ノスフェラトゥ千葉支部、第三訓練室。
エージェントたちが鍛錬や新しく支給された装備を試すために使われるそこに、我はいた。
「ちぇぇええいっ!!」
奇声にも似た雄叫びをあげ、我──材木座義輝は刀を振るう。
相手は装備した黒ずくめの装備の集団。SATの隊員から作られた戦闘データを応用した
火を吹くMP5から吐き出される銃弾の嵐は、本来であれば避けること能わず蜂の巣にされるであろう。
《弾道を予測。回避ルートを選出します》
だが、我の目にはその全てが写っていた。
視界に表示された被弾率の高い銃弾のみを切り裂き、残りは僅かに体の軸をずらすことで躱す。
そうして一人目に接近し、隠れていた腰ほどまでの壁の裏側に転がり込んで喉を切り裂いた。
死亡判定してデータが消える前に太もものホルダーから拳銃を奪い取り、近くにいた二人を射殺。
薬莢が排出され、着弾した場所から血が飛び散る。単なる映像だというのになんとリアルなことか。
「ぬっ、終わりか」
二人目の心臓を撃ち抜いたところで弾が切れたので更に奥の一人に投げつけ、視界を誘導した。
その隙に接近し、こちらに意識が戻る前に刀で両手を切り裂くとMP5を奪い取って乱射する。
こちらに銃を構えていた3人が倒れた。残るは半分。
「おっと間違えた、残りは五人だ」
シャキン!
MP5についていたベルトが首に絡まり、喉元が締まっていた隊員の喉笛に刃の生えた右肘を入れる。
刃を引き抜いてマガジンを確認し、ベルトを切り離すとまだ使える銃を左手に残る敵へ突貫した。
「シィッ!」
並んでいた二人の首を飛びかかって刎ね飛ばし、腰から特殊閃光弾を取る。
着地しながらピンを抜き、視覚センサーを一時的にシャットダウンして投擲。
暗く閉ざされた視界の中でも、擬似的な熱源反応は絶えず場所を教えてくれる。
目の潰れた3人のうちの一人に、最後の弾を乱射して射殺。残る一人は動きを止めている間に近づいて首を折る。
「貴様で……最後だ!」
壁を足場に跳躍、スイッチを押して伸長したブレードを最後の一人の脳天に叩き込んだ。
ブ──ー!
ヘルメットごと頭をかち割った隊員が倒れた瞬間、ブザーが鳴って訓練が終了した。
「ふぅ、温い温い。この程度ならば楽勝よ」
「ブラボー!さすがですね材木座先輩!」
聞こえるはずのない声を、聴覚センサーが感知した。
振り返ると、訓練スペースの外に設置されたベンチに見慣れた
「ぬ、一色嬢か」
「はい、あなたの可愛い後輩いろはちゃんです。マンションにいないので来ちゃいました」
む、確かに我と一色嬢は隣の部屋同士。そして人の心を感じ取れる彼女にはいないことなど一目瞭然か。
とりあえずブレードを収納して歩み寄ると、一色嬢はタオルとペットボトルを差し出してくれる。
「かたじけない」
「いえいえ〜。精が出ますね先輩」
「んぐ、んぐ……ぷはっ。こうでもしないと、気分が落ち着かないものでな」
ペットボトルの中身を飲み干し、ベンチに置いていたシャツを羽織りながら座る。
一色嬢も隣に座って……いつもながら距離が近いわこの小悪魔め……「お疲れ様です」などと笑う。
天使の如き笑顔に心臓が跳ねた。ええい、生体管理システムがうるさい。脈拍が早まっていることなど知っているわこのたわけ!
アラーム音を発するシステムを隅に追いやり、逸らしていた目線を戻す。
「聞きましたよ。任務、参加するんですね」
すると、一色嬢が真剣な顔をしていた。
「……うむ。上からの指令でな。出発は明後日となった」
「そうですか……まさか宇宙での任務なんて、先輩もやりますね〜?」
「モハハ、地球が青いところをこの目でしかと見てこようではないか」
いつも通りの会話……などと強がってみるものの、正直安堵している。
もしこの場に一色嬢が来てくれなければ、きっと我は作戦開始のギリギリまでここにいただろう。
この恐怖心を振り払う為、これまでのどの任務よりも危険な戦いを前に己を奮い立たせるために。
「どうせなら写真とか持って帰ってきてくれていいですよ?次の絵のインスピレーションいなるんで♪」
「善処しよう」
聡い彼女のことだ、きっと我の内心などお見通しだろう。三年も一緒にいるのだからな。
「……三年、か」
「どうしました先輩?そんな哀愁に浸った顔して。正直意味深なセリフいきなり吐くとか見てくれはイケメンなので似合うからやめてくださいごめんなさい」
「酷くない?ねえ酷くない?」
俺泣いちゃいそう。武士の心は強いように見えてガラスでできているのだぞ?
