その毒は、ウォールシーナ内地における高山の一角にのみ生息するという花から摂取できる。
毒、といっても大して毒性は強くない。もともとは家畜の屠殺時に飲ませるものとして開発された。死に至らしめることなく、体の自由を奪うだけの毒。それを使えば無駄なく屠殺できると同時に、薬剤による肉の旨味の低下も防ぐことができるという。
麻酔のような役割を果たすものとして、注射液の中に投薬されることもままある。
しかし、人間の口から投薬すれば、最初拒否反応を起こして風邪のような症状を引き起こす。症状はすぐ治るので、投与してもさほど大したことにはならないが、長期間摂取し続ければ、少量であったとしても身体に支障をきたす。
風邪のような症状は抗体ができることですぐに治り、それ以後は摂取していても発症することはないが、数ヶ月ほどすれば、手足のしびれが出始める。その後、さらに継続して摂取し続ければ、神経にまで毒は達し、手足の痛みを常時覚えるほどになるという。そこまで犯されれば、その痛みは投与をやめたあとも後遺症として残る。その後遺症の治療法は、現在の医療では開発されていない。
「命を脅かすものでもなければ、手足の痛みも日常生活に大きな支障をきたすものでもない。だが、兵士にとっては死活問題だ。特にお前たちのように立体機動が商売道具のような奴らはな」
その白い花を入れた袋を指で示しながら、ナイル・ドークは言った。
「高価な薬だ。以前はシーナで名を売っていたラング商会がほぼ独占的に取引していた商品だ」
言って、注がれた酒に口をつけて喉を潤す。まだ日は高い位置にあるが、たまの休暇ぐらい、昼間からの少々の酒ぐらい許されるだろう。
ナイルの前で、彼の訓練兵時代の同期は、あの頃と変わらぬ聡明な青い瞳を静かに瞬かせて、ナイルの話に黙って耳を傾けていた。
「リヴァイの数ヶ月前の風邪は、これが原因だと考えるのが妥当だろう」
「なるほど。シグリはそれをリヴァイに飲ませていたと考えて間違いなさそうだ」
男、エルヴィン・スミスはふむ、と頷いた。酒には手を出していない。堅物のいつもの同期らしく、こんな店に来ても女の一人もつけない。
否。
まだ店は本来なら閉店の時間であろう。
ナイルは、数週間前から調査兵団の分隊長を勤めるエルヴィンから、いくつかの調査を頼まれていた。憲兵団にいるナイルが、内地くんだり最南端のシガンシナ区まで来たのは、その調査報告のためである。
対するエルヴィンも、ナイル同様、兵団服は脱いでいる。私服のシンプルながらに洗練された佇まいも訓練兵時代の頃から変わらない。彼は確か、数日前に壁外から戻って来たばかりであったはずだ。
朗らかに笑って内門でナイルを迎えたエルヴィンは、歓楽街の奥にある小さな酒場に彼を連れて行った。どうやら高級な娼館もかねた店らしいが、女は昼間ゆえにおらず、いたのはエルヴィンと共に調査兵に志願した同期であった。
数年ぶりに再会した同期が退団して店を開いているだけでなく、女になっていたのだから、ナイルは驚きのあまり最初は叫び声を上げたほどである。
しかし。まあ。
エルヴィン・スミスという男はそういう奴だ。
こいつや、こいつの周囲は常にびっくり箱のようなものだ。
ナイルはそう思って、ひとしきり叫んだ後は、全て受け入れて同期の女になった男の注いでくれた酒を嚥下したのだ。
「しかしなぁ…この薬は水に溶かせば無色無臭で味もない。リヴァイのやつ、よく気づいたな」
「ああ…そういえば、部屋の木鉢、ひとつだけやけに育ちの悪い草があったな。あいつは勘がいい男だ。草にやることで毒かどうか試していたんだろう」
ナイルは表情を変えないエルヴィンを見てため息をついた。
「お前の副官がラング商会と組んでリヴァイを兵士として使い物にならないようにしようとしていたのは事実だ。シグリはリヴァイを退団に追い込むことを明確に意図していた。……だがな、それらは全部、お前がまいた種だぞ、エルヴィン」
