*同タイトルでPixivさんにも投稿しております。
わたしはもうあの蠍のように、
本当にあなたの幸いのためならば、わたしのからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。
――宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
◇◆◇◆◇◆◇◆
死の瞬間には苦痛がある。
そのことを――彼女は身を以て初めて理解した。
(ああああああああああああああああああ)
四肢が溶ける感覚。繋がれたままの己が、先端から徐々に融解してすり減っていく感覚。そしてそのすり減った先から、新たなるナニカに変質していく感覚。
(ああああああああああああああああああ)
自身がゆっくりと変質していく感覚は、単純な肉体の苦痛以上に彼女に恐怖を感じさせた。溶けていく先々から改変されていく自分。ならば今ここにある自分はなんなのか。苦痛を感じるこの自我でさえも、既に変質してしまっているのではないか。もはや手足に留まらず、元の肉体は半分以上溶けて爛れおち、別のモノへとすり替わってしまった。もし仮に。かつての己が全て消え去りこの肉体が完全に融解してしまったら、その時に残るのは一体何なのか。果たしてその時の自分はいまの自分なのか、それとも新しいナニカにすり替わってしまうのか。
(ああああああああああああああああああ)
ウルクにおいて、死はさほど忌むべきものではない。本来ならば。肉体的であれ精神的であれ死を迎えたものは冥府の女神の世界へゆき、そこで永遠の静謐に包まれながら穏やかなる時を過ごす。でもこれは。
(ああああああああああああああああああ)
すり減っていく自分。とろけてゆく自分。どろどろにぐちゃぐちゃに溶けてとろけて融解し、瓦解していく自分。
(ああああああああああああああああああ)
もし肉体と同じように魂にもカタチがあるというならば。果たして自分は死後に無事、冥府の女神の御許に行きつくことが出来るのか。
(ああああああああああああああああああ)
涙は流れず、ただ身体だけが溶けてゆく。
――そうして、シドゥリは人生で一度目の死を迎えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
再会した時、彼らが向けてきたは微笑みではなく敵意と刃だった。
(イシュタル様……そして、天文台の、マスター……!)
駆け寄りたかった。彼らに宿場として貸したカルデア大使館とやらで、ささやかな酒宴を開いた時のように。肩を抱き無事を喜び、彼らを称えてその労をねぎらい、楽しげで信じられないような冒険譚を聞き、涙を流して笑いあいたかった。
つい昨日まで確かにあったあの日々が、本当にもう遠い昔の出来事のようだ。
彼らは自分に気づかなかった。その刃の返礼に、だけど応えることは出来ず、ただ無力なまま逃げだした。
遠ざかる仲間たちのもとから、不思議そうな声が聞こえる。見たこともない奇妙な黄色の服の、まあなんというかとても個性的というか、控えめにいうと常識とか理性とかを根こそぎ前世あたりに忘れてきたようなタイプ女性の声。
「おかしなラフムね? 結局、何もしないまま逃げちゃったわ」
「はい。今までのラフムとは違いました……ラフムにも性格に個体差があるのでしょうか……」
「しかし、無抵抗でもラフムはラフムだ。彼らは群体、超感覚でそれぞれ情報を共有している節がある」
マシュ・キリエライトの疑念に答えたのは遥か時の彼方、カルデアにいる未来の魔術師だ。確か――ロマンと呼ばれていたか。
特異点を旅する彼らのナビゲーターを務めてきただけあって、遠視の魔術師の言葉は酷く冷静なものだった。
「この先、隠密行動が出来なくなってはキミたちの身が危ない。追いかけてトドメを」
その言葉は正しい。圧倒的に正しくて、どこまでも正しくて、ただ正しさだけがある。そうだ。
いまの自分は既に別のモノなのだから。既に死んだ身なのだから。彼らの為を思うならば、この場で倒されてしまったほうがいい。だが。
