犬娘とオオカミ少年   作:酢酸の大群

2 / 7
 なんやかんやで主人公の名前が決まる話。これ以上いうことがない。はて、どうしたものか。


少年との邂逅

 風呂から出て真っ先に気付いたのは、部屋にいる人間の数が増えている事だった。ちづねえに体を拭いてもらった俺は、犬がするように身を振って残った水気を飛ばし、先にリビングへと足を運んでいた。……あわよくば、夏美という少女にでも可愛がってもらおうという下心があったことは、認めよう。だが、見ず知らずの人間に笑顔を振り撒いて貰えるという経験をすれば、誰だってそんな下心を持つようになる筈だ。そう、俺だけじゃない。その下品な心を携えて、俺は鏡のようなフローリングを我が物顔で闊歩していた。リビングに入ってから真っ先に美味しそうな匂いを感じて、思わず眼を細めようとした時だった。先程まではいなかった、金髪の女性がいることに気付いたのは。

 其れは一見してお嬢様だと理解できる程の気品と雰囲気を持ち合わせた人物だった。俺の知り合いにいた金持ちとは、まるで訳が違う。あんな、しっちゃかめっちゃかな性格をしたお嬢様がいて堪るか。そう。俺が求めていた理想のお嬢様像が、其処には在った。花を象った様な滑らかなデザインのカップを手にする姿は、背景に広い庭を見渡せるテラスと豪奢な花壇、そこに佇む一匹の白い大型犬を幻視する程だった。

 見惚れている俺を、後ろから抱き抱える存在がいた。匂いで、それが誰なのかが分かるというのは、案外便利なのかもしれない。

「ほらほら、見て委員長。この子、凄く可愛いでしょっ」

 後頭部に頬を擦り付けられる感触を覚えながら、俺は委員長と呼ばれた少女を見た。夏美やちづねえとは似ても似つかない。赤毛ではなく金髪。雰囲気はちづねえに似ているが――。委員長。まさかイインチョウという名前の人間ではないだろう。間違いなく、役職の名称だ。委員長と言えば、クラス委員や図書委員等が名を連ねる“委員”の長ということだろう。そして、委員長と言う呼称を最もされやすい存在は、クラス委員の長である。そして、まさか身内のことを役職名で呼ぶ家族は零に等しいだろう。

 更に言えば、同居しているだけと考えるよりも、ここが何処ぞの女子寮だと考えたほうが自然であることは明白だった。

「あら、その子が?」

 どうやら夏美が話しておいてくれたらしい。

 委員長と呼ばれた少女は俺を見るなり、眼を細めた。まるで品定めをされているようで、落ち着かない。暫時、そんな刹那が続いていた。遂には怖くなって、抱いてくれている夏美に助けを請おうと上を見る始末である。

「千鶴さん。本当にこの子を飼うんですの?」

 丁度脱衣所から出てきたちづねえは、その委員長さんの言葉に短く返した。というか、ちづねえって、ちづ姉ということか。成程、本名は千鶴、と……。覚えておいて損はないだろう。

「ええ。……ダメ?」

「ダメとは言いませんわ。ただ、寮長先生の許可は貰っていますの?」

 その問には、千鶴さんではなく夏美が答えた。

「まだだけどさ、取り敢えず許可とかは夕御飯食べてからにしようよ、ね?」

 夕御飯。なんて甘美な響きだろうか。この犬の体の元の持ち主が最後に食べた飯は、きっと残飯のようなものだったのだろう。或いは、三日前から何一つ口にしていなかったのかもしれない。兎に角、腹と背がくっつきそうな程に、俺は空腹していた。夕御飯は、肉だろうか。部屋を漂う匂いは、犬の鼻腔を酷く刺激した。涎が垂れそうになるのを堪えながら、後頭部を夏美に押し付けるようにした。殆ど無意識の行動だった。犬に染まるというのは、存外に悪くないものだ。ただ、その後の羞恥心は半端じゃないが。

「……そうですわね。そうしましょう」

 ――こうして、この部屋での生活が、始まった。俺が犬という種族で無ければ万々歳なのだが、犬という種族だからこそ成し得た美少女三人との同居生活だ。少しの支障は、我慢することとしよう。――本当、犬程度であれば少しの支障で済んだのに。そう思わざるをえない状況に立たされる羽目になるとは、この時の俺は思いもしなかった。……なんて、変な語りを入れて己の人生に凹凸を付けるのも良いのだろう。凹凸の付き過ぎた人生は、逆の凹凸で削るか、埋め合わせるという手もある。凹凸のある道を平坦に改悪するのも、一種の生き方なのだろう。

 それにしても、寮。寮か。……寮なのか?

