和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦663年

百済王豊章が周留城を出ると新羅が攻入り、熊津口周辺を制圧し二城を落とした。豊章は再び周留城へ逃げ込む。是に対して和国からは27000人の兵が、百済援軍として海を渡り熊津口にいた新羅軍を掃討した。鬼室福信は殺され、唐からは援軍40万が到着しいよいよ唐新羅軍 対 和国百済軍の決戦が始まる。

第1話 【新羅軍】百済侵攻
第2話 百済扶余豊章王 鬼室福信を殺する
第3話 和国の焦燥
    【那珂大兄皇子と大海人皇子】
第4話 白村江の戦い 緒戦


第20章 【白村江の戦い】Ⅰ 和国編

【新羅軍の百済侵攻】

663年2月、

 

百済王豊章らが、周留城を出ると新羅軍はすぐさま百済へと攻め込んできた。

 

守る城壁もない平城の僻城は、要塞というより御殿に等しい。

 

迫りくる新羅軍もよく見えたが、百済兵は持ち場につこうにも持ち場さえなかった。

 

僻城にいた百済王豊章は新羅軍の侵攻に驚き、ろくに鉾も交えぬまま逃げ出して、元いた周留城へ向かった。

 

当然、新羅軍は是を追撃し、

 

徹底的に百済軍に追い討ちをかけた。

 

百済の兵士は皆、先祖代々受け継いできた土地や家族を失い百済復興に望みを掛けて奮い立った者達だったが、

 

(周留城で堅く守っていたなら)、、

 

(なんと無意味な戦いをするのだ)と、

 

逃げ戦さに戸惑い

 

百済軍の士気は落ちてしまった。

 

しかし、撤退しながら新羅軍と戦うことは熾烈を極めて百済王豊章は、結果多くの兵を失った。

 

新羅軍との決戦というよりは、凡庸な王に翻弄されただけの戦と言ってもいい。

 

百済復興を望む者にとって、

 

どんな愚鈍な王であろうが百済に残された唯一の王である。

 

王に翻弄されようが、

 

無意味な戦をさせられようが、

 

他に替わりがいない。

 

 

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百済王扶余豊章

 

 

一方、新羅軍を率いた天存将軍は、百済へ侵攻し4城を落とした。

 

文武王の命令ではなく、新羅の王子で唐軍の軍監となった金仁問ら、唐からの要請による親唐派の将軍の攻撃である。

 

金ユシンの下では、彼らには未来がなかった。

 

皆、必ずしも金法敏の文武王を認めている訳ではなく、金一族の専横を喜ばぬ者らは親唐派となって、唐軍の官吏となった新羅王子・金仁問の意向で動いていた。

 

金ユシン・金法敏らはまだ唐に対して

「面従腹背」の建て前姿勢は崩しておらず、堂々と親唐派の動きに反対することができなかった為に彼らの動きは追認するしかなった。

 

 

新羅軍の天存将軍は熊津口を抑えて錦江一帯を制圧して劉仁願、劉仁軌らが籠城している熊津城の安全を確保し、百済軍に有利であった戦局を一気に覆した。

 

 

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【唐軍】劉仁願

 

 

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【唐軍】劉仁軌

 

熊津城に閉じ込められていた唐軍は、ようやく新羅軍と繋がり息を吹き返した。

 

この頃から百済軍では、指導部の鬼室福信将軍と百済王豊章に対する批判が沸きおこり、不信と不満が蔓延し始めた。

 

「唐軍が立て籠もる熊津城の包囲拠点まで新羅に落とされてしまったではないか!悪戯に周留城を離れ、吾らは戦を知らぬ王に振りまわされてるだけでは百済復興どころか犬死にするだけだ!」

 

と、心底から怒りを吹き上がらせていた。

 

「鬼室福信将軍とて戦を知らぬ訳ではないのに、王におもねり反対しなかったそうではないか!!王も信じられぬが、将軍も何を考えてるのか分からぬ!」

 

どちらかに従うことも、従わぬことも

百済兵達にとっては不満だったが、

 

鬼室福信と百済王豐章が対立し、互いに相手を警戒するようになって離れた為、従っていた兵たちも二つに割れてしまった。

 

 

和国にいた那珂大兄皇子は、

 

この敗戦を聞き、目眩を覚えるほどに衝撃を受けて悔しがっていた。

 

