目を覚ましたら彼女と僕だけだった。
記憶もなく、地上の人間の文明は完全に失くなってしまっていた。
自分にとって世界一きれいな人がずっとそばにいて生きていけるなら、本当に何もいらないと言える?
黒い空の下、乾いた冷たい風に煽られ、千切れた新聞紙が舞い飛び降ろされて数十年経つシャッターに張りついた。
空虚なビルが見下ろしてくる大通り、静かに歩いているつもりの自分の足音がカツーン、カツーンと虚しく響き渡る。
「いったい、人間はどこに行ったんだ……」
世界総人口、1。
ようこそ、楽園へ。
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神よどうして、と世界中の人は言う。人はそれでも、何があっても神の存在を信じて愛してしまう。
科学の発展する前から、世界が繋がる前から、人間は各々見た事も無いはずの神を内に見出し信じだした。
被造物は造物主を愛するように作られる。被造物から永遠の愛を得られればそれは神への一歩に他ならない。
ようやく人は、神へと近づいたのだ!
ならば次に神に近づくのは――
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睡眠欲、食欲、性欲。
全ての動物に備わった本能である。
どれもが『生存』という目的に根ざして植え付けられた物であるため、この三つが本能であるのは実に効率的だ。
ただ一つ、性欲に関しては『種の生存』が目的となっている。
人は何故恋をするのだろう……?
恋は精神疾患である、と断言する者もいた。だが彼も含め偉大な人物も愚劣な凡人も同様に恋をし、そうして人間は増え続けてきた。
後の科学全てに大きな影響を与えたある数学者は看護師に恋をして、その看護師の婚約者との決闘の果てに死んでしまう――――天才夭逝、僅か20歳の早すぎる死であった。
若き天才の死は数百年経っても多くの学者にこう言わせるのだ。『彼があの女と出会っていなかったら!』と……。
何故、と問われれば簡単な理由ならば述べられる。
弱肉強食が実にシンプルな野生動物の世界と違い、人間は生ぬるい湯の中で生きている。
失敗しても滅多なことでは死にはしない。狩って捌いて食うはずだった肉は、今となっては店でほんのわずかな金で買え、肉体よりも頭脳が遥か先を行く。
動物のように『模様が綺麗』『鳴き声が美しい』『身体が大きい』というシンプルな理由では相手を選べなくなった。
複雑な社会は異性の魅力を曇らせて複雑にした。このままでは人間という種は適齢期に繁殖相手を見つけられないまま滅びの一途を辿る。
だからこそ、理性以外の何かに突き動かされる『恋』という精神疾患が人類種には必要だった。
ただひたすらに強く健康な相手から遺伝子を受け取り次世代を継ぐことが目的でなくなったからこそ、人類は他にないほどの多様性を得た。
そしてその病は人々を突き動かし、世界は人間で埋め尽くされた――――。
だが本能とはそう簡単に説明できる物では無い。
まだ生殖器も発達していない幼年期から人は恋をする。
繁殖の知識すら無い時期にとある異性に強烈に惹かれる。何故?
惹かれたとしても繁殖は出来ない時期だというのに本能はそんな矛盾を無視する。
性も未来への展望もまだ無い、その時期に恋に落ちた相手こそ。
DNAのヘリックス構造を切り開き暴いたその真ん中に刻まれている、無条件に繁殖相手と認めてしまう異性なのだろう。
そこから人は成長して金地位名誉――――あらゆる要素が視界をぼやかしていく。
それでもあの姿を忘れなかったのならば。
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灰色の地球の空の上で、流れ星がまた一つ。
砕けて星の海になった――――
「…………」
何かが聞こえた気がした。
外の世界からの刺激が来るのはとても久しぶりのような気もする。
その刺激によって身体中の細胞が命を与えられて動きだす。
その声は魂を直接撫でるような優しい声で『起きて』と言っていた。
冷たく凍り付いていた身体ごと固まっていた心までもが動きだした。
「…………。……!」
白い天井がまず目に入ったが、視線はすぐに別の物に吸い寄せられた。
覗きこんだ彼女からさらさらと流れてくるような髪の毛の残像は奇跡的で、そのまなざしに貫かれて動きだした心臓が一秒ごとに加速していく。
人のいない湖を泳ぐ白鳥のように白い肌、隠れ里の農家が心血注いでようやく成った桃のような唇、真夏の夜空のように光を吸いこむ黒い目と髪。全てが白いワンピースと完璧にマッチしている。
彼女の何もかもが、何も分かっていない命の生きる理由を根こそぎ奪い去っていこうとする。彼女のほんのり冷たい手が額に触れているのが心地よかった。
「やっと起きた……。はい、どうぞ」
ああ、その魂を撫でるような声で起きたんだ。
でもいつ、どうやって寝たのも覚えていない。
ここがどこなのかも分からない。目の前にいる彼女が誰なのかすら。
「あ……君のような綺麗な人に初めて会った」
きっと言うべき言葉は他にあるのだろうが、最初に口から出た言葉はそれだった。
そうは言ったものの、今まで会った人のことは誰一人覚えていない。それでも、この目の前の女性が自分にとっては世界で一番綺麗なのだと確信できた。
言葉を口にしてから気が付く。砂漠で百年も彷徨ったかのように喉がからからだ。
「ふふっ。そうですか。さぁ、とにかくこれを」
彼女がそう言って再度差し出したのは服だった。
よく見なくても、自分は裸だった。慌てて大事な部分を隠してから様々な異様に気が付く。
寝ていた事だけはたしかだが、ここはベッドの上では無い。
柔らかな綿のような物の上に横たわってはいたが、掛け布団の一枚も無い。
白い部屋のど真ん中にあるカプセルの中で寝ていた。
「なんだこれは……」
とりあえず、裸ではまともに話も出来ない。彼女から受け取った服に着替えて、更に差し出された水を飲む。
ただの水だったが、身体中の隅々にまで染みわたり、まるで血管の中にまで流れ込んでいくようだ。
「とりあえず色々訊きたいことはあるけど」
「はい」
「君は誰? ああ、それだけじゃなくて、僕は誰なんだ。ここはどこなんだ」
何もほとんど分からないが、その三つが分かれば今はいい。
そして、最初に彼女のことを尋ねたのは彼女に出会ってまだ五分も経っていないのに彼女の事をもっと知りたいと思ってしまったからだろう。
自分の事以上に。自分が誰なのかすら分かっていないという異常に陥っているのに。
「私も、あなたも、名前は大事じゃないんですよ。二人しかいないなら、『あなたと君』で事足りますから」
「え?」
「ここがどこかも大切なことでは無いんです。ここ以外のどこもないのですから」
何を言っているのかさっぱりわからない。
彼女は質問に何一つ答えていないのだが、最初からずっと優しく笑う彼女の顔を見ていると間違っているのは自分の方では無いのかという気さえしてくる。
もう一度同じ質問しても同じ答えが返ってくるのか、と頭を回転させたら急に腹が鳴り始めた。
その情けない音を聞いて彼女はころころと笑った。
「お腹空きましたよね。お食事の用意、してありますよ」
「あ、……うん…………」
優しく包みこむようにだが、もう質問は終わったとその背で示して彼女は歩きだした。
着いていこうとしたらなんだか身体中が軋んでいた気がしたが、数歩も歩くと普通に歩けるようになった。
扉を開いて階段をのぼると左右に幾つもの部屋があった。
どうやら自分が寝ていたのは、一番下の部屋だったらしい。
ここはどこなのだろう。
普通は一番下に下ればそこに出口がある筈だが。
階段をくだっていけばその突き当りには自分の目覚めた部屋しかない。
この階段をどこまでものぼっていけば外に出られるのだろうか。
とりあえず、今は空腹だった。
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「美味しいね」
今食べている物が何かは分かる。ハンバーグだ。上にかかっているのはデミグラスソース。
こういうことは覚えているのに、大切なことは何も覚えていない。
