テレビでローカルニュースを見ていた時に思いつきました。
一番最後に、表現したかったことが篭っています。
ノリと勢いのみで書いてしまった部分も大きいので、
駄文はご容赦ください。
テレビでローカルニュースを見ていた時に思いつきました。
一番最後に、表現したかったことが篭っています。
ノリと勢いのみで書いてしまった部分も大きいので、
駄文はご容赦ください。
紺野真由は、幼い頃から誰にでも朗らかに接する、心根の優しい、よく笑う女性だった。
真由の友人達は皆、口を揃えて言っていた。
――あの子ほど、優しくて明るく前向きな子はいない
彼女がネガティブなことを話しているところを見たことがない
真由は愚痴をこぼさない。友人の愚痴は文句もなくジッと聞き続ける彼女だが、彼女自身が不平や不満を口走ることはない。少なくとも、真由の周囲の人物で彼女の愚痴や他人への罵詈雑言、不平不満を口にする姿を見たものはいない。
電車の中でお年寄りや身体障害者、妊婦などが立っていれば、すすんで自分の席を譲った。大抵の人からは感謝されたが、席を譲った老人から『私は年寄りではない』とトラブルに巻き込まれたことも、しばしばあった。激昂した男性に手を上げられた経験もある。それでも真由は、笑顔で席を譲った。譲り続けた。
以前、職場の同僚が資料作成を、締め切り前日まで忘れていたことがあった。その時、真由は手伝いを買って出て、同僚女性と共に徹夜で資料を仕上げた。
『ごめんね真由。手伝ってくれてありがとう』
『んーん。困った時はお互い様だから』
同僚女性の感謝と謝罪に対し、眩しい朝日をオフィスで眺めながら、真由は笑顔でこう答えていた。その後、目の下のクマを化粧で隠し、空元気だと分かる元気を振り絞りながら、真由は挨拶回りに出発した。
真由は職場の後輩たちからも人望がある。仕事に厳しい他の社員に比べ、真由は比較的ミスや失敗には寛容で、業務で行き詰まった部分は丁寧に指導する。笑顔が多く常に朗らかな態度のため、後輩たちも声をかけやすく、質問や相談をしやすい、ある意味では理想の上司だ。
仕事以外の場面においても、人の失敗に寛容だ。真由には行きつけの喫茶店があったが、そのキッカケは店員の失敗だった。真由が注文したオレンジジュースを、運んできた店員が運悪くこぼしてしまった。真由はその時クリーム色のワイシャツを着ていたのだが、オレンジジュースは真由のシャツに運悪く盛大にかかってしまい、ワイシャツにはオレンジ色の薄汚いシミがついてしまった。
『すみません! 本当にすみません!!』
『いえいえ。失敗は誰にでもありますから』
以来、その喫茶店は真由の行きつけの店となった。彼女は足繁く喫茶店に通い続け、今では件の店員との仲も良好。オレンジのシミがついたエピソードは、今では彼女たちにとっては心温まる笑い話となっている。
紺野真由は優しい。それは紛うことなき事実だ。
だが、そんな紺野真由に、影を落とす存在がいる。父親である。
真由の父親は、特別な人間ではない。少々気が小さく、それでいてお調子者のきらいがあるが、真由に似て朗らかでよく笑う人物である。家庭内暴力やモラルハラスメントどころか、家族に手を上げたことすらない。他人の失敗には寛容で、すすんで人の力になり、友人や仲間や家族を大切にする、ごくごく普通の男性である。
真由の朗らかさは、父親から受け継いだと言ってもいい。真由と父親は、非常に似た性格をしている。母親や親戚から、『真由ちゃんはお父さんによく似てるね』と、真由はずっと聞かされて育ってきた。
真由は、父親によく似ている。父親によく似て、朗らかでよく笑い、そして気が小さい。
そう。真由は気が小さい。彼女の周囲からの評価『優しい』というのは、実は語弊がある。優しいのではない。気が小さく、弱いのである。
真由が人の失敗に寛容なのは、自分の失敗に寛容でいて欲しいからである。同僚の仕事を手伝うのも、自分が困った時に同僚に仕事を手伝ってもらいたいからだし、電車内でお年寄りや身体障害者、妊婦に席を譲るのも、(本人たちが発しているかどうかは別の話として)彼らから感じられる無言のプレッシャーに耐えられないからだ。人の悪口を決して言わないのも、自身が発した悪口が、本人の耳に入るのを恐れるためである。黙って仲間の愚痴を聞いて親身に相談に乗るのも、自分が困った時は相談に乗ってもらいたいからだし。職場の後輩たちに優しいのも、後輩たちに嫌われたくないからだ。