「吾の兵が、、吾が、百済の兵が失われていく。愚鈍な王に手足をもがれる思いぞ、、おのれ豊章め。大海人皇子の走狗となりて、そこまで吾の行く手を阻むのか。」

 

那珂大兄皇子はまだ百済王への執着は捨てず、必ず隙きを見つけ王位についてやるとの意気込みが強い。

 

この度の敗戦も大海人皇子の密命を受けた扶余豊章が、意図的に引き起こしたと決めつけたうえ風靡を広げた。

 

「将来の禍根を断たんとし、新羅と裏で繋がって未来の吾の兵力を削ぎ落としているのだ!」

 

自分が謀りごとを企めば、相手も何かしらにつけて謀ってる様にしか見えなくなる。

、、那珂大兄皇子は鬼室福信将軍と謀り扶余豐章を取り除こうとしていた。

 

 

 

 

百済王豊章の僻城敗走後、

 

翌3月、

 

和国から水軍27000人が百済救援へ向かった。

 

【前軍】上毛野将軍、

【中軍】巨勢将軍、

【後軍】阿部比羅夫将軍が、

 

和国軍を率いて、百済の江一帯を制圧していた新羅軍へと向かうことになった。

 

将軍らは阿部比羅夫を除き、後にイリ(天武天皇)の朝臣となるイリ小飼の将軍達である。

 

イリは、高句麗の遺事を思い起こしていた。

 

出兵前の阿部比羅夫を前にして、

 

尋六尺もあろうかという大きな羊皮紙に描いた朝鮮半島と日本列島の地図を眺めながら、如何にして漁夫の利を得るかを考えている。

 

イリの生まれる少し前から和国でも紙が作られ始めたが、特大の羊皮紙は以前イリが西アジアより設えたもので、紙と違い竹箆で消し書き直しが出来るので戦略を錬る時はいつも使っていた。

 

半島と列島の地図は歪な箇所もあるものの、ほぼそのかたちのままに羊皮紙上に納まっていた。

 

 

高句麗の建国間もない頃のこと、

 

中国の王朝であった『漢』は、朝鮮半島の大国『朝鮮』(衛氏)を滅ぼした後、『楽浪郡』『帯方郡』など郡部を設置して朝鮮半島への植民地支配は100年以上続いていた。

 

紀元1世紀、楽浪郡太守の圧政に耐えかねた古朝鮮の民は反乱を起こし、漢の太守劉を討って漢の支配から独立したが、この時、勝利に導いたのは催将軍と王将軍という二人の将軍だった。

 

高句麗は楽浪郡の独立を裏から支援していたが、独立後はこの二人の離間策を用い、将軍が互いに警戒し合う様になると強気で直情的な王将軍が一気に王位につこうとした為、暗殺されてしまった。

 

そして催将軍が王位につくと後継者の内訌が起き、西暦37年に高句麗は楽浪国を攻めて支配下に置いた。

 

 

 

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高句麗は楽浪を足場に次々と領土を広げていきはしたが、7年後に楽浪は漢に奪回されてしまい再び『楽浪郡』が設置された。

 

三国志の時代まで楽浪郡は残っていたが、高句麗と接していた魏国は、魏の宰相司馬懿に滅ぼされ『普』が起こり、楽浪郡のある北東部で勢力を保っていた公孫氏も滅び、普も滅んでしまうと、楽浪は高句麗の領土となった。

 

以来、三韓(朝鮮半島)がここまで中国王朝の侵攻を許したことはない。

 

イリが今、地図上に見ているのは、

 

楽浪郡を百済になぞらえて、如何にその地を手に入れるかを考えている。

 

漢軍・唐軍・魏軍、

 

何れにしろ一国だけの争いでなく

 

例えば司馬懿・公孫氏などの輩の有象無象がある限り、機略を用い

 

漁夫の利で「百済」の地を得る国は、まず新羅であるかと考えている。

 

唐国には、劉仁願や郭ムソウという者など忠誠心より独立心の強い野心家がいて、かつての公孫氏の様に東アジアの利権を狙っている。皆、腹わたに何事かを持って居る輩だ。

 

 

中国王朝の内部はいつも政争が絶えず落ち着いたことがない。

 

魏国の魏帝と司馬懿の対立の様に、

 

唐国内にも皇帝派、皇后派の根深い対立があった。

 

強大な唐軍と直接ぶつかれば、勝ち目は薄いが、

 

