例のあの人──その名前がオカ研ノートにはじめて出てきたのは一九九二年の十二月ごろ。当時五年生だった今江先生が月の終わりに書いた活動記録のなかでのことだ。まだこのときは最近耳にした噂のひとつとしてくだんの怪人に少々ふれているだけだった。だけどひと月も経つとその扱いが大きくかわってきた。「いま話題の例のあの人」としてオカ研が本格的な調査に乗り出したからだ。
例のあの人に関する噂はひとつではない。誰かが彼女のことを話題に挙げるたび、新たな設定がつけ足されていく。給食の時間でもないのに教室で食べものの匂いがしてきたら、それは例のあの人がカーテンの裏に隠れてお弁当を食べている証拠だ。教室のなかでゴキブリが踏みつぶされていたり、トイレの紙がやたら無駄づかいされていたら、これも例のあの人のしわざ。妙に早く散ってしまう桜があるのは、例のあの人が木に蹴りを入れているせい。図書室の前でぶつぶつとなにかしゃべっている人がいたら、例のあの人なので話しかけないほうがいい。放課後に誰もいない教室でぼんやりしているが、それを目撃してしまうとあとをつけてくる。ステルス人間なのでレーダーに映らず、のぼり棒を見るとのぼりたがり、犬並みに鼻が利くので物探しが得意。好きな楽器はカスタネットで、なんでも四角に切りそろえる癖があり、鏡で自分の顔を見れば目を回してゲロを吐く。傘立てには例のあの人の傘が置いてあるのだけど、これを持って帰ってしまうと殺されるので要注意だ。例のあの人のご機嫌を取りたいなら、高級店で買ってきたプリンをおみやげにするといいらしい。
学校以外の場所にも出没するそうで、下校中の中学生が河川敷を自転車で走っていたところ、うしろの荷台に例のあの人が飛び乗ってきてすんすん匂いをかいできただとか、パンツ丸出しで公園のベンチに寝ていたところ、お巡りさんに注意されてベソをかいていただとか、ウンチがしたくなって他所の家へトイレを借りにきただとか、みんなの遠足についてきた彼女が集合写真の右上にこっそり写り込んでいた、なんていう話もある。
やれこんな悪さをするだの、あんなおふざけもするだの、これこれこういう性格で、こんな弱点だってあるだのと、この手の噂は数えあげたらキリがないほどだった。果ては〈例のあの人の歌〉なんてものまで考え出されていたらしい。初夏をむかえるころには彼女に関する相当な量の噂がオカ研のもとに集まっていた。こうした成果をまとめた手づくり新聞をオカ研はたまに校内の掲示板へ貼らせてもらっていたので、それが例のあの人ブームを後押ししてもいたようだ。
目撃情報という
例のあの人は刑務所から脱獄してきたので両手両足に
オカ研も、そして学校のみんなも例のあの人に夢中だった。彼女について考えるのは楽しいことで、それを友達と共有してワイワイするのはもっと楽しい。友達のいない子だって、オカ研新聞の「例のあの人コーナー」で取りあげられることを期待して自分なりの新説をあれこれ考えてはご意見箱に投書していたものだ。かように全校規模で大きな広がりを見せていた例のあの人ブームなだけに、オカ研といえどもそのすべてを把握することはできなかった。ごく一部のクラス、あるいは特定のグループのなかでのみ語られていた知られざる噂がいくつか存在していたからだ。そう、例えばこんなふうに……。
*
「ぶっ、ブキショーニン! ブキショーニン!」
目の前にあらわれたおばけを追い払うため、智子がつばを飛ばして呪文を連呼する。
『ブキショーニン!』
呪文を唱えているのは智子だけではない。そのまわりではゆり以外のみんなも口々に同じ言葉を繰り返していた。ヤンキー娘などは特に必死で、見ているだけでぞっとさせられる例のあの人の風貌に嫌気がさしているのか、彼女を一刻も早く追い払わんとしているようだ。
「ブキショーニン・ニ・ナルンダー・ヨネッ!」
仕上げとばかりに智子がちょっと長めの呪文を叫ぶ。さっき廊下で見かけた例のあの人はすぐしないうちに教室のほうまでやってきて、引き戸の鍵を閉める前に押し入ってきた。だけどもこうしてやれば簡単に退散させられるので心配ない。掃除機なんかなくっても、口先だけでヤメテヒエーの赤っ恥。この言葉のいったいなにがそんなに嫌なのかわからないけれど、ともあれ効果はてきめんのはずだった。
「グフフッ……ンフフッ……」
だけども例のあの人はそうしたみんなからの集中砲火をくらってもどこ吹く風。彼女は出口の前に立ちふさがったまま、智子たちに意地悪そうな視線を向けてくぐもった笑い声を上げるばかりだった。
「ねぇっ、なんか効かないんだけど!」
「う、うん、そうみたい……」
例のあの人を追い払うための呪文がまるで通用しないので、そのことに焦った智子が花子のそでをグイグイひっぱる。しかしさしもの花子もこれには面食らっているようで、すがる智子と一緒にあとずさるしかなかった。
「あれ聞こえてないんじゃない?」
「へ?」
「ほら、ヘッドホンしてるし」
「あっ……!」
指摘を受けた智子が確かめてみれば、ゆりの言う通りだった。よく見れば例のあの人は頭にヘッドホンをつけていて、彼女の耳もそのイヤパッドにすっぽりとおおわれているのだった。あれのせいで呪文が防がれているのだとしたら対処法が通用しなくなるということなので実にまずい。
(なにそれ、そんなの知らない!)
前回遭遇した際はあのようなものはつけていなかったはずだ。こんな対策を取ってくるだなんてオカ研ノートには書かれていなかった。こんなとき花子はどうするのだろうと思った智子が目を向けてみれば、彼女もゆりの推測を聞いてとまどっているようだった。
「さがってろ!」
ヤンキー娘が及び腰ながらもみんなの前に出て、手にしたイスを例のあの人めがけて「うらぁっ!」と放り投げる。
「ブゲッ」
イスは例のあの人の鼻づらを直撃した。顔をおさえた彼女が前かがみになってうめくので、智子たちはその隙にもうひとつの出口から迂回して逃げる。
「きゃあっ!」
そうしてみんなが廊下を走り抜けていこうとしたところで、真子が悲鳴を上げて足を止めた。顔をおさえたままの例のあの人がゆく手をさえぎるようによたよた廊下へ出てきたからだ。
「こっちこっち! こっから出よう!」
智子がそう言って廊下のつきあたりにある南非常口へと駆けより、そこをあけようとする。
「おっ、んっ?」
が、たちまちつっかえてしまう智子。扉の外側からやんわり押し返す力が働いているようで、ちょっとひらいただけですぐに閉じてしまったのだ。
「あかないの?」
「いやっ、な、なんか詰まってて!」
たずねてくる花子に智子が焦りをにじませうったえる。扉の具合があきらかにおかしい。小窓がなにかにふさがれていて外の様子は見えないけれどあたかも巨大なクッションが扉の前に居座っているような感じだ。全員で力を合わせてみるもののどうにもならなかった。
「ネェ、ネェ」
あたふたしていた智子たちへ、廊下の先にいる例のあの人がふいに話しかけてきた。途端、みんながいっせいに彼女のほうを見やる。
「ワタシッテ、カワイイ?」
鼻からつうっと血を垂らす例のあの人がうつろな顔でたずねてくる。以前智子にも投げかけてきた例の質問だった。
「か、かわいいです!」問いかけにいち早く答えたのは、真子。
「あっ、ち、ちがうよ真子さん」だけども智子がそれを制してかぶせるように「すっごいブス! ブスブス!」
「おこらせちゃうよぉっ」智子のそうした発言に真子が声をひそめてうったえるが、
「いいのいいの、これ効くから!」心配には及ばないと説明してやる智子。
が、例のあの人はというと別におこっているふうもなく、かといってショックを受けているようでもなかった。彼女は顔をこてんとかしげて「ドーナノ? カワイイ?」と質問を繰り返す。
「だからあれ、聞こえてないって」
「あっ、そっか」
ゆりの再三の指摘に智子がはっとなる。例のあの人はヘッドホンで音を遮断しているからなにを言っても伝わらない。だからもう彼女と問答するのは無意味なのだった。しかし当の本人はそんなことお構いなしに「ドーナノ? ネェ、ドーナノ?」とせかすようにたずねてくる。
「おまえら、ハラぁ決めろ……。全員であいつをブチのめすぞっ……!」
ヤンキー娘が意を決したようにそう言った。さっきイスをぶつけてやったとき例のあの人が多少なりともダメージを受けていたようであったから、腕っぷしの通用する相手と見て戦いを挑むつもりらしい。
「で、でもあいつ、カマとか持ってるかも」そのような心配を口にする智子であったが、
「やるしかねえんだ……ほら、これ使え!」ヤンキー娘が廊下の壁にぶらさげられていたホウキをいくつかかっさらい、それをみんなに押しつける。
例のあの人が背負っている平たいカバンには色んなものが詰め込まれているらしい。ノートに教科書、手鏡にヘアピン、お茶のはいった水筒に、しょうが焼きのお弁当、それからおやつ用の駄菓子。他にはゲームボーイやウォークマンなんかもあるそうな。そしてそれ以外にも、気に入らない相手の喉笛をかっきるための刃物──カマがはいっているとのことだった。
実際に智子はいかり狂った彼女からそのカマを持って追いかけられそうになったりもした。だから智子が心配しているように、そんなものでざっくりとやられてしまったらケガだけでは済まないだろう。このカマは前に呪文で追い払ったときに落としていったようだが、拾いなおしたか、あるいは予備をカバンに隠し持っている可能性がある。今はまだ質問することに夢中な例のあの人だけど、いつ豹変して凶器を取り出し「ブチコロスゾ!」とおそいかかってくるかわからない。しかしヤンキー娘の言う通り、こうなったらもう危険をおかしてでもなんとかするしかないのだった。
「あのヘッドホン、取りあげちゃえばいいんじゃない?」ふと思ったことを智子が口にすると、
「そうだね、やってみよっか」それはいい案かもしれないと、花子が同意する。
耳をふさぐヘッドホンさえうばってしまえばまた呪文が効くようになるかもしれない。そんなふうに活路を見いだそうとする智子が、みんなと一緒にホウキをかまえて例のあの人との距離をじりじりと詰めていく。
「ムニャムニャムニャムニャッ」
と、例のあの人が急に自分の顔面を手でくちゃくちゃにかきまわしはじめた。突然のことに目を剥くみんなが様子をうかがっていると、やがてピタリと止まった彼女が手を離す。
「ドウ? カワイイ?」
そしたらいつのまにか例のあの人がさっきまでとは少し違う見た目になっていた。うっとうしそうだった前髪をうしろに流し、ボサボサ髪をリボンで雑にしばってふぞろいなツインテールにしてある。あらわになったおでこにしわを作る彼女はメガネをかけており、そのレンズごしに目をうるうるさせながら口をアヒルのようにとがらせていた。
「ムニャムニャムニャッ」
あっけに取られた智子たちがなにも言わないでいると例のあの人がふたたび自分の顔をさすりはじめた。少しするとぱっと手を離し、隠していた顔を見せてくる。まるで智子たちに向けていないいないばあをしているようだった。
「カワイイ?」
そうして披露した顔はまた違うものになっていた。メガネが消えて髪型ももとに戻ったけれど、今度はその顔に口紅やらマスカラやらが厚ぼったく塗り重ねられてずいぶんとけばけばしくなっているようだ。
(なにしてんのコイツ……?)
