少年はいつも泣いていた。
涙を流すことなく、声を漏らすこともなく、ただ心の中で泣いていた。
彼は常に弾かれる側に立っていた。
それは以前から変わらぬ事だった。しかし、その内容が少しずつ変質していくのを感じていた。
ただ何となく疎外されていたものに、少しずつ悪意が混じり始めた。
一つ一つのそれはごく小さなものだったろう。
だが、海を漂う船の残骸が、複雑な潮の流れによって一つ所に集まるように。
無数の悪意は、誰が意図するでもなく少年のところに集まった。
やがて、己の処遇に人の意志など介在しないことを理解した時。
少年は、心の内からも涙を棄てた。
「おはようございます、八幡様」
「おはよう。相変わらず早えぇな」
寝起きの為かいつも以上に淀んだ眼でそんなことを言うマスター。
私が早起きなのは当然だ。今は人間の振りをする必要性から普通に眠っているが、サーヴァントは元々睡眠を必要としない。眠るも起きるも自由に切り換えられる。
マスターは私のそばまで来て手元を覗き込んで言った。
「……一日で一気に上達したな。もうコツ掴んだのか」
「はい。小町様の指導が良かったもので」
料理は楽しい。
まだ簡単な、それこそただ焼いて炒めて味付けするくらいの物しか作れないものの、人から正しく料理を学ぶというのは今までに無かった経験だ。
教師であるマスターの妹君は可愛いし、料理の感想を言ってもらえるのは思いの他嬉しかった。あと小町さんは可愛いし。
「もうすぐ朝食が出来ますので今しばらくお待ちください。そう言えば八幡様、お弁当はいかがでしたでしょうか?」
「お、おう。美味かったぞ」
「そうですか!それは良かったです!」
綻ぶように笑顔を作る私に、戸惑ったように答えるマスター。
正直に言えば意外だった。
この男にとって、他者の心など見えて当然のものだと思い初めていたところなのだ。
それがほんの些細な、純粋な気紛れからの善意によって、これほど動揺するとは思いもしなかった。
どうやら悪意に対しては神憑って鼻が利くものの、善意、好意に対してはまったくと言って良いほど免疫が無いらしい。
からかう時はそういう方向でいくことにしよう。とも思ったが、からかうつもりで好意を示すと勘付かれそうだ。難しい。
「そういや小町は?」
マスターは取り繕うようにこの場にいない妹の事を聞いてきた。
「まだお休みのようですが」
「寝坊か?たまにあるんだよな、俺が言えた義理じゃねえけど。しゃあねえ、起こしてくるわ」
「まだ遅刻するような時間ではありませんし、もう少し寝かせてあげてもよろしいのでは?」
「放っとくとそれはそれで文句言うんだよ。それに飯は一緒に食うんだろ?」
ふむ。自分で起きてくるまで待っても良いが、やはり料理は出来立ての方が美味しいだろう。それに早く起きてくれればその分多く話せる。
「それではお願いします」
「あいよ」
マスターは短く返事するとキッチンから出ていった。
私はその間に料理を仕上げてしまう。味噌汁は少し味が濃かったが、初めてにしては上等だろう。
「うぁ~……メディアさんおはよ~……」
小町さんが寝乱れたパジャマ姿で目元を擦りつつ現れた。可愛い。
「あらあら。おはようございます小町様、お顔を洗っておいでください」
「あ~い……」
寝ぼけ眼でフラフラと洗面所に向かう小町さん。可愛い。
「……メディア、人の妹を猛禽が獲物を狙うような目で見るのはやめろ」
「……何の話でしょうか?」
「いや、とぼけても無駄だから。瞳孔開きまくってるからお前」
「ご自分の欲求を私に投影して貶めるのは止めて頂けませんか?不愉快です」
「不愉……人のせいにすんな、何の境界の彼方に行くつもりだお前は。俺が妹に欲情するような変態に見えんのか」
「違うのですか?」
「違うわ。俺の小町への想いはもっと純粋なものだ」
「ストーカーの常套句じゃないですか、それ……」
このマスターとの、こんなやり取りも普通になった。
毎日が楽しい。
マスターとの腹の探り合いも、小町さんとのジャレあいも、クラスメイトとの下らない会話も、奉仕部でのゆったりとした時間も。
どれもこれも、生前では決して得る事の出来なかったものだ。
このまま聖杯戦争の事など忘れて人として過ごそうか。
そんな考えが魅力的に思える程には、今の状態を気に入っていた。
一人だけとは言え、実際に他のマスターを欺く事に成功しているのだ。もしかしたら不可能ではないのかも知れない。
そんな風に思い始めた日の放課後だった。
奉仕部に依頼が舞い込んだのは。
パァン!
