インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。

 キリのいい部分で終えたのと、諸々の理由で文字数は一万三千と少なめです。

 視点はシノン、初のニシダさん、リーファと移り変わります。

 ではどうぞ。




第五十章 ~大人の審眼~

 

 

 ヌシ釣りの後、完全習得している《料理》スキルと自作の再現調味料を存分に駆使して釣りギルド人達に振る舞うという彼を知る者なら異例中の異例となるであろう宴会は数時間に渡って催され、気が付いた時には時刻は午後十一時に至ろうかという程に遅くなっていた。

 既に第二十三層の大地である天蓋に映し出されている空にはリアルの日本都市部では望めないであろう星が見え、同じく映し出されている三日月が、明かりに乏しい大地を燦然と照らす。満月にも、文明の光にも程遠い光量ではあったが、それとランプなどが合わさって宴は続いていた。

 その宴も、流石に日を跨ぐくらい遅い時間ともなれば自ずと終焉へと向かう。

 まぁ、そもそも幾ら攻略組として徹夜には馴れているとは言え、キリトはれっきとした子供なので、流石にこれ以上はマズいと大人達が判断した事に起因したのだが。

 ちなみに、それまでしこたま騒げるくらい各々の気分が続いていたのは、偏にキリトが作った料理への感慨深さ、そしてそのテンションから再び釣り勝負が始まってまた料理を振る舞ってもらうの繰り返しがあったからだ。

 キリトが羨望を向けていた例の二人組がまた勝負を始め、今度は他の者もそれに乗じて勝負を始め、仮想世界故に湖から魚が尽きないのを良い事に何百匹を釣り上げ、それでキリトに再び調理してもらうのをせがんだ。

 

「……戦闘とは別の意味で疲れた……」

 

 彼も頼られて悪い気はしないからか、それらを快く引き受けて――勿論調味料などの諸々を秘密にするよう確約させてから――調理をしていったのだが……さしものキリトも、宴会に参加しているのは四十人とは言え何回も作り直した事で数百人分を作ったのは初めてで、宴もたけなわという頃には攻略や戦闘とは別の意味で疲弊し切っていた。

 闘技場後の疲労より遥かにマシなのでその気になれば動けるだろうし、戦闘で疲労した訳では無いから余力は残っているのだろうが、これは精神的な話だろう。

 

「暫くは魚を見たくないかも……」

 

 そんな事があったため、宴会の後片付けをテキパキと行って解散した後、キリトは若干グロッキー状態に陥っていた。

 既に釣りギルドの大半が大湖畔前の広場を後にしている現在、この場に居るのはキリトと私、そして宴会を主催したニシダさんの三人だけだ。

 彼はギルドを率いてはいるものの毎日何時も誰かと一緒にいる訳では無く、一人で気ままに釣り場を探して竿を振るう主義なため、単独行動が基本。故に釣りギルドの人達もニシダさんが残った事は何も言及しなかった。

 そんな訳でここに居る彼は、キリトの微妙な表情で呟いた言葉に苦笑を浮かべ、頬を掻いた。

 

「はは……いやぁ、すみません、何分醤油ありな上に現実と同じ味というのは久方ぶりでしたから……皆もこれを逃したら次は何時食べられるかと考え、今の内にたらふく食べ溜めをしておこうとしたのでしょう」

「いや、料理自体は好きだからそれは別に良いんだけど……こう、何というか。やり過ぎたからちょっと……」

「まぁ、あれだけ捌いてたらねぇ……」

 

 流石に一千匹に届くほどの数の魚を捌かなければならなくなった事にはそこはかとない同情を禁じ得ないが、その分だけ喜んでもらって一応満足しているようだから、不満たらたらだったり行き過ぎていたならまだしもこれで同情を私が抱くのはお門違いという話だろう。

 彼が求めた『最強』に関連している事柄ではないが、ないからこそ彼もまた自然に料理の追加依頼を請け負っていた。何だかんだと休めていないし、逆に疲れてしまった感は否めないが、好きな料理で喜ぶ人達の顔を見れて満足げだったからいい気分転換にはなったと思う。

 彼に必要なのは自己を肯定する要素、そして幸福を感じる機会だ。《ビーター》としての役割や表向きな立場、誹謗中傷に関する事を含め、基本的にキリトは自他共に価値を低く見がちだから、それを払拭する機会を得る事が一番彼にとって良い。

