ていうか、予約投稿の仕方も分からぬまま、俺は一体何を目指そうとしているのやら。
ちなみに、犬とハサミは使いようだかっていう小説の影響を受けて、犬が主人公の二次創作とかないかなって探してみたら意外にも存在して、じゃあ俺ネギま!で書く、みたいな対抗意識とかは全くありませんの悪しからず。
ちなみに冒頭めんどくせえくらい関係ない話が続きます。まず桜通の吸血鬼編あるし、その後に修学旅行編と伯爵編が過ぎてやっと小太郎くんがルームメイトというか村上さんちの弟になるわけですので、ある意味で俺が本当に書きたいモノは随分後になるんですよね。オチも考えてないし、だらだらと続く面倒臭い主人公の語り口調に俺がくじけるかもしれない。そんな作品でもおkといってくれる方は神様です。
では、本編。
人の死に様
“死”というのは、存外に恐ろしくないものなのかもしれない。人間は、一秒一秒が死へのカウントダウンなのだと確り認識すべきだ。今から人間という概念を完全に失う、俺からの素晴らしい忠告だ。しかと受け取ってほしい。一秒を生きるということは、一秒を失うということだ。一秒だけ、死へと近づいたということだ。確信していい。今こうしてこの文字の羅列を読んでいる今も、死という絶対的最終点へのカウントダウンは無機質に鳴り続けているのだ。
硬いアスファルトが、皮膚を裂くように冷たい。この感覚も、もう二度と触れることが出来ないのだと思うと、感慨深いものだ。アスファルトにも負けない程に冷たい小さな胴体を抱えながら、俺は溜息を吐いていた。今迄殆どを見て見ぬ素振りで過ごしてきた俺の、たった一つの気紛れだった。道路に横たわる犬を助けようと、俺の良心が動いたのだ。その勝手に動いた足も、もうすぐで曲がりもしない方向へとひん曲がることだろう。今迄が間違いだと思っていたが、――まさか、これが間違いだったとは思わなかった。正解に拘る訳ではないが、間違えば死ぬと言うのであれば、俺も少しくらいは正解への執着心を持てたかもしれない。
轢死にしては綺麗な死骸だ。
案外、死んでしまった犬を無責任にも、文字通り放り出した飼い主でもいたのかもしれない。赤い首輪は、この犬にとってとても重い磔として機能していたことだろう。
病死か、寿命か。
何れにせよ、この犬にとっての生涯は、どんなものだったのか。久しぶりに、同情した。これから同じ境遇に立つからこそ同情できたのかもしれない。
犬の幸せを、人間が推し量る事が出来るのか――。答えは否だ。どうしたって不可能だ。言葉も交わせぬ者とどうして心を通じ合わせることが出来ようか。動物を飼う機会も無く、人間以外の動物と付き合ったこともないからこそ言えることなのかもしれない。だがしかし、そんな俺は犬に対して同情していた。此れは確かに同情だ。これを同情と言わずして何を同情と呼称しろと言うのか。茶色と黒の混ざった毛。長い胴体。犬に詳しくもない俺でも、その犬種は分かった。ダックスフンドとか言う、小型犬だろう。冷たくて、ちょっと臭いそれは、俺に無情な現実を突き立てていた。
――死ぬと確信してから、どれ程の時間が経っただろうか。音なんて、まるで聞こえない。世界から色が消えていた。月並な表現だが、そうとしか例えようが無かった。一つ一つの刹那を克明に刻みながら、タイヤを焦がす大型トラック。何を積んでいるのかも分からない。けれど、これから俺の魂を積むことになるのは、最早決定事項だろう。逃れることの出来ない現実に、口を大きく開けている男の姿が見えた。そうだ。これは八つ当たりだ。傍観者気取りの神様に会うことは出来ないから、せめてこの運命に利用された彼を道連れにすることくらいなら、許されるだろう。俺は、心の中で不敵に笑った。遅延する時間の中でこれだけの猶予が残されているのなら、もう一度立ち上がることも出来るのではないかと、考えない訳がない。だが、無理だった。俺の足を縫うようにして捕らえたアスファルトの凹凸は、未だに俺の足を縫い止めていた。体感時間が遅くなるだけで、体の動きそれ自体が早くなる訳ではないらしかった。惜しいな、なんて思いながら、俺は諦めたように犬の頭を撫でようと手を動かした。蜘蛛の糸という、あまりにも有名な作品がある。もしあの物語が
結果的には助けられなかったのだから、犬橇すら来ないのだろうけれど
