転生しても戦争だった ~数多の転生者が歴史を紡ぎ、あるいは歴史に紡がれてしまう話~ 作:ガンスリンガー中年
さて、唐突だがノブゴロドのすぐ南にはイリメニ湖という大きな湖がある。
正確にはノブゴロドは元々イリメニ湖の湖畔の街として発展した。
イリメニ湖から流れる川は基本、ノブゴロド市内を南北に縦断するヴォルホフ川で、南から北へ流れるこの川は最終的にラドガ湖へと流れ着く。
そして、ラドガ湖南岸には川と同じヴォルホフという街があり、1926年には水力発電所が開業し、1932年にはその電力を生かしたソ連初のアルミニウム工場も建設された。
無論、今はラドガ湖、オネガ湖、二つの湖の間にあるカレリア地方を管轄するフィンランド軍が駐留しており、ドイツの北方軍集団からも分派部隊が警備として入っていた。
そして、水力発電所とアルミニウム工場には今や世界最高峰の工兵隊である”
さて、話をイリメニ湖とヴォルホフ川に戻すが、イリメニ湖から流れ出たヴォルホフ川は市街に入る前に分流され、ノブゴロド市街東側へ流れるいくつかの川へと誘導される。
そして”バルバロッサ作戦”初期、サンクトペテルブルグ(当時はレニングラード)攻略前の拠点としてドイツ軍はノブゴロドを制圧したが、この時より軍需相トート博士直轄の特殊大規模土木工事集団”トート機関(アウトバーンを建造したチームと言えば、わかりやすいだろうか?)”により、イリメニ湖の水位が下がる時期を見計らってその分流のいくつかに水門を設置したのだ。
一見すると治水工事のように見えるが、実際は運河周辺を灌漑ではなく干拓する為に行なわれていた。
表向きの理由は、「運河を用いたソ連の河川艇による攻撃を防ぐため」であったが、実際にはノブゴロド東部の二又に別れた運河により野戦築城がやりにくいというのが本当の理由だった。
できれば〇-グルマップなどでズーム拡大して確認して欲しいが、1943年のこの時点では現在の地図にあるようなイリメニ湖からムスタ川へ直線的に繋がる水路はこの世界線ではまだ完成しておらず、分流してマーリ・ヴォルホヴェッツ川に注ぎ込む部位を水門で遮断し、逆に市内を流れるヴォルホフ川から分派されレヴォシュニャ川へ流れる小川(フェドロフスキー・ルチェイ)との接続点だけを残したのだ。
レヴォシュニャ川はヴォロトヴォ(Volotovo)の西でマーリ・ヴォルホヴェッツ川と合流するので、水の流れその物は阻害されることは無い。
大雑把だが水門でせき止め干拓し、ノブゴロド東側の北からヴォロトヴォ(Volotovo)、ショロホヴォ(Sholokhovo)、セリツォ=シャテルノ、ヴォルホフ川本流に囲まれたラインの内(西)側を乾いた土地に変えたのだ。
マーリ・ヴォルホヴェッツ川はレヴォシュニャ川と合流するヴォロトヴォ沖で急に川幅を広げるので、そこから北は簡単に渡河できない自然の要害となるだろう。
つまり、ソ連がまともな地上戦をやろうとしたら、ノブゴロド市東南のヴォロトヴォ、ショロホヴォ、セリツォ=シャテルノ、ヴォルホフ川本流へと繋がる大体7㎞のライン、”意図的に干上がらせた元は川”から進軍するしかない。
つまり、ドイツ軍はソ連の「侵攻ルートを限定させる」ことを第一に動いたのだった。
そしてその構想と方針は、サンクトペテルブルグ大公領の統治下になっても引き継がれた。
そう、”
言ってしまえば干上がった川を天然の空堀とし、水が流れてる状態では不可能だった”チェコの針鼠”や有刺鉄線の鉄条網、地雷原の敷設などを行っている。
確かに川というのは自然の要害に使いやすいのだが、相手が機甲師団だとすると良し悪しだろう。
何しろ、川幅や深さによっては本格的な渡河装備が無くても渡れてしまうし、防衛側が知らない、あるいは気づかない浅瀬があるかもしれない。
それを警戒して外側のマーリ・ヴォルホヴェッツ川の東岸に防衛線を構築すれば、今度はノブゴロド防衛側が背水の陣になってしまう。
ならいっそ、水門の調整で川を干拓して縦層の強固な防衛戦を構築するというのも、十分な土木能力があるのならあるいはそれは有効な手段なのかもしれない。
幸い、ドイツ側にはトート機関と
そして事実、意図的に作られた強固な防衛線が築かれていつことがわかっていたとしても、ソ連……いや230万人が投入予定の”赤衛国際革命旅団(Красная гвардия Интернациональной революционной бригады)”は、その”強固な7㎞”を吶喊するしかない。
