インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~ 作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス
どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。
本文の文字数は約二万八千。
視点は最初はキリト、後はシノン視点です。
ではどうぞ。
右手に持つは包丁、左手に持つは捌く対象の魚。目の前には木製のまな板。隅にちょこんと紫色をした醤油味の調味料が詰められた小瓶。
――――……恨むからな、白……
それらを見て、ハァ、と溜息を吐きつつ、胸中で諦観と苛立ちを綯交ぜにした言葉を呟く。
第二十二層主街区《ペルカ》に存在する唯一の宿屋、その一階ロビーとなる酒場にはおよそ二十人程の大人が集っている。あと俺と一緒に居たシノンも。
その大人達は全員が湖畔で出会ったニシダという釣り師の知り合い、曰く釣りギルドなるものに所属している集団らしい。そのリーダーがニシダさんだと言っていた。
男性のみで構成されている釣りギルドは、ニシダさんのような仕事で巻き込まれた人の他にも偶然ベータテストに当選して偶然気が向いたからログインしたという大の大人ばかりで構成されている。
ニシダさんが同じような境遇で途方に暮れている者同士で協力して生きるよう呼び掛けたのが始まりで、それから日銭を稼ぐ目的でクエスト消化と多少モンスターと戦闘をしつつ日々を過ごしていた。そこから釣りギルドに発展したのは、その内の何人かが釣り好きで、息抜きにと他の者にも勧めたところ大好評を博した結果らしい。つまり最初から狙ってやった訳では無かったのだ。
ちなみに、その中には俺が幾度か魚を購入する時に利用した露店の店主も居た。どうやら魚を売る事でも稼いでいるらしかった。
そんな集団と合流し、こうして俺が宿屋の調理場に立っているのは《料理》スキルを披露する……と、白が、言ったからだ。
もう一度言うが、白が勝手に言った事だ。
ニシダさんと会った直後までは記憶にあるのだが、そこから気付けば宿屋の調理場に立っていて、シノンに『期待してるわ』と微笑と共に、ニシダさんに『頼みますぞ!』と興奮気味に言われたところだった。
それから冒頭に戻る。
気付けば調理場に立っていた俺がどうして釣りギルドの事を知っているかといえば、それは勿論……
『という訳で、ちゃっちゃとやっちまおうぜ、王よ』
『……黙れよ白……』
勝手に意識を沈めてアバターを操っていた白が事の経緯と共に全て語ってくれたからだ。
何も事情が分からないまま放置せず、いきなりの事に表には出さず内心で困惑している俺にちゃんと説明してくれるのは有難いが、まさか人と関わりを持つような事にしているとは思わなかった。
あのデュエルの後から機嫌が悪く、態度も悪くなっているのは自覚しているから、ニシダさん達の心証を悪くしないでくれたのには感謝するが、それもこの事態になっていると素直に礼を言う気も失せる。
『お前忘れてるんじゃないだろうな……』
『人と関わりを持ち過ぎたら皆に面倒が掛かる……ってか?』
『分かってるならやるなよ……』
俺の言葉を引き継ぐように正確に言い当てて来た白。まぁ、俺の事で知らない事は無さそうな印象だからこれも当然なのかもしれないし、別段驚く事では無い。
だからこそ、分かっているならやるなと思う。
人と関わりを持つという事は、その時にそこに居たという、どうしても消せない足跡を残す事になる。それが俺の活動圏だと知られ、関わった人は俺をおびき出す餌にされる危険性を持ってしまう。リスクとリターンが見合わないのだ、命を天秤に掛ければどうしてもリスクが勝ってしまう。
俺と自身の命を天秤に掛けた時、必ず後者の方が重要性では勝る。そして命の危険に晒された事で俺を責め、恨むだろう。
わざわざそんな未来になる選択をしたくない、見たくないから見知らぬ人との繋がりは極力持たないようにしてきた、持つとしても依頼を受ける程度で、それも《ビーター》という忌み名を優先したものばかり。こういう個人的な、攻略でも依頼でも何でもない状態で関係を持つのは否定的なのである。
シリカの場合は依頼だし、リズの場合も攻略組御用達となっていたから表向きそれで通せる、ユウキ達とも同じくだ。リーファ達の場合は少し苦しいが、後々攻略組に加わるとなればそれの育成と言えるだろう、狙われる危険性は高いが。
だが、ここに居る者達と俺が関わる必要性は絶無。故にいたずらに危険を齎してしまうだけなのだ。
それを、只管半ば無心に次々と魚を捌き、肉に下味と調味料を振り掛けて焼き上げ、白米を炊き、味噌汁を作り、沢庵漬けのようなモノを作っている間に言う。
『まァ、王の言わんとする事も分からなくはないぜ』
「なら……ッ!」
納得したように、どこか見越していたかのように言う白の言葉を聞いて、激する心のままに俺は更に言葉を重ねようとした。
だが……
『だがよ、それを良しとするにして……結局のところ、王は何を得るんだ?』
「…………え」
白に言われ、俺は調理の手を完全に止めてしまう。予想外の事を言われて頭の中は真っ白になって、言葉を返そうにも何を言えばいいのか分からなくて、上手く言い表せず、時間が過ぎていく。
『確かに王が護りてェ連中に危険が及ぶ可能性は低くなるだろう……だがよ、以前のリズベット達みてェに、王の目が無い所ではどう足掻いても護れねェンだぞ?』
「それは……そう、だが」
白の言い分は分かる。《圏内事件》終結の場にリズ達が居たのは、俺を殺すために結集した《笑う棺桶》の残党とオレンジ達によるもの、俺をおびき出す為の餌にされたからだ。俺がよく立ち寄る鍛冶屋、その店長と店子だったからこそ二人が選ばれてしまった。
故にどう足掻こうと、俺と関係を築いてしまっている者達に危険が及ぶ可能性はゼロへ減らせない。
だからこそ俺はこれ以上その危険性が広がるのを食い止めたかった。関係を築かなければ無関係故に餌にされない。
味噌汁など火の事もある――必要以上にすると失敗する――ので調理の手を再び動かしつつ、俺はそう言った。
『だから関係を築かず、狭め、広めない……それじゃあ王は損してるだけじゃねェか。どうして王がそんな事をしなくちゃならねェ? 危険に晒すのは王じゃねェ、王を狙う連中だ……それを警戒するのは分からなくもねェ。王は恐怖を抱いているンだ、自分と親しい連中が、ケイタの時みてェに憎悪を向け、呪詛を唱えるその未来にな』
「……」
白の断言に、俺は何も返さずに調理を進めた。
確かに、その恐怖はある。ケイタの時は仲間を護らなかったから恨まれた。関係を結んだ人達にも俺より親しい人達が居るんだから、護れなかったらその人達に恨まれる。
それが、俺は何よりも……恐いのだ。
『更に嫌悪している。かつて王自身が味わったように、見捨てられたという絶望を誰かに与える事を』
「……やめろ……」
事実だ。
事実だからこそ俺は白に制止の言葉を洩らす。理解しているからこそ、目を背けている事実を突かれて起きる胸の奥の疼きから逃れたいが為に。
『加えて侮蔑している。のうのうと平穏を貪っていた地獄も知らねェ連中が、好き勝手に悪意を向けるくせに期待も向けて来る事を』
だが白は、俺の言葉で止まりはしなかった。
「黙れ……ッ」
『そして絶望している。自分の未来は、自分に悪意を向けて来る連中によって閉ざされている事に絶望し、そしてぞう……』
「黙れと言っているッ!!!」
『――――』
何匹目だったかの魚の頭を斬り落とす為に持ち上げていた包丁を、軽く切っ先を当てるだけでシステムが斬ってくれるのに、それを無視してまな板へ力強く叩き付けながら大声で怒鳴る。
白は、漸く口を噤んだ。
漸く黙ったか、と思っていると、バタバタと木製の床を蹴る音が連続して聞こえてくる。
「何かあったのキリトッ?!」
そして大慌てで調理場の扉を開けて入って来るシノン。恐らく食堂で待っているところで唐突に俺の怒声が聞こえて来たから、何かあったのかと思って駆け付けたのだろう。余程慌てていたのか上がる筈も無い息が上がっている。
ただ事では無いと感じて駆け付けたらしいシノンを見て、肉声で出してしまった過去の自分に苛立ちを覚えながら、冷静である風を装ってまな板に乗っている魚を手際よく捌いていく。
「……何でも無い」
「で、でもさっきあなた、黙れって……ここに誰か居たんじゃないの?」
「いや……この調理場には、俺以外に誰も居ない」
実際、プレイヤーアバターは俺以外にはいなかった、ここに来たシノンと合わせて二人だけだ。
俺の中に棲んでいる白は勘定から省いているが……
俺はそう思考しながら、シノンの訝しむ視線を無視して次々と料理を完成させていく。白米、添え物の沢庵に似せた漬物、味噌汁、唐揚げにキャベツっぽいものの千切り、そしてメインディッシュとなる刺身と醤油の大盤振る舞い。魚は他の釣り師からも大量に提供してもらったから、それこそ一人につき三匹分以上の刺身の量がある。
刺身と唐揚げ、野菜、沢庵などは大皿に盛って数人で食べられるようにし、白米と味噌汁は鍋そのものを食堂に運ぶことでお代わりをしやすくする。
