「――目標個体、発見」
偵察機を飛ばしていた赤城さんが、例の新型を見つけたらしい。
「北西、ここから五分程の距離にいますね。周囲に他の深海棲艦は見当たりません」
「思ったより近くにいましたね」
「もしかするとあちらもやり返そうとしているのかもしれません。長門たちのことを探しているのかも」
「だとすれば――」
「尚更放置しておくわけにはいかないデース」
好都合だ、と言いかけたところで金剛さんが先に声を上げた。
「敵意剥き出しの危険な深海棲艦を放置しておけば被害は拡大するばかり。ここで確実に仕留めマス」
金剛さんの言う通りだった。
私たちは今、提督の仇討のためにここにいるわけではない。危険な深海棲艦を討つために来たのだ。
「他に深海棲艦がいないのは好機ですね。もしかすると敵は指揮官タイプの個体ではないのかもしれません」
「潜水艦が潜んでいるという可能性は?」
「周囲の状況を慎重に窺ってますが、まずないと見て良いでしょう。僚艦のことを意識しているような動きには見えません」
そこで、ようやくこちらの偵察機も奴を捉えた。
人型。付属している大きな尾。何かを追い求めるかのような血走った眼。そして大きく吊り上がった口元。
奴は、笑っている。笑いながら獲物を追い求めて、無茶苦茶な軌道で海上を移動していた。
おぞましい。あれは普通の深海棲艦とはまた違う。そう直感が告げていた。
「赤城、瑞鳳。艦攻隊を出してくだサーイ。奇襲が成功したタイミングで、私と比叡が長距離砲撃を敢行するネ。そしたら後は古鷹と利根が接近戦に持ち込みマス。私たちはそのサポートに回る。これが作戦の概要デース」
「心得ました。……瑞鳳、行けますね?」
「当然です」
手にした矢に力を込めて、本来在るべき形へと変換する。それが空母たる艦娘に備わった艦載機制御能力だ。
「発艦!」
赤城さんと呼吸を合わせて矢を放つ。力を帯びて解き放たれた矢は、大空で元の形――艦載機へと姿を変える。
偵察機から得られる視界・位置情報を艦攻隊に連結させる。
細かい操縦は艦載機に乗っている妖精さん――艦娘と似たような霊的存在と言われている――に任せている。私たち空母は発艦と着艦、そして艦載機が活動するために必要な情報連結等のサポートが主な役割だ。簡単そうに思われがちだけど、艦隊行動を取りながら司令塔としての役割もこなさなければならないのはかなり神経を使う。
敵がこちらの艦載機に気づいたようだ。黒い合羽の内側から何機かの艦載機が飛び出してくる。深海棲艦が持つ、少々グロテスクな印象のある艦載機だ。
重力を無視したような不規則な動きでこちらの艦載機群に突っ込んでくる。
「敵は一体のみ。制空権の確保よりダメージを与えることを優先しましょう」
「了解!」
敵艦載機の攻撃で艦攻隊が何機か落とされた。落とされた艦載機と妖精さんは後で回収・復活させられるから今は意識から外しておく。意識は敵に集中させた。
敵が吠える。笑いながら、巨大な尾を振り回して歓喜の雄叫びを上げる。
狂戦士。そんな言葉が脳裏をよぎった。
こいつが。
こいつが、提督をあんな目に遭わせたのだ。
「……沈めえぇっ!」
こちらの敵意を艦載機に伝達させ、必ず敵を落とせと厳命する。
その意思が反映された艦攻隊は一つの生き物の如き統制された動きで敵に向かっていき――。
「っ!?」
敵は、尾を艦攻隊に向けた。その尾にはよく見ると口がついており――それが大きく開いた。
それが主砲だと、出撃前に長門さんたちが言っていたことを今更思い出す。
開かれた怪物の口から放たれた砲撃の嵐が、こちらの艦攻隊を次々と撃ち落としている。対空砲でもないのに、でたらめな対空性能だった。
「……っ。こちらの艦攻隊、ほとんど落とされました……!」
「こちらも二割程度落とされました。……駄目ですね、いくつかは当たりましたが直撃したという感じではありません」
悔しさに歯噛みしている余裕はなかった。もう偵察機に頼る必要はない。肉眼でも見えるくらい奴は接近していた。
「面目ありませんが、艦載機が落とされ接近されると我々は出来ることが限られます。金剛、後は任せても?」
