日曜日。
梅雨の晴れ間とも呼ぶべき晴天だった。今日は雪ノ下とデー…じゃない、由比ヶ浜の誕生日プレゼント選びをしに行くことになっている。後で知った小町がぶーぶー言ってきたが、何とか説得してやって来た。
俺の服装は紺色のジーパンにオレンジ色の半袖シャツ、その下にはもう一枚薄いシャツを着ている。靴は普通にスニーカーを履いてきた。もちろんメガネも装備済である。雪ノ下の隣で歩くなら、この濁った目だけは何としても隠さなくてはいけない。
時刻は十時ちょうどになろうかというところだ。集合は十時半なのに少し早く来すぎただろうか。どんだけ楽しみだったんだよ俺…
しかし、それも仕方がないことだろう。あの雪ノ下が友達のために何かを買いたいと言ったのだ。気分が浮かれても何らおかしいことはないだろう。中学時代、放課後毎日のようにあいつに連れ回されたせいで強制的に鍛えられたお買い物スキルでいいものを選ばせてやりたい。
「お待たせ」
そんなことを考えていると、後ろから声をかけられる。振り返れば、涼やかな一陣の風を引き連れて雪ノ下雪乃がゆっくりと歩いてきた。
フェミニンな印象を与える柔らかそうな生地のスカート、そして休日のスタイルなのかいつもより高い位置で括ったツインテールが風をはらんでふわりと踊る。うむ、今日も可愛い。
『別に、たいして待ってないぞ』
「そう。なら良かったわ。…そ、その。どう、かしら?」
携帯を取り出して答えると、雪ノ下は恥ずかしそうにそう言いながら全身を見せるようにくるりとその場で一回転する。ぐふっ!
思わず胸を手で押さえてよろめく。こ、こいつ…俺を萌え殺す気か?お前がそんなことしたら女神と同レベル…いや、あるいはそれ以上の威力があるというのに。
『その…似合ってる、ぞ』
震える指で何とか文字を打ち込み、ボタンを押すと雪ノ下はカアァッと顔を赤くしながらも小声で「…よしっ」と呟く。
「…っ!…っ!」
だからあぁぁぁもおぉぉぉ!可愛すぎんだよこの野郎ぉぉぉぉ!野郎じゃねえけど!ああもうハイテンションすぎだろ俺!
内心訳わからない叫び声を上げながら、なんとか気分を落ち着け雪ノ下にアイコンタクトをして駅の改札口に向かう。
今日の目的地は千葉の高校生がデートスポットによく使うと噂の、みんな大好き東京BAYららぽーとである。
さまざまなショップが入っており、映画館もあればイベントスペースもあるという県下最大級のレジャースポットだ。要するに普段の俺なら無縁な場所である。あいつにはしょっちゅう連れてかれたが…
電車内もソコソコの混雑具合だ。俺たちはつり革につかまって五分ほど揺られていた。流石に二人とも無言は気まずいのでアプリを使ってそれとなく話しかける。
『今日何買うか決めたのか?』
「……いえ、いろいろ見ていたのだけれど私にはちょっとよくわからなくて」
そう言ってから雪ノ下は小さくため息を吐いた。たぶん、雪ノ下が部室で雑誌を読んでいたのは由比ヶ浜への誕生日プレゼントを考えていたからだろう。雪ノ下と由比ヶ浜、あまりセンスが被っているとは考えにくい。
「それに私、同世代の誰かから誕生日プレゼント一度しか貰ったことないから…」
一度?…あ。そういえば、昔一緒にいた頃誕生日を聞いてプラスチック製の猫のネックレスをやったことがあったっけ。あんな昔のことを覚えられていたと思うと、少し嬉しくなる。
『ま、あれだ。お前が誕生日の時はなんか用意するよ』
そう書いて言うと雪ノ下は一瞬目を見開き、しかしすぐに微笑を浮かべると小声で「ありがとう」と呟いた。
