それは愛にも似た、   作:pezo

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第八章 異邦人

真新しい白い布で、装置のグリップを磨く。トリガーだけでなく、ワイヤーの射出を調整する部位の隙間もしっかりと丹念に磨き上げる。

実は身体を拘束するベルトも毎度磨き上げていると聞いたときは、さすがの私もどん引いた。しかし、病的すぎる彼の潔癖も、立体機動装置の小さな不具合を見つけるためにはかなりいいように働いているらしい。

その証拠に、彼の装置のガス噴射とワイヤーの巻き取り音は、兵団の誰よりも雑音を交えない美しさがある、と思う。

 

「しっかし、今回は災難だったね」

 

きゅ、と磨き上げる手を止めずに、リヴァイは私にちらりと視線をやって、ふん、と鼻を鳴らした。常に首元まできっちりと締め上げられたシャツは、珍しく寛げられており、装置のベルトも取り外し、ブーツもはいていなかった。代わりに、彼の軸足である左足の足首には、白い包帯が巻かれていた。

 

「あの彼も、今回の件でこりて装置の点検をしっかりするようになるでしょ。あなたのケガがただの捻挫ですんでよかったよ。本当なら、彼の命はなかったんだから」

 

昼間の訓練における事故。とある兵士が、立体起動装置の不具合で訓練中に15メートルもの高所から落下した。近くにいたリヴァイが、機転をきかせて捨て身で彼を助けなければ、あの兵士は間違いなく命がなかった。彼は無傷。そして助けたリヴァイも捻挫ですんだのは、ひとえにリヴァイの技量あってのものだ。これが他の兵士であれば、下手をすれば死人は二名に増えていただろう。

 

「ハンジ」

 

誰もいない食堂のなかで、ようやく彼はその潔癖な手をとめた。

 

「もう就寝時間が過ぎてる。何か用がなければさっさと部屋に戻れ」

 

「大丈夫だよ。もう今日の仕事は終わったし」

 

「……てめえも女だろう」

 

 

ロウソクの炎が揺れて、リヴァイの決して血色の良いとは言えない頬を照らす。言いながらも彼の視線は再び装置へと戻されていた。

 

 

「はは!あなたって本当、案外仲間思いだよね!」

 

 

「あ?何言ってる」

 

 

今度こそ機嫌悪そうに声が低められた。ふふ、と笑いが抑えられずに、「あなたは優しい人だってことだ」と言えば、盛大な舌打ちを頂いた。どうやら、怒らせてしまったのだと気付いて謝る。

 

 

自分を顧みず仲間を助けようとする人。女性とも見えない女性兵士の身を案じる人。そんな人がなぜ仲間思いでないなんて言えるのか。

 

 

この地下街から来たゴロツキは、存外懐に入れた者にはとことん優しいのかもしれない。

 

 

「私はただね、嬉しいんだ」

 

 

淡い灰の三白眼には、自由の翼たちはどんな仲間として映っているのだろうか。

 

 

「あなたがだんだん調査兵らしくなってきていることと、私たちがあなたに許されてきていることが」

 

 

「許す?」

 

 

「そうだ。あなたの仲間として共にあることを許されてきている気がしてね。それがとても嬉しいんだ」

 

 

リヴァイは少し驚いたように目を見開いて瞬かせた。ああ、これは初めて見る表情。

 

 

「許すも何もねえだろう……。それともてめえには俺が目の前の人間を見殺しにするようなやつだと思ってたのか」

 

 

そんなことないさ、と言い返して、なんだかおかしくなって笑ってしまった。

 

 

この数ヶ月で、彼についてわかったことがいくつかある。

 

ひとつは、病的な潔癖症であるということ。

 

ひとつは、情の深い人間であるということ。

 

ひとつは、無口なようでいて、案外お喋りは嫌いじゃないらしいということ。

 

 

 

