東方短篇集 (紅山車)
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パルスィ短篇

「ちょっと待ちなさい、貴方」

 

ふと呼び止められ、そちらを向く──見慣れた顔が映ったので、僕は一つ溜め息をついてから、その場を立ち去った。

「あ、ちょ、待ちなさいって言っているでしょう!こらー!」

……やかましいなぁ。

「はーいはい、何か用ですか」

仕方なくそちらを向くと、彼女──水橋パルスィは、無視された怒りを少しずつ鎮めながら、僕にこんな事を聞いた。

「今から何処に行く気かしら」

「……それ、どうしても言わなきゃ駄目な事?」

「当たり前よ。橋姫として、通行者が何処に向かうかは知る権利があるし、義務でもあるわ」

「……他の道、通るよ」

そう言って踵を返す。勿論、彼女がそれを許すはずも無く。

 

「ぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱる!」

 

はっきり言って近所迷惑だ。

それも災害レベルの。

「解ったよ、言う、言えばいいんでしょ」

耳を塞ぎながら僕がそう言うと、パルスィはぴたりと『ぱるぱる』を止めた。彼女は本当に、少しでも妬めそうな話があれば容赦無い──周りを鑑みないほど。

「解ったなら早く言いなさいよ、さあさあさあ。思う存分妬んであげるわ、覚悟しなさい」

さて、僕は澄まし顔でそんなことを言うパルスィに、このまま本当の目的地を言うべきだろうか。

「実は……」

「ん、ん」

ああ、もう口の形を『ね』に変えているのが腹立たしい。

やはり、言うべきではない。このままでは僕の気が晴れない。どうせこの後、妬ましい妬ましい光線を浴びることになるのだ。

ならば少しからかってやろう。

 

 

 

「パルスィに逢いに来たんだ」

 

 

 

「ねっ!?」

口走ろうとして、けれどそのまま硬直するパルスィ。どうやら効果はテキメンのようだ。徐々に朱くなる顔に、僕は思わず笑っちゃいそうになってしまう。

「ねっね、ねねねねねね……あ、い、あう……」

もはや呂律が回っていないパルスィ。もはや焼け石の如く真っ赤に染まった顔は、多分冷水に着けても元には戻らないだろう。

けれど、そのままにしておく訳にも行かない。何だかんだで、彼女は良い奴なのだ。

僕は脳内トリップ中のパルスィに近寄り、話しかける。

「おーい、パルスィ?」

嘘だよ、と。

そう言うつもりだったけれど。

「し、ししし仕方ないわね本当に仕方ないわ貴方は!」

「え」

いつの間にか、腕が拘束され。

「私は嫌だけど本当は嫌だけど!貴方がそう言うのなら、今日一日だけなら付き合ってあげないことも無いわ!」

「ちょ」

鼻息の荒いパルスィに押され。

「さあてどこに行きましょうか、それとも逝きましょうか!ああもう本当に妬ましいわ妬ましいわ、今日も変わらず妬ましいわ!」

「なにそれこわい」

あれよあれよ、と、地霊殿に続く穴へと落とされ。

 

ああ、どうしようか、と。

にとりと将棋をする、という元の予定が潰れてしまった以上、どう言い訳をするかと考えていたが。

 

「ああもう本当に妬ましいわ!」

などと、満面の笑みで言うパルスィを見ては、どうでも良くなった──とりあえず、今日ばかりは、地霊殿で楽しく過ごそう。

 

そして今日もまた穴に落ちる。

妬ましそうな彼女を携えて。



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ルナサ短篇

「ふああぁ、あ、あ……」

朝も早くから盛大に欠伸を漏らす。まだ覚醒しきっていない頭と眼をしぱしぱさせながら、思わず「眠……」とまで漏らす始末。

しかしこれには深い訳があるのだ。

 

 

 

「起きたのね」

 

 

 

黒と白のコントラストが、起き抜けの両目に映る。サンタの被るような帽子(ただしこちらも色は黒と白である)を揺すりながら、僕と同じように眠そうな目を擦っている。

「随分眠そうじゃない。大丈夫……?」

「そっちこそ。昨夜は満足に眠れなかったでしょ……?」

まあね、と恥ずかしそうに後頭部を掻きながら、僕と彼女――ルナサ・プリズムリバーは、二人同時に大きな欠伸を漏らす。

「今日ライヴなんでしょ。大丈夫なの、そんな寝不足で」

「大丈夫よ。ステージに上がったら、眠気なんて全部吹っ飛ぶんだから、結局杞憂に終わることが多いのよ」

「……それならいいけど」

言いながら、歯磨き粉をチューブから出す。うにー、っとハミガキの上に一巻き。

「あぁ、私も使うわ」

「んー、ふぁい」

歯を磨きながら、チューブをルナサに手渡す。もう中身は残り少ないようだったけれど、大丈夫だろうか。

「……ふっ!……っぎ、ぐ、ぐ……」

「………………」

案の定である。

「……ふぉく、ひゃろーふぁ?」

顔を真っ赤にしながら、残り少ない歯磨き粉を捻り出そうとするルナサに、助け舟を出す。

「……えっ……何、ファルークがどうかしたっ……?……くっ」

誰がこの場面でプロレスラーの名前を挙げるか。

このままでは意思疎通が図れそうに無いので、さっさと磨いて水で口をゆすぐ。湖の水は綺麗なので、口をゆすぐのにはうってつけである。

「僕がやろうか、って言ったんだよ」

「……お願いするわ」

肩で息をしながら、僕にシワシワのチューブを手渡すルナサ。僕はそれを受け取ると、ちょいちょいと奥に溜まっている歯磨き粉を手前に少しずつ押し出す。

やがて僅かな量の歯磨き粉が顔を出した。

「はい、ハミガキ出して」

「ん」

その僅かな歯磨き粉を、ルナサのハミガキにこすり付ける。本当はチューブ自体を切り取って満遍なく使いたかったけれど、今この場にはハサミもカッターも無いし、取りに戻るのも億劫なので、やめておくことにする。

「新しいの買わなくちゃなあ」

「あ、じゃあさ。あれ買ってきてよ、あれ。ほら、何段にも層になってるやつ」

言われ、そういえば人里でそんな商品が流行っていたな、と思い至る。

「白と赤と青のやつ?」

「うん、そうそう」

「あれ、最初は良いけど最後の方が悲惨になるらしいね」

「へえ?どういうこと?」

「最初は綺麗に層をなしているけど、中身が少なくなってくると層が崩れて、薄い紫色になって、まるでねるねる○るねで歯を磨いているような感覚に陥るんだって」

「わー。想像するだけで歯がざりざりする」

「でしょ。だから、いつもので」

「だね。いつもので……っと、水水」

「ん」

歯を磨き終えたルナサに、コップで掬った水を差し出す。ルナサはそれを受け取ると、一息に口に含んだ。

「……ルナサ、ルナサ」

「んー?」

ふと思いついた僕は、口をくちゅくちゅしているルナサの耳元に囁く。

 

 

 

「間接キス」

 

「ぶーーーっ!」

 

 

 

朝の湖に虹が架かった。

 

 

 

「恥ずかしいなあもう!恥ずかしいなあもう!」

ぷりぷり怒りながら、楽器を詰めたケースを肩に担ぐルナサ。

「うん。正直、スマンカッタ」

「のーざんらいとー」

楽器は殴打するもの。

脳天直撃。

卒倒。

「…………っ!…………っ!」

頭を押さえながら、のた打ち回る僕。あと数時間経ったら、その楽器で演奏するというのだから、いやはや驚きだ。もはや『ゴールポストはトモダチ、だから痛くない(キリッ』と雄弁を振るっていたヤングフォレスト君もビックリだ。

「罰として、今日の夕飯登板は貴方だから。美味しいの作って待っていること、わかった?」

正座。

「はい、よくわかっております」

この辺の順応性は、自分でもすごいと思う。ルナサよりも厄介なメルランとリリカにしょっちゅういじられるからだろうか。変なところで免疫が付いてしまった。

「……あ、あと……」

「え、まだなんかある?」

なんてこったい。これ以上何を要求されるというのか。あれか、ファルークとか言ってたし、そうなのか。あれか、ドミネるのか。嫌なんだよなあ、あれ、受身取りづらいし。

そんなアブナイことを考えていると、ルナサは何故か真っ赤になった顔をそっぽに向けながら、

「……んっ!」

と、一枚の紙切れを手渡して――いや、押し付けてきた。

「ん……?」

その紙を良く見る。見覚えのあるそれには、こう書かれてあった。

 

『プリズムリバー三姉妹 スペシャルコンサート 特別席

 

         開演時刻 ○月×日 妖精が騒ぐ頃~』

 

「……あはは」

思わず笑みがこぼれる。

「な、何がおかしいってのよ」

それを見たルナサが不機嫌そうに漏らす。

「ああ、いや。ちょっともったいなくて」

「?」

首を傾げるルナサに、僕はこう告げた。

 

「毎晩毎晩、僕だけに弾いてくれる演奏を、他の人にも聞かせるのは、勿体ないなあって」

 

「……今日も聞かせてあげるわよ。貴方が、私の晴れ舞台を、ちゃんと間近で見守ってくれたら、ね」

 

 

 

――貴方、死にたいの?

 

――うん。

 

――なら、私が貴方のために演奏してあげるわ。

 

――葬送曲?ありがたいなあ。

 

――違うわよ。

 

――え?

 

――私が送るのは、騒操曲。

 

――貴方の心を、どん底まで落とす曲。

 

――もっとも貴方には効果があるかは解らないけれど、ね。

 

 

 

「死にたいなんて」

もう、考えなくなった。

ルナサの曲が。

騒操曲が。

僕を引き戻してくれた。

以前に比べ、随分明るくなった。

もっとも、ルナサはそんな僕に、「また鬱になってしまって、私の演奏が聴けなくなったらどうしよう」と(勿論強情なルナサのこと、口に出したりはしなかったが)心配そうだったけれど。

大丈夫だよ。

だって、ルナサの曲だもの。

明るく聞かなきゃ――損じゃない。

 

 

 

「それじゃ、行ってらっしゃい」

「ちゃんと来るのよ。来なかったら承知しないから」

「肝に銘じておくよ」

「よろしい」

「あ、でも、一つだけ」

「?……何?」

「今日の晩は、ルナサの好きなもの、何でも作っとくから」

「……条件追加。演奏会が終わったら、全力で帰って夕飯の支度をすること」

「あはは、いいよいいよ。メルランとリリカも連れておいで」

「あ、いや……あの二人は……」

「都合悪いの?」

「……解ったわよ。連れてくるわ」

「ん、待ってる」

「それじゃ。行ってきます」

「はい、行ってらっしゃーい」

 

 

 

「……鈍感」

 

 

 

ルナサのその呟きは、届くことなく風に溶けていった。

ヴァイオリンの鬱蒼な音色と共に。



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妹紅短篇

痛みには慣れてるつもりだった。傷付けられても傷付けられても、決して死ぬことはないなんて事は解りきっているのだから。

けど、まあ……何だろうな。

一人で居るときとか、たまに凄く不安になる。有り得ない話だけど──私はこのまま消え去るように死んでいくんじゃないか、というやもしれない不安が。

体の痛みに慣れていても。

心の痛みに慣れられない。

……柄じゃないってか。そんなの自分が一番解ってるんだよ。でも事実なんだ。

私は──

……そういや、何でお前なんかにこんなこと話してんだ?

 

 

 

頭を揺らす痛み。

がらがらの声しか出ない喉。

息苦しさ、熱苦しさ。

部屋の真ん中に敷かれた布団で、横になりながら、私──藤原妹紅は一言、誰に向けるでも無く、しゃがれた声で呟いた。

「……風邪……かぁ……」

けほ、けほ、と二回咳。あぁー、だのうぅー、だの言いながらもぞもぞと布団に包まる。

体温は計っていないが、恐らく三十七、八度では留まらないだろう──千年以上もの間生きた身体なので、自分の──特に体温に関するたいていの事は手に取るように解る。

原因は解っている。あのにっくき輝夜の奴だ。起きぬけの私に『炎には水でしょうねさあ喰らいなさい悶えなさい顔が濡れて力が出なくなりなさい!』とかなんとか言って、頭からバケツの水をぶっ掛けやがったのだ。そこからは、まあいつも通りの殺し合いが始まったんだけれど。ただでさえ風邪を引いて腹が立つのに、その原因が輝夜にあるというのが、私の怒りを増大させている。憤怒と暴力だけが友達さ。

「……いかん、ムカムカしてたらまた体温が上がっちまう」

何とか心を鎮め、寝返りを打つ。治ったらぶちのめしてやる、と、そう心に決めて。

それにしても。

「風邪なんて……引くのは、けほ……久し振りだな」

蓬来の薬を飲んで不老不死になっても、病気にはかかる。とはいえ、免疫力は普通の人間のそれとは比べ物にならないため、滅多にかかることはない。以前にかかったのは、確か何百年前だったか。

と、そこまで考えた所で、また激しい倦怠感が身体を襲う。

「……あー、駄目だ。大人しく寝とこう」

こんな状況では何も物を考えられない、そう判断した私はもぞもぞと布団の中に篭った。少しでも体温を上げて、早く治してしまおう──でなければ、輝夜にどんな事を言われてからかわれるか、解った物ではない。

「……うー……孤独、だ」

何百年ぶりか──もしかしたら、人間じゃなくなってから初めてかもしれない、そんな感情をぽつりと呟いてから、むしむしとした中に意識を落とす。

 

 

 

「……ん……む、ぅ?」

しゅんしゅん、という蒸気の音、カチャカチャ、という金属の音で目が覚めた。泥棒かと疑ったが、どうやらそうではない。いつの間にか額に、冷えたタオルが乗せられていたのだ。傍らにはタオルを絞るための桶が置いてある。

──こんな事をするのは。

直ぐさま一人の男の顔を思い浮かべた私は、台所へ続く障子を、そっと開いて覗き見た。

 

「あ、寝てなきゃ駄目だよ」

 

あざとく私を見つけたそいつは、粥をおたまで掻き混ぜながら、そんな事を言った。

「……うるさい。寝飽きたんだよ……て、てーか、いつの間に来たんだよ。このお節介が」

否応なしに上昇する体温と、そのせいで赤くなった顔を隠しつつ、つい暴言を吐いてしまう。

「まあ……元気そうだし、起きたんならいいや。はいこれ」

そんな私の言葉を軽くいなしながら、彼は私に体温計を手渡した。何の変哲も無い、そこらに売ってそうな、普通の体温計。

「……おい……こんなもんで、私の熱に耐えられると思ってるのか……熱暴走するぞ」

「布団が焦げてる、っていうなら無理だろうけどね。大体、妹紅の炎って妖術でしょ。能力みたいな自然発生じゃないんだから、暴発なんてのは無いよ」

「……そりゃまあ、そうだが」

不承不承、体温計を口にくわえる──と、これでいいんだっけ、という疑問が浮かぶ。前に風邪を引いた時、どうしたんだっけ。

「なあ。ほれ、ほうでいいのふぁ?」

体温計をくわえながらなので、呪文みたいな言葉になってしまったが、彼には伝わったらしく、

「ああ、合ってるよ。舌の下で、ね」

と返してきた。よく伝わったな、と我ながら感心する。

「お粥、出来たから持って行くよ──そこで食べられる?」

「……ん」

軽く応えてから、引いた椅子に腰を降ろす。まだ頭がボーッとするが、寝転がりながらでないと飯を食べられない、というほどではなくなった。

口先で体温計を上下させながら、改めて彼を見る。用意した盆の上に、粥を入れた器とレンゲを載せている。続けて、冷蔵庫から梅干しと鰹節を取り出すと、ひょいとこちらに視線を向けた。

「!」

見ていたことが知られると恥ずかしいので、咄嗟に目を逸らす。机に目を落としている私の耳に、彼の声が届いた。

「梅干しと鰹節入れるけど、大丈夫だよね?」

「え、あ、おぉ、うん」

目もくれずに、どもったような返答をする。その間、私の目線はずっと、机の木目に釘付けである。今あいつの目を見たらやばい──そういった自覚があるのだ。

と、その目線を遮るように、真っ白な蒸気が視界を支配する。少し遅れて、手元に真っ赤なレンゲが置かれ、私は視線を上げた。

 

「もう体温計は良いでしょ」

 

「っ!?」

 

生きているもの、驚きが限界を超えると声も出なくなるらしい。私の口先から体温計を外す、彼の顔がすぐ目前にあった時の私がそうだから、先ず間違いない。

「んー、三十八度二分……まだちょっと高いかな……って、あれ。どうかした?」

「あ、うあ、う、が」

今一度体温を測ったら、間違いなく五、六分は上昇しているだろう──そんな冗句が出てきそうなほど、身体が熱くなった。

彼はそんな私を見て、少し不審がったような顔をしてから、

 

「……んー」

 

こつん、と。

額を、私の額に当てた。

 

「!?……、……!……!?」

 

言葉にならず、口をぱくぱくさせている私を尻目に、彼は暢気に「……ちょっと上がったかな?」等とほざいている。

あ。

やばい。

頭がくらくらする。

何てこった。

熱暴走を起こしたのは。

体温計じゃなく、私だった──!

「……!」

ちらり、と目に入ったのは、ほかほかと湯気を上げている粥。私はそれを見るや否や、レンゲを右手に取り、急いで食べはじめた。食べることでしか、この状況を打破することは出来ない──!

「がふっがふっがふっがふっ……げほっげほっ!」

が、急いで食べすぎたせいか、熱い粥が器官に入ってしまい、思わずむせ返る。

「あぁ、もう急いで食べるから!水飲んで、水!」

「……っく……んく……」

言われるがまま、コップの水をぐびぐびと飲み干す。本当に、こういう時は用意の良い奴だ。

「……ぁー……助かった……」

落ち着き、ようやく一息付く。

「ああ、もう、ほら、頬っぺた。ごはん粒ついてるよ」

「ん、悪い──」

眼前には、真剣な眼差しで、ちり紙を構える彼の顔がある。しまった、墓穴を掘ってしまった!

「っと、取れた……って、顔真っ赤だけど。大丈夫なの本当」

「あ、あ、ああ──」

喉から声を搾り出すように出す私と、心配そうな視線で更にこちらを見つめる彼。

その顔を見ていると、何だか、いたたまれなくなって。

思わず私は、椅子から立ち上がっていた。

勢いよく立ち上がったため、座っていた椅子が、大きな音を立てて倒れる。

「えっと……どうかした──」

「お前は」

心配そうな彼のその言葉を遮り、私は──聞いた。

「何で、ここまでしてくれるんだ──私がどんな人物か、知らない訳じゃないだろ」

 

 

 

不老不死。

時を飛び越えながら生き。

時代を追い越しても死なず。

神の頭を上から踏み付け。

道理や常識を真っ向から覆す。

歴史に弾かれた特異な存在。

 

「……お前がこんなことしないでも、私は死ぬことはない。でもお前はそうじゃないだろ」

人は老いる。

彼も老いる。

人は死ぬ。

彼も死ぬ。

私を、これ以上知ったら。

私と、これ以上関わったら。

私に、これ以上構ったら。

──いけない。

「風邪が移ったら大変だろ。解ったなら、私の事は私に任せて、さっさと帰れ」

 

 

 

「嫌だよ」

 

そう言って、彼は笑った。

 

「僕が風邪を引くよりも、妹紅が風邪で苦しんでいるのを見る方が──よっぽど辛いから」

 

 

 

私と関わった人は。

皆、皆、死んでいった。

残ったのは、あの馬鹿姫だけ。

他は皆、私を残して死んだ。

父も、母も、兄弟姉妹も、その子もその子もその子もその子もその子もその子もその子も。

だから、私は決めた。

人を覚えない。

人を好きにならない。

けれどその決意は、あの時。

『迷ったのか?』

彼に竹林で、こう声を掛けた時。

崩れてしまったのかもしれない。

 

 

 

『……君は、妖怪?』

『いいや、人間だ。千年ばかし生きてるけどな』

『ああ、うん、そう』

『そんで、どうかしたのか?迷ったんなら道案内を──』

『頼みがあるんだ』

『……何だ、薮から棒に』

『友達になってください』

 

 

 

あの時、本当は一刻も早く竹林から出たかった。

もう夜遅かったこともあるが、まかり間違って永遠亭に迷い着いたら、何をされるか解らない。

でも、妹紅を見た瞬間。

そんなのはもう、どっかに吹き飛んでいった。

『迷ったのか?』

そう言う妹紅に、僕はもう。

好きに、なってたんだ。

 

 

 

後日。

「……本当にいいのか」

風邪もすっかり治った私は、改めて彼と向き合っていた。

「僕が言い出した事だから。自分の言葉には責任持つよ」

私が今持っている小瓶の中では、透明の液体が揺れている。

「……なら良いんだが」

「ん」

そう言ってから、私はその瓶の蓋を開け、彼に渡す。彼は瓶に口を付けて、一息に飲み干す──前に、私に言った。

「妹紅」

「ん、何だ?」

 

「これから幸せになろうね」

 

そう言って彼は──透明の液体を飲み干した。

 

「……幸せ、ねえ」

私は一言呟いてから、皮肉たっぷりに彼に言った。

 

「……幸せになるのは、まずお前の風邪を治してからだな……」

 

「妹紅、この薬苦い。もっとマシな風邪薬無いの?」

「子供か!」

ぐずる彼に盛大なツッコミを入れて、思わず溜め息をつく。

「ったく……本当に私の風邪移すなんて、何考えてんだ」

顔を真っ赤にしながら布団に潜っている彼に、諭すように言う。

「いや、でも妹紅が看病してくれるから、そう悪くはないね」

「確信犯か……」

呆れる。あの時の告白と、それにときめいた私の乙女心は、一体どうしてくれるんだ。

「まあ、でも、さ」

彼は息を絶え絶えにして、けれど幸せそうな表情を浮かべながら、言った。

 

「すぐに治すから」

 

妹紅がこれまでに過ごしてきた、途方も無く永い時間と比べて──僕が妹紅と一緒に居られる時間は少ないから。

 

「……うしっ!そんなら私が、直ぐ治るように徹底的に看病してやるからな!覚悟しろ!」

「おー、役得役得」

そう言って笑う彼。

私は微笑み掛けながら、

不器用なりに粥を作って、

不格好なりに林檎の皮をむいて。

懐かしい──思い出だ。

 

 

 

「一つ聞きたいのだけれど」

「何だよ」

「なぜ彼は、蓬来の薬を飲まなかったの?もし飲んでたら、今も貴方と幸せにやってたでしょうに」

「……そりゃあ、私だって飲んでほしかったけどな。あいつが飲まないっつーんだから、何も言えないだろーよ」

「飲まないって?……その彼が?どうして?」

「『僕は妹紅みたいに強くないから』だとさ」

「ふぅん」

「……ところで、輝夜」

「解ってるわよ。生憎私も、今日は殺し合う気分じゃないの。今の貴方の話、いいお酒の肴になりそうだから。もう帰って酒盛りにするわ」

「……そっか」

「ええ、それじゃあ。また殺し合いましょう?」

 

 

 

「なあ」

 

『不老不死にはならないけど』

 

「楽しかったなあ」

 

『短い分』

 

「また一緒に暮らしたいなあ」

 

『濃くすれば良いんだよ』

 

「二人の時間を」

 

『二人の時間を』

 

一粒の雫が、墓石に落ちる。

 

この呟きは、彼に届くだろうか。

 

「好きだぜ。今も、昔も」



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ムラサ短篇

「あー……」

揺れる水の音。

木々の匂い。

暖かい木漏れ日。

釣り糸を垂らしながら、それらを全身で受けるように、地面にごろりと寝転がる。

「いーい……気持ちだあ……」

こうもいい天気だと、思わず眠くなってしまう。釣果などは問題ではない。こうやってのんびりするのが目的なのだから、別に釣れなくとも構わないのだ。

ふあぁ、と一つあくび。時間はまだ午前中で、早起きをしてここに来たと言う理由も相俟って、波の音を子守唄に少し眠ろうという気分にもなろうというものだ。

「………………」

うつらうつら、次第に視界は狭くなり、音も少しずつ小さくなる。そのまま目を閉じて、意識を手放し、夢の大海へ飛び込もうか、という時に、だ。

 

 

 

「あーっはっはっはっ!者ども平伏しなさい財宝置いていきなさいそこで泣く子は見て笑いなさい!偉大なるキャプテン・ムラサ様のお通りよ!」

 

 

 

「やかましい」

「ひゃう!」

とりあえず手元にあった大きめの石を、声のする方に投げ付けた。どうやら声の主に命中したらしい。ざまあみろ、俺の睡眠を邪魔しやがった罰が当たったんだ。

さて、これでゆっくり眠れる。手をぱんぱんと払ってから、またごろりと身体を横にする。眠気が覚めてしまわないうちに眠らなければ、快適な睡眠をとったとは言えないのだ。

「ちょっと貴方!」

「……無視無視」

「聞こえてるんでしょ!?返事ぐらいしなさいよ!」

「聞こえませぬなー」

「返事してるじゃないの!」

「やはり聞こえませぬ」

「……うだーーーー!」

……あまりのやかましさに、眠気がすっかり飛んでしまったので、俺は仕方なく身体を起こす。目の前には、白と黄緑色で統一された水兵服を身に纏った黒髪の少女、さらにその後ろには、こじんまりとした船が一隻停まっている。

「ふーっ!ふーっ!」

少女はやたらにご立腹らしく、鼻息を荒くしてこちらを睨んでいる──というか。

「あのさ……なんでそんなに怒ってんの?」

何かが切れた音がした。

「……ふ、ふふ……」

少女の周囲に、オーラが見える。いや、スタンド?霊魂?的な何かがひょっこりと覗いていた。

「ここまでこけにされたことは、生前、死後とも無かったわ……」

「そうか。良く解らんが苦労して来たんだな。ミミズ食う?」

「食うかっ!」

釣り餌のミミズが入った瓶を差し出したが、叩き落とされて地面に転がった。そこからミミズがうねうねと瓶から這い出ていく。あ、折角集めたのに。

「私にここまでして……貴方!私を誰だと思ってんの?幻想郷を震え上がらせた、あの世にも不思議な空飛ぶ船、聖輦船のキャプテン・ムラサこと、村紗水蜜──」

「知らん」

 

 

 

グ ロ ッ キ ー 状 態 !

 

 

 

「で?その、聖輦船とやらの船長さんが、こんな所で何を?」

地に手を着いて落ち込む村紗に、とりあえず気になったことを聞いておく。どうせもう眠気は吹っ飛んだし、暇潰しには丁度良い。

「そう、そうよ!聖輦船がお寺となってしまった今、私が白蓮に恩を返す方法といえば、ただ一つ!困った妖怪達を救い、少しでも白蓮の望む世界に──」

「お、引いてる引いてる」

「聞けーーーーーー!」

釣果、岩魚二匹。ダブルだから、行進OK。

「ツッタカター、ツッタカター、ツッタカタカダッダッ。お茶の間の皆さんこんにちは、大泉でございます。パイ喰わねえか」

「一体誰に話してるのよ……」

そう言いつつも、村紗の視線が釣り糸の先の魚にロッキンオンジャパンしているのを、俺は見逃さなかった。

「ねえ、そこの涎れ垂れ子」

「村紗水蜜よ、ム・ラ・サ!」

「どっちでもいいよそんなの。それよりも、今から魚焼いて喰おうかと思うんだけど」

「………………そ、それで?」

指摘されても涎れを拭おうともせず出しっ放しな村紗△。

「うん。見られてたら喰いにくいから、とっととここではないどこかに消えてつかあさい」

「しどい!?」

あ、涙目。

「ふ、ふ、ふ、ふん!貴方なんかの施しなんか、受けたくも無いわよ!言われなくてもこっちから消えてやるわよヴぁーか!」

「どうやって?」

「そりゃ勿論、船で……」

だが振り向いた先には、船など影も形も無かった。そりゃあ、ここ川だし。錨も何も付いてなさそうだったからなあ、あの船……いや、イカダか?

「流されたね」

「………………」

「帰れないね」

「………………」

「そうだね」

「プロテインだね」

「魚食べる?」

「食べるー!」

 

 

 

「船長といえば海賊船だって思って、まずは仲間集めだーと思って頑張って船作ったんだけど、よく考えたら幻想郷に海って無かったのよ」

「何て穴だらけな将来設計。今時の学生でも、もうちょい先見の明を持って行動するだろ」

「そういう貴方の方は、こんな辺鄙な所で何をしていたのよ」

「そらもう、昼寝よ」

「釣りじゃないの?」

「そらそういうこと(ついでにしていたという意味)やったらそう(釣りをしていたとも言える)なるわな」

もぐもぐと焼き魚を頬張りながら噛み合わない会話を繰り広げる。焼いた岩魚は塩のみ、もしくは何も付けずに食べるのが主流だ。煙で燻製にしても美味しく頂けるが、今ここにはスモークチップも何も無いので、普通に塩焼きにしたものを頂いている。

「誰に解説してるのよ」

「いつもの癖で」

「あ、そ」

「そうだよ」

「ふーん……ところで、さ」

魚を食い終わったらしい村紗が、骨を焚火の中に投げ入れてから言った。

 

 

 

「貴方、何か困ってる事ある?」

 

 

 

「俺、人間なんだけど」

「……まあこの際、どっちでもいいかなと思って」

「いいんだ」

「いいの。助けて無駄になる事なんて無いんだから」

「そういう事なら、まあ……一つだけあるかな」

「へえ。何?」

 

 

 

「村紗川賊団の仲間になりたくて困ってる」

 

 

 

「悪いなのび太、この船は一人用なんだ。リアルに」

「流されちゃったけどな」

「それじゃ徒歩になるかな」

「既に船長でも無いな」

「あ、本当だ。ただの長になっちゃった」

「旅に関しては、村紗の方が一日の長があるという意味では、ただの長でも合ってるやもしれん」

「誰が上手いことを言えと」

「最初に言ったのは村紗だろ」

「そうだっけ?」

「そうだよ。ほら、ただの長、ってくだりが特に」

「あ、そっか。そうかな」

「そうだ」

「じゃあ、取り合えずさ」

「何だ」

「船作るの、手伝ってよ」

「イカダの間違いだろ」

「あ、そっか。そうかな」

「そうだ」

 

 

 

さあさ、そこのけイカダが通る。者ども平伏せ財宝置いてけそこで泣く子は見て笑え。

今日も今日とて、ムラサ川賊団が幻想郷の川を飲み込み野を下る。水面にそっ、と釣り糸垂らせば、川は氾濫山火事さ。

世界の川を渡るため、今日をオールが飛沫をあげる。

村紗水蜜の名の下に。

 

 

 

「ムラサ湖賊団ってのは駄目?」

「それもいいな」

「でしょ?」

「ただ、一つ問題が」

「何?」

「上れないし、下れない」

「それは死活問題だ」

「今はまだ川だけで良いだろ」

「そうね。ところでさ」

「何だ?」

「趣旨変わってない?」

「気にするな!」

「解った、気にしない!」

 

そんなムラサの声に呼応するように、イカダが波に合わせて大きく揺らいだ。



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霊夢・ルーミア短篇

かじかじかじ。

「………………」

かじかじかじ。

「………………ねぇ」

かじ。

「楽しい?」

かじかじかじかじかじかじ!

「楽しいんだ」

かじ。

「それなら良いや」

……かじかじ♪

 

 

 

「というわけで、連れて帰って来ました」

「何が『というわけで』なのか、原稿用紙一枚分程度に、まとめて述べよ」

「ある日道を歩いていたら、突然少女が頭に噛み付いてきた。一体何事かと思ったが、噛まれても別段痛いところはないし、少女自身も楽しそうだったので咎めるようなことはしなかった。するとその少女がこう言った。『がじ、がじがじがじ』。僕は聞き取ることは出来なかったが、インスピレーションでその内容はわかった。彼女は『私、お腹減った』と言っているのだ、と。しかしながら、某国民的アンパンヒーローのように、『それじゃあ僕の顔をお食べよ』と言う訳にはいかない。というか、現在進行形で食べられている。一喰い(イーティングワン)されている。仕方がないから、家で何か食べさせてやろう、と思ったは良いが、実は僕の家はつい先日に売り払ったばかりだった(ババーン!)。まあそういう訳だから、家に帰ろうにも帰れない。どうしたもんかと思っていたら、ふと『そういえば、現在住んでる神社があったじゃないか』と思い出した。そうと決まれば、ということで、頭に素敵な少女を被りながら、不肖このワタクシ、帰還いたしました。ああ素晴らしき大日本帝国万歳。欲しがりませんカツまでは。卵丼で十分でございます。あ、ミツバは載せてね」

「大幅オーバーの487字も力説ありがとう死ね」

「Oh……」

何故か血管がブチ切れた霊夢から特大の陰明玉をぶち当てられたのでそのうち僕は考えるのを止めた。ちなみに件の少女は未だ僕の頭にかじりついていた。これを機に脳細胞が活性化して、天才になったりしないだろうか。CVは浜田雅功で。おうじゃのしるしが無いと無理かな。

 

 

 

「♪〜」

少女は楽しそうに鼻歌を歌いながら、ぱくぱくとカレーを平らげていく。食べるというよりも、飲むといった感じだ。カレーは飲み物です。

「それ食ったら、とっとと帰りなさいよ。ルーミア」

「おいしーなー」

霊夢の忠告もどこ吹く風で、手を止めずに食べつづける少女。そうか、ルーミアと言うのか。

いや、それにしても良い食べっぷりではなかろうか。霊夢も欝陶しそうにはしているが、中々どうして、ルーミアの食欲には心なしか嬉しそうに見える。やはり料理というものは、食べてくれる相手がいて、初めて価値を持つ。

「おかわりー」

「はいはい、ちょっと待っててね……って、帰れって言ったでしょ!?何さりげなく、おかわり要求してんの!?ルーミア、恐ろしい子!」

うーん。ナイスツッコミだが、ボケが本気(天然、とも言う)なのが惜しい。

「まあ、いいじゃない。昨日のカレー、まだ残ってんでしょ?夜までもつか解らないしさ、捨てる位だったら食べてもらおうよ」

「……作ったあんたが言うんならいいんだけどね……」

そう言いながら(やっぱりどこか嬉しそうだった)空いた皿を持っていそいそと台所に向かう霊夢。

「ルーミアにはさ」

「んー?」

スプーンをにぎりしめて、よだれを垂らしながら待ち切れない様子のルーミア。僕は、ふきんでよだれを拭いてあげながら、聞く。

「家ってあるの?」

「……家って−?」

「うーんと、ここみたいな所……帰るべき場所、かな?」

「無いよー。いつもぶらぶらしてるから」

「それじゃあさ、今日からここをルーミアの家にしようか」

「何勝手に決めてんの!」

ターン、と開け広げられた襖から霊夢が姿を現す。手にはカレーが二皿。と、スプーンが一本。どうやら自分の分らしい。可愛いなあもう。

「博麗神社に妖怪を住まわせて、良いわけ無いでしょ!?あんた何考えてんの!?」

「いいじゃない。どうせ毎週のように、人間妖怪妖精、はたまた鬼に幽霊に天人に、神様まで交えて宴会してるんだから」

「それとこれとは別よ!だって、その、あ、あんたと……!」

かあぁっ、と霊夢の顔が赤く染まっていく。可愛いなあもう(二回目)。

「あんたと過ごす時間が、少なくなっちゃうじゃないの!」

「………………おぉう」

直球過ぎる。しかもど真ん中。ピンポイントにズドン、ズドンと。こっちも思わず赤面。嬉しいこと言ってくれるじゃないの。

「おかわりまだー?」

ああ、長いこと放っておいたせいかルーミアがぐずりだした。ちょっとだけ待っててね−、すぐにご飯にするからね−。

「…………ふんっ!」

不機嫌そうに、音を立ててカレーの皿を机に置く霊夢。その拍子にルーミアが少し驚いた。ルーミアに罪は無いだろうに、もう。

「駄目でしょ、霊夢。子供に当たっちゃ」

「うるしゃいわね!」

注意も聞かず、ただひたすらにカレーを口に運ぶ霊夢。何だろう、やけ食いのようにも見えた。

「いつまでもそんなんじゃ、将来困るよ?」

「はあ?何よ、将来って」

「何って……」

 

 

 

「将来子供が出来た時」

 

 

 

「こどっ…………!?」

突如、げほげほとむせ返る霊夢。何か変なこと言ったかな。

「水、飲む?」

「…………!…………っ!」

無言でこくこく、と頷く。今顔が真っ赤なのは、間違いなくさっきまでとは別な理由だろう。ああ、でもやっぱり可愛いなあ。かっこ三回目かっこ閉じる。

「……ん、きゅ……んきゅ……ぷ、はぁー……」

コップに入れた水を一息に飲み干し、落ち着く。やれやれ、ようやく静かになった──と思いきや、霊夢がこちらをきっ、と睨んでいた。

「いきなり何言い出すのよ!」

「ごちそーさまー!」

「お。ちゃんとごちそうさま、って言えたなー。偉いぞルーミア」

「えへへー」

「よーし、今日の晩はパパ牛丼の大盛り作っちゃうぞー」

「おー、やったー」

「はははー」

「わははー」

 

「あんたらいい加減にしなさいよォォォォォォーッ!」

 

 

 

「申し訳ありませんでした」

「ごめんなさい」

二人揃って土下座。なんてカカア天下な家庭だろう、全く。

「いいかしら、ルーミアはもう帰りなさい!あんたも、早く洗濯なり掃除なりしなさい!まだ落ち葉が残ってるわよ!」

「「はぁ〜い……」」

うなだれる。全く、いくら職業上ルーミアが妖怪で、あまり仲良く出来ないっていっても、ここまですることはないだろうに。非は全て僕にあるのだから、霊夢の怒りは本来、全て僕が受けるべきものなのだ。

「……じゃあ、ねー」

元気なさ気に、境内を後にするルーミア。腹は膨れていようとも、心はすきっ腹に違いない。

「……はぁ」

一つ溜息をついてから、落ち葉をかき集めようと箒を振るう。モチベーションは低いが、博麗神社の専業主夫をやっている以上、手を抜くことは神に背くことだ。しっかり気を入れてやらねば。

と。

 

 

 

「ルーミア!」

 

 

 

もう姿の見えなくなった少女の名──いつの間にか、外に出ていた霊夢が、それを呼んでいた。

確実にルーミアに聞こえているであろう、その言葉に、霊夢は続けてこう言う。

 

 

 

「……また、来なさいよ!」

 

 

 

「……あっはっは」

「う、うるさいわね!早く掃除しなさいよ、もう!」

「うん、わかってた。僕は最初からわかってたよ」

「う……うなーーーー!」

顔を真っ赤にして、怒る霊夢を尻目に、触らぬ神に祟り無しとばかりにさっさと箒を動かす僕。早いとこ掃除を終わらせてしまおう。そして買い物に行かなければ。

 

 

 

遠くの方で、ルーミアの声が聞こえてきた気がした。

今夜の献立は、おなかいっぱいになる牛丼だ。



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リリーブラック短篇

昨日まで僅かに残っていた肌寒さも、頬がほころびそうなあたたかさに変わった。

 

「春ですよ」

 

ひらひらと空中を漂いながら、振りまかれる弾幕と共に、私はこう言って、それの到来を知らせている。この瞬間が、何よりもいとおしい。この幸せを噛み締めるために、三つの厳しい季節(秋はそれほどでもなかったけど)を過ごしてきた、といっても過言ではない。

 

「皆さん、春ですよ」

 

……まぁ、そんな知らせと一緒に弾幕を撒いているのだから、被害はそこら中に及ぶわけで。この知らせを聞いて、顔をしかめる人も居れば、何をするダァァーッ!と怒鳴り散らす人も居るわけで。ただ、春の到来、という素晴らしいイベントが、ようやく到来したことに対する私の幸せな気持ちを、皆にも分け与えてあげたい。そんな純粋な気持ちなのに、皆は何でわかってくれないんだろう。

 

家が壊れたっていいじゃない、春だもの。

 

畑が荒れたっていいじゃない、春だもの。

 

笑顔で過ごせばいいじゃない、春だもの。

 

 

春だもの。

 

「………………」

 

春なのに。

 

「………………何をしているんですか」

 

「おー、今年も来たんか」

 

何故この人は、笑顔で焼き芋を焼いているのだろう。

 

「どうよ、この絶妙の焼け具合。うまそうだろー」

「……春ですよ?」

「いやー、このところめっきり使ってなかった石焼き釜で仕上げてみたんだけど、これでも結構いけるなー」

「春なんですけど」

「本当は外で落ち葉集めて、焚き火でもして焼き芋と洒落込みたかったんだけど、もう落ち葉がほっとんどねーのな」

「春なんですけど!」

「フェルナンデスけど?誰それ、新外国人選手?」

「あああああああああもう」

私が最後に回る人里、その外れにある小さな家――新聞紙に包まれたお芋を持って、恍惚とした表情を浮かべながら、焼き芋批評をする、この家の主である彼の飄々とした態度に、毎年のことながら、私のもどかしさ、怒り、イライラは増している。

何故、今、芋なのか。

季節はもう春である。イチゴやタケノコのおいしい季節である。外では桜や梅の花のつぼみが、咲き乱れる瞬間を、今か今かと待ち望むように芽吹いている。気温は上昇し、残雪も遠い山の頂上辺りでしか見受けられない。人々は皆、コートや手袋やマフラーをほっぽりだし、暖房具の灯火を消し、コタツで丸くなっていた猫も、うきうき気分で外へ飛び出す。生きとし生ける全ての者の笑顔溢れる季節――春である。

にもかかわらず。

 

「どうして貴方は、春を受け入れようとしないのですか!」

 

去年は、あったかご飯(新米)にサンマの大根おろし添えを、もっしゃもっしゃと頬張っていた。

一昨年は、何故か冷房をがんがんに効かせた部屋で、汗だくになりながらカキ氷を何かに取り付かれたように貪り食っていた。

一昨々年は、確か熱々の鍋を食べていた。それは悪くないのだが、具が牛すじに大根に煮卵にこんにゃくにがんもにジャガイモにちくわに平天丸天にごぼう天にはんぺんに……一言で言えばおでんであった。

それより前のことは知らないが、この三年間の彼の行動を見ていると、彼が『春』という季節のことを良く思っていない、ということは、もはや確定事項である。こうまでして季節感を無視する意図など、そうとしか考えられないのだ。

 

「なに怒ってんだ……。お前も焼き芋食うのか?」

私の気持ちも知らずに、彼は焼けたサツマイモを竹串に刺して、こちらに差し出してくる。

「要りません!大体なんですか貴方は、一体今がどういう――」

差し出された芋を、払い除ける……すんでのところで、その手は止まった。彼の言葉に、少し嫌なニュアンスが含まれていたのだ。

「……今、『お前も』と言いましたか?」

「ん、おお。さっきまで穣子が来てたんだよ。『また今年も、頭がお花畑な春妖精が騒ぎ始めてうるさいから、避難させてくれ。ついでに芋持ってきたから、焼き芋食わせろ』ってんで」

「え」

声を上げる。仮にも豊穣をつかさどる神である秋姉妹の片割れが、こんな何も無いような民家に、今の今まで居たという事実が、私には俄かに信じがたかった。

そんな私に構わず、彼は思い出したように話を進めていく。

「……そーいやあ、去年の春は静葉が来たな。そん時は、良い秋刀魚を頂いたのでおすそ分けに、って言うんで、そんじゃあ一緒に飯でも食うかってんで。丁度、秋に出来た新米が残ってたし」

秋――静葉。紅葉をつかさどる、神。秋を象徴する神々が、彼の元にやってきている。そして、その二柱のことを親しげに話す彼。

私は思わず、尋ねていた。

「……貴方、一体何者なんですか」

「何者って……一般人だよ一般人。それ以上でも以下でもない。中間だ、中間」

なげやりに答える彼に、私は一つ、溜め息をつく。毎年のように彼を見ていても、彼について解ることは何一つだって無い。こんなにも掴み所の無い人間が、あったものだろうか。

「……それじゃあ、その前は?冷房をガンガン効かせた部屋の中で、一心不乱にカキ氷を食べていたでしょう?夏みたいな暑い季節が好きだから、ああいうことを――」

「あー、違う違う。あん時は確か、あの悪戯妖精ども……サニーとスターとルナがな、ダイエットしたいって言うから、そんならひたすら暑い部屋で過ごしときゃ、汗かくついでに脂肪も燃えるんじゃね?つったらあいつら、部屋の暖房フル起動させやがって。あまりの暑さに気ぃ失ったわけよ。次に目が覚めたら、もうあいつら居なかった。俺はようやっと、ここで悟ったわけだ。『騙された』ってな。たまらんから冷房効かせて、カキ氷食ってクールダウン」

「……それじゃ、その前は――」

「そりゃあれだ、バカルテットが『鍋食いたい』とか言って、家に押しかけてきたからさ。保護者の大妖精と、ついでに暇そうにしてたレティも交えて、大おでんパーティを。あー、あん時は大変だったなあ。チルノは熱くて溶けそうになるし、ルーミアは具材全部生で食おうとするし、リグルとミスティアは巾着の取り合いするし、大ちゃんは酔っ払って愚痴ばっか言うし、レティは暑いからって服脱ぎだすし……俺、お陰でぜんぜん食えんかったんだよなあ」

「――――――」

何だそれは。

何だ、それは。

つまるところ、彼は。

やってきた者の言うことに、応えているだけであったのだ。

季節の好きずきに関わらず。

押しかけてくる人々の出す要望に、断らなかっただけだったのだ。

人が良いにも程がある。

「で、でも、私が行ったときには、毎年誰も居なかったじゃあないですか。部屋には貴方一人だった――」

「ああ、うん。もうじき時間だからってんで、帰ってもらってたんだ。さっきも、愚痴る穣子何とか説得してさ、帰らせたんだよ」

……時間だから。

はっ、と思い至る。

 

私は思えば、わずかな誤差はあれど、ほぼ決まった時期、ほぼ同じ時間帯に、この家を訪れていた。人里から少し離れたところに、この家が建っている、という事情も重なったのだと思う。

 

思えば彼はそうだった。

 

おでんのときだって。

 

カキ氷の時だって。

 

ご飯と秋刀魚の時だって。

 

そして――。

 

『お前も焼き芋食うのか?』

 

さっきの焼き芋の時だって。

 

いつも私に、食べ物を勧めてきた。

 

「貴方は――」

 

私がここに来て。

 

彼が素知らぬ顔で、けれどあたたかく、私を迎え入れてくれていた。

 

けれど私は、それを突っぱねていた――。

 

彼の親切を、厚意を、優しさを――。

 

「私を、歓迎してくれていたのですか?」

 

 

 

「春ですよー」

 

 

 

「……へ」

その声に、私の喉から思わず呆けたような声が出る。

「おー、ホワイト。やっと来たな」

彼はそう言って、突っ立っている私の横を通り過ぎ、玄関口のほうへと歩いていく。

恐る恐る、振り向く。

「来ましたよー」

やはり、と言うか。

まさか、と言うか。

そこに居たのは。

同属、相棒、仲間、そして――ライバル。

リリーホワイトその人であった。

「な、な、な」

何で貴方が居るんですか!

そんな罵声を浴びせたくなったが、その間に彼が分け入り、声を上げる。

「いやー、毎年ありがとうなー。お、今年は野菜かー。春キャベツにわらび、ふきのとうに新たまねぎかー。うまそうだなあ」

「えへへー」

「な……あ?」

彼がリリーホワイトから受け取った、大きな袋――少し覗けただけでも、かなりの量の野菜が入っているのが解る。

いや、問題はそこではない。

彼は今、『毎年』と言ったか?

