかった。

 

 総司令部は連合軍全軍に報せを発して、救出部隊の緊急編成と、大規模輸送船団の手配に取り掛かった。それに先行して現地情報の収集のため、ハワイ島から四機の偵察機編隊がラングレーに向けて発進した。このとき既に、事件発生から一刻は経過していた。

 

 その間も、現地では災厄が続いていた。それは崩落箇所のみに留まらず、その周辺の地域もまた同様だった。

 

 ようやく崩落が収まったかと思えば、今度は光子と荷電粒子の流星群が中空より降り注ぎ始めたことにより、現地を遠巻きに眺めていた周辺住民は慌てて避難を開始していた。報道陣やなんとか降下を試みていた地元警察やレスキュー隊の面々もまた、職務上の使命感はひとまずさておき、自分や家族の命を優先し始めた。

 

 異星軍の思惑は分からないが、あのままでは最悪基地に備蓄されていた航空燃料に火が付き、大火災を生じかねない。さらに言えばラングレー基地は海に面した基地でもある。もし地形破壊がこれより進めば海岸線が崩潰し、津波や洪水が巻き起こる危険もあった。

 

 しかし本来避難活動を統制するべき警察や州政府は、崩落以前からすでに命令系統に支障を来しており、役割を十全に果たす事ができないでいた。

 

「押さないでください! 慌てないでください!」

 

「皆さん、落ち着いて行動して下さい!」

 

 末端の警察官達が必死に声を張り上げようと、津波と化した市民達を止めるには至らない。混乱した民衆は思い思いに最善の逃走手段を試み、結果的にはさらなる混乱を呼び込んだ。車で移動しようとした者は徒歩者に車道を占領され、逆に徒歩者は車両に交通を阻害され避難は遅々として進まない。自然、交通事故や喧嘩沙汰なども多発し、死者すら生まれた。そうして、思わぬ二次・三次災害が今宵の犠牲者の数を増やしていった。

 

 

 

 基地そのものが不可抗力にも見放されようとしているなか、基地内にいながらにして現時点までなんとか生き延びている人々は、それぞれに懸命にその命を食い繋ごうとしていた。いまだ地下に閉じ込められている者達は必死になって地上への出口を捜索し、怪我や袋小路によって身動きが取れない者は神に祈りながら救助の声を待ち続けた。体を動かせるだけ前者の方がマシなのか、あるいは動けないだけ後者の方が楽なのか、それはどちらとも言えない事だった。ひたすら一欠片の希望に縋ろうとする、哀れな表情だけは少なくとも共通していた。

 

 ツグミ・タカクラは、そんな者達のちょうど中間の立場にあった。

 

 今宵一晩の宿として宛てがわれた第七棟の、三階北側。第七棟は本来五階建てであるのだが、いまは地中でまるごと横倒しになっているため、現時点ではそこが最も地上に近い位置になっている。

 

 アイビスと別れたあと、ツグミはずっと第七棟の客室の中に閉じこもっていた。部屋に帰った直後はそれなりに気力もあり、仕事でもして気分を変えようとハンディパソコンを立ち上げもしたのだが、結局何一つキーを押さないまま蓋を閉じることとなり、そのままのそのそと備え付けのベッドに潜り込んだ。日が暮れてからも、夕食もとらずにずっとそうしていた。頬の痛みが、食欲もなにもかもをツグミから奪い去っていた。

 

 そうして震災が起こった。幸い部屋自体が崩れることはなく、したたかに体を打ちはしたものの、ツグミは何とか部屋の中で五体満足に生き延びることができた。突然の事態に、さしものツグミも平時の気力を取り戻し、崩落が収まったころを見計らい部屋を抜け出した。そして上下感が狂い、異次元的な迷路と化した施設内の探索を始めたのである。

 

 道々でツグミは四人の生存者と合流し、そしてそれに倍する数の犠牲者を看取ることとなった。

 

 倒壊した第七棟は棟全体が真っ暗闇で埃臭く、壁の中に張り巡らされていた電源ケーブルが所々でむき出しになり、火花を散らしていた。またどこからか火の手が上がっているのか、白く焦げ臭い煙がうっすらと霧がかってもいた。およそ近代建築物の内部とは思えない、冒険小説に出てくる海賊の洞窟か、巨大な魔物の胎内としか思えないような光景がそこにあった。

 

 これで白骨死体でも転がっていればまさしくであったのだろうが、あいにくと転がっているのは血と肉と軍服をまとった生々しい死骸たちだった。瓦礫の中から手だけが生えていたり、大きなコンクリートの塊の下から下半身だけがはみ出していたり、人体でありながら、明らかに人体から逸脱したシルエットを描いて辺りに転がっていたり。闇の中で彼らはいっそう闇深い影絵として、ひっそりと慎ましく、そこかしこにぼんやりと浮かび上がっていた。

 

 黒とより深い黒のみで描かれた地獄絵図。水墨のゲルニカ。そんな世界を、ツグミたちはただ黙々と歩き続けた。堅固な意志によるものではない。むしろ逆であった。そうするしかなかったのだ。

 

 ツグミらはひたすらそうやって上を目指し、ようやく辿り着いたのが、いま彼らが足止めを食らっている三階北側の一室だった。

 

「……」

 

 血管に鉛が流れ込んでいるような重苦しい疲労が、ツグミの全身にのしかかっていた。短い間に、あまりに多くの死を見た。それは否応無く、人間に慣れを与えるほどだった。自分の神経の一部が、なにか致命的な麻痺を起こしつつあるのをツグミは感じていた。感じつつ、かといってどうこうする気も起きず、壁際にへたり込みながら薄らぼんやりと縦穴の向こうを見上げた。

 

 折り重なる瓦礫のほんの隙間、天窓のように小さいその穴は、地上の景色と音を僅かながらに運んできてくれる。銃声、悲鳴、爆発音。肉眼での目視は叶わないが、状況は明らかだった。ここよりそう遠くないところで、だれかが砲撃を仕掛けているのだ。

 

 なんのことはなかった。どうやら外も、内と大して変わらないらしい。

 

 爆発音に乗って、絶え間なき微振動が部屋全体に伝わっていた。壁や天井がきしみを上げて、パラパラと砂埃を落とした。泣いているようだ、とツグミはそんなことを思った。

 

 外に敵がいる以上、迂闊に登るわけにはいかない。かといってこのままここに留まっていても、いつこの場所が崩れるかも分からない。ツグミらに出来ることはただ助けを待つことだけであり、奇妙にもそのことを有り難いと思う部分が皆の心のどこかにあった。誰もが疲れていたのだ。

 

 えずくような声が聞こえた。ツグミの隣に座っていた軍人が、恐怖に耐えかねて嗚咽を漏らしていた。ウィリアムという名前で、軍人といってもツグミより明らかに年下な少年兵である。立派なのはまだ体だけであった。

 

 男のくせに情けない。そんな思いは禁じ得なかったが、彼の方が少年としては自然な姿なのだろうともまた思った。成人にも満たない齢で、かような極限状態のなか悠々と出来るはずもない。一人、出来たとしてもおかしくなさそうな少年にツグミは心当たりがあったが、彼のような者こそが、むしろ悲しいまでに異常なのだ。

 

 しばしのあいだ考えてから、ツグミはウィリアムの肩をつついた。涙でぐしゃぐしゃな顔を振り向かせた少年に、ちょいちょいと手招きをする。少年は幾分迷いながらも、やがて耐えかねたようにツグミの胸に縋り付いた。

 

 情けなさたっぷりな姿をいっそ哀れに愛しく思い、ツグミはその後頭部を柔らかく撫でた。子守唄のような、やさしげな鼻歌が意識無しに唇からこぼれてきた。さすがに成人はお断りと、どこか羨ましげに見てくる他の軍人たちには舌を出しつつ、ツグミもまた自分自身の思わぬ母性に内心で驚いていた。忸怩たるものがあったが、これも年長者の務めなのだろうと、なぜだろう、今ならば納得する事が出来たのだ。

 

 ツグミのかぼそい歌が、爆撃音の合間を縫って部屋の中を漂っていった。それはウィリアムのみならず、辺りの男達全員の胸に等しく染み渡った。

 

 一人の男は故郷の母親の顔を思い出し、涙を噛み殺した。

 

 一人の男は妻と子供を想い、こちらは人目憚らずに鼻をすすりだした。

 

 そして一人の男は、実のところそれまでウィリアム以上に恐慌を持て余しており、ともすればツグミに暴行を働くことすら考えていた。ツグミの端正な横顔も、ほそい首筋もハーフパンツから伸びる真っ白な足も、生命の危機に怯える彼の下腹部に際限なく熱を与えて行くようだった。しかしこうして彼女の歌を聴くうちに、ふと考えを改めることができた。美味そうな餌にしか見えなかった彼女が、なにか別の、尊い何かに見えたのだ。

 

 男は邪心を捨て去った。ここで死ぬのかもしれない。ならほんの少しでも、優しさの中で死にたい。そういう風に思ったのだ。

 

 天窓からどこか見覚えのある、蒼く燃え盛るような光が差し込んでツグミ達を照らしたのは、ちょうどそんな頃の事だった。

 

 

   Ⅱ

 

 

 地中よりまるで産まれ出づるがごとく。

 

 その蒼く燃ゆる巨鳥の羽ばたきを、アイビスは確かに目にした。近場にいたデイビッド・ブルーノもそれを見た。アギーハもまた。

 

 見まごうはずも無いその神秘に、それでも三人はまさかと思った。大地を食い破り、砂塵を切り裂き、現れいでた鳳は、その勢いのまま四機のガーリオンにぶちあたり、一呑みにした。そのまま諸共食い破りつつ、一切速度を落とす事なく上空へと突き進み、やがてくるりと錐揉むように一回転して、身にまとう青白いオーラを解き放った。

 

 内に秘められたる銀騎士の姿が露となる。サイバスター。風の魔装機神。直径およそ二キロにも及ぶ巨大クレーター、それを生み出すほどの災厄を浴びながら、彼の者の肢体は依然銀色に一点の曇り無く輝いていた。

 

 地上の凄惨たる状況をひとしきり見渡したのち、マサキはその眼差しを一点に固定した。外敵の姿を捉えた少年の瞳が、燃え上がるように殺気立った。

 

「てめえか。そういや仕留め損なっていたな」

 

 外部音声を開放させる。アギーハに悪態を届かせるのは無論、地上の生存者に味方であると伝える意味もあった。

 

「一人なのか? 意気込んで出て来たのに、随分と寂しいお出迎えじゃねえか」

 

 たったいま、一息で四機ものガーリオンを葬ったばかりだが、どうやら少年にとってそれは数えるにも値しないらしい。不遜この上ない態度だったが、アギーハはむしろ嬉々としてその軽口に乗っかった。

 

「そういう坊やは元気そうだね。また会えて嬉しいよ。どうだい、外をご覧になった感想は。なかなか素敵な飾り付けだと思わないかい? 結構、頑張ったんだよ?」

 

「確かに、めったに見れるもんじゃねえな。人が埋まっている最中、随分と盛大にやってくれたじゃねえか。いますぐ降参すんなら、五分の四殺しで許してやらなくもねえぞ」

 

「お言葉、そのまま返すとするよ。それにしてもあんたこそ一人なのかい? あとの連中はどうしたのさ。もしくたばっているなら、手間が省けてとても嬉しいんだけど」

 

「さぁな、昼寝でもしてんだろ。てめえごとき、俺一人で十分だってことだ。降参しないってんなら、ちょうどいい。その首を叩っ斬ってアイビスへの手土産にしてやらぁ」

 

「アイビス? あの小娘の名前か。元気なのかい? ふふふ、死出の旅には花でも添えた方がいいんじゃないかい?」

 

「抜かしやがったな。だったらまずはてめえを送り出してやるよ。二度と帰って来れねえよう、八つ裂きにしてな!」

 

 舌戦はここまで。

 

 異界の風と異星の風は、同時に天へと昇った。双方勝るとも劣らぬ速度なれど、この距離、この間合いならば分があるのはサイバスターの方である。長剣ディスカッターが、魔力をたたえて振りかぶられる。その透徹した刃に込められた輝きの煌々たること、平時とは比べ物にならない。

 

 外部音声はそのままに、マサキは叫んだ。

 

「勝ったと思ったか!」

 

 口から炎を吐かんばかりに、マサキは叫んだ。

 

 いま彼は怒っていた。ディスカッターの刀身をより一層に煌めかせるのは、卑劣な敵手に対する少年の真正直な怒りだった。戦えない者を相手に武力をひけらかし悦に浸るアギーハへの、魂の奥底から迸るような純粋なる怒りだった。

 

「この程度で参ると思ったのか! よく聞け、俺はやられたら必ずやり返す!」

 

 しかし、少年の怒りはもはや少年だけのものではない。彼本人にそのつもりがなくとも、今の彼の体には多くの無念が宿っている。

 

 誰かが言う。斬れ、俺の代わりに。

 

 誰かが言う。撃て、私の代わりに。

 

 彼本人がそうと知らずとも、地の底にひしめく数多の怒りと恨みは、彼がかざす刀身へと一様に収斂し、その太刀筋に乗って世に放たれる時を待っていた。

 

「俺たちを……なめるなよぉぉーっ!」

 

 ——秘剣・ディスカッター霞斬り。

 

 少年の裂帛の気合い、そして幾千もの声無き声を宿し、銀の魔剣が音をも超えて夜気を裂く。

 

「ぐうぅぅぅっ!」

 

 当たった。切り裂いた。出会い頭の一閃が、稲光のように疾走して敵の左腕を音も無く両断した。今宵ラングレーの上空に出現して以来、天上人を気取ってやりたい放題に地上へ災厄をもたらしてきたシルベルヴィントが、いまようやくに、報いの一撃を受けてたじろいだ。

 

 躱せなかった。その思いと事実が、アギーハの自尊心を灼熱させる。

 

「よくもこのあたしに……坊や、きさまぁ!」

 

 射殺すような目で、アギーハは吼え立てた。無論たじろぐマサキではない。勝るとも劣らぬ猛禽の目に、隠す気もない侮蔑の色を交えて迎え撃った。

 

「抵抗できない奴にしか威張れねえのか! さぁ来い! 俺が相手になってやる!」

 

 それを狼煙として二つ銀影は夜天に散開し、猛烈な空戦を繰り広げ始めた。

 

 

 

 今宵という災厄において、サイバスターの出現はまさしく転機であった。死中に活が生じた瞬間であり、絶望の中に希望が生じた瞬間であった。外部音声にて周辺に響き渡ったマサキ・アンドーの啖呵は、ただの啖呵では終わらない。繰り出された反撃の一刀は、ただシルベルヴィントの一部を欠損させるだけに留まらない。多くの者がそれを耳に聞き、目にも見た。その音と姿は、さならがら打ち鳴らされた銅鑼の音の如く周囲の人々のはらわたに染み入り、振るわせた。

 

「今しかないわ。登るわよ!」

 

 ツグミはすぐさまウィリアムを放り出し、周りの軍人達に檄を飛ばした。呆気にとられる少年の尻を叩き、むりやり引き起こした。

 

「敵は浮上したわ。いまなら脱出できる。とっとと立ちなさい。生きるのよ!」

 

「生きるんだ!」

 

 所変わり地上で、異口同音に叫ぶのはデイビッドだった。誓いはいまだ違えない。よたよたと走り出す彼の背には、呼吸を終えつつある整備士の男がしっかりと背負われている。彼を抱えて懸命に走りながら、デイビッドは呼びかけるように、そして自分に言い聞かせるように叫び声をあげ続けた。

 

「おい聞こえるか。死ぬんじゃないぞ。生きるんだ、絶対に!」

 

 彼ら以外の生存者もまた同様だった。アギーハが捉えていた多くの動体反応が、崩落とそれに続く砲撃をからくもかいくぐった人々が一斉に蠢動を開始する。多くの者が駆け出そうとしていた。

 

 アイビスもまた走っていた。この地獄に立ち向かうべく、月からの威圧に逆らうべく、そして夜空を駆け巡る、あの騎士の背を追うように走り出していた。足の痛みはあったが、歯を食いしばって堪えた。手足がちぎれようが、今は走らなければという思いがあった。

 

 今の彼女に許される限りの全速力で土砂の坂道を駆け下りながら、アイビスはもはや遥か昔のことにも感じられる四日前の出来事を思い出していた。

 

 心ない言葉を浴びせ続ける自分に対し、マサキもまたはっきりとした敵意をもって自分を睨みつけていた。殴られる。そう覚悟したし、そうであって当然のように思った。そう望みすらした。しかしマサキは一切自分に触れることなく、そのまま二人の関係は絶たれた。

 

 もう二度と会えない。会う資格もない。そう思っていたのだ。だというのに、彼は先ほど何と言ったのか。

 

 ——アイビスへの手土産にしてやる。

 

 そう言ったのだ。この期に及んで、彼は尚もそう言ってくれた。視界を遮る止めどない涙を、アイビスは乱暴に拭い捨てた。千の言葉と千の思いが胸中を縦横無尽に駆け巡り、一斉に何かを訴えかけた。それはあまりに騒然としていて、彼らの言いたい事がなんなのか、アイビスはにわかに掴み取ることができなかった。

 

 分かることはたった一つ。

 

 会いたい。

 

 顔が見たい。

 

 いま自分は、心の底からそう願っているのだと、アイビスには分かった。

 

 

   Ⅲ

 

 

 アイビスが倒れていた場所より南東役一キロメートルほど進み、さらに地下方向へ20メートルほど潜った地点。その一帯で、土砂と瓦礫に埋もれながらもなんとか相互通信に成功した一団があった。

 

「あーあー、こちらR-1。R-1より各機へ、聞こえるか? というか生きてるか? どうぞ」

 

「こちらR-2。どちらも肯定だ。今起きたばかりだがな」

 

「こちらR-3。私もよ。なんとか三人とも無事みたいね」

 

「そうでもないぜ。頭がガンガンするし、視界はぐらぐらだ。二日酔いってのはこういうのなのか?」

 

「生きているだけマシだ。相当な勢いでシェイカーに掛けられたようだからな。運が悪ければ、いまごろ三人まとめてハンバーグの具材になっていたかもしれん」

 

 いささか緊張感に欠けるやり取りの末、SRXチームの三人は互いの無事を確認しあった。崩落当時、ハガネ隊の乗組員はほぼ全員が艦内にて休息をとっていたが、彼らだけは機体に乗り込んで外の滑走路に出ていたのだ。補充隊の搬入作業が一段落した頃を見計らって、三機の合体機構を確認するためだった。

 

 三人、とりわけリュウセイにしてみればとんだ残業であったが、結果的には災い転じて福となったと言えるだろう。機動兵器の装甲ならば地殻陥没に対しても十分なシェルターになったし、今もなお艦内に閉じ込められている者と比べれば、その後の身動きも取りやすい。

 

「センサーがようやく復帰したわ。データを転送する」

 

「確認したぜ。ありゃ、やっぱりドンパチ中か」

 

「この反応は、異星人幹部機の高機動タイプだな。もう一つはサイバスターだ。となると、やはりさっきのはマサキの声か」

 

「とんだ目覚ましだったわね。見たところ、空戦の真っ最中みたい。ハガネ・ヒリュウ改は通信不能。独自に行動するしかないわ。二人とも、やれる?」

 

「言われるまでもねえぜ」

 

「元々俺たちの取りこぼしです。この手でおとしまえを付けなくては」

 

 三人はそう言い合って、各々の操縦桿を握りしめた。

 

 

 

 一方、ツグミ達のところでは一つの再会が果たされようとしていた。

 

 ツグミたちが立っている場所から天窓まで、高さおよそ十メートルというところだった。絶望的な高さではないが、知恵無しに昇れる高さでもない。軍人の一人が、周りのものを使って台を作るよう提案した。ロッカーを一つ見つけて何とか引っ張りだしたが、それでも高さが足りない。瓦礫をくずせば幾らでも材料になりそうだが、それで部屋そのものが崩れてしまえば元も子もない。

 

 どうしたものかと考えあぐねたところ、天窓の向こうから文字通りの天の助けがやってきた。

 

「そこに誰かいるんですか! 無事ですか!」

 

 若い女の声に、ツグミを含めた全員が歓声をあげた。

 

「いるぞ! ここに五人だ。閉じ込められている。昇れなくて困っているんだ。ロープかなにかないか!」

 

「来る途中で見かけました。ちょっと待っていてください!」

 

 そう言って一度声が途絶え、数分後にまた舞い戻って来た。

 

「下ろします。ちゃんと結んでますから、どうぞ!」

 

 声と同時にロープが降りて来た。実際のところ、それはロープではなく断ち切られた電線ケーブルのようだった。頑丈なのはありがたいが、ロープに比べれば些か掴みにくい。

 

「そっちはあんた一人か!」

 

「いいや、三人だ」

 

 今度は男の声がした。

 

「ただ一人は怪我をしている。動けるのは俺とこの娘だけだ!」

 

「よし。ならまずは、あんたが行ってくれ。お嬢さん」

 

 言われたツグミは眼を瞬かせた。

 

「フランクさん、でしたよね。いいんですか?」

 

「歌のお礼だよ」

 

 フランクと呼ばれた男は気障に片目を瞑り、そのいかにも慣れてなさそうな仕草に、ツグミはくすりと笑った。

 

 ああ、よかった。フランクはそう思った。もしあのまま馬鹿な真似をしでかしていたら、きっと自分は生涯この笑顔を見ることは無かった。本当によかった。フランクは噛み締めるように、ツグミの顔を瞳に焼き付けた。

 

 ロッカーによじのぼってツグミはロープをつかんだ。その隣にウィリアムも立って、ツグミの前に跪く。すこしでも高さを稼ごうというのだろう。

 

「失礼するわね」

 

「とんでもないです」

 

 先の一件からか、ウィリアム少年兵は最大限の感謝と敬意をツグミに払うようになっていた。彼の肩に足を乗せると、ウィリアムはゆっくりと立ち上がった。幸いツグミが履いているのはハーフパンツであるが、それでも見上げられるとやや困る格好である。ウィリアム少年兵は出来る限り見上げすぎないよう、それでいてツグミがどこかに頭をぶつけないよう微妙な角度で上に気をつけており、それがやけに難しそうであったので、ツグミは笑って許す気になった。

 

 限界の高さまで来たところで、ツグミは力一杯にロープにしがみついた。独力でよじ上る力はツグミには無かったが、上の者が力強く引っ張ってくれたので危うげなくツグミは地上にたどり着く事が出来た。

 

 小さな天窓から体をはい出し、ようやく息をつけたツグミは息を切らしながら天の助けの姿を見やった。一人は鮮やかな金髪の男で、もう一人はツグミとさほど変わらない歳の、こちらは燃えるような赤毛の女だった。磨けばそこそこの美人だろうに、いまは顔中が誇りまみれで、さながら浮浪児のようだ。

 

 そんな彼女の姿を見て、今度こそツグミの全身という全身から力という力が抜けていった。座っているのに、腰が抜けたような感覚すらある。

 

「ありがとうございます。テスラ研所属の、ツグミ・タカクラです」

 

 座ったままの姿勢で、ツグミはなんとか敬礼の姿勢をとった。

 

「おつかれさま。連邦軍のデイビッド・ブルーノ中尉だ」

 

 金髪の男が柔らかい笑みで敬礼を返した。

 

 そしてもう一人は。

 

「……アイビス・ダグラスです」

 

 ツグミの視線に無理強いされたように、アイビスはやや顔を俯かせながら、そう言った。いかにも怯えるような、後ろめたいような、そんなアイビスの様子に、ツグミは何故だか無性に意地悪してやりたくなった。

 

「どこのアイビスさんかしら?」

 

「……」

 

 言われたアイビスはわずかに顎を振るわせ、いくらかの逡巡をもって次のように言った。

 

「テスラ研所属のプロジェクト候補生です……あとハガネ隊の、臨時軍曹も」

 

 後半はすでに失われている役職であったが、構わなかった。聞いた瞬間に、ツグミは力一杯にアイビスを抱き寄せていた。背骨をへし折って、体中で溶かしてしまおうとでもいうかのような、力強い包容だった。ツグミからの一方的なそれが、双方的なものに変わるのには7秒ほどかかった。

 

「ごめん……」

 

 ツグミの首筋に鼻先を押し付けながら、アイビスはそう言った。ツグミはぶんぶんと首を振った。

 

「昼間のことも、その前も、全部」

 

「いいのよ。私こそ……私こそ、ごめんなさい……!」

 

 そうして二人は再会したのである。

 

 

   Ⅳ  

 

 

 先制の一撃はマサキが加えたものの、もとより双方の戦力は一進一退である。機動力はほぼ同等。火力、白兵能力などその他の戦闘力ではサイバスターが優勢であるが、逆にパイロットの技量と経験、高機動戦闘への造詣の深さではアギーハに軍配があがる。ゆえにマサキ、アギーハともに相手の隙を見つけかねていた。

 

「ちぃぃっ!」

 

 渾身の光子砲を躱され、アギーハは忌々しげに舌打ちした。開戦以来、彼女は一撃もサイバスターに攻撃を加えることができないでいた。アイビスのアステリオンを一撃のもと葬ってみせたアギーハの偏差射撃だが、彼が相手となればなかなか同じようにはいかない。それは純粋な実力差によるものではなく、ひとえにマサキ・アンドーの特異な資質に要因があった。

 

 慣性制御機同士の空戦は、単純なドッグファイトとはならない。不規則な上昇・下降・反転も交えた複雑な機動は、三次元機動の括りの中でも限りなく多次元的と言え、そこでは型や経験の蓄積以上に、より直感的な感性が物を言う。

 

 その点で言えば、このマサキ・アンドーという男ははっきりとした強敵だった。勘が良いというのか、感覚が鋭いというのか、まるで弾が発射される前から既に弾道が見えているような節すら時折見せる。念動力を始めとする何らかのESPを彼が体得しているという情報は無いというのにだ。

 

 またもや光子砲が躱される。牽制・誘導も交えた三点斉射全てが。

 

「ええい、なんだってんだいっ!」

 

 堪えきれず、アギーハはやけを起こした。

 

 生気、オーラ、またはプラーナとも呼ばれる精神エネルギーがこの世に存在することなどアギーハは知らない。またそれを応用して、弾道プラーナをも見切ってしまう達人がこの世に少なからず存在することもまた知らなかった。マサキとて、このときはまだ自覚して使いこなしているわけではない。ただ長年戦いに身を置く事で磨かれてきた彼の感覚が、照準に込められるアギーハの悪意を朧げながら事前に察知することを可能としていた。

 

 三連の光子砲をかいくぐったマサキは、これを好機と見てサイバスターを反転、一気にシルベルヴィントの懐に飛び込ませた。お返しとばかりに銀光一閃。シルベルヴィントの五体を一気に断ち切らんとする。

 

 しかしマサキ同様、アギーハもまた一筋縄ではいかない女だった。ただほんのすこしスラスターと翼の向きを一ひねりするだけで、シルベルヴィントは驚くほどの軌道変化を見せ、サイバスターの剣閃をあっさりと躱した。

 

 慣性を無視するだけが芸ではない。引力と揚力、そして空力を味方につけてこその空戦。そう豪語せんばかりの、鮮やかなる回避運動だった。こればかりは感覚でサイバスターを動かしているマサキでは到底届かぬ境地であり、腹立たしくも舌を巻かずにはいられなかった。

 

「やっろうっ!」

 

「鬱陶しいね、まったく!」

 

 言い合う二人だが、先に苛立ちが頂点に達したのはアギーハの方だった。シルベルヴィントを急上昇させ、直下のサイバスターに胸部砲塔を向ける。

 

「とっととくたばりな!」

 

 そう吠えると、シルベルヴィントの胸元に巨大な光子の塊が生まれた。これまでの光子砲とは、明らかにサイズもプロセスも異なっている。光は集い、弾け、十文字に火走り、渦を巻いた。さながら光の渦。これこそがシルベルヴィントが有する最大火力であると、いまこの場ではアギーハのみが知る。その一抱えほどのエネルギーの塊には、サイバスターの胴体を根こそぎ吹き飛ばすだけのパワーが秘められていた。

 

 照準固定、完了。鳴り響くアラームに聞き惚れるのもそこそこに、アギーハはその引き金を引いた。

 

 ボルテックシューター。その名の通りの渦流光子が、そのまま弾丸となって直下のサイバスターに向け発射された。

 

 威力のほどは分からないが、到底受けてはいられない。マサキは反射的に身をかわし、そして愕然とした。空を切った光子の渦はそのまま地上へと直進し、陥没地帯の四方を囲う切り立った崖の一角に激突した。

 

 爆発が生じた。高空からでもはっきりと分かるほどの規模だった。粉砕された崖は落石となって、奥底の瓦礫の海へと降り注いでいく。またその衝撃によって、瓦礫群の一角が雪崩のように崩れて行くのも見えた。

 

「てめぇっ!」

 

「はっ! いっそ埋めてやりゃいいんだよ。それが死者への手向けってもんだろ?」

 

 続けざまに放たれようとする第二撃。今度はマサキは看過しなかった。即座に中空に六芒の魔方陣を描き、力ある言霊を解き放つ。

 

「ボルテックシューター!」

 

「アカシックバスター!」

 

 蒼と赤の力の塊がぶつかり合い、夜空に万華鏡のような光芒の華を咲かせた。

 

 

 

 アギーハが繰り出した無慈悲な一撃は、地上のアイビスらに深刻な事態を引き起こしていた。弾丸そのものはまるで離れた場所に着弾したが、その衝撃が地響きとなってアイビスらが立つ瓦礫群を揺さぶり、それによりツグミが通って来た脱出口が塞がってしまったのである。内部の部屋にはまだ、ウィリアム少年を含めた四人の軍人が取り残されていた。

 

「ウィリアム。みんな!」

 

 塞がった穴の辺りに向けて、ツグミは必死に呼びかけを行った。よもや部屋そのものが崩落したのではと、顔を青ざめさせている。

 

「皆、無事? 返事をして!」

 

 返事は、数拍遅れで返って来た。

 

「な、なんとか無事だ。部屋そのものは崩れてない」

 

「良かった! いま脱出口を作るわ。念のため、下がってて!」

 

 そうは言うが、どう見てもそれは簡単にはいかない作業だった。地上には男手が一つ、女手が二つ。撤去しなくてはならない瓦礫群に対し、それはあまりにも心もとなかった。

 

 碌に考えずに、アイビスとツグミはすぐさま脱出口近くの瓦礫に飛びついて、遮二無二障害物をのける作業に取り掛かった。しかし小さなものならともかく、大きなコンクリートの塊などはさすがに手に負えない。ましてやアイビスは肩を負傷していた。脱臼した骨はすでに入れ直していたが、すぐさま重労働をこなせるはずもない。

 

「だめだ、重い。ブルーノ中尉、手を貸しください」

 

 そう言いながら背後を振り返って、アイビスは言葉を失った。唯一の男手であるデイビッドは、歯噛みしながらアイビスたちと、彼の足下に横たえたわる整備士の男を見比べていた。その名前も知らない整備士が、すでに一刻の猶予もない容態にあることをアイビスは知っていた。それでも無理を言ってツグミ等の救出の手伝いを頼んだのはアイビスであり、幾分迷いながらも快諾してくれたのはデイビッドだった。

 

 彼の言いたいこと、彼の望みを、言葉無しにアイビスは察した。非情、などとは口が裂けても言えない。言えないがしかし、割り切れないものが重い塊となって肺を圧迫した。

 

「こうなったらもう、何が正しいかなんて無いわ!」

 

 誰もが言葉を出せずにいたところを、ツグミが鶴の一声で断ち切った。

 

「皆それぞれ好きにするべきよ。三人とも、今ここで約束しましょう。今夜のことがどういう結果に終わろうと、絶対に互いを恨まないって。そしてもし、またどこかで再会できたなら、必ず笑って無事を喜び合うって。だって私たち、誰一人何一つ間違ってないんだから」

 

 そうして念を押すように、アイビスとデイビッドの眼を順繰りに見やって、再びツグミは撤去を再開した。わざわざ告げるまでもなく、彼女は残るつもりなのだ。

 

 深い深い尊敬の念が、アイビスの胸中に立ち籠めた。感嘆せずにはいられなかった。

 

「ブルーノ中尉、言った通りにしましょう」

 

「……」

 

「無事を祈ります。行って下さい。ツグミを助けてくれて、本当にありがとう」

 

 そうデイビットに一礼して、アイビスもまたツグミの後に続いた。そこいらに転がっていた鉄棒を拾って、梃子の原理で瓦礫をどかそうとする。

 

 それでも重い。アイビスがどれだけ歯を食いしばっても、片腕の女の力だけでは瓦礫は地面に食い込んだままぴくりともしなかった。やはり無理なのか。そう思いかけたとき、横からそっと伸びて来た力強い男の腕があった。

 

「手伝う」

 

 そう声が聞こえた。振り返らず、力を込めたままアイビスは尋ねた。

 

「いいんですか?」

 

「あいつも同僚だが、この下にいるのだってそうだ。加えて君らは民間人だしな。公務員がそれを放って一人で逃げたとありゃ、下手すりゃ首だ」

 

 瓦礫が徐々に浮き上がりだした。アイビスも鍛えているつもりであったが、それにしてもやはり男の力には及ばない。十分に浮き上がったところで棒を捻り、大きな塊を斜面の下に投げ出した。まだ狭過ぎてさらなる撤去が必要だが、地下へ繋がる脱出口がはっきりと現れていた。その下の暗がりで、四人の男が待ちかねたように喜びの顔を見せている。

 

 息を切らしながらアイビスは棒を離した。向かい側のツグミと顔を見合わせ、二人同時にデイビッドの方を向いた。その二人の、あまりにも花開くような表情に、デイビッドは顔を顰めて明後日の方を向いた。

 

「くそ。テスラ研ってのは、顔でスタッフを選んじゃいないだろうな」

 

 

   Ⅴ

 

 

 その後も撤去作業は梃子摺りながらも進み、ようやくツグミが這い出た時よりもわずかに小さい程度のスペースを確保することができた。すこし狭いが、大の男でもなんとか通れるサイズだった。ロープもそのまま残っている。

 

「急げ! いつまた雪崩を起こすか分からん」

 

 そうデイビッドが叫ぶ通り、斜面上の瓦礫はいつ崩れてもおかしくないくらいに不安定であり、ましてや頭上では特機同士の死闘が繰り広げられているのだ。流れ弾が一つで終わるとは全くもって限らない。

 

「いや、そもそもサイバスターが負ける可能性だってあるわけだしな」

 

 その懸念に憤然と言い返したのが誰であるかは、言うまでもない。

 

「万に一つだって無い! どんな相手にだって、マサキは絶対勝つ。あたしが一番良く知ってる」

 

「なんだ。俺はマサキ・アンドーのステディと一緒だったのか」

 

「そんなんじゃない! ……いえ、すみません。中尉こそ、マサキのこと知ってるんですか?」

 

「前大戦の裏撃墜王だろ。正体はともかく、名前だけなら知らん方がおかしい」

 

 裏とはつまり非公式の、という意味である。マサキは正規兵ではない民間協力者という立場なので、そういうことになっている。

 

 言い合いながらも、救出活動はひとまず順調に進んだ。すでに三名を救出し終え、残るはウィリアム一人となった。ツグミの後も彼は足場役を続け、最後まで地下に残ていたのだ。

 

 あと一人。ようやくのことに、地上の六人に安堵の面持ちが見え始めた。しかし最後の最後で、そんな彼らに死神が凄絶な微笑みを投げかけることとなる。

 

 アギーハが、彼らを発見した。

 

「らっきぃ」

 

 そんな呟きが聞こえたわけもないが、差し迫った悪寒を頭上に感じて、アイビスは空を見上げた。

 

 シルベルヴィントが、あの銀の凶相がやってくる。忌まわしい記憶の写し絵が、アイビスの脳天から足先までを貫いた。

 

 一方、突如として変わったシルベルヴィントの機動に、マサキは意表を突かれていた。退避するにしては方角がおかしい。まるで地上に何かをよいものを見つけたかのような、そういう動きに見えた。

 

 嫌な予感がする。こういうときの勘はよく当たるのだ。マサキは慌ててアギーハの後を追った。

 

「降りて来やがる。伏せろ伏せろ!」

 

 言いながらデイビッドは、横にさせていた整備士の上に覆いかぶさった。ツグミや他の三人の軍人も彼に習う。アイビスだけが、体が鉛に変じたかのように立ち尽くしていた。

 

「なにしてるんだ!」

 

 デイビッドが飛びかかるようにアイビスを押し倒した。その一瞬後に、まるで目印でも突き立てるかのように、倒れ伏す六人のわずか数メートル脇に光子の束が突き刺さった。

 

 爆発が生じ、瓦礫と土砂が吹き上がった。

 

 凄まじい震動と衝撃、そして熱量に、アイビスはたまらず悲鳴を上げた。そしてその叫びを、マサキは遥か高空にて聞き捉えたのである。空気の振動としての彼女の声ではない。声より先んじて闇夜を突き抜けた、アイビスのプラーナの迸りが、空にいるマサキの感覚を打ち抜いたのである。

 

「まさか……!」

 

 さしものマサキも、さすがにすぐさまその感覚を鵜呑みにすることはできなかった。マサキがはっきりと事態を飲み込んだのは、拡大モニターを展開して地上の様子を確かめた時だった。

 

 瓦礫の谷底、アギーハが意図の掴めぬ砲撃を加えたちょうどその近くに、豆粒のように小さい人影があった。操者の意を汲み取ってすぐに拡大倍率が増大する。銀色の衣装が見るかげなく薄汚れていて、 髪も埃と砂まみれになってぼさぼさだった。全くもってひどい有様で、大地に情けなくへばりつくアイビスの姿を、マサキは確かにその目で見た。

 

 マサキはサイバスターを急降下させた。

 

 思うよりも早く、当然のように彼女のもとへ。

 

 しかし地表付近、高度二十メートルまできたところでサイバスターを一転させ、振り向き様に剣を振るった。剣そのものではなく、刃を伝い張り巡らせた防護結界にて、狙い撃たれた光子砲を弾き飛ばす。

 

 さらに二度三度と同様の攻防を繰り返し、マサキはようやく敵の意図を察した。自分はまんまと網にかけられたのだ。

 

「避けらんないよねえ。避けたら皆死ぬもんねえ」

 

 サイバスターを中心に、円を描く軌道をとりながらアギーハは勝ち誇ったように嘲った。今の四発はあからさまにアイビスらを巻き込む射線を取っており、疑いなくそれは今後も同様に続けられるだろう。

 

 予想を裏切る事無く、悪意に満ちた角度で第四、第五の砲撃が来た。風の化身たるサイバスターは、それを忘れ去ったかのように不動のまま砲撃を耐え続けた。着弾の衝撃が、サイバスターのコクピットを狂ったように揺さぶっていく。結界のためかろうじて損傷はない。しかし時間の問題である。どれほど専念しても、守勢とはいつかは破られるもの。他ならぬマサキ自身が、かつてアイビスに言って聞かせたことだった。

 

 上空の一方的な戦況に、誰もが慄然としていた。中でもアイビスの衝撃は深く大きかった。アイビスが知る限り、マサキはどんな相手にも遅れをとったことはない。彼女にとって、マサキ・アンドーとはすなわち不敗の勇者そのものだった。その彼が敗れようとしている。

 

(あたしたちが邪魔になってるんだ)

 

 そうはっきりと分かった。そう分かった上で、自分達に為す術などないということもまた分かっていた。

 

 ここは動けない。足下のウィリアムを見捨てることなど、彼女達にできるはずもなかった。

 

「行って下さい!」

 

 それを察したのか、叫んだのは地下のウィリアム本人だった。

 

「皆がそこに立っていると、サイバスターが戦えません! 逃げてください!」

 

「馬鹿言わないで! あなたも一緒に逃げるのよ。早くロープを……」

 

 言いかけて、ツグミは絶句した。脱出口が再び塞がっていた。先の砲弾で、ふたたび雪崩が起きたのだ。かろうじてバスケットボールほどの穴は残っているが、これでは脱出は適わない。

 

「なんてことなの……!」

 

「分かったでしょう。もう限界です。逃げて下さい」

 

「こちとら尉官だぞ。一介の軍曹が偉そうに言うな! 待ってろ、すぐに穴を広げてやる」

 

 立ち上がり、穴に取り付いたのはフランクだった。

 

「彼が撃墜されたら、どのみち全滅です。頼みます。ツグミさんを守ってやってください」

 

「ウィリアム! そんなことを言って、私が喜ぶと思っているの! いいから、待っていなさい!」

 

「喜ばそうなんて思っちゃいませんよ。俺はただ、感謝してるんです。生きてて欲しいんですよ、あなたには!」

 

 まだまだ青臭さの抜けない少年が、精一杯にあらん限りの勇気を振り絞っていた。大の大人でさえそうそう口にはできないことを叫ぶその様は、それだけに悲壮そのもので、ますます年長者たちの足を縛り付けた。ウィリアムの意見は一面で正しい。アイビスらがこの場を動けば、マサキは戦える。しかし、そうなればウィリアムの命運は尽きたも同然だ。

 

 そも、この場を動いたところで、逃げることなど可能なのかという問題もあった。すでにアイビスらの存在はアギーハに補足されているのだ。生身で機動兵器の射程から逃れるなど容易なことではない。

 

 あるいは既に、詰みなのではないか。そのような考えが、六人の胸中にずっしりとしみ込んだ。それは凍えるような恐怖だった。ツグミらにとってはこの部屋に辿り着いてしまった時点で、アイビスとデイビッドにとっては彼らを助けようとしてしまった時点で、全ては終わっていたのではないか。その間違いに気づかないまま、ここまで来てしまったのではないか。

 

(そんな……これじゃ何も……!)

 

 この日の夜と同じくらい、深く薄暗く、凍てついたものが、アイビスの心を押しつぶそうとした。

 

 何かが変わると思っていた。この夜を乗り越えられたなら。穴の中の全員を助け出し、その上であの少年と再び顔を合わせることができたなら、自分の中の何かがもう一度変わってくれるような気がしていたのだ。

 

 だというのに、これが結末だとしたら。

 

 ウィリアムも、マサキも死なせるようなことになってしまえば、そのとき自分は……。

 

「くたばりな、サイバスター!」

 

 地上の嘆きなどつゆ知らずに、アギーハがそう吠えるとシルベルヴィントの胸元に再び光子の塊が生み出された。光が十文字に火走り、渦を巻く。言わずと知れたボルテック・シューター。一撃必殺の渦流光子が、再び弾丸となってサイバスターに迫る。

 

「くっそぉぉぉっ!」

 

 避けられるはずも無ければ、迎撃ももはや間に合わない。マサキはアギーハの予想に違う事なく、防御の構えを維持し続けた。結界装甲を最大に、なんとしても耐えしのぐ算段だった。

 

 耐えられるはずだ、一発程度なら。マサキは断じた。

 

 耐えられるわけがない、一発たりとて。アギーハもまた。

 

 しかし致命的であるのは、眼前の初弾においてどちらの判断が正しかろうと、彼の敗北は動かないということだった。

 

 竜巻が結界に直撃した。サイバスターの装甲の僅か手前でエネルギーの暴風が炸裂し、荒れ狂った。その猛威は、サイバスターの防護結界をいとも容易く食い破り、食いちぎろうとする。

 

「ぐ……うぅ……っ!」

 

 結界装甲だけでは到底もたないと見たマサキは、即座にサイバスターに意思を伝え、剣をかざさせた。オリハルコニウムの塊であるそれは、剣であると同時に魔術的触媒……いわば魔法使いの杖でもある。それにありったけプラーナを注ぎ、即席の楯とする。

 

 結界を引き裂き終えた竜巻が、今度はその盾に舌を伸ばした。ぎぃぃぃんと鋼を削り切るような音がする。これまで幾多の鋼鉄を切り払い、刃こぼれ一つしなかった銀の魔剣が盛大に軋みを挙げていた。それは絶え間なく、まるで悲鳴のように。

 

「あああぁぁーっ!」

 

 己を鼓舞するように、マサキは唸り声を挙げた。こと魔装機においては、決して無駄な行いではない。マサキが声帯を引き絞れば絞るほど、彼の意思はより一層脈々と剣へと注ぎ込まれ、その輝きを強くする。

 

「ああぁぁぁーっ!」

 

 かくして剣は、その身を犠牲にしつつもシルベルヴィントの最大火力を相殺するに至った。鋼鉄音が爆ぜ、刀身が砕ける。それに道連れにされるように、光の竜巻もまた光子のかすを残しながら雲散霧消した。

 

 耐えた。防ぎきって見せた。どこからも文句が挙らないほど完璧に。

 

 しかし。

 

「だから、どうしたっ!」

 

 シルベルヴィントの胸元で即座に二発目の充填が開始される。それを見て、マサキはついに敗北を覚悟せねばならなかった。

 

 

 

 

 



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第十三章:風は止み、流星は地に

 

 

   Ⅰ

 

 

 こと魔装機戦では気力はそのまま戦力に直結する。技量や機体性能を云々言う前に、まず心で勝つ。それが魔装機操者に求められる気構えだった。ましてや、魔装機神操者であれば尚の事だ。

 

 ゆえにマサキは、たとえ絶体絶命のときであろうと目を閉じなどしなかった。シルベルヴィントが胸元に生み出した光の渦は、一秒ごとに輝きを強めていった。そこに込められた威力は、ただの一撃でサイバスターの胴体をまるごと粉砕して余りある。それほどまでに凶悪なエネルギーの塊を前に、しかしマサキはますます挑むような目つきで睨みつけた。

 

 そんなマサキの勇猛さが運命の女神の歓心を買ったのかは定かではないが、いずれにせよその光子の渦がサイバスターの胴体を貫く事は無かった。アギーハが会心の笑みと共にトリガーを引く前に、けたたましいアラーム音がそのコクピット内に鳴り響いたためである。

 

 援軍? と脳裏に文字を描きおえるよりも早く、アギーハはシルベルヴィントを飛び上がらせた。そのすぐ足下を、一陣の閃光が薙ぎ払うように通り過ぎていく。チャクラム……あるいは輝く天使の輪のようなそれは、標的を逃したとみるやすぐさま無骨なワイヤーに巻き取られていき、いつの間にか地表に現れていた青色の巨人の右手甲部に収められた。

 

 紛れも無く人型でありながら、重戦車を思わせる鈍重なシルエットだった。太い腕、厚い胸板、しかしそのどれよりも重々しいのは、両肩に搭載された五連装の巨大キャノン砲。大出力ジェネレーターと直結するそれは、PTはおろか特機クラスの重装甲だろうと容赦なく貫通する。

 

 その重厚なる勇姿をみとめて、さしものマサキも安堵の溜め息をついた。

 

「ようやく起きやがったか」

 

「済まん。目覚ましを入れ忘れていてな」

 

 そううそぶくのはR-2の専属パイロットにしてSRXチームの二番機、天才との呼び名も高きライディース・F・ブランシュタインでああった。

 

「合体特機の二番目……」

 

 アギーハが目を剥くなか、雄々しく仁王立ちするR-2の背後から、さらに二機の機影が弩のように飛び出した。一方は戦闘機、もう一方は爆撃機のようなシルエットを描くそれらは、ようやく叶った解放の喜びを噛み締めつつ、まるで競い合うように高度を上げ、風を切った。

 

 R-2も含め、計三機。ともに赤・青・白の三色をまといつつ、それぞれに主体色を異ならせる三つ子の兄弟機。その正体はもはや言うまでもない。ハガネ隊が擁する最大戦力たるSRXチームが、ようやく瓦礫の海を脱し、満を持して大気の海へと飛び立ったのである。

 

「結構なアトラクションだったぜ。堪能したからには、きちんと料金を払わないとな」

 

「こちらR-3。割り勘でいきましょうね」

 

 SRXチームの一番機と三番機を務めるリュウセイ・ダテとアヤ・コバヤシ。そしてR-1にR-3。共に空戦能力に長けた二機は、囲むようにしながらアギーハに追いすがり、鬱憤を晴らすかのごとく執拗に追撃を加えていった。

 

「蠅共が、よくも……!」

 

 二対一を仕掛けられては、サイバスターをいたぶる暇もない。まんまと千載一遇の好機をかすめ取られたアギーハは、呪詛のような唸り声を挙げながらさらに高度を上げて行った。

 

 

 

「こっち。この下だ!」

 

 大地に膝立ちとなったサイバスターに、フランクが繰り返し地面を指差した。その意図を察したようにサイバスターの双眸に光が灯り、ついで黒と白の使い魔たちが主に先んじて地上に躍り出た。二匹の小動物は矢のように駆けてはバスケットボール大の脱出口を難なくくぐり抜け、度肝を抜くウィリアムをよそに内部のおおよその構造を素早く見て取った。

 

「いけるわ、マサキ」

 

「全員どいてろ!」

 

 言うが早いかサイバスターの右腕が、彼からすれば指先ほどの穴目掛けて思いっきりに突き入れられた。あまりといえばあまりな暴挙に当然瓦礫群は一斉に土砂崩れを起こしたが、承知の上である。クロのナビゲートによって正確に突き入れられたサイバスターの腕が、そのまま盾になってその影にいるウィリアムを守っていた。そうして雪崩が収まった頃を見計らい、小さくなったウィリアムを手の中に閉じ込めて、今度はゆっくりと外に抜き出していく。

 

 救出は鮮やかに完了した。

 

 かくして部屋の中にいたツグミたち五人全員は、誰一人犠牲を出すことなく地上に脱出することが叶ったのである。最後に生還を果たしたウィリアムは、フランクたちからは小突かれ、デイビッドからははたかれ、そしてツグミからはいくらかの説教のあとに力一杯の包容を与えられた。頬を染めつつ、ウィリアムは涙目になりながら皆に礼を言った。

 

 彼ら五人、アイビスとデイビッドも含め七人が生き残った。今宵に生じた犠牲者を思えば微々たる人数であったが、それでもその七人には間違いなく、互いに手を叩き、喜びを分かち合う権利があった。

 

 そしてすぐに八人目の救助活動が始まった。あるいは主よりも有能なのではと時に目されるクロとシロは、デイビッドが抱きかかえていた整備士の容態に気付くと、即座に治癒術をかけ始めた。決して万能な魔術ではないが応急処置としては十分であり、息も絶え絶えであった整備士はたちまちの内に容態を安定させ、落ち着いた呼吸を取り戻すことができた。

 

「すまん。ありがとう、ありがとう。この通りだ」

 

 猫に謝辞を述べるなど初めてであったが、デイビッドは可能な限り誠心誠意に頭を下げた。病気や怪我にあまり縁のなかった彼は、人間の医者にさえこれほど感謝した事は無い。

 

 マサキはサイバスターを使って近場に埋もれていたトラックのコンテナを掴み上げ、扉を乱暴にもぎ取った。資材運搬用のトラックであったらしく、中には段ボールや折り畳み梱包箱が何十も積み重なっていたが、手早くあたりに撒き捨てて、コンテナを地面に下ろす。この後にようやくマサキも地面に降り立ち、威勢良く全員に指示を飛ばした。

 

「全員、これに乗れ。安全な場所まで運んでってやる!」

 

 いの一番にうごいたのはデイビッドであり、マサキの力を借りながら慎重に整備士の男を運び入れた。毛布もベッドもないが、ひとまず我慢してもらう他無い。他の者たちも命に別状こそないが大なり小なり傷を負っている。マサキは一人一人に肩を貸しながら、次々とコンテナに連れ込んでいった。

 

 後二人。そう思いながら残る二人のうち一人目の手を取ったところで、マサキはぴたりと動きを止めた。相手もまた同様であった。手を取った者と取られた者、二人して魂を抜き取られたかのように彫像と化した。

 

「…………」

 

「…………」

 

 アイビスとマサキ。彼らが本当の意味で再会を果たしたのはこのときだった。互いに硬直しながら、言葉無しに見つめ合う。言いたい事、言うべき事が数多くあるはずだったのに、アイビスもマサキも、一つもそれを思い出すことができなかった。

 

 触れられた手に伝わる感触に、アイビスの皮膚感覚は一杯になっていた。薄手のグローブのしっとりとした手触り、それ越しに感じられる少年の体温、そのどれもが懐かしく、恐ろしいくらいに尊く感じられた。思えばこの少年との全ては、こうした手と手の触れ合いから始まったのだ。

 

 ああ、取り戻せた。その思いがアイビスの胸中で爆発していた。あのとき自ら突き飛ばしたものが、こうして再び手の中にあった。勝手とそしられても良い。アイビスは神だろうが悪魔だろうが、何にでも感謝した。彼とまた巡り会えたことに、ひたすら感謝した。

 

(なんだよ、なにか言えよ)

 

 マサキはそう思った。彼らしからぬ弱音だった。少年の目に写るアイビスは、目を伏せて、何かに耐えかねるように、堪えきれぬように、小さく唇を震わせていた。それをどう受け取れば良いのか、マサキには分からない。まだ喧嘩中なのに咄嗟に手を取ってしまったのがまずかったのか。しかしそれにしてはアイビスに振り払おうとする素振りは見られず、どころか両手で包み、自らの心臓に押し付けていくのだから、どうにも筋が通らない。

 

(なんなんだよ。取って食う気じゃねえだろうな)

 

 そんな馬鹿なことを考えたが、次第にどうでもよくなって、しばらくアイビスの好きにさせることにした。彼にとってもアイビスの手の平の暖かさは悪い感触ではなく、その向こうから微かに伝わるアイビスの鼓動もまた同様だった。

 

 とにかく、こうして生きてまた会えた。

 

 それだけで十分に思えた。

 

 

   Ⅱ

 

  

 陰陽を描くように散開する二筋のほうき星。その中心をシルベルヴィントが怒濤の勢いで突っ切っていく。その背に食いつかせるように、リュウセイらは一斉にミサイルを解き放った。幾十もの弾頭が噴煙の尾を引いて、思い思いの軌道を描きながらシルベルヴィントに絡み付こうとする。

 

 小賢しい。アギーハは力強く操縦桿を引き倒した。速度を維持したまま、ほぼ直角にシルベルヴィントの機動を変化させる。もはや旋回と呼べる域にない、あまりに急激な方向転換に、ミサイル群はこぞって目標を見失い、そのまま明後日の方向へと飛び去っていく。

 

 そうだろうとも、と特段リュウセイは驚きもせず、シルベルヴィントに向けて再度トリガーを押し込んだ。照準はすでに終えてある。R-1のブーステッド・ライフルが音を越えて火を噴いた。ほぼ同時にR-3のレーザーキャノンもまた別角度から雄叫びを挙げる。各三点、計六点斉射。角度、タイミング、ともに絶妙な嫌らしさでずらされており、さしものアギーハもこれを避けきるには三秒間ほど息と瞬きを止めねばならなかった。避けきった後に、すかさず光子砲の反撃を加える。狙いはリュウセイ。

 

「うわととっ!」

 

 さすがに六発すべてを避けられるとは思わなかったのか、リュウセイはみっともなく面食らいながらも、ぎりぎりのところで反撃を躱した。双方ダメージなし。

 

 二対一とはいえ、戦いは決して一方的なものとはならなかった。もともとSRXチームの機体はシルベルヴィントほど空戦能力には長けておらず、とりわけ速度面では大きく遅れをとっている。しかしそれにしても二対一である。多少の足の違いなど物ともしないほどの有利な状況であるはずであったが、それ以上のハンディキャップが双方間の戦いを膠着させていた。

 

「ええい、くそっ、機体がガタガタだ」

 

「こっちも同じ。下手をすれば空中分解だわ」

 

 そうリュウセイとアヤが毒付く通り、二機のコンディションは劣悪の一言であった。一部の武装は故障ないし消失によって使用不可。機体そのものも、旋回中に間接が軋み音を挙げるほどにがたがきていた。無理な機動を繰り返せば、まさしくアヤが懸念する通りの事態となるだろう。

 

 サイバスターとちがい、この二機は直接に地殻陥没に巻き込まれている。そんな中でもパイロット保護という最重要課題をクリアしたのだから讃えられるべき性能と言えるが、さすがに無傷では済まなかったのだ。彼ら最大の切り札も、今という状況では考えるも愚かである。

 

 逆に言うならば、これだけのハンデを抱えても二人はアギーハ相手に引けを取っていなかった。多は力である。シルベルヴィントがいかに最速を誇ろうと、二つの敵に全く同時に対処することはできない。いまアヤのR-3がそうしているように、常に片方が相手の死角に入りその機先を制し続けることで、リュウセイたちは天と地ほどの機体コンディションの差をかろうじて補っていた。

 

「見事なもんだ。念動力者の力ってやつだとしたら、薄気味悪いけどね」

 

 驚嘆と嫌悪を微妙に織り交ぜながら、アギーハは鼻を鳴らした。地上で盛んに研究が行われているESPと、それを操るエスパーたち。地球の軍事技術の中でも極めて異端な分野であり、SRXチームはその極致とも呼べる小隊である。人間の精神からエネルギーをくみ出し、それを兵器に転用しようなどという考えは、彼女らの常識にはないものだ。力はいつだって、肉体を含めた物質の作用が生み出すものとアギーハは信じている。

 

 しかし、今の場合はより注視しなくてはならない問題があった。

 

「マサキ・アンドーが生きていた。あの小娘も生きていた。さらにはこいつらまでとなると……」

 

 ハガネ隊は未だ健在。忌々しいが、この流れではそう判断せざるをえなかった。

 

 ならば、よし。アギーハは改めて意を決した。ハガネ隊がいまだ呼吸を続けているというのなら、今宵この手で確実に息の根を止めるまで。あくまで抵抗するというのなら、その方が彼女の好みにも合致して尚のこと気概が湧いてくる。

 

 本隊の転移は、合図一つですぐにでも可能であった。先のガーリオン四機などは、持てる戦力のほんの一欠片に過ぎない。いよいよとなれば本当に全てを出し切ってでも、この一戦必ず貰い受ける。

 

 そしてそのためには、どうしても今のうちにやっておかねばならない仕事があった。

 

 

 

「マサキ、サイバスターに乗れ」

 

 言いながらR-2がホバーを利かせながら接近して来て、アイビスとマサキは弾かれたように間合いを取った。特別なんの感銘も受けずに、ライは言葉を続ける。

 

「リュウセイたちが苦戦している。援護しなくてはならないが、ここはお前の方が向いている。そのコンテナは俺が引き受けよう」

 

 そう告げて、ライはR-2を地面に屈ませた。コンテナを両手で挟み、潰さぬよう落とさぬようちょうどよい力の設定加減を見つけ出し、固定する。

 

 彼の冷静な意見はマサキも同意するところだった。しかし自分でも理解不能な感情が働き、いくらか迷いも生まれていた。その間にも、コンテナの脇に立っていたツグミがR-2に向かって声を張り上げていた。

 

「生存者はまだ他にもいるはずよ! センサーで拾えない?」

 

「大尉の機体ならばいくらかは拾えるだろう。しかし、いま全員を救助しきるのは不可能だ。まずは一秒でも早く、戦闘を終わらせることを優先したい」

 

 これまたもっともな意見に、思うところありつつもツグミは納得せざるを得なかった。躊躇いつつ、彼女もまたコンテナに乗り込み、あとはアイビスだけとなる。

 

 マサキはサイバスターの方を見やった。剣を失いながらもその装いは未だ無傷であり、騎士のようにかしづきながら主の帰還を待ち受けている。それに向かって駆け出そうとしてところでマサキは足を止めた。とくに理由は無い。ただ何となく、首の後ろあたりがかゆみのようなものを覚えたのだ

 

 振り向くと、当然だがそこにはアイビスが立っていた。アイビスはただ立って、マサキを見つめていた。信じるように、祈るようにしながらその出陣を見送ろうとしていた。その姿に、なぜだろう、マサキの足がふと重さを増した。離れがたい、名残惜しさのようなものが足を前に踏み出させるのを躊躇させた。

 

 躊躇いは、ほんの数秒のことである。

 

 彼は一角の戦士であったから、為すべき事は大いに弁えていた。でなくては魔装機神にも選ばれまい。それでも彼とて当たり前の少年であり、何かを惜しむ心を完全に閉ざす事は出来なかった。

 

 そして結果的に言うならば、それがマサキの致命的な隙となった。そのほんの僅かな逡巡が、彼の未来に途方も無い影を落とすこととなったのである。

 

 

 

 速度に勝るシルベルヴィントは、それゆえ常に戦域の決定権を持つ。アギーハが逃げれば相手は追わざるを得ず、そしてその逆は、その時の作戦目的にもよるが彼我の速度差からして早々起こりえない。SRXチームとの競り合いの間中も、アギーハはそうして徐々に、気付かれない程度にゆっくりと戦域を遠方へと移動させ続け、地上に降り立つサイバスターとの距離を密かに稼いでいた。いざというときに繰り出す会心の突撃を、何者にも邪魔させないために。

 

 いまがその時と見て、アギーハはシルベルヴィントを一転させた。急加速させた。突然の反転にSRXチームは追従しきれず、双方の距離は見る見るうちに開いていった。ささやかな計略は見事に的中した。高笑いを堪えながら、アギーハは夜天を疾走した。

 

 合体の出来ないSRXチームなど恐るるに足らず。超音速のなか、ぐんぐんと狭まっていく視界の中心にて、彼女が一心に見据えるのは今も昔もただ一人だった。

 

 お前だよ、マサキ・アンドー。

 

 お前だけは捨て置けない。

 

 本隊を、圧倒的物量を呼び寄せる前に、なすべきこととは何か。言うまでもなくそれは、あの物量の天敵たる銀色の騎士を撃ち落とすことだった。シルベルヴィントに勝るとも劣らぬあの空の覇者を高機動戦で制する事は容易ではない。しかし、パイロットがのうのうと生身をさらしていれば全く話は別だった。

 

 この瞬間、三人の人物の意識が各々に炸裂し、閃光となって弾けた。あるいはそれは光を越え、時をも越えて、超新星のように熱く、大きく爆発していた。

 

 不倶戴天の敵を拡大モニターに捉え、アギーハは持てる限りの集中力をこの一秒に注ぎ込んだ。視界は狭窄し、必要最低限のエリアのみを残してあとの全てが闇と化す。音が消え、鼓動が消え、秒針の歩みが限りなくゼロとなる。照準マーカーの動きがやけにのろくさい。歯がゆいほどの間怠っこしさで幾何学模様がゆっくりと移動し、少年の背中と、ついでにそのすぐ近くにいる赤毛の少女にぴたりと合わさった。アラームがなるそれより先に、アギーハは躊躇い無く人差し指のトリガーを押し込んだ。

 

 一方、彼方より飛来するシルベルヴィントの姿を捉えた直後に、マサキは駆け出していた。反射的に走り出していた。サイバスターの方に、ではない。そうであれば、全ては変わったかもしれない。しかしマサキは逆を行った。まったく反射的のことであった。

 

 迫り来る銀影、主を待つ銀騎士、その全てに少年は背を向けた。善し悪しも、正も誤も、合理非合理も関係ない。ただ咄嗟の感情が命じるまま、心の赴くまま、想いが溢れるままに、マサキは呆然とするアイビスの肉体に飛びかかった。

 

 そして最後の一人、アイビスの体は雷に打たれたようにひとつ震えていた。闇夜の彼方より舞い降りんとするあの凶相。既視感が吐き気となって、アイビスの心胆を突き上げて来る。この光景を彼女はよく知っていた。眠っている間にも、起きている間にも、ことごとく夢と現実を侵略しては彼女から全てを奪い去ったあの光景そのものだった。

 

 五体が縛られる。彼方へと落ちて行く、すべてはあのときのまま。しかし、ひとつだけ異なる点がある。それがアイビスの脳裏を疑念で埋め尽くした。

 

 どうして。

 

 問いかけが弾けた。なぜあの少年がいるのだろう。あの凶相と、背後の穴。それ以外は闇一つしかなかったあの世界に、なぜいまあの少年の姿が見えているのだろう。いつだって遥か天つ彼方を羽ばたいていた彼が、なぜ大地を駆けて、さながら庇い守ろうとでも言うかのように、自分と凶相の間に割って入っているのだろう。

 

 どうして。アイビスには分からなかった。

 

 あたしはいつも一人だった。落ちゆくのはあたし一人だけだった。

 

 なのに、なぜあんたがいるの。

 

 だめだよ、これじゃあんたまで……!

 

 

 

 かくして光子砲が放たれる。

 

 遠方にてリュウセイが叫ぶ。ライもまた。

 

 生身の人間などやすやすと焼き尽くすその光は、矢となって大気を駆け、瓦礫の大地の一角ごと一人の少年と、一人の少女を焼き付くさんとする。

 

 ツグミが悲鳴を挙げ、クロとシロが同時に吠えた。

 

 矢が大地に接し、光が弾けた。

 

 そうして全てが吹き飛ばされた。

 

 

   Ⅲ

 

 

 アイビスとマサキの姿はたちまちの内に爆発と土煙の中に包まれ、誰の目からも覆い隠された。万が一にも無傷はあり得ない。死んでいるのか、あるいはかろうじて死んでいないのか。もはや問題はそこにあり、それは煙が収まるまで誰にも判断できないことだった。そしてそのときを、リュウセイは待ちなどしなかった。

 

「てんめぇぇぇ!」

 

 怒りに我を忘れた。視界が真っ白に白熱し、肌が沸騰するかのようだった。もはや間接の軋みなど完全に黙殺して、R-ウィングを遮二無二に駆る。白い鋼鉄の翼が風を切り、刀のように長く鋭いヴェイパーを描いた。

 

 Gリボルバーが次々に炎を吐く。そのことごとくをかいくぐりながら、アギーハは機体状況を知らせるモニターの一つを見ながら愕然としていた。

 

 左肩部スラスターと腰部アーマーに損傷が生まれている。大した傷ではない。しかし確かに損傷していた。

 

 撃たれていた。いったい何時?

