和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦661年
唐軍は35万の兵を組織して高句麗へと出兵する。高句麗は陸路、海路、百済の唐軍と合わせて三路より攻め込まれながら新羅とも戦わなけれければならない状況となっていた。イリと金ユシンは親唐派の王を除き兵を動かしたが、和国からの出兵は唐の知るところとなり人質となっていた高向玄里は殺されてしまった。

第1話 那珂大兄皇子の百済 那珂津宮
第2話 金一族の王 イリの血を引く金法敏
第3話 和国斉明女王 新羅武烈王没す
第4話 天明の鬼 高向玄里の死 



第17章 新羅武烈王 和国斉明女王 高向玄里の死

【那珂大兄皇子の百済 那珂津宮】

 

百済陥落後、

 

和国に亡命してきた百済人たちを那珂大兄皇子は全て受け入れていた。多くは那珂大兄皇子の庇護の下、和国の百済村に(大阪)に住んだ。

 

この様な亡命百済人集落は、朝鮮半島や大陸にもいくつかあり、「小百済」といわれ、百済再興のための復興拠点となっていた。

 

2年後の663年の白村江大戦の後には、また大勢の百済人が亡命してきて、その時の和国政府は三人に一人が、百済人という状態になった。

 

百済人達は、700年続いた百済を滅ぼされ、唐よりも隣国新羅を激しく憎んでいた為、和国の地にもその怨恨の根を持ち込んでいた。

 

この時代までの新羅は「シルラ」と読まれていたが、そうとは呼ばずに「シラギ」と呼ぶようになり、亡命百済人達の怨みを込めた独特の訓みが和国に誕生した。

 

シラギ(=シルラの奴らという意味)

千載の恨事というより、

 

1000年を越えても尚、カルマ化すると思われるほどの深い怨が、和国の地に根付いていった。

 

 

661年1月、

 

那珂大兄皇子と斉明女王らは伊予の熟田津にいき、その後、百済の鬼室福信らと会盟する為に、百済の任那の津(那大津)へと向かった。(韓国金海市付近)

 

那珂大兄皇子らは任那の津に着くと、那大津と呼ばれていた港の名前に、自らの名をつけて

 

「那珂津」と改名し、宮を建てた。

 

 

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那珂大兄皇子

 

和国から百済への援軍を送る際の上陸地であり、拠点となる宮である。

 

和国へ逃げてきた亡命百済人達にかしづかれ、那珂大兄皇子の心中は、もはや百済の王になったつもりであり、ここから号令し唐軍から百済を取り戻すつもりでいる。

 

唐軍は、首都サビ城や北漢山城(ソウル)なと主要な城を落とし王朝と政庁を破壊したものの、鬼室福信や僧ドウタンら百済の反唐軍らの反撃で他の城を奪還された上、主力は閉じ込められてしまっているので、南端のここ那珂津までは力が及ばず、百済反唐軍の復興拠点になっている。

 

唐軍と戦っていた百済各地の反唐軍も、次第に鬼室福信将軍が反唐軍を組織していた周留城にまで軍を率いていき合流し唐軍に備えていた。

 

 

鬼室福信や僧ドウタンら百済の反唐軍は、和国王室の百済来訪を喜んで迎え入れ、一行は入江を望む迎賓館へと案内された。

 

イリはこの時は、和国皇太子弟・大海人皇子として和国王室と共にやってきていた。

 

和国皇太子弟を名乗り和国の朝威をかり、高句麗宰相の権威を振るい、

 

唐との決戦を前にした今、イリの東奔西走は、常人には及ばないほどの機動力で、高句麗和国、新羅百済、天下狭しと動き続けている。

 

大海人皇子イリは、

 

「唐がこれほど東斬してきてるのに、高句麗も和国も新羅もあるか!

 

もとより吾は高句麗人でも和国人でもない、

 

今、

 

和韓同士で争えば唐に利するだけだというのに、

 

王族ばらは争いの種ばかりまく!親唐の王など、許すものか、」と、

 

息は荒い。

 

この時代まで、イリほどに日本海の制海権を極めた海の漢はいなかっただろう。

 

大陸側の史上かつてないほどの覇権の膨張と、東アジア側でその張力に対抗するが如く、海を跨ぎ和国をも捲き込む英雄が初めて日本海に出現したのだ。

 

 

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200隻の軍船を余すことなく使い、日本列島の龍の背中をはう様に筑紫、難波、丹後、越、陸奥にまで、イリの手下と高句麗から呼び寄せた将校を配し、決戦に備えさせていた。

 

海を知らぬ王族、那珂大兄皇子などはなすがままであった。

 

那珂大兄皇子にとっては、対馬海峡を渡った百済のこの那珂津だけが故郷の海であり、王統の正統性を顕す重要な再上陸拠点である。

 

20年前、百済を追われ島流しになった時も、ここから母斉明女王や妹の間人や額田文姫と共に出帆した。

 

斉明女王も、百済への回帰を望まない訳ではなく、百済には父・上宮法王を弔い五重の塔を建立していて、久しぶりの百済に込み上げてくる思いもある。

 