瞼を閉じて思い出すのは、唯一の肉親の姿。俺とは似ても似つかない容姿端麗な妹の事だった。完璧な人間はいないという言葉を体現した様な、世話を焼きたくなる様な奴だった。これからは何処か、顔も知らない親戚の家で生活することになるだろう。それもまた良い事だ。俺との貧困生活も疲れていただろうし。女の子らしくショッピングが出来る環境にいられることが苦痛だなんて言う女性は、きっと存在しないだろう。
しかし、もしかすると、俺は妹のことも見ていなかったのかもしれない。
――妹を見なかった。
――親を見なかった。
――友を見なかった。
――人を見なかった。
――己を見なかった。
なのに、今更になって犬なんかを見てしまうから、こんなことになってしまうのだ。
――次の瞬間、俺の視界は速度を取り戻していた。
其れに反して、色は反転していく。白は黒に。赤は青に。緑は紫に。灰は土に。まるで、まるで世界の改変を目の前にしているようだった。青色に燃える空が、近く見えた。成程、空を飛ぶという感覚は、こういうことを言うのか。心地の良い浮遊感。しかし、全身を襲う鈍痛は、まるで鉄棒から真っ逆さまに落ちた時の不快感に似ていた。つまり俺は、空に向かって落ちているということか。人間というのは面白い程に良く飛ぶ。自分がどれ程に矮小な存在か、思い知らされるようだった。アスファルトに叩きつけられる体が、とても嫌な音を立てた。未だ、鼓膜が破れてしまったように外界の音は遮断され続けている。それでも甲高いスキール音は聞こえたし、雑多な他人の話し声も澄んだ音質で聞こえていた。気付けば、抱えていた犬は既に何処かへと消えてしまっていた。轢かれた際に離してしまったのか。なにか、名残惜しかった。どうしてこう、俺は中途半端なのか。腹を立てない訳にはいかなかった。煮えくり返りそうな
意識が遠退いていく。死が近づいている。端的なまでに、其れは明確な死だった。このまま天に手を伸ばしてみようか。俺を地獄に送ろうとする神様の顔を、拝みに逝こうじゃないか。宇宙の外側から
――なんだ、俺のほうがマシじゃないか。
***
遠退いていた意識が、唐突に戻ってきた。それはまるで、夢から覚めたような感触。まず辺りを見回して、その後に其れを夢だと認識し、ほっと安心する。そんな経験を誰しもがすると思う。この感覚は、其れに酷似していた。暖かな光が、瞼を焼いていた。なんだか、大きな違和感が体を纏っている。いや、纏っている訳ではなさそうだ。それは内的な違和感でもあり、外的な違和感でもあった。一つだけ確信できる違和感があるとすれば、それは“匂い”だった。嗅いだことがない匂いだとか、卵の腐ったような臭いだとか、そういう話ではない。言うなればそれは、強烈な匂い、だろうか。妹の髪の毛に纏わりついていた、シャンプーの匂いがした。いつもならばふんわりと抱擁するように優しい匂いが、今に限っては劈くような強烈な匂いとして、頭の中枢を強く刺激していた。しかし、気分は悪くない。むしろ良好と言える。これは、きっと匂いがおかしいのではない。俺の嗅覚が、おかしいのだ。直感的にそう確信した。そして、何よりも俺を困惑させたのは、この嗅覚に気分を害さない俺自身だった。まるでしっくりしている。生まれ乍らにしてこの嗅覚を持ち得たと言わんばかりに。そして体の違和感。およそ“人間”の体ではない、窮屈な体。何もかもが違う。だからこそ、なのかもしれない。その違和感は、大きすぎるが故に小さかった。これも、嗅覚と同じことが言える。“生まれ乍らにして”。そう、これは、俺の体ではない。だが、俺の体でもある。気が触れた人間でもあるまいし、そんな事を考えるのは馬鹿馬鹿しいと、俺自身が思っている。しかし、これは確信だった。何故なら、俺は“死んだ”のだから。死んだのに、こうして意識を持っている。魂という概念が形として存在していて、俺は正しく、その概念として此処にいるのではないか、と。しかし、おかしい。おかしいのだ。この思考そのものが素っ頓狂なものであることは確かだが、其れ以前の問題だ。この嗅覚と窮屈な感覚は、一体どう説明する。嗅覚はまだいい。何が良いのかは俺自身も分からないが、なんとなく納得できる。だが、窮屈な感覚はおかしいだろう。人間の器――骨と肉と皮――から乖離されたのだ。むしろ解放感に満たされて然るべきなのではないか。
ここまで思考して、俺は何処からかシャワーの音が聞こえてくる事に気付いた。嗅覚があり、聴覚がある。お腹には暖かい毛布が敷かれている感触があった。なんだ、五感は揃っているのではないか。それにしても、この毛布の感触――もしかしなくても、俺は裸なのではないか?