このように、真由の優しさは本心からというよりは、自身の気の小ささからくる処世術のようなものに近い。しかし理由や出処がどうであれ、周囲には『明るく朗らかで優しい』と認知されている真由。10代の頃こそそういったギャップに悩み苦しんだこともあったが、今ではそんな自分も悪くないのかも知れない……彼女自身、そう割りきって日々を生きている。
そんな父親譲りの気の小ささを受け継いだ真由。そして、そんな自分のことを決して嫌ってはいない真由。
しかし彼女は、その父譲りの気の小ささ故に、父親のことを好きになれない。いや好きになろうと努力はしたが、その努力が実ったことはない。
真由の父親は、テレビに向かってひどく毒づくという悪い癖がある。
幼い頃の真由とその家族が過ごした家は、決して広い家ではない。だがそれでも、一部屋が八畳ほどの2LDKの佇まいで、真由の部屋と居間の間は、廊下と他の部屋によって距離が離れていた。
居間でテレビを見続ける父親は、そんな離れているはずの真由の部屋まで、容易に届く怒号で毒づいた。
――クソが!! 損したわ!!! くだらんドラマなんぞ流しやがって!!!
――早く助けろクソ!!! ぐずぐずしてるからみんな死ぬんだバカタレ!!!
――そんなこと普通起こるわけないだろうが!!! 俺をなめやがってバカ!!!
真由が物心ついた頃から、父親はすでにこのような性格だった。故に真由にとって父親がテレビを視聴するという行為は恐怖でしかなく、父親がテレビの電源を入れた途端、真由は逃げるように自室にこもった。
――またそうやってくだらんことやりやがって!!! 早く次のコーナー行け!!!
――カッコつけるなバカ!!! さっさと撃ち殺せクソヤロウ!!!
自室で父親の毒づく声に怯える真由の耳には、時折『バン!!』『ガン!!!』という、何かを壊した音、何かをクッションに叩きつけた音が届き、それもまた真由を恐怖に陥れた。それは、父親が居間のテーブルやクッション、小物などに当り散らしている音であるということに、大人になってから気付いた。
父親も、自身と同じく気が弱いゆえに人当たりがよく優しい性格であることを、大人になった真由は知っている。故に、父親のこのテレビへの怒号は、数少ない父親の怒気とストレスの発散の場なのだろう……真由は、何度もそう自分に言い聞かせ、そして理解し、父を好きになろうと努力をした。
――何が愛してるだ!!! んなこと言ってる間に逃げろクソボケ!!!
――だーかーらー!!! お前の顔なんぞ誰も見たくないって言ってんだろ!!!
下らないことだということは分かっている。情けないことだというのは真由自身、百も承知している。子供じゃないんだからと、不甲斐ない自分を情けなく思ったことも一度や二度ではない。
だが、幼少の頃からそれを聞かされ続け、そして心の奥底にセットされてしまった父親への恐怖心は、真由の心からこびりついて剥がれることはなかった。真由は大人になり、独立して親元から離れ、父親に一定の理解を向けた今でさえ……いや父親の声に悩まされる機会が減った今だからこそ、未だに父の声が耳に届く度に、恐怖で身体が震えだし、立っていられないほど体の力が抜け、不自然な程心臓の鼓動が早まり、全身が父親との接触を拒否した。
だから、たとえそれが母親からの頼みであったとしても、実家に戻り両親と同居することには、抵抗を感じずにはいられなかった。
『真由、こっちに戻れない?』
『私がお父さん苦手なこと知ってるでしょ?』
『そう言わないで……親なんだから……ね?』
嫌いになることが出来ていれば、真由は恐らく即座に『イヤだ』と断っていただろう。だが、いくら父親は恐怖の対象であっても、憎悪の対象ではない。自身をここまで育ててくれた父親のことは尊敬しているし、本来なら怖がりたくもない相手なのだ。
母が言うには……父が定年退職した結果、収入が激減したそうだ。蓄えもないわけではないが、このままでは生活が心もとない。真由に仕送りを頼もうにも、真由も決して高収入を得ているわけではない。