「あとは引き受けるわ」
あとはそれらを荷台に乗せるだけ……というところで、俺がしようとした事をシノンがしてしまった。
「え……いや、だが……」
「いいから。少しくらい私にも手伝わせて」
「……」
有無を言わせない口調で、俺の了承も得ないまま強引に大皿や鍋を積載した荷台を押して調理場を後にし、食堂へ向かうシノンを見送る。
『人と関わりを持つのは確かにアレだがよ……一人でいるより、ずっといいモンだろ? 心配してくれる人間がいるってのは良い事じゃねェか』
そんな俺の脳裏で、我が意を得たりとばかりに言う白の声が響いた。
「……」
否定したかったが嬉しいと思ったのは事実で、けれど苛立ちと的を得ている事から素直に認めるのが嫌で、俺は白の言葉には何も返さないでシノンの後を追った。
***
「ああ……まさか、この世界で醤油がある刺身を食えるなんて……!」
「唐揚げも調味料が効いてて、白米に味噌汁、沢庵まであって……!」
「世界観は違うけど、やっぱ日本人には和食だ……素晴らしい……!」
「「「「「最高だ……ッ!!!!!!」」」」」
料理が完成してからおよそ二十分後。
あれでも人数より多めの三十人分は軽く作っていたのだが、日本人にとってのソウルフードをこの世界では初めて味わう、もとい懐かしの味とあってか凄まじい勢いで箸が進み、途中で足りなくなって追加で作られた分まで完食した面々は、それぞれが感涙を滝のように流していた。
「「「「「《ビーター》……いや、【黒の剣士】キリト、ありがとう! 本当にありがとうッ!!!」」」」」
「う……?!」
半ば詰め寄る形で礼を言われ、身長差で囲まれ見下される形になっているキリトは、圧迫感を受けてか完全に臨戦態勢に入ってしまっていた。辛うじて理性が働いて剣は出していないものの少しでも触れようとされれば手で弾きそうな程である。
傍から見ている分には借りて来た猫のように見えなくも無い。
毛並みを逆立てて威嚇している猫を思い浮かべると、その光景が少しおかしくて、口元を抑えながら笑う。
そんな私の思考は、その大部分が別の方で回っていた。
それこそが、急に機嫌がよくなったり悪くなったりするキリトの様子。極め付けには誰も居ない筈の調理場で誰かに対して黙れと怒鳴るというその行動は、どう考えても正常な状態ではない、間違いなく今のキリトは情緒不安定に陥っている。
その原因は紛れも無く神童の兄にあるだろう。ともすればトラウマが刺激された事で、過去の幻を視て、聴いているのかもしれない。
フラッシュバックというそれは私も経験があるから分かる。個人にもよるらしいが、私の場合アレはかなり辛い。キリトほどともなれば多分私よりも深刻だろう。タイミングからしてどう考えても神童の兄と斬り合った事が発端なのは間違いない。
……これは本格的に一人にしたらマズい気がしてきた。リーファ達にも相談し、協力する必要がありそうだ。キリトを一人にさせたら取り返しのつかない事態に発展する予感しかしない。
流石に最前線にまで私は付いて行けないので、ユウキ達にも相談して、出来るだけ攻略の時も一緒に居てもらうようにした方が良さそうだ。何だかんだでキリトは一度懐に入れた者の押しには凄まじく弱いからいけそうな気はする。
《ビーター》だとか、そういう方面では恐ろしいくらい頑固らしいが、何としてもこれに関しては負けてもらわないといけないだろう。
「いやぁ、堪能しました……御馳走様です、キリト君。《料理》スキル完全習得とは聞いていましたが、よもや醤油はおろか、米に味噌汁に沢庵に……ここまで和食を再現するとは予想外でした」
ふと、ニシダさんの声が聞こえたので意識をそちらに戻すと、さっきまでキリトが警戒するくらい殺到していた男達を一旦下げた――とは言え若干距離を離しても取り囲んではいる――状態の中、まるで代表のようにニシダさんが一歩前に出て語り掛けていた。多分埒が明かないと思ったのだろう。
それを受け、未だに微妙に警戒心を見せて周囲に視線を回しているキリトが、視線を正面に居る眼鏡の男性へと向けた。
「いや……元はと言えば、こっちが勝手に言い出した事だから」
「それでもですよ。ここに居るもの皆、米に醤油を切望していましたからなぁ……まさか纏めて叶う日が来るとは夢にも思いませんでした」
「……なら、感謝の印という訳じゃ無いけど、この調味料や料理について他言しないと約束して欲しい……俺がここで料理を振る舞ったと知られると面倒な事になる。調味料も考えがあって秘匿しているから」
「む。何やら事情がありそうですな……分かりました。皆も、今日の事はここだけの秘密にするように。いいかね?」
「「「「「了解!」」」」」
キリトの頼みに、一瞬残念そうな顔をした面々だったがすぐに打てば鳴る様にニシダさんの問い掛けに了承の意を返した。結構慕われているらしい。
「助かる……」
「いえいえ、ここまでの御馳走を頂いたのですからな! ――――ところで、これほどの料理の腕と、【黒の剣士】と呼ばれる程の力を持つキリト君に相談があるのですが」
「依頼か……内容によるけど、何だ?」
表情を改めたニシダさんの言葉に、微妙に警戒心を向けつつキリトが問う。
それからニシダさんが語ったのは、キリトが釣り竿を垂らしていた大湖畔に居るらしいヌシの存在についてだった。
この《ペルカ》の道具屋には釣り竿の他にも様々な道具が売られており、その中には魚が引っ掛かる確率をブーストする餌も存在する。キリトやニシダさんが使っていた餌箱の中身だ。
その餌の一つとして、途轍もなくデカいものがあるのだという。そんなものをどこで使うのかと散々ニシダさんが思い付く限りの釣り場で使ってみて、しかしヒットせず、その果てに殆ど魚が釣れない大湖畔で使ってみたのだという。
それでヒットはしたものの、凄まじい力で引っ張られてしまい、釣り竿ごと持って行かれてしまった。その際に見た魚影は途轍もなく大きいのだという。モンスターはいないと私が言った時のあの意味深な笑みはそういう事だったのかと納得した。
ヌシを釣る為に必要なのだろう餌は分かった、最高級の釣り竿も持ったが、肝心の筋力値に自信のある者が居ない。釣りギルドにいるプレイヤーも最高レベルは45、恐らくだが足りないと思われ、ヌシ釣りを敢行出来ないままそれなりの月日が流れていた。
そこに現れたのが料理上手であり、且つ攻略組でもトップのレベルを誇るキリト。ここは頼み込むしかないと思い至ったらしい。ヌシともなれば旨いに違いないし、醤油があるなら格別。報酬も払うから是非と頼み込んだのだ。
釣りをする時の要領としては、《釣り》スキルをコンプリートしているニシダさんが最高級の釣り竿を使ってヒット率をブースト。その後にキリトと交代し、最高レベルによる筋力値を遺憾なく発揮して吊り上げてもらう。そういう考えらしい。
つまりは釣り竿による《スイッチ》という訳だ。
「釣り竿での《スイッチ》……原理的に可能なのか、それ……?」
「やってみない事には何とも言えませんが……」
「……仮にやるとして、何時ヌシ釣りを?」
「今日の夕方にしようと思っています。キリト君も攻略組、忙しい身でしょうからな。夕方ならバーベキューなどで食材を適当に焼いて宴会紛いに騒げますし」
「あー、そういう……」
かなりデカいと見込んでいるらしいニシダさんは、恐らくメインとしてヌシの刺身か焼いた身を食べ、他にどんちゃん騒ぎをしようと考えているのだろう。
「いいじゃない。受けてみれば? あなたにもこういう息抜きは必要よ、四六時中気を張ってたら滅入るでしょ」
「シノン……」
「折角誘ってもらってるんだし……ね?」
そのどんちゃん騒ぎ、十層毎に開かれているという攻略記念パーティーに一度も出た事が無いらしいキリトは、出た方が良いのではないかなと思う。偶には重苦しい事を何もかも忘れて、周囲の騒ぎに揉まれて楽しんで欲しい。
気を張って疲れ切っている彼には、機会が少ない分だけ大きなガス抜きとなる攻略に一切関係ないイベントへの参加が最適だろうから。
その後、暫くは参加を渋っていたキリトだったが、釣りギルドによる厚い期待と私の勧めもあって、彼は今日の夕方七時にヌシ釣りに参加する事を承諾した。
「……今回はやめておこうかしら……」
この事を皆に伝えて来てもらおうかとも考えたが、ヌシ釣りに関しては完全に攻略から外れたプライベートな事。基本的にキリトの立場が多くの者から反感を抱かれるものである以上、あまり親しいと勘繰られるような事はしない方が良いかなと考え、今回に限ってリーファやアスナ達は来ないでもらおうと決めた。
心配掛けたらいけないので一応メールで連絡はしておいたが、来ないよう念押しすると、誰もが快く快諾してくれた。
こうして、私はキリトが参加する第二十二層でのヌシ釣り大会に付き添う唯一のプレイヤーになったのだった。
*
熱狂した昼食を済ませヌシ釣りに向けて準備をすると言った彼らと一旦別れた私とキリトは、一度休息を取る為に転移門で《コラル》へ移動し、それからホームへと移動を開始した。
「良い人達だったわね」
ホームへの道を歩きながら言うと、私の前を歩いているキリトが小さく頷いた。
