ブレイブウィッチーズ8話のアイキャッチを見て思いついたネタです。
シリアス気味。ナチュラル屑の主人公ですが、楽しんでいただけると幸いです。
「やってしまった…」
朝、窓は閉じているというのに僅かな隙間から入り込む風がカーテンを揺らしている。そこから不規則に差し込む太陽の光が僕の罪を照らしていた。乱れたシーツは背徳を示し、僕の隣で穏やかに眠る少女は枕を搔き抱いて苦しんでいるかのように見える。なにより、シーツをまばらに汚す血の染みは今の僕には処刑人が振り下ろす斧に見えた。
そこまで考えて、僕はかぶりを振った。自分には詩人の才能があるかもしれないなどと考えるが、これは現実逃避だろう。
昨晩の記憶がない。僕は床に転がる酒瓶に目をやった。
この野郎、お前のせいだぞ。
そう心で文句を垂れると、速やかなる責任転嫁に酒瓶は朝日の煌めきを返した。
「んう…」
どきりと心臓が跳ね上がる。恐る恐る視線をそちらに向ける。どうやら目が覚めた訳ではないらしい。
ここで僕は初めて自分が傷物にした少女が誰なのかを知った。
流れる銀髪と小柄な体躯。彼女は第502統合戦闘航空団「ブレイブウィッチーズ」所属のウィッチであるエディータ・ロスマン曹長だった。
僕は叫びだしたくなった。恐怖でだ。
酒に酔った勢いで起きたことなのだろうが、相手はウィッチである。告白すると、この時僕は頭の中がある三文字で一杯で、ロスマン曹長に対する申し訳なさはあまり感じていなかった。
繰り返すが相手はウィッチである。こんなこともあるよねテヘヘッ、ではすまない。
「銃殺刑…」
覚えず口に出る。
そう、銃殺刑。ウィッチは性質としてその純潔を失うと同時に魔力も失うのだ。結果ウィッチが1人減ることとなり、それによる戦力的被害は計り知れない。故の重罰。ましてロスマン曹長は人望も厚いベテランだ。
昨日の酒が残っていたのかどこかぼんやりした頭が一瞬で引き締められるのを感じた。
「やばい、どうしよう……」
なんだってこんな事に。これからどうすれば。
正直に申し出る?馬鹿な。まだ死にたくない。全身から血の気が引いて鳥肌が立つ。寒さを感じ、思わず体を丸めて自分を抱きしめた。
僕はまず誤魔化すことを考える。シーツを焼いて、体を清めて、なかったことにする。
…無理だ、彼女は魔法力を失っている。とても誤魔化しきれない。その時、扶桑では子を産んでも魔力が残る家系がある、と聞いたことがあるのを思い出す。が、彼女の家系がそうだとは聞いたことがない。ダメだろう。
このまま自分の痕跡を消してしらばっくれてしまえばバレないだろうか?…いやいや、これはあまりにも甘い考えだろう。
そこまで考えて僕は自分の思考が怖くなった。
「なんて下衆い」
僕は自分の足をつねった。トントンと自分が罪から逃れる事を考え、ロスマン曹長のことはちらとも考えない。
追い詰められると本性が出るって言うけど、どうやら本当らしい、自分がこんなに下衆だったなんて。そうひとりごちると僕は曹長を起こさないようベッドから降り、床に無造作に脱ぎ捨てられている服を着る。
よし逃げよう。肚が決まった。
僕は紙とペンをとると、『曹長は悪くありません。僕が全部やりました。バイバイキン』という旨の文を紙に書く。これできっと曹長が咎められる事は無いだろう。
僕は紙を机に置くとそっと部屋を出た。
☆
補給物資をやり取りする車両に忍び乗って基地を離れて数時間、時刻は昼前、警報がなったのが少し前。ネウロイの襲撃か、それとも僕の脱走がばれたのかは分からない。
今僕はペテルブルクの無人の民家にお邪魔をして身を潜めていた。ほとんど着の身着のまま出てきたので腹が減っていて、おまけに魔法力も持ち合わせていないので寒くて仕方がない。が、火を起こすと煙ですぐに居場所がばれてしまう。
「惨めだ…」
どうしてあんなことになったのだっけ。
僕はソファに座って震える体をさすりながら今までの事を思い出す。
僕は扶桑出身だ。年は23。父が技術屋だったことで影響を受けたのか、気づいたらストライカーの研究開発をしていた。で、新型のストライカーである試製紫電改二――いわゆるチドリ――を使う雁淵孝美中尉に付いてデータ収集をやっていたら、紆余曲折あってチドリが中尉の妹である雁淵ひかり軍曹のものになり、そのひかり軍曹が502JFWに配属になった結果僕も基地にいた、という訳である。僕を基地に置いてもらえる様にラル少佐に頼み込んだのを覚えている。
502基地は僕が訪れた事のある基地のなかでも男性のウィッチとの接触規制が比較的緩いほうだ。…まあ今回の事で厳しくなるだろうが。
ストライカーの整備も手伝っていたから、ウィッチと話す機会も多かった。あの基地はストライカーの損耗率が高いというのもこれを手伝っていたと思う。
とはいえ、ロスマン曹長と恋仲になった記憶などない。残念ながら――いやいや残念でもない!
ここで僕は今朝――誰に憚るでもないし不可抗力だと僕は断固主張するのではっきり言ってしまうが――ばっちり見てしまったロスマン曹長の裸を思い出して、目を閉じた。輝く銀髪、長いまつ毛、憂いげに閉じられた瞼、小さな鼻、桜色の唇――とここまで思い出して、大事なところはなに一つ見れていないことに気づく。
「ちくしょう、こんなならもっとしっかり見納めておけば…」
先ほど不可抗力だといったが、それとこれとは別問題である。誰が何と言おうとそうなのである。うんうん。
ひとりでうなずいてから、僕は回想に戻る。昨日の夜何があったのだっけ?
