とりあえず、この章最後の話です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
「〜〜♪」
いつか、どこかで聞いた鼻歌を口ずさむ。
合わせて揺れるのは亜麻色の髪、その毛先が歌につられて視界の端っこをゆらゆらと揺蕩う。
つられたように梢の奏でる乾いた音と、屋上を吹き抜ける包み込むような風が私の頬を撫でていた。
ここは好きだ。
この学校で一番高い場所にあり、故に全てが見えて箱庭を覗いている気分になれる。
一人は好きだ。
誰にも邪魔されずに、煩わしい人の感情を置き去りにして思索に溺れることができる。
でも独りは嫌いだ。
それだとつまらないし、何よりインスピレーションが湧いてこない。
ここは、私だけの静かな世界。何も聞こえない、気にかけなくていい、私の楽園。
〝──ああ。誰よりも、これからずっと想い続けよう。〟
「……ふふ♪」
ほら、やってきた。
湖のように静謐だった私の世界に、一滴の雫が落とされる。
ああ、この瞬間はいつも楽しい。私の漠然とした深海の中に、新しい世界を広げてくれる。
その感情の赴くままに、手を動かす。四角い小さな箱庭の、白い無垢に私のエゴを鮮明に描き出す。
遠慮はいらない、手加減はしなくていい。ただ、ただ、心の赴くままに
なんという甘美な時間だろう。もうこの力は私の枷ではないけれど、やはりこれが私にとって一番の〝日常〟なのだ。
「……できた」
でも、幕はいつか閉じてしまう。
観客のいない展覧会は終わり、そして心の世界に広げたアトリエにできたばかりの一枚を付け足す。
するとどうだ、やっと全てのシーンが繋がった。どれも支離滅裂で奇天烈な世界が、一つになったのだ。
「ふふ。楽しかったですよ、せーんぱい♪」
鉛筆を傍らに置いて、そう一人笑う。
ここは私の世界、私のアトリエ。好きなように好きなものを描いていい、最高の楽園だ。
「やはりここにいたか、一色嬢」
そんな世界に、一人の足が踏み込んだ。
そこでようやく思い至る。ああ、そういえば一人だけ……私の展覧会を見てくれる人がいることに。
「あら、見つかっちゃいました。入場料は払いましたか?」
「もはは、それはお主のカルマを垣間見ることで代償とせよ」
腕を組んで、おかしなことを言うその人。なのに顔が整っているものだから、どうにも似合う。
でもそれがいいいだなんて、そんなことを思っている私もまた、多分おかしい子なんだろうな。
「しょうがないですね。はい、どうぞ」
いかにも仕方がないというふうを装って、スケッチブックを手渡した。
その人は指ぬきグローブをはめた手で受け取って、メガネの位置を直してから私の世界を覗き込む。
ガラスの奥で細められ、無遠慮に覗き込む目はひどく真剣で、まるでこの胸まで暴かれたように錯覚する。
それもまた楽しみだと思っている辺り、いよいよ私は救いようのない痛い子だ。
早いところ、この人に責任を取ってもらわねば♪
「……ふむ。題するに、『獣の渇望』といったところか?」
「ぴんぽんぴんぽーん、大正解。見事言い当てた材木座先輩には、私とおしゃべりする権利をあげましょー♪」
「ぬ、それは随分な報酬だ。これではお釣りが出てしまうな、はっはっは!」
高らかに笑って合わせてくれるその声が、とても心地良い。あーほんと、昔の私が見たらドン引きだろうなー。
「して、これはやはり八幡と雪ノ下嬢であるか?」
「今日の先輩は冴えてますね、っと」
壁から背中を引き離し、立ち上がるとくるりとターン。
そしてずっと向こう、夕暮れが照らすコンクリートと鉄筋で出来た城のその部屋を見下ろした。
「ほら、あそこです」
蓋を外した瞳と人差し指一本、それでむせかえるような甘い感情の泉を指し示す。
隣にやってきた材木座先輩は、私の示すその場所を見て……ふっと、それはそれは嬉しそうに笑った。
「そうか、ようやくか……あぁ、本当に良かった」
それは心の底からあふれ出した本物の喜びが形になったもので、ずきゅっと私の心臓を麻痺させる。
