ピッ……ピッ……
単調で小さな電子音が響く。
薄暗い病室の中央に設置されたベッドには、包帯でぐるぐる巻きにされた痛々しい姿の比企谷くんが寝かされ、無数のチューブで複数の機械と繋がれている。
メディアさんは部屋の隅のパイプ椅子に腰掛けたまま微動だにせず、由比ヶ浜さんはベッドの傍に座り、ずっと比企谷くんの手を握っていた。
誰も何も言わなかった。こんな状態がずっと続いていた。
今朝、登校の準備を済ませ部屋を出ようとすると、普段滅多に鳴らない携帯電話がいきなり鳴った。
私に電話をかける相手など家族か先生、由比ヶ浜さんくらいなのでそのいずれかだろうと画面を見てみると、まったく覚えの無い番号が表示されていた。しかも何故か登録されているらしく、相手の名前も表示されている。
表示された名前は比企谷くん。
知らない相手だ。しかしその名前には、一つだけ心当たりがあった。
一週間ほど前、自分が何故か持っていたICレコーダー。それに録音されていた、自分と『誰か』との会話。その『誰か』を自分は比企谷くんと呼んでいた筈だ。
もしかしたらという想いから電話に出てみると聞こえてきたのは女性の声。それも助けを求める声だった。
わけが分からなかった。が、その声には必死さが感じられた。
助けてと言われた以上、それを無下にするわけにもいかない。私は運転手の都筑に命じて、電話越しに聞かされた場所、教会へと向かった。
着いた先で目にしたのは、もうもうと煙を上げて崩れ落ちる教会だった。
火災が起きてからそれなりに時間が経っているらしい。が、消防車はおろか野次馬の一人すら居ない。延焼こそしていないものの、住宅街からそれほど離れているわけでもないのに。
いや、それ以前に、これほど派手に煙を上げているにも関わらず、私も都筑もここに着くまで火災に気付かなかった。
その事実の異様さと、目の前の光景に圧倒されたのだろうか。本来なら警察と消防に連絡する方が先だったのだろうが、私はそれを忘れて電話の相手を探していた。
相手はすぐに見つかった。
教会から少し離れた場所に、倒れた男性と、彼にとりすがって泣いている女性がいた。彼女が電話の相手だろう。
男性は重傷を負っているのかピクリとも動く様子が無い。
怪我の程度を診ようと回り込むと、完全に潰れた顔が視界に映りこんだ。
そしてその瞬間、全てを思い出した。
同時に理解してしまう。『これ』は比企谷くんだ。
私はすぐ都筑に命じて比企谷くんを病院へ運ばせた。救急車を待つべきかとも思ったが、『待つ』という行為に耐えられそうもなかった。
車の中で病院に電話し、判別出来る限りの容態を伝え、電話越しに指示を受けながら可能な限りの救命措置を行う。
病院では既に手術の準備が整っており、比企谷くんはすぐにストレッチャーに移され手術室に運び込まれた。
数時間の手術の末、比企谷くんは一命をとりとめた。しかし、未だ予断を許さぬ容態である事は変わらない。
比企谷くんは、通常は使われる事の無い病室に移された。
ここは最新鋭の医療機器が揃えられた特別な病室で、本来雪ノ下の人間以外が使う事は有り得ない部屋だった。
連絡を受けた母は当然の如く反対したが、私が土下座して頼み込むと唖然としながら了承してくれた。
母と姉の、あれほど驚いた顔は見た事が無かった。
私は産まれて初めてあの二人の度胆を抜いた事になるが、正直なんの感慨も湧かない。今の私にとって、そんな事は些末事でしかなかったのだ。
携帯電話が震えた。気付けばもう学校が終わる時間になっていた。そう言えば学校に連絡もしていない。無断欠席になってしまった。
電話の相手は由比ヶ浜さんだった。
由比ヶ浜さんの話では、私は病欠扱いになっているらしい。母の手回しだろう。
私は迷った末、由比ヶ浜さん、それから小町さんには事情を説明するべきと思い、二人を病院に呼び出した。が、小町さんを呼んでしまったのは失敗だったかもしれない。
二人とも、比企谷くんの名前を出してもきょとんとしていた。
それはそうだろう。彼女達は、彼のことを思い出すことが出来ないのだから。
比企谷くんは私の記憶を奪う時、否、封じる時、『顔を見れば思い出す』と言っていた。
それはどうやら言葉通りの意味であったらしい。つまり、彼の顔を見る事が封印解除の鍵だったのだ。
条件はおそらく『生身の比企谷くん本人の顔を見る』事で、その顔がどのような状態であるかは関係無いのだろう。だから潰れた顔であっても封印は解かれた。
逆に写真や映像では封印が解ける事は無いらしい。携帯の写真では思い出すことはなかったから。
二人は変わり果てた比企谷くんの姿を見て、私と同じように記憶を取り戻した。そして小町さんは、そのまま半狂乱になってしまった。今は鎮静剤を打たれて、別室で眠っている。
夜になって遠坂さんという方が訪ねてきた。記憶が確かなら、マスターの一人だった筈の少女だ。
既に面会時間は終わっている。この部屋にはそれなり以上のセキュリティが敷いてある筈なのだが、魔術師というのはそういうものなのだろう。深く考えないことにした。
彼女の話では、比企谷くんと共闘関係にあったらしい。教会にも居合わせたらしく、比企谷くんのことを謝罪してきた。
これまでにあった事、そしてこれから最後の敵に戦いを挑む事を聞かされた。