そうだ、昨日僕はハンガーで部品の調査をしていて…
☆
「こんな時間まで整備ですか?」
「どひゃ!?」
暗い中手元の明かりだけで作業をしていたものだから、気配もなく突然掛けられた声にこれ以上なく驚いてしまう。すると手から部品がすっぽ抜け、「あ!」と慌てて立ち上がる。するとストライカーのハンガーユニットの収納アームが僕の上に伸びていたものだから、必然的な結果として僕の頭はそれはそれは凶悪な速度で金属製の物質と接触を果たしたわけである。
「そんなに驚かなくても」
僕が唸り声を上げながら、「すみません」と返すと曹長は僕が取り落とした部品を差し出してくれる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます、いやはやお恥ずかしい」
ここで僕は、おや、と思う。
「曹長?酔ってらっしゃる?」
よく見ると曹長は立っているだけだというのに右へ左へふらふらと揺れている。極めつけは左手に持った栓の開いたワイン瓶である。
「酔ってなど…」
「酔った人はみんなそう言うんです」
「酔ってない人だってこう言います」
そうかもしれませんね、と言いつつ部品を受け取り作業に戻る。
「何かあったんですか?珍しいですね」
曹長は問には答えず僕の隣にしゃがみこんだ。そうして大仰に息を吸い込んでから曹長は僕に最初の問の続きを問うた。
「何をしているのですか?」
「部品の損耗率の調査をしてるんです」
「熱心ですね」
「これが仕事ですからね…しかし曹長こそ、こんな時間のハンガーになんの用です?」
「それは…」
「それは?」
曹長は言い淀んだ。なにかあったのだろうかと曹長の顔を見ると僕は「わ」と声を上げそうになる。
曹長が泣いていた。声を上げることはなく、静かに涙を流していた。
酒によって紅潮した頬を流れる涙はある種の幻想的な美しさを持っていたが、突然泣き出されてしまった僕はただ狼狽していた。
え、え、え。何、何、何なのだ。僕は何もしていないぞ。そのはずだ。
「なにか、あったんですか?」
曹長は問に答えない。曹長が泣き上戸だという話は聞かないし、空気中に玉ねぎの汁が散布されている様子はない。努めて明るく僕は言った。
「く、クルピンスキーさんと喧嘩でもしたんですか、あはは」
僕がこう言うと彼女はとうとう声を上げて泣き出した。なんてこった。どうやら偶然にも当たり――いや外れだろうか――を引いてしまったようだ。
「どどど、どうしたんですか曹長、いったいなにが」
僕が泡を食っていると、曹長は手に持ったワインを直接飲み始めた。
曹長はやけになっているのか?ともかく、そんな風に酒を飲んでは体に悪いったらない。
僕は手にもった道具を放って曹長を止めようとする。
「いけませんって曹長、そんな風に」
僕が酒瓶を取り上げると、曹長はいやいやをするように体を振った。
僕は曹長の肩を掴む。ウィッチの力は強く、彼女が払った手が強かに僕の頬を打ったものだから、僕は彼女の手首を掴んで床に押さえつけた。傍から見られると大変まずい姿勢である。願わくば人が来ませんように。
「しっかりしてください!酔っぱらった曹長なんて見たくありませんよ!」
「…貴方も、そんな事を言うのね」
いったい何を言っているのだこの人は。何だというのか。酔っぱらったウィッチがこんなに面倒なものだとは。何だか知らないが今は話を合わせよう。そうして曹長を部屋に返して速やかにご就寝していただかなければ。
「言いません。言いませんから、今は落ち着いて部屋に戻りましょう」
「いやっ…離して、戻りたくないの…」
どうしろと。
「わかりましたよ。しばらくここにいてください。あ、酒は没収です」
僕はそう言って彼女を離した。
「椅子と机を出してくるんで、座ってください」
そう言っても曹長は床に倒れたまま動こうとしない。僕は口の中で悪態をついた。まったく、酔っていたいのは僕も同じですよ。
僕は曹長を立たせると肩を貸して椅子に座らせた。この時曹長からいい匂いがしたのは役得だろう。アルコールの匂いが混じっていなければ完璧だったとも思うが。
☆
…あれ、この後はどうなったのだっけ?思い出せない。頭を捻ってううむと唸ってみるが、どうにも思い出せないのだ。
「多分、この辺りで僕も酒を飲んだんだろうな…ああ、なんてことだ、肝心な所は何も分らないじゃないか!」
ちくしょう、という呟きは僕以外誰もいない部屋の空気に虚しく溶けていった。肝心な所というのはもちろん、どうして僕がロスマン曹長と行為に及ぶことになったのかという部分である。行為そのものを思い出せないことを残念に思ってなどいない。いない。大事な事なので2回言いました。
さて、そろそろ移動しなければ。今のところ捜索隊が出ている気配は無いが、今日中に暖かい毛布と食料を確保しなければならない。凍死などまっぴらごめんだ。
不幸中の幸いではあるが、朝方から雪が降り続けてくれたおかげで雪に残る足跡が隠れてくれている。この雪が止んでしまう前に移動する必要があった。
僕は僅かな荷物が入ったかばんを持つと民家の裏口からそっと出た。
繰り返す事になるが、捜索隊の気配は無かった。空には航空機の影は無かったし、いくら耳を澄ませても雪道を車両が走る音は聞こえなかったのである。だと言うのに、間が悪かったのか。民家を出てから数分もしないうちに、空からストライカーのエンジンの音と僕を呼ぶ声がする。
「直樹さーん!見つけましたよー!」
僕は空を見上げた。ストライカーを穿いた少女がこちらに向かって飛んでくる。そして、その少女は銃を持っていた。
死んだかもな…。
僕の心は既に諦めに支配されかけていた。残念なことに、僕とストライカーを穿いて銃を持ったウィッチとを戦力比較したとき、僕が百人いてもウィッチに勝てないだろう事は明らかだったからである。
ならば、と僕は歯を食いしばる。笑って死んで見せるとも。基地に抱えて連れ戻されて撃ち殺されるより、無様に這いずりまわってでも最後まで逃げ続けて見せるとも。こんちくしょうめ!