例のあの人の奇妙な早がわりを前にたじろいだからか、智子らは意識せずあとずさりしてしまう。そんな子供たちを尻目に例のあの人がムニャムニャッとやってその顔をさらに変化させていく。頬をギュッとすぼめた辛気臭い表情のおばさんになったかと思えば、続けて別人のような美少女になったりもする。だけども鼻からうどんのようなものがちゅるんと出てきたので慌てたようにまたムニャり、今度はもとの顔に戻った彼女がアゴをぐいと前につきだしガッツポーズを取る。白目を剥いてあっかんべーをしたときなどは智子がびくっとなったので、それに気づいた例のあの人がニターッと笑い、からかうように指さしてきたりもした。
こうした百面相の合間に繰り返し「カワイイ?」とたずねてくる例のあの人であったが、彼女の奇行ぶりにすっかり呑まれていた智子たちはそれに答えてあげられない。といっても仮に「カワイイです」とほめてやったとして彼女の耳には結局届かないのであるが。
「
激しく舌打ちする例のあの人が両手をだらりとさげる。もう百面相をする気はなくなったようだが、今度は「クソガキ……クソガキ……」と憎々しげにつぶやきながら幽霊じみた顔つきで智子たちをにらみつけてくる。
「なんかおこってるみたいだよ……?」その様子に真子が不安をうったえると、
「ワケわかんねーな、イカレてやがる」ホウキを構えなおしたヤンキー娘が、
「おらっ、突っ立ってねぇで行くぞ!」とみんなに発破をかける。
そうして例のあの人に挑みかかったのはいの一番に駆けだしたヤンキー娘と、それに負けじとあとを追う花子だ。彼女らはえいやえいやとホウキを振り回し、隙だらけな例のあの人を叩きはじめる。
「まこ、やるよ」
「う、うん……!」
先陣を切ったふたりに続けと、今度はゆりと真子が攻撃に加わっていった。彼女らはホウキをヤリのようにかまえ、前衛のふたりの合間を縫って突きを繰り出してみせる。おっかなびっくりな真子のほうはともかくゆりがためらいなく放つ突きは一切加減のなされていないものだったので、例のあの人がたまらず「チョ、オマッ……!」とうめいてあとずさる。
「あたまあたま! それだよっ、ヘッドホン!」
勇ましくホウキを掲げてはいるものの、仲間たちのうしろでウロチョロするだけの智子が声を張り上げる。例のあの人はみんなから殴打されてつらいのか、前かがみでヒィヒィ言って頭を手でかばっている。それだけ見るとなんだかいじめられているようで哀れだったけれど、相手は刃物を隠し持つ狂人なので情けは無用だ。
「取りあげちゃって! 早く!」
ひるんでいる隙にヤツの「盾」を奪うべしと、リーダー智子がみんなに指示を飛ばす。それは花子にとっても承知のことだったので、モノをうばいとってやろうとそのヘッドバンドをつかむ。
「ヤメテー! ヤメテー!」
だけども例のあの人が悲鳴を上げてそれにあらがう。ホウキを捨てて両手で引っぱる花子であったが、例のあの人はイヤパッドをがっちり手でおさえ、自分の盾をうばわれまいとしているようだ。
「おらっ、よこせ!」
「ギャ──ッ!!」
ヤンキー娘もそれに加勢し、花子とふたりがかりでヘッドホンを引っぱる。絶叫する例のあの人であったが結局力負けしたようで、ブチブチと妙な音を立てながらヘッドホンがその頭から剥がれていった。
「ブキショーニン! ブキショーニン!」
ヘッドホンをうばわれた例のあの人が耳をおさえてうずくまったので、待ち構えていた智子が早速呪文を唱えだす。みんなも例のあの人と距離を取ってから──控え目ながら今度はゆりも──それに続いたので、廊下中に合唱が響きわたる。
「ブキショー……ニ……」
これでようやく退散してくれるはず。そう思っていた。だけど呪文を浴びせかけられる例のあの人はなぜか逃げようとしない。やがてゆらりと立ち上がった彼女は耳をおさえることもやめ、猫背気味でみんなをうらめしそうにじっと見やっているだけだった。それを受け、誰ともなく呪文を止めてしまう智子たち。
「な、なんかヘンだよ、逃げないよ、アイツ」
「う、うん、なんでかな……?」
どうも様子がおかしいと、智子が息も荒く花子にたずねる。一方の花子もとまどいを隠せないでいた。ヘッドホンを取りあげれば呪文が通じるようになると、そのように考えていたふたりであったがあてが外れてしまったのだった。一体なぜと、手に持ったままのヘッドホンに花子が目をやる。
「きゃあっ!」
途端、目を剥いた花子が悲鳴を上げてヘッドホンを手放してしまったので、足もとに落ちたそれがびちゃっと生々しい音を立てる。
「どっ、どしたの!?」おどろいた智子がたずねたところ、
「ヘッドホンに、なにかついてるのっ……!」あとずさる花子が地べたのヘッドホンを指さす。
先輩のうろたえぶりを見た智子がヘッドホンを拾い上げてそれを確認してみるが、どうも両方のイヤパッドの裏から赤くぬらぬらした肉のようなものが垂れさがっているようだった。
「なにこれ?」
「た、たぶん……耳とか?」
「うえっ!?」
花子の推測を聞かされた智子があわててヘッドホンを捨てる。そしたらまたべちゃっと気持ち悪い音がした。もしやと思い例のあの人を見てみれば、髪で隠れていてわかりにくいものの耳の辺りから血を流しているようで、それがぽたぽたとアゴをつたって廊下に落ちていた。
(耳まで取れちゃった!)
どうやら例のあの人はヘッドホンを「付けていた」のではなく「生やしていた」らしい。あれは彼女の耳と一体化していたようで、だからこそ無理やりひっぺがしたことにより耳ごとその中身までもがずるりと引きずりだされてしまったのだと、智子がそう理解する。呪文が通じないのも当然で、もう耳がないのだからこちらがなにを言っても例のあの人には聞こえないことになる。結局ヘッドホンを取ろうが取るまいが結果はかわらないのだった。
「田中、借せ……」
目の前のグロテスクな光景に顔をしかめていたヤンキー娘であったが、真子が握りしめていたホウキをおもむろにぶんどる。自分用のものはヘッドホンを引っぱる際に手放してしまったようで、今は花子のぶんのホウキと一緒に例のあの人の足もとに転がっていた。
「おい六年、もっぺんやるぞ」
ヤンキー娘が固い声で花子に呼びかける。呪文が役に立たなくなったことを察したらしく、当初考えていたように例のあの人を力ずくでねじふせることにしたようだ。
「ちょっと借してね」
「あっうん……」
もう策に頼ることはやめたのか、花子のほうも智子からホウキを拝借し、ヤンキー娘の隣に立って臨戦態勢を取る。
「ジャリドモ……マジコロス……ブチコロガス……」
それに応じるように、目をらんらんとさせる例のあの人が物騒な言葉をぶつけてきた。肩をゴキゴキ鳴らして背に手を回した彼女がカバンをまさぐりはじめる。そうしてにゅるりと抜き取ったのは一本の黒い傘だった。折りたたみ式でもないそれを一体どうやってカバンに収めていたのかはわからないが、彼女はそれを刀のように構えてみせた。
(なにあれ……?)
てっきりカマを取り出すものと思っていたけどそうではなかった。刃物を出されるよりかはマシだったけれど、あんなものを隠し持っているだなんて知らなかった智子は、またしても未知の個性を発揮した例のあの人におどろきを隠せない。
「気ぃつけろ……ヤローの目、ありゃマジだ」
傘だって扱いようによっては立派な凶器だ。例のあの人が自分たちに対抗して得物を手にしたので警戒を強める前衛のふたり。特にヤンキー娘のほうは敵の目に本気の殺意が宿っていることを見て取ったのか息を呑んでいるようだ。そうでなくとも例のあの人の悪霊じみた顔つきは見る者の恐怖心をくすぐるなにかがあった。
「イマカラテメーラニ、ゼツボウヲアタエテヤル……」
と、そんなことを言って足を大きくひらいた例のあの人が身を低くし、ビリヤードでもするような姿勢で傘を素早く構えなおした。それまで貧弱そうに見えていた彼女がたちまち猛獣のような気迫をまとい、智子たちのうちの誰かを射貫くように凝視する。
(なんかヤバい!)
例のあの人が仕掛けてくる。そのことを直感した智子がとっさに足もとのヘッドホンを拾いあげ、それを例のあの人めがけて投げつける。瞬間、例のあの人がこちらに向かって勢いよく踏み込んできた。彼女の顔にヘッドホンが当たったところまでは見えた智子であったが、そこから先はもう目で追うことができなかった。例のあの人からなにかがものすごい勢いで放たれたのと、すぐうしろのほうでコンクリートの砕け散る音がしたのはほとんど同時だった。
「マジか……」
背後を振り返ったヤンキー娘が息を呑む。それにつられてみんなも後ろを見やってみれば、廊下のつきあたりの柱に棒のようなものが深々と突き刺さっているようだった。
(傘……!)
それがなんであるのか気づいた智子は血の気が引いた。棒のように見えたそれはさっき例のあの人が手にしていた傘に違いないのだった。
「チッ!」
例のあの人が舌打ちしながら足もとのヘッドホンを蹴っとばす。いまや手ぶらとなった彼女が、自分の手から離れていった傘に納得いかないといった視線を向ける。まるで狙いが外れたことを残念がっているような感じだったから、智子たちにはもうなにが起きたのかがわかってしまった。例のあの人はこのなかの誰かを狙って猛烈なスピードで傘を投げつけたのだ。もし直撃していたら鉄砲で撃たれるよりひどいことになるのは間違いなかったが、しかし智子がとっさにヘッドホンをぶつけてやったから、そのせいでコントロールが狂って狙いがそれたらしい。
「にげっ、逃げようっ、みんなっ……!」
智子が声をうわずらせてそう叫ぶ。例のあの人がカバンから新しい傘──さっきと違ってビニール製の透明傘──を引き抜いて、口笛を吹きながら歩み寄ってきたからだ。
さっきとは打ってかわって例のあの人が強くなった。傘を装備した例のあの人はハンパなくヤバい。こんな個性があるだなんて聞いていない。切り札だった呪文はいまや無意味となってしまったし、このぶんでは数だのみの力押しに出るのも危険だ。だからひとまず退却すべしと、智子はみんなと一緒に教室のなかへ引き返す。
「ウェーイ!」
一番最後に教室へと逃げ込んだ花子がすぐさま引き戸の鍵をかけるが、その小窓から例のあの人が顔をのぞかせ、陽気な声をあげながら乱暴にノックしてくる。おどろいた花子が飛びのくと例のあの人もそれに合わせるように戸の前からさっと身を引いた。
「ヒューッ!」
「ひぃっ!?」
もしやと思った智子が大急ぎでもう一方の出口へと走り寄って施錠したところ、間髪入れずに例のあの人が小窓をにゅっと覗きこみ、戸をガタガタ揺らしてあけようとしてきた。尻もちをついた智子のことを例のあの人がニタニタ笑ってガラスごしに眺めている。
「あ、あいつやばいよ。完全に殺しにきてるよぉ……!」
おののく智子が鼻声まじりにうったえる。すぐさま起こしにきてくれた花子に引っぱられてみんなのいるほうへとさがっていく智子であったが、ヒザはすっかり震えていて誰かにしがみついていないと立っていられそうもなかった。
出入り口の鍵はしめたけれど、そんなもの気やすめにしかならない。例のあの人が引き戸を力ずくで壊すか、あるいは窓ガラスを割ってそこからはいってくるのも時間の問題だ。
ああ、今ここにイケメン男子がいてくれたら。そしたら例のあの人なんてきっと一目散に逃げていくだろうと、智子は以前親切にしてもらったことのある上級生・
ズガンッ
出口のほうからすごい音がしたのでみんなが──おもに智子だったり真子だったり、あとヤンキー娘も──こぞって悲鳴を上げる。引き戸を突き破って傘が突き出してきたからだ。そうして傘がズルッと引き抜かれたかと思うと、少し
教室から悲鳴が上がるたび、例のあの人が怯えるみんなの様子を小窓から確認してはシシシと意地悪そうに歯を見せてくる。子供たちをじっくり怖がらせ、それを楽しんでいるような感じだった。
「かみさま……かみさま……っ」
目をぎゅっとつむる真子が顔の前で手を組み、ぶるぶる震えながらなにごとかをつぶやく。わたしたちをどうかお救いくださいと、そう天に祈っているのかもしれない。
「おいっ、なんか他にねえのか!? あのヤローを追っぱらえそーなの!」
戸が徐々に破壊されていくのを教室のすみに固まって見ていることしかできない智子たちであったが、ヤンキー娘が焦りをつのらせる声で智子にたずねた。
「そ、掃除機があったら吸い取れるんだけど……」
オカ研ノートには例のあの人の撃退方法としてそんなことも書かれていた。その口を掃除機で吸ってやると、そのまま体ぜんぶがみるみる吸い込まれていってしまうのだという。
「こいつはどうだ? 代わりになんねーか?」
「ど、どうだろ……それ、動く?」
原幕小にだってもちろん掃除機くらいある。だけどもそれはパソコン室や図書室といった一部の場所に置いてあるだけで、各教室に備えられているわけじゃなかった。だからその代用品としてヤンキー娘が黒板脇の床に置かれていた黒板消しクリーナーを手に取る。多少は吸引力を持つ装置なのでこれでどうにかならないかと考えているようだ。
「……ダメだ、つかねぇ」
ちゃんとコンセントはつながっているのにカチカチとスイッチを入れてみてもクリーナーは作動してくれなかった。やはり裏幕には基本的に電気が通っていないらしい。これでは仮に掃除機が手もとにあったとしても結局役に立たないだろう。
「あっ、ちょっと待って!」
その様子を見ていた花子がなにかひらめいたように声を上げる。彼女は教壇に上がるとチョークを手に黒板へなにかを大きく書きはじめた。
「モシモーシ、アケテクダサイヨー。ブチコロシマスヨー」
風穴をあけることにも飽きてきたのか、小窓に顔を押しつける例のあの人が
「ネェェェ、ワタシト
泣いているのか、笑っているのか、あるいはおこっているのか。なんともいえない奇妙な声を出す例のあの人がガラス越しにそんなことを求めてきた。真子などはその怨念めいた呼びかけにぞっとしているのか首をしきりに振っている。
しかし文字通り聞く耳を持っていないのに「会話して」とはこれ
「はいっ、これ見て!」
いや、ひとりいた。花子が例のあの人に向かって呼びかけ、黒板上に書きあげた文字をさかんに指さしてみせる。耳のない例のあの人にも伝わるように筆談で……という訳ではなく、あることをたくらんでのことだった。
「ヘウッ!?」
