今回はこの作品の、そして自分の自己満足の全てをぶつけました。
楽しんでいただけると嬉しいです。
やけに冷たく感じるリノリウムの廊下を歩き続けて、奉仕部の部室にたどり着く。
「…………」
扉に手をかけて、ふとそこで止まる。
彼女が部室にいると勝手に思い込んでここまできたが、本当にそうなのだろうか。
そう怖気付くのは、つい先ほど一つの思いを壊してしまったからだろう。俺はまた失うことを恐れているだけだ。
こんな時でさえ臆病な自分に、ハッと声にならない嘲りが漏れる。ったく、今日は何度自分が嫌になったことか。
今更何を怯えている。もう覚悟は決めただろ比企谷八幡。由比ヶ浜の優しさを無駄にする気か?
「……フッ」
短く息を吐き出し、竦んだ足に喝を入れるとからりと部室の戸を開けた。
何の変哲も無い、ただ一つ長机が置かれているだけの教室。
なのにまるで別の世界に見えるのは、窓際に立って外を眺めている一人の少女がいたからだろう。
斜陽の中で立つその後ろ姿は、あの日俺を待ち構えていた小さな背中にひどく似ていて。
窓の向こう側の世界全てが消えた後も、ずっとそのままなんじゃないかというほど絵画じみていた。
「……あら、来たのね」
見惚れる俺に、扉を開けた音で振り返った彼女は微笑む。
何度も見たその微笑は、すぐに訝しげなものに変わってしまった。自分のせいで芸術的美を損なってしまった気分になる。
「何か……あったのかしら」
「っ」
ああ、そうだった。彼女とは違う意味で聡い雪ノ下ならば、半年も一緒にいた俺の何かに気がつかないわけがない。
それを知らしめたのは頬にわずかに残る涙の跡か、それともこの濁った目の奥にあるかもしれない何かなのか。
問いかけたところで、俺にわかるはずもない。どっかの小悪魔なさとりでもない俺には、人の心は理解できないから。
『……答えを、出してきた』
わからないのなら、わかっていることを答えるしかない。
俺に人の心は理解できないが、知ろうとしてくれたのならば知ってほしいと思う程度には、まだ人間らしい。
そして知ることができるのならと俺が思う相手は少なく、だから彼女も簡単に答えにたどり着けたのだろう。
「そう……それで、望んだ結末だった?」
全てをわかっていて、その上で見守っていた雪ノ下は慈しむように二度目の問いかけを行った。
あまりに綺麗なその瞳は、直視していたら木の目が浄化されてしまいそうで、俯きながら答えた。
『わからん……望もうと望まなかろうと、終わりはやって来る。人生なんて大体はそんな感じだろ』
「こんな時までそんなことを言うのは、あなたくらいのものでしょうね」
緩く結んだ手を口元へ運び、困ったようにクスクスと笑う雪ノ下。
見透かされている。俺からすれば望んだものに近く、彼女にとっては最も望まなかっただろう結末があったことを。
「でも、ちゃんと答えを出したのかしら。今度は目をそらさずにしっかりと」
『……まあ、な』
実際はあまりに辛すぎて何度も目をそらしそうになったものの、どうにか最後まで向き合えた。
そう考えると、あの練習も完全には無駄じゃなかったんだろう。ただ直視するだけで全部使い切ったが。
「それなら、彼女も本望でしょう。本気の思いに真剣な答えを得られたのなら、満足だと思うわ」
『……それは、どうだろう』
由比ヶ浜は、わかっていながら選んだと言った。つまりもう、とっくにその覚悟ができていたということだ。
決まり切った答えを待つのは、どっちに転ぶかわからない答えを期待するより何倍も辛いはずなのに。
俺はその覚悟に足りうるものを、彼女に返すことができたのだろうか。それはやはり、俺には知り得ない。
「ええ、きっとそうよ。だって……」
態とらしく切られた言葉の続きが気になって、ふと顔を上げると。
「私は、それがどれだけ大事なものかを知っているもの」
強く、確固とした自信と確信をもって言う雪ノ下に、不覚にも見惚れた。
きっと、俺が由比ヶ浜の気持ちを知れないように。雪ノ下と由比ヶ浜の間にも俺が知らない何かがあるのだろう。
そう思わせるほど、雪ノ下の答えは真っ直ぐだった……俺などが独り占めしようと思うには、分不相応なくらいに。
『そうだと、いいけどな』
