第1話【唐軍 靺鞨族を刈り出す】
第2話【大海人皇子の無言交易】
第3話【大唐国皇帝軍 海東の征】
第4話【神出鬼没の蘇定方将軍】
【唐軍 靺鞨族を刈り出す】
この年の暮れ、唐は劉仁軌に水軍を率いらせ遼東を攻撃させていた。
劉仁軌将軍
遼東方面の城は少しづつ唐の城になっていき、今や安市城は遼東の中に孤立してしまっている。
659年11月、
劉仁軌は横山で高句麗軍を破ってきた薛仁貴(ソル・イングイ)将軍と共に、遼東の安市城に押さえを置いたまま、日本海側から周辺部族の兵を集めてくる高句麗宰相ヨン・ゲソムン(イリ)に対し粛真の靺羯族を使ってこれに対抗しようと、北方で大がかりな徴兵を行なった。
出征中の劉仁軌らにも、高宗皇帝が和国の遣唐使を監禁したという伝令が届くと和国を放置する訳にはいかなくなってきている。
唐軍は沿海州の徴兵戦ではイリの後塵を拝してきたが、高句麗北方を切り崩した事によって北東の沿海州まで徴兵権を奪い、粛真国の靺鞨族らを次々と徴兵していた。
そして、次はいよいよ日本海を渡り北陸の蝦夷族らを集めるイリの徴兵圏へ侵攻である。
太宗皇帝の時代、李勣将軍により献策された「落ちない城は攻めず孤立化させ、周囲を全て刈り取る」という焦土戦略は粛々と続けられてきた。
遼東から沿海州まで徴兵が出来なくなった今、日本海側の徴兵圏まで奪われたら、イリは動かす兵が無くなってしまう。高句麗の兵は全て五大部族らの私兵であり、統帥権を与えられているにすぎない。イリは軍王とまで呼ばれながら兵を持たない将なのだ。
唐軍にとっては遠路長大な出征ではあるが、囲碁でいう征当たりの様に遠く和国まで布石を打つことは、戦略的な効果は大きい。
新羅を加え高句麗の包囲網が出来あがりつつあり、後は百済を取れば完成する。
唐軍も高句麗軍も、粛真ら周辺の小部族達を狩り出す方法にさほど変わりはない。
大軍で囲み「吾らと戦い今ここで滅ぶか、人質を差出して吾らの為に戦うか選べ」という選択をさせる。
契丹族のような大部族であれば唐の皇帝も李姓を賜り臣属させることもあるが、靺羯族は数十部族に別れていた為、李勤行、李多咋大酋長以外、小部族の酋長までは相手にもしなかった。その為、現地で小部族を伐り従えるのは将軍が唐の圧倒的な力で従わせるしかなかった。
契丹族李将軍
一方、大海人皇子は、武力だけでなくその小部族の酋長らを入朝させ一人一人に冠位を与えるなど木目細かい取り込み方をする。
戦局が進むにつれ、どれだけ周辺部族らを自軍に参軍させられるかの徴兵戦になっていたが、冠位や地位、物品の賜りなど和国皇太子弟という立場を使い懐柔策も用いながら進めるイリに比べ、唐軍を率いている将軍という立場だけの劉仁軌は、強行策しかないだけに常に圧倒的な戦力を維持するため侵攻の戦隊を割くことがてきなかった。
極地に進軍すればするほど唐軍は不利なことが多かったが、このときの日本海を渡る季節風は日本海を知らぬ唐軍に有利に吹いていた。
劉仁軌将軍は靺鞨族を徴兵すると日本海を渡る船を調達し水軍の編成作業にかかった。
【大海人皇子の無言交易】
明けて660年、
イリは、高句麗から配下の武将・乙将軍ら100人の将を来和させ対唐戦にそなえた和国兵の編成に当たらせた。
乙将軍は靺羯族出身の将軍である。
高句麗の中央部族らと違い、イリの手足となって軍備に動いているのは靺羯族系の者が多い。
和国へ高句麗の将軍が次々とやってくる度に、唐軍と和国の直接的な武力衝突を嫌がる斉明女王は気が気でなかった。
この頃、ついに
唐の高宗皇帝は蘇定方を大総官に任じて百済出征を命じた。
高宗皇帝
蘇定方将軍
蘇定方は、副将の劉仁願、行軍副総監の新羅王子金仁問らと共に軍義に入った。
副将軍の劉仁願は、高句麗に進攻している劉仁軌と名前は似てるが、全くの赤の他人であり、野心も人物もまるで違う。