「冗談ですよ、冗談」
「まったく……いやなに、随分と遠いところまで来たと思ってな」
「まさか、死にかけだった私たちがこんな所にいて、世界のために戦ってるなんて。三年前の自分なら絶対鼻で笑ってましたよね」
「同感だ」
我ら二人は、元々はエージェントではない。
一色嬢は保護はされていてもこちら側ではなく、我に至ってはそもそも組織の存在も知らなかった。
それどころか、当時自らの外見で人間不信だった我は何も信じられず、部屋の中に引きこもっていた。
見るもの全てが自分を嘲笑っているようで、自分の殻に閉じこもってパソコンばかりいじる毎日。
その中でハッキングの技術を身につけた我はある日、偶然あるものを手に入れたのだ。
それは、人外を売買する組織のデータ。
最初は疑ったが、調べていくうちに本物だとわかると空想の産物が実在するのを知って舞い上がった。
そしてふざけ半分で、その組織にデータの在り処をほのめかす様なことをしたのが間違いであった。
「調子に乗って手を出してはいけないものにちょっかいをかけ、我はこの体をその代償とした」
右腕の人工皮膚をめくると……その下から機械の義手が露わとなる。
データを取り返しに来た暗殺部隊に家族は皆殺しにされ、我もまた瀕死の重傷を負った。
四肢のうち右腕全てと左の手首から先、左脚は蜂の巣。内臓は半分以上が機能せず、脳にもダメージを受けた。
「そして私は、自分の力を悪用して悪い人たちに殺されかけた」
「…………うむ」
一色嬢は幼い頃より類い希なるその容姿と心を惑わす淫魔の力を使い、男たちを弄んでいたのだ。
しかし、偶然にもマフィアやヤクザなどの首魁達までも惑わし、一色嬢を手に入れる為に彼らは街を地獄へ変えた。
そして、その中で……
「今思うとバカですよねー。中学生のガキが全ての男は自分の僕だなんて思い込んで、そのせいで居場所も……家族も失ったんですから」
「……人は誰もが間違いを犯す。我らの罪は、失ったものは、永遠に我らの心を苛み続けるだろう」
「でしょうね」
寂しそうに、何かを押し殺すように笑う一色嬢。この話をする度に見せるその顔に、我は酷く心が締め付けられる。
「唯一幸運だったのは、彼奴に出会えたことであろうな」
「ええ。あの人が……比企谷八幡さんが、私たちを助けてくれた」
死の淵にいた我らを救ったのは、他ならぬ我らが友──比企谷八幡であった。
人外の権利を迫害するかの組織を壊滅させ、はたまた一色嬢を狙い多くの人々を巻き込んだ悪党共を尽く粛清し。
その中で我らは救われた。己が罪によって失いかけた我らの命は、あやつの手で救い上げられた。
「そして同じような境遇の被害者として出会った我らは……」
「先輩に命を救われた恩を返すために、そして自分の行いの贖罪のためにエージェントになった……ほんと、改めて聞くとなんですかこれ。どこのSF映画ですか?」
「事実は小説よりも奇なりとは、まさにこのことであるな」
我は失ったものを機械で継ぎ足し、一色嬢は正しくその力を使う術を覚え、辛く苦しい修練の末暗殺者となった。
そうして八幡と共に3年間戦い続け……そして今、ついに彼奴の全てを奪った元凶へたどり着いた。
「ようやくだ。ようやくこの時が……誰より優しい奴の憎しみを取り除くチャンスが、我が手に巡ってきた」
「あーあ、一緒に行けないのがもどかしいです。私も戦いたかったのに」
残念そうに唇を尖らせる一色嬢であるが……しかし、我はその言葉には同調できなかった。
「……いや。たとえ一色嬢に出撃許可が下りていたとしても、我が止めただろうよ」
「へ?どうしてです?」
「え、それ説明させる?」
我が深淵よりも深き心の奥底に秘めたこの想いを、今ここで曝け出せと申すか。
はっはっはっこやつめ、はっはっはっ…………………………鬼畜かこの小悪魔娘。
そんなこと中二病と称した虚勢張りまくってる、中身クソ雑魚ナメクジの俺にできるわけないだろ。
「まあ、それは山より深く、海より高い訳があってだな……」
「あーいいですそういうの。ていうか材木座先輩程度の心なんて読まなくてもわかりますし」
「んなっ!」
しっつれいな!俺がこの2年間隠し続けたと思っていたものを、既に暴いていたというのか!?