「そうだな……俺が誰か知っても罵倒してこなかっただけでも良い人達というのは分かった…………それに……」
「……それに?」
先を促せば、彼は歩きながら、僅かに天を仰ぐように顔を上げた。
「戦いじゃなく生活を主体としてこの世界を生きていて……俺がしてきた事は無駄じゃ無かったんだと、そう思った」
「……そうね」
攻略組のキリトやアスナ達はいざ知らず、リズも武具店、シリカはポーション、エギルは故買屋としてそれぞれ戦いに携わっている。私とリーファもレベリングをし、何れ攻略組に入るのを目標にして日々研鑽を積んでいるから、やはり主体は戦いだろう。
だがニシダさん達は、毎日を一生懸命生きていた。この世界でも現実世界と変わらず生きていたのだ。
戦闘主体と生活主体では、同じ『生きている』でも意味が異なって来る。それがキリトにとっては感慨深かったのだろう。
こうして攻略が進んでいるからこそ誰もが余裕を持てている。その最たる貢献者は《ビーター》の悪名を背負って軋轢の発生を防ぎ、負の感情を一心に受け止める事で秩序の崩壊を防いだ彼だ。
だからこそ、彼にとってすればニシダさん達の在り様は、一種の形と思えるのだと思う。
それは、ともすれば数時間前のデュエルで否定されたかもしれない彼の過去の行動を肯定する証でもあるから。
不機嫌だった彼が何時ものキリトに戻るくらいにそれは嬉しいものだったのだ。今まで否定され続けていたからこそ、有形無形関係なく認められる事そのものが嬉しいのだと思う。
どうか……どうか、この後にあるヌシ釣りでは何も問題が起きませんように……
黙って天を仰ぎながら歩くキリトの背中を見つめながら、神にか、それとも運命にか、私は祈り、彼の後を追った。
結果的に、最悪な事態にこそならなかったものの、私のこの願いは裏切られる事になった。
*
午後六時半過ぎ。
ニシダさんと会った、あのヌシが居るらしい第二十二層で最大規模の大湖畔に赴くと、既にその周辺には四十人近くのプレイヤーが屯していた。麦わら帽子に半そでシャツ、ズボンといった比較的ラフな格好の者が多く、殆ど武装せず釣り装備である事から、恐らくはニシダさんのギルドや知り合いの釣り好きなプレイヤーなのだろう。
横断幕らしきものまで作成されており、それには《頑張れニシダ!!!》と達筆な筆文字で書かれていた。話に聞いた、以前釣れなかったという話から多分アレが書かれているのだと思う。
実際のところ、引っ掻けるのはニシダさんだが、その後の肝心な釣る部分はキリトがするので、微妙に不適当な気がするのだが……まぁ、この辺はあまり深く突っ込んだらいけないのだろう。そう思い何も言わない事にした。
「ん……お!」
場を盛り上げる為か、ヌシが居る大湖畔から最寄りの湖で釣り勝負をしていたらしい中心人物であるニシダさんが私達に気付き、一旦釣りを辞めてこちらに歩み寄って来た。
既にニシダさん抜きでも盛り上がる程に釣り勝負は白熱しているらしく、見慣れない顔だろう私達に気付いた者、ニシダさんの動きに気付いた者達がそれなりの数こちらに視線を向けたものの、すぐに勝負をしている者達の方に視線を戻す。
ニシダさんが話し掛けてくるまでの数瞬でチラリと様子を窺ったが、面白いくらいぽんぽん魚が釣れている様子が展開されていた。
「……むぅ……」
隣のキリトが若干憮然としているので、多分大湖畔以外を狙っていれば、と考えているのだと思う。そう考えるとちょっと可哀想なのと同時、拗ねてる様子が可愛らしくて笑みが浮かんでくる。
そうこうしていると、目の前までニシダさんが歩いて来た。恰幅良く、柔和で人当たりの良さが窺える男性は私達に微笑みかけて来た。
「お二人とも、数時間ぶりですな。キリト君はメインイベントで活躍してもらうから頼みますぞ」
「分かってる」
「ニシダさんもキリトも、頑張って…………それはそうとニシダさん、予想以上に盛り上がってるんですね」
二人を鼓舞してから、時間を潰す意味も含めて私は話を振った。内容は言った通り、私が予想していた以上の白熱ぶりをみせている釣り勝負の事。
さっきから遅くとも十秒で一匹釣っている様が繰り広げられていて、それぞれが負けじと張り合っているのは平和ながら別の意味で殺伐としている。いや、命の危険が無いから最前線に較べれば全然なのだろうけど、男達が発する熱い闘気らしきものがとても緊張感溢れるものなのだ。
命を懸けてないからキリトやユウキの全力には些か劣る気がするのも当然だろうが、どこか鬼気迫る様相なのは、本当に真剣勝負をしているのだと分かるものだった。
それを指摘すると、ニシダさんが苦笑しながら頬を掻いた。
「いやぁ、ははは……まさかここまで白熱するとは思ってませんでした。やはり好きな者同士なのと勝負好きな性格が集まっているからなのでしょうね」
ニシダさんの口振りから察するに、どうやら彼もここまで盛り上がるとは思っていなかったらしい。苦笑なのは後に控えるメインイベントで盛り下がらないかを危惧しているのか、それとも単純に勝負好きな面々で勝手に盛り上がり始めた様子に自身の行動は必要無かったかと考えているからか。
どちらにせよ、リーダーの性格を集団は反映されるのだから、ニシダさんが居なければこうはならなかった気もする。
「特に、あちらのお二人は途轍もない負けず嫌い、もとい勝負好きのようですよ。彼らに感化されて他の者も熱中してるんです」
あそこ、と言いながらニシダさんが指し示した先は、釣り勝負をしている者達がいる湖畔の中では中規模程度の大きさの湖に面して釣りに興じている者が二人居た。それ以外の者は応援はしているものの、釣り竿を垂らしていない。
中規模程度の湖畔なのに二人しか釣り竿を垂らしていないのだ。
どちらも男性。遠目だから正確性に欠けるが、身長はヒースクリフやクラインと同程度な感じなので多分一八〇センチ程度はどっちもある。
「ふ、この世界はリアルと違ってよく魚が釣れるな。始めてから三十分と経たずして二百十三フィッシュ目だ……ところで、隣の釣り師、それで今何フィッシュ目かな? このままではこの湖の魚は私が全て釣り上げてしまいかねないぞ?」
ニヒルっぽく言っているが子供らしいやんちゃさが垣間見える挑発を口にしているのは、私から見て右側にいる男だった。
湖のほとりで持ち運べる木製の椅子に腰掛け、ニシダさんが持っていた高級と思しき釣り竿に勝るとも劣らない逸品を手に釣り糸を垂らす青年。
黒いアンダーウェアは細身ながら鍛えている事が分かる筋骨隆々とした肉体を他者に見せ付けており、キリトのものより重厚さを感じる革の黒ズボンもまた、巻かれているベルトによって脚の太さが鍛えている者のそれと分かる。謂わばその青年は武人だ。
青年が被っている白地に赤のキャップから除く髪の色は白、ヒースクリフの銀髪より白の要素が多く見えるそれは、ニシダさんの白髪と異なって色素抜けをしたタイプだと見て取れた。
その青年が、さっきからテキパキと魚を釣っては格納し、釣り針に餌を付けてはすぐ放り、数秒と経たずしてすぐに引っ掛かって釣り竿を引き上げ……を延々と繰り返す。どう見てもその速度は異常だった。
……と言うか、現代風のキャップはどこからどうやって調達したのだろうか。
まぁ、服飾職人アシュレイくらいの腕前を持っていれば、現代風のデザインくらい仕上げられる気もする。
そもそも、現代の服は《洋服》と呼ばれているように元を正せば西洋文化のものが基本。タキシードや軍服辺りなどがそれだ。この世界でも《アインクラッド解放軍》が軍服っぽいものをユリエールさん達のように着用しているのを見たし、タキシードなどのドレスコードは多分イベントによっては手に入れられると思う。
そこから発展させられる、あるいはスキル値が高ければデザインを自由に決められるシステムなら、あの男が現代風のキャップを被っているのも頷ける話ではある。
そう考えて、何時の間にか私も染まったな、とちょっと考えてしまった。嬉しくはあるが、後から巻き込まれた身としては少々複雑な気分である。
そもそも私は今年受験があった。話を聞けばリーファも同様だったようで、同い年にして原因不明でSAOに巻き込まれた者、更にはキリトによって同日保護されたという状況から、思わぬ奇縁もあったものだと思う。
「はっ、うるせェよ。大体速釣りが出来りゃ良いってモンでも無ェだろ。俺はじっくりと獲物を狙うタイプなんだよ、十三匹目だが、その分レア度はテメェより上だぜ」
右隣に座る――と言ってもその間はおよそ二十メートルは開いている――青年に横目で睨みを向けながら言う、もう一人の男の釣り師。
その男は、見るからに青かった。見た感じ青い髪はツンツンに逆立っているが、肩甲骨辺りまで伸びているらしい後ろ髪は一つ括りに束ねられていて、少し特徴的な感じがした。
次に目に付いたのは全身を覆うタイツのようなもの。両肩は純白の肩当がされているが、それ以外に防具らしいものは一切見られない、青白い線が幾つも走っているそれは素早さに最重要を置いている趣だ。
「ふっ、負け惜しみかね? ……それはそうと、一つ訊いても構わないかな?」
「あん?」
「この湖に居る魚、全て私が釣ってしまっても構わんのだろう?」