唐が自ら国内部の政争で弱まるか、

 

唐の周辺国との戦いで弱まるか、、

 

イリは時を待てば、必ずしや唐賊を東アジアから駆逐する日が来ると信じていた。

 

自分以外の誰かが唐軍と戦い、彼の地を奪い合い、唐が分裂するか疲弊したところで最終的にこちらが詰めの手を出せればよい。

 

太宗皇帝の頃に比べれば、唐軍は兵力もそうだが、遠征力も落ちてきている。

 

(吾の命が尽きる前にそれが叶うか、、)

 

唐軍が東アジア征服の野望で動き始めた今、反唐のイリの影響力は半島・列島で最も強い。

 

和 国 間人(那珂津女王)イリの妻

百 済 扶余豊章王 イリの傀儡

新 羅 文武王 イリの実子

高句麗 宝蔵王 イリの義父

 

四ヵ国の王は皆イリに近しく、イリの声を響かせれば四ヵ国の反唐の軍を動かせる立場にいる。

が、時勢はその様には成熟していない。

 

イリは命が続く限り大業を成さんという大望を持ち続けたが、結果的にはそれはイリの息子達がそれを果たすことになっていった。

 

唐軍が高句麗を滅ぼした後、

 

イリの隠し子で仲象将軍(テ・ジュンサン)に預けていたテ・ジョヨンは唐軍を打ち払い朝鮮半島の北部に『渤海国』を建国し、

 

唐軍と百済が戦った後に、イリの実子である新羅文武王は百済の地を奪い朝鮮半島は全て『新羅』となり、

 

和国はイリが天武天皇となった後もイリの皇統は継がれ、中臣鎌足に預けていた隠し子の藤原不比等は貴族社会の魁となり、

 

一時代は、イリの息子達が東アジアの国々を手中に治めて『兄弟国』として列した。

 

この時代より、朝鮮半島と日本列島は今までの様に中国支配側の強い影響を受けることがなくなり、独自の歴史を歩む強国となって、独自の文化を生み出していった。

 

 

 

「百済領を、、唐軍と奪い合ってる様なものだ。」

 

出兵前の義兄弟・阿部比羅夫に向かって、

 

イリが漏らした。

 

まるで百済復興など、頭に無いような物言いをする。

 

和国軍は新羅軍とはまともに当たらず、戦う真似だけすれば良いと、密命しながら

 

阿部比羅夫には、驚くべき企図を伝えた。

 

「百済と唐軍が戦い、互いに弱りきったところで息子の文武王金法敏に刈り取らせる事もあるやもしれぬ。和国兵は新羅と戦うふりだけで良い。そうでもしなければ、新羅さえも危うくなるぞ。兵士たちはそれに備えて温存せねばならない。」

 

「唐軍に当たるにも多勢に無勢、勝ち目は薄い戦だ。どうかそれを踏まえた上で和国兵の後軍を率いて欲しい、、

 

吾らにとって真の前軍とは、、

 

ヨン・ナムセン率いる『高句麗』軍であり、

中軍は文武王率いる『新羅』軍、

後軍はお主が率いる『和国』軍だからな。」

 

 

(されば、百済はどうなる!?)

 

 

阿部比羅夫は、聞き返すことを躊躇った。

 

イリの「百済は捨て石としか考えてない」

 

という声を聞きたくなかった訳でなく、

 

(それでどうして危険な戦地に赴くことが出来るか、、)

 

その覚悟がまだ決められずにいただけだ。弱気になっていた訳ではないが、

 

いつもの豪壮な気配はなく、泣き止んだ子供がしゅんとおとなしく無口になるように、表情も変えずただ静かに空を見つめ黙り続けていた。

 

 

イリ(ヨンゲソムン)には、誰にも言っていない秘策があった。

 

 

高句麗の楊満春将軍、

和国の阿部比羅夫、

百済王の扶余豐章にも勿論、誰にも明かしていない。

 

新羅の金ユシンと息子の文武王とだけ交わしている密約だった。

 

 

新羅が、いつ反唐に転じるかということである。

 

表向きは唐は新羅と同盟しながら、新羅を領有する野心があり、新羅もまたいつ反旗を翻すかの機会を伺ってかかっていた。

 

 

一度旗幟を鮮明にしてしまったら二度と後戻りはできないが故に、決して不利な状況で反旗を翻すことはできない。

 