劉仁願
『劉仁願』は、もともと東アジアの土着の者であり唐人ではない。腕力胆力ともに人並みに外れ、猛獣と素手で戦ったことがある豪の者で、それが太宗皇帝に魅いられて、太宗皇帝の高句麗遠征に取り立てられ功を成した。
現在も唐軍の将としてそのまま高宗皇帝に使えているが、在地のまま仕官し中央には仕えたことがない為に、高宗皇帝とは面識もない。
中央の者ではなく北東部の在郷の将軍だった為、そのまま中央には仕えず在地のままで東アジア方面の戦に参軍していた。
孫呉の兵法を学び老荘を知り文武両道を極めし、智勇兼備の将軍である。
劉仁軌
『劉仁軌』は蘇定方やソル・イングイと同様に則天皇后派の武将で、則天皇后が信頼を置いている老将だった。
貧しい出自であったが、学問を好み一本気な壮気が太宗皇帝に認められた。しかしその後、妬みによる讒言を受け左遷されてしまい陽の目を見ることがなかった。
後に、高宗皇帝の世になり皇后派に取り立てられ、この度の高句麗攻めに召喚された。
660年3月、
高句麗に攻め込でいる劉仁軌・薛仁貴(ソル・イングイ)の徴兵によって新たに編成された靺鞨族らの水軍は、冬の季節風に乗って佐渡島周辺まで侵入してきていた。
遼東側の靺鞨族の中には海賊行為を働く輩もいて、操船に長けた者が多くいた。
彼らは佐渡島との間にある渡島(弊賂弁島)に上陸し、島にいた蝦夷族を襲撃して追い払い陣地を構えた。(16世紀頃水没し現在は無い)
渡島には蝦夷族が多数いたが、この大軍の急襲に皆殺しにされそうになり本州にまで逃げこんできた。
調度、イリと阿部比羅夫は陸奥の蝦夷兵を率いて阿賀野川を渡っていたところで、下流の海岸に1000人ほどで宿営している彼らを見つけた。
彼らから靺鞨族水軍の襲来を聞いたイリは、まずはこちら側につかぬものかと靺羯族に懐柔の使者を送ってみた。
しかし、靺羯族は応じない。
仕方なくイリは、無言交易で懐柔を試みることにした。
高句麗の援軍に一人でも多くの兵を取り込みたいイリは、調度品や冠位など与えられるものは全て与えて一兵も損なうことなく自軍に参軍させたい。
無言交易とは言葉が通じない相手に対し、海岸に品物を置いておき、相手がそれを持ち帰り代わりの品物を置いておくという言葉を交わさない交易だ。
海のほとりに、絹、鉄、兵具など並べて置き暫く様子をうかがった。
すると、靺羯族の船団がやってきて老人が二人上陸し、布をひと切れ持ち帰った。
そして暫くしてまた戻ってきて、代わりの品物でなく、その布を返して去っていった。
交易は拒否である。
尚もイリは船を出して使者を送ったが、靺羯族は応じることはなかった。
彼らは、渡島の陣地に立て籠ったままイリに和平を請う使者をよこしてきた。
「私達は戦いたくないが、唐軍に妻子を人質にとられやむ得なく出兵した。戦いたくないからといって、そちら側と交わりを持てば妻子は皆殺しにされる。なんとか鉾を収めて貰えないだろうか。」
という内容が伝えられた。
彼らの悲痛な葛藤が伝わってくる。
イリにしても戦いたい訳ではない。
戦わず自軍に取り込みたいのだが、妻子を唐に人質にとられている以上それは不可能である。
かといって、唐軍側につき目の前まで侵攻してきている靺羯族をそのままにしておく訳にはゆかない。
直ぐに船団を組み蝦夷兵を率いて島へと渡った。
靺羯族は、劉仁軌に妻子を人質にとられ
「和国へ侵攻せよ」と厳命されていて、
結局は、戦うしかないのだ。
妻子が皆殺しにされてしまえば、子孫を残すことはできない。
子供を産む女性が赤子に至るまで皆殺しにされてしまえば、その部族は根絶やしになることを意味する。
たとえ男性が奴隷として生き残り、他部族の女性と子をなしたとしても、それは異民族との混血児でしかなく、先祖代々受け継いできたこの部族の子供が生まれるということはもう二度とない。