 幸いにも幸福や喜びを覚える心は未だ喪われていないから、機会さえ訪れれば、何れは回復する。

 逆に不幸や不運にも彼は過敏に反応してしまうが……こればかりは如何ともし難い。幸福を得たいと願っているのなら、その逆に『幸福でない』、すなわち不幸も認識しなければならないのだから。

 キリトがリーファを『幸福の象徴』とする限り、アキトを『幸福を壊す者』と見る事になる。逆に何もかもに絶望してアキトに何の感情も向けない、あるいは無感情にして無感動を向ける事になれば、リーファすらも遠ざけるようになり、彼に幸福は訪れなくなる、何せ彼にとって不幸すらも価値を失ってしまうから。

 不幸が見えなくなれば、幸福もまた然り。

 流石に調味料の秘匿理由が想像を絶していたので、安易に今回の参加を進めたのは愚策だったかと思いもしたが、昼の時は彼自身の行動だった訳だしなぁと思ってもいる。それに今回の宴会は彼の心に少なからず安息と喜び、普段とは別の意味での充足を得られた筈だから、結果的に見ればよかったのだ。

 若干グロッキーになってしまっているのは、その代償だと思えば安い話だろう。キリトがどう捉えるかによるが。

 

「けど……楽しかった。あれだけの人数に料理を振る舞ったのも初めてだったし」

 

 私の思考を知る由も無いキリトは、私の予想に違わず、やはり今回の宴会を肯定的に捉えているようだった。私はそっと笑みを浮かべ、天に映し出されている三日月を眺める彼に視線を向けた。

 誰よりも幼く、けれど誰よりも強いキリトは、普段の大人と言い合う時に纏う雰囲気を消して、素の様を見せていた。ニシダさんがいるのに、だ。

 微かに吹く風に煽られ、彼の黒く、しかし僅かな月光を浴びて煌めく長髪が揺蕩う。満足で、けれどどこか寂しさを漂わせる笑みを浮かべた横顔も、夜闇と月光のコントラストで普段とは別の趣を見せる。

 

「そうですか……それはよかった」

 

 この世界に最初から生き、無形の形でキリトの尽力の恩恵を受けているニシダさんは、それを理解しているからか、あるいは彼の姿が眩しいからか、目を眇めながら柔和に微笑み、そう言った。

 私は特に言う事が無くて黙って外周部に並ぶ支柱を向こう側に見える夜空を眺め、キリトも口を噤み天蓋に映し出されている月を眺め、ニシダさんも穏やかにほほ笑んで大湖畔に映る月を眺めて、静かな時間が過ぎていく。

 

「……キリト君、答えたくなければ無理に言わなくても良いのですが、一つ訊いてよろしいですかな」

 

 その静けさを、笑みを消して真剣な面持ちで左隣に立つ小柄な少年に対し向けたニシダさんが、その言葉と共に破った。

 受けたキリトは天に映る月から視線を外し、右隣に立つ初老の男性へと無言の促しと共に向けた。

 

「キリト君は攻略組と聞きました……【黒の剣士】とも、そして《ビーター》とも……」

「そうだな……俺は確かに、その異名と忌み名で呼ばれてる」

 

 それが? と視線で先を促すキリトに対し、ニシダさんは僅かに口ごもった後、意を決したかのように口を開いた。

 

「君は……何を想って、何の為に、戦っているのですか?」

「……」

 

 その問いが発せられた瞬間、静かに話を聞いていたキリトの気配が、小さくはあるが確かに揺らいだ……気がした。

 

「私は戦わず、率直に言えば釣りに逃げた臆病者のようなもの。キリト君程に幼い歳の子は他に見ませんが、街に滞在しているとレーティングを無視してログインした子というのはよく見るものでしてな、その子達は大抵誰かの庇護下にある。よしんばフィールドで戦っているにしても大人の誰かと一緒が常……君はその真逆、一人で危険な、大人でも恐がる最前線で戦っている。恐ろしくないのですか?」

 

 その問いは、恐らく彼をよく知らない、けれど彼を《織斑一夏》や『年端も行かない子供』としてなら知っている者が抱く疑問なのだろう。

 私だって彼の来歴、心情を聞くまで抱えていたし、今も少なからず抱いている気持ちだ。疑問は氷解したが、だからと言ってそこまで自分を追い詰めなくても、と思わずにはいられない。