百済の鬼室福信ら百済の反唐軍は、ともかく元百済武王妃であった斉明女王に援軍派兵をして貰うまでは何事も要求は受けるつもりだった。

 

しかし、那珂大兄皇子を百済王に立てることだけは紛糾し意見が割れてしまった。

 

和国の大海人皇子も、百済の僧ドウタンも、那珂大兄皇子が百済王になることを全力で拒んだ。

 

 

ドウタンは出家し僧籍にあるが、王族に繋がり今はウィジャ王派の急先鋒で影響力は強い。

 

そのドウタンが、

 

「親唐派の武王の王子の下では百済復興軍は戦えない」

 

「サビ城陥落の時でさえ、武王の王子たちは戦わずに唐軍へと投降したのだ!

百済復興軍の旗頭に親唐派武王の王子那珂大兄皇子では、誰が命がけで戦えと言えるのだ。」

 

と、声高に主張してウィジャ王の王子豊章を強く推し、

 

大海人皇子イリも、那珂大兄皇子が王になることに不詳であり豊章を推したため、斉明女王もそれを遮れなかった。

 

結局、

 

那珂大兄皇子を百済王に推す者は鬼室福信だけになってしまった。

 

 

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鬼室福信

 

鬼室福信は、納得がいかない、

 

「豐章など、和国から援軍を出させる為の道具でしかない。今は、やつらの言うことを聞き入れてやるが、何れ豐章もドウタンも此の手で取り除いてやる」と、

 

周囲に漏らしていた。

 

王よりも、今は百済の首都サビ城を唐軍より奪還し、唐軍を駆逐する為の援軍を和国から送って貰うことの方が、先決である。

 

ともかく、

 

援軍を請い、派兵を取りつける為には斉明側の要求は飲まなければならない。

 

 

斉明女王は、百済への援軍や百済王を送り出すことだけではなく、反唐派とは全く別の目的を持ってこの会盟に臨んでいた。

 

斉明女王は、大海人皇子イリや那珂大兄皇子ら反唐派に担がれていたが、愛する高向玄里の為に遣唐使まで送り唐へ帰順する態度を見せた程であり、なんとしても和国を反唐には巻きこませたくはないと思っていた。

 

唐との戦を望まない斉明女王が何故、百済まで上陸したかというと、和国に逃げてきていたペルシアの王族ペーローズ達の為である。

 

 

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斉明女王

 

「唐に反旗を翻す和国に居ては、今後は唐に加護を求められなくなってしまうだろう。百済が唐国となった以上、なんとか唐軍の中へ亡命させて欲しい。」

 

との、要望に応え

 

ペルシアの王族らを百済の唐軍の中へ逃がすために、女王自ら百済に渡ったのだ。

 

先年は、近江から新羅経由で唐へ送り出そうとし叶わなかったが、今や百済が「唐国」である。

 

百済へ援軍派兵する前に、ペルシア王家の血もひく女王としてこれだけは何としても先に通したかった。

 

百済の鬼室福信・僧ドウタンらはこの要請に応え、半ば引き渡しの様にペルシア王族らが唐軍に亡命するのを容認した。

 

東アジア諸国にとって、唐が西アジアのアラブと構える事で戦力を西に分散させることになれば、この上ない。

 

今、呼応して西アジア側で唐に対して挙兵する国はなく、唐の注意を西に向けさせる為には、ペルシアとアラブの火種を使うしかなかった。

 

奇しくもこの年、強大な版図を広げたアラブはウマイヤ王朝が興りイスラム帝国を確立していた。

 

これに対しいよいよ唐は、ペーローズ王子の再三の要請に応えてペルシア都督府を置いて、亡命してきたペーローズ王子をペルシア都督としてアラブに備えた。

 

斉明女王は、派兵の請願を受け百済での会盟を終えると、那珂大兄皇子らを残してそのまま和国の朝倉宮(福岡県)へと戻った。

 

この会盟の後、百済反唐軍は唐軍の劉仁願らが守るサビ城へと進撃していく。

 

 

 

ある晩、

 

大海人皇子イリは真っ暗な忍び装束に身を包み、一人何処へと行き那珂津から姿を消した。

 

 

 

【金一族の王とイリの血を引く金法敏】

 

高句麗軍は百済へ侵攻して、北の要衝である北漢山城(韓国ソウル市)を攻めていた。

 

これは、百済サビ城の唐軍を攻める百済反唐軍の後方支援の為の出兵であり、唐軍の注意を北漢山城に引き付ける事を目的としていた。

 

一方、唐は新羅に対し北漢山城を死守する様に指示したがこの時、金ユシン将軍は「病気」と称して屋敷に引きこもっていた。

 

金春秋こと武烈王は金ユシンに「カーン」(大酋長)の称号を与えるなどしてなんとか出征させようとしたが、金ユシンは頑なに固辞し動こうとしたかった為、仕方なく自らが援軍を率いてき、高句麗軍と対峙した。

 

