まだ太陽が完全に目を覚ます前。薄く闇がかかり、小鳥のさえずりがよく聞こえる静かな総合公園で俺は日課のトレーニングを行っていた。
ランニングで汗を流し、下半身を鍛える。中学の頃やっていたハンドボールを大学に入ってからもう一度やり直して四年。
ブランクもあって初めはきつかったけれど、今となっては一日でも欠かしたら逆に違和感を覚えるようにまでなった。
一度は辞めたハンドボールだけどこうやって頑張れたのには訳(わけ)がある。彼女にいいところを見せたかったから。そんな単純で、男としては最も強い理由。
「ふぅ……」
設けられたランニングコースの最終地点にあるひらけた場所。運動を終えた人たちが休憩できるようになっているここに設置されているベンチの一つに運動とは不釣り合いな厚着をしている女の子がいた。
彼女こそ俺の原動力そのものなんだけど。
汗臭さがしないか確認して合格を出すと俺は駆け足で少女の元へ寄った。
「おはよう、和」
挨拶をするとずっと下を向いていた彼女は髪をしゃらりとかきあげてニコリと微笑む。その表情は聖母のように柔和で、見ているだけで疲れが抜けていくような錯覚にとらわれた。
「おはようございます、京太郎君」
原村和。高校時代からの友達で今は同じ大学に通っている恋人。
昔はこうやって異性の形で接することなんて考えもしなかった。それほど俺と彼女の間には差があっただろう。だけど、諦めることができなかった。
今までも人を好きになったことはあったけど、こんな感覚は初めてで……。とにかくがむしゃらに頑張って和と同じ大学に通うことに成功したのだ。
そこからどんどん高みに上る彼女に追いつこうとして……ようやく対等の立場になれた。彼女は弁護士に、俺はプロハンドボールプレイヤーに。
そして、今に至るというわけだ。何事も一生懸命が一番ってことか。
「ありがとう。毎日悪いな。朝練に付き合ってもらって」
「いえいえ。私からお願いしたことですから」
「俺は幸せ者だなぁ。こんな優しくてかわいい彼女がいて……」
「もう……。おだてたって何も出ませんからね? ……はい、温かいお茶です」
可愛い。俺は隣に座ってカップを受け取るとゆっくりと飲みきる。じんわりと温かみが広がって辛さは薄らぐ。
大学生活の前半は彼女と対等になるために、後半はこの静かな時間のために頑張った感じがするなぁ。
「あぁ……生き返る」
「ふふ、おじさんくさいですよ」
「そう言われるくらい和と長く一緒にいたいな」
「……京太郎君はずるいです。すぐにそんなこと言うんですから。知っていますか? 京太郎君ってすごく女子の中ではモテるんですからね」
「おっ、なにその嬉しい情報は。教えてほしいなぁ」
「……知りません」
ぷいっと和は頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。普段は誰よりも大人のように落ち着いたふるまいなのにふとした瞬間に出る子供らしさが男の心を萌えさせる。
ついこの仕草が見たくてからかってしまったので機嫌を本格的に損なう前に挽回しないと。
「ごめん、和。妬いてくれるのが嬉しくてさ」
「……京太郎君の趣味は悪すぎます。こんなに性格が悪いとは思いませんでした」
「ごめん! 何でも一つ言うこと聞くから!」
「いつもそうやって誤魔化すんですから。……京太郎君は運がいいですね。ちょうど私もして欲しいことがありましたからそれを手伝ってくれたら許してあげます」
「任せろ! ……で、何を手伝ってほしいんだ?」
「…………それはですね」
しかし、和の言葉はそこで途切れて中々、続きが出てこない。よっぽど壮大なことなのか顔を上げては下げ、上げては下げを繰り返している。
やがて決心の付いた彼女は俺の手を取るとたどたどしい口調で言葉を紡ぎ出す。
