犬でも夢を見るのか。
無意義な疑問にも程がある、というのは俺だって理解しているつもりだ。だがしかし、考えざるをえないだろう。人間の頃もそうだったが、どうして夢というのはこうも思い出せない物なのだろうか。思い出せるのは、どうでもいいくらいにくだらない癖して妙に衝撃的なオチくらい。
兎に角、俺は憂鬱ながらも考え耽っていた。前足を交差させ顎を乗せ、眼前に出された皿をそのままに、俺は呆然と外を見ていた。昨日と違って晴れた空。燦々とした太陽の匂いを、僅かな隙間から入り込んだ風が運んでくる。犬になると、普段はどうとも思わなかった匂いで心がころころと変わってく。夢について考え倦ねる事に意義など無い。ここは心を入れ替えて、気にしない様にしよう。未だ霧がかかった心を隠すように、俺は目の前に置かれた肉を食んだ。手を使わないで食べるのに慣れてきたな……。まだ二度目の食事だと言うのに。いや、二度目を侮る事それ即ち愚行なり。一度目に比べて慣れているのは当然のことであり、何も悲観することではないだろう。食べ始めた俺を見て、心無しか三人の表情が明るくなった気がする。そう言えば、妹が野良犬の世話をしてたっけ。初めてご飯を食べてくれた、と言って飛び跳ねながら喜んでいた妹の姿に悶え死にそうになったのは、言うまでもないだろう。
可愛かったなぁ……。
「きゃー! ちづ姉! ココアから鼻血! 鼻血が!」
「あらあら?」
「馬鹿なことを言わないでくださる、夏美さん? あのオサルさんじゃあるまいし。……あら」
後に“ココア鼻血事件”と称されたこの朝を堺に、俺は妹について考える事を自粛することになる。
さて、今日の三人は、昨日とは少しだけ違う。具体的に何が違うのかと言えば、その服装だ。三人の会話を聴く限りでは、昨日までは春休みで、今日から学校ということらしい。なんとも、運が良いというか悪いというか、中途半端な時期に来てしまったものである。しかし、これは好機だ。学校の中を歩き回る訳にはいかないが、その他の外なら、特に何かを言われる事も無いだろう。せめて此処が日本の何処なのかくらい、認識しておきたい。人間というのは、己の立ち位置を確認しなくてはストレスを溜めてしまう生き物なのだ。どんなに安心できる場所でも、せめて地域名くらいは知っておきたいものなのだ。外に出て標識でも見て、それくらいしたら帰ればいい。何も、半永久的な旅に出る訳でもないのだし、夏美達に怒られる事もない筈。そもそも、自分のテリトリーを見に行かない犬なんか、犬じゃないだろう。朝の支度を終えた夏美が筆入れを忘れていることに気付き、其れを加えて持って行くと、頭を乱暴に撫で回された。不満はあるが、悪い気はしない。其れが愛情だと、本能的に理解している犬と、その愛情が面倒臭いと拒否している人間が混在しているのかもしれない。
仕返しだと言わんばかりに夏美の手を舐めると、汗の味なのか、少しだけしょっぱかった。くすぐったそうに笑うが、手を引っ込める気配はない。どうやら、ただの悪巫山戯に付き合うだけの器量はあるらしい。しかし、時間も時間だろう。尻尾を振って、手を鼻で押した。
「もしかして、もう行けって言ってるのかしら?」
ちづ姉が俺の意図を正しく読み取った。どうにも、この人には全てを見透かされている様な気になって仕方ない。
「えー? 違うよ、もっと遊びたいって言ってるんだよ。ねぇ、ココア?」
一体、なにが、“ねぇ”、なんで、しょうか、ねぇ。
まぁいい。俺の犬の部分が遊びたいと主張していることも事実だ。そういった意味では、夏美の言っていることも強ち間違いではないのかもしれない。