……まさか、とは思うのだが。

「あ、あの、ちょっと」

「ん、どうかしたか」

「さっき言った『時間』というのは、もしかして――」

「うん。リリーホワイトが来る時間のこと」

「――――――」

言葉が出なかった。

こんなことって。

私が彼に、勝手に絶望している間。

彼女は彼と、距離を詰めていた。

「……あぁ」

そうだ。

私のように、口やかましく、春を主張する迷惑な妖精よりも。

リリーホワイトのような、天真爛漫に、全身で春を表現できる純真な妖精の方が良いに決まっている。

彼は変わらず、リリーホワイトと談笑をしている。その光景が、私の沈む気持ちを更に突き落としてくれた。

 

――帰ろう。

 

それだけじゃなくて、もう来年は来ないでおこう。

 

彼は別に、春を嫌っているわけじゃあなかった。

 

それで良いじゃないか。

 

望まれていない私が、ここに来る方が間違いだったのだ。

 

私は彼の横をすり抜け、出口へゆっくり歩いていく。

 

「なあ」

彼が何か、私に話しかけてくる。私は足を止めず、扉に手を掛ける。これ以上ここにいると、惨めになってくる。

「何処行くんだ?今から山菜鍋だぞ」

「……結構です。もう、帰りますので」

知るものか。私は今から、そしてこれから二度と、この家に寄ることは無いのだ。

そんなの食べたら。

これ以上、ここに残っていたら。

泣きたくなってくる。

 

扉を一息に開け、外へ飛び出す。

 

闇雲に、一心不乱に、全力で走る。

 

「う、う……ぅ……」

 

自然と、私の頬を涙が伝い、風に流れる。

春も近付いて、暖かな気温のはずが、何故か今は冷たく感じた。

 

 

 

――どのくらい、経っただろう。

木に背を預けたまま、私は一人、森の中に佇んでいた。あたりはもう、すっかり日が落ちて暗くなっている。

「…………寒い、ですね。あはは」

やや自嘲気味に呟く。

ついさっきまでは、暖かくなった、春になった、と彼に迫っていたのに。

涙は、もう枯れていた。

惨めで、悲しくて、寂しくて、けれど仕方のないことと割り切って。

残ったものが――肌を刺すような、冷たさ。

「何を、やっているんでしょうか」

私は。

ほう、と一つ、息を吐く。

わかりきっていることを言葉にしても、何も変わらない、と言うのに。

「…………馬鹿みたい、です」

つまるところ私は、認めたくなかったのだ。

もうこれで、彼とは会えない、という事実を。

彼が私に、もう会いたくなくなってしまった、と言う現実を。

「もう、さよなら、なんですね」

改めて、解りきったことを言葉にする。

「………………」

繰り返しのように流れる涙を、ぐし、と袖で拭った。

 

「あ」

 

「!?」

突如響いた私以外の声に、背筋が凍る。夜中の森と言うものは、何ともいえぬ物々しさがある上に、考え事の最中に響いた声であるから、余計に驚いたのだ。

「あ、あ、あ」

怪談には少し早いんじゃあないですかー、などと心中では思いながらも、身体はそう楽観的にはいかない。ざわざわと揺れる木の葉が、おどろおどろしい雰囲気を更に増長していた。私はびくびくしながらも、辺りを警戒し、身を硬くする。

悪戯妖精たちの仕業なら、少しでもびびっている態度を出したらからかわれるに決まっている。そうだ、こんなことをするのはあいつら以外にはいやしない。

どこからだ。どこから、声が聞こえた――。捕まえて、三匹まとめてとっちめてやる。

 

「見 つ け た」

そんな声とともに。

ぽむ、と。

肩に、手が、置かれて。

さぁっ、と私の体温が下がって。

「………………きゅう」

私の意識は、深く沈んでいった。

 

 

 

「……は」

目が覚めたら、そこは見知らぬ天井だった。

――と、言うわけでもなかった。

敷かれた蒲団と、掛けられた毛布、傍らに置かれた水の入った桶と、それに掛けられたタオル。

そして。

「あ。起きましたよー」

「きゃんっ!?」

極限まで近づけられた、リリーホワイトの顔。

一瞬幽霊かと思った私は、思わずそんな声を上げる。

「おう、起きたか」

「……あ……」

と、リリーホワイトの後ろから聞こえてきたのは。

「ったく、調子悪いんならそうと早く言えよな。森でぶっ倒れたときは、一体何事かと思ったぞ」

ぶつくさ私に小言を言う、彼の声であった。

その小言で思い至る。

あの声は、彼のものだったのか、と。

ということは、彼は私の後を追いかけてきた――?

「……余計な心配です。それに、私が倒れたのは、そもそも貴方のせいなんですよ」

ああ。

本当は、違うのに。

「あんな夜中に、森の中まで追いかけてきて。妖怪に襲われたら、一体どうするつもりだったんですか。本当に後先を考えない人なんですね。幻滅しました」

ぶっきらぼうなその言い方は、彼を遠くにやってしまう。

彼の存在を、遠ざけてしまう。

「正直に言って、鬱陶しいんです。もう二度と、私と関わり合いを持たないで下さい」

どうせ別れるなら、徹底的に嫌われてからの方が、今後の関係を後腐れ無く断つことができる。どうせ私は、リリーホワイトの陰に隠れる、厄介者でしかないのだから。

 

もう、この恋は。

 

「貴方のことなんか、大嫌いです」

 

実ることは、無いのだから。

 

 

 

「うん、そうか。俺は好きだぞ」

 

 

 

……………………。

 

 

 

え?

 

 

 

「なんか勘違いしてるようだから言っとくけども、俺がその程度の言葉でお前のことを嫌う、と思ってたら大間違いだ」

彼は。

何を。

何を、言っているのだろう。

「毎年毎年、お前が何で怒ってるのかは、俺にはわからんけどさ。今年はなんかいつもと違うから、一応言っとくぞ」

 

 

 

俺は、リリーブラックのことが、好きだ。

 

 

 

彼はそう言うと、軽く屈んで私の目をじぃ、と見つめる。今まで見たことが無いほど、真剣な眼差しで。

けれど――当の私はと言うと、一体何がなにやら、今がどういう状況なのかも把握が出来ず、ただ『彼に告白された』という事実と、『何故彼が私を』という疑問が、頭をぐーるぐると回っていて、ただひたすら、正常じゃなかった。

「俺は、お前になんて言われようとも、お前のことを好きで居られる自信がある。けどな」

視線が、逸れる。

身体が、近付く。

彼の温もりが。

私の体温と、一つになって。

 

――気がついたら、私の身体は、彼に抱きしめられていた。

 

「お前が、ここに来ないっていうことだけは……お前の顔が見られないってことだけは、俺にとっては、他の何よりも辛いことなんだよ」

 

消え入りそうな彼の声が、すぐ傍の耳に届く。

 

「頼むから……お願いだから、もうここには来ない、なんて――淋しくなるようなことは、言わないでくれ」

 

 

 

私は少し、彼という人間を測り間違えていたのかもしれない。

いつもへらへらしていて、脳天気で、他人のことなんかお構いなしで、自分の都合を推し進める、そんな人間だと思っていたけれど。そして彼自身も、そんな皮を被っていたようだけれど。

事実は違った。

 

彼は、過剰なまでに他人のことを気にする、淋しがり屋だった。

 

だからこそ、訪れる者の要望に応えた。

ひたすら、他人のことだけを気にした。

彼は――人々にそうやって接することで。

『またここに来たい』と、相手に思わせた。

だけど私の場合はどうだろう。

過程はどうであれ、彼はことごとく、私を怒らせる行動を取ってきた。

 

けれど――私は今年も、ここにやってきた。

 

ぶつくさと文句を言いながらも。

 

心の奥では、また会えることを、心待ちにしていたのだ。

 

次こそは、喜べるように、と。

 

それは、多分――彼の方も、同じだったのだろう。

 

そうでなければ――。

 

 

 

「……だったら」

 

ぽふ、と。

 

私は彼の胸に、顔を埋める。

 

「私だけでなく」

 

夏と秋と冬だけでなく。

 

「春も――愛して、くれますか?」

 

「バカ言うな」

 

ぎゅ、と抱きしめられる力が強くなる。

 

「お前を……リリーブラックと会える、唯一の季節を、嫌いになれるわけがないだろうよ」

 

 

 

「本当に、良かったのですか」

私は、横をふわふわと飛ぶリリーホワイトに、そう聞いた。

「?」

リリーホワイトは、何のことだか解らない、と言った風に、軽く首を傾げる。私はその様子を見て、言葉を続けた。

「貴方も、彼のことが好きだったのでしょう?」

「……違いますよー」

「嘘は止めてください。毎年のように逢いに来ていた、ということ……何より貴方のことは、他の誰よりも私が一番知ってます」

その言葉に、彼女の挙動はぴたりと止まった。顔は相変わらず、何を考えているのか、それとも何も考えていないのかは解らないものであったが、その心情は悲しいほどよく読めた。

やがて彼女は、それを吐露するように話し始める。

「良いんですよ、私は」

 

ずっと、あなたの為にしてきたと思っていたことが。

 

あなたを苦しめることになるなんて。

 

「私は、ずっと、あの人の笑顔が見たいだけですから」

「…………貴方は、強いのですね。私とは大違い」

「違いますよ。能天気で、何も考えられないだけです」

リリーホワイトは、くすくすと笑いながらそう言う。

「振られた、って言う事実も?」

「さぁて、私には解りませんねー。あ、春ですよー」

そんな言葉を並べ、適当にはぐらかしてから、リリーホワイトは飛んでいってしまった。

「……春、ねぇ……」

出逢い、そして別れ。

それらを司るには、能天気でないと、やってられないのかもしれない。

幾万もの出逢いや別れを、この目で見てきた私達にとって。

その使命は、時に私の心を、揺らす。

「……ま、いっか」

そんな気軽な言葉を呟いて、私もリリーホワイトの後を追う様に、飛んだ。

出逢いがあって、別れがあって、その後にはまた、出逢いがある。

彼女は――リリーホワイトは、私の出逢いを見守って、別れを経験した。

ならば今度は、私が彼女の出逢いを、見遣る番だ。

……まあ、でも。

「彼だけは、渡しませんからね」

並走するリリーホワイトに、私はこう宣言する。一方のリリーホワイトも、相変わらず底知れない笑みを浮かべながら、私にこう言った。

「出逢いの後には、別れが来るものですからねー」

生意気ですね、と、そういって私たちは笑いあった。

前方に見えてきた彼の家からは、美味しそうな匂いを纏った煙が漂っている。どうやらタケノコを蒸し焼きにしているらしい。

ここに来るのは一年ぶりでも、私の中ではもっと長いように感じられた。

「出逢いの後にまた出逢い、って言うのがあっても、良いと思いませんか?」

「継続しているのなら、良いんじゃないでしょうか。続くものならば、ですけど」

言ってなさい、と私は毒づく。

せいぜい今は、この瞬間を楽しもう。

だって、今は――。

 

 

 

「春ですよー」

 

 

 

ゆっくりと、家の扉が開いた。



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レミリア短篇

真夜中、空の月が満ちる頃。

私の背丈より遥かに高い鏡、その前に私は立って、私の姿を見ていた。決意の表れのように、口を真一文字に結んで。

ついに。

ついにこの時が来た。

私は、半狂乱になりそうな心を必死に押さえ付けながら、静かにその名を呼ぶ。

「はい、ここに」

平常通り淡々と、まるで感情を無くしたかのように、傍らに私の従者──十六夜咲夜が姿を現した。

私は咲夜に命を下す。

「かしこまりました。すぐに」

それだけ言ってから、またも一瞬で咲夜の姿が部屋から消える。

私は高揚した心を鎮めようと、胸に手を当てて息を大きく吐く。

 

──大丈夫よ。きっと。

 

他の誰でもない、自分自身を納得させるように、呟いた。

胸の動悸は治まる気配を見せず、ただ私の気持ちを表すように心の臓を叩いていた。

 

 

 

「失礼するわ」

そう言って、紅魔館のメイドである十六夜咲夜が、玄関の戸を叩いたのは、日が回って間もない夜中のことであった。

「……咲夜。どうかしたの?」

既に床に着いていた僕は、寝ぼけ眼で咲夜を応対する。

「お嬢様がお呼びよ。すぐに支度して来なさいな」

まんじりともせずに、咲夜は答える。同時に、僕はがっくりと肩を落とした。咲夜が発したその言葉は、僕の徹夜をほぼ確定させたようなものだからだ。

「何もこんな夜中にしなくともいいだろうに……まあ、毎度のことだからいいけど」

「あら。早寝早起きを心掛ける吸血鬼なんて、怖くも何とも無いと思わない?」

「どっちもぞっとしないね」

「どっちの意味で?」

月の後光を受けて、咲夜の顔に影が射す。僕は肩をすくめた。

「両方」

「まあ」

くすくす、と笑う咲夜を尻目に、ハンガーからコートを取り外し、それを羽織る。最近は冷えてきたので、やや厚手のものだ。

玄関の戸を閉め、鍵を掛けながら僕は咲夜に聞いた。

「で……何、また退屈凌ぎ?」

「さあ、私は何も聞かされていないから」

一つ、ため息。

「もう寝掛かっていたところを起こされたんだから、ちゃんとした用事であることを祈るよ」

「何に?まさか神様?」

まさか。この幻想郷で、どんな神様に祈ったって、叶うわけが無いのはわかりきっている。

「レミリアが言うところの、運命って奴に、かな」

「作為的な運命だけどね」

「……困ったもんだ、本当に」

「ね」

 

 

 

しがない画家の僕は、レミリアと面識がある。

何年前かは忘れてしまった、けれども季節は覚えている。確か、今にも雪が降って来そうに寒い、冬の出来事だった。

丁度その時も、厚手のコートを着て、毛糸のニット帽子を被って、白い息を漂わせながら、夜の道をあちこち練り歩いていた。

やがて見えた、見晴らしの良い丘。それに被って、まるで出来損ないのクロワッサンのように、下弦が欠けた月。

そして──、一人の吸血鬼。

 

「冬の月は良いわね」

 

吸血鬼の少女は、名前をレミリア・スカーレットと言った。こんな時間にここに居るのは、昼間に外出ると日光にやられてしまう、というものと、もう一つ。

「貴方に会いに来たのよ」

その言葉には、どこか憂いが含まれていた。僕は黙ってうなずき、背中に背負ったキャンバスを下ろし、それに木炭を走らせはじめる──彼女はただそれを、ものも言わずに眺めているだけだった。

 

 

呼ばれている。

僕は今、どうしても、吸血鬼を描かなければならない。

その混じりっけない姿を、キャンバスにしっかりと収めなければならない。

木炭で。パン耳で。指で。水滴で。油性絵の具で。

彼女を写し出すのだ。

ありったけの彼女を。

月に映える、彼女の姿を。

 

 

 

出来上がった絵を、彼女に見せる──彼女は、何も言わない。

けれど、鮮やかに色彩されたキャンバスから、彼女の視線が外れることは無かった。

「どうかな」

僕は、彼女のその真剣な横顔を見つめながら、聞く。

「良い絵ね」

一言だけ。

褒められたことがわかるのに、数秒を要するほど短く──吸血鬼は呟いた。

「ただ、この絵は──私には少し甘ったる過ぎるかしら」

彼女からキャンバスを受け取る。まじりっけのない、吸血鬼の姿が変わりなく写っている。

「……そっか」

僕はそれを月に向けた。凛として立つ吸血鬼と、それに重なるように薄ぼんやりと、淡い光が透けて射さる。

「君にはこの絵が、甘ったるく見えたんだね」

怪訝な表情を浮かべる少女に、僕は「ちなみに」と続ける。

「その甘さは、君から見てどんな甘さだった?」

「どうって……そうね」

少し考え込むそぶりを見せる。少し間が開いて、答える。

少しだけ、口角を吊り上げて。

「まるで、仲間内で馴れ合っているような──そう、吐き気がしそうな甘ったるさよ」

ふふん、と鼻を鳴らす。どうだ、と得意げに。まるで、どこかで聞いた格言を自信満々に引用する、未熟な学生のように。

「そう、そうなんだね」

僕はうんうん、と頷く。彼女の自信に、多大な虚偽が含まれていることを知っているから。

「貴方、見る目があるわね。いいわ、私の下僕第一号にしてあげる──光栄に思いなさいよ。何せ私は、あの高名なツェペシュの子孫なんだから」

「あぁ、うん、どうも」

何やらテンションの上がっている少女を余所に、僕は少し、困ってしまっていた。

目が冴えて眠れないから、ちょっとデッサンでもして気分を入れ換えよう、と思っただけなのに。

妙な少女──いや、吸血鬼に魅せられてしまった。

僕はふと、手に持ったままだったキャンバスに目を落とす。

やはり、というか──そのキャンバスには既に、少女の姿などは、影も形も無かった。

これが、僕とレミリアの出会いである。まだレミリアが、年端も行かない少女だった時の話だ。

何年前かは──いや、何百年前かは、忘れてしまった。

 

 

 

「………………」

椅子から立ち上がる。

そわそわと辺りを見回す。

腕とか組んでみたりする。

「………………」

やっぱり座る。

紅茶を一口。

ほっ、と一息つく。

「……これで九回目ね」

椅子から立ち上がった(正確には今の一連の動きをした)回数を、恨めしそうにつぶやきながら、私は頭を掻きむしる。

「お、落ち着きなさいよレミリア・スカーレット!何を緊張する必要があるの?そう、いつも通り、適当に理由を付けて、ただ会ってちょっと話するだけでしょう」

自分に言い聞かせるように言う。ちなみにこの部屋には、私以外は誰もいない。もう夜中の三時半なのだから、当然だといえる。従者の咲夜も、今は彼を呼びに行っている。

「そうよ、いつも通りに……い、いつも通り……に……」

段々、と。

身体が縮こまっていく。

わかっているのだ。

いつも通りじゃ、駄目なんだ、と──何度も自分に、言って聞かせてきたはずなのに。

 

運命というものは、抗うことのできない崇高な存在である。私がこうと決めたなら、すべての事象はこうと進まなければならない。

だからこそ、私は私に、こういう運命を課した。

 

『今日こそ告白するのだ』。

 

無論、私の『運命を操る程度の能力』の前では、こんな運命は制約にはならない。だがそれでも、私は決して、自身が定めた『運命』から逃れるつもりはない。

あの日。

あの丘で。

私と彼が出会って以来。

今日が最良の日なのだと、私が運命付けた以上──この機を逃すと一生私は後悔する。

だから、今回こそ。

私の気持ちを伝えるのだ。

何百年来の、この気持ちを。

……と、そう決心をしたのはいいのだが、いかんせん行動に気持ちが伴わない。

「…………うー……」

私は、恐らく真っ赤であろう顔をテーブルクロスにうずめる。

もうすぐ彼がここに来る。

その事実は、徐々に私に緊張感と焦りが出るだけだった。

 

 

 

「あーっ!」

咲夜に連れられ向かった紅魔館、俺を出迎えたのは、フランの突拍子のない声。

「お、フラン……おぅふ」

そして特大の、ダイビングヘッドバットだった。

僕の鳩尾に、フランが手荒な歓迎をするのは、毎度毎度のことなのだが、未だに慣れることはない。というか慣れたくない。

僕は「ねぇねぇ、遊ぼうよ!」と、袖を引っ張りながら言ってくるフランを、また今度遊ぶという約束を取り付けて宥める。

別れ際にもう一度、背中にヘッドバットを喰らうのもご愛嬌だ。

 

 

 

扉が打ち鳴らされる音に、私は瞬時に顔を上げる。

「お嬢様、お連れ致しました」

遅れて聞こえる咲夜の声に、私はつとめて冷静に答えた。

「……は、入りなさい」

少し語尾が上がってしまったが、許容範囲内だろう。むしろよくやった、と自分を褒めてやりたいくらいだ。偉いぞ、私。

「レミリア?」

「!」

いつの間にか、部屋に入っていた彼の声に、思考が停止する。

あれ。

えーと。

私は、一体。

何を言うんだっけ。

………………。

うー☆

「お嬢様、気をしっかり」

「は」

咲夜の一言で我を取り戻す。いけない、思わず地が出そうになった──こほん、と一つ咳を漏らし、たたずまいを直す。

目付きは鋭く。

背筋は真っすぐ。

口元は常に微笑。

物腰は柔らかく。

よし。

完、璧、だ!

「よく来てくれたわね。どうぞ、ゆっくり寛いでちょうだい。紅茶も一番を煎れてあるし、スコーンも焼きたてを用意してあるわ」

「……レミリア、大丈夫?何か無理してない?」

は、何をいきなり言うのかしら。今の動作は紛れも無い、レミリア・スカーレットでしょう。

「やばいやばいどうしよう動揺してるのがバレてるようスコーン焼いたのが私だってのもバレてるわよね焦げてるもんごめんなさい生まれて来てごめんなさい」

「お嬢様。本音と建前が逆になってますよ」

「あら咲夜。普段の私が建前だって言うの?心外ね、ほらご覧なさい。これほど優雅に紅茶を嗜む者なんて、この幻想郷では私をおいて他に居ないわようふふ」

「お嬢様。手が震えて、カップがカチャカチャいってますが」

「何を言っているのかしら咲夜、これは地震よ。けれど、地震が起きても優雅さを崩さないのが、私が私である所以よ。『押さない、かけない、喋らない』。常識でしょう?さあ早く避難をしましょう、煌めく新しい明日が私たちを待っているわ!」

そう言って私は脱兎する。

「ああっ、お嬢様どこに!?」

だけど案の定咲夜に捕獲される。私は涙目になりながら、半狂乱で叫ぶように言った。

「無理!私には無理!というか、もう夢も希望も無いわ!だって優雅さのかけらも無いじゃない!こんな状況で告白なんてうまくいくはずないでしょ!?」

「手づくりのスコーンを食べさせられて、落ちない男子なんてこの世には居ません!」

「どこ情報よそれ!?」

「ハーレクインです!」

「夢物語ぃぃぃぃぃぃ!」

 

「うん、美味い」

 

 

「え」

私は振り向く。驚くことに彼は、何事も無かったかのように椅子に座って、私が作ったスコーンを、口に運んでいた。

黒く焼け焦げたそれを。

「いや、本当に美味しいよこれ。レミリアが作ったの?」

「あ…………」

気付く。

彼は、私が私で居られるようにしてくれようとしているのだと。

高貴な吸血鬼──レミリア・スカーレットで居られるように。

そして、気付く。

彼は私の気持ちに──。

 

「……ふふっ」

 

私の口元に、微笑が戻る。

もう間違えない。

私は私だ。

どれだけ間違えても。

真実は──。

「ええ、そうよ。お口にあったようで良かったわ」

「うん。ところでさ」

「あら、何かしら?」

「話があるんだ」

彼は何とも無しに言う。彼をここに呼んだのは、私だというのに。

「ふん。つまらない話だったら、許さないわよ」

「うん……実は、ね」

まあ。

結果的には。

どっちでもよかった、ということに、なったらしい。

 

「好きだ。付き合って下さい」

 

「仕方ないわね。付き合ってあげるわよ」

 

遠くで、咲夜の呟きが聞こえる。

「説得力ゼロですね」

本当に。

こういうのは逆だろう、と。

本来告白する方が、顔を真っ赤にするものなのに。

目の前の彼は涼しい顔で。

当の私の方は、体温がどんどん上昇しているのがわかる。

こうして茶番は、幕を閉じた。

壁の絵が、あの頃と比べて、幾分甘さ控えめになったのは──勘違いではないはずだ。

けれど月は、あの頃と変わらず、瞬いていた。



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はたて短篇

「………………」

じとり、と。

目を細めて、私――姫海棠はたては、一枚の写真を映しているカメラ(というよりは、携帯電話のような代物である)の画面を見つめていた。

「……何とも、はぁ……」

どれもこれも、表示される写真は既視感があるものばかり。中には、こんなことがあったのか、と自分が驚かされてしまうような、そんな写真も含まれているので、やるせなくなってしまう。

たとえ映しているのは、私のカメラであっても。

写真として写しているのは、他の誰かのカメラなのだ。

私のカメラは、能力は、それをすっぱ抜く――なんて言い方もおこがましい。

こそこそと除き見る、それしか出来ないのだから。

「……せめて私しか知らないような取材対象でも居れば、良い記事の一つでも書けそうなものなんですけどぉー……」

そこまでいって、はぁ、と溜め息をつく。

私は、新聞記者としてのスキルが圧倒的に足りない。

例えば、射命丸文。彼女には――こうして思うだけでも腹立たしいが――幻想郷でも随一の速さがある。取材する価値の在るスクープがあると見れば、五秒で駆けつけ取材を済ませ、五秒で戻り記事を書く。毎度のことながらその速さには、舌を巻く。巻きすぎて辟易とまでさせられてしまう。

そんな技能が、私には足りない。

ならばせめてものアイデンティティとして、人脈、というものがあるが、不幸にも私にはそういうものすらない。念写をする程度の能力、というものは、現場に行かずとも記事が書ける、という利点がありはするが、その反面、人の話を直接聞くことは出来ない。となれば、交友関係は広がらないし、記事にもリアリティが増さない(音声録音が出来るわけではないので、談話などがそもそも取れないのだ)。

そもそもが、あまり外に出ない性質なので、人との繋がり――ありていに言えば、コネ、というやつが出来るはずもなく。

必然、私の書く新聞は、売り上げが伸びない、と。

「なんて単純な図式なんでしょう、と」

相も変わらず、似たような写真ばかりを映すカメラを閉じて、部屋の隅っこに投げ捨てる。ごいん、と嫌な音がした気がするが、私はそちらには目もくれずに、畳の上に寝っ転がる。今日はもう寝てしまおう、と、そう考えた私は、部屋の電気も消さずに、ゆっくりと眠りの世界に意識を委ねた。

かたかたと、冬の寒風が玄関の戸を叩く音だけが響いていた。

 

 

 

「……んむぅ?」

響く大きな音に、私は目を覚ます。寝惚け眼で時計を見ると、まだ携帯をほっぽりだしてから三十分しか経っていない。服も皺になっていないし、髪にも寝癖はついていない。ただ、眠気だけはさっきとは倍ほどになってはいたが。

ああ――いや、眠気だけではない。

「……うるさいなぁ、もう……」

さっきから鳴り響いていた騒音は、玄関から聞こえてきていた。寝る前は、風の仕業だと思っていたが、今なっている音からすると、どうも違うらしい。明らかに、誰かの手によって戸を打ち鳴らされている、そんな音だ。

夜中に来客、しかも寝ている時になんて。

運が悪い、と、私は頬を軽く掻く。やっぱり無精を垂れずに、きちんと電気を切っておけば良かっただろうか。来客は避けられなかっただろうが、部屋の電気が落ちていれば、もう寝てしまったと思わせて帰る可能性もぐんとあがる。

ただまあ、過ぎたことは仕方がない。もう眠気は覚めつつあるし、ひょっとすれば――いや万が一――ううん、タテジマをヨコジマにするくらいの確率で――記事のネタになるかもしれない。

そう思った私は、渋々ながらも少々の期待感を抱き、戸を開く。

「はぁい、どちら様です……か」

「すいませんごめんなさいちょっと入れて」

「え、あ、ちょ、うわ、!?」

戸を開けるや否や、ずかずかと入り込んでくる――誰だろう、男?――に、私は目を丸くして驚く。男は家の中に入ると、電光石火で戸の鍵を閉め、玄関の照明を落とした。

 

……え、あれ。

 

そんな混乱状態の中、私は気付く。

 

暗闇の中、素性も知れない男と、二人きり。

 

これって。

……私、もしかして、いやもしかしなくても、危ない?

「ちょっ、まっ……!う」

「しっ!静かに!」

声を挙げようとする私の口を、男はやや乱暴に手で塞ぐ。一瞬止まる息、相手の顔も見えない状況に、私の心拍数は否応無しに上昇していく。

やばい。

やばいやばいやばい。

こんな、良い記事にはなるけど――それは私が書いた、という意味ではなく、むしろ他紙にとっては格好のネタになるわけであって、そんな中私は被害者Hとしてインタビューを受けなきゃならなくなって、それがトラウマになって新聞記者引退とかになっちゃって、天狗の里からは厄介者扱いされて追い出されて、生きていく術を失った私は人里に降りて、そこで一人の慰み者として生きて、あぁでも途中で嫌になって死んじゃうかも、うわああああ嫌だ嫌だ嫌だ。

「……ええと、その、もう大丈夫。ありがとう」

「神は言っている。ここで死ぬ定めではないと」

「……え、ちょっと、何言って……なんか紫色のオーラとか出てるんだけど!?え、スタンド使いだったの!?」

「シィィィィィィィザァァァァァァ!!!」

「とか叫びながらオーバードライブとかマジやめて浄化される堕天するって洒落にならないってぇぇぇ!」

 

 

 

「…………あの」

「五月蝿いちょっと黙ってなさいゴミ屑」

「…………はい」

一喝され、軽く凹む。

……最近、どうにも災難が続いているような気がする。

通学中、事故でバスが横転するし。

そのせいで、僕は死んだのだろう――こんな得体の知れない、辺鄙なところに飛ばされるし。

何をするべきか迷っていると、酒臭い鬼のコスプレをした少女に出会った……までは良かったのだが、勧められた酒を未青年だから、という理由で断ったら、「私の酒が飲めないのかー」って言って、巨大化して追いかけてくるし。

何とか見知らぬ民家に入れてもらって、やり過ごせたと思ったら、その家の人にお叱りを受けるし――いや、まぁ、勝手に上がりこんで迷惑を掛けたのは僕のほうだし、非は全面的にこちらにあるのだから、仕方ないのだけれど。

女性を見ると、顎に手を当てて、なにやらぶつぶつと呟いている。その様子が気になったので(あと無言の空間に耐えられなくなったので)、とりあえず話しかけてみることにする。

「あの」

「世送りにされたくなければ黙ってなさい」

「………………」

もうここがあの世じゃないのか、という僕の疑問は、もちろんぶつけない。ぶつけたら確実に、二段底が僕を襲う。

うぅん。あの世って、想像以上にへヴィだ。

「……一つ、聞かせてもらってもいいかしら」

「あ、はい、なんですか」

思わず敬語が口をついて出る。なんと言うか、彼女の放っている雰囲気というか、そういうものに気圧されているような、そんなものを感じたのだ。

「あんたは、さっき、私に、乱暴を、働いたわね」

ぼそぼそっと、抑揚なく言う。けれど僕は、その言葉にナイフのような鋭さを感じた。

「あ、いや、その!えぇっと、確かにちょっと強引だったかもしれないけど、他意は無くて、その、なんと言うか」

「言い訳は要らない。謝罪も結構。慰めなんてもってのほか。私はただ、こう聞いているだけ」

しどろもどろになる僕に、彼女は淡々と――罪状を読み上げる裁判官のように――問う。

「あんたは、私に、乱暴を、働いたわね?」

「――――」

彼女は、探りを入れるような目つきで、僕を下から眺めている。

対する僕は、何も言えずにただぱくぱくと、口を動かすだけであった。

「……私はあんたを許さない」

そう告げる彼女は、けれど、とも付け加えた。

「あんた自身が犯した罪を気に病んで、『自主的に』贖罪を私にしてくれる、というのなら、その気持ちを汲んでやらないこともない」

「……えぇ、と、つまり、どういうこと」

いまいち理解が出来ず、首を傾げていたところを、彼女は――一体何処から取り出したのだろう――ノートとペンを手に持って、僕をじっと、見つめていた。

 

「あんたは今から、私が申し込む取材に受けざるを得ない、ということよ」

 

私は姫海棠はたて。

しがない新聞記者。

さあ、教えなさい。

あんたの名前、性格、その他諸々。

ああ、答えなくとも構わないわよ。あくまでこれは、『あんたが』『自主的に』『語ったこと』を載せる予定だから。

ただし、あんたが何も語ってくれなかった場合。

その時は、別の記事に差し替えなきゃいけないけれど。

『とある新聞記者、夜中に押し入った男に暴行を加えられる!』。

……良い見出しだと思わない、ねぇ。

 

「さて、改めて質問。あんたの名前は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

世界が反転した。

 

通学中、横転したバス。側部からの激しい衝撃に、傾くバスと共に、僕の身体も次第に傾いていく。

 

悲鳴が響く車内。

 

もう一度、バスが大きく揺れた――そのはずみで僕の身体が、大きく横に揺さぶられる。バスの揺れと同じぐらいの衝撃が、僕の身体を走った。

どこか固いところに頭を打ち付けたのだろうか、頬のあたりを液体が這っていく感触が伝わった。目の前の景色が、だんだんとぼやけてくる。二転、三転、四転と回っているのが、バスなのかそれとも僕の身体なのか、もはやわからない状態になっていた。ただ慣性に従って、僕の身体は右往左往しているのだ、ということだけは理解できていたが、それだけだ。もう、悲鳴も聞こえなくなってきた。

 

収まったのだろうか。

 

いや、違う。景色はまだ、ぐるぐる回っている。

 

そうか、これは、僕の方か。

 

こんな状況でも、何故かクリアになっていく思考とは裏腹に、視界はどんどんと薄暗くなっていく。右目に血が染みて開けなくなった。左目のみで見る今の光景は、何もかもが反転していて、何もかもが逆転していて、何もかもが台無しになっていって――。

 

 

 

不意に、無数の眼が、窓から見えた。

 

薄ぼんやりとした中に、はっきりとした存在。

 

僕は薄れ行く意識の中で救いを求めるように、ゆっくりと、弱々しく、手を伸ばした。

 

 

 

誰かのぬくもりが、僕の手に伝わったのを感じた。

 

 

 

 

 

「…………む、ん……?」

人工的な光が、僕の手を通り抜けて眼に突き刺さる。先程の光景が夢であったことを確認し、ゆっくりと身体を起こす。下には布団が敷かれており、掛け布団も身体の上に掛けられていた。

しばし眼をしぱしぱさせながら、どうやらずっと掲げていたらしい手を降ろす。長時間血が行かなかったためか、指の先は少し青白くなっていた。

「……夢、かぁ」

今まで見ていたものがそれだと分かり、起こした身体を再び布団に預ける。手が段々痺れてきたのと、あまり見たくもない夢をみたせいで、眼はすっかり冴えてしまっていた。今寝転がっているのは、夢でよかったという安堵から無意識にしてしまった行動だ。

あの日起こったであろう、あの出来事のことを。

思い出したくは、無かったのだけれど――。

「……起きよう」

手の痺れが治まってきたのを見計らい、身体を起こす。

そうして今日もまた、いつもどおりの「取材」が始まる。

 

 

 

「いい、よく聞きなさいよ」

朝餉の席。

僕の対角に座り、味噌汁のおわんを手に持っている少女――姫海棠はたては、語気をやや荒らげながら僕を睨みつけて言った。

「貴方はあくまで、私の取材対象なんだから。何度も何度も言うようだけれど、勝手に家の外に出たり訪問客に応対したり、挙句の果てには妖怪とフレンドリーになったりしないように。わかった?」

「…………?」

突然何を言い出すのだろう、と首を傾げる僕。確かに昨日、妖怪の訪問客が一人いたけれど、特に何をするでもなく普通の優しそうな人だった。その妖怪と懇意になることも駄目だなんて、ちょっと厳しいんじゃないか。大体、訪問客を応対するなって……居留守を使えと言っているようなものだ。

「とにかく。貴方がここに居るということが広まったら、少し厄介なことになるの。ただでさえ妖怪の山なんて、噂話は悪事よりも伝わるのが速いっていうのに」

「? ……よく分からないけど、僕が此処に居ると、はたてにとって迷惑になる……ってこと?」

「別に迷惑だとは……って、そうじゃなくて!」

ばしん、と机を叩くはたて。僕は驚いて、少し身を退かせる。

「っ……とにかく。誰が来ても相手にしない、外にも出ないこと。わかった?」

「わかり、ました」

半ば強引に首を縦に振らされる。はたてはそれを見てから、不機嫌そうな顔をして立ち上がった。

「じゃ、取材に行ってくるから。今言ったこと、忘れないように」

そう言ってさっさと出て行くはたてに、僕は小さく「行ってらっしゃい」と言うことしか出来なかった。

 

 

 

通学バスの横転事故に遭ったと思ったら、いつの間にか別の世界に来ていて。

鬼に襲われそうになっていたところを、姫海棠はたての家に逃げ込んだことで事なきを得て。

けれど彼女は、強引な手段を取った僕に、免罪の条件を要求した――いや、体裁的には「僕が自主的に申し出た」ということになるのだろうか。

その条件というのが。

 

『貴方は今から、私が申し込む取材に受けざるを得ない、ということですよ』

 

かくして僕は、新聞記事を書くための取材対象として、はたての家に居候をさせてもらっている。

勿論これは一時的なものであり、取材が終わればまた根無し草としてこの得体の知れない世界にほっぽり出されることになるだろう。そのことについて異論はないのだけれど、やはり居候をさせてもらっている内に、こちらでの食い扶持を探しておかなければ不安ではある。そうでなければ取材が終わった途端に路頭に迷い、彷徨う内に妖怪に襲われて終了、なんて事にもなりかねない。はたての仕事を手伝おうか、とも考えて申し出たこともあったが、「貴方と一緒に仕事なんてできるほど、私は貴方のことを信用しちゃいない」と言い返され、ぐうの音も出なかった。第一印象は大事だということを思い知った瞬間である。

となると必然、自分自身で職を探すことになる、のだが。

「……いかにも古風、って感じなんだよな……この世界って」

こちらに来て一週間ほどになるが、その間に受けた印象は「昔の日本」といった感じだった。はたての家の他にも、窓から見える家屋のほとんどが日本家屋の藁葺き屋根である。新聞も所謂瓦版であり、家の設備もかまどに五右衛門風呂など、「いかにも」の前置詞が相応しいほどに日本風なのであった。まだ外に出歩いても居ないので、この世界のすべてがそうなのかは知らないけれど。

そういった事情からすると、家に居ながら職を探すといったことが難しくなってくる。就職情報誌もアルバイト斡旋の広告も無いし、電話すらも存在しない。はたてが使っているカメラは携帯電話にそっくりだったが、どうやらカメラ機能しか使えないようだったし。電話線が各家屋に行き届いていないのかもしれない。

そうなると、残る方法は「自分の足で職を探しに行く」ということになる。はたては出歩くなと言っていたが、彼女の取材は少なくとも夜まで帰って来られない。夜になれば暗がりで妖怪に襲われる可能性はぐんと高くなる。出来るならば、明るいうちに、はたてに見つからないようにこっそりと仕事を探すしか無い。

「……ごめん。すぐに帰るから」

今ここには居ないはたてに、届くはずのない弁明を玄関に残し、僕は家を出た。

どこに行くかも決めず、ただ職を探すという目的だけを持って。

 

 

 

「そうですか……えぇ、どうも。ご協力、ありがとうございます……はい、はい……それでは」

人里にある老舗の和菓子屋での取材を終え、私は店を出る。十一時頃に始めた取材であったが、店を出る頃はもうすっかり日も真上に来ていた。好意でいくつか菓子を食べさせてもらったのであまりお腹は減っていないが、家で待っている彼のことを考えると、一度家に帰ったほうがいいかと考える。お土産も幾つか頂いたことだし、今日の取材はこれまでにして彼との話に花を咲かせる、というのも……。

「……な、何を考えてんのよ私は。話っていっても取材、それも私を襲おうとした張本人なんだから、お菓子なんか要らないでしょうに……」

あせあせと、脳裏をよぎった考えを必死に排除しようともがく。そう、彼とはギブアンドテイクの関係――それもこちらが有利な側なのだ。菓子で釣らずとも、あの事件を記事にするぞとほのめかせば取材など容易なはずである。

 

それなのに、私は。

 

彼が来て一週間も経つというのに。

 

考えの中には、取材のしの字も出てきやしない。

 

「……何を考えているんだかね、私は」

菓子の入った手提げ袋をジト目で睨みながら、はぁ、と一つ大きく溜息をつく。とりあえず家に帰ろう――そう思って足を家の方に向けた、その時だった。

 

 

 

「あやや、誰かと思えば。はたてじゃないですか」

 

 

 

「………………………………」

「ちょーっとちょっと、無視していこうだなんて、人付き合いが悪いんじゃないですか?」

スルーしようとすり抜ける私の肩をがっちりと掴む――天敵、射命丸文。

「あら、射命丸さんじゃないですか。どうしたんですか、こんなところで?」

無理やり貼りつけたような笑顔で応対する。けれど射命丸の方は意に介せず、

「その営業用の敬語を、私に使うのは違うと思いますが」

なんてことを言ってのけたので、私は内心「嫌な奴に会った」と思いながら、また深く溜息をついた。

「はいはい。それで? 幻想郷一のスピードを誇る射命丸が、引きこもりの私に一体何の用? まさか私の取材をリークさせようとしてんじゃないでしょうね」

「まさか。ただ、引きこもりの貴方が外に出歩いて取材しているのを見るのなんて初めてだったので、つい話しかけてしまっただけですよー」

「……最初の『まさか』ってのが引っ掛かるけれど、まあいいや」

 まるで私の書く新聞記事など、漏らす必要性を感じない、といったニュアンスを含む物言いにムッとしながらも、話を続ける。

「それで?」

「ん?」

「本当は、一体何の用事?」

その瞬間、射命丸の眼光が鋭くなったのを私は感じた。

「んっふふ。鋭いですねー。貴方、本当にはたてですか? 何か悪いものでも食べたんじゃないですか?」

「残念ながら正常よ。むしろ、私の能力を見誤っていた貴方の方がおかしいんじゃないの?」

「さあて、どうでしょうね」

射命丸は私に背中を向け、肩をすくめる。彼女の方から早々と舌戦を切り上げたため、私も本題に入ることにした――彼女の目的も、恐らくそちらの方だろう。

「用事ってのは、外来人のこと?」

「そうです。その外来人のこと、です」

言うと射命丸は、どこからとも無くペンを取り出して、私にその先端を突きつけた。

「私は貴方の新聞記事に興味はありませんが」

眼前でペンがくるくると回る。

「貴方が拾ったという外来人のことには、大いに興味があります」

「……拾った、ね……」

あれはどちらかというと押しかけられた、の方が正しい気もするけれど。

「それで、私の後を着いて来て取材しようって算段?」

「イエース、ザッツライト」

指先で弾かれたペンが跳ね、すぽりと射命丸のシャツの胸ポケットに収まる。相変わらず変な所で器用な天狗だ。その器用さが、私にとっては何よりも羨ましいのだけれど。

「というわけで、早速彼の元に向かいましょう」

「行かないわよ」

「ふへ?」

その言葉に射命丸はきょとん、とした顔でこちらを見てくる。

「残念ながら私、午後からも回らなきゃいけないところがあるから。行くなら一人で行ってね、相手にされないだろうけど」

嘘ではない。家に帰ろうかいうのは思案していただけであって、そうした場合明日に回す予定だった取材も、家に帰らなければ今日中に終わらせてしまうことも出来る。彼も昼に私が帰って来なければ、一人で勝手に何か作って食べるだろう。その時のために、食材はそれなりにおいてある。ので、このまま帰らずに取材を続ければ、射命丸の追求も振りきれるし――あれだけ言ったのだから、射命丸が訪問したとしても取り合わないだろう。勝手に家を出るなとも忠告をしておいたし、まあなんとかなる、と私は考えていた。

 

次の射命丸の言葉を聞くまでは。

 

 

 

「いやー、それがですね。さっきはたての家に行った時、誰も居ませんでしたので」

 

 

 

「………………は?」

思わず目を点にする。

家に?

射命丸が?

いつ?

いや、そこは問題ではない。

問題なのは。

「……誰も、居なかったって……?」

「? ええ。人っ子一人居ませんでしたよ」

さも当然、という風に言う射命丸。私は混乱する頭を手で押さえつつ問う。

「え、ちょ、ちょっと、待って? 私、鍵、閉めた」

「カタコト外国人みたいな喋り方ですねー」

「それはいいから! 貴方、鍵はどうやって」

「どうやって、と言われましても」

困った素振りを見せながら、射命丸は――答えた。

 

 

 

「最初から掛かっていませんでしたけど」

 

 

 

「うー……ん」

広大な平原で一人、腕を組んで佇みながら唸る。

職を求めて三千里(感じ方には個人差があります)。

歩いているうちに空腹が顔を覗かせ始めたので、食を求めて三千里(感じ方には個人差があります)。

食は万里を越える、とはよく言ったものである。

だがどうやら、職が万里を越えるにはちょっとばかし無茶があったかもしれない。

有り体に言ってしまうと、だ。

「迷った」

案の定である。

よくよく考えれば、見知らぬ世界で地図も持たずに職探しって、危ない事この上ないなこれ。なんて今頃自覚する辺り、僕は色々と鈍い人間なんかもしれない。

「そこの男、止まれ」

と。

上空から声がしたので見上げてみると、そこには一人の少女が宙を漂っていた。

「此処から先は天狗の山。何人たりとも、無断で立ち入ることは」

 

一振りの刀を携えて。

 

「この犬走椛が、許さぬ」

 

「ごめんなさいもうしません失礼します」

チキンな僕はそれだけで尻尾を巻いて逃げるが勝ち、と背を向けていた。

やばい。怖い。何が怖いって、あの人を簡単に斬れそうな目付き。それとあの刀。陽の光が当たって光ってたよ。紙とか上に乗っけたらぱらって二つに分かれそうなほど切れ味良さそうだったよ。後は何かしらんけど尻尾もふもふだったよ。何か分からないけど恐ろしいよ。一度触ったら病みつきになっちゃいそうだよあのもふもふ。

「……何か不埒なことを考えてはいるまいな」

「いやいやいやもうぜんっぜんですぜんっぜん」

彼女の眼が細くなったのが見えて、僕は全力で容疑を否定する。濡れ衣です、ただ僕は貴方の尻尾にくるまって眠ってみたいと考えただけなんです、信じてください。トラスト・ミー。

「……まあ、良い。今後天狗の山に近寄ることがあれば、容赦なく叩っ切る。そのつもりでいろ」

「はい」

即答。折角助かった命を、ここで無駄にすり減らすわけにもいかない。いのちをだいじに。人類における本能共通の作戦である。

「それでは、失礼する」

言い残して、彼女は森の方へと去っていった。僕は疲弊しきった身体を地面に降ろし、深く息を吐いた。精神は磨耗し、しばらく動きたくない。

「はぁ……少し休んだら、さっさと帰ろう。うん、そうしよう」

結局職は見つからなかったが、それでも命があるだけ儲けもん、である。命あっての物種とも言うし。何、これから先、仕事を見つける機会はまだあるだろう。少なくとも『働いたら負けかと思っている』状態にはならないようにはしないといけないだろうが。

「っと……はたてが心配しないうちに、帰らないと」

 

「はたてと、今言ったな」

 

「は」

頭上から声――いや、もふもふの尻尾――違う、刀――。

 

刀?