 ましてや彼が戦うのは、《ビーター》を演じるのは、彼を虐げる大勢の人々のためだというのだから、尚更だ。

 もっと自分本位で生きたっていいし、逃げても拒絶してもいいのに、それをしない。

 キリトの事を外側からしか知らないのであれば、その疑問は持って当然だし、むしろ持たない方がおかしい。

 そういう意味では誅殺隊やキバオウ達の対応が如何に異常か分かるだろう。彼らは大人ですら怯え竦むこの異常事態に、幼いのに立ち上がったキリトの状態を『普通』と見ていながら、彼の実力を認めず下と決め付けている。どんな想いで立ち上がったのか、剣を取っているのか一切度外視している。

 きっとそれこそが、ディアベルやヒースクリフ、アスナ達とは別の道を歩む事になった切っ掛けなのだと思う。

 

「……」

 

 キリトは唐突とも言えるニシダさんの問いに、視線を眼前に広がる大湖畔へと向けた。彼の瞳には月光で煌めく大湖畔の光が映っていて、とても美しく、けれどやはりどこか哀しく映った。

 それでも彼は暫く口を開こうとはしなかった。きっとニシダさんには語っていいものかどうか苦慮しているのだ、リーファや私達は彼の内側だから語れる事も、ニシダさんは外側の人間だ、だからこそ語っていい事と悪い事が多く生まれてしまう。

 

「……質問に質問で返すのは無礼だと百も承知の上で逆に問いますけど……ニシダさんにとって、本当に恐怖を抱くものって、何ですか?」

「む……私の、ですか?」

 

 静かに、一旦答えを先延ばしにしたキリトの問いに、しかしニシダさんは気分を害した風でも無く真剣に考え始めた。

 

「…………やはり、自分が死ぬ時、でしょうか。あとはリアルには家内が居るから、彼女が居なくなってしまう事でしょうかね……独りになるというのは、やはり怖いですから」

 

 この歳にもなると尚更に……そう寂しげな笑みと共にニシダさんは応じた。きっとそれは誰もが感じる、誰もが思い浮かべる恐怖だろう。

 

「それで、キリト君にとっては?」

「……俺にとって、少なくとも最前線の攻略は恐怖では無いですね。幾ら未知の領域と言っても、幾らデスゲームと言っても、あくまでこの世界はゲームを前提としているからこそ万全の準備を整えれば生還は可能ですから…………俺からすれば、人の方が恐い」

「人の方が……」

 

 最後の言葉を復唱するように、ニシダさんが言う。

 私はキリトが言おうとしている事を、何となく予想出来てしまった。

 彼の命が危ぶまれているのも、何時も自分を危険に晒さなければならないのも……何もかもが人によって齎されるものだからだ。無機物的なゲーム世界の危険では無く、彼にとって本当の危険とは人なのだ。

 

「シノンやニシダさんのような俺にとって善い人がいれば、その逆に俺を殺そうと俺にとって悪い人もいる……人は善と悪の両面を持っている。だから、この世に悪があるとすれば、それは人の心に由来するもので……それに徹すれば何でもしてくるから、本当に先が見えないから、俺は人が恐い。迷宮区なんて、所詮あるのが分かってるもので、悪意があるかもどんな形で振るわれるかも分からないまま関係を持たないといけない人の心には到底及ばない」

 

 人の悪意は際限なく膨らんで広がる、と彼は言葉を続ける。

 

「その悪意が、俺の周囲にいる人に向かうのが恐い。俺のせいで誰かが傷付く事、何よりも俺のせいで誰かが死ぬ事が恐い。今後何が起こるのか、何が来るのか全く分からないから恐い」

「……」

 

 どこか茫洋とした目で大湖畔を……いや、虚空の向こうに映っているだろう幻を視ながら言うキリトに、ニシダさんは圧倒されていた。あまりにも切実で、あまりにも想像を絶した返答だからだろう。

 私からすれば、キリトの恐怖心が向かう先が人である事に違和感は無かった、むしろ納得する程だ。

 人の悪意なんてどんな形でもこちらを蝕んでくる、親しい人は掌を返し、あるいはその親しい人――私の場合は家族――にも悪意を向けられ、自分のせいなのだと責められ、または自虐する羽目になる。

 そんなのはまだ良い方で、酷くなれば何かのドラマのように自分以外の周囲の人間から不幸に貶められていく。

 人が考え得る事は全て現実となるのだから、理屈があれば見応えのあるドラマのような展開だってあり得る。そしてキリトにとって、その未来を進む可能性は高く、半ば約束されているようなものに近い。

 

 

 

 遥か以前から人に虐げられてきたキリトからすれば、人以上に恐怖を抱くものなどある筈が無いのだ。《オリムラ》の呪いも、《出来損ない》と誹りを向けるのも、全て人によるものなのだから。

 

 

 