「でも、どうせだから直接先輩の口から聞きたいなー。言いたくて言いたくて涎垂らしてる、その訳ってやつを♪」
「涎など垂らしておらんわ!…………む、むう」
腕を組み、うむむと考え込む。いっそここで言ってしまった方が良いのか?
いやいや、そんな迂闊なことはできん。生死を賭けた戦いの前に告るとか、それ死亡フラグだから。
いやしかし、それこそこの戦いが終わったら……などと言えば、それこそぶっちぎりの死亡フラグ。
「はっ、もしや詰んでいる!?」
「真剣な顔で思い悩んでると思ったら何言ってんですか……はぁ、このヘタレ男はほんっとーにダメですね」
「誰がヘタ──っ!?」
その言葉を、途中で遮る他なかった。
何故ならば、強制的に振り返るのを両手で拒絶されたと思えば、頬に柔らかいものが押しつけられたのだ。
我が呆然としている間に、柔らかいものが離れ、我の頭から手を離した一色嬢は立ち上がる。
「い、いいいいい一色嬢!?」
「しょーがないので、帰ってくるまで待ってあげます。その時はちゃんと、最後まで言ってくださいね!」
「いや、言うも何も……!」
「そしたら!」
開いた扉に手をかけた一色嬢は、そこで一度立ち止まり。
「……そしたら、次は別のとこかもしれませんよ?」
いつものように舌を出しながらそう言って、出ていってしまった。
後に残された我は、おそらくは接吻されたであろう頬を撫で……こう呟いた。
「……ふっ、赤くなった耳までは隠せておらんかったぞ」
まあ、それを言ったら我とか真っ赤だけどね⭐︎
────
また買い物を頼まれて、あたしはスーパーに行った。
それで学校から一番近いスーパー、つまりやとっちと初めて会った所に来たんだけど……
「……えっと」
「あはは……」
目の前には、苦笑いしているやとっち。あたしも多分、同じ顔してる。
もしかしたらたまたま会うかなーなんて思ってたら、本当にいた。
「……とりあえず、こんにちは由比ヶ浜さん。体育祭の委員会の帰り?」
「うん、そんなとこ。やとっちは買い出し?」
「まあね。静さん、今日の晩ご飯をつまみ食いしてたみたいで」
「平塚先生……」
そんなことしたんだ……なんか、やとっちの方が保護者っぽい感じだなぁ。
「それじゃあ、また明日」
「あっ、待って!」
慌てて呼びかけると、後ろをむきかけていたやとっちはこっちを振り返る。
ど、どうしよう。思わず呼び止めちゃったけど、何話すか全然考えてなかった。
「どうしかした?」
「あ、えと……あっ、そうだ。話したいことがあるから、この後あの公園行かない?」
うう、何言ってんだろあたし……話したいことなんて、なんも決まってないのに。
やとっちはキョトンとした顔をしていたけど、内心ドキドキしながら待ってるあたしを見て笑った。
あ、今の顔。
少しだけ、ヒッキーに似てた。
「わかりました。じゃあ、早く買い物を済ませましょう」
「う、うん!」
よかった、いや何がいいのかあたしもわかんないけど、とりあえずやとっちと話せる。
とりあえず、買い物してる間に話すこと考えとかないとやとっちも困るよね。
「由比ヶ浜さんは何を買いに?」
「牛乳だよ」
「なるほど、それなら先に行きましょう」
「あ、ありがと」
やとっちと一緒に店内を回って、買い物を済ませるとスーパーを出る。
それから公園に着くまで、あたしもやとっちも何も話さなかった。
「はいこれ、やとっちにあげる」
自販機で買ってきたMAXコーヒーを、やとっちに差し出す。
「いいの?」
「うん、助けてもらったお返し」
「それならもう前に一回」
「そっちじゃなくて」
勘違いしてるやとっちに、あたしはちょっと大きな声で遮る。