何れは唐軍と戦わざるを得ないが、有利な状況があれば、なんとしても機会を逃すわけにはいかない。

 

 

この度の戦はその見極めの機会だった。

 

中国の戦国時代、秦に抵抗する六国が合従連衡して一斉に戦ったように、和国、百済、高句麗、そして新羅、四国が一斉に唐軍と戦う機会は今をおいてない。

 

一国だけで戦えば、一国づつ徹底的に撃破される。

 

四国一斉の総力戦で唐軍を撃退する最後の機会かもしれず、状況によっては新羅の金ユシンと文武王は唐軍営内部で反乱を起こす事になっている。

 

 

和国では兼ねてから

秦田来津(秦河勝の子)の差配により1000隻の造船が進められてきた。

 

 

先に170隻の船で援軍が派兵されていたが

 

その後、800隻の船が27000人の兵を乗せ

 

阿部比羅夫らが率い一斉に百済へと向かった。

 

27000人の和国兵士とともに密かに半島に渡ったイリは、このまま高句麗へいき急ぎ高句麗軍を出兵させる予定だった。

 

 

 

 

和国軍は上陸後、

 

あっという間に新羅軍を蹴散らすと、

 

返す刀で百済の石城付近一帯を掃討した。

 

しかしこれはイリが、息子である新羅の文武王金法敏と示し合わせての戦だった。

 

イリはあらかじめ法敏に密使を送り

 

「是より和国から大軍を送る。真っ向から勝負に出ず大軍に驚き撤退せよ。唐軍を守る為に和国軍とぶつかり新羅兵を失うな」と、

 

指令を伝えていた。

 

文武王金法敏は、

 

新羅軍の天存将軍が落とした砦や城に将軍と援軍を送り駐屯させた。

 

 

 

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【文武王】金法敏

 

 

皆、金ユシン子飼いの将軍らである。

 

「吾ら新羅軍はあくまでも唐軍の援軍。和国軍がいたれば直接当たらず、必ず兵を引き是を温存せよ。唐軍と百済軍が決戦せぬ前から、新羅軍は自ら和国軍と戦うことはない。その様なことは許さぬ!新羅軍は唐の家来でも子分でもない!!」

 

出兵前に、老将金ユシン大将軍は将軍らを大喝した。

 

「吾が主たる軍旗を掲げねば唐軍に侮られるだけだ。死に場所は自ら選ぶ新羅軍の誇りを失うな!和国軍との戦いは吾らの死に場所ではない。本物の敵に向かう時こそ命を燃やし尽くせ!!」

 

皆、将軍らは金ユシンの言葉を肝に命じていた。

『本当の敵』が唐であることも、心に落としこみ

 

 

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金ユシン

 

和国軍27000が上陸してくると、新羅の将軍らは金ユシンの命令どおり兵の損失を抑えすぐに撤退したので、他の新羅兵や将軍も留まって戦うことはせずに撤退した為、和国軍はやすやすと錦江一帯を手に入れる事ができた。

 

そして、和国郡は返す刀で高句麗の扶余城から近い布石となる拠点を唐軍から取り戻し、高句麗から百済への兵站を開いた。

 

イリこと大海人皇子は、

 

(時は今!)と、

 

開いたばかりの兵站を急ぎ高句麗へ馬を走らせる。

 

走りながら目の前の光景を焼き付け、直ぐにもこの道を自分が高句麗軍を率いて引き返す姿を描いてる。

 

まもなく高句麗の国境を超えれば、

 

イリ(大海人皇子)から

 

イリ(ヨン・ゲソムン閣下)へと変わる。

 

イリのみならず

古来、偉人英雄は誰よりもよく動いた。

 

この壮は、年少の頃より山野紅海に出るのを好み

長じて千里の馬を馳せた。航海術、遁甲術を能く極めて、この時代には追従する者が無いほどによく動いた。

 

過去であれば、上宮法王、ヤマトタケル、

未来であれば、ジンギスカーンにも遜色がない。

 

イリの身に過ぎていく時間の密度は誰よりも濃く、とても常人の及ぶものではなかった。

 

類い稀な才能を持ち尚も努力家だが、唯一才能に欠くことと言えば、宮殿で傅かれ栄耀栄華に浸る才能を持ち合わせていなかった。じっとして居ることが出来ない。

 

「あれは壮(オトコ)の有り様ではない」

 

欲が無い訳ではない。

 