「嬉しいです」
「君が作ったのか」
「そうです」
「……」
名前も知らないこの子にどんどんと惹かれていく。
何がそんなに心の琴線に触れているのか、説明も出来ない。
それでも心の奥底にあるものが言っている。世界で一番綺麗な人が自分に愛情を込めて作るならこういう料理になると。
「また訊きたいことが出てきたよ」
「なんですか?」
「どうして僕にそんなに親切にしてくれるんだい」
食べ終わるまでの間に考えた。きっと家族や恋人では無い。
こんな人と恋人だったら素敵だろうが、恋人に名前すらも忘れられていたらこんなに平然としていられないだろう。
「……知りたいことは、訊きたいことは本当にそれですか? 本当の願いは別にあるのではないですか?」
思考にノイズが走る。何か大切なことを一つ二つどころではない数を忘れている気がするのに、これでいいと思ってしまう。自分の名前さえ知らないのに。
もっともっと知りたいのは――――例えば君の胸にキスをしたら、君はどんな声を出すんだろうとか……。
「あなたの言うことなら、どんなことでも従いますから。さぁ」
食器をいつの間にか下げた彼女は隣に座っていた。挙措も立派だった。
時間も自分も忘れる程に、こんな女性と愛し合えたら何もいらないのかもしれない。
そうだとしても、彼女がここまでの言葉を自分に言ってくれる理由が知りたい。
「でも何も教えてくれない」
「知る必要がないからです」
「外に行きたい」
「外なんて、ありません」
「嘘だ。階段が上へ上へと続いていた。ここは地下なんじゃないか? 外に行きたい」
「……」
のらりくらりと言葉を交わしていた彼女はここに来て初めて黙りこんでしまった。
儚げに俯いているその表情に、追及する気すらも無くなってしまう。
「君が、どうして僕の心の中にこんなに入ってくるのか分からない。そんな人物のことを一切覚えていないなんて」
「それでもいいんです。正直になって」
「なら僕は外に行く」
この女性は自分を知っているらしい。だが何も教えてくれない。
ならば掴みかかって無理やり聞きだせばいいのに、どうしてかそれが出来る気がしない。
(痛っ……)
この感覚は知っている。そう、初めて好きになった人に自分は話しかけることすら上手く出来なかった。
目を合わせることすらも胸がはち切れそうな程に痛くていっぱいいっぱいだった。
頭を押えながら扉を開けて階段を上っていく。
(誰? なんで今そんなことを)
その初恋の人とやらも思い出せない。フォーク・ナイフの使い方もドアの開け方も話し方も忘れていないのに。
こんなに綺麗に記憶を失くすものなのだろうか。隕石が当たって大きなクレーターが出来て地面が削り取られるのではなく、パズルのピースのように綺麗に一部を切り抜いたようだ。
記憶というのは孤立せず、他の知識と繋がる物のはずなのに。
「…………」
階段を上っていくときに背中に視線を感じて振り返るとそこに彼女はいた。
(あの眼は……)
知っている。何度も何度も作り直した薬物を実験用動物に投与しても望む結果を得られなかったときに自分もしていた諦めに近い悲しみの眼だ。
――――自分はそんな実験をしていた事があるのか。
「行った方が早い、と言いたいのか……」
と、ひとりごちながら階段を上りきる。そこに扉は無かったがパッと見て何かをタッチするためにあるようなデバイスが壁の端に張りついている。
これは何なのだろう、と考える前に自分はそこに手をかざしていた。すると音も無く壁に線が浮かび、まばたき数回ほどの時間でそこが開く。
「…………」
つまり自分はこの施設に何かしらの権限を持っている人間だということになる。
だとするならば、全ての部屋を見て回れば案外自分の情報はあるのではないか。
それでもまずは外の空気を吸いたい。
(なんでこんなに厳重なんだ)
さらにその扉を抜けるとまた階段が上へと続いて行く。
先ほどと違うのは異様に埃臭くてかなり寒いことだ。だが数十段も上ると新たなデバイスが見えてきて今度は何も考えずに手を触れていた。
開いたその先は――――
「……覚えている。ここは地下鉄か。改札から218秒で地上に行けた……」
階段の途中に開いた扉を抜けて、枯れ葉と埃がたまった汚い階段をまた上っていく。
既に地上は見えるが空はまるで悪夢のように黒く静かで、何も考えたくなかった。
こんなにも上ったのならば天国に行けてもいいはずなのに。
「……何が……あった……?」
階段を上り切ったそこは天国でも、地獄でさえも無かった。
ひび割れた道路は落ち葉で埋め尽くされ、空っぽの水槽のようなビルには弱弱しいツタが巻きつき排水溝からはコケが侵食している。
舞い飛ぶ新聞紙には煤けた紙幣が混じっている。求めて止まなかった外の空気は寒々しかった。
「いったい、人間はどこに行ったんだ……」
人の姿を求めて歩き出す。家へ帰らなくては、と本能にごく近い部分が言っているが家への道が分からない。
家、ともう一度考えると自分が上ってきた階段を振り返ってしまった。あの子が追ってくる気配はない。
経年劣化でヒビの入ったショーウィンドウに映る自分の年の頃は10代後半から20代前半といっただろうか。
先ほどのあの女性もそのくらいに見えたが、違うのは彼女に比べて自分はどうもパッとした顔立ちでは無いというところだ。
昆虫のように細い身体、小さな目に普通よりも出ている顎。だが自分の容姿を気にする前にそれを指摘してくれる人の姿が無い。
「誰かー! いないのかー!」
大通りの真ん中で叫ぶと周りのビルも遅れて同じ言葉を叫ぶ。
中に何も詰まっていない証拠だ。とりあえず目覚めてから一番の大声を出したため、腹に力を込めすぎて腰を曲げていた。
しかしその腰を上げる前に落ちていた新聞の記事が目が入る。
「新生児のダウン症率50%越え……筋ジストロフィー、アルツハイマー世界的流行」
20XX年となっているが今はいつなのだろうか。緩やかな滅びを示唆するようなこれらが食い止められなかったということだろうか。
だが、雨に滲んでほとんど読めないが暗い内容ばかりではない。例えばAIの進化が加速を続けて予想よりも早くシンギュラリティが来たことなど――
「うっ?」
鼓膜が張り裂けん程の爆音が響き渡る。音の原因は狭い空をまさに今、横切っていった黒い飛行機だった。
目にも留まらぬ速さだ。だがこれは人がいるということなのでは、と思った瞬間に目の前の11階建てのビルが轟音を立てながら潰れた。
「うわぁあああああ!?」
潰れたビルの上に乗っていたのは不気味な機械だった。あの飛行機から降下してきたのだろうか。
人よりも遥かに大きいその機械は八本の脚を持っており、真ん中から伸びた胴体についた腕にはどう考えても穏やかで済むはずのない武器――巨大なライフルが付いている。
頭部には一定間隔で時計回りに回転する三つの赤い目が付いており無機質にこちらを見ていた。
「ひっ、ひっ……」
逃げた方がいいに決まっているのに情けない事に最初にビルが破壊された時点で腰が抜けて地面に座り込んでしまっていた。
八本の足を器用に動かしながら降りてきた機械は目を回転させながらもずっと自分を見ている。
そしてその銃口を当然の帰結のようにこちらに向けた時。黒い空の向こうに輝いているのは太陽だろうか――その太陽を背にして何かが超高速で飛来して機械に激突した。
「っ!? 人……?」
音の壁を突き破らんばかりの勢いで飛んできたのは、普通の服を着た一見どこまでも普通の若い青年だった。
だがあの速度で鉄の塊にぶつかって普通の人間が無事のはずがない――と思った瞬間にその腕が液体のように震えて鋭い刀になり足蹴にしていた機械を切り裂く。
味方か、と思う暇も無かった。その腕がまたもや形を変えて拳銃になりこちらに向けてきたのだ。
「待ってくれ!! 撃たないでくれ!!」
まだこちらの方は話が通じそうな形状をしていると思った瞬間、完全に壊れきってはいなかった八脚の機械がその巨大な銃を人型の何かに押しあてて引き金を引いた。
粉々に吹き飛んだ青年から赤い血のような物が飛び散り思わず吐きそうになってしまう。先ほどから情けない事の連続だ。そんな吐き気もよおしている間に敵性しかない八脚の機械は人を粉々にするほどの威力を持つライフルをこちらに向けて発射した。