僕は決意を新たに地面を強く蹴って走り出した。
「どうして逃げるんですか!」
数分後、僕はあっさりと行き止まりに追い詰められていた。
「もう!どうして逃げたりしたんですか!」
「そ、そう言うひかりちゃんこそ、どうして僕を追いかけるのかなーって」
雁淵ひかり軍曹。僕の前でホバリングをしている少女の名だ。僕が主に相手をしているストライカーの使用者でもある。そういう関係もあって、彼女とはそれなりの友誼を築けていたと思うのだが。
そんなひかりちゃんは今責めるような視線で僕を射貫く。
「どうしてって…そんな風にされたら、悲しいじゃないですか…」
そう言ってひかりちゃんは目を伏せた。
う、と僕はたじろぐ。僕はこんな少女の信頼を裏切ってしまう愚か者だと言外に言われた気がしたからだ。
僕は咄嗟に話題を変える。
「そうだ!ストライカーは大丈夫だったかな。昨日途中で放り出しちゃったからね」
「はい…別の整備士さんにお願いして…」
「そっか!それは良かった。ごめんね、迷惑を掛けたかな」
「いえっ!そんな事はないですよ!…ところで、直樹さんは、こんな所で何を?」
話題をそらした甲斐虚しく本題に入られてしまう。
ひかりちゃんの顔が怖い。それもそうだろう。普段から先生と呼んで師事している人物を飛べなくされたのだから。まずい、返答を間違えれば即お縄その後銃殺である。
「ひかりちゃんこそ…って、軍曹は哨戒任務中かな?」
「誤魔化さないで下さい!どうして!脱走なんて…!」
やはり軍曹は僕の捜索の命を受けていたらしい。脱走者一人を見つけるためにウィッチを使うとは、熱い待遇に喜べばいいのか。
「とにかく!いっしょに基地に戻ってください!」
「そんな事をしたら死んでしまいます!」
ひかりちゃんは有無を言わさず僕の腕を掴む。
やばい。
「あー!あんな所にネウロイが!」
「え!?」
あっさりと引っ掛かったひかりちゃんに口の中でごめんと言いつつ、僕は彼女の後ろに回って首を絞めた。こてんとひかりちゃんの体から力が抜ける。
訓練の成果だ。真面目にやっていて良かった。後遺症も残らないはず。研究員だと言うのに訓練をやらされていた時は文句を言っていたが、この時ばかりは厳しい上司に感謝をする。
僕は湧き出る罪悪感を無視して、ひかりちゃんを近くの民家のベッドに寝かせその場を後にした。
☆
今僕はペテルブルグの鉄道駅に隠れていた。というのも、ひかりちゃんとの遭遇で、ウィッチ隊が捜索に加わった事が分かり、徒歩による移動に限界を感じたのだ。このまま貨物列車に隠れ、雲隠れしてしまおうという算段である。
とはいえ、当局も当然その程度は予測しているだろうから、列車に乗るタイミングは慎重に図らなければならない。
僕はするりと体を滑らせ、列車横の貨物を集積している場所の貨物に紛れた。
ふふ、誰にも見つかっていない。自分にこんなに潜入の才能があるとは。いやはや人間追い詰められれば何でもやれるという事だろうか。
そんな事を考えているからだろうか、僕は背後から近づく気配に気づく事が出来なかった。
「よー!」
ばしん、と背中を叩かれる。その時の衝撃とショックは、例えるなら体液が強酸の寄生生物に胸をチェストブレイクされた、というほどであった。
「…!…っ!?」
僕が何も言えないでいると、その下手人はにんまりと笑った。そしてあろうことか僕の背中に飛びつきするすると登ってきた。
「いーいリアクションだなぁ直樹!いっつもそうだと楽しいんだけどな」
僕の腹に足を回して背中に子供のように張り付き、髪を弄り回してくる少女。この少女の名前は管野直枝と言った。軍属で階級は少尉。そう、彼女はウィッチである。
僕と同じ扶桑の生まれで、練習機を大量に壊したその問題児っぷりから“デストロイヤー”などと言う空恐ろしい異名を持つウィッチだが、彼女の部屋の本棚には大量の文学作品が並んでいたりする、文学少女な一面も持つ少女である。
僕と彼女との関係はといえば、それは兄弟のよう、という表現が最も適切だろう。名前が似ていたり、同郷だったり、彼女がよくストライカーを壊したりと何かと接点が多かったおかげか自然とそんな関係になっていた。
「おいどーした?無視すんなよー」
ここで僕は違和感を強く感じていた。彼女の僕に対する態度は捜索命令が出た脱走兵に対するそれとはとても思えないものだったからだ。
そういえば、と。先ほどあったひかりちゃんがインカムをつけていなかった事を思い出す。あわよくば拝借しようと考えていただけに不思議に思っていたのだ。
「お、おい?もしかして怒ったのか?」
これは都合の良い考えではあるが、僕の脱走はまだ広くは打電されていないのかもしれない。もしくはこいつだけが何かしらの理由で指令を受けていない?いずれにせよ今の状況は僕にとってとても有利だ。利用しない手はないだろう。
「おいぃ…なんか言えよぉ…」
ん?しまった、少し考え込みすぎたか。
ようやく僕は僕の毛根にダメージを与え続けている少女が半泣きになっていることに気づく。そんな状態でも僕の髪の毛の未来に攻撃をやめないのは流石の凶暴さと言うべきか。
しかし最近よく女性の涙を見る。何かしらの呪いだろうか。
「なあ直枝、お前今朝の哨戒任務当番じゃあなかったっけ」
「ん、うん、え?そうだけど」
「じゃあこんな所で何してるんだ?何も聞いていないのか?」
ぐしぐし、と直枝は目じりを拭ってから答える。
「ストライカーの調子が悪かったからひかりに代わって貰ったんだよ。ほら、その代わりにここで物資の積み込みやらを手伝ってんだ」
なるほど、確かにウィッチが手伝えば作業効率は上がるだろう。色んな意味で。…いや、それには少し、いや大分体の発育が足りていないか。
背中に感じる感触の寂しさに僕はため息をついた。
「…おい、なんか失礼なこと考えてねーか?」
鋭い。さすがウィッチ。僕が何も返答できないでいると、直枝は「この野郎ぉ!」と叫びながら強く僕の耳を引っ張ってきた!