廊下に乾いた音が鳴り響く。
一人の女生徒が、頬を打った右手もそのままに、涙の滲んだ眼でマスターを睨み着ける。
「……最っ低!」
ただ一言そう吐き捨てると、くるりと身を翻して走り去る。
向こうの角でこちらの様子を伺っていた二人の女子と合流し、大丈夫ゴメンね何あいつと囁き交わしながら、一度だけマスターに鋭い一瞥を飛ばしてから去っていった。
「……おー痛て。んじゃ報告して帰るか」
打たれた頬をさすりながら、マスターがなんでもないことのように言う。
令呪のリンクからは動揺のようなものは一切伝わってこない。本当に何とも思ってないのだろう。
あの少女達はつい先程まで仲違いしていた筈だった。
友人と仲直りをしたい。
それが奉仕部に持ち込まれた依頼だった。説明だけは受けていたものの、私にとっては初めての部活動ということになる。
この時代のこの年代の若者の悩みとしては、そこそこ切実な部類ではあるだろう。
それをマスターは見事に依頼達成してみせた、わけなのだが……
「ヒッキー!」
依頼人達が消えた方向から、別行動を取っていた由比ヶ浜結衣が駆け寄ってくる。その後ろには雪ノ下雪乃の姿もあった。
「どうゆうこと!?一体何やったの!?」
部室にやって来た時の依頼人よりも、尚張り詰めた表情でマスターに詰め寄る由比ヶ浜結衣。
「あの、結衣様落ち着いて下さい。八幡様も悪気があったわけでは……」
「……違うの、メディアさん。そうゆうことじゃないの……」
彼女は絞り出すように言うと、哀しげに目を伏せてしまった。
どうしたというのだろうか。彼女は感情的な人間ではあるが、このように他人を責めるような態度を見せたのは初めてだ。
見れば雪ノ下雪乃もマスターに険しい視線を向けている。
「……こういうやり方はもうヤメだ。以前、あなたはそう言ったと思ったのだけれど?」
「……仕方ねえだろ。今は出来るだけ他人を関わらせるわけにいかねえんだから」
聖杯戦争に巻き込むおそれがある。そう言っているのだろう。極低い確率ではあるが、確かにその可能性も絶無ではない。
「手っ取り早く方着ける必要があった。それで思い着いたのがこれだったんだよ」
「……ならばせめて事前に私達に説明を入れておくべきでしょう。結局あなたは何も学んでいなかったということなの?」
「段取りを思い付いて報告しようと思ってたら突発的に条件が揃っちまったんだよ。さっきを逃したら、解決するのは早くて明日の放課後になっちまう。勝手に決行したのは悪かった。謝る」
「……そう、もう良いわ。次は許さないわよ」
くるりと踵を返して歩み去る雪ノ下雪乃。部室に戻るのだろう。
一応は手打ちの形を取っているものの、まるで言い足りてないのがありありと分かる態度。
その名の如く、雪のような淡い冷たさを備えたこの少女が、これほど感情を露にしようとは。
「……便所行ってくるわ。先に帰る準備済ませといてくれ」
マスターは、こちらも舌打ちでもしそうな気配を撒き散らしながらこの場を離れた。
「……あの、どうしたのでしょうか、皆様……」
取り残されたように俯き続ける由比ヶ浜結衣に問いかける。
正直意味が分からない。
敵の敵は味方という言葉がある。
マスターは今回、衝突していた三人の共通の敵となることで壊れかけた結束を補強したのだ。
確かに一般的な倫理観に照らし合わせれば、あまり褒められた行動ではないだろう。しかし目的は達せられている。
その場しのぎの時間稼ぎかも知れないが、時間さえ稼げれば自力で持ち直せるパターンもある。今回はそのケースだ。
依頼はほぼ完璧に成功と言って良いと思う。マスターが糾弾される理由が分からない。
奉仕部の評判が落ちるとでも思ったのだろうか?しかし三人共そんなことを気にするタイプとも思えない。大体ほとんど知られてもいない部活なのに評判も何もない。
「……あのね、前にもあったの。こういうこと」
彼女は苦し気にそうこぼした。
聞けば彼は、これまでに何度も似たような方法で、つまりは己を供物に捧げるようなやり方で問題を納めてきたらしい。
初めは素直に凄いと思った。他人の為に自分を投げ出せる優しさに憧れもした。
けれど次第に見ていられなくなった。彼を大事に思うようになるにつれて、彼が傷付くことに耐えられなくなった。
犠牲などではない。本人はそう言い張るが、見ている側は痛々しくてかなわないと。
「……ちょっと前にね、本当に危なかったことがあったの。みんなバラバラになっちゃいそうで、今度こそ本当にダメかも知れないって、そう思った。なんとか乗り越えて、今も一緒にいられてるんだけど……」
あの時、もうしないって約束してくれたんだけどなぁ……。
そう寂しげに呟く。
「ヒッキーは、あたしやゆきのんがヒッキーの事を想うほどには、あたし達の事を考えてくれてないのかな……」
消え入りそうな声でそんなことを呟く彼女に、出来るだけ優しく声をかける。
「……ご心配要りませんよ、結衣様」
「……え?」
「八幡様はお二人を大事に思っていらっしゃいますよ。今回は、本当にただ早期解決にこだわっただけです」
「……そう、かな」
「はい。ですから自信をお持ちになって結構です。お二人は八幡様がお心を許す、数少ない方なのですから」
「そ……かな……。えへへ。ありがと、メディアさ……」
由比ヶ浜結衣が表情を綻ばせ、いつもの笑顔でこちらに振り向き――その顔が強ばる。あれ?
「?どうかなさいましたか?」
「……メディ……ア……さん?」
「――そろそろ八幡様がお戻りになられますね。失礼、鞄を取りに行かせて頂きます。結衣様のものもお持ちしますね」
固まったままの彼女を残して部室に向かう。
おかしい。表情は完璧に作れていたと思ったのだが。
自分で思っているより動揺していたのだろうか。雪ノ下雪乃と顔を会わせる前には調整しなければ。何、私ならば問題無い。
胸の内に渦巻くドス黒い感情を制御しながら、私は部室へと歩を進めた。