年金をもらい始めて一年目の生活は、どこの家庭も困窮するものだ。真由の実家も生活が困窮するのは恐らく最初の一年だけなのだろうが……覚悟はしていたものの、予想以上に生活が困窮しはじめたのだろう。元来気の小さい父親も将来を不安視しはじめ、いっそのこと真由に同居してもらおうと考えたそうだ。自身のかわいい娘を、目の届くところに置いておきたいという気持ちもあったのかもしれない。
故に真由は、散々悩んだ末に、両親の意向を汲み、実家に戻ることにした。
『お母さん。私、そっちに戻るから』
『ありがとう……本当にありがとう……』
会社を退職する際は、同僚が一様に真由との別れを惜しんでくれた。上司も最初は強く引き止めたが、真由の決意が揺らがないということを悟ると、最後は折れてくれ、笑顔で送り出してくれた。
『紺野さん。今まで本当にありがとう』
『私こそ、とっても楽しい職場でした』
『先輩がいなくなると寂しくなります……』
『これから先は、あなたががんばってね』
『真由〜……たまにはLineでやりとりしようね〜……』
『うん。もちろん!』
そうして真由は地元に戻った。都市部で10年近く生活していた真由だけに、地元での就職先を見つけることはそう難しいことではなかった。地方の中小企業特有の、必要以上にアットホームな雰囲気には戸惑ったが、それでもスムーズに職場に馴染むことが出来た。
しかしそれ以上に真由を悩ませたのは……実家で真由を待ち受けていたものである。
実家に戻った真由を待ち受けていたのは、以前よりさらに深刻化したように感じる、テレビに向かって毒づく父親だった。
――くだらん! クソが!!! バカタレ!! 早く死ね!!!
――普通に考えておかしいだろ!!! 誰か止めろバカ!!!
すでに定年退職している父親は、高齢のためか以前に比べて睡眠時間が短くなっている。ゆえに父親は深夜遅くまでテレビを見続け、朝早くからテレビを見始める。
そしてそれは、真由が睡眠を取る時間の間、父親がテレビを見続け、そして毒づき続けるということを意味する。
――バカ!! ペナルティなんぞ取られやがってバカ!!!
――そんなんだから日本はダメなんだ!!! 早く負けろ負けろ!!! 終われ!!!
真由の身体は、父親の怒号に過敏である。故に、いくら深い眠りに落ちていても、毒づく父親の第一声を聞いただけで身体がパチッと覚醒し、そして冷や汗を流し始め、恐怖で震え始める。
――そんなだから景気が悪くなるんだ!! お前は早く辞めろクソが!!
――勝てるわけないだろ!!! 無責任なこと抜かすなクソキャスター!!!
夜通し繰り返される罵声。テーブルを蹴るガツガツという音。ソファにクッションを叩きつけるボフボフという騒音。そして何よりその怒号は、『父を好きになりたい』という真由の睡眠時間を削りとり、弱い心を侵食しつづけ、体力を少しずつ奪い、真由を蝕んでいった。
「お母さん……お父さん、なんとかならないかな……?」
「あなたももう大人なんだし、気にしないようにしなさい」
『気にしないようにしよう』と思って恐怖心を消し去ることが出来るのなら、私はこんなに苦しまない……心の中の真由は、母親にそう反論していた。
「それよりも駅前のスーパー、また高くなっててね」
「ふーん……そうなんだ……」
「豚バラが100グラム258円ってなってて……」
自分の苦しみよりも駅前のスーパーの豚バラ肉の価格高騰の方が、母親にとっては一大事であるということに、真由の心は蝕まれた。
――お前が言うなクソが!!! お前のせいだ!! 全部オマエのせいだ!!!
――なんでお前が試合出てるんだよ!!! 邪魔なんだから試合に出るな!!!
実家に戻って一、二ヶ月ほど経った頃、真由は何度かかつての同僚とLineで悩みを相談した。
「そうなんだ……真由も大変だね」
「うん」
「でもこっちもけっこう大変でさ」
「ふ、ふーん……そうなんだね」
「この前課長がね……」
自分の悩みを聞いてもらいたくてLineで会話をしていたはずなのに、気がつくと彼女の愚痴を聞く機会になってしまっていることに、真由の心は蝕まれていく。
――バカ!! バカが!!! バカばっかりだ!!! バカバカバカ!!!
