ヒカルの見立てでは行洋との勝負は五分五分だ。決して自惚れているのではない。これまでの対局と学習で自分は強くなったし、行洋は引退後の方が強かった。この時代の人間に言ったって本人を含め誰も信じないだろうが、本当にその通りなのだ。強さへの飽くなき探究心は称賛に値する。自分が引退時の行洋と同じ年になった時、そんな気力と体力があるだろうか。誰にでも出来る事ではない。そんな塔矢名人が今、目の前にいる。
(これが公式戦だったら熱いんだけどなあ)
用意された座布団へ大人しく座った。座った瞬間、行洋からの重圧で座布団へ体が更に沈むのを感じる。佐為と互角に渡り合っていた棋士との対局が思わぬ形で叶った。貴重な強者との対局の機会。面倒な状況だが、楽しみでないと言えば噓になる。とはいえヒカルはこちらでプロになる気はない。子どもたちに教える事が面白くなってきたし、今の生活が結構気に入っている。一番気がかりなのは折角広めたsaiの名前が進藤ヒカルに塗り替わってしまう事だ。
「置石はどうする?アキラは3つだ」
「なしで」
「ほう」
目の前の子どもの目は真っ直ぐで。気を抜けば射抜かれそうな程に強い眼差し。こちらも背筋が伸びる。強がりか、本気か。それはこれから打てば分かるだろう。普通、行洋を目の前にした子どもは怖気づいてしまう事が多い。大人でもそうだ。しかし目の前の子どもは落ち着いている。大した度胸だ。そして行洋が驚いたのはその威圧感。息苦しさを覚える程に張り詰めた空気。アキラと同じ年だと聞いているが、碁盤を挟むととてもそうは思えない。顔は年相応の幼さが残るが妙な貫禄がある。彼は一体どんな碁を打つのだろう。行洋は期待に胸を膨らませた。
先番はヒカル。触れる碁石の冷たさと重さが、もう後戻りは出来ないと告げているようだった。緒方あたりがネット碁の棋譜を見せているだろうから、本気で打てばきっと自分の正体がsaiと発覚するだろう。師匠は誰だという話にもなるだろう。それでもヒカルはこの勝負で手を抜く気にはなれなかった。平和な生活を守りたいのは勿論だが、真剣に向き合っている相手に手を抜くのは失礼だ。
(この勝負が終わったら、名人と志水さんには話しても良いかもしれない)
むしろ知って欲しい。見て欲しい。佐為と出会い、アキラをはじめとする仲間たちと出会い、そうして作り上げてきたヒカルの碁を。
(見ててよ、佐為)
(想像以上だ)
最初は手加減をしようと思っていたが、そんな必要は全く不要だった。子どもにある荒さはなく洗練されており力は拮抗している。序盤は様子見の予定だったが余裕などすぐになくなり、一手ごとに段々と碁石が重くなっていくようだった。本因坊秀策についてかなり勉強しているのだろう。彼を連想させる打ち筋だが、時折予想外の面白い一手が来る。堅実で安定感があるが定石に拘り過ぎず、打ちたい場所へ打っているようだ。行洋を試すように。
(もしも本因坊秀策が現代に蘇ったら、彼の様な碁を打つのだろうか)
どのようにして強くなったのか。師匠は誰か。そういえば最初に会った時、彼は何となく嫌そうな顔をしていた。もしかするとそれを聞かれたくないのかもしれない。気になる点は多いが、それをゆっくり考えている暇など与えてくれない。
(悪手?いや、これは)
行洋は思い出した。以前緒方が研究会に持ち込んだ棋譜と、その対局相手について。突然ネット上に現れた正体不明の棋士、sai。確かその打ち筋の特徴は。思い出した時には、悪手と思われた一手が好手へ化けていた。
(面白い)
自然と口角が上がる。どうやら目の前の子どもの実力は想像以上だったらしい。こちらも応えなければ。
(さすが塔矢名人。やっぱり簡単には崩れてくれないよな)
いくら引退後の方が強いと言っても、やはり日本のトップ棋士。ヒカルの自由さにも落ち着いて柔軟に対応してくる。この実力で更に伸び代があるのだから恐ろしい。チラリと行洋の顔色をうかがう。
(あ、笑ってる。珍しい)
どうやら行洋を楽しませるぐらいの対局が出来たようだ。手加減は不要と判断したらしい。それから様子を伺うような打ち筋から一変、行洋の猛攻が始まった。容赦なく攻め立ててくる。
(オレも楽しいよ。塔矢名人)
ヒカルもつられて笑みがこぼれる。2人の穏やかな表情とは反対に、盤面の争いは苛烈化した。段々とペースが上がる。
(この感じ、あの日みたいだな)
アキラとした“本当の初対局”を思い起こさせる。
終盤に差し掛かる前にヒカルは長考に入った。僅かに行洋へ形勢が傾きつつある。目を閉じて深呼吸。脳内でこの後に予測される展開を全て考える。このまま終局までを読むとヒカルの3目半差負け。
ここで負けるわけにはいかないのに。
(佐為ならどうする?)