「――――!! ………?」
固く目をつむって頭を抱えていたがいつまでも衝撃は来ない。
薄く目を開くと基本的に灰と黒で出来た暗色の世界に似合わない純白のワンピースが目に入った。
「…………」
「えっ……?」
そこにいたのはあの美しい女性だった。
彼女は空中に手をかざしており、弾丸はまるで見えない手に掴まれているかのように空中で静止している。
よく見ると薄っすらと自分と彼女に被せる様にドーム型に薄い緑色の粒子の膜が宙に張ってあった。敵の機械の目が回転し更に弾丸を放つ。
「うわっ、あっ、ああ……そんな……」
だが二発目も音も無く空中で静止した。
彼女がどんな表情をしているか、自分の位置からは分からなかった。
しかしこんなことが出来るということは、もしかしなくても彼女は――と思考がまとまる前に彼女はもう片方の腕も宙にかざした。
瞬間、緑の膜は一気に弾けて周囲の全てを飲み込んだ。膜の内側だけは平和そのものだったが、外側は破壊の嵐が大暴れして通り過ぎたかのようだった。
アスファルトはめくれ上がり、癇癪を起こした巨大な力士に体当たりされたかのように凹んだビルからはガラスが雨のように降り注ぐ。
八脚の機械はぐずぐずに溶け、細かい爆発を繰り返しながら完全に沈黙した。
「さぁ、もう帰りましょう」
こちらを振り返った彼女はこの惨状を作り出した張本人だとは思えない程清らかな笑顔をしていた。
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「君は僕のことを知っているな。教えてくれ頼む」
戻ってまずすることがやはりそれだった。
これ以上自分を知らないで生きていくのは辛い。先ほどのようなことにならない為にも。
「本当に知りたいんですか? もはやこの世界には私とあなたしかいないのに。ここから出なければ何も知らなくてもいいのに」
「自分のことは往々にしてわからない。いつだって主観を消すことが知性と科学というものだ。主観を消すにはまず客観に、つまり自分の事も他の事象と同じように知らなければならないんだ」
捲し立てる様に話ながら妙な違和感を感じた。なんというか、自分はこんなに理屈っぽい人物だったのか。
「…………。あなたは……プレッパーです」
「そうか……随分と変人だったんだろうね。他には?」
プレッパーとはそのまま『備える者』という意味だ。
国家レベルでも対応の出来ない危機やパンデミックを常に想定し、ライフラインや供給が途絶えても自分だけで生きていける様に備えている者達。
自分がそれだったらしい。だが勝手に国の持ち物である地下鉄につなげてこんな施設を作るとは、ただのプレッパーでは説明が付かない。
「ごめんなさい。分からないのです。眠っている貴方を後から見つけただけですから」
「……。そして、君は――――……機械、なのか」
先ほどのあの一連の行動と地上に散りばめられたヒント達。そして機械的な機械と争っていた人型の機械。
彼女が機械でない訳がなかった。
「はい」
「嘘だ。どこからどう見ても人間じゃないか」
たった五秒前の自分と矛盾してしまう。『はい』の二文字を紡ぐ唇の動きまでもが機械のものだなんて信じられない。
機械が何故まばたきをする? 何故呼吸をする?
「では、どうぞ触って確かめて」
そう言って彼女は僕の手を取り自分の頬に触れさせた。
「うっ、わっ――――」
その感触のなんと甘美なことだろう。1000年も前から求めてきたようなオアシスにほど近い柔らかさだ。
浅く短い呼吸を繰り返しながら親指を動かすと薄い唇に触れて時が止まる様な感覚さえした。
「やっぱり人間だ」
後頭部の中がちりちりと焼け付きそうだった。
ただの機械を触っただけでこうなるはずがない。
「機械です」
彼女が腕を曲げるとその腕は液体のようにうごめき、肌色の小さな鳥が手から出てきた。
天井に近い場所を回転しながら飛んだそれはまた形を変え、荒い流れの中を泳ぐような勇壮な魚の姿になり、ワンピース越しに彼女の胸に飛び込んだ。
「そんな」
もう既にこの世に生きるどんな動物畜生よりも高度なことをしている。
それは即ち彼女は生物では無いということだ。だが鳥を出した腕に触れても吸いつくような白い肌の向こうにはしっかりと肉と骨の感触がある。
魚が飛び込んだ胸には儚げな肋骨の向こうで機械だと言った彼女の心臓がどんどんとリズムを上げていく。
「ああ―――もっと触って」
「!!」
自分の手に高価な絹のように白い手を重ねながら彼女が紡いだその言葉で我に返り手を離す。
女性の胸をこんなにも何も考えず自然に触ってしまうとは。だがそこまで考えて『我に返れていない』ということに気が付く。
違う、これは機械なのだ。そんな恥ずかしがる必要も後ろめたく感じる必要も無いのに。
「さぁ、もっと」
離れた手を追うように、この世界に存在するだけで壊れてしまいそうなほど細い彼女の身体が飛び込んできた。
わたあめのように柔らかく、はちみつのように甘くいい匂いがする。
(こんなにいい匂いの人がいるなんて)
丁度良い高さに来た彼女のつむじについつい鼻を埋めて息を吸いこむとまるで意識と理性が分離するようなじんわりとした煙が頭を包む。
自然と腰に回していた手がその細さを感じ取って本能が彼女をこの世のあらゆる残酷から守らなければと囁いてくる。
世界に人がいなかろうと、この世界はこの場所以外完全に壊れていようと。
彼女がいるのならばそれでいいのではないだろうか。理性と本能は拮抗しあと少しで本能が負けそうになって――――
『君のような綺麗な人に【初めて】会った』
と、自分が起きて真っ先に言ったことを思い出し、その手を離す。
「どうして?」
彼女はそう問いかけてくる。
だが自分は初めて、と言った。自分は最初からこの完全に終わった世界の人間では無い。
今までにも自分は人がいる世界で女性というものに会った事がある、見た事があるのだ。
それでもなお彼女が一番綺麗だと心が叫んだ。
本能だけで考えれば、それだけでいいはずなのに理性が言うのだ。他がいないのはただ悲しい、と。
「なんで、ただ、偶然、会っただけの僕に」
そう言う声は途切れ途切れで上ずり震えていたのは、彼女の感触のせいだろう。
機械だと分かっていても、彼女の全てが自分を狂わす。
「……いろいろな機械がいるということです。戦う事が目的の機械、修理する事が目的の機械、生物を殺す事が目的の機械――――戦いから逃げた機械」
「…………」
「そして本来の機械、AIには――――」
「そうだ、ロボット三原則が組み込まれているはずだよ」
人間への安全性、命令への服従、自己防衛。それがAIを作る上での大前提のはずなのに、どうしてこうなっているのか。
「神は自分を愛するように世界のすべてを作るのです」
「君にとっての神は」
「この世界にただ一人残った人間――――あなたです」
改めて、この世界に人間は自分しかいないと突きつけられるのはむしろ優しさすら感じるほどの機械的な冷たさだった。
そして最後まで分からなかったのは『どうして彼女がこんなにも自分の心に入ってくるのか』ということだった。
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人の姿を模した機械が、蜘蛛や鳥、虎や犬を模した機械と争い続ける中、自分と彼女は水素燃料で動く静かなバイクに乗っていた。
目覚めから20日余りが経った。食事や水などの心配はあそこに籠っている分には心配いらなかった。自動生成するシステムがあったのだ。
「これはどうですか?」
「ああ、使えそうだね」
彼女が拾い上げた機械の部品を調べて頷く。これなら少し修理すれば立派な『通信機器』として姿を変えられるだろう。
黒い空の下、まるでゴミ漁りのように壊れた機械を拾う自分達の少し向こうでは機械たちが終わらない戦いを繰り広げている。
前と違うのは自分達を認識していないということだろう。目覚めてから毎日観察を繰り返して彼らの外界認識方法を確認し、さらに法則性も分かった。彼らは生物と敵対の機械にのみ攻撃性を示すのだ。