 キリトが護ろうとしている人そのものが、彼にとっては自身を死へと追いやる存在であり、何よりも恐ろしいものなのだ。

 

「だから俺は強くならないといけない。強くないと何も為せない、何も遺せない、何も護れない……出来損ないの箔を押されたまま死ぬのも、何も遺せないまま死ぬのも、そして誰かに良いようにされるのも、どれも嫌だ……だから俺は、戦うんだ」

 

 それ以外に、道なんて無いから。

 そうキリトは締め括り、再び口を閉じた。

 自身の外側の人間故に多少分かり辛くしてはあったが、自分のためと言いながら、結局は人のためという理由を口にした。きっと人の好いニシダさんへの、彼が出来るだけの最大の譲歩だ。理由を語ったのも、ここまで彼の核心に近い部分まで語ったのも、全てはニシダさんの善心に報いるためだろう。

 それは彼が強さを求める理由では決してないけれど、確かに戦う理由だった。

 ニシダさんはその答えを受けて、どこか表情に苦いものを滲ませながらも納得の色を浮かべた。

 

「……そうでしたか…………最初は、何故プレイヤーを殺せるのか、と問うつもりだったのですが……」

 

 それもまた、キリトをよく知らない人が当然のように抱くもの。疑問であれば違和感を覚え、覚えないのであればキリトを敵と勝手に見定める者だ。

 

「それは、キリト君が誰かを護る為にしていたという事ですか」

「……」

 

 男性の核心めいた言葉に、少年は決して言葉を返す事も無く首肯する事も無かったが、同時に否定の意志を見せる事も無かった。

 キリトは裏で何かをしたり、事を隠蔽しようとはするが、言われて合っている事には決して嘘を吐かない。特に自身の根幹にかかわる事は。だからこその沈黙であり、言外の肯定だった。

 

「ニシダさん達みたいに……生活を主体として生きている人がいる事、それが何よりも嬉しかった。無意味でも、無駄でも無かったって、そう思えた」

 

 そこで、キリトは仄かに微笑を浮かべた。何よりも嬉しいと、そう思っているのが分かる偽りのない笑み。

 

「……正直、私からすれば最前線で戦っている攻略組の方々は、別世界の住人のように思えていました」

 

 それを見てか、ニシダさんは彼と同じように大湖畔に顔を向けて語り始めた。

 

「内心では、この世界から生還する事を諦めていたのかもしれませんなぁ……知っての通り、電気屋の世界も日進月歩。ISという発明品で使用されるホログラフィを始めとした技術が流用されたものも多く、ましてや昨今はVR関連で尚更発展著しい。私も若い頃から弄っていたクチなので何とか食らい付けていたんですが、一年以上も現場を離れているとなれば、流石に復帰はもう無理でしょう。生還しても職に復帰出来るかすら不明です」

 

 私は学生だから、ニシダさんの気持ち全てを理解出来る訳では無いが、それでも何となく想像は出来ていた。

 やはり彼も生還してからの職に関して思い悩んでいたのだ。この男性と会った時、軽く笑っていたのは恐らく半ば自棄に近い思いを抱いているからだろう、自分には無理だ、という諦観もあって。

 女尊男卑風潮によって男性の就職や復職が困難になっているからこそ、年老いた自分には無理だと思っているのだ。

 そして、その諦観は紛れも無く正しいだろう。

 

「昼頃に話したいい歳のオヤジ達も、私と同じ考えがあって刹那的に生きているのです。この世界で必死に生きても、実際のところ現実に帰ったところで何にもならず、何にも還元されない、それどころか現実の生活基盤すら危うい……ならもういっそ、と、自ら命を絶つ者だっていました」

 

 そう、どこか哀しげに語った様子から察するに、恐らくニシダさんの目の前でそれをした人がいたのだろう。

 

「私はおろか、釣りギルドの者達は、誰もが現実への復帰を切望していながら、同時に恐れてもいる。生還しても自分達が一家の大黒柱で、更に今の時世を鑑みれば復職なんて絶望的ですからね……だからこそ、それでも最前線で戦う方々を別世界の者だと、そう思っていました、現実に還った後に希望を見出している者なのだと……その中でも、特にキリト君、君の事で私はずっと不思議に思っていたのです」

「……俺の事で……」

「ええ。幼い時分から虐げられ、この世界に来ても貶められているのに、何故戦うのか。何故攻略組として生還を目指しているのか。普通ならオレンジ達の一員になって復讐くらいしそうなものなのに、何故逆にオレンジ達を抑える側として戦うのか。他の子供達は戦うのを恐れているのに、何故危険な場所を率先して突き進めるのか。そして何故、《ビーター》の悪名に恥じない行動を取っているのか……あなたの事は、冷静に考えれば矛盾と謎があり過ぎていて、不可解だったのです」