 

 被弾してそれに気付かぬほど耄碌はしていない。しかしたった一つありうるとすればあの一瞬だった。トリガーを引く右指の感触と照準サイト、そしてあの少年の背中だけが世界の全てであったあの一秒にも満たない瞬間に、R-1かR-2かR-3、いずれかから銃撃を受けていたというのか。

 

 考える間もなく、見過ごせぬ新たな動きがメインスクリーンに生じていた。闇夜にまぎれるR-3の剣呑なシルエットから、一斉に八つの光が飛び散っていた。R-3自慢の誘導兵器が、それぞれに全く異なる軌道をとりながらアギーハに迫り来る。

 

 そして横手からは再びR-ウィングが。R-2の方は攻撃を仕掛けてくる様子はない。手にコンテナを掴みアギーハとは逆方向に遠ざかって行っている。生存者の保護を優先するというのだろう。

 

 三者の状況を一息に捕捉し終えて、アギーハはシルベルヴィントを舞い踊らせた。ストライクシールドとGリボルバーの挟撃を容易く捌き、みるみる内に高度を上げて行く。

 

 そうしてシルベルヴィントは月を背負った。

 

 巨大なる墓穴。瓦礫の海。眼下に広がる己がもたらした破壊の全容を見下ろした。しつこくも抵抗を続ける有象無象の姿を見下ろした。そして唯一無二のパイロットを失い、為す術も無く屈み続けている哀れな銀騎士の姿を見下ろした。

 

 アイビスとマサキを包んでいた煙はすでに晴れていた。拡大モニターをどれほど凝らしても、アギーハはそこから人の形をしたなにかを見つけ出すことはできなかった。

 

 勝った。終わったのだ。

 

 達成感が満ちた。全能感が込み上げた。突き抜けるような衝動にアギーハは身震いすらした。そして内なる自分が、ぬくもんだ吐息とともに耳元で更なる一言を囁きかける。

 

 大敵は去った。蹂躙せよ。思う存分に。

 

 アギーハは口角を限界近くまで釣り上げながら、そのシグナルを発した。そしてその瞬間に月が、まるで水面に映るそれのように大きく揺らめいたのだ。

 

 空間転移。さすがに歴戦のハガネ隊所属であるSRXチームはすぐにそうと気付いた。なかでも索敵に長けるアヤは、さらに詳細な情報をそのときすでに察知していた。

 

「機動兵器が転移してくる。数は三十……いえ、四十!」

 

 その正しさを称えるように、計四十機のガーリオンがいま空間を越えて、さながら月を覆い尽くすかのように現れ出る。一機一機で見るのなら、ハンデを抱えているとはいえ、到底リュウセイたちの敵ではない。

 

 しかし四十機。

 

 どれほど技術が進化しようと、戦の法則は古の時代より不変であった。多は力。無論、いくらか例外はあるだろう。しかし少なくとも現時点のこの場には存在しなかった。合体は封じられ、サイバスターも亡きいま、単純な物量差はそのまま覆し難い運命そのものとなり、SRX小隊を一気呵成に飲み込まんとした。

 

「潰せ」

 

 アギーハの酷薄な一言のもと、四十機のガーリオンは一斉に散開し、続々とリュウセイたちへと降り注いで行った。

 

 

 

 蹂躙が始まった。

 

 多方向からなる縦横無尽な銃撃に、R-1は早々に左手を吹き飛ばされ、右足にも深刻な損傷を受けた。R-3は手持ちの火器全てをバラまき続け牽制を加えていったが、十倍もの戦力に対しては焼け石に水にしかならない。やはり同じように四方八方からの砲弾にさらされ、五体のそこかしこが小爆発を起こしていく。

 

 一機のみ、戦場を離れようとしていたR-2にも戦力は差し向けられていた。数は十機のみであったが、避難民を両手に抱えるR-2にしてみれば、絶望的という他ない戦力である。

 

「放して、お願い! 私だけでも降ろして! 死んでなんかない。あの二人が死んでなんかいるものですか!」

 

「馬鹿言わないで下さいよ!」

 

 コンテナの中で、いまにも剥き出しの扉を飛び降りようとするツグミを、ウィリアムが必死に押さえ付けていた。ライの方でもそのやり取りは聞き捉えていたが、気にかけるも愚かと操縦に集中し続けていた。それでなくとも休み無く敵の砲弾が飛びかってくるのだ。ツグミを止めるどころか、息をつく暇すらありはしなかった。

 

 戦況は一方的であった。多勢に無勢の侵略劇に、反撃の糸口を見つけるどころか、文字通り一切の為す術がない。

 

「くそ。死ぬぜ、このままじゃ!」

 

「大丈夫よ」

 

 らしからぬ弱気を起こした一番機を、SRXチームのリーダーを務めるアヤが冷静に嗜めた。状況を飲み込めていないわけではない。彼我の戦力差が分かっていないわけでもない。むしろ逆であった。彼女自身の念動力とも直結され、結果類い稀な索敵範囲と精度を得ることとなったR-3ノセンサーが、他のどの機体にも捉えられていない、ある一つの事実をキャッチしていたのだ。

 

 それを見てアヤは、覆い尽くすような圧倒的な砲火のなか、まったくもって場違いな、心底の安堵の溜め息をついたのだった。

 

 ああ、皆が来てくれる。

 

 

   Ⅳ

 

 

 異星軍よ思い知れ。物量は物量によって覆される。

 

 まず現れたのは重厚にして長大な刃であった。敵の包囲網に閉じ込められ、コンテナを抱えながら右往左往するばかりであったR-2に、後背から一機のガーリオンが飛び掛かろうとしたそのとき、いかなる冗談か、機動兵器すらも越える馬鹿げたサイズの刀刃が地中より突き伸びたのだ。当然の真下からの斬撃に、そのガーリオンは為す術もなく両断された。一歩遅れて、その巨刀の担い手たる侍巨人が瓦礫を吹き飛ばしながら地中より姿を現した。

 

 我、悪断つ剣なり。燃え盛るような怒りと闘志が込められた、そんな宣戦布告の言葉をそのバイオロイド兵が聞き捉えることはなかった。

 

 次に現れたのは一体の怪物である。しかし一体にして一体ではない。赤と白、紅白に彩られたその二機一体の怪物は互いに連なり合いながら、R-1を四方から追い立てる敵襲団目掛けて弾丸のように突撃した。ビームと実弾の入り交じる猛烈な砲火を受けて、いくらかの敵は足並みを崩し、またいくらかの敵は急所に直撃を受けて四散した。かろうじて生き延びた前者の敵だが、結果的にはほんの少しの時間差にすぎない。

 

 ただ撃ち貫くのみ。突如として眼前に出現した紅い機影、それが繰り出した凶器にして狂気たる右腕の前に、そのガーリオンの腹部はあっという間に千切れ飛んだ。

 

「こちらアサルト1。エネミータリホー、エンゲージ」

 

 ただいまの一手などあってなきものとするように、若き戦闘指揮官は怜悧にそう言い捨てた。

 

 援軍はまだ終わらない。否、最大の援軍はいままさにこれから訪れるのだ。この時にいたって、平凡な性能に留まるR-1とR-2のセンサーもまた、ようやくにその事実を掴んでいた。上空に座すシルベルヴィントもまた同様に。

 

 地響きがする。瓦礫の海の一角が蠢いている。さながらスモークを炊くように土煙が次々と噴き出し、否応無しに巨大なる何かの出現を想起させる。

 

 地中にて溜め込まれたもの、封じられていた巨大なるものが、いままさに解き放たれようとしていた。

 

 やがてそれは現れた。瓦礫を蹴散らして、土の壁を食い破って浮上した。全長500メートルを越すその姿。茶褐色の装甲は土と埃にまみれ、ハリネズミのような砲塔はことごとくがひん曲がり、推進システムにも支障をきたしているのか浮上速度もどこか不安定で覚束ない。

 

 それでもハガネであった。まぎれもなく、それはハガネであった。地球圏最強と謳われたハガネ隊。その旗艦にして絶対の象徴たるハガネが、いまこのとき、ようやくに地の下より蘇った。

 

 地中より脱し、ダイテツ・ミナセ艦長はさっそく周辺の戦況を見渡した。高機動タイプの幹部機が一機、ガーリオンが約四十機。ダイテツはひとつ頷き、そして副艦席で未だ気を失っているテツヤ・オノデラの姿をふと見やった。いま彼は力なくシートにもたれ掛かりながら、ようやく駆けつけて来てくれた医療班の手当を受けている。彼のお陰で自分は一命を取り留めたのだ。ならば年長者として、礼を実に変えて示さねばならなかった。

 

「カタパルトの者たちに伝えろ。全軍出撃。繰り返す、全軍出撃」

 

 そう告げた矢先に、あるいはそれよりも一瞬早くに、ハガネの機動兵器射出用カタパルトから次々に光が疾走して行った。

 

 ジガンスクードの姿があった。アウセンザイターの姿もまた見えた。ビルトラプター、フェアリオンにゲシュペンスト。そしてグルンガストにヒュッケバイン。ハガネが擁する全小隊、全戦力が矢のように打ち出されていった。

 

「ぶちのめすぞ!」

 

 吼え立てるのはイルムである。

 

「一匹残らずぶちのめすぞ! 断じて遠慮するな! 今日、何千という人々が何も出来ないまま死んでいったんだ! 泣こうが喚こうが一人も逃がすな!」

 

 隊全員から返答が返った。いや、返答と言えるのか。それは雄叫びであった。鬨の声であった。カチーナにタスク、アラド、ブリッド、クスハ、リオ……とにかく全員が一斉に勇猛果敢に声を上げ、一目散に敵目掛けて突撃していった。

 

「ダイテツ艦長、申しわけありません。やはり本艦の浮上は不可能のようです」

 

「謝罪には及ばない。貴艦の後押しのお陰で、こうして脱出が叶った。部隊だけ借り受けよう。あとは任せてもらう」

 

 通信モニターの向こうで無念そうに俯くレフィーナにそう応え、改めてダイテツは前方の戦況を見やった。マサキ・アンドーにSRXチーム。二十歳にも満たぬ若者らの勇気と行動力によって、事態はここまで持ちこたえられた。彼らがいなくては、ハガネとヒリュウ改は今頃もろともに破壊し尽くされていただろう。ダイテツはそんな彼らを心から頼もしく思いつつ、それとはまた別に心からの口惜しさを覚えていた。

 

 子供に頼らねば、生きることすらできんとは。これでは自分はなんのために齢を重ねてきたのか。

 

 ダイテツは口惜しさを闘志に変換した。蹴散らしてくれる。恐らくは今ある数が敵の限度ではあるまい。しかし蹴散らしてくれる。たとえ何が来ようとも。

 

 そのダイテツの読みは当たっていた。

 

 ハガネ復活。その勇姿を目の当たりにして、アギーハはにやりと今宵一番の、会心の笑みを浮かべた。いまこそ本懐を叶えるとき。ハガネ隊全軍が迫っていようと、この距離ならばこちらに分があった。決して慢心ではない。なにせハガネという急所を敵はさらけ出しているのだから。

 

 数は同等となっても、戦況は対等ではない。こちらは自由な遊軍、相手は母艦を剥き出しにした背水の陣だ。だったら攻めるのみ。

 

 再度シグナルを放った。全軍出撃、全軍出撃。

 

 ふたたび月が揺らめいた。次々と現れる新たな戦力。そして最後の増援。その数、百機にも届こうか。

 

 最後の決戦が始まった

 

 

   Ⅴ

 

 

 うっすらとした振動を、気を失いながらもアイビスは感じ取った。銃撃、剣戟、爆発音といったこれっぽっちも穏やかではない音と震動であったが、眠りのフィルター越しに伝わるそれらは、さながら風や樹々のざわめきのように優しく柔らかいものに感じられた。あるいは、それとは別の何かのようにも。

 

(やめてよ)

 

 言葉が無意識の海の中で波打った。

 

(分かったよ、もう起きるよお母さん)

 

 そんな勘違いが起こっていた。夢の中では心が裸になるためか。アイビスの父も、母も、もう何年も前に他界していた。

 

 よりはっきりとした尋常でない振動を感じ、アイビスの肉体はようやく現世の危機を思い出した。夜が明けるような、深海より急浮上するような感覚とともに、アイビスははっと目を見開いた。

 

 目が覚めても、やはり闇。月だけが照らす真夜中の、瓦礫の谷底。その奥底に、まるで取り残されるように寝転んでいる自分の姿をアイビスは認識した。

 

(死んでいない。生きている)

 

 立ち上がろうとするも、体が鉛のように重い。怪我などによるものではない。自分の体になにかがのしかかっているのだ。その正体を、アイビスはすぐに察した。胸をかき立てるこの匂いには覚えがあった。

 

「マサキ……」

 

「し。動かさニャいで!」

 

 傍らから細長いものが伸びて来て、アイビスの頬を押さえた。まるで猫の尻尾のように、いやに柔らかく毛深い感触である。

 

「いま治癒術をかけてるの。お願い、しばらくじっとしてて」

 

「クロ?」

 

 仰向けになったアイビスと、彼女を押し倒すようにその上にのしかかるマサキ。そしてその横合いから二匹の使い魔が、マサキの体に向けて何やら儀式でも執り行っているかのように両前足をかざしていた。

 

 その肉球の間からは青白い光のようなものが発せられている。整備士の男を癒したものと同じ光りだった。魔法のような光景だが、それが真実魔法そのものであるとアイビスは知っている。

 

「どうなったの、あたしたち……?」

 

「敵に撃たれたのよ。でもリュウセイたちが射線をずらしてくれた。あたしたちも結界を張った。マサキはあニャたを庇った。ニャんとか直撃は避けられて、爆発に吹き飛ばされるだけで済んだけど……」

 

「マサキは? 怪我をしているの?」

 

 クロは珍しく焦るようにかぶりを振った。

 

「ニャんとか出血は止めたけど、もう血が流れすぎてる。治癒術だけじゃもたない。医者に見せないと」

 

 アイビスは自分の体が血まみれになっていることに気づいた。銀のジャケットも、剥き出しの腹部も真っ赤に染め上げられている。自分の血ではない。すべて少年の肉体が流れ落ち、伝わったものだった。だからこそ恐ろしかった。悪寒の波が、ぞっとアイビスの肌を舐め上げた。

 

「ぐ……う……」

 

「マサキ、動くニャよ!」

 

 いつのまにか少年は腕に力を入れ、アイビスの上から身を起こそうとしていた。

 

「おい、マサキ!」

 

「うっせえ……起きるだけだ……」

 

 胸元にあった少年の頭が徐々に遠ざっていくのを、アイビスは呆然と見つめた。震える膝を立て、なんとかマサキが四つん這いになると、上下から二人の目が合った。ぎらぎらと射殺さんばかりの少年の目つきに、アイビスは息を飲んだ。この期に及んでなお、彼の瞳のなんと輝かしいことか。戦意、闘志、勇気、生き抜こうとする意志。なにもかもが溢れんばかりだった。

 

 そんな少年の目が、アイビスの視線と重なることでほんの僅かに和らぎを見せた。たったそれだけの所作に、アイビスは胸を射抜かれたような感覚を覚えた。

 

「大丈夫……みてえだな」

 

 少年のこめかみから、ぽとりと血のしずくが垂れ、それをアイビスは己の頬で受け止めた。

 

 アイビスは言葉を失った。

 

「クロ、シロ……でかしたぞ……」

 

 言いながらマサキの体がぐらりと倒れかけ、アイビスはようやく行動した。

 

「マサキ!」

 

 素早くマサキの体を脇の下から支え上げた。ずちゃりと、ぬかるみのような感触がした。

 

 そのままアイビスはマサキを腕の中に収め、寄りかからせるようにかき抱いた。クロとシロも追従し、ふたたびマサキに治癒術をかけはじめる。

 

 戦闘はいまだ続いていた。銃声と爆音の木霊が聞こえる。それら全てをどこか遠くに感じながら、ふたりは谷のどん底で寄り添い合った。前にもこんなことがあった気がする。あのときとは全く逆の立場になっているが。

 

 いや、ちがう。マサキは思い直した。自分はアイビスにすがりつきなどしない。男が、そんなみっともないことなどやっていいはずが無い。

 

 体が痛む。鉛のように重いし、血がこんなにも。馬鹿な事をやったもんだと、マサキは自嘲した。敵が大勢を繰り出している。こんなときこそ、自分が戦わなくてはならないというのに。物量の優位を突き崩すかの騎士の一撃は、こういう時にこそ真価を発揮し、きっとそれは人一人の命よりも……。

 

 マサキはふと正面のアイビスの顔をみやった。悲痛な面持ちで、自分よりもよほど痛みを抱えているような顔で見下ろしてくる彼女の顔を見た。元気そうだった。怪我もなさそうだった。ならいいや。マサキはそう思った。本当に、何一つ無理をするわけでもなく、そう思ったのだ。

 

「気分はどうだ?」

 

 マサキはそう尋ねた。世間話くらいの軽い気持ちだった。顔中から血の気が失せているのに、そんなことを言うマサキに、アイビスは思い切り頭を振った。

 

「喋らないで」

 

「もう引き蘢りは卒業したか?」

 

「いいから、喋らないで!」

 

 本気で怒りを見せるアイビスに、マサキは頬を綻ばせた。これだよ、これ。マサキは本当にそう思うのだ。彼の中で、アイビスはやはりこうでなくてはならなかった。

 

 するとマサキの視界が、ほんの一瞬だけ、天地がひっくり返るようにぐらついた。意識が飛びかけたのだ。あるいは魂なんてものがうっかり抜けてしまい、また戻ったのかもしれない。

 

 ああ、まずいかもな。

 

 そう思いながら、マサキは視線を横に、使い魔たちの方を見やった。しきりに焦燥するクロの横で、シロが口を真一文字に引き締め、首を振った。

 

 そうか。マサキはどこか他人事のようにそれを受け止めた。多くのものが、あまりにも多くのものが脳裏を通り過ぎていく。

 

 すまねえ。全てのものに、マサキは謝った。彼の人生に関わってくれた全てのものに。彼をここに送り出してくれた全てのものに。色々なものを投げ出して、いま自分は死に往こうとしている。その罪を、謝った。

 

 その償いではないが、ひとつだけ、いまの自分でもなし得る仕事があることにマサキは気付いた。死んだ人間にはなにもできないが、それでも、他の人間に何かを残すことはできるはずだった。

 

「なあ、アイビス……」

 

「マサキ、お願いだから……!」

 

「聞けよ。すぐ終わるから」

 

 弱々しくそう告げられて、アイビスは口を閉ざした。すぐ終わるから。それはあまりに少年に似つかわしくない、悲しい響きだった。

 

「いいか? お前がああやって自分を恥じなくちゃいけないほど、誰もお前に期待なんてしてなかったんだぜ。お前が、全部を最初から完璧にこなすなんて、そんな夢みたいなこと、誰も期待しちゃいなかったんだ」

 

 少年の物言いは、酷薄で突き放すようであった。しかしアイビスは、一言一句を聞き漏らすまいと耳を傾け続けた。少年の、なんと称すべきか、そう、慈愛に満ちたような目がアイビスの心を捕らえて放さなかった。

 

「でも、それでもな……」

 

 少年は続けた。

 

 それでも信じている奴がいたんだよ、と。

 

 たとえ何があっても。

 

 どんなに遅くとも。

 

 何度躓いても。

 

 何度倒れようとも。

 

 何が立ちふさがろうとも。

 

 それでも、お前は進む事を止めないだろうと。頼りない足取りで、それでも亀のように一歩ずつ、歩み続けるだろうと、そう信じる奴らがいたんだよ、と。

 

 ツグミであった。タスクもそうだったのかもしれない。なんにせよ、俺がそうだと胸を張って言えないことを今マサキは悔いていた。期待などしていない、でも信じてる。奇妙な矛盾を孕んだその響きに、かつて胸を揺らしたのは他ならぬマサキ自身であったのに。

 

 かつて一つの物語があった。地上の情勢とは何ら関わりなく、ハガネ隊の誰にも語ったことのない彼だけの前日談。そこに心からの挫折を味わい、何もかもが嫌になり、何もかもを拒絶し閉じこもった一人の少年の姿があった。ちょうど誰かと同じように。

 

 そんなマサキに、声を掛けてくれた人がいたのだ。マサキが、もう一度立ち上がれる切っ掛けを作ってくれた人が。滑走路で見たツグミの目、そして格納庫でのエクセレンの目を見て、自分が何を思い出そうとしていたのか、マサキはようやく理解した。

 

 ならば、マサキもアイビスに何かを言わねばならなかった。伝えられたものを、さらに伝えなければならなかった。世界でただ一人しかいない彼の部下に、永遠に叶わなくなるその前に。

 

「いいか。苦しさに、辛さに負けるんじゃねえ。自分に負けるんじゃねえ。いつか必ず、全部に勝てる日が来る。そのときまで、ゆっくり、お前なりに、一歩ずつでいいから、前に進んでけ。きっとそうやってでしか、そういうお前でしか手に入らない何かがある……」

 

 不思議と今のマサキは、ごく自然にそう信じることができた。身内びいきであるのだとしても、それで構わなかった。親が子に、師が愛弟子に注ぐものとは、得てしてそういうものであるに違いないのだから。

 

「分かった、分かったから。あたし分かったから、お願い、もう喋らないで……!」

 

 アイビスの両目から止めどなく溢れるものがあったが、マサキはそれを判別できなかった。視界は際限なく霞みゆき、もうアイビスの顔をそれ以外と区別する事すらできない。それでもマサキはアイビスを見つめた。記憶にあるあの暖かな眼差しに、少しでも近づけるようにと。

 

「死ぬなよ、アイビス……」

 

「やめてよ、そういうの。やめてったら!」

 

「怒鳴るなよ。俺が死ぬわけないだろ。奴を倒すまで……俺は……絶対に……」

 

 そうして、自身の言葉を裏切りながら、まるで眠るように少年の目は閉じられた。とさり、と小さな音が聞こえた。それは少年の手が地に落ちた音であり、彼の使い魔が糸の切れた人形のように倒れ付した音でもあった。

 

 体温が急速に失われていく。顔色も、見る見るうちに青白く。そんな主にどこまでも付き従うように、動かなくなった白黒の魔法生命体は、うっすらと幽鬼のように輪郭を失い、段々と風景に溶けていこうとしていた。

 

 あまりの光景に、アイビスは全身を、あるいは魂そのものを凍り付かせた。まだまだ新兵の域を出ず、また魔術生命体のなんたるかを知らない彼女でも、如実に、まざまざと感じられることがあった。

 

 これは、死だと。

 

 

 

 



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第十四章:されど疾風、そして流星の如く

 

 

   Ⅰ

 

 

 どうする。どうすればいい。

 

 焦りと絶望がない交ぜになって、アイビスの精神は破裂寸前となった。目の前が暗い。思考がかき乱れる。答えがでない。ひたすらアイビすの精神は、火花をあげて空転していた。

 

「いやだ……」

 

 医者だ。医者が必要だ。撹拌されたような思考の渦の中から、アイビスはようやくとっかかりを掴み挙げた。

 

 マサキの容態は、すでに自分の手に負える域では無い。医者をここに連れてくる必要がある。否、ここではだめだ。設備のないここでは、どのような名医がいても無意味だ。十分な力を持った医者と、設備。それらが揃った場所にマサキを連れて行く必要がある。要は病院だ。一刻も早く、そこに、自分が、マサキを連れて行く必要がある。

 

「いやだ、いやだ……」

 

 戦場と化したこの瓦礫の谷のまっただ中でも、幸い病院の当てはある。ハガネだ。もともとあの艦は軍艦ではなく、異星人の脅威から逃れるための地球脱出船として設計されたものだ。いわば現代のノアの箱船。医療設備の充実具合は、並の病院を凌駕する。

 

「やめて、お願い……」

 

 残るのは、移送手段の問題だった。マサキの魂が死線を越えるまでの僅かな猶予、それが尽きる前に確実に彼をハガネに運びきる手段が必要だった。

 

 いまハガネは空にある。そこに辿り着くためには、空を往くしかない。翼が必要だった。飛ぶための翼が。

 

 しかし……。

 

「やめてぇぇっ!」

 

 悲鳴が木霊した。残響が瓦礫の大地を伝った。応えるものはどこにもいない。ここには誰もいない。ライもツグミも、リュウセイもキョウスケも。あるいは、あの少年すらも。酷く寒かった。孤独感がひっそりとアイビスの肌を包んだ。

 

 ここにきて、ようやくアイビスの中で思考と言葉が一致を見た。理性が必死にあがいているなか、彼女の感覚はとうに事実を理解していた。

 

 アステリオンはハガネの中。残る機動兵器は遥か彼方で戦闘中。他はみな土の下だ。

 

 翼などどこにもない。

 

 ゆえに、マサキを救うことはできないのだと。

 

 血に塗れたマサキの頬を、アイビスは震える指でそっとなぞった。ぬるく、湿った感触がアイビスの指を通り過ぎていく。あご先まで辿り着き、ふっと宙を切った。

 

 ねえ。

 

 腕の中の少年は、身じろぎ一つしなかった。そして一秒ごとに重さを増していく。溢れんばかりの勇気と希望に満ちた彼が。これまで多くの戦いをこなし、多くの人間を救い、これからも多くの命を守ってゆくであろう彼という人間が、ただの肉の塊に堕していく。それは途方も無い、何者にも許されざる罪のように思えた。

 

 起きてよマサキ。

 

 か細い、しかし悲痛な懇願が、暗がりの中に溶けていった。

 

 

 

 戦況は膠着していた。否、身内びいきはするべきではない。確実にハガネ隊が不利であった。

 

 ハガネ全小隊が出撃したとはいえ、その数はせいぜい30〜40。対して異星軍は100機を越す。もとより多勢に無勢であった。しかしそれだけの不利であるならば、こうはならない。少しばかりの物量差など、これまで幾度となくハガネ隊の猛者たちは突破して来た。ただし、これほどまでに敵と味方が入り乱れた大乱戦となると些か話が変わる。

 

 アギーハ率いる異星軍は、言うなれば往くも退くも自在な遊撃部隊。対するハガネ隊は、あくまでハガネという本陣の存続を至上命題とする護衛部隊であった。となれば攻防が如何様に推移していくかは火を見るよりも明らかだろう。

 

 ガーリオンを駆るバイオロイド兵はたちまちのうちにハガネを包囲し、好き放題手当たり次第に砲火をぶつけていった。そしてそれを防ごうと、ハガネの機動部隊もまたハガネを囲うように散開する。ここに、ハガネを中心とする敵と味方合わせての球状陣形が形作られた。攻めるアギーハたち、防ぐハガネ隊。戦況は自然としてそのようになった。

 

 ゆえにこそ、ハガネ隊は劣勢であった。個々のポテンシャルを最大限に発揮し、少数精鋭の剛槍となって敵陣に穴をあけて行くのがハガネ隊の本領である。一転突破の攻撃力に特化した部隊であるだけに、こうした状況に対しては一層不得手、とまではいかずとも決して無敵とはいかない。

 

 そこにそもそもの地殻陥没によるダメージと、圧倒的な物量差が加わって事態は深刻となっている。ハガネの胎内にて守られていた機動兵器たちはともかく、ハガネ本体の損傷は著しい。援護射撃は愚か、堅牢を誇る高出力Eフィールドも展開不能となってしまっている。地球最新にして最高技術の塊であるハガネも、いまとなってはライノセラスにも劣る戦闘力しか発揮できなかった。

 

 そんな最大の弱点を背に、パイロットはすべからく防戦一方を迫られた。いや、それすら覚束なかった。ハガネを囲うように、広く間隔を空けた球形陣。そしてその隙間に百機もの敵が侵入してくるのである。結果として起こるのは、敵も味方も入り乱れた乱戦にして混戦状態。小隊内での連携すら閉ざされ、パイロットたちは皆が皆が球形陣の中に孤立していた。

 

 中でもATXチームの消耗は激しい。ハガネ隊の特長をそのまま凝縮したような小隊であるだけに、なおさら苦戦は免れ得なかった。

 

「各機、味方を捜せ! 誰でも良い! 独りでいるな!」

 

 隊長機のアルトアイゼンは既に主武装の弾薬が心もとなくなっていた。

 

「そういうキョウスケは今どこ! 敵しか見えないじゃない!」

 

 副隊長機のヴァイスリッターは同士撃ち、なによりハガネへの誤射を恐れて自慢の火器を生かせずにいた。

 

「くそ! 死ぬものか!」

 

 特機ゆえに攻撃力、殲滅力ならば小隊内一を誇るブリット達であれば尚更である。つい先ほども、繰り出したソニックシャウトが、レオナのズィーガーリオンを危うく巻き込むところだった。

 

 連携が崩れている。まるで統制がとれていない。ハガネ隊のうち、誰もが戦場の中で一人となっていた。

 

 戦意や闘志こそ失われていない。負けるものか、そう誰もが思っていた。しかし劣勢に変わりなく、そこかしこで挙る悲鳴は阿鼻叫喚には違いなかった。誰もが打開策を見いだせず、消耗と損傷だけが段々に増していく。

 

 ハガネ全部隊が、そんな窮地に陥れられていた。

 

 

   Ⅱ

 

 

 寒風が吹き注ぐ。

 

 それに煽られて、砂と塵だけが舞い上がる。

 

 静かであった。風の音だけがする。

 

 あとはすべて闇一つ。ただ月だけが煌々と。

 

 そんな中を、アイビスはぼんやりと座り込んでいた。その両腕にはいまだ少年の姿が抱えられている。

 

 駆け巡る走馬灯のようだ。彼と出会ってからの数ヶ月の日々。その間に目にしたもの、耳にしたもの、心で感じたものが、ほんの一抱えの塊にまで濃縮されてアイビスの胸を貫いて行っていた。

 

「いい腕だな、あんた」

 

 そう彼は言った。今でもアイビスは覚えていた。蔑むのでなく、励ますのでもなく、ただただ対等に接する信頼の言葉を。そうして掲げられた手の平を。

 

 あの感触は、いまもこの手に。

 

 ――破片を一つ、拾い上げる。

 

「昨日、カチーナたちとシミュレーターで遊んだろ? そのことでな」

 

 そう彼は言った。信じてくれていたのだと、その時に知った。最初の模擬戦の結果をエクセレンたちから聞いても、彼はあくまで彼自身が目にしたものを信じてくれていたのだ。

 

 あのあとに、再び掲げられた手の平。あの感触もまた、いまもこの手に。

 

 ――破片をもう一つ、拾い上げる。

 

「じゃぁ、今日から俺がフリューゲルス・ワンだ」

 

 そう彼は言った。

 

 その時から、彼はいつでも自分の前に立ってくれた。小隊長として、先達として、友人として、後ろを行く自分のために道を切り開いてくれた。迫り来る敵に対し、立ちはだかってくれた。戦い方を教えてくれた。飛び方を教えてくれた。自分を守ろうとしてくれた。

 

 ――破片をさらに一つ、拾い上げる。さらにさらに一つ。

 

 彼と出会ってから、僅か数ヶ月。その間に様々なことが起こった。喜びがあり、悲しみがあった。恐怖があり、安心があった。その多くを、彼と共有して来た。

 

 そのたびにかすかに、ひそやかに、けれども確実に、アイビスの胸の中で芽生え伸びゆく、ある一つの想いがあった。その想いの名前がなんであるのか、アイビスには分からない。想いには元来、名前などないのだから。

 

 それでも、無名のままでは名を呼べない。だから人は、自らの手で想いに名を付ける。

 

 アイビスもまた、自ら考えそれに名をつけた。

 

 その名が正しいものかは分からない。しかし推測できることはあった。人々は、きっとこういったものを……。

 

 ――最後の破片を、拾い上げる。

 

 

 

 ふらりと、弱々しく立ち上がる人影があった。人影は一つではなかったが、しかし二つであるようにも見えなかった。五本の指、一つの手。幾枚の花弁、一輪の花。寄り添い合う影と影は、そういうものに似ていた。

 

 ずず、と足を引きずる音がして、二つで一つの人影がわずかに移動した。片割れを背負い、懸命に支えながら、今ひとつの片割れは静かに、慎重に、一歩ずつ歩を進めた。

 

 諦めない。アイビスは思った。諦めない。

 

 大層な決意、と言えるほどのものか、アイビス自身にも疑問だった。切り離したリンゴは地に落ちる。水を温めれば湯気を出す。どちらも当然のことで、アイビスが決して軽くはない少年の肉体を抱えながら、瓦礫の谷を進むのも、ある意味では同じことだった。そうするだけの、そうせざるを得ないだけの理由があったというだけだ。

 

「好きだよ、マサキ」

 

 その理由を、アイビスは口にした。

 

「本当に好き……」

 

 それはあまりにも他愛ない答えだった。

 

 恋うているのだ。

 

 だって恋うているのだ。

 

 恋うとは、きっと「乞う」や「請う」とも重なっていて、なんにせよそれは、強く求めることなのだ。

 

 アイビス・ダグラスは、マサキ・アンドーを求めている。

 

 それはもうずっと前から、あるいは初めて会ったときから存在した気持ちで、いまのアイビスは、まったくもってようやくに、それを認めることができた。

 

 求めるのならば、手を伸ばさねばならなかった。

 

 欲しいのなら、足掻かなくてはならなかった。

 

 ゆえにアイビスは歩いた。リンゴが上から下に落ちるように自ずと、全くの自然の流れとして、当然のようにそうしていった。瓦礫の斜面、非情な現実、か細い希望に向かって、これまでしてきたように一歩ずつ、彼が信じた通りに一歩ずつ、亀のような、それでいて確かな足取りで歩いていく。

 

「ねえ、マサキ」

 

 聞こえないと分かっていても、アイビスは口にし続けた。致し方なかった。想いが溢れてならなかった。

 

「あたし、あんたとキスがしたいな」

 

 一昼夜のあいだだって叫び続けていられるだろう。

「全部終わったらでいいから、そしたらあたしとキスをして。手の平だけじゃ、もう寂しいよ。だからキスして。うんと暖かいのがいい。嫌がらないで、くれるかな……」

 

 落ち着き無く戯言を捲し立てるアイビスの声は、音の早さで夜闇に溶けていく。せいぜい200〜300ヘルツに過ぎないそれは、せいぜい半径数メートルの範囲を僅かに震わせるだけで、なんの治癒能力も、物理的作用ももたらさない。

 

 それでも見る者が見ていれば、先ほどからアイビスが声を発するたびに、膨大なプラーナが彼女の言霊にのって虚空を弾けていることに気付いただろう。それはさながら地響きのように、あるいは波濤のように、または劫火のように、ともすれば竜巻のように、拡大し、拡散し、闇夜の中に放射されていった。

 

 プラーナを目視できる人間など、ラ・ギアスにも多くはない。しかしそれに呼応して起きた現象となれば話は別で、アイビスもまた、やがてそれに気付いた。

 

 風が、呼んでいる。

 

 ほのかな微風が、涼風が、自分とマサキを包み、そして導くようにそよいでいた。誰かが自分を呼んでいる。何者かが、来いと言っている。

 

 風の導き。そのままにアイビスは歩いていった。乱れた足場を慎重に踏みしめながら、そよ風の糸を必死に手繰る。風の化身へと、運命そのものへと。あるいはマサキも、かつてこうして歩んでいったのだろうか。 

 

 そして辿り着く。重い足取りでも、わずか数分の距離。そんなところに希望はあった。瓦礫の斜面のわずか上、小高い丘の上にそれはあった。小さな小さな希望が、巨大な騎士の姿をとってそこにあった。考えてみれば当然の事で、たとえハガネ隊の全戦力が空の上にあろうと、それだけはここにあるはずだったのだ。少年がここにいる以上、絶対に、なにがあろうとそれだけはここになくてはならなかったのだ。

 

 それは全長三十メートルにも届く銀巨人だった。力強い五体。白と銀の鎧。三層一対の翼。猛禽の爪。

 

 風の魔装機神。

 

「……」

 

 アイビスは迷い無く、そちらへと進んで行った。一つ歩を進めるごとに、彼女の心はますます燃焼の勢いを強め、肉体より溢れてかの騎士へと注ぎ込まれた。

 

 乗せて。心中でアイビスは叫んだ。

 

 お願い、あたしを乗せて。

 

 貴方がパイロットを選ぶのは知っている。

 

 でも、お願い。

 

 一度だけでいいからあたしを乗せて。

 

 サイバスターの双眸には何の光も灯らず、鉄の塊のように凍てついていて微動だにしなかった。人の乗らぬ機動兵器であれば当然だろう。しかしアイビスはそうは思わなかった。焦れるように、ひたすら言葉と歩みを積み上げて行く。

 

 ねえ、貴方も彼を必要としているんでしょう。

 

 あたしもそうなんだ。

 

 助けたいんだ。死んでも助けなくちゃいけないんだ。

 

 彼がこれから打ち倒していく何かのために。

 

 彼に救われていく誰かのために。

 

 そしてあたし自身のためにも、彼を助けなくちゃいけないんだ。

 

 だから、お願い。

 

 あたしはどうなってもいい。代償が要るなら全部あげる。

 

 だからお願い。

 

 あたしを乗せて。サイバスター!

 

 そうやって乞うように、呼びかけるように、アイビスはサイバスターの装甲に触れた。精霊と契約を結ぶ作法など分からない。ただ思いついたままにアイビスは手の平を、彼との絆そのものを差し出した。馬鹿な事とは思わなかった。この騎士には、紛れも無い意思と人格があるのだとアイビスは知っている。

 

 サイバスター、あるいはその中に住まう誰か。

 

 それが、自分をここまで招き寄せたのだから。

 

 ――失えない……まだ……

 

 そんな女の声が聞こえたような気がした。

 

 ――あなたを操者と……ただし一度だけ……

 

 一体誰の、と思う間もなく、気がついたときアイビスはもうそこにはいなかった。抱えていた彼とともに空間を渡り、かつてたった一度だけ目にした事がある、サイバスターのコクピットの中にいた。

 

 

  Ⅲ

 

 

 いつのまにか、かつて彼がそうしていたようにシートに身を沈め、左右のコネクタに両手を乗せていた。何の操作もした覚えがないのに、機体には既に火が入っているようだった。スクリーンに数々のウィンドウが現れては見慣れぬ情報群を映しだす。以前に乗った際は見た事もない異国語で表示されていたそれは、どういうわけか今は馴染みのある地球連邦共通語に完璧に翻訳されていた。曰く、全機能異常なし。

 

 訳も分からないままアイビスは咄嗟にマサキの姿を探したが、探すまでもなかった。彼はまるで勇者に抱かれる姫のように、アイビスの膝の上に横座りになっていたからだ。

 

 不安定な姿勢である。このままでは操縦できないのでアイビスは手早く体勢を整えた。いくらか迷ったがまずマサキをシートに座らせてから足を開かせ、彼の股にある僅かなスペースにアイビス自身は腰を下ろした。無論マサキを背もたれにはできない。背中を浮かせ続けるのはやや辛いが、G制御が充実したサイバスターであれば何とか維持できるはずだった。

 

 アイビスは後ろ手にマサキの両腕をつかみ、シートベルトのように自分の前へと持って来て、腰の辺りで交差させた。重々しい音を立ててはまる蝶番のイメージが脳裏に降って湧く。後ろから抱き締められているような、これまでのアイビスからすれば信じられないような格好だが構わない。この拘束は、きっと勇気を与えてくれる。

 

 そうして、ちょうどよく顔のすぐ横にあるマサキの口元に、まるで猫のように頬をすりつけた。か細い呼吸が、アイビスの皮膚を微かに揺らした。頬に触れた唇の感触も、まだほんのわずかに暖かい。

 

 まだ間に合う。アイビスは左手で少年の手の甲に触れ、二度と離さぬよう指と指を絡ませた。フィリオと口付けるツグミの後ろ姿を思い出した。あの時のツグミも、こんな気持ちだったのだろうか。誰かに触れること、触れ合うことはこんなにも暖かい。今にも息絶えそうな彼とすらこうなのだ。もし彼が、何一つ異常のない、若く健やかな体温で、こうしてくれたなら。

 

「待っててね……」

 

 操縦に支障はなかった。右手で触れるコネクタから、この機体に関するあらゆる情報が、電気信号となってアイビスの脳裏に直接伝わっていた。機体の起こし方、翼の吹かせ方、その他全ての操作方法を、いまやアイビスはアステリオンのそれのごとく自在に思い起こすことができた。

 

「すぐ、連れて行くからね……」

 

 ならば、残る懸念はあと一つだった。

 

 忌まわしき過去の記憶に、アイビスの心拍が徐々にものうるさく、間隔を狭めていく。これ以上ない翼を得た以上、次に行うべきはただひとつである。しかし自分にそれが出来るのか。なにせ、今の自分は……。

 

 考える前に、アイビスは意志を右手に伝えた。恐れはあっても恐れる事は許されなかった。背中のぬくもりがそれを許してくれない。

 

 そうして、サイバスターが立ち上がる。

 

 その様は平時とは比べるも哀れなほど辿々しかった。ぎこちなく、よろよろとして、危なっかしく、それでもなんとか四肢を動かして、銀色の騎士はどうにかこうにか膝立ちの状態から立ち上がった。

 

 次に翼を動かした。息をひそめるかのようにエーテル・スラスターがゆっくりと静かに呼吸し、騎士の体をふんわりと、まるでシャボン玉のように頼りなく浮上させる。ゆっくりとだが段々に高度を上げて行く外界の様子に、アイビスは歯を食いしばった。左手の感触をさらに強く握る。そうして高度五十メートルほどに到達したとき、恐れた通りにそれはやってきた。

 

 ――穴が空いている。

 

 現実とは異なるものを映し出す、もう一つの目が開かれた。闇夜に落ちる。前にはあの凶相と銃口が。そして背後にはあの穴が。非現実の体感覚がアイビスに押し寄せ、彼女の肉体をひたすら奈落へ追い落とそうとする。

 

 そう、落ちている。

 

 アイビスは、それを認めた。あたしは落ちている。

 

 これは幻影であって幻影ではない。たしかに、アギーハに撃墜されたあの日から、彼女の心は真実奈落に落ち続けていた。そうして今も落ちている。

 

 だがこの先も落ち続けるのか、そうするしかないのか、それは誰にも分からないことだった。何時いかなるときも、現在の一歩先には必ず未来という不定の領域がある。

 

 闇夜は依然として深く、何も見えはしない。それでもアイビスは右手を動かした。たとえ見えなくとも、そこには自分とサイバスターをつなぐコネクタがあると分かっていた。

 

 そして左手を握った。いまや彼もまた堕ちゆく者のためか、血塗れのグローブに包まれた彼の優しい手の形がはっきりと見えた。そして決して失えないぬくもりを背中全体に感じる。いつまでも包まれていたいと思う、少年の優しい体臭の広がりがあった。人の形をした愛しさそのものが、いま自分の背中にあるのだ。

 

 守らなければ。アイビスは自分に言い聞かせた。彼を守らなければ。

 

 恐れる事はない。たしかに自分は落ちている。しかし、落ちているだけだ。ならば再び飛べば良いだけの話だ。

 

 かつてこの背には翼があった。天に輝く夢があった。そしてどちらも一度は砕けちった。さながらこの瓦礫の谷のように。しかしこんな無惨な世界からでも、生き延びて、登って行こうとする人々がいた。崩れた中から、また始まるものがあった。それをアイビスは、その目で見てきたのだ。

 

 今、アイビスは再び翼を得た。そして天まで昇るような想いがあった。ならば、ならばもう一度……!

 

 心の訴えに従って、幻影を構成する全ての要素を、アイビスは睨みつけた。己のすべてを賭けて、闇夜と、凶相と、穴と、なにより自分の心の弱さといざ対峙した。

 

 すると、今まで見えなかったものが見えて、アイビスは目を疑った。いま生じたのだろうか。いや、初めからそこにあったのかもしれない。ありそうな話だと思えた。なにせこれは自分の心なのだから。

 

 夜空が見えた。星々が見えた。太陽のまやかしではない、本当の空の色がそこにあった。

 

 星の海。

 

 銀の凶相の向こう、迫り来る強大な引力のその果てに、それは輝いていた。

 

 ――綺麗。あの向こうに行きたいな

 

 時を越えた、幼子の無邪気な呟きが木霊する。

 

 行けるさ。行けるとも。だってこんなにも体が熱い。

 

 全身が沸き立って行く。肉体は沸騰し、魂は湯煙となって天頂を昇る。懐かしい、あまりに懐かしい自らの心をアイビスは抱き締めた。そして行く手を阻む者全てを目掛け、まさしく全身全霊余すところ無く灼熱させて、雄叫びを挙げた。

 

 邪魔だ、どけ。あたしは往く。

 

 そんなアイビスの想いの丈の爆発と、サイバスターの双眸が力強く輝くのは、全く同時のことだった。

 

 

   Ⅳ

 

 

「おい、アイビスとマサキはどうなった! 死んじまったのか!」

 

「言ってる場合か! 自分の心配をしろ!」

 

 異星軍の包囲網の中心部で、ハガネ隊は凄惨たる地獄絵図のまっただ中にあった。無傷な機体など存在しない。中破した機体は数知れず、それ以上の損傷を受けている者はなお多かった。

 

 敵にもいくらか損傷は与えているが、陣形からして守勢を強いられているのだ。ただ防御と牽制にかまけるばかりで、ハガネ隊のだれもが、その強大な攻撃力を生かせずにいた。

 

「ちきしょう!」

 

 肩に砲弾を受けたジガンスクードの巨体が、大きく揺らいだ。ハガネ隊の中でも屈指の堅牢さを誇るジガンも、度重なるダメージについに限界を迎えつつあった。

 

「ちきしょう、ちきしょう!」

 

 特機の巨体も、こういう場では目立つ的でしかない。味方機と比較して幾倍も分厚い装甲をもっていたとしても、幾十倍もの砲火に晒されてはその差もあってないようなものだった。

 

 負ける。押し負ける。

 

 口にこそ出さないが、その予感は既に厳然とタスクの胸中に現れていた。悲観とは言えない。真っ当な判断力があれば、だれもがそう思う状況だった。

 

(このままじゃ負ける。それもただの負けじゃねえ。みんな死んじまう)

 

 負け戦が初めてなわけではない。辛酸を舐めたことなど数えきれないくらいある。しかしタスクやハガネ隊がこれまで経験してきた敗北とは、つまり余儀なき撤退のことだ。負けには違いなくとも、生還できる余地はあった。挽回の機会もまた。

 

 しかし今回は違う。すでに部隊一同は、落盤にあった鉱夫も同然であった。敵の包囲網は盤石の一言に尽き、撤退する道など一筋もありはしない。あまりに完璧な包囲作戦は、そのまま消耗戦へと直結するため逆に非効率というが、そんなことお構い無しにアギーハ率いる異星軍はどんどんと囲みを狭めてきた。その様にタスクは、敵の並々ならぬ執念を感じた。効率も費用対効果も度外視に、ハガネ隊だけは、必ずや今ここで、一人残らず打ち倒す。敵はあくまでその一念で動いている。

 

 ジガンの右肩が火を吹き、ついに右腕部が脱落した。

 

「やっろう!」

 

 歯を食いしばり、操縦桿を握りしめた。脱出装置を作動させたとして、棺桶のサイズが小さくなる以上のことは起こるまい。死を間近に感じながら、タスクは切実に願った。

 

 何でも良い。流れを変える何かが欲しい。

 

 ジョーカーよ、この手にいでよ。

 

 極上の賽の目よ、現れろ。

 

 風よ吹け、と。

 

 

 

 ――風よ、吹け。

 

 そのとき誰もが、大同小異に同じことを願っていた。

 

 そう、誰もが知っている。

 

 皆が知っている。

 

 この状況を打開するにあたって最も相応しい力の名を。

 

 ハガネを中心とした半径数百m以内に、数十の味方と百を越す敵が入り乱れ密集するこの異常な状況において、もっとも猛威を発揮する力があった。

 

 彼我の勢力がいかなる混戦状態にあろうとも、正確無比に敵だけを討ち滅ぼせる力があった。

 

 熱素の飛礫、銀の長剣、二機の使い魔、破戒の巨鳥、新星の輝き。彼の者が携える神秘の数々。中でも彼を彼たらしめるその象徴は、いかなる物量、いかなる布陣をもねじ伏せる、空前絶後の敵味方識別広域兵器。

 

 その力の名を、

 

「サイ――」

 

 「彼女」は叫んだ。

 

「フラァァァァッシュッ!」

 

 

 

 光る。

 

 輝き、煌めき、照らす。

 

 破邪にして退魔、ただひたすら聖なる星が現れいでる。

 

 青白き光はハガネを中心に戦域一帯を包み込み、内なる不浄をたちまちのうちに浄化した。浄化、とは過大な言いようであるが、しかし敵味方の入り乱れるこの戦陣の中、一切の誤射なく正確に、真実全くの一息に、ことごとく敵だけが撃滅されていくその様を、他になんと言い表すべきか。そうして光が過ぎ去ったとき、もはやそこには敵など一体も残っていなかった。一体たりとも!

 

 敵が晴れた。

 

 やや奇妙な表現になるが、リュウセイはそう思った。満身創痍のさらに上を行く、もはや鋼鉄のぼろ雑巾も同然なR-1を必死に制御しながら、このとき本当に、素直にそう思ったのだ。

 

 味方が見える。

 

 つい先ほどまで影すら見えなかった、それでもこんなにも近くにいた相方の姿を認め、キョウスケは心底の安堵とともに呟いた。

 

 風が吹いた。

 

 タスクは興奮しきったように息を切らし、嬉しげに、そして誇らしげに頭上を見上げた。満天の中央、星々と混じり合うようにその姿はあった。雄々しく翼を広げ、エメラルドの燐光を背に、風の魔装機神が夜空に浮かんでいる。勝利を謳うように、あるいは祝福するように、風の音の勝鬨を挙げながら。

 

 

 

 サイバスター。

 

 あまりと言えばあまりの事態に、アギーハは呆然とその名を口にした。彼の繰り出したMAPWは理不尽とすら言えるほどの威力を発揮して、決しつつあった戦況をひっくりかえしてしまった。

 

 ガーリオンは全滅。これ以上の戦力はアギーハには与えられていない。ハガネ隊の面々はことごとく半壊状態にあるも、彼女単独で突破できるとは到底思えない。ましてや上空には、ほぼ無傷も同然なあの騎士の姿あるのだから。

 

 サイバスター。

 

 アギーハはまたもそう呟いた。あの機体が全てをぶち壊しにした。たしかに始末したはずの、間違いなく撃ち殺してやったはずのあの少年が、勝っていたはずの戦況を覆し、勝利の栄誉を得るはずだった彼女を道化に堕とした。

 

 瞬間、アギーハの感情は点火した。その赴くままに従って、機体を反転させた。これ以上の戦闘に意味は無い。そうと知りつつそれでも、それでもあれだけは生かしては置けなかった。

 

「坊やぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 怒りという怒り、怨嗟という怨嗟をこれでもかと掻き集め、爆発させながら、アギーハは吼えた。背部、腰部のスラスターが一斉に嘶く。シルベルヴィントは風となった。

 

 

   Ⅴ

 

 

 一方、全身を正体不明の脱力感に苛まされながらも、アイビスは直ちに眼前を見据えた。視界は開けていた。先ほどの一撃で、既に敵機の群れはほぼ壊滅している。あとは皆に任せて、急ぎマサキの収容を、と行きたくもそうはいかなくなった。

 

 こちらを撃ち落とさんとする脅威が、彼方から急接近してくるのをアイビスは察知した。その鋭利なシルエットをいまさら見間違えなどしない。因縁のシルベルヴィントが、こちらを狙っている。忌まわしき過去の写し絵に、 アイビスは渾身の意志を右手の水晶に叩き込めた。具体的な指示も、ロジックもない。ただ打ち払えと。行く手を阻むあの者を打ち払えと命じた。自分と彼が歩む路を邪魔するあの者を、馬のごとく蹴り飛ばし即刻地獄に叩き込めと命じた。

 

 サイバスターは、一瞬不服そうに両眼を翠に光らせつつも、それに応じた。翼が開く、エーテルが爆ぜる。アイビス・ダグラスの意を受けて、風の魔装機神が疾走する。あり得ざる一つの奇跡そのものが、疾風そして流星の如く、夜と暗雲を切り裂いて真一文字に駆け抜ける。

 

 真正面からのブルファイトを挑んで来た相手に、なおもアギーハは笑った。敵は「らしくない」失態を見せた。あの不可思議な読心をもって待ち受けられれば厄介であったというのに、自ら選択肢を狭めてなんとする。

 

 アギーハは瞬時に戦術を構築した。

 

 胸部展開。ボルテックシューター・バレルセット。マキシマム・チャージ。二機の相対速度により瞬きほどもないであろうヘッドオンの瞬間に身をかわし、その後背に最大の一撃を叩き込む算段だった。

 

 必勝の策を秘め、シルベルヴィントが行く。

 

 サイバスターもまた行く。

 

 彼方とこなたから飛び立った二つの軌跡が出会い、ぶつかり合うと思われたその瞬間に、アギーハは操縦桿をわずかに引いた。錐揉みするように機動を変えたシルベルヴィントの真下を、銀騎士はあっけなく通り過ぎていく。

 

(もらったよ、マサキ・アンドー)

 

 勝利を確信しながらアギーハは機体を反転させ、そして愕然とした。

 

 振り向いた先にサイバスターの姿は無く、翠緑の噴射炎の残滓が、さながら槍のごとく天上へと伸びきっているのみだった。トリガーは既に引かれ、凝縮されきった渦流光子の塊が虚しく空を裂いた。

 

(これは……!)

 

 雷鳴のごとく、アギーハの脳裏に呼び起こされたとある記憶があった。天啓にも似たその閃きに押されるがままシルベルヴィントを後方に退避させると、ほんの一瞬前まで彼女がいた空間目掛けてサイバスターが急降下し、落雷のように断ち切って行った。

 

(なんだ。どうなってる?)

 

 整理が付かぬままアギーハは愛機を加速させた。スロットルを目一杯に押し込んでの最大戦速。音の速度を一息に突き破って、夜空を遮二無二疾走する。

 

 状況は一変した。

 

 シルベルヴィントが逃げる。

 

 サイバスターが追う。

 

(振り切れない……!)

 

 制御しきれぬGに押しつぶされながら、その戦慄が数十数百の虫となってアギーハの肌を這い登る。何度切り返しても引きはなせない。敵は執拗なまでにシルベルヴィントの後を追ってくる。

 

 おかしい。なにかがおかしい。

 

 アギーハは混乱していた。

 

 同じ空戦であっても、先刻に演じたものとはまるで違う有様となっている。サイバスターの機動が、戦術そのものが、まるで異なるものに変わっていた。

 

 風のような自由さが無い。

 

 騎士のような毅然さが無い。

 

 これまでその挙動の節々に感じさせた、背筋が薄ら寒くなるような魔性と神秘がどこにも見当たらない。

 

 今見せる飛び方。どこまでも執拗にこちらの尾を追ってくるその機動。それだけを言えば、さして目新しいものではない。あくまで基本に忠実な、手堅い飛行術理。引力、揚力、空力、すべてを念頭に入れた物理領域に置ける最善手。全てが理にかなった正道の飛び方だった。しかし、だからこそ、おかしかった。

 

 アギーハほどでなくとも、サイバスターの機動が通常とまるで異なることに、地上でそれを見上げるハガネ隊の者たちも段々と気付き始めていた。

 

 どうしたんだ、マサキ?

 

 リュウセイは眉を顰める思いだった。

 

 ああいうやり方もできたのか。

 

 キョウスケは感心していた。

 

 さしもの歴戦の勇士たる彼らも思い至らなかったのである。マサキ・アンドーの意思。それ以外の何ものも受け付けないはずのあの風の化身が、たったいま全くの別人によって操られているなどと。

 

 それでも、気付きかけている者はいた。戦域を離脱し、溢れんばかり絶望と、有り余る悲しみと、ほんのわずかな希望しかなかった墓穴から一足先に抜け出したR-2と彼の抱えるコンテナ。

 

 そこから降り立って、まったくもって久しぶりに平らかな草地を踏んだツグミは、まるで夢見るように、あの疾風とも流星ともつかぬ羽ばたきを見せる銀色の光に見入っていた。

 

 なぜだろう。

 

 ツグミには分からなかった。

 

 サイバスターの果敢なる飛翔が、妙に眩しく思えてならなかった。彼がひとつ速度を増し、ひとつ敵との距離を縮めるたびに、胸が撃ち震えるのだ。まるで我が事のように誇らしく。

 

 ツグミはいつまでも、その光に見惚れていた。

 

 なにか尊いものが、かけがえのないものがあそこにあるのような気がしてならなかった。

 

 わけもなく、涙が溢れていた。

 

 

 

 脳内の記憶を司る箇所が、次々にざわめきを立て上げた。そう、アギーハは知っている。かつて二度ほどこの飛び方を目にした事がある。同じく空を駆ける者として、愛しさすら覚えるほど王道なるこの飛び方は……!

 

 そのときになって、再びアギーハの脳裏に稲妻めいた神託が下った。迫り来るサイバスターの姿に、まるで異なる、それでいてどこか似通った全く別の機体が一瞬重なって見えたのだ。

 

 まったく異なる輪郭と、全く異なる質感をたたえ、それでいて色は同じく銀。シリーズ77、アーマード・モジュール・アステリオン。その姿がアギーハの目にはっきりと見えた。

 

 答えは出た。敵はマサキ・アンドーではなかった。

 

「お前か、小娘ぇぇぇっ!」

 

 アギーハは全てを察した。察したところでもう遅い。すでにまんまとサイバスターに背後を食いつかれ振り切れないでいた。無理も無いことだった。いまサイバスターが見せているのは、そういう機動なのだから。

 

 リールの鷲ことマックス・インメルマン。

 

 旧暦最大の撃墜王であるエーリヒ・ハルトマン。

 

 近代空戦術の祖とされるヴェルナー・メルダース。

 

 そして新暦に入り人型機動兵器の歴史が幕を開けてからも、多くのエースたちが空に生き、空に散った。

 

 この惑星における歴々の空の勇士たちが、それぞれの時代に、轟々たる戦火の中で編み出してきた技と術。めくるめく歴史と時代の中、それは常に誰かによって伝えられ、誰かによって受け継がれてきた。英雄たちの一代限りの才を、不断の努力と敬意によって写し取ろうとする者たちがいた。たとえ個人の才に欠けようとも、そこには偉大なる先人たちに対する愛と敬意が満ち満ちている。

 

 名付けてマニューバー・RaMVs。

 

 空戦の歴史、エースの系譜、その一つの精華がここにある。

 

 しかしそれだけには留められない。そうでなくてはアイビスの勝利は叶うまい。忘るまいぞ、この技とて、一度はアギーハに打ち破られている。マニューバー・RaMVsだけでは届かない。あの異星の風を捕らえるには、その先へ行かなくてはならない。

 

 アイビスは左手を握りしめた。少年の手の甲のなんと暖かな、そして冷たい感触なことか。その相反する感触が、アイビスに際限なく勇気と闘志を与えた。

 

 この手は放さない、もう二度と。

 

 死なせもしない、なにがなんでも。

 

 共に生きるのだ。この世界、この時代を。

 

 病める時、健やかなる時、いついかなる時も、未来永劫、彼と共に。

 

 故に、前へ。

 

 一歩ずつでも良いから、前へ。

 

 ただ前へ。

 

 ――さぁ、ぶちかまそうぜ。

 

 そんな声が聞こえた。ひどく聞き覚えのある、大好きな大好きな声だった。

 

 ――うん、ぶちかまそう。

 

 アイビスは愛しさを噛み締めながら、それを行った。

 

 地・水・火・風。その他二つ。この世全てを表すシンボルを宿した方陣が中空に展開され、四つに分裂した。その四つから一斉に、眩いばかりの極光が生み出された。これこそサイバスター、秘技中の秘技。地底世界に君臨する最強の四機神、その中でなお最強たるその証。運命を砕き、摂理を砕き、やがては最大の宿敵たる蒼の魔神をも打ち砕くであろう、大いなる新星の輝き。

 

 コスモノヴァ。その言霊をもって、今ここに正真正銘最後の一手が発動する。

 

 本来であれば四つの砲撃として放たれるはずの光は、このときはどういうわけか、まるでサイバスターを覆うように現れた。あるいは誰かの夢のように、ただひたすら輝き輝き輝き続けるその光が、一筋の流星となって夜天に一文字を描く。それをもって、アイビスはなおも加速を命じた。これまで常にアステリオンと共にそうしてきたように、物理という宇宙に定められた法則の下、人に許された、人に出来る限りの術理で、力の限りに飛翔せんとする。

 

 そして、そんな彼女が駆るのは王である。風の王にして空の王である。人々の無意識がそう定めた、人の理を越えた存在である。この双方が一つになったいま、一体何者が逃亡を叶えられるというのか。

 

 ――Ethereal Rapid acceleration Mobility break Cosmo-nova.