それからさらに数分後、無事南船橋に着く。駅から少し歩くと左手にイケアがあり、おしゃれ家具屋さんでここも人気スポットの一つだ。昔からこの辺りはいわゆるレジャースポットで巨大迷路があったり、そのあと室内スキー場になったりした。過去形なのは無論、今はもうないからだ。
時間の流れを感じる。俺も気付かない間に大人になりつつあるということだろう。
歩道橋を渡り終えると、そこからショッピングモールの入り口に繋がっている。
構内の案内板を見ながら雪ノ下が考えるように腕を組んだ。
「驚いた……かなり広いのね」
それは確かに。近隣でも最大級のショッピングモールなだけに目的を絞って動かないとあっという間に1日が終わってしまう。幸い中はいくつかのゾーンに分かれているので、しっかりコースを考えればおのずと目的のものも買えることだろう。
…さて。ここで効率を重視するのなら単独行動したほうがいいのだろうが、せっかく二人できているのにそれはいろんな意味でない。そんなことをすれば流石のあいつでもウケずに怒るんじゃなかろうか。
『一緒に行動するか。アドバイスとかもしあえるだろうし』
「…そうね、そうしましょうか」
そういうことになり、おそらく由比ヶ浜が好むものがありそうなゾーンに向かう。
女の子向けのショップが集まっている場所はここから二つ三つ先にあった区画にあるらしく、それまでは男性向けだったりどっちともに向けているような雑貨屋だったりと、よくもまあこれだけ多くの種類があるものだと感心するほどにたくさんのブランドというかショップが立ち並んでいる。
俺はある程度来慣れているので普通に歩いて行くがどうやら雪ノ下はそうではないらしく、物珍しそうに左右に忙しなく目線を移していた。その表情は穏やかな微笑みを讃えており、それなりに楽しんでいるようだ。時には足を止めてじっと商品を見つめていたりもする。
そうこうしている内に右のブロック、左のブロックに進む分岐点に到着した。さらにその先にはそれぞれ上へ昇るエスカレーターが見える。
俺はさっきの案内板を思い出しつつ、雪ノ下を手招きしながら右の道を進んだ。
が、なぜか雪ノ下がついてくる雰囲気がない。振り返ってみれば、雪ノ下は真剣な表情で凶悪な目と研ぎ澄まされた爪、そしてぎらりと光る牙を持った変なパンダのぬいぐるみをぐにぐにしている。
あれは東京ディスティニーランドの人気キャラクター、パンダのパンさんだ。「パンさんのバンブーハント」は二時間三時間待ちは当たり前というほどの人気アトラクションである。
誰もが知る人気スポット、東京ディスティニーランド。千葉の誇りであると同時に、千葉にあるのに東京を名乗らなければならないというなかなかにおかしな存在だ。こいつは舞浜にあるのだが、この舞浜の由来がなんでもマイアミビーチに似てるからとかなんとか。
以上、本日の千葉の豆知識でした。
近付いてちょんちょんと肩を叩くと雪ノ下ははっとした表情をし、恥ずかしそうにしながらぬいぐるみをもとに戻す。俺は苦笑しながら、もう一度右の通路を指して進み始めた。今度はちゃんと後ろに雪ノ下がついてくる。
エスカレーターを昇りしばらく移動すると、周囲の雰囲気が明らかに変わった。
パステルとビビットが入り混じった色彩の空間にはフローラルやシャボンの香りが漂い、いかにも女の子な場所である。
服屋にアクセサリーショップ、靴下専門店にキッチン雑貨、そしてもちろんランジェリーショップ。俺にとっては居心地悪いことこの上ない空間だ。