 

「うわあっあ!?」

眼前に向けられた刀の切っ先に、思わず腰を下ろしたまま、無様に飛び退く。急に刀を向けられたら誰だってこうなるだろう。そんな僕の混乱具合など構うこと無く、何故か戻ってきた先程の少女――犬走椛は、問うた。

「今のはたてというのは、よもや姫海棠はたてのことではあるまいな」

「……え、知ってるの?」

刀が振り下ろされる・

「ひいい!」

無様に以下略。急に刀を振り下ろされたら以下略。さっきまで僕がヘタレていた場所には、ぎらぎらと鋭い刀が突き刺さっていた。冗談じゃない、すり減るどころか一刀両断じゃないか。二回も避けられたのが奇跡と言えるほど素人目に見ても太刀筋が鋭かった。

「そうか、貴様が」

刀を引きぬく彼女の眼は、何故だか刀に負けないくらいの鋭さで僕を射抜いていた。何だ、僕が何かしたか。

 

 

 

「貴様がはたての『恋人』とやらか」

 

 

 

「はえ?」

恐怖で何を言っているのかわからなくなっているので、彼女がなんと言ったのかは理解できなかった。僕の耳には確かに「恋人」という単語が聞こえてきたと思ったのだが。

「しらばっくれるな。はたての家に押し入った挙句居着いてしまい、今は恋人関係となった外来人――容姿も記事の通りだ。貴様以外にはあり得ないな」

「………………」

聞き間違いでは、なかったらしい。

「いやいやいや、恋人なんかじゃないです、マジで」

首をちぎれそうなほど左右に振る。なんだそのデマは、どこが出所だ。

「ではこの新聞記事は何だ。貴様のことが、事細かに記されているが」

そう言うと彼女は懐から、折り畳まれた新聞を取り出し、開いて見せた。そこには大きな見出しで「衝撃スキャンダル、姫海棠はたてに恋人疑惑!?」と書かれていた。正直一体何が何だか――。

 

『私、……新聞記者の……と申しますが』

 

「あ」

そうだ。

数日前の来客。

確か彼女は新聞記者だった。

新聞名は、確か。

「……聞きたいことがあるんですが」

「言ってみろ」

「その新聞の名前、一体なんていうんですか」

 その言葉に彼女は眼を一層細くした後、言うのであった。

 

「文々。新聞」

 

 

 

「貴方がああいう記事を書くから、こんな誤解が広まったんじゃないの?」

「何を言います。真実を追い求めるのが新聞記者の本懐じゃないですか」

「真実じゃないから問題なんでしょうが」

「またまたー。照れちゃって」

上空を飛び回りながら射命丸に愚痴る私と、それを適当に受け流す射命丸。私も射命丸も口ではそう言いつつ、眼は地上に向けている。

何故こんなことをしているのかというと――。

「もう一度聞くけれど、本当に私の家には誰も居なかったの?」

「ええ、確かに居ませんでしたよ。まあ、彼は空を飛べませんから」

そう遠くには行っていないでしょう、と射命丸は続ける。

「……ったく、何やってんだかあの馬鹿は!」

彼には夜にだけは外に出るなと言っていたが、それは妖怪が出る可能性が『高く』なるという理由だからだ。決して昼だからといって妖怪が全く出てこなくなるというわけではない。そこらへんを彼は履き違えていたのかもしれない――射命丸の流した噂が広まる以上に、私はそちらの方が心配だったのに。もっと強く言っておけばよかったか――悔やんでも悔やみ切れない気持ちに、私は歯噛みをする。

「……本当に恋人じゃないんですか?」

疑惑の視線で射命丸が見てくるので、私は即答する。

「当たり前でしょ! 誰があんな――」

「そんなに顔を赤くしながら言われても、説得力皆無ですがねー?」

「っ!?」

そんなことはない、とおたおたと頬をつねったり叩いたり。首をぶんぶんと二回振り、

「……そんなデタラメを言って揺さぶろうたって、そうはいかないわよ」

「現実逃避がここまで下手な人も初めてですねぇ」

呆れたように射命丸は言う。努めて冷静に振る舞ってきたが、こうまで言われては私も黙っていられない。いつまでも下手に出ていると思ったら大間違いだということを、思い知らせてやる。

「とにかく! 私と彼は、貴方が思っているような関係じゃ――」

「はたて」

「…………?」

急にトーンダウンした射命丸の声に訝しむ。その視線は地上、天狗の山の入口に注がれていた。

「あれ、もしかして」

指さすその先にいたのは、哨戒天狗の犬走椛。普段は山周辺の哨戒に当たっているため、彼女がここにいることは何もおかしくはない。

問題なのは、彼女が刀を抜き、構えていること。

そして、その刀の切っ先に居るのが。

 

「あの……馬鹿!」

 

件の彼、だったこと。

 

 

 

「はたてと恋人関係ということはつまり、抱きあうくらいはしたのか。答えろ」

「え、あ、っと、その」

「していないのか。それなら接吻はどうなんだ。したのかしていないのか」

「いや、だから」

「していないならそう言え、したのなら感触とその後取った行動を詳細に述べよ」

「し、して、ないです」

「そうか。それなら……ま、まさかとは思うのだが……ま、まぐわったのではあるまいな?」

「ま、まぐわいあ……?」

「ええい、間怠っこしい!」

「ひいいっ!」

「男女の仲になる程の記事が出たくらいなのだ、少なくともそれに準ずる行為はしたのだろう! うらやま……もといけしからん!」

「だ、だから僕ははたてとは恋人でも好き合ってもいなくて」

「黙れ小僧! お前にはたての何が解る!」

「そ、そんな理不尽なぁ!」

 

 

 

「……………………」

「……………………えーと」

気まずそうに射命丸が声を出す。私が何か言おうにも、一体この状況で何が言えるというのだろうか。

 

刀を突きつけて、彼から私の身体の詳細を聴きこむ椛。

その眼はまるで獲物を狙うかのような鋭さを持っていた。

 

そしてその脅しにびびりまくりの彼。刀が揺れるたび、小動物のように身体を震わせている。

 

もう正直、言葉が見当たらない。

 

「助けましょうか?」

気を遣ってか、そんな言葉が射命丸の口から出る。珍しいこともあったものだが、私の返答はもう決まっていた。

「……ほっといたら」

 その回答を射命丸も予想していたのか、あっさり

「そうしましょうか。取材は後日、ということで」

と、そう言って帰り支度を始めた。さりげなく取材をする気が満々だったので、私は一応、釘をさしておく。

「私の取材が終わってからね」

「……それは、いつになりそうですかね」

「さあ? いつになるか、見当もつかないわ」

「……本当に、現実逃避が下手なんですから」

今のは、自分でもそう思った。

けれども、それを射命丸に言うのは、なんとなく悔しいので。

私は精一杯の意地を込めて、こう返すのであった、

 

「何のことかしらね」

 

 

 

彼のさっきの言葉。

 

『はたてとは恋人でも好き合ってもいなくて』

 

その言葉を聞いて私の胸はずきりと痛んだ。

 

この痛みの正体がわかるのは、正直言って怖い。

 

けれど、もしこの怖さを打ち破れた時は。

 

その時は堂々と、私の新聞で――発表してやろう。

 

けれど今は。

 

 

 

「それで、はたてと抱き合った時の胸の感触は? 大体でいい、教えろ」

「え? えーと、確か……DからEくらいは」

「そこまでよ!」

 

 

 

この時間を、大事に使おう。

 

取材は、まだまだ続くのだから。



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衣玖短篇

「………………」

ひょっこりと、木の幹から顔だけを出して、じっと見る。

視線の先に居るのは、一人の人間。

どうしようもないほど、普通の、男の、人間。

彼はのんきに欠伸などを漏らしている。私に凝視されている、ということなんか、まるで知らない様子で。

実際知らないんだから、そうしているんだろうけど。

 

「ん」

 

と。

 

彼は、途端に足を止めて。

 

「っっっ!!」

 

不意に、振り向いた――彼の視線が私の視線と交錯する寸前に、私は慌てて木の幹の裏に隠れる。

やばい。

ばれた。

胸に手を押しやり、鼓動を聴く。どく、どく、と、明らかに先ほどとは打って変わって激しく脈打つ心臓を、私は必死に鎮めようと試みる。

「……はっ……はぁっ……」

彼の足音が、また、何事もなかったかのように遠のいていく。私は木の影にへたり込みながら、けれどまた顔を出して覗くのは憚られたので、ただ残念そうに。

一言だけ、呟いた。

 

「……好き……」

――おお、もう。

惨め過ぎて、涙が出てくる。

今日、彼に向けて発するはずだった、その二文字の言葉は。

一人で呟くには、あまりにも重い一言であった。

 

 

 

「衣玖の意気地なし」

肩を落として天上世界へと帰ってきた私を出迎えたのは、総領娘様――比那名居天子と、そんな辛辣な言葉であった。

「洒落のつもりですか」

「何で声も掛けないで帰ってきちゃうのよ。もう一度言うわ、『衣玖の意気地なし』」

苦笑いでごまかす私に、総領娘様はぴしゃりと言い放つ。そしてまた、それが事実であるから――さらにそれを自覚しているから、ますます私の気分は落ち込んでいくのであった。

「……そうは言いましても、総領娘様」

私の半分ほどの背丈の総領娘様に、半ばすがりつくように助けを乞う。

「彼を見ていると、なんと言うか、こう、見ているだけで満足してしまうといいますか……それを、面と向かって「好き」と言えだなんて……す……好きだなんて……え、と……」

もじもじしながら、ちらと下の世界を覗き見る。

見えるのはもちろん、彼の後姿。欠伸を漏らしつつ、時々、背後を見やりながら、人里へと続く道を進んでいる。彼は彼で、見られている時の違和感というか、そんなものを感じているらしい。びくびくおどおどしながら、歩みを進めている。

そうだ、と思い立った私は、『空気を読む程度の能力』を使って、彼が歩いている周辺に、突風を吹かせた。

がさがさ、と大きく音を立てる草木に、彼は大きな声を挙げて辺りをきょろきょろ見回し始めた。

あぁ、もう。

可愛い。

「衣玖、鼻血」

「……おっと、失礼」

総領娘様に指摘され、指で血を拭う。

「……鼻血もそうだけどさ、ついでにそのニヤケ面も何とかして欲しいんだけど」

「失敬な」

ニヤケ面、とは、私の何処を見て言っているのだろう。全く失礼してしまう、ぷんぷん。

と、彼の顔が――偶然ではあろうが――上空に向けられ、私の視線とマッチする。これだけ離れていようとも、見られているのは事実なので、多少恥ずかしくは思いながらも、私のテンションは否が応にも上昇していく。

「そ、総領娘様、見ましたか!?見ましたよね!?彼が、わ、わ、私の方を、見て、笑ってくれましたよ!きっと彼には、私のことが見えているんですよ!きゃーうれしー」

「……いや、笑ってた?今の……」

「笑ってましたよ笑ってましたええ笑っていましたとも!これ以上無い、私でさえも痺れさせる、百万ボルトの笑顔でした!ああ、もう今日は寝てしまいましょう!もしかしたら、彼が夢の中でも出てきて、にっこりと笑いかけてくれるかもしれませんから!」

「……そうまで言うなら、もう一回、直接会いに行ってくればいいじゃない」

「いや、そのりくつはおかしい」

 

ぶっちり、と。

 

総領娘様の何かが、切れる音がした。

 

 

 

「ええからはよ行って来いやああああああああああああ!!!!!」

 

 

 

なんだかおかしい一日だ、というのは、薄々感じていた。

どうも誰かに見られている感じがする――これは今日に限ってのことではなく、つい最近になってのことなのだけれど、今日のはなんだか、それがいつもより身近に感じた。

と思ったら、突然の暴風。煽られる体。大きく音を立てて揺れる草木。巷で噂の烏天狗でも空を飛んでいるのか、と思って、ふと空を見上げた。

天気は曇り、所々で暴風が起こり、一部地域では雷も落ちるでしょう。そんな今朝の天気予報どおり、空模様は芳しくない。

暴風は依然として吹き荒れ。

雷がいつ落ちてきても、おかしくは、ない。

 

おかしくは、ないけれど。

 

 

 

「ひゃあああああああっあああああああ!!!!!!!!」

 

 

 

女性が落ちてくるなんてのは。

ちょっとばかし、おかしい気は、しないでもない。

……というか、あの人。

風に、うまいこと、乗せられて。

 

「直撃コースなんですけどおおおおおおおお!!!!???」

「きゃあああああ落ちるぶつかる危ない怖い可愛いいいいいい」

「可愛いって何ですか可愛いってぶつかるうううううううう!!!」

 

 

 

ドカーン、と。

土管が爆発したような音が周囲に広がった、なんちゃって。

 

 

 

「ん、う……」

私はゆっくりと目を覚ます。

ええと。何がどうなったんだっけ。

そうだ、私は。

総領娘様に、天上から蹴り落とされて。

空を飛ぼうと思ったら、能力の解除を忘れていて、私が巻き起こした暴風に自分から煽られて。

そして、彼とぶつかって――。

「!?」

がばっ、と身体を起こす。

「わ!」

彼と鉢合わせる。

「「………………」」

お互いに目をぱちくりさせる。

 

あれ。

 

私は。

 

ええと。

 

その。

 

彼の。

 

顔が。

 

こんなに。

 

近くて。

 

非常に。

 

ですね。

 

ええ。

 

どきどき、しています。

 

「えっと、その、大丈夫でした?」

「ふえぇぇぇ!?あ、は、ハイ、ダイジョウブ、です」

「……いや、すいません。ちょっと、まだびっくりしてて」

「はぁ、そう、ですよね。私も頭がフットーしそうだよぉ」

「……あの、本当に大丈夫なんですか?」

「ダイジョーブデス。科学ノ発展ニ犠牲ハツキモノデスカラ」

壊れたロボットのように、彼の言葉に受け答えをする。自分でも何を言っているのか解らない。こんな――こんなにも、彼が近くに居る状況の中で、一体何を考えることが出来るのだろうか。

「えぇっと、その、大丈夫そうなんで、僕は行きますね」

「え、あ、はい」

無自覚に頷く。

「それじゃあ。気をつけてくださいね」

「は、い」

呼び止めようか――けれど、私はきっと、今度も、何も話せない。

何も言えないまま、彼は去ろうとしている。

足音が遠のく。

それでも、何か。

何か、伝えるべきことが、無いだろうか。

例え言えなくても。

面と向かえなくても。

伝えられることが、私には――。

 

「あのっ!」

 

呼び止める。

それだけでも随分時間がかかってしまったため、彼の姿はすっかり遠くにある。

 

けれど、彼はしっかりと、振り向いてくれた。

 

 

 

そして、飛び込んだ私を、しっかりと、受け止めてくれて。

 

 

 

再び近付く、距離。

 

彼の顔は見えずとも。

 

彼の鼓動と、私の鼓動が、重なっている。

 

大丈夫。

 

今ならきっと、私は、言える。

 

きゅ、と、彼の服の袖をつかんで。

 

ようやく私は、伝えた。

 

 

 

『ずっと前から、大好きでした。今も、大好きです』

 

 

 

「世話を掛けさせるわね、全く」

天上から一部始終を見ていた私――比那名居天子は、こともなげな口調でそう呟いて――すくりと立ち上がり、その場所を後にする。

きっかけは与えた。

ここから先は、衣玖のみが関知するところで。

私の与り知るところでは、決して無い。

笑顔で帰ってくることもあれば、泣きじゃくりながら帰ってくることもあるだろう。

私としては、彼の様子を観察して一喜一憂する衣玖の姿が無くなってくれれば、それでいいのだから。

なぜかって、言わなくても解るだろう。

「ま、そのまま地上の人間と、地上でよろしくやっているがいいわ。こっちとしても、お目付け役が居なくなって、存分に羽が伸ばせるし」

んーっ。

と、大きく背伸びをする。

 

「さって、今から何をしようかしら」

 

とりあえず、きゃあきゃあ喜ぶ声が聞こえてくる地上に降りて。

幸せ物の衣玖の奴をからかってやろう。

今日ばっかりは、無礼講、である。



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咲夜短篇

「それでは、お嬢様。おやすみなさいませ」

「ええ。咲夜も、少しくらい休みなさいよ」

夜が明け、カーテンの隙間からは眩い日差しが漏れ出して来ていた。

私は、あくびを漏らしながら部屋に向かうレミリアお嬢様を、ふかぶかと頭を下げて見送った。

「さて、と」

凝り固まった肩を手で揉み解しながら、さて、と思案する。お嬢様は休んでもいい、と言っていたが、実はあと少しやることが残っていた。

今から私の『時を操る程度の能力』で時を止めて、少し仮眠をとってからその用事を済ませてもいいのだが。

「……まあ大した用じゃないし、すぐに終わらせられるでしょう」

紅魔館のメイド、という職業に就いている性分か、何かをやり残したまま休むというのは、どうにも気分が悪く、結果寝付けなかったり疲れが取れなかったり、といった事は良くあるのだ。だからこそ、やることは全て済ませて、晴れやかな気分で床につきたい。

それに――。

「……そう。大した用じゃ、ないの」

言い聞かせるように呟きながら、私は懐中時計を取り出す。

「時よ、止まれ」

紅魔館の紅が、いっせいに灰色に染まっていくのと同時に、私は人里へと歩みを進める。

「……あ、会いに行くだけだから、うん……うん」

その灰色の中、唯一紅く色づいているのは、私の両の頬。

そして、静かに光る、二つの眼だけであった。

 

 

 

今日の人里は、いつにもまして人で混みあっている。僕は店の軒先から、行き交う人達の顔を見比べながら、ふと呟いた。

「……あぁ、バレンタイン、か」

そういえば今日はそんなイベントがあったなぁ──なんて、他人事の様なことを考えている限り、僕には甘い思い出というものは訪れないな。

よくよく見ると、なんだか人の波全体が浮かれているような、そんな雰囲気を出している。そんな日だと言うのに、僕という奴は。

「何が悲しくて、八百屋なんかしているんだか……はぁ」

八百屋の店先に並んだ、白菜やら人参やらを一通り眺めていると、悲しすぎて涙が出てきそうになる。ついさっきまで、バレンタインなんてことはころっと忘れていたのに、そうだと意識した途端、この世の無情を嘆いてしまう。

そりゃあ、バレンタインだもの。野菜も売れ残る。

あぁ、そうか。神は死んだのか。

そうだ、八百屋も時代のニーズに合わせるとしよう。となると、店先にチョコレートを置いてみようか。それもただ置くだけじゃ面白くないから、八百屋っぽいやつを。

キャベツチョコ。ダメ。

人参チョコ。アホか。

茄子チョコ。論外。

さつまいもチョコ……おお、これは結構うまそうだ。

「あの、すみません」

「はーい、いらっしゃい」

──と、こんな時にも笑顔で接客しなければいけないのが、商売人の辛いところだ。

「あぁ。いつも御贔屓にどうも」

客は、いつもやってくる常連さんだ──幻想郷では中々見ることの無いメイド姿は、もはや彼女の代名詞となっている。

「あの、今日はですね」

「今日はね、そうだな──やっぱり白菜かな。歯応えが良くて、そんで雪に晒された分甘くって。これで鍋なんかすると、もう寒さなんか吹っ飛んじゃうから」

「い、いえ。そうではなく」

「ん、今日は炒めものの予定?それじゃあこれだな、このキャベツ。そこの肉屋でね、ホルモンなんか買って一緒に炒めたら、もうたまらんから。キムチなんかも一緒にするとね、また旨いよ」

「そうじゃなくて、貴方に」

「煮物ならね、それはもうこれに決まり。このゴボウと、それからね。人参なんかも良いよ。見てよこれ、まだ土被ってるの。これは今朝採れたてのやつ、うまいよ。これで筑前煮なんか作ったらもう、野菜嫌いなお嬢様なんかいちころ。レシピ、教えとこうか?」

「それはそれで物凄く魅力的なのですが少し落ち着いて私の話を聞いてください!」

「……え……あ、はい」

久しぶりの客だったので、思わず気分が昂ってしまい、何がなんでも商品を買わせようと躍起になっていたところを、大きな声でたしなめられる。普段は物静かな印象しかない、そんなメイド服の彼女の大きな声に、道行く人々もなんだなんだ、と足を止める。

「……怒鳴ってしまい、申し訳ありません。ですが、こうでもしないとお話を聞いてもらえなかったかもしれませんので」

「あぁ、いえ。こちらこそ、ごめんなさい」

すっかり商人モードが削がれ、敬語に戻ってしまう。何故だか僕は、店先で接客をする時に性格が変わってしまう。父親もそうだったことを考えると、遺伝だろうか。

「それで、話って……?」

「……そうですね。ここは少し騒がしいので、別のところで」

「ああ、それもそうですね。それじゃあ、店の中で」

「いえ」

僕の申し出を断ると、彼女は懐から──なんだろう、時計らしきものを取り出して、言った。

「ここで、結構です」

 

 

 

瞬間、時が止まる。

勿論、彼の動きも。

「……申し訳ありませんが、こうでもしないと渡せませんので」

──主に、私の方の都合で。

私は赤らむ頬の温度を抑えようと、ぶんぶんと頭を左右に振ってから、そっと、小さな箱を、彼の前掛けのポケットに忍ばせた。

「ハッピーバレンタイン」

それだけ言い残し、私は八百屋を後にする──と、その前に。

「………………」

少し思案の後、さらさら、とメモに一言書き残し、それもポケットの中に一緒に入れる。

一杯になった前掛けを見て、私は一つ頷いてから、くるり、と身を翻す。

 

「こういうことだったのね」

 

「っお嬢様!?」

突然現れた主──レミリア・スカーレットの姿に、私は驚きを隠せずあたふたする。

「お、お休みになったのではなかったのですか!?」

「貴方がそう思うんならそうなんでしょうね。『貴方の中では』、ね」

にべもなく言い放ちながら、お嬢様はゆっくりと、未だ動くことの無い彼に歩み寄る。

「へえ、そう。貴方なのね」

そうして、聞こえることのないはずの呟きを漏らす。

「貴方のせいで……食卓に、野菜がっ!緑が!赤がっ!」

「お嬢様!八つ当たりは、やめ……

お嬢様っ!」

ぷるぷると、今にも殴りかからんと震えるお嬢様の腕を、がっちりと掴んで抑える。

「……冗談よ、もう」

「どうでしょうか」

わりと本気で抑えて、尚も止まらないほど力を込めていたけれど。

「それで、咲夜。どうなの?」

「……は。どう、とは?」

途端に歯切れが悪くなる、私の言葉。

「貴方、彼にチョコを作るためだけに、わざわざ能力を使ってまで無理していたじゃないの。それで渡す時にも能力を使って、世話無いわね」

「……返す言葉もありません」

まあでも、とお嬢様は続ける。

「貴方がどうしても、というのなら……彼を紅魔館に住まわせて、蜜月の日々を過ごさせてあげても?まあ、私としては?咲夜への、心配りとして?別に構わないと、思うのだけれど、ね?」

ちら、ちら、とこちらを見ながら、お嬢様は言う。私はそれを聞いて、にこやかに笑いながら返す。

「私の機嫌をとっても、食卓から野菜がなくなりはしませんよ?」

「ああぁぁっ!」

絶望したような表情で頭を抱え込む。そんなに嫌なものだろうか。

「それに、彼を紅魔館に住まわせる訳にもいきません」

「……それは、何で?というか貴方、彼の何処が好きになったの?」

私は、お嬢様のその質問に──やや、顔を紅潮させながら、こう言って答えた。

 

「優しくて、子供っぽくて──ちょっぴり、強引なところ、です」

 

 

 

「……あれ?」

話をしたい、と持ち掛けてきた少女の姿が、いつの間にか消えていて、僕は頭を傾げる。本当にさっきまで、その場に居たはずなのに。

と。

「……ん」

前掛けから、先ほどはなかった重量を感じ、ふと視線を下げると──何かの小包が入っていた。丁寧にラッピングが施された、真っ赤な色の小箱。紐で結ばれたタグには、『dear you』と金文字で書かれている。

「何だ?」

おかしなことばかりだ、と思いながら、リボンをほどいていく。やがて包装が無くなり、小箱のみが手のひらには残った。

「………………」

僕は、ゆっくりと箱を開ける。

それにつれ、ふわりとあがる甘い香りが鼻孔をくすぐる。

ああ、これは。

「……チョコレート……」

箱の中身は、ころころと丸いトリュフチョコ。下には銀紙が敷かれていて、その上のチョコを包み込むように、色とりどりの紙の切れ端が、がさがさと音を立てている。

「あれ」

ふと気づくと、前掛けの中にまだ何か入っている。なんだろう、と取り出して見ると、それは一枚の紙切れだった。

頭の上に?マークを浮かべながら、何気なく裏返すと、メッセージらしきものが書き記されていた。恐らく、このチョコをくれた──メイド服の彼女からのものだろう。

 

『ホワイトデーのお返しは、料理のレシピでお願いします。

 

それと、私の名前は十六夜咲夜と申します。次に会ったときは、是非ともそう呼んでください。

 

P.S.白菜と人参、頂きました。お代金は前掛けの中に入っています

 

通称・メイド服の少女より、親愛なる八百屋さんへ』

 

読み終えた手紙を、前掛けにしまうついでに、中に入っていた代金を取り出す。白菜一玉と、人参が二本分だろうか。それだけの小銭を数え終わると、僕は改めて、辺りを見回す。

 

メイド服の少女は。

いや、十六夜咲夜は。

どこにも居ない。

 

僕は一つ溜め息を吐くと、手で持ったままだったチョコに手をつける。

そのチョコは、少しほろ苦くて。

けれど、とても甘くて。

一瞬で溶けてしまう。

 

「……お返し、考えなくちゃな」

まさか本当にレシピだけ、というわけにはいかないだろう。

となれば。

「……これで、いくか?」

商品のさつまいもを手に取り、うーん、と首を横に傾ける──これは店をやっている場合では、どうやらなさそうだ。

僕はその考えに到るや否や、店仕舞いの準備を始める。どうせ開いていても、客なんか来やしない。

期間は一ヶ月。

それまでには、なんとしても、しっかりとしたお返しを考えなければいけない。

「やるぞー!」

決意の現れのように、僕は叫びながら、野菜を中へと運ぶ。

小さな箱の中で、チョコレートに、小さな雫が浮いた。

止まった時間が、再び動き出したかのように。



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妖精短篇

「それなら料理で勝負よ!」

 

穏やかな昼下がり。

のほほんとこたつにミカンでくつろいでいたのに、そんな誰ともわからないやかましい声が聞こえてきたので、僕は眉をひそめる。

誰ともわからない、とは言ったが。

大体の目星はついている。

この寒いのに、僕の家の玄関前で、ぎゃあぎゃあと騒ぐのは、間違いなく――あいつらの中のどれかだ。

 

可能性としては、⑨率が高いか、あとはサニーあたりだろうな、と、そんなことを考えながら――ついでに耳も塞ぎながら、玄関の扉を開ける。

 

「ふーんだ!あたいを誰だと思ってるの?天才よ、天才!あたいに料理を作らせたら、まず後ろに出る者はいないわ!」

「何よ!冷凍しかできない無能妖精のくせして、天才だなんておこがましいんじゃないの!?作れるもんなら作ってみなよ!あんたなんか、かまどの火で溶けちゃえばいいのよ!」

「どうでもいいんだけど、サニー。貴方、料理なんて作ったことあったっけ。いつも私に作らせて、自分は食べてばかりだったじゃないの。あとチルノ、後ろに出る、じゃなくて、右に出る、だから」

「え、えっと、ほら、喧嘩はやめましょう。ね。ルナちゃんも、ほら、何か言ってあげてくださいよ……あ」

「……痛い……」

 

案の定、である。

女三人集まればかしましい、とはよく言ったものだ。

五人になったところで、静かになるはずはなく、更にうるさくなることなど解りきっている筈なのに。

「……ほら、ルナ。立てるか?」

「……うん、ありがと」

とりあえず、と、会話の外でつまはじきにされた挙句転んで涙目の少女――ルナチャイルドを引き起こす。

「ああ、汚れてる……というか、汚れてなかったことなんか無いよな」

そのまま、白いロングスカートに付いた砂を払う。なんだか解らないが、このルナチャイルド、よく転ぶことで有名なのだ。真っ白な服を着たルナチャイルドを見れた者には、今日一日の幸運がやってくる、なんて噂も人里で流れているらしい。

「……さてと、はぁ……」

人数が多いため、突っ込むのに時間がかかるなあ――と、肩を落としていると、この場に集った妖精の中で、唯一といっても差し支えないであろう、まともな人物である大妖精(皆からは大ちゃん、と慕われている)が、玄関の僕に気付いて駆け寄ってきた。

「あ、こんにちは」

ぺこり、と頭を下げる。こんな時でも甲斐甲斐しいのは、果たして良いことなのだろうか。この状況に慣れてしまった末で身に付いたスキルであるのなら、同情する。

二児の母、みたいな貫禄。

いや、似たようなものか。

「あぁ、こんにちは大ちゃん。今日もお母さんしてるね」

「ふぇっ!?」

……一瞬で大ちゃんの顔が真っ赤になる。何だ、そんなに破廉恥な事を言ったか、今の僕は。

「そそそ、そんな、お、お母さんだなんて!あ、いえ、その、やぶさかではないんですが、えと、まだ私達は、そんな間柄じゃないですし、え、と、とにかく、ふふふふつつかものですがどうかよろしく」

「気をしっかり持ってくれ、大ちゃん!君まで取り乱したら、この物語が先に進まないでフィナーレを迎えてしまう!」

「は!……し、失礼しました」

あたふたする大ちゃんを諌め、何とか落ち着かせる。

「……で、何?今回の『これ』は」

僕はまだ料理、料理とやかましく騒いでいる妖精たちを、くいくいと指で指し示しつつ、大ちゃんへ事情聴取を試みる。

「……えぇと、ですね」

大ちゃんは、苦虫を噛み潰したような顔をしながら、今回の喧々諤々に至るまでの経緯を、話し始めた。

「チルノちゃん、料理を始めたんです」

「へぇ。良いことじゃない」

「ええ。そうしたら、その……それを知ったサニーちゃんが、チルノちゃんを小ばかにしちゃって。それでチルノちゃんが怒っちゃって」

「料理で勝負、とかいう話になった訳よ」

いつの間にか、僕の傍らには、白いフリルがあしらわれた、青のドレス

――三月精のひとり、スターサファイアが居た。

「それにしても寒いわね。中入れてくれる?出来ればお菓子と、暖かい飲み物なんかがあるといいわ。こたつの電源を入れることも忘れずに」

「来て早々遠慮の欠片も無いな、お前は」

惚れ惚れするほどのずうずうしさである。大ちゃんの爪の垢でも、煎じて飲ませえてもらえばいいのに。

「……私は、コーヒー」

「………………」

ルナよ、お前もか。

「……あ、その、私は大丈夫ですから。お構いなく」

大ちゃんの優しさに全米が泣いた。

涙が出てきそうになるのをこらえて、三人を中に入れる。

後二人は、まあ、大丈夫だろう。

なんちゃらは風邪ひかない、というし。

それにしても。

「怠け者のあんたには料理なんて出来ないに決まってるわ!」

「能無しのあんたには料理なんて出来ないに決まってるわ!」

「……鏡を見ているようだ」

見事に息の合った言い争いに嘆息しながら、玄関の扉を閉める。何だかんだ言って、僕も人間、寒いものは寒いのだ。

 

――結局、二人が家の扉を叩いたのは、スターとルナが三時のおやつを要求し始めたころであった。

ちなみに二人とも、二時間近く外に居た割にはぴんぴんしていた。

 

 

「というわけで、料理対決よ」

「何が『というわけで』なのか、簡潔に述べよ」

「全略!」

「まず字が違う、次に簡潔に述べすぎ、そしてそのどや顔をやめろ。別にうまくないから」

家に入ってきて早々にボケをかますサニーとチルノに、一つ一つ突っ込みを入れていく。さっきまで僕、大ちゃん、スター、ルナの四人でこたつでまったりしていたのに、この二人が絡むと一気にせわしなくなる。そのエネルギーを別のことに使えばいいのに、とは思うのだけれど、多分無理なんだろう。バカだから。

「……で、料理対決って、何?どういうこと?」

そこそこの事情は、今も今でくつろいでいる三人に聞いていたが、事細かには聞いていない(そもそも聞きたくなかった)ため、仕方なく話を促す。そうでもしないと、このやかましさが止みそうにない。

「察しが悪いわね。これだから貴方はバカなのよ、バカ」

「仕方ないわね。天才であるあたいが、優しく説明してあげるわ。心して聞きなさいよね、バカ」

「殴る」

とりあえず殴った。のた打ち回る二人。かわいそうだとは思わない。むしろ事前に宣言した分優しいほうだ。

 

 

料理対決のルールはこうだ。

チルノとサニーミルクが料理対決を行う。

テーマは冬。それに見合った食材を使い、調理をする。

判定員は僕一人。純粋に美味しい方を決めるには、審査員が何人も居ても邪魔だ、とは、サニーの談だ。

勝者は、僕と一緒に、幻想郷の中の何処でも行ける権利を得る。

敗者は、風見幽香の花畑を荒らして回る罰ゲーム。

 

正直に言おう。

 

いかにもバカっぽい。

 

 

「……で、結局やるんだよね」

うんざりした様子で呟くスター。

向こうの方では、かちゃかちゃ、と、いかにも「ただいまクッキングタイムです」な音が響いている。それも、ちゃんと二つの音が重なって。

「ねえ、牛乳どこー!?」

「右上の棚の上段」

「ちょっと、醤油は!?」

「調理台の端っこに在る引き出しの中」

……まあ、こうやって材料の場所を教えている辺り、ちょっとだけ、期待はしていたりするのだ。

理由がどうであれ、誰かの手料理を食べる機会なんてのは、今まで皆無だったから。少しばかり、幻想的なものも混じっているかもしれない。

男のロマン、とでも言おうか。

女の子の手料理、というものは。

 

「あ!ちょっと、今私が使おうと思ってた牛乳取ったでしょ!」

「ふーんだ!ぼさっとしてるあんたが悪いのよ!」

「何よ、生意気に!それっ!」

「ちょ、ちょっと!あたいがせっかく捌いたのにー!」

 

「………………」

ロマンじゃないな、これは、うん。

なんというか、こう、おしとやかさが足りない。

「あ、お茶のおかわり、入れてきますね」

「……大ちゃんがロマンだ」

「へ?」

「ああ、いや、こっちの話」

「はあ」

首を傾げる大ちゃん。うん、清涼剤だ。

「ちょっとー!冷凍カエルってどこにしまってあるのー!?」

そんなものはこの家にない。あってたまるか。

 

 

さて、テイスティングタイム。

何だかんだで、完成。

らしい。

のだが。

 

「さぁ、遠慮なく食べればいいわ!」

そう言ってサニーが持ってきたのは、鍋であった。なるほど冬っぽい。テーマにきちんと沿ってはいる。

ただし。

スープは牛乳、具はチーズ。

これではただのチーズ風味のホットミルクである。

と、傍らに目をやると、そこには一膳のご飯。

「……これ、なに?」

「チーズリゾットにするためのご飯よ!」

……給食を思い浮かべたのは、僕だけでいい。

視聴者の方々は、本物のチーズ鍋の映像をお楽しみ下さい。

 

「あたいの実力、思い知るがいいわ!」

さて、対するチルノが持ってきたのは、これまた鍋と、魚の切り身。切り身のブリが、なんとも冬らしい。ブリしゃぶとは考えたものだ。

と、感心するのは早かった。

「………………」

見たくはなかった。

見たくはなかったのだけれど。

見えてしまったのは仕方がない。

「ねえ、チルノ……」

恐る恐る、魚の中に紛れた『それ』を指差しながら、尋ねる。

「これ、食べるの?」

――カチンコチンに凍ったカエルが、そこにはいた。

一体どこから獲ってきたのか。

「当然でしょ!冬眠してたところを凍らせてきたんだから、あたいの苦労に感謝して食べなさいよ!」

こいつ、守矢の神様に食べられればいいのに。

割と本気でそう思った。

迷わずエチケットタイム。

視聴者の方々は本物のブリしゃぶの映像を以下略。

 

 

 

さてジャッジメントタイム。

これは完成と言っていいのか、といえば。

声を大にして、言おう。

 

「これは、料理では、ない」

 

 

そう宣告され、打ちひしがれるチルノの背中を。

私は、複雑そうに、見ていた。

 

 

それは、今朝、湖のほとりでのこと。

「チルノちゃん?」

膝を抱え、湖から昇る朝日を眺めている氷精――チルノの後姿を見た私は、少し心配しながら話しかけた。

どうにもここ数日、チルノは元気が無い。

天真爛漫を擬精化したような彼女が、最近はセンチメンタルな、浮かない表情をすることが多かった。時折吐く溜め息など、長い付き合いの中で一度も見たことがなかったので、驚いたものだ。

「……大ちゃん?」

私の言葉に、チルノは振り向いた。今にも泣き出さんか、とばかりの表情と、丸まった背中。

なんとも憂鬱そうなその姿に、気がつくと私は尋ねていた。

「何か、悩みごとでもあるのですか?」

しばしの間。

そして、ゆっくりと、首肯。

チルノは再び、視線を朝日に戻す。私はその隣に腰掛ける。

私は何も聞かない。

彼女が――おてんばなチルノが、悩むことは、良いことだ。

自分で考えて、考えて、考え抜いて、それでも駄目なときに、頼ってもらいたい。

自分から手を差し出さずとも、彼女は自分で、決断すべき。

「……ねぇ、大ちゃん」

「はい。なんでしょう」

にっこりと、顔をチルノに向ける。大したことは言えないかもしれないけれど、励ましくらいは私でも出来るはずだ。

「あのね」

「はい」

 

 

「男の人って、何されたら嬉しいのかな」

 

 

「………………」

笑顔で固まる私。

首を傾げるチルノ。

「えー、と、です、ね」

かくかくと、視線を朝日に逸らす。冷や汗をかいているのが、光でばれないだろうか、と心配するが――今は別の心配をしたほうが良い。

 

何を隠そう、この大妖精。

 

今、チルノと同じ悩みを抱えているのだ。

 

更に。

チルノと親しい男性を、私は一人しか知らない。

そしてその男性は。

私が今、好きな男性なのだ。

これが意味するところが解るであろうか。

 

バミューダ・トライアングル(三角関係)!

 

「ねぇ、大ちゃん?」

ああ、期待を込めるような視線が痛い。そのピュアな瞳を向ければいちころなんじゃないか、と思うが、口に出来ないこのもどかしさ。

結局、私はそれから一度も、チルノと視線を合わせることなく。

 

「お手製料理、なんか、いいんじゃ、ないですか?」

 

こんなことを、口走ってしまったのだ。

チルノが料理なんてできないことを、知っていながら。

つくづく思う。

私は、最低の妖精だ。

 

 

ぺたん、と床に座り込むサニーの姿を見て、私は眉をひそめる。

正直、見ていられなかったのだ。

 

 

「サニーは、彼のことが好きなんだよね」

いつもどおり、彼に悪戯をしようと、玄関近くの木の上で待ち構えているとき、私はこういうことを口走った。

「は、はえっ!?」

「……そうなの、サニー?」

顔を紅潮させるサニー、それを呆けた目で見るルナ。

「い、いや、そんなわけ、ないでしょ」

「あるよ。だってサニー、口癖のように彼の名前を連呼しているじゃない」

「……そういえば」

ルナが思い出したように言葉を紡ぐ。

「この間、うなされていると思ったら、寝言で彼の名前を言ってた」

「え!?まさか、聞いてたの!?」

……墓穴を掘った。

「……サニーは寝言を言ってたことを知っているの?」

「……あ」

今気付いたらしい。全く、私たちのまとめ役はなぜこうも騙されやすいのだろう。

「答えは簡単よ、ルナ。寝言じゃなかったんでしょ」

「……やっぱり、好きなんだ」

「……う、……うん……」

かくり、と頷くサニー。

こうなれば簡単だ。

あとは、私がちょいちょいと扇動してやれば良い。

私は今朝、偶然仕入れた情報を、こともなげに漏らす。

「そういえば、氷精が料理で彼の気を惹こうとしているらしいわよ」

 

先にも言ったけれど。

私はサニーが料理など出来ないことを、よく知っている。

だからこそ、サニーが打ちひしがれているのを見ていられなかった。

見ていたら。

顔を上げていたら。

 

ほくそえんでいる私の顔が、見られてしまうから。

 

 

スターはいつでもそうだった。

私やサニーが失敗して、慌てふためいているのを尻目に、悠々と目標を掠め取ろうとするのだ。

私はスターが、そういう妖精であることを知っている。

そして、彼女もまた、彼に惹かれている妖精である、ということも。

黙って見ている――とんでもない。

スターを――いや、もう一人。

彼女らを、倒してみせよう。

 

 

「あの……」

「ねぇ」

「……ちょっと、いい?」

 

 

「「「次は、私に作らせて」」」

 

 

 

男のロマンを追い求めるには、犠牲は付き物である。

血走った三人の目を見て、僕は恐れおののきながら、そう実感したのであった。

そして、つくづく思う。

 

最高の調味料は、『愛』なのだ、と――。



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四季映姫短篇(1)

「こまちいいいいいいいいいいい!」

また始まった、と。

僕が頭を抱え、溜息を深くついたのに、彼女は果たして気付いただろうか。

「小町はっ!小町はどこに居ますか!?」

やや緑がかったショートヘアーを、仰々しい王冠の様な帽子で押さえつけた、小さな体躯の少女――のような風貌の、女性。彼女はぜえ、ぜえ、と荒く息を吐きながら、やや血走った目で僕を睨みつける――思わず僕は、身をこわばらせた。何もやっていないはずなのに。さっきの溜息が良くなかっただろうか。

「……さあ。少なくともここには来てませんよ」

「そうですか。見たら、すぐに私に!」

平常心で答えたのが功を奏したのか、彼女はその僕の言葉を聞くやいなや、すぐさま身を翻して部屋を後にした。

「こまちいいいいいいいいいいい……」

遠くなっていく叫び声と足音、それが完全に消えたのを確認して、改めて大きく、はあ、と溜息をつく――手馴れたように、手の平で額の汗を拭った。

「ああ、言い忘れていましたが」

先ほどの彼女とは全く違った声音――けれどそれは、間違いなく彼女のものであった――それが響いたので、僕の体が石のように固まる。

「溜息二回で、二点減点です。現在は二十四点、留意しておくように」

聞かれていたのか、それもさっきのも。乾いたような笑いしか出ない。どこまで目ざといんだ、この人は。

「それでいいのです。一点追加」

彼女――四季映姫・ヤマザナドゥは、何時も手に持っている悔悟棒を僕の眼前に突き出し、言う。

「貴方はそうやって、ずっと笑っていればよろしい」

そんな彼女の死刑宣告のような言葉に、僕はやはり苦笑いを浮かべた。

そんな僕を見て、彼女は満足そうに笑った。

そしてまた、かくれんぼへと戻っていった。

 

 

 

僕は人間だった。

そうやって胸を張って言えない位、人間としては不適格だったけれど、人間だった。

けれど今は、なんでもない。

命を落として、裁判にも掛けられていない今の僕を呼称するような言葉を、僕はとんと知らない。

唯一つ言えることは、僕は既に人間では無いこと。

そして、その『人間ではない何か』である僕には、役職がある。

命も、名前も、種族も無いのに、職はある――死んで無になってからも働かされるなんて、とんだワーカホリックだ、僕という奴は。

そして、その役職が。

『閻魔補佐』だなんて言うんだから、まったく性質が悪い。

僕は。

『人間ではない何か』は。

他の『人間ではない何か』を裁く人のそばに立って、一緒にその罪を暴くなんて、そんなご立派なものではないのに。

生前も、死後も。

僕には――手に余る。

 

 

 

いつの間にか、寝てしまったようだった。目をしぱしぱさせながら、机の上に目をやる。散らかった書類、その多くは、僕のこなすべき事務。

「……やるかな」

あまり気乗りはしないが、これも仕事である。これを僕がほっぽりだしてしまえば、他に迷惑がかかる。生前には、苦労して誰にも迷惑を掛けないように生きていたのに、死んだ先で迷惑を掛けてしまったら、どうにもやりきれない。

それとも、こういう性格だったから。

四季映姫は僕の願いを、聞き入れてくれなかったのだろうか。

扉がノックされる。

「……はい?」

そう言いながら、まとめた書類の束を机の上に置く。誰だろう、まさかまた四季映姫が来たのだろうか。妙な事を考えていたのを、咎めにでも来たのか。

ゆっくりと、扉を開ける。

「ちょりーっす」

「………………」

扉を閉める。

「ちょっ!?た、頼むよ!映姫様に追われてるんだ、ちょっと匿ってくれるだけでいいから!な、な!お願い!先っぽだけだから!」

何の先っぽだ。とは、言わない。聞いたら本当に言いそうだ。この、小野塚小町という死神ならば。

「わかったわかった、開けるから」

「おーう、さんきゅーさんきゅー」

これ以上危ない発言が飛んでくるのも御免なので、僕は堪忍して扉を開け、小町を迎え入れると、すぐさま扉を閉める。

「……それで、今回は何?」

「あれ、美味しそうなお菓子あるじゃないか。丁度いいや」

「丁度良くない。質問に答えること」

視界の端っこで、RPGの主人公の如く戸棚を荒らす小町の手から、戦利品の菓子を奪い取る。

「えぇー。だって、それ言ったらお前、映姫様にあたいのこと突き出すじゃんか」

「解んないでしょ。理由によっては、突き出さないで一緒に謝ってあげるかもしれないし」

「謝る事確定!?」

何をいまさらなことを言うんだろう。

「小町が四季映姫に追い回される理由なんて、そう幾つも思い当たらないから。どうせまた、仕事サボって遊んでたとか、居眠りしてたとか、そんなとこなんでしょ?」

「ちげーし、全然ちげーし。あたいがサボってたって、それどこ情報?どこ情報よー?」

「四季映姫ー」

「うわああああああ!止めて止めてお願いしますもうしませんからああああああ!」

扉を開けて大声で叫ぶ僕を、小町が慌てて制止する。そこまで焦るのなら、最初からそういうこと言わなきゃいいのに。

「解った、言う。言うよ」

そう観念したように言うと、小町は今、四季映姫に追われている理由を話し始めた。

「実は、サボってました」

「四季映姫ー。ホシはここにいるよー」

「ご協力、感謝いたします」

「うわああああああ!」

そしてまた、いつもの時間が始まる。

 

 

 

本当に反省しているのですかガミガミガミガミ。

大体貴方という人はガミガミガミガミ。

聞いているのですかガミガミガミガミ。

私は貴方が憎いんじゃなくて怒っているのではガミガミ。

「……はい、はい。すみませんでした」

正座をさせられ、顔を俯かせて映姫の説教を聴く小町。頭部には、漫画か何かに出てきそうなほど、大きなこぶが出来ている。

「貴方も貴方ですよ!小町を一瞬でも招き入れようとしたということは、上司である私の命令に背いたということになるのです!解っているのですか!?」

「はい、その通りです」

矛先が僕に向いたので、すぐに頭を垂れる。こぶのない、まっさらな頭。元々僕はついでに怒られているようなものなので、小町のように悔悟棒で殴られずに済んだ。まあ、一緒に謝る、と言いはしたものの、罰まで同じものを受ける義理は無いし。

「……まあ、今回はこの程度で済ませましょう。今後このようなことがあったら、これで済みませんから、そのつもりで」

「はい……はい……すみませんでした……」

「………………」

四季映姫は、無言で再び悔悟棒を振り上げる。

そして、息をするように、それを振り下ろした。

「……頭がっ!割れるように痛いっ!」

ごろんごろん、とのた打ち回る小町。

「説教中に寝るのがありますか!いいですか小町、私は貴方のそういった不真面目な態度が――」

ガミガミガミガミ、と。

再び始まる説教に、僕は呆れたように肩を落とした。

 

 

 

『これを』

四季映姫・ヤマザナドゥが、そう言って僕に手渡してきたのは、一枚の四つ折にされた紙であった。何の変哲も無い、飾り気も無い、味気も無ければ情も無い。そんな、一枚の和紙。

僕はそれを何も言わずに開く。恐らくその紙には、僕に下される判決が記されているのだろう。そして中に何が書いてあろうと、僕は驚かない自信――というか、覚悟があった。

 

僕が生きている時。

いわゆる『生前』というやつだった時。

一体何をしてきただろう。

一体何を残しただろう。

思い返せど、何も思い返すことは無い。

いや、言葉が足りない――思い返すことなど、出来るはずが無い。

何も成さず、ただ怠惰に生きていた。

それならいっそのこと、人生を最後まで全うしたかった。

けれどそれさえ出来なかった――死んでも死に切れない、そんな浅はかな感情しか浮かんでこない僕なんかには。

 

『地獄に行かせて下さい』

 

四季映姫・ヤマザナドゥと初めて会った時、そして彼女が閻魔という役職に就いていると知った時――気がつけば僕は彼女に真顔で、こう口走っていた。

こんな僕でも。

痛みは感じる。

辛さは感じる。

罪を償える。

たとえ僕に、犯した罪が無くとも。

罪の意識を償う事は、出来る。

けれど、それを聞いた四季映姫は。

口を開く。

 

『貴方は地獄には行けません』

 

悪行を働いていませんから、と。

 

続ける。

 

『かといって、天国へも行けません』

 

善行を積んでいませんから、と。

 

僕は答える。

『それなら僕は、どうすれば』

どこに行けば、いいのですか。

四季映姫は答える。

『今の貴方は、灰色です』

ここから白くもなれる。

ここから黒くもなれる。

『そのような半端者を、天国や地獄に送る訳には行きません』

天国で悪行を働かれては困ります。

地獄で悔い改めないのも困ります。

ですので、と。

『貴方はしばらく、こちらに留まっていただきます』

『しばらくって……』

僕の言葉に、四季映姫は少し考え込む素振りを見せた後、手に持った悔悟棒を、机に立てた。

どちらかに倒れる、と思われたその棒はしかし、どちらにも倒れず――しゃんと背筋を伸ばして、直立不動でいた。

四季映姫はそれを見て、一瞬笑みを見せた。

そして、言う。

『半端は半端でも、こうなれる程度までには』

かぁん、と。

裁判終了の音が響いた。

『判決。貴方は今日付で、私の部下です』

 

 

 

四季映姫は僕に、ある基準を設けた。

子供でも理解できる、単純なもの。

『笑ったら一点追加、落ち込んだら一点減点』

五十に達したら、天国へ。

ゼロになったら、地獄へ。

持ち点は二十五点。

今の点数は、変わらずの二十五点だ。

増えたと思ったら減って。

減ったと思ったら増える。

点数は二十三から七の間を、行ったり来たりしている。

なぜかって、そんなもの。

原因は解り切っている。

 

 

 

「もしもし、聞いていますか!?」

は、っと覚醒する。四季映姫の顔がすぐ目の前にある。そうだった、今は説教の途中だった――失念して、思案に耽っていた。

「聞いていなかったのですね?」

「………………」

こっくり、と頷く。

ああ、これは減点を食らう――と思うのは、一瞬である。

 

「うん、素直でよろしい。一点追加」

 

……ほら。

「映姫様ー。それってちょっと甘くないですかー?」

小町がそう言って、四季映姫を煽る。その顔は何だかにやついていた。

「わ、私のことはいいんです。それよりも、小町。貴方は自分の心配をしていなさい」

少しどもりながら、小町のほうを向き直る。その顔はまた、すっかり説教モードへと摩り替わっていた。それを見た小町が、思わず「うげ」と漏らしてしまい、また四季映姫の火に脂を注ぐ結果となる。

再び激しくなった四季映姫の口調に――僕は、苦笑いを浮かべる。

「む」

それを目ざとく、四季映姫が見つけた。

そして、また――。

 

「説教中に笑うとは、なっていませんね。一点減点です」

 

僕の持ち点が、二十五に戻ったので。

僕と小町は、思わず顔を見合わせ、笑い合う。

そしてまた、今日何度目かの、説教が始まって。

一言、呟いた。

「僕は、いつになったら、ここから出られるのかな」

それを聞いてか聞かずか――四季映姫は一つ手を叩き、言う。

「さあ、説教はまだまだ続きますよ」

 

――四季映姫は、まだまだ、僕をここから出す気は無いようだ。

 

その事実に、僕はまた、苦笑いを浮かべて。

「一点追加」

四季映姫は、もはやお決まりの台詞を言う。

「貴方はそうやって、ずっと笑っていればよろしい」

 

その方が、溜め息をつくよりも、楽だとは思いませんか?

 

そう言って、四季映姫が微笑みかけるので。

 

僕はもう、白旗を掲げるように頭を垂れるしかなかった。

 

 

 

「落ち込んではいけませんね。一点減点」



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四季映姫短篇(2)

彼は私にとって、一体どういった存在なのだろうか。

床に着く前に、あるいは仕事の合間に、または彼と話をしているときに、ふと頭を過ぎる疑問。

仕事仲間?

合っている。

部下?

その通り。

閻魔補佐?