「いや無理だろ」
浅黒い肌の男が格好つけたように言った直後、間髪入れず隣の男が突っ込んだ。
「確かにリアルなら出来なくも無ェだろうが、ここじゃマジで無限湧きなんだぞ。てか仮に出来たとしても釣り竿一本でリソース枯渇とか出来る筈が無ェだろ」
まぁ、この世界はエリアごとにリソース限界というものが存在するから、延々と釣り続けていれば釣り尽くすのも不可能では無いだろう。
だが時間当たりで一気に釣って行かなければ自動でまた補充されるので、網を使った漁業ならともかく一本釣りは確かに間に合わないだろう。どれだけ速く釣っても多分リソース補充時間の訪れが圧倒的に速い筈だ。
「ふっ……甘い、砂糖とホイップクリームと蜂蜜とガムシロップと各種のジャムをしこたま掛けたパンケーキ以上に甘過ぎる」
故に青い男の言葉は正論なのだが、浅黒い肌の男はそれを鼻で笑った。
「ンだと? 俺が言った事のどこに矛盾点があるんだよ?」
「一本釣り……私一人では確かに限界があろうが、この湖で釣っているのは私だけではないだろう? 君と私、二人で戦えばあるいはとも考えられる……ああ、そういえば君はまだ十数匹程度しか連れていなかったか、確かにその程度の速度では戦力にはならないだろう。いやはや、これは失礼、今の言葉は忘れてくれたまえ」
「おーしテメェ良い度胸してんじゃねェかその喧嘩買ったぜ後で目に物見せてやる」
「「……」」
何というか……この二人は、悪友という間柄なのだろう、憎まれ口を叩き合って勝負事に対して真剣な様は負けず嫌い以外に何かを感じられる。コイツだけには負けたくないという気概が感じられるのだ。それを感じるのは現状青い男からだけなのだが。
浅黒い肌の男は余裕綽々とばかりに悠然と――どこか厭味ったらしさも垣間見せながら――釣り竿を振るい続ける。それに負けじと左側の男も振るうも、釣れるまでの速度に差があり過ぎて、どう見ても浅黒い肌の男の方が優勢だった。
取り敢えず、アレだ、見ていてとても面白い。これは確かに周りが見ているだけでも熱中する気持ちも分かる、やり取りを聞いているだけでも結構楽しめる。
何となくだが、この二人が兄弟だと言われてもどこか納得出来る何かがあると思った。
それは恐らくある意味での信頼で、勝負には対等な目線且つ全力で打ち込む気概がそう感じさせているのだろう。アキトとキリトの兄弟とは全く異なった、ある意味での信頼だ。あの二人が兄弟だと決まった訳では無いが。
まぁ……あの様子では、仮に実の兄弟だったとすれば、それはそれでややこしそうだが。喧嘩が絶えなくて両親は気を揉みそうである……慣れたものだと放置する事も考えられるし、お互いを憎む程にいがみ合いはしないような気もするが。
「……いいなぁ……」
右の男がポンポンと釣って歓声を受け、左の男が遅いながらも釣った魚のレア度が高いのか集まっている釣り好きの者達から称賛される光景を見ていると、ポツリと隣で小さく、羨望が隠せていない……あるいは、隠そうともしていない声が聞こえた。
横目でキリトの顔を盗み見れば、彼は少し泣きそうな面持ちで、眩しいものを見るかの如く目を眇め、二人を見つめていた。
多分私が感じたものと同じものを彼も抱き……自身の状況と照らし合わせ、羨望を抱いたのだろう。あの兄は明らかに世間一般的な兄とは言い難い。あの兄に較べれば、今も目の前で憎まれ口を叩いていがみ合いつつ勝負を続けている二人の男の方が絶対的にマトモだ。
キリトが憧れ、羨望を抱いてしまうのも無理は無い。なまじあんな実兄が居るからこそ誰よりも強い羨望を抱いてしまうのは自明の理だ。
同性か異性かという問題はかなり重要だから、こればかりはリーファやユイちゃんでもどうにも出来ない。
家族というものは立場によって年下の存在へ与える影響が異なる。男を自身とした場合、父は背中で語る憧れの存在に、母は愛情を注いでくれる存在に、姉は比較的庇護する存在で、兄は叱咤激励する存在。年下の弟であれば自らが目標になれるよう研鑽を積み、妹なら護れるよう力を付けようとする。
彼の場合はどれも欠如している。父母はおらず、姉は庇護せず、兄は虐げ、誰よりも年下故に弟あるいは妹に向けるような感情も抱かない。
だから、彼が羨望を抱くのは当たり前で……それが誰よりも強いのも当前の事。過去の銃殺歴から人と距離を置くようになった私ですら家族は心の安息と――と言っても心の底からの、では無いが――言えたのに、彼にはそれすら無かったのだから。
彼が義姉リーファに絶対の信頼を寄せるのもある意味では当然なのだ。初めて庇護してくれる存在に出会ったのだから。
実姉の居場所は義姉が埋めた。彼女の、家族愛と異性愛から来る愛情と庇護が、キリトの欠落を満たした。
なら次は、実兄の場所だ。未だ彼の心には、自己以外ながら彼を叱咤し寄り添う存在が居ないまま、更に言えばトラウマだから欠落は何よりも深く酷い。
エギルとヒースクリフは何だかんだと面倒見が良いから可愛がる親戚の叔父さん辺りか、クラインとディアベルは近所のお兄さん的ポジションだろう。シンカーは……学校の先生とか、その辺りだろうか。
そんな彼らに較べれば、確かに色々と挑発しては憎まれ口を叩き合っている彼らは、クライン達よりは確実に家族的な兄らしさを感じられる。
ただ、あそこまで憎まれ口を叩くような皮肉屋になられると、そこはかとなく微妙な気分になるのだが。いや、多分根っこは変わらないのだろうが、彼の素を考えるとあんまり似合ってない。素はやっぱり素直な方が良い。
《ビーター》としてのキリトなら、少なくとも右側でポンポン釣っている男の口調は結構しっくりくるイメージがあるのだが。
「ぁ……」
そこまで考えて、何となくキリトが羨望を向けている対象……兄らしさを感じている男がどちらなのか察しがついた。
恐らくだが、未だ渾名すら分かっていない皮肉屋の男だ。あの男の口振りは《ビーター》としてのキリトの口振りに近しいものがある。キリトにとって《兄》の理想像は、あの男のような皮肉屋な人格者なのだろう。
皮肉は、挑発でもあると同時に時と場合によっては叱咤にもなり得る。
《ビーター》の役割は、自身へ負の想念を向けるよう悪性を象徴する事で周囲の人間の善性を象徴し、生きる気概を保たせる事。別の見方をすれば、歪ではあるが叱咤とも考えられる。
その役割を自ら背負い、周囲を叱咤し続けて来た彼は、支えだけでなく叱咤してくれる存在も欲しているのかもしれない。褒める役割はリーファが、支える役割が皆が持っているものの、叱咤する存在は無いに等しい。
辛うじてクライン辺りが考えられるが、彼はキリトにとって《護るべき存在》の一人に入っているから、支えは出来ても叱咤まではいかないかもしれない。
キリトより上の実力者や立場の人間、年上の者の言葉が叱咤になるが、この世界では彼が最強だから、完全にこの理論が逆転している。彼が《ビーター》として振る舞う事で周囲の人間を、攻略組を、《アインクラッド》のプレイヤー全員を叱咤しているから、逆が成立しないのだ。
彼がこの世界で叱咤される側になるとすれば、レベルを追い越され、且つ彼より素の実力が上である者のみ。そして彼が《ビーター》の役割から完全に開放された時だけ。
最悪、SAOに居る限り彼を叱咤出来る存在は現れない。キリトの関係者は、彼にとってすれば《友達》であると同時に、それ以上に《護るべき存在》という認識だから、対等な関係も、彼より上の関係にもなり得ない。なるには彼を越えなければならない。
だのに、彼を超える存在だと思われる実兄がアレなのだから……尚の事、あの実兄から私達を護ろうと躍起になってしまう。
未来は真っ暗闇だが、今も悪循環となって同じ状態とは……あの男、存在からして邪魔としか思えない。事実そこにいるだけでキリトを虐げる存在になるのだから。
そもそも厳しいらしい実姉の下で生活し、女尊男卑風潮が蔓延し始めたこの時代で、どうすればあそこまで威張れる程に歪んだ人間性が構築されるのだろうか。幾ら織斑千冬が育児放棄をしたとしても流石にアレはおかしいだろう。
人間性の構築は基となる周囲の人間や環境が大きく関与する。話を聞いた限りだとそうは思い難いが、織斑千冬は基本的に平等且つ冷静らしいし、家族思いという点は私も聞いた事がある。その性質は状況によって封じられるも、場合によってはしこたま甘えるといったかなり軟化した状態でキリトに引き継がれている。
まぁ、彼女も当時は未成年だったのだから、キリトの場合はともかく織斑秋十の場合を育児とは言い難いかもしれないが……
それはともかく、アキトの人間性は、織斑千冬にもキリトにも当て嵌まらない異質なもの。赤の他人の筈のキバオウすらも超える歪んだ人間性、というよりは悪性そのものを垣間見た今、アレの基となった人間は誰なのかも結構気になっていたりする。
「はぁ……」
「シノン? どうかしたか?」
キリトも相当悩んでいるだろうが、私も別の意味でそれなりに頭痛を覚え、溜息を吐くと、それを見咎められてしまった。
小首を傾げながら問うてくるその様は、苦しんでいるようには思えない純朴さと純粋さが共存していた。