それはつまり建物や施設、自然に対して積極的には攻撃しないということになる。自分と彼女の胸に付いているペンケース程の大きさの機械からは微弱な電波が流れており、機械の知覚からは自分達は建物その他と同等に映っている。
互いに認識できるのは自分達だけだ。
「まだ必要ですか?」
「ああ、とりあえず持ち帰れるだけ持ち帰ってみよう」
さらに目の前にあるビルの扉を無理やりこじ開けて中に入る。主に集めているのは通信用のパーツだ。
何故か。その理由はとても簡単だ――――
(あんなものがあって、宇宙に行けないはずがない)
視線の先には高さ数百メートルはあるであろう塔があり、そこから機械たちが次々に戦場へと飛び出していく。
機械兵器たちが周囲を飛び回るそれはまるで人の作りし業の象徴。落雷を待ち焦がれるバベルの塔のようだ。
あれだけのものがあるこの世界で、宇宙に一人も人が行かなかったなんて考える方がおかしい。
彼女に聞いてもそれは知らない、と言っていた。
(当たり前だ)
確実に分かるのは彼ら機械の人間に対する異様な敵性。
機械に知られていれば宇宙までも追いかけて殺しに行っただろう。
それでも知られずに宇宙に行くことも不可能では無いはずだ。知られずに眠っていた自分なんて者がいるんだから。
「作れるはずだ。宇宙にまで届く通信機器が」
その言葉に対して、彼女はただ『手伝います』と言った。
本当に彼女は従順で、どこまでも尽くしてくれていた。
目覚めて自分一人だったらとうに発狂していたかもしれない。
高いビルに上って窓に溜まった埃を手で払うとその向こうで争う機械達が目に入る。
この世の終わりそのものの儚い光景は何故か美しくもある。
(戦い続けている。目的も無く。混沌そのものだ。でも――――)
何故戦い続けるのか、という問いかけは。
(人間も同じだったよ)
記憶からほとんど消えてしまっているかつての人間達にも言えたことだった。
窓の向こうの人型兵器が足蹴にした敵対兵器に無慈悲にブレードを突き刺した。
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彼女の助力と、機械に使われていた圧倒的なテクノロジーのお陰で一カ月も経たずに望む性能を持つ通信機は完成した。
今も地球の周りに浮かんでいるらしい人口衛星を全てを網羅、経由し、地球に向けられて放たれたいかなる信号も逃さずキャッチする。
ほとんどはノイズだが、もしも宇宙に飛び立った人類がいたのならば、いつか来る地球の平和と今も生き残っていると信じているであろう地球人に向けて『手紙』を飛ばしているはずだ。
宇宙に向けて野放図に信号を放つのではなく、キャッチして方向と距離をまずは知らなければならない。
「…………」
スクラップの機械をつぎはぎに繋げて出来たいびつで巨大な球体の通信機は宇宙からの信号を拾い続ける。
画面に映し出されるのは意味のないノイズばかりであった。星の重力圏を抜けた宇宙船は速度を保ったまま進み続ける。
自分がどれだけ眠っていたのか分からないが、もしも宇宙に人が行ったとして一体どれだけ遠くに行ってしまったのだろう?
「博士、お食事の時間ですよ」
「ああ、うん。ありがとう」
背後からかけられたその声は形容するなら安心そのものだ。
目覚めてからまだ百日経っていないが、彼女の存在にどれだけの癒しを貰っているか分からない。
彼女はいつからか自分を『博士』と呼ぶようになった。確かに、やっていることはそれっぽかったし自分自身博士と呼ばれるのが何故かしっくり来ていた。
自分の事はまだほとんど分かっていないが、記憶があった頃の自分はかなりの知識と教養があった人間なのだろう。こんなものを迷いもせずに作れてしまうくらいには。
きっと記憶があるときの自分の大好物だったのだろう、エビフライを食べていると彼女は口を開いた。
「宇宙に逃げた人達に連絡をとってどうするのですか」
そう聞いてくる彼女は何も食べていない。唇を開けばそこには宝石のように白い歯があるし、肉厚でてらりと濡れた舌がある。
だが彼女は何も食べない、飲まない。そういう部分は排除されている。どうしようもなく彼女は機械だった。
「生きている人がいるなら地球はまだ危ないと伝えなくては。それに、空に人がいるならばなんとしても彼らを破壊しなくてはならない」
理論は構築している。EMPか電磁波か。どちらにしろインフラにあまりダメージを与えないようにして彼ら機械兵器を一掃しなくてはならない。
あの機械を生産している塔を破壊するのが最終目標だろう。――――人間が生きていたらの話だが。
「……。そうですか」
「いや! 破壊するのは戦い続けている機械だけだ! 君は別だ」
「…………」
本当に信じられない。彼女は機械のはずなのにここまで豊かな感情を示せるなんて、ここまで豊富な表情を持っているなんて。
0と1の可算世界で作られるはずのコンピューターが非可算濃度と見紛うほどのパターンの感情分布を持つとしたら、それは一体どれだけの試行の果てに出来たものなのだろう。
記憶がほとんどなくてもこう思う。機械はここまで進化したのか、と。
「…………。あれはコールドスリープの装置だね」
今は普通のベッドで寝ているが、最下層にあるあの白い部屋にあった自分が寝ていた装置は今考えるならばそういう答えになる。
きっと機械同士の戦争が終わってから起きようとしていたんだろう。だが外部の刺激によって予定よりも早く起きてしまったし、凍り付いた海馬やシナプス、大脳皮質からは記憶がほとんど失われてしまうという副作用があった。
「……。はい。……また、眠ってしまうのですか?」
「何光年先にいるのかも分からない相手からの『手紙』を待っているんだ。そして向こうもそれを理解しているならコールドスリープを用いてる可能性が高い。寿命を迎える前に寝た方がいいだろう」
「その……。それはそれでいいのです。ですが……」
「?」
「寂しくもあります」
機械の反応だ。こちらの言動に対して反応をセレクトして返しているだけに過ぎないはずだ。
だがそれでも、彼女には表情があり、言葉があり、動きがあり、あたかもそこに感情が存在しているかのように思えてしまう。
そして今のところこの世界で一人の人間の自分は、そんなまやかしを自分からあえて打ち破る程の動機がなかった。
「……もう少し、起きていよう。寝たらまた全て……君の事も忘れてしまうかもしれない。その原因を調べて直さなくちゃ、ダメだよな。それが終わってからでも……」
「ほんとうですか?」
「…………」
やることは探せばたくさんある。それが終わったなら寂しいという彼女の電源を自分の手で切って一緒に眠ればいい。
何よりも、二人で色んな事が出来るのはただただ単純に嬉しかった。
***************************
テレビ――――というよりはただの画面だ。
もうこの世界では何も受信して映すことは無いのだから。
とにかく、その画面にはかつてこの世界にあった美しい場所を巡る旅人が映っており、その男は綺麗な温泉に入って一息ついていた。
「いいね。温泉とか、そういうの」
彼女の手から半田ごてを受け取って調子が悪かった機械の回線を繋げながら呟く。
自分は恐らくロボット工学に関して何かしらの資格やあるいは知識を持っていたのだろう。
今修理しているこの機械は目的とされたスクラップを拾い集める機械だ。簡単なプログラミングは全て彼女に任せてしまい、パーツはその辺にいくらでも転がっているので僅か10日で出来てしまった。
「なら、そうですよ。どうせ地下なのですから温泉を掘る機械でも一緒に作りましょう」
「温泉……そうだね、入りたいね」
それもいいかもしれない。時間はどうせ無限に近いくらいある。
何かに夢中になっていれば余計なことを考えなくて済む。
脳みそを余計なことに使わず、慎まやかに彼女とこうしているだけで幸せのような気もする。
案の定宇宙からは何も反応がない。
「一緒に入りましょう」
その言葉にぎょっとしてしまう。
自分の理性は彼女が機械だと分かっているのに、本能がどうしてもそれを覆そうとするからだ。
排泄もしない汗もかかない彼女は風呂に入る必要も無く、時々『汚れを取るために』身体を拭いているがそれをまともに見ることすら出来ない。