豪奢な暮らしが嫌いな訳でもない。

 

贅沢に溺れ、大望を腐らせ時間を浪費しているのが勿体無いなく、宮殿という世界がイリには狭く感じた。

 

 

 

 

【扶余豊章王 鬼室福信将軍を誅す】

 

和国軍の勝利は、

 

裏で新羅との密約があったとはいえ、兵たちの士気は上がった。

 

これにより万が一の場合、戦局によっては扶余城の高句麗軍と石城の和国軍・百済軍とで唐軍を挟み打ちが可能となった。

 

しかし、百済軍の鬼室福信将軍は新羅軍の侵攻と撤退があまりにも早かった為、扶余豊章王が裏で新羅と繋がっているのではないかと猜疑心を持ち、身の危険を感じた扶余豊章王は、鬼室福信将軍と同じ城にいる事が出来なくなってしまった。

 

 

663年4月、

 

唐は新羅を鶏林大都督府とし、新羅文武王こと金法敏を都督に任じ決戦の構えに出た。

 

そして、5月には唐から孫仁師将軍が170隻の大型戦艦で40万の兵を率いて百済の西岸にある徳物島に到着した。

 

 

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「吾らは此処で時を待つ。百済の扶余豊章は暗愚にして鬼室福信将軍は暴虐!今に百済軍は瓦解する。その時こそ、行手を阻むものは全て殺せ!」

 

 

徳物島に着いた孫仁師将軍は直ぐに攻めこむことはせずに、徳物島で一度兵を休めた。

 

離間策を謀るのは唐軍の常套手段であり、その間

鬼室福信と扶余豊章王の不和につけ入り分裂を図っている。

 

 

唐新羅軍と百済和国軍との対決が風雲急を告げ、和国軍からは急使犬上君が高句麗へと向かった。

 

高句麗に唐軍来襲を伝えた犬上君は、

帰途、百済の石城にいた扶余豊章王のもとにも立ち寄り拝謁すると鬼室福信の不義を耳にした。

 

この頃は和国から来た援軍が、侵入してきていた新羅軍を掃討し錦江一帯を占領していた為、扶余豊章王は石城へ入っていた。

 

百済王とはいえ人生の大半を和国で生きてきた扶余豊章王にとっては、知らぬ百済の者達より和国軍の犬上君の方が気を許せる相手であり、

 

「朕は鬼室福信将軍に敗戦のことで不信感を抱かれておる。叛く兆しがありその前に誅殺せねばな、、」

 

と、つい本音を漏らす。

 

 

「鬼室福信将軍は、朕が和国にいるイリと繋がっていて新羅軍との戦は示し合わせての戦いで

 

『王は百済を裏切っている!』

 

などと言触らしてるそうだ。和国で那珂大兄皇子を抑えこんでるイリと朕を目の仇にし妄執にとらわれている。

 

今は短慮で暴虐の将軍をのぞかねばこの命も危うい、、」

 

 

 

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百済王扶余豊章

 

 

 

犬上君は言葉を失い、

 

暗たんたる思いで石城を後にした。

 

(かように百済軍が二つに割れていたら和国軍はどう戦えばいいのだ、、百済王こそ短慮を起こさねば良いが、、、)

 

 

一方、周留城では、鬼室福信将軍が専横を振るい、百済王豊の暗殺を謀っていた。福信は病気と称して部屋に伏し、扶余豊章王が見舞いにくるのを待ってこれを殺そうと思っていた。

 

しかし、扶余豊章王はこれを察知して、見舞いに行くとしながら兵を率いて襲撃し、

 

逆に鬼室福信を殺してしまった。

 

扶余豊章王が事前に是を知ったのは、警戒していたからこそ方方から情報を集めていたからだが、その情報を掴み扶余豊章に流したのは元は唐軍の間者だった。

 

扶余豐章は和国で暮らしていた頃から、常に身を低くし周りに気を配り、間諜を放って保身に生きていた。

 

唐軍も「百済軍いずれ瓦解する」と、扶余豊章王と鬼室福信の不仲を見抜き、密偵を多数送り込み二人の対立を注視してきて、

 

二人が瓦解した時こそ攻め入るつもりだった。

 

 

扶余豐章の間諜を放つ慎重さに、逆に唐軍がつけこみ唐軍は扶余豐章の間諜に意図的に情報を流し続け操作していた。

 