部族を大切に守ってきた彼らには、異民族との混血を避ける傾向があった。
ただ自分たちの純粋血統を守りたいというだけではない。
混血により縄文時代、遥か太古の昔より受けついできた神聖の力が失われていくことを畏れた。
逆に唐は、このような民族には徹底的に女性を根絶やしにするという母系廃絶による同化政策を行い、混血化による隷属を図った。
そうした意味で靺羯族らは望まない戦いに、部族の存亡をかけてイリと戦わなければならない運命だった。
強敵イリとの絶望的な戦いの末、靺羯族は敗れた。
唐軍の薛仁貴(ソル・イングイ)、劉仁軌らは帰還したが、当然、人質にされていた靺羯族の妻子は皆殺しにされ、この靺喝族は滅んでしまった。
乱世が北東アジア奥地にまで広がるにつれ、靺羯族や蝦夷族の小部族達は戦に駆り出され次々に犠牲になっていった。
日和見は許されず、どちらか勝つ方に味方しなければ、部族を存続させることが出来なかった。
皆ちりぢりになり、部族存続のために争いを避け
もっと北方のシベリアへと移動する部族、
あるいはアリューシャン列島を抜け、アラスカへと移動しその地でエスキモー(イヌイット)となった部族、
更に北東のグリーンランドや、南の温暖なアメリカ大陸部へ移動し、ネイティブアメリカン(ディネ)の祖となる部族もいた。
【大唐国皇帝軍 海東の征】
唐は、蘇定方、程名振、ソルイングイら名立たる将軍らに繰り返し高句麗を幾度となく攻めさせ、和国側にまで戦站を伸ばしてきていた。
唐の執拗な高句麗攻めにより戦果を上げてきている今、まさか、この流れで百済攻めがあるであろうとは誰もが思わなかった。
今迄、幾度となく唐が百済を攻めるという噂はあったが、実際に百済を攻めることはなく高句麗攻めを続けている。
しかし、
いよいよ新羅には、唐に要請した援兵について、百済討伐の派兵が決定したことが告げられた。
唐の使者の口上に、「ようやく滅亡を逃れた」と安堵するも
「俄かには信じられぬ」
という懸念を感じる者もいた。
誠に天の助けのような有難いことではあるが、唐が今まで百済を攻めたことはなく、高句麗と戦を続けてきた。
その唐が高句麗との戦をしながら、今になって百済を攻めるだろうか。
唐に使者としていっている武烈王金春秋の息子、金仁文を唐軍の行軍総督にし、百済のギボルポへ上陸するので、そこで新羅軍と合流すると言う。
新羅はそうした不安を払拭するかの様に、金ユシンを大将軍に復活させ新羅軍を率いらせ大号令を下す。
金ユシン
やや老いたとはいえ、金ユシンに並ぶ名将はいない。新羅軍は一丸となった。
唐も高宗皇帝の勅令の下、13万の兵を出征させた。
まず、
李勣大将軍がソル・イングイ将軍らと陸軍を率い、高句麗を牽制するために遼西へ出陣した。
李勣大将軍
ソル・イングイ将軍
6月になると、総大将の蘇定方が率いる2000隻の海軍が、菜州の山東半島より百済を目指して出航した。
蘇定方将軍
朝鮮半島が戦慄するほどの、アジア史上かつてない規模の大船団であった。
しかし、陸軍の李勣大将軍が進んでいた先は高句麗のある遼西方面であり、この大船団も百済を攻めると見せかけて高句麗を攻める作戦ではないかと一応は疑わねばならず、半島諸国の目はその航路の行方を注視していた。
どちらにしろ、朝鮮半島は史上かつてない程の極大な戦氣に包まれはじめている。
新羅軍は、5月に出陣した。
陸路からは、金ユシン率いる五万の新羅軍が炭硯峠と黄山平野より百済サビ城を目指した。
水軍は金法敏皇太子が100隻の軍艦で阿利水(漢江)を北上し黄海へ出て、唐の蘇定方将軍と合流することになっている百済のギポルポを目指した。
