貧乏神の遠足   作:紅野生成

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3 迷わせ小僧(前)

 小降りの雨の中林を進んでいくと、女将がいったとおり川があった。

 底の石がころころと見える浅い川の幅は、大人が両腕を三度伸ばした程度しかない。 

 

 靴を脱いでデニムの裾を捲り上げてざぶざぶと進む。まだ川の水は冷たく、底の小石に土踏まずが悲鳴をあげて、なかなか思うように渡れなかったが、それでもなんとか対岸にたどり着く。

 

 砂で乾かした足で靴を履くと少しじゃりじゃりしたが、無視して先へと足を進めた。

 川のこちら側は林というより森に近く、入口では茶色い土が顔を出していた道も、ほどなく草を踏んだだけの獣道に変わった。

 

 巣に帰るカラスたちの鳴き声が、薄気味悪くて思わず小走りになる。日がとっぷりと暮れる前に、何とかして小屋にたどり着きたかった。

 

 平地よりも早く闇が訪れる森の、見上げた木々の隙間からのぞく群青色の空が気を焦らせる。

 突然小さく開けた場所に出たかと思うと、その脇に小屋が立っていた。

 

「助かった」

 

 古い造りの小屋は夜にはすきま風が、昼に日の光が差し込みそうだ。

 軋む引き戸を開けて、湿った体をタオルで拭く。懐中電灯はあるが、いつまでもつかはわからない。

 

「早く寝るに限るな」

 

 座ってひと心地ついたころ、入口の引き戸が音を立てて開けられた。。

 

「おや、先客がいるとは驚きだ」

 

 傘をさした男が立っていた。

 

「一緒にいいかい?」

 

「どうぞ」

 

 じゃ、といって男は高志の向かいに腰をおろす。

 

「実はひとりで不安だったからうれしいです。懐中電灯もいつまでもつかわからないし」

 

「もったいないから消しておきな。ロウソクなら一晩分はたっぷりあるから」

 

 ロウソクの炎の薄明かりに、男の横顔が揺れる。

 三十位だろうか、まだ若い男だった。

 

「山仕事をしていてね、ここにはよく立ち寄るんだ」

 

 この先の村の唐傘という宿屋で女主人に追い出されたというと、男は声を立てて笑った。

 

「あの女将なら知っているよ。悪い奴じゃないから許してやってよ。多分、てめぇの男がくる足音でも聞こえたんだろうさ」

 

 そうか、そんな程度のことだろうか。

 

「今日の客は兄ちゃん一人だろう? 女将の男はさ、煩い奴なんだよ」

 

 何か違う気がしたが、あえて問い返すのはやめにした。聞いても、本当のことは教えてもらえない気がしていたから。

 

「腹へってませんか? 女将さんがくれた握り飯です。全く親切なんだか意地悪なんだか」

 

 握り飯をさしだすと、いいねぇ、といって男は美味そうにほうばる。

 まだ若いように見えるが、屈託なく笑う目尻から頬にかけて刻まれるしわは深かった。

 

「明日はあの町に戻って、薬師屋という薬屋を探さないと。どのあたりにあるか知っていますか?」

 

 男は少し考えるふうに顎をさする。

 

「あの町にそんな店はないよ」

 

「えっ? 古い店らしいけど」

 

 男はゆっくりと首をふる。

 

「それにあの町には当分戻れない。一昨日上流で大雨があってね、明日の朝にはあの川も水で溢れて、今日とはかなり様子が違っているはずだ。人の足じゃ渡れっこない。それにこの雨だ」

 

 いつの間にか、木々の葉を叩く雨音がうるさい程の大雨になっている。

 

「まいったな」

 

「明日の朝、来た道をそのまま進むといい。ほかの町へ行くバスが出ているから、乗り継いでいけば家に帰れるさ」

 

 財布の中身を考えると、落ちた肩が外れそうな気分だった。

 

「うぅー、寒いと小便が近いや」

 

 男は傘をさして雨の中、表へ出ていった。

 ひとりきりになって揺れる蝋燭の灯りをぼんやり眺めていると、戸板が叩かれる音がした。

 

 とん、とんとん

 

 男が傘で手がふさがって、戸を開けられないでいるのかと思い腰をあげた。

 

「ちょっと待ってください」

 

 そういって引き戸を開けた高志は、ひっと声を上げた。

 祭り帰りみたいに、寸足らずの着物を着て襷をかけた男の子が立っていた。

 腰には竹の筒をさしている。

 

「道に迷ったのかい? 家は近いの?」

 

 男の子は黙って高志を見上げている。

 胸にちくりと痛みが走る。

 女将の言葉がよみがえった。

 

――子供は入れちゃいけないよ。

 

 ただの例え話かと思っていた。だが、こんな幼い子供を森の中に放ってはおけない。

 動こうとしない男の子に、高志は女将にもらったおにぎりを差しだした。

 

「中に入ってこれを食べなよ。寒いだろ? あのタオルも使っていいから」

 

 小屋の中を指差して視線を戻した高志は、またもやひっと喉を詰まらせた。

 

「何やってる? 戸を開け放ったりして」

 

 小便にいった男が、呆れ顔で立っていた。

 

「いま、男の子がここに。いなくなっちゃったけど」

 

「落ち着きなよ。いいから座んな」

 

 引きずられるように腰を下ろした高志は、それでもまだ格子戸の外が気になって仕方がなかった。

 

「でるんだよ。このあたりの小径には。この世の者じゃない輩がさぁ」

 

「幽霊ですか?」

 

 すると男は膝を打って笑い、目尻の涙を拭う。

 

「あんたは鼻水垂れた坊主かよ。幽霊だって、こんな山奥に出たんじゃ一文の特にもならないってぇの」

 

 幽霊ではないと聞いて少しほっとする。

 

「昔っからこの辺りの森ん中には、化かし狸だの化け狐だの、色々とでたらしいよ。年寄りの中には、狐の嫁入りを見たって墓に入るまで言い張った奴もいるくらいだから」

 

 狐の嫁入り。

 古い記憶が蘇って、高志は頭の芯がしびれるのを感じた。

 

「あんたが見たのは小僧だろう? 新入りだよ。ここ数年山に入る者を道に迷わせてやがる。次の朝にはちゃんと森の出口にいるんだと。何がやりたいんだかねぇ」

 

「やっぱり人じゃないんですか?」

 

「人じゃないな。何年も経つのに、これっぽっちもでかくならない」

 

「放っておいても大丈夫ですか?」

 

「大丈夫さ」

 

 ほっとして、残っていた握り飯を口に入れた。

 

「ところであんた、狐の嫁入りでも見たことがあるのかい?」

 

 心臓が跳ね上がる。

 

「いえ、狐の嫁入りでは」

 

 男は酒を出すと、一つを高志の方に投げてよこした。

 

「聞かせてくれよ。酒のつまみにちょうどいい」

 

 あの時のおじいさんは、誰にもいってはいけないと念を押したけれど、この男なら、平気な顔で妙な話をするこの男なら、話しても大丈夫だろう。

 

「子供の頃の話です」 

 

 間に酒を挟みながら、高志はぽつりぽつりと話し始めた。

 

 

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