 

 ――Maneuver-EtRaMCn(エトラムクン)

 

 いささか異国的な響きだが構うまい。

 

 風と流星が、魔術と技術が、そして少年と少女の想いが一つに交わり、生まれ出た新たなる奥義の今ひとつ。おそらくはこの日以降、二度と行使されることのないその奥義をもって、今宵限りの人馬一体は尚も加速する。

 

 なにもかもを置き去りにして、さらにさらに加速する。

 

 風に乗り、星を追い、

 

 風を従え、星を越え、天駆ける。

 

 やがて来たる、睦み合う織姫と彦星のその彼方まで。

 

 

 

 全てを見下ろしながら冷ややかに輝く満月の中心で、その流星の先端はついにシルベルヴィントの背を捕らえ、そして貫いた。

 

 

 

 



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第十五章:眠り姫

 

   Ⅰ

 

 

 シルベルヴィントの爆発とともにラングレーから全ての敵反応が消失し、以降新たな増援の気配もない事から、間もなく若き戦闘指揮官の手で戦闘終了宣言がなされた。

 

「皆、ご苦労だった。ひとまず帰艦してくれ」

 

 最後に添えられたその一言に、パイロットたちはこぞって息をついた。

 

 やがてハガネブリッジから着艦の準備が整った知らせが入ると、パイロットたちは満身創痍となった己の乗機を、これまた満身創痍なハガネへとのろのろと近づけて行った。なお着艦の一番手はサイバスターとなった。列を作り始めた味方機の頭上を素通りして、我先にとハガネの着艦用ハッチに飛び込んだのである。

 

「くおら、マサキ。横入りとはなんだ!」

 

「ごめんなさい!」

 

 思わず叱り飛ばしたイルムだったが、返って来たのは切羽詰まったような女の声だった。

 

 そうして帰還者第一号としてサイバスターが格納庫まで辿り着いたとき、足下から全力の歓声と拍手喝采が鳴り響いた。整備士たちによるものである。直接戦闘に参加していない彼らだが、今宵のMVPが誰であるのかは重々に承知しており、こうして簡素ながらも凱旋式めいた出迎えを企画したのだ。

 

 堂々と胸を張り、親指の一つでも立てた少年の姿を今か今かと待ちわびていた整備士たちは、しかし大いに期待を裏切られることとなった。

 

「医者。医者をちょうだい!」

 

 機体が固定されるや否や、銀騎士のパイロットはすぐさまコクピットから飛び出してきて、そう声を張り上げた。そこには整備士たちが期待したものは何一つなかった。一番に姿を現したのは、まったくもって予想外なことに除隊したはずのアイビス・ダグラスの姿であり、勝利の立役者であるはずのマサキ・アンドーは全身血塗れとなって彼女に背負われていた。いつか見たような光景が、主客反転して再び整備士らの前に現れていた。

 

 すでに機内通信で連絡を受けていたらしい医療班の人間が、担架を引っ張って格納庫に傾れ込んでくる。二人であった。他の乗組員の治療に忙しく、人手が足りていないのだ。その代わり腕の方は確かであったようで、慎重にマサキを担架の上に乗せたあと、手早く点滴や輸血パックの針を刺し、呆然とする整備士たちを他所にそれとばかりに医務室へ駆け戻って行く。当然のようにアイビスもそれに付いていった。

 

 マサキは即座にICU行きとなった。元地球脱出船であるハガネならではの設備である。執刀を担当することなったのは、アイビスも一時世話になり通しであった医療班々長であり、外科手術をこそ本来得意分野とする人物である。執刀者として彼以上の経験とセンスを持ち合わせる人材はハガネ隊にいない。

 

 そんな優秀な彼であるが、手術室の中でひとしきり患者の外傷を見渡したのち、はてと首を傾げざるをえなかった。それほどまでにマサキ・アンドーの肉体は、奇妙な状態にあった。外傷はある。あるといえばある。いったい何に巻き込まれたのか、石やコンクリートの破片などに猛烈な勢いで肌を食い破られたような形跡が確かにある。しかしその破片はどこにも見当たらず、肌の傷も治療するまでもなくすでに塞がりつつあった。出血も止まっている。

 

 念のため外傷部に一通りの消毒を施し、輸血と麻酔投与を続けるよう部下に言い残してから、彼は釈然としない気分のまま手術室を出て、待合室のアイビスを訊ねた。

 

「そういうわけなんだが、心当たりはないかい?」

 

「あります。クロとシロが、なにか魔法をかけてました。治癒術だって言ってたから、多分それだと」

 

 言われて医療班々長は溜め息をつくしかなかった。彼は謙虚な男であったから、優れた医者や医学者と出会えば、いくらでも頭を下げるし教えだって請う。しかしまさか四本足の小動物にまでそれをしたくなる日がくるとは、これまで思ってもみなかったのである。

 

「となれば、彼は大丈夫だ」

 

「本当ですか!」

 

 医療班々長は、すんなりと頷いた。マサキ・アンドーが危ぶまれていたのは出血多量による失血死であり、その要因である外傷がすでに塞がっている以上、さらなる手術は必要ない。後は足りない血と養分を補充して安静にさせてやれば事は済む。無論、時間が経ちすぎていれば手遅れとなっていたが、少なくとも今回の場合は十分間に合うはずであった。

 

 ハガネ医療班にとってむしろ厄介であったのは、この直後に発生した患者の方であっただろう。なにせ原因も治療法も不明の、まったく摩訶不思議な病人であったのだから。

 

 聞きたかった言葉を聞けたアイビスは安堵の溜め息をもらした。目尻に涙を蓄えながら、何度も何度も頭を下げるアイビスに、班長は恐縮で一杯となった。彼にしてみれば何もしていないに等しかったからだ。しかしそれもアイビスの体がぐらりと傾くまでのことで、まるで目眩を起こしたように倒れこんできた彼女を抱き支えたときには、もう何時もの医者の顔に戻っていた。

 

 

 

 マサキ・アンドー。出血多量による昏睡状態。現在医務室にて治療中。命に別条は無し。数日以内に回復する見込み。

 

 アイビス・ダグラス。こちらも現在昏睡状態。ただし原因不明。肉体的には打撲、脱臼程度で大きな外傷は見当たらず、にも関わらず心拍を始めとするあらゆる生命活動が異常減衰しており、それは尚も進行中。回復時期不明。

 

 以上の事実がパイロットたちに伝えられたのは、戦闘終了の一時間半後に開かれたデブリーフィングによってであった。つくづくこの小隊は、戦勝気分に水を差すのが好きであるらしい……というのは、パイロットたちの浮かべる表情を受けて、キョウスケが抱いた愚痴にも似た感想であった。

 

 そもそも戦勝などと呼べる結果でもなかった。

 

 ラングレー基地は壊滅。そしてハガネ隊においても、こたびの一戦による各機動兵器の損傷は極めて甚大であり、それはハガネそのものも同様だった。いまだ地中に埋もれているヒリュウ改にしても到底楽観はできないだろう。こんな状態では数日後に控えているプランタジネット作戦のフェイズ2……つまり月面都市解放作戦に参加するなど夢のまた夢であった。

 

 事前計画の段階ではフェイズ2におけるハガネ隊の役割はあくまで囮とフォローであったが、それにしても大役にはちがいない。そのハガネ隊がこんな様では作戦の全面的練り直しが必要となる。

 

 総司令部はこれから火の車だろうな、とキョウスケは他人事のように考える。上のことは上が考えればいいと投げ捨てていた。思慮浅い若者ではなかったが、他人の領分にあれこれ首を突っ込めるほど彼の業務は暇でもないのだ。

 

 原則全員参加のデブリーフィングであるが、いまこの場にいるのは半数程度である。アイビスたち以外にも、命に別条はないまでも医務室に直行となってしまったパイロットは少なからずいるし、一方肉体と機体双方に多少なりとも余裕があったパイロットには、やや過酷ながらも夜を徹しての救助活動が命じられていた。

 

 たとえばR-2のライディースなどがそれに当たる。今夜の戦闘では、彼は両手に避難民を抱えての戦域離脱を最優先にしていたため、機体の被弾は最小限に留められていた。ライ自身の気力・体力もまだまだ水準以上にあり、本人の強い希望もあって、ただちに残りの生存者を救出するべく大穴の中へと舞い戻って行った。他にもESPと看護兵としての知識を併せ持つクスハなどもそれに続いている。すくなくとも今現在地上付近に出て来ている生存者の救出は今夜中に取り掛からなくてはならない。本当であればハガネの医療班らも派遣させたいところであったが、まだまだ乗組員の治療活動に区切りがついていないため、そのままハガネ内で業務を続けさせることとなっていた。

 

 言うなれば今このデブリーフィングに参加しているのは、とりあえず大きな怪我は無く、それでいて動かせる機体も無い中途半端な者たちだけだった。リュウセイやタスク、カチーナにエクセレン。誰も彼もが疲れきっており、デブリーフィングが終わればすぐにでもベッドに倒れ込もうと決めて掛かっている様子であった。そしてそれを責めるつもりは、キョウスケには毛頭なかった。彼もまた同じ気持ちであったからだ。

 

「とりあえず、デブリーフィングは以上だ。みな、とにかく今日は寝てくれ。ご苦労だった」

 

 そう告げると、みな一斉に立ち上がり、揃いもそろってホラー映画のゾンビのようにゆらりゆらりと部屋から退室して行った。そして残ったのはキョウスケ、カイ、イルムといういつもの三人のみとなる。

 

 三人の男はそれぞれに剣呑な目つきで、無言に睨み合った。思うところは、三者共通であった。そして同時に腕を振り上げる。

 

 カイは石。キョウスケも石。イルムは鋏。

 

 決着はついた。まとめ役の間での夜勤担当はこうして決まり、カイとキョウスケは机に突っ伏するイルムの肩を順々に叩いては、各々の自室へと真っ直ぐに帰って行った。

 

 限界だ。キョウスケの頭にはもはやそれしかなかった。ライディースやクスハたちを思えば情けなさも甚だしいが、それでも無理なものは無理というときがあった。

 

 救出活動のプランなりシフト表なり、そしてアイビスたちのことなどに漠然と思いを馳せながら、キョウスケは足場やに自室へと戻り、そのまま着替えもせずベッドに倒れ込んだ。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 疲労困憊であったハガネ隊も、夜が明けてからはいくらか体力も戻り、平時よりは多少なりともギアを落としつつ精力的な活動を開始した。

 

 まず応急処置を済まされた機体のうち半数が出撃し、ライやクスハたちと交代で現地の救出活動に入った。残るもう半数のパイロットは他の乗組員のサポートに回った。機動兵器の修理にせよ、回収された生存者の治療にせよ、もはや本来の担当班だけでは回らなくなっている。とりわけ医療班などは、ほぼ全員が昨夜から一睡もしていない有様だった。墓穴からの救助者は昨夜だけで既に二十人を超えており、夜が明けた今からであれば、より多くの者が見つかるだろう。これほどの超過勤務とあっては、無用な事故が起こりかねない。

 

 そんなわけで、約半数のパイロットたちはその日の朝から慣れぬ業務を必死になってこなさなくてはならなかった。中でも特筆すべきはカチーナ・タラスクとラッセル・バーグマンの働きであろう。

 

「てんめぇ、あんま寝ぼけたこと抜かすようなら誤射を装って爆撃かますぞ。国家権力なめんなよ。いいからとっとと医者と救急車を三個大隊ばかし持ってこい。うちじゃもう患者が溢れ帰って、艦からこぼれちまいそうになってんだよ。いいか、一時間以内だ。てめーの名前と声は覚えたからな……て、おい、なんだよラッセル、放せ」

 

「もしもし、お電話変わりました。ラッセル・バーグマン少尉であります。はい、うちのものが、はい、大変申し訳在りません。ええ、ええ、大変失礼な振る舞いをしてしまい、はい、ええ、ええ、本当に。しかしそれはそれとしてですね、我が艦の実情としましては……」

 

 これは周辺医療施設との交渉を担当することとなったカチーナとラッセルの仕事ぶりを一部抜粋したものである。本来は通信士、あるいは副艦長あたりが適切な態度をもって行うべき仕事だが、先述したように人手が足らないため彼女たちが抜擢されたのである。礼よりも実と速攻性を期待されての人事であったが、一応その甲斐あって一時間もしないうちにハガネの下へ周辺の病院から救急車の大軍が届けられた。ラッセルと共に行わせたことが上手いこと「北風と太陽」、あるいは「怖い刑事と優しい刑事」に類する効果を生んだのだろう、というのは傍から彼らの様子を眺めていたエイタの分析だった。なんにせよ彼女らの働きによって医療班の負担は大分減らされた。

 

 他にもタスクやリョウトなどメカに強い者たちはこぞって格納庫に掻き集められ、機動兵器の応急修理に駆り出されることとなった。実のところこれが目下最大の重労働であると言えた。なにせ機体はハガネ・ヒリュウ改双方の分が勢揃いしているというのに、整備士についてはハガネ所属の分しか人手が無いのである。整備班々長が頭を抱えてしまうのも無理の無い事であった。

 

 ちなみにヒリュウ改所属の機体については、艦内に収容すらされていない。スペースの問題から、とうてい全てを受け入れることができなかったためである。現在ハガネは陥没地帯西方の平地に着陸しているが、余分な機体はそのまま艦の周辺に野ざらしの状態にしている。リョウトらの最初の仕事は、いつ雨が降ってもいいように外の機体達に機動兵器用の防水シートをかけて回ることだった。

 

 また別のところでは一部の女性パイロットたちが看護兵の真似事をさせられ、てんてこ舞いとなっている。しかし中にはエクセレンのように嬉々として役割を楽しむ者も一部だがいた。誰も指示していないのに看護服を悪趣味に着こなして、特に用途もないのに体温計をくるくると指先だけで回しては、男性患者に無用なちょっかいをかけていく。そんな彼女の姿に苦言を呈する者もいたが、仕事をさぼっているわけではないし、大きな害もないので放っておかれた。

 

 また艦長や副艦長はモニター会議室に延々と缶詰めになっており、総司令部の人間も交えながら今後の動き方についての打ち合わせに没頭していた。レフィーナやショーンの姿はまだ見えない。近距離通信により無事だけは確認されてるが、さすがに戦艦の引き上げとなると簡単にはいかず、まだ墓穴の中に埋まったままとなっている。実際に掘り起こすのは専門の重機や工員たちが派遣されてからのこととなるだろう。幸い、さらなる土砂崩れが起こる様子はなく、また食料なども一定量は確保されているが、クルーはさぞ不自由しているに違いなかった。

 

 そんな風に、ハガネ隊の誰もが忙しく駆け回っていた。

 

 

 

 この日エクセレンは朝からずっと医務室近辺に居座っていたため、昼休みに医務室を訊ねて来たツグミとも必然的に顔を合わせることとなった。ツグミはリョウトらと共に格納庫方面のサポートについており、いまもどこから拝借したのか上下一体の野暮ったい整備用ツナギに身を包んでいる。よほどの激戦をこなしたのか、その下半身は無惨にも煤と油まみれになっていた。

 

 そんなツグミの姿を、エクセレンは似合わぬものとは思わなかった。男所帯に混じって懸命に働く女は、それはそれで輝かしい。それにしてもツグミは本来であればソフトウェア方面の専門家のはずで、下手にマルチな才能を持つべきではないらしいと、エクセレンは軽く同情した。

 

「いらっしゃい。格納庫はどう?」

 

「午前中をかけて、やっと三機。それも動かすだけなら、ってところです」

 

「うちのヴァイスちゃんはどんな感じ?」

 

「R-1とどっこいで、一番ひどいですね。内装までズタズタです。早速トリアージの対象になりました」

 

「ありゃりゃ」

 

 言いつつエクセレンは二つのティーカップに紅茶を注いでいった。いまは艦内は休み中だが、患者部屋からのコールに答えるためエクセレンはこの部屋で待機していなくてはならなかったので、話し相手になってくれそうな客人は歓迎したいのだった。

 

 カップを差し出すと、ツグミは礼を言ってそれを受け取った。椅子を汚すまいと遠慮してか、ソーサーを持って立ったまま一啜りする。そうしてエクセレンと目を合わせ、しばしの間なんとも言えない沈黙を共有した。

 

 笑いだしたのはエクセレンだった。

 

「変ね。長いこと一緒だったのに、二人で話をするのは初めてだったのね」

 

「ごめんなさい。そうですね、意外でした」

 

 ツグミも苦笑した。エクセレンのたった一言で、気まずさが嘘のように散った。こうしてみるに、やはり根は気配り上手な女性なのだろう。いつもあの少年と小喧しくやりあっているのは、なかば意図しての意地悪と見て取れた。

 

 二人は連れ立って、患者部屋の中に入って行った。現在この部屋には二十二人の患者が住んでいる。民間の病院の支援を得たことにより大部分をそちらに委ねることができたので、人数としてはピークよりずっと減っている。全員が乗組員であり、言葉は悪いが放っておいても勝手に快方に向かうであろうと目された人間のみが、ここに残されていた。

 

 しかしいささか例外も混じっている。

 

 フリューゲルス小隊の一番機と二番機。

 

 二人は隣り合うベッドの上に寝かされていた。間を仕切るカーテンはあるが、いまは退けられている。どちらも目を閉じて昏々と眠り続けているが、顔色は明らかにマサキの方がいい。遠からず目を覚ますだろうとの医師の見解にも沿う。

 

 対してアイビスの方は、見るからに血色が悪い。頬は青ざめ、唇は紫に近い色となっている。死相、そんな言葉すら見る者に思い起こさせた。ツグミの手がゆっくりと伸びていって、アイビスの頬をそっと撫でた。冷たくはない。断じて冷たくはないが、しかし暖かくもない。

 

 アイビスがこうなった原因は一切不明だった。外傷は、すくなくとも命に関わるようなものは何一つ無い。血液も栄養も足りているはずであったし、その上さらに念のための点滴まで受けているのだ。医学上、アイビスはむしろ人並み以上に健康でなくてはならなかった。だというのに、こんなにも暖かくない。そして呼吸は、まるで植物のそれのように小さく静かだった。

 

 医療班たちは匙を投げざるを得なかった。原因が分からない以上、一切の治療法も彼らの手の中には存在しない。そんなアイビスが、なぜ他の患者と違いハガネの中に止められているのか。それは彼女の病状について、隣で安らかに眠る少年がなんらかの知識を持っているのではないかと期待が持たれての事だった。昨夜にアイビスが経験した異常として最たるものは、サイバスターに乗り込んだことである。とすれば今のアイビスの状態についての詳細も、またその治療方法も、サイバスターの本来の操者である彼ならば知っているかもしれない。

 

 ツグミが頻繁に、さながら見比べるように二人の間で視線を行き来させているのもそういった理由によってであった。アイビスの命運を彼が握っているのだとすれば、ツグミの心中も穏やかではないられない。本心を言えば、いますぐマサキの頬を張り飛ばして、叩き起こしてやりたいくらいだったが、そうしないのは彼もまた怪我人には違いないことと、なにより彼が紛れも無くアイビスの、そして自分たちの命の恩人でもあるとも理解しているからだ。

 

 大丈夫。きっと大丈夫。ツグミは祈るような気持ちで自分に言い聞かせた。きっと彼はすぐに目を覚ます。彼が目を覚ませば、きっと全部解決する。きっと「なんだ、そんなことか」と肩をすくめて、何らかの処置を軽々とこなし、そうしてアイビスを元に戻してくれる。

 

 そも易々とどうにかなるアイビスでもない。夢が、それまでの人生全てが砕け散ろうとも、地獄の淵を走り回ってはその破片を拾い上げ、組み直し、取り戻してしまうような女なのだ。こんなところで死ぬ訳などあるはずも無い。

 

 目を伏せて祈り続けるツグミの横顔を眺めながら、エクセレンは気付かれないように小さく溜め息をついた。そして彼女もまた、眠り続けるマサキの顔を見やった。

 

 アイビスの病状とサイバスターの関連性を指摘し、アイビスをこの艦に止めるよう提案したのはエクセレンであった。話は前大戦の頃まで遡る。その日、ハガネ隊は大きな戦いをこなした。具体的にどの戦いかは忘れてしまったが、なんにせよ戦いはかなり激しいもので、その頃は一人の部下も持っていなかったマサキも、かのMAPWを三発も放つほどの大判振る舞いだった。

 

 そして戦闘後。先に着艦したエクセレンは、少年の大健闘をちょっとばかりのスパイスを利かせながらも称えようと、続いて収容されたサイバスターの足下で彼が降りてくるのを待ち伏せした。

 

 して降りて来たのは、今のアイビスと同じか、あるいはほんの少しばかりマシといったくらいに顔を青白くしたマサキの姿であったのだ。慌てるエクセレンに力なく手を振りながらマサキはとっとと自室に帰り、その後二日間、一度も皆の前に姿を現さなかった。

 

 こうなれば推理は容易く進む。エクセレンの推理は一定の説得力が認められ、かくしてアイビスは手の施しようの無いままハガネに収容し続けられることとなった。

 

 そういった事情もあり、日に日に衰弱しつづけるアイビスの姿は、エクセレンにとっても到底他人事ではない。彼女の意見のもと、アイビスはいまこうして病院にも移されずハガネの中で刻一刻と弱っていっているのだ。

 

 早く起きなさいな。

 

 エクセレンもまた、内心でマサキを呼びかけた。

 

 貴方の部下が苦しんでるわ。ツグミさんもね。もう見てられないの。お願い、助けてあげて。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 深夜の医務室。アイビスとマサキも含め、患者全員が深く寝静まっている頃のことである。アイビスとマサキの姿には、昼間とまるで変化が見られない。眠り続けているのだから当然だ。心無しか、あるいは夜のためにそう見えるだけか、アイビスの顔がさらに青ざめているように見える程度だ。

 

 悪魔に生気を奪われた人間などが、あるいはこういう姿になるのかもしれない。それが事の真相に対して、当たらずとも遠からずな見解であると知るのは、このハガネ艦内においてはただ一人であった。

 

 否、一人ではない。正確には一人と二匹だ。

 

「ぷっはぁ!」

 

 まるで水底から這い上がったかのように、一匹の白猫が毛布の中から顔を出した。ちょうどマサキの顔の、すぐ左横からである。

 

「クロ~、生きてるか~?」

 

「あんたが生きてるニャら、あたしだって生きてるわよ、もう」

 

 マサキの顔の今度は右横から黒猫が這い出て来た。黒と白の使い魔たちは、主の顔を挟みながらひとまず相方との再会を喜び合った。

 

「いやー、今度ばかりは死んだかと思ったぜ」 

 

「実際死んでたわよ、半分くらい。全く少しは魔装機神操者としての自覚を持って欲しいもんよね。そう簡単に死んじゃいけニャい身だっていうのに」

 

 言いながらクロは、ぺしぺしと主の額を尻尾ではたいた。それを見てシロは、猫の身でなんとも器用だが、仕方無さげに肩をすくめてみせた。

 

「まぁ、あのときはしょうがニャいって。オイラにはマサキの気持ちがわかるぜ。クロだってそうだろ? オイラたちは結局三人とも『マサキ』ニャんだから」

 

「……まぁね」

 

 満更でもなさそうにクロは笑った。異体同心。余人には分からない絆が彼らにはある。

 

「それじゃぁ、マサキ三号? やるべきことは分かってるわよね」

 

 シロは合点とばかりに身を起こした。

 

「命の恩人に恩を返さニャいとニャ。ツグミも心配してることだし、一号を起こしますか」

 

 シロはそう張り切って、マサキの両頬を二つの肉球で勢いよく交互にはたき始めた。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 夢を見ていた。

 懐かしくも悲しい夢を。

 

 母が死んだ。感染症による病によってだ。自業自得といえばまさにその通りだが、そんな言葉では片付けられないものを、当時からアイビスは感じていた。アイビスが思うに、母は売女であったが悪女ではなかった。不貞を犯し続けていたが、それでも邪な者ではなかった。母は母なりにその自らの業というものと真摯に向き合っていたように思えるのだ。神というものがいるとして、死者の罪を裁くにしても、この母であればそこまで無碍には扱われまい。そんな風に思えてしまうくらい母は懸命に生き、そして死に顔はほっそりと安らいでおり、その頃ティーン・エイジを迎えたばかりのアイビスに、なにか神聖なものを感じさせた。

 

 お疲れさま。ゆっくり休んで。

 

 そうしてアイビスは、母の最期を、忘れてはならぬものの一つとしてそっと胸の奥の宝石箱にしまった。

 

 そしてその後半年を数えたころに、アイビスは旅立ちを決意した。冬が明けて、瓦礫だらけのチェルシーにも、ほんの少しの暖かさが舞い降りるようになった頃、一抱えのナップザックを担いで、アイビスは十余年住み慣れた生家の玄関口に立った。別れの挨拶のときですら、父は背を向けたままだったが、アイビスは気にしなかった。その背中こそが父の表情なのだろうと、このころは思うようになっていた。

 

 行ってきますと、その背中に向けてアイビスは言った。返事は返ってこなかった。

 

 母が死んでから、父は変わらないようでいて、やはりどこかが変わっていた。父と母の間柄がどういったものであったのか、アイビスは今も昔もよく分かっていない。それは父と自分自身についても同じだった。酒と暴力にまみれた横暴な父。尊敬できるところなどありはしない。しかし、それでも父であった。

 

 そういったやりきれない繋がりが、きっと父と母の間にもあったのだろう。疎みつつも切り離せない、踏んづけたガムように心の壁面にこびり付く、そんなものが。だからアイビスは、そんな父の背中もやはり、胸の奥の宝石箱の中に大切にしまいこんだ。他人からすれば何の価値もないのだろうが、誰かの宝箱の中身などえてしてそういうものなんだろうと、そんなことを考えながらアイビスは父と今生の別れを果たした。

 

 そうしてアイビスは歩き出した。家を出て、すこし考えてから東に向かった。理由があってのことではない。強いて言うなら朝日へと向かって行こうと思ったのだ。

 

 最終的な旅の目的はあったが、そこに辿り着くまでの具体的なプランをアイビスは何一つ持ち合わせていなかった。伝手もあてもない。さらに言えば資金も。それでもアイビスはてくてくと、朝日に柔らかく照らされて一層退廃的に佇む故郷の街並を歩いて行った。物乞いをしながらでも、とにかく歩き出さなくては。そんな強迫観念に背を押されつつ、アイビスはなかば闇雲に朝日を追いかけて行く。悲しくないのに涙が出るのはどうしてか。そんな他愛のないことを考えながら……。

 

 

 

 アイビスは目を覚ました。これが最後の目覚めになるのだと、なぜか目覚めた瞬間に分かった。自ら悟ったのではなく、誰かが耳元で答えを囁いたような、そういう理解だった。

 

 ああ、彼がいる。目覚めてすぐに、アイビスはそう察することができた。ベッドに寝そべる自分の脇に、あの少年がひどく辛そうに立ち尽くしているのを、アイビスは視覚以外の何かで認識することができた。

 

 不可思議な感覚だった。ひょっとすれば、禅の境地とはこういうものなのかもしれない。筋肉の筋一つ動かせず、まったく身動きが取れないのに、それでいてなぜか不自由を感じないのだ。植物のようにひっそりとした呼吸が全く苦痛でない。そして目蓋はおろか眼球もろくにうごかせないのに、どうしてかアイビスは、周囲にあるものを如実に判別することができた。

 

(そうか、やりきったんだ)

 

 疲労困憊気味で全身包帯だらけでも、ひとまず両の足できちんと立っているマサキの姿にアイビスは満足した。未練も心残りも無数にあるが、それらを引き換えに彼がこれからも生き続けるのであれば、それは悪くない成果のように思えた。あるいは自分にしては、むしろ上出来すぎるのではないか。

 

(やったよ、あたし。ねぇ、褒めてくれる?)

 

 そうは言っても、マサキは立っているのも辛いのか、袖机に手をつきながら懸命に呼吸を整えるばかりだった。なにせ死にかけた後なのだ。顔色も大層悪く、褒め言葉をひねり出す余裕もなさそうだった。

 

(無茶しないでよ。また倒れちゃうよ)

 

 そうは思いつつ、また別のところではマサキにもう少しだけ頑張ってもらいたかった。意識の片隅が微かな眠気を覚え始めていた。日が落ちて、彼方からゆっくりと夜がやってくるように、二度と覚めない眠りがもうすぐそこまで来ている。

 

 それはどこか安らかではあったが、やはり恐ろしくもあった。なんにせよ一人で迎えたくはない類いの代物だった。せめて誰かの存在を感じていたかった。

 

(お願い、最後まで居てね。もうちょっとだから)

 

 アイビスは一人でトイレにも行けなかった時分の事を思い出して恥じ入った。思えば、今までついぞ思い返すことのなかった幼少の頃の記憶が、ここのところよく頭をよぎる。無意識に死期を悟っていたのか、それとも……。

 

「ほら、しっかりして」

 

「こればっかりはオイラたちじゃ出来ニャいんだ。びしっと決めてくれよ」

 

「うっせぇ、わかってるっての……」

 

 そう言って、マサキは息を吸った。今にもプールに飛び込もうとするかのように大きく吸いこんだ。肺に目一杯ためこんだ空気を、今度は小さく静かに吐いていく。ヨガを彷彿とさせる特殊な呼吸だった。

 

(?)

 

 アイビスの意識はようやく疑念を抱いた。どうやらマサキは、ただアイビスの顔を見に来たというわけではないようだった。マサキの奇妙な呼吸法は、気のせいか一呼吸ごとに、彼の輪郭を暗闇の中から浮き上がらせていくようだった。彼という存在感が増して行く。よく分からない、よく分からないが、彼はいま何かを高め、燃やしているのだと、なんとなくアイビスには分かった。

 

「くれぐれもやりすぎニャいでよ。いま補給しすぎたら、今度はこっちが危ニャいわ」

 

 言われるまでもないことであったから、マサキは応えない。プラーナ欠乏の際の緊急処置は、魔装機乗りであれば誰でも一度は講習を受ける。ついでに実践の経験もマサキにはあった。とはいえ、あのときとは主客が異なるが。

 

 寝込みを襲うようで全くもって気は進まないが、命がかかっていることなのだからそうも言ってられない。決意を込めてマサキは目を開いた。

 

(よし、やってやる)

 

(やだ、なにするの)

 

 マサキの眼差しの前に、まるで銃を突きつけられたかのように、アイビスの精神が強張った。肉体的には脈拍は弱まって行くばかりなのだが、意識の上ではアイビスは確かに緊張し、怯えていた。マサキの呼吸が一往復するたび、彼の肉体に込められた何かが恐ろしく高まっていた。熱いとすら感じる。さながら活火山のように、マサキの体内に宿る正体不明のエネルギーが激しく燃焼していた。

 

(悪く思うなよ。死ぬよりゃましだろ)

 

(待ってよ。ねぇ、待ってってば)

 

 あいにくとマサキは念動力者ではなかったから、アイビスの心の声など聞こえない。だから彼は待ちなどしなかった。

 

(そうとも。死なせてたまるか……!)

 

 なけなしの体力と、そしてこればかりは十全を通り越す気力を振り絞り、少年は行動した。ぐんぐんと近づいてくる少年の顔に、アイビスは言葉を失った。少年がなにをしようとしているのか、これから何が始まるのかを直感的に理解し、

 

 ――あたし、あんたとキスがしたいな。

 

 それを望んだのは、他ならぬ自分であったことも思い出して……

 

(ぅぁ……)

 

 そうして二人は触れ合った。接触し、繋がった。指先と同様に多くの神経や毛細血管が張り巡らされ、それでいて指先よりも幾倍も皮膚が薄いがため、もっとも脳へ刺激が伝わりやすいとされる感覚器官。すなわち唇と唇で。

 

(……!)

 

 声なき声で、アイビスは苦悶の悲鳴を挙げた。接触した唇の感触もさることながら、人工呼吸のように注ぎ込まれる彼の吐息と、そこに込められたエネルギーの迸りが彼女の体内を席巻し、蹂躙していく感覚に悶え苦しんだ。

 

(なに、これ……)

 

 入ってくる。

 

 流れ込んでくる。

 

 例えるなら雷が蜘蛛の巣を伝うように。彼女の血管という血管、神経という神経に、彼という異物が荒れ狂うように侵入していった。脊髄にいたっては、灼熱の鉄杭を打ち込まれたかのようだ。

 

(やだ……熱い……)

 

 少年によって流し込まれた侵略軍めいた何かは、さながら彼の気性そのままに、あまりに無遠慮にアイビスの肉体のそこかしこへと押し入ってきた。そして府抜けた細胞を見つけては胸ぐらをつかんで無理矢理に叩き起こしていく。寝起きが悪い者には、もれなく往復ビンタが付いた。そうしてさんざんいたぶったのち放り棄て、侵略者はまたすぐ次の獲物へと走って行く。無惨な姿となった被害者がやっと終わったかと安堵するのも束の間、すぐに第二波が押し寄せて来て二重、三重の蹂躙を味合わされた。

 

「けほ……」

 

 ひとしきり息を吐き終え、咳をしつつもマサキは唇を離した。それでもアイビスの煩悶は収まらない。あるいは退路が断たのちにこそ、本当の侵略は始まった。本体から切り離された少年のプラーナは、ならいいやとばかりにそのままアイビスの体内に居座り、あろうことか彼女の一部として定着しようとした。

 

 もはや暴徒というほかない代物に、体内を好き放題に侵略されるこの痛み。自分の体が踏みにじられ、植民地化していくこの苦しみ。間違いなく苦痛であるはずなのに、恐ろしいはずなのに、全くそうと感じられないというのが尚のことアイビスは恐ろしかった。

 

 彼という異物がもたらす侵略と圧政に、肉体が歓びの声を挙げていた。全細胞が一斉に息を吹き返す。心臓は力強く銅鑼をならし、血流は疾走し、神経は総立ちとなって喝采を挙げる。わずかな理性と羞恥心だけがあまりの事態に目を覆う中、他のもの全てはまったくそれを意に介さず、この傍若無人な異物の大軍を神の恵みとばかりに全身で抱きとめ、あるいは自らを捧げ、一つとなっていった……。

 

 

 

「つ、疲れた……」

 

 さながら未完成のサイフラッシュを二連発したかのような、妙に懐かしい疲労感がマサキの全身を苛んでいた。もはらろくに足も動かせず、よろよろと後ずさるようにアイビスのベッドから離れて行く。本音を言えばこのまま倒れ込んでしまいたかったが、そうするとこの場合はアイビスの上にということになる。そんな状態で翌朝誰かに、あるいはアイビス自身に目撃されれば言い訳のしようがない。マサキは死に物狂いで自分のベッドを目指し、そしてそれは幸いにもなんとか成功した。

 

「お疲れ様」

 

「寝とけ、寝とけ。あとはオイラたちがやっておくから」

 

「わりぃ……んじゃ……頼まぁ……」

 

 そのまま自分のベッドに倒れ伏し、数秒と経たずに眠りの世界へと急降下していった。だらしのない主の姿に肩を竦めつつ、二匹の使い魔はアイビスへと視線を戻す。

 

「よく眠ってるわね。呼吸も落ち着いてる」

 

「途中で目を覚まさなくて良かったニャ。マサキのことだから、起きているときには絶対できニャいぜ」

 

「まぁ、夢に見るくらいはあったかもね。プラーニャを補給されるって、どういう気分ニャのかはよく分からニャいけど。さ、それより怪我の方を治してあげましょ。たしか左腕を痛めてたはずだから」

 

 そういって二匹は両前脚をかざし、青白くも柔らかな光を生み出して、眠り続けるアイビスへと浴びせていった。ぼんやりと照らされるアイビスの顔色は、さきほどまでの衰弱ぶりが嘘のように瑞々しく、赤々としていた。呼吸も安らかで、あとは怪我さえ治してしまえばもう元通りのアイビスになる。元通りのアイビスと、元通りのマサキがいて、元通りの二人になる。この夜が明ければ、それを目にすることができる。二匹の使い魔は、それぞれにその光景を想像して、それぞれに微笑んだ。

 

 

 

  Ⅴ

 

 

 

 偶然ではあるがマサキの意識が闇に堕ちたのとほぼ同時に、アイビスの意識もまた深い眠りの世界へと堕ちて行った。さきほどまで差し迫っていた二度と覚めぬ眠りにではない。操者ではない身で魔装機神を動かしたが故に、吸い尽くされ欠乏していたアイビスのプラーナは、いま本来の操者の手によって補われた。死出の眠りはもう訪れない。体内の嵐はすぎさって、次の覚醒のため、休息のためにアイビスは眠る。

 

 ――父さん。

 

 ――母さん。

 

 アイビスは夢と現のちょうど境目で、朧げながらに理解した。それまで心の奥底に閉まっていた思い出の中の人々が、なぜ近頃顔を出し始めたのか。理由は自分自身にあった。ただ、きっと、伝えたかったのだ。

 

 母が死に、家を出た。それからそう間もなく父も亡くなったと余所の者から伝え聞いた。本物の両親はすでにない。それでも、心の中にいる彼らにはせめて伝えねばと思ったのだ。一人娘の、両親に対する、当たり前の義務として。

 

 ――紹介します。彼がそうです。

 

 ――ありがとう。

 

 

 

 



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第十六章:戦わざる者、戦う者

 

 

   Ⅰ

 

 

 夜が明けた。

 

 早い時間に目を覚ましたアイビスだが、とくに微睡みもせず、すぐに身を起こすことができた。重力が和らいでいるかのように、いつになく快活な目覚めである。体が活動を求めていた。

 

 寝台の上でまずうんと伸びをした。両手を上げてゆっくりと体を反らすと、両肩あたりの筋肉が、癒着していたものが引き剥がされるようにぷちぷちと音をたててほぐれていった。ふと気付いて、アイビスは左肩だけをぐるぐると回してみた。昨夜確かに脱臼していたはずなのだが、なんの痛みもなく、何度か両手をグー、パーと開閉させるものの結果は同じだった。どうやら礼を言うべきことが一つ増えたようだと、やけに邪魔っけに思える隣のカーテンの方をちらりと見やった。

 

 アイビスは、こっそりと患者室を抜け出した。医務室の間取りには既にある程度詳しいので、薄暗くても難なく水場に辿り着くことができた。栓をひねって顔を洗い、口を濯ぎ、髪を整える。ついでに壁にかかっていたタオルを拝借して水に濡らし、首筋と胸元を拭った。冷たい水が骨の髄にまでしんしんと染みていくようで、そのあまりの気持ちよさに、アイビスはちらりと背後を気にしてからそそくさと上着を脱いだ。露になった上半身を丹念に拭っていく。砂埃まみれかとも思ったのだが、タオルはさほど汚れなかった。恐らく治療行為の際に拭われたのだろう。タオルを洗ってから壁にかけ直し、上着を着て、そのあと掌を杯にして四杯ほど水を飲んだ。

 

 とりあえずだが身支度を終え、アイビスは外に出て誰かに回復を伝えようかとも思ったが、結局はなんとなく後回しにしてしまった。そのうち誰かしら来るであろうからそれまではと心中で言い訳しつつ、アイビスは再び患者室に戻った。

 

 真っ先にアイビスは隣のベッドのカーテンを開けた。それだけで空気の匂いが変わり、素っ気も味気もない患者室が全く別の物になった。サイバスターを操っていたときも始終感じており、いまは寝汗が混じるせいか余計に露骨に感じられる若い少年の体臭の広がりを、アイビスは体全体で受け止めた。

 

 マサキはアイビスと揃いの患者服に身を包みながら、貪るように眠りこけていた。少年は見るからにひどい寝相で、毛布は寝台に対して約九十度ほど曲がっておりもはや腹部しか覆っておらず、足は大股開きで右足がベッド脇にはみ出していた。それまでも微かに聞こえていたいびきはカーテンを開けたことでより鮮明となり、運転席で聞く車のエンジン音に感覚としては近かった。

 

 そんな少年のあられもない姿に、アイビスはやりたいと思うことのいくつかをやり、いくつかを我慢した。何をやれたかと言えば、少年の毛布を整えたり、その中に少年の足を仕舞ったりなどといった母親じみた行為に終始していた。やれなかったことは色々ある。先に手を出したのは彼の方であるのだから、仕返しを試みても正当防衛に当て嵌まるような気がしないでもなかったが、結局アイビスは一歩を踏み出す事ができず、その代わりに彼のベッドに横座りになって、彼の寝顔に手を触れてみた。

 

 寝息に絶えず上下する頬。その波に己の手を同期させようとするかのように、アイビスは慎重に慎重に彼の頬に手の平を重ねた。鉄で出来たような少年であっても、肌の柔らかさは女とも変わらない。皮膚の乾燥で少々堅く思える程度だ。保湿クリームなどきっと彼は手に取ったこともないに違いない。たとえ貸したところで、ポケットに入れっぱなしのまますっかり忘れ、そのまま洗濯機に投げ入れてスイッチを押すところまで克明に想像できた。

 

 ねぇ、無精者さん。

 

 心の中で、アイビスは呼びかけた。

 

 あれは夢じゃないよね。

 

 そう問いかけもした。別段、疑っているわけでもないのだが、ただあまりに鮮烈な体験であったから。夢であってもおかしくないくらい、それこそ夢のような出来事であったから、訊いてみようと思ったのだ。

 

 ひどいことするよね。むりやりキスしてきてさ。

 

 アイビスの内心の独白は続いた。

 

 人が弱ってるところを。

 

 あんなに激しく。

 

 あたし初めてだったのに。

 

 そうしている間にも、アイビスは少年の頬の熱と、内側にある微妙な筋肉の動きを手の平全体で感じていた。少年の生命を証立てるものが、掌中にじんわりと滲みこんでくるようだった。それをアイビスはじっと受け止め続け、そんな我が身を、熱を出した自分を看病する母の像と重ねた。発熱した頬に母の手の平はほどよく冷たくて心地よかったのを覚えているが、いざ真似てみると母はなにも娘を快くさせるためだけにこうしていたわけではないように思えた。そう疑ってしまうくらい、他人の熱を感じるというのは、感じる者の胸を愛おしさで一杯にしてしまうのだとアイビスは理解してしまった。

 

 ほんと、ひどいよね。

 

 やがて肌寒さを覚え、アイビスは自分のベッドに戻り、もそもそと毛布の中に体をもぐらせていった。頭を枕の上にぼすんと乗せて、そして体を隣のベッドの方に向ける。そのまま、多少は折り目正しくなった少年の寝相をなんとはなしに眺め続ける。奇妙な動きがあるわけでも、珍妙な寝言が聞こえるわけでもなく、お世辞にも楽しい眺めではないのだが、なぜだろう、アイビスはいつまでもそれを見ていられるような気がした。

 

 ちょっと遠いな。

 

 不満があるとすれば、それくらいであった。

 

 

 

 マサキが目を覚ましたのは、アイビスに三十分ほど遅れてのことだった。いびきが止まった事で、アイビスにはそうと分かった。少年の頭がすぽんと毛布の中に沈み込み、中から「く、う、うう……」と苦悶じみた声が漏れてきた。

 

 あ、伸びをしてる。

 

 アイビスは毛布の中でくすりと笑った。

 

 やがて、もそりと少年の上半身が起き上がった。見事な寝癖が明るみに出て、アイビスはますます楽しく思った。コキコキと肩を鳴らしては「いつつ」と顔をしかめ、握りこぶしが入りそうなほどのあくびを一つ。そうして少年は、いかにも不機嫌そうな三白眼で辺りを鬱蒼と見渡し、すぐにアイビスの無遠慮な視線とぶつかった。

 

「や」

 

 毛布に包まったまま、アイビスは手を挙げた。

 

「んー」

 

 鎖骨の辺りをぽりぽりと掻きながら、マサキも手を挙げたが、すぐに力なく落とし、そのまま機能停止してしまう。座った状態で寝るのは、そういえば彼の得意技であった。ハガネに乗る前はサイバスターを我が家とする生活だったのだと、いつぞやに彼から聞いた事がある。

 

「水飲む?」

 

「……」

 

 返事がないので、アイビスはいそいそとベッドから下り、先ほどの水場からコップ一杯の水を持って来た。

 

「はいこれ」

 

「……」

 

「ね、飲んで」

 

「……んー」

 

 なんとか再起動を果たしたマサキは、アイビスに支えられつつもコップを受け取った。それを飲み干してようやく人心地がついたのか、マサキは体内の淀む空気を全入れ替えするように、大きく大きく鼻で息をついた。それを横目にしながら、アイビスもマサキのベッドに横座りする。

 

「おはよう」

 

「ん、おはようさん……」

 

 挨拶をやり直し、その後しばしの間、二人して黙り込んだ。いまさら気まずさもなにもなく、二人は視線だけで簡素に意思疎通を行ないながら、舞い降りた沈黙に身を委ね合った。こんな何気ないやり取りを交わすまで、ずいぶんと紆余曲折があったのだ。ようやく一段落したのだなと、そんな共通した認識が二人の間で確かめ合われた。

 

「あれだな」

 

 口火を切ったのはマサキの方だった。

 

「ん?」

 

「とりあえず、お互いなんとか生きてるってわけだ」

 

「無事にね」

 

「体は大丈夫か?」

 

「こっちの台詞なんだけど」

 

 マサキはふたたび肩をこきこきと鳴らした。アイビスと同じように、手をグー・パーと開閉させる。重大な支障はなさそうだったが、なにかの折にふと目尻が硬直するところを見ると平常とは言い難いようだった。

 

「大丈夫みてえだ」

 

「いいよ、強がりは。痛む?」

 

「かすり傷だよ」

 

「バカ。死にかけてたんだから」

 

 詰め寄るアイビスに、マサキは気まずそうな顔をした。アイビスの責めるような態度もそうだが、妙に近い距離感が少年を戸惑わせていた。ややあってアイビスも、ばつが悪そうに体を退かせた。

 

「恩に着せるようだけどさ。大変だったんだから」

 

「……おう」

 

「本当にもう、だめかと思ったんだから」

 

「……悪かった」

 

「どうやって助かったか知らないでしょ。びっくりするよ」

 

「いんや、なんとなく覚えてる」

 

「嘘言って」

 

「本当だっての。半分、夢を見てるみてえだったけど、お前さんが必死こいてサイバスターを動かしてるのを、なんかこう、遠くから見てた気がする」

 

「やだ、ほんとに?」

 

「えらくおたおたしてて、正直見てらんなかったけどな。ま、なにはともあれ、お陰さまでこの通りだ。……よっと」

 

 痛む体を押して、マサキはベッドの上で佇まいを直した。

 

「礼を言うぜ。お前がいなかったら、多分死んでた。ほんと、ありがとよ」

 

 そうして深々と頭を下げた。寝癖まみれではあるが、ラングラン国王にすら碌に下げた事の無い頭だった。そんな人物の命の恩人という立場を晴れて獲得したアイビスは、しかしながらさほどうれしそうではなく、逆に一計を思いついたように面白げに瞳を瞬かせた。

 

「確かに頂戴しました。じゃ、顔あげてくれる?」

 

 どこか含んだような声音を不審に思いつつも、言われた通りにマサキは顔をあげ、そんな彼に入れ違いになるように、今度はアイビスの方が頭を下げた。

 

「助けてくれてありがとう」

 

「は?」

 

「あのときマサキが来てくれなかったら、あたしもツグミも、みんな死んでたと思う。本当に、本当にありがとう」

 

「いや、まぁ」

 

「この恩は忘れません。貴方は命の恩人です」

 

「へ、よせやい」

 

「頂いた御恩は、一生をかけてお返しいたします。あたしに出来ることなら、なんでもいたします」

 

「……?」

 

「わたくしは犬でございます。いっそ犬とお呼びください」

 

「おい」

 

「ははー、なんでしょう?」

 

 少年がいまどんな表情でいるか、アイビスには手に取るように分かったが、嫌がらせのように頭を下げ続けた。そして少年が声を荒げる寸前に、ぱっと顔を上げてみせる。その悪戯げな顔のあまりの腹立たしさに、マサキは拳骨を当てる振りをし、アイビスはきゃーと怯える振りをした。

 

 そうしてしばし戯れ合ったのち、何はともあれ話は済んだとマサキはぽんと膝を叩いた。どっこらしょと身を起こし、ベッドから下り立とうとする。

 

「便所」

 

 ついてこようとしたアイビスをその一言で止め、マサキは如何にも彼らしい素っ気無さで、すたすたと立ち去っていった。取り残されたアイビスはしばらくじっとしていたが、一人に耐えきれなくなったのか、やたらとそわそわしだし、やがて不貞腐れたようにそのままベッドに倒れ込んだ。シーツから立ち上った残り香が、虚しくも心地よかった。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 アイビスとマサキ、共に目覚める。モーニングレポートでキョウスケがそう皆に伝える際には、多少の工夫が必要だった。聞いた瞬間に走り出してしまいそうな者、歓声を挙げそうな者、その他大騒ぎしてしまいそうな者に若干名ずつ心当たりがあり、迂闊に告げてしまえば猛獣に好餌を放り投げるも同じとなり、場の収拾がつかなくなる恐れがある。そのためキョウスケは、その他の必要伝達事項が済んだ後に、この話を話を切り出すことにした。

 

「……連絡は以上だ。それでは皆、今日も宜しく頼む」

 

 いつもの言葉で締めくくったのち、最後の最後にキョウスケはぽつりと付け加えた。

 

「言い忘れたが、アイビスとマサキが目を覚ました」

 

 秩序正しく解散しかけた群衆が、ぴたりと動きを止めた。なかでもツグミ・タカクラの反応は、パイロットとしてスカウトしたくなるくらい見事なものだったという。

 

「今朝会って来たが、二人とも元気そうだった。皆、空いた時間にでも」

 

 キョウスケは続きの言葉を飲み込んだ。もう誰一人として聞いていなかった。幾人かの人間は部屋の出入り口に殺到して鮨詰めとなっており、残る人間は歓声を挙げながら隣の者と手を叩き合ったり、抱き合ったり、小突き合ったりして、ちょっとした戦勝ムードな状態となっている。

 

 キョウスケが、自らの堅苦しい気性を恨めしく思うとすれば、こういう時だ。青年の顔面に張り付くいつもの鉄面皮が、どこか眩しげに和らいでいるような気もしたが、きっと気付ける者は極々僅かに違いない。

 

 仲間思いなのは結構な事だと、どこか手の届かない葡萄を揶揄するかのようなことを思いつつ、仏頂面の若き戦闘指揮官は一足先に退室しようとした。が、しばしの間待ち惚けに立ち尽くすことを余儀なくされた。タスクやらカチーナやらアラドやらが複雑に絡まって出来た物体により、扉が塞がってしまっていたためである。

 

 

 

「ようようようよう! お二人さん」

 

 タスクが大人数連れで患者部屋に押し掛けたとき、部屋にはアイビスとマサキと、いち早く到着して早速アイビスと抱き合っているツグミの三名が居た。ツグミだけは鮨詰めに巻き込まれる事なく、ミーティング・ルームの即時脱出に成功していたのだ。

 

 あとはもう大騒ぎであった。

 

 タスクはミイラ姿一歩手前なマサキを指差して笑い、他にもアイビスに妙なちょっかいをかけようとしては、ツグミとレオナの眼光に圧倒されすごすごと退散した。リオとクスハは真っ先にアイビスの元に駆け付け、彼女を両側から抱擁した。ちょっとした両手に花状態にどぎまぎしつつ、アイビスは二人に対して申し訳なさそうな顔をした。

 

「あのときは、ごめん……」

 

「いいのよ」

 

「本当に無事で良かった」

 

 そんなやり取りがあったが、詳しい事は語られないままクスハが泣き出してしまい有耶無耶となった。しきりに声を詰まらせるクスハの嗚咽は、まるで熱伝導のように周囲の女性陣にも伝わり、独奏は二重奏、三重奏と厚みを増していき、ついには泣き合奏会の様相を呈し始めた。

 

 ベッドの上で胡座をかいていたマサキは、呆れながら自分の膝の上に頬杖を付いた。女達のいかにもな女々しさにもうんざりするが、それはそれとしてなにやら蚊帳の外に置かれている気がしないでもなく、やや不貞腐れ気味となっていた。

 

 そんなマサキに、イルムとリュウセイが近寄っていく。

 

「よ、お疲れ」

 

 肩を叩くリュウセイに、マサキは「おう」とだけ返す。男同士だとこんなものだった。

 

「よくやったな、マサキ・アンドー小隊長殿」

 

 ちゃかすような、真剣なような、微妙な風味を含んだ声でそう言ったのはイルムである。

 

「小隊長ってのは部下を守り、生きて帰らせてこそ一人前だ。お前はそれを果たした。いつもなにかと小言を言ってきたが、今回ばっかりは言う事なしだ」

 

「誰に言ってやがる。新人扱いすんな」

 

 新人にこんなこと言うか、とイルムは肩を揺らした。一人のパイロットとして、単純な戦力としてなら、少年はハガネ隊に始めて加わった時からすでにとびっきりだった。しかしそれゆえに欠けているものもあり、自覚してかせずしてかはともかく、それをマサキが一人の少女の存在を通して不器用に積み上げて行くのを、イルムはこれまでずっと見てきたのである。

 

「きっと良い経験になると思うぞ」

 

「なにが」

 

「全部さ。故郷に行けば、部下なり仲間なりがいるんだろ?。きっと役に立つぞ」

 

 ラングレーでの戦いだけでなく、フリューゲルス小隊そのものを指して、イルムは言った。

 

「部下ねぇ」

 

 そんな可愛いものはいなかった気もするが、とマサキは体を後ろ手で支えながら天井を見上げた。なんとなく実感できるものもあった。主としてマサキが構築したフリューゲルス小隊の小隊戦術は、地底世界において同じく空戦を得意とした連中との連係パターンが下地になっている。同じ事が、再びラ・ギアスに帰ったときにも言えるのかもしれない。該当する者の顔を思い浮かべて(なぜか一人だけピントがずれたようにぼやけていたが)、そのむさ苦しい顔ぶれと隣のベッドで泣きむせぶアイビスをついつい見比べてしまい、マサキは少しばかりげんなりした。

 

 

 

「ねぇねぇ、マーサ。アイビスちゃんの病気って、結局なんだったの? マーサがなんとかしたんでしょ?」

 

 エクセレンが投げ入れてきた無自覚な爆弾に、マサキとは咄嗟に言葉を出せず、アイビスは「ヒクン」としゃっくりのような音と共に泣き声を止めた。

 

「ありゃプラーナ不足だよ。操者じゃないのにサイバスターを動かすなんて無茶をするから、根こそぎ吸い取られて干涸びるところだったのさ」

 

「サイバスターって、吸血鬼かなにかなの?」

 

「人聞きの悪いことを言うんじゃねえ。ま、ちゃんと水に戻してやったから、もう大丈夫だ。俺の隣に寝かせておいて正解だったな」

 

 エプロン姿のマサキが乾燥昆布を水に漬けるところを想像して、いまひとつ腑に落ちなかったエクセレンはもう一歩踏み込んでみた。微妙に誤摩化されている気配を嗅ぎ取っていた。

 

「水に戻すって、まさかお風呂に漬けたわけじゃないでしょ? 具体的にどうやったの」

 

「ひん」と小さな悲鳴が聞こえた。タスクからの差し入れである板チョコレートを落ち着き無くぱくついていたアイビスが、誤って己の唇を思い切り噛んでしまっていた。

 

「……そいつは言葉の綾だ。要はプラーナが足りてなかったから、補給してやったってだけだ」

 

「マーサがしたんだ」

 

「お、おう」

 

「どうやって?」

 

「あっと、ごめんなさい」

 

 アイビスの枕元にあったティッシュボックスが床に落ち、見事なコントロールでエクセレンの踵に当たったが、そのことにも気付かずエクセレンはさらに問いを重ねた。スクープの匂いを確信したのか、すでに両目が夜天の綺羅星のごとく輝いてしまっている。

 

「ねーえー、そこんとこどうなのよう」

 

「……クロ、説明してやれ!」

 

「プラーニャというのは誰にでもあって、呼吸や調気、瞑想によって、ある程度コントロールすることができるの。そして高めたプラーニャは、チャクラから放出することで、魔装機や他の人に伝えることができるわ。主要ニャチャクラは体の中心線上にあって、アイビスのときは彼女の眉間の辺りにマサキが指を置いて、その状態でプラーニャを高めていけば自動的に補給がされるってわけ」

 

 突如湧いて出たクロの整然とした説明に、エクセレンも引き下がらざるを得なかった。「ちぇ、邪魔しやがって」との本音を愛想笑いの中に隠しながら、「あらー、そうなのー、へー」と適当に相づちを打つ。

 

 ちなみにクロの話は全くの嘘ではなく、少量のプラーナ補給であれば本当にそれでも十分なのだが、欠乏状態の者を救助する場合には焼け石に水にしかならない。相当量のプラーナを他人に伝達するためは、互いの主要チャクラ同士を極力接近させる必要があり、しかもなるべく外気に触れないことが望ましい。そのため一番確実なのが頭部にある第五、第六、第七チャクラを利用した体内間伝達……要は口付けということになる。

 

 ちなみに、他にも第一チャクラを利用した方法も無くはないのだが、場所が場所だけに手間もかかり、また非合意下では御法度とされているため、救命方法としては不適切とみなされており、そのためマサキなどはそもそも存在自体を知らされていなかった。

 

 それはそれとして、クロの弁舌の前にすごすごと退散するしかなかったエクセレンであるが、それでも捨て台詞でこんなことを言ってしまうのが彼女らしいところだった。

 

「でもなんだか体に良さそうよね。美容効果とかあったりして。ねぇねぇマーサ、今度私にもやってみてよう」

 

 マサキが何かを言う前に、床に落ちたティッシュボックスを拾おうとしていたアイビスが、盛大にベッドから転がり落ちる音がした。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 彼女と始めて会ったときのことを、フィリオ・プレスティは今でも覚えている。

 

 昼食を終えたあとの昼休みの時間帯だった。空は晴れ晴れとしていて絶好の外食日和であり、普段は出不精のフィリオもその日ばかりは外のカフェでサンドイッチと紅茶を買い、近所の公園の芝生に寝そべりながら食べるという、いかにも優雅な昼食を終えたばかりだった。

 

 当時はただ平和であった。異星人もDCという言葉も一切紙面に載る事無く、かのビアン・ゾルダークも世界征服をもくろむ秘密結社の総帥などではなく、科学の命題と一人娘の反抗期に頭を悩ます一介の人間であった時代だ。世界中の英知が集うとも標榜される地球連邦宇宙開発局を、一人の浮浪児がふらりと訪ねてきたのは、そんな日のことである。

 

「うちゅうにいけるのは、ここ?」

 

 辿々しい共通語でそう訊いてくる浮浪児を応対したのは、開発局の人間ではなく付属大学から来ていた青二才の学生だった。その学生の目から見て浮浪児は十歳くらいの体格に見えたが、のちに再会したときに聞いた年齢から逆算すると、ティーンエイジになったばかりの頃と分かった。ぼさぼさの赤毛に、薄汚れた顔。コートは明らかにどこかで拾ったものらしき、ずたぼろな男物だった。ただその下については、趣味なのかそれとも動きやすさ重視なのか、思い返せば当時から割と露出が多かったように思う。

 

「うん、まぁ、ここだよ。ここは宇宙を勉強する世界一の研究所だから」

 

 戸惑いながらも、当て勘でフィリオが米語を使うと、浮浪児は迷子の末にようやく父母のもとへ辿り着いたかのようにほっとした顔を見せた。

 

「アポロ・イレブンも、ここから飛んだの?」

 

 彼女もまた米語を使った。激しい東部訛りにフィリオはいささか苦戦しながらも付いて行った。

 

「そうだよ。当時、ここはNASAと呼ばれていたんだ」

 

「それ知ってる! 最初にコロニーを作った人たちでしょう? あたし入りたい。どうすればいいの?」

 

 困ってしまったフィリオだが、元来人の良い彼は敷地内の屋外ベンチに彼女を誘って出来る限り説明することにした。彼女の全身から匂い立つように醸し出される「不幸な事情」の気配がそうさせたのかもしれなかった。

 

 日差しの暖かなベンチに座りながら、フィリオはあれこれと話をした。宇宙飛行士になるためには、ある程度の学歴と健康的な肉体が必要なこと、それを手にするために浮浪児がどうすればいいのか、これからどこへ向かえば良いのかを、叶うか叶わないかは別にしてフィリオは思いつく限りをのべ、そして浮浪児は懐から取り出した紙切れと小指ほどのサイズの鉛筆を使ってその全てを書き写した。知らない言葉があれば何度も何度も聞き直し、分からない場所があれば懐から数種類の地図を取り出して、念入りにその位置と方角を確かめた。

 

 最終確認のためルーズリーフにして三枚は超えそうな分量の紙を差し出され、フィリオは酷い悪筆に苦心しながらも隅々まで中身をチェックし、大きく頷いてみせた。それから浮浪児は、恐らく万が一紙を無くしてしまったときのために、なんどもなんども紙に書かれていることを小声で復唱し始めた。

 

「君、宇宙が好きなのかい」

 

「うん」

 

「いまどき、行くだけなら難しくないよ」

 

 なんであればコロニーへの往復便程度の運賃なら、いますぐ財布から取り出しても構わないという気にフィリオはなっていた。貧乏学生には少々高くつくことではあるが、不思議なことにフィリオは、この会ってたった数十分程度の少女に対して奇妙な信頼と尊敬の念を抱き始めていた。それなりの金額を渡したところで、きっとこの少女はその金を他の事には使うまい。そんな確信が、フィリオの中に生じていた。

 

「行くだけじゃいや」

 

 しかし少女の答えはつれなく、紙から目を離しすらしなかった。

 

「じゃぁ、どうしたいんだい?」

 

「シャトルは決まった道しか通らないでしょ? そういうんじゃなくて、あたしは宇宙に一人で行って、行きたいところに行きたいの」

 

「行きたいところ? ヒリュウに乗りたいってことじゃなくて? あ、ヒリュウって分かるかい?」

 

「馬鹿にしないで。冥王星に行ってる大っきな船のことでしょ? それにも乗りたかったけど、でも本当はそうじゃなくて、あたしは自分で歩いて行きたいの」

 

「歩い、て」

 

「そうよ。冥王星でもいいしお日様でもいいしシリウスでもいいし、夏の大三角でもいいの。そういうものを追いかけて、ぶらぶらと歩いて行きたいの。チェルシーからここまできたみたいにさ」

 

「そっか。なるほど、そうなのかい」

 

 あのときに芽生えた気持ちを、フィリオはいまもなお覚えている。人生に根っこがあるとして、その根っこの部分を、なんの啓蒙も指導も意見交換もなく、始めから共有できてしまっている人間というものがこの世にはいると聞く。生憎そんな人物にこれまでフィリオは一度も出会ったことがなかったのだが、それがどうもこんなところにいたらしい。よりにもよってこんな格好をした、こんなにも小さな少女がそうであるらしい。

 

 大学でもまだ誰にも打ち明けた事のない、彼だけの目論見、彼だけの野心があった。いまはまだ、それでもいつかはと幼少時よりずっとずっと暖め続けていたもの、それと同じものが、この小さな女の子の中にもあると分かって、フィリオはまったく柄でもないことに、運命などという言葉を信じてみる気になった。

 

「それはつまり、あれだね。『星の海を往く』というやつだね」

 

「なにそれ」

 

「古い歌のフレーズだよ」

 

 もはや己の人生の核となってしまっているものを、フィリオは別段事も無さげな風に説明した。

 

「でもぴったりだろう? いまは持ってないけど、どこかで聞いてみるといい。きっと気に入るよ、これも宇宙の歌なんだ」

 

「ふうん」

 

 そんな風に他愛のない世間話は続き、やがて暗記を終えた浮浪児はすっくと立ち上がって、親切な青年にぺこりと頭を下げた。開発局の中を見学していかないか、あるいは宿を用意しようか、そもそも保護者はどうしているんだ? 食事をするだけの金はあるのか。さまざまな言葉がフィリオの脳裏を踊ったが、一つも口に出すことはできなかった。それはあまりに差し出がましいことだ。夕暮れの町並みへとたった一人で、それでも迷いなく歩みを進めて行く小さな後ろ姿を見ていると、そう思えたのだ。

 

 

 

 そんな出会いであったから、その数年後に思わぬところで再会を果たした時は、フィリオはあわや腰が抜けそうになるのを全力で堪えねばならなかった。

 

 宇宙開発局が、極秘裏にではあるがDCという組織と繋がりを持ち始め、フィリオがちょうどその狭間で身の置き所に苦心していたころ、まるでいつかのように彼女のはふらるとフィリオの前に現れた。ぼさぼさだった赤毛は多少なりとも整えられていたが、しかしどこかざっくばらんに切り揃えられており、顔は薄汚れてはないものの化粧っけもなく、服装も真新しくはあったが見るからに安っぽく、布地も妙に節約されている。そんな佇まいであのときの浮浪児はフィリオの前に現れ、「こんどここの研修生になるアイビス・ダグラスです。初めまして」と使い込まれた共通語でそう名乗った。

 

 当時DCは後々の決起もふまえ、様々な名目で内外からパイロット候補生を呼び集め、訓練を施していた。そのため旧暦の頃のアストロノーツほどの狭き門ではなかったにしろ、それでもほんの数年前まで学歴も教養も財産も何一つ持っていなかったであろう浮浪児が、仮にもエリートだけが集うこの場所にまでどうやって辿りついたというのか。フィリオには皆目見当がつかなかったが、訊いたところで恐らく答えてはくれないだろうと何となく思え、想像のみに留めることにした。ティーンも半ばを過ぎたアイビスの表情は年相応にあどけなくはあったが、年不相応に陰ってもいた。ただ一心に目標へと向かい続ける意志だけが、その両の目に抜き身の刃物のごとく煌めいていた。

 

 ここに辿り着くまでに、彼女がどのような人生を歩んできたのか、フィリオには想像にあまりある。その道程の中ですっかり風化してしまったのか、かつて自分と一度出会っていることをアイビスは今でも思い出していない。それでも心に残るものはあってくれたらしく、後の軽い世間話のなかで知ったことだが、彼女が数年前から好きになり携帯端末にも入れてあるという古い曲は、彼の良く知るものでもあった。

 

 フィリオはそれだけで良いと思った。

 

 それだけで十分に思えた。

 

 

 

 タスクたち見舞客の大軍が押し寄せたあとのこと、その日の午後の大半をアイビスはツグミと共に通信室で過ごした。通信先はコロラドのテスラ研であり、本来ラングレー陥落の件さえなければ、ツグミなどは今頃とっくに向こうへ到着しているはずだったのだ。今の状況の説明と、アイビスの無事の報告も兼ねて、通話は時計の長針が一回りしてもなお続いてしまうほど長引くこととなった。

 

 プロジェクトTDの総責任者であるフィリオ・プレスティは、モニターに写る二人の女性の顔を代る代るに眺めながら、しみじみと一つの感想を幾度も反芻した。二人とも、本当に変わったものだった。口に出しても二人はきょとんと実感の伴わぬ顔をするだけであろうが、たまにしか顔を合わせられない彼にとって、それは手に取れる事実であった。

 

 かたや氷のように凍てついた表情で、数字とプログラム言語相手に延々かつ黙々と戦いを挑み続けるような女性であった。その薄皮一枚下に暖かなものが見え隠れしているような気がして、手を伸ばしてみようと思ったのはフィリオ自身であり、結果は一応予見通りであったのだが、そのあとでも彼以外の人間に対して、ツグミは依然として氷の女と称される通りに振る舞い続けた。

 

 もう一方は気難しい偏屈屋のパイロット候補生として知られていた。いつもいつも顰め面をして、食事や酒の席にもとんと参加せず常に一人でいて、それでいてシリーズ77パイロットという地位に並々ならぬ執着を見せる、プロジェクト内でもちょっとした名物娘だった。

 

 これには、自分も含めた周囲の人間にも原因があったとフィリオは見ている。技量も素養も悪いものではなく、フライトのたびに一つ一つ着実に成長していたというのに、アイビスに対する周囲の評価は冷めたものだった。原因として彼女の社交性不足以外のものを挙げるとすれば、最たるものはパイロットとしてあまりに完璧すぎるスレイ・プレスティの姿が、常に比較対象として彼女の隣にあったことだろう。スレイは高潔で優秀な人間だが、反面自尊心のあまり攻撃的なところがある。アイビスもアイビスで似たような面があるので、二人は同じ候補生同士として建設的な人間関係を育むには至らなかった。

 

 いずれにせよ、アイビスはプロジェクトの人間に半ば見放されながらも、一人黙々と努力に身をやつしていった。きっとアイビスにとって、それは苦痛でもなんでもないことだったのだ。あの頃のアイビスは、誰も寄せ付けず何者よりも速く巧みに飛ぶことだけをひたすらに追い求めていた。生憎、思いに対して実力はなかなか伴わなかったが、それでもそのときのアイビスは、言うなれば黙々と孤独を目指していたと言える。

 

 彼女の宇宙への執着に自らを重ねていたフィリオだったが、彼にとって難しかったのはアイビスを苦しめるスレイが実の肉親であり、それも彼の方が案じてしまうほど身内思いの妹であったことだろう。フィリオに出来たことは、結局のところ一方の面子を潰さぬ範囲でもう一方をなるだけ引き立てる、そんなヤジロベエのような人心調整だけだった。

 

 そんなアイビスとツグミは、いまモニターの向こうで、フィリオもそっちのけであれやこれやと無駄話に興じていた。余人を疎んだ孤高の女性はもうどこにもいない。ただ姉妹のように仲睦まじい二人が、一応フィリオに聞かせるという態ではあるのだがとてもそうは思えない勢いで、ハガネ隊におけるそれぞれの活躍なり失敗談なりをもてはやしたりあげつらったりなどして、話に花を咲かせていた。そんな様を眺めながらフィリオは、しかし本当の花は二人の方だと、そんな到底口に出せないようなことを考えていた。それくらい、仲睦まじげに向かい合う二人の笑顔は、花開くようなそれだったのだ。

 

 いまフィリオが夢見ることは何かと問われれば、ブロジェクトの完遂を抜きにすれば、その花々にいずれもう一輪が加わることだった。笑われるような身内贔屓かもしれないが、スレイの笑顔とてそう負けたものではないとフィリオは思うのだ。

 

 フィリオは手元のモニターをふと見やった。そこでは送信待機中のとあるデータファイルがいまかいまかとハガネへ向けて発信されるのを待っていた。それは、とある機体の正式図と仕様書のデータだった。異星人たちの監視と拘束の合間を縫って熟成を重ね、さらにテスラ研解放の際にツグミより届けられたアステリオンの実践データも組み込み、ついに正式出図に至ったものである。

 

 シリーズ77α アルテリオン。

 

 いくどかの試作を経て修正はされていくだろうが、ここまでくればすでに完成までカウント段階に入ったと言っても良い。さぁ、この話をいつ切り出そう。待てど暮らせど一向に終わりそうも無い女二人の姦しいやりとりが、せめて彼が口を挟める程度に一段落するのを、フィリオは退屈など欠片も感じない様子で待ち続けた。

 

 そんなおり、ふと懐かしい声が記憶層のなかで木霊した。

 

 うちゅうにいけるのは、ここ?

 

 ああ、ここだとも。ここが君の家だ。ここが君の生きる世界なんだ。

 

 フィリオは心の中で強く頷いた。どうも歳をとると、涙もろくなっていけなかった。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 動いて。

 

 何事もものは試しと、アイビスは祈りを捧げた。冷厳なる見定める者に、あらん限りの思いを注いだ。しかし沈黙のみが返った。予想できた事であったので、とりたててアイビスは驚きはしない。魔装機神は機械であって機械ではなく、固有の意志を持ち自ら操者を選ぶ。この世界で彼の騎士が応じるべくは、ただひとりの呼びかけのみだった。

 

 それはそれとして、用が済めばもう知らぬ存ぜぬという態度はいささか現金すぎはしないかと、アイビスは不満を覚えないでもなかった。さきほどから何度試みてもうんともすんとも言わぬコネクタの、その冷え渡るような硬質さに、アイビスはどこか女性的な意地の悪さを感じ取った。精霊に性別があるのかどうかなどアイビスには知る由もないが、そういえばいつか誰とも知らぬ女性の声を聞いたような、いやまさか、などと実の成らない考えに頭を巡らせていると、いかにも退屈そうなあくび混じりの声が背中から聞こえてきた。

 

「気は済んだか?」

 

「うん、まぁ」

 

 済んだ訳ではないのだが、そうアイビスはそう答えるしかなかった。サイバスターのシートを他人に譲り、背もたれの後ろに引っ込んでいるマサキの、そのあまりにも不釣り合いな姿に詮無い疑問はすっかり吹き飛んだ。心臓があばらにあるような違和感すらある。

 

「ごめん、返すね」

 

「だったら降りるぜ。どのみち修復中だしな」

 

 そう言うマサキに連れられ、格納庫の床に降り立ったアイビスは、なんとはなしに背後の銀騎士の姿を振り返った。力強い五体。白と銀の鎧。三層一対の翼。猛禽の爪。風の魔装機神。アイビスの意を汲んで何処までも駆け抜けたあの夜は遥か遠く、今は少年の意志しか受け付けない、少年以外の人間とっては単なる石像と化していた。

 

 この機体の事を、実のところアイビスはすこぶる気に入っていた。アステリオンを人と航空機が合わさったような姿と表現するなら、サイバスターは人と鳥が合わさったようなニュアンスを秘めている。空へ挑む者と空に生きる者。根本を異ならせながら、結果的に同じ特性と同じ色を得るに至る。そのような対比が、どこか乗り手にも重なるような気がして、それをアイビスは彼との得難い繋がりのように思えるのだ。

 

 もはやアイビスなど一顧だにせず屹立するばかりの銀騎士に、ふとアイビスはもう一度祈りを捧げてみる気になった。

 

 ありがとう。

 

 ただそう思った。一度選んだ操者に最期まで尽くす、その約定を背負った魔装機神が、一度とはいえ自分に身を委ねてくれた。そのおかげで、今の自分と少年がいる。その奇跡に、アイビスはひたすら感謝を捧げた。本当にありがとう。

 

 そしてその隣に立つ、こちらは本当に自分の愛機であるもう一つの銀色の姿を見やった。シリーズ77αプロト、アーマードモジュール・アステリオン。その直線かつ工業的な輪郭を、ひたすらアイビスは懐かしく思った。

 

 ただいま。また会えたね。

 

 また、飛べるね。

 

 一方、マサキは気のない素振りを見せつつ、アイビスがサイバスターに受け入れられなかったことにほんの少しだがほっとしていた。もしもアイビスが自分と同様にサイバスターを動かせてしまえれば、いささか面倒な話にもなっていた。

 

 サイバスターの所有権を譲るつもりなどマサキには毛頭なく、しかしアイビスにも資格があるという事実が広まれば、無用なちょっかいをかける動きが出てこないとも限らない。ハガネ隊の人間には話したことはないが、マサキが単独で地球圏を駆け巡っていたころには、サイバスターを鹵獲しようとした連邦軍部隊と一戦交え、ものの見事に叩き潰した一幕もあったのだ。

 

 ことが最悪な方向に転がれば、それこそアイビスと争わなくてはならない羽目にもなったかもしれない。そんな日の事を、マサキは想像もしたくなかった。

 

(冷や冷やさせるなよ、ほんと)

 

 自分を救うためとはいえ、掟を犯した愛機に向けてマサキや八つ当たりにも近い感情を抱いた。そして心の中で、何度も何度も念を押す。忘れるな、お前は俺のもんだ。その代わり、俺もお前のもんになってやる。

 

 そうしてこれからも戦い続け、いつの日か共に故郷へ帰るのだ。そして帰ってからも、また戦い続ける。いつか何かが二人を分つ、その日まで。

 

 

 アイビスとマサキ。対照的な二人は、同じく対照的な互いの愛機をそれぞれに見上げていた。各々の胸に、やはりどこか対照的な思いを抱きながら。並び立つ二機が似通いながらも正反対であるように、二人もまた並び合い同じ方向を見詰めていながら、どこかかけ離れていた。

 

 あるいはそれは、一つの象徴的な姿であったのかもしれない。否応もなく、何かを暗示する光景だった。避けられない一つの未来を、思い起こさせるものだった。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 夕暮れ時、いつぞやと同じように二人は屋外デッキへと繰り出していた。風に当たろう言い出したのはやはりアイビスで、マサキはやはり嫌そうな顔をしつつも付いて来ていた。

 

 デッキからは海が見えた。バージニア州は大西洋に面する場所であり、ラングレー基地からもその水平線を一望することができる。またバージニアビーチといえば世界最長の海水浴場として知られており、アメリカ大陸に数多く存在する名所の一つに数えられる。

 

 そして緑豊かな州でもある。都市部を少し離れれば、すぐに豊かな森林や山々が姿を現す。アメリカではそう珍しいことではない。環境保護が盛んということもあるが、人工物で埋め尽くすにはアメリカという大陸は広すぎるのだ。

 

 ハガネの屋外デッキからアイビスはそれらの光景にじっと見入っていた。美しいと思った。人と自然の息づかいが聞こえてくるようだった。

 

 しかし何より目を引くのは、やはりただ一つだった。

 

「穴が空いてるね」

 

「ああ」

 

 そう、穴が空いている。ハガネの右舷から約150メートル。面積にして300ヘクタールにもおよび、深さは800メートルに届き、幾千もの人々と、幾千もの人生を飲み干した、巨大な墓穴がそこにある。

 

 墓穴からの救助活動は着々と進んでおり、救出された負傷者は今日にでも百に届くとのことだった。しかし誰もが知っている。その幾十倍もの死者が、あの中で二度と覚めない眠りについているのだと。

 

 アイビスは思う。自分もまた、ずっとあの穴の中にいたのだ。穴の中にいた頃はそれこそ地獄の底とすら思えたのに、夕暮れの暖かな日差しの中で外から見下ろすと、どこかそれは呆気なかった。アステリオンならば、ほんの一息で飛び越せてしまえる程度の大きさだった。

 

 アギーハもあるいはこんな気持ちで、あの大惨事を見下ろしていたのだろうか。そう思うと、あの穴をこうして見下ろすこと自体、非常に罪深いことのように思えた。

 

「ねぇ、マサキ」

 

「んー?」

 

「戦争って悲しいね」

 

 アイビスはそう言った。そうとしか言いようの無いことだった。鉄柵の上に頬杖をついていたマサキは、体勢を崩す事なく、ただ「そうだな」とだけ答えた。

 

 アイビスは鉄柵の上に顔を伏せた。昨晩まで、アイビスも死の淵に立っていた。マサキも同じだ。戦えば誰かが死ぬ。誰も彼もが等しく、マサキの言を借りれば、殺しても死にそうにない者ほどあっさりと。

 

 死は誰にとっても哀しい。恐らくは異星人にとっても、きっと。だというのに、哀しいものと知っているはずなのに、誰もがそれを追い求めてしまう時代がある。

 

 そんな当たり前のことを、有史以来何度も何度も繰り返されてきたであろうことを、アイビスは、この世に生まれ落ちた人間の一人として今更ながらに悲しんだ。

 

「マサキ」

 

「んー?」

 

「平和が欲しいよ」

 

「おう」

 

 一方で、アイビスの悲しみはマサキにとっては見慣れたものだった。もう何度も何度も目にしてきたものだった。だからこそ、気のない返事になる。

 

 しかしマサキは、アイビスの悲しみを受け流してはいなかった。彼女の悲哀とその奥底に流れる願いを、少年はただ静かに受け止めて、そしてこれまでずっとそうしてきたように、背中に背負う見えない籠の中にひょいと投げ入れていた。既に数えきれないくらいの荷物が詰め込まれているその籠が、また一つ、ずっしりと重みを増す。それをマサキは苦しいとは思わない。その重みにもまた、少年は慣れきっていた。

 

「早く平和が欲しい」

 

「ああ」

 

 またも聞こえた同じようなつぶやきに、マサキは同じように応じた。また一つ増えた荷に、マサキは頭上を見上げる。重さに喘ぐのではなく、千切れ雲と、南天の日差しのさらに向こう、空の彼方のどこかにいるのであろう敵の姿を探してのことだ。敵を倒さねば戦いは終わらないと彼は知っていた。無論、一つの敵を倒せば全ての戦いが終わる訳ではない。それでも、目の前の敵を倒さなければ、いま起こっている悲劇は無くならない。

 

「もう二度と、こんなことが起こらないようなさ」

 

「おう、任せとけ」

 

 てっきり同じく簡素な返事が来ると思っていたアイビスは思わず顔を上げた。任せとけと、少年は言った。いたって軽い、まるでコンビニに買い物にでも行くような物言いが、なぜだろう、途轍もない恐ろしさをもってアイビスの胸の奥を震わせた。

 

 任せとけ?