そんな未来の魔術師の言葉を止めたのは、かつて人であった自分が仕えていた女神だった。イシュタル。こんなにも綻びかけた世界にあって、なお光り輝く美しき女神。
「………………やめて。あのラフムはいいわ。広場に急ぎましょう」
あるいは人ならざる女神だけは、自分が何者であったかを気づかれたのかもしれない。怪訝そうなマシュを怒鳴り飛ばす。
「イシュタルさん? あの……何か?」
「いいから! 一刻の猶予もないんでしょう!? ダブスタで悪いけど、もう様子をみている状況じゃないわ! 広場に突入するわよ! 何もかも、手遅れになる前に……!」
新しい身体は、しかしそう長く持ちそうにもなかった。
痛み、傷み、悼み。切られた傷から血が流れる。それも痛み。身体の痛み。
かつて仲間であったはずの友人たちに切り刻まれる。これも傷み。魂の傷み。
もはや残る最後の仕事は、誰にも迷惑をかけず死ぬことだけだ。
一度目の死には、ただ恐怖があった。だが今度の死は、もはや救いですらある。
死に場所を求めて彷徨い歩いていた時、懐かしい声を聞いた。美しい、翡翠の色の。
「何もなかった、この大地には、何もなかった……!」
かつて見たあの美しい人そのままの声で。
「はじめから使い捨てだった……はじめから偽物だったんだ……!」
あの時の彼が、まるでそのまま嘆いているかのようで。
「未来も、希望も、自分の意思も――友人も、ボクにはいなかった」
その嘆きに。その悲嘆に。
「ただ、ティアマト神の唯一の子供だと。そんな事にすがるしか、なかったのに――!」
到底兵器などではありえない、心あるその叫びに。
今度度こそ。
自分の死に場所を見つけたと知った。
「え……? おま、え……助けて、くれたのか?」
驚愕の声。その表情にほっと安堵する。大丈夫。
驚けるなら。その心があるならば、あなたはきっと大丈夫。だから。
「――逃ゲ、ナ、サイ、エルキ、ドゥ。アナタ。モ、長クハ、ナイデショ、ウ、ケド」
「! キミは――昨日、アイツらに連れて来られた……でも、どうして? どうしてキミが、ボクを助け……」
かつて見たのと同じ優しい翡翠の瞳に困惑の色が浮かぶ。本当にあなたは。あなたときたら、まったくちっとも変っていない。
「――シアワ、セニ。ドウカ、シアワセニ、ナリナサイ」
微笑みを浮かべたつもりだが。この姿では表情までは伝わらないかもしれない。けれどきっと。心は通じると信じて言葉を紡ぐ。
「親愛ナル、友。エルキ、ドゥ」
ああ、我が王の心を救ってくれた唯一のあなた。
「私タチ、ウルクノ民ハ、アナタへの感謝を、忘レハ、しまセん」
人であった頃。王の元で働いていた頃は、三日ほど寝ずに仕事をすることなどざらだった。死にかけたいまであっても、口ぐらいならばまだ動く。ならば喋る程度は造作もない。
ましてや――これが最後であるとしたら。
「アナタハ、孤高ノ王ニ、人生ヲ、与エマシタ。偉大ナ王ヘノ、道ヲ、示シテクレマシタ」
それがどれほどの偉業であったことか。
人でない王をあなたは人に戻してくれた。
「アナタノ死ヲ、嘆カナカッタ者ハ、いなカッタ。アナタノ死ヲ、忘レル者ハ、イナカッタ……私、モ。私モ、トテモ、悲しカッタ」
言葉にすればそれは、こんな簡単なことだったのに。
「ダカラ、ドウカ、シアワセに、エルキドゥ。美シイ、緑ノ、ヒト」
たとえあなたの身体が人間ではなかったとしても。
目を見て会話し、気持ちを伝えられればそれだけでよかった。
「アア――良カッタ。アリガトウ、言エテ、良カッタ」
死にゆくだけのはずだった自分が、最後の最後に役に立てた。
「アリガトウ、アリガトウ、アリガ、ト――」
意識が遠ざかる。一度目の時とは違う、生き物としての死の感覚。訪れる終焉の気配に、涙がでそうになるほど歓喜する。
それでも、涙はでないけど。
成すべきことを、することが出来た。
伝えるべき言葉を、伝えることができた。ああでも、叶うならばあと一つ。
(最後に――)
――最後に?