なぜなら渡河戦術は、それなりに高度な訓練をした部隊だからこそできるそれであり、「言葉が通じてるか怪しい、意思疎通が不確定の大半が素人の集団」にできることではない。
ならば、赤軍の取る戦術とは……
☆☆☆
こうして少なくともノブゴロド市の東にある外側のマーリ・ヴォルホヴェッツ川、内側のレヴォシュニャ川は任意の地点の干拓に成功した。
そして、レヴォシュニャ川の西岸(都市側の岸)に長い土塁が築かれたのだ。
いや、これはもはや堤防、あるいは川岸にできた高さ数mの絶壁の護岸と言った方が良いかもしれない。
そして、壁際には鼠返しのように斜め下に突き出る鉄杭が打ち込まれ、有刺鉄線が張り巡らされて戦車も歩兵も容易に登れないようになっていた。
逆にレヴォシュニャ川の東岸は、チェコの針鼠や鉄条網、地雷原はしっかりしていたが河川敷のような緩勾配になるように整地されている。
おそらくこれは戦車が斜面を降りてくるときに丁度、絶壁の上から撃ちおろすときにちょうど”薄い上面装甲”を長時間晒すように角度調整されたのだと思われる。
地形条件も無論あるのだろうが、防衛装備は大差なくとも、ガチガチに防御固めたスモレンスクとはまた違う防御思想をノブゴロドは持っている気がする。
それが有効的に働くかどうかは、いずれ明らかになるだろう。
ただ、ロシア人は歴史的に兵站補給は弱くとも、それを補うように野戦築城や要塞の設営が妙に上手く、また籠城戦めいた戦いも得意だった。
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さて、6月後半……
サンクトペテルブルグの郊外に設営された軍飛行場に、とある集団客(?)が来訪していた。
「ふぇ~。やっぱり、”Mc205B”ってすっごいパワフルだね~」
そう感嘆するのは、今や機上の人としてサンクトペテルブルグの空を堪能している”フリードリヒ・ハルトマン”
スモレンスクに配備された、トップエースのメルダースが頭目を務める”第1統合航空戦闘団(Kombiniertes Luftfahrt Kampfgruppen 1:KLK1)”に新人として配され初陣を飾り、同時にソ連赤農空軍相手の二度にわたる大規模な防空戦を経験。
メルダースを筆頭に副長のガーランド、クルピンスキーにマルセイユ、ロスマンにバルクホルンら綺羅星の如く個性豊かな
そして今や、敵の偵察機や定期爆撃機もスコアに加えて単独撃墜20機を超え、同僚の同じく単独20機以上撃墜の”カールハインツ・シュミット”
まあ、その成果として新人二人そろっての勲章授与と中尉昇進だ。
そして、スモレンスクからわざわざ愛機に乗ってシュミットと共に遥々サンクトペテルブルグまで来たのは、新型機の受領の為だった。
ハルトマン的には初陣から今まで世話になった”Bf109F-4”に愛着はあったが、この新型”Mc205B”もパワフルなエンジンとどのような高度や速度でも素直な挙動が気に入りだしていた。
現在、ドイツ空軍は積極的に新型への航空機の入れ替えが行なわれていた。
例えば、最近量産体制が整った”Mc205B”がその一つで、電力とアルミ製造に余力のあるサンクトペテルブルグはその製造拠点の一つだった。
というか、サンクトペテルブルグ大公フォン・クルスの治めるサンクトペテルブルグ大公領は、今や主に流入による人口爆発とそれを担保とした急速で驚異的な復興とそれに伴う近代化や効率化により、昔日の”最盛期のレニングラード”を既に生産力で飛び越え、ドイツの一大生産拠点となっていた。
なんとなく、なんとなくだが「戦災による旧態依然とした設備の破壊」をバネにして、産業の近代化を図った史実の戦後日本を思い起こさせる。
参考までに書いておくとフィンランドの1940年当時の総人口は史実では370万人弱、この世界線でも多少増えたくらいでそう大きな変動はなく、大体2024年度の横浜市の人口(377万人)と同じくらいと考えていい。
そして、サンクトペテルブルグ大公領の人口は既に400万人を超えつつあり、史実の1939年当時(レニングラード包囲戦発動前)のレニングラードの人口319万人を凌ぎ、帝都であった帝政ロシア時代の繫栄すらも凌駕しているようだった。
ちなみにスモレンスクからサンクトペテルブルグまでは600㎞もなく、逆にスモレンスクからドイツ、例えばベルリンまで1500㎞以上あり、なので”KLK1”のパイロット達の多く、特にBf109などの液冷戦闘機乗り達はサンクトペテルブルグで新型を受領していた。