「いたいいたい馬鹿とれるとれる!」
体を振り回して直枝を引きはがそうと試みるが、意地でも離さないつもりなのかむしろ張り付く力が強くなる始末である。
「あ」
とうとう僕がバランスを崩して背中からこける。ごちんと派手な音がして、結果直枝は頭に大きなたんこぶを作ることになった。ちなみに、僕は直枝がクッションになってくれたので無傷で済みました。めでたしめでたし。
「いててて…ちくしょう、恨むからなー」
「自業自得だろ。ところで直枝、今朝方ロスマン曹長見たか?」
「ん?先生がどうかしたのか?」
ちょっと気になって、と曖昧に返すと、怪訝そうにしながらも直枝は答えた。
「見たよ。朝哨戒のことで話しかけてきて、ひかりに代わって貰ったって言ったらひかりのところに行った」
今日はそれっきりかな、と直枝。
ふむ、と僕は考える。やはり曹長は自分が魔力を失ったことを周りに隠そうとしているのではなかろうか。…いや、考えてみればそれは当たり前の事だったかもしれない。誰が好き好んで自分は処女を失いました、などと言うだろうか。
とすると考えられることは、このまま曹長が飛べなくなった事は隠して異動なりをさせ、僕の口を封じてしまえば曹長のことは誰も気づかない、と言うところだろうか。
ここまで考えて僕は、今の予想がかなり現実味を帯びていることに気づく。これならば曹長の名誉は傷つかないし、士気の低下も起こらない。もう23年してから曹長は改めて教官なりを始めるだろう。
僕は頭を抱えた。
何故僕は馬鹿正直に「自分が犯人です」と書き置いてきてしまったのか。
最初その紙を書いた時の狙いは、曹長の名誉を守る事と犯人を確定させることで僕が脱走をしても捕まえる必要性を下げる事とであったが、実際のところ2つ目はおまけでほとんど曹長のために書いた紙であった。今や2つの意味は完全に消失し、ただ僕が犯人だと確定させるものになってしまっていた。
これで僕は“曹長の名誉”のために地獄の果てまで付け狙われることになるだろう。この場合僕の捜索の指揮を執るのはラル少佐だろう。あの女傑に追われて逃げおおせられるとはとても思えなかった。
安っぽい正義感でした行動がここまで自分を追い詰めるとは。
唐突な嘔吐感を感じて僕は口を抑える。ストレスによるものだろうか。他にも、唇は渇いていくし、めまいがするし、頭に血が上ったのか体が寒いし、その代わりに頭が熱くて痒い。顔も赤くなっているだろう。
「おい、大丈夫か?」
余程酷い顔をしていたのか、珍しいことに直枝が心配の言葉を口にする。
僕は手を上げることで心配ない、と伝える事を試みるが、直枝は何を勘違いしたのかその手を取りぐいと引き寄せた。思いのほか強い力で引っ張られたものだから、僕はバランスを崩して膝立ちになる。
しかし、僕が文句を口にする前に直枝は丁度直枝の胸の高さに来ていた僕の頭を両の手で優しく抱きしめた。
「何が怖いのか知らないけど、安心しろって」
俺が守ってやるよ、と。直枝は僕の耳元で囁くように言った。
僕は自分の顔がさっきとは別の理由で赤くなるのを感じた。
「…ありがとうよ」
「おう」
言いたいことは沢山あったが、僕は僕の心が平静になっていくのを感じたので、とりあえず礼を言ったのだった。
「そういや先生どっか歩き方おかしかったけど、何か知ってんのか?」
「し、知らないっすよ」
☆
直枝には信用してもらっているようだ。だが済まない。僕は君の上官に手を出した愚か者なのだ、許して欲しい。
…僕ってロリコンだったのかなぁ?
ひとしきり頭を撫でられた後解放された僕は、直枝に「しばらく出張する」と嘘をついて列車に乗り込んでいた。もちろん乗用車両ではなく貨物車両に、ではあるが。
『またすぐ会えるよな?』
別れ際の直枝の言葉を思い出す。ああもちろん、と答えはしたが恐らく直枝にはもう二度と会える事はないだろう。だというのに流れるように嘘を付いていた自分の口がなんだか唐突に恐ろしくなって、僕は自分の口を抑えた。もう僕はあんな風に誰かに信用してもらえる事は無いのではないか。
がこん、と振動がして、列車が動き出すのを感じる。列車は一度動いてしまえば余程の事がない限り止まる事はない。つまり、これで見つかる心配はなくなったという訳である。
もうこのペテルブルクには戻って来られないという事が実感できて、その感傷がわずかに僕の目尻を濡らした。
僕はしばらくの間体を丸めてコンテナの影に居たが、狭苦しい場所がいいかげんに息苦しくなる。
僕は大仰に息を吐いてから、これからの事を考え始める。故郷の扶桑に戻ることができればきっと家族が匿ってくれるだろう。しかし扶桑は島国だ。船を使わないと行き来ができない以上諦めるしか無いかもしれない。いや、どこかで航空機を調達できれば、あるいは…。盗んでしまおうか?いやもういっそユーラシア大陸を陸路で横断してしまおうか?扶桑海まで出てしまえば後はどうとでもなるだろう。ネウロイもこんな浮浪者然とした男をわざわざ追いかけたりしないだろうし。いや、さすがに甘すぎるか。
僕は仰向けに寝転がった。鉄の床の冷たさが服越しに伝わってきて気持ちが良かった。
これから僕は世のため人のために生きるのだ。きっとそれが贖罪になるだろう。…なんて、罪を贖いたいなら大人しく銃殺されればいいのだ。それができないのは僕があくまで罪人で、どこまでいっても臆病者だからだろう。
「ん?」
その時僕は、かなり遠方にではあるが、飛行機雲を見つける。
飛んでいるのは航空機だろうか、ウィッチだろうか。その姿は豆粒ほどにも見えなかった。この距離ならば見つかる心配はないだろうが、僕は再び体をコンテナの隙間に押し込んで隠れることにする。
時刻はじき夕方である。気温が下がる頃なので、僕は拝借した毛布を羽織っておく。体力温存のためにもう寝てしまってもいいかもしれない。
そう考え僕は目を閉じた。
その瞬間、狙っていたかのようなタイミングで強風が吹く。油断していた僕は毛布を飛ばされそうになり、慌てて転がった。
しかしおかしな風である。列車の進行方向の逆からの風であったが、左右をコンテナ、前後を列車の車体で守られたこの場所にどうして風が吹くのか。