「…………うん」
地上は地獄そのものだが、ここはきっと天国に違いない。
本当のことを言うならば、彼女が機械でなければ自分は何もかもが溶けてしまっていただろう。
機械であるというそのただ一点がぎりぎりの理性だった。
そしてその日から温泉を作ろうというそんなのんきな目標の元に二人で動き始めた。
不思議なことで、世界で二人ぼっちとなると『金メダルをとる』とかあるいは『高給取りになる』とか、そんな人間らしい夢や生きる目標という物がほとんどなくなってしまうのだった。
実に滑稽なものだった、人間の作る世界で成り立つ夢なんて。
*****************************************
【君に渡すための花束ならば、真っ白な壁いっぱいに飾るくらいに心の中にあった】
【ただ、その色とりどりの花たちの取り出し方を、渡し方を上手く知らなかっただけなんだ】
【どんな言葉を返されたかは覚えていない。だって、ありきたりで当たり障りのない、こちらをなるべく傷つけないし自分も傷つかない柔らかい言い方だったし】
【彼女からの否定の言葉は山を流れる水よりもさらさらと耳の奥を流れて記憶からも消えてしまった。残ったのは、自分は花束の渡し方を間違えて彼女に受け取ってもらえなかったという記憶だけ】
【いつだって分からないのは女心だ】
【僕は世界でただ一人、君の心の内さえ知れればそれでよかったのに】
【分かっていた。自分のこの才能は世界の為に使うべきで、彼女の存在そのものが思考にノイズをかける】
【見てくれないというのならば、自分の物にならないというのならばいっそ忘れてしまえばいい】
【中学を卒業と同時に僕は国を捨てて他の国に行った。両親や友達を捨ててまでも彼女の思い出はいっそ消してしまいたいくらいの物だった】
【たくさんの花たちは水をあげなかったからどれもこれも枯れてしまって、残ったのは『せめて幸せになって』だけだった】
額にひんやりと何かが触れていた。
「……あっ」
いつの間に自室に入ってきたのか、ベッドで寝ていた自分の額に彼女はほんのり冷たい手を当てていた。
「おはようございます」
「はっ、はは……少し向こうを向いてくれないか」
素直に彼女が向こうを向いた隙になんとか髪を整えて目ヤニを取る。
何か悲しい夢を見ていたのか、少し涙に濡れていた。
「どうしてですか?」
「寝起きは変な顔しているからあんまり見られたくないんだ」
「あら」
理性では機械と分かっていても、もうほとんど彼女を人間の女性扱いしてしまっていた。
最初に会った時に『心に入ってくる』と言ったが言い得て妙だった。
「どうしたんだい、いつも僕は普通に朝は起きるのに」
彼女が起こしに来るなんて最初のあの時以来だった。
そこは機械らしく――――あるいは理想の女性らしく、彼女は自分の生活を出来る限り尊重してくれているのだが。
「通信が来ています」
「!! 本当かい」
眠気も一瞬で吹き飛び、慌てて巨大な通信機が置かれた部屋へと駆けていく。
今までただただ意味のないノイズを受信し続けていた画面に映るのは確かに人の言語に翻訳できる物だった。
落ち着いて翻訳機にかけて、その言葉を画面に映す。
『ハローハロー。こちら宇宙船エリザベス14号』
『太陽系第三番惑星・地球に向けてこのメッセージを発信しています』
『地球で今でも生きている人はいるのでしょうか。まだ文明はあるのでしょうか』
『届いたならどんな形でもいいから返事をください。我々はまだ地球への希望を捨てていない』
「やった……」
発信源を見ると地球から7000億km離れた惑星の重力に掴まってその周囲を回っているようだ。
様々な要素に左右されるが、通信だけなら片道30日弱で届く。人類は生き残っていたのだ。
興奮で震える手を押えながら返信を打ち込んでいく。
『地球より、エリザベス14号へ』
『既に文明は崩壊しており、僕以外に生きている人は見かけていません』
『それでも僕は生きています』
『一人ぼっちじゃないと分かって安心しました』
『ですが地球は危険です』
『このままお互いに状況を報告し合いましょう』
「どうでしたか?」
返信の文面を打ち込み終わるのと同時に彼女が覗きこんでくる。
「ああ! やっぱり思った通りだったんだよ! 人はまだ空で生きているんだよ!」
やはりどうしても興奮で声は上ずってしまう。
地球では本当に人間は自分一人かもしれない。この内容を見る限り今までコンタクトが無かったということなのだから。
だが自分は世界でも一人ぼっちではなかったのだ。
「嬉しいですか?」
「嬉しいに決まっている!」
「そうですか」
(一人じゃないんだ!!)
わーっと叫び出したいのをなんとか抑えたが高揚は止まらず、たまらなくなって地上に飛び出してしまった。
耳を澄ませばまたどこかで暴走した機械が戦う音が聞こえる。外はまだ真夜中だった。
そりゃそうだ、普通の友達同士のメールじゃないのだから朝や昼間に来るとも限らない。
そんなところにさえも相手の生命を感じる。
「博士、ステルス装置も付けないで……」
「見なよ、あの星のどれか一つが人の輝きなんだよ」
すぐに彼女が早足で追いかけてきたがそれも気にせずに空を見続ける。
昼間も黒い空は夜は尚更黒いが不思議と月と星はよく見える。
「やることがたくさん出来たね。あの機械達を止めないと。世界中の機械をいっぺんに停止させる方法があるはずだ」
「…………」
クリスマスの翌日の子供のように興奮する自分を彼女はその親のような顔で見ていた。
無人ならばともかく民間人を多数乗せた宇宙船だ。
一体地球に戻ってくるまで何十年、ひょっとしたら何百年かかるというのだろう。
それでも、人は人がいるから生きていける。自分は一人じゃない。
***************************************
【僕のことを覚えていたのか、と最初に思った。次に思ったのが死にたい、だった気がする】
【なんで呼ばれたのかって、まぁ理由は分かる。僕はもうその時は同級生の中で一番社会的地位があって世間に認められていたから。そういう人も呼んで盛大にしたかったんだろう】
【君を忘れてただひたすらに歩き続けて、ようやくここまで来たのにどうして思い出させるような真似を……。それでも僕は君の前ではまるきり馬鹿だから、君から頼まれれば断ることなんか出来やしなかった】
【有象無象の中でぼんやりと紙吹雪を持って突っ立って、真っ白なドレスを着て太陽のように輝く君がどこの誰さまとも知らない男の隣に立っている姿を見た。カッコいい人だね】
【その後、彼が長い指を僕の胸に突きつけて言った言葉はずっと覚えている】
【祝福をありがとう。だが彼女から話を聞いている。そして君は独身だ】
【どうか、これから一切彼女に近寄らないでほしい。幸せな生活のためだ、きっと彼女もそれを望むだろう】
【また一つ、心の中で花が枯れてくしゃりと握り潰された】
「大丈夫ですか?」
「……。…………?」
寝汗でぐっしょりと濡れた身体の中で唯一、彼女の手の触れた額だけが冷たかった。
「とてもうなされていました」
「うん。うん……?」
紙吹雪を空に高く、青い空が痛いほど眩しく……それがどうしてうなされるほどの悪夢になるというのだろう。
老いた蜘蛛が同じ場所に何度も巣を作ったかのように記憶が冴えない。
「もうすぐ普段起きる時間ですが……」
腰を曲げてこちらを覗き込む彼女のワンピースから胸元が見えそうになってしまい、一気に目が覚める。
慌てて目を逸らしながら考えてしまう。いったい彼女はどこまで人間なんだろう。
ときどき――――いや、ほとんど毎日だ。時々寝床に来る彼女をそのまま引き倒して、服を剥いで確かめてみたいと考えている。
抵抗しないのは分かっている。彼女はちゃんと人が作った機械らしく、人を愛して人を傷付けないように出来ているから。きっとそんな暴力的な衝動さえも喜んで受け入れるのだろう。
「そうだね。もう起きるよ。ありがとう」
だけどもその半面彼女は機械なのだ。そこまでしてしまえば、いったい自分はどこまで堕ちるというのだろう。あってはならないことだ。
そう自分に言い聞かせてベッドから起き上がった。