 

 なんなの、それ。何だってそんな風に! 

 

 アイビスがどこか恐る恐るに隣を覗くと、マサキは依然として空を見上げ続けていた。アイビスが顔を伏せて地を見下ろす間、マサキはずっと空を見ていた。一つの対比が、アイビスの脳裏で弾けていた。アステリオンは火器を後付けした航宙機。サイバスターは翼を持った戦闘兵器。似通った特性は、結果に過ぎない。だとすれば、だとすればその二機は……。

 

 アイビスは頭を抱えた。この上なく嫌な想像がこびりついて、そのあまりの恐ろしさに唇が震えすらした。

 

 そんなはずはない。

 

 いや、そうなのかもしれない。

 

 しかし受け入れられるはずもない。

 

 いや、初めから分かっていたはずのことだった。

 

 めくるめくように答えと答えが乱舞する。

 

 ――ねえ、戦争が終わったらマサキはどうするの。

 

 いつかの夜、そう問い掛けた者がいた。その者に、相手は何と答えただろう。その答えは、一抹の寂しさと共に質問者に受け入れられたはずだった。戦争が終われば、彼はまた次の戦場に。自分はきっと戦いのない場所に。そう理解を示した者がいて、いったいそれが誰であるのか、アイビスは覚えていても思い出したくなかった。

 

「ねぇ、マサキはなんで戦うの?」

 

 耐えきれず、戦わざる者は戦う者にそう問い掛けた。とうてい視線は合わせられずに。

 

「なんだ、急に」

 

「言われたんでしょう? いきなり剣と魔法の世界に呼びだされて、伝説の武器を渡されて、さぁ魔王を倒せって。どうして断らなかったの? 戦争なんて御免だって、どうして思わなかったの」

 

 何故と言われてもマサキは返答に困り、ぽりぽりと頬を掻いた。断らなかったからこうしている。少年にとってはそれが全てだった。

 

「もう戦争はいいや。これからは平和に暮らそう。そう思った事はない?」

 

「なくもねえけどよ」

 

「静かな場所に家を構えて、そこでのんびりと暮らしていこうなんて、そんな風に思わないの?」

 

「なんだよ。当たり前だろ? 平和に暮らしたいなんていうのは、誰だって」

 

「でもマサキ、そうしてないじゃないか。ずっと戦って来たし、これからも戦おうとしてるじゃないか。なんなら今すぐにでも、サイバスターから降りたっていい。そうしたって、誰も責めたりしないのに」

 

 ここにいる二人はマシンではない。人間のはずだった。確固たる設計思想も、定められた運用目的もない、生きた人間のはずだった。

 

 もしマサキがこれまでの道に背いたとして、それを責める者がいたとしたら、アイビスはきっと全力でその者らに立ち向かうだろう。これでもかと腕を広げて前に立ちはだかり、自らの体でマサキを覆い隠し、非難する者あれば反論し、力づくで止めようとする者がいれば蹴っ飛ばすだろう。それでもなお追いすがる者があれば、アイビスは、マサキを抱きかかえて冥王星にだって行ってみせる。

 

 そんな相方の心情は露知らずに、ますますマサキは返答に困っていた。心のうちを言葉にすることは、少年の最も苦手とすることの一つだった。いつだってマサキは言葉や理論ではなく、自らの心の波動に従って来た。

 

 それでも、アイビスの問いに対する端的な答えとなるものを、一つマサキは記憶の中から見つけることができた。

 

「務めだからだ」

 

「務め?」

 

「そう、務め。義務なんだ」

 

 かつて、とある人物に言われたことがあった。ラ・ギアスに君臨する最強の四機神。その操者に選ばれた者は、この世のあらゆる権威や地位に従わなくてもよい権利を持つ。その代わりに魔装機神操者は、ひとたび世界の危機が訪れたとき、全てを捨ててそれに立ち向かわなくてはならない。

 

 それを、マサキは務めと言った。アイビスはそれを定めた何者かに対して敵意すら抱いた。甘んじて受け入れるマサキも到底理解に及ばなかった。なぜならそこには自由がない。そして終わりもない。国家権力すら無効化する魔装機神操者の自由は、なるほど大層なものだろう。かといって、延々と屍の山で過ごすような日々を強いられるに足るものとはどうしても思えなかった。平穏な生活に替わるものとは、どうしても。

 

「それって、どうしてもマサキがやらなきゃいけないものなの? やめちゃってもいいものじゃないの?」

 

「お前、プロジェクトのことをそう言われたらどう思うんだよ」

 

「あれは務めなんかじゃない! あれはあたしの夢だ。あたしの生き甲斐なんだ。マサキにとっては、その務めがそうだっていうの? 戦う事が、マサキの生き甲斐なの?」

 

「怒鳴ることねえだろ。そうじゃねえさ。生き甲斐とかそういうんじゃなくて、あれは……」

 

 あれは何なのだろう。またもやマサキは言葉に詰まってしまった。魔装機神操者の務めを、自分はいったいどう捉え、受け止めているのか。

 

 魔装機神操者の権利と義務。まだサイバスターに選ばれて間もない頃にそれを聞かされたマサキは、ただ思ったのだ。「それって当たり前のことじゃないのか」と。

 

「当たり、前のこと……?」

 

 アイビスは、この世の理不尽全てを目の当たりにしたような気にもなった。目の前でいかにも自信なさげに頭を掻く人物が、少年の形をした全く違う何かにすら見えた。

 

「まぁ、そんな感じだ。よく分からねえけど」

 

 無論それは、浅慮と不見識に由来する軽はずみな言葉には違いなかった。それでも当時のマサキはそうとしか思えなかったし、実のところ今でもあまり変わらない。

 

 自分がサイバスターに乗って戦うのは、当たり前のことだ。世を乱さんとする悪意に対し、平穏な暮らしも当たり前の生活もかなぐり捨てて、命をかけて立ち向かうことは、本当にただ当たり前の事なのだ。魔装機神操者の務めを、その過酷さをマサキは確かに楽観視しているかもしれなかった。しかし一方で、ごく自然に体得してもいた。

 

「だから俺は戦うし、これからも同じだ」

 

「シュウを倒しても?」

 

「その次はラ・ギアスだ。あそこも今、色々大変でな」

 

「それがも済んでからも、ずっと?」

 

「必要ならな」

 

「死ぬまで?」

 

「まぁ、そう簡単にくたばりゃしねえが」

 

 それまでは、戦い続ける。いつか月日が経って戦えない体となるか、あるいは魔装機神が真の意味で必要とされなくなる、その日まで。

 

 くじけることはあるかもしれない。失うものだって多々あるに違いない。それでも戦い続ける。さながら魚が水に暮らすように、サイバスターが空に在り続けるように、それは当たり前のことだった。

 

 機械と異なり、人間には確固たる設計思想も、定められた運用目的もない。しかし運命というものはあった。他の道があると頭では分かっていても、どうしてもそれしか選べない、選ぶ事が出来ない、そんな摩訶不思議な道筋のようなものが人の人生には存在した。マサキだけのことではなく、きっとそれはアイビスにも同じ事が言えるのだ。

 

 浮浪児同然のアイビスが宇宙開発局でフィリオと出会ったように、マサキは異世界にてサイバスターと出会った。そして別段特に何を思うわけでもなく足を踏み出し、そして今日に至るまで歩き続けてきた。アイビスもまた同じだ。そしていかなる偶然か、それとも必然なのか、その道の途中で二人は出会ったのである。

 

「まぁ、そういうわけだから……て、おい」

 

 マサキの言葉を遮るように、アイビスの体がマサキの腕に寄りかかって来た。

 

「どうした。大丈夫か」

 

「うん、平気……」

 

 そうは言うも、アイビスはマサキの腕にすがりつきながら俯くばかりだった。立ち眩みでも起こしたかと、マサキは焦った。まだ互いに病み上がりであるのだから、外の寒さが堪えたのではないかと。

 

「いい加減戻るぞ。歩けるか」

 

「ちょっとだけ、休ませて」

 

「寒くねえのか」

 

「大丈夫。だからちょっとだけ、お願い……」

 

 そういうアイビスの声は震えていた。気のせいか、鼻を啜る音もした。やはり寒いのではとマサキは案じるも、彼の袖を掴むアイビスの必死さすら感じるほど強い握力に、しばらくは黙っていようという気になった。

 

 一方、アイビスは苦しみに喘いでいた。神をも恐れぬ不埒な考えに胸中を占められ、その罪深さに苦しんでいた。

 

 あの日に帰りたい。アイビスはそう思っていた。あの穴の底で、血塗れの少年を担ぎながら黙々と瓦礫の谷を歩いた、あの瞬間に帰りたいと思った。あるいはサイバスターの一夜限りの操者となったときでもいい。彼と共に光り輝き、シルベルヴィントへと真っ直ぐに突撃していったあの瞬間に帰りたいと思った。

 

 幾千幾万の痛みと苦しみが、あの穴の中にはあった。あそこほど不幸に溢れた時と場所もそうはない。それでも、その中でアイビスはたった一つの掛け替えの無いものを見つけたはずだった。己の人生の核となるもののもう一つを、そこで手に入れたはずなのに、いまはもうその在処が見えなくなっていた。

 

 避けられない別れが、すでに扉を開けて二人を待ち構えている。とうに分かりきっていたはずのことに、今更ながらにアイビスは気付いたのだ。アイビスがどんなにそれを忌避し、疎んだとしても、扉を避けることはできない。なぜなら少年自身が、迷いなくそちらへと進んで行ってしまうから。次の戦いへ向かうべく、務めを果たすべく、これまでずっとそうしてきたように、当たり前のように歩いて行ってしまうから。

 

 そんな少年があまりにも憎々しくて、だからこそ愛しくもあって、アイビスはマサキに悟られぬよう嗚咽を堪え、無音のままに涙を流した。石に染み入っていくように、静かに泣いた。

 

 離れたくない。

 

 アイビスは心から思った。

 

 離れたくない……。

 

 

 

 



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第十七章:星の少女は風の夢を

 

 

   Ⅰ

 

 

 奇妙な転回がその世界では起こっていた。

 

 戦士達は銃ではなしに剣を手に取った。その方が合理的であると知っているからである。

 

 賢者達は本を棚に戻し、神殿へと向かった。そこがより真理に近いと分かっているからである。

 

 兵士は騎士となり、学者は信仰者へと。一見して時代の逆行とも取れるその様は、実際のところまるで逆であった。幾星霜の時を経て、気が遠くなるほどに進歩と発達を重ねた末、その世界の文明はそういった形に辿り着いていた。進化と退化は紙一重。万物はすべからく円環する。そう証立てるような、本当に奇妙な革新がその世界では起こっていた。

 

 

 

 アイビスはいつものように、愛機を駆って大気を飛翔していた。アステリオンではない。今彼女が駆るのは全く別の、しかし確かにアステリオンに連なる機体であった。それはある一人の若者と、一人の少女の夢を鋼に刻んだもの。そして多くの英知によって削りだされ、ついに形を為したもの。

 

 シリーズ77α アルテリオン。

 

 地上においては現行最新最高の人型外宇宙航行機。

 

 また別のところでは「地上のディシュナス」とも称される高速の空戦騎。全長28.3メートルとサイズ自体はアステリオンよりも一回り大きいのだが、それでいて全体的な印象はより細く、軽やかなものとなっている。そう思わせるのは両肩から延びる、アステリオンの頃は大剣を思わせるほど大きく分厚かったテスラ・ドライブが、さながら槍のように細く鋭いものに替わっているためだろう。しかし頼りなさは微塵もない。進化と退化は紙一重。人の身で鳥に近づこうと無理に長大な翼を後付けていたかのようなアステリオンに対し、アルテリオンはまさしく鳥に生まれ変わったかのように自然のままに、最適な形の翼をその身に宿していた。

 

 歪さや奇形はすべからく洗練され、他のあらゆる要素が精錬され、ついに完成した未来の外宇宙航行機。まさしくプロジェクトTDの集大成と言えるそれを自在に操って、アイビスは風の中を駆け抜けていた。

 

 そう、風の中を。

 

 宇宙ではない。星の海はここにはない。

 

 ここは地球という名のボールの内側。頭上には不動の太陽。眼下には球内面状に歪曲する地平なき大地。そして閉じられた空。

 

 ここは異世界ラ・ギアス。その空をアイビスは飛んでいた。

 

「こちらフリングホルニ。どうかしら操縦の調子は。なんかおかしいところとかない?」

 

 不意に通信音声が降って湧き、モニターに紫の髪をした少女の姿が映った。アンティラス隊の自称天才メカニックであり、とある少年がいうところの「機械オタクのお姫様」だ。お姫様と呼ばれる通り、年若ながら気品のある整った顔立ちをしているのだが、遠慮無しに爛々と輝く瞳が、美しさよりもまず先に彼女自身の情熱とお転婆加減を強烈に主張していた。

 

「悪くないよ。けど不思議な感じ。思っただけで機体が動くなんてさ」

 

「ごめーん。プラーナ・コンバータを積むには、どうしても操縦系を弄らなくちゃいけないの。でも追従性は上がってるはずよ」

 

「うん、そう思う。なんか羽がもう一枚生えたみたい」

 

 お世辞ではなく、地上はおろかラ・ギアスですら並べる者数少ないアルテリオンの機動性が、さらに溌剌としているのをアイビスは如実に感じ取っていた。手動式であったそれまでの操作系統をラ・ギアス流の思考制御に切り替えたことによって、アイビスの意志がよりダイレクトにアルテリオンに伝わっているのである。染み付いた癖もあってやや戸惑うところもあるが、全体の感触としては非常に良好であった。

 

「魔装機神ほどじゃないけど、結界装甲によって機体剛性も上がっているわ。リミッターの位置も下げておいたから、もっともっと飛ばしても大丈夫よ。とはいってもプラーナ消費にだけは気をつけてね。こればっかりはプロペラントを積むってわけにはいかないから」

 

「限界速度でどのくらいもつの?」

 

「訓練で大分替わってくるけど、今時点だと休憩無しで四時間ってところね」

 

 航続性能を犠牲に、瞬発力が上がったといったところか。理にかなう調整にアイビスはひとつ頷いて納得した。

 

 他にも武装切替のプランがようやく固まりそうだと、通信窓の少女は口喧しくあれこれと捲し立てた。聞けば、アルテリオンに元々搭載されていたミサイル群はラ・ギアスでは補給が難しいので、熱素弾頭のものに換装されるらしい。Gドライバーについては、ラ・ギアスでも電磁加速砲がメジャーな兵器となっているので流用が効き、そのままにされるとのことだ。

 

 そうなれば使い勝手としては、従来ともあまり変わるまい。ラ・ギアス式に改造されると聞いたときは、たとえば水の魔装機神のように杖をもって様々な魔法を使いこなす羽目になったりはしないかと危惧していたアイビスだが、そんなことにはならなさそうで安堵する反面、ほんのすこし残念でもあった。

 

 変わり映えするものと言えば、せっかく導入したプラーナ技術を有効活用するためにも、オリハルコニウムの実体剣をひとつ装備することくらいだろうか。敵の結界装甲を破るには、操者のプラーナが込められた近接武器を敵操者の意識外、つまり側面や背後に叩き付けることが最も効率的であると聞く。魔装機同士の戦いが剣と剣による白兵戦を主としているのはそのためである。結界装甲を問答無用に貫ける遠距離火器は、本当に限られた砲戦型魔装機か、もしくは魔装機神しか装備していない。これは人と人の戦いにおいても同じ事が言え、だからこそこの世界では銃よりも剣技が尊ばれていた。

 

「さーらーにっ! アルテリオンにもともとあったドッキング用ハードポイントを利用した、あたし式追加ユニットの増設計画も目下絶賛推進中よ。あたしの中だけでだけど。それが完成すれば、もうそうなったらそれはもはやアルテリオンではないわ。アルテリオン・ロイ? アルテリオンR? ううん、それはアルテリオンを超えたアルテリオン。言うなればハイパー・アルテリオン。そう! つまり! 略して!」

 

 有り余る情熱の雄叫びを右耳から左耳にしながら、アイビスはテストフライトを切り上げ、母艦フリングホルニへと進路を変更することにした。そしてモニターのお姫様は、そんなことはおかまい無しに彼女自身の願望なり欲望なりを吐露し続けた。

 

 聞かれぬよう、アイビスはこっそりと溜め息を付いた。ハガネ隊も大概であったが、アンティラス隊面々の個性豊かさときたらその斜め上を行くかのようだ。このお姫様もれっきとした正魔装機操者であり、魔装機は操者のプラーナを力の源とする。そしてプラーナとは人の心に宿る精神力、あるいは感情のうねりそのものであり、そのせいなのかどうかは分からないが、アンティラス隊の魔装機操者はちょっとした奇人変人博覧会のような様相を呈していた。

 

 いまやその末席に自分がいるのだと思うと、アイビスはやや複雑な表情を見せながら、ぽりぽりと鼻のあたりを掻いた。魔装機神と同等の慣性制御システムを積んだ為に、窮屈なパイロットスーツを着ることなくアルテリオンに乗り込むことができるようになったささやかな恩恵であり、また、長らく一緒に過ごした誰かの癖がうつったものでもある。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 あらゆる国家から独立する魔装機神とその旗下に集う正魔装機たちは、「アンティラス隊」という組織名を聯盟から授与するに至り、ラ・ギアス全体の平和維持や、国家間の調停役を正式に担うこととなった。立ち位置としては地上の旧暦における国連軍にも近いのだが、昔の国連軍が連合に加盟する各国から必要に応じてその都度兵力を提供される、言わば臨時混成軍であったのに対し、アンティラス隊は初めから独自の兵力を有する独立部隊であるという点が明確に異なる。その代わり独自兵力の維持や経営もまた独自に行なわなくてはならず、その有り様はもはや一つの企業にも近い。否、どこの国に対しても指揮権を与えず、納税の義務も負わず、そしてその代償にどこの国からも保護や恩恵を授かれない彼らは、すでに一国家とすら呼ぶことができた。

 

 当然、そのようなことが限られた人数のパイロットたちだけで勤まるはずもなく、そのためかアンティラス隊の旗艦であるフリングホルニには地上の戦艦と比べて非戦闘員のクルーが異常に多い。この艦は戦艦である前に一つの国家であり、領土であり、そこに済む国民達の生活、働き、その他あらゆる営みの場なのだ。

 

 そしてたとえば国家間紛争の調停や邪神教団によるテロリズム防止など、平和維持に必要不可欠で尚かつ矛盾するようだが武力行使による早期決着を必要とする事態が発生した場合、アンティラス隊は聯盟からの依頼のもとこれらを為す。規模にもよるが、その達成報酬として数千万から億単位の報償金が聯盟より支払われ、これがアンティラス隊の主な収入源となっている。

 

 アイビスもまた、そんなアンティラス隊に属する者の一人だった。やることはこれまでと同じく一パイロット……とは全くもっていかなかったことが、アンティラス隊に入ってアイビスが最も驚いた事の一つだった。

 

 なにせ一国家も同然なアンティラス隊であり、魔装機神および正魔装機操者となればその代表であるから、やるべきことは山ほどある。他国政府や外交や折衝、諜報活動、国際会議の参加、練金学協会との技術交流、隊の財務管理、隊内軍法の立案と施行、隊内軍法会議の実施、艦内福祉の改善、報償金以外の収入源確保と運営、新型魔装機の設計や手配、補給物資の調達管理等々。ハガネ隊にいたころはハガネ隊以外の、恐らくはハガネ隊よりも遥かに大人数の者がやってくれていたであろうことを、アンティラス隊においては全て自分たちでこなさなくてはならなかった。

 

 つまりアンティラス隊における魔装機神および正魔装機操者というのは、言うなればパイロットの他にも大統領、外交官、国会議員、裁判官、諜報員、各種企業経営者、その他諸々の多種多様にして千差万別な役割を全てごちゃまぜにして、その上で自主的に担うか、適正を見込まれて任命されるか、あるいは適当にその場の勢いで割り振られてしまう者たちのことを指すのだ。そして魔装機神操者でも正魔装機操者でもないはずのアイビスもまた、その一味には違いないという理屈で同様の扱いを受ける羽目になってしまった。

 

 たとえば大地の魔装機神操者などはアンティラス隊所属の魔装機をグッズ化したものや操者のプロマイド等を扱うブランドショップの経営をこなしている。といっても、さすがに彼女が本当に一から十まで経営を担うわけにもいかないので、業務監督役もしくは名誉会長もどき役を担っているというのが実際のところである。なんにせよ、地上であればジュニア・ハイスクールに通っていなければならない年齢にも関わらず、それに見合わぬ才覚の持ち主であったらしく、額はそこそこながら長期に渡る安定した収入を見事に維持しており、あまり思い出したくはないがアイビスも売り子としてその店の手伝いをしたことがある。

 

 他にも水の魔装機神操者がバゴニアという国と首脳会談を行なう際は、「女同士だし、アルテリオンだと早く着くから助かるわ」などという全く腑に落ちない理由でアイビスも連れて行かれてしまったことがある。案の定アイビスは緊張のあまり一国の首相の前で盛大な粗相をしでかしてしまい、バゴニアの歴史に不名誉な名を刻んでしまう羽目になった。 

 

 真剣に命の危険を感じたのは、炎の魔装機神操者がとあるテロリスト集団の首魁を直々に尋問したときのことだ。その際なぜかアイビスも書記官として同席することとなり、その首魁共々物言わぬ屍となっているところを翌朝尋問室で発見された。約十二時間ものあいだ尋問室でなにが起こっていたのか、なぜ自分は気絶していたのか、いまもなおアイビスの記憶は固く封印されたままであった。

 

 他にも例を挙げようとすれば、それこそ枚挙に暇が無い。会計士の手が足らないため隊内損益計算業務の手伝いに駆り出されたときなどは、しばらく数字に追いかけ回される悪夢に悩まされた。正魔装機操者とアンティラス隊のエース諜報員を兼ねる、ドイツ出身のややうさん臭い男に付き合わされたときは、あやうくボンドガールの真似事をさせられるところであった。さらにはインディアンの末裔にしてアル中一歩手前の女性正魔装機操者が「じゃんじゃん酒代ふんだくろうね」などと言いつつべろべろに酔っぱらった状態でアイビスの襟首を掴んできたこともある。どこに行くのかと問えば、「ん? 聯盟総会」ととんでもないことをあっさりと告げられ、アイビスは本当にこの世の終わりかとも思った。それで本当に予定よりゼロが一つばかし多い数字を獲得してしまったときは、アイビスは総会議事場のまっただ中で、つい懐かしの米語で「マイ・ゴッド」と悲鳴を挙げてしまった。

 

 夢を追いかけ、ひたすら空に挑み続けた日々は古いアルバムの一ページとなって遥か天球の彼方に吹き飛び、アイビスはそんなふうにして、四人の魔装機神操者を筆頭とする個性的すぎる仲間達と共に、忙しくせわしなく胃が痛む、しかしながら賑やかでなんとも面白可笑しい日々を送っていた。そして無論の事、有事の際は命をかけた戦場に身を投じ、力の限り戦い抜いた。

 

 元来、アイビスは戦いを好まない。そんな彼女がなぜ戦いを生業とする(それ以外の仕事も多々ありすぎるが)組織に所属しているかと問われれば、アイビスも返答に困ることだった。

 

 テストフライトを終え、フリングホルニ格納庫の定位置にアルテリオンを固定し終えたアイビスは、コクピット脇に待機していたリフターに乗って操作盤を軽く弄くった。イオンクラフトによって浮遊していたリフターが、音もなく地面に下りて行く。

 

「おかえりなさーい、アイビスさん」

 

 床に降り立ったアイビスに、そんな出迎えの言葉が届けられた。学生服に身を包んだアイビスよりも頭一つ背の低い少女が、なにかが決定的に間違った三匹のカモノハシを連れながら、元気よくアイビスに手を振っていた。

 

 どうみても女学生にしか見えない少女だが、れっきとした魔装機神操者の一人であり、大地の精霊の加護を受ける者である。アンティラス隊という名の国に君臨する四人の元首のうちの一人であり、他国家の大統領や国王、さらには聯盟事務総長すら、この少女に対して何の命令権も持たない。

 

 しかしそうと知った後でも、アイビスの瞳に写る少女は、やはり少女に過ぎなかった。やや突飛な言動なり趣味なりを持っていたりはするが、恋話には目を輝かせ、哀しい映画には目を潤ませ、美味しい食事には喜色満面となり、休日にはアイビスと一緒にショッピングに行ったりもする、なんて事のない普通の少女だった。

 

 やがて二人の側に、多くの人間が集い始めた。息を飲むほどの美貌を持った北欧系の女性。鉄で出来たようにまっすぐな眼差しを持った中華系の男性。さきほど通信でさんざんに喋り倒した機械好きの姫に、先ほどの北欧美女に輪をかけて、それこそ息をするのも忘れてしまうほど輝かしい美貌を持った練金術士。剣技なら隊内有数の腕前を誇る寡黙な剣士。まだ十歳程度の、あどけなくも可憐な少女と連れ立って現れたのは、優れた人格と非の打ち所のない能力とたった一つの致命的な短所を併せ持つ元バゴニア軍人だった。

 

 アイビスと同様、地上から来た者もいれば元々この世界で生まれた者たちもいる。そんな彼らと、アイビスはそれぞれに言葉を交わし、それぞれに笑い合った。

 

 なぜこの世界で戦うことを選んだのか。アイビスにとってその理由は色々ある。地上とよく似ていて、それでいてどこか違うこの世界の風景を美しいと思った。そこで得た気のいい仲間たちと、こうして語り合う時間を楽しいと思った。彼らとともに、慣れない仕事や生まれて初めて行なう業務に目を回しつづける日々を豊かなものに思った。

 

 それでも、やはり最たるものは一つであるのかもしれない。また道にでも迷っていたのか、その最たる理由は一同より十数分は遅れてのこのことやってきた。銀のジャケットにジーパン姿、両肩には二匹のネコをぶらさげたいつも通りの出で立ちで。

 

「おう、お疲れ」

 

 あの頃と何一つ変わらない姿で、少年はアイビスの前に立ち、軽く手を挙げた。ハガネ隊にいた頃にずっとずっと見てきたものと、本当に何一つ変わらない姿で。

 

 やはりこれなのだろうと、アイビスは思うのだ。一仕事を終わらせた後、あるいは死に物狂いの戦いが終わった後に、こうして彼が見せてくれる何気ない笑顔。掲げられる手の平。彼という存在そのもの。

 

 それら全てをアイビスは愛しいと思うのだ。失いたくないと強く強く思うのだ。だからこそ、それまで歩んでいた道を外れ、こうして異世界にて彼とともに生きることを選んだのである。

 

「あのねマサキ。自分の秘書に対して、もっと気の利いたねぎらいはないわけ?」

 

「いやご苦労。今年のボーナスは楽しみしておけ」

 

 大地の魔装機神操者からの苦言に、風の魔装機神操者は、その属性相性を立証するかのごとく斜め上の態度で応じた。だめだこりゃ、と肩を竦める少女であったが、アイビスにしてみれば何一つ気にすることではなかった。

 

 こんな日々がずっと続けば良い。こうして皆で笑い合い、彼と共に時を過ごせるのならそれでいい。そのためなら、アイビスはどんな敵とだって、いくらでも戦うことができた。

 

 いつか全てが終わり、彼と共に安らかな暮らしを送れるようになるその日まで。

 

 だからアイビスはいつものように、心からの満面の笑顔を見せて、こう言うのだ。

 

「ただいま、マサキ」

 

 

 

 そうして世界は暗転する。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

「もしもし。ねぇ聞こえる!? 二ヶ月だから! あと二ヶ月で帰るから! お願いだから前みたくすっかり忘れて、どっかにでかけちゃわないでよ! ちゃんと家で待っててね!」

 

「へいへ……ってるから……でけぇこ……じゃね……」

 

 太陽風の具合か、彗星による磁気嵐か。しきりに乱れる映像と途切れ途切れの音声と、それでいてなお火を見るよりも明らかな通信相手の気のない素振りにアイビスはやきもきするばかりだった。通信の乱れはますますひどくなり、結局碌に意思疎通もとれないまま、とうとう相手の方から通信を切られてしまった。

 

(あんまりだ……!)

 

 アイビスは大きく天を仰いだ。なんてことのないTV電話だが、外宇宙探査任務につくアストロノーツにとっては非常に重要な意味を持つことを、何度口酸っぱく言っても彼は理解しようとしない。それどころか、過去ものの見事にすっぽかされたこともあった。顔なじみの通信士から困ったような、同情するような、それでいて笑いを堪えるような顔で「さっき電話してみたら『忘れてた。まだ家だから今日はパス』だそうで」などと告げられたときは、アイビスは怒りと憎しみのあまり卒倒しそうになった。

 

 閉鎖的環境に数ヶ月間籠る事も珍しくないアイビスたち探査チームにとって、最大の敵となるのはスペースデブリでも異星人との遭遇でもなく精神的ストレスである。そのストレスを緩和させるのに家族や友人とのたった数分間の交流は非常に有用とされ、だからこそ任務中のアストロノーツたちには定期的な個人通信が半ば義務づけられてすらいるのだ。

 

 だというのに相手がこれでは、とアイビスは地団駄の一つでもしようかと思ったが、ここでいくら足を踏み鳴らしたところで70AUも離れた地球へ届くはずもない。

 

 いまアイビスがいるのは、地球からプロキシマ・ケンタウリ恒星系方面へ、先述したようにおよそ70AUほど進んだ地点である。AUとは地球と太陽の平均距離を1とした単位であり、70AUとはつまり約105億キロメートルを指す。地球から冥王星までの距離がおよそ50億キロメートルであるから、その倍に当たる距離を踏破したことになるのだが、まだまだ一光年=約6300AUにはほど遠い。そしてプロキシマ・ケンタウリまでの距離は4光年とされている。太陽系に最も近いと言われる恒星ですらそれなのだ。あまりにも宇宙は広かった。

 

 外宇宙探査プロジェクトも既に第四次を数えているが、探査チームと地球との間での通信精度にはまだまだ課題が残っていた。数十AUもの距離を隔ててしまうと、お世辞にもリアルタイムとは言い難い通信状態になるし、今のようにほんの少しでも周囲の電磁波が荒れていると碌に連絡が取れない羽目になる。

 

 無論、探査チームが孤立無援になってよいはずもなく、いまアイビスたちが乗る外宇宙航行用大型アーマード・モジュールより約一億キロメートルほど離れた中継点には、探査母艦であるヒリュウ2が待機している。そことの通信状態は今でも良好を維持しており、それにより探査作業中のアイビスらの安全も守られているのだが、少なくとも今はアイビスにとって関係のないことだった。

 

 地球との、もっと言えばアメリカ州テキサスにあるジョンソン宇宙センター、そこの管制室に栄えある探査チームの身内として特別招待を受け、いまごろは専用大型通信機の前で頬杖をつきながら耳の穴でも掻いているかもしれない一人の少年と、きちんとしたコミュニケーションを取れないことが非常に深刻な大問題なのである。

 

「あったまきた!」

 

 アイビスはがっぽがっぽと床を踏み鳴らしながら、ずかずかと居住区画の狭い廊下を進んで行った。靴底に仕込まれた磁石の為せる技だが、吸着音が余計に耳障りでもある。そのままトレーニングルーム……といっても7畳程度の広さしかない小さなものだが、その部屋のシャッタースイッチを乱暴に押し込んだ。

 

「どうした、不機嫌そうだな」

 

 中に入った途端に舞い降りてきた頭上からの声にアイビスが天井を見上げると、チームメイトの一人と上下から視線がぶつかった。背中まで黒髪を伸ばした結構な美人で、壁からにょっきりと垂直に生える自転車型エルゴメーターに乗り、えっちらおっちらとペダルを動かしている。このトレーニングルームは横に狭い代わりに縦に長いのだ。

 

「なんでもない。さーてあたしもエクササイズしよっと」

 

 無重力太りしたら大変、などと口にしながらアイビスもふんわりと宙に浮かび上がり、天地の感覚を九十度ほど傾けて同じマシンに跨がった。すると隣から未開封の飲料パックが流れてきて、アイビスは「ありがと」とにこやかにそれを受け取り、

 

「まだあの不法滞在者を養ってるのか。よく続くな」

 

 そして思わず握りつぶしてしまった。キャップが吹っ飛んで、オレンジ味のシャボン玉が大量に飲み口から発射された。

 

「不法滞在者ってなにさ。誰のこと?」

 

「国籍もビザもなくオーランドに居座ってるんだから、立派な不法滞在者だろうが」

 

 同僚が言い立てるのは、地球にてアイビスの帰りを待っている(はずの)アイビスの同居人のことだった。さきほどまでアイビスが必死に通信を試みていた相手でもある。結婚はしていないので同居人などという言い方になってしまうが、言うなれば同棲相手であり、はたまた内縁の夫という言い方をしてもさほど差し支えは無いだろうとアイビスなどは思っている。

 

 そんな同居人がなぜ不法滞在者呼ばわりされるのかというと、まさしく同僚の言った事が全てであった。さらに付け加えるとすれば、彼は過去に居住していた日本州政府よりとっくに失踪宣告が出されており、国籍やビザはおろかそもそも戸籍すら存在していなかった。

 

 むろん制度上は申し立てればすぐにでも回復できることであるし、当然アイビスはそうしようとしたのだが、あまり好ましくない結果に終わった。役所からは失踪期間中どこでなにをしていたのかをあれこれと尋ねられそれも煩わしくはあったが、最たるものはやはり、とある連邦軍高官の目にその情報が止まり、余計なくちばしを突っ込まれたことだろう。戸籍を取り戻したければ、彼唯一の個人資産を軍に提供しろ。そう言ってきた高官にアイビスの同居人がどう応じ、その結果高官がどのような災難に遭ったかはまた別の機会に語るとして、結果的には彼はいまだ無戸籍状態のままとなってしまっている。

 

 本人はさほど気にしている様子も無いが、アイビスとしては大問題であり、いずれ解決せねばならないことの一つとして数え上げていた。自宅にある彼女の部屋の引き出しには、書きかけのとある届け書がいまも一人寂しく眠っているのだ。早いところそれに日の目を見させてやりたかった。

 

「金も職もない男に入れ込む女もいなくはないが、まさか戸籍すらない男とはな」

 

 そんなアイビスの思いは余所に、同僚の女はまたも聞き捨てならないことを口にした。

 

「失礼な! 戸籍はともかくとして、うちの人はちゃんと働いてお金も稼いでくるよ。この前なんてミッドクリッド大統領のSPも務めたんだから。凄いんだから」

 

 見栄でもなんでもないれっきとした事実であるから、ことさらアイビスは胸を張ってみせた。

 

「それはもう一昨年の話だろ」

 

 しかしあっという間に撃ち落とされた。

 

「え、なんで知ってるの」

 

「何度も自慢されたからな。それ以降はどうなんだ」

 

「ええと軍の、というより諜報部かな? ギリアム中佐からの依頼だから。それを受けたりとかしてるよ。凄いでしょ」

 

 これもまた事実であるから、アイビスは我がごとのように胸を張ってみせた。

 

「一昨年と去年の二度だけだろ?」

 

 しかしこれもまた即座に撃墜された。

 

「な、なんで知ってるの?」

 

「これもさんざん聞かされたからな。結局それ以外はだれけっぱなしのヒモということか」

 

「まさか! あとは、ええと、そうだ。たまにディズニー・ボードウォークとかで」

 

「使い魔を使った大道芸で小銭を稼ぐ、か?」

 

 さすがにもう胸を張れなかったアイビスだが、こればかりは絶対に話していないであろうということまであっさりと看破され、さすがに怪訝な表情を見せた。もしや、と胡乱な目で同僚を睨みつけるも、同僚は小さく肩を竦めるばかりだった。

 

「私だってオーランドに住んでるんだから、見掛けて当たり前だろ」

 

「あそっか」

 

 あっさりと警戒を解いたアイビスに、同僚は今度こそ呆れ果てたように深く溜め息を付いた。

 

「よりにもよって、本当に面白すぎる相手を選んだものだな。お前にとっては白馬の王子かもしれんが、その白馬ももう大分錆び付いてるんじゃないか?」

 

「うっさいなぁ、いいのそれで」

 

 アイビスは力強く言いきった。

 

 実際のところ自慢話として話には出しつつも、同居人が時たま愛機を使ってのアルバイトに励むことをアイビスは快く思っていない。どれもが何気なく明細を開いたアイビスが思わずひっくり返ってしまったくらいの収入ではあったが、幸いなことに二人揃って浪費癖とは無縁であるため、アストロノーツとしてアイビスが稼ぐ給料だけでも生活には問題なかった。数度きりではあるが、既に支払われてしまった同居人のアルバイト料も合わせれば尚更だ。仮に、あくまで例え話で、全くもって万が一のことだが、どこからともなく三人目が現れることになったとしてもそれは同様だと、アイビスは深夜に一人電卓と格闘しながら試算に試算を重ねた事もあった。

 

 だとするならアイビスは、少年にはもうかの機体には乗って欲しくなかった。乗る必要がないのだから乗らなくて良い。それが正直な気持ちだった。

 

 不意に機内放送が鳴り響いた。曰く、探査任務は一旦終了。ヒリュウ2にて補給を住ませたのち、地球への帰還路につくため、クルーは全員操縦ブロックに移動せよとのこと。ナビゲーター兼放送案内係を務める三人目の同僚の鯱張った口調に、いつものことであるがアイビスと隣の者は顔を見合わせて笑った。

 

「ツグミのところに行くか。どうやら寂しがっているらしい」

 

「一人は誰だって寂しいよ。スレイもそうでしょ?」

 

 スレイ・プレスティは答えず、どこかはにかむように笑った。そうして三人のクルーがそれぞれ配置に付き、アイビスらが乗る大型アーマード・モジュールはヒリュウ2に向けて進路を変えた。

 

 シリーズ77Ω アーマード・モジュール・ハイペリオン。最新鋭の外宇宙探査機として既に12機が量産され、それぞれが専属チームによって運用されている、その最初の一機。ついにめぐり合い、ひとつとなった織り姫と彦星に、もはや行けないところはなく、叶えられない夢もない。二つのマシンと、一人の若者の遺志と、三人の女たちの夢。それらの輝きを一つにして、銀と緋色をした一つ星はどこまでも真っ直ぐに、星の海を突き進んでいった。どこまでもまっすぐに、まるで夜を切り裂いて行くかのように。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 そして時間軸は跳躍し、これより二ヶ月後。アイビスたち第四次外宇宙探査団がその任務を終えて、故郷に帰還する日となった。といっても大気圏再突入自体は既に三日前に何事も無く済まされており、その後検診とリハビリに三日間を費やし、そしてとうとう晴れて自由に自宅へ帰れる身となったのが今日というわけなのだった。長時間無重力に身を置くことは本来人間に様々な生理学的変化をもたらし、旧暦の頃の宇宙飛行士たちは帰還後一ヶ月半はリハビリに専念しなくてはならなかったのだが、宇宙食やサプリメントの発達によってアイビスたちの時代にはリハビリに要する日数は劇的に減っていた。

 

 ケネディ宇宙センターを出て、自家用車を飛ばすこと数十分。すでに夜八時を回っているが、アメリカ州屈指の観光地であるオーランドならば、そこまでの道のりも含めてまだまだ明るく、夜道には困らない。ディズニーワールドやユニバーサルリゾートなど、いくつもの娯楽施設を有する騒がしい街だが、ケネディ宇宙センターから最も近い都市でもあるので、アイビスやスレイ同様ここに住むアストロノーツはそれなりに多い。アイビス自身、通勤に便利なこの街をいたく気に入っていた。デート場所に困らない点も良かった。

 

 中心地と郊外の半ばにアイビスの家はある。スレイとツグミの家も割り合い近所にあるが、アイビスの家は彼女らのより一ランクは高級なものだった。閑静な住宅街の片隅にある庭付き一戸建てのそれは、「前の家に似ている」という同居人の何気ない一言のもと、アイビスが意を決して半ば衝動買いしたものだった。

 

 その前庭の玄関口を車で通るとき、それまで浮き浮き気分もいいところだったアイビスの心境は、一気に奈落の底まで突き落とされていた。外から見えるリビングの窓が暗いためである。あきらかに住人は外出中と見てとれた。

 

 ガレージに車を入れ、アイビスは鼻息荒く車を降りた。がちゃがちゃと乱暴に鍵を開けて、勢い良く玄関を扉を開ける。

 

「ただいま!」

 

 返事が返らないことなど承知の上で、アイビスは八つ当たりのように叫んだ。

 

 外宇宙探査は数年掛かりのプロジェクトである。といってもそのうちの大半は地上での事前準備や訓練に費やされ、その間は出張こそ多くなるもののまだ自宅に帰ることはできる。しかし実際に宇宙に飛んでしまえば、それこそ最低半年は自宅どころか地球の大地を踏む事すらできなくなる。事実アイビスがこの家に帰ってくるのも、そして未だ叶ってはいないが同居人と直接顔を合わせるのも、実に八ヶ月ぶりのことになるのであった。

 

 こんにち、外宇宙探査団といえばアストロノーツの中のアストロノーツとも呼ばれる選ばれし者たちである。それが任務を見事に達成し無事帰還したというのだから、当然世間は注目せずにはいられない。すでに連邦政府のお偉方との会談や記者会見、TV番組への出演予定等が目白押しとなっており、一日の休憩を挟んだ明後日からは、またもや連続長距離出張の日々となることが決定していた。

 

 だというのに、だというのに。

 

 なかなか帰れないものだから、せめて帰ってくる日くらいはと思っていたのに……!

 

 世の単身赴任者や、長距離出張の連続を強いられる者たちに、アイビスは心からの共感と同情と、それとほんの少しばかりの身勝手な怒りを覚えた。会社の出張くらいなんだ。いまどき地球の反対にいたって、手紙もTV電話も高速シャトルも使い放題じゃないか。こちとら太陽系の外だ。声を聞くのだって一苦労なんだ!

 

 怒りとともにアイビスはコートのポケットから携帯端末を取り出した。軍用GPS機能を使って彼の居る座標をセンチメートル単位で検索しようというのだ。プライバシーの侵害といえばその通りではあるのだが、彼の持病を思えば共に暮らす上でのちょっとした工夫とも言えた。

 

 これでいかがわしい店にでもいようものなら(いままでそういう例は皆無であったが)、すぐにでも現地に赴いて 彼の腰にすがりつき、店中に響く声で泣きわめいてやると、強気なのか弱気なのかよく分からないことを心に誓いながら、アイビスはその機能を作動させようとした。しようとして、その寸前で、ぴたりと指の動きを止めた。ふと、自分をこそ見詰め直してはどうだという内側からの声が聞こえたのである。

 

 難色を示す彼をむりやり説き伏せて、力づくでこの家に住まわせたのは自分である。そしてもうどこにも行かせまいとあの手この手で同居人の首に鎖を付けて、家に閉じ込め、頑丈な鍵をかけてしまったのも自分だ。そのくせ碌に家にも帰らずに悠々と人生を謳歌しているのも自分であるし、そしてたまに家に帰ってきては、意のままにならぬ同居人に対してこうして怒りを振りまくのも自分であった。

 

 アイビスは目がくらむような思いにもなった。こんな理不尽なことはない。醜悪なまでに不公平な家族としての有り様がそこにはあった。それこそ幼き頃にさんざん目にした、アイビスの両親たちのそれに勝るとも劣らぬほどに。

 

 怒りと悔しさはたちまちの内に消え去り、その代わりに途方も無い哀しみと、重苦しい罪悪感がアイビスの胸中をあっというまに占領し、涙すら込み上げてきた。

 

 そうして玄関先に立ち尽くしたまま、アイビスは頭を抱えて自らを罵倒し続けた。泣く資格も怒る権利も自分になどあるものか。だって自分は罪人ではないか。閉じ込めていはいけない人を、こうして閉じ込めてしまっているというのに。本当であればこんなところにいてはいけない人を、むりやりつなぎ止めてしまっているというのに。

 

 ああ自分は駄目だ。本当に駄目な女だ。これでは愛想を尽かされて当然だ。きっともう、彼は二度と帰ってこない。あたしのせいだ。あたしが魅力も甲斐性もない駄目な女だから。ああ、こんなあたしなんて……!

 

 アイビスの精神は留まるところを知らずに、どこまでも奈落へと落ちて行った。何年にも渡る宇宙飛行士のメンタル訓練も、人間の本質を変えるには至らないらしい。彼女の人生においてもはや気の置けぬ友人とも言える泥沼の自己嫌悪が、久方ぶりに最高潮まで高まっていた。

 

 しかしながら一体全体どういう世の仕組みか、一人の少年がどこからともなくふらりと彼女の前に姿を現すのは、得てしてこういうときなのであった。こればかりは本当に、昔からそうなのであった。

 

「よ、帰ってたか」

 

 背中から掛かってきた声に、アイビスの両肩は雷に撃たれたように震えた。

 

「飯でも作ってやろうと買い物に行ってたんだけどよ、ちょいと道に迷って遅くなっちまった。久しぶりにすき焼きをご馳走してやるよ」

 

 アイビスは振り向けなかった。

 

「んで、玄関先でどうして頭なんか抱えてるんだ? 忘れ物でも思い出したか? まったくお前はいつになっても……」

 

 アイビスはやはり振り向けなかった。彫像と化したような彼女に首を傾げるのもそこそこに、少年は買い物袋を持ったまますたすたとキッチンへ向かっていった。やがて漂ってきたソイソースとスイート・サケの香ばしい香りにアイビスはふと我に帰り、そのままおそるおそると、家主のくせして泥棒かなにかのような格好でキッチンの扉を覗き込んだ。

 

 ジャケットにジーパンをはいた、見慣れた姿がそこにはあった。両袖をまくりあげ、慣れた手つきでトーフを切っていく少年の、本当にあの頃と何一つ変わらない後ろ姿があった。まったくもって現金なもので、それまでアイビスの頬を濡らしていたものは、瞬く間に別の意味を持つようになった。

 

 思うよりも早く、アイビスは走り出した。まったく反射的なことであった。料理中の者にそれをしては……などという当たり前の常識には一切耳を貸すこと無く、アイビスは力一杯に駆け出し、そして何一つ躊躇することなく彼のもとに飛び込んだ。

 

「ただいま、マサキ! 会いたかったよぉ!」

 

 指を切ったか、それとも鍋でも引っくり返したか、とにかく何かしらの痛みによる少年の絶叫と、それを覆い尽くしてなお余りあるアイビスの溢れんばかり嬌声が、フロリダの夜に響き渡った。

 

 

 

 そうして世界は暗転する。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 深い海の底から浮かび上がるように、ようやくアイビスは目を覚ました。あたりは真っ暗であった。深夜3時ということもあって患者部屋は全消灯されており、窓から差し込む月明かりだけが、暗闇をうっすらと照らしている。

 

 ベッドの上で、うつろな瞳のままアイビスは首を傾げた。なにか大きな齟齬を感じた。なぜ、こんなところでこうしているのだろう。あたしはたしか……。茫洋とした意識の湖に、そんな疑問が波紋のように広がっていく。

 

 アイビスは、見るからに夢心地といった頼りない動きでよろよろとベッドの上で寝返りをうった。現実の記憶によるものか、それとも本能的なものか、そうすれば答えが分かると知っているかのようだった。

 

 お揃いの患者服を着て、大いびきをかきながら、隣のベッドで呑気に眠りこけているマサキの姿を、アイビスはじっと見詰め続けた。安堵しているのか、それとも逆なのか、外からはまるで判別つかない。まだ意識の大半が夢の中にあるためか、アイビスの眼差しは冬の湖のように混じりけのなかった。

 

 しかしその少年の姿を切っ掛けになんとか夢と現の区別を掴みはじめたらしく、アイビスの眼差しは、ゆっくりと時間をかけて、段々と平時通りのものに変わっていった。

 

(そっか。あたし、ずっと夢を見ていた……)

 

 そう理解することができた。

 

 ここはラングレー停泊中のハガネ医療室、その患者部屋。異世界でもフロリダでもない。アイビス・ダグラスはなんとか隊の一員ではなく、マサキ・アンドーもまた誰かのヒモではない。

 

 おおよその現状認識がまとまって、アイビスはふたたび寝返りをうって、天井を見上げた。素っ気無いパネルの上っ面に、つぎつぎと浮かび上がってくるものがあった。

 

 一つ目の夢を、アイビスは考えた。

 

 楽しかった。みんなみんな良い人で、楽しい人たちだった。そして楽しい艦だった。どこまでいっても果てのない閉じられた空、外宇宙航行機であるアルテリオンがそれ以外のなにかに作り替えられて行く事。心のどこかでそれらに引っかかりを覚えつつも、しかしそれ以上になにもかもが珍しくて、なにもかもが新しく初めてで、目の回るような忙しなさではあったけれども、確かに充実した日々だった。

 

 そんな日々を共に過ごした、掛け替えの無い仲間達の顔をアイビスは思い出そうとしたが、しかしどうしてか一人も思い出すことができなかった。夢の中ではもう何年も一緒に過ごしていたかのように気心が知れていたのに、いまはもう誰も彼もが深い霧の向こうに消えてしまっていた。

 

 アイビスは名残惜しさを感じつつも、諦めざるをえなかった。きっとそういうものなのだろう。だってあれは夢なのだから。

 

 二つ目の夢を、アイビスは考えた。

 

 幸せだった。日頃なかなか会えないのは寂しい事だったが、それを補ってあまりあるくらい幸福と平穏と、そして恥ずかしいくらいに自己愛に満ちた夢であった。

 

 彼には愛機にも碌に乗らせず、務めも放棄させ、それでいて一人だけぬけぬけと夢を叶えた自分。人生の大部分を星の海を思う存分に駆け巡ることに費やし、さらに大部分をそのための準備に費やし、そして残るほんの僅かな日々を少年のもとで過ごす。少年はずっと、それを家で待っていてくれる。

 

 卑劣なまでに独善的な夢だった。しかしだからこそ、こうして思い出すだけで涙が込み上げてしまうほど幸せな夢だった。

 

 だからアイビスはその夢を嫌いはせず、一夜の宝物としてそっと胸の奥の宝石箱にしまった。本当に、まったくもって自己愛の権化のような夢であったが構うまい。きっとそういうものなのだろう。だってあれは夢なのだから。

 

 月明かりの差し込む患者部屋の片隅で、アイビスは静かに枕を濡らし続けた。少年の高いびきがまだ聞こえるが、それでも今だけは、彼の方を向く気にはなれなかった。

 

 叶わないからこそ人は夢想し、そしては夢は夢であるからこそ美しい。一つ目の夢も、二つ目の夢も、結局はそういうものだった。アイビスが星の海を諦める事、マサキが務めを放棄する事、それはどちらもあり得ないことだ。そしてそのどちらかを前提にして初めて、あの二つの夢は成り立った。

 

 アイビスは憎しみすら感じながら、誰でもないなにかに問いかけた。なら何故、自分はあんなものを見てしまったのだろう。自分もあの少年もそんなものは望まない分かりきっているのに、何故、二つの夢はあんなにも美しかったのだろう。目覚めた今も、こうして涙してまうくらい、何故あんなにも……。

 

 答えはどこからも返ってこない。月はどこまでも冷たくて、となりの少年は依然として眠り続けていた。そうしてアイビスは一人、どこまでも孤独に夜を過ごしていった。夜が明けて、少年が目を覚ますその時までそれは続いた。

 

 眠りたくはなかった。眠るものかと思った。

 

 あんなにも素敵な夢は、もう二度と見たくなかった。

 

 

 

 

 



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第十八章:訪れた宿命

 

 

   Ⅰ

 

 

 ラングレー陥落から一週間。生存者の救助はそれなりに順調に進んでおり、すでにハガネ隊のみならず地元のレスキュー隊や連邦軍の工兵部隊もまた、救助活動のために現地入りしていた。より専門的な技術をもった救助部隊の到着により、本来であればハガネ隊には撤収命令が出てもよかったのだが、ハガネの航行能力に不安があることと、また僚艦であるヒリュウ改の引き揚げが未だ成らずということもあって、そのまま現地に待機し続けるよう連邦軍総司令部より指示が下されていた。ハガネの修復は「移動式工廠」とも称される修理専門の特務艦隊が現地で行う手はずとなり、すでにラングレーに向かっているところである。ハガネのみならず機動兵器の一斉修理も同時に行われることになっていた。

 

 そういうわけでハガネ隊は依然としてラングレーに留まり、パイロットの面々もレスキュー活動の各種支援を当面の間は続けることとなった。なにせい基地一つ分の面積にも及ぶ地殻陥没であるから、人手も機動兵器もいくらあっても足らない。動かすのが精一杯といった状態のマシンであっても重機やヘリの代わりくらいにはなる。機体の応急修理の済んだ者から次々とそういった作業に駆り出され、逆に機体が修理困難な者は整備班や医療班のサポートなどに加わった。

 

 怪我が回復するやいなや、マサキ・アンドーもまたその列に続いた。彼の場合はいささか皆とは事情が異なり、乗機はほぼ万全の状態にあるも、諸般の事情により衆目の目には晒しづらい機体であるため、あえて生身での労働に従事せざるを得なかった。

 

 ただ結果的にはむしろ効果的であったと言えるだろう。マサキが充てがわれたのは、実際に瓦礫群を歩き回り死傷者を捜索する作業だが、成果はなかなかに目覚しいものだった。災害地における救助犬の有用性は歴史的にも立証されているが、小さな黒猫と白猫の姿をとるマサキの使い魔たちは、犬並みの嗅覚こそ持たずとも人間並みの知性と言語能力、そして簡素ながらいくつかの魔術を操ることができた。そこには人間のプラーナ跡を辿る術も含まれており、救助犬に勝るとも劣らぬ精度をもって、瓦礫の中に潜む死傷者たちの存在を察知することができた。そうして彼らが本作業に取り掛かってからというもの、二日間の間ですでに10人以上の死傷者が発見されている。

 

「やれやれ。気が滅入る仕事だけど、使い魔ですらニャい犬っころたちに遅れは取れニャいぜ」

 

 アメリカ時間で午後十一時時頃。薄暗い谷底の一角を歩きながらそう言うのは使い魔シロである。並行して動員されている救助犬たちに、一応はネコ科に属する身として思うところあるらしく、それなりに張り切っていた。

 

「でもこの恰好とリードは勘弁して欲しいわね。邪魔くさいったらありゃしない」

 

 使い魔クロが文句をつけているのは、擬態のために彼らが着用している動物用ジャケットのことである。災害救助犬ならぬ救助猫であることを示すもので、目が覚めるようなオレンジ色の生地に「RESCUE」と銘打たれている。実用性はともかく、その野暮ったいデザインは女性的思考を持つクロのお気に召すものでは無かった。だがなにより癪に触るのは、彼女らの首からのびる長ったらしいリード紐の方だ。

 

「マサキのペット扱いニャんて心外だわ」

 

「そうだぜ。普段面倒見てやってるのはこっちだっていうのに」

 

 腐されたマサキは、無言で右手に握りしめるリードを引っ張ってやった。ふぎゃあ、との悲鳴が二匹分挙がる。

 

「まったく迂闊に喋るなっての。他のやつに聞かれたらまずいだろうが」

 

 ぶつくさ言いながらマサキは瓦礫の谷を淡々と歩いて行く。その表情に日頃の覇気は見られない。戦闘経験こそ豊富なマサキであったが、さすがにこれほどの規模の災害地を歩き回ったことはない。机、棚、建造物、車、機動兵器。かつて文明の利器であったものがことごとく粉砕され、積み上がり山と化したその圧倒的な光景が、マサキから平時の余裕を奪っていた。廃墟や廃屋が時にそうであるように、これもまたある種、幻想的とすら言える光景だった。たとえ何百という屍体がその山の中に埋まっていると知っていても。いや、知っているからこそ、そう感じるのかもしれない。

 

(なにを馬鹿な)

 

 愚にもつかない考えをため息と共に追い出すと、前を行くクロたちがぴたりと足を止めたことに気づいた。

 

「人か?」

 

「多分」

 

「そう深くニャいぜ。7メートルくらいか。このくらいニャら人の手の方が手っ取り早いニャ。助けを呼ぼうぜ」

 

 シロの言う通りに、マサキは懐から無線機を取り出した。ハガネ隊から借り受けたものだ。しかし、スイッチを入れようとしたところで一旦指を止める。聞き忘れていることがあった。

 

「で、生きてそうか?」

 

「多分だめね」

 

「そっか」

 

 平易な答えに平易に応じ、マサキは改めて無線のスイッチを入れた。簡素な状況説明と援軍要請ののち、程なく一体の機動兵器がホバーを利かせながらマサキらの上空に降下してきた。ライのR-2である。またその手の平には専門のレスキュー隊員たちが、機材を抱えながら乗り込んでいた。

 

「この直下七メートル程度だ。頼むぜ。だが多分死んでる」

 

 マサキがそう伝えると、手の平から降り立った隊員たちは素早く作業を開始した。マサキの指示は、専門の訓練を受けた動物を使っていたとしてもあまりに具体的すぎるものだったが、気付いているのかいないのか、そのことを問いただそうとする者はいなかった。終わりの見えない捜索に、皆疲れてだしているのかもしれない。

 

 雪崩を防ぐべく、楔やつっかえ棒を各所に配置して周辺の瓦礫を固定。そして次々と瓦礫の除去に取り掛かる。幸い積み重なる瓦礫のピースはそう大きいものではなく、リレー運びの要領で迅速に撤去を進められた。その際は、マサキとライディースも列に加わった。

 

 そのうちに乾いた血の香りが漂い始め、掘り出される瓦礫の色も灰色から赤褐色に変わっていった。しかし作業は依然、慎重に進められた。マサキの言に拠らずとも、焦ったところで結果は変わりないと誰もが悟っていた。

 

 やがて掘り起こされたのは一人の女性だった。二十代から三十代あたりで、連邦軍の軍服を着ている。制服の種類からして後方勤務者のようだ。髪は埃まみれ。顔も赤黒く凝固した血に覆われ、まるで仮面をかぶっているかのようだった。美人であったどうかもわからない。

 

 隊員の一人が型通りの確認と蘇生措置を行った。果たして結果は覆らず、隊員の一人が彼女をゆっくりと抱きあげ、すでに用意されていた屍体袋の上に横たわらせた。マサキが手を合わせると、ドイツ系のライも不思議なことにそれに習った。その他の隊員も十字を切ったり、指を組んだりなど、思い思いに弔いの所作をとる。

 

 掘り起こされた人物はレイチェル・スコットという名の女性だったが、この場にそれを知る者はいない。この先、知ることもない。また彼女がいた場所とそう遠くないところに、ヒューイット大佐の五体が散らばっているはずだったが、一面の血の匂いからそれを嗅ぎ分けることはクロとシロにもできなかった。彼女ら二人の間には、やや一方的ながらも確かに存在したささやかな物語があったが、それもまた、このさき誰にも知られることのないものだ。

 

(なんとか見つけてやったぞ。ラッキーだったな。気分はどうだ)

 

 丁重に袋に収められ、ジッパーで封をされていく彼女の姿に、マサキは益体なくも胸中で語りかけた。

 

(アギーハのやつは倒したぜ。俺が、と言えねえのが情けねえけどよ。ちったぁ、気が晴れてくれたか?)