高句麗軍は、サビ城攻めの百済反唐軍に呼応して、唐軍を国境地域に向ける為の出兵であり、新羅兵の援軍が来るとろくに戦いもせずに引き返していった。

 

高句麗軍はイリと金ユシンの密約により新羅とは極力戦わない。

 

しかし、高句麗と手を組み唐と戦おうとする金ユシンとは逆に唐軍に味方し高句麗と戦おうとする金春秋とは対立し、この時は一触即発の状態にまでなっていた。

 

以前、ウィジャ王が和国と百済を領有し勢い盛んだった頃、ウィジャ王からイリを離す為に法敏を新羅皇太子にすることで裏からイリの味方を得て、高句麗は新羅とは積極的に戦わないという密約を交わしたこともあった。

 

今となっては、ウィジャ王も亡くなり百済も無く、

今更イリに忖択し高句麗と結ぶ必要など金春秋には全くない。

 

金春秋こと武烈王は、唐に宿衛し高宗皇帝に仕えている金仁問を皇太子にしたいと、唐に願い出て、皇太子の金法敏を廃嫡しようとしていた。

 

そしてこの戦の後、金春秋は大元神統のチソ姫を娶った。

 

伝国の宝ともいえる聖なる血統聖母を娶ることは、新羅の正式な支配者の証である。

 

金春秋は唐軍の力を背景に、着々と地位固めをしようとしていたが、目先の事にとらわれていて不都合な真実からは目を背けていた。唐が高句麗を滅ぼせば必ず新羅を吸収し、その後で王位が今までどおり存在しているかなど認めようともしない。

 

今のままでは、新羅は唐の属領になるのも時間の問題であり、金ユシンとイリは、金春秋をいつ取り除くかという密議を初めた。

 

新羅金一族の里にイリは一人で乗り込んできていた。 身軽に忍び装束を着たまま、用あらば相変わらず遠慮なく何処へでも行く。

 

一国の宰相におさまる様な器ではないし、宮殿でかしづかれて政務をとっていれば良いという時代でもなかった。風雲急を告げる高句麗攻めを前に、かつて自分が育ってきた故郷、和国、新羅を天下狭しと往き来していた。

 

金ユシンと、イリの息子金法敏が密かにイリを迎えた。

 

 

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イリの実子 金法敏

 

「、、唐軍は平壌まで攻めてこよう。先の百済攻めの時のように黄海を一気に横断し平壌へ至る航路を取るはずだ。予め民は避難させ、焦土作戦で平壌の周りは全て焼き払い、唐軍が食糧を調達出来ぬ様にし、硬く城を守り唐軍の食糧が尽るまで粘るしなかない。

 

陸路からの唐軍に対しては息子のヨン・ナムセンに三万の兵を率いさせアムノッカンで守らせる。

 

唯一、気がかりは百済側からの食糧補給の援軍。

 

是をなんとしても食い止めねば、唐軍を兵糧攻めにする前に、こちらが兵糧攻めに合ってしまう。

兄貴、何かいい方策はないか、、?」

 

 

イリは、首都平壌での決戦は避けられぬと覚悟を決めていた。

 

 

「武烈王金春秋にな、新羅兵に百済の服を着させて百済の反唐軍になりすまして、唐軍を攻めてはどうかと懸案したが容れられなかった。

 

金春秋は、唐の力が弱まれば自分の王位は失われると思っているのだ。

 

 

実際はその逆で、唐が今、新羅を制圧しないでいるのは、百済反唐軍や高句麗が強くあるからだ。高句麗が強国であるが故に、新羅は同盟国でいられるのだ。蘇定方の後に乗り込んできた王文度などは、既に新羅を百済と同様に敗戦国として扱ってきた。百済の様に唐の政庁府を新羅に置くつもりでやってきたのだ。

 

最もその詔勅を読み上げる前に殺してやったがな、、

 

同盟国でなく唐に成敗された敗戦国として扱われても、金春秋は全く唐に対して叛心を持たない。

 

怖いのだろう、金春秋は

 

もはや、、唐の犬に成り下がり、王の器ではない。

 

新羅が唐国の属領になったら新羅郡の郡主にでもして貰うつもりかもしれないが、猟犬は事が済めば煮られるだけだということが分かっていない。

 

今はもう金春秋を取り除かない限り、新羅兵は動かしようがないのだ、、兵さえ動かせば、サビ城にいる劉仁願などこの金ユシンの敵ではない。唐軍への兵糧支援など必ず阻んでやる。」

 

金ユシンが、武烈王金春秋を取り除こうとするのは、金一族の王の血を引く金法敏を、王位につけたいというだけではない。

 

唐が百済を滅ぼし、高句麗を滅ぼした後、もっとも小国であった新羅を襲い、吸収するのは目にみえている。

 

新羅はまだ唐と戦う体制など整っておらず、高句麗が滅んでしまっては手遅れであり、座して死を待よりは今、金春秋を取り除き、高句麗に味方するしかない。

 

まず武烈王金春秋を誘き出す為に、再び高句麗から北漢山城を攻めることになった。

 

