「では、今日の授業はこれまで」
授業の終了を告げると、教室は少しずつ賑やかになっていった。
ここは、ショートランド泊地の片隅にある学び舎だ。
艦娘たち、それに島の子どもたちに勉強を教える場所である。
教員は私を含む泊地のスタッフたちなので、教えられることには偏りがあった。
しかし、こういう学べる場所というのは子どもたちにとって有意義なようで、今のところ割と好評である。
「提督」
「ん、何か質問かな」
声をかけてきたのは曙だった。
泊地においては最古参組の一人である。
最初の頃はなかなか気を許してくれず、どう接していいか分からなかったが、今はこうして普通に話せるようになった。
「質問ってわけじゃないけど、明日暇?」
「明日……ああ、特に用事はなかったと思うけど」
曙の側には、漣たちを始めとする艦娘たちが集まっている。
予定が空いていることを告げると、皆の表情がぱっと明るくなった。
「ご主人様、七夕やりましょうよ七夕!」
「七夕? ああ、そういえばそんな季節か」
ずっとショートランドにいると日本の風物詩を忘れそうになる。
カレンダーを見ると、既に七月に入っていた。
「ちょうど竹も伸びてきたし、そろそろ切るかーって相談してたら曙ちゃんが提案してきまして」
「竹も大分余ってたし、ただ売り払って資金の足しにする以外に何か使い道はないかって思っただけよ」
「うん。良いアイディアだ、曙」
「……どうも」
曙は褒められて照れ臭かったのか、短くそう告げると足早に去ってしまった。
「相変わらず素直じゃありませんなあ」
「そうかな。大分話しやすくなったと思うけど」
「ご主人は甘々ですねえ」
「漣ほどではないさ。ほら、追いかけていってあげなさい」
「はいはーい」
漣は軽い調子で応じると、曙が去って行った方向に駆け出していく。
あれでいて存外真面目で誠実な子だ。曙を放っておくことはあるまい。
「アトミラール」
と、今度はビスマルクが声をかけてきた。
彼女も授業に参加していた艦娘の一人だ。春に着任し、今ではすっかりここに馴染んでいるドイツ戦艦の艦娘である。
「今の話、よく分からないままなんとなく聞いていたのだけど、タナバタって何かしら」
「七月七日に行う祭事だよ。短冊と呼ばれる短めの紙片に願い事を書いて飾るんだ」
「不思議な風習ね。なぜそんなことを?」
「んー、そうだなあ。……五月雨、解説よろしく」
「えっ? さ、五月雨ですか?」
急に話を振られた五月雨は驚いた表情を浮かべたが、すぐにやる気になったのか顔を引き締めて織姫と彦星の伝承をビスマルクに説明し始めた。
互いに想い合っていた織姫と彦星は、天帝の許しを得て結ばれた。
しかし、結ばれたことで二人は自らの仕事を疎かにするようになり、それに怒った天帝は二人を別れさせた。
二人はそれぞれ再び仕事をするようになったが、織姫の悲しそうな様子を見た天帝は、一年に一度、七月七日だけ彦星と会うことを許した――というものだ。
「――なので、七月七日は織姫と彦星の『互いに会いたい』という願いが叶うことから、願掛けをするようになった……んだと思います」
「ふうん。織姫も彦星も真面目に働き続けてればそんなことにならなかったのにね」
「そんな身も蓋もない」
勤勉なビスマルクらしい感想だった。
確かに改めて伝説を振り返ってみると
「でも、それくらい好きになれる相手がいるって素敵なことですよね」
「あら、五月雨はそういう人いるの?」
「えっ、えっと、それは……まだそういうのはよく分からないです」
ビスマルクの問いに、五月雨は気恥ずかしそうに手を振りながら頭を振った。
「慌てることはない。そのうち分かるときも来るだろう。ただ、恋は盲目と言うからな。ろくでなしに引っかからないよう、良い男を見極める目は鍛えておくと良い」
「い、良い男ですか……」
「そこで『例えば私のような男だ』って言えばいいのに」
「ビスマルク。私も笑えるジョークと笑えないジョークの区別はつくつもりだ」
そう返すと、ビスマルクは肩をすくめてみせた。
ゲルマンジョークはよく分からないが、そんな失笑を買うこと間違いなしの冗談を言っても恥をかくだけである。
「でも面白そうね。私もせっかくだから一筆したためてみようかしら」
「ああ、そうするといい」
「……」
「……」
「――ちなみに私の願いは、母国の艦娘がもっとたくさんここに着任することよ!」
「そうか」
「そうか、ではないわアトミラール。こういうときは『ところでビスマルク、君の願い事とはなんだい?』と聞くべきところよ。でないと会話が弾まないじゃない。貴方が聞いてこないから私の方から話を振ってあげたのよ」
「おおそうなのかすまなかったな」
聞いて欲しかったんだな、と内心思いつつ、適当に相槌を打っておく。
ビスマルクは真面目で勤勉なのが良いところだが、ときどきこうやってグイグイと来ることがあった。
「そういえば提督は、短冊にお願いごとって書いてました?」
五月雨が興味津々といった様子で尋ねてきた。