「どちらにせよ、早くしなくては遅刻してしまいますわ。新学期早々遅刻なんて出来ないのですから、早くしてください、夏美さん」
「むぅ……。はーい」
「千鶴さん、夏美さんってこんなキャラでしたっけ?」
「可愛いペットが出来ると、人間は変わるのよ、あやか」
どうやら、俺は一人の人間の性格を変えてしまったらしい。至極どうでもいいが。どうせ、性格なんてものは、道路の片隅に転がっている小石にすら左右される不安定なものなのだから。
「じゃあ、行ってくるね」
「いい子にしてるのよ、ココア」
「ほら千鶴さん、夏美さん。急ぎますわよ」
ごめんなさい、ちづ姉。俺はその言い付けを破ります。
***
まず、第一の難関がある。それは外出するにあたって絶対必要な、最初にして最高の難易度を誇る難所と言って過言ではないだろう。鍵の閉められたドアだ。勿論、内鍵が存在するので、完璧に閉じ込められたと言う訳ではない。つまりはその内鍵をどうにかして開ければ良いのだ。ドアノブはジャンプすれば届くだろうし。内鍵を見ると、鍵は縦ではなく横を向いている。つまり、あれを縦に直せば鍵は開く、と。
「…………」
ジャンプすれば開くじゃん、これ。
ということで、ドアの鍵は爪を何度も何度も引っ掛けることで解錠に成功。地道な作業だからか、体感時間が凄く長かった。取り敢えず、ドアノブは肉球を上手く使って回し、無事、脱出するという第一目標の項目にチェックをすることが出来た。廊下に出て、ドアを閉める。鍵は……まぁいいだろう。
廊下を歩いて、階段を探す。エレベーターに乗れれば最高だが、まぁ、運動も必要ということで。昨日今日と御馳走のようなお肉を頬張ったのだから、そのエネルギーを消費させなくては、将来的にはデブ犬になってしまう。それだけは、なんとなく避けたかった。デブ犬としてテレビで取り上げられた仕舞いには、金魚を食べようとして溺死した馬鹿な犬に降格する他に選択肢がない。四足歩行にも慣れたもので、犬の基本スタイルである早歩きも可能だ。見つけた階段に小さく躓きながら降りて行き、一階と思しき階層で、久しぶりの平地に安心する。寮長等の目に留まると厄介だ。人の気配を、今までにないくらい気にしながら歩く。抜き足差し足忍び足。気分は忍者だ。幸いにも、肉球のお陰で目立った音が出る事は無い。物陰に隠れ、エントランスの玄関らしき場所を目指す。吹き抜けを挟んで裏口から出るのも良いが、もうドアを開けるという行為はしたくない。無難に正面から行こう。何事も、無難が一番。最良の選択というやつだ。
――人生の道に迷いっぱなしな俺だが、やはり方向音痴は健在か。ここはまだ学校の敷地内なのだろうか。まだ寮を出てから角を数回曲がったくらいなのだが……。しかし、敷地から出てしまったら、俺はもうあの寮には戻れないのでは? ――いや。いやいや。そんな事はないだろう。まさか、早速絶望的な展開になる程、俺の人生は終わっていない筈だ。さあ、展開を。ここから起こりうる大展開をッ。
……起こる筈もない。そんな期待をしても無意味だろう。取り敢えず、校舎を探そう。幸いにも、太陽をバックにして見える校舎らしき建物が見える。あそこを目指していこう。太陽が昇るのは東だ。日出る国の出身として、東くらいは把握できるようになりたい。東を把握しても迷子になるのだから、困り物だが。
アスファルトを柔らかい肉球で踏み締め歩いていると、視界に肢体らしきものが見え隠れした。脱力したその肢体から死体を連想したが、まさかこの平和な朝に事件が起こる筈もないだろうと、無視を決め込もうとする。