「……こないだの、助けてもらったお返し」
そう言っただけで、頭のいいやとっちは分かったんだろう。笑ったまま顔を強張らせる。
「……そういうことか。わかった、ありがたくもらっておくよ」
「……うん」
やとっちが受け取って、あたしも隣に座ってなんとなく買ったミルクティーの蓋を開ける。
暖かいそれを一口飲んで、甘い味で口の中を湿らせてからやとっちに向けて話し出した。
「改めて、ありがとね。やとっちがいなかったら、きっとあたしここにいなかった」
あの時やとっちたちが助けに来てくれなきゃ、あたしも……廊下に散らばった死体の一つになっていたと思う。
「とどめを刺したのは比企谷小町さんだ。僕はただ不意打ちを食らわせただけで……」
「そういうことじゃないよ」
やとっちがあたしの方を向く。
あたしもやとっちの、綺麗な青い目を見てそれを言った。
「あたしは、やとっちが助けに来てくれたことが嬉しかったの」
「……? すまない、言葉の意味がわからない」
首を傾げるやとっち。難しい事を知っているやとっちだけど、これはわかんなかったみたい。
でも、それはあたしも同じだ。どうしてそんな事を言ったのか、あたし自身もわからなかった。
ただ、そう。気がついたら口に出ていたんだ。
強く、強く頭の中に焼きついたあの時の、やとっちの横顔を思い出して──
ドクン。
……違う、よね?
「でも、助けられなかった人が多かったことも事実だよ。もっと早く気付けていれば、より多くの人間を助けられたのだろうけど」
MAXコーヒーの缶を握りしめて、沈んだ顔で呟くやとっち。
その横顔はなんだか……ヒッキーが自分のことを話してくれた時の顔に似てた。
「……ねえ、やとっちはなんで人を助けるの?」
「え?」
「あ、や、ごめんね?でも、どうしてなのかなって」
ヒッキーは、自分を助け出してくれた組織に恩返しするために働いていると言った。
姫菜はそうすることで、自分の力が存在する理由を作りたいからだと。
じゃあ、やとっちはどうなんだろう。あたしと同じように悩みながら生きていると言った、彼は。
「……どうして、か。それは僕自身にもよくわからないんだ」
「そういうものなの?」
聞き返すと、やとっちは寂しそうに笑って話し出す。
「この前はタイミングを逃してしまったから、ここで話すよ……僕はオリジナル、比企谷八幡くんの遺伝子から作られたクローンだ」
「クローン……」
「ホムンクルス、人造知的生命体……言い方は色々あるけれど、僕は自らウィルスをコントロールできることをコンセプトに設計された生物兵器の試作品として作られた」
やとっちが私に見せつけるように、周りから見えないように右手を見せてくる。
手に黒い血管が浮かんで、肌が赤く染まっていく。指の先も鋭くなって、あっという間に人の手じゃなくなった。
やとっちはあんまり見せたくないみたいで、そこまでで手を引っ込めてしまった。
「多くのデータを取るために成長速度を早められ、成体になるまでの三年間僕は研究所で色々な実験をされた」
「せいたい……声?」
「そっちじゃなくて、成熟した体になるということ。つまり、今の僕になるまで三年かかったってことだよ」
「ええっ!?じゃ、じゃあやとっち3歳なの!?」
大声で言って、はっと口を抑える。
幸い夕方なので公園の近くには誰もいなくて、ほっと胸を撫で下ろした。
「うん、人間の時間感覚で言うとそうなるね。つまり僕は赤子も同然の年月しか生きていない」
「そうだったんだ……なんか、クローンってすごいね」
