最初は小学三年生のときだった。親戚のおばさんの葬式をすませて、寺の前にゆかりの人々が集い、棺を乗せた霊柩車が出て行くのを見送ろうとしていた。
ゆっくりと走り出す霊柩車のあとを、ついて行く二人の女の子がいた。
同じ背格好におかっぱ頭、桜色の着物を着ている。
寺の門を出るために停止した霊柩車が再び動きだすと、門の外にいたのは二匹の狐。
大型犬に勝るほど大きい二匹の狐は、美しい薄茶色の毛をまとい、その尾はふさふさと豊かだった。
二人の女の子が門の手前で立ち止まり、折り目正しく頭を下げた。
するとそれに応えるように、豊かな尾をばさりと半円に揺らして、二匹の狐が霊柩車のあとを、まるで守るかのようについていく。
ぼくがあんぐり口をあけてその様子を見ていると、低く落ち着いた声がかけられた。
「坊や、あれが見えるのかね」
声をかけてきたのは、見知らぬ老人。
「おじいちゃんも見た? 女の子が二人とね、狐がすっごくおっきいの」
老人は唇に指を当て、しーっという仕草をする。
「おじいちゃんにも見えるよ。でもね、あれは他の人には見えていないから、誰にもいっちゃいけないよ。決していってはいけないよ」
こくりとぼくはうなずいた。
「あれはなに?」
声を潜めて聞くと、老人は皺だらけの手でぼくの頭を撫でた。
「お母さんの血筋じゃなぁ。坊や、あれが見えるなんて大したものだよ。亡くなったおばあさんは、お嫁に入るまでは神徒さんでね」
「シントさんて、なに?」
「神様を信じる人達のことだよ。でもお嫁に行った先は仏教徒だったから、おばあさんも仏教徒になった。でも心の奥に神様がいたのだろうね」
「神様って、心に住んでいるの?」
「そうだね。だから仏の御使いの二人がおばあさんを送り出し、神の御使いの狐にこの方をお願いいたしますと頼んでいたのさ」
「あの子たちは神様の生徒?」
ぼくは覚えたての言葉を使ってみた。
「そんなものかもしれないな。ほら、あそこのしめ縄の内に桜の木が二本たっているだろう。あの桜の木が、あの小さな女の子たちの正体だよ」
そうか、だから綺麗な桃色の着物を着ていたのか、とぼくは思った。
「おじいちゃんはお母さんのお友達?」
「うん。おじいちゃんはね、お母さんに坊やの成長を見守るように頼まれたんだ。だから様子を見にきたのだよ」
お母さん友達だから、チスジとかいったんだ。お母さんと仲良しだったんだな。ぼくは少しだけ嬉しくなって鼻をふくらませた。でも、チスジってなんだろう。
「もう少し話していたいが、どうやらお父さんが呼びに来るようだよ。さあお行き。また必ず会えるから」
髭の老人は人の間をぬって、向こうへと歩いていってしまった。
「高志、こっちにおいで」
「本当だ、お父さんが呼びにきた」
あっ、おじいちゃんの名前を聞くのを忘れちゃった。
慌てて振り返ったとき、老人の姿はどこにもなかった。二人の女の子や狐と同じくらい不思議なおじいちゃんだったとぼくは思った。
どうしてか胸の奥が、ほわっと暖かくなった。
お母さんの友達ならきっといい人だ。そう思うと楽しくなって、大きな返事をして父親のもとへと向かった。
「まぁこんな感じで、幼い頃の夢とも現実ともつかないような話です」
男は一度も口を挟まずに聞いていた。
あまりにも真剣に聞いているから、話の内容が下らなさ過ぎやしないかと、こっちが恥ずかしくなるほどだった。
「なるほどなぁ。どうりであの小僧が見えるわけだ」
森の薄闇が見せた幻と思おうとしているのに、変な肯定はしないで欲しいものだ。
「まさかあの男の子が、狐や女の子と同じ者だっていうんですか?」
「そんなに立派なもんじゃないよ。狐や女の子が昔で言うところの店の手代だとしたら、あの小僧は丁稚坊主だ」
例えがわかりづらい。
「その爺様がいったとおり、血筋だよ」
思い浮かんだのは、自分の中に流れる母の血だった。
