犬娘とオオカミ少年   作:酢酸の大群

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桜通の吸血鬼
桜通の吸血鬼


 如何に天才と呼ばれた人間も、努力は欠かせなかった。そんな話は耳にタコもいい所。だが、俺から言わせてもらえば、それは少しだけ違うのではないかと思う。天才は天才だ。そして、例え天才であろうと、其処に努力を挟んだと言うのなら、それは努力家であり、結局は只の人間でしかないのではないか。努力家と天才のハイブリッドとでも言えば良いのかもしれないが、それでは何か中途半端だ。俺の描く天才の像は、中途半端なんてことはなく、ある一方向に鋭利に伸びたパラメータを保持する人物。つまりは、一つの百パーセントを持つのであれば、そいつは天才であり、その他にある零パーセントを補う努力をした人物は努力家である。つまりは、天才なんてこの世にはおらず、結局は皆が努力家であると。最終的には、そんな月並な結果が頭を擡げるのだ。

 当然ながら、俺は天才でもなければ努力家でもない。むしろ怠惰に生きていたと思う。背くことを生き甲斐にしていたと思う。知らない以上の幸せなんて無かったのだ。正解も不正解も、知る必要性は皆無だったのだと、今更になって思い知らされていた。

 だから、この魔法使いという存在が闊歩する土地において、俺という存在は異端だったのかもしれない。特殊な立場にありながら、何の能力も持たないただの(メス)。天才でなければ努力家でもなく、能力も持たないただの犬人間。

 

 俺は、あの夜を、絶対に忘れないだろう。暴風と吹雪の吹き荒れるぶつかり合いを。吹き荒んだ空気の振動を。鼓膜を破るが如く、爆音。視界を奪うが如く、閃光。遠くからでも良く分かった。魔法が如何に強大で強力で、尚且つ壮大な物なのかと言うことが。脳裏に焼き付いて離れない、魔力と魔力の激突。

 俺は多分、魔法に憧れたのだと思う。

 

 

 ***

 

 

 今日も今日とて暇の一言に尽きる。此処に来てから既に数日という時が過ぎたが、あまりにも暇だ。あまりにも暇すぎると、新たな刺激を求めようとするのは人間の性なのか、犬の性なのか。

 兎も角として、俺は二度目の脱出を果たしていた。あやかが鍵を忘れていたので、それを拝借。これでドアから泥棒が堂々と入ることもないだろう。まぁ、寮に泥棒目的で入る男がいるとは思えないが。女子寮だから、男がいたらすぐバレるし。貰ったワンピースを着て、ある特定の場所を目指す。辿り着けるかどうかは、神のみぞ知る。

 ――俺が目指す場所は、桜通。この前の外出で偶然にも通ることの出来た、あの通りだ。桜並木が青空に映え、足元を桜色の絨毯が敷き詰める、あの通り。まさか、また倒れている人間がいる、なんてことはないだろうけれど、一度ある事は二度ある、二度ある事は三度ある。一度体験したシチュエーションは、何度も何度も繰り返すものだ。なんか憂鬱になってきた。

 ――ちなみに、ぬかりはない。今日のちづ姉達三人の予定は把握済みだ。今日は夜遅くまで勉強会。つまり、ちょっと遅くなっても怒られる可能性は少ないのだ。そう、俺が彼女たちよりも先に帰ればいい。ちなみに、作り置きしておいてくれた夕飯は既に食べさせて頂きました。美味しゅうございましたよ、はい。ただ、俺が犬ということを忘れていませんかね、夏美さん。台所に置きっぱなしにして……。“作り置きしておいたからね”なんて言葉を、犬が理解できるとでも思っているのか。まぁ、実際に理解して、こうして飯を食べた訳なのだが。お皿は俺を囲う鉄柵の中に置いておいた。そう、失念はない、筈だ。

「さて……」

 なんて、呟いてみる。本当ならば、この地の文でさえも読み上げてしまいたい。頭を揺さぶる甘い声。喋っている側の人間と、聴いている側の人間では、聴こえている声に少なからず差異があると聴く。それは例えば、高低。或いは、大小。だが構わない。そんな差異、どうってことはない。彼女にとって、彼女自身の声がこう聞こえていたのだと思うと、興奮してしまう。股座が熱り立つ。まぁ、立つ物なんて、疾うに失くしているが。