(王……に……)
――王に?
その先は――分からない。
そうして、シドゥリは人生で二度目の死を迎えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
明日、世界の全てが決まる。
ティアマト神との戦いを控えた決戦前夜。しかし王の執務室から明かりが途絶えることはなかった。
(ディンギルは残り使えてあとせいぜい……兵士たちではなく我自身の魔力のみで起動させられるのは二回といったところか。現時点でこのウルクが用意できる最大の戦力ではあるが、原始の母神を相手取るにはちと荷が重いであろうな。だがこの我の宝物庫を軒並み空にしてもそれ以上は望めん。ちっ……あの愚女神小娘め。よりによってグガランナをなくすだと? 度し難い阿呆めが。あれさえあれば冥界の扉が開くまでティアマト神を留めることも可能だったであろうに……)
相も変わらず気にくわぬことばかりしでかす愚女神を胸中で罵り、未来からきたという、気にくわないというほどでもない天文台の魔術師どもの戦力を分析する。
(マシュ・キリエライトの宝具は対悪宝具としては優秀だがそれだけではティアマト神を押しとどめるには弱く、なによりあの雑種の魔力も枯渇死寸前。既に指先から壊死しそうであったわ。あやつらは冥界に落したあとの神と戦うという役目がある以上、あたら無駄に消費させるわけにもいかぬ。となると、やはり主戦力はディンギルとなるか)
考える考える考える。
既に夜も更けた執務室にあって。
ウルクの王は、神殺しの手段を全身全霊で思考する。
(ティアマト神の迎撃は南門と東門のディンギルで行うこの決定に変更はない残った兵士の配置もすでに完了したエレキシュガルの指定は祭祀場の資料により既に座標のすり合わせが済んでいるだがどう考えても足りぬエレキシュガルが冥界の門を開けるまでの時間をどのようにして稼ぐかが最大の鍵となるか)
現状で持ちうる材料、持ちうる戦力。その全てを洗い出し、総動員して思考する。思考する思考する思考する。
ウルクの――否、現在この世界に残ったただ一人の王は諦めない。
なぜならここから先は『あり得なかったはずの未来』だからだ。
かつて己が垣間見たはずの未来において。この局面でウルクに残っているのは本来、自分ただ一人であるはずだった。だがいまは。五百人もの民が生き延びている。
それは運命の改変だ。
忌々しい魔術王などという愚か者がこの時代に聖杯を送り、虚数世界よりティアマト神が引き出された。その時点でもはや確定していた筈の世界の終焉。
その予定された時代の到達点を、五百人もの人間が超えた。
これが、偉業でなくてなんのか。
たった五百人ではない。
五百人もの命が、運命を乗り越えだのだ。
なればこそ――
(既に予定されていた世界の運命は変更された。ならばこの先――終焉がいかなる形になるかはこの我でさえも分からない)
だから、王は足掻くのだ。
予定された調和を己が望む形へと捻じ曲げるために。
限界まで脳を酷使しながら、王は忘れていた吐息を思い出すように溜息をついた。本来ならば、絶対なる唯一の王に溜息など相応しくない。だが、ここで倒れては元も子もない。
「根を詰めすぎたな……少しばかり休むとするか。シドゥリ、水差しを持て……」
言いかけて。誰にともなく呟く。
「……ああ、そうであったな」
彼女は既に――天命を全うしたのであった。
けっして忘れていたわけではない忌々しきことをまた一つ思いだし、王は思わず舌打ちをした。瞑目するようにしばし瞳を閉じて、椅子に背を預ける――
と、そこで。
馴染みある気配を感じ取り、彼はふと目を開けた。赤い瞳に映る姿に、彼らしくもなく目を見張る。
「―――……――」
そこに居たのは彼にとってひどく見慣れた姿だった。いや、見慣れていた、と言い換えた方が正しい。
