インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~ 作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス
どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。
今話は約二万二千文字、視点はオールリーファ。
前話のシノン視点で暈された部分も割と突っ込んで状況説明をリーファの地の文でしつつ、状況が進んでいきます。シノンの描写が少なめですが、リーファがかなり頭に来ているのと、キリトの事を案じている事で目が行ってないと解釈して下されば幸いです。
当然ながらオールシリアス。
そこを承知の上で(今更か)
※なお、今話の後書きは雰囲気ぶち壊しになるので特別にありません。今後の為に取っておきますので、ご了承ください。
ではどうぞ。
キバオウ配下のオレンジがあたしの手を使ってメニューを操作し、キリトへメッセージを送ったのが少し前の事。
隣で眠っていたシノンさんが目を覚ましたのが丁度十時になった時の事。
それから更に四半時――十五分――が経過した現在、あたしとシノンさんは麻痺毒が塗られた小剣を抜く事が出来ないので無力化されたまま、第一層外周部テラスの冷たい床の上で横になっていた。それ以外に出来る事が無かったからだ。
麻痺毒に罹ると、利き手に設定している方の腕――あたしの場合は右腕――と首から上が辛うじて動く程度で、それ以外の四肢は一切動かせなくなる。感覚すら乏しくなる辺りは正座して足が痺れた時の感覚に似ていた。
更に、利き手設定に関係なく、右手を振ってもメニューウィンドウを出せなくなる。
速度が足りないからか、あるいは元々設定だからなのかは分からないが、オレンジがあたしの手を取ってメニューを出せたところを見るに多分速度や腕の振りが弱いからなのだろう。
ダンジョンで麻痺毒に罹った場合の対処として腰のポーチに解痺結晶を入れるよう強く言われていたが、アレはこういう意味だったのだなと、麻痺毒を経験してから漸く理解した。言われてはいたのだが、やはり経験しているか否かでは大分理解度に差が出て来る。
――――コツ、コツ、コツ、コツ
そんな事を改めて再認識しつつ、どうにも出来なくて夜景と満月を眺めていたあたしの耳に一人分の足音が入って来た。
ゆったりと普通の速度からするに、恐らくキリトではない。そもそもたとえあたしを騙ったメッセージだとしてもこんな場所に呼び付けられては怪しいと思い、何となく事態を察して、足音を立てるなんて愚行は犯さないよう用心する筈だ。
チラリと、視線を足音が聞こえて来た方へ向ければ、薄暗い通路の奥から背の低いプレイヤーが姿を現した。カーソルの色は《圏内》から来たのもあって当然緑色だ。
その容貌は思った通りキリトからかけ離れたものだった。
とげとげの特徴的過ぎる形をした茶色の髪、黒緑色の鱗を使ったスケイルメイル、質素さが目立つが動き易そうな上下茶色の服、そして背に吊るされた普遍的な一本の片手剣。身長は男性にしては低い方で、あたしと並べば若干見下ろせる程度。
「あっ、キバオウさん、お疲れ様です!」
あたし達の見張りをしていたオレンジが、新たに来たプレイヤーの顔を見て、敬礼をしながら言う。
その言葉は目上の人間を敬う、あるいは媚び諂うようなもの。
そう、新たにこの場に訪れた男は、あたしとシノンさんを攫ってキリトを誘き寄せようと画策している者。《織斑一夏》を厭い、誅殺隊を率いてあの子を殺そうとし続けてきたというキバオウその人。
第二十二層で初めて顔を合わせた時、見た目だけだと流石に最初は分からなかったが、その特徴的な関西弁とキリトに対する悪意を聞いた事で名乗りを受ける前にこの男が件のキバオウという男なのだと察した。
その時、胸中に浮かんだものは複雑に過ぎたが、その大部分が怒りだったのはあたしの事を知る人なら容易く予想が付いていただろう。
まだ十歳に達していなかった幼い子供に全ての責任を押し付けて、それだけでなく《織斑一夏》としてのあの子を責め立て殺そうとしていた事は、その現場を見ていなかったあたしに嫌悪感を沸き立たせるに十分過ぎた。
《Kirito》という、今の《桐ヶ谷和人》の名前をもじってプレイヤーネームとしているあの子は、その由来から分かる通り意識としては《桐ヶ谷和人》だ。かつて楽しめなかった事を楽しみ、疎まれて蔑まれていた環境から抜け出せた、新たな名と共に生まれ変わった存在だった。
それなのに、この男の無責任な糾弾のせいであの子は《織斑一夏》であるとバラされた。
元ベータテスターとビギナー達の間にあった確執を消して協力し合えるように《ビーター》を名乗る決断を下したのは、恐らくそんな事態になる前の事だったのだろうが、流石にかつての忌み名を名乗る事になるとは思いもしなかった筈だ。
あるいは、キバオウが《織斑》一家が通っていた小学校の体育教師だった事に気付いていれば、ある程度予想は付いていたかもしれない。
とにかくあの子は、《ビーター》の忌み名に、もう捨てている《織斑一夏》の名も背負う羽目になった。
あの子が考えていた《ビーター》の役割を十全に発揮するというなら、ある意味これ以上は無い有効な手段ではあっただろう。現にあの子に向けられる悪意は途轍もないものになっている。
しかしメリットに反してデメリットやリスクが大き過ぎた。それどころかあの子にメリットはほぼ無いとすら言える。
確かに攻略に向けて人々が協力しやすい状況にはなっただろう、自殺する者は確かに減っただろう。かなり迂遠的且つ半ば強引な解釈をすれば、最前線攻略に従事しているキリトにとってもそれなりにメリットはあると言えるかもしれない。自殺者が増えたり攻略に積極的な者が少なければ全体的な士気は下がってしまうし、攻略組から死者が出た時に替えが利かなくなるから、そういう意味で考えれば良い事はある。
だがそれはあの子の立場としてのメリットであり、個人的なメリットが存在しない。
いや、むしろ立場としてのデメリットも大き過ぎると言える。常にソロを強いられ、親しい者と大っぴらに接する事も出来ず、気を張り詰め続けなければならない、更には自身が助けている者達から悪意を向けられる。常に最強でなければ攻略組からも排斥されてここぞとばかりに誅殺隊が動いていたに違いない。
個人的なデメリットはメリットが無い事とすら言えるだろう。碌に街中を歩く事も出来ず、滞在場所も秘匿しなければならず、最前線の攻略も常に一人でなければならない。
そんな生活を強いた者筆頭であるこの男に、あたしは嫌悪を抱いていた。今ではもう憎悪と言えるまでに強くなっている。
だからあたしはやって来た男を視界に収めた直後、自覚出来るくらい眉根を寄せて睨み付けていた。