真っ暗な視界。きっと、視覚もあるはずだ。重たい瞼を、必死に持ち上げた。光が差し込む。その眩さに、頭が眩んだ。閉じかけた瞼を抉じ開け、俺は辺りを見渡そうと頭を擡げた。――視野が、まるで違うような気がした。気がした、というのは、当人であるところの俺でもその視野の違いには気付けないということだ。ただ漠然とした差異を感じるだけ。久方振りの視界情報に頭が戸惑っているだけかもしれない。俺はそう結論付け、再度、己の状況確認に徹した。
完璧な空調は穏やかな室温を実現していた。暖色系で纏められた部屋は、きっと最高の住み心地を誇ること間違いなしだ。匂いもそうだが、部屋の空気や置物からして女性の部屋だろう。立ち上がろうとするが、立ち上がれない。代わりに、俺は四足歩行で移動することにした。何故だろう。――四足歩行がしっくりくる。立ち上がれないからと言って、無理に四足歩行をする訳がない。自分の家ならまだしも、他人の――それも女性の部屋だ。この情けない姿を女性に見られることの屈辱と言ったら無い。だが、物は試しと歩いてみれば、それはまるでこう動かすべく付いている手足と言わんばかりにしっくりしていた。本当にしっくりしていた。
大きな鏡が、目に見えた。ここは女性の部屋なのだから、等身大の鏡が壁に立て掛けられていた所で、何もおかしなことはない。しかし、其処に映る自分の姿は、紛れもなくおかしなものだった。
そうだ。もう現実逃避も終わりにしよう。疾うの昔に気付いているではないか。人間と“それ”とで、ここまでの相違があるとは、思わなかった。視界は白黒に見えていると、何かしらのバラエティ番組で聴いた覚えがある。だが其れに反して、俺の視界は酷くクリアなものだった。どんな現実も受け止めることに定評のある俺でも、この状況はどうしたって逃避せざるを得ない程の惨状だったのだ。
耳を垂らし、四足歩行する獣は、茶色と黒の混ざった被毛を持ち、長い胴体を持つ小型の動物。犬に詳しくもない俺でも分かる程度の知名度を誇る犬種。ダックスフンド。声を出してみようとすると、軽快な鳴き声が鼓膜を揺らした。犬は犬同士で言葉が分かるものだと思っていたが、そういうものでもないらしい。少なくとも、俺の喉から出た声は言葉でなく、ただの鳴き声だった。適当に“あー”と言ったつもりだったが、まさかの“わんっ”である。溜息は、そのまま息として出た。
「んー?」
どうやら、俺の声を聴いた家主が、何処からか俺を覗きこんだらしい。鏡には、僅かなそばかすを頬に散らした顔が、短い赤毛と共に見えていた。振り向くと、鏡の世界と違わぬ光景が見える。むしろ、鏡よりも鮮明なものだった。胸元に置かれた手にはタオルが握られていて、風呂上がりであることはすぐに分かった。そしてどうやら、先程から鼻を劈いているシャンプーの香りは、彼女から発せられているものらしい。
「お、目が覚めた? おーい、ちづ姉っ。この子、眼を覚ましたみたーいっ」
どうやら、住人は一人ではないようだ。しかし、親などはどうしたのだろうか。一人の部屋にしては広い様に見える。というか、リビング以外の何物でもないだろう。だとすれば、親が此処にいてもおかしくはない。一人暮らしだろうか。いやだから、他にも住人がいるって、今自分でも言ったばかりじゃないか。多少の混乱が見られる。当然と言えば当然だが。
呼ばれた人――ちづねえ?――と思しき人物が、赤毛の少女を倣うように壁の向こう側から此方を覗いた。
「あら、元気そうね。心配して損したかしら?」
柔和な笑みが特徴的な女性だった。もしかすると、彼女が母親だろうか。いや、姉という線が濃厚か。あの赤毛の少女を娘とするには、年齢が若すぎる気がする。まだ二十歳にもならないだろう。
下着姿の彼女は、まるで警戒する小動物を安心させるような、優しさを飽和した動作で歩み寄る。俺は、まず俺自身が怪しい事象に見舞われているために、自分以外の何かを警戒するような余裕も余地も残されていないのだが。二人揃って入浴していたのか。この女性からも、赤毛の少女と同じ香りがした。
「……」
こちらをじっと見つめる女性。俺は何をするでもなく、見つめ返す。どれ程、そんな時間を過ごしただろうか。小さく首を傾げると、女性は唐突に俺を抱き締めた。