毎晩のように毒づき続ける父のせいで、真由はろくに眠ることが出来ない。故に日々の疲れを取ることが出来ず、それは仕事に跳ね返ってくる。新しい職場に入って三ヶ月ほど経過した頃、疲労がピークに達していた真由は些細な不注意とケアレスミスから、会社に多大な迷惑をかけてしまった。
「紺野くん。次からは気をつけてくれ」
「はい……申し訳ありませんでした……」
「どうかしたのか? 入社した頃と比べて元気がないぞ?」
「すみません……実は、よく眠れなくて……」
「んじゃ、今晩は早く寝ることだな」
『それが出来ないから悩んでいるのに』と叫び出したい気持ちを、真由はグッとこらえた。
――ホンッとバカだな!!! バカなシナリオしか書かんバカばっかり!!!
「お父さん……ちょっといいかな……?」
「おう? どうした?」
実家に戻って半年ほど経過した頃、真由は意を決して父親との話し合いの場を設けた。父親がテレビを見ていない時を狙い、震える右手を握りしめ、背中に感じる冷たい冷や汗の感覚に耐えながら、意に反してか細くなる喉からやっとの思いで声を絞り出し、父親に毒づくのを控えるように懇願した。
この頃になると、真由は以前と比べて別人のようにやせ細っていた。目の下のクマは化粧ですらごまかすことが出来ないほどに濃く、髪はボサボサで乾燥し、白髪が目立ち始めていた。
しかし、真由の周囲には、その真由の異変に気付くものはいなかった。
「お父さん、テレビを見ながら文句を言うのをやめてくれないかな?」
「お父さんの声、そんなにうるさいか?」
あんなに大声で毒づいているのに……父親のこの態度がまた、真由の心をじぐじぐと蝕み始める。
「……とにかく、静かに見てくれないかな。文句言うんだったら、もう見ないでよ」
「いやいやいや、こういうことはちゃんと言わないとダメなんだよ」
「“ちゃんと言わなきゃ”って……その場で文句言ってるだけだよね? テレビ局に直接伝えたりしてるわけじゃないじゃないよね?」
「何もそこまでしなくてもいいだろ……?」
「……私ね、お父さんの声のせいで眠れないんだ。ずっと眠れないんだ」
「気にし過ぎだろう。そんな大げさな……」
――ジグジグ
「……まぁ分かった。これから気をつける」
「ごめんね。お父さん、ありがとう」
「ああ」
これで今晩からは静かにゆっくりと眠れる……深く、大きなため息と、恐怖に耐え切った安心感……確かにこの時、真由の全身は達成感に満ちあふれていた。疲労をこんなに心地よく感じたのはいつ以来だろう……お父さんは気をつけると約束してくれた。今晩からは、きっと静かに眠ることが出来る……言ってよかった。怖くて怖くて体中が震えたけれど、勇気を出して話をしてよかった……。
そうして真由はベッドに寝転び、心地良い眠気を感じて照明を消した。ウトウトとした眠気が真由の意識を支配し始める。深く、そして心地いい睡眠へと真由の意識が落ちて行こうとした、その時だった。
――クソ……クソが……アイツ……
いつものような怒号ではない。具体的に何を言っているのかはよく聞き取れない。だが、真由の耳に確実に届いた、とても小さな父親の声。ぼそぼそと何を言っているのか分からない……だが確実に何かを毒づいていることだけは分かる小さな声が、今までとは比較にならない粘性で、真由の耳にねっとりとまとわりついた。
――バカ……この……行け……ボケ……
――死ね……クズ……今……バカ……
真由の身体はこの夜も覚醒した。ぼそぼそという父親の声が、真由の耳だけでなく頭の中を包み込むようにねっとりと絡みつき、ずっと頭の中で残響し続ける。ほんの少しでもウトウトする度に、真由の頭を無理矢理に覚醒させる。父親の声は真由の両瞼を強引に開き、真由に対し、睡眠を取ることを禁じたかのようだった。
「……お母さん、お父さんをどうにかして……」
「なんで? あんたと話して、最近は静かじゃない」
「全然だよ……ぼそぼそ毒づいて、全然眠れない……」
「あそー? お母さん全然聞こえないけどねぇ……」
――ジグジグ