「ああ。分かっている」
以前、壁外調査の中止をもくろんでいた議会の貴族ロヴォフと癒着関係のあったラング商会。エルヴィンの策略により、ロヴォフは不正を告発されて没落。その後ろ盾を失ったラング商会も、時をまたずして廃業へと追い込まれたのはシーナ内地では有名な話しである。リヴァイはそのとき、ロヴォフによってエルヴィン暗殺のために雇われた地下街のゴロツキであったが、今やその彼はエルヴィンの良い飼い犬と成り下がった、とナイルは見ている。どういう手を使ったのが知れないが、この男の口八丁は並大抵のものではない。
しかし、そうして人を駒のように使い、卑劣な手段を問わないこの男のやり方は、その分大きな恨みを生む。
その恨みを抱いたラング商会が、エルヴィン・スミスへの暗殺を企てていたことを裏情報で知り、即座に本人に知らせたのもナイルである。
調査兵団と憲兵団。対立しているわけではないが、決して相容れぬ兵団に属しているとはいえ、元同期で、いつかの頃には同じく壁外への夢を語り合った男への情を捨てきれぬのは、ナイルの甘さと優しさであった。彼の家庭人としてのそれが、エルヴィンへの情にも繋がっているのかもしれない。
しかし、ラング商会の件については、エルヴィンが動くより前に、副官であるシグリ・アーレントが先に動いた。彼女は単騎、ラング商会へ接近し、エルヴィンの命の代わりにリヴァイの身柄を引き渡すことを交渉したようである。ラング商会の切なる願いは商売の再興である。そのための手駒として、地下街で顔の利くリヴァイの存在は大きい。彼を退団させ、ラング商会で雇い入れれば、それは地下街での商売を展開していたラング商会の大きな再興の礎となるだろう、と。
そしてもう一つ。交換条件としてシグリがラング商会に提示したのが、
「ハロルド商会の地下街での違法取引の証拠だ」
「違法取引」
「そうだ。お前の副官はどうにも優秀らしいな。どこで入手したのか、ハロルド商会が地下街の子供たちを雇い入れて、地上で住まわせ、地下街の商人との取引のパイプ役として使っていたようだ。その証拠があれば、ハロルド商会は取り締まりの対象となる。うまくやればラング商会がハロルドを乗っ取ることも可能だろう」
ナイルの説明に、エルヴィンは、「ハロルド会長は地下街の子供たちの置かれている劣悪な環境を嘆いていた人道家だったからな」と頷いた。
「ああ、そうらしいな。だが人道的であろうと、それは明らかな違法行為だ。王政への反逆行為として厳しく取り締まられるべきだ」
王政への忠誠心ゆえに、思わず声を荒げたナイルに、エルヴィンは静かな声で「ナイルらしいな」と呟いた。
「それで?どうしてシグリがそれをわざわざラング商会への交渉に使った?俺の命が狙われているにしても、彼女が下手に動くのは事態を悪化させるだけだ。彼女はそれが分からないほど馬鹿ではないはずだ」
「えらくあの女を買ってるな」
自分のあずかり知らぬところで暗躍する部下への評価にしては、少し高すぎる気もしてナイルが言えば、エルヴィンは「彼女は賢い。だからこそ、本人には聞かずにお前に調べてもらったんだ」と笑った。ナイルはそんなもんか、と思う。難儀な上司の下には、難儀な部下がつくものらしい。己の副官がそんな勝手な真似をしていれば、ナイルならば即刻退団させるだろう。
「シグリ・アーレントはハロルド商会から脅しを受けていたようだ」
「脅し?脅迫か」
初めて、碧眼の男がその眉をひそめた。
「そうだ。何をネタに脅されていたのか、詳しいことは分からん。ただ、ハロルド商会が欲していたものは、おそらくだがわかった。それをシグリが持っていたことが全ての発端だろう」
「それ、とは?」
「連発式散弾銃の設計図だ」
ナイルは言いながら、目の前の男の表情を観察した。頬の筋肉の動き。目線の行方。呼吸音。どんな些細な仕草でも、不審な点があれば、それは見逃してはならない。