もちろんそうだ。

──そうなのだけれど。

間違ってはいない、のだけれど。

いざ、彼と言う人物を、私の中にある人物フォルダに収めようとするとき、果たしてそのようにカテゴライズをしてもいいのだろうか──そう考えるのである。

肩書きなどは、人そのものを表す上で意味の無いものであることは、わかってはいるつもりなのだけれど──こと彼に対しては、腫れ物を扱うようになってしまう。

……結果として、彼はどのフォルダに入ることもなく、ただそれ単体として、私の頭の中に漂っている──浮いている、と表現した方が、具合がよろしいかもしれない。

更に困ったことに、私自身そのことを気持ち悪いとか、胸がつかえるとか、そういう類いの感情を抱かないでいる。『どっちつかず』という単語が、何よりも嫌いなはずの私が。

――ひとつ、ため息をついて、宙を見上げる。

ここで閻魔として人を裁き続けて、もうずいぶん長くなった。

白黒をはっきり付けることができる、そんな能力を持っていようとも、結局は自分の判断で人を裁くしかない。恨みもたくさん買ってきただろう。私はどうしても、私の基準でしか物事を判断することはできないのだから。その基準が絶対的に正しいか――そう問われると、私はすぐには肯けない。立場上、肯定はせざるを得ないだろうけれど。

……こういう性格が、よく「固い」と言われる所以なのだろうか。よく小町にも、そう言ってからかわれるけれど、自分だってこの型にはまった考え方しかできない性分を、なんとかしたいとは思っている。

「……考えているだけでは、何も起こらない、ですよね」

思っているだけでは、何も変わりはしない。身を以て知っていることだ。目を閉じて数秒、何も考えないようにしてから、私は勢いをつけて椅子から立ち上がる。

「何かを起こさなければ、何も変わりはしませんから」

気合を入れるように一言つぶやき、向かうところは――。

 

 

 

「あれ」

仕事もそこそこに、少し遅めの夕食でも食べに行こうかな――なんて気楽なことを考えていた、夜のこと。

意外な人物が食堂に座っているのが見えたので、私は思わず声を上げていた。

珍しいな、と思い視線をその背中に向ける。

パリッとしたスーツの襟にしっかりと折り目が付いていて、ああ成程、仕事が終わってからここで食べているのか、と思い至ったが、それにしても相変わらず覇気というものが存在しない。なんというか、すり抜けないで脚もある死人が、しっかりとスーツを着込んで食事を摂っている、という感じに、とにかく彼は存在が希薄である。もっと自己主張をしてみれば良いのに、とそれとなく言ってみたことはあったのだが、どうにも目立つことが嫌いらしい。茶を濁されてしまったことを覚えている。

あいつがあんなんだから、映姫様は――いや、これはどっちもどっちな話だったか。

「ほい、ラーメンお待ち」

「あ、サンキュー」

と、受け取り口からトレーに乗ってでてきたラーメンを受け取る。愛想もそこそこに、一人で寂しく夕食を食べる彼の背中に近寄って、

「珍しいねぇ、食堂で食べてる姿なんて初めて見た」

と声をかける。彼はその声に反応し、顔を後ろに向けた。食べていたのはどうやらうどんらしい。天ぷらもネギも載っていない、質素な掛けうどんだった。

「隣、失礼するよっと」

「え、あ」

有無を言わさず、彼の隣に座る。彼は何か言いたそうな素振りを見せたが、「何か文句でもあるかい」と問うと、諦めたように視線を手元のうどんに戻した。

「それにしても、よっくそんなんで足りるねえ。仕事終わりだろ?もっと食べて栄養付けないと、ぶっ倒れるよ」

「……幽霊に栄養の話なんて、小町に真面目に働けって話をするようなもんじゃないの?」

「そう言わない。ほら、ラーメン、ちょっと分けてやろうか?」

「……小町は仕事終わり?」

私が蓮華に乗せて差し出した麺束を、受け取ろうとせずに言う。あたいはつまらなそうに、蓮華を自分の口に持っていった。醤油のいい香りが、口の中にふわっと広がる。

「んー、終わったといえば終わったし、まだといえばまだ、かな」

「……要するにサボったんだね」

「そんな野暮ったいこと言いっこなしだよ。良いじゃないか、ちょっとした休憩だよ、休憩」

「翌朝までする休憩っていうのは、世間一般では早上がりっていうんだけどね」

言い、うどんを啜る。なんだかそれきり、話が途切れてしまったため、私も黙々とラーメンを口に運ぶ。結果、彼のほうが早く食べ進めていたのに、私のほうが早く食べ終えてしまった。

「……なあ」

手持ち無沙汰になった私は、まだ半分以上残っているうどんと彼の顔とを見比べながら、聞いた。

「なに?」

対する彼は、顔をこちらに向けず、けれどうどんを食べる手も進まず、ひたすらそれの湯気を顔に浴びていた。

「お前もさ、ここで働くようになってから、ええと……結構経つじゃんか」

「経つね」

「なんかさ、そのー、あれだ。楽しい事とか、あったか?」

顔を上げる。珍しいものを見たときのような、怪訝そうな表情。

「……急にどうしたの、小町」

「いや、他意はなくてさ。ただ単に、気になっただけだよ」

慌てて取ってつけたようなことを言う。あとで、何で私が慌てる必要があるのかと思い直し、一つ二つ咳払いをしてから、話を戻した。

「……お前ってさ、いつも……なんというか、つまんなさそうじゃんか。だからさ、なんてーの、こう……生活に、張り?というか、潤い?というものが、欠けてるんじゃないかなー、と思ったりしたわけだよ、うん、……なあ?」

「………………」

首を傾げる。彼の視線が何を物語っているのかに気づき、私はいち早く声を上げる。

「小町、なんか」「悪いもんは食べてないよ」

「……それじゃあ」「熱もない」

「……頭は」「ぶつけてない」

言う言葉言葉を先行された彼は、呆れたようにため息をついてから、私に話の続きを促した。こういうところでは、案外気の利く奴なのだ。

私はそれを受けて、本題に入る――次に彼に会った時に言おうと、心に決めていたこと。

「単刀直入に聞くよ。あんた、好きな人はいるか?」

 

「……それは、今答えなければいけない質問?」

多少言いづらそうに、彼は言う。

「強制はしない。ただ、今答えなかったらあたいはこれから先、あんたに会うたびにこの質問をするから。今の内に答えておいたほうがいいんじゃあないかな?」

「それはほとんど強制だよね……」

「さあて。受け取り方次第じゃあそうかもね」

で、どっち?と、続ける。

「………………ご馳走様」

彼はけれど、目を伏せがちにしてから、まだ残っているうどんを載せたトレーを手に席を立ってしまった。

「……つまんねえの」

去っていく彼の背を見送り、一言つぶやいてから、手元のラーメンのスープに口をつける。

初々しさも、ここまでくると見てるこっちが辟易する。

「――ねえ、映季様?」

 

 

 

見るつもりはなかった。

聞くつもりもなかった。

ただちょっと、部下が話しているのが目に付いたから、なにかサボる口実でも作ろうとしているのではないか、と。

そう思ったから、なるたけ近くで話を聞こうと思った。

盗み聞きではなく、部下の状況把握である。

「……言い訳がましいですねえ、映季様」

「な、どこがです!しっかりと筋が通っている話でしょう!?不自然な点など、どこにもありません!」

顔を真っ赤にしながら、私の言葉を否定する映季様――さっきの話を、彼のすぐ後ろの座席で聞いていたのに、まさか私が気付いていないはずもなく。というか、映季様がすぐ後ろにいたからこそ、ああいう話題を出したのだけれど。

「まあ、そういう事でもいいんですけどね、あたいは」

「だから、そういう事じゃなくて、私は本当に――」

「それで、さっきの話。聞いていてどうでしたか?」

瞬間、映季様の顔が強ばる。

「……な、なんともありませんが。それが、なにか」

「嘘つき」

「!?」

箸の先端を上司に向ける――なんて、普通じゃ考えられない行為だが、今の映季様には効果があったようだ。身体を引き、驚いたような表情を浮かべて、こちらを見ている。

「見てましたよ。あいつの好きな人、って話題になった時。あからさまに動揺してたでしょう。肩、ビクゥッ!って感じで動いていましたし」

「そ、それは……は、話していた内容が私の思っていたものとは違っていたからです!そう、そうに決まっています!」

「………………」

何と言うか、もう……映季様をあいつも、もうちょっと歩み寄れば良いのに。つくづくそう思う。ただ、このまま話し続けていても話は平行線だろう。

私は箸を降ろし、映季様に静かに、こう伝えた。

 

「あたいは、あいつの事が好きです」

 

「………………え、?」

信じられないものを見たような、そんな視線。

「ちょっと鈍いところはありますけど、まあ良い奴ですし。話していても、何と言うか、疲れませんしね。仕事も真面目だから、あたいはその分サボれる。良い事尽くしじゃないですか」

「……え、え、と。それは、その、仕事仲間として、友達としての好き、ですよね……?」

「いいえ。女として、あいつが好きです」

「――――――」

口をパクパクと動かし、言いたい言葉が見つからない――いいや、言葉が多すぎて何を言えばいいのかわからない、といった感じだろうか。いずれにせよ、混乱しているようである。

「職場結婚なんて、あたいの柄じゃないかもしれませんが……ま、寿退社なんて事にはならないと思うんで。そうなったとしても、これまでと変わらないお付き合いをお願いしますよ、映季様」

ごちそーさん、そう言い残して席を立つ。トレーを洗浄場に返し、自分の部屋に戻る途中――映季様に視線をやる。

 

映季様の背中が、なんだか妙に寂しい物のように見えた。

 

 

 

部屋に戻るやいなや、私は電気も付けずにベッドへと倒れこんだ。

あの、小町が?

彼を?

にわかには信じられない話であったけれど、あの時の小町の視線は、嘘を付いているようには思えなかった――否、ついていない。

白黒はっきり付ける程度の能力。

自分の能力が出した答えに、これほどショックを受けたのは初めてだ。

「ああ」

天井を見て、呟く。

「こんなのだから、私は」

重罪人を裁く時も。

そうでない人を裁く時も。

人ではない、あらゆる種族を裁く時も。

ショックなど受けなかった。

有罪か無罪か、天国行きか地獄行きか、白か黒か。

それが当然だった。普通だった。

ところが彼は――そのどちらでもなかった。

どちらかでなければいけなかったのに。

どちらでもなくなってしまった。

いや。

『どちらでもなくしてしまった』。

 

彼を私の補佐とした時。

あの審判は、能力によるものではなかった。私の能力は、どんなに細かな粗でも探し出し、適正に白か黒かを判断してきたのだから、間違いはない。ただ、彼はイレギュラーだった。

善行も悪行もゼロ。

これではどういう人間だったのかもわからないし、どういう一生を送ってきたのかもわからない。だから私の能力は、最後まで、彼が白か黒かという決断を下すことはなかった。

けれど、その時。

彼は抑揚なく、言ったのだ。

 

『地獄に行かせてください』

 

私はその時の彼の目を見て、思った。

彼が普通だなんて、とんでもない。だって、彼の眼はこんなにも普通じゃないではないか――。

普通の人間ならば。

白黒で分けられる人間ならば。

 

こんなにも、かわいそうな目をするはずがない――。

 

灰色の彼は、天国地獄のどちらにも送るべきではない。

私は彼に、閻魔補佐という役職を与えた。

能力ではなく、私自身の判断。

それが正しいのかは分からないし、知る術もないけれど。

「少なくとも、私は」

それが良いことだったと、胸を張って言える。

だって。

そうでなければ。

 

私の胸は、こんなに締め付けられることもないし。

 

私の眼から、こんなに涙が零れることもない。

 

「……う、っ……く、ぅ……」

ぼろぼろと、雫が溢れる。

頬を伝い、枕を濡らす。

何を泣くことがあるだろう、部下同士が結ばれるのだ。祝福をしなければならないのに。私が喜びこそすれ、悲しむようなことは何も無いはずなのに――どうして。

どうしてこんなに、彼の顔が浮かぶのだろう。

 

「映季様」

 

小町の声が聞こえる。

「あたいは、映季様の想いを知ってます」

「それがあたいの想いなんて比べものにならないほど強いってことも」

「なかなか表に出てこないってことも」

「みんな、知ってます」

「……でもね」

「映季様が動かなかったら、あたいはもう、あいつに告白してしまいますよ」

「映季様がそうやって、布団をかぶって、枕を濡らしている間に」

「あたいはあたいの想いに従っちまいます」

「映季様の想いなんて知ったこっちゃない、って具合にね」

「それでも、いいんですか?」

 

「……小町」

はい。

「貴方、今日の業務は、どうしましたか」

実は、サボっちまいまして。

「それは、いけないことです」

ええ、わかってます。

「でも、今日だけ、許します。早くここから出ていきなさい」

………………。

「何をしているんですか。明日も朝早いでしょう、自分の部屋に戻りなさい」

……それで、いいんですね?

「……私が良いと言ったらいいんです」

……そうですか。それじゃ、今日は休ませてもらいます。

「そうしなさい」

そんじゃ、失礼しました。お休みなさい、映季様。

「……お休みなさい、小町」

 

 

 

これで、良かったのだ。

涙を濡らした布でぬぐってから、私はもう一度布団に潜り込んだ。

小町は、この後彼に告白をしにいくだろう。

私が、小町と彼の恋愛に口を出す義理はない。それは仕事上ではなく、当人同士の話であって、いち上司の私が介入することではないからだ。

小町は、彼を想っている。

彼も、小町のことを悪くは思っていないだろう。

きっとあの二人は付き合いだして、少ししたら結婚して、お互いに幸せな家庭を築く。何事もつつがなくこなす彼と、ちゃらんぽらんな小町の家庭なら、上手くバランスが取れるだろう。あの二人の上司である私が言うのだ、間違いない。

私は――そうなったら、笑顔で送り出してやろう。

二人の上司として。

そうなったら。

私は――。

 

「………………っ」

 

何で、泣いているのだろう。

 

喜ぶべきことで、悲しむべきことでは――そんな、先程もした問答が、頭の中に再度浮かんでくる。

同時に彼の顔も。

……もう、いい。

これ以上自分の気持ちに、嘘を付く必要はない。

いいのだ。

彼のことが好きでも、今は。

どうせ潰えることになる、その気持ちを。

吐き出せるのは、今しか無い。

 

「……っう、あああ……」

泣いて、泣いて、泣いて。

それでもまだ足りない、想い。

「好き、好きなのです……」

叫んで、叫んで、叫んで。

だが決して伝わらない、想い。

……初めてかもしれない。

ここまで自分に能力があることを恨んだのは。

「私は、貴方のことが……っ!」

 

コンコン、と。

私を止めたのは、そんなノックの音。

そして、続く言葉。

「四季映姫」

驚くほど響いた、彼の声。

「――っ!?」

驚く。間違いなく彼の声だ。でも何で?

「……えっと、起きてる?」

「え、あ。お、起きていますが」

頭を整理しきれないまま、質問に答える。今の彼の言葉から察するに、私の言葉は聞こえていなかったようで、ひとまずほっとする。

「入ってもいいかな?」

けれど、そんな言葉に私は再び慌てふためく。

「ちょ、ちょっとだけ待ってください!入っちゃ駄目です!入ったら減点ですから、そのつもりで――」

「あ、いや。中に入れないんならそれでいいから……そこで聞いていてくれればいいよ?」

「え」

涙を拭おうと、急いでコットンを水に濡らしていた私は、彼の言葉に拍子抜けしたような声を出した。ここで聞け、とは、扉越しに聞けということだろうか――。

意図が読めない私の耳に、彼の言葉が聞こえてくる。

 

 

 

「さっき、小町が僕の部屋に来たんだ」

 

「っ……そうですか。それが、何か」

なんとまあ、こういう時だけは動くのが早い――そんな皮肉めいた一言も出そうになったが、何も言えない。いずれにせよ、こうなるのは分かっていた。

「……その前にも食堂で話をしてたんだ。だからもう夜遅いし、明日にしてくれって言ったら、今日じゃなきゃ駄目だって言われて」

「……随分とアグレッシブなんですね。仕事の時も、それくらいキビキビ動いてくれたら、私も説教する暇が省けるのですが」

「僕もそう思って、それとほとんど同じこと言った。そうしたら」

「――もう、やめましょう」

「…………え」

話を遮られ、彼はどんな顔をしているだろう。小町に告白されたので有頂天になっているのか、はたまた惚気話を聞いてくれない私を、なんて嫌な上司だと思って不機嫌そうにいるか。

けれど私は、それ以上、彼の話を聞けそうになかった。

「貴方が小町に、どういったことを言われたのかは、容易に想像がつきます。貴方がここに来て、私に話さなければならないと、そう思うのも理解できます。ただ」

扉に近づき、手を付ける。ひんやりとした、木の感触。そこには、彼の私に対する想いなど、一欠けも含まれていないということを再確認して。

「私には、その話を最後まで聞くことができそうにありません」

乾いたと思っていた涙が再び頬を伝った。

じくじくと、胸の痛みがぶり返してきて。

けれど、疑われぬよう、声は震わせず気丈に。

私は、言い放った。

 

「小町の言葉に、答えを出すのは貴方自身なのです。これ以上、私を――困らせないで、ください」

 

 

 

言ってしまった。

私は背を扉に預け、彼の返答を待つ――いや、願わくば、このまま何も言わずに去ってくれれば、それがわたしにとって一番良かった。

 

彼も、この想いも。

 

「……四季映姫」

それでも彼は、言葉を紡ぎ続ける。私は耳を手で塞ぐ。

「確かにそうかもしれない。小町の言葉に答えを返すのは、僕自身だ」

聞きたくない。

「けど僕は、その答えを四季映姫に聞かせるべきだと思う」

聞きたくない。

「聞いて欲しいんだ。四季映姫に」

「………………」

塞いでいた手を、耳から離す。

聞きたくない――何故。

簡単だ。それを聞いてしまうと、私は――。

 

二人を、祝福してしまうからだ。

 

私自身を、諦め、裏切ってしまうからだ。

 

けれどもういい。彼はきっと、小町の告白を受ける。二人で道を歩き始める。良いことではないか。部下同士が結婚する、これに悲しむ要素など何一つ無い――それに。

 

彼が幸せを見つけることができた。

 

それだけで、私はもう――。

 

 

 

「僕は、四季映姫が好きだ」

 

 

 

「――――――は、?」

頭が真っ白になる。

今彼は、なんと言ったか。

 

彼が。

私を。

好き、と――?

 

そんなこと、ありえない。

 

「……聞き間違いでしょうか。もう一度言ってもらえますか」

 

息を整えて、あくまで冷静に努めて、そう聞き返す。

けれど、彼から帰ってくる言葉は――。

 

「何度でも言う。僕は、四季映姫が、好きだ」

 

 

 

ずず、と、預けた背がずり落ちる。何が起こったか、頭が混乱して何も分からない状態で、やがて地面にへたり込む――私はもうその時、何度流したのかも分からない涙を流していた。

私は言う。

「何故ですか」

「……何故、って」

彼の当然のような返答。

ああ、私はこんな時にも、理由を求めずにはいられないのか――そんな自己嫌悪に陥りながら、ぽつぽつと、言葉を紡ぐ。

「小町は、あなたのことが好きだと言っていました。その小町が、あなたの部屋に行ったと聞いた時、私は貴方が告白されたものと、思い込んでいました」

理由を探る。小町が私に気を遣って、彼をこっちに仕向けた――もしくは、告白しようとはしたが勇気が出ず、咄嗟に私の名を出したのかも知れない。思い当たる理由は、出せるだけ出す。

「ですが、そう、そうですか。貴方が此処に来れたのは、きっと小町が貴方への告白を済ませていないからでしょうね。全く、小町は妙なところで、緊張しいですから――」

その気遣いは、ただ私を傷つけるだけだと言うのに。

小町が告白していたら、私も気分良く、送ってやれたのに。

なんで。

なんで。

 

 

 

「さっき小町から、告白された」

 

彼の言葉は。

 

今まで聞いたことがないほど、芯が通っていた。

 

「けれど、僕にはその告白を受けることができなかった」

 

「……何故ですか、何で……」

 

私は、また理由を尋ねる。

閉じた扉の鍵を解錠する。

かちん、という音がする。

その音に、心の靄が晴れていくような、そんな錯覚に陥って。

 

扉が開いた。

 

 

 

「四季映姫の側にいると、いつも笑っていられるから」

 

一緒に仕事をしている時も。

説教を受けている時も。

加点、減点を言い渡された時も。

 

そんな何でもない日常が、僕には新鮮だった。

四季映姫が側に居たから。

僕に、居場所を与えてくれたから。

笑顔を――教えて、くれたから。

 

「だから僕は、四季映姫が大好きだ」

 

 

 

「……大馬鹿です」

小町も相当大馬鹿ですが。

貴方は本当に大馬鹿です。

「私のような頭の硬い閻魔が、大好きだなんて」

いけませんね、いけません。

これはもう、大分減点しなければなりません。

「そうですね。二十五点、減点にしましょうか」

酷いと思いますか――そうでは私の相手は務まりませんね。

私の隣に、対等に立ちたいのならば。

 

「もう二度と、私の前で落ち込まないこと。いいですね」

 

それを聞いた彼は――しっかりと頷き、笑っていた。

 

私もそれを見て、頷き、笑う。

 

「うん、良い顔です。二十五点追加」

 

 

貴方は私を、離さない覚悟がありますか。

 

 

もとより私は、離す気はありません――。

 

 

 

 

 

 

 

「小町」

翌朝、私の声に振り向いた小町の顔は、やけににこやかだった。

「あ、映季様。おはよーございます」

「おはようございます」

「いやー、昨日深夜に見たい映画が偶然やってましてねー。ついつい深入りしちゃって、気がついたら朝だったんですよー。しんどいですねー、実質二時間しか寝てませんからきっついですよー」

「……小町、貴方は」

「映季様」

私の話を遮る小町――言わずとも全て解っているような、そんな表情を浮かべていた。

「それ以上は、言いっこなしですよ。あたいを今、この場で泣かせたいってんなら別ですけれど」

「ですが、貴方は」

「フラれましたよ」

さらりと。

こともなげに言う。

「ですけどまあ、あいつが映季様を選んだんだから、あたいがこれ以上言うのは野暮ってもんです。それに、橋渡しなんて職業やってると、いい男の一人や二人、見つかりますって」

そう言って、にゃははと笑う小町――その目尻に、泣き腫らした跡があるのを見て、私は口を噤む。

「……それなら、これからはサボらずに仕事をするべきですね」

「ういうい、善処しますよっと」

小町はそう言い、食堂の方へと歩いて行った。朝食を食べに行ったのだろう――私の胸の奥に、何とも言えないもやもやが残った。

 

 

 

「……うーん」

三途の川から離れたところで、寝転がりながら一つ、大きく伸びをする。

最初は真面目に仕事に取り組んでいたが、なんだか身が入らなくなってしまったため、始業二時間も経たぬ内にこの有様である。そもそも男漁りをする、なんて柄ではないから、さっきの映季様とのやりとりもほとんど口から出任せである。

というわけなので、川を渡りたい人には辛抱してもらって、すこしばかり惰眠を貪ろうか、などと考えていたのだが……。

「……駄目だ。眠れやしない」

昨日は遅くに眠ったはずなのに、妙に目が冴えて居眠りができない。

「……だめだね、どうも。まだ昨夜のことを引きずるなんて、あたいらしくもないや」

はは、と自分に向けて嘲笑。空を見上げる。あいも変わらず、いつもと変わらぬ空。平常の風景。変わったのは、自分の感情ただ一つである。それに構わず、時間は、土地は、生物は、動いていく。

「……仕事、するかなっと」

頭を振りながら起き上がり、渡し船へと乗り込む。

こんな状態でどこまで平常業務を出来るのかは分からないが――。

「まあ、なんとにもなるかな……」

ふぁ、と一つ欠伸を漏らし、舟を漕ぎ出す。

気持ちに整理を付けるには、まだ暫くかかりそうだ。

とぷん、という水の音が、今の私にはなんだか、酷く懐かしいもののように聞こえて仕方がなかった。

「……うん、よし。今日終わったら、おもいっきりからかってやろう」

自分に言い聞かせるように呟く――見えてきた向こう岸には、もう既に順番待ちをする死者の列が出来ていた。

「……っと。そんじゃ、やるとしようか」

意識を切り替え、前を向く。

これが、今の自分に出来ること――そう言うには、あまりにも気持ちが後ろ向きだ――そう思い、自然に口元が緩んだ。

 

 

 

彼岸に死者を運んでいる途中、「姉ちゃんのほうが今にも死にそうな目をしている」と言われ、思わず笑ってしまったことは――映季様には内緒にしておこう。



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天子短篇「天子にラブ・ソングを。」(1)

ふわふわしていた。

何だか地に足が着いていなくて、ちょっとでも目を離したら、とんでもないことをしでかしそうで、けれど彼女自身は、あんまりにも見つめる僕のことを疎ましく思っているらしく、「子供扱いするなこの馬鹿!」などと、真っ赤な顔をしてわめき散らし出す。

 

比那名居天子とは、そういう天人だった。

 

「……何よ」

天子は、やや不機嫌そうな顔で、彼女をじいっと見つめていた僕を睨み付けていた。

「いいや……別に何も」

僕はそうは言いながらも、いつ何をやらかすか解らない天子から、目を離そうとはしなかった。

互いの視線が交錯する。

この空間にある全ての音が、空気と溶けて宙に霧散する。

「………………」

「………………」

しばしの静寂。

けれども視線は交わされる。

笑わせる気の無い睨めっこ。

けれど、意地の張り合い。

「…………ぅ…………」

一言、天子の口から漏れる。徐々に彼女の頬は、熟れた桃のように紅く染まっていく。

そんな彼女のおかしな様子に付け入るように、僕は視線を送りつづける。彼女は妙なまでにそわそわしはじめる。ここまで来れば、もう陥落寸前である。

もう一息とばかりに。

「……天子?」

言いながら、笑いかける。

「…………ぁ……」

顔から湯気が出はじめた頃に、ようやく──天子は、僕から目線をそむけるのであった。

 

 

 

「ちょっと、そこの人間」

人里で貸本屋を営んでいる僕の前に、突如現れた少女。真っ黒な帽子で押さえ付けた、青みがかった長髪を揺らしながら、その少女は──こう言ったのだった。

 

「特別に、ここで私を雇わせてやるわ。感謝しなさい、平伏しなさい、毎日祝詞をあげなさい」

 

ずべし、と。

とりあえず叩いた。

「わひゃう!?」

彼女は奇っ怪な声を上げて、頭を押さえた。そんなに強く叩いたつもりでは無かったけれど。

「な、な、な、何すんのよ!?」

ばっ、と顔を上げる。涙目だった。ちょっぴり罪悪感を覚えつつも、なってない子供のしつけは、しっかりと自分を持った大人の責任である、と、そう割り切ることにした。

「……人に頼み事をするときは、先ず頭を下げて、用件を言ってから、お願いしますって頼むんだよ?わかった、お嬢ちゃん?」

「ななな……!?天人である私が、何でわざわざ頭を下げなきゃいけないのよ!?卑しい人間の存在で、私に指図するなんて──ず、頭が高いわ!」

 

ずびし。

 

僕が何かを言う前に、少女の背後から手刀が飛んでくる。

再び頭を押さえ、うずくまる彼女──その後ろに見える、人影。

 

「総領娘様。貴方はそうやって、いつまで逃げ続けるおつもりですか?そろそろ私も、空気を読んでしまいそうなのですが」

 

薄色の布を肩口に纏わせて、先程の少女のように真っ黒な帽子を被った、女性。

「い、衣玖〜。こ、この人間が、他でもない私の頼みに、聞く耳も持たない上に、あ、あろうことか手刀なんてかまして来て」

「お黙りなさい」

「うひゃうっ!?」

ふらふらと近寄る少女に、再び手刀を振り下ろす──衣玖、と呼ばれた女性。

「勝手に私から離れたと思えば、厚顔無知な頼み事を初対面の人にしていたら、手刀くらいは当然です。むしろ、それで済んで良かった、とお思いください」

「で、でも……」

「でももストライキも団結権もありません」

「あ、あうぅ……」

一喝され、黙り込む少女。後に現れた彼女は、どうやらこの少女の保護者らしい。

「あぁ、どうも申し訳ありません。総領娘様がご迷惑を……さぁ、総領娘様も」

そう言うと彼女は、少女の頭を掴んで下げさせると、自身も共に頭を下げた。

「……ごめん、なさい」

俯いた少女から、声が漏れる。

平日の昼間から、一体この事態は何だろうか。

「挨拶が遅れました。私は、こちらの天人──比那名居天子のお目付け役をやっております、永江衣玖と申します。以後、お見知りおきをよろしく願います」

「……比那名居天子よ」

そう言って、また深々と頭を下げる彼女達──天子と衣玖。先程の騒動で、ただでさえ騒がしいのに、こんな立派な身なりの人が二人も集まっているせいで、いつしか貸本屋の入口には、と騒ぎを聞き付けた人々が、何だ何だと興味を示して群がり始めている。

僕はふらつく頭をどうにか抑え、彼女達に問う。

「まあ、それは別に良いけれど。天人さんが、こんなみすぼらしい貸本屋に何の用かな」

「……そうよ……なんで私ともあろう者が、こんなホコリ臭くってボロっちい所で……」

ぶつぶつと呟く彼女。否定出来ないけれど、何だかムカつく。

「はぅっ!?」

「ええ。実は、ですね」

ぐわしっ、と天子の頭を引っつかみながらも、笑顔で話しはじめる衣玖。うわぁ、何か頭がみしみしいってる。

 

 

 

比那名居天子は、他の天人と比べても、輪を掛けて──いや、断トツに我が儘だ。それは先程の口調からも振る舞いからも、その節々から見て取れた。

天人は誇り高い。

その天人の一人ともあろう者が、人間に威張りくさって、あぐらを掻いているようでは、選ばれた者としての自覚に欠ける。

そこで天人達は思い付いた。

聞くところによると、天子は元々から人間だったというではないか──それなら、しばし人間と触れ合わせて、その頃の純粋な心持ちに立ち返ってもらおう。

そうして組まれた、比那名居天子更正プログラム。

その一環として、選ばれた場所が──

 

 

 

「……この貸本屋だった、と」

そこまで聞いて、再度頭が痛くなってくる。そんな話は聞いた覚えも無ければ、誰かに知らされた覚えも無く、噂になったことすらも頑として無い。

「正確には『候補の一つである』ということですが、今となっては『唯一の候補』であると言わざるを得ませんね」

衣玖はそう言うと、一枚の紙(豪華な装丁が施された、貸本屋でも滅多に見ることの無い羊皮紙だ)を、僕に手渡して見せた。

何かの一覧表だろうか。八百屋、魚屋、陶器屋、寺子屋、エトセトラエトセトラ。その隣には見覚えのある名前が記されていた。

一番最後の行に、『貸本屋』の文字、そして僕の名前。他の大多数と違うのは、一番端のチェックボックスに、貸本屋だけチェックがされていない、ということ。

読めてきた。

「……つまりは、他の店で全て断られたから、最後の希望としてここに来た、と?」

「違います。店だけでなく、民家全てにも断られました」

田舎に泊まろうかよ。

「……慧音さんの寺子屋は行ってみたの?あの人なら、何でも断らなさそうだけれど」

僕は、既に寺子屋にチェックが入っているのを無視して、駄目元で聞いてみた。

「はい、それが……一度は快諾していただけたのですが、総領娘様は『寺子屋の生徒達よりも、圧倒的にたちが悪い』らしく……頭に大きなたんこぶを作って、泣きながら帰って来られました」

「あぁ……」

さすがの慧音さんでも、ギガント生意気な天人には我慢ならなかったか。あの人、他人への礼儀には人一倍厳しいらしいし。

「という訳です。プログラムは一週間なので、それまで預かっていただければよろしいのですが……お願い出来ますか?」

「うー……ん」

考える。確かに、この店には僕一人しか居ないけれど、だからって人手が足りない訳ではない。貸本屋なんて気ままな職業は、むしろ一人の方が気が楽だ。

けれども、こうして彼女達と見知ってしまった以上、放っておくのも悪い気がする。少なくとも、先程の僕の言葉を再利用するならば──『なってない子供のしつけは、しっかりと自分を持った大人の責任』だ。

 

それに──。

 

「まあ、別に良いよ」

「!」

ばっ、と顔を上げる天子。まるで信じられない、とでも言いたげな表情だ。

「……よろしいのですか?こちらから約束も取り付けない、勝手な申し出なのですが……」

衣玖が心配そうに問う。

「まあ、確かにそうだけど。でも──見捨てるのもしのびないし。それに、前からここ、ちょっと静かすぎると思ってたところだし。少しうるさい、くらいの活気が欲しいと思って」

「……ありがとうございます。それではこちらが、プログラムの概要です」

そう安心したように言うと、衣玖は先程とはまた別の紙束を僕に手渡した。

僕はそれを受け取り、贅沢に金箔が貼付けられた、豪華絢爛な冊子の表紙をちらりと見る。

 

 

 

『てんこちゃんのドキ☆ドキッ!はじめてのしょくばたいけん』

 

 

 

僕は思った。

そりゃあ、慧音さんも匙を投げる──というか。

……僕、騙されてないよな。

 

 

 

「何をやればいいの?何もすることないの?私は何もしなくても良いの?私は何もしなくても良いの。それじゃ昼寝するから晩御飯出来たら起こしてねお休み」

「おいコラそこの穀潰し」

衣玖が帰るやいなや、ゴロリと横になる天子に、僕は辛辣な言葉を投げ掛ける──いや、辛辣でもないか。これが普通だ。

「何よ人間。まさか、本気で私を働かせようっての?あーやだやだ、これだから本音と建前を理解できないノータリンは」

「しゅとー」

ずびし。

「…………!…………!?」

もんどりうつ天子に構わず、僕は彼女に業務を与える。

「店内の掃除、及び本棚整理。終わったら僕に言ってね。カウンターで受付やってるから」

「……そ……掃除……?」

「掃除」

顔を上げた天子に、ぐい、と箒とちり取りを押し付ける。

「まず無いとは思うけど、本棚の場所とか貸出状況とか聞かれたら、真っ先に僕の所に来てね。それじゃ、頑張って」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!こ、これ……!」

「何?」

呼び止められた方を見ると、天子が箒とちり取りを持って、所在無さ気に佇んでいる。

「これ……その……」

あたふたと、焦ったように箒を右往左往、ちり取りを右往左往。天子の視線はあっちに行ったりこっちに行ったり。

その様を見て、ようやく僕は解答に到る。

 

「……ひょっとしてそれ、使い方わからない?」

 

「………………」

 

しばらく真っ赤な顔で居た天子は──やがて、こっくりと頷いた。

 

 

 

「……まぁ、仕方ないのかな」

使用方法を教えられて、それでもまだ危なっかしく箒を動かす天子──それを見て僕は、呟いた。

「掃除なんて、その言葉だけしか知らなかったんだろうな」

全てが他に任せきり。

全てを他に預けきり。

自分は他人に甘えきり。

他人は自分を背負いきり。

天上一を名乗りながら。

天下の一の字も知らぬ。

そんな、筋金入りの世間知らずを治すためには。

熱い火に入れ、その筋金を柔らかく曲げるほかには無い。

先程の冊子をぱらぱらとめくる。そこには、これからするべき事項がずらりと書き連ねられていた。

朝七時起床、正午まで店手伝い、昼食後は洗濯掃除、おやつは無し、夕食後は十時までに就寝。

キッチリと定められたスケジュール。カチカチに固められた日程。

冊子を閉じる。

「はぁ」

疲れたように一つ息を吐いてから──呟いた。

「……これから叩き治すっていうのに、これはないよな」

僕は少しもためらわず、その冊子をごみ箱に投げ入れた。金箔には多少心を惹かれるが。

「お……終わったわよ」

ふと前を向くと、はぁはぁと息を切らせながら、箒とちり取りを僕に差し出す天子の姿。

ひょいと覗かせると、所々にゴミが氾濫していた先程と違い、きちんと掃除された床が見えた。

「……うん」

一つ、頷く。何だ。やればできるじゃないか。

僕は腕を伸ばして、天子の被っている帽子を取った。

「ちょっ!?……何すんの──」

 

「お疲れ様」

 

僕はそう言ってから──、

 

優しく、頭を撫でた。

 

「……ふ、ふえっ!?」

びっくりしたのか、少し身体を跳ねさせ、奇声を上げる天子。

こうされること自体には、天子は慣れているかもしれない。何せ、常に褒められ、崇められる天人だ──けれど。

自分の手で、何かを成して。

その報酬として、こうやって褒められるのは。

恐らく初めてなんだろうと思う。

だって。

 

『自分の手で、何かを成す』。

 

この機会が、天子には皆無だったろうから。

常に任せきりだったから。

 

これから一週間。

形にとらわれずに。

それを教えていくのが。

 

僕の役目なんだろう、と思う。

 

天上の天人に対して。

 

少し傲慢かもしれないけれど。



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天子短篇「天子にラブ・ソングを。」(2)

「あ、店員さん。辞書捜してるんだけど、どこにあるかな」

「じ、辞書……ちょ、ちょっと待って……え、えぇっと」

しばらく経って。

ようやく天子も一通りの業務をこなせるようになってきた。本の場所を聞かれた時も、僕に聞きにこないで必死に自分の力で捜している。

見ていて危なっかしかった掃除も、人並に道具を扱えるようになっていた。以前、特に初日は、本棚に箒をガッコンガッコンぶつけていたのが掃除後に判明したのだ。それに比べればこの進歩は、とてつもなく大きな一歩だろう。

それに、何より。

 

「天子のお姉ちゃーん、ちょっと本とるの手伝ってくれよー」

「え、また?仕方ないわね……」小さな子供には、脚立でもなければ届かない高さにある本を、天子はぶつくさ言いながら、ぴょいっと空を飛んで取った。

天子が来てから、店は比較にならないほど明るくなった。以前までお客さんは、唯一の従業員である僕を、見つからない本がある、というだけで声を掛けづらかった。そちらばかりに目をやると、受付が空になってしまうからだ。

けれど今は、天子が居るおかげで、お客さんは気軽に用件を尋ねられる。

人柄もあるのだろう。

この短い期間で、天子は随分と慕われるようになった。

天人、という特別な人種。

人々から慕われる──というのは、あくまで表面上の話。内面では『そう自分達と変わらないのに、何故こんな格差が生まれるのか』と、よく思っていない人も多いと聞く。

そしてそれは──普通の人間から『名居一族に生まれたというだけで』天人になった、天子さえも例外では無い。心無い人々から、目に見えない虐げを受けてきたということは、想像に難くない。

だからこそ、だ。

こうして、『心根から慕われる』ことが、天子にとっても天人全体にとっても、大事なのだ、と。

 

 

 

「……まぁ、全部衣玖からの受け売りなんだけど」

実際に天人に会ったのは、天子が初めてという僕には、どうにもそういった事情には疎い。偉い人、という認識しかないし。

当の天子は天子で、衣玖の配慮もどこ吹く風で、子供に取ってきた本を手渡している。

「はい、これで良いのよね……って、何よ。どうかしたの?」

「ん?いぃや、何も」

「……?」

首を傾げながら、本棚整理の業務に戻る天子。それを見て先程の少年は、ニヤニヤしながら告げる。

「ところでさ、天子お姉ちゃん」

「ん……今度は何?」

「今日は水色と白の縞模様なんだね」

「……はぁ?」

「昨日はくまさんだったっけ」

「一体何のこと──」

 

一瞬、静寂。

その間に僕は、店の奥に避難。とばっちりが来たら嫌だし。

ちらりと見えた、天子の顔は──憤怒からか、それとも羞恥からか──沸騰寸前だった。

 

「こぉんの……エロガキ!」

 

「ちょ、待っ……!姉ちゃ……いや、姉上……!そこの関節は……そっちには曲がらなっ……!」

 

怒号と悲鳴が飛び交う店内で、僕は呟く。

 

「……そりゃあ、あんな高い所まで飛んだらなあ……」

「おお?今日は随分と賑やかだなあ」

「……ん?」

その時ふと、聞き覚えのある声が聞こえる。

「ああ、誰かと思えば。霧雨魔法店の主人さん」

「そういうお前は、貸本屋の主人さんだよな」

そう言って笑うのは、魔法の森にあるなんでも屋『霧雨魔法店』の店主──霧雨魔理沙。白か黒しかない特徴的な服装と、それを弾きとばす程まばゆいばかりの金髪、底抜けの明るさが特徴の──魔法使いだ。

この貸本屋には、たまにふらりと現れては、適当な魔導書や歴史書を二、三冊借りていく。

「本を借りに来たの?」

「ああ。そのつもりだったんだが──何やら面白い奴が増えているじゃないか」

そう言うと魔理沙は、くい、と親指を、まだ怒りの収まらない天子に向けた。

「ああ、うん、まあ。ちょっと、厄介背負いこまされちゃって」

「ふーん」

彼女はその『厄介』に、さして気にもせず、本を選びに離れる。やがて、小難しそうな分厚い本を見繕って受付に持って来た。

「よいせっと。これくれ」

重そうにその本を台に置く魔理沙──僕は顔をしかめ、言った。

「やらないよ。貸すだけだから──というか、前に貸した本は?延滞するならそれ用の用紙と、後は延滞料金も」

そう。彼女は、金払いは良いのだが、中々本を返さない、困った客でもある。今も彼女の家には、この店の本が、少なくとも二桁単位で眠っているはずだ。

「細かいこと言うなよ。今度まとめて持ってくるから」

「『私が死んだ時に』?」

「お?わかっているじゃないか」

「毎週のように聞かされたらね。というか、それ詐欺でしょ」

「『遺産分配』と言ってくれ」

「盗っ人猛々しいな……ほら」

僕は愚痴を言いながら、貸出表を差し出した。霧雨魔理沙、と書かれたそれに魔理沙は、本の題名と貸出期間を書いていく。

「最長二週間だから」

「わぁーってるよ。ほら、金」

僕のジト目を華麗に受け流してから、手の平にちゃりんちゃりんと小銭を落とす。

「二、三……えーっと、あれ?今何時だっけ」

「五時だけど小銭の数はまだ三枚だからね」

「ちぇっ。ケチ」

「どっちが」

きっかり五冊分の代金を頂いた所で、彼女はその本を、唐草模様の風呂敷に包みはじめる。

「何だ、もう行くの?」

「ああ。ちょいと紅魔館に用事があってな」

紅魔館。

恐ろしくて行ったことは無いけれど、その単語である一人の人物が思い至った。

「……ああ、あの大図書館。とすると、あの病弱そうな魔法使いの子に用事か」

「あれ、パチュリーのこと知ってるのか?」

「前にね。一度だけ、『魔理沙はここによく通うのね!?』って、なんか興奮気味に現れたと思ったら、貸出表に魔理沙の名前が書いてある本を目ざとく見つけてきて、それ全部借りてった」

その時、何やら本をクンカクンカ臭っていたけれど、大丈夫なんだろうか。彼女も本も心配だ。

「……あいつ何やってんだか」

「魔理沙、何かしたんじゃないの?というか、何かしたでしょ」

「した。というか、今もしてる。現在進行形で」

ピンと来る。

あの詐欺手法か、と。

「……また?」

「また」

「………………はぁ」

「いひゃいいひゃい!ひゃめろよひゃにするんだじぇ〜!」

僕は一つ、ため息をついてから、魔理沙のほっぺをぐいぐい抓る。

「いい魔理沙、良く聞きなよ」

頬っぺたを離す。少し涙目になって頬をさする魔理沙に、僕は諭すように言い聞かせた。

「ふ、ふぁい」

「その盗み癖と、サボり癖。いい加減にしないと縁切るよ。その子も、僕も」

「……わかったよ、善処するよ」

少ししょんぼりしながら、小さな声で言う魔理沙。これが薬になったかは解らないけれど、ひとまず反省はしてくれたようなので、僕は少し安心する。

「うん、偉い偉い」

「え、わ、わ……!?」

そのまま彼女の被る帽子を取ると、天子にしたように、優しく頭を撫でてやる。この店の客層は、寺子屋帰りの子供が多いので、この頭を撫でる、という行為はもはやクセになっている節がある。

「う、あ、う」

「?」

ふと見ると、魔理沙の顔が赤くなっている。風邪でもこじらせたのだろうか?

俯き気味で見えづらい顔を、少し覗き込むように見る。

「おーい、大丈夫?」

「あ!?……か、顔、近っ……」

「?」

「あ……い……いや、何でも無いんだぜそれじゃあまた来るんだぜさらばだぜアデューだぜ」

「ああ、うん。また」

そういってふらつきながら店を出る魔理沙。本当に大丈夫だろうか──あ、こけた。

「ちょ……ちょっと、ああああああんた……!?」

「?」

視線を前に戻すと、いつの間にやら天子の姿が目の前にあった。あの子供はもう帰ったらしく、店内にその姿はない。

「どうかした?」

「どうかも何も……あ、あんた、私の前……あ、いや、ん、んん!公然で一体なんてことしてくれてるのよ!?」

軽くどもりつつも、僕を指差しながら真っ赤な顔でマシンガンのように話す天子。

「……ん?」

首を傾げる。魔理沙と世間話するのが、そんなに目に毒な光景だっただろうか。

「……僕、何かしたっけ?」

「してたでしょうが!あ、あの……あの白黒と……キ、キ……ななななななななにを言わせようとしてんのよ!?」

「……キ?」

考える。僕と魔理沙がしていた、『き』から始まる行為。

き……。

き…………。

き………………。

「『奇』妙な掛け合い」

「違う!」

「『気』の長い本の返却計画」

「違ぁぁぁぁぁーう!」

ついには怒り出す天子。こちらは全く原因が解らないのが、それに拍車を掛けているらしい。

「だから!その!あの!白黒と!き、きききき……」

 

 

 

キス、してたでしょ?