 寮にしては、少々、豪華な部屋じゃあないか?

 ……まぁ、いい。どこぞのお嬢様学校とか、お金持ちが持ち主の寮なのかもしれないと、そう考えておこう。

「この子の名前、どうする?」

 お皿を並べ終えた夏美が、そう言った。それが、一時間の大論争へ繋がるとは、誰が思っただろうか。

 

 

 ***

 

 

「やっぱりココアでしょ」

「ココアって、男の子の名前じゃありませんの?」

「オスメス兼用じゃないかしら?」

 衝撃の事実。なんと俺は――俺の体は、メスだったらしい。勿論、精神は男である。体それ自体の違和感が大きすぎて気付けなかった。なんということだろうか。いや、もう犬の体ということもあって、オスもメスも関係ないのだが。ただ強いて言うならば、“オスなら”という固定概念は紛失させるべきだろう。用を足す時に片足を上げる雌犬など、ゲームの中だけでいい。

 そしてこの論争の中で出てきた名前は“ポチ”“ラッキー”“ユウタ”。そこで俺がメスであると判明。“ユイ”“ユズ”などの路線に変更され、最終的に“ココア”という名前が出てきた。なんでも、俺の毛の色がココアのようだから、だそうだ。なんなら「珈琲」にでもしろよ。

「でもまぁ、ユイとか、ユズとか、可愛らしいからって付けるのは良くないわね、確かに。意味とか、そういうのもないと」

「ほらほら委員長! ちづ姉もそう言ってることだしさ!」

 龍馬に同情されそうな名前の付け方をされている気がするが、所詮、犬は犬。ペットなのだ。未来を託す訳でもなく、俺はただの愛玩動物として此処にいるのだろう。だからこそ、そんな名前の付け方をする。日本だけでなく、世界的な問題になっているらしい命名の問題。自らの子供に対し、まるでペットの様な名前を付けては意味不明に漢字を当てて、未来を担う子供を、一体なんだと思っているのか。世にいるキラキラネームの名付け親に物申したい。何故か自分の名前を思い出せない俺が、物申せる立場にあるのかどうかは、些か疑問だが。

「まぁ、そうですわね」

 どうやら、夏美の提案が受け入れられたらしい。だとすると、俺はこれからココアとして生きていかなくてはいけないということか。“犬に人権を”なんて言う訳ではないが、人間としての意識がある犬にくらい人権を寄越せと言いたい。

 皿に盛られた肉を出来るだけ丁寧に食べながら、俺は三人の論争を他人事のように聞いていた。犬の口というのは、とても食べづらい。肉の横に置かれたミルクを飲もうとするが、人間の様に飲める訳もない。仕方なく、舌をスプーンの様にしながら頑張って飲んでいるのだが、そのうち舌を攣りそうだった。これも本能的に分かるものだと思っていたが、甘かった様だ。どうしてこう現実は上手くいかない物なのか。支障なく食べられるようになるには、それ相応の時間と経験が必要だろう。

「にへへー。じゃあ今日からお前はココアだからね!」

 食べている途中に体を持ち上げないでほしい。驚いて喉に詰まりそうだったではないか。不満を口にしたかったが、出来る筈もない。俺の不満は掴み所もなく、勝手に霧散していくのだった。

「こら夏美、行儀が悪いわよ」

「えへへ、ごめんなさーい」

 どうやら、自分の意見が押し通った事が余程嬉しかった様だ。にへら、と緩んだ表情を想像するのは容易だった。夏美は随分と分り易い人物の様だ。こういう人間の厄介なところは、自分が分り易い人間ではないと認識していることだ。例えその認識が無くても、“自分は分り易い人間だ”という理解もないのだろう。とは言うものの、これは偏によるものではない。自分を自分たらしめるアイデンティティを自力で見つけることの出来る人間は果たして、いるのだろうか。否、いるはずがない。もしいるのだとしたら、その人間のアイデンティティは作られた物であり、決してアイデンティティと言える物ではないと、俺は思う。人工物も受け入れろという意見を否定する訳ではないが……。まぁいいだろう。ここまでくると、後は思想の問題なのだから。