「…………」
チラチラと、視界の端で見える桜色は、彼女の髪の毛なのか舞い散る桜の花びらなのか、犬の眼からは判断できなかった。何れにせよ、見て見ぬ素振りはもう御免だった。駆け足気味に駆け寄ると、彼女の全貌が鮮明に見えた。
樹に寄り掛かり目を瞑っている。眠っているだけ、という訳でも無さそうだ。傍らに投げ出された桶やシャンプー、タオルからして、浴場にでも向かっていたのかもしれない。しかし、浴場というものは寮の中にある物ではないのか。何故こんなところで倒れているのか。考えても答えは見つかりそうに無かった。後ろ足で立ち、前足を少女の肩に乗せる。目を覚ますかは分からないが、意識を失くしたご主人に、犬は良くするだろう? 頬を舐めたりして、意識が覚めるのを待つのだ。いよいよ犬らしくなって来た己に半ば呆れながら、舌を必死に動かす。
ちらり、と。なんとなく目線をずらした俺の眼に、血が見えた。首筋から垂れた其れは既に固まっていて、それなりの時間が経過していることを克明に表していた。首元に穿たれた二つの穴。脳裏を、吸血鬼という三文字が過ぎった。しかし、果たして吸血鬼などと言う西洋の妖怪みたいなものが、存在するものなのか。存在したとして、極東の国にやってくる事なんてあるのか。
不毛だ。
考えても意味はないだろう。
思考を停止させた、そんな時。桜並木の向こう側を、歩いてくる男性が見えた。煙草を咥えた口から目障りな煙を吐き出しながら、革靴を軽快に鳴らしている。白いスーツは清潔的なのに、無精髭は対照的で、なんだかチグハグとした男性だった。しかし、大人だ。それも男性。体操着という服装からして学校の生徒だろうし、あの白スーツは教員かもしれない。もし違ったとしても、救急車を呼ぶくらいはしてくれるだろう。
「わんっ!」
今迄で一番大きな声で一つ、吠える。これで気付いてくれない訳もなく、男性は声の主を探しているようだった。アスファルトへ飛び出し、もう一つだけ吠えた。今度こそ男性は気付き、ゆったりとした動作で歩み寄ってきた。ポケットに手を掴み、ゆっくりと。定距離まで近づいてきた男性の眼を引きながら、少女に駆け寄る。俺の必死の舌使いはしかし、少女の意識を覚醒させるには及ばなかったらしい。未だ眼を閉じたまま、身動き一つしない。
「まき絵君……?」
どうやら、知り合いのようだ。やはり生徒と教員という関係だろうか。
一度だけ少女の様子を詳しく見るような素振りを見せると、少女を格好良く抱き抱え、その男性はもう一度立ち上がった。お姫様抱っこというやつか。長身でダンディだからこそ出来る特権だろう。前提として力持ちでなくてはいけない。当然、生前の俺でも出来ない事だ。憧れると言うよりは、嫉妬の対象だが。
「君も一緒に来るかい?」
後ろ目で、彼は言った。背中で語ると言わんばかりだ。一応、発見者として見届けるくらいはすべきだろう。そんな使命感に駆られ、俺はもう一度、大きく吠えた。春風に乗せられた花弁が鼻の上に乗った。それが鬱陶しくて、俺は顔を横に振る。その間にも、男性は一歩を踏み出していた。置いていかれはすまいと、俺はその短足を一生懸命に動かした。
