今回の山岳地帯での戦は戦車類の使用を不可にする。それは戦の前からわかっていることだった。自分の師団には地形だけでなく地盤まで把握する石黒と言う男がいる。作戦会議に不可欠な男で、石黒の意見によって勝敗を決めたのは一度ではない。
しかしそんな男でも天候を完全に読むことはできなかった。
突然の豪雨に襲われる中で、ベスティエ最強と言われる男は馬を走らせていた。軍の中での階級は大佐で、第十一機甲師団を含む複数の部隊を率いている。しかし今は部下たちと離れて単騎での移動を余儀なくされていた。すべてはこの豪雨と敵の奇襲があるという報告のためだ。
作戦会議の中で囮作戦を決行する事を決めた大佐は直属の部下たちに奇襲を命じた。兵士数名が囮として戦場を駆け敵の目を引き付け、その背後から他の兵士たちが奇襲する。こちらを奇襲する作戦下にある敵軍はその時点で戦意を喪失させるはずだった。
しかし敵軍の数は情報より多く、そしてこちらの作戦は敵に漏れているらしい。そう進言してきたのはこの戦に初めて参加した新米の部下だった。
入隊当初から聡明だった部下は今もこちらには見えない何かを見ている。そして大佐はそんな部下の瞳に宿るものが気になりつつあった。
だがあの部下の事を考えるのはこの場を生き延びてからでいい。むしろ現状を打破しなければ何を考えることもできなくなる。
銃などの火器が使えない雨の中を放たれた矢が走った。背後を見れば弓を手に馬を走らせる敵軍兵士がいる。しかし追いかけてくる敵兵の少なさに大佐は舌打ちした。やはり囮作戦は敵に知られているようだ。だとしたら作戦の直前に囮の人員を変えて正解だったと思う。
ぬかるみを蹴る騎馬の上で大佐は背後の敵兵らに向かって声をあげた。名前と階級を敵兵に向けて叫ぶととたんに背後が色めき立つ。
「第十一機甲師団モントシャインを率いる俺を殺せるものなら殺してみろ!」
挑発するような言葉を背後に飛ばすとさらに騎馬の腹を蹴った。そうして馬脚を速めると豪雨の中を疾走する。
作戦決行の直前に大佐は少ない隊長らを集めて新たに話し合った。その上で作戦を大々的に変えて奇襲予定地も変更している。そしてその予定地点はさらに馬を走らせた先にあったはずだ。
だがあと少しのところで流れ矢のようなものが騎馬の足をかすめた。たちまちに騎馬の進行方向が変わり道を外れてしまう。手綱を引いて落ち着かせる事すらできず、斜面に落ちた騎馬はもんどり打って落ちていく。
斜面の途中で木の幹に引っ掛かった大佐は全身を襲う痛みに目を覚ました。だがそのままではいられず、すぐに安全な場所を求めて動き出す。幸いなことに敵兵が自分を探す様子はなかった。しかし味方陣営に戻らなければ怪我の具合を確認することもできない。
落下地点から移動しながら下へと降りていくと巨大な岩窟を見つけた。岩が重なり作り上げられた深くはないその隙間に身を寄せて息をつく。
そこで重すぎるマントを脱ぐべく留め具に手をかけた。だがわずかに考え込んだ後にマントを脱ぐことをやめる。
大佐という肩書きを手にした時、彼は同時にそのマントも与えられていた。そしてそれ以降、このマントを背にして何人もの敵を殺し、部下を失っている。そんなものは重くて当たり前で、それを重いからと脱ぐことは許されない気がした。
と、ここで彼は自嘲の笑みをこぼす。
「なに感傷的になってんだよ…‥たかがマントじゃねぇか」
今は少しでも身体を休めて体力の回復をはからなければならない。マントの重要性など、ここでは関係ないはずだ。
それでもマントを脱ぐという選択ができないまま彼は途方に暮れる。
「光秀、ここにいたのか」
どれほど時間がたったのか、やまない雨音に紛れて若い兵士がひとりやってきた。一度は安堵の顔を見せた兵士だが驚いたように目を丸めると彼の元へ駆け寄る。
彼のそばで膝をついた兵士は布を取り出して右のこめかみに当てた。
「大丈夫か? 他に痛む箇所はあるか?」
「…‥さぁな」
兵士の顔を見た瞬間からあふれでる安堵感に彼は目を細めた。兵士はそんな彼の様子を確認しながら簡単にマントの留め具をはずしてしまう。
「光秀、足の出血が酷いな」
落下した時にどこかで引っ掻けたのか太もも部分から出血している。それを指摘しながら兵士は手際よく応急処置をしていった。やはりこの兵士は他の新人兵士と違って手当ての手段も知っているらしい。
「今回の敵軍は優れた斥候部隊を持っているからな。一筋縄ではいかない相手だ」
決して味方の中に裏切り者がいるわけではない。相手の斥候が優れているだけだ。そう話す兵士の顔を眺めながら彼は吐息を漏らす。