いくら同期とは言え、いくら夢を語り合った仲であるとはいえ、「連発式散弾銃の設計図」の存在は、明らかに違法的存在である。それを目の前の男が知っているのかどうか。知っていれば、ナイルが背負う一角獣の誇りにかけて、それは尋問の対象となるのだ。それは今が、休暇中であっても、相手が友であっても、揺らいではならない。
しかし、目の前の碧眼の男は眉をひとつ不思議そうにひそめただけだった。
「連発式散弾銃?その設計図を、シグリが?」
「ああ。それについては間違いない。ハロルド商会が持っているらしいことは調査済みだ」
「どういうことだ」
シグリが持っていた設計図。それは、今、ハロルド商会へとわたっている。それは、全てあの壁外調査後の狙撃事件の時に起きた。
「二日前の調査兵団本部への狙撃事件。あれはハロルド商会の仕業だということが判明した。しかしあの狙撃は囮だ。お前が狙われたのか、もしくは再三の脅しにきかないシグリを狙ったのかわからん。だが、本当の狙いはシグリの研究室にあった設計図だ。壁外調査後の狙撃による混乱状態を狙って、完全にもぬけのからになった兵舎にハロルド商会で雇われていた地下街の子供たちが盗みに入った、というのが今日わかった事実だ。ハロルドは連発式散弾銃を大量に生産し、地下街を含んだ裏社会で一儲けしようと考えていたみたいだ」
大きなため息をついたのはエルヴィンである。少し疲れたように瞬きした後、「一つ聞くが」と前置きして、ナイルをその独特の少しばかり狂気じみた双眸で見返してきた。
「なぜ、シグリが連発式散弾銃の設計図を?それは事実なのか?なぜナイルはそれを知ることができた?」
「ハロルド商会のことを調べていたら、ある工場都市の技師にたどりついた。ハロルドのお抱えの技師で、兵団向けの散弾銃などを生産していた腕の良い技師だったが、一年半ほど前。工場内での不審火で死亡していた。もともとハロルド商会は、今の商会として独立する前は、シーナ内地で憲兵団相手に商売をしていた小さな商店だった。それが一年半前、その技師の死を境に、彼らはシガンシナ区に来て事業を拡大。地下街との交渉を始めたのも、その頃からだった。妙に思って、調べてみたら、どうやらその技師は王政への反逆罪で憲兵団資料にも名前が載ってたんだ。罪状は、「連発式散弾銃の設計」。つまり、王政で禁止されている拳銃の開発だ」
連発式散弾銃。それは王政からは禁止されている開発事項にあたるものであるが、技師や商売人からすればそれは魅力的な存在だろう。技術の発展を求めるのは技師には当然のこと、そして単発しか撃てない拳銃よりもさらに高性能な拳銃があるとするならば、それは商売人にとっては金のなる木そのものになる。ハロルド商会はそれを知り、欲した。技師の死亡後、何らかの方法でそれをシグリが持っていることを知り、シガンシナ区にいる彼女へ脅迫によってその引き渡しを要求。しかしシグリはそれを拒否した。彼女はそのときエルヴィンを狙っていたラング商会の存在を利用し、ハロルドの失墜を狙うと同時に、エルヴィンへのラング商会の攻撃をそらせようとしたのだ。
それが、事の真相だ、とナイルは言う。
ハロルド商会も、ラング商会も、きな臭いところのある商会である。憲兵団の上層部に食らいついているナイルからすれば、彼らの情報を探ることはそれほど難しくはなかった。それより困難であったのは、シグリと技師の関係。そして、設計図のことである。
「その情報を知ることができたのはほとんど偶然だ。たまたま憲政室の資料庫のなかで見つけた資料に、技師の名前が載っていて、まさかと思って調べたんだ」
技師の名前。決して多くはない、その名前は。
「……レオン・アーレント」
名を呼んだのは、エルヴィンだった。
「やっぱり知ってたか」
「まあな。彼は……シグリの養父だ」