「まあ、特別な処置が必要だから今後は普通の人間と同じ速度で成長していくと思うけど……話を戻そう。データを集め終わって、用済みになった僕は廃棄処分が決定した」
「廃棄処分、って……そんな」
やとっちは、ちゃんと生きてるのに。まるで使えなくなった道具みたいな扱い方するなんて酷い。
……ううん、姫菜の話を思い出して。この世界にはそういう、酷いことを平気でやれる人もいるんだ。
「いよいよ短い生を終える中で、僕はふと思ったんだ。僕はなんの為に生まれたのか、と」
「だから、逃げたの?」
「ああ。最初から目的のための道具として生まれた僕がもしもこの先も生きられるとしたら、それにはどんな意味があるのだろう。そう思わずにはいられなかった」
だから、何もかもわからない、自分を道具にする人たちばかりのその場所から必死に抜け出したんだって、やとっちは言った。
「人間を助けるのはその一環だ。人間を知ることで、僕の生き方がどうなるのかを知りたいんだ」
「そうなんだ……」
「そして願わくば僕の原点、《オリジナル》の彼に会って聞きたいことがあったんだ」
自分の手を見るやとっちの目は、体が震えるくらい強くて。
心臓が高鳴るのは怖いからなんだと、自分に言い聞かせた。
「〝あなたは、どうして生きたいと願ったのか〟……彼にそう聞けば、僕の生きる意味もわかると思った」
「……ヒッキーには、もう聞いたの?」
「聞いたさ。そしたら彼、『そんなもん俺が知るか。ただどうしても死ねない理由があっただけだ。他に意味はない』って一蹴されたよ」
「ぷっ、ヒッキーなら言いそう」
思わず吹き出して、それからあたしは考えてみる。
生きる意味。
それはきっとみんな探していて、でも多分誰も真剣には考えていないことだとあたしは思った。
あたしも、他のみんなも、誰もがやとっちたちみたいに生きてるわけじゃない。
でも、だからこそあたしはヒッキーとゆきのんが好きだ。
流されて、空気を読んで、漠然と生きていたあたしには、ちゃんと自分を持ってることはあまりに綺麗に見えたから。
そんな二人のようになりたいと、何度も思ったことがある。二人みたいに、ちゃんと自分がどうしたいかを決めたい。
いつか、あたしにも見つけられるのかな。見つけられたらいいな。
「でも兄さんの言う通りだ。それは自分で見つけるしかない。自分しか、見つけてあげられないんだ」
「……うん、あたしもそう思うよ」
誰かにこうだって言われてもらったそれは、きっと偽物なのだろう。
昔のあたしは、人の輪の中で中立でいることこそが自分のある意味なんだって思っていた。
誰にでも笑って、波風立てないようにグループを維持すればって……でも、今はそうは思わない。
ヒッキーに出会って、ゆきのんに出会って、そしてやとっちに出会って。いっぱい大事なものをもらって。
あたしは、あたしを知りたくなったんだ。
「だからこそ、それを知る為にも僕は生まれ故郷に帰るよ。そこで何かを見つけてくる」
「それって、もしかして……」
「おっと、ここでする話ではないね」
手を元に戻したやとっちは、そう言って立ち上がった。
ゴミ箱に空き缶を入れて、こっちを見る。初めて会った時とは逆になった。
「聞いてくれてありがとう。そろそろ行こう」
そう言って、やとっちは歩き出す。
ヒッキーによく似た後ろ姿は、そのまま何もしなければ帰ってしまうのだろう。
「待ってるから!」
だからあたしは、立ち上がって叫んだ。
やとっちがびっくりした顔で振り返る。あたしは叫び続けた。
「帰ってくるの、待ってるから!だから、またお話ししよ!」
まだ、沢山やとっちと話したい。
話して、やとっちのことをもっと知って、色んなことをして、それで……
……あれ?