「……」

 

 冷静に考えれば、という時点で既にニシダさんはキリトを善と見ているのだろう。そうでなければこの問答すらない筈だから。

 言われたキリトはニシダさんが既に答えを確信しているからか、あるいはその先を聞きたいからか、決してその先を言わせないようにはせず、無言で先を促していた。ともすれば、あるいは、キリトは自らの行動を何も知らないのに察してくれているのかと、期待しているのかもしれない。

 

「実を言うと、キリト君がこの大湖畔で釣りをしているのは、今まで幾度か見てきました。《血盟騎士団》の団長と副団長のお二人に声を掛けられているところも」

「……あの時も……」

 

 恐らくそれは、私がこの世界に来る日の事だ。多分私が来る直前の筈だ。

 

「大湖畔で釣りをし始めた黒尽くめの少年が《ビーター》であると釣り仲間から知らされていましたからね、申し訳ないですが、警戒して遠巻きにしていたのです」

「なら何故、今日は声を……」

「私達は《ペルカ》が活動拠点ですから……今日のデュエルを、見てしまったのです」

「ッ……!」

 

 今日のデュエル。すなわち、アキトとの、半減決着デュエルとは名ばかりの死闘を、ニシダさんは見ていたと言う。

 あの時は平時には無い様子だったため見られていたと気付かなかったらしいキリトは、鋭く息を呑んでニシダさんに顔を向けた。

 ニシダさんはキリトを穏やかに見返した。

 

「あのデュエルを見て私達は本当にあの少年は悪なのかと疑問を抱きました……いえ、常々抱いていた違和感に確信を持てたと言うべきでしょうか。今日声を掛けたのも、誰もがキリト君の事を罵らなかったのも、その真偽を図るため、キリト君を推し量る為だったのです」

「な……ッ?!」

「……そうだったの……」

 

 これには流石にキリトは勿論私も愕然としてしまった。一斉にお礼を言ってきた時の様子はキリトの料理の感動によるもので、多分それで悪名に関して触れなかったのだろうと思っていたが、よもやキリトを推し量る為に声を掛けたとは予想だにしていなかった。

 そこで、私はある事に気付いた。

 

「もしかして、ヌシ釣りをいきなり行えたのも……」

「着々と準備を進めていたのもありますが、あのデュエルの後でキリト君を推し量る為に決行する事にしました。流石に《料理》スキルや調味料に関しては全く予想外でしたが」

 

 私の予想は正しく、どうやらヌシ釣りをキリトに声を掛けたその日に行えたのも事前に用意していたかららしい。

 あの場でいきなり話が出たにしては少々準備が良すぎる気がしたのだ。普段はあまり集まらないという釣りギルドの面々がほぼ揃った状態の昼食というのも若干引っ掛かりを覚えていたが、これが真実だったようだ。そりゃあ前以て決めていればあそこで話に出す事も可能だろう。

 

「……道理で、俺の素性を知っていながら一緒に《圏外》に居るのを厭わなかった訳だ……」

 

 どうやらキリトの方も若干妙に思ってはいたらしい。まさか自分を推し量る為だったとは思わなかったようだが。

 

「キリト君の……いえ、《ビーター》としても、【黒の剣士】としても、その行動は全て計算されたものだというのを前提に動きましたからね。色々と経験を積んでいる大人を舐めてはいけませんよ」

 

 キリトの納得の言葉に、ニシダさんは少し茶目っ気ある感じで、してやったりと笑みを浮かべてそう言った。

 それを向けられたキリトは唖然として固まって……ぽろりと、恐らくは虚飾の仮面が崩れ落ちるかのように、塗装が剥がれ落ちるかのように、鍍金が削り落ちるかのように、彼は瞳を潤ませ、口元を唖然とも笑みともつかぬ形に歪めた。

 

「……はは……俺と無関係だった人に、ここまで看破されたのは、初めてだ……じゃあさっきの宴会の時点で、いや、既に昼の時点で答えは出て……」

「ええ。キリト君はよくよく見れば、とても素直な子のようですからね、妻子持ちの者も多くいたのですぐ分かりました……それに、これはあくまで私見なのですが、誰かの為に美味しい料理を作れる人に悪人なんてそこまでいないと私は思ってます。この世界には存在しなかった調味料まで惜しむことなく振る舞ってくれたのですから、尚更ですよ」