「任されたデース。ですが余力があるなら敵の牽制や奇襲はお願いしマース!」
「できる範囲でよろしければ」
赤城さんはそう言いながらこちらの手を取った。
奴も私たちを肉眼で発見したらしい。こちらに向かって真っすぐに突っ込んできた。
私たち空母は、できるだけ距離を取っておいた方が良い。
「さて、比叡。まずは私たちでぶちかましマース! 大丈夫デスカー?」
「はいっ! この比叡、やる気は十分です!」
金剛さんが手を振り上げると、比叡さんがそれに応じて主砲を放つ。
二人の呼吸はぴったりで、狙いも正確だった。
しかし、普通なら直撃していたであろうその砲撃を、敵は海上で側転しながら避けてみせた。
「シット! 敵が避ける先を見越して時間差で攻撃すべきだったネ!」
「大丈夫です。次は当てます!」
比叡さんの力強い言葉に応じるかのように、古鷹さんたちが飛び出した。
「敵の動きは私たちが抑えます! 金剛さん・比叡さんは砲撃に集中を!」
「面倒じゃが……吾輩は戦うこと以外能がないからのう。やってやるとするか――」
意気軒昂とした古鷹に対し、利根は相変わらず気怠そうな態度だった。しかし、これでいて戦闘中の動きは苛烈で成果も出す。こと戦闘においてはうちの重巡の中でもトップクラスの二人だった。
正面から向かう古鷹に、敵が哄笑しながら飛び掛かる。
「くっ……!」
古鷹が両腕でのしかかってくる敵を抑える。そんな古鷹の顔目掛けて、尾の主砲が突き付けられた。
「戦場においては常に周囲へ意識を向けんとなあ」
それを隙と見たのか、脇から利根が主砲を敵に直撃させた。戦艦の主砲ほどの威力はないけど、古鷹に突き付けられていた尾を弾き飛ばすくらいの効果はあった。
狩りを邪魔された、という認識なのか。敵は初めて苛立ちの表情を見せた。
古鷹の身体を掴んで、利根に向かって投げつける。本体は駆逐艦くらいの大きさだけど、凄まじい膂力だ。
「すまんが避けるぞ」
利根は古鷹を受け止めずに避け、そのまま敵に向かっていった。主砲・副砲を織り交ぜながら敵と交戦状態に入る。
「古鷹! くっ、利根……!」
利根を非難するような声をあげる比叡さんを、金剛さんが手で制した。
「古鷹なら大丈夫デス。それに敵の足を止めるという意味では利根の行動も間違ってません。……それより集中するネ」
金剛さんはこういうとき感情的にならず効率第一で動く。普段と違って、少し怖い。
しかし、敵が激しく動き回っているせいか金剛さんたちは十分に狙いを定められずにいるようだった。
利根と復帰した古鷹が二人がかりで敵の動きを抑えようとしているけど、敵は二人を上回る機動力でこちらを翻弄していた。
「……赤城さん。私、出ます。この子たちを」
矢を差し出して告げると、赤城さんはこちらをまっすぐに見つめてきた。
「どういうつもりですか? 艦載機のない空母など囮にしかなりませんよ」
「その囮になるんです。囮に専念するなら艦載機はあっても仕方がありません。赤城さんに託します」
「……そこまでせずとも、古鷹と利根に任せてはいいのではないですか」
確かにそうかもしれない。二人は防戦一方だけど、どうにか相手と渡り合っている。けど、それがいつまで持つかは分からない。
「ここで残っていても私にできることはほとんどありません。正直、赤城さんのように冷静でもないし……多分、役に立てない。けどこのままここで見ているだけなのは嫌なんです。……私にとっては、提督だけでなく同じ艦隊の皆も家族のようなものだから」
家族の危難を前にして、指をくわえて見ているだけなんて耐えられない。
「家族のために命懸けで戦った人たちを私は見てきました。……その姿が、その在り様が尊いものだと感じた。そして今、私はあの人たちと同じように人の姿を得て、共に戦う家族を得た。だから……行きたいんです。行かせてください」
赤城さんは珍しく――少し苦しそうな表情を浮かべた。
「貴方の意思は分かりました。艦艇だった頃に見た人の姿への憧憬は、私にも理解できます。……預かりましょう」
こちらが差し出した矢を受け取って、赤城さんは目を伏せた。