本当に、何でこれほどの純粋さを保てているのか不思議でならない。もっと怒りに、憎悪に塗れ、捻くれたっておかしくない筈なのに……キバオウとまではいかないが、もっと性格が歪んでいたっておかしくない環境なのに、どうしてその人間性を保てているのか、私は不思議だった。
この人間性がキリト本来のものなのか……あるいは、無意識の部分まで、キリトなりに《虚構の織斑千冬》の人間性をトレースしているのか。
私としては前者である事を信じたい。行動や才能で比較された挙句、自己までも他人に似せていては、それは彼自身の人生とは言い難いだろう。そんなの哀し過ぎるではないか。
「ん……何でも無いわ」
「ふぁ…………ん、ぅ……」
だが、それをおくびにも出さず、見上げて来るキリトに微笑みかけながら頭を撫でる。唐突な事に若干瞠目したキリトは、しかしすぐ気持ちよさそうに目を眇め、猫のようにされるがままとなった。
《ビーター》の時が犬、あるいは狼だとするなら……素の状態は猫だろうか。
だとしたら可愛いなぁ……そう考えながら、頭を撫でたり、顎の下を擽ったりしながら、私はヌシ釣りが始まるまで時間を潰していたのだった。
ちなみにこの時、ニシダさんは空気を読んで離れてくれていたのだが、とても暖かい笑みでこちらを見ていたものだから顔が火照る程の羞恥を後で味わった。
それもまぁ、良い思い出の一つではあるだろう、《平和》という観点からすればこの上無い程に……
*
時は過ぎて、午後七時。とうとうヌシを釣る時間が訪れた。
夏に移り変わろうとしているためかまだ若干茜色に染まる太陽が、《アインクラッド》の外周部から見え、緑の草原と青い湖畔が藍色と茜色に染められる中、二人の人影がこの層で最大規模の湖畔に近付く。
一人は最高級と豪語するだけはある輝く釣り竿を肩に担ぎ、左腕で半端では無い大きさの赤黒いトカゲを担いでいる恰幅の良い眼鏡を掛けた男性、釣り師のニシダさん。
その傍らに居るのは、エリュシデータこそ背負っていないものの前開きの黒革コートを羽織った黒尽くめ姿のキリト。
どちらも真剣な面持ちで、多くの釣り師が固唾を飲んで見守る中、湖の畔へと近寄った。
「では……行きますよ!」
トカゲに釣り針をしっかり引っ掛けたニシダさんは、一言添えてから釣り竿を大きく振りかぶった。遠心力で山なりに釣り針に引っ掛けられている巨大な餌のトカゲが飛び、ぼちゃん、とそこそこ重い音を立てて暗くなり始めた湖に波を立てた。餌は沈んだが、引っ掛かったかどうかを見る為の浮きは水面に顔を出し、ぷかぷかと揺蕩う。
それから固唾を飲んで待つ事およそ三秒後、すぐさま反応があった。水面に浮かんだ浮きが勢いよく沈んだのだ。
周囲の釣り師達が、おおっ、とどよめく。
「ニシダさん……」
「まだ、まだです……まだ引き上げるには速い……ッ!」
交代しないのかと、踏ん張っているニシダさんにキリトは声を掛けた。それを受けたニシダさんは、しかし踏ん張りながらも首を横に振り、まだ交代しようとはしない。恐らく今はまだ引いたらダメな段階なのだろう。
ぱちゃぱちゃ、と浮き沈みを繰り返す浮きは、それからも暫く同じ挙動が繰り返されていたが……十秒ほどが経過したその時、一際強くどぽんっ、と音を立てて沈んだ。
「今です!」
「ッ……!」
ニシダさんの一声を聞いて、キリトが横から手を伸ばし、長大な釣り竿を握る。
それからニシダさんが手を離すのと同時、彼は前にしていた右足で一際強く地面を踏み抜き、轟音を立てて目一杯引いた。彼を中心に湖面に波が起こる。
茜色を反射する銀色の釣り竿は水面に引きずり込もうとするヌシの膂力と、それに負けじと引っ張り上げようとするキリトの膂力のせめぎ合いにより、柳の枝を想起させるように大きく撓った。ピンと張り詰めた感のある様は応酬の激しさを垣間見せる。
暫く拮抗した勝負が続いていたが、数秒ほど経った時、変化が起こった。
「ぐ、ぐぐ…………こ、の……ぉッ!」
背中を少し逸らし、右足で地面を踏み抜く形で水面へ引きずり込まれるのに耐えていたキリトが、とうとうヌシの膂力に負け始めたのだ。ズリ、ズリ、と地面を抉りながら足が湖面へと引き摺り寄せられていく。
しかし何故。キリトは筋力七割振りで、最高レベルを誇るが故にSAO最大の筋力値を有するプレイヤー。ヌシと言えど第二十二層程度の魚に膂力で負けるとは到底思えないのだが。
そう思考しながらキリトを見ていると、ふと気付いた事があった。
少しずつ湖面へ引き摺られている彼の体だが、それに反して彼の腕は釣り竿をしっかり引いていて……いや、むしろヌシが釣り竿の糸を引く力より彼の方が勝っている。釣り竿を引く腕がキチンとしているという事は、少なくとも力の面では勝っているのだ。
それを踏まえて改めて見れば、彼の腕はしっかり引けているが、体が引き寄せられている。
すなわち、体重が足りない。だから踏ん張っても引き摺られてしまっているのだ。それだけ大物という事なのだろう。
力の面は技術でどうにかなるにしても、流石に重量の面ではすぐどうにか出来る事ではない。彼の身長はまず間違いなく全プレイヤーの中でも最低だし、とても華奢な体つきだから、武器を装備していない今は自然とアバターの体重も軽い筈だ。水を含み、更にはヌシと呼ばれる程に巨大な魚を相手に、力はともかく体重で圧倒的に負けていては分が悪い。
このまま一人で踏ん張っていては、遠からず湖面に釣り竿ごと引きずり込まれかねない。ヌシがどれほどの存在か分からないが、暗くなってきている現状で水中に落とされたら、そこは魚の独壇場になる。モンスターなのかは知らないが、仮にダメージを与えて来る存在だとしたら、流石に水中という事も相俟ってキリトでも苦戦する。
……まぁ、彼が冷静だったら《ⅩⅢ》で対処しそうな気もするが。
とにかく今は手助けをするべきだろう。パラメータ的な手助けは出来ないが、身長は私の方が上なのだから必然的に彼より体重は重い方になる、それで彼を引っ張れば多少は手助けになる筈だ。
そう決断してから、私は十メートルほど前で踏ん張っていたキリトに駆け寄り、背面からお腹に腕を回し、抱き締めた。
「ッ……シノン?! 一体何を……!」
「あなたの体重じゃジリ貧だから、こうやって私が重石になろうとしてるのよ……あなたより私の方が身長高い分重いのは確実だからね……!」
驚いて肩越しに振り返って来たキリトに、微笑みながらそう返す。
体重どうこうで思うところはあるが、身長差で私の方が重いのは明らかだから、別に構わないかなと思っている。平均からして私は軽い方だし。
それから私はありったけの全力で両腕で抱き締めているキリトの体を後ろに引っ張った。それで、少しずつ引き寄せられていた彼の体は止まり、拮抗、それから陸地へと後退し始める。
やはり足りなかったのは重量だけ。膂力は勝っているから、すぐにキリトはヌシを追い詰め始めた。
「シノン、絶対に腕を離さないでくれよ……!」
「分かってるわよ……!」
「よし、なら……ぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああッ!!!」
キリトの言葉に、必死に体を引っ張りながら応える。すると彼は大音声の咆哮を上げ、全力で釣り竿を引きながら、後ろへ後退し始めた。
私はと言えばキリトの体が引き寄せられないよう引っ張るので精一杯。むしろキリトが後退しようとする程に、私の腕が彼の体に食い込むかの如く、私が引かなければならない力も増す。
――――ぴき、みしっ
「ッ、釣り竿が……ッ!」
凄まじい膂力のせめぎ合いで大きく撓り続ける竿が、とうとう耐久値の限界に達し始めたのか、全損の兆候である嫌な音を立て、更には根元部分に罅が入り始める。あと十秒もこの鬩ぎ合いを続ければ釣り竿は折れてしまい、ヌシ釣りは失敗に終わるだろう。
そうはさせじと、キリトは最早声も上げず全力で竿を引っ張る。一際強く撓り、更に嫌な音が響き……
直後、私達を引き寄せようとしていた力の全てが失せた。
「な、ん……ッ?!」
「ぁぐ……ッ!」
全力で後退しながら引っ張っていた私達は、踏ん張る為に費やしていた力の全てで後ろへ吹っ飛んだ。
後ろへ飛んだ私は、彼を抱き締めたまま草原の地面に背中を強かに打ち付け、僅かに呻いてしまう。けほっ、と咳まで出た。
それからすぐに状況把握に務める。
キリトが手にしていたニシダさんの最高級釣り竿は、ものの見事に持ちてから先がバッキリと折れていて、釣り糸も途中でゆらゆらと風に煽られ揺れるだけになっていた。つまりは失敗という事だ。
「……まさかここまで来て失敗だなんてね……」
「いや、アレは流石に予想外……」
「お二人とも、早く立ってこっちへ! 危ないですよ!」
「「へ?」」
二人して釣り竿に視線をやり、それの意味するところを察して見合って苦笑を浮かべていると、離れた所からニシダさんの焦ったような声が聞こえて来た。
予想外な内容だったのでキリトと同時に素っ頓狂な声を上げながらニシダさんが居た所を見れば……確か十メートルほど離れていただけの筈なのに、何故か五十メートル程もあの人は離れていた。しかも周囲に居た釣り師達も同様で、どこか恐れを含んだ顔でこちらを見ている。
……いや、見ているのは私達では無く、その背後……?