「どうやらこの辺みたいね」
雪ノ下は涼しい声でそういうが、俺はちょっと疲れている。
まさか、雪ノ下が四回も道を間違えるとは思わなかった。昔より方向音痴が悪化しているのは気のせいだと思いたい。
「さて。買うのなら普段から使えて、かつ由比ヶ浜さんのような女子が喜ぶものがいいわね」
雪ノ下の提案に気持ちを切り替え、俺も真面目に考え始める。由比ヶ浜みたいなやつが普段から使えるもの、か。なかなか難しいな。
「とりあえず、服から見てみましょうか」
雪ノ下の提案に従い、俺たちは手近にあった服屋に入った。雪ノ下は入ってからは並んだ品々を手に取り、真剣に検分している。俺もさすがに手に取ることはしないが、脳内で目に映ったものと由比ヶ浜を掛け合わせて似合うかどうか考えた。
「あの、お客様。どういったものをお探しですか?」
商品の陳列されている棚を眺めていると、女性店員が話しかけてくる。俺は手短に女友達の誕生日プレゼントを探していることを伝え、おすすめのものなどを聞いた。その際の店員さんの面白そうな目は見なかったことにしよう。
アドバイスをし終えると「それでは、ごゆっくりどうぞ」と言って店員は離れていく。俺は軽く頭を下げ、ちょうど近くにいた雪ノ下に近づいた。
『いいの見つかったか?』
「あ、比企谷くん。いいえ、残念ながら見つかってはいないのだけど…そちらは?」
俺は先ほどの店員さんに勧められたピンク色のカーディガンを見せる。薄手だから多少暑くなっても使えるし、色的にも由比ヶ浜にぴったりだろう。
「…なるほど。比企谷くん、いいセンスしてるのね」
まあ、中学2年間で嫌という程鍛えられたからな。
結局雪ノ下の満足のいくものはその店では見つからず、俺はカーディガンを買った。レジの会計がたまたまさっきの店員さんで、もはや隠しもせず面白そうな顔をしていたのは言うまでもない。
そこから何軒か回ったが、やはり雪ノ下は満足するものを見つけられなかったのか次へ次へと移っていく。
一通り服屋を回って、次に行き着いたのはキッチン雑貨の店だった。中にはフライパンや鍋といった基本的な調理器具の他、パペットマペットみたいな鍋つかみとかマトリョーシカを模した食器セットなどファンシーな商品が並べられている。
ううむ…料理系か。由比ヶ浜料理ド下手だからなぁ。…いや待て、むしろ逆の発想をしてみよう。
雪ノ下にそういうものをもらったおかげで由比ヶ浜は料理に対してやる気を出すようになるかもしれない。そうすればレベルが向上するはずだ。由比ヶ浜は美味しいものが作れるようになる、雪ノ下は喜んでもらえる、ウィンウィンだ。これはなかなかいいんじゃないか?
「比企谷くん、こっち」
そんなことを考えていると名前を呼ばれ、行ってみるとそこにいたのはエプロン姿の雪ノ下だった。
黒い生地は色合いとは裏腹に薄手で、雪ノ下が羽織ると涼しげですらあった。胸元には小さくあしらわれた猫の足跡。
腰ひもがぴこっとリボン状に結ばれ、それが雪ノ下の引き締まったくびれを強調する。
首周りや腕周りの具合、そして動きやすさを確かめるように雪ノ下はくるりとワルツでも踊るかのように一回転してみせる。
「どうかしら?」
どうかしら?って言われても…
その様子を見て、俺は思わず雪ノ下が奥さんになったところを想像してしまった。仕事から帰ってきたところをぱたぱたとスリッパを鳴らして現れる、エプロン姿の雪ノ下。そしてこう言うのだ。
『おかえりにゃさい、八幡♪』
げふぁっ!!!