「ただ、私からは上手く言えませんが……おそらく提督が先程の言葉を聞いていたら、きっと何かを言ったと思います」
「私も、そんな気はします」
頷き、赤城さんや金剛さんたちに目礼して前線に向かう。
提督ならどんな言葉をかけてくれただろうかと、そんなことを考えながら。
近づけば近づくほど圧が強まるのを感じた。
この敵からは、普通の深海棲艦にはない禍々しいオーラのようなものを感じる。
こんなのと二人で接近戦を続けている古鷹と利根に感心してしまった。自分なら一分と持たない。
持たないだろうが――勝つためには囮の役割を果たさなければならない。
「こっちよ、この化け物!」
叫びながら敵の背後に近づき、護身用に持っていた副砲を放つ。
古鷹たちに気を取られていたからだろう。その砲撃は敵の背中に直撃した。
「……ア?」
敵が振り返り、こちらに真っ赤な眼を向けてくる。
怖い。恐怖で塗り潰されそうだった。だけど、ここで恐怖に屈するわけにはいかない。
「こっちだって言ってるのよ……!」
副砲を撃ちながら進路を金剛さんたちの方に向ける。少しでも近づけさせた方が命中精度は上がるに違いない。
「……ア、アアアアァッ!」
雄叫びをあげながら敵がこちらに突っ込んできた。速い。速力は向こうの方が上だ。
捕まるわけにはいかない。できるだけ距離を離そうと懸命に主機を動かす。
「瑞鳳!」
こちらの逃走をサポートするため古鷹が敵に砲撃を撃つ。しかしそれはあの巨大な尾によって防がれてしまっていた。
よほど先ほどの不意打ちがお気に召さなかったのか、敵の意識はこちらに集中しているようだった。自分を追っている古鷹や利根のことは完全に無視している。
あと少しで追いつかれる。
脳裏に『死』という言葉が浮かんだその瞬間、こちらの身体を掠めるような形で二つの砲撃が通り抜けていき――敵に直撃した。
金剛さんたちの主砲だ。間近で見たから分かる。完璧に入った。
敵の身体に大きな亀裂が走った。致命傷だ。こちらに伸ばしかけていた腕が崩れ落ちる。脇腹も大きく抉れていた。
しかし、それでも敵の闘争本能は収まっていなかった。動きを止めたこちらの身体に――巨大な尾が噛みついて来た。
「ぐっ、うぅっ……!?」
「離しなさい!」
「往生際の悪い……!」
古鷹と利根が敵に向かって砲撃を繰り返す。敵の身体が少しずつ崩れていく。
しかし、敵はこちらの身体を噛み砕くことしか考えていないようだった。深手を負いながらも凄惨な笑みを浮かべている。獲物を捉えて狩ることができれば満足だ、と言わんばかりに
牙が身体に食い込んでくる。痛い。砲撃戦で受ける痛みとは全然違う痛みだった。貫かれる痛みと、押し潰される痛みが同時に襲い掛かってくる。
「痛い……、い、痛いよ……!」
振りほどくことはできない。力は相手の方が上だった。
全身の骨がバキバキに折れたような気がした。
もう、自分は助からないのかもしれない。そんな思いが去来する。
けれど。
かつて自分が尊いと感じた人々も――戻ってこないことがほとんどだった。
それに憧れを感じたのなら、ああなりたいと感じたなら、この結末は必然なのかもしれない。
『瑞鳳』
幻聴か、提督の声が聞こえてきたような気がした。
『……は私のことを家族と……てくれたな。そして、……のために戦うことを……ものだと語った』
雑音交じりで聞き取りにくい。
どうせ幻聴なら、もっとクリアに聞こえても良いだろうに。
『だが、家族の在り様は決まっているわけではない。……は、……にそんなものを求めない』
その声は、何かを懸命に伝えようとしているようだった。
『――私が家族に求めるのは、生きて共に明日を迎えて欲しい、ということだ』
その瞬間、それが幻聴などではなく、本物の提督の声だと分かった。
通信機から聞こえてきている。聞き慣れた提督の声だ。
「て、いとく……」
『皆、生きることを諦めるな。皆、生かすことを諦めるな。私は――俺は、皆と一緒に明日を迎えたい』
「……く、うううぅっ!」
ずるい。
そんなことを言われたら、この痛みを忘れて諦めようとしていたのに――諦められなくなる。
痛い。抗おうとすればするほど身体に突き立った牙が肉を抉る。