 

 答えが返ってくるはずもない。

 

 やがて機材の片付けも済んで、隊員たちはふたたR-2の手の平に乗り込んでいった。

 

「もうすぐ昼だ。乗っていくか?」

 

「いや、もうちょいやってく」

 

 ライの誘いにそう答えて、マサキは再び使い魔を連れて歩き始めた。その背中を数秒間見送って、ライもまたR-2のコクピットへと戻っていった。

 

 遠ざかるホバー音を背に、黙々と歩みを進めるマサキ。無感情にも見える静けさだったが、事実はむしろ逆だった。体内でふつふつと高まっていく感情の熱源を、マサキは持て余していた。今にも走り出してしまいそうな両足を押さえつけながら、マサキは上空のそのまた遠くを睨みつけた。

 

 待っていろよ。心中で、マサキは告げる。待っていろよ、お前ら。すぐに行ってやるからな。

 

 押し隠しながらも明らかなマサキのプラーナの高まりに、足元を行く使い魔クロはふと主人を見上げた。クロは思う。やはりマサキは魔装機神操者だ。人々の無念、世の悲劇こそが彼を突き動かす。とある少女が、星の夜空に対してそうであるのと対照的に。あるいはまったくの同様に。

 

 まだまだ未熟で、どれほど浅慮であっても、やはり彼は魔装機神操者になるべくしてなった。使い魔としてそれを誇らしく思いながらも、同時にクロは、女性的思考を司るその性ゆえに、そんなマサキの姿にほんの少しの哀しみを覚えずにはいられなかった。

 

 

   Ⅱ

 

 

 現在異星軍は月とホワイトスターに戦力を集結させる動きを見せており、この段階でラングレーを含めた地上軍事施設に襲撃をかけてくる可能性は極めて低いと判断されている。敵が体勢を立て直しているということは、無論のこと地球側にすれば攻め込む好機でもあるのだが、仕切り直しを要する点では、地球側も同じかそれ以上であった。月とホワイトスターにある異星軍戦力は、機動兵器にして1000を超える見込みである。もともと戦力では劣勢であるのだから、多少の数を無視して敵陣に風穴を開けられるハガネ隊の立て直し無しでは戦略が成り立たなかった。

 

 ゆえに今という時間は、敵も味方も小休止というタイミングになっている。荒海に降って湧いた、ほんの一時の凪のようなものだろうか。ボクシングと違ってラウンドも何もない命がけの戦争でも、時折そういう時間が訪れることがある。しかしそのことを有り難く思えるかどうかは、各人それぞれの都合によるだろう。現に、例えばマサキ・アンドーなどは異星人との戦いが思った以上に長引きそうなことに気を滅入らせている。

 

 一方アイビスはというと、どちらかといえば事態をあるがままに受け止めている方だった。無論プロジェクト再開のタイミングが遅れることについては忸怩たるものがあるが、それでもこうして機動兵器ではなく平凡なトラックのハンドルを握り、アメリカの街を呑気にドライブできる時間を持てていることを、それなりに好意的に受け止めていた。

 

「すんません、アイビスさん。運転任せっきりにしちゃって」

 

「いいよ、結構好きだし。それにしてもまさかアラドが運転できないなんて」

 

「いやぁ、スクールでは習わなくって。戦況が一段落したら、教習所に行くっす」

 

「運転できないと、アメリカとかじゃ生活できないしね。ちなみにうちの隊長も運転できないんだよ」

 

「うーん。あの人の場合、代わりに魔法の絨毯が使えても不思議じゃないよなぁ」

 

 ラングレー基地より南に五キロほど下った地点、ハンプトンロードブリッジの入り口あたりを、二人の乗った連邦軍トラックは走行していた。バージニア州を横切るジェームス川をさらに南北に縦断する道であり、3キロほどの海上道路と、2キロほどの海底トンネルが組み合わさって構成されている。

 

 橋を渡り終えて、さらに7キロほど南下したところにあるノーフォークを二人は目指していた。バージニアの中でも2番目か3番目くらいの湾岸都市であり、旧暦の頃は随一の米海軍基地としても有名であった。地球連邦軍に再編された際、ラングレー基地と基地機能は統合されたが、今でも軍需産業のメッカとされており、中でも造船業が盛んである。

 

 とはいえ二人がそのノーフォークを目指しているのは、何も戦艦の買い付けのためではなく、ただ単に日用品を買い揃えるためである。水や食料、医療物資など最低限の必需品については外部からラングレー跡地へと定期的に届けられているが(それでも滞りなくとは言い難いが)、その他の細かな日用品についてはなかなか行き届かない。そのためハガネ隊各部署の要望をまとめてリストアップし、アイビスたちがその買い出しを担うこととなったというわけである。わざわざ十キロ以上も離れたノーフォークを目的地に選んだのは、ラングレー近辺の街が基地陥落の影響の影響で、混雑・混乱著しいためである。実際、ハンプトンローズまでたどり着くのにも、二人は結構な長さの渋滞を乗り越えなくてはならなかった。

 

「にしてもこの買い物リスト、すごい量っすね。半日掛かりになりそうだな」

 

「遅くなったらどっかで食べるしかないね」

 

「いいっすね。頑張って値引きましょう」

 

 アラドはそう言うが、予算は必要量より多少の余裕しか見込まれていない。アラド・バランガは隊内でも有名な健啖家であり、どれほど頑張って値引交渉をしたところで、彼が満足するほどの夕食代が残るかはいささか疑問だった。しかしその代わり味には全くうるさくなく、下手をすれば山ほどのジャンクフードを買い込む羽目になるかもしれない。やはり急ぎで済ますようにしようと、アイビスは内心、気持ちを新たにした。

 

 

「力仕事は任せてください。3人分は働くっすよ」などと事前に豪語していた通り、アラドは街に着くと実によく働いた。薬物で肉体を強化されているという穏やかではない噂も聞いたことはあったが、事実アストロノーツとして鍛えているアイビスの目から見ても、アラドは並みはずれた体力を持っているようだった。

 

「よっこいせっと」

 

 やや年寄りじみた掛け声とともに、アラドは路上に停めたトラックの荷台に最後の荷物を詰め込んだ。生野菜が詰め込まれたダンボール三箱を一気に、である。引っ越し会社の者がこの場に入れば、即刻スカウトにかかっても不思議ではない。

 

「あー重かった」

 

「お疲れさん」

 

「へへ、やっぱ軍用食だけじゃ味気ないっすからね。けどそっちもえらい量っすね」

 

「量は多いけど、こっちはそんなに重くなかったから」

 

 アイビスが買い集めていたのは、主に女性用の日用品である。リストのなかには化粧品・香水などもさりげなく混ぜられていたが、最も共通して皆から求められていたのは生理用品の類だった。重量的には大したことはないが、隊内の女性数からすればダンボールでもかなりの量になる。さすがにこればかりはアラドに手伝ってもらうわけにもいかず、アイビスが一人でこなしていた。

 

「あとはタオルとか洗剤……雑貨類だね。こっちは一緒に行こう。もうひと頑張りいける?」

 

「うっす」

 

 荷台の柵を閉めて固定用バンドを結び、二人は連れ立って運転席の方へ歩きだした。食料もそうだが、量が量だけにコンビニエンスストアやそこいらのスーパーマーケットでは金銭的に効率が悪いので、量販店を目指すのである。雑貨類に対応する総合量販店についてもすでに場所を調べてあった。

 

「アイビスさん、体はもうすっかり平気そうっすね」

 

 助手席に乗り込みシートベルトをつけながら、アラドは思い出したように言った。

 

「うん、嘘みたいに。隊長共々迷惑かけたね」

 

「とんでもないですよ。にしてもマサキさんの方はアイビスさん無しで大丈夫ですかね。今頃捜索される側に回ってたりして」

 

 気楽に笑うアラドに、アイビスはぽりぽりと頬をかいた。アイビス無しであいつは大丈夫か。具体的にいつ頃からかはアイビスも覚えていないが、フリューゲルス小隊が発足されてからしばらくののち、そのようなことをアイビスはよく周りから言われるようになっていた。小隊プレゼンや報告書作成など、隊長業務の大半をマサキがアイビスに任せきりにしている姿が周囲に浸透したためだろう。加えてアイビスが毎日律儀にマサキの道案内役を務めている姿も、ハガネ隊内では日常風景の一つになっていた。

 

 自分の小隊長を揶揄の対象にされればアイビスとしても思うところあるのだが、言い返す材料がいまひとつ不足しがちなのもまた事実であった。

 

「まぁ、きっと上手くやってるよ。もともとどちらかというと一匹狼だったし、別にあたしがいなけりゃってわけでも」

 

「でも相方っていうのは大事ですよ。というより、大事にしておけばよかったと、いなくなって初めて思うもんス」

 

 アラドが一般論として言っているわけではないことアイビスは知っていた。

 

「……そうだね。本当にね」

 

 アラドだけでなく、それはアイビスにとっても実体験に基づくことだった。幸いにもアラドと異なり、アイビスにとっては過去形で済ませられることであったが、それとてほんのすこしの行き違いでどうなっていたか分からない。

 

「アラドも、早く会えるといいね」

 

「いやぁ、俺はそう思ってるんすけど、向こうはどうかなぁ」

 

 アラドは窓の外を見上げながら、そうぼやいた。もしかすれば誰かの面影を探しているのかもしれない。もしも奇跡が働いて、彼が求める人物を見事捕まえることができたとき、きっと彼はその手を二度と離しはしないのだろう。そう思うとアイビスは、以前に名前だけは聞いたことのあるその人物を、すこしばかり羨ましく思った。

 

 対してアイビスの方はというと、彼女の相方は決して彼女を捕まえなどしてくれない。ただ手の平を掲げて立っているだけだ。しかし、それだけで満ち足りていた日々も確かにあった。

 

(しまったな。また考えちゃった)

 

 ここ数日、相方の顔を思い巡らすだけで、アイビスの胸中は不安定に波打った。努めて考えないようにしているが、考えないようにするというのはそれだけでひとつの矛盾であった。

 

 アイビスが抱える悩みとは、本来悩むようなことではなかった。どうしようもないことであり、黙って受け入れるしかないことのはずだった。だというのに、アイビスはなかなかそれが出来ずにいた。そうして煩悶だけがぐずぐずと増大していっている。

 

 戦況が静止しているのは、アイビスにとって一面的には幸運なことであったのかもしれない。このような状態でふたたび小隊を組んだとして、平時通りに役割を果たすことができるかどうか、アイビスは自分でも自分を怪しんでいた。

 

 

   Ⅲ

 

 

 量販店にはほんの二十分ほどのドライブで到着し、アイビスは入り口周辺の駐車スペースにトラックを止めて、早速店へと乗り出した。アラドも続いてトラックから降り、そしてアイビスに気付かれぬようそっと息をついた。本人に全く自覚はないようなので言葉にはしていないが、アイビスの運転は違反擦れ擦れのかなりのスピード感で、カーブや車線変更のたびに押し寄せる結構な慣性に、アラドは身が竦む思いだった。

 

 ともあれ買い物はとくに滞りなく進み、あらかた台車に積んではトラックに運び込み、また店へと戻るを繰り返すこと三回。調達リストの全項目にチェックマークがついたのは、日も暮れてすっかり夕食時になったころのことだった。運転席で斜線だらけのリストを二度三度確かめたアイビスは、ひとつ頷いて赤ペンを懐に仕舞った。

 

 役目はこれで終了であり、これからまたしばらくのドライブとなる。時間が時間であるので、先に夕食を済ませておくべきだろうとアイビスは判断した。この量販店の一階には、幾つかのチェーン店が店舗を出し合うフードコーナーがあった。ファストフードの類もあるのでアラドの胃袋も保たせられるだろうし、なんであれば何かひとつ包んで貰ってもいい。

 

 小隊長の喜ぶ顔と礼の言葉を想像しながら、アイビスは荷台の方へと回った。

 

「全部買い終わったよ。あとどれくらい?」

 

「あとこれだけっす……よっと!」

 

 そういって勢いよく最後の荷物を荷台に載せたアラドだったが、いささか軽率であった。その衝撃のせいで、すぐ近くにある積みの甘かったダンボールの柱がぐらりと傾いてしまったのである。

 

「やば……!」

 

 気づいても、もう遅い。屋根も幌もない軽トラックで固定用のゴムバンドを外していたことも災いし、かくして重さ10キロにもおよぶ野菜入りダンボールの一つが、アイビスの頭上に落下してきた。アイビスは反射的に目をつむり、体を硬直させた。しかしいつまでたっても衝撃はやってこなかった。

 

「ふう、あぶないあぶない」

 

 強張るアイビスの耳元で、そんな声が聞こえた。アラドではない。どこか悪戯げな、若い女性の声。目を開けるとそこにはアイビスとさほど年の変わらない少女がいて、驚くべきことに10キロのダンボールを片手で受け止めていた。

 

「だ、大丈夫すか? いやもう、ほんとすんません」

 

 アラドが慌てて荷台から飛び降りて、女性からダンボールを受け取った。そして惚けているアイビスに対して何度も何度も平謝りし、それを見ているうちにようやくアイビスも我に帰ることができた。

 

 アラドに軽く笑いかけてから、アイビスは改めて恩人の姿を確認した。アイビスも他人のことは言えないが、冬にしてはやや薄手の格好をした人物だった。ファー付きのロングコートを羽織ってはいるものの、その下は真っ白なシャツ一枚で、短い丈のために臍が見えている。下半身はよほどの着古しか、それともファッションなのか、あちこちが破れて素肌を露出させるジーンズだった。

 

(かわいい)

 

 そうアイビスは率直に感じた。あざやかな金髪を肩まで伸ばした結構な器量好しで、道ですれ違えば多くの者が思わず目で追ってしまうだろう。淡い紫の瞳が快活に、愛想よく、それでいてどこか油断なく瞬いていた。

 

「ありがとうございます。本当に助かりました」

 

「いいって、いいって。それよりあんた達、連邦軍の人で合ってる? 彼の服、軍服に見えるけど、随分若いからさぁ」

 

 少女の言う通り、いまアラドが来ているのはハガネ隊から支給された軍服であった。ちなみにアイビスの方はというと私服の上に、いつもの銀色のジャケットを身にまとっている。ラングレーの騒動があるまではプロジェクトTDの制服で通していたものだが、もともとハガネ隊は服装にうるさい風紀ではなく、また公言はできないことだが、プロジェクトTDの制服を実のところアイビスはあまり気に入っていない。暖色系の色合いも、スカートも好みではなく、良い機会であるので今後は私服で通そうとしていた。

 

「はい、一応そうです」

 

「てことはラングレー基地の人?」

 

「はい。あの、あなたは?」

 

「あたしは、その、これ」

 

 どこか言いにくそうにしながら、少女はコートのポケットから小さな徽章を取り出した。曇り方からかなりの年季ものと思われるそれは、奇しくもアイビスとアラド、双方にとって見覚えのありすぎる代物だった。

 

「DCの徽章?」

 

「え、じゃぁお姉さんDC兵っすか?」

 

 二人から驚愕の眼差しで見つめられ、少女は気まずそうに頭をかいた。

 

「そう構えないで欲しいな。気持ちはわかるけど」

 

「DCの人が、どうして?」

 

「水くさいね。ラングレーでは一緒に戦った仲でしょ? まぁ結局こんなことになっちゃったけど、遅ればせながらDCの方でも救援部隊を出すことが決まってさ。あたしもそれに混ざって、これからラングレーに向かうところってわけ」

 

 服装と言動、どちらにおいても全く軍人らしさのない女性だったが、アイビスもアラドも疑いはしなかった。DCから支援が届くという話自体はハガネ隊のモーニングレポートでも触れられていた事柄であるし、なにより駐車場の入り口の方から、こちらはどう見てもDC式の軍服を纏った男性が三人の元へと駆け寄ってきたためだ。その顔が判別できる距離までその男性が近づくと、アイビスの横でアラドが「あ」と声を上げた。

 

「探しましたよ、ご令嬢。好きに動き回られると困るのですが」

 

「いやぁ、ここのパスタはなかなかいけてたよ。あんたたちに囲まれてじゃ、なに食べても美味しくないからね。それよりもほら、ラングレーの人たちと偶然会ったよ。しばらく一緒に働くんだし、挨拶しといたら?」

 

 男の方はしばし不服そうに黙ったが、すぐに諦めたような顔を浮かべてアイビスらに視線を移した。やや気障に髪を伸ばしたそれなりのハンサムで、少女と合わせれば結構な美男美女となるが、不思議とあまりお似合いという感じはしない。

 

「DC所属のユウキ・ジェグナン少尉だ。我が隊は本日ラングレー入りをし、動けないハガネ隊の護衛と、救助活動の支援を担当することになる。よろしく頼む」

 

「あ、ええと、アイビス・ダグラスです。階級は臨時軍曹」

 

「ア、アラド・バランガです。ども、お久しぶりです」

 

「知らん顔だが、どこかで会ったか?」

 

 ユウキのわざとらしいほど酷薄な目つきに、アラドは恐縮しきったように顔を伏せ、頻りに額をぬぐった。そういえばアラドは元DC所属であり、寝返る形でハガネ隊に参加したのだということをアイビスは思い出した。

 

「まぁいい。積もる話は、向こうで落ち着いてからしよう。お前も俺に訊きたいことがあるだろう」

 

「す、すみません。でも、なんだか不思議っす。ユウキさんたちが連邦を助けるなんて」

 

「俺だってそうだ。正直、気は進まん」

 

「まぁまぁ」

 

 手をひらひらさせて取りなしたのは、令嬢と呼ばれた件の少女だった。

 

「異星人を叩き出すまでは、連邦とDCは盟友なんでしょ?なら友軍のピンチを助けるのは当然。むしろ遅れて申し訳ないくらいだよ。あんま堅苦しく考えず、顎でこき使ってやってよ」

 

「……」

 

「はいはい、黙りますよ。そう仏頂面しなさんなって」

 

「もう出発の時間です。大人しくトレーラーに戻って頂けますか、ご令嬢」

 

「やめなって言ってるだろ、それ」

 

 少女はユウキをじろりと睨みつけた後、アイビスらには打って変わって愛想よく片目をつむり、

 

「んじゃ、あたしたちは先に行ってるよ。ラングレーで会おうね」

 

 そうして、ユウキを連れ立って踵を返していった。突然の、あまりに不可思議な出会いに、アイビスとアラドは二人して目を白黒させるばかりだったが、ややあって少女の方が立ち止まり、二人の方を振り返った。金糸の髪が華やかに踊った。

 

「そうそう。名乗ってなかったね。あたしはリューネ。よろしくね」

 

 

   Ⅳ

 

 

 リューネとユウキが言った通り、DCの援軍部隊はその日のうちにラングレー入りをした。人員117名、機動兵器32機、その他重機類や物資も兼ね備えた大所帯であり、当日は準備と挨拶のみに留まり、翌朝から正式稼動を開始した。

 

 もとは不倶戴天の敵同士、DCとハガネ隊の協調を疑問視する声も少なくはなかったが、ひとまず両軍の長同士の挨拶についてはとくに滞りなく済んだ。あるいはそれ目的で選抜されたか、DCの援軍部隊を率いているブリジッダ・アンサルディ中佐は、穏やかな物腰とユーモアセンスに富む女性佐官で、とりわけテツヤ副長やレフィーナ艦長、ショーン副長らの緊張を解くのに大いに手腕を発揮した。アラドを初めとしてハガネ隊には過去にDCと縁を持つ者も少なくないのだが、その点についても特に何かを言う事もなかった。

 

 いずれにせよ、今後彼女率いる部隊は救助活動の支援と、なにより実質戦闘不能状態に陥っているハガネ隊の護衛の任に就くことになる。敵を守る、敵に守られるとあっては、守る側も守られる側も到底平静ではいられまいが、これもひとつの時勢であった。事態を粛々と受け入れるよう、間違っても無用な諍いは起こさぬよう、両軍の長は各々の配下に厳しく言い含めた。

 

 なおそういう状況もあってか、アンサルディ中佐の命により翌朝にDC兵たちが真っ先に取り掛かったのは屋外厨房ならびに食堂スペースの設営だった。二つの集団の緊張関係を解くにあたって、同じ釜の飯を食うに如くはなし。両軍共用の食堂を作り、同じものを食べることで少しでも緊張緩和を促進させようという目論見だった。

 

 いかにも女性ならではのアイディアに、ダイテツ艦長らも反対する理由を持たず、むしろ厨房係の支援として自部隊の司厨員と、ついでにパイロットでありながらしきりに腕を鳴らしているレーツェル・ファインシュメッカーを提供した。そのようにして作られた交流の場は、予想以上に有効的に機能したようである。ハガネ隊、DC軍は無論のことだが、第三軍であるレスキュー部隊、医療関係者らも上手く緩衝材の役割を果たして、各軍各職入り混じった一大団欒会場が出来上がっていた。

 

「アラド、あんた一体全体今まで何してたの! ひとっつも連絡よこさないで!」

 

「ま、待てゼオラ。とりあえず包丁を置けよ」

 

 DCが合流してから早二日。昼食時の屋外食堂ではそんなやや穏やかでないやりとりも含め、あちこちで談笑・喧騒が巻き起こっていた。延々と続く屍体漁りに辟易としていたハガネ隊・救助隊らにしても、DC軍の来訪は良い気持ちの切り替え時になったのだろう。連邦軍服とDC軍服が肩を並べて飯を突く光景も、もはや珍しいものではなくなっている。

 

 そんな食堂スペースの賑わいを他所に、屋外厨房の一角を借りて、アイビスは簡単な手料理を作っていた。あまり料理は得意ではないのだが、サンドイッチやホットドッグ程度なら全く問題ない。それにお茶を添えて、簡単な弁当を作ろうとしていたところで、ちょっとした知人とのささやかな再会を果たすこととなった。

 

「や、また会ったね」

 

「あ、リューネさん」

 

 駐車場以来の邂逅となる。といってもアイビスの方は、リューネのことをこの二日間でもしばしば見かけはしていた。捜索部隊の手伝いに入り、大男でも手こずるような巨大な瓦礫を、笑いながら軽々と持ち上げる姿が印象に残っている。

 

「リューネでいいよ。同い年か、あたしの方が下でしょ? ねぇ、よかったら一緒に食べない? 今のDCって女の子が少なくて、身の置き場がさ。ゼオラもカーラも男にべったりだし、ちょっと前は女だけの部隊とかもあったりしたんだけどねー」

 

「喜んでと言いたいけど、ごめん。あたしこれから下に降りなくちゃいけないんだ」

 

「ありゃま、休憩時間なのに。急ぎの要・救助者がいるの?」

 

「まぁ、そうだね。遭難者の救助ってやつ。早く迎えにいってあげないと。その替わり、よければ今晩一緒にどう? みんなを紹介するよ」

 

「いいね。楽しみにしてる」

 

 二人はそう笑い合って再会を約束し、この場は別れることなった。

 

 アイビスは手早く二人分の弁当をつつみ、お茶を入れた水筒も持って足早に出かけて行った。目指すは陥没地帯の底、瓦礫の谷である。機動兵器やヘリに乗せてもらえれば手っ取り早いが、食事時に頼めることではないので歩きで行くことにしていた。救助隊が何百枚にも及んで設営したタラップを使えば、時間はかかるものの歩きで直接谷底へ降りていけるようになっていた。

 

 幾重にも折り返す鉄製の坂道を下りていくこと、片道15分。ようやく瓦礫の谷に降り立って、アイビスは携帯端末を取り出しGPSナビを作動させた。軍用のもので、メートル単位で対象の信号を探査できる。そうして早速目標物の反応を見つけた。彼なりに一生懸命ここを目指していたようで案外近くにいるが、そこから徐々に逆方向へ移動していることから、やはり来て良かったと見るべきだった。

 

 数分後、これもまた救助隊が設営した歩行路を使って、アイビスは難なく小隊長の下にたどり着いていた。

 

「はい、お迎えに来ましたよーだ」

 

「……」

 

 ばつが悪そうに、マサキは顔をしかめた。

 

「いい加減、単独行動は控えて欲しいですねぇ」

 

「こいつらの声を聞かれるわけにもいかねえだろ」

 

 そうマサキは言い訳をし、その責任転嫁としか言いようのない言葉にクロとシロは揃って抗議の鳴き声を挙げ、総じて全く平常運転な何時ものやりとりに、アイビスは仕方なさげに微笑んだ。

 

 二人はいつものように地上へと続くタラップのところで足を止めた。

 

「今日もここにする?」

 

「おう」

 

 一面見渡す限りの瓦礫の海を眺めながら食事をするのもいかがなものであるが、上で人混みの中あれこれ喧しく言い合いながら取る食事もそれなりに大変である。とりわけマサキなどは、立場上なにかと話題の好餌になりやすい。また少年ほど煙たがりはせずとも、人混みを得意としないのはアイビスも同じだった。

 

 二人は並んでタラップに腰掛け、アイビス手製の弁当を広げた。

 

「そうそう、DCにすごい人がいるよ。あたしと同じくらいの女の子なんだけど、こんな大きな岩も持ち上げちゃうの」

 

「ゴリラみてえだな。いるんだな、そういう漫画みてえなの」

 

「ところがどっこい、てんでそう見えないの。腕も腰も細いというか、豹みたいにしなやかでさ。あたし、最初見たときはダンサーかロック歌手かなんかだと思ったくらいだもん」

 

「ふうん、見てみてえもんだ」

 

 興味2割、義務感8割でそう言いながら、マサキはサンドイッチを咥え込んだ。そしてその状態のままタラップの先を振り返って、何かを探す所作をした。

 

「どうしたの?」

 

「いんや。誰かに見られているような気がしてな」

 

「んん?」

 

 アイビスが振り返っても誰もいない。マサキとて別に確信があったわけでなく、「なんとなくそんな気がした」程度の感覚であったので、気にせず食事に戻った。

 

 そうして、二人でサンドイッチをパクつく時間が続く。

 

「夜はちゃんと上に行こうね。買ってきた食材で、レーツェルさんが腕を振るってくれるってさ」

 

「そりゃいいな。米はあるか?」

 

「贅沢言っちゃ駄目だよ。レーツェルさん洋食派なんだから。あたしが今度ライスボール作ってあげる」

 

「マジでか、梅干し入りで頼むぜ。いや好き嫌いはねえけど、握り飯といったら俺は断然梅干しだな」

 

「ウメボシ……あぁ、ピクルド・ウメか。どっかにあるかなぁ」

 

 他愛のないやりとりであった。あまりに平穏で当たり障りのない、毒に薬にもならない、平らかな会話。しかしアイビスはこれで良いような気がしていた。

 

 彼女のなかには一つの煩悶の渦があって、その渦が彼女をも苦しめている。実のところ、こうしている今でさえもだ。それでも、この穏やかな時間を失ってしまうことに比べれば、どうってことのないように思えるのだ。有り体にいえばアイビスは変化を恐れていた。

 

 避けえない別れがいつかやって来る。避けえないのならば受け入れるしかない。ならばせめてそのときまでは、激しい喜びはなくとも、深い悲しみもない、寄り添い合う花のように和やかな関係性を続けられればいい。

 

 アイビスは本当に、それだけで良いように思えた。

 

 

 それでも、変化の兆しは否応無しにやってくる。それもまた、こつんこつんとタラップを叩く静かな足音ともにやってきた。マサキが振り返る。アイビスもまた。今度こそ、そこにはゆっくりと歩み寄ってくる新たな来訪者の姿があった。

 

 そうして彼女はアイビスたちの元へ、あるいはそのうちのただ一人の元へ、まるでそれが不可侵の宿命であるかのように、何気なくやってきた。

 

 

   Ⅴ

 

 

「フリューゲルス小隊っていうのはあんた達?」

 

 そう声がかかった。ダンサーみたいと先ほどアイビス自身が評じたそのしなやかな肢体と淡いアメジストの瞳に、なんとなくアイビスは気圧されるものを感じた。

 

 いや、先ほどの厨房でも、あるいは初めて出会った時もそうであったかもしれない。なんとなく彼女の笑顔を前にすると、アイビスは思わず半歩下がってしまうような、そんな感覚を覚えるのだ。

 

「ハガネの艦長がお呼びだよ。今の所、動ける艦載機はあんた達だけなんだってね。何かあったときは連携しなきゃいけないし、今のうちにきちんと顔合わせをしとけってさ」

 

 リューネは、今度はアイビスの方を見た。さきほどまでずっと、彼女はパンを口にくわえたままのマサキの方をじっと見つめていた。

 

「アイビスもハガネ隊のパイロットだったんだね。驚いちゃった」

 

「言ってなかった? まぁ、臨時の雇われなんだけど」

 

「あは。じゃぁ、あたしと同じだ」

 

「リューネもパイロット?」

 

「うん、まぁ。改めて宜しくね」

 

 そしてリューネは、まるでそちらが本来の目的であるかのようにマサキの方へ視線を戻した。

 

「で、そっちがマサキ・アンドー? ハガネ隊の裏撃墜王の」

 

「撃墜王かどうかは知らねえが、マサキってのは俺だ」

 

 さすがに座ったまま初対面の挨拶もない。食べ終わった弁当を包み直して、マサキはゆったりと立ち上がった。アイビスの胸に、かすかに不安のそよ風が吹く。マサキが撃墜王であることは、そのまま人一倍多くのDC兵を葬ってきたことを意味する。

 

「そう、あたしはリューネ。宜しく」

 

「DCだっつうんなら、ひょっとしてどこかで会ってるか?」

 

「ううん、これが初めて。でも会うのは楽しみにしてた」

 

 二人は型通りに握手を交わした。その手にも、またリューネの表情からも剣呑なものは伺えない。しかし何故だろう。アイビスの胸中のざわつきは鳴り止まなかった。アイビスの中の何かが言っている。あるいは世を見渡す何者かがアイビスに囁いている。出会ってはならない二人が出会ってしまったのだと訴えかけている。

 

 そんなアイビスの、彼女自身正体が掴めない動揺はつゆ知らずに、リューネは早々に手を戻して、二人に道を開けるように壁際へと下がった。

 

 それだけの所作であったが、マサキはなんとなく彼女の動きから武芸の匂いを感じ取った。第二の故郷で散々目にしてきた達人の立ち振る舞いと同じ感触があった。

 

「早めに上に戻ったら? みんな待ってるからさ」

 

「そうだな。行くか」

 

 言われてアイビスも立ち上がり、アイビスとマサキは連れ立って歩き出した。立ち退いたリューネの前をマサキが通り過ぎ、そしてアイビスも続こうとする。ふと何気なく、本当になんの怪しさもなく、マサキの肩がリューネの前を過ぎった瞬間に、彼女の両手がコートのポケットにそっと仕舞われた。アイビスはちらりと少女の方を伺い、そしてそのまま通り過ぎた。瞳を隠す前髪と、微笑みの形のまま張り付いたように動かない口元が、なんとなく印象に残った。

 

 数十メートルの崖を下るため、タラップの坂道は何度も折り返すようになっている。その一つで向きを変え、アイビスは自然とリューネの姿を眼下に探した。リューネはさっきの場所から動いていなかった。表情の方は窺い知れない。ただぼんやりと空を見上げているように見える。買い出しの車中でアラドが見せたように、まるで誰かの面影を、空に探すように。

 

 

 

 

 



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第十九章:リューネという少女

 

 

   Ⅰ

 

 

 その日、その時、その場所で、一つの決戦が行われた。新西暦187年2月3日。南太平洋マーケサズ諸島はアイドネウス島。世間で最初にその地名が知れ渡ったのはメテオ3が落下したときのことだが、今日ではむしろDC発祥の地、そしてDC初代総帥ビアン・ゾルダーク落命の地としての方が有名となっている。

 

 同日、深夜0215時。地球連邦軍の精鋭部隊、通称ハガネ隊が同空域へ侵入。機動兵器部隊を展開し、DC軍の防衛部隊に対して夜襲を開始した。待ち構えていたDC軍もまた応戦。アイドネウス島本部から精鋭部隊も出陣し、ハガネの接近を押しとどめようとする。奇襲の甲斐なく正面衝突となった両軍だが、ハガネ隊にとっては順調に、DC軍にとっては遺憾なことに、戦いは空中戦、海上戦、そして本土決戦へと順繰りに場所を移していき、そしてついにハガネ擁する機動兵器部隊の先鋒がDC軍の守りを食い破り、DC軍最後の砦である地下基地内部へと雪崩れ込んだ。

 

 同日、深夜0430時頃。基地内部に侵入したハガネ隊を迎え撃つべく、DCAMー001 アーマード・モジュール ヴァルシオンが出撃した。ディバイン・クルセイダーズ製最初期のAMにして、フラッグ・マシン。今となっては後の最新鋭機たちに一歩譲る部分もあるが、それでも一つの戦争、一つの時代において、紛れもなく「究極」の二文字を体現した機体である。

 

 アイドネウス島地下要塞、最下層。本陣の中の本陣にまで見事切り込んだハガネ隊の猛者たちだが、彼らをして、この機体と渡り合うことは困難を極めた。当時ハガネ隊の中核をなしていたのは、まだ結成されたばかりのSRXチームと、地球連邦軍最新型特機のグルンガストである。現在では地球圏最強とすら謳われるほどの戦闘力を持つSRXチームであるが、この頃はまだチームとしての練度も水準に達しておらず、また彼ら最大の切り札である合体機構も完成していなかった。無論PTとしては傑出した性能を誇っていたものの、いかんせん決定的な火力不足により、ヴァルシオンが繰り広げる空間歪曲フィールドの前に終始敵し得なかったのである。

 

 となれば頼みの綱はグルンガストとということになる。グルンガストは、ヴァルシオンに比べれば開発時期としては後発にあたり、実際、性能面では決してヴァルシオンに見劣りすることはなかった。むしろ三段変形による運用の多彩さ、そして人型時における格闘能力の面では大きく上回っているとすら言えただろう。最大の兵装たる計都羅喉剣も、威力だけを見ればヴァルシオンを打倒しうること十二分である。

 

 しかしこの時ばかりは状況が彼に味方しなかった。第一に、グルンガストは計都羅喉剣をこのときすでに失っていた。最下層にたどり着くまでの戦闘で破壊されていたためである。

 

 第二に、そもそもグルンガストはヴァルシオンに近づくことすらできなかった。地下要塞最下層は、機動兵器の展開にも不自由しないほどの広さが確保されていたとはいえ、それでも閉所には違いない。加えてヴァルシオンが陣取っていたのは、そのフロア内の最奥、長大な通路の奥深くである。

 

 迂闊に通ろうとする者には、当然容赦無く最大火力の斉射が襲いかかる。通路の長さは、せいぜい二百メートルといったところだが、戦艦の主砲クラスの弾幕を掻い潜りながらとあっては、それは無限にも等しい距離であった。同じく火砲で対抗しようにも、ヴァルシオンの展開する歪曲フィールドはPTはおろか特機クラスの火力ですら容易に弾いてしまう。必殺の長距離砲と不動の盾をもってする、待ち伏せの構え。陸海空にあまねく適応し、現代においてもなお名機として名を轟かせるグルンガストであるが、シンプルながら極めて合理的なヴァルシオンの戦法の前に、容易に勝機を見出すことはできなかった。

 

 さらに付け加えるなら時間稼ぎによる援軍待ち、またはヴァルシオンのエネルギー欠乏を誘うことも不可能であった。いまこうしているときも、地上ではハガネと主力を欠いた機動兵器部隊が、敵の残存戦力を相手に抵抗を続けている。地上部隊が持ちこたえられるだけのわずかな猶予、その間になんとしても、SRXチームを始めとする地下突入部隊は敵総大将の首級を挙げなくてはならなかった。DC戦争の最終盤、現代戦史に燦然と輝く通称アイドネウス島攻防戦において、勝者側であるはずのハガネ隊はそんな袋小路のような戦況に陥っていた。

 

 

 

 この状況を打開する切っ掛けは、地下要塞の別階層から訪れることになる。SRXチームたちが絶望的な戦いを繰り広げている最下層から、二つ階を昇った地下二層目。そこで延々と終わりなき一騎打ちを繰り広げる一組の機動兵器があった。

 

 一方は鳥と騎士が合わさったような銀色の機体だった。力強い五体。白と銀の鎧。三層一対の翼。猛禽の爪。翠緑の噴射炎。一振りの銀剣を構え、縦横無尽に太刀風を走らせる。地球連邦軍の識別名によればAGX-05 アンノウン。搭乗者が名乗るには風の魔装機神サイバスター。

 

 もう一方は魔人のごとき群青色の機体だった。やはり力強い五体。黒と藍色の装い。翼は持たないが、それは持つ必要が無いためである。重力と慣性を理論と方程式で掌握する彼にとって、翼など無用の長物でしかない。銀騎士に習い、こちらも一応は一振りの大太刀を携えているものの、ヴァルシオン同様、彼の本領が一撃必殺の砲戦能力にあることは余人に知れ渡る。ディバイン・クルセイダーズにおけるもうひとつの傑作機。DCAM-000 アーマード・モジュール グランゾン。

 

 ヴァルシオンが出陣するより遡ることおよそ20分。地上搬入口より侵入し、そのまま最下層までを一直線に目指していたハガネ隊の前に、グランゾンは地下二層目にて突如姿を現した。その目的の最たるはハガネ隊全軍をその圧倒的火力にて一網打尽にすることだったが、さしものグランゾンも当代最精鋭たるハガネ隊相手にそこまでの戦果は成しえなかった。出会い頭の一手で損傷こそ与えたものの、二手目を放つことは妨害にあって叶わず、その隙にハガネ隊全機は無事に彼の領域を潜り抜けて行ってしまった。

 

 まんまと獲物を取り逃がしたグランゾンであったが、目的の達成具合としてはさほど悪くもなかった。ハガネ隊がヴァルシオンを打倒しうる手札は決して多くは無い。それさえそぎ落とせば、あとは手間と時間の問題があるだけでDC側の勝利は揺るが無い。グランゾンの放った空間破砕砲の一斉掃射は、全機の急所をこそ逃したものの、グルンガストの最大兵装を粉砕することに成功していた。そしてグルンガストの他にもう一機、見過ごすことのできない機体が存在したが、その機体に限って言えばグランゾンの方から何一つ働きかける必要はなかった。ハガネ隊の中でただ一機、抜き差しならぬ因縁を持つ魔装機神サイバスターは、その因縁に決着をつけるべく自らグランゾンの下に残った。グランゾンの出現をいの一番に察知し、必殺の二撃目を防いだのも彼であった。

 

 まったくもって好都合。そんな声が聞こえてきそうなほど、グランゾンはこれ見よがしなくらい大仰に、大太刀を抜きはなって見せた。

 

 

 

 かくして一騎打ちは始まり、そして延々と終わらなかった。それも当然、むしろ終わらせないことこそがグランゾンの画策するところであった。

 

 果てしない剣戟の疲労と、通信回線から伝わる仲間たちの苦境は、動揺となり焦りとなり、サイバスターの挙動に如実に現れていた。倒さなければ、一秒でも早く。サイバスターはただその一念で剣を振るうも、そんな妄執をせせら笑うかのように、グランゾンの機動はどこまでも涼し気で、冷徹だった。

 

 この期に及んで、グランゾンではなくヴァルシオンの打倒をこそ優先する思考を、サイバスターの操者は持たないらしい。さもありなん、とグランゾンの操縦者は嗤う。彼ならばそうだ。このグランゾンを前にしながら、サイバスターが背を向けるなど、天地がひっくり返っても起こり得ない。それだけ多くのものを、彼から奪ってきたという自覚があった。

 

 飛来する熱素の礫。歪曲場で弾き散らす。

 

 飛び交う使い魔。空間破砕砲で撃ち落とす。

 

 迫り来る銀剣。大太刀にて迎え打つ。

 

 駆け抜ける破戒の巨鳥。極小のマイクロブラックホールにて相殺する。

 

 ありとあらゆる武装を跳ね返しながらも、グランゾンの動きには一抹の油断も見られなかった。サイバスターがこの他にあとひとつ、たった一発きりの、最強最後の魔術を残していることを知るためである。万が一にも直撃を受ければグランゾンとて大破は免れないが、しかし切札を残すのはグランゾンもまた同じであった。サイバスターがなりふり構わずに決着を求めるのであれば、いっそ応じるまで。そのときこそサイバスターはこの世最大の恐怖、神そのものの偉力を知ることになる。

 

 サイバスターが距離を取り、剣を構えなおした。途端に収束する魔力の波動。魔力最大、プラーナ最大。よもや来るかと、グランゾンもまた身構える。言霊を唱え、以って転神を為し、応現せしめれば、サイバスター最大の一撃とて恐るるに足らない。

 

 しかしそんなグランゾンの予測を裏切って、現れた六芒はたった一つであった。だとすれば件の一撃のプロセスではない。紛れもなくそれは、破戒の鳳を召喚するための魔方陣。それとて警戒に価する魔術には違いないが、グランゾンにしてみれば防げない技では決してない。

 

 本来は敵に打ち出す破戒の鳥をその身に纏い、サイバスターは蒼白い超音速の弾丸と化した。それ自体が破戒魔術の塊となったサイバスターは、あろうことかグランゾンには目もくれず直下へと急降下、鋼鉄製の床を難なくぶち抜いて、下層へと姿を消していった。

 

 勝負を捨てた。仇敵よりも、大局を取った。

 

 少なくない驚きとともに、グランゾンの搭乗者がその事実を認めたとき、それは同時に、彼がDC壊滅の未来を確信したときでもあった。

 

 

 

 突然の状況変化に驚愕したのは、ヴァルシオンとサイバスター双方ともであった。前者にとっては突如天井を食い破って出現したサイバスターがそれに値し、後者にとっては考えなしの向こう見ずに床をぶち抜いた途端、充填完了した最大火器を悠然と構えるヴァルシオンの真正面に躍り出てしまったことがそうであった。

 

 タイムラグはそれこそコンマの領域。ほぼ脊椎反射にて打ち出された蒼紅の二重螺旋。のちにおいてはシルベルヴィントのボルテック・シューターに勝るとも劣らぬ火砲の一閃に、サイバスターは倒れこむような勢いで身をひねった。躱しきれず、蒼紅の渦に左腕が丸ごと粉砕される。しかし悪い取引ではなかった。左腕を犠牲に第一射を躱すことで第二射までの猶予を得ることができた。それが何秒であるのかはサイバスターの知るところではないが、彼我の距離を鑑みれば、たとえ何秒であろうと最早関係ない。

 

 サイバスターはそのまま翼を咆哮させた。敵の数、味方機の位置、自機の被害状況、どれをもろくに把握せぬまま、ただ直感に頼って突撃した。まさしく疾風の如き速度をもって、一瞬の内に距離を詰めて見せたサイバスターは、その勢いのままに右手の銀剣を突き出した。空間歪曲場も決して無敵ではない。かつて異世界において剣皇の異名をとった一人の剣豪が、サイバスターより数段劣る機体を駆って、見事あのグランゾンに一矢報いてみせた。ならばサイバスターに出来ないはずがない。それを証明するかのように、咄嗟ながら渾身の魔力が篭ったサイバスターの剣はヴァルシオンの防御壁を打ち破りながら深々とその装甲に突き刺さった。

 

 しかしヴァルシオンとて、ただの一撃で葬られるほど脆弱な機体ではない。突き刺さった刃をものともせず、肉薄するサイバスターの胴体を、続く第二撃で根こそぎ吹き飛ばそうとする。

 

 しかしそれを許さぬ者がいた。敵の目を引きながら突撃したサイバスターにすかさず追従し、すでに至近距離まで迫っていたグルンガスト。武器はない。しかし特機のパワーであれば五体それ自体が凶器。剛腕が大気を抉るように繰り出され、まともに体勢を崩すサイバスターの左脇腹に猛烈な勢いで叩き込まれた。背後からの容赦ないレバーブローに、たまらずサイバスターが崩れ落ちる。それと同時に火を噴く二重螺旋。放たれたエネルギーの渦は、サイバスターの装甲薄皮一枚を掠めることなく、グルンガストの胸板をまともに貫いて行った。

 

 床に崩れ落ちたサイバスターは、依然として状況をろくに掴めぬまま、再度右手に魔力を収束させ始めた。なにがなんだか分からないが、とにかく敵がすぐそこにいる。ならば一撃を。とにかく一撃を。

 

 ヴァルシオンが大剣を抜いた。砲戦主体のヴァルシオンとて格闘戦の心得が無いわけではない。むしろ刀剣の性能そのものは、並の特機を容易に凌駕する。右手にパワーを集めるあまりに結界装甲を弱まらせ、さらには無防備な背後をさらすサイバスターであれば、一太刀で息の根を止めることも容易であった。

 

 再度、それを防ぐ者たちがいた。グルンガストのさらに後を追い、すでに防御壁が消え失せているヴァルシオンと、跪くサイバスターの間に躍り出た白青赤の兄弟機。のちの地球圏最強。未完なる大器の三連星。その拳が、銃が、自律兵器が、ヴァルシオンの剥き出しの装甲と間接部へ次々に叩きつけられる。

 

 ひび割れるヴァルシオン。

 

 立ち上がるサイバスター。

 

 脱落する右脚部。

 

 突き出される右腕。

 

 取り落とされた大剣。

 

 描かれる六芒。

 

 そして満を持して、

 

 

 

 今ここに、ひとつの戦史を終わらせる、最後の一撃が放たれた。

 

 

 

 あとの結果はすでに歴史の知るところである。新西暦187年2月3日、0510時頃。朝日とともに巨星は墜ちて、芽生えたばかりの若葉が新たな大樹となった。

 

 アイドネウス攻防戦の一部始終を記録したデータは複数存在する。その戦場に出撃したあらゆる機体のレコーダーが全てを如実に物語る。しかし連邦軍はいまだその記録の公開を許可していなかった。理由は様々であるが、DC戦争終結からまだ間もないなか、軍に属さぬ異邦人の手を借りて戦争に勝ったという事実の公開を厭ったという面もある。いずれにせよ、アイドネウス攻防戦の一切の記録は、いまだ連邦軍作戦司令本部の機密資料棚にて、厳重に封をされたままだった。

 

 しかしながら如何な連邦軍とはいえ、敵軍側のデータまで網羅的に拘束することはできない。事実、アイドネウス攻防戦において連邦軍に拿捕されることなく戦場から離脱を果たした一つのDC機があり、当然その機体には攻防戦についてのあらゆるデータが保持されていた。どの機体がヴァルシオンを打ち破ったのか、だれがビアン・ゾルダーク総帥をこの世から葬ったのか、全てを克明に刻むその記録はやがて宇宙を渡り、父の訃報を知って急ぎ地球への帰還を果たそうとしていたビアン総帥の遺児へと届けられることになる。届け主の思惑は不明であるが、彼が心から信奉する存在が求めるのは世の混乱とそれによる悪しきプラーナの増大であったため、これもまたその供物の一つであったと見ることも出来るのかもしれない。

 

 いずれにせよ、ひとつの復讐劇の幕はそうして開かれたのである、

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 シルベルヴィントを撃退してから今日に至るまでの約一週間、ハガネ隊はひたすら死傷者の救助活動に勤しんできたが、救助対象には当然ながら僚艦であるヒリュウ改の乗組員たちも含まれていた。レスキュー隊の力を借りて乗組員の救助だけは先行で完了していたが、肝心の艦そのもの自体はいまだ瓦礫の砂漠に埋もれたままでいる。当然、引き揚げ作業にかかりたいところだったが、こればかりはハガネ隊、レスキュー隊、そして連邦軍の工作部隊が雁首揃えたとしても手に余る状況だった。こういった状況を想定した重機など存在せず、エキスパートも存在しない。形だけなら陸に捕まったクジラの引き揚げ作業に近いかもしれないが、ここでは水の浮力の助けもない。

 

「重機と機動兵器で、一隻の戦艦を持ち上げるなんてナンセンスです。一端、艦を起こすことから始めましょう。その後、整備班が中に入って、ヒリュウの推進部をできる限り修理します。うまくいけば、ヒリュウは自力でここから脱することができる」

 

 そう提案したのはハガネ隊の整備班班長であり、幾つかの討議を挟んだ上で採用されることとなった。他にやりようと言えば、それこそヒリュウをバラバラに分解してしまうくらいしかない。

 

 瓦礫の砂中に横倒しとなっているヒリュウを、ひとまず正位置にまで戻す。そのように方針は定められたものの、それとて容易い作業ではない。少なくとも、ハガネ隊の機動兵器部隊のみではまず不可能と目されていたが、このたび、ハガネ隊は思ってもいなかった援軍を得ていた。

 

 

 

 まずロープの先端を適当な長さのところで折り返す。二重となった先端部で輪を作り、さらにもう一つ輪を作ることで8の字とし、ロープの端を最初の輪の中に通す。そして緩みを締める。いわゆる二重8の字結びの完成である。その強固さから命綱などによく用いられる結び方であり、一般人の間ではともかく、歴戦のレスキュー隊員などが大勢ひしめくこの場においては、さして珍しい技法ではない。

 

 しかし全長約30メートルにも及ぶ人型機動兵器が、直径12センチもの極太ワイヤロープを用いてそれを行うところを見るのは、おそらく誰にとっても生まれて初めてであったにちがいない。

 

「これまでも、色々なキワモノ機体を見てきたが、こいつは飛びっきりだな」

 

「ええ、負けました。本気で恐れ入りました」

 

 そのように言い合いながらカイ・キタムラとイルムガルドが見上げるのは、DCの救援部隊より出撃した、一際異彩を放つ全長およそ25メートルの機動兵器だった。白を主体色とした装甲。背中から伸びるウィングと、そして同じく翼のように左右へ伸びるショルダーガード。腰の後ろにマウントされた重厚なライフル。やや細身に過ぎるが、それでも首から下は通常規格の機動兵器と見て差し支えない。しかしその頭部ときたら、地上の機動兵器体系のみならず、異星人やラ・ギアスのそれと比較してすらあまりにも異質だった。

 

 女である。女にしか見えない。

 

 いったい如何なる材質で、そして如何なる趣向なのか、どうみても人間の女にしか見えない顔が、頭部としてその鋼鉄の体の上に生えているのである。腰まで伸ばされた鮮やかな赤毛。きめ細かな肌色の皮膚。すっきりとした鼻梁。うすい桜に色めく唇。瞳は淡く優しげな緑でありながら、どこか勝気に瞬いており、そんなはずはないと分かっていながらも、「彼女」自身のはっきりとした意志を感じさせる。

 

 マネキン、蝋人形、石膏像など、人間の姿に擬するものは数あるが、それらとは明らかに次元を異にする人間性を、その機体の顔は獲得していた。掛け値なしに、これは機動兵器ではなく、鎧を纏った巨人であると説明された方が幾万倍も見る者の納得を得られるだろう。

 

「悪趣味もここまでくれば芸術だな」

 

「リュウセイなんぞはすっかり逆上せ上がってましたよ」

 

「節操のないやつだ。それにしてもあの精密さはなんだ。うちの機体で、誰があれを真似できる」

 

 カイがしきりに感嘆する通り、人間じみた姿を持つその機動兵器は、人間じみた精密さをもまた兼ねそなえており、登山家けだしのロープワーク技術をもってして、つぎつぎと特殊ワイアロープをヒリュウ改の外部装甲にくくり付けていった。並みの機動兵器に行える作業ではなく、現にこの機体のことを知るまで、カイらは同様の作業を機動兵器のサポートをつけつつ人力で行う腹積りでいた。手持ち火器の引き金を引く程度ならともかく、ロープワークをこなしてしまうほどの器用さなど、本来機動兵器には求められないものだ。

 

 しかし間違いなく言えることとして、横倒しになるヒリュウ改の各所にロープを仕掛けて回るという、単純ながら人の手でやろうとすれば多大な労力を要したであろう作業が、この機体のおかげでわずか二時間で完了したのである。

 

 さながら蜘蛛の巣にかかった龍といったところだろうか。艦の各所からワイアロープが張り巡らされ、そのうちの一つを掴んで女巨人が上空へと飛び立った。無論、一機で起こせるような重量ではなく、出番が来るまで待機していたハガネ隊、DC隊の機体もつぎつぎと自らのロープを掴み、同様に離陸していった。

 

 音頭は、ここまでで一番の働き者が取ることとなった。

 

「3、2、1、GO!」

 

 総勢50機にも及ぶ機動兵器たちが、一斉にスラスターを吹かせる。立ち上る幾十もの箒星。人工の彗星群。壮観とすら言える光景であったが、しかしヒリュウ改の艦体はビクともしない。

 

「もういっちょ。3、2、1、GO!」

 

 再度、リューネからの掛け声がかかる。尾をひく光熱。ギリギリまで張り詰めるワイヤー群。しかしヒリュウ改はまだ動かない。

 

「リューネ嬢、もうすこし高度を下げてくれ。そう、そこでいい。他の機体も彼女の高度を合わせるんだ」

 

「準備OK それじゃ、3、2、1、GO!」

 

 今度は手応えがあった。片翼を瓦礫の山より引っこ抜きつつ、ヒリュウ改の巨大な質量が徐々に引き起こされていく。

 

「いけそうです。一気にやりますか」

 

「焦っちゃだめ。慎重にやっていくよ。3、2、1、GO!」

 

 そうやって息を合わせること数十度目にして、ついにヒリュウ改が正しい天地を半ばまで取り戻した。ここから作業は引き上げから、引き降ろしに移る。機動兵器群でヒリュウ改の重量を懸命に支えながら、慎重に地面に下ろすのである。宇宙空間での運用を想定されているヒリュウ改の船底は平面状をしておらず、直接着底させることができないため、今回は瓦礫に穴を掘ることで対応している。加えて本引き上げに備えて特製の巨大ネットも敷かれていた。

 

 引き降ろし作業は、引き上げ作業以上に微細な力加減が求められる。連邦軍とDCの混成部隊であるが故の連携不足も災いし、作業は非常に難航したが、結果として日も暮れ始める頃にようやくヒリュウ改は重力に対して正位置を取り戻すことができたのである。

 

「は、疲れた」

 

 そんな声と共に、一仕事を終えた女巨人が額の汗を拭う仕草をする。ふんわりと舞う前髪、汗にきらめく肌、甘やかな息遣い。いくら人体を模しているとは言え、さすがに汗や息まで再現しているはずもないが、しかしそんなものが見えたような気がして、ある者はげんなりとし、ある者は謎の感動を覚え、さらに極少数のある者は小さく胸を高鳴らせるのだった。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 闇に染まった広い草原を焚き火だけが照らす。今宵の屋外食堂はそんなちょっとした幻想的なムードのなか開かれていた。ヒリュウ改の立て直しが叶ったことを記念して、ちょっとした慰労パーティを開くことが有志の者らによって企画されたのである。といってもさすがに被災地周辺で執り行うことは避けられ、わざわざトラックで数キロ離れた原っぱにまで機材を運びこみ、設営し直したのである。

 

 酒も食事もささやかなものであったが、これまでのストレスのためか、宴会は非常に盛り上がった。中には楽器を鳴らし始める者もいて、それに乗って歌い出す者たちまで現れた。屍体と瓦礫に挑み続けるの日々のなか、誰もが当たり前の娯楽に飢えていた。

 

「さぁさぁ! 次の挑戦者はいないの? まさかまさか、このまま連邦軍に勝ちを譲るわけじゃないだろうね。DCの名が泣くってもんじゃない」

 

 そう威勢良く煽り立てるのは、近頃何かと噂の的となるリューネ嬢であった。余興として開催された腕相撲大会にレフェリー役を買って出たはいいものの、すっかり胴元に成りきってしまっている。彼女の見目麗しさと気持ちの良い気性も、よく人々の話題にのぼる要因の一つだが、最たるものは他所から見て、DCにおける彼女の立場が全くの謎に包まれていることだろう。佐官どころか軍人にすら到底見えない風体でありながら、ユウキ・ジェグナン少尉を始めとして誰もが彼女に一定の敬意を払う。そして彼女自身はブリジッダ中佐にすらまるで友人のように気さくに話しかけ、しかもそれを咎められない。とどめにあのあまりにも異端な外見と異様な性能を併せ持つ謎の機動兵器だ。DC兵以外の者たちはしきりに好奇心を掻き立てられたが、こればかりはどのDC兵も判で押したように口を閉ざした。アラド・バランガが個人的に親交を持つゼオラ・シュバイルァーなどに尋ねても同じ結果であった。

 

「よくわからないが、隠しておきたい割りには、目立たせすぎじゃないか?」

 

「もっともだ。俺たちも困っている」

 

 リューネたちからすこし離れたテーブルでそう言い合うのは、ブルックリン・ラックフィールドとユウキ・ジェグナンである。戦場で幾度ととなく対峙してきた因縁の組み合わせであったが、一応はそれも面識の一つには違いなく、加えて歳も近い。ブリッドの誠実さとユウキの斜に構えた態度がなんとはなしに噛み合うこともあり、あまり顔を合わせたくはないが、合わせてしまえばそれなりに話が弾んでしまう不思議な関係性を築いていた。

 

「ええい、大の男が雁首そろえてだんまりりたぁ、どういう了見よ。あんたらそれでもDC兵なの!」

 

「そりゃないですぜ、お嬢」

 

「こら! 誰がお嬢だ。全くだらしのない。こうなったらあたしが一肌脱ごうかね!」

 

 言って本当にコートを脱いだものだから、薄手の服装としなやかな肢体が露わになり、酔っ払いたちが一斉に歓声をあげた。

 

「さぁ来い!」

 

 そういってリューネは場の中央に置かれた机に、威勢良く片肘をついた。真向かいに立つのは、腕力だけならばパイロット連中も凌ぐと噂される筋トレマニアのハガネ隊整備士である。大型類人猿じみた体格で、つなぎがやけに窮屈そうであるり、そしてそれは見せかけだけに終わることなく、DCの腕力自慢をすでに5人も打破している。

 

「へへへ。よーし、おじさん手加減しちゃうぞー」

 

「なめんじゃないよ。ほら、はやく構えな」

 

 前かがみになったリューネの胸元から覗く、いかにも触覚をくすぐる光景に、暫定チャンピオンの男は露骨に鼻の下を伸ばした。酔っ払って、なおかつ五連勝もした直後とあれば、すこしばかり気が大きくなっても仕方あるまい。しかし天の神は見逃さず、果たして整備士の腕は盛大にテーブルへと叩きつけられ、その勢いで体が半回転までする羽目となった。諸手を上げてガッツポーズをしたリューネに、またもや盛大な歓声が上がり、拍手の嵐が巻き起こった。

 

「ほう、やるもんだ」

 

「ね、ね、言ったでしょ? 本当にすごいや」

 

 ブリッドらとはまた別のテーブルで、目を輝かせながら盛大に手を叩くアイビスに、マサキは仕方なさげに嘆息した。

 

「うちのおっさんに言ったんだよ。ただの筋トレマニアかと思いきや、案外演技派じゃねーか」

 

「あ、まさかやらせだって思ってる?」

 

「決まってんだろ。なぁ?」

 

 同じテーブルについていたリョウトに話を振る。マサキ同様にリューネの怪力を知らないリョウトは、判断に迷っているのか困ったように笑うばかりだった。

 

「なんと大番狂わせ! 今宵のチャンピオンは今のところこのあたし、謎の美少女リューネちゃんだ!」

 

 リューネの高らかな勝利宣言にマサキは肩をすくめ、アイビスはますます目を輝かせた。

 

「はん、自分で言ってりゃ世話ねえぜ」

 

「いいなぁ。格好いいや」

 

「さぁ連邦の次なる挑戦者は誰かな? おやおや、手が挙がらないぞ? まさかまさか天下のハガネ隊が、こんないたいけな女の子に恐れをなしたりはしないよね?」

 

「言うじゃねえか。どれ、ちょいと教育してやるかな」

 

 安い挑発にあっさり乗ってしまったマサキを、慌ててアイビスが止めにかかる。

 

「や、やめたほうがいいって」

 

「心配すんな。怪我させたりはしねーよ」

 

「いやそうじゃなくて」

 

「ようし、行って来いマサキ! お前こそ真の男だ」

 

 覆いかぶせるように囃し立てるのはタスクであり、言うまでもなく目端のきく彼はリューネの実力をよく知る側の人間である。

 

「おやっさんの仇を討てるのはお前だけだ。頼むぜ、ハガネ隊の名誉がお前にかかってんだからな」

 

「へ、よせやい。んなもん知ったこっちゃねーぜ」

 

 タスクの露骨な世辞に、しかしながら満更でもないこと火を見るよりも明らかな様子で、マサキは余裕綽々にステージへと歩いていった。その次なる挑戦者の姿を認めて、リューネは少しのあいだ表情を停止させ、すぐに不敵に笑みをうかべた。

 

「へぇ、面白い。相手に不足はないね」

 

「抜かせ。まぐれ勝ちのまま勝ち逃げされたらかなわねえからな」

 

 リューネの力を誤認しているが故の台詞であるが、それはそれで大人気ないことこの上ないマサキであった。両者は向かい合って肘をつき、力強く互いの手を握った。なんとなくそれに面白くない顔をしている誰かの視線に一切気づくことなく、マサキはその予想外に固い感触に、やや面食らった。

 

「制限時間は30秒。レディーゴー!」

 

 レフェリーの声を合図に、二人は一斉にぐん、と腕力を振り絞った。力は拮抗しあい、握り合われた二人の手のひらは中心線の上でぶるぶると震えた。

 

(まじかよ)

 

 マサキは驚愕し、同時に先の試合がやらせなどではなかったことをようやくに理解した。さも互角であるかのように手のひらは中心線の直上から動かないが、マサキはまるで岩の塊に挑んでいるかのような感触におののくばかりだった。

 

 思わず相手の顔を見やると、リューネはじっとマサキの目を見つめていた。その澄んだ面ざしからは、愛憎も喜怒哀楽も読み取れない。それでもマサキは彼女の表情から鬼気迫るものを感じた。彼女の瞳の、その深い深い紫水の色がマサキの胸を射抜いてやまない。彼女の目は、それこそ刃のようにあまりにもまっすぐだった。

 

「タイムアーップ!」

 

 レフェリーの掛け声がかかる。決着は引き分けとなったが、拍手は全くといってよいほど惜しまれなかった。リューネのことを知らない者らも今度は素直に彼女の健闘をたたえたし、逆に知る者は彼女が最後にわざと引き分けとすることで後腐れないようにしたのだろうと推量し、その気遣いを賞賛した。

 

「お疲れ。強いね」

 

 絶え間ない拍手の中、リューネはゆったりと構えを解き、にこやかに笑った。先ほどまでの緊張感が嘘のように消え、マサキは狐に抓まれた気分にもなった。

 

 それでも捨て置けない点もある。

 

「てめぇ、手加減しやがったな」

 

「さぁ、なんのこと?」

 

 リューネはコートを羽織りながら、片目を瞑った。

 

 

   Ⅳ

 

 

 夜もすっかり更けた。慰労パーティはすでにお開きとなっており、ハガネ隊もほとんどの者はすでに艦内の自室へと帰っている。そんな時分をアイビスが一人外をうろつくのは、彼女を知る者であればさほど不思議なことではない。

 

 降り注ぐような満点の星空の下を、アイビスはシャワー上がりの体を冷ましながら、ゆったりと歩いていた。地上の灯りが弱まれば、天の輝きが強さを増す。ラングレー基地という一大軍事施設が潰えたことで、基地跡地周辺は皮肉にも最高の夜空が広がる絶好の景観地に面変わりしていた。本当にひどい皮肉だった。

 

 太陽が沈み、文明の光が消えたのちに初めて現れる、本当の空の色。世の本質。世界の真実。この地に眠る屍全てを積み上げたところで、闇に散らばる宝石たちの一つにすら届かない。ひたすら無限の中で輝く星々は確かに美しいが、同時に凍てついてもいる。アイビスは星空が好きであった。しかしきっと星空の方はアイビスはおろか人類そのもののことすら、好きでも嫌いでもないでもないのだろなと、そんな風なことをアイビスは時々思うことがあった。

 

 気ままな散歩を続けるアイビスだったが、視界の端に見知った人影をふと見つけた。その者は陥没地帯に沿って備え付けられているガードレールに腰掛け、ぼんやりと夜空を眺めているようだった。

 

「リューネ?」

 

 声をかけられたことにリューネはひどく面食らったらしく、赤いパンプスを履いた足が小奇妙に跳ね上がった。

 

「あらま。どうしたの、こんな夜更けに」

 

「こっちの台詞だよ。あたしの方はただの散歩」

 

「あたしも似たようなもんだよ。慣れないのにワインになんて手をつけちゃってさ。ご飯も美味しかったし」

 

「うちのレーツェルさんは腕自慢だから」

 

「噂には聞いてたよ。あの人も元DCだったらしいね。全く、いい人材ばかり引っこ抜いてくれるよ」

 

「いや、ごめん……ていうのも変だけど」

 

「ふふ。うそ、冗談」

 

 言い合いながら、ごく自然にアイビスはリューネの隣に座った。そうして揃って星を見上げる。今宵は風もなく、寒さも弱い。だからだろうか、アイビスはこの不思議な少女とすこしばかり交流を持ちたい気になっていたし、それはひょっとすれば相手の方も同じであったのかもしれない。

 

「最高の星空だね。地上は最悪だけど」

 

「だからだよ」

 

 アイビスは星空の見え具合と、街の明かりの関係を説明した。

 

「ふうん。もしかして、あいつら流に慰めてくれてるのかもね。あんまり暗くなりなさんなよって」

 

「あは、いいねそれ」

 

 素直にアイビスはそう思った。メルヘンと笑われようとも、より救いのある感じ方であった。ついで、せっかくの機会であるので兼ねてから疑問に思っていたことを尋ねてみることにした。

 

「そういえば、リューネってどういう人なの?」

 

「んー? どうして?」

 

「だって、普通じゃ無いじゃない。どう見ても」

 

 誰かにも同じようなことを言ったな、とアイビスは懐かしくなった。

 

「DCの人なんだよね」

 

「ちょっと違うんだな、これが。世話になっているのは事実だけど」

 

「じゃぁ、どこの人?」

 

「どこでもないよ、あたしさ。ただあたしの親が以前、連中と一緒に仕事をしててね。ありがたいことに、連中の多くは未だにそのことを恩に着てくれてるんだ。あたしもあたしでちょっと一人じゃどうにもならないことがあって、親の縁故を使って、連中の力を借りたってわけ」

 

 DCのスポンサーであるどこかの財閥の令嬢といったところだろうか。そのような者がパイロットなどやるものだろうか。アイビスの疑念は尽きなかったが、一国の姫君が前線に出るような時分でもあるし、一概に否定もできなかった。親の素性についても尋ねたくなったが、あからさまに言を濁していることから、聞かれたくないことなのだと察し、聞かないでおくことにした。

 

「ねぇ、今度はそっちのことを聞かせてよ。あたしにしてみればアイビスもあまり軍人らしく見えないんだよね」

 

 事実であるだけにアイビスは苦笑するしかなかった。そうしてぽつぽつと、自分の本職とハガネ隊に参画する経緯について説明していった。

 

「プロジェクトTDかぁ。そういえば親父から聞いたことある気がする」

 

「もともとDCで始まったプロジェクトだしね。戦争が終わったら、あたしはツグミと一緒にそこに戻るんだ」

 

 ちくりと胸を刺すものがあったが、アイビスは無視した。

 

「それじゃ本当に臨時の徴兵なんだね、それもつい最近の。ハガネ隊って、てっきり厳つい強者だらけの顔ぶれだと思ってたよ」

 

「人手不足なのはどこも一緒だよ。でもそうだね。周りはみんな何度も実戦を経験してきた人たちだから、やっぱり随分差はあったよ。なんとか喰らい付いているけど」

 

「愛しの隊長さんのお陰で?」

 

 絶句したアイビスに、リューネはしてやったりとにやけ顔をして見せた。フリューゲルス小隊や小隊長についてのアイビスの語り口から、これはと思い鎌をかけたのだ。

 

「いいないいな、そういうの。羨ましー」

 

「や、やめてよ」

 

 しきりに脇腹の辺りを突かれ、アイビスはむずがゆさで一杯になった。

 

「ねぇねぇ、なんて告白するつもり?」

 

「しないよ」

 

「なんで?」

 

「なんでって……戦争中だし不謹慎だよ」

 

 加えて戦争が終わったら即刻離れ離れになることまで決定している。そんな状況で想いを告げるメリットなどアイビスには思い浮かばなかったが、奇しくもリューネという少女は全く逆の意見を持っていた。

 

「そう? 誰かを好きになるってさ、人間の中で一番当たり前で根本的な気持ちでしょ? 戦争中だろうがなんだろうが関係ないよ」

 

 臆面もなく言い切られて、アイビスは思わずまじまじとリューネの顔を見つけた。リューネは、それこそ何でもないように言葉を続けた。

 

「ハガネ隊にだって、隊内カップルの一つや二つあるでしょ? 一皮剥けばみんな一緒だよ。恋人や異性とは限らないってだけで、みんな結局は自分の好きな人のために戦ってる」

 

「そんなの分からないよ。世界のために死ぬまで戦うって、本気でそう考えている人も世の中いるんだ」

 

「はん。あたしに言わせれば、自覚してかせずしてか、その人は言葉を省略しているだけだね。世界という言葉を使うとき、必ず誰かの顔がその人の胸に浮かんでいるはずさ」

 

 そうなのだろうか。すくなくも「そんなことはない」と言い切れるだけの材料をアイビスは持っていなかった。

 

「そしてその中には、なんと彼の可愛い部下の顔もあったのでした……、と」

 

「なんでマサキの話になるの」

 

「あれ違った?」

 

 アイビスは押し黙り、リューネはからからと笑った。

 

「この正直者。まぁともかく、あたしがアイビスの立場だったら、あれこれ考えずにとりあえず言いたいことを言うね」

 

「な、なんて言うの?」

 

「簡単だよ。『好きだよ』って」

 

「またストレートな」

 

「飾ったってしょうがないじゃん。こんなもんだよ」

 

「それで上手くいったことあるの?」

 

 今度はリューネが黙る番だった。苦し紛れの反撃であったが、期せずして相手の急所を撃ってしまったらしい。

 

「今までに誰に言ったことがある? 何時のこと?」

 

 あっという間に攻守は逆転し、アイビスは笑いをこらえながらも次々に言葉を被せた。

 

「じゅ、ジュニアスクールのときとか」

 

「クラスメートに?」

 

「うん。もう女の子みたいに綺麗な顔した子でさ」

 

「それでどうなったの」

 

「『僕は好きじゃないよ』って……」

 

 うつむくリューネの肩を、アイビスは神妙な顔でぽんぽんと叩いた。

 

「他には?」

 

「ジュニアハイスクールのときかな。あれはもう、あたしがどうかしてた。今思うと、なーんであんなチャラチャラした男に……」

 

「でも言っちゃったんだ」

 

「……だって可愛いって言われたから」

 

 もしここにバーテンダーがいたら、アイビスはきっととっておきのバーボンを彼女のために注文していた。色恋はいつの時代も女性にとって最高の話の種であり続ける。ふとした切欠で始まった女二人の恋愛談義は、まるで終わる気配もなく延々と続けられた。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 もう夜も遅いし、そろそろ帰ろう。そう言い出したのはアイビスの方で、いい加減眠たくなってきたのか、まぶたもどこか重たげであり、懸命にあくびをかみ殺している。リューネも異論はないらしく、照れくさそうに頭をかいた。

 

「ずいぶん話し込んじゃったね。ごめんね、こんな時間まで引き止めちゃって」

 

「ううん、あたしも楽しかった。こっちこそ飲み物をありがとう」

 

 アイビスはジュースの空き缶を掲げて見せた。話に夢中になるあまり二人が喉の渇きを覚えた頃、リューネがひとっ走りして調達してきたものだった。

 

「次は食堂でやりたいね。飲み物も最初から用意して、なんならそっちのレーツェルさんとやらにおツマミでも作ってもらってさ」

 

「ふふ、なら甘いものがいいな」

 

 二人して立ち上がった際、不意にリューネが思いついたように言った。

 

「そうだ。アイビスにぜひ渡したいものがあるんだ。よければちょっとブルーストークの近くまで寄ってくれない? 中には入れられないけど、すぐに取りに戻ってくるからさ」

 

 ストークとはハガネ、クロガネほどの性能はないものの、戦闘母艦として安定した費用対効果を持つDCの主力戦艦である。30隻以上も同時配備されており、個々の艦はそれぞれ固有の色名を頭につけて区別されている。たとえばビアン・ゾルダークの乗艦であったものはグレイストーク、ブリジッダ中佐が指揮するものはブルーストークといった具合にだ。そしてそのブルーストークは、現在ハガネとそう遠くない場所に停泊しており、ブリジッダ中佐らを始めとするDC兵たちの寝起きの場になっている。

 

「いいけど、渡したいものってなに」

 

「見てのお楽しみ。でも、いいものだよ」

 

 そういってリューネは、眠気に足元がおぼつかなくなってきているアイビスの手をぐいぐいと引いて行った。そのまま連れ立って歩くこと数分、寝静まるブルーストークの麓までたどり着いたリューネは、それとばかりに艦内へ駆け込んで行った。

 

「ごめんね、ちょっとだけ待ってて。すぐ戻ってくるから」

 

「うん、別に急がなくていいから」

 

 アイビスは手をひらひらさせながらリューネを見送り、また一つ大あくびをした。

 

(どうしたんだろ。すんごい眠いや)

 

 立ち疲れたアイビスは、ゆっくりと地面に腰を下ろし、体育座りの体勢になった。手足がやけに暖かく、まるでほろ酔い気分のようにアイビスの意識が揺らぎ始めた。

 

(すぐ戻ってくるって言ってたな。ちょっとだけ、ちょっとだけ目を瞑ろう)

 

 そうして目を閉じると同時に、アイビスの意識の中でも押し寄せるように夜の帳が舞い降りた。

 

「ただいま。アイビス、寝ちゃった?」

 

 そんなリューネの声が、いやに遠くに聞こえ、そのままアイビスは深い眠りの国へと落ちていった。

 

 

 

「そこで止まりなさい」

 

 真夜中のブルーストーク。すでに整備士たちも自室へ引き上げ、人っ子一人いないはずの格納庫で、かような剣呑な言葉が響き渡った。

 

 暗闇の中で人影が一つ、動きを見せた。アイビスを担ぎながら格納庫までやってきたリューネが、歩みを止めて背後を振り返ったのだ。

 

「やぁ、ブリジッダ。こんな時間まで残業?」

 

「ええそうよ。悪さをする猫がいやしないかって、見回りをね」

 

 そううそぶいて、いまひとつの人影も動き出す。ブルーストークを預かるブリジッダ・アンサルディ中佐が、深夜にも関わらず軍服姿のまま格納庫の出入り口近くに佇んでいた。

 

「その子はハガネ隊の娘ね。どうする気?」

 

「どうもしないよ。この子はアイドネウス以後に参加した子なんだ。だったらなにもしない。用があるのはこの娘の上官の方さ」

 

「許しません」

 