「北漢山城は捨て置くことはできない城だ。攻められば必ず金春秋は、王宮を出るだろう。王宮の外にさえ誘きだせればどうにでも暗殺できる。もしも出なければ出るまで攻め続けてくれぬか、、

 

金春秋さえ除けば直ぐに金法敏を即位させ唐に冊方を願い出る。少しでも間を開ければ唐の奴ら、宿衛している金仁問を冊立してこないとも限らないからな、、」

金ユシンの言うことにイリは大きく頷く、

 

頷きながら、

 

(遂に吾が子が新羅の王となるか、)

 

と、時が来たことを噛みしめていた。そして、

 

百済が唐に完全に制圧される前に、高句麗、新羅、和国で唐を駆逐するには、時間の流れとの勝負になるであろうと、イリは更に力をこめ覚悟を決めた。

 

「ならば、金春秋が死して金法敏が立つまで高句麗から北漢山城を攻め続けよう、」

 

「頼むぞ、、」

と、

 

傍らにいた息子金法敏の目を擬っとみて一言だけいいはなった。

 

 

金法敏は、目に力を込め応える、

 

「イェ!」と勢いよく右手拳を振り、胸に置いた。

 

 

 

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イリ実子 金法敏

 

 

 

そして、

 

イリはおもむろに差していた剣を鞘ごと引き上げ、その環頭太刀の柄をカチンと、

 

金ユシンの剣柄に当てると、足早に立ち去った。

 

陽も落ちた道を一人足早やに行く。

 

遁こう術(忍術)を極めた、イリの神足法は常人のものではなく、気配を感じた異様な一団がイリの後を追った。

 

「何やつ!」と、声を発するやいなや

 

一団の中の手練れの者が抜刀し、イリに襲いかかった。

 

イリは担いでいた槍の柄でこれを受け、蒼然と咬んだ刃が鳴いた。それが合図であるかの様に一団は散開し、イリを輪になって囲み抜刀した。

 

しかし、次の刹那、

 

最初に斬りかかった者は倒れ、取り囲んでいた連中も槍の餌食となった。

 

恐らくは、金春秋が金ユシンを見張らせていた集団と思われる。

 

イリは何事もなかったかの様に、再び足早に歩き出した。

 

そして、和国の斉明女王のもとへ援軍派兵を促しに再び日本海を渡った。

 

 

 

【和国斉明女王 新羅武烈王没す】

唐は高句麗攻めの為に、河南北淮南の六十七州兵から4万4千人を新たに徴兵して、ペルシア人の傭兵と合わせ総勢35万の軍を組織していた。

 

徴兵に必死なのは唐もイリも同じである。より多くの兵を集めた方が勝利する。

 

一挙に高句麗を滅ぼすのは今と高宗皇帝も

 

「朕は後軍を率い、続いて発つ」と、

 

自ら出征し親征にしようとしたが、武皇后や群臣に反対され、思い留まった。

 

 

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高宗皇帝

 

蘇定方が総大将となり水軍を率い海路より平壌へ向かい、

 

陸軍は、突厥族から帰順してきた鉄勒王子(契必何力将軍)を大将とし遼東に向かい、

 

水陸合わせての35万の高句麗遠征軍が出征した。

 

 

百済サビ城で包囲されてしまっている劉仁願を救援する劉仁軌は、水軍で七千を率いて翌3月に出航した。

 

 

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前の高句麗攻めでは、食糧を運んでいた船を誤って沈めてしまい罰を受けたばかりであり、劉仁軌は恥を漱がんと白衣を着て従軍していた。

 

 

 

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劉仁軌将軍

 

 

「吾は東夷を掃平し、大唐の正朔を海表へ頒布する!」

 

劉仁軌の士気は高く、上陸した唐軍の兵士らは厳整に戦い、サビ城へ進撃しながら当たる敵は全て下していった。

 

百済反唐軍は、熊津江口に二つの柵を設け待ち構えていたが、劉仁軌は新羅の兵らと合流しこれを撃破する。

 

 

百済側は1万余人が戦死し、僧ドウタンはサビ城の包囲を解いて任存城にまで退いた為、劉仁軌らは堂々とサビ城へ入城し兵を休めた。

 

 

 

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また新羅からは、サビ城で包囲されている唐軍を救援する為、豆良伊城まで品日将軍が兵を率いていたが、どうしても是を突破することができず食糧が尽きて撤退した。

 

新羅の金欽将軍も唐軍への援軍を率いたが、古泗にて鬼室福信将軍に撃退され、新羅へ逃げ帰った。

 

この戦いの後、僧ドウタンは「領軍将軍」を自称し、

鬼室福信は「霜岑将軍」と自称し、百済反唐軍を二分する勢力となっていた。

 

百済王を誰にするかで二人は対立したが、今でも鬼室福信は、武王の子那珂大兄皇子の百済王を諦めておらず、ドウタンを除く機会を伺っていた。そして自分が軍の兵権を全て掌握するためには、

 

「今やらねば、ドウタンの勢力は抑えがたくなる」と、

 