花子にうながされた例のあの人が黒板に目を向けたところ、その顔がたちまち歪んで悲鳴を上げる。そうしてすぐしないうちに顔を引っ込めてしまい、それきり姿を見せなくなった。
*
「よかったぁ、こういうのでも効くみたいだね」
しばらく様子をうかがっていた花子であったが、ひとまず例のあの人がおとなしくなったようなのでほっと息をつく。「こういうの」とはさっき花子が黒板に書いた文字のことだ。
(なるほどねー、この手があったか)
智子が「ブキショーニン」と大きく書かれた黒板をしげしげと見やる。呪文が聞こえないのならこうして視覚にうったえかけてやればいいという訳だ。オカ研ノートには書かれていない方法であったが、花子としても通用するかどうかはイチかバチかだったらしい。例のあの人はかの有名な都市伝説「口裂け女」の影響が色濃いおばけだったから、口裂け女とおなじく呪文を書いた紙を見せれば退散するという噂がオカ研のあずかり知らぬところで存在していたのかもしれない。
(ほんと、みんな色々考えるもんだなぁ……)
かつて原幕小に巻き起こったという例のあの人ブームの、その集大成とでも言うべきものを智子たちは体験させられた。当時の今江先生をして「把握しきれなかった」と言わせるだけあって例のあの人に関する噂はバリエーション豊かだ。実に迷惑なことではあったが、ヘッドホンによる呪文封じや傘によるパワーアップなどもきっと一部の児童が考え出したマイナーな設定だったのだろうと智子は考える。
「あのおばけ、もう行っちゃったんですか?」いまだ安心できないでいる真子がすがるようにたずねてみれば、
「どうかなー、まだいたりして」用心深げに口もとをなでる花子は、すっかり穴だらけになった扉へ目を向ける。
ひょっとすると例のあの人はただ教室にはいってこようとしなくなっただけで、みんなが外に出てくるのを息を潜めて待っているのかもしれない。だとしたらこうしてはいられないと、思い立った様子の花子が教室の棚へと足早に駆けていく。
「智子ちゃん、ちょっといい? これ……」
そうして棚から取ってきた数枚のプリントを机に広げた花子が色ぬりマジックを智子へ差し出した。
「一枚ずつ呪文をおっきく書いてほしいの。みんなの人数ぶんあればいいから」
「あっうん……!」
お手本を示すべくプリントを手に取った花子が早速自分のぶんのマジックを使って字を書きはじめた。頼まれた智子のほうもおなじようにキュッキュとやっていく。ふたりがプリントに書き込んでいるのは「ブキショーニン」という言葉で、つまりは教室を出ていくにあたりお守りとしてこれをみんなで持っておこうという考えだ。せっかくだからと、智子はより効果があるとされる長めの呪文を自分用の紙に書いたりもする。そうしてすっかり全員分の
「なくさないように持っててね。さっきのおばけが出たらそれを見せてあげたらいいから」
花子がそう言って御札の使い方をみんなに教えてやる。これさえあれば例のあの人なんて恐れるに足りない。五人がかりでいっせいに見せつけようものならたちまち背を向け逃げていくか、そうでなければ両目をふさいでしゃがみ込むしかなくなるだろう。これで一応の備えはできたので、みんなは教室を出ていくためにそろりそろりと穴だらけの出口までやってきた。
「あれ……?」
先頭に立つ花子が、出口の手前で立ち止まって急にうしろを振り返る。くもり空の窓をちらりと確認してからまた前を向き、今度は引き戸の小窓から廊下をのぞき込んでは首をかしげているようだ。
「な、なんかいるの?」気になった智子がたずねてみると、
「あっ、ううん、ちょっと廊下が暗いなって……」花子がそのようなことを言いだす。
気になった智子がおなじように小窓をのぞいてみるが、ちょっとどころではなかった。ガラスの向こう側はひどくまっくらでなにも見えない。もともと薄暗い裏幕だったけどこれではまるで夜だ。だけど教室奥の窓からは一応ながら日中らしさを感じさせる光が届いているから昼夜が逆転したという訳でもない。
「ひゃっ!?」引き戸に張りついていた智子が急に飛びのき、
「なんかさわってきた!」とヒザを手で払う。
いま、なにかにくすぐられた。筆みたいなものでこちょこちょやられるような感じがあった。一体なんだろうと引き戸に目をやる智子であったが、わっと声を上げてまた飛びのく。戸のあちこちにあけられていた穴からイソギンチャクのような黒いウネウネがたくさん生えていたからだ。穴からあふれ出てほうぼうを這っていくそれが神経のごとく張り巡らされ、みるみるうちに出口付近を飲み込んでいく。
「これ、髪の毛……?」ゆりが天井にまで伸びていくウネウネを見上げてそのような推測を口にする。
「なんだってんだよぉっ、次から次にー!」一難去ってまた一難、いい加減にしてくれとばかりにヤンキー娘が泣き言を叫んだ。
そうこうしているうちにウネウネが教室中に広がって、辺りを黒く染めていく。足もとからもどんどん押し寄せてくるので智子たちは教室の奥へ奥へと追いやられていき、ついには机の上へと避難するしかなくなった。しまいには壁という壁、そして教室に光を届けてきていた窓までもが完全におおわれてしまったので、たちまちみんなから悲鳴が上がる。
やがてざわめいていたウネウネがおとなしくなり、まっくらな室内には智子たちの息づかいと誰かのすすり泣く声が聞こえてくるだけとなった。
「もうやだぁー……」
智子のうしろのほうで机がガタリと鳴って、真子の涙声が聞こえてきた。帰りたい、帰りたいと弱々しいつぶやきを繰り返す真子であったが、誰かがそんな彼女をそばでなぐさめてやっている気配もする。
「うおっ!?」
突然おどろいたように叫んだのは、声からするとヤンキー娘。途端、彼女がいると思しき場所から机のひっくり返る音が派手に鳴る。
「どうしたの!?」
「クソッ、なんかいるぞ……っ!」
どうもヤンキー娘は机の上から落ちてしまったようだ。花子が心配そうに話しかけるが、何者かがこの暗闇に潜んでいるようだと、うめくヤンキー娘がみんなに知らせてくる。
「キャッ!?」
すると今度は花子までもがおどろきの声を上げるが、すぐしないうちに「みんな、机からおりて!」と焦った声で仲間たちに呼びかける。どうもこの教室のなかでなにかが自分たちを狙ってきているみたいだったから、身動きの取れない机の上にいるのは危ないと判断したようだ。
(なんだよもおぉぉ……っ!)
それを受け、智子が慌てて机からおりる。足もとはすっかりくだんの髪の毛っぽいなにかで埋めつくされていたようで、靴底から伝わってくるフニフニした感触がなんとも気持ち悪い。すぐうしろで床におり立つ音がしたので、真子たちのほうも地に足をつけたらしい。
「ちょっと、なに!?」
と、今度はゆりの不愉快そうな声が聞こえ、同時にビリッと紙のやぶれる音がする。
「きゃあーっ、もうっ」
続けざまに真子が恐れおののくように悲鳴をあげ、机やイスを押しのけ逃げまどっているようだ。
(ヤバいヤバいヤバい!)
みんながなにに反応しているのかはわからないが、このぶんだと次は自分が狙われそうだ。見えない存在に恐れをなした智子が暗闇のなかでそろりそろりとあてもなくのがれようとする。
「うわっぷ……」
が、すぐしないうちになにかとぶつかってしまった。手を伸ばし確認してみると、どうも誰かが目の前に立っているようだった。その相手に向かって「は、花子さん……?」とたずねたところ、安心させるように肩をぽんぽん叩いてきたので智子は少しほっとした。そのまま花子と思しき相手が智子のことをそっと抱きよせてきたので、智子も自然とその胸もとにしがみつく。
(ん……?)
なんだろう、ちょっとにおうぞ。なんだかおじいちゃんちのような匂いがする。どこからにおってくるのだろうと、妙な香りを感じ取った智子がすんすん鼻を鳴らす。
「へっ?」
智子は御札がわりのプリントをずっとにぎりしめていたのだが、花子がいきなりそれをむんずとつかんで取り上げようとしてきた。反射的に抵抗してしまう智子であったが、無言の花子がなおもプリントを引っぱってくるので困惑せずにはいられない。すると天井の蛍光灯がふいにまたたき教室内にあかりがともる。
「ふぁあアアああアああアァァァ──ッ!!」
途端、智子がゴムまりを引き伸ばしたような顔になってノドも張りさけんばかりに絶叫した。自分の肩に手を回してきていた相手が花子などではなかったからだ。息がかかりそうなほどの距離でニカッと歯を見せていたのは、なんと例のあの人なのだった。他の場所に散らばっていたみんなからもたちまち悲鳴が上がるが、いつのまにか教室にはいり込んできていた例のあの人に仰天させられているようだ。
「ひゃっ、ひゃひぃぃぃっ」
例のあの人をつきとばし、智子が前のめりになって机の合間を縫い走る。その先には花子が待っていたので、智子は今度こそ本当に彼女の胸のなかへと飛び込んだ。
「イエーイ、ヒッカカッター!」
ぜいぜいと息をつく智子がうしろを振り返ってみれば、例のあの人と目が合った。途端、ドッキリ大成功と言わんばかりに彼女がからかうようなことを言ってくる。仲間のふりをして智子を騙したことがよほどおもしろかったのか、顔いっぱいによこしまな笑みを浮かべていた。
それはそうといまや教室のなかは黒まみれ。床も壁も天井も、出入り口や窓なども、すべてが髪の毛のようなものでおおいつくされていた。明かりがついてはいるものの、あまりに室内が黒いせいで蛍光灯の光も吸収されてしまうのか、どんよりした感じの暗さが漂っている。
(もう、なんでもありじゃんか!)
教室をこんなふうにしたのはきっと例のあの人に違いない。いつのまにかずいぶんと髪が伸びていた例のあの人だったので、ひょっとすると辺りに張り巡らされているのは彼女がモリモリ生やした髪の毛で、自身もその一部となって教室へもぐり込んできたのかもしれないと、智子はそう思った。こうしたこともやっぱりオカ研ノートには書かれていなかったので、もはや自分の知識はあてにならないとへたりこんでしまいそうになる。
「かみっ、紙見せて! ほらっ!」
だけどもこちらには花子の用意してくれた御札がある。そう思った智子がみんなに呼びかけつつ、自分の握りしめていたそれを例のあの人につきつけてやった。
「あっ!?」
だけどもそれはほとんどやぶけた紙の切れはしになってしまっていた。見れば例のあの人の手には智子からむしり取ったと思われる残りの部分が握られている。それだけでなく、他にも何枚かの御札がくしゃくしゃの状態で彼女の手のなかにあるようだった。
「みんな、紙は……?」
「ダメなの、さっき取られちゃったみたいで……」
智子の問いに花子がかぶりを振って答えるが、他のみんなも手ぶらになっているようだった。どうもさきほどの闇にまぎれて例のあの人が全員から御札を奪い取っていったらしい。呪文が大きく書かれていたはずの黒板もすっかり髪のなかに埋もれてしまっている。
まさかこんな手段に出るなんて。呪文を警戒した例のあの人はあの手この手を使ってそれを封じる作戦に出たらしい。こうした念の入れように、相手の執念を感じずにはいられない智子。
「キエェェェ──ッ!」
やにわに奇声をあげた例のあの人が、手にした御札の束をものすごい形相でビリビリに破りすてる。それからカバンへ横差しにしてあった傘を引き抜いたかと思うと、また口笛を吹きながら軽い歩調で智子たちにせまってきた。
「ごっ、ごっ、ごめんなさぁぁい……っ!」
教室のなかでゆっくり追い立てられていく智子が、ここにきて謝ってみせた。きっと例のあの人は耳をちぎられてものすごくおこっているのだと、そう思ったからだ。
もうなにをしたってかなわない。本気を出した例のあの人をやっつける方法なんて誰も知らない。智子の心はすっかりくじけてしまったようで、許しを乞うことしかできなくなっていた。だけども当然ながら例のあの人にはなにも聞こえてなどいない。仮に聞こえたとしても、あるいは目の前で土下座をしてやったとしても、彼女が智子たちを見逃してくれるとはとても思えなかったが。
「んのやらぁっ!」
机をかつぎあげたヤンキー娘が、横あいからそれを例のあの人に向かって力いっぱい投げつけた。
「シッ!」
だけどもそれは例のあの人の手前でバラバラになってしまった。彼女が目にも止まらぬ速さで傘を振るって切り刻んだからだ。そうした電光石火の早技を目の当たりにし、ヤンキー娘が「やべぇ……」と青ざめる。
「
例のあの人が余裕たっぷりに自分の肩を傘でトントン叩きながらそんなことを言う。智子が思っていた通り、彼女の剣の腕前は恐ろしいほどのものだった。みんなからホウキで攻撃されたときにずいぶんとひるんでいた例のあの人なので体のほうは案外ひ弱だったりするのかもしれないけれど、いまや傘剣法の達人と化してしまった彼女にはよほどの不意打ちでもなければ一撃くらわせてやることすら難しかった。
「キャァ──ッ!?」
出口のほうから真子の悲鳴が上がる。教室から脱出するため引き戸をおおっていた髪の毛をみんなで引き剥がしたのはいいけれど、鍵を外して戸をあけた途端、廊下を埋めつくしていた無数の髪の毛が触手のようにあふれ出し、真子をあっというまに絡め取ってしまったからだ。
「まこ──!」
叫ぶゆりがみんなと協力して友達を助けようとするが、がんばりもむなしく真子はあっというまに廊下側へと飲み込まれてしまう。そんな真子を最後まで放すまいとしていたゆりも一緒になって海苔佃煮のジャングルへと引きずり込まれていった。例のあの人は智子たちをどうあっても逃がしたくないのか、あらかじめこんな罠まで張っていたようだ。
「ちくしょうっ、ちくしょ──っ!」
ヤンキー娘がヤケになってイスや机を次々とほうり投げていくがひとつとして例のあの人に命中することはなく、そのいずれもが見事な剣さばきによってなぎ払われていった。
「アッハッハッハ……」
こうして自分の力を見せつけることが楽しいのか、高笑いする例のあの人がもっとやってみせろとばかり指先で挑発する。
「ひぐっ、ひっ、ひっ……」
智子は怖くて怖くてたまらなかった。自分をかばってくれる花子にしがみつき、鼻水を垂らす智子はもう立っているのもやっとだ。だけども例のあの人がなにかを切り刻むたびに
こうして捨て鉢に消えていく勉強道具たちのなかにはおのれが日頃使っていたもの(の複製品)が含まれていたかもしれないが、そんなことを考える余裕がいまの智子にあろうはずもなかった。
(くそーっ、好き勝手考えやがってー!)