***
程なくして、俺と男性は学校の校舎に到着した。しかし、あの通りもまだ学校の敷地内だったのか。寮と学校は近くにあるだろうとは思っていたが……。もしかすると、ここは学園というヤツなのかもしれない。現在、保健室で床に“お座り”して少女の担任を待っているのだが……。来ない。男性は担任を呼んでくると言っていなくなってしまったし。……暇だ。と言うか、保健医はどこにいるのだろう。朝だからまだ出勤してません、では保健医の意味がない。特に学園の保健医なんて、大体24時間勤務みたいなものではないのか? ……俺が夢見過ぎているだけなのかもしれないが。しかし、どこの保健室も変わらない物だ。あまり好ましいと言えない薬品の匂いが充満した部屋。白いベッドは清潔感がありすぎて逆に気持ち悪い。淡々とした雰囲気は妙な圧迫感を覚え、とても気分が悪い時に来る場所ではない。
「まき絵さん!」
戸の開く音を、どこかで聴いた事のある声が掻き消した。ああ、そう言えば“先生”なんだっけ。偶然というかなんというか、彼の生徒だったのか、この少女は。
「あ、れ……? 君は確か、村上さんの」
「わんっ」
やはり、吠える事に違和感が無くなってきてるな、これ……。人間の環境に対する順応力には恐れ入る。何事に対してもすぐに慣れるというか。むしろ慣用にしてしまうというか。そういうのに助けられることも確かにあるのだが、偏に困る。羞恥心を失くすというのは、人間としての最終防衛ラインを崩壊させる事に等しい。既に男としての最終防衛ラインは崩れてしまっている気がするが。
「ネギ君はその子と知り合いなのかい?」
彼の後ろから一拍遅れてやってきた男性が、そう問いかけた。知り合いと言っていい程の間柄でも無いと思うが、しかし少年は頷いた。
「うん。村上さんが飼ってるって言ってたけど……」
「……ただの犬、ではないよね」
「やっぱりタカミチもそう思う?」
「ああ。狗族の妖怪とか、そういう類に見えるけど……どうかな?」
狗族の妖怪?
なんだそれは。しかし、ある意味これは幸運なのではないだろうか。彼は俺の存在が普通では無いと悟っている。ならば俺はそれに頷く他に無いではないか。もしこれで夏美達と決別することになろうとも、だ。まさか、人間の意思を持った犬だからと言って解剖する、なんてことはないだろう。俺は捕獲されたグレイなんかじゃない。しかし、狗族というのは知らないが、妖怪なら分かる。もしやこの大人と少年はそんな存在を信じているのか。あまりに稚拙な思考をしていると考えるべきか。それとも、やはり此処が異世界だと考えるべきなのか。
「幸いにも此処は麻帆良だ。学園長に取り次いでみよう」
――麻帆良?
今、彼は麻帆良と言ったか?
では、ここは彼の有名な麻帆良学園ということなのか? 文化祭は地方にあるテーマパークを上回り、それは夢の国にも名を並べる程の繁盛ぶりを見せる娯楽施設でもあり、何よりも日本最高の敷地面積を誇る最大の学園。俺も、一度は入学してみたいと考えた。その学園が、此処だと言うのか。
――尻尾が千切れんばかりに振れているのが、自分でも分かった。妹も俺も、どれだけこの地に憧れていたか。貧乏であるが故に見る、大きな夢。嬉しいと思うのと同時に、なんだか申し訳ない気持ちで一杯になる。妹も連れてきたかった、と。
「じゃあ、タカミチはそっちをお願い。僕はまき絵さんを……」
「ああ、分かったよ。…………ネギ君、気を付けるんだよ」
「え? ……う、うん」