それに気付いていないのか、あるいは敢えて無視しているのか、キバオウは挨拶したオレンジにジロリと視線を向ける。
「メッセージで指示した通りに、あの屑に此処へ来るよう送ったんやろな」
「バッチリです! でも、来られるんですかね。数時間前のシステムバグで転移門が動かなくなってるし……」
「正確には第七十六層に行った連中がそれより下に戻れないんや」
オレンジとキバオウの会話を聞いて、そんな事になっているのかとあたしは胸中で驚愕した。
第七十五層で見送ってから第二十二層に転移したので、そのシステムバグとやらは恐らくそれより後に起こったのだろう。話を聞く限りでは、どうやら新たに開かれた街から戻れないという状態のようだ。
逆説的に攻略組は無事に第三クォーターボスを討伐し、突破したという事。誰か死んだのかもしれないし、それはもしかしたらあたしの知り合いかもしれない、出来る事なら誰も死んでいなければいいと思う。
まぁ、システムが動かすだけのボス相手にSAO最強であるキリトが負けるとも思えないので、多分キリトは生き残っているだろう。
「それにしても、あの神童が負けるとは思いませんでしたね」
そう考えていると、ふと気になる内容が耳に入って来た。思わず意識をそちらに向けて耳を傾けてしまう。
視線を向けると、キバオウが腕を組んで頷いていたところだった。
「まったくや。前のデュエルん時には出さなかった『奥の手』っちゅうのを出すとか言っとったが、それでも負けるなんてな」
「勝率を上げる為にオレンジを二レイド分率いて、更にボス戦で疲労した後を狙ったんでしょう? それなのに勝ったって……」
どうやらあの神童、キリトを殺す為かそれ以外の目的故かは知らないが、どうも第三クォーターボスの偵察へと向かった攻略組へ吶喊を仕掛けたようだった。
しかも二レイド分のオレンジという事は、以前リズさん達が攫われた時に相手した人数が揃っているという事。
デュエルの時には見せなかった手札を切った神童とそんなバカげた数のオレンジまでもが揃っているだけでなく、更にはボス戦の疲労があり、護るべき仲間がいるという状況ですら神童が負けたという事実に、あたしは内心で歓喜した。
まず間違いなく神童と刃を交えたのはあの子だろう。後でユウキさんに聞いたが、あの神童の速さには自分でも敵わないと言っていたから、まず間違いない。
……神童やオレンジ達を殺したのかが、気掛かりだ。
「俺達、そんな《ビーター》に勝てるんですかねぇ……」
「アホ、その為にこいつ等を人質にしたんやないか。流石のあのガキも人質取られてたら動くに動けん筈や、特に自分を拾った身内ともなれば尚更な。肝心なのは『勝つ』んやない、『殺す』事なんや」
――――キバオウの言う通り、キリトの敗北は『勝負で負ける事』では無く、『自身が死ぬ事』あるいは『リーファかシノンどちらかの死亡』。
そしてキバオウ達にとってキリトに勝利する事は『キリトを殺す事』あるいは『リーファかシノンどちらかを殺す事』。
まぁ、敵対する者同士の勝利条件と敗北条件が一致するのは珍しい事では無いが、内容が内容だ。更にキリトにとっての敗北条件の三つの内、二つもが相手の手中にある。その気になればキバオウはあたし達をテラスから投げ捨てる事も出来るし、逆にそれを盾にして、キリトに自害を迫る事だって可能。
必然、キリトがキバオウを退け且つあたし達を助けるには、奇襲しか無いだろう。
そうあたしが考え、オレンジのプレイヤーとキバオウが何か話し合っている間にも、次々とその手下らしき男達が姿を見せる。
――――その男達を見て、ザワリと、あたしの胸の裡がざわついた。
キバオウに向ける憎悪と種類は別種ながら似通っている負の感情は、殺意。
ただし、キバオウに向けているものとは別の意味を持つ。
あの男に向けているのは義弟を殺そうとした事に対しての怒りであり殺意。ただこの男は攻略組として戦っていた、その一点に関してあたしは尊敬に値するとは思っている。死ぬ危険性を考慮した上で敢えて剣を取ったのも、キリトに理不尽な怒りを向けている根源も、大本は右往左往していた人達の為だったのだから、それを否定するつもりは一切ない。
まぁ、それで許す筈も無いが。
対して、後からゾロゾロとやって来た男達に抱いた負の感情もまた、殺意。
理由は一つ。あたし達を麻痺毒で無力化し攫ってからの数時間、女として弄んできた事に尽きた。
常々思ってはいたが、この世界は現実世界よりも娯楽に乏しい。当然だ、元々この世界自体が娯楽なのであり、それが現実世界と逆転する事が本来あり得る筈が無かった。こちらで現実と同等の娯楽を作ってしまえば、こちらに入り浸る者が多くなり、自然現実での生活を蔑ろにする者が続出するのは目に見えている事。
実際、社会問題の一つとして廃人プレイヤーがフルダイブを続けた事で、栄養失調となって死亡しているという話が結構前から上がっていた。
フルダイブ中も空腹になるが、それを仮想世界の食事で誤魔化す事が可能だからだ。また、ほんの少しだけログアウトして、固形の栄養補給食など必要な栄養素だけを摂取した後即座に戻るといった不健康な食生活を送る事で、少しでもフルダイブを続けようとする者が続出した。
その末に栄養失調、あるいは一度もログアウトしなかった事による餓死者が続出した。確か夏場は脱水症状による昏倒、そして死亡へと続いた者もいた筈だ。
《ナーヴギア》あるいは《アミュスフィア》によるフルダイブゲームが黎明期となってから――SAOから爆発的に上昇したので――およそ二年が経つが、それでも年に万単位の死者が出たという事で、VRMMOを運営する方でも何か対策を取るべきという話が上がっていた。
この二年ほどで新たに立ち上がった企業は数知れず。VRMMO専門、あるいはそれに類する電子機器製造の企業、また元々IS関連で立ち上がっていた企業が更に着手した場合などパターンは尽きないが、そういった企業があの手この手で対策を立てようとしているという話も聞いた事がある。
一番有力なのは、一日のフルダイブ時間の制限を、プレイヤーによる自主的なものではなく運営側が掛ける事で、結果的に死者を減らそうというもの。原則的に平日は一日八時間、休日は一日十二時間のフルダイブ制限が妥当ではないか、と審議されているという。
ただしそれは全てのゲームでは無く、ある企業が運営しようと考えているゲームにのみ課される制約、謂わばそのVRMMORPGのルールのようなものだが。
閑話休題。
そんな娯楽に乏しい仮想世界で満たせる欲は、人間の三大欲求の内の《睡眠欲》と《食欲》だけ。それらは普通に享受するものだからこそ人間は娯楽を求める。