誰だか知らないが、例のあの人にこれほどの強さを与えてしまった者が恨めしくて仕方がない。きっとどこぞのバカな男子が後先考えず「ぼくの考えた最強の例のあの人」としておもしろ半分に強化していったのだろう。そんなふうに考える智子は、赤の他人の想像力に時代を超えて苦しめられる今の状況がとても理不尽に思えてしまった。なんでもかんでも強くすりゃいいってもんじゃないぞ、実際におそわれるこっちの身にもなれよと、今となっては大人になっているであろう当時の考案者をののしってやりたくなる。
こんなふうにやたらと凶悪なおばけの話は歴代七不思議のなかにもいくつかあるけれど、例えばキババアなんかはただ逃げるだけなら難しくないとされているし、鬼校長だって校長室に引きこもっていてくれるぶんには怖くない。無敵と思われたきこさんだって、偶然ではあるけれど一応の撃退法を見つけることができた。予想をはるかに上回る手ごわさを見せた化猫党は別としても、みんなそれぞれ注意して対処すれば特に用意がなくともその場の判断だけでやり過ごせるおばけだった。
だけども例のあの人は違う。まず神出鬼没の存在だからいつどこで出くわすかわからない。頼みの綱と思っていた呪文を防いできたし、そのほかの撃退法も条件がそろわず今の智子たちには縁遠い。おこらせると手がつけられなくなるのも恐ろしいところで、あげくこちらの作戦を無力化する工作まで仕掛けてくるのだからたまらない。
「ここっ、隠れて!」
半狂乱のヤンキー娘がありったけものを投げ続けるので、例のあの人の演武はまだまだ続く。そのうち本当にまきぞえをくらってしまいそうだったので、花子は智子をうながし教員机の下へ一緒にもぐり込む。
「ねぇどうしよぉ、どうしよぉ」どうにか助かる手立てはないかと、隣りあう花子に聞いてみる智子であったが、
「ごめんね、わたしもわからないの……あんなふうになっちゃうなんて知らなくて……」首を振る花子は沈痛なおももちで謝るだけだ。
さっき使ったマジックで机の上に呪文を書いて御札がわりにしてはどうか。それはまっさきに花子が考えたことであったが、この騒動のなかで地べたの髪に埋もれてしまったのか、ふたつあったマジックは見当たらなくなっていた。髪におおわれた棚を掘り出してみようともしたが、例のあの人はそれすら見越していたのか、なかに毛がぎっしり詰まっていてものを取り出せなくされていた。教員机の上にはいくつかペンのはいった筆立てがあったはずなのだけど、これも見当たらなかったので知らないうちに隠されてしまったのかもしれない。すべては例のあの人が智子たちに絶望を与えるための念入りかつ几帳面な「仕込み」なのだった。
「チビッ、おまえ、あいつのことやっつけてくれよ!」
「ミャ──ッ!」
ワラにもすがる思いの智子がそんなことを言って、首に巻きつくマフラーをひっぺがそうとする。だけどもチビはいやいやをして悲鳴を上げるだけだった。このキツネヘビが元のサイズまで戻って例のあの人をパクリと飲み込んでくれたらいいのに。そうは思えどチビは小さいままで、おびえたようにまた智子の首へと巻きついていった。
ああ、おばけでもなんでもいい。今ここに例のあの人を圧倒するほどの存在があわられてくれたら。それで都合よく同士討ちしてくれる保証なんてないけれど、それでもこの場をひっかき回してくれるなにかがいたら逃げるチャンスが生まれるかもしれない。内御前はどうだろう。ダメだ、今はチビがいるから寄りつくはずがない。それにあの執念深さからしてまっさきに自分たちのほうへおそいかかってきそうだ。きこさんはどうだ。例のあの人を引きずっていってくれるかもしれない。いや、そもそもどうやって呼び出せばいいかがわからない。きこさん祭りなら知っているけれど、あれは結局裏幕への入り口をひらくためのものに過ぎなかった。ほかにいないだろうか、こちらから呼びつけてやれそうな、そんな都合のよいおばけは。
(──いたっ!)
自身の怪談知識を必死に漁る智子が、ようやくそれらしい
(いや、でもヘタしたらみなごろしに……)
だけどもそれはあまりに危険なおばけ──怪人だった。この怪人の性質たるや、超がつくほど狂暴かつパワフル。なぜか常に激怒していて衝動のおもむくまま暴れ回るのだという。ここ裏幕でいまだ出くわさずに済んでいたのは「それ」がある特別な呼びかけを通してのみ姿をあらわすとされている存在だからだ。そんなものをわざわざ呼び出すだなんて自殺行為に等しかった。
「わあぁん、わぁぁ、もぉぉ……っ!」
ヤンキー娘の泣き声じみた叫びのあと、流れ弾と思われるものが智子たちの頭上へ机越しに落ちてきた。智子が机の陰からのぞき込んでみれば、しっちゃかめっちゃかになった教室でぜーぜーと苦しそうなヤンキー娘がべそをかきつつへたりこむのが見えた。
「ふしー……ふしー……」
息切れしているのは例のあの人も同じだった。数を減らした蛍光灯が、わき腹をおさえつつ肩を上下させる例のあの人のくたびれた姿をぼんやりと照らしだしている。おもしろ半分でヤンキー娘の抵抗につきあっていたようだが最後のほうはいい加減疲れてきたらしい。だけどもふーっと大きくひと呼吸したあと、
「ドーシタノ? モーオワリナノ?」
余裕ぶった態度に戻り、「ソロソロブッタギッチャオッカナー!」とはしゃいだように言って奇妙な構えを取った。傘の持ち手と石突きをそれぞれ両手の指ではさみこみ、胸の前でぐっと引き伸ばすようなその構え。と同時に、キリキリキリ……となにかを引き絞るような音が例のあの人の体から鳴りはじめる。そうして構えを保ったままの彼女がひょいひょいと残がいを避けながらヤンキー娘にせまっていく。ヤンキー娘のほうはもう立ち上がる元気がないのか床を蹴ってあとずさるだけだった。
「やめなさい!」
「ホゲッ!?」
よくわからないけれど
(あわわわ……!)
その様子にハラハラさせられていた智子であったが、見れば花子は例のあの人の傘をつかみ、それを取りあげようとしているようだ。武器を手放すまいとする例のあの人がけんめいに振り払おうとするが、しがみつく花子はどうあっても離れようとしない。
「おら──っ!」
「ギャ──ッ!」
と、そこにヤンキー娘までもが加わった。例のあの人の両足を力任せに引っぱりはじめるが、さっきまでへばっていたヤンキー娘は花子の奮闘を見てどうにか気力を取り戻したらしい。一方の花子も例のあの人がにぎりしめる傘を逆方向からめいっぱい引っぱってやるので、自然と綱引きのような形ができあがった。この場合の綱となるのはもちろん例のあの人の体だ。
「ヤメテー! チギレルー!」
「うっせー! さっさとよこしやがれ!」
強力な武器を装備していたとしても例のあの人自体はやっぱりひ弱らしい。かないっこないと思われていた凶悪怪人の意外なほどにシンプルな弱点だった。えんえんと泣き声まであげはじめたからなんだかいじめられているようで哀れに見えてしまうけれど、さっきまでみんなのことをさんざん追いつめたずるがしこい悪者なので容赦はしない子供たち。
(よしっ、いけっ、やっちゃえ!)
ひょっとするとこれならなんとかなるんじゃないか。せっかくだからあの色々隠し持っていそうなカバンも奪ってやるといいのでは。そしたらもう例のあの人は丸腰だ。手ぶらのあいつならわたしでもみぞおちにヒザとか入れてやれば勝てるかもしれない。そんなふうに思いはじめる智子であったが──
「えっ、なに……?」
「うおっ!?」
花子らが急に下を向いて戸惑った声を上げる。自分たちの足に違和感を感じたからだ。
(髪!?)
離れた場所でその様子を見ていた智子には、彼女らになにが起きたのかがはっきりとわかった。床からウネウネした髪の毛がたくさん伸びてきてふたりの足に巻きつきはじめたのだった。
「んだこりゃあ……!?」
例のあの人をつかまえたままでは手が使えないから、つかんでむしり取ることができない。なのでヤンキー娘が足の力だけで振り払おうとするがどうにもならなかった。それは花子のほうも同様で、泥沼へはまり込んでしまったかのようにもがくだけだ。
そうこうしているうちに大量の髪がみるみる彼女らの下半身をおおいつくし、そこから更に上半身へと伸びていく。
「くそっ、くそぉーっ!」
ついには例のあの人を手放して体にまとわりつくものをむしりはじめるヤンキー娘であったが、その腕にまで髪がびっしりと巻きついていったのですぐさま身動きが取れなくなる。
「ああっ……!」
一方の花子はなにがなんでもつかんだ傘を放そうとしないが、そんな彼女も傘ごと上半身をグルグル巻きにされていき、やがて首から上へと伸びていった髪に顔全体をおおいつくされてしまう。そうしてすっかり
「ひ、ひ、ひぃぃ……!」
すべてはあっというまの出来事で、陰に隠れる智子はただ見ているしかできなかった。もはやこの場で無事なのは自分ひとりだけ。そのことを理解するや恐怖のあまり嘔吐感がこみあげてくる。
「クソガ……クソガ……」
鼻をすんすん鳴らす例のあの人がなにごとかをつぶやきながら上体を起こした。そうして花子のほうをキッとにらみつけると、よつんばいになってそちらへ這っていく。
「カエセヨッ、ドロボー!」
苛立ったように叫ぶ例のあの人が花子の前でなにかをうんしょうんしょと引っぱりはじめた。それは繭から突き出た傘の一部で、自分の武器を取り返そうとしているらしい。だけども花子がよほど強くにぎりしめているからか例のあの人の力では中々引き抜くことができない。
(あ──っ!?)
やがて例のあの人が自身のカバンへ手をつっこんでなにかを取り出したが、彼女の手ににぎられたものを目にした智子が冷や汗を吹き出させる。ギラリと刃先を光らせるそれは智子にも見覚えのある例のカマなのだった。
業を煮やした例のあの人があのカマで花子のことをどうにかするつもりなのかもしれない。そう思った瞬間、智子もまた先の花子のように机の下から飛び出していった。
「やめろー! バカー!」
イスの残がいを拾いあげ、智子が例のあの人めがけてぴゃいっと投げつける。だけども体が震えて力がはいらなかったせいで、それは目標にダメージを与えることもなくぺしっと当たるだけに終わった。
「……」
しかし例のあの人の注意を引くにはそれで十分だったらしい。智子のほうを振り返った彼女が無言のまま口をぽけっとあけている。
「んべぇー」
もっと引きつけてやろうと、智子はできるかぎり憎らしい感じであっかんべーをしてやった。それから最近覚えた「ファックユー」のサインとか「地獄へ落ちろ」のジェスチャーとか、あとはおしりペンペンなんかも交えてやって、できる限りバカにするような仕草を繰り返してやる。するとそうした挑発行為に反応したようで、例のあの人がゆらりと立ち上がった。
例のあの人は他人から
「ブ・チ・コ・ロ・ス」
ダミ声を絞り出す例のあの人が、一文字ずつ噛みしめるように憎悪のこもった言葉を吐く。その表情はこれがもういかりにいかっているといった感じで、お母さんがおこったときより怖い顔だと、智子にそう感じさせるほどだった。
興奮のあまり緑色の瞳を赤黒く転じさせた例のあの人が、足もとに散らばる机やイスの残がいを蹴飛ばしながら刃物片手に智子のほうへ一歩一歩近寄ってくる。教室をおおう髪の毛が本体の荒ぶる感情を反映するかのようにざわめきはじめた。
(呼ぶしかない、アイツを……!)