「それで、飼育の許可だけれど……。ずらずらと三人で押し入るのも迷惑でしょうし、誰か一人が許可を貰いに行くということでいいかしら?」

「私は構いませんわ」

「異議なーし」

 なんだか、夏美だけ凄い庶民的だな、こう見ていると。そして注意されたにも関わらず俺を抱き続けているというのはどういう了見か。というか、外見的には全く無いのに、こう触ってみると、結構柔らかないな。――いや、何が、とは言わないけれど。

「じゃあ誰が行くのかしら?」

「拾ったのはちづ姉だよ?」

「ですが、喜んでいるのは夏美さんでは?」

「あら、あやかも内心では喜んでるじゃない」

「いや、それは、その……」

「あー……。私が行くよ。どうせサインとかするだけでしょ?」

 俺の押し付け合いが早々に始まるものかと思ったが、意外にも即座に収束した様だった。纏まりがあるのか無いのか、よくわからない三人だ。

 ……まぁ、悪く無いかな。

 

 

 ***

 

 

 誰かに抱き抱えられるという感覚に慣れるというのは、男としてどうなのだろう。健全な思春期男子として、どうなのだろう。この際全ての思考を放棄するという選択も俺は持ち得ているのだが、如何せん人間を止めるつもりは皆無だ。思考を止めない限り、俺は人間でいられる。例え傍から見た俺が犬であっても、俺は俺であり、人間なのだ。

「ココアー、良かったねぇ。一つ返事で許可が貰えるなんて、知らなかったよ、私」

 誰に話し掛けているのか、独り言にしては大きな声で夏美は言った。俺は取り敢えず、一つだけ“わんっ”と鳴き、その言葉に答えた。尻尾が右に左にと揺れているのが自分でも分かった。どうやら嬉しいらしい。なにが嬉しいのか、自分でも良く分からない。

 寮の廊下は寒い。しかし夏美の服装はノースリーブ。まるで季節感がチグハグとしているが、春から初夏、と言ったところか。春にしろ、初夏にしろ、夜はまだまだ寒いのだろう。その上、今日はシトシトとした雨が降っている。身を僅かに震わせた夏美は、俺を湯たんぽ代わりにでもするように、ぎゅっと強く抱き締めた。流石に苦しさがあるが、愛玩動物の悲しきところかな。苦しい、という声は届かないものだ。仕方なく、されるがまま、俺は脱力することにした。

「あれ、村上さん?」

「ん?」

 男なのか女なのか、区別するのが難しい声が、眼を細めた俺の正面から聴こえた。見れば、茶髪というか赤毛というか、なんとも判断しづらい髪の毛の少年が立っていた。眼鏡を掛けた風貌は、如何にも頭が良いという雰囲気を纏っている。温厚そうな眼差しは興味という単語を孕み、俺を射抜いていた。犬だけに。

「あ、ネギ先生。こんばんは」

「はい、こんばんは。その犬は……?」

 ご尤もな疑問を、投下した。しかし、先生? ネギ? なんだ。この少年は立場やら名前やら――そういった素性というやつを偽ろうとしているのか? まるで捉え方が分からない少年だった。少年はまるで、俺を観察するような眼差しを向けてくる。先程の委員長――あやかとはまた違う興味。なんだろうか。この、見通されるような、見透かされる様な気分は。好きじゃない。犬の顔は、顰めることさえ出来なかった。

「ココアって言うんだよ。さっき拾ったんだけど、可愛かったから預かることにしたの。元の飼い主がいるかもしれないから、飼い主が現れたら潔く返すことを条件にって言われたけど……」

「へぇ、そうなんですか……。可愛いですね!」

「でしょ!」

 ずいっと、夏美が腕を突き出した。当然、その腕の延長線上に位置する俺は、少年の眼前へと押し出されることになる。必然的に、彼の訝しそうな目線を一身に受け止めなくていけなくなる。曝け出されたお腹を隠したくなる衝動を押さえ、首を傾げてみせる。