「まぁ今に始まったことじゃないし、気にしなきゃいいのよ」
――ジグジグ
「……それができてれば……こんなに苦しんでないッ」
「苦しんでるだなんてまた大げさな……」
――ジグジグ
「大げさなんかじゃないッ!!!」
今日、真由は父親の外出を見計らい、母親に父親のことを相談したのだが……母親のセリフの一つひとつに蝕まれていった真由は、手に持っていた湯呑を思い切りテーブルに叩きつけ、湯呑に残っていたお茶をテーブルの上にぶちまけた。
「何キレてんの……」
母親は呆れたような表情で、真由がこぼしたお茶を、そばにある布巾で拭き取り、もうお茶が無くなってしまった真由の湯呑に、急須から新しいお茶を注ぐ。なみなみと注がれたお茶を見る真由のくぼんだ両目は、乾いていた。
「だって……私ずっと……」
「気のせいじゃない? お母さんは全然聞こえないけど……」
「なんで? なんで聞こえないの? 私にはあんなにハッキリ聞こえるんだよ? ずっと眠れないんだよ?」
「だってお母さんには聞こえないし……それよりも聞いてよ真由」
――ジグジグ
「……なに」
「また駅前のスーパー値上がりしてね? 卵がワンパック258円に……」
――ジグジグ
「またその話なんだ……」
「だって卵って切らせないでしょ? なのにこんなに高くなったら……」
「……ッ!!!」
直後、自身の体温が急激に上昇したことを真由は感じた。足先から頭頂部にかけてゾワッとした感触が内部を駆け巡り、自身の血液が通常時とは明らかに異なる流れをしたことを感じ取る。無意識に両手に力がこもり、再び手に持つ湯呑をテーブルに叩きつけてしまいたくなる……いや、母親の背後の窓ガラスに思い切り投げつけ、粉々に砕いてしまいたくなる衝動を、必死に抑えた。
「……ハァ……ハァッ……」
「ちょっと大丈夫? 具合悪そうねぇ?」
――ジグジグ
「だから……眠れないって言ってるでしょ?」
「気をつけてよ? あんたが入れてくれるお金でうちは回ってるんだから」
「……そうだね」
母親の言葉を受けた真由の身体から、力が抜けていった。衝動を抑えつける必要がなくなった真由の全身がリラックスし始め、疲労感が蓄積し、真由に眠気が訪れた。今なら父親も外出して、静かに眠れるかもしれない。少し眠るべく、真由は自分の部屋に戻ることにした。
「真由」
居間から真由が出て行くまさにその時、母親が真由を呼び止める。真由は母の方を見ずに、背中を向けたまま応対した。そのため、母親が一体どんな表情をしているのか分からず、声色だけで母親の心理を読むしか出来なかった。
「戻ってくれた真由には感謝してる。本当にありがとう」
――だったら私を寝かせてくれ お父さんを黙らせてくれ
「……うん」
「お母さんこれから買い物に行ってくるから。今のうちに寝なさい」
「うん……ありがとう」
「こっちこそ、頼りっぱなしでごめんね……」
「んーん……こっちこそ、当たり散らしてごめん」
本当は怒りをぶつけたかった。だが今は、怒りではなく罪悪感が真由の心を支配している。
――頼りっぱなしでごめんね……
こんなふうに謝ってくれる自身の母親を、誰が憎めるだろう? こんなふうに私を気遣ってくれる人に、誰が怒りをぶつけられるだろう? 真由はこの時、自分が母親に怒りをぶつけてしまったことを、心の底から申し訳ないと思った。
それが、自身の気の弱さから来るものだということは分かっている。気が強い人間であれば、母親に対し問答無用で怒りをぶつけていただろう。『申し訳ないと思うなら、父親をなんとかしろ』と、母親の謝罪に対して、自分の気持ちをストレートに、憤怒と共に投げつけていたであろう。
だが、真由の気の弱さがそれを許さなかった。母親の言葉への怒りにブレーキをかけ、逆に『悪いのは自分ではないか』『母親にこんなことを言わせた自分が何より悪いのではないか』という自罰的な意識に、真由の心を支配させる。
