声を失った少年【完結】   作:熊0803

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すみません、テスト週間に入ったため更新が遅れました。
楽しんでいただけると嬉しいです。


49.声を無くした少年は、過去の思いを懐古する。

 なんだかんだ、屋台を回って適当に腹を満たしているうちにいい時間になった。

 

 東京湾に日が落ちて、天を闇のヴェールが覆い隠す。代わりに現れるのは、冷たく輝く白い月だ。

 

 古来より、月の光は隠した本性を暴くものとされる。狼男や、影のない吸血鬼などが有名だろう。

 

 では、俺の正体も暴かれるのだろうか。腕輪から血液を伝い、全身に流れる薬で無理やり人の姿に押し込めた、この本性も。

 

 試しに自分の影を見下ろすが、角も生えていなければ、背丈が大きくもなっていない。少しホッとする。

 

「どしたのヒッキー、暗くて小銭とか落とした?」

『いや、なんでもない』

 

 まあ、それはともかく。屋台の連なる道から奥、メイン会場の広場はすでに人でいっぱいだった。

 

 隙間なく敷き詰められたビニールシート、始まる前から酒を酌み交わす人々、あるいは遠く子供の鳴き声がこだまする。

 

「混んでるねぇ」

『これじゃ座れんな』

 

 俺は甚兵衛、由比ヶ浜は浴衣なので、適当に地面にそのままってわけにもいかない。

 

 ならばベンチやちょっとした花壇の出っ張りなどはどうかと見れば、考えることは皆同じなのか占領済みだ。

 

『すまんな、何か敷き物持って来ればよかった』

「ううん、私も何か持っとくべきだったかな」

 

 去年折本たちと来た時は、当たり前のように女子連中のうち何人かが先んじて場所取りをしていたからなぁ。

 

 きっと、そういう細かい気遣いができるやつがリア充になるんだろう。常に気を張ってないといけないとか面倒くさい。

 

 果たしてそんな精神的疲労を伴ってでも合わせるのは、本当に心を許せる相手なのだろうか。

 

 否、と俺は思う。

 

 必死に取り繕って、そういう自分を作り出して、そんなふうに接していたら、いつかはメッキが剥がれてしまう。

 

 いや別に気遣いするなってわけじゃない。しなさすぎても問題だ。だが、気を遣ってばかりでも疲れるだろ。

 

 適度にリラックスできる関係、無駄に気遣いをしすぎない関係が望ましいとは考える。

 

『仕方がない、なんとか人の少ないところを探すか』

「そうだね、そうしよっか」

 

 とりあえずは、座れないまでも人の影で花火が見えないなどということにならないように人気の少ない場所を探し求める。

 

 最初にここに来た時のように、由比ヶ浜が人とぶつからないように少し大きな体を使って守りながら進んだ。

 

 あっちに行ったりこっちに行ったり、色々巡るが、ちょっとした穴場も、遊具の上も全て人で埋まっていて。

 

 結局たどり着いたのは、有料エリアだった。

 

「人は少ないけど……」

『流石にここは入れねえな』

 

 トラロープが張られ、明らかに区切られたそこはいわゆる貴賓席的な場所だ。

 

 ぐるりと木々で囲まれたこの広場は、普通に見たんじゃ花火は見づらい。だが、有料エリアは少し高い丘の上にある。

 

 つまり、大変見晴らしはいい。が、その分高い金を払うとか、花火大会の関係者とかじゃないと入れない。

 

 警備体制も万全であり、バイトと思しきあんちゃんが光る警棒片手にうろうろ回遊している。

 

 これでは立ち止まってても追い返されるのがパターンだろう。

 

『もう少し他の場所を探して』 

 

 そう、首輪を通して由比ヶ浜に言いかけた時。

 

 

 

 

 

「あれ、比企谷くんだ」

 

 

 

 

 

 ふと、今まで見ていた向こうから声が聞こえた。

 