「自分の選択を信じなさい。一度本気で決めると譲らないのがあなたの強みでしょう?」
『そのせいで結構な頻度で後悔してるんだが』
「あら、人は間違えた方が成長できるものよ」
『ごもっともで』
まあ、それを言ってるのが限りなく間違えずに己を貫いてきた雪ノ下だからなんとも言えない気分になる。
「とりあえず、ずっとそこに立っていても気になるから入ってきなさい」
『じゃあ、お言葉に甘えて』
扉をくぐって、戸を閉める。
振り返るとすでに雪ノ下はそこにおらず、いつものように茶葉を入れたケトルを沸かしていた。
ならばと足を動かして机に近寄り、いつも座ってる椅子の背もたれに鞄を引っ掛けて腰を下ろす。
途端にどっと疲れが湧いてきた。どうやら由比ヶ浜との対面は、思った以上に精神力を使っていたらしい。
「どうぞ」
『サンキュ』
差し出された紙コップを受け取って、息を吹きかけて少し冷ましてから啜る。
相変わらず雪ノ下の淹れる紅茶は美味かった。使っている茶葉がいいのか、腕がいいのか。どっちもだな。
自分の分をコップに注いだ雪ノ下が、対面に座る。その挙動ひとつひとつがやけに気になった。
「………………」
「………………」
しばらく、紅茶を啜る音だけが部屋の中に響いた。
……どうやって話を切り出したらいいのかわからん!
これはまずい、非常にまずい。
あれだけ覚悟を決め、由比ヶ浜を振ってここまで来たというのに、感情だけが先走って何を言うのか考えてなかった。
いや違う。色々考えてはいたものの、どれも告白の言葉には陳腐に思えて、結局まとまらなかっただけだ。
こういうのをなんて言うんだっけ?羊頭狗肉?立派な見かけどこだよそんなものねえよちくしょう。
「…………(チラ)」
恐る恐る、横目に雪ノ下を見る。
「………………」
すると、片方だけ開いた雪ノ下の目とかち合ったので目線を床に戻した。明らかに期待してるよこれ!
……流石に俺にだって、あちらから告白するのを待とうなんて思っちゃいない。最低限のプライドくらいある。
待っているだけでは、あの頃と何も変わらない。
弱いことに安住しているままでは、誰より強くあろうとする雪ノ下雪乃には相応しくない。
少しでも成長したと言うのならば、今度は自分から踏み込め。それにお前はもう、一人の少女に踏み込ませただろう?
『あー』
首輪から、間延びした声を発する。
「何かしら?」
雪ノ下はコップを机に置き、こてんと首を傾げた。その動き可愛いな。
浮ついた気持ちを引き締め直し、俺もコップを置くと姿勢を正して雪ノ下に向き直る。
『その、なんだ……』
何か、会話の糸口は……あっ、あれだ。
『劇のことだが』
馬鹿じゃねえの?なんでそれチョイスしたの?あれだじゃねえよ、一回埋まってきたら?
我ながらあまりにひどい出だしに心の中で罵倒の嵐を浴びせていると、雪ノ下は目を見開いた。
呆気に取られたような表情に、ますます自分が恥ずかしくなる。あの、やり直しってできないですかね。
「…………ふ、ふふっ」
そこの窓から飛び降りたら記憶リセットできるかな、なんて考えて縮こまってたら、笑い声が。
顔を上げれば、雪ノ下は口元を手で隠して横を向き、小刻みに肩を震わせていた。やべえ超恥ずかしい。
『……そんな笑うことねえだろ』
「ご、ごめんなさい……けれど、ふふっ、あまりにおかしくて……!」
『へーへーすいませんね、会話の切り出しが下手で。こちとらお前らと小町意外に会話する機会なんかねえんだよ』
ぼっちなめんな。なんなら任務の時は表に出てるのがオクタなので、実質俺は喋ってないまである。
少しして笑いの峠を越えたのか、落ち着いた雪ノ下は小さく息を吐き出すとこちらに向き直る。
「そうね、まずまずの評判といったところよ。在校生の中ではもっぱらの噂になっているようね」
『だろうな』
文化祭実行委員会副委員長と補佐のキスなんて、とんだスキャンダルだ。なんなら来週の校内新聞に載ってる。
「広報から聞いた話だけれど、外部のお客様にも随分と反響があったそうよ。良かったわね比企谷くん、これで晴れて人気者よ」
『それ、全然嬉しくないんだが』
俺の夢のぼっちライフが……いやまあ、あれだけどね?雪ノ下とアレがアレな関係になったら、もっとそうなるけどね?