「やっぱ…‥おまえは前線向きじゃねぇわ」
こんな年下の新米相手に何を固執しているのかと以前は思う事もあった。しかし今はその落ち着いた目を見るだけで落ち着く自分がいる。
「光秀、政宗の隊が来てくれたぞ。立てるか?」
兵士は彼の腕を己の肩に乗せて立ち上がらせてくれようとしていた。だが彼は視界が暗く影っていくのを感じながら笑みをこぼす。
「なあ真琴…‥おまえは…‥」
生き残れと言おうとしながら目を開かせた先に真琴の顔があった。ぼんやりとその整った顔を眺めていると軽いキスをされる。
「うなされていたけど大丈夫か?」
真琴に問われながら視線を少しずらして室内を見る。見慣れた天井とリビングの装飾は確実に自分の家であることを示していた。
光秀が起き上がると重箱をこたつに置きながら石黒が呆れた顔を向けてくる。
「こたつで寝ていると風邪を引きますよ」
「…‥生きて、るよな?」
つぶやいた光秀の目の前で石黒が眉を潜めた。だが前木が来たことですぐにその視線を移してしまう。
「あっ、明紫波さん起きたんですね。いまみんな来たんですよ」
前木が笑顔で報告するそばでにぎやかな声がリビングにやってくる。ぞろぞろとやってきたのはよく知った顔ぶれだった。
正月に珍しく休みが重なったメンバーが、正月らしいことをしたいと言い出した。そうは言っても派手なことをするわけではなく皆で集まって新年を祝うと言うだけだ。ただ寮の部屋では皆が集まるには狭すぎる。むしろ大人数用のこたつを置くスペースがなく、その後も邪魔になってしまう。
そんな話の中で光秀は場所だけならと提案する事を告げた。
そうして元旦に集まることになったのだが、光秀はその準備中に寝ていたらしい。こたつの上にはいつの間にかおせちや小皿などが並んでいる。
「すっげー寝てたな」
「料理はほとんど政宗がやってくれたから問題ないぞ」
準備ぐらい手伝えたと小さな後悔を抱える光秀に真琴が言う。そちらに目を向けた光秀は真琴の落ち着いた顔を眺めた。
「少しでも休めたんだから、こたつに感謝しないとな」
恋人の大人びた笑顔を前にした光秀は自然と顔が赤くなっていくのを感じた。そして夢の中でも真琴は聡明なままだった事を思い出す。一回りも年下の恋人はいつの間にか誰よりも頼れる人間になっていた。
「なあ真琴、これなんだっけニシン?」
前木に問いかけられた真琴はすぐに光秀から視線を移す。
「コハダ。出世魚で縁起が良いんだ」
「なるほどなー」
「真琴、これは?」
年齢の近い前木と真琴は浅日を交えて楽しげに話をしている。他にもいつもの面々が楽しげに料理を広げ新しい瓶を開けている。それらを眺めながら光秀は先程まで自分がいた夢の中に思いを馳せた。
あの場所にもこの面々が自分の部下としていてくれている。自分はそんな彼らを守るために大佐として重苦しいマントを背負い続けていた。そして死ぬ寸前になっても脱げなかったそれを、真琴がすんなりと取り除いてくれる。
それはまるで深層心理を覗き込んだかのように現実とリンクしていた。
年下だが誰よりも優れた外科医は多くの人を助けている。そしてそんな彼の手は夢の中にも届き助けてくれようとしていた。
「明紫波」
ぼんやり考え事をしていると石黒に呼ばれる。瓶の口を向けられた光秀はグラスを手にそれを受けた。何も不自然ではないはずの動きだが、それを見て緋田が眉を浮かせる。
「そこにいることに疲れたのならいつでも言ってくれて構わないよ。僕が喜美の肩書きごと代わってあげるからね」
何を察したのか緋田は挑発的な視線とともに笑みを浮かべて言い放つ。そのため光秀も緋田の視線に返さなければならなくなった。
「何を見たらそうなるんだよ」
疲れているはずがないと返しながらグラスの酒を喉に流し込む。そして自然とその意識は夢の中でマントを脱げなかった理由に向けられた。守りたいものを守るためなら重いものを背負っても何の苦にもならない。
しかし今はその守りたい連中と無責任に騒ぐほうが大切だろう。
そう結論付けたところで真琴が口を開いた。
「信長。もし光秀が疲れているとしたら、それは俺のせいなんだ。だから今日は手加減してやってくれ」
真面目に考えていた光秀のそばで、賢いはずの恋人が爆弾を投げる。しかし既に周囲の人間はそんな真琴の天然爆弾にも慣れているらしい。
伊達川が笑いながら真琴にそっちも手加減してやってくれと親切なのかわからない忠告をした。そうして楽しげな雰囲気のまま皆はそれぞれ談笑を続ける。
だが光秀はひとりその輪に入れないまま熱い耳に手を当てていた。