 振り返れば、そこにいたのは絶世の美女。夜闇になお際立つ濃紺の地に、大百合と浅草模様を描いた涼しげな浴衣を纏う。

 

 雪ノ下陽乃。それが彼女の名前。ロープで区切られた向こう側にいる彼女は、周囲に人をはべらせ、まるで女王のようだ。

 

「祭りの喧騒に釣られて、鬼が一匹迷い込んだかな?」

『ええ。怪物も時には月の下を歩きたくなります』

 

 陽乃さんは俺を見て、やけに高級な紙を使ってそうな朝顔模様のうちわで口元を隠してそう笑う。

 

 ある意味核心をついたそのジョークに、俺はふっと笑って返した。由比ヶ浜は分かってないのか、首を傾げている。

 

「こっちに来なよ。そっちの子も一緒に」

『いいんですか?』

 

 コクリ、とうなずく陽乃さん。そして振り返って周りにいた人たちに何かを言うと、彼らはサッと離れていった。

 

 それから、俺たちを手招きする。由比ヶ浜と顔を見合わせ、ロープをくぐって中に入った。バイトの警備は、何も言わなかった。

 

 こっちこっち、と急かすように手を仰ぐ陽乃さんに歩み寄る。すると自席の隣を勧められたので、二人で椅子に座った。

 

 そこで丁度、タイミングを見計らったように花火大会開始のアナウンスがされる。お偉いさんの演説が始まった。

 

「いやー、偶然だね」

『はい。陽乃さんは雪ノ下家の?』

「うん。いわゆる父親の名代(みょうだい)ってやつ。お偉いさんたちに挨拶ばっかりで退屈してたんだ」

「はへー、セレブだ……」

 

 隣から、由比ヶ浜の呆れとも感嘆とも取れるため息が聞こえる。それに陽乃さんはふふん、と得意げに胸を張った。

 

 雪ノ下の父親は千葉の県議だ。市のイベントにも多少は顔が効くんだろう。多分雪ノ下建設の方も関わっている。

 

 むしろ地元の建設業という意味なら、そっちのほうが影響が大きいか? どちらにせよ、VIPであることには変わりないか。

 

「それはそうと……浮気?」

 

 それまで朗らかだった陽乃さんの表情が、ふいに冷たいものに変わる。心なしか、空気が冷たくなった。

 

『浮気も何も、誰とも付き合っていませんが』

「へえ、雪乃ちゃんにあんなことされといて?」

 

 ……そういや千葉村の帰りにあってたんだった。雪ノ下がいきなり抱きついてきたところも見られてたな。

 

 ちらりと由比ヶ浜を見ると、思い出したのか少し赤い顔をさっとそらされる。うん、なんかよくわかんないからほっとこう。

 

『とにかく、由比ヶ浜とはそういうのではないです』

「そうだよね、()()()()()()()()んだもんね」

「……っ!?」

 

 それまでの表情が嘘のように、パッと笑顔になった陽乃さんはそう言った。俺は思わず息を飲む。

 

 なぜ、それを知っているのか。あの日、屋上で交わした俺と雪ノ下との大事な約束を、この人が……

 

 どうして、と首輪に送ろうとした時。ヒュウ、と何かが空を切る音が聞こえた。

 

 

 

 ドンッ!!!

 

 

 

 見上げれば、そこには夜空に咲き誇る火の花が。満開に咲き誇るようなその色に、俺は目を奪われる。

 

 初めの一発を皮切りに、音楽に乗せて次々と空に大輪の花が咲いていく。赤、黄、橙……間断なく、様々な色が夜を彩った。

 

 さらにその光輪は、ポートタワーのハーフミラーガラスに写り込んで輝きを増している。これが全部で、八千発だ。

 

「わあ、綺麗……」

 

 右隣から、由比ヶ浜のつぶやきが聞こえた。なんとなしにそちらを見ると、彼女は花火に見とれている。

 