だからこそ、きっと人の三大欲求の中には《性欲》もあるのだろう。種の存続として外してはならないが、無くても普段の生活を送れるこの欲を満たす事は、必要無くても満たせば相応の悦びを得られるからこそ、人はそれに狂う時もある。
そのはけ口にされる方としては堪ったものではない。麻痺毒で碌な抵抗が出来ないからと好き勝手してくれた礼をその首と腰のモノで返してやりたいところだ。
「……くそっ……」
誰にも聞こえない程度で、音にもなっていないくらい細やかな息遣いで、毒を吐く。内心では苛立ちと共に舌打ちを打っていた。
心に口なんて無いから舌を打つなんて事は出来ないと思うが、そう表現したくなるくらい、今のあたしは苛立っていた。本当ならアバターの口で罵詈雑言をぶつけてやりたいくらいだが、それをしてまたはけ口にされては困る。
それをした時、あたしだけならまだいいが、それをしていないシノンさんまでもが襲われたら申し訳ないどころでは無い。
故にあたしは誰にも聞こえない程度で悪罵を囁き、心で舌を打ち、胸中で罵詈雑言を吐くくらいしか出来ない。嵐が去るのを待つしかないのだ。
そんな無力感が、苛立ちの半分を占めている。
それが嫌で、キバオウ達を見るのが、後からやって来てあたし達に近付いて来る者達のにやにやとした顔を見る事にすら生理的な嫌悪を覚えて、視線を横から上へと向けた。浮遊城の外、第二層の天蓋が届いていないテラスの空、外の夜景へと。
きらきらと弱々しく瞬く星々と、煌々と強く輝く蒼の満月。
――――そんな美しい夜景に紛れた、一つの『黒』があった。
それは遠くに輝く月よりも小さい。
それは儚く矮小に過ぎる。
そんな小ささで何が出来るのかというくらい、それは小さかった。
未だあたし以外の誰も気付かないくらい、それは小さかった。
けれど、それは直後、場を凍り付かせた。
およそ数百メートルの上空から第一層の外周部テラスへと一直線に落下している『黒』は、左腕に持つ一本の長い何かを眼前に突き出し、右手で何かを引いた。そして右手に握る細長いものが、秒間五つ以上という恐ろしい速度で放たれ、超高速で飛来してくる。
それらが『黒』から放たれてから一秒の後、十五の凶器が、容赦なくあたしとシノンさんに近付いて来た男達の頭に同時とすら思える速度で次々と突き立った。
それを見て頭上に凶器を突き立てられた者以外から上がる驚愕の声。
そして凶器の威力と速度が途轍もないからか頭から股下まで貫通した男達は、何が起こっているか分からないという顔のまま、不協和音を次々と奏でながらポリゴン片へと爆散する。
たった一撃で呆気なく人が死んでいく様を、しかし決して人の死に方ではないこの世界での死亡現象を、たった一瞬で十五度見た。
「な、何やッ?!」
ゾロゾロと数だけは多いグリーンの部下達の内、その三分の二が一瞬にして死んだ事態に、事の経緯を把握していないキバオウが驚愕の声を上げる。当然だ、キバオウの視線は地上へ向けられているが、攻撃した存在は上の空から降ってきているのだから。
十五人の死者を一瞬で出した者を本来なら懼れるべきだろう。殺人を厭わない精神性を蔑み、恐怖するべきなのだろう。
けれど、今の自分の胸中に広がる感情は、安堵だった。自分に対する僅かな苛立ちも沸き立ったが、それ以上に安堵があった。
人が恐怖するだろう『黒』は、あたしにとって何にも代えがたい、あの子の色だから。
男達を殺した凶器の存在もあたしは理解していた。あの連写速度みは流石に驚かされたが、アレは弓に違いない、シノンさんとタッグで戦闘訓練を積んでいるから誰よりもそれを見て来たあたしはそれを確かに見て取っていた。
男達の体が爆散し、蒼の欠片が空へと散る中で、カラカラン、と連続して立った軽快な乾いた音がその証。合計十五本あるそれは綺麗な矢だ。
弓矢を扱うスキルを持つのは、あたしが知る限り、シノンさんを除けばあの子だけ。
黒を自ら纏った者は、この浮遊城広しと言えど、あの子だけ。
キバオウ達が困惑し、シノンさんもまた動揺している間にも、空にある小さな『黒』はドンドン近付いてきている。それに合わせて、小さかったその姿も僅かずつ大きくなっていき……――――
――――紫の光を纏った剣を地面に突き立てる形で着地した。
ざわめきの中唐突に響き渡る着地の轟音、闇夜を斬り裂くように迸る紫電の極光、雷鳴の如く轟く爆音。地を這う紫電は着地した『黒』の近くにいた男数人を吹っ飛ばし、その体を毒蛇の如く舐め回し、一撃で命を削り切って欠片へと散らせる。
《片手剣》中位ソードスキルの中で、空中専用の対地上技《ライトニング・フォール》。
確率でスタンを付与する事を目的としたソードスキルであるため、威力はそこまで高くないこのソードスキルの衝撃波だけを受けたにも拘わらず一撃死が起こったのは、単純にその使い手が並みのステータスでは無いから。あとはバックアタックや落下速度を攻撃力へと変換する特徴をソードスキルが持っていたからだ。
きっと表向き最高レベルの聖騎士でも表向き片手剣使い最強の女剣士でも叩き出せないであろうダメージ量を出したのは、『黒』を纏った一人の子供。
凍り付いた場を支配している、ただこの場で唯一身動き出来る『黒』は、突き立てている黒い剣を右手で抜き取る。特徴的ではない、ただただ普遍的な西洋剣の鍔を持つ、けれどどこか畏怖を覚えさせる黒に染め上げられた直剣を、『黒』は肩に担いだ。
そして俯けられていた顔が上げられる。
前髪で隠れて見えなかった顔が、見えた。
「……」
キバオウと他数人の男達を、ただ無言のまま、黒の双眸で睨み付けていた。
*
「な……なんちゅう方法で来てんのや……?! 正気かワレェッ?!」
二十人近い男達を纏めて殺した『黒』が支配する空間で、最も最初に行動を起こしたのはキバオウだった。胆力があると言うべきか、それとも恐れ知らずと言うべきか、男は正気を疑うと言って『黒』を糾弾する。
それに『黒』はゆっくりと小首を傾げた。はらり、と黒髪が揺れる。
「そんなコト、どうでもイい」
本当にどうでもいいと思っているのだろう。普通のプレイヤーなら落下死を恐れて絶対に取らないであろう手段で第一層へとやって来た『黒』は、感情が籠っていない黒い瞳をキバオウ達に向けた。
次に、その近くで転がっているあたしとシノンさんに向けられる。
そして、あたし達の姿を捉えた直後、その瞳から光が消えた。
あの子の感情が自分に向けられている訳でも無いのにその瞳を見ただけでゾッとした。
キバオウ達は、無意識なのだろうがあの子の逆鱗を踏み抜き続けたのだ。
自己よりも他者を優先する精神性のキリトだからこそ、他者を狙う者には、モルテ達を殺したように容赦が無い。
またこの場所も悪い。この場所は《月夜の黒猫団》のリーダーが呪詛を残して飛び降り自殺をした場所、謂わばキリトにとってトラウマの地であり、あたし達を殺す手段の一つとして空へ落とす可能性が入る以上はそれを全力で防ごうとする。