例のあの人のテリトリーと化したこの教室のなかではもはや智子ひとりでどうすることもできなかった。だからこそイチかバチかの賭けに出るしかない。毒をもって毒を制する──例のあの人を圧倒するほどの「猛毒」をこの場に召喚せんとして胸いっぱいに息を吸う。
「オ、オチンチ──ン!」
口をひらいた智子が第一声、呪文のようなものを唱え、
「オイナリサ──ン! オミソシル──!」
と続けた。そうして最後にひときわ大きな声でこう叫ぶ。
「オチアイフクシ──ッ!!」
瞬間、落雷が教室をおそった。例えではなく実際に教室のまんなか辺りでピカッと光がほとばしり、激しい揺れとともに爆発音が響いたのだった。
(き、きたぁ──っ)
目のくらみがおさまった智子は視線の先にいる何者かをみつけて鳥肌を立てた。燃え焦げた髪の毛じゅうたんの上でしゃがむその誰かは黒いコートを羽織り、修道士のようにフードをかぶっている。少年のようでもあり、少女にも見える彼(あるいは彼女)は服のあちこちに拘束具を付けているようだった。
(【やべー奴】だ!)
これこそが智子の呼びつけた怪人だった。さっき唱えたへんてこな呪文はこの怪人──本来は「
(あ、やばっ……)
やべー奴のかけていたメガネの奥で、閉じられていたまぶたがすっとひらく。そのことに気づいた智子が慌てて教員机の下へと身を隠すが、これは彼(彼女)の視界へはいってしまわないようにするためだ。なにせこの怪人、目につく相手すべてに見境なくおそいかかるとされているのだから。
「コンガキャ──ッ!」
「わっ、ちょっ!」
だけどもそんな智子の足をつかんでくる者がいた。それは例のあの人で、突如現れた新怪人に目もくれない彼女は智子を机の下から引きずり出そうとする。
「おい」
「ヘブッ!?」
しかし例のあの人はすぐさま智子を解放する。動きだしたらしいやべー奴に背後から脳天チョップをくらわされたからだ。その衝撃で手放してしまったカマが床にぽとりと落ちる。
「さっきのクソみてーな歌、あんただろ? なぁ、そうだろ?」
「アバババババ……!」
おどろいてうしろを振り向く例のあの人だったが、そんな彼女の胸ぐらをやべー奴がつかみあげ、ものすごいスピードで揺さぶりだした。これが人間ならばひどいむちうちになったり、頭の中身がどうにかなってしまいかねない所業だ。
(はじまったー!)
怪人同士の戦いのゴングが鳴ったことを受け、智子はもう机の下で息を殺して縮こまるだけだった。新怪人のいかりの矛先は目論見どおり例のあの人に向けられたようだが今はヘタに動いてはならない。やべー奴に気づかれようものならたちまちその手でヒキニクにされてしまいかねないからだ。
やがて例のあの人はどこかに向かってに放り投げられていったようで、机やイスの倒れる音が派手に鳴る。やべー奴の暴力はまだまだ続くようで、背中に生える白い翼をわきわきさせてのし歩いていったのち、例のあの人の「ヌワ~ッ!」という絶叫が教室中に響き渡り──。
「やべー奴」とは何者か。それどころではない智子に代わって説明させていただくと、これはあるテレビゲームが発祥となっていた。八〇年代後半、社会現象まで巻き起こしたという大人気ゲームソフト『ドラゴンクエストⅢ』に世の子供たちが夢中となっていたころ、その陰でひっそりと発売されたものがある。それこそがやべー奴の噂の出どころとなった『オリオンクエスト/ロッテの紋章』というロールプレイングゲームだ。
故郷パシフィック・ワールドを救うため、主人公とその仲間たちは聖なる野球戦士として旅に出る。そしてゆく先々に立ちはだかる暗黒五球団を打ち破っていった彼らはやがて最強の野球戦士・三冠魔王ヒロミツとの決戦に挑むべく、次元の向こう側に存在する球魔界へとワープする。
この三冠魔王こそが最後のボスキャラであり、彼を倒せばゲームクリアということになっているが、オリオンクエストにはウソかマコトか、ある危険な
この「真のラスボス」にはちゃんとした名前がないけれど、とにかくやばいので「やべー奴」と呼ばれている。そしてそんな彼(彼女)と戦わされるのはゲームのなかの主人公たちではない。次元を超えて現実世界へとワープしてきたやべー奴がプレイヤーに直接おそいかかってくるというのだ。やべー奴はおそろしく強いので人間の力では決して勝てない。結果、プレイヤーはなすすべもなく殺されてしまう……。
噂のあらましはこんなものだった。呼び出してしまった子が本当に死体で発見されただとか、アカエイの毒針を持っていれば追い返すことができるだとか、そんなことも噂のなかに含まれていたけれど、実際に裏ワザを試してみた者はほぼいなかったとされている。これはくだんのゲームソフトがほとんど売れず所有者自体がまれであったことに加え、販売元のトラブルにより発売後しばらくして回収・出荷停止の憂き目にあったからだ。
この回収騒ぎについて「あまりに危険なゲームだったから」などとそれらしい理由をつけていた当時の子供たちであったが、諸事情により幻のゲームソフトと化したオリオンクエストは彼らにとっていたく想像力を刺激されるかっこうの題材だったのかもしれない。果ては「どこであろうと歌を歌えば奴があらわれる」なんていう、もはやゲームとは関係のない内容にまで発展していったこの噂であったから、「真のラスボス」はその存在だけがなかばひとり歩きする形で、テレビゲームに興味のない子供たちをも巻き込んで広く知られていったようだ。
生まれた時代を異にするふたりの怪人がプロモーター智子のマッチメイクによって激突することとなった。といってそれはひどく一方的なものであり、やべー奴の猛攻を前に例のあの人はなすすべがない。教室がズシンと揺れるたびに痛ましい悲鳴を上げるばかりの例のあの人であったから、机の下で丸まっていた智子にも両者の勝敗の行方がなんとなくわかった。
例のあの人はもうおしまいだ。きっとあのまま毛むくじゃらの肉団子にでもされてしまうにちがいない。そう思わせるほどにやべー奴のパワーはものすごくてまるで勝負になっていなかった。
(もうちょいがんばってくれないと……)
そうなると今度は自分たちの身が心配になってくる智子。机の足の隙間からちらりと確認した限りでは花子もヤンキー娘も教室の奥のほうで寝転がったままじっとしているようで、さいわいやべー奴が彼女らをおそう気配はまだない。しかしそれも時間の問題で、そのうち例のあの人を倒したやべー奴が次の獲物を求めるであろうことは想像にかたくなかった。だから智子としてはできれば両者共倒れになってほしかったし、それがダメでもふたりの力がせめぎあうことでこの教室から逃げだせるチャンスが生まれるのではと期待していたのだが、このぶんだとそれも望み薄だった。
(さっきまでめっちゃイキってたくせに……ちっとは反撃してみろよ!)
か弱い子供が相手だと例のあの人は強気だ。だけども今はすっかり形無しで、自分よりも強い相手に出てこられると泣き叫ぶことしかできないらしい。
「こンのクソムシがっ! うんち人間がっ!」
ただでさえしっちゃかめっちゃかだった教室はやべー奴が暴れたせいで廃墟さながらとなっている。かろうじて生き残った蛍光灯から死にかけのセミのような音がして緑がかった光を弱々しく点滅させているが、そうした異様な空間でやべー奴の怒号とともに肉と骨のつぶれる音が執拗に響く。それはヤンキー娘の暴力がかわいく思えるぐらいの
「んおっ!?」
息をひそめていた智子が思わず声をあげた。床にしきつめられていた髪の毛がもぞもぞと動きだしたからだ。
(うわわわわ……!)
それは床だけにとどまらない。壁や天井をおおっていた髪の毛までもがいっせいにうねりはじめたので教室はザザザザ……と波のような音に満たされる。これら髪の毛はどうもひとつの場所に向かって集合しているような感じであったから、気になった智子が机の陰からそっとのぞいてみると──
(おおーっ!)
例のあの人に馬乗りになっていたやべー奴が大量の髪の毛に絡みつかれてもがく姿が見えた。これはもしやと智子が思っているうち、髪の毛はあっというまにやべー奴をおおいつくしてしまう。それでも髪の毛たちのいきおいは止まらず、次から次へとあふれんばかりの毛量でしつこく巻き固めていった。
「モガ──ッ!」
やべー奴がたまらずおたけびを上げるが、ぶ厚い髪の層にさえぎられてくぐもったものにしかならない。そうしてありったけの髪の毛が一か所に集中したことでおおいのなくなった教室はすっかりもとの地肌をさらし、窓からはくもり空の頼りない光がふたたびはいってくる。ゆりと真子を飲みこんだあの廊下側のジャングルもきれいさっぱりなくなっていた。唯一黒板だけは毛におおわれたままだが、ここについてはなにがなんでも隠しておきたいようだ。
(なんだよー、やればできるじゃんか)
やがて教室のなかに運動会で使う大玉のような球体ができあがっていた。どうやら毛むくじゃらのお団子になったのはやべー奴のほうだったらしい。意外や意外、やられる一方だったかに見えた例のあの人の思わぬ反撃だった。
「ク、ソ、メガネェ……」
ごふっと血を吐く例のあの人が恨めしげにその黒い球体をにらみつけ、おぼつかない足取りで立ち上がる。髪は乱れに乱れ、顔もあちこち腫れ上がっていてひどいものだったけれど、それでもまだ立つ力ぐらいは残っているようだ。
(今なら逃げられるか……?)
例のあの人もずいぶん弱っているようだし、これはチャンスなのではないか。そのように考えた智子が様子をうかがうように机の下からそろりと出る。
教室中を埋めつくす残がいの向こう側では花子とヤンキー娘が身を起こして繭から抜け出そうともがいていた。彼女らを拘束していた髪の毛はその大半がやべー奴を封じるために動員されたようで、いまやわずかな毛量を残すのみとなっていたから自力で抜け出すことも難しくないと思われた。
「あっ!」
と、花子が急に声を上げる。例のあの人の頭からシュッと伸びてきた髪に不意をつかれ、持っていた傘を奪われてしまったからだ。あわてて取り返そうと手を伸ばすもののまにあわず、傘はそのまま例のあの人のもとへ飛んでいく。
「テメーノスベテヲ、ヒテイシテヤル……」
傘を受け取った例のあの人がすぐさまビリヤードの構えを取ったので、またあの強烈な技を放つつもりかと身構える智子。しかし傘が狙う標的は子供たちではなかった。
「ン──ッ!?」
ズパァン、と破裂音が響き、同時に毛玉からうめき声が上がる。例のあの人が繰り出した必殺の一撃はやべー奴に対して放たれたのだった。コンクリートをもつらぬくマッハ突きであったから、それをまともに受けた毛玉は吹っ飛び、そのまま窓辺の柱にぶつかり教室を大きく揺らす。
反射的にぎゅっと目をつむっていた智子であったが、ややあってそっと様子をうかがってみる。するといつのまにやら移動していた例のあの人が、ぷすぷすと煙を上げる毛玉の前に立っているようだった。
「ツギハテメーダ、クソガキ」
例のあの人が毛玉に刺さる傘をガシッとつかみ、眼光も鋭く智子をにらみつける。見事な早技でライバルにトドメを刺したかの剣豪は早くも次の獲物へと狙いを定めたらしい。気配を消すように身を縮こまらせていた智子であったがそう易々と逃がしてはくれないようだ。
「は、はひゅっ……!」
射貫くような殺気にあてられた智子の体がたちまち硬直し、呼吸もままならなくなる。今すぐこの場から逃げ出したいという思いに反し、術でもかけられたかのように手足がすくんで自由が利かなくなってしまった。これもまた剣豪としての例のあの人がそなえる技のひとつなのだろうか。
(まだ全然元気じゃんかっ!)