唐新羅軍の進撃の報が次々と百済朝廷に伝えられてきたが、百済のウィジャ王はこの注進を全く相手にせず、あろうことか攻撃に備えるべきであると進言したフンスとユンチュン将軍を逆に罷免した。
ケベク大将軍に対しても将軍の地位を剥奪してしまい、ウィジャ王は誰の耳もかさず相変わらずウンゴ姫と宴を続けていた。
入牢させられていたソンチュンも同様に獄中から百済防衛の備えを訴えた。
陸地は炭硯峠を、海はキボルポを死守することが百済防衛の要であると、新羅と唐の連合軍の侵略を防ぐ上奏を行ったが、尚もウィジャ王は相手にせず、
「私は死んでも国を忘れることはないでしょう」
と言葉を残し、
ソンチュンは獄中で憤死してしまった。
宮中では、ウィジャ王がウンゴ姫と共に宴に明け暮れて唐軍が攻めてくる事さえ気にも止めずにいる。
ウィジャ王は完全に籠絡されていた。
宮廷巫女は三日月は新羅で満ち勢い盛んであり、満月は百済で欠けていくものであるという宣託をウィジャ王に奏上し諫めようとしたが、これも無視して巫女を処刑してしまった。
別の巫女が、ウィジャ王を忖度して満月は百済全盛期の象徴で、三日月の新羅はまだ力が弱いという逆の意味を答えた為、ウィジャ王はそのことを祝いまた宴会を開いた。
ウィジャ王の周りに国を憂う忠臣はいなくなり、佞臣が蔓延っていた。
ウィジャ王は佞臣の言う
「陸路の炭硯峠は馬を並べることもできないほど道が狭く、水路でギポルポより白村江を遡上したとしても唐軍は流れに沿って操船することはできないはずです」
という意見を容れていた。
兵を温存する為にと、
陸路水路とも進ませ引きつけておき、
隘路に陥り、操船不能に陥ったところを急襲するつもりでいる。
佞臣らは、忠臣の進言に悉く反対し彼らを蹴落としたが、ウィジャ王を酒色で籠絡し油断させる為の工作に、既に国を売ってしまった者らもいた。
【神出鬼没の蘇定方将軍】
蘇定方率いる唐軍の大船団は偉容のままに海路を東に進み、高句麗沿岸に寄る沿岸航法を取らずに黄海のど真ん中を一直線に横断した。
新羅の金法敏率いる水軍は百済の牙山湾沖にある徳物島で是を出迎え合流し、唐新羅連合軍は百済のキボルポに着いた。
いよいよ百済攻めが現実のものとなり、朝鮮半島中に伝令が走った。
唐軍はここから白村江を遡上し内陸へ上陸し、サビ城へ進撃する。
しかし、折しも潮が引いていて水深が浅かった為、船で江に侵入するには満潮を待たなければならなかった。
唐軍の行軍副総監である金仁問は、
「ギポルポは葦と砂州が広がっていて上陸するには危険です。今は、潮が引いてる為に水深が浅く船では進めませんが、潮が満ちて水位が船の吃水線より上がるのを待ち、白村江を進み水路よりサビ城を目指すべきです。
ギホルポから上陸し陸路で進むのではかえって時間がかかってしまいます。」
と、陸路より水路で進むべきと進言をした。
しかし、蘇定方は聞く耳を持たず全く入れられなかった。
蘇定方将軍
副将劉仁願と董宝亮将軍らも
「砂州で足をとられてるところに百済に奇襲されては危険です」と、
金仁問行軍副総監に賛成していたが、蘇定方は尚も拒んだ。
ギポルポとは白村江の河口、川が海にそそがれる入江に広がる「潟」をギホルポといった。
砂州と言えばそうだが砂州と呼ぶこと自体、ギホルポの泥濘みを知らぬ者の表現である。
白村江の強い流れで押し流されてきた土砂が海岸線一帯に堆積し、泥でぬかるんだ広大な潟を形成していた。
潟は満潮時には水没し、潮が引くと現れる。
水深が浅くなるほどほのかに明るくて、汐時には何色とも形容し難い不思議な濃淡を見せる。
平野の様な海(浦)が広がるギホルポは、
どろどろにぬかるんでいる上、粘りがあり足をとられてしまうので容易に上陸することはできない。
通常の砂州と違い、白村江の急流が削りとった花崗岩質のマサ土を多く含んでいて粘り気が強い。