戦闘力の高い鬼室福信を取り除き、気の弱い扶余豊章王が残れば百済軍はとるに足らない。

 

唐の仕組んだ通りに事が運び、唐軍はいよいよ上陸戦の準備に入った。

 

扶余豊章王も、鬼室福信を討った後で不安になり、高句麗、和国へ使者を派遣し更に唐兵を拒む為の援軍を請うた。

 

 

犬上君の懸念どうり、決戦を前についには鬼室福信将軍が扶余豊璋王によって処刑される結果となってしまった。

 

 

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【和国の焦燥 那珂大兄皇子と大海人皇子】

 

那珂大兄皇子は気が気でなかった、、

 

扶余豊章王が鬼室福信将軍を殺めたと言う報告を聞き、居ても立ってもいられない衝動に駆られていた。

 

 

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「除かれるのは扶余豊章の方ではなかったのか!何故、鬼室福信がやられねばならない!!」

 

「吾はいつになったら王になれるのだ!」

 

近いうちに、武王派の鬼室福信将軍が扶余豊章を除いて、武王の皇子である自分のことを百済から迎えに来るはずだと、心から強くそう信じていた。

 

そして、百済の王となり父武王の無念を晴らすことは那珂大兄皇子の悲願である。

 

そのため和国からの援軍27000人を集めるのに、那珂大兄皇子も尽力した。

 

全ては自分が百済王となるために、、。

 

互いの企みは別にして百済派兵に関してだけは、

 

イリ・大海人皇子と那珂大兄皇子の利害は一致していた。

 

これ程に、二人の利害関係が一致したのは大化の改新以来である。

 

王位に対して二人は真っ向から対立していたが、百済派兵に関しては完全に一致し互いに協力し合った。

 

和国では、大海人皇子が次期【那珂津女王】間人皇女の称制を布き実権を握り当たらざる勢いとなってきた為、

 

那珂大兄皇子は次々と亡命百済人達を取り込み周りを固めこれに対抗していた。

 

戦を知らない和国の者たちは次々と和国へと亡命してくる百済人たちを見るにつれ、明日は我が身と次第に不安に陥り出したので、

 

那珂大兄皇子は、全ての亡命百済人達を使い暴虐の魔王の如くサビ城を蹂躪した唐軍の恐ろしさを伝えていき、徴兵の必要性を説いた。

 

この甲斐もあり反対の声は小さくなり、27000人という兵を集めることができた。

 

中央では那珂大兄皇子も必死に動いたが、

 

地方では役行者も活躍していた。

 

役民を使役する為、役小角、或いは役行者とまで云われた大化の改心の執行人は、日本各地で修験道を開山しながら呪法で人々を恐れさせた上、大和朝廷の威光によってより多く民を集めてきた。

 

イリも民の徴集の為に、役行者の開山を容認していた為、各地で「役行者来たる」と畏怖されていた。

 

小角は役行者と言われるだけあり民を惑わすための術をいくつか持っていた。

 

呪い妖かしの類いたが、

 

催眠は集団であるほどかかりやすい。

 

脱感作のようなごく簡単な催眠でも、人々を集団催眠に導き不安心理を巧みに操ったため、役行者は他の役民を使役する管吏に比べてより多くの民衆を容易に動かすことができた。

 

修験道の開祖である役行者は、全国各地を回り民衆を徴用すると同時に、霊場を開山させていったので、新しい神々達の存在に民衆は畏怖し服した。

 

当初、民の多くは百済に渡る造船の労役の為の【役民】として連れて来られたが造船後にそのまま【兵役】に着かされた者も多くいた。

 

この様なことで、兵役に駆り出された民の大部分は剣を持ったことも無い農民たちであり、軍とは言い難い程の烏合の衆である。

 

見たこともない国へ、遠い異国の兵と戦いに行く和国兵の士気は低かった。

 

そしてこの、

27000人は、ほとんどが生きて和国へ帰ってくることはできなかった。

 

 

イリこと大海人皇子も焦りはあった。

 

百済の戦いはそう長くは持たないだろうと思っていた。

 

唐軍40万に対し、和国軍27000人と、既に多くの兵を失ってしまった百済軍を合わせても4万5千程度、10倍の兵力差で迎え撃たなければならない戦いで、勝利は絶望的である。

 

「どれほど食い止めることが出来るか、、」

 