「――ここはどこだ?」

 部屋を出た時は海のように青かった空も、最早燃え盛る炎のように赤く染まり、今や全てを飲み込むと言わんばかりの深い闇が広がっていた。羅生門の下人の気持ちが分かるような、黒洞々たる闇だった。とは言え、彼は覗き見、俺は見上げているという、決定的な相違がある限り、その気持が同一なものになる可能性は極めて低いと思うが。見上げて、手を翳してみる。あいつも、この空を見ているのだろうか。俺の後を追って逝く、なんて馬鹿な事をするような妹ではないが、それでも心配だ。そんな妹だからこそ心配なのかもしれないが。

 しかし、これだけ暗くなっているところを見ると、既に七時を過ぎていると見ていいだろう。逢魔が時というやつだろうか。俺とて、狗族の妖怪なのだ。そんな気はこれっぽっちも無いのだが、実質的に狗族の妖怪なのだから仕方がない。まぁ、ダックスフンドだが。まぁ、つまりはこの時間は俺の時間と言ってもいいのだ。妖怪と言えば夜だろう、という勝手な偏見だが。まぁ、俺自身、狗族の妖怪というのがどんな妖怪なのかも分からないのだが。

「――なんだなんだ、人っ子一人いないと思えば、犬っ子一人が間抜けな面を下げて……。まぁ、いいさ。こんな綺麗な月夜を一人で歩いていた自分を恨めよ」 

 ――気付けば、どこかで嗅いだ事のある匂いが、俺の鼻腔をくすぐっていた。夜に溶け消えた桜色に混じった金色が、俺の視線を奪っていた。靡くそれは、とても綺麗で、まるで流動する宝石のようだった。星々で編まれた様な、髪の毛だった。

「――その血、頂くぞッ!」

 血――?

 ああ、なんだ。

 桜通の吸血鬼。すぐそこにいたんじゃないか。興味なんかで来るんじゃ無かった。まるで魔法使いの象徴とも言える三角帽に、コウモリの翼を彷彿とさせる漆黒の外套。

 一瞬にして肉薄した“吸血鬼”が、俺の肩を両手で押さえ、首にその犬歯を食い込ませようとした、その瞬間。

 これは、一種の足掻きだった。

「ああ、そうだ」

 俺はそう、呟くように言った。

「あ――?」

「君の言う通り、俺は犬だ。じゃあ、犬の血を啜る、君は一体なんなんだい? 吸血鬼? 巫山戯ている。まるで残念だよ。吸血鬼というのは、血を選ぶものだと思っていたが、そうか。君は人だろうが豚だろうが犬だろうが、構わないんだね。結局、そんなものなのか。酷く残念だよ、吸血動物」

 ただの軽い挑発だ。こんなものに乗る吸血鬼ではないだろう。しかし、プライドの高い人間は、挑発だと認識して尚、気分を昂らせる他にないものだ。もしこの吸血鬼にプライドがあると言うのであれば――。

「――命乞いか? では、私が教育してやろう。命乞いというのは、圧倒的立場に存在する者を喜ばせ、愉しませることで成立する。さぁ、教えてやる。手取り足取り腰取り、一から百の手順を叩きこんでやる。だがまぁ、その前に、そのムカつく命乞いの代償を払ってもらおうか」

 言わば其れは、ただのジョークだった。特に意味もない、戯言。或いは虚言。譫言とはまた違う。ただただ、俺は幾つかの可能性に賭けていた。

吸血鬼(わたし)の存在を知っていて尚此処を通った己を呪え。そしてその後悔は懺悔室にでも持って帰るがいい」

 ――耳が、誰かの足音を捕らえた。当然と言えば当然だろう。この為の時間稼ぎ(ジョーク)なのだから。満月の夜に、吸血鬼の噂。そして俺の魔力と、吸血鬼の魔力。二つの邂逅を感じ取った“知り合い”は、どう動くのか。一度しか話もしていない彼が俺の為に動くとは思えなかった。だが、たまには人を信じるのも良いんじゃないかとも思えた。

「――――待てッ。そこまでです、その人を離してくださいッ!」

 …………ん、あれ? なんか、聴いた覚えのある声がしたぞ? いや、聞き覚えのある声でないと困るのは確かなのだが――違う。俺が期待した声ではない。あの白スーツに煙草が似合う無精髭の声じゃない。だとするならば、この声は一体誰なのか。“聞き覚えがある”。つまりは、俺の頭の片隅にある記録が、この声の持ち主を記憶していたということだろう。一度は会ったことのある人物。しかしやはり思い出せない。それ程に印象が薄かったのか、或いは一度しか会っていないのか、はたまた、勘違いか。何れにせよ、俺を助けに来てくれたことに変わりはないだろう。目的が俺の救助でなく、吸血鬼の討伐であろうとも、だ。