「いいよ、許してくれなくて」

 

 暗がりの中でも明らかなほど、リューネは酷薄に笑った。これまでの愛想が嘘のように、その目はどこか狂おしげに爛々としていた。

 

「前にも言ったでしょ。受けた恩の分だけは協力する。でもあたしはあたし。DCに与するつもりはないってね」

 

「リューネ。今がどういうときか分かってる? 何千人もの遺体が眠っているこの場所で、連邦とDC、予てからの敵同士が過去の諍いを一旦は忘れて、一緒に人々の死を悼んでる。そんなときに私情に駆られて、お父上が喜ぶと思っているの?」

 

「ふん」

 

 ブリジッダのあまりに真っ当すぎる説教を、リューネは一笑に付した。

 

「現金なもんだ。少し前までは親父に骨の髄までイカれきって、打倒連邦の急先鋒だったくせに。綱紀粛正が終わって牙が抜けたわけ? 人に嫌な役割ばっか押し付けといてさ」

 

「リューネ!」

 

「……まぁいいさ。親父の遺志を継ぐのも、大義名分の材料にするのも、好きにしなよ。あたしの知ったことじゃなし」

 

 構わずリューネはアイビスを背負い直し、目的の場所まで歩を進めていく。だが背後からより一層物々しい気配を察し、ふたたび歩みを止めた。銃で狙われていると、振り返らずとも分かった。

 

「今、連邦とDCの間に無用な亀裂を生じさせること、まかりなりません。両手を頭の上に乗せなさい」

 

「今でなければいいの?」

 

「分からないわ。でも言えるのは、今だけは駄目ということ。今だけは連邦と戦ってはいけない」

 

「立派だね。それも親父のため?」

 

「人類の勝利のためよ、これ以上の正義がどこにあるの」

 

「さぁ、少なくともあたしの中にはないよ。でもね……」

 

 リューネはゆっくりと床に膝をつき、ねむりこけるアイビスを床に寝そべらせた。降伏の姿勢を取るのに、アイビスを背負ったままではできないので、そこまではブリジッダも見逃した。結果的にはそれが彼女の敗因だった。

 

 アイビスを下ろしたリューネは、そのまま身を低くした姿勢から地を這うように跳躍した。獲物に飛びかかるライオンそのものの挙動で、速度もまた野獣じみていた。ブリジッダは銃の安全装置を外すことすらできず、ものの数秒で床の上に組み伏せられた。

 

「生憎、そんなもののためにやってんじゃあないんだよ」

 

「リューネ……っ!」

 

「ごめんね。あんたが泥を被らないよう、できるだけのことはするよ。これもその一つだから、悪く思わないで」

 

 どすんと重苦しい音と共に鳩尾を突かれ、ブリジッダはたまらずに意識を失った。もう少しわかりやすい外傷があったほうが良いかとリューネは再度拳を構えるが、やはりやめることにした。気絶した女に追い打ちをかけるのは忍びないし、今の一撃だけでもブリジッダの腹部には痛々しいほとどの痣が出来上がるはずだ。彼女が暴徒の手にかかった証拠は十分にある。

 

 缶ジュースに仕込んだ睡眠薬により、アイビスはいまだ眠り続けていた。夜が明けるまでは、滅多なことでは目を覚ますまい。そんなアイビスを丁寧に抱え直し、リューネは再度歩みを再開した。そして格納庫の一角にて屹立する、彼女の愛機にして、今となっては父親の唯一の形見となった女巨人の下までたどり着く。

 

 その内部に乗り込もうとして、ふとリューネは思い出したようにブリジッダの方を振り返った。

 

「言い忘れてた。ヴァルシオーネの修理、ありがとう」

 

 当然ながら返答は何もない。むしろ後腐れがなくて良いと、リューネは孤独に笑みを浮かべた。

 

「さようなら、ブリジッダ」

 

 それを古い知己との今生の別れとし、リューネは女巨人ヴァルシオーネへと乗り込んでいった。

 

 

 

 リューネがブリジッダと修羅場を演じた頃より、およそ1時間後。すでに日付も変わった時分に、マサキは一人艦内をうろついていた。好きでうろついているわけでも、はたまた道に迷っているわけでも今はなく、彼のたった一人の部下の姿を探してのことだった。

 

 三十分ほどまえ、自室のベッドでうつらうつらとしていたマサキのところに、ツグミがいやに殺気立った様子で乗り込んできた。そしてさんざんクローゼットやらトイレやらベッドの下など部屋のそこかしこを探し回ったかと思うと、なにやら安堵しきった様子で息をついた。

 

「おい、どういうこった」

 

「どうやら早合点だったみたい」

 

「そりゃよかったな。で、なにがどうした」

 

「休み中のところごめんなさいね。おやすみなさい」

 

「それで済むと思ってんのか、お前は」

 

 話を聞くとアイビスがシャワーを浴びに行ったまま、未だに部屋に戻ってきてないらしい。シャワー室、ラウンジ、格納庫、リオやクスハの部屋など思い当たるところはすべて探し、最後の最後にまさかと思いつつもここを訪ねたのだという。

 

「いるわけねーだろ。常識で考えろ、常識で。あぁ、眠い」

 

 別の場所を探しに行くというツグミをけんもほろろに見送り、再びベッドに寝そべったマサキだったが、およそ7分ほど経過したところで再度むくりと身を起こした。

 

「あぁ、眠い。眠いのに、ったく」

 

 簡単に身繕いし、ぶつくさ言いながらもマサキは艦内の捜索を開始した。20分ほど艦内を適当にぶらついたが、確かに件の不良娘の姿はどこにも見当たらなかった。ジャケットに入れっぱなしだった無線機から音が鳴ったのは、いい加減諦めて帰るかとマサキがさじを投げそうになった矢先のことである。液晶の画面には発信元のナンバーが表示されており、見覚えのあるそれはアイビスが所持している無線機のものだった。捜索隊に参加してからというもの毎日毎日、昼食時に彼を呼び出す番号であるから見間違えることもない。

 

「もしもし、アイビスか? さては道に迷いやがったな、てめぇ」

 

 そう言って無線に出たマサキだったが、結果としてマサキに連絡してきたのはアイビスではなく、しかし当たらずとも遠からずというところだった。そして用件の方は予想の遥か斜め上をいく物々しいものだった。およそ五分後、用をなさなくなった無線機のスイッチを切り、マサキはしばしの間、無線機を野球ボールのように放っては受け止めを繰り返しながらあれこれと考えを巡らせていた。

 

 誘拐。私怨。復讐。決闘。ぐるぐると単語が乱舞する。

 

 さてどうするか。どうしたものか。

 

 策を練ることはマサキの得意分野ではない。いわゆる最善、いわゆる最効率の道筋を頭の中で算出しようとすればするほど、彼の思考は決まって霧中の森へと迷い込んでしまう。しかしそんな自分ともすでに16年の付き合いなので、こういうとき結局自分がどういう結論を出すのか、マサキは熟知していた。

 

 迷うことなど何もない。行きたいところに行き、やりたいようにやるのだ。

 

「うし、いくか」

 

 そうして、マサキは格納庫へ向けて歩き出した。

 

 

 

 



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第二十章:今一度、暁の決戦を

 

 

   Ⅰ

 

 

 暗闇のなかで、アイビスは目を覚ました。

 

 あたりはまだ薄暗い。カーテンを閉めただけの暗さではない。どうやらまだ夜は明けきっていないようだった。

 

 身を起こすと、暗がりのなかでもやけに広々とした空間が見て取れた。ここがどこかはわからないが、少なくともハガネの中でないことだけは確からしい。ここまで広い部屋は艦長クラスですら与えられないし、キングサイズのベッドなど戦艦ではなおさらあり得ない。しかもシーツ全体が妙に埃臭く痛んでいた。

 

「目、覚めた?」

 

 声は窓のあたりから聞こえた。女の声である。三人がけの大きなソファに、横向きになって腰掛ける人影があった。背筋が描く艶やかな曲線、立てられた片膝とその上に乗せられた肘。暗がりの中に影絵のように浮かぶそれらの輪郭は、女豹のごとくあまりにたおやかだった。わずかに差し込む月明かりは逆光となり、窓際の彼女の顔に一層深い影を落としていたが、その中にあって鮮やかな紫水の瞳だけが闇の中でも幽かに光を発し、アイビスを優しく見つめていた。

 

「リューネ……?」

 

「おはよう、でもないか。気分はどう?」

 

「頭が痛い」

 

 そうアイビスがつい子供のように言ってしまったのは、リューネの声色が母のように優しかったからだ。

 

「ごめんよ、きっと薬のせいだ」

 

「薬……?」

 

「ジュースを奢ったでしょ? その中にね」

 

 リューネが人差し指と親指でCの字を作る。カプセル薬を表しているのか、それとも分量のことを表しているのか判断に迷ったが、あまり意味のある質問でもないのでアイビスは別のことを尋ねた。

 

「ここ、どこ?」

 

「ん? ええと、なんて言ったかな」

 

 リューネはテーブルの上から、なにやらパンフレットのようなものを取り上げた。

 

「ホテル・フェアモントサウスハンプトン。あたしも初めて来たけど、結構豪勢なホテルみたいだね。ゴルフ場まである」

 

「ヴァージニアのホテル?」

 

「ううん。バミューダ諸島」

 

「は?」

 

 リューネは淡々の事の経緯を説明した。いま二人がいるのは北大西洋、北緯32度、西経64度のバミューダ諸島。一応はイギリスに属する諸島であるが、地理上はむしろアメリカに近く、ヴァージニアから旅客機でも二時間程度の距離である。アイビスを薬で眠らせたのち、機動兵器を使ってここまでやってきたという。

 

「なにせいラングレーが落ちたせいで、バミューダ全域はいま避難指示が出ていてね。ちょっとした無人島ってわけ。だからこのホテルにも、あたしたち以外は誰もいない」

 

「どうしてあたしを攫ったの? いったい何が目的?」

 

「言葉は悪いけど、本命をおびき出すための餌になってもらうため。さっきアイビスの無線機を借りたよ。もうすぐここにサイバスターがやってくる」

 

「マサキが?」

 

「どっちかっていうと、用があるのはそっちの方でさ。これ以上、アイビスに危害を加えるつもりはないよ。大人しくしてさえくれれば、好きにしてていい。でも、お願いだから無闇に逃げようとしないで。これから機動兵器戦が始まるから、脅しじゃなく外は危ないんだ」

 

 懇願とすら言えるほど、なんとも控えめな脅し文句であったが、アイビスにしてみれば断じて聞き捨てならないことであった。

 

「機動兵器戦ってどういうこと。なんでマサキと戦うの?」

 

「別に不思議なことじゃないでしょ。DC所縁の人間がハガネ隊の撃墜王を恨むなんてさ」

 

 リューネはゆっくりと身を起こし、テーブルの上に置いてあったポットを手にとって、カップに湯を注いだ。カップの中にはすでにティーバッグが入れられていて、紐をつまんで適当にくゆらせる。カップは二人分あった。

 

「飲む? こんどは何も入れてない」

 

「……」

 

 アイビスはすこしのあいだ考えて、ベッドから降りた。リューネの向かい側のアームチェアに腰を下ろし、とくに迷うそぶりもなく片方のカップを引き取った。

 

「ハガネ隊のトップエースといったら二人いるらしいね。一人はエクセレンとかいう人で、これは表向きのエース。それともう一人裏のエースがいて、これがマサキ・アンドー。アイビスの隊長だったね」

 

「いろいろ難しい出自の人だから。軍人でもないし」

 

「そのマサキ・アンドーさんの撃墜マークの中に、あたしの親父がいてね。要は父親の仇なんだよね、一応さ」

 

「なに、一応って」

 

 思わず眼差しを鋭くするアイビスに、リューネは頭を掻いた。

 

「そう噛みつかないでよ。自分でも整理がついてないんだ。あたしね、フルネームはリューネ・ゾルダークっていうの」

 

 ゾルダーク。地球圏に住まう者にその名を尋ねれば、誰もが同じ人物を思い浮かべるだろう。ビアン・ゾルダーク。アイビスにとっても、雲の上の住人でこそあれ赤の他人ではない。超一流の科学者にしてDCの創設者。不世出の天才。カリスマの化身。連邦打倒による地球圏支配を目論見、結果、ハガネ隊によって討たれた巨星である。

 

 彼に一人娘がいるという話はアイビスも聞いた事があった。同時に、なぜリューネがDCの者ら全員にプリンセスのごとく扱われていたのかも。世が世なら、彼女は本当に地球のプリンセスになっていたかもしれなかったのだ。

 

「それでどうしてマサキ一人を狙うの? ビアン総帥の仇というなら、ハガネ隊全員がそうでしょ?」

 

「そう、全員さ。本当だったら折を見てブリジッダのところを抜けて、ハガネ隊に殴り込むはずだったんだ」

 

「一人で?」

 

「うん」

 

 あっさりというリューネにアイビスは心底呆れきった。

 

「正気?」

 

「さぁ、自分でも怪しいね。なんにせよプランタジネットが一区切りついてから、ようはラングレーの奪還が終わってからにするつもりだった。そう思って待ち構えていたら、いつの間にかラングレーが潰れて、ハガネ隊は半壊状態で、誰もろくに戦えない有様になっちゃっててさ」

 

 その知らせを受けて、当時のリューネはそれこそ困り果てた。戦えない戦艦と戦ったところで意味は無い。かといって相手の修復を悠長に待てるほど時間に余裕もない。どうしたものかと思いながら、ひとまず自分の目で状況を確認しようと現地入りのメンバーに潜り込んだリューネだったが、事態のおおよそは事前情報とさほど乖離していなかった。SRXチームもグルンガストも、機体の方はボロ雑巾同然で、パイロットも雑用に感けてばかり。落胆するリューネだったが、しかしたったひとつだけ嬉しすぎる誤算があった。

 

「都合の良いことに、本当に運命みたいに、あいつだけが無事だった。よりにもよってあいつだけが。ヴァルシオンのコクピットに火の鳥をぶちこんで、その手で親父の息の根を止めてくれた、あいつだけが」

 

 本当に、心から神に感謝するように、リューネは一言一言を噛みしめながら口にした。

 

「そしてあいつが目にかけるたった一人の部下と、あたしは出会うことができた。つまらないことだけど、恩人という形で」

 

「感謝してたよ、本当に。友達になりたかった」

 

「ありがとう。昨晩はあたしも楽しかったよ。あんなにおしゃべりしたのは久しぶりだった」

 

 掛け値なしの本心だった。昨夜のリューネは本心を悟らせないための演技でも、アイビスに取り入るための方便でもなく、本当に心からアイビスとの語らいを楽しんでいた。

 

「でもね、アイビス。あんたがあいつのパートナーだって知って、それがあたしなんかに好意を寄せてくれて、頼んでもいないのに、わざわざ人気の無い真夜中に声をかけてくれて。そんな嘘くさいくらいお膳立てされた状況が一人でに出来ちゃったとき、あたし思ったんだ。やるしかない、今しかないって。あいつと思う存分に、これ以上ないってくらいの条件でやり合える日は、きっとこの先一生来ない」

 

「来なくて良いんだよ。あんたがマサキに勝てるわけない。仮に勝ったとしてどうなるの? どんな良いことが起こるっていうの?」

 

 リューネは何も言い返さず、困ったような笑みを浮かべるばかりだった。それをみてアイビスは、もはや彼女の中に説得の余地が何一つない事を悟ってしまった。仇討ちに何の利もない事を、眼前の相手は理解していた。自分に寄せられる批判が正論であると、彼女は分かっているのだ。

 

「ブリジッダも同じようなことを言ってたよ。あの人は頭のいい人でね。親父のことはあの人にとっても、小さなことじゃぁ無かったはずなのに、それでも大局を見失わないで損得の勘定を続けられる。あたしも金勘定には自信あったけど、でもやっぱり根っこのところでは駄目なんだよ。思った以上に駄目だった。親父の死を知ってからというもの、ずっとずっとあたしの中の何かが言うの。このままでいいはずがないって」

 

「リューネ……」

 

「あの世で親父がどう思ってるかはわからない。死んだ人の気持ちをこうだと決めつけるのは好きじゃないし、そもそも親父の気持ちなんて知ったこっちゃないしね」

 

 実はそんなに仲良くも無かったんだよ、とリューネは気恥ずかしげに付け加えた。

 

「大事なのは、あたしがあれに何をしてやりたいか、だと思う。ろくな父親じゃなかった。まっとうな死に方が出来るはずもなかった。でも親父だった。パパ……なんて昔はあたしも呼んでて、十六年間を一緒に生きてきた。だったらさ、だったらせめて……」

 

 消えゆくように少女の語り口は途絶えた。あるいはリューネ自身、その先の言葉を見つけられていないのかもしれない。アイビスもまた、彼女にかけるべき言葉を見出せずにいた。

 

 顔を洗ってくる。そう一声かけて、リューネは席を立っていった。残されたアイビスは、ひとり天井を見上げた。薄暗い壁の向こうに、在りし日の父の背中が浮かび上がった。酒に溺れ、母を殴る男。欠片も尊敬できない父のその姿を、それでもアイビスは今もなお忘れていない。父の訃報を知った時、父の不健全な暮らしぶりを良く知るアイビスはさして驚きはしなかった。さもありなんと思ったし、ともすればざまをみろと思うところすらあった。それでも、彼女自身不思議でならないことに、一切の寂寥と無縁ではいられなかった。悲しいかと問われれば、そのときアイビスはやはり悲しかったのだ。

 

 顔を洗うと言って出て行ったきり、10分ほど過ぎても、リューネは帰ってこなかった。アイビスはあわてて立ち上がり、彼女の後を追った。洗面所は無論の事、トイレにも風呂場にもリューネの姿はなかった。

 

 あたしの馬鹿、と自らを罵倒するのもそこそこに、アイビスは部屋を飛び出した。エレベーターか、もしくは階段を探して上品な内装の廊下を遮二無二駆け抜ける。リューネは外へ行ったのだ。仇敵を迎え撃つべく、愛機の元に一人で。

 

 止めなくては。ただその一心で、アイビスは無人のホテルの中を走った。

 

 

 

 バミューダ諸島はもとより風光明媚な観光名所として名を知られているが、旧暦の頃から続く伝統あるタックスヘイヴンでもあり、金融関係者や富裕層らにとっても関わりの多い島である。しかし異星軍によるラングレー基地占領を契機に、現在この常春の島は地球連邦軍より全面的に避難指示が出され、全くの無人地帯と化していた。バミューダ島にも海軍・空軍用の基地が置かれていたが、中継基地としての側面が強く、保有戦力はラングレー基地の足元にも及ばない。ましてや、そのラングレーを占領してのけた異星軍に対抗できるはずもなく、バミューダ基地司令部は即座に基地の放棄を決意。異星軍がラングレーの制圧にかまけている間に、住民をまるごと空母の腹に詰め込んでイギリスにまで撤退したのである。

 

 当然、無人となった基地はこれ幸いにと異星軍によってあっさりと制圧されたが、ラングレー攻略戦の際、東方からの侵攻を担っていたシードラゴン率いる揚陸連隊が再度奪還し返していた。しかし作戦の都合上、揚陸連隊はそのまま西進を続け、しかもそのすぐ後にラングレー陥没という前代未聞の事態となったため、今もなおバミューダ諸島は放置の憂き目を見たままであった。

 

 そんなバミューダ本島の南部に位置している、ホテル・フェアモントサウスハンプトン。その正門玄関前に、まるで主人に傅くように膝をついている一体の巨人の影があった。

 

 全長およそ25メートル。白を主体色とした装甲、天使を模したウィング、同じく翼のようなショルダーガード。右手に携えられた重厚なライフル。過剰なまでに細身な四肢と、あまりに異様な頭部。

 

 DCAM-002 アーマード・モジュール・ヴァルシオーネ。

 

 アイビスの予想の通り、一人とっととホテルの外に出てきていたリューネは、暗がりのなかで跪くその女巨人の胎内にするりと潜り込んだ。慣れた様子でコンソールを操作し、セットアップを開始する。エンジンが駆動し、モニターに機体情報が映し出される。全機能、異常なし。異星人の襲撃により受けた損傷は完璧に修復されていた。

 

 異星人の襲撃といっても、それはアギーハら一派のことではない。DC戦争終結直後、父の訃報を聞いて一路地球を目指していたリューネはその中途で、アギーハらとはまた別の文明を持ち、彼女らに先駆けて地球へ攻撃を仕掛けてきたエアロゲイターと呼ばれる異星人部隊と遭遇した。シャトルを飛び出して孤軍奮闘した末なんとか撃退したものの、その時の戦いでヴァルシオーネは深刻な損傷を負う羽目となった。この一件を思い返すと、リューネは今でも口惜しくなる。あれさえなければリューネはもっと早くに、それこそL5戦役の真っ只中にでもハガネ隊に挑むことができただろう。

 

 なんの伝手も資金も無い小娘が、独力で機動兵器の修理など行えるはずもない。リューネに残された手段はたった一つ、かつてさんざんに後ろ足で砂をかけた忌々しい古巣に、恥も外聞もなくのこのこと顔を出すことだけだった。

 

 ブリジッダ・アンサルディは宇宙開発局時代からビアンの下で働いていた女性で、リューネにとってもかねてより面識のある人物だった。突如舞い戻ってきた家出娘にブリジッダはひとつも嫌な顔をせず、ヴァルシオーネの修理についても快く引き受けた。ただブリジッダも人格者ではあったが、決して無私の奉仕者というわけでもなく、修理を引き受ける対価として、リューネに自らの私兵となることを要求した。

 

 当時DCはビアンという大黒柱を失ったことで内部分裂の危機にあった。ビアン・ゾルダークの並み外れた求心力により、人種、思想、業種の別なく優秀な人材が集ったDCであるが、それだけに個々の繋がりや組織そのものへの帰属意識は薄く、主柱を失った際の瓦解の速度もまた早かった。組織を抜けるだけならまだしも、利己的な目的のためにDCを汚染・変質させようとする者らが跳梁しだすようになり、ブリジッダはバン・バ・チュン大佐の命のもとそういった不穏分子たちの内偵任務を担っていた。そんなブリジッダにとって、DCに属さず、それでいて亡きビアンの威光を全身に纏うリューネの存在は相応に価値のあるものだった。不穏分子の中でも短絡的な者らは彼女を手中に収めようと次々と彼女の周辺に現れてきたし、それらを一掃することで今少ししたたかな者達への牽制にもなる。またその非凡な身体能力と機動兵器の操縦技術により、時にはリューネ自身が反乱分子の制裁役を負うこともあった。余談ではあるが、つい先日にアラド・バランガが自らのパートナーと平穏無事に再会できたことにも、間接的ながらリューネの働きが絡んでいる。

 

 なんにせよそうこうしているうちにL5戦役は終結し、さほど間をおかずしてアギーハたち別口の異星人が地球圏侵攻を開始した。分裂だけは避けたものの相次ぐ再編により弱体化したDCと、L5戦役の被害により疲弊著しかった連邦軍が協調体制を取るようになったのは、当事者達の心情は別にして自然な成り行きであったのかもしれない。

 

 味方が敵に、敵が味方に。

 

 目まぐるしい時勢のなか、あらゆるものが移ろっていた。そんな中で、絶えずリューネの中に在り続けたたった一つの熱源がある。自覚したのは父が死んでからだ。しかし、本当のところはもっとずっと前からあったのかもしれない。物心つくよりさらに以前、自分という生命が、初めて父という存在に気がついた、その時からきっと……。

 

 機体のコンディションチェックを終え、リューネは肺に溜まるものを吐き出すように、大きく息をついた。思えば随分回り道をしてきた。長く機会を待ち続け、そして今ようやくその時が訪れたのだ

 

「長かったな」

 

 図らず、唇からこぼれ落ちる。

 

 ふとリューネは、機体の足元にある動体反応に気づいた。アイビスかな。拡大映像を出す前からそう検討付け、果たして予想は裏切られなかった。帰りの遅い自分を不審に思い、追いかけてきたのだろう。集音マイクを切っているため声は聞こえないが、ヴァルシオーネに向けて何事かを叫んでいるのが見て取れた。

 

 リューネは考える。もしあたしがマサキ・アンドーを殺したら、この娘はどう思うだろう。あるいは、もしあたしがマサキ・アンドーに殺されたなら……。

 

 不意に生じた惑いを、リューネはかぶりを振ってかき消した。リューネは思う。正誤も善悪も関係無い。あたしはあたしの心に従う。やりたいことをやる。

 

「下がっててアイビス。怪我しても知らないから!」

 

 外部音声をオンにして、リューネは言い放った。同時に推進システムを起動させ、スラスターに火を入れる。ヴァルシオーネの翼より巻き散らされた、猛烈な風圧をまともに浴びて、アイビスはたまらず倒れこんだ。

 

「ごめんね、アイビス!」

 

「リューネっ!」

 

 モニター越しではあるが、リューネはアイビスの顔をじっと見つめた。気の合う娘だった。話をしていて楽しかった。きっと良い友人になれた。そんな相手と、これが今生の別れとなるかもしれないことはとても寂しいことだった。無論むざむざと敗れるつもりはない。しかし覚悟だけはリューネは決めていた。

 

「謝って済む問題じゃ無いけど、本当にごめん! あのときあんたを助けるんじゃ無かったよ。あんたのためにも、あたしのためにもさ!」

 

 そういって、なおも叫ぶアイビスの声を振り切って、リューネはヴァルシオーネを天高く飛び立たせた。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 バミューダ諸島の中に、ポーツ島と呼ばれる小島がある。森と浜辺しかない小さな島で、資産家の別荘が建っていた頃もあったようだが、今日では異星人が来る前から無人島となっている。せいぜいシーズン中に観光客やダイバーを乗せたクルーザーが近辺を通る程度であった。

 

 島のサイズは直径200メートルほど。機動兵器に換算すれば12~3歩程度で横断できる大きさである。決して広くはないが、困るほど狭くもないその微妙な間合いに、マサキ・アンドーは自身の経験と照らし合わせてボクシングのリングを思い出した。

 

 時刻は午前四時を回ろうとしていた。まだ朝と呼べる空の色ではないが、水平線の彼方がわずかに赤らみを帯び始めていた。夜明けは近い。

 

 サイバスターがポーツ島にたどり着いた時、そこにはすでに先客がいた。呼び出されたのだから迎えがいるのは当然の事であるし、その正体もマサキの予想に違わなかった。

 

 あの鎧を纏う女巨人。その巨人はヴァルシオーネと名付けられているが、マサキはその名を知らなかった。ただその異様な外観と、無駄とすら言えるほどの運動精度を知るのみだ。

 

 天然のリングの上で、サイバスターとヴァルシオーネは差し向かいに対峙した。かたや魔装機、かたやアーマード・モジュール。設計者も開発元も異なり、外観から内部構造に至るまで一切の技術的共通項を持たない二機。だというのになぜだろう、並び立つ二機の姿は、まるでそれがごく自然の情景であるかのように、一つの絵画として完成されていた。

 

「昼にも思ったけどよ。いい趣味してんな」

 

 挨拶がてら、外部音声でマサキは軽口を叩いた。無視されるかとも思ったが、返答はあっさりと返ってきた。

 

「そりゃどうも。でも、別にこの娘を自慢したくてあんたを呼んだんじゃない」

 

 この娘ときたか。気を滅入らせつつもマサキは、眼前の機体の唇が、パイロットの音声に連動して動いたりしなかったことに安堵した。

 

「まず先に言っておくけど、この件は完全にあたしの個人的な問題でね。DCが連邦と協調態勢を取っているのは本当。今回あんたらを助けに来たのも本当。あたし一人が、私怨にかまけてこうして馬鹿をやっているわけ。あとあと事情聴取の場があるだろうけど、犯人の供述内容として覚えておいてね。あんたが生きてればの話だけど」

 

「おめえさんの都合なんざ知らねえよ。俺はただ帰りの遅い不良娘を迎えに来ただけだ。どこにいる?」

 

 言葉の代わりに、地図が送られてきた。連邦とDCの機体で通常行えることではないが、有事の際の連携のため、現時点でハガネ隊唯一の戦力であるフリューゲルス小隊と、DC救援部隊の間では制限付きのネットワークが構築済みとなっていた。

 

 マサキから見て三時方向、本島南部に位置するリゾートホテル。地図だけを見ても、ゴルフ場、テニスコート、海水浴場と結構な設備と土地を有していることがわかる。

 

「こらまた豪勢なところだな」

 

「なにせい縛ってもいないから、大人しくしててくれてるかはわからないよ。案外、今もこっちに向かっているかもしれない。でもまぁ船なんかないだろうし、本島に撃ちこみさえしなければ問題ないってわけ。気をつけようね、お互いにさ」

 

「誤射が怖いなら、そもそも撃たないのが一番だぜ」

 

「悪いけどそうもいかないんだよ。なにせ、ずぅっと待っていた。今日、この日が来るのを」

 

 右手にぶら下げていたライフルを、ヴァルシオーネはゆったりと持ち上げた。銃口がサイバスターの下から上を舐め上げるように通り過ぎ、そのままヴァルシオーネの肩にどすんと乗せられる。あからさまな示威行動だった。

 

「怨みを買うにしても、心当たりが多すぎるぜ。聞かせろよ、お前いったい誰なんだ」

 

「あたしの名前はリューネ・ゾルダーク。これでわかってもらえる? 裏撃墜王」

 

「……親父さんの復讐ってわけか」

 

「そういうこと。さ、やろう」

 

 今度こそ、ヴァルシオーネの銃口がサイバスターに突きつけられた。それを前に、マサキはいまだサイバスターに戦闘態勢を取らせない。アイビスのことさえなければ、マサキにリューネと一戦を交えるメリットなどない。とりわけ両者は形の上のみであっても、ハガネ隊とDCにそれぞれ所属する身である。政治的な意味でも、あとあと面倒なことになることは火を見るよりも明らかだった。

 

「何の罪もねえ親父さんじゃぁなかったと思うがな」

 

「安心してよ。口が裂けてもそんなこと言わないから」

 

 苦し紛れに説得も、ほんの数言で斬って捨てられる。リューネにしてみれば、その手の話はすでに飽きるほど繰り返されてきた議論だった。時にはブリジッダと、多くは自らの中で、寝る時以外ずっと。いまさら蒸し返すものなど何もない。

 

 ヴァルシオーネの推進機関が呼吸を開始する。ウィングが左右に展開され、即座に女巨人の両足が風に舞う風船のようにふんわりと地を離れた。テスラドライブ……かどうかはわからないが、並みの飛行性能ではないとそれだけで見て取れる。

 

「よせっつってんだろ……!」

 

「聞けないね……!」

 

 放たれた荷電粒子を、マサキはすんでのところで躱した。それを合図に、サイバスターとヴァルシオーネは幾つか牽制を応酬しつつ、同時に天へと昇った。

 

 

 

 放浪時代に取った杵柄が、こんなところで役立つとは思わなかった。ホテルの事務室からドライバーなど幾つかの道具を拝借し、アイビスはホテルの駐輪場に移動して、駐車されっぱなしになっている一台の大型バイクに目をつけた。よし、とアイビスは胸の内で首肯する。大型二輪の免許などないが、幸い運転の経験には困らない。ついでに鍵を持たずしてエンジンをかける技についてもだ。バイクのすぐ横であぐらをかき、アイビスは懐からペンチとドライバーを取り出した。

 

(なんだか懐かしいな)

 

 そんな場合ではないとわかりつつも、ふと郷愁の念が湧いた。こうしてみると便利だとは思うのだが、他人にはとても自慢できるものではない。しかし、あの頃のアイビスの特技といえば、鍵なしでバイクを動かす方法、電車を無料で利用する方法、効率的な物乞いの仕方など、そういうものばかりだった。そんなことだから、学歴を手に入れるべくHiSETテストの願書を提出するとき、特技欄の記入に大いに苦慮したことを覚えている。

 

 数年のブランクにより腕が錆び付いていることもあれば、バイクの規格も微妙に変わっており、エンジンの掌握はやや難航した。あれこれと試行錯誤しながら、アイビスはすでに始まっているかもしれない二人の戦いのことに思いを巡らせた。

 

 アギーハとの戦いで砕かれてから、サイバスターの長剣はいまだ修復が完了していない。しかし、かといってやすやすと遅れをとるマサキでもない。自分という足手纏いさえいなければアギーハにだって負けることはなかった。リューネの腕前がいかほどのものであれ、マサキが勝つという一点においてはアイビスは全く不安を持っていなかった。しかしリューネの身に一切の危険を及ばさず、あの女巨人だけを確実に戦闘不能へ追い込められるほど、両者の実力に開きがあるようにも思えなかった。

 

 ならばやはり、二人を戦わせてはならない。思うと同時に作業が終わった。サイドスタンドを起こし、アイビスは威勢良くバイクにまたがった。スターターを押して、エンジン駆動。重々しく排気音が嘶く間に、ミラー調整。ギアをローに入れ発進、すぐにギアを最高速まで持っていく。

 

 かくして一台の大型バイクは風となり疾走し、猛烈な勢いでホテルの駐輪場を飛び出していった。

 

 

 

 朝と夜のちょうど境目となる藍色の空を、二筋の流星が飛び交っていた。

 

 開戦から今に至るまで、状況は射撃戦の様相を呈していた。

 

 女巨人ヴァルシオーネは、ヴァルシオンの流れを汲みつつもはっきりとその運用目的を異ならせている。ヴァルシオンが典型的な重砲戦型特機であったのに対し、ヴァルシオーネは軽快さとスピードをこそ本領とし、最高速度こそサイバスターには及ばずとも、それでも藍色の空を自在に駆けるサイバスターを見失うことなく、隙を見つけては間断なき射撃を浴びせかけていく。

 

 やりやがる。

 

 マサキはそう素直に感じた。エクセレンのような嫌らしさはないが、外連味のない率直な戦い方をする。かといってマニュアル通りというわけでもないし、所々で勘も冴えている。

 

 しかし火力不足は歴然であった。携えているビーム砲はそれなりの出力のようであったが、サイバスターの結界装甲の前では涼風に等しい。その特機とは思えぬ非力さは、逆にマサキの判断を迷わせる。普通の相手ならば隠し球を警戒するところだが、相手は見ての通り普通ではない。外見しか見所のない趣味機が、申し訳程度の武器を持っただけ……という可能性も今ひとつ捨てきれない。

 

 関係ねえ。マサキは断じた。隠し球を持とうと持つまいと、とにかく機体とパイロットが得意とするのは射撃と見た。ならば、やることは決まっている。

 

 慣性を蹴り飛ばして急速反転、まさしく迅雷のような勢いでマサキは敵手との距離を詰めた。徒手空拳であるが、接近速度が迅雷であるのなら、そこから繰り出される拳もまた稲妻である。ましてや敵の痩身を思えば、撃退するにあたりなんの不足もない。かくして放たれたサイバスターの右拳は、寸分たがわず相手の顔面にまで伸びきって、そして空を切った。

 

「……!?」

 

 尋常でない衝撃音と共に、サイバスターのコクピットが上下に跳ね上がった。メインスクリーンに罅が入り、そこかしこで砂嵐が巻き起こる。なんだ、なにをされた。躱されたことだけは確かなようだが、そのことは全くマサキの理解の外にあった。

 

 マサキはリューネの反撃をくらったのである。サイバスターの右腕を内側に躱しざま、ヴァルシオーネはそのまま半身になって、右肘をサイバスターの顔面に鉄杭のごとく突き刺していた。角度、タイミングともに完璧すぎる激烈なカウンター。彼我の相対速度による合力をまともに喰らい、サイバスターの顔面は見るも無惨に粉砕された。

 

 マサキの理解が追いつくよりも早く、すでにヴァルシオーネは次の一手に動いていた。ためらいなくライフルを投げ捨てたかと思うと、ウィングを吹かせて身を翻し、弓のようにのけぞるサイバスターの背後へと鮮やかに回りこんだ。ついでサイバスターの腰を蝶番のごとくクラッチ、そのまま後方へ一気に反り上げる。あっという間に天地を逆転させ、頭上のポーツ島目掛け、あろうことかサイバスターを抱えたまま全速急降下した。

 

 空中ジャーマン・スープレックス、とでも名付けるべきか。それを他人事として目撃したのなら、マサキは驚きを通り越して呆れ返っただろう。機動兵器でプロレスをやるなど正気の発想ではない。しかしその異常発想の持ち主はこうして存在していて、他でもない自分にそれを仕掛けていた。

 

(違った。射撃屋なんかじゃぁなかった、こいつは)

 

 全くの未体験な戦法になす術なく、マサキと彼の乗るサイバスターは猛烈なスピードでポーツ島の大地に追突した。

 

 

 

  Ⅲ

 

 

 

 隕石が落下したかのような尋常ならざる衝撃音と、アイビスが本島北の海岸道路にたどり着いたのはほぼ同時のことだった。ポーツ島とアイビスのいる本島は、幅800メートルほどの内海に隔たれているが、それでも決して小さくない振動が届き、アイビスは危うくバイクを転倒させるところだった。

 

 なんとか無事にバイクを路肩へ停車させ、海の向こうの震源地へとアイビスが目を向けたとき、そこには目を疑う光景が広がっていた。

 

 天地逆転して地面へ突き刺さる二体の機動兵器。どこか漫画じみた滑稽ささえ思わせる、奇怪なオブジェが島の中央に厳然とそびえ立っていた。

 

「マサキ……」

 

 アイビスが呆然と呟く間にも、そのオブジェの片割れにして仕手のヴァルシオーネが、するりと風に舞うようにサイバスターの背中から離脱し、改めて両の足で地面を踏み直した。支えを失ったサイバスターは後頭部と後ろ首のあたりから火花を散らしながら、そのまま地響きを立てて地面に倒れこんだ。さしものサイバスターもかような荒技をまともに受けては悶絶を免れない。俎上の鯉も同然なその姿に、リューネは躊躇なく止めを刺そうとした。ヴァルシオーネの両腕が、まるで気功でも放たんとするかのように前に伸ばされる。

 

「やめて、リューネっ!」

 

「……」

 

 本島海岸のアイビスが何を叫ぼうと、操縦席のリューネには届かない。それでなくとも彼女の心は今、彼女自身が戸惑うほど絶対的な静けさの中にいた。勝利を確定させた今に至って、なんの情動も湧かぬこの心はなんなのか。

 

 考えるのは後だ。いまは止めをくれてやるのみ。腕相撲のときと同様、まるで真冬の湖水のように暗く澄み切った眼差しで、リューネは死に体のサイバスターへと向けてシーカーをロックした。

 

 しかし止めの一撃が充填されきる前に、サイバスターの周囲で小さな閃光が二つ弾けた。サイバスター擁する浮遊砲台ハイ・ファミリアが、動けぬ主人に代わって敵を牽制すべく出撃したのである。

 

 反射的にリューネはヴァルシオーネを後退させた。あらぬ方向から幾筋ものビームが降り注ぐ。さほど威力はないように見えるが、ヴァルシオンと異なりなんら防御バリアを持たないヴァルシーネにとっては好んで浴びたいシャワーではない。

 

 その間隙を縫って、サイバスターはやや覚束なさそうにしながらも立ち上がっていた。リューネは相も変わらず凍てついた眼差しのまま、しかしにやりと大きく口の端を釣り上げた。後退、即、前進。ヴァルシオーネが大地を蹴る。隼のごとく地を這うように疾走し、ハイファミリアの掃射をくぐり抜けつつ、サイバスターの間合いの内へ一息に肉薄する。

 

 まずい。そう思いながらも、マサキは顔面に繰り出された拳をなんとか躱す。ご丁寧にも竜頭の形に組まれていた拳に形にぞっとしながらも、続いて繰り出された左のボディーブロー。右腕で防ぐ。さらに続くまたもや顔面狙いの三撃目。これも躱す。

 

 三連のコンビネーションを防がれ、リューネは即座に間合いを取り直し、油断なく相手を見据えた。対して、見据えられるマサキは疲れたように息を吐いた。上下に散らされたお手本のような連打に対し、視界が効かない中こうも鮮やかに防げたのは、それがマサキとっても慣れ親しんだ動きであったからだ。

 

 レスリングの次はボクシング。ついでに拳の形には空手の要素も入っていた。

 

(なんつー、おっかねえ女だ)

 

 修復はすでに始まっているが、顔面の損傷は未だ激しく、今のサイバスターは視界が6割ほどしか効いていない。格闘戦において極めて不利な状態であるが、むしろマサキは同じ状態で空中戦へ移行するよりはまだましという見方をした。サイバスターに止めを刺そうとした時の仕草から、敵は銃以外の、おそらくは内蔵式の火砲を切り札として隠し持っている。空中で、モニターの視界外からそれを使われてはたまったものではない。そして当然ながらそれは地上でも同じことが言え、その危惧の通りに、ヴァルシオーネはさらに後方へと身を滑らせ、先刻と同じように両掌を前に突き出す構えをとった。

 

 そうはさせじと今度はマサキの方から間合いを詰める。まんまと誘いに乗った敵手に向けて、リューネは即座に構えを切り替えた。足を踏み出し、半身の体勢をとる。初手と同様に肘鉄のカウンターを狙ってのことだが、その痛みを体で知るマサキにしてみれば二番煎じでしかない。 

 

 慣性を無視した急ブレーキに、必殺の肘はあえなく空を切った。よもや一度で見切られるとは思わなかったのか、どこか驚愕に歪んでいるように見えるヴァルシオーネの表情を薄気味悪く思いつつ、マサキは今度こそその顔面めがけて渾身の左拳を打ち込んだ。

 

 果たして左拳は狙い違うことなくヴァルシオーネの右頬に突き刺さった。ようやく成し遂げられた会心の反撃に喝采をあげるマサキであったが、しかしマサキが眼前の敵の恐ろしさを思い知ったのは、まさにこのときであった。

 

 先刻のサイバスターの写し絵のように、弓のごとく上体を仰け反らせるヴァルシオーネ。それに追従するように彼女の両足も宙高く持ち上がり、その不自然な挙動にマサキが疑念を持つのと同時に、あろうことかサイバスターの左肩から顎にかけてをがっちりと咥え込んだ。

 

「ふざけろ、こいつっ……!」

 

 跳び付き腕拉ぎ逆十字固め。技としては知っていても、機動兵器戦でなどお目にかかったことはない。ましてや殴られると同時に反撃として繰り出すなど、生身の格闘技においても前代未聞である。両腕と両足でまんまとサイバスターの左腕を絡め取ったヴァルシオーネは、そのままスラスターの力も借りてぐるりと左右に身をひねった。重心を崩されるがままサイバスターは転ぶように一回転し、再度背中から地面に倒れこんでしまう。その轟音と衝撃に一切たじろぐことなく、ヴァルシオーネはサイバスターの左肩関節を完全に極めきり、その上でさらに左腕を引き続けた。機械とはいえ人型である以上、サイバスターの関節にもまた可動領域限界はある。装甲と比してのその脆弱さについてもまた、残念ながら人体のそれを踏襲せざるをえない。

 

 マサキが意を決するまで、数秒の間があった。白兵を主戦法とするサイバスターが片腕を失うことは、戦力の半減につながる。しかし敵が内蔵式の火器を切り札として持つのなら、片腕を犠牲にしてでも一秒でも早く今の状態から離脱しなくてはならない。

 

 逡巡はほんのひと時に抑え、マサキはサイバスターのエーテルスラスターを全開にした。飛び上がろうとする五体と地に押し付けられる左腕。相反する作用がサイバスターの左肩一点に集約される。彼の騎士が何よりも誇る絶大な加速力が、そのまま致命的な応力となって彼自身の肩関節を瞬く間に粉砕した。その激しくも生々しい破壊音を克明に聞き捕らえながらも、戒めをほどいたマサキはそのまま遮二無二にサイバスターを空中へと退避させた。

 

(そんな馬鹿な……)

 

 対岸にて一部始終を観戦していたアイビスは、信じられない思いだった。痛々しくも片腕を引きちぎられたサイバスター。彼の騎士がこれほど強かに傷つけられる様を、アイビスはこれまで一度として見たことがなかった。

 

 戦慄するアイビスをよそに、まんまと獲物を取り逃がしたはずのヴァルシオーネは、どこか悠然と立ち上がった。小脇に抱えていたサイバスターの左腕を、これみよがしに放り捨てる。

 

「ようやくここまでこれた」

 

 コクピットの中で、どこか満足げにリューネは呟いた。

 

「やっと親父に追いつけた……」

 

 リューネの言葉はマサキには届いていないが、届いたところでその言葉の意味など少年には分かるまい。かつてアイドネウス島でビアン・ゾルダークと対峙した時、いまと同様に左腕を奪われていたことなど、マサキは覚えてすらいなかった。

 

(正直油断はあった。敵の戦法の予備知識もなかった。けどそれにしたって……ええい!)

 

 モニターの各所に視線を走らせ、機体の破損状況を確認しながらも、マサキは内心で盛大に地団駄を踏んだ。左腕は完全に脱落。視界の回復はまだ7割といったところ。端的に言って散々な状況だった。ここまで苦戦するのはいつ以来か。敵の格闘性能は異常なまでに多彩すぎた。

 

 PTにせよAMにせよ、武器として剣や槍を持つ機体は珍しくない。中には拳をもって戦う機体だってあるだろう。だが機動兵器はあくまで機動兵器であって、所詮人間そのものではない。たとえどれほど白兵に長けた機体であろうと例外なく、そのモーションは常に一定のパターンしかないはずだった。剣を例にするのならば唐竹から刺突までの九つの斬撃方向があり、そこから彼我の距離、方向、高低差、また自機の体勢によっていくつものパターンに枝分かれしていく。そこからパイロットの手で、あるいはコンピューターによる自動制御によって、状況に応じた最適のモーションを選択していくのが、地上製機動兵器における格闘戦の要諦だった。

 

 だがヴァルシオーネの動きは類型の蓄積でどうにかなるような域では到底ない。ここまでの一連の攻防、もはや一切の冗談抜きに、生身の巨人と戦っているようにしかマサキには思えなかった。

 

 思考制御か、あるいは身体連動か。マサキは相手の操縦系統についてそう見当付けた。操縦者の思考もしくは運動、どちらかにダイレクトに直結する操縦方式でなければ、あの格闘性能は叶わない。

 

 地上において思考制御や脳波コントロールは存在しないわけではないが、まだまだサブシステムの域を出ない。しかし身体連動においては話は別で、マサキが直に知る中では、ビアン・ゾルダークの遺作の一つであるダイゼンガーがその方式を採用していた。あの女巨人が同じくビアンの作によるものなら、同様のシステムを使っていてもおかしくはない。

 

 そう考えれば、あの女巨人が不自然なまでに人体を忠実に模しているのにも納得がいく。この女巨人の運動性能は、すべて搭乗者の運動能力を忠実に再現するためのものなのだ。結果、同じ操縦方式を採っていても、女巨人の格闘能力は膂力こそダイゼンガーに劣るだろうが、柔軟性と精度においては比べ物にならないレベルに達していた。

 

「要するに、だ」

 

 自らに言い聞かせるように、マサキはあえて口に出した。

 

「地上のマシンと戦うつもりじゃぁ、駄目ってこったな。お前さんとやるときは」

 

 そうして不敵に笑う。半ば意図しての強がりであるが、それだけというわけでもない。不意打たれ、深刻に痛めつけられはしたが、それと引き換えに敵戦力のおおよそを把握することができた。ならばあとはやりようである。

 

 確かに敵の白兵戦能力は脅威に値する。人の武を武装とする機体など、地上においては滅多にお目にかかれるものではない。しかし、あくまでそれは地上に限っての話だ。

 

 マサキはサイバスターに地上に降ろし、構えを取らせた。残る右腕を腰溜めにし、左半身を前にして若干半身の姿勢をとる。地上の空手道における正拳突きの準備姿勢に近い。片腕を失っておきながら、なお白兵を挑もうとする敵手の姿に、リューネは眉を顰めた。

 

(勝てると思ってるの? 片腕で)

 

(勝ってみせるさ。片腕でな)

 

 視界が回復するのを待って、魔術戦・射撃戦に移行する手もあるが、マサキはそれを選ばなかった。眼前のこの敵であれば、必ず乗ってくるという確信……というよりは奇妙な信頼があった。ほんの僅かな攻防の中、機体越しに発せられる彼女のプラーナと触れ合うことで、マサキもまたアイビス同様に彼女の内からなにかを感じ取ったのかもしれない。

 

 そしてなにより、いつだって彼の胸の奥に宿る掛け替えない日々の記憶がそうさせる。忘れ得ぬ日々、第二の故郷、師にして義父たる剣豪からの手ほどき、中国拳法を操る同士、ムエタイを極めた不良坊主、反目し合いながらも互いに切磋琢磨しあった寡黙な剣士。彼らと来る日も来る日も訓練に明け暮れたあの日々にかけて、この一戦、断じて撃ち合いに逃げるわけにはいかない。

 

 マサキは思う。さぁ来い。そして思い知らせてやる。

 

 機動兵器で武を競うなら、一日の長は俺たちにあるのだと。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 フリューゲルス小隊が結成されてから、まだ間もない頃の話である。「ハガネ隊、全小隊全撃破」という向こう見ずな目標を掲げて、来る日も来る日もひたすらシミュレーター訓練に明け暮れる日々。その目標を完遂するにあたって最後の砦となったのは、ハガネ隊最強、つまりは「地球圏最強」の呼び名も高きかのSRXチームだった。

 その日の模擬戦の推移をアイビスはよく覚えている。サイバスターとSRX。互いに戦略級の火力を持つ機体同士、彼らのぶつかり合いはそれこそ天を裂き、地を砕く勢いで熾烈を極めた。そんな死闘の末、ついにSRXを下すに至ったサイバスターであるが、二機の最後の攻防はそれまでにさんざん繰り広げられた大規模エネルギーの応酬に比すれば、実に地味なものだった。

 

 模擬戦が終わった後、明らかに格上であるヴィレッタ機の抑えを担わされたことで心底くたびれきっていたアイビスに、マサキはしたり顔で言ったものだった。

 

「火力をぶつけるだけが機動兵器戦じゃねえってことさ。お前もやれとは言わねえが、知っとくだけはしときな。いよいよというときは、本当にこいつが最後の手段だ」

 

 そして現在、アイビスの眼前には奇妙な光景が広がっていた。西方より銀騎士サイバスター。右拳を脇下まで引き、甲部を下向きにした姿勢。膝は深めに曲げられており、まるで翼の存在を忘れたかのように、ずっしりと構えている。空手道における正拳突きの準備姿勢に似る。

 

 東方より女巨人ヴァルシオーネ。両拳を目の高さに、手の平側をやや相手に向けて開く。膝の位置は高く、前足の踵がやや浮く。ムエタイ、または米式軍隊格闘術の構えに似る。

 

 どちらもおよそ機動兵器の定石からはかけ離れた、あまりにも人間染みた立ち姿だった。模擬戦闘訓練でも白兵主体のシチュエーションはいくらでもあったが、ここまで生身の格闘技に酷似した形になったことはない。機動兵器での肉弾戦など、本来あってはならない。しかしいつだって、肉弾戦こそ真に最後の手段。現にそうやってマサキは、あの三位一体の巨人を間一髪の差ながら打倒し得たのだから。

 

(次で決まる)

 

 理解の及ばぬ戦況を前にしながら、それでもアイビスはそう察した。

 

 構えから予想の付く通り、先手を取ったのはヴァルシオーネの方だった。左足一足で間合いを整え、そのまま腰を切っての、全体重を乗せた渾身のテッ・クワー(右回し蹴り)。左腕を失い、がら空きとなったサイバスターの左脇腹に、鞭の如くしなりながら襲いかかる。

 

 胴体まるごと両断せんとするかのような、その脚の形をしたギロチンそのものに、マサキは図らず、懐かしい知己と思わぬ再会を果たしたかのような暖かみを覚えた。

 

(覚えてるぜ、ティアン)

 

 ヴァルシオーネが踏み出すと同時に、サイバスターもまた初動を開始していた。こちらは脚を踏み出すことなく、しかし力の行き先を変えるべく、わずかに踵の位置をずらす。今はないにしても気持ちの上で左腕を引きよせ、腰を回す。体幹を芯とした、小さな竜巻をイメージする。

 

(さんざんサンドバッグにされたもんな。訓練でよ)

 

 肉体は機械の如く合理に、

 

 心はあくまで敬虔に、天地万物への祈りを込めて。

 

(でも、一度だけ勝てたよな。こうやってさ)

 

 サイバスターの右拳が唸りを上げた。本来、敵の胸元へ突き刺さるはずの一撃は、わずかにずらされた踵により方向を違える。剛健たる正拳は、そのまま渾身の右フックへと転じ、迫り来るヴァルシオーネの右脚部を真正面から迎え撃った。通常であれば愚挙以外の何者でもない。蹴りに打ち勝つ拳などありえない。しかし彼の機体は魔装機神、常識などいとも簡単に覆す。

 

 我、天神地祇に願い奉る。

 

 幸えたまえ、護りたまえ。

 

 拳と脚が激突するその寸前、サイバスターの右拳が神秘なる光を発した。文字通りにそれは「神を秘める」光であった。武を武たらしめるは身体各所の連動が生み出す運動エネルギー。そこに魔力を加えるのがラ・ギアス流。そして、さらにそこに精霊の霊子エネルギーをも加わえ、究極の一撃とせしむるのが神祇無窮流。

 

 ムエタイ王者の経歴を持ち、ゆえに格闘を主体とする超接近戦では隊内無敗を誇ったかつての戦友。彼との訓練で負け続きなことに業を煮やし、意趣返しを果たすべく剣皇ゼオルートから突貫作業で仕込まれた、その空拳術初伝の一。

 

 名付けて天罡星拳。武術と魔術、そして精霊エネルギーが三位一体となって織りなす正拳にして魔拳。その一撃は彗星の如く尾を引きながらまっすぐにヴァルシオーネの右脚部にぶちあたり、そして物の見事に粉砕してみせた。

 

 

 

 あるいはマサキ以上に格闘技に精通するがゆえに、リューネの混乱は甚大なものだった。なにが起こったのか分からない。蹴りに打ち勝つ拳など、本来あり得ない。だというのになぜヴァルシオーネの足の方が砕けているのか。

 

 混乱に打ちのめされながらも、リューネはそのまま機体を無様に倒れ伏させるようなことはさせず、反射的にではあるがヴァルシオーネの翼を吹かせて離脱の動きを取らせた。十分すぎるほど迅速な対応であり、並の相手であれば仕切り直しの状態にまで難なく持っていくことができただろう。

 

 しかし相手は風の魔装機神。翼を競わせて、敵う道理がない。後退するヴァルシオーネに電光石火に追いついたサイバスターは、捕らえた彼女の左足を勢い良く振り回し、先のお返しと言わんばかりに、そのまま地面へと叩きつけた。

 

 かろうじて後ろ受け身を取るも、それでも尋常でない衝撃の威力がヴァルシオーネの背中から全身を駆け巡った。上下に揺さぶられるコクピット内で、モニターの一角が真っ赤になってけたたましく警報を鳴らす。後部各所の損傷、なかでも背部ウィングの破損を知らせるアナウンスに、リューネは仁王もかくやという形相で歯を食いしばった。

 

 瞬く間に大勢は決した。飛行能力を失い、片足を破損させたヴァルシオーネにもはや勝ち目はない。リューネの理性は冷静にその事実を認めたが、しかし理性に従うのなら、正しさを求めるのなら、そもそも彼女は初めからこんな場所に来ていない。

 

「負けない」

 

 リューネは呻くようにいった。

 

「負けられない……」

 

 理性の訴えになど耳を貸さず、感情が求めるまま、心が迸るまま、なおもヴァルシオーネを立ち上がらせようとする。たとえ片足を砕かれようと、リューネにとってそれは戦いをやめるに値することではなかった。破損した箇所はいくらでも修理できる。しかし、太陽が西から昇ろうが、もはや元には戻らぬものがあった。

 

 ここまでのダメージと慣れぬ技を使ったことで、マサキの疲労も小さいものではない。マサキはうんざりするようにリューネを諌めた。

 

「いい加減にしとけよ。もう決着はついただろ」

 

 構わず、リューネはヴァルシオーネを起き上がらせた。翼を失い、片足を失ってはもう立つこともできない。機体は尻餅をついたままであるが、それでも身を起こし、上半身のみで戦闘態勢を取らせる。

 

「ふざけるなよ。そんなざまで何ができるってんだ!」

 

 声を荒げるマサキに、リューネは答えるのも愚かと口を開きすらしなかった。代わりに、あるいは少女の執念が乗り移ったかのように、女巨人の双眸がなお挑むようにサイバスターを睨みつける。

 

 その眼差しが、マサキのなかでふと沸き起こった過去の情景と重なりを見せた。あの忌まわしい記憶。一人の少女の精神を徹底的に追い詰め、結果、小隊の破滅にまで至ったあの試験飛行の日。親の仇のように浴びせられる怨嗟の声、射抜くように真っ直ぐな瞳、一心に注がれる怒りという怒り。いまリューネが発するものと全く同じものが、そこにはあった。

 

 サイバスターに乗っていればこそ、マサキの動揺は外には表れなかった。しかしこれが生身であれば、あるいはマサキは気圧されるように一歩後ずさっていたかもしれない。いま彼は、忌まわしい過去と対峙していた。

 

(親父……)

 

 対してリューネの精神は、動揺とは全く真逆の状態にあった。

 

(親父、親父、親父……!)

 

 胸中には、ただその二語だけがあった。

 

 いまは亡き父は、力に溺れた人間だった。革命家としての自分の力に気づき、自らの正義、自らの理想を世に拡散しようとした。しかし悲しいことに、世に暮らす人々の内にある同じものは信じなかった。自らが立たねばならぬと、自分が世界を導かなくてはならないものと思い込み、多くの人を巻き込み、より多くの人々を不幸にして行った。そうしてついに、自分よりももっと大きな力に敗れた。

 

 その死に顔をリューネは知らない。シュウ・シラワカの残したデータにもなかった。しかし想像することはできる。きっと、あの親父は嘆いたりなどしなかったのだ。自分を凌駕する存在が現れたことに対して、さぞ満足そうに、役目を果たしたような顔をして死んでいったに違いないのだ。人々は彼を悪と貶し、また別のところで不世出の天才とも称するが、リューネはあれほど馬鹿な男を他に知らない。

 

「復讐のためなら死んでもいいってか。はっ、親思いなこったな」

 

「……」

 

「けどそんなことじゃてめえは……ええい、誰のセリフだこれはっ!」

 

「……」

 

「おい、もうやめろっつってんだろ! なんだったら再戦だって受け付けてやるから、とにかくいまはもうやめろ! 仇の言うことなんて聞く耳持たないかもしれねえがな、復讐だのなんだのに拘ったって間違いなくてめえに良いことなんざ一つも無えんだ!」

 

「良いことをしたくてやってんじゃない!」

 

 こらえきれず決壊したかのように、それこをリューネは張り裂けるように叫び返した。

 

「正しいと思ってなんかいない! でも、やらずにはいられないんだよ! 仕方ないじゃないか! 戦わずにいる方が、もっともっと苦しいんだ!」

 

 でまかせで無しに、父の死を知ってからというもの、リューネは己の身に巣食うものに苦しみ続けてきた。

 

 彼女は父を奪われた。しかし父もまた多くを奪ってきた側の人間だった。地球圏の支配を完了すべく各所に勢力図を伸ばしていく過程のなかで、きっと数え切れないほどの犠牲を生み、悲しみと憎しみを生んできた。ビアン・ゾルダークの名は、おそらく未来永劫一大テロリストの首魁として歴史に名を残すだろう。

 

「あんたらが正しかったのさ! きっと親父自身、地獄でそう思っている! でも、だから何さ! あれはあたしの親父だ! なら、あたしが怒ってやらないでどうするの!」

 

 父の悪を理解しながら、それでもリューネは納得しきることはできなかった。だって奪われたのだ。なら怒らなくては。父とDCによって奪われてきた人々と同様に、家族を、肉親を、一人の男、ひとつの生命が失われたことを悲しみ、怒らなくては。

 

 ビアンの死後もDCは続いている。ブリジッダやバン大佐をはじめとする、父の跡を継ぎ理想を叶えようとする者たちがいる。テロリズムは抜きにして、科学者としての実力と実績を純粋に讃える声もまた、今でもそこかしこから聞こえる。しかし、リューネは思う。そうではない。そうではないのだ。

 

 なぜなら彼女は知っている。おそらく今となっては彼女だけが知っている。稀代のテロリスト、超一流の科学者、そんな大層な肩書きとは一切かけ離れた、肉親だけが見ることのできたビアン・ゾルダークの本当の姿を知っている。美しく聡明な妻に頭が上がらず、それだけに彼女を失ったことに意気消沈とし、反動で一人娘を溺愛し、その一人娘が反抗期を迎えた際には、そのわがままぶりに頭を悩ませるばかりで……。そんなどこにでもいそうな一人の平凡な男の姿が、いまとなっては彼女の思い出の中だけにある。

 

 だからこそリューネは立たねばならなかった。幾千幾万の良識ある人々がハガネ隊の正義を訴え、思うところある者ですら大局と時勢を鑑みそれを飲み下そうとしていても、しかし彼女だけはその思い出に報いるためにも、どちらにも習うわけにはいかなかった。

 

「怒らなきゃ……! 戦わなきゃ……! この先あいつの名前は、きっとテロリストの大ボスとしてしか残らない。そんなあいつのために、せめてあたしだけでも怒ってやらなきゃ……。それをあたしがやらないで、誰がやるっていうんだ。あたしの他に誰が、あの男のために心から怒ってやれるっていうんだ!」

 

 少女の叫びの前に、マサキは二の句を継げなかった。脳裏に映る過去の情景が、より一層色濃いものとなる。リューネの言葉は、怒声の形をとった悲鳴そのものだ。憎悪を、それと全く相反する想いのあまりに滾らせていくその姿に、マサキは嫌になるほど見覚えがあった。

 

「だから敵わなくったって戦うんだ! でなきゃ……でなきゃ、あたしたちの十六年間は一体なんだったの? 何の意味も無くなっちゃうじゃないかぁ!」

 

 瞳からは涙が。そのことに自分でも気づいていない様子で、リューネはなおも吼えたてる。自らの心、その中でいまもなお燃え盛るたったひとつの熱源を吐き出すように。理屈もなにもない。父を、ただ父を……。誤っていると、間違っていると理解する上でなお、その想いだけがリューネの胎内で灼熱していた。

 

 そんなリューネの姿に、マサキは戦闘者としてあり得ないことだが、目を背けてしまいたい衝動に駆られた。あの試験飛行の日。絶えぬ雨の中で行き場のない感情にひたすら苦しむ少女の姿あった。その少女と、マサキはいま再び向き合っている。あのとき、マサキは少女から逃げはしなかったが、しかしそれ以外のこともできなかった。ならば今度はどうする。どうすればいい。リューネを殺したくない。政治的な意味でも殺すわけにはいかない。

 

 いっそずらかるか、マサキはそのように思った。およそ彼に似つかわしくない発想だが、そう悪くないアイディアに思えた。どうせこのざまでは追撃の恐れはない。本島へ逃げ込んでアイビスを回収し、ラングレーまでまっすぐに帰還。リューネのことはDCに任せ、あとは我関せずでいれば……。

 

 まとまりかけた思考は、つん裂くような電子音によって水を差された。サイバスターからの報せではない。マサキはいまだジャケットに捜索作業用の無線機を入れっぱなしにしていたことに気づいた。ふと予感が湧いてポケットから取り出し、表示を確認する。来るときにもあった見慣れた番号がそこに表示されていた。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 ホテルの部屋に通信機を残したのは、はたしてリューネのミスなのか、それとも故意によるものなのか。いずれにせよテーブルの上に置かれていたそれを見逃さず回収できていたことは、きっと今回の件でアイビスが為すことのできた唯一の大殊勲だった。

 

「マサキ、聞こえる?」

 

「アイビスか? いまどこにいる?」

 

 通信は滞りなく繋がった。

 

「あたしは大丈夫。本島の海岸で二人を見ている。それよりマサキ、お願いがあるんだ」

 

 アイビスは一つ息を吸い込んだ。いまから彼女は馬鹿なことを言おうとしている。何の益もない、ただ彼の身を危険にさらすことを口にしようとしている。だがアイビスはそれを口にした。それこそが、いま自分がすべきことなのだという、奇妙な確信があった。

 

「あの人と戦ってあげて欲しい。本気で」

 

 当然ながら、マサキは戸惑った。それを承知で、アイビスは拙くも言葉を重ねた。

 

「マサキ。マサキだって分かってるでしょ。あの娘、いい子なんだよ。とっても優しい子なんだと思う。だから、多分マサキのことだって本当は恨んでなんかいないんだよ。ただ、愛してただけなんだ」

 

「……」

 

 アイビスにはそうとわかった。だってあの娘はあたしだ。あの雨の日のあたしなんだ。だからこそ、いまのリューネの姿を見ると、アイビスは自分のことのように苦しかった。

 

「何も首を差し出せって言うんじゃない。でもね、あの娘の声を聞いてやって。逃げないであげて。体全部で受け止めてあげて欲しい。あの娘が、心の膿を全部を吐き出して、また歩き出せるように……」

 

 受け止める。その言葉を聞いて、マサキは目が醒めるような思いにもなった。あの雨の日、マサキは怒りのあまりにアイビスに向けて手を振り上げた。アイビスは歯向かわず、むしろ殴られることを望んでいるかのようだった。結局振り上げられた拳は彼女に触れることなく、ただ地面に叩きつけられるだけに終わった。

 

 もしあのときマサキが、いまアイビスが言うようなことをできていたら。拳を握るのではなく、胸ぐらを掴みあげるのでもなく、ただ彼女の嘆きを受け止めるべく、もっと別のことが出来ていたなら……。

 

「くだらねえこと言ってんじゃねえよ」

 

 手の中の通信機に向けて、そうマサキは告げた。

 

「マサキ……」

 

「誰が相手だろうと、俺が逃げるわけないだろ。いいからてめえはどっかに隠れてな」

 

 自分でも出自不明な気恥ずかしさを打ち消すように、ことらさぶっきらぼうにそう言って、マサキは通信を切った。その間にも、ヴァルシオーネは両腕を構え、まっすぐにサイバスターの方へと向けてきていた。これまでにも何度か放ちかけた、おそらくは彼女最大の火器をいまこそ繰り出そうと言うのだろう。しかし両者の間合いは、すでに目と鼻の先と言って良い。加えて相手は動けない。止めることはあまりにも容易だった。

 

 果たして、マサキはリューネを止めなかった。そして逃げもしなかった。

 

「いいだろう。来やがれ」

 

 迷いは断たれていた。政治や駆け引きは地平線の彼方に、マサキはあくまでマサキ・アンドーとして、彼自身の心が赴くままにサイバスターを構えさせた。ついで、これこそが真に自らが欲していたことなのだとマサキは理解した。そうだ、逃げたりなどするものか。無念と後悔に塗れるあの日の写し絵とこうして再会しておきながら、なぜ逃げたりなどできるものか。

 

 つかえが取れたように、一意専心に研ぎ澄まされていくマサキの闘志に呼応して、サイバスターの双眸がいつになく、どこか喜ばしげに輝いた。恐れ、迷い、その他小賢しい雑音の一切を捨て去って、内側から聞こえるたったひとつの声に少年が従ったとき、その時こそサイバスターは最大の力を発揮する。

 

 エネルギー充填完了。ヴァルシオーネの両腕が蒼紅に輝く。サイバスターは動かない。

 

 リューネが吠える。

 

 マサキは待つ。

 

 そしてついに、最後の一撃が繰り出された。ヴァルシオンから受け継いだ最大火力。そこにあらん限りの想いを込めて、リューネは撃った。本来の相手に届けることは、もはや永劫叶わない。しかし届けるべき想いだけは確かにここにある。

 

 クロスマッシャー。全てを砕く蒼紅の二重螺旋。どこかDNA構造を彷彿とさせるそのエネルギーの渦は、あるいはまさしく、一組の父と娘を結ぶものそのものであったかもしれない。

 

 アイビスの言と、自らの心に従って、マサキはそれを避けたりなどはしなかった。地・水・火・風、その他二つ。森羅万象の六芒星が空中に描かれ、不動の盾となってエネルギーの竜巻を真正面から受け止める。光が華のごとく八方に歪曲した。ねじ曲げられた破壊のエネルギーは、無秩序な乱気流となって大地をえぐり、大気を焼いていく。