「ねえリヴァイ!怪我が治ったらまた立体機動の練習方法教えてくれないかい?今度こそしっかり分析して、兵団内の訓練に還元させてみせるから!!」

 

 

そう。彼の並外れた技術を、単に彼の肉と骨の所以であると片付けるのはあまりに愚鈍な結論だ。

 

 

そこにとどまらず、形を変えて、色を変えて、彼の持つ技術を盗まなければ、我々に先はない。巨人に打ち勝つ希望は、あますところなく、骨の髄までしぼりとらなければならない。

 

 

「……俺の方法がそのまま役に立つとは思えねえが、てめえならなんとか使えるもんにできるだろう」

 

 

承諾を得て思わず歓声を上げれば、三白眼はますます機嫌悪そうに細められる。だってこれが喜ばずにいられるものか。最初は話すことすら許さなかったあなたが、生命線たる技術の解放を他人に委ねたのだ!この私に!

 

 

「おい、メガネ。うるせえ」

 

 

喜々狂乱という言葉があるとすれば、今まさにそのときだ、と騒いでいれば、食堂の扉を開けて人が入ってきた。

 

 

振り返れば、そこには部屋着のゆったりとしたワンピースを身にまとったシグリが、紅茶のポットを片手に立っていた。

 

 

「シグリじゃないか!聞いてくれ!リヴァイの立体機動を明日から徹底的に調べ上げる許可がおりたんだ!!彼の口から!」

 

 

「明日からじゃねえ。怪我が治ってからだ」

 

 

シグリは2秒ほど目を瞬かせたが、ふわりと優しく微笑んで「それはよかった。ハンジの腕の見せ所だね」と喜んでくれた。

 

 

「おい、てめえはいつもそんなだらしねえ格好でうろついてんのか」

 

 

食堂に備えられた炊事場へと向かうシグリに、リヴァイが口を挟む。小言を言われたシグリの方は、「そんなにだらしないか?もう自由時間なんだからいいじゃない」と少しふてくされたように彼の方を見ずに言った。

 

彼らが同室になってからしばらく、こうしたやりとりをたまに見かける。まるでお母さんと成人した子供のような掛け合いだと思う。

 

 

でもね、リヴァイお母さんはそういうことを言いたいんじゃないんだ、シグリ。

 

 

「シグリ。彼はあなたがそんな可愛らしい格好で男性兵士もいる兵舎の中を歩き回るのが心配でたまらないって言ってるんだよ」

 

 

言えば、リヴァイは盛大な舌打ちをしたが、何も言わないので、やはり真意はそうなのだろう。彼の言葉は少し分かりにくいが、分かりにくくなければかなり優しい言葉ばかりなので、彼の顔には似合わない。分かりにくくて口が悪い程度が似合っている。

 

が、いかんせん伝わりにくい。

 

 

「……そう?そうか……。なら、気をつけるよ。書き物しててね、紅茶が欲しくなったんだけど、わざわざ着替えるのもどうかなと思ってそのまま来たんだけど」

 

 

「いちいち面倒くさがってんじゃねえ。目に毒だ」

 

 

「……そんなに毒なら見なきゃいいんだ……」

 

 

「違う違うシグリ。リヴァイはあなたの格好が可愛らしすぎて目のやり場に困るって言ってるんだよ」

 

 

リヴァイは否定しない。

 

胡乱な目つきでリヴァイを振り返るシグリは半信半疑である。この二人、お互い仕事でペアを組ん組んでいるから、それぞれを悪くは思っていないようだが、リヴァイの口の悪さでよく小さないさかいを起こしている。

 

 

リヴァイの感情表現の壊滅的な拙さと、冷静で温厚そうに見えて結構短気で負けず嫌いなシグリの悪いところがしっかりとぶつかり合っているのだ。それでもお互い、粘着質なところはないらしく、尾は引かないところが始末に悪くなくていいのだが、見ていていじらしくもなってくる。

 

 

「かわいいんだもん!仕方ないさ!ね、リヴァイ。かわいいよね!」

 