自分の妄想に萌え殺されていると、雪ノ下は姿見の方を向いて片口や紐、裾をちょいちょいっと触っていた。どうやらどこか気になるところがあるらしい。俺は携帯を取り出してアプリを開く。
『似合ってるぞ』
「……! そ、そう。ありがとう。でも、私ではなくて、由比ヶ浜さんにこれはどうかしら?」
『…言っちゃ悪いが、由比ヶ浜はもうちょっとこう、何というかふわふわぽわぽわしたものの方が似合うと思うぞ』
…自分で書いといて、友人に対してこの言い草は酷ぇな。
アプリが言葉を吐き出し終えると雪ノ下はエプロンを脱いで丁寧に畳んでから顎に手を当て、何事か考え込んだ。
「…となると、これかしら?」
雪ノ下が選んだのはは両脇に小さなポケットがそれぞれ一つずつ、真ん中に大きなポケットがついているピンクを基調とした装飾が少なめのエプロンだった。
どうやらお気に召したようで、雪ノ下はうんうんと頷く。
「これにしましょう」
『いいんじゃないか?』
俺の言葉にもう一度頷き、雪ノ下はピンクのエプロンを畳んでレジに向かう。ついでに黒のエプロンも腕の中にあった。それも買うのか。
雪ノ下がエプロンを買った後、俺たちはペットショップに移動した。そこでグッズを買い、会計を済ませる。その時、俺の横に雪ノ下はいない。
別に今更単独行動を開始したわけではない。物の入った袋を片手にケージがあるコーナーに移動すれば、そこで雪ノ下は子猫と戯れていた。
口元に柔らかい笑みを浮かべ、膝を抱えるように座り、子猫を控えめに撫で、時折もふったりしている。さすがに周囲に人がいるせいか、今日は「にゃー」は無しらしい。
その背中に近づいていくと、ぴくっと他の子猫たちが反応して俺の足元に寄ってくる。だから何故だ。何故俺はこんなに小動物に好かれている。まあ、にゃーにゃー言ってて可愛いけど。
雪ノ下の腕の中にいた子猫も俺に気付きこちらに向かって鳴き声を上げる。つられて雪ノ下も俺に向かって振り向いた。
「…あら、ふふふ」
そして、猫に群がられている俺を見て含み笑いをする。おそらく昨日の東京わんにゃんショーの光景と重ねてでもいるのだろう。笑ってないで助けてくれ。肩に乗っかってきて頬ずりとかしてくるからくすぐったいんですけど。
雪ノ下はゆっくりと子猫を地面に下ろすと、俺に近づいてきた。
「猫が谷くん、欲しいものは買えた?」
猫が谷って何やねん。俺もにゃーと言えばいいのか。言えないけど。
そんなことは隅に起き、こくりと頷く。それを見て雪ノ下も微笑みを浮かべた。
『用事も済んだし、帰るか?』
「…いえ、どうせならもう少し遊んでいかないかしら?私、初めてららぽーとにきたから色々と見てみたいのだけれど」
(それに、せっかくだから八幡くんともっと一緒にいたいし)
…んー。雪ノ下がそう言うなら、もうちょっといるか。ていうか、いつの間にやら由比ヶ浜のプレゼントを買いがてらデートしてるような…
了承の意味を込めて頷き、体から優しく子猫たちを離す。そしてペットショップから出て二人でぶらぶらと歩き始めた。
その道すがら、ゲームコーナーを視界の端に捉える。
メダルゲーム、クレーンゲーム、協力プレイのガンシューティング、顔写真を取り込めるレーシングゲーム、そしてプリクラ。基本的には複数人で遊ぶための筐体だ。…よし。
『雪ノ下、ここで遊ぶか?』
「…そうね。今までこういうものには触れたことがなかったら、是非やってみたいわ」
なら、決まりだな。
それから俺たちは、いつぞやの部室のように色々なゲームを楽しんだ。レーシングゲームではどちらが一位になるか競い合い、ガンシューティングゲームでは協力して敵を打倒する。その間、俺も雪ノ下も終始笑顔だった。もし俺に声があったのなら、きっと楽しくて笑っていたことだろう。ただ、さすがにプリクラはお互い恥ずかしすぎたので撮らなかった。