 ならば、雪ノ下陽乃はどうかといえば。楽しそうに、どこか慈しむように空の花を見上げていた。

 

 まるで、質問は許さないと言わんばかりに。

 

「ふふ、凄いねぇ」

 

 ……聞いても答えるつもりはない、か。

 

 とりあえず諦めて、しばらく花火の音に酔いしれる。一発輝くたびに、その光で自分の人の体が消えないかと不安になりながら。

 

「あ、あの」

 

 花火が始まってから、十分くらい経った頃だろうか。

 

 打ち上がる花火の様子も少し緩やかになった頃、由比ヶ浜が陽乃さんに話しかける。

 

 陽乃さんは、ゆっくりと俺を挟んで由比ヶ浜を見た。するとこてんと首をかしげる。

 

「えーと、なにヶ浜ちゃんだっけ?」

「ゆ、由比ヶ浜です」

「あー、そうだった。由比ヶ浜ちゃんだね」

 

 ……絶対わざとだな、今の。この人は雪ノ下の超強化版みたいなスペックなんだ、一度名前を聞けば忘れない。

 

 とすると、ここでその反応をする意味は……さしずめ初めて興味を向けたという証明か。なんとも意地の悪いことだ。

 

「今日は、ゆきのんは来れなかったんですか?」

「雪乃ちゃんなら、今頃一人で部屋の隅っこでいじけてるよ。王子様がパーティーのお誘いを断ったせいで、ね」

 

 こちらに流し目を送ってくる陽乃さん。俺は思わずそっぽを向いて頬をかいた。

 

 空気の読める由比ヶ浜はそれでなんとなく察したのか、はたまたさっき見たメールを思い出したのか目を見開く。

 

 そんな由比ヶ浜を面白そうに見つめるのは陽乃さん。まるで、新しいおもちゃを見つけたと言わんばかりだ。

 

「まあ、そうでなくてもここにはいなかっただろうね。昔から母の方針で、こういう外向きのことは私で出ることになってるの。言ったでしょ、父の名代だって」

 

 「遊んでるわけじゃないんだぞー?」と、わざとらしい声で言う陽乃さん。

 

「じゃあ、ゆきのんは……」

「うん、雪ノ下の人間としてはここには来れない。一人の女の子として、好きな男の子と一緒に来るっていうなら、母も許したのにねー」

 

 ぐっ、畳み掛けてくるよこの人。

 

 ていうかなに、あいつそんなに俺が断ったことで凹んでたの?なんかものすごく罪悪感感じるんですけど。

 

「……ヒッキー、顔すごい緩んでる」

 

 うっそ、マジで?

 

 慌てて口元に手をやるが、俺の表情筋はいつも通りのポーカーフェイスを保っている。

 

 ジトッとした目で見てくる由比ヶ浜。そこでようやく、こいつにカマかけられたことに気づいた。

 

『驚いたぞ、まさかお前に騙される日が来るなんてな』

「どーいう意味だしっ!?私だってそれくらいできるかんね!?」

「あっはっは、仲がいいね!でも、うん、ちゃんと君の気持ちが変わってなくてホッとしたよ」

 

 そうじゃなかったら、今ここで殺しちゃってたかも。

 

 言葉を投げかけられて振り返って見えた瞳には、そう書いてあった。お前にそれ以外の選択肢など許さないと。

 

 ……この人ほんとシスコンだな。それ俺じゃなくて雪ノ下の前で発揮しろよ。いや、できねえからこじれてんのか。

 

「ま、それはともかく……さっきも言ったけどね。うち、母が強いのよ」

「お母さんが強い、ですか?」

「色々と決めたがる人でね。私たちのため、って言って」

 

 それは知っている。あの人は現在は引退したものの、元は俺がいるナンバーズ2の座にいた人だ。

 

 能力、頭脳、ともに怪物級。戦闘でもデスクワークでも、あの人と正面からまともにやりあえるのは義父さんだけらしい。

 