 

「ああ。可愛いのは可愛いがな」

 

 

「ほらシグリ!って、え!?」

 

 

立体機動装置を磨く手を止めずに放たれた言葉に、思わず目を見開いたのは私だけではなく、当のシグリにいたっては、衝撃のあまり、ポットを机の上に落としていた。

 

 

「明日は、巨人が空から降ってくるかも……」

 

 

シグリは顔を赤くしたり青くしたりと忙しい。言った本人はなぜか我関せずという風に、装置の整備に取り掛かっている。

 

 

なんだかくすぐったい。くすぐったくて、あったかくて、まるで幸せそのものだ。

 

 

「シグリ!私たちにも紅茶、ちょーだい」

 

 

笑ってねだれば、優しいシグリははいはい、と笑って答えてくれる。きっと彼女は、「可愛い」と言った私とリヴァイに、お礼の意味も込めてたっぷりと愛情をかけてお茶を入れてくれる。

 

 

こんな殺伐とした日常で、女性性なんて忘れていくようななかで、彼女ほど女としての楽しみを満喫しようとしている人はそうそういない。

 

 

爪をきっちりと短く切って磨き上げ、髪も短いながらに女性らしく整えて、兵団服に甘んずることなく、それを脱ぐ機会があれば、可愛らしくお洒落をする。

 

男のためではなく、自分の中にいる女の心のために、それをするのだと彼女は言っていた。

 

 

ーー恋人を作る気はないけど。別にお洒落はそんなもののためにあるんじゃないと思うからね。可愛いもの、美しいものを側に置けば、気持ちが豊かになるから。

 

 

その感覚は残念ながら私には一切理解できないが、そうした感覚を大事にしたいと思うことは大いに理解できた。

 

 

常に喪い続ける世界の中で、ほんの少しの幸福を大事に抱きしめるのは、生きのびるために必要なことだ。

 

 

「いずれ喪うんだから、大事にしなきゃね」

 

 

「何のことだ、メガネ」

 

 

「自分の気持ちは大事にってことさ」

 

 

 

シグリはこちらに背中を向けたまま、紅茶の準備をしている。湯を沸かす火がつけられた。暗い夜に、紅く暖かな火が灯る。

 

 

「私も、あなた達もさ。自分の中で持て余す感情があれば、今のうちに吐露しておかなければいけない。私たちは、生き延びていけばいくほどに、それを吐露する権利すら喪っていくだろうからね」

 

 

三白眼が、ようやく手を止めた。白くて清潔な布を几帳面に折りたたみ、私に向かい合った。

 

 

「エルヴィンが団長になるって話のことか」

 

 

察しがいいのは、彼の利点だ。私は頷いた。その話が決定事項になりつつあると聞いたのは今日の夕刻だ。キース団長は、兵団史上初めて、存命のままに団長を辞するという。その後を継ぐのは、我らが分隊長である。

 

 

「半年後には行軍の先頭はエルヴィンさ。それにあわせて、私たちも官位が変わるらしいよ」

 

 

「お前はわかるが、俺やシグリもか?」

 

 

「まだ本決まりじゃないけど、エルヴィンはそのつもりみたいだね。特にリヴァイ。あなたは、特別だ」

 

 

 

誰よりも速く飛び、誰よりも高く飛ぶ。その影が巨人を削ぐ様に、暗鬱としていた兵士の心は希望に染め上げられた。

 

 

これぞ、人類の怒りの体現だ、と。

 

 

これぞ、人類を勝利に導く道しるべである、と。

 

 

それに加えて仲間を抱え込むような器。媚びない態度。潔癖に表れる、彼の常人ならざる生活態度。

 

 

全ては、彼を「英雄」として祭り上げるに相応しい素材ばかりである。

 

 

「あなたは「英雄」だ。その背中に私たちはたくさんの重荷を背負わせるだろう。あなたが潰れそうになっても、私たちはそれを許すわけにはいかない。きっとこれから、あなたが巨人に食われる寸前まで、私たちはあなたを「英雄」として酷使し続けるよ。逃げ場はない」