尻尾を振る俺なんて、彼等には興味の欠片も無いのだろう。何だか良く分からない話がトントン拍子で進んでいっている。白スーツに抱き抱えられ、俺は保健室を後にした。革靴を軽快に鳴らす彼からは、何かいい匂いがした。てっきり煙草の嫌な悪臭が鼻につくと思っていただけに、少しだけ不思議だった。しかし、何故だろう。昨日程男に見られる事が苦でなくなっている。もしや、体がメスだからだろうか。ただでさえ人という精神が犬に引っ張られているのだ。オスがメスに引っ張られる事だってあるだろう。いやしかし、メスだから男に触られるのとか見られるのとかが大丈夫になるって、おかしくないか? 少年のあの目線が気に食わなかっただけなのかもしれない。そうだ。俺は昔から、詮索されるのが嫌いだった。男に触られても別にどうとも思わなかったし、今更嫌悪を抱くことそれ自体がおかしな事なのだ。メスだからなんだ。犬だからなんだ。俺は俺だ。まるで修道院を彷彿とさせる廊下を、彼の肩に顎を乗せながら進んでいく。暫時、同じような光景を延々と見せつけられ、そろそろ眠気に襲われ始めた頃。
「失礼……す。――長、……」
瞼を閉じていた俺の鼻は、確かに空気の変化を感じ取った。何より、遠退いていた意識の中に、白スーツの声が割り込んできた。まさか独り言ではないだろう。何事かと重い瞼を開ければ、其処に見えるのは廊下の最涯ではなく、木製の扉だった。ロダンの地獄の門という物がある。それを酷く簡略化させ、更には地獄という成分を抽出した様な、まるで想影もない扉。だから、一瞬だけ見えた扉の上に立つ悪鬼は、ただの幻覚だったのだろう。
覚醒した意識の中に、嗄れた声が残響した。
「どうした、タカミチ君。その犬は……?」
「その前に、新たなエヴァの被害者についての報告を」
「あぁ……、またか。全く、エヴァめ。儂等が下手に扱えんからと……」
「まぁエヴァですからね。女子供は殺さない――それが彼女の信条です。彼女の信条を、信じるしかありません」
「根は優しい子じゃ。信条は守る。――して、今回の被害者は?」
「元僕の教え子である、佐々木まき絵君です。桜通にて、この犬が見つけてくれました」
そう言いながら、俺を床に下ろした。何だか良くわからない話が展開され、俺は置いてきぼりを食らう。床から伝わる硬く冷たい感触が、体の芯を冷やすようだった。エヴァ――新世紀……では、ないよな。しかし“彼女”と称する辺り、共通点はありそうだ。女性という意味しか持たない言葉に、共通点も何も無いのかもしれないが。
「ふむ……、佐々木君か。まぁ、いつも通りの処置をしておこう。しずな君に任せるのが一番じゃ。
――それで、其処の犬は、なんなんじゃ? 多くの魔力を内包しているところを見ると、狗族のようじゃが」
話題が俺に移り変わった用だが、魔力を内包しているというのはどういう事だろうか。魔力と言えば、魔法だろうか? そして魔法と言えば、ファンタジー小説における最もスタンダードで、尚且つ誰しもが夢見る憧れの力である。それが、多く内包されている、と。まるで笑い話だ。
「ええ、僕もそう判断したのですが……。喋ることもないし、力を使う兆しも見られない。それどころか、まき絵君を介抱しようとしてくれていたみたいですし、敵ではないと判断しました。それに、これは些細な事ですが、気よりも魔力の方が多いことも気になります」
「それよりも、まずは外見じゃろ。狗族というよりも、ダックスフンドではないか」
「……ですよね?」
何故だろ。部屋の隅に行きたい。
「……力が封じられているわけでもなし、もしかすると、群れから逸れてしまったのかもしれんな。それに、まだまだ小さい。変身も知らぬまま迷い込んだのかも知れぬ。兎も角、野放しには出来まい。タカミチ君、ジャージでもなんでもいい、着るものを持ってきなさい。この際、サイズは十歳以上の人間が着れる物ならなんでも良い」
「しかし学園長――……いえ、分かりました。すぐに持って来ます」
服?