 それは当然の結果だ。組織のツートップとして数百年君臨する雪ノ下家を背負うには、そうでなくては事足りない。

 

 そしてまた、彼女は後継である長女の陽乃さんにそれを求めている。誰より強く、優秀に、そして賢く、と。

 

「私はもう諦めてるし、それにあながち私たちのためっていうのも方便じゃないからいいんだけど……」

「……だけど?」

「ほら、雪乃ちゃんってあの性格じゃない?だからうまく母と折り合いがつけられなくて、よく心のすれ違いが起こってねぇ」

 

 ああ、と納得するような顔をする由比ヶ浜。

 

 そう、雪ノ下のストレートな性格と、雪ノ下母との相性は絶望的に悪いのだ。たとえそれが、ひとえに愛情によるものでも。

 

 実際、オクタの話のよればあの人凄まじい親バカらしいからな。娘たちになるべく多くを与えたいんだろう。

 

「だから、高校生になってから一人暮らししたいって言い出した時は驚いてたなあ」

「ゆきのんが一人暮らし始めたのって、高校生からなんですか?」

「そうだよー。あんまり構い過ぎたせいか、反発しちゃって。で、珍しかったのか、父が喜んであのマンションを与えちゃったの」

 

 どこの父親も、娘には甘い顔をしてしまうらしい。

 

 あ、でも前に昔から知り合いの義父さんに聞いたような……確か、雪ノ下父は緩衝材のような役割って言ってたな。

 

 愛情の伝え方が強引な雪ノ下母の意思を、時には柔軟に伝え、時にはフォローする。そういう人らしい。

 

 だが、時に恐ろしい人だと聞いた。大切なものに手を出したが最後、その微笑みは一瞬で消え失せた、と。

 

「あ、そうそう。ねえ比企谷くん」

 

 そんなことを考えていると、急に話を振られた。

 

「あれ、覚えてる?」

『何をですか』

「もう、察しが悪いな……昔、この花火大会に来た時のことだよ」

 

 昔……というと、おそらくは雪ノ下ときた花火大会のことだろう。

 

『それが何か?』

「あっれー、覚えてない?比企谷くん、その時母さんに会ったみたいなんだよ?」

「えっ!?」

 

 驚愕の声とともに振り返る由比ヶ浜。その見開かれた瞳には、同じ顔をした俺が写っていることだろう。

 

 俺が、雪ノ下の母と会ったことがある?オクタがという意味ならば毎月会っているが、俺自身はほとんど面識はないはず……

 

「驚いたな、帰ってきたらすごい上機嫌で。生まれて初めて母の本当の笑顔を見たよ」

 

 本当の、笑顔。

 

 それを聞いた瞬間、脳裏にスクリーンのように鮮やかに昔の記憶が浮かび上がった。

 

 

 

 断続的に続く轟音、明滅する空。

 

 

 

 後に残る、火薬と煙の匂い。

 

 

 

 その中で、俺と雪ノ下の隣に座る黒い影が明確な人の姿に変わる。

 

 

 

 そうだ、思い出した。俺はあの日初めて、雪ノ下の母親に出会ったんだ。

 

 子供ながら、とても綺麗だと思った。きっと雪ノ下が成長していけば、こんな風になるんだろうなって。

 

 そんな記憶の中の雪ノ下の母親は、花火に見惚れる雪ノ下を挟んで、どこか凄みを感じる微笑で俺を見下ろした。

 

 

 

 

 

『あなたにとって、雪乃さんは何かしら?』

 

 

 

 

 

 そう問いかけてくる彼女に、俺はあの時なんと答えたのだったか。

 

 まだ携帯も、この首輪もない頃、いつも持ち歩いてたスケッチブックに、何を綴った?