どうも例のあの人は見た目ほどには弱っていなかったようだ。あれだけ叩きのめされてなお、真のラスボスと恐れられたやべー奴を一撃で黙らせてしまうほどの力が残っている。いっときは例のあの人をちょっぴり応援したくもなった智子であるが、はやくもそのことを後悔していた。
「フンヌッ、フンヌッ……」
しかしなんだか例のあの人の様子がおかしい。毛玉を足蹴にしつつ両手でうんうん力をこめる彼女であったが深々と刺さっていた傘はびくともしない。
「ク・ソ・ム・シ」
すると毛玉のなかからいきなり手がつきだして例のあの人の腕をつかむ。おどろいた彼女がそれを引き剥がそうとするが、ものすごい力でつかまれているようでどうにもならなかった。
「フガガッ……」
そうして引っぱられるまま例のあの人が毛玉に体をうずめていく。必死にもがく彼女であったが、ズッ、ズズズッ……と、見るまにその上半身が飲みこまれていった。
「智子ちゃん! 出て! 早くっ!」
あっけに取られていた智子であったが、教室に散乱する残がいの向こう側からの呼びかけにハッとなる。見ればすっかり自由の身となった花子が、今のうちに教室を出るようにと合図を送ってきているようだった。
「ボケっとしてんな、とっととずらかるぞ!」
「ま、待って……!」
花子の隣には同じく呼びかけをおこなうヤンキー娘の姿もあった。
逃げるなら今のうち。智子の待ち望んでいた瞬間がまさにいま訪れた。例のあの人を毛玉に引きずりこんだのはやべー奴に違いない。あの強烈な突きをくらってなおもいまだ闘志を失っていないらしい。二大怪人の戦いはいまや一進一退のあらそいへともつれこんでいたのだった。
例のあの人の殺気から解放された今、智子もまた自由の身だ。変わり果てた教室のなかで手近な出口を目指す智子が、辺りに散らばる勉強道具たちのなれの果てを次々にまたいでいった。
*
「あっ……よ、よかった、いこいこっ」
智子が出口をくぐると、廊下の先のほうで仲間たちが待っていた。そこには髪の毛地獄に呑まれていったゆりと真子の姿もあり、どうやらふたりとも無事であったらしいことが見て取れた。そのことにほっとした智子が小さく手を上げながら駆け寄っていく。
「あれ、なに?」
「へっ?」
あとはさっさと逃げるのみ。しかしその前に教えてほしいとばかりに、ゆりがやぶからぼうに智子へ質問してきた。ゆりが視線で示した先は窓辺のほうで、そこからは運動場が一望できる。その運動場の上空でなにか巨大な白いかたまりがふよふよと浮いているようだった。
「さあ……?」
謎の浮遊物体に智子が首をかしげていると、まるで全員がそろうのを待っていたかのようにそれが
「うわっ、ちょっ……」
どこかしょんぼりした顔の浮遊物体が突如校舎側に突進してきたので智子たちは慌てて走りだす。するとたちまち一行のうしろで轟音とともにガラスが派手に砕け散り、校舎全体がグラリと揺れた。浮遊物体が窓辺に激突したせいだ。
訳もわからず廊下の先へとのがれていったみんながつきあたりの曲がり角に身を隠す。
「なにしてんだありゃ……?」
「こ、こっちにこようとしてるのかも」
息をきらせる智子がヤンキー娘と一緒に陰からのぞきこんでみれば、廊下の奥でさっきの浮遊物体が窓枠をひしゃげさせ、クッションのように柔軟なその体を校舎のなかへ潜りこませていたのが見えた。だけどもあまりに体が大きいせいでつかえてしまったのか、途中からすっかり身動きが取れなくなったようだ。
「あいつ、たぶん【
浮遊物体の正体について思い至ったらしい智子がその名前を口にする。この「ショボーン」というのは戦時中に流行った噂のなかに登場するおばけ──というより人工物であり、当時の子供たちのあいだでまことしやかにささやかれる存在であった。いわく、陸軍によって極秘に開発されたというこのショボーンは陸に空にと戦場を選ばず活躍する万能性を持ち、敵戦車あらば上空からのしかかって圧壊せしめ、敵航空機あらば体当たりで撃墜するとされていた。
そうした秘密兵器が茂子原市の上空でときおり試験飛行をしている。空に大きな白いものが飛んでいれば、それは気球ではなくひょっとするとショボーンかもしれない……噂の内容としては大体このようなものであった。他にもいくつか説があるようで、「兵器ではなく
「ほっといていいのかな、あれ」
なんにしても自分たちにおそいかかってきた以上は警戒せざるをえない。そこで智子が物知りな先輩へと意見を求めたところ、ショボーンの姿を見やっていた彼女はしばし考えて、
「動けないみたいだし、あのままにしとこ?」
ショボーンの巨体が隙間もないほど通路いっぱいに押しこめられている。あんなものと屋外で出くわそうものなら脅威でしかないが、都合のよいことに彼は自分で自分を動けなくしてしまったようだ。そうとわかればもう構うことはないと、ショボーンを無視することにした智子たちはそばにある西非常口から外へと出ていくのだった。
◆
「ほらっ、あっち行けー!」
手に持つなにかを振りかざして智子が駆けていく。するとご神木のまわりをうろついていた者たちがクモの子を散らすように逃げていった。それは子犬ほどの大きさのおばけアリの群れで、ご神木のある広場はいつのまにか彼らによって占拠されていたようだ。
(こんなちっこくてもやっぱ天敵なんだな……)
ひと息ついた智子の手のひらでなにかがもぞもぞ動いている。それは一匹のヘンな虫で、ブヨブヨに太ったクワガタのような見た目をしていた。智子にとって馴染みの深い彼の名は砂もぐりのアリ食べ虫──「アリジゴク」だ。
「準備するからちょっと待っててね」
「あっうん……」
アリの群れがすっかりいなくなったのを見届けた花子が声をかけてくる。言われた智子が返事をし、用は済んだとばかりにポケットへアリジゴクをしまい込んだ。本来のアリジゴクはかなり小さな虫なのだけど、智子が持っているものはピンポン球とおなじぐらいの大きさをしている。これは彼が本物のアリジゴクではなく智子が自分の髪かざりをもとに想像力で生み出したものに過ぎないからだ。
ここ裏幕にはいきものがまったく存在しない。騒がしいセミは一匹もいないし、飼育小屋もからっぽになっていた。ビオトープの人工池で飼われていたメダカたちだってきっとおなじように消えてしまっていることだろう。だけどもそうしたなかにあって智子はある虫を必要としていた。それこそがアリジゴクであり、さっきまでこの場にいた連中を追い払うことができたのも彼のおかげなのだった。
ただのつる草をヘビに変えてしまえる花子直伝の術は、材料へ念をこめる際に明確なイメージを思い浮かべることがなにより重要だという。その点で言うと智子はアリジゴクとある意味では仲よしだったので問題はなかった。この黒木智子という少女は日頃からアリをいじめて遊んだりしているのだが、そうしたときによく協力してもらっていたのがアリジゴクであったから、おかげでその姿かたちをよく覚えていた智子は苦労せず彼を生み出すことができたという訳だ。
もう少し言うと、智子がアリの命を粗末にするような子でなければさっきの巨大アリを追い払う必要はなかった。彼らは【人食いアリの復讐】という怪談に出てくる存在で、人間をエサにするというおそるべき存在ではあったのだが、狙うのはあくまで「普段からおもしろ半分にアリを殺している者」に限られているからだ。最初、非常階段から広場へとおりていく前に花子はそう言ってみんなを安心させたのだが、智子だけがひとりうろたえていた。それはアリいじめに縁のない仲間たちと違ってあまりにも身におぼえがあり過ぎるからだった。だからこそ人食いアリ唯一の弱点であるとされるアリジゴクに頼らざるをえなかったのだけど、そのせいでアリいじめの常習犯だったことが花子にバレて「ダメよ、そんなことしちゃ」と注意されたのが恥ずかしい智子であった。
*
(おおー……なんか本格的)
どこかで手に入れておいたらしいチョークを使って、花子がご神木のまわりに魔法陣のようなものをせっせとかきはじめた。その様子を智子たちが少し離れたところで眺めている。どんなふうに儀式を進めていくのかということについては特に教えてもらっていない智子であったが手順の大半は花子のほうでやってくれるということであったから手伝うこともなくヒマをしているのだった。
『落ちちゃう……落ちちゃう……』
「んっ!?」
背後から急に声が聞こえてきたので、それに反応した智子がびくっとなって振り返る。
『落ちちゃうぅぅぅ』
仲間たちもいちように振り返り、息を呑んで声のするほうを見やっている。みんなの視線の先にあるのは保健室の窓で、白いカーテンに閉ざされたその向こう側から「落ちる、落ちる」と誰かがしくしく泣きながらなにごとかをしきりにうったえてきているようだった。
「これってあれだよね? 保健室の女の子の話……」心当たりのある真子がたずねると、
「あ、あーうん、そうそう」智子がそれに同意する。
保健室にまつわる怪談というものはどの学校にも大抵あったりするもので、それは原幕小においても例外ではなく、【保健室のしずくちゃん】という噂がずいぶん昔に流行ったことがある。このしずくちゃんというのは女の子の幽霊で、もともとは原幕小にかよう児童のひとりだったとされている。たいへんかわいらしいと学校中の評判で、男の子はみんな彼女に夢中だった。しかしその反面、女の子たちからはとても嫌われていたという。そんな彼女であったけれどあるときテスト中に具合が悪くなって保健室で寝ていたところ、容体が急変してそのまま死んでしまったらしい。以来、誰もいない保健室からときおり彼女のすすり泣く声が聞こえてくるようになったのだとか。
(今ごろ出てきたのかぁ……)
みんなで隠し穴を探していたときにこの保健室へも一度訪れていた。だけどもそのときは特におかしなことは起きなかったので、警戒していた智子はちょっと肩透かしをくったような気持ちになったりもしていた。
「うぅー、クソッ……!」
苦虫を噛みつぶしたような表情でヤンキー娘が顔をそむける。他のみんなも少なからず「それ」に嫌気がさしたようで、真子などは口もとを手でおおって押し殺したような声を上げていた。
(まあ害はないらしいけど……)
そう考える智子ではあったがやはり気味が悪いことには変わりない。カーテンに突然真っ赤な血がにじみだし、白い生地を生々しく染めていく目の前の光景を目にすれば誰だって似たような気持ちになるはずだ。
『落ちちゃう、落ちちゃうのぉぉぉ……』
「くろきぃ、これなんとかしてくれよぉ」
保健室に背を向けて耳をふさぐヤンキー娘がそんなことを智子にお願いしてくる。彼女にとって繰り返し響いてくる幽霊の声は耐えがたいものがあるようだ。
「あー、はいはい……」
おばけ相手に殴りかかっていく度胸はあるのにヘンなところで怖がりだなぁと、ヤンキー娘のそうした様子がちょっとおもしろい智子。ともあれご要望に応じてあげるべく保健室の窓へと寄っていく。
「だ、だいじょうぶだよー、だいじょうぶだからー」
智子が窓越しにそう呼びかけてやったところ、泣き声がピタリと止む。それきり幽霊はうんともすんとも言わなくなり、あとには血の染みたカーテンだけが残された。いま智子が言ったのはしずくちゃんをなぐさめてあげるための言葉で、こんなふうにしてあげるだけで彼女は泣きやむのだという。
一体なにが「落ちちゃう」のか。そこのところはまるで謎だけど、しずくちゃんは悪さをするような幽霊ではないとされていたから、これまで様々な凶悪おばけたちに苦しめられてきた智子としてはなんともぬるい相手に思えてあまり怖さを感じないのだった。
*
「みんなー、こっち来てー」
すっかり魔法陣をかき終わった花子が手招きしながらみんなを呼び寄せる。智子たちがそれに応じて集合したところで「じゃあはじめるね」と言う花子がベンチの上からご神木のごつごつとした根っこに足をかけてぴょんとジャンプした。
「ほら、支えてやっから」
「あっうん、ありがとう」
どうも花子は木にのぼりたいらしいが、なにぶん大きくて背の高い木なので近くの枝にも中々手が届かない。それを察したヤンキー娘が声をかけて木のぼりの手伝いをしてやるのだった。
(なにしてんだろ……?)
太い枝の上で立ち上がった花子が体重を乗せてそれを揺すり、葉をカサカサと鳴らしはじめた。これも儀式の手順のひとつなのだろうかと考える智子であったが、辺りをキョロキョロする花子がずっと同じことを繰り返すので「へんなの」と思わずにはいられない。
(おっ……?)
と、ふいに葉のこすれる音が花子がいるのとは別の位置から聞こえてきた。音のするほうを見やった智子は枝のひとつがわずかに揺れているのを発見する。するとまもなくその枝がさかんにしなって騒がしく葉を鳴らすのだった。花子もそれに気づいたようで、枝を揺するのをやめた彼女がしばらく様子をうかがったのち、うんしょと木からおりてくる。
「ねぇ、なにしてたの?」
「合図をね、ちょっと。もとの世界のほうに手伝ってくれる人がいるの。その人に『いまからはじめるよー』って伝えたかったから」
今の行為になんの意味があるのだろうと気になった智子がたずねてみれば、花子からこうした答えが返ってきた。それは初耳だとおどろく智子であったが、続く花子の説明によればなんでもご神木は裏と表の世界のどちらにもつながっているそうで、それを利用してさっきのように簡単な交信ぐらいならおこなえるのだという。
「あっ、手伝ってくれる人ってもしかして今江先生?」
「ううん。でも智子ちゃんの知ってる人かも」
「えー……?」
しかしその協力者が誰なのかについては教えてくれない花子。智子がしつこくたずねてみても「あとでわかるから」と言ってはぐらかすだけだった。一体誰なんだろう。他の先生たちだったりするのだろうか。遅れて鳴りやんだその枝を見上げる智子は、ひょっとしてあの怖い警備員のおじさんなのかな、などと考える。
いつぞやかの登校時間、荻野先生が正門前に立って子供たちへあいさつをしていたとき、それを避けようとした智子が非常用門のほうからこっそりはいったことがあった。だけどもここは普段通行禁止になっている場所で、扉には防犯センサーまで仕掛けられていたから、それを乗り越えようとした智子のせいで警報が鳴りだしたちまち警備員のおじさんが飛んできた。そうして「どこからはいってるんだ!」とこっぴどく叱られた智子であったからこの警備員さんにはまるでよい印象がないのだった。
(まあ、みんなもいるし……)
ひょっとすると表の世界へ戻った途端にまたおこられるかもしれないと、智子は少し憂うつな気持ちになってしまうけれど、仲間たちが一緒ならきっと怖さも五分の一なのでまあいいやと思いなおす。
「じゃあみんな、ここに正座して」
そう言って花子がみんなをご神木の前に座らせる。そこはちょうど表の世界で智子が例の祭壇を築いた場所の手前であった。そうしてみんなの先頭へと座りこんだ花子がうしろを振り返り、
「これからわたしが
ゆっくりやるからだいじょうぶだよと、そう前置きしてからいよいよ儀式を開始した。
「きこさん、きこさん、さようなら」
花子が唱えはじめたのはきこさんを呼ぶときの祭文とよく似た言葉だった。みんなも言われた通りあとに続いてその言葉を繰り返す。
「わたしと一緒に帰りましょ。お菓子を買って、帰りましょ」
花子がそこまで唱えたところで、どこからともなく「ドン……ドン……」と太鼓のような音が響いてきた。それにおどろいた智子が「な、なに?」とうろたえたが、花子がシッと口先に指を立て「だいじょうぶ、続けて」と小声で先をうながす。
「悲しくないよ、さみしくもないよ。そばにいるから、見てるから」
智子たちが祭文を続けていくうち、太鼓のような音はどんどん大きく激しくなっていく。もし智子が吹奏楽クラブにでもはいっていれば、その重い響きが「ティンパニ」と呼ばれる打楽器の音とそっくりであったことに気づいたかもしれない。
「さよならきこさん、またいつか。忘れたころに、またいつか」
花子がここまで続けるころには肌をびりつかせるほどの重低音がひっきりなしに届いてやかましいぐらいだった。どうやら校内全てのスピーカーから流れてくるらしいそれはいまや巨大な旋律を帯び、広場のみならず学校中を包みこんでいく。
「きぇーい! きぇーい!