軍議中にドウタンを騙し討ちにし、とうとう殺してしまった。

 

 

4月、

 

唐で囚われの身となっていた和国遣唐使の津守らが、耽羅(済州島)へ寄港しタムラ王子を伴い帰国(阿波伎王子)してきた。

 

斉明女王は、筑紫の朝倉の宮にいたが、遣唐使の帰国を喜んで迎えた。

 

 

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唐が百済を滅ぼした後、高宗皇帝の恩赦があり東征中は、長安で拘留されていた和国遣唐使達も帰国を赦されて博徳や中臣鎌足らも帰国を許されたが、高向玄里だけは解放されず囚われのままだった。

 

唐にとっては高向玄里は、ただの遣唐使ではない。

 

かつて唐の極東工作を担っていた工作員であり、唐が擁立した高句麗の栄留王を失って親唐工作が失敗したことは大罪に値し、尚かつ長孫無忌についていた人物とくれば要注意人物である。

 

遣唐使津守が調べたところでは、屋根裏部屋の様なところに監禁され囚人の様な生活を送っていたという。

 

斉明女王は、高宗皇帝の恩赦でも許さされず高向玄里だけが帰国しないということに号泣し、酷く落胆した。

 

落胆すると共に、

 

「高向がまだ唐に囚われている以上、和国から反唐の兵を送ることは出来ぬ」と、

 

頑なに百済への派兵を拒みだした。

 

大国唐の強大さを目の当たりにしてきた遣唐使から話しを聞けば尚のことである。

 

 

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唐の都には訪れる者らを威圧し、

 

「逆らうは愚か」と、

 

萎縮させるだけの圧倒的な力があり、すぐさま親唐とは転じなくとも反唐を貫き通す気は怯む。

 

斉明女王とて和国の者の様に大陸を知らぬ訳ではないが、遣唐使の口から唐が如何に強大かを聞けば聞くほど、唐と戦うことの無謀さを悟る。

 

 

百済の那珂津で、和国からの援軍を心待ちにしていた那珂大兄皇子は、援軍が来ないことに苛立っていた。

 

今になって母・斉明女王が和国の参軍を阻んでくるのが許せず、剣を抜き空を切り裂く様に振り回し、怒りの声を上げた。

 

鬼室福信は那珂大兄皇子を宥め、

 

「那珂大兄皇子さまの百済王に反対する僧ドウタンは既に除き、今や百済反唐軍は掌握しました。

後は、和国側だけです。私がもう一度、和国の斉明女王のもとへいき、援軍と共に要請してきます」

 

と、意気込み

 

再び対馬海峡を渡って、和国の朝倉の宮にいる斉明女王のもとへ向かっていった。

 

筑紫の野に(福岡)上陸すると、既に駐屯している援兵らが見受けられた。

 

兵達はただたむろしているだけで、出兵する気配は全く無く、戦備えもしていない。

 

鬼室福信は筑紫平野から、山間部へと登り朝倉の宮の斉明女王に拝謁した。

 

 

 

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鬼室福信将軍

 

 

「斉明女王様、唐軍は劉仁軌将軍を百済へ送りこんできて、サビ城の包囲は破られ劉仁軌に入城されてしまいました。どうか一刻も早く和国軍派兵を賜わりますよう今一度お願い申し上げます。」

 

「そして、百済那珂津にいらっしゃる女王様の御子那珂津大兄皇子様を百済王に戴きたくお願い申し上げます。」

 

鬼室福信が言葉を終えるやいなや、大海人皇子イリは叫ぶ、

 

「ドウタンは!何と申している!!」

 

イリの大喝に宮中は固まるが、鬼室福信は取りも乱さず

 

「ドウタンは亡くなりました。」

 

しれと、言い捨てる。

 

「何故だ!」

 

 

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鬼室福信が殺したという情報は、既にイリの間諜により伝えられているが、敢えて問う

 

、、

 

「サビ城の包囲を破られ一万の兵を失った責により誅せられました。」

 

鬼室福信は「自分が討った」とは言わない、

 

イリの出方を探りつつ答える。

 

 

「誅したとな、、、百済にはその様な王命を降せる王が既にいるのか?!

その様な王がいながらにして、和国に王を請いにきたかというのか、!!」

 

、、

 

「失言、失礼をいたしました。この私の一存で討ちました。」

 

鬼室福信は、顔色を変えつつ

 

(もはや隠しだては不都合か、、)

 

と直り本当の事を言った。

 

 

「ボラ!!」

 

 

イリは叫び、ドンッと床板を踏みつけ、異様な殺気を放った。一瞬で目が重く座った人殺しの目に変わり、先ほど大喝したイリとは全くの別人の様になっている。

 

さすがに鬼室福信も狼狽し始めた。

 

「一存でドウタン将軍を殺めたとな、、

 

今ここで吾も一存で殺してやろうか、、」

、、鬼室福信は戦慄する。

 

「これから唐軍と戦うというのに、ただ一度の敗戦の責で将軍を殺めるとは何という愚か。その様に危険なところに和国皇太子の那珂大兄皇子を送れるはずがないだろう!」

、、鬼室福信は返す言葉がなかった。

 