次の手が思いつかない時、ヒカルは今でも佐為ならどう打つかを考える。そうすると、ある一点が光って見える。消えてしまっても、佐為はいつだってヒカルの碁の中にいるのだ。
(…あった)
ヒカルが逆転出来る一手。ここに打てばヒカルが1目半差で勝利になる。
(終局図は既に読み切ったと思っていたが)
行洋は思わずため息を漏らした。勝利を確信していたところで勝敗が逆転。この場へ強引に連れてきたにも関わらず、最後まで素晴らしい対局をしてくれた。負けたとは思えない程に晴れ晴れとした気持ちだ。
「…負けました」
「ありがとうございました」
この一局は必ず佐為に報告したいと思えるものになった。自分の力を更に押し上げられるような感覚は久しぶりだった。
「凄いものを見せてもらったよ」
ここに志水しかいなくて良かった。ヒカルは心底そう思った。他人がいれば大ニュースになっていただろう。院生でもプロでもない子どもが、トップ棋士に勝利したなんて知られたら大事だ。
「ありがとう。楽しかったよ。ヒカルくん…やはりプロを目指す気はないのかね」
「行洋くん」
すかさず志水が止めてくれる。ヒカルが来る前に志水が何か言ってくれていたのだろう。
「すまない。つい誘いたくなってしまった。…君にも事情があるのだろう」
「オレ、2人になら話しても良いよ」
ヒカルはこれまでについてと、プロ棋士になりたくない理由について話した。
「…作り話だって思われるかもしれないけど、これが全部。塔矢に話している途中で過去に戻って来たんだ」
やっと佐為の話をして受け入れてくれたのに。
「いや、信じるよ。子どもなのに大人みたいな雰囲気だって思う時があった」
「君の打ち筋にも納得がいく。話してくれてありがとう」
ヒカルの信じられない話を拍子抜けする程あっさり受け入れてくれた。それに安心してやっと肩の力を抜く。
「良かった。ありがとう」
「君の気持ちは分かった。本音を言うとプロになって欲しいが、なれとは言わない。良ければ、また打ってはくれないだろうか」
「うーん」
「…私に何か出来る事があれば協力するから」
交換条件がきた。
「あかりの後ろ盾になってくれるなら、良いよ。…時々なら。」
ヒカルの場合は運よく森下門下に入れたが、あかりには表向きの師匠がいない。ヒカルは表舞台に出るつもりはないし、あかりのこれからの成長と立場を考えると、後ろ盾があると安心だ。
「ありがとう。勿論だ」
「本当に時々だから!時々!」
「今度、藤崎さんを一緒に連れて来ると良い。ヒカルくんへのお礼と言っては何だが、藤崎さんに指導碁をしよう」
これはとんでもないサービスだ。あかりが更に強くなるチャンスを逃すわけにはいかない。
「…名人が良いなら、お願いするよ」
「それじゃあ来週、またここで」
次の約束をして解散した。
帰宅して早速あかりへ伝えた。
「えー!?塔矢名人が?」
「そうだ。だから師匠は誰かって聞かれたら、塔矢名人って言うんだぞ」
「言えるかなあ」
行洋はこうなるのを見越して指導碁をすると言ってくれたのかもしれない。
「だから来週、あかりに指導碁してくれるってさ」
「えー!?」
約束通り行洋は毎週あかりの指導碁もしつつヒカルとも対局する。勝負は五分五分のまま続き季節はすっかり秋になった。
アキラは父に違和感を覚え始めた。
(お父さんの打ち筋が変わった?)
毎日打っているからこそ分かる。誰かに似ているような気がする。ついに聞いてみる事にした。
「お父さん、最近楽しそうですね。それに、何だか打ち筋も変わった」
「分かるかい。変えてみたんだよ。私も変わらないとね」
ヒカルの存在は他の人間にはまだ秘密だ。約束を守らないと、というのは建前で人並みの欲が出てしまった。折角出来た楽しみを取られる訳にはいかない。
「…誰と打っているんですか?」
「さあな」
日本のトップ棋士である父を楽しませられるような人物は限られている。国内でも一握りだ。海外だろうか。そういえば最近、定期的にどこかへ出かけるようになった。あれが関係しているのだろうか。気になったアキラはこっそり父の後を付ける事にした。辿り着いたのは篠笛工房だった。確かここは、父の従弟がやっている店。店へ近づくにつれて笛の音色が聞こえてくる。アキラは吸い寄せられるように向かった。
「進藤!?」
「げ」
扉を開けると、篠笛の練習をしているヒカルがいた。