 

 

 

 

 

 〝俺にとって……〟

 

 

 

 

 

 俺にとって、雪ノ下雪乃は──

 

「ヒッキー?ちょっとヒッキー、大丈夫?」

 

 肩を揺さぶられて、我に帰る。

 

 隣を見ると、俺の肩に手を置いた由比ヶ浜が不思議そうな、不安そうな顔で俺を覗き込んでいた。

 

 平気だ、とジェスチャーで伝える。由比ヶ浜はほっとした顔で俺の方から手を離し、自分の胸元に置いた。

 

「比企谷くん、何か思い出した?」

 

 陽乃さんは、面白そうに笑っている。本当に意地が悪い人だ。

 

『いえ、かなり昔なんで記憶が曖昧で』

「そ……まあ、今はいっか」

 

 どうやら、とりあえずはこの話は終わったらしい。頭の中に残っていた古いフィルムを、ひとまず押し込める。

 

 またしばらく、花火が次のプログラムに移って曲調が変わるまで沈黙が続いた。破ったのは由比ヶ浜だった。

 

「その、陽乃、さん」

「ん、今度はなーに?」

「陽乃さんは、ゆきのんのこと、どう思ってるんですか?」

 

 由比ヶ浜の質問はもっともだ。

 

 これまで滔々と雪ノ下家の親子関係を聞かされて、次に姉妹の関係が気になることはなんら不思議ではない。

 

「もちろん、好きだよ。大好き」

 

 答えは、考える間もない即答だった。言い切って、暖かい笑みを浮かべる。

 

 あまりに完璧なタイミングと表情で言い切られた言葉は、むしろ虚をつかれたような気分にさせた。

 

「ずっと後をついてこようと追いかけてくれる妹が、可愛くないわけないじゃない」

 

 後をついてくる、追いかける。

 

 その言葉に、そういえばと思い出す。かつて幼い雪ノ下を苦しめていた周囲からの期待と重圧、その根源を。

 

 それは、雪ノ下陽乃の存在だ。陽乃さんが雪ノ下の長女として完璧な結果を残したことが、雪ノ下への期待になった。

 

 

 

『私は所詮、姉さんの代用品。みんな、雪ノ下陽乃の妹で優秀な〝雪ノ下雪乃〟しか認めないもの』

 

 

 

 いつだったか。二人きりの図書室で折り紙を折っているときに、彼女は諦めたようにそう言っていた。

 

 雪ノ下陽乃の妹なら、これくらいできて当然。教師に、陽乃さんを知る同級生に、そう言われ続けたんだ。

 

「由比ヶ浜ちゃんはどう?雪乃ちゃんのこと、好き?」

 

 陽乃さんは、由比ヶ浜にそう聞き返す。由比ヶ浜は面食らったような顔をしつつも、なんとか答えた。

 

「は、はい、好きです!かっこいいし誠実だし頼りになるし、でも時々すごいボケかまして可愛くて、眠そうにしてる時とかキュンキュンして、それに分かりづらいけど優しいし……えーっとそれから、それから。あ、あはは、すいません。私めちゃくちゃ言ってますよね」

「そう……それなら、良かった」

 

 照れたように笑いを浮かべる由比ヶ浜に、陽乃さんはどこか慈愛のこもった笑みを向ける。珍しい顔だ。

 

 大概、雪ノ下は家族に愛されている。

 

 でも、みんな不器用で、おっかなびっくりで、すれ違っているにだろう。本当は互いのことを思いあっているのに。

 

「みんな最初はそう言ってくれるんだよ。でも、最後はみんな同じ、雪乃ちゃんに嫉妬して憎んで、雪乃ちゃんを拒絶して排斥し始める……あなたは違うといいなぁ」

 

 だからこそ、由比ヶ浜の心の芯まで覗き込むような目で、背筋の凍るような笑顔で問いかける。

 

 あなたは私の可愛い妹を傷つけるの?と。

 

「……そんなこと」

 

 由比ヶ浜はそんな陽乃さんの目に気圧されて、言葉につかえる。

 

「しないです」

 