そんな間抜けな事を考えている僕に、声がかかる。
「ここにいたのか」
はい?覚えずそんな声が出る。だってそうだろう。自分しかいないはずの場所で他人の声がしたのだから。あたりが暗ければ僕は悲鳴を上げていただろう。
気づけば僕がいる車両に並走して二人のウィッチが飛んでいた。下原定子少尉とグンドュラ・ラル少佐。二人の視線が僕を射貫く。
下原少尉の目が赤く光っている。恐らく彼女は彼女の夜間視と遠視の固有魔法を使用しているのだろう。どうやら僕は少尉に発見されてしまったらしい。彼女が今まったくの無表情であるのも手伝って、その目はとても恐ろしいものに見えた。
だが少尉の目より、ラル少佐の目だ。少尉と同じく無表情であるのに、ラル少佐の目からは僕に対する敵意と憎悪が何故かありありと感じられる。そしてラル少佐が僕に向けている銃口からも同じものが感じられた。
僕は確信に似た何かを感じて、僕の体を列車の外へと躍らせた。直後、僕の体があった所を魔力が込められた弾丸が打ちのめす。ネウロイの装甲をも貫く魔弾が鉄板を引き裂いた。
僕は雪原を無様に転がった。雪がクッションになり、速度が殺される。袖口から感じる雪の冷たさが不快だった。
ふらふらと立ち上がると、右腕が傷んだ。骨が折れたかもしれない。だが治療をしている暇はない。
走り出す。どうせ逃げられはしないが、喉元まで迫った死の予感がそうさせた。
数歩も走らないうちに、右腕だけがまるで自動車の衝突を受けたような衝撃を受ける。どうやら撃たれたらしかった。
「ぎゃああああ!」
僕は再び雪の上を転がった。その時ラル少佐が発砲するのが見えて、僕はそのまま雪の上を転がり回った。
どうやら虐められているらしい。ラル少佐の固有魔法は偏差射撃だ。苦も無く僕の体をハチの巣にできるだろうに、そうしない。
発砲が止まる。どうやら銃身が焼け付いてしまったらしい。替えの銃身を持ってきていなかったのか懐から小銃を取り出すのが見えたが、下原少尉に止められている。
僕の右腕からこぼれた血が雪に不思議な模様を描いている。真っ白な視界で血の赤は嫌に目立った。立ち上がろうとするも、足に力が入らず、代わりに僕の意識が遠のいていった。
☆
「君は重罪を犯した。よって極刑となる。なにか異存は?」
僕が目を覚ましていの一番に掛けられた言葉である。僕が何も答えられずにいると、ラル少佐は言葉を続けた。
「返答がないので異存は無いものと判断する。刑は明朝執行。それまでは独房で待機を命ずる」
言うだけ言ってラル少佐は行ってしまった。どうやら僕はラル少佐をこれ以上ないというほど怒らせたらしい。それはそうか。僕は少佐の戦友を傷つけたのだ。少佐にとって僕はネウロイかそれ以下の存在なのだろう。
「う…」
僕はベッドから身を起こす。右腕から鈍痛がした。しかしどうやら簡単な治療は施されたようで、包帯が巻いてあった。
僕は周囲の状況を確認する。分かっていた事だが、ここは独房らしい。壁に掛けられたランタンが唯一の光源で、どうにも寂しかった。
誰が僕を運んだのだろう。まさか少佐が?
それにしてもよくその場で殺されなかったものだ。恐らく少佐という権限があればその場で刑を執行出来たろうに。
しかしこれで僕もやっと裁かれるというものである。
僕は諦めにも似たどこか清々しい気持ちで刑を待つことにした。
☆
数時間後、情けないことに僕は脱獄方法を探していた。
がちがちと歯が鳴る。時間が経つにつれてどんどん気温が下がってきて寒い。そしてなによりそれが妙に死を連想させて恐ろしかったのだ。
壁を蹴ったり、ひっかいてみたり。鉄格子を揺らしてみたり、どこかに開錠を試せそうな針金が落ちていないか探したり。しまいには片手でベッドを振り回したり。
何故か見張りがいなかった事と、手錠がされていなかった事とで好き勝手にできた。
けれど僕の中の妙なプライドが邪魔をして、大声で許しを請うたり、出せと喚いたりする事はしなかった。結局僕は死ぬまで臆病者の小物なのだ。
そんな後。僕が暴れ疲れてベッドに横たわっていると、足音が聞こえてきた。
とうとう朝になったのか。いよいよ死ぬのだと思うと涙が溢れて止まらなかった。
そんな風に思っていたものだから、僕は僕を訪れた人物が意外なもので、とても驚いた。
「ロスマン曹長…」
牢の前に立った曹長は、僕が声を上げると口の前で人差し指を立てて見せ、静かにしろと伝えてくる。その後、自然な動作で懐から小銃を取り出した。サプレッサーが付いている。
それを見て僕はああ、と納得する。曹長は僕を恨んで殺しに来たのだ。そういえば、と思う。僕はまったくこうなるという事を予想していなかった。思えば僕は曹長の気持ちを考えた事があっただろうか。曹長を気遣う振りはして見せたけども、曹長の気持ちはまったくというほど考えていなかった事に気づく。
曹長が銃を構える。僕は目を閉じた。こんな下衆には似合いの死に様かもしれない。せめて苦しまないようにと祈る。
カシュン、と弾が発射される音がする。…しかし、僕の体に撃ち込まれた様子はない。外したのだろうか。
ゆっくりと目を開ける。すると、驚いたことに曹長が目の前に立っている。どうやらさっきの銃弾は錠前を破壊するのに使われたらしい。
僕と曹長の距離は、僕が曹長のまつ毛の数を数えられる程に近い。もしかして撃ち殺すのでは満足できず、僕を嬲るつもりであろうか。いや、今の彼女は魔力を失い見た目同様の力しか持っていないはずである。
僕が混乱していると、曹長はその綺麗な唇を動かして言った。
「出してあげます。ついてきて」
なぜ、と僕が口にする前に、曹長は僕の唇に人差し指を立てて「後で話します」とだけ言った。そして僕の手を引いて牢から連れ出す。
「い、痛いです曹長」
この時右腕を引かれたものだから、傷口の鈍痛がぶり返して酷く痛んだ。
「あら、ごめんなさい」
と曹長は言って、今度は左腕を引いて歩く。
分からない。何故曹長は僕を助けるのか。もしかして、牢を出たら屈強な男達が待ち構えていて、嬲り者にされるのか。