そして狙ったのがあたし達というのも悪い。
あたしはあの子の義姉だし、シノンさんは戦い方を教わっているから弟子に当たる、両方がこの世界で生きていくための力が無いから力添えをしてくれている。
今の状況は、《月夜の黒猫団》に力を貸して、そして全てが喪われた時と似通っている。人数やこの状況を招いた思惑に差異はあれど大まかにはキリトにあったあの過去と似ているのだ。
キリトのトラウマの一つ、その条件を対象、立場、場所の全てが揃ってしまっていた。
光が無く、感情も込められていない、けれどハッキリと殺意に満ちているその眼。それはきっと、自身が護る存在を脅かされた――傷付けられた――事に対するキバオウ達への怒りであり、そして自分自身への苛立ち故か。
だから、その眼も、言葉も、こちらに向けられた訳では無い。
けれど彼から発せられている何かが恐怖を煽って来ていた。
体の奥から湧き上がって来る、原始的な恐怖。
体を端から凍えさせていくそれはきっと――――死の気配。
――――ころす
再度、キバオウ達に視線が戻されたと同時に放たれた、三つの音。
「ぐあっ?!」
「ッ……?!」
それを知覚した時には、もう『黒』の姿は消えていて、気付けば敵対している男の一人に背後から斬り掛かっていた。煙りすら見えない程の移動速度は四倍速の神童の剣以上。あの時よりも確実に速くなっていた。
これでもあたしは剣道で全国大会まで行った身で、有段者でもある。ALOをプレイしていく中で友人からリアルチートとか言われる程度には反応速度だって抜群だ。
それなのに一切見えなかった事に驚愕。
そして、やはり一撃でグリーンの男が全損した事に、今更ながらに愕然とした。
バックアタックのダメージ倍率が掛かっていたという差異はあるが、彼の剣を受けたという事実は目の前の男も、そして彼とデュエルをした神童も同じ。
けれど神童の場合は生き残り、男は死んだ。
二人のレベルをあたしは知らないが、元攻略組として戦っていたキバオウの配下だ、少なくとも最前線で通用する程度はあった筈。そして攻略組へ参戦する意思を示していた神童も同じ程度ではあるだろう。
それなら彼の一撃を受けたとしてもその結果も同じでなければおかしい。装備によって多少変わりはするだろうが、それは本当に多少でしかない。
それなのに名も知らぬグリーンの男は一撃で全損し、神童は死ぬ可能性すら見いだせないくらい余裕で生き残ったのは、おかしいのではないだろうか。あの子が加減していたとは思えない、死なないよう配慮していたにせよ、あの時のあの子がそこまで気を配れたかは甚だ疑問だ。
それ以前に気持ちどうこうでダメージは変わらない。ここはあくまで《ソードアート・オンライン》という仮想世界の中で全てにシステムコードが適用される以上、ダメージの算出にはステータスが用いられるのだ、斬り方はともかくステータスの加減は原則プレイヤーに許されていない。
あたしと同じようにALOから来たならそのレベルは30前後から始まった筈なのに、短期間で攻略組に追い付く程のレベリングを成し遂げた神童に、キバオウ配下のプレイヤーがレベルで劣るとは思えない。マージンというものがあるように、攻略に出るプレイヤーは誰もが最低限そのマージンを取っている筈だから、上げたばかりの神童より低い筈が無い。
それともあたしのこの推測は根底から間違っているのだろうか。才能に溢れる神童が、場合によっては誰かに劣るという、その思考が。
あり得ない、と断じる。それはあのデュエルの時、あの子自身が結果として証明して見せた、神童が誇る最速の八連撃を上回る九連撃で打ち破ったのだ。全てに於いて優るなどあり得る筈がない。
――――とは言え、こんな短期間で強くなる筈が無い、というのはあの子にも当て嵌まる。
いや、むしろあの子以上に当て嵌まる者は居ないだろう。
織斑千冬がどう思っていたかは知らないが、あの子は神童から何度も『出来損ない』と言われているように、素の才能そのものは壊滅的。あたしとの鍛錬が功を奏したか下地になる部分は多少出来ていたようで、この世界で強者と言えるレベルの成長をしているが、それはあくまで長期的な努力と経験の賜物。
才能とは、ゲーム風に言えば『経験値の倍率』とでも言えばいい。
才能が壊滅的なあの子とて成長自体はあった。ただそれが人より遅いだけであって成長しない事は無かった、一度に得られる経験が人より少ないから遅いのであり、得られない訳ではないから当然だ。
才能が無いという事は倍率が掛かっていないという事。そのため、他プレイヤーのレベルに至るには、あの子は人の数倍、数十倍の時間を、あるいは数倍、数十倍の密度の努力を注ぎ込まなければならない。不向きな事に馴れるのに時間が掛かったり努力を要するのと理屈は同じだ。
つまりあの子の場合、密度の濃い経験を、長い時間を掛けて得なければならなかった。
あの子が強者足り得ているのは、敢えて踏んだポッピングトラップを含む戦闘という他より密度の濃い経験、迷宮区での情報を全て一人で収集する経験、そしてあたしとの鍛錬から始まった長い修練の時間があったから。
逆に言えば、やはりあの子がこの短期間で急激に強くなる事は、道理に合わない。
ダメージに関してはまだいい。疑問には思うが、あくまでそこは数値的な計算値によって弾き出された変えようも無い事実、ロジックとして既に成立しているものだから疑問があるだけで文句はない。
だが、『黒』――――愛する義弟の、この短期間での成長には疑問どころでは無い、最早異常の領域だ。
数値が全てを決めるこの仮想世界では、レベルが幾つも上がるとか、新調した装備で補正が増えたとか、そういったものくらいしかアバターの動きが急激に変わる事は無い。ALOなら魔法によるバフもあるだろうが、このSAOではそれくらいしか無い。
あのデュエルから今日まで、確かにあの子は最前線で戦っていた。
けれどレベルは上がったとしても良くて一つがいい所で、装備なんてデュエルの時から変わっていないから新調も何もない。つまり数値的な変化は起こっていないという事……
――――いや、変わっているものが一つあった。
それは剣。
幾度も見て来たあの子の剣は、鍔が機械のギアを思わせるような形状をしていて、刀身は黒いが刃は白いというものだった。銘をエリュシデータ、第五十層で入手したというユニーク品。最大強化すれば第七十五層が最前線になっても通用する程の性能を誇る、リズさん曰く、魔剣と称されし剣。
それを手に入れてからはずっと愛用していたというが、今のあの子が手にしている剣は、エリュシデータでは無かった。