実際のところドウタンさえ除けば、那珂大兄皇子は斉明女王の実子であり無下にはされぬであろうとたかをくくっていた為、このようになるとは思いもよらなかった。

 

「那珂大兄皇子の和国皇太子を廃嫡し、百済王に就かせたいと百済側の意向は分かったがな、、」

 

「そ、そこまで申し上げては御座いません。」

 

鬼室福信は更に慌てる。

 

 

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「ならば和国王室はなんとする!那珂大兄皇子を両国の王にして和国と百済を併呑するとでも言うのか!敗軍の将軍の身でそこまで言うか!わきまえよ!!」

 

「申し訳御座いませぬ」

 

平身低頭し、すっかり恐縮している鬼室福信に斉明女王がさらに畳み掛ける

 

「和国から援軍は送れぬ」と。

 

 

鬼室福信はほうほうのていで百済へ追い返されていった。

 

大海人皇子イリは、

 

「目先の権しか見えぬ高飛車な猪武者よ」と、

 

鼻先で笑っていた。

 

那珂大兄皇子は、百済の那珂津で詔勅と援軍を心待ちにしていたが、鬼室福信より斉明女王が援軍を出さぬ事を聞くといっそう苛立ち、自ら和国へ催促にいくことにした。

 

和国の大海人皇子も苛立ちは同じであり、援軍をなんとしても出そうとしない斉明女王に更に強腰で詰め寄っていた。

 

しかし、どれほど恫喝されようが斉明女王が応えることはなかった。

 

「今、和国が唐と戦えば、唐で囚われているそなたの父・高向玄里は間違いなく殺されるでしょう、、それでも構わぬというのですか、、」

 

と、涙ながらに斉明女王はイリに討ったえる。

 

「風雲急は存じておろう、今一斉に和韓全てが蜂起しなければどうして唐の侵略を打ち払おう。遣唐使一人に構ってはおられぬ!」

 

闘神の如く気焔を吐くイリの言葉の前では、斉明女王の言葉は吹き消されてしまう。

 

「なんと、、貴方の父ではないか!その様に言ってはならぬ。」

 

斉明女王は全く意に介さないイリに力を込めて言い返す。

「遣唐使が海の藻屑ともならず、今唐で生きているというならばそれで良いであろう、、遣唐使は遣唐使だ。父と思ったことなどない、、」

 

「ならばハワ(母)さま、15年前に問うたことを今一度問う。高向玄里とは本当に吾の父か!吾は血統など無縁!天涯の孤独しか感じないのは何故だ!?貴女は本当に吾の母ではないのか!?」

 

 

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、、、

 

斉明女王は押し黙っていた。

 

「答えぬ気か!あの世にまで持っていく秘密でもあるのか?だが、和国の援軍はなんとしても派兵する。これ以上拒めば、望みどおりあの世まで秘密を持っていくことになるしかない。」

 

 

斉明女王も、和国からの派兵を拒み続けることなど出来ぬことは充分 分かっていた。

 

高句麗は、陸路から遼東へ、海路から平壌、南の百済からと合わせて三路からの唐軍の侵攻が迫りつつあり、新羅とも戦わなければならない状況にある。

 

肅慎や和国の援軍がない限り高句麗は孤立無援であり、今高句麗が滅べば東アジアの地は唐の領土となってしまうだろう。

 

大海人皇子イリや那珂大兄皇子にとって、唐軍と百済や高句麗の戦いは対岸の火事ではなく、一人でも多く和国から援軍を送らねば、唐軍35万の前に敵うはずもない。

 

斉明女王はそのように和国からの派兵は避けられぬものと分かりながらも、それでも高向玄里がまだ唐で囚われていると知った以上、命がけで是を拒んでいた。

 

和国からの出兵により、唐が和国遣唐使の人質である高向玄里を生かしておくなどあり得ない。

 

必ず処刑するだろう。

 

イリは、何度か脅迫めいた説得をし、派兵を強引に試みたが斉明女王の意志は固く、イリの大喝や刃の前にも怯むことなく命がけで派兵を阻止した。

 

斉明女王でさえ、必ず死ぬという必死の覚悟がなければイリの強勢を阻むことなどできない。

 

どうせ避けられぬ運命ならば、

 

「お伴を」と、

 

斉明女王は共に旅立つ気である。

 

 

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死に向かう義母の覚悟をしっかりと受け取ったイリは、

 

「これ以上は和国兵の出兵を遅らせる訳にはゆかぬ。」

 

と、躊躇うことなくそれに応えた。

 

大海人皇子イリは、毒を使った。

 

斉明天皇の身近にいる女性にトリカブトの毒を使わせた。そして、阿部比羅夫らにその後の出兵を命じると、イリは大急ぎで高句麗へと戻っていった。

 

(これで唐軍の三路からの出兵に対する布陣は整った、、)

 

かつて幼き頃は

 

「ハワ(母)さま」と呼び慕っていた、

 