「…………そっか……そう…………ああ……ああああぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!」

 

 ニシダさんの私見を聞いて、その上で認められたのだと理解したキリトは、僅かに間を空けてから絞り出すような声と共に膝から崩れた。青草の上に座り込んだキリトはぽろぽろと涙を流して、抑えようとしても嗚咽は絶えず続いて、止まる気配が無かった。

 そんな彼の前に、ニシダさんも中腰になって、キリト君の頭を優しく撫でる。

 

「今までよく頑張ってきましたね……」

「う、ぁ、ひぐっ……あぁぁ……ッ」

 

 労いの言葉と共にそう言われた途端、彼はもう抑えられないとばかりに目の前の男性にしがみついて嗚咽を上げる。

 リーファを始めとした十代、クラインやエギル達のような二十台どころか、釣りギルドにいる五十代前後の全く無関係だった人達に本当の自分を見てもらえた事が余程嬉しかったのか、それとも実兄により情緒不安定に陥っていたからか。

 初老の男性に、恥も外聞も無く、ただ素直に一人で戦い続けて来た少年は泣き付いた。

 それを少し離れていた私には、どこか実の親子にも、あるいは祖父と孫にも見えていた。

 きっとキリトが求めているであろう温かみのある父を重ねた事で抑え切れなかったのだろうと、そう予想しながら、私は静かに彼の慟哭を聞き届けた。

 輝く三日月と光る星の夜空に、彼の慟哭は溶けて、そして消えた。聞き届けている二人の男女の分を除いて。

 

 ***

 

「……眠ってしまいましたな」

 

 私が声を掛けた事、釣りギルドの面々と共にヌシ釣りを企画した真意を語った途端に泣き始めた子をあやす事およそ五分の後。キリト君は泣き疲れたのか、小さな寝息と共に私の腕の中で眠ってしまっていた。

 

「仕方ないですよ。元々この子は疲れてましたから……きっと、ニシダさんに安心感を抱いたからだと思います」

「そうですか……」

 

 彼の付き添いらしい黒髪に軽装の少女シノンさんが優しく微笑みながら、こちらに近寄って来て、キリト君の頭を優しく撫でて言う。その表情はとても大切に想っている事がわかる表情だった。

 私と連れの間に子は生まれなかったが、知り合い連中の出産には幾度も立ち会い、赤子と子を抱く母親や父親を見て来たからこそ、その表情がその時の者達に似ていると分かった。

 キリト君が幼過ぎるが故か、彼女の思慕はどうやら若い人が抱く恋情から一つ先を行ってしまっているらしい。

 それくらいがキリト君には良いのかもしれない。あまりにも不憫に過ぎるキリト君には、それくらい大切に想ってくれる者がいる方がきっと喜ぶだろうし、安心するだろう。

 将来的に誰かと結婚する時に色々とありそうだが、しかしシノンさんとキリト君は姉弟では無いと言った。であれば、ひょっとすると既に恋仲という関係かもしれないし、そうでなくとも《ビーター》やら何やらで色々とある彼を慮っている事を知っているなら懇ろな関係になるのもそう遠い話では無いだろう。

 まぁ、その前にキリト君を取り巻く状況を何とかしなければならないという無理難題に近い問題があるが……あのデュエルの時に集まった面々の様子を見るに、彼は何も一人ぼっちという訳では無いようだから、静かに慎ましく生きていれば何れ幸せを掴めるかもしれない。

 出来る事ならそうあって欲しいものですと、そう思いながら私は華奢な少年を抱き上げた。

 

「さて……シノンさんは、キリト君が取っている宿をご存じで?」

「ええ、知ってます」

「では頼んで構いませんかな。恐らく私よりもあなたの方がいいでしょう」

「……? ええ、まぁ、最初からそのつもりですし……」

 

 私が何を指して言ったのか察せなかったらしい彼女は小首を傾げた後、若干不思議そうにしながら私が抱き上げるキリト君をひょいと背負ってみせた。そこまで背が高いという訳では無いものの、キリト君の方が小さいので少女と言えるシノンさんでも軽く背負えてしまうのだ。

 こんなに華奢な双肩に、この世界の事を背負わせ続けてしまっているとは……何とも歯痒く思ってしまう。私程度では力になれないと分かっているが、あのデスゲーム開始の日から研鑽を積んでいればあるいは、とも思わなくはない。途中で死んでしまっていたとは思うが、考えてしまうのはやめられない。

 