 

「……っ!」

 

 威力に耐え切れず、ヴァルシオーネの両腕が次々と火を吹いていく。損傷はクロスマッシャーのエネルギーバイパスにまで及んでいた。このまま続ければ、機体が爆散する可能性もある。

 

 それでもリューネは撃ち続けた。死が恐ろしくないわけではない。しかし父が見ている。死の国から彼女を見下ろす父の残影に、背を向けることこそリューネは恐ろしかった。死者に縛られて、生きている自分を見失う哀れな少女の姿に、対岸のアイビスはたまらず目を伏せ、対するマサキは文字通りにそれを真正面から受け止めた。

 

「手強かったぜ、お前」

 

 掛け値なしの本心で、マサキは言う。エネルギーの乱流を押し返しながら、サイバスターは一歩、また一歩と歩を進めていった。

 

「戦っているうちに分かった。ビアンのおっさんの最高傑作はヴァルシオンじゃぁなかった。もちろんゼンガーのおっさんのでも、レーツェルの機体でも、お前のその機体でもねえ」

 

 徐々に徐々に押し込まれながらも、リューネは必死にヴァルシオーネを踏みとどまらせた。退けない、退くものか。この敵にだけは死んでも負けられない。

 

「確信するぜ。おっさんの最高傑作はお前だった。やつが一番心血と愛情を注ぎ込んでいたのは、機械人形なんかじゃぁなく、リューネっていう名前の一人の人間だった」

 

「知ったようなことをっ!」

 

「どこぞの陰険野郎と違って俺は逃げも隠れもしねえ。まだ文句を言い足りないなら、いつでもかかってきな。けど今日のところは……」

 

 父を想い、流るる涙に報いあれ。

 

 そして彼女を奈落へ追い込む悲痛な運命に引導を渡すべく、盾とされていた魔方陣がそのまま終わりの始まりとなる。夕暮れよりもなお朱く、世の一切を破戒する魔界の巨鳥が現れ出でる。愛憎に狂う蒼紅の竜巻に胸を穿たれながら、なおのこと命を謳うがごとく高らかに産声をあげる。

 

「こいつでお終いだ!」

 

 アカシックバスター。かつてひとつの戦史を終わらせた終焉の一撃が、今ふたたび全てに幕を降ろすべく光り輝いた。アカシックバスターはその名の通り、森羅万象を刻む因果の理を断つ。ならばここで断つのはヴァルシオーネの五体でも、搭乗者の命でもない。それを証し立てるかのように、鳳の翼は雄々しく開かれ、ヴァルシオーネの全身を、彼女が放つエネルギーごと穏やかに包み込んでゆく。

 

 さながら傷ついた雛鳥を守り慈しもうとするかのようなその抱擁を、リューネはその目で見た。アイビスもまた。そして全くの偶然に、両者の脳裏を似たような情景が走馬灯のごとく通り過ぎた。

 

 父の姿があった。

 

 各々の記憶に刻まれた、思い出の住人。

 

 愚かな父、横暴な父。尊敬などしてやるものか。挙句そうして、自業自得のまま死んでいった。

 

 それでも父であった。紛れもなく、血を分かつ者。

 

 なればこそ、想わずにはいられない。

 

 理屈も理由もない。父は父。

 

 肉親ゆえに、ただ愛していた。

 

 破戒の巨鳥は何もかもを飲み込んでいく。光は収斂し、収縮し、まるで卵に還ろうとするかのように小さな塊へと凝縮していった。鳥は卵となり、卵は点となり、やがて全てが消え去ったとき、後に残るのは片足と両腕を吹き飛ばされ、さらには全身を焼け焦げさせた見るも無惨なヴァルシオーネの姿のみだった。女巨人はそのまま大地に倒れ伏し、リューネもまたその胎内で精も根も尽き果てたかのように気を失った。

 

 戦いは終わり、マサキは息を吐き、アイビスは天を仰いだ。

 

 いつの間にか、陽の光が水平線より顔を出している。

 

 暁が終わり、朝が始まろうとしてた。

 

 

 

   Ⅵ

 

 

 

 リューネが目を覚ましたとき、そこはもうヴァルシオーネのコクピットではなかった。気絶している間に運び込まれたのか、どこのとも知れぬ小さなベッドの中で毛布に包まれている。バミューダ本島のホテルではないようだが、かといってブルーストークに置かれている彼女の私室でもない。

 

「目、覚めた?」

 

 よく知る顔が枕元からリューネの顔を覗き込んでいた。

 

「アイビス……」

 

「おはよう、でもないね。気分はどう?」

 

 まるで意趣返しのように、アイビスの言葉はだれかのものをそのままなぞっており、リューネは苦笑しようとして上手くいかなかった。表情を動かすことすらままならないほど、体が疲れきっていた。眠気もひどく、遠からずまた眠りに落ちてしまうだろう。

 

「ここ、どこ?」

 

「ハガネの中。あの後、連れてきちゃった」

 

「助けてくれたの?」

 

「一応、このまえのお礼のつもり」

 

「人が好いね。ひどいことしたのにさ……」

 

「そうだね。でも、自分でも不思議だけど、あまり怒っていないんだ。なんだかんだで、あたしも怪我一つないし。まぁ、サイバスターはちょっと重症だけど」

 

 マサキがぶつくさうるさかったよ、とアイビスが思い出すように笑うと、リューネは霞むような目で天井を見上げた。

 

「そっか。あたし、勝てなかったか……」

 

「気を落とすことないよ。惜しかったと思う」

 

 アイビスの呑気な言い草に、リューネは笑った。

 

「一体、どっちの味方なの?」

 

「事実を言ってるだけだよ。それより気分はどう? 痛かったり、気持ち悪かったりしない?」

 

 いまの状態では正確には判断できないが、すくなくともいまだけはどちらの症状も感じず、リューネは首を振った。

 

「なんともない、ただ、なんか、静かだ……」

 

 今日まで絶えずリューネの胸の内で灼熱していたはずの熱源が、嘘のように鎮まり返っていた。身に巣食う狂おしい感情も和らいでいる。父の顔、マサキ・アンドーの顔、そのどちらを思い浮かべても、なにも沸き立つものがない。波一つ立たぬ凪の日のように、いま彼女の心はなにもかもが平らかだった。

 

 すっきりした……と言えるのだろうか。ただ単に、いろいろなものが燃え尽きて、空っぽになっただけというような気もする。どちらが正しいのか考える気すらおきず、いまはとにかく、リューネは眠ってしまいたかった。とにかく、身も心もくたびれていた。

 

「分かってたんだ」

 

「ん?」

 

「仇だの恨みだの、言えた義理じゃないって分かってた。でもね……」

 

 でも苦しくて。理屈と論理が是と捉えても、それら以外のせいで胸が苦しくて。

 

 その苦しみに対処する方法はきっと幾つかあった。抱えたまま閉じ込めることを選ぶ者だっている。自分の中で消化し、忘れてしまえる者だっているかもしれない。そのどれをも為し得ず、リューネはもっとも直接的な方法を選んだ。

 

 そんなリューネのことを、アイビスは、思うところはあれ到底嫌いになれそうになかった。なるほど逆恨みである。加えてアイビスにとっては自身の誘拐犯であり、想い人に害をなそうとした暴徒である。

 

 しかしそれでもアイビスは、父の人生にたった一人報いを捧げるべく、誰の手も借りず単身サイバスターに、そしてハガネ隊に挑もうとしたこのリューネという少女の中に、あの少年とも重なる真っ直ぐで衒えなき魂の輝きを見た。

 

「こういうとなんだけどさ。リューネとマサキって、結構気が合うと思うよ。似てる気がする、なんと無く」

 

 一拍の沈黙を挟み、「バカ言わないでよ」とリューネは弱々しくも吐き捨てた。

 

 そうしてやがて、話し疲れたのかリューネの瞼が重力に押し負けるように徐々に閉じられていく。

 

「眠い?」

 

「少し」

 

「そう。じゃぁ眠るといいよ。起きてから、また色々大変だろうから。今回のことで、いま外は大騒ぎになってるよ。こっちとそっちの艦長があれこれと言い合ってて、マサキも引っ張りだこになってるみたい」

 

「だろうね……ごめん、次に目が覚めたら、すぐに出頭するよ」

 

 言をごまかすつもりなどリューネにはなかった。自分がビアンの娘であること。その仇討ちのために、独断で誘拐と戦闘を行ったこと。DCが連邦との同盟を崩すつもりはなく、ブリジッダは自分を止めようとしていたこと。すべて正直に話すつもりだった。

 

 そのあたりの事情まではアイビスの知るところではなかったが、それでも、おそらくこの少女は自分を守るようなことは何一つ言わないのだろうと、それだけは察することができた。ことは組織と組織の問題であり、アイビスが口出しできる範囲は限られている。

 

 リューネしかり、アイビスしかり、人の感情というものはこんなにも度し難い。間違っている、叶えてはならない、頭でそう分かっていても、どうにもならない心というものが人間にはある。その処理の仕方は様々で、アイビスはこれまで抱えたまま閉じ込める方法を選ぼうとしており、リューネは全く正反対を選択した。

 

 リューネとマサキ。二人の戦いを止めるべくアイビスはホテルを飛び出し、一心不乱にバイクを走らせた。マサキと連絡がつけられたのだから、マサキに自分の身を回収してもらい、そのままリューネを置いてバミューダ諸島から全速離脱するという手だってあっただろう。しかしどうしてか、最後の最後でアイビスはマサキに全てを託し、二人の戦いを見守ることを選んだ。

 

 最後の攻防によりヴァルシオーネは中破し、サイバスターは依然として左腕を失ったままだ。結局此度の決闘はハガネ隊とDCの戦力をそれぞれ削り合うだけに終わり、大局的に見れば何の益もなく、ただ遺恨だけを残して終わった。

 

 それでも、アイビスはマサキをけしかけたことを後悔する気にはなれなかった。世の物事は、必ずしも損得ばかりで計れるものでもない。一見何の利益もなくとも、それでもあの戦いには、きっとなにか大きな意味があったとアイビスは思う。あるいは当事者たちのこの先の運命に関わるほど、きっとなにか、大きな意味が。そう信じたいのでも、願うのでもなく、ごく自然にアイビスはそう捉えていた。現にアイビス自身、あの戦いを目にした今だからこそ胸に秘め得た、ある一つの、ほんのささやかな決意があった。

 

 明日以降、リューネの処遇がどうなるかは、現時点では誰にも判断できないことだ。なのでアイビスは、いまのうちに伝えたいことを伝えておこうと思った。

 

「ありがとね、リューネ」

 

 いったいどこからそんな言葉が出てくるのか。そう言いたげに、眠りに落ちかけていたリューネの瞼が、かすかに開いた。

 

「嘘じゃないよ。リューネを見てて、ふんぎりのついたことがあるんだ。あたしもね、挑んでみることにするよ。リューネを見習ってさ。相手は……まぁ、言わなくても分かるよね。リューネにとってもそうだったように、あたしにとってもきっと一番の、最大の敵なんだ」

 

 彼にとってはきっと災難続きにちがいない。しかしそれもやむを得ないことだと、アイビスは身勝手にも彼に代わって匙を投げ捨てた。これもある意味で「女の敵」ということになるのだろうか。だとすれば次に起こることも、きっと彼の逃れえぬ宿命であるのだろう。

 

 なんにせよアイビスは、決意を新たに席を立ち、まどろむリューネに別れを告げた。リューネはしばしの間アイビスの顔を見つめていたが、やがてほんのすこしだけ笑みを浮かべて、そのまま沈み込むように眠りの国へと旅立っていった。

 

「おやすみリューネ」

 

「おやすみ、アイビス……」

 

 そうして二人は別れた。

 

 

 

 

 

 



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第二十一章:天と地と

 

 

   Ⅰ

 

 

 事前の計画と幾つかの偶然により、12月14日という日付はハガネ隊の周辺で様々な動きが並列的に始動する非常に慌ただしい日となった。

 

 第一に、こちらは事前の予定通りにハガネ隊整備班によるヒリュウ改の応急修理が開始されることとなった。瓦礫の海に寝そべる鋼鉄の巨大クジラを、外からの力だけで引き上げることは容易ではない。この後に控える本番の引き上げ作業に向けて、あるいはそれこそ可能であるのならヒリュウ改に独力で脱出させるべく、ヒリュウ改の動力部ならびに推進システムを少しでも正常に近づけなくてはならなかった。かくして12月14の午前9時半、ハガネ隊の整備班たちは地元のレスキュー隊のサポートも受けながら、各種工具や交換用パーツの他に命綱、ハーネス、懐中電灯、安全ヘルメット、艦内マップ等々まるで洞窟探検隊のような装いでハガネ艦内を出発した。ことは引き上げ作業の成否にかかわる。隊内からの期待を一身に浴びながら、その探検隊兼技術者という一風変わった集団は、整然と列を成しながら、黙々と瓦礫の谷間に寝そべるヒリュウ改の下へと向かっていった。

 

 第二の案件はこれもまた予定の通り、12月14日13時にて「移動式工廠」とも称される修理専門の特務艦隊が無事にラングレーへと到着した。まな板を立てたような特異な形をした四隻のドック艦は、そのまま二隻一組となって即席のフローティング・ドックを形成し、テスラドライブによる質量減衰と磁気浮上を用いて戦艦一隻をまるまる入渠させることができる。そしてそのドック艦に所属する十二の修理工作部隊が、入渠した艦体を中の機動兵器ごと丸ごと一括修理にあたるという寸法である。完全修理には時間を要するし、中には彼らの手にすら負えない状態の機体もあるが、いずれにせよハガネ隊の戦闘力はこれにより大幅に持ち直す見込みであった。当然、修理の間ハガネ隊は無防備となるが、その間の防衛はブリジッダ率いるDC部隊が担うこととなる。また第一と第二の案件については、必要に応じて人員を交換し合い、密接に連携をとりながら並列的に進められる計画にもなっている。

 

 第三の案件は、一部の人間にとってはまさしく寝耳に水の事態であった。事の始まりは12月14の午前十時半。ヒリュウ改の修理活動はすでに始まっており、午後に予定している修理艦隊の受け入れの段取り確認のため、ハガネ隊の管理者たちがミーティング・ルームに集ってあれやこれやと打ち合わせを行っているその場を、一人の少年が訪ねてきた。

 

「どうした。ここに顔を出すなど珍しいな」

 

 部屋に足を踏み入れたマサキは、そう声をかけられて露骨に嫌そうに顔をしかめた。ミーティングルームの中にはキョウスケ・ナンブ、テツヤ・オノデラ、ダイテツ・ミナセ、レフィーナ・エンフィールドにショーン・ウェブリー、そしてその他の班の班長クラス等々、小煩い面子が揃いも揃っていた。少なくとも世間話の相手には間違っても選びたくない顔ぶれだった。

 

 とりあえず、ひとまずの相談窓口としてマサキが見定めた相手は歳も役職も近いキョウスケだった。

 

「ちょいと相談があってな。話を聞いてもらいてえ」

 

「俺一人にか?」

 

「どっちでもいいけど、まぁ、ここで全員が聞いてくれるなら話が早えぜ。どうせ後で伝言ゲームするんだろ?」

 

「悪いがミーティングがまだ終わっていない。後にしてくれるか」

 

「まぁまぁ。もうあらかた議題も消化してますし、少しなら構わないでしょう。現場の意見に対してはいつだって耳をそばだてるべきです」

 

 心なしか弾んだ調子でとりなしたのは、今はハガネに居候中の身のレフィーナ中佐だった。ちなみにレフィーナがマサキをかばうのには理由があって、彼女もまた前大戦のころ、部下も僚機も持たずまさしく飛ぶ鳥のごとき奔放さだったマサキに、さんざん悩まされてきた人物だった。その反動もあってか、アイビスが来てからのマサキの勤務態度を最も評価していた人間でもあり、さながら長年手を焼かされた不良息子が、ついに公務員への就職を果たしたかのような心境でいた。

 

 ましてやあのマサキが、彼女を含めた指揮官クラスに相談を持ちかけに来るなど、レフィーナにしてみれば、かつてのドラ息子がなけなしの初給料でカーネーションの花束を買ってきてくれたような気持ちがするものなのだろう。そんな頓珍漢な感慨が、レフィーナをして多少のことには目をつむってでも、彼の話を聞こうという気にさせていた。

 

 無論、そんなものは次のマサキの言葉でいとも無残に打ち砕かれることになる。

 

「夜明け前のことなんだがな。DCのリューネってやつにアイビスが攫われたんで、バミューダ諸島でちょいとドンパチやってきた。相手の機体はボロボロだけど、死人も怪我人も出てねえぜ。DC側から何か言ってくるかもしれねえが、まぁ適当に処理しておいてくれ」

 

 悪い、お袋。やっぱ俺には小役人なんて向いてなかったぜ。所詮、男の人生は酒とバイクと煙草と女さ。そんな幻聴と、畳の上でさめざめと泣き伏せる割烹着姿の自分をレフィーナは幻視した。

 

 

 

 12月14日、午前4時。夜も明けきらぬ暁の時分、ハガネ隊に所属するマサキ・アンドー、アイビス・ダグラスの両名と、DCに所属するリューネ・ゾルダークが機動兵器を用いた私闘を行った。マサキ・アンドーが愛機であるサイバスターに乗り込んで、無許可でハガネを出奔したのが同日の午前二時頃。そのままバミューダ諸島へ一直線……とはやや言い難くはあったものの、とにかく現地においてリューネ・ゾルダークと交戦。本人がのたまうには当然のこととして見事勝利を納め、部下の奪還も果たし、そしてアイビスとリューネ、そして彼女の機体であるヴァルシオーネを抱えてハガネへと帰還したのが同日の午前五時頃となる。

 

 どうりで朝食の席に、アイビスもマサキも、加えてツグミ・タカクラまでもが姿を現さなかったわけだ、とキョウスケは合点がいった。昨夜のパーティーのこともあり、今日のパイロットたちには午前半休が与えられていたので、不審に思う者はいなかったのだ。なおヴァルシオーネの方は、アイビスの提案によりここより西方にある森の中に一時置きしてあるとのことだった。戦闘で中破した状態のものをハガネに置いても、ブルーストークに返しても、余計な騒ぎになることが目に見えていた。

 

 DC側の事情は分からないが、機動兵器の発着が厳正に管理されているはずのハガネにおいて、なぜ艦載機の無断出撃などが起こりえたかというと、理由は単純で格納庫にちょうどサイバスターがすんなり通り抜けられるだけの大穴が開いているためだった。これはラングレー陥没の際、マサキが地表に脱出するために開けた穴であり、いまだ修復が済んでいない。そのため確かに無許可での離発着が容易にできてしまう状況にあったのだが、しかしまさかそんなことをする者がいるとは想定されず、あまり問題視はされていなかった。あるいはこのたびの一件により、ハガネ隊の艦内規定に新たな注意事項が加わることになるかもしれないと、キョウスケは頭を抱えるばかりだった。

 

 無断出撃、機動兵器による私闘、友軍機の破壊。どれ一つとっても本来であれば軍法会議が開催されてもおかしくない案件であるのだが、そもマサキは軍属ではないし、また今日という日にそれを決行するにはあまりにもタイミングが悪すぎる。先述したように12月14日という日はヒリュウ改とハガネの修理作業が並列的に始動する日であり、どちらも当然ながらハガネ隊とその護衛を務めるDC軍が協調関係にあることが大前提になっている。もし本件がこじれてハガネ隊とDC軍が睨みあうようなことになれば、ヒリュウ改とハガネの修理活動に支障をきたすことになり、またそれは大局的にはオペレーション・プランタジネットのさらなる遅延にもつながる。

 

 この一件、どのような形に終わらせるにせよ、とりあえずこれ以上DCと事を荒立てるようなことがあってはならない。マサキから簡単にあらましを聞いたダイテツ、レフィーナ両艦長は、ひとまずそれだけを方針として定め、渋るマサキの後ろ襟を固く握りしめながらDC旗艦ブルーストークを訪ねて行った。

 

 当事者であるリューネも、また彼女の機体もハガネ預かりになっていることもあって、ブルーストーク内でも本件について把握している者は数えるほどしかいなかった。その数少ない人間の一人であるブリジッダ中佐とダイテツ、レフィーナ両名の話し合いは、特務艦隊受け入れを2時間後に控えた同日午前11時頃に行われた。話し合いはさすがに全くの無風状態とはいかなかったが、議論を停滞させる要因としてはむしろハガネ隊側の意思統一が不十分であったことの方が大きかった。当事者および重要参考人として場に同席したマサキであるが、立場上ハガネ隊側に属する身であるにもかかわらず、リューネ当人への厳粛な処罰を求めるというダイテツらの当然の主張に対して、ブリジッダよりも早くに異議を唱える始末であった。

 

「俺は軍人じゃねえし、サイバスターだってあんたらの持ち物じゃねえ。形式的にはアイビスだってそうだし、聞くところにゃリューネだってそうらしいじゃねえか。軍とは無関係の三人が、人様に迷惑のかからないところで喧嘩したってだけのことを、どうしてそう大げさな話にしやがるんだ。世話になってる身だし、説教は受けるし、頼みだって聞くが、軍法とやらに従ういわれはねえ」

 

 そう真顔で言ってのける始末であったから、軍としての常識が染み付いた者らにすればそれこそ異星人を相手にするようなものだった。なんにせよ若干一名の暴論により合間合間に混乱を挟みつつも議論は日をまたいで幾度か繰り返され、目を覚ましたリューネ本人に対して共同で事情聴取等も行いつつ、次第に事態は穏便な方向へと落着していった。

 

 結局のところ現時点でなにより優先すべきはDCとハガネ隊の協働体制を今後とも維持していくこと、そして共に異星人を打倒することだという点で両サイドの見解は一致しており、その一点に目掛けて話を収束させていくことはハガネ隊、DC双方の望みであったのだ。

 

 不幸中の幸いとして死傷者がでなかったこと、またどういうわけか一応被害者側であるマサキたちにも何の遺恨もないこと、どころか逆にリューネをかばう動きを見せること、そしてこの事件を知る人間が両軍においてもごく少数に限られていること、なにより現在という時勢を鑑みて、結果として今回の一件は内々に処理されることで論を結び、マサキとリューネの処遇は、各々の上位者(両名ともそれを聞いたら誰のことかと首をかしげるだろうが)の裁量に委ねられることとなった。

 

 こうしてマサキとリューネの、サイバスターとヴァルシオーネの決闘の一件は、ハガネ隊とDC軍のほとんどの者に存在すら知らされることなく秘密裏に処理されたのであった。

 

 

 

 これまでに挙がった三つに比すれば非常にささやかな問題であるが、最後にもう一つ、12月14日に端を発した案件がある。アイビス・ダグラスとツグミ・タカクラ両名のハガネ隊復帰、そしてフリューゲルス小隊再結成の件である。

 

 先のマサキの言葉にもちらりと表れたが、ラングレー陥没以来当たり前のようにハガネ隊に身を寄せていたアイビスとツグミであるが、それはあくまでなし崩し的なものであり、正式的に二人に復帰許可が下りているわけではない。とりわけアイビスは、もともとPTSDを理由に退艦処分となった身のため、たとえ本人の希望があったところでやすやすと隊に戻れるはずもなかった。

 

 しかしそんな形式的な話とは別に、いまのアイビスがハガネ隊において重要な価値を持っていることは疑い得ない。そもそもいまハガネ隊が曲がりなりにも無事に存続できていること自体、彼女がマサキに代わってサイバスターを駆り、敵の猛攻を薙ぎ払ったお陰であるし、いまハガネ隊でまともに戦闘行動をとることができるのも彼女とマサキ・アンドーの二名のみなのである。厳密にはすでに一民間人の身分となっている彼女が今日までハガネにとどまっていたことは、無論本人の意思ということもあるが、ハガネ隊にとっても放した魚が飢えた時にまた舞い戻ってきてくれたかのような、まさしく渡りに船なことであったのだ。そんな需要と供給の双方間一致を文書に則った正式なものとするべく、12月14日の12時頃、ちょうどリューネとの一件でマサキが両軍会談の場に出頭させられていたさなかに、若き戦闘指揮官が手始めに当人らの意思確認を行った。

 

 そしてマサキがそのことを知ったのは、翌日12月15日のことである。

 

「今日もだらけてますねぇ、アンドーさん」

 

 ラウンジのソファに疲れ切ったように寝転ぶマサキに対し、アイビスは足下に散らかった靴を拾いあげながら含むように言った。

 

「おう、お陰で腐りきってるぜ。昨日今日と、同じ話ばっかさせやがって」

 

「敵の大軍が押し寄せてくるよりマシじゃない。それよりリューネの方はなんとかなりそう?」

 

「なるんじゃねえか? どっちも穏便に済ませたがってるのは目に見えてんだし。もう結論は出てるっつーのに、なんだってあんなにごちゃごちゃ揉めたがるのか、俺には分かんねえな」

 

「まぁ、いろいろ難しいんだよ」

 

 アイビスも軍人ではないが、社会人ではある。そのため、こういった点については彼女もマサキの全くの味方にはなれない。

 

「それと気が滅入っているところ悪いけど、もう一つこれから仕事が増えると思うよ。昨日マサキがブルーストークに行っている間、やっとキョウスケ中尉たちと復隊の話をさせてもらえたの」

 

「復隊? お前、復帰すんのか?」

 

「当然」

 

 なにがどう当然なのか、マサキは皆目分からぬ顔をした。素知らぬ顔でこれまた脱ぎ捨てられていたマサキのジャケットを床から拾い上げるアイビスに、マサキはじれったそうに身を起こした。

 

「救助の手伝いくらいならともかく、自分で放り出しておいてまた徴兵なんざ、いくらなんでも勝手すぎるだろうが。なんで断らなかった」

 

「何故って言われても……」

 

 マサキのジャケットを抱えたまま、アイビスは困ったように首を傾げた。

 

「うまく言えないよ。まぁ、乗りかかった船だからかな。文字通りに」

 

「ええい、真面目に言え、真面目に」

 

 甲斐甲斐しくマサキのジャケットの皺を伸ばしていくアイビスに、マサキは心底呆れ果てたものだった。

 

 なぜアイビスはハガネ隊に残ろうとするのか。その点については、彼女自身よりもむしろ最も彼女の近くにいる人物こそ回答に近いものを持っていた。アイビスとマサキは知らないことだが、昨日に彼女らの意思確認の役割を担ったキョウスケ・ナンブ中尉は、マサキ同様に思うところあってアイビスよりも先にツグミ・タカクラの方と話をしていた。

 

「アイビスは断りません。復帰を強く望むと思います」

 

 キョウスケの執務室で、ツグミは世の定理を語るように断言した。

 

「こちらとしては非常に助かる。助かるが、何故か、という点をまず君に尋ねたかった」

 

「多分、初めてだったからではないでしょうか」

 

 さして考え込むそぶりすら見せず、ツグミはそう思うところを言った。仲間を得るのも。相棒を得るのも、彼らとともに努力し合い、共通の目的に向かって邁進してゆくのも、すべて彼女にとって初めての体験だった。プロジェクトTDに入る前のアイビスの姿を、ツグミはフィリオからすこしだけ聞いたことがあり、そこから想像の翼をはためかせた上での見解だった。

 

 友情、助け合い、切磋琢磨。そういった本来幼少の頃に体験してしかるべき人間関係の建設的相互作用を、あるいはアイビスはハガネ隊で初めて自らの血と肉で経験した。そしてそのことに幸福感を覚え、ハガネ隊そのものに強く帰属意識を抱いている。あくまでツグミの想像に過ぎないが、しかしそうであってもおかしくないほど、アイビスはハガネ隊を、なかでも特定の一名との人間関係を非常に貴重なものと捉えていることはたしかだった。

 

 荒んだ家庭と過酷な放浪時代には得られなかったもの、あるいはその過程で失っていったもの、到底言葉では言い表しえない、ただなにか人としてとても大切なものを、アイビスはこの艦で取り戻していったのだ。

 

「私としても、アイビスがこの艦にいることで心身ともに目覚ましく成長したことは疑い得ません。あの子は強くなった。きっと今後も同じです。また異星人の問題は、プロジェクトの存亡にも密接に関わります。アイビスは間違いなく隊への復帰を強く望むと思いますが、私に反対するつもりはありませんし、当然その際は私も同道するつもりです」

 

 キョウスケはしばしのあいだ考えを巡らせ、最後にひとつ頷いてツグミとの面会を切り上げた。ついでアイビスが部屋にやってくると、果たして彼女の言葉は一貫して誰の予想も裏切ることはなく、そのまま波風立たずに終わった。

 

 なおこの後、常日頃では非常に珍しいことに、この寡黙な青年はこの件について相方に相談を持ちかけている。

 

「別になにがどうというわけじゃない。彼女の見解は理路整然としているし、説得力もある。なによりその通りに、アイビスも復帰を快く引き受けてくれた。全く問題はないんだが、しかしどうにも収まりが悪い気がしてな」

 

「うんうん。理系の人たちの話し方によくあることよね」

 

 さも賢しらぶるエクセレンに、青年のいつもの鉄面皮に、わずかに興味深げな色が宿った。

 

「どういうことだ」

 

「その前に、この格好を見て何か言うことはないの?」

 

「ずいぶん気に入ったようだな。よほど着心地がいいらしい」

 

 いまだしつこく看護服を着用し続けるエクセレンに、キョウスケは全くもって正直に思うところを伝えた。エクセレンは一つため息を吐いてから、渋々と口を開いた。

 

「要するにあれよ。理論的だし論理的だし正しいっちゃ正しいんだけど、ちょっと小難しすぎて逆に伝わりづらいってだけよ。とある女の子がふとしたきっかけでとある男の子と出会った。いろいろあったけど、なんやかんやで二人は心を通わせ、そして離れがたく思うようになった。要はただそれだけの、いたってシンプルな話でしょ?」

 

 キョウスケは先ほどの同じようにしばしの間黙考し、また最後に一つ頷いた。ツグミのときよりも若干、大きく。軍の戦艦の中で何と軽薄な、などとは青年は思わない。自分とて一皮むけばそう大差はないと彼は知っていた。

 

 かくして12月14日。キョウスケ・ナンブ中尉の名の下、アイビス・ダグラスとツグミ・タカクラの復帰手続きはそうして正式に始動し、細かな文書作成のほか幾つかの特別処置も含めて後処理が進められることとなった。平時であればともかく、いまはハガネとヒリュウの修理が始まったこともあってハガネ隊全体が繁忙期となっており、すべての手続きが消化されるのには幾らか時間が掛かるだろう。しかし後処理を進めるためにも、まずアイビスの復帰の大前提として一刻も早く実施しなくてはならない事柄があった。

 

 アイビスの回復具合を証明するための、試験飛行の再実施である。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 エンジンはすでに暖まっていた。出力臨界。テスラ・ドライブが呼吸を始める。機体が熱を帯びるに従って、機体質量が偏位し、周辺重力が歪曲していった。水平面に鎮座しているはずの機体に、本来ありえざる位置エネルギーが蓄えられていく。

 

 舞台の幕が上がるように、カタパルトハッチが音を立てて開放されていく。暗闇のトンネルに光が射す。ハッチが開ききった数秒後にガイドランプが赤から緑に変わる。

 

「アイビス・ダグラス。発進よし」

 

 宣言のきっかり二秒後に、射角25度で電磁射出。アステリオンは弾丸となり、時速300キロで朝の碧空に弾き飛ばされた。同時に押し込まれるスロットル・レバー。蓄えた位置エネルギーが満を持して解き放たれる。重力を従え引力に逆らう、そんな物理的矛盾を大気の壁もろとも突き破りながら、アステリオンは高く高く天頂を目指した。

 

 高度12000メートル。昇ってゆく。すでに成層圏に足を踏み入れている。加速度的な気圧変化に反応して、機体腰部のアウトフローバルブが作動した。コクピット内の与圧が徐々に下げられていく。内外気圧差を抑え、機体に余分な応力をかけないためである。反面、パイロットには過酷な環境を強いることになるが、非戦闘用とはいえアステリオンは旅客機ほど搭乗者に優しくもない。

 

 高度18000メートル。まだ昇ってゆく。ジェットエンジンであれば停止し始める高度であるが、アステリオンには関係ない。一度飛び立ったアステリオンは誰にも止められない。テスラドライブはますます溌剌とし、補助用ロケット推進もまた一切の衰えなく続々と反作用エネルギーを吐き出していく。

 

 高度23000メートル。さらに昇ってゆく。ぎしぎしと五体がきしむ。スーツの弾性繊維が、膨張と圧迫で鬩ぎあっていた。ヘルメットに供給される脱窒素剤の濃度がさらに増し、独特の風味に若干の嘔吐感を覚えた。肉体が着実に高高度用に作り替えられていくのを感じながら、アイビスはさらにスロットルを押し込んだ。

 

 高度30000メートル、35000メートル……。

 

 そして高度およそ40000メートルで、ようやくアイビスはスロットルレバーをニュートラルへ戻した。成層圏も半ばを超え、さらに上方の中間圏まであとわずかというところで、飛翔から浮遊へと挙動を切り替える。

 

 果たして、そこは静寂の世界だった。頭上は夜のように深い紺色。空の反射光に照らされわずかに明るく見えるものの、まさしく宇宙の色である。あと一息で真の闇が姿を現す、その境目にいまアイビスはいる。

 

 眼下には、高度40キロにあってなお視界を埋め尽くすほど巨大な母なる地球の姿がある。青い砂漠のようだ。大地も森も大気の奥深くへ霞みゆき、すでに色を失っている。地球はただただ青かった。そして彼方の空平線は、のしかかる濃紺にあらがうかのように淡く水色のオーラに光る。空色のアーチ。大気と真空の境界線。その水際にアイビスは、まるであの世とこの世を分つかのような神聖さを垣間見た。

 

 アイビスは再び空を見上げた。濃紺色をした無限そのものが、今にも手の届きそうな高さに広がっている。心が沸き立つのを感じた。減圧症でもあるまいに、血液がぐつぐつと水泡を吐き出していく感覚があった。

 

 行きたい。

 

 行ってみたい。

 

 この闇の果てを、この目で見てみたい。

 

 アイビスは改めて己の人生の芯になるものを確かめた。

 

 やはり自分はこうなのだ。地球という巨大な惑星が芥子粒のように思えるほど広大無辺なあの闇を、思う存分に駆け巡りたくてやまなかった。そこには意味も価値も必要ない。ただ、それが自分であるというだけだ。

 

「ずいぶん楽しそうだな、おい」

 

 そう無線で声がかかった。呆れるように嘆息をつくその人物と、その人物を乗せた機体は、アステリオンの後背50メートルほどの距離にいた。機動兵器の尺度で考えれば、十分に白兵距離といえる間合いである。

 

「お前、これがテストだってこと忘れてるだろ」

 

「あれ、そうだった?」

 

 そううそぶきながら、アイビスはゆっくりと機体を相方の方へと振り向かせた。振り向いた先に見える姿はもはや言うまでもない。力強い五体。白と銀の鎧。三層一対の翼。猛禽の爪。風の魔装機神。連邦軍に登録されている公式スペックデータを鑑みれば、アステリオンは地球圏内のあらゆる機動兵器を凌駕する速度で上昇してきたはずだが、かの騎士は、そんなもの俺には関係ないと言わんばかりに余裕綽々の態で追従してきていた。

 

 アイビスはそれを悔しいとは思わなかった。ただただ最速を目指し、孤独を求めた偏屈屋のパイロットはもういない。誰よりも速く巧みに全身全霊で飛翔することが喜びであるのなら、それを共有し、分かち合うこともまた歓びだった。そんな相方がいてくれることを、それが彼であってくれた事を、アイビスはあの空平線の彼方にでもいるのかもしれない神様に感謝する気になった。

 

「ちったぁ真面目にやりやがれ。言わせんなよ、俺にこんなこと」

 

「調子はいいよ。すごくね。なんならスイッチも捨てちゃえば?」

 

「あれなら邪魔だから置いてきた」

 

 あんまりな答えに、アイビスは思わず笑った。

 

 今回のフライトは、アイビスの回復度合いを確かめるための試験飛行であり、その際、幾つかの点を除いて以前に行なったものと同様のルールが設けられていたはずだった。その一つとしてアステリオンを外部から緊急停止させる装置も以前と同様にマサキへ手渡されていたのだが、どういうわけか彼の手元にはないらしい。今頃はハガネ格納庫隅のゴミ箱の中にでも転がっているのかもしれない。

 

「ふふ、あはは!」

 

 そして高度40キロにも昇る上昇を果たしたいま、機体にもアイビス自身にも何一つ異変は訪れていなかった。むしろ最高の調子といえる。アステリオンも、それを操る自分も。第三の目はもう開かれない。たとえ現れようが、銀の凶相もあの大穴も、今なら一息に突き破ってしまいそうだ。

 

「あはははは!」

 

 心行くまでアイビスは笑った。

 

 今、彼女は全てを取り戻していた。どこからも文句が上がらないほど完璧に、身も心も、空も翼も、愛機も夢も、そしてもう一つのものも。

 

「このまま月まで行こうとかぬかすなよ」

 

「あは。いいね、それ。でもアステリオンだと、月まではちょっとね」

 

「なんだ、そうなのか?」

 

 実際のところ、現行最新鋭の航宙機であるアステリオンにはそもそも限界高度などなく、やろうと思えば大気圏離脱も十分可能である。ただし現時点ですでにロケット推進剤が三割ほど減ってしまっており、この状態で大気圏離脱・再突入を続けざまにこなせば、ほぼ確実に底を突くだろう。

 

 あくまでメイン推力はテスラドライブなので、それでも飛べないことはないのだが、犠牲にする要素も多々あり、さすがに試験フライトでそこまでギリギリの状況を作るわけにもいかない。

 

「将来宇宙探検をしようって奴が、案外だらしねえもんだな。こちとら前に地球を二十周もしたけど、全然へっちゃらだぜ」

 

 さも自慢げに言われ、アイビスの頭の何処かがカチンと鳴った。マサキの言は機体の長所以上に、彼自身の短所を露呈しているが、それでもだ。

 

「まぁ今に見ててよ。完成したシリーズ77の性能はアステリオンの比じゃないからね。これが限界と思われちゃぁ、困りますね」

 

「へーえ」

 

 言いながら、マサキは腕を組んだ。

 

「もう正式図も上がって、仕様書も貰えてるんだ。完成間近ってわけ。そうなったらもう、マサキの出番は無いね」

 

「ほーお」

 

 にやにやとマサキの口角が上がっていく。

 

「なんだったら、マサキが追っかけているシラカワ博士の……グランゾンだった? それもあたしが退治しておいてあげる」

 

「ふーん」

 

「……もう!」

 

 手を振り上げる真似をするアイビスに、通信窓に映るマサキはくっくっと肩を揺らした。

 

 

 

 高度四十キロの成層圏に機体を維持させたまま、二人はすっかり寛ぎ倒していた。マサキなどはシートの背もたれを倒して寝転がりすらしてしまい、アイビスを「あ、いいな」と羨ましがらせた。

 

 試験の結果は、もはや取りざたするまでもない。パイロットとしてアイビスが最高のコンデイションにあることは疑いようがなかった。一応監督役のマサキとしては用が済んだ時点でハガネに連れ戻さなくてはならないのだが、今回はアイビスにとって久しぶりのフライトであるし、そのアイビスがしきりにここに留まりたさそうにしているので、まぁいいやという気になっていた。その旨を一方的にハガネに通信文で送りつけ、それだけで済ませてしまう。

 

 そうして二人は成層圏にてあれこれと世間話に興じ合った。気圧は地上の十分の一以下。気温は氷点下。機体に守られているとはいえ、一切の生物の生存を許さない遥か高空の領域も、二人にかかればあたかもそこらの喫茶店かなにかのようだ。

 

 二人はハガネ隊の皆の話をした。

 

「二人して寝込んでたとき、みんなお見舞いに来てくれたのはうれしいかったけど、なんだか疲れたね。本当に毎日来てくれるから」

 

「とりわけタスクなんかはな」

 

「ああ、うん」

 

 アイビスはふと一計を案じた。

 

「ひょっとして、その、あたしなんかに気があったりするのかな、なんて。だとしたら、悪くないかなーなんて思ったりしなくもないんだけど……マサキ、どう思う?」

 

「なぬ?」

 

 ちょっとした思惑あって、まるで言い慣れないことを四苦八苦しながら言うアイビスに、マサキは真顔で目を見張った。

 

「お前ああいうのが趣味なのか? レオナの連れを狙うたぁ度胸あるな。まぁよしみで応援してやらなくもねえけどよ」

 

「冗談だって分かって欲しいな」

 

「なんだ、おどかすな」

 

 マサキは再びシートに寝転がり、アイビスはバツが悪そうに一本指で額を掻こうとしたものの、こつんとヘルメットに阻まれた。どんな思惑があったかは彼女のみぞ知るところだが、あまり上手くはいかなかったようだ。

 

「惚れた腫れただのは知らねぇけどよ。確かにあいつはあいつでお前さんのこと気にかけてたぜ。お前のことを、古くさいスポ根もののヒロインみたいだとさ」

 

「褒め言葉なの? それって」

 

「そうなんだろ、あいつん中では。俺もおとぎ話の主人公って誰かさんに嫌味を言われたことあるけど、お前を同じように見る奴もいたってこった」

 

「そ、その辺の話は止めて欲しいかなーと」

 

「あぁ、今になってケツが痛いぜ。突き飛ばされたもんなー、そういや」

 

「はい、あたしも。あたしも殴られそうになりました」

 

「殴ってねえ」

 

「でもその気だったでしょ? 胸倉だって掴まれたし、ありゃ立派なパワハラだね。おあいこおあいこ」

 

「ちっ、調子のいいやつ」

 

 毒づくマサキだが、言うほど怒ってもいないようだ。

 

 次に二人は戦争の話をした。

 

「いま異星人は弱ってるでしょ。仮にアギーハが生きていたとしても、いまは四幹部のうち誰も機体がないはずだよ。これってチャンスなんじゃないかな?」

 

「ほう、お前にしちゃ好戦的だな。なんなら今から攻め込みに行くか?」

 

「どれくらいの敵がいるの?」

 

「月とホワイトスター、合わせて1000以上だとよ」

 

「ううん、サイバスターがあと二十機くらいあればなぁ」

 

 あいにくとマサキにはせいぜい3機しか心当たりがない。なんにせよ、いまは攻勢に出る時ではないということだが、少年としてもその点については思うところがないわけではなかった。

 

「どうもこの戦争、思ったよりも長引きそうだな。あまり時間はかけたくねえんだが……」

 

「故郷に帰るのが延びちゃうから?」

 

「シュウをぶちのめすまではどのみち帰れねぇけどな。……でも待てよ。そうだな、ハガネも異星人もしばらく動けねえなら、いっそ先にあいつを片付けにいくのもありだな」

 

「まさかハガネを降りる気? 冗談やめてよ。どこに居るのかも知らないんでしょ?」

 

「けどだな」

 

「マサキがシラカワ博士と戦うときは、あたしも一緒に戦う。皆がいれば、皆だってそうする。あんたが負けるなんてこれっぽっちも思わないけど、一人より二人、二人より大勢でしょ? いつか言ってたじゃないか、『多いこと』は力だって」

 

「まぁ、そうだけどよ」

 

「本当の仲間は故郷にいるのかもしれないけど、地上にいる間はあたしたちを仲間だと思ってよ。少なくとも、あたしはそう思ってるよ。軍人じゃなくても、異世界の人であっても、あたしの隊長といったらマサキだけだ。あんたしかいないんだ」

 

「……」

 

 マサキはしばしの間困り果てたような、それでいてむず痒いような複雑な顔で黙っていたが、やがて「悪かった」と不貞腐れ気味にぽつりと呟いた。この話はそれで終了となった。

 

 つぎに二人は、リューネの話をした。

 

「大事なさそうで良かったね」

 

「まぁな。妙なことにでもなったら、さすがに寝覚めが悪いからな。また懲りずに付け狙ってこなきゃいいけどよ」

 

「たぶん大丈夫だよ。いや、根拠はないけど」

 

「そうかい。にしてもビアンのおっさんの娘っていうから、どんな厳つい顔かと思ってたけど、結構かわいかったな」

 

 アイビスが相槌を打つまでに、二拍ほどの間があった。

 

「へえ、隊長はああいうのがお好みですか」

 

「あまり顔を合わせたくはねえがな」

 

 話はまたハガネ隊の皆のことに戻った。

 

「仮にも連邦軍のエースどもが、揃いも揃っていつまでも瓦礫運びにかまけてるようじゃぁ困るぜ。とっとと機体の方を直してもらわねえとな」

 

「内装までやられてるんじゃ、特務艦隊が来ても簡単にはいかないよ。PTなんかはそういうの多いみたいで、ラボ送りになる話も出てるんだって。修理ついでに改修もできるし」

 

「そういやキョウスケやエクセレンが、そんなことぼやいてたっけ。日頃の行いが悪いせいだな、ありゃ」

 

「マサキが死にかけたのもそうだったりして」

 

「てめぇ」

 

「うそ。冗談。感謝してます、ほんと」

 

「くたばりかけてたのは、そっちも同じだろうが。まったく余計な手間取らせやがって」

 

「……」

 

「どうした?」

 

「んーん。なんでもない」

 

 俯くことで自分の顔色を隠しながら、アイビスはそうとだけ言った。いい加減、ヘルメットを邪魔に感じていた。中が火照ってしょうがない。

 

「でもさ、サイバスターを操るのって、あんなにしんどいものなの? マサキは大丈夫なの?」

 

「まぁ乗り始めのころは色々あったけどよ、今はもうよっぽど無茶しなけりゃ問題ねえよ」

 

「例えばどんな?」

 

「サイフラッシュを四、五連発するとか」

 

「ふうん」

 

 そうと聞いて、アイビスの眼が悪戯っぽく煌めいた。

 

「もしこの先マサキがあたしみたいになるときがあったらさ、そのときはあたしが助けなきゃね。だから今度やりかた教えてよ」

 

「……」

 

 案の定、マサキは見る見るうちに動揺しだした。無表情を装ってはいるが明らかに頬が強ばり、目もあちらこちらへと泳いでいる。もしや自分は彼の一生モノの弱みを手に入れてしまったのではと、今更ながらにアイビスは気付いた。

 

「ね、いいでしょ」

 

「やなこった」

 

「なんでよ。それくらいの激しい戦いだって無いとも限らないし」

 

「ねえ」

 

「なんで言いきれるのさ。もしもそうなったら誰もマサキを助けられないんだよ? それで死なれでもしたら、あたし一生夢で魘されるよ」

 

 からかい目的だったはずだが、言ってて自分でも危機感を覚え始めたのか、アイビスは段々と真顔になっていった。

 

「いらねぇったら、いらねぇ」

 

「だめ、教えて」

 

「断る」

 

「教えて!」

 

「嫌だ!」

 

「なにさ。そんなに嫌な事をあたしにしたっていうの?」

 

「やかましい!」

 

「あんたの命の問題なんだよ!」

 

 押し問答という名の意地の張り合いは果てしなく、どこまでも続いた。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 十分後、依然として高度四十キロの成層圏。押し問答は今にいたるまで延々と続いたが、どちらからともなく喋り疲れだしたことでようやく停戦、とまではいかずとも一時休戦の状態に辿り着くことはできた。

 

 その間隙を突いて現れたのが使い魔クロである。

 

「いきニャり補給の仕方を学ぶんじゃニャくて、このさい基礎的ニャところから、つまりはプラーニャ操作術を今後訓練の合間にレクチャーしていくっていうのでどう? 魔装機に乗る訳じゃニャいし、戦いには使えニャいけど、でもそれニャりに役に立つわよ?」

 

 程よい折衷案に、二人はひとまず頷き合った。問題を先送りにしたに過ぎないが、とりあえず今はもうこれ以上時間と体力を浪費したくないという共通した見解が、二人の和解を助けた。

 

「ねぇマサキ」

 

 その矢先にかかってきた通信に、しかしマサキは警戒心を持たなかった。それくらいアイビスの声は、まるで寝息のように安らかで、どこまでも染み入ってしまいそうにぬくもんでいた。

 

「あたしね、男の人とこんなに長くお喋りしたのって初めて。こんなの、父さんとだってなかった……」

 

 時刻を確かめると、2人がハガネを飛び立ってから一時間がとうに過ぎていた。そろそろ戻らないといい加減あとが面倒くさくなりそうだが、それはさておき確かにこれほどの時間、誰かと2人きりで絶え間なく喋り続けることなど、マサキにとってもそう記憶にあることでは無かった。よくもまぁ話が続いたもんだと、我がごとながらマサキは感心してしまった。思えば二人でサイバスターに乗り込んで、遊覧飛行に繰り出したときもそうだった気がする。

 

「こんなに喋って、もうへとへとなのに、まだまだ喋り足りない感じがするの。本当にいくらでもお喋りできそう。ほんとに不思議……」

 

 マサキは鼻の辺りをぽりぽりと掻いた。今ひとつどう応じればよいのかわからないときに見せる彼の癖だった。さりとて共感できるところもあって、フリューゲルス小隊が発足されてから今日にいたるまで、彼女と向き合って共に何かをしようというとき、マサキ自身しばしば時間を忘れた記憶がある。たとえば小隊訓練のとき。たとえばシミュレーター対戦のとき。あるいは、それこそ二人が一番最初に触れ合った、あの「鬼ごっこ」のときも。

 

「うん、懐かしいね……」

 

 そうアイビスは呟いた。そうして目を閉じて、夢見るように記憶の海へと埋没していく。思えばあの日に全てが変わったのだ。自尊心と自己不信の軋轢に自縄自縛するばかりであった、それまでの彼女の全てが。

 

「さんざんイルムたちに怒鳴られたっけな」

 

「今日もそうなりそうだね」

 

「いーんだよ。事情聴取だの査問だので閉じ込められっぱなしだったからな。リハビリがてら、ひさしぶりにガス抜きだ」

 

 アイビスは目を閉じたままくすりと笑った。土台、軍人だの兵士だのにはまるで向いていない少年なのだ。異様なほど懐深いハガネ隊だからこそかろうじて馴染めているにすぎず、他の部隊ではこうはならなかっただろう。そして、それは恐らく自分も同じなのだとアイビスは思う。

 

「ねぇ、あたしやっぱりこういうのが好きだな」

 

「ん?」

 

「やっぱりこういうのがいいや。敵なんていない、あたしたちしかいないような空を思い切り飛ぶのが。目的も目標もなにもない、本当にただ飛ぶだけのような時間がさ……」

 

「それが宇宙であれば、なおいいってか?」

 

「ぴんぽーん」

 

「へっ、簡単な奴」

 

「マサキはそうは思わない?」

 

「敵も誰もいないなら、そもそもこんなところ来ねえよ。家で昼寝でもしてるぜ」

 

 以前と変わらぬ答えをマサキは言った。まるで少年の生き様そのものを現しているような言葉を、今のアイビスは素直に受け入れることができなかった。

 

「誰もいなくはないよ」

 

 図らず、とがめるように訂正した。

 

「あたしがいるよ」

 

 目をつむっていたアイビスは、そのまま瞑る力を強くした。馬鹿な事を言ったと思った。しかし少年の方は深く考えもせず、とはいえ少しのあいだ言葉を探してから、やがて答えを改めた。

 

「そっか。んじゃぁ、まぁ、悪くねぇな」

 

 そう言った。彼の言葉はいつだって率直で飾り気がない。だとすれば、それは少年にとって、本当にそう思えることだったのだ。ただそれだけのことであったのに、たったそれだけの言葉であるのに、なぜだろう、アイビスはそれこそ胸を射抜かれたかのような感覚を覚え、心臓を抑えた。苦しい。比喩ではなく、本当に苦しかった。

 

「なんだ、どうした?」

 

 少年が怪訝そうな顔を見せたので、アイビスは慌ててヘルメットの前面を両手で覆った。胸も苦しいが、今の顔を少年に見られることも同様に、あるいはそれ以上に看過できないことであった。そうしてアイビスは、すっかり顔を隠したまま肩を震わせ続けた。

 

 胸の内が震え、そして輝いていた。少年と初めて出会ってから、今日に至るまでの数ヶ月。本当に、ほんのわずか数ヶ月。その節々の情景が、舞い踊るフィルムのようにアイビスの脳裏を駆け巡っていく。ときおりその中に映る呑気な顔をした自分に、アイビスは怒鳴りつけたい気持ちで一杯になった。ねぇ気付いてよ、いまあんたの目の前にいる男の子、その人がそうなんだよ。あんたたちがそんなだから、いまあたしが苦労してるんじゃないか。

 

 想いが溢れる。過去現在未来から、指先と唇と心の奥底から、洪水のように溢れそうな想いがある。想いとは元来言葉ではないが、アイビスはすでにそれに名を付けてしまっていた。あの崩落の夜、目に映る全てが悲惨と悲哀に塗れていたあの夜に、それら一切合切を切り裂くに足るほど美しく輝かしい、ある一文字の名を付けた。そうしてしまったからにはもうアイビスは、そのたった一文字から目をそらすことも、その音の響きに対して耳をふさぐこともできはしなかった。

 

 誰も喜ばせることのない気持ちとして、

 

 誰にも望まれない未来として、

 

 それでも、もはや揺るぎない事実として、

 

 アイビス・ダグラスはマサキ・アンドーを……

 

「おいどうした。まさかまた発作じゃないだろうな!」

 

「……ばか……ちがうよ……」

 

「なんだよ。じゃ、どうした?」

 

「……ばか……本当に……ばか……っ」

 

「なに、なんだって?」

 

「…………………………………………よしっ!」

 

 長い長い葛藤の末、アイビスは何かをかなぐり捨てるような掛け声と共に、ヘルメットの頬をひとつ叩いた。ばちんと派手な音にマサキが面喰らうのを他所に、思い切りスロットルを全開にする。心の叫びにすべてを任せ、空平線の彼方まで突っ走らんとアステリオンをフル加速させる。突風のような勢いで飛び立った僚機に、迂闊にもマサキは呆気にとられたように立ち尽くしてしまった。

 

「お、おい、どうした!」

 

 答えは返らず、アステリオンはなおも加速を強めた。彼方へと伸び去って行く光熱の尾がまるで千里の道のようにも見え、マサキも慌ててサイバスターを飛び立たせた。しかし初動の遅れは如何ともし難く、そう易々とは追い付けない。

 

「おい、らしくねえぞ! どうした!」

 

「……『鬼ごっこ』をやろう!」

 

「なに!?」

 

「さっき話したでしょう? 前にもやったやつ。あれをやろう!」

 

「なに言ってんだ、てめぇ!」

 

「あれ、もしかして自信無い?」

 

「はぁ!?」

 

 ぴしりと頭の何処かにひびが入るのをマサキは自覚した。

 

「そんなに体が鈍ってるの? 大丈夫、ちゃんと手加減してあげるからさ!」

 

 アイビスの言動は、わざとらしさすら感じるほど不遜極まりなかった。そんな部下のらしからぬ態度を怪訝に思うところもなくはなかったが、しかしもとより濡れティッシュ並の強度を誇る少年の忍耐心である。ろくに深慮せぬまま自制の縫い糸をあっさりと断ち切って、マサキは吠えた。

 

「上等だっ!」

 

 かくしてそれは始まった。

 

 地球圏ならびに異世界の技術の粋を集めた、単なる遊び。鬼ごっこ。少女にとってのすべての切っ掛け。二人にとってのすべての始まり。

 

 それがまた、始まった。

 

 

 

   Ⅵ

 

 

 

 空気と大気は、いずれも風を司るサイバスターの眷属である。大地の魔装機神が土と同化し、なんの掘削装備も無しに地中へと潜航する能力を持つのと同様、サイバスターもまた迫り来る逆風、空気の抵抗、大気の摩擦すべてを我が身に取り込む力を持つ。そうして本来は飛行の障害となるそれら全てを味方に付けて、サイバスターはなおも加速を強める。地上の技術ではいまだ到底再現しえぬ魔性の加速に、双方間の距離は一気に縮小、そのまま両腕で跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘を抱き捕らえようとする。

 

 しかし捕縛が成るその寸前、アステリオンの後背から放出されるテスラドライブの噴射光が、一瞬、馬の尾の如く左右に振られた。するとアステリオンは、それこそ魔術か何かのように、風に舞う布切れのごとくするりとサイバスターの腕をくぐり抜けていった。捕獲は失敗。一致しかけた二機の軌道は、またもや見る見るうちにかけ離れていった。

 

 ブレイク・ターン。敵機との交差角を増大させ、オーバーシュートさせる伝統的な防御機動である。シリーズ77であればそこに切り返しによるフェイントも挟み、それこそ一瞬機影が二つに見えるほど鋭い機動を見せる。動きをなぞるだけならばさして難しいテクニックではないが、意志を持った敵機に、ましてや風の魔装機神相手に成功させるとなれば児戯であるとは口が裂けても言えない。それをまるで児戯のごとく、息を吸って吐くように行えた感覚に、アイビスの興奮はますます疾走していった。

 

「はは!」

 

 肉体が躍動するままに、次の機動へ向かう。スピリットS、ついでインメルマン・ターン。大空に円が描かれ、その中心を突っ切って、円はQの字に変わった。そして来た道を引き返すように、アステリオンは地表目がけて猛スピードで急降下していった。

 

「ええい、うざったい!」

 

 マサキは臍を噛みつつ、アステリオンの縦横無尽な軌跡を遮二無二追い掛けて行った。演技でもなんでもなく、明らかにマサキは部下の巧みな逃げ足に手こずっていた。セオリーという言葉すらも振り切ったような奔放な機動。その鮮烈なまでの目覚ましさにマサキは目を見張り、舌を巻き、それと同時に腹が立って仕方がなかった。

 

 ラングレー奪還戦でもこの勢いを見せていれば、アギーハにだって負けなかったかもしれない。そうなれば一連のつまらない騒動だって起こることはなかった。

 

 否、ラングレー戦のみならず、彼女ときたらこれまでずっとそうであったのかもしれない。マサキは歯噛みする。どうしてこの女はいつも、こうも戦い以外のところで輝いてしまうのだ。

 

「あはははは!」

 

 サイバスターと異なり、アステリオンには急降下の風圧をキャンセルする機能などない。しかしその代わりに迫りくる逆風を軽やかに乗りこなしながら、アイビスは笑っていた。目尻から大粒の涙を零しながら、それでも心から楽しそうに笑っていた。涙と笑顔、喜びと悲しみ。相反する二つの感情が、彼女の肉体とテンションを最高潮にまで高揚させていた。

 

 ああ、飛んでいる。いま、あたしは飛んでいる。

 

 風の魔装機神すら易々に追い付けないほど、これまでに無いくらい速く巧みに飛べている。

 

 夢と翼と、あの少年。どれもが一度は、アイビスの前から砕けて消えたものだ。しかしいま彼女はその全てを取り戻していた。そして取り戻したそれらは、今まで以上の輝きを放ってアイビスの行く先を照らしていた。その光景のあまりの美しさに、アイビスは喜びで身も心もはち切れんばかりだった。

 

 それでも。

 

 そう、それでも。

 

 その中で、たった一つだけは留めておくことができないのだと今なら分かる。どれだけ求めても、どれだけ恋うていても、側に留めておけないものがあるのだと理解できる。その想いにもまた、アイビスは身も心も引き裂かれそうだった。

 

 アイビスは急降下を維持したまま、アステリオンを振り向かせた。風圧に背中を預け、大地を背負う。そうして上空に座す、自らと同じ白銀色のともがらを見上げた。

 

 サイバスターがやってくる。アステリオン目掛けて、アステリオンをも凌駕する速度で天より急降下してくる。その姿を目に焼き付けながら、アイビスは思った。そう、捕まえておけるはずもない。だって彼は風なのだから。

 

 アステリオンは武器を後付けした航宙機であり、サイバスターは翼を持った戦闘機。そしてアイビス・ダグラスは遥か天蓋の、星の海を思うままに往くことを生涯の夢として、マサキ・アンドーは地の底に広がる異世界にて、世を乱さんとする悪意と戦い続けることを生涯の務めとする。本来は交わるはずの無い、正反対な二つ。否、正反対であったからこそ二つは交わった。

 

 あの日、あの時、あの場所で少女は少年と出会った。数ヶ月前。テスラ研からの脱出行。輸送機の格納庫。タラップの下でその少年は、アイビスが階段を下りてくるのを待っていた。「いい腕だな、あんた」。嫌味でも慰めでもない対等の言葉。そして掲げられた手の平。それまでずっとアイビスが、心の奥底で渇望していたものが、そこに。

 

 いまだ色あせぬ過去の情景の乱反射が、アイビスの心を焼いていく。あれさえなければ。本当に本当に、あの出会いさえなかったら!

 

 アイビスは操縦桿を離した。想いがあふれるままにそうした。求めるように、捧げるように腕を伸ばして、そして笑った。

 

「マサキぃ!」

 

 涙は依然として滔々と。それでも満面の笑みを。そうしてアイビスは興が乗るままに景気よく、人生で一度言ってみたかった台詞を言ってみた。

 

「ほら、捕まえてごらん!」

 

 それはあまりにも古くさく、馬鹿馬鹿しい台詞だった。それでも、言ってみたかったのだから仕方がない。

 

「ほらほら、早くぅ。それとも速過ぎて追い付けない!?」

 

「ざけんな、このやろう!」

 

 女のささやかな夢もロマンも解さないマサキであるが、このときばかりは奇跡的に彼の心情とシチュエーションが一致を見た。言われずともマサキは、風圧に遊ぶアイビスを全速力で追いかけた。

 

 アイビスはきっと自分は生涯この光景を忘れないと思った。だってマサキが来る。アギーハでもシュウ・シラカワでも、他の誰を追ってでもなく。敵として倒すためでも、務めを果たすためでもなく。

 

 ただあたしを追って、ただあたしに触れようとやって来る。

 

 少年はきっと少女を抱きとめるだろう。しかしそれは、ほんのひとときのものなのだ。彼女に追いついて、彼女の望み通りに抱きとめたところで、それでも少年は止まらない。彼はきっとすぐに次の戦場へ、そして少女は戦いの無い場所へ。

 

 曲げてはならないことが、人生の中には存在した。マサキが戦いをやめて、例えば地上に残る事。アイビスが戦いを続け、例えば異世界にまで付いて行くこと。夢は夢であるからこそ美しく、現実に目を向ければそれらは誰にも望まれないことだった。ならば必然的に、別れはいつか必ずやってくる。

 

 それでも。

 

 そう、それでも。

 

「てめぇ、もう逃げんなよ!」

 

「逃げないよ!」

 

 予想外で力強い答えにマサキは面食らい、アイビスは一層の大声で叫んだ。

 

「もう逃げない!」

 

 それはまるで誰かのように。親の仇を前にして、正論も損得もかなぐり捨てて、ただただ胸の内の炎を吐き出した彼女のように。

 

「あたし、何処へも行かないから! 月にもプロキシマにも、絶対行かないから! だからお願い、早くあたしを捕まえて!」

 

「ああ? 何だって!?」

 

 それは彼女の胸に渦巻く願いの、ほんの一欠片だった。身も蓋もなく言えば嘘である。しかし全くの嘘ではない。勢い任せのでまかせである。しかし想いだけは確かにあって。

 

 宇宙への夢は依然として恒星の如く。対していまアイビスが口にしているのは、言うなれば地表の片隅にひっそりと咲く、一輪のちっぽけな花だった。自己矛盾という名の荒れ地に咲く小さな花。どこへも行き場のない、誰の目を楽しませることもできない一輪の花。それでも、在るということだけは確かなその花をこそ銃把に込めて、アイビスは撃った。撃ち尽くしてしまおうと思ったのだ。どこかの誰かと同じように、叶わぬ・間違っていると理解した上でなお、ありったけを。

 

「だからマサキにも、何処にも行かないで欲しいんだ! ずっとそばにいて欲しいんだ! あたしを、一生、離さないでいて欲しいんだ!」

 

「なに言ってんだお前!」

 

 そっちこそ何を言ってるのかと、アイビスは少年の胸倉を掴み上げたくなった。ここまで言っているのに。女が、ここまで言っているというのに!

 

 憎々しさと、それに百億倍する正反対のものにアイビスは今度こそ心を爆発させた。いつかの夜に目にした、リューネの人懐っこい笑顔と水晶のように澄んだ眼差しが今もアイビスを見ている。彼女の笑みが指し示す方に従って、理性、理屈、諦観、その他身を押しとどめるもの全てを振り切って、アイビスは叫ぶ。

 

 リューネが言うように、そこには何の飾りも誤魔化しもなく真っ直ぐに。さながらかの騎士が放つ、たった一発きりの最強最後の魔術ごとく。そうして彼女の想いという想いが込められた、たった一言の言葉を繰り出した。

 

「好きだよぉ!」

 

「はぁっ!?」

 

 どうにでもなれと思った。羞恥心もプライドも、みんなみんな空に散ってしまえばいい。

 

「あたし、あんたが好きだよぉっ! 愛してるんだ! 心の底から! もうどうしようもないくらい! あたしの全部をあげるから、あたしもあんたの全部が欲しいんだ! 離れるなんて嫌だ! 絶対誰にも触らせない! 異世界になんか帰すもんか! あんたはずっとずっと、あたしと抱き合ってなきゃだめなんだ!」

 

 あまりと言えばあまりな告白に、アイビスは我が事ながら身を焼き尽くされそうになった。顔面がコロナのように熱い。そして心は太陽の中心、熱核融合炉のようにさらに熱かった。陸の上でなら到底口に出せなかったであろうが、空でなら話は別だった。一度飛び立ったアイビスは、誰にも負けない。自分にもリューネにも、きっとあの少年にも。

 

 あまりと言えばあまりな告白に、マサキは大口を開けてあんぐりとしていた。異体同心の使い魔も、両脇の影で揃って同じ顔をしていた。おいお前らなんて顔してやがる、しゃんとしろ。教えてくれ、いまあいつは何を言った? 俺はいま何を聞いたんだ? 