目は心を映す鏡と人は言うけれど、ならば隣の心まで映し出すこの瞳は、なんと罪深いことだろう。
またひとつ、この人にとってもらう責任が増えてしまった。
「ね、私の絵はすごいでしょう?」
それを隠して、先輩の手からスケッチブックをさりげなく掠め取ってターンする。
くるりとバレリーナのように回って、行き着く先はいつもの場所。
材木座先輩が振り返り、苦笑すればそれで鑑賞会のエピローグは完成だ。
「うむ。まさにあの幸せの具現よな。いつもながら、実に一色嬢は素晴らしい」
「♪」
ああ、ダメよいろは。出しちゃダメ。
心を隠すのは得意だ。これまで誰にも、この人自身にだって覗いても覗かせたことは一度もない。
でもこのにやけた口元を隠すには、ちょっと私の理性は足りないらしい。だからスケッチブックで隠すのだ。
「それにしても、約6年、か……我が相棒ながら、よくぞまあそこまで思い続けたものよ」
ああ、余韻に浸れせてくれる時間はないらしい。もう、減点ですよ先輩。
「私は見ていて楽しかったですよ。たくさんいい絵が描けました♪」
「我はヒヤヒヤしておったよ。こうしてこの目で見るまでは……あやつが、裏切られぬか」
ギシ、と落下防止用の手すりから軋んだ音が木霊する。
穏やかな草原を彷彿とさせる感情に、烈火のごとき怒りと情熱が加わった。
収まった動悸がまた激しくなる。
それは、私の一番好きな色。あまりに人の心を見すぎて疲れ切った私の心を埋め尽くすような、真っ赤な炎。
紅潮していく頬を見せないように、私はまたターンしてぽすんと先輩の背中に着地した。
「ぬっ……」
「そうですねえ。もしもまた先輩が一人ぼっちになったなら……」
今一度、自分の作品に目を落とす。
そこに描かれているのは三つ。
骸と、怪物と、雪の精。
築き上げられた無数の亡骸の花園に住まう一匹の怪物が、雪の精を大切そうに抱きしめている。
小さな何かの成れの果ても、怪物もあまりにおぞましいはずなのに、血染めの腕に包まれた白い天使は幸せそうに微笑んでいて。
「危うく、一つ増えるところでした♪」
これが骸の白で埋まらずに済んだことが、とても嬉しいです。
「……あの、一色嬢。ちょっと近い」
「えー、減るものじゃないしいいじゃないですかー」
「減ってる、我のメンタルがゴリゴリ減ってるから。なんならこのままオーバーヒートしてしまうで候」
おやおや、随分とテンパっているみたいですね。
そろそろやめておきましょう。下手をしてこっちまで恥ずかしがったら、それこそ本末転倒です。
まあ、あくまで今日のところは、という話ですけどね。
「しょうがないので、ヘタレ童貞さんの先輩に免じて離れてあげまーす」
「どどどど童貞ちゃうわ!」
もちろん知っている。でも私はあえて意地悪な笑顔で言った。
「え、違うんですかぁ?」
「一色嬢、わざと言ってない?」
「はい♪」
がっくりと肩を落とす先輩にクスリと笑い、隣に移動する。
というか本当に童貞じゃなかったら、相手を見つけ出してちょっと
なーんて、黒い衝動は置いといて。
もう一度無駄になんでも見える目で、奉仕部の部室で照れ臭そうに笑う二人を見た。
「でも本当に良かったです、先輩の思いが届いて」
私だって、先輩の恋路をずっと見守ってきた。この日が来るのを心待ちにしていたのだ。
当然でしょう、あの人は私たちの命の恩人なのだから。敬愛する彼の幸せは、私たちの喜びになる。
でも、それ以上に……
「……これでようやく、変わっていきますかね」
「だといいがな……あやつはどこか、自分の存在を軽んじておる。それがいつか仇になってしまわないか、我は心配だ」
「同感です」
先輩は間違いなく、最強の部類に入る人外だ。
せいぜいが
それはナンバーズの称号が、そしてこれまで積み重ねてきた功績が残念ながら証明してしまっている。
その強さの本質は、やはり比企谷先輩が怪物であることを是としていること。