 くだらない時間稼ぎも、少しは役に立ったと言うべきか。

「ネギ・スプリングフィールドか。随分と早かったな……。それで、どうする?」

「どうするって――決まっています。貴女を倒し、更生させます」

 ネギ……。聴いたことがあるぞ。確か、麻帆良学園に来た初日に出会した、あの少年か。

「ハッ。更生、な。出来るものならやってみろッ、坊や!」

「ッ……! ラス・テル・マ・スキル・マギステル。風の精霊十一人、縛鎖となりて敵を捕まえろ――《魔法の射手、戒めの風矢》!」

 瞬時に、吸血鬼が俺の体から離れる。食い込んでいた爪が引っ掛かり、鋭利な痛みが一瞬だけ走った。その刹那に、俺の肩と二の腕と膝を、何かが掠った。それはまるで弾丸の様に、螺旋の尾を引きながら吸血鬼へと向かう。

「ふんっ」

 ――パきッン。

 なにか、割れるような音。それは、瞬く間に十メートル以上の距離をバックステップで移動した吸血鬼の手元から鳴っていた。

 俺の視力でも、其れははっきりと見えた。しっかりと捉えていた。何かしらの薬品が入っていると思われる、その試験管を。そしてその試験管が、今にも割れてしまいそうな罅を刻んでいるということも。

「《氷盾》」

 小さく呟くと、試験管をいとも簡単に片手で割ってみせた。当然、液体が外に漏れ出る。しかし、それはただの液体ではなかった。どういう原理かは知らないが、其れはまるで蜘蛛の巣のように広がってみせたのだ。純度の高い其れは、あちら側で苦悶の表情を見せる吸血鬼を確りと写していた。空気を凍らせ、その蜘蛛の巣は重厚な氷の盾へと変貌する。俺の背後から飛来していった弾丸は、氷の盾に見事な罅を入れて見せた。あの弾丸がどれ程の威力なのかは知らないが、それこそハンドガンと同等の威力を持っているとのではないだろうか。いや、速度が足りていない分、ハンドガンよりは優しいのかもしれない。

「ふん、流石は奴の息子と言ったところか……。戒めの風矢が、これほどの威力を持つとはな。とても十歳とは思えんよ」

「――父さんのことを、知っているんですか……?」

「さぁ……、どうだろうな?」

 今のが、魔法。驚いた。一瞬の攻防。風と氷のぶつかり合い。衝撃。冷気が四散した風に乗って俺を襲うが、そんなものは気にもならなかった。罅の入った盾が、霧散する。まるで舞い降りた星のように、常闇に似た空間を鮮鋭に照らしていた。

「大丈夫ですか?」

 耳元で声が聞こえ、肩が震えた。振り向けば、其処には見覚えのある少年が立っていた。やはり、彼だった。右手に持った杖は相変わらず、その背丈にそぐわない。

 小さく頷くと、彼は小さく微笑んだ。今の俺にとって、彼は信頼するに足る存在だったのかもしれない。

「――ん……? 貴女は……」

 冷気に染まった空気が、晴れていく。それにつれて、その素性が顕になった。先程の衝撃で何処かへ吹き飛ばされたのだろう帽子。その下にあった、少女の顔。

「エヴァン、ジェリンさん……?」

「やぁ、先生、こんばんは、そして初めまして、英雄の息子」

「桜通の吸血鬼の正体、貴女だったんですか……!?」

 知り合い、か?

 半ば置いてきぼりを食らった俺は、思わずその場にへたり込んでしまった。どうやら、腰を抜かしてしまったらし。我ながら情けない。

「ああ、そうだよ」

「どうして、こんな悪いことを……!」

「どうして? そんなものは疑問にすらならんぞ、坊や。やはり貴様はまだ視野が狭い」言いながら、彼女は両手に試験官を携え、続けた。「良く見渡せ。世の中には良い魔法使いと悪い魔法使いがいるんだよ」

 それだけを捨て台詞のように言うと、吸血鬼は両手に持った試験管を此方に向かって投擲した。

「――《氷結、武装解除》」

 試験官が砕け、中から溢れた複数の液体が混ざり合い溶け込んでいく。そして、それは唐突だった。俺とネギ少年の目前にまで迫った液体は、状態を変化させたのだ。凍てつく様に冷たい感触が、一気に二つの矮躯を襲撃した。