「といっても、彼の戸籍に入ったのは、レオンが工場での不審火で死亡してからだ。彼の戸籍から調べてもシグリには辿り着かない。本当にたまたま、調べてみたら当たりだった。それだけだ」
ナイルが見遣れば、常に表情を崩さない碧眼の男は、珍しく額をおさえて悩ましげに顔を歪めていた。
「すまない。少し驚いてな。……ナイルの勘はすごいな。それは憲兵団として誇れるものだろう」
そうだろう。自分の部下が、まさか王政の反逆となるものを持っていたのだから。
「エルヴィン。お前、本当にシグリが設計図を持っていたこと、知らなかったんだな」
問えば、エルヴィンは「初めて知ったよ」と憔悴しきって言った。ナイルは言いようもない安堵に胸をなで下ろした。かつての友を告発しないで済んだ安心感だ。彼が直接関与していなくても、エルヴィンがシグリと設計図のことを知っていれば、それは十分罪になることだった。だとすれば、ナイルは黙っているわけにはいかなくなるのだ。
「あともうひとつ。お前に頼まれていたリヴァイとハロルドの件だが」
「ああ。それについては本人から聞いた。ハロルドはリヴァイに近づいてきたようだが、それはおそらくその設計図をリヴァイに盗ませようとしたんだろう?しかし狙撃の件からして、リヴァイはそれに応じなかったらしいな」
「その通りだ。お前からラング商会とシグリの件を調査するように言ってたんだろ?だからだろうが、あいつはあいつで探りを入れていたようだが、設計図については全く関与していないようだ。そのまま、あいつにはこれ以上関わるなと言っておけ」
「問題ないだろう。彼は十分その危険性を理解して、身を引いている。あれも馬鹿じゃない」
思い詰めた表情の同期に、ナイルは少しばかりの同情心を覚えた。腹心の部下の不祥事は、彼の立場をも危うくさせるだろう。エルヴィン・スミスは今、調査兵団団長の声がかかっているという優秀な兵士だ。調査兵団は変人の巣窟だが、その変人のなかでのし上がろうとするこの男を、ナイルは理解できずとも、応援はしていた。
「エルヴィン。今回のハロルド商会の件、駐屯兵団にかけあって憲兵団の管轄にしてもらうつもりだ。今、ハロルドの逮捕状も作成の手配をしている。分かるだろ?お前もあいつを、」
「何言っている。今回の件、最初から憲兵団の管轄じゃないのか?」
ナイルの言葉に、エルヴィンがはじけたように顔を上げて問うてきた。その切迫した様子に、ナイルは首を傾げた。
「は?シガンシナ区は駐屯兵団の管轄だろう」
「そんなはずはない。狙撃の後、事情聴取に来たのは憲兵団だったぞ」
「俺はそんなこと聞いてない。他の部署のやつが行ったのか?上から何も通達がなかったもんだから、俺はてっきりいつも通り駐屯兵団の管轄だとばかり思っていたが、そうじゃないのか」
憲兵団師団長ならまだしも、一介の部隊長クラスのものには、憲兵団の動きを全て知ることは出来ない。情報伝達が遅い憲兵団だ。管轄が特別に憲兵団がうけもっていたのか、とナイルは安堵した。そうだとすれば、ナイルが申請したより早くハロルド商会の逮捕状は通るだろう。
「エルヴィン。お前もやることは分かってるだろう?」
「何がだ」
「すっとぼけるな。今回の件で、お前の副官シグリ・アーレントにも王政反逆の嫌疑がかけられるのは必至だ。そうなれば、お前だけでなく調査兵団にも嫌疑の眼は向く。そうなる前に、あの女は退団させておけ」
黙して瞬きすらしないエルヴィンに、もう一度ナイルは言う。
「分かってるだろ?王政への反逆行為は一番重い罪だ。それを兵団にまでかけられる前に、女は切っておけ」
その金色の男は、そのナイルの忠告にはなにも答えなかった。
その後、しばらく会話をした後、その日のうちにマリア内地までは戻りたいと思っていたナイルは、店を出た。店主である同期への挨拶もそこそこに、エルヴィンと店の前で握手を交わす。