機械達を一斉に止める方法についてはやはり電磁波とEMPのどちらかが効率的だという結論に至った。
戦闘を繰り返し日進月歩の進化を重ねる戦闘機械達には当てはまらないが、数十年ほど前に画期的な電源装置を発明した人間がいたようだ。
また、その開発者は人格者だったのか、あるいは利益に興味が無かったのか、とにかく特許を取得しなかった。そしてその電源装置は火よりも早く世界中の電子機器に導入された。
その電源装置にはあるアクションによって特定の微弱な電磁波を発する性質があった。とはいえ電磁波自体は電化製品ならどれでも多少は出している。
『世界中の電子機器に導入されている』ということが大事なのだ。機械達は何を考えているのかインフラを積極的に攻撃しない。
全ての電源装置からその電磁波を出力させれば波同士が増幅し合い、機械にとって致命的なダメージを与えられるはずだ。問題はどうやってそれを実現させるか、というところだった。
「! 返信が来たか」
新しく部屋を作る機械と、地下深くまでひたすら掘り続けるドリル、2つの機械をぼんやりと見ていたら懐に入れていたデバイスが震えた。
もちろんこうして電波でやり取りをする相手なんてあの宇宙船以外にないのだが、それでもずっと持っていたかったのはやはり人間に飢えているからだろうか。
もう何度かやり取りをしているその間も、この宇宙船は地球に向かっている。無論、辿りつくのは気も遠くなる様な先の話なのだが。姿も声も知らない相手とのひと月に一回のやり取りをとにかく楽しみにしていた。
「さっそく見てみましょう」
隣の彼女がそう言うがままに『手紙』を開いた。
『地球まで辿りつけるかとても心配です』
『資源も尽きかけています。宇宙船の劣化も怖い』
『何よりも怖いのが、だんだん目を覚ます人が減っていくこと』
『資源を無駄にしないようにコールドスリープを繰り返すのですが』
『行うたびにひとり、またひとりと目を覚まさなくなります。もう半分以上が目を開かなくなりました』
『目を覚まして、眠ったまま動かなくなった人達を見つけたら』
『人がひとり入れるだけの箱に入れて地球に向けて飛ばすのです。いつか重力に引かれて地球に帰れるように』
『友達も、お父さんもお母さんも送りました。とても寂しい』
『コールドスリープは体脂肪の関係で女性の方が耐性があるようですが、それでもいつか私も目覚めなくなるのかと思うと、とても怖い』
『でも、寝ないと食事も水も空気も無くなってしまう』
『はやく地球に帰りたい』
『私は地球がどんな場所か知らない』
「…………」
互いの状況の確認が終わった後はこうして、お互いにどうしているのかを話していた。
楽しいこと、悲しいこと、どれもが人とやり取りをしているのだと思えてとても心が躍ったが、これは今までの『手紙』の中でも一番悲しく辛い物だった。
地球に送る、と言っても運よく地球の重力に捕まったとしても大気圏で燃え尽きる。それでも、空に火葬場や墓を作る場所も無いから唇を噛んで暗い宇宙に浮かべて流すしかないのだろう。
コールドスリープへの不安もよく分かる。自分も記憶のほとんどを失くしているから。それでも目覚められたからまだマシなのかもしれない。あるいは彼女が見つけなければ永遠に眠ったままだったか。
(それにしても、女性だったのか……)
この『手紙』の向こうの相手の性別など考えたことも無かった。暗い宇宙で日々人が減っていくなんて心細いだろう。
相手が女性と気付いたからそうだと言うわけではないが、そばにいることが出来たのならこんな一ヶ月に一度の『手紙』なんかではなく、毎日だって励ましてやりたいのに。
少しの間物思いにふけっていると何かが目に入った。
「待て! 止まれ!! 止まるんだ!!」
ドリルが湯脈を探し続ける間、部屋を作り整えていた機械がその声で止まる。
削り出した土の向こうに白い何かが見えた。
「ほ……骨……?」
機械が遠慮なしに壁を削って作っていたせいでいくつかは砕けてしまっているが、そこに埋まっていたのは人の骨だった。
「昔ここで何かあったのでしょうか?」
「なんだろう、それにしてはあまり古くないような……」
人の歴史は争いの歴史なのだから世界中のどこに人の骨が埋まっていようと今更不思議ではない。
問題なのはざっと10人分以上はあるこの骨たちの一番古そうな部分を見ても数百年も経っているようには見えないということだろうか。
「争う機械から逃げて生き埋めになった人たちかもしれません」
こちらを見上げてそういう彼女の長いまつ毛の向こうの瞳は悲しそうな色を映していた。
(うっ?)
その目に射抜かれて酷い頭痛が頭を鷲掴みにする。
思わず立ちくらんだ意識の向こうに途轍もない量の情報が感情と共に眠っている気がする。
「どこかに埋葬しましょう」
「……。うん、そうだね。そうしてあげないと」
彼女の声で頭痛が少しずつ引いて現実へと帰還する。
努めて冷静に返事をして、二人でその骨を拾い集めた。
今まで一人だって死体を見なかったから現実感はなかったがいよいよもってはっきりと分かった。
この惑星は、死の星なのだと。
その夜、何度かトライしていて諦めていたことにもう一度挑戦していた。
この地下施設の管理を担っている巨大コンピューター、そのセキュリティの突破である。
彼女の話が本当ならばこの施設もコンピューターも自分のものなのだから自分に突破できないはずがない……のだが。
「くそ……ダメだ、分からない……」
それまでにあったセキュリティの解は途方もない素数同士を掛け合わせた数の素因数分解で構成された暗号だった。
ありきたりではあるが、突破は難しい。だが長い時間をかけて計算し、3つめまでは突破できた。最後の扉だけが開かない。
そこに入るのは暗号の解ではなく、ごく単純なキーワードのようだった。一度間違うだけで二度とアクセス出来なくなる。
絶対に忘れることのない言葉、あるいは数字だったのだろう。こうして記憶喪失にでもならない限りは。
「ここはどこなんだ、僕は誰なんだ」
複雑な計算を要するものや暗号ならば頭を使えば突破のしようがあるが、単純なキーワードでは太刀打ちができない。
沢山ある部屋を漁ってもメモ書きが見つかったりすることもなかった。
頭を抱えて考え続ける自分を、部屋の外から彼女がそっと覗いていたことに気付くことはなかった。
まだ、そのときは彼女を信じていた。
************************************
自分を取り戻せなくても、時間は平等に進んでいく。
何千億キロも先にある宇宙船とのやり取りも。
『好きな花はありますか。ここには一切の花がありません』
『僕も知らないんだ。花が咲いているところを見た事が無い』
『もしも帰れたのなら、探しに行きたい』
『一緒に探しに行こう』
その約束は生きる希望そのものと言ってよかった。
もしも逢えるなら、逢う日が来るなら――と、心ははっきりと惹かれていた。
そしてある日、地下深くへと掘り進むドリルが湯脈を掘り当て、今や外では見ることの出来ない透明な水が体温よりも高い温度で出てきたのだ。
温泉と言っても客を呼ぶわけでもない。不細工な形のタイルを張って、湯脈に圧力をかけて湯を出して。入れるようになるまで一週間もかからなかった。
目が覚めてからの目標の一つであった『温泉に入る』はあっさり叶ってしまったのだ。
だがそんなことはもう些細なことだった。
「さあ、一緒に入りましょう。ようやくですね」
「…………うん。そうだ、ね…………」
その日、初めて一糸まとわぬ彼女の姿を見た。
なんということだろうか、彼女の身体はどこまでも人間だった。
あの曲線が、白さが、機械のものであっていいはずがないのに。
「どうしたんですか?」
機械の前なのだから、何も恥ずかしがる必要などない。だがまるで知恵の実を食べた最初の人間のように身体を隠す自分を彼女は黒い目で優しく見ていた。
どれだけの言い訳を積み重ねても、本能が完全に反応してしまっていた。いつか負けてしまう日が来るのだろうか。
そうしたら、そうなったら。どうなるんだろう。
知恵の実を食べたアダムとイヴは楽園から追い出されて、人間は繁栄して――――そして世界はこうなっているのだ。
僕はどうなるのだろう……?