それとも、もしかして曹長は罪悪感に苛まれているのではなかろうか。曹長は優しい人だから、自分の事で人が死んでしまう事に耐えられなかったのではなかろうか。都合の良い考えだったが、もはや僕にはそれにすがるしかない。
僕が囚われていたのはどうやら地下牢らしかった。長い階段を昇っていくと見張りらしき人間が倒れている。曹長がやったのだろうか。
牢は基地の外周に繋がっていた。月の位置を見るに、時刻は3時か4時あたりだろう。
曹長は牢を抜けても、基地から離れる方にどんどん歩いていく。どうやら屈強な男が待ち伏せしている様子は無い。だとしたら、やはり曹長はとても優しい人なのだろう。僕はこんな人を傷つけたのか、と考えると罪悪感で潰れそうになった。
基地から1キロ離れるかどうかと言うところで曹長はぴたりと立ち止まった。
「ここです」
曹長が雪を掻き分けた先には、年季の入った木製のハッチが待ち構えていた。曹長は淀みのない動作で鍵を開けぎぃと扉を開いて、梯子を降りていく。僕は手を引かれるままについていく。中は真っ暗だ。
「ここは昔に作られた防空壕です。今は廃棄されたようですが」
ごそごそと手探りで何かを探す音がした後、ぱちりとランタンの灯りがともる。
中はそれなりに広いつくりのようだ。梯子を降りた先の空間はランタンとそれが置いてある机しか無い様だが、他にも部屋があるのか扉が二つ見えた。天井はもちろん、床もしっかり木材で覆われて補強されており、本来の用途としてもまだまだ使用に耐えうるだろう事が窺えた。…まあ、本来の用途とはそれすなわち人間の兵器から身を守ることであり、ネウロイのビームを食らえばすぐに蒸発してしまうのだろうが。
「ここで貴方を匿います」
曹長は言った。
それを聞いた僕は礼を言うより先に、曹長が行動を起こした動機がやっぱり気になって、質問をするのだった。
「あの、曹長、その…どうして助けてくれるんです?」
「曹長、なんて」
「え?」
「パウラ、と呼んで欲しいです」
昨日の夜みたいに。曹長はそう続けた。
昨日の夜。それは僕が間違いを犯した時間。僕は臥床でそんな風に曹長を呼んでいたのか。
「どうして…?」
そう、どうして?普通ならばそんな記憶は思い出したくないだろう。だというのに、何故。
それに、それではまるで恋人のようではないか。
「どうして、ですって?それは勿論…覚えていないの?」
曹長は逆に僕に質問する。
僕は「え?」と声を上げる。覚えていない。いったい何の事だろう。
「そう…」
曹長は一人納得した様子で、そのまま僕の腕を掴んで防空壕のさらに奥へと連れていく。
扉を開けると、そこには机に椅子、本棚、それにベッドがしつらえてある部屋に出た。奥にはトイレもあるようだ。元は士官室だったらしい。
「座って」
曹長は僕をベッドに座らせる。続けざまに曹長は言う。
「両手を出して」
言われるままに差し出す。一体何だろう。
がしゃり、と嫌な音がする。見ると、僕の両手に手錠が嵌っていた。その手錠は鎖の部分がこの部屋の壁にも伸びていて、どうやら僕はこの部屋から出ることが出来なくなったらしかった。
「曹長!?これはいったい何のつもり…」
僕がいきり立って立ち上がると、曹長はまた僕の唇に人差し指を立てる。僕はなんだか毒気を抜かれて、体から力が抜けてふらふらとベッドに座り込んだ。
「ほとぼりが冷めるまで貴方にはここにいてもらいます」
「でも、手錠の必要はないでしょう」
僕がそう反論すると、曹長は言った。
「これは、貴方が逃げないためです」
逃げる?馬鹿な。今のところここから逃げたとしても僕には何の利点もない。それは曹長も分かっている筈である。
その旨を伝えると、曹長は言った。
「いいえ、貴方は私から逃げるのです」
僕は、僕がここに連れてこられてからまだ僅かだと言うのに、実に三回目の「え?」と言う頓狂な声を上げる事となった。
曹長から逃げる。一体全体どういう意味だろう。無い頭を回すが一向に答えは出ない。
僕が再び曹長に問を投げる前に、曹長は僕の左隣に浅く腰掛けてくる。さらに曹長はしな垂れかかる様に僕に体を預けて来るのだから堪らない。曹長をよく見ると、顔が僅かに赤い気がするし、呼吸も荒くなっている気がしないでもない。
つまり、今僕は曹長から異様な妖艶さを感じていた。この場面だけ見れば男と女の夜、という風に見えるだろうか。…いや、僕の腕には手錠が嵌っていて恰好がつかないし、曹長だって言い方は悪いが見た目は子供だ。警察関係者がこの場を見ても、誰を逮捕するか大いに迷うだろう。
「もう、今失礼な事を考えていませんでしたか?」
どうしてウィッチとはこんなにも鋭いのか。生き苦しくないか心配になる程の読心術だった。
そんな事は誓ってありません、と僕が言うと、そんな言葉がするりと出てくるから怪しいんです、と言われてしまう。じとりと僕を見る曹長の視線から、僕は僕の顔を逸らすという戦略的撤退を余儀なくされるのであった。因みに、曹長のジト目は同時に上目遣いでもあって、とても可愛らしかったです。はい。
「…」
「…」
僕も曹長も喋らない。自然にできた一瞬の会話の隙間。それがとても寂しく感じられて、僕は少し曹長の方に体を寄せた。
ふぅ、と曹長が息を吐く。左手が僕の袖を弱々しく掴んだ。曹長が僕に何か大事なことを伝えようとしているのが感じられて、緩んでいた空気がまた冷えていくのを感じた。
「…ずっと、怖かったんです」
曹長は訥々と語りだした。僕は相槌を打つでもなく、ただただ話を聞く。
「私の隣にいる人が、出ていったきり帰らないんじゃないか。私の隣にいる人が、気付いたら居なくなっているんじゃないか」
そこで一度言葉を切る。心なしか曹長が僕を掴む力が強くなった。
「…私の隣にいる人が、私の隣で死んでしまうんじゃないか…って」
それは、ウィッチ隊のみんなの事だろうか。それとも、特定の誰かの事だろうか。分からなかったが、口に出して聞くのは野暮な気がして憚られた。
それでも曹長が戦場の事を言っているのは理解できた。
僕は技官だったから、戦場に出た事は無い。というか、研究所所属なので階級さえ与えられていない。僕が兵士であれば彼女の話を理解できただろうか。