「…………可愛らしいですね、本当に」

 当分考え込むような仕草を見せていたが、彼は最後に笑顔を咲かせた。対する夏美も、其れに負けない笑顔で頷いた。しかし、短時間にこれだけ可愛いと言われる日が来るとは思わなかった。そろそろ羞恥心で体がこんがりと焼き上がりそうなのだが。

 だがしかし男に言われると冷めるな。犬になってから心身共に素直なことで、少し困る。

「今度、アスナたちと一緒に遊びに来なよ。ココアもきっと喜ぶよ。ね、ココア?」

 ねえよ。

 そう答えたかったが、口から出る言葉は“わんっ”である。これ、どんな悪口を言ってもばれないんじゃないだろうか。いや、当人の目の前で陰口を叩くという、文法上訳の分からない行動は慎むべきだろう。俺の真なる言葉も分からぬままに夏美は俺の頭を撫で続ける。

「そうですね。気が向いたらそうさせてもらいます」

「うん! じゃあ、また明日ね、ネギ先生」

「はい、また明日」

 妙に落ち着きのある少年だ。いや、何やら不安を感じているが故に冷静、という可能性も否めない。考え過ぎだろうか。俺について何か知っているかもしれないと、一瞬だけ期待したのだが。……考え過ぎというよりは、最早妄想の域だ。抱き抱え直した夏美の肩に手を置き、少年の背中を見る。小さな背中に、そぐわない杖が見えた。彼は一体、何物なのか。――考えるだけ、無駄か。しかし、覚えておいて損はないだろう。なにより、面白い。子供が教師をするのが常識という“異世界”に来てしまったのか、それとも“此処”だけの常識なのか、はたまた、常識ですら無いのか。何れにせよ、彼という非常識が存在する。二度目の生に興味はないが、非常識のお陰で少しだけでも楽しくなればいい。犬という娯楽の少なそうな生き物として生まれてしまったのだから、人間を娯楽にしても罰は当たらない筈だ。まぁ、人間観察みたいな物だ。誰しもが自然としている其れを、娯楽にする。ただれだけのこと。

 彼の背中が見えなくなる頃、俺は眠気を感じた。そう言えば、俺は犬なのか。犬ということは、短い生涯になりそうだ。充実した物になるとは思えない。だが、せめて生き延びよう。俺は生きたいのだから。……久しぶりに、良く眠れそうだ。

 

 

 ***

 

 

 雨が降りしきっていた。

 闇の中、誰かが何かを探している。傘も差さず、走り抜けている。それが誰なのか、俺には分からなかった。ただ漠然と、黒い髪の毛が、闇の中に映えていた。星々が彼女を照らす様に、星々を彼女が照らしている。俺には、そう見えた。何が彼女をそうさせたのか、唐突に振り向いた。肩甲骨辺りで切り揃えられた髪の毛が翻り、星を撒き散らした。赤い瞳が、俺を確かに映した。だが、彼女の中に俺はいない。そう、漠然と理解した。彼女は、俺を見ていない。俺が見えていない。俺は確かに彼女を見つめているのに、彼女は其れを断ち切るように、俺を無視して遠くを眺めた。倣うように、俺は振り返った。黒洞々たる闇が、何処までも広がっている。向き直して彼女を見ると、微笑んでいた。何を見て微笑んでいるのか、俺には良く分からなかった。ただ、今度こそ彼女は、俺を見てくれていないのだと確信した。俺の足元にいる其れが、一つだけ大きく吠えた。

「見つけた」

 彼女は、そう、小さく呟いた。俺が映った瞳を細くして。そうだった。彼女はいつだって、そうやって微笑んでいたのだ。きっと、そうなのだ。確信に似た想像が、頭を埋め尽くした。否応なしに地上を陣取る雨が、いやに痛かった。大粒の雨は、彼女の涙に似ていた。

 




 ちなみにココアというのは、ワタクシのアダ名の一つです。アダ名だと思ってます。内心、軽いいじめじゃね? とか考えてるとか、そんなことはありませんですわよ?

 まぁ、ココアが好きな人間なので、別にココアになれるのならそれでも構わない気もしますが。

追記:一部訂正しました。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。