彼らの視線の先が私達では無く、その頭上を通った先、湖の方である事に気付いた私は、一先ず仰向けに寝た状態から起き上がってそちらへ視線を向けた。
「……は?」
そして視界に入った存在を見て、唖然とした。
橙色の鱗に覆われたそれは、見た目こそ金魚を怪物風にカリチュアライズしたような風体だった。そこは湖に棲むヌシという事で納得いったのだが、思わず惚けてしまったのは、その魚に手と脚が存在する事だった。どことなく人っぽく、けれど獣を思わせる構造と思しき手足が付いた魚だった。
更にそのヌシは巨大だった。直径で十メートルはあるのではと思う程に巨大で、私はともかく、キリトなんて一口でぺろりと食べられそうな程に大きい。
名称は《The Lake Boss fish》。HPバーは三本、レベルは75。恐らくそれくらいのレベルで、更に重量も無ければ引き上げられないよう設定されていた、定冠詞付きのボス。
ニシダさんはモンスターのような、と言っていたがとんでもない、紛れも無くモンスターである。
その巨体の持ち主であるヌシの魚眼が、ギョロリと、すぐ目の前で唖然とする私と何故か身動ぎしないキリトに向けられる。
『ギュエエエエエエエエエエエエッ!』
直後、小さいながらギザギザのサメを思わせる歯がズラリと並んだ口を大きく開け、咆哮を上げて、未だ地面に座り込んだままの私達に襲い掛かって来た。開けた大口が目の前に迫り、影が出来て暗くなる。
第二十二層にはフィールドボスがいなかったという話を聞いたことがあるが、まさかコレがそうなのだろうかと、何とはなしに考える。
そしてこのまま食べられるのかとも思った。レベル的に、少なくとも私は即死確定である。流石にレベル75のボスモンスターの攻撃を、40にも到達していない私では到底耐え切れないだろう、即死なのは目に見えている。掠っただけでも結構HPを持って行かれるのだから、直撃コースのこの攻撃なんて生き残れる可能性は万に一つもない。
しかしそれは、当たった場合の話だ。
「この……ッ!」
こちらに突進してくるのを見て漸く再起したらしいキリトが、すぐさま私の上から降り、眼前に氷の結晶から蒼い大楯を作り出した。それの裏面にある、腕を通して肘を固定し手で持つ二つの輪を左右の手で持って、地面に盾の下端を突き立て、固定する。
それだけでヌシの巨体は遮られ、轟音と共に止まり、弾かれ、僅かに後退した。
「ぁ、ぐ……っ」
同時に、苦しげながら抑えようとするキリトの呻きが耳朶を打つ。以前聞いたが、盾で防いだ時には全身に電流が流れるかのような痛みを味わうらしい、それを今受けたのだ。見れば彼のHPゲージも数ドット削れていた。
たった数ドットで、我慢しても顔を顰める程の痛みが彼を襲っている。
それをさせたのは私が唖然として動かず、攻撃を防がざるを得なくしてしまったからなので、すぐさま立ち上がってヌシから目を離さず後退した。
『ギュエエエエッ!』
「ッ……舐めるなッ!」
私が後退したのを横目で確認した彼は盾を持ち上げ、再び圧し潰そうと迫って来たヌシの突進をひらりと軽やかに躱す。
すかさず持っていた盾を地面に突き立てて両手を空け、代わりに黒い刀身を赤く縁取った極太の斧剣――形状だけを見れば十手に近く見える武器――を持ち、自身の身長より長大且つ重厚なそれを全力で右薙ぎに振るった。
ヌシの肉付きの良い巨体に、一応分類としては《両手棍》になるので鈍い刃を持つ打撃属性の斧剣が叩き込まれ、ゴッ、と重い響きが上がると共にヌシが横へ吹っ飛ぶ。その距離は大体十メートルあるかないか程度。
あの体格差を覆す程の膂力が彼にあるのだから、全力で鈍器を振るえばこの結果になるのも頷けた。これが刃を持つ武器なら斬り裂くに終わっただろう。
「まだまだッ!」
ヌシを吹っ飛ばしたキリトは続けて、澄んだ茶色の光を発する赤黒い斧剣を地面へ大上段から叩き付けた。
すると斧剣を叩き付けた場所を起点に、ヌシ目掛けて――あるいはキリトの正面に――地面から岩の槍が連続的に隆起し、直進する。岩の槍は体勢を立て直そうとしていたヌシの下腹部へ直撃し、二メートルほど宙へ打ち上げる。あの巨体を打ち上げる程の威力をあの岩の槍は有していたのだ。
あんな技があるとは聞いていなかったが、あの斧剣には大地を操る力が宿っているらしいし、闘技場に出て来たホロウも似た攻撃をしていたから多分あの武器特有のものなのだろう。ユニークスキルで《地顎刃》というものもあったし、直前に光っていたのはそのスキルを使っていたからだと予測した。
そう思考している間に、斧剣から手を離したキリトは焔を吹き出す二枚一対の戦輪を両手で握り、軽やかに地を蹴った。
行き着く先は、宙に打ち上げられたヌシの上。背びれがあるところ。
「墜ちろ……ッ!!!」
丁度真上に来たところで彼は二枚の戦輪を振り上げ、体ごと落下しながら一気に叩き付ける。その一撃で宙に浮いていたヌシは地面へと落とされ、地響きと衝撃音が響き渡る。
それと共に、ヌシ、あるいはキリトを中心として半径五メートル程の炎の衝撃波が放射状に放たれ、その範囲内にあった地面の草が黒く燃え尽きた。
フィールドオブジェクトなのですぐさま修復されたが、これ一つだけで、あの放射状に放たれた炎にも攻撃判定があるという事が見て取れる。見た目通りのリーチでは無いという事だ。そもそも炎に実体なんて無いから当たり前なのだが。
『ギュアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
攻撃を終えたキリトが一旦距離を取って仕切り直した直後、怒ったかのようにヌシが咆哮を轟かせた。それはヌシのHPが五割を切ってパターンが変化した事を示すもので、事実頭上に表示されているHPバーは、二本目の残り四割ほどに突入していた。
《狂戦士の腕輪》によって攻撃力や全ステータスが増大しているだけでなく、防御無視のバフが付与されているから、キリトの攻撃は一撃だけでも他のプレイヤーに較べて絶大なダメージを叩き出す。その彼のソードスキルを絡めた攻撃を受けて尚半分残しているというのは、かなりのHP量を持つという事。
レベルだけ見れば攻略組に及ばないが、それでも曲りなりにもボスだからか、ヌシもかなりの強敵のようだった。
しかし流石に今回は相手が悪かったとしか言えない。
釣りを専門としているニシダさん達相手なら十分以上に猛威を振るっただろう。彼らは攻略組と違って戦闘クラスでは無い上に恐らくボス戦も経験していない筈だから、突発的なボス戦に慌てふためき、為す術も無く敗走を余儀なくされていた。
対して、キリトは単独でボスを相手取って勝利する程の実力者だ。《二刀流》を得る前でもクリスマスイベントと第四十九層のボスを相手に単騎で勝利しているし、その後も第七十四層、闘技場のボスを相手にほぼ一人で勝ちを取っている。
クォーターボスや闘技場に出て来たボスのように戦闘に特化したステータスと攻撃を持っているならともかく、手足が付いているだけで突進しかしてこないのでは、彼に一撃直撃させる事すら至難を極めるだろう。倒すなど以ての外だ。
故に、HPを半分削られた事でパターンが切り替わったと言えど、仕切り直す為の攻撃だけで半分削った単騎最強の彼に敵う筈も無く、この後は《片手剣》ソードスキルだけで一分も要さず撃破されたのだった。
*
あの後、突発的なボス戦にも拘わらず単独で勝利した事、そしてレアな釣り竿が手に入ったと湧き上がる釣りギルドは、見事ヌシを釣り上げた事を祝して――元々するつもりだったから祝して、と言うのは違うかもしれないが――宴会を開いた。
そこでキリトはお昼で彼の料理を堪能したニシダさん達に請われた通り、再び料理の腕を振るった。
使われている食材は釣り勝負でしこたま釣られていた魚と各々が持ってきていた野菜や肉など、そしてキリトがホームから持ってきた米や味噌汁の具材、最後にヌシから手に入ったS級食材《太古の大ヌシの魚肉》である。