左右に突き出た普遍的な鍔を有し、刃すらもが黒く、黒曜石の如き光沢と硬質な色合いを帯びた刃と鍔が一体化している真に黒一色の剣。見れば見る程に引き込まれそうな程の美麗な色合いをしている黒き剣は、しかしその感慨に反し、畏怖を抱かせる。
正に魔剣と称するべきなのはこれの事、と思わずにはいられない程の偉容を持っていた。
ならばそれが、あの子に強化を齎した要因か。
否、とあたしは断ずる。それはあの子を鍛えた師としてではなく同じVRMMOプレイヤーという観点からの決だった。
SAOは根本的な部分でALOに酷似した世界。魔法的要素が極限まで排されているか否かという違いこそあるが、装備やスキルの扱いそのものはその大部分で似通っている。
剣がプレイヤーのステータスに影響を与える事はあるだろうが、流石に常軌を逸する程では無いのは明白。
それがあるにしてももっと上の階層で手に入るべき代物だ、現時点で手に入るのは流石におかしい。ゲームで例えればまだ中盤後半といったところだからまだ早い。魔剣と思ったのは比喩でしかない。
大抵の剣に付与されている効果はその大半が特定の敵への特攻、あるいはクリティカルダメージの上昇や一部ステータスを微量上昇させる程度。仮に上昇項目が敏捷値やAGIだとしても急激に速度を上げる事は現実的では無い。流石にそれだけで通常の数倍の速さを出せる筈が無い。
で、あるならば。
この短期間で、異常な強さを今見せているあの子に変化を齎すとすれば、それは。
――――常に変化し続け、移ろい、揺蕩う、感情なのか。
――――それほどに、それほどに人を殺したいと願っているのか、あの子は。
――――なら……ならばそれは、そうなる状況にしてしまった、不甲斐ない自分の……
「嘘だ……っ」
そこまでを一秒にも満たない時間で纏めていたあたしの耳朶を、悲壮な声が打った。
それは一秒前に、突如姿を消して背後に現れたあの子の一刀に斬られた男のもの。全快だったHPゲージも右から左へと減少し、既に全損した事で消え失せている男は、その表情を恐怖に歪めていた。
その顔は何よりも雄弁に語っていた。死にたくない、と。
「死にたく、な――――」
――――男が口に出来た言葉は、そこまでだった
アバターの爆散が全損から何秒後に起こるかは知らないが、それでも早める事は可能なのだろう、袈裟掛けに剣を振り下ろした姿勢で固まっていたキリトが返す刃で真上に振り上げた事で男は左右に断たれた。
言葉を発せなくなったのは、口や喉を割られたからだ。
左右に断たれたアバターは即座に蒼い欠片へと爆散する。
蒼い欠片というそのカーテンの向こうから、黒尽くめの子供が、鋭い双眸を向けて来ていた。あたしとシノンさんの位置を把握し、そして、殺すべき敵の存在を把握し、瞬時に取るべき手段を無数に上げ、最適な選択を思案していた。
「こンガキがァ……ッ!」
同時、これまで驚愕で動けていなかった中で最初に動き出したのは、元と言えど攻略組として数多の戦いを潜り抜けて来た一人のキバオウ。
キバオウは背に吊る剣を抜く事も無く、悪態を吐きながら、大急ぎで地に倒れたままのあたしとシノンさんへと駆け出していた。悪態はあの子に向けられているのに近付く方向があたし達とはどういう事なのだろうかと思った。
が、それも一瞬の事。あたしがいる場所を思い出して即座に理解した。
麻痺毒で無力化されているあたしとシノンさんは、第一層外周部テラスという危険地帯の、更に危険な場所にいる。数メートル離れてはいるが、あたし達が放置されている場所はテラスの柵の近くなのだ。多少の労力は必要だろうがその気になれば柵の隙間を縫って落とすくらいは簡単だろう。
柵は高さ一メートル、その中程に仕切りの横棒が一本あり、一枠の幅が五十センチという普遍的且つ割と危険な代物。麻痺毒で抵抗出来ないあたし達では、キバオウ達が蹴りでもすれば容易に空へと放り出されるくらいだ。
それを利用してキバオウは脅しを掛けるつもりなのだ。自害するか、拒否してキバオウ達を殺すのと引き換えにあたし達を見殺しにするか。
仮に自害を選んだとしてもあたし達は殺されるか慰みものにされるだろうし、どちらにせよ、あたし達は助からないだろう。
「キサマ……ッ!」
キバオウが駆け出した時は目を眇めて訝しんでいたキリトも、その先にあたし達が居ると一瞬で思い至ったようで、何時もよりも格段に低い声音で怨嗟の言葉が発せられた。
それと同時にキリトは姿勢を低くし、獣の如き俊敏さを以て駆け出そうとした。
「させるかぁッ!」
「行かせるかよぉッ!」
キバオウの行動、ないし策が最後の砦と考えたのか、男達は咄嗟に腰から吊る剣を抜いて立ちはだかった。キリトからキバオウへの直線状に立ちはだかる事で少しでも時間を稼ごうとしたのだ。
あたしとシノンさんどちらかを外周部から落とすまでの時間を稼げば、この男達にとっては、ある意味勝利したも同然だから。
死にたくないと思っているクセに、それなのに自ら死にに行くも同然の行為を肯定して行動するとは何を考えているのかと、本気で訳が分からなかった。
「ジャマ、だァッ!!!」
瞬時に移動出来るキリトも、その速さのまま敵を斬り抜ける事は叶わない。男達はそのアバターが爆散するまでキリトを通さない肉壁となるからだ。
なのでキリトは、神童の武器だった筈の白剣を左手に呼び出し、右手の黒剣と合わせて振るって排除していた。一太刀目で斬り殺し、二太刀目でアバターを即座に爆散させる斬撃を叩き込む。それで漸く一人が排除される。
「「「「「おおおおおおおおおおおおおッ!!!」」」」」
しかし、残るキバオウの配下は五人いた。それぞれが横に並んでキリトを阻んでいる。誰が欠けても即座に補える為の陣形だった。
一人を瞬時に屠るにしても二太刀入れなければならず、一秒ほど掛けなければならない以上、とてもでは無いがキバオウがあたし達の許へ来る前に全員排除するというのは現実的とは言えない。
「チィ……ッ!」
だからか、キリトは二刀を消してすぐに紫色の長槍を取り出した。両手に一本の長槍を取り出し――――
――――残り五本は、目の前で横に並ぶ五人を縦に貫くように出現した。
「「「「「ごぇあッ?!」」」」」
「な……んやと?!」
「「……ッ?!」」
槍に貫かれた五人は、喉すらも貫かれているから碌な悲鳴を上げる事が出来る筈も無く、びくんっと体を震わせていた。
キリトのイメージによって槍が宙に浮くようにされているから、体に埋め込まれるように貫かれている男達は倒れる事も許されず、貫通属性による継続ダメージでジワジワとHPが減っていくばかり。全身を貫かれている事もあってか、既にそのHPも危険域まで減っていた。
そしてキリトは大振りに長槍を右に薙ぎ、ゴミを払いのけるように男達を吹っ飛ばした。その一撃がトドメとなって男達のHPゲージが揃って空になり、体が青白く光り始める。