その敵の話では、聖杯は呪いで汚染されていてまともに機能しないらしい。そしてその敵は、それを承知の上で聖杯を使おうとしていると。
それを見過ごせば酷い災厄が起こりかねない。だから阻止する必要があると言っていた。
しかし彼女は、メディアさんには戦いを強制しなかった。
比企谷くんの傍に居させてやってほしい。そう言っていた。
これら一連の出来事の間、メディアさんはただ俯いているだけだった。
手術を担当した医師から聞いた話では、比企谷くんの怪我は相当酷いものだったそうだ。
まず右腕の肘から先が完全に欠損してしまっている。
左腕も骨が滅茶滅茶で、元通りにはならないらしい。
肝臓と脾臓が強い衝撃で破裂していて、他の臓器もダメージを受けている。肺の片方が完全に潰れ、もう片方にも折れた肋骨が刺さっているそうだ。心臓はどうにか無事なようだが、逆に言えば心臓くらいしか無事な部分が無いらしい。
また、神経にも何らかの異常が見られるそうだ。原因は不明だが、神経細胞が部分的に機能を停止しているらしい。
その部分に影響されて、他の生きている細胞も徐々にだが活動を弱めているらしく、いずれは全ての神経細胞が壊死してしまうという。詳しくは不明だが、現時点で少なくとも痛覚は完全に失われているだろうとのことだった。
しかし、何より問題なのは頭部の怪我だ。
正面、顔ではなく、後頭部の陥没骨折。それにより――
「脳を、損傷しているそうよ」
私の言葉に、由比ヶ浜さんがピクリと反応を示す。
「目を覚ますことは、期待しない方が良いって」
自分の声が震えているのが分かった。なのに驚くほど感情が籠ってない。だからどうしたと言われればそれまでだが。
「……ゴメン、なさい」
それは、これまで一言も喋らなかったメディアさんの声だった。
「……何に対する謝罪かしら」
自分でも驚くほど冷たい声。
彼女を責めるつもりなど無いというのに。
「彼に怪我をさせたこと?英霊が聞いて呆れるわね。主一人すら護れないなんて」
分かっている。
彼女の忠誠は本物だ。そうでなければ、あれほど必死に救いを求めるわけがない。それは分かっている。
「大方彼の人の善さにつけこんで好き勝手に利用してきたのでしょう?その挙げ句に死なせかけてこんな時だけ助けを求めて。あなたに恥は無いの?」
分かっている。
彼は他人の為に自分を省みないお人好しではあるが、それでもその為に命を投げ出すほどではない。
だからこれは、二人が必死で抗った挙げ句に力が及ばなかっただけだ。
力が足りないのは責められるような事ではない。それは分かっている。
「力も無いくせに大口を叩いて危険な場に駆り出して。役にも立たない力を振りかざしていい気になって。どうせなにもかも彼に押し付けて安全なところでのうのうとしていたのでしょう?」
「ゆきのん……」
分かっている。
役立たずは私の方だ。
そもそもの話、彼女を呼び出したのは私だ。本来マスターとして戦う筈だったのは私なのだ。それを彼に肩代わりさせてしまった。
つまり、彼がこんな目に会っているのは私のせいだ。
「自分の勝手な都合で他人を弄んで!あなた自分がどれだけ人に迷惑をかけているか分かっているの!?せっかく上手く回っていたのに全部ぶち壊しじゃない!」
「ダメだよ、ゆきのん……」
分かっている。
結局のところこれは嫉妬だ。
比企谷くんは、彼女を文字通り命をかけて護ろうとした。その事実に対する醜い嫉妬。
「あなたが……!あなたさえ現れなければ比企谷くんは……!比企谷くんを……」
分かっている分かっている分かっている!
分かっているのに止まらない!止まれない!
「比企谷くんを、返してよォ!」
感情の爆発を押さえられず、手近にあった花瓶を振り上げる。それをメディアさん目掛けて投げ付け、
「ゆきのん、ダメェ!」
凶行に走りそうになった私を、由比ヶ浜さんが飛び付いて止めてくれた。花瓶は逸れて、壁に当たって砕けた。
「ダメ……ダメだよ、ゆきのん……」
二人でもつれるように病室の床に倒れ、由比ヶ浜さんは私の胸に顔を埋めてうわ言のように繰り返す。
分かっている。
誰も責めるべきではないことも。
それで何が変わるわけでもないことも。
そんなことは分かっている。
私は、私にしがみついて泣く由比ヶ浜さんを抱き締め返し、涙を流した。
メディアさんは、やはり俯いたまま動かなかった。
ふと目を覚ますと、既に真夜中だった。
由比ヶ浜さんと二人、いつの間にか眠ってしまったらしい。彼女は涙の跡を残したまま、静かに寝息を立てている。
彼女を起こさないようにして比企谷くんのところに近付き、そっと手を取る。
彼の腕は骨が砕けて滅茶滅茶だったが、手首から先は綺麗なものだった。
その、『痣一つ無い左手』を握って呟く。
「本当に、バカなんだから……」
いくら『子供を助けるためとはいえ、ダンプの前に飛び出す』なんて正気を疑う。その結果自分がこんな目に会って、自分を心配する人間が居ないと、本気で思っているのだろうか?
起きたら説教と心に誓う。だから――
「だから、早く起きなさい。こんな美人を二人も泣かせて、目を覚まさなかったら許さないんだから」
その呟きは、『三人だけ』の病室に小さく響いた。
場所も、時間も、状況も違うというのに、『奉仕部の全員』が揃ったこの部屋は、どこか斜陽と紅茶の香りを思い起こさせた。