「じゃあ今日はこれで……お休みなさい、ニシダさん」

「ええ、お休みなさい。キリト君にもよろしく言っておいて下さい。我々釣りギルド一同、キリト君が変わらない限り常に味方です、辛くなったらまた来てくださいとも」

「了解です。きっとこの子も喜びます」

 

 優しく微笑みながらシノンさんが頷いて応じてきた後、彼女は東の《コラル》へ続く道を歩き始めた。

 その後ろ姿はどう見ても姉に背負われた幼い弟という構図で、とてもこの世界で悪名を轟かせる《ビーター》でも、攻略組でトップクラスと謳われる【黒の剣士】でも、そして出来損ないと蔑まれて傷付いている少年にも見えなかった。

 二人の後ろ姿が杉林の影によって見えなくなってから、私も西の《ペルカ》へ向けて、少年の慟哭を胸に刻みながら帰途に就いた。

 

 ***

 

「おかえり、遅かったね」

 

 午後十一時半。

 流石にヌシ釣りから宴会に流れたにしては遅過ぎないかと、マップを表示してのフレンド追跡で動きをじっと見ていたあたしは、漸く家に帰って来た二人を出迎えた。俗に言う仁王立ちである。

 第二十二層にアクティブなモンスターがポップしないからとは言え、どこにオレンジが潜んでいるか分からないのだし、流石にこんな遅くまで出ているのは非常識だから説教をする為にリビングで待っていたのだ。昨日今日と一緒にいたナンは既にキリトの寝室で、ストレアさんも何かあったら起こしてと言って先に寝ているが。

 流石に明かりを消していたリビングに人がいるとは思わなかったようで、明かりを点けたと同時に出迎えられたシノンさんは猫のように目を見開いて驚いていた。そこで声を上げなかったのは、流石は普段落ち着いている人だと言える。

 すぐさま説教をしようとしたのだが、シノンさんの肩から見える顔に気付いて、ぴたりと動きを止めてしまった。

 

「……キリト、寝てるの?」

「ええ。先にキリトをベッドに寝かせたいから、話はその後で良い?」

「分かった」

 

 普段気を張っているキリトが、よもや宴会で疲れたから寝たとは到底考えられない、彼は闘技場での疲労を押したまま激戦と言う激戦を経験して尚《圏内事件》を終息へと導いた立役者だ。その凄まじい精神力はまざまざと理解させられている。

 ただのヌシ釣りと宴会ではなかったのかと思いつつ、結構重要な話がある気がして、あたしは一も二も無く頷いてシノンさんが二階へ上がるのを見送った。キリトを休ませるためなら異論などあろう筈が無い。

 一分と経たずに降りて来たシノンさんを捕まえて、食卓に対面で座って話を聞いた。聞き終えると同時に一応危険は無かったようなので安堵の息を吐いた。

 流石に現実の調味料を振る舞って熱狂して長引いたのを聞けば、嫌でも遅くなった理由は理解させられる、この世界に囚われてずっと味わえなかったものを食べればそりゃあ熱狂するのも頷ける。ずっと料理を作り続けていた事もあって元々キリトも疲れていたらしい。

 ヌシ釣りやら何やらの真意を知って、認められたから泣き疲れて眠ってしまったと聞いた時は、思わず笑みを浮かべてしまった程だ。

 

「この世界にいる人全員がキリトを敵視してるのかと思ってたけど……キチンと見る人もいたんだね」

「みたいね……闘技場前で見せられたアレが全てなのかと思ってたわ」

「あたしも」

 

 以前から気になっていたが、キリトの《ビーター》による悪行――実際は悪く演じている事を更に悪く言っているだけの事――と【黒の剣士】による攻略で希望を齎す行為は、基本的に二者択一のものであり、決して一人の人間が同時に選べるものではない。あの子はそれを希望の異名と悪意の忌み名でもって実現しているが、本来ならそれは歪なのだ。

 歪な上に、矛盾している。しているが、決して矛盾しているとは思えないくらい絶妙な加減で周囲を騙している。

 自分の為なら容赦なくプレイヤーを殺す者で、PoHと同列に扱われている《ビーター》。

 なら、何故、同一人物である【黒の剣士】は逆にオレンジを抑える存在になっているのか。

 それ以前に《ビーター》の悪名はオレンジプレイヤーキラーとしても知れ渡っているという。

 これでは矛盾している。

 だが『自分の為なら』という部分が矛盾をさせていない。《ビーター》にとって邪魔だから消された、という意味であればグリーンであろうとオレンジであろうと関係無いからだ。