「ナイル。マリーは元気か?子供も大きくなったんだろう?」
「ああ。今、二人目がお腹にいる」
言えば、そうか、と男は目尻を下げて少しだけ微笑んだ。彼が、欲しいものはすべて何をしてでも手に入れてきているこの男が、なぜかマリーだけには何もしなかったことを、ナイルは知っている。エルヴィンがマリーを想っていたことは知っているが、なぜ何も行動にうつさなかったのか。その理由をナイルは知らない。
「今度内地に来たときは家に顔見せろ。こんな気が滅入るような話じゃなくて、もっと楽しい話でもしよう」
「楽しい話?」
「そうだ。こんな……子供たちの働き口を地上に作った人道家が、その裏で女を脅したりしているような話じゃなくて。何か他にも楽しいことはあるだろう」
「……俺ができるのは、壁の外の話しくらいだが」
そんな地獄の話しじゃない、と言いかけて、ナイルは思わず口をつぐんだ。昔。まだ幼い頃、彼と楽しく話をしたのは。彼が楽しそうに話していたのは、いつも壁の外の世界を語るときだった、と思いだしたのだ。
ナイルの同期も、エルヴィンの仲間も、多くが死んだその地獄の壁の外の話だ。
「……ま、まあ。内地に来たときは、言えよ」
「ああ。ありがとう」
気まずくなりかけた空気を振り払い、ナイルがその場を立ち去ろうとして、エルヴィンに背中を向けたとき、店の方へと歩いてきた女の姿に気付いた。
栗色の長い髪を下ろした女だった。細くて化粧っ気もないが、どこか色気のある女だった。淡い空の色をしたワンピースに、かごを持って歩いてきた女が、ナイルとエルヴィンに気付いて眼を丸くした。
「あら、ダグラス?」
「やあ。今から出勤だったか?」
どうやらその女は、今し方まで彼らがいた店の従業員らしい。ふとナイルはその女の顔を見た。
「ん?あんた、どっかで……?」
「あなたは……」
「シシィ。憲兵団の私の同期、ナイル・ドーク隊長だ。次期師団長の声高き優秀な男だ」
エルヴィンの紹介に、女は上品に頭を下げて、ゆったりとした落ちついた声色で、「シシィと申します」と名乗った。ナイルは挨拶もそこそこに、ああ、と頷いた。商売女はあまり彼は得手としない。早々に立ち去ろうとして、エルヴィンに別れの挨拶をした。
「またな」
「ああ」
彼らの別れはいつも短い。またな、なんて約束できるものではないとナイルは知っている。それでも、いつも、まるで願掛けのように、ナイルはその自由の翼を背負う友たちとの別れ際には決まってそう声をかけていた。
ただ、しばらく歩いて、その日は振り返った。傾きかけている陽光に、金色の髪がまぶしく輝くのを見た。
「お前、まだここで終わるなよ!女ひとりのために身をほろぼすんじゃねえぞ」
そんな情けない姿は見せてくれるなエルヴィン・スミス。お前はその整った容姿に似合った冷徹さで、今まで色んなものを切り捨ててきた。だから悩むな。思い詰めるな。前にすすむために、腹心の女は切り捨てろ。
お前の夢のために。
ナイル・ドークはそう思いながら、彼の妻の待つ家路へと着いた。
憲兵団の人間だという細身の男の後ろ姿を見送ったあと、シシィはエルヴィンに、「言ってくれたら接待したのに」と困ったように笑った。
「いや。今回はよかったんだ。あいつとは同期だったし」
「ママとも会えた?」
「ああ。驚いて叫んでたよ」
その様子を想像して、シシィはくすくすと笑う。その女の顔を見ながら、エルヴィンは厳しい顔で言った。
「ハロルド商会に逮捕状がもうすぐ出る。シグリの持っていた設計図のことも憲兵団に露見してしまった。憲兵団が動くのも時間の問題だろう。君も気をつけろ」
女は息を呑む。凍り付いたように顔を青くしたのを見て、エルヴィンはその頭を撫でてやった。
「シグリ、」
「シグリは兵団で守る。調査兵としている限り、憲兵団も身勝手に手を出すことはできないだろう。その点に関しては、君は心配することはない」
強く。エルヴィンは断言した。