って、違う違う。危うく本題を忘れるところだった。
『で、最後のあれは何だったんだ?』
思い切って尋ねると、雪ノ下の動きがピタリと止まる。するとみるみるうちに頬が朱に染まり、恥ずかしげに俯いた。
「やっぱり……気になるかしら」
『そりゃあ……な』
むしろそこしか記憶に残ってないまである。無事に演じ切った達成感とか安堵とか、諸々あれで吹っ飛んだ。
ちゃんと真相を知りたいと目で訴えれば、上目遣いにもじもじとしていた雪ノ下は傍らに置いた鞄に手を入れた。
少し探って、取り出されたのは見覚えのある白い冊子。表紙には『夕焼け色の丘で〜忘れられない約束〜』と記されている。
『その台本がなんだってんだ?』
「これに細工がされていたのよ。犯人は……言うまでもないわね」
頭の中にいたずら成功というプラカードを持ち、きゃぴるんとピースする陽乃さんを思い浮かべて頷いた。
雪ノ下は台本を机に置いて、パラパラとページをめくっていった。三週間で頭に詰め込んだ内容が緩やかに流れていく。
「ここよ」
そして、最後の余白の部分。
『〝悪役にキスシーンを〟……か』
やけに達筆な文字で書かれた一文に、思わず苦笑する。本当、あの人はいつもやってくれるな。
『よくやろうと思ったもんだ。俺なら弱みでも握られてないと無理だぞ』
「まあ、姉さんの思惑に乗るのは尺だったけれど……私も、もう一度きっかけが欲しかったから」
慈しむように呟かれたそれがなんのきっかけのことを指しているのかは、わざわざ聞かないでもわかった。
空気が変わる。それは少し前に感じた終わりに近く、だけどどこか違うもので。
「ねえ、比企谷くん」
ピタリと停止した俺の、ページの端を押さえた手にほっそりとした白磁の指が伸ばされる。
まるで陶器のようなそれは俺の指の間をすいすいと泳いでいき、あっという間に絡めとってしまった。
それだけのことで心臓は早鐘を打ち、万力に固定されたように動けなくなる。
そんな俺に、雪ノ下は問いかけた。
「まだ、待たなくては駄目かしら?」
挑発的な声音。それとは裏腹に斜陽に照らされて光る潤んだ瞳と、きゅっと結ばれた小さな唇。
それが、彼女の心の全てを表していた。言葉にして思いの丈をぶつけてきた由比ヶ浜とは反対の、感情のぶつけ方。
この胸を貫くように真っ直ぐなその瞳に、俺の心は激震し、激動し、滅茶苦茶にかき乱される。
……いつまで、待たせるつもりだ。
渦巻く感情の嵐は、やがて一つの解へと収束していった。
この誰より強く、誰より美しく、誰より正しく、けれど誰より儚い女の子を、お前はいつまで不安にさせる気だ。
──ああ、必ず答えよう。
なぜなら、俺は君のためなら怒れるから。悲しめるから。強くなれるから。そのためにこの心を、残酷に振るうことができるから。
だから、俺も、ずっと。
君に会えるその日まで。
いつかの日、初めて思いと唇を交わした日に去ってしまう彼女に答えた、その思い。
それは一度も変わることはなく。この五年の間、俺の胸の中に根を張って大きくなり続けてきた。
〝ずっと思い続けよう〟。そう自分に誓った想いは、もうとっくに隠し切るには育ちすぎてしまった。
そろそろ、芽吹かせる時だ。
「…………」
首輪のパネルを操作して、電源を落とす。それからパネルの横についたボタンを押して、首から外した。
「比企谷くん……?」
訝しむ雪ノ下。俺は首輪を机に置いて、彼女の手と繋がっているのとは反対の空いた手で鞄を探った。
取り出したのは、ヨレヨレの小さいスケッチブック。
塗装が剥げてみすぼらしいそれには、汚いマジックの文字で『六年 比企谷はちまん』と書かれていた。
「あなた、それ……!」
目を見開いた雪ノ下に俺は頷き、端の黄ばんだページをめくって唯一白紙のまま残っている最後の一枚を開く。
そこに挟まっていた鉛筆を紙の上に走らせて、たった三文字を書き綴った。