一通り楽しんだ後、最後にやったのはクレーンゲームだった。なぜならそこにあったパンさんのぬいぐるみに雪ノ下の目が釘付けになっていたからだ。
『欲しいのか?』
「…ええ、恥ずかしながら」
ほんのり頬を赤くして雪ノ下はそう言う。そうか、欲しいのか。…なら、ちょっとだけカッコつけますかね。
俺は財布を取り出し、両替機で念のため千円札を百円に替えてからクレーンゲームのボタンの横に硬貨を積んで連コ大勢に入る。
ふえぇ…。
硬貨を入れると情けない鳴き声がクレーンゲームから出て、アームを操作できるようになった。俺は細心の注意を払いながらゲームを開始する。
それからちょっとずつ位置を動かし、百円が8枚ほどなくなったところでゴトッという音とともにぬいぐるみが穴に落ちた。
しゃがんで出口からぬいぐるみを取り、先ほどからぽかんとしていた雪ノ下の手の中にぽすっと収める。
雪ノ下ははっと我に帰り、慌ててぬいぐるみを返そうとしてくるが、その前に俺がアプリに文字を打ち終えてボタンを押す。
『今日一日、結構楽しかったからな。そのお返しみたいなもんだ。それに、欲しかったんだろそれ』
「………」
何事か言おうとした雪ノ下は開きかけた口を噤んでぎゅっとぬいぐるみを握りしめ、こちらを見上げてきた。無自覚な上目遣いにドクンっと心臓が高鳴る。
「…その。あ、ありが、とう」
少しどもりながらも、雪ノ下はそう感謝の言葉を述べた。俺は肩をすくめて答える。
「…ふふっ」
…ははっ。
どちらからともなく、俺たちは笑顔を向けあった。なんかこれカップルみたいで恥ずかしいな。
でも、できれば今度二人で遊びに来るときはそういう関係ならいいなーー
「あれー?雪乃ちゃん?あ、やっぱり雪乃ちゃんだ!」
しかし、俺たちの和やかな雰囲気は無遠慮な声によって見事にぶっ壊された。
声のした方を見れば、そこには見覚えのある女性がいる。
艶やかな黒髪、きめ細かく透き通るような白い肌、整った端正な顔立ち。輝きを放つような類い稀なる容姿は清楚さを漂わせながらも、人懐っこい笑顔の仮面のおかげで華やかさが加わっていた。
その美女ーー雪ノ下陽乃は雪ノ下の隣にいる俺を見て一瞬笑顔を崩すも、今の俺があいつではなく比企谷八幡だとわかるとほっとしたような顔をする。そして後ろにわらわらといた友人とおぼしき男女数名に「ごめん、先行って」と拝んで謝るような仕草を送ってからこちらに近づいてきた。
「姉さん……」
さっきまでの笑顔とは打って変わって慄然とした様子の雪ノ下の声に振り向くと、雪ノ下はぬいぐるみを強く抱きしめ、肩を強張らせている。
「雪乃ちゃん、こんなところでどうしたの?ーーあ!デートか!デートだなっ!このこのっ!」
「………」
陽乃さんはうりうり〜と雪ノ下を肘でつついてからかい始めた。が、雪ノ下は冷めきった表情で鬱陶しそうにしている。それを見て少しイラっときた。陽乃さん、そういうのが雪ノ下に嫌われる理由だろうに…
「あ、そういえばこんにちは、比企谷くん♪君が入院して以来だね?」
すると、不意に陽乃さんの視線がこちらに移り軽い感じでそう言ってくる。対して俺はぺこりと頭を下げた。
「姉さん、何を……っ!」
俺たちのやりとりを見て雪ノ下が首をかしげる。しかし一瞬で答えに行き着いたのか、俺を見て震えた声を上げた。
「比企谷くん、まさか、あの時の…」
「…っ!」
それ以上はその悲痛そうな声を聞いてられずに、俺はすぐさま文字を打ち込む。
『違う。由比ヶ浜にも言ったが、あれは誰のせいでもない。だからそんなに怯えるな。それに、それでお前は俺から距離を取るのか?』
「!…いいえ、それはないわ」
俺の言葉に雪ノ下ははっと息を呑み、すぐにいつもの超然とした態度に戻って言った。むしろあの事故で唯一悪いのは俺だ。何たって車一台使い物にならなくしたんだからな。