それでも、私を家族と言ってくれた提督の願いは叶えたかった。
「……やれやれ。提督の我儘に付き合うのも面倒ですが、貴方がそこまでやる気を見せるなら応えなければなりませんね」
赤城さんの声に呼応するかのように、艦載機群が上空から魚雷を落としてきた。
多数の雷撃を喰らい、敵の身体がどんどん崩れていく。こちらの身体を締め付けている顎の力も弱まってきた。
「瑞鳳!」
飛び込んできた古鷹が尾の口をこじ開け、私を抱きかかえてくれた。
「ご、めん……」
「いいよ。私も――皆と一緒に明日を迎えたいって思うから」
離脱する古鷹に抱えられながら、あの敵が海の中へと崩れ落ちていく様を見た。
一歩間違えば、自分も道連れにされていた。それでも良いと思っていたはずなのに――今はそのことが怖い。
「提督は、不思議な人だね」
「え?」
「……提督のせいで、私、死ぬのが怖くなった気がする」
嗚呼――と古鷹が困ったように笑うのが見えた。
意識が落ちていく。しかし、不思議と恐怖はない。
また目覚められるという確信があったからだ。
白い天井が見えた。
頭がぼんやりとしている。ただ、身体のあちこちが痛い。
「瑞鳳、起きた?」
康奈ちゃんの声が聞こえる。視線を動かすと、こちらの様子を窺っている康奈ちゃんの顔が見えた。
他にも古鷹や赤城さんたちの姿があった。皆無事に帰投できたらしい。
「ここはホニアラ市の病院ですよ。犠牲者ゼロで全員戻っています」
「そうですか。あの、赤城さん。あのときは助けてくれてありがとうございました」
「貴方のやる気と、預かっていた艦載機の妖精さんたちの要望に応えただけです。瑞鳳は随分と好かれているようですね」
「……いえ。私一人じゃ、多分諦めてたと思います。提督の言葉が届いたから、まだ生きなきゃって思って」
「だそうですよ、提督」
赤城さんの視線の先には提督の姿があった。
「そうか。それなら私も奮起した甲斐があったな」
提督は上半身を起こして、こちらに温かな眼差しを向けてきた。
なんだか、妙に照れ臭く感じる。
「あの、提督。戦いの途中で提督の声が聞こえたんだけど……」
「目が覚めて康奈に状況を尋ねたんだ。そうしたら皆奴との戦いに出たというじゃないか。何ができるわけでもないが、何もせずベッドで寝たまま待つのも性に合わない。長門たちは残っているというから、通信機を借りてどうにか状況把握に努めようとしたんだ」
「それで、瑞鳳さんがピンチになったから口を出さずにはいられなかった、とのことです。阿呆ですねえ。大怪我して意識が戻ったばかりだというのに。長門曰く『半ば錯乱しているように見えた』そうですよ」
クスクスと赤城さんがおかしそうに笑う。提督はばつが悪そうに咳払いをして視線を逸らした。
「でも、私嬉しかった。提督の言葉がなかったら、多分ここには戻ってこれなかった気がするから」
「そうですね。そこは認めましょう。……提督、貴方は何だかんだで私たちにとっての精神的支柱なのです。瑞鳳だけではない。ここにいる者、いない者の多くが大なり小なり貴方を必要としている。だからこそ、もう少し自分の身は大事にしていただきたい。貴方はときどき無茶をする」
赤城さんの言葉は、この場にいる全員の総意のようなものだった。誰一人異論を挟まず、提督に視線を向ける。
「……分かった。無茶はしないよう努力しよう」
半ば観念したかのような言い方だった。
「ねえ、提督」
「うん?」
「私は、家族のために命懸けで戦う人の姿に憧れてたんだ。家族はそう在るべきだと思ってた。でも、提督の言葉を聞いて死ぬのが怖くなった。それに、今回提督が大怪我して……もう、提督には命懸けで戦うようなことをして欲しくないと思ったの。……私は、間違ってたのかな」
自分が今まで良しと思っていたことは、幻だったのではないか。そんな不安から出た言葉だった。
「……瑞鳳が見てきた人々と私とでは、生きた時代も環境も異なる。当然、価値観も違うだろう。そういう人たちのことをとやかく語ることはできない。ただ――瑞鳳はその人たちの家族のことは、見てなかったんじゃないかな」
「私が見てきた人たちの、家族?」