鉛筆を置いて、雪ノ下の方にそのページを向けて差し出す。
「っ!」
三度目の瞠目。鋭く息を呑み、雪ノ下はスケッチブックを注視した。
そこに書いたのは、なんてことない言葉だ。おそらくみんな言っていて、でも本当に言い辛い一言。
『好きだ』
何の捻りも、素晴らしい言い回しもない、それこそ子供でも毎日言っているようなそれ。
たったそれだけのことを言うのにとんでもなく遠回りして、何度も立ち止まって、結局五年と半年もかかった。
そのくせにこんなものなのだから、つくづく自分が陳腐なやり方しかできないのだと知り直してしまう。
そんなことを思いながら、雪ノ下を見つめた。ずっと思い続けてきた少女の答えを待って。
「……わざわざ、探してきたのかしら?」
雪ノ下の第一声は、それだった。
首輪を外してしまった以上話すことはできないので、ページをめくって裏側に直筆で返事を書く。
『お前との約束を果たすには、これが必要だなと思った』
「そう……貴方は、そういうやり方を選んだのね」
雪ノ下は、また黙り込む。
何かを考えているのか、それとも別の何かなのか。どちらにしろ俺には待つことしかできない。
待っている間に、自分のしたことがなんだか恥ずかしくなってきて視線を右往左往させ、頬をかく。
「比企谷くん」
しばらくして、雪ノ下からお呼びがかかった。
正面に向き直って──その瞬間、視界一杯に目を瞑った雪ノ下の顔が映り込む。
「ん……」
与えられたのは優しく、包み込むようなキス。
頬に添えられた手は熱く、それよりも熱い吐息がとうの昔に音を発せなくなった唇の内側に堰き止められる。
五秒経って、十秒経って。ようやく雪ノ下が離れていき、鼻先が触れてしまいそうな距離で止まって笑む。
「……三回目ね」
「…………」
どうやら俺は、相当な間抜けらしい。つい数時間前にやられたことを忘れるとか、気が緩んでるんじゃねえの。
二度あることは三度ある。ならば彼女のこの行為にも三回目があるという可能性は、最初からあった。
いや……俺がそうしたように、彼女もあの日の焼き直しを望んだならば、あるいは必然だったのかもしれない。
「答えを求めてばかりでは、フェアではないものね……」
その距離のまま、雪ノ下は言葉を続ける。甘い吐息が唇に当たってこそばゆい。
「好きよ、八幡くん。私にない強さを貫ける貴方が。私が困っていることに誰より先に気づいてくれる貴方が。たとえ傷ついても、誰かのために体を張れる貴方が……私を、知ろうとしてくれる貴方が」
「……!」
遮る間もなく、妨げることさえ許さずに伝えられる想いは、本当にあの日の繰り返しのようで。
彼女もまた、あの日から変わらぬものを抱いていたのだと知って、底知れない歓喜と幸せが心の奥から溢れ出る。
「私はここにいるわ。そして貴方も、ここにいる」
ただ一つ違うのは、これが別れでは、終わりではないこと。それとはまるで反対な、始まりを告げるものであること。
喜びと一抹の不安に震える手で、スケッチブックの余白に最後の悪あがきを書き連ねる。
『俺でいいのか?』
それを見て、雪ノ下は微笑んだ。
「貴方は言葉を持たない。だから、代わりにその想いが本物かどうか……教えて」
そう目を閉じた雪ノ下に、俺は。
──ああ。誰よりも、これからずっと想い続けよう。
新たな誓いとともに、初めて俺からキスをした。
読んでいただき、ありがとうございます。
いやぁ、前回が悲しい答えであった分、今回はかなり自分の文章力で出せる幸せ分を全て注ぎ込みました。
これでようやくハッピーエンド…とはいかず。
もし目次を開いた方ならばわかるでしょうが、まあ章の題名からこの先に何があるのかは察してください。
ともかく、これで一区切り。自分の自己満足に付き合ってくださり、ありがとうございました。
読者の皆様の心に少しでも響いたのなら幸いです。