それに見向きもせず、キリトはただ、光の無い黒くなっただけの瞳をキバオウへ向けていた。見開かれている目はむしろ恐怖を煽って来る。
「この……ッ!」
「きゃ……?!」
「く……!」
そこで、驚愕しながらも走り続けていたキバオウが、あたしとシノンさんの許に辿り着いた。シノンさんの紅い襟巻とあたしの一つ括りにしている髪を掴む事で、乱暴にあたし達を引き摺り始めた。
その方向は、予想通りテラスと空を隔てる柵。
「オラァッ!!!」
ここは現実では無い。現実では本来なら出来ないであろう事すらもステータスが高ければ可能としてしまう仮想世界だ。
そしてキバオウは元と言えども最前線でボスと戦い続けていた攻略組の一員であり、そのレベルとステータスは、今も十分最前線で通用する程だろう。
だからキバオウは、わざわざ柵まで走り寄らなくても、あたし達を掴んだ時点で勝ったも同然だった。ステータスが高ければさっきのキリトのように超人の如き現象を起こせるのだから、片腕で人を放り投げる事など造作も無かったのだ。
「させるかァ……ッ!!!」
それに気付いたキリトは、そうはさせまいと手に持った長槍をクルリと回して逆手に持ち直し、即座に投擲する。
しかし超高速で迫るそれよりも一瞬早く、キバオウはあたしとシノンさんを同時に、柵の向こう側へと放り投げていた。
それから槍がキバオウの体を貫き、瞬時に、かつてゴブリンにしたように荒れ狂う風が爆発し、男のアバターを爆散させた。
HPを全損させてから一撃加えて爆散させるよりも遥かに速いそれは、以前見た時よりも、圧倒的に速い一撃となっていた。風の収斂と開放の動作が、一つ一つの時間の掛かる工程から、瞬時に終える一連の動作へと昇華されていた。
「しのん……ッ! りー、ねェ……ッ!!!」
蒼い欠片が散る中から姿を見せたキリトは泣きそうな顔になっていた。その顔に、様子に、一瞬前まであったドス黒い憎悪は見て取れない。
手に持っていた武器も無く、床に落ちた槍も拾わず、ただ一目散に宙に放り出されたあたし達へと、届かないと分かっているだろうに手を伸ばす。まだ柵を超えたばかりで、あるいは届いたかもしれない距離だった。
それに希望を見出して、あたしとシノンさんも、麻痺の中でもどうにか動かせる右手を伸ばした。
それでも、あの子の指先が触れただけで、掴むには至らず、僅かに指先が触れ合っただけで空を切る。
「あ、あ、ぁぁ……っ?」
遠ざかる、義弟の顔。
くしゃりと歪む、愛する子の顔。
震え始める小さな体。
光が失せた瞳から零れた、月光に煌めく大粒の雫。
それらをゆっくりと見たあたしは、何とも言えない気持ちに囚われた。
この子を哀しませる事に対する自身への怒りと苛立ち、そして哀しみ、義弟に対する申し訳なさ。
そして泣くほどまでに想われているという事実に対する、場違いに過ぎる、大きな喜び。その顔を見ただけで、姿を見ただけで、姉としては報われた。血の繋がりも無い、本当であれば泣く必要すら無いであろう赤の他人なのに、それでも、泣いてくれた事に喜んでしまった。
ああ、どうしようも無いと、自身に悪罵を吐く。
自分は今日死ぬ。覆し様も無い、確固とした未来であり、これから過去の事実となろうとしている。
《アミュスフィア》だから、《ナーヴギア》のように、かつてこの目で見た人と同じように死ぬかは分からないが、少なくともSAOからこの身は消えるだろう。死んでALOに戻るか、現実に戻るかは定かでは無いし、現実で生きれたとしても脳などに何らダメージが無い状態かは分からない。むしろ後遺症が残るという中途半端に生きる可能性が大きいだろう。
――――それでも……これで、良いんだ。
死ぬのは、恐い。
けれど、あたしとしては、キリトが死ぬ事の方が恐かった。その一因となってしまう方が嫌だった。
シノンさんはどうか分からないけれど、もう助からないと分かった現状で、共に宙へ放り出された彼女はとても悲し気に微笑んでいた。ただ泣き喚く訳でも無く、泣いていながら微笑んでいるのは、きっとあたしと同じ心境だからだろう。
あたしもシノンさんも、キリトの命が喪われる事の方が恐ろしかったのだ。
けれどこれはある意味順当な結果だろう。シノンさんはどうか知らないが、あたしは元々この世界にとって異物だった、本来ならいる筈も無い存在だったのだ。むしろこの世界に来て、あの子の心を癒し支えられた、あの子のしてきた事を知れただけでも僥倖だろう。
悔いがあるとすれば結局碌に力になれなかった事。
心残りがあるとすれば、あの子を傷付かせたままにしてしまう事だろうか。
キバオウ達が画策したと言えど、元を辿ればキリトが原因と言えなくもないだろう今回の件。あたし達が死んだ事を自分のせいと責めるのは想像に難くない。
それは違うと言いたかった。あたし達が無防備だったから、碌に力を持っていないままその危険性を度外視して一緒に居たから、今回こんな事になったのだ。だからこれは自業自得なのだと、そう言いたかった。
けれどもう、それを伝える事は出来ない。現実で死ぬかはまだ分からないが、この世界から退場する以上、これをあの子に伝える事は永劫叶わない。
――――ごめんね、キリト……ダメなお姉ちゃんで……
願わくば、これで自ら死ぬ道に走る真似はしないで欲しい。もっと生きて欲しい。
「シなせて――――たまるかァッ!!!」
それなのに、あの子は、アッサリと柵を飛び越えて来た。
「な……ッ」
「キリトッ?! バカッ、何で……!」
隣で墜ちるシノンさんが、麻痺毒の状態でも出せる最大限の声で悪態を吐く。
あたしもまったく同感だった。
自分が死ぬ事に対して涙を見せた事に喜びを覚えてしまったあたしが言うべきでは無いかもしれないが、それでもその行動は、とても喜べるものではなかった。大切と思ってくれたという事だし、それだけの行動をするだけ想ってくれている事が分かるから嬉しいが、とても喜べたものではない。
「何で、何で来たのッ?! キリトは、あなたは【黒の剣士】でしょう……?! 人々の希望を背負った、この世界を導く剣士なんでしょう?! 来ちゃ、ダメでしょう……ッ!」
今出せる限界まで声を出して、とんでもない行動を取った義弟を弾劾した。
【黒の剣士】は、人々の希望を背負っている二つ名だ。ただ強い者に与えられる二つ名とは一線を画す、一人で最前線を戦い抜き、ボスすらも倒せてしまう者に掛けられた、最後の砦とも言い代えられる最後の希望を示す、特別な二つ名。
それを背負っている者なのだ。であれば、あたしとシノンさんが死ぬからと言って、自身も死ぬ選択を取ってはならない筈なのだ。
その行動は、全ての人々の信頼を裏切る、最低な行動なのだ。
その意志は、過去の自身の信念を裏切る、最悪な意志なのだ。
――――護りたいと、助けたいと、死にたくないと、そう言っていたのに……ッ!