「あいつは確かに丁稚坊主だが、もしまた会っても決してついて行っちゃあいけないよ。あいつは本当に人を惑わすから」
「惑わしますか?」
「何をやりたいのかわからん。取って喰うわけでもないし、迷わせて命をとるでもない。だがあとをついて行けば、確実に一晩は迷わされる。そんで、日が昇ると森の出口にいるってあんばいさ」
あんなに小さくても、何か目的はあるはずだ。高志は思いを巡らせたが、とんと答えは浮かばない。
「そういえば、唐傘屋の女将さんにも、子供は小屋に入れてはいけないといわれました」
「あいつも、なかなか親切じゃねぇか」
「そうなんです。ものすごい勢いでぼくを追い出したけれど、悪い人ではないと思います」
「全く、あんたもお人好しだな」
高志は座った膝に手を置いて、まっすぐに男を見る。
「理由があるはずです」
「理由?」
「はい。女将さんもあの男の子も、あの場で出会った訳があるはずです。みんな己の果たすべき何かのために動いている。だから、無意味じゃないはずです」
へぇ、男の目尻に深く皺が刻まれる。
「そして、周りが動いている理由も、その理も知らずに水面の藻屑のように流されているのが、ぼくなんじゃないでしょうか」
ほんの一瞬目を伏せた男は、すぐに笑顔で高志ををみやった。
「そんなお人好しじゃ、この山道抜けられるかも疑問だぜ。この山の怪に取って喰われっぞ。なにしろ、出るのはあの小僧だけじゃないらしいからな」
その後はくだらないことを話しながら、ちびちびと酒を呑んだ。
そろそろ寝ようかというところで、高志はデニムの尻に入れていた財布を抜いた。
リーン
鈴が鳴る。
「あんた、その鈴どうしたんだい?」
高志は鈴を手に入れた経緯を、掻い摘んで話して聞かせた。
聞きながら頷いていた男は静かに目を閉じ、何かを考え込むように腕を組む。
「その鈴、大事にしなよ。どっかで何か迷うことがあっても、その鈴が道案内になってくれる」
「鈴が? みんなこの鈴を褒めるけれど、高価な物ではないのに」
「値打ちなんて人様が付けたもんだろう? そいつはあんたにとって通行証みたいなものだ。普通なら通れぬ場所も、その鈴を持っていれば通れるさ」
男の頭がゆらゆらと船をこぐ。
「酔ってますね? もう寝てください」
「あいあい」
男は曖昧な返事をして体を横たえた。
軽くいびきをかき始めた男が、口の中に籠るほど小さな声で寝言を漏らす。
「ありがとうな、坊」
それきり、一言の寝言もなかった。変な寝言だと苦笑しながら蝋燭の灯りを消し、高志も男から少し離れた場所で横になる。
あっという間に夢と現の境が曖昧になり、雨の音がひいては寄せた。
そんな雨音に混ざって表を駆け抜ける、ぴしゃぴしゃという足音が幾度も響いた。
小屋から出るなといった女将の言葉は、裏返せば小屋にいたなら安全ということなのだろう。
自分を追い出した、女将の言葉を信じて瞼を閉じる。
枕がわりにしていたリュックを、耳に押し当てて眠りについた。
目覚めると昨夜の男は、すでに姿を消していた。
リュックを背負って、ほの明るくなってきた表に出る。男にいわれたとおり、先の道へと進んでみようと思った。
三十メートルほど歩いて、最初の緩やかな曲がり道に来たとき、何とはなしに小屋の方を振り返って、高志はひっと息を呑んだ。
ちょうど小屋の立つあたりに、男の子が仁王立ちになってこっちを見ていた。
遠目にも睨みつけている眼光が突き刺さりそうで、思わず足が止まる。
男の子の口が開こうとした刹那、森の木々の隙間を縫って、幾筋もの朝日がさした。
何かをいおうとした男の子の言葉は、その小さな体とともに朝日の中に溶けて消えた。
何者かの存在が消えたことを知らしめるかのように、森に住まう小鳥たちが一斉に鳴き声をあげる。
その声に弾かれて高志は走り出した。後ろを振り返ることなく、喉が張り付いても走り続けた。