 

 

 

「おーい」

「………………」

天子は応えない。

「気にしてないって」

応えない。

「誰にでも失敗はあるから」

応えない。

「あ、ポン酢かゴマダレ、どっちがいい?」

「ゴマダレ」

あ、応えた。

煮える鍋を横目に僕は、天子の器にゴマダレを注ぎ入れる。

今日はあっさり控えめな、塩味の山菜鍋。キャベツにタケノコ、軽くあぶった葱を、少しのダシ汁と一緒に、天子の器に入れてやる。

「さ、食べようか」

「………………」

またも訪れる静寂。

「食べないの?」

「……あんたにはデリカシーってもんが無いの?」

質問を質問で返すな、と先生に習わなかったのかお前は。

「いきなり何を言い出すかと思えば、何だって。僕にデリカシーが無いって?」

「だって、あ、あんな勘違いして、私一人だけが馬鹿みたいに喚いて、がなき散らして、あんたにも当たって。私がこんなに気にしているのに、あんたは気にもしないで鍋の用意なんかしてるし!」

「……はあ」

下を向いて呟く天子に、僕は仕方ないな、とばかりにため息をつき──軽く天子の頭を撫でる。

「……っ!」

天子は軽く身体を跳ねさせたが、僕の撫でる手は拒否せず、ただただ俯いていた。ぎゅ、と握った手の甲に、ぽたりぽたりと涙の雫が滴り落ちる。

しゅん、しゅん。

鍋蓋の穴から漏れ出る蒸気の音が、部屋の静寂を塗り潰すように、僕と天子の顔を覆う。

「あのね。天人がどうかは知らないけれど、人間は──少なくとも僕は、そんなことでいちいち怒ったりはしないよ」

「………………」

彼女は、口を紡いだままで自分の膝元に視線を送り続けていた。

「むしろ、嬉しいんだ」

「……ふぇ?」

その言葉に天子は、耳をぴくりと動かして、

「な、何で?」

「いや、だってさ」

 

 

「出会った時は、他人なんか気にしなかった天子が、今こうやって自分の勘違いを認めているから」

 

 

些細かもしれないけれど。

そんな小さなことが、僕は本当に──嬉しいんだよ。

 

「……はいっ!これでこの話はおしまい!さ、食べよう食べよう!早く食わんと冷めちゃう」

「……うん」

僕は天子の頭から手を離すと、夕食に手を付けはじめた。少し遅れて天子も箸を掴む。

そこで僕は、まだ帽子を天子に返さずに、手に持ったままだということに気づいた。

「っと、そうだそうだ。この帽子返さなきゃね。ほい」

「……いいわ。それ、あげる」

「え?でも……これずっと被ってなかった?大事な物なんでしょ」

「ううん。いいの」

「?……まあ、そういうことなら貰うけれど……ありがとう」

僕はその帽子を、棚の帽子掛けにぶら下げる。桃があしらわれた、シルクハットのような帽子。

……これは、被れないな。

そんなことを思いながら、僕は食卓へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

それが起きたのは、四日目の朝。

 

天子が店のどこにも居ないのに、僕が気づいた時だった。

 

「……天子?」

寝ぼけ眼で店を見回すが、辺りはしんと静まって、誰も居ない。念のために受付や座敷も探し回るが、そこにも居ない。まるで店から天子の姿のみが、忽然と抜け落ちたようだった。

この時僕は、散歩でも行っているのか、程度の認識でしかなかった──少なくとも、時間が経てば戻ってくるだろうとは思っていた。ので、僕はそれほど気にする事なく、日常を始めたのだ。

いつも通りの、変わらない──けれど少し淋しい──日常を。

 

けれど。

 

午前。

 

正午。

 

午後。

 

そして、辺りが暗くなっても。

 

天子の姿は、一向に見えることはなかった。

 

「……大丈夫かな」

時計を気にしながら、一言呟く。もうすぐ夕食の時間だ。あの大ぐらい娘が三食を抜いて、無事で居るとは思えない。けれど、もしここに帰って来れない何らかの事情があるのなら。食事など気にもしていられない状況に、天子が陥っているのなら。

ふと見上げる。

壁に掛かった帽子が見えた。

何の脈絡も無く、天子が僕にくれた、大切な贈り物。

その行動が、どういう意図を示しているのか、僕には見当も付かない──ひょっとしたら本当にただの贈り物という可能性もある──けれど、思い当たる節は、無きにしもあらずといった感じで。

「……仕方ない、か」

僕はその帽子を手に取ると、店の外に出た。

 

天子を捜そう、と決意して。

 

人里に居る確率は、ほぼ皆無だろう。もし、誰かが天子を見かけたなら、真っ先に僕の耳に入ってくるだろうし、彼女が一人で出歩いていて、噂にならないはずが無い──何せ天下御免の天人だ。

となると、範囲は大分広がってくる。同時に、危険も大きく。

夜中に人里の外へ出ることが、どれだけ危険なことかは、幻想郷に住む人間なら重々承知している。むろん、僕も例外ではない。

ふとした瞬間に、妖怪に襲われ、その糧とされても文句は何も言えない。全てが自己責任の上で、行動しなければならない。

そしてそれは──天子にも、同じことである。

例え彼女が天人であろうと、妖怪は一切お構い無しだ。天人は身体が丈夫だとは聞いているが、天子は見ての通り、まだ少女。万が一にも、妖怪に襲われたら一たまりもないだろう。

「……とりあえず、慧音さんに話しておくか」

里の中でも最も頼りになる、といっても決して過言ではない、彼女──上白沢慧音。

ひとまずは彼女の協力を仰ごう。そう考えた僕は、小走りで彼女の家に向かった。

 

 

 

「……で、だ」

うなだれるように、部屋の隅に佇むそいつを見て、私は呆れたように言う。

「いつまで居るつもりなんだ?言っておくが、ここには天人様の口に合うような、豪華な夕飯は無いぜ?」

それを聞いて、比那名居天子はゆさゆさと身体を揺らした。膝を抱え込んだ状態の彼女は、べそをかくように呟く。

「……だって……このままあいつのところに居たら……また、その……迷惑、掛けるし……」

「……あ、あのなあ……」

今まさに、自分──霧雨魔理沙に迷惑を掛けているとは考えないのか、という反論を飲み込んで、私は今一度彼女を見やる。

朝っぱらから突然、私の家に押しかけて来たかと思えば、一つの遠慮も無く、しっかりと朝食・昼食を頂いていき。

食事を終えたかと思えば、急に涙目でぐずりだしたり。

私からすれば、一体天子は何がしたいんだというところである。

だがしかし、これ以上、何の理由も無しにここに居座らせる訳にも行かない。私にも我慢の限界というものがある──それも、沸点はかなり低い。一刻も早く、あの貸本屋に戻って頂きたいものだ。

これ以上続くようだと、流石に私も実力行使に出させてもらおう。武器を持った奴が相手なら、覇王翔吼拳を使わざるを得ないように、わがままな奴には、マスタースパークを使わざるを得ない。

 

まあ、長口上をつらつらと言ったけれど、端的に言えば。

 

「あのなあ。お前、何しにここへ来たんだ?」

 

 

 

「あんたは、あいつのことが好きなの?」

 

 

 

「………………」

 

オーケイ、クールになれ私。

ここで不用意に『質問を質問で返すなァーッ!』などと言おうものなら、このまま天子のペースに振り回されてしまう。それ以前に、ネタ被りが気になって仕方ない。

さて、考察だ。

天子のいう『あいつ』。

まあ、誰のことかは大体想像がつく。天子が気軽に『あいつ』なんて呼ぶということは、まず私の想像通りと見て良いだろう。

問題はその先だ。

その『あいつ』のことを。

あの──貸本屋の主人のことを。

 

私が──好きか、だって?

 

 

 

「わかった。そういうことなら、私も一緒に捜そう」

慧音さんは僕の話を聞くと、そう言って立ち上がった。

「すいません、こんな夜遅くに」

彼女の優しさに、僕は申し訳なくなってくる。慧音さんでも一度追い払ったくらい、天子とは相性が悪いというのに、あまつさえ彼女を探す、という無茶な願いさえも無下にすることなく聞き入れてくれたのだから。

けれど慧音さんは、ひらひらと手を振ると、言った。

「なに、気にするな。正直のところ、私も心配だったんだ」

「え……天子のことですか?」

「うむ。生徒に手を出そうとしたから、つい無責任に追い出してしまったのだが、その後生徒から話を聞いてみると、どうも理由があったようでな」

「理由……?」

「ああ。何人かで集まっている、いじめっ子達をな。天子は懲らしめようとして居たらしい」

「へえ……」

天子がそんなことを──今では信じられるけれど、初めに会った印象のままでは、とても本当だとは思えなかっただろう。

慧音さんは少しばつが悪そうに、そしてやや自嘲気味に言った。

「だから、少し気に病んでいた。何も理由を聞かずに追い出してしまったし、一度引き受けたことを反古にしたのも、天子は勿論あの付き人にも悪いことをした」

「……それほど気には、してなさそうでしたよ」

「……いいや。人を見掛けで判断するなど、教師の風上にもおけぬ行為だ。だからこれは、せめてもの罪滅ぼしというやつだ」

そう言うと慧音さんは、ゆっくりと立ち上がった。手にはいつの間にか、充電式の懐中電灯が握られている。

それを見て僕は思った。

「さあ、行こう。これ以上夜が深まると捜せなくなる」

「……はい」

 

慧音さんは、天子が人里に見当たらないことに気付いていたのだ。

 

きっと僕がここに来ることも、見越した上だったのだろう。

 

だから、彼女のすぐ傍らに、懐中電灯が置かれていた。

 

天子のことを気にしていた慧音さんだからこそ。

 

僕がここに来たら、すぐ捜しに行けるように。

 

そんな──意地っ張りのような、慧音さんの行動に。

僕は思わず、口に出していた。

「慧音さんって、可愛いですね」

「!?な、ななな!何をいきなり言い出すんだ!?」

「?」

僕は褒めたつもりなのに、何故か慧音さんは顔を真っ赤にして、怒っているように見えた。

「いや、思ったことをそのまま言っただけですけど」

「〜〜〜〜っ!もういい!早く捜しに行くぞ!」

「え、あ、ちょ、慧音さ──」

言い終わる前に、彼女は小走りで暗闇に紛れて行ってしまった。僕は見失わないように、その背を追いながら、つぶやいた。

「……何か悪いこと言ったかな」

 

 

 

「……私にはお前が、何でそんなことを聞くのかは、いまひとつ見当も付かないが」

私は首を捻り、頭をぽりぽりと軽く掻きながら言う。

「あいつのことは嫌いじゃないな──というか、私だけじゃなくてあの里の人達も。あいつを嫌ってる奴は、一人も居ない」

「……嫌いじゃない、じゃない」

天子は視線を下げながら、呻くように言った。

「『好き』なのか『嫌い』なのか、ということを聞いているの。そんなどっちつかずな答えは、私は聞きたくない」

「………………」

なるほど。

いつも我が儘だけれど、今日は違う方向に強情だなと思っていたが──面倒なことになってきた。

私は溜め息を一つ吐くと、軽く腕を組みながら、言う。

「それを答える前に、一つだけ、聞かせてくれ」

「……何よ」

 

「お前はそれを聞いて──私があいつをどう思っているかを聞いて──、一体何をどうしようって言うんだ?」

 

 

 

「………………わからない」

ぼそり、と。

私は。

吐き出すように言った。

「わからないわからないわからない、わからない。何もかもが──わからないっ!」

せきを切ったように、止めどなく溢れ出てくる、その言葉。

わからない。

わからない。

わからないことが、わからない。

世界を──天地を知らない私には、この世界はわからないことが多すぎて、果てには私自身のこともわからなくなる。

わからないから。

誰かに頼らざるをえなくなる。

 

わからないから。

人に迷惑を掛けてしまう。

わからないから。

わからないから──。

 

「わからないから──此処に、居るんじゃない」

「………………」

こんなにも、悲しくなる。

私の視界はいつしか、ぼやけてかすんでいた。

その霞の先でも目立つ、特徴的な黒と白は──。

私の目を、見ていた。

 

「好きだぜ」

 

確かに私は、あいつが好きだ。

 

友達としてじゃなくて。

 

貸本屋の店主としてでもなくて。

 

一人の人間として。

 

私はあいつが好きだ。

 

もう馬鹿みたいに、信じられないくらいに、自分で自分が恐ろしいくらいに。

 

あいつが、好きだ。

 

「……言っておくが、これは伊達でも酔狂でも、ましてやお前を、ここから早いとこ追い出すための方便でもないぜ」

──私は、本気だ。

それなら、私は?

──私の気持ちを聞いたお前は、一体どうする?

私は、どうする?

いや──。

どうしたい?

彼と共に過ごせるのも、後のこりわずかな時間しか無い。

その短い時間で、私は。

何を、どうしたい?

「敵に塩を送るみたいだけどな、一つ忠告しておいてやるぜ」

白黒は──霧雨、魔理沙は。

「こればっかりは、自分で決めるしか無いんだぜ。私には、譲る気もなければ、譲られる気も無い」

 

『恋色の魔法使い』は。

 

「何事も本気じゃなきゃ、つまらないだろ?」

 

そう言って、不敵に笑った。

 

 

 

証拠はない。

自覚もない。

けれど、多分。

嫉妬していたんだと思う。

あの白黒の魔法使いに。

突然やって来たと思ったら──成り行きで、仕方なく、本当に不本意だけれど──七日もの間、一緒に過ごすことになったあいつと、仲睦まじく話しているのを見て。

私がこんなに働いているのに何よ──以前までの私なら、そんなことを毒づいていただろうけど。

それよりも先に出てきた感情。

一言。

 

──羨ましいな。

 

あんなに仲良さそうに話して。

 

冗談を言い合えて。

 

あいつが今しているような、本当に楽しそうな表情が、私に向けられる日は、来るのかな──この短い期間で。

そんな悶々とした気持ちで、二人を見ていたら、おもむろにあいつは白黒の帽子を外した。

私は無意識の内に、自分の被っている帽子に、手をやっていた。

今から何がなされるかも、全てわかっているようだった。

白黒の頭が、軽く。

綿毛のように軽く。

撫でられていた。

 

俯く白黒。

 

それを覗き込む、あいつ。

 

顔が。

 

顔に。

 

近づいていって。

 

その光景は、私から見たら。

 

 

 

二人の唇が、触れ合っているようにしか見えなくて。

 

 

 

そこから先はパニックになって、良く覚えていないけれど。

その時の私は、きっと、涙が出そうになっていた。

あいつにとって私は、邪魔物でしかないのかな──私は、ここに居ないほうが良いのではないか──もういっそのこと、黙って天界に帰ってしまおうか。

本気で、そう思った。

比喩ではなく。

実行しかねなかった。

結局、その後で誤解だってわかったけれど……何だろう。

あと三日。

それだけ。

それだけしかない。

それなら、最初から無ければ良かったのに。

最初から、あいつに会わなければ──この店に来ることがなければ──こんな。

 

こんなに苦しい思いは、せずに済んだかもしれないのに。



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天子短篇「天子にラブ・ソングを。」(3)

「………………」

開け放しにされた扉から、少し冷たい風が入ってくる。つい先程までここに居た天子の姿は、もう既に無い。

私は椅子の背に全体重でもたれ掛かりながら、大きく伸びをする。その際、私の意志を問わず、欠伸が口から漏れ出てきた。

「ふぁ……ようやく帰ってくれたか、あ、あぁ……」

今日は、朝っぱらから天子に振り回されっぱなしで、ろくに自分の時間を取れなかった。そのせいでストレスが溜まっているのはもちろん、天子の相談(という名のぼやき)をぶっ通しで聞いて、今はとにかく眠気が凄い。

船漕ぎ状態の椅子の脚を、ごとりと地面に落とす。時計を見ると、もう日はとっくに回っている。よくもまあこんな時間まで、私を付き合わせたものだ。

「……ったく……私も、お節介なことをしたもんだぜ……」

今しがた、天子がぶち破って開け放しだった扉を閉めながら、やや自嘲気味に呟く。

あいつの性格が映ってしまったのかな。それとも、天子にそうさせたがる自分が居るのか。

いいや、違う。

後悔してほしくないのだ。

天子は勿論、私自身も。

中途半端の尻切れとんぼで終わるのは、言うまでもなく天子にとっても悔いが残るし、私からしても不満しか残らない。

つまるところ、私は──。

『恋敵』っていうのが、欲しかったのだろう。

『恋色の魔法使い』に相応しい、ライバルが。

「……エゴだよなあ……」

エゴな上に、バカだ。

勝負の前に、自分から勝率を下げようなどと。

けれど、せずには居られない。

真っ向から勝負する。

それが霧雨魔理沙の信条であり。

それが恋する乙女の誓約であり。

それが──惚れた者の、弱みだ。

「さて、と。今日はもう寝ちまうかな……ふぁぁ」

再び大きな欠伸を漏らしながら、ゆっくりと歩き出す。

せめて今日ばかりは、しっかり休んで英気を養おう。

明日からの戦いに備えて──。

 

 

 

「……はぁ……はぁ……」

 

何でだろう。

私は今、走っている。

何処とも知れず、走っている。

何故?

空を飛べば、速いのに。

私はわざわざ、地を這っている?

 

「はぁっ……くっ……はぁ……」息を切らしてまで。

服を汚してまで。

走る、理由。

──それは一つしかない。

 

「……はぁ……はぁ」

 

私は天人で。

彼は人間で。

私は偉くて。

彼は普通で。

私は優しくて。

彼は意地悪で。

私はお金持ちで。

彼は貧乏人で。

 

「……は……」

 

私と彼は。

こんなにも違う。

私と彼は。

何もかもが違う。

共通点なんて皆無。

私が普通にしていては、彼は永久に、私を見つけられない。

彼が普通にしていては、私は永久に、彼に気づかない。

 

だから──そう。

 

仕方なく。

 

私を見つけたそいつは、目を丸くしながら、呟いた。

 

 

「……天子……?」

 

 

本当に仕方なく。

 

彼の目の前に、立ってやった。

 

彼の目線に、合わせてやった。

 

わざわざ、天人の私が。

 

「………………」

 

けれど彼は、何も言わなかった。

 

「……何よ。何か言いたいことがあるなら言いなさいよ」

私は彼に謝りもせず、ただそんなぶっきらぼうな口調を向けた。

高飛車な奴と思われても良い。

生意気だと言われても良い。

ただ──。

 

「馬鹿」

 

そう言うと、そっと、私の頭に手を添えた。

 

「…………っ」

 

私の目の前に、彼の顔がある。

 

彼は、屈んだままで。

 

私と目線を合わせたままで。

 

言った。

 

「こうやって今、天子が無事でいてくれている。そんな時に言うことなんて、一つしか無いでしょ」

 

ああ、そうだった。

 

私が合わせずとも──彼は、自分で勝手に合わせてくる。

 

そういう奴だった。

 

「無事で良かった」

 

そういう奴だから。

 

私は──惚れちゃったんだ。

 

 

 

「どうも一週間、ありがとうございました」

衣玖が古本屋の戸を叩いたのは、最終日の昼。

笑っちゃうほどの快晴だった。

「何事もありませんでしたか?総領娘様が、色々とご迷惑をお掛け致しましたでしょう」

苦笑いで、そう言う衣玖。僕もそれに笑い返しながら答えた。

「いや、全然。むしろ良く働いてくれて、こっちの方が助かったくらいだよ」

「……嘘や隠し事は良くありませんよ?」

「……いや本当に本当に」

「ふうん……?」

やたらと目を細くして、こちらを見てくる衣玖。天子の奴も、余程信用が無いんだろうな。

けど、まあ、確かに。

迷惑を全く被らなかった、といえば嘘になるけれども。

「……まあ、強いて言うなら」

ちらり、と、店内に視線を送る。

そこには──

 

 

 

「ちょ、ちょっと白黒!あんた、何勝手に座敷に上がり込んでんのよ!?早く降りなさい!そこは従業員専用よ!」

「え〜……いいじゃんいいじゃん。いつだったか、お前だって私の家に上がり込んだじゃんか」

「あ、あれは……そ、そう、仕方なかったのよ、やむを得なかったの!」

「そうか。じゃあ私も仕方ないから、お前が天上に帰るのを見計らって座敷に上がり込むとするぜ」

「な、ななな!?だ、だめ!それだけは駄目!あんた、もし私が帰ってからそれやったら、入店禁止にするからね!」

「後数十分で従業員じゃなくなる奴なんかに、何言われても怖くは無いけどなー」

「〜〜〜〜〜〜!」

 

 

 

……いつの間にか仲良くなったらしい天子と魔理沙が、痴話喧嘩とはおおよそ形容しがたい争いを繰り広げていた。

「随分と店内を騒がしくしてくれた、ってことくらいかな」

「……それはそれは」

衣玖は口に軽く手を添えて、くすりと笑った。

「貴方が良ければ、もう一週間は預けても大丈夫そうですね」

「……冗談としても、それは勘弁してほしいな」

「冗談じゃない、としたら?」

「……遠慮しておくよ。僕はなるべくなら、静かな方がいい」

衣玖はそれを聞いて、空気の読めない方ですね、と、さぞつまらなさそうに呟いた。

「素直じゃないのは、総領娘様だけじゃありませんでしたか」

「さてね。もしかしたら、天子の意地っ張りが移っちゃったのかもしれないかな」

「意地を張り合っていては、離れて行くばかりですよ?」

「だからこそ、だよ」

彼女は天人で。

僕は人間。

彼女は下ばかりを向いてもいられないし、僕も上ばかりを向いてもいられない。

「まあ、また機会があればいつでも来たら良いよ」

「その台詞、総領娘様本人に言ってあげたらいかがですか?」

「あー、いや……天子は……」

僕は相変わらず激論を繰り広げている、やかましい店内に、もう一度目を向ける。

 

 

 

「もう頭に来たわ!頭に来たわ!あんたがあいつに手を出さないように、これから毎日ここに顔を出してやるんだから!」

「き、きったね!それなら私も、お前がまだ寝てる時間からここに来てやるんだからな!」

「な、ななななな!?ああ、あんた、言うに事欠いて、よよ、よよ夜這いなんてする気!?ふ、ふ、不潔だわっ!」

「うっせーうっせー!お前のぺちゃパイで夜這いなんかされても、あいつは気にも留めないだろうよ!ざまあみろおこちゃまめ!」

「う、ううううぅうぅぅぅう!」

 

 

 

そんな光景を見ながら、僕と衣玖は諦めたように吐く。

「言わなくても、勝手に来るだろうから……」

「……勝手に抜け出されて、怒られるのは私なんですが……」

「……ご愁傷様」

頭をもたげる衣玖に、せめてもの労いの言葉を掛ける。この苦労が僕にまで掛かってくると思うと、人事では済ませられないのだ。

「……と、もうこんな時間ですか。つい話し込んでしまいました」

「あ、本当だ」

衣玖の言葉に、僕も声を挙げる。さっきまで正午を少し回ったところだったのに、気がつけば一時を回っている。

「それじゃあ……そろそろ?」

僕はそう言って、衣玖に目配せをする。店内では不毛な言い争いが絶えないけれど、衣玖は一体どうするんだろう。

「そうですね。総領娘様、そろそろ行きましょうか」

衣玖は天子にそう呼び掛けながら、店の中に入って行く。

 

「えっ、ちょ、あ、待って衣玖!この白黒を論破したら、すぐに帰るから!」

「一生掛けても無理なので止めてください」

「ひどい!?」

「ついでに言えば、身体の成長も一生掛けても変わらない、と私は思います」

「ついでには要らないよぉぉ!?何その必要以上に人を傷つける発言!そこら辺はちゃんと空気読んでよ!?」

「え、今のところは別に空気読む必要なくね?」

「ついにはタメ語!?何だろう、今ならおぜうさまの気持ちが痛いほどわかる気がするっ!」

「病まない病まない。需要はあるさ」

「慰めになってないよぉぉぉ!」

「はいはい、わかったから行きますよー」

「え、やぁっ、ひ、引きずっちゃらめぇぇぇ!」……衣玖に引きずられながら、天子が店から出てくる。天子が何故か嬉しそうな顔をしているのは、気のせいだろう。多分。

 

 

 

「それでは、皆様どうもお世話になりました……総領娘様」

「………………」

衣玖が頭を下げるように促すが、天子はぶすっとした顔で、そのそぶりも見せない。衣玖は苦笑いを見せながら、僕に言った。

「最後までこんな調子で、本当に申し訳ないです」

「そうだぞー。ちゃんと挨拶しろー。何せ、これが『最後』になるんだからなー?きししし」

僕の隣で、魔理沙が意地の悪そうな笑いを見せる。

「う、うるさいうるさいうるさい黙りなさい!そこの白黒!」

「おぉ、こわいこわい」

怒鳴る天子に、魔理沙は素早く僕の背後に隠れた。その態度が、天子の怒りを増長する。

「こ……コ、イ、ツ〜……!」

「……せぃ」

「いでっ」

僕は呆れたように溜め息をついてから、こそこそ隠れ回る魔理沙の頭を軽く小突く。

「いったいなー。おい、いきなり何すんだよー」

「何で殴られたか、自分の胸に手を当てて考えてご覧」

僕は魔理沙にそう言い残して、憤怒で顔が真っ赤になった天子の前に向かう。

「天子も。そんなに怒ってばかりいたら、天人様としての品格に欠けるんじゃないの?」

「………………」

天子は、やはり顔を赤くして俯いたまま、何も言わなかった。衣玖は衣玖で、そんな天子の様子に、肩をすくめている。

僕は、天子の目線近くに屈んで、顔を覗き込む。

「ほら、そろそろ帰らないといけないんじゃ──」

「………………やだ」

ぼそり、と。

天子の呟きが耳に届く。

「……帰りたくない……」

小さな。

本当に小さな。

天子の、最後の意地っ張り。

「……そうは行かないでしょ」

「……何で、帰らないといけないの?私が……天人だから?天人は、地上に住んじゃ、いけないの?天人は……っ、わ、私は、ここに居ちゃいけないの!?」

俯いた天子から溢れ出す、思いの丈。それは、確かに意地っ張りだけど──これ以上に無く素直で純粋な、意地だった。

「……総領娘様。彼のご迷惑になりますよ」

「だってっ!」

衣玖の手を振り払う。上げたその顔は、涙で濡れていた。

「わ、わ、わた、し……は……、ここが、いいの。ここからも、貴方からも、離れたく、ないの」

だって。

だって。

 

「……好き、だから……」

 

一瞬でも離れたくないから。

 

 

 

僕は、何も言わずに。

 

そっ、と。

 

泣きじゃくる天子の髪を、櫛で梳くように、撫でた。

 

「また、何時でも来れば良いよ」

 

そうすれば僕は、何時でも。

 

こうやって、頭を撫でてやれる。

 

あの時、帽子を僕にくれたのは。

 

そういうことなんでしょう?

 

──少し、自意識過剰な考えかもしれないけれども。

 

 

 

「……子供扱いしないでよ」

「そういう台詞は、そんな嬉しそうな顔で言うもんじゃないと思うけれどね」

「いいの。次に会う時には、もっと大人っぽくなって、帰ってくるんだから」

「あはは、楽しみだ」

「……信じてないわね」

「そんなことないよ」

「ふん、良いもの。次に会ったとき、びっくりするのはあんたなんだからね」

「期待して待ってるよ」

「……ふんっだ」

 

 

 

──終始、顔を真っ赤に染めて、天子は有頂天へ帰っていった。

今でも帽子は、店に置いてある。まあ、被ろうにもあのデザインは男には似合わないだろうから、今まで一度も被ったことはない。

 

さて。

あれから、変わったことを幾つか挙げて行こうと思う。

まあまず、何と言っても、魔理沙が店にやって来る頻度が増えた。以前は、週に二度来れば多い方だったのが、天子が帰ってからというもの、週に五度六度は当たり前のほぼ毎日ペースになっている。きちんと本は借りて行ってくれているので、こちらとしては文句は無いのだけれど──延滞していた本も、少しずつ帰ってくるようになったし。悩みの種は、大図書館の子──パチュリーと言ったっけ──が、やたらと僕に敵対心を持っている、といったところだろうか。僕からは何もした覚えは無いのだけれど。この間なんて、朝起きたら目の前に火の玉が落っこちてきた。おっかねえ。

衣玖もここ最近良く来る。何でも有頂天には、娯楽という娯楽が殆ど無いのだそうで、やることといえば天子の世話か桃を貪り食うかのどちらかだという。そのため、本を借りて木陰で読むのが一番の楽しみらしい。ちなみに、最近愛読している本が『恋空』という恋愛小説……変な物に毒されないか、少し不安だ。

後は、まあ微々たることではあるんだけれど、慧音さんに良く話し掛けられるようになった。どうも以前、天子が居なくなった時に、一緒に捜していた自分を無視して帰ってしまったことを、根に持っているらしい。悪いことをしたと思って謝ったら、何故か顔を真っ赤にしてあたふたしながらも、許してくれた。それ以来、以前にも増して良くしてもらっている。ただ、夜中に勝手に僕の布団に忍び込んでくるのは、勘弁願いたい。あなた聖職者でしょ。

で、まあ、天子のことなんだけど──ご多分の予想に漏れず。

有頂天に帰った、その翌日。

彼女はいきなりやって来た。

そして僕に言ったのだった。

 

『どう、驚いたでしょ』と。

 

大人っぽくなったかどうかはどうなった、と聞くと、彼女は無い胸を張ってこう言うのだ。

 

『昨日の私よりも、一日分、大人っぽくなってるじゃない』。

 

……まあ、屁理屈だと。

確かに驚いたし、微量ながら大人っぽく(というか、大人)にはなってはいるけれども。

僕としては、一刻も早い成長(主に断崖絶壁への)を望みたい。衣玖は絶対に成長しないとか言っていたけれど、まあ僕は別に、それでも良いんじゃ無いかとは思う。……需要は確かにあったようで、何よりである。とまあ、こんな長口上をつらつらと並べている内に、もう良い時間になったようだ。

店先の戸に、小さな影が映った──と思えば、その戸が勢いよく開け広げられる。

 

そしてまた、店が賑やかになる。

 

「ただいまー!」

 

僕はその小さな影に、そっと、話し掛けた。

 

「──おかえり」

 

 

 

人里の一角には、古ぼけた貸本屋がある。ほこりくさくて、ぼろっちくて、けれどとても明るい店。笑いの絶えない、いつ行っても騒がしい、楽しい店。

その店はいつしか、『天使の通う店』なんて呼ばれるようになった──その『天使』が誰の事かは、誰も知る由が無いけれど。

 

けれど、ほら。

 

耳を凝らして聞いてご覧。

 

古本の甘ったるい匂いと共に。

 

今日もまた、『天使』の歌声が、店内に響き渡っている。



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霊夢短篇

「……また来たのね」

霊夢は疎ましげにこちらを見たあと、明らかにこっちに気づくように大きな溜息をついた。そりゃ毎日のように来られたら欝陶しいのは解るけど、もうちょっと気を遣って欲しいとは思う。せめて溜息ぐらいは、僕の居ないところでしてもらいたいものだ。

というか。

「毎回毎回、僕が来る度に『また来た』、って霊夢が言うから、配慮して一週間くらいは来なかったはずだけど?」

そう。実は、霊夢の顔を見るのは一週間ぶりだったりする。霊夢が人里にやって来ることは滅多にない(少なくとも僕は見たことが無い)ので、僕が博麗神社に来なければ必然的に顔を合わせる機会も減るのだから、当然っちゃあ当然のことなのだけれど。

すると霊夢は、少し拗ねた表情を浮かべながら、言った。

「そのせいで私は餓死しかけたんだけれど?」

「……えぇ?」

驚愕する。霊夢に集金能力が殆ど備わっていないことは知っていたけれど、まさか『僕が来ない』という、たったそれだけのせいで餓死しかけるなんて思いもしなかったからだ。

「……魔理沙とかレミリアとかは来なかったの?」

「あいつらが来たって、賽銭を落とすどころか、茶ぁ飲んで茶菓子食ってゲップして帰るだけじゃない。お陰で食糧は殆どゼロよ。何で一週間も無断で来なくなるの、馬鹿じゃないの」

……来たら来たで欝陶しがられ、来なかったら来なかったでやはり疎まれる。

「じゃどうしろって?『馬鹿な』僕は、やっぱり来ない方が良かったの?」

「……あんたは別に来なくても良いわ」

「さっきと言ってることが違ってない?」

「違ってない。私はあんたに来てもらいたいんじゃなくて、『食糧』に来てもらいたいのよ」

「食糧がひとりでに歩きだす、とでも思ってるの?」

「思ってはいないけれど、あるじゃないの。あんたの右手に、素敵なものが入ってそうな袋が」

その袋を指差され、僕は渋々それを霊夢に手渡す。霊夢は僕の手からそれを引ったくると、素早く中身を覗いた。中には人里で買った野菜やら肉やらが入っている。

霊夢はひとしきり袋の中身を眺めると、これまた素早い動作で、僕にその袋を突っ返した。

そして一言、呟く。

「……早く作って」

主語の抜けた文を提示されて、しばらく考え込む。

「……何を?」

「う……」

僕の返答に、軽く呻く霊夢。

いや、本当はその主語が何なのかはわかりきっているのだが、相変わらずものを人に頼む態度がなっていないので、少し意地悪をしたくなったのだ。

「……その……」

霊夢は少し俯きがちに目線を逸らし、口を紡いだ。きっと霊夢の心中では『さっさと察せよ解っているんだろ今私が何を求めているのかがというかさっき餓死寸前だって言ったところだろうが』みたいな言葉か、それに似た類の罵倒が渦巻いているのだろう。けれど立場上、ここで強くは出れないのだ、ということは、彼女自身は勿論僕も解っている。

やがて霊夢は、蚊が鳴くように小さな声で僕に言った。

 

「……ごはん……」

 

 

 

言い切った後、霊夢の腹から盛大な唸り声が聞こえる。

 

 

 

一瞬、空気が凍った。

 

 

 

「あ……」

ぽつり、と呟くように漏らした霊夢の顔は、俯きがちでよくは見えなかったけれど──間違いなく、真っ赤だっただろう。

「ち、ちが、今の、私じゃ」

霊夢は顔を上げると──やはりというか、顔は茹蛸のように真っ赤だった──ぶんぶんと手を振って、必死に自分の腹の虫が鳴ったことを否定した。

「……ぷっ」

僕はというと、その滑稽な照れ隠しを目の当たりにして必死に笑いを堪えていた。

ああ、もう。

これだから放っておけない。

「わ、笑うなぁぁぁ!何よ、元はといえばあんたがご飯作りに来ないから悪いんでしょ!?自分の罪を棚に上げて人のことを、わ、笑うなんて……天罰が下るわよ!」

「あー、ごめんごめん」

霊夢のぽかぽか殴りを軽くいなしながら、苦笑いを浮かべる。

ああ、これだ。

これがない一週間は、まさに灰色だった。

「心から悪いと思っているなら、これから無断で来なくなんてならないで!心配だったんだからね、ほ、本当に……!」

そう言う霊夢の目からは、いつの間にか数適の雫が流れ落ちていた──そしてまた、俯く。頭の大きなリボンの赤が、今の僕の目にはとても優しい色に見えた。

「………………」

僕は何も言わずに、霊夢の頭を軽く撫でる。手の上で溶けそうな髪束が、とても弱々しく感じた。

「……っ!」

霊夢は身体を少し揺らしながら、けれど嫌がる様子も無く、僕の肩に頭を預ける。霊夢の少しくぐもった声が、僕の右の耳に入ってきた。

「……馬鹿よ、あんたは」

「……ごめんね、馬鹿で」

「けど同じくらい、私も馬鹿」

「それは……どうだろう」

「馬鹿なのよ。だって」

 

 

 

あんたが来なかった間。

 

 

 

あんたのことしか考えられないんだもの。

 

 

 

「お腹減った、とか。

眠たい、とか。

掃除しなきゃ、とか。

そんなことも考えずに。

ただ、あんたが今日も来ない。

昨日も来なかった。

明日は来るはず。

そんなことばかり考えてた」

 

 

 

──僕もだよ。

 

その一言が言えたら、僕はどれだけ楽になれただろう。霊夢はどれだけ喜んでくれただろう。

 

けれど僕は何も言えなかった。

 

あの灰色の一週間。

 

あれを『馬鹿なことをした』と、一概に思うことは、僕には簡単に出来なさそうだったからだ。

 

何故なら──あの一週間を経たからこそ、こんなにも霊夢が愛しく思えるのだから──。

 

僕は霊夢に、囁いた。

 

 

 

「夕飯にしようか」

 

 

 

「……まあ、今回は大目に見てあげないことも無いけど」

そう言いながら霊夢は、ゆっくりと僕の傍を離れた。涙は乾いて、目尻に跡が残っていた。けれど何事もなかったかのように、その表情は晴れやかだった。

「でも、次!また同じことをしたら、今度は絶対に許さないわよ!」

「……どう許さないの?」

純粋な疑問をぶつける。霊夢は、ふん、と一度鼻で笑ってから、僕に人差し指を突き付け、言った。

 

 

 

「その時は、人里のあんたの家まで行って三日三晩恨み言を枕元で囁いてやるわ!」

 

自信満々に告げる霊夢に、僕は不意打ちを受けたように一度噴き出してから、言った。

 

「それは恐ろしい」

 

「でしょ?……それが嫌なら……その……毎日、博麗神社に来なさいよね!解った!?」

 

「解ってるよ、霊夢」

 

「……今日の献立は?」

 

「ニラと挽き肉のピリ辛味噌鍋」

 

「……ふん」

 

霊夢は不機嫌そうにそっぽを向いてから──これも照れ隠しだということを、僕は知っている──、神社の中に入っていった。

僕は、そんな霊夢の後ろ姿に若干の懐かしさを覚えつつ、その後を追った。

 

 

 

きっと霊夢は、明日も明後日も明々後日も、一ヶ月後も三ヶ月後も半月後も一年後も、僕が来た時はこう言うのだろう。

 

『また来たのね』と。

 

だから僕は、明日も明後日も明々後日も、一ヶ月後も三ヶ月後も半月後も一年後も、神社から帰る時はこう言うのだ。

 

『また来るね』と。

 

そのために僕は、踏み出す。

 

霊夢の示した道の、第一歩を。

 

 

 

「じゃあ、そろそろ帰るよ」

 

「……そう」

 

「……ねえ、霊夢」

 

「ん、何?」

 

「また来るから、そんな悲しい顔しなくても」

 

「なっ!し、してないわよ!」

 

「……くっ」

 

「笑うなぁぁぁ!」

 

「ご、ごめんごめん」

 

「……ったく……」

 

「……それじゃあ」

 

「……うん」

 

 

 

「……また明日」

 

 

 

「!………………うん」

 

 

 

──また、明日。

 

何処かで逢おう。

 

世界を君色に染めるために。



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星短篇

 幻想郷の外れの外れ、人里からも少し離れた、ともすれば妖怪に襲われても何も文句は言えないような、そんな場所にその骨董屋はあった。

 風の神がふぅっと吹けば礎ごと飛んでしまいそうな風体で、とても大きいとは言えない、そんな小さな、小さな店。

 

 

 

「こんにちは。今日も来ました」

 そう言って今日も少女は店に入り浸る。

 何時間だろうと飽きもせず、ふわぁー、だの、ほわぁー、だの言いながら、古めかしい皿や壺を眺め続け、もう日が暮れようかという頃合いになると、こちらにぺこりと一礼をして小走りで店を去る。店主はそれを見届けて、ハァ今日もまともな客は来なかった、などとボヤきつつ店を閉める。そんな生活を送るほど老けこんでは居ないのだが――そもそもこんな酔狂な店をやっている時点で、言い訳にもなっていないだろう。

 対して少女の方は、この店には似つかわしくない格好をしていた。金色の髪に赤鮮やかな花飾りをちょこんと載せて、虎柄模様の服を着込んだ姿は、茶色溢れる店内からは明らかに浮いていた。まぁ浮いていたところで、それを気にするのは店主か、たまに訪れる数少ない客しか居ないのだが――何せ少女の方はさして気にすることなく、花飾りを揺らしながら商品を吟味している。

 他に客も居ない状況で、「お前の服装は浮いている」と指摘するだけの度量も、店主にはなかった。朝一番から店を閉めるまでの間、何も買わず店の中をうろうろとうろつかれては店主としてはたまったものではないのだが、かと言って品物を買う気がないのかというとどうもそうではないらしい。時折「これは」と思う品があるらしく、その時は少し独り言の語調が高くなるのである。

 完全な冷やかしではない、というところがあって一方的に追いだすのは気が引けるし、それをやって里に噂を流されてしまっては店の心証に関わる。それならば居たいだけ居させてやればいい、どうせ店には数える程度しか客は来ないのだ。そんな状況で悪い噂など流されては、数少ない顧客をも失いかねない。それだけは避けたいのだ。

 そういう理由であったので、暫く少女は放置することとした。どうせそのうち、飽きて店に来ることもなくなるだろう。店主はそう思っていた。

 

 しかし予想に反して、少女は店に足繁く通った。

 開店から閉店まで、品物を穴が空くように見つめて、満足したように帰っていく。品物を買うことはせずにただ品物を見て帰る。同業者かとも思ったが、それならこんなに目立つはずもない。けれどこんなに酔狂な客も珍しい。店主は心に決めて、少女に声をかけた。

「いくら探しても、あんたに見合う物はここには無いと思うがね」

 そういうと少女は、初めてこちらを見た。正面から見ると、やはりこの店には不釣り合いな風貌である。少女は店主にこう返した。

「いえ。探しているのは、私に見合うものではないのです」

「……誰かへの贈り物かい?」

「……えぇ、まあ。そんなところでしょうか」

 店主は思った。贈り物にここまで時間をかけるとは、よっぽど心優しい聖人か、それとも本当の酔狂者か。

「まぁなんでもいいんだがね。こちらとしては、商品を見るだけで買わない、それも毎日、となると、流石に参るのだけど」

 店主はわざと愚痴っぽく言った。と言っても本気ではない。どうせ客などそうそう来ないのだ、冷やかし目当ての客が一人増えたからって、何の問題もない――店の経営的には問題は山積みだろうが。

 けれど少女はその店主の言葉を真面目に受け取り、

「あ、それは、その……も、申し訳、ありません」

と、語尾が段々すぼんでいくように言いながら頭をすごすごと下げていった。店主は一つため息を吐いて頭を抱える。

「……まぁ、いいさ。客なんて滅多に来やしないんだし、好きなだけゆっくりしていけばいい」

「……い、いいのですか?」

 少女は上目遣いに尋ねる。

「いいって、何が」

「この店に居ても」

「………………」

 店主は悟った。こいつは、酔狂な聖人だ。それもクソが付くほどに真面目な。

「座敷に上がりなよ。お茶でも入れよう」

「あ、ありがとうございます」

 それから少女は、たまにではあるが値段の安い箸置きや小物類を買っていくようになった。

 けれども店にやって来る頻度はこれまでと変わらず毎日、開店から閉店まで。

 店主はしかし、これも悪くはないと思いつつ、少女の相手をしてやるのであった。

 

 

 

 少女が店にやって来るようになって一ヶ月と三日ほど経つ頃。

 とある馴染みの客である男(それでも店に訪れることは滅多になく、これが久々の来店であった)が、割れた代わりの湯呑みを買ったついでとばかり問うてきた。

 

「店主、あれは……店主の嫁さんか何かかい?」

 

 その直後、「ふぁっ!?」と聞いたことも無い声が店に響いた。声の方に視線を向けると、顔を真っ紅に染めて、皿を両手で持ったままこちらを凝視している、件の少女の姿が見えた。小刻みに身体が震えている――持つ皿が、それに連動して不安定そうに揺れているのが見えた。

「ありゃま、冗談のつもりだったんだが」

 男はそんな軽口を残し、湯呑みを持ってサッサと退散してしまう。残ったのは、先程の体勢で硬直する少女と、それを気まずそうに見る店主の二人のみである。なんとも言えぬ空気に店主は軽く頬を搔きながら、硬直する少女に言葉を掛ける。

「その持ってる皿、買うのか?」

 と、少女はアワアワ、という感じで皿を取り落とそうとする。なんとか膝を立てて支えることで、皿を落とすことは免れたが、少女は未だに頬を真紅に染めたまま、たどたどしく言葉を紡ごうとするばかりである。店主は、致し方なし、といった風に一つ溜息をつき、少女に言った。

「その皿は、君にやる。いつも店に来てくれているから」

 その言葉に少女はポカンとしてしまう。けれどハッとしてから、その言葉にこう言い返すのであった。

「それはいけません。私は対価となる銭を支払っていませんから」

「いいんだ、いい。ただ、その皿を持って、今日のところは帰ってくれないか。その調子で平常通り店に居座られると、皿の二、三枚は平気で割れそうだ」

 店主の言葉に少女は何も言い返せず、ほそぼそと言葉を紡いだ。

 

「このお皿の代金は、いずれ必らずお支払い致します」

 

 そう言って彼女は大事そうにその皿を抱えたまま、初めて、閉店時間ではない時間に店を去っていったのであった。

「これで、この店に来る回数も減るだろう」

 店主は、これでいい。この店は、年頃の娘が通うに相応しい店ではない、などと思いつつも、内心は胸にポッカリと穴が開いたような気分でいた。

 結局その日は少女が店にやって来ることはなかった。

 そしてその日から、少女がぱったり姿を現さなくなったので――店主の胸に空いた穴は塞がることなく、店主と彼を取り巻く環境は、いつも通りの日常に戻ったのである。

 

 

 

「……ずず……むぐ……はふぅ……」

 熱いお茶を啜り、お茶請けである饅頭を頬張る。

「ご主人。今あまり食べ過ぎると、夕飯が食べられなくなってしまうよ」

「………………」

「……ご主人?」

「え、あぁ、ナズーリン。一体どうしましたか?」

 ナズーリン、と呼ばれた鼠の妖怪は、夕飯の準備をしながら少女に言う。

「だから、今食べ過ぎると夕飯が食べられなくなってしまうよ」

「え、それは……」

 少女はふと、手元を見る。盆の上に載っていた4つの饅頭が全て消え失せていた。……いつの間に4つも食べたのだろう。

「信者からの御供とは言え、そんなに食べていてはいけないよ。ただでさえ最近は、あまり出歩かなくなったのだし。少し前は毎日のように外に出ていたのに」

 肥満体質の毘沙門天なんて、誰からも信仰されはしないよ、と冗談っぽく語るナズーリン。ふと少女の脳裏を、あの店主の顔が過ぎった。

「……そう、ですね。気をつけます」

「……ご主人。どこか悪いところでもあるのかい? 顔色が優れないようだけど」

「いえ、そんなことは」

 慌てて否定する少女に、訝しげな顔を浮かべつつ夕飯の準備を進めるナズーリン。

「まぁ、ご主人が外を出歩かなくなったから、また宝塔を失くしてしまわないか、という心配をせずにいいからこちらとしては楽でいいんだけれどもね」

「いくら私でも、宝塔のような大事な物を、そうそう失くしたりはしませんよ」

「わかっているよ」

 ナズーリンは顔に微笑を浮かべつつ、野菜を盛った皿を机に置く。これを見た少女は、顔を上げてナズーリンに問いかけた。

「ナズーリン、このお皿は……」

 青菜や人参、大根など、色とりどりの野菜が盛られた、土製の皿。あの時、店主に譲ってもらった皿であった。

「あぁ、この皿? 人数分のサラダを盛るのに丁度いい大きさの皿だね。感謝するよ、ご主人」

「……いえ」

「それにしてもこの皿、どこから貰ってきたんだい? 命蓮寺の信者からの物だというのは、想像に難くないのだけれど」

「それは……」

 少女の顔が曇ったのを見て、ナズーリンは「まぁ、話したくないのならいいのだけど」と、そこで話を打ち切った。

「ただいまーっと」

「あー、お腹減った」

 と、襖を開けて現れたのは、セーラー服姿の少女と、傍らに人の顔を模した雲を携えた女性。村紗水蜜と雲居一輪である。一輪の傍に常に付いている人面雲は雲山という。三人(二人と一塊)ともれっきとした妖怪であり、ここ――命蓮寺に住む私達の同士である。

「おや、ムラサ船長に一輪」

「おかえりなさい、二人共。……聖と響子は?」

「まだもうしばらく掛かるみたいだよ。先に夕飯食べといてってさ」

「姐さんには皆で一緒に食べましょうと言ったんだけどもね……」

 一輪が困ったように言う。人里でまた信者たちに捕まっているのだろう。何も聖のような身分の者が、わざわざ人里に出向いて布教活動を行う必要も無いんじゃないかと思うのだけれど。響子もそれに付き合わされているのだろうか。

「……ちょっと、外の空気を吸ってきます」

「ご主人? 夕飯がもうすぐ出来上がるよ?」

 席を立つ少女に、ナズーリンが声をかける。少女は軽く微笑み、

「それまでには戻ります」

と、そう言って、外へと続く障子を開けた。

「……ねぇナズーリン。星に何かあったの?」

 その様子を疑問に持ったムラサが、ナズーリンに問う。

「さて。ご主人の考えることは、私にはわからないさ」

「またそんな思ってもないことを言う」

 その言葉に対し、一輪が茶化すように言う。

「本当さ。今回ばかりは、ね」

 鍋をかき混ぜながらナズーリンが言う。僅かばかりの微笑を浮かべた顔には、どこか憂いが混じっているように感じられた。

 

 

 

「おんや、こりゃまた」

 外に出たところで、ふと誰かに呼び掛けられる。見知った声に少女は、振り返り名を呼んだ。

「マミゾウ。こんなところで何を?」

 二ツ岩マミゾウ。幽谷響子と共に、つい最近命蓮寺に居着いた、化け狸である。狸らしくどこか腹に一物ある態度ではあるが、その実は心優しい妖怪である。尤も、彼女の態度もさることながら背後に見える大きな狸の尻尾から、里の人間などはいかんせん「胡散臭さ」を拭い去ることが出来ないらしい。

「何を、と言われてもの。儂はただ、ほれ」

 手の煙管をつい、と上に向ける。くゆらせた煙の先には、綺麗な満月が浮かんでいた。

「こんなに月の良い宵には、外に出たくなるものでの」

 お前さんもそうじゃろ、そう言って煙管を口に咥えるマミゾウ。

「……マミゾウには、悩み事はありますか」

「んん?」

 少女は思い直した。私は何を言っているんだろう。こんな下らないこと、誰かに言ったことで解決するはずもないのに。けれどこちらを刺すマミゾウの視線に、訂正することもできぬまま、少女は俯いてしまった。

「悩み事のう。まぁ、無いことも無いかの」

「……一体どんな悩み事ですか?」

 少女は驚いて聞き返す。マミゾウのように楽観的な人物にも悩みはあるのか。マミゾウはもう一度煙をくゆらせ、答えるのであった。

 

 

 

「お前様がそんな風にいることが、儂の悩み事じゃよ」

 

 

 

 

「あら。貴方は――」

 人里にやってきた少女に話しかけてきた人物。金色に紫のウェーブがかった特徴的な髪色の女性。

「……聖」

 聖白蓮。少女達の住む命蓮寺の開山者――命蓮寺に居る者は皆、その人徳に惹かれて居着いた者ばかりである。

 妖怪からも。

 人間からも。

 尊敬、尊厳、敬意を向けられる存在。

「聖。貴方に、聞いて欲しいことがあるのですが」

 少女は、思った。

「はい。それが貴方様の望みならば」

 彼女ならば、私の悩みを解決してくれるかもしれない。

 消え入りそうな声で――実際、聞こえるかどうかも怪しいくらいの声で、少女は言った。

 

「私は彼に、一体、何がしてあげられるでしょうか」

 

 

 

 今日も、少女は来なかった。

 これでいいのかもしれない。

 そもそも、こんな店にあんな小綺麗な少女がいることがおかしかったのである。

「これで、いいんだ」

 店主は呟いた。もう閉店の時間である。小走りに去る少女の後ろ姿も、今はもうない。きっと、これから先も。

 

「あのっ!」

 

 店の明かりを落とそうとした直前、聞き慣れた声が辺りに響く。店主は驚いて振り向いた――あの少女だ。

「……お客さん、もう閉店だから。来るならまた明日にしてくれるかい」

 ここまで走ってきたのだろうか、少女は息を切らしながらも、店主のその言葉に言い返す。

「私は――」

 

 

 