あのヌシのドロップ品は、ニシダさん曰く今まで見て来たものより群を抜いてレアな釣り竿と、S級食材アイテム、それから幾ばくかの経験値とコルだった。後者二つが少なめだったのは、前者二つのレア度に押されての事だろう。
釣り竿はニシダさん達が使えるものなので、今回手伝ってくれたお礼と言ってキリトは後三つを全て譲られた。それからすぐ開かれた宴会で、彼は早速譲られたS級食材を用いて料理を振る舞った。
そして出て来た料理に、昼に食べた者は再び感涙を流し、初めての者は驚愕と共に無言で箸を進めるという様相が、幾つも並べられている木製テーブルのそこかしこで見られた。ご飯、味噌汁、香辛料がしっかり効いた柔らかい唐揚げ、今回のメインである刺身と醤油という馴染み深くもこの世界では味わえなかった和食に、誰もが歓喜していたのである。
そんな様子を少し機嫌よさげに眺めながらご飯を食べるキリトの対面で、私もまたマイ箸で次々と料理を食べていく。
あんな風体でも一応高級魚だったのか、ヌシの刺身はマグロを思わせる程に脂が乗ったもので、口の中に入れればぷりぷりとした食感が得も言われぬ幸福感を覚えさせてくれる。そこに醤油、そして今日ホームに帰ってから更に製作したらしいわさびが合わされば、正にリアルの高級刺身とほぼ同じ味を堪能出来る。
更にキリトは刺身だけでなく、何と酢飯――の味と匂いがする自作の米――を用いてお寿司まで作って見せた。流石に作り方が分からないもの、素材が無いイカやイクラといったものは無かったが、マグロやサーモンといった定番のものは用意してくれた。
まぁ、見てくれは微妙にリアルと色合いなどが異なるし、醤油も黒では無く紫でわさびも黄色なので、厳密に言えば擬きなのだが、そんな事も気にならないくらい美味だった。幾らでも箸が進みそうな程の美味しさだった。
「シノン、美味しいか?」
「ええ……言葉では言い表せないくらい」
「そっか、それはよかった」
ついさっきまで追加を連続して頼まれていて、漸く材料である酢飯と魚が底を尽いたためご飯にありつけたキリトも、釣りギルドの人達や私が次々と平らげていくのを見て、とても嬉しそうに笑みを浮かべていた。こうして何気ない話題として振って来るくらい、今の彼は機嫌が良いらしい。
普段一人の彼も基本的には人と一緒に居たいと思っているし、どうも世話好きなきらいがあるようで色々と面倒を見てくれる。それで感謝される事は謙遜する事無く素直に喜ぶ。
実姉及び実兄に勝っていると自負する事で褒められているから、謙遜という名の自虐をしないだけなのだろうが……何もかも卑下するよりはマシである。
それにこれだけ料理が上手いのだ、これで謙遜されては女であり年上である私を含めた女性陣のプライドが色々と傷付きかねない。
というかもう色々と諦めている。仮想世界だからこそ制限されているだろう彼の家事スキルを、現実で見せ付けられた時にはきっと言いようも無い敗北感を味わうに違いないと予想している。彼を拾った時点でリーファがそうなったらしいから。
何時かリアルでキリトの手料理を食べてみたいのだが、その時にはプライドが砕け散る事を覚悟しないとなぁと、苦笑しか浮かばない考えがあったりした。
「……それはそうと、キリト、ここまでの大人数に米や醤油といったものを明かして良かったの?」
そんな思考を浮かべながら数多くの料理に舌鼓を打っていた私は、周囲で私達の話を聞く者は居ない事を確認してから、お昼の時からずっと浮かべていた疑問をぶつけてみた。
この疑問は当然のものだと思う。
理由や思惑は知らないが、彼はこの世界の料理文化に一石を投じる程の革命とも言うべき代物を自らの手で作り出していながら、しかしそれを決して明かしていなかった。ユウキやアスナといった同じ《料理》スキル持ちには多少明かしていたようだが、それも全貌では無い。それだけ彼は徹底して秘匿していたのだ。実際ユウキやアスナ達以外には作成に必要な素材すら教えていないくらいである。
なのに何の脈絡も無くこんな行動を取るなんて彼らしくないし、秘匿していた今までの行動を水泡に帰すのではないかと思ったのだ。幾らニシダさん達が黙秘を了承したとは言え、『人の口に戸は立てられぬ』と言うから明かした時点で話が広まるのは確実。それも彼は理解している筈だ。
何か意図して、そして何を意図しての行動なのか知りたくて、私は質問をぶつけた。
それに対し、にこにこと何時に無いくらい嬉しげに笑みを浮かべていたキリトが、ほんの一瞬だけだが表情を消した。それも本当に一瞬で、すぐに困った風で、しかしどこか苦慮を感じさせる苦笑を浮かべた。
……表情を消したという事は、どうやら私は触れてはいけない何かに触れてしまったらしい。
ここは一旦遠回りにした方が良いかと思って、別の疑問をぶつけてみる事にした。
「と言うか、前々から思ってたのだけど……何でコレを秘匿するの? 普通に凄い事なんだから隠す必要性すら無いと思うんだけど……」
だから、明かした理由では無く秘匿の理由を訊く事にした。こちらも地雷のような気はするが、実際これは誰もが覚える疑問だからしてもおかしくは無いと思う。
この秘匿の理由が分かれば、自ずと明かした理由も分かるのでは……という考えもあってしたのだが。
追加でした私の質問に対し、苦笑を浮かべていた彼は僅かに目を伏せた。
「それがアスナ達ならな。だけど俺は《ビーター》、憎悪を一身に受けるべき存在だから……革命や変革といったものには《肯定的に見られる旗印》が相応しい。《否定的に見られる旗印》である俺がコレを広めても受け容れられはしない、米や調味料の存在を認め求めはするだろうけど、それを作り出した功績は認められないだろう」
「……そう」
キリトが言わんとする事は大体理解出来た。
つまり攻略と《ビーター》の関係性と同じになるという事だ。攻略で欠かせない人員である《ビーター》の戦力は認めるが、彼がいたからこそ攻略出来たという事実を認めない、そういう事だろう。彼を見下し虐げている者達の思考だ。
とは言え、これはキリトにとって対外的なものだけ。彼の心情に関しては一切語られていない。
これは私の推測だが……彼が、何もかも劣っていると自虐する彼が唯一、実姉と実兄に勝っていると自負している家事の面に関わっているからこそ、彼はその頑張りを否定されたくなくて、明かさないのではないだろうか。
私だって頑張った事を認められなかったら嫌だ。
「……やっぱり、家事の面で否定されるのが嫌、なの?」
「……」
その思考を基に疑問を投げかけてみれば、彼は瞑目したまま、肯定も否定もせず沈黙を保った。つまりは言外の肯定だ。
数秒ほど互いに黙っていると、ふと彼が溜息を吐いた。
「確かに、そういう面もある。でも先に言った理由も俺の中では真実だ。出来るだけ手札は残しておきたい」
確かに、キリトは隠し事はするものの純粋な嘘は決して吐かないから、さっきの理由もまた本当であるのは理解していた。
だが手札、という言い方は分からなかった。戦闘系スキルならともかく、趣味系スキルが一体何の手札になるというのだろうか。
「どういう意味?」
「……これは、俺の杞憂であって欲しいんだけど……」
分からず私が問うと、彼はそう前置きしてから話してくれた。
彼が浮かべている予想は二つ。『《圏内》の消失』と『下層への移動制限』。
前者は街中や《安全地帯》でプレイヤーを保護する《アンチクリミナルコード有効圏内》が存在しなくなり、常に《圏外》になるという予想。
一万人もの人をデスゲームの中に閉じ込めた者だ、ある種の極限状態までプレイヤーを追い詰めるなら下手に強いモンスターを配置するよりよっぽど効果的だろうという考えから、その可能性を考えたらしい。
後者は文字通り、上へ進むしかないという状況になる事を指す。
これが『特定階層より下への移動制限』ならまだいいが、『常に下の階層へ戻れない』という状況になったらそうも言ってられなくなる。ホームを持てなくなるし、手に入れたアイテムも自身のストレージ内で保管出来るものしか持てない。保管や保存が出来なくなるのは戦う者にとっても、生産職達にとっても致命的だ。