 【黒の剣士】に至っては《笑う棺桶》を壊滅させた時の事で、攻略組が邪魔と判断したならそれに従って容赦なく殺すという話になっている。そこから同一人物である為に《ビーター》も同じ扱いを受けている。

 この二つの呼び名は、それぞれ希望と悪意二つの感情を向けられていながら、それぞれが為した事態は混同されているのだ。その上で『人々からして善行』は【黒の剣士】に、『人々からして悪行』は《ビーター》がしたという事になっている。

 冷静になってみればこれらは分かる。分かるが、冷静に考えても訳が分からなくなるくらいグチャグチャになっていて、最早どれが真実なのかも分からない程に入り組んでいる。

 キリトから全てを聞いているあたしがこれなのだ、恐らく全く知らない人達からすれば全てを真と思うだろう。

 しかし広まっている話は事実ではあっても、その話に出て来る人々がどのような想いでそれを為したかの真実が語られていないが故に、勘違いを起こしてしまう。キリトは巧妙にその辺の情報操作を行っているのだ、《アインクラッド》随一にして最大の信頼と信用を向けられているアルゴさんが協力しているから本当に気付けない。

 だと言うのに、話に聞く釣りギルドの人達はそこを見抜いた。あの子が何重にも張った『《ビーター》は悪』という固定観念に囚われる事無く、キリト個人を見て、そして判断したのだ、彼は善なる者であると。

 アルゴさんの協力で本当に見抜けなくなっているからだろう、事情を全く知らないのに気付かれたからだろう……本当の自分を見付けてもらって、きっとあの子は感極まったのだ。なまじアキトとデュエルをした後だったからこそ、安心したのだと思う。

 シノンさんは、ニシダさんにキリトに欠落している父親の立場の人間が与える何かを重ねて、安心したのかもしれない、そう考えているらしい。

 確かにそれも真実だろう。

 

「……とは言え、内心複雑ね。あの兄のせいで苦しんでいると言ってもいいのに、そのデュエルがあったからキリトの理解者が増えた、というのは」

 

 しんみりとした空気を破るかのように、シノンさんはそう言った。あまりにもあまりな話に苦笑せざるを得ないが、確かにとあたしは首肯する。

 

「確かに業腹ですね。罷り間違ってもあんな人に感謝なんて抱きたくないし」

「本当よ……とは言え、あのデュエルからキリトを善と見たなら、あの男は悪と見られたという事だから、経験がある大人ならその真贋を見極められるという事でしょうね」

「あー……前にあの子を殺そうとしてた曲刀使いの人も、何か凄く複雑そうな面持ちで、距離を測りかねてる感じだったしねー……あの神童、あの子を貶めようとする度に墓穴掘るんじゃないかな」

「掘るなら掘るでドンドン掘らせればいいわよ。キリトが味わった苦しみの数百倍のものを受ければいいのよ、あんな奴」

 

 どうも相当溜め込んでいたらしいシノンさんは神童に対しての苛立ちを言葉と共に吐き出し始めた。多分キリトと一緒にいてあたし達と違って一つも零さなかったから、かなり溜め込んでいたのだろう。

 それに苦笑しながら、あたしはお茶を淹れてシノンさんと神童についての愚痴を言い合い、ヌシ釣りであったハプニングや宴会の様子、キリトと話した事を聞いていった。

 床に就いたのは、視界右上の数字が午前二時を過ぎた頃であった。

 

 






 はい、如何だったでしょうか。

 今回のお話は原作キリト&アスナがニシダさんとお別れする直前の会話ですね。アレにアレンジを加えております。覚えがある人もいたのではないでしょうか。

 リンドを始めとした誅殺隊の面々は若いので結構簡単にヘイト管理をされているものの、《ビーター》についてあまり知らなかったり偏見を持っていない人生経験を積んだ人なら、キリトが考え出した策を見抜けるんじゃないか……と思った事からこの展開になりました。

 ぶっちゃけ人を見る眼があったり偏見さえ無ければキリトの策は簡単に見抜けてしまう代物。だってキリトまだ子供ですから、流石に老練な人までは騙せないし、現に偏見が無いユウキ達に初見で《ビーター》が演技だと見抜かれてるし。

 キバオウの年齢は知りませんが、三十代いってなさそうな気がするんですよね……逆説的に人を見る眼が無いという事に。

 つまりニシダさんがキリトに自ら接触したのも、それ以前にアキトの試験場所を《ペルカ》にしたのも、当初はこの話を書くためだったりした(メタイ)

 では、次話にてお会いしましょう。


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