何を取り繕おうと、所詮は不死身の怪物だと割り切っている。
どうせ死ぬことがないのなら、この心もまた人間に準じたものではないのだろう。
その強靭なまでの自己否定と自己嫌悪こそが、比企谷八幡の……ノスフェラトゥナンバーズ2〝オクタ〟の真骨頂。
何より自分を下に見ているから、誰よりも強い。
「奴は十夜殿や小町殿、我らから向けられる愛を信じている」
「
「『だって俺は、お前らと違って心まで人じゃないから』……か」
それは覚悟に見せかけた、必要でないから切り捨てるのではなく、大切だからこそ無くしたくないという恐怖。
死なない自分と違って失いたくないだなんて、一見すれば美徳だけどこっちからすればたまったものじゃない。
「ぶっちゃけて言えば、ふざけんなこの野郎って話ですよねぇ」
「だからこそ必要なのだ、いざという時に奴を留めるための鎖がな」
そう、だから彼女にはもしかしたらと思っている。
あの先輩が唯一受け入れた、自ら傷つくことを許容した雪ノ下先輩なら、あるいは。
「まっ、どこまで続くかお手並み拝見ですね〜」
無論、過度な期待はしない。いかな雪ノ下といえど所詮彼女は人間だ、いつか恐れて離れていく可能性だってある。
いや、確か雪ノ下先輩は特別〝力〟の発現が遅いんですっけ? まあどうでもいいです。どちらにしろ、今は無力なわけですし。
「とすると、〝あの件〟はまだ伝えないほうがよかろうな」
「それこそ、今だけはやめたほうがいいでしょう」
先輩からすればようやく掴んだ幸せ、私たちからすればやっと見つけたストッパー候補。
これから始まるだろうあの人たちの関係を思えば、ここで伝えるのはいくらなんでも忍びない。
「十夜さんからはタイミングを見計らって、と言われてますし。それにどうせ私たちが伝えないでも、そのうち鶴見さんが通達するでしょう」
「で、あるな。ともあれ、今は彼奴の幸せに祝福を送ろうではないか」
「いきなり変なこと言って絡まないでくださいよ、材木座先輩は比企谷先輩と違ってわかりやすいんですから」
「あっれー、我いきなり貶されたんだけど」
クスクスと笑って、手すりから離れる。
つられて視線をこちらに寄越してくる先輩に、私は先ほどの場所に立つと少し前屈みになった。
スケッチブックを持った両手を後ろに回し、少し小首を傾げればあざといポーズの出来上がり。
「先輩、これから二人でどこかに行きませんか?『比企谷先輩に彼女ができたパーティー』をしましょう」
「ふむ、良いな。して、どこへ行く?」
「それは一緒に帰りながら考えましょー♪」
上機嫌に言いながら、私は軽快なステップを踏んで屋上を後にした。
後ろから優しい感情を発した先輩が、仕方がないという心情を思い浮かべて追いかけてくるのを感じ取った。
祭りは終わり、世界は巡る。
今日この日、一人の優しい
少女の守っていた小さな世界は崩れ、新たに始まったのは幸せに満ち満ちるだろう
それはいつまで続くかわからない。私たちによって守られるこの秩序がいつ破られるのかは、誰にも。
でも、それでいい。静かな世界は好きだけれど、静かすぎる世界はそれはそれでつまらないから。
それにね。
「私も、もう少し幸せな日常を続けていたいですから……♪」
そしていつかは、私に寄り添ってくれたあの熱い心を、私のものに──。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
……これでこの章は終わりよ。付き合ってくれてありがとう。
ハッピーエンドで終わりではないの、って?
ふふ、まだまだね。
物語にはスパイスが必要よ。ただ甘いだけでは終わらないものが人生でしょう?
だから、あの子の人生はまだ続くわ。そして私の話にも続きがある。
けれど、そうね……また少し、休みましょう。
ここから先は、もっと楽しいから。
声を失った少年
第四章 最後の日常 終
読んでいただき、ありがとうございます。
さぁて、こっからが腕の見せ所。
感想をいただけると嬉しいです。