「…えっと、ごめんね?まさかまだ話してないとは思わなくて…この話は雪乃ちゃんにも比企谷くんにも禁句だったよね…」
俺の携帯から発せられた言葉で陽乃さんは意図を察したのか、申し訳なさそうに目線を下げる。
…そもそも、なぜ陽乃さんと俺が知り合いなのか、そしてこんな会話をしているか。それは、あのとき俺が殴り飛ばした車に乗っていたのは雪ノ下だったからだ。そして入院した際俺に『雪ノ下家』として話をしにきたのが陽乃さんだった。何より…陽乃さんも俺と同じ場所の人間だ。だから面識くらいあって当然である。というか、陽乃さんは組織内では材木座並に俺に絡んでくるので面識があるってレベルじゃない。それにこの人は…いや、それは今は関係ない。
「…それで、二人はデート中とかかな?」
俺が考え込んでいると、テンションを落としたままで陽乃さんは問いかけてくる。するとほんの一瞬雪ノ下の顔が赤くなり、しかしすぐに無表情に戻って答えた。
「…いいえ、まだ違うわ」
「…そっか、
なぜか一瞬だけ悲しそうな顔をし、そう言って陽乃さんは笑顔で俺の横を通り過ぎていく。
「ーー本当にごめんね。本当なら私は
ただ、通り抜ける寸前に彼女は俺の耳元で雪ノ下に聞こえないよう、小さな声で酷く辛そうに呟いてから人混みの中に消えていった。
「…行きましょうか」
やがて完全に後ろ姿が見えなくなると、雪ノ下がそう言う。俺も静かに頷き、二人で出口に向かって歩き出した。正直言ってさっきので遊ぶ気が失せてしまった。
それからは何も話すことなく家路に着く。重苦しいことこの上ないが、それでも何か話す気にはなれない。
やがて電車に乗り、次の駅で降りるというときにようやく雪ノ下が口を開いた。
「…ねえ、比企谷くん。少し変な質問をしてもいい?」
「…?」
「さっきのことなのだけれど…今の私たちの距離って、どれくらいなのかしら」
「………」
それは、なかなかに難しい質問だ。
俺はもうこいつが思い出してると思ってる。それは多分間違いない。そうじゃなきゃ、俺みたいなやつにたった一ヶ月くらいでここまで態度が変わるわけがないからな。
…でもダメだ。今の俺じゃあ、こいつにはふさわしくない。それは何も物理的な話ではない。
では、何がふさわしくないのか。
それは、俺の心がそれに値しないと感じるのだ。
今までの一ヶ月間で、いくらでも話を切り出す機会はあった。でも俺はもし拒絶されたら、裏切られたらといういつものしょうもないヘタレ癖のせいで踏み込むことはしなかった。
そんな中途半端な状態であの約束を果たしても、俺も雪ノ下も納得はしない。
何より、俺が俺を許さない。
だからこそ、今のこいつとの距離は…
『…まだ仲の良い友人、かな』
「…そう。まだ、なのね」
(おそらく八幡くんは、私が思い出していることに気がついてる。…でも、彼がまだと言うのなら、私は待たなくてはいけない。あの時の答えは、彼にも私にもとても大切なものだから)
その後またお互い無言になり、やがて目的の駅について電車を降りる。
そして改札を抜けた先で、唐突に雪ノ下が立ち止まった。何事かと首をかしげると、ぬいぐるみを胸元で抱き締めながら雪ノ下は振り返る。
「…今日はありがとう。楽しかったわ。由比ヶ浜さんの誕生日、ちゃんとお祝いしましょうね」
『…ああ。それじゃあな』
微笑みを湛えてそう言う雪ノ下にボタンを押しながら、俺は背を向けて北口に向かって歩き始めた。
「ええ、さようなら………八幡くん」
(けれど…こうやって、貴方に聞こえないよう〝そう〟呼ぶくらいは許して?)
背後で彼女が口にした、その言葉を聞くことなく。
いい感じに書けているでしょうか…文章構成がもっと上手くなりたいです。
感想をいただけると嬉しいです。