「あなたが、自分から死ぬ決断をしたら、ダメでしょうッ!!!」
ごうごうと、落下していく中で耳朶を打つ風の音を吹き飛ばす程の声を、麻痺毒であるのを無視して、口から発する。
叱ってやる。
恐らくは今生最後となるであろう叱責を、心を鬼にして与えてやる。攫われた事はあたし達の責任だが、こればかりはこの子が悪いのだから。
「パラライズキュアッ!」
それでもキリトは、腰のポーチから取り出した黄色に輝く六面柱結晶体の解痺結晶を翳して、シノンさんの麻痺を解いた。
同じように、あたしの麻痺毒も解く。
「莫迦ッ!!!」
麻痺が解けて四肢に力と感覚が戻った直後、あらん限りの力を籠めて、右手で頬を張り飛ばす。ぱぁんっ、と乾いた音が耳朶を打った。
それでも、キリトは顔を背けなかった。頬を張り飛ばされても硬い意志があるとばかりに首を動かさず、未だに光が失せている瞳で、あたしとシノンさんを射抜いて来る。叱責を受ける事も覚悟してこの行動を取ったのだと、理解させられた。
何を考えているか分からなかった。
「何を考えてるの?! あたしは所詮異端者、本来この世界に居なかった人間で、攻略の役にも立たない役立たず! それなのに何で飛び越えて来たの!!!」
「本当よ……何で、来たのよ、キリト……! 私達は、キリトに死んで欲しく、無かったのに……ッ」
あたしの強い叱責と、シノンさんの抑えられた責める声が、目の前の少年を襲う。
薄暗い夜の空を真っ逆さまに墜ちる中で取るべき行動としては些か外れている気もしたが、もう取り返しも付かないからか、とにかく叱らなければ気が済まない心境だった。キバオウ達に対するものとは別の意味で胸の内は荒れていた。
そんな、あたし達のおよそ正しいであろう反応に言葉を返さず、更にキリトは腰のポーチから結晶体を取り出した。
その結晶体の色は、青色。
緊急脱出に有用だという転移結晶だった。
「それは……」
「転移結晶……」
「「――――あっ!」」
それを見せ付けられて、以前キリトがテラスから落とされても転移結晶でどうにかなった話を思い出したあたし達は、揃って口を噤んだ。まさかこれをするために来たのかと考えればあたし達が並べていた言葉は全て見当違いだったからだ。
その二つの結晶を、シノンさんとあたしにそれぞれ一個ずつ手渡してきた。キバオウ達に没収されていたから助かったと言える。
――――ただ、気になる事があった。
「今、システム障害で転移出来る場所は第七十六層の主街区だけになってる。街の名前は《アークソフィア》だから、そっちに転移して欲しい」
「わ、分かったわ――――転移、《アークソフィア》!」
有無を言わせない雰囲気に当てられたか、シノンさんは素直に言う事を聞いて、どこで死亡判定を受けるか分からないからか急ぎ気味で文言を口にした。システム障害の真っ只中にあっても一応作動するらしい転移システムが起動し、彼女の体は蒼い光に包まれ、瞬時に消え失せる。
土壇場でこの方法を以て復帰する策を見出した過去のキリトに感心せざるを得ないなと考えつつ、あたしはキリトを見た。
正確には、キリトのカーソルの色を見た。
「……ねぇ、キリト」
「直姉も早く」
キリトのカーソルの色は、当然ながら、オレンジだけでなくグリーンの男達を皆殺しにしたのだから、やはり犯罪者カラーのオレンジ色になっていた。
「あなたは……?」
「直姉、早く、お願いだから」
「待ちなさいよ! オレンジになってる、あなたはどうなるの?!」
「っ……!」
オレンジのデメリットは、主街区に入れなくなる事。
それはつまり間接的に転移門を利用出来なくなるという事。
《圏外》の転移門への移動法がどうなっているかをあたしは知らないが、キバオウ達の言葉を思い出す限り、現状転移可能な場所が第七十六層だけと言うのなら今までは使えていた圏外転移門は全て使用不可になっているのだろう。
つまりオレンジが転移出来る場所は、全て無いという事で。
今の状況から、オレンジになってしまったこの子が助かる手段は、一つも無いという事。
それに嫌な予感を覚えていたから、シノンさんに倣って即座に文言を唱えるような事はせず、キリトへと問い詰めた。
「それに、自分の分の転移結晶はあるの?! あたしとシノンさんに譲ったら、二個は常備しておくよう教えてくれたあなたの分は無くなる筈! ホームがある階層にも行けないなら補充はおろか追加もしてないんじゃないの?!」
「ッ……」
キリトは立て続けにぶつけた詰問に対し、何一つ答えず眼を背け、言葉を詰まらせた。
それだけで答えが何であるかを理解するには十分過ぎた。
やはり、さっきの叱責は全て間違ってなどいなかったのだ。何もかも分かった上で自分を犠牲にする選択をしたのだ。
この世界で最も攻略に貢献し必要とされている自身を犠牲に、こんな役に立てない莫迦な義理の姉を救う為だけに。
「やっぱり……ッ! やっぱり、そうなのね?! あなた、自分を犠牲にして……!」
それが分かった途端、胸中で鎮火した炎がまた再燃した、むしろさっきよりも余程大きい。義弟に対する怒りが、叱責の言葉が、際限なく、無数に、無限に湧き起こって来る。
前々から自己犠牲心が過ぎる子だと、自分の事を大切にしない、蔑ろにしがちな子だと思っていたが、ここまでとは思わなかった。
それは、ひょっとするとかつて目の前で飛び降りた《ケイタ》という人を助ける、代替行為なのかもしれない。その時に思い付いて行動していればという後悔から突き動かされた、この子なりに想うところがある、苦渋の決断故の行動だったのかもしれない。
――――それでも、歪んでいる。
――――この子が他者に尽くす事を好んでいる事は知っていた。褒められたい、認められたいという承認欲求だけでなく、元々世話好きでお人好しだったから。
――――けれど、自分の命すらも捨ててまで他者を助けようだなんて、歪み切っている。
――――こればかりは、間違っている。
それでも、自分から命を投げ出してまで他者を助けようとするその信念を、この時ばかりは『美しい』とは思わず、ただただ『歪だ』と思った。何の見返りも求めず、ただ自分の心と命を砕いてまで他者の為と言って動くこの子を、『歪んでいる』と初めて思った。
「す……ぐ、ねぇ……?」
そう思ったのが、あたしの眼や表情に出ていたのか、とにかく転移してと訴え掛けていた義弟の顔から表情が抜け落ちた。
それは絶望。
最後の、きっと自身の全てが掛かっていた希望が絶たれた時に人が見せるのであろう、決して人がしてはならない、壊れた顔だった。
「和人……?!」
あたしはその顔を見て唖然として、すぐさましまったと、胸中で悪態を吐いた。
何があってもあたしはこの子の味方だと、傍にいると言っていたのに、今あたしは、この子を否定する感情を抱いて表に出した。
叱責のように悪い点を上げ、その上で向上するよう改善案を出したり、頑張っている部分も褒めるといった否定の仕方ならまだしも、さっきからしているのはただの否定だった。拒絶だった。
それがあたし達に拾われたこの子にどれだけの絶望を与えるかは想像もつかなかったから、危惧はしていた、懸念してもいたし、そうならないよう注意もしていた。
けれど気が抜けたか、あるいはこの子に対する怒りでその意識が飛んでいたのだろう。あたしはこの子を拒絶してしまった。ある意味、《織斑千冬》の無関心よりも酷い事だろう。『見ている』という点ではまだマシだろうが、『認めていない』というのは無評価よりもタチが悪い。