「夏美、この子を飼うことってできないかしら?」
どうやら気に入られたらしい。俺としてはそんな気も無かったのだが、成程、犬の体というのは良い物だ。早速、俺は己に置かれた状況を受け入れつつあった。やはり俺の定評は崩れない。そんな、現実逃避を孕んだ思考が、俺の頭を支配していた。その柔肌を一身に受け止めながら。つやつやとした肌は、とても若い。大きな膨らみは、そこいらのソファよりも心地が良かった。
「うーん、良いんじゃないかな? 委員長が何を言うか分からないけど……」
「あやかなら大丈夫よ。あの子、実家で大きな犬を飼っていたでしょう?」
「えー、あれは委員長のお父さんの趣味でしょ?」
トントン拍子で話が進んでいるようだ。俺の意見なんて、やはり聴かないのだろう。当然だが。何の因果か、犬の体となった俺は、恐らく野良犬として扱われていたのだろう。外を見ると、雨に降られている。成程、雨の中、意識もない犬が倒れていれば、良心のある人間なら拾ってくれるに違いない。現に、心優しい少女達は、こうして俺を拾ってくれたではないか。俺の体を犬にした運命を呪うべきか、彼女達に出会う運命を祝うべきか。俺には選べそうになかった。
しかしどうやら、委員長という人物が問題なのだそうで。夏美と呼ばれた少女は、頑なに“委員長が、委員長が”と言って、僅かな絶望をちらつかせるばかりである。もしかすると、この少女は俺を飼うことに関して反対なのかもしれない。だがちづねえとやらに実質的な全権が握られているのか、強く出られない様だ。少なくとも、俺にはそう見えた。どうにかして、その委員長とやらを説得しなくてはいけないらしい。そうしなくては、いけないのだ。これは使命感にも似ている。何故ならば、ここを追い出されると、俺はこの雨に強く打たれながら冷たいアスファルトを歩み続ける羽目になるのである。下手をすると、二度目の死を迎える可能性だって無くはない。
「…………くぅん」
鳴いてみた。未だ強く抱きしめてくる女性の胸の中で、身悶えてもみる。どういった動作が女性受けするのか分からないが、考えつく限りの可愛らしい行動を取ろう。それが、今の俺に出来る最善の策だ。人間は――特に女性は――小動物を無差別に可愛いと言う癖か何かがある。それを利用しよう。一回でも多く可愛いと思ってもらう。それが、“犬”の出来る最大限の行動なのだ。
「…………」
「…………」
「……飼おっか」
「ええ、飼いましょう」
心の中で小さなガッツポーズを決めた俺は、何も悪くないはずだ。
兎も角、これで何とか寝泊まりできる屋根を確保したと言って良いだろう。他に何を考えるべきか――そうだ。犬の体なのだから、ネギ類などは食べられない。むしろ、ドッグフードを食わされる羽目になるのではないか。ドッグフードがどんな味なのか分からない以上、我慢できるか否かも判断できない。取り敢えず、今日くらいは普通の飯を乞いたいものである。俗に言う、最後の晩餐というやつだ。特に、ちづねえとかいう女性はとても綺麗で、こんな美少女と晩餐が出来るなんて、男として最高の経験なのではないだろうか。
まぁ、今の俺は男というより雄なのだが。
――唐突に。俺の体が持ち上げられた。目の前に夏美という少女がいることと、背中に感じる膨らみからして、俺を抱えているのはちづねえだろう。
「じゃあ、飼うことは決定ということで……。お風呂に入れてあげましょうか」
「じゃあ、お風呂はちづ姉に任せるよ。私はご飯作っておくから」
「ええ、よろしく」
俺は、期待に心を膨らませる他に無かった。
抱き抱えられた俺は、情けなく小さな鳴き声を上げることしか出来なかった。正直、恥ずかしい。確かにまだ不慣れで、所々躓いてしまうだろう。だが、歩けない訳ではない。自分で歩きたい。だが、彼女はお構いなしに、豊満な其れを自分に押し付ける。無理矢理藻掻いて爪が引っかかっては、彼女の柔肌を傷つけてしまう。それでは申し訳ない。今は、大人しく従うことにした。