 

 アイビスとマサキ。天と地をそれぞれ背負い、そしてそれぞれ逆のものを見る二人は、徐々に距離を縮ませていく。天翔ける少年は常に地の底の故郷を想い、瓦礫の街を歩き続けてきた一人の娘は、ひたすら空の彼方を夢見た。そんなどこまでも正反対で、どこまでも対照的な二人が巡り会うことは、ある種の必然であったのだ。やがてはすれ違い、離ればなれになることも含めて。

 

 しかし、それでもいいとアイビスは思うのだ。今はただ、この出会いを心と体に刻み付けたかった。たとえほんのひとときであろうと、それでもこれは、きっと一生の恋なのだ。

 

 そうして、アステリオンとサイバスターは。

 

 アイビスとマサキは。

 

 互いの道の中間点であるこの大気の海で、まるで導かれ合うように邂逅し、ごく自然に互いの手を取り合った。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

「おい、あれ見ろ」

 

 そんな声が聞こえて、レーツェル謹製の炊き出し弁当をひたすら台車に積み上げていたカチーナは、ふと顔を上げた。声の主はイルムであり、仕事さぼってなにやってやがると言いかけたカチーナだが、彼が左手を日差しよけにしながら右手でまっすぐに空の彼方を指差しているので、ついつい素直にそちらを向いてしまった。

 

 イルムが指し示す方を見上げると、高度五百メートルあたりだろうか、遥か上空を羽ばたく二つの機影を確認できた。その正体を察して、カチーナは面白くなさそうにぼやいた。

 

「いい気なもんだぜ。人が汗まみれになってるってのに、優雅に空中散歩かよ」

 

 一応は試験飛行であるのだが、イルムはあえて訂正はせずただ笑った。彼やリュウセイがその飛行に参加していないことからも分かるように、ただ念のためというだけの名ばかりの試験飛行である。であれば、あの二人にとっては確かに散歩も同然であるに違いない。

 

「空馬鹿小隊は今日も健在、と」

 

 そう面白げに呟いたイルムであるが、カチーナの視線もそろそろ痛いので仕事に戻ることにした。台車への乗せかえ待ちの弁当ケースは、すでにちょっとした万里の長城を築きつつある。こういうのって腰にくるんだよなぁと内心でぼやきながら、イルムはその城壁の切り崩しを再開していった。

 

 

 

 二機の姿は別のところでも目撃されていた。

 

「飛んでますね」

 

「飛んでるわねえ」

 

「なんか近すぎやしません?」

 

「まぁ、編隊飛行だし」

 

「そうでしょうか。いいえ、それにしたって」

 

 仮設テントの影。しきりにぶつくさ言うツグミの隣で、エクセレンは看護服の襟元をなんとはなしに弄くった。誰かに言われた通りなんとなく着心地を気に入ってしまったのと、せめて一言くらいは寡黙な恋人からそれなりの感想を引き出したいと考え、なかば意地になって着続けているものた。

 

 鳴り止まぬ隣からの呪詛めいたぼやきに、エクセレンはふと少年に憐憫の情を覚えた。どうにも女性に何かと苦労をかけるたちであるらしく、そういった人間は通常、姑や小姑などといった存在とはあまり相性がよくないとされる。 将来、彼の伴侶となるのがどんな人物かは分からないが、せいぜいその人に強面の父親だとか、きつい性格の双子の姉だとか、はたまたツグミのような過保護な友人がいないことを祈っておくべきだった。

 

「や、それにしてもいい天気よね」

 

 そう言いながらも、エクセレンの視線は大空を懐かしの我が家とばかりに飛び回る二連の銀鳥に固定されたままだった。彼らを一頻り、どこかまぶしげに眺めてから、やがてエクセレンらも腹ごしらえに配給所へと足を運んでいった。

 

 

 

 また一方では、

 

(サイバスターだ……)

 

 拘留部屋を抜け出して、リューネはハガネの屋外デッキに辿り着いていた。寝起きに外は肌寒く、ロングコートの代わりにタオルケットを肩に巻いている。

 

 そうして空を駆け巡るサイバスターとアステリオンの姿を見つけると、リューネの視線は図らずその内の一方に強く焦点を合わせてしまう。命を賭して戦ったばかりの敵手であるはずなのに、一転してそれをこうして呑気に見上げることは、少し不思議な気持ちのすることだった。

 

 外は嫌になるくらいの青空。そういえば、こうして空を見上げることなど、随分と久しぶりなことのように感じる。

 

(相当参ってたんだね、あたし)

 

 実際のところ、そう仲の良い親子でもなかった。むしろ喧嘩ばかりしてたと言える。昔は昼行灯と呼ばれるようなうだつのあがらない研究者で、宇宙開発局の所属になってから今度は嘘のように才気と求心力を爆発させていった。リューネはそんな父に、なぜか誇らしさよりも危うさと嫌悪感を覚えていった。

 

(異星人の存在を知ったことが親父を変えた。それまで眠っていた才能が次々に花開いて、それに比例してどんどん野心も広がっていって、とうとう人一人の分を超えて、行っちゃいけないところまで行っちゃって……挙げ句の果てに、何に言わないまま死んじゃってさ……)

 

 リューネはパンと己の両頬を叩いた。いつまでもうじうじと鬱屈しているのは、本来彼女の性分ではない。

 

(ここまでにしよう)

 

 リューネはそう思った。親父は親父、あたしはあたし。そんな当たり前の結論に、ようやっとのことでたどり着けたのだ。

 

 リューネは再び空を見上げた。目指したのは、もはやサイバスターではない。その先にいるであろう、はるか異星軍の影を探して、彼女は空を見た。

 

(いいよ、親父。あんたの願いだったもんね。あたしが叶えてあげるよ。なにしろあたしは、あんたの最高傑作らしいから……)

 

 そのためにはDCに復帰するという手もあるし、なんであればハガネ隊に身を寄せるという選択肢もある。DC総帥の遺児が参画するとなれば政治的な問題も大きいが、政治だけでモノを言えるほど余裕のある戦況でもない。ヴァルシオーネならびにヴァルシオンの戦力的価値は連邦軍こそよく知るところであり、加えてヴァルシオーネにはとある機体を参考に作られた、ヴァルシオンにも搭載されていない新型戦術兵器も搭載されている。交渉次第では、良い買い物と見なしてくれる可能性は十分ある。

 

 といっても孤立無援では話も進めづらいだろう。誰かに口添えを頼めないかと、査問会でも幾度となく自分をかばってくれた、あの憎き恩人の顔を思い浮かべたところで、ふとアイビスが言っていた妙な一言がリューネの頭の中で木霊した。

 

「冗談じゃない、誰があんなやつ」

 

 そう吐き捨てて、リューネは踵を返した。そうして、心の中でもう一度、亡き父の冥福を祈り、艦内へと戻っていった。

 

 

 

 晴れ渡る碧空を、その二機は飛んでいた。かたや風を切り、かたや風を従え、さながら水を得た魚のように大気の海を飛翔する。目指すべき場所も、倒すべき敵も今はいない。哨戒は高性能レーダーと、さきほどから貝のように口をつぐみ続けている使い魔に任せきりにして、いまアステリオンとサイバスターは、まさしく誰かが望んだようにただ飛ぶためだけに飛んでいた。

 

 優雅とすら言える様であるが、しかしそんな機体に反して、乗り手二人の心境は全くもってその正反対の状態にあった。

 

「……」

 

 少年は愛機の中でひたすら混乱していた。困り果て、弱り果て、額が汗に滲むほど焦燥しきっていた。心臓がやけに喧しく、胸も気管が狭まったかのように息苦しい。これならば千を超す敵軍と相対した方が、よほどマシに思えた。少なくとも目指すものは明らかだし、そのために為すべき事も分かる。

 

「……」

 

 少女は愛機の中でひたすら俯いていた。少年にもお天道様にも二度と顔向けできないと言わんばかりに、赤熱した顔面を地に向け伏し続けていた。操縦桿を握る両手が、氷点下に置かれたハムスターのように震えている。地球よ、いますぐ滅びて。そんな不謹慎な思いにアイビスは一杯となっていた。

 

 しかし幸か不幸か、そんなパイロットたちの煩悶は、それぞれの機体の装甲に阻まれて、余人の目には写らない。外から見る彼らの機体は、並び合ってと表すにはやや近すぎ、かといって寄り添い合ってと表すほど近くもない微妙な距離感で、ただ心行くままに翼をはためかせているようにしか見えなかった。

 

 そうして連なり合う銀の鳥たちはやがて虹を描くように大きく旋回し、ハガネという名の巣の中へと帰っていった。

 

 

 

 

 



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最終章:想い出の星空

 

 

 

 

   Ⅰ

 

 「Aileen(アイリーン)」と美麗な筆記体による看板が掲げられているそのバーは、今宵二人の若い女性を客に迎い入れていた。初めて見る客であったが、雨の日はそういう客が多い。予報外れのにわか雨で急遽雨宿り先を求め、しばしば新しい店と客の出会いが起こる。

 

 女性の二人連れというのは、そのバーにとっては日頃珍しいものだった。旧暦の頃のアナクロチックな内装を売りにしているといえば聞こえは良いが、瀟洒なアンティーク趣味とは程遠い店なので普段の女性の入りは少ない。店主の趣味で買い揃えた、市場ではとうに死滅した本物のレコード盤やブラウン管テレビ、そして馬鹿でかいレジ打ち機を面白がってくれるのは、やはり大体が男性ばかりだった。

 

 そういう事情もあって、マスター兼バータンダーの男は殊の外快く二人を迎え入れ、そして二人が迷わずテーブル席を所望したことに内心で残念がりもした。

 

 女性客は二人とも10代後半から20代前半といったところだった。五十路も半ばな店主から見ると若い娘で一括りにしてしまうが、どうやら先輩後輩程度の歳の開きはあるらしく、片方の赤毛の娘がもう一方の栗毛の娘に話しかけるときは口調は平易ながら若干畏まった雰囲気があった。それでも二人の間に絶えぬ笑顔から、互いに気の置けぬ友人と思い合っていることはありありと窺えた。髪色と顔立ちの違いさえなければ、姉妹のようにも見えただろう。

 

 戦争が終わってから、幸せそうな客が増えた。店主の胸に、そんな温かな感慨が湧いた。終戦記念に店で馬鹿騒ぎが開かれたこともあったが、こういうなんでもない客から何気無く感じる幸せの微粒子こそ、本当の意味で一つの時節が終わったことの証左なのだと思えた。経営的にもあまりやって良いことではないが、なんとなくいい気分になったので、店主はサービスで二人になにか一品振る舞おうと決めた。とっておきのブランデーがあるが、赤毛の妹分は酒を頼まなかったので、あまり喜ばれないかもしれない。ここはデザートにしておこうか。女房のベイクドチーズケーキが、今日はいつも以上に上手く焼けたんだ。テーブルについてから早速あれこれと姦しく話に興じている二人の顔が、絶品のケーキを前にしてさらに咲き誇るところを想像しながら、店主は在庫を確かめるべくいそいそと厨房に引っ込んでいった

 

 新西暦188年、冬。インスペクター事件、と後に呼ばれる異星軍との攻防戦が集結してから、早、半年が経過していた。

 

 

 

 ラングレー陥落という一大アクシデントを迎えながらも、その後オペレーション・プランタジネットは有象無象の紆余曲折を経つつもかろうじて推進されていった。修理を済ませたハガネ隊は、ブリジッダ率いるDC主力軍とともに宇宙へ上がり、月面都市へと進軍を開始。陸戦部隊と連携して住民や人質の救出を行いながら、並行して月そのものの奪還、宇宙での足場を確保した。ここまでがプランタジネットのフェイズである。

 

 次いで最終フェイズとして、連邦軍ならびにDC軍の全戦力をもって異星軍本拠地であるホワイトスターへ進軍。空間転移技術を持つ異星軍に道々で戦力を削られながらも、必要最低限の戦力を確保した上で彼らの眼前へと肉薄することに成功した。

 

 地球連邦軍、艦隻数にしてハガネ隊やDC軍も含めて27。異星軍、全て地球側から鹵獲したものであるが24隻。機動兵器の数は、大凡それぞれの数字を100倍にした数となる。数と数。物量と物量。一大会戦は熾烈を極めた。火薬と荷電粒子の光芒が、深遠なる宇宙に幾千幾万もの華を咲かせた。そして幾千幾万もの命が星のごとく瞬き、そして散っていった。

 

 質・量ともにほぼ同等、しかしながら地球軍の方は、己の本陣たる地球そのものを背にするためか、士気という点でこれ以上ないほどに充実していた。結果、全戦力の正面衝突は拮抗しつつも徐々に徐々に地球軍側が優勢になっていった。満を辞して、地球側は戦陣中央に向けて渾身の一槍を繰り出した。地上ハイエンドの技術と英知が結集した最精鋭部隊ハガネ隊。修復を済ませ、もはや勇姿に衰えなきハガネとヒリュウ改の二隻に、敵陣中央突破の命を投げ打ったのである。

 

 ハガネ隊が敵本陣にたどり着けば、それが終戦記念日となる。DC戦争におけるアイドネウス攻防戦、L5戦役におけるホワイトスター突入戦。過去二つの大戦に起因するジンクスは、兵たちの間でも根強く、なかば信仰にすら近いものだった。皆の祈り、願い、全てを背負い、ハガネ隊は駆けた。迎えくるものをことごとく振り払いながら、一直線に敵陣中央を突っ切った。そうしてホワイトスターにまで見事到達し、一息に外壁を打ち破って、基地内部への侵入を果たしたのである。

 

 あとの顛末は、おおよそL5戦役のときと様相を同じくする。敵陣へ殴り込んだハガネ隊。最後の決戦は、ホワイトスター内部でも随一の広大さを持つ、人類飼育用のマルチプルファームにて行われ、敵の首魁ウェンドロもそこで討ち果たされた。

 

 ディカステス。城塞を纏った魔獣とも言うべき異星軍の最高指揮官機。ハガネ隊の精鋭たちが放つ、それぞれが一撃必殺の火砲をものともせず、逆にただの一撃でハガネ隊の機体の半数を吹き飛ばして見せた正真正銘の怪物機。部隊を半壊させながらも不屈の精神で続けられたハガネ隊の猛攻の前に、その怪物もついに崩れ落ちる時が来た。

 

 ――強い、強過ぎる。

 

 ――覚えておくんだな。その力が銀河を滅ぼすんだ。

 

 今際の際にウェンドロが遺した言葉。それが単なる敗者の負け惜しみに過ぎないのか、それとも真実未来を言い当てたものなのか、それは誰にもわからないことだった。

 

 言えることはただ一つ。

 

 西暦188年、4月。敵首魁は討たれ、白き魔星は再び堕ちた。そうして、一つの戦争が終わりを告げた……。

 

 

 

「それでどうなったの?」

 

「なにが?」

 

「と・ぼ・け・な・い・で」

 

 そうやけに強く咎められたものの、対面に座るアイビスはなんのことか分からずに目を白黒とさせるばかりだった。アルコールのせいか、ツグミの目は平時よりもやや霞んでおり、しかしながら表情全体は一層のこと活力に満ち満ちていた。危険な兆候だ、とアイビスには見て取れた。

 

「どうなったのって、ツグミだって知ってるでしょ。ずっと一緒に居たんだから。戦争が終わって、あたしたちの徴兵もお終いになって、そろってお役御免。二人でコロラドに帰って、プロジェクトに再参加を」

 

「ちがう、ちがうわよ。私が聞きたいのは彼のこと。彼と貴方がどういうゴールを迎えたのかってことよ」

 

 ああ、またその話か、とアイビスはやや疲れたように視線を逸らした。逸らした先で、店のマスターが古めかしい蓄音機にどこかウキウキとしながら新しいレコードを装着しているのが見えた。蓄音機といい、やけに古めかしいレジ打ち機といい、今時骨董屋ですら見かけないものだが、店主の趣味なのだろうか。

 

「で、どうなの」

 

「いや、どうもなにも、聞かなくたって分かるでしょ。あたしが休日こそこそと、誰かとデートしているように見える?」

 

「見えないわ。土日に誘っても、あなた全然断らないし」

 

「じゃぁ、結果は知れてるでしょ。聞かないで欲しいね、そういうことは」

 

「いいえ 聞かなくてはならないわ。こういうことは結果よりも経緯が重要なの。空の上で告白したのよね。やっとそこまでは聞き出せたわ。今日聞きたいのは、その続き」

 

「続きなんかないよ。それで終わり」

 

「終わりってことはないでしょ。返事はもらえたの?」

 

「貰ったと言えば貰ったけど、いいものじゃなかったよ」

 

 新しく煎れてもらった紅茶にかっぽかっぽと砂糖を入れながら、アイビスは一見して平然と言ってのけたが、ツグミの方はというとまるで納得した様子はない。

 

 アイビスの言は、端的に言えば彼女がフラれたことを示しているが、それにしてはカップを啜るアイビスの表情はいかにも暖かげで、失恋の陰りは見当たらない。終戦後半年間の月日によってすでに傷は癒やされたのか、と無理に解釈する必要はツグミには無かった。いまアイビスが誰とも定期的に逢瀬を重ねていないという点は、たしかにツグミとて認めざるを得ないが、一方でまた別の確信を抱いてもいた。

 

「アイビス、何か隠しているでしょう」

 

「え」

 

「フラれたのよね?」

 

「うん、まぁ」

 

「要は恋人になれなかったわけよね?」

 

「面と向かって言わないで欲しいなぁ」

 

「でもそうなのよね?」

 

「まぁそうだよ。ええ、そうですとも。『俺に恋人なんていらねえ』って、はっきり言われたから」

 

「『だから愛人で我慢しろよ』……ていう話でもないのよね?」

 

 愛人、という言葉の意味よりもまずその響きに、アイビスは堪らぬ様子で紅茶を吹き出した。

 

「ああ、もう分からない。いいから最初から全部話しなさい」

 

「ぷ、プライバシーの」

 

「あら、なんて? いずれ共に銀河を駆け巡るであろう一蓮托生のチームメイトに対して何ですって?」

 

「ううん……」

 

「ね、ね、お願い。話せるとこまでで良いから」

 

 この押しの強さ、ブロウニング少尉となんかダブるな。アイビスはそう思った。いつのまに友誼を結んだのか、それまであまり接点を持っていなかったツグミとエクセレンは、月へ昇る手前辺りから隊内でも良く話をするようになっていた。昼食でもよく席を同じくしており、一度何気なく同席しようとして、連れていたマサキに力一杯拒絶されたことがある。

 

 なんにせよ此度のツグミの追求はいつになく厳しく、これまで言を左右になんとか躱してきたアイビスであったが、今度ばかりはある程度まで話をせずには済まないようだった。二杯目のポットが運ばれてきたのを機にアイビスは腹を括り、どれ、とばかりに佇まいを直した。いつの間にか店内では、新西暦を迎えながらもなお歌い継がれるアメリカの民謡、「Home on the Range」が流れていた。故郷を想う、古い郷愁の歌だった。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

「ええと、どこから話そうか」

 

「まずは告白直後からよ。好きだと言って、二人でハガネの格納庫に帰って、それでどうなったの」

 

「ああ、格納庫ね。うんうん。別に何もなかったよ」

 

「またまた。もういいってば、そういうの」

 

「いや、本当に何もなかったんだって。機体から降りた後、あたしダッシュで逃げちゃったし」

 

「は?」

 

 嘘でも何でもなかった。告白直後、試験飛行を終えて格納庫に機体を入れ終えたアイビスは即座に機体の火を落とし、リフトロープで地上に降り立ったあと、そのまま一目散に格納庫を走り去った。相方の少年と顔を合わせたくない一心でのことだったが、それにしても竜頭蛇尾に過ぎる行いに、ツグミは呆れ顔になった。

 

「なにやってるの。それじゃ相手からしたら印象最悪じゃない」

 

「うん、確かに怒ってたっけ」

 

 過去の記憶と、流れ来る優しいメロディに浸ってか、アイビスは懐かしげに目を細めた。

 

 マサキが怒るのも無理からぬことで、なにせ驚くべきことにこれ以降二日間もの間、アイビスはマサキを避け続けた。無論二人きりの小隊であるのだから、たとえ一日たりとて二人は顔を合わせずに過ごすことはできないのだが、しかしアイビスは成し遂げてしまった。

 

 一例として挙げると、次のような出来事があった。試験飛行のあと、まんまとマサキから逃げおおせたアイビスだったが、実のところそのすぐ後にはキョウスケや医療班々長らも交えてのデブリーフィングが行われる予定になっており、当然ながらそこにはアイビスとマサキも同席する必要があった。要するにアイビスの逃亡はほんの十数分ほど首を繋げたに過ぎなかったのである。

 

 約束の時刻のおよそ7分前。ミーティングルームに一番乗りを果たしたのは、このとき珍しく道に迷うことのなかったマサキであった。誰も来ていない室内を一通り見回してから、どっかと椅子に座り込み、机に肘をつき顎を乗せる。だらしなくも平静な様子であったが、どこかぎこちなくもあり、ぼんやりと残りの面子を待つ間にも、落ち着き無く机を叩き続ける指先が、少年の内心の揺れを表していたのかもしれない。

 

 して、少年の待ち人は遠からずやって来た。プシュ、という圧縮空気の音と共にミーティングルームの扉が開かれ、彼のたった一人の部下がのこのこと姿を現した。息も止まるような沈黙……はしかし二秒ほどしか続かず、すぐさま二人の間は再度冷たい扉に遮られた。アイビスが扉を閉めたためである。

 

 この期に及んでの往生際の悪さに、マサキはすっかり肩を怒らせ、ズカズカと扉まで歩み寄った。乱暴に開閉ボタンを押し、三たび開かれるドア、と思いきや途中までしか開かれない。まさかこのタイミングで故障するはずもなく、単に廊下側のアイビスが手で扉を押さえ踏ん張っているのである。横開きの扉になんともご苦労な、そしてなんともトンチンカンな努力にマサキは言葉を失ったし、それは時を経た今になって話を聞くツグミもまた同じだった。

 

「なにやってるの?」

 

「いや、まぁ……」

 

 いずれにせよ程度の低い悪あがきに引導を渡すべく、マサキは中途まで開かれた扉に手をかけ、無理やりこじ開けようとした。アイビスも負けじと力を込めたが、腕力以前に扉の構造上からして勝てるはずもない。最終防衛線はあっさりと破られ、容赦なく扉から這い出てきた侵略者を前に、アイビスは顔面を蒼白にしながら後ずさった。絶体絶命の状況だが先の格納庫での一件しかり、こういったときのアイビスの素早さは中々に目を見張るものがあり、後ろ襟を掴もうとするマサキの手を寸でのところで掻い潜って、またもや脱兎のごとくその場を逃げ出すことに成功した。

 

 ひとつ違うのは、「まてこら」だの「逃げるな腰抜け」だの、なんやかんやと罵声を挙げながらマサキがその背を追ったことだろう。ただ結果までが変わることはなく、足の速さでは甲乙つけがたくとも、土地勘については3馬身ほど開きがあった。二、三度角を曲がられるともうマサキはアイビスに追走できなくなり、加えて自分の位置すら見失う羽目となった。マサキが追撃を諦めた地点から元の場所に戻るまで徒歩4分といったところだったが、その十倍以上かけてマサキがミーティングルームまで舞い戻ると、そこにはすでに話がついたのか、レフィーナや医療班々長とにこやかに握手を交わすアイビスの姿があった。ついでに、結局30分以上もの遅刻となったマサキに対して、これ以上なく白い目を向ける若き戦闘指揮官の姿もまた。

 

 物申したきこと幾十とあったにちがいないマサキだが、このときばかりは疲労感の方が勝ったか、キョウスケやレフィーナの小言に対してもただおとなしく項垂れるばかりであった。その間にもアイビスはまるで煙のようにその場から消え去っており、それを追おうという気力ももはやそのときのマサキには無かった……。

 

 

 

「なにやってるの?」

 

 一通り話を聞いて、ツグミは話にならないとばかりに頭を振った。とんだ笑い話だった。ジョークとしてはそれなりの出来だが、今宵彼女が聞きたいのは決してそういう類の話ではない。 

 

「いや、あのね」

 

「もう一度訊くね。なにやってるの?」

 

「あたしだって必死だったんだよ、あのときは。もうとにかく絶対断られると思ってたからさ。そんなこんなで二日くらい逃げ続けたもんだから、マサキってばますます怒っちゃって。目なんてこーんな釣りあがって、もう本当にどうしようかと」

 

「当たり前でしょうが。言うだけ言っておいて返事を拒んでどうするの。でもまぁ、それはそれとして、今『断られると思ってた』って言ったわよね。過去形だったわね。てことはまさか実際は違ったわけ?」

 

「まぁまぁ、物事には順序というものがあってだね」

 

「いいから。もうクライマックスに行ってくれていいから。返事を貰ったんでしょ? いつ? どこで? どういう風に?」

 

 全く気の早い、とでも言いたげにアイビスはやれやれと肩をすくめた。その頬を思い切り頬をつまみあげてやろうかと思ったが、ツグミは耐えた。話しをしやすいよう、アイビスの目を盗んで紅茶のポットにこっそりとブランデーを注ぎ足したのはツグミであるのだから、多少アイビスの気が大きくなっていようと受け流してやる義務があった。なによりアイビスとマサキの関係性の首尾についてはツグミにとっても他人事とは言い切れない。この機会に、なんとしても現状の正確なところを聞き出してしまいたかった。

 

 なんにせよ、アイビスは聴客の要望に応えるべく、やや意識をふらつかせながらも訥々と物語の佳境部分を語り始めた。つまりはアイビスの告白に対して、マサキからの返答を得たときのことである。それはかの試験飛行から三日後の、夕暮れ時のことだった。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 当時、アイビスは依然として覚悟を決めかねており、マサキに対する逃げ腰な態度もまだ改められていなかった。ゆえにこのとき踏み込んだのも、やはりマサキの方からであった。

 

 午後の労務も区切りがつき、入浴を終えた乗組員たちが徐々に食堂に集おうとしていた時分。アイビスもまた自室を出て屋外の共用食堂へ顔を出そうとしていたが、数歩も歩かない内に彼女の小隊長がその行く手に立ちはだかった。いい加減事態を疎んじたマサキが、今日こそ決着をつけるべく、アイビスが部屋から出てくるのを通路の角で待ち伏せていたのである。少年とはいえ歴とした男が、女性用フロアの一角に黙々と張り込む姿は相応に外聞の悪いものであったはずだが、幸い後にも先にもそのことが問題になることはなかった。要因こそ不明なものの、ここ数日のアイビスのマサキに対する奇矯な態度自体は他の乗組員たちにも広く知れ渡っており、マサキの不審な行いもそれに関連してのことだろうと見過ごされた。中にはリオ・メイロンのように「頑張ってね」などと肩を叩いていく者すらいたほどだ。

 

 そういった後押しもあってかどうかはともかく、マサキの捕獲作戦はこうして成功を見、二人は実に二日ぶりにまともに言葉を交わし合うこととなった。

 

「ちょいと面貸せ。理由は分かるな」

 

「は、はい……」

 

 単なる錯覚か、それともこれもプラーナなるものによるものなのか、怒気のあまり陽炎すら発しているように見えるマサキに、アイビスは猛獣を前にした子ウサギのように身をすくめるばかりだった。これでまたさらに無駄な抵抗を試みようものなら、彼の騎士が放つ必殺の敵味方識別広域兵器が、彼女にとってのみそうでなくなる可能性すら予見された。

 

 ひとまず場所を移すことになり、よく二人で出かけたハガネの屋外デッキへとアイビスは連れ込まれた。太陽はすでに地平線へと差し掛かっており、暖色の陰影がヴァージニアの稜線とラングレーの大穴を覆っている。風は柔らかく、肌寒く感じる一歩手前にそよいでおり居心地は悪くないが、今のアイビスの震え切った心胆を暖めるほどでもない。夕食時なだけに眼下の共同食堂は賑わっており、それに正比例してハガネのデッキにはアイビスとマサキの他に人影は見当たらなかった。

 

「来たわ、ついに来たわね。やっと盛り上がってきたわマスター、もう一杯!」

 

「あ、あたしもお代わり。こんなに美味しい紅茶、初めて!」

 

 そんな時空を隔てた馬鹿騒ぎなど当然ながらつゆ知らずに、先導するようにデッキへ先に立ち入ったマサキは、靴音を立てて後ろを振り返った。よもやとも思ったが、今度ばかりは彼の部下も腹を括ったらしく、おとなしく付いて来ていた。

 

 てっきり怒鳴り散らされるものとばかり思い込んでいたアイビスは、マサキが振り向いたと同時に思わず顔を伏せた。しかし意外にも待てど暮らせどお呼びがかからず、アイビスは恐る恐るに少年の顔色を伺った。

 

「……」

 

「……」

 

 言葉なしに二人は見つめ合い、そして諸々のことを理解し合った。色濃い焦燥の影、落ち着きのない視線。全く平静でないマサキの様子に、アイビスはこの瞬間の訪れを恐れていたのは自分だけではなかったことを悟った。そしてアイビスがそう悟ったことにマサキもまた気付き、不機嫌そうに腕を組んだ。防壁を求めるときに人が無意識にとる所作と言うが、彼の場合、さきほどからちっとも落ち着かぬ心拍を押さえ込もうとする意味合いもまた強かった。

 

 埒の明かぬ沈黙を振り払うように、やがてマサキの方から声をあげた。

 

「えーっとだな」

 

「はい」

 

 間を持たせるように、マサキはとんとんと二度つま先で地面を打ち、アイビスはそっとお腹の前で手を組んだ。

 

「その、だな」

 

「はい」

 

 またもや間が生じた。痒くもないのにマサキはしきりに片方の二の腕をわさわさと掻き毟り、アイビスは自分の手の甲に浮かぶ血管の色合いをつぶさに観察しだした。

 

「いや、だからよ」

 

「はい」

 

「な、なんだよその口調は。話しづらいからやめろ」

 

「ごめん。それで?」

 

「あ、いや、えーっと、その、だからよ」

 

 三度目の間。そのまま永遠に口籠り続けてしまいそうなマサキであったが、やがて踏ん切りをつけたのか一つかぶりを振り、打って変わって矢継ぎ早に言葉を捲し立てた。

 

「お、お、俺は、その、なんだ。好きだのなんだの、そういうのは、なんつーかあれでよ。ましてや俺は、隊長だろ んでもって、魔装機神操者だ。好きだの何だの、言ってられる立場じゃねえんだ」

 

 果たしてマサキの言は理路整然とはお世辞にも言えず、文意は曖昧で聞くに堪えなかった。それでも、要約するとだいたい次のようになった。

 

 国家を持たず、ただの一個人で確固たる国際的立場を有する魔装機神操者は、それゆえに世界各国に対して厳然とした中立性を求められる。警察が守るべき市民を選り好みしてはならないように、税務署が税の取り立て先を選んではならないように、それは魔装機神が、あらゆる国家に対して一切の義務を持たないがために自ずと発生する「義務なきゆえの義務」であった。彼らの力が発揮されるべきはただ一国のためでなく、誰か一人のためでもない。如何なる体制にも権威にも属さない魔装機神は、しかしだからこそ誰よりも公人でなければならない。

 

 ましてや特定の一人に対して個人的な感情を拗らせ、大局を見失うなど、魔装機神操者が最も避けなくてはならないことの一つだった。事実として、といっても魔装機神操者は故人を含めてもわずか四人しか存在せず、統計の母数としては少なすぎるものの、魔装機神操者が同じ魔装機神操者以外に恋人を作ったケースはこれまでに無い。また恋愛とは180度ベクトルが異なるものの、マサキが生涯の仇敵と見なすシュウ・シラカワさえ、それは彼が義父の仇である以前に、世の仇と成りうる存在と見定めてのことである。

 

「つまり! そういうわけだから! あれだ! 俺に……恋人なんていらねえ!」

 

「……」

 

 マサキはそう論を結んだ。彼らしくもない長口舌は、アイビスに聞かせる以上に彼自身が考えを整理するためのものだったのだろう。いかにも慣れぬような、たどたどしい弁舌であったが、それでも断りの意だけは誤魔化さずはっきりと口にした。

 

 そして、それは間違いなく彼女の耳にしっかと届き、臓腑にまで降りていった。

 

 俺に恋人なんていらねえ。

 

 彼はそう言った。そう言ったのだ。

 

 アイビスはじっと、なにかを堪えるように自分の手元を見つめ続け、そしてややあって、顔を上げた。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

「だめじゃない」

 

 ツグミは唖然として言った。拍子抜けとはこのことだった。いつのまにか店内のBGMも変わっており、2世紀近く前の古典バラードが鳴り響いていた。たしか「Yesterday」という曲で、失恋の歌であったはずだ。その哀しげな曲調に取り憑かれてか、アイビスはいつしかテーブルに突っ伏したまま動かなくなってしまった。

 

「断られてるじゃない。思いっきり」

 

「だから、さっきも言ったでしょ」

 

「いや、そうだけど、でも」

 

「だから話したくなかったのに……」

 

 そうして鼻をすする音すら聞こえてきた。

 

 古傷を抉ったに等しい我が身を省みて、今更ながらツグミは慌てた。慌てたが、彼女の聡明な理性はまた一方でどうにも得心がいかぬものを感じていた。それでは説明つかないことが多すぎるのだ。

 

 ヒリュウ改とハガネの修理が済んでから間もなく、ハガネ隊は宇宙へ上がり、オペレーション・プランタジネットのあと詰め、つまりは月の奪還とホワイトスターの制圧に乗り出した。月でもホワイトスターにおいても、戦場におけるフリューゲルス小隊の連携に一切の齟齬は見当たらず、むしろ睦み合う比翼のように一層流麗なチームワークを発揮していた。艦内においても二人の間柄には拗れた様子もなく、空での告白にしたって終戦後に話を聞くまでツグミは、そんな劇的なことが起こっていたなどと思いもよらなかったほどだ。告白し、振られたような間柄でそんなことが可能であるはずがない。プロフェッショナリズなどこの際関係ない。人間である以上、どのようなパイロットも情緒と無縁ではいられない。

 

 そのあたりを踏まえてみると、悲嘆にくれるアイビスの姿はどうにもわざとらしく見える。意を決して、ツグミはアイビスの頭を両手で掴み、えいやと持ち上げてみた。果たしてぱちくりと瞬くアイビスの目からは涙など欠片も見えず、表情も平素どころか、酔いのためかいつもより上機嫌なくらいだった。

 

「アイビス……」

 

「ん? どうしました? チーフ」

 

 ツグミは今確信した。なにか裏がある。これまでの話は全て嘘……いや、それはない。即興の作り話を滔々と語りあげるような器用さとは無縁の娘だ。疑うべきは、話の続き。なにか大きなどんでん返しが、その後に隠されているのだ。

 

「教えなさい」

 

「定時後なので、命令は受け付けません」

 

「ね、教えて。ツグミのお願い」

 

 ツグミもいい加減酔っ払っていた。

 

「ね、ね。いいでしょ」

 

「あたし甘いものが食べたいなぁ」

 

「マスター、この子にケーキ一つ!」

 

「チーズが恋しいなぁ」

 

「マスター、とびっきりのチーズケーキでお願い!」

 

 そんなこんなで、話は続けられることとなった。

 

 

 

 一体どうしたことか、そのときアイビスは至極冷静そのものな表情を浮かべていた。冷静とはつまり「冷たく」「静か」な状態を指し、その言葉の通りアイビスは、マサキの言に対して悲しむわけでも怒るわけでもなく、ただ「なにを言っているんだろう、この人は」とでも言いたげな表情で見返すばかりだった。

 

 アイビスにしてみれば、そもそもがズレた話であった。というより、客観的にみればこの場合はアイビスの思考が先へ進み過ぎていたと言うべきか。

 

 彼は魔装機神操者である。

 

 そんなことは知っている。

 

 世界を守らなくてはならない。

 

 それも知っている。

 

 シュウ・シラカワを倒した暁には地底の異世界に帰らなくてはならないことも、そこでもまた戦い続けなくてはならないことも知っている。彼がその務めに背くことも、また自分がそれに付いて行くこともまたありえないと知っている。避けえない別れがすでに間近に迫ってきていることなど、とうに分かりきっているのだ。

 

 その上で、アイビスはマサキに想いを告げた。得るもの、残るものが無くとも、この気持ちを伝えることに大きな意味があると信じた。だからこそアイビスは、マサキの答えにまったく納得がいかない。断られること自体は覚悟していたことだが、しかしその理由として、あまりにも非本質的な了見をこれ見よがしに振りかざし、それで全てが済んだ気になっている彼の顔がどうにも憎たらしくてならなかった。

 

(やれ魔装機神だの世界だの、大仰な言葉を使えば誤魔化せると思って)

 

 マサキの長ったらしい説明は、アイビスに言わせればとどのつまり「仕事が忙しいからパス」ということ以外、何も語っていない。有史以来、世の男性たちが何百億回と使い、きっとその度に大なり小なり世の女性たちの不興を買ってきた、有り触れた断り文句である。そしてそれは此度もまた同じであった。

 

(ええ、確かにそれはそうなんでしょうとも。でもそうじゃない。問題は、全然そんなことじゃぁない)

 

 言うべきことを言い終えた、とでも勝手に思い込んでいるのか、憎々しい想い人は気まずげにしながらも一息ついたような様子だった。その様にアイビスの胸中は戦意という戦意に燃え盛り、瞳は剣呑なまでに爛々と輝いた。遠慮は無用と見える。半ば腹いせにも似た気持ちでアイビスは、健気にも生涯胸に留めておこうと考えていた彼の最大の弱みを、全力で突いてやることにした。

 

「ふぅん。あ、そうですか」

 

「……?」

 

 突然の淡白な素振りに、マサキの目に不審の色が浮かんだ。しかしその色は、即刻別のものに変わることになる。

 

「ひどいこと言うよね。むりやりキスしてきたくせにさ」

 

「んなっ!」

 

 真実、それは少年にとって最大の弱みであった。誰にも言われてはならぬことを、もっとも言われてはならぬ相手にこれ以上なくしたたかに不意打たれ、マサキは顎を外さんばかりに愕然とした。

 

「人が弱ってるところを」

 

「うっ!」

 

「あんなに激しく」

 

「ぐっ!」

 

「あたし初めてだったのに」

 

「……! ……!」

 

 もはや声にもならなかった。平静を取り戻したはずの少年の心はあっという間に地崩れを起こし、さらにアイビスの次なる一言で今度は隕石まで降ってきた。

 

「あたし、あんたが好きだよ。前も言ったけど、本当に好き。愛してるよ。マサキはどうなの」

 

 あまりにのっぴきならない言葉に、マサキは音声らしきものを発することもできなかった。ぐうの音も出ないとは、まさにこういうことを言うのだろう。

 

「今日この場で、あたしがあんたの口から聞きたいのはそれだけなんだ。魔装機神の権利も義務も知らないよ。聞きたいのは、本当にそれだけ。お願いだから、好きじゃないなら好きじゃないって、そうはっきり言ってよ」

 

 悲しいかなアイビスが想いを露わにすればするほど、マサキの混乱と焦燥は天を衝く勢いで極まっていった。脳内で次々と銅鑼が叩き鳴らされ、心臓が爆縮を開始し始めた。

 

 自分が体良く話を逸らしていたことに、ようやくマサキは気が付いたたのだ。アイビスはマサキが好きだという気持ちを伝えた。彼はそれに対して、己の立場や社会性を答えた。しかし肝心要の、彼自身の気持ちについてを彼は一つも口にしていない。いまアイビスが指摘したのもそこだった。

 

 だからといって、いや失敬などと嘯き、やすやすと言を付け足せるマサキでもない。自身の気持ちや本心を口にすることは時に恐ろしく、非常な困難を要する人類普遍の壁であった。世の誰もがそれに苦しみ、躊躇する。戦場においては勇気の化身といっても良いマサキにおいてもそれは例外なく、どころかマサキは、今すぐにでもサイバスターに乗りこんで、この場から飛び去りたい衝動に駆られていた。飛び去って、地底に広がる第二の故郷に帰り、懐かしの我が家に逃げ込んでしまいたい。何事かと目を丸くする義妹の横を走り抜け、自室に飛び込み鍵をかけ、毛布にくるまりなにもかも忘れて眠ってしまいたかった。

 

 無論、そのようなことをアイビスが許すはずもない。

 

(狼狽えちゃって。見てらんない)

 

 二日前の一幕とすっかり攻守を反転させ、一躍獲物を追い詰める猛獣役となったアイビスだが、マサキの憔悴ぶりに一種憐れみを覚えないでもなかった。

 

(そっか)

 

 ふと、アイビスの胸中で思い起こされたことがあった。雪が溶けて水となり霞となり、その中からまるで生まれ芽吹くかのように、忘れていた事実がぽこんと顔を出した。

 

(そういえば年下なんだっけ)

 

 年下の男の子。

 

 サイバスターの操者。前大戦の裏撃墜王。地底世界では一国の君主に匹敵する権力を持つらしく、さらにマサキ自身すら知らないことまで付け加えると、日本円換算で約70億円もの私的財産を所有するそうな。

 

 そんな歩く超常現象のような相手を、「年下の男の子」などと軽はずみに言い表して良いものかどうか、アイビスには判断つきかねた。しかし、これもまた曲げられない事実なのである。四大魔装機神の一角を担うのは、異性からの率直な求愛に対し、恐ろしげな態度しかとれない初心な少年だった。なんとか拒絶の言葉をひねり出しながらも、少しつつけばあっさりと水が漏れ泡を食うような、未成熟な少年そのものだった。

 

 胸の奥からむずむずと、さきほどまでの戦意とはまるで違う、何かむず痒いものがこみ上げるのをアイビスは如実に感じ取った。確信と共に、今この場で自分がどう振る舞うべきかをアイビスは理解した。

 

 アイビスはマサキの両肩に手を置き、真正面からマサキの目を見据えた。まじまじと見詰めてみせた。たったそれだけでマサキは哀れなほどに狼狽え、後ずさった。どのような大軍・強敵相手にも怯まない、あのマサキが。

 

「ちょ、お前……!」

 

「目、閉じて」

 

 アイビスは努めて囁きかけるように言った。そういう風にするものだと、リオから勧められた少女漫画にはあった。男女逆だった気もするが。

 

「ま、待て。待て待て待て待て!」

 

 アイビスは待たなかった。子供の恐がりにいちいち付き合っていてはお化け屋敷で遊べない。怯える子供に必要なのは、大人が手を引っ張ることだ。子供に、恐怖を乗り越える歓びを教える為にも。

 

 少年は風であり、誰にも縛ることはできない。しかし、そもそもその必要すらなかったことにアイビスは気づいたのだ。風は縛るものではなく、立ち向かうべきものだった。そうして風を自らの推力に変えて、ジェットエンジンは空を飛ぶのだから。

 

「お願い。嫌なら言って」

 

 そう言うアイビスの態度は、ある意味では卑怯とも言える。言われるはずがないと、アイビスには分かっていた。問いかけに対する答えは、いまだ少年の胸の内に閉じ込められたままだ。しかし、それがアイビスにとって悪いものではないことは、そのトマトのように茹で上がった顔色を見れば火を見るよりも明らかだった。

 

 そうして両者の距離がとうとうゼロになろうとすると、マサキはもはやこれまでと観念し、ぐっと力一杯に目をつむった。シルベルヴィントの発射寸前の主砲より、いまのアイビスの顔の方が少年にとってはよほど恐ろしいらしかった。

 

 無様に死に体をさらすマサキに、アイビスは胸のむずむずがいよいよ堪らなくなり、そうして彼女自身も目をつむり、一思いに止めをくれてやった。

 

 残念だったのは、あの夜のような熱は感じなかったことだ。

 

 幸福だったのは、その分、ただ感触だけがあったことだ。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 誰かが言ったのだ。

 

 人を好きになるというのは、人間が持つ中で最も根本的な感情なのだと。世界を守るという使命を帯びる者がいたとして、その者が世界という言葉を使うとき、必ず誰かの顔が胸に浮かんでいるはずだと。みんな結局は、自分の好きな人のために戦っているのだと。

 

 マサキがあれこれと御託を並べながら結局アイビスを拒みきれなかったのは、やはりそういった理由であったのかもしれない。マサキは思う。自分は魔装機神操者だ。世界を守らなくてはならない。しかしアイビスに、そして自分自身にそう言って聞かせる間にも、どうにも説き伏せきれない内側からの声がずっと聞こえてきていた。

 

 だとすれば、なぜ自分はあのときアイビスを助けたのか。

 

 薄暗い墓穴の中。彼方より迫り来る銀影と、彼を待ち受け鎮座する愛機に背を向けて、なぜ彼女の下へと走ってしまったのか。

 

 その自分からの問いに、マサキはどうしても明確な答えを出すことができなかった。結局そのことが迷いとなって敵の侵攻を防ぎきれず、結果、部下相手に無残にも大敗を喫する要因となった。

 

 人影が二つ。アイビスとマサキは屋外デッキの柵に寄りかかり、並んでぼんやりと外を眺めていた。眼下は相変わらず食事時で賑わっており、さながら二人だけが世の中から取り残されたかのようだった。

 

 沈みゆく日差しのなかで二人は隙間なくぴったりとくっつきあい、デッキの床に落ちる二人の影は、さながら三本足の別の生き物にも見えた。マサキとしてはいかにも狭苦しく、苦言を呈したきこと山々なのだが、妙な迫力で好き放題された先ほどよりは多少なりともましな状況に思え、仏頂面を浮かべつつも逃げずにじっとしていた。

 

「好きだよ、マサキ」

 

 そんな言葉が聞こえた。本当に何気ない、まるで唇からぽろりと落っこちて来たような響きに、マサキは明後日の方向を向いて聞こえない振りをした。

 

「本当に好き……」

 

 二度も言うなよ、とマサキは思った。

 

「ねえ、ほんとだよ」

 

 うっせーよ、訊いてねーよ、とマサキは思った。

 

「マサキくんもそうだといーなー、お姉さんは」

 

 わざとらしい年上振りが癪に触り、じろりと睨みつけてやるものの、見透かし待ち構えていたアイビスは、やっとこっちを見てくれたと如何にも嬉しそうに微笑むばかりで、みるみるうちに気を滅入らせたマサキは、無言で明後日の方向に向き直った。なお、結局のところアイビスの問いかけに対して、いまだマサキは明瞭な答えを返せていない。マサキはどうなの、などと言われてもマサキとしては困るのだ。そんなもの、どうもこうもあるものか。

 

 嫌いじゃねえ。言えるとすれば、それだけだ。

 

 強気かと思えば弱々しくて、無駄に傷つきやすく、かといって変なところでゾンビ染みたしぶとさもあって。そんな、世界でたった一人の部下のことを、マサキは、全くもって嫌いではなかった。

 

「前にも言ったけどよ。異星人を片付けたら俺はハガネを降りるぜ」

 

 やがて、マサキはそんなことを言った。負け惜しみじみていることは否めないが、事実でもある。

 

「うん、知ってる」

 

「シュウを片付けたら、地元に戻る。長くて半年ってとこだな」

 

「そうだね」

 

「なんもしてやれねぇぜ」

 

「いいよ、別に」

 

 全くへこたれずに、アイビスはマサキの左腕を退けて、その下に体を滑り込ませた。そうしてこともあろうに、横から少年の体に絡みついてしまう。マサキは半ば意地になって口元を引き結び、ひたすら沈みゆく太陽を睨み続けた。

 

 想いは伝えられ、いま二人はこうして触れ合っている。これまでとはほんの少しばかりなにかが変わっていたが、しかしだからといって解決したものは一つもない。依然としては二人は住む世界を異ならせる。場所の意味でも、生き方としても。

 

 しかしアイビスは思うのだ。

 

「一緒にいることだけが愛し合うことじゃないよ。あたしは空の上に行く。マサキは地の底に帰る。それで良いと思う」

 

 合うってなんだ、合うって……と思いはしつつ、マサキは口を挟まなかった。

 

「アステリオンは星の海で、サイバスターは大気の海でそれぞれに飛ぶ。でも、どんなにすごい翼を持った鳥でも、いつかは疲れてどこかに足を下ろすでしょ そんなときに、こうして触れ合うことができれば、それでいいよ」

 

「そんなんで良いのかよ。男と女っつったら、もっとこう……」

 

 彼氏彼女に浮かれる学生時代の友人たちを思い出そうとして、マサキはうまくいかなかった。彼自身が驚いてしまうくらい、それらはとうに掠れきった記憶だった。

 

「デートとか?」

 

「まぁ、そうだ」

 

「してくれるなら嬉しいけど、そんな暇ないと思うよ。戦争が終われば特に」

 

「ならよ」

 

「いらないよ。そんなの良いんだ。数年に一度でも、こうして抱きつかせてもらえるなら、他に何もいらないよ」

 

 本心からアイビスは言った。

 

 そしてもしそれが叶えば、その幸せの形はいつかに見た二つ目の夢とそう変わらぬことにもまた気づいた。違うのは、アイビスが宇宙にいる間も少年は大人しく待ってなどいないということだ。きっと一つ目の夢で見たように、愛機や仲間たちと共に、日々全力で戦い、助け合い、笑い合い、そして生きてゆく。そのさなかに生じる、ほんのひとときの憩いの節。安らぎの場。その中に、どうか互いの姿があってほしいと、アイビスはそれだけを願った。

 

(なんだ。あれは悪夢なんかじゃなかったんだ……)

 

 そうと気づくも、アイビスはやがて考えることを止め、目を閉じた。今はただ、この温もりと匂いに包まれたまま、静かに時間を味わっていたかった。これさえあればいい。他になんにもいらない。このときだけは本当に、そんな風に思った。 

 

 一方、依然として外を眺め続けるマサキは、心中腹立たしさを禁じ得なかった。先ほどから人の体をまるで自分のもののように扱ってくる彼女にも、そのくせ殊勝というか、無欲な言葉しか口にしないことにも、そしてそれに対して気の利いたことを言ってやれない自分にも腹が立った。

 

 ただどうやら一つ言えることとして、自分に触れると彼女は笑顔になれるらしい。さっきもそうだったし、決して見てなどやらないが、きっと今もそうなのだ。そしてどうやらこれからも同じらしい。彼女の笑顔を見ることは少年にとっても嫌なものでは無く、それを心から欲した瞬間もあったような気がしないでもなかったが、しかしそれはそれとして、なにはともあれ腹立たしいものは腹立たしいのだ。

 

 マサキは一体どうすれば今のこの甘ったるい空気を入れ替えることができるのか、あれこれと考えを巡らし始めた。腹の虫もそれなりに鳴き始めており、アイビスはなにやら霞だけで生きていけそうな顔をしているが、マサキの方ははそうもいかない

 

 さてなんと言って飯に行くよう切り出すか、マサキは賑やかな眼下の食堂を見下ろしながら、ぼんやりと考え込んだ。

 

 正反対の翼を持つ二人は、ここでもやはり対照的だった。依然としては住む世界を異ならせ、思うところはどこかちぐはぐで、不揃いだ。しかしそれでも二人はいま寄り添い合っていた。互いの互いの翼を預け合い、安らぎを覚えていた。たとえ教科書の中の1ページに過ぎずとも歴史が歴史であるように、それは誰にも否定できないことだった。

 

 そのことを一方はひたすら幸福に思い、もう一方は「まぁ悪くはねえけどよ」となどと、誰にとも無く言い訳するように心中でぼやいた。

 

 日は陰り、一日が終わろうとしている。やがて灯りが消えて、誰かが言うところの本当の空の色が現れ出す。

 

 久しぶりに、一緒に見ようか。

 

 どちらともなく、二人はそう思った。

 

 

 

   Ⅵ

 

 

 

 ようやく物語が閉幕を迎え、ツグミはやれやれと大きく息をついた。夜はすっかり更けて、いつの間にか雨も止んでいた。いまツグミが傾けるグラスも、それが何杯目であるのかツグミ自身覚えていなかった。

 

 して、語られた物語については、なんと言えば良いのか。なんと評すれば良いのか。

 

「それにしても全然気づかなかった。狭い艦内でよくもまぁしらばっくれられたわね」

 

「戦争中だったからね、別に示し合わせたわけじゃないけど、なんか自然にそうなってた」

 

 二人の言葉通り、その後の艦内における二人の様子は平時とさほど変わりなく、いっとき余所余所しかった二人がめでたく仲直りを果たしたことは周知されても、気持ちを通わせあったこと(アイビス曰く)まではハガネ隊内の誰にも知られていなかった。アステリオンのフライトレコーダーに記録されている件の告白についても、ツグミの手に届く前にアイビスが細工をして処分していた。

 

 ただ中には例外もおり、リューネという名の一人の少女がそれだった。アイビスとっては勇気をくれた相手への恩返しのつもりであったが、気を悪くするといけないのでツグミには言わないでおいている。

 

「でもまぁ、言えば大騒ぎだったかもね。みんな物見高かったし、きっとこれでもかってくらい冷やかされてたわよ」

 

「そんなことになってたら、きっと改めてフラれてたね、あたし。『我慢ならねえ。やっぱ止めだ』とか言ってさ」

 

「そうねえ」

 

 言いながらもツグミはきょろきょろと辺りを見回し、コホンと一つ咳払いをしてから、声のボリュームを若干落として言った。

 

「で、そこからどこまで行ったの?」

 

「んん? 月までだけど。知ってるでしょうに」

 

「ままま。ここまで来たんだから、勿体つけなくても」

 

「いくらなんでもプライバシー保護対象ですね。言いませんよ、あたしは。だいたいさっきも言ったけど、戦争中だったんだよ? あたしたち」

 

 だから怪しいんじゃない、とツグミは内心で言い返した。吊り橋効果というものがあるが、それを言うならばアイビスらは吊り橋の上で寝食を共にしていたようなものであり、むしろ燃え上がって当然の状況と言えた。実際、戦時中の兵士らの間では刹那的な恋愛が多いともよく言われ、ハガネ隊に艦内カップルが多く見られたことも、そのあたりと無関係ではないだろうとツグミは踏んでいた。

 

 ともあれ、いくらなんでもプライバシーだというアイビスの言には、ツグミとて同意するところであり、ツグミはさほど食い下がることあくあっさりと矛先を引っ込めた。気になることは気になるが、いずれアイビスが口を滑らせるのを待てばよいことであった。

 

「言いませんってば」

 

「まぁまぁ。そういう話を無性にしたくなる時も人生あるってものよ」

 

「なにそれ、変なの」

 

 笑いながらアイビスはうんと伸びをして、疲れたように背もたれに体重を預けた。不意に、多くのものが次々と彼女の内側から湧き出て、天井に浮かび上がっていった。

 

「もう、半年か」

 

「そうね」

 

「七ヶ月、だっけ。あたしたちがいたの」

 

「ええ、それくらい」

 

 アイビスとツグミが、ハガネ隊に在籍していた期間のことである。わずか七ヶ月。たった七ヶ月。

 

「夢中だった。本当に夢の中にいたみたいだった」

 

「うん」

 

「なにもかも世界が変わってさ。不思議の国のアリスみたいに、全部がひっくり返って……」

 

「うん」

 

 アイビスは視線を正面に戻した。ぼんやりと壁時計を眺めるツグミの柔らかな笑顔がそこにあった。彼女の胸も、いま様々な記憶で一杯となっているのかもしれない。

 

「いいところだったね」

 

「とても素敵な艦だった」

 

 ハガネ隊の話は、そう締めくくられた。

 

 

 

 宴もたけなわなところで、二人は連れ立って店を出た。

 

「ケーキも紅茶も最高でした。また来ます」

 

 帰りがけにアイビスがそう伝えた時の、店主の顔のほころびようが印象的だった。ツグミ抜きでは今日の紅茶の味を再び味わうことはできないのだが、彼女が出歩く時は大抵ツグミも一緒であり、小さな悪戯が露呈するのはさて何時のことになるだろうか。

 

 風が冷たかった。薄着好きのアイビスですらさすがにコートの前を閉め、酔いのためか冗談めかしてツグミと腕など組みつつ、夜のコロラドを二人してのんびりと歩いた。

 

 ゆったりとした歩みのなか、ツグミはこっそりと連れの顔を盗み見た。物語は終わり、いまの二人の姿こそがその結末である。アイビスは決して一人ではないが、しかし連れ添う相手はあの少年ではない。

 

 異星人を倒し、その後に突如地球に対して反旗を翻し、宣戦を布告してきたたシュウ・シラカワと、ハガネ隊は刃を交えた。異星人全てを打倒した後になってもなお恐怖に値した、神の偉力を体現したかのようなあの蒼の魔神。彼とハガネ隊の戦いについては、ここで語ることでもない。結果として、シュウ・シラカワはかの銀騎士の繰り出した新星の光に散り、彼の目的を知り得るただ一人の人物、マサキ・アンドーはそのことについて何一つ語ることなく地上を去った。それから半年、彼とは一度も会っていないとは他ならぬアイビスの言である。

 

 アイビスの想いは一面としては間違いなく実を結んだ。果肉の味もまた、間違いなく幸福の味だった。しかし種は残らず、ただその余韻だけがアイビスの味蕾に色濃く残っている。要はそんなところなのだろうとツグミは納得し、その結末を残念に思いつつも、それでも物語の価値を貶める気にはなれなかった。

 

 良い出逢いだったのだ。二人はとても良い出逢いをした。それだけで十分に思えた。

 

 一方、アイビスはツグミを片腕にぶら下げたまま、ポケットから取り出したアンティーク調の小さなコンパクトを開いていた。瀟洒な装飾を施された貝殻のようなデザインで、化粧道具にしても品が良く、小洒落ている。

 

「良いわね、それ。どこで買ったの?」

 

「貰いものだよ。餞別品」

 

「へぇ」

 

 ツグミは多くを尋ねなかった。思うところはあったが、いまは酔いの心地に身を任せていたかった。あの少年らしからぬ品の良さに感心しつつ、ツグミはアイビスにもたれかかりながら、ゆったりと目をつむった。

 

 ツグミの考えにはいくつか勘違いがあった。そのコンパクトは確かにマサキがアイビスに贈ったものではあるが、彼が買ったものではない。化粧道具にも見えるそれは、彼が異世界から持ち込んでいた、電波ではなくエーテルを利用して相手に文章を届ける通信端末だった。

 

 アイビスはいまも覚えている。彼との別れの日。池上における全ての義務を果たした彼が、故郷へと帰還するその約束の日。

 

 多くは語り合わなかった。

 

 ――元気でね。

 

 ――おう。

 

 ――また会おうね。

 

 ――……ああ。

 

 覚えているのはそれくらいだ。それでも相手の顔だけは胸に深く刻むべく、穴のあくほどに見つめ続けた。マサキはそんな相方の眼差しにむず痒そうにしながらも、懐から件のコンパクトを取り出し、アイビスにほれと手渡した。

 

 ――こいつを渡しとく。なにかあったら使え。

 

 少年はそう言って、これが地上と地底での通信を可能にする機械であることを説明した。

 

 ――言っとくが、くだらないことには使うなよ。

 

 そうとも付け加えられたが、その忠告をこれまでアイビスは碌に守ったことがない。今日もまた同じだった。

 

 今日、ツグミと晩御飯を食べました。初めて行く店で、変わった内装でしたが、紅茶もケーキもとても美味しかったです。

 

 いつものように、アイビスはそんな他愛ない文面を打ち込み、送信ボタンを押した。この半年の間で、アイビスがマサキに送りつけたメールは100件以上にもなるが、その内容ときたら、こういったものばかりだった。美味しいものを食べた時、綺麗な景色を見た時、面白い番組を見た時、その時の気持ちや想いを赤裸々に打ち込んでは送信ボタンを押す。あるいはそれは、手紙というよりは日記に近かったのかもしれない。

 

 それらを受け取るたびに、きっと次元の向こうで彼は呆れ顔をしているだろう。それでも、2、3日遅れたり、素っ気ない内容であったりはするものの、返事がこなかったことは一度もなかった。

 

 これがツグミの勘違いの今ひとつ。種はこうして残っていた。次元を隔てて別れた二人。それでも種はこうしてアイビスの手の中で暖められ、いずれ芽を出すときが来るかもしれない。何時になるのか分からないにせよ、しかし何時の日か、再び二人が出会う日が来るかもしれない。

 

 続けて、アイビスはもう一度文面を打ち込んだ。

 

 マサキ、星がとても綺麗です。あの日と同じくらい。

 

 貴方の顔が見えます。

 

 一通の手紙は、そうしてエーテルの川を流れ、遠い遠い無精者の彦星の下へと旅立っていった。

 

 



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後書き

 完結記念。

 せっかくなので色々と書かせて頂きたく、以下長文失礼いたします。

 

■アイビス・ダグラス

 

 ミス・ヒート&ナーバス。汗と涙がよく似合う熱血スポ根娘に幸あれ。

 

 プロジェクト以前の経歴が一切不明のため、いろいろと書くことに困りました。恵まれない家庭に育ったなどというのは、完全に私の創作です。またタスクらへんを苦手に思っているというのも、私の勝手な思いつきです。

 

 なんにせよ全体的に弟子ポジションなので、あまり活躍させられなかったなあと残念に思います。ハイペリオンも登場しませんでしたしね。それだけにシルベルヴィント戦あたりは怒濤の追い上げだったというか、なかなかの主人公っぷりを書けたのではと思っているのですが、いかがだったでしょうか。

 

 

 

■マサキ・アンドー

 

 ミスター・ヒーロー。圧倒的主人公力に脱帽。

 

 濃密なバックグラウンド、直情径行な性根、そして強力な個性付けをされたマシン。書こうとするまでもなく勝手にヒーローをやっていくような、そんなパワーを感じました。アカシックバスター格好よすぎんべえよ。筆が踊る踊る。

 

 こちらは師匠ポジションで、戦闘シーンでは良いとこ取りの連発というかぶっちゃけ独壇場でした。それだけにラングレー戦で愛弟子に全てを託すシーンが際立ったのではないでしょうか。際立つと願って書いたのですが、如何だったでしょうか。

 

 

 

■キョウスケ&エクセレン

 

 意外に出番が多かったです。口調もキャラも特徴的なので、登場させやすかったのだと思います、とくにエクセレン。口調だけで誰の発言か分かる、というのはかなり便利なのだと思い知りました。

 

 ラングレー陥没直前のマサキとエクセレンのやりとりは、結構お気に入りのシーンです。LOE第一章のウェンディをオマージュしております。あと何やらアイビスも、マサキとエクセレンの関係に妬心を抱いているような節がありますね。無論、なにかと原作からの逸脱著しい本作でもキョウセレンの牙城は健在ですし、当人たちにもそんなつもりはありませんし、私自身当初はまったく意図してなかったのですが、なんかいつの間にかそんなニュアンスが生まれていました。結果的にはLOE第二章前半におけるマサキ・リューネ・ウェンディの関係のオマージュになったのだと思います。

 

 

 

■タスク・シングウジ

 

 大変、頑張ってくれました。なんて良い奴なんだろう。本作ではアイビスからちょっとばかり警戒されていることになっていますが、彼の人格は原作となんら変わりありません。だからマサキも友人として彼を気に入っておりますし、タスクもまたマサキとアイビスに対して非常に親身に接してくれました。パイロットとしての活躍こそ描けませんでしたが、存在感のあるキャラクターだったと思います。

 

 

 

■イルムガルト・カザハラ

 

 こちらも頑張ってくれました。なんて多才な人なんだろう。何でも出来る。何でも言える。ギャグ、シリアス、戦闘シーン、作戦会議、なんでもござれでした。アイビス×マサキの関係、そしてフリューゲルス小隊も、そういえばこの人から始まったのです。隠れMVPと言えるでしょう。

 

 

 

■リューネ・ゾルダーク

 

 前書きから存在抹消という暴挙に、まず深謝申し上げます。そして最後の最後で盛大なちゃぶ台返し、なんかもうすみません。カップリング変更、そのために既存キャラ追放というファン小説として冥府魔道を突き進んだ本作ですが、私の中で彼女の存在は当初から大きいものでした。アイビス×マサキという原作に無い関係性を作り出していくにあたって、マサキ×リューネの関係性がかなりの部分で参考になっているためです。本作中の表現で言うなら空でのアイビスが、負けん気の強い一本気な女性という点で、リューネと何かと重なりを見せており、本作中でマサキが気に入ったのもそういった部分です。陸での弱腰で自信なさげなアイビスにはむしろ戸惑いともどかしさを覚えていますね。

 

 なんにせよ「アイビス×マサキ」という物語を作るにあたって、彼女は大変重要なキャラクターで、出典の異なる両キャラクターを水と油とするなら、リューネという存在は石鹸水であったと、そう思っています。それゆえにラストの展開にもつながった、というところでしょうか。そういえばOGでも結構仲が良かったですね、アイビスとリューネは。

 

 

 

■サイバスター&アステリオン

 

 設定としてはとくに接点を持たない二機ですが、腰を据えて見比べてみると色々気付きがあったように思います。かたや「翼を持った戦闘兵器」であり、かたや「武器を後付けした航宙機」。正反対なのにどこか似ている。そんな対比がなんとなく好きでした。カラーリングも全く偶然ながら同じく銀色なところも大変心をくすぐります。サイバスターって銀なの? 白じゃないの? というところはさておいて。

 

 しかし乗り手の本作品内での役割もあり、また片方は乗り換え前の前座機ということもあり、活躍の場は大変偏ってしまいました。すみません。

 

 原作の時系列には目をつむってアルテリオンどころかハイペリオンまで登場させようか、させてしまおうかと企んだ時期もあったのですが結局は無しとしました。タイトルの関係上、気の毒ですがアイビスにはスレイよりもまず先にマサキと輝きを一つにしてもらわないといけなかったのです。その結果が掟破りのアイビスinサイバスターなわけでした。

 

 それにしてもこの二機、設定上のサイズ差を考えると、並び立ってもあまり絵にならなさそうなのですが、活字媒体であることを生かしてそのあたりは知らんぷりをしました。

 

 RaMVsの太刀はなかなかの思いつきだと自画自賛してます。反面、マニューバー・EtRaMCnはちょっとおかしいかなと今でも思ったり思わなかったり。実は当初はアカシックバスターRaMVs(略してABRaM(エイブラム))という案で進めていたのですが、せっかくだからノヴァっとこうということで、投稿直前に方向転換しました。響きがいまいちなのは、きっとそのせいです。危うくERaMCn(エランくん)になるのを防ぐので精一杯でした。アストラルイナー!

 

 

 

■アイビス×マサキ

 

 本作では妄想と欲望のままに恋愛関係ということになっている二人ですが、全人類的悲劇として原作ではそんなことありません。ありませんが、それでもOG2ではほんのりとフラグというか兆しを感じられたような気がしたというか、今でも感じています。見えます、私には。

 

 それでなんかこう、恋愛とはまた別の、仲のいいクラスメート的な二人の姿が続編で描かれはしないものかと期待して、第二次OGで見事に打ち砕かれ、一人枕を濡らしたのも私です。今思い返しても、あれは宇宙開闢以来稀に見る悲劇だったと思います。恋うているのです。だって恋うているのです。

 

 なにはともあれ本作中の二人についてですが、どなたからか爽やかな青春劇、という感想を頂きました。私自身、書いていてそんな感じでした、前半は。

 

 ただアイビスというキャラクターを書くにあたって、そして一つの物語としてクライマックスを迎えるにあたって、あのラングレー戦のような展開に突入せざるを得ませんでした。どなたからか戦争小説のような趣という感想をいただきました。私自身、頑張ってそんなものを書こうとしてました。

 

 終盤はまぁ……見ての通りです。

 

 とにかく前書きでのリューネのこともあり、独自路線を行けるところまで突っ走ろうと当初から心は決まっていましたが、とはいえここまで原作から逸脱することになろうとは、書き始めのころは思いもしませんでした。冷静に考えなくとも、本作の中にアインストやシャドウミラーが存在する気がしません。一応ラミアはいるようなのですが。

 

 地底世界の終身戦士と、宇宙を目指すアストロノーツ訓練生という機体同様のX字的対比をやはり気に入っております。地底と宇宙、全く正反対に心を置く両者が、その中間にある大気の海で偶然出会った、というような。

 

 他にも明るく元気な少年が、弱気で内気かつ年上の女をぐいぐい引っ張っていくというコッテコテな関係も大好きです。それでいて何かと欠点の多いマサキに対して、アイビスが所々でフォローしたり年上ぶったり、あと二人して根っこは猛禽なので時たま正面からメンチ切り合ったりなど、とにかく楽しい関係であったように思います。

 

 この先二人はどうなるのか。どうなるんでしょうね。ただ、「あり得ない未来」として描いた例の夢の件ですが、なんか書いていくうちに、どちらもこれはこれでなんか楽しそうだなという気がしてきました。とりわけフロリダでのマサキとか「おまえなにしてんの?」感が半端無くて、書いている私自身、ここに至るまでの経緯とこれからの展開が滅茶苦茶気になりました。

 

 でもアイビスの場合、ウェンディとの両手に花ルートは難しいだろうなぁなんてことも思います。あれは「マサキがいなければウェンディさんに走ってたかも」などと宣うリューネ嬢の男気あっての結び付きなのであって、アイビスとウェンディだとどちらかが「上を向いて歩こう」状態になるような気がしてなりません。逆にリューネ・アイビスで両手に花なんていうのはイメージできないこともないです。だれのお陰かは言うまでもありません。リューネの前世は両面テープかなんかでしょうか。

 

 

 

■最後に

 

 思えばずいぶん長い物語になりました。なんやかんやで、それなりの力作に仕上がった気がしなくもないと自画自賛しております。如何だったでしょうか。

 

 ちなみにド直球な本作のタイトルは、同文をグーグル検索しては打ちひしがれるしかなかった私自身の大いなる悲しみが込められております。ええい攻略記事はいい、作品はないのか。SSでもいいぞ、絵でもいいぞ。嗚呼、こんなにも恋うているのに……と嘆き続けて早数年。同じ痛みを分かち合う同志(いるのか?)への、私からのせめてもの打ち上げ花火です。友よ、私はここにいます。

 

 そんな不純な動機にまみれた本作をここまで読んでくださって、皆様本当にありがとうございました。感想はもう何度も何度も読み返しております。いまこの場でまとめて御礼を申し上げたいと思います。これからも共に魔装F完結編および第三次OGを待って頂ければと思います。おそらく同意は得られないでしょうが、魔装3的難易度であれば尚よしです。あの緊張感をもう一度。

 

 それでは最後に、本作を書きながら常々思っていたことを二つ。

 

 アイビスかわいい。

 サイバスターかっこいい。

 

 どうも本当に、ありがとうございました。

 

 

 



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