それは愛にも似た、   作:pezo

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第八章 異邦人 四

いつしか、部屋の中はすっかりと夜の気配に満ちていた。

 

訓練を終えた兵士たちも、それぞれの休息を取る時間となっている。

 

 

ある者は疲れのために眠りにつき、ある者は友と盃を酌み交わし、ある者は肌のぬくもりをわかちあっていた。

 

仕事をしている者もいるかもしれない。シガンシナ区の調査兵団本部では、その日の夜も何も変わらぬ夜が過ぎつつある。

 

 

シグリ・アーレントという一人の女性兵士の突然の退団と、憲兵団の訪問に、それこそ早朝は慌ただしかったものの、夜にはすっかりといつもの落ち着きを取り戻していた。

 

分隊長の副官という、ある程度の役職に就く者の退団にも、組織の根幹は揺らがない。人の消失の多い調査兵団は、決して人一人失っただけでは日常は崩れないのだ。

 

 

彼女に密かな憧れを抱いているエーミールも、彼女とは酒の友であるナナバやミケ・ザカリアスミスも、彼女との研究仲間でもあるハンジ・ゾエも。

 

そして、彼女の信頼を一身に受けていたエルヴィン・スミスも、いつもと変わらぬ1日を過ごした。その心に、何を思うのかは別として。

 

 

リヴァイは、部屋の椅子で空を睨みつけている。エルヴィンは、夜に区長との会合のために団長の付き添いで出かけた。門扉近くの高価なレストランへと、小綺麗なスーツを着て出た男を、「薄情である」と責め立てることはできない。

 

次期団長のエルヴィン・スミスの仕事は多い。

 

 

 

リヴァイの座る椅子の隣のベッドの上には、そのエルヴィンが入手した偽装戸籍の書類が放り出されている。

 

 

――彼女に残された道は三つだ。このまま、憲兵団に捕らえられて殺されるか。この戸籍で内地へ逃げ、身を隠して生きるか。

 

 

「それとも、名前を変えて再び調査兵団へ戻るか、か」

 

 

 

ただ、戸籍を変え、名前を偽っても、果たしてどこまで憲兵団の目を欺けるかは不明だ。彼女の顔はすでに知られている。内地に逃げ延びても、憲兵団が本格的に捜査を展開すれば、素性を隠していけるのは僅かな時間だろう。

 

 

兵団へ戻れたとしても、素性を隠すのは至難の技だ。今回のように引き渡しを要求されれば、調査兵団がそれに応じないということはできない。だとすれば、兵士として戻ることはリスクが高いと言える。内地へ逃げる方が断然、生き延びる確率は上がるはずだ。

 

 

どのみち、リヴァイやエルヴィンたちにできることは限られていた。できるとしても、今夜が最後だろう。一晩以上、シグリがこのシガンシナ区にとどまっているとは思えない。一人で出て行くような女が、周囲を危険にさらしてでも同じ場所に安息することを許さないだろう。

 

 

しかし。

 

 

リヴァイは決めかねていた。どの道が兵団にとって利となるのか。どの選択が、彼女にとって幸となるのか。

 

己が求める選択なのか。

 

 

――俺は利己心だけで彼女を兵団に縛り付けた。彼女は他の兵士とは、その志が違う。もう、自由にしてやってもいいのではないだろうか……。

 

 

 

まるで人を駒のように扱う男の、あれほど憔悴した顔を見たのは、リヴァイは初めてだった。彼はもう、シグリを兵団に戻すよう働きかけるつもりはないらしい。彼女をたぐり寄せることは、シグリの真意をおもんばかれば、リヴァイも躊躇われた。

 

 

彼女が黙って一人消えたのは、エルヴィンや調査兵団へ嫌疑がかけられることを避けたためだ。ならば、彼女の気持ちを尊重すべきか。

 

 

 

リヴァイは思考を振り払うように頭を数度振ったあと、立ち上がって、女がいた部屋へと足を向けた。この数ヶ月の間に、幾度となく叩いた扉。

 

 

あるときは寝汚い彼女を起すために。あるときは掃除をするために。

 

 

そしてあるときは上官に報告をする部下として。

 

 

そしてあるときは、ただのひとりの男として、彼女と酒を飲むために。

 

 

 

扉を開ければ、きぃと音を立てた。もともと立て付けが悪いので、何度も「こまめに油をさせ」と言っていたはずであるが、彼女はまたリヴァイの小言を無視していたらしい。

 

あの女は、自分の潔癖にもある程度順応できるほどキレイ好きではあるが、どこかずぼらなところがある、と一見整理整頓された部屋を見てリヴァイは思った。

 

 

部屋の片隅にある聖母像と目が合った。壁外調査でその聖母像を抱きしめ涙した彼女の姿がまざまざと蘇る。あの姿に、最初は薄気味悪さを覚えたが、その理由も今なら分かる。

 

 

あれは、自分の曖昧模糊とした記憶を裏付けるような証拠に、ただひたすら郷愁を覚えたのであろう、ただの哀れな迷い子の涙だ。

 

 

壁の中に彼女の許された場所はない。ただ、彼女が懐かしく胸を焦がすのは、壁の外の地獄だけだったのだろう。

 

 

 

――壁の外には楽園がある。

 

 

 

この部屋の中で酒を交わした夜に、眼を輝かせて言った彼女の言葉を思い出す。ふと見遣れば、そこには彼女が愛読していた分厚い本があった。手にとって数ページめくれば、やけに手垢のついた汚れたページにいきあたった。

 

 

――くじらっていうんだ。

 

 

壁の外に広がるという広大な塩の湖。その「海」という水たまりの底に泳ぐ、海獣。その、想像上の生き物の絵が描かれたページだった。

 

 

 

なあ。お前、それを見たことがあったのか。

 

 

 

リヴァイの問いに答える人間は、その部屋にはいない。

 

 

 

くじらを、海を、壁のない世界を、お前は見たことがあるのか。お前は、そこでどうやって、何を想って、誰を愛して生きていたんだ。

 

 

 

そして。お前は、何を思ってこの壁の中で生きていたんだ。

 

 

 

 

彼女の雄弁な言葉の数々を思い出す。

 

 

 

この数ヶ月。エルヴィンの命令により、彼女の監視と援護のために傍にいたにもかかわらず、リヴァイが思い出せたのは、仕事の話をする「調査兵シグリ」の言葉ばかりであった。何度も何度も繰り返されて、洗練されてきた言葉たちだ。

 

 

リヴァイは痛烈に、自分が何も知らない、という事実に打ちのめされた。シグリのことも、調査兵団のことも、この世界のことも、彼は何も知らない。まだ地下にいた頃と同じ、眼を曇らせたままの己のふがいなさに、心臓がじくじくと痛んだ。

 

 

リヴァイがその分厚い禁書のページをさらにめくろうとしたとき。

 

 

 

 

平穏な夜の闇を、門扉開放を告げる鐘の音が、不気味につんざいた。

その鐘の音は、いつもとは違い、不規則なリズムを刻み、不意に消えた。鐘の余韻だけが、響いているのを聞いて、リヴァイは勢いよく部屋を出た。

 

 

 

 

「門扉が何者かによって開放された!数体の巨人が侵入!!調査兵団へ出動依頼が出ています!!」

 

 

 

 

夜の静寂に沈んでいた調査兵団本部へ告げたのは、門扉に配属されていた駐屯兵団の兵士だった。

 

 

 

 

 

 

 

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