曹長の独白は続く。
「まして、あの人はいつも怪我をして帰ってくる…」
その言葉を聞いて、僕は曹長が話している人物の予想がつく。大方クルピンスキー中尉の事だろう。昨日の夜もそれで動揺していたし。
「貴方に抱かれたのは、何も酔っていたからってだけじゃ無いのよ。貴方が私の望む言葉をくれたから、私は、貴方を…」
曹長が望んだ言葉。それは一体何だろう。酔った僕はどうやら饒舌になるらしい。
「貴方は覚えていないみたいだけれど、それでも構わないわ。…いえ、むしろ弱みを見せないで済むから、そっちの方が都合がいいかもしれないわね、ふふ」
曹長は儚げに笑う。
僕は曹長の言葉にだんだんと危うさを感じ始めていた。曹長の言葉は、まるで人が罪を犯す前に自分に言い訳を並べ立てて現実から目を逸らそうとするそれに見えた。
曹長、もしかして貴女は、僕に依存しようとしていませんか。
これからの生活を丸々曹長に依存しようと言う僕が言えた事ではないかもしれない。だけど僕は思うのだ。曹長は相手を間違えている。貴女が支えたくて、支えられたい人物は他にいるはずである。
「ロスマン曹長。貴女はもしかして、僕を誰かの代わりにしようとしていませんか」
ひゅう、と息を呑む音が聞こえる。曹長は目を見開いて僕を見た。
動揺しているらしい。どうやら図星のようである。
助けてくれた事には感謝しているが、もしここに骨を埋める結果となるなら、それは処刑とほとんど変わらない。僕はそんなのは嫌だ。曹長には目を覚まして貰わねばならない。
「そんな、ことは…」
「いいえ曹長。貴女が欲しい人は別にいるはずです」
そっと曹長から体を離す。
僕は諭すように曹長に言う。さあ曹長、この手錠を外して貰いますよ。
「貴方も」
「え?」
「貴方も、そんな事を言うのね…!」
それはいつか聞いた言葉。
目の端に涙を溜めて僕を睨む曹長。どうやら怒らせたらしいが、ここで言葉を止める訳にはいかない。
「曹長…っ!」
「いやっ!聞きたくない!」
曹長は力任せに僕をベッドに突き倒す。僕に馬乗りになった曹長は、それでもなお僕が喋ろうとするのを見て、枕で僕を叩き始める。手錠のせいで抵抗もできない僕はただただ殴打される。
「どうして!?私とずっと一緒にいてくれるって、優しくしてくれるって、言ったのに!」
そう叫びながら、僕を叩き続ける。酔った僕はそんな寒いセリフを吐いていたのか。
「私じゃダメなの!?…みんな私を、嫌いなの?」
段々と力が弱くなって、遂には止まってしまう。そのまま曹長は僕の上で泣き出した。
今が曹長を説得する好機か。
「誰も曹長の事を嫌ったりなんかしませんよ。さあ、手錠を外して…うぶっ」
言い終わらない内に、曹長は枕でもう一度僕を叩いて喋る邪魔をする。
「…まあ、いいわ。今すぐ分かって貰おうとは思いません」
時間はたっぷりあるのですし。そう言って曹長は僕の額にキスをして、僕の上から降りる。
「明日の夜、食料を持ってまた来ます」
「え、ちょっと」
待って、と言い切る前に曹長はランプの灯りを消してしまった。部屋は光源を失い完全な暗闇に包まれる。
今曹長に居なくなられては困る。直前に曹長が居たあたりを掴もうとするが、すぐにドアが開く音がして曹長が出て行ってしまった事が感じられた。ランプも持って行ってしまった様だ。
ドアが閉まる音が続き、梯子を昇っていく音、最後にハッチが閉じられる音がして、辺りからは何も聞こえなくなってしまった。
「…嘘だろ」
手探りで扉を探すが、手錠が邪魔をする。苛立って滅茶苦茶に鎖を引っ張るが、じゃらじゃらと虚しく音が鳴るだけで苛立ちはさらにつのるばかりだ。
「丸一日この暗闇で過ごせって言うのか?そんなの…」
気が狂ってしまう。
曹長は僕を弱らせる腹積もりなのだ。そうすれば僕が彼女になびくと思っているのだ。そしてその作戦はどうやら有効らしい。
この暗闇は人の心を蝕む毒だ。早くも僕は曹長に隣にいて欲しいと望んでしまっている。
曹長はなんでこんなことをするのだ。そんなに僕が欲しいのか。そんなに曹長は寂しかったのか?クルピンスキー中尉…貴女とは気が合いましたけど、この時ばかりは恨みます。貴女が曹長にもっと優しくして、彼女を満足させていてやれば!
「こんな事には…あああああ!」
僕は叫んだ。そうすれば少しは気が紛れる気がして。
声がかすれて叫べなくなった頃、何も変わっていない事に気が付いた。とうとう僕は泣き出してしまう。
何故こんな事になったのだ。どうして、どうして。
「助けて…直枝…」
僕の声は誰にも届かずに、暗闇の中に溶けて消えた。
☆エピローグ☆
「あ、ひかり!ねぇ聞いた聞いた?」
「二パさん。何がですか?」
「噂だよ噂!基地の近くにユーレイが出るって言う!」
「幽霊?」
「何でも、すすり泣きや助けを求める声が、最近行方不明になった基地員の声でするんだって!」
それは捜索をした方が良いんじゃ…?私はそう思うけど、口にはしませんでした。
それにしても、扶桑以外で幽霊という単語を聞くのはけっこう珍しいんじゃないかな。
行方不明になった基地員。それはたぶん直樹さんの事だ。あの日基地から一人の男性が逃げ出した事については緘口令が敷かれ、私は結局詳しい事は知らされず、何も分からずじまいで、彼は死んだと聞かされていました。
あの日曹長に頼まれて捜索に出て、見つけたはいいけど逃げられてしまった。それが私が見た最後の直樹さんだ。
本当に、彼は死んでしまったのだろうか?そもそも、彼はなんで基地から逃げたりしちゃったのだろう?分からない事だらけ。
もし噂が本当なら、何か分かるかもしれない。けど、私に『何も聞くな』と言ったラル少佐の見た事のない怖い顔が思い出されて、私に二の足を踏ませていました。
「ん?どしたのひかり、難しい顔しちゃって。らしくないなー」
らしくない?言われてはたと気づく。そうだ、らしくない。私は自分のほっぺをぱちんと叩く。私は何をうじうじしているのだろう。こんな姿はお姉ちゃんに見せられない。
こんなのは、私らしくない!