願い事――もう長いこと書いた覚えがない。
正直まるで夢のないことを書いていた気がするのだが、何かを期待するような眼差しを向けてくる五月雨やビスマルク相手に、そんな回答をするのも気が引けた。
「……家族と世界が平和でありますように?」
「なんで最後疑問形なのアトミラール」
「と、とっても素朴で素敵なお願い事だと思います!」
なぜだろう。真顔のビスマルクのツッコミより、一生懸命フォローしようとしている感じが見える五月雨の様子の方が心に刺さる。
何か、答えを間違えたような気がした。
七夕の日。
午前中は曇っていたが、夕方になる頃には無事天の川が見えそうな空模様となっていた。
「提督、仕事終わった?」
執務室で雑務を片付けていると、曙たちが揃ってやって来た。
「すまない、まだ少し残っているんだ」
「いいですよ、先生。私たちで片付けておきますから」
曙たちに待ってもらおうとしたところ、一緒に執務を片付けていた康奈が少し不器用そうな笑みを浮かべて言った。
この子は天涯孤独の身の上だったが、提督としての素質があるため候補生という形でここに置いている。私にとっては、半分子どものような子だった。昔風に言うなら猶子といったところか。
少し前までは呼び捨てでこちらのことを読んでいたのだが、学び舎を開いてから次第に口調を改め、私のことを『先生』と呼ぶようになった。
「こうして先生の仕事を覚えるのも私の役目の一つですから」
「いや、しかしな」
「提督。せっかく康奈さんが気を遣ってるんですから素直に行ってきてください」
クスクス笑いながら言ってきたのは大淀だ。
最近彼女はどうも康奈の味方をすることが多くなってきた。
おかげで、二人には太刀打ちできないと感じることが多い。
「曙、先生をよろしくね」
「ありがと。それじゃ行くわよ提督」
「分かった分かった、慌てなさんな」
曙や漣たちに囲まれる形で執務室を出る。
外に出ると、ソロモン海が夕焼け色に染まっている風景が視界に飛び込んできた。
ここに来てもうすぐ一年になる。何度もこういう光景は目にしたが、やはりいつ見ても美しい。
「ほら、こっちですよご主人!」
「いっぱい飾った。作業量なら誰にも負けてない……多分」
「皆で、私たちだけじゃなく泊地の皆で、いっぱい書いたんですよ」
先導する漣に、どこか得意げな朧。
はにかみながら説明してくれる潮。
いつもと変わらない――そんな七駆の姿がそこにあった。
七駆の皆の言う通り、泊地のあちこちに短冊がついた笹が飾られていた。
どことなく、泊地の中だけ日本になったみたいな錯覚を覚える。
一つ一つ、飾られた短冊に書かれた願いを確かめていく。
仲間の無事を願う子。
より活躍できるよう願う子。
深海棲艦の被害が減るよう願う子。
戦いの終わりを願う子。
皆の健康を願う子。
多くの願いが、泊地を彩っていた。
その中で、七駆の短冊を見つけた。
「見ていいのかな?」
「どうぞどうぞー。いいよね、曙ちゃん?」
「……好きにすれば」
なぜか曙に確認を取る漣。
その意味は、願い事を見てすぐに理解できた。
『提督が早く戻ってきますように――七駆一同』
私が座る車椅子が、少し震えたような気がした。
車椅子を押してくれていた曙が震えているのかもしれない。
私は元々そこまで優れていた提督ではなかった。
無理に無理を重ね、どうにか誤魔化しながら今日まで提督をやって来たが、限界は間近に迫っている。
このままだと命を落としかねない。そう警告を受けた私は、後事を康奈に託し、長期療養に入ることになっていた。
「提督は……いつか戻ってきますよね?」
潮が不安そうに尋ねてきた。
他の三人も、何も聞いてこないが、同じような不安を抱えているようだった。
正直なところ分からない。
治るようなものなのかどうかも曖昧だ。
だが――そんな不安をこの子たちには持って欲しくなかった。
「戻ってくるとも」
「……本当?」
「本当だ、朧。この泊地は私にとってもはや第二の故郷だよ。故郷に帰るのは、当たり前のことだ」
「ですよね。ご主人ならそう言うと思ってました!」
漣が相変わらずのテンションでこっちの手を掴んでブンブンと振り回す。
しかし、いつもより力が強い。どこか動きもギクシャクしていた。
よく見ると、漣は微妙にこちらから視線を逸らしている。
やはり、どこか不安なのだろう。
「提督」
「なんだ、曙」
「戻ってこなかったら、皆悲しむんだからね」
「そう言ってもらえると、提督冥利に尽きるというものだな」
「……帰ってこなかったら、またクソ提督って呼ぶからね」
「大丈夫だ。帰って来るよ。時間はかかるかもしれないし、もしかすると提督としては帰ってこれないかもしれない。けど、どんな形であれ、どれだけ時間がかかろうと、いつかは絶対に帰ってくる。それは、絶対に絶対だ」
片方だけ残された手の小指を立てて、七駆の皆と指切りを交わす。
この願い事は、天帝に叶えてもらうわけにはいかない。
自力で叶えなければならない願いだ。
そう強く心に刻み付けた。