今、あたしは自らの意志で、この子を拒んでいたのだ。
――――きっと否定する事やその内容は間違いでは無いけれど、否定の仕方を間違ってしまったのだ。
「……ぁ、は……ハ」
一瞬の愕然、からの笑声。
それは、決定的に何かが終わってしまった事を知らす、晩鐘にも等しかった。
「――――さようなら」
短かな笑声を上げた義弟――――キリトは、双眸から雫を零しながら、儚く微笑んで、別れの言葉を告げて来た。
え、と詰まって言葉を喪った隙に、あたしの手にあった転移結晶を奪い取って、あたしの左肩に当てた。
「ターゲット、《リーファ》」
「ちょっと、キリト?! 何を……!」
「転移」
あたしの制止の声も聞かず、彼は転移システムを起動させる文言を続けた。
「アークソフィ――――」
「……ッ!!!」
街の名前を最後まで言われたら終わりだと理解していたあたしは、とにかく止めさせようと、混乱した思考で考えて、即座に決断した。
それはきっと、普段のあたしでは考え付かないだろうし、考え付いたとしても行動には移さないであろう、馬鹿げた――――けれど、これ以上無く尊い行為。
あたしは彼の唇を自分の唇で強引に塞いでいた。
「ぁ……ッ?!」
「ッ……!」
無言で交わされる、驚愕と、確固たる決意。キリトは驚愕でか思考停止に陥ったようで、華奢な肢体を震わせた後は完全に動きを止めていた。
あたしはキリトの口が言葉を発するのを止めようと、目の前にいる子の体を抱き寄せて、唇を塞いでいた。両手は体を抱き寄せて拘束する事に使っていたので、無論、彼の可憐な唇を塞いでいるのはあたしの唇。
本当はもっと雰囲気がある――夜景を眺め合っている――時などにしたかったキスを、あたしは実行に移していた。
生憎とあたしのファーストキスは既に殺されたダレかも知らない男達の一人に奪われているが、あたし自らシた感情の籠もったキスと限定すれば、これがファーストキスとなる。むしろこれがファーストキスの定義と言っていいのではと思う。
「ん、んんぅ……ッ?! んぅ……ッ?!」
何を、と暴れ振り解こうとするキリトの手に籠められた力は強かった。流石にレベルが恐ろしく高いから力は圧倒的で、その気になればあたしの腕なんて縊り落とす事も可能だろうが、それでもHPが減少しないよう抑えている辺りはらしいと思えた。
「ふ、ぁむ……んっ……んぅ……っ!」
「ん、む……ぅ?!」
それを良い事に、あたしは更に強く唇を合わせていった。
元々あたしは、この子に対し異性としての恋慕を抱いていた。もう死ぬしかないと思っていた窮地で助かると思えば愛する人が死ぬという状況で、その恋慕の情が抑えられる筈も無く、感情の赴くままにあたしは行動していた。
嗚呼、そうだ。あたしはきっと、自棄になっているのだろう。
死ぬなら一緒で、それならもう隠す事は無いと思って、全てを曝け出す勢いで行動していたのだ。もしかしたら、この行動で一緒に死のうと言ってくれる、そんな展開を期待していたのかもしれない。
この行動が意味を為さない事など、何よりもこの子の決意を、決断を無為にし、侮辱する行為である事は百も承知だった。シノンさんと、そしてあたしを生還させる事と引き換えに、自らの命を擲つ覚悟を侮辱する行為である事は理解していた。
何かを得るには、何かしらの代価を払わなければならず、今回はキリトが自身の命を捨てる上での行動が代価となる。秩序を保つ為に見せしめが必要とされるように、勝者となるには敵対者を敗者にしなければならないように。
ただ、それを理解していても、納得はしていなかった。受け容れたくなかった。
キリトの思惑通りに事が進んでいたならば、あたしはシノンさんと共に生かされ、この子は代わりに一人で死んでいただろう。誰にも看取られず、何時か回避した道へと戻るが如く。
それを許したくなかった。受け容れたくなかった。否定し、そして拒絶したかった。
慕情を抱いた一人の人間としても、そして、義理と言えどもこの子の姉としても、そんな終わり方を決して容認したくなかった。
義姉を名乗る資格がまだあるかは分からないが、少なくとも、さっきの『拒絶』が不必要であったとは思わない。人間、生きていれば否定も拒絶もされるのだから、あたしのその行為が誤りであったとは思わない。
ただ、伝え方が悪かった。
もっと時間があったなら語り合えただろう――――そんな時間など無いけれど。
もっと相互理解があったなら誤解も無かっただろう――――たかが一年足らず、更に間に一年半も挟んで相互理解なんてある筈も無いけれど。
もっと明るく子供らしかったなら絶望まで行きつかなかっただろう――――子供らしさなんて状況と環境が何一つ許容していなかったけれど。
もっと未来が光に溢れていたなら違っていたかもしれない――――人が生きている限りそんな事はあり得ないだろうが。
全ての要素がこの子の全てを殺しに来ていた。悪意と期待は心を蝕み、世界は死闘を強要し、人は孤独を強いて、幸せの享受すらも許されず、届けられるのは不運と不幸と死の匂いだけ。血の繋がりがある者などがその最たるもの。
そして、シアワセな夢は、泡沫の如く終焉を告げる。
ほんの数秒の、抑え込んでいた感情を曝け出した本当のあたしが望んだ逢瀬は、夢の如く消え去る事になる。
何故なら、あたしの視界が蒼い光に包まれ始めたから。
街の名前を叫ぶ行動を止められていなかったようで、それにしては遅い発動だったようなと頭の隅で思考しながらも、今それが起動するのは嫌だった。もうここまで来たなら、最後まで出来なくてもいいから、この子と死を共にしたいとすら思っていたのだ。
それなのに、システムはいっそ憎く思えるくらい忠実に、あたしとキリトの間を引き裂くこうとコマンドを実行する/転移を開始する。
それは、かつて聞いた『護る為に距離を置いた』という話の如く、あたかもあたしの未来を護る為の行為にすら思えた。
――――今まで、ありがとう。
頬を赤く染めた少女が如き幼子は、涙を絶えず零しながら、やはり光が失せた瞳であたしを見て、そう伝えて来た。
『何か』に絶望して光を喪い、今から命すらも喪われる少年は、それでも微笑んでいた。ただただ気丈に、もう何も心配はないと、安心したとでも言いそうな穏やかな顔をしていた。
漸く休めると安堵しているかの如く。
――――漸く死ねると、喜ぶように。
「か、ずと……!」
転移によって、触れ合っている筈なのに透け始めた唇で、幼子の新名を呼ぶ。
拒絶したあたしは、その名を言の葉に乗せる資格をもう持たないのかもしれない。
それでもとあたしは名を呼んだ。
「――――」
蒼い光に視界が埋め尽くされ、何も見えなくなる寸前、あたしは確かに見た。
光を喪った少年が、目を眇め、蕩けるような笑みを満開に花開かせて、何事かを呟いた瞬間を。
泣きながら、サヨナラ、と囁いた瞬間を。
――――それが、《ビーター》と疎まれ、【黒の剣士】と讃えられ、《織斑一夏》と蔑まれ続けた誰よりも優しい義弟の、今際の際に見せた最後の顔。
――――その顔は、皮肉な事に、何に縛られてもいない、何に囚われてもいない、何に哀しんでもいない、今までで初めて見た純粋に喜ぶ顔だった。
――――終わりの死を泣いて喜ぶという、空しく、哀しみに満ちた顔だった。
――――死に希望を見ていながら、名を貰った時と同じ、シアワセそうな顔だった。