「軍艦に乗るのは普通軍人だけだろうからね。命懸けで戦う者たちしか乗らない。……そういった人たちを送り出さねばならない家族のことを見る機会は、ほとんどなかったんじゃないかな」
言われてみれば、そうかもしれない。
「これは推測だけど……きっとそうした人たちの家族も、死んでほしくない、また明日を共に迎えたい、そんな願いを持っていたんじゃないかと思うよ」
提督が皆と共に迎える明日を望んだように。
私が、提督に命懸けの戦いをして欲しくないと願うように。
「瑞鳳の見たものは、それはそれで本当のものなんだろう。決して間違いなんかじゃないと思う。ただ、家族との関係は――人と人との関係は一方面だけ見れば分かるというものではない。瑞鳳は、別の方面を見つけた。そういうことなんだろう」
「……そっか」
会うことのなかったあの人たちの家族のことを想う。
浮かぶのは、泊地の皆の顔ばかりだった。
予定を大幅に早めて退院したのはそれから数日後のことだった。
本当はもっと身体を休ませながらリハビリをしなければならないのだが、長期間泊地を空けておくのはまずいということで、長崎さんたちにも口添えしてもらったのだ。
「早速無茶をして」
瑞鳳や古鷹には咎められたが、泊地に戻ったらきちんと静養するということでどうにか納得してもらった。
ホニアラにいては泊地運営に支障が出る、というのは本当だからだ。
幸い帰路は何事もなかった。今後近海の哨戒は厳とする必要があるだろうが、例の新型の個体――大本営はレ級と名付けたらしい――は今のところ他に出没していないようだ。
「……あれ。あんなところに建物あったっけ」
泊地の間近まで来たところで、瑞鳳が見慣れない建物に気づいたようだった。
建築自体はホニアラに向かう少し前から始めていたのだが、なるべく目立たないように進めていたので気づかなかったのだろう。
戻ってから告知する予定だったし、もう言っても良いだろう。
「あれは学校だ。と言っても、当面は教室一つ分だけだが」
「学校?」
「戦闘に必要な知識は訓練で学んでますけど……」
瑞鳳と古鷹は戸惑っていた。なぜいきなり泊地に学校ができたのか分からないのだろう。
「あの学校は、戦いに必要なことを学ぶための場ではない。あそこは――艦娘が人として生きていくために必要なことを学ぶ場だ」
「人として、ですか」
「そうだ、古鷹。艦娘は兵器としての力も持っているが、人としての姿も持っている。戦う力だけじゃない。人として生きていく方法も学ばなければならない。私はそう考えている」
艦娘は、深海棲艦と戦うために現れたのかもしれない。しかし、深海棲艦と戦うだけのために生きているわけではない。少なくとも私はそう思いたかった。
「教員は道代先生や神社の京極さん、棟梁の丹羽さんたちにも手伝ってもらうことになってる。任務や皆の私生活にはなるべく負担をかけないようにやっていくつもりだ。……康奈も、そこでいろいろ学ぶといい」
「私も?」
甲板で周囲を警戒していた康奈が目を丸くした。
「人間として生きるために必要なことを学ぶ場だ。康奈くらいの年齢ならまだまだ学ぶべきことは多いだろう」
結局――康奈とは養子縁組をしなかった。普通養子縁組ならできそうだったのだが、正式に家に迎え入れることになるなら実家に連絡しないと後々揉める可能性がある。
長崎さんと相談した結果、当座は未成年後見人となって泊地で共同生活を送ることになった。戸籍不詳であることから手続きがいろいろと厄介そうだったが、そこは長崎さんがいろいろとフォローしてくれるらしい。
正式に親になったわけではないが、年長者としてはこの子のこともきちんと導いていかねばならない。
「学校は……楽しいのかな」
「良い出会いがあるかどうかだな。なに、きっと大丈夫だろう」
話しているうちに船が泊地に到着した。
叢雲や大淀、大和や武蔵たちが出迎えに来てくれている。
松葉杖を使ってゆっくりと船から降りる。足首がないからだろう、随分と歩きにくくなってしまった。
「ただいま」
叢雲たちに帰還の言葉を告げる。
大和や武蔵たちは笑顔だったが、叢雲はどこか不機嫌そうな顔をしていた。
「……叢雲?」