何故だろう。人間が着られる物ということは、ペット用の服という訳でもないだろう。何に使うのか、今の俺には何一つとして理解できなかった。そもそも、状況の把握もできていない。とは言っても、ここから脱してもいい結果が出るとは思えない。それどころか、即座に捕獲されてしまいそうだ。何故かと言えば、彼等は俺の事を“狗族の妖怪”と言ってくるヒステリックな集団だから。さて、どうするか……。
白スーツは部屋を駆け足気味に出て行き、嗄れた声の持ち主と俺の二人きりになる。犬の体では、机が邪魔になって机の向こうの老人が見えない。別に見たいという訳ではないが、……なんとなく、興味があった。どんな人物が其処にいるのか。怖いもの見たさと言うやつだ。
「…………」
抜き足差し足忍び足。
机に沿って移動し、影から彼を見上げようとする。
「きゃんっ!」
急に持ち上げられ、いつもよりも高い声が喉から出た。どうやら、先回りされていたようだ。タイミング良く俺の腋を両手で抱え、持ち上げる。
「……ダックスフンド、じゃよな…………?」
外見で人を判断してじゃねえぞ。
言えたらなんて幸せだろうか。よく見ると、この老人、まるで人間ではない長い頭をお持ちの様だ。何処ぞのポスターで見たぞ、こんな頭をした生物。アリエンって書かれてた気がする。つまりこいつはアリエンって生物なのかかもしれない。あの映画はこの生物を追ったドキュメンタリー映画だったのか。
「さて、始めるかの」
俺を運び、部屋の中央に下ろす。何が始まるのか分からないが、嫌な予感がひしひしとするのだけは良く分かった。逃げたい衝動に駆られるが、その後の結末にいい未来を描けない。その己が想像した結末に、俺の足は縛られていた。
「――――」
アリエンがぼそぼそと何かを呟く。瞬間、足元が青白く光り、梵字の羅列が円を象っていった。――魔法。想像していたものと違うが、それは正に魔法としか言えない光景だった。記号と字の羅列。所謂、魔法陣というやつだろう。まさか、本当に魔法が存在するというのか。だとするならば、俺は本当に、妖怪なのか?
――待て。
馬鹿馬鹿しいにも程が有る。こんな光景くらい、今の科学技術なら可能だ。投影機材が何処かに仕組まれていて、それで映しだした虚像に過ぎない。そうだ。これは、魔法なんかじゃ、ない――!
俺の必死の抵抗はしかし、あまりにも虚しく、散り行くのだった。
急な違和感。
体の内側と外側がまるで入れ替わるような。体の中を滅茶苦茶に掻き回すような感覚。決して、痛みではなく、それはまるで麻薬の様で、気持ちが良かったとでも言おうか。足は地面に触れず、手腕は空気を掴み、脳味噌は頭蓋をすり抜け、蜘蛛の巣が如く脳細胞を広げていく。心臓が動きを止めて、血液が逆流する。頭に集まった血液は次々と血管を千切り、流れ出ていく。空中に四散する赤い手々は、部屋の壁に浸透していく。赤が侵食していく感覚。まるでこの空間全てが俺の所有物になったような優越感。赤と赤と赤と赤によってコントラクションを破壊して、再構築する。俺が、この世界の絶対的権力者となったような、背徳的支配者になったような、甘美な充実感。サディストを拗らせて他人を踏みつけるような、マゾヒストを拗らせて他人の踏みつけられるような。兎に角、清々しい気分。頭の情報が逆流する。初期化されていく。全てが無になる。全てが有になる。等しく、平等に、均等に。赤ん坊の頃の何も考えることがなかった空っぽの脳味噌に戻っていく。
「――――え?」
気付けば、俺の目線は先程よりも高い場所に位置していた。目の前に老人がいるため、抱えられている訳ではないらしい。更に言えば、思わず漏らした“声”。その声は、生前と差異はあるものの、確かに人間の声だった。俺の体は一体どうなってしまったのか。まるでわからない。ただ漠然と、懐かしい感覚が頭の中を支配していた。