例えば、前述のガーランド、クルピンスキーにマルセイユ、ロスマンなどはハルトマン達に先んじてMc205B受領を済ませていた。
最近、またキナ臭くなっていたスモレンスクの防空に穴を開けるわけにもいかないので、こうやって小規模編成のローテーションで入れ替えを行っているようだ。
なら陸路でまとめて運んでも良さそうなものだが、生憎とそちらはそちらでスモレンスクで消耗する他の物資の搬入で手一杯で、「飛んで行ける奴は自分で飛んで行け」という状況らしい。
そう考えると戦争とはいえ中々に世知辛い。
それに乗り換えられる旧型もよほど蓄積ダメージがひどいでもなければ、サンクトペテルブルグで念入りに再整備・再塗装されてフィンランドを筆頭にバルト三国やウクライナなどの同盟国や友好国に回されるので、乗ってきた旧型機が無駄になるということも無かった。
実際、DB601NGV(史実のDB605ASM相当)エンジンを搭載したBf109Gは、1943年6月現在でも防空戦闘機として一級の性能を誇っていた為、これは未だに防空戦闘機が万全とは言い難いそれらの国に非常に喜ばれた。
『ハルトマン、調子はどうだ?』
無線機を通じて入ってきたシュミットの声に、
「極めて快調だよ、シュミット。こういうのを”世代が違う”って言うのかもね」
『肯定だ。この新型なら今まで以上に”赤い星”を効率的に屠れそうだ』
「アハハ。シュミット、同意だけど気負い過ぎるなよ? 適当にリラックスしていた方が視野が広くなる。視野の広さは戦闘機乗りにとって命綱だぞ?」
同じ釜の飯を食う中で、年齢も近いせいか気心知れた関係になっていたシュミットにそう返すと、
『その通りだな。うむ。良い忠告だ』
史実でのハインツ・シュミット大尉は「3週間でソ連機50機撃墜」という驚異的なスコアをあげた猛者だったが、1943年5月にMIAとなってしまった。
この世界線では、ドイツが英国と停戦しただけでなくアフリカやギリシャなどでの主にイタリアが原因の”無駄な戦い”をさっさと切り上げて独ソ戦に戦争リソースを傾注した結果、「優秀なパイロットと優秀な機体が揃い過ぎてしまった(あるいは生き残り過ぎている)」為にそこまで華々しい戦果は今のところまだないが……
それも時間の問題かもしれない。
彼らはただ戦闘機を受領してスモレンスクにとんぼ返りするのではなく、10日間の新型機慣熟訓練が予定に入っていたからだ。
そしてサンクトペテルブルグの目と鼻の先には、スモレンスクと同じく要塞化されたノブゴロドという街があるのだ。
という訳で、「人工的な長さ7㎞の決戦場(処刑場?)」を用意したトート機関→クルス&土木工事のオーソリティー集団”
ちょっとマイナーな地名ばかりで分かりにくいと思い、地図を載せようかとも思ったんですが、ちょっとうまくいかなかったので、〇ーグルマップでの場所確認方法を入れておきますね?
(1)グーグ〇マップを開き、「ロシア建国一千年祭記念碑像」と入力ないし”Церковь Спаса Преображения на Ильине улице”というロシア語をそのままコピペして検索してください
↓
(2)そうするとノブゴロド市の東側が出てくるので、そのままズームを引いてください。目安は画面下部に”オゼロ・ミチャノ(ミチャノ湖)”の文字が出てくるあたりです。
↓
(3)そうなるとイリメニ湖から流れ出てノブゴロド市内を流れるヴォルホフ川、そしてヴォルホフ川から市内に入る手前で東に分流して二又に分かれて再合流する川があると思いますが、大雑把に分流する場所から二又が再合流する場所までを水門工事やバイパスで干上がらせたのが今回の工事です。
そして干上がった二本の川の内側の方(レヴォシュニャ川)の西岸に絶壁じみた土手を築いて、干拓したそこより東側に川の地形を利用したチェコの針鼠やら鉄条網やら地雷原やらの防衛線を形成したって感じです。
本文だけでなんとなくイメージできれば十分なのですが、地形が気になった方は参考にしてくださると幸いです。
それにしても、この工場を1年やそこらでやり遂げるトート機関とリガ・ミリティア、すげぇなとw
そして後半……出てきましたよ。
シュミット中尉にハルトマンの若きエースコンビ。
どっちもスモレンスク二度の防衛線とそれに付随する空戦で、20機以上撃墜の若手ホープ、将来のウルトラエース候補です。
さて、二人も出てきたことですし、次回は愛機の”Mc205B”を盛ってみようかな~と。
次回もどうかよろしくお願いいたします。