唐軍が百済を抜き、新羅と高句麗にまで侵攻して来る前に、イリはなんとしても和国王の座について和国を不動のものにしなければならない。

 

亡命百済人を取り込み勢力を伸ばして来る那珂大兄皇子と睨み合いを続けながら、間人皇女の即位の準備を進めている最中であり、目下のところは増え続ける百済人の扱いに頭を痛めていた。

 

百済に介入し属国としている以上、百済からの亡命者を受け入れてはいた。 

 

百済人の知識や技術は、和国にとって必要でもあり排除する事は考えになかったが、そのまま那珂大兄皇子側につかれても困る。

 

那珂大兄皇子は、

 

亡命百済人の力を味方に、和国の王位奪還を目論見

 

「吾が間人を退け即位したあかつきには、、」

 

などと相変わらず空手形での出世を約束している。

 

しかし、亡命百済人らは和国に領地や権力を持たない新参者でありこれが空手形であってもすがるしかなかった、、

 

対するイリとしては、それなりに彼らに地位を与えて那珂大兄皇子に与することが無いように手を打たなければならなかった。

 

百済人を帰化させ朝廷に帰属させるに当たっては、現在の冠位を更に増やすことで力を細分化し、朝廷内での力を削ごうと考え、大急ぎで冠位の再編を検討していた。

 

 

難波、摂津(大阪)に百済人村を造り、亡命百済人達はそこに集められていたが、イリの命令で冠位制度を勘案している中臣鎌足ら文臣は亡命百済人らの中核者を何人か連れだしては軟禁し、昼夜を問わず百済人の氏素性や人となりを問い、配置を検討した。

 

那珂大兄皇子の空手形と違い、権力者イリの差配は目の前の現実である為、百済人らも協力せざるを得なかった。

 

イリは、間人皇女を文字どおり抱き込み囲いこみをしていた為、

 

間人皇女の称制ではまるで垂簾政治の如く、間人の事実上の伴侶であるイリが代わって政務をとり実権はイリが手中にしていた。

 

さながら和国宰相のようである。

 

※称制(王に即位せずに政務を摂ること)

※垂簾政治(王に代わって皇后が政務をとること)

 

来年正月には間人皇女の即位式を行い、正式に那珂津女王として冠位の改変を発布させる予定でいた。

 

『甲子の宣』という。

 

そして女王の夫、即ち『王』となるつもりでいた。

 

 

イリは既に間人皇女への妻問いをしている。(ヨバヒ)

 

遁甲術を極めたイリは、いかなる城でも宮でも出入りし閨房に入る。

 

15、16歳になれば夫を持ち子供を産む時代であり、間人皇女も既に20歳を過ぎていて子供を産んでみたいという気持ちを持っていた。

 

そして、夫となる壮(おとこ)は強い壮が良いと思っていた。ときめきというものがある訳ではなかったが、

 

 

女性にとって、壮とは常に頼みがいのある存在でなければならない。

 

父・武王が殺され、自分は島流しになり和国まで逃げてきた事を考えれば、

殊更にそう感じていた。

 

『王族』という貴種としての血統が、

 

何の強さも持たずに流されてしまう人生ならば、出来れば強い男を夫とし貴種としての人生の役割を全うしていきたい。

 

イリが良いという訳ではなく、

 

間人皇女を女王に擁立できる程の男は、広い天下にイリしかおらず、

 

イリの妻問は強引で半ば暴力的なものであったが、心から拒もうとはしなかった。

 

 

間人皇女は飾りでしかなく、イリの言いなりだったが、自分が女王になることに何の迷いもなく全てを委ねていた訳ではない。

 

母・斉明女王が殺されたことは深い傷あとを残していた。

 

このまま和国女王に即位し、イリを夫に迎え『王』としてしまうのか、

 

母・斉明女王の様に死を賭してイリの要求を拒むのか、

 

是非もなく翻弄される運命を生き続けてきた間人の心中にも、それなりに葛藤はあった。

 

 

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百済に赴く義兄弟・阿部比羅夫に対してイリは、

 

「間もなく吾が和国王となる。されば、お前を和国の大将軍にする、無理な戦はせず必ず生きて戻れ」

 

と、含みおきをしていた。

 

 

阿部比羅夫は、イリの片腕として和国で反唐派として活躍してきたが、唐にいた父・高向玄里が見殺しされた事は心中に影を落としていた。

 

しかし、父高向玄里が唐の手先となる為に、阿部比羅夫ら兄弟達は臣籍降下までさせられた。

 