まるで過剰にアルコールを摂取した時のような足取りで自室に戻った真由。ちょうどタイミング良く、玄関のドアが閉じるガチャリという心地よい音が響いた。私の様子を見て、母親は気を利かせたのかもしれない。自分がいない方が、私が眠れると思ったのかも知れない……母親への感謝と罪悪感が、真由の胸に少しだけ、チクリと痛みを残したが……
「んん……」
真由の頭に睡魔が訪れた。今は母もおらず父も外出中。家の中にいるのは自分一人。睡眠を邪魔するものはない。そう思った真由の口からあくびがこぼれる。自分の声以外の音は聞こえない。話し声も、父親の毒づく声も聞こえない。
「今なら、眠れそう……」
身体を締め付ける腰のベルトを外した。下着を睡眠用のものに交換し、ベッドの中に入る。
「ん……」
心地いい冷たさのベッドのシーツが、真由の体温で次第に暖まってくる。掛け布団と毛布の重みは真由の身体を適度に圧迫し、身体をさらに温めてくれた。真由の全身は今、睡眠に備えた。
「……」
こんなにもスムーズに睡眠することが出来るのはいつぶりだろうか……ぽかぽかと心地いい布団のぬくもりに身を委ね、真由は夢の世界へと没入していった。
………………
…………
……
――クソが……髪の……まっ……バカ……
激しいシャワーの音に紛れ、父親の声が真由の耳にベタリとへばりついた。
――ジグジグ
寝起きだからだろうか。耳に届くシャワーの音がいつもよりも大きく、うるさい。父親がシャワーを浴びているようだ。勢いのあるうるさいシャワーの音が、真由の耳を蝕む。
――バカが……いっつも……これ……きたな……
父親はテレビを見る時だけでなく、シャワーを浴びている時も毒づき始めたらしい。シャワーに紛れた父親の声が、真由の耳にグサグサと突き刺さる。小さな声がまとわりつく。耳を抉り、頭を蝕んでいく。耳の奥が痛くなる。耳掃除の時に、耳の奥に耳かきを突き刺してしまったときのような鋭い痛みが、父親の声が届く度に耳に走る。
――ジグジグ
寝起きで重い頭を抱え、真由はベッドから起きた。足取りがふらつく。身体のバランスが取れない。霞がかかったように視界が白く、色の付いた水墨画のように輪郭がハッキリしない。だが浴室から届くシャワーの音は、滝の轟音のような大音量で聞こえる。その奥底にまぎれている父親の声の輪郭が無理矢理に届き、ハッキリと聞き取れてしまう。
――あいつら……クソが……バカ……バカ……バカ……
真由の意識に、防衛本能が働き始めた。これ以上あの声を聞き続けると、自分が壊れてしまうと警告を鳴らし始めた。父親の声が真由の心を蝕み続ける。ジグジグという頭が齧られる音が聞こえる。
――クソッ……バカ……せっけん……リンス……
真由は思う。止めなければならない。あの声を止めなければならない。でなければ、私は壊れてしまう。父親の声がまとわりつく。私の耳を蝕み続ける。少しずつ少しずつ、心が齧られていく。キッチンに向かい、キャビネットを開ける。中の物を一丁、右手に取ると、左手でキャビネットの扉を閉じる。
――また掃除をサボっとる!! 毎日洗えって言っとるのに!!!
寝起きで重い足を引きずり、ぼやける視界で周囲を見回しながら、台所からそのまま再び浴室に戻ってきた。シャワーの轟音が鳴り響き、父親の声が雷のように周囲にこだまする。
――ぁぁあああああクソッ!!! リンスどこだ位置を変えるなクソがぁああ!!!
真由は震える右手でそれを握りしめ、左手で浴室のドアに手をかけると、自身の身を守るため、勇気を振り絞ってドアを開いた。
無職の老人男性殺害 被害者の娘を逮捕。
2月16日、〇〇県××市で無職の紺野智浩さん(72)宅から悲鳴のような声が聞こえると110番通報があり、警官2名が駆けつけたところ、智浩さんの遺体が発見された。警察は現場にいた智浩さんの長女で会社員の、紺野真由容疑者(31)を、紺野智浩さん殺害容疑で緊急逮捕し、連行した。
調べに対し真由容疑者は、『父の声がうるさく眠ることが出来なかった』『父の声を止めないと眠れないと思った』などと話しており、警察は何らかのトラブルがあったとみて、詳しい動機を調べている。
(2月17日 〇〇新聞 地方欄に掲載)