 初めは単に贈り物を探しに立ち寄っただけだった。

 いつも迷惑を掛けている皆に、何か感謝を表せる物があれば、そんな気持ちで立ち寄ったのがこの店。

 けれど、店の奥に佇んでいる彼の姿。

 つまらなそうな、やる気の無さそうな、そんな目。

 それを見る内、私はこう思うようになった。

『彼に元気を出して欲しい』

 店に通う内、彼のことが色々わかってきた。

 彼は感情を表に出すのが苦手なのだ。

 煮え切らない態度を取っているだけなのだ。

 本当は――心優しい人物なのだ。

『どうせ客なんか、来やしない』

 そう語る彼の顔は、言葉と反して悲しそうだった。

 私はただ、彼に笑って欲しかった。

 だって私は――。

 

 

 

「私は、貴方のことが、好きになってしまったようです」

 

 店主の顔が、驚きに満ちる。少女はそれに構わず、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「おかしいとお思いでしょう。笑って下さっても結構です。蔑んで下さっても結構です。ただ――」

 少女は顔を上げた。目に浮かんだ涙は、頬をまで濡らしていた。

「貴方にこのことを伝えないまま、離れていくことだけは、できなかったのです」

 少女はそれきり、黙ってしまった。店主も何も言えず、ただその場を沈黙が支配した。

 沈黙を破ったのは、少女の方であった。

「言いたいことはそれで全てです。……邪魔をして申し訳ありませんでした」

 涙を拭い、一礼をする。そして、背を向けて小走りでその場を去ろうとした――。

「ちょっと待て」

 店主のその言葉に、少女は足を止める。

「……少し前に君にあげた皿があったろう」

 少女は店主の方に向き直った。店主は頬をぽりぽりと掻きながら言う。

「あの皿は、結構値の張る物なんだ。だから、あの時あげた、と言ったのは、撤回させてもらう」

「……はい。ですから、その代金は――」

「持ってこなくてもいい」

 少女は店主の言っていることがわからなかった。

「では、どうすれば――」

「……ここで働いて、返してもらう。そっちの方が、君もいいだろう」

「え――」

「だから、だ」

 

 

 

「明日、開店時間に、店に来るように。いいかい」

 

 店主の言葉に、少女は――また、涙を流しながら言った。

「……はいっ。誠心誠意、働きます」

 その言葉に店主は、初めて、少女に笑顔を向けるのであった。

「そういえば、名前を聞いていなかったね」

 店主がそう言うと、少女は袖で涙を拭い、満面の笑みでこういうのであった。

 

 

 

「はい。私は――私の名前は、寅丸星と言います」

 

 

 

 その時初めて店主は知るのであった。

 

 

 

 恋し、恋された相手が、毘沙門天であることを。

 

 

 

 

 

「それと、だ」

「はい?」

「言われっぱなしっていうのも、ちょっと癪なんで」

「はぁ」

「……僕も君のことが好きだ」

「え?」

「だから、僕も君が好きだ」

「………………きゅぅ」

「……これはなんともし難いな……」



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小町・華扇・魔理沙短篇

久しぶりに。


 その河の色は、いやにどす黒く見えた。

 近付いて掬ってみると、水自体は透明だ。けれどその底が、真っ暗闇だったのだ。光なんて一筋どころか欠片も見当たらない、深淵。

 じゃあこれは河ではないのか――河というものは、対岸があって、そう深さはなくて、水生物が生息していて。

「それ以上近寄ると、魅入られるよ」

 声がした方を見ると、座り込んで水面に釣り糸を垂らす女性がいた。

「魅入られるって、何に」

「決まっているじゃないか」

 しかし女性はそう言ったきり押し黙り、ただ釣り糸の先の浮きをただじぃっと見るのに戻った。

 沈黙。

「……釣れますか」

 ただ会話もせず突っ立っているのもなんなので、話を振る。

「釣れないだろうね」

 にべもなく、女性は言う。妙に確信を持ったような口調で。

「じゃあなんで釣り糸を垂らしているんですか」

「んー。なんでだろうね」

 女性はくぁ、と欠伸を漏らす。きっとこの女性はよほどのんきな人か、人生に諦めを付けた人かのどちらかだろう。

「まあ強いて言うなら、獲物はあいつさ」

 彼女はそう言って、水面を指差した。そこにはけれど、魚の影などない。それどころか流木も、長靴も、水面の揺れさえも。

「何もないじゃないですか」

「いーや、ある。本当に何もないと思ってんのかい? あんたは」

「………………」

 付き合っていられない。身体を翻し、僕は歩き出す。

「どこに行く気だい」

「ここ以外ではないどこかです」

「ここがどこかもわからないのに?」

「ここがどこかを知りに行くんです」

「ご苦労なこって」

 ショリ、という音が聞こえた。林檎か何か食べているんだろうか。

「まぁいいさ。飽きたらまた、ここに来ると良い。あたいもそろそろ、仕事に戻らなきゃいけないしね」

 仕事? 休憩中だったのか。

「サボってたことをバレたら、またどやされる」

 サボってたのか。やっぱりろくでもない人間だった。

「あー、行くあてがないならこの河沿いに進んで、蛍の集う辺りを曲がるといい。そこになんかしら建物があるかもしれないね」

「……『一応』耳に入れときます

「素直じゃないねぇ」

 立ち上がり、ここから去る女性の足音が聞こえる。全くおかしな奴だったなあ、と思いながらひょいと振り向く。

 

 巨大な鎌を背負い、林檎を齧る少女が見えた。

 

 

 

 女性の言うとおりにしばし歩くと家が見えた。少なくとも普通の民家では無さそうな、大きな屋敷だ。

「良かった。ここがどこか教えてもらおう」

 御免下さい、と戸を叩く。少し経って、戸が開く。

「……何用でしょうか。河ならあちらですが」

 出てきたのは、何やら不機嫌そうな女人。薄桃色の髪に前掛けと道着を組み合わせたような服を着ていた。ヒョッとすると、ここは道場か何かだったのかもしれない。

「いや、その河からここに迷い込んだ者ですが」

「ならば今すぐに河に戻り、然るべき場所に行きなさい。ここは貴方が居ていい場所ではない」

 酷いことを言うな。僕はここにいちゃいけないらしい。

「河にいた女性に、ここに行けば何かあると言われまして」

 僕は言う。多少脚色はしたが、まぁ大体こんな感じのことを言ってたと思う。言ってたよな。言ってた。

「……その女性というのは」

 眉がぴくりと動く。同時に顔に少し陰りが見えた。

「一体どういう者でしたか」

「どういうって」

 僕は素直に特徴を伝える。

 

「河辺に座ってて」

「ふむ」

「釣りをしていた」

「ふむ」

「髪は赤色で」

「……ふむ」

「林檎が好物で」

「…………ふむ」

「巨大な鎌を背負って」

「………………」

「仕事をサボっていた」

「今すぐそこに案内しなさい」

 ぐわしと肩を掴まれる。痛い痛い。

「案内はいいですけど、もう河には居ないと思いますよ。「仕事に戻る」って言ってましたし」

「……はぁ。今度あった時にはお灸を据えなければ」

 そういって女性は手を離した。肩、赤くなってそうだな。

 と、当初の目的を果たさなければ。

「ところで、ここはどこなんですか」

「……貴方、一体どこから来たんですか」

 疑いの視線。

「それが覚えてなくて、気がついたら河辺にいたんで」

「………………はぁ」

 呆れたように溜息をつかれる。まあそりゃそうだ。こんな荒唐無稽な話を初対面の相手にされて、呆れないほうがおかしい。

「……いいですか。よく聞きなさい」

「はぁ」

「ここは、あの世とこの世の境目です」

「……はぁ」

「そして貴方が目覚めた河は、三途の河です」

「ははぁ、なるほど。道理で底が真っ暗なわけだ」

「………………」

「どうかしたんです?」

「……そこまで言って、まだ気付かないんですか?」

 気付く。気付くとは、一体何に。

「今の話の流れでわかるでしょう。ここはあの世とこの世の境目で、貴方の目の前には三途の河があった。これが何を意味しているのか」

「ふむ」

 話された項目をまとめる。

「えーと、つまり」

「はい」

「家に入れてくれるってことでしょうか」

「何故そうなったんですか!?」

 驚かれた。どうやら違った答えだったらしい。結構自信があったんだが。

「……はぁ。物分りの悪い貴方に、教えてあげましょう」

 教えてくれるらしい。親切な人で良かった。これでまた出会ったのが、さっきのような飄々とした掴みどころのない人だったらどうしようかと――。

 

「その身を以て」

「おぶ」

 

 腹パンされた。超痛い。

「……当たった? いえ、今の話が本当なら彼の身体は霊体で、殴る蹴るなどの攻撃はすり抜けるはずですが。きっと死ぬ際に未練が……」

 顎に手を添えてぶつぶつ言ってる彼女の姿が、だんだん黒に侵食されていく――ああ、僕が目を閉じているのか。

 あぁ、あんまり良い人じゃなかったなぁー……。

 

「……って……だいじょ……起き……」

 

 でも、意識を手放す直前に見えた彼女の心配そうな顔は、悪い人には見えなかった。

 

 

 

『黒ってさ、二種類あると思うんだよな』

 まっくらな中で、僕はそう言われる。

『安心出来る黒と、安心できない黒』

 だとすると、僕の周りを渦巻くこれは、間違い無く安心できない黒だ。

『まっくらな中にこもってるとさ、だんだん、この世界にはひょっとしたら自分しか居ないんじゃないか、って気分に陥るんだ』

 それは安心できないなあ。

『でも、そこから出たときはさ、なんか今まで以上に、光って安心できるもんなんだなあって思えるもんなんだ』

 そういうもんかね。

『そういうもんなんだよ』

 それじゃ、黒は安心できないし、安心もできるってこと?

『いや、ちがうちがう。世の中には、数少ない『安心できる黒』ってのがある、って話さ』

 へぇ。それって一体何なの?

『そりゃ勿論、この私だよ』

 ……安心出来る黒では、ないんじゃないかな。世間の印象的には。

『そんな周りの噂に流されんなよ。お前の印象を言ってるんだよ、私は』

 ま、確かに。君の黒を見たら、ちょっと安心するところはあったりするけどさ。

『だろ!? そうだろ!?』

 ただ、安心できないところもあるかな。

『お、私に意見か。偉くなったじゃないか』

 まぁ安心できないってのは、会うとドキドキするってのがあるからなんだけど。

『………………ん? え、あ、あぁ?』

 っと、そろそろ行かなきゃ。それじゃあね。

『ちょ、おい、待てよ! 最後のって一体どういう意味だよ! なぁ!』

 そんな安心できる声に後ろ髪を引かれながら、僕を呼んでいるもう一つの声に向かう。

 

 

 

「お、起きたね」

「……えっと、いつぞやの釣りをしながら林檎をかじっていた巨大な鎌を背負っている赤髪のサボり魔さん」

「具体的な説明ありがとう」

 その女性の顔がすぐ側にあったので、僕は内心どぎまぎしながら身体を起こす。純和風の部屋。きっとあの屋敷の中なのだろう。

「いやぁ、災難だったねえ」

 彼女はやけににやにやしながら言う。なんだろう、僕の顔になにか付いているのだろうか。

「はぁ、まあいきなり殴られるとは思わなかったですけどね」

「あぁ、いやそうじゃなくて――まぁそれもちょっとあるんだけど」

「?」

 話が読めず頭をかしげる。

「ちなみに聞くが、ここはどこか知っているかい?」

「えーっと、あの世とこの世の境目、ですか?」

「そう。じゃあ、ここにいるあんたは一体何なんだろうね」

 考える。

「あの世とこの世の境目人」

「そんな限定的な人種は存在しないさ」

「じゃあ、この世人ですね」

「いやぁ、あの世人だ」

 あの世人。

 あのよ、の、ひと。

 ということは。

「僕死んでるんすか」

「んー? あー、死んでる死んでる。結構な確率で死んでる」

「どれぐらい死んでますか」

「まだギリギリなんとか無理すれば生き返れそうなくらい死んでる」

「絶望的ですね」

「絶望的だねえ」

「何故そこでベストを尽くさないのか!」

 ッターン、と開け放たれた麩からは、薄桃色の髪の少女。

「あ、殺人犯だ」

「あ、殺人犯さんだったんですか」

 ドーモ、サツジンハン=サン。

「違いますッ! あ、いや、違わないけど! まだ死んでないでしょう!」

「いやあ、私と会った時はまだ『この世』の人間だったのにねえ。どこかの仙人が気まぐれに腹パンしたら一気にこっち側に来ちゃったんだから。これはもう、大変なことやと思うよ」

「あぁ、あれってそういう」

 てっきり本気で殺しに来てるのかと思った。

「ッ! そ、それは貴方も悪いでしょう!? 生きてるか死んでるかわからないような者を、死神である貴方が私の屋敷に寄越すなんて……狙っているとしか思えないじゃないですか!」

「んー? 寄越したつもりはないけどねえ」

「しらばっくれないで下さい! だいたい貴方はいつも――」

「あの」

 す、と手を挙げる。会話を遮られた二人が、こちらに視線を向ける。

「なんとか、今から生き返る――というか『この世』に戻れる方法ってないもんですかね」

 僕がそう言うと、仙人であるらしい彼女は「ないこともないです」と言った。死神であるらしい彼女も「ないこともないねえ」と言った。

「じゃあ、何とかして帰して欲しいんですが」

「んー……本当なら、映姫様の意見を伺わなきゃいけない場面だけども」

「……いえ。あんな閻魔に任せたらこんな『あの世』寄りの人間は、最後は幸せな地獄行きを宣告されて終了するに決まっています」

 幸せな地獄行きってなんだろう。甘い物を死ぬまで食わされるとか、そんなんだろうか。

「じゃあどうするのさ」

「知れたことです。本来生き返るはずだった彼がこうなってしまったのは、私達によるところが大きい――」

 けきょけきょ、ぐわっぐわっ、ぐぉぉぐぉぉと。

 襖の奥から、何やら不吉な声が聞こえたような――そんな気がした。

「だったらやることは一つだねえ――」

 がしょん、と。

 死神は手に持った鎌を鳴らした。

 

 

 

「「私達の手で、死んでも生き返らせる」」

 

 

 

 

 これなら幸せな地獄行きのほうが良かったなあ、と。

 ちょっと思っちゃったりしたのは秘密である。

 

 

 

「あっ!」

 ……視界がぼやけている。暗闇。それが少しづつ晴れていく。

「お、おいっ! 大丈夫か、なぁ!」

 その先は、また漆黒。けれど、どこか暖かい黒。

「……うん。ちょっとくらくらするけど、大丈夫だよ」

 僕がそう言うと、真っ黒な彼女はじわじわと涙の粒を零して、

「うわ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ん!!!!」

「おぶ」

 腹に突っ込んできた。危ない、鍛えてなかったら死んでいた。

「ご、ごっめ、ん、なぁ! わわ、私がお前に、どどど毒キノコ入りのシチューなんか、えぐっ! 食わせなきゃ、こんなこっと、に、は……うううっ!」

「あー、うん。もう大丈夫だから。もう泣き止みなよ、っていうかあぁもうほら、はなぢる出てるから」

 ティッシュを手渡すと、少しえぐえぐ言いながら豪快に鼻をかむ。

「ご、ごめんなぁー! もう二度としないから、な!」

「うんうん、もう二度としないでね、お願いだから」

「んう」

 落ち込む彼女の頭を、軽く撫でる。

「……私のこと、嫌いになったろ。本当にごめんな」

「?」

「いやだって、こんなことする女って嫌いだろ……」

「あぁ、そゆこと。バカだなー」

 そう言うと彼女は途端にムッとして、

「だ、誰がバカだよ!」

「嫌いになるわけないでしょ。心配性なんだから」

「だ、だってさぁ……」

「それじゃあさ。魔理沙は僕のこと、嫌い?」

「なあっ! ん、んなわけねーだろ!」

「うん。僕も魔理沙のこと、嫌いじゃないから。それでいいんじゃないかな」

 けれど彼女は――魔理沙は、やや不満そうに言う。

「……私はそれじゃ嫌なんだけどなあ……」

「……はあ。じゃ、物分かりが悪い魔理沙に教えてあげるよ」

「んえ? なにを?」

 首を傾げる魔理沙。

 

 

 

「魔理沙、好きだよ」

 

 

 

 その後、恥ずかしがった魔理沙から再度腹にタックルを受け、今度こそあの世に行ってしまいそうになったのは内緒だ。

 

 

 

 

 

「……貴方という人は、またサボっているのですか」

「サボっているとは心外だね。今度はちゃんとした休憩中だよ」

「どうだか。釣れもしない魚を、ボケっと糸を垂らして待っている様は、サボっているようにしか見えませんが」

「誰が魚を釣ろうとしているって?」

「貴方以外の誰が居るんですか」

「そんなちんまい獲物ははなっから相手にしていないさ」

「じゃあ一体なにを釣ろうと?」

「あれさ、あれ」

「………………」

「………………」

「一体何年掛かることでしょうね」

「さぁてね。けど、釣れたら面白いに決まっている」

「……釣れますか?」

「釣れないだろうね」

 

 

 

 

 

 真っ暗な水面にぽつんと映った月が、糸に掛かってちらりと揺れた。

 

 

 



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文短篇

ちょいと短いので近々第二弾投稿する『かも』です。

頂いた感想はしっかり読んでます。
ひとつひとつが、とても力になります。
糞みたいな文才から糞のような更新頻度ですが、これからもよろしくお願いします。

あとよかったらTwitterのフォローもしてくれたら嬉しいです。更新報告とかもそこで行いますので、是非。


 彼女とはなんでもない。彼女でも友達でもない、知り合いですらない、ただ俺に新聞を売りつけるだけの迷惑な烏天狗だよ。

 そう言っても、周りは聞いてはくれないし、そう見てもくれない。俺とあいつがそれほど仲睦まじく見えるのだろうか。こういう客観的な意見は当人ではわからんもんだが、しかしこれだけははっきりと言うことができる。

 俺はあいつが――射命丸文のことが大嫌いなのだ、と。

 

「はろー、清く正しい射命丸ですよっと」

 とある日の昼下がり。

 今日もそいつは、びゅごんと風を一鳴らしして、店へとやってきた。

「店主、店主ー。いませんかー。いないのでしたら勝手に上がりますよー」

「それが清く正しい奴のすることか」

 家主が居ない場合、普通の者ならば帰るところを、こいつは勝手に店の座敷に上がり込んで傍若無人に茶や菓子を貪り食っては好きに写真を撮って帰っていく。前に一度居留守を決めたことがあるが、これらの振る舞いを受けて以降居留守はしないことにしている。

「あ、やっぱり居ましたね。それではこれを」

 射命丸はそう言って、肩に下げた鞄に手を突っ込んだ。思考するまでもなく、取り出したるは一部の新聞であった。

「だから、いらんと言ってるだろう。俺は新聞なんぞ読む気はない」

「そんなこと言わずに。一回読んでくれたなら、この文々。新聞の良さがわかりますって」

「活字は嫌いなんだよ」

「漫画も載ってますから」

「ヤマ無しオチ無しイミ無しの四コマ漫画は漫画とは言わん。むしろ漫画に失礼だ」

「そんな殺生な」

 新聞を突っ返そうとするも、まるで賄賂を握らせようとするように新聞を押し付けてくる射命丸。それをいつものことだと目にも掛けない客。

 いつものこの店の風景である。

 だがしかし、この店は飲食店である。いつまでもこいつの相手をしていては、その内。

「おーい店主さんよ。そんなところで夫婦漫才やってねえで、早くめし持ってきておくれよ」

 ……こうなる。というか夫婦漫才ってなんだおい。

「……今回は受け取ってやる。だがな、次押し付けてきたら俺はもう知らんぞ」

 ぐいと引ったくるように新聞を受け取る。射命丸はそれを見てにいと笑い、

「毎回毎回、そうやって受け取ってくれるのが素敵ですねぇ。ア・ナ・タ?」

「絞め殺すぞてめえ」

「冗談ですよ、冗談」

 にへらとわかったのかわかってないんだかな笑みを浮かべ、射命丸は席に座った。

「それじゃ、天麩羅うどんを下さい」

「………………はいよ」

 どの面を下げて――と怒鳴りたくなるが、これでも一応。本当に一応。客である。

「店主ー、まだかい」

「はいはい、すぐ出しますよって」

 停滞していた作業を再開する。まったく、あの烏天狗のせいで時間を食わされた。急いで作らないと、本当に客が来なくなる。

 俺は急いで親子丼を火に掛け、丼にめしをよそった。味噌汁も椀によそい、柴漬けを皿に盛る。――あぁそうだ、ネギも切らないと。

「……忙しそうですねえ」

「誰かさんのお陰で余計にな」

 ぽつりとつぶやく射命丸に、皮肉を込めて言う。手と目線は作業に集中しながら。

 その流れで、射命丸は続けて言った。

「手伝いましょうか?」

「……なに?」

 聞き取れなかった、のではない。耳を疑ったのだ。あの射命丸が手伝いを申し出るとは、明日は雨か嵐か。もっとも、その嵐もこいつが起こすんだろうが。

「手伝いましょうと言ったのですが」

「お前は客だろう。余計なことしてねえで、お冷やでも飲んでろ」

「あやや、それは残念」

 言うと射命丸はさして残念でなさそうに、水をこくこくと飲み始める。静かにしてりゃあ可愛いんだがな、こいつも。

 なんて下らないことを考えている間に親子丼が上がる。盆に丼と味噌汁、それから漬物を……。

「ん、あれ」

 漬物がない。馬鹿な、ついさっき皿に盛ったところなのに。と思った矢先である。

 

 

 

「はーい、親子丼お待たせしましたー」

 

 

 

 射命丸が――いつの間に取ったのか――親子丼を盆に載せ、客の元へ配膳していたのであった。

 

「お、文ちゃん。ありがとねぇ」

「いえいえ。たんと食べてくださいねー」

「いやぁ、文ちゃんみたいなべっぴんさんに運んでもらうと、いつものめしもうまくなるよ」

「あややや。もう、口がうまいんですからー」

 おい待て、そりゃ普段は不味いってことか――という言葉を飲み込む。

「では、ごゆっくりどうぞー」

「おいこらそこのブン屋」

「あや? 私のことでしょうか」

 わざとらしく首を傾げる射命丸。

「この店でお前以外のど・こ・に、ブン屋が居るんだ。というか手伝うなと言っただろうが」

「私は自主的に、丼を運んだだけですよ? 店主に言われたからではありませーん」

「屁理屈言いやがって……」

 右と指せば左と言うのが新聞記者ならば、右といえば上を向いて写真を取るのが射命丸文という天狗である――こうなるともう、何を言っても聞かないだろう。

 俺は一つため息を吐いてから、

「手伝うのは勝手だが、給金は出せんぞ」

「構いませんよ。その代わり新聞取って下さい」

 ここまでグイグイ来ると却って清々しい。

「御免こうむる」

「それは残念」

 またもさして残念では無さそうに言う。

「それなら、その代わりと言ってはなんですが」

「ん?」

 

「とびきりおいしい天麩羅うどんを頼みます」

 

 射命丸はそう言うと、にぃっと笑ってから。

 先ほどの配膳を見た客に呼ばれたので、

「はーい、今清く正しい射命丸が注文を取りに行きますよーっ!」

と、満面の笑みでその客の元へと行くのであった。

「………………もう少し静かに行けんのか、あいつは」

 俺はそう嘯きつつ、次の注文であるカツ丼にとりかかった。

 

 

 

「はー、疲れた」

 結局射命丸はあの後、昼の混雑が全て捌けるまで注文を取り続けた。今は完全に座敷で座布団を枕に寝転がり、グロッキー状態である。

「そんなになるまでやることもねぇだろうに」

「途中でやめるなんてとんでもない! ここで引いては、幻想郷最速の名折れです!」

「ずいぶん脆い名だなおい」

 寝転がったまま口だけは立派な事を言う射命丸に呆れる。

 けれど、しかし。

「……ま、確かに今までよりは楽だったかも、な」

 不本意だが、配膳をしなくていいというのはこんなにも楽だったのかと感じさせられたのは事実である。調理に集中できると、同時に幾つかの注文をこなすことも出来る。配膳の手間を考えるとなかなかこうはいかない。

「でしょう!? ふふん、今頃店主も私のありがたみに気付きましたか! 新聞取って下さい!」

「取らん」

 急に起き上がって目を爛々とさせる射命丸の頭を、文々。新聞でぺしんと叩く。

「……店主はいぢわるですね……」

 また急にテンションがダウンしたらしく、隅で寝転がりながら今度はぶつぶつと愚痴り始めた。こいつめんどくせえ。

「……おら、んなとこでベソかいてねえでこれ食え」

「お、待ってました」

 ちゃぶ台にうどんの丼を置くと、ひょいと跳ね起きて割り箸を手に取る。現金なやつだ――今に始まったことじゃないが。

「……あれ?」

 射命丸の箸が止まる。

「店主。これ、いつものよりもエビが多くないですか」

「……何のことを言ってんだお前は」

「間違いありません。それに、うどんの量も多いです」

「気のせいだろ。とっとと食っちまえよ」

 そう言って洗い場に戻る。さっさと洗っちまわないと、夜が面倒だ。

「いいえ。私はここの店の天麩羅うどんは何度も食べているからわかるのです。言わば私は、天麩羅うどんソムリエ!」

「限定的すぎんだろうが」

 そういう資格があったりするんだろうか。

「……ははぁ、なるほどなるほど。そういうことですか」

 射命丸がニヤニヤしながらこっちに寄って来る。なんだ気持ち悪りい。

「店主ったら、素直じゃないんですから」

「何の話か分からん」

「またまたすっとぼけちゃってー」

 こいつ殴りてえ。

「……どうでもいいが、さっさと食わないと、麺伸びるぞ」

「おっと、いけないいけない」

 サッと座敷に戻り、うどんをふぅふぅし始める。忙しない。

「それ食ったらサッサと帰れよ」

「ふぁーい」

 うどんを啜りながら頷く射命丸に、一抹の不安を覚えつつ、俺は「食いながら喋るな」とだけ言っておいた。

 

 なぜだか射命丸の顔は、終始緩みっぱなしであった。

 なぜかは知らないが。

 

 

 

「店主。きつねうどん一杯です」

「何でお前まだいる」

 やっぱり、というか。

 なんというか。

 射命丸は夜もいた。

「もう。今さら何を言ってるんですか、店主と私の仲でしょう?」

「押し売り新聞記者としがないめし屋主人の仲がどうしたって?」

「それよりも、きつねうどん一杯です」

「………………」

 押し切られる。というか、ぶった切られる。射命丸はこちらの反論を待たずして、次の客の元へと行ってしまった。その客は客で、「文ちゃん遂に嫁入りかい?」なんてことを言っている。射命丸は射命丸で、「いやー、えへへ」と否定も肯定もしない。いや、そこは否定しとけよ。

「……どうしてこうなった」

 言いながら、カツ丼に火を入れる。

 けれど、きっとこの台詞は、今言うべき台詞じゃない。

 文々。新聞記者の射命丸文に出会った瞬間に、言うべき台詞なのだ――。

 

 改めて思う。

 

「天麩羅うどんとわかめうどん一杯ずつでーす!」

 

 俺は、射命丸文のことが、大嫌いだ。

 なぜかは知らないが。

 

 

 

 その日は閉店まで、いつもよりも店の中が騒がしいままであった。



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四季映姫短篇(3)

続き物です。
四季映姫短篇(1)、(2)を未読の方はそちらを先にどうぞ。

ギャグほのぼの。


「罪深い」

 閻魔は静かに、『それ』に告げた。

「貴方に近づいたものは、皆貴方に取り込まれていく。興味本位で触ると、呑み込まれ、やがて芯から腐ってゆく」

『それ』は一言も発さず――発せず、閻魔の口上を聴いていた。

「それだけなら良い。しかし困ったことに、貴方は貴方のしでかしていることを自覚していない」

 しかし暖簾に腕を押すように、『それ』は身じろぎひとつしない。当然だろう。『それ』は自分から動くことはしない。

 忍耐強く。

 待って、待って、待って待って待って。

 近付いて来た者を――餌を。

 ぺろりと、呑んでしまうのだ。

 現に今、閻魔――四季映姫・ヤマザナドゥも、『それ』に惹きこまれてしまいそうなところを、すんでのところで踏みとどまっている。

 いけない。閻魔たる私がこんなでは、到底こいつには勝てない――。

「……このままつらつらと、貴方の罪を読み上げても堂々巡りでしょう。判決を下すとします」

 冷静に――凍りそうなほど冷たく。

 閻魔は言い放った。

 

 

 

「貴方を――今度こそ! 水曜の粗大ごみの日に出しますっ!」

 

 やはりというか。

 ――こたつはやはり、ものも言わなかった。

 

 

 

「おろ、映姫様」

 小野塚小町は、上司の姿を見て思わず声を上げた。平常ならば、凛と前を向き、颯爽と風を切って歩く四季映姫が、今朝はなんだかもじもじしながら歩いていたからだ。

「トイレでも我慢してるんかな……」

 疑問に思い近寄る。心なしか震えているようであった。

「映季様? 一体どうしたんです?」

「ひゃぁぁぁっ!?」

 ただ肩を触っただけなのに、素っ頓狂な叫び声を挙げられ、小町は驚く。通りかかる者も、何事かと映季の方を向いた。

「……こーまーちー!」

 そして怒る。理不尽に。

「……なにをそんなに驚くことがあるんですかい、あたいはただ肩をたたいただけですよ?」

「今の私にはそれでさえも致命傷なのです! 気を付けなさい!」

「???」

 それだけ言ってまたこそこそと去っていく四季映姫に、小町の頭にクエスチョンマークがいくつも浮かぶ。が。

「……なんだかわからんけど、今日は楽にサボれそうだね」

 小町はそう呟くと頭を搔きながら、お気に入りの昼寝スポットに向かうのであった。

 

 

 

「うぅぅぅぅぅうぅぅぅぅぅ、さささ、寒い……」

 書類仕事をこなしながら、四季映姫は太腿と掌を擦りあわせた。

「どうしてこんなことに……!」

 はぁー、と手に息を当てて暖めながら、恨めしそうに独りごちる。

 

 

 

 こたつは自身を堕落させる魔性の家具である。

 あれに潜っていれば、いつの間にか休日が潰れ、みかんは減り、動く気もなくなる。ついこの間までの四季映姫もそうであったのだ。

『はぁー……暖かい……幸せ……』

 そして、その堕落を四季映姫は何の疑問も持たずに受け入れていた。休日と見るや、直ちにこたつのスイッチを入れ、その中に潜り込んだ。

 なにせ休日なのだ。

 いつもいつも閻魔という肩書きにとらわれていては、いつか壊れてしまう。

 だから、たまには、こんなのもいいだろう――。

 

 しかし、こたつは魔性の家具である。

 そのうち四季映姫は『平日に使ってもいいんじゃないか』と考え始める。寒さが厳しくなってきた今日この頃、こんなに便利なものを休日にしか使わないのは馬鹿げている。そうだ。閻魔たるもの、物の使途をはっきりさせるべし。

 こたつは身体を暖めるもの。

 つまり。

 

 仕事を終えて帰宅した時。

 

 食事を摂る時。

 

 部屋に持ち込んだ仕事をこなす時。

 

 ――寝る時。

 

 

『……なんか、私』

 

 

 朝をこたつの中で迎えた時。

 

 四季映姫は――誰よりも厳格であらねばならない閻魔は、漸く気付いた。

 

 

『……どんどん、駄目人間になっては、いないでしょうか……?』

 

 

 このままではいけないと思い、こたつを――本当に、どうするか悩みに悩んで――粗大ごみに出したのが、水曜日のことである。

 それからのことは、簡単に説明しよう。

 

 木曜日。寒波襲来。寒さが更に厳しくなる。

 金曜日。暖房機器が故障する。古い石油ストーブで暖を取る。

 土曜日。彼に『顔色が良くない』と言われショックを受ける。

 日曜日。石油が切れる。買いに行くが、大雪で断念。

 月曜日。イマココ。超寒い。超寒い。なんか雪とか積もってる。暖房未だ故障中。石油も買えず。

 

 

 

「こたつを捨ててからというものの、不幸続きが過ぎちゃいませんかね……」

 一つくしゃみをする。一応ひざ掛けや厚着で対策はしているが、効果は薄い。

「……いけないいけない、これから裁判があるというのに。閻魔が風邪なんて、笑い話にもなりません……」

 自分に言い聞かせる。そうだ。罪を裁く仕事にミスは許されない。最高のコンディションで臨まなくては。なにか不備があってからでは遅い。

「……それにしても寒い……」

 もはや口癖のように寒いと言いながら、四季映姫は急ぎ足で仕事場に向かう。時間が無いというわけではないが、少しでも動かないと足元から凍ってしまいそうなのである。

 

 けれど結局、その日の裁判――どころか業務全ては、とても手についたものではなかったので。

 四季映姫は自業自得と知りつつも、あの暖かさを思い出し、深くため息をつくのであった。

 

 

 

「……はぁ……」

 とぼとぼと、部屋への道を歩く。時刻は既に夜12時を回っていた。今から石油を買いに行こうにも、店はとうに閉まっている。

 また寒い夜を過ごすのか、と考えると、本当に気が滅入る。顔でも洗って頭を冷やそう、と途中給湯室に立ち寄り、ふと鏡に自分の顔が映った。

 彼に指摘された顔色は、更に悪くなっているようであった。

 

「あはは、これでは彼のことを笑えませんね……」

 

 自嘲気味に呟き、蛇口から水を掬う。刺すような冷たさが手に伝わる。顔に水を当て、もう一度鏡を見ても、顔色は変わらなかった、

 

 初めて彼と会った時の、全てに興味を失ったような、灰色の顔。

 

 そこまでとは言わなくとも、充分、今の私は酷い顔をしている。

 

「……今、何をしているのでしょうか」

 病的なまでに規則正しい彼なら、もうこの時間には床に就いていてもおかしくない。けれど、サボった小町の分まで仕事を押し付けられていたから、もしかするとまだ書類の山と格闘している頃かもしれない。

「………………」

 四季映姫は何も言わず、一つ頷いてから、先程よりは幾分軽い足取りで給湯室を去った。

 

 

 

 男は機械的に手を動かしていた。

 ただそうすることでしか自分を見出せないように、うず高く積み上がった書類の一枚一枚に、ペンで記入事項を書き込んでいく。

「……ふぅ」

 身体が凝ったので、男は椅子に背中を預け、軽く伸びをした。次いで書類の塔に目をやって――すぐに目を逸らす。

「これは、今夜中に終わるかな……」

 答えのわかりきった問いをつぶやく。こんな量の書類、誰かに手伝ってもらわない限り一晩で終わるわけがない。男は機械的ではあるが、機械ではないのだ。

「まぁ、何を言ってもやらなきゃいけないんだけども……」

 これまたわかりきっていることである。誰かがやらねば、これは消えない。なら自分がやる。短絡で効率の良い思考である。

 と。

 ドアが1、2回ノックされる。

「? はい、開いてます」

 こんな時間に誰だろう、という疑問はすぐに氷解した。

 

「……ど、どうも……」

 

 地獄の閻魔であり、上司であり、恩人であり。

 一応のところの彼女というもの、である――四季映姫ヤマザナドゥの、小柄な体躯がそこにあった。

 

 

 

「全く、こんな仕事を残してサボるなんて、許しがたいですね」

「うん」

「これは、明日――というかもう今日ですね。小町にはキツい罰を与えねば」

「そうだね」

「ま、まあ、二人で取り掛かれば夜明けには間に合うでしょう」

「うん、手伝ってくれてありがとう……あのさ、四季映姫」

「あ、あ、そうだ! え、えっと、私コーヒー淹れてきましたから、これでも飲んでリフレッシュしましょう!」

「あぁ、うん、ありがとう。それでさ」

「な、な、な、なんでしょうっ!?」

「………………」

 

 あたふたあたふた、あっちへこっちへ落ち着きのない四季映姫に、男は困った顔を浮かべる。

 

「なんかあったの?」

「い、い、いえ! おおおおおお構いなく!」

「いや、構わざるを得ないって。そんなに動き回られちゃ、仕事もはかどらないし」

 男が言うと、四季映姫はぴたりと動くのをやめた。ただ、身体が小刻みに震えていた。

「あ、あの、ひ、ひと、ひとつ、聞きたいことがあるのですが」

「うん」

 口をガチガチ鳴らしながら、四季映姫は言った。

 

 

 

「なんで、この部屋、こんなに、寒い、ん、ですか!」

 

 

 

「あぁ、いや」

 渾身の一言にも、男は動じず言った。

「この間、暖房壊れてさ」

「……奇遇ですね。私もです」

 ソ◯ータイマーでも実装しているのだろうか、地獄の暖房機器は。

「けど、まあ、無くても困らないかなあと思って、そのままなんだ」

「寒くないんですか……」

 呆れたように四季映姫は言った。

「我慢出来ない寒さじゃないし」

「………………」

 この寒さが? 我慢できる? にわかには信じられなかった。

 

「まあ、寒かったら寒かったで対策もあるし」

 

「その対策は今すぐに施策すべきだと思いますさあ急いでその対策を講じるのですさあ早く!」

 

「というかもう講じてるんだけどね」

 

 そう言って男は、部屋の片隅を指差す。それに沿って、四季映姫の視線は移動していく。

 

 そこには。

 

 

 

 ――自身を堕落させる魔性の家具。

 

 

 

 こたつという天敵が、鎮座していた。

 

 

 

 

 

 

「……あったかい……あったかい……うぅ……」

 

 

 四季映姫はあっさり天敵に屈していた。久しぶりに味わう包み込まれるような暖かさに、涙まで流す始末である。

「……そんなに無理して捨てることもなかったんじゃないの?」

「何を言いますか! この魔性の家具とは本来相容れない物なのです! こたつに屈してしまうことは、それは即ち閻魔として負けを認めるということです! それは何があっても許されません!」

 男の言葉に、こたつから顔だけ出して勢いよく反論する。

「その姿で何言われても説得力皆無だけどね……」

「い、今は休戦協定を結んでいるだけですからっ……」

 言いながらみかんの皮を向き、もきゅもきゅと頬張る。さながらこたつむりである。地獄天下の閻魔も、これでは形無しだ。

 けれど、とても幸せそうなその顔に男は苦笑いを浮かべる。

「……うん、もう……仕事はこれだけやればいいかな」

「……だめですよー……まだのこってるじゃないですか……」

 蕩け切っているせいか、いつもの説教も緩やかである。

「いや。残りは明日、小町に全部やらせようと思って」

「……そうですか。それもまた、いいでしょう……」

 微睡みの中にいる四季映姫を見て、男はまた静かに笑って毛布を掛ける。この幸せそうな四季映姫に、風邪を引くぞと声をかけることは出来なかった。

 

「ふぁ……僕ももう寝よう」

 

 部屋の電気を切って、布団に潜り込む。

 

「……おやすみ、四季映姫」

 

 四季映姫のくしゃみが、少し暖かくなった部屋に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、映姫様」

「もう具合はいいんですかい?」

「それは重畳。そんじゃあたいは仕事に――」

「え?」

「ちょ、ま、映季様。なんですかいこの書類の山は」

「え、は、ははは、なんの、ことです?」

「はいサボりましたごめんなさい許してくださいえーきさま!」

「……え、あ、あー、そうですねぇ……」

 

「9時間コースで許してください……」

 



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にとり短篇

にとりちゃん自機化おめでとう短編。
将棋はさっぱりわかりませんがとりあえず飛車は一番打者タイプだと思う。


 宴の席でのことであった。

「将棋の話をしよう」

 突拍子もない一言を放つと、河城にとりはそそくさと僕の手を引いて団欒を外れた。

「あれ、おーいにとり。どこ行くの?」

 その様子を他の河童に見咎められると、にとりはしまったという顔を浮かべ、「あ、いや。ちょっと厠に」と告げる。

「付き添いも居なければ厠にも行けないなんて、まだまだ子供だねえ」

 その一言で、ドッと笑いが起きる。にとりはその様子を遠巻きに眺めつつ、苦笑いを浮かべていた。

「ま、そういう訳だから」

 そういうことになったから、と言いたげなにとりの顔は、少し紅潮していた。視線を先の集団に戻すと、にとりのことは綺麗サッパリ抜け落ちたかのように、また杯に酒を酌み交わすことに必死になっていた。にとりはそちらにはもう一瞥もせず、ただうつむいて、部屋を出るのであった。僕の手を握る力が、心なしか少し強くなったように感じた。

 

 

 

 河城にとりは河童である。

 とは言っても、民俗一般的な妖怪の一種である河童とはまったくちがった風貌をしていた――鏟(さん)などを持って天竺へと向かう様子もないし、尻子玉を抜いて驚かすといったうわさも聞かない。相撲と将棋が好きで、発明が得意で、人間との関係も良好な、『幻想郷での一般的な河童』であった。

 ので、一介の人間である自分にもにとりは気さくに接してくる。

 やれ、今日は発明品の実験に付き合ってくれだの。

 やれ、相撲に付き合ってくれだの。

 こんな河童がいるなんてのが『外の世界』に知られたら、少しはおぞましい風貌や風説がマシになったりするのだろうか。

 いや、違う。

『お前のような河童がいるか』と人々に思われたからこそ――河城にとりのみならぬ河童達は、幻想郷にいるのかもしれない。

 

 

 

「将棋、わかる?」

 部屋を出てすぐ、にとりは僕にそう尋ねた。

 どういう遊びなのかは知ってる、と返す。ただ、まともに遊んだ記憶が殆ど無いので、定石だとかの勝つ手段は全く知らない。対戦相手には成り得ない、とも言う。

「そっか。なら問題ないね」

 問題はないらしい。将棋の話をしよう、といきり立って酒の席で言い出すものだから、また酔っ払ってなにか言い出すのかと思ったが、そういうことではないらしい。全く飲んでいなかったわけではなかったので、少し頬は紅いが、落ち着いて話をするには十分すぎるほどにとりは落ち着いているようだった。

「ん。と、この辺でいいっか」

 少し歩いた所にあった、庭の見える縁側に座り込む。もうすっかり日は落ちて、空には月とそれを僅かに隠す雲が漂っていた。

「どうせならお酒持ってきたら良かったかな、あはは」

 取ってこようか、と言うと、にとりは「ううん、いいよ。大丈夫」と返したので、僕はにとりの傍らに腰を下ろした。

「んー、まあ……将棋の話をしよう、って言って連れ出したわけだし」

 将棋の話をしようか。

 そう言ってにとりは、もぞもぞと膝を抱えた。

 

 

 

 将棋ってさ。

 詰まるところ、相手の王様を追い詰めたら勝ちな訳じゃないか。

 それに至るまでの過程を全部ひっくるめて将棋なんだけどさ。

 結末は、どっちかの王がやられるか――片方は玉だけどね。まぁ、それは置いといて――。

 これって、心と心を通じ合わせるのもおんなじなんじゃないかなって、思うんだよ。

 初めて会った人同士は、最初はガチガチに壁を作ってさ、お互い侵入しようとしないでしょ?

 でもずっとそうしてると、だんだん『あ、この人と仲良くなりたい』って思うんだ。

 それか、『もっとこの人のことを知りたい』って。

 だから、どんどん壁を崩していって、でも一方的にやられるのは嫌だから相手も色々策を練って、なんとかして自分を見せるのを拒んで。

 お話して、一緒に遊んで、助けあって。

 そうしてるうちに、どんどん、仲良くなっていけるんじゃないかなって、思うんだ。

 

「現に、私の持ち駒は今王様だけだよ」

 

 私は、私のことをもっと知ってほしいから。

 君に対してだけは、あけっぴろげになってる。

 腹を割って話したいって、思ってる。

 ――君は、どうかな?

 私のことを知りたい?

 自分のことを知ってほしい?

 

「その答えを聞きたいから、連れ出したんだ」

 

 

 

『君、誰? どこから来たの?』

 外の世界から、幻想郷(ここ)に来て。

 初めて話し掛けてきたのは、ある少女だった。

 底抜けに明るい、太陽のような少女。

 右も左もわからない僕に対して。

 元の生活が恋しくなり、落ち込む僕に対して。

『よしっ!』

 少女は朗らかに笑い、僕の身体を掴み。

 

 

『相撲を取ろう! 君が満足いくまで!』

 

 

 こう言って、僕の身体を池の中に投げ込むのであった。

 

 

『身体動かせば、嫌なこと全部忘れるよ!』

 

 

 そんな少女の笑い声を聞いていると――悩みが、池に解け出したようであり。

 一緒になって笑うしかないのであった。

 

 

 

 

 

「僕は、にとりのことが好きだ」

 

 

 

 

 

 少女は――にとりは、その一言を聞くと。

 

 

 

 うん。私も、君が大好きだよ、と。

 

 

 

 あの時のような、朗らかな笑みを浮かべて、言うのであった。

 

 

 

「あぁ、やっぱりお酒、こっちに持ってこようかな」

 どうして?

「だって、なんというか、恥ずかしいもの。戻るのが」

 それはだめだよ、今日はにとりが主役なんだから。

「……ゎ、私は、君さえいれば、それでいいんだけど……」

 他の皆はにとりが居なきゃ困るの。ほら、戻るよ。

「~っ!? ぃ、今の、聞こえてた?」

 聞こえてた。

「い、今すぐ忘れて! でないとまた池に放り込むよっ」

 後で放り込んでもいいから。ほら、入って入って。

「あ、ちょ、押さないで……ひゅい!?」

 

 

 

「あ、ようやく帰ってきた」

「こーら、遅いぞー」

「ほら、もっと飲んで飲んで」

 にとりの姿を見るやいなや、団欒の中心に引きずり込む河童たち。見てないで助けて、薄情者、などというにとりの声が聞こえたが、気にすることはない。

 今日は目出度い日だ。

 にとりが僕を知り。

 僕がにとりを知ることが出来た。

「もう、後で覚えておきなよー!」

 にとりの抗議を手で軽くいなしながら、視線を上げる。

 

 

 

 宴席の上座に爛々と輝く「祝・自機化 河城にとり」という文字に、思いがけず欠伸が漏れた。



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幽香短篇

酔い潰れたゆうかりんが書きたくて書きました


 どしゃぶりの雨の中でも、彼女は凛と佇んでいた。

 

 ――その傘。

 

 声を掛けるのが躊躇われた。

 

 ――使わないんですか?

 

 けれど、僕は話しかけた。

 彼女が見下すような眼でこちらを見る。

 

『この傘は、雨を防ぐためにあるんじゃあない』

 ひゅんと傘を一振りする。弾かれたように、雨粒がぱたたと地面に落ちた。

『貴方、ここの人? 家族は、恋人は、親友は、いるかしら』

 無機質な、感情のこもっていない声で彼女は、傘の切っ先を僕に向けた。

『あぁ、いや。どうでもいいわ――そんなことは。だって、悪いのは貴方だものね』

 私に声をかけてしまった、貴方が悪いんだから。

 

『それじゃ、さようなら』

 

 と、轟音が鳴り響くとともに。

 光の束が、視界全体を包んだ。

 

 

 

 

 

 酔いどれであった。

「……えーと」

 目をごしごしとこすり、もう一度目の前の惨状を見つめ直す。

 やっぱりというか、酔いどれであった。

 いや、正確には。

「だーっ、あんのクソ上司が! 隙あらば胸やら尻やら揉んできて、燃やすぞゴラァ!」

 酔いどれが部屋の中で叫んでいた。

「……また今日は荒れてるなあ」

 とりあえずビニール袋をとりに台所へ向かう。一応水も入れとこう。あぁ、でもこうやって背中向けてると。

「お帰りなさい、遅かったわね? ん?」

 ガッシと肩を組まれる。顔が近い。ドキドキはしない。酒臭い。

「今日も残業だったの? 大変ねえ、下請けってのは。管巻きに付き合ってあげるから、全部吐き出しちゃいなさいよ、ん?」

 これ見よがしにビールの500ml缶を振りながら笑い掛けてくる。口でそう言っても、結局は僕のほうが聞き手に回るに決まっているのだから、タチが悪い。

「いや、明日も仕事あるしもう寝るよ」

 コップに水を汲みながらそう言うと、彼女はニコニコ笑顔を変えることなく、僕の頭を掴んで強引に振り向かせた。ちょ、今コキャッて。コキャッて。

「いいから付き合え」

 出先で飲んで、家に帰ってきてからも飲んで。どれくらい飲んだのだろうか、想像もつかないほど彼女の頬は林檎のように紅潮していた。

 首は痛い。朝は早い。けど。

「……僕の分のコップ、出しといて」

 そんな顔をされて言われると、断れない。

「そうよ、溜め込んでちゃ出来る仕事も出来ないんだから」

 そう言って棚からコップと、つまみの柿ピーを取り出す彼女に僕は言った。

「で、今日は何があったの」

「そうなのよ!」

 ぐいん、と柿ピーの袋片手におにも殺せそうな目付きでこちらを睨む。

「あのボケナスが、飲み会の席でも平然とセクハラやってきて! もう、何回マスパで燃やしてやろうと思ったか!」

「……あぁ、うん」

 やっぱりというか、なんというか。

 こうなることは知っていたから、どうとも思わない。

「ちょっと、聞いてる!? ったくあの無精髭、明日会ったら絶対蹴ってやる……」

「はいはい、聞いているよ、聞いてる……」

 宥めながら、思う。

 あぁ、ビニール袋、一つで足りる気がしないなあ。

 

 

 

 

 

 ――あぁ、ビックリした。

 雷か。結構近くで落ちたみたいだけど、大丈夫だろうか。このところ天気が不安定だなあ。

 ――ええと、それで。どうかしました?