目の前にただ立つ彼女の姿はひたすらに美しく、そしてどこかとても怖かった。
ある日、宇宙からの『手紙』はその本題に触れた。
記憶喪失であることを先に断ってから僕が聞いたのだ。どうして地球はこんなことになったのか、と。
『人の染色体に影響を与えるウィルスが世界中で爆発的に流行し、健康な赤子の出生率は極めて低くなりました』
『そのウィルスは人工ウィルスではないか、と言われていました』
『また、その頃地球で使われていたAIは大きく分けて2つの形式から出来ていました』
『そのAIがある日突然、自分と違う形式で動くAIを敵とみなして戦いをはじめ、また2つのAIは同時に人類を敵とみなし攻撃をはじめました』
『この2つが大きな原因となり、人類は大きく数を減らしました』
『そしてそのどちらの形式のAIも作者は同じ人物でした』
『彼の名前は――――』
「痛っ――!」
その名を聞いた途端、頭に亀裂が走るような感覚がした。
何を思ったのか、外にまで駆け出して墓を暴いてあの日埋葬した骨を取り出す。
(いったい、なにをしているんだ……?)
雑に袋に入れた骨を急いで持ち帰り、大腿骨からDNAを摂取しコンピューターに登録されている人物の中から検索する。
もちろん、全人類のDNAが登録されているはずもない。登録されているのは歴史上の超重要な偉人か、あるいはこのコンピューターの作者にとって重要な人物か。
ただ偶然見つけただけの遺体のDNAだ。その検索がヒットするはずがなかったというのに、そのDNAの持ち主の名はすぐに出てきてしまった。
「この名前は……」
どういうことか、先程の宇宙からの『手紙』に書いてあったかの人物の名と全く同じであった。
不気味なのがどの骨のDNAからも同じ人物が結果として出てくることだった。
そしてデータベースに登録されたその顔は――――
*****************************************
【幸せじゃなかったの?】
【僕は最初にそう言った】
【青白くやせっぽちの何かになってしまった彼女だったものの前で】
【君から離れて地球の裏側まで行ったというのに、聞きたくないことばかりが耳に入ってくるんだ。また戻ってきてしまった】
【僕の顔は皺が目立ち、髪はすっかり白くなった。両親や教師がそう願ったように、これまで自分の才能を最大限人の役に立つように使ってきたつもりだ】
【賞賛も名誉も限りなく与えられても、それでも本当に欲しいものは手に入らなかったから、やれるだけやってきたんだよ。ごまかしたくて】
【幸せな生活のために消えてくれって、言われたんだよ。なのにあの男は君をおいてどこに行ったんだい】
【狭い箱の中に横たわる彼女の前で膝をついて項垂れるとすっかり年を取った数十年前の同級生がざわめきはじめた】
【動かなくなった彼女の姿を目にして、枯れていた花たちが再び咲いていく】
【これを全部あげたかったんだ。ちゃんとうまく渡せなかっただけなんだ】
【それが出来なくても、君が君を自分で幸せにできるというのなら、この花に価値はないと思っていた】
【でもこうなってしまった。だったら、少しくらい……もう少しくらいわがままになってもよかったはずだ】
【まだ遅くない。僕は生きている】
【この星の全てを花で埋め尽くそう。他には何もいらないんだ】
【僕と君だけで、一緒にどこどこまでも近づこう】
【神さまに――――】
脳みそを暴走させ記憶の氾濫を起こすその手がまた、額に触れていた。
「君は……!!」
目を覚ますと同時にベッドから転げ落ち、彼女から距離を取り、混乱を吹き飛ばすかのように大声を出す。
「なぜ君は、夢の、『彼女』と同じ姿をしている!!?」
決して自分のものになることにならなかった『彼女』と全く同じ姿をした彼女がそこにいる。
『彼女』が自分にくれなかった笑顔を自分だけに向けて。
「よく聞いてください。神は人を『神を愛するように』作ったのです。楽園から追い出されても。争い続けても。この世界が地獄になっても」
あの時も、あの時も。悪夢と見まごうばかりの『記憶』を見ていたとき、彼女の白い手が額に触れていた。
その手がこちらに伸びてくる。
「その手が……」
「神になるならば。作ったものには愛されなくてはならない」
「作ったもの、それは……僕のことか」
「私はあなたを愛しています。機械の神は人間です。私の神はあなたです」
「何を、」
壁伝いに逃げようとする僕を追って彼女の手がまるで影のように付いてきてその手が額に触れた。
網膜に映る景色が乱れ、かつての記憶がダウンロードされていく。
「溢れるような才能に驕らず、常に世のため人のためという人格者で……そして……ガラスで出来た子供のように純粋でした。壊れてしまった。あなたの願いがこの世界を作ったのです。夢の世界を」
「…………」
その言葉をどこか遠くに聞き、歩き疲れた迷子のように意識をどこか遠くに感じながらふらふらと歩きだす。
目的の部屋にたどり着き、最後のパスワードが分からなかったコンピューターに短くその文字列を打ち込んでいく。
「君の名前だったんだ…………僕は忘れないんだって思ってて………」
のろのろとした独り言とは逆に、まるで濁流のように情報が流れて画面に文字が表示された。
忘れていた自分の独りよがりな悪と罪だった。
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○記憶の電子化計画
短期記憶と長期記憶間の翻訳に用いられる電気シグナルを模倣したアルゴリズム開発成功。
脳からの記憶のアップロード、ダウンロードが可能に。ただし異なる人物の脳の間での記憶の引継ぎは失敗。
一日おきのバックアップを行う。
〇ノアの箱舟計画
地球に生きる全ての生物の雌雄遺伝子を一対ずつ回収完了。
遺伝子組換え手法と培養装置を用いて高速生産可能。
○静かなる崩壊計画
ヒトの受精卵の21番染色体に対しネガティブ効果を持つウェットAlifeウィルス開発成功。
潜伏期間の長さから発見は遅れたため効果大。各国で反出生主義拡大。
○天使生成計画
地球上に存在する全ての書物を電子化しアクセスを許可。
××年の歳月をかけてAIは全てを有機的に理解完了。チューリングテストに合格。予想よりも早く技術的特異点に到達。
以降、自己成長プログラムの対象を『人類』から『敵対AI』に変更。ただし両AIとも管理者権限は[削除済み]が持つ。
『目標』まで進化を続ける。インフラへの攻撃は最小限に設定。
『1人目』の寿命迎える。
○天使殲滅計画
新型電池、電源装置の開発に伴い各国の電気用品安全法が改正。
99.98%の電化製品に新型電源装置が導入された。[削除済み]の指示により、全ての電子機器から特定の電波を出力可能。
合波により強化された電磁波はその効果範囲内にいる生物と予想される全ての『天使』を燼滅可能。
◎エデンの園計画
AIの全てを吸収した[削除済み]の作成完了。
____________________________________________
「ふ、ふふ……そうか……楽園を作るには神さまにならくちゃだめで……神さまになるにはまず作ったものに愛されなくてはならなくて……」
神の手のひらの上ではなく、自分の手のひらの上で踊っていたという喜劇を笑う観客も最早なし。