義母の斉明女王を殺める心の痛みは、迫りくる風雲に臨む決死の覚悟の前に掻き消されていった。

 

イリとて今、非常の手段で必死に戦いぬかなければ明日を生きる事さえ分からぬ程の戦雲の中にいた。

 

唐軍三路、

 

陸路から来る鉄勒王子率いる唐軍へは息子ヨン・ナムセンに鴨緑江(アムノッカン)で迎え撃たせ、

 

百済から来る劉仁軌・劉仁顔の唐軍は、和国兵と百済反唐軍で阻み、

 

そして、海路より首都平壌に攻めて来る蘇定方は、イリ自身が平壌で迎え討ち、此れをなんとしても撃退するつもりだった。

 

残る新羅軍に対しては、金ユシンらが武烈王金春秋を除き息子金法敏が即位し、金ユシンが兵権を握れば押さえとなる。

 

イリはここが生死興亡の境目と必死に奔走していた。

 

新羅、高句麗、和国、百済と巡ったこの時の動きは功を奏し、この後の戦局に影響していった。

 

イリはほとんど高句麗に留まることは出来ず、病気と称して、鴨緑江(アムノッカン)へ配置した息子ヨンナムセンには大臣の地位を与え後継者として、その地位を内外に喧伝していた。

 

 

 

 

斉明女王は、朝倉の宮で倒れて寝たきりになってしまい、日に日に衰弱していった。

 

朝倉の宮で、斉明女王の宮を建てるときに神木を切って造ったため、これはその祟りであると風説が流布された。

 

その様な状態になっても尚、斉明女王は和国からの派兵を拒んでいた。

 

推古女王が、最期の最後で蘇我馬子を拒んだように、人の縁とは命の尽きる瞬間まで分からないものである。

 

斉明女王にとって高向玄里は最初の夫であり、初めて高句麗で出会ってから和国へ渡った頃までに三人の子を産んでいる。

 

その後、武王との婚姻で百済王室に入ると、子供らは臣籍降下し和国に留まり別れた。(坂上、阿部、蔵内) 

 

しかし、高向玄里とは繋がりは切れず、まるで前世からの因縁でもあるかの様に、斉明女王は高向玄里との繋がりを大切にしていた。貴種や王族であるが故に、愛するものと契りを結ぶことは生涯許されるものではないが、斉明女王の人生で唯一、王族としてではなく一人の女性として心を繋いだ相手が高向玄里だったのだろう。

 

命がけで、高向玄里を守ろうとしていた。

 

だが斉明女王の命がけの抵抗も虚く、既に和国の大勢は唐国の知るところであった。

 

 

百済に居た那珂大兄皇子らは、和国の援軍が来ないことに危惧しこの時は派兵の為に和国に戻っていた。

 

母斉明女王は命の尽きることを悟ると、那珂大兄皇子と間人皇女を忌の際に呼び、

 

「私の亡き後、百済寺(奈良県大安寺)のことを頼みます。あの世で武王に合わせる顔がない、、」

 

と遺言して瞑目した。

 

上宮法王の娘で、突厥の王女として西アジアに生まれ、北アジアで隋と突厥の大戦を経験し、東アジアの高句麗に亡命し、和国、百済、耽羅と流転した女王の数奇な生涯を閉じた。

 

 

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斉明女王

 

 

 

一方、新羅でも金春秋暗殺の計画が進められていた。

 

イリは、武烈王金春秋をおびき出す為に高句麗軍と靺喝族に命じ水陸より新羅の北漢山城を攻めさせていた。

 

北漢山城の東に靺喝軍、西に高句麗軍が陣取りし東西から攻め続け、北漢山城は兵糧もつき落城寸前まで追い詰められてしまっていた。

 

しかし、金春秋は尚も宮殿を出ようとしなかった為、金ユシンはひと芝居をうった。

 

金ユシンは官寺に籠もり

 

「あとは人の力で、できることはない」と

 

祈祷をはじめた。

 

もしも北漢山城が敵の手に渡ってしまえば、新羅と唐国との連携が分断されてしまい、武烈王金春秋もさすがに捨てておくこては出来なかったが、「病」と称し屋敷にこもっていた金ユシンの動きは気にかかっていた。

 

他の将軍らは、南方のサビ城包囲救援に出兵させている。

 

しかし、金ユシンが祭壇で戦勝祈祷の行に入ると、油断した武烈王金春秋は北漢山城の救出の援軍を送り出す為に宮殿から出た。

 

そして、金馬郡の大官寺まで来たあたりでいきなり、謎の賊軍に襲われて武烈王金春秋はあっという間に斬殺されてしまった。

 

高句麗の矢を使い、敵側の仕業に見せ掛けていたが、金ユシンの手であることは間違いない。

 

北漢山城を攻めていた高句麗軍は、落城寸前まで追い詰めながらも、この金春秋の死と共に潮が引く様に攻撃を止め引き上げていった。

 

この様子に、新羅の者共は、

 

「金ユシンの祈りの神通力のお陰」と驚いていた。

 

唐の高宗皇帝は、武烈王金春秋の死を聞くと洛城門まででて哀悼した。

 