 

 

「……大層な役割だな」

 

 

「演じてもらわなきゃいけない。私たちには、象徴が必要だ」

 

 

心許せる仲間に。とんでもないことを言っている自覚はあった。だが、彼は私の目をじっと見つめたあと、「何だってやってやる」と一つ、頷いた。

 

 

 

「てめえのことをエルヴィンが重宝するわけがわかった。あいつとそっくりだ」

 

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 

 

 

笑えば、彼はふん、と鼻を鳴らす。まるで人を駒のように扱う。そういう男だからこそ、彼はエルヴィンに信頼を寄せる。あたたかな人の集いでは必要ないが、我々のような地獄の淵に立つ者には、エルヴィンの悪魔的な冷徹さは必要な標なのだ。

 

 

エルヴィンは私の知る限り、誰よりも優しい人物の一人である。優しくてクソ真面目故に、彼は冷徹に徹しているようにも思う。

 

でも、リヴァイ。

 

君が来てから。

 

その強さ故に人間性を捨てずにいられる君が来てからは、エルヴィンは僅かに残していた人としての優しさを、捨てることができたように思うよ。

 

 

 

そのおかげで、彼は私たちの標として、立つことが出来ている。そう思うんだよ、リヴァイ。

 

 

 

「お茶、入ったよ」

 

 

振り返れば、シグリが盆の上にポットと3人分のカップをのせて立っていた。芳しい茶葉の香りが心を潤す。彼女の優しい香りだ。

 

机の上に広げた書類を片付けて、深夜のお茶会の準備をする。

 

 

英雄と、巨人狂いと、

 

 

「シグリ。あなたも座ろう」

 

 

異邦人の会合だ。

 

 

 

シグリはリヴァイに視線をやりながら、少しだけ寂しそうに笑った。

 

 

「どうしたの?シグリ」

 

 

「いや。エルヴィンが団長になった調査兵団を想像してね。希望があるな、と思ってさ」

 

 

お茶をすすりながら、彼女は笑う。

 

 

「ハンジとリヴァイ。ミケも。彼はとても才気溢れる仲間に恵まれてる。変革の時代だ。今度こそ、変えられるかもしれない」

 

 

その静かな笑顔の底に湧き上がる熱量が、わずかに声に乗っている。普段の優しい女性らしい笑顔でなくて、まるで獰猛な狼のような、少しばかりの狂気が垣間見える笑顔。いつもは底深くに抑え込まれた熱が、稀に湧き上がるこの表情は、私は大好きだ。

 

 

「あなたもだよ、シグリ。この前の報告書読んだ。とても興味深かった。あれはあなたでしか書けないものだ」

 

 

その獰猛さを矛に変えて、共に壁外へと。まだ見ない世界を見に行こうと約束してから一年ほど経つか。

 

 

あの時と茶を共にする仲間は顔触れを変えたが、それでも彼女は「止まらない」と言った。その決意に、胸の中にうずくまっていた孤独が救われた気がして、心底嬉しかったことは昨日のことのように覚えている。

 

 

しかし、その時シグリは頷かなかった。

 

 

一言だけ、

 

 

「今日の紅茶は特別美味しいね」

 

 

 

と呟いた。

 

 

 

彼女が入れたそのお茶は、確かにとても美味かった。その時、私たちは誰も、それが最後の茶会になるとは予想だにしていなかった。

 

 

 

それは、シグリ・アーレントという女性との、最後の茶会であった。

 

 

 

翌朝、中央から派遣されたという憲兵団が数人、調査兵団本部へとシグリ・アーレントの身柄引き渡しのために訪れた。

 

 

慌てて部下たちが彼女の研究室に飛び込んだものの、そこに部屋の主人はいなかった。

 

 

ただ、同室の男が見つけた、部屋に残っていたという退団届だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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