仲間が多ければ分担して持つとか、ボス攻略に行かないメンバーに後からボス戦には不要だが普段は使うアイテムを持ってきてもらうとか、そういう事も可能だろう。
該当階層の安全マージンを含めた適正レベルに達していない、《街開き》というもので上に上がって来るだろうプレイヤー達の死亡率が高くなるのも、想像に難くない。
クエストを達成する為にもアイテムが必要で、それを手に入れるにはコルかフィールドに出なければならないが、上層の物価は基本的に高いから中層以下のプレイヤーの財布には辛いだろうし、《圏外》で戦うなど以ての外だ。更に大勢のプレイヤーがクエストを受けようとした際、それらを達成する為のアイテムが枯渇し、結果的に達成出来なくなる可能性も考えられる。
更に鍛冶屋や雑貨屋といった職人及び商人プレイヤーの重要性も、生産数の限度が前以上に厳しくなる事から今より圧倒的に高くなるのは明白だ。既にどこかの勢力に属しているならまだしも、リズやシリカのようにフリーの者なら、下手しなくても所属をどこにするかとかで揉めるのは私でも分かる。
それらを早い段階で警戒しているからこそ、キリトは戦闘系スキルの他にも生産系スキルを習得、コンプリートし、付け替えで対応出来るようにしているらしい。
「それ、ヒースクリフ達には……」
「一切話してない。そういう危惧をトップだけがしていた、何も伝えてくれなかったと不満、不信感を抱いた集団は瓦解する。そういうものは俺だけに向けられればいい。その時に対応出来るようにしておけば時間を掛けるだけでどうにかなるから」
確かにその可能性も否定出来ないが……いっそ全体に警戒するよう伝えればいいのではとも思ってしまった。ヒースクリフ達の発言であれば決して無視出来ないだろう。
まぁ、恐らくは《ビーター》の優位性を維持し、突出した能力を見せ付ける事で絶望だけはさせないようにと考えているのだろうが……そもそもそこへ行くまでに死んでしまったら元も子も無いと思う。死ぬ気が全く無いからこその決断なのだろうが。
しかし、それは分かったのだが、肝心の調味料などについてとどう関わっているのかがイマイチ分からない。
「それで、秘匿とそれにどう関係が?」
「……今でこそ、ニシダさん達のように釣り、リズのように《鍛冶》といった各々の道を歩んでいる。一年半以上も経過した事でこの世界に慣れたからこその行動だけど……もしさっきの予想が現実になったら、それは命が危険に晒されるという一大事に発展する。日常に出来た非日常が潰されて、新しく危険な非日常が訪れる事になる」
「そうね……《圏外》化だけでもそれは分かるわ」
「そうなった場合、力が無い者達は、力を持つ者達に助けを求める。それを受け容れた場合は災害に遭った避難所のように……いや、戦災に見舞われた街の様相になるだろうな。怯え、引き籠り、些細な事から何れ秩序が崩壊し、混迷に陥り……そして……」
「……諸共、自滅する」
キリトの言葉を引き継ぐ形で私が言った事に、彼は小さく頷いた。
「……なるほど。だから秘匿していたのね」
ここまで言われれば私でも分かった。
つまりキリトは、これらを明かすのはその可能性が現実となった時にするつもりだったのだ。常に危険に見舞われ、周囲の人間を信用出来ない状態に陥っていては息が詰まり、ストレスが溜まる。その果ての共倒れだ。
それを防ぐ為に、彼は食事でその人達のストレスを解消させようと考えていたのだ。
美味しい食事だけならまだしも、ずっと食べていなくて切望して止まなかった代物を食べれば、その効果は絶大どころではない。心にゆとりを取り戻させるなら彼の腕を抜きにしても十分過ぎる、腕を含めれば完璧だ。
秘匿していたのは、知られていれば効果が薄くなるから。こういうストレス解消的なサプライズは知られていない方が良いという考えだろう。
この推察を語れば、彼は仄かに微笑を湛えながら頷いた。
「はぁ……まったく、恐れ入るわ。そこまで考えてたなんて流石に予想もしてなかった。よくそこまで考えたわね」
本当に恐れ入る。流石にそんな可能性まで考慮しないだろう、恐らくヒースクリフやディアベル達も目の前の事に手一杯で考えが至っていない筈だ。
そもそも、リーファがプレイしていたALOを始め、あらゆるVRMMOは街中を絶対の圏内区域としているらしい。それを前提にゲームが成り立っているのだ。街中でも敵の襲来、他人を警戒しなければならないなんてどこの世紀末なのか分からなくなる。
だからこそ誰もが安心して街中に居る訳で、きっと誰もその前提が崩れる事を予想していない。むしろそんな可能性の存在に思い至ったキリトが普通から外れているのである。
「あらゆる危険性を考慮して先を見て動かないといけないからな……杞憂に終わって欲しいけど、そういうものほどこっちの命を奪いに来る。あるとは言えないが、無いとも言い切れない以上、最悪を想定して動く方が無難だ。何も無ければそれで終わるしな」
それを他の人にも頼るよう動けていたらいいのだけど……
「……なるほど。秘匿に関しては分かったわ……でも、なら何で明かしたのよ? そんな理由があるならこれこそやっちゃいけない事なんじゃないの?」
「う…………いや、まぁ……それは、そうなんだけど……」
事の次第を把握した事でより強まった疑問をまたぶつけてみれば、キリトは明らかに気まずそうに視線を彷徨わせ、少しの焦りを見せる。まるで、痛いところを突かれた、と言わんばかりの様子だ。
その様子を見て、まさか、と一つの予想が立った。
「まさかと思うけどあなた、全く考えずにやっちゃったの?」
「…………」
再び沈黙が訪れる。
周囲は騒がしく、色々と熱狂が渦巻いているというのに、私とキリトだけが座っているテーブル席は何故か夏なのに木枯らしが吹いて閑古鳥が鳴いているように感じてしまった。
キリトは、その表情を途轍もなく複雑なものにしていた。否定したいが事実だから出来ない、かと言って肯定は違う、といった感じ。何か相応しい言葉を探して迷っているという印象だ。
「……何か、考えはあったの?」
「……一応」
全く考えず、という部分は異なるらしい。それを聞いて何となく安堵を抱いてしまった。そんな理由で秘匿していた思惑を自らぶち壊してしまっていたら目も当てられないだろう。
それでも歯切れが悪いのは、言葉に言い表しにくいのか、私に話していい事ではないのか、あるいは何か後ろめたい事があるからか……どれかは分からない。
取り敢えず聞ける事は聞いたし納得もしたから、今回はこれで引き下がった方がいいだろう。あまり踏み込み過ぎて警戒されたり嫌われたりするのは嫌だ。
「そう……話してくれてありがと。これ以上はもう訊かないわ」
「……いいのか?」
「だってキリト、『訊かないで』って顔に書いてるんだもの。秘密を話してくれたんだからこれ以上は無理強いになるわ」
そもそも攻略組ですらない私にここまで話してくれたのだ。最初に感じたように地雷だと思った事をここまで話してくれたのだから、これ以上は彼の気分を害する事になる。それで互いの関係に罅が入りでもしたら――彼の人間性を考えればこの程度で入るとも思えないが――嫌なので、ここで止める事にした。
私が追及の手を引いた事で明らかに安堵した感のある表情を浮かべた事で、本当に話したくなかったのはよく分かった。
「……そう…………ありがとう……」
ただ、まぁ……恥ずかしそうに頬を僅かに朱に染めてはにかんだのは気になった。今のやり取りの中で何か恥ずかしい事を言った覚えは一切無いのだが。
明かした理由を話さないのが、彼にとって何か恥ずかしい事だからか、それとも私に原因があるのか分からなかったが、追及を辞めたばかりだから訊く事も出来ず、私は思考を続けながら止めていた箸を再び動かし、絶品の料理の数々に舌鼓を打つのだった。