叢雲はつかつかとこちらに近づいてくると、じっとこちらの身体を――欠けた腕と足を見つめてきた。
「……肩」
「え?」
「肩、貸してあげるわ」
ほら、とこちらに背中を向けてくる。
「いや、大丈夫だ。一人で歩けるよう慣れないといけないし――」
「いいから。貸すって言ってるのよ」
有無を言わさない感じで、こちらの腕の下に身体を潜り込ませてきた。
「あんたはいつもそう。自分でできないことはともかく、できることは絶対人に頼ろうとしない。……たまには頼りなさいよ」
叢雲の顔は見えなかったが、その声は少し震えているような気がした。
「……分かった。それじゃ少し肩を借りようかな」
私が不在の間、学校の建設の件も含めて叢雲は泊地の運営に尽力してくれていた。
いつも助けられてばかりで申し訳ないと思っていたのだが――どうやら、そう思っていたのはこちらだけだったらしい。
助けられておきながら、この小さな肩に遠慮をして、どこかで距離を置いてしまっていた。そんなこちらの態度が、叢雲を傷つけてしまっていたのかもしれない。
「で、どうするの? 自室に行くか、道代先生のところに行くか」
「……いや、遠回りしていこう。執務室に少し寄りたい」
ゆっくりと、一歩ずつ歩いていく。歩き慣れた道でも、とても長く感じた。
だが、不思議と辛くはない。
執務室に辿り着き、自分の席に座って一息つく。久しぶりだからか、帰ってきたという感じがして落ち着いた。
書類はどんなものかと思っていたが、全然溜まっていなかった。叢雲や大淀がきっちりと仕事をこなしてくれたのだろう。
「いろいろと面倒をかけてしまったみたいだな」
「別にいいわよ。あんただけのためじゃないし」
「それでも、礼を言わせてほしい。ありがとう」
引き出しの中を確認する。
報告にあったものが入っていた。
「叢雲」
「なに?」
「これからも、いろいろと助けてもらうことになると思う。だからというわけじゃないが、これを受け取ってくれ」
差し出された小箱を見て、叢雲が動きを止めた。
「……ちょっと。性質の悪い冗談はやめてくれない? これ――ケッコンカッコカリとかいうやつの指輪じゃない」
「そうだな」
「そうだな――って、あんた本気?」
叢雲の表情には戸惑いが浮かんでいた。周囲の皆の視線もこちらに集まっている。
「私は皆に順位をつけるつもりはない。皆のことを信頼している。だが、この指輪を最初に渡すなら、それは最初から今日までずっと一緒にやって来た叢雲だと決めていた」
「……これは、信頼の証ってこと?」
叢雲の言葉と周囲の視線から、皆が考えていることが分かった。
「……ケッコンカッコカリという名前は、元々とある提督が艦娘に想いを伝えるためのきっかけ作りのために、あるお節介が命名したものらしい。しかし私は最初からこの指輪が艦娘の能力向上のための装備だと聞かされていたからな。そういうものだとは考えられなかった。能力向上のために結婚するというのは、何か違う気がするからね」
「……」
「だが、この指輪は提督と艦娘の魂を結び付ける鎹の役割を果たすものでもある。結婚ならぬ結魂というわけだ。……自らの魂を託す相手だ。いい加減な考えで選んでいるつもりはないよ」
こちらから言えることはそれだけだった。
叢雲はじっと小箱を見つめている。
皆の視線が、そこに集中していた。
「……あー、良かった」
長い沈黙の後――叢雲が吐き出すように言った。
「あんたがそういう趣味嗜好の持ち主だったらどうしようかと思ったわ。康奈の後見人として大丈夫かって不安になったわよ」
言いながら、さっと小箱を手に取った。
「信頼の証として。……悪くないわ。新八郎、これ、ありがたく受け取るわね」
「ああ。ありがとう」
「返せって言われても返さないわよ」
「言うわけないだろう」
「絶対、返さないからね」
相好を崩しながら、叢雲は受け取った小箱を両手でがっちりと掴んでいた。
もしかすると不誠実な、言い訳じみた対応になってしまったかもしれない。それでも、ずっと一緒にやって来た相棒のこんな表情が見れたのであれば――良かったということにしておきたい。
今は、そう思う。