 向き直ると彼女は、呆然とした表情でこちらを見ていた。

 そして、笑った。

『……そうよね。やっぱり、出ない、わよね』

 傘の切っ先を降ろす。やはりというか、手に持ったその傘を差すことはしなかった。

 ――あの。何があったかは知らないけど、元気出して――。

『消えなさい』

 氷のような目。優しさの欠片もない口調。

『貴方みたいな――お前みたいなのに、一体私の何がわかるの? 何もわからないでしょう?』

 それでも顔は、笑っていた。決して楽しくて笑っているようではない、自分自身を保つために無理やり取り繕ったような、笑み。

『急に知らないところに飛ばされて、持っていた能力も全部失われて、それまでの常識が全部崩れても、ただ何も出来ずに立ち尽くしているだけしか出来ない私のことを、お前のようなただの人間に、何がわかるというのかしら? ねえ、ねえ。わからないでしょう』

 まくし立てる。言葉の節々が、ナイフのように鋭く、悲しかった。

『わからないのがわかったのなら――もう一度言うわ。ここから。私の視界から。消えなさい』

 僕は。

 彼女の言うとおりだった。図星であった。彼女がどこからきた誰で、なぜ悲しんでいるのか、何もわからなかった。

 僕は。

 僕は。

 ――わかった。

 

 彼女の前から、離れることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 部屋がようやく静寂を取り戻した頃。

「……ぎもぢわるい」

 酔いどれは酔い潰れに進化していた。

「だから言わんこっちゃない……」

 僕がつぶやくと、彼女はキッとこちらを睨みつけた。

「うるさいわね。さっさと水持って来なさいよ、み……ぁぅ」

「あぁもうほら」

 ビニール袋を手渡すと、彼女は脇目もふらずそこに顔を突っ込んだ。生々しい音が聞こえてくる。

「……なんであんだはへいぎなのよ」

 すっかり弱々しくなった様子で、恨み節。

「こう見えて酒には強いから」

「……あー、そー、そりゃ羨ましいわ」

「ほら、お水。大丈夫?」

 彼女は受け取った水を一気に煽り、ほう、と一息吐いた。

「出せるものは全部出したわ。これ以上出すと、内臓まで飛び出ちゃう」

「そんな軽口が叩けるんなら大丈夫だね」

 言いながら戸棚を漁る。と、いいものがあった。

「お粥あるけど、食べる? レトルトだけど」

「……具は?」

「梅干しとおかか」

「食べる……」

 弱ってるなあ。酔って帰ってくることは何度かあったけど、これだけ弱り切ってるのを見るのは初めてじゃないだろうか。

「? 何見てんのよ」

「あぁ、いや」

 初めてじゃなかった。

 彼女と――風見幽香と初めてであった、あの土砂降りの日は。

 これの比じゃないくらい、彼女は弱っていた。

 

 

 

 

 

『あのっ!』

 

『確かに、えっと、僕は貴方のことは何も知りません』

 

『でも、そのまま雨に打たれ続けたら風邪を引いてしまうということと』

 

『貴方が、今すぐになにか食べなきゃヤバイぐらい腹ペコだってことはわかりました!』

 

『なので、その、えーっと』

 

『とりあえずこれ、食べて下さい』

 

『それと、タオル持って来たんで、これで身体拭いて下さい』

 

『――いえ。駄目です。放っておきませんし、消えません』

 

『どうしても、僕に消えて欲しいって言うんなら。』

 

『その死んでも構わない、って言ってる顔を、やめて下さい』

 

 

 

 

 我ながら、アホっぽいことをしたもんだと思う。周りに人がいなかったから良かったものの――いや、人がいたらあんなことは出来なかったか。

「……何よ、バカみたいな顔して」

 お粥を冷ましながら、彼女はジト目で言い放った。バカみたいなって、ついさっき僕の目の前でリバースしてた人が言うか。

「いや、ちょっと考え事してて」

「ふーん。またろくでもないこと考えてたんでしょ?」

「うん。本当に大したことじゃないんだけど」

 

 

 

「普段の気丈な幽香も可愛いけど、弱って甘えてくる幽香も可愛いなって」

 

 

 

「っ……!? げほっげほっ!」

 むせた。すかさず水を差し出す。一気に煽る。本日二回目。

「あ・な・た・ねぇ……! いきなり何を言い出すのよ!」

「うん、やっぱり幽香はこうじゃないと」

「よーし、尻出しなさい。今すぐこいつをブチ込んでやるんだから」

「え、あ、ちょ待って」

「はーい、お注射の時間よー」

 

 傘を握りしめて僕にそう告げる幽香の顔は。

 あの時と違い、心の底からの笑顔であった。

 

「ンアッーーーーー!」

 

 そうであったらいいなあ。

 

 

 

 

 

 彼女が部屋のチャイムを鳴らしたのは、それからしばらく後であった。

『はい。タオル、返すわ』

 びしょ濡れのタオルを手渡される。

『あの後、しばらく考えてみたの。これからのこと』

 そういう彼女の顔から、悲愴感はまったく消え去っていた、

『それで、私、貴方と一緒に住むことにしたから』

 ……え、ん、は?

 今、なんて?

『――何を呆けているのかしら。大丈夫よ、自分の食い扶持ぐらいは自分で稼ぐわ』

 いや、そうじゃなくて。

『それで、早速で悪いんだけど。お風呂貸してくれないかしら? タオルぐらいじゃ間に合わないくらい濡れちゃって』

 うん、それは見ればわかるんだけれども。いや。そうじゃなくて。

『じゃあ何? まさか、肉まん一つで恩を売る気? 百二十円くらい、すぐに返してあげるわよ』

 

 ……君は、僕のことを全然知らないだろ。

 そんなに簡単に、人を信用してもいいの?

 

『だったら、これから知ればいいわ』

 

『逆に、私自身のことも。貴方の身体に、刻み込んであげるわ』

 

『あぁ、と言っても。私のこと、少しは知っているでしょう?』

 

『雷の音って、実際に光ってから鳴るまでには少しラグがあるのよ』

 

『つまり、あの時雷が光ったと同時に鳴った音は――』

 

『これ以上は、言わなくてもわかるわよね』

 

『ああ、ああ。人生最大の汚点だわ』

 

『今夜のことを口外させないために、これから貴方のことを監視しなくちゃ、ねえ?』

 

『その為にも、お互いを知ることから始めましょう?』

 

『私の名前は風見幽香。花、特に向日葵が好きな――こっちでは、普通の人間』

 

『さ。教えて頂戴』

 

『貴方は、どこの誰さん?』

 

 

 

『そんな顔しないでよ。私に声をかけた、貴方が悪いんだから』



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早苗短篇

リクエストをくれる際、一言でも良いので感想を添えていただけるとモチベーションが上がります。些細なのでもいいんで、オナシャス。


 うだるような暑い日に草むしりなんて、考えついた奴は何処の誰だ。どうせ体育の佐山だろ。あぁ、あいつは脳味噌まで筋肉だもんな。のーきんだ、のーきん。

 愚痴りながら、使われそうにないスコップを手に持ちブラブラと揺らしていた――が、その佐山に一喝され、すごすごと草をむしり始めるクラスメイト達。

 と、廊下から楽しげな笑い声が聞こえてくる。見ると、三組(うち)の女子が笑いながら窓に向けてクリーナーを噴き付け、絵を描いていた。

 いーねぇ、女子は。苦行なんかとは無縁で。羨ましい事この上ない。

「おい、手が止まってんぞー」

 いかん、のーきんの標的がこちらに移りそうだ――地面とのにらめっこを再開する。

 

 うちの学校では、二ヶ月に一度、放課後の時間を使ってこういった校内の清掃をする。

 掃除は嫌いではない。周りが整頓され、綺麗でいることは、見ていて気持ちが良いものである。

 しかし、不運にも今回うちの男子が担当することになったのは、綺麗にしても綺麗にしてもキリがないグラウンドであった。草ぼーぼーのところは抜いて整え、けつまづきそうな石は拾い、ゴミがあれば掃除する。しかしこれだけならまだ我慢もきく。グラウンド清掃はうちのクラスの男子だけではなく、他のクラスの者――これまた男子――も参加しているので、一人ひとりの仕事量がそう多いというわけではない。

 問題は、今日の気温が三十度をとうに超えているということである。この炎天下の中、身体を守る装備品はゴムがよれよれの麦わら帽子と、端がほつれたタオルのみである。スポーツドリンクぐらいは、学校側が用意してもいいもんだとは思うんだが。思うんだが。

 そんな状況の中で活動するのは、決して体育会系ではない自分には堪える。

「あっちい……」

 体操服の袖で汗を拭う。タオルは、既に噴き出した汗でびしょ濡れになり使い物にならなくなった。あとで水で濡らして絞ってくるとしよう。

 顔を上げると、まだ結構な範囲で草が生い茂っていた。もういいんじゃないすか、後は野球部なりサッカー部なりがやりゃいいじゃないすか。なんで普段体育の時間くらいしか使わないのにこんなことまでせにゃならんのですか。そもそも草がなにをした。ただ生えていただけなのに、色も緑で綺麗なのに、ただ邪魔だからと根っこからぶち抜くのは人間のエゴだ。許してやれよ、許してやれって。あいつだって頑張ってんじゃねえかよ。そしてそろそろ開放してくれ。

 そんな念――ただ変な顔で佐山を睨んでいただけであるが――が通じたのか。おーし、ここまでにするか、お疲れさんと、待ちに待った号令が掛けられる。

「あ゛ー」

 変な声を出しながら座り込む。疲れた。普段はだりーだりーと想いながら受けていた授業が、こんなにも恋しくなるものとは思わんかった。あ、でもだからってこれから授業なんて言わないでくれよ。このまま黙って帰して下さいお願いします。

「はい、お疲れ様です。……やだ、魂抜けてる」

 ……このまま黙って帰して下さいお願いします、なんでもしますから。と。

 そうは、問屋が、卸さないらしい。

「東風谷……東風谷よぉ。いますぐそのドヤ顔をやめてどっか行け」

「あら。それなら、このスポーツドリンクは要らないんですか?」

「訂正。今すぐそのスポーツドリンクを置いてどっか行け」

「はぁい」

 にんまぁーっと、下卑た笑いを浮かべる東風谷からペットボトルを引ったくる。

「ドヤ顔やめろっつってんだろ」

「べつにぃ? ドヤ顔なんて、してませんけど」

「……もういい。突っ込む気力もねえや」

 ニコニコ顔の東風谷を尻目に、ドリンクの蓋を開けてぐびぐびと半分ほど一気に飲む。

「あ゛ー……うんめっ。やっべえ。生き返る」

「飲みましたね。じゃあ、はい」

「……念の為に聞いておくけど、その手はなんだ」

「なにって、お金ですよ。まにーまにー」

「カネ取んのかよ」

 ドリンクはてっきり学校側の最後の温情かと思ったが、どうやらきゃつらは血も涙もない連中らしい。じゃあ東風谷が良い奴なのかというと、閉口するけれど。

「あー、しまったなー。財布、教室だわー。本当は今すぐにでも払いたいのになー。無念だわー。というわけで、ツケといてくれ」

「トイチですよ?」

「なんでスポドリごときでトイチの利息を付けられにゃならんのだ。すぐ払うって」

「ちなみに10分で1割の方のトイチです」

「タチわりいなおい」

 どこのヤクザでもそんな利息ふっかけねえわ。

「さあ、はやくしないと私に返すスポーツドリンクが500mlから550mlに増えますよ! さあ! さあ!」

「増えるのは金じゃなくてドリンクの方かよ!」

 ずいぶんと庶民的なヤクザであった。

「わかったよ、後で飲みもん奢り返してやるから」

「ふーん……?」

 と、どこか不満そうな顔をする東風谷。

「なんだよ」

「いえー、別にぃ? ただ、他にも奢りたいっていうんなら、奢られてあげても構いませんよ?」

「他にも奢れってか」

「強制はしませんよ、お・ね・が・い♪」

「………………」

 こいつは。

「ちょーしに」

「あぃ?」

「のるなっ」

 ほっぺたにゅーん。

「あぃあぃあぃあぅぁぅ」

「おー、伸びる伸びる」

「ふぁふぁひふぇふふぁふぁいふぉー!」

「あっはっはっは」

 ぜーんぜん何いってんだかわかんねえ。

「東風谷、東風谷。お前、学級文庫って言ってみ、学級文庫」

「………………」

 と、ぴたりと黙る。

「どした? ほれ、学級文庫だよ、がっきゅうぶ」

「ふぁっきゅー」

 頭突きが飛んできた。

 

 

 

「ふふーん」

 右手にアイスを、左手にジュースを携えた東風谷はさながら最強に見えた。

「くそ、なんだってアイスまで奢ってやらにゃならんのだ……」

 財布を覗く。数枚の十円玉と一円玉がコンニチワしていた。何度見てもお金は増えない。わかっていても、ため息をつきたくなる。

「いいじゃないですか。こーんなカワイイ女の子に、奢ってあげられるんですよ?」

「自分で言うかよ、それを」

「ふふーん」

 清々しいほどのドヤ顔を見せつけてくる。もう一回ほっぺたにゅーんしてやろうか、こいつは。

「もう、しょうがないなあ。はい」

「ん」

 見ると、セパレートアイスの片方がこちらの方を向いていた。辿って行くと、東風谷が器用に口でもう片方のアイスを咥えながら、こちらにアイスを渡そうと頑張っている。

「これもトイチか?」

「違いますー。あんまりにも可哀想だったから、半分分けてあげるって言ってるんですー」

 言ってんべっ、と舌を出す。可愛くねえ。

「……あぁ、そうか。お前この間、女子と話してたもんな」

「? なにがですか?」

「いや、太ってスカート入らなくなったって」

「ファッキュー!」

 膝が飛んできた。レミー・ボンヤスキーばりの膝であった。たまらぬ、たまらぬ膝であった。

「いってえな何すんだよ」

「デリカシーってものがないんですか貴方には!」

「ケント・デリカットがどうしたって?」

「もう。知りません」

 ぷいっ、とソッポを向く東風谷。

「悪い、悪かったって。ほら、アイスやるから」

「わざとやってるでしょう」

「バレたか」

 言いながら、アイスを口に入れる。甘ったるいミルクコーヒーの味が、疲れた身体に染みこんでいった。

「………………」

「………………」

 沈黙。

 何がそうさせたのかはわからないけれど、話題が途切れるのって、得てしてこういう時なんだと思う。

「なぁ」

 口を開く。

「はい?」

 東風谷がこちらを向く。俺はそちらを見ず、問う。

「いつ、ここを出るんだ?」

「………………」

 また、沈黙。

「もう一週間もしないうちに、ですかね」

「そっか」

 そっけなく見えただろうか。

 あっけなく聴えただろうか。

 沈みかけた夕陽が、なんだか酷く寂しく見える。

「寂しくなるな」

「でしょうねえ」

「自分で言うかよ、それを」

「いや、だって、ねぇ?」

「なんだよ」

「私、カワイイですし」

「あーはいはい、そうですね。ドヤ顔が素敵な女の子ですねえ」

「そうでしょう」

「褒めてねえよ」

 東風谷が笑う。これも、あと数日だ。

「どこに引っ越すんだっけ?」

「ここではない、ずーっと、ずーっと田舎の方ですね」

「そっか」

「そうですよ。もう、夏なんかものすごーく暑いところらしいです」

「ここよりもか」

「ここよりもですよ」

 他愛もない話。

 切り出そうとしても、切り出せないで、仕方なくしている、話。

「そっか」

「…………あの」

 にゅ、っと、視界の橋から東風谷の顔が出てくる。

「なんだか、落ち込んでません?」

「………………」

 本当に。

 こういう時だけは、鋭い。

「んなことねぇって、気のせいだ」

「……そうですか?」

「そうです」

「なら良いです、けど!」

「?」

 言うと東風谷は、途端にスカートを翻し、走りだした。

「おい、っ、おい! 待てって」

「待っちっまっせーん!」

 追いかけるが、もともと東風谷は足が女子の中でもダントツに早い。その上こちらは疲れが半端ではなく残っているので、どんどん引き離されていく。

「あー、っくそ、疲れた……はぁ」

 結局、東風谷に追いつく為に随分と走ってしまった。

「おい、なあ東風谷。なんでいきなり走り出したりなんか」

「早苗」

 同じように、肩で息をしながら東風谷は――こちらを振り向かずに、言う。

「早苗って、呼んで下さい」

「……どうした、お前。いきなり」

「ずっと、苗字呼びって、なんか、他人行儀じゃ、ない、ですか?」

 表情は見えない。

 けれど、その声は、少し震えていた。

「……私、ここが、好きなんです。離れたく、無いんです」

 それは。

「でも、ね。進まなきゃいけないんです。前に歩き始めなきゃ、いけないんです」

 俺が、ずっと言おうとしていて、言えなかったことであった。

「だから。少しでも前に進むために。今、ここから、呼び方を変えて下さい」

 

 東風谷。

 

 なぁ、東風谷よ。

 

「早苗」

 

 振り返った早苗の頬には、薄っすらと涙が伝っていた。

 

「……呼び方変えたついでに、頼みがあるんです」

「なんだよ」

「さっきから脇腹が痛いんですけど、助けてください」

「………………」

「わ、笑いごとじゃないです! 怒りますよ、はぅっ」

「そりゃ、アイス食ってすぐ走ったりしたらそうなるわ」

「なら、なんで貴方は痛くなってないんですか」

「鍛え方が違うんだよ。それよりも、東風谷」

「……早苗って呼んでくださいって、さっき言ったじゃないですか」

「嫌だ。そうして欲しいなら、こっちにも条件があるぞ」

「……一応、聞いてあげます」

「お前、人のことを貴方だとか、お前のほうこそ他人行儀じゃねえの?」

「これは、癖みたいなもので」

 

「じゃあ、次会う時までに直せ。言ってみろ、俺のこと、名前で呼んでみろ」

 

「………………」

「また、会えるんだろ。会うぞ」

 何年後、何十年後、何百年後でも。

「また会えたんなら。そんときゃ、アイスでもなんでも奢ってやるよ」

「……あははっ」

 笑われた。やっぱ、途方も無いことを言っただろうか。

「大丈夫ですよ。また、会えます。私が保証しますから」

「お前の保証とか、不安しか無いんだが」

「どーんと任せて下さい」

 

 なんたって、と前置いて。

 

「私、神様ですからね!」

 

 そうドヤ顔で言い切り、笑う早苗の顔が。

 

 俺が見た、早苗の最後の姿であった。

 

 

 

「お帰り、早苗」

 帰ると、諏訪子様が出迎えてくれた。

「はい。ただいまです」

「……早苗、なんかあったのかい?」

「え、なにがですか?」

「いや、うーん。ねぇ、神奈子?」

 見ると、奥で寛いでいた神奈子様も立ち上がってこちらを見ていた。

「そうだね、なんだか吹っ切れたみたいな」

「うん。決心がついたというか」

「……私、そんなに不満たらたらでしたっけ?」

「口では言ってなかったけどね」

 自分では、そんな気はなかったんだけれども。

 

 

 

「ま、好きな男の子と青春して、悔いもなくなったかね?」

 

 

 

「………………え」

「うんうん。あの時の早苗、今まで見せたことないような顔してたねぇ」

「え?」

「アイスを分けあったり追いかけっこしたり」

「青春だねえ。こっちまで恥ずかしくなっちゃった」

 

「み、て、たん、ですか?」

 

「うん。ばっちり」

「どどどどどどどどこからっ、どこから!?」

「疲れてる男の子にスポーツドリンク渡すとかさあ、もう部活のマネージャーと部長みたいな感じでさぁ」

「もーっ、付き合っちゃえよーって感じで見てたよ」

「最初からじゃないですかああああああああああああああ!!!!」

 迂闊だった、迂闊だった。

 最後だからって、少したがを外し過ぎた。

 今までのあれやこれやが、全部、見られていたと思うと――。

「~~~~~~っ!!!!!!」

「わー、顔真っ赤。あんたのそんな顔も初めて見るわ」

「忘れて下さい忘れて下さい忘れて下さいーっ!」

「えー、やだよこんな面白いことー」

「そんな――」

「それにさ」

 

 

 

「「また、会うんでしょ?」」

 

 

 

「「だったら、忘れちゃ駄目でしょ」」

 

 

 

 どうやらこのお二人には、何もかもがお見通しのようだ。

 

「………………は、いっ」

「んもー、早苗ったら。泣いちゃ駄目でしょー?」

「な、泣いてません! これは、ちょっと、脇腹が痛くて」

「うんうん、アイス食った後全力疾走はねー。若いなあ」

「そうだねー。その後笑顔でお別れなんて、若いねえ」

「だ、だからそのことはっ」

「『早苗って、呼んで下さい』ってねぇー」

「あそこで告白できないのが早苗らしいっちゃ早苗らしいけどねぇ」

「こっこここここここここ」

「あっはっはぁ、幸せだねぇ。あんたも、あの男の子も」

 そう言って神奈子様はお酒をくいっと煽った。

「そういえば、あの子の名前はなんて言うの?」

「お、それあたしも気になる。なんせ、次に会った時は名前で呼ばなきゃなんでしょ?」

「ちょ、ちょっと、お二人とも酒臭いですよ」

 しかも結構な量を飲んでる匂いだ、これは。

「えーだってねぇ。あんなクッサイの見せられてねえ」

「こっちは飲まなきゃやってられないってのよ!」

「えぇぇぇー……」

 そっちが勝手に見てたんじゃないのか、という突っ込みをする前に、二人はまた新しい瓶を開け始めていた。

「んで、なんて名前なの?」

「そーそー。ほら、予行演習のつもりで、言ってみなさい?」

 酔っぱらい二人の勢いに、がっくりと肩を落とす。

「わかりました、言います、言いますからお酒を飲まそうとしないで下さいーっ!」

 

 

 

 

 

 あの日のように、暑い日だった。

 ジリジリと太陽が照りつけ、汗はダラダラと流れ出し、木陰のような休む所なんてどこにもない。

「…………お」

 そんなとこに、わざわざ来るのはまともなのじゃない。

 でも、残念ながら。

「こんにちは、お久しぶり……ですね」

「おう、久しぶりだな」

 誠に残念ながら。

 俺とこいつは、まともではないらしい。

「背、大きくなりましたよね。でも私のほうがまだ勝ってます」

「お前は変わんねえな。そのドヤ顔も、相変わらずだ」

「そうですかー?」

「褒めてねえよ」

 数年、数十年、数百年ぶりの遣り取り。

「ここまで来んの、大分手間取ったけど」

「本当に。どうやって来たんですか」

「それはお前、アレだよ。色々とあったんだよ」

「そうでしょうね」

 けれど不思議と、懐かしいとは思わなかった。

「まぁ、積もり積もった話はお互いあるだろうけどさ」

「はい」

「まずは、この一言から始めようか」

 

 

 

「好きだ。付き合ってくれ。早苗」

 

 

 

「はい。喜んで、お付き合いさせて頂きます――」

 

 

 

 少し間を置いて出た、俺の名前に。

 

 なんだかむず痒く感じてしまった。

 

「ぎこちねえなあ」

「締まりませんねえ」

 そう言って笑う早苗の顔に、俺はこう言った。

「お前って、可愛かったんだなあ」

「そうですよー」

「自分で言うかね、それを」

 

 やっぱり、可愛くねえ。

 

 心でそう毒づいてから、俺達は、語り合うのであった。

 

 今までのことと、これからのことを。

 

 

 

 

 

「ところで早苗さ、お前、そんな格好で恥ずかしくねえの?」

「ふぁっきゅー」

 星が飛んできた。



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蓮子短篇

しょーもないことで蓮子と喧嘩がしたかったんです。


 喧嘩をした。

 些細な言い合いが、気がつけば口論になって、気がつけばお互いがそっぽを向いて、気がつけば目の前にいた筈の彼女は居なくなっていた。自分が筋の通らないことを言った覚えはない。ので、悪いのはあちらの方だ。間違いなく。

 こちらから謝る気はさらさらない。向こうから謝ってくるのを待つか。もしくは、このまま離ればなれになるか。それでも良いとさえ今は思えた。

 ずっと有難いと感じていた彼女のことを、初めて暑苦しく鬱陶しいものに感じていた。

 自分以外は誰もいない部屋の中で、仰向けになって天井を見上げる。あんなところにシミがあったんだとか、今度掃除しないとなあとか、豆球も切れてるや、などと、どうでもいいことを考えていた。

 必死に彼女を、頭から追い出そうとして、それでも。

 思考の片隅で、彼女のことがちらちらと過ぎっていた。

 頭を左右に振る。振る。いい加減気持ち悪くなってきたところで、はぁと溜息をつく。

 

 なんだって、こんな時に思い出すのは満面の笑顔ばかりなのだろう。

 

 

 

 

 

「珍しいわね、蓮子がこんな時間に訪ねて来るなんて」

 夜の十時半を回った頃であった。

「そう? けっこうあったと思うけど」

「ずっと部屋で遊んでて気付いたら夜だったー、ならしょっちゅうだけど」

 駄目じゃない、女の子が夜中に一人歩きなんて、と――メリーは、キッチンでインスタントコーヒーを淹れながら言った。

「ごめんね、メリー。起こしちゃった?」

「ううん。別にいいわよ、蓮子の無鉄砲っぷりはよく知っているし……はい」

「あ、うん。ありが――」

 コーヒーの良い香りが部屋中に広がり、鼻孔をくすぐる――と同時に。

「………………」

 盛大にお腹の音が鳴ったのを聞いて、親友は苦笑いしながら聞くのであった。

「食パンとハムチーズくらいならあるけど……」

「……ありがとうございます、メリー様」

「今度ジュースでも奢ってね」

「喫茶店でサンドイッチも付けるわ」

 あはは、と笑って、メリーは再びキッチンへと戻った。コーヒーを一口、口に含む。苦い。

「……あったかい」

 誰にともなく、呟く。出て来る時に引っ掴んできた鞄の中から携帯電話を取り出し、確認。着信、ゼロ。新着メール、ゼロ。

「……んー……」

 もそもそと膝を抱える。念のためセンター問い合わせをしてみる。新着メール、ゼロ。

「……可愛い彼女が悲しんでるのに、メールの一つも寄越さないわけ……」

 ふーん、へぇー、ほぉー。

「会ったら説教してやろうかな……」

 会ったら、ではなく、会えたら、のほうが正しいかもわからないが。

 

 

 喧嘩をした。

 少なくとも切欠を作ったのは私であった。そこは覚えている。しかし、それが何故彼を怒らせる要因になったかがわからない。私がしたことは、おかしなことではない。つまり、私は悪くない。悪いのは理不尽に怒ったあっちの方である。

 売り言葉に買い言葉で、普段溜まっていた鬱憤というか、不満を全部ぶちまけた。大したことではないけれど、結果としてそのどれもが彼を怒らせる要因になった。カルシウムが足りてないんじゃないだろうか。そう言ったら更に怒った。だから、私も怒った。

 もう、知らない。

 そんなようなことを言い残して家を出たのが、十時少し前だった。

 その後、大学のサークル仲間(と言っても私を含め二人しかいないが)であるマエリベリー・ハーン――私はメリー、と呼んでいる――にメールを送り、家に入れてもらったのである。

 メリーは一言、「ひどい顔」と言った。

 違うわメリー、私は酷くない。私は、悪くない。悪いのは……。

 

 

 

「さ、蓮子。話して?」

 ハムチーズトーストをパクつく私に、メリーは問う。

「話して、って」

「うん。何かあったんでしょ」

「あー、うん。まぁ……」

 そりゃあ、普通に考えればこの時間にいきなり『ひどい顔』をした友達が訪問してくれば、何かあったと思うのが普通だろう。

「まあ、だいたい予想はつくけど」

 えっ。

「…………そんなに顔に出てた?」

「顔に出てたというか、この時間に蓮子から『家寄ってもいい?』ってだけ書かれたメール届いたら、なんとなく察しがつくというか」

「……試しに言ってみて?」

「当たるわよ、多分」

 その根拠の無い自信に、私は喜んだほうがいいんだろうか。

 

「彼に蓮子が何かちょっかい出した。怒らせた。でも蓮子は悪いことやったっていう自覚がないから、言い返した。口論がエスカレートして喧嘩になった。それで最後にもういいっ! て感じで蓮子が全部うっちゃって家を飛び出してきて、行く宛もないから私にメール送ってきた。で、うちに来た。どう? 当たってる?」

 

 ………………。

 

「黙秘権を行使させて頂きます」

「当たってるのね」

「……大体は。でも、悪いのは私じゃなくて」

「そうね。蓮子はきっと、悪くない」

「だったら」

「でも、彼でもない。多分ね」

 私の僅かな反論の種をも摘み取るように、メリーは言った。

「きっとタイミングが悪かったのよ。蓮子、貴方の方も――きっと彼の方も」

「……タイミング……」

 僅かなズレがヒビになって。

 僅かなヒビが亀裂になって。

「一度落ち着いて、目を閉じて、胸に手を当てて、話したいことを整理してから、それからお互い謝ったら?」

 メリーはそう言って、ニコッ、と私に笑い掛けたので。

 私はもう、コーヒーでパンを流し込むくらいしか出来なかった。

 

 

『このメールを破棄しますか?』

 携帯からの無機質な問いを見ることなく、はいを押す。まっさらな文面が目に眩しい。そのまま携帯を閉じ、ベッドにポイする。

 普段はあんなに話すのに、目の前に居なくなった途端、一つも言葉が出てこない。

 これが所謂依存してる、というやつなのだろうか。

 と。放り投げた携帯が、急に震えだした。画面を見ると、新着メール通知が一件。

 差出人は――。

 

 

 

「あ。来た」

 待ち合わせ場所の公園で、彼女は暢気にブランコを漕いでいた。

「読んでくれたんだ。メール」

 読んだからここに来たんだ、と言うと「そうだよね、そりゃそうだ」とあっけらかんと笑った。

 

「喧嘩して、外に飛び出てさ、思ったんだ」

 もう知らない、私は悪くないんだから、謝りに来るまで帰らない、って。

 

「それでね、メリーの家に転がり込んだんだけど、逆に諭されちゃって」

 よっ、ほっ、とか言いながら、蓮子はブランコを立って漕ぎ始めた。

 

「メリーには、両方謝って、終わりに、しろって、言われたん、だけどっ」

 キィキィと鉄の軋む音。

 

「それじゃあ、さ! 結局お互い、納得して、無いわけだから、わだかまりが、残るじゃない!」

 ガッチャガッチャと鎖が音を立てる。それでも蓮子は漕ぐのを止めない。

 

 

「だから――」

 

 一瞬間、の後。

 

 蓮子の身体は宙に浮いていた。

 

「もういっそのこと、一から、やりなおしちゃおう?」

 

 

 

 

 

 蓮子の真っ赤な顔が、すぐ近くにあった。

 頭の隅っこにいた蓮子ではない。

 記憶の中の蓮子では、ない。

 彼女は、泣いていた。

 

「私、は。宇佐見蓮子は」

 

「貴方のことが、好き」

 

「今日、嫌いになりかけた」

 

「嫌いになろうとも、した」

 

「でも無理だった」

 

「身勝手で、無鉄砲で、向こう見ずで、一学年下の後輩にノート見せてもらうような駄目な先輩だけど」

 

「もう一度、私と、付き合ってください」

 

 

 

 受け止め、抱き締めた蓮子の身体は――しもやけが出来そうなほど、暖かかった。

 

 

 

 

 

 

 

「ということになったんだけど」

 ミックスジュースを啜りながら、私のサークル仲間でもあり、唯一無二の友人――宇佐見蓮子はさらりと言った。

「……なんというかね、蓮子。なんというか……はぁ」

 一方私は、呆れたように頭を抱える。

 無鉄砲だとは思っていたけれど、まさかここまでとは。

「世界に貴方だけよ、喧嘩したからってもう一回告白からやり直すなんてのは」

「そう? 私はただ、ああするほうがいいと思ったんだけど」

「全速前進で漕いだブランコから飛び込んで告白することが?」

「やー、あれはなんというか。きっと受け止めてくれる、って考えてからはちょっと高揚しちゃって」

「高揚しちゃって、でそれだけやる貴方に呆れるわ……」

 言い、ハムサンドを一口かじる。蓮子の奢りなので遠慮はいらない。

「ま、それで告白を受けなおしちゃう彼も彼だけれど」

「うん。でも、お陰で喧嘩になりそうになった時は、まず冷静にお互いの状況を話すようになったよ?」

「それが普通なんじゃないかしら……」

 とそこまで話し、ハムサンドを食べきったところで、割と重要なことに気が付く。

「そういえば蓮子。結局、喧嘩の原因っていうのはなんだったの?」

「原因? あー……うん……っ!?」

 と、突如蓮子の顔が茹で蛸のように真っ赤に染まる。

「……どしたの? 蓮子」

「ななな、なんでもないないなんでもない! そんな、はな、はな、話すようなことじゃないって!」

「え、ちょ、落ち着いて?」

「とっっっっとりあえずっ! 私これから用事があるからこれで! それじゃねメリー! また週明け!」

「あ、ちょ、待って、蓮子! 蓮子!?」

 疾風怒濤。

 そんな漢字が似合うほど、テンパったまま蓮子は喫茶店を後にした。周囲は勿論、私も唖然である。

 そうして、気付く。

「……結局、ここ……私の支払い?」

 飲み干され、空になったグラスの氷が、カランと鳴った。

 

 

 

 

 喧嘩をした。

 驚かせようと思って、ギリギリまで内緒にして黙っていた。

 だが、こういうところで勘の鋭い蓮子は、僕が何かを隠しているということに気付いているようであった。しきりに僕の方を見てくるし、「最近何かあった?」と聞いてくることも多々あった。

 彼女からすれば、そういったことは面白くなかったらしい――ある日、と言うか、今日である。

 

『御用改(ごようあらため)よ!』

 

 などと言いながら僕の部屋のドアを開け放ち、中を物色し始めたのだ。

 なんでもないから、蓮子が思っているようなことはなんにもないから、と何度説明しようとも、彼女は聞く耳を持たず捜索を続ける。

 そうしているうち、彼女は――その戸棚に手を掛けたので。

 僕は思わず、声を荒らげていた。

 そして彼女は。

 大切な僕の恋人は――顔を真赤にして、出て行ってしまったのであった。

 

 

 

 

 

 仲直りをした。

 思ったとおり、というか、本当はちょっと怖かったけど。

 彼は私を受け止めてくれた。

 ――これからもよろしく。

 そう、言ってくれた。

 

「これまでありがとう。これからも、よろしく」

 

 私がそう言うと、彼はジャケットのポケットから何かを取り出した。

 

 そうして、言う。

 ――誕生日おめでとう。

 

 あぁ、そうか――彼はずっと、これを黙っていたんだ。

 私は勘違いして、彼を疑って、しまいには喧嘩して。

「開けてもいい?」

 彼は頷いた。丁寧に、結ばれたリボンを解く。

「あ」

 それを見たとき、間の抜けた声がふっと出た。

 ――本当は、一周年のプレゼントにもなる予定だったんだ。

「……そっかぁ。でも一度別れちゃったもんね」

 言うと、彼は申し訳無さそうに頬を掻いた。

「いーんだよ。また、一つ一つやってこ? だから」

 ――だから。

 

 

 

 ごめんなさい。

 

 これからも、ずっと、よろしくお願いします。

 

 

 

 

「……結局メリーの言うとおり、両方とも謝っちゃったなあ」

 

 公園のベンチに座って、ぽつりと言う。

 

 鞄の中で、携帯が震えた。見ると新着メールが一件。差出人は、メリーだった。本文はなく、件名で一言だけ、書き添えられていた。

 

 

『おめでとう、蓮子。色々と』

 

 

「メリーには全部お見通し、かぁ」

 

 ――今度、お礼言わないとね。

 

 彼がそう言って、私の頭を撫でるので。

 

「そだねぇ。色々と、ね」

 

 私はそれだけ言って――ふと、空を見上げ、手を伸ばす。

 

 ――何してるの?

 

「こんな星空、見たこと無いなあ、って」

 

 

 

 

 指輪に填められた宝石が、星空と混じって私の誕生日を知らせるように瞬いた。

 

 



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メリー短篇

あけましておめでとうございますだ
季節感ガン無視ですみませぬだ
あぁ~この米は~この米だけは~



2014年もよろしくお願いします。


 私は元々、身体を動かす方ではない。走ったらすぐに息が切れてしまうし、スポーツなんて年に数えるほどしかやらない。かといって観戦に回るというわけでもないので、ルールに詳しいわけでもない。

 私は生まれてこの方ずっと、運動というものに疎い。しいて言えば、体育の時間や運動会で、ちょっとやったことがあるくらい。それでも、体育の成績は芳しいものではなかったし、運動会なんかはあまり順位に影響しない種目に回されたりした。

 けれど、宇佐見蓮子に出会ってからは、色んな所に付き合わされたため、多少はマシになったのではないか、とは思う。なんせ彼女は、何か思いついた瞬間に私の手を取り、走って行ってしまうのだから。嫌でも体力はつこうものである。

 けれど。

 それでも、いくら蓮子と一緒に走っても。

 治らないものは、ある。

 いくらでも、といえばそうだけれど。

 とびっきりに厄介なことが、一つ。

 

 

 

「海?」

「そそ、海」

 フォークに巻きつけたクリームスパゲティを弄びながら、蓮子が言ったことを――私は鸚鵡返しする。

「ほら、ずいぶん長い間行ってないから。ここはひとつ、秘封倶楽部の活動として。ね、行こうよ?」

「……蓮子、貴方って人は……」

 呆れたように言うと、蓮子は口を尖らせてスパゲティを口に運んだ。

「なーに、メリー。いーいじゃない、行こうよー」

「あのねぇ、蓮子。秘封倶楽部の活動として、なんて言って、海に行って何をする気なの? だいだらぼっちや海坊主でも探そうっていうの?」

「探そうっていうの」

「嫌よ、私は」

 蓮子の申し出をスッパリと断る。あ、このピザ美味しい。

「なーんーでー? 別にいいじゃない、たまには海に遊びに行ったってさー」

「……本音が出たようね」

 はぁ、と一つため息。

「あのね、蓮子。遊び呆けるのもいいけど、ゼミの課題研究は終わったの? それにクラスのほうで色々仕事もあるって行ってたじゃない。単位だって、今は恙無く取れているからいいけれど、予習しておかないとそのうちボロが」

「あー、あー、聞こえなーい」

 蓮子は帽子を引っ掴んで塞ぎこむ……振り。以前、蓮子の家で遊んだ格闘ゲームで、こんなふうにしゃがみガードをするキャラを見たような気がする。

「ねーぇー、だって海だよ? 海。その単語を聴くだけで、こう、ワクワクしてくるじゃない?」

「いえ、しないわ。そもそも、私はあんまり海は好きじゃないの」

 言いながら、コーヒーカップを傾ける。蓮子も諦めたように、スパゲティの残りを口に運んだ。

「でもさ、メリー?」

「なに?」

 もっきゅもっきゅ、とスパゲティを咀嚼した後、蓮子は言う。

「なんでそんなに海に行きたくないの? もしかして、泳げないとか?」

「………………」

 沈黙。静寂。サイレント。

「………………」

 ごくん、と、スパゲティを飲み込む音。

「………………あ、このピザ美味しい」

「メリー、メリー。もうピザは残ってないよ?」

 誤魔化せなかったようである。

「…………そうだ、蓮子! 山に行きましょう! アウトドアでフィッシングなバーベキューパーティーをキャンプしましょう! きっと楽しいわよ! ええ!」

「泳げないのね、メリー」

 じとっとした蓮子の視線が私に突き刺さる。頭のどこかで、ピチューン、という音が聞こえた気がした。

 

 

 

 というわけで。

 というか、なんというか。

 いつの間にか、とでも言うべきか。

「さ、それでは、メリー?」

「………………」

「泳ごうかっ!」

 あれよあれよと蓮子に連れられ、プール施設へとやってきたのである。

「……いや、おかしくない? 私、別に海に行きたいなんて言ったわけでも、カナヅチを直したいなんて言ったわけでもないんだけど」

「でも泳げるようになれたら嬉しいでしょ?」

 当たり前でしょ、みたいな風に言うなあ。

「それに、さ。ほら、メリー」

「……なに? 急に」

 コソコソ、と私に耳打ちをしてくる。

「水着で悩殺できても泳げません、じゃ、ガッカリするかもよ?」

「え? それって、どういう」

 

 言ってから。

 

 ぱっ、と脳裏に、あの人の姿が浮かんできて。

 

「~~~~~~っ!?」

 顔が熱くなる。え、なに、悩殺って、え、私が?

「ま、泳げるようになったら可愛い水着買ったげるから。それまで頑張ろ?」

 してやったり、な顔で悠々と施設へ入っていく蓮子。

「ま、あ、ちょ……蓮子ーっ!」

 真っ赤になったであろう顔を必死に手で扇ぎながら、私は蓮子の後を追った。

 

 

 

「……まぁ、ある程度予想はできてたんだけど……」

 ぽりぽりと頬を掻いて、蓮子は言う。

「そりゃそうよ、夏休みのまっただ中だもの。ねぇ、蓮子?」

 目を細めてその光景を見ながら、私は言う。

 

 そこは、プールと言うよりは、人の波であった。

 

「こりゃあ、練習どころじゃあ無さそうねー……」

 子供が走り回っているプールサイドを見て、私は思わず溜息を漏らした。

「……どうするの、蓮子? せっかくお金払っちゃったし、遊んでいく?」

「遊ぶって言ったって、メリーが泳げないのに私一人遊ぶわけにもいかないでしょ」

「いいわよ。せっかく蓮子が連れてきてくれたんだもの。私はあそこで飲み物でも飲んでるわ」

「んー、って言っても……」

 と、少し渋った様子の蓮子であったが――。

「うんうん、そうねっ。せっかくお金払っちゃったもんねぇ」

「? え、ええ。そうね」

 急に態度を翻すと、蓮子は一目散にプールへと向かっていった。

「あ、メリー!」

「? なぁに?」

「すぐに集合できる場所がいいから、おっきくて目立つあのパラソルの下で待っててくれるー?」

 去り際に、そう一言残してから。

 

 

 

「おっきいパラソルって、あれのことよね」

 蓮子が指さした方には、確かに大きなパラソルがあった。これならばはぐれる心配もないだろう。大学生にもなって、とは思うけれど。

 売店で適当にアイスティーを買って、空いている席に座る。時計を見ると、もう昼を回っていた。辺りを焼きそばやたこ焼きの臭いが包んでいる。

「さてと、どうしようかしら」

 蓮子にああは言ったものの、やはり待っているだけでは少々退屈である。かと言って無理にプールに入ると、溺れてしまって大騒ぎ、となるのは目に見えているし。

「……やっぱり。泳げるようになった方が、いいのかしら」

 ふと、独りごちる。

 私が泳げないからって、失望するような人じゃない。と、思うのだけれど、それでもある程度は泳げたほうがいいに決まっている。それこそ、蓮子の言っていた海だとか、こういうプールという選択肢が最初から除外されてしまうのは、勿体ないし、申し訳ない。

 でも。

「……こんな格好、彼に見られたら……」

 蓮子からプールに行こうと誘われた時、なかなか水着が見当たらず、探しまわった末にあったのが昔使っていたスクール水着のみだったのである(胸元にはご丁寧にマエリベリーと名前まで書いてある)。だからさっき蓮子も、水着を買ってあげるなどと言ってくれたのだろう。今は仕方なくそれを着て、その上から目立たぬようタオルを羽織っている。

 

 ――こんなちんちくりんな格好は、彼には決して見せられないわね。

 

 ――もし、見られたら。

 

「………………っ」

 と、そんなことを言っているとまた顔が熱くなってきた。顔をブンブンと振り、熱を振り払う。

「……まぁ、こんなことは後にも先にもこれっきりでしょうし」

 今度、泳げなくともせめてまともな水着は買っておこう、と決心したところで。

 

 

 

「あれ、そこにいるのって……」

 

 聞き覚えのある声に、私は振り向く。

 

「メリー?」

 

 私を、メリーと呼ぶ人は、私の知る限りでは二人しかいないはずであった。

 

 一人は、宇佐見蓮子。

 

 そして、もう一人は――。

 

 

 

 

「お、よーやく見つけたかー。鈍いなぁ」

 

「私なんて、かなり前に見つけて、空気読んで二人きりにしてあげたのに」

 

「……あーあー、ここから見てもわかるくらいに慌てちゃって……あ、飲み物こぼした」

 

「まぁ、これでメリーも泳げるように努力はしてくれるでしょう」

 

「さて、それじゃあ私はそろそろお暇しましょうかね……っと」

 

 プールから上がる途中、彼に手を引かれたメリーが、顔を真っ赤にしながらこっちを睨んできたので。

 

 私は苦笑いをして、軽く手を振るのであった。

 

 ――これは、うんと可愛い水着を選んであげなきゃなあ。

 

 

 

 夏休みの課題をこなすのは、もう少し後回しになりそうである。



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華扇短篇

あじゃどう!

