勝生勇利を初めて見たのは何時だったか…俺がスケートを始めて直ぐだった気がする。どっかのジュニア大会を放送していたんだけど、アイツが何位だったかも大会名も覚えてない。ただ記憶の片隅に、優しい顔、柔らかな手つき、滑らかなステップ、高さはないけど軸のぶれないジャンプ、ラストでも落ちないスピード、そして氷を切る音が、ずっと残っていた。気持ち良さそうに、楽しそうに滑るその黒髪の、年上のお兄さんが気になって仕方なかった。白銀の世界で舞う艶のある黒髪と黒い瞳がとても綺麗で、俺もはやくあんな風になりたい、そう思った。
あの日から、勝生勇利は俺の憧れになった。
「おい、豚!さっさと起きろ!」
「………ん、ん~…ゆ、りお?」
「はやく起きろ!ヴィクトルがまってるぞ」
「……ヴィク、ト…ル?な、に…?ってちょ、苦しいっ痛いよユリオ~」
「今日は買い物行く約束だったろ!いい加減起きやがれこのクソ豚!」
寝起きがよくないこの日本人が、勝生勇利。今はぬくぬく布団にくるまって締まりのない顔をしててムカつくから、馬乗りになって頭を叩いたところだ。
コイツは今、ロシアを活動拠点にしている。俺、ユーリ・プリセツキーや、勇利のコーチをやりながら選手もしてるヴィクトル・ニキフォロフ、他諸々と同じリンクで練習に励んでいる。
生活空間はここ、ヴィクトルの家の客間だ。ヴィクトルも勇利も平然と同居しているが、周囲は、恋人、だ、と、思ってる奴等が多い。決して教えてやるつもりはない。談じてない。勇利はあくまでヴィクトルをコーチとして親友として、見てる。そこに恋愛感情はない。だから、下手なこと言って意識なんかさせやしない。
「ユリオー、勇利起きたー?ごはんできたよー」
「ヴィクトル!たまには豚に飯作らせろよ!居候の癖に寝すぎだろコイツ」
「あー、起きてる起きますだから退いてくださいユリオさん」
ヴィクトルがフライ返しとフライパンを手に勇利の部屋に入ってきた。香ばしい匂いが部屋に広がる。そして迷いなく勇利のもとに行き極上の笑みを浮かべやがる。
「おはよう勇利、随分お寝坊さんだね。昨日はそんなに疲れた?激しかったかな?」
「あぁん?!」
「あの、ヴィクトル。なんかユリオが誤解してる気が、」
「やだなぁユリオ、顔真っ赤にしてどうしたの?昨日の練習の話だよ?」
「エロい言い方すんじゃねーよ、おっさん!」
「わぁ、ひーどーいー!勇利聞いた?ユリオが俺のことエロ親父って言ったよ!お父さんこんな口の悪い子に育てたつもりありませんー!」
「言ってない、おっさんって言われただけだから!ちょ、ヴィクトルまで乗っかるのやめて!ちょ、やめ、重いっ潰れるっ」
「ふざけんなエロ親父俺まで潰す気かよっ退きやがれー!!」
こんな頭のネジぶっ飛んでるヴィクトルだが、要注意だ。コイツは完全に勇利に惚れてる。スケートの指導中はましだが、勇利が滑ってる時は完全に恋人を見る甘ったるい目をしてる。隠す気あるのかないのか、勇利に対してはスキンシップが激しい。なんで勇利は気付かないのか不思議なくらいだ。けれど、俺にはちょうどいい。
俺は、暇さえあればこうやってヴィクトルと勇利を訪ねる。周りからは邪魔しないほうがいいとか言われるけど、そんなの知ったことか。傲慢でやりたい放題言いたい放題しながら、二人がくっつくのを阻止している。
何故かって、そんなん決まってる。
俺の憧れが勝生勇利でもう一人の憧れがヴィクトル・ニキフォロフだからだ。俺の憧れのヤツが憧れてるヤツに奪われるなんて絶対嫌だ。
「もう~二人ともはやくどいてさぁ~!」
「仕方ない、勇利がバテちゃ今日遊べなくなっちゃうしね」
「ったく、おいヴィクトル腹へった早く飯にしようーぜ」
そう言って俺はヴィクトルの背中をグイグイ押して勇利の部屋から押し出した。勿論、着替えを見せないために他ならない。
「まったくユリオは我が儘だなぁ。じゃあ勇利、着替えて早くおいで、熱いうちに食べよう」
勇利にそんな言葉をかけながらヴィクトルは俺に一瞥くれると、口だけ動かした。音はない。
『 』
「ッ、うるせー!!!クソジジイっ早く行け飯食わせろ!!」
「え?ちょっと、何、今度はなんなのユリオ」
「うるせぇよ勇利は黙ってろ!」
「う、うるさいのはユリオじゃないか………って、え?」
ヴィクトルの笑い声が遠くキッチンから聞こえる。あぁやってしまった。失言だ。
「いまの、もう一回!ユリオもう一回言って!」
「うるせぇ黙れくそ豚が」
「えー…初めて名前呼ばれたと思ったのにー」
反抗期だし仕方ないか、そう言って勇利はクローゼットに向かう。その背中がちょっと残念そうで、思わず手が伸びる。触れるか、触れないかギリギリのところ、くるりと振り返った勇利が、笑う。朝日を浴びて艶めく黒髪が舞う。男にしては大きな瞳を柔らかく細めて。唇を悪戯に歪めて。
「僕センス悪いからユリオが服選んでよ」
「…………………勇利は豚なんだから何着てもおんなじだろ。せめて細く見える寒色か黒で纏めろよ」
「……そっか、アドバイスありがとうユーリ」
あの日見た表情が、記憶の底から沸き上がる。初めてみた彼のスケートに、目を奪われた。今目の前にいるこの男は、まるっきり同じ表情をしていた。
そんな日常。