その挙げ句に唐に殺された訳だ。

 

これは、父自身が自ら招いた不幸と心に言い聞かせつつも、唐軍を討ち仇討ちをするとの戦意にかえて決戦に赴くつもりでいた。

 

「吾らは10倍の兵力の唐軍と戦うのだ、、決死の覚悟がなければ赴けん。生きて戻れとなどと言われたところでのう、、敵うものか。」

 

 

(生きて帰ることなど考えまい、、)

 

阿部比羅夫はイリの言葉も耳に入らず、

 

父を殺した唐も許せぬが、父を見殺しにしたイリの下で生きていく自分がどこかで許せず、

 

そうと気づかぬまま心底には死に場所を求めるような思いがあったかもしれない。

 

 

 

 

 

【白村江の戦い】

 

6月、唐軍にも扶余豊章王が鬼室福信将軍を殺したという事が伝わり、いよいよ時はいたれりと最終決戦に出るための軍議に入った。

 

新羅からは文武王が兵を率いて唐軍と合流する。

 

唐軍には百済陥落の時に、唐へと降った百済王子隆が案内役として参軍していた。

 

唐陣営の諸将と隆王子は、加林城が水陸の要衝なのでまずこれを攻めるよう進言したが、熊津城の守将劉仁軌将軍は断固として反対した、

「加林は険固であり、攻め入ればこちらの被害も大きい。急攻したら兵達は無傷ではいられないだろうし、かと言ってゆっくり攻めていたら持久戦に持ち込まれる。

 

それよりも周留城は敵の本拠地で群凶が集まっている。敵を除くには元から絶つべきで、余計な戦いはせずとも一気に周留城を落とせば、他の諸城は自ら下る!」

 

 

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劉仁軌

 

近くの加林城から攻め入るという意見が多かったが、諸将は劉仁軌の案に命を預け敵の根源である周留城から攻める事になった。

 

8月13日、40万の唐軍は陸軍と水軍二つに分かれ、

 

水軍は、百済王子隆を水先案内とし劉仁軌が率い牙山湾の白村江へ向かい

 

陸軍は、援軍総大将の孫仁師将軍と、守将劉仁願が率いて、新羅文武王と共に陸路から直接周留城へ進軍した。

 

27日、

唐水軍が百済陥落戦の時に蘇定方将軍が上陸した白村江のある牙山湾に入ると、出合い頭に和国水軍と遭遇した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

唐水軍は、先行した陸軍に護衛させて上陸し共に周留城へ向かう予定であった。

 

しかし、和国軍側もそれを予測し是を阻止する為のに先に待ち構えていたのだ。

 

この兵は、27000の援軍兵とは別に先発部隊として急行してきていた盧原将軍の水軍で、両水軍はぶつかったが、初戦は唐軍が固く守り和国軍は撤退した。

 

 

翌28日になり和国水軍の本軍が到着する。

 

 

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ここで唐軍と和国軍との本格的な戦が始まった。

 

和国軍は三輪将軍率いる中軍が先制攻撃を仕掛けたが、唐軍は左右に船を回してこれを挟み撃ちにし撃破した。

 

 

和国の水軍は、河江の戦に向けて小回りの効く小型の戦船だったが、唐軍の船は黄海を渡る巨大船であり和船は全く太刀打ちできなかった。

 

旋回戦は船体の長い唐軍に有利に働いた。

 

大きく旋回し一度船の横腹を向けられると、周り込んで回避するまでに時間が掛かり矢の雨を浴びせられてしまう。

 

中軍だけだと艦数は少なく、唐船は挟み撃ちにすることが出来た為、

 

和国水軍は個々に撃破されていくことを懸念し、一斉攻撃に転じるため、今一度、船を引いた。

 

 

 

一方、陸路より唐新羅連合軍は周留城へ向かったが

8月17日に、早くも周留城に到着した。

 

扶余豊章王が和国からの援軍に応え百済騎兵を岸上へ布陣させて、白沙に停泊していた和国水軍を守らせていたところで、

 

唐陸軍はこれと遭遇したが、新羅軍の文武王は和国水軍の護衛についていた百済騎兵だけを蹴散らして、和国水軍と矛を交えることはなかった。

 

その後、

 

唐陸軍と新羅軍は周留城を包囲し、両軍は暫く対峙し続けていた。

 

 

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