朝鮮半島は花崗岩で出来ていると云われるほどの特殊な環境下でしか無い様な光景だが、マサ土を含む砂は白濁しているため海面下に沈んでも海がうっすらと白みがかっているので、満潮時のギポルポは『白江』とも呼ばれた。
そして、陸地側に続く湿地帯には葦などの背高の植物が生い茂り、百済軍が気づかれずに兵を伏せることができる。
ギポルポは、攻め込むには全く上陸に適さない場所である。
海であって海でなく、
平野のようで平野でもなく、
牙山湾でもなく、白村江でもない。
まるで海と大地の間を被う防護膜のように、ぬかるんだ泥が辺り一帯に広がっていた。
百済軍を向かえ討つ百済軍の総大将は孝徳皇子だった。
難波王朝時代は、気品と血筋だけでウィジャ王の跡を継ぎ和国王に就いたが、戦の経験がさほどある訳ではない。
軍を率いてる鬼室福信将軍は、
「ギホルポから上陸すれば唐軍は砂州に足をとられ思うままに進めず行軍は止まるはず。ぬかるみにはまっているところを叩けば勝算はあります。」と、
孝徳皇子に提言していた。
両軍共に、「上陸は足をとられ行軍は思うままにならない」
という見解は一致していた。
潮が満ちるまで刻を待って、白村江を遡上するのが正攻法である。
しかし、唐軍総大将の蘇定方は上陸を選んだ。
ギホルポでの上陸は、蘇定方が焦るあまり砂州にはまる愚かな失敗をしたと誰もが思っていた。
ウィジャ王を始め百済の武将らも、蘇定方が白村江の上流へ行かずギホルポの砂州から上陸したと聞き、
「他国の者だけあって地の利を知らぬわ」と、
たかをくくっていた。
「焦って引き潮の潟に上陸しても、ぬかるんで進軍などままならんぞ。」
蘇定方とは兵法を知らぬ猪武者だろうと侮った。
「進撃してくるには三日はかかるだろう。」
という読みを前提に、百済軍は軍備することにしていた。
しかし、蘇定方はアジア天下に名が知られた電光石火を得意とする名将である。
その様に百済を油断させる為に、あえて砂州に上陸したのだ。
蘇定方は上陸すると近隣の民を総動員し、葦と藁を刈る様に命じ、砂州の上にむしろを引きながら駆け足で進軍させた。
「兵は神速を尊ぶ、これぞ兵法の妙なり!油断している敵に目にものを見せてやれ!駆ければこの戦さは勝ちだ!」
上陸するなり、蘇定方は唐の高宗皇帝の詔書を読み上げ、百済へ宣戦布告をした。
この戦は、唐と百済の戦いで
「新羅軍は援軍である」と宣言した様なものである。
この行為に新羅軍は激怒した。
軍を率いてる金法敏は、是を聞くと
「唐軍が我らの援軍ではないのか!我らが唐軍と百済の戦さの援軍だと言うならば兵を引く!」
と、露骨に声を荒げた。
そして唐軍は、葦を刈り取り、ぬかるみにはむしろを引いたギホルポ砂州を難なく抜け出して百済軍の背後に回ってしまった。
当に、蘇定方将軍が得意とする電光石火の進軍だった。
蘇定方将軍
蘇定方は今ままでも不可能をくつがえす進撃の速さで、アジア大陸の周辺諸国を切りしたがえてきた。
前年のパミール征伐では、一夜で三百里(130キロ)を行軍し驚かせたことがあるほど、神出鬼没の戦を得意としていた。
負け知らずの神速の将軍を目の当たりにし、両軍共に度胆を抜かれることになる。
蘇定方将軍は、戦準備もせず百済軍が油断しているところへいきなり背後から襲い掛かり、鬼室福信将軍と孝徳皇子の率いる百済軍はあっという間に撃破されてしまった。
壊滅状態になった百済軍は敗残兵をまとめたが、孝徳皇子は兵を率いて唐軍へ立ち向かうことはせず、ギポルボへ行き、
「唐軍に動員された民は裏切り者である」として、
鬼室福信らの制止も聞かず、孝徳皇子は村人を皆殺しにしてしまう。
そして、カリム城に逃げこんでしまった。
唐軍は、カリム城に立には金仁問らを抑えとして置き、
そのまま行軍を止めず、こっそりサビ城へ方面へと進撃していった。