「……うん、そうだね。帰ってきたらまた話そう。その時に僕が答えを知れていたら、何かを君に伝えられるかもしれない」
「うん、教えてね!」
頭の中に生まれたモヤモヤを押し込めて笑いかけると、やとっちも笑って前を向いた。
歩き出すやとっちを追いかけながら、あたしはふと一つ疑問に思った。
さっき私は、やとっちと何を……
────
雪乃にどう話すか考えているうちに、マンションについていた。
裏の駐輪場に自転車を置いて、玄関前まで来てふとマンションを見上げる。
『……いつ見てもでけえな』
何度見上げても、これの上階に住んでるとか実感が湧かない。
お金持ちの彼女と高級マンションで同棲とかエロゲーかっつーの。この世の中はホラゲー寄りだけどな。
くだらんことを考えながら、エントランス前の機械で部屋番号を入力。雪乃の部屋にコールする。
『……もしもし』
『俺だ。今帰った』
『八幡くん?やっと帰ってきたのね。すぐに開けるわ』
カメラ越しに会話を交わた後に、少し物音がする。
程なくしてスーッと音もなく開いた自動ドアをくぐり、エントランスのエレベーターに乗って15階へ昇った。
鉄の箱で目的地へたどり着くと、勝手知ったる廊下を進んで表札の一つもない部屋の前で止まる。
ポケットから合鍵を取り出し、鍵を開けて扉を開けると……そこに雪乃がいた。
「おかえりなさい。随分と遅かったのね」
制服から白いニットとスカートというラフな格好に着替えた雪乃は微笑む。その拍子にまとめた黒髪が揺れた。
ちょっと新妻感あるなとか思った馬鹿はどこのどいつだ……俺でしたねすみません何でもはしない。
『……ああ、ちょっと会議が長引いてな』
「そう。ご飯、できてるわよ」
雪乃の後を追って中に入り、すでに使い慣れた玄関で靴を脱ぐ。
縦に長い廊下にはバスルームやトイレの他に三つ部屋があり、そのうちの一つが俺の部屋だった。
部屋着に着替えると洗面所で手洗いうがいをしてからリビングへ行く。
リビングダイニングには、元からあったソファとガラステーブルの他にダイニングテーブルと二つの椅子が配置されていた。
ソファでは何かと食べづらいこともあって、先日購入した。今ではこっちで食事をとっている。
「いただきます」
「──」
いつもながら、絶品という他にない雪乃の料理を味わう。
それから風呂に入って、授業の復習と予習を済ませ、リビングで読書をした。
「…………」
「…………」
会話はなく、ただ互いのページを繰る音だけが唯一の音。それがなんとも心地いい。
人間は順応する生き物だ。数日も一緒に暮らせば緊張も解け、少しずつ習慣が出来上がっていく。
俺たちにとってはこれがそうであり、背中合わせにソファに座って静謐を共有することが思い出となる。
一見したら退屈そうとか言われそうだが、俺には奉仕部での時間に通ずるくらいお気に入りの習慣だ。
「……ふぅ」
後ろから本を閉じる音と、満足げな吐息が聞こえた。どうやら読み終えたらしい。
俺の方はまだあと一章分は残っているのだが……ここでもう一つの習慣が始まるのだ。
「……ん」
それまで以上に体重が預けられ、背中全体で雪乃の体を受け止める。
かと思えばもぞもぞと動き出して、後ろで体をこちらに向けた雪乃が両手を俺の胴体に回してきた。
ここで振り返ってはいけない。彼女のこの〝甘え〟は、見られていないからこそできる大胆な行動だ。
「何を読んでいるのかしら」
『この前買った恋愛小説の続き』
「ああ、あの生徒会ものね。ヒロインは長髪の黒髪で容姿端麗な生徒会長だったかしら」
『……お前、俺の部屋の本棚漁った?』
「あら、いけなかった?」
『いや、別にいい。お宝本とか持ってないし』
「知ってるわ」
『確認したのかよ……』
なんでもない会話を交わし、それきりまた沈黙が舞い降りる。
雪乃は無言で俺が読書をしているのを……というよりも、じっと本を読んでる俺のことを見ていた。
『……いつも思うけど面白いか?』
「ええ、とても」
『そうかい』
最初は恥ずかしくて読書どころじゃなかったが、今ではこれにも慣れた。ちょっとドキドキするけど。
十分くらいで最後まで読み終わって、片手で本を閉じる。まあ、これからも続きを買うくらいには良かった。
「紅茶はいる?」
『頼んでいいか?』
「少し待っていてちょうだい」
そっと離れていった雪乃は、キッチンで二人分の紅茶を淹れてくる。
再び背中合わせになり、少しひんやりとしたリビングの中で冷えた体を温めた。