お久しぶりですが元気です。

リクを頂いたのと、ちょうど書きたい欲があったので、華扇ちゃんで一本。

今後ともよろしくオナシャス。


 男は丘の頂上で寝転び、まるで何かを待っているかのように、静かに空を見上げていた。笠を深く被っていたため顔はよく見えなかったが、何やらを企んでいるようにも見えない。

「誰ですか」

 それでも不審に思い、声をかけると、笠を指でくいと上げた。今にも閉じそうに眠たそうな眼、整えられたようには全く見えない無精髭。笠を被っていることから修道者かと思ったが、この風貌からしてその可能性はなさそうである。

「んぉ、あぁ……どうも」

 その男は私にそう挨拶をすると、また視線を空に戻した。雲ひとつない快晴だが、不思議なことに鳥や虫などは一羽一匹見当たらなかった。

「私は、あなたは誰ですか、と問うたのですが」

 質問を無視され、少しむっとした口調で言う。しかし男は視線をこちらに向けず、ただ首の据わった人形のように空から目線を外そうとはしなかった。

「あぁ、無視をしているわけじゃあない。そう怒りなさんな」

 もう一度、今度は怒鳴ってやろうかとしたところに、釘を刺すように男は言う。私はすっかり勢いを削がれ、やり場のない言葉を飲み込んでから、溜息を一つ吐いた。

「……こんなところで、一体何をしているのですか。ここは滅多に人が通らない所なのですが」

「じゃあ俺ゃあ、その滅多の内ということで一つ」

 こちらを見ようともせず、私の言葉を飄々と受け流す。なんだろうか、やりとりを続ければ続けるほど、私のほうが不利になっていくような気さえしてきた。

「無いとは思いますが、もし貴方が妖怪で、人を襲うようなことを企んでいるのであれば――」

「無い。それに関しては、全く」

 そう言って彼は笠を外した。雑に刈られたぼさぼさの髪が、風に当たり吹かれる。

「それで、嬢さんは一体何用だい。こんな『滅多に人が通らない所』へ」

「……この場所に、特に用事があるわけではないのですが」

「そぉーうか、そいじゃあ邪魔してくれるな。俺ゃあ、日向ボッコの最中なんだ」

 その姿格好で日向ボッコとは、随分と似合わない台詞を吐くものだ。とは、言わなかった。その代わりに一言。

「それでは、お気を付けなさい。ここは人は通りませんが、『人以外は』よく通る」

「………………」

 男は私の言葉を聞いてか聞かずか、また笠を深く被って寝転がってしまった。私は肩をすくめて「忠告はしましたよ」と言い残してから、男に背を向けた。

「……どうやら、そのようだなぁ」

 男が小さく呟いたのは、風に流れて私の耳には届かなかった。

 

 

 

 

 

 次の日も、男はそこに居た。

「また会いましたね」

 どうやら寝ているらしい。顔に被せた笠の下から、決して小さくはないいびきが聞こえてきた。

「……妖怪が出ると言っておいたのに、よくもまあこんなところで、それも真昼間から寝ていられるものですね」

 無神経さに呆れつつ、男を見る。中肉中背、服は紺染の安っぽい甚平と使い古された草鞋。笠がなければ――いや、あってもその身なりからは浮浪者にしか見えなかった。ならばここへは、生きることに疲れて妖怪に食べられに来たのだろうか? しかし初めて会った時、さして人生に絶望した様子は見えなかったが。

「……おいお嬢さん、勝手に可哀想な人設定にしないでくれるか」

「……起きていたんですか」

「さっき起きたんだよい。何だよ黙って見てりゃ、人を自殺願望者みたいな目で見やぁがって」

「………………」

「違ったんですか、みたいな顔をすんのもやめてくれや」

 バレていた。

「俺ゃあ、別に死にたくてここにいる訳じゃあない。妖怪に出くわせば隠れるし、飯も食うし、水も飲む。必要とあらば睡眠も摂る」

「どう見ても必要以上に寝ているように見えますが」

 そう言うと男は笑い、

「そりゃそうさね。生きるために必要なのは、食って寝て、起きたらまた寝ることだ」

と宣った。

「お気楽なことですね」

「そうとも。それだけが生き甲斐だもの」

「自信満々に言うことですか、それが」

 額を抑える。どうやら自殺願望者ではなく、本当にその日暮らしの根無し草の浮浪者であったらしい。

「いけないことかい」

「……いいえ。貴方がそれでいいのならば、それでいいのでしょう」

 普段なら目くじらを立てて性根を叩き直してやる、と言うところであるが――幾分この相手だ。説教など右から左へ流すだろうし、そもこの男が改心した姿が到底想像がつかない。

「そりぁ良かった。説教なんてされたんじゃあ、溜まったものじゃない」

 男は笑って、また笠を顔に被せた。

「また寝るのですか」

「途中で起こされて、充分に寝れんかったのでね」

 妖怪が来たら起こしてくれ、などと言って私がまた呆れ返る頃には、既に男は寝息を立て始めていた。

 

 

 

 

「釣れますか」

 次の日は、男は黙って釣り糸を垂らしていた。

「釣れると思うかい」

「いいえ。まったく非合理的で意味のないことをしていますね」

 もちろんその丘には、川や泉など影も姿もない。ただ男は、空に向けて釣針を飛ばして、当たり前のように釣針を地面に落としていた。

「そうさなあ。あんまりにも退屈だから釣りでもするかと試してみたんだが、釣果がお嬢さん一人だけたあ、ほとんどボウズのようなもんだ」

「……つくづく人生が楽しそうですね、貴方は。羨ましいです」

「お、そっか? そう言われると嬉しい気ぃもするわ」

「皮肉ですよ」

 真正面から叩斬ったつもりであったが、男はそれでも無邪気に笑って、

「そんじゃあ、ここ数日毎日ここに来てるお嬢さんも、似たようなもんだな」

 そう言うので、私はもうすっかり何を言う気も失くしてしまった。

「……もう何も言いませんよ、私は。貴方など、妖怪になりなんなりに食べられてしまえばいいのです」

「はっはぁ、そんならせめて顔良し気前良しの別嬪に食われたいもんだ」

 そう言って脳天気に笑う男は、妖怪に食われたくらいではとてもじゃないが死にそうではなかった。

「……貸してください」

「ん?」

 貸すって何を、と言いたげの男から竿をひったくると、私は男に向けて言い放つ。

「こんなことにはなんの意味もないということを、私が証明して差し上げましょう。どうせ何にも釣れやしません、釣れる訳がありません」

 そう言って私は、男がやっていたように釣針を宙に飛ばす。その様子を見てか、男がまた無邪気に笑った。

「俺もだけど、お嬢さん。あんたもよっぽどの暇人だ」

「嬉しくないです……って」

 竿がしなっているのを見て、私は目を丸くした。まさか、本当に何か釣れたのか――いいや、こんな釣針に餌も付けていないのに、釣れるなんてことは。

「………………」

「………………」

 ぷらーん、と。

 釣針に貫かれたどんぐりが、私の眼前に垂れていたので。

「よっ、釣り名人」

「……うるさいです」

 私はもう、それしか言うことが出来なかった。

 

 

 

 

 次の日も、また次の日も。

 明くる日も飽きること無く。

 男はその丘の頂上に佇んでいるので。

 私は一つ、尋ねてみたことがある。

「貴方は、一体何者何ですか」

 男はいつもの調子で、答えた。

「何者でもないさ、俺ゃあ。居ても居なくても同じ、存在が希薄な、ただの人」

「とてもそうは見えないのですが」

「それは、コッチの台詞でもあるんだけどもね」

 その時の男の視線は、いつものにへらとしたものではない、こちらを刺すようなものであった。

「いいじゃあないか。俺ゃあ暇人で、お嬢さんも暇人。たまたま、暇を潰す場所が被ってしまった、それだけ」

 けれどそう言う男の様子は、もう元に戻っていたので。

 私はそれ以上何も言うことが出来ず、平常通りに佇んでいるのみであった。

 

 

 

 

 その日は、蒸すように暑い日であった。

「……こんにちは」

「んあー……」

 いつもなら軽く「おぉう、また来たのかお嬢さん。本当に、俺らぁ暇人だなあ」なんて返してくるのだが、その日の男は笠を顔に被せたり、身体を涼しいところへ持って行ったりと、少しでも涼しくしようと努めているようだった。相当暑さに参っているらしい。

「元気そうですね」

「これがそう見えるんかい、お嬢さんには」

「いつものだらけている姿よりも、そうして少しでも涼しくあろうとしている方が余程人間らしいと思いますがね」

「あぁ、そうですかぃ、そいつぁー、良かったねぇ」

 どうやら本当に辛いらしい。息も絶え絶え、と言った感じで、こちらの言葉が耳に入っているかどうかも怪しいところである。

「……もうじき梅雨の季節ですか、こんな天気ももうじき無いのかもしれませんね」

 会話が無くなったので、天気の話を振る。

「……そうだなぁ」

 そんな、あっても無くても変わらないような相槌を打たれ、私は相変わらずだと安心したと共に。

 ふ、と、思い至った。

 

 男と会ってから、毎日欠かすこと無く、ここに訪れている。

 

 決して短くはない期間、私は彼と過ごしている。

 

 その間、丘の天気は――ずっと、ずっと、変わること無く、快晴だった。

 

 雲ひとつ無い、鳥一つ飛ばない、虫一つ鳴かない、そう。不自然なほどに。

 

 

「霞だ」

 男は、今にも耐えそうな声で、言った。

「貴方――」

「名前じゃあない。霞なんだ、俺ゃあ」

 苦しそうに、けれどいつもの通り寝転がりながら、男は言う。

「春が去ると、霞も消える。次に来るのは、ジメッとした梅雨と、嫌になるくらいの雨だ」

 

「それが過ぎたら、今度は茹だる夏だ。そこまで来ると、もう霞なんて欠片も残っちゃあいない」

 

「そうして季節が流れて、また春が来ると、また霞は来る。ただし、それはもう、違う霞だ」

 

「俺ゃあ、普通に霞として生まれて、何をするでもなく終わるんだと思ってた」

 

「それが目覚めたら急にこんな、人間の姿を与えられて、なぁ。正直、戸惑ったよ。幻想郷を恨みもした」

 

「そこに居て、そこから消えるのが仕事なのに、存在を与えられてちゃあ、仕事の食いっぱぐれなのさ」

 

「妖怪に食われて終わりでもいいかとも、正直、ちらっとだけ、思った」

 

「でもなぁ、気づいちゃあくれねえ。ここを通る妖怪は、皆、霞の存在なんか気づきやしねえ」

 

「唯一、お嬢さんを除いて、だ」

 

 お嬢さん、霞が見えたってことは、あんたぁ仙人なんだろう。

 男は、そう言って私の方を、指さした。その指先は、もう枯れ、萎んでいるようであった。

「後生だ、頼む。霞を、食ってはくれまいか」

 

 仙人は、霞を食って生きて居る。

 霞の存在価値は、それに尽きる。

 仙人に食われ、消える事こそが。

 霞にとって至上の喜びであると。

 

「貴方は。貴方は、それで」

「良いに決まっているだろうさ」

 戸惑い言い淀む私を、けれど男は制し言う。

「俺ゃあ、お嬢さんに言ったぞ。どうせ食われるなら、別嬪さんに食われたいと――お嬢さんに食われるのなら、人生まだまだ捨てたもんじゃあないと思えるさ」

「――――――」

 私は。

 私は、何も言えなかった。

「お嬢さんには、感謝をしている。俺ゃあ、話相手が居るってことが、何よりも幸せだった」

「そんなこと!」

 私は、何もしていなかった。

 ただ、貴方の言うことに、一々悪態をつくことしかしなかった。

 貴方が、自由気ままに生きる貴方のことが――羨ましかった。

「……お嬢さんよぉ、俺ゃあ説教は嫌いだ」

 けれど、と男は続ける。

「お嬢さんの説教なら、ちょっとだけなら、聞いてもいいって気分になった」

 だから、頼む。

 男の身体は、もうすっかり、やつれ、痩せ細っていた。

「……貴方は、本当に、大馬鹿者です」

 

「ぐうたらで、サボり魔で、自己中心的で」

 

「それで、その時が来たら勝手に消えていく」

 

「しかも消えるのが嫌だから、私に最期を看取らせる」

 

「本当に、駄目男です。卑怯者です」

 

「……それでも、だからこそ、私は貴方を」

 

「貴方を、好きになってしまったのかもしれません」

 

「私とは正反対の貴方に惹かれたのかもしれません」

 

「ですので」

 私は、男にそっと、口付けをした。

「これからは、私と共に、生きてゆきましょう――」

 

 

 

 ありがとうよ、お嬢さん。

 男の言葉が、初夏の空に溶けて消えた。

 男の姿は、もうそこにはなく。

 寝転んでいた場所は、露が草に垂れて光って居た。

 

 

 

 

 

 

 

「……ほら、霊夢。きりきり歩きなさい」

 すっかり疲れて歩く速度を落とした霊夢を、後ろで叱責する。霊夢は肩を落としながら、不満そうに呟いた。

「こんなところまで水を汲みに来なくても、すぐ近くの井戸にでも行けば幾らでも水は汲めるでしょうに」

「そうとも、水を汲みに行くのならすぐそこでも良いでしょう。しかし、目的は貴方のだらけきった性根を叩き直すことにあるのです。分かったなら、ほら、ちゃちゃっと歩く」

「はいはい……ったく、それにしたって、こんな高い丘に登らなくったって」

 ぶつぶつ言いながら、水桶を背負い直す霊夢を見て、私は溜息を吐いた。

「全く、私も昔はこの丘を、毎日のように登ったものですが……」

「はぁ? この丘をぉ? あんた一体、何のために登ったのよ」

「それは勿論、彼に会いたくて――ぇ」

 そこまで言って。

 ぼっ、と顔に火が着いたのを感じたのと同時に。

「ん、ええ? 何々? あんた、まさか好きな男に会うために――」

 霊夢が水桶を放っぽってこちらに寄ってくる(本当に、こういう時だけ行動が早い)ので、私は思わず口を塞いで失言を取り消した。

「ち、違っ! ほら、霊夢! 私のことはいいからっ! 早く歩きなさい!」

「えー、いいじゃないの減るもんじゃなし。ほらほら、華扇? 早いとこ言っちゃいなさいよ――」

「あぁぁぁぁ、もうっ!」

 どこかの烏天狗のようにしつこく食い下がってくる霊夢を退けながら。

 私――茨木華扇は、彼の顔を思い出して、また赤面してしまうのであった。

 

 きっと頂上では、彼はいつものとおり笑っているのだろう。

 そうしてまた、釣れるはずのない釣りを始めるのだ。

 ――まったく、まんまと釣られてしまったものだ。

 そう言いつつも嫌な思いは全くしていない、そんな私が、そこには居た。

 

 爽やかな風の吹く、早春の候であった。



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神子短篇

 リクで神子様。
 うーん ひとめぼれは いいぞ。


 ――そう、その時、私は恋に落ちたのだ。

 ぴちょん、という水滴の落ちる音。

 それと同時に、私の中で保たれていた和は、音を立てて決壊した。

 聴きたい。

 聴きたい。

 彼の音を聴いて。

 彼の事を聴きたい。

 私はけれど、耳当てを外さなかった。

 いいや、外せなかった。

 

 迸る鼓動を抑えるのに、両手が塞がってしまっていたから。

 

 

 

 

 

「……のう、屠自古よ」

 物部布都が、戸惑ったようにひそひそと、対面に浮く蘇我屠自古に話しかけた。

「その、太子様は一体どうされたというのじゃ。物憂い顔を浮かべているかと思えば、急にニヤついたり、果ては溜息なぞついたり」

「……さぁてね。あの人の考えることは、私にはわからないわ」

 屠自古はそう言うと、落ち着き払った様子で茶を啜った。

「……貴様は心配ではないのか?」

 眉をひそめる布都に「勿論、心配よ」と屠自古は返した。

「でも、太子様の方からなにか話をしに来たわけでもないのに、私達が顔を突き合わせて悩んでいても、解決なんてしっこないじゃない」

「……それはそうじゃが」

 机に突っ伏し、うんうんと唸りだす布都。

「そんなに心配なら、太子様に聞きに行けばいいじゃあない。『何か、悩みでもおありか太子様! 我にお任せあれっ!』ってね」

「……今のは、我の真似か? 屠自古よ」

「似ていたでしょう?」

「ノーコメントじゃ」

 似ていたらしい。

「兎にも角にも、じゃな」

 そこまで話した所で、件の太子様――豊聡耳神子の、盛大な溜息が、また聞こえてきた。

「太子様がいつまでもああでは、調子が狂うし、気が気でない。早く悩みを解決して、いつもの太子様に戻ってくれればよいのじゃが……」

「そうねぇ」

 口でそう言いつつも、屠自古はきっと、元の太子様に戻ることはおそらく無いだろう、そう思っていた。

「ま、あればっかりは私らじゃあどうしようもないでしょうし……」

「……貴様、何か知っておるような物言いじゃな?」

 ジトリとした視線を屠自古に向ける。『知っておるならさっさと教えんか』とでも言いたそうな、非難を帯びた視線であった。

「そのうち、わかるわよ。布都も」

「……ぬぅ。考え事をしておったら腹が減ってしようがないのう。なにか食料の備蓄はあったかいな……」

 納得はしていないまま、けれど本能に任せて台所に向かう布都を見て、屠自古は『わかるようになるには、あと何度復活すれば良いだろうか』などと考え、一人笑った。

 神子は――やはり、未だ誰の声も聴こうとはせず、部屋から出ようとしなかった。

 

 

 

 

 この世から消え入りたい気分とは、今のようなことを言うのであろうか。

 私――豊聡耳神子は、何度目かも覚えがつかぬ溜息をつき、頭を抱えた。

「……私は、一体どうしてしまったのでしょうか」

 幾ら雑念を払っても、目を閉じ精神統一を行っても、心の隅にこびりついて離れない。それはやがて大きくなり、私の心を満たし、私を直視してきて。

 その度、鼓動は自然と早くなり、顔の体温は熱くなり、もうどうしようもなく口をぱくぱくと開閉させることしかできなくなり。

 無理くり口を閉じても、口角が釣り上がり、自然と間抜けなニヤけ面を形成してしまう。

「病気、では無いと思うのですが」

 顔を振り、今一度――その手拭いを見た。

 決して綺麗ではない。使い込まれて少し変色した、麻で出来た簡素な手拭い。なんてことはない。これに、原因があるわけではない。

 すると、原因は、やはり。

「……確かめねば、いけません。」

 そう呟き、私は久方ぶりに部屋を出る。

 途中、すれ違った屠自古に「少し、人里の方に行ってきます」と言うと、屠自古は「行ってらっしゃい」とだけ返した。なぜか、その顔は微笑を含んでいた。

「……なにか、可笑しいことでもありましたか?」

「いいや、別に何も。ただ――」

 そう言って屠自古は、私の方を指差した。

「随分と、太子様が――楽しそうな。嬉しそうな。そんな顔をしていたもので」

「私が?」

「えぇ。凡そ、聖人とは思えないような緩んだ顔で」

 言葉に詰まる。そんな醜態を、門徒に晒していたとは――ああ。もう一度、この世から消え入りたい気分だ。

「良いんじゃないですか。聖人だって人ですし、調子の悪いこともありましょう」

 屠自古はけれど気にした素振りを見せず、飄々とそう言った。

「ただ、早いとこ調子を良くして頂けると――自然と布都の調子も良くなりますゆえ」

 そう言って、くいっと屠自古は親指で自身の後ろを示した。そこには、不安そうな表情を浮かべた布都が、柱の影に身を隠していた――本人は隠れているつもりなのだろうが、バレバレである。長い烏帽子が隠れ切れて居なかったため、私は思わず噴き出してしまった。

「ええ、そうですね。布都のためにも、早く良くならねばなりませんね」

「太子様のためにも、ですね」

 その屠自古の言葉に「えぇ」と応え、私は神霊廟を後にした。

 

 

 

「そりゃおめえ、もう見つからねえだろう。諦めな」

 同僚に経緯を話すと、彼は一太刀で僕の希望を切り伏せた。

「いや、まあそれは覚悟はしてるんだけど」

「覚悟してる割には未練タラタラじゃないの、えぇ」

 そう言うともう話は終わった、とばかりに彼は小物の展示に戻った。

「そんなに大切なもんだったんかい、あの手拭いが」

「あー、……いいや、そういうわけじゃあ、無いんだけどさ」

「んならなんでそんなに固執する。新しいの買えば済む話じゃろうが」

 こちらを一瞥もせずに、ここの硝子細工はここのほうが、だの、箸置きはどこに置こう、とか言っている。

「いや、うん。……そうだな」

「そうだ。ほら、気が済んだなら、手伝えや」

「わかったよ。んで、どういうふうに置くんだ」

「おぉ、そこのべこと蓮の葉をこの辺にな……」

 そのことを心にしまい込み、僕も業務に戻った――が。

 

 

 ――い、いえ、手拭いは、見ておりません。

 

 

 あの手拭い――それと、少女のことは、片隅から完全には消えることはなかった。

 

 

 

 

 

「あぁ、疲れた」

 今日の仕事を終え、肩凝りを解しながら帰路を歩く。いくらしがない小物屋であるとはいえ、またそれ故人手が少ないからとこき使うのは良いが、もう少し身体を労ってほしいものだ。

「寒いな、今日も……」

 白い息で手を暖める。帰って早いところ熱い風呂に入りたい。そうしたら夕餉にして、それから泥のように眠る。ずっと繰り返してきた平常の日常である。

 ――あぁ、そうか。

 一人、夜道で合点がいく。

 彼女に会った日は、平常な日常ではなく。

 故に僕は、あの手拭いのことが妙に気になってしようがないのだ。

 僕の手拭いを彼女が拾ってくれている。

 そんな、ありもせぬ、都合の良い展開を、まるで菓子をねだる幼児のように待っているのだ。

 

 

 

「あ、あのっ」

 

 

 

 そういえば、あの日も今日のように寒い日だった。

 思い返していくと。

 きっと、僕は、あの時。

 

 

 

「え、と。その、色々と、伝えなければいけないことが、あるのですが」

 

 

 

 そこに彼女は、佇んで居た。

 顔を紅く染め、息を荒げ、ただあの時とは違って真直ぐ僕を見据えて。

 そして手には、僕が落とした手拭いを持って。

 

 

 

「これを、落とされましたよね。返すのが遅れて、申し訳ありませんでした」

「あ、あぁ、うん。どうも」

 手渡された手拭いは、冬の気温に当てられてすっかり冷たくなっていた。

「もしかして、わざわざこれを届けに?」

 少女は――こくりと、頷いた。今にも泣き出しそうな、そんな顔をして、それでも僕から視線を逸らすことはなかった。

「どうも、ありがとう。じゃあやっぱり、あの時落としていたんだ」

「あ、す、すみません。あの時、すぐに返しておけば良かったのですが」

「いや、その、気にしなくても、いいから」

 申し訳無さそうにする彼女を慰めるように、慌てて否定する。見ると少女は腕を出した、随分と寒そうな格好をしていた。顔が赤かったのは、そのせいか。

「あ、あのっ」

「えっと――」

 僕と少女の声が重なる。気恥ずかしくて、思わず笑ってしまった。

「あ、お、お先どうぞ」

 おずおずと、少女がこちらを見やった。

「あぁ、うん。寒かったでしょう? これを、着るといい」

 そう言って僕は彼女の方に、僕が着込んでいた上着を掛けた。

「あ――い、いえ。私は、寒くなんか」

「いや、顔を赤くしていたから。今なんて、耳まで真っ赤だ」

 僕がそう言うと、少女は「ひゃ」と声を漏らした。そして、「ありがとうございます」と、小さく蚊の鳴くような声で返した。

「それじゃあ、僕は帰るよ。その上着は、また今度返してもらえばいいから」

「あ」

 僕は、彼女にそう告げて笑いかけた。そうして「それじゃ」と言い残し、背を向けた――

「待って、ください」

すんでの所で、呼び止められる。

「……あなたも、寒そうに、しています」

 そう言う少女の眼は、どこか――決心がついたような――そんな、声色をしていた。

「ありがとう、でも僕は――」

「貴方も、耳まで真っ赤、です」

「え」

 本当に? と、言う前に、少女が歩み寄ってきて。

「本当に、です」

 そう言って、彼女は自分の着けていた耳あてを、僕の耳に被せてきた。

 暖かい、のはいいが、周囲の音がほとんど聞こえなくなってしまう。これで夜道を歩くのは、少し危険ではないだろうか――?

 そう思い、耳当てを外そうとすると。

 

 

「――――――――」

 

 

 僕の手を少女の手が上から抑えこんで。

 

 

「――――――――」

 

 

 彼女は、僕に何やらを伝え。

 

 

「――――では――さよう、ならっ!」

 

 

 耳当てを外す頃には、彼女は既にその場から走り去っていた。

「……なんだよ」

 その場に残された僕は、ぽつりと独りごちた。

「悩んでたのが、馬鹿らしくなったや」

 少女の言葉は聞こえなかったが。

 

 

 ――――――――。

 

 

 少女の口の動きは、確かにそう僕に伝えていた。

 

 

 

 

 

「のう、屠自古よ」

 布都が頭を掻きながら、炬燵に入るやいなや、屠自古に問うた。

「太子様は一体どうしてしまったのじゃ」

「どうって」

 屠自古はそう言って煎餅を齧った。パキッという心地の良い音が響く。

「見ての通りなんじゃあない」

「見ても解らぬから、貴様に聞いておるのじゃが」

 布都は要領を得ないように、深く溜息をついた。

「溜息をつくと、幸せが逃げるわよ」

「我の幸福は太子様の幸福じゃ」

「それなら、貴方も喜んだらどうなのかしら」

 茶を啜る。この寒い時は、やはりこれに限る。

「そうは言ってものう。あんなに四六時中ニコニコされては、こちらはどうすればいいのか」

「溜息よりは良いでしょうに」

「……あー! わからん! さっぱり我にはわからん!」

 布都は諦めたのか、炬燵の上に乗った煎餅の袋を開けてバリバリと食べ始めた。

「ま、見守ることにしましょう。太子様が嬉しそうなのだから」

「うー……」

 二人は神子の部屋を見遣る。相変わらず、神子は部屋から出て来ない。

 それでも、たまに漏れ聞こえてくる鼻歌が、更に布都を混乱させるのであった。

 

 

 

「………………」

 相変わらず。

 口角は自然に釣り上がる。

 それでも、以前あったもやもやとした感情はどこにもなかった。

「……あのひとの、におい」

 あの時、貸してもらった上着に包まる。体温が上昇して、鼓動が早くなって、まるでダムが決壊したように彼の感情が私の中に入り込んできて、もう私は何も言うことができなくなり、机に突っ伏した。

「はふぅ」

 聴こえすぎるから――と言う理由で着けていた耳当てだけれど。

 今ばかりは、着けていなくてよかった、と思える。

 もし私が耳当てを付けていれば、私が彼の温もりに触れることは叶わなかったし、彼に私の想いを伝えられることも出来なかった。

「…………っ」

 あの時のことを思い出すと、また顔が紅くなっていくのがわかる。こんな状態では、面と向かって伝えるのはとても。

「……きちんと伝えるのは」

 これを返すときに、また、きっと。

 そう呟いて、私はまた、温もりで顔を洗った。

 

 

 

 

 

 ――あの。

 

 ――これ、どうも、ありがとうございました。

 

 ――それと、あの。

 

 ――ちゃんと、伝えておかないと、後悔をしてしまうので。

 

 ――好きです。

 

 ――あの時、貴方の顔を見た時から。

 

 

 

 一字一句違わず重なった言葉に、僕達は思わず目を丸くして、それから笑った。その日もまた凍えるように冷たい日であったが、上着も耳当ても、必要はなかった。

「……さ、寒い、ですね」

「……あぁ、うん」

 そんなに引っ付かれると、逆に暑いんだけど――という言葉を飲み込む。

「……あの」

「はい」

「……もう一度、上着、貸そうか」

「……貴方が居れば、それだけで」

「あぁー……うん」

 訂正。この上着には、まだまだお世話になりそうである。



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美鈴短篇

餓狼と化した美鈴(短め)。甘々というかビターどころか血と獣の臭いがする。どうしてこうなった。



大阪やる夫物語は面白いのでぜひ読んでみてください。


 野原であった。

 空は先程まで降っていた雨が止み、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせていた。濡れた地面は陽射しに差され、周囲にむしりとした蒸気を拡散していた。

「上がったな」

 その男は山のようであった。大きな体躯、鍛えられた筋肉は落ちてくる空をも支えそうな、厳つい風貌であった。しかし動きにくそうということもなく、気ままに雨上がりを待っていたことで凝った身体を、軽く柔軟運動などをして解していた。

「そのようですね」

 男の言葉に、女は返した。かの女はスリットの入った、所謂チャイナ服というものを着用していた。しかし脚を露出しているわけではなく、生地の厚い確りとした長ズボンを穿いていた。燃えるような赤髪は丁寧に三つ編みで編み込まれており、それを星型の刺繍が入った帽子で押さえつけている。さながら華人という印象を受けるような出で立ちであった。

「お前のしてくれた話、興味深かったよ」

「ええ。私も、思わず職務を放棄して話し込んでしまいました」

 二人が言葉を交わす。顔は微笑(わら)っていた。しかし眼は相手を見据え、射抜き、離しはしなかった。

「それで、貴方は一体」

 女が中腰に構え、右手をゆっくり突き出した。息がふっ、と漏れた。瞬間、野原のざわつきが収まった。音が、夕立が降った後の汰(にご)りが、かの女の発した気によって掻き消えたのだ。男はそれを見てほんの少し、眉を動かした。

「私にどういった話を、聴かせてくれるのでしょうか?」

 女がにぃっ、と不敵に笑った。男もにたりと不敵に笑った。二人は今日会ったばかりの仲であったが、この時見せたものは十年来の友と酒を交わすような、そういった笑みであった。

 しかしこれから交わすものは酒ではない。

「話す口を、おれは持たない」

 女に呼応するように、男は左手を突き出した。少し夕立に降られたためか、若しくはその後女の話を聴きながら鍛錬をしていたためか、腕には雨とも汗とも取れぬ水滴が浮いていた。

「語るのは、拳(これ)でだけだ」

 女の眼が、光った。

「あいにくと私も、これが一番手取りが早いもので」

「気が合うな」

 ごつと、拳同士がぶつかり合う鈍い音がした。

「やろう」

「ああ――やりましょう」

 水滴が弾け飛んだ。

 

 

 

 拳が飛んだ。

 脚も飛んだ。

 時には頭も飛んできた。

 足元がお留守とばかりに、股間も平気で狙ってきた。

 隙を少しでも見せれば、あれよと関節も極めてきた。

 野試合とは、こういうものだ。

 命を削り、躰を砕き、己れを見せ、相手を打ち倒すことだ。

 相手が誰であろうと。

 拳があい並べば、そこはもう、己れと、お前の世界なのだ。

 顔は凸凹に腫れている。

 血はそこら中から流れ出ている。

 それでも。

 ――まだ、やれるか。

 相手の眼は、そう己れに問いかけながら、横合いを殴りつけてくる。

 応。

 応ともさ。

 突きを腕で防ぎ、問いに答える。

 それはお前の問うべきことではない。

 やれるか?

 やれないか?

 それを決めるのは、己れだ。

 あぁ、あぁ――。

 攻め、守り、流し、極める。

 それだけだ。

 己れたちがやって居るのは、至極原始的なことだ。

 だがそれが、とても、心地よかった。

 ――腕が、捕られた。

 筋肉がみしりと言った。抜け出せぬ、一瞬でそうと分かるほど、がっちりと極まっていた。

 腕にまだやれるか、と問うた。

 応と答えた――腱が、悲鳴を上げた。

 腕にまだやれるか、と問うた。

 応と答えた――骨が、軋み始めた。

 己れはもう、問えなかった。

 腕の先に見えたかの女は、決死の形相を浮かべていた。

 額に流れる血を、拭おうともせず、ただ売女のように己れの腕を圧(へ)し折ることだけを求めていた。

 ――たまらぬ。

 やられることが美徳ではない。死力を尽くして、己れを潰しに来てくれることが――たまらなく嬉しく、愛おしかったのだ。

 先ほど拳をぶつけ合った方とは違う、右の腕。

 それが折れる音がして。

 意識を手放していくのが、わかった。

 ――まだ、やれるか。

 己れは、無理だといった。

 たまらぬ野試合であった。

 

 

 

 

 

「あぁ」

 気が付けば、空が見えた。その事実に、男は頭を手で抑えた。

 空が見えた、からではない。気がついた、からだ。

「おれは、負けたのか」

「いいえ」

 女の声がした。見ると、女が横腹を抑え、男と同じように空を見上げていた。

「私の完敗です」

「馬鹿な」

 男は言った。

「身動(みじろ)ぎする度に、身体に激痛が走る。もう、おれは動けんも同然だ」

「しかし貴方と違って、私は身動ぎ一つ出来ない」

「気は失わなかったんだろう。だったら、気を失ったおれの負けだ」

「それでも、やられ具合では私のほうが上です」

「……くっ」

「……ふふっ」

 しばし言い合ってから、二人は笑った。普段はあれほど負けたくない、勝ちたい、と思っているはずなのに。

 心地よく殴りあったあとでは、もうそんな感情は失くなっていた――いいや、失くなってはいない。

 ここで自分が勝ったと言えば、二度とこんな野試合は、できないのじゃあないか。

 そんな奇妙な感情が、二人の間で、不思議と共有できていたのであった。

「申し遅れました。私、紅魔館の門番をやっている、紅美鈴という者です」

「うん」

 女が名乗った後、どうぞ、と言わんばかりに笑ったので、男は女から目を逸らし言った。

「敗者は名乗る術を持たん」

「強情ですねぇ」

 女は笑うと、すっくと立ち上がって言った。

「だから強いんでしょうね」

 今回は私の勝ちにしておいてあげます、そう残してかの女は、その場を去っていった。男はその方をちらりとも見ず、ただぼそりと呟いた。

「矢張りおれは負けていたんじゃあないか」

 空はもう雲ひとつない快晴であった。すっかり赤に染まった陽に、男は眩しそうに手を翳(かざ)した。

 

 

 

 

 

「ねぇ」

 不思議そうに、娘は問うた。

「お父さんとお母さんは、なんで結婚したの?」

 男は笑った。助けを求めるように、妻に視線をやった。しかし気付かぬ振りをして、もう寝る時間でしょう、と窘めた。

「これだけは訊かせてよ。お父さんとお母さん、どっちが先に好きって言ったの?」

 むくれてそう言う娘に、男は頬を掻いた。物心が着いてきたのかな――そう男が言うと、妻はにこやかな笑みを浮かべて、娘の頭をそっと撫でた。

「両方ですよ」

「……両方?」

 娘が頭を傾げた。

「えぇ。私達は同時に、好きになったのですよ」

「じゃあ、告白は?」

「それも、同時です」

「ふぅん? へんなのー」

 少々渋ったが納得したらしい、娘は男におやすみと元気よく言って、寝室へと駆けだした。走ると危ないぞ、と背に言うが、あれは聴いてはいないだろう。

 

「まさか、言えませんものね。初めて会って直ぐ喧嘩をしただなんて」

 妻は娘を寝かしつけてから、男にそう言った。

「それどころか、何度も何度も、喧嘩をしただなんて」

 それはそうだ、男は苦笑いを浮かべた。

「あぁ、思い出したらなんだか」

 ――血が滾ってきた。

「貴方。久方ぶりに、あの野原に行っては見ませんか」

 男は、おれもそう思っていたところだと返した。

「楽しい時間になりそうですね」

「――あぁ、そうだなあ」

 己れはそう応えて、左手を握ったり開いたりした。

 熱はすっかり籠り、もう制約など出来るはずもないほど膨張してしまっていた。

「なあ、美鈴」

「はい、貴方」

「やろう」

「――はい」

 ごつと、拳同士がぶつかり合う鈍い音が響いた。

「やりましょう」

 そう言って笑った時の美鈴は、間違いようのなく友であり、たまらぬほどの友であった。



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こころ短篇

大阪生まれのフリフリみっくちゅじゅーちゅ好き。


「………………」

 昼下がりに行きつけの喫茶店で彼女を見た時に、顔が少し曇ったのが自分でも分かった。あまり繁盛していない、けれどコーヒーはうまい。サイドメニューも豊富で、マスターの人当たりも良い。瓦版屋で忙しい日常を送る自分にとって、ここは数少ない落ち着いて一息つける場所なのである。尤もマスターは、もっと繁盛して店がお客で一杯になってほしいと嘆いているのだが。

 そんなお気に入りの場所に、けったいな格好をした者が居れば顔も多少は曇ろう。チェック柄のシャツに、所々穴の開いた、かぼちゃのように膨らんだスカート。額には不気味な笑みを浮かべた仮面を携え、当の本人は仏頂面で何処を見ているやら、じぃっと宙を見つめて座っていた。

「何だありゃ」

 今の流行りか何かか、あの格好は。しかしここに来るまでに、そんな出で立ちの者は見掛けなかったし、彼女の酔狂だろう。だからこそ――口には出さず、嫌だ嫌だという表情を浮かべた。せめてこちらの平穏だけは、邪魔しないでほしいものである。

「マスター、注文」

「はい」

 呼ぶとすぐに、マスターがお絞りを持って来た。それを受け取り、手を拭きながらそれとなくマスターに尋ねる。

「なあ、あそこに居るのは……」

「あぁ、彼女?」

 するとマスターは、俺と同じように顔を少し曇らせた。

「いや、ね。今日の朝来て、見ない顔だなあと思ったんだけど。それから注文もせず、ずっとあそこに座っているんだ」

「へえ。マスターの隠し子かなんかじゃないのか」

「からかわないでくれよ」

 改めて彼女を見遣る――この世界には、容姿と年齢が比例するわけではない妖怪などもいるので一概には言えないが――見た目は年端もいかぬ少女である。運ばれてきたお冷の入ったコップには手は付けられていない。物憂げのような、怒っているような、なんとも言えぬ表情で、ただ座っているだけであった。なにをしているわけでもない。ひたすらそこに居ることをしている、と言った様子である。

「まあ、別にいいんだけれどもね。店に被害を与えるようでもなさそうだし」

「ふぅん」

 なにか訳ありなんだろうが、こっちには関係ない。

「まあいいや。いつもの、頂戴」

「はい」

 注文を受けたマスターが奥に消えていく。程なくするとコーヒーの香りが漂ってくるだろう。それを新聞を読みながら待つこの時間が、自分にとっては何物にも代えがたい貴重な時間である。

「…………ん」

 ふと、視線を感じそちらを見る。例の妙ちきりんな少女が、宙からこちらへと視線を移していた。表情は相変わらずなにを考えているかわからない無表情であった――いや、それとは少し違う。何かを考えていながらも言い出せないような、含みを持った視線であった。

 

「………………」

 

「………………」

 

 相も変わらずこちらに視線を送ってくるので、堪らず新聞に視線を落とした。どこどこでなんちゃらの花が咲いただの、ここそこの神社が人手不足だの、信仰が足りないのであーだこーだと、有用そうでない情報ばかりが載っている。興味はないが、興味ありげにへー、だのほー、だの言いながら新聞を読む振りをする。これで諦めてくれればいいのだが――。

 

「訊きたいことがあるのだけれど」

 

 そうは、問屋が卸さないらしい。視線を外すどころか、席を立って自分のすぐ真ん前まで、少女は近づいてきていた。

「……何か」

 ここまで来られて声まで掛けられては無視するわけにもいくまい。不承不承、新聞を畳んで少女を見た。

「貴方は先程、この店の主に『いつもの』と頼んでいたけれど」

「ああ、頼んだよ。それがどうか?」

「『いつもの』という名の商品があるの?」

「………………」

 これは相当な世間知らずらしい。真顔で聞いてくる分、本気でそれを聞いているのだろう。まさかそれだけのために声を掛けたのだろうか。

「いつもの、って言ったのは、単に俺がここの常連だからってだけだよ」

「……常連ならば、『いつもの』が頼めるの?」

「そういうわけじゃないんだけどもだな……」

 あぁ、頭が痛くなる。暖簾に釘を差して、糠に腕押ししているような無為がここにあった。

「それなら、私も頼めるの?」

「……あー、うん頼める頼める。いっくらでも頼める」

 もう面倒臭くなって、投げやりに答える。なんだって折角休みに来たのに、不毛な会話で体力をすり減らさなければいけないのか、なんてことを思っていると。

「おい」

「?」

「首を傾げるな。なんで俺の向かいの席に座ってんだ、自分の席に戻れ」

 さも当たり前のようにそこに座ったので、思わず指摘する。すると彼女は何の気なしに言ってみせた。

「貴方と一緒にいれば、『いつもの』が頼めるのでしょう」

「……一応聞いておく。なんでそう思った?」

 額を掻いて尋ねる。

「貴方は、常連じゃなくとも『いつもの』が頼めると言った。けれど、貴方は常連で、私は初めて。となると私だけでは断られる恐れがある。なので貴方といれば『いつもの』を頼めると思った。だからここに座った」

「………………」

 こいつは、世間知らずを越えて頭の螺子が抜けている。というかなんでそこまでして『いつもの』を頼みたいんだろうか。

「お前は――」

「はい、お待ちどう」

 それを聞こうと口を開いた瞬間、件の『いつもの』が届いたので口を噤んでしまう。運んできたマスターは、同席している少女を見て一瞬驚いたが、すぐに笑って「ごゆっくり」とだけ言ってカウンターに戻ってしまった。

「……それが、『いつもの』?」

 相変わらずの無表情ではあったが、心なしか、少女の瞳が輝いているように見えた。その目が捉えているのは――運ばれてきたコーヒー。それと、フルーツや生クリームがふんだんにあしらわれ、頂上には大きなプリンが鎮座している、顔まで届きそうに巨大なパフェであった。

「……悪かったな、男がこんなもん食って」

 大の大人がこんなものを食べるのは恥ずかしい。しかし甘い物は好きだし、堪えられない。その答えがこの喫茶店であり、この店があまり繁盛してほしくない最たる理由でもあった。

「? 何も悪くない。むしろ、『いつもの』はとてもいいと思う」

「あぁそうかい」

 慰めているのか、それとも本音なのか。恐らく後者であろう。しかしその純真な言葉が、俺の気恥ずかしさに拍車をかけていた。

「……食うか」

 そう言い少女を見遣る。暫し目をパチクリさせたあと、無言でこちらを見返してきた。

「いいんだよ、今日は甘いもん食うって気分じゃないんだ」

「……本当に?」

「あー本当本当。だからさっさと食っちまえ」

 勿論嘘である。そうでなければここには来ない。ここのパフェは絶品なのだ。けれど、これ以上不毛な会話を繰り広げるよりは、この少女の口に物を詰め込んで黙らせたほうが幾分楽だろうという判断である。

「じゃあ、食べる」

 少女はそう言うと匙を取り、天辺のプリンを掬った。それを見て、ああようやく解放されるとひと安心しつつも、甘いものの誘惑に後ろ髪を引かれ小さく溜息を吐いた。コーヒーを啜り、また新聞を開いて。

「……ん?」

 なんだか妙にカチャカチャとうるさいので、再び少女に視線を移した。

「! ! ……!」

 少女は、貪り、食っていた。一心不乱に匙という武器で、パフェという戦場を荒らしまわっていた。無表情で。しかし、どことなく幸せそうに。不気味な仮面は、いつの間にか満面の笑みを浮かべているものに変わっていた。

「………………」

 机を指でトントンと叩く。それに少女が気付き、顔を上げた。頬に生クリームが付いているので、手拭きで拭ってやりながら、

「うまいか?」

と問う。

「おいしい、すごく」

 即答した。

「そうか、そりゃあ良かった」

 そう言うと少女はこくりと頷いて、またパフェを殲滅にかかった。

 ここが繁盛するのは、あまり自分にとっては喜ばしいことではないのだが。

「……ゆっくり食え、パフェは逃げねえから」

 たまにはこういう事があってもいいかもしれない、と――不本意ながらほんのちょっとだけ、思うのであった。

 

 

 

「ごちそう、さま」

 ご丁寧に(こちらはやる、とは言っていないのだが)コーヒーまで飲み干してから、彼女はけふと息を吐いた。

「満足したか」

「したー」

 またも仮面が変わっていた。なんというのか、福の神みたいな下膨れに。どこまでバリエーションがあるのか気になってきた、が。

「そうか、ならさっさと帰りな」

「? それはなぜ?」

「なぜってお前、食い物屋はメシ食って帰るところだからだ」

 どちらかと言うと喫茶店はそんな場所じゃないが、これ以上寛ぎの時間を奪われるのも嫌なので。

「そうなの?」

「そうなの」

 テキトウに言いくるめてしまおうと舌を回す。

「わかった」

 鉄仮面を崩さず、少女はそう言って――ゆっくりと、席を立った。

「……おう、気をつけて帰れよ」

「ん」

 そしてそのまま、名も知らぬ少女はすたすたと足を出口の方へ動かして。

 

「………………おい」

 

「?」

 

 そのまま、俺の隣に、ちょこんと座るのであった。

 

「今俺は何つった?」

「『おい』って」

「違うその前」

「『満足したか』って」

「行き過ぎ、もうちょい後」

「『そうなの』?」

「てめぇわざとやってんだろナァ!?」

 ここまで来ると糠と暖簾に体ごと吸い込まれていく感覚さえある。

「だって、貴方は言った」

「あー、言ったよ! さっさと帰れって――」

 

 

「『食い物屋はメシ食って帰るところだから』って」

 

 

「貴方はまだ、何も食べてない」

 

 

「私が食べてしまったから」

 

 

「だから、私は帰れないの」

 

 

 じぃ、っと、水晶のような眼がこちらを見る。

「いやそれは」

「すみません」

 言葉を待たず、少女は声を上げる。

「はい?」

 程なくこちらにやってきたマスターに、少女は言った。

「『いつもの』、ください」

「………………」

 マスターは少々驚いたようであったが、直ぐに「あぁ、ちょっと待っててね」と笑った。

「なるほど、君の隠し子だったんだねぇ」

「……勘弁してくれ……」

 さっきの仕返しとばかりにマスターがこっそり伝えてくるので――俺はもう、頭を垂れるしか出来なかった。

 平穏が崩れた時でも、パフェは相変わらず美味かった。

 

 

 

「……んで、お前はいつまで着いて来るんだよ」

 マスターに笑顔で見送られ(今度会ったら何を訊かれるかと思うと気が重い)、店を出た頃にはもう陽が赤く染まっていた。日が沈み、夜になってはことである。早歩きで家路につく俺の後ろには、何故か少女の姿もあった。

「貴方に訊きたいことが、あるのだけれど」

「まだあんのかよ」

 肩を落とす。しかし適当にあしらっても、どうせさっきみたいに面倒なことになるだろう。

「これが最後だから」

「……手短に頼む」

 一間置いて、少女は口を開いた。

 

 

「希望は、どこにあるの?」

 

 

「は?」

 言っている意味がわからず、少女の方を振り返る。

「今、私には、希望が無い」

 淡々と真顔で話す少女の姿が、夕陽に照らされて影がかっていた。

「あれが無いと、私はもうどうすればいいかわからない」

 けれど、と紡いでから、少し息を吸って。

「貴方は、あの店に『希望』を持っていると、私は判断した」

 だから教えて。

 私の希望が、どこにあるのかを。

 

 面が、泣いていた。

 

 

 

「希望なんて、俺は持ってない」

 少なくとも自分には――少女の話は、まったく理解できなかったし、望む答えなぞ持ち合わせているはずもなかった。

 けれどそれでも、なんとか言葉を見つけ、回答せねばならないと思ったのは――彼女が悲しそうにしているのが、初めて理解できたからである。

「でもな、人間なんてそんなもんだ。希望なんて無くとも、生きていくことは出来る」

「人間」

 少女が、妙なところを鸚鵡返しする。

「人間だけじゃない。妖怪も、妖精も、そこら辺に生えてる草や木だって、希望を持って生活してる奴なんか稀だ」

「それじゃあ」

 ずい、と近づいて来る。少女の影が、一層濃くなった。

「貴方はどうして、何を糧にして、生きているの」

 私には理解が出来ない。

 そう言いたげな少女の頭を、俺はポンと撫でて言った。

「希望を作るためだよ」

「……作る、希望を?」

 少女は、ぽかんとしていた。

「些細でいい。今日が辛くとも、明日が良い日になると信じていれば、頑張れる。それが希望を糧にして生きる、てことだ」

「……それで、明日も辛い日になれば、どうするの」

「そんときゃあ」

 後ろを振り返る。既に喫茶店は見えない場所まで来ているが、身体に染み付いたコーヒーの香りが、あそこにいたことを思い起こさせてくれた。

「あそこで『いつもの』って言うだけだ。そうやって俺は、希望を作ってる」

「………………!」

 少女が目を見開いた。 

「俺は、お前が、どこの誰かは知らん」

 人間なのか、それ以外なのかも。

「だけどな、少なくともお前よりは、あの店の魅力を知っている」

 コーヒーの種類も、サイドメニューの豊富さも、パフェの旨さも。

「だから――」

「またあそこに、行けばいいのね」

 言葉を遮って、少女は言った。

「……ただ、あそこにお前の望む希望があるとは限らんぞ」

「分かっているわ」

 だって、希望は。

「希望は、自分で作らなければならないものなのだし」

 それに。

 

「あそこの『いつもの』の美味しさは、私も貴方と同じくらい知っているもの」

 

 彼女はそう言って、両の頬を指で釣り上げ微笑んだ。

 

 面はもう、泣いてはいなかった。

 

 

 

 

 

「マスター、いつもの」

 いつもの喫茶店で、いつものようにマスターにそう言って、いつも座っている席に腰掛ける。

「はい。……それと、これ」

 いつも通りにお冷とおしぼりを持ってくるマスターが、今日はそれに加えていつもとは違うものを持ってきた。

「……新聞?」

 今日付のそれには、でかでかと『急報・異変発生』と言う見出しが踊っていた。

「これがどうしたってんだ」

 異変なんて、ここ最近では珍しくない。むしろ自分のような一平民では与り知らない所で話が始まり、いつの間にか終わっている、ということも多いので、こうやって記事になるのは違和感がある。新聞の名は、『文々。新聞』と言った。

「……?」

 新聞を開く。一面の表題、その隣にはモノクロの大きな写真が収まっていた。

「………………」

 その中央に、あの――無表情の少女が居たので、俺はもう新聞を閉じておしぼりで顔を拭くことにした。

 ふと、喫茶店の扉が開く。雫が垂れるグラスに、その客の姿が写った。

「はい、いらっしゃい」

「いいよ、マスター。こいつには……んなこと言わなくたって」

「………………」

 相変わらず奇抜な服装。

 相変わらず変わらぬ表情。

 変わったのは、額の面くらいであろうか――しかしそれも、なんと形容していいかわからぬほど、面妖なものになっていた。悪い方に。

「それが、『希望』か?」

「そう」

 私が作ったわけではないけれど、とそう言って、少女はしれっとまた俺の対面に鎮座した。

「俺は、ここで一人で静かにしているのが『希望』なんだけどな」

「そう、頑張って」

 この野郎。

「はい、『いつもの』。お待ちどう。そちら、ご注文は?」

 マスターがパフェとコーヒーを持ってきたついで、少女にオーダーを取る。

 少女はついと顔を上げ、マスターに告げる。

 

「『いつもの』、下さい」

 

 少女がやはりそういうので、俺は呆れながら、仕方なしに教えてやることにした。

「……あのな、いつもの、ってのはそう言うメニューが有るわけじゃなくて。俺がいつもパフェとコーヒーを頼んでるから、マスターにいつものが通じるのであってだな」

「……これは、違うの?」

「あぁ?」

 少女がそう言って、メニューを指差した。そこには、マジックで小さくこう書かれていた。

 

 

『新メニュー・いつものセット(ビッグプリンパフェ・コーヒー付)』

 

 

「……マスター……」

 見るともうマスターは厨房に引っ込んでいて、こちらを見ながら笑っていた。どうやらグルらしい。

「貴方の希望は、この店だと言った」

「……そうだが」

「私の希望は――これと」

 頭の面を指さし、取り外して。

「これ」

 先刻運ばれてきた俺のパフェを指さして、少女は言った。

「……これは俺んだ、今日はやらねえぞ」

 そう言うと少女はふるふると首を振ってから。

 

 

「ここで、貴方と一緒に、貴方と一緒の物を食べるのが、私の『希望』」

 

 

 そう言って彼女はまた、あの時のように不器用に微笑うので。

 俺はもう、パフェを口に詰め込むことしか、出来なかった。

 

「あぁ、くそ」

 

 一つため息を吐いて、毒づく。

 

「今日もうめえなあ、ここのパフェは」

 

 自分のを待ちきれない様子の少女が、それを聞いて真顔になった。

 面は、静かに微笑んでいるものに変わっていた。



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