「二パさん!その話、詳しく教えてください!」
私は彼の跡を追う事を決めます。
「お?興味出ちゃった?仕方ないなー。じゃあ今夜ここに集合してさ、二人で…」
「何話してんだ?」
二人で基地を抜け出す算段を立てていると、突然後ろから声が掛かり、「わー!」と私と二パさんは揃って悲鳴を上げます。
「菅野さん…」
「なんだー、菅野か」
「お、おう。なんだよ、そんなにびびって。て言うか、何だとはなんだ」
私たちを驚かせたのは管野さんでした。
…そうだ、菅野さんは直樹さんと仲が良かった筈です。なのに、彼は出張したという嘘を吹き込まれて、それを信じてしまっています。私は、菅野さんもこの話に巻き込む事に決めました。
「菅野さん!実はですね…」
☆
時刻は夜半。今私たち三人は、月明りを頼りに昼に確認した目印を辿って幽霊の出現現場と噂される場所に向かっています。この辺り一帯の雪は踏まれていないのでまだ柔らかく、歩くと膝まで雪に埋まってしまいます。歩いた後が雪にくっきりと残るので、抜け出したのがばれて大目玉を食らいそうだと心配するけど、しとしとと降る雪がいずれ痕跡を隠してくれる筈。
こっそりと抜け出しているのでなければ、シールドを張って進んでいたでしょう。雪が直接肌に触れる事になるけど、魔力が私たちを寒さと冷たさから守ってくれていました。
「なぁ…幽霊なんてほんとに居るのかよ…」
管野さんがいつになく弱々しく呟きます。
私は管野さんと二パさんには直樹さんについての事は教えていません。情報が不確実で妙な期待はさせたく無かったし、私が話さなければ、もし抜け出したのが見つかっても必要以上に面倒な事にはならないだろうからです。
「なんですか菅野さん、もしかしてびびってるんですか」
「な、び、びびってねーよ!」
そう叫ぶと、菅野さんはずんずんと先に歩いて行きました。
「ひかりも菅野の扱いが上手になってきたね」
隣を歩く二パさんが耳打ちしてきました。
そんな事ありませんよ、と私が言うと、そんな事あるよ、と二パさんが言います。
ふふふ、と二人で笑いあうと、不思議と夜の闇も怖くなくなりました。
気づけば菅野さんと大分離れてしまっています。追いつくために、私たちは走り出しました。
「そろそろのはずだけど…」
二パさんが言います。
私たちが立ち止まったのは基地から少し離れた雪原のど真ん中です。周囲に木がまばらにあるだけで、特に怪しい建物などは見当たりません。
私は耳を澄ませるけど、特に呻き声なんかが聞こえてくる様子は無いみたい。
「何か聞こえます?」
「何も聞こえないなー」
「う、噂は噂だったって事だろ?は、早く帰ろうぜ」
菅野さんは結局二パさんの裾を掴んで隠れるようにしています。菅野さんの文学少女な一面を見れた気がして、私は嬉しくなりました。
「本当にここなんですか?」
「うーん、その筈なんだけど…わっ」
突然二パさんがこけて顔から雪に突っ込みます。二パさんを掴んでいた菅野さんも同じ運命を辿ってしまいました。
「だ、大丈夫ですか!?」
「いたた…何かに躓いたよ…?」
何か?何かとは何だろう。木の根でも張り出していたのでしょうか。
私は二パさんを助け起こします。
「おい…これ見ろよ」
同じく雪に突っ伏した菅野さんが何かを見つけた様です。
「何かあったんですか…ってこれは」
ハッチです。木製の。雪に埋もれて気が付きませんでした。どうやら二パさんはこれに躓いたみたいです。
「怪しいですね…」
「怪しいね…ちょっと菅野、降りて様子を見てきてよ」
「は!?なんで俺が…」
その時です。私たちの声に紛れてはいましたが、微かに「助けて」と声がしました。
「今の…聞こえました?」
「え?何が?」
二パさんには聞こえなかった様です。菅野さんはどうだっただろう。私は管野さんに問掛けようとして、菅野さんの様子がおかしい事に気が付きます。
菅野さんはじっとハッチを見て、ぶつぶつと何かを呟いています。まるで何かに憑かれたみたいに。
「今の声…いやまさか、あいつは…」
「…菅野さん?どうしたんですか?菅野さんにも聞こえたんですか?」
管野さんは私を無視してハッチに手を掛けます。
「あ、ちょっと!」
制止する間もなく。菅野さんはハッチを開こうとする。
しかし、ガシャン、と鍵が引っかかる音がして、ハッチは僅かに開くのみです。
「鍵が掛かってるね…」
「みたいですね。…ってちょっと菅野さん!?」
菅野さんはおもむろに右手に超硬シールドを展開し、ハッチを殴り抜きました。木を砕く音、鍵が粉砕される音、そしてハッチが落下する音が続いて、私は思わず耳を塞ぎます。
何食わぬ顔で菅野さんはハッチの残骸をどかし、梯子を降りていきます。
いったい菅野さんはどうしたんだろう。さっきまであんなに怖がっていたのに。
「助けて」
私と二パさんが菅野さんの後を追うか決めかねていると、今度はとてもはっきりとその声が聞こえました。
どうやらここには幽霊でなくて誰かが居て、そして助けを求めているみたいです。
私は無意識にごくりと喉を鳴らしていました。この先にはきっと私が知らない真実が待っている。それは私が求めたものです。…だというのに、今私は途轍もなく大きな“嫌な予感”を感じて二の足を踏んでしまっていました。ハッチの下には月の光も届かない闇がぽっかりと口を開けています。
それは恐怖。まるでネウロイと戦っている時の様な。
それは予感。ここから一歩踏み出せば、もう後戻りできないという感覚。まるでがけっぷちに居るみたい。寒さは感じていないのに歯ががちがちと鳴っている。
「怖がらないで、ひかり。私がいるよ」
そんな私の背中を、二パさんがポンと叩く。
…そうだ。私には隣にいてくれる友達がいる。私一人だったら逃げ出していたかもしれない。でも、こんな時はいつも皆で乗り越えてきた。今回だってきっとそう。
「ありがとうございます、二パさん」
「どうってことないって」
私はもう一度ハッチの奥の暗闇を見ます。大丈夫、今度は怖くない。
この時の私は知りませんでした。この先私が見ることになる、人の心の脆さと恐ろしさを。
そんな事も知らず、私は根拠のない全能感に身を任せて、梯子を降りて行きました。
読んでくださってありがとうございます。
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