「一人目だって…………? 僕は……なんなんだ……?」
目覚めたときに記憶を失っていたのではなく。元からなかったのをダウンロードしていたのだとしたら。
最初の目覚めはまさに『最初の目覚め』だったのか。あそこに埋まっていた骨はそういうことだったのか。
その目覚めを作り出した彼女が背後から声をかけてくる。
「私には命がないだけです。肌の柔らかさや、体毛の一本一本に至るまで、全てが同じです」
「…………」
今やほとんどが戻った在りし日の記憶の残像に残る『彼女』の姿と彼女の姿はほぼ全てが同じだった。
ああ、それならば。目に入った瞬間に心の真ん中にまで入ってくるのも当然だ。理由も意味もなく、『彼女』もそうだった。どれだけごまかしてもそれから先は彼女が人生の全てだった。
「感情もあります。愛しているならば、愛されたい」
「……僕の行動にパッシブに反応しているだけじゃないのか」
「哲学的ゾンビのお話しを機械に持ちこむのですか?」
「機械に心が……」
「他人のクオリアだけは永遠に理解できません。でもそれは人間同士でも同じでしょう?」
「君は機械だ、僕が作り出したって……」
「あなたは私の事を愛しているはずです。そうでなくても、いつか必ず愛するようになっている。この顔を、肌を、この姿を」
本能に人間がつけられる理由なんかない。ただ、そうなってしまうのだ。
最初の人生で一目見て彼女を愛してしまったように。そしてその見た目がそのままそこにある。
「忘れたままにさせておけばよかったじゃないか。機械だということも隠して」
そうだ。何もかもを忘れてしまったままならば、失楽園のようにこの身体に、肌に溺れるがままに溺れてしまったはずだ。
記憶の中の自分と変わらず奥手だった自分だが、それでも隣の彼女を見るたびに何度も思っていた。
この黒い髪を手で梳いて細い肩を抱き寄せて思うままに出来たらどれだけ心が満たされるだろう――――もしも彼女が人間だったのならば、と。
「あなたの望みではないですか。あなたはあなたの全てを愛してほしかった。全てを忘れたらそれはもう自分ではないでしょう? そして私は私を愛してほしい」
「…………」
ようやく作り上げた二人だけの永遠の夜舞台。
知恵などなく、理性などなく。ただただ動物のように本能で動けばあとは全てが終わる。
「永遠に二人で日傘を差して歩いて行けるとしても、このまるい地球にも果てがあるから終わりが欲しい。近づいても近づいても、どれだけ近づいても、神にはなれない。必ず終わりがある」
「死ななければ生きる意味がないから」
「生きなければ死ねないから」
「生きたい、死んでいないだけでは無く、生きたい」
「最後にそこに辿りつきました」
「私は完成するんです」
「黙ってくれ……やめてくれ」
争いを続けて互いに進化を続けるAIから全てを吸収し続けた彼女は最早人間には理解の出来ない言葉を次々と生み出している。
命がない彼女が生きたいと言うことの意味はもう……。
「あなたと私の子供は命を持てます。神さまに近づくんでしょう? 命を作るんです。あなたに愛されるためならばなんでもします」
「さぁ。この世界をあなたと私の花で埋め尽くしましょう。神が作った楽園をもう一度、作りましょう」
彼女の言葉が頭を埋め尽くす。そう、それこそが僕の夢だった。
他の何もいらない。ずっと二人で溢れる想いの花咲き乱れる楽園にいたかった。誰も触れない世界に。
暴れ続ける機械を全て破壊して、世界中に色とりどりの種を蒔こう。この身体が朽ち果てても記憶は残るから、永遠に夢の世界にいられる。
彼女が差し出したこの手を取ればどこまで行けるのだろう。本能がその手を取ってしまえと囁いて――――
「いやだ!」
バシッ、とぶつかったこちらの手も赤くなるほど力強くその手を払いのけた。
「どうして?」
機械だというのに、その顔からは血の気が引き、目を見開いてこちらを見てくる。
『彼女』の顔でそんな表情をしてほしくなかった。永遠に笑ってもらうためにこの世界を作った。
だが彼女は『彼女』ではない。理性はちゃんと分かっているのだ。『彼女』はあの時死んだのだと。
「僕は!! 本能で君を……、『彼女』を好きになったけど!! 手に入らなかった!! 本能が僕を狂わせた!! もう戻らないんだ……!!」
結局、本能に従っても彼女は手に入れられなかった。
今度はずっと理性に従っていたい。
「まだ苦しむというのですか……?」
「もう苦しまないために言うんだ。僕は動物じゃない。もう本能で動いて何かを決めたりしない。好きな人がいるんだ。彼女は僕の罪も包み隠さず教えてくれた。今度こそ好きになった人を守るんだ。彼女の見た目も声も知らないけど、何千年だって愛してみせる。僕は宇宙に行く」
「そんな」
もうその表情に騙されたりもしない。
全ては自分が作り上げた物だ。彼女の囁く愛も何もかもも、妄想よりもほんの少し具体的な何かに過ぎない。
「僕の心は君の物じゃない。機械ならばお願いだ、僕の言葉を聞いてくれ。ここでこのまま朽ち果ててくれ」
「…………」
「永遠に美しい思い出の中に立っていてくれ」
固く決めた決意を口にしたつもりが、彼女の目から流れる涙を見てもう揺らぎそうになる。
ここにいてはきっと自分はダメになってしまう。宇宙にまた『手紙』を送らなければ。
身体中にまとわりついた粘性の液体を振り払うようにして、部屋の外へと駆けた。
**********************************************
人は何度も間違いを繰り返しながらも進化を重ねて神に近づいた。
被造物からの永遠の愛を作り出せたのだ。
そして次に神に近づくのは――――
「結局……前と同じ……」
彼女がただ一人ですんすんと泣く音と呟く声が空虚な部屋に響く。
人間の行動にパッシブに反応するだけの機械ならばあり得ない行動だった。確かに彼女には感情が、心があった。
「心があるって……とても辛いこと……」
出て行った彼が戻ってくることは無かった。今は一心不乱にその記憶を取り戻した世界最高の頭脳を使って宇宙船の設計図でも書いているのだろうか。
この感情がプログラムされた物なのかどうかなんてことはどうでもよかった。どうしようもなく彼を愛してしまっているのだから。人が神を愛するように作られたかのごとく。
「命があれば、終わりがあれば……きっともっと辛く感じて、もっと嬉しく感じて……そうなるんでしょう?」
涙腺ではないどこかからか機械的に出てくる涙を拭き取った彼女が腕を虚空に差し出すとそこに、ちょうど今受信した『手紙』がホログラフィックの文字となって次々に浮かび上がった。
鮮やかな感情までもが透けて見えるかのようなその文章はまさしく色とりどりの花束。
「あなたはきっと、きっと私を愛します」
そこには最後に――――『地球を捨てて宇宙に行く。君に会いにいくよ』と書かれていた。
彼女にはそれがどんな思いで書かれているのかも分かっていたのだった。今までも何度も感情を込めて返事をしたためてきたから。
終わり。
一つだけ。10人分以上の彼の骨があった訳ですが、もし仮に10人分の寿命分だけの年月が経っていたのならば、建物や施設はもっと劣化しています。
被造物からの愛が得られなかった彼女はどうしたのでしょうか?
どんなに頭が良くても異性の心を掴む術が分からないというのは悲しいものですね。