地鳴りにも似たティンパニの迫力に負けないよう、花子が大きな声でそう唱える。ここにきて「きこさん」ではなく長ったらしい呼び方へと変わったので言い間違えそうになってしまう智子であったが、ともあれ祭文の締めの部分にあたると思われるこの叫びを繰り返す花子と子供たち。
と、そうするうちに目の前のご神木に変化があらわれた。そのゴツゴツした樹皮の隙間から光があふれだし、葉がいっせいに騒ぎだしたのだ。それに合わせて周囲の魔法陣も白く光を放っているのが見える。
「来たよ! さがって!」
それまでのドンドコ音が突然ピタリと鳴りやんだのを合図に、花子が叫んで立ち上がる。それにつられてみんなが飛びのけば、巨木の幹のあちこちがメキメキ、パキパキと裂けていき、枝もぐにゃぐにゃによじれていった。辺りにまばゆい光がほとばしり、そのまぶしさが智子たちからいっとき視界を奪う。いまや広場全体を地震のような揺れがおそっていたので誰もが互いに支えあわないと立っていられなかった。
「うわー、すごいっ!」
やがて揺れがおさまったところで、目を開いた智子が興奮気味に声をあげた。目の前の巨木がいまやすっかりその形を変え、淡い光をまとった大きな鳥居へと変化していたからだ。
「ここから帰れるから! ちょっと長いけどがんばろうね!」
たなびく髪をおさえつつ、花子がそう言って鳥居を指さす。前方からなまぬるい風が強い勢いでごうごうと吹きつけてくるが、これは鳥居の先にまっくらな空間が大きく広がっていたからだ。
「ほら、行こ?」
「あっうん……!」
花子に手に引かれて鳥居をくぐっていく智子。まるでワープゲートみたいだなと、智子はちょっとワクワクした。それに続くように残るみんなもあとをついてくる。
くぐった先の空間は果てしなく広がっていて、遥か先で星空のようなものがうっすらとちらついている以外は何も見えなかった。気圧の違いからか先ほどの強風もなりを潜め、今は足もとから立ちのぼってくる空気の流れがわずかに感じられる程度になっていた。
「クゥーン……」
そうして少し進んだところで、智子に巻きついたままだったチビが急に鼻を鳴らす。おや、と思った智子が手であやしてみたところ、指先をペロッとひとなめしたチビがふいに首から離れて地面に落ちる。
「あっ、チビが逃げる!」
智子が声を上げるが、チビはみんなの足もとをすばやく這っていき、そのまま入り口のほうへと一目散に引き戻っていった。
「巣に帰っていったのかもね」花子がそう言うと、
「えー、つれてこうと思ったのにぃ……」智子が残念そうに肩を落とす。
あの不思議生物を大人のひとたちに見せてあげたらものすごくおどろくはずだ。世間からも注目されて、テレビの出演依頼が殺到して大金を稼げるようになるかもしれない。そんなふうに期待していた智子であったから金づるに逃げられてしまったような気持ちだ。そうでなくとも智子はチビのことをペットとして飼ってあげるつもりでいたのでガッカリせずにはいられない。なんだかスースーしてきたなと、自身の首をなごり惜しそうにさするのだった。
*
「足もとに気をつけてね。落ちちゃったらもう戻れなくなるから」
列を作ってまっくらな空間を歩いていくみんなに花子が注意をうながす。この空間には大人が数人並んで通れそうな幅の石畳が先のほうまで続いていたが、うっかりしていると道脇に広がる奈落の底へと転落してしまいかねない。とはいえ辺りがまっくらであるにもかかわらず智子たちの目にはこの石畳がなぜかはっきりと見えるようになっていた。それはみんなの体も同様であり、暗闇のなかにあってもお互いの姿をちゃんと確認することができていたからよほどの不注意でもなければぶつかったりしたはずみで足をすべらせてしまう心配はないようだ。
「うわぁ、長いなぁ……」
やがて一行は石畳のつきあたりまでやってきたけれど、その先に延びる階段を見あげた智子がため息をつく。石造りの階段はさっきまでとちがって急に幅がせまくなっていたが、子供でもふたり並んで歩くぐらいがやっとのそれがはるか上のほうまで無数の赤い鳥居とともに続いている。
「もう少しだよ、がんばろ? 疲れたらおんぶしてあげるから」
「あっ、い、いいよ、だいじょうぶ」
花子にそう気遣われたので、手を振る智子が丁重にお断りする。なんともめんどうみのよい先輩であったけれどそこまでお世話になるのは気が引けた。
それにしてもこんな先輩がいただなんてウチの学校もまだ捨てたもんじゃないな。もしもこの人が自分と同じ学年で同じクラスだったりしたらきっと楽しかっただろうなと、智子はそんなふうに思う。
「あ、あのさ……!」
「なに?」
階段をのぼっていた智子が、並んで歩く花子へふと思いついたように話しかける。
「オカルト研究会ってあるじゃん? むかし今江先生がはいってたやつ……。それさ、もっかい作ってみない? その……わたしと、花子さんで」
このふしぎな先輩とこれからも関わりを持てるようにしてみたい。そうしたら学校にかようのが今より苦痛じゃなくなるかもしれない。だからふたりでかつてのオカルト研究会を復活させてみるのもいいかもしれないと、智子のなかにそのような考えが浮かんでいた。
「そうだねー……」
「あっ、い、嫌ならいいんだけど……! も、もしよかったら……」
そうした智子からの遠慮がちなお誘いをどう受けとめたのか、花子がしばし考えこむ。
「じゃあ智子ちゃんが会長やってみる?」
「へっ? あ、でも、それはちょっと……。ぜったい花子さんのほうがいいよ、『会長』って感じするじゃん」
「そんなことないよ。智子ちゃんが会長だったらきっと他の子も参加してくれると思うなぁ」
「ええー、わたしじゃダメだよ、花子さんがなってよ」
「智子ちゃんが会長じゃないとわたしもオカ研やらないよ?」
「んー、じゃあ、わかったぁ……」
会長は智子にやってほしいと言って譲らない花子であったから、根負けした智子がうなずく。とはいえこれは新生オカルト研究会の立ちあげに協力すると花子が約束してくれたようなものだ。そのことが智子にはうれしかったので自然と笑みがこぼれてしまう。
「あっそうだ、これ返すね」
「あっ、ども……」
思い出したように花子がポケットをまさぐり、そこから取り出したハンカチを智子に渡す。これは智子が貸してあげたままにしていたもので、ようやくもとの持ち主の手に戻ってきたのだった。
そうこうしているうちにやっと階段のてっぺんまでやってきた。みんなふぅふぅ息をついて疲れているようだけれど、目の前の光景──最後の鳥居の先に外の世界が映っている──を前にしてその顔に明るいものを浮かべている。
「あっ、智くん!」
智子がはっとしたように声をあげた。鳥居の先でひとりの子供がひょいと顔を覗かせたからだ。それは智貴であり、お姉さんと目が合って彼自身もおどろいているようだった。
がぜん走りだした智子が勢いよく最後の鳥居をくぐり抜ける。するとたちまち様々なものが智子を出迎えた。むわっとした熱気が体をまるごと包みこみ、元気いっぱいの昆虫合唱団が夏の空気に演奏を乗せてくる。空からはギラギラとした日差しが降っていて白く照り返す校舎や地面がまぶしいくらいだった。そしてなにより智子のことを出迎えてくれたのは──
「姉ちゃんさ、ホントなにやってんだよ……」
安心したような、それでいてあきれたような顔の智貴が開口一番お姉さんにもんくを言う。すると智子はそんな彼をまじまじと見やり、
「本物の智くん?」
「あたりまえだろ」
「ホントにホント? ウソじゃない?」
「なに言ってんの?」
「じゃあ『お姉ちゃん』って言ってみて」
「言わねぇ」
智子の問いかけに眉をひそめてそっけない返事をする智貴。するとそうした反応をどう思ったのか、智子の顔いっぱいに笑みが広がっていく。
「ともくーん、ただいまぁー! 帰ってきたよぉっ、お姉ちゃんだよぉっ」
「ちょっ、やめろって……!」
弟をぎゅっと抱きしめる智子が、汗ばむ彼の体に顔をめいっぱいすりつけてその確かな存在をたっぷりと感じ取る。そうしたお姉さんの行動におどろく智貴が抵抗するけれど、はしゃぐ智子は彼を放そうとしない。
「智くん、あれだけ行かないって言ってたのに。やっぱりお姉ちゃんのこと心配になっちゃった?」
首をこてんとかしげる智子からそのように言われた智貴がふてくされたように黙る。だけどもそうした態度が今の智子にとっては嬉しい。目の前にいるこの不愛想な弟はまちがいなく本物だ。あれだけ同行を渋っていたはずの弟が結局はここへやってきた。なんだかんだ言っても最後はこんなふうにつきあってくれると心の片隅で信じていた智子だったので、その期待に応えてくれた弟のことがいとおしくてならない。無事に表の世界へと帰ってこられた喜びも相まって智子はずいんぶんとテンションが高くなっているようだ。
「ねぇ、警備員の人は?」辺りを見回す智子がそうたずねると、
「知らない」智貴がそっけない返事をする。
「誰かがここでお姉ちゃんたちのこと手伝ってくれてたんだよ。智くん見てないの?」
花子が言うには協力者がいるとのことだったが、それらしい者の姿は見当たらなかった。
「いや、それ俺だから」しかし智貴がこう答えたので、
「そうなの!?」おどろかずにはいられない智子。
まさか自分の弟が協力者だったとは。確かに花子の言った通り「知っている人」にちがいなかった。ご神木の枝のひとつから縄跳びが不自然に垂れ下がっていたのだが、智貴はこれで枝を揺らして裏幕に合図を送ってきていたのかもしれない。
一体どういうなりゆきでふたりが協力しあうことになったのか、これは花子本人から教えてもらわねばと思った智子が彼女の姿を求めて視線をさまよわせる。
「おい、あの六年どこ行った?」
ヤンキー娘が智子に声をかけてきた。姉弟がむつみあっているうち仲間たちもすっかり帰ってきていたようだ。しかしみんなの様子がどうもおかしい。真子も、そしてゆりも、広場をうろつきながら誰かのことを探しているようだった。
「あ、ど、どうしたの?」
「いねーんだよあいつ。帰ってきてねーんじゃねえか?」
ヤンキー娘の言葉を聞いて智子がたちまち青ざめた。智子たちが通ってきた脱出路、その出口となっていたものは外から見るとご神木の幹に大きく裂け目ができるような形になっていたのだけど、今はそれもお役目御免とばかりにすっかりふさがっているようだった。そもそも花子はみんなの先頭にいた智子の隣を歩いていてそのうしろにはヤンキー娘たちが列になって続いていたから、おいてけぼりをくらったということも考えにくかった。
(なんで……!?)