「……今ってお正月明けじゃないですか?」
「そうだな。和だけ長野に帰って寂しかったよ」
「仕方ないじゃないですか。本当は私もいっしょがよかったけど京太郎君は入団式とか行事が重なっていたんですから」
「冗談だよ。来年は親父たちに挨拶しに行こうな」
「はい……」
訪れる沈黙。照れくさくなって互いに目をそらしてしまう。このままだとそういう雰囲気になってしまうので流石に外ということもあり、俺は彼女に話の続きを促した。
「そ、それで? 何かあったんだろ?」
「は、はい。それで向こうで咲さんや優希たちとたくさんご飯に行きました。家でもお母さんに甘えちゃって堕落した生活を送りました。……それで、その結果がこれです……えいっ」
和は俺の手を引っ張るとダウンコートの中に忍び込ませる。彼女にされるがままにしているとぷにっと跳ね返る弾力を感じた。
指を伸ばすと沈みこみ、柔らかさに挟まれてしまう。なんとなく察した俺は最後の確信を得るためにぐにっとそれをつまんだ。
……なるほどな。
「……和」
「はい……」
「もしかして、ふとっ」
「ダメです! それ以上はわかっていても口にしないでください!」
乙女として現実を直視したくないのだろう。もしくは彼女の持つプライドか。手をブンブンと振り、それ以上は言わせまいと口を手で覆った。
「そ、それでですね? 私も少しの間、運動をしようかなと思いまして……京太郎君にも付き合ってほしいんです」
指をモジモジと恥ずかしさを堪えてお願いする和の姿にキュンと胸が締め付けられる。彼女のお願いならなんでも受けてしまう。天使からの願いだもん、仕方がない。
もし狙ってやっているのだとしたらとんだ小悪魔だ。
「わかった。俺も今はオフシーズンだし、和のコーチとしてダイエットを成功させてやろう」
「ダ、ダイエットじゃないです! ただの運動ですから」
「そうだったな。運動、運動」
「もう……乙女にとっては死活問題なんですからね」
自分で乙女って言っちゃうあたり和らしい。服の趣味も高校の時から全然変わってないし。だから、体型の維持にも気を遣っているのかもしれない。
でも、まぁ……。
「俺はこのくらいが好きだけどなぁ」
「ひゃっ!?」
隣を歩く和のお腹を後ろから抱きしめる形で揉む。ぷにぷにもちもちで最高の感触だが、彼女は半眼で俺を睨みつけてきたので揉むのは止めることにした。
「……京太郎君?」
「……本気で怒ってる?」
「怒ってます。……そんなこと言うなら本当にぶくぶく肥えて豚さんになっちゃいますよ」
「それでも俺は和のこと好きだけどな」
「……やっぱりなしです。ちゃんとダイエットします」
「そっか」
照れる彼女の反応に笑って返すと何気なしに俺たちはまた歩き始める。
「……ダイエット。いくらでも付き合うよ。いつまでも付き合う」
「……そうですね。京太郎君が傍にいてくれないとまた油断して太っちゃうかもしれないですし……ずっと見ていてもらわないと困ります」
「見てるよ。今までもずっと和しか目になかったし、これからも和だけだ」
「……手」
「ん?」
「離れないように……手を握ってください」
そう言って彼女は手袋を外して、白く雪のようにきめ細やかな手をさらす。赤くかじかんだ指先が震えていて、俺は上から被せるように優しく包み込んだ。
「……こうしていたらいつでもへっちゃらだな。寒い日も二人なら温かいし、暑い日は和の手がひんやりとしていて気持ちいい」
「……そうですね」
さっきまで俺が走っていたコースを戻っていく。ゆっくりゆっくりと出口まで歩を進める。まるでこれからの長い人生を歩くみたいに。辛い挫折も待ち構えているだろう。だけど、俺はこの道を最後まで歩めるに違いない。
そこに彼女がいるのなら、絶対に。
「和。好きだよ」
「……私も……好きです」