「ふむ、やはり、狗族じゃったか。……若いな、主、何歳じゃ?」
「俺……、え?」
今度こそ明確だった。懐かしい感覚に綯い交ぜされた一本の糸。一つの違和感。有る筈の物が無くて、無い筈の物が有るこの感覚。犬だったからこそ、どうでもいいと思えた。しかし、“この体”になった今、その違和感はどうでもいいの一言で片付けられるものでは無かった。
「記憶に混乱があるのかもしれぬ。急かしはせんよ。もうすぐでタカミチ君が来る。彼から受け取った服を着たら、少しだけ事情を聴かせてもらえるかの?」
「…………えっと、あの、俺、分からないんです」
無難な言葉。だが、事実でもある。何が何なのか、まるで分からない。“狗族”と言われても、狗族を知らない俺はなんて答えて良いのかも分からない。
肩甲骨まであるらしい髪の毛が、チクチクと肌に刺さる。くすぐったくて、しかし其処を掻き毟る気にはなれなかった。男でありながら、男の前で体を隠すことになろうとは、思いもしなかった。一度だけでも“女に生まれたら”を考えたことがないと言えば嘘になる。特に思春期は、そういった妄想が酷かった。その時は“羞恥心なんて男程度にしか無く、男の前でも女の前でもその裸体を晒すことは出来るのでは。だとすれば何故女は体を隠すのだろうか”なんて、馬鹿な事を良く考えていたものだ。因みに、馬鹿な俺は其れを妹に訊いて“お兄ちゃん、死なないでね?”という回答を貰った。その真意は未だ理解できていない。
「学園長、服を――。その子が、さっきの?」
「ああ、そうじゃ。ほれタカミチ君、女の子にいつまでもそんな格好をさせてはいかん……。いや、最初に性別を確認すべきじゃったなぁ、ふぉふぉふぉ」
悪びれる様子もなく、老人は笑った。この老耄からすれば、ガキの裸なんてどうとも思わないのだろう。
タカミチと呼ばれた白スーツは、ジャージの上着を俺の肩に被せると、ズボンを手渡した。大人しく受け取り、しかし俺は。それを履くのではなく、太腿の上に乗せた。正直、ここで履くという行為に及ぶ気にはなれなかった。二人も其れを解っているのか、何も言うことは無かった。
その疑問が投下されるまで、俺を含む三人はただ黙りこくっていた。
「君は、何処から来た?」
唐突な問い掛けに、俺は冷静に答えた。
「関東。関東の、北のほう。詳しい地名は覚えてない……」
嘘だ。地域名くらいは覚えている。ただ、なんとなく、言いたくなかった。
「ふむ……。では、何故麻帆良にいた?」
「知らない。麻帆良の存在は知ってた。だけど、いつの間にか夏美の部屋にいて、俺は……」
「夏美、というのは、村上夏美君の事かい?」
俺は“分からない”と答えた。夏美の苗字なんて知らないのだから、仕方ない。しかし恐らく、その夏美で間違いはないだろう。白スーツは夏美とも知り合いか……。頼もしいと言うかなんというか。生徒との交流関係が広いのかもしれない。或いは夏美と先程の少女が同級生で、クラスも一緒なのか。どちらでも良いが。俺には関係のない話だ。
「……それで、分からないというのは、何がわからないんじゃ?」
「…………何もかも」
「何もかも?」
顔を顰め、彼は俺を責めるような調子で言った。だが、臆することは無い。大人のそういう態度には、既に慣れている。
「あなた達が言う、魔法。狗族の妖怪。麻帆良に来るまでの過程、目的。なにより、俺自身のこと」
「……ではせめて、わからない所以外の経緯というものを、教えてはくれないか?」
俺はただ、頷くことしか出来なかった。此処が何処なのか。やっと明確に分かった。それはいい。だが、俺は結局、自分の事がわからないままだった。何故、犬の姿なのか。狗族という種族らしきものになってしまったのか。俺は生まれ変わったのか。憑依したのか。何故、麻帆良の敷地内で倒れていたのか。ただ、俺が迷走していることだけは、確かだった。