みんなと一緒になって花子のことを探してみる智子であったがどこにも見当たらない。ついには大きな声で彼女の名を呼んでみるもののやはり返事はなかった。智貴にも相談してみる智子であったが、花子の名前を出してみても彼は首をひねるばかりでそもそもそんな人のことは知らないという。彼が学校にやってきた際に会ったのは今江先生と警備員のおじさんだけだったそうだ。
「ちょっと先生呼んでくる」
そう言って智貴がどこかへ走っていった。
花子は果たしてこちらの世界に戻ってこられたのだろうか。彼女ひとりだけがなにかの間違いで異次元へと放り出されてしまったのではないか。仲間たちがベンチに座って途方に暮れているなか、同じくそこへ腰かけた智子の心にたくさんの不安がよぎっていく。
(せっかく約束したのに……)
弟に再会することができて心底ほっとしていた智子であったが、そうした気持ちがいっぺんに吹き飛んでしまうほどのつらさにおそわれた。涙がじわっとにじみ、鼻水までもが垂れてくる。
きこさん祭りなんてするんじゃなかった。そしたらみんなのこともあの先輩のことも巻きこまずにすんだのに。こんなことになってしまったのはどう考えても──わたしが悪い。
大昔にこの学校で起きた失踪事件が今また繰り返されてしまったと、そのように考える智子。かつて行方不明となった子供たちのなかにとても仲のいい友達がいたのだと、ゆうちゃんのひいおばあちゃんから聞かされていたことを思い出す。その子がいなくなって本当に悲しかったと語るおばあちゃんだったけれど、今の智子にはその気持ちがよくわかった。とても大切ななにかを失った気がして胸にぽっかり穴があいたようだ。
「みんなー!」
だしぬけに呼びかける声がした。はっとなった智子が顔を上げると、保健室の窓をあけた今江先生がそこから手を振ってきているようだった。その隣にはさっき広場を離れていった智貴の姿もある。
「せんせ──!」たちまち智子が叫び、先生のもとへ走り寄っていくが、
「あのっ、あのっ、はなっ、花子さんが、あの、うっ、うぇっ……」ノドがつかえてうまく言葉が出てこない。
「先生、あの、六年の先輩がいなくなっちゃって……。わたしたち、今まですごく怖いところにいたんですけど……」
集まってきた仲間たちのなかで、真子が代わって今江先生に事情を説明しようとする。するとその言葉が終わらないうちに、
「あっ、待って田中さん。だいじょうぶ、わかってるから」
と、今江先生が待ったをかけた。
「黒木さん、ほら、顔ふいて」
「あっ……グスッ……う、うん……」
今江先生がそう言ってポケットから取り出した自分のハンカチを智子に渡してやる。智子の顔はいまや涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになっていたからそれを見かねてのことだった。
「ウソついちゃってごめんね」
「な、なにが?」
「先生が花子さんなの。こうしてちゃんと帰ってきてるからだいじょうぶだよ」
「……へ?」
鼻をずびっとすする智子は今江先生がなにを言っているのか理解できなかった。だから智子は「い、言ってるけど……」と、ハンカチ片手に仲間たちへ混乱気味に話しかける。
「センコーよ、オメーなに言ってんだ?」
本気で意味がわからないといった顔のヤンキー娘が、教師に対するものとは思えない口調で問いただす。
「ほんとだよ? みんなと一緒に裏幕でおばけと戦ったりしたもの。ほら、例のあの人とかすごかったよね? 黒木さんがいきなりやべー奴を呼ぶからびっくりしちゃった」
それに対する今江先生の回答は彼女の主張を裏付けるものだった。あの裏側の世界に行った者でなければ知らないようなことを先生は確かに知っていたのだから。
「裏幕ってね、子供しかはいっていけないようになってるの。だからちょっと幽体離脱して子供のころに戻ってみたんだ」
「そ、そうなのォ……?」
さりげなくものすごいことを言ってくる今江先生であったから、もう目を回してしまいそうになる智子。今まで花子さんだと思っていた先輩が実は先生だったなんていきなりカミングアウトされても心の整理が追いつかない。だけども心当たりがあるかと言えば、これがずいぶんとあるのだった。自分以上に怪談や裏幕に詳しくて、まるで大人のように頼もしい人だった。声や癖なんかもどこか先生本人を思わせるものだったし、それに──
(あの匂い、今江先生だったんだ……)
最初に花子が姿を見せたとき、犬になっていた智子はその鼻でとても懐かしい匂いをかぎとっていた。それはかつて今江先生のくすぐり攻撃を受けた際にもかいだことのあるふんわり優しい匂いなのだった。幽体離脱していたという先生だったけれど、あのとき花子から自己紹介をされた際、もしや幽霊なのではと疑ったのはあながちまちがいでもなかったようだ。例え幽霊になったとしてもその人が本来持っている匂いというのは変わらないものなのだと智子はこのときはじめて知った。
「い、言ってくれたらよかったのに。なんで隠してたの?」
「ごめんね、誰かに教えたり見破られたりするとすぐもとの姿に戻っちゃうから……」
智子の質問に今江先生が申し訳なさそうに答える。どうやら先生にはやむにやまれぬ事情があったようで、そのためにウソの名前を使ってまで別人のふりをしていたようだ。
「とんでもねーセンコーだな」ヤンキー娘がそのはちゃめちゃぶりに苦笑し、
「はぁ、よかったぁ」真子もくたびれたように胸をなでおろす。
「ふぅ……」なんにも言わないゆりだって少しぐらいは安心したのか軽いため息をついていた。
智子はもう、力が抜けてへなへなと座りこんでしまいそうだった。心配して損したという気持ちと無事でよかったという気持ちがないまぜになって「もぉー、せんせぇー」と笑うしかない。
「黒木さん、オカルト研究会、やろうね。わたしが顧問で、黒木さんが会長だよ」
「あーうん……そだね……」
今江先生は大人だから同じ会員として智子に付きあうという訳にはいかない。だから代わりに顧問になってくれるということなのだけど、同年代のステキな先輩と一緒に活動するというプランがゆめまぼろしになったとわかってちょっとあてが外れたような気持ちの智子。先生が子供だったのはずっと昔のことで、初代オカ研メンバーであったころの「先輩」はもういない。そのことが智子にはなんともさみしく感じられるのだった。
「みんなもどう? わたしたちと一緒にやらない? おばけのこととか、世のなかのふしぎなことを調べたりするの」
会員が智子ひとりだけというのはなんともふびんだ。そのように思ったからか今江先生がみんなのことも会に誘う。
「カンベンしてくれよ。そーゆーのはもうこりごりだっての」
また妙なことに巻きこまれてはたまらないと、すぐさま拒否するヤンキー娘。
「あの、それって危ないこともするんですか?」
さっきまで危険だらけの世界にいた真子としても不安に思うのか、まずなによりも聞いておきたいことをたずねる。
「ううん、大丈夫。ちょっとした勉強会みたいなものだから。本やネットで調べものしたりとか、人から聞いた話をまとめたりとか、いつもそんな感じでやろうかなって」
真子の心配をやわらげてあげようと、会の具体的な活動方針を説明する先生。するとふいに窓から身を乗り出し、
「と、顧問としては考えていますが……会長、いかがでしょうか?」
にっと笑う先生がそんなふうに智子へ意見を求めてきた。
「あっ、じゃあ、そ、そんな感じで」
話を振られた智子がコクコクうなずき同意する。智子としてはクラスメイトを誘うだなんてことは頭になかったので、早くも顧問としての顔を見せる先生がさきほどからみんなを勧誘しはじめたことに戸惑っているようだった。
「それとね、もしみんなで色んなところに取材しに行きたいなって思ったら、そのときはまず先生に言ってほしいの。変わったおまじないなんかを試してみたいときもおんなじ。これは危ないなーっていうのがあったらちゃんと教えてあげるから」
約束だよ、と念を押す先生が言いたいのは、つまり怪奇スポットの類へ不用意に足を運んだり、興味本位で怪しげな儀式に手を出さないようにということだ。今回のことにしたって智子が事前にひとこと相談でもしていれば先生はなにがなんでも儀式の実行をやめさせただろうし、それがいかに危険な行為であるのかをきちんと教えてあげられたはずなので、顧問となったからにはそうしたところの面倒もしっかり見るつもりでいるらしい。
「ゆり、どうしよっか?」先生の言葉に納得したのか参加への意欲を見せはじめた真子がたずねたところ、
「いいんじゃない?」ゆりが
孤独なクラスメイトのことを気の毒に思っていた真子としては友達のひとりとして智子につきあってあげたいという気持ちがあるのかもしれない。しかし一方のゆりはというと傍目にはそのような同情心を抱いているようにも見えなかった。
「黒木さんのせいで大変な目にあったけど……」
コードを巻き付けた指の先でイヤホンを遊ばせるゆりがひとりごとのようにつぶやくが、ふと顔を上げて智子を見やり「結構おもしろかったかも」と付け加えた。あまり感情を表に出さないゆりであるが、口もとにうっすらと浮かぶそのほほえみからしてあの裏幕での体験を彼女なりに楽しんでもいたようだ。
そうしたゆりの気持ちを汲んだ真子が「じゃあわたしたちもやります」とふたり揃っての参加を表明するのだが、それを見たヤンキー娘はというと「おまえらマジか……」とあきれ顔だった。
「一気にふたりも増えちゃったね、
「あっ、う、うんっ……!」
声を弾ませ顔をほころばせる今江先生がなんだか幼く感じられ、智子はそこにあの先輩の面影を見出さずにはいられなかった。大人の女の人はお化粧をするからすっぴんだった子供のころと違って見えたりするけれど、それでも先生はやっぱり花子さんだったのだなと、そうしたふしぎな感慨がわきあがってくる。
ともあれ先生のはからいで早くも会の仲間が増えたから、智子にとっては思わぬ急展開だった。ここでちょっと苦手なヤンキー娘まではいりたがるようであればさすがにご遠慮願いたかったけれど、ゆりと真子だけなら問題はなかった。
「あっ、じゃあ智くんもやろうよ。ねっ?」
「いや、やんねーけど」
「会長命令よ! 智くんはわたしの助手をすること!」
「勝手に決めんなって……」
わが弟に拒否権はないとばかりに、強引に勧誘する智子がお気に入りのアニメキャラの真似をして智貴をびしっと指さす。ともあれ今ここに新生オカルト研究会が誕生したのだった。
広場に涼しい風が吹いてきて、ご神木の枝をさわさわと揺らす。その根っこにある祭壇には誰が付け加えたのか小さな石が階段のようにしきつめられていたり、手前には鉛筆で作ったらしい鳥居が刺さっていたりしたけれど、ひとつ消えていたものがある。それは智子が用意してあったふたつのナスビのうちまだ残っていたはずの片方だ。丸々としたそのナスもまた智子たちの知らぬうちに歩きだし、いずこかへと去っていったのかもしれない──。
◆
なまぬるい風の吹くなか、扉をあける音がする。C棟二階の南非常口から誰かが出てきたようだ。ひとり、そしてふたり。前を行くのはやべー奴で、そのうしろから例のあの人がついていき、階段をとぼとぼくだっていく。ふたりの体はこれがもう傷だらけといった感じでボロボロだった。上着をなくしてほとんど裸のやべー奴は翼のかたっぽを失い、残っているほうも羽根がすっかりむしられている。床屋で大失敗したような例のあの人の髪はくたびれた灰色になっていて、その手に持つ傘もグネグネに折れ曲がっていた。だんまりしているふたりはひどく疲れたような、むすっとしたような、そんな顔をしていた。
階段をおりきったところで、そばにあったバスケ用のゴール台の手前でなにかがポンポンと跳ねていたのにふたりが気づく。それはひとつのバスケットボールで、誰もいないのにひとりでに跳ねているようだった。
「ンゴッ!?」
そのボールが突如急加速してやべー奴の顔面にぶつかってきた。直撃をくらった彼(彼女)がたちまち倒れるが、跳ね返っていったボールは次に例のあの人へと狙いを定めたようで、再び空中で不自然な加速を見せて突撃していった。
グキッ
それをとっさに撃退しようとした例のあの人がボールに向かってグーパンチを放つ。だけどもボールの勢いが強すぎたからか、彼女の手首から変な音が鳴ってぐにゃりと折れ曲がってしまった。
「~~~~ッ!」
声にならない悲鳴をあげ、例のあの人がたまらず運動場のほうへ逃げていく。起き上がったやべー奴もまた、それに置いていかれまいとあたふたしながらメガネを拾い上げて駆けだした。そんなふたりを【
そうした追走劇を見物している者がいる。運動場に寝そべる彼が身じろぎするたび辺りが地震のように揺れる。それもそのはずで、彼は広々とした運動場の半分を埋めつくすほどの巨大な存在だったからだ。手足があって、胴体があって、一応頭らしきものもある。巨人に見えなくもない彼は、だけどもぬいぐるみのような外見だった。
平和そうな表情の彼──【
「……」
運動場の様子を遠くからながめる人物もいた。それはC棟のてっぺん、この学校で一番高い場所となる時計塔の上に立っていた。その姿は全身黒ずくめの昔の軍人さんふうのかっこうで、マントを羽織って頭には古い時代の学生帽のようなものをかぶっている。マンガのキャラクターらしきお面──『のらくろ』という作品の主人公に似ている──をかぶっているから顔はわからないけれど、うなじの辺りで結ばれた髪が風にたなびいているのが見える。
誰に聞かせるでもなし、マント姿の人物──【
*
カラン コロン カラン……
ゲタを鳴らして走る女の子の姿があった。それは智子を引きずりまわしたこともあるあのきこさんで、彼女の手にはなにかが握られているようだった。やがてきこさんはご神木の生える広場へとやってきたが、そこにいた誰かのもとへしずしずと歩み寄っていく。そうして手にしていたもの──智子の落としていったサンバイザーをその誰かへうやうやしく差し出すと、受け取った相手はそれを頭にかぶってみせる。
この誰かはひとりの見慣れぬ少女であった。肩に一羽のタカを乗せている彼女は赤いワンピースを着ており、顔立ちはきこさんと似通っていた。だけど髪はずっと長くて背中まで届くほどだ。靴は履いておらず素足のようで、丸々と太った紫色の牛にまたがっている。その
と、ふいに少女が牛の背中をぽんと叩く。するとでぶの牛はのっそり歩きだし、ご神木の向こう側にある祠へと向かっていった。
ふふっ ふふふっ
くすくす笑う少女の声が辺りに響いてこだまする。二〇〇六年八月十五日、智子と仲間たちが体験した、ふしぎなふしぎなひと夏のことであった。