滑らかな褐色の肌。薄布によって隠された優しげな面立ちと、その隙間から覗く慈愛に満ちた穏やかな瞳。
『――………………』
かつて見たままのシドゥリがそこにいた。
生前とまったく変わらぬ美しき姿で。
思わず。
こんな時だというのに思わず、王の口元に笑みが浮かぶ。
「なんだ貴様……わざわざ来たのか? ふっ……今宵のエレキシュガルはよほどの大忙しとみえる。死者の魂にすら構う余地がないとはな」
ここ最近もさることながら、今日だけで大量の死者が冥界へと赴いた。おまけにこのウルクの真下に冥界を相転移させる準備もある。到底、身勝手な魂の一つ一つに構っている余裕もないのだろう。
彼女は優美に微笑んだ。
『――……――……』
「戯けめ。先に逝った臣下の不忠を咎めるほど、この我が狭量な王に見えるか?」
『……――…………』
「ああ。分かっている。天文台の魔術師たちには今宵は休息を与えている。つかの間ではあるがな」
『――…………――……』
「なに? 貴様この期に及んで……いいか。ティアマト神は既にウルクの目の前まで迫っておるのだぞ? 余人ならいざ知らず、我が休んでいる暇などあるか」
『――……――――』
「ああ、もううるさい奴めが! 分かった分かった。天の丘にいけばよいのだろう? ちょうど休憩をしようと思っていたところだ。よいか、別に貴様に言われたから休むのではないからな! あくまで、我自身の決定として休むのだぞ! そこのところを間違えるなよ!」
『……――――――……』
「ちっ……相変わらず、何もかもを見透かしたような顔をしおって……まあよい。今宵だけは特に赦す。どうせ明日はウルクの最期だ。じき我も逝く。貴様は一足先に冥界にて待つがよい」
そう告げると、相手はふっと満足げに目を細めてから、丁寧な仕草で深々と一度頭を下げた。
そして――そのまま呆気なく消えた。
現れた時と、同じように唐突に。
その姿を見届けて。
夢幻であったかの如く姿を消した、今はもうここにはいない忠臣に語りかけるように、王は静かに呟く。
「……冥界で待てよシドゥリ」
彼の他には誰もいない。王の執務室において。
あてもなく紡がれる言葉は、さながら遺言のようにも聞こえた。本来ならば王は無為な言葉など吐かない。至高なる王の言葉はその全てが価値のあるものであり、無駄なものなど一切ない。聞く者のいない言葉など、王が語るべきではない。だが――
「どのような形の結果になろうと我の命は明日で終わる。確かに、明日の戦いでこのウルクは滅びるだろう。だがこの時代で特異点の基点となっているのはティアマト神と聖杯――そして『この我』だ。即ち――我が消えればその結末は違う解釈になる」
朗々と語られる言葉。聞く者も聞かせる相手もいない言葉。本来ならば意味のないはずの言葉が、虚空に溶けて消えてゆく。
「ここで我が消え去れば、滅びるのはあくまでウルク第五王の治世のみ。この後に続くウルクの第六王の時代は健在となるであろう」
この奇跡を。この世界を。これから成し遂げる、神殺しの偉業を無為なものにしないためには。
「倒さねばならぬのはティアマト神だけではない。特異点を正し定礎復元を成すためには、『この先に我も不要』となる。なに、冥界には行き慣れておる。このウルクの次に馴染んだ我にとっての庭のようなものよ。待っていよシドゥリ。明日、貴様には一番の特等席にて神殺しの偉業を見せてやる」
そう言って、王は笑った。
哄笑でもなく嘲笑でもなく爆笑でもなく、ただ鮮やかに。
その生き様を、共に歩んだ民を、諦めなかった不屈のウルクを誇るように楽しげに。
子供のように無邪気に、ただ笑った。
天文台のマスター、デミ・サーヴァント、ディンギル、天空の女神、冥府の女神、そして――天の楔と天の鎖。
夜明けまでは、あと僅か。
――足りない鍵は、あと一つ。