 

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金ユシンは直ぐに皇太子の金法敏を新羅王に即位させたが、唐は直ぐに是を認めず高句麗との戦が始まった3ヶ月後に冊方する。

 

しかし、ついに金一族の悲願であった金庭興王の血を引く金法敏が新羅の王になったのだ。法敏を産んだ鏡宝姫や金一族の女達も喜びはひとしおだった。

 

文武王と名乗った。

 

表向きは、金春秋の子ではあるがイリの実子でもある。

 

強烈な反唐の王が新羅に誕生し、金ユシンはついに兵権に返り咲きいた。

 

 

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文武王 金法敏

 

 

 

 

 

【天明鬼 高向玄里の最後】

和国で斉明女王が没すると直ちにに援軍が組織され、安曇比羅夫と阿部比羅夫将軍らが五千の兵を率いて百済へ向かった。

 

唐の劉仁軌将軍が率いてきた唐の援軍は七千、これに百済反唐軍は撃破され一万を失った。

 

数において和国からの援軍の方が劣るが、安曇比羅夫と阿部比羅夫将軍らは必勝の覚悟で海を渡った。

 

出兵の際、和国朝倉の宮に居た那珂大兄皇子に対して、

 

大海人皇子イリの義弟・阿部比羅夫は、

 

「和国に留まり、皇太子として斉明女王様の殯(死者を送るまでの儀式)を行うべきでは」

 

と、百済への出兵を押し留めた。

 

殯は3ヶ月~半年場合によっては一年と、通常は長い時間をかけて行い、王の殯が終わらない限り次の王は即位することが出来ない。

 

百済での大戦を目前にして容れられるはずもなく

 

「母は元百済皇后であった、百済にて殯を行う」

 

と、那珂大兄皇子は強引に母・斉明女王の棺を船に乗せ百済へ向かってしまった。

 

しかし、是は阿部比羅夫のみならず和国の臣からも

 

「斉明女王様はなんと言っても和国の王、和国王の殯は百済でなく和国で行うべき。」

 

と、反対の声があった。

 

那珂大兄皇子が、和国の皇太子でありながらも百済の王になろうとしていることは

 

「二国を領有する王になる」

 

という野心をはらんでいる。

 

百済で和国王の殯を行うなど、大戦のどさくさ紛れで出来るものではなく唐軍にいつ攻め込まれるかも分からぬ状況である。

 

それでも那珂大兄皇子は、百済王族としてなんとしても母・斉明女王を故地百済で埋葬したかった。しかし、これは結局は叶わず10月に和国へ戻り11月に和国の飛鳥川原で殯を行うこととなる。

 

 

和国の百済援軍の動きは唐に察知され、唐国で監禁されていた高向玄里の命も、文字通り「風前の灯火」になっていた。

 

東アジアの親唐工作を任されながら幾度となく親唐化に失敗し、その度に二枚舌を使いかえって唐の激しい怒りをかってしまった。

 

高向玄里は食を絶たれ既に飢え死に寸前だったが、ずいぶん惨い殺され方をした。

 

頭の皮を剥がれ、そこに太い灯を立てて焼かれた。

 

人々は灯台鬼と呼んだ。

 

 

【挿絵表示】

高向玄里

 

 

 

 

高向玄里は元は漢人であった。

 

漢の皇帝献帝の子孫であり、漢帝国滅亡後に高向の祖先は東国へ亡命してきた。

 

和国に帰化したが、漢王室の子孫として代々大陸への回帰を望み、高向玄里は高向王などと名乗りながらもついには和国の遣隋使となって隋へと渡った。

しかし、滞在中に隋が滅んでしまい唐国が興ると、遣隋使らはそのまま唐で囚われの身となった。

 

高向は唐に極東の情報を流すうちに政治手腕が認められ、やがては唐の極東の親唐工作を任される様になり、高句麗の親唐派の王栄留王の擁立と共に高句麗の大臣となり、和国、百済の親唐化に心血を注いだ。

 

各国の王室と繋がり、和国の遣唐使を実現し、新羅を通じて唐と和国の国交を結び、東アジアと唐を結ぶ唯一無二の存在となった。

 

しかし、息子イリの反唐による裏切りにより全てを失い、反唐派が東アジアを席巻するようになると居場所は無くなり、国外追放の様に遣唐使に出された。

 

もとより、高向玄里には野心が有るのみで、

 

居場所も国も持たない流浪者だったのだろう。

 

それでも高向にとって故郷は和国であったのだろうか、

 

 

高向玄里は死に向かい、一篇の詩を残し絶命した。

 

 

 

『灯台鬼』

 

吾は日本の二京(長安・洛陽)の客人

 

汝(イリ)もまた、東の城の一宅人

 

子となり、親となるのも前世の契り

 

一離一会、これ前世の因縁

 

年を経て蓬宿に、落涙し

 

日を送るに思いは駆け巡り、朝夕新たなり

 

形を変えて他州の鬼となり

 

急ぎ帰って故郷に、この身を捨てん

 

 

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