「っ……」

 一瞬にして氷点下を下回った気温の変化。まるで氷の中に閉じ込められたかのようだった。しかし、体は反射的に動いた。顔を伏せ、腕を交差させて頭部を守る女の子らしく内股になっている自分に気付いて、軽く嫌悪した。

 皮膚に付着した氷の破片が、俺の体を蝕んでいく。服に付着した氷が浸透するように広がり、――まるで脆いガラスのように、服が割れた。

「君ッ! 大丈――ぐ、ぅ」

 ネギ少年が右手を翳すと、氷の蹂躙が停止した。右肩の紐が残っていたのは、不幸中の幸いか。露わになった左上半身を隠すように、己の体を抱く。

「レジスト……。今の私の本気を、ここまで抵抗(レジスト)してみせるとはな。正直、驚いたよ」

 驚いたのは俺の方だ。なんだ、その魔法は。服を脱がす魔法か。そんなものあって堪るものか。吸血鬼を睨み付けるが、迫力が欠けるのか、それとも俺の中にある恐怖心に気付いているのか、吸血鬼が怖気づく気配はなかった。

 見れば、ネギ少年の右腕の裾も、俺の服と同じように砕けてしまっている。レジスト――理科の授業で聴いた事がある。所謂、抵抗だ。つまりは、ネギ少年はあの魔法に抵抗する術を持っているが、その術が持ちえる力量が少ないと考えるべきなのかもしれない。或いは、単純に吸血鬼の方が強いだけか。

「――ネギ!」

「――ネギ君!」

 一人は、全く知らない声。もう一人は、聴いた覚えのある声。どうにも、今日は予想外の人が来る。この声は、覚えていた。というのも、夏美とはそれなりに仲が良いらしく、ケージを買った以降も時折遊びに着ていたのだ。

 近衛木乃香。学園長の孫娘。

 もう一人は本当に知らない。振り返って見ると、橙色のツインテールが、闇の中を綺麗に流れていた。凛とした鈴の音が、俺の耳に透き通って聴こえた。

 ――やばい。

 直感的に思った。俺の体は人間だが、耳と尻尾は健在なのである。コスプレと思ってくれれば良いが――いや、何も良くないが――、そんな都合よく事が運ばれる訳がない。

 逃走。

 選択肢は一つに一つ。二つなんて悠長なことは言っていられない。衝撃に中てられたのか、未だに震える足に鞭打ち、立ち上がる。後ろから聴こえる大勢の足音。猶予も余裕も、何処にもなかった。耳と尻尾を見られれば不審に思われる筈だ。突然に立ち上がった俺を、どう思ったのか、ネギ少年が此方を振り向いた。一瞬。永い一瞬だった。俺の赤い眼と、少年の瞳が交差した。絡まった視線は解ける事無く、離れない。だがそれは、本当に一瞬だった。百年にも似た一瞬だった。この少年は、俺のことを何処まで知っているのか。疑問に思ってしまう。頭の涯か、心の涯か、体の涯か、はたまた全てか。分からない。

 ただ、この少年が“魔法使い”の一人だということは、俺にも分かった。もし今度会うことができるのなら、――いや、俺は一体なにを考えている。だが、しかし、魔法……。保留だ。今は逃走を最優先。

 俺の体だって、狗族の妖怪なのだ。この場から逃げるくらいなら、只の人間にだって出来る。俺に出来ない道理がない。危うく落としかけた部屋の鍵を握り締め、俺は身を翻して脱兎の如く駆け出した。

 明日菜と木乃香のすぐ横を抜け、更にその後ろに続く三人の横をすり抜けた。

「――え?」

 そんな声が、俺の耳は無情にも捉えていた。誰の声なのかは、すぐに解った。だから振り返らなかった。スカートの中でもぞもぞと動く尻尾が、邪魔で仕方なかった。

「……あの耳、――」

 ネギ少年の声が、それに続いた。気取られたか。いや、構わない。本来ならば隠蔽する必要もない。魔法使いはその存在を隠蔽するらしいが、狗族となんの関係もない狗族(オレ)は、掟も何も持ち得ていないのだから。むしろ、協力者が増えたと喜ぶべきか。無駄な混乱は呼びたくない。俺の存在を知っている人間が増えるのも、あまり好ましいものでもないのだが。まぁ、魔力のコントロールなんか出来るはずもない俺は、魔力を駄々漏れにしている状態であり、それ故に魔法を知る者は俺を普通の犬だと思わないらしいが。タカミチや学園長、初対面のネギ少年が疑問らしきものを持ったのも、納得する他に無いのだ。