 だが、言い切った。目をそらすことなく、まっすぐに。

 

 その真剣な横顔に、一瞬見惚れる。そしてこの数カ月で思ったことを、また心に思い浮かべるのだ。

 

 もっと早く、由比ヶ浜結衣が雪ノ下雪乃と出会っていたら。そしたらあいつはきっと、心の底から笑えたのに。

 

「ふぅん……いいお友達ができたみたい」

 

 同じことを思ったのか、陽乃さんは初めて笑顔の仮面を収めてスッと目を細めた。

 

「それじゃあ、これからも雪乃ちゃんのことよろしくね」

「は、はい」

 

 それも一瞬のこと。いつものように朗らかに笑うと、俺の方に向き直る。

 

「あなたはどう、比企谷くん。雪乃ちゃんのこと、どう思ってる?」

 

『あなたにとって、雪乃さんは何かしら』

 

 いつか、彼女たちの母親にされたような質問を陽乃さんは投げかけてきた。俺の思考は答えを探す。

 

 比企谷八幡にとって、雪ノ下雪乃という人間はなんなのか。それは何度も自分に確かめて、証明してきたこと。

 

 昔、人間じゃなくなって、また小学校という大勢の人間が集まる場所に戻った時。俺は気持ちが悪かった。 

 

 無秩序、無意識、無差別に混ざり合った感情の坩堝。その中で一際強いのは、どろりとした腐った感情。

 

 なんと醜い生き物だ。これではこの顔の下に隠れた本当の俺の顔と、血濡れた手と、何が違うというのだ。

 

 ……そんな時、そんな悪意の渦の中心にいて、なお輝きを失わずに凛と立つ雪ノ下に、こう思った。

 

 

 

 ああ、なんて綺麗なんだろう、って。

 

 

 

 でも、あの日雪ノ下が倒れ、顔を苦悶に歪めていたのを見て、こいつも一人の人間なのだと悟った。

 

 それから短い間ではあったが一緒にいて、その苦しみを、孤独を知った。超然とした姿がトロイの木馬だったことも。

 

『俺にとって』

 

 だから、俺はあの日あの場所で、とても悲しそうに目を伏せた雪ノ下に、言ったんだ。

 

 

 

『〝俺にとって雪ノ下雪乃は、雪ノ下雪乃でしかない〟』

 

 

 

 それ以上の言葉はいらない。

 

 俺にとって彼女は雪ノ下陽乃の代々品でもなければ、お利口で優秀で優等生の、完璧な氷の女王でもない。

 

 猫が好きで、負けず嫌いで、まっすぐで、挫けそうになっても毅然として、笑うと実はすごく可愛くて。

 

 でも、本当は誰よりも寂しがり屋な女の子。それが俺にとっての雪ノ下雪乃だ。

 

『だから俺は、雪ノ下の側にいたい』

 

 それが、この俺が、怪物ではなく最も人間でいられることでもあると思うから。

 

「ヒッキー……」

 

(やっぱり、ヒッキーは……)

 

 由比ヶ浜が、聞き慣れたあだ名を呼ぶ。その声の中に乗せられた気持ちを、俺が知ることはできない。

 

「……そう、その目。自分が何者かわかった上で、何をすべきか達観している、私と同じ目」

 

 一方陽乃さんは、それとは対照的に目を細めた。先ほどより鋭く、けれど冷たい訳ではない瞳で。

 

 数秒、見つめ合う。意外にも先に目線を外したのは陽乃さんで、ハートなどを形作る花火を見上げる。

 

 その横顔は、今日見たどんな表情よりも美しい。だがどうしてだろうか、どの顔よりも、胸が苦しくなるのは。

 

「なのに、どうしてかな。私の周りに、誰もいないのは」

 

 

 

 

 

 

 

 雪乃ちゃんが、羨ましいよ。

 

 

 

 

 

 

 そんな言葉が、聞こえた気がした。




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