脱衣所に入り、まずは服を脱ぐ――と言っても、俺は服を着ていない。服を脱ぐのは彼女の方だ。期待に心を膨らませたまではいい。だが、俺はとてつもないヘタレだった。少し視線をずらせば、そこには男が一度はする妄想が、現実として存在しているのだ。それを直視するだけの勇気を、俺は持ち得なかった。幾ら、普段“大きいのは隠してこそ、小さいのは晒してこそ”と言っているからと言って、晒している大きいソレを見る事が出来るとは限らないという、いい例である。
犬を相手に体を隠す事はしないらしく、ちづねえはあられもない姿のままで俺を抱えた。どこまで俺を抱えるつもりなのか。それとも何か、俺が逃亡を策略しているようにでも見えているのだろか。だとするならば心外だ。桃源郷を前にして逃亡する程、俺は愚か者ではない。とは言え、犬がそんな事を考えているなんて、誰が思おうか。俺も、もし犬を拾って風呂に入れる時があったならば、暴れないように、とか、逃げないように、とか。そういうことを考慮して、ちづねえと同じような行動に出るだろう。それが人間にとってどれ程身勝手な行為だったのか。犬になってから気付くのは、ある意味当然のことなのだろう。もう諦めて、大人しく抱き抱えられていることにした。
カビ一つ見当たらない浴室は、アロマの香りが充満し、肺の中を綺麗にしてくれるようだった。風呂の掃除というのは大変なもので、天井や壁や床、どれか一つを見逃すとすぐに汚くなるのだ。妹の為にと、主婦宛らに掃除をしてきた俺だから分かる。夏美かちづねえは、潔癖症なのかもしれない。
犬用のシャンプーなんかがある訳ない。しかし、人用のシャンプーを使う訳にもいかないと認識しているのだろう、ちづねえは“シャワーだけでいいかしら”と言葉を零した。しゃがみ込んだ彼女は、俺の体を優しく押さえつけ、少々華美な蛇口の栓を軽く回した。水が噴射する音が聞こえる。これから押し寄せるだろう衝撃に備え、俺は眼を閉じた。
何だか、久しぶりな感覚だった。皮膚に当たるお湯が、じわじわと体の芯まで温める。だが、被毛の有無というのは大きなものだ。懐かしいと思う反面、体が重くなり、だるくなる。人間が獣程の毛を持たない理由というものが分かった気がした。
大まかな部分をシャワーで流すと、ちづねえはプラスチック製の桶に水を貯め始めた。どうやら、即席の俺専用湯船を作っているらしい。確かに、湯船に浸からずして入浴したとは言えないだろう。しかし桶に収まってしまう程に俺の体積は小さいのか。小型犬の中でも特に小さな部類に入るのではないか? コーヒーカップに収まるトイプードルが一世を風靡したが、其れといい勝負なのではないだろうか。
軽い絶望を覚えた俺はしかし、ちづねえの奏でる鼻歌に耳を傾けることで現実逃避を果たした。何、生前が低身長であっただけに、小柄な矮躯というものには慣れている。生まれ変わったのか憑依したのかも分からないが、まさか死後も小柄という単語と付き合う事になろうとは思いもしなかったが。ちづねえが、俺の体を持ち上げる。もうこの感覚にも慣れつつあった。小さな桶の中に体を浸からせる。流動的に動く水面に映る己の姿。誇示するかのように突き出た鼻は、何処か情けない風貌に見えた。
浴槽に張られた水の上に、俺が入っている桶が乗せられた。沈みはしないかと不安になり、忙しなく首を動かす。不安定な足場に、情けない声が出た。精神が犬に引っ張られているのかもしれない。もしかすると、俺の意識はその内に消えるかもしれない。精神が引っ張られるというのは、そういうことだ。己の保持が不可能な人間が陥りやすい。女装をするだけで男を失ったり、着ぐるみを着るだけで己を失ったり。役に入り込めると言えば聞こえは良いかもしれないが、己を持ち得ない人間であることに違いはないのだ。なんて、自分勝手な思考だろうか。その思考が自分の物である事に自ら驚き、そして思わず、自嘲的に笑った。水面の中で揺らめく顔に変化は無いが、俺は確かに笑った。
小さく鳴いた俺の不安を気取ったのか、ちづねえは桶を自らの胸に抱き寄せた。幾らかマシになった足場に安心し、俺は薄く張られたお湯の中で身を包んだ。長い胴体に顔を置くと、丁度ちづねえを見上げる形となった。女神のような笑顔を浮かべる彼女を見て俺は、優しい笑みを無償で貰うことの出来る犬に嫉妬していた。