 しかし、自分より年下の男の子に協力を求めるのもなんだかおかしな話だ。まぁいい。もしもの時はタカミチに相談すればいい。彼ならよく話を聴いてくれるだろうし。学園長は……まぁ、考えておこう。正直、彼は何を考えているのか分からない。端的に言えば、怖い。

 魔法、か。

 走りながら、そんな事を考えていた。自分の身形を気にしつつ、アスファルトを素足で駆ける。

 あれが魔法。服を脱がす魔法は、恐らく武器を引っぺがす為だろう。或いは、相手の動揺を誘うためか。そして氷の盾に、風を纏った弾丸。

 危険性を忘れてしまいそうな程に綺麗なものだった。しかし、忘れてはいけないのだと、同時に思う。幾らあれが氷と言えども、罅を入れるには一つの苦労を強いられるだろう。それこそ、近代兵器や重みのある武装でなくては不可能だ。幻想的であろうとも。非現実的であろうとも。あれは、人を殺せる手段になり得るのだと。そんな得体の知れない危険物が体を掠めたのだと思うと、嫌な汗が背中を伝い始める。それでも足を止める事は出来ない。どんなに汗が冷えて体が凍てついても、少しでも早く走らなくてはいけない。あの三人が、寮に帰る前に。じゃないと、怒られる――! 怒られるだけならまだいい。もしかすると、“どうやってゲージや部屋から脱出したのか”という名目で、監視カメラが設置されてしまいかねない。普通の学生なら無理だ。だが、“雪広あやか”。彼女は馬鹿にできない。何故なら金持ちだから。金持ちの馬鹿というのは、何をしでかすか分からない。いや、彼女のことを何の根拠もなしに馬鹿だと言っている訳ではない。きちんとした理由があって言っているのだ。犬に最上級のハンバーグを用意するような人間が、果たして何処の世界にいようか。それも玉ねぎ入りだ。食べれねえよ。

 

 

 ***

 

 

 部屋に灯は無い。吸血鬼と相対したネギ少年と彼女たちがどうなったのかは分からない。だが、死ぬことはないだろう。桜通で倒れていたあの少女も、結果的には吸血鬼に開けられたと思しき首筋の穴以外の怪我は無かった。それに、助けにいける訳でもない。何度も言っている通り、俺には力が無いのだから。魔力を持っていると言われても、魔法の仕組みが分からなければ宝の持ち腐れだ。

 鍵を挿し入れ、捻る。軽快な音が鳴り、解錠の手応えを確かめながらドアを開ける。部屋に入って真っ先に、机の上に鍵を置く。当然、鍵は締め直している。ぬかりはない。ケージを跨いで中に入ってから、

 “―― 、       、     ”。

 キーワードを心の中で呟き、姿を変える。白煙が部屋を満たし、体の表裏が裏返る感触を覚えながら、俺は四足歩行へと戻っていった。半日だけでも人間の姿に戻ると、犬の体に唐突な違和感を覚える。やはり、元々が人間だからなのだろうか。暗い部屋の中で、彼女たちに安全を祈る他にない。とは言え、あの魔法を繰る少年がいるのだから、大丈夫だろう。長い胴体に纏わりつくワンピースから抜け出し、口を使って不器用に畳む。その上に乗り、体を包ませた。口が勝手に開いて、舌がデロリと垂れる。どうやら、疲れているらしい。そりゃあ、道に迷いながらずっと走っていたのだから、疲れて当然だ。此処には似たような建築物が多すぎると思う。お陰で無駄な苦労を強いられる羽目になっているではないか。そんな、己の方向音痴を責任転換するような真似しかできない自分が、本当に馬鹿馬鹿しかった。

 何となく時計を見ると、既に短針が七を回っている。今すぐにでもタカミチに連絡したいが、もし俺が連絡している内に彼女たちが返ってきたら、妙な鉢合わせをしてしまう。それだけは避けたかった。結局俺は、何処までも己の保身が大事なのだ。まぁ、正体がバレたところで学園長がなんとかするだろうけれど。彼だって、波風が立つのは好ましくない筈だ。

 いつもならカーテンが占領している窓を見遣った。この体では、見上げる形になってしまうその窓。其処から見えた真っ白な月は、まるで俺を嘲笑っているようだった。

 

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