ここまでがワンセット。ここ何日かでルーティーンとなった新たな我が家での過ごし方だ。
……さて。話をするタイミングとしては今が最適だろう。
『あー、ちょっといいか』
「何?大事な話でもあるのかしら?」
『まあ、そんなとこだ』
一旦体を離して、カップをテーブルに置く。
そうすると雪乃の肩に手を置き、正面から向き合って、深呼吸した。
……よし、覚悟は決まった。
『明後日、俺は任務に出る。これまでのどんなものよりも危険な任務だ』
「っ……そう、なのね」
雪乃は目を見開き、それから様々な感情がないまぜになった目で俺のことを見上げてきた。
普段超然とした態度を崩さない彼女が、明確に浮かべた不安げな表情に一瞬息を呑む。
そういえば、同棲し始めてから初めて任務に出るな……小町もいつも、同じような顔で送り出したとオクタに聞いた。
『正直生きて帰ってこられるかはわからん。なにせ行く場所が場所だ。任務を成功させられる可能性も低いだろう』
「……あなた一人で行くの?」
『いや、材木座と八兎、海老名さん……それに陽乃さんもいる』
「それでも、危険だというのね」
『ああ』
数いるエージェントの中でも最高戦力たる《陽炎》の二人をもってしても、達成困難な任務。
この意味がわからない雪乃じゃない。いくら俺が不死身でも、もしものことなどいくらでもありえる。
だとしても……
『それでも俺は行く』
「何故?人員を十分に集って、万全の体制が整うまで待てばいいじゃない」
『そうじゃない。これは、俺がカタをつけなくちゃいけない問題なんだ』
「嫌よ」
強く、普通の声量だというのにとても大きく聞こえる声で拒絶する雪乃。
たったのその一言で、どれだけ彼女が俺を行かせたくないのかを悟った。
「絶対に嫌よ。あなたをどこにもいかせはしない。もし行くというのなら、私はあなたと──別れるわ」
『……雪乃』
「それが嫌なら、ここにいて。どこにもいかないで。私と一緒に……いて頂戴」
しっかりと、今度は真正面から抱擁をしてくる雪乃。
俺の体を強く抱きしめる腕も、胸板に押し付けられた頭も、小刻みに震えている。
「……ふふ」
俺は何かを言おうとして──その前に、耳元で笑う声に眉を顰めた。
『雪乃?』
「こう言っても、あなたは行ってしまうのでしょうね。普段は諦めが早い癖に、いざ一度決めてしまうと何を言われようと止まらないのだもの」
『……ひでぇ言い様だなおい』
「事実でしょう。そうやっていつも私を不安にさせて……でもこうして事前に言うようになった所は、少し成長したかしら」
『どうだろうな』
昔の自分を思い出してみる。
小学生時代、雪乃に出会った頃の俺なら何も言わず、もし帰ってこれたらそのまま姿を消したかもしれない。
中学生時代の俺なら、もし雪乃とその時既に再開していたとして、やはり話しはしなかった。
数ヶ月前、まだ雪乃と再会していない俺なら……やはり、小町にすら相談はしなかっただろうな。
ずっとそうしてきた。誰も信じず、ただ少しだけ大切な人間を覚えて、後は一人で解消してきた。
それなのに今、こうして話したのは……
「ねえ。あなたはどうして言ってくれたの?何も言わず、ここに帰ってこないこともできたでしょう?」
『……帰ってきたい、からだろうな』
俺がここを、いるべき場所だとそう思いたいからなのだろう。
帰りを待ってほしい奴がいる。ただいまと言いたい女の子がいる。おかえりと言ってほしい人がいる。
なんとも柄じゃないが……そんな程度の理由が、俺の口を緩めたのだ。
「だったら、帰ってきなさい。たとえ満身創痍になっても、手足がなくなっても、這いずってでも戻ってきなさい」
離れたかと思えば、俺の顔に手を当てて随分と無茶苦茶なことを言いやがる。
「そして私に……説教されるといいわ」
『……お手柔らかにな』
「あら、私の辞書に手加減という言葉は載っていないの。お生憎様ね」
『知ってるよ』
笑いあって、もう一度、今度は俺から雪乃を抱き寄せた。
『必ず帰ってくる。まだ体育祭もやってないからな』
「……待っているわ。約束よ、八幡くん」
そうして俺は、誰より愛しい少女に新しい約束をした。
この約束だけは……叶えてやるよ。絶対にな。
読んでいただき、ありがとうございます。
Twitterの方にこの作品のキャラについてどう思うか、というアンケート